昏の皇子<KURA NO MIKO> (水奈川葵)
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プロローグ~序.パルスナ帝国概要

プロローグ

 

 

 

 死ぬことは怖くない。

 

 ただ、思った。

 

 

 どうしてこんなふうに死ぬしかなかったのだろうか……

 

 どうしてこんな生き方しか選べなかったのだろうか……と。

 

 

 本当はもっとやりたいことはあったはずなのに。

 

 本当はもっと幸せになる道はあったはずなのに。

 

 

 どうして自分には、それを選ぶことができなかったのだろうか………

 

 

 

 

 ―――――きっと…助けるから……

 

 

 

 

 血が流れ続けて、冷たくなっていく体。

 

 重くなっていく視界。

 

 

 

 

 ―――――もう一度、会いましょう……

 

 

 

 

 最期まで。

 

 

 

 

 ―――――今度こそ、あなたを救う……必ず……

 

 

 

 

 オヅマは自分の望みが何かもわからないまま、死んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

序.パルスナ帝国概要

 

 

 

 パルスナ帝国は元々大陸中央の山間部に位置する小国だった。

 

 北には強力な軍事国家であるオストホフ王国、南には長く神話の時代から続くとされるホーキ=シェン神聖帝国があり、二つの大国に挟まれたいわば緩衝地帯であった。

 

 当時はまだパルスナという名前ではなく、キエルと呼ばれており、周辺には同じような小王国が群立していた。

 

 世代を経るに従い、キエル国とオストホフ王国との関係は密になり、最終的にはオストホフ王国の王子がキエルの王となる形になっていた。

 

 天授暦十六旬節。

 

 当時キエルの王であったエドヴァルドが、異母兄であったオストホフ王を退けると、オストホフの軍権を掌握。

 周辺の小国を次々に征服、キエル帝国を成立させた。

 

 その後の大出征によって、最終的にエドヴァルドはホーキ=シェン帝国の首都・ガ=クンランを陥落させることで、神代の長きにわたって続いてきた神聖帝国をも討ち下した。

 

 無論、エドヴァルド個人の資質だけでここまでの偉業は達成できるはずがない。

 

 そのエドヴァルドにとって最も重要な人物となったのは、ホーキ=シェン神聖帝国から送られてきた神女姫(みこひめ)と呼ばれる妻であったのだが、この話はここでは重要でないので、割愛することにする。

 

 いずれにしろエドヴァルドによって新たなる帝国の首都がヨーク=パルスナ(遠き平原)と呼ばれる場所に定められた時に、この帝国はパルスナと呼ばれるようになり、ヤーヴェ湖畔に建設された帝都にかつての王国の名前が残された。

 

 

 それから二百有余年。

 

 

 パルスナ帝国は大陸の中央にどっかりと根を張り、周辺諸国を圧倒する大帝国となった。

 

 

 そのパルスナ帝国の最北の地、峻険なるヴェッデンボリ山脈を背後にした小さな山間の村から物語を始めよう。

 

 

 

 

 



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第一部 第一章
第一話 藍鶲の年、大帝生誕月の満月の日


 ゆっくりと目が覚めた時、オヅマは一瞬、訳が分からなかった。

 

 見慣れた天井。だがとても懐かしい気持ちになる。

 

 手を上げてみると、その手が()()()()()よりも小さくて、違和感があった。

 だがすぐに自分が()()十歳であることに気付く。

 そうなると、今度は違和感を覚えたことが奇妙に思えた。

 

 とりあえず起きよう…と思ったのだが、体が動かせない。

 なぜか、と思うと同時に、自分の腹の上にどっかと乗せられた足に気付く。

 

「………」

 

 ゆっくりと腹の上に乗っていた妹の足をどかせると、オヅマは起き上がって、うーんと寝返りをうつ妹をまじまじ眺めた。

 

 父親譲りの赤みがかった栗色のくせっ毛。鼻の上のそばかす。

 

 なぜだかみるみるうちに涙が溢れてくる。

 胸が痛かった。

 

 かすかに『良かった』と何度もつぶやく。

 けれど何が()()()()のか、オヅマにもわからない。 

 

「マリー…」

 

 呼びかけると、妹は顔をしかめながらも、そろそろと瞼を開く。

 

 瞼が開くと潤んだ緑の瞳がぼんやりとオヅマを見た。

 しばらく見つめてから、驚いたようにパチパチとまばたきする。

 

「どうしたの? お兄ちゃん? なんで泣いてるの?」

 

 オヅマは途端に恥ずかしくなって、あわてて袖でこすった。

 

「うるせぇ。お前の足が目に当たったんだ」

「えぇ? そんなことしたぁ?」

 

 マリーは腑に落ちない様子だったが、小さな声で「ごめんなさい」と素直に謝ってくる。

 オヅマはヒラヒラと手を振って、ベッドから降りた。

 

「も、いい。早く起きろよ。水汲みに行くぞ」

「はーい」

 

 ぴょんと妹はベッドから跳ねて、さっきまで寝ていたとは思えぬ軽い足取りで部屋から飛び出していく。

 オヅマはその様子をぼんやりと見ていた。

 

 まだ、自分は夢の中にいるのだろうか。

 それともさっきまで見ていたのが夢なのだろうか。

 

 できればさっきのものが夢であってほしかった。

 起きた途端に徐々に朧気(おぼろげ)になりつつあるが、確実なことは、その夢の中でマリーは死んでしまっていた。

 それも、とても悲惨な死に方だった。

 

「オヅマ?」

 

 顔を出した母の姿に、またオヅマの気持ちはひどく動揺した。

 

 なんて()()()()のだろう。

 

 柔らかな淡い金髪を引っ詰めた髪と、オヅマと同じ薄い(すみれ)色の瞳、西方人特有の薄褐色(うすかっしょく)のなめらかな肌。

 

 思わず駆け寄って母に抱きつく。

 四つ年下の妹が生まれてからは、母に抱きつくなんてことはしなかったオヅマが、急に抱きついてきたので、母・ミーナは驚いた。

 

「まぁ、どうしたの? オヅマ」

 

 戸惑いながらも、少し嬉しそうな母の声が、胸に柔らかく沁み入ってくる。

 服を着替えた妹が台所から大声で叫んだ。

 

「今日、お兄ちゃんってば泣いてたの!」

「まぁ、どうしたの…本当に」

 

 ミーナはオヅマの肩を掴んで顔を見ようとしたが、オヅマは恥ずかしいのかギュッと腰に抱きついたまま、俯いている。

 ミーナは軽く息をつくと、オヅマの頭と肩を優しく撫でた。

 いつの間にか来ていたマリーも母の真似をしてオヅマの背を撫でる。

 

「お兄ちゃんが甘えっ子になっちゃった」

 

 マリーはクフフと笑っている。

 ミーナも微笑んでいた。

 オヅマは()()()()()会った母の匂いと感触に、いつまでもそのままでいたかったが、ガタンと大きな音がしたと同時に響き渡った怒声に我に返った。

 

「オイ、コラァッ!! 水ッ、水もねぇのか、この家はッ!!」

 

 

 

 

 物心ついた頃には、父・コスタスは恐怖と嫌悪の存在だった。

 まともであった姿など見たこともない。

 

 いつも安酒をあおり、始終文句を言い、少しでも目が合えば蹴られるか、殴られる。

 

 まだ赤ん坊だったマリーですらも、ただ泣き声がうるさいという理由で掴み上げ、放り投げられたこともあった。床に叩きつけられる前にオヅマはどうにか妹を抱きとめたが、その時に背中の上部に火傷を負った。

 

 (かまど)の火が背を灼く痛みに悲鳴を上げたオヅマを見て、コスタスは(わら)った。

 悲鳴を聞きつけた鍛冶屋の親爺が止めなかったら、そのまま頭を(かまど)に突っ込まれていたのかもしれない。

 

 それでもミーナはコスタスと別れることなどできなかった。

 

 この世界において、妻から夫に対して離縁を申し出ることなど許されていなかった。

 それは貴族ですらもそうであったのだから、小作人の妻でしかないミーナがコスタスと別れることなどできるはずもない。 

 

 その夫がたとえ暴力と暴言しか家族に与えない化け物のような存在であったとしても。

 

 周囲の人間も、とんでもない夫を持ったものだと、ミーナの運の悪さに同情はしても、助けてはくれなかった。

 それはオヅマやマリーに対してもそうだった。

 妻が夫の従属物であるのと同様に、何ならそれ以上に、子供は親のモノだった。

 

 オヅマは父の怒声を聞いて、ハッと顔を上げた。

 

 視線の端に、チラと藍色の(ヒタキ)の絵板が見えた。

 新年に神殿で配られるその板には、その年を表す瑞鳥(ずいちょう)が描かれている。

 

 藍鶲(ランオウ)の年…そして、今日は……?

 

「母さん! 今日は大帝生誕月の満月の日だった?」

 

 大帝生誕月 ―― それはパルスナ帝国を創った初代皇帝エドヴァルドの生誕を祝うもので、冬の終わりに近いこの生誕月はかの人の功績に感謝して、軽いお祭りが続くのだ。

 

 オヅマは泣いた跡が頬に残っていたが、既に感傷的な気分は吹っ飛んでいた。

 

 真剣な顔で尋ねてくる息子に、ミーナは少し戸惑った。

 

「え…いいえ。満月は明日よ…」

 

 その言葉にオヅマはひとまずホッと胸をなでおろす。

 ミーナはどうしたのかと再度尋ねようとしたが、またコスタスの怒鳴り声が響く。

 

「テメェらッ! どこに行きやがった!?」

「…い、今行くわ!」

 

 ミーナは呆然としたオヅマの両手をギュッと握りしめた後、涙が乾いた頬に軽くキスして、父の元へと向かっていった。

 

「………お兄ちゃん」

 

 マリーが心細そうにオヅマの服の(すそ)をつまんだ。

 赤ん坊の頃から父の怒鳴り声と母の悲鳴の中で育ってきたマリーにとって、父は恐怖でしかない。

 

 オヅマはマリーの頭を撫でると、笑いかけた。

 

「水汲みに行こう」

 

 

 

 藍鶲(ランオウ)の年、大帝生誕月の満月の日。

 

 その日はオヅマにとって一つの選択肢が示される日だった。

 

 この日に、母は父を殺す。

 そうして逮捕されて、絞首刑になってしまうのだ。

 



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第二話 前編 起こりうる夢

申し訳ありません。このエピソードはカクヨム等には掲載していたのですが、こちらにおいて抜けていました。本当にすみません。


 その日。

 父は不機嫌だった。

 

 いつも不機嫌で傍若無人であるが、その日は特に不機嫌だった。

 それはお金がなくて、酒場に飲みに行けなかったから…という、とても簡単でくだらない理由だった。

 

