昏の皇子<KURA NO MIKO> (水奈川葵)
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プロローグ~序.パルスナ帝国概要

プロローグ

 

 

 

 死ぬことは怖くない。

 

 ただ、思った。

 

 

 どうしてこんなふうに死ぬしかなかったのだろうか……

 

 どうしてこんな生き方しか選べなかったのだろうか……と。

 

 

 本当はもっとやりたいことはあったはずなのに。

 

 本当はもっと幸せになる道はあったはずなのに。

 

 

 どうして自分には、それを選ぶことができなかったのだろうか………

 

 

 

 

 ―――――きっと…助けるから……

 

 

 

 

 血が流れ続けて、冷たくなっていく体。

 

 重くなっていく視界。

 

 

 

 

 ―――――もう一度、会いましょう……

 

 

 

 

 最期まで。

 

 

 

 

 ―――――今度こそ、あなたを救う……必ず……

 

 

 

 

 オヅマは自分の望みが何かもわからないまま、死んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

序.パルスナ帝国概要

 

 

 

 パルスナ帝国は元々大陸中央の山間部に位置する小国だった。

 

 北には強力な軍事国家であるオストホフ王国、南には長く神話の時代から続くとされるホーキ=シェン神聖帝国があり、二つの大国に挟まれたいわば緩衝地帯であった。

 

 当時はまだパルスナという名前ではなく、キエルと呼ばれており、周辺には同じような小王国が群立していた。

 

 世代を経るに従い、キエル国とオストホフ王国との関係は密になり、最終的にはオストホフ王国の王子がキエルの王となる形になっていた。

 

 天授暦十六旬節。

 

 当時キエルの王であったエドヴァルドが、異母兄であったオストホフ王を退けると、オストホフの軍権を掌握。

 周辺の小国を次々に征服、キエル帝国を成立させた。

 

 その後の大出征によって、最終的にエドヴァルドはホーキ=シェン帝国の首都・ガ=クンランを陥落させることで、神代の長きにわたって続いてきた神聖帝国をも討ち下した。

 

 無論、エドヴァルド個人の資質だけでここまでの偉業は達成できるはずがない。

 

 そのエドヴァルドにとって最も重要な人物となったのは、ホーキ=シェン神聖帝国から送られてきた神女姫(みこひめ)と呼ばれる妻であったのだが、この話はここでは重要でないので、割愛することにする。

 

 いずれにしろエドヴァルドによって新たなる帝国の首都がヨーク=パルスナ(遠き平原)と呼ばれる場所に定められた時に、この帝国はパルスナと呼ばれるようになり、ヤーヴェ湖畔に建設された帝都にかつての王国の名前が残された。

 

 

 それから二百有余年。

 

 

 パルスナ帝国は大陸の中央にどっかりと根を張り、周辺諸国を圧倒する大帝国となった。

 

 

 そのパルスナ帝国の最北の地、峻険なるヴェッデンボリ山脈を背後にした小さな山間の村から物語を始めよう。

 

 

 

 

 



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第一部 第一章
第一話 藍鶲の年、大帝生誕月の満月の日


 ゆっくりと目が覚めた時、オヅマは一瞬、訳が分からなかった。

 

 見慣れた天井。だがとても懐かしい気持ちになる。

 

 手を上げてみると、その手が()()()()()よりも小さくて、違和感があった。

 だがすぐに自分が()()十歳であることに気付く。

 そうなると、今度は違和感を覚えたことが奇妙に思えた。

 

 とりあえず起きよう…と思ったのだが、体が動かせない。

 なぜか、と思うと同時に、自分の腹の上にどっかと乗せられた足に気付く。

 

「………」

 

 ゆっくりと腹の上に乗っていた妹の足をどかせると、オヅマは起き上がって、うーんと寝返りをうつ妹をまじまじ眺めた。

 

 父親譲りの赤みがかった栗色のくせっ毛。鼻の上のそばかす。

 

 なぜだかみるみるうちに涙が溢れてくる。

 胸が痛かった。

 

 かすかに『良かった』と何度もつぶやく。

 けれど何が()()()()のか、オヅマにもわからない。 

 

「マリー…」

 

 呼びかけると、妹は眉を顰めながらもそろそろと瞼を開く。

 

 瞼が開くと潤んだ緑の瞳がぼんやりとオヅマを見た。

 しばらく見つめてから、驚いたようにパチパチとまばたきする。

 

「どうしたの? お兄ちゃん? なんで泣いてるの?」

 

 オヅマは途端に恥ずかしくなって、あわてて袖でこすった。

 

「うるせぇ。お前の足が目に当たったんだ」

「えぇ? そんなことしたぁ?」

 

 マリーは腑に落ちない様子だったが、小さな声で「ごめんなさい」と素直に謝ってくる。

 オヅマはヒラヒラと手を振って、ベッドから降りた。

 

「も、いい。早く起きろよ。水汲みに行くぞ」

「はーい」

 

 ぴょんと妹はベッドから跳ねて、さっきまで寝ていたとは思えぬ軽い足取りで部屋から飛び出していく。

 

 オヅマはその様子をぼんやりと見ていた。

 

 まだ、自分は夢の中にいるのだろうか。

 それともさっきまで見ていたのが夢なのだろうか。

 

 できればさっきのものが夢であってほしかった。

 起きた途端に徐々に朧気になりつつあるが、確実なことは、その夢の中でマリーは死んでしまっていた。

 それも、とても悲惨な死に方だった。

 

「オヅマ?」

 

 顔を出した母の姿に、またオヅマの気持ちはひどく動揺した。

 

 なんて懐かしいのだろう。

 

 柔らかな淡い金髪を引っ詰めた髪と、オヅマと同じ薄い菫色の瞳、褐色の肌。

 

 思わず駆け寄って母に抱きつく。

 四つ年下の妹が生まれてからは、母に抱きつくなんてことはしなかったオヅマが、急に抱きついてきたので、母・ミーナは驚いた。

 

「まぁ、どうしたの? オヅマ」

 

 元は隣国の生まれである母の、少し訛った特徴あるオヅマという言い方がじんわりと胸に沁み入る。

 

 服を着替えた妹が台所から大声で叫んだ。

 

「今日、お兄ちゃんってば泣いてたの!」

「まぁ、どうしたの…本当に」

 

 ミーナはオヅマの肩を掴んで顔を見ようとしたが、オヅマは恥ずかしいのかギュッと腰に抱きついたまま、俯いている。

 

 ミーナは軽く息をつくと、オヅマの頭と肩を優しく撫でた。

 いつの間にか来ていたマリーも母の真似をしてオヅマの背を撫でる。

 

「お兄ちゃんが甘えっ子になっちゃった」

 

 マリーはクフフと笑っている。

 ミーナも微笑んでいた。

 

 オヅマは()()()()()会った母の匂いと感触に、いつまでもそのままでいたかったが、ガタンと大きな音がしたと同時に響き渡った怒声に我に返った。

 

「オイ、コラァッ!! 水ッ、水もねぇのか、この家はッ!!!!」

 

 

 

 

 物心ついた頃には、父・コスタスは恐怖と嫌悪の存在だった。

 まともであった姿など見たこともない。

 

 いつも安酒をあおり、始終文句を言い、少しでも目が合えば蹴られるか、殴られる。

 

 まだ赤ん坊だったマリーですらも、ただ泣き声がうるさいという理由で掴み上げ、放り投げられたこともあった。床に叩きつけられる前にオヅマはどうにか妹を抱きとめたが、その時に背中の上部に火傷を負った。

 

 竈の火が背を灼く痛みに悲鳴を上げたオヅマを見て、コスタスは(わら)った。

 悲鳴を聞きつけた鍛冶屋の親爺が止めなかったら、そのまま頭を竈に突っ込まれていたのかもしれない。

 

 それでもミーナはコスタスと別れることなどできなかった。

 

 この世界において、妻から夫に対して離縁を申し出ることなど許されていなかった。

 それは貴族ですらもそうであったのだから、小作人の妻でしかないミーナがコスタスと別れることなどできるはずもない。 

 

 その夫がたとえ暴力と暴言しか家族に与えない化け物のような存在であったとしても。

 

 周囲の人間も、とんでもない夫を持ったものだと、ミーナの運の悪さに同情はしても、助けてはくれなかった。

 それはオヅマやマリーに対してもそうだった。

 妻が夫の従属物であるのと同様に、何ならそれ以上に、子供は親のモノだった。

 

 オヅマは父の怒声を聞いて、ハッと顔を上げた。

 

 視線の端に、チラと藍色の(ヒタキ)の絵板が見えた。

 新年に神殿で配られるその板には、その年を表す瑞鳥が描かれている。

 

 藍鶲(ランオウ)の年…そして、今日は……?

 

「母さん! 今日は大帝生誕月の満月の日だった?」

 

 大帝生誕月――――それはパルスナ帝国を創った初代皇帝エドヴァルドの生誕を祝うもので、冬の終わりに近いこの生誕月は彼の人の功績に感謝して、軽いお祭りが続くのだ。

 

 オヅマは泣いた後が頬に残っていたが、既に感傷的な気分は吹っ飛んでいた。

 

 真剣な顔で尋ねてくる息子に、ミーナは少し戸惑った。

 

「え…いいえ。満月は明日よ…」

 

 その言葉にオヅマはホッとして気が抜けた。

 ミーナはどうしたのかと再度尋ねようとしたが、またコスタスの怒鳴り声が響く。

 

「テメェらッ! どこに行きやがった!?」

「…い、今行くわ!」

 

 ミーナは呆然としたオヅマの両手をギュッと握りしめた後、涙が乾いた頬に軽くキスして、父の元へと向かっていった。

 

「………お兄ちゃん」

 

 マリーが心細そうにオヅマの服の裾をつまんだ。

 赤ん坊の頃から父の怒鳴り声と母の悲鳴の中で育ってきたマリーにとって、父は恐怖でしかない。

 

 オヅマはマリーの頭を撫でると、笑いかけた。

 

「水汲みに行こう」

 

 

 

 藍鶲(ランオウ)の年、大帝生誕月の満月の日。

 

 その日はオヅマにとって一つの選択肢が示される日だった。

 

 この日に、母は父を殺す。

 そうして逮捕されて、絞首刑になってしまうのだ。

 

 

 

 その日。

 父は不機嫌だった。

 

 いつも不機嫌で傍若無人であるが、その日は特に不機嫌だった。

 それはお金がなくて、酒場に飲みに行けなかったから…という、とても簡単でくだらない理由だった。

 

 満月の日は大帝生誕節のクライマックスとなる日だ。

 

 それまでは各自の家々で小さなパーティーなどが開かれたり、貧しい家であっても大帝を祀って祈りを捧げたりしていたのが、満月の日ともなれば、村の中央の広場に夜は禁止されている露店が立ち並び、燃え盛る焚き火の周辺で踊りを踊ったり、酒を酌み交わして大騒ぎする。

 

 だがそんな祭りを楽しめるのは、あくまでお金を持っている人間だけ。

 

 当然ながらコスタスはほとんど働かなかったので、家族の収入はミーナが夫に代わって小作人として働き、農閑期には針子の内職や、臨時の下女としてかろうじてもらえる僅かな給金しかなかった。

 

 コスタスはその僅かなお金ですらもミーナから奪い取って酒代に変えていたが、とうとうその日は金が底をついた。

 夕食は隣からもらった芽の出たじゃがいもをつぶして焼いたものだけだった。

 

 一本だけの蝋燭の灯りが、闇をより深くさせていた。

 

「ケッ! シケた面を並べやがってよ…!」

 

 この月が始まってからというもの、ほぼ毎日のように飲み歩いていたコスタスは、よりによって祭りが最高潮を迎える今日の夜になってどこにも行けないことに、相当鬱屈がたまっていたのだろう。

 

 皿をミーナに向かって投げつけ、水の入ったコップでオヅマを殴った。

 陶器でできた分厚い丈夫なコップは、それでもしょっちゅうコスタスによって床に落とされていたので、飲み口の一箇所が欠けていた。

 

 その欠けた部分がちょうどオヅマの額に当たってザクリと切りつける。

 同時に水をかぶって、オヅマの顔は血だらけになってしまった。

 

 暗い部屋で息子が傷つけられた姿を見て、ミーナはとうとう我慢できなかったのだろうか。

 

 その場に転がっていた太いめん棒で、コスタスを(なぐ)った。

 

 後になって、どうしてこんなところにめん棒があったのかと問われたオヅマは、これでコスタスが母や自分をしょっちゅう撲っていたので、台所ではなく部屋の隅に転がっていたのだと証言した。

 

 だがそんなことは結局何の助けにもならなかった。

 

 ミーナは自分がよくそれで撲られていたので、自分が撲ったぐらいでは死ぬはずがないと思っていたのかもしれない。

 だが、この時ミーナが夫の頭に打ち下ろしためん棒は正確に脳天を直撃して、コスタスはそのまま倒れてしまった。

 

 泡を吹いて白目を剥いた夫を、ミーナはおそるおそる見つめていた。

 

 コスタスがこのまま気を失って倒れていればよかったのだが、このとんでもないロクデナシと結婚したミーナにとって最も運の悪いことに、この男は意識を取り戻したのだ。

 

「うー……っつ…」

 

 獣のような唸り声を上げて起き上がりかけた夫の額に、ミーナは渾身の力で再びめん棒を振り下ろした。

 

 もはやミーナには恐怖しかなかった。

 

 このまま夫が目を覚ませば、反撃した自分に黙ってはいまい。

 今まで以上にひどい目に遭わされる。

 自分だけならいいが、子供にまで手を出すだろう。

 

 ミーナは必死にめん棒でコスタスを撲り続けた。

 そうしなければ自分も子供達も殺されると思った。

 

 オヅマは妹を抱えて外へ向かって助けを呼んだ。

 

「お願い! お願いだ! 母さんを助けて! 止めて!! 止めて!!」

 

 祭りで浮き立っていた人々の何人かが気付いて、あわててオヅマの家に入った。

 そこでほとんど顔の潰されたコスタスと、その上で馬乗りになって血まみれのめん棒を握ったミーナを見つける。

 

 ミーナは即時に保安衛士(ほあんえじ)によって逮捕された。

 一応、裁判は開かれたものの、夫を殺した妻が許されるわけもない。

 

 有罪を言い渡された翌日には絞首刑に処された。

 

 

 処刑の前日、ミーナはオヅマに言った。

 

「オヅマ…マリー…ごめんなさい。守ってあげられなくて…あなた達にひどいものを見せてしまって……ごめんなさい。お母さんがいなくなったら、帝都(キエル=ヤーヴェ)に行きなさい。ガルデンティアのお屋敷へ。オヅマ…きっと、あなたを迎えてくれるはず」

 

 ミーナは三日間絞首台の上にぶら下げられ、鴉や鷲などの鳥に無残に突かれた後、埋葬することも許されず、他の病死した囚人達と一緒に火葬された。

 

 オヅマはその煙がなくなるまで見届けた後、ミーナに言われた通り帝都・キエル=ヤーヴェへと向かった。…………

 

 

 

 …………というのが、オヅマの記憶に残る()の話だ。

 

 だが、オヅマには奇妙な確信があった。

 

 この夢はこれから起こる……()()()()()ことだ。

 

 

 その日、オヅマは水汲みを自分の家だけでなく、周辺の家の分までしてあげた。

 無論、お駄賃のためだ。

 その日は祭り気分であったので、皆、快くオヅマの頑張りを認めた。

 

 たった十歳の子供が、大人の足でも二十分以上かかる沢の水を汲んで運ぶのが相当に大変であるのは、皆それぞれに経験してきたことなので十分にわかってくれる。

 

 その上で、村で唯一の雑貨店であるハロド商会で荷下ろしの人足が足りないというので、これも手伝った。

 子供が大きな荷物を運ぶのは難しかったが、その分、軽くて小さな荷物を何度も何度も往復して、一生懸命に走り回った。

 やはり祭りの日であったので、商人の気前も良かったようだ。

 

「よく頑張ったな」

と、数枚の銅貨と一緒に飴までくれた。

 

 夕暮れ近くに帰ってきたオヅマを、ミーナは家に入る前に呼び止めた。

 

「オヅマ…頑張ってきたのね。いいから、マリーと一緒にお祭りに行ってらっしゃい」

 

 ひそひそ声で話すのは、家にいるコスタスに聞かれないためだった。

 ミーナはオヅマが祭りで遊びたいがために、今日一日頑張ったのだと思ったのだろう。

 マリーはミーナの後ろでワクワクと期待に満ちた眼差しでオヅマを見ていた。

 

 しかし、オヅマは首を振った。

 

「父さんは?」

「寝ているわ。でも、もうすぐ起きてきそう…さ、早く行って…」

 

 だがオヅマは祭りへと送ろうとするミーナの手に、さっき買ったばかりのライ麦パンの袋を渡した。

 

「はい、これ。いいから…俺は祭りに行くつもりはないから」

 

 ミーナはキョトンとしてオヅマを見た。

「えぇー!?」と不満の声を上げるマリーを無視して、オヅマは家に入ると、部屋の奥にあるベッドの上で眠る父を確認する。

 

 油断なく辺りを見回した。

 

 ()だとそれは部屋の隅、暖炉横の薪入れのそばに転がっていて、やはり()の通りそこにあった。

 

 オヅマは背後の父から鼾が周期的に聞こえてくるのを確認すると、そっとめん棒を取り上げた。

 すぐさま、戸棚の抽斗(ひきだし)にしまい込んで、ホッと胸を撫で下ろす。

 

 これで―――少なくとも衝動的に母が父を殺すことはなくなるはずだ。

 

 それからむくれたマリーにもらった飴を与え、母の手伝いをして過ごしていると、大きな(しわぶ)きが聞こえてくる。

 父が目を覚ましたようだ。

 

 母の顔が引き締まり、マリーは飴を持ったまま母のスカートを握りしめた。

 

 オヅマはゴクリと唾を飲み込んだ。

 水甕から水をコップに注ぐと、父へと持っていく。

 

「……ようやく気が利くようになってきたじゃねぇか」

 

 父の口臭に嘔吐感を催しながらも、オヅマはこれからの事態の予測ができず、緊張で顔が強張った。

 父が水を飲み干した後で、オヅマはおもむろに話しかけた。

 

「アルシさんの店で、今日限定の麦酒が出るらしいよ」

 

 父はジロリとオヅマを睨みつけると、()()コップでオヅマの頭を殴りつけた。

 欠けた部分がオヅマの額をザクリと切りつける。

 

「オヅマっ!」

 

 ミーナが悲鳴を上げてこちらに来る前に、オヅマはよろけて尻もちをついた。

 ポケットから銅貨が数枚こぼれ落ちた。

 

「ほぅ…これはこれは」

 

 父の顔に笑みが浮かぶ。

 ドスンドスンと近寄ってきて、オヅマを上から睥睨すると、

 

「わざわざ俺のために稼いでくるとは、できた息子じゃねぇか」

と、喜色満面で落ちた銅貨を拾い上げた。

 

 その上で手を出してくる。

 

「まだあんだったら、出せ」

「………」

「なんだぁ? その顔は? 親を睨みやがって…」

 

 コスタスが手を振り上げると、ミーナが泣きそうな声で止めた。

 

「やめて! 今日、オヅマは一生懸命働いてきたのよ!」

 

 オヅマは切られた額を押さえながら、母の腕をしっかりと掴んだ。

 それ以上、何も言わないでほしい…。

 

 ポケットに手を突っ込むと、残りの銅貨を全て出した。

 

「これで全部だよ。本当だ」

 

 言いながら立ち上がってジャンプする。

 きしむ床音以外、何もしない。

 

 コスタスはフンと鼻息をつくと、銅貨を自分のポケットにつっこんで家から出て行った。

 

 ミーナはコスタスの姿がすっかり見えなくなってから、オヅマに近付いた。

 

「大丈夫? オヅマ……一体、どうしたの?」

 

 今朝からオヅマは少しおかしい。

 

「いいや、何もないよ。ここにいるより、酒場にいた方が父さんは嬉しいだろ?」

 

 えらく大人びたことを言う息子に違和感を感じつつも、ミーナはとりあえず急いで手拭いを濡らして絞り、オヅマの傷口に押し当てた。

 

「俺らも食べようよ。さっきのパン…干しブドウが入ってるんだよ」

「やったー。干しブドウのパンだぁ」

 

 マリーが嬉しそうに叫ぶ。

 ミーナは微笑み、オヅマは手拭い越しに額の傷口を押さえながら、とりあえず()を回避したことに安堵した。

 

 その夜は親子三人の平和な夕食だった。

 

「ありがとう、オヅマ」

 

 ミーナはそう言って、幼い頃のように息子の頭を撫でた。

 少し気恥ずかしそうにしながらも、オヅマは心底嬉しそうに笑った。

 

 



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第二話 領府・レーゲンブルトへの道

 ()が本当に夢になったのだとわかったのは、翌朝のことだった。

 

 ミーナに叩き起こされたオヅマは、父が死んだと伝えられた。

 

「誰に? 母さんじゃないよね!!」

 

 思わず尋ねてしまってから、不思議そうに首をかしげる母の姿が昨日までと変わりないのを見て、深呼吸して気を落ち着ける。

 

「どうして? 本当に?」

 

 問いかけると、ミーナは俯いて答えた。

 

「用水路に落ちて…酔っ払って足を踏み外したんだろう…って」

 

 父が飲んだくれて家に帰ってこないのはしょっちゅうだった。

 多くは飲み仲間の家にそのまま泊まり込んだが、昨日は珍しく飲み仲間の誘いを断って家に帰ろうとしていたらしい。

 

「オヅマよぅ……お前が一生懸命働いてたんだぞ…って、クノスの親爺から怒られてよぅ…アイツ…アイツ…アイツなりに情けなくなったんだ。白けちまって…それで、家に帰るってよぅ……」

 

 飲み仲間の一人であるテルホは赤くなった鼻を擦りながら、しんみり言ったが、その吐息は酒臭かった。

 

 オヅマは特に何も思わなかった。

 父が改心したとは思えないし、単純に自業自得で死んだに過ぎない。

 

 とりあえず、母が父を殺して絞首刑に処される()は消えたのだ。

 

 

 だが、悪夢の全てがなくなったわけでないのは、父の葬儀の翌朝に、母の提案を聞いたときだった。

 

「お父さんも亡くなってしまって…もう小作人はできないわ」

 

 あくまでもこの土地で小作人であったのは父だった。

 母は代理で手伝っていた…という(てい)になる。

 

 妻が夫の職業を継ぐことはできなかった。

 父の小作分は新たな人がもらうか、今いる人々で分けるかされるのだ。

 

 オヅマが成人していれば後を継ぐことは可能であったが、十歳では何の労働力の足しにもならぬ…とみなされ、成人まで待ってくれることもない。

 農作は毎年あるのだから、そんな悠長なことは言ってられないのだ。

 

「ここにはいられない。皆で帝都(キエル=ヤーヴェ)に行きましょう。あそこならば…伝手(つて)があるの」

 

 そう言う母の暗い顔を見た時に、オヅマは身震いした。

 反対に喜んだのはマリーだった。

 

「わぁ! 帝都に行ったら、毎日干しぶどうのパンが食べられるのかしら?」

「そうね。きっと…くださると思うわ」

 

 まるで誰かから何かを与えてもらえるかのような口振りだ。

 オヅマはその『誰か』がわからないのに、はっきりと恐怖していた。

 

 ミーナはオヅマをじっと見つめて言った。

 

「今度こそ…真実(ほんとう)だとわかって下さる。きっと…」

「駄目だ!」

 

 オヅマは大声で怒鳴るように叫ぶと、立ち上がった。

 

「オヅマ?」

「お兄ちゃん? どうしたの?」

 

 マリーはめずらしく怒っているように見える兄に怯えた。

 やっと父がいなくなったのに、今度は兄が父のように自分を(なぐ)ったりするのだろうか…と、長年の染み付いた恐怖が離れない。

 

「俺は、行かない! 絶対、行かない!!」

「オヅマ……わかって頂戴」

「駄目なんだよ! 行ったって、不幸になるだけだ!!」

 

 それ以上、ミーナの説得を聞かずにオヅマは飛び出した。

 

 

 村外れの丘の上まで来て、立ち止まる。

 

 振り返れば故郷の小さな村。

 まだ春浅い、雪の残る帝国の北の果ての村。

 

 絢爛たる帝都に比べてなんとわびしい村だろう。

 それなのに郷愁は、故郷を美しくあどけなく見せる。

 

 オヅマは首を振った。

 

 自分の気持ちがおかしくなりそうだった。

 こんな気持ちは自分にはない。ないはずなのに、胸の奥は泣きそうに震えている。

 

「…………」

 

 息を整えながら、オヅマは必死に考えた。

 

 このままでは駄目だ。

 このままではミーナはオヅマとマリーを連れて帝都に行ってしまう。

 

 そうしてきっと、ガルデンティアの屋敷へ向かう。

 そこで働かせてもらうか、働き口を紹介してもらうために。

 

 オヅマの脳裏には、帝都の様子も、重厚で壮麗なガルデンティアの屋敷もはっきりと浮かび上がった。

 

 ……行ったことなどないはずなのに。

 

 そうして次々に苦しい記憶が欠片となって閃き、その中には、マリーの死が見える。

 

「駄目だ…駄目だ…」

 

 オヅマは何度もつぶやいた。

 ぐるぐると考えが回る。

 

 とにかく帝都に行かないようにしなければならない。

 だが、親子三人で暮らしていかねばならない。

 その為には働く場所を見つけなければならない。

 

 この小さな村での働き口は限られている。

 オヅマが父の酒代を稼いだ時のように、時折、お駄賃程度のことであれば人手を必要とされるが、恒常的に働かせてもらえる場は村にはなかった。

 まして、この場合の働き手はオヅマではなく女であるミーナなのだ。

 

 オヅマは嘆息して、眼下の村をもう一度眺めた。

 

 グルリと村を囲む壁はところどころ崩れている。

 ここは昔、北東部にあった群国との戦争の前線基地だった。

 

 オヅマのいる小高い丘のような場所も元はその基地の要塞であったらしいが、帝国の治世が落ち着くに従って要塞の必要性がなくなり、むしろ反抗勢力の拠点になるなどの不安要素があるとして取り壊され、もはや跡形もない。

 

 村からは二つの道が続いていた。

 

 一つは、北の森へと続く道。

 一つは帝都へと続く道。

 

 帝都への道は、狭い山道を下って麓に辿り着くと、なだらかな丘陵の途中でその道は枝分かれし、領主館のある町へと続いている。

 

 帝都に行かないならば、領府・レーゲンブルトに行くしかない。

 

 あそこならば村よりは働き口は見つかりやすいだろう。

 だが、ミーナを説得するには『行けば何とかなる!』では弱い。

 帝都に行けば、既に就職先として有力視される場所が確実にあるのだから。

 

 つまりミーナに働いてもらう場所を用意する必要があるのだ。

 

 だがオヅマはレーゲンブルトに行ったことがなかった。

 ミーナもそうであろう。何一つとして伝手はない。

 

 オヅマがレーゲンブルトについて思い浮かぶのは領主のことだけだった。

 

 現レーゲンブルト領主のヴァルナル・クランツ男爵は、グレヴィリウス公爵の配下で元々は公爵家の騎士の一人だったという。

 

 南部の部族紛争などで武功を認められ、騎士団長に昇格した後、公爵の領地の一部を分け与えられた。

 それがこの北部地域のサフェナと呼ばれる一帯である。

 

 その後、領主としての格式に見合うように男爵位を送られたらしい。

 

 決して肥沃な土地とはいえないサフェナにおいて、寒さに強い作物を探したり改良したりして積極的に農業政策を指導し、今では他地域にも出荷できるほどにしたクランツ男爵の領民からの人望は厚かった。

 

 他の領主などのように搾取して私腹を肥やすこともなく、浪費にはしることもない。極めて堅実で実直な人柄と噂されている。

 

 だが、それでも武人である。

 今でも朝晩の遠駆や、騎士としての修練を怠ることはないのだという。

 

 オヅマの頭の中でいくつものピースが高速に行き交った。

 そうして一つの答えが浮かび上がる。

 

「よし!」

 

 オヅマは気合を入れると、丘を上ってきた道と反対側に降りていった。

 

 

 

 

「お願いします!」

 

 ヴァルナル・クランツは三日ぶりの演習から帰ってきて、奇妙な光景に遭遇していた。

 

 自分の屋敷の門の前で、門番に深く頭を下げている少年。

 

 緩やかな坂道の畝の上、馬上のヴァルナルから彼らの姿は遠く見えていたが、まだあちらは気付いていない。

 

「パシリコ、あれは何だ?」

 

 斜め後ろについてきた部下に尋ねると、パシリコ・ライル卿はヴァルナルの隣に馬を寄せて短く答えた。

 

「少年と門番のジョスです」

「それはわかってる。何をしているんだ?」

「もう少し近付けば判明するでしょう」

 

 鹿爪らしい顔ですげなく答える部下を見て、ヴァルナルは軽く嘆息する。

 

 十歳年上の歴戦の勇士であるが、武人とはこうあるべきだ! という姿を見事に体現していて、余計なことは一切言うこともなく、当然ながら軽口を叩いたことなど一度もない。

 

「追い払いますか?」

 

 ヴァルナルの気持ちを斟酌して申し出たのは、もう一人の副官であるカール・ベントソン卿だったが、ヨゼフは肩を竦めると「(いや)」と答えた。

 

「とりあえず行ってみよう。但し、油断するな」

 

 ヴァルナルがそう言ったのは、まだ少年とはいえ時に敵方が小さな暗殺者を寄越すことを経験していたせいもある。

 

 もっとも、この領地において()というのは基本存在するはずもないのだが。

 

「お願いします! ご領主様にお取次ぎして下さい! 話を聞いてもらえば、きっと喜ばれるはずなんです!!」

 

 まだ声変わりする前の少年の甲高い声がハッキリと言うのが聞こえて、ヴァルナルはフンと鼻で嗤った。

 

 随分と大言壮語するではないか。この私が喜ぶと確信しているとは…。

 

 馬の嘶きに少年はハッとした様子でこちらを向いた。

 当数の騎馬が道を埋め尽くしていることに驚いているようだ。

 

 それは領主館の老門番であるジョスも同様であった。

 

「お、おお…お…ご領主様、お帰りなさいまし」

 

 あわてて出迎えてペコリと頭を下げてくる。

 

「ご苦労。で、その少年は?」

「は…はぁ…いきなり来てご領主様に会わせろと…かれこれ一刻(いっとき)*1以上」

「なかなか粘るな」

 

 ヴァルナルは馬から降りると、少年の前に立った。

 少年は驚いて固まっているようだった。

 

 薄汚れた亜麻色の髪に、浅黒い膚は西方の民の血が混ざっているのだろうか。

 淡い紫のライラック色の瞳が印象的だった。

 

(ひざまず)け!」

 

 カールが怒鳴りつけると、少年はあわてて膝を折り地面に頭をつけた。

 

「名は?」

 

 ヴァルナルが問いかけると、少年は平伏したままハッキリと答えた。

 

「オヅマです!」

「オヅマ…姓は持たぬか?」

「はい! ラディケ村から来ました!」

「……歩いてか?」

「はい! あ、いや…走って来ました!」

「村を出たのはいつだ?」

 

 オヅマはその質問の意図をはかりかねたのか、一瞬だけチラリとヴァルナルの方を見た。

 すかさずカールが怒鳴りつける。

 

「すぐに答えろ! 小僧!!」

「えっと……金五ツ刻(きんいつつ)*2の鐘の後だったと思うけど…」

「ほぉ…」

 

 ヴァルナルはニヤリと笑う。

 

 埃っぽい赤銅色の髪を掻き上げてから、思案するように髭の伸びた顎をボリボリと掻いた。

 パシリコとカールは互いに目配せする。

 これはヴァルナルが興味を持ったことを示す行動だった。

 

 その理由は明白だった。

 

 ラディケ村は馬で走れば三刻(みとき)*3ほどで辿り着く場所ではあるが、徒歩となれば険しい山道を通って、いくつもの丘陵を越えねばならず、大人の足でも半日はかかる。

 

 まして今は多少暖かくなってきたとはいえ、まだ山道には雪の残る季節だ。

 金五ツ刻(きんいつつとき)きっかりに出たとしても、普通であればこの時間には到着などしていないはずだ。

 しかも子供の足で。

 

「ジョス、この小僧がここに来たのはいつだ?」

 

 ヴァルナルが問うと、老門番はしばらく宙を見てから、

 

「太陽がまだこの辺りにあった頃にございます」

と、ほぼ頭の上を指差す。

 

 ヴァルナルはもう一度オヅマを見下ろした。

 

「ラディケ村のオヅマ、もう一度聞くぞ」

「はい」

「ここには走ってきたのか? 嘘をつくなよ。騎士に嘘をつけば、その首が飛ぶぞ」

「嘘じゃありません!」

 

 オヅマは思わず顔を上げて、ヴァルナルをじっと見つめた。

 口元は少し笑みを浮かべていたが、グレーの瞳は厳しくオヅマの様子を窺っていた。

 

「商人の荷馬車にでも乗せてもらって来たのではないのか?」

 

 カールが嘲るように言うと、オヅマはキッとその金髪の騎士を睨みつけた。

 

「嘘をつくなと言うから本当のことを言ってるんだ! ここに来るまで、ずっと走ってきた!! 止まったのは、途中で小川の水を飲んだ時だけだ」

 

 この時、オヅマはヴァルナルが自分を品定めしていることに気付いていなかった。

 

 生まれてこの方ラディケ村から出たこともないオヅマには、ラディケ村からレーゲンブルトまでの距離や時間がどれほどかかるかなど知りようもなかったのだ。

 

「いいだろう。ラディケ村のオヅマ。話を聞いてやる」

 

 ヴァルナルはそれでもさほどに期待していなかった。

 言っても子供の言うことである。大したことではあるまい。

 

「馬です」

 

 いきなりオヅマは言った。

 

 その場にいた大人達は首を傾げる。

 

「馬がいます。ヘルミ山の裏崖に。とてもいい馬ばかりです」

 

 そこはかとない自信を漂わせて言うオヅマに、ヴァルナルは鋭い視線を向けた。

 

「お前は…騎士にとって馬がどういうものかわかっていて言っているんだろうな?」

 

 それまで柔和だったヴァルナルが一気に騎士として豹変したのを目の当たりにして、オヅマは気圧されそうになった。

 

 ゴクリと唾を飲み込んで、必死でヴァルナルの視線を見返した。

 

「わかっているかどうかは…実際にご覧になってみて下さい」

「………」

 

 ヴァルナルは静かにオヅマを見据えていたが、内心で目の前の少年の度胸に少々驚いていた。

 

 見たところ八、九歳ほどに見えるが、年不相応に落ち着いた様子からすると、あるいはもう少し年をとっているのかもしれない。

 十分に食べられず、痩せて成長が遅い可能性もある。

 

「それで? お前の望みは?」

「へ?」

「私に馬のことを教えるのは、見返りを得るためだろう?」

「それは…」

 

 オヅマは言い淀み、首を振った。

 

「馬を見てもらって、納得されたら…願いをお聞き下さい」

「ほぉ…納得しない場合はどうする?」

「その時は仕方ないです」

 

 ヴァルナルはますます面白かった。

 なかなかに頭のいい少年だと思った。

 

 ここで願いを言って、それがヴァルナルにとってつまらなかったり、到底聞き入れることのできないことであれば、馬のことも興味をなくす可能性がある。

 

 あくまでも馬についての情報に集中させて、より期待値を上げている。

 その上で願いを聞き入れることも事前に了承させているわけだ。

 

 無論、この場合重要なのはヴァルナルが()()()()()()()()()()()()()()()が前提であるわけだが。

 

「もし、私が嘘を言ったらどうする?」

「はい?」

「お前が教えてくれた馬を見て、心の中では納得していても、私が嘘をついて要求を聞き入れないことも有り得るだろう?」

「そんなことはないと思ったから、ここまで来ました」

 

 オヅマは深く考えずに答えた。

 そこについてはあまり心配していなかった。

 

 クランツ男爵の噂については村でも時々聞いているが、そうした卑怯な行為を行うような人ではない。

 

 それにここに来るまでの間に、クランツ男爵のことを考えていたら、また()を思い出したのだ。

 

 ()の中でオヅマはただ黙って立っているだけだったのだが、その前で二人の人間が話していた。

 彼らはグレヴィリウス公爵がまだ幼い頃に、彼を身を挺して庇い命を落とした騎士について話していた。

 

 その騎士の名前はヴァルナル・クランツ。

 

 会話の細部まで思い出すことはできなかったが、その二人は卑しい笑みを浮かべて殉職したクランツ男爵について語っていた。

 

 ()の中のオヅマは顔には出さなかったが、その二人のことを忌み嫌っていたので、彼らが悪し様に話すクランツ男爵は非常に高潔な人間であったのだろうと……

 感情の記憶だけが生々しく残っている。………

 

「私を信頼するのか?」

「はい、信頼しています!」

 

 ヴァルナルは大笑いした。

 本当にいい度胸だ。見ていて気持ちがいい。

 

「いいだろう、オヅマ。明日、ヘルミ山に向かう。お前は案内しろ」

 

 

*1
1時間

*2
およそ午前9時頃

*3
3時間



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第三話 ヘルミ山の黒角馬

 ヘルミ山の黒角馬(くろつのうま)

 

 そのことを思い出したのは、武人であるクランツ男爵に取り入るための材料を頭の中で必死で考えているときだった。

 

 ふっと、帝都でその馬に騎乗した軍団が行進する光景が浮かび、それを群衆の中で見ていた()を思い出す。

 

 その馬は前年に発見され、一年の訓練の末に皇軍の第一・二騎士団に配されたらしい…と誰かが訳知り顔に話しているのを、()の中でオヅマはぼんやり聞いていた。

 

 興味がないようだった。

 だが、今のオヅマにとって、それはとても重要な情報だった。

 

 オヅマは何度かヘルミ山に行ったことがあった。

 そこにはいくつかの貴重な薬草が生えていて、年をとって取りにいけなくなった薬師のお婆さんに採取を頼まれたからだ。

 

 その時に何度かこの一風変わった馬の群れを見ていた。

 角があるのは基本的には雄であるようだった。

 

 黒い捻れた角が左右に一本ずつ生えていて、毛並みは白や黒葦毛が多かった。

 馬といえば多くは栗毛だったが、不思議とこの黒角馬に関して栗毛を見たことはなかった。

 

 角以外に特徴的なのが縮れた長い(たてがみ)だった。

 首を覆うほどに長く、毛量も多い。

 

 これは山羊(ヤギ)からの血統なのだろうか。

 お婆さんによると、おそらく大昔に山に棲んでいた古代種の山羊と野生馬が交雑したのだろうとの話であったが、正確なところはわからない。

 

 古代種の山羊はとうの昔に姿を消したが、相当に大きかったというから有り得ない話でもない。

 

 いずれにしろオヅマにとって、その馬は多少風変わりなだけの馬であったのだが、おそらくそのうちに価値を見出す人間が現れ、この馬は軍馬として珍重されることになるのだろう。

 だが今はまだ誰もその価値に気付いていない。

 

 不思議なことに、あれは()なのだと思いつつ、それが()()()()()()()なのだという確信がオヅマにはあった。(そう。父の時と同じように…)

 

 であればこそ、丘の上で思い立ってそのままここまでやって来てしまったのだ。

 

 途中で村の大工のおじさんに会ったので、母への伝言は頼んでおいたのだが、きっと心配しているだろう。

 マリーを連れてここまで来ることはないだろうが、一言、話しておくべきだったかもしれない。

 

 急に心細くなって身を縮めていると、バタンとドアが乱暴に開いた。

 

「おい、メシだぞ」

 

 騎士にしては柔和な印象の、けれど額に生々しい傷跡のある男は、持ってきたスープ皿とパンを無造作に机に置く。

 

 少しだけスープが零れたのをオヅマは勿体なく思いつつ、おずおずと椅子に座った。

 

 ヴァルナルはオヅマを一応、小さな珍客として扱うように部下に命じたらしい。

 

 とりあえずオヅマは兵舎の物置小屋の一隅に案内され、家では考えられないような暖かそうな毛布と、やや埃っぽいもののシミひとつないシーツに覆われたベッドの上で寝るように指示された。

 

 オヅマの家全部よりも広いその物置小屋には、使わなくなった家具などが白い布に覆われて置かれていたり、古びた甲冑が並んでいたりした。

 

 オヅマはこんないい部屋に宿泊させてもらえることに、心底驚き、感謝した。

 マリーがここに来たら、隙間風が一切吹いてこない室内で喜び踊ることだろう。 

 

 今だって目の前に置かれたパンとスープを見て、オヅマは目を丸くする。

 

「あ、あの…これ…」

「なんだよ。文句言わずにとっとと食え」

「食べていいの?! 本当に?」

 

 思わず声が大きくなったオヅマを、男は訝しげに見た。

 

「お…あぁ……食え」

 

 オヅマはスプーンを取ると、スープに浮かんでいた茶色の欠片を掬って、おそるおそる口に運んだ。

 噛みしめて、ジュワリと溢れた肉の味に感動した。

 

「に、肉だぁ」

「は?」

 

 男はポカンとオヅマを見た。

 ゆっくりと食べて肉を飲み込むと、今度はオレンジ色の人参の欠片を食べる。

 

 それからパンを千切れば、外は固いが中はほんわりと柔らかい。

 必死になって咀嚼せずとも、パンがするすると飲み込めてしまう。

 

 半分まで食べたところで、オヅマは男に尋ねた。

 

「あの、このパンって持って帰っちゃ駄目かな?」

「あぁ? 持って帰ってどうするんだ?」

「妹に食べさせてやりたいんだ。こんな柔らかいパン初めてだから」

 

 男は唖然となると、深い溜息をついて目を閉じた。

 眉間を揉んでから、厳しい顔になってオヅマに言った。

 

「いいから、そのパンは食え。妹には明日焼いたのを持たせてやるから」

「本当? 本当に!?」

「あぁ。ちゃんと食って、明日には領主様をヘルミ山まで案内しろ」

「ありがとう!」

 

 オヅマは大きな声で礼を言うと、また一匙スープをすくう。

 このスープもまた、じゃがいもやブロッコリーなど大きな具がゴロゴロ入っている上に、汁そのものがしっかりと塩気があっておいしかった。

 

 男はしばらく立ったままでオヅマの様子を見ていたが、軽く溜息をつくとオヅマの寝る予定のベッドに腰掛けた。

 

「にしても…ヘルミ山に馬なんぞ本当にいるのか? お前、嘘だったら大変なことになるぞ」

「嘘なんてついてないよ。わざわざ領主様のところまで来て、嘘を言う理由ってなに?」

「しかしあんな何にもないところに…」

 

 男が言うのも無理はなかった。

 

 ヘルミ山はラディケ村から続く北の森を北西に抜けた先にある。

 年間通じて山頂から吹き下ろされる冷たく強い風によって、木々は大きく育たず、低灌木と岩の間にへばりつくような草がわずかに芽吹く程度だった。(その厳しい環境であればこそ、効能の高い貴重な薬草が育つのだと薬師のお婆さんは言っていたが)

 

 そのため動物もあまりいない。

 不毛の地とされていた。

 

「木樵だってあの山には行かないんだぞ。薪にできるだけの木もない…って」

 

 オヅマは頷きながら、パンを一生懸命、咀嚼する。

 男は片手を上げて言った。

 

「いいから、ゆっくり食え。わざわざ返事しなくていい。……そう、それにだ。裏崖って言ったら、岩場ばっかりの場所だろう? あんな場所に馬がいるのかねぇ……」

 

 裏崖と呼ばれるのは、ラディケ村からは見えない山の北側部分。

 まだ南向きの尾根には小さな草花が咲いていたりもするが、北向きはやはり太陽の日差しがあまり届かないのか、雪解けも遅く、草花もあまり成長しないのだ。

 

「裏崖の中腹に水飲み場があるんだ。その周辺には草もわりとあるから…」

「へぇ? そんな場所があったのか?」

「岩の影に隠れてて、普通の道だと見えないんだ」

「お前はなんでそんなところがあるって知ってるんだよ?」

「薬草を探してて、偶然。でも、上から見えただけだよ。実際にそこに行ったわけじゃない」

 

 最後の一匙を飲み干して、オヅマは満足気なゲップをする。

 男はフッと笑うと、皿を持って立ち上がった。

 

「すまないな。もっと食べさせてやりたいが、もう鍋が空になってるから…食堂で一緒に食べた方が良かったかもな」

 

 オヅマはブルブルと首を振った。

 

「ぜんぜん! お腹いっぱいだよ。久しぶりだよ、こんなに食べたの。おいしかった!」

 

 男は騎士達が「まーたシチューかよぉ」と不承不承に文句を言って食べている姿を思い出し、目の前の少年に申し訳なくなった。

 

 自分だって一時はその日の食べ物を確保するのも大変な境遇だったというのに、すっかり現状に慣れてしまって、まだしも十分な食事が食べられることに感謝することを忘れてしまっていた。

 

「じゃ、よく寝ろよ」

 

 立ち去りかけた男をオヅマは呼び止めた。

 

「ありがとう! …あ! 待って。名前は?」

「……マッケネンだ」

「ありがとう、マッケネンさん」

 

 オヅマが激しく手を振るのに負けて、マッケネンは扉が閉まる直前に軽く手を上げて振り返した。

 

 食堂へと歩いていきながら、久々に遠くで暮らす弟に手紙でも書こうかと思った。

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 オヅマはマッケネンに夜明け前に起こされた。

 井戸の水で顔を洗って、マッケネンの乗る馬に一緒に乗る。

 

「よく眠れたか?」

 

 既に用意を終えたヴァルナルが馬上から尋ねてきた。

 

「はい! 毛布も暖かかったし、ごはんもおいしかったです」

「それは良かった。すまないが、朝食は朝駆けが終わってからだ。お前の言う通りにヘルミ山で馬に会えたら、食わせてやろう」

 

 そう言うと、ヴァルナルは走り出す。

 続いて騎士達が我先にと馬に鞭を当てて走り出した。

 

「しっかり掴まってろよ」

 

 マッケネンもオヅマに声をかけると、ピシリと鞭を打って走らせ始める。

 

 オヅマは初めて乗った騎士の馬に、最初は舌を噛みそうだった。

 

 今までロバや、荷馬車を引くおとなしい老馬に乗ったことはあったものの、こんなに大きくて速い馬に乗ったことはない。

 必死で(たてがみ)を掴んで振り落とされないようにするのが精一杯だったが、しばらくすると速いながらも一定のリズムがわかってきた。

 

「……慣れてきたか?」

 

 マッケネンが声をかけてきて、オヅマは一瞬だけ振り返ってニッと笑った。

 

 町を抜けて麦畑の間の道へと出る頃には、すっかり慣れていた。

 一定間隔で腹に響く振動を、なぜか()()()()()感覚があった。

 

 また、()だろうか。

 

 なんだか一昨日(おととい)に目が覚めてから、妙にべったりと絡みつく()の記憶に振り回されている気がするが、オヅマは深く考えないようにしていた。

 考えると頭が痛くなるし、どうせ何もわからない。

 

 なだらかな丘陵が続く平坦な光景が広がっていた。

 

 西の空には三日月が皓々と光り、星々もまだ夜の中で煌めいている。

 だが東の地平はうっすらと明け始めていた。

 

「総兵、止まれ!」

 

 急に鋭い声が響くと、騎士達は馬を止める。

 ヴァルナルが馬首を東に向けると、騎士達も一列に並んで東に向いた。

 

 整然と並んだ馬と、背筋を伸ばして夜明けの空に向かう騎士達の姿に、オヅマは驚き圧倒された。

 

 やがて濃紺の闇がはがれて橙と薄水色の空が東から広がっていった。

 遠くうっすら見える山の間から太陽が上り始めると、誰ともなく騎士たちは(こうべ)を垂れる。

 

 オヅマはその光景をポカンとして見ていた。

 

 彼らは無骨で屈強な騎士だというのに、なぜかとても美しく思えた。

 

「お前もちゃんと祈っておけ」

 

 マッケネンが小さな声で言ってくる。

 

「祈る?」

「ちゃんと馬が見つかりますように…ってな」

 

 オヅマはそんな心配はしていなかったが、何となく従った。

 自分も彼らの一人として、厳粛で神々しい朝の光景の中に加われると思うと、少し嬉しい気持ちにもなる。

 

 ヴァルナルが馬首を再び目的地へ向けると、騎士達も特に合図もなくまた再び走り出す。

 

 早朝でもあるので、騎士団は村の中を行進することは避けた。

 要塞跡をグルリと回って、一度帝都へと向かう道へ入ってから、側道に回り込み、北の森へと入っていった。

 

 牧童が滅多と来ることのない騎士団に目を丸くしていた。

 マッケネンと一緒に乗っていたオヅマと目が合ったので、もしかするとミーナに伝えに行ってくれるかもしれない。

 

 北の森はヴェッデンボリ山脈の(ふもと)一帯に広がる広大な森で、ヘルミ山はもっとも村に近い場所にあり、山脈の中では小さい山である。

 

 オヅマは山の中腹に来たところでマッケネンに言った。

 

「ここからは歩きでないと無理だと思うよ」

 

 マッケネンが手を上げて知らせると、ヴァルナルがこちらに向かってきた。

 

「では、案内してもらおうか」

「わかった」

 

 オヅマはぴょんと馬から飛び降りると、勝手知ったる山の獣道を進み始めた。

 

 ヴァルナルは一団の三分の一に自分と一緒についてくるように、残りは馬と待機するよう指示した。

 

 今日はまだ風はましな方であった。

 ひどい時には立って歩けないこともあるからだ。

 それでも裏崖に近づくに従って、風は冷たく強くなってきた。

 

 オヅマは先頭で岩場を時に這ったりよじ登ったりして、マッケネンに語った水場を目指していく。

 馬は移動しているので、当然見つける場所はいつも違っていたが、あの水場であればいる可能性は一番高い。

 

「……こいつはなかなか…面倒な」

 

 ブツブツと文句を言う騎士達に、副官であるパシリコが檄を飛ばした。

 

「これも訓練だぞ!」

 

 そう言われてしまうと誰も文句は言えない。

 騎士達は寒さに身を震わせながらも、必死に岩を這い登った。

 

「オヅマ、お前寒くないのか?」

 

 ヴァルナルは先頭を行くオヅマに問いかけた。

 

 ツギハギだらけのシャツとズボン、それにせいぜい防寒具といえば狸の毛皮のチョッキだけだ。

 足も底が剥がれそうなのを布切れでグルグル巻いたような粗末で萎びた革靴で、当然靴下など履いてない。

 

 見ているこっちが寒くなるくらい軽装だが、オヅマは平気な顔をして岩場を飛び跳ねていく。

 

「寒いけど、慣れてるから。それに…」

 

 オヅマは言いかけてやめた。

 

 正直、その重そうな甲冑を脱いだらもうちょっと身軽に動けるのに…と思ったのだが、甲冑は騎士にとって大事なものであろうから、下手なことを言って怒らせたくはない。

 

 大きな岩を半周して、ようやく水場の見える場所にたどり着いた。

 灌木(かんぼく)の間からそっと顔を出せば、何頭かの馬が水を飲んでいた。

 

 その中に一際目立って大きな、黒葦毛に黒い角を持った馬がいる。

 長い銀の鬣は、まるでこの地を統べる王の威容だった。

 

「……あれは」

 

 ヴァルナルはオヅマと同じように見て言葉を失った。

 

 見事な馬である。

 角がある馬など初めて見たが、隆々とした筋肉質の、今乗っている馬に比べても明らかに一回り大きい体格の馬であった。

 足は太く、蹄はガッチリと大きい。

 早さはわからないが、少なくとも重い鎧をつけた騎士を乗せてもそうそうくたびれることはないだろう。

 

「さて…どうするか」

 

 ヴァルナルは灌木の影に身を潜めて小さな声で言った。

 

「この距離で縄を飛ばしても避けられる可能性があるな」

 

 その言葉を聞いて、オヅマはホッとした。

 どうやらヴァルナルはあの馬に興味を持ってくれたようだ。

 

 副官達とコソコソと話しているのを、黙って見つめていると、ヴァルナルが悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべて言った。

 

「お前は、あの馬を手懐けることができるか?」

 

 オヅマは灌木の隙間からチラと馬を窺った。

 

 まだ、こちらには気付いていないようだ。

 この辺りは風の音が岩場に反響して、音が聞こえづらい。

 それにそもそもヘルミ山には滅多と人が来ないので、警戒心が薄いのかもしれない。

 

「できたら、領主様の館で雇ってもらえますか?」

「なに?」

「母さんと俺と、妹…妹は働けないかもしれないけど、邪魔しないようにさせます」

「……それがお前の希望なのか?」

「はい」

 

 ヴァルナルは思っていたよりも簡単な申し出に気が抜けた。

 何であればオヅマに関しては騎士団で面倒みようかとも思案していたので、むしろ有り難いくらいだ。 

 

「勝算があるなら、やってみろ」

 

 ヴァルナルは言ってみてから、自分の気持ちをはかりかねた。

 どうもこの少年には不思議な魅力がある。

 ()()()()()()と、思わせるのだ。

 

 オヅマは静かに立ち上がると、そうっと岩場に向かった。

 スゥと息を吸い込む。

 

 正直なところ、勝算などない。

 

 もし、あの馬の前に立って、角で突かれたりなんかすれば、大怪我を負うかもしれない。どうにか背に乗れたとしても、振り落とされれば岩場を転げ落ちて死ぬかもしれない。

 どっちにしろ、とんでもない難事であることは間違いない。

 

 ゆっくり歩きながら、オヅマは必死に手立てを考えた。

 

 とりあえず静かに近寄るのだ。

 あの馬の後ろの岩場に行って、飛んで、馬の背に乗る。それから角を掴んで、絶対離さないようにして……

 

 考えるうちに、また不意に()が訪れる。

 

 

 ―――――あいつらを言い聞かせるのは簡単さ…

 

 

 細かな幾何学模様が織り込まれたアイボリーの長衣…頭に巻かれた白い布から伸びた紺の髪。

 異国の格好をした男が笑う。

 ジャラリと首から垂れたネックレスが音をたてる。

 

 掌の中にある胡桃(くるみ)をゴリゴリと弄びながら、訛りのある言葉で話してくる。

 

 そう…確か、元々は、この男が黒角馬を見つけ、名付けたのだ………

 

 

 オヅマは混乱した。

 

 自分は一体、何を見て何を考えているのだろう?

 けれど足が止まらない。

 さっきまでどうしようかと悩んでいたのに、今はもう()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ヒラリと岩場からオヅマが飛び降りると、ヴァルナルは思わず立ち上がった。

 水場にいた馬達がいきなり現れた人影に驚いて(いなな)く。

 

 ほぼ同時に、オヅマは目をつけていた最も大きな黒葦毛の馬の背に乗っていた。

 馬は突然のことに驚いて、前足を大きく上げた。

 

「オヅマ!」

 

 ヴァルナルは叫んだが、オヅマは馬の角を掴むのに必死だった。

 

 ねじれた二本の角は縞のような溝があってザラザラしていた。

 一度しっかり掴めば落ちることはなさそうだ。

 

 だが馬にとっては角を持たれることこそ嫌でたまらぬであろう。

 遮二無二暴れまわって、どうにかオヅマを振り落とそうとする。

 

 オヅマはさっき馬に乗ってきて良かったと思った。三刻*1近く騎乗していたお陰で、馬の動きに対してある程度反応できる。

 

 グッと歯を食いしばって、跳ね回る馬にしがみつきながら、角と耳の間を探る。

 

 

 ―――――耳と角の間にな、毛に隠れて見えないけど、()()があるんだ。指先ぐらいの窪みさ。

 

 

 左側の耳と角の間にポッコリと窪んだその場所を見つけると、親指でグイと押し込んだ。

 馬はそれでも落ち着かない。

 右側も左と対称となっている場所辺りを探ると、やはり小さな窪みがあった。そこも親指で押さえる。

 

 

 ―――――ツボを押さえるとな、中に何かコリコリした玉みたいなのがあるんだ。それを動かすように指先でグリグリと回してやるのさ。

 

 

 夢の記憶にある男の言葉を頼りに、オヅマはとにかく指先に感じた皮下の(こぶ)のようなものをグリグリと刺激した。

 

 それを続けるうちに、黒角馬は徐々に落ち着いていった。

 

 今になって気付いたが、さっきまで赤く光っていた馬の目が、今は黒に戻っていた。どうやら興奮すると赤くなるようだ。

 馬はその大きな黒い瞳でチラとオヅマを見てから、もういいと言いたげにブルンと首を振った。

 

 オヅマは()()から指を離すと、長く伸びた銀の鬣を掴んだ。

 

 オオォとまるで狼の遠吠えのように馬が啼く。

 崖の下の方から三頭の馬が駆けてきた。

 

 三頭のうち二頭は仔馬らしく、体も小さく角がわずかに生えかけていた。

 残りの一頭は普通の馬よりやや大きい程度の大きさで、こちらは角もなく鬣もさほどに長くもない。だが、淡く光を帯びたような真珠色の毛並みが見事だった。

 この馬は(メス)なのだろう。オヅマの乗る馬に鼻をこすりつけてきた。どうやら(つがい)らしい。

 ということは、この馬達は家族だろうか?

 詳しい生態はわからないが、仔馬は一頭ずつ両親の容姿をそのままに受け継いでいる。

 

 オヅマが見上げると、ヴァルナルは満足そうな笑みを浮かべていた。

 

 まだまだ手懐けたとまではいかないが、とりあえず合図を送ってみると、よほどに()()を押したのが効いたのか、馬はオヅマの指示に従って、岩場を軽々と飛び跳ね、ヴァルナル達の待つ場所まで連れて行ってくれた。

 後ろから家族の馬達も()いてくる。

 

「……大したものだな」

 

 ヴァルナルは心底から感嘆していた。

 

 自分はもしかするととんでもない拾い物をしたかもしれない。

 

 馬と、少年と…。

 

 だが褒めるのはそこまでにしておいた。せっかくの才能の片鱗を曇らせるようなことになってはいけない。

 

「お前の家はラディケ村にあるのか?」

「はい」

「じゃあ、このまま向かおう。お前の親に会わねばならない」

「………はい!」

 

 オヅマは大きな声で返事する。

 満面の笑みはとても晴れやかで、嬉しくてたまらぬようだった。

 

 

 これでもう帝都に行く必要もない。

 

 あの()も消えてなくなるはずだ。……

 

 

*1
三時間



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第四話 騎士になるために

 忙しい朝の仕事が一段落した頃にゾロゾロと現れた領主の騎士団一行に、村の人間は皆驚いた。祭りや買い出しなどで自分達がレーゲンブルトに行くことはあっても、領主がここに来たことなどない。

 一月に一度、領主館の行政官が様子を見に来て、不都合がないかを村長に聞く程度だ。

(実のところ、ヴァルナルは何度かこの村を訪れていた。その時には行政官の下っ端役人として来たので、誰も気づかなかった)

 

 村人の動揺に、ヴァルナルはすぐさま騎士達に村の外に出て待機するように命じ、自分とパシリコはオヅマの家へと向かった。

 

 村の中心部から少しだけ離れた場所にあるオヅマの家の前では、ちょうど、朝から押しかけてきた村長のどら息子にミーナが対応しているところだった。

 

「母さん!」

 

 オヅマがヴァルナル達よりも一足先に走り寄って、声をかけると、ミーナはあわてて駆け出し、オヅマを抱きしめた。

 

「どれだけ心配したと思ってるの!」

 

 怒りながら、きつく抱きしめてくる。

 ホッとしたのか涙がこぼれ落ちた。

 

「勝手にご子息を引き留めてしまうことになり、申し訳ない。夫人」

 

 ヴァルナルが話しかけると、ミーナはハッとしたように見上げた。

 

 その領地に住んではいても、一年のほとんどを公爵の本邸か帝都で過ごす領主様の顔を見知る領民は少ない。

 

 訝しげに見るミーナに代わって、その騎士について教えたのは、背後で腰を抜かした村長のどら息子だった。

 

「ヒッ…ヒェ……りょ、領主様」

 

 ミーナはその言葉を聞き、もう一度目の前の中年男を見上げ、あわてて(ひざまづ)いた。

 

「む、息子が大変失礼を致しました! どうか…何をしたのかわかりませんが、お許し下さいませ!!」

 

 ヴァルナルは一瞬キョトンとしてから、鷹揚に笑った。

 

「いやいや。こちらは助けてもらったようなもので…ところで少しお話したいことがあるのだが、お邪魔してもよろしいだろうか?」

 

 ミーナは戸惑いつつも、とりあえず家の中に領主を案内した。

 

 どら息子は目を白黒させながら、転びながら走り去っていった。おそらく村中に領主がオヅマの家に来たことを触れ回ることだろう。

 

 オヅマは先に家の中に入ると、土間の台所と続きになった薄暗い部屋を素早く見回した。

 

「お兄ちゃん!」

 

 マリーが気付いて抱きついてきたが、オヅマは気忙しく言った。

 

「マリー。大事なお客様なんだ」

 

 せっかく帰ってきた兄の態度が素っ気なくて、マリーはプンとむくれたが、すぐに戸口からヴァルナルが姿を現すと、驚いて固まってしまった。

 

「おや、君が妹か」

 

 朗らかにヴァルナルは話しかけたが、父のせいもあってマリーは大人の男に対してとても臆病であったので、すぐにオヅマの背後に隠れた。

 

 オヅマは机の上に広げてあったどんぐりを、籠の中に殻も一緒くたに入れた。

 後ろでマリーが「あっ!」と声を上げる。

 どうやらマリーはどんぐりの皮むきをしていたらしいが、今はそれどころではない。

 

「すみません。むさ苦しいところに…」

 

 ミーナは小さい声で謝りながらヴァルナル達に椅子を勧めたが、細い骨組みで古びた椅子にヴァルナルが座れば壊れそうであった。

 

「いや。こちらには夫人がお座り下さい。私はこれで十分」

 

 ヴァルナルは丁重に断って、もうひとつの椅子――――切り出した木の椅子に腰掛けた。

 背後にパシリコがびしりと背を伸ばして立つ。

 

「単刀直入に申し上げます。私はオヅマ少年の願いを聞き入れて、あなた方を領主館で雇いたいと思っております」

 

 唐突なその申し出にミーナは目をしばたかせた。

 

「え? ……領主…館…ですか?」

「はい。昨日、オヅマ少年が私の館に来て、取引を申し出たのです」

「まぁ! 取引だなんて…」

 

 ミーナは困惑しながらも、オヅマにキッと強い視線を送ったが、その時オヅマはすっかりむくれてしまった妹の機嫌をとるので忙しかった。

 

「彼は非常にいい材料を出してきましたよ。よくも騎士である私の欲しいものを見抜いたものです。なかなか目の付け所がいい」

「はぁ…」

「とりあえず彼の出した条件として、夫人、あなたと自分と妹が領主館で働けるようにしてほしいということでした。私はそれを了承します。夫人さえよければ、是非、うちに来て働いて頂きたい」

「え……あ…」

 

 ミーナは昨日オヅマがレーゲンブルトに向かったということを村の大工から聞いて以来、驚くことばかりが続いて、すっかり動転していた。

 

「母さん、領主館の料理人はお婆さんで手伝いが欲しいらしいんだよ。さっき聞いたんだ」

 

 拗ねて隣の部屋に籠もってしまった妹のことは諦めて、オヅマはミーナを勇気づけるように言った。

 

「母さんハルケンスさんの店で時々手伝いに行ったりもするし、料理もおいしいから、絶対うってつけだよ」

 

 ミーナはオヅマをまじまじと見つめた。

 

 昨日、切羽詰まった顔で家を出て行ってから、オヅマなりに必死で母親の就職先を探してくれていたのだろうか。

 なんだか一晩見ないうちに、息子が随分と大人びた気がした。

 

 それでも少し考える時間が必要だ。

 

「あ…の…ちょっといきなりで考えることが出来なくて……」

 

 ミーナがおずおずと言うと、ヴァルナルはやさしく笑った。

 

「構いません。ゆっくりと考えて頂ければ。ただ、一つだけ」 

 

 ピシリと人差し指を一本立てて、ヴァルナルはやや語気を強めた。

 

「オヅマ少年については、是非にもこちらでお預かりしたい」

「……オヅマを?」

「彼には稀有な才能があるように思う。私の下で育成して将来的には騎士にしたいと思っています」

 

 オヅマは驚いた。

 自分はミーナと一緒に領主館で下男として雇ってもらうつもりだったからだ。

 

 けれどヴァルナルは、オヅマがラディケ村から領主館までわずか3時間ほどで走ってきたのだという話をした時から考えていたのだった。

 戦となればその俊足も、持久力も、非常に有益な能力だ。

 

 ミーナは複雑な表情になった。

 チラと息子を見ると、嬉しそうに目を輝かせて領主を見つめていた。

 

 おそらく騎士になりたいのだろう。けれど…

 

「……少し、時間を下さいませ」

 

 ミーナが頭を下げると、ヴァルナルは頷いて立ち上がった。

 

「朝の忙しい時間に面倒をかけました。館の執事には話しておきますので、心が決まったらいつでも来て下さい」

 

 オヅマはヴァルナルに()いて家を出ると、はっきりと言った。

 

「俺、行きます。絶対に」

「あぁ、待ってるぞ」

 

 ヴァルナルはオヅマの肩を叩くと、帰っていった。

 道まで見送りその姿が見えなくなるまで、オヅマは手を振っていた。

 

 ヴァルナルの温情が嬉しかった。

 これで自分の未来が大きく拓かれた気がしていた。

 

 

 

 

 結局、ミーナはオヅマの願い通りに領主館で働くことに決めた。

 

 どうやらあの朝、どら息子はまだ喪に服しているミーナを口説いていたらしい。(めかけ)にならないか、と。

 

 オヅマはその話を聞いて、ゾッとした。

 あんな下膨れの、豚のように太った男に面倒を見てもらうなど御免だ。

 

 いや、ひょっとするとミーナだけを連れて行って、オヅマとマリーのことなど放っておく気であったかもしれない。有り得る話だ。

 

 ミーナはどら息子の話などは最初から受ける気もなかったが、まだ帝都へ行くことに未練があるようだった。

 

「あなたが騎士になりたいと言うのなら、なおのこと帝都(キエル=ヤーヴェ)に行けば、もっと栄達の道もあると思うのだけど…」

 

 オヅマはムッとして言い返した。

 

「母さん。俺は騎士になりさえすればいい訳じゃないんだ。あの領主様の下で騎士として認めてもらいたいんだ。はっきりとわからないけど、きっと領主様は騎士としても立派な方だと思うんだ」

 

「随分と…頼もしくなったものね」

 

 息子がいつの間にかしっかりと自分の意見を言うようになったことに、ミーナは少しだけ寂しく思いつつ、やはり嬉しかった。

 

 考えてみれば父を亡くして、男が自分しかいないという自覚がうまれたのだろう。

 まだまだ子供なのに、そんな気持ちにさせるのは申し訳なかったが、現状、オヅマはミーナにとって頼りがいある息子となっていた。

 

 帝都に行けなくなったマリーはむくれていたが、午後になってからマッケネンが「約束だったからな」と、わざわざ往復して届けてくれたパンとベーコンと林檎を食べた途端にあっさり転向した。

 

 引っ越しするほどの荷物もない。

 三日後にはレーゲンブルトに向かった。

 

 ヴァルナルはオヅマ一家の選択を非常に喜んだ。

 

 ちょうどその日に(くだん)の料理人であるヘルカ婆がぎっくり腰になって動けなくなってしまっていたのだ。

 ミーナは早速、料理人としての器量を問われることになったが、結果はヴァルナルを唸らせるほどに見事な晩餐を用意した。

 

 オヅマはまだ正式に騎士としての訓練を受けるには早かったので、下男として働かせてもらいながら、時折騎士達から剣術や馬術の指導を受けた。

 

 マリーは庭師のパウル爺(彼はヘルカ婆の夫であった)といつの間にか仲良くなり、小さいながらも花壇の草抜きなどを手伝ったりして、あっという間に領主館に馴染んでいった。

 

 



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第五話 悲しい叫び

 領主館に来て、もうすぐ一月(ひとつき)になろうとしていた。

 

 オヅマは仕事にも慣れて、他の使用人や騎士達ともすっかり打ち解けていたが、ある日信じられない光景を目にする。

 

 

 

 

 バシッと鈍い音がして、怒鳴り声が響いた。

 

「こんなところまで来るとは、何を考えているのだ、貴様ッ!!」

 

 メソメソと泣く声にオヅマはすぐにそれがマリーだと気付き、走って向かう。

 角を曲がって、ようやく姿を確認すると、泣いて床に倒れたマリーの前には領主館の執事であるネストリが今しも足を上げて蹴りつける寸前だった。

 

 オヅマが加速してマリーを庇ったと同時に、ネストリの革靴がオヅマの顔にめりこむ。

 

「……ッ貴様……!!」

 

 ネストリは急に現れた人影に驚いたが、それがオヅマだとわかるとフンと鼻をならして、軽蔑もあらわに見下した。

 

「お前も、何用でここに来た?」

「俺は…」

「僕は!」

 

 ネストリが嫌味ったらしく訂正する。

 オヅマはグッと苛立ちを呑み込んだ。

 

「僕は…マリーの声が聞こえたから」

「つまり声が聞こえるような場所にいたということだな。こちらの棟には入るなと、聞いてなかったのか?」

 

 ネストリはじっとりとした目でオヅマを睥睨する。

 

 確かにこの先に続く棟には近づかないようにと釘をさされてはいた。

 だが、ここはまだ禁止されていた場所ではなく、中間地点だ。

 

「そんなこと言ったって、兵舎にはこの廊下をいつも通ってて…」

 

 ネストリは手を振り上げると、当たり前のようにオヅマを殴った。

 

「口答えは許さない」

 

 言いながら、殴った手にフッと息を吹きかける。いかにも汚いものを触ったかのように。

 

「貴様らごとき、領主様の御厚意でここにいるということを忘れるな。貴様らを追い出すなど訳もないのだ」

 

 そのままネストリはオヅマの反論を聞くこともなく、その棟の奥へと向かっていった。

 

「大丈夫か?」

 

 オヅマはマリーを立ち上がらせると、軽く服についた埃を払った。

 

「私…あのおじさん嫌い」

 

 マリーがポツリとこぼす。

 オヅマは笑った。

 

「そうだな。俺も嫌いだ」

 

 ネストリは基本的には優しい人の多い領主館にあって、極めて異質な人物だった。 

 彼は多くの使用人と違い、この地方の出身者ではなかった。

 

 元は公爵家の従僕であったらしく、そのことに誇りを持つあまりに他の使用人を下に見ているきらいがあり、正直、領主館のほとんどの使用人から好かれていなかった。

 

 男爵は時々ネストリのその堅苦しいまでの態度に苦言を呈したが、自分の主家たる公爵家からわざわざ派出されてきたので、強くは言えなかった。

 

 ダークブロンドの硬質な髪にオイルを塗ってすべて後ろになでつけ、皺一つない執事服に身を包み、表情を崩すことなく使用人に的確な指示を与える。

 そつなく領主館の雑事をこなすネストリは、一見すると理想的な執事であった。

 だが、緑灰の瞳はいつも酷薄な光を浮かべていた。

 

 彼のオヅマ達一家に対する態度は、他の使用人に比べてもひときわ棘のある厳しいものだった。

 それは彼の承諾を得ずに、ヴァルナルが雇用を決めてしまったことが主な理由で、通常、使用人の人事は執事が行い、主人は執事からの意見をもって雇用の可否を決めるのみ。

(一般においてはそれすらも形骸化していて、主人は執事からの人物調査書と紹介文書の内容を概ね聞いて、了解するだけ)

 直接、主が雇用を決定するなど、ネストリからすれば職権侵害であった。

 

 しかしヴァルナルにそうした前例に拠った抗議は通じない。

 彼はネストリの言い分を聞くことはしたが、自分の決定を覆すことはしなかった。

 ヴァルナルにとっては、ネストリの領分よりも、少年との約束を守ることの方が大事だった。

 

 だからオヅマ達が領主館を訪れた時、ネストリは仕方なく受け入れるしかなかった。

 冷たい面をピクリと動かすこともなく、彼はオヅマ達に領主館の扉を開いた。

 

 

「でも、なんでこっちに来てたんだ?」

 

 オヅマは不思議に思った。

 さっきネストリにも言ったように、騎士団の兵舎はこの先にあるのでこちらに来る必要がオヅマにはあるのだが、マリーは来る必要もなかったし、そもそも大人の男が苦手なマリーが好んで騎士団に行くことはなかったのだ。

 

「だって…声が聞こえたの」

「声?」

「男の子が叫んでるみたいな声」

「男の子?」

 

 オヅマは聞き返して首をひねった。

 ここに自分達以外に子供がいるのだろうか? そんな話は聞いたことがない。

 

「風の音がどこかに反響してそう聞こえただけだろ?」

 

 マリーは首をひねった。

 

「そうかなぁ?」

「とにかく、またゴチャゴチャ言ってくる前に厨房に戻っとけよ」

 

 オヅマはマリーの背を押して、追いやった。

 

 マリーは釈然としないながらも、やはりネストリに怒られたのがよほど怖かったのか、チラとだけ禁止された廊下の奥を見てから、小走りに厨房の方へと戻っていった。

 

 

 

 

 領主館において、一番の早起きはオヅマだった。

 

 夜明け前から起きて、馬の餌やりをせねばならない。

 朝駆けに行く一刻前*1までには済ませておく必要があるのだ。

 

 本来、それは新米騎士であるフレデリク、アッツオ、ニルス、タネリら四人の役割であったが、オヅマが見習いとはいえ騎士団の末端に加わったことで、彼らの労働は随分と楽になり、四日に一度は誰か一人が長めに眠れるようになった。

(この事は後に副官カールの知るところとなり、彼らは大目玉を食らうことになるのだが)

 

 例のヘルミ山で見つけた黒角馬も元気に過ごしていた。

 仔馬は時々騎士達も乗っているようだったが、親馬の雄はどうやら人を選ぶらしく、最初にオヅマが乗った以外ではヴァルナルしか乗せなかった。

 

 試しに副官二人が乗ってみたが、見事に振り落とされたらしい。

 雌の方は気まぐれで乗せてくれることもあれば、いきなり機嫌が悪くなって振り落とすこともあった。

 

 雌であっても通常の馬よりやや大きいので、落馬して骨折する騎士も出て、その後は無理な調教はせずに、まずは徐々に環境から慣らしていっているらしい。

 

 オヅマはあの時以来、黒角馬に乗ることはしなかった。

 一度、騎士の一人が乗ってみろよと囃したが、運悪くちょうど背後に立っていた副官パシリコにしっかり聞きつけられ、その騎士は即座に拳骨の制裁を受けた。

 

「オヅマ。言っておくがな、お前が見つけたとはいえ、この馬達は既に領主様の馬だ。勝手に乗ることは許さないぞ。もし勝手に乗って、馬の脚が折れるようなことがあれば、即座にお前の首は胴から離れることになる」

 

 馬は重要な乗り物だった。

 それは貴族でない平民であっても、持っていればその一頭の働きだけで家族四人を養ってくれるくらい、大事なものだった。

 

 まして騎士の乗る軍馬ともなれば、その価値は()()()()()の命では代償がきかない。

 

「はい!」

 

 オヅマが返事すると、パシリコは少し言い過ぎたと思ったのか、ポンと軽く頭を叩く。

 

「領主様もいい馬が手に入ったとお喜びだ。また今度ヘルミ山に行って、新たな黒角馬を捕らえたら、公爵様にも献上する予定だからな。お前、しっかり世話をしてくれ」

 

 その数日後には、また新たに十頭の黒角馬が捕獲された。

 無論、オヅマが例の馬の耳と角の間のツボを教えたのも役に立ったのであろうが、元々、良質な野生馬を捕らえて繁殖させることは騎士団の仕事の一環でもあった。

 

 多少風変わりな馬であったとしても、馬である以上、さほど大きく性質は変わらないらしく、一度経験してしまえば捕獲作業は慣れたものだった。

 

「おはよう」

 

 ヴァルナルはやってくると、必ずオヅマにも挨拶してくれる。

 そうして今から乗る最初に捕らえた黒角馬(この馬はシェンスと名付けられた)の腹をやさしく撫でてから、ヒラリと跨る。

 

「では、行くぞ」

 

 オヅマは騎士団が一斉に馬に乗り走り出す光景を見送りながら、いつもあの日のことを思い出す。

 

 領主館から出て、寝静まった街中を静かに行進し、古く城塞都市であった名残の城門を抜ける。

 そこから騎馬の足並みは早まり、なだらかに続く丘陵を超えたその中途で、一旦行進が止まる。

 

 整然と並ぶ騎馬の列。

 畑の向こう、遠く見えるグァルデリ山脈の間から昇る太陽。

 何の号令もなく、騎士達はその曙光に礼拝する。

 

 あの荘厳で美しい戦列の中に自分が騎乗して佇む姿を想像するたび、オヅマは背筋がゾクゾクした。

 早く大きくなりたい、と切実に思う。

 

 騎士団が朝の訓練に行った後は、残った黒角馬達のグルーミングを行いながら体調を観察する。

 どの馬も食欲があり、便の状態も問題なかった。

 馬の中には神経質なのもいて、環境変化で腹を下す馬などもいるらしいが、この種の馬は図太いようだ。

 

 もっとも黒角馬にしてみれば、厳しい環境下であるヘルミ山に比べると、毎日食うに困らず、のんびりと柔らかい土の上を歩いて過ごす方が居心地がいいのかもしれない。

 

 今日も長い鬣をブラシで丁寧に梳いた後、編み込んでいたら、不意に子供の叫び声が風にのってうっすら聞こえてきた。

 

「……?」

 

 オヅマは手を止めて、しばらく耳を澄ませた。

 早朝の忙しい気配の中に響く、異質な声。

 

 はっきりとではなかったが、確かに甲高い子供の声がした。

 

 しばらく考えてからオヅマは歩き出した。

 幸いにも騎士団が出て行った後の兵舎周辺は人気《ひとけ》がない。

 

 例の禁止されている棟の、この前マリーが殴られた廊下のところまで来ると、はっきりと子供の叫び声が聞こえた。

 ひどく悲しくて不安をかきたてる。

 いったい、誰がどうしてあんな声を上げているのだろう?

 

 素早く辺りを見回す。

 いくつかの柱や窪んだ壁を確認してから、気配を殺して歩きつつ、誰か来たら瞬時に身を隠せる場所を転々として近付いていく。

 

 叫び声は途中で止まった。

 代わりに聞き覚えのある怒鳴り声が聞こえてくる。

 

「いい加減になさいまし! そのように泣いてどうなるものでもございませぬぞ!!」

 

 ネストリだった。

 苛立たしげで耳障りな声。階段の上から聞こえてくる。

 

 深い臙脂色の絨毯が敷き詰められた人気のない階段の上を見上げていると、バタンと乱暴にドアを閉める音がした。

 オヅマはあわてて階段下に隠れた。

 すると先客が声を上げそうになって、あわてて口を手で押さえている。

 

「………マリー」

 

 オヅマは小声で言ってから、口を閉じた。

 足音も荒々しく降りてくる音が頭上で響く。

 二人で息を潜めていると、足音はだんだんと遠ざかっていった。

 

 マリーが出て行こうとするのをオヅマは止めた。

 もう一度、周囲の気配を探る。

 

 全身にピリピリと痺れにも似た刺激がはしる。

 周囲の音や、ささいな空気の流れさえも感じ取ろうと、新たな感覚が神経の糸を伸ばしていこうとする。……

 

 そばで見ていたマリーは、兄がいきなり不気味な生き物になったように見えて、思わず腕を掴んだ。

 

「……お兄ちゃん」

 

 不意に遮られて、オヅマは我に返る。

 心配そうなマリーを見て、強張りながらも微笑んだ。

 

「どうした?」

「……なんかヘンよ」

「え? あぁ…いや」

 

 そう言われると、自分でもおかしかった。

 周辺の音を耳以外の全身で感じ取るなんてことは、騎士でも相当に訓練を積んだ高位の者しかできない。

 どうして自分にそんなことができるなんて思ったのだろう…?