 満月の日は大帝生誕節のクライマックスとなる日だ。

 

 それまでは各自の家々で小さなパーティーなどが開かれたり、貧しい家であっても大帝を(まつ)って祈りを捧げたりしていたのが、満月の日ともなれば、村の中央の広場に夜は禁止されている露店が立ち並び、燃え盛る焚き火の周辺で踊りを踊ったり、酒を酌み交わして大騒ぎする。

 

 だがそんな祭りを楽しめるのは、あくまでお金を持っている人間だけ。

 

 当然ながらコスタスはほとんど働かなかったので、家族の収入はミーナが夫に代わって小作人として働き、農閑期(のうかんき)には針子の内職や、臨時の下女としてかろうじてもらえる僅かな給金しかなかった。

 

 コスタスはその僅かなお金ですらもミーナから奪い取って酒代に変えていたが、とうとうその日は金が底をついた。

 夕食は隣からもらった芽の出た芋をつぶして焼いたものだけだった。

 

 一本だけの蝋燭の灯りが、闇をより深くさせていた。

 

「ケッ! シケた面を並べやがってよ…!」

 

 この月が始まってからというもの、ほぼ毎日のように飲み歩いていたコスタスは、よりによって祭りが最高潮を迎える今日の夜になってどこにも行けないことに、相当鬱屈がたまっていたのだろう。

 

 皿をミーナに向かって投げつけ、水の入ったコップでオヅマを殴った。

 陶器でできた分厚い丈夫なコップは、それでもしょっちゅうコスタスによって床に落とされていたので、飲み口の一箇所が欠けていた。

 

 その欠けた部分がちょうどオヅマの額に当たってザクリと切りつける。

 同時に水をかぶって、オヅマの顔は血だらけになってしまった。

 

 暗い部屋で息子が傷つけられた姿を見て、ミーナはとうとう我慢できなかったのだろうか。

 

 その場に転がっていた太いめん棒で、コスタスを(なぐ)った。

 

 後になって、どうしてこんなところにめん棒があったのかと問われたオヅマは、これでコスタスが母や自分をしょっちゅう(なぐ)っていたので、台所ではなく部屋の隅に転がっていたのだと証言した。

 コスタスの暴力が常態化していたことを知らせたかったのだが、結局、その証言が顧慮されることはなかった。

 

 ミーナは自分がよくそれで撲られていたので、自分が撲ったぐらいでは死ぬはずがないと思っていたのかもしれない。

 だが、この時ミーナが夫の頭に打ち下ろしためん棒は正確に脳天を直撃して、コスタスはそのまま倒れてしまった。

 

 泡を吹いて白目を剥いた夫を、ミーナはおそるおそる見つめていた。

 

 コスタスがこのまま気を失って倒れていればよかったのだが、このとんでもないロクデナシと結婚したミーナにとって最も運の悪いことに、この男は意識を取り戻したのだ。

 

「うー……っつ…」

 

 獣のような唸り声を上げて起き上がりかけた夫の額に、ミーナは渾身(こんしん)の力で再びめん棒を振り下ろした。

 

 もはやミーナには恐怖しかなかった。

 

 このまま夫が目を覚ませば、反撃した自分に黙ってはいまい。

 今まで以上にひどい目に遭わされる。

 自分だけならいいが、子供にまで手を出すだろう。

 

 ミーナは必死にめん棒でコスタスを撲り続けた。

 そうしなければ自分も子供達も殺されると思った。

 オヅマが何度も自分を呼ぶ声も、聞こえなかった。

 

 オヅマは妹を抱え、外へ向かって助けを呼んだ。

 

「お願い! お願いだ! 母さんを止めて!!」

 

 祭りで浮き立っていた人々の何人かが気付いて、あわててオヅマの家に入った。

 そこでほとんど顔の潰されたコスタスと、その上で馬乗りになって血まみれのめん棒を握ったミーナを見つける。

 

 ミーナは即時に保安衛士(ほあんえじ)によって逮捕された。

 一応、裁判は開かれたものの、夫を殺した妻が許されるわけもない。

 

 有罪を言い渡された翌日には絞首刑に処された。

 

 

 処刑の前日、ミーナはオヅマに言った。

 

「オヅマ…マリー…ごめんなさい。守ってあげられなくて…あなた達にひどいものを見せてしまって……ごめんなさい。お母さんがいなくなったら、帝都(キエル=ヤーヴェ)に行きなさい。ガルデンティアのお屋敷へ。オヅマ…きっと、あなたを迎えてくれるはず」

 

 ミーナは三日間絞首台の上にぶら下げられ、鴉や鷲などの鳥に無残に突つかれた後、埋葬することも許されず、他の病死した囚人達と一緒に火葬された。

 

 オヅマはその煙がなくなるまで見届けた後、ミーナに言われた通り帝都・キエル=ヤーヴェへと向かった。…………

 

 

 

 

 …………というのが、オヅマの記憶に残る()の話だ。

 

 だが、オヅマには奇妙な確信があった。

 

 この夢はこれから起こる……()()()()()ことだ。

 

 

 その日、オヅマは水汲みを自分の家だけでなく、周辺の家の分までしてあげた。

 無論、お駄賃のためだ。

 その日は祭り気分であったので、皆、快くオヅマの頑張りを認めた。

 

 たった十歳の子供が、大人の足でも半刻*1近くかかる沢の水を汲んで運ぶのが、相当に大変であるのは、皆それぞれに経験してきたことなので十分にわかってくれる。

 

 その上で、村で唯一の雑貨店であるハロド商会で荷下ろしの人足が足りないというので、これも手伝った。

 子供が大きな荷物を運ぶのは難しかったが、その分、軽くて小さな荷物を何度も何度も往復して、一生懸命に走り回った。

 やはり祭りの日であったので、商人の気前も良かったようだ。

 

「よく頑張ったな」

と、数枚の銅貨と一緒に飴までくれた。

 

 夕暮れ近くに帰ってきたオヅマを、ミーナは家に入る前に呼び止めた。

 

「オヅマ…頑張ってきたのね。いいから、マリーと一緒にお祭りに行ってらっしゃい」

 

 ひそひそ声で話すのは、家にいるコスタスに聞かれないためだった。

 ミーナはオヅマが祭りで遊びたいがために、今日一日頑張ったのだと思ったのだろう。

 マリーはミーナの後ろから、期待に満ちた眼差しでオヅマを見ていた。楽しみにしている妹に申し訳なく思いながら、オヅマは尋ねた。

 

「父さんは?」

「寝ているわ。でも、もうすぐ起きてきそう…さ、早く行って…」

 

 しかしオヅマは首を振った。祭りへと送ろうとするミーナの手に、さっき買ったばかりのライ麦パンの袋を渡す。

 

「はい、これ。いいから…俺は祭りに行くつもりはないから」

 

 ミーナはキョトンとしてオヅマを見た。

「えぇー!?」と不満の声を上げるマリーを無視して、オヅマは家に入ると、部屋の奥にあるベッドの上で眠る父を確認する。

 

 油断なく辺りを見回した。

 

 ()だとそれは部屋の隅、暖炉横の薪入(まきい)れのそばに転がっていて、やはり()の通りそこにあった。

 

 オヅマは背後の父から(いびき)が周期的に聞こえてくるのを確認すると、そっとめん棒を取り上げた。

 すぐさま、戸棚の抽斗(ひきだし)にしまい込んで、ホッと胸を撫で下ろす。

 

 これで―――少なくとも衝動的に母が父を殺すことはなくなるはずだ。

 

 それからむくれたマリーにもらった飴を与え、母の手伝いをして過ごしていると、大きな(しわぶ)きが聞こえてくる。

 父が目を覚ましたようだ。

 

 母の顔が引き締まり、マリーは飴を持ったまま母のスカートを握りしめた。

 

 オヅマはゴクリと唾を飲み込んだ。

 水甕(みずがめ)から水をコップに注ぐと、父へと持っていく。

 

「……ようやく気が利くようになってきたじゃねぇか」

 

 父の口臭に嘔吐感を催しながらも、オヅマはこれからの事態の予測ができず、緊張で顔が強張った。

 父が水を飲み干した後で、オヅマはおもむろに話しかけた。

 

「アルシさんの店で、今日限定の麦酒(ビール)が出るらしいよ」

 

 父はジロリとオヅマを睨みつけると、()()コップでオヅマの頭を殴りつけた。

 欠けた部分がオヅマの額をザクリと切りつける。

 

「オヅマっ!」

 

 ミーナが悲鳴を上げてこちらに来る前に、オヅマはよろけて尻もちをついた。

 ポケットから銅貨が数枚こぼれ落ちた。

 

「ほぅ…これはこれは」

 

 父の顔に笑みが浮かぶ。

 ドスンドスンと近寄ってきて、オヅマを上から睥睨(へいげい)すると、

 

「わざわざ俺のために稼いでくるとは、できた息子じゃねぇか」

 

と、喜色満面で落ちた銅貨を拾い上げた。

 

 その上で手を出してくる。

 

「まだあんだったら、出せ」

「………」

「なんだぁ? その顔は? 親を睨みやがって…」

 

 コスタスが手を振り上げると、ミーナが泣きそうな声で止めた。

 

「やめて! 今日、オヅマは一生懸命働いてきたのよ!」

 

 オヅマは切られた額を押さえながら、自分を(かば)う母の腕をしっかりと掴んだ。

 それ以上、何も言わないでほしい…。

 

 ポケットに手を突っ込むと、残りの銅貨を全て出した。

 

「これで全部だよ。本当だ」

 

 言いながら立ち上がってジャンプする。

 きしむ床音以外、何もしない。

 

 コスタスはフンと鼻息をつくと、銅貨を自分のポケットにつっこんで家から出て行った。

 

 ミーナはコスタスの姿がすっかり見えなくなってから、オヅマに近付いた。

 

「大丈夫? オヅマ……一体、どうしたの?」

 

 今朝からオヅマは少しおかしい。

 

「いいや、何もないよ。ここにいるより、酒場にいた方が父さんは嬉しいだろ?」

 

 えらく大人びたことを言う息子に違和感を持ちつつも、ミーナはとりあえず手拭(てぬぐ)いをオヅマの傷口に押し当てた。

 

「俺らも食べようよ。さっきのパン…干しブドウが入ってるんだよ」

「やったー。干しブドウのパンだぁ」

 

 マリーが嬉しそうに叫ぶ。

 ミーナは微笑み、オヅマは手拭い越しに額の傷口を押さえながら、とりあえず()を回避したことに安堵した。

 

 その夜は親子三人の平和な夕食だった。

 

「ありがとう、オヅマ」

 

 ミーナはそう言って、幼い頃のように息子の頭を撫でた。

 少し気恥ずかしそうにしながらも、オヅマは心底嬉しそうに笑った。

 

 

*1
約三十分



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第二話 後編 領府・レーゲンブルトへの道

 ()が本当に夢になったのだとわかったのは、翌朝のことだった。

 

 ミーナに叩き起こされたオヅマは、父が死んだと伝えられた。

 

「誰に? 母さんじゃないよね!!」

 

 思わず尋ねてしまってから、不思議そうに首をかしげる母の姿が昨日までと変わりないのを見て、深呼吸して気を落ち着ける。

 

「どうして? 本当に?」

 

 問いかけると、ミーナは俯いて答えた。

 

「用水路に落ちて…酔っ払って足を踏み外したんだろう…って」

 

 父が飲んだくれて家に帰ってこないのはしょっちゅうだった。

 多くは飲み仲間の家にそのまま泊まり込んだが、昨日は珍しく飲み仲間の誘いを断って家に帰ろうとしていたらしい。

 

「オヅマよぅ……お前が一生懸命働いてたんだぞ…って、クノスの親爺から怒られてよぅ…アイツ…アイツ…アイツなりに情けなくなったんだ。白けちまって…それで、家に帰るってよぅ……」

 

 飲み仲間の一人であるテルホは赤くなった鼻を擦りながら、しんみり言ったが、その吐息は酒臭かった。

 

 オヅマは特に何も思わなかった。

 父が改心したとは思えないし、単純に自業自得で死んだに過ぎない。

 

 とりあえず、母が父を殺して絞首刑に処される()は消えたのだ。

 

 

 だが、悪夢の全てがなくなったわけでないのは、父の葬儀の翌朝に、母の提案を聞いたときだった。

 

「お父さんも亡くなってしまって…もう小作人はできないわ」

 

 あくまでもこの土地で小作人であったのは父だった。

 母は代理で手伝っていた…という(てい)になる。

 

 妻が夫の職業を継ぐことはできなかった。

 父の小作分は新たな人がもらうか、今いる人々で分けるかされるのだ。

 

 オヅマが成人していれば後を継ぐことは可能であったが、十歳では何の労働力の足しにもならぬ…とみなされ、成人まで待ってくれることもない。

 農作は毎年あるのだから、そんな悠長なことは言ってられないのだ。

 

「ここにはいられない。皆で帝都(キエル=ヤーヴェ)に行きましょう。あそこならば…伝手(つて)があるの」

 

 そう言う母の暗い顔を見た時に、オヅマは身震いした。

 反対に喜んだのはマリーだった。

 

「わぁ! 帝都に行ったら、毎日干しぶどうのパンが食べられるのかしら?」

「そうね。きっと…くださると思うわ」

 

 まるで誰かから何かを与えてもらえるかのような口振りだ。

 オヅマはその『誰か』がわからないのに、はっきりと恐怖していた。

 

 ミーナはオヅマをじっと見つめて言った。

 

「今度こそ…真実(ほんとう)だとわかって下さる。きっと…」

「駄目だ!」

 

 オヅマは大声で怒鳴るように叫ぶと、立ち上がった。

 

「オヅマ?」

「お兄ちゃん? どうしたの?」

 

 マリーはめずらしく怒っているように見える兄に怯えた。

 やっと父がいなくなったのに、今度は兄が父のように自分を(なぐ)ったりするのだろうか…と、長年の染み付いた恐怖が離れない。

 

「俺は、行かない! 絶対、行かない!!」

「オヅマ……わかって頂戴」

「駄目なんだよ! 行ったって、不幸になるだけだ!!」

 

 それ以上、ミーナの説得を聞かずにオヅマは飛び出した。

 

 

 村外れの丘の上まで来て、立ち止まる。

 

 振り返れば故郷の小さな村。

 まだ春浅い、雪の残る帝国の北の果ての村。

 

 絢爛たる帝都に比べてなんとわびしい村だろう。

 それなのに郷愁は、故郷を美しくあどけなく見せる。

 

 オヅマは首を振った。

 

 自分の気持ちがおかしくなりそうだった。

 こんな気持ちは自分にはない。ないはずなのに、胸の奥は泣きそうに震えている。

 

「…………」

 

 息を整えながら、オヅマは必死に考えた。

 

 このままでは駄目だ。

 このままではミーナはオヅマとマリーを連れて帝都に行ってしまう。

 

 そうしてきっと、ガルデンティアの屋敷へ向かう。

 そこで働かせてもらうか、働き口を紹介してもらうために。

 

 オヅマの脳裏には、帝都の様子も、重厚で壮麗なガルデンティアの屋敷もはっきりと浮かび上がった。

 

 ……行ったことなどないはずなのに。

 

 そうして次々に苦しい記憶が欠片となって閃き、その中には、マリーの死が見える。

 

「駄目だ…駄目だ…」

 

 オヅマは何度もつぶやいた。

 ぐるぐると考えが回る。

 

 とにかく帝都に行かないようにしなければならない。

 だが、親子三人で暮らしていかねばならない。

 その為には働く場所を見つけなければならない。

 

 この小さな村での働き口は限られている。

 オヅマが父の酒代を稼いだ時のように、時折、お駄賃程度のことであれば人手を必要とされるが、恒常的に働かせてもらえる場は村にはなかった。

 まして、この場合の働き手はオヅマではなく女であるミーナなのだ。

 

 オヅマは嘆息して、眼下の村をもう一度眺めた。

 

 グルリと村を囲む壁はところどころ崩れている。

 ここは昔、北東部にあった群国との戦争の前線基地だった。

 

 オヅマのいる小高い丘のような場所も元はその基地の要塞であったらしいが、帝国の治世が落ち着くに従って要塞の必要性がなくなり、むしろ反抗勢力の拠点になるなどの不安要素があるとして取り壊され、もはや跡形もない。

 

 村からは二つの道が続いていた。

 

 一つは、北の森へと続く道。

 一つは帝都へと続く道。

 

 帝都への道は、狭い山道を下って麓に辿り着くと、なだらかな丘陵の途中でその道は枝分かれし、領主館のある町へと続いている。

 

 帝都に行かないならば、領府・レーゲンブルトに行くしかない。

 

 あそこならば村よりは働き口は見つかりやすいだろう。

 だが、ミーナを説得するには『行けば何とかなる!』では弱い。

 帝都に行けば、既に就職先として有力視される場所が確実にあるのだから。

 

 つまりミーナに働いてもらう場所を用意する必要があるのだ。

 

 だがオヅマはレーゲンブルトに行ったことがなかった。

 ミーナもそうであろう。何一つとして伝手はない。

 

 オヅマがレーゲンブルトについて思い浮かぶのは領主のことだけだった。

 

 現レーゲンブルト領主のヴァルナル・クランツ男爵は、グレヴィリウス公爵の配下で元々は公爵家の騎士の一人だったという。

 

 南部の部族紛争などで武功を認められ、騎士団長に昇格した後、公爵の領地の一部を分け与えられた。

 それがこの北部地域のサフェナと呼ばれる一帯である。

 

 その後、領主としての格式に見合うように男爵位を送られたらしい。

 

 決して肥沃な土地とはいえないサフェナにおいて、寒さに強い作物を探したり改良したりして積極的に農業政策を指導し、今では他地域にも出荷できるほどにしたクランツ男爵の領民からの人望は厚かった。

 

 他の領主などのように搾取して私腹を肥やすこともなく、浪費にはしることもない。極めて堅実で実直な人柄と噂されている。

 

 だが、それでも武人である。

 今でも朝晩の遠駆や、騎士としての修練を怠ることはないのだという。

 

 オヅマの頭の中でいくつものピースが高速に行き交った。

 そうして一つの答えが浮かび上がる。

 

「よし!」

 

 オヅマは気合を入れると、丘を上ってきた道と反対側に降りていった。

 

 

 

 

「お願いします!」

 

 ヴァルナル・クランツは三日ぶりの演習から帰ってきて、奇妙な光景に遭遇していた。

 

 自分の屋敷の門の前で、門番に深く頭を下げている少年。

 

 緩やかな坂道の畝の上、馬上のヴァルナルから彼らの姿は遠く見えていたが、まだあちらは気付いていない。

 

「パシリコ、あれは何だ?」

 

 斜め後ろについてきた部下に尋ねると、パシリコ・ライル卿はヴァルナルの隣に馬を寄せて短く答えた。

 

「少年と門番のジョスです」

「それはわかってる。何をしているんだ?」

「もう少し近付けば判明するでしょう」

 

 鹿爪らしい顔ですげなく答える部下を見て、ヴァルナルは軽く嘆息する。

 

 十歳年上の歴戦の勇士であるが、武人とはこうあるべきだ! という姿を見事に体現していて、余計なことは一切言うこともなく、当然ながら軽口を叩いたことなど一度もない。

 

「追い払いますか?」

 

 ヴァルナルの気持ちを斟酌して申し出たのは、もう一人の副官であるカール・ベントソン卿だったが、ヨゼフは肩を竦めると「(いや)」と答えた。

 

「とりあえず行ってみよう。但し、油断するな」

 

 ヴァルナルがそう言ったのは、まだ少年とはいえ時に敵方が小さな暗殺者を寄越すことを経験していたせいもある。

 

 もっとも、この領地において()というのは基本存在するはずもないのだが。

 

「お願いします! ご領主様にお取次ぎして下さい! 話を聞いてもらえば、きっと喜ばれるはずなんです!!」

 

 まだ声変わりする前の少年の甲高い声がハッキリと言うのが聞こえて、ヴァルナルはフンと鼻で嗤った。

 

 随分と大言壮語するではないか。この私が喜ぶと確信しているとは…。

 

 馬の嘶きに少年はハッとした様子でこちらを向いた。

 当数の騎馬が道を埋め尽くしていることに驚いているようだ。

 

 それは領主館の老門番であるジョスも同様であった。

 

「お、おお…お…ご領主様、お帰りなさいまし」

 

 あわてて出迎えてペコリと頭を下げてくる。

 

「ご苦労。で、その少年は?」

「は…はぁ…いきなり来てご領主様に会わせろと…かれこれ一刻(いっとき)*1以上」

「なかなか粘るな」

 

 ヴァルナルは馬から降りると、少年の前に立った。

 少年は驚いて固まっているようだった。

 

 薄汚れた亜麻色の髪に、浅黒い膚は西方の民の血が混ざっているのだろうか。

 淡い紫のライラック色の瞳が印象的だった。

 

(ひざまず)け!」

 

 カールが怒鳴りつけると、少年はあわてて膝を折り地面に頭をつけた。

 

「名は?」

 

 ヴァルナルが問いかけると、少年は平伏したままハッキリと答えた。

 