 騎士になりたいと思うあまりに、すっかりその気になってるみたいだ。

 

 オヅマは安心させるようにマリーの手を握りしめ、耳を澄ませた。

 気配がないのを確認した上で、ひょっこりと頭を出してキョロキョロと確認する。

 誰もいないことが確実であるとわかってから、そっと階段下から出た。

 

「お前、戻っておけよ」

 小声で叱ってマリーの肩を押すと、マリーはプゥとふくれっ面になった。

 

「わたしが先に聞いたんだもん」

「そういう問題じゃ…」

 

 言っていると、階上からまた悲しげな声が響く。

 今度は叫んでいるというより、泣いているようだった。

 

 マリーは大股でタッタと階段を上がっていく。

 絨毯が敷かれていたお陰で、体の軽いマリーの足音は響かない。

 

 オヅマはあわてて後に続いた。

 二階は案外と部屋が少ないようで、ドアは三つしかなかった。

 

 声は廊下の右奥のドアから聞こえてくる。

 もう一度オヅマは辺りの気配を探ったが、働いている大人はいないようだ。

 

 だがマリーは頓着せずに手前のドアに耳をあてて首を振り、奥のドアへと近寄っていく。

 

「おい、マリー…待て」

 

 オヅマが止めるよりも早く、マリーはそのドアから声がするとわかった途端にキィと開いた。

 

 その部屋からは変な匂いがした。

 嗅いだことのない、喉が少し噎せるような感じになる匂い。

 臭くて鼻が曲がるというのでもないが、かといっていい匂いでもなかった。

 

 大きな窓には、重たそうなカーテンがかかっていた。

 わずかな隙間からの光と、ベッド横のサイドテーブルに置かれたランプだけが、暗がりの部屋の中にいる人の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 

 天蓋ベッドの上で、男の子が突っ伏して泣いている。

 

 マリーはベッドの側まで寄ると、そっと声をかけた。

 

「どうしたの?」

 

 その声にびくっと震えて、男の子は顔を上げた。

 

 ヴァルナルと同じ赤銅色の髪。青みがかったグレーの目。

 怯えを浮かべながらも、その目は興味深そうにマリーを見つめていた。

 

「………………………誰?」

 

 長い間の後、彼は問うた。

 

「私はマリーよ」

 

 オヅマはこういう時の妹の度胸にあきれつつ感心した。

 よくにっこり笑いながら挨拶できるものだ。

 こちらは招かれたわけでもなく、ここに来ることを許されてもいないのに。

 

「マリー……?」

 

 彼がつぶやくと、マリーは矢継ぎ早に質問した。

 

「ねぇ、どうして泣いてるの? どうしてさっきまで叫んでいたの? ネストリさんに怒られてたけど大丈夫? あの人、怖くない?」

「おい、マリー」

 

 オヅマが声をかけると、彼はそれまで暗がりに静かに立っていたオヅマに気付いていなかったのか、ヒッと短く喉をならして後ずさった。

 

「あっ、ごめんなさい。お兄ちゃんなの」

 

 マリーがあわてて言うと、ジロジロとオヅマを見ながらつぶやく。

 

「お…兄…ちゃん……?」 

「俺は、オヅマって言うんだ。勝手に入ってごめん。なんか叫んでるのが聞こえてきたから気になって…」

「君達は…この館にいる人?」

 

 男の子は少しだけオヅマ達の方に寄った。

 

「うん。そう。領主様に来ていいよ、って言われて来たの」

 

 マリーがとても簡単な説明をすると、男の子は意外そうに聞き返した。

 

「父上が?」

 

 オヅマはこの時になってようやく、自分達がネストリに怒られた理由がわかった。

 

「すいませんでしたッ!」

 

 あわてて頭を下げると、マリーの手を引っ張る。

 

「行くぞッ、マリー」

「えっ?」

「待って!」

 

 男の子がもう片方のマリーの手を掴む。

 

 そのままオヅマが気付かず歩き出そうとして、「痛ぁいいぃ」と、マリーが大声を上げた。

 

 バタバタと廊下から誰かが走ってくる。

 

 オヅマは見回して、咄嗟にベッドとサイドテーブルの間の暗がりへとマリーを連れて隠れた。

 

「どうかされましたか? 坊ちゃま」

 

 姿を現したのは女中頭のアントンソン夫人だった。

 

「………なんでもない」

 

 男の子は沈んだ声で言った。「なんでもないんだよ。あっちに行って」

 

「でも、痛いと仰言(おっしゃ)っておられたようで…」

「痛いのはいつだって痛いさ! いいからもう放っておいてよ!」

 

 いきなり癇癪を起こす男の子にアントンソン夫人は溜息を隠そうともしなかった。

 

「それでは失礼します」

 

 とりあえず形式的なお辞儀をして、早々に部屋から出て行った。

 

 再びシンとなって、男の子はベッドから降りてくると、テーブルの下にうずくまっていたオヅマ達をじっと見つめた。

 

「あなたはなんていうの?」

 

 マリーは緊張した空気を感じていないのか、ひょっこりとテーブルの上に顔を出して質問した。

 男の子はさっと顔を赤らめ小さな声で早口に言った。

 

「え? 聞こえなかった」

 

 マリーは這いながらテーブルの後ろから出て行く。

 オヅマはものすごく気まずい思いで、立ち上がり頭を下げた。

 

「すいません。あの…オリヴェル坊っちゃん」

 

 マリーがオヅマを振り返る。

 

「オリヴェル?」

 

 それから目の前の男の子を見た。

 

「オリヴェルっていうの?」

 

 男の子は頷いてから、反対に質問してきた。

 

「君たちは、いつからここに?」

 

 マリーは首をかしげてオヅマを見上げる。

 オヅマは頭の中で暦を繰った。

 

「えぇーと確か1ヶ月…くらい?」

 

 男の子はどんよりした顔になった。

 

「そんなこと、僕聞いてない…。誰も、教えてくれない…」

 

 オヅマはあわてて弁明した。

 

「いや。ただの使用人が入ったぐらいのこと、いちいち教えないって! マリーなんてこの通りだから、手伝いにもなんないし…」

「そんなことないもん! この前だってパウルお爺さんと一緒に草抜きして、肥料を花壇に撒いて…ヘルカお婆さんだって食器を拭いたら助かったよって言ってくれたわ」

「わかったから…大声だすなって。あの野郎が来たらどうすんだよ?」

「…あの野郎って?」

 

 首を傾げて尋ねてくるオリヴェルにマリーは「ネストリさん」と事も無げに言う。しばらく狐につままれたような顔になった後、オリヴェルは笑った。

 

「わぁ! やっと笑ってくれた!」

 

 マリーが手を合わせて嬉しそうに言うと、オリヴェルは少しはにかみつつ微笑んだ。

 それから窓の方へと歩いていき、カーテンを開ける。

 眩しい光が一気に暗い部屋に入ってきた。

 

 窓の外は広いバルコニーになっていた。

 オリヴェルはカーテンを久しぶりに開けただけでなく、バルコニーへ出て行く掃出窓も開けた。

 しばらくぶりであったせいで、ギギと軋む。

 

 オリヴェルがバルコニーに出て行くので、オヅマとマリーはついていった。

 柵のところまで来ると振り返り、妙なことを聞いてくる。

 

「君たちって木登り得意?」

「うん! 大好き!!」

 

 オヅマが答えるより早く、マリーが言った。

 ミモザの木が葉を茂らせて、バルコニーにまで枝を伸ばしている。

 

「このミモザ、降りることはできる? 下はたぶん誰も来ないから」

 

 オヅマはバルコニーから少しだけ身を乗り出してみた。

 囲まれた木々と壁の間から、少しだけ修練場が見える。

 おそらく向こうから気付かれることはないし、館の裏側になるのか出入り口がさほどにないせいか人気はない。

 

 ミモザの幹はちょうどいい太さで、マリーでも難なく降りていけそうだ。

 

「いけそうだ」

 

 オヅマはバルコニーに伸びた枝にヒラリと飛び乗った。

 マリーも乗ると、四つん這いになって幹の方へと向かう。

 

 そのまま降りようとして、オリヴェルが言った。

 

「ねぇ、また来てくれる?」

「………」

 

 オヅマは即答できなかった。

 

 ここに来てからは聞いてなかったが、まだ村にいた時に領主館の話をしていた大人が言っていた。『領主様の息子は体が弱いらしい』…と。

 

 すっかり忘れていた。

 そもそもこの館の人達も、誰もヴァルナルの息子については教えてくれなかった。

 

「うん、いいよ」

 

 返事をしないオヅマの代わりに、あっさりとマリーが了承してしまった。

 

 正直、この事態はあまりよくない。

 下手すれば領主館から叩き出されるかもしれない。

 

 しかしどこか諦めたような目で、それでもじっと見つめてくるオリヴェルに否定的な言葉を言いたくなかった。

 

「……またな」

 

 小さく言って、オヅマはするするとミモザの木を降りていった。

 下に辿り着いて上を向けば、もうオリヴェルの姿はなかった。

 

「マリー、お前…なんで『いい』なんて言うんだよ!」

 

 オヅマが怒ると、マリーはまた口をとがらせた。

 

「だって、可哀想だったんだもん」

「可哀想ってなぁ…あっちは領主様の息子なんだぞ」

「領主様の息子は可哀想じゃないの?」

 

 そう言われるとオヅマは口を閉じるしかなかった。

 食べる物にも着る物にも苦労しないで済む恵まれたお坊ちゃんであっても、不幸でないわけではない。

 

 今になって気付く。

 オリヴェルの部屋に充満していたニオイは、きっと薬か何かなのだろう。

 ずっとあの陰気な部屋で暮らして、自由のきかない体に支配されるのは、きっと辛い。

 自分がそうであったと考えるだけでも、憂鬱になる。

 

「お兄ちゃん、あの子が叫んでいる声を聞いた?」

 

 マリーがとても悲しそうな目でオヅマを見上げてくる。

 

「……聞いた」

「私あの声を聞いたときに、リッツォを思い出したの。ホラ、村にいたヌオレラさん家《ち》の子。時々、みんなで遊んでた…」

 

 ヌオレラさんはオヅマの父であったコスタスと同じ小作人だった。

 元は別の領地にいたらしいが、飢饉でこちらに移住してきた人で、あまり村人と馴染んでいなかったせいか、家族は皆いつも暗い顔をしていた。

 

 家族の中の末っ子であったリッツォは、オヅマ達が遊んでいるのを遠くから見ていたので、声をかけて一緒に遊んだりしたものだ。

 

 だが、そうやって仲良くなって一月もしないうちに、リッツォはいきなり死んでしまった。

 死因はよくわからなかった。

 ただ、ヌオレラさん一家はいつの間にか村から去っていった。

 

「リッツォ? なんで?」

 

 オヅマはいきなりマリーがリッツォのことを言い出したのがよくわからなかった。 

 オヅマとそう年も変わらぬように見えるオリヴェルに比べ、リッツォはもっと幼い。二人に共通点があるようには思えなかった。

 

 マリーは顔を俯け、スカートをギュッと掴んだ。

 

「私、ヌオレラさんの家の前を夕方くらいに通ったことがあったの。そうしたら、中から大きな音がしたわ。それからリッツォが泣いていたの。叫んで泣いていたの。とても悲しそうな声だった。……怖かったの。私、怖くて逃げちゃった。そうしたら次の日にはリッツォが死んだって聞いたの」

「………」

 

 オヅマは無表情になった。

 大人の虐待で子供が死ぬのは、そうあることでもなかったが、珍しいことでもなかった。

 

 オヅマだって父からの暴力で死にかけたことは二度や三度ではない。

 雪の吹き荒ぶ冬の真夜中に外に放り出されたことだってある。

 

「マリー」

 

 オヅマは膝をついてマリーの視線に合わせた。

 泣きそうな顔になっている。

 

「そんなことはお前のせいじゃないんだぞ」

「でも、()()()放っておきたくなかったの…」

「わかったけど、無茶したら駄目だ。とりあえず大丈夫だってわかったろ?」

「……でも、寂しそうだったよ」

「そうだな」

「今度、行ってあげようよ。私、お花見せてあげたい。あのお部屋のお花、枯れてたわ」

「………考えとく」

 

 脳裏にチラチラとネストリの顔が浮かぶ。

 あの男に見つかったら最後、領主様に言い訳もできないうちに領主館から叩き出されそうだ。

 

 オヅマはマリーを厨房まで送り届けた後で、あわてて騎士団の馬場に戻った。

 そろそろ皆が朝駆けから戻ってくる。

 厩舎の掃除をしておかねば、大目玉をくらうことになる。

 

 馬場を軽やかに駆けている黒角馬達の姿を見て、オヅマはホッとした。

 朝からえらいことになったが、とりあえず今日も仕事するだけだ。

 

「さて、やるか」

 

 

 

 

*1
1時間前



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第六話 子供達の秘密結社

 騎士団が帰ってくると、ようやく朝食の時間になる。

 

 兵舎の横に備えられた食堂には、厨房から当番兵が運んできた大鍋が三つと、大きな籠の中に山盛りのパンが石積みの台の上に乗っている。

 兵士達はめいめいで皿に料理を盛り、一人につき二個までのパンをとって食べる。

 

 オヅマもこの中で食べることになっているが、子供ということで、パンは一つまでとされていた。

 

「えらくあわててたな、オヅマ。サボってたんじゃねぇだろうな」

 

 ドカンと前に座って声をかけてきたのは、サロモンという騎士だった。

 オヅマと同じ年くらいの息子がいるらしく、何かと声をかけてくる。

 

「いや、途中でお腹が痛くなって…」

「腹が痛いィ? お前、腹減ったからって、馬の餌でも食べたんじゃないだろうな?」

「そんな訳ないだろ」

 

 サロモンは大笑いした後で、握り拳二つ分はあろうかというパンを三口で食べてしまう。

 オヅマからすると勿体ない食べ方だが、なにせ迅速を尊ぶ騎士団においては貴族よろしくゆっくりと食べる習慣などない。

 

「あの、ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」

「なんだ?」

「領主様に息子がいるって聞いたことがあるんだけど…ここにいるの?」

 

 サロモンはチラっと隣にいたゴアンを見て、ゴアンはオヅマの隣に座っていたアルベルトに目配せする。

 彼は副官カールの弟で、騎士団の中では一番の弓使いだ。 

 

「お前ぇ~、その話誰から聞いたんだよ?」

 

 サロモンがムッと怒ったように言ってきて、オヅマはキョトンとする。

 

「村で前に大人が話してたのを聞いたよ」

「なんだ、村でか」

 

 わかりやすくサロモンはホッとした顔になった。

 

「箝口令がひかれてるってのに、誰が言いやがったのかと思った」

「かんこうれい?」

「余計なことをしゃべるな、ということだ」

 

 アルベルトは静かに言った。

 

「執事殿からお前達兄妹に領主様の若君については話すな、と指示された」

「なんで?」

「さぁな」

 

 澄ました顔でアルベルトはスープを啜る。

 

 カールとアルベルトは、ヴァルナルの主筋にあたるグレヴィリウス公爵家に代々仕える騎士の出らしく、傭兵崩れや平民からの志願者が多いレーゲンブルト騎士団の中では際立って作法が良かった。

 

「大方、汚らしいガキが領主様の息子に興味持って会いに行ったりしたら面倒クセェと思ったんじゃねぇの?」

 

 サロモンが適当に言うと、ゴアンがうんうんと頷いた。

 

「子供同士ってのは、引き合うからな。気がつきゃ勝手に遊び始める。それが身分違いであっても関係ないもんなぁ、子供の時は。俺も帝都で昔……」

 

 自分の話を始めるゴアンを無視して、アルベルトはオヅマをジロと見た。

 

「どうしていきなり若君の話をするんだ?」

「えっ? いや…その…」

「村で聞いた話を今頃聞いてきたのは何故だ?」

 

 この弱味を徹底的に突いてくるあたり、カールの剣術と似たものがある。やはり兄弟だ。

 

「えー…っと、その…声が…聞こえてきて」

「声?」

「その、なんか叫んでる…ような、声?」

 

 オヅマはとりあえず嘘はつかないことにした。

 下手な嘘をついたところで、アルベルトは誤謬を見つけたら容赦なくそこを詰めてくるだろう。嘘はつかないが、全ては話さない。

 

「あぁ…あれか」

 

 ゴアンが思い当たったのか溜息をつく。

 

「なんなの、あれ? あの…叩かれたりとかしてるんじゃないよね?」

 

 思わず聞いてしまったのは、マリーの話のこともあるし、階段に上がる前にネストリが叱責していたのを思い出したからでもある。

 

「領主様の息子を叩くような人間がいるわけないだろう。あれは…癇癪だ」

「癇癪?」

「母君もいらっしゃらなくて、領主様もお忙しい身だ。世話人の女も長く続かないし、色々と思うことがどうにもならなくて叫びたくなるのだろう」

 

 アルベルトが丁寧に説明してくれる。

 

「母君…って、領主様の奥方様?」

「…でいらした方、だ」

 

 オヅマが首を傾げると、サロモンがあけすけに言う。

 

「別れたからな。ま、別れて良かったさ。ここにいた時だって、なんかっ言ったら、田舎だの臭いだのと当たり散らして散々だった。一年持たずに都に帰って、男作りやがって、領主様に離縁状なんぞ送りつけてきやがった」

「はぁ…?」

 

 オヅマはいきなり怒り出したサロモンにキョトンとなった。

 アルベルトがパンをちぎりながら冷静に訂正する。

 

「正式には奥方から直接離縁状を送ってきたわけではない。その男が別れてほしいと言ってきたのだ」

「同じこったろ」

「女ごときが離縁を申し出て領主様が受けたなどと噂されてはならぬ。言葉は正確に伝えろ」

 

 領主様とその元奥方に関してはさておき、つまるところオリヴェルは母親に捨てられたも同然ということだ。

 オヅマの脳裏にオリヴェルの諦めきったような寂しい目が浮かんだ。

 

 ヴァルナルは今はこの領地に戻ってきているが、一年の半分以上は公爵の本邸か帝都にいるらしい。

 おそらくわざわざ病弱な息子を連れ回すようなことはしないだろうから、オリヴェルはほとんど一人ぼっちだ。たとえ、領主館に人がたくさんいても家族はヴァルナルしかいないのだから。

 

「オヅマ」

 

 アルベルトが声をかけてくる。

 

 こちらを見ずに、ほとんどきれいになったスープの皿をパンでキレイに拭っていた。これは貴族の作法でないが、食事を残さずに食べて、なるべく洗うのに水を使わないようにすることは、騎士団では戦に備えた行動規範とされていた。

 普段から行うことで、即座に戦時体制に対応できるようにしている。

 

 オヅマはまた痛いところを突かれるかもしれないと、内心で戦々恐々としつつ、平静を装って返事する。

 

「はい?」

「興味を持つくらいは構わないが、若君に会おうなどとは思わぬことだ。ネストリが知れば、面倒なことになる。あの執事は……色々と厄介だからな」

 

 アルベルトには珍しく不満げな表情だった。

 いつも表情を崩さないので、鉄面皮と騎士達が渾名するくらいなのに。

 

「……気をつけます」

 

 既に会ってしまった…とは口が裂けても言えない。

 口が裂けたらもっと言えない。

 オヅマは愛想笑いを浮かべてそう言うしかなかった。

 

 

 

 

 どうやら母は領主に息子がいることは知っていたらしかった。

 その上で、やはりネストリから子供には教えるなと命令されていたのだという。

 

 ネストリは嫌味たらしい鬱陶しい人間ではあるが、人物観察には秀でているようだった。

 オヅマとマリーを見ていて、好奇心旺盛で無鉄砲なところがあるのを見抜いていたらしい。……実際、そうだった。

 

 オヅマはマリーに今日、オリヴェルに会ったことは絶対に大人には言わないこと! と、約束させた。

 その上で、母のミーナには騎士達に聞いたのと同じように、朝に子供の声を聞いたんだけど…と話して、教えてもらえなかった理由を聞き出した。

 

「若君はお体が弱くていらっしゃるから…あなた達から風邪でももらったら大変なことになるの。だから、ね、もしお見かけしたとしても、近くに寄ってはいけませんよ」

「えぇぇ!?」

 

 不満そうにマリーが声を上げる。

 オヅマは机の下でマリーの足を軽く蹴る。マリーはオヅマを睨みつけたが、口をとがらせて黙り込んだ。

 

 オヅマはミーナを安心させるように言った。

 

「大丈夫だよ。若君なんて身分が違い過ぎて、さすがに一緒に遊ぼうなんて思わないよ」

「……そうよね。ここは村みたいに子供がいないから、あなた達には少し寂しいかもしれないけど」

「俺は騎士団で馬の世話もしなくちゃいけないし、館でだって雑用もあるんだから、遊んでる暇なんてないからいい。マリーは…ちゃんとパウル爺の言うこと聞いて、うろつき回らないようにしろよ」

 

 それとなく釘をさすと、マリーは俯いて少し涙を浮かべた。

 オヅマが「マリー…」と手を伸ばして頭を撫でようとすると、げしッと思いっきり太腿の辺りを蹴られる。

 

()ッ!」

 

 そのままマリーはベッドに潜り込んだ。

 

「まぁ、どうしたの?」

「いや。なんか…今日嫌なことがあったみたいで、機嫌が悪いんだ」

 

 オヅマは笑って誤魔化すと、溜息をついた。

 

 マリーとしては約束したのに、行かないでいるのはオリヴェルに嘘をつくみたいで嫌なのだろう。

 しかし、今ここで言い聞かせるのは難しい。明日、ちゃんと説明すればわかってくれるはずだ。

 

 その日はぐっすり眠って、朝からはまた忙しかった。

 

 だから、探してもマリーが見つからないことに気付いた時、オヅマは仕方なしにミモザの木に登るしかなかったのだ。

 

「……やっぱり」

 

 バルコニーの窓から覗いてマリーの姿を見つけた時、オヅマは頭を押さえた。

 マリーは馬鹿ではないのだが、たまに頑固なくらい自分を曲げない。

 

 軽く溜息をついて、オヅマはコツコツと窓を叩いた。

 マリーと話していたオリヴェルがこちらを向く。ニコリと笑って、歩いてくると窓を開けた。

 

「やぁ、いらっしゃい」

 

 なにがいらっしゃい、だ。

 こちらは下手すりゃ解雇(クビ)になる覚悟で来ているのに――――とはいえず、オヅマはポリポリと耳の後ろを掻いて軽くお辞儀する。

 

「………どうも」

「本当に来てくれるとは思わなかったよ」

 

 何気なく言われてオヅマは引き攣った笑みを浮かべつつ、チラリとマリーを見る。マリーはオヅマと目が合うと、プイとそっぽを向いた。

 

 オヅマは内心でマリーに拳を突き上げていたが、まさかオリヴェルの前で叩くわけにもいかない。

 

「マリーが花を持ってきてくれたんだ。庭に咲いてるんだって。なんて言ったっけ?」

「桜草よ。可愛くてキレイでしょ?」

「本当だね。マリーみたいだね」

「…………」

 

 なんだ、このおとぎ話ごっこは。

 オヅマはげんなりしながら、素早く部屋の中を見回した。

 油断なく辺りの気配を探って誰かいないか、じっと聞き澄ます。

 

「大丈夫だよ」

 

 オリヴェルは朗らかに言った。

 

「さっき眠たいから寝るって言ったから、しばらくみんな休憩して来ないよ」

「そっか…あ、いや……そうですか」

 

 オリヴェルはクスッと笑った。

 

「いいよ。無理しなくて」

 

 日差しのある中で見ると、オリヴェルの目の下にほくろがあるのがわかった。

 それにしてもずっと暗い中にいたからなのか、肌が白くて透き通って見えそうだ。

 

「じゃあ言うけど…本当は今日ここに来るつもりはなかったんだ」

 

 オヅマははっきりと言った。

 マリーが走ってきて、オヅマの足にしがみつく。

 

「やめて! 言わないで!!」

 

 オリヴェルはびっくりしていたが、オヅマと目を合わせると何となく事情は察したようだった。

 フッとさっきまでの明るい顔が翳る。

 

「マリー! ここを追い出されるかもしれないんだぞ」

 

 強い口調で言うと、マリーはいつにないオヅマの真剣な顔にビクリと震えて後ずさった。

 オヅマはオリヴェルに深く頭を下げた。

 

「すいません。俺…僕らは、坊っちゃんと遊んじゃいけないんです。余計な病気が移ったりなんかしたら大変なことになるから…ネストリさんに禁止されているんです」

「………いまさら僕が病気になったって、別に心配もしないくせに」

 

 オリヴェルは幼い顔に皮肉な笑みを浮かべてつぶやいた。

 

「いいよ。もう行くがいいさ。そうして二度と来ないで忘れればいい」

 

 そんな憎まれ口をききながらも、オリヴェルの目には涙が浮かんでいる。

 下ではマリーが容赦ない力でオヅマの下腹をポカポカ殴りまくっている。

 

 オヅマは嘆息して天井を見上げた。

 

 漆喰で塗られた白い天井には、ところどころ剥げてはいたが、創生神話の絵が描かれていた。オヅマ達の住む元物置小屋と違い、なんとも豪華だ。

 

 ―――――領主様の息子は可哀想じゃないの?

 

 屈託なく尋ねてきたマリーの言葉がよみがえる。

 

 こんな暖かい部屋で、綺麗な絵のある天井で、食うにも寝るにも困らない生活をしていても、オヅマから見てオリヴェルが幸せであるようには見えなかった。

 おこがましいかもしれないが、自分がその身分になりたいかと問われても、今のままでいいと答えるだろう。

 

 母親は自分を置いて去り、忙しい父からは放任され、多くの召使いにかしずかれながらも、一人ぽっちのオリヴェル。

 泣き叫んでいたのは、一体なんのためだったのだろう?

 

 ぼんやりと天井の絵を見ながら、オヅマはもうなんだか考えるだけ無駄な気がしてきた。

 

「……わかった」

 

 オヅマは二人の説得を諦めた。

 

 だいたい不条理なことを言っているのは大人の方だ。

 どうしていつも従わねばならない?

 

「でも、バレないようにしないと駄目だ」

 

 オヅマはコソッとつぶやくように告げる。

 

 オリヴェルの泣きそうになっていた顔がみるまに笑顔になり、マリーはオヅマに抱きついた。

 

「秘密だね」

 

 オリヴェルが言う。

 

「おう」

 

 オヅマが頷く。

 

「三人だけの秘密」

 

 マリーが楽しそうに言う。

 

 この日から三人の子供による秘密結社が出来た。

 やることは遊ぶことと、大人には秘密にすること。

 

 

 

 

 オヅマはそれでも雑用や騎士団での訓練などもあって忙しく、そう毎日行くことはできなかったが、マリーは厨房が忙しくなる時間帯を除いて、昼過ぎにはミモザの木に登ってオリヴェルの部屋へ向かった。

 

 幸いにもちょうどこの時、一番の難敵であったネストリは不在だった。実家で不幸があったらしい。

 おかげで子供達はわりと気楽に遊ぶことができた。

 

 オヅマ達と遊ぶようになってから、オリヴェルは確実に変化していった。

 

 まず、食べる量が増えた。

 マリーはオリヴェルの食事を母のミーナが作っていることを教え、

 

「この前アーモンドのブラマンジェが出たでしょ? いいなぁ。私、一回だけ食べたことがあるの。とってもおいしいでしょう?」

 

 なんてことを言われると、俄然、そのアーモンドのブラマンジェが楽しみになったりする。

 

 他にもマリーがパウル爺と菜園で野菜を育てていて、夕食の具材になっていることを話すと、やはり嫌いな人参であってもがんばって食べるようになった。

 おかげで多少、顔色もよくなってきたようだった。

 

 主にオリヴェルの世話をしていた女中頭のアントンソン夫人は、その変化を訝しんだ。

 

「最近では、好き嫌いもなくされたようで…結構でございますね」

 

 夫人が微笑みながらも探るような目で、自分を見ていることにオリヴェルは気付いた。

 三人で約束した秘密がバレれば、マリーもオヅマも領主館を追い出される。

 

 オリヴェルはすぐにオヅマに相談した。

 話を聞いたオヅマはふとあることに気付いた。

 

「そういや、お前、最近あんまり叫ばないよな?」

「え? ……あぁ…うん」

 

 以前は五日に一度くらいは癇癪を起こして叫んでいたのが、最近はマリーやオヅマと話すことで不安な気持ちもなくなって、叫ばなくなっていた。

 

「時々、やっとけ。怪しまれるから」

 

 オリヴェルは言われた通り、オヅマが去った後、すぐ大声で叫んだ。

 

 ここ数日はなかった癇癪がまた始まったと、召使い達が慌てて走り回る。

 オリヴェルはその様子を内心、面白がった。

 

 こうした巧妙な工作によって、彼らの秘密はどうにか保たれていたが、実はこの時、一人だけ気付いていた大人がいた。

 

 

 庭師のパウル爺は最近、めっきり自分のところに来なくなったマリーが昼過ぎになるとどこかに出かけているらしいことに気付いた。

 

 その日、注意深く辺りを見回してから走っていくマリーを見かけて、後を追ってみれば、西棟の裏手にあるミモザの木をするする登っていく。

 その先が領主の若君の部屋だというのは知っていたので、そこでようやく合点がいったのである

 

 そういえば何日か前に、マリーが桜草をとっていいのかと聞いてきたことがある。

 てっきり自分たちの部屋にでも飾るのかと思ったのだが、もしそうであればミーナは必ず礼を言ってくるだろうし、息子のオヅマだって何かしら言ってくるはずだった。

 

 マリーがこっそり領主の若君に会いに行っていることを知って、パウル爺はしばし思案の後に何も見なかったことにした。

 うるさい執事が妻であるヘルカ婆を通じて何か言ってきたことがあったが、知ったことではない。

 

 パウル爺はこの領主館において、ヴァルナルが領主となる前からいた古参の使用人だった。()()()でしかないネストリになど、正直何らの敬意もない。

 彼の言うことに従うのは、尊敬する領主様が彼を執事として任用しているから、それだけだった。

 

 パウル爺はずっと思っていた。

 領主の息子が病弱なのは、ずっと部屋に引き籠もってばかりで、周囲の大人が彼に対して無関心であるからだろう、と。

 

 世話はしても、若君に親身になってやれる人間は彼の周囲にいないようだった。

 と言っても、たかが庭師の自分が若君の部屋を訪問できるわけもない。

 

 内心、赤ん坊の頃に一度だけ見た若君を気の毒に思っていたのだが、マリーが彼の友達となってやれるのであれば、喜ばしいことではないか。

 あの元気なマリーと一緒にいれば、きっと若君も元気になられるだろう…。

 

 パウル爺はそう思って、マリー達の秘密を見守った。

 時々、マリーにそれとなく温室の花を渡したりしつつ。

 

 



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第七話 けんかと紅熱病

 オヅマ達兄妹とオリヴェルは急速に仲良くなったのだが、そうして親しみが増すと、我儘を言うようにもなってくるものだ。

 

 ある日、オヅマが騎士団の訓練から帰ってくると、マリーが部屋でポツンと一人、肩を落としていた。

 

「どうした? オリヴェルと喧嘩でもしたか?」

 

 気軽に尋ねると、マリーは力なく首を振る。

 

 喧嘩なんぞあるわけもない。

 オリヴェルはマリーに対して怒ったことなど一度もないからだ。オヅマにはけっこう物言うが。

 

「なんだよ? あ…じゃあ、エッラか? またいじめてきたのか?」

 

 エッラは女中の一人だ。

 館の中でも領主様の寝室などを整頓したりする女中なので、ちょっとだけ女中の中でも地位が高い。それを鼻にかけていて、何かとミーナやマリーにキツく当たってくる。ネストリの女版だ。

 

「ううん。何も言われてない」

 

 マリーは俯いたまま小さな声で言った。

 

「じゃあ、何?」

 

 オヅマはシャツを脱ぎ、手拭いを濡らして絞るとゴシゴシと体を拭いた。

 だんだんと春の陽気で暖かくなって、訓練の後にはけっこう汗をかくようになってきた。

 

「オリヴェルが…楽しくないことを言うの」

「うん?」

「自分なんてどうせもうすぐ死ぬんだ、って。生きてても仕方ないんだ…って」

 

 オヅマは眉を寄せた。

 

 時々、オリヴェルは投げやりだった。

 小さい頃から病気がちで、長く生きられないと大人達が話すのを聞いていたからだろうか。

 

 オリヴェルが体が弱いのは同情するとしても、このオリヴェルのあきらめきった感じがオヅマにはどうにも気に入らなかった。

 

 翌日になってオヅマは朝駆けに騎士団が出かけた隙にオリヴェルの部屋に向かった。

 少しだけ開いたカーテンの間から、オリヴェルが見えた。ちょうど起きたところのようだ。女中のゾーラに顔を洗って拭いてもらっていた。

 

 オヅマは小鳥の真似をして口笛を吹いた。

 オリヴェルは途端に気難しい顔になって、ゾーラをドンと押す。

 

「痛いじゃないか。どうしてそんな拭き方をするんだ! もういい!! 出ていけ!」

 

 ゾーラは内心でやれやれと溜息をついた。

 最近は癇癪も少なくなってきた…などと言っていた無責任なヤツは誰だろうか。

 

 それでも一応頭を下げて謝ると、床に落ちた手拭いを取り上げ、盥《たらい》を持って出て行く。

 

「お前のせいで頭がまた痛くなった! しばらく誰も入ってくるな!」

 

 オリヴェルはゾーラに重ねて怒鳴りつけた。念には念を入れねばならない。

 

 彼女はあからさまな溜息をつくと、振り返ってお辞儀することもなく、バタンとドアを閉じて出て行った。

 

「……なんか、お前うまくなってきたね」

 

 入ってくると、オヅマはニヤと笑って言う。

 オリヴェルはさっきまでと打って変わって微笑んだ。

 

「そりゃあ、君達が追い出されないように僕だって必死だもの」

「申し訳ないことですね、若君」

 

 オヅマがおどけて言うと、オリヴェルは肩をすくめてソファに腰掛ける。

 

「どうしたの? こんな朝早い時間に。珍しいね」

「あぁ、ちょっとさ。言いたいことがあるんだよ」

「言いたいこと?」

「お前、マリーにまたどうしようもないこと言ったろ? どうせすぐ死ぬとか、何とか」

 

 オヅマが言った途端に、オリヴェルはふいと目を逸らした。

 気まずそうな顔になっている。

 

「だって…マリーが春になったらピクニックに行こうとか…大きくなったら帝都に行きたいとか…無理なことを言うから」

「帝都はともかく、ピクニックなんて、なにが無理なんだよ?」

「無理に決まってるだろ。僕はここから出るのは駄目だって言われてるんだ」

「………」

 

 オヅマは白けた顔だった。

 納得いっていない様子を見て、オリヴェルは苛立たしげに赤銅色の巻毛をわしゃわしゃと掻いた。

 

「君達にはわからないよ。外に出て風にあたって…少し歩いただけで息切れするんだ。君みたいに騎士達と一緒に走ったり…馬に乗ったりなんて、一生できないんだ」

「あー…お前が色々とやりたくても出来ないことがあるのはわかった」

 

 オヅマはとりあえずオリヴェルの怒りをなだめた。

 その上で、ジロリと睨むように見つめる。

 

「でも、マリーの前で『どうせ死ぬ』とか言わないでやってくれ」

「どうして?」

「どうして? 聞きたくないからだよ。友達が『生きてても仕方ない』なんて言ってるのを聞いて、いい気分になるもんか」

「…………」

 

 オリヴェルは俯いた。

 さすがに自分よりも幼いマリーを悲しませたのは、申し訳ないと思った。

 

 でも、物心ついてからずっと引きずってきた()()()()はそう簡単に取り払えない。

 

「君には…わからないよ」

 

 自分でも素直でないとわかっていたが、オリヴェルはつぶやく。

 オヅマはハアーッとわざとらしい溜息をついた。

 

「ああぁ…もう。そうやって不幸()()の、やめろよ」

「な……それ…なんだよ、その言い方!」

「わかってほしいから叫んでたんだろ、ずっと。マリーはお前が叫んでいる声が可哀想だって言ったんだ。聞いてて悲しくなるって。だからここに来たんだよ。望みどおりしてやったろうが!」

「うるさい! 君になんかわかるもんかっ!」

「わかってたまるか! お前みたいなひねくれ者!」

 

 売り言葉に買い言葉。

 

 オヅマはバルコニーへと出ていくと、ほとんど落ちるようにミモザの木を降りていった。ちょうどその時にアントンソン夫人が顔を出したので、良かったのかもしれない。

 

「どうなさいました? 坊ちゃま」

 

 アントンソン夫人は怒鳴り声が、いつものオリヴェルの甲高い声と少し違ったような気がして、まさか誰かいるのかと、部屋を見回しながら尋ねた。

 オリヴェルはキッと睨みつける。

 

「なにもない! 入ってくるなと言っただろ!! 出てけ!」

「……はい。失礼致します」

 

 アントンソン夫人はこめかみに軽い痛みを感じながら、お辞儀をしてドアを閉めた。

 どうやら久しぶりに頭痛薬が必要なようだ。

 

 

 

 

 

 

 その日からオヅマはオリヴェルと絶交状態に陥った。

 マリーはそれでも顔を出して、兄とオリヴェルの間を一生懸命取り持とうとしたが、男子二人はこじれると厄介だった。

 

「うるせぇ、ほっとけ」

 

と言う兄の方は、それでも必ずマリーにそれとなくオリヴェルの様子を聞いてきたし、オリヴェルはたまに小鳥の啼声を聞いてはハッと必ずバルコニーを見るのだった。

 そのくせ二人に仲直りしよう、と言っても頑として聞き入れない。

 

「フン。どーせ俺なんざガサツで頭の悪ぃ小作人の(せがれ)だからな。大層お偉い若君の考えることなんざ、わからないさー」

 

 オヅマが口をとがらせて言う。

 本当はそんなこと思ってないくせに…。

 

 憎まれ口をきく兄をマリーは睨みつけた。

 

「オリヴェルは…偉そうなことは一回も言ったことないよ。俺は領主の息子なんだぞーって威張ったりしないよ」

「それは…そうだけど」

 

 オヅマはそこは認めつつも、やっぱり謝る気はないようだった。

 

 オリヴェルはオリヴェルですっかり悄気(しょげ)返っていた。

 

「オヅマは、やっぱり僕と遊ぶのは嫌だったんだ。最初から、嫌だって言ってたし」

「嫌だなんて言ってないよ。それにお兄ちゃん、オリヴェルは自分より年下なのに、とっても物知りだって…すごいって何回も言ってたよ」

 

 マリーは本当のことを言ったのだが、オリヴェルは力なく首を振った。

 

「僕はここで本を読むぐらいしかできないもの。オヅマみたいに騎士達と剣の練習や、馬に乗ったりすることなんてできないから…」

 

 マリーは途方に暮れた。

 どうして二人とも悪いと思っているなら、同時に謝って元に戻ることができないのかしら?

 

 そんなちょっとした喧嘩をしている間に、とうとうネストリが戻ってきた。

 

 久しぶりにネストリに会ったオリヴェルは、蛇に睨まれた蛙のような気分だった。

 ねっとりしたネストリの視線は、顔色が良くなって、多少肉付きも良くなったオリヴェルを注意深く見ていた。

 その場では何も言わずにいたが、疑っているのは明白だった。

 

 だが、領主館はそれどころでない事態が勃発した。

 

 使用人達が相次いで熱を出して倒れ始めたのである。

 

紅熱(こうねつ)(びょう)です」

 

 最初に倒れた馬丁を診察した医者は言った。

 

 紅熱病はこの十数年の間に、帝都とその近郊において度々流行した伝染病だった。

 

 高熱が出て、舌や喉が赤く腫れる。白い肌の人間などは、全身が赤くなることもあった。さほどに長引く病気ではなく、三日から五日間ほど適切な看護を受けて静養すれば、症状は落ち着いた。

 ただ、元から病弱であったり、年老いた人間が罹ると、時に死に至ることもあった。

 

 病名が判明した段階で、高熱を出していた者が四名。喉の痛みや咳などの症状を訴えた者が十名いた。

 

 ヴァルナルは早速、この病への対策を講じた。

 

「無症状の者は家に戻って休ませろ。ただし、体調の変化にはくれぐれも留意して、家族や周囲の人間との接触を極力減らし、伝染(うつ)すことのないように厳命しておけ」

 

 その上で、領内において流行が起きた場合に備えて、主家である公爵に医者の派遣を要請する。

 

 帝都から遠く離れたレーゲンブルトにおいて、この病はまだ未知のものだった。一気に広がる可能性がある。

 

 春の種植えの時期にかかってくれば、収穫量にも関わってくる。

 雪解けの豊富な栄養を含んだ水は、この短い期間にしか流れてこない。

 この時期に種を植えて、成長させることで、作物は十分な栄養によって強くなり、夏に突発的に起こる冷颪(ひやおろし)にも耐えうる力をつけるのだ。

 

「困ったことになりましたね」

 

 カールは執務室でヴァルナルと向き合っていた。

 ヴァルナルの命を受けて公爵本邸に赴き、先程、戻ってきたところだった。

 

 ヴァルナルは公爵からの手紙を読んで、ほっと一息つく。

 

「よかった。公爵様がすぐにも三名、医者を派遣して下さるようだ」

「えぇ。領主様からの手紙を読んでいる間にも、補佐官に直ちに医者を選出するように命じておられました」

「む。そうしたことでは、行動が早くて助かる」

「騎士団の人間はほとんど罹患したことがあるので、大丈夫だと思われます。ただ、オヅマはこちらの人間ですので、もし症状の出た場合には必ず休むように言っておきました」

 

 紅熱病は一度罹患すれば、罹ることはほとんどない。あっても症状は軽い。

 

「とりあえず領主館の中で収まればいいのだが…」

 

 ヴァルナルは溜息をついた。

 一年のうちの数ヶ月、領地に戻るこの時期は色々と仕事は忙しくとも、精神的にはゆっくりできる、ヴァルナルにとってはいい休養期間なのに、今年はそうでもなさそうだ。

 

 その上でますますヴァルナルを悩ますことになったのが、一人息子であるオリヴェルが紅熱病に感染したことだった。

 

 

 

 

 

 

 オリヴェルはその日、喉の痛みで目が覚めた。

 しかしそのことを言わなかったのは、その日に洗顔の盥を持ってきたのが見慣れない女中だったのもあるし、そうした体調の変化について毎日必ず聞いてくるアントンソン夫人がやって来なかったのもある。

 

 理由はマリーがやって来て教えてくれた。

 

「なんだか病気がいっぱい流行(はや)ってるんだって」

「病気が…? じゃあ、みんな病気になってしまったってこと?」

「みんなじゃないよ。私もお母さんもお兄ちゃんも元気だよ。それとえっとパウルお爺さんも、ヘルカお婆さんも元気だけど、もう年取ってるから、病気になったら大変だから、東の塔には行っちゃいけない…って」

「東塔に? どうして?」

「えっと、病気になった人達はそこで寝てるの」

「あぁ…そう」

 

 東塔は領主館から少し離れた場所にある。

 元は兵舎兼見張りの塔だったが、それは戦時のことで、当時に比べて領地における兵員は大幅に縮小され、必要がなくなって、ほぼ放置されている。

 今では時々、騎士達が最上部の見張り部屋までどれだけ早く行けるか競争するのに使用されるくらいだが、この事はオリヴェルも知らない。

 

「じゃあ、アントンソン夫人も病気なのか」

「うん。昨日はまだそんなに多くなかったのに、今日になったらあっという間に増えちゃったみたい。まだ病気になっていない人で、家に帰れる人は帰っちゃったし。だから、今とっても人が少なくなってるんだよ」

「そっか。でも、そのおかげで見つかりにくくなっていいや」

 

 オリヴェルはそう言っていたずらっぽく笑った。

 マリーもニコ、と笑う。

 

 二人は午後の時間を誰に邪魔されることもなくゆっくりと過ごしたのだが、そろそろ帰ろうという時間になって、マリーはオリヴェルの顔色が良くないことに気付いた。

 

「どうしたの? 大丈夫?」

「大丈夫だよ。いつものことで…少し寝ればすぐに戻るから」

 

 言っている間にも、オリヴェルは頭痛がひどくなってきていた。

 本当はマリーと遊び始めたときから、喉の痛みが朝よりもはっきりと痛くなってきていたし、手や首を動かすのもだるかった。

 それでもネストリが帰ってきてから、ここまでゆったりできることも少なかったので、久しぶりに満喫したかったのだ。

 

「大丈夫だから、行って」

 

 オリヴェルはバルコニーを開けてマリーを押し出そうとしたが、窓を開けた途端に吹き付けた冷たい風にゾクリと悪寒が走った途端、目が霞んで倒れた。

 

「オリヴェル!」

 

 マリーは叫んだが、オリヴェルはその時には蒼白の顔になって震えるばかりだった。

 

「オリヴェル! オリヴェル!!」

 

 マリーは何度も叫んだ。けれどオリヴェルは気を失ったままだ。

 

「誰か……」

 

 言いかけてマリーはためらった。

 誰かを呼べば、自分がオリヴェルの部屋に無断で来ていたことがバレてしまう。そうなれば、領主館から追い出される。

 

 ―――――いいな。俺らだけの秘密だからな。

 

 オヅマの言葉が脳裏によぎる。

 しかし、マリーの選択は早かった。

 

 立ち上がって、オリヴェルの部屋の扉を開ける。

 廊下に出て、階下に向かって大声で叫んだ。

 

「誰かッ! 誰か来てーっ! オリヴェルが死んじゃう!」

 

 

 

 

 その声を聞きつけてやって来た女中のナンヌと従僕のロジオーノは、マリーの襟首を鷲掴みして、容赦なく何度も頬を()つネストリの姿に言葉をなくした。

 

「あ…ど、どうしたんです?」

 

 ロジオーノが声をかけると、ネストリは苛立たしそうに睨みつけた後、マリーを襤褸(ボロ)布のように壁に向かって放り投げた。

 ナンヌが駆け寄ると、マリーは真っ赤に頬を腫らし、涙を流す緑の瞳はどこか虚ろだった。

 

「そのガキを折檻(せっかん)部屋に入れておけ!」

 

 ネストリが怒りもあらわに命令する。

 ロジオーノはマリーとネストリの間に割って入り、おろおろと問いかける。

 

「一体、何があったのです? さっき、叫んでいたのはマリーでは?」

「そうだ! このガキ、やっぱり若君の部屋に入り込んでいたのだ。まったく、思った通りだ! だから私はこんな紹介状もない小作風情の親子を館に雇い入れるなど反対していたのに!」

「しかし…あの、さっきマリーはその…お坊ちゃんのことを…」

 

 ネストリは乱れた前髪と、襟を整えながら、ロジオーノがそれ以上言うのを制止した。

 

「若君には私が()()()()と言い含めておく。お前達はとっとと、この汚らしいガキを折檻部屋へ連れて行って、牢に()()()()閉じ籠めておくように。いいな、ロジオーノ!」

 

 ナンヌはロジオーノをじっと見つめた。

 ロジオーノは肩をすくめて軽く首を振ると、マリーを抱き上げる。

 何があったのかは定かでないが、執事の言うことにはとりあえず従わねばならない。

 

 ネストリは二人が去った後で、ニヤリと口元に笑みを浮かべた。

 ようやくあの親子を排除できそうだ。まったく、自分の許可もなく雇う人間など、やはり礼儀もなっていない愚蒙の輩だ。

 

 ドアをコツコツとノックする。

 返事はない。

 

 ネストリはフン、と鼻をならして、

 

「ネストリでございます。入らせていただきますよ」

とドアを開けた。

 

 開け放たれたバルコニーの窓際で倒れているオリヴェルを見つけて、驚嘆したネストリが腰を抜かすのに数秒もかからなかった。

 

 館は一気に騒然となった。

 

 医者によってオリヴェルが紅熱病に罹患したことが診断されると、その看護を誰がするのかということが問題になった。

 

 普段からオリヴェル付きの女中やアントンソン夫人は既に発症して東塔で療養中であった。その他の女中といっても、レーゲンブルトから出たことのない、紅熱病に罹ったことのない者では、いずれ発症して世話できない可能性がある。

 

 ヴァルナルは屋敷にいた使用人に過去に紅熱病に罹患した者がいないかを調べさせた。

 一人だけ見つかった。

 彼女はかつて帝都にいたらしく、罹患した経験があったのだ。

 

 ヴァルナルはその者を執務室に呼んで話をしていたが、ちょうどその時に飛び込んできたのがオヅマだった。

 

「領主様ッ」

 

 

 



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第八話 マリーの献身

 オヅマがヴァルナルの執務室に飛び込む少し前のこと。

 

 

 オヅマは騎士団の厩舎(きゅうしゃ)で黒角馬の毛づくろいをしていたのだが、血相変えて飛び込んできたナンヌを見るなり、何かしら嫌な予感がした。

 

「オヅマ! マリーが…マリーが折檻(せっかん)部屋に…ッ」

 

 走ってきたナンヌはそこまで言って、ゴホゴホと()せる。

 オヅマの顔色がサッと変わった。

 

「マリーが…なんだって?」

「折檻部屋に…ネストリさんに入れられたの! 若君の部屋から出てきたみたいで…怒られて…」

「どこだ? 教えて!」

 

 オヅマはナンヌの手を引っ張って走り出す。

 ナンヌは息切れしてよろけながらも、どうにかオヅマを東棟の地下室へと連れて行ってくれた。

 

 暗く黴臭い、もう何年も閉め切ったままであったろう空気の淀んだ陰気な場所だった。

 扉の脇にあるほとんどなくなりかけの蝋燭がチロチロと燃えている他に灯りはない。

 

 奥にある丈夫な木の格子の向こうで、マリーがぐったりと倒れているのがかろうじて見えた。

 

「マリー!」

 

 オヅマが叫ぶと、マリーはかすかに動く。

 

「マリー! 大丈夫かっ? マリー! マリー!」

 

 暗闇に自分の声だけが響く。

 オヅマの心臓がものすごい勢いで早鐘を打つ。

 格子を握りしめながらオヅマは揺すったが、当然、ビクともしなかった。

 

「…………お…兄ちゃ…」

 

 弱々しい声がした。

 

「マリー! 大丈夫かっ?」

「………ごめん…なさい…ないしょ…って、言ってた…のに」

 

 オヅマはブルブル震えた。

 

 格子を揺する。錠前を引っ張る。

 何をしても扉は開かない。

 

 暗がりにいるマリーがどんな様子かもわからない。

 ナンヌの話では相当にネストリに殴られていたという。怪我をしているかもしれない。

 

「クソッ!! 開けよ!」

 

 オヅマは格子を蹴りつけたが、太い木の格子は何年も置き捨てられていたにも関わらず堅固だった。

 

 オヅマは振り返ってナンヌに問うた。

 

「ここの鍵って!?」

「そんなの…私、わからないわ」

 

 ギリッとオヅマは奥歯を噛み締めた。

 

 本当に自分の選択は合っていたのだろうか、と疑いたくなる。

 こんなことになるなら、レーゲンブルトへの道を選ぶべきでなかった。

 母の言うように帝都に行けば良かったのか…?

 

 また、()がやって来る。

 

 いつも同じだ。

 マリーが傷つけられ、オヅマは何も出来ない。

 

 今と同じ。

 

 オヅマは立ち尽くし、固まった。

 

 隣にいたナンヌはオヅマが急に人形か何かになったように見えて、おそるおそる呼びかけた。

 

「……オヅマ?」

 

 オヅマの目がギラリといきなり光る。

 驚いたナンヌの脇を通り抜けて、オヅマは走って出て行った。

 

 ナンヌは呆気にとられていたが、チラリと格子の向こうのマリーを心配げに見た後、エプロンのポケットから真新しい蝋燭を取り出した。

 ナンヌの仕事の一つとして館内の蝋燭交換があるのだが、小さくなった蝋燭を見つけた時にすぐに交換できるように、常日頃からポケットに何本か持っていた。

 

 ナンヌはほとんど消えかけていたその燭台の火を新たな蝋燭に灯すと、その蝋燭を燭台に置いておいた。

 

 これで少なくとも一晩は持つはずだ。

 こんなところで真っ暗闇になったら、きっとマリーは恐怖でおかしくなってしまうだろう。

 残念ながら女中の中でも下っ端のナンヌに出来ることはそれぐらいしかなかった。

 

「……きっとオヅマが助けてくれるだろうから。待っててね、マリー」

 

 ナンヌは自分に言い聞かせるように声をかけて、そっと折檻部屋から出て行った。

 

 

 

 

 オヅマは北棟にあるヴァルナルの執務室に向かっていた。

 

 オリヴェルと遊んでいたことが、とうとうバレたのだ。

 こうなってはもうどうしようもない。きっと追い出されるだろう。

 

 だが、今はとにかくマリーを助けなければならない。

 ネストリの命令を覆せるのは、唯一ヴァルナルだけだ。

 

「領主様ッ」

 

 ノックもなく突然入ってきた闖入者(ちんにゅうしゃ)を、ドアの側にいたカールが素早く押さえ込んだ。

 

「無礼千万だぞ、オヅマ」

 

 オヅマは後ろ手を引き絞られ、痛みに顔を顰めながら叫ぶ。

 

「お許し下さい! 俺が、悪いんです! マリーは…悪くありません! 若君と会っていたことは謝ります。どうか、お許しください!」

 

 その言葉に、ピクリとヴァルナルの眉が動いた。

 そこにいたミーナは突然のオヅマの告白に驚きながらも、すぐさま膝をついて平伏した。

 

「申し訳ございません、領主様。私の…親である私の監督不行届でございます」

 

 オヅマは母がこの場にいることで、事態は一層悪くなっているのだと認識した。きっと母が先に呼ばれて糾弾されていたのだろう。

 

 実はそれはオヅマの勘違いだったのだが、そのことを指摘する人間はその場にいなかった。

 

「フン! やはり私の思った通りだ!」 

 

 ネストリは勝ち誇ったようにヴァルナルに向かって叫んだ。

 

「こんな卑しい親子など簡単に雇ってはいけないのです! 若君のお部屋に忍びこんだだけでなく、案の定、病気まで持ち込んで!」

 

 カールは青い瞳をギラと閃かせた。

 

「つまり…ご領主様の判断が間違っていたと…ケチをつける訳か、執事殿は」

「そ…そういう訳ではございませんが」

 

 ネストリはヴァルナルの背後にいるパシリコと、オヅマを押さえつけたまま下から睨み上げてくるカール、二方向からの圧のこもった視線に口ごもった。

 

 ヴァルナルはふぅと溜息をつくと、カールに目配せした。

 カールがすぐにオヅマの腕を離す。

 

 ヴァルナルは少し疲れた様子で、オヅマに言った。

 

「オヅマ。今は紅熱(こうねつ)病への対処を講じることが優先される。オリヴェルの病のこともあるので、後日詳しく聞くことにしよう。それと、すまないが、お前の母親を借りるぞ」

「母さんを?」

 

 オヅマは母親が別に連れてゆかれて、厳しく責問されるのかと恐れたが、そうではないことをすぐにヴァルナルが話してくれた。

 

「この病気は過去に一度(かか)っていれば、罹患(りかん)することは少ない。罹ってもさほど重くなることもない。この土地の人間は紅熱病に対する免疫を持たないから、オリヴェルの看護を頼むことができないのだ。お前達兄妹には迷惑をかけることになるが、しばしミーナにオリヴェルの看護を任せたいのだ」

 

 何が起きているのかよくわからず、呆然とするオヅマに代わって、ミーナが答えた。

 

「ありがたきことにございます。必ず若君がご本復(ほんぷく)なさいますよう、微力ながら尽くします」

 

 ネストリは丁寧な言葉遣いで話すミーナを忌々しげに睨みつけていたが、看護をできる者がミーナ以外いないのは確かなことなので、ありとあらゆる悪口雑言を口の中にしまい込んだ。

 

 それでも、

 

「これで帳消しになるなどと思うなよ」

と、余計な一言を言わずにおれぬようだった。

 

 ヴァルナルはネストリの言葉を無視した。

 

「む。では早速にも頼む。ネストリ、ミーナをオリヴェルの部屋に案内して看護に必要なものを揃えよ」

 

 ネストリは不満げに鼻をならしたが、それでも職務に忠実であることが信条だったので、冷たい面差しを固めてミーナを連れて行った。

 

 残されたオヅマに、ヴァルナルは優しい口調で問いかけた。

 

「オヅマ。お前はオリヴェルと仲が良いのか?」

 

 オヅマは逡巡(しゅんじゅん)した。俯いて、正直に話した。

 

「仲は……今、喧嘩してます」

「喧嘩?」

「ちょっと…言い合いになっちゃって…」

「………」

 

 気まずそうに言うオヅマをまじまじと見た後、ヴァルナルはフッと笑った。「成程」

 

 立ち上がると、オヅマの前に来て諭す。

 

「お前達の仲についてはわかった。だが、今はしばらくオリヴェルに会うことはできぬ。お前達もこの地で育ったから、紅熱病に罹ったことはないだろう。しばらく控えよ」

 

 オヅマはその時になって、ようやくオリヴェルもまた伝染病に罹ったことを知り、途端に心配になった。

 

「オリヴェルは…大丈夫だよね? 死んだりしないよね?」

 

 ヴァルナルが少し沈んだ顔になる。

 パシリコが後ろから言った。

 

「そのためにこそ、手厚い看護が必要なのだ。お前達の母親は既に紅熱病に罹ったこともある上、看病の経験もある。若君の世話には適任だ。しばらく母がいなくてお前達も寂しいだろうが、若君のためにわかってくれ」

 

 オヅマは頷いてから、ハッとなって再び頭を下げた。

 

「あの、どうかマリーを許して下さい。妹は俺の言う通りにしただけです。だから、折檻部屋からは出してやって下さい。罰が必要なら、俺が代わりに…」

「ちょっと待て」

 

 ヴァルナルは途中で遮った。

 厳しい顔になってオヅマを見つめる。

 

「マリーを折檻部屋にだと? 誰だ、そんなことをしたのは?」

「言うまでもない、この場にいない御仁でありましょう」

 

 オヅマが言うよりも先に、カールがオヅマの背後で冷たく言い放つ。

 ヴァルナルは深い溜息をついて、頭を押さえた。

 

「まったく…困った執事だな。幼い子供を折檻部屋になど…カール、オヅマを連れて行って、すぐに出してやりなさい」

 

 カールとオヅマが退出した後、ヴァルナルは疲れきったようにソファに身を投げだした。

 眉間を押さえながら揉む。

 

「ブランデーでも用意しますか?」

 

 パシリコがキャビネットに近付きながら言ったが、ヴァルナルは首を振った。

 

「いや…いい。後でオリヴェルの様子を見に行くからな。それにしても、パシリコ…お前は気付いたか?」

「は? なにをでしょう?」

「……いい。しばらく横になるから、半刻半(はんときはん)(15分間)ほどしたら起こしに来い」

「かしこまりました」

 

 パシリコはお辞儀して出て行った。

 

 ヴァルナルは再び深く溜息をついた。

 とんだことになった。てんやわんやの大騒ぎとはこの事だ。まだしも戦場で剣を振りかざしている方が楽な気がしてくる。

 

 この時、ヴァルナルにとって一番厄介だったのは、領地内で起きた伝染性の熱病のことよりも、その熱病に罹ってしまった一人息子のことよりも、それまで全く気にもしていなかった女の姿が勝手に頭に浮かんできてしまうことだった。

 

 消し去ろうとして他のことを考えても、淡い金髪と印象的な薄紫(ライラック)色の瞳がじっと自分を見つめてくる。

 

 ヴァルナルはコツコツと額を叩きながら、独り、その名前をつぶやいた。

 

 

 

 

 オヅマはマリーを折檻部屋から連れ出した。

 

 ネストリに張られた頬は少し赤くなっていた。

 鼻の下に赤い血がこびりついているのは、おそらく鼻血が出たのだろう。

 

「何を考えてるんだ、あの男…」

 

 カールはここに来るまでにオヅマからおおよその事情を聞いていたので、格子の鍵を開けて、倒れていたマリーを見た途端に、痛々しい姿に顔を顰めた。

 オヅマはとりあえず大怪我を負ってないことにホッと一息ついてから、さっと辺りを見回す。

 

 カールに持たされた明るいランタンの灯りで、部屋の中がよく見える。

 そこには昔、使っていたのか血のついた拷問道具がいくつか転がっていた。

 

 それらをオヅマはしばらく凝視してしまった。

 なぜか、それが()()()()()使()()()()()()を知っている……。

 

「オヅマ、あまり見るな。さっさと出るぞ」

 

 カールはぐったりしたマリーを抱き上げて、足早に出て行く。

 オヅマはあわてて後を追った。

 

 オヅマ達家族は使用人の居住する北棟の階下や東棟の屋根裏ではなく、庭園の隅にある物置小屋を改装してもらい、暮らしていた。

 

 マリーを抱っこしてきたカールはベッドにゆっくりと下ろしてから、オヅマに言った。

 

「熱がある。もしかしたら、マリーはもう伝染(うつ)っているのかもしれない」

「えっ?」

「後で医者をやる。診てもらえ」

「え…でも」

「紅熱病で亡くなることは少ないとはいえ、子供は熱で痙攣の発作を起こすこともある。熱冷ましの薬を飲んで、しっかり食べて休ませろ」

 

 オヅマは途端に不安になった。

 

「あの…ちょっとだけ母さんに来てもらうことはできないの?」

「………」

 

 カールは黙り込んだ。

 

 無論、マリーには母親の看病が必要だし、してもらう権利は十分にあった。だが、今はなんとしても若君の看病に専念してもらわねばならない。

 

「残念だが…今は若君が優先だ。元から体が弱い上に、紅熱病は発症した当日の夜が一番熱が上がると言われている。今日はなんとしても側についててもらう必要がある…」

「そんな…母さんは俺達の母さんだぞ!」

「……申し訳ない」

 

 普段は『鬼』と異名されるほど厳しいカールが素直に頭を下げてくるので、オヅマはそれ以上言えなかった。

 

 オリヴェルが苦しんでいるのも予想できる。

 一度、バルコニーからしばらく修練場を見ていただけで、蒼い顔になって倒れかけたこともあったから。

 その時、おんぶして運んだオリヴェルの体の軽さに、内心、驚いたものだ……。

 

「…お兄ちゃん……」

 

 マリーがいつの間にか目を覚ましていた。オヅマの袖を力なく引っ張っている。

 

「マリー、大丈夫か?」

 

 オヅマが手を握りしめると、マリーは頷いて、切れ切れに言った。

 

「大…丈夫…だ…から。私は…お母…さ…いなく…ても。オリ……は、お…か…さん…いない…から……寂し……から……私は…お兄…ちゃ……いる……から」

 

 オヅマの脳裏にぶわっと()の記憶が襲った。

 

 有り得ない()

 

 成長したマリーの傷ついた姿。

 痩せこけ、骨と皮だけになった腕。

 それでも最期までオヅマを信じて、オヅマに心配かけまいと…笑って………。

 

「…マリー……」

 

 オヅマは再び意識をなくしたマリーの手をギュッと握りしめながら、突っ伏して泣いた。

 

 どうしてこの妹は、()()()、どんなに自分が苦しくとも、誰かのためになろうとするのだろう。……

 

 その様子を見ていたカールは兄妹に深く頭を下げ、小屋から出て行った。

 

 



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第九話 アルベルトとマリー

 カールからマリーの言葉を聞いたヴァルナルは深く項垂れた。

 百戦錬磨と呼ばれる豪胆な男であっても、たった六歳の子供のその思いやりに、ひどく苦い思いで感服するしかない。

 

「東塔は罹患者がまだ増える可能性もありますので、マリーは小屋の方で療養させてもよろしかろうと…そのままにしております」

 

 カールは事務的に言いながらも、自分の選択がこれでいいのかまだ決めかねている。

 ヴァルナルの返事がないが、そのまま報告を続けた。

 

「パウル爺にオヅマ達の食料を持っていくように頼んでおきました。くれぐれも中には入らないようにと。しばらくオヅマには騎士団の仕事は休止させ、フレデリク、アッツオ、ニルス、タネリらに代行させます」

「カール…それで…マリーは大丈夫なのか?」

 

 ヴァルナルが俯いたまま尋ねてくる。

 カールは領主が自分の息子よりも使用人の娘の病状を気にかけたことに、つくづくこの主人に仕えて良かったと思った。

 

「医者の話では、今夜の熱さえ超えればおそらく問題はなかろうと。オヅマにも熱冷ましの薬を渡しておいたと言っておりました」

「そうか…退がっていい」

 

 ヴァルナルに言われても、カールはしばらくその場から動かなかった。

 気配を感じて、ヴァルナルが顔を上げる。

 

「ヴァルナル様」

 

 カールはまだヴァルナルが領主となる前に呼んでいた名前で呼んだ。

 

「パウル爺はマリーがオリヴェル様の部屋に遊びに行くのを知っていたそうです。その上で、それは若君の為になることだと思って、黙って見ていた、と。実際、マリーやオヅマらと遊ぶようになってから、若君は以前よりも食事の量も増えて、時には気に入ったデザートなどを所望することもあったそうです。それにヘルカ婆が言うには、ミーナの作る食事を気に入っているようだとも…」

 

 ヴァルナルはどんよりした目でカールを見つめてから、椅子の背にダラリと凭れ掛かる。

 

「カール…私がミーナら親子を放逐するとでも? その程度の分別もできぬ愚かな領主だと思うか?」

「いえ。ただ、ご判断の一助となれば幸いでございます」

 

 カールは静かに頭を下げると、部屋から出て行った。

 

 

 

 

 医者の見立て通り、マリーの熱は一晩を過ぎると小康状態になった。

 目を覚ました途端にお腹が空いた、と言う妹に、オヅマはあきれつつもホッとして少し涙が出た。

 

 喉の腫れがまだひどく、芋をすり潰したスープを啜るのにも、痛そうではあったが、それでも食べようとしていることに、心底安堵する。

 喉の痛みは数日続き、しゃべるのにも一苦労だったが、それも三日過ぎ五日過ぎてゆけば、だんだんといつもの口うるさい妹が戻ってきた。

 

 マリーはオリヴェルがまだ病に臥せっているのを知ると、自分が治ったらミーナと交替して看病すると言ったが、オリヴェルと隠れて会っていたことについて、まだはっきりとどうするのかを聞いていなかったオヅマは曖昧に笑うしかなかった。

 

 その頃になると最初に罹患したアントンソン夫人ら、普段からのオリヴェル付きの女中達も回復して世話するようになっていたので、ミーナが戻ってきても良さそうなものだったが、オリヴェルはこの数日の間にすっかりミーナに頼りきるようになってしまったらしい。

 

「もう、仕方ないわねぇ…オリヴェルったら」

と、マリーは笑った。

 

 常日頃から母親の不在がオリヴェルにとって一番寂しいことなのだと気付いていたので、ミーナがオリヴェルのお母さん代わりになってくれればいいと思っていたのだ。

 

 しかし、そのマリーですらもオヅマが熱を出して倒れると、ミーナを連れてきてくれとパウル爺に頼んだ。

 

「そうしてやりたいのは山々なんじゃがのぉ…」

 

 パウル爺は申し訳無さそうにマリーに話して聞かせた。

 

「お前さんのお母さんも、必死で若君の看病を続けたせいで、体調を崩してしまってな。特別に領主様の温情で、館の方で療養しとるんじゃよ」

「母さんも病気になったの?」

「いや。病気というよりも、疲れてしもうたんじゃ。無理もない。何日も寝ずの看病をしておったんじゃから」

 

 マリーは泣きべそをかきながらも、必死にオヅマの看病をしようとしたが、六歳の子供ではオヅマのやってくれたように、体の汗を拭いて、着替えさせることもできない。

 

 パウル爺からオヅマも紅熱病に罹ったことを聞いたカールは、弟のアルベルトに看病に行くよう指示した。

 

 マリーはいきなりオヅマの看病をしに来たアルベルトに、当然ながら拒否反応を示した。

 無口でずっと表情の変わらない、栗茶色の髪に青い瞳の大男。(アルベルトは騎士団において身長ではゴアンに次いで高かった)

 

 近付けばすぐにさっと離れて一定の距離を保つようにした。

 男が自分を殴れる位置に入ってこないように。

 

「俺が怖いのか?」

 

 アルベルトはしばらくオヅマの看病しつつ、マリーの様子を観察していたが、あまりに自分に対する警戒が強いので、思わず聞いてしまった。

 

 マリーはオヅマの寝ているベッドの反対の壁にあるベッド(といっても、古びて使わなくなった衣装箱を三つ並べてその上に藁と布を敷いただけの簡素なものだ)の隅に、小さく座り込んでいたが、尋ねてきたアルベルトをじいっと見つめた後に、小さな声で言った。

 

「……私を……叩かない?」

「………」

 

 その言葉にアルベルトは一瞬、胸が詰まった。

 オヅマが『妹は大人の男が苦手なのだ』と言っていたことを思い出す。

 

 その理由が何となくわかって、アルベルトの眉間に深い皺ができた。

 ビクリと震えるマリーを見て、あわてて弁解した。

 

「いや。気を悪くさせてすまない。怒ってないんだ。こういう顔なんだ」

「………じゃ、笑って」

「…………」

 

 アルベルトは顔の筋肉を総動員してどうにか笑みらしきものを浮かべてみせたが、マリーはまじまじと見つめた後に、すげなく言った。

 

「笑ってない」

 

 アルベルトは辛辣なマリーの要求にどうにか応えようと頑張った。

 バシバシと頬を叩いて、必死になって口元の筋肉を吊り上げると、

 

「変な顔」

と、マリーはやっぱりにべない評価を下す。

 

 その後もマリーの警戒は容易に解かれなかったが、それでもアルベルトがマリーに「絶対に叩かない」ことを約束すると、少しだけ警戒を解いてくれるようになった。

 

 時々、()()()を教えてくれたりする。

 

「もっと、ほっぺたの肉を柔らかくしないといけないわよ」

 

 最終的にはマリーはアルベルトの頬に両手をあてて、ぐりぐり揉んだりするまでに距離は縮まったが、それはまだ先の話。

 

 

 

 

 

 オヅマは記憶が混乱していた。

 

 割れた鏡が降ってくる。

 その中に映る光景にオヅマは怯え、震え、泣いた。

 

 母が父を殺す。母が縊り殺される。母の死体を鴉がつつく。

 

 妹が壊れる。泣き叫びながら、壊れていく。

 

 何人もの悲鳴。何人もの涙。

 

 恨みと憎しみのこもった目で、オヅマを見つめる。

 

 

 

 ―――――生きるんだ、オヅマ

 

 

 

 男の声が聞こえる。その声も徐々に命を失っていく声だ。

 

 

 

 ―――――あなたが殺したんじゃないわ…

 

 

 

 口の端から血を流しながら、女がつぶやく。

 

 

 

 ―――――お願い。どうか…戻ってきて…あなたを死なせたくない…

 

 

 

 悲しげに呼びかける声。

 

 

 オヅマは耳を塞いだ。

 何度も何度も言い聞かせる。

 

 これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ………

 

 

 ―――――素晴らしい、オヅマ! お前は私の……

 

 

 狂喜する男の声が響く。

 

 オヅマは絶叫した。

 

 叫んで目を覚ましたと思ったが、腫れた喉は声が出なかったらしい。

 

 浅い息をしながら、天井を見る。いつもの天井だ。変わりない。

 

 それでも涙に濡れた瞳に映る景色が夢でないと…誰が証明してくれるだろう?

 あの、悪夢こそが現実(ほんとう)なのだと…そう思えば、簡単に世界は裏返ってしまいそうな気がする。

 

 不意に視界にヌッと入ってきた人影に、オヅマはビクッとして固まった。

 

「大丈夫か?」

 

 聞き覚えのあるバリトンの声に、オヅマはじっと人影を見つめる。

 

「あ……」

 

 アルベルトさん、と言おうとしたが、声が出なかった。

 今になってひどく喉が痛いことに気付く。

 

 アルベルトは濡れた手拭いで、オヅマの涙を拭うと、桶に貯めていた水に手拭いを浸してギュット絞る。

 それから細長く折り畳んで、オヅマの額に乗せた。

 

「とりあえず、一山越えたようだ。この後、夕方頃にまた少し熱が出るだろう」

 

 言いながら、水差しの水をコップに注ぐ。

 オヅマの背を支えるようにして起こすと、コップを渡す。

 

 オヅマは震える手でコップをどうにか包み込むように持つと、一口、口に含んだ。

 

 一つだけ灯った蝋燭のわずかな光りの中で、オヅマは辺りを見回す。

 向かいのベッドの上で、マリーが寝ていた。

 いつもはそれはオヅマのベッドで、今オヅマの寝ているベッドでミーナとマリーが寝ている。

 

 藁がチクチクして、おそらく寝心地は悪いだろうが、病気のオヅマにこちらのベッドを譲ってくれたのだろう。

 

「アル……さん、が看病して…」

 

 一言、言葉を発するたびに喉がヒリヒリと痛む。

 オヅマは顔を顰めて、唾を呑み込んだが、呑み込むのすらも痛かった。

 

 アルベルトはオヅマからコップを受け取ると、テーブルの上に置いた。

 

「カールからお前の面倒を見ろ、と命令された。まだ夜明け前だ。もう少し寝ておけ。日が昇ったら、何か食べられそうなものを持ってきてやる」

「そ…んな……朝…駆け…」

 

 オヅマは恐縮した。

 騎士にとって毎日の朝駆けは重要な訓練の一つだ。それに参加できないなど、アルベルトにとっては不本意だろう。

 

 しかしアルベルトはオヅマの額をゆっくりと押して、そのまま寝かせた。

 

「上官の命令は絶対だ。今の俺の任務はお前を看護して、全快させることだ。子供がつまらん気遣いをするな。寝とけ」

 

 ぶっきらぼうな言い方であったが、不思議と安心できる。

 オヅマは目をつむると、ふたたび眠りについた。

 

 

 



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第十話 勇気を出して

「オヅマ、領主様がお呼びだ」

 

 三日寝込んだ後、快癒したオヅマに声をかけてきたのは騎士団の副官であり、アルベルトの兄でもあるカールだった。

 オヅマにとっては剣術の師匠で、最近では親しくなって軽口も叩ける間柄だったが、その顔はいつになく暗く少し怖かった。

 

 オヅマは直感した。

 ずっと保留になっていたオリヴェルの部屋に忍び込んでいた件について、とうとう裁かれる日が来たのだ。

 

 マリーはカールの顔を見た途端に、嫌な予感がしたのか、オヅマの腰に抱きついてくる。

 

「大丈夫だ」

 

 オヅマはマリーの頭を撫でて笑ってみせた。

 内心で、これからどうするかを素早く決める。

 

 とにかくマリーと母だけはここで面倒を見てもらえるように、なんとしても頼みこまねば。

 幸い、オリヴェルが母になついているらしい…とアルベルトから聞いていた。

 オリヴェルの世話係として、母を置いてもらえる可能性はある。

 自分はここから出されても文句は言えない。自分だけなら、どうにでもなる。

 

 マリーはおそらくオヅマの決意を感じ取ったに違いなかった。より強く抱きついてくる。

 

「マリー、待たせたら怒られるよ。な? 掃除、お兄ちゃんの分もやっておいてくれるか?」

 

 オヅマは箒をマリーに持たせた。

 さっきまで久しぶりに小屋の掃除をしていたのだ。

 

「絶対に、戻ってきてよ!」

「………」

 

 オヅマはこういう時、自分の妙に正直な性格を恨んだ。

 絶対、と言われると頷くことができない。

 

 あるいはもしかしたら激昂したヴァルナルが、騎士達に命じてオヅマを領主館から叩き出すことだって、ないこともない。

 

 一瞬、想像してから首を振った。

 いや、ヴァルナルは寛容な人間だ。せめて家族との別れぐらいはさせてくれるはずだ。

 

 オヅマは微笑んでマリーに手を振ると、カールの後についていった。

 

 

 ヴァルナルの執務室に入ると、正面の大きな執務机を挟んでヴァルナルが座り、その背後にはパシリコが控え、机の手前にはネストリが姿勢正しく屹立して、入ってきたオヅマを横目で睨みつけていた。

 

「さて…何か言うことはあるか? オヅマ」

 

 ヴァルナルは自分が呼びつけたが、その理由をオヅマに尋ねた。

 すぐにオヅマは平伏した。

 

「申し訳ありません! 若君と会っていました!」

 

 素直に告白すると、ネストリは前と同じように勝ち誇ったように叫んだ。

 

「私の言った通りでしょう!」

 

 ズイとオヅマの前に進み出て、これみよがしに大仰な身振りでヴァルナルに訴える。

 

「誰の紹介もなく、卑しい親子などを簡単に雇うから…若君のお部屋に忍びこんだだけでなく、恐ろしい病気まで持ち込んで!」

 

 ヴァルナルはしばらく黙ってオヅマを見つめていた。

 

「……オヅマ。オリヴェルとはいつ頃から仲良くなったのだ?」

 

 ヴァルナルの問いかけにオヅマが答えるよりも早く、ネストリが裏返った声で遮る。 

 

「領主様! そのようなこと、どうでもよろしいでしょう!!」

 

 ヴァルナルは軽く息をついて、ネストリをたしなめた。

 

「必要があるから問うている。しばし口を閉じよ、ネストリ。――――で、どうなのだ? オヅマ」

「えっと…領主館に来てから一ヶ月くらいしてからだから…雪解け月の終わりくらい」

「む。かれこれ一月弱といったところか。マリーもか?」

 

「はい。でも、あの…皆に…大人には内緒にしようって言ったのは俺なんです。だから、マリーもオリヴェルも……若君も悪くないんです」

「なるほど。三人の中では一番の年長であるお前の責任は重いな」

「はい、そうです。だから二人は悪くありません。俺の言う通りにしただけです」

 

 ヴァルナルは椅子の背にもたれかけて、愉しげな表情を浮かべる。

 だが、平伏したオヅマには見えず、沈黙がただただ重い。

 

息子(あれ)は体が弱い。普通の子供のする遊びなどできないだろう。お前達、三人集まって何をしていたのだ?」

 

 それはヴァルナルの単純な興味だったのだが、オヅマは質問の意図が読めずに困惑した。

 

「えっと…なんか絵札(トランプ)を使ったゲームとか、駒取り(チェス)とかをオリヴェル…じゃなくて若君に教えてもらったり、マリーが綾取りを教えたり、俺がその…色々…騎士団の話とかして」

「騎士団の話? オリヴェルがそんなものを聞いて喜ぶとも思えないが…」

 

 ヴァルナルが意外そうに言うと、オヅマは思わず顔を上げた。

 

「そんなことないです! オリヴェルはいつも聞きたがってました。領主様の戦った時の話とかしたら、すごく興奮して、誇らしげでした」

「………」

 

 ヴァルナルはなんとも言えず、オヅマを静かに見つめる。

 

「お前がどうして領主様の戦っている時のことを知っているんだ?」

 

 問うたのはカールだった。

 オヅマの目が泳ぐ。

 カールはフンと鼻をならすと、腕を組む。

 

「大方、ゴアンかサロモンあたりに吹き込まれたな。アイツらのことだから、それ以外のつまらん与太話も話しているんだろう…」

 

 オヅマはとりあえず黙って、再び頭を下げる。

 ここで余計なことは言うべきではない。下手すればゴアンとサロモンが鉄拳制裁を受けるかもしれない。

 

「オリヴェルがな…そうか…」

 

 ヴァルナルは独り()ちた後、立ち上がってオヅマの前まで歩いてきた。

 しゃがみこむと、オヅマの肩に手を置く。

 

「顔を上げなさい、オヅマ。どうやら息子と仲良くしてもらって、礼を言わねばならないようだ」

 

 オヅマは戸惑ったように顔を上げたが、すぐに俯いてつぶやくように言った。

 

「でも…今は喧嘩して…まだ仲直りしてないし…」

「そう言えば、そんなことを言っていたな。あの息子が喧嘩とは…」

 

 ヴァルナルにはいつも気弱そうに、白い顔をしてうつむきがちのオリヴェルの姿しか思い浮かばなかった。まさかオヅマと喧嘩ができるほど、元気になっていたとは。

 

「仲直りをする気はあるのだな」

 

 ヴァルナルは朗らかな笑みを浮かべて立ち上がると、厳かに裁定を下した。

 

「息子と会ったことについては不問にする。但し、これまでと同じく息子に友情を持って接すること。いいな、オヅマ」

 

 オヅマは信じられないようにヴァルナルを見つめた。

 穏やかな表情のヴァルナルに泣きそうになる。

 

「はい!」

 

 ありったけの大声で返事する。

 ほぼ同時にネストリが引き攣った顔で、わななきながらヴァルナルに進言した。

 

「領主様…それでは下の者に示しがつきません! この者は決して若君に会ってはならぬという()()()を破ったのです! その上で若君に伝染病をうつして―――」

 

 そこまで言った時に、バタンとドアが開いた。

 

 その場にいた人間全員がドアの方を見れば、オリヴェルとマリーが顔をしわくちゃにして大泣きしている。

 

「ぼっ、僕が…っ…僕が悪いんだっ! マリーもオヅマも悪くない!!」

 

 オリヴェルが泣きながら、必死に訴える。

 横のマリーも必死に言葉を紡ごうとしていたが、しゃっくり返って言葉にならないようだった。

 

 全員が唖然となって、しばらく執務室には子供の派手な泣き声だけが響いた。

 

 

 

 

 ここで話をマリーに戻そう。

 

 泣きそうになりながらオヅマに手を振って別れたマリーは、しばらく一人しょんぼりと箒を動かしていたが、急に腹を決めた。

 

 箒を放り出し、小屋から飛び出す。

 通い慣れたミモザの木まで来るのは簡単だった。まだ、紅熱(こうねつ)病は館の使用人達の間で流行しており、いつもよりも人気(ひとけ)がなかったからだ。

 

 マリーは祈った。

 オリヴェルに会えますように。そうしてどうにか会話できますように、と。

 

 ミモザの木をするすると登って、バルコニーに辿り着く。

 いつも閉じられていたカーテンは、オリヴェルの指示なのか、すべて開かれていた。

 

 窓越しにベッドに座って本を読むオリヴェルが見えた。

 マリーは嬉しいのと、今の状況の危うさに、うるうると涙目になった。

 

 しばらくその場に佇んでいると、うーんと背伸びしたオリヴェルが、マリーに気付いた。

 

「マリー!」

 

 オリヴェルはすぐさま起き上がり、バルコニーの窓を開けて駆け寄ってくる。

 その部屋にいた女中のゾーラがあわてて出てきて、オリヴェルにガウンを着せながら、マリーを睨みつけた。

 

「まぁ! ネストリさんが言った通りじゃないの! どこから入ってきたの? 若君には会っちゃ駄目って言われていたでしょう、マリー!」

 

 オリヴェルはポロポロと涙を流すマリーの肩をそっと抱いてから、キッとゾーラを睨みつけた。

 

「黙れ! それ以上、マリーを責めるなら、お前なんてここから追い出してやる!」

「わ…若君…」

 

 ゾーラは青くなって後ずさる。

 オリヴェルは冷たい顔のまま、部屋の中にマリーを連れて入った。

 

 とりあえずマリーの涙を袖口で軽く拭ってから、オリヴェルはマリーをベッドに座らせた。

 隣に座ると、オリヴェルは突然、頭を下げた。

 

「ごめん、マリー」

 

 マリーはびっくりして、目をしばたかせる。

 

「どうして? どうしてオリヴェルがあやまるの?」

紅熱(こうねつ)病に(かか)って、ずっとミーナに看病してもらって…体調まで悪くさせてしまって。マリーにもオヅマにもずっと謝りたかったんだ。僕のせいで、ごめん」

「そんなの、全然大丈夫よ。今だってお母さんはこっちの温かい部屋で休ませてもらってる、って聞いてるわ。小屋に戻ってきていたら、私もお兄ちゃんも病気になっちゃってたから、お母さん、またずっと看病しなきゃならなかったろうし…」

 

 何気なくマリーは話したが、オリヴェルは愕然とした。

 

「なんだって? マリー…君も、オヅマも病気になってたの?」

「うん」

「なんてことだ!」

 

 オリヴェルは立ち上がって叫ぶと、隅で小さくなっていたゾーラにつかつかと歩み寄る。

 

「……どうして僕に言わないんだ?」

「そ…それは…その、女中頭様からの命令で……」

「すぐに呼んでこい!」

 

 オリヴェルの迫力に気圧(けお)され、ゾーラはあわてて部屋から出て行く。

 

 すぐにゾーラと共に現れたアントンソン夫人は、ベッドの傍らで所在なげに立っているマリーに気付くと、眉を寄せたが、それよりも部屋の中央で仁王立ちしたオリヴェルの剣幕に内心、驚いた。

 それでも表情には出さず、いつものごとく折り目正しくお辞儀する。

 

「何か、御用とうかがいましたが…」

「マリーとオヅマも熱を出していたらしいじゃないか」

「……そのようで御座います。ですが、もう既に…」

「そういうことじゃない! ミーナに僕の看病をさせるよりも、彼らが優先されるべきだろう! ミーナはマリーのお母さんなんだぞ!」

「お言葉でございますが…」

 

 アントンソン夫人は鹿爪らしい顔で、静かに述べた。

 

「お坊ちゃまの看護をするように…との命をご領主様が下したのでございます。この館で働く人間であれば、逆らえるはずもございませぬ」

「だったら、ミーナはマリーが病気になったことを知っていたのか!?」

「………」

「ミーナに知らせてもいないんだろう、お前達は!」

「……心置きなく坊ちゃまのお世話ができるように、との執事の配慮でございます」

「黙れ! この…」

 

 オリヴェルは拳を握りしめながら、もどかしかった。

 

 こういう時、オヅマは何と言っていたろう?