「オヅマです!」

「オヅマ…姓は持たぬか?」

「はい! ラディケ村から来ました!」

「……歩いてか?」

「はい! あ、いや…走って来ました!」

「村を出たのはいつだ?」

 

 オヅマはその質問の意図をはかりかねたのか、一瞬だけチラリとヴァルナルの方を見た。

 すかさずカールが怒鳴りつける。

 

「すぐに答えろ! 小僧!!」

「えっと……金五ツ刻(きんいつつ)*2の鐘の後だったと思うけど…」

「ほぉ…」

 

 ヴァルナルはニヤリと笑う。

 

 埃っぽい赤銅色の髪を掻き上げてから、思案するように髭の伸びた顎をボリボリと掻いた。

 パシリコとカールは互いに目配せする。

 これはヴァルナルが興味を持ったことを示す行動だった。

 

 その理由は明白だった。

 

 ラディケ村は馬で走れば三刻(みとき)*3ほどで辿り着く場所ではあるが、徒歩となれば険しい山道を通って、いくつもの丘陵を越えねばならず、大人の足でも半日はかかる。

 

 まして今は多少暖かくなってきたとはいえ、まだ山道には雪の残る季節だ。

 金五ツ刻(きんいつつとき)きっかりに出たとしても、普通であればこの時間には到着などしていないはずだ。

 しかも子供の足で。

 

「ジョス、この小僧がここに来たのはいつだ?」

 

 ヴァルナルが問うと、老門番はしばらく宙を見てから、

 

「太陽がまだこの辺りにあった頃にございます」

と、ほぼ頭の上を指差す。

 

 ヴァルナルはもう一度オヅマを見下ろした。

 

「ラディケ村のオヅマ、もう一度聞くぞ」

「はい」

「ここには走ってきたのか? 嘘をつくなよ。騎士に嘘をつけば、その首が飛ぶぞ」

「嘘じゃありません!」

 

 オヅマは思わず顔を上げて、ヴァルナルをじっと見つめた。

 口元は少し笑みを浮かべていたが、グレーの瞳は厳しくオヅマの様子を窺っていた。

 

「商人の荷馬車にでも乗せてもらって来たのではないのか?」

 

 カールが嘲るように言うと、オヅマはキッとその金髪の騎士を睨みつけた。

 

「嘘をつくなと言うから本当のことを言ってるんだ! ここに来るまで、ずっと走ってきた!! 止まったのは、途中で小川の水を飲んだ時だけだ」

 

 この時、オヅマはヴァルナルが自分を品定めしていることに気付いていなかった。

 

 生まれてこの方ラディケ村から出たこともないオヅマには、ラディケ村からレーゲンブルトまでの距離や時間がどれほどかかるかなど知りようもなかったのだ。

 

「いいだろう。ラディケ村のオヅマ。話を聞いてやる」

 

 ヴァルナルはそれでもさほどに期待していなかった。

 言っても子供の言うことである。大したことではあるまい。

 

「馬です」

 

 いきなりオヅマは言った。

 

 その場にいた大人達は首を傾げる。

 

「馬がいます。ヘルミ山の裏崖に。とてもいい馬ばかりです」

 

 そこはかとない自信を漂わせて言うオヅマに、ヴァルナルは鋭い視線を向けた。

 

「お前は…騎士にとって馬がどういうものかわかっていて言っているんだろうな?」

 

 それまで柔和だったヴァルナルが一気に騎士として豹変したのを目の当たりにして、オヅマは気圧されそうになった。

 

 ゴクリと唾を飲み込んで、必死でヴァルナルの視線を見返した。

 

「わかっているかどうかは…実際にご覧になってみて下さい」

「………」

 

 ヴァルナルは静かにオヅマを見据えていたが、内心で目の前の少年の度胸に少々驚いていた。

 

 見たところ八、九歳ほどに見えるが、年不相応に落ち着いた様子からすると、あるいはもう少し年をとっているのかもしれない。

 十分に食べられず、痩せて成長が遅い可能性もある。

 

「それで? お前の望みは?」

「へ?」

「私に馬のことを教えるのは、見返りを得るためだろう?」

「それは…」

 

 オヅマは言い淀み、首を振った。

 

「馬を見てもらって、納得されたら…願いをお聞き下さい」

「ほぉ…納得しない場合はどうする?」

「その時は仕方ないです」

 

 ヴァルナルはますます面白かった。

 なかなかに頭のいい少年だと思った。

 

 ここで願いを言って、それがヴァルナルにとってつまらなかったり、到底聞き入れることのできないことであれば、馬のことも興味をなくす可能性がある。

 

 あくまでも馬についての情報に集中させて、より期待値を上げている。

 その上で願いを聞き入れることも事前に了承させているわけだ。

 

 無論、この場合重要なのはヴァルナルが()()()()()()()()()()()()()()()が前提であるわけだが。

 

「もし、私が嘘を言ったらどうする?」

「はい?」

「お前が教えてくれた馬を見て、心の中では納得していても、私が嘘をついて要求を聞き入れないことも有り得るだろう?」

「そんなことはないと思ったから、ここまで来ました」

 

 オヅマは深く考えずに答えた。

 そこについてはあまり心配していなかった。

 

 クランツ男爵の噂については村でも時々聞いているが、そうした卑怯な行為を行うような人ではない。

 

 それにここに来るまでの間に、クランツ男爵のことを考えていたら、また()を思い出したのだ。

 

 ()の中でオヅマはただ黙って立っているだけだったのだが、その前で二人の人間が話していた。

 彼らはグレヴィリウス公爵がまだ幼い頃に、彼を身を挺して庇い命を落とした騎士について話していた。

 

 その騎士の名前はヴァルナル・クランツ。

 

 会話の細部まで思い出すことはできなかったが、その二人は卑しい笑みを浮かべて殉職したクランツ男爵について語っていた。

 

 ()の中のオヅマは顔には出さなかったが、その二人のことを忌み嫌っていたので、彼らが悪し様に話すクランツ男爵は非常に高潔な人間であったのだろうと……

 感情の記憶だけが生々しく残っている。………

 

「私を信頼するのか?」

「はい、信頼しています!」

 

 ヴァルナルは大笑いした。

 本当にいい度胸だ。見ていて気持ちがいい。

 

「いいだろう、オヅマ。明日、ヘルミ山に向かう。お前は案内しろ」

 

 

*1
1時間

*2
およそ午前9時頃

*3
3時間



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第三話 ヘルミ山の黒角馬

 ヘルミ山の黒角馬(くろつのうま)

 

 そのことを思い出したのは、武人であるクランツ男爵に取り入るための材料を頭の中で必死で考えているときだった。

 

 ふっと、帝都でその馬に騎乗した軍団が行進する光景が浮かび、それを群衆の中で見ていた()を思い出す。

 

 その馬は数年前に発見され、調教の末に皇軍の第一・二騎士団に配されたらしい…と誰かが訳知り顔に話しているのを、()の中でオヅマはぼんやり聞いていた。

 

 興味がないようだった。

 だが、今のオヅマにとって、それはとても重要な情報だった。

 

 オヅマは何度かヘルミ山に行ったことがあった。

 そこにはいくつかの貴重な薬草が生えていて、年をとって取りにいけなくなった薬師のお婆さんに採取を頼まれたからだ。

 

 その時に何度かこの一風変わった馬の群れを見ていた。

 角があるのは基本的には雄であるようだった。

 

 黒い捻れた角が左右に一本ずつ生えていて、毛並みは白や黒葦毛が多かった。

 馬といえば多くは栗毛だったが、不思議とこの黒角馬に関して栗毛を見たことはなかった。

 

 角以外に特徴的なのが縮れた長い(たてがみ)だった。

 首を覆うほどに長く、毛量も多い。

 

 これは山羊(ヤギ)からの血統なのだろうか。

 お婆さんによると、おそらく大昔に山に棲んでいた古代種の山羊と野生馬が交雑したのだろうとの話であったが、正確なところはわからない。

 

 古代種の山羊はとうの昔に姿を消したが、相当に大きかったというから有り得ない話でもない。

 

 いずれにしろオヅマにとって、その馬は多少風変わりなだけの馬であったのだが、おそらくそのうちに価値を見出す人間が現れ、この馬は軍馬として珍重されることになるのだろう。

 だが今はまだ誰もその価値に気付いていない。

 

 不思議なことに、あれは()なのだと思いつつ、それが()()()()()()()なのだという確信がオヅマにはあった。(そう。父の時と同じように…)

 

 であればこそ、丘の上で思い立ってそのままここまでやって来てしまったのだ。

 

 途中で村の大工のおじさんに会ったので、母への伝言は頼んでおいたのだが、きっと心配しているだろう。

 マリーを連れてここまで来ることはないだろうが、一言、話しておくべきだったかもしれない。

 

 急に心細くなって身を縮めていると、バタンとドアが乱暴に開いた。

 

「おい、メシだぞ」

 

 騎士にしては柔和な印象の、けれど額に生々しい傷跡のある男は、持ってきたスープ皿とパンを無造作に机に置く。

 

 少しだけスープが零れたのをオヅマは勿体なく思いつつ、おずおずと椅子に座った。

 

 ヴァルナルはオヅマを一応、小さな珍客として扱うように部下に命じたらしい。

 

 とりあえずオヅマは兵舎の物置小屋の一隅に案内され、家では考えられないような暖かそうな毛布と、やや埃っぽいもののシミひとつないシーツに覆われたベッドの上で寝るように指示された。

 

 オヅマの家全部よりも広いその物置小屋には、使わなくなった家具などが白い布に覆われて置かれていたり、古びた甲冑が並んでいたりした。

 

 オヅマはこんないい部屋に宿泊させてもらえることに、心底驚き、感謝した。

 マリーがここに来たら、隙間風が一切吹いてこない室内で喜び踊ることだろう。 

 

 今だって目の前に置かれたパンとスープを見て、オヅマは目を丸くする。

 

「あ、あの…これ…」

「なんだよ。文句言わずにとっとと食え」

「食べていいの?! 本当に?」

 

 思わず声が大きくなったオヅマを、男は訝しげに見た。

 

「お…あぁ……食え」

 

 オヅマはスプーンを取ると、スープに浮かんでいた茶色の欠片を掬って、おそるおそる口に運んだ。

 噛みしめて、ジュワリと溢れた肉の味に感動した。

 

「に、肉だぁ」

「は?」

 

 男はポカンとオヅマを見た。

 ゆっくりと食べて肉を飲み込むと、今度はオレンジ色の人参の欠片を食べる。

 

 それからパンを千切れば、外は固いが中はほんわりと柔らかい。

 必死になって咀嚼せずとも、パンがするすると飲み込めてしまう。

 

 半分まで食べたところで、オヅマは男に尋ねた。

 

「あの、このパンって持って帰っちゃ駄目かな?」

「あぁ? 持って帰ってどうするんだ?」

「妹に食べさせてやりたいんだ。こんな柔らかいパン初めてだから」

 

 男は唖然となると、深い溜息をついて目を閉じた。

 眉間を揉んでから、厳しい顔になってオヅマに言った。

 

「いいから、そのパンは食え。妹には明日焼いたのを持たせてやるから」

「本当? 本当に!?」

「あぁ。ちゃんと食って、明日には領主様をヘルミ山まで案内しろ」

「ありがとう!」

 

 オヅマは大きな声で礼を言うと、また一匙スープをすくう。

 このスープもまた、じゃがいもやブロッコリーなど大きな具がゴロゴロ入っている上に、汁そのものがしっかりと塩気があっておいしかった。

 

 男はしばらく立ったままでオヅマの様子を見ていたが、軽く溜息をつくとオヅマの寝る予定のベッドに腰掛けた。

 

「にしても…ヘルミ山に馬なんぞ本当にいるのか? お前、嘘だったら大変なことになるぞ」

「嘘なんてついてないよ。わざわざ領主様のところまで来て、嘘を言う理由ってなに?」

「しかしあんな何にもないところに…」

 

 男が言うのも無理はなかった。

 

 ヘルミ山はラディケ村から続く北の森を北西に抜けた先にある。

 年間通じて山頂から吹き下ろされる冷たく強い風によって、木々は大きく育たず、低灌木と岩の間にへばりつくような草がわずかに芽吹く程度だった。(その厳しい環境であればこそ、効能の高い貴重な薬草が育つのだと薬師のお婆さんは言っていたが)

 

 そのため動物もあまりいない。

 不毛の地とされていた。

 

「木樵だってあの山には行かないんだぞ。薪にできるだけの木もない…って」

 

 オヅマは頷きながら、パンを一生懸命、咀嚼する。

 男は片手を上げて言った。

 

「いいから、ゆっくり食え。わざわざ返事しなくていい。……そう、それにだ。裏崖って言ったら、岩場ばっかりの場所だろう? あんな場所に馬がいるのかねぇ……」

 

 裏崖と呼ばれるのは、ラディケ村からは見えない山の北側部分。

 まだ南向きの尾根には小さな草花が咲いていたりもするが、北向きはやはり太陽の日差しがあまり届かないのか、雪解けも遅く、草花もあまり成長しないのだ。

 

「裏崖の中腹に水飲み場があるんだ。その周辺には草もわりとあるから…」

「へぇ? そんな場所があったのか?」

「岩の影に隠れてて、普通の道だと見えないんだ」

「お前はなんでそんなところがあるって知ってるんだよ?」

「薬草を探してて、偶然。でも、上から見えただけだよ。実際にそこに行ったわけじゃない」

 

 最後の一匙を飲み干して、オヅマは満足気なゲップをする。

 男はフッと笑うと、皿を持って立ち上がった。

 

「すまないな。もっと食べさせてやりたいが、もう鍋が空になってるから…食堂で一緒に食べた方が良かったかもな」

 

 オヅマはブルブルと首を振った。

 

「ぜんぜん! お腹いっぱいだよ。久しぶりだよ、こんなに食べたの。おいしかった!」

 

 男は騎士達が「まーたシチューかよぉ」と不承不承に文句を言って食べている姿を思い出し、目の前の少年に申し訳なくなった。

 

 自分だって一時はその日の食べ物を確保するのも大変な境遇だったというのに、すっかり現状に慣れてしまって、まだしも十分な食事が食べられることに感謝することを忘れてしまっていた。

 

「じゃ、よく寝ろよ」

 

 立ち去りかけた男をオヅマは呼び止めた。

 

「ありがとう! …あ! 待って。名前は?」

「……マッケネンだ」

「ありがとう、マッケネンさん」

 

 オヅマが激しく手を振るのに負けて、マッケネンは扉が閉まる直前に軽く手を上げて振り返した。

 

 食堂へと歩いていきながら、久々に遠くで暮らす弟に手紙でも書こうかと思った。

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 オヅマはマッケネンに夜明け前に起こされた。

 井戸の水で顔を洗って、マッケネンの乗る馬に一緒に乗る。

 

「よく眠れたか?」

 

 既に用意を終えたヴァルナルが馬上から尋ねてきた。

 

「はい! 毛布も暖かかったし、ごはんもおいしかったです」

「それは良かった。すまないが、朝食は朝駆けが終わってからだ。お前の言う通りにヘルミ山で馬に会えたら、食わせてやろう」

 

 そう言うと、ヴァルナルは走り出す。

 続いて騎士達が我先にと馬に鞭を当てて走り出した。

 

「しっかり掴まってろよ」

 

 マッケネンもオヅマに声をかけると、ピシリと鞭を打って走らせ始める。

 

 オヅマは初めて乗った騎士の馬に、最初は舌を噛みそうだった。

 

 今までロバや、荷馬車を引くおとなしい老馬に乗ったことはあったものの、こんなに大きくて速い馬に乗ったことはない。

 必死で(たてがみ)を掴んで振り落とされないようにするのが精一杯だったが、しばらくすると速いながらも一定のリズムがわかってきた。

 

「……慣れてきたか?」

 

 マッケネンが声をかけてきて、オヅマは一瞬だけ振り返ってニッと笑った。

 

 町を抜けて麦畑の間の道へと出る頃には、すっかり慣れていた。

 一定間隔で腹に響く振動を、なぜか()()()()()感覚があった。

 

 また、()だろうか。

 

 なんだか一昨日(おととい)に目が覚めてから、妙にべったりと絡みつく()の記憶に振り回されている気がするが、オヅマは深く考えないようにしていた。

 考えると頭が痛くなるし、どうせ何もわからない。

 

 なだらかな丘陵が続く平坦な光景が広がっていた。

 

 西の空には三日月が皓々と光り、星々もまだ夜の中で煌めいている。

 だが東の地平はうっすらと明け始めていた。

 

「総兵、止まれ!」

 

 急に鋭い声が響くと、騎士達は馬を止める。

 ヴァルナルが馬首を東に向けると、騎士達も一列に並んで東に向いた。

 

 整然と並んだ馬と、背筋を伸ばして夜明けの空に向かう騎士達の姿に、オヅマは驚き圧倒された。

 

 やがて濃紺の闇がはがれて橙と薄水色の空が東から広がっていった。

 遠くうっすら見える山の間から太陽が上り始めると、誰ともなく騎士たちは(こうべ)を垂れる。

 

 オヅマはその光景をポカンとして見ていた。

 

 彼らは無骨で屈強な騎士だというのに、なぜかとても美しく思えた。

 

「お前もちゃんと祈っておけ」

 

 マッケネンが小さな声で言ってくる。

 

「祈る?」

「ちゃんと馬が見つかりますように…ってな」

 

 オヅマはそんな心配はしていなかったが、何となく従った。

 自分も彼らの一人として、厳粛で神々しい朝の光景の中に加われると思うと、少し嬉しい気持ちにもなる。

 

 ヴァルナルが馬首を再び目的地へ向けると、騎士達も特に合図もなくまた再び走り出す。

 

 早朝でもあるので、騎士団は村の中を行進することは避けた。

 要塞跡をグルリと回って、一度帝都へと向かう道へ入ってから、側道に回り込み、北の森へと入っていった。

 

 牧童が滅多と来ることのない騎士団に目を丸くしていた。

 マッケネンと一緒に乗っていたオヅマと目が合ったので、もしかするとミーナに伝えに行ってくれるかもしれない。

 

 北の森はヴェッデンボリ山脈の(ふもと)一帯に広がる広大な森で、ヘルミ山はもっとも村に近い場所にあり、山脈の中では小さい山である。

 

 オヅマは山の中腹に来たところでマッケネンに言った。

 

「ここからは歩きでないと無理だと思うよ」

 

 マッケネンが手を上げて知らせると、ヴァルナルがこちらに向かってきた。

 

「では、案内してもらおうか」

「わかった」

 

 オヅマはぴょんと馬から飛び降りると、勝手知ったる山の獣道を進み始めた。

 

 ヴァルナルは一団の三分の一に自分と一緒についてくるように、残りは馬と待機するよう指示した。

 

 今日はまだ風はましな方であった。

 ひどい時には立って歩けないこともあるからだ。

 それでも裏崖に近づくに従って、風は冷たく強くなってきた。

 

 オヅマは先頭で岩場を時に這ったりよじ登ったりして、マッケネンに語った水場を目指していく。

 馬は移動しているので、当然見つける場所はいつも違っていたが、あの水場であればいる可能性は一番高い。

 

「……こいつはなかなか…面倒な」

 

 ブツブツと文句を言う騎士達に、副官であるパシリコが檄を飛ばした。

 

「これも訓練だぞ!」

 

 そう言われてしまうと誰も文句は言えない。

 騎士達は寒さに身を震わせながらも、必死に岩を這い登った。

 

「オヅマ、お前寒くないのか?」

 

 ヴァルナルは先頭を行くオヅマに問いかけた。

 

 ツギハギだらけのシャツとズボン、それにせいぜい防寒具といえば狸の毛皮のチョッキだけだ。

 足も底が剥がれそうなのを布切れでグルグル巻いたような粗末で萎びた革靴で、当然靴下など履いてない。

 

 見ているこっちが寒くなるくらい軽装だが、オヅマは平気な顔をして岩場を飛び跳ねていく。

 

「寒いけど、慣れてるから。それに…」

 

 オヅマは言いかけてやめた。

 

 正直、その重そうな甲冑を脱いだらもうちょっと身軽に動けるのに…と思ったのだが、甲冑は騎士にとって大事なものであろうから、下手なことを言って怒らせたくはない。

 

 大きな岩を半周して、ようやく水場の見える場所にたどり着いた。

 灌木(かんぼく)の間からそっと顔を出せば、何頭かの馬が水を飲んでいた。

 

 その中に一際目立って大きな、黒葦毛に黒い角を持った馬がいる。

 長い銀の鬣は、まるでこの地を統べる王の威容だった。

 

「……あれは」

 

 ヴァルナルはオヅマと同じように見て言葉を失った。

 

 見事な馬である。

 角がある馬など初めて見たが、隆々とした筋肉質の、今乗っている馬に比べても明らかに一回り大きい体格の馬であった。

 足は太く、蹄はガッチリと大きい。

 早さはわからないが、少なくとも重い鎧をつけた騎士を乗せてもそうそうくたびれることはないだろう。

 

「さて…どうするか」

 

 ヴァルナルは灌木の影に身を潜めて小さな声で言った。

 

「この距離で縄を飛ばしても避けられる可能性があるな」

 