 よくネストリのことを話していたら言っていた…あの、なんとか野郎…とか言う言葉。なにか汚いもののような……汚物野郎? いや、そんな言い方ではなかった……。

 育ちのいいオリヴェルには縁のない言葉だったので、出なかったのも無理はない。

 

 マリーは激昂したオリヴェルにしばらくびっくりしていた。

 しかし急に黙り込んで考え込んでいる様子を見ている間に、ハッとここに来た目的を思い出す。

 

「オリヴェル!」

 

 マリーは走ってオリヴェルの腕を掴んだ。

 

「大変なの! お兄ちゃんが領主様に呼ばれて行っちゃったの」

「なんだって?」

「お兄ちゃん…きっと怒られるんだわ。私達、もうここにいられない」

 

 マリーは言っている間に涙がまたポロポロとこぼれた。

 

「冗談じゃない!」

 

 オリヴェルは吐き捨てるように言うと、ドアに向かって歩き出す。

 アントンソン夫人があわてて立ち塞がった。

 

「お待ち下さい! 若君! どこに向かわれるのです!?」

「父上のところだ!」

「今はご領主様のご判断にお任せくださいませ!」

「黙れ! そこをどけ!」

 

 叫んでもドアの前から動かないアントンソン夫人に、オリヴェルは殴ろうかと手を振り上げたが、その手をマリーが掴む。

 

「叩いちゃ駄目! 痛いんだよ!!」

 

 泣きながらマリーに言われて、オリヴェルは息を呑む。

 

 いつだったか…オヅマが話してくれたことがある。

 マリーとオヅマの父親は飲んだくれのロクデナシで、マリーはその父に殴られていたのだ、と。

 

 ギリと唇を噛み締めてから、オリヴェルは手を下ろして、アントンソン夫人を冷たく見つめた。

 

「息子が父に会うのを邪魔するなら、お前がここにいる権利はない」

「………若君」

「二度は言わない。今まで黙っていたけど、その()を僕は持っているんだ。違うか?」

 

 アントンソン夫人はその静かな剣幕にたじろいだ。

 ただの病弱で癇癪持ちの子供だと、内心で軽蔑していたことを見透かされたのかと、途端に不安になる。

 

 ドアの前からアントンソン夫人が立ち退くと、オリヴェルはマリーの手を握って廊下へと出た。

 

 

 

 

 久しぶりだった。この廊下を歩くのは。

 

 オリヴェルは左手でマリーの手をしっかり握り、動悸する心臓に右手を当てながら、窓からの光が所々に落ちた薄暗い廊下を、しっかりした足取りで歩いていた。

 

 実のところ、もっと幼い頃は何度か部屋から出て、館内をうろつき回っていたのだ。ただ、たいがい途中で迷ったりしている内に、疲れて座り込む羽目になり、そうなるといつも召使いに抱っこされて部屋に戻された。

 その度に叱られた。

 だから大きくなるに従って、だんだんと出歩くことはなくなっていった。

 

 一年半ほど前。

 

 オリヴェルはその夜、懐かしい人の出てくる夢を見て目を覚ました。

 起きた時にそれが夢だとわかると、自然と涙がこぼれた。

 夢の中に久しぶりに現れたのは、赤ん坊の頃からオリヴェルの世話を見てくれた女性だったが、彼女はオリヴェルが5歳の時に、ひどい言葉を吐いて出て行ってしまっていた。

 

 真夜中の一人ぼっちの部屋は、ひどく寂しい。

 さっきまで見ていた夢が幸せだった分、起きた時の喪失感は深かった。

 不意に人恋しくなって、オリヴェルは部屋からしばらくぶりに出た。

 

 誰か……を求めながら、オリヴェルが探していたのは父だった。

 

 オリヴェルが物心つく頃には長引く戦でおらず、領主として帰ってくるようになっても一年の半分は不在の父。

 当然、親子関係は稀薄なものになっていたが、オリヴェルは時折父が自分の寝ている時に会いに来ているのを知っていた。

 

 以前に何度も父が不在の時に来ていた執務室は、夜遅い時間にもかかわらず灯りが漏れていた。

 まだ、父が仕事をしているのだろう。

 

 オリヴェルは扉の前で逡巡《しゅんじゅん》した。

 ノックをしようか、それともそっと開けて、父の姿だけ覗いてみようか…。

 

 オリヴェルは静かにしていたつもりだったが、騎士の中でも高位の能力を持つ父は、扉向こうの気配を感じたのだろう。

 いきなり扉が開き、暗がりに現れた威圧的な男の姿に、オリヴェルは腰を抜かした。

 

「ヒッ…!」

 

 驚愕と恐怖が同時に襲ってきて、キュウゥと引き絞られる心臓の痛みに胸を掴む。

 

「う……あ……」

 

 一気に気持ちが萎えて、視界が暗くなり、オリヴェルは倒れ込んだ。

 

 父は気を失ったオリヴェルを部屋まで運んで、寝台に寝かせてくれたようだ。

 

「……父上…っ」

 

 父が立ち去りかける寸前に、目を覚ましたオリヴェルはあわてて呼びかけたが、父は振り向きもせず冷たく言った。

 

「……部屋にいなさい」

「…………はい」

 

 ごめんなさい、と小さくつぶやいた声を父は聞いただろうか。

 言い終わると同時に扉はパタリと閉まった。

 

 以来、オリヴェルは部屋から一歩も出なくなった。

 父に会いたいという気持ちもなくなった。……いや、封印した。

 

 けれど、今はなんとしても父に会わなければならない。

 会って、オヅマもマリーも自分の我儘に付き合ってくれただけなんだと…ちゃんと言わなければ!

 

 オリヴェルが武者震いすると、マリーがギュッと握っていた手に力をこめる。

 心配そうなマリーに、オリヴェルはニコリと笑った。

 

「大丈夫!」

 

 オリヴェルは少しだけ足を早めた。

 自分のためだけじゃない。マリーのため、オヅマのためだと思うと、不思議なくらい力が満ちてくる。

 

 

 ―――――わかった…

 

 

 どうしても一緒に遊びたいのだと駄々をこねたマリーとオリヴェルに、オヅマは根負けしたように言って笑った。

 優しい、温かな眼差しに、オリヴェルは初めて胸がじんわり熱くなった。

 

 オヅマは―――…。

 

 領主の息子であるオリヴェルにもぞんざいな口調で、でも決して病弱なオリヴェルを見下したりはしなかった。

 最初から無理だと諦めさせる周囲の大人とは違う。

 

 

 ―――――そうやって不幸()()の、やめろよ

 

 

 辛辣な言葉。

 あんなに怒ってしまったのは、それが本当だったからだ。

 オヅマはオリヴェルの卑屈な心を正確に見抜いていた。 

 

 

 ―――――友達が『生きてても仕方ない』なんて言ってるのを聞いて、いい気分になるもんか!

 

 

 叱られながらも、本当は嬉しかった。

 初めてできた『友達』。

 一方的に自分だけがそう思っているんじゃない。オヅマもオリヴェルのことを友達だと思ってくれている…

 

 オリヴェルは感じたことのない胸の痛みに涙が出てきた。

 ぽろりと一筋頬を落ちると、とめどなく溢れ出す。

 

 嫌だ、嫌だ!

 絶対にマリーもオヅマも館から追い出すなんてことはさせない。

 もし、彼らを追い出すというなら、僕も出て行ってやる!

 

 ようやくたどり着いた執務室のドアを開けると、オリヴェルは叫んだ。

 

「…僕が悪いんだっ! マリーもオヅマも悪くない!!」

 

 

 

 



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第十一話 領主様の度量

 オヅマは呆然としていた。

 

 一体、何が起こっているのだろう?

 

 居並ぶ大人達の間で床に座り込んでいるオヅマを見て、オリヴェルとマリーはわっと駆け寄った。

 

「お兄ちゃん!」

「オヅマ! ごめん!」

 

 二人から抱きしめられ、オヅマは目を白黒させる。

 

「僕のせいで二人を…オヅマ達を館から追い出すなら、僕もここを出て行く!」

「嫌だぁ~!」

「…………」

 

 盛大な泣き声を聞きながら大人達は互いに目を見合わせた。

 

 皆が渋い顔なのは、まるで自分達が子供達を泣かせているような構図で、なんとなく腑に落ちない。

 

 その時、静かだが凛とした声が響いた。

 

「失礼致します。ミーナでございます」

 

 白い寝間着の上にベージュのショールを掛けた姿で、ミーナが頭を下げていた。

 沈着な態度ではあったが、よほど急いできたのは裸足であるのを見れば明らかだ。

 

「このような身なりでご領主様にお目にかかりますこと、平にご容赦下さいませ。我が子達が若君に対して失礼があったこと、聞き及び、(まか)り越しましてござります」

 

 ヴァルナルを初めとして、子供達以外の大人は、ミーナのその古風ながらも分を(わきま)えた物言いに、思わず息を呑んだ。

 

 ミーナはオリヴェルが出て行った後、血相を変えたアントンソン夫人に叩き起こされ、そこで我が子の不行状を聞いて、あわててやって来たのだが、青い顔をしつつも落ち着いた所作でマリーのかたわらにしゃがみこんだ。

 

「おっ…お母さ…」

 

 マリーはしばらくぶりに会えた母に抱きつく。

 ミーナはマリーの背中をさすりながら、オヅマに目配せして頭を下げた。

 オヅマは母の隣で再び平伏した。

 

「申し訳ございませぬ、領主様。前に若君の病もあってご猶予(ゆうよ)をいただきましたが、再度謝罪に参りました。重ね重ね、親である私の責任でございます。許されぬ身なれば、いかようなる罰も(いと)いませぬ」

 

 ミーナの声は少しだけ震えていたが、きっぱりと言い切る姿はある種の崇高ささえ感じられた。

 

 ヴァルナルはふぅと溜息をもらすと、ヒラヒラと手を振る。

 

「罰を与える気など…最初から毛頭ない。オヅマもミーナも頭を上げよ。それと丁度よい、アントンソン夫人。聞きたいことがある」

 

 ミーナの後ろからやって来て様子を窺っていたアントンソン夫人は、急に呼ばれてビクンとしながらも背筋をいつも以上に伸ばして、部屋へと足を踏み入れる。

 

「オリヴェルのこの一月のことだ。普段より世話をしている貴女(あなた)から見て…病気になる前、オリヴェルの体調はどうであった?」

 

 アントンソン夫人は素早く居並ぶ面子(めんつ)を見た。

 途中でネストリが何か言いたげに睨んできたが、フイと目を逸らし、澄まして答える。

 

「病気になる前であれば、以前に比べましてお食事を残されることは少なくなったと思います。嫌いな野菜なども、懸命に食べておられるご様子でございました。そのせいか、体重も増えたと医者(せんせい)が申しておりました。此度の病気も、このところ食事をとって体力をつけていたお陰で、随分と思っていたよりもこじらせずに済んだと仰言(おっしゃ)っておられました」

「そうか。下がってよい」

 

 ヴァルナルが言うと、アントンソン夫人はとっとと出て行った。

 虎穴から逃げられた気分である。

 

「さて…」

 

 ヴァルナルは未だに頭を下げたままのミーナの前にしゃがみこんだ。

 

「そういう訳なので、今後とも息子のためにミーナには滋養のある食事を作ってもらわねばならぬ。よいかな?」

 

 ミーナは一度だけ顔を上げて、朗らかな笑顔を浮かべるヴァルナルを見た後、再び頭を下げた。

 

「ご随意に」

「では、早く元気になってもらわねばな」

 

 ヴァルナルはミーナの手を持つと、立ち上がらせた。

 

「部屋まで送ってやりたいところだが、まだ話さねばならぬこともあるのでな…パシリコ、ミーナを部屋まで送ってやれ。マリーとオリヴェルも部屋に戻りなさい。大丈夫だ。誰も追い出したりはしない」

 

 最後のヴァルナルの言葉に、マリーとオリヴェルはようやくホッと喜色を浮かべた。

 パシリコに連れられて行くミーナと一緒に出て行く。

 

「オヅマ、さっきも言ったようにこの事は不問だ。これからも友として、息子と仲良くしてやってくれ」

 

 オヅマは立ち上がると、ペコリと頭を下げて部屋を出た。

 

 しばらくボーっと廊下で立ち尽くす。

 なんだか全部がいいようにいった気がするが、これは夢なんだろうか? 

 頬を思いきりつねってから、痛みに顰め面になる。

 

 その時、廊下の角からひょっこりとマリーとオリヴェルが顔を出した。

 オヅマはニッと笑って、二人のところへと走っていった。

 

 

 執務室に残っていたネストリは目の前で繰り広げられた一連の出来事に苦虫を噛み潰していた。

 執事の不満げな様子にヴァルナルは軽く溜息をついてから、椅子に腰掛ける。

 

「…こういう事だ、ネストリ」

「ですが、領主様! さっきも申しましたように、それでは下の者に示しがつきません! あの兄妹は決して若君に会ってはならぬという()()()を破ったのです! その上、病弱な若君に悪しき病気を伝染(うつ)して…アントンソン夫人はああ申しましたが、一時は命も危ぶまれたのですよ!」

 

 ネストリは激昂のあまり裏返った声で必死に訴えたが、ヴァルナルを始めカールも冷たい視線だった。

 ヴァルナルは机の上で肘をつき、手を組み合わせて顎を置き、じっとネストリを見上げる。

 

「そもそもまず、私は息子に特定の誰かと会うことを禁じた覚えはない」

「し……しかし、こうして悪い病に罹ることもあると思って…」

「事態は正確に把握せねばならぬ。オヅマ達がオリヴェルと知り合い、一緒になって遊ぶようになったのは先月の話だ。それから一月近くを経てから発症とはおかしいではないか。そもそも、その時には紅熱(こうねつ)病は流行(はや)っていなかったのだ」

「それは……」

 

 ネストリは正確なところを突かれて口ごもる。

 ヴァルナルは相手が怯んだとみるや、鋭い目で刺した。

 

「むしろ、流行し始めたのは君が実家から帰ってきてからと記憶している」

 

 ネストリはギョッとなった。

 まさか自分に矛先が向くとは思っていなかった。

 

「りょ、領主様ッ! わ、私がこの病の元凶と仰言っておいでですか!?」

「この病に関して、誰かに対して感染の責任を問うつもりはない。そもそもどこから流行ったかなど、わかりようもない。領地には他国からの商人達も多く訪れる。明らかに誰と特定できようはずもない」

 

 ヴァルナルは言いながら、ゆっくりと椅子に凭れかかった。

 大きく胸をひらいた姿は横柄にも見えたが、その威容にネストリは口を噤む。

 

 ヴァルナルは重ねて言った。

 

「ミーナは自分の子供よりも優先して我が息子を看病し、その娘は自分もまた病にありながらオリヴェルに母を譲ったのだ。この一事をとっても、息子にとってマリーとミーナが恩人であることは間違いない。恩人を追い出すなど、そのような恥知らずな真似を私にさせるのか、ネストリ」

「………」

 

 ネストリは何も言えなかった。

 ヴァルナルの論法はケチのつけようもない。

 

「私は君に執事としての権能を与えたが、勝手な規則を作って領主館を差配することを命じた覚えはない。この領地においての法は私である。僭越(せんえつ)なことをするな」

 

 普段は柔和なヴァルナルのグレーの瞳に怒りにも似た閃きが宿り、ネストリは軽く後ずさった後、無言で頭を下げた。

 

 ヴァルナルが出て行くよう手を振ると、そのまま部屋を出て行く。

 

「まったく…いよいよ困った執事殿ですね。公爵邸に送り返した方が、本人も嬉しいのではないですか?」

 

 カールがあけすけに言うと、ヴァルナルは苦笑した。

 

「それが、あちらでもさほどに入用ではないらしくてな」

「まったく。不良人材を押しつけないでほしいですね。領主様も律儀に彼を雇っておかずともよろしいのに」

「まぁ…下手に解雇して痛くもない腹を探られるのも面倒だからな」

 

 ヴァルナルが言うと、カールはむぅと眉をひそめる。

 

 本家となる公爵家が目付として家臣の家に使用人を()()ことは、公然の間諜であり、それを断れば忠義を疑われる。

 だが、ヴァルナルと公爵の間でそんな隔たりがあるとは思えない。

 

「まさか。公爵様が領主様に対して不信を抱くことなどないでしょう?」

「公爵様がそうであっても、周りにはいくらでも讒言(ざんげん)しようと待ち構える人間はいる。ま、ネストリごときで狼狽(うろた)えているようでは、私の器も小さいと思われるだろう。それに館の維持管理について彼が優秀であるのは確かなことだ。要は、彼の長所を上手く使って、短所はその都度、()めればよかろう」

 

 ヴァルナルが一応の結論を出した時に、パシリコが戻ってきた。

 

「ミーナを部屋まで送り届けました」

「ご苦労。顔色が思わしくないようだったが、大丈夫だったか?」

「支えようとしましたが、気丈な女でして、最後まで一人で歩いて部屋に入っていきましたよ。部屋に入る時も私に、領主様のご温情に感謝していると伝えてほしい、と言われました」

 

 ヴァルナルはその報告を聞いて、顎髭を撫でる。

 つぶやくように問いかけた。

 

「お前達、ミーナについてどう思う?」

 

 唐突な質問の意図がわからず、パシリコとカールは目を見合わせた。

 やや間をおいて、パシリコは咳払いしてから言う。

 

「えー…確かに多少目を引く女人ではございます」

 

 その答えはヴァルナルの求めたものではないようだった。

 ジロリと睨みつけられ、パシリコは内心で首を傾げる。

 

「厨房の下女とは思えぬほどに、洗練された女人だと思いました」

 

 カールが言うと、それこそが求めた答えであったようで笑みを浮かべる。

 

「そうだ。聞いたか?『いかようなる罰も厭いませぬ』などと古びた言いよう…そこらの領主館の召使いの言葉遣いではない」

「そういえば…さっきも領主様が顔を上げろと仰言ったのに、一度では拝跪礼を解きませんでしたね」

 

 カールが重ねて同調すると、ヴァルナルは我が意を得たりとばかりにニヤリとする。

 

「貴人に対しては、一度の赦しで頭を上げるのは不敬とされるからな。そんな細かな()()()()など、ここでは無用のものだというのに」

 

 あきれたような言い方をしながらも、ヴァルナルの目は穏やかな光を浮かべている。

 

 カールはまさか、と思いつつもそれとなく言ってみた。

 

「そういえば、ミーナは金鴇(キンホウ)の年の生まれと申しておりましたから、今年で28になりますね」

「……どうしてそんなことをいきなり言いだすんだ?」

「いえ。弟と同じ年だと思っただけです」

 

 カールはしれっと矛先を躱したが、パシリコが余計なことを付け加える。

 

「おぉ、そういえばアルベルトはオヅマ達兄妹とは随分と仲良くなったようだし、ミーナとは似合いかもしれんな」

 

 案の定、というべきか、意外に、というべきか…ヴァルナルの顔が一気に無表情になった。

 カールは無頓着なパシリコに溜息をついた。

 

「それでは一件落着しましたし、私はこれにて騎士団に戻ります」

「む。来週からの演習について、各班長と話しておくように」

「はッ」

 

 カールは肘を前に突き出して敬礼すると、部屋から出た。

 

 こういう時は鈍感なパシリコが領主様付きの警護担当で良かったと思う。

 

 それにしても、あの親子は三人とも、この館にとんでもない風を運んできたようだ。………

 

 

 



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第二章
第十二話 領主館の春


 すったもんだの一騒動の後、一番変化があったのは、ミーナとマリーが西棟にあるオリヴェルの部屋の階下に移ったことだった。

 その部屋は元々はアントンソン夫人の小休憩所のような場所であったのだが、マリーが頻繁に(というより毎日)オリヴェルのところに行くこともあり、気難しいオリヴェルの世話係はミーナという既成事実が出来上がってしまったこともあり、

 

「それならばオリヴェルの近くにいた方がよかろう」

 

というヴァルナルの鶴の一声で移動させられたのだった。

 

 アントンソン夫人は厨房付きの下女であるミーナがでしゃばってくるのは不愉快であったが、これであの癇癪持ちの若君の面倒をみなくて済むのだと思うと、いっそせいせいして、ミーナにありとあらゆるオリヴェルに関する仕事を任せた。

 

 それこそオリヴェルの服や下着の洗濯から、給仕から、寝かしつけまで。

 ミーナは年老いたヘルカ婆を放っておくこともできず、厨房の仕事もしながら、新たに増えた世話係としての仕事も文句を言わずにやっていたが、とうとう無理がたたって再び倒れてしまった。

 

 ちょうどその場に居合わせたヴァルナルは、ミーナを部屋に寝かせた後、すぐさまアントンソン夫人を呼んだ。

 

「聞いたところによると、ミーナに洗濯までさせていたようではないか。なぜ、洗濯女中にさせない? 食事の片付けや朝の支度まで……」

「それは…お坊ちゃまがいたくミーナを気に入っておりますので…」

「ミーナに世話係を任せたからといって、他の女中の仕事をさせるようにと指示した覚えはない。この程度のことで、私に口を出させるような無能者はいらぬのだぞ、夫人」

 

 静かな恫喝に、夫人はゾオーッと背筋が凍りついた。

 同時にオリヴェルだけでなく、どうやら領主様にとってもミーナは特別な存在らしい、と推量する。

 下手にミーナに嫌がらせなぞすれば、簡単に解雇されるだろう。紹介状すら書いてもらえぬかもしれない。

 

 アントンソン夫人は深々と頭を下げて陳謝した後、すぐさまオリヴェル付きだった女中のゾーラを呼びつけて、今後は絶対にミーナに洗濯をさせず、朝の支度も以前のように女中達の持ち回りで行うよう言いつけた。

 

 ミーナに仕事を回せて楽ができたと喜んでいた西棟の女中達は、アントンソン夫人の厳しい叱責と、もし今後ミーナの負担になるようなことをすれば、この館から追い出されることを覚悟しろと脅され、一気に肝を冷やした。

 

 その後は多少時間の余裕もできたミーナではあったが、やはり朝早い厨房の仕事と、オリヴェルの世話係の両立はなかなかに大変だった。

 相変わらず、文句を言わずに忙しく働き回るミーナを見て、ヴァルナルは古参の料理人であるヘルカ婆を呼んだ。

 

「ヘルカ婆よ、申し訳ないがミーナにはオリヴェルの世話を(もっぱ)ら任せたいと思うのだ。新たな厨房の下女を雇うまで、しばらく頑張ってもらうことはできるか?」

 

 しかしその申し出に、ヘルカ婆はよりよい提案を示した。

 

「いえ、ご領主様。実は婆めも相談したいことがございました。といいますのも、我が娘…えー、確か今年で三十八だったか、九だったか…紫梟(シキョウ)の年の生まれでございますが…まぁ、それはよろしゅうございます。その娘の夫が先月、病気で亡くなってしまいまして。寡婦となった娘と孫二人を呼び寄せることができましたら、婆めも爺も安心して隠居できるというものでございます」

 

 ヴァルナルは快諾した。

 

 それから数日も経たないうちに、パウル爺そっくりのヘルカ婆の娘・ソニヤは、成人した娘と息子と共にレーゲンブルトにやって来た。

 娘のタイミはソニヤと共に厨房付きの下女となり、息子のイーヴァリはパウル爺について庭師見習いとして働き始めた。

 

 一方、オヅマである。

 

 マリーとミーナにあてがわれた部屋が三人で起居するには手狭であるのに加え、オリヴェルの世話で夜遅い時間に戻ってきて、短い睡眠をとっている母の邪魔をしたくなかったので、オヅマは小屋に留まることにした。

 

 ここであれば、朝早い時間に多少物音がしても、ミーナが敏感に起きてくることもない。最初は少しだけ寂しかったが、別に会えないわけでもないし、慣れてくると一人でいるのは気楽なものだった。

 

 月の冴えた晩に、昔、ミーナがよく歌っていた歌を歌うのも良かったし、夜の眠れない時にひたすら木剣の素振りをするのも自由である。

 それまではさほど気にしていなかったが、ミーナもやはり親なので口うるさく言われることもあり、多少鬱陶しかったんだな…と、子供ながらに思ったりする。

 

 そんなことを厨房の新たな料理人となったソニヤに言うと、「フン。ツッパっちゃって」と軽く笑われた。

 小麦袋を運んだお礼に、今日のおやつのスコーンをつまみ食いしていたオヅマはムッと言い返す。

 

「なんだよ、本当にそう思うんだから」

「ハイハイ。アンタの母親は立派に息子を育てているよ。ちゃあんと、巣立つ準備もしてるってワケだ。さすがだね」

「なんだよ。結局、褒めてんのは母さんじゃんか」

「そりゃあね。あんな出来た人は帝都(キエル=ヤーヴェ)にだってそういないだろうよ」

 

 何気なく言われた『帝都』という言葉に、いまだに顔が一瞬こわばるのは何故だろうか。

 オヅマは誤魔化すように大口開けてスコーンを食べながら、ソニヤに尋ねた。

 

「…帝都に行ったことがあるの?」

「一時ね。小娘の憧れってモンさ。商家で女中をしてたが、そこで旦那に会って、それから旦那につき合って……ま、私もあちこち巡り巡ってここに戻ったってことさ。それより、オヅマ。私は時々閃くんだよ」

「は?」

 

 オヅマは聞き返しながら、2個めのスコーンに手を伸ばしたが、ソニヤは容赦なく引っぱたいた。

 

「痛ぇッ! なんだよ、もう…」

「オヅマ、ちゃんとお聞き。予言だよ。ミーナはおそらく領主様の奥方になるであろう……」

 

 いかにも占い師然と厳かな雰囲気でソニヤは言ったが、持っているのが笏杖ではなく、オタマなので、まるで信憑性がなかった。

 そもそも、予言の内容自体が有り得ない。オヅマは狐につままれたような顔になった後、プッと吹いた。

 

「馬ッ鹿で~。ソニヤさん、冗談キツイよ。ナイナイ、ムリムリ」

「フン。子供にゃわからないだろうよ」

「子供だってわかるよ。一介の召使いが領主様の奥方になんて…どんな絵物語さ。夢見過ぎだよ」

 

 普通に考えれば、オヅマの言っていることはもっともだった。

 ただ、領主館にいた使用人達は徐々に気付き始めていた。

 当人達が自覚する以上に、客観的にはヴァルナルの態度はわかりやすいものだったからだ。

 

 その最たることは、本来であればとっくに公爵領アールリンデンに向かう時期だというのに、いまだに領主館に残っていることだった。

 一応、名目では春先に紅熱病の流行があったせいで、仕事が滞っている…と公爵家には説明しているらしかったが、それだけでないのは明らかだった。

 

 使用人たちは噂した。

 

「やっぱり…ミーナかねぇ?」

「そうだろうよ。やたら頻繁に呼びつけては、オリヴェル様のことを聞いてるっていうが、今までの世話人の女には、そんなことなかったじゃないか。むしろ、遠ざけたりして…」

「下手すりゃ、来月までいらっしゃるんじゃない?」

「いや~、そりゃないだろ。来月ったら、緑清(りょくせい)の月になっちまうじゃないか。朔日(ついたち)には公爵様とご一緒に帝都に行かないといけないだろう?」

 

 毎年、各地に散った貴族達は、緑清(りょくせい)の月朔日(ついたち)には自分たちの所領から出立して、帝都に向かうのが慣例となっている。

 ヴァルナルもまたそれに合わせて、公爵と共に向かうため、それまでに公爵本領地(アールリンデン)に到着していることが、必須なのだ。

 

 確かに紅熱病の流行で多少遅れるのは仕方ないとしても、季節が暖かくなるに従って流行も既に終息しているというのに、まだ向かおうとしないのは、公爵様一筋の忠義者のヴァルナルには珍しすぎることだった。

 

 その理由を考えた時、昨年までと違うことといえば、一つしかない。

 

「領主様にも春が来たねぇ~」

 

 多くの使用人達は、この領主様の不器用な意思表示を微笑ましく見守った。

 

 

 

 

 雨の日と、月に一度の休養日が重なって、オヅマは久々にオリヴェルに会いに来ていた。

 不思議といつでも会えると思うと、足が遠のく。

 オリヴェルのお気に入りはマリーだし、今はミーナにもついてもらっているので、自分はそんなに必要でもないだろうと思っていたのだ。

 

「やっと来た」

 

 しばらくぶりに会ったオリヴェルは、オヅマを見るなりむくれた顔になった。

 

「なんだよ? またぶっ倒れて、おんぶされたいのか?」

 

 オヅマがからかいながら言ったのは、例の執務室の一件の後、三人は抱き合って喜んだのだが、気が緩んだオリヴェルは急に力をなくして倒れ込んでしまったのだった。

 意識を失うまでではなかったが、足に力が入らないというので、オヅマがおんぶして部屋まで運んだのだ。

 

 紅熱病のことがあって、館には公爵家から送られた医師が常駐していたので、いつもの医者を呼ぶまでもなく、診察してもらえた。

 

「おそらく急に走ったからでしょう。まだ体を動かす準備をしないうちから、無茶をすると、体が対応できずに力がなくなってしまうのです」

 

 まだ年若い医師は、オリヴェルに食事を十分に食べて、少しずつ体力をつけていくように助言した。

 それまでオリヴェル専属の老医師はとにかく寝ておけ一辺倒であったが、帝都のアカデミーを卒業したばかりの、新たな知識を身に着けた医師は、まったく違った診断を下したのだった。

 

 彼は紅熱病が鎮火していくと、公爵の本領地に戻っていったが、ヴァルナルの要望で一月に一度は往診に来てくれることになった。

 

「もうおんぶなんて出来ないさ。随分食べるようになって、太ったからね」

 

 オリヴェルはふん、と笑って言ったが、オヅマはつかつか寄ると、あっさり持ち上げた。

 

「うん。ま、多少重くなったな」

「おろせ! 馬鹿!」

「おぅ、そんな言葉言うようになったか。覚えたか? ()()野郎だぞ、クソ野郎。ちなみに女に向かって言う時は…」

 

 スラングを教えていると、マリーが思い切りオヅマの足を蹴った。

 

「オリヴェルにヘンな事教えないでよ!」

 

 オヅマは痛みに耐えつつ、そっとオリヴェルをおろす。

 

「痛ェだろ! オリヴェルごとひっくり返ったらどうすんだよ、お前」

「お兄ちゃんはそんなことしないでしょ」

 

 振り返って怒る兄に、マリーはにっこり笑って言う。ますますこまっしゃくれてきた。

 

 オリヴェルはぎゃあぎゃあと喚くオヅマを見て溜息をもらした。

 

 ここのところは自分もミーナが作ってくれる(オリヴェルの食事に関してだけ、いまだにミーナが調理を担当していた)料理のお陰で、好き嫌いも少なくなり、肉も随分と食べるようになってきたのに、オヅマは会うたびごとに背も伸び、体つきはどんどん鍛えられたものになっていく。

 騎士団で訓練を受けているのだから、当たり前なのだろうが…。

 

「今日は母さんは?」

 

 オヅマはキョロキョロと見回した。

 これだけ大声で喋っていて、ミーナの叱言が聞こえてこないのは不思議である。いつもなら、オリヴェルを持ち上げた段階で叱られ、クソ野郎の段階で頭を殴られていたはずだ。

 

「母さんなら領主様にお茶を淹れに行ったわ」

 

 マリーが当たり前のように言う。

 

「お茶ァ? そんなのネストリか、他の女中がやる仕事じゃないか」

「よくわかんないけど、母さんの淹れたお茶が美味しいんだって」

 

 オヅマはふとソニヤの言葉を思い出した。

 

 

 ―――――ミーナは領主様の奥方になるであろう!

 

 

 ブンブンと首を振って、追い出す。

 一体、何を言い出すのだ…あのおばさんは。

 

「たぶん、僕のことを色々と聞いてるんだと思うよ。父さんはいつも人から僕の話を聞くから…」

 

 オリヴェルは補うように話してくれたが、その顔はさびしげだった。

 

「話せばいいじゃないか、領主様と」

 

 オヅマは軽く言った。「あの時みたいに、執務室でも寝室でも、入っていったらいいじゃないか」

 

「そんなこと……」

 

 頭を振るオリヴェルの脳裏には、昔、夜中に訪ねた時の父の冷たい顔しか思い浮かばない。

 

「ムリ、っつーの禁止な」

 

 オヅマは先手でオリヴェルの言葉を封じた。オリヴェルは詰まって、困ったようにオヅマを見つめる。

 

「だって…何を話せばいいかわからないよ」

「何だっていいじゃないかよぉ。昨日はマリーと遊びました。マリーが興奮してシッコをもらしました、とか」

「そんなことしてないわよ!」

「だったら…そうだな、なんかしたいこととか?」

「したい…こと?」

「そ。なんかあるだろ? お前、ずっとムリムリ言ってやらなかっただけで、本当はいっぱいしたいことはあるだろ?」

「……だって…無理だよ」

「ムリ禁止っ()ったろー! 言うだけ言ってみろよ。なんかないのか? この際、空を飛びたいでも、船乗りになりたいでもいいんだ」

 

 オリヴェルはしばらく考えた後、ポツリとつぶやいた。

 

「馬に…乗りたい」

「馬?」

「……オヅマが捕まえた黒角馬じゃなくてもいいけど…一回、馬に乗ってみたい」

 

 オヅマはポンと手を打つ。

 

「いいじゃんか、それ。言いに行けよ」

 

 しかしオリヴェルは俯いて首を振った。

 

「いい」

「なんで?」

「………」

 

 オリヴェルは黙り込んだ。

 

 昔、オリヴェルが赤ん坊の頃から物心つくまで世話してくれていた侍女は言った。

 

「お父君は忙しくていらっしゃいます。ご迷惑にならぬよう、静かに、いい子にしておかねば、見捨てられてしまいますよ」

 

 幼い子どもに刷り込まれたその言葉は、オリヴェルをヴァルナルの前で萎縮させる。一緒に食事がとれるようになっただけ進歩というものだ。

 それだって、ミーナがしつこく、

 

「領主様は本当はとても若君のことを気にかけておいでですよ。毎日のように私にお尋ねになるのですから」

 

と、言ってくれて、ほんの少しだけ勇気が出たのだ。

 

 しかし、ミーナはそうは言うものの、たまに夕食を共にする父は、やはり難しい顔で黙々と食べるばかりで、声をかけることはためらわれた。

 

「……父上が許してくれるワケがないよ。騎士にとって馬はとても大事なものなんだから。病気の子供の我儘で、そんなことを言ったら、叱られるよ」

 

 オリヴェルの言い訳に、オヅマは首をかしげた。 

 

「……そうかなぁ?」

 

 ヴァルナルは我が子を馬に乗せることも許さないほどに狭量な人間だろうか?

 もっともこればかりはオヅマも否、と確定できなかった。

 

 騎士にとって馬と剣は命そのものだ。

 ヴァルナルにとっては、騎士としての己が第一であり、その誇りこそがヴァルナルを賢明な領主たらしめている。

 

 マリーが消沈したオリヴェルに笑いかけた。

 

「じゃあ、もっともっと元気になって馬に乗りましょ。楽しみでしょ?」

「……そうだね。その時には、僕がマリーと一緒に乗ってあげるよ」

「うん!」

 

 オヅマはふぅと息をついた。

 こういう時のマリーは絶妙のフォローをする。

 

 だが、親密な二人にちょかいを出したくもなる。 

 

「なんだ? 馬に乗りたいなら、兄ちゃんが一緒に乗ってやるぞ」

「嫌」

 

 マリーはすげなく言った。

 予想外に強い否定だ。オヅマはムッとなった。

 

「なーんでだよ。俺だったら、すぐにでも乗せてやれるぞ」

「お兄ちゃん、だって絶対にものすごく速く走るんでしょ? 私が止めてって言っても、止めてくれないで、ゲラゲラ笑ってそうだもん」

「…………」

 

 否定できない。

 オリヴェルがクスッと笑った。

 

「レディを乗せる時は襲歩は駄目だよ、オヅマ。ちゃんと常歩(なみあし)の練習もしないとね」

「そんなこと一生ないから、どうでもいいさ」

 

 オヅマは気のない様子で言うと、オリヴェルの部屋から出て行った。

 

 






次回は2022年5月18日20:00更新予定です。




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第十三話 憧れの騎士

 結局、オリヴェルの願いが届くこともなく、ヴァルナルは今年も公爵領(アールリンデン)へと旅立ってしまった。

 いつもであれば一月前には行ってるので、今年は随分と粘った方である。

 粘った…という言い方になるのは、館にいた多くの使用人達の感想を示したものだ。

 

 玄関ホールまで見送りに来たオリヴェルとミーナに、いかにも名残惜しそうに何度も振り返って出て行く領主様に、彼らは心の中で静かにエールを送った。

 

 最初の結婚で失敗して以来、とんとそちらの方には興味を示さなかった領主様の、ようやく芽生えた恋心だ。

 身分違いとはいえど、むしろそれが故に若い女中などは色めきだった。

 それとなくミーナにどう思っているのかと聞けば、当の本人はたわいない冗談だと取り合わない。

 

 無論、一部には馬鹿馬鹿しいと一蹴する(ネストリを始めとする)使用人もいるにはいたが、地元の発展に大いに貢献してくれた領主様への敬慕が強い多くの使用人は、この不器用な恋の行方を暖かく見守っていた。

 

 騎士団は五分の一を残して、ヴァルナルと共に向かった。

 一応、平時においても領内における騒乱や災害などが起きた時のため、あとは甚だ形式的ながら北方の守りのため、兵力を少しは残しておかねばならない。

 

 オヅマは当然のごとく残留組だった。

 剣術は、最初にオヅマを気にかけてくれたマッケネンが教えてくれる。

 また、旅立つ間際にヴァルナルの許可をとって、とうとう朝駆けにも参加させてもらえるようになった。

 

「お前は本当に勘がいいな。たった二ヶ月そこらで、ここまで乗りこなすとは」

 

 マッケネンは素直に褒めてくれる。

 カールはひねくれてるから滅多と褒めないし、アルベルトに至ってはそもそも口数が少なくて、人を褒めることに慣れていない。

 オヅマは嬉しいが、多少おもはゆい気分だった。

 

「まぁ、馬場で練習してたから」

 

 軽く謙遜すると、同じく残留組になったサロモンが豪快に笑った。

 

「んなこと言って、今日の晩には内股が悲鳴を上げるだろうぜぇ。馬場でちょこちょこ乗るのとは訳が違うんだ。しっかり軟膏塗って、冷やしておけよ」

 

 先達の言葉はやはり真実である。

 その日の夜は内股と尻にチリチリとした痛みが続いて、眠りは浅かった。

 

 それでも朝焼けの景色の中で、馬を並べて太陽に礼拝する…あの一団に加われたことに、オヅマは我が事ながら感動していた。

 もっと先の話かと思っていたのだが、案外と早く叶った。この先は、本当の騎士として認められるようにならねば。

 

 苦手な弓も頑張って練習した。

 指にも掌にもマメができては潰れて、痛みを堪えながら剣を振るって、どんどん手の皮が固くなっていく。

 

「オヅマ、お前、騎士になりたいと言うが、どんな騎士になりたいのだ?」

 

 マッケネンは剣の指導を終えた後に、道具を片付けているオヅマに尋ねた。

 

 オヅマはすぐさま大声で叫んだ。

 

「ご領主様! ヴァルナル様みたいな騎士になりたいです!」

 

 周囲で同じく片付けをしていた騎士達が吹き出す。

 サロモンは大笑いして、オヅマの背をバンと叩く。

 

「ハッハッ! ま、大望を持つのは自由だからな!」

「なんだよ! わかんないだろ」

 

 オヅマはムキになって言い返したが、同じく騎士のスヴァンテは冷笑した。

 

「ハハハ。どうだか。ご領主様を目指すとなれば、黒杖(こくじょう)の騎士というわけだからな…さぁて、あと()()()かかるやら」

「黒杖の…騎士?」

 

 聞き返したオヅマにマッケネンが説明してくれる。

 

「黒杖の騎士は、皇帝陛下より直接その栄誉を受けた一握りの騎士だ。無論、それだけの実績も能力も必要だ。大貴族の息子というだけでもらえる白杖(はくじょう)とは比べ物にならない。嘘か本当かは知らぬが、古くは魔法を使える騎士もいたらしいからな」

「魔法!? そんなのあるの?」

「いいや、ない」

 

 すげなく答えたのは、騎士団においてパシリコに継ぐ長老のトーケルだった。白髪混じりの髭をしごきながら淡々と言う。

 

「儂は生まれてこの方、この帝国の東から西からこの北まであちこち回ったが、そんな代物に出会えた試しは一度としてない。過去のおとぎ話だ」

「いずれにしろ…ヴァルナル様を目指すというのであれば、剣術だけでは駄目だな」

 

 マッケネンはそう言って、ニンマリ笑った。

 その何かを含んだ笑みを見た時、オヅマは自分の発言を少しだけ後悔した。

 

 しかし、やっぱりヴァルナルはオヅマにとって憧れだ。

 

 騎士達がなかなか乗りこなせない黒角馬(くろつのうま)に騎乗して、軽やかに走らせる姿も、剣をとって騎士三人を同時に相手しておきながら、まったく息切れすることもなく打ち負かす姿も、騎上で弓を構えて走りながら的を射抜く姿も。

 

 あんな格好いいところを見せられて、憧れないほうがどうかしている。

 

 翌日、どしゃ降りの雨で訓練が臨時休止になると、オヅマはマッケネンに食堂に呼び出された。

 机の上に乗っている本を見て眉を寄せる。

 

「……なにこれ?」

「読み書きの本だな。それと算術の本もある。あとは礼法」

 

 マッケネンは三冊の本をオヅマの前に並べた。

 

「昨日、お前の母であるミーナから聞いたが、お前、書く方はすっかり放り出しているらしいな」

「………」

 

 オヅマは背をすぼめながら、視線を逸らした。

 

 実のところまだラディケ村にいた頃から、時々ミーナはオヅマに文字を教えてくれようとしていた。

 お陰で読むのはまぁまぁできたが、書くのはインクを買うのも難しかったのもあって、すっかりやる気をなくしてそのままだ。

 

「正直、お前の母のような身分の者が文字を読み書きできる上、礼法まで完璧なのは珍しいくらいだが、せっかく親に素養があっても息子にやる気がないとなぁ」

「だ…だって、いいじゃないですかぁ。騎士の仕事は戦うことなんだし…」

「お前が傭兵か、下級騎士で十分だというならそれでもいいがな。お前は将来どうなりたいと昨日言ってたんだっけ?」

「…………領主様みたいに…なりたい、です」

「だったら、最低でも上級騎士…その上で黒杖を賜ることができるほどにならないとな。そのためには…文武両道、これが()()()の素養だ」

 

 マッケネンの言葉は逃げ出す余地がなかった。

 

 ここで逃げ出せば、オヅマは自分の言葉に嘘をついた恥知らずになる。

 その上で、ヴァルナルの名前まで出して、自らの将来の目標を語ったというのに、早々に投げ出すようではヴァルナルへの不敬と取られかねない。

 

 オヅマは目の前でニコニコ笑っているマッケネンを恨めしく見て、怒鳴るように言った。

 

「わかりましたよ! 勉強すりゃいいんでしょ、勉強!」

「結構」

 

 マッケネンは頷くと、すぐにオヅマに字の書き方を教えた。

 食事の時間が近付くと、オヅマにインクとペンと紙を数枚渡して、

 

「ちゃんと今日やったところの復習をするようにな。明日点検するから。もしやっていなかった場合は、朝駆けには連れて行かん」

 

 オヅマはあんぐりと口を開けて、涼しい顔で立ち去るマッケネンを見た。

 

 知り合ってから短い期間ではあるが、マッケネンはオヅマの性格を熟知していた。 オヅマにとっては、素振り五百回とか、城壁周りを延々走るとかよりも、朝駆けに参加できないことの方が罰として効果的だ。

 

 オヅマはその日から毎晩、小屋で勉強する羽目になった。

 

 

 

 

 オヅマが()()()騎士になるために勉強していることを聞いて、オリヴェルは楽しそうに言った。

 

「なんだ。それだったら、僕と一緒に先生に教えてもらったら?」

 

 オリヴェルは幼い頃から時々、世話係などから文字を教えてもらっていた。

 当然、オヅマよりも読む知識は豊富であるし、書くことにも長けている。

 最近では体調のいい状態でいることが増えたので、そろそろ帝都から家庭教師を招聘することも考えられているらしい。

 

「先生? そんなのいたっけ?」

 

 オヅマが首をひねると、オリヴェルはミーナを示した。ゲッとオヅマの顔が歪む。

 

「冗談じゃない。母さんに教えてもらうなんて御免だよ」

「どうして? とっても丁寧でわかりやすく教えてくれるのに」

「そりゃ、お前がこの館の若君だからだよ。自分の子供相手とは違うの!」

「えぇ? だって、マリーだって教わってるよ。ね? マリー」

 

 マリーはコクンと頷くと、腕を組んで兄をあきれた目で見た。

 

「しょうがないわ。だって、お兄ちゃん、母さんの話を聞いてたら寝ちゃうんだもの」

「母さんがなんか読み出したら、子守唄に聞こえるからな」

 

 そうして船を漕ぎはじめたオヅマの耳を引っ張って、大声で怒鳴られたこともあるのだが、おそらくそんなミーナをオリヴェルは知らないだろう……

 

 ミーナは苦笑して聞いていたが、コホンと咳払いした後にオヅマに言った。

 

「もし、どうしてもわからないことがあったら言って頂戴。教えてあげられることなら、力になるわ」

「大丈夫、大丈夫。マッケネンさんもあれで割と頭いいらしいから。帝都のアカデミーの試験に落ちたから騎士になったんだって。試験受けられただけでも、相当なんでしょ?」

「まぁ…だったら母さんなんて必要ないわね」

 

 ミーナは驚いてから、少し肩をすくめてみせる。

 

 帝国において中小規模の有象無象のアカデミーと名のつく教育機関は数あるが、『帝都のアカデミー』と通称されるキエル=ヤーヴェ研究学術府は最高峰の教育機関だ。

 大陸の智慧の集積学府とも呼ばれ、多くの賢人が在籍して教鞭をとっている。

 

 当然ながらその入学は最難関中の最難関であり、毎年のように多くの人々が受験するが、よほど頭が良くないと入れない狭き門であった。

 しかも通算して五度不合格となると、永遠に入学できない。

 

 中には最初から入学できるとは思っておらず、記念として受験する者もいたようで、昨今では受験の前に一度、考査資料を送った上で受験資格を認可する…という形になっている。

 つまり、受験できるだけそこそこに頭がいいという証左になる。

 

「騎士って大変なのね。剣も弓もやって、お勉強までしないといけないなんて」

 

 マリーはさすがに毎日雑役をしながら騎士団の訓練も受けて、その上勉強までしなければならない兄に、ちょっとだけ同情した。

 

「傭兵とか下級騎士ならまぁいいらしいんだけどさ。やっぱ騎士を目指すなら上級だろ。鎧とか全ッ然違うからな! 下級のなんか野暮ったくて…」

「鎧で決めたの?!」

「それもある」

 

 マリーはあきれて、軽く溜息をもらす。同情するだけ無駄だった。

 オヅマは妹にあきれられていることに気付かず、オリヴェルに尋ねた。

 

「そういや、お前知ってたか? 領主様は黒杖(こくじょう)の騎士って」

「ううん。なに、それ?」

「なんかスゲーんだって」

「はぁ?」

 

 オリヴェルが首を傾げるのを見て、ミーナが説明した。

 

「とても強く、心映えも優れた騎士に送られる名誉ある称号です。領主様は文武において優れておいでですが、その上で稀能(きのう)をお持ちだそうです」

「稀能? なにそれ」

 

 オヅマはわからなかったが、オリヴェルはびっくりしたようだった。

 

「父上が? 本当に?」

「えぇ。私もよくは存じ上げませんが、そう聞いております」

 

 オヅマは二人で話しているのに割って入る。

 

「なぁ、稀能って何さ?」

「稀能っていうのは、ちょっとした特別な力…みたいなもの、かな?」

 

 オリヴェルが迷いつつ言うと、ミーナが補足する。

 

「周囲の人間からは、特殊な能力のように見えるのですが、実際には相当の修練を積んで可能にするものらしいですよ。元からの素養に加えて、己で磨くことで身に着けるのだと…」

「ふぅん。なんか凄いなぁ…。それって領主様が言ってたの?」

 

 オヅマは何気なく聞いたのだが、ミーナの顔は一瞬強張った。母の態度にオヅマの方がかえって動揺する。

 

「え…なに?」

「いえ…なんでもないわ」

 

 ミーナはすぐに笑みを浮かべたが、オヅマは母が何か隠していると気づいた。

 いつもそういう笑みを浮かべて誤魔化すのだから。

 

 ミーナは訝しげに見てくる息子を見つめ返しながら、問いかけた。

 

「オヅマ…あなたも、黒杖の騎士になりたいの?」

「え? ……あ、うん。まぁ…」

 

 返事しながら、オヅマはオリヴェルの前ということもあってちょっと恥ずかしかった。まさか息子の前で、お前の父親に憧れているとは、声を大にしては言いにくい。

 しかしオリヴェルはあまり頓着していなかった。

 

「じゃ、頑張らないとね、オヅマ。上級騎士なら皇宮に配属されるかもしれないから、キエル式礼法は全修(マスター)しないとね!」

 

 笑顔で恐ろしいことを言ってくる。

 礼法はオヅマに課された勉強の中で最も厄介で苦手な科目だった。

 

「ああぁ…もう勘弁してくれよー」

 

 ゲンナリと肩を落とすオヅマを見て、オリヴェルとマリーがケラケラ笑っている。

 

 その様子を微笑ましく見ながら、ミーナはどこか暗い口調でつぶやいた。

 

「………抗えない…ものね……」

 

 






次回は2022年5月22日20:00更新予定です。




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断章 -黒杖-

 その日、オヅマは久しぶりに()の中にいた。

 

 

 冷えた土壁に囲まれた屋内の真っ暗な広間。

 

 自分の手すらも見えない。

 

 その中で片膝をついて、じっとしている。

 いや、ただじっと座っているのではない。

 

 全神経がピリピリと逆立っている。

 

 うなじの辺りから触角のようなものが伸びていく感覚。

 それは徐々に全身に広がる。ありとあらゆる知覚が体表から伸びていって、やがて部屋の中を充満していく。

 

 普通の人であれば聞き取れないはずの、かすかな吐息。

 

 オヅマは一瞬にして跳躍していた。

 

「うぐっ!」

 

 うめき声が背後で聞こえた。

 既にその男は殺っている。

 

 次は正面と斜め右上から。

 少し遅れて後方斜め三十五度の角度。

 一拍おいて真上。

 

 第一陣の刺客達をすべて殺した後、第二陣、第三陣。

 真っ暗闇での死闘において、夜目が利くといわれる山岳民族シューホーヤの腕利きの殺し屋ですらも、オヅマの前では無力だった。

 

 うめき声すらも聞こえなくなって静寂が訪れると、パチンと指を弾く音が響き、四方の壁にある火遣窓(ひやりまど)に火が灯された。

 

 鏡の入ったその特殊な照明器具は、それまで暗闇であったのが嘘のように、だだっ広い広間を明るく照らした。

 

 死体があちこちに転がっていた。

 

 折り重なった死体の下敷きにされていた男の手がピクリと動く。

 オヅマは無造作に死体の上を歩いた。

 

 手の動いた男の元まで来ると、首を鷲掴みにした。

 ベキベキと首の骨が折れる感覚が手に直に伝わってくる。

 

 男の首はヘニョリと有り得ない角度に折れ曲がった。

 頬を伝った死者の涙がオヅマの手首を濡らし、珍しくオヅマは少しだけ眉間に皺を寄せた。

 ポイと首を投げ、立ち上がる。

 

 何も感じない。何も感じてはいけない。

 

 ここに自分はいない。

 これは自分ではない。

 

 ()()()()オヅマのつぶやきと、()()()()オヅマの心が重なる。

 

 

 一度目を閉じて、再び開くとそこは絢爛たる宮殿の中だった。

 

 緋色の絨毯が伸びた先には、頭上に帝冠を乗せた()()が立っている。

 儀仗兵が並び、青い顔の諸侯百家がその後ろで息をひそめている。

 

 高らかなフォーンの音。

 

 ゆっくりと進んでゆくごとに、崩れ落ちたいほどの虚しさが押し寄せる。

 

 密やかな声が聞こえる。

 おそらく常人の耳では聞き取ることのできないほどの、小さなささやき声。

 

「……あれが(くら)皇子(みこ)……」

「目を合わせてはならぬ……」

「取って喰われるぞ……」

「この前も……公爵の……」

 

 オヅマは一度、止まった。

 ここにいる人間のすべてを殺したら、あそこに立つ()()はどんな顔をするだろうか。いや、おそらく喜悦して、よくやったと褒めるだけだ……

 

 シンと水を打ったような静寂。

 もはや誰も口を開くことはない。

 

 オヅマは再び歩き出す。

 

 儀典長が甲高い声で名を呼んでいる。

 何の意味もない名前。何の意味も持たない称号。

 

 小姓達が三人で濃紺に白く縁取りされたクッションを恭しく運んできた。

 その上には金銀の精巧な細工が施された艷やかな黒い杖。

 ()()より賜りし黒杖。

 

「……………」

 

 ()()が何か言っていた。

 

 オヅマは無言で受け取り、その黒杖を頭上に捧げ持つ。

 そのまま深く頭を垂れたまま、後ろに下がる。十三歩。

 それから姿勢を正して、くるりと踵を返す。

 

 右手に黒杖を握りしめながら、オヅマはまるで何も感じていなかった。

 

 空虚な儀式だ。

 オヅマにとっても、()()にとっても、あの場にいた誰にとっても。

 

 湖にせり出したバルコニーからもらったばかりの黒杖を捨てる。

 岩にカン、カンと当たりながら、呆気なく湖に落ちていく。

 

 この程度のものだ。

 

 この程度の、意味のない…価値もない…ただ綺羅びやかなだけの杖。

 

 虚ろな目で沈んでいった黒杖を見ながら、オヅマはうっすら笑っていた。

 自分で笑っていることすら気づいていない空虚な微笑。………

 

  

 ―――――違う!

 

 

 オヅマは必死に目をつむった。 

 

 ()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()

 

 目を閉じて再び開けば、きっと眩しい朝日の中で自分は目覚める。

 

 そこに広がる風景はいつもの、()()()()()()()のはずだ。

 

 






引き続き、挿入話をUPします。



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挿入話 書簡往来

 ヴァルナルよりミーナへ向けて。

 レーゲンブルトを発ってから5日目、公爵の本領地・アールリンデンに到着直後に書いた手紙。

 

『萌芽の月 十五日

 

 新緑の芽が萌えたる時候、手翰(しゅかん)にて申し上げる。

 

 公爵領に到着した。

 いつもであれば雪解けしたばかりの泥濘の中を進むこともあり、もう少し難渋するのだが、今年は遅くに出たのが良かったのか、道程は極めて平穏で特に問題もなかった。

 レーゲンブルトを発った時には、まだそちらでは咲いていなかったアーモンドの花がこちらでは満開である。この手紙を読む頃にはそちらでも咲いているかもしれない。

 

 息子については色々と面倒をかけていると思うが、貴女(あなた)の指導と献身によって、オリヴェルも随分と健やかになったように思う。非常に感謝している。

 

 マリーがとてもオリヴェルを慕ってくれているようで、あの子にも年上としての自覚が生まれたようだ。また、オヅマのように時に喧嘩しても友として向き合える存在ができたことは、有り難いことだと思う。

 

 私が離れている間、もし無理難題を言ってくるような者がいたら忌憚なく申し述べてほしい。息子の為にも貴女の存在は重要である。くれぐれも短慮で領主館を出るようなことのないようにお願いしたい。

 

 今後はしばし公爵邸に逗留の後、慣例の通りに緑清(りょくせい)の月、朔日(ついたち)に、帝都に向かう予定である。

 では、これにて失礼する。

 

 年神様(リャーディア)の加護のあらんことを。 ヴァルナル・クランツ』

 

 

 

 

 この手紙についてミーナから教えてもらったソニヤは言った。

 

「これだから…ご領主様は。こんな手紙寄越すんなら、アーモンドの花を一つ入れるくらいなことするもんでしょー」

「そういうモンなのかねぇ…?」

 

 ゴアンが不思議そうに首をひねると、ソニヤはその大きな背中を容赦なくぶっ叩く。

 

「そういうもんよ! アンタもそれくらいの気配りができないと、いつまでたっても男やもめのまんまだよ!」

「はぁ……」

 

 ゴアンはその後、アーモンドの花が咲いた途端に、その枝を切ってソニヤに持っていったのだが、枝を勝手に切ったことでパウル爺に大目玉を食らい、久々に年上の大人にこってり叱られるという醜態をオヅマ達に見せることになった。

 この事はしばらく騎士団の笑い話になった。

 

 

 

 

 ミーナよりヴァルナルへ、前回の手紙の返信

 

『萌芽の月 廿二日

 

 芽吹きたる新緑も色濃く青の影を落とす時候にて、僭越ながら拙き文を送らせて頂きます。

 

 道程ご無事に到着された由、なによりでございました。

 そちらはやはりレーゲンブルトよりも先に春が訪れているようで御座いますね。

 

 若君はとても元気にお過ごしです。先だっては食事量が足らぬと、初めておかわりされておいででございました。以前は苦手でいらっしゃった青物の野菜なども、おいしそうに召し上がられるようになりました。

 

 若君のご希望で、食事の際、私とマリーがご相伴にあずかるようになりました。

 よろしゅうございましょうか。

 一介の使用人とその娘に許されぬことと申されるのであれば、すぐにも改めるつもりでございます。

 ですが、若君にはご領主様が発たれてより、一緒に食事を召し上がる人もおらず、寂しそうにしておいでです。どうかお許しを賜りたく存じます。

 

 こちらでもアーモンドの花が咲き始めております。若君と一緒に押し花にして栞を作りました。同封しておりますので、よろしければお使いくださいませ。

 

 オヅマについても、最近ではマッケネン卿に文字を習い、騎士としての修身や礼法を教えて頂いております。本人も騎士としてご領主様の役に立ちたいと励んでおります。機会を与えて頂いたこと、誠に有り難く存じ上げます。

 

 数日中には帝都にお出立とのこと、今後の道中の平穏を願っております。

 

 年神様(リャーディア)のご加護のあらんことを。 ミーナ』

 

 

 

 

 実はミーナがこの手紙を送った同日、ヴァルナルもまた再びミーナに宛てて手紙を書いていた。つまり、ヴァルナルはミーナからの返事を待たずして二通目を書き送っていたことになる。

 

 

 

 

ヴァルナルよりミーナへ

 

『萌芽の月 廿三日

 

 青き影深くなる時候、手翰にて申し上げる。

 

 明日よりしばらく帝都への旅支度で忙しくなる。道中、書き送ることができるかわからぬ故、今、このようにしたためている。

 

 オヅマとの出会いから、貴女…達(*『達』は後から書き加えられているようだ)が領主館に来て早三ヶ月が過ぎようとしている。

 まだ、三ヶ月しか経っていないことが意外なほどに、貴女…達(*くどいようだが、『達』は後から書き加えられている)は馴染んでいるように思う。

 

 無論、それは貴女の努力によるところが大きい。今更ではあるが、先の紅熱(こうねつ)病において息子の看病を尽くしてくれたことに、御礼申し上げる。

 

 これはマリーにも、オヅマにも伝えて欲しい。二人は自らも病にあって不安であったろうが、息子のためによく辛抱してくれた。子供ながら、その謙譲の精神には、深く(こうべ)を垂れるものである。

 きっと貴女の教えが良いためであろう。

 

 本日は久方ぶりに公爵家の騎士団が一同に集まっての結団式が行われた。各地領主騎士団と本領地における直属騎士団は互いに切磋琢磨しており、他家のようないがみ合いはない。これも公爵様の器量によるものである。

 明日には先行隊が帝都に向けて出発する予定だ。私は公爵様と同日の出発の予定となっている。あちらに着いたら、また報告する。

 

 年神様(リャーディア)の加護のあらんことを。 ヴァルナル・クランツ』

 

 

 

 

「いや…報告って!? なんでミーナに報告してくんの? これ報告書なわけ? ほんっとにご領主様ときたら…なんだってこう……」

 

 この手紙を読ませてもらったソニヤは頭を抱えた。

 こちらに帰郷してから、館の使用人から、街の昔馴染みに至るまで聞き込んだ結果、ご領主様がどうにもそうしたことに関して不器用な人であると予想はしていたが、これは聞きしに勝るぶきっちょだ。

 

 まぁ、多少(実際は多少ならず)好意を示していることはわかるのだが、それもある程度相手に自分の気持ちが通じていればともかく、この手紙をすんなりソニヤに見せて隣でニコニコ笑っているミーナを見る限り、そこのところに気付いていないのは明白だ。

 

「でも、わざわざ帝都に出立前の忙しい中、書き送って下さって…よほど若君のことが気がかりでいらっしゃるのでしょうね」

 

 案の定、ミーナは見当違いのことを言っている。

 

「いや、若君のことよりあなたのことを褒め称えてるんだと思うけど…」

 

 ソニヤは不器用極まりないご領主様の為にそれとなく援護射撃してみたが、ミーナは堅牢な微笑みを浮かべる。

 

「そうね。こうして認めていただけると、私ももっと心を込めて若君のお世話をしなければと思うもの。本当に、ご領主様は人の心をつかむのが上手でいらっしゃるわね」

「………」

 

 肝心な部分はまったく掴めてないけどね…とは、もうソニヤは言わなかった。黙り込んだソニヤにミーナは話題を変える。

 

「それにしても、やはりグレヴィリウス公爵家というのは大貴族なのですね」

「そりゃあね」

 

 ソニヤは頷いて、ゴアンから聞いたグレヴィリウス公爵家のことを話して聞かせた。

 

「いっても、皇室に次ぐ家門だからね。エドヴァルド大帝の時代から続く古い家系だというし…諸侯百家の長…貴族の中の貴族…ってねぇ。皇帝陛下からの信頼も厚くて……そうそう、ミーナ。ここだけの話だけどね、ご領主様は陛下から皇室直属の騎士にならないかと誘われていたらしいんだよ」

「まぁ…直参(じきさん)ということですか?」

「そうそう、それ! でも、ご領主様は忠誠心の厚い方だから、公爵様の為に断ったっていうんだよ。大したもんだよねぇ…」

「…そんなことして、大丈夫だったのでしょうか?」

「それが…断り方もうまかったらしいんだよ。何を言ったのかは、よく知らないんだが」

 

 ソニヤは肝心なことが言えなくて残念だった。

 この話を教えてくれたゴアンは何かくっちゃべっていたのだが、誰かから聞いたとかいういいかげんな話を、順序もぐちゃぐちゃに話されて、さっぱり意味が不明だったのだ。

 

 ミーナは微笑んだ。

 

「ご領主様のことですから、誠心誠意、真摯に話されたのでしょう」

「うん…そうだね。まぁ、そういうことだけはできるよ、あのご領主様は……」

 

 

 

 

 ヴァルナルはミーナからの手紙を帝都に向かう道中で受け取り、すぐに返信を書き送った。

 

緑清(りょくせい)の月 五日

 

 (さや)けき風に揺れる緑の美しき時候、手翰(しゅかん)にて申し上げる。

 

 道中からの便りである故、早速のことについて申し上げる。

 

 息子(オリヴェル)との食事については、全面的に許す。息子が望み、貴女(あなた)が息子の希望に真摯に向き合ってくれていることを、本当に有り難く思う。

 

 もし、此の事についてやかましく言う者がいれば、私の同意書を同封しておくので、それを示すように。少々、厳しく書いているので、もはや何を言ってくることもないはずだ。

 

 基本的に息子の件については、私よりも貴女の方が配慮が行き届いているだろうから、今後も息子の為になると貴女が判断したことに関しては、私は全面的に同意する。

 

 ただ、今後とも息子に関しての報告はお願いしたい。

 以前にも話した通り、私は長らく息子を放任してきた。

 自らの力で産声をあげることもなく、脆弱に生まれ、産婆や医師からも長く生きることが出来ないと聞かされて、諦めてしまっていた。

 

 その後に戦に向かうこともあり、親子としては稀薄な関係になってしまったが、それは私の勝手な言い訳に過ぎない。

 

 息子には本当に申し訳なく思う。私は長年、親としての務めを果たしてこなかった。しかし貴女からの話で、息子がとても思いやりある子に育ったことを知り、安堵している。

 

 今更ではあるが、息子には今後は親らしく接したいと思っている。そのためには、彼のことを知らねばならぬ。

 

 乱筆乱文にて失礼。

 

 年神様(リャーディア)の加護のあらんことを。 ヴァルナル・クランツ』

 

 

 

 

 そこでヴァルナルは一旦筆を置いたのだろうが、ふと思い出したようである。『追伸』と書かれた後に、

 

『栞をありがとう。早速、使わせていただく』

と、一言添えてあった。

 

 それまで堅苦しい文章で書き綴られていたのに、不意に『ありがとう』と素直な言葉が出てきて、ミーナは思わずフフッと笑ってしまった。

 なんだかその部分だけ、少年のようなヴァルナルの姿が透けて見える。

 

「どうしたの?」

 

 オリヴェルとマリーが不思議そうに見つめる。

 

「いえ…この前の栞を喜んでくださったみたいですよ。良かったですね、若君」

 

 オリヴェルはホッとした顔になった。

 

 

 

 

 ミーナはその後、まだヴァルナルが道中であることに気を遣って返信を控えた。

 伝令もミーナにヴァルナルの手紙を渡すなり帰ってしまったので、まさか別の伝令を立てるわけにもいかず、ヴァルナルから帝都到着の便りがあるまでは…と待つことにしたのである。

 

 そのせいなのかヴァルナルは道中、少しばかり不機嫌に見えた……とは、副官カールの弁。

 

 






次回は2022年5月25日20:00の更新予定です。



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第十四話 騎士は堂々たるべし

 領主館の春は穏やかに過ぎ、初夏の様相となってきていた。

 

 ネストリはヴァルナルからよほどにお灸を据えられたのか、オヅマらに対する態度は極めて事務的ながら概ね平静だった。それでも陰口や、婉曲な嫌味は時折言われたが。

 

 これまでの下男としての仕事や騎士団での訓練に加えて勉強までする羽目になったオヅマは、以前のようにオリヴェルに会っても遊んだりすることはなくなっていた。

 

 来ればたいがい騎士団のことばかり話すオヅマに、マリーは「面白くなーい」とソッポを向いて絵を描いたりしていたが、オリヴェルは熱心に聞いていた。

 

 今日もオヅマが子供の黒角馬が最近どんどん大きくなってきて、気性が荒くなり、騎士達の髪をむしり取ったりするようになって、頭髪の薄くなってきていたゾダルがやられて半泣きになったことを話していると、オリヴェルは大笑いをした後、少しだけ寂しそうにつぶやいた。

 

「いいなぁ…楽しそうで…」

「お前さ、そんなに興味あるんなら、見に来たら?」

 

 オヅマの提案に、オリヴェルは悲しげに首を振った。

 新しい医師の助言もあって、随分と体を動かすようになってきたが、少しでも無理をすると、その夜には体調を崩した。

 

 この前も気分が良いからと庭を散策していたのだが、マリーがパウル爺を見つけて一緒に庭いじりを始めると、オリヴェルはその様子を眺めているうちに倒れてしまったのだ。

 それ以来、オリヴェルはすっかり自信を失くし、また外に出なくなってしまった。

 

「もう暑くなってきましたからね…」

 

 ミーナがそれとなく同意すると、オヅマは口を尖らせる。

 

「まだ緑清(りょくせい)の月だってのに、どこが暑いって言うんだよ」

「あなたには平気でも、若君には季節変わりの急な暑さは(こた)えるの」

「あーあ! 面倒くさい!!」

 

 オヅマが苛々して叫ぶと、ミーナはキュッと眉を寄せた。

 

 近頃のオヅマの言動は少々目に余る。

 騎士団で勉強を見てもらい、稽古をつけてもらうようになって、自信を持つのはけっこうだが、通り越して不遜な態度は問題だった。

 

「オヅマ! 物言いに気をつけなさい!! 若君やご領主様が許して下さっているからって、あなたは図に乗りすぎです!」

 

 久しぶりに叱られ、オヅマはビクリとなりつつも、ムッとミーナを睨みつけた。

 

「なんだよ! 友達なんだから、それくらいのこと言うだろ!」

「友達でいることを()()()()()()んです! (わきま)えなさい!!」

「そんなの知るか!」

 

 オヅマが怒鳴った途端、マリーが泣き喚いた。

 

「わあぁぁん!! お兄ちゃん、お母さんを怒らないでぇよぉ」

 

 マリーは遊び疲れてソファでうたた寝していたのだが、母と兄の言い争う声でうっすらと目を覚ましていたのだ。

 

 オヅマの怒鳴り声でパチリと目を開くと、剣呑たる兄の形相を見て、一気に恐怖に襲われ、身を震わせた。

 

「やだあぁ! お母さんを叩かないでぇ!」

 

 目覚めたばかりで混乱しているのか、マリーはしゃくりあげて泣きながら、ミーナのところへ行こうとして転んだ。

 オヅマが走り寄る前に、オリヴェルが素早くマリーを助け起こす。

 

「大丈夫だよ、マリー。オヅマは叩こうなんてしていないよ」

 

 そっと抱きしめながら、背をさすってなだめる。

 

 オヅマはその場で唇を噛み締めていた。

 マリーが自分と、あの()を重ねて怖がっていることが、ひどく理不尽に思えた。

 ずっとあの()から守ってきたのは、自分だというのに……。

 

「オヅマ…」

 

 ミーナがそっと肩に手をのせてくるのを、オヅマは拒絶して乱暴に払う。

 

「オヅマ!」

 

 オリヴェルが咎めるように声を上げる。

 

 わかっている。自分が言い過ぎたのだ。自分勝手なことを言って、ミーナに叱られて、反省するどころか一人怒っている。

 

 オヅマは拳をつくって、握りしめた。

 クルリと踵を返して、無言でオリヴェルの部屋を後にした。

 

 

 

 

「謝ってこい」

 

 マッケネンの答えは単純明快だった。

 

「………」

 

 オヅマは押し黙ったまま、目も合わせない。

 マッケネンはフゥと溜息をついた。

 

 仏頂面で修練場に現れるなり、ひたすら木刀の素振りをし始めたオヅマを見て、その場にいた騎士は誰もが異変を感じた。

 周囲からの視線の集中砲火を浴びたマッケネンが仕方なくオヅマに理由を聞く羽目になったのだが、なかなかオヅマは口を割らなかった。

 その後、剣撃訓練の相手をしてやってから、ようやく口を開いた。

 

 そこで母親と喧嘩して、妹に泣かれ、若君に咎められ、いたたまれなくなって飛び出してきたことを聞き、出てきたのがさっきの答えだった。

 

「……………嫌だ」

 

 ボソリとオヅマがつぶやくと同時に、マッケネンはベシリと頭を叩く。

 

()ッ!」

「阿呆が。お前が悪いだろうが。そんなこともわからないほど阿呆なら、騎士になるなんぞ諦めるんだな。女子供をいたぶるような男は騎士になれんのだ」

「俺は叩いてない!」

「実際に手が出ているかどうかじゃない。度量の問題だ。お前は極めて了見が狭い」

「……俺馬鹿だから、何言ってるかわかんねー」

 

 再び、今度はゲンコツが頭に降ってきた。

 

「痛ッ! ………マッケネンさんの方が手が出てるじゃねぇか!」

「悪いか。俺の方が悪いと思うなら、ご領主様に言えばいい。言えるか? お前のその短気で傲慢な態度も含めて説明する必要があるぞ」

 

 オヅマは途端に黙り込んでうつむく。

 マッケネンはふぅと吐息をついた。どうやら悪いことをした自覚はあるらしい。

 

「いいか、オヅマ」

 

 マッケネンは優しく諭した。

 

「騎士というのはいつも堂々としていなければならない。堂々と胸を張っているためには、いつも心が明快でないと駄目なんだ。今のお前は堂々としているか? 騎士として、己に間違いがないと、胸を張っていられるか?」

 

 オヅマは黙ったまま、それでもプルプルと首を振った。

 

「だったら、今お前がすべきことは、忠告してくれた母親に謝ることだ。確かにご領主様は、若君の友達でいてくれとお前に頼んだが、やはり()(わきま)えなければならない。それは必要なことなんだ」

「…………わかってる」

 

 オヅマは震える声でつぶやいた。

 

「でも、俺…見せたかったんだ。オリヴェルに…」

 

 マッケネンはフフンと笑った。

 

「お前…自分のいいトコを見せたかったんだろ? 若君に自慢したかったんだな?」

「………」

 

 オヅマは一気に赤くなった。

 それまでハッキリと自覚していなかったが、マッケネンに言われてみると、なるほどそうだった。

 

 子供っぽい自分勝手な感情で、オリヴェルに見せて、単純に「すごい!」と言わせたかっただけだ。

 

 マッケネンが声を上げて笑う前に、こっそり聞いていたゴアンが大笑いしながら、柱から現れた。

 

「ハッハッハッハッ!! オヅマもまだまだ小僧だな~ッ」

 

 大きなダミ声が修練場一帯に響き渡る。

 

「う…っ、うっせえ! なに勝手に聞いてんだよ!」

「いつもは若君に会いに行ったら上機嫌で帰ってくるお前が、いかにも何かありました~ってな顔して戻って来るから、何があったか気になるじゃねぇか」

「そんな顔してない!」

「まるきりわかりやすく出てたけどな。オラ! さっさと謝って来い!」

 

 バシッとゴアンが背を容赦なく叩いてくる。オヅマは痛みに顔を顰めながら、ゴアンを睨みつけた。

 

「……わかったよ」

 

 むくれた顔で、渋々了承する。手早く稽古道具を片付けてから、何度も溜息をつきながら帰って行った。

 

 ゴアンはヒラヒラと手を振ってオヅマを送り出してから、マッケネンの肩を小突いた。

 

「オイ」

「なんだ?」

「お前、さっきの騎士の心得…領主様の受け売りだろ?」

「………知ってたのか」

 

 マッケネンは軽く頬を赤らめた。

 実のところ、騎士は堂々たるべし…という訓戒は、ヴァルナルが言っていたことだった。

 

 しかしいつもなら混ぜっ返すゴアンは少し自嘲めいた顔になって、昔話を始めた。

 

「昔、傭兵だったクセが抜けなくってなァ。南部の戦で落とした城でちょいとばか盗んじまったのさ。その時にヴァルナル様が全員を招集して、さっきのことを言ったんだ。俺は…なんかモヤモヤしちまって、どうにも居心地が悪くなって、その場で名乗り出たんだ。略奪なんぞ、許されるわけもないからな。正直、処刑されるのも覚悟してたんだが…当面の減俸と、騎士権の三ヶ月停止で済んだ。あの場で素直に白状したことで、情状酌量されたんだ」

 

「……素直に言わなかったら大変なことになっていたな」

「あぁ。一月(ひとつき)後に見つかった奴らは、即座に斬首されたよ」

 

 マッケネンは無言で何度も頷いた。

 

 ヴァルナルの温情は苛烈さと表裏一体だ。

 今のところ、オヅマも子供であることも含めて、大目に見てもらえているが、あの態度をいつまでも貫いていたら、いつか厳しく叱責されるだろう。

 

「ミーナ殿が賢くていらしてよかった」

「まったくだ。そういや、知ってるか? なんと今日また領主様から手紙が来たんだってさ。ミーナに」

「また? この前、公爵領に着いたって来たばかりじゃなかったか?」

「そうだよ。もう三通目だとよ。去年とは大違いだ」

「なるほど…女中達が騒ぐわけだ」

「いい加減、あの人もやる気になってきたんだな。いや、良かったよかった」

 

 ゴアンが無邪気に喜んでいるのを、マッケネンはややあきれたように見ていた。

 

 実際に、一召使いが領主と一緒になることなどあるのだろうか?