 その言葉を聞いて、オヅマはホッとした。

 どうやらヴァルナルはあの馬に興味を持ってくれたようだ。

 

 副官達とコソコソと話しているのを、黙って見つめていると、ヴァルナルが悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべて言った。

 

「お前は、あの馬を手懐けることができるか?」

 

 オヅマは灌木の隙間からチラと馬を窺った。

 

 まだ、こちらには気付いていないようだ。

 この辺りは風の音が岩場に反響して、音が聞こえづらい。

 それにそもそもヘルミ山には滅多と人が来ないので、警戒心が薄いのかもしれない。

 

「できたら、領主様の館で雇ってもらえますか?」

「なに?」

「母さんと俺と、妹…妹は働けないかもしれないけど、邪魔しないようにさせます」

「……それがお前の希望なのか?」

「はい」

 

 ヴァルナルは思っていたよりも簡単な申し出に気が抜けた。

 何であればオヅマに関しては騎士団で面倒みようかとも思案していたので、むしろ有り難いくらいだ。 

 

「勝算があるなら、やってみろ」

 

 ヴァルナルは言ってみてから、自分の気持ちをはかりかねた。

 どうもこの少年には不思議な魅力がある。

 ()()()()()()と、思わせるのだ。

 

 オヅマは静かに立ち上がると、そうっと岩場に向かった。

 スゥと息を吸い込む。

 

 正直なところ、勝算などない。

 

 もし、あの馬の前に立って、角で突かれたりなんかすれば、大怪我を負うかもしれない。どうにか背に乗れたとしても、振り落とされれば岩場を転げ落ちて死ぬかもしれない。

 どっちにしろ、とんでもない難事であることは間違いない。

 

 ゆっくり歩きながら、オヅマは必死に手立てを考えた。

 

 とりあえず静かに近寄るのだ。

 あの馬の後ろの岩場に行って、飛んで、馬の背に乗る。それから角を掴んで、絶対離さないようにして……

 

 考えるうちに、また不意に()が訪れる。

 

 

 ―――――あいつらを言い聞かせるのは簡単さ…

 

 

 細かな幾何学模様が織り込まれたアイボリーの長衣…頭に巻かれた白い布から伸びた紺の髪。

 異国の格好をした男が笑う。

 ジャラリと首から垂れたネックレスが音をたてる。

 

 掌の中にある胡桃(くるみ)をゴリゴリと弄びながら、訛りのある言葉で話してくる。

 

 そう…確か、元々は、この男が黒角馬を見つけ、名付けたのだ………

 

 

 オヅマは混乱した。

 

 自分は一体、何を見て何を考えているのだろう?

 けれど足が止まらない。

 さっきまでどうしようかと悩んでいたのに、今はもう()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ヒラリと岩場からオヅマが飛び降りると、ヴァルナルは思わず立ち上がった。

 水場にいた馬達がいきなり現れた人影に驚いて(いなな)く。

 

 ほぼ同時に、オヅマは目をつけていた最も大きな黒葦毛の馬の背に乗っていた。

 馬は突然のことに驚いて、前足を大きく上げた。

 

「オヅマ!」

 

 ヴァルナルは叫んだが、オヅマは馬の角を掴むのに必死だった。

 

 ねじれた二本の角は縞のような溝があってザラザラしていた。

 一度しっかり掴めば落ちることはなさそうだ。

 

 だが馬にとっては角を持たれることこそ嫌でたまらぬであろう。

 遮二無二暴れまわって、どうにかオヅマを振り落とそうとする。

 

 オヅマはさっき馬に乗ってきて良かったと思った。三刻*1近く騎乗していたお陰で、馬の動きに対してある程度反応できる。

 

 グッと歯を食いしばって、跳ね回る馬にしがみつきながら、角と耳の間を探る。

 

 

 ―――――耳と角の間にな、毛に隠れて見えないけど、()()があるんだ。指先ぐらいの窪みさ。

 

 

 左側の耳と角の間にポッコリと窪んだその場所を見つけると、親指でグイと押し込んだ。

 馬はそれでも落ち着かない。

 右側も左と対称となっている場所辺りを探ると、やはり小さな窪みがあった。そこも親指で押さえる。

 

 

 ―――――ツボを押さえるとな、中に何かコリコリした玉みたいなのがあるんだ。それを動かすように指先でグリグリと回してやるのさ。

 

 

 夢の記憶にある男の言葉を頼りに、オヅマはとにかく指先に感じた皮下の(こぶ)のようなものをグリグリと刺激した。

 

 それを続けるうちに、黒角馬は徐々に落ち着いていった。

 

 今になって気付いたが、さっきまで赤く光っていた馬の目が、今は黒に戻っていた。どうやら興奮すると赤くなるようだ。

 馬はその大きな黒い瞳でチラとオヅマを見てから、もういいと言いたげにブルンと首を振った。

 

 オヅマは()()から指を離すと、長く伸びた銀の鬣を掴んだ。

 

 オオォとまるで狼の遠吠えのように馬が啼く。

 崖の下の方から三頭の馬が駆けてきた。

 

 三頭のうち二頭は仔馬らしく、体も小さく角がわずかに生えかけていた。

 残りの一頭は普通の馬よりやや大きい程度の大きさで、こちらは角もなく鬣もさほどに長くもない。だが、淡く光を帯びたような真珠色の毛並みが見事だった。

 この馬は(メス)なのだろう。オヅマの乗る馬に鼻をこすりつけてきた。どうやら(つがい)らしい。

 ということは、この馬達は家族だろうか?

 詳しい生態はわからないが、仔馬は一頭ずつ両親の容姿をそのままに受け継いでいる。

 

 オヅマが見上げると、ヴァルナルは満足そうな笑みを浮かべていた。

 

 まだまだ手懐けたとまではいかないが、とりあえず合図を送ってみると、よほどに()()を押したのが効いたのか、馬はオヅマの指示に従って、岩場を軽々と飛び跳ね、ヴァルナル達の待つ場所まで連れて行ってくれた。

 後ろから家族の馬達も()いてくる。

 

「……大したものだな」

 

 ヴァルナルは心底から感嘆していた。

 

 自分はもしかするととんでもない拾い物をしたかもしれない。

 

 馬と、少年と…。

 

 だが褒めるのはそこまでにしておいた。せっかくの才能の片鱗を曇らせるようなことになってはいけない。

 

「お前の家はラディケ村にあるのか?」

「はい」

「じゃあ、このまま向かおう。お前の親に会わねばならない」

「………はい!」

 

 オヅマは大きな声で返事する。

 満面の笑みはとても晴れやかで、嬉しくてたまらぬようだった。

 

 

 これでもう帝都に行く必要もない。

 

 あの()も消えてなくなるはずだ。……

 

 

*1
三時間



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第四話 騎士になるために

 忙しい朝の仕事が一段落した頃にゾロゾロと現れた領主の騎士団一行に、村の人間は皆驚いた。祭りや買い出しなどで自分達がレーゲンブルトに行くことはあっても、領主がここに来たことなどない。

 一月に一度、領主館の行政官が様子を見に来て、不都合がないかを村長に聞く程度だ。

(実のところ、ヴァルナルは何度かこの村を訪れていた。その時には行政官の下っ端役人として来たので、誰も気づかなかった)

 

 村人の動揺に、ヴァルナルはすぐさま騎士達に村の外に出て待機するように命じ、自分とパシリコはオヅマの家へと向かった。

 

 村の中心部から少しだけ離れた場所にあるオヅマの家の前では、ちょうど、朝から押しかけてきた村長のどら息子にミーナが対応しているところだった。

 

「母さん!」

 

 オヅマがヴァルナル達よりも一足先に走り寄って、声をかけると、ミーナはあわてて駆け出し、オヅマを抱きしめた。

 

「どれだけ心配したと思ってるの!」

 

 怒りながら、きつく抱きしめてくる。

 ホッとしたのか涙がこぼれ落ちた。

 

「勝手にご子息を引き留めてしまうことになり、申し訳ない。夫人」

 

 ヴァルナルが話しかけると、ミーナはハッとしたように見上げた。

 

 その領地に住んではいても、一年のほとんどを公爵の本邸か帝都で過ごす領主様の顔を見知る領民は少ない。

 

 訝しげに見るミーナに代わって、その騎士について教えたのは、背後で腰を抜かした村長のどら息子だった。

 

「ヒッ…ヒェ……りょ、領主様」

 

 ミーナはその言葉を聞き、もう一度目の前の中年男を見上げ、あわてて(ひざまづ)いた。

 

「む、息子が大変失礼を致しました! どうか…何をしたのかわかりませんが、お許し下さいませ!!」

 

 ヴァルナルは一瞬キョトンとしてから、鷹揚に笑った。

 

「いやいや。こちらは助けてもらったようなもので…ところで少しお話したいことがあるのだが、お邪魔してもよろしいだろうか?」

 

 ミーナは戸惑いつつも、とりあえず家の中に領主を案内した。

 

 どら息子は目を白黒させながら、転びながら走り去っていった。おそらく村中に領主がオヅマの家に来たことを触れ回ることだろう。

 

 オヅマは先に家の中に入ると、土間の台所と続きになった薄暗い部屋を素早く見回した。

 

「お兄ちゃん!」

 

 マリーが気付いて抱きついてきたが、オヅマは気忙しく言った。

 

「マリー。大事なお客様なんだ」

 

 せっかく帰ってきた兄の態度が素っ気なくて、マリーはプンとむくれたが、すぐに戸口からヴァルナルが姿を現すと、驚いて固まってしまった。

 

「おや、君が妹か」

 

 朗らかにヴァルナルは話しかけたが、父のせいもあってマリーは大人の男に対してとても臆病であったので、すぐにオヅマの背後に隠れた。

 

 オヅマは机の上に広げてあったどんぐりを、籠の中に殻も一緒くたに入れた。

 後ろでマリーが「あっ!」と声を上げる。

 どうやらマリーはどんぐりの皮むきをしていたらしいが、今はそれどころではない。

 

「すみません。むさ苦しいところに…」

 

 ミーナは小さい声で謝りながらヴァルナル達に椅子を勧めたが、細い骨組みで古びた椅子にヴァルナルが座れば壊れそうであった。

 

「いや。こちらには夫人がお座り下さい。私はこれで十分」

 

 ヴァルナルは丁重に断って、もうひとつの椅子――――切り出した木の椅子に腰掛けた。

 背後にパシリコがびしりと背を伸ばして立つ。

 

「単刀直入に申し上げます。私はオヅマ少年の願いを聞き入れて、あなた方を領主館で雇いたいと思っております」

 

 唐突なその申し出にミーナは目をしばたかせた。

 

「え? ……領主…館…ですか?」

「はい。昨日、オヅマ少年が私の館に来て、取引を申し出たのです」

「まぁ! 取引だなんて…」

 