 身分違いの恋。それこそ、婦女子の好きそうな夢物語ではないか。

 それに、もし万が一、ミーナとヴァルナルが結婚するようなことになれば、オヅマは領主様の息子という立場になる。

 

「…………」

 

 そこまで考えて、マッケネンはいや、と真面目な顔になる。

 ヴァルナルがオヅマの才能を相当にかっているのは確かなことだ。何せ、副官であるカールと、アルベルトという、レーゲンブルト騎士団における実力トップである二人に稽古をつけさせているのだから。

 

 あるいは…ヴァルナルはミーナへの恋慕とは別の意味でも、結婚をすすめるかもしれない。

 それに元々貴族の出でもないヴァルナルにとっては、身分の隔たりはさほど気にならない。むしろ先妻もそうであったが、貴族令嬢などの方が合わなそうだ。

 

「うん…有り得るかもしれんな……」

 

 いつもはその手の話は馬鹿にしたように皮肉を言うマッケネンが、真剣な顔でつぶやくのを、ゴアンは不思議そうに見ていた。

 

 

 






次回は2022年5月29日20:00の更新予定です。



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第十五話 騎士団見学

 マッケネンから諭された後、オヅマはとりあえずその日の夜にはミーナのところに行って謝った。ただ、

 

「オリヴェルは騎士団の訓練とか見てみたいと思うんだ。だから、それは叶えてやりたいんだよ」

とオヅマが言うと、ミーナは嘆息した。

 

「それは…若君も望んでおられるでしょうけど…無理をさせる訳にはいかないわ」

 

 今日のことでも、オリヴェルは気に病んで、夕方に微熱があったくらいだ。

 

「わかってる。無理はさせないようにする。考えるから、オリヴェルにもちょっと待っとけって言っておいて」

「またあなたはそういう物言いを…」

「あー…ハイハイ。えーっと、お待ち下し…下さい…って言っておいて」

 

 言い慣れない言葉遣いに舌を噛みそうになりながら、オヅマは早々に母の前から立ち去った。最近、ミーナの小言がひどく鬱陶しい。

 

 とにかくその日から、オヅマはオリヴェルが無理せずに修練場に来て、見学できる方法を色々と考えた。

 マッケネンに言われたように、自分の勇姿を見せたいというのもあったが、単純にオリヴェルが憧れている騎士達の剣撃や、馬を見せてやりたかった。

 

 ちょうどそんな時に、下男のオッケと一緒に東塔にある不用品の整理をすることになった。

 この前の紅熱(こうねつ)病で急遽、隔離施設として使用された東塔は、これまで放っておかれたのだが、その内部を見たヴァルナルはこれを機に片付け、今後は緊急用施設として維持管理するように命じたのだ。

 

 その不用品の中に車椅子を見つけた時、オヅマはこれだと思った。

 車輪の外れかけた車椅子をもらって帰ると、そこから数日は稽古と仕事の合間に修繕作業に没頭した。

 

 ガタついていた座面には、これも廃棄されていたソファからクッション部分を一部切り出してそれを張り、背もたれの裏側に中が空洞になったポールを取り付け、その先に大きな傘を差した。無論、ミーナが心配していた日差し避けである。

 

 以前に比べれば歩くようになったオリヴェルだったが、それでも修練場と自室の往復はまだ厳しい。おそらく途中でへばってしまい、そうなればいつも通りに庭師見習いのイーヴァリか、騎士の誰かに運ばれることになるだろう。

 

 オヅマはオリヴェルがこの事をとても恥ずかしがっているのを知っていた。

 自分の足で満足に歩くことすらできない上に、運びながら「若君は軽いからいつでもどうぞ」なんて言われて、ひどく自尊心を傷つけられたようだ。

 悔しくて泣いていた。

 

 だから、少しだけオヅマは不安ではあった。もしかすると、オリヴェルはかえって嫌がるかもしれない…と。

 

 久しぶりにオリヴェルの部屋に訪れる時、オヅマは少しだけ緊張していた。

 扉の前でスーハーと深呼吸を繰り返していると、いきなりガチャリと開いてマリーが顔を出した。

 

「あれ? どうしたの、お兄ちゃん」

「よ、や…やぁ…」

 

 マリーはぎこちなく挨拶したオヅマを見て、ブッと吹いた。

 

「なにー?『やぁ』だって! おっかしいの」

「うるせぇな! オリヴェルに会いに来たんだよ!」

「じゃあ、入ればいいじゃない。なんでボケーッと立ってるの?」

 

 マリーは大きく扉を開くと、オヅマを中に招き入れた。

 入って行くと、オリヴェルが向こうも少しだけ緊張した面持ちでソファから立ち上がっていた。

 

「あ…あの…」

 

 オリヴェルはなにかを言いかけて、もどかしげに黙り込む。

 

「なんだよ? …言えよ」

 

 オヅマは待った。いつもならここに訪れるなり、オリヴェルが話す隙も与えずに、オヅマが息切れするまでひたすら喋りまくるのだが、今日は待つことにした。

 

 オリヴェルは大きく肩を上下して深呼吸して、大声で言った。

 

「僕、本当は行きたいんだ!」

 

 オヅマはしばらくじーっとオリヴェルを見つめた。

 

「………どこに?」

 

 しれっとして尋ねると、オリヴェルは困惑したように言葉を探す。オヅマはニヤッと笑った。

 

「もぅ! お兄ちゃんってば、どうしてそんな意地悪言うのよ!」

 

 マリーが相変わらず容赦なくオヅマの背を叩く。

 

()ッ! お前、力強くなったな、マリー」

「うるさい。ちゃんとオリヴェルの言うこと聞いてあげて」

「わかってるって。今日は、俺の野望を叶えに来たんだからな」

「やぼー?」

「野望?」

 

 マリーとオリヴェルはほぼ同時に聞き返す。

 オヅマは頷くと、オリヴェルの手を掴んだ。

 

「天気もちょうどいい。多少、日が強いけど風が涼しいからな。絶好の見学日和ってやつさ」

 

 言いながら、オリヴェルを部屋から連れ出そうとする兄を、マリーはあわてて止めた。

 

「ちょっとお兄ちゃん! 勝手にオリヴェルを連れて行かないで! 外に行くなら、ちゃんとお母さんに言って、上着だって着ないと…」

 

 しかし言っている間にもオヅマはオリヴェルを連れて部屋を出ていく。マリーは薄手のカーディガンを持って、後を追いかけた。

 

「もう! 勝手に出ちゃ駄目だってば!」

 

 マリーは叫んだが、オリヴェルは既にオヅマの手を借りながら階段を降りているところだった。

 下まで降りると、そこには少々風変わりな車椅子が置いてあった。

 

「これ…って」

 

 オリヴェルはポカンとして車椅子を眺めた。

 

「なぁに? この椅子。ヘンな椅子ね」

 

 マリーが車椅子の周囲を一回りしながら言う。

 背もたれにある長いポールの先に刺さったものを指差した。

 

「これ、傘? 開くの?」

「おぅ。ホラ…」

 

 オヅマが留め金を外して傘を開くと、マリーはわっと興奮したように声を上げた。

 

「すごい! すごい!」

 

 オヅマはマリーには威張ったようにそっくり返っていたが、オリヴェルの反応に内心ではヒヤヒヤしていた。

 矜持(プライド)の高いオリヴェルは、車椅子なんて馬鹿にされたと怒り出すかもしれない…と、今になって弱気になってくる。

 

「オヅマ…これ…君が作ったの?」

 

 まだ驚いた様子のオリヴェルに、オヅマは苦笑して手を振った。

 

「いやいや。さすがに作っちゃいないけど…。この前、東塔の整理した時に出てきたんで、ちょっと修理したんだ」

 

 オリヴェルはまじまじと車椅子を観察しながら聞いていたが、急にクルリとオヅマの方にに向き直る。

 

 その時、ミーナの声が響いた。

 

「まぁ! オヅマ! 何をしているの!?」

 

 眉を寄せてあわてて走ってくるミーナに、オリヴェルは朗らかに言った。

 

「見てよ、ミーナ。オヅマが僕のためにわざわざ修理してくれたんだ。車椅子。これだったら、館の隅から隅まで行っても、そう簡単に疲れないよ」

 

 ミーナは奇妙な車椅子の存在に気付くと、眉を寄せて全体を見た後に、不思議そうに傘を見上げた。

 

「………これは、何?」

 

 訝しげに尋ねてくるミーナに、オヅマではなく、オリヴェルが座りながら答えた。

 

「車椅子だよ。オヅマ特製の。ね?」

 

 オヅマはオリヴェルが座ってくれたことで、途端にホッとなって、胸を張った。

 

「おう! どう? 母さん。これだったら、オリヴェルも修練場まで行って帰って来れるだろ? もちろん、気分が良けりゃ途中まで歩いてもいいし、疲れたら座って戻ってこればいいんだ。母さんが押してもいいし、マリーだって押して行けるよ」

「ありがとう、オヅマ。これでもう恥ずかしくないよ」

 

 オリヴェルは心底から言った。

 いつも人に抱っこされて運ばれる恥ずかしさを、オヅマはやはりわかってくれていたのだ。

 

「ま…あ…そう…」

 

 ミーナは嬉しそうなオリヴェルの様子に、何も言えなかった。

 数日前に『待っていて』とオヅマが言ったのは、この事だったのだろうか…。

 

 近頃、とみに生意気になってきた息子の扱いに困っていたものの、やはり心根は相変わらず優しい。

 ミーナは少し申し訳なくなった。

 

「じゃ、早速行こう!」

 

 オヅマはゆっくりと車椅子を押した。マリーが歓声を上げる。

 

「すごい! 座ってるのに動いてる!」

「そういうもんだからな」

「いいなぁ…私も乗ってみたい!」

「じゃあ、僕が押すよ。マリーが乗ってごらん」

 

 オリヴェルは立ち上がると、マリーを乗せて車椅子を押していく。

 

「なにか掴まるものがあるだけでも、歩くのが楽だよ」

 

 オリヴェルは心配そうに()いてくるミーナを安心させるように言った。

 

 オヅマは途中から走り出して、修練場にいるマッケネンにオリヴェルが見学に来ることを伝えた。

 騎士達は初めて領主様の若君がやって来ると知って、俄然、やる気がみなぎる。

 

 マッケネンは素早くその日の修練内容を修正した。

 オリヴェルが馬を見たがっていることを聞いて、本当は予定になかった馬術を急遽入れる。

 オヅマと新米騎士の二人があわてて、馬房から馬を連れてきた。

 

 しばらくして車椅子に乗って現れたオリヴェルを見るなり、騎士達は歓声を上げた。

 野太い男達の雄叫びに、オリヴェルはやはり自分が来たのが迷惑だったかと勘違いしたが、マッケネンが丁重な挨拶の後に、教えてくれた。

 

「若君にいらしていただけると聞いて、皆、とても喜んでおります。ありがとうございます」

 

 まさか礼を言われると思わず、オリヴェルは驚いた。

 考えてみれば、初めてではなかろうか…大人から『ありがとう』と言われるのは。

 

 ミーナがそっとマッケネンに耳打ちして、そう長居できないことを伝えると、マッケネンは頷いて早速、馬術から始めた。

 

 オヅマは少しばかり不満だった。

 修練場での馬術訓練は、非常に繊細な調教訓練でオヅマは苦手なのだ。今回は特にマッケネンの指示で、寄りすぐりの二人だけがオリヴェルに披露したので、オヅマの出る幕はまったくなかった。

 

 その後はいかにも見学者にわかりやすいよう剣技の型の集団演舞。こちらもオヅマの不得手なものだった。

 それでもオリヴェルはすっかり興奮して、ミーナはその様子に少し心配になって、それで切り上げてしまった。

 

「また、見にくるね。今度は、普段通りでいいから…」

 

 帰り際にオリヴェルはマッケネンに言った。

 マッケネンは領主の息子が、訓練内容を変えていることに気付いていたことに驚いた。同時に、子供とは思えぬ思慮深さに感心した。さすがはあのご領主様のご子息だ…。

 

「ハッ! お待ちしております!!」

 

 肘をつき出して騎士礼をすると、後方で同じように騎士達が一斉に敬礼する。

 その列の端にはオヅマもいた。いっぱしの騎士然として、胸に拳をあてて肘を突き出したオヅマの姿を見て、オリヴェルはクスッと笑った。

 

 それを見てオヅマは少しだけバツ悪くなった。

 おそらくオリヴェルは、オヅマの()()に気付いていたのだろう。

 

 それはオリヴェルだけではなかった。

 

「残念だったな、いいところ見せられなくて」

 

 オリヴェルが車椅子に乗って去った後、早速マッケネンとゴアンが、ニヤニヤとからかってくる。

 オヅマはムッと睨みつけた。

 

「おッ! 怒ってるよ…怖いねぇ」

「ま、持ち越しだな。また来ていただけるなら、今度は剣撃訓練から開始してやるよ」

 

 こうしてオヅマにはやや不満の残る結果とはなったものの、オリヴェルにはやはり相当に新鮮で、楽しい時間だったようだ。

 それまで話もしたことのなかった騎士と話せたことも、馬を間近で見たことも。

 

 その日は興奮気味で夕食後には早々に寝てしまったが、特に体調を崩したというわけではなく、心地よい疲労感の中で眠りについた。

 それもまたオリヴェルには初めての経験だった。

 

 

 

<挿入話 ヴァルナルからの書簡>

 

 

 帝都到着後、荷解きする間もなく早々にヴァルナルがミーナに書き送った手紙。

 

緑清(りょくせい)の月 十八日

 

 (さや)けき風に揺れる緑の美しき時候、手翰(しゅかん)にて申し上げる。

 

 本日、帝都に到着した。

 やはり、この時期は各地諸侯が帝都に一気に押し寄せるため、北大門(*帝都に入るために必ず通る門)を通るのもひどく難儀であった。通常は閉鎖されている東大門まで開けても、長い列が三日は続いていた。

 

 帝都は既に夏である。

 神殿では新年を迎える準備が進められ、神女姫(みこひめ)様による祈祷は毎夜続いていると聞く。来年の歴譜(カレンダー)も布告され、町のあちこちで(にわか)暦屋(こよみや)が騒々しく売っている。

 来年の遠陽(とおび)の月は一日少ないようだ。

 

 皇帝陛下はやはり本年初頭に亡くなられたシェルヴェステル皇太子殿下のことで、かなり気を落とされているようだ。

 公爵様は非常に信任も厚く、帝都到着を知らせるなり呼び出された。僭越ながら私もまた拝謁させて頂く栄誉に預かった。

 その際に新たに皇太子となられたアレクサンテリ殿下にも拝謁したが、まさしく先祖返りと噂されていた通りの、かのエドヴァルド大帝の容貌を備えた御方であった。

 

 まだ九つであらせられるので、子供らしい稚気はお持ちであるが、皇帝となるに相応しい思慮に富んだ、かつ器量の大きな方であるようにお見受けした。

 

 公爵の息子であられるアドリアン小公爵は、ご幼少のみぎりよりアレクサンテリ皇太子と親しくされておられる。いずれ帝都にて勉学に励まれる年齢となれば、ご学友として近く侍ることを約束されたようだ。

 

 アドリアン小公爵は非常に忍耐強く心根の真っ直ぐな方であられる。

 必ず皇太子殿下のお力になると思う。ただ、子供らしい我儘を言うこともないのが、少々不憫である。

 小公爵にオリヴェルにとってのオヅマのような友が出来れば有難いのだが。

 

 こうして書いている間に、また雨が降り始めた。

 今年は雨季節が早くやってきているようだ。一昨日まで、連続で三日近く降っていた。遅くに出発した者達は、テュルリー川の増水で足止めされているらしい。

 

 健やかに過ごされていることを祈る。

 

 年神様(リャーディア)の加護のあらんことを。 ヴァルナル・クランツ』

 

 

 

 

 ヴァルナルはこの手紙に封をして後は伝令に預けるだけという状態だったのだが、実家にしばらく帰省する旨の挨拶に来たカールは何気なく言った。

 

「ミーナ殿にまた手紙ですか? 日報のような味気ない手紙ばかり送らずに、たまには一緒にプレゼントでも贈られてはいかがです? せっかく帝都に来たのですし…」

 

 そのままカールは言い捨てて休暇に入ってしまったので、ヴァルナルはプレゼントなどという慣れぬ買い物をする羽目になってしまった。

 

 この時、ヴァルナルにとって不運だったのが、既に書いた手紙は封をしてあり、この贈り物が()()()()()()()()を明記できなかったことだ。

 プレゼントなんてものを贈ることに慣れておらず、メッセージカードを同封するという機転をはたらかせることもできなかった。

 

 とはいえ、自分宛ての手紙と一緒に贈り物が届けば、それは普通自分へのものだと思うのだろうが、そこは良くも悪くもミーナが相手であった。

 

 このことで帝都とレーゲンブルトをはさんで一騒動持ち上がるのだが、それについてはまた次回。

 

 

 





次回は2022年6月1日20:00頃に更新予定です。



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第十六話 不器用な領主様

 ヴァルナルは溜息をついて、その手紙を机の上に置いた。浮かない顔の上司に、カールは首をひねった。

 

「ミーナ殿からの手紙ですよね?」

 

 尋ねたがヴァルナルは返事をせず、どんよりと頬杖をついた。

 

「………カール」

「はい?」

「お前の助言に従って、一応…贈り物というのを一緒に送ったがな……どうやらオリヴェルが使っているらしい」

 

 カールは首をかしげた。

  確かに先月、レーゲンブルトを発ってから何度目かになるミーナへの手紙を書いている主に、カールは言った。

 

「いつも日報のような味気ない手紙ばかり送らずに、たまには一緒にプレゼントでも贈られてはいかがです?」

 

 本当は…

 

『そうでもしないと、ミーナがあなたの気持ちに気付くことはありませんよ』

 

 …と付け加えたいところだったが、そこはさすがに目上の、いい年の大人に言うべきことでもないだろうと思って控えた。

 

「失礼ですが、どんなものをお贈りになったのです?」

文筥(ふみばこ)と、その中に便箋と封筒。珍しい色のインクとやらも勧めてきたので、それも一緒に」

「……………はい?」

 

 たっぷり間をあけてカールは聞き返した。

 ヴァルナルの言った品を思い浮かべたが、今までカールがしてあげた女性への贈り物の中に、それらは一切入ってこなかった。

 

「もしかして…ミーナ殿が()()()そうした品を望まれたのでしょうか?」

「そんな訳ないだろう。むしろ、それだったら有り難いくらいだ…」

「…でしょうね」

 

 カールは内心でヴァルナルの不器用さに呆れた。どうして好意のある相手…しかも女性に対してそういう品物を選ぶのだろうか?

 

「失礼ですが、領主様。もしかして品物を選ぶにあたって、ライル卿にでも相談されましたか?」

 

 いつもはヴァルナルの警護担当でもある副官のパシリコ・ライル卿は現在、休暇中だった。カールと入れ替わりに、久しぶりの家族水入らずで過ごしている。

 

「パシリコには一応聞いたが…『わからん』だけだ。まぁ、あの男が気の利くようなものを知っているとは思えないしな…」

 

 それは貴方(あなた)もさほどに大差ない……とは、カールは言わないものの、やや白目がちにはなった。

 

「そうですか。では、ご自分で選ばれたわけですね」

「いや。実は…公爵閣下を参考にさせて頂いた」

「公爵閣下?」

 

 カールはやはり首をかしげた。

 武人としてここまで上り詰めたヴァルナルが無骨者であるのは仕方ないにしても、洗練された貴族としての教養を受けて育ってきたグレヴィリウス公爵が、そんな味気ないものを贈るだろうか?

 

「グレヴィリウス公爵閣下がそんなものをお贈りになられたのですか? 誰にです?」

「公爵閣下が女性に物を贈ると言ったら、奥様以外有り得ないだろう」

 

 ますますカールは混乱した。グレヴィリウス公爵が、今は亡き奥方を非常に愛されていたことは有名だった。高位貴族にあっては珍しい相思相愛の、極めて仲睦まじい関係だった。

 それ故にこそ奥方が亡くなった時から、公爵の表情から笑顔は消え、いつも腕に薄鈍色の喪章をつけるようになったのだが……今は、その話はさておき。

 

「本当に、公爵閣下が奥方にそのようなものをお贈りになられたのですか?」

「あぁ。昔、欲しいと言われて、特注のものを作ったらしい」

「………」

 

 カールはもはや隠すこともなく溜息をついた。

 あぁ、そりゃそうだろう。奥方からの希望で、贈って差し上げたのだ。それは、既に公爵と奥方という関係性があってこそ成立するプレゼントだろう。

 

「ヴァルナル様…それは公爵の奥様が()()()プレゼントです。つまり夫婦であればこそ、喜ばれるものなのです」

「そうなのか?」

 

 驚いたように言ってくるヴァルナルに、カールは深々と頷く。ヴァルナルは顎に手をやって考え込みながらつぶやいた。

 

「そうか…そういうものか。しかし、店主にもいいプレゼントだと褒められたのだが…」

「店主? どこに行ってきたんです?」

「雑貨屋だ。文筥といっても色々とあるからな…店主に相談しながら決めた」

 

 カールはしばらく考えてから、慎重に質問した。

 

「失礼ですが…どういった相手に贈るのだと言いましたか?」

「それは…無論、息子の面倒を見てくれている……」

「使用人だと?」

「いや! それは店主も勘違いしたから、すぐに訂正した。だから…その…世話人というか、教育の面でも頼りになる……女性だと……」

 

 カールは頭を押さえた。

 それじゃ店主だって勘違いするだろう。おそらくは家庭教師あたりへのねぎらいとして、プレゼントを贈るのだと思われたに違いない。実際、その通りであれば、気の利いたプレゼントと言える。

 しかし、ヴァルナルが目指したのはそこではない。

 

「便箋とインクについては、一応、女性向けの、紙に押し花なんぞが入ったものにしておいたんだ。インクも…その…書いている時には藍色らしいんだが、日が経つと、紫色に変化するんだ。見本を見せてもらって、これだ! と思ったんだがなぁ……」

 

 いかにも残念そうにヴァルナルは言ったが、カールはげんなりしてきた。

 

「……紫色になるというのは、ミーナ殿の瞳の色に合わせたということですか?」

 

 ヴァルナルは返事をせず、んんッ! と、咳払いする。髭で隠れた頬は見えなかったが、耳の下が真っ赤に紅潮していた。

 

 あぁ、不器用―――…。

 

 カールは眉間を軽く押した。だんだん頭が痛くなってきた…。

 

「おい、カール。お前に言われてやってみたんだぞ。俺がこんなことが苦手なのは、お前はわかっているだろう?」

 

 厳しい口調でヴァルナルは言ったが、それは恥ずかしさを必死に打ち消そうとしているからだろう。カールは軽く溜息をつきながら、クスリと微笑んだ。

 

「それはすみませんでした。助言をした時に、一緒にプレゼント選びもつき合った方が良かったですね」

「そうだぞ。あの後、お前は言うだけ言って休暇を取るから…俺がおかしなものを贈ったとしても仕方がない」

 

 なんとも勝手な言い分ではあったが、カールはヴァルナルのそういう子供っぽいところが嫌いではない。

 

「まぁ、女性への贈り物といえば花が常套ですが、遠く離れた場所ではどうしようもないですしね。となれば…装身具、というのが一番、わかりやすいのではないでしょうか?」

「装身具?」

「ネックレスや耳飾り…というのもありますが、ミーナ殿の性格からしても、そうした華美なものは受け取らないでしょうし、何より仕事の邪魔になりますからね…髪飾りなどがよろしいのでは?」

「髪飾り? 櫛とかか?」

「飾りのついたものであればよろしいですよ。間違っても、ただの髪梳き用の櫛を贈らないで下さい」

 

 カールはあえて念を押した。

 髪を梳く櫛を女性に贈るというのは、いわゆる行為後のマーキングに近いもので、「これで乱れた髪を梳くといい」という婉曲な含意を経て、「昨日、良かったぞ」的な意味合いになってしまう。

 こういう事はさすがに騎士教練などにもなく、ただただこれまでの経験が物を言うので、武人一筋のヴァルナルが知らない可能性がある。

 案の定、ヴァルナルはまったくわかっていない様子で、カールの言った通りのことを反復する。

 

「うむ。髪梳き用の櫛は駄目なんだな」

「そうです。まぁ、妙な誤解をされない為にも、櫛形状の髪飾りは外しましょう。ミーナ殿の職務からして、装飾的に髪を結わえることもないでしょうから、簪などもあまり好まれないと思います。やはり、使用しやすい髪留めなどがよろしいかと…」

「む…で、それはどこで売ってるんだ?」

「………」

 

 カールは微笑んだまま固まった。

 もうこれは、小僧のおつかいに近いのではないのか?

 コホンと、一つ咳をしてから教えていく。

 

「女性への贈り物というのであれば、宝石商などで求めるのが一般的ですが…」

「宝石商か……」

 

 つぶやいて、ヴァルナルは眉を寄せる。すぐにカールには推測できた。

 おそらく生まれてこの方、行ったこともないのではないだろうか。いや、行ったことがあったとしても、おそらくは公爵の護衛として足を踏み入れた程度だろう。

 カールはしかしまた慎重に考えた。現状、ミーナはヴァルナルのそうした好意に対して、まったく気付いていない。それは領主館を出る時の態度からしても明らかだ。そうなるとミーナにとってあくまでもヴァルナルは領主であり、自分の主人ということになる。

 極めて控えめで、己の()に対して厳格なミーナのことだ…主人からの贈り物であっても、使用人風情が持つのに豪華すぎるものであれば、丁重に断ってくるだろう。

 

「いえ、ヴァルナル様。もしかすると、あまりに高価な贈り物であればミーナ殿はかえって恐縮するかもしれません。宝石などのついたものよりは…そうですね……布細工ですとか、あるいは鼈甲、陶器などの髪留めがいいかもしれません。そういえば木彫りなどでも、非常に凝った作りのものもございます…」

 

 カールが熱心に言うのを、ヴァルナルは呆けたように眺めた。

 

「お前…どうしてそんなに詳しいのだ?」

 

 ヒクッとカールの頬が引き攣った。自分は今、誰のために髪留めの話をしていると思っているのだろうか。しかし、あくまでも上官だと言い聞かせてカールは一応、説明した。

 

「前にもお話ししました通り、私には兄弟姉妹が多いのです。私の上に姉が二人、下には妹が四人。六人の女に三人しかいない男共が勝てるわけがありません。特に女性に対する心得については、大層厳しく躾けられました。贈り物のことも然りです」

「ハッハッハッ! 勇猛さをもって鳴るベントソン三兄弟も姉妹には形無しというところか」

 

 ヴァルナルは楽しそうに笑ったが、実際、その家に来てみて女性陣に囲まれ、今の話をしてみればいいのだ。さんざんに吊るし上げられて、家を出る頃にはぐったり項垂れていることだろう。

 

「で、そういうのはどこに行けばいいんだ?」

 

 ヴァルナルがまた子供のような目で尋ねてくる。カールは溜息をついた。

 

「……一緒に行きましょう」

 

 

 





続いて更新致します。



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第十七話 鈍感な親子

 そんな情けない主従のやり取りから十日以上が過ぎた頃―――――

 

「おぅ、オヅマ。こっちこっち」

 

 格闘術の稽古が終わると同時に、マッケネンが意味深な顔で手招きしてくる。

 

「なに?」

 

 滅多と入ることのない会議室に連れて行かれて、オヅマはちょっと不安になった。ここに呼ばれる時はたいがい叱られるからだ。しかし、マッケネンはまったく怒っている様子はなく、むしろおずおずと尋ねてきた。

 

「お前さ、そのー…若君の部屋で、文筥(ふみばこ)とか見たことある?」

「はぁ? フミバコ…って何?」

「手紙とかを入れておく箱だよ。形状はまぁ…こんなのだ」

 

 言いながらマッケネンは戸棚から取り出した大きな四角い箱をみせてくれた。

 

「これは簡素な作りだが、贈り物というからには多少は豪華なんだと思う。これくらいの箱、なかったか?」

 

 オヅマはオリヴェルの部屋の中を思い出せるだけ頭に浮かべてみたが、それらしき物体についてはとんと記憶がない。

 

「知らない」

「あぁ…そ」

 

 マッケネンは残念なような、呆れたような…何とも複雑な溜息をもらした。

 オヅマは首をかしげた。

 

「なに? それいるの?」

「いやいやいや! いらんいらん。ただまぁ…その…なんだ……それって、もしかして若君が使ってるのかなー…って思ってさ」

「そりゃ、オリヴェルの部屋にあるモンならオリヴェルが使うだろ」

「うぅぅ…」

 

 マッケネンは項垂れてから、プルプルと震えた。それからバン! と、なにかを机に叩きつける。

 

「……なに、これ?」

「手紙だ」

「ふぅん。弟さん?」

「違う。ベントソン卿…副官のカール・ベントソン卿からの手紙だ」

「……なに? お目付け役ご苦労さまって?」

 

 オヅマは聞きながら、いつになったらこの会話が終わるのかと思った。この後は下男として、居間の家具やカーテンを夏向けのものに替える仕事が待っているのだ。

 

「読め!」

 

 マッケネンはオヅマに手紙を突きつけた。

 

「えぇ? なんで俺が…」

 

 言いながらも、マッケネンがものすごい渋い顔をして睨んでくるので、オヅマは嫌々受け取った。

 

「えぇ…と…なにこれ? 緑清(りょくせい)の…()き日…に……あー、意味わかんね…」

「最初の部分は定型文だから読まなくていい。五行目から後を読め」

「……これ『文筥』っていうの? あ、ハイハイ。えーと…()()()()は若君に贈ったものではなく、ミーナ殿に贈ったものなので、お前からオヅマに言って、オヅマから若君にそれとなく伝えてほしい………どういうこと?」

 

 オヅマは意味がわからなくて聞き返した。

 マッケネンがヒラヒラと手を振った。

 

「そういうことだ。お前から伝えてくれ」

「なにを?」

「文筥を、贈った相手が、ミーナ殿だということを、だ!」

「贈った…? カール…さんが贈ったの? 母さんに?」

 

 オヅマはにわかに胸がザワザワした。さっきまでのマッケネンと同じような渋面になる。しかしマッケネンはすぐに否定した。

 

「違う! 贈ったのはご領主様だ」

「領主様が? なんで?」

「なんでって…そりゃ…贈りたいと思ったからだろう」

「母さんに? その文筥って手紙入れておくんだろ? なんでそんなの贈るの?」

「こっちが聞きたいよ!」

 

 マッケネンはとうとう叫んだ。

 よりによって、なんだって自分にそんなことを頼んでくるんだ…と、遥か遠く帝都にいるカールに恨み節を送りたくなる。

 それに、オヅマの言う通りだ。なんだって、そんな文筥なんてものを女性に……好意ある女性に贈るんだろうか、我が領主様は。

 

「なんだよぉ…いきなり大声出して」

「いや、すまん。ちょっと…慣れないことを頼まれて……」

 

 マッケネンはフゥともう一度、今度は深く息を吐いてからオヅマをじっと見つめた。

 ミーナもそうだが、オヅマにしても相当に鈍感なのか、まったく自分の母親が領主様に好意を持たれていることに気付いていない。いつだったか料理人のソニヤが言っていたが、自分の母親の身分のことを考えても、まったくもって有り得ないと思い込んでいるらしい。 

 

「なぁ、オヅマ…領主様なんだが」

「はい?」

「あの御方は元は貴族じゃないんだ。騎士でもない。元は帝都近郊の中都市の商家の出だ」

 

 オヅマはそれまで聞いたことのなかったヴァルナルの経歴について、興味を持った。この後、他の下男達から遅刻を叱られるかもしれないが、聞いておきたい。

 

「じゃあ、本当は商人になるはずだったの?」

「いや。跡は兄君が継がれたはずだ。その後に公爵家の騎士だった人に才能を見出されて、その人の養子になる形で騎士になったわけだ」

「へー…じゃ、やっぱり相当に強いんだ」

「うん、そうだ。いや…それは今はいい。つまり、元々貴族じゃないから、非常に自由思考というか…要するに身分とかあまり気にしないんだ。無論、序列は絶対だから、普段は厳しいがな」

 

 オヅマは頷いた。

 それはここに来てからすぐに感じたことだ。ヴァルナルは領主としての務めを果たし、その上で指示や命令するが、身分が低いからと軽んじることはない。それぞれの使用人の働きに対して、いつも感謝を忘れなかった。

 領主のその気風がレーゲンブルト全体にも浸透していて、行政官なども高飛車な人間は少なかった。

 

「だから…その…もし結婚となっても、身分を気にする人じゃないんだな」

 

 いきなり『結婚』という言葉が出てきて、オヅマはキョトンとなった。

 

「え? 領主様、結婚するの?」

「………その可能性がある、っていう話だ」

「へぇ。めでたいね。あ、でもオリヴェルのこと虐めるような継母だと困るな」

「………たぶん、優しい人だと思うぞ」

「マッケネンさん、知ってるの?」

「知ってるよ。お前は…もっと知ってると思うぞ」

 

 マッケネンは目の前にいる、あまりに鈍感な少年をちょっとからかってやりたくなってきた。

 

「えぇ! 俺、知ってんの? 誰? 誰だよ?」

 

 想像もつかないのか、オヅマは興味津々という様子で尋ねてくる。

 マッケネンは手で顔を覆った。思わず口が歪んで笑ってしまう。

 本気で言っているのだろうか? その手のことに聡い人間なら、この会話の流れで大まかにはわかりそうなものだ。

 しかし目の前の亜麻色の髪の少年には、まったく予想もつかないようだった。

 マッケネンは立ち上がると、手紙をヒラヒラ振ってみせる。

 

「ま…ともかく。副官殿からのわざわざの便りだ。すまないが、この手紙のこと頼まれてくれるか?」

「うーん…じゃあ、その手紙もらってもいい? 直接、オリヴェルに渡した方が多分わかると思う。俺が言っても、俺がよくわかってないし」

「あぁ、そうだな。いいぞ、もってけ」

 

 オヅマにカールからの手紙を渡すと同時に、マッケネンは自分の仕事は終わったことにした。

 実のところオヅマの読んだ部分以外に、ミーナの気持ちをそれとなく聞いておいてくれ、などといった無理難題まで要求されていたのだが、マッケネンはその二枚目以降についてはそのまま丸めて捨ててしまった。どだい、自分のような朴念仁に、他人の恋愛の橋渡し役など向いてない。

 

「人選を間違っておられますよ、副官殿」

 

 オヅマが去った後、マッケネンは独り()ちた。

 





次回は2022年6月4日20:00頃の更新予定です。



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第十八話 オヅマの憂鬱

 そうしてカールがマッケネンに宛てた手紙は今、オリヴェルの手の中にある。

 すべてを読んでから、オリヴェルは少し笑ってしまった。

 カール・ベントソン卿は一応気を遣って、『それとなく』オリヴェルに知らせるように記していたというのに、預けた人間がマッケネンとオヅマであったので、もう()()()()()伝わってしまっている。もっとも、それでオリヴェルの気が悪くなることもなかったが。

 

 オリヴェルは立ち上がると、隅に置かれた机の抽斗(ひきだし)から(くだん)文筥(ふみばこ)を取り出した。

 

 ミーナはこれを「お父上からのプレゼントですよ」と嬉しそうに渡してくれたのだが、貰った時から妙な気はしていたのだ。

 白の文筥。しかも蓋には紫に色付けされた(すみれ)の繊細な彫刻。どう考えても女物としか思えない。

 その事をミーナに言うと、ミーナは苦笑して言い繕った。

 

「おそらく領主様はそうしたことは詳しくご存知でないのでしょう。若君の雰囲気に合わせた愛らしいものをお選びになったのだと思いますよ」

 

 今にして思えば、ミーナは相当に鈍感だ。それともわざとわからないフリをしているのだろうか。

 

「なに? これが文筥ってやつ?」

 

 オヅマはオリヴェルが持ってきた文筥をしげしげと眺める。

 

「なんかこれ…キラキラしてねぇ?」

「貝殻を砕いて作った塗料を塗ってるからだと思う」

「へぇ。なんかスゲーんだな。兵舎で見たのなんて、ただの箱にしか見えなかったけど」

「まぁ…贈り物だからね」

 

 言いながらオリヴェルは、オヅマの薄紫の瞳と、蓋に描かれた菫を見比べる。

 オヅマの瞳の色はミーナと同じだ。おそらくこの文筥を選んだ理由も、そういうことだろうと…オリヴェルは訳知り顔に笑みを浮かべた。 

 

「じゃ、これは中身も含めてミーナに渡したらいいんだね?」

「おぅ、そうみたいだな。っつーか、母さんとマリーはどうした?」

「マリーは庭にお花を摘みに行ってくれたんだよ。ミーナは食事の下準備があるんだって」

 

 未だにオリヴェルの食事だけは、ミーナが作っている。最近はマリーやミーナとも一緒に食べるので、オリヴェルの食欲もますます増していた。

 

「オヅマも一緒に食べればいいのに…」

「えぇ? だって、俺はこの後も一人で訓練する予定だし。あんまり腹に入れてると、動きにくい」

「そっか…」

 

 オリヴェルは少しだけ寂しそうに返事してから、机の上に置いてあった駒取り(チェス)の盤を持ってきた。

 

 二ヶ月前の緑清(りょくせい)の月に初めて修練場を訪れて以来、オリヴェルはあの車椅子に乗って何度か通うようになっていたのだが、さすがに暑くなってくると体に負担がかかったのか、一度ひどく体調を崩してしまった。

 

「年が明ければ、多少は涼しくなります。気候が穏やかになるまでは、しばしお控えください」

 

 ミーナだけでなく、マッケネンにまで頭を下げられてはオリヴェルも無理を通すことはできなかった。騎士達の邪魔になることだけはしたくなかったから。

 

 それからはオヅマが気を遣って、頻繁にオリヴェルの部屋を訪れるようになっていたのだが、最近では二人ともすっかり駒取り(チェス)に夢中になっていた。オリヴェルが色々と戦法を教えてあげているので、当初は下手くそだったオヅマも、だんだんと凝った作戦を取るようになってきている。それに騎士達にも教えてもらっているようだ。

 

「ねぇ…オヅマ」

 

 オリヴェルは盤の上の駒を動かしながら、それとなく尋ねた。

 

「ん? なんだ?」

「もし…さ…ミーナと、僕の父上が結婚することになったらどう?」

 

 オヅマは返事をしなかった。

 聞こえてはいたが、盤上に集中していて、オリヴェルの話が頭に入ってこなかった。

 

「オヅマってば!」

 

 オリヴェルが少し強い口調で呼びかけると、眉を寄せて顔を上げた。

 

「なんだよ?」

「もしミーナと、僕の父上が結婚することになったらどう思う?」

「はぁ?」

 

 オヅマは大声で聞き返してから、すぐに笑い出した。

 

「ハハハハッ! 何言ってんだ、お前? いくら母さんがお前の世話するようになったからってさぁ…」

 

 言いかけてから、マッケネンが領主様が結婚すると言っていたことを思い出す。

 

「そうだそうだ。だいたい、領主様は近々結婚するらしいし」

「えっ!?」

 

 驚いたのはオリヴェルだった。そんな話は聞いたことがない。ミーナに宛てて一緒に送られてくる手紙でも、そんな事は言ってきたことがなかった。無論、父がいちいちそんなことで、自分にお伺いを立てる必要はないが。

 

「そうなの? 本当に?」

「おぅ。らしいぞ。…って、聞いた。あ…でも安心しろよ。なんか優しい人だってさ」

「………そんなのわからないじゃないか」

 

 オリヴェルは警戒した。

 今の時期に父が結婚相手を選ぶということは、おそらく帝都にいる貴族の誰かだろう。田舎暮らしを敬遠した母のように、ここを臭いと言って出て行くことは大いに有り得ることだ。

 

「こんな田舎に喜んで来るような優しい人が都にいるとは思えないよ」

 

 トゲトゲしく言うと、オヅマはあっけらかんと言った。

 

「あ、なんかな。俺も知ってる人なんだって」

「………へ?」

「誰なのかなぁ~? マッケネンさん、肝心なこと教えてくんないから…気になるよなぁ」

 

 腕を組んで駒を見ながら、オヅマは考え込む。正直、今のオヅマの気がかりは、領主様の結婚相手のことより、あと一手でオリヴェルの守りを破れるか…ということだった。

 しかし目の前のオリヴェルはもはや盤上の勝負にはさほど興味がない。オヅマの話を頭の中で纏めた後、おずおずと尋ねた。

 

「一応聞くけど…オヅマ、君、帝都にいたことないよね? 知り合いが帝都にいるとか…」

「あるわけないだろ。あんなとこ行きたいとも思わない」

 

 吐き捨てるように言うオヅマに、オリヴェルは少し違和感を覚えつつも、その先を冷静に推理する。

 

 どうやら父が結婚するかもしれない…ということを言い出したのは、マッケネンであるらしい。その上で、()()()のことをオヅマは知っていて、しかも優しい人……

 

「ねぇ、オヅマ。()()()って、君のお母さんのことだと思わないの?」

 

 オリヴェルは思いきって尋ねた。

 

「はいぃ? さっきからなんでそういうヘンなこと言うの? お前」

 

 オヅマは想像もしないのか、オリヴェルを怪訝に見た。

 しかし、オリヴェルは言い重ねる。

 

「ヘンなことじゃないでしょ。だって、オヅマも知っている人で、僕にも優しく接してくれて、父上と結婚するならミーナぐらいしか思い当たらないよ」

「………」

 

 真剣な顔のオリヴェルに、オヅマはヒクヒクと頬を引き攣らせた。

 そんな訳がないと思いつつも、オリヴェルの説明を聞いていると、実際にそうであるような気もしてくる。

 その上でオリヴェルは例の文筥を指さして、オヅマに示した。

 

「この文筥だって、元はミーナに贈るものだったんだって…ベントソン卿も言ってきたじゃないか。こんな綺麗な文筥を贈るんだから、父上はミーナのことが好きなんだよ」

「はぁぁ!?」

 

 オヅマは大声を上げた。

 その時にちょうどマリーが入ってくる。

 

「ちょっとぉ…お兄ちゃん。うるさいわよ」

 

 手にはラベンダーとマーガレットの花束が握られていた。マリーは慣れた手付きで、適当な大きさの花瓶にそれらの花を活ける。それからハイ、とオヅマに水差しを渡した。

 

「なんだよ?」

「この水差しに水入れてきて」

「お前な…」

「行ってきてくれたら、ソニヤさんから貰ったクッキーあげるから」

 

 オヅマは不承不承ながらも無言で水差しを持って出て行く。

 オリヴェルはホゥと溜息をついた。

 

「いつもながら…オヅマは本当にマリーに優しいよねぇ」

「えぇ? そうかなぁ…?」

 

 マリーは首をかしげつつ、ポケットからクッキーを取り出した。ヒマワリの種と胡麻の入った香ばしいクッキーだ。

 

「ねぇ、マリー」

 

 マリーから貰ったクッキーをかじりながら、オリヴェルは尋ねた。

 

「もし…ね。もしかして、ミーナ…マリーのお母さんと、僕の父上が結婚することになったら、どう思う?」

「えぇ?」

 

 マリーにとっても寝耳に水だったらしい。驚いてゴホゴホとむせるので、あわててオリヴェルは自分のコップに入っていた水をあげた。

 マリーは水を飲んで、ホッと一息つくと、コップとクッキーをテーブルに置く。

 

「ね、ね、ね、本当? 本当に、本当?」

 

 キラキラと目を輝かせて聞いてくるマリーに、オリヴェルは安堵した。嫌がられるかもしれないと、ちょっと心配だったのだ。

 

「まだ…わからないけどね。でも、そうなったらいいと思う?」

「思う! だって、そうなったらオリヴェルはお兄ちゃんになってくれるんでしょ?」

 

 すっかり舞い上がった様子で、マリーはオリヴェルの両手を握る。

 

「そうなるね」

「やったぁ!!」

 

 ちょうどその時にオヅマが戻ってくる。マリーはぴょんとソファから降りると、オヅマに向かって走っていった。

 

「ねぇ、お兄ちゃん! 私達、きょうだいになるのよ!」

「あぁ?」

 

 オヅマは聞き返しながら、水差しの水を花瓶に注いだ。半分まで注いだところで、水差しをベッドのサイドテーブルに置く。

 

「なに言ってんだ、お前は。元から俺らは兄妹だろうが」

「違うの! オリヴェルと私と、お兄ちゃんがきょうだいになるの!」

「…………」

 

 オヅマは複雑な顔でオリヴェルを見た。その表情に、オリヴェルの不安がまた立ちのぼる。

 

「おい…いい加減なこと言うなよ」

「いい加減なことじゃないよ。オヅマだって…わかるでしょう?」

 

 オヅマは拳を握りしめた。

 オリヴェルが嘘や冗談で言っているのではないのはわかる。それにマッケネンのあの意味深な話も、オリヴェルの説明で納得できる。

 しかも、今になってまたソニヤのあの予言が脳裏をかすめた。

 

 

 ―――――ミーナはいずれ領主様の奥方となるであろう…

 

 

 オヅマは乱暴に首を振った。

 有り得ない。絶対に、有り得ない!

 

「お兄ちゃん、嫌なの?」

 

 マリーが下から不安そうに覗き込んでいた。

 

「嫌って……なにが」

「オリヴェルときょうだいになるの…嫌なの?」

 

 オヅマはハッとしてオリヴェルを見た。マリーと同じような顔をして、じっとオヅマを見つめている。

 

「嫌じゃない。別に…オリヴェルときょうだいになるのが嫌とかじゃないけど…」

「じゃ、嬉しいよね!」

「………」

 

 オヅマは唇を噛み締めた。本当にオリヴェルと兄弟になるのは、嫌じゃない。むしろ、嬉しいと言っていい。ただ…その前提として……

 

「俺は…父親はいらない」

 

 オヅマはポツリとつぶやくと、オリヴェルの部屋から出た。

 マリーはオリヴェルと目を合わせて首をかしげた。

 

「どうしたんだろう、お兄ちゃん。ご領主様のこと大好きなのに…」

 

 

 

 

 父親―――――。

 

 オヅマにとって、それは忌避すべき存在だった。

 コスタスにせよ…誰にせよ…()と呼ばれる存在が自分にとって善き者であったためしがない。

 

 

 ―――――さすがだ…オヅマ……

 

 

 脳裏に見知らぬ男の声が響く。

 途端に頭痛が走り、胸が引き絞られるように痛む。同時に訪れるのは吐き気がしそうなほどの嫌悪感と憎悪だ。

 

 一体…この声の男は何なのだろう? できれば一生会いたくない…。レーゲンブルト(ここ)にいる限りは安全だろうか。

 

 暗い顔で階段を下っていると、オリヴェルの夕食の下拵えを終えたミーナが上ってくるところだった。

 

「あら、オヅマ。若君に会いに来たの?」

「…………」

 

 声をかけられて、オヅマは憂鬱に母を見つめた。

 

 薄い金髪に、オヅマと同じ薄紫(ライラック)色の瞳、西方の血を継いだ薄い褐色の肌。

 コスタスと一緒であった頃から、ミーナは村でも美人で通っていた。それは知っていた。そのせいでコスタスがますます傍若無人になり、ミーナに寄ってきた男の中には、足の骨を折られてその後びっこをひく羽目になってしまう者もいた。

 

 それからはミーナに迂闊に声をかける者はいなかったが、コスタスがいなくなった途端に、村長の息子のように狙う男共は多かったことだろう。

 そのことも含めて、オヅマはあの村を出てこの領主館に来ることを選んだのだが、結局、母の美しさは誰の目にも止まるのだろうか。

 

 オリヴェル付きの侍女となって以来、それらしい服を着るようになって、いつも身綺麗にしている母は、確かに清楚で美しい部類なのだろう。

 

 オヅマはミーナの立っている踊り場まで降りてから、目の前の母を見て、ものすごく大きな溜息をついた。

 ミーナが目を丸くする。

 

「どうしたの? 随分、疲れているみたいね」

「………母さん、一つ訊きたいんだけど」

 

 オヅマは自分でもこんな質問をするのが嫌だった。しかし、ちゃんと聞いておかないと、この後の自分の気持ちの整理がつかない。

 

「まさかと思うけど、領主様と結婚する…とか…ないよね?」

 

 ポカン、とミーナは口を開けたまま言葉を失っていた。目をパチパチと瞬かせた後で、プッと吹いた。

 

「な…何を言い出すかと思ったら……」

 

 クスクスと小刻みに肩を震わせて笑う母の姿に、オヅマはようやくホッとなった。

 

「だ…だよねぇ?」

「当然でしょう? そんなこと有り得ないわよ」

 

 ミーナはようやく笑いをおさめると、そっとオヅマの頬を両手で包んだ。

 

「私はここで働けて幸せよ。それで十分。オヅマのお陰ね、ありがとう」

 

 今更ながらに言われて、オヅマは顔を赤らめた。

 

「俺も、ここに来てよかったと思ってる。母さんとマリーに…ずっと幸せに生きててほしいから」

 

 ミーナはいきなり大層なことを言う息子を不思議に思ったが、軽くおでこにキスした。

 

「おかしなこと言ってないで。そういえば、勉強は進んでいるの?」

「あぁ……もういいや」

 

 オヅマはあわてて逃げ出した。

 階段をダダッと降りると、残りの五段をぴょんと跳んで、下に着地する。そのまま駆け去ろうとするオヅマにミーナが声を張り上げた。

 

「オヅマ! たまには一緒に食べましょう。若君も楽しみにしているのよ」

「うーん。また、雨になったらね!」

 

 雨の日にはさすがに自主訓練もできないので、その時はミーナ達と夕食を食べることもあるのだ。

 

「待ってるわ」

 

 ミーナは手を振り返し、跳ねるように走っていく息子を愛しく見つめた。

 

 まだまだ子供だと思っていたら大人のような素振りをするし、大人だと思っていたら子供のようなことを言う。

 振り子のように行ったり来たりしながら、オヅマは大きくなっていく…。

 

「そうね。まだまだ子供よね…」

 

 願いを含んで、ミーナは小さくつぶやいた。

 





次回は2022年6月5日20:00頃の更新予定です。



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第十九話 真夏の参礼

 季節は盛夏を迎え、虔礼(けんれい)の月となった。来月には新年を迎える。

 

 無論のこと帝都では盛大な祭りと、皇宮においては連日のように儀式と祭典、それに伴う園遊会や夜会が開かれる。

 それは帝都に限らず、ここレーゲンブルトにおいてもそうであった。さすがに領主が不在であるので夜会等はないものの、近くの神殿に供え物を持って半日以上かけて祈りを捧げるのだ。

 ヴァルナルが領主となって以降、この神事を頼まれていたのはネストリら数名の使用人であったのだが、今回はネストリが勝手にミーナに参拝を任せてきた。

 ミーナは突然のことで、段取りや立ち居振る舞いについてネストリに尋ねたものの、

 

「あれほど見事な礼法を弁えておられるミーナ殿であれば、今更参拝の作法など教えるまでもないでしょう」

と、皮肉たっぷりに拒絶された。

 

「っとに…やることがいちいちネチこいんだよなぁ…」

 

 オヅマはギリギリと歯噛みしたが、ミーナに予め余計な文句を言わないように釘を刺されている。その上、今月は虔礼の月ということで、新年の神を迎え入れる為に、何事においても慎み深く過ごさねばならない…。

 去年までのオヅマであれば、そんなこと何処吹く風であったが、今は騎士の末席に連なる者として、そうした修養も身に着けていく必要があった。

 とはいえ。

 

「だいたいこの暑さ…神様だって嫌がるよ」

 

 オヅマはブツブツと文句を言いながら、神殿までの道を歩いて行く。

 

 参拝には数人の騎士達が従うことになっていた。それは供物の他に、騎士の剣舞もまた神に奉納されるべき儀式であったからだ。

 

 

「オヅマ、お前参加な」

 

 マッケネンが当たり前のように言ってきた時、オヅマは不満げに叫んだ。

 

「嫌だよ~。この暑いのに神殿まで歩くなんてさ」

 

 神殿は領府の外、まったく遮るもののない丘陵を一刻(いっとき)(約1時間)ほど歩いた先、人工的に作られた小高い森の中にある。

 神事ということで、馬に乗ることもできないし、特に見て楽しい景色もない。ただただ青い麦畑と、照りつける太陽を抱いた青空が無情に広がるだけだ。

 

 しかしマッケネンはにべなく言った。

 

「駄目だ。お前、子供だからな。剣舞をしてもらう」

「えぇぇ!!??」

「神様は子供が大好きだからな。子供の剣舞なんて、奉納にはピッタリだ」

 

 確かに神様への奉納として子供達が踊りを披露したりするが、剣舞をしているところなんて見たことがない。

 

「そりゃ、今までお前みたいに剣を扱える子供がここらにはいなかったからな。帝都なんかじゃ、割と多いぞ。まぁ、あっちだったら儀礼用の軽い剣もあるけど、お前いつものやつの方がしっくりくるだろ?」

「……ないんだろ、それ」

「うん、そう」

 

 マッケネンは明るく頷いた。

 

 それから十日間近く、オヅマはみっちり剣技の型の練習をさせられた。

 神殿に奉納する剣舞は、一つ一つの決められた動作を型として覚え、型と型の間においても流麗な舞を求められる。普段において、オヅマも一応訓練としての剣技の型は覚えていたものの、こうした儀礼的なことはまったく実戦とは違う。

 灼熱の太陽の下で練習させられ、ゲンナリするオヅマに、教師役に任命されたゴアンの喝が飛んだ。

 

「コラァ! オヅマ! 背をシャキッと伸ばせッ。顎引け、顎ォ」

 

 ゴアンは帝都の出身なので、子供の頃にはよく剣舞の稚児(ちご)として駆り出されたらしい。人は見かけによらない。

 

「まぁ、いいこともあるんだぞ。格好いい服着せてもらえるからな!」

 

 ゴアンは言ったが、オヅマはそんなことはどうでもよかった。なんだったら、このクソ暑いのに飾り立てた衣装なんぞ着て、剣舞するなんてよっぽどトチ狂っている。

 

 とはいえ、オヅマが剣舞をすると聞いて、とうとうオリヴェルが館を出て神殿にまで行くことを決めたのだから、オヅマとしては失敗するわけにいかなかった。

 

「オヅマ! 剣舞するんだってね! 僕、絶対見たい。絶対、神殿まで行くよ!!」

 

 なんてことをオリヴェルが言い出した時には、ミーナは必死で止めた。

 この暑さの中で、一刻(いっとき)以上も馬車に揺られて行くとなれば、オリヴェルにどんな負担になるかわからない。まして神殿での礼拝は昼過ぎから夕暮れ近くまで行われるのだ。

 この時ばかりはネストリやアントンソン夫人、マリーまでもが一緒になって止めた。マリーなどは、

 

「オリヴェルが一人でお留守番が嫌なら、私行かないから」

とまで言い出したほどだ。

 

 しかし、案外あっさりと認めたのはオリヴェルの主治医であったロビン・ビョルネ医師だった。

 

「じゃあ、僕が同行しましょう。一緒にいれば、何かあっても対処できるでしょうし、予防策も講じられます」

 

 後で聞けば公爵領での新年の祭りにも飽きていたので、こっちでの新年行事に興味があったらしい。

 

「昔からこういう神事や祭事に興味があって、個人的に色々と調べているんです」

「へぇ…先生も物好きだね」

 

 たまたまその場にいたオヅマが言うと、ビョルネ医師はハハと照れたように笑った。

 

 ということで、ミーナが乗る馬車とは別に、オリヴェルとビョルネ医師、マリーと最近オリヴェル付きの女中となったナンヌが乗っている馬車には、暑さ対策として座面に夏場でも冷たい涼雪石が敷かれており、その上にたっぷり綿の入ったキルトの布を重ねてオリヴェル達は座っている。しかも例の車椅子を持って行くことになったので、正直、オリヴェル達の馬車の走行は遅かった。

 

「なんで騎士は馬乗っちゃ駄目で、馬車はいいんだよ?」

 

 額からの汗を拭いながらオヅマがぶつくさ言うと、隣を歩いていたフレデリクがゲンナリした表情で同意する。

 

「ホントだよな…。馬車でいいって言うんなら、俺らだって馬車に乗りたいよ」

「やかましいぞ、お前達」

 

 本日、マッケネンに代わって騎士代表として行くのはゴアンだった。

 額から汗が湧くように流れているのも嬉しそうに、いきいきしている。毎年、この年末の儀式はゴアンの独壇場らしい。

 

「歩くのは基本中の基本だぞ。騎士がこれくらいの行軍でへばっていてどうする」

「お言葉ですけど…」

 

 赤い顔をしながらフレデリクが異を唱える。「それが嫌だから騎士になったんです」

 

「そりゃ、目論見違いだったな。戦でもないのに、こんな暑さで馬を使えるか。大事な足なんだぞ。それに馬をやられりゃ嫌でも歩くしかないんだ。オラ、とっとと歩け歩け。歩かない限り着かないぞ~」

「あぁ…」

 

 フレデリクは肩を落としつつ、それでも言われた通り歩くしかない。

 こんな炎天下で、何もないこの道の真ん中で立ち止まったところで、やってくるのは虫ぐらいなものだ。いや、虫だって暑さで茹だってしまうかと思うのか、草の影にじっと身を潜めている…。

 

 ゴアンがまた先頭に立って行ってしまうと、オヅマはぼやいた。

 

「あの人、なんであんなに元気なの?」

「ゴアンは昔から夏が好きだからな…」

 

 教えてくれたのは、そのゴアンの対番(ついばん)(※基本的に騎士は二人一組)であるサロモンだった。

 

「地面が揺らいで見えるくらい暑くて暑くて、汗がタラッタラ流れてくるのがたまらなく大好きなんだとさ」

「………ただの異常だろ、それ」

「そんなのと対番の俺に言うのか、お前」

 

 ゲンナリと恨み言を言うサロモンを見て、オヅマはご愁傷さまと思ったが、言わなかった。

 神事に付き従う騎士は総勢で八人いたが、オヅマとゴアン、その対番のサロモンを除いて後は皆、くじ引きだった。無論、この場合ハズレくじということだ。暑いの大好きゴアンの馬鹿を除いたら、全員がご愁傷さまだ。

 





続いて更新致します。



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第二十話 神送り

 ようやく神殿に辿り着くと、すぐさまミーナは礼拝所に連れてゆかれた。

 あらかじめオリヴェルが行くことを言っていたので、神殿の方も領主様の若君が来るということで、万全の態勢を整えてくれていたらしい。オリヴェルとマリーらは、遠方からの参詣者用の宿舎へと案内されていった。

 

 一方、オヅマの方はというと早速、奉納の為の剣舞の用意をさせられる。

 

 藍色の軍礼服にシャラシャラ鳴る装身具、藍の房のついた肩章(エポーレット)とそこからヒラヒラ翻る藍のマントには、今年の神鳥であった(ヒタキ)の絵が染め抜かれている。

 

 当初、オヅマは新年を迎えるための参拝であると思っていたので、どうして今年の色である藍色の服なのか疑問であったが、マッケネンが丁寧に教えてくれた。

 

「まぁ、普通は新年を迎える祭りの方が一般的だものな。本来、虔礼(けんれい)の月に行われる礼拝は、この一年の安寧と豊穣に感謝して、その年の年神を天界へと送るものだ。今回、ミーナ殿が行う礼拝もそういうことだ」

「じゃあ、新しい年神様には参拝しなくていいの?」

「それはヴァルナル様が帰ってきてから直接されることになっている。いくらなんでも迎えも送りも他人任せでは、領主として神様に申し訳ないらしくてな」

 

 オヅマはヴァルナルの妙に真面目というか、ちょっと固くも思える性格が面白かった。貴族の中には一年中帝都にいて、領地に戻ることもない人間もいる。そんな人間は神事など気にもしていないだろう。

 

「ま、お前も領主様の代わりに舞を奉納するんだと思って、しっかりと務めろ」

「えっ? 領主様も剣舞とかするの?」

「………しない」

「それ代わりじゃねーだろ!」

 

 この調子だと子供という理由で来年もさせられそうで、オヅマは憂鬱だったが、それでも母やマリー、オリヴェルが楽しみにしているので、マッケネンの言う通り、しっかり務めねばならない。

 

 とはいえ。

 

 化粧なんかさせられるとは聞いてなかった。

 

「嫌だ! どうせ汗かいて落ちるだろ!」

「目の周りにちょっと金粉塗る程度のことだろうが!」

「じゃあ、なんで紅があるんだよ!」

「そりゃ、もちろん唇に塗るんだよ」

「い・や・だ!」

 

 オヅマは強硬に拒絶した。その様子を見ていた神官の一人が、鼻までの仮面を持ってきた。目の周りに金色の装飾が施されている。

 

「これであればよいでしょう? 口紅はまぁ、しなくてもいいのですし」

「そら見ろ! やっぱりしなくていいんじゃないか!」

「チッ! いい話のタネになると思ったのに」

 

 ゴアンが面白くなさそうに舌打ちするのを、周囲にいた神官と騎士達は肩を震わせてこらえた。

 さすがに隣の宮でミーナの祈祷の最中だというのに、大笑いが聞こえてきては、荘厳な儀式が乱されてしまう。 

 

 その後、剣舞を行う場所に案内され、最後の通し稽古を行って本番を待つ。

 

 祈祷が終わる頃には、空がうっすらと朱色になりつつあった。

 北国の夏の夜は短い。冬であればとっくに暗闇に包まれる時間であったが、まだ山の端に太陽は沈んでいなかった。

 

 薄暮の中、神官が松明を持って現れる。白砂の敷き詰められた境内の四隅に篝火が灯った。

 

「さ、行くぞ」

 

 オヅマに合わせて鼻までの仮面を被ったゴアンが軽く声をかける。

 ゴアンとオヅマの他に、二人が剣舞を奉納することになっていた。ゴアン以外は全員が未経験だ。

 

 ゴクリと唾をのみこんで、オヅマは背を伸ばして白砂の上を歩いて行った。

 

 

 

 

 オリヴェルは現れたオヅマの風体にまず目を奪われた。

 仮面をしているが、大人の中で一人だけ子供なのですぐにそれがオヅマとわかる。まして亜麻色の髪が黒の仮面と藍色の服にとても引き立っていた。

 

「うわぁ! お兄ちゃん、かっこいいじゃない」

 

 隣でマリーが素直な感想を述べると、ミーナも微笑んだ。

 

「本当ね。案外と似合ってるわ」

「まぁ、ミーナさんってば、案外だなんて。とっても似合ってますよ」

 

 ナンヌは初めて見る剣舞に少し興奮気味に言った。その横で興味津々とビョルネ医師が凝視している。

 

 さすがに十日間みっちり仕込まれただけあって、オヅマの舞は流麗であった。

 周囲で踊るのが大人ばかりであるせいか、華奢にも見えて、それが一層儚げで、神秘的に思えた。

 篝火と夕闇の中で、鋭く光るように薄紫の瞳がこちらを向く。

 オリヴェルはドキリとしてしまった。

 生きて動いているものなのに、そこには造形物としての美しさがある。これをただ見ているだけなのが勿体ないくらいだ。

 

「あぁ、残念。僕に絵の素養があれば…この神事を描いて記録するでしょうに」

 

 ビョルネ医師がつぶやいた。

 それを聞いて、オリヴェルは思いつく。

 

 今まで暇つぶし程度に絵を描いたことはあったが、確かにこのオヅマの姿は残したいものだ。館に戻ったら、必ずこの記憶を絵に残す。

 そう決めると、オリヴェルは尚の事熱心にオヅマの姿を凝視した。

 手の形も、足の動きも、剣の冴え、舞によって揺れるマントや、シャラリと鳴る装身具の音ですらも全て。

 

 一方のオヅマは途中から妙な視線を感じて落ち着かなかった。

 それは興奮したマリーやナンヌのものでもなく、失敗しやしないかと少し心配そうに見ているミーナのものでもない。神事として興味深く観察するビョルネ医師のものでもなく、すべてを記憶しようとするオリヴェルの熱っぽいものとも違う。

 

 何の感情もない瞳が、ただただオヅマを見ている。いや、少しだけ笑っているようでもある。

 剣舞に集中するほどに、その視線が気になった。全身の感覚が知らせてくる。この目は明らかに違う、と。

 

 オヅマはひたすらに舞った。

 不思議と頭に次の動作はまったく浮かんでこないのに、勝手に体が動く。

 舞うほどに神経が縒り合わされて、一つの束となり、新たなる感覚が生まれるかのようだ……。

 

 ―――――オヅマ…

 

 呼びかける声が直接頭に響く。

 ビクリとして、オヅマは手に持っていた剣を落とした。

 

 だが、ちょうど舞が終わったところだった。

 

「最後にトチったな」

 

 ゴアンが剣を拾って渡してくる。オヅマは肩をすくめて受け取ると、本殿に向かって頭を下げた。

 

 拍手が境内に響いた。

 領主館の人々の参拝を知った領民が来ていて、思っていたよりも多くの人間が見ていたらしい。

 

「…………」

 

 オヅマは辺りを見回した。あの声の主を探したい。だが、まったく見当がつかなかった。

 

「どうした? 行くぞ」

 

 ゴアンに声をかけられる。

 

「あ……うん」

 

 オヅマはボーッとしながら頷く。

 境内から立ち去りかけて、その背にマリーの声が飛んできた。

 

「お兄ちゃん、よかったよ!」

 

 嬉しそうなマリーの顔に、ようやく我に返る。軽く手をあげてから、オヅマはそそくさと走り去った。

 今更ながら、妹や母やオリヴェルに見せられたのが嬉しくもあり、少しばかり恥ずかしくもあった。 

 

 

 

 

 その夜、オヅマ達一行が領主館に帰ることはなかった。オリヴェルがやはり興奮して、少し熱を出したせいだ。

 しかし、ビョルネ医師は落ち着いて言った。

 

「まぁ、今日はこのままここでお世話になることにしましょう。一晩、ゆっくり眠れば体調も戻るでしょう。朝方に出れば、さほどに暑くもないでしょうし」

 

 ある程度、それは予測していたので、神殿側も快く宿泊を許可してくれた。

 

 簡素な夕食を頂いた後、朝からの忙しさで皆早々に眠りについたが、オヅマは目が冴えていた。

 

 まだ、あの声が残っている。女なのか男なのかもわからない、不思議に響く声。

 寝返りを何度か打ったあと、観念して起きあがった。

 どうせ眠れないなら、外に涼みに行こう。

 

 宿泊所から出ると、月が皓々と冴えていた。さっきまで舞っていた境内は月光に白く照らされながら、シンと静まり返っていた。

 

 

 ―――――オヅマ…

 

 

 また、声がする。

 

 

 ―――――オヅマ…

 

 

 オヅマは歩き出した。

 

 声は自分を呼んでいる。さっきのようにあらゆる場所から見つめるのではなく、明らかに一定方向から聞こえてくる。こちらへ来いと招くように。

 何者ともしれぬ声であるのに、オヅマはなぜか恐怖を感じなかった。

 

 灌木の間を抜け、鬱蒼とした木々の間を抜けると、そこには小さな(ほこら)があった。手前にはたっぷりと水をたたえた水甕(みずがめ)があり、その中に月が浮かんでいた。

 何気なしにその水甕の中を覗く。ゆらゆら揺れる水面に、自分の仏頂面が浮かんでいるのをボンヤリ見ていると、

 

 

 ―――――オヅマ…

 

 

 再び声が響き、波紋が揺らめいて水甕の中に現れたのは少女だった。

 オヅマよりも少し年上くらいだろうか。まっすぐな黒髪は胸まで伸びて、眉のところで前髪はキッチリ切り揃えられている。

 

 

 ―――――オヅマ…

 

 

 呼びかけた声のままに赤い唇が動き、うっすらと目を開ける。

 オヅマは息を呑んだ。

 

 それは闇と太陽と蒼天を持った瞳だった。

 黒い瞳孔の周囲に閃くような金色が縁取り、瑠璃、藍、青、水色に変化していく虹彩。

 まるで目の中で花が開いているかのようだ。

 

「………誰だ、あんた」

 

 しばらく見つめてから、オヅマは普通に尋ねていた。

 見も知らぬ少女であるのだが、なぜか彼女に対する警戒心はなかった。水面に映っていることも、さほどにおかしいと思えない。むしろ当たり前のように受け入れる自分に違和感があった。

 

 水の中で少女は微笑んだ。片頬に笑窪ができる。

 

 

 ―――――どうやら…成功のようね……

 

 

「成功? なにが?」

 

 

 ―――――あなたが、私を覚えていないからよ……

 

 

「……何言ってんだ?」

 

 オヅマは頭が混乱した。

 自分はこの水甕の中の少女のことなど知らない。全く覚えがない。

 最近滅多と見ることのない()の中ですら、会ったことはない。

 

「あんた、誰だ?」

 

 少女は微笑むのみで答えない。

 スゥと細めた目が金色に光り三日月のようだ。

 

 

 ―――――忘れていなさい。それでいいの…

 

 

 オヅマは苛ついた。バシャリ、と水を叩く。

 

「だったら、なんで呼んだ!?」

 

 波紋が激しく揺らいで、少女の姿をかき消す。ゆっくりと水面に平穏が戻ると、再び月が浮かんでいた。

 

「おい!」

 

 オヅマは叫んだ。

 水甕の中に少女の姿はもうなかった。

 

 ギリ、と歯噛みしてオヅマは水甕に顔を突っ込んだ。息が続かなくなる寸前まで水の中で目を開いて少女の姿を探したが、当然ながら彼女は現れなかった。

 耐えきれず、プハッと水から顔を出す。ポタポタと雫が落ちて、水面に幾つもの波紋が浮かぶ。

 

「……何なんだよ……」

 

 オヅマはつぶやいてから、ブンと首を振って水気を払った。

 ますます苛立つ。いきなり声をかけてきておいて、忘れろとか……何なんだ。勝手すぎる。

 

「やめたやーめた!」

 

 オヅマは叫んで少女の残像を頭から追い払った。

 こうしたことをいつまでも気にしていたらロクなことがない。

 

 いわゆる狐憑きの類なのだ。

 昔、薬師の老婆が言っていた。不思議なことは起こるものなのだと。ただ、それに心を持っていかれてはいけない。魔物や妖精などに取り憑かれるということは、そういうことなのだと。

 

 祠に背を向けて歩きだすと、森の奥から鹿の啼声が聞こえてきた。

 何かを求める切実な声―――。

 

 

 ―――――オヅマ………幸せ?

 

 

 かすかに問いかけた少女の声は、オヅマに聞こえなかった。

 

 

 

 





次回は2022年6月8日20:00頃の更新予定です。



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第二十一話 受け取れぬ贈り物

<挿入話 それぞれの書簡>

 

 

 文筥(ふみばこ)の件についてカール・ベントソン卿からの手紙を、マッケネン卿を介し、オヅマづてに受け取ったオリヴェルがカールに送った短信

 

『前略。

 ミーナに文筥を渡しておきました。改めてお礼の手紙が届くと思います。

 ただ、今後、贈り物をする時には、もうすこし、わかりやすいものの方がいいと思います。

 ミーナとオヅマはとても…気づきにくい人達なんです。  オリヴェル』

 

 

******

 

 

 改めてオリヴェルから文筥を受け取ったミーナがヴァルナルに送った謝礼といつもの報告

 

虔礼(けんれい)の月 十六日

 

 厳しき暑さの中に神の影宿りし陽炎(かげろう)の立昇る時候にて、僭越ながら拙き文を差し上げます。

 

 若君様より文筥が私への贈り物であったことを聞いて、大変驚いております。

 このような物をいただいてよろしいのでしょうか。誠にご無礼を致しまして、申し訳ございません。また、ありがたく頂戴して、大事に使わせて頂きます。

 本当に、有難う御座います。

 

 今月は虔礼の月ですので、神殿へ参詣する予定です。

 執事のネストリ様から直々にお声がかかり、若輩の身でございますが、領主様始め公爵閣下、騎士様方、それに何よりレーゲンブルトの領民が健やかに過ごせたことへの感謝を捧げ、年神様に真摯に礼拝させていただきます。

 

 今回は、オヅマが子供ということもあり、剣舞を舞うことになりました。

 そのことでご報告がございます。

 若君がどうしてもオヅマの剣舞する姿を見たいと仰言(おっしゃ)っておいでです。また、主治医のビョルネ先生が付き添ってくださるので、重々注意の上で、若君の希望を叶えたく存じます。

 

 申し訳ございません。

 本来であれば、領主様からの承諾の可否を訊くべきところですが、おそらくこの手紙が帝都に届く頃には、神事は既に終わっていると思います。若君の体調については、万全の注意を払う所存です。どうかお許しくださいませ。

 

 若君は大変勉強熱心であられます。私がお教えできることも、もう僅かとなってまいりました。今は、私の他に時折、いらしていただいた時に主治医のビョルネ先生が教えてくださることもございます。その時にも若君は非常に興味深げに、熱心に話を聞いておいでです。

 できれば早急に、よき家庭教師に教えを乞うことが必要と考えます。

 僭越なことを申し上げているかもしれませんが、何卒ご一考頂きますよう、宜しくお願いいたします。

 

 この一年の豊穣と平和に感謝して、年神様(リャーディア)のご加護のあらんことを。 ミーナ』

 

 

******

 

 

 ミーナの手紙と一緒にオリヴェルからの短信を受け取ったカール・ベントソン卿からオリヴェルへの手紙

 

新生(しんせい)の月 五日

 

 新たなる年の燦々たる()の下に神を迎えたる時候にて、僭越ながら申し上げます。

 

 わざわざのお手紙痛み入ります。

 

 早速、若君の世話係であるミーナへの贈り物の件ですが。

 

 今月ようやく新年で帝都にも様々な市がたち、他国からの珍しいものも多いので、その中から髪飾りを選ばれました。前回の贈り物でよほど反省されたのか、先月来、色々と悩まれておられました。近日中に送られるようです。

 

 もし、ミーナが恐縮して受取を渋るようであれば、若君からもそれとなく後押しいただけると幸いです。

 若君が父君の幸せを願って下さっていることに、安堵致しております。

 

 また、最近では騎士団の修練を見学されているとの事。騎士団を代表しまして、御礼申し上げます。

 若君の関心あることを知って、騎士達の士気も上がることでしょう。

 ただ、この暑さの中であります故、くれぐれもお体にはお気をつけください。

 

 年末の神殿の儀式にもお目見えされたと聞き及んでおります。日に日に健やかになられる若君のご様子に、ヴァルナル様も大変喜んでおられます。

 

 今年は、おそらくですが、レーゲンブルトに戻るのも早くなる気がしております。再び(まみ)える日を楽しみにしております。 

 

 年神様(イファルエンケ)の加護のあらんことを。 カール・ベントソン』

 

 

 

 

 ミーナは困惑していた。

 目の前にはヴァルナルの手紙と一緒に届けられたプレゼントがある。髪留めだった。

 けっして高いものではないようだが、白陽石と呼ばれる純白の石に細かな透かし細工がされており、所々に色硝子の玉が嵌め込まれた美しい意匠のもので、しかもはっきりと手紙の中でミーナに宛てたものである旨が記されていた。 

 

『……帰る時にはこの髪留めをして迎えてくれることを願っている――――…』

 

 マリーはその髪留めを見るなり目を輝かせた。

 

「とっても綺麗! お母さん、してちょうだい」

「え? あ、あぁ…じゃあ留めてあげるわね」

「何言ってるのよ、お母さん! お母さんにして欲しいって領主様が言ってるのに、どうして私がするのよ!」

 

 マリーはどういう訳かいつごろからか、母と領主様がいつか結婚するのだと信じ込んでいる。しかもそれはオリヴェルに言われたのだという。

 ミーナは呆れて二人に誤解だと説明したが、子供達の思い込みというのは時に大人よりも頑固だ。どうにか他人がいるところではそうしたことは絶対に言わないようにと言い聞かせたものの、今はオリヴェルの部屋に三人だけという気安さから、まったく頓着しない。

 

 ミーナはその髪留めを手に取ってから、溜息をついて、そっと箱の中に戻した。

 

「どうしたの? しないの?」

「えぇ…壊してはいけないから」

 

 言いながらミーナは箱に蓋をして、元のようにリボンも結び直す。

 

「ねぇ、ミーナ。それ、まさか父上に返すとかしないでね」

 

 オリヴェルが心配になって言うと、ミーナは苦笑いを浮かべた。

 

「若君は…明敏でいらっしゃいますね」

「駄目だよ。ちゃんと受け取ってあげてよ。父上だって、どれだけ選ぶの大変だったと思うの?」

 

 オリヴェルはあわててカールに言われた通りに()()()する。

 カールの手紙には、ヴァルナルがこの髪飾りを選ぶまでにはひと月近くかかっている…とあった。前回の失敗もあって、相当慎重に吟味したに違いない。

 

「でも、分不相応なものでございます」

 

 ミーナはひどく困ったように言った。

 

「そんなことないよ。別にそれだって宝石でもない、ただの硝子でしょ?」

 

 宝石の髪留めなど贈った日には、きっとミーナが遠慮して受け取らないことをカールが察して、あえてさほどに高価でない贈り物を選びに選び抜いたのだろう。

 

 あの厳格な父が、市などに出かけて必死で選んでいる姿を想像すると、オリヴェルは妙に親近感が湧いた。

 親子の間で親近感というのもおかしな話ではあるが。

 

「お母さん、きっと似合うよ」

 

 マリーは素直に勧める。

 単純にさっきの綺麗な髪留めをつける母の姿が見たかった。

 しかし、ミーナはじっと膝に置いた箱を見つめて、自分に言い聞かせるように言った。

 

()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()だけ、ありがたく受け取っておくことにします。……若君も、おかしな事は仰言(おっしゃ)らないで下さいましね」

 

 それとなくミーナはオリヴェルにもこの事を誰にも言わないように釘を刺す。

 

 頑ななミーナの態度に、オリヴェルもマリーもシュンとなったが、それから十数日後にもシュンと肩を落とした人物がいた。

 

 

 言うまでもなく、贈り主のヴァルナルだ。

 




次回は2022年6月12日20:00頃の更新予定です。



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第二十二話 ルーカス・ベントソン登場

「……頂きました髪留めは大事にしまっておきます。お帰りなられましたら、お返ししますので……」

 

 カールはそこで読むのを止めた。目の前には、わかりやすくガックリと落胆した主の姿がある。

 

「カール……」

「言いたいことはおおよそわかりますが、今ここで私に文句を言っても解決はしません」

「お前に文句を言う気はない。お前にも、ハンネ嬢にも随分と世話になったと思う」

 

 最終的にはカール一人の手に負えなくなってきたので、妹にも手伝ってもらって選んだのだが、結果は完敗…(何をもって負けたとするのか不明だが)…だった。

 やはり同じ女とはいえ、嫁入り前の若い娘よりは、既婚の姉に頼んだ方が良かったのかもしれない。

 カールは気楽に物言える妹に頼んでしまったことを後悔したが、姉の助言があったとしてもミーナの態度が変わることなどあるのだろうか……?

 

「しかし…こうまではっきりと断られたのであれば、潔く諦めた方がいいと思う」

 

 ヴァルナルは顔を上げて言ったものの、その表情を見る限り、未練が残っているのはありありと見えた。

 

「無論、そうできるのであれば、それが理想ですね」

「お前…どうしてそう意地の悪いことを言うのだ?」

「ヴァルナル様が娼館に入り浸ったり、昼日中から人妻と虚々実々の恋を楽しむような輩であれば、割り切って忘れることは可能でしょうが…そういうものでもないでしょう?」

「随分と…慣れた物言いだな」

「私も無骨者ですが、多少なりと、経験はあります。一番よろしいのは会わないことですが、そうなると領地に戻った時にミーナ殿を解雇することになりますね」

「そんなことできるか!」

「そうですね…私も、オヅマを手放すのはどうかと思います。ミーナ殿が出て行くとなれば、オヅマは必ず従うでしょうし」

 

 カールにとっては、正直ミーナとヴァルナルの事情そのものよりも、そのことが原因でオヅマの騎士としての道が絶たれることの方が問題だった。

 人材はそう簡単に手に入るものではない。まして逸材は。

 現状において帝国内は平和であるが、未だに周辺諸国において不穏な動きをする者達はいる。また、戦が始まる可能性はいつでも有り得るのだ。

 

 カールが考えていると、コンコンとノックの音がして、すぐさま扉が開いた。

 

「おぅ…ルーカス」

 

 ヴァルナルが入ってきた金髪碧眼の男に気軽に声をかける。

 カールはジロリと睨みつけた。

 

「ノックの後、こちらが開けるまで待てないのですか?」

「遅いからだ」

 

 ほとんど間をあけずに答えてくる男に、カールはますます渋面になった。

 

 ルーカス・ベントソン。

 カールの兄であり、ヴァルナルとは騎士時代からの友人である。

 今はグレヴィリウス公爵の護衛騎士であると同時に公爵家直属騎士団の団長代理となっている。(団長は公爵本人である為、実質の団長と言っていい)

 

「騎士団再編の件で来たが……お前、なんだ? そのくたびれた情けない顔は」

 

 ルーカスは細い眉の間に皺を寄せ、ヴァルナルを容赦なくこき下ろす。

 

「いや…ちょっと……どうにもできないこともあるのだと…今更ながらに考えていたんだ」

「当たり前だろう。世の中思いのままに動かすことなど、皇帝陛下ですら無理なんだぞ。お前みたいな、騎士として生きていくしか能のない朴念仁の無骨者に、何をできることがあるというんだ?」

「うん…そうだな」

 

 ヴァルナルが一層肩を落とす姿に、カールは苛々した。

 

「そこまで言うことないでしょう! ヴァルナル様も、ちょっとは怒ってください」

「部下に発破をかけられるとは、情けない上司だな」

 

 ルーカスはカールの方を見ようともしない。はなから相手する気もないらしい。部屋の主が勧める前に、当たり前のようにソファに腰を下ろす。

 

「だいたい…お前と似たりよったりの、この朴念仁の弟なんぞの意見を参考にするから、うまくいくものもいかないのだ」

 

 カールはヒクヒクと頬を引き攣らせた。思わず拳を握りしめている。

 

「なんでアンタがそれを知ってるんです?」

「ハンネになんぞ頼んで、口止めができると思うのか?」

 

 おしゃべりな妹から情報が伝わったのかと、カールは溜息をつく。

 一応、カールは余計なことを周囲に話すなと厳重に言い聞かせたのだが、この兄にかかって、あの単純な妹がうまく誘導されたのは間違いない。

 

 ピリピリとした兄弟のやり取りに、ヴァルナルが柔らかく割って入った。 

 

「まぁ、そう言うな。カールも色々と親身になって手伝ってくれたんだ」

「親身なって女にフラれて、一緒に青息吐息じゃ何の実りもないな」

 

 その通りだが、まったくもって同情というものが一欠片もない言い様である。

 

「だいたいのところは聞いたがな、ヴァルナル。お前、その女にちゃんと()()()()()のか?」

 

 心底あきれた口調で吐き捨てるようにルーカスが言うと、ヴァルナルは黙りこんだ。

 ルーカスは腕を組み、足を組んで、横柄な目線で旧友を見下す。

 

「そんなに眉間に皺寄せてるようじゃ、何もしてないな。せいぜい物を贈った程度だろ? 違うか?」

「一応、手紙は書いてる」

「何を? 息子についての礼と、帝都で起きたことの日報程度だろ?」

 

 ヴァルナルはチラとカールを見た。あわててカールは首を振る。

 冗談じゃない。どうしてこの兄に、ヴァルナルがミーナに送る手紙について話して聞かせる必要があるのだ?

 

「そんなことで弟を間諜に使うか。馬鹿馬鹿しい。お前の不器用をどれだけ()()()()()()()と思っているんだ?」

 

 カールは気づかれないように溜息をついた。

 こと、こうした色事について兄とヴァルナルでは、まったくもって勝負にならない。

 

「俺に言わせれば、今のお前はフラれてもいない。まったく相手にされてもいないんだからな」

 

 ルーカスに痛いところを確実に突かれて、ヴァルナルは額を押さえたが、しばらくしてフフッと笑った。

 

「まぁ、そういうことだよな」

「そうだ。一度や二度の失敗程度でやる気をなくすぐらいなら、最初から他人を巻き込んで悩むな。騎士だろうが、お前は。騎士の本分は?」

「行動あるのみ…だ」

「わかってるじゃないか。じゃ、再編の件だが……」

 

 結論が出ると、即座にルーカスは仕事の話を始める。

 その転換の早さにカールは内心で白旗を上げざるを得なかった。なんだかんだで、この兄には一生勝てない気がする。

 

 話が終わると、ヴァルナルは公爵に呼ばれて出て行った。

 

「さすがに…色々と手練(てだれ)であられる方の説得力は違いますね」

 

 立ち上がった兄に、カールは皮肉げに言った。

 ルーカスはまったく動じない。

 

「そうだな。少なくともお前よりは役に立ったろう」

「………ヴァルナル様は先の奥方のこともあって、慎重なのです。若君のこともあるし」

「その若君が一番に気に入っているのだろ、その女を」

「女…と呼び捨てにしないで下さい。しっかりした清廉な女性です」

「ほぉ。お前もぞっこんなのか? それで見合い話も断ったわけか」

 

 兄の笑えない冗談に、とうとうカールは敬語を忘れた。

 

「ふざけんな! ヴァルナル様の奥方にふさわしい女性ということだ!」

「フ…お前といいヴァルナルといい、最初の女が合わなかったからといって、いつまでも引きずり過ぎなんだ。ま、ヴァルナルの場合は、閣下の命令だからといって唯々諾々と結婚なんぞするからだ。あんなもの、補佐官が適当に選んできた女だったんだろうに…俺だったら上手く断ったろうな」

 

 だろうね! とカールは叫びたかったが、そんなことでこの兄は動揺などすまい。グッと抑え込んで、皮肉な口調で言ってやった。

 

「さすが三度も結婚された方の言うことは違いますねぇ~」

「迷惑だろうから、三度目は書類だけで済ませただろうが」

「それでも結局、離縁しただろうが!」

 

 いけしゃあしゃあと言う兄に、結局カールは怒鳴りつけた。

 ルーカスはにべなく答える。

 

「互いの自由を取っただけだ」

「物は言いようって…本当にアンタの為にある言葉だと思いますよ」

「それは光栄だ。今後とも大いに世話になるだろうからな」

 

 ニヤリと口の端を上げて出て行った兄を睨みつけて、チッとカールは舌打ちした。 

 これだから帝都に帰るのは嫌なのだ。

 あの兄はああやって楽しんでいる。

 いっそ、弟のアルベルトのように、教えてやらねば皮肉にも気づかないくらい鈍感であればこうも苛々しないのだろうが。

 





続けて更新します。


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第二十三話 エリアス・グレヴィリウス公爵

 その後のヴァルナルの行動は早かった。

 帝都からの早々の帰郷を決めて、公爵に願い出たのだ。

 

 いつもであれば、他の貴族同様に実織(みおり)の月に入ってから、公爵と一緒に公爵の本領地・アールリンデンに向かい、そこからレーゲンブルトに帰るので、公爵一筋・忠誠心の厚いヴァルナルにしては珍しい行動と言えた。

 

 公爵の側に控えていた家令のヨアキム・ルンビック子爵は、ジロリとヴァルナルを睨みつけた。

 

「勝手な申し出ですな。まだ、実織の月も迎えておらぬ時期から…公爵閣下はまだ帝都にて仕事もおありだというのに…」

 

 鹿爪らしい顔をした子爵の物言いに、ヴァルナルはあくまで平身低頭だった。

 

「申し訳ございません。去年の春先に例の紅熱(こうねつ)病の流行がありまして、畑の様子を見て回る時間があまり取れなかったものですから…秋の収穫に問題がないか少々気になりまして…」

「左様なことは、行政官に任せればよろしいことです」

 

 ヴァルナルのように実際に農夫と会話する領主などほぼいなかったので、子爵のは嫌味ではなく、当然の文句だった。

 

 エリアス・クレメント・エンデン・グレヴィリウス公爵は、家令と配下領主のやり取りを今年度の帝都における公爵邸の予算案に目を通しながら聞いていたが、とりあえず許可の印を押してサインをすると、フゥと息をついて眼鏡を外した。

 

「もう…帰るのか?」

 

 静かに尋ねたその声に特に哀惜はない。だが、透き通った(とび)色の瞳には少しばかり楽しげな光が浮かんでいた。  

 

 ヴァルナルは畏まって頭を下げると、同じことを繰り返す。

 

「は…去年は例の紅熱病の流行がありまして、慌ただしくしておりました故、領民と話す機会もなく、十分に畑を見回ることもできませんでしたので、秋の収穫に問題がないか気になりまして。もし、収穫量が例年よりも極端に少ないようでしたら、備蓄分のことも含めて商人らとも交渉せねばなりませぬし…」

 

 ヴァルナルは嘘がつけないので、これは本心であった。ただ、それが主たる理由かと問われれば否と言うしかない。

 

「ふ…それだけか」

 

 かすかに公爵が笑う。

 トントントン、と机を中指で三度叩くと、家令が一礼してその場から立ち去る。

 

 ヒュミドールから葉巻を取ると、公爵は火をつけて細く煙を吐きながら、ギシリと背を凭せかけた。

 

 ヴァルナル・クランツ。

 今や帝国に並ぶ者なき勇士だが、現在公爵の目の前に立っている男からそうした威容は感じない。相変わらずどこか田舎臭さの抜けない、五歳年下の凡庸な男だ。

 

「用兵においてそなたの迅速なることは認めるが、まさか今日いきなり発揮することでもなかろう。先の帰参は許す。しかし廿日(はつか)の皇家主催の園遊会の欠席は認めない。陛下から是非にと言われている」

 

 ヴァルナルはすぐに「はっ」と同意する。公爵からの命令だけでも服することは当たり前であるのに、まして皇帝陛下の思召(おぼしめし)を無視するわけにはいかない。

 

 公爵は少し苛立たしげに、ほとんど黒髪にも見えるダークブラウンの髪を掻き上げた。

 

「亡くなられたシェルヴェステル殿下のこともあって、陛下としては尚一層、優秀な部下を息子につけておきたいのだろうな…」

「アレクサンテリ皇太子殿下であれば、これから私などより若い世代に優秀な者がおりましょう」

「そうだな……そなたの息子はどうなのだ?」

「オリヴェルは……」

 

 ヴァルナルは言いかけて、病弱な息子の姿を思い浮かべ、首を振った。

 

「最近は随分と体調も良くなってきたようですが、まだ帝都に来るまでの体力もないでしょう」

「そうか…残念だな」

「我が息子よりも、アドリアン小公爵様が十二分に皇太子殿下の補佐(たすけ)となることでしょう」

 

 公爵は返事をしなかった。

 眉間に刻まれた皺が更に深くなり、溜息まじりに煙を吐き出す。

 

「男爵はいつも、我が息子を褒めてくれるな」

 

 ヴァルナルはピクリと身じろぎする。

 公爵がヴァルナルのことを『男爵』と呼ぶ時は皮肉が混じっている。

 

「公爵閣下、アドリアン様は優秀な方です。私の課した修練も文句一つ言わずにこなしておいでです」

「あぁ…そうか」

 

 公爵は興味なさげだった。

 この息子に対する投げやりな態度に、ヴァルナルは意見したくとも出来なかった。

 

 自分もまた、病弱な息子の世話をほとんど他人に任せて放り出してきたのだから。いや、今だって、自分はミーナに任せっぱなしだ。ミーナの献身と好意に甘えている。

 

 ふと、ヴァルナルは自分を省みた。

 こんな男にミーナが心動かされることなどあるだろうか。

 一人の人間として向き合った時に、自分は胸を張って誠実な男だと言えるのだろうか。

 たった一人の息子すら気遣うこともできない…何と話しかければいいのかすらわかってない、不甲斐ない男だ。

 

「…ヴァルナル」

 

 やや強く呼ばれて、ヴァルナルはハッと顔を上げる。

 

「は…っ」

「……最近、多いな。心ここにあらず、か」

 

 公爵はふぅと紫煙をくゆらしながら、若干興味深げにヴァルナルを見つめる。

 再びヴァルナルは頭を下げた。

 

「……申し訳ございません」

「ふ…構わぬ。お前に物思いさせる相手がいるなら結構なことだ。今更のことだが、お前の先妻については、私も不見識であった…」

「いえ! 私めが至らなかっただけでございます。閣下には色々とご配慮頂いたのに、気を煩わせて申し訳ございません」

「そうだな…配下の者の婚姻などは、本来私の口挟むことではないが……」

 

 ハァと、公爵はまた苛立たしげに煙を吐き出した。

 

 そう。他の配下…例えば同じ部下であるルーカス・ベントソンなどが何度結婚して離婚しようとも、大して気に留めず、心配もないのだが、ヴァルナルに関しては少々複雑な事情もあって、公爵は細心の注意を払っていた。

 

 それは皇帝がヴァルナルを直属配下に望んだことで、皇帝の歓心を買う為に縁戚になろうとする不純な輩を排する必要があるからだ。

 

 ヴァルナルが南部の紛争を見事に収束させて帝都に帰還した後、皇帝はとうとう黒杖(こくじょう)叙賜(じょし)を決定した。

 身分低くとも騎士として技と修身を極めた者にとって、最上の名誉である黒杖。

 それまでも何度か声がかりがあったのを、ヴァルナルは恐縮して断っていたが、皇帝は宰相以下の臣下にも根回しして、受け取ることをほぼ確定させた。

 

 黒杖を受けた以上、ヴァルナルが皇帝直属になることは既成事実化していたのだが、式典においてヴァルナルは皇帝からの直参(じきさん)申し出を断った。

 

「恐れながら申し上げます、陛下。私一人を臣下とすれば、いざというときに陛下を守るのは私一人ですが、公爵閣下の元にあれば、私は閣下と共に陛下をお守りいたします。二人だけではございません。公爵麾下(きか)の騎士団の精鋭全ては、陛下の為に命を尽くすでしょう」

 

 その言葉と同時に、式典に加わっていたレーゲンブルト騎士団を含め、すべてのグレヴィリウス公爵家配下の騎士団の騎士達が一同に膝をついて最上位の礼を示した。

 

 皇帝は表情を変えることなく、しばらくその様子を黙って見ていた。

 その間に多くの計算をしたに違いない。

 

 己が威信を否定したかに思えるヴァルナルの申し出、帝国において一、二を争う公爵騎士団の団結、帝国百家と呼ばれる貴族の代表格であるグレヴィリウス公爵家を支持する派閥、公爵家と皇家との反目を奇貨として帝国内に内訌(ないこう)を生じさせようする他国勢力……そうして最終的に、今ここにいる者達に示すべき自らの度量。

 

 ため息と共に皇帝は微笑んだ。

 周到に用意した画策も、結局は純真で誠実な騎士の前で無力であったことを思い知ったかのように。

 

「ふ…む。確かに、クランツ卿の言う事は(もっと)もである」

 

 静かに頷いた皇帝は、しかし黒杖の授与は行った。

 まるでそれだけでも、皇帝の威信を見せつけるかのように。

 

 おそらく皇帝は特にグレヴィリウス公爵を敵対視しているわけではない。

 

『明君は駿馬(しゅんめ)を求め、暗君は駑馬(どば)に安堵する』…と古来より言われるように、優秀な人材を直接配下に置きたいと思うのは、()()()支配者の基本的欲求なのだろう。

 

 だが、それは皇帝に限ったことではない。

 

 以来、公爵と皇帝の間には微妙な駆け引きが行われつつも、表向きは穏便な関係性となっている。

 

 しかし未だにヴァルナルを利用して、公爵家と皇家を離間させようとする輩はいる。そうした者にとって、手っ取り早いのは独り者のヴァルナルの妻として、自らの娘などを送り込んで(たら)しこみ、ヴァルナルを公爵家から訣別させることだろう。

 

 その先手を取って、公爵はそうした心配のない女を補佐官に命じて探させ、ヴァルナルと結婚させたのだが、急場しのぎで誂えた婚姻は結局、一年ほどで終わりを告げた。

 

 自らも最終的には親の決めた許嫁(いいなずけ)とは結婚せずに、亡き妻と強引に一緒になった公爵は、その時になって申し訳ないことをしたと思った。

 誰とても、気持ちというのがあるのだ。

 ヴァルナルなどは特に家門を存続させる気はないのだから、もっと結婚は本人の意志を尊重すべきであった。

 

 ルーカスから聞いたところによると、ヴァルナルが現在、気にかけているのは自分の息子の世話係だという。

 念のために探ったが、元はレーゲンブルト領にある小さな村の未亡人ということで、例の()()()輩の息のかかった者ではないようだった。

 だとすれば、後はこの男が自力で頑張るしかないのだろう。……報告を聞いた限り、なかなか難渋しているようではあるが。

 

「園遊会が済んだら、神速果敢なるレーゲンブルト騎士団の名のままに、帝都を駆けて帰るといい」

 

 公爵はそう言うと、葉巻を灰皿に置いた。

 ヴァルナルは頭を垂れて、直角に曲げた右腕を前に突き出して礼をする。

 

「ハッ! ご配慮、ありがたく」

 

 短く言ってヴァルナルが部屋を出た後、公爵は少し憂鬱な目で壁に架けてある小さな肖像画を見つめた。

 そこには十年前に亡くなった妻が微笑んでいる。

 死んだのはついこの間のように感じるのに、彼女の不在の長さを思うと、とてつもない虚しさが押し寄せてくる。

 

「君の言う通りだ、リーディエ。あの男は稀有なる忠臣だ。君はいつも正しい……」

 

 つぶやいた声は、いつも威厳に満ちた公爵しか知らぬ人であれば、別人だと思うほどに、ひどく弱々しかった。

 





次回は2022年6月15日20:00頃の更新予定です。


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第二十四話 園遊会にて

「おぉ、ヴァルナル。来ていたか」

 

 帝都にいるほとんどの貴族の集まる園遊会において、皇帝から声をかけられるなど、大貴族の中でも数えるほどであるのに、いきなり呼びかけられて、ヴァルナルは飲んでいたワインを喉に詰まらせかけた。

 

「……は…ッ…陛下におかれましては……ご機嫌麗しく…」

 

 あわてて振り返りつつ、頭を下げ、右腕を曲げて胸に(てのひら)を押し当てる。

 今回は男爵として参加しているため、騎士としてではなく一貴族としての挨拶をせねばならない。

 

()()。頭を上げよ。話したいことがある」

 

 皇帝はすぐさま礼を解くことを許した。

(*「よい」、とあえて言うのは二度目の許可でようやく頭を上げて良いとされる本来の礼法を無視してよい、という意味)

 

 ヴァルナルが頭を上げると、燦々たる太陽の下、まばゆいばかりの金髪に青緑の瞳の皇帝が柔和な表情で立っていた。

 

 ジークヴァルト皇帝。その正式なる名をジークヴァルト・リムエル・ボーヌ・シェルバリ・グランディフォリア。

 神より与えられたという大いなる世界の大樹(グランディフォリア)を姓名に戴く、唯一にして絶対の存在。

 

 十八歳で先帝である祖父の死によって皇帝の地位を継いでから、今年で在位は三十年を迎える。

 本来であれば、父であるシクステン皇太子から皇位を受け継ぐはずであったのが、その父が早世したために、ジークヴァルトはしばらく不安定な地位にあった。

 そのため、皇位継承においても色々と憶測をよんだが、ジークヴァルトに従っていたダーゼ公爵をはじめとする忠臣達の働きによって、それらの風聞は口にした者を含めて粛清された。

 

 グレヴィリウス公爵家は現在の当主の一代前であったが、あえて積極的に()()()つくこともしなかった為に、功をたてることもなかったが、敵対勢力とみなされることもなく過ごした。

 

 だが、それも昔の話である。

 現在の皇帝は穏やかなる品性によって、国民からの支持も高く、貴族達もおおむね平穏なるその治世に満足していた。

 

 ヴァルナルは緊張しつつも、皇帝の背後にグレヴィリウス公爵の姿を見つけて、内心ホッとした。

 

「運の良い男だな、そなたは。いい馬を見つけたそうではないか」

 

 皇帝は公爵からヴァルナルが連れてきた黒角馬(くろつのうま)について聞いたらしい。興味津々といった様子で尋ねてくる。

 

「その馬がいるとわかっていて、サフェナなどという貧弱の地を引き受けたのか?」

「いえ…まったく存じ上げませんでした。偶然に、教えてくれる地元の子供がおりまして。彼のお陰です」

「ほぉ…日頃より民と親しく接しておるそなたであればこそ、そうした注進も来るというものだな。よき心がけだ。そう思うであろう? 大公」

 

 皇帝が背後に立つもう一人の男に問いかける。

 

 深緑の絹地に、金糸で唐草模様の刺繍がされた豪奢な頭巾を被った男が頷いた。

 艶のある禿頭(とくとう)に、赤黒い傷の痕がチラリと見える。頭巾についた飾りがシャラリと上品な音を響かせた。

 

「誠に。諸侯も見倣うべき気風にございます」

 

 落ち着いた穏やかで深みを感じさせる声は、耳朶に心地よく響く。

 

 ヴァルナルはこちらを向いてニッコリと細められる紫紺の瞳に、思わずまた頭を下げてしまった。

 皇帝とは違った意味で、非常に緊張させられる相手だ。

 

 ランヴァルト・アルトゥール・シェルバリ・モンテルソン大公殿下。

 先帝の末息子で、現皇帝よりも五つ年下ながら、皇帝の叔父という立場である。

 

 幼い頃より頭脳明晰で、三才で素数を理解して当代一の数学者の出した暗号を解き、五歳の時には帝国全史を読破して、三十点に及ぶ誤謬を指摘したという天才。

 その上で武芸にも秀で、十九の年には隣国と長く続いた戦役をわずか半年で終結させた功労もあって、黒杖(こくじょう)を拝受した。

 

 たいていの大貴族の子息であれば、騎士としての形ばかりの成人儀式の後に白杖(はくじょう)を授与される。無論、大公もまた持っている。

 だが、黒杖はその人品と技量、実績が伴っていないと戴けぬ名誉である。帝国の歴史においても、白杖と黒杖の二つを同時に持っていた人間はいない。

 

 騎士を名乗る者であれば、ランヴァルト大公―――本来であればモンテルソン大公と呼ぶべきだが、大公本人の意向で多くの人間は彼を名前で呼ぶ―――は、おそらく当代における英雄として、尊敬の対象であろう。

 それはもちろん、ヴァルナルもそうであった。

 

「恐縮にございます」

 

 深く頭を下げたヴァルナルに、皇帝はやや意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「やれやれ。ヴァルナルは私よりも大公に会う方が畏まるようだな」

 

 あわてて取り繕おうとしたヴァルナルよりも先に、大公がハハハと笑った。

 

「クランツ男爵は、同じ黒杖の騎士として、先輩の私を敬って下さっているだけですよ」

「ふん。そうなのか? クランツ男爵?」

 

 皇帝がとぼけたように皮肉っぽく言うと、ヴァルナルはもうカチコチに固まって「は!」とだけ返事した。

 

「陛下、先程も申されました黒角馬でございますが……」

 

 見かねたグレヴィリウス公爵が話を元に戻す。

 

「量産化も含めて研究する必要もございますので、専門家を派遣しようと思っております。できますれば皇家から人材、物資を含めた援助をお願いしたく存じます」

「………そうだな」

 

 皇帝は瞳を細めて、油断なく公爵を一瞥した。

 

 グレヴィリウス公爵家の財力をもってすれば、それくらいの人材も設備も資金も潤沢に用意できるであろう。にも関わらず、こうして数多の人の前で頭を下げて援助を頼む。

 おそらく、良質な馬を量産して皇家に対する叛逆を企てている…などという根も葉もない噂が立つことを、予め回避しようとしているのだろう。当然、その()()の中に、皇家からの間諜が含まれるであろうことも承知の上で。

 

 まったく……可愛げのない男である。

 

 皇帝はしかし内心の不満をおくびにも顔に出さず、「よかろう」と頷いた。

 

「量産がかなえば、我が国の軍備も増強される。是非にも成功させるように。援助は惜しまぬ」

「有難き幸せにございます」

 

 公爵が深々と頭を下げると、皇帝は軽くヴァルナルの肩を叩いて去っていく。

 

「公爵」

 

 大公は皇帝が侍従らと共に去っていくのを見送ってから、振り返って声をかけた。

 

「何でしょうか、大公殿下」

「その専門家だが、すでにめぼしい者はいるのか?」

「いえ。これから人選に入る予定です」

「では、私の方から何人か紹介しよう。今日、ここに来ている者の中にもいる故、一緒に来るとよい」

 

 そう行って大公は歩きかけて、足を止めると、振り返ってヴァルナルに笑いかけた。

 

「クランツ男爵は、少々、休憩が必要であろう? ここでそなたの主人に斬りかかる者はおらぬし、ゆるりと楽しまれるがよかろう」

「お気遣いいただき、恐縮にございます」

 

 ヴァルナルは言いながら、チラリと公爵を見る。公爵はゆっくりと瞬きして頷いた。

 

「ではな」

 

 大公と公爵が立ち去った後、ヴァルナルはハアァーと長く息を吐いた。

 

 本当に正直なところ、ここで休憩をもらわねば酸欠になりそうだった。

 蒙昧(もうまい)な自分にははっきりとわからないが、目の前でかなり緊迫感を含んだやり取りがされていたことは感じ取れた。

 

 グルグルと首を回して、固くなった肩をほぐす。

 あぁ、早くレーゲンブルトに戻りたい…。

 

 だが園遊会はそのまま穏やかに何事もなく終了―――という訳にはいかなかった。

 

 皇帝と大公と公爵から解放され、ワインでほろ酔いになったヴァルナルは酔い醒ましに、人気(ひとけ)のない庭を歩いていたのだが、どこからかギャアギャアと騒ぎたてる声が聞こえてくる。

 酔っ払いでもいるのかと顔を顰めたが、その時、甲高い怒鳴り声が響いた。

 

「アドリアン・グレヴィリウス! 貴様、ただで済むと思うな!!」

 




次回は2022年6月19日20:00頃の更新予定です。


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第二十五話 思慮深き小公爵

 主な会場となっている広大な芝生の敷き詰められた園庭からは、少し離れた薔薇園の中での出来事であったようだ。

 

 グレヴィリウス公爵の長男であるアドリアン・オルヴォ・エンデン・グレヴィリウス小公爵は、苦手な人混みを避けて、ひとり、人気のない薔薇園を散策していた。

 その姿を見かけたのが、ランヴァルト大公の息子であるシモン公子と、その取り巻きの少年達だった。

 

「おや、小公爵はこんなところで誰ぞと逢引でもするのかな?」

 

 シモンがおどけた口調で言うのを、アドリアンは無視した。

 正直なところ、そんな言葉を初対面の、しかも十歳(とお)の子供に言ってくる段階で、自分とは合わぬ部類の人間だということはわかる。見たところ自分よりは三つ、四つ年上のようだが、年上ということ以外での礼儀を必要とする相手ではない。

 

 シモンの方は、元々、初めて父である公爵に伴われて社交の場にやって来たアドリアンが、美男の父と瓜二つの容貌で、同じ年頃からやや年上の令嬢に至るまで、視線の的となっていることに猛烈な敵愾心を持っていたので、当初から仲良くするつもりもない。

 

「やれやれ…小公爵は初めてなので、僕が誰なのかもご存知ないらしい。挨拶もできぬとは、グレヴィリウス公爵家は、まともに息子の教育もしていないようだな」

「………存じ上げております」

 

 アドリアンは面倒に思いながら、シモンの胸元にあるブローチを見る。

 雄牛と鉤爪の鎖、椿の花の意匠は、モンテルソン大公家の紋章だ。

 

 実のところ、その時点でアドリアンは相手がどういう身分であるかを知った。内心では少々まずいことになったと思いつつも、表情は日頃からの鍛錬の成果で、平然としたものだった。

 

「シモン・レイナウト・シェルバリ・モンテルソン公子におかれましては、ご機嫌麗しく…」

「まったく麗しくない」

 

 シモンは憮然として言った。

 周囲の取り巻き達も、冷たくアドリアンを睨みつける。

 自分よりも明らかに年上の人間に囲まれながらも、アドリアンは無表情なままだった。

 

「ご不快にさせたのであれば、失礼します」

 

 素っ気なく言ってアドリアンはその場から立ち去ろうとしたが、その背に向かってシモンが明らかな侮蔑を含んで叫んだ。

 

「さすがは、あの母にしてこの息子だ! 罪人の娘などに(たぶら)かされて、グレヴィリウス公爵も落ちたものだな」

 

 静かに、アドリアンの怒りが沸騰した。

 踵を返すと、再びシモンの方へと歩き出す。

 

 目の前に立って、じっとりと見上げた。

 シモンは自分よりは年下であるはずのアドリアンの殺気を帯びた様相に、多少たじろいだが、フンと鼻で(わら)った。

 

「なんだ、小公爵。真実を言われて腹が立ったのか?」

「……撤回して下さい」

「なんだと?」

「あと一度しか言いません。撤回と謝罪を」

 

 言いながら、アドリアンは握りしめた拳の中で、爪が皮膚を破って血が流れてきたのを感じていた。

 

 しかし目の前のシモンと、その周囲の取り巻き達は変わらずヘラヘラ(わら)っている。

 

「謝罪だって? 僕が何を謝る必要があるというんだ? お前の母親が盗人の娘だというのは本当のことだし、お前が…」

 

 シモンが最後まで言う前に、アドリアンの握りしめていた拳が開いて、バシンとその頬を打った。

 まさか手を出されると思っていなかったシモンは、驚いたままよろけてその場に尻もちをついた。

 ぶたれた頬をそっと触ると、ぬるりと指に血がつく。

 

「ギャッ!」

 

 シモンは情けない声をあげた。

 

「シモン様!」

「大丈夫ですか?!」

 

 取り巻き達があわててシモンを取り囲み、血のついた頬をハンカチで押さえる。

 実際には、その血はアドリアンが拳を握りしめていた時のもので、シモンの頬から流れたものではなかったのだが、恐怖と驚愕で誰も冷静な判断ができなかった。

 

「貴様……」

 

 シモンは怒りのあまり、声が震え、言葉が出ない。

 

 アドリアンはみっともなく地面に座り込んだ年上の少年を、冷たく見つめていた。 

 その目には既に激昂は去っていた。だが、決して許すことのない強靭で冷徹な光が、静かにシモンを見据えている。

 

「亡くなった人を侮辱することは、最も恥ずべき行為です。シモン公子」

 

 アドリアンが静かに抗議すると、震えて声の出ないシモンの代わりに、取り巻き達が口々に文句を言った。

 

「何を言う!? 貴様こそ、公子様に謝れ!」

「そうだ! たとえグレヴィリウス公爵の息子であったとしても、大公の息子たる公子様に、何たる無礼だ!」

 

 騒ぎ立てる取り巻き達のお陰でか、シモン公子はようやく人心地がついたようだった。

 

「アドリアン・グレヴィリウス! 貴様、ただで済むと思うな!! お前ら、コイツの頭を下げさせろ!!」

 

 シモンが命令すると、取り巻き達は素早くアドリアンを囲んだ。

 

 背後にいた一人が肩を掴もうと手を伸ばしたところを、アドリアンはクルリと回転しながら蹴りつける。

 これまた、なぜだか彼らは反撃をくらうと思ってなかったらしい。薔薇の木を支える柱にぶち当たって、気を失った少年を見て、左右の少年達は顔を見合わせて青くなった。

 

 彼らにとって幸いだったのは、この時、割って入ってくれた大人がいたことだ。

 

「おやめください!」

 

 迷路のようになった薔薇園の隅でようやく、公爵の息子の姿を見つけたヴァルナルは、大声で少年達の喧嘩を止めながら、素早くアドリアンを守るように立ち塞がった。

 

「畏くも皇帝陛下の臨席される園遊会で、かような所行はお控え下さい」

 

 さっと見回し、尻もちをついたシモンの衿の紋章を見て、ヴァルナルは膝をつき頭を下げる。

 

「公子様。どうかこの場は寛大な心で…」

「そいつが先に手を出したのだぞ!」

 

 シモンは遮ってヴァルナルに怒鳴りつける。

 ヴァルナルは振り返って、アドリアンを見た。

 

 公爵の生き写しであるかのようなその面差しに動揺は見当たらない。鳶色の瞳は、じっとシモンを凝視したままだ。

 

「事情は存じ上げませぬが、ここは皇帝陛下の庭でございます。騒動があってはなりませぬ」

「知ったことか!」

 

 シモンはようやく立ち上がると、どうやら自分よりも目下であるらしいヴァルナルを蹴りつけようと足を上げた。

 しかし今度現れたのはグレヴィリウス公爵と、ランヴァルト大公の側用人であるヴィンツェンツェだった。

 

「足を下げられよ、公子…」

 

 年経た老人のしわがれた声に、シモンはビクリと止まった。

 

「う…ヴィンツェ…」

 

 強張った顔でつぶやきながら、ゆっくりと足を下ろす。

 

「そこの御仁の言う通りでありましょう。恐れ多くも皇帝陛下の御庭の、新年を祝う園遊会にて無粋な騒ぎを起こすものではありませぬ」

「っ…でも、コイツが先に手を……」

 

 シモンはすっかり意気消沈した様子で、ビクビクとヴィンツェンツェ老人に言い立てたが、皺の深い老人の表情は変わらない。濁った青灰色の瞳は斜視であるせいで目が合わないのだが、不気味な迫力があった。

 

「大公の公子であればこそ模範となるべき…と御父上からの忠告があったばかりというのに、まだ理解できぬようでございますな」

「……ち、父上には言わないでくれ!」

「…………」

 

 ヴィンツェンツェ老人は答えず、ギロリとシモンの取り巻き達を睥睨した。

 

「あそこでノビてる馬鹿を連れてくるように。―――公子、参りますぞ」

 

 そのまま立ち去ろうとして、グレヴィリウス公爵の隣を通り過ぎざま、ボソリとつぶやく。

 

「此度のことは、両成敗ということで」

 

 

 

 

 公子達が去った後、グレヴィリウス公爵は息子を冷たく見据えた。

 ツカツカと歩み寄り、無言でアドリアンの頬を平手で打つ。容赦ない打擲(ちょうちゃく)に、アドリアンは頬を地面に擦りつけて倒れた。

 

「公爵閣下!」

 

 ヴァルナルは叫んだが、ジロリと睨んでくる公爵の剣幕に口を閉ざす。

 

「立て」

 

 公爵は無情に告げる。

 アドリアンは口の端から流れる血を手の甲で拭いながら、立ち上がった。

 

「殴られる時に歯を食いしばることも知らぬのか?」

 

 淡々と言って、公爵は再び息子の頬を打った。

 アドリアンは今度は唇を噛み締めて、よろけつつも、立ったままだった。

 いつの間にか握りしめた拳は震え、またポタポタと血が落ちた。

 

「言い分があれば聞く」

 

 公爵は腰に下げていた小さな杖を持ちながら、息子に問いかけた。

 その声音には一片の感情も感じられない。

 

「……ありません」

 

 息子の短い返答に、公爵は眉を寄せた。「ない……だと?」

 

 アドリアンは俯けていた顔を上げ、父をしっかり見た。

 

「はい。何もございません」

 

 公爵はヴァルナルをチラリと見たが、そもそもヴァルナルにも喧嘩の発端となることについてはわからない。

 

「私も詳しくは存じ上げませぬが、小公爵様は理由もなく手を上げるような方ではございません」

「………息子に甘いな、男爵」

 

 公爵は眉を寄せたまま、今度は杖を振り上げると、容赦なくアドリアンの背を(なぐ)った。

 

「うッ!」

 

 アドリアンはさすがに耐えきれず、膝を折って地面にしゃがみ込む。

 打たれたその時の痛みよりも、じわじわと後から効いてくる鈍い痛みに初めて顔を顰めた。

 

「公爵閣下、それ以上はおやめ下さい」

 

 ヴァルナルは耐えきれなくなって、アドリアンを庇うように公爵に向き合った。

 

「どけ……ヴァルナル」

「お許し下さい、公爵閣下。これ以上の詮議は無用です。おそらく小公爵様は決して口を開かれぬでしょう」

「ヴァルナル。私はお前に何もかもを許したわけではない。出過ぎた真似をするな」

「………」

 

 それでも動けぬヴァルナルの腕を掴んでアドリアンは立ち上がった。

 自ら進み出て、公爵の前に立つ。

 

 まだ齢十歳だが沈着な息子の、自分と同じ(とび)色の瞳に頑固なものを感じて、公爵は諦めの溜息をもらした。

 

「……もうよい。私は帰る」

 

 公爵が立ち去った後、ヴァルナルはそっとアドリアンの傷ついた右手をとった。

 手のひらの皮膚が爪で破かれ、溢れた血で真っ赤だった。

 

「……これほどまでにお怒りであるのなら、尋常のことではなかったのでしょう」

 

 ヴァルナルは事情を聞くことはしなかったが、汲み取った。

 さっきも言った通り、この沈着冷静な小公爵がそうそう激昂することなどあり得ないのだ。よほど腹に据えかねたのだろう。

 

 ハンカチをややキツめに巻いていくヴァルナルを、アドリアンは相変わらず無表情に見ていたが、不意にボソリとつぶやいた。

 

「……母上のことだ」

 

 ヴァルナルは一瞬手を止めた。

 アドリアンを見ると、懸命に泣くことを我慢し、見開いた瞳は真っ赤だった。唇はブルブルと震えている。

 

 ヴァルナルは結び終えてから、微笑んで言った。

 

「小公爵様は、お母上に似て、本当に思慮深い方でございます」

 

 公爵の亡き夫人への愛情は、その(ひと)を失ってもなお深い。いや、いっそ失ったからこそ、より深くなったと言ってもいい。

 エリアス・グレヴィリウスにとって、妻に関する侮辱は自分への侮辱である。もし、公爵がこの事を知れば、たとえ相手が大公家であろうと、ありとあらゆる方法で、シモン公子への報復を行うであろう。

 常軌を逸していると言われることも厭わぬほどに、公爵にとって妻は大事で、決して傷つけてはならぬ(ひと)なのだ。

 下手をすれば大公家と公爵家との争いになりかねない。

 

 アドリアンは考えた末に口を閉ざしたのだ。公爵が事実を知らねば、ただの子供の喧嘩で片付けられる。

 

「ヴァルナル」

 

 アドリアンは優しくされて、思わずこぼれた涙をすぐさま拭った。

 

「はい?」

 

 気づかぬふりをして、ヴァルナルは返事する。

 

「お前の黒角馬(くろつのうま)、乗ることはできるか?」

「さようですな…まだ調教が完全ではございませんので、私の馬に乗るのは難しいかもしれませんが……」

 

 話しながら、ヴァルナルはアドリアンと手をつなぐ。

 そのまま園遊会の会場を逸れて、馬車溜まりへと歩いていく。

 

 母親に似た聡明さを持った小公爵。

 だが、ヴァルナルの手をつかむ手はまだ小さく、震えている。

 

 常日頃からの教育の賜で、決して怯えや不安といった感情を表さぬようにしているアドリアンではあるが、自分よりも上背のある年上の少年達に囲まれて怖くなかったはずがない。

 無情な父からの打擲(ちょうちゃく)に心を痛めぬはずがないのだ。

 

 ヴァルナルは帰る道で、一つの提案を考えていた。

 アドリアンがグレヴィリウス公爵家の跡取りである以上、あの家から逃れることはできない。

 だったらせめて……

 




次回は2022年6月22日20:00の更新予定です。


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第二十六話 公爵家会合にて

「大公家からは何も言ってこぬが、此度の息子の不祥事をそのままにしておくことはできぬ」

 

 園遊会の翌日、主だった家臣が集められた。

 ヴァルナルを含めた五人の領主、直属騎士団の団長代理であるルーカス、補佐官、家令、公爵家に近い縁戚からの代表者達。

 

 彼らは園遊会で公爵家の後継者たるアドリアンが、大公家の嫡男であるシモン公子と騒ぎを起こしたことを聞き、ある者は面倒そうに溜息をつき、ある者は好奇心を丸出しに、ある者はヒソヒソと隣同士で囁きあって、皮肉げな微笑を浮かべた。

 

「原因はなんだったのです?」

 

 尋ねたのはルーカスだった。

 公爵はチラリとヴァルナルを見たが、ヴァルナルは黙して語らない。

 

「……不明だ。息子が口を割らぬ」

「であれば、ただの喧嘩ですな。さほど大袈裟にすることでもございませんでしょう」

 

 ルーカスはあっさりと結論づけた。

 しかし、そこに異議を唱えたのは、公爵家の古くからの縁戚であるアルテアン侯爵だった。

 

「畏くも皇帝陛下のおわす皇居の園庭にて騒動を起こしたのであれば、何の(とが)もせぬ訳にもゆかぬ。それこそ()()大公家が何も言ってこぬのも、こちらの出方を窺っておるに違いない」

「左様。ヴィンツェンツェが見ておったというのであれば、今後、何を言うてくるか…」

 

 アルテアン侯爵に同調するのは、同じく縁戚の一人であるニーバリ伯爵。

 

「よりによって、あの曲者に見られるとは…運が悪い」

「小公爵様も、何を言われたか知らぬが、()()()()()()大公家の公子に手をあげるなど…忍耐が足らぬ」

 

 グレヴィリウス公爵は黙って彼らがしゃべるに任せていた。

 再び、俯いて黙っているヴァルナルを見やる。

 

 アドリアンの剣の師匠でもあるヴァルナルは、その誠実な性格もあって、息子からの信頼も厚い。おそらく真実を知っているはずだ。

 しかし、これだけアドリアンが叩かれて反論もせずにいるというのであれば、今後も言う気はないのだろう。

 

 一方、ヴァルナルはヴァルナルで、とっととこの不毛な議論が終わらないかと、内心呆れ果てていた。

 何が忍耐が足りぬ、だ。アドリアン様は、この場に並んだ訳知り顔の大人の誰とても敵わぬほどの忍耐力の持ち主だ。

 

 議論というには稚拙な、上品な言葉に嫌味と皮肉をまぶした雑談が沸き立ってきた頃、ここがどこであるのかを忘れた短慮な一人が、思わず口に出した一言に一気に場は凍りついた。

 

「所詮、小公爵様もノシュテット子爵などという卑しい罪人の血を引いておるから、かような騒動を起こされるのでありましょう…」

 

 ノシュテット子爵は、公爵の亡き妻リーディエの父である。

 彼は皇宮に勤める役人であったのだが、恐れ多くも皇費を横領した罪で斬首された。後にこれは冤罪であったのではないか…という調査もされたのだが、結局、確たる証拠もなく有耶無耶にされた。

 そのため、いまだに彼女の出自を問題視し、その息子であるアドリアンが誹謗を受けることは珍しくなかった。

 シモン公子がまさにそうであったように。

 

 しかし、ここはその妻をこよなく愛した公爵を目の前にした会合の場であった。

 

 軽口で言ったプリグルス伯爵は、勘違いしていた。

 公爵が小公爵に対しての愛情が薄いのは、その母であるリーディエへの軽蔑に根差したものであると思っていたのだ。

 

 彼はアルテアン侯爵の娘の婚約者というだけで、本来ならばここにいるべき身分の者でもなかったのだが、アルテアン侯を通じて大貴族であるグレヴィリウス公爵家の一門に加われたことで、少々気が昂ぶって増長していたのだろう。

 

 当たり前のように一族の集まりに加わり、いかにも長年いたかのように振る舞っていたが、その禁句を言う限りにおいて、彼にその場にいる資格はなかった。

 今、失った。

 

「…? …え? な…なんです?」

 

 自分の言葉を最後に静まり返ったので、プリグルス伯爵ダニエルはキョトンとなってキョロキョロと周囲を見回した。

 

「………ルンビック」

 

 公爵は静かに家令を呼んだ。

 老家令はすぐさま公爵の傍らに音もたてずに歩み寄った。

 

「ここに」

「あの者は誰だ?」

「アルテアン侯爵の三女プリシラ様とご婚約されましたプリグルス伯ダニエル様にございます」

「………なぜ、ここにいる?」

 

 その言葉と共に公爵から立ち昇る凄まじい怒りの気配に、一同は息が苦しくなるほどであった。

 

 ダニエルは自分が相当に場違いであることを今更ながらに痛感し、この場から立ち去りたかったが、公爵の鳶色の瞳が燃えるかのように怒りを孕んで自分を睨みつけ、恐怖で硬直してしまった。

 

「申し訳ございません、公爵閣下!! おい! 貴様…ダニエル!!」

 

 公爵の怒りに圧倒されて同じように動けなくなっていたアルテアン侯爵がようやく立ち上がり、馬鹿な婿を連れ出そうとしたが、その時にはルーカスの目配せで部屋の隅で警護にあたっていた騎士達がダニエルを羽交い締めにしていた。 

 

「連れていけ。自室にて謹慎されるそうだ」

 

 ルーカスが指示すると、半泣きになっているダニエルはどうにか弁明しようとしたが、騎士達の剛力に柔弱な貴族の若君が敵うはずもない。

 

「お許しください! 公爵閣下」

 

 アルテアン侯爵はそのまま公爵の前まで来て、その場に膝をついて最上位の陳謝の礼を行う。

 公爵は無表情に見つめ、フイと顔をそむけた。

 

「ルンビック、侯爵への借款(しゃっかん)の期限を早めよ。今年いっぱいだ」

 

 冷たく言い放つと、アルテアン侯爵は真っ青になって言い縋る。

 

「こっ…こ、こ…公爵閣下…どうか! どうか、お許しを!! プリグルス伯との婚約は解消致します故…!」

 

 公爵の顔はピクリとも動かず、冷然とアルテアン侯爵を見下ろしていた。

 

「そもそも、娘の…しかも後継者でもない娘の婚約者ごときを、なぜ一門の会同に参席させた? 其処許(そこもと)の不見識が私の怒りを招いているのだ」

「誠に申し訳ございません。重々、反省致します故…借款の期限については……」

「ならぬ。この話はこれで終わりだ。アルテアン侯はこの場からの退出を許す」

 

 公爵はまったく聞き入れる気はないようだった。

 許す、という言葉で強制的な退去を命じられ、アルテアン侯爵はトボトボと部屋から出て行った。

 

 シンと静まり返った中で、コホンとわざとらしい咳をして手を挙げたのは、グレヴィリウス公爵の妹の夫であるマキシム・グルンデン侯爵だった。

 

「…それで、アドリアン小公爵への処遇ですが…皆様におかれては、どのようなものが適切と考えますか?」

 

 そもそも、その話であったことを皆が思い出す。

 

「左様ですな…まぁ、言っても子供の喧嘩ですから、鞭打ち程度がよろしいのでは?」

「三十もすれば十分でありましょう」

「その上で、しばらく謹慎して頂いて…」

「反省文なども(したた)めて、大公家に送ってもよいかもしれませぬ」

「いや。下手に弱味は見せぬほうが良かろう。あのヴィンツェンツェが後に利用して何をか仕掛けてくるやもしれぬぞ」

 

 口々に言っている中で、ヴァルナルはやっと時が来たと思った。

 無言で手を挙げると、公爵が気付いて眉を上げる。

 

「レーゲンブルト領主クランツ男爵」

 

 家令のルンビック子爵が淡々と呼び上げると、ヴァルナルは立ち上がった。

 

「此度のこと…仔細(しさい)は不明ですが、恐れ多くも皇帝陛下の催す園遊会において、小公爵様に不埒(ふらち)があったことは間違いなく、相応の罰が必要と思います。なれど、小公爵様におかれては、まだ心身ともに成長の途上にあります。できますればただ罰を与えるのではなく、今後の精神的向上を(たす)けるような処遇を為すべきかと考えます」

 

 公爵はようやく口を開いたヴァルナルを見て、フッと口の端を歪めた。

 

「それで? 男爵には既に腹案がおありのようだが?」

 

 皮肉げに言うと、ヴァルナルはニコリと笑った。

 

「アドリアン様にはしばらくレーゲンブルトにて、お過ごし頂きたいと思います」

 

 ヴァルナルが言ったことを、その場にいた人間はすぐに理解できなかった。

 レーゲンブルトなどという公爵領においては僻地ともいえる地域に、たった一人の大事な後継者を送リ出せるわけがない。

 

 しかし公爵は思案しながらつぶやいた。

 

「つまり、しばらく放逐させる(てい)をとる…ということか?」

 

 ヴァルナルは頷いてから、先程までの殺伐とした雰囲気を紛らすように明るく申し述べた。

 

「私の考えでは、おそらく大公殿下がこの事に目くじらを立てることはないと思います。今回、特に何も言ってこないのも、たかだか子供の喧嘩だと気にも留めていらっしゃらないのではないでしょうか?」

「ふん…ま、そのようなところであろうな」

 

 公爵もその意見には同意する。

 確かに一緒に現場を目撃したヴィンツェンツェは何かしら考えるところはあるかもしれないが、いつも悠然として鷹揚な大公が、この程度の子供のいざこざに苦言を呈するとは思えなかった。

 

 とはいえ、一応はこちらは身分上、()()()()()()()()必要がある。

 ヴィンツェンツェもわざわざ『両成敗』と言い置いて去った。

 

 アドリアンは()()()()()()()()()()()()

 

「しばらくの間、公爵本邸への立ち入りを禁じるという()を課せば、おそらくは老獪な側用人に文句をつけられることもないでしょう」

「それでアドリアンを連れて、帝都から直接レーゲンブルトに向かうということか?」

 

 ヴァルナルは返事の代わりに頭を下げた。

 

「公爵閣下、どうかアドリアン小公爵様を私めにお預け下さい。決して、信頼を裏切ることは致しません」

「…………」

 

 公爵は長い間、ヴァルナルを無表情に眺めた。

 案外と策士になったものだ。大公家への忖度だけでなく、これでレーゲンブルトに早々に帰る口実もできる。

 まったく…そうまでして帰りたいのか……と、公爵はうっすら苦笑いする。

 

 ヴァルナルは不意に微笑んだ公爵に、首をかしげたが、その時公爵がいきなりジロリと睨むように見てきた。

 

「お前の案に乗ってもよいが、条件がある」

「いかようにも」

「レーゲンブルトにいる間、息子を小公爵として扱わぬようにすることだ。既に知っている者には、一切口外せぬことを命じ、知らぬ者に伝えることを禁じる。一介の騎士見習いとして扱う。それが条件だ」

 

 居並ぶ者達は顔を見合わせた。

 それまでヴァルナルの提言を妙案だと思っていた者達も、公爵のこの言葉に顔色が変わる。

 とりあえず大公家への面目が立つようにと、一時的にアドリアンをレーゲンブルトに送るということだろうと思っていたのだ。しかし、公爵はそこで小公爵に安穏とした生活をすることを許さぬらしい。

 公爵の息子に対して苛烈であること、獅子が我が子を谷に落とすが如くである。

 

 しかしヴァルナルはその条件に、むしろ意を得たりとばかり莞爾と笑った。

 

「よろしゅうございます。幸いにも、領主館にいる大半の人間は地元で雇い入れた者達でございます故、小公爵様の顔は存じ上げませぬ。閣下の仰言(おっしゃ)る条件は簡単に果たせるでしょう」

「クランツ男爵!」

 

 叫んだのは、先程までアルテアン侯爵の隣で談笑していたニーバリ伯爵だった。

 

「仮にもグレヴィリウス公爵家の後嗣であられるアドリアン様に、失礼などあってはならぬ!」

 

 立ち上がった伯爵は公爵に向かって、いかにも恭しく頭を下げる。

 

「恐れながら、公爵閣下。ひとまず小公爵様に本邸への禁足(きんそく)を命じて、いずこかに蟄居(ちっきょ)させるというのであれば、我が伯爵家にてお預かり致しましょう」

 

 すると口々に領主や各家の当主達が叫ぶ。

 

「いや、そうであれば我が家にて面倒をみて…我が家には小公爵様と同じ年頃の娘がおります故…!」

「レーゲンブルトなど遠くてアドリアン様には長旅でお疲れになることでしょう。まして、冬に向かい、凍てつく寒さ。もし、体を壊しでもすれば大変です。我が領地であれば雪も少なく、温暖な気候でありますゆえ…」

 

 今更ながらにアドリアンを預かることで、公爵への恩を売ることができると思ったらしい。彼らの売り込みは熱を帯び、次第に公爵の眉間の皺が深くなっていく。

 

 そろそろ…という頃合いで、ダンッと机を叩いたのは、公爵家直属騎士団の団長代理であり、公爵の腹心とも呼ばれるルーカス・ベントソン卿だった。

 

「貴公らは公爵閣下の言葉を聞いておられたか? 閣下は小公爵様に、騎士としての修練を積むことで、精神的に成長して欲しいと考えておられるのだ。その意を汲み取ることもできずに、自らの名利(みょうり)を求め、アドリアン様をまるで犬猫を預かるかのごとく軽々に扱って、それこそ不敬であろう」

 

 それまで我こそは…と手を挙げていた者達は、ゆっくりと手を下ろす。公爵の苛立ちを感じて、互いに目配せしながら、必死で視線を逸らした。

 

 その中で勇気を持って立ち上がったのは、エシル領主のブルーノ・イェガ男爵だった。曽祖父の代に叙勲され、領地を与えられて以来、代々公爵家に仕える騎士でもある。

 

「もし、騎士団での若君の修練を望みとあれば、我らにて預かることもできます。わざわざ遠方のレーゲンブルトにまで行かずとも、我らが領地であれば本領地からも近く、若君にも多少なりと見知った土地でありましょう…」

 

 しかしその言に、ルーカスは皮肉げに口の端を歪めた。

 

「ほぅ。イェガ男爵は小公爵様の師たる器量があると大言壮語なさるか?」

「そ…それは…多少は…」

「言っておくが、小公爵様の剣の師匠はクランツ男爵だ。彼に実力で勝てるのか? 剣だけでなく、馬術においても、格闘術においても。騎士団同士の実戦試合においてもレーゲンブルトに勝ると申されるのか?」

「ルーカス」

 

 公爵が手を挙げて制した。

 

「それくらいにしておけ。イェガ男爵はじめ、エシルもまた、代々グレヴィリウスを守ってきた優秀なる公爵家の騎士団の一つだ」

「失礼致しました」

 

 ルーカスはすぐさま矛を収める。

 

「イェガ男爵の申し出は有難いが、やはり言い出した者に任せるのがよかろう。―――ヴァルナル」

 

 公爵が呼びかけると、ヴァルナルは「は」と頭を下げる。

 

()であれば、なるべく早くに帝都を出立することだ。三日後。それまでに準備できるか?」

「問題なく」

「よかろう。ルンビック、アドリアンを執務室に連れて来るように」

 

 公爵は家令に命じて立ち上がる。ガタガタと皆が立ち上がり、胸に手をあてて敬礼する中を、公爵は去っていった。

 

「フン! うまく取り入ることよ」

 

 ヴァルナルの横を通り過ぎざま、ニーバリ伯爵が吐き捨てていく。

 他の面々も概ね似たような不満げな顔でヴァルナルを睨みつけながら去った。

 

 連なる列の最後であったイェガ男爵はヴァルナルに向かって言った。

 

「公爵閣下はあのように仰言(おっしゃ)られるが、小公爵様は唯一の継嗣であられる。重々、気をつけて監護なさることだ」

「ご忠告痛み入る」

 

 ヴァルナルは特に皮肉でもなく返事をする。

 イェガ男爵はそれでも心配そうにつぶやいた。

 

「これまでにも小公爵様には、色々と不穏なことが起きることがありました故、くれぐれもご用心くだされ」

「承知致した」

 

 明快なヴァルナルに、男爵はそれ以上何も言えなかった。

 神経質に眉を寄せ、嘆息しながら立ち去る。

 

「やれやれ、お前さんもやってくれたもんだな」

 

 最後に残っていたルーカスが呆れたように言った。

 

「そうまでして、早々とレーゲンブルトに戻りたいか?」

「そうまでして?」

 

 ヴァルナルが聞き返すと、ルーカスは肩をすくめる。

 

「早くレーゲンブルトに戻りたいから、格好の口実を考えついたんだろ?」

「まさか。そんな訳ないだろう。そもそも園遊会が終われば帰っていいとの言質(げんち)は頂いていたんだし、こんな事が起こるなど想像もしておらぬさ」

 

 ルーカスはしばらく思案して、「それもそうか」と頷く。

 

「で? 本当に小公爵様の身分を隠して、一介の見習い騎士として生活させるのか?」

「そりゃ当然。公爵閣下からの条件であるのだから」

 

 ルーカスは溜息をついて、嘘をつくことを知らぬ友を見つめた。

 

「まぁ、そうであればこそ…公爵閣下もお前に預けることを決められたのだろうがな…」

 

 おそらく他の者であれば、公爵の条件を受諾しながらも、明らかな贔屓(ひいき)なり手加減をするであろう。だが、目の前のこの男にそうした斟酌(しんしゃく)は無縁であるし、公爵の直々の命令とあれば、疑いもなく実行するに違いない。

 さすがは、公爵閣下の命令というだけの理由で結婚までする男なだけある……。

 

「ま。時間がなくとも、手土産の一つくらいは買って帰ることだな」

 

 立ち去る間際にそんなことを言われて、ヴァルナルは顔色を変えた。

 

「そうか…そうだった。失念していた」

「…………」

「ルーカス…頼みが…」

「お前、本当に進歩がないな」

 

 ルーカスは鈍く頭痛がして、眉間を揉んだ。

 本当に相変わらず誠実だが、気の利かない男だ。

 

「とっとと行くぞ。店が閉まる前に」

 

 苛立たしげに言うルーカスに、ヴァルナルはホッと笑って言った。

 

「すまんな、ルーカス。恩に着る」

「おう。例の黒角馬、公爵様の次にはくれよ」

「わかった」

 

 これも普通であれば社交辞令であろうが、この男のことだ…律儀に守るのであろう。

 ルーカスは溜息をつきながら、ひどく懐かしい気分になって微笑んだ。

 

 





続けて更新します。



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第二十七話 白蛇と大公

「大公殿下の公子に向かっての狼藉(ろうぜき)の罰として、お前にはしばらく帝都並びにアールリンデンの公爵邸への立ち入りを禁じることとなった。クランツ男爵がお前の身を引き受けてくれる。彼と共にレーゲンブルトに向かい、しばらく騎士見習いとして生活するように。自分が公爵家の後嗣であることは、一切口外してはならぬ」

 

 疑問を差し挟む隙もなく、公爵はアドリアンに命令した。

 

「…はい」

 

「領主館の者達は若様のことを存じ上げませぬ。彼らに身分を伝えることのなきように、とクランツ男爵に申し伝えております故、少々の理不尽や無礼は許容なさいますように」

 

 家令のルンビックが補足すると、公爵が再び口を開く。

 

「此度の経緯(いきさつ)が何であるかはもはや聞かぬが、ヴァルナルはお前の意志を尊重して、私にも話さなかったのだ。彼の者の忠義を無駄にせぬよう、公爵家の後嗣として今後恥ずべき言動は控えよ」

 

 アドリアンは深く辞儀した後、顔を上げて言った。

 

「では、すぐにもレーゲンブルトに向かう用意をして参ります」

 

 執務室を出るなり、アドリアンは足取りも軽く自室へと向かう。

 

 少しだけ笑みがこぼれた。

 罰、とは言われたもののしばらくの間、自由になった気がする。

 窮屈で陰鬱な公爵邸を離れて、晴れやかな空の下で存分に空気が吸える。

 何度かヴァルナルから聞いていたレーゲンブルトに、こんなに早くに行けるとは。

 

 元々グレヴィリウス公爵家では、公爵位を継ぐ前に各地の公爵領を回って視察するという慣習がある。だからいずれ行けるだろうとは思っていたが……。

 

 アドリアンは途中から走り出していた。

 必死に隠していたが、楽しみで仕方ない。

 

 いつもは沈着冷静で、老成した小公爵様と呼ばれているアドリアンは、初めての長旅とこれから始まるであろう新生活に、すっかり浮かれていた。

 

 だからこの時は思いもしなかったのだ。

 確かに父は自分にとってひどく辛い罰を課したのだということを。

 

 

 

 

 

 

「……グレヴィリウス公はなんと?」

 

 ヴィンツェンツェ老人は、大公の身体に刺した鍼を一本一本、丁寧に抜きながら尋ねる。

 

 寝台にうつ伏せになりながら、ランヴァルト大公はグレヴィリウス公爵からの書翰(しょかん)―――こうした形式的なものであれば、それを起草したのも書き綴ったのも、おそらく補佐官あたりであろう―――を投げ捨てた。

 

「他愛も無い。此度の詫びと、息子を公爵邸からしばらく追い出すそうだ」

「………ほぉ?」

 

「北部の辺境の地で、しばらく騎士としての修行をさせるらしい。念のいったことだが…これは罰なのかな? ピクニックに行くのと変わらぬ気もするが…」

 

(いささ)かおかしな罰ではありますが、ひとまずこちらの顔は立てた…と、いうところでありましょう」

 

 ヴィンツェンツェ老は喉奥で笑みながら、慎重に鍼を抜いていく。

 

「それで、こちらの()鹿()はどうしている?」

 

 大公は枕の上でとぐろを巻いて眠る白蛇をゆっくりと撫でながら、煙管をふかせた。

 大公の言う()鹿()というのは、息子であるシモン公子のことだった。

 

「北の塔に閉じこめましたが、すぐに御方様(おんかたさま)の手の者によって()けられた由。今、あそこにいるのは替え玉として連れてこられた乞食にございます」

 

 大公は長く煙を吐いた。

 口元にはあきれた笑みが浮かんでいたが、紫紺の瞳は脳裏に浮かぶ息子と妻の姿を冷たく見ている。

 

「まったく母子(おやこ)揃って……ヴィンツェ」

「は?」

其方 (そなた)、あの阿呆共を多少なりと、まともにできる薬でも作れぬか?」

「ホッホホ!」

 

 ヴィンツェンツェ老は声を上げて笑った。ゆっくりと最後の鍼を抜いて、「終了致しましてござります」と静かに告げる。

 

 大公が起き上がり衣服を整えていると、寝ていた白蛇がゆっくりと動いてその背を這っていく。

 

「シモン公子もあれで、目端のきくところもございます。『割れた皿も使いよう』と、申すではありませぬか」

 

「フン…いつまでも母離れできぬ幼子のごとき男に、何の使い勝手があるのやら…。本当に我が息子かと疑いたくなる」

 

「残念ながら、公子様のご容貌は瞳の色を除けば、若き日の殿下によく似ておられます。御方(ビルギット)様の不貞は認められませぬな。……現在(いま)はともかく。先だっても、寝室にてホガニ子爵の令息とマルッケンダント伯爵が鉢合わせして、色々と騒がしかったようでございます」

 

「……男狂いが」

 

 大公は吐き捨てると、ヴィンツェンツェ老に命じる。

 

「その替え玉の乞食とやら、殺さずにおけ」

「おや? よろしいので?」

「割れた皿より使い道があるやもしれぬ」

「………かしこまりました」

 

 ヴィンツェンツェ老は深く辞儀をして、その場を去った。

 

 大公は煙を吐ききると、窓を開けてバルコニーに出た。

 既に夜は深く、ザザザと葉を渡る風の音と共に梟の啼声が聞こえてくる。

 

「つまらぬな……レーナ」

 

 大公はバルコニーの柵に手をついて、首元に絡まる白蛇に話しかけた。

 

「最近になって、やたらとお前の()のことを思い出す。お前が夢でも見せているのか?」

 

 チロチロと白蛇は赤い割れた舌を動かした。

 首から腕を伝って下りていくと、バルコニーの柵を這っていく。

 音もなくスルリスルリと端まで行き、そのまま闇に消えたかと思うと、キキキッと小さな鳴き声が聞こえてきた。

 しばらくすると、喉を太らせて戻ってくる。

 

 大公は満足気に微笑んだ。

 

美味(うま)いか? 皇居の鼠は」

 

 ビクビクと蛇の喉の中で、鼠が動いていた。

 

 





次回は2022年6月26日20:00に更新予定です。



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第三章
第二十八話 領主様の帰還


 領主館はあわただしかった。

 

 いつもであれば霜氷(そうひょう)の月半ば頃に帰ってくる領主様が、一ヶ月も早く帰ってきたからだ。

 

 しかも帰還を知らせる前触れの使いすらもなかった。

 いきなり土煙をあげて現れた一団に、町と外を隔てる古い城門を守っていた当番の騎士は、すわ山賊の急襲かと、色めきだった。

 

 先頭を進む黒角馬(くろつのうま)に気付いて、一人が飛び出して領主館へと知らせに走った。

 

「領主様だっ! 領主様がお帰りになったぞーっ」

 

 そこから領主館はそれこそ大騒ぎになった。

 嘘だろうと飛び出してきたネストリは、門番のジョスに留守の間の守衛を(ねぎら)っているヴァルナルを見るなり、すぐさま踵を返して使用人達に次々と指示を下した。

 

「エッラ、領主様の部屋の片付けは済んでいるのか? 風呂の用意をしておけ。オッケ、食料庫にソニヤを連れて行って、不足がないかを確認させろ。ロジオーノ、食器の準備を。私も後で行く…あぁ! 若君に知らせねば…アントンソン夫人! アントンソン夫人はどこか?! 何? 休暇だと? すぐに戻ってもらえ。領主様が帰還されたと伝えるのだ!」

 

 領主館を仕切るネストリ同様に、あわてまくったのは居残り騎士団の団長代理であったマッケネンだった。

 

「おい! 兵舎の掃除…副官宿舎の掃除の当番は誰だ? ゴアンらだと? あいつら絶対やってないぞ…フレデリク、お前すぐに行って、とりあえずシーツの皺だけでも伸ばしておけ! 風呂場の掃除はしてるんだろうな!? 誰かパウルさんかイーヴァリに言って、泉の水門を開けてもらえ! 食堂も片付けろ! 駒取り(チェス)盤だの何だの放り出してるだろう!!」

 

 マッケネンはよくやっていた方だった。

 居残り組は元は傭兵だった連中が多い。自分よりも年上の先輩相手に、うまくやっていた方ではあったが、それでも多少なりと風紀の緩みがあったのは否めない。

 

 ちょうどその時、早朝から昼過ぎまで行われた調練が終わり、午後の休憩時間であったのもある。

 それぞれが自由時間を楽しんでいて、中には午睡を貪っていた人間もいて、いきなり領主様を始めとする騎士団が帰還したのだと聞かされても、目を白黒させて呆然とするしかない。

 

「起きろ! 鬼が帰ってきたぞ!!」

 

 いつまでも起きないゴアンの耳元でサロモンが怒鳴る。ヒエッと声を上げて、ゴアンは飛び起きた。

 

「なんだッ!? 鬼ッ? 鬼って、鬼カールのことか?」

 

 副官の一人であるカール・ベントソン卿の容赦ないしごきに恐怖する騎士達は、陰で彼のことを『鬼カール』と呼んでいた。

 その場にいた騎士達の間に、その名称を聞いた途端にビリビリとした緊張感がはしった。

 

「ヤバイぞ!」

「宿舎の廊下の窓拭きなんざ、全然やってねぇぞ」

「ヤベェって…あの人、窓の桟の埃までチェックするんだぞ」

「おい! 出迎えするって招集かかったぞ」

「うわ…マズイ…どうすんだよ」

 

 オヅマはいい年した大人たちが右往左往するのをニヤニヤ笑って見ていたが、それを見咎めた騎士のサッチャが怒鳴りつけた。

 

「オイ、オヅマ! お前、兵舎の掃除してろ!」

「えぇ? なんでだよ?」

「お前は一人前の騎士じゃないからな、出迎えしなくたっていいんだ。見習いは、俺らの尻拭いするもんだ」

「堂々と言うことかよ、それ」

 

 オヅマが口をとがらせると、頭の禿げかかったゾダルが申し訳無さそうにオヅマの肩を叩く。

 

「すまん、オヅマ。頼まれてくれ。便所に置きっぱなしにしてるんだ」

「何を?」

(エロ)本」

「なんでそんなモンそんな所に置いておくんだよ!」

「そりゃ、お前…いずれわかるよ」

「知るか、そんなの!」

「頼むから! マジでヤバイんだって!!」

 

 最初に頼んできた禿げのゾダル以外にも数名に頼まれて、オヅマは頬をヒクヒクさせながら彼らの言う通りにするしかなかった。サッチャの言う通り、自分はまだ見習いであるので、正式な騎士達と同列には扱われない。

 

 招集がかかって無人になった兵舎の中を、オヅマは雑巾を持って歩き回った。窓やら机やらを適当に拭いて、食堂に置きっぱなしになっていた駒取り(チェス)盤やら、絵札(トランプ)やら、雑多な遊興(ひまつぶし)道具を、とりあえず空の木箱に次々に入れていく。

 便所掃除をして、例のゾダルに頼まれていた(エロ)本を箱に放り込んだところで、懐かしい声に呼ばれた。

 

「オヅマ」

 

 顔を上げて、彼の姿を見た途端、オヅマは箱を持ったまま走った。

 

「領主様!」

「相変わらず、元気そうだな」

 

 ヴァルナルの優しい笑顔に、オヅマも自然と笑った。

 

「それしか取り柄ないから…あ…いや、取り柄ないです、から」

「ハハハ。そういえば、マッケネンから礼法なども学んでいるらしいな」

「はい。一人前の騎士になるために、頑張ります!」

「結構。それじゃ、一つ頼まれてくれるか?」

 

 ヴァルナルはそう言うと、体をひねって半身になった。

 そこにはオヅマとそう年の変わらなそうな少年が立っていた。

 

 黒髪で、何の感情もない(とび)色の瞳。

 

 オヅマは見た瞬間に、どうも合わなそうな気がした。

 

「なんです? そいつ?」

 

 思わずぶっきらぼうに尋ねると、少年の背後に控えたカールとパシリコの顔が微妙に引き攣ったが、オヅマは気付かない。

 

「彼は私の知人の息子だ。今回、この騎士団の見習いとしてしばらく参加することになった。お前と同じだな」

「はぁ……そうですか」

 

 気乗りしないオヅマに、ヴァルナルは笑って言った。

 

「騎士達が対番(ついばん)になっているのは知ってるな?」

 

 騎士達は基本的に二人一組で行動する。

 元々は戦場において、一人の敵に対峙するにも、二人で行うことで確実に殺傷すること以外に、互いに無防備になりがちな背を合わすことで、複数の敵からの攻撃に対処することを目的にしている。

 戦時においてだけでなく、普段から騎士達は二人で行動することで、阿吽(あうん)の呼吸を持つことが推奨された。

 まぁ、今回のようにお目付け役がいなくなると、大真面目に守るような奴はいなかったが。

 

 オヅマはヴァルナルの言葉を聞いた途端に嫌な予感がしたが、果たしてそれは当たった。

 

「この子は、しばらくお前の対番になる」

「えっ?」

 

 思わず声に嫌悪がこもる。ジロリと目の前の少年がオヅマを見上げた。

 ヴァルナルはハハハと笑ってから、オヅマの肩を叩く。

 

「まだ、見習いとしてはお前に一日(いちじつ)の長がある。しっかり面倒みてくれ。あぁ、もちろん寝る場所もお前の小屋でな」

「えっ? マジで?」

 

 つい、いつもの言葉遣いになる。

 

「オヅマ…」

 

 鬼カールが低く唸るように注意すると、オヅマは首をすぼめた。

 ヴァルナルは黒髪の少年の背を軽く押して、自己紹介するように促した。

 

「……アドリアン…です」

 

 オヅマはポリポリと頭を掻いてから、自分も名乗った。

 

「オヅマだ。よろしくな」

 

 アドリアンはご丁寧に深々と頭を下げてくる。

 その様子を見て、オヅマは彼がおそらく自分のような平民の出ではないのだろうと思った。まぁ、領主様の知り合いの息子であるなら、そうだろう。

 

「じゃあ、早速色々と慌ただしいようだから、頼んだぞ」

 

 ヴァルナルはオヅマにアドリアンを託すと、行ってしまった。

 オヅマは軽く溜息をついてから、アドリアンに尋ねた。

 

「年は?」

「十歳」

「じゃ、俺の一つ下か。アドリアンって長ったらしいから、アドルって呼ぶぞ。いいな?」

「………」

「返事!」

「……はい」

 

 オヅマは眉を寄せると、ハアァと厭味ったらしく大きな溜息をついた。

 

「お前さぁ、その小さい声だと通じねぇよ。ここじゃ」

「………」

「だからぁ、返事っ」

「はい」

 

 アドリアンはいつもより大きな声で返事したものの、オヅマは首を振った。

 

「お前にゃ、発声練習からだな」

「発声練習?」

「いいから、とりあえず…これ持て」

 

 オヅマは片手で持っていた箱をアドリアンに差し出す。アドリアンは何気なく受け取って、思っていた以上の重さに、箱を落とした。

 

「あ~っ! なにやってんだよ、お前!」

「……すまない」

「すまないとか言う前に動け! 拾え!」

 

 アドリアンはあわててしゃがみ込んで、チェスの駒や絵札や、見慣れぬ赤い棒を拾う。これが、重さの理由だったようだ。

 

「これは…なんですか?」

 

 七寸(20センチ)ほどの長さの赤い棒。一体何で作られているのか、やたらと重い。

 

「何って…棒亜鈴(アレイ)だよ。これで指を鍛えたりするんだ」

「指?」

 

 オヅマは人差し指だけで棒を掴む。しばらくして今度は中指。薬指、小指はさすがにプルプル震えてすぐに落ちた。

 アドリアンも他に散らばっていた棒でやってみようとしたが、中指で持ち上げることすら無理だった。重い。

 

 オヅマはアドリアンの白く細い指を見て、せせら笑った。

 

「無理だな」

 

 アドリアンはさすがにムッとなった。

 最初からいい印象でないのはお互い様だ。だいたい馬車の中で、ヴァルナルから同じ年頃の少年を騎士として養育していることを聞いた時から、アドリアンは少しばかり心が波立った。日頃の鍛錬で顔には出さなかったが。

 

 ヴァルナルはこの少年―――オヅマと自分が仲良くなってくれるだろうと思っているようだが、今のところそうなる兆候は皆無だ。

 

「この棒、いただいても構わないだろうか?」

「ハァ? お前、これで練習すんの?」

「あぁ」

「ムリムリ。やめとけやめとけ。素人が最初(ハナ)っから赤棒なんて」

 

 あからさまに馬鹿にしたオヅマの言い方も態度もいちいち気に障ったが、アドリアンはぐっとこらえて反論した。

 

「今日すぐには無理でも、毎日の努力が成果に繋がるとヴァルナルは言っていたぞ」

「オイ!」

 

 オヅマは厳しくアドリアンを見据えた。急に雰囲気が変わり、アドリアンは内心でヒヤリとなる。

 

「領主様のことを、呼び捨てにすんな!」

 

 あっとなって、アドリアンは俯いた。

 あれほど行く道で小公爵であることは忘れるように、と言い聞かせられたのに。

 

「申し訳ありません」

 

 アドリアンが消沈して謝ると、オヅマはフンと鼻息をならして腕組みする。

 

「お前さぁ、領主様の知り合いの息子だから、近所のおじさんくらいの気持ちでいるんだろうけど、ここで騎士見習いとしてやっていく以上、領主様はおじさんじゃなくて、騎士団長だし、ご領主様だし、男爵様なんだ。ちゃんとわきまえろよ」

 

 そういう自分はいまだに時々気安い口調で話すし、なんであればそのご領主様の息子になど、さんざん無礼な口をきいているのは棚に上げて、オヅマは鹿爪らしい顔で言う。

 アドリアンは拳を握りしめながら、もう一度謝った。

 

「はい。すみません」

「も、いいから。拾えよ」

 

 オヅマは赤棒を手早く拾って箱に入れていく。

 アドリアンは近くに落ちていた本を拾って、表紙の題名に首を傾げた。

 

『侯爵夫人の蜜の誘惑』――――?

 

 騎士団にあるのだから、用兵の本か何かかと思っていたのだが、違うのだろうか?

 まじまじ眺めてしまっていると、オヅマが尋ねてくる。

 

「なに、お前。そんなの興味あんの?」

「興味があるというか…何の本かと思って…」

「見たらいいだろ」

「いいのか? 勝手に人の本を…」

「本なんざ回し読みだよ。誰のなんてことねぇ」

 

 言いながら、オヅマは遠くまで転がっていた駒を取りに行く。

 アドリアンは中を開いた。ペラペラめくって、いきなり女の裸が描かれた挿絵が現れてバサリと本を落とす。

 

「ハハハハハッ!」

 

 オヅマはそれまで耐えていたのが弾けて大笑いした。

 アドリアンは青い顔をしていたが、一気に赤くなってペタリと座り込んだ。

 

「な、なんだ! それ!」

 

 恥ずかしさを隠すように、アドリアンは大声で怒鳴った。

 しかし、オヅマは平然として、アドリアンの落とした本を拾う。

 

(エロ)本。騎士団の必須アイテムだろ」

「なんで必須なんだ! そんな訳ないだろう!!」

「そうかぁ? どこでもこんなモンだろ。男所帯なんだから」

「レーゲンブルト騎士団は帝国において、皇家の騎士団にも並ぶ勇猛果敢な騎士団と聞いていたのに……」

 

 アドリアンが信じられないようにつぶやくと、オヅマは肩をすくめた。

 

「おとぎ話じゃあるまいし、貴族のお坊ちゃんばっかが集まったような近衛騎士と違って、傭兵上がりの騎士なんざこんなもんだよ。まぁ、やることやってりゃ文句もないだろ。ホラ、いつまで腰抜かしてんだよ。それとも、別の理由か?」

 

「別の理由?」

「なんかよくわかんねぇけど、ああいうの読んだら、股の間が熱くなるんだろ?」

「ちっ…違うっ!」

 

 アドリアンはすぐに立ち上がった。実際、多少は…少しばかり熱い……ような気はしたが。

 

 オヅマはすべて拾ったのを確認すると、再びアドリアンに箱を差し出す。

 

「両手でしっかり持てよ。お前、力ないから」

 

 不本意ではあったが、アドリアンは両腕でしっかりと箱を持った。

 この重さのものを片手で、なんであれば差し出す時などは中指でつまむように持って渡すなど…どういう指の力なんだろうか。

 

 無言で歩き出したオヅマの後を追いながら、アドリアンは沈黙がひどく気になって、思わず問いかけた。

 

「君も…読むのか?」

「は?」

「さっきの…あの…ああいうの」

「俺は興味ない。本とか読むの嫌いだし。読むんだったら、まだ算術の謎解き本とかやってる方がいいな。解いた時にスッキリするから」

「そうか…」

 

 アドリアンはホッとした。あんなものを始終見せられたら、まともに騎士の訓練などやってられない。

 

「なに? お前、興味あんの? 詳しい人教えてやろうか?」

「ない! まったくない!」

 

 大声で即答すると、オヅマはニヤリと笑った。

 

「声出てきたな。その調子だ」

「…………」

 

 アドリアンは眉間に皺を寄せた。

 それから仏頂面になっている自分に気付いて、困惑した。

 いつもは平常心でいることを心がけて、決して表情を崩すことのないようにしているのに、どうにも調子が狂う。

 

 目の前で楽しげに口笛を吹いて歩いて行くオヅマの亜麻色の髪を見て、ここに来る元凶となった大公の息子のことを思い出した。

 そういえば彼も同じ亜麻色の髪だった。さほどに珍しい髪色ではないが、こうして背を向けていると、妙に似通ってみえる。

 

 アドリアンは嘆息した。

 

 亜麻色の髪の公子と喧嘩して放逐された先で、同じ亜麻色の髪の少年にこき使われるとは……よほど自分は亜麻色の髪の人間と相性が悪いらしい。……

 





引き続き、更新します。



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第二十九話 ネストリの思惑

 ヴァルナルはオヅマにアドリアンを託した後に、領主館に向かった。

 玄関の大きなドアを開いて入ると、大階段の広間には主だった召使いが集合してヴァルナルらを迎え入れた。

 

「お帰りなさいませ、領主様」

 

 代表して執事のネストリが挨拶し、深々とお辞儀すると召使い達が全員頭を下げる。

 

 その中で一人だけ立ち尽くしていたオリヴェルは、久しぶりに再会した父と目が合って、思わず顔を伏せてしまった。

 隣にいたミーナがそっとオリヴェルの手を包む。

 大丈夫、と声にせず言っている。

 

 一方、ヴァルナルもまた久しぶりに対面した息子が、以前に比べて随分大きくなったことに驚きながら、どう声をかけたものか迷った。今更ではあるが、それまで放任してきたせいで、こういう時の当たり前の会話すら出てこない。

 しかし、オリヴェルの手をそっと握ったミーナに気付いて、ヴァルナルもまた勇気をもらった。

 軽く咳払いした後に、息子に近づくと少々緊張しながら声をかけた。

 

「随分と…大きく…元気になったようだな。オリヴェル」

 

 オリヴェルは驚いたようにヴァルナルを見上げてから、ニコリと笑った。

 

「はい。元気になりました。皆のお陰です」

「うむ。騎士達の修練の見学にも来ていたようだな」

「体調の良い時に、皆さんの邪魔にならないように、時々見学させてもらっています。先日も、格闘術の試合を見せてもらいました」

 

 オリヴェルは話しながら不思議だった。

 父とこんなに普通に会話できると思っていなかった。以前は目の前にしただけで怖くて、悪いことをしたわけでもないのに、申し訳ない気持ちになって縮こまっていたのに。

 

 ヴァルナルはオリヴェルの頭を軽くなでてから、頭を下げているミーナをチラリと見た。

 ひっつめた髪に贈った髪飾りはない。

 ヴァルナルは溜息をもらしたが、思っていたほどに落胆はしなかった。手紙で固辞していたのだし、仕方ない。

 

「出迎えご苦労だった。皆、仕事に戻ってくれ。ネストリ、執務室に来てくれ」

 

 ヴァルナルはその場ではあえてミーナに声をかけることはなく、急な領主の帰還で慌てている召使い達に仕事を続けるように促す。

 

 ヴァルナルが階段を上って行くと、その後に続きながら、ネストリはミーナをチラと見てフンと鼻で(わら)った。

 やはり、都から戻ればこの程度の女など目にも入らなくなるのだろう。数ヶ月前までは領主様の贔屓もあったが、そろそろ潮時だと当人もわかったはずだ…。

 

 ネストリは内心せせら笑っていたが、執務室でヴァルナルからグレヴィリウス公爵の後嗣アドリアンが来訪していると告げられると、驚嘆してミーナのことなど一気に吹っ飛んだ。

 

「え…小公爵様…が?」

 

 ヴァルナルは頷いた。

 公爵邸での勤務経験のあるネストリは既にアドリアンの顔を見知っているだろうから、知らせた上で対応させた方がよい。

 

「そうだ。公爵閣下からの直々の仰せで、今回は特に一騎士見習いとしてこのレーゲンブルトで過ごすように言われ、いらっしゃっている。ついては、このこと…つまり、アドリアン様が小公爵様であることはレーゲンブルトで雇った人間に口外せぬようにしてもらいたい」

 

「は…あ…?」

 

 ネストリには意味がわからなかった。

 どうして公爵様はこんな辺境の寒さ厳しい地に、小公爵を来させることにしたのだろうか。

 堅牢なだけで、何らの豪奢も面白みもない、ただの北国の小さな館だ。

 しかも一騎士見習い? 一体、どういうつもりだ?