 ミーナは困惑しながらも、オヅマにキッと強い視線を送ったが、その時オヅマはすっかりむくれてしまった妹の機嫌をとるので忙しかった。

 

「彼は非常にいい材料を出してきましたよ。よくも騎士である私の欲しいものを見抜いたものです。なかなか目の付け所がいい」

「はぁ…」

「とりあえず彼の出した条件として、夫人、あなたと自分と妹が領主館で働けるようにしてほしいということでした。私はそれを了承します。夫人さえよければ、是非、うちに来て働いて頂きたい」

「え……あ…」

 

 ミーナは昨日オヅマがレーゲンブルトに向かったということを村の大工から聞いて以来、驚くことばかりが続いて、すっかり動転していた。

 

「母さん、領主館の料理人はお婆さんで手伝いが欲しいらしいんだよ。さっき聞いたんだ」

 

 拗ねて隣の部屋に籠もってしまった妹のことは諦めて、オヅマはミーナを勇気づけるように言った。

 

「母さんハルケンスさんの店で時々手伝いに行ったりもするし、料理もおいしいから、絶対うってつけだよ」

 

 ミーナはオヅマをまじまじと見つめた。

 

 昨日、切羽詰まった顔で家を出て行ってから、オヅマなりに必死で母親の就職先を探してくれていたのだろうか。

 なんだか一晩見ないうちに、息子が随分と大人びた気がした。

 

 それでも少し考える時間が必要だ。

 

「あ…の…ちょっといきなりで考えることが出来なくて……」

 

 ミーナがおずおずと言うと、ヴァルナルはやさしく笑った。

 

「構いません。ゆっくりと考えて頂ければ。ただ、一つだけ」 

 

 ピシリと人差し指を一本立てて、ヴァルナルはやや語気を強めた。

 

「オヅマ少年については、是非にもこちらでお預かりしたい」

「……オヅマを?」

「彼には稀有な才能があるように思う。私の下で育成して将来的には騎士にしたいと思っています」

 

 オヅマは驚いた。

 自分はミーナと一緒に領主館で下男として雇ってもらうつもりだったからだ。

 

 けれどヴァルナルは、オヅマがラディケ村から領主館までわずか3時間ほどで走ってきたのだという話をした時から考えていたのだった。

 戦となればその俊足も、持久力も、非常に有益な能力だ。

 

 ミーナは複雑な表情になった。

 チラと息子を見ると、嬉しそうに目を輝かせて領主を見つめていた。

 

 おそらく騎士になりたいのだろう。けれど…

 

「……少し、時間を下さいませ」

 

 ミーナが頭を下げると、ヴァルナルは頷いて立ち上がった。

 

「朝の忙しい時間に面倒をかけました。館の執事には話しておきますので、心が決まったらいつでも来て下さい」

 

 オヅマはヴァルナルに()いて家を出ると、はっきりと言った。

 

「俺、行きます。絶対に」

「あぁ、待ってるぞ」

 

 ヴァルナルはオヅマの肩を叩くと、帰っていった。

 道まで見送りその姿が見えなくなるまで、オヅマは手を振っていた。

 

 ヴァルナルの温情が嬉しかった。

 これで自分の未来が大きく拓かれた気がしていた。

 

 

 

 

 結局、ミーナはオヅマの願い通りに領主館で働くことに決めた。

 

 どうやらあの朝、どら息子はまだ喪に服しているミーナを口説いていたらしい。(めかけ)にならないか、と。

 

 オヅマはその話を聞いて、ゾッとした。

 あんな下膨れの、豚のように太った男に面倒を見てもらうなど御免だ。

 

 いや、ひょっとするとミーナだけを連れて行って、オヅマとマリーのことなど放っておく気であったかもしれない。有り得る話だ。

 

 ミーナはどら息子の話などは最初から受ける気もなかったが、まだ帝都へ行くことに未練があるようだった。

 

「あなたが騎士になりたいと言うのなら、なおのこと帝都(キエル=ヤーヴェ)に行けば、もっと栄達の道もあると思うのだけど…」

 

 オヅマはムッとして言い返した。

 

「母さん。俺は騎士になりさえすればいい訳じゃないんだ。あの領主様の下で騎士として認めてもらいたいんだ。はっきりとわからないけど、きっと領主様は騎士としても立派な方だと思うんだ」

 

「随分と…頼もしくなったものね」

 

 息子がいつの間にかしっかりと自分の意見を言うようになったことに、ミーナは少しだけ寂しく思いつつ、やはり嬉しかった。

 

 考えてみれば父を亡くして、男が自分しかいないという自覚がうまれたのだろう。

 まだまだ子供なのに、そんな気持ちにさせるのは申し訳なかったが、現状、オヅマはミーナにとって頼りがいある息子となっていた。

 

 帝都に行けなくなったマリーはむくれていたが、午後になってからマッケネンが「約束だったからな」と、わざわざ往復して届けてくれたパンとベーコンと林檎を食べた途端にあっさり転向した。

 

 引っ越しするほどの荷物もない。

 三日後にはレーゲンブルトに向かった。

 

 ヴァルナルはオヅマ一家の選択を非常に喜んだ。

 

 ちょうどその日に(くだん)の料理人であるヘルカ婆がぎっくり腰になって動けなくなってしまっていたのだ。

 ミーナは早速、料理人としての器量を問われることになったが、結果はヴァルナルを唸らせるほどに見事な晩餐を用意した。

 

 オヅマはまだ正式に騎士としての訓練を受けるには早かったので、下男として働かせてもらいながら、時折騎士達から剣術や馬術の指導を受けた。

 

 マリーは庭師のパウル爺(彼はヘルカ婆の夫であった)といつの間にか仲良くなり、小さいながらも花壇の草抜きなどを手伝ったりして、あっという間に領主館に馴染んでいった。

 

 



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第五話 悲しい叫び

 領主館に来て、もうすぐ一月(ひとつき)になろうとしていた。

 

 オヅマは仕事にも慣れて、他の使用人や騎士達ともすっかり打ち解けていたが、ある日信じられない光景を目にする。

 

 

 

 

 バシッと鈍い音がして、怒鳴り声が響いた。

 

「こんなところまで来るとは、何を考えているのだ、貴様ッ!!」

 

 メソメソと泣く声にオヅマはすぐにそれがマリーだと気付き、走って向かう。

 角を曲がって、ようやく姿を確認すると、泣いて床に倒れたマリーの前には領主館の執事であるネストリが今しも足を上げて蹴りつける寸前だった。

 

 オヅマが加速してマリーを庇ったと同時に、ネストリの革靴がオヅマの顔にめりこむ。

 

「……ッ貴様……!!」

 

 ネストリは急に現れた人影に驚いたが、それがオヅマだとわかるとフンと鼻をならして、軽蔑もあらわに見下した。

 

「お前も、何用でここに来た?」

「俺は…」

「僕は!」

 

 ネストリが嫌味ったらしく訂正する。

 オヅマはグッと苛立ちを呑み込んだ。

 

「僕は…マリーの声が聞こえたから」

「つまり声が聞こえるような場所にいたということだな。こちらの棟には入るなと、聞いてなかったのか?」

 

 ネストリはじっとりとした目でオヅマを睥睨する。

 

 確かにこの先に続く棟には近づかないようにと釘をさされてはいた。

 だが、ここはまだ禁止されていた場所ではなく、中間地点だ。

 

「そんなこと言ったって、兵舎にはこの廊下をいつも通ってて…」

 

 ネストリは手を振り上げると、当たり前のようにオヅマを殴った。

 

「口答えは許さない」

 

 言いながら、殴った手にフッと息を吹きかける。いかにも汚いものを触ったかのように。

 

「貴様らごとき、領主様の御厚意でここにいるということを忘れるな。貴様らを追い出すなど訳もないのだ」

 

 そのままネストリはオヅマの反論を聞くこともなく、その棟の奥へと向かっていった。

 

「大丈夫か?」

 

 オヅマはマリーを立ち上がらせると、軽く服についた埃を払った。

 

「私…あのおじさん嫌い」

 

 マリーがポツリとこぼす。

 オヅマは笑った。

 

「そうだな。俺も嫌いだ」

 

 ネストリは基本的には優しい人の多い領主館にあって、極めて異質な人物だった。 

 彼は多くの使用人と違い、この地方の出身者ではなかった。

 

 元は公爵家の従僕であったらしく、そのことに誇りを持つあまりに他の使用人を下に見ているきらいがあり、正直、領主館のほとんどの使用人から好かれていなかった。

 

 男爵は時々ネストリのその堅苦しいまでの態度に苦言を呈したが、自分の主家たる公爵家からわざわざ派出されてきたので、強くは言えなかった。

 

 ダークブロンドの硬質な髪にオイルを塗ってすべて後ろになでつけ、皺一つない執事服に身を包み、表情を崩すことなく使用人に的確な指示を与える。

 そつなく領主館の雑事をこなすネストリは、一見すると理想的な執事であった。

 だが、緑灰の瞳はいつも酷薄な光を浮かべていた。

 

 彼のオヅマ達一家に対する態度は、他の使用人に比べてもひときわ棘のある厳しいものだった。

 それは彼の承諾を得ずに、ヴァルナルが雇用を決めてしまったことが主な理由で、通常、使用人の人事は執事が行い、主人は執事からの意見をもって雇用の可否を決めるのみ。

(一般においてはそれすらも形骸化していて、主人は執事からの人物調査書と紹介文書の内容を概ね聞いて、了解するだけ)

 直接、主が雇用を決定するなど、ネストリからすれば職権侵害であった。

 

 しかしヴァルナルにそうした前例に拠った抗議は通じない。

 彼はネストリの言い分を聞くことはしたが、自分の決定を覆すことはしなかった。

 ヴァルナルにとっては、ネストリの領分よりも、少年との約束を守ることの方が大事だった。

 

 だからオヅマ達が領主館を訪れた時、ネストリは仕方なく受け入れるしかなかった。

 冷たい面をピクリと動かすこともなく、彼はオヅマ達に領主館の扉を開いた。

 

 

「でも、なんでこっちに来てたんだ?」

 

 オヅマは不思議に思った。

 さっきネストリにも言ったように、騎士団の兵舎はこの先にあるのでこちらに来る必要がオヅマにはあるのだが、マリーは来る必要もなかったし、そもそも大人の男が苦手なマリーが好んで騎士団に行くことはなかったのだ。

 

「だって…声が聞こえたの」

「声?」

「男の子が叫んでるみたいな声」

「男の子?」

 

 オヅマは聞き返して首をひねった。

 ここに自分達以外に子供がいるのだろうか? そんな話は聞いたことがない。

 