 

 しかし……と、ネストリは素早く頭の中で自分がどのように動けばいいのかを構築する。

 

「つまり、私めはアドリアン様を小公爵様であるように扱わないようにする…ということですね。敬語ではなく、()と呼ぶこともないようにせねばならない…と」

 

「そうだ。一応、一緒に生活してもらうオヅマには私の知人の息子ということで紹介している。君にもそのつもりで接してもらいたい」

 

 ヴァルナルが何気なく言った名前に、ネストリはピクリと眉を寄せた。

 

「少々、お待ち下さい。ただいま、領主様はオヅマと小公爵様、二人で一緒に生活してもらう…と仰言(おっしゃ)ったのですか?」

「そうだが?」

「ご冗談を! 小公爵様をあの無礼な小僧と一緒に!? 後でどんなお叱りを受けるかもしれませんぞ! ご再考下さいませ!」

 

 ヴァルナルは笑った。思っていた通りの反応だ。

 

「君の心配はわかるが、この事については公爵閣下、小公爵様共に了承しておられる。よほどのことでもない限り、不敬を問われることはないだろう」

 

「しかし…奴めは若君……オリヴェル坊ちゃまに対しても、時々非常に横柄な口をきいて…この前も母親のミーナに叱られておったのです。しかも、その叱責に不服があるような…不満気な態度で…まったく図々しい」

 

 ヴァルナルは大笑いした。いかにもオヅマらしいエピソードだ。

 

「あの二人については、双方の意志にまかせている。オヅマも騎士としての修養を積めば、いずれ分限を知ることになる。そうなれば自然と相応の態度を身に着けることになるだろう。………私もそうであったしな」

 

 話すヴァルナルの脳裏に、若き日の公爵とその奥方の姿が思い浮かぶ。

 物知らずな若い騎士見習いを、弟のように可愛がってくれた。

 あの日々の思い出があるかぎりにおいて、ヴァルナルがグレヴィリウス公爵家を裏切ることは有り得ない。当然、皇家の直属騎士になることも。

 

「………承知致しました」

 

 ネストリは最終的には了承した。

 考えてみれば、特に自分の負担はない。

 

 元々、ネストリにとって小公爵はあまり有難い存在ではなかった。

 

 グレヴィリウス公爵とその夫人は仲が良かったものの、不思議と子宝には恵まれなかった。公爵は妾をとることもなかったので、当然跡継ぎについて問題視されたが、それでも公爵が夫人と離婚することはなかった。

 そのため、うるさく言ってくる親戚を黙らせる為に、公爵は自分の妹が産んだ男の子を養子とすることに決めたのだ。

 

 それがグルンデン侯爵家の次男・ハヴェルだった。

 まだ、公爵夫人に子供ができる可能性も皆無でなかったので、正式な養子となるのは成人の後とされたが、ハヴェルはほとんどグレヴィリウス公爵家の後嗣としての教育を受け、ネストリは彼の従僕として仕えていた。

 

 ところが、結婚九年目にしてようやく公爵夫人が懐妊。その後に出産。

 ハヴェル公子はあっさりと捨てられた。グルンデン侯爵家に戻されたのだ。

 未だにこの事を恨みに思う人間は多いし、公爵が自分の息子を疎ましく思っているのは有名なことだったので、あるいはハヴェル公子をやはり公爵家の後継とする可能性もあるのではないかと、注意深く窺っている勢力もあった。

 

 ということでネストリとしては、アドリアン小公爵様を()()()()必要がないのであれば、むしろ気楽であった。内心の不満が多少噴き出たとしても、今回においては免除されるということであろうから。

 

「……どうも、腹に一物ありそうな感じですね」

 

 ネストリが去った後、カールは不信感もあらわに言った。

 小公爵がレーゲンブルトに行くことが決まってから、内々に兄のルーカスが領主館にいる使用人について調査している。その中でネストリがハヴェル公子の従僕であったことが、懸念材料として挙げられていた。

 

「大丈夫でしょうか、領主様。彼がもし小公爵様に対して…」

 

 パシリコが不安そうに言いかけると、ヴァルナルは「わかっている」と頷く。

 

「一応、念のために彼がハヴェル公子側の勢力と繋がっているのかは調べている。そのうち知らせが来るだろう。とりあえずしばらくは様子を見るとしよう…」

 

 ヴァルナルは言ってから、少しだけ嫌な予感を持った。理由はない。ただ一瞬、嫌なものが胸をよぎった。

 

 だが行政官の来訪を告げる声に、久しぶりに領主としての顔を取り戻す。

 

「入り給え、ミラン行政官」

 





次回は2022年6月29日20:00に更新予定です。



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第三十話 告白

 その夜、久しぶりに息子との夕食を終え、行政官の持ってきた収穫についての資料に目を通していたヴァルナルは、控えめなノックの音にすぐさま反応した。

 扉が開く前から、そこに立っているのが誰かわかった。

 

「入るとよい、ミーナ」

 

 声をかけると、扉が静かに開いてミーナが入ってくる。

 

 その手にはヴァルナルの贈った箱があった。手紙でも申し伝えてきたように、律儀に返還しに来たらしい。胸の前でその箱を持ったまま、深く頭を下げる。

 

「帰着されたばかりの忙しい中、お時間をとらせて申し訳ございません」

 

 相変わらず丁寧で、品のある言葉遣いだ。

 オヅマは母親は時々、生まれ故郷の西方の訛りがあると言っていたが、ヴァルナルに対するミーナの言葉はちゃんとしたキエル標準語で、その上で洗練された貴族的古語まで使いこなしていた。

 

 ヴァルナルは立ち上がると、執務机の前にあるソファに座りミーナも座るように促した。

 

「その箱を受け取る気はないぞ」

 

 ミーナがテーブルの上に箱を置く前に、ヴァルナルは言った。

 今しも箱を置こうとしていたミーナの手が止まり、困惑したようにヴァルナルを見た。

 

 ヴァルナルはニコリと笑う。

 

「中身が気に入らないなら捨ててもらってもいいし、誰かに……マリーにやってもいい。ただ、マリー以外の女性にあげるのはやめてもらいたいな。一応、選んだ身としては、貴女(あなた)のために買ったのだから」

 

 ミーナは箱を膝の上に置いて、再び頭を下げた。

 

「申し訳ございません。気を遣っていただいたのに…無下なことをと…ご気分を害されたことでしょう」

「私が? まさか、気分を害したりはしない。貴女が奥ゆかしい人物だと尚のこと感心するだけだ」

 

 ミーナはゆるゆると首を振ってから、しばらく黙り込んだ。

 

 ヴァルナルは蝋燭の炎に揺らめくミーナの艶やかな褐色の肌と、耳元に垂れた淡い金の髪を見つめた。

 何かを考え込む伏せた薄紫色の瞳の、長い睫毛すらも美しい。

 

「……迷惑だったか?」

 

 ヴァルナルが自嘲気味に言うと、ミーナは顔を上げてヴァルナルを見てから、少しだけ笑った。

 

「迷惑ではございませんけど…少し……困りました」

「…正直だな」

 

「申し訳ございません。でも、このような贈り物を一介の召使いが頂いて…その前にも文筥(ふみばこ)も頂いて、それでも身に過ぎた物と恐縮しておりましたのに……」

 

 ヴァルナルは一気に渋面になった。今更だが、恥ずかしい。

 あんなものを女に最初の贈り物で贈る男なんぞいないと…ルーカスにも馬鹿にされ、公爵閣下までが苦笑していた。

 

「あれは、こちらこそ申し訳なかった。勘違いさせるようなものを贈って…」

 

「いいえ。とても嬉しゅうございました。あのインクは珍しいものですね。時間が経つと、色が紫に変わって…並んだ文字が(すみれ)色になるのは、読んでいても美しいと思いました」

 

「あぁ! そうなんだ、店主が見本を見せてくれてな。時間が経てば経つほどに、色が薄紫色になっていって、ちょうど……」

 

 嬉しげに話すヴァルナルを、その薄紫の瞳が微笑んで見ている。

 ヴァルナルは言いかけた言葉を呑み込んだ。一気に顔が熱くなる…。

 

 ミーナは急に黙り込んだヴァルナルに、改めて礼を言った。

 

「心遣い、感謝しております。けれど、そこまでして頂かなくとも、私はオリヴェル様のお世話を()げ出すようなことは致しません。少なくとも、無事に若君が成人されるまでは」

 

 ミーナがそう言う理由に、ヴァルナルはすぐ思い至った。

 

 オリヴェルには元々、乳母代わりとなってずっと面倒みてくれた女がいた。

 彼女は元々、オリヴェルの母であるエディットの侍女の一人として帝都からやって来た。

 最終的にヴァルナルとエディットの関係が破綻して、彼女がレーゲンブルトから去った後も、エディットに命じられたのか、自分から志願したのかは知らないが、オリヴェルの世話を一手に引き受けて面倒を見てくれていたのだ。

 

 しかしそこには魂胆があった。

 オリヴェルの世話を焼くことで、ヴァルナルと親密な関係になり、ゆくゆくはエディットの後釜として男爵夫人となることを目論んでいた。

 

 ヴァルナルはオリヴェルの世話をしてくれる彼女に感謝はしていたが、女性としては何らの魅力も感じていなかったので、とうとうしびれを切らした彼女がヴァルナルの寝室に忍び込んできた時に、はっきりとそのつもりがないことを言ったのだ。

 

 すると、彼女は翌日には出て行った。

 しかも子供のオリヴェルに、何かしらひどいことを言い残していったようだ。

 オリヴェルは熱を出して寝込んだ後、何も言わぬ子供になっていた。

 

 ちょうど春の種播きが終了した頃の、公爵邸へと向かう時期であったため、ヴァルナルは医者と女中頭にオリヴェルを任せて出立してしまったのだが、そこから親子の隔絶が始まったのは否めない。

 

 ミーナはおそらくオリヴェルから彼女の話を聞いたのだろう。

 そうであればこそ、尚の事、オリヴェルに対して心を込めて、慎重に接してくれていたに違いない。

 

 この数ヶ月の間のオリヴェルの劇的な変化は、ただオヅマとマリーという友を得た以上に、ミーナという安心できる存在があればこそ、だろう。

 

「貴女がオリヴェルのことを、我が子同様に責任を持って面倒をみてくれていることは知っている。貴女の職務の熱心さを疑う気は微塵もない」

 

 ヴァルナルは一気に言ってから、軽く息をついた。

 

 こんなに緊張するのは、いつぶりだろうか。ある意味、皇帝陛下への挨拶以上に…いや、それとは全く違う緊張感だ。

 

「あの文筥も、その髪飾りも…オリヴェルの世話をしてくれているお礼として贈ったのではない。貴女に私の気持ちを伝えたかったからだ…その……好意を持っていることを…だ」

 

 我ながら口下手な言い様にヴァルナルは情けなかった。

 ルーカスならもっと気の利いた台詞が出てくるだろうに。……

 

 ミーナはヴァルナルの言葉を聞いて、膝の上で手をギュッと握りしめた。

 寄せた眉に憂いが滲み出る。

 

 自分はそういうことからは遠ざかりたかった。

 既に二人も子供のいる(とう)の立った未亡人だ。そんな自分が恋愛など……まして相手はご領主様で、もはや夢物語どころか滑稽話だ。

 

 けれど、目の前にいる(ひと)はミーナのそうした事情を十分に含んだ上で言っているのだろう。

 だとすれば、彼がもっと納得できる理由で断るしかない。

 

「領主様、失礼ですが…見てもらいたいものがございます」

 

 急に決然とした口調で言うミーナに、ヴァルナルは目を丸くしながら、問いかけた。

 

「なんだろうか?」

 

 ミーナは唇をキュッと閉じると、クルリと後ろを向く。

 それからシャツの衿紐を取ると、グイと衿を大きく引っ張った。

 

「ミッ…ミーナ?!」

 

 ヴァルナルは慌てたが、ミーナは静かな声で告げた。

 

「肩を、見て下さい」

 

 言われてヴァルナルは少しだけ目を細めながら、蝋燭の灯りに照らされたミーナのか細い線の肩を見つめた。

 そこには菱形が三つ並んだ、青黒い入れ墨のような痕がうっすらとあった。

 

 ヴァルナルは言葉を失った。

 

「それは……」

「今まで黙っておりましたこと…誠に申し訳ございません」

 

 顔を俯けて謝ってから、ミーナはすぐに衣服を元に戻した。

 再びヴァルナルと向き合い、深く頭を下げる。

 

「ご覧いただいておわかりのように、私は昔は奴隷でございました」

 

 顔を上げたミーナは静かで無表情であったが、告げる言葉は少し震えていた。

 

 ヴァルナルは今見た光景にまだ呆然としながらつぶやく。

 

「………確か、以前は帝都近郊の…ルッテアの商家で働いていたと…前に聞いたが」

 

「はい。けれどその商人が不正で逮捕され、私は幼いオヅマと一緒に職を失って路頭に迷いました。その時に、人に騙されて…奴隷商人に捕まってしまったんです」

 

 ヴァルナルは眉を寄せ、拳を握りしめた。

 

 奴隷売買は帝国においては建国当初から禁止されているが、周辺では未だに残っている国もある。そのせいでか、そうした悪徳商人が帝国内にも隠然と存在していた。 

 奴隷という存在が支配欲をくすぐられるのか、上流階級の中には隠れて()()()()()者もいるらしい。

 

「私も、オヅマも…奴隷としての辱印(じょくいん)を押されました」

 

 奴隷は身体(多くは肩)に無数の針で出来た判子を押されることで、束縛される。その針には一種の麻薬のような薬が塗られており、この作用で奴隷は主人に服従することになる。その後は、定期的にこの判子を主人が奴隷に()()ことで、()()される。

 

「…でも、売りに出される前に、夫が私を見初めてくれて……結婚を条件に私を奴隷から解放してくれました」

 

 実際にはコスタスはミーナから一時的にオヅマを取り上げたのだった。

 その上で飲み仲間だったその奴隷商人に、田舎の母から渡されていた嫁探しの費用をすべて支払って、ミーナとオヅマを買った。

 

 コスタスはミーナを脅したのだ。

 

 自分と結婚すれば奴隷身分から解放し、オヅマも返してやる、と。ミーナに選択肢はなかった。

 

「奴隷から解放され、解役薬(ハグル)をもらって、私の印は少しずつ薄くなっていきましたが…」

 

 淡々とミーナは話す。

 解放時には奴隷印の麻薬を中和するためのハグルの根から作られた薬が渡され、それを服用することで押された印も薄くなる。

 

 建国以来から奴隷を持つことを禁止されている帝国においては、奴隷を嫁にしているなど恥とされるため、コスタスはミーナを結婚と同時に解放したが、オヅマには解役薬(ハグル)を与えなかった。

 オヅマは禁断症状によって、ひどい熱と嘔吐を繰り返し、一時は生死をさまよったが、ミーナの懸命な看護によってどうにか一命をとりとめた。その後は順調に成長したものの……

 

「自然解役(*解役薬(ハグル)を使わず、自らで禁断症状を克服する方法)は、かえって印を濃くするらしいのです。あの子の肩には辱印が残っていましたが……マリーを庇った時に火傷をして……」

 

 ヴァルナルは一度見かけたオヅマの背中の火傷痕を思い出した。

 そういえばその時に、平気な顔をして言っていた。

 

「あぁ、ちょっと竈の火で火傷しちゃって…」

 

 それ以上は言いたくなさそうだったので、あえて聞かなかったが……

 

 ヴァルナルはギリと歯噛みした。

 

 聞けば聞くほど、腸が煮えくり返る。

 主を失って困り果てた親子を騙して奴隷にしたその商人も、金で買って無理やり結婚した元夫も、この場にいたら叩き斬ってやりたい。

 

「僅かな期間であったとはいえ…奴隷であったような女は、領主様に相応(ふさわ)しくありません」

 

 ミーナは微笑みを浮かべて、はっきりと断った。

 

「こうしてお仕事をいただけるだけで、十分にありがたいことだと思っております。どうかこのまま……お仕えすることをお許し下さいまし」

 

 ヴァルナルはミーナの下げた頭の、耳元から垂れた淡い金の髪に手を伸ばしかけて、やめた。

 

「………その箱は受け取らない」

 

 もう一度、最初の言葉を繰り返す。

 ミーナはゆっくりと顔を上げると、箱にそっと手をやって仕方なさそうに微笑んだ。

 

「では…マリーがもう少し大きくなったら、あげることに致します」

「…………」

 

 ヴァルナルが黙り込んで考えていると、ミーナは静かに立ち上がった。

 

「失礼致します」

 

 箱を持って丁寧にお辞儀をし、出て行こうとする。

 

 ドアノブを掴んだミーナの背後で、ヴァルナルがはっきりと言った。

 

「あきらめるつもりはない」

「…………」

 

 扉を開きかけて、ミーナは止まった。

 

 凍りついた心にピシリと亀裂が入る。

 固く引き結んだ唇が震えた。

 じわじわと温かな何かが自分を満たしていく。もうとっくに枯れ果て、置き忘れていた場所に……。

 

 ヴァルナルは立ち上がると、ミーナの背後までゆっくりと歩いていった。

 開きかけた扉に手をかけながら、そっとミーナの右肩にもう片方の手を置く。

 

「私達が出会って、まだ一年も経っていない。貴女の心がそう簡単に私を許すとは思っていない。受け入れられるまで…いくらでも待つ」 

 

 ミーナは無礼だと承知しながらも、返事ができなかった。

 振り払うように出て行くと、廊下を走り去った。

 

 ヴァルナルはまだ手に残るミーナの肩の感触を握りしめた。

 

「こんな年で…情けないな……」

 

 苦く笑うヴァルナルは知らなかった。

 角を曲がったミーナが、紅潮した顔を手で覆いながら、泣いていたことを。 

 

 




次回は2022年7月2日20:00に更新予定です。



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第三十一話 騎士見習いアドリアン

 アドリアンは疲れきっていた。

 結局、着いたその日からこき使われたが、騎士としての訓練らしきものは一つとしてなかった。

 

 帝都から新たに仕入れた剣や槍、盾などを武器庫に運び、帰還兵の甲冑を一つ一つ磨いて所定の位置に組み上げる。本当はその後に馬の世話もあったようだが、慣れないアドリアンが甲冑を磨いている間に、オヅマは厩舎での仕事も終えて戻ってきた。

 

 その後にようやく食堂で食事を取ることになったのだが、おそらくそれまでには騎士団全員にアドリアンに関する箝口令が敷かれたのであろう。自分をチラチラと見てくる騎士達の好奇心まじりの視線に、アドリアンはいつもの無表情で押し通した。

 

 実際のところ、騎士団の面々は公爵邸で直接アドリアンに対面したことがなくとも、公爵そっくりのダークブラウンの髪と(とび)色の瞳を見て、推測することは容易(たやす)かった為、ヴァルナルは予め騎士団全員に小公爵が来ていることを伝えた上で、決してこの事を口外しないように命じた。もし破った場合には騎士権の剥奪、という強烈な罰則を聞かされて、騎士達は一気に緊張した。

 

 そんな必死に口を噤んでいる騎士達の目前で、何もわかっていないオヅマは小公爵様相手に、不遜で無礼な口を叩きまくっている。

 

「ハァ? かたいだぁ? 文句言ってんじゃねぇーよ」

 

 レーゲンブルト騎士団名物とも言うべき、(騎士の)拳二つ分の大きなパンはいつもアドリアンが公爵邸で食べていたのものと比べると、いくら手で千切ろうとしてもひねることすらできず、かぶりついても歯が立たない。

 困ったアドリアンが諦めてパンを置くと、オヅマは眉を寄せた。

 

「なに、お前? まさか残すとか?」

「食べられないんだから、仕方ない」

「フザけんなよ、この馬鹿! まともに食べない奴が、戦場で生きれるかってんだ」

 

 怒鳴りつけながら、オヅマはアドリアンのパンを掴むと苛立たしげに一口大に千切って木の皿に置いていった。テーブルに落ちたパン屑は集めて、自分のシチューに放り込む。

 

「とっとと食え!」

 

 言っているオヅマは自分のパンを二つに千切ってから、一つに齧り付いて噛みちぎっていく。動物的なその所作に、アドリアンは内心で引いていたが、とりあえず千切ってもらったパンを口に運ぶ。やっと食べられたが、正直、ボソボソしてて味もない。

 

「マズそうに食うなぁ、お前。大して働いてないからだな」

「……ちゃんと武器を運んで、甲冑だって磨いたろう」

「あんなもん働いたうちに入るかよ。ま、今日は来たばっかだからな。明日からはしっかり働け。そうしたら、いやでも食べたくなるさ」

 

 アドリアンは憂鬱になった。

 騎士団での修練だと聞いていたのに、随分と話が違う。こんな小者にさせるような仕事ばかりさせられるなんて。

 

 一方、二人の様子を見ていたゴアン達は互いに目配せしながら、ボソボソと話していた。

 

「おい…それとなく、なんとなく言っておいた方がよかないか?」

「駄目だろ。領主様だって言ってたろうが…オヅマには()()()()()知らせるな…って」

「しかし、あれ…いいのか?」

「知らないから許されてるんだろうが。知ったら対番(ついばん)なんて、気が重くてできないぞ」

「いや…オヅマの場合、知っても態度が変わらない可能性があるぞ。何せ、領主様の若君に対してだって、あの態度だ」

 

 この夏の間に何度か訪れたオリヴェルとオヅマの様子を見ていたサロモンは危惧する。

 

「あいつ、妙に堂々としているというか、そういうこと気にしないからな。知ってて無礼を働いたとなれば、後で領主様が責任をとる…なんて羽目になりかねない」

 

 その言葉に周囲の騎士達は頷いて確認した。

 絶対に、オヅマには目の前にいる黒髪の少年が小公爵様であることを知られてはいけない、と。

 

 自分がひどく危うい存在に思われているとは露知らず、オヅマは早々に食べ終えると立ち上がった。

 

「終了ーっと。じゃ、俺は館の方で仕事あるから。とっとと食えよ。早食いも騎士の素養の一つなんだからな」

 

 早口にまくしたてて、オヅマは食器を水の張った樽の中に放り込むと出て行ってしまった。

 

 アドリアンは咀嚼していたパンを呑み込むと、呆然として空席となった向かいの椅子を見つめた。いたらいたで怒られるばかりで困るが、いなくなったらどうすればいいのかわからない。

 

 所在なげに、もそもそと食べるアドリアンに声をかけたのは、副官のカール・ベントソンの弟であるアルベルトだった。

 

「食べ終えたら、宿舎に行きます」

 

 挨拶もなく、アルベルトは単刀直入に話し出す。

 

「宿舎? 領主館ではないのか?」

「騎士団の見習いは客ではありません。あなたはオヅマの対番なので、オヅマの住む小屋で一緒に寝泊まりしてもらいます」

「………」

 

 どこかで、やはり自分への特別待遇を期待していたのだろうか。

 アドリアンはレーゲンブルトへ向かう馬車の中でヴァルナルに言われたことを思い出した。

 

 

 ―――――あくまでも一見習いとして扱います。それが公爵様からの条件ですから。

 

 

 ヴァルナルの話すレーゲンブルトの美しい冬の景色ばかり思い描いて来たが、そもそもこれは()なのだった。今更ながらに、本来の意味を思い出す。

 

 アドリアンはスープの最後の一匙を啜ってから、アルベルトに言った。

 

「父から、レーゲンブルトにおいては一見習いとして過ごすように言われて来ています。そのつもりで接して下さい。敬語は必要ありません。僕も…気をつけます。もし、先程のように図々しいことを言った場合には、気兼ねなく叱って下さい」

 

 それはその場で聞いている他の騎士達にも言ったのだった。何人かが感心したように頷く。

 

 アルベルトは、小公爵の申し出を素直に受け取った。口調がすぐに切り替わる。

 

「わかった。では、皿に残ったスープやソースはパンで拭って皿をキレイにするように」

 

 アドリアンは貴族の食事作法からすればひどく下品とされるその行為に、少し抵抗があったが、言われた通りにした。

 本当にそんなものがあるのかと思って、何気なく辺りを見回すと、なるほど確かに皆、パンを皿にこすり付けて、残ったスープの痕も残さず食べている。

 

 かたいパンに四苦八苦しながらどうにか食べ終えると、アルベルトは兵舎から離れた、領主館の庭の一隅にある小屋にアドリアンを連れてきてくれた。

 

「荷物は既に置いてある。自分で整理するように。朝はオヅマの指示に従うといい」

 

 そう言って、アルベルトは持ってきたランタンをアドリアンに渡した。

 

「わかりました。有難うございます」

 

 ランタンを受け取ってから、アドリアンは小屋の中に入る。

 思っていた以上に狭い。

 アドリアンの持ってきた旅行鞄は持っている中では中くらいの大きさのものだったのだが、それですら、この小さな部屋の中では大きくのさばって見えた。

 

 アドリアンはとりあえずランタンを小さなテーブルの上に置いてから、部屋の真ん中を占領していた鞄を端に寄せた。それから整理をしようとしたのだが、ベッドを見ると、もうとにかく横になりたくて仕方なかった。

 

 誘惑に負けて(これも生真面目なアドリアンには珍しいことだったが)、アドリアンはベッドにドサリと倒れ込んだ。

 

 もう無理だ。もう動けない。本当に、本当に疲れた。

 

 おいしいとは言えないまでも、食事によって腹も満たされ、ふわふわと眠気がやってくる。

 抗えずに目を閉じると、アドリアンはすぅすぅと寝息をたててそのまま眠ってしまった。

 

 

 

 

 オヅマは館での下男としての仕事を終えた後に、ソニヤからヤギミルクを貰って小屋へと戻った。

 途中でそういえば…と、あの陰気な黒髪少年のことを思い出す。

 一緒に小屋で寝るように、とヴァルナルは言っていた。まだ、食堂にいるのだろうか? だとすれば連れて来てやらないといけない。

 

「あーあ、面倒だなぁ」

 

 オヅマはとりあえずミルクを小屋に置いてから、行こうかと思っていたが、戻ってみれば当の新米見習いは気持ちよさそうにベッドで眠っていた。

 

「テメェ……何勝手に人のベッドで寝てやがるんだよ」

 

 オヅマは靴も脱がずに寝ているアドリアンを睨みつけた。

 ギリと歯軋りしてから、とりあえず暖炉の隅に積んだ煉瓦の上に、ヤギミルクの入った鍋を置く。

 手早く暖炉に薪をくべて火をつけた。いつもならこの時期などはまだ火を起こしたりしないのだが、

 

「南から来た人間には寒いだろうから、暖かくしてあげなさい」

と、ミーナから言われたのだ。

 

 誰かから聞いたのか、母はオヅマが新しく来た騎士見習いの子と一緒に暮らすことを知っていた。

 

「おい、起きろ」

 

 オヅマは声をかけたが、アドリアンは目を覚まさない。

 

「起ーきーろー」

 

 耳元で大きな声で言っても、すぅすぅと寝ている。

 

「起きろって!」

 

 ガン、とベッドを蹴りつけたものの、まったくアドリアンは起きなかった。

 

「帝都からほとんど休みなく帰ってこられたらしいわ。きっとその子も疲れているだろうから、今日はしっかり寝かせてあげなさい」―――――と、言っていた母の声が聞こえてくる。

 

 オヅマは苦虫を噛み潰した。

 

「チッ!」

 

 舌打ちして、仕方なくアドリアンの靴を脱がせると、乱暴に足を掴んでベッドの上に放り投げた。

 うーん、と寝返りをうって、アドリアンはやっぱり眠り込んだままだ。

 

「今日だけだからな!」

 

 オヅマは怒鳴りつけてから、毛布をバサリと被せた。

 どうせどこぞの下級貴族か、商人の子供なんだろうが、ふてぶてしいったらない。

 

 オヅマはテーブルの上にドサリと本を置いてから、温めたミルクをコップに入れた。

 

 今日の領主様の帰還でなくなるかと思ったのだが、マッケネンは突発的な騒動があったにもかかわらず、明日には国語の試験を行うと言ってきた。

 テーブル下に置かれたりんご箱から紙とインクとペンを取り出して、本を見ながらスペルを紙に書いていく。

 

 時々、集中が途切れる度に聞こえてくる寝息に苛立ちつつ、オヅマは蝋燭の火が揺らめいて消えかかるまで勉強した。

 最後の方はもう欠伸しか出なかったが。

 




引き続き更新します。



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第三十二話 レーゲンブルト騎士団の朝

 翌朝。

 

 久しぶりに衣装ケース三つを連ねた上に軽く藁を敷いて、その上からシーツを被せただけの即席ベッドで寝たオヅマは、横にある()()()ちゃんとしたベッドで寝ているアドリアンを苛立たし気に見下ろしていた。

 

「おい! 起きろ!」

 

 横向きに寝たアドリアンの尻を容赦なく蹴りつける。しかし、アドリアンはまったく目を覚まさない。

 

「起きろ起きろ起きろ起きろ、起・き・ろーっ!!」

 

 体を揺すって、耳元で怒鳴りつけて、頬をつねっても、まったく効果がない。多少、眉を寄せたがやっぱり寝ている。

 オヅマは呆れた。

 こんなんでこいつ、騎士としてやってけるんだろうか。戦場で敵が来ても寝ていそうだ。

 

 オヅマは昨日ミルクを入れていた鍋を持つと、もう片方で火かき棒を持ってガンガン打ち鳴らした。

 

「……う…」

 

 ようやくアドリアンが反応した。それでも目を覚まさない。

 

「ったく…この朝の忙しい時に…」

 

 自分はさっさと厩舎に行って馬に餌をやらないといけないのに、このままではアドリアンを起こすまでに朝駆けが始まってしまう。

 

 その時、ギィと扉が開く音がした。振り返ると、マリーが眉を寄せながら入ってくる。

 

「もぅ、お兄ちゃん。外にまで聞こえてるわよ。まだ皆寝てるのに」

「なんだよ。この忙しい時に…お前、なんで来た?」

「お母さんがお兄ちゃんがちゃんと新しい子の面倒見てるか心配してたから見に来たの」

「はぁ? なんで俺が心配されないといけないんだよ。っつーかコイツ起きないんだけど」

「ふーん」

 

 マリーはトコトコとベッドまで行くと、毛布にくるまっているアドリアンを見て笑った。

 

「蓑虫みたーい」

「うるさい。邪魔すんなら出てけ」

「なによぅ、起こすの手伝ってあげようと思ったのに」

「ほーお。じゃ、起こしてみせろよ。その寝太郎、つねったって起きねぇんだからな」

「あら、本当だ。赤くなってる」

 

 マリーはアドリアンの白い頬につねられた痕を見つけて、ツンツンとつついた。

 それぐらいになると、アドリアンはどこからか聞こえてくる話し声に少しずつ意識が覚醒しつつあった。

 

「ねぇー、起きて下さい。起きないと、お兄ちゃんがちこくして怒られちゃうんですよー」

 

 マリーはアドリアンの頬をペチペチと叩いた。

 うっすらとアドリアンが目を開く。

 

「あ、起きた」

 

 マリーが言うと、靴の紐を結んでいたオヅマは「えっ?」と立ち上がる。

 

 一方、アドリアンは目を覚ますと同時に自分を見つめる生き生きとした緑の瞳に、しばらく混乱した。

 自分がどこにいるのか、この目の前の小さな女の子は誰なのか。

 

「おはよう。今日はお天気だって」

 

 ニッコリ笑って言われて、アドリアンは掠れた声で尋ねた。

 

「誰? 君」

「私はマリーよ。はじめまして。南の方から来たんでしょ? 寒くない? 起きられる?」

 

 アドリアンはゆっくり起き上がった。

 そこでようやくマリーの背後に仏頂面で腕を組むオヅマの姿をみとめて、あぁ…今日も怒鳴られるのかとゲンナリした顔になった。

 

「なんだ、その顔。とっとと靴履け。朝は忙しいんだよ」

「もう、お兄ちゃん。来たばっかりなんだから…やさしくしてあげなさいよ」

 

 マリーがオヅマに向かって叱りつけるのを、アドリアンはまだボンヤリとした意識で見ていた。

 

「え……お兄…って……妹?」

「あぁ」

「…………」

 

 マリーと名乗った少女の、ニコニコと笑う顔は愛嬌たっぷりだった。兄と違って。

 

「じゃあ、私、お手伝いできたし、帰るね」

「おぅ、明日も頼むわ」

「もー、明日は自分で起きてね……えーっとなんて名前だっけ?」

 

 帰ろうとするマリーに、アドリアンはあわてて名乗る。

 

「アドリアン・オル……」

 

 全ての名前を言いかけて、はっと口を噤むと、オヅマが面倒そうに言った。

 

「アドルだ、アドル。とっとと帰れ」

「じゃあ、アドル。またね」

 

 手を振って帰るマリーに思わず手を振り返していると、隣からものすごく冷ややかな視線を感じた。

 

「ヘラヘラ笑って手なんぞ振ってんじゃねぇよ。とっとと靴はいて、行くぞ!」

「笑ってなんか…」

「いいから、早くしろよ! 朝駆けに間に合わなくなるだろ!!」

 

 アドリアンは一気に目が覚めた。

 

 朝駆け。

 それはグレヴィリウス公爵家配下の騎士団であれば、必ずやっている修練の一つだ。

 公爵邸にいる時に直属騎士団の朝駆けには何度か参加したことがあるが、神速を持ってなるレーゲンブルト騎士団の朝駆けとなれば、どれほどのものであるのか気になる。

 

「待って、すぐに」

 

 アドリアンはあわてて靴を履いて紐を結ぶ。

 途中でオヅマはもう出て行った。追いかけて外に出た途端に、寒さに身が縮んでくしゃみが出る。オヅマが獣の毛皮でできたベストを放り投げてきた。

 

「着ろ。行くぞ」

 

 まさかの心遣いにアドリアンは驚きながらも、すぐさま着た。随分と暖かくなったが、前を走っているオヅマはシャツ一枚の軽装だ。

 

「オヅマ! 君は? いいのか?」

「いるか。まだ秋だってのに」

 

 アドリアンの感覚だと吐いた息が白くなっている時点で秋ではないと思うのだが、オヅマはやはり北国の人間なのか寒さに強いらしい。

 

 厩舎に行くと、例の黒角馬(くろつのうま)が何頭か並んでいた。

 

「うわぁ…」

 

 アドリアンは感嘆の声を上げた。

 

 ツヤツヤと磨かれた黒光りする角、綺麗に編みこまれた長い鬣。

 帝都にはヴァルナルの騎乗するシェンスと、カールの騎乗するストラマという二頭しか黒角馬はいなかったが、ここでは十数頭が餌を食べていた。

 

「おぅ、来たか」

 

 同じく馬当番のアッツォがオヅマに声をかける。アドリアンをチラとだけ見て、軽くお辞儀した。アドリアンは頷いて、まだ子供らしい角のない小ぶりの黒角馬の前に立った。

 この馬が大きくなる頃には、自分にも与えてもらえるだろうか。

 

「コラ」

 

 オヅマは憧れの眼差しで黒角馬を見上げるアドリアンの尻を蹴りつけた。両手には餌の入ったバケツを持っている。

 

「のんびりすんな。あそこに置いてあるバケツ、隅の二頭の飼い葉桶に入れとけ」

「あ…はい」

 

 アドリアンはあわてて指示通りに並んでいるバケツから二つを持って、指し示された馬の飼い葉桶に入れる。随分と量は少なかった。これで足りるのだろうか。他の普通の馬についても、アドリアンが聞いていた馬が一日に食べる量からすると、随分少なく思えた。

 

「なぁ、これで足りるのか?」

 

 心配になって尋ねた。まさかレーゲンブルト騎士団に馬の餌をケチらなければならないような事情はないだろうが。

 

「朝駆けの前はこれで十分なんだよ。やり過ぎたら、途中でへばるか疝痛(せんつう)で止まっちまうから」

「あ…そう…なのか」

「まさか、いっぺんに一日量やるとでも思ってたのか?」

 

 オヅマにあきれたように言われて、アドリアンは赤くなった。毎日世話をしているオヅマなどからすれば、机上の学問だけで身につけた知識は浅いと思われても仕方ない。

 

「ま、おいおい覚えてけよ。俺もそうだったし」

 

 意外にもオヅマはこの事に関しては、さほど馬鹿にすることもなかった。無知であっても馬を気遣ってのことであれば、それは別に怒ることではない。

 

 それから馬房の掃除や水を運んだりして、あっという間に時間は過ぎた。

 起き出した騎士達がやって来て、それぞれ自分の馬に鞍をつけていく。

 

「おはようございます」

 

 騎士達は、すれ違うたびに頭を下げて挨拶をして、馬の糞を外の肥溜めに運んでいる小公爵様を見て驚くと同時に感動した。まさかそんなことまでなさるとは思ってなかったのだ。

 反面、やらせているオヅマを引き攣った顔で見比べたが。

 

「おはよう」

 

 ヴァルナルが現れると、一気に場が引き締まった。

 オヅマを見つけて声をかける。

 

「オヅマ。アドリアンも行くから、鞍をつけるように」

「え? そうなんですか?」

 

 オヅマは多少イラっとした。自分は馬に乗り始めてから、朝駆けに連れて行ってもらえるまで数ヶ月かかったのに、アドリアンは来た翌日から許可されるのか。

 

「不満そうだな。しかし、アドリアンは騎乗に関してはお前よりも先輩だぞ」

 

 信じられないように見てくるオヅマを、アドリアンは澄まし顔でフイと目線を逸らした。

 ようやくここへ来て、オヅマより秀でたものがあるのだとわかって、正直、アドリアンとしてはこれまでの『ポンコツ』で、『役立たず』の汚名を返上したい。

 

 しかし、オヅマはアドリアンのツンと気取った顔が腹立たしかった。

 

「フン。経験があるのと、才能は別だからな」

 

 わかりやすく牽制してくるオヅマを、アドリアンは鬱陶しそうに見つめた。いつもならそうした輩は相手にしないのに、おそらく昨日からさんざやられっぱなしで、アドリアンの堪忍袋もそろそろ限界だったのかもしれない。

 

「そうだね。少なくとも経験に裏打ちされた才能の方が、経験のない才能よりは上だろうね」

「なにィ? どういう意味だァ!?」

 

 少年二人のやり取りに、ヴァルナルはフッと笑った。

 

 どうやら順調に仲良くなっていっているようだ。

 

 

 

 

 初めてレーゲンブルト騎士団の朝駆けに参加したアドリアンは、なだらかに続く丘陵の中途でいきなり止まった一団の中で、首を傾げた。

 

 ここで終わり? 随分と中途半端な気がする。

 まだ、ようやく馬の足がのびのびと動くようになってきた…ぐらいなのに。

 

 隣でオヅマも当たり前のように馬首を東に向けるので、同じようにしてアドリアンは並んだ。

 それから一列に並んだ騎士団は静まり返って東の空を見つめていた。

 

 まだ太陽が昇る前の朝焼けの空は、澄んだ空気の中で朱色や紫の雲が空に滲んでいた。頭の上ではまだ星が光っている。朝と夜が交代しようとしている隙間の、静かで、美しい変貌の時間。

 やがて山と地平の間から、眩い光がカッと閃いたかと思うと、真っ赤な塊が現れる。

 

 ふと、隣からの視線を感じて向くと、オヅマが見ていた。

 目が合ってニヤと笑ってから、真面目な顔になって太陽の方へと向き直り、頭を下げる。

 見れば、オヅマの向こうに連なる騎士達も太陽に向かって頭を下げていた。まるで礼拝するように。

 

 アドリアンは不思議な光景を見ているように思った。

 馬の嘶き、小鳥の囀りですらも、この儀式の一部であるかのようだ。

 自然と自分も太陽に向かって頭を垂れる。

 誰の命令でもない。自由意志とも違う、何らかの、ただただ感謝を捧げたくなる静謐で豊饒なる時間。

 

 幼いアドリアンはそこまで難しく考えられなかったが、後になってこの時のことを思い出すと、そんなふうに評した。

 

 終わりも特に誰が号令をかけることもなく、騎士達は再び馬首を目的地へと向けて走り出す。

 

 オヅマは隣で走っているアドリアンを何度か窺った。

 なるほど、確かにヴァルナルの言った通り、馬の騎乗には慣れているらしい。

 

 領主館を出て、町を静かに走る時もまったく上体がブレることなく、初めて乗る馬をうまく操縦していた。城門を出て麦畑の間の道を早駆けしていく時も、全く遅滞なく()いてくるし、長く走っているのに姿勢が崩れない。

 

 馬の方も慣れている人間だとやはり疲れない。体重移動が上手なので、走る馬に負担がかからないからだ。アドリアンの乗る馬は人によく馴れた馬ではあったが、それでも最初にオヅマが乗ったときよりも楽そうに見えた。嘶きも少ない。

 

 今日はサジューの森に入って、アラヤ湖で軽く休憩した後に戻るコースらしい。

 オヅマのかつて住んでいたラディケ村に行くためには、この辺りの小さい山々の峠道を三つほど越えていかねばならない。ヴェッデンボリの山々の手前にあるので、小ヴェッデンボリとも呼ばれるが、高さも含めた峻険さにおいては、国境を隔てる本家の山々とは比較にもならない。

 

 サジューの森はそうした小ヴェッデンボリの一つ、ゴゴル山の山裾に広がる森だ。騎士団の演習用にある程度の整備がされているので、馬を思い切り走らせることが出来る。

 

「なかなかやるじゃねぇか」

 

 アラヤ湖で()()()()()休憩に入ると、オヅマは水の入った革袋をアドリアンに投げつけた。

 

「ちゃんとついてきたな」

「当然だろう」

 

 アドリアンは澄まして答えてから、袋の結びを解く。

 しかし、実のところはあまり余裕はなかった。

 

 さすが神速をもって鳴るレーゲンブルト騎士団だけあって、町中はともかく、丘陵に入ってからの速さと言ったら……。

 普段、公爵家の直属騎士団と一緒に朝駆けを経験していても、どうにかついていけた程度だ。

 

 しかもあの速さでありながら、ヴァルナルの指揮で途中、編成まで変えていた。

 例の黒角馬などは、森の中に入って勾配の厳しい坂をあっという間に駆け上がっていった。

 普通の馬でついていくのすら必死であったのに、これで黒角馬を操ってあの速さを制することなどできるのだろうか。

 

 手が震えていたせいか、うまく革袋を持てずに、飲もうとした水がバシャリと顔にかかった。

 

「あーっ!」

 

 オヅマが声を上げる。

 

「なにやってんだよ、お前! ヘッタクソ!!」

 

 アドリアンはカチンときた。

 いつもならそれでも表情を変えないのだが、やはり昨日レーゲンブルトに来てから、どうにも感情の制御がうまくできない。

 

「いつもはちゃんと出来るんだ!」

「どうでもいい! 服、濡れちまったろうが。とっとと脱げよ」

「これくらいどうってことない!」

「その狸の毛皮は俺んだろうが!」

「あ……」

 

 アドリアンは気付くと、静かに謝った。「すまない」

 




引き続き更新します。



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第三十三話 ライバル

 少し離れた場所から二人の様子を見ていたヴァルナルは、クックッと肩を震わせた。小公爵があそこまでコロコロと表情を変えるのは、初めて見た気がする。

 

「小公爵様……アドリアンも、やはり同じ年頃の少年相手であれば、素が出るようですね」

 

 カールが言うと、ヴァルナルは頷いた。

 

「あぁ。おそらくそうだろうと思って、連れてきてよかった。オヅマはあれで何だかんだ言いながら、面倒見がいい」

「そうですね。ま、兄の性分でしょうかね」

 

 カールは相槌をうちながら、チラと隣にいる図体ばかりデカくなった(アルベルト)を見て、あきれた吐息をもらす。

 

「そうか。じゃあ、ルーカスもお前の面倒を見ていたんだろうな」

 

 ヴァルナルがもう一人の厄介者のことを口に出すと、カールの眉間に皺が寄った。

 

「あの人は面倒を見てたんじゃなくて、僕らを家来にして遊んでただけですけどね」

「ハッハハハ!」

 

 ヴァルナルが大笑いすると、アドリアンは驚いたようにそちらを見た。

 

「なに?」

 

 オヅマは、狸の毛皮のチョッキに、手ぬぐいを押し当てて、水を吸い取りながら尋ねる。

 

「いや……ヴァル……男爵があんなふうに笑うのだと思って」

「はぁ? いつもあんな感じだろ。気さくで、豪快で」

「公爵邸にいる時は緊張しているのかな?」

「公爵邸?」

 

 オヅマが聞き返すと、アドリアンはハッとして固まった。周囲でそれとなく聞いていた騎士達もピタリと動きを止める。

 

「あ…いや……その…僕は…その…公爵様の従僕なんだ!」

 

 アドリアンは咄嗟に言ったが、オヅマはさほどに興味もないようだった。

 

「ふぅん。オイお前、そのシャツも濡れてるんだろ。脱げ。これ、着とけ」

 

 オヅマが腰にある小さな鞄から、皺くちゃのシャツを取り出すと、アドリアンは目を丸くした。

 

「君、シャツを持ち歩いているのか?」

「朝駆けの時は、いつもだったら汗かくから着替える用に持ってんだ。今日は、寒かったからな。思ったより汗かかなかった」

「やっぱり寒かったんじゃないか…」

 

 アドリアンはシャツを受け取って着替えながらブツブツつぶやいたが、それでも乾いたシャツはありがたかった。正直、あの濡れたシャツのまま、またあの速さで帰るとなると、風邪をひきそうだ。シャツは乾くかもしれないが……と思っていたら。

 

「………君、なにをやってるんだ?」

 

 オヅマがシャツを木の枝にくくりつけている。

 

「あ? これ持って走りゃ帰った頃には乾くだろ」

 

 アドリアンは押し黙った。

 なんとなく、同じようなことを考えていたのが……微妙に嫌だ。

 

「なんだよお前、その顔」

 

 渋い顔になったアドリアンを見て、オヅマは眉を寄せる。

 

「いや……何も…」

「っとに、塩漬けキュウリみたいな顔しやがって…」

「な…っ…だ、誰が塩漬けキュウリだ! だいたい、どういう意味だ、それ!」

「うわ、面倒くせ、コイツ。そんなの適当にわかるだろ」

 

 オヅマはいかにも鬱陶しそうにアドリアンに吐き捨てる。

 その様子を見ていた騎士達は半ばあきれつつ、オヅマの言葉に思わずプッと笑う者もいた。

 厳しく躾けられて、滅多と表情を変えることのない小公爵様を、『塩漬けキュウリ』とは。

 

 

 基本的にはこんな調子の二人であったが、領主館に戻ってから本格的な修練が始まると、はっきりと好敵手(ライバル)として互いを意識した。

 

 特にそれが際立ったのは剣撃の稽古においてだった。

 

 

 

 

 オヅマはアドリアンよりも一歳年上ということもあり、力勝負では負けなかったが、その分アドリアンはヴァルナル仕込みの剣捌きで、オヅマの攻撃を時にいなし、素早い身のこなしで(かわ)し、そう簡単に降参しない。

 正直、開始十秒で終わらせるつもりだったオヅマには誤算だった。

 

「チッ……こうなりゃ本気だすぞ」

 

 オヅマが間合いをとってつぶやくと、アドリアンもニヤリと笑う。

 

「へぇ。じゃあ、僕もそろそろ本気になることにするよ」

「言ってろ、馬鹿野郎!」

 

 怒鳴るなり、オヅマは跳躍する。太陽を背にして、その姿は一瞬翳り、まともに見上げたアドリアンの目を強い太陽の光が射た。

 

「くっ!」

 

 アドリアンは目が眩んで、当てずっぽうに剣を振るう。

 ガツッ! と木剣が鈍い音をたてた。

 

 オヅマの振り下ろしてきた剣をまともに受けて、アドリアンの手首にビリッと痛みがはしった。

 構え直す隙も与えず、オヅマはすぐさま次の攻撃に移る。

 その切り返しの早さによけることができず、アドリアンはガチリと剣身(ブレード)を正面から受け止めた。

 

 木剣の交差した部分が拮抗した力でギギギと震える。

 オヅマは力で押してくる。このままでは勝てない。

 アドリアンは歯を食いしばって受け止めつつ、いなすタイミングを探っていたが、オヅマは本気といった言葉に嘘はないようで、その隙を見せなかった。

 

 手首が痛い。痺れてくる。

 アドリアンの額から汗が噴き出た。

 

 一方、オヅマはなかなか降参しないアドリアンに苛立った。木剣を持つ手に力をこめ、ますます追い込む。近く、近くへと間合いを詰めて、いきなりドンと腹を蹴った。

 アドリアンは軽く吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられた。

 

 周囲にいた騎士達が顔色を変えてアドリアンを見たが、ヴァルナルは動かなかった。

 パシリコが囁く。

 

「よろしいのですか?」

「………通常訓練だろう?」

 

 ヴァルナルは腕を組んだまま二人の様子を見ている。

 

「しかし……」

 

 パシリコが言う前に、アドリアンが声を荒げた。

 

「卑怯だぞ! 剣における勝負でいきなり腹を蹴るなんて!」

 

 アドリアンは公爵家を継ぐ者として、善性に基づいた騎士道の()()を習う。ヴァルナルもそのように指導するように言われているので、公爵邸においては剣の試合中に腹を蹴るなどという()()()行為は許されない。

 

 だが、レーゲンブルト騎士団はこれまで実際に戦を何度も行ってきた実戦部隊だ。本来の戦場においては、礼節を弁えた戦闘行為など行われない。相手によってはこちらの常識など通じないことも多いのだから。

 

 故にレーゲンブルト騎士団においては、()()ではなく()()の訓練が行われる。

 

 オヅマは木剣を肩にかつぎながら、地面に倒れたアドリアンを見下して、せせら笑った。

 

「知るか。そうしちゃ駄目なんて、誰が言ったんだよ」

「騎士として恥ずかしいと思わないのか?」

「騎士として為すべきことは、すべてを尽くして勝つことだ」

「な……」

「つまらねぇ矜持(こと)にこだわって、くたばって戦えなくなれば、結局意味がねぇだろうが」

 

 アドリアンはさっとヴァルナルの方に目を向けたが、グレーの瞳は冷厳としてアドリアンを見ていた。

 緊張が走って、騎士達が固唾をのむ中、ヴァルナルはゆっくりアドリアンのところまで歩いてくる。

 

「立て」

 

 太陽を戴いて、ヴァルナルの姿が暗く翳った。「いつまで座り込んでいるつもりだ?」

 

 アドリアンはいつも優しく接してくれたヴァルナルの冷徹な姿に、泣きそうになりながらも立ち上がる。

 ヴァルナルはニヤリと笑って、オヅマを見た。

 

「勉強しているようだな、オヅマ。さっきの台詞はオルガス大元帥の言葉か?」

 

『騎士として為すべきことは、すべてを尽くして勝つことだ』とは、実のところ先達の名言であった。

 

 オヅマは肩をすくめた。

 

「マッケネンさんが覚えておけ、って」

「あぁ、そうだ。力を尽くし、精神(こころ)を尽くす。それが私の騎士としての在り方だ。さ、続けろ」

 

 ヴァルナルがそう言って立ち去ると、騎士達は再び動き出す。

 あちこちで気合が上がる中、アドリアンは冷や汗をかきながら唇を噛み締めていた。

 手首が痛い。

 

「行くぞ」

 

 オヅマが構えるなり、土を蹴る。

 アドリアンは気を奮わせて集中した。ここではこれまでの修練など通用しない。

 

 痛みに耐えて剣撃訓練が終了した頃には、アドリアンの手首は赤く腫れていた。

 

 

 

 

 一方、この二人の訓練風景を見ながら、悶々とした気分になっていたのは、修練場で見学していたオリヴェルだった。

 

 木剣が飛んでこないように、建物の陰になったところから見ていたのだが、正直、他の騎士達の訓練など一切、目に入ってこない。ただただオヅマとアドリアンの立合う様子を睨むように凝視している。

 

「わぁ、あの子も強いのね」

 

 隣でマリーが無邪気に新参の見習い少年を褒めるのも気に入らない。

 

「オヅマの方が強いよ、全然」

「でも、お兄ちゃん……ホラ! また空振りした」

「オヅマはちゃんと攻撃してるけど、あの子は逃げてばっかりだ」

 

 オリヴェルはアドリアンが小公爵だとは知らなかった。

 ただいきなり父が連れてきた、騎士見習いの少年であるとしか聞いてなかった。

 オヅマと対番(ついばん)になったと父が話していて、その時点からあまり彼に対していい印象を持てなかったが、こうして目の前でオヅマとまともにやりあっているのを見ると、否が応にも自分の脆弱な身体と比べてしまって、苛立たしい。

 

「あっ!」

 

 マリーが声を上げる。

 

 オヅマに蹴られて、アドリアンが吹っ飛ばされていた。

 

「ひどい、お兄ちゃんってば。あんな不意打ちして」

 

 マリーが同情して言うのも、オリヴェルには面白くなかった。

 

「仕方ないよ。戦うって、そういうことなんだから」

 

 マリーはチラとオリヴェルを振り返って、じっと見てからプンと膨れ面になって横を向く。

 

「なんだか、オリー…怖い」

「怖い? なにが?」

 

 オリヴェルが戸惑って尋ね返すと、マリーが反対に尋ねてくる。

 

「あの子のこと知ってるの?」

「うぅん、知らない」

「じゃあ、どうして嫌うの? 何も知らないのに」

「嫌ってなんか……」

「嘘。嫌いって顔して見てるもの。駄目よ、オリー。あの子だって、ここに初めて来たばっかりで、きっと困ってたりするのに、そんなに冷たくしちゃあ。私と初めて会った時みたいに、ちゃんと優しくしてあげて」

 

 年下の子に諭されて、オリヴェルは恥ずかしくなって俯いた。

 マリーの言うことはもっともだ。ミーナがここにいても、同じことを言われるだろう。そのミーナはオリヴェルを修練場まで連れてきた後に、少し用があるからと戻っていってしまった。

 

 オヅマとアドリアンの間に立って、父が何か言っているようだ。

 アドリアンは立ち上がった。オヅマと父が話している。

 父が二人に背を向けて歩きだすと、止まっていた騎士達が動き出した。

 オヅマとアドリアンも稽古を再開する。

 

「………いいな」

 

 オリヴェルはつぶやいた。

 自分にはあんなふうに体を動かすことはできないだろう。

 きっと、この先もずっと。

 新しくオリヴェルを診てくれているビョルネ医師に言われた。

 

「君は、おそらく完治する…ということはできません。本来、体を守るべき働きが非常に弱い。他の人であればかなり無理しないと症状として表れないことでも、君の場合は少しばかりの無理で、症状が出ます。それが熱であったり、眩暈であったり、失神であったりするわけです。これらのことは、それ以上君が無理をしないための体の防衛本能ですから、無視してはいけません。この状態の場合はおとなしく今まで通りに体を休めて下さい。元気になれば、散歩などして徐々に体力をつけていく…繰り返すうちに、多少は改善されていくはずです。ただ、まったく普通の人と同じようになるのか、と聞かれればそれは難しいでしょう…」

 

 寂しそうに二人を見つめるオリヴェルを見て、マリーは少しだけ申し訳なくなった。

 自由の利かない体をかかえて、一番もどかしい思いをしているのはオリヴェルだ。きっと、オリヴェルはあの黒髪の少年が羨ましいのだ。本当はあそこで兄とやりあっているのが自分だったら良かったのに…と思っているに違いない。

 

「オリー」

 

 マリーが呼びかけると、オリヴェルが振り向く。

 

「そろそろ戻ろっか。私、ちょっと寒くなってきちゃった」

 

 オリヴェルは冬が近いのに、相変わらず軽装のマリーを見て笑った。

 

「そうだね。戻ろう」

 

 




次回は2022年7月3日20:00に更新予定です。




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第三十四話 招かれざる客

「あーあ…この後、なんもできねぇじゃねぇか」

 

 オヅマはぶつくさ言いながら、アドリアンの手首に薬草から作った膏薬をべったり塗りつけて、手ぬぐいを割いて巻いていく。

 アドリアンはなれない膏薬の臭気に眉を寄せた。

 

「くさい…」

「我慢しろよ、それぐらい。っとに、いちいち軟弱な野郎だな」

「くさいって言っただけだろう」

「そういう文句を言うのが軟弱なんだよ」

「………」

 

 アドリアンは黙り込んだ。

 確かに、いつもであれば我慢できそうなものだ。どうしてこの少年を前にすると、文句をつけたくなるのだろう…?

 

「よし、終わった!」

 

 最後にキュッと結んでから、オヅマはバチンと思い切り患部を叩いた。

 

「………痛い」

「おまじないだろ。治るように、っていう」

「君のはそういうのじゃない」

 

 ジロリとアドリアンが睨むと、オヅマはへーへーと気のない返事をして立ち上がる。

 

「ほら、行くぞ」

「どこへ?」

「挨拶しに。領主様の息子に」

「は? どうして?」

「領主様に紹介してやってくれって頼まれたんだよ。いいか、オリー……オリヴェルは体が弱いからな。無理させないでくれよ。でも、体が弱いってのをやたらと言うのは禁止だ。あいつ、プライド高いから」

 

 アドリアンは眉をひそめた。

 自分はともかく、オヅマはあくまでレーゲンブルト騎士団の一騎士見習いじゃなかったろうか? にもかかわらず、領主の息子を名前で呼び捨てにするなんて…どうしてこんな無礼をヴァルナルは許しているのだろうか。

 

「君、領主様のご子息と知り合いなのか?」

「友達だ」

「………え?」

「何だよ、その顔」

「いや…」

 

 友達? 領主の息子と? 見習い騎士が?

 

 混乱するアドリアンを見て、オヅマはイライラと怒鳴りつけた。

 

「早く! いいから行くぞ。っとに…いつまでそんな萎びたリンゴみたいな顔してんだ」

「萎び…って……君は、どうしてそういうおかしな誹謗をしてくるんだ!」

「ひぼー? 難しい言葉使いやがって…平民にゃわかんないねー。言っとくがな、これはただの悪口。怒るんだったら、もうちょっと気の利いた返ししてこいっての」

「………」

 

 言っている間にもオヅマは小屋から出て、さっさと歩いて行く。

 アドリアンは甚だ不本意だったが、ついていくしかなかった。とりあえず、今はここでの暮らしに慣れるまで、オヅマのそばから離れたら何をすればいいのかわからない。

 

 領主館に入っていくと、オヅマは勝手知ったる様子で、時々すれ違う使用人達に気軽に声をかけながら進んでいく。

 いつも修練場へと向かう廊下を途中で折れて、東棟の奥の階段を上がると、よく磨かれたドアの前で、朝見たオヅマの妹が立っていた。かたわらには茶器やお菓子を載せたワゴンがある。

 

「おう、マリー」

 

 オヅマが声をかけると、マリーと呼ばれた妹がこちらを向く。パッと振り返った顔が明るくて、向日葵(ヒマワリ)を連想させた。

 

「お兄ちゃん! それに…えーと…アドル! だったよね?」

 

 アドリアンが頷くと、マリーは屈託なく笑った。

 

「ちょうど良かった。お兄ちゃん達が昼の休憩になったら来るって聞いてたから、今、お茶とお菓子用意したところ」

「ウォ! ピーカンパイだ。やった! 食おう食おう」

 

 オヅマはワゴンの上の、ナッツのごろごろ乗ったパイを見るなり、小躍りした。アドリアンのことなどすっかり忘れた様子で、ドアを開けて入っていく。

 

 オヅマよりも小さいマリーが、まるで母親のようなあきれた溜息をつくのが、アドリアンには少し滑稽だった。思わずクスリと笑ってしまって、マリーが見上げてくる。

 

「あ…ごめん」

「どうして謝るの? だって、おかしいでしょ、お兄ちゃん。いっつもあんなになるの。ピーカンパイ大好きで。あ、ごめんだけどドア開けてくれる?」

 

 本来であれば小公爵である自分を顎で使うなど考えられることでなかったが、今はその身分を隠すようにと言い含められている。だが、たとえそうでなくとも、不思議とアドリアンは抵抗を感じなかった。

 自然にドアを開けて、マリーを通してやる。それから中に入っていいのか、少し逡巡して立ち止まった。

 

「どうしたの? 早く中に入って、アドル。一緒にパイ食べましょ」

 

 マリーの笑顔に許された気分になって、アドリアンはおずおずと中に入った。

 だが、すぐに自分が招かれざる客であると知る。

 

 大きな天蓋ベッドからカーディガンを羽織って降りてきた少年は、アドリアンが入ってくるなり、睨みつけてきた。明らかな敵意がそこにはあった。

 

「マリー、君…その子の名前知ってるの?」

 

 オリヴェルがひどく険のある顔で言ってくるので、マリーは戸惑いながら頷いた。

 

「うん。今朝、会ったから」

「今朝? いつ?」

「いつって…」

「起き抜けだよ。コイツ、寝起きが馬鹿みたいに悪いから、マリーが起こしてくれて助かったわ。明日も起こしに来てくれよ」

 

 オヅマが一人掛けソファにどっかと腰を降ろしながら言うと、オリヴェルはあからさまにフンと鼻で笑った。

 

「オヅマはちゃんと一人でも夜明け前から起きてるっていうのに、君は誰かに起こしてもらわないと起きられないの?」

「昨日はここに着いたばかりで、少し疲れていただけだ。明日からは、ちゃんと起きるさ」

 

 アドリアンがムッとなって言うと、オヅマが囃し立てた。

 

「おぉ、そりゃありがたいねぇ。お前と対番(ついばん)でさえなけりゃ放っておくけど、お前が遅刻したら俺まで連座だからな。あ、それと今日はお前があっちのベッドで寝ろよ。昨日は起きないから仕方ないと思って許したけど」

 

 オリヴェルはそこまで聞いていて、ハタと気付いた。

 

「ちょっと待って! オヅマ、君、この子と一緒に暮らしてるの?」

「あぁ、対番(ついばん)だからな」

「なんだよ、それ! どういうこと!?」

「はぁ…?」

 

 オヅマはオリヴェルの剣幕にぽかんとなった。

 なんでこんなに怒るんだろうか。

 

 反対にクスクス笑ったのはマリーだった。

 

「やだー、オリーったら。お兄ちゃん、とられたと思ってるー」

「ちっ…違…っ」

 

 オリヴェルは指摘された途端に真っ赤になった。

 白けた目で見るアドリアンと目が合って、アドリアンの方はさすがにまだ自分より年下とわかるオリヴェルの()()()()()にプッと吹いた。

 

「………失礼」

 

 薄笑いを浮かべて、大人びた雰囲気を漂わせるアドリアンを、オリヴェルは嫌悪もあらわに睨みつける。

 ピリピリした雰囲気に、オヅマはため息をついた。

 

「もー、いいからさ、そういうの。早く食べるぞ、俺もう待てないから」

 

 面倒くさそうに言って、言葉通りに、マリーがパイを切り分けている間に一切れとって食べ始める。

 

「もう、お兄ちゃん! 皆で食べるようにって言われてるんだからね、勝手に食べないで! 早く、オリーもアドルも座って。みんなで食べよ」

 

 マリーに促され、アドリアンはオヅマの隣に座った。

 その真向かいにオリヴェルが座って、じっとりと睨みつけてくる。

 随分と嫌われたものだ、とアドリアンは内心で嘆息しつつ、オリヴェルの姿を観察していた。

 

 赤胴色の髪はヴァルナル譲りだろう。だが巻毛はおそらく母親から。グレーの瞳も父親のに比べると青みがかっている。左目の下にあるほくろが、白い肌に目立って見えた。

 そういえば、第一印象が悪すぎて失念していたが、この少年は体が弱いのだとオヅマが言っていた。それに以前にヴァルナルからも病弱な息子がいると聞いたことがある。

 しかし、目の前の少年は病人とは思えないくらいに元気だし、ヴァルナルが言っていた『壊れそう』な脆弱さも感じない。むしろ、領主の息子らしい矜持も尊大さも持ち合わせた、普通の貴族の若君だ。

 

「あ、お前…ちゃんと自己紹介しろよ。オリヴェルも」

 

 オヅマは二切れ目のパイを食べながら、アドリアンの肩を小突いた。

 

「オリヴェル・クランツ。銀鶲(ギンオウ)の年生まれだ」

 

 まるで競っているかのように、先にオリヴェルが自己紹介を終える。

 アドリアンは今度は溜息を隠さなかった。

 

「アドリアン……。黒鳩(コクキュウ)の年だ」

「なんだ、一歳しか違わないじゃないか」

 

 オリヴェルが横柄な様子で言うのを、アドリアンは冷たく見た。

 

「そうだな。一歳しか違わないのに、随分と幼く見えたよ。下手をすればマリーよりも年下かと思えそうだ」

「なんだって?」

「もう! 二人とも! いい加減にして」

 

 マリーがとうとう怒り出す。

 

「せっかくお茶淹れたのに、冷めちゃうわ。ピーカンパイだって、お兄ちゃんに全部食べられても知らないから!」

 

 オリヴェルとアドリアンは睨み合ってから、テーブルのパイに手を伸ばす。

 すでに半分がなくなっていた。

 二人で呆然とオヅマの方を見つめると、言い争いなど知らぬとばかりに、オヅマはもう何切れ目かわからないピーカンパイを頬張っていた。

 




引き続き更新します。




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第三十五話 アドリアンの二つの悩み

 最初は慣れないことばかりで、何かとオヅマに叱られまくっていたアドリアンであったが、ひと月も過ぎる頃には手慣れた様子で日々の雑務もこなすようになっていた。

 騎士たちの方も最初は『小公爵様』という遠慮があったのが、オヅマがあの調子でまったく頓着なく接するので、だんだんと麻痺してきたのか、同じような扱いになってくる。

 

 オヅマは口は悪かったが、きちんとしたところもあった。

 最初に会った日にアドリアンが棒亜鈴(アレイ)で鍛錬しようとしていたことを覚えていて、数日後には自分が使っていたという緑の棒亜鈴を出してきてくれた。

 

「まずは、緑からだ。一つの指で持ち上げて、この砂時計の砂が全部降りるまで。全部の指でやって、簡単にできるようになったら、次はこの青のやつ。その次がこの黄色な。いきなり重いやつでやろうとすんなよ。手綱だって握れなくなるぞ」

「あ…ありがとう…」

 

 アドリアンが戸惑いながらも礼を言うと、手だけでなく足の指でも棒亜鈴を掴んでみせてくれた。

 

「これやってると、足の指がよく動くようになるんだぜ。色々、便利なんだ」

「どう便利なんだ?」

「木登りして、手じゃとれない木の実を取ったりできる」

「………ごめん。どういう状況かがよくわからない」

 

 アドリアンが真面目くさって答えると、オヅマはあきれたように笑った。

 

「そこはなんとなくでいいんだよ!」

 

 なんとなく―――というのが、今ひとつ理解できなかったが、アドリアンはオヅマにつられるように少しだけ笑った。

 やっぱりここに来て良かった。公爵邸では何も言わずとも、アドリアンの行動に沿って皆が動いてくれるが、そこに気持ちはない。ただただ淡々と職務をこなす者達がいるだけだ。誰も、自分を『アドリアン』として見ず、公爵家の後継者として扱うだけ。別に()()でなくとも、誰でもいい……。

 

 だが、そのアドリアンにしても、こればかりはどうにかしたいという悩みが二つばかりあった。その一つが毎日のベッド争奪戦だ。

 

「なんだって、お前に()()()ベッドの方を譲らなきゃならないんだよ。新入りは藁ベッド。ほら、いけいけ」

 

 アドリアンにしてみれば、その()()()ベッドとやらもさほどに心地いい代物ではなかった。それでも、衣装箱を三つ合わせてその上に適当に藁を敷いて、シーツを被せただけのベッドよりはマシだ。

 

 最初のうちはオヅマに言われてその藁の敷かれたベッドで寝ていたのだが、十分に睡眠できなかった。チクチクと藁が体を刺してくるし、なんか痒くなってくるし、朝起きたら体中が痛い。睡眠不足では満足に雑務も訓練も行えない。

 

「これじゃあ、仕事に支障を来す。交代で寝ることを提案する」

 

 アドリアンが抗議すると、オヅマは冷たく吐き捨てた。

 

「うるせぇ。慣れろ」

 

 そのまま問答無用で自分は()()()ベッドですぅすぅ寝始める。

 アドリアンは不承不承、また藁ベッドに寝たのだが、自分でも相当にストレスが溜まっていたのかもしれない。

 とにかくチクチクしないベッドで寝たい……と、夜中に起きてフラフラ立ち上がったことまでは、うっすら覚えている。だが、その後にまさかオヅマの寝ているベッドに潜り込んでいたとは思わなかった。

 

「てめーッ、なんでこっち入ってきてんだぁーッ!」

 

 怒号と同時に蹴飛ばされ、床に落ちて、寒さでゆっくりと目が開く。

 

「………うるさいな」

 

 自分に合わないベッドのせいで、夜遅くまで眠ることのできないアドリアンの寝覚めは非常に悪かった。その時ですらも目をこすりながら、またオヅマのいるベッドに戻って寝ようとしていた。

 

「入ってくんな! 馬鹿! 起きろ!!」

「………」

 

 起きていれば言い返すが、まだ意識が覚醒していないアドリアンはそのままコテンとベッドに倒れて寝た。

 するとしばらくして、オヅマはアドリアンの顔に、熱湯にくぐらせて固く絞った熱い手拭いをビシャリと叩きつけた。

 一瞬、熱ッ! となりながらも、すぐに手拭いの熱は冷めてゆき、ほんわりとした温かさが瞼をやさしく刺激する。

 

「…………ありがと」

 

 アドリアンはようやく目を覚ます。そのまま熱い手拭いで顔も拭けて一石二鳥だ。

 実はこの熱々手拭い攻撃は、いくら怒鳴ろうが叩こうがつねろうが、一向に起きないアドリアンに弱りまくったオヅマが、母・ミーナから教えられたものだった。

 

「起きるのが嫌だと、なかなか起きないけど、気持ちいいと目が覚めるでしょう?」

 

 聞いた時には半信半疑だったが、効果は覿面(てきめん)だった。

 そのためにオヅマは起きてすぐに水を温め、熱湯にくぐらせた手拭いをアツ、アツと言いながら水で手を冷やしつつ固く絞る…という余計な朝の用事が増えているのだが、これが寝坊助アドルには一番有効なのだから仕方ない。

 

「ありがと、じゃねぇよ! 勝手に入ってくんな!!」

「仕方ないだろ。眠れないんだから」

「何が眠れないだ! 今だってグースカ寝まくって起きねぇくせに!」

「十分に眠れないから、朝が起きられないんだ!」

「うるせぇ! とにかく、入ってくんなったら、入ってくんな! 気持ち悪い」

「はぁ?」

 

 アドリアンは過剰に反応するオヅマにちょっと違和感をもった。一緒に寝るくらい、どうってことでもないだろうに。

 

「とにかく、交代で藁と()()()ベッド、どちらかで寝ることを提案したい」

 

 すっかり目が覚めたアドリアンが再度抗議すると、オヅマはチッと舌打ちした。

 

「交代は嫌だ。じゃんけんで決める」

「じゃんけん?」

「お前、じゃんけんもしたことねぇの?」

 

 オヅマは心底あきれつつも、アドリアンに丁寧にやり方を教えてくれた。簡単な模擬戦の後で、

 

「じゃ、今日帰ってからじゃんけんで決めるからな。それで負けたら藁ベッドだ。文句はなしな」

 

と勝手に決めてしまった。しかしまぁ、確率として()()()ベッドで寝られる可能性を得ただけマシだ。

 その後は毎夜、ベッド争奪戦のじゃんけんが繰り広げられた。勝率は互いに五分五分といったところだ。

 

「でも、結局コイツ、藁のベッドで寝てても、朝にはこっち入ってきて、勝手に寝てやがるんだぜ。っとに…いい加減にしろっての」

 

 オヅマがぶつくさ言うと、マリーとミーナは笑っていたが、仏頂面なのはオリヴェルだった。

 

 これが悩みの二つめ。

 オリヴェルはいまだにアドリアンに心を開かない。

 

 もはや定例会のように、三日に一度くらいの頻度でオリヴェルの部屋を訪れては、ほぼオヅマの愚痴を皆で聞く会になっているのだが、オリヴェルは笑い話のようなことでも、ずっとムスッとしたままだった。よほどにアドリアンとオヅマが一緒にいるのが気に食わないらしい。

 

「ベッドなんて、どこかに余ってるのがあるんじゃないの?」

 

と言うのは、アドリアンの為ではない。寝ぼけたアドリアンがオヅマと一緒に寝ることを阻止するためだ。

 しかしミーナはハタと手を打った。

 

「まぁ、確かにそれはそうですわね。オヅマ、一度ネストリさんに聞いてみたら?」

「言ったよ、とっくに」

「なんと仰言(おっしゃ)っていたの?」

「居候に特別待遇はないってさ」

「まぁ…」

 

 ミーナはひどく気の毒そうにアドリアンを見る。

 その何か言いたげな様子を見て、アドリアンはこの人は自分の正体を知っているのだろうな…と感じた。

 

 実際、ヴァルナルからの再三のアプローチにあれだけ鈍感であったミーナは、アドリアンの言動を観察していて、すぐに思い至ったようだ。いまだ気まずいヴァルナルにわざわざ会いに行って、尋ねた。

 

「領主様、あのアドリアン…様は、もしかして公爵家の方ではございませんか?」

 

 ヴァルナルとしては隠すつもりだった。

 相手がミーナでなければ、素知らぬフリを貫けたかもしれない。ただ、あの夜以来、久しぶりに二人だけで会うことに多少、緊張していたのもあり、思わぬ質問であったこともあり、顔に出てしまった。

 

「ミーナ……これは公爵閣下からの命令なのだ。小公爵様の身分を明かさず、一騎士見習いとして扱うように…と」

「まぁ…そんな。オヅマがどれだけ無礼なことをしていると…」

「それはあらかじめ予想した上だ。小公爵様も甘んじて受け入れられておられるのだ。だから貴女も、くれぐれも遠慮しすぎて、小公爵様であると他の者に知られることのなきように…気をつけて接してほしい」

 

 そんな訳でミーナはオヅマのアドリアンに対する態度に正直ハラハラしどおしだったが、それでも謝るわけにはいかない。

 

「じゃあ…一度、ご領主様に伺ってみましょう」

 

 ミーナとしてはなるべくヴァルナルとまともに会って話す機会は避けたかったが、アドリアンが誰かを知らぬはずがないネストリが、なぜか小公爵を冷遇するのであれば、仕方ない。

 

 ミーナからの話を聞いたヴァルナルが、その日のうちにカールに命じたので、騎士達によって不要となっていたベッドがオヅマの小屋に新たに運ばれ、衣装箱はお役御免となった。

 これで一件落着となったと思ったが、新たに来たベッドが、元からあった()()()ベッド よりも寝心地がいいとわかると、オヅマは言った。

 

「じゃ…これからは勝った方が新しいベッドな」

 

 ベッド争奪戦は結局続く羽目になった。

 




次回は2022年7月6日20:00の更新予定です。




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第三十六話 雪月夜の剣舞

薄墨空(うすずみそら)の月の朔日(ついたち)に神殿に参拝に向かう。ついては、オヅマ…剣舞を頼むぞ」

 

 ヴァルナルににっこり微笑まれて、オヅマは顔を引き攣らせた。

 夏の参礼でのオヅマの剣舞は案外と評判になっており、伝え聞いたヴァルナルとしてはどうしても見たかったのだ。

 

「いや…もう忘れちゃって…」

「じゃあ、ゴアンにもう一度教えてもらうか?」

「いや! やっぱ覚えてます」

 

 即座に否定する。またあのやる気満々のゴアンの熱血指導がされるかと思ったら、それだけで日々の労働が増える気がする。

 

「よし。アドルと二人で舞ってもらうからな」

「はい?」

「頼んだぞ」

 

 ヴァルナルは否を言わせない。ニッコリと笑顔だけを残して去った。

 

「………君が剣舞を舞うとは意外だな」

 

 しばらく間があって、アドリアンが言うと、オヅマはジロリと睨んだ後で、はあぁーっと長い長い溜息をついた。

 

「なんだってまた剣舞なんぞ…」

 

 アドリアンは首を傾げた。

 

「君は時々、妙なことに拘泥(こだわ)るんだな。神殿で剣舞を舞うくらい、ちゃっちゃとやれば済むことじゃないか」

 

 ちゃっちゃとやれ…というのはオヅマの口癖で、今やアドリアンの耳にこびりついて離れなくなっている。

 

「お前、やったことあんの?」

「そりゃあ…一応」

 

 公爵邸で神殿に参拝する際には、他の親戚の子供らと一緒に舞うのが恒例行事になっていた。しかも自分は公爵家の継嗣であるため、一人で舞う部分もあるくらいだ。もっともそんなことをオヅマに言うわけにはいかない。

 

「とにかく、領主様のご命令なんだから仕方ない。さっさと流れを決めてしまおう」

 

 珍しくこの件に関しては、アドリアンが主導権を握ることになった。

 剣技は型が決まっているので、それさえマスターしていれば、あとは剣技と剣技の間を繋げる舞で流れを作ってしまえばよい。

 適当に…とは思っていたものの、実際に任されるとアドリアンは手を抜かなかった。剣技の型についても、止めるところはピタリと止め、払う時の角度にまで文句をつける。

 

「ダーッ! 無理、もう無理!」

 

 あまりに厳しい駄目出しにオヅマが匙を投げようとすると、アドリアンは憎たらしいほどに冷静な顔で訊いてくる。

 

「君、マッケネン卿に聞いたけど、ヴァルナ……男爵のようになりたいんだろう?」

「………」

「黒杖を授与された者は、皇帝陛下の御前で剣舞を披露することになってる。当然、男爵もしているんだ。その緊張感たるや、相当だったろうな」

 

 実際にはヴァルナルは剣舞は下手だった。剣技の型は覚えているのだが、舞うとなると別物になるらしく、繋ぎの部分がどうしてもぎこちなくなってしまうらしい。

 だから、ヴァルナルに比べればオヅマなど相当に上手と言っていいのだが、今はとにかくやる気を出させなければならない。

 

「ったく…どいつもこいつも、なにかっつーと()()を持ち出しやがって…」

()()?」

「領主様みたいになりたいって言ったけど、なれるかどうかなんてわかんないだろ!」

「そりゃそうだろうね。じゃ、諦める?」

「…………」

 

 オヅマは文句は言うが、一旦引き受けたことは投げ出さない。いかなる時も。一ヶ月近く対番(ついばん)としてそばにいて、だんだんとわかってきた。

 

「文句言い終わったんなら、次の型にいくよ」

 

 アドリアンは手拭いで汗をふいてから、再び剣を持ってスタスタと歩いて行く。

 オヅマは長い溜息をついてから、ヨイショと立ち上がった。

 

「だんだん生意気になってきやがった…」

「これで普通だけど」

「うるせぇ。湿気(シケ)たクッキーみたいな顔しやがって」

「…………君のその悪口はいまだに意味がわからないよ」

 

 むっすりと言ってから、アドリアンの口の端に思わず笑みが浮かぶ。

 オヅマとこういう軽口を叩き合うのも悪くない気がしてきていた。

 

 

 

 

 薄墨空の月、朔日(ついたち)

 

 朝に降っていた雪がやんだ頃合に、ヴァルナルは神殿へと馬橇を走らせた。

 

 オリヴェルは今回も来ていた。

 オヅマと一緒にアドリアンが剣舞を舞うというのが気に入らないが、またオヅマの舞が見れるのであれば無視などできるわけがない。

 しかも、今回はちゃんと画板にスケッチ用の画用紙を数枚と、尖筆(*黒色顔料を細長く削って周囲に布を巻き付けたもの)も持ってきていた。

 今度こそ目にも焼きつけて、できうる限りその姿を紙に描いて留めないと。

 

 オヅマはオリヴェルが剣舞の絵を描いていると知ると、

 

「へぇ。見せてくれよ」

 

と気軽に言ってきたが、オリヴェルは絶対に見せなかった。ミーナにも見せていない。マリーだけが知っていた。

 マリーは「せっかく上手なんだから、皆に見せればいいのに」と言ってくれたが、オリヴェルはとても人に見せられるものではないと思っていた。

 だって、頭にこびりついた映像の十分の一も写し取れていないのだから。

 

 今回もビョルネ医師が同行していた。

 オリヴェルに何かあった時のため…ということもあったが、当人としては珍しい冬の参拝ということで「大変、興味深いです」と、むしろ嬉々として随行している。

 

 ヴァルナルは神殿に辿り着くと、すぐさま本殿で礼拝を行う。

 その間にオヅマとアドリアンは剣舞を舞う予定の境内を確認しに行った。夏には白砂が敷き詰められていた境内は、今は真っ白な雪に覆われていた。

 

「とりあえず、踏み固めておこう」

 

 アドリアンが言う。

 新雪は柔らかく、しっかり踏み固めておかないと、まともに剣舞などできたものじゃない。やってきた騎士団員総出で境内を踏み固めてから、簡単な流れの確認を行う。

 今回は見物に回ったゴアンは感嘆した。

 

「いやぁ…なんとも見事だな。アドルが構成考えたのか?」

「あ…はい」

「大したもんだ。流麗っていうのか…淀みがないのに、決まるとこ決まってるしな」

「…ありがとうございます」

 

 アドリアンは素直に頭を下げながら、なんだか恥ずかしかった。こんなにあけすけに褒められたことがないので、慣れない。

 

「良かったな。この人、嘘だけは言えないから」

 

 オヅマが言うと、ゴアンは「この野郎」と捕まえにかかる。オヅマはペロと舌を出して逃げた。ケラケラ笑って走り回るのをアドリアンはやや呆れて見ていた。

 雪道を二刻(約二時間)近く歩いてきたというのに、元気なことだ。

 

「じゃあ、三ツ刻(みつどき)の鐘がなったら着替えることにしよう」

 

 アドリアンが声をかけると、「おぅ」と返事したオヅマがゴアンに捕まって雪の中に埋もれた。

 まったく…戦場においては鬼の集団と、味方からすら恐れられるレーゲンブルト騎士団の実体がこんなのだと知ったら、帝都の近衛騎士団などひっくり返ることだろう。………

 

 

 

 

 夏は夕闇の頃に始まったが、冬の夕暮れはあっという間に過ぎ去った。

 昼頃に少しだけちらついていた雪も止み、今は綺麗に晴れて月がくっきりと濃紺の空に浮かんでいる。

 雪上の四隅の篝火からは、パチパチと木の()ぜる音。

 

 だが、それより何より夏との違いで一番オヅマが驚いたのが……

 

「なんだって、こんなに人が来てるんだよ!?」

 

 予想外の観衆に戸惑うオヅマに、ゴアンが言った。

 

「夏にお前の剣舞見た奴が教えたんだろ。かっこいい子供(ガキ)が剣舞を舞ってた、って。それで今回もやるって聞いて、広まったみたいだな。前回見られなかった奴らは相当期待してるみたいだ…」

 

 雪深い田舎においては、こうしたことですら数少ない娯楽の一つだった。

 サフェナに住まう人々の多くが、帝都から帰還した領主様の立派な姿を拝見することと、二人の子供が舞う剣舞を楽しみにしていた。

 これから先、大帝生誕月までは祭りらしい祭りもない。雪籠りの前の、ささやかともいえる話のタネだった。

 

「皆、少し遅くなったが、新年をつつがなく迎え、明るき年に幸多いことを願う。今年の収穫も例年と変わらず、これも皆の精励恪勤によるものと有難く思っている。今年の実りをもたらしてくれた昨年の年神(リャーディア)に感謝を、来年の実りを約束してくれる今年の年神(イファルエンケ)への祈りをこめて、これより小さき騎士達が舞を舞う。大層練習したようだ。私もだが、皆も期待していることだろう。共に楽しもう!」

 

 ヴァルナルは領主らしい威厳を持ちながら、快活な弁舌で領民達を労い、オヅマ達の登場を盛り上げた。

 オヅマがその大袈裟な紹介に辟易していると、見物人の中から声がかかる。

 

「オヅマー!」

「オヅマ親ぶーんッ!」

 

 オヅマはゲッとなって見物人の中をざっと見渡した。おそらくラディケ村でよく遊んでいた子供達だろう。親分、と呼ぶのは特にオヅマについて回っていた粉屋のティボだ。

 

「親分なのか、君?」

 

 ざわめきの中で聞こえにくいはずなのに、アドリアンがしっかり聞きつけて尋ねてくる。

 オヅマは渋い顔になった。

 

「……村にいた時の友達(ダチ)公だよ。まさか村から来るなんて…あいつら今日こっちに泊まるのかな?」

「そんなに遠いところからも来ているのか?」

「いいとこ見せないとなぁ、オヅマ」

 

 ゴアンが笑って、背中を叩く。

 

「冗談じゃねぇよ…ったく」

 

 オヅマはくしゃくしゃと前髪を掻いた。

 急になんだか落ち着かない。

 

 その様子を見たアドリアンは、クスリと笑って仮面をつけた。涅色(くりいろ)地に、目の周りに金色の装飾的な線が縁取られた、今回の衣装に合わせて作られた仮面だ。

 

「珍しいな、君が緊張するなんて」

「うるせぇや」

 

 オヅマはイライラと言い返した。正直なところ、昔の知り合いに見物されるなんて考えてもみなかった。小っ恥ずかしいし、失敗もできない。

 眉間に神経質な皺が寄って唇が乾いた。ハァ、と何度もため息をつく。

 

 本当に珍しいオヅマの緊張した様子に、アドリアンは目を丸くした。ふと、昔、ある人にしてもらったことを思い出す。

 

 アドリアンは人差し指と中指を伸ばして軽く自分の唇に触れた後に、オヅマの額にその二本の指を当てた。

 

 オヅマが首を傾げる。

 

「なんだよ、今の?」

「おまじないだよ。知らないか?」

「………」

 

 オヅマはなんとなく知っているような気もしたが、結局思い出せなかった。

 一方、そばでその様子を見ていたゴアンは息を呑む。

 

『なんと…小公爵様はオヅマに()()を刻んだぞ…!』

 

 盟誓を刻む…それは自分に忠誠と服従を誓った騎士に対し、主が騎士たるの承認を与えることを意味するものだ。

 本来の儀式においては、主が二本の指で唇に触れ、その指で剣身を撫でるような仕草をした後に、頭を垂れた騎士の後背部にその剣をそっと当てるのだが、時に簡略化してアドリアンのように指で行うものもある。

 

 公爵家配下の騎士達はすべて、皆、公爵に対し忠誠を誓い、公爵からの盟誓を刻まれる。

 確かにまだ見習いでしかないオヅマと小公爵では、おまじない程度の意味しかなさないものではあるが、将来的にオヅマが小公爵によって騎士に叙任されることを約束した…と、取れないこともない。

 

 呆然としているゴアンを置いて、アドリアンとオヅマは月明りに照らされた境内へと出て行く。

 わあっと歓声が上がった。

 二人が中央で半眼を閉じて佇立していると、徐々に興奮を帯びた静けさがその場を覆っていく。

 

 ドン、と太鼓の音が響くと同時に、剣舞が始まった。

 

 

 

 

 それは夏のものとはまた違っていた。

 

 二人は互いに剣を交わらせて、戦っているかのような動きを見せたかと思うと、次には指の先までもピタリと合わせてまったく同じ舞を見せる。

 蹴り上げて宙を飛ぶ雪ですらも、彼らの舞の一部であるかのようだった。

 

 カキンと剣を打ち鳴らし、クルリと回って位置が入れ替わると急にザクリと剣を雪に突き立てる。そのまま二人とも、まるで精巧に仕組まれた人形かのように、ピッタリ同時に後ろに宙返りした。

 

 見物客から「オオォ!」とどよめきのような喝采が上がる。

 

 雪の上に降り立って、格闘術の技の型を二つほど披露した後、今度はその場で剣の方へむかって体をひねりつつ横向きにまた跳躍して回転する。同時に雪に突き立った剣をとって、再び剣技の型を次々に見せていく。これが恐ろしいほどピッタリ息があっていた。

 

「すごいな…」

 

 オリヴェルは横で父がつぶやくのを聞いた。同じように聞こえていたカールが、隣でそっと囁くように話す。

 

「小…アドルが相当にしごいていたようですよ。さすがというべきか…」

「そうだな。私も教えてもらいたいくらいだ」

「アドルの負担が増えるからやめて下さい」

「……ひどいな…」

 

 ヴァルナルが拗ねたように言うのを、オリヴェルはポカンと見ていた。

 視線に気付いたヴァルナルがオリヴェルの方を振り返る。少し気まずそうな…なんとも言えない顔で見つめた後、ぎこちなく笑って尋ねてきた。

 

「…描けているか?」

「あ…はい」

 

 オリヴェルはあわててまたオヅマ達に視線を戻す。

 

「できたら見せてくれ」

 

 オリヴェルは尖筆を走らせながら、チラとヴァルナルを見た。やさしい目と目が合って、またあわててオヅマ達の剣舞を必死で見ているフリをした。

 

 ミーナがオリヴェルの世話をするようになってから、父との距離はどんどん近くなってきてはいたが、帝都から帰ってきてからというもの、話しかけてくることが多くなった。

 以前は、一緒に食事していてもほとんど黙々と食べているだけだったのに、最近はミーナやマリーから色々と教えてもらうのか、オリヴェルの読んだ本の話や、オヅマの話をしているうちに、自分の見習い騎士時代の話までしてくれるようになった。

 

 オリヴェルは父の変化が嬉しくもあったが、同時に子供っぽく喜ぶのもなんとなく気恥ずかしくて、時に素っ気ない態度になってしまうことが申し訳なかった。

 ある意味、この親子はそろって不器用なのだろう。

 

 境内ではオヅマ達の舞が終わりを迎えていた。

 最後に再び剣を交わすと、剣技の型を一つ行ってから、最初に立っていた位置で静止して佇立する。

 ゆっくりと剣を胸の前にまっすぐに降ろしてゆき、柄頭(ポンメル)を下腹に押し付けると、剣の樋の部分を眉間に触れる寸前まで寄せて、そのまま恭しく本殿に向かって拝礼した。

 

 おぉぉ、と観衆が感嘆と称賛の声をあげる。

 

鳴り止まぬ拍手と歓声の中を、アドルとオヅマは粛々と歩き去った。

 





次回は2022年7月9日20:00に更新予定です。




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第三十七話 七色トカゲの子守唄

「今日は、ここで皆で寝るとよい」

 

 そう言ってヴァルナルに案内された部屋に入った子供達は、中に入るなり、中央にどでーんと置かれた巨大なベッドに目を丸くした。

 

「うわぁ! すっごいおっきいベッド!」

 

 マリーが一番に走っていって、ポンポンと羽毛を詰め込んだ白いキルトに触れる。

 

「ふわっふわ!」

「乗ったらいいぞ、マリー」

 

 ヴァルナルが遠慮している様子のマリーに言うと、マリーはキラキラとした目でヴァルナルを見てから、

 

「わあぁいっ!」

 

と、靴を脱ぎ飛ばしてベッドに倒れ込んだ。

 

「オリヴェルもお兄ちゃんも、アドルも来て! すっごいよ…見てみて、でんぐり返ししても落ちなーいっ!」

 

 ベッドの上で転げ回るマリーを見て、オリヴェルも思い切って靴を脱ぐと上に乗った。バタリと大の字になって寝転んで、「うわぁ…広いなぁ」とつぶやく。

 

 前回と同じようにオリヴェルの体調のこともあって、神殿内の宿泊施設に泊まることになったのだが、領主用にと用意された部屋の、自分が五人寝ても余るほどの大きなベッドを見て、ヴァルナルは閃いた。

 これほどまでに大きなベッドで自分一人が寝るより、子供達が一緒になって寝た方が楽しめるのではないか…と。

 

 思い浮かんだのは自分の小さな頃の思い出だった。

 昔、兄弟たちと一緒のベッドで寝て、いつまでもしゃべっていたこと。おしゃべりが過ぎて夜中まで起きていたら、母親にこっぴどく怒られたこと。

 あの時はこんなに大きなベッドでもなかったが、冬になるとまるで小さな動物が温めあうかのように重なり合って寝たものだ。

 

「…うん。いいかもしれん」

 

 思いつくと、ヴァルナルはすぐ行動に移した。

 

 騎士達に用意された宿泊所の一室で寝る準備をしていたオヅマとアドリアンを呼び寄せ、ミーナと一緒に寝ようとしていたマリー、既に寝間着に着替えていたオリヴェルを連れてくる。

 アドリアンは、はしゃぐ年下二人を微笑ましく見ていたが、ふと気になってヴァルナルに尋ねた。

 

「もしかしてここはご領主様の部屋ではないのですか?」

「あぁ。でも、お前達で一緒に寝るといい」

「それは…」

 

 アドリアンが戸惑っていると、眉間に皺を寄せたオヅマが尋ねる。

 

「じゃあ、領主様はどこで寝るんです?」

「私か? 私はお前達の部屋で寝るよ。一人には、やたら大きい部屋だと寒いばっかりだからな」

「そんな…じゃあ、俺はそっちで寝ます。ベッド二つあったし…」

 

 オヅマは遠慮ではなく希望で言ったのだが、アドリアンが余計な気遣いをする。

 

「いや。君はマリーのお兄さんなんだし、オリヴェルだって喜ぶだろう。僕があっちの宿舎で…」

 

 言い合う二人に、ヴァルナルはいかにも偉そうに腰に手を当てて命令する。

 

「駄目だ。お前達はここでマリーとオリヴェルと一緒に寝ること」

 

 ヴァルナルが言った途端、マリーが歓声を上げる。

 

「やったー! お兄ちゃんと寝るの久しぶりね。お歌うたって」

 

「歌?」

「歌?」

「歌?」

 

 その場にいたオヅマ以外の男全員が聞き返す。

 オヅマは真っ赤になって怒鳴った。

 

「歌わねぇよ! もうそんな年じゃないだろ!」

「何よぉ。一緒に小屋で寝てた時には歌ってくれたじゃない」

「嫌だ! 歌わない!!」

 

 言っている間にも、マリー以外の三人の目が興味津々と自分を見てくるので、オヅマは念を押した。

 

「絶対に歌わないからな!」

 

 マリーはオヅマの態度があまりに剣呑としているので、メソメソと泣き始めた。ひっくひっくとしゃくりあげる女の子とオヅマを見比べて、男達の非難めいた視線がオヅマに集中する。

 

「……な…んだよ」

「そんなにムキになって言うことでもないだろう」

 

 アドリアンが半ばあきれた口調で言うと、オリヴェルも珍しく同調した。

 

「ちゃんとマリーに謝って!」

 

 ヴァルナルはさすがに多勢に無勢で責められて困った様子のオヅマを見て、フッと笑った。

 

「オヅマ…別にお前が歌を歌うことを馬鹿にしたんじゃない。少々、驚いたが…マリーも久しぶりに聴きたかったんだろう。いつも一生懸命頑張っている妹のささやかな願いくらいきいてやれ」

 

 そう言って軽く肩を叩き、部屋を出て行く。

 

 残されたオヅマはじろっとアドリアンとオリヴェルを見てから、部屋に灯されたランプの火を消していった。ベッド脇のテーブルに置いてあった一つだけを残して、ゴロリとマリーの横に寝そべる。

 

「早く寝ろよ、お前ら。明日は朝早いんだからな」

 

 不機嫌に言って目をつむる。

 

 アドリアンは嘆息し、オリヴェルは少ししょんぼりして、ベッドに乗ると横になった。すぐさまベッドを覆うくらい大きな羽毛たっぷりのキルトが上から掛けられる。怒っていても兄らしい性分が出てしまうオヅマに、マリーはクフフと笑った。

 

「みんなで寝たら、あったかいね」

 

 マリーの隣で寝ていたオリヴェルはホッとした笑みを浮かべる。

 

「そうだね。こんなの初めてだもんね」

 

 マリーとオリヴェルは二人で笑いあった。初めてのことで興奮して、なかなか眠れそうにない。

 

「寝ろ」

 

 ぼんやりとした灯りの中でムッスリしたオヅマの声が響く。

 

「寝れなーい。やっぱりお兄ちゃん歌って」

 

 またマリーが甘えた声で言うと、苛立たしげな溜息が聞こえてきた。

 

「僕はもう寝たら何も聞こえないよ、オヅマ」

 

 オヅマと一番離れた端から言ったのはアドリアンだった。

 

「たぶん、もうすぐ寝る…オリヴェルも、そうだろう?」

 

 いきなり尋ねられ、隣からそっと手の平に合図されたオリヴェルは、どぎまぎしながら頷いた。

 

「うん。僕も、もう眠たくなってきたから…」

 

 うすらぼんやりした部屋の中は静かになり、規則正しい寝息が聞こえ始める。

 

 オヅマはマリーが寝たかとグルリと寝返りをうって見れば、マリーの目は爛々と開いてオヅマが歌うのを待っていた。

 軽く溜息をついた後に、昔――といっても、まだ一年ほど前だが――よく歌っていた、母の生まれた西方地域に伝わる子守唄を小さな声で歌う。

 

 

 金の砂が動いて

 七色トカゲが顔を出す

 銀の月見て

 真珠の涙ぽろぽろ

 瑠璃の涙ぽろぽろ

 

 朱色の風が吹いて

 七色トカゲが歌うたう

 紫の雨に打たれて

 真珠の涙ぽろぽろ

 瑠璃の涙ぽろぽろ

 

 真珠の涙ぽろぽろ

 瑠璃の涙ぽろぽろ………

 

 

 

 

 

 

 ―――――オヅマ……

 

 

 まただ。

 また、自分を呼ぶ声。

 

 だが、以前の少女の声ではない。若い男の…

 

 

 ―――――オヅマ……

 

 

 涼やかな鈴の音のように、心地よく響く声。

 沁み入るような懐かしさと同時に……

 

 

 ―――――いつか……君に……会える……

 

 

 頬を撫でられた気配がして、オヅマはゾワリと(おのの)いて目を覚ます。

 

「……ッ…!!」

 

 しばらく固まったまま、暗闇を凝視する。

 荒い息遣いが自分のものだと気付くまで、少しかかった。

 胸を掴むと、心臓がものすごい勢いで拍動している。ゆっくりと息を整え、目を一度閉じる。冷汗が脇や背中を湿らせていた。

 

 背を向けた真後ろで寝息がきこえる。だが、それはそこにいるはずのマリーのものではなかった。というのも、この寝息をオヅマは何度か聞いていたからだ。

 クルリと寝返りをうつと、案の定そこにいたのはアドリアンだった。

 

「てめぇ…」

 

 風邪でもひいたのか、声がカサついていた。

 グイーっとアドリアンの腹を足で押して、向こうに押しやると、オヅマは起き上がった。

 

 最初にそこにいたマリーはいつの間にか布団(キルト)の奥に穴熊か何かのように潜り込んで、そのマリーを包むようにオリヴェルが身を寄せ合っている。

 

「犬の子か、お前らは」

 

 オヅマはズキズキする頭を押さえながらつぶやくと、ベッドから出た。

 

 ふぅと息をついてソファに座る。

 ヴァルナルの好意は嬉しかったが、正直、オヅマは皆で一緒に寝るのは嫌だった。マリーだけならばともかく、オリヴェルやアドリアンと一緒なのはどうにも気持ちが悪い。

 

 アドリアンは何度かオヅマのベッドに潜り込んで叱られる度に、オヅマのこの『気持ち悪い』という意味がわからないようだった。オヅマにだってよくわからない。ただ……嫌なものは嫌なのだ。

 

「…………」

 

 痛い、頭が。

 目覚める前に聞こえた声は記憶からもう消えていた。残っているのは、奇妙な懐かしさと、相反するこの気分の悪さだけ。

 

 何度目かの溜息でどうにも気持ちが晴れないので、オヅマは着替えると靴を履いて部屋を出た。

 

 ポツポツと蝋燭の灯された廊下を抜けて、外廊下への扉を開くと、冷たい空気が一気に押し寄せた。一瞬、ブルリと体を震わせた後、オヅマは長く息を吐く。白い息が吐いてからすぐに消えていくのを見てつぶやいた。

 

「そんなに寒くもないか」

 

 空は相変わらず晴れていたが、風もなく、北国生まれのオヅマにはさほど寒さは感じない。

 いつもアドリアンに貸している狸の毛皮のチョッキを着ていれば、十分だ。

 

 特に目的もなかったが、なんとなく舞を舞った境内の方へと向かう。

 あの広い場所で体を動かせば、この気味悪い汗も流れていくだろう。

 とにかく今はあの声の残滓(ざんし)を消し去りたい。

 

 宿泊所の外廊下を伝って本殿へと向かう。

 月は既に中天を通り越して、西の空へと傾いていた。鉄紺の空には、星々がまぶしたように大小の光を放っている。

 

「ゴルドー…ダム…サザヴェナ……マヨリ……」

 

 夜空を見上げながら、オヅマは朱や金、(あお)の星の名前をつぶやいた。

 いくつかを口にしてから、ふと考える。

 誰に、星の名前なんて教えてもらったろうか? 母さん…? いや、そうじゃなかった。

 あの、北の空で動かない白い星の名を教えてくれたのは……

 

 ぼんやり考えながら足を進めていると、中庭の方からボソボソと人の話し声が聞こえてくる。

 オヅマは眉を寄せた。声に聞き覚えがある。

 咄嗟に息を潜めて足音を消す。

 そろそろと歩いて、柱の陰からそっと覗くと、そこにいたのは母とヴァルナルだった。




引き続き更新します。



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第三十八話 揺れる心

 ミーナが少しだけ寝て目を覚ましたのは、いつも一緒に寝ていたマリーの寝息が聞こえないことに違和感をもったからかもしれない。

 それこそ赤ん坊の頃からずっと自分のそばで寝ていたのだ。ラディケ村の小さなベッドでも、オヅマと一緒にマリーを挟んで親子三人で身を縮めて寝ていた。冬の寒さは隙間風の入る家の中で容赦なかったが、それでもミーナにとって安堵と幸福を感じる時間だった。

 

 オヅマもマリーもどんどん大きくなっていく。

 オヅマが生まれた時のことなど、昨日のように鮮明に思い出せるのに、それももう十年以上昔なのだ。

 

 窓向こうには、静寂を包んだ(しろ)い月が浮かんでいる。ミーナはしばらく見つめていたが、月明りに誘われるように外に出た。

 

「あ……」

 

 外廊下を歩いて中庭に出ると、そこで剣を振るうヴァルナルを見つけて足を止める。

 

 ヴァルナルはヴァルナルで、昨夜見たアドリアンとオヅマの剣舞に興奮が醒めやらなかったのかもしれない。一度横になったものの、浅い眠りですぐに目覚めてしまい、何度かベッドの中で輾転(てんてん)反側(はんそく)した後に、あきらめて起き上がった。

 眠れぬ夜を無駄に過ごすこともない…と思って、庭に出てきて久しぶりに剣技の型の復習などを始めたのは、無論、昨夜の子供二人の剣舞に刺激を受けたからだろう。

 

 かすかに聞こえた女の声にピタリと動きを止めて振り返る。そこに立っているのがミーナだとすぐにわかったが、しばらくヴァルナルは声をかけられなかった。

 

 質素な寝間着にベージュのショールを羽織っただけのミーナの姿は、飾り気がない分、皓い月明りの下で一層神秘的に見えた。まるで月からの精霊であるかのようだ。淡い金の髪は、月からの光を集めて光り、薄紫の瞳は臈長(ろうた)けた愁いを覗かせている。

 

 ミーナはしばらく困ったように視線をさまよわせてから、無言で頭を下げ、踵を返した。

 

「ミーナ」

 

 思わず呼びかけてから、ヴァルナルは何を言うべきなのかを探さなくてはならなかった。

 ミーナは立ち止まり、振り返ってヴァルナルの言葉を待ったが、慎重に言葉を選んでいるらしい主の姿に、少しだけ心が緩んだ。

 

「マリーがいなくて、なんだか起きてしまいました。ご領主様も何か気になることでもございましたか?」

 

 ヴァルナルにこんな時間に起きていることを聞く前に、自分のことを言うのが礼儀であろうとミーナが朗らかに話すと、ヴァルナルはホッとした笑みを浮かべた。

 

「あぁ…いや、少々気が立ってるというか…おそらくオヅマ達の舞が見事であったからだろうな。あれを見て以来、どこか気持ちが落ち着かないのだ。まだまだ私も及ばぬところもあるのだと思うと、居ても立ってもいられない…」

 

 ミーナはヴァルナルの話に少し笑ってから、ポケットから取り出した手拭いを差し出した。

 

「汗を拭いてくださいまし。風邪を召されでもしたら大変です」

「あぁ、すまない」

 

 ヴァルナルが受け取って汗を拭くと、ミーナが手を出す。

 

「いや、いい。これは私の方で…洗っておく」

「何を仰言(おっしゃ)っておられます。領主様に洗濯などさせるわけには参りません」

「いや、いい」

「こんなことで気を遣っていただいては、かえって恐縮致します。私は領主様の下僕でありますのに」

 

 ミーナの言葉にヴァルナルはピクリと眉を寄せる。手拭いを手の中にギュッと掴んで、ヴァルナルはミーナを見つめた。

 

「ミーナ…頼みがあるんだが」

「なんでございましょう?」

 

 ミーナはヴァルナルの真剣な声音に、あえて気付かないように振る舞った。

 

「その…この前にああしたことを言ったので、気まずいだろうとは思うが……せめて前のように振る舞ってくれないだろうか?」

 

 ミーナは目を伏せて、唇を引き結んだ。

 ヴァルナルの真摯で温かな眼差しに、また、ジワリと泣きそうになってくる。

 

「帝都に向かうまでの間、貴女(あなた)と話す時間はとても有意義だった。オリヴェルのことも詳しく、楽しく話してくれて…私の話にも耳を傾けてくれて…。貴女は聞き上手なのだろうな。貴女と話していると、時々上手に話を整理してくれて、頭がすっきりとまとまるのだ。そうだな…相談相手でいいから、以前のような時間を作ってくれないだろうか?」

 

「相談相手なんて…私などが……勿体ないことでございます」

 

 頭を下げながら、ミーナの声は震えた。

 どうしてこの人はこんなにも優しいのだろうか。決してミーナに迫るのではなく、丁寧に、穏やかに、手を差し伸べてくれる。

 

 かつてミーナが手を伸ばした相手は、何も知らないミーナにただ先を示してみせた。彼の大きな手は、明るい将来へとミーナを誘っていた。

 けれど、ある日ミーナは唐突に気付かされた。あの手を掴んではいけなかったのだと。自分には、そのような資格などなかったのだと。

 

 もう二度と、間違ってはいけない。

 そう決めた。

 ……はずだった。

 

 心を固くして、自分はただオヅマとマリーの『母』として生きるのだと…『女』としての自分を封印した…。

 

「ミーナ」

 

 ヴァルナルは一歩だけ近寄ると、優しく呼びかけた。

 おずおずと顔を上げたミーナを見て、ニコリと笑う。

 

「手紙でも書いたが…私は貴女にとても感謝している。オヅマもマリーも、優しくて純粋で、本当に素晴らしい子達だ。オリヴェルにとっても、小公爵様にとっても、きっと将来、かけがえのない友となる」

 

「そんな…畏れ多いことでございます」

 

「いや。身分に関係なくつき合える友がいることは、何よりの財産だ。私にも、故郷に帰れば私が男爵であることなどお構いなしの友人が何人かいる。彼らと話していたら、いつも安心できるんだ」

 

 ミーナは少しだけ微笑んだ。

 多くの友人に囲まれて、楽しげに談笑するヴァルナルの姿がすぐに想像できる。

 

「私は貴女を困らせたいわけじゃない。だから、無理強いをしているなら、謝る。はっきり断ってもらって構わないが…………駄目だろうか?」

 

 了承を求めるヴァルナルの顔は、どこか少年っぽいあどけなさを含んでいた。まるで子供が母親にクッキーを食べていいのか、と訊いているようだ。

 ミーナは思わず笑みを浮かべた。この人に打算はないのだろうが、なぜだか心が(ほど)けてしまう。

 

「私などはただ話を聞くだけでございますが…領主様の助けとなるのであれば、喜んで話し相手ぐらいは承ります」

 

 ミーナは恐縮しながらも、きっぱりと言った。

 心の中でしっかりと自分に言い聞かせる。

 出過ぎなければいいのだ。自分の身分を弁えて、決して踏み外すことのないように。

 

 一方、ヴァルナルは見ていてわかり易すぎるくらいにホッとした表情を浮かべた。

 

「良かった。断られたら、しばらく仕事が手につかないところだった」

「まぁ…御冗談を仰言っておられず、そろそろお寝み下さいませ」

 

 そう言うと、ミーナはベージュのショールをフワリとヴァルナルの肩にかけた。

 

「風邪を召してはいけませんから」

「しかし貴女が寒いだろう」

「私の部屋はすぐそこですし…もう戻ります。おやすみなさいませ」

 

 ミーナは挨拶すると、すぐに駆け出した。

 ヴァルナルと話すのはミーナにとっても楽しかった。だから今も本当はもっと話していたかった。けれどそういう自分の気持ちに、ミーナはあわてて鍵をかけないといけなかった。

 

 ヴァルナルは挨拶を返す暇もなく行ってしまったミーナの後ろ姿をしばらく呆然と見つめていた。

 なんとなく――――あるいは希望的観測かも知れないが、多少、手応えがあったのではないだろうか…? 

 

 肩に掛けられたショールから、ほのかに残った温かさが伝わってくる。同時に爽やかで、どこか異国情緒を感じさせる甘さを含んだ香りがした。

 

「…………」

 

 ヴァルナルはショールの端を掴むと、そっと唇を当てた。




次回は2022年7月10日20:00更新予定です。




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第三十九話 母と領主様

「………だから、無理強いをしているなら、謝る。はっきり断ってもらって構わないが…………駄目だろうか?」

 

 オヅマはヴァルナルが母に向かって、まるで何か許しを乞うかのように尋ねている姿を見て、胸が詰まった。

 同時に、オリヴェルの言っていたように、ヴァルナルが母のことを好いているのだとはっきり認識する。

 

 だが、母は以前に言っていた。

「そんなことは有り得ない」と。

 だから、きっと断るだろうと思ったのに。―――――

 

「私などはただ話を聞くだけでございますが…領主様の助けとなるのであれば、喜んで話し相手ぐらいは承ります」

 

 オヅマから見て、母は後ろを向いていたが、笑っているようだった。

 随分と打ち解けた様子の二人を見て、オヅマはひどく動揺した。

 呆然としている間にも、二人は楽しそうに喋って、母は背伸びしてヴァルナルの肩にショールなんて掛けている。

 

 オヅマはそれ以上見ていられなくて、足早にその場を立ち去った。一旦、建物の中に入ってから、宿舎に戻ってくる二人と鉢合わせすることを避けて、元々向かっていた本殿の方へと多少遠回りしながら黙々と歩いていく。

 

 何だか…裏切られた気分だった。

 母にも、ヴァルナルにも。

 

 さっき剣舞を舞った境内には、夜半に少し降った雪が積もっていた。

 オヅマは柔らかな新雪を蹴った。苛立ちのまま無茶苦茶にに蹴りつけて、境内を歩き回っていると、不格好な木剣が落ちていた。見物客が忘れていったのだろうか。

 

 オヅマはその木剣を手に取ると、ブン、ブンと素振りを何度かしたが、一向に脳裏から先程の光景が消えない。いや、嫌なのはあの二人の仲良さそうな姿ではなく、それを見ている自分の気持ちだ。どうしてもモヤモヤする…。

 

 ギリリと歯軋りして、オヅマは苛立ちと一緒にザクリと木剣を地面に刺した。そのまましゃがみ込んで、静かに息を潜める。

 

 自分が何をしようとしているのか…オヅマにはわかっていなかった。

 シンと冷えた夜の静寂に溶け込んで、オヅマは自分を追い払いたかった。何も考えたくなかった。

 

 首を項垂れて、内へ内へと意識を沈めていく。

 うなじがピリピリしてきて、ゆっくりと神経が伸びていく感覚。

 背に、肩に、足の裏からも、神経の根が周囲に張り巡らされてゆく。………

 

 急にオヅマは木剣を掴んで跳躍した。

 

 なんの気配もなくそこにいたヴァルナルめがけて、木剣を突きつける。

 

「……………眠れないか?」

 

 ヴァルナルはいきなり自分に向けられた切先に、驚いたようではあったが、それでも悠然と笑って問うてきた。

 

「…………」

 

 オヅマは黙っていた。

 何を言えばいいのかわからない。なぜか体が固まってしまって、剣をヴァルナルに向けたままだ。

 

「オヅマ…?」

 

 ヴァルナルは硬直したオヅマをしばらく見つめてから、やれやれと笑った。

 

「武者震いならぬ、武者強直(きょうちょく)というやつか。緊張しすぎだ…」 

 

 ヴァルナルはオヅマの持つ木剣をバシリと手刀で打った。

 元々木剣に適さない木で作られていたのだろう。あっけなく折れてモロモロと崩れていく。

 

 オヅマは手の中で形を失った木剣の屑を凝視していた。まだ、体の強張りがとれない。

 

 ヴァルナルはオヅマの両肩をガシリと掴むと、「ハッ!」と気合を入れた。途端に力が抜けて、オヅマはヘニョリと雪の上に膝をつく。

 ヴァルナルは倒れそうになったオヅマの腕を掴んだ。

 

「無茶をするからだ…一体、誰に聞いた?」

「………え?」

「全方位の索敵(さくてき)術など…そうそうやっていいものじゃない。見よう見真似でやろうとしても、相当な修練を積まねば……」

稀能(キノウ)…?」

 

 オヅマがつぶやくと、ヴァルナルはふっと笑った。

 

「そうだな。だが、まだお前には無理だ。今、立ってもいられないのだから」

「領主様はできるんですか?」

 

「私か? 私は…多少は使えるが、稀能と呼べるほどのものでない。達人ともなれば、そう…この森一つ分程度であれば、すべての敵を感知して全滅させることも可能だろうな。『千の目・(まじろぎ)の爪』と言ってな…」

 

「『千の目』……」

 

 その言葉を聞いた途端、オヅマの胸がザワザワと蠢く。

 また()が襲ってきそうで、オヅマはブンブンと頭を振った。

 

「オヅマ?」

「……なんでもないです。離してください」

 

 ヴァルナルは怪訝に思いながらも、オヅマの腕を離す。

 オヅマはふらつきながら立ち上がると、ヴァルナルをチラとだけ見て、すぐに目を伏せた。

 

「オヅマ…お前は……」

 

 ヴァルナルが言いかけると、オヅマは遮るように問うてきた。

 

「騎士は…気配を読むんだって…聞きました」

 

「あぁ。それは騎士としての修練を積めば、多少なりと身に入ることだ。その中で特に鋭敏な者であれば、より特殊な修練を積むことで覚知(かくち)していく」

 

「覚知?」

 

「そうだ。稀能は特殊な人間が持つ力じゃない。皆、それ相応の能力を秘めている。自身でそれを覚知し、発現させ、制御できるかどうかだ。能力だけが突出して、使いこなせない者は悲劇的な末路を迎えるからな」

 

 言いながら、ヴァルナルはオヅマの能力に密かな危惧を抱いた。

 

 甚だ未完のものではあるが、今、オヅマは確実に全方位索敵術――通称『千の目』――を発現させようとしていた。その上、ヴァルナルの気配を感知して襲いかかってきた、あの速度。まさに『(まじろぎ)の爪』と言うべき敏捷さではないか。

 

 まだ、騎士としての訓練を受け始めて一年にも満たず、わずか十一歳の子供が使用していい能力(ちから)ではない。このまま勝手をさせれば、確実にオヅマ自身の身体に影響を及ぼすだろう。

 

 明らかなる素質を認めながらも、ヴァルナルは喜べなかった。

 まだ早い。早すぎる覚醒は、本人にも周囲にも害となりかねない。

 目の前の無自覚なオヅマに、ヴァルナルの眉間の皺は深く憂いを帯びた。

 

「領主様の稀能(キノウ)は何なんですか?」

 

 ヴァルナルの心配も知らず、好奇心旺盛なオヅマは尋ねてくる。

 

「私か……」 

 

 ヴァルナルは一瞬迷った。言えば、きっとオヅマは教えてくれと言ってくるに違いない。しばしの躊躇の後に、ヴァルナルは結局話した。

 

「わたしの稀能は『澄眼(ちょうがん)』と呼ばれる」

「『澄眼』? どんなものですか?」

「うーん…有り体に言えば、相手の動きを読むんだな」

「………どう動くかを予測するってこと?」

 

「そうとも言える。周りから見ると、そうなのかもしれない。だが、私からはただ相手が()()()()に見えるというだけだ」

 

()()()()見える?」

「カールの千本突きを見たことがあるか?」

 

 オヅマに剣を教えてくれているカールは、稀能とまではいかないが、凄まじく早い突き技を連続して行う千本突きの名手でもある。

 オヅマ自身が相手をしたことは勿論ないが、何度かその技を他の騎士相手に繰り出しているのを見たことがあった。

 目にも留まらぬとはあのことで、隣で暇な騎士達が何度突いているかを競って数えていたが、あまりの速さに誰もが途中で数えるのをあきらめた。

 

「あのカールさんの攻撃も、『澄眼』を使えば、()()()()見える…ってことですか?」

「あぁ。まるで蝶が舞ってるみたいにな」

「じゃあ、あの高速の攻撃をすべて凌げるってことですか?」

「そうだな。何度か立ち合ったが、今のところ突かれたことはないな」

 

 オヅマは今更ながらヴァルナルの凄さに感嘆した後、やはり予想通りの行動をとった。

 

「教えて下さい!」

 

 ヴァルナルはかすかなため息をついた。

 

「とりあえずは、体力だ。お前はまだまだ基礎体力が足りない。しっかりとした土台がないと、どんな技能も身につかないからな」 

 

「もっと走れってことですか? もっと速く走れるようになって、剣の素振りを毎日二百回、いや三百回したら…」

 

 焦ったように言うオヅマに、ヴァルナルは頭を振りながら笑って、ポン、と肩を叩く。

 

「今のお前に必要なのは、身体の成長だ。つまり、よく食べて、よく動き、よく眠る。そうすれば勝手に大きくなって、充実していく。ただし、一朝一夕には出来ない」

 

「………」

 

 ヴァルナルの前でなければ、オヅマは舌打ちしたい気分だった。

 結局、子供だから駄目なのだ。いつだってそうだ。子供であるから許され、子供であるから禁じられる。

 自分はもっと早く、強く、大きくなりたいのに…!

 

 オヅマは急に黙り込むと、一歩後ろに下がった。

 今更になって、ベージュのショールが目に入ってくる。プイと、そっぽを向いて、冷たく尋ねた。

 

「どうしてこっちに来たんですか?」

「……来てはいけなかったか?」 

 

「領主様に駄目なことなんてありません。でも、早く帰った方がいいんじゃないですか? せっかく風邪をひかないようにって……そのショール…」

 

 ヴァルナルは苦笑した。

 やはり見られていたか、と。なんとなくミーナとの会話の途中で視線を感じて、彼女が去った後に人の気配を辿って来たら、オヅマがいたのだ。

 

 正直、多感な時期の少年には見たくないものだったかもしれない。

 オヅマが母と妹のことを誰より、何より大切に思っていることは、ヴァルナルも承知している。家族思いの少年には、男女のことはあまりに異質だろう。ましてそれが自分の母であれば、尚の事、拒否反応が出ても不思議はない。

 

「オヅマ…誤解しないでくれ。ミーナには時々、話し相手になってほしいと頼んでいただけだ」

 

「嫌いだったら、そんなこと頼まないでしょう?」

「ま…それはそうだな」

 

 オヅマのすげない態度にヴァルナルは少し戸惑った。

 いつもは騎士見習いとして、可愛がっていた存在が、急にとてつもない壁になった気がする。

 

 オヅマは真っ直ぐにヴァルナルを見つめて尋ねた。

 

「好きなんですか、母さんのこと」

「………ああ」

 

 ヴァルナルは緊張しながらも目を逸らさなかった。

 ミーナと同じ薄紫色の瞳は静かで、なんの感情も見えない。

 しばし互いに見合ってから、ふっと、目線を下に向けたのはオヅマの方だった。

 

「……マリーとオリヴェルは……きょうだいになれるって喜んでました」

「きょうだい??」

 

 ヴァルナルはいきなり話が飛躍して、思わず聞き返した。

 オヅマは怪訝にヴァルナルを見る。

 

「だって、俺の母さんと結婚するなら、きょうだいになるんでしょう? 俺とマリーと、オリヴェルは」

「いや! 待て! まだ、その…結婚だとかは考えてない…というか…」

 

 ヴァルナルは慌てて否定したが、それは余計な誤解を招いたようだ。

 

 オヅマはギュッと眉間に皺を寄せてから、また視線を逸らせてどこか軽蔑を含んだため息をつく。

 

「あぁ、そうですね。領主様ぐらいのご身分の人が、母さんを()()()()()()()()()になんかしないですよね。なんて言うんだっけあれ…二番目の…妾っていうの?」

 

「馬鹿を言え! そんなつもりは毛頭ない!」

 

 ヴァルナルはさすがに強硬に否定した。

 しかしオヅマの顔は暗く翳ったままだ。

 

「俺は子供だから…大人のすることに口出しはできないけど……」

 

 オヅマは少しかすれた声で低く言ってから、ギロリとヴァルナルを睨みつけた。

 

「マリーと、母さんを不幸にするなら、領主様であっても許しませんから」

 

 ヴァルナルは真っ直ぐにその目と対峙しながら、ゴクリと唾を呑み込んだ。

 この威圧感は何なんだろうか。ただの子供と思えぬ、暗く沈んだ迫力は。

 

 ヴァルナルは軽く息を吐いて、やや強張りながら笑みを浮かべた。

 

「ミーナを不幸にするなど、絶対にあってはならないことだ。それはお前と同じ意見だよ、オヅマ」

「………」

 

 オヅマはふと我に返ったようだった。急に瞳の力が弱くなって、項垂れるように頭を下げた。

 

「すみません。生意気なことを言いました…失礼します」

 

 そのまま立ち去ろうとするオヅマに、ヴァルナルは思いきって呼びかけた。

 

「オヅマ! 私は………お前の父親にはなれないか?」

 

 ピタリと歩みを止めて、オヅマはゆっくり振り返った。さっきと同じ暗い顔でボソリとつぶやく。

 

「俺は父親はいらない」

「…………」

 

 ヴァルナルの胸に乾いた冷たい風が吹いた。

 

 はっきりと、一線を引かれた。

 

 騎士として、領主としてのヴァルナルへの敬意はありながらも、こと親子ということに関して、オヅマは明確に拒否した。

 

 ヴァルナルは言葉が出なかった。

 しかしすぐに、オヅマ達家族が、父親を失ってまだ間もないことに気付く。

 

「あ…いや……そうだな。すまない。まだ父親を失って一年も過ぎていない内から…無神経だった」

 

 ミーナから聞く限りひどい父親であったと思うが、子供の思いはまた他人にはわかりえぬものだろう。

 オリヴェルとて、何年も実の息子を放任してきた不人情な父親であっても、父として慕ってくれているのだから。

 

 しかし、オヅマはヴァルナルの言葉に、フッと皮肉げに頬を歪ませた。

 

「あんな野郎が父親? 冗談でしょ。あんなのは父親じゃない。だいたい血も繋がってないんだから」

 

 ヴァルナルはオヅマが既に自分の出生について知っていたことに驚いた。思わず問いかける。

 

「オヅマ…お前、知ってたのか?」

 

「何を? あのクソ親父が自分の父親じゃないってことをですか? そりゃ、本人に嫌ってほど聞かされたんだから、知ってますよ」

 

 オヅマは話しながら、ヴァルナルがその事実を知っていたことこそ驚きだった。あの口の堅い母が教えたのだとしたら…つまり、そこまで親密だということか。

 

 さっき二人を見た時の苦い気持ちがまた甦る。

 

 生まれた時からずっと一緒にいて、いつも自分とマリーを見ていてくれた母。

 オヅマの決断を受け入れ、新たな生活を与えてくれた尊敬する領主様。

 

 どちらも大好きな存在なのに、二人が二人だけの世界にいることが、オヅマにはひどく落ち着かない。

 

「母さんからも聞いてます。はっきりと言われたわけじゃないけど、否定しなかったんで。本当の父親のことも聞いたけど、教えてくれなかった。いっそ、死んだって言ってくれればいいのに、迂闊に『死んだ』なんて話して、そいつが言霊に触れて死んだりしたらいけないって…迷信信じて、いまだにそのロクデナシを守ろうとしているのが、本ッ当に……」

 

 ギリ、とオヅマは奥歯を噛みしめる。

 幼い頃のやり取りが脳裏に浮かんだ。

 

 

 ―――――母さん、俺の本当の父さんはどんな人なの?

 

 ―――――それは…教えられないの。ごめんね、オヅマ。

 

 ―――――…ううん。いいよ。だって母さんを捨てた奴だもの。悪い奴だよ。

 

 ―――――オヅマ、そうじゃないの。母さんが愚かだったの。物知らずだったのよ。だから恨まないで…

 

 

 虫酸が走る。()()()()のことを庇うなんて。

 そう思ってから、オヅマは少し混乱した。

 ()()()()? 自分は一体、誰を思い浮かべた?

 

 一方、ヴァルナルは嫌悪感もあらわなオヅマの顔に、この少年のまだ短い半生を思った。

 一体、どれほどの虐待によって、この根強い不信が植え付けられたのだろうか…。

 

「悪かった」

 

 ヴァルナルが頭を下げると、オヅマは戸惑ったように見た。

 

「なんで領主様が謝るんですか?」

「いや。言葉足らずでいらぬ誤解をさせた。しかし、安心してくれ…というのも変だが、ミーナにはしっかり断られてるんだ」

「え?」

「一度、正直な気持ちを打ち明けたが…断られた。きっぱりとな」

 

 オヅマはまじまじとヴァルナルを見た後に、またボソリとつぶやいた。

 

「馬鹿だな…」

 

 ズバリと言われ、ヴァルナルは情けない笑みを浮かべる。

 

「いや…ま、その通り…馬鹿な男だ。きっぱりフラれてるのに…いつまでも恋々(れんれん)と…我ながら不甲斐ないことだと…」

 

「違うよ」

 

 オヅマはやや大きな声で否定した後に、俯いて言った。

 

「馬鹿なのは、母さんだよ。どう考えたって、あんな男より領主様の方が絶対いいに…」

 

 語尾はかすれ、喉に何かが引っ掛かったのか、それとも照れ隠しにか、オヅマはゴホゴホと咳き込んだ。

 

「………失礼します」

 

 ヴァルナルがポカンと口を開けている間に、オヅマは走って部屋に戻っていった。

 




次回は2022年7月13日20:00に更新予定です。



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第四十話 おしゃべり騎士達の噂話

 神殿への参詣からひと月が過ぎ―――――

 

 遠陽(とうび)の月に入ってから、騎士団においては雪上野営が行われる。二週間近く、近くの山中に籠もって、そこで実戦的な訓練が行われるのだ。

 オヅマとアドリアンは見習いではあったものの、大の大人の、しかも屈強な騎士をもってしても『地獄』と言わしめる、この過酷な訓練への参加は認められなかった。下手をすれば凍死の可能性もあるからだ。

 

 当然ながらオヅマは不本意だった。カールにも参加を認めるよう頼んだが、鬼副官はにべなく「駄目だ」の一言で片付けた。

 騎士団が野営に向かう前日、ぶぅぶぅ文句を言っていたオヅマに、アドリアンは何気なく尋ねた。

 

「文句ばかり言ってるが…オヅマ、君、大丈夫なのか?」

「なにが?」

「野営の時は、寒さで死なないように、対番(ついばん)は一緒の寝袋で寝るんだよ」

「……嘘だろ」

 

 オヅマは唖然となった。

 ついさっきまでは明日一緒にコッソリついていこうか…とすら考えていたのに。

 思わぬ難問にオヅマは唸った。どうにかしてそれは回避したい。いずれ自分が訓練に参加する、その時は。

 

 だが真剣な顔で()()()()()にこだわるオヅマに、マッケネンはあきれた。

 

「なにをつまらんことを。実際、行ってみればわかるさ。それこそゴアンであろうが、トーケル御爺(おんじ)だろうが、温かけりゃいいんだ。足の爪先だって、交互に股の間に入れて温めなけりゃ、凍傷になりかねないんだからな」

 

「寝袋に入ってりゃ、一人でも十分温かいよ、俺は」

 

 オヅマはそれでも強がったが、サロモンがヘッと鼻で笑う。

 

「言ってろバーカ。たまにいるんだよな、お前みたいな奴。そういう奴に限って、行軍の後に飯も食わずに対番を無理やりに幕廬(テント)に引っ張っていきやがるんだ。なぁ、ヘンリク?」

 

 いきなり呼ばれたヘンリクは、食べかけていたパンを喉に詰まらせそうになりながら、サロモンを睨みつけた。

 

「俺…ッ…は……『どうにかして温かくならないのか』って、聞いただけだ! 足の指が凍りついて凍傷になりそうだったんだからな。そうしたらアルベルトが、テントに帰ればどうにか出来るって言うから……」

 

「行く前には散々、誰が男となんぞ一緒に寝るかー!って、大口叩いてたくせになぁ。一日目であっさり陥落だよ」

 

 からかう同輩達に、ヘンリクは居心地悪そうに小さくなりつつも、ムッと睨みつけた。

 

「仕方ないだろ。アルベルトなんだぞ、俺の対番。あんたみたいにゴアン相手でも腕っぷしじゃ負けない人はいいけど、俺なんざとても敵うわけない。警戒だってするさ…」

 

「馬鹿じゃねぇのか、お前。あのクソ寒い中で汗でもかいた日にゃ、次の朝には二人揃って凍ってら。だいたい寒さで縮み上がって、()()だって……」

 

 そこまで言いかけたサロモンを、マッケネンが強めに小突く。すぐにサロモンは目の前で耳を赤くして俯いているアドリアンに気付いて口を噤んだ。

 

 しかしオヅマはまったく気にしない。パンをブチリと千切って飲み終わったスープの皿を拭きながら、斜め前に座って静かに食べているアルベルトに尋ねた。

 

「それじゃ、その時はヘンリクさんと寝たの? アルベルトさん」

「そーいう誤解されるような言い方すんなよ、オヅマ」

 

 ヘンリクは渋い顔で抗議するが、アルベルトは無言で頷いた後、

 

「あの時はとにかく腹が空いていたから、ヘンリクを温めながらパンを食べていたな…」

 

と、相変わらずの無表情でつぶやく。

 オヅマはその様子を思い浮かべて、あきれたように言った。

 

「どんなけ寒がりなんだよ、ヘンリクさん」

「うるせぇ! 俺は南の生まれなんだよ。こんな寒さ有り得ねぇんだよ!」

「寒いってわかってたのに、なんでレーゲンブルトなんて希望したんだ? 元々、ファルミナの騎士団だったろう、お前」

 

 ファルミナは公爵領の南の飛び地だ。レーゲンブルトよりも大規模の騎士団が駐在している。ヘンリクは元はその騎士団に代々勤める騎士一家の出だった。

 マッケネンが問うと、ヘンリクは口をとがらせてボソリと言う。

 

「そりゃ…ヴァルナル様がいらっしゃるから」

「最終的にはそれなんだよなぁ」

 

 サロモンはさもありなんと頷いてから、ヘヘッと笑った。

 

「いっそ、ご領主様が全員まとめて面倒見てやりゃ問題ないんだろうけどな」

「それは駄目だろ!」

 

 いきなり立ち上がり、大声で怒鳴ったのはオヅマだった。

 サロモンらだけでなく、食堂にいた騎士達の視線が集中する。

 オヅマは我に返ると、ごまかすようにカチャカチャと音をたてて皿を重ね合わせ、洗い場の水樽に放り込んでその場から立ち去った。

 

「……なんだ、あれ?」

 

 サロモンがあっけにとられていると、アドリアンも釈然としない顔で話す。

 

「神殿の参拝の後から、ちょっと妙なんです」

「妙って?」

 

「なんだか…ヴァル……クランツ男爵に対して、他人行儀というか。稽古中とかはそうでもないんですけど、前は男爵の手柄話なんかもよくしていたんですけど、最近はあまり気乗りしてこないから、話すこともなくなって…」

 

 サロモンとマッケネンは目を見合わせた。

 

「……領主様ってソッチの趣味あったっけ?」

「どうしてそういう話になるんだ、お前は。だいたい、好きな女の息子なんだぞ、オヅマは」

「好きな女?」

 

 アドリアンは聞こえてきた言葉に敏感に反応した。

 

「好きな女って…男爵が…好意を寄せる相手がいるってことですか?」

 

 その質問については、アドリアンだけでなく、その周囲にいた騎士達全員が聞き耳をたてた。全員の脳裏に一人の女性の姿が浮かんでいたが、誰がその名を言うのかと、皆が顔を見合わせている。

 

 口を開いたのは、アルベルトだった。

 

「ミーナだ」

 

 簡潔な答えに、アドリアンは聞き返した。

 

「ミーナ? オヅマのお母さんですか?」

 

 アルベルトはパンを口に含んで頷く。

 

 アドリアンはしばらく考えて、ハタと思い至った。

 領主館の中で、元々公爵家で働いていた執事などを除いて、地元(レーゲンブルト)で雇用された使用人はすべてアドリアンが公爵の息子であることを知らない。

 無論、それはオヅマやマリーも、ヴァルナルの息子であるオリヴェルでさえ知らされていなかった。

 しかし、オヅマの母親だけは例外的に知っている。なぜなのかと思っていたが……

 

「そういう事だったんだ…」

 

 アドリアンはつぶやきながら、オリヴェルの部屋で何度か会ったオヅマの母親の姿を思い浮かべた。

 

 淡い色の金髪に、オヅマと同じ薄紫色の瞳。西方からの血が混じっているという、やや褐色の肌は、いつも艷やかだった。確かに美人である。帝都の貴婦人達の中にいても、おそらくちょっと目立った存在になるだろう。

 それに容貌の美しさだけでなく、折々ににじみ出る所作の典雅さは、正直、こんな田舎にいるのが不思議なくらいだ。

 

「オヅマはおそらく、領主様の気持ちを知ったのだろう。それで自分はどうすればいいのか、決めかねているのかもしれない」

 

 普段は無口なアルベルトは、実のところ人の観察に長けている。その結論にマッケネンは内心で頷いたが、アドリアンは首を傾げた。

 

「どうすれば…って、オヅマは男爵のことを尊敬しているのだから、自分の母がその男爵の妻になるなら、喜ばしいことじゃないのですか?」

 

 その問いに答えたのはマッケネンだった。

 

「騎士として憧れるのと、自分の父親になるってのは、少々勝手が違うからな」

「そう…なんですか?」

 

「オヅマの死んだ父親はロクでもない男だったらしいからな。子供相手に平気で暴力を振るうような奴だったそうだ。そのせいでオヅマは父親ってやつに、どうも疑心暗鬼なところがある」

 

「アドル、一緒に暮らしているのだから、オヅマの背中の火傷痕を見たことがあるだろう?」

 

 アルベルトが珍しく尋ねてくる。

 アドリアンの脳裏に、すぐにオヅマの痛ましい火傷痕が浮かんだ。背中の右上半分の引き攣った赤い肌。理由を聞いたが、オヅマは小さい頃に転んで竈の火があたったのだ…としか言わなかった。

 

 頷くと、アルベルトはこれまた珍しく顰め面で言った。

 

「あれはオヅマが妹を庇った時の火傷痕だ」

「マリーを?」

 

「そうだ! あろうことか、そのロクデナシの父親の野郎が、赤ん坊のマリーをぶん投げようとしやがったのを、止めた時に竈の火に当たって火傷したんだと! っとに、胸糞悪い親父だ! 死んで当然だな!!」

 

 激昂して言ったのはサロモンだった。

 

 アドリアンは驚いた。普段のオヅマとマリー、ミーナの様子からはそんな壮絶な過去があったことなど露ほども感じられない。むしろ、亡くなった父親も含め、ごく当たり前の平和で穏やかな家庭を想像して、自分との違いに少しばかり嫉妬していたぐらいだ。

 

「まぁ、領主様のことは確定事項でもないから、あまり騒ぎ立てない方がいいだろうな。オヅマも、変声期が来ているようだし、そろそろ難しい年頃に入ってるのさ」

 

 マッケネンが穏やかに言いながら、周囲で聞いている騎士達にそれとなく釘をさす。

 その上で、アドリアンには難題を出してくる。

 

対番(ついばん)として…アドル、オヅマの相談にも乗ってやってくれ」

 アドリアンが返事しないうちに、重ねて「おう、頼むぞ」とサロモンが言うし、鉄面皮のアルベルトも無言で頷く。

 

 

 ……そんな訳で、騎士団が雪上野営に向かった後、アドリアンはひとり悩んでいた。

 誰かの相談なんて乗ったこともないし、そもそもオヅマは相談なんてしてくる人間でもない。それに悩みを打ち明けてくれるほど、自分が信頼されているとは思えなかった。

 

 むしろやたらため息をつくアドリアンに、オヅマの方が尋ねてくる。

 

「なんだよ? なんか気になることでもあんのか?」

「いや…特に何も」

「…っとに、最近はなくなったと思ってたのに、またひしゃげたパンみたいな顔しやがって」

「…………」

 

 アドリアンはぎりぎりで苛立つ感情を抑えた。

 

 どうして素直に同情させてくれないんだろうか……()()()は。 

 





引き続き更新します。


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第四十一話 小さな画伯

「あら」

 

 扉を開けて出てきた(ひと)に、アドリアンは思わず固まってしまった。

 

 決められた修練と雑用を終えて、いつものごとくオリヴェルの部屋へと向かったアドリアンとオヅマだったが、オヅマは途中で下男の一人に呼ばれて行ってしまった。

 

「先、行っといてくれよ。すぐ行くから」

 

 軽く言い置いて行ってしまったが、正直、オヅマがいないならアドリアンがオリヴェルの部屋に行く理由などほとんどないのだ。

 部屋の主は相変わらず、敵対心もあらわだし、アドリアンの方でも年下の子供の相手などしたことないので、どうすればいいのかわからない。

 

 ようやっと最近になって、三人で駒取り(チェス)の総当たり戦(現在、第二期節(セカンド・シーズン)第一期節(ファースト・シーズン)はアドリアンが優勝)をやったりするようになったが、対戦している間もオリヴェルがアドリアンに話しかけることは皆無だった。

 

 だから今も正直行きたくなかったが、行かないと行かないで今度はマリーがむくれるらしい。

 

「だって、三人だとお兄ちゃんとオリヴェルが駒取り(チェス)始めたら、私、やることないんだもん」

 

 マリーはあれでけっこうおしゃべりなのだが、話が激しく前後するので、かなり根気よく聞いてやらないと意味がわからない。

 オヅマはハナから聞く耳を持たないし、オリヴェルはいちいち指摘しては話が止まってしまうので、マリーとしては、とりあえず黙って、時々相槌をうってくれるアドリアンは格好の話し相手なのだった。

 

マリー(あいつ)が怒ったら一番始末が悪い」

 

と、オヅマは言う。

 もっともアドリアンからすると、オヅマもオリヴェルもマリーに滅法甘くて、ご機嫌を窺っているように見えるが。

 

 ということで、アドリアンはやや憂鬱になりつつオリヴェルの部屋の前まで来て、ノックした。

 そこで扉を開けてくれたのが、いつものマリーでなくミーナであったのだ。まともに薄紫色の瞳と目が合って、思わず騎士達の話を思い出す。

 

 

 ―――――男爵が…好意を寄せる相手がいるってことですか?

 

 ―――――ミーナだ…

 

 

 やっぱり、美しい。

 アドリアンは再確認する。

 

 相手に安心感を与えるふわりとした上品な微笑み。

 ヴァルナルはきっとミーナの容姿だけでなく、穏やかで優美な雰囲気に惹かれたのだろう。

 

 二人のことを考えると、アドリアンはどういう顔をしていいかわからず、下を向いた。ミーナは特に何か気にする様子もなく朗らかに尋ねてくる。

 

「いらっしゃい、アドル。珍しいのね、一人?」

「あ…オヅマはちょっと用があって呼ばれて…すぐに来ると思います」

 

「あら、そう。ごめんなさいね。若君とマリーも、今は温室に花を見に行っているのよ。なんでも珍しい花が咲いたらしくて…あなたも行ってみる?」

 

「いえ」

 

 アドリアンはすぐに断った。

 オリヴェルがマリーのことが好きなのは明らかなので、そんなところに行ったら、殺されそうな勢いで睨まれた挙句、嫌味の一つ二つじゃ済まない。

 

「そう? じゃあ、中で待ってて頂ける? すぐに戻ると思うわ。私はおやつの用意をしてきますね」

 

 ミーナは扉を大きく開いて、アドリアンを招き入れる。

 なんとなくアドリアンは断るきっかけを掴みそこねて、そのままおずおずと中に入った。

 

 いつもは四人で騒がしい部屋の中はシンとしている。

 曇り空が見える窓は差してくる日の光も弱く、昼間だったがランプが灯されていた。

 

 アドリアンはいったん、ソファに座ったものの、なんだか落ち着かなくて立ち上がる。

 ふと、隅の方に置かれた三脚が目に止まった。イーゼルようだが、なぜだか壁の方にむかってキャンバスが置かれて、上から布が被せられている。

 

 アドリアンは少し迷った。

 オリヴェルが、自分とオヅマの剣舞の絵を描いているらしいことは、マリーから聞かされていた。ただ、

 

「オリヴェルったら、絶対に誰にも見せないのよ。私はちょっとだけ見れるんだけど、お母さんにもお兄ちゃんにも絶対に見せないの。下手だからって。そんなこと全然ないの。すごく上手なのに……」

 

と言っていたので、オリヴェルがアドリアンに見せないであろうことは確実だった。

 

「…………」

 

 しばらく考えてから、アドリアンは布を取った。

 どうせ一生見せてもらえないなら、今見ておくしかないだろう。あのオリヴェルが自分をどう描いているのかも、実はかなり興味があった。

 

 イーゼルを持ち上げて、キャンバスをこちらに向けてから、アドリアンはその絵に言葉を失った。

 

 雪を蹴り上げて舞う二人の姿。

 白い月の光。

 篝火の炎。

 閃く剣の鋭さすらも、伝わってくる。

 

 九歳の子が描いたとは思えぬほど、上手な絵だった。自分(アドリアン)のことも、案外ちゃんと描いてくれている。手前のオヅマに比べると、細かな表情は描かれていないが。

 

 思っていた以上の完成度に、アドリアンはすっかり見入っていたのだろう。

 扉が開いたことにも気付かなかった。

 

「あーっ!!」

 

 大声で後ろから叫ばれて、アドリアンはビクリと肩を震わせると同時に、ここがオリヴェルの部屋であったことに気付く。

 おそるおそる振り向くと、オリヴェルが凄まじい憤怒の形相で、睨みつけていた。反対に隣で笑っていたのはマリーだ。

 

「あっ、見たんだ! ね、ね、上手でしょ? とっても上手でしょ?」

 

 オリヴェルが何かを言う前に、マリーはアドリアンのところに走ってきて、ニコニコ笑って早口に尋ねてくる。

 

「あ……」

 

 アドリアンは少しだけ気まずいながらも、オリヴェルをじっと見つめてから頷いた。

 

「うん。とても上手だと思う」

 

 途端にオリヴェルの顔が真っ赤になる。

 

「う、嘘つくなっ!」

「嘘じゃない」

「上手いわけないだろッ! 全然っ、全く、全然、見たことの半分だって描けてないんだッ」

「そんなことないってば!」

 

 マリーが同じように声を張り上げて言うが、珍しくオリヴェルはマリーの言葉にすら激しく首を振った。

 

「駄目なんだよ、こんなの!」

 

 言うなりオリヴェルがつかつかとこちらに歩いてきて、キャンバスを取り上げようとする。アドリアンは咄嗟に伸びてきたオリヴェルの手を掴んだ。

 

「何するんだ、離せ!」

「離したらどうする気だ? せっかくの絵を」

「どうしようが僕の勝手だ! お前に見られて、馬鹿にされるくらいなら、叩いて破って捨ててやる!」

 

 アドリアンはイラっとなった。右手でオリヴェルの手首を掴みながら、左手でキャンバスを取り上げた。

 

「返せ!」

 

 躍起になってオリヴェルは怒鳴る。

 アドリアンの頭上高くにキャンバスをもって行かれて、頭一つ分は身長差のあるオリヴェルには手を伸ばしても届かない。

 

 アドリアンはあきれたようにため息をついた。

 

「いい加減にしたまえ。勝手に僕の気持ちを決めつけないでもらいたい。さっきも言ったように、僕はこの絵が上手だと言っている。嘘じゃない」

 

 いつものようにアドリアンは冷静な物言いだったが、妙に迫力があって、オリヴェルは少し戸惑った。

 

「………そんなわけ…」

 

「嘘じゃない、と言っている。僕が君に嘘をつく必要があるのか? 領主様の息子であっても、オヅマ同様、今まで忌憚ない付き合い方をしてきたはずだ。それは君も重々承知だろう?」

 

「君に…何がわかるというのさ」

 

 オリヴェルはアドリアンの態度にやや圧倒されつつも、これまでの反感はそう消えない。ジロリと睨んで問うと、アドリアンはキャンバスを下ろして、まじまじと間近に眺めながらつぶやいた。

 

「マリ=エナ・ハルカム……」

「え?」

「だぁれ、それ?」

 

 マリーが尋ねると、アドリアンは絵を見たまま説明する。

 

「ただ見たままを捉えて絵にするのではなく、自分の心に感じたものも絵にする…そういう創作理論を提唱した画家だ。女の画家ということもあって、あまり知られてないけど、僕の母が後援者(パトロン)だったから家にいくつか絵があって……」

 

 言いかけてアドリアンはハッとなり、あわてて口を噤んだ。

 チラとオリヴェルとマリーを見る。オリヴェルの方は、怪訝な顔でアドリアンを見ていたが、マリーは訳がわからないようだった。

 

 アドリアンは軽く咳払いしてから続けた。

 

「つまり、君は彼女と同じような考え方なんだろう。僕やマリーからすれば、君の絵は十分に上手だ。おそらく誰の目から見てもそうだ。でも君は、君の目で見て、君の感じた全てを絵にこめたいのに、それができないから下手だと思うし、全然できてないと思ってしまうんだ」

 

「…………」

 

 オリヴェルはポカンとなった。

 今まで自分の中にあった形にできないモヤモヤしたものが、アドリアンの言葉によって、ようやく目の前に現れたかのようだ。

 

「実際に、マリ=エナ・ハルカムの絵を見れば、君なら何か感じるところがあるのかもしれないけど…」

 

 アドリアンは話しながら、公爵邸に頼んで一枚、送ってもらおうかと思案する。

 おそらく飾ってあるものの他に、彼女が残していった絵が倉庫にあるはずだ。

 しかしすぐに無理だと諦めた。今は自分は罰を受けている身だ。父が許すはずがない。

 

 フッと暗い顔になって俯いたアドリアンを見て、マリーがそっと袖を引っ張った。

 

「どうしたの? 大丈夫?」

 

 心配そうに自分を見上げる緑の瞳。

 アドリアンは思わず微笑んだ。

 いつもマリーにやり込められてブツブツ文句言いながらも、妹の言う事を聞くオヅマの気持ちが少しだけわかった。

 

 そうか…()という存在は、可愛いものなのか…。

 

 幼い頃に一度だけ見た異母妹のことを思い出す。彼女も確かマリーと同じ年頃ではなかったろうか…?

 

「アドル…君は…一体…?」

 

 オリヴェルは今になってようやく、アドリアンの正体について考えていた。

 父の知り合いの息子だと聞いていたが、話の内容や、アドリアン自身の持つ妙に落ち着いた振る舞いといい、およそそこらの貴族の若君とも思えない。

 

 アドリアンはオリヴェルの質問には答えず、キャンバスを差し出した。

 

「この絵が完成したら、僕が貰いたいくらいだ」

 

 オリヴェルはキャンバスを受け取って、まじまじと眺める。

 やっぱり、自分ではまだまだ下手だ。あの時の感動の半分も、この絵からは感じ取れない。

 

「あら、駄目よ。アドル。この絵は私が貰うの。これの前に描いてた絵はお兄ちゃんにあげる予定なのよね? オリー」

 

 マリーが言うと、アドリアンはクスリと笑みを浮かべた。

 

「なんだ、オリヴェル。君、まだ一枚も発表していないのに、信奉者(ファン)が三人もいるんだな」

「三人?」

「マリーと、オヅマと、僕と」

 

 オリヴェルは真っ赤になった。

 素直に言えば嬉しいのだが、今までの経緯もあって、アドリアンにどういう顔をすればいいのかわからない。

 

 隣で二人の様子を見ていたマリーは満面の笑みを浮かべて言った。

 

「やっぱり私の言った通りだったでしょ、オリー。アドルは素直で物知りだから、ちゃんと見て、ちゃんとしたこと言ってくれるって」

「え…」

 

 アドリアンはマリーの言葉に驚いた。素直? 自分が? 一度もそんなことを言われたことがない。

 

 一方、オリヴェルは絵とアドリアンを見比べてから、小さな声でようやく勇気を出す。

 

「あ………あり…がとう」

 

 アドリアンはまさか礼を言われるとも思わず、その事にも目を丸くした。

 しかし、こちらの反応を窺うように下から見上げてくるオリヴェルに、ニコと微笑みかける。

 別に大したことを言ったわけでもないが、オリヴェルの自信に繋がったのならば何よりだ。

 

 オリヴェルの方も、オヅマ以外にはいつも無表情なアドリアンにいきなり微笑まれて、びっくりしながらドキリとなった。

 今まで冷たさすら感じていた赤っぽい鳶色の瞳が、急に優しい物柔らかな印象に変わる。

 整った顔立ちのせいもあって大人びた印象だったが、笑った顔は同じ年頃の少年らしい屈託のないものだった。

 

「アドル…君って……」

 

 オリヴェルが胸の奥で考えていたことを尋ねようとした時、ドアが勢いよく開いて、オヅマの無遠慮な大声が響いた。

 

「おーい、チビ共。今日はイチジクのパイだぞ。早い者勝ちだからな~」





次回は2022.07.16.に更新予定です。



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第四章
第四十二話 春祭り


「あぁっ、バカ。下手。違うっての! 右、右、左、左、前に行って手拍子して……行き過ぎなんだよ、どこまで行くんだよ! 後ろ退がれ!」

 

 矢継ぎ早な指導に、アドリアンは足がもつれてよろめく。

 

「ダーッ! ヘッタクソ!!」

 

 オヅマは我慢ならぬように叫ぶと、ダンダンと苛立たしげに足で床を踏み鳴らした。

 アドリアンはムッとなって、睨みつける。

 

「君の教え方も問題があるぞ!」

「うるせぇよ! なんであんな小難しい剣舞ができて、こんな簡単なのができねぇんだよ、お前は」

「剣舞と、お祭りの踊りは全然違う」

()()()、体動かすのは一緒だろ!」

「体を動かすのは同じでも、考えるところが違うんだ!」

「なんだよ、それ! そんなモンいちいち考えんな、バーカ!!」

 

 二人の怒鳴り合いを見て、オリヴェルはつぶやいた。

 

「この二人、対番(ついばん)なのにこんなに仲悪くて大丈夫なの?」

「大丈夫」

 

 マリーは肩をすくめて笑った。

 

「こうやってギャーギャーワーワー言ってる喧嘩は仲がいい喧嘩。って、前にお母さんが言ってた」

「………」

 

 オリヴェルは喧嘩する二人を眺めて頷く。

 そういえば、オヅマと前に喧嘩した時も、大声で怒鳴り合っていたっけ?

 

「オヅマって、なんだかうまく怒らせるよねぇ」

 

 オリヴェルが感心したように言うと、マリーはプッと吹いた。

 

「なぁに、それ? うまく怒らせる、って」

 

「だって、僕も昔そうだったけど、アドルもあんまり大声で怒鳴ったりするような感じじゃないでしょ? でも、何故かオヅマとしゃべってると、気がついたら大声で笑ったり、怒ったりできるんだよね」

 

 マリーはふーん、と兄とアドリアンを観察して、頷く。

 

「確かに…お兄ちゃん、才能あるかも」

 

「なに、ブツブツ言ってんだ、二人して。誰が才能あるんだ、これのどこが?」

 

 言葉尻だけを聞きつけたオヅマが不満げに吐き捨てると、マリーがしれっと言った。

 

「違うわよ。お兄ちゃんが人を怒らせる名人だって話してたの」

「はぁ?」

「正しくは、()()()人を怒らせる、ね」

 

 オリヴェルが付け加えると、オヅマは眉を寄せ、背後にいたアドリアンは顎に手をやって思案した後に、「確かに」と頷く。

 

「なんだよ、三人して!」

 

 オヅマはムッとなって、隅にあるソファに寝転んだ。

 ちなみに三人がいる場所は、領主館の中で中規模の式典やパーティーなどが開かれる広間の一つだ。

 

「もー、俺知らねーし。そんなオッチョコチョイの世話、これ以上見てられっか、っての」

 

「………拗ねた」

「拗ねたね…」

「忍耐力のない奴だ」

 

 三人から静かに抗議されたが、オヅマは無視した。

 対番だからといって、祭りの踊りまで教えてやる義理はない。

 

 事の起こりは、前日の早春の祭りで起きた些細なイザコザだった。いや、ちょっとした子供同士のケンカというか…あるいは普段は抑制のきいたアドリアンが、めずらしくムキになった、と言ってもいい。

 

 もっともそうなったのも、オヅマの売り文句のせいではあったのだ……。

 

 

 

 

 季節は春に向かっていた。

 大帝生誕月に入り、領府では五日市に合わせて祭りが行われる。

 

 レーゲンブルトの領民にとっては、一年の中で、なんであれば新年の祝いよりも待ち遠しい早春の祭り。

 大帝生誕祭。

 オヅマ達は、先日、五日に行われた前祭りにヴァルナルとミーナ、警護の騎士達と共に、四人の子供達全員で出かけたのだ。

 この時期になると大雪が降ることもなく、祭りの前ということで街の人々や騎士団総出で雪かき作業が行われることもあり、オリヴェルも車椅子に乗って出掛けられた。

 

 こうしてオリヴェルは生まれて初めて、毎年領府で行われていた春祭りに参加することができたのだった。

 去年までは遠くから聞こえてくる楽しげな音に肩を落とすだけだったのに、今年は父もいて友達までもいる。その実感にオリヴェルは泣きそうになりながら、笑って過ごした。

 

 中央の広場には、祭りに合わせて特別に許可された様々な露店が並び、四人の子供達はそれぞれに楽しんだが、大帝の雪像を中心に周りを囲んで円舞が始まると、ぼんやり見ていたオヅマとアドリアンを同じ年頃の少女達が誘った。

 

「いいじゃないか、行ってこい」

 

と、ヴァルナルに言われて二人は最初、戸惑いながら踊りの輪に加わったが、すぐに周囲の振りを見て覚えたオヅマに対して、アドリアンはなかなか覚えられないようだった。

 一周してもまだ足元が覚束ないアドリアンは早々に輪から出たが、オヅマはどんどん早くなっていく音楽に合わせて、器用に踊っていく。

 最終的に輪が小さくなって、十人ほどになって音楽が止むと、それぞれが大人子供関係なく残った自分たちを称え合って別れた。

 

「天才って言われたー!」

 

と、嬉しそうに頬を上気させて戻ってきたオヅマは、気まずそうなアドリアンを見て薄ら笑った。

 

「早々と逃げ出しやがって。もうちょっと粘れよ」

「仕方ないだろ。僕は君と違って、ここは地元じゃないんだ」

 

「俺だって今日が初めてだよ。村じゃこんな踊りなかったし」

「そうだとしても、見たことくらいはあるんだろ。地の利は君にある」

 

「たかだか祭りの踊りに地の利もクソもあるか。やる気の問題だろ、やる気。どこぞの誰かさんが、剣舞の時にさんざ人をシゴキまくって言ってたよなぁ」

 

 アドリアンはジロッとオヅマを睨みつけた。

 

「剣舞と祭りの踊りはまったく違うだろ!」

「体動かすのは一緒だろうが」

「剣舞は剣技として役に立つけど、祭りの踊りは別に踊れなくたって問題ない」

 

 ツンと言い返したアドリアンに、ヴァルナルは苦笑しつつも、それとなく指導する。

 

「オヅマのように、早く踊る必要はないが、自分の身体を自在に動かせるようにしておくことは重要だぞ、アドル。踊りは柔軟性と俊敏性を育てる。決して、無駄にはならない」

 

 アドリアンは憮然となってつぶやいた。

 

「……覚えろってことですか?」

「これは命令じゃない。助言だ。お前が必要ないと思うなら、無理強いはしない」

「…………」

 

 黙り込んだアドリアンに、余計な一言を言わずにおれないのがオヅマだった。

 

「おぅ。無理すんな。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()から~」

 

 

 ―――――斯くして。

 

 アドリアンはオヅマに次の本祭(十五日)までに踊れるようになるため、特訓を受けているのだが、教官は見て覚えろの一点張りだった。

 

 

 

 

「もー、しょうがないなぁ」

 

 マリーは椅子から立ち上がると、「ちょっと待ってて」と部屋を出て行った。しばらくすると、母のミーナを伴って戻ってくる。

 

「私と一緒に踊ろ、アドル」

 

 マリーが手を出しながら言った。アドリアンは目を丸くする。

 

「君と?」

「そ。お兄ちゃんほどじゃないけど、だいたい覚えてるから。ゆっくりやれば、アドルなら簡単に覚えられるわよ。それにやっぱ音楽がないとね。お母さんが笛を吹いてくれるから」

 

 言われて、ミーナははにかんだように微笑む。

 

「久しぶりだから、うまく出来るかわからないけれど…」

 

 そう言って、色褪せた朱色の袋に入っていた笛を取り出した。

 蔦の浮き彫りが施された象牙色(アイボリー)の横笛。村祭りで使用されるような、粗末な木の笛ではなく、専門の職人の作ったものとすぐにわかる。

 

横笛(トラヴェルソ)が吹けるのですか?」

 

 アドリアンは驚いた。

 趣味として楽器を楽しむ人は貴族に多いが、その中でも横笛(トラヴェルソ)は音を出すことすらも難しくて、手を出す人は少ない。

 アドリアンも一応、四弦琴(ヴィオローネ)を習ってはいるが、音楽にあまり興味がないせいで、他の習い事からするとあまり捗々(はかばか)しくなかった。そもそも、レーゲンブルトに来てからはまったく手もつけてない。

 

 しかし、その笛に興味を持って見ていたのはアドリアンだけではなかった。

 いつの間にかこちらに来ていたオヅマは、興味というにはあまりに切羽詰まったような顔で、ミーナの手にある横笛を凝視していた。

 

「……その笛…」

 

 オヅマはつぶやいた。

 

「お兄ちゃん、知ってるの?」

 

 マリーがきょとんとして訊くと、ミーナも笑いながら尋ねてくる。

 

「オヅマ、覚えているの? 小さい頃、何度か吹いてあげたけど…」

 

 だが、オヅマの脳裏にあるのは、母がその笛を吹いている姿ではなかった。

 

 ()が、また訪れる。

 

 

 一人で……母も亡くし、妹からも離されて、一人ぼっちにされたオヅマの手にあった家族の欠片。

 どうしようもない孤独の中で、唯一あった安らぎの時間は、母の(のこ)したこの笛だった。誰に習うこともなく、ただ必死に音を鳴らして、懐かしい曲を奏でた。

 

 ()()()()、それが死んだ母との会話だった。………

 

 

「お兄ちゃん?」

「オヅマ、どうしたの?」

 

 目の前で静かに泣いているオヅマに、マリーもミーナも驚いた。無論、アドリアンもオリヴェルも。

 

「………なんでもない……」

 

 オヅマは乱暴に涙を拭うと、足早に部屋から出て行った。

 





引き続き更新します。


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第四十三話 呼び起こされる痛み

 オヅマは苛立ちと悲しさでおかしくなりそうだった。

 

 あの笛。

 今の今まで忘れていたのに、目の前にした途端、知りたくもなかった事実を突きつけられる。

 

 あれは、ミーナのたったひとつの宝物だった。コスタスに見つかれば、すぐに売られてしまうだろうから…と、ずっと隠していた。ここに来る時に持ってきたのだろう。

 そのはずだ。あの時、()の中でミーナはオヅマに言ったのだから。

 

「ベッドの下に箱がくっついているわ。そこに、お母さんの大事なものが入っているの。それを持って、ガルデンティアに行って、…………様に見せなさい。()()と、あなたを見ればきっと……」

 

 オヅマは()の中の母を払った。

 もうあれは()だ。何も起きていない。母は父を殺してない。絞首刑になっていない。今、ここで、幸せに暮らしている。

 

 しかしオヅマが苛立つのは、一年が過ぎようとする今になって、古い()を思い出したことではない。

 あの笛が、()()()()()()()()()()()()であるということ、それが腹立たしいのだ。激しく嫌悪しているのに、オヅマはその理由を考えたくなかった。頭がまた痛くなってくる。

 

「クソッ………捨てればいいのに…あんな…モノ……」

 

 つぶやくと、またさっきの孤独な自分が浮かぶ。たった一人のオヅマを慰めてくれた相棒。最後まで捨て去れなかった唯一の…繋がり。

 

「…やめてくれ……」

 

 激しい頭痛にうわ言が洩れる。

 

 オヅマはフラフラと覚束ない足取りで小屋まで戻ってくると、ベッドに倒れ込んだ。

 

 痛い。痛い。頭が痛い。

 

 

 ―――――哀しげに、帝都の空へと響く笛の音。

 

 

 オヅマは耳を塞ぐが、幻聴はしつこく聴こえてくる。

 いや、あるいは母が吹いているのだろうか?

 

 『()』。

 

 これは、いったい何なのだ。

 本当に()なのだろうか。どうしてただの()がこうまで自分を引っ掻き回す? どうしてはっきりとした実感を伴って、こうまで自分に干渉してくる!?

 

 考えるほどに、痛みが増大する。

 頭も、耳も、目も、手も足も…もうどこもかしこも痛い。身体(からだ)が引き千切られそうだ。

 

 自分を包む闇の中で、オヅマはのたうち回った。

 

 永遠にこの痛みは消えないのか。

 永遠にこの掻き毟られる苛立ちを抱いて生きるのか――――……?

 

 嫌だ! 助けてくれ! 嫌だ…嫌だ……嫌だ……

 

「…ぅう……く……」

 

 息することすら苦しくなってきた―――――その時。

 

 

 ―――――オヅマ……

 

 

 柔らかく、自分を呼ぶ声。

 永遠に続くかに思えた苦痛が、突然、フイと消えた。耳を押さえていた手に、そっと触れる手を感じる。

 ゆっくりと耳から手を下ろすと、また声が呼びかけてくる。

 

 

 ―――――忘れていなさい、オヅマ

 

 

 闇と、太陽と、青い空の瞳が、自分を真っ直ぐに見つめている。

 

 夏の参礼で神殿に行った時に、水甕に現れた不思議な少女。

 勝手に訳のわからないことばかり言って、勝手に消えた。

 けれど今、あの煌めく花を宿した瞳は、オヅマの()()を吸い取っていくようだ………。

 

 助けを求めるようにオヅマは手を伸ばした。

 フッと、何者かが笑った気配を感じる。それからそうっとオヅマの手を優しくつつみ、滑らかな頬に押し当てる。

 冷たくて柔らかな皮膚の感触。

 

「…………」

 

 オヅマは彼女の名を呼んだ。けれどその名をオヅマは知らない。知らないはずの名前は、口に出すと同時に記憶から消えていく。

 

 濃稠(のうちょう)な闇の中で、彼女の姿はなく、ただ静かな気配だけがある。

 

 オヅマの目から涙がこぼれた。

 自分でも訳の分からない()に翻弄されていた自覚はあった。その()から逃げることしかオヅマはできない。

 

 自分が何をすればいいのか、何をしたいのか……

 

 

 ―――――生きたいように…生きて……。それでいいの……

 

 

 不可解な自分の状態をすべてわかった上で、その存在は受け止めてくれると、確信していた。

 まるで神様のような、けれど神様よりも近い位置で、オヅマを見守っていてくれる。

 

 ようやくホッと息をつくことができた。このまま()に追い詰められて、自分だけが狂っていくのかと、ずっと恐怖していた……。

 

 

 ―――――オヅマ………幸せ…?

 

 

 問われた答えを言う前に、オヅマは眠りに落ちた。

 心地よい安息の闇の中、久しぶりに何を考えることもなく、ぐっすりと眠った。

 

 

 

 

 目を開くと、アドリアンがいつもの表情の乏しい顔で覗き込んでいた。

 

「……起きたか?」

 

 オヅマはしばらくぼんやりとアドリアンを見つめた後、眉を寄せた。

 

「今、何時だ?」

「……もうすぐ夕刻からの修練が始まる時間だ」

「ヤバっ!」

 

 あわてて起き上がる。

 喉が渇いて軽く咳をすると、たっぷり水の入ったコップが差し出された。

 

「おぉ…」

 

 受け取って、一気にゴクゴク飲み干す。

 

「悪ぃ。……生き返った」

「大袈裟だな」

「うるせぇ。ちょっとは使えるようになってきたかと思ってホメてやったらこれだ」

「褒めた? 今のが?」

 

 アドリアンは聞き返しながら、内心ホッとする。どうやらいつものオヅマのようだ。

 腕を組んで皮肉な口調で言ってやった。

 

「人を褒めている余裕があるのなら、顔を洗ってから行くんだな。大泣きした赤ん坊みたいに涙の筋が残ってるよ。タロモン卿(*ゴアンの姓)あたりが、しつこく聞いてくるだろう」

 

「……っ、うっせぇなぁ」

 

 オヅマは急にさっきまでのことを思い出した。

 いきなり泣き出したオヅマに、きっと全員唖然としたことだろう。

 

 今日ばかりはあまり表情のないアドリアンが有り難かった。妙に心配されたり、同情されたら、たまったものじゃない。そもそも、どうして泣いてしまったかの理由も、もうおぼろげだ。

 

 盥に水を張って、オヅマは一瞬止まった。水面に映る自分をしばらく見つめる。

 一体、何を期待したのだろう。この水に誰かの顔が浮かぶことなど有り得ないのに。

 すぐにバシャバシャと顔を洗った。

 

「フン、だんだん口減らずになってきやがって。生意気なやつには踊りなんぞ教えてやんねーぞ」

 

 手拭いで顔を拭きながら言うと、アドリアンは澄まし顔になる。

 

「踊りの方は君の妹君にみっちり仕込んで頂いたから、もう完璧だよ」

「へえぇ。マリーにねぇ…」

 

 オヅマは言いながらちょっと意外だった。

 オリヴェルがよく許したものだ。最近は仲良くなってきたとはいえ、マリーがアドルを褒めるとひどく気分を害していたのに。

 

「オリヴェルも一節(ひとふし)だけ一緒に踊ったよ。祭りの日も輪に入らなければ踊れるかもな」

「なんだ、なんだ、お前ら…いつの間にそんなに仲良くなってんだよ」

「怒りっぽいお兄さんが行方をくらましている間だよ。さ、行くぞ。本当に遅れそうだ」

 

 オヅマはあわてて修練場に向かいながら、チラと隣のアドリアンを窺った。

 

 第一印象は湿っぽくて、嫌味なくらい大人びた、世間知らずのお坊ちゃんだと思っていたが、こうしてくだけた物言いをするようになって、気心が知れるようになると、アドリアンは十分に優しい性格だ。

 

 今も踊りの話をしながら、ミーナのことにも、ミーナの持ってきた笛のことにも触れない。

 オヅマがあの笛に何かしら触発されて泣いたことを感じ取ってくれたのだろう。

 わかっていて、あえて何も聞かないでいてくれることが、オヅマには有り難かった。

 

「……あーあ、()()かぁ…これ」

 

 小さくつぶやいたオヅマを、アドリアンは不思議そうに一瞥した。

 





次回は2022.07.17.に更新予定です。



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第四十四話 アウェンスの肉屋

 少し時間が戻って、おおよそ一月半前。

 薄墨空(うすずみそら)の月、中頃―――――帝都。

 

 アウェンスの肉屋の二階、中央の部屋は普段は閉じられていて滅多と開くことはない。そこに案内されるのは、肉屋で「豚のレバーを三百(もんめ)。血抜きはこちらで」と店のオヤジに頼み、「レバーパテでも作るのかい?」と聞かれて、「いや、塩蒸しにする」と答えた人だけ。

 塩蒸しは帝国ではあまり知られていない調理法なので、そもそもそんな言葉を普段の生活において使う帝国人はいない。

 これは二階の中央の部屋へ案内されるための符牒だ。

 

 その日、そこにやって来たのは、貴族にしては少々くたびれた格好をした青年だった。癖の強い栗茶の髪に、澱んだ赤褐色の瞳。何日も体を洗っていないのか、少々臭う。

 しかし、案内役である肉屋の女将は、腫れぼったい瞼を何度か瞬きしただけで、疲れたような表情に変化はなかった。

 

「こちらでお待ちを」

 

 久しぶりに開いた中央の部屋は、少し埃っぽかった。

 青年は眉を寄せて、ゴホゴホと咳き込む。

 内心、こんな狭苦しい汚い部屋で客を待たせるなんて…と憤慨していたが、肉屋も含めて周辺一帯は、自分の生きてきた世界とは隔絶した下層の者達の住む場所で、下手に文句を言った日には、まともな姿でここから出られる保証はない。

 

 案内されて座った椅子の前には、両替商で使うかのような大きな机が一つと、その向こうに革張りの背凭れ椅子が一脚。椅子の背後にある窓からは、すぐ隣の家の煙突と陰鬱な冬の空が見えるだけ。いっそその窓を開いて、この部屋の淀んだ空気を外に出したかったが、なにせ油断ならない場所で勝手に動くことは憚られた。

 

「………遅い…」

 

 青年は苛々と足を揺らす。コッコッコッコッ、と床に踵を打ち付けるたびに、埃がかすかに舞って、薄暗い部屋を浮遊した。

 時間が経つにつれ、青年は緊張で神経が逆だった。一体、いつになったら()()とやらは現れるのだろう? 窓の外の景色が夕暮れ近くになってきた頃、ようやく背後のドアが開いた。

 

 青年はビクリと立ち上がる。

 

「おぉ、客人。お待たせした」

 

 ドアをパタンと閉めて、日焼けした浅黒い肌と少し褪せたような赤毛の男が青年を不躾にジロジロと眺めた。

 青年はムッとして、男を睨みつけた。

 

「いったい、いつまで待たせる気だ? 僕はちゃんと君らの知り合いからの仲介でやって来た客だぞ」

 

 赤毛の男は無精髭をザリザリと撫でてから、慇懃に挨拶した。

 

「これはこれは、申し訳ございませんでしたな、若様。少々、連絡に行き違いがあった模様でございます」

「連絡を怠ったのは肉屋の男か?」

「………」

 

 青年の問いかけを、赤毛の男はニコリと笑って答えない。

 それから心の中でケッ! と吐き捨てる。

 どうもつまらない客のようだ。

 ()()()()()()に来て、こちらの内部事情をあけすけに訊いてくるなど、まったくわかっていない。

 確かに連絡役の肉屋夫婦はすぐに報告に来なかったが、新規の客を()()待たせるのは、その反応を見ることも含めてこの世界の常識だ。

 

 黒の革張り椅子に座ると、赤毛の男は笑顔を張り付かせて青年に向き合った。

 

「それで、どういったご依頼でしょう?」

 

 青年はいよいよとなった途端に、また緊張で顔が強張った。

 ゴクリと唾をのんでから、余裕のあるところを見せようと笑ってみせたが、右の口の端が少し上がっただけだった。

 

「こ…子供を…殺してほしい…」

「ほぅ、子供?」

「そうだ! 子供を殺して……」

 

 青年は急に大声で叫んでから、逡巡するかのように落ち着きなく目を動かした。

「いや……」とつぶやいて、手指の爪を噛み始める。

 

 赤毛の男はそれとわからぬようにため息をついた。

 おそらくこうした依頼をすることも始めてならば、誰かを直接的にしろ間接的にしろ殺したこともないのだ。殺人を依頼する程度で、こうまで落ち着きをなくすなど。

 しかし、一応はここを聞き出してきた『客』であるから、それなりの接遇をせねばならない。

 

 赤毛の男は相変わらず笑みを浮かべて、続きを促す。

 

「どうされました?」

 

 青年は親指の爪をしばらく噛んでいたが、男の声でハッと顔を上げた。

 

「あ、いや……殺すのは……いい」

「では依頼はなかったことに?」

「いや。殺すのは僕が…直接、やる。お前達は、その子供を誘拐してきてほしい」

「依頼は誘拐、ですな」

 

 赤毛の男は確認する。

 青年が頷いた。

 

「まずは前金として五十(ゼラ)。成功報酬として百(ゼラ)

 

 青年は眉を顰めた。

 

「高くないか? たかが誘拐だぞ。殺すのを頼んではいない」

 

 赤毛の男は笑っていたが、その口の端がニイィと吊り上がった。

 

「若様、誘拐というのは…案外と、殺人よりも面倒なものなのです。なにせ()()()()()()()というのは、色々と危険が多い。誘拐された方は当然探し回るし、誘拐された当人も逃げようとする。こちらはその為に色々と手配が必要でね。つまるところ、人件費がかかるんです」

 

 丁寧な口調ながら、赤毛の男の醸し出す異様な迫力に、青年の顔が強張った。

 

「……わかった。しかし、今は三十(ゼラ)しかない。成功した場合は百七十払おう」

「ふむ…しめて二百(ゼラ)ですか……」

 

 青年の申し出に赤毛の男はしばし考えた後に、いかにも如才ない商人然とした笑顔に戻る。

 

「ようございます。それで、誘拐する子供というのは?」

 

 そこで青年はまた、片頬だけをヒクヒクと動かして笑った。

 

「あ…あぁ……アドリアン……アドリアン・グレヴィリウス小公爵だ」

 





引き続き更新します。



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第四十五話 エラルドジェイ(1)

「エラルドジェイ、仕事だ」

 

 その声を聞いた途端、エラルドジェイと呼ばれた男は、紺色の髪を物憂さげに掻き上げた。髪と同じ濃紺の瞳がジロリと赤毛の男を見つめる。

 

「さっきの客?」

「そうだ」

 

 赤毛の男は、青年の前の笑顔が嘘であったかのように、強面を微動だにさせない。

 エラルドジェイはふあぁ、と大あくびをして、床に直に置かれた皿からナッツをつまんだ。ボリボリ食べながら、いつの間にかとりだした胡桃の実を二つ、ゴリゴリと掌で回す。

 

「珍しいな、ニーロ。あんたがあんな阿呆そうな客の依頼を請けるなんて」

 

「どうせ、勘当でもされた下級貴族の放蕩息子か何かだろうが、一応、念のために調べとけ。今はピグルボにあるアーケンシの親爺がやってる壺宿(つぼやど)にいる」

 

 ニーロ、と呼ばれた赤毛の男は命令して、どっかと椅子に腰掛けた。

 

 ピグルボはここから大通りを挟んだ、運河沿いに東西に長く伸びた街の一画だ。

 帝都を流通するあらゆる荷物をここで荷分けするため、広大な集積地の周囲に商人や、運河を行き来する箱舟(ゴンドラ)の船頭達の居住区がある。

 壺宿はあまり金のない商人や、冬から春の間だけやってくる季節労働者達が宿泊する簡易な宿泊施設で、小さい部屋にはベッドが一つきり。あくまで寝るだけの部屋で、虫や鼠が這い回るような、ありがちな安宿だった。

 

「なんだよ、()けさせたんなら、そのまま調べてこりゃいいじゃないか」

 

 エラルドジェイが面倒そうに言うと、ニーロはジロリと睨んでぼそぼそ言い訳する。

 

「生憎、尾行が精一杯だ。新入りだからな、襤褸(ボロ)でも出されちゃ困る。せっかくの金づるを……」

 

 三ヶ月前に、ちょっとだけ見どころがありそうな孤児の坊主を雇って養成しているようだが、三ヶ月してまだ尾行が精一杯とか言うなら、あまり役に立ちそうもない。 

 

 エラルドジェイは大きなため息をついて尋ねた。

 

「いくらで請け負ったんだよ?」

「とりあえず、前金で三十」

(カーク)?」

(ゼラ)だ」

 

 エラルドジェイは目を丸くした。

 

「三十(ゼラ)だって? 一体、どこの大物を始末するように言われたんだ? 勘弁してくれよ。俺は命張った仕事なんぞする気はな~いぜ~」

 

 ニーロはニヤリと笑って、無精髭の生えた顎を撫でさする。

 

「大した仕事じゃねぇ。殺しでもないんだからな。坊やの誘拐さ」

子供(ガキ)の誘拐? それで三十(ゼラ)? うーわ…このオッサン。ボりやがって」

「知ったことか。相場を知らない馬鹿が悪いんだよ。向こうが言ったんだからな、今は三十。後金で百七十だ」

 

 エラルドジェイはナッツをガジリと噛み砕いて、渋い顔になった。

 

「嫌だなぁ…そんなので二百(ゼラ)だって? 嫌な感じだよ…」

 

「泣き言言ってんじゃねぇよ、エラルドジェイ。この平和ボケした国じゃ、俺らみたいな商売を必要とする貴族なんぞ、そうそういやしねぇ。来るのはゴミみたいな街で、お山の大将気取ってケチな勢力争いばっかりしている奴らの、ケチでしみったれた依頼だけさ。親分連中の暗殺ごっこで、チマチマ稼ぐしかないのに比べりゃ、ガキ一人誘拐して二百金。こんないい仕事ないだろうぜ」

 

「ンなこと言って、貴族相手の仕事にゃ用心に用心を重ねないといけない…って言ってたのは、どこの誰だよ」

 

 現皇帝の即位に至るまでの政争で、こうした暗殺や誘拐、時に汚職の捏造なども行う闇ギルド組織は、貴族間において大いに利用されたのだが、皇帝即位で事態が終了すると同時に、現在の宰相であるダーゼ公爵によって、徹底的な闇ギルド狩りが行われ、帝都に大小合わせて五十近くあったこうした組織は根こそぎ壊滅させられた。

 

 そのためニーロは貴族が関わる案件については、非常に慎重だった。

 皇帝の代替わりから数年後に発足した、自分のような後発の弱小闇ギルドでさえも、帝都の治安維持部隊―――通称、鷹の目―――に目をつけられたら、その時点で徹底的に叩き潰されることは間違いない。

 

「だから、調べてこいと言っているんだ。ちょっとでもあの、白髭宰相と関わりがあるようなら、手を引くさ」

 

 帝国宰相のダーゼ公爵は当年取って五十歳になるが、見事な白髭の持ち主で、庶民からは白髭宰相と呼ばれている。そこには皇帝を支えて長く平和な施政を行っているダーゼ公への尊敬や好意と一緒に、一部の不満分子からの皮肉も込められている。

 

「誘拐するのが宰相閣下の一人娘なんてことじゃないだろうな?」

 

「そんなもん千(ゼラ)積まれたってお断りだよ。誘拐する子供(ガキ)の名前はアドリアン・グレヴィリウス。グレヴィリウス公爵家のお坊ちゃんだとよ」

 

「長たらしい名前だな」

「お前が言うな」

 

「で、下級貴族のお坊ちゃんがなんだって、その公爵家の坊やを誘拐したいのか…ってのを、()()探ればいい訳だな?」

 

 依頼人に対して、その依頼の動機を訊くことはタブーである。

 そもそもそこに関心などもないし、依頼人の言葉が()()であるという保証もない。

 そのため、依頼があった場合、ある程度の情報は自分で探るのが鉄則だ。

 

 貧民街にたむろする連中の縄張り争い程度のことであれば、普段からの情報で概ねわかっているので、特に調査する必要もないが、今回のように新規の、まったくこれまでとは違う貴族相手となれば、それなりに調べる必要が出てくる。

 あるいは治安組織の罠である可能性もあるからだ。

 

 エラルドジェイはようやく立ち上がると、手早く白い布を紺の頭に巻きつけ、パチリと端を猫の形のブローチで留めた。

 そのまま出口へと歩きかけて振り返る。

 

「その男のシュミは? 女? 男?」

「おそらく女の方がいいんじゃないか?」

「じゃあ、娼婦(ねえ)さん達に頼もうかな。五十(カーク)ほどは必要経費だよな?」

 

 ニーロはニヤリと笑って頷いた。

 

「いいともさ。俺ゃ、今気分がいい」

 

 

 

 

 

 

 その後、エラルドジェイに言い含められた娼婦によって、その青年の目的が大まかには知れた。

 

 彼の名前はダニエル・プリグルス()伯爵。

 どうやらダニエルはグレヴィリウス公爵家に連なる家門の女性と婚約していたそうなのだが、グレヴィリウス公爵の逆鱗に触れた為に、婚約は破棄され、隠居していた父が伯爵位を再承継して、自分は実家からも追い出されたらしい。

 その原因をつくったのが、十歳になるアドリアン・グレヴィリウスだと信じきっているようだが、

 

「どー考えても、たぶん、八つ当たり? みたいな感じよね」

 

と、エラルドジェイに報告してくれた娼婦は呆れたように言った。

 

「ふぅん…なるほどねぇ」

 

 煙管(キセル)をふかしながらエラルドジェイはやれやれ…とため息をつく。

 

 貧民街(スラム)の不毛な縄張り争いの次は、頭の弱い青年貴族の気晴らしに付き合わねばならないとは…なんだって自分はこんな仕事をしているのやら。

 

「ただ、金回りは良さそうだったわよ。勘当されたけど、お金はたんまり持たされたみたいね。私、チップで一(ゼラ)も貰っちゃった!」

「そりゃあ、御大尽だね」

 

 ぼんやりした様子で相槌を打ちながら、エラルドジェイは素早く考えを巡らせる。

 

 勘当された貴族のお坊ちゃんが金を持たされた? 少々、奇妙な話だ。

 もっとも、父親は勘当を言い渡しても、甘い母親なんかが憐れんで、自分の指輪なんぞを息子にやることもないではない…。

 

 疑問を解消するために、エラルドジェイは次の日にはダニエルを勘当した(正確には伯爵身分を剥奪されて追われた)というプリグルス伯爵家についても調べたが、当主は確かに彼を放逐したが、母親は既に十年前に亡くなっていた。

 そもそも伯爵家ではあっても、特に後ろ盾となる有力貴族の傘下にあるわけでもなく、あまり金回りはよくないようだ。

 羽振りの良いダニエルの金の出処が実家である可能性は低い。

 

 その上で、今回の目的(ターゲット)であるアドリアン・グレヴィリウス小公爵について調べて、帝都から遠く離れたレーゲンブルトにいることを突き止めると、エラルドジェイは一気にやる気をなくした。

 

「冗談じゃないぜ。あんなクソ寒い田舎に行って、しかもガキ連れて、えっちらおっちら帰ってくるなんぞ! 途中で公爵家の騎士団にでも見つかって打首だ!」

 

 大声で喚き立てるエラルドジェイに、ニーロも頷く。

 

「そうだな。さすがにレーゲンブルトからこっちに連れてこいというのは、面倒だ。失敗の確率が高くなる」

「そうだろ!? そうだよな? じゃ、この仕事はご破算―――…」

 

「というわけにもいかない。三十はもらってるからな。しかし、後金の百七十が貰えるかどうかは微妙だな。金の出処があの若様じゃないとなれば、少々、面倒くさいことに巻き込まれる可能性もある」

 

「なんで面倒だってわかってる仕事に手を出すんだよ」

「………うまくいきゃあ、大口の取引先になるかもしれん。しかも、この先ずっとな」

 

 エラルドジェイはしばらく黙り込んで、首を右、左にカクンカクンと動かして、ニーロの思惑を探る。それから渋い顔になった。

 

「おいおいおい…勘弁しろよ、オッサン。公爵家に恩売って、取り入ろうってのか?」

 

 ニーロは自分の思惑を探り当てたエラルドジェイを見て、ニヤリと笑った。

 

「エラルドジェイ。皇家でなくたって、この国の貴族…大貴族ともなりゃ、そりゃあ…色んな輩が集まってくるんだろうぜ。うまいこと立ち回りゃあ、()()()()()恩が売れる。選ぶのは俺らだ」

 

「そう上手くいくかねぇ…?」

 

 ニーロの思惑としては、天秤にかけて()()()()と手を組みたい…というところだろう。

 

 今回の依頼をしてきたダニエルの背後には、おそらく現在の公爵家に敵対する勢力がある。公爵の跡継ぎであるアドリアンを始末すれば、彼らには有利になるのだろう。詳細は不明としても、現公爵を狙うよりは、小さな後継者を狙う方がやり易いと思うのは当然だ。

 

 だが、問題は奴らがさほどに()()()()()()()()()()()()()()()()()ことだ。

 本当に小公爵を片付ける気でいるのなら、自身で優秀な暗殺者を仕立てるはずだ。

 公爵の逆鱗に触れて婚約破棄された、およそ頭がいいとは言い難い甘ったれたお坊っちゃんに、いかな子供とはいえ公爵の継嗣をどうにかできるはずもない。

 ダニエル自身もそれがわかっているから、ここに頼みに来たのだろう。

 

 その上で、ニーロとしては、もし今回の誘拐が失敗した場合には、誘拐した小公爵を助けた(てい)で、公爵家への取っ掛かりを持ちたいわけだ。

 

「『紅玉(ルビー)』と『翠玉(エメラルド)』は一緒に取れない*1って言うぜ」

 

 エラルドジェイが言うと、ニーロはフッと笑った。

 

「まぁ、そうだな。昔なら尻込みしてたかもしれん。けど、もう俺の人生の折り返し地点はとうに過ぎてんだ。勝負に出るなら、今かもしれん」

「何言ってんだ、アンタ」

 

 巻き込まれるエラルドジェイはたまったもんじゃない。吐き捨てたが、じっと見つめてくるニーロの目に負けた。

 

「俺はそんなに器用に立ち回れるかわからんぜ」

「逃げる時にゃ、全速力で逃げな。俺も、そうする」

「……ったく。なんだってここへきて勝負に出るかねぇ、オッサンは」

「オッサンにはオッサンの浪漫があるのさ。若造にゃ、わからんて」

 

 そう言って、ニーロはいつものように無精髭を撫でさする。その楽しそうな様子を見て、エラルドジェイはため息まじりに腹をくくった。

 

 奴隷として売られ、気まぐれな主人の折檻で半殺しにされ、汚泥の中で死にかけていたエラルドジェイを拾って育ててくれた恩人だ。まともなことは教えてくれなかったが、それでも無事に十八になるこの年まで生きてこれた。

 このまま捨てて逃げても、きっとこの男が文句を言うことはないだろう。だが、恩人を捨て去るような薄情者に自分はなれない。

 そう育てたのも、この男だ。

 

「仕方ねぇ。とりあえず、あの馬鹿若様を連れて、レーゲンブルトまで行くさ」

 

*1
二兎追う者は一兎も得ず、の意





次回は2022.07.20.更新予定です。



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第四十六話 嚆矢――火事

 大帝生誕月、満月の日。

 

 オヅマは()()()から一年が過ぎたことを思い出し、少しだけ感慨にふけった。しかし、コスタス()のことを思い出す前に、早々に回想を消し去った。

 あの時も今も、大事なのは母と妹が幸せで過ごしていることだ。それだけで、自分もまた幸せなのだから。

 

 その日は十五日の本祭の日で、マリーから祭りの踊りの特訓を受けたアドリアンが、いよいよ練習の成果を見せることになっていた。

 

 朝はまばらだった人も、昼過ぎになって流れ者の鳴物師達が賑やかに通りを巡り始めると、皆いよいよかと家から顔を出し、あわてて祭りに出て行く準備を始める。

 娘達は髪を梳って結い上げ、若者は目当ての娘に贈るための花冠を物色し、旦那達は仕事を早々に切り上げて麦酒を呷り、女房達も作り置きの料理を作った後には見慣れぬ露店を冷やかして回る。

 

 前祭りの時と同じように子供達四人とヴァルナル、ミーナと護衛のパシリコ以下騎士四人で祭りの広場に向かう途中で、領主館からあわてて出て来たのはカールだった。

 

「領主様!」

 

 呼び止めてから、目をかすかに伏せ内密の話だと告げる。ヴァルナルはカールに近寄って事情を訊くと、少しだけ眉を寄せた。

 

「火事だと…?」

「古い小屋でしたので火の回りが早く、今、消火しておりますが…」

 

 カールが伝えに来たのは、領主館の敷地内でちょっとした火事が発生したことだった。

 まだ原因等も不明ではあるが、失火にせよ不審火にせよ、一つ間違えれば大事になるため、すぐさまヴァルナルに報告に来たのだ。

 

 しばらく考えて、ヴァルナルは少し離れた場所でこちらを心配そうに窺う四人の子供達とミーナを見た。

 これで、念のため外出は中止しよう…などと言おうものなら、子供達の落胆は明らかだ。それに、消火がされていたとしても、領主館が安全である確認はまだ済んでいない。

 

 ヴァルナルは待っているミーナ達の元へと向かうと、少し残念そうに言った。

 

「すまぬが、領主館に仕事を残してきたようだ。すぐに向かうから、先に行ってくれ」

「何かあったんですか?」

 

 オヅマはカールの表情で、何か異変があったのを感じていた。しかしヴァルナルは安心させるように笑って、オヅマの肩を軽く叩く。

 

「なに、すぐに片付ける。お前達の踊りも見届けなければな。アドルがマリーに教えてもらったというし」

「でも…!」

「頼むぞ、オヅマ」

 

 ヴァルナルはそれ以上言わせず、カールと共に領主館に戻っていく。途中でパシリコを指で呼び寄せた。

 

「関係ないとは思うが、小公爵様から目を離すな」

 

 素早く指示すると、パシリコは「ハッ」と短く返事する。

 すぐさまオヅマ達のところに戻ってきたパシリコは、慣れない笑顔で促した。

 

「さ、参りましょう」

 

 子供達は釈然としないながらも、祭りの中心となっている広場へ向かって歩き出した。

 

「せっかくの祭りだから、楽しみましょう」

 

 ミーナが気分を変えるように弾んだ声で言ったが、オヅマは肩をすくめた。

 

「んなこと言ったって、気になるよ」

 

 チラ、と斜め前を歩くニルスを見る。

 ヴァルナルがいなくなった途端、まるで子供達を守るように騎士達が四方を固めて歩いていた。無論、オリヴェルがいるからだろうが…少々警備が厳しくないか? 

 いまだに『アドル』の正体を知らないオヅマからすれば、それは当然の疑問だった。

 

 ミーナは元気のなくなった子供達を見て、ハタと思いついた。

 

「そうだわ。せっかくだから、領主様がいない間に、領主様への贈り物を選ぶのはどうかしら?」

「父上への…贈り物?」

 

 オリヴェルが聞き返すと、アドリアンが珍しく明るい笑顔になった。

 

「それはいい! いつもヴァル……領主様には世話をかけているし、お礼がしたいと思っていたんだ」

「わたし、領主様にプレゼント選ぶ!」

 

 マリーが楽しそうに手を上げると、オリヴェルの顔にも笑顔が戻る。

 

「そうだね! 皆で選ぼう。あ、ミーナも手伝ってね。父上が喜びそうなもの、何がいいか教えて」

「……領主様は母さんが選んだものだったら、何でも喜ぶだろ……」

 

 オヅマは白けた顔でつぶやいたが、賑やかな祭りの音にかき消された。

 

 広場にはこの日だけ出店を許可された露天商が立ち並んでいた。

 色とりどりの布を店先に並べ、帝都で流行(はや)っていると通りかかる女達に声をかける布売り。小さなけし粒が沢山入った鉄鍋を火にかけながら、時折砂糖水をかけて、グルグル回している金平糖売り。大釜にたっぷりの茶を作り、素焼きの小さなコップで提供している茶屋。子供達が群がっている独楽(コマ)売りの前では、店主が見事な技を披露して、拍手喝采を浴びていた。

 

 その中の一つに、木彫りの仮面を売っている店があった。

 仮面といえば、たいがい子供達が面白がって買うものであったのだが、そこに並んでいる仮面は精巧過ぎて、おそらく売っている主のこだわりが強いのか値段もまぁまぁしたので、閑古鳥が鳴いていた。

 

「いいね……この仮面、もらえるかい?」

 

 丈の長い薄鼠色のマントに目深にフードを被った男が、並べられた仮面の中から、今年の瑞鳥である雀の面を差した。

 店主は仏頂面のまま、ジロリと男を睨んで愛想なく言った。

 

「二十(ガウラン)。びた一文負けないぞ」

「構わないよ」

 

 男は五十ガウラン銅貨をピンと指で弾き、銅貨が店主の掌に落ちる寸前に、雀の仮面を取った。

 店主が金を確認し、驚いて顔を上げた時には、既に男の姿はなかった。

 

 

 

 

「おい、ヴァルナル・クランツが館に戻ったぞ。どうやら()()()()()()()()()みたいだな」

 

 ダニエルが横柄な口調で話しかけてきて、まるで自分がうまくやったかのように胸を反らす。

 エラルドジェイはさっき買った雀の面を片手に持ちながら、軽くため息をついた。

 

「それは良かった。役立たずでなくて」

 

 その言葉の後に『誰かさんと違って』と言いたいのをこらえる。

 帝都から、この北の果ての辺境に来るまで二十日近く、この男と一緒に旅をしてきた自分を褒めてやりたい。

 





引き続き、更新します。


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第四十七話 エラルドジェイ(2)

 ニーロの賭けに乗った後、娼館に入り浸っているダニエルを訪ね、レーゲンブルトに一緒に行くように()()すると、当然ながら彼は反吐が出そうな顔でエラルドジェイを睨んだ。

 

「冗談じゃない。何のために()()()()()()()()に頼んだと思ってるんだ? レーゲンブルトなんて辺境のクソ寒いところに行きたくないから、大金を払ってやったのだぞ。それなのに、なんだって僕が行かねばならないんだ?」

 

 案の定の反応ではあった。

 そりゃあ、こんな場所にいて、北の果てに行こうなんぞと言われたら、普通は断るだろう。エラルドジェイが反対の立場でも、ふざけんなと叩き出すところだ。

 しかし、こちらは物見遊山に誘っているわけではない。

 

「今回の依頼は誘拐です。拉致して、二十日以上かけて移動するとなれば、発見される可能性は高くなる。追手はなかなかに面倒な相手ですしね」

 

 誘拐してすぐに帝都に運べる魔法でもない限り、あのレーゲンブルト騎士団を出し抜いて小公爵を連れ去るというのは至難の業だ。

 

「それをどうにかするのが、お前らの仕事だろう?」

 

「私共も仕事は成功させたいと考えております。その為には、一番確実で安全な方法を取る。最終的に、()()()()()を叶えるのであれば、なおのこと、帝都まで連れてくるより、辺境の田舎で始末した方が無難だと思いますよ」

 

「フン。お前達が無能だと御託を並べているだけの気がするがな」

 

 エラルドジェイはすぅぅ、と頭から冷たい血が流れていくのを感じた。

 ベッドの上で寝そべって様子を窺っていた女は、薄布を羽織って、ベッドから降りた。

 そのまま無言で出て行く女に、ダニエルはあわてて立ち上がったが、声をかける間もなくエラルドジェイに首を掴まれ、ベッドに押し倒された。

 

「……わからん人だな、アンタ。こういう事を頼むのなら、自分がどういう立ち位置にあるのかをわかった上で行動するもんだ。金さえ出せば、俺達が唯々諾々と従うとでも思ってるのか? 俺はここでアンタを殺して、そのままアンタの持ち金を奪うこともできるんだぜ?」

 

 無論、ハッタリである。

 こんなところで、依頼人を殺して金を奪ったとなれば、信用は一気にガタ落ちだ。

 しかし、依頼人と請負屋の関係を主従か何かと勘違いしている世間知らずの若様には、少々キツめに言っておいたほうがいいだろう。

 

 脅迫しながら笑顔を貼りつかせているエラルドジェイがよほどに薄気味悪かったのか、ダニエルは必死で頭を振って謝る素振りを示す。

 エラルドジェイは首から手を離すと、ベッドから降りた。

 酷薄な光を浮かべた濃紺の瞳が、ゴホゴホとむせるダニエルを見つめる。

 

 大きく開いた袖口に手を引っ込めて、再び出てきた手の中には胡桃が二つあった。ゴリゴリと手の中で弄んだ後、パキリといともたやすく割る。ボロボロと、エラルドジェイの手の中から落ちていく胡桃の殻を、ダニエルはぽっかり口を開けて見つめていた。震える手が無意識に先程まで押さえられていた首に触れる。

 

「ダニエル・プリグルス…」

「な……な、なぜ僕の名前を……」

 

 急に名前で呼ばれて、ダニエルはあからさまに動揺した。

 なぜ、教えていないはずの自分の名前を知っている…?

 

 いつまでもベッドの上で情けなく自分を見上げているダニエルの襟を掴んで強引に立ち上がらせると、エラルドジェイは耳元で囁いた。

 

「……()()に自分の手柄を示したいなら、それなりの労力を見せた方が、相手の心証は良くなるものさ。金をもらうってのは、そういうことだ。言ってる意味、わかるかい?」

「…………」

 

 ダニエルはブルブルと震えるばかりで、理解できているのかはわからない。

 エラルドジェイは狡猾な笑みを浮かべ、ダニエルを抛り出した。

 

「で、どうする? やめるか? まぁ、やめてもらっても俺らは特に問題はない。アンタが思ってるように、下層のゴミ屑みたいな存在なんでね。ただ、アンタに金をくれた奴は、()()()()()()()()()()()()()()()に、容赦はないと思うがね。それは、アンタの方がよくわかってるんじゃないのかい?」

 

 金を受け取った時点で、既にダニエルの未来(さき)は知れていた。

 目先の金に心を奪われて、この男は浅はかにも自分を売ったのだ。売ったという自覚もないままに。

 今となれば、ダニエルが肉屋に来たのも、自分で情報を手に入れたのではなく、仕向けられたと考えた方が自然だろう。

 この男はもはや完璧に操られている。その小公爵とやらを殺さねばならないという狂気じみた思考も含めて。

 

 エラルドジェイはダニエルと向き合いながら、素早く計算して、この仕事が終了したら早々に、しばらく身を隠すべきだと思った。

 成功の是非を問わず、どうせこの男は遠からず消される運命だ。

 こちらとしては、金だけもらってトンズラして、しばらくは大人しくしてやり過ごすのが一番穏便に済む。

 ニーロにも伝えた方がいいだろう。いや、ニーロであればそれくらいのことは、もうわかっているか。

 

「…………わかった。レーゲンブルトに行く」

 

 ダニエルは白い顔で了承した。

 もはや自分が後戻りできないところまで来ていることを、ようやく悟ったようだ。

 

 

 

 

 斯くして、エラルドジェイは帝都からレーゲンブルトまでの長い道中、この気位ばかり高くて鼻持ちならない厄介者のお守りをせねばならなかった。

 途中で何度か殺して金を奪って逃げようかとも思ったが、無論、そんなことは出来ない。

 商売の信用を失う…ということだけでなく、()()が中途半端に足を突っ込んだエラルドジェイやニーロの口を封じる可能性がある。

 この男は防波堤だ。

 最後まで生かしておき、一連の事件の首謀者として()()()()()()()()()、あの世に持っていってもらわねばならない。

 





続いて更新します。


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第四十八話 ネストリの選択

 エラルドジェイがレーゲンブルトに到着して、すぐに小公爵の所在は知れたが、手出しするのは難しかった。

 

 勇猛果敢をもってなるレーゲンブルト騎士団は、ただの力自慢の集まりでなく、団長であり領主のヴァルナル・クランツの下、よくまとまった隙のない集団だった。

 領主館内で小公爵を誘拐することは難しい。

 

 そう考えていたエラルドジェイには有難いことに、季節は大帝生誕月を迎えて、レーゲンブルトのような田舎町でもそれなりに賑わう祭りが行われるようだった。

 

「五日の前祭に、領主のヴァルナル・クランツが子供らと一緒に祭りの広場に来るようだ。その中にアドリアンもいる」

 

 ダニエルが領主館内にいる協力者から情報を得たのは、到着して三日後のことだった。どうやらダニエルが本腰を入れて、レーゲンブルトに行くことを知ると、黒幕の方から協力者の情報を教えてくれたらしい。

 

 エラルドジェイは詳しく訊くことは避けた。過剰な情報は、身を滅ぼす。仕事に必要なことだけわかればいい。

 

「そうですか…」

 

 エラルドジェイはその日は動かなかった。

 注意深く領主達一行を観察して、じっくり手筈を練る。

 

 領主ヴァルナル・クランツをどうにかせねばならない。

 あの男は相当の手練(てだれ)だ。さすがは黒杖の騎士なだけある。彼がいる限り、手出しが出来ない。

 

 離れた場所から、仲睦まじい領主一行の話に耳を澄ました。

 常人であれば不可能な集中力で、周囲のざわめきを消して、彼らの声だけを聞き取る。

 

 どうやら彼らはまた十五日の本祭の日にやって来るらしい。(くだん)の小公爵は広場で行われた群衆円舞で上手に踊れず、同行していた亜麻色の髪の少年から、散々な言われようだった。

 少年の小気味よい口ぶりが、エラルドジェイには面白かった。この少年はきっと目の前の黒髪の少年が、公爵の継嗣だと気付いていない。

 グレヴィリウス公爵は息子を一騎士見習いとして扱うように言ったらしいが、ヴァルナル・クランツは馬鹿正直にそれを実行しているらしい。

 子供達四人がとても親しげに会話するのを聞いて、エラルドジェイはうっすらと笑った。どうにか…やれそうだ。

 

 手ぶらで戻ってきたエラルドジェイに、ダニエルは一気に苛立った。

 

「なんだ、収穫なしか? 大口を叩いていたわりに、なにもできないんだな」

「………そう思います?」

 

 低い声で問いかけたエラルドジェイと目が合った途端、ダニエルは娼館での出来事を思い出したようだった。さっと顔色が変わって、卑屈な笑みを浮かべた。

 

「いや…その……き、期待していたんだ。それでついカッとなった……」

 

 依頼する者と、請負う者。―――――

 ダニエルはこの関係性を度々、勘違いする。

 最初の忠告から、旅の間も何度か言い聞かせてやったというのに、まだわからないらしい。本当に、馬鹿すぎて虫酸が走る。

 

「構いません。期待されているのは、嬉しいですからね。さて、色々と準備が必要になってきました。まず金が要りますので、用意して下さい」

 

「ま、またか?」

「必要経費です。ここまで来て、失敗してもよろしいので?」

 

 軽蔑するほどに、エラルドジェイの口調は丁寧になった。

 内心で吐き捨てる。

 くどくどと文句を言わずに、お前は金だけ出せばいいのだ。

 

 ダニエルは不承不承に頷いて、荷物の中から小袋を一つ取り出す。中には金貨が入っていた。エラルドジェイは確認してから、ダニエルに指示する。

 

「領主館の方に伝言しておいて下さい。十五日の日に、領主が子供達と一緒に外出できぬようにしろ、と」

「は? どういうことだ?」

 

「言ったことを言ったままやってもらうだけです。領主と子供達を離すように……そうだな……半刻(30分)ほどでいいです。とにかくヴァルナル・クランツを領主館に足止めして、子供らだけで祭りに行くようにさせて下さい」

 

 

 領主館で、ダニエルからのその伝言を受け取ったのは、ネストリだった。

 

 

 

 

 ひと月ほど前のこと。

 

 ネストリは、いつも世話になっている帝都の商人から手紙を渡された。差出人の名前は自分の兄であったが、中に入っていたのは別人からの手紙だった。

 

 アルビン・シャノル。

 元グレヴィリウス公爵家の継嗣であったハヴェルの乳兄弟で、今は執事として彼のそばについている。当然、ハヴェルの従僕であったネストリとは知己であり、懐かしい友でもあった。

 

 小公爵がレーゲンブルトに来たことで、何かしら自分に言ってくるだろうとは思っていたが、果たして書かれていた内容の曖昧さにネストリは首をひねりながら、考え込んだ。

 

 アルビンが要求してきたことは一つ。

 

『これから人がそちらに向かう。頼みを聞いてやってほしい』

 

 それだけ。

 

 それからしばらくして、領主館近くの両替商にあるグレヴィリウス公爵家が所有する私書箱に書簡を取りに行った中に、ネストリ宛の私信が入っていた。

 緑色の封筒には、両替商の手を経た時に押される印判がない。おそらく誰かがここに来て、直接入れたのであろう。私書箱を借りている商人は多いので、なりすまして両替商に入り込むことは難しくない。

 

 その手紙には、今後のやり取りの方法が書かれてあった。

 曰く、あちらからの手紙は今後もこの私書箱に届くこと。ネストリが連絡をとる場合は『十一番』の私書箱に手紙を入れること。

 

 十一番の私書箱は公爵家の私書箱の左隣一つ下だった。

 私書箱には投函用の口と、鍵で開ける受取口があったが、ネストリが公爵家の私書箱の手紙を取るついでに、その十一番の私書箱に投函するのは容易であった。

 

 ちなみに両替商にはこの時、簡易な郵便設備も併設されていた。

 使用は富裕商人や貴族に限られていたが、彼らにとって各自に点在する両替商の持つ伝達能力は極めて有用であったので、為替などの取引以外にも、私信を頼むようになった。

 

 領主館における執事の仕事の一つに、この両替商にある私書箱の手紙を取りに行くことも含まれていた。(受取口の鍵はネストリとヴァルナルだけが持っていて、ヴァルナルのそれはほぼ保管用であった。)

 そんな訳で普段からネストリは五日に一度は両替商を訪れてはいたのだが、ここ最近は、ほぼ毎日訪れる羽目になっていた。

 

 というのも、どうやら帝都の方で黒角馬の研究を行うことが決まったらしく、その関係の学者らがレーゲンブルトに来ることになったのだ。準備のための書類などが頻繁に届き、中には翌日に返答しろ、などという無理難題をふっかけてくる輩もいた。

 余計な仕事が増えたネストリはすこぶる機嫌が悪かったが、おかげで、私書箱を見に行くこと自体は怪しまれなかった。

 

 私書箱の手紙は、当初、ヴァルナルについての簡単な質問であった。

 日が経つにつれ、領主や子供達、騎士団の動静について教えるように…と、だんだん具体的な内容を尋ねてくる。

 それでもネストリはさほど悩みもせずに彼らのことを教えた。別にそれらはネストリでなくとも、誰でも知っていることで、秘密を漏洩していることにはならない。

 

 だが、とうとう相手はネストリに選択を迫ってきた。

 

『十五日の日、領主を館に足止めし、子供達と一緒に祭りに行くことを阻害せよ。方法はそちらに任す』

 

 これは確実に十五日の本祭りの日に、何かしら行うことを示唆している。

 しかも、おそらく小公爵に対して。

 

 まだ日があったので、ネストリは一度断った。すると、筆跡の違う字で書き送られてきた内容は苛烈だった。

 

『こちらはこれまでの貴方の手紙をすべて保管している。脅されたと訴えても、貴方の罪が消えるわけでない。己が立場をよくよく考えよ』

 

 ネストリは頭に血が昇った。

 忌々しげに手紙を破り、暖炉に()べたが、考えてみればこの手紙を取っておけば良かった。

 これまでのやり取りについても、ネストリとしては自分に余計な疑いがかかるのを恐れて、読んですぐに燃やしていたのだが、相手の方は自分の書いたものを残していたのだ。

 卑怯だ! とネストリは憤慨したが、自分の浅慮を恨んでも既に手紙は全て灰になっていた。

 

 ネストリはしばらく考えた。

 天秤にかけたのは、小公爵とハヴェル公子ではない。

 このまま辺境の田舎の一領主館の執事としてくすぶったまま終わる自分と、帝都もしくはアールリンデンで執事長となりうるかもしれない自分。

 そこに思い至れば、ネストリの決断は早かった。

 

 了承の意を伝えてから、具体的な方法を考えようとしたが、まったく浮かばないまま十五日を迎えてしまった。

 

 何をするにしろ、自分が協力者だとバレてはならない。その場合、ヴァルナルが容赦なく自分を尋問する前に、アルビンが暗殺者にネストリを始末させる可能性もあるからだ。

 

 ネストリはひと月前の手紙を忌々しく思った。

 あの手紙は捨てていないが、読み返しても、アルビンは特に妙なことは書いてないのだ。もしネストリが手紙を公表して、アルビンが詰問されたとしても、どうとでも言い逃れできる言葉を使っている。

 

 一緒にいた頃には頼もしかったアルビンの狡猾さが、ネストリを苦しめていた。どうして一度でも友だなどと思ったのだろう…。

 

 数日来、ネストリは胃薬を手放せなかった。その日もシクシクと痛む腹を押さえながら、いよいよ祭りに向かう領主を見送るため、廊下を足早に歩いていたが、ふと、ネストリの視界の隅に、薄汚れた掘っ立て小屋が映った。

 

 それはオヅマの住む小屋だった。

 この前の大風で穴が空いた屋根には板が打ち付けられ、窓硝子にも罅が入っている。

 

「………」

 

 ネストリはどんよりとその汚らしい小屋を見つめた。

 

 考えてみれば、オヅマがこの領主館に来てからというもの、ネストリがいい具合に整えてきた環境が全て崩れてきている。

 たかだか辺境の片隅の貧相な村で暮らしていただけの小僧のせいで、領主館の平穏はめちゃくちゃだ。

 

 その上、今のこのネストリの忙しさは、オヅマが見つけてきた黒角馬も原因なのだ。あんなものを見つけてきて、鼻高々と領主様に献上して、取り入って騎士見習いになるなど、まったくもって嘆かわしい!

 しかもその母や娘までもが、領主様とその息子を籠絡(ろうらく)しようとしている。まったくもって忌々しい!

 

 こうなると、今、自分の置かれている不本意な状況までもが、オヅマに遠因があるような気がしてくる。

 そう…全ては、あの小生意気なガキのせいだ!

 

 ネストリはふらつきながら小屋の前まで来て、小屋の脇に置かれた薪を見つめた。すると不思議なことに、小屋が燃え盛っているような光景が脳裏に浮かんだ。

 

「…………」

 

 心臓が早鐘を打つのと同じ速度で、ネストリは思考した。

 

 この小屋が燃えれば…少しだけでもいい。

 邸内で火事が起きたとなれば、一応、領主(ヴァルナル)は様子を見に戻るだろう。危ないから、子供達は連れてこない……はずだ。 

 

 ネストリは小屋の中に入って、消えた暖炉の火を起こした。

 暖炉から火のついた薪を一本取り出してベッド近くに放り出す。チロチロと燃える火がシーツを燃やしていくのを見て、ネストリは満足気に微笑んだ。

 

 自分は間違っていない。間違ったことはしていない。あの生意気な小僧が、火の後始末をしっかりしなかったのが悪いのだ……。

 

 外に出てから素早く辺りを見回し、誰もいないことを確認する。

 この日はヴァルナルが一部を除いて領主館で働く者達に特別休暇を出していたので、元々、人は少なかった。

 ネストリは澄まし顔で少し乱れた衣服を整えると、平然と玄関ホールへと向かった。

 

 しばらくしてから、オヅマの小屋から上がる黒い煙を見て、大騒ぎしたのは下男のオッケだった。

 

「うわぁ! 火だぁ! 火だぁ!! オヅマの小屋が燃えてるゥ」

 

 





次回は2022.07.23.に更新予定です。


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第四十九話 二の矢――掏摸、老婆

 ヴァルナルが火事の一報を受けて領主館に戻った後、オヅマ達は広場に連なる露天商を見回っていた。

 ミーナの思いつきで、ヴァルナルへの日頃の感謝を込めたプレゼントをすることになったが、なかなか子供達は決められない。

 

「わぁ! 見て見て! この飴細工、可愛い! 猫よ。あっ、お人形さんのもある! これだったら、領主様も喜ぶんじゃない?」

 

 マリーはどちらかというと自分の欲しいもの、自分が貰って喜ぶものに目がいく。

 

「馬鹿か。そんなモン、領主様が欲しがるわけあるか」

 

 オヅマが吐き捨てると、マリーはふくれっ面になりつつも、さすがに大の大人が飴細工の人形をペロペロ舐めるものでもない…と思ったのだろう。物欲しげに見つめた後、しょんぼりと肩を落として隣の店へと向かっていく。

 すかさずオリヴェルが店の親爺に1ガウラン銅貨を払って、その飴細工の人形を買った。

 

「はい、マリー。これ食べながら、もうちょっと探そう」

 

 手渡された人形の飴細工にマリーはすぐ笑顔になった。

 

「っとに…オリー、お前マリーに甘すぎだぞ」

 

 オヅマが注意すると、オリヴェルは笑った。

 

「だって、僕、買い物なんて初めてなんだもの。ちょっとした練習だよ」

「なんだそりゃ」

 

 アドリアンはそんなやり取りをしている三人の後ろから、露天商を見回ってヴァルナルにふさわしい贈り物はなんだろうかと考えていたが、そのせいで多少、ぼんやりしていたのかもしれない。

 

 目の前から雀の仮面を被り、頭に白い布を巻いた、西方民族衣装(ドリュ=アーズ)を着た男が歩いてきているのに気付かず、ドンとぶつかる。

 

「あ…っ」

「失礼」

 

 男は軽く言って、足早に群衆の中を縫うように歩き去った。

 

 アドリアンは男に謝罪する間もなかったな…と見送ってから、ふと違和感を感じた。腰に下げていた革袋(金入れ)が…ない。

 

掏摸(スリ)だ!」

 

 叫ぶなり、アドリアンは走り出した。

 その声を聞きつけたらしい雀の面の男がチラとこちらを見るなり、物凄い速さで駆け去っていく。

 オヅマも一緒に追いかけてきて、アドリアンを追い越しざま問うた。

 

「どんな奴だよ!?」

「あそこの西方民族衣装(ドリュ=アーズ)を着た奴だ! 雀の面を被って、白い布を頭に巻いた…!」

 

 聞いた途端、オヅマは前方にそれらしい男の姿を見つけて速度を上げる。

 祭りで賑わう人の間を縫って、目の前に立ち塞がろうとする荷車に足をかけて跳躍し、驚く人々の頭の上を飛ぶ。

 雀の面の男がまた振り返り、身軽なオヅマがどんどん距離を詰めてきているとわかると、いっそう足を早めた。

 アドリアンは必死でオヅマを追いかけ、アドリアンを追いかけて、パシリコ達騎士も走りながら声をかけた。

 

「お待ち下さい! アドリアン様!!」

 

 パシリコが思わずヴァルナルに厳命されていたことを忘れて、敬称をつけて呼んでしまったのは仕方ないだろう。彼らもいきなり走り出したアドリアンを追いかけるのに必死で、そこを気にしている暇はなかったのだ。

 ただ、その時、にわかのスリ騒ぎで、ややザワついた広場にミーナとマリー、オリヴェルを置いていってしまったことは、痛恨の過失となった。

 

「……スリって?」

 

 残されて呆然となっていたマリーが尋ねる。

 

「……こういう人の多い場所とかで、勝手に他人の財布とか取る人のことだよ」

「泥棒ってこと?」

「うーん……どちらかというと、盗っ人?」

「なにが違うの?」

 

 マリーがなおも尋ねてきて、オリヴェルは考え込む。

 

 そんな二人の姿をミーナは微笑んで見ていたが、その時、自分の横を通り越した老婆が小さな袋を落とした。

 

「あ! 待って!」

 

 ミーナはあわてて老婆の落とした小袋を拾うと、大声で呼びかける。しかし老婆は耳が遠いのか、そのまま人の群れの中へと分け入ってしまう。

 

「あ…マリー、ちょっと待っててくれる?」

 

 ミーナが言うと、マリーはオリヴェルの椅子の傍らで頷いた。

 

「大丈夫。ここから動かないようにするから」

「ミーナも転ばないようにね」

 

 マリーとオリヴェルに見送られて、ミーナはあわてて老婆を追いかけた。幸い、老婆の足が遅いので、さほどに走ることもなく、すぐに追いついて声をかけた。

 

「あの…さっき、落とされましたよ」

 

 背後からやさしく肩を叩かれ、老婆は怪訝に振り向いてから、ミーナの手にある色あせた若草色の袋を見て、

 

「ありゃりゃりゃりゃ!」

と、ひどくびっくりした声を上げた。

 

「こりゃあ…すみませんねぇ…。うっかり落としたものをこうして正直に届けて下さるとは…なんとまぁ、よくできた御人だ」

 

「いえ…良かったです。それじゃあ」

 

 ミーナはそのまま踵を返して戻ろうとしたが、老婆はガシリと意外に強い力でミーナの腕を掴んだ。

 

「お噂は聞いております。領主館の方でしょう? 若君の世話係をされておられる…」

「は……はぁ…?」

「ご領主様もようやく()き方と巡り会えたようでございますねぇ。嬉しいことです」

 

 ミーナは老婆の言葉に戸惑った。

 一体、どうしてそんな噂が広がっているのだろうか?

 

 ほぼ領主館の外に出ることのないミーナは知らなかったが、地元民の多い領主館の使用人達がたまに実家に帰省すれば、領主館で起きた種々の出来事を家族達に話すのは当たり前だった。その中でも領主様の恋の行方については、多くの領民の関心事であったのだ。

 

 ただ、この時の老婆が本当にそんなことに興味があったのかどうかは、わからない。そもそも、フードを目深に被り、声の枯れた老婆が本当に()()であったのかすら。

 

「本当に、本当に、ありがとうございます」

 

 老婆は深々とお辞儀すると、そのままクルリと細い路地へと消えていった。

 ミーナは少し困惑しつつも、とりあえず老婆に小袋を渡せたことに満足して、人の群れの中を歩き出す。

 

 マリーとオリヴェルと別れた場所まで戻ってきて、二人の姿がないことに気付いた。キョロキョロと辺りを見回すが、どこにもいない。

 

「マリー?」

 

 少し大きな声で呼びかけたが、元気なマリーの声は返ってこない。

 あるいは人の多いこの場所で待つのが邪魔になると思って、二人が移動したのかもしれない…と、ミーナは広場の隅の方を見て回ったが、どこにもマリー達はいなかった。

 

 だんだんと心配が増してくる。

 

 あるいはオリヴェルの具合が悪くなって、マリーが領主館に連れ帰ったのかもしれない。

 ミーナは広場から出て、領主館に向かう道へと小走りに向かった。しかし途中で、建物の影に捨て置かれたオリヴェルの車椅子を見つけ、一気に顔面蒼白になった。

 

「………若君…オリヴェル様ッ!」

 

 大声で叫んで辺りを見回す。しかし、どこにも見慣れた人影はない。

 

「マリー! どこにいるの!?」

 

 恐怖が喉元を這い上ってくる。

 泣きそうになるのを必死でこらえながら、ミーナは必死で二人を呼んだ。それでも何の返事もない。

 

 広場から円舞の音楽が流れてくる。

 ミーナは膝をガクガク震わせつつ、広場へと向かった。

 

 お願い、頼むから…二人とも広場にいて。あきれるほど平和な笑顔で見物して手拍子をしていて…。

 

 絞めつけられる心臓を押さえながら歩くミーナに、穏やかに声をかけてきたのはヴァルナルだった。

 

「ミーナ、遅れたが…間に合ったかな?」

 



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第五十話 雀の面の男

 スリを追いかけていたオヅマは、人のまばらな城塞外壁近くまで来て、ようやく捕まえられそうになって手を伸ばしたが、その時突然、目の前の男が驚くべき跳躍力で外壁の上に飛び乗った。

 

「……やれやれ」

 

 雀の面を被ったまま、男はあきれたようにつぶやいてオヅマを見下ろす。

 

「大した坊やだね。俺に追いつくとは」

「うるせぇ、この雀野郎! とっととアドルの(カネ)を返せ!」

「金? あぁ…」

 

 男は腰に吊り下げていた革袋を取ると、何の未練もないようにオヅマに放り投げた。

 

「は?」

 

 オヅマは袋を受け取って、ポカンと口を開ける。

 

「なんだよ。返して欲しかったんだろ?」

「そうだけど……」

 

 オヅマは革袋をまじまじ見つめた後で、キッと雀の面の男を睨みつけた。

 

「簡単に返すんだったら、最初っから取るなよ!」

 

 思わぬ説教に、男は一瞬絶句してから、ケラケラ笑い出した。

 

「おっもしろいなぁ、お前。ここに来て、一番の収穫だよ」

「何を訳のわかんねぇことを…この野郎。そこ動くな! とっ捕まえる!!」

「動くなと言われて、素直に聞くような奴はスリなんてしないんだよ~」

 

 雀の面の男は楽しそうに言うと、ヒラリと壁の向こうへと姿を消した。

 

 向こうはかつての城塞の外壕跡で、崩れた瓦礫と岩だらけの場所だ。普通は城塞外門から外に出ないと、この壁の向こうには行けない。

 門はここから遠く離れた場所にある。いったん門まで行って、この壁の裏まで走って辿り着いたとしても、その頃には男がいなくなっているのはほぼ確実だ。

 

 オヅマは高い壁を見上げて、男のように走って飛び乗ることができるかと試してみたが、古びた煉瓦を爪で引っ掻くのがせいぜいだった。

 

「チッ! クソ…」

 

 舌打ちしていると、後ろからアドリアンがようやく追いついて声をかけた。

 

「逃したか…?」

「逃がしてない! ホラ」

 

 オヅマは男から渡された革袋を突き出した。

 アドリアンは受け取って、目を丸くした。

 

「え…なんで?」

「知るか。なんか返してきたんだよ。っとに…あっさり返すなら盗るなってんだ」

 

 オヅマはぶつくさ言いながら、元来た道を戻り始める。

 その時、パシリコ達がようやく到着した。

 

「おぉ、オヅマ。駄目だったか?」

「違う! (カネ)は返ってきたっての!」

 

 パシリコが意味がわからぬ様子でアドリアンの方を見ると、アドリアンは革袋を持ち上げて見せる。

 

「…ひとまず、無事ということか」

「帰りましょう。マリー達が待ってる」

 

 アドリアンは促してから、むくれたオヅマに問うた。

 

「スリの男が観念して君に返してきたの?」

「観念?………そんな感じじゃなかったけどな」

 

 オヅマは雀の仮面の男との会話を思い出す。

 なんか人を食ったやつだった。ムカつくが、さほどに嫌な感じもしない。

 

「返せーっ言ったら、ハイどうぞーって返してきた」

「………妙だな」

 

 アドリアンは顎に手を当てて考えながら、手首に下げた革袋を見つめる。

 何だか、違和感がある。似ているが、これはさっきまで自分の持っていたものと同じだろうか?

 

 ゆっくりと歩きながら、アドリアンは袋を開けて中身を見た。

 お金は入っていた。金額を正確に数えたのは数日前なので、そこは同じかどうかわからない。しかし、銀貨も入っているので、盗まれたとは考えにくい。

 軽く揺すって中身の確認をしていると、シャラシャラと鳴る硬貨の間からやや分厚い紙が出て来た。

 

 アドリアンが紙を取り上げるのと同時に、広場から円舞の音楽が聴こえてくる。

 

「おっ! もう始まってんぜ」

 

 オヅマが軽くアドリアンの肩を叩き、硬直していたアドリアンの手から紙が落ちた。

 

「あ? なんだ、これ?」

 

 オヅマは落ちていく紙を素早く空中で拾って、何気なく見た。しかしアドリアンがあわてて取り上げる。

 

「……なんだよ?」

 

 オヅマは眉を寄せた。なんだかアドリアンの様子がおかしい。

 

「……いや。なんでもない」

 

 アドリアンは紙を一瞥した後、再び革袋に放り込んで、広場へと歩き出す。

 

 オヅマはフンと鼻を鳴らした。

 この数ヶ月、対番(ついばん)で一緒に生活してきたせいで、わかる。あの態度は何かあったのだ。

 あの紙も意味深だった。

 何かを示すかのような図形と、チラとだけ見えた言葉。

 

『誰にも知られてはいけない』―――――

 

 マリー達はどこかと探していると、人の間を縫って、カールが現れた。

 

「オヅマ…こっちだ」

 

 暗く厳しい顔をして、小さな声で呼びかけてくるカールに、オヅマはすぐに異変を感じた。

 

 無言で歩いて行くカールに()いて、円舞で盛り上がる広場を抜けると、樅の木の下にあるベンチで、青い顔をした母が、ほとんど抱きかかえられるようにヴァルナルに寄りかかっていた。

 

「母さん!」

 

 オヅマは走って行く。

 

 その背後で、暗い顔のアドリアンが立ち尽くしていた。

 



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第五十一話 陥穽

「ミーナ、遅れたが…間に合ったかな?」

 

 

 ミーナは振り返ってヴァルナルの顔を見た途端に、思わずガクンと脱力した。必死でこらえていた涙が一筋頬を伝う。

 

「ミーナ? どうしたんだ!?」

 

 普段、滅多と…というより、一度も泣いたことのないミーナの涙に、ヴァルナルは驚いた。同時に子供達の姿が見えないことに気付く。

 

「……子供達は、広場か?」

 

 問いかけると、ミーナはヴァルナルの腕を掴んで震える声で、それでもはっきりと伝えた。

 

「アドリアン様とオヅマ達は…スリを追って……マリーと若君の姿が見当たらなくて、椅子がそこに……」

 

 ミーナが伸ばした指の先をカールが見に行くと、誰乗ることもない車椅子が寄せられた雪の上に置き捨てられていた。車輪が一つ、脱輪している。

 

「ヴァルナル様! 椅子が…」

 

 一瞬ですべてを把握して、ヴァルナルは素早くその場にいた騎士達に命令する。

 

「カール、小公爵様を探せ。アルベルトとヘンリクは、オリヴェルとマリーを。広場を中心に周辺一帯をあたれ。サッチャ、領主館に戻ってマッケネンに知らせろ。総員で領府周辺の警邏(けいら)を行い、少しでも不審な者がいたら身柄を拘束しろ」

 

 カール達が散っていくと、ヴァルナルは顔色のないミーナを樅の木の下にあるベンチまで連れてゆき、座らせた。

 

「申し訳ございません…私のせいです」

 

 ミーナはもう涙を見せなかったが、死にそうな顔でつぶやくように言った。

 ヴァルナルは首を振ると、震えの止まらないミーナの手を握った。

 

「そんなことはないはずだ。貴女(あなた)がそう簡単に子供達と離れるとは思えない。すまないが、詳しく教えてほしい。何があった? 些細なことも含めて、全て教えてくれ」

 

 ミーナはヴァルナルの温かい手に縋るようにもう一つの手を重ねて、ヴァルナルと分かれた後のことを思い出しながら話していく。

 

 皆で領主様への贈り物をしようという話になって、露店を見回っていたこと。途中でアドリアンがスリに遭遇して、アドリアンとオヅマと警護の騎士達がスリを捕まえに行ったこと。それから…

 

「その後、私とオリヴェル様とマリーは三人で待っていようと思ったのですが、その時ちょうど…お婆さんが通りかかって、小袋を落としていって…。お金が入っているみたいだったので、私はあわてて追いかけたのです。すぐに戻るからと、マリーに言って。お婆さんにもすぐに追いついて、小袋を渡して、帰ってきたら……二人とも……どこにも…」

 

 ミーナは必死で涙をこらえ、痛む胸を押さえた。

 か細い声で何度も繰り返す。

 

「申し訳ございません。本当に、申し訳ございません…私の責任です。私が、あの時離れたから……」

「違う。貴女のせいではない」

 

 ヴァルナルは弱々しく首を折り曲げるミーナの細い肩を抱いた。

 

 虚空を睨み据えるヴァルナルにとって腹立たしいのは自分自身だった。

 ミーナはしきりと自分の責任と言うが、何がミーナのせいであるものか。すべては自分の責任だ。

 

 ギリ、と奥歯を噛み締める。

 

 嵌められた。見事に。

 領主館の火事から始まっていたのだ、一連の出来事は。

 

 これだけのことをするのであれば、やはり彼らの狙いはアドリアン小公爵に違いない。

 だが、今はマリーとオリヴェルまでもがいなくなっている。

 ミーナの話を聞く限り、子供達は別々にいた。

 せめて、どちらか一方の無事を確認したい。

 

 そう時はかからず、広場のアーチをくぐってこちらに向かってきたオヅマとアドリアンを見て、とりあえずヴァルナルはホッとした。

 

「母さん!」

 

 オヅマが走り寄ってくると、ミーナは立ち上がってオヅマに抱きついた。

 

「オヅマ! マリーが…マリーがいないの!」

 

 オヅマの顔がさっと強張る。

 ほぼ同時に、アーチからアルベルトとヘンリクがこちらに向かってきて、ヴァルナルに告げた。

 

「オリヴェル様もマリーも、見当たりません」

 

 オヅマはすぐに広場に向かって走り出そうとして、ヴァルナルに腕を掴まれた。

 

「オヅマ、落ち着け! 計画的なものであれば、軽々な行動は控えねばならない」

 

 この時に及んで冷静なヴァルナルが、オヅマには苛立たしかった。カッとなって思わず怒鳴りつける。

 

「うるさい! なんでマリーが…マリーは巻き添えだろ! 狙われたのはオリヴェルだろ!」

「オヅマ! やめなさい!!」

 

 ミーナが泣きそうな声で止める。

 

「なんてことを言うの! 領主様のお気持ちも考えずに!!」

「なんで俺がそんなこと考えないといけないんだよ!」

「オヅマっ!」

 

 ミーナも精神的に動揺していたのだ。

 パシン、とオヅマの頬を()ってから、我に返った。

 

 信じられないように自分を凝視してくるオヅマに、ミーナの目から大粒の涙があふれ、その場に崩折れた。

 

「…ごめ……ん…な…さい」

 

 ほとんど消え入りそうな母の声に、オヅマは何も考えられなかった。

 父からの暴力には慣れていても、母が自分に手を上げたことはない。決して、そんなことはしないと…信じていたのだ。

 

 呆然と立ち尽くすオヅマの横に来て、アドリアンはヴァルナルに言った。

 

「僕たちも、マリーとオリヴェルを探したい」

 

 しかしヴァルナルは即座に首を振った。

 

「いけません。今は、カール達と一緒に領主館に戻って頂きます」

「でも…今回のことは僕らにも関係がある。元は僕がスリを追いかけたせいで、三人を置いていってしまった」

「それも含めて、考える必要があります。今は、とにかく戻ります」

 

 ヴァルナルは固い表情で決定を下すと、ミーナを抱き起こして連れて行った。

 

「……オヅマ」

 

 アドリアンはまだ固まったままのオヅマの肩を叩く。「とりあえず、戻ろう」

 オヅマは、ジロリとアドリアンを見た。

 

「……マリーとオリヴェルを置いていくのか…?」

「そんなことはしない。必ず助ける、二人とも」

 

 アドリアンがはっきり言うと、オヅマはまじまじと、その横顔を見つめた。いつもと同じ無表情に見えるが、鳶色の瞳には怒りが滲んでいた。

 

 歩き出したアドリアンの後をオヅマはついていった。陰鬱な薄紫の瞳に、一瞬、金の光が閃いた。

 





次回は明日2022.07.24.に更新予定です。


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第五十ニ話 『誰にも知られてはいけない』

 マッケネン達は周辺をくまなく調べ、怪しそうな人物への尋問も行ったが、オリヴェルとマリーの行方はわからなかった。

 

 オヅマは平常心でいられないだろう…ということで、会議への参加は認められなかった。演習における作戦会議などには、将来的な勉強も含めてこれまで全て参加してきたが、こと身内の関わる事件であるということで、今回は外された。

 

 領主館に来て一年。

 初めて、オヅマはヴァルナルを恨んだ。ヴァルナルだけでなく、普段から世話になっている騎士達も全員、嫌いになった。

 

 しかも腹立たしいことに、オヅマが今いるのは館内にある客室の一つだった。

 ヴァルナルが戻ったのは領主館で起きた火事が原因で、しかもその火事が起きたのはオヅマの小屋だったのだ。

 

「お前、ちゃんと火の始末したんだろうな?」

 

 サロモンの問いかけに、オヅマはムっとなって言い返した。

 

「当たり前だろ!」

「しっかり実況検分したわけじゃないからわからんが…ベッドの辺りが一番燃えてるんだ。まさかと思うが、お前、煙草とか吸ってたりしねぇだろうな?」

「はぁ? フザけんなよ! どうやって吸うかも知らねぇわ!」

 

 いきりたっているオヅマの様子に、筆記をしていたマッケネンはフゥとため息をついて、質問を変えた。

 

「それで、お前が追いかけたスリの男は雀の面を被ってたんだな?」

「おう」

「服装は頭に白い布を巻いて…異国の服だったと…」

「あぁ。なんて言うんだ、あれ。アドル、お前あン時、(なん)()ったっけ?」

 

 オヅマは窓際の椅子に腰掛け、地図を広げて見つめているアドリアンに声をかけた。

 アドリアンはチラとマッケネン達を見て、静かに答える。

 

西方民族衣装(ドリュ=アーズ)だと思う」

「ドリュ=アーズか……」

 

 マッケネンは眉を寄せて考え込む。

 帝国には各地からの商人がやって来て、異国の衣装を着ていても、奇異に思われることはない。その中でもドリュ=アーズを着た商人というのは、レーゲンブルトのような辺境においても、さほどに珍しい存在ではなく、普段から出入りしている。

 しかも祭りの日であれば、似たような服装の旅芸人なども、いつもより多く来ていただろうし、風体からの特定は難しい。まさかずっと雀の面をしているわけでもなかろうし。

 

「あの野郎が関係してんのか!?」

 

 オヅマはマッケネンに掴みかからんばかりに詰め寄ったが、マッケネンはのけぞりながら立ち上がる。

 

「それも含めて考えるということだ。いいか、オヅマ。くれぐれも勝手な行動をするなよ」

「じっとしてりゃ、マリーが助かるって言うのかよ!」

 

 マッケネンは厳しい顔でオヅマを見て、落ち着かせるように肩を叩いた。

 

「いいか、オヅマ。その掏摸(スリ)の男も関係しているとなれば、これは明らかに計画的な誘拐なんだ。下手に動いたら、マリーもオリヴェル様も……危険だ」

「危険…って」

 

 オヅマはかすれた声でつぶやき、二、三歩よろけた。それまで考えまいとしていた現実を突きつけられる。

 

「命の危険がある、ということだ。いいか、ヴァルナル様の指示があるまでは動くな」

 

 マッケネンとサロモンが出て行った後、オヅマは苛立ちのまま拳を壁に叩きつけた。噛み締めた唇は切れて血が流れ出す。

 

「下手に怪我したら、いざという時に助けに行けないよ」

 

 アドリアンの冷静な声に、オヅマは振り向きもせず固まっていた。

 しばらくして、低く問いかける。

 

「……お前、何か知ってるだろ?」

「なにが?」

「あの紙、何だよ」

 

 アドリアンは地図を机の上に置いて、革袋からオヅマに言われた紙を取り出す。

 

「これのこと?」

 

 オヅマはつかつかと近寄ると、アドリアンの手から紙を掠め取った。しかし真っ白なその紙に目を剥く。

 

「オイ! フザけんなよ!! 馬鹿にしてんのか!?」

「馬鹿になんてしていない。あの時の紙はそれだ」

「嘘つけ! 何か書いてたろ!? なんか…図形と、『誰にも知られてはいけない』って」

「…一瞬なのに、よく見てるね」

 

 アドリアンは苦い笑みを浮かべて、オヅマから紙を取り上げると、地図の上に置いた。

 

「おい……」

 

 オヅマはとうとう我慢できなくなった。

 アドリアンの襟首を掴んで、今しも殴りかからんばかりに怒鳴りつける。

 

「お前なんなんだよ!? どういうつもりだ!!」

 

 アドリアンの表情はそれでも揺らがない。

 問いかけに答えず、反対に尋ねた。

 

「シレントゥって、わかる?」

「は? シレントゥ?」

 

 シレントゥは領府の外を流れるドゥラッパ川の河岸にある倉庫街のような場所だ。帝都や他の地域から運ばれてくる荷物がそこに荷揚げされる。規模は帝都のものと比べ物にならないが、ヴァルナルが来てから整備され、領府と最短で繋がる広い道も作られた。

 

「今日中にそこに行かないといけない」

 

 アドリアンは静かに言った。

 

「マリーとオリヴェルを助けるために」

「………」

 

 オヅマはアドリアンをまじまじと見つめながら、あの時見た紙のことを思い出した。

 

「地図か…あれ…」

 

 紙に書いてあった四角や波線。

 オヅマはアドリアンの襟を離すと、地図の上に置かれた真っ白の紙をもう一度取って、まじまじと見つめた。

 

「なんで…? あの時は確かに…」

「そういうインクがあるんだよ。時間が経つと消えるんだ…」

「チッ! いちいち鬱陶しいな」

「でも、まったく見えなくなるわけじゃない。()()()()()()()()()()()

 

 アドリアンは紙をオヅマの手から取って、再び地図の上に置いた。

 

「じゃ、行こうぜ。シレントゥにマリーもいるんだな!?」

 

 オヅマはマントを羽織りながら、飛び出さんばかりにドアへと走っていく。

 ノブを掴んで開けようとした時、背後に近づいたアドリアンの気配を感じると同時に、チクリとうなじに小さな痛みが走った。

 

「なん……だ…」

 

 クルリと振り返ったが、すぐに視界が歪んだ。

 ガクリと膝が力を失って倒れる。

 見上げるとアドリアンの右手の中指に見たことのない黒い指輪があった。

 

「『誰にも知られてはいけない』んだ、オヅマ」

 

 つぶやいたアドリアンの声に、見えなかったが表情の想像がついた。

 

「………うる…せ……この…しな…びた……」

 

 いつものように悪口を言いかけて、オヅマは気を失った。

 



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第五十三話 シレントゥ三番埠頭

 シレントゥの三番埠頭に姿を現したアドリアンに、エラルドジェイは紺の瞳を細めた。

 ぬかりなく周辺の人の気配を探る。

 既にその日の荷降ろしは終わっており、舟はすべて桟橋に繋がれ、辺りはほぼ無人だった。不自然に動く影も見当たらない。

 

 アドリアンは紙の内容をきちんと覚えているようだ。迷うことなく指定した倉庫に向かっていた。三番埠頭の一番端にある、冬場はほとんど使われることのない倉庫。

 

 アドリアンがその巨大な二枚扉の前に立つと、エラルドジェイは雀の面を被って、倉庫の屋根の上から降りた。

 アドリアンの背後に立つと同時に、剣をその背に当てる。

 

「ようこそ、小公爵。約束をお守りいただいて何より」

 

 十歳だと聞いていたが、アドリアンはよほどに自制の教育をされているらしい。じっとしたまま、冷静に尋ねてくる。

 

「マリーとオリヴェルは?」

「無論、今からご案内致しますよ」

「一つだけ訊きたい。今日のことは、僕をここに来させるためか?」

「えぇ。あなたに是非にも会いたいと仰言(おっしゃ)る方がいまして」

「………」

 

 それ以上質問することなく黙り込んだアドリアンに、エラルドジェイは微笑んだ。

 普通であれば、「一体誰が? なんのためにこんなことを?」と騒ぎ立てそうなものだが、アドリアンは律儀にも一つだけの質問を守ってくれるらしい。

 同じ貴族のお坊ちゃんでもダニエルとは大違いだ。大貴族の若様ともなれば、その品性も知性も格段に違ってくるものなのだろうか。それともこの小公爵様が、普通の子供ではないのだろうか。

 

 エラルドジェイはアドリアンの首に刃を向けたまま、腕を伸ばして扉をコココッ、コツッと打つ。合図となる独特のリズムのノックだ。

 大きな扉の一部をくり抜いた小さな通用口が開いた。

 

「中へどうぞ」

 

 

 

 

 背後から促され、アドリアンは歩を進めた。

 中に入って三歩で背後の扉が閉められ、一瞬、暗闇になる。しかしすぐに明かりが辺りを照らした。

 大きなフードを被った男が、ランタンの明かりを遮っていたシェードを取ったのだ。

 

「ありがとさん。これ、約束のやつな」

 

 アドリアンの背後の男が金を渡しているようだ。チャリン、チャリンと二回音がした。フードの男の顔は見えなかったが、軽く会釈するとアドリアンの入ってきた通用口から出て行った。一瞬だけ空気が動いて、再び淀む。

 

「そのランタン、持ってもらえますかね、小公爵様」

 

 アドリアンは黙って言われた通りにランタンを持ち上げる。すかさず背後の男が剣の切先でツンと肩をつついた。

 

「妙な真似はなさらぬように。あの二人を助けたいのであれば」

「………わかっている」

「では、そのまま真っ直ぐこの通路をお歩き下さい」

 

 アドリアンは歩きながら、倉庫内部の様子をざっと確認した。

 今、アドリアンが歩いている真ん中の通路の両端に木材で出来た(やぐら)のようなものが組まれている。おそらく入荷した物品を仕分けするための整理棚なのだろう。

 それぞれに階段があって、アドリアンのいる一階部分から二階の棚部分に歩いて行けるようになっている。今は繁忙期でないせいか、棚には大小の箱が置き捨てられているようだった。大きいものは大人一人が入れるくらい。中身が入っているのかどうかはわからない。

 つきあたりまで来ると、扉があった。

 

「開けて下さい」

 

 言われた通りにして開けると、ゆるやかなカーヴの石階段が地下へと続いている。

 

「降りて下さい。少々滑るかもしれませんから、足元はくれぐれも気をつけるように」

 

 男は剣先をアドリアンの耳元につけながら、意外にも優しい声で言う。まったく、脅迫しながら親切とは、おかしな男だ。

 

 石の階段を下りきると、そこは蟻の巣のようにいくつかの部屋に分かれたワイン貯蔵庫になっていた。階段から一番遠くにある唯一、扉のある部屋から明かりが漏れている。

 

「あの扉のある部屋に行って下さい」

 

 アドリアンは唾を呑み込んだ。

 おそらくあそこにマリーとオリヴェルがいる。

 二人の無事を確認できた時、アドリアンにとっては最も危険が迫ることになるのだろう。

 

 アドリアンが扉を開くと同時に、背後の男がグイと背を押し、中に向かって呼びかけた。

 

「さぁ、ようやくアドリアン・グレヴィリウスを連れて来てやったぞ」

 

 

◆ 

 

 

 オヅマが目を覚ますと、部屋の中はうっすらと暗かった。

 窓の外には夕焼け空が広がっている。

 

「あの野郎……」

 

 起き上がって、うなじに手をやる。痛みはないが、おそらく針か何かを刺されたのだろう。気絶させる薬が塗り込まれた針。

 アドリアンの中指にあった黒い指輪を思い出す。

 あれだ。あれに針が仕込まれていたのだ。

 

「…なんであんなもん持ってんだ、あの馬鹿」

 

 オヅマは苛立たしげにつぶやいて立ち上がる。

 フラフラと窓辺にある机のところまで来て、アドリアンの残していった紙と地図を見つめた。

 

 紙の方はやはり真っ白だ。

 オヅマは必死に思い出そうとした。

 

 確か紙の横長の一辺に沿って波線が引かれ、直角の端には扇形の弧が書かれてあった。扇形の中心には『3』の文字。それから長方形が六つか七つ、並んでいて、その中の一つに何か印がされていた気がする。

 空白の部分には、少し滲んだ文字で『誰にも知られてはいけない』。

 その他にも小さな文字が書かれていたと思うが、その部分はアドリアンに取られてしまって読む暇がなかった。

 

「………そういうことか」

 

 しばらく考えて、オヅマは納得した。

 おそらくマリーらを誘拐した犯人は、アドリアンに一人で来るように要求してきたのだ。

『誰にも知られてはいけない』。誰かに知られた時には……。

 

 そこまで考えて、オヅマはギリっと歯ぎしりした。

 

 マリーとオリヴェルがまさに命の危機にあることを、今更ながらに思い知る。

 

 なんだってアドリアンにそんなことを要求してくるのかがわからないが、オヅマはとにかくじっとしている気はなかった。

 

「………領主様に言う訳にはいかないな」

 

 オヅマは騎士達に話すことはすぐに選択肢から排除した。

 向こうが『誰にも知られてはなならない』と要求して、人質をとっている以上、騎士団を動かせば必ず勘付かれてしまう。

 だが、オヅマ一人であれば…子供であれば、あちらも油断しているはずだ。

 

 オヅマは腰のベルトに短剣を差した。本当は剣が欲しいところだが、走るときに邪魔になるし、兵舎にまで取りに行っていたら誰かに見つかるだろう。

 

 そっとドアを開け、辺りを見回したが、誰もいなかった。

 

 息を殺して気配を感じ取る。

 ピリピリとうなじが逆立つ感覚。

 凄まじい集中力が、オヅマを無駄のない行動に導いていく。

 

 騎士達や領主館の召使い達の動きを視認するよりも早くに察知して、身を隠しつつ、外に出た。

 

 夕焼け空はあっという間に暮れて、星が光り始めている。

 

 オヅマは走り出した。

 

 必ず助ける。マリーも、オリヴェルも、アドルも。

 



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第五十四話 金貨三枚分の男

 ダニエル・プリグルスは粗末な椅子に座って、縄をかけられた二人の子供を血走った目でどんより見つめていた。

 

 赤銅色の髪の少年は、白い顔で少し苦しげな息をしつつも、必死でダニエルを睨みつけている。栗色のクセっ毛の少女も、そんな少年を心配そうに見ながら、時々、涙を浮かべた緑の瞳でダニエルを睨みつける。

 

 ダニエルは置いてあった年代物らしいワインを瓶ごと飲んでいたが、とうとう空になると、苛立たし気に地面に叩きつけた。

 バリン、とけたたましい音が洞窟のような部屋に響き、女の子供がキャッと悲鳴を上げる。

 その恐怖する様子を見て、ダニエルはハハハと笑った。

 

「怖いか? 僕が怖いか? 怖いだろう…? もっともっと怖い思いをさせてやろうか? えぇ?」

 

 ダニエルは涎を垂らしながら、フラフラと子供達に近寄っていく。その目は少年と少女を映しながらも、頭の中では会ったこともない少年を勝手に彼らに重ねていた。

 

 いよいよアドリアン・グレヴィリウス小公爵がやってくる。

 自分の前に。

 そうして自分は彼を殺す…!

 

 考えれば考えるほどに、ダニエルは平常心を失っていった。

 

 この地下に来て半日。目についたワインを飲まずにはいられなかった。

 ほとんど酔っ払っていたのに、いつものように楽しい気分にもなれず、眠気もやってこない。

 フワフワとした酔いが足をフラつかせても、ダニエルの神経は逆立っていた。異常な緊張感と酩酊が同時にやってきて、自分でも訳が分からない。

 

「ハハハハ」

 

 笑いながら子供達の方へと向かっていく途中で、ギィと扉が開く。

 ほぼ同時に、エラルドジェイの声が響いた。

 

「さぁ、ようやくアドリアン・グレヴィリウスを連れて来てやったぞ」

 

 ダニエルがさっと目をやると、そこには公爵そっくりの鳶色の瞳に黒髪の少年が立っていた。

 不意にあの時の―――会合で公爵に睨まれた時のことを思い出して、ダニエルは硬直した。

 

「マリー! オリヴェル!」

 

 アドリアンはダニエルの向こうで恐怖に小さくなっている二人のもとへと走っていく。

 

「アドル!」

「わあぁぁん!!」

 

 泣き叫ぶマリーを抱きしめながら、アドルは手の中に隠し持っていた小さな剃刀で素早く二人の縄を切った。

 オリヴェルはハッとアドリアンを見たが、アドリアンは口元に指をあてて黙るように指示する。

 

 三人の背後では、ようやく我に返ったダニエルがあわてて腰の剣を抜こうとして、エラルドジェイに止められた。

 

「なにをする!? 貴様ッ」

 

 びくとも動かせないような力でダニエルの腕を掴みながら、エラルドジェイは余裕の笑みを浮かべて左手の掌を差し出す。

 

(カネ)

「っ……後で渡すッ!」

「冗談じゃない。依頼は完遂した。即座にもらうのが、ウチの流儀でね。この期に及んでガタガタ抜かす気かい?」

 

 紺の瞳が細く不気味に笑うほどに、エラルドジェイの力が増していく。ミシミシと骨が軋むのがわかって、ダニエルは降参した。

 

「わかった、わかった! わかったから! すぐに渡す!! 渡す