「風の音がどこかに反響してそう聞こえただけだろ?」

 

 マリーは首をひねった。

 

「そうかなぁ?」

「とにかく、またゴチャゴチャ言ってくる前に厨房に戻っとけよ」

 

 オヅマはマリーの背を押して、追いやった。

 

 マリーは釈然としないながらも、やはりネストリに怒られたのがよほど怖かったのか、チラとだけ禁止された廊下の奥を見てから、小走りに厨房の方へと戻っていった。

 

 

 

 

 領主館において、一番の早起きはオヅマだった。

 

 夜明け前から起きて、馬の餌やりをせねばならない。

 朝駆けに行く一刻前*1までには済ませておく必要があるのだ。

 

 本来、それは新米騎士であるフレデリク、アッツオ、ニルス、タネリら四人の役割であったが、オヅマが見習いとはいえ騎士団の末端に加わったことで、彼らの労働は随分と楽になり、四日に一度は誰か一人が長めに眠れるようになった。

(この事は後に副官カールの知るところとなり、彼らは大目玉を食らうことになるのだが)

 

 例のヘルミ山で見つけた黒角馬も元気に過ごしていた。

 仔馬は時々騎士達も乗っているようだったが、親馬の雄はどうやら人を選ぶらしく、最初にオヅマが乗った以外ではヴァルナルしか乗せなかった。

 

 試しに副官二人が乗ってみたが、見事に振り落とされたらしい。

 雌の方は気まぐれで乗せてくれることもあれば、いきなり機嫌が悪くなって振り落とすこともあった。

 

 雌であっても通常の馬よりやや大きいので、落馬して骨折する騎士も出て、その後は無理な調教はせずに、まずは徐々に環境から慣らしていっているらしい。

 

 オヅマはあの時以来、黒角馬に乗ることはしなかった。

 一度、騎士の一人が乗ってみろよと囃したが、運悪くちょうど背後に立っていた副官パシリコにしっかり聞きつけられ、その騎士は即座に拳骨の制裁を受けた。

 

「オヅマ。言っておくがな、お前が見つけたとはいえ、この馬達は既に領主様の馬だ。勝手に乗ることは許さないぞ。もし勝手に乗って、馬の脚が折れるようなことがあれば、即座にお前の首は胴から離れることになる」

 

 馬は重要な乗り物だった。

 それは貴族でない平民であっても、持っていればその一頭の働きだけで家族四人を養ってくれるくらい、大事なものだった。

 

 まして騎士の乗る軍馬ともなれば、その価値は()()()()()の命では代償がきかない。

 

「はい!」

 

 オヅマが返事すると、パシリコは少し言い過ぎたと思ったのか、ポンと軽く頭を叩く。

 

「領主様もいい馬が手に入ったとお喜びだ。また今度ヘルミ山に行って、新たな黒角馬を捕らえたら、公爵様にも献上する予定だからな。お前、しっかり世話をしてくれ」

 

 その数日後には、また新たに十頭の黒角馬が捕獲された。

 無論、オヅマが例の馬の耳と角の間のツボを教えたのも役に立ったのであろうが、元々、良質な野生馬を捕らえて繁殖させることは騎士団の仕事の一環でもあった。

 

 多少風変わりな馬であったとしても、馬である以上、さほど大きく性質は変わらないらしく、一度経験してしまえば捕獲作業は慣れたものだった。

 

「おはよう」

 

 ヴァルナルはやってくると、必ずオヅマにも挨拶してくれる。

 そうして今から乗る最初に捕らえた黒角馬(この馬はシェンスと名付けられた)の腹をやさしく撫でてから、ヒラリと跨る。

 

「では、行くぞ」

 

 オヅマは騎士団が一斉に馬に乗り走り出す光景を見送りながら、いつもあの日のことを思い出す。

 

 領主館から出て、寝静まった街中を静かに行進し、古く城塞都市であった名残の城門を抜ける。

 そこから騎馬の足並みは早まり、なだらかに続く丘陵を超えたその中途で、一旦行進が止まる。

 

 整然と並ぶ騎馬の列。

 畑の向こう、遠く見えるグァルデリ山脈の間から昇る太陽。

 何の号令もなく、騎士達はその曙光に礼拝する。

 

 あの荘厳で美しい戦列の中に自分が騎乗して佇む姿を想像するたび、オヅマは背筋がゾクゾクした。

 早く大きくなりたい、と切実に思う。

 

 騎士団が朝の訓練に行った後は、残った黒角馬達のグルーミングを行いながら体調を観察する。

 どの馬も食欲があり、便の状態も問題なかった。

 馬の中には神経質なのもいて、環境変化で腹を下す馬などもいるらしいが、この種の馬は図太いようだ。

 

 もっとも黒角馬にしてみれば、厳しい環境下であるヘルミ山に比べると、毎日食うに困らず、のんびりと柔らかい土の上を歩いて過ごす方が居心地がいいのかもしれない。

 

 今日も長い鬣をブラシで丁寧に梳いた後、編み込んでいたら、不意に子供の叫び声が風にのってうっすら聞こえてきた。

 

「……?」

 

 オヅマは手を止めて、しばらく耳を澄ませた。

 早朝の忙しい気配の中に響く、異質な声。

 

 はっきりとではなかったが、確かに甲高い子供の声がした。

 

 しばらく考えてからオヅマは歩き出した。

 幸いにも騎士団が出て行った後の兵舎周辺は人気《ひとけ》がない。

 

 例の禁止されている棟の、この前マリーが殴られた廊下のところまで来ると、はっきりと子供の叫び声が聞こえた。

 ひどく悲しくて不安をかきたてる。

 いったい、誰がどうしてあんな声を上げているのだろう?

 

 素早く辺りを見回す。

 いくつかの柱や窪んだ壁を確認してから、気配を殺して歩きつつ、誰か来たら瞬時に身を隠せる場所を転々として近付いていく。

 

 叫び声は途中で止まった。

 代わりに聞き覚えのある怒鳴り声が聞こえてくる。

 

「いい加減になさいまし! そのように泣いてどうなるものでもございませぬぞ!!」

 

 ネストリだった。

 苛立たしげで耳障りな声。階段の上から聞こえてくる。

 

 深い臙脂色の絨毯が敷き詰められた人気のない階段の上を見上げていると、バタンと乱暴にドアを閉める音がした。

 オヅマはあわてて階段下に隠れた。

 すると先客が声を上げそうになって、あわてて口を手で押さえている。

 

「………マリー」

 

 オヅマは小声で言ってから、口を閉じた。

 足音も荒々しく降りてくる音が頭上で響く。

 二人で息を潜めていると、足音はだんだんと遠ざかっていった。

 

 マリーが出て行こうとするのをオヅマは止めた。

 もう一度、周囲の気配を探る。

 

 全身にピリピリと痺れにも似た刺激がはしる。

 周囲の音や、ささいな空気の流れさえも感じ取ろうと、新たな感覚が神経の糸を伸ばしていこうとする。……

 

 そばで見ていたマリーは、兄がいきなり不気味な生き物になったように見えて、思わず腕を掴んだ。

 

「……お兄ちゃん」

 

 不意に遮られて、オヅマは我に返る。

 心配そうなマリーを見て、強張りながらも微笑んだ。

 

「どうした?」

「……なんかヘンよ」

「え? あぁ…いや」

 

 そう言われると、自分でもおかしかった。

 周辺の音を耳以外の全身で感じ取るなんてことは、騎士でも相当に訓練を積んだ高位の者しかできない。

 どうして自分にそんなことができるなんて思ったのだろう…?

 騎士になりたいと思うあまりに、すっかりその気になってるみたいだ。

 

 オヅマは安心させるようにマリーの手を握りしめ、耳を澄ませた。

 気配がないのを確認した上で、ひょっこりと頭を出してキョロキョロと確認する。

 誰もいないことが確実であるとわかってから、そっと階段下から出た。

 

「お前、戻っておけよ」

 小声で叱ってマリーの肩を押すと、マリーはプゥとふくれっ面になった。

 

「わたしが先に聞いたんだもん」

「そういう問題じゃ…」

 

 言っていると、階上からまた悲しげな声が響く。

 今度は叫んでいるというより、泣いているようだった。

 

 マリーは大股でタッタと階段を上がっていく。

 絨毯が敷かれていたお陰で、体の軽いマリーの足音は響かない。

 

 オヅマはあわてて後に続いた。

 二階は案外と部屋が少ないようで、ドアは三つしかなかった。

 

 声は廊下の右奥のドアから聞こえてくる。

 もう一度オヅマは辺りの気配を探ったが、働いている大人はいないようだ。

 

 だがマリーは頓着せずに手前のドアに耳をあてて首を振り、奥のドアへと近寄っていく。

 

「おい、マリー…待て」

 

 オヅマが止めるよりも早く、マリーはそのドアから声がするとわかった途端にキィと開いた。

 

 その部屋からは変な匂いがした。

 嗅いだことのない、喉が少し噎せるような感じになる匂い。

 臭くて鼻が曲がるというのでもないが、かといっていい匂いでもなかった。

 

 大きな窓には、重たそうなカーテンがかかっていた。

 わずかな隙間からの光と、ベッド横のサイドテーブルに置かれたランプだけが、暗がりの部屋の中にいる人の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 

 天蓋ベッドの上で、男の子が突っ伏して泣いている。

 

 マリーはベッドの側まで寄ると、そっと声をかけた。

 

「どうしたの?」

 

 その声にびくっと震えて、男の子は顔を上げた。

 

 ヴァルナルと同じ赤銅色の髪。青みがかったグレーの目。

 怯えを浮かべながらも、その目は興味深そうにマリーを見つめていた。

 

「………………………誰?」

 

 長い間、黙ったまま観察した後、彼は問うた。

 

「私はマリーよ」

 

 オヅマはこういう時の妹の度胸にあきれつつ感心した。

 よくにっこり笑いながら挨拶できるものだ。

 こちらは招かれたわけでもなく、ここに来ることを許されてもいないのに。

 

「マリー……?」

 

 彼がつぶやくと、マリーは矢継ぎ早に質問した。

 

「ねぇ、どうして泣いてるの? どうしてさっきまで叫んでいたの? ネストリさんに怒られてたけど大丈夫? あの人、怖くない?」

「おい、マリー」

 

 オヅマが声をかけると、彼はそれまで暗がりに静かに立っていたオヅマに気付いていなかったのか、ヒッと短く喉をならして後ずさった。

 

「あっ、ごめんなさい。お兄ちゃんなの」

 

 マリーがあわてて言うと、ジロジロとオヅマを見ながらつぶやく。

 

「お…兄…ちゃん……?」 

「俺は、オヅマって言うんだ。勝手に入ってごめん。なんか叫んでるのが聞こえてきたから気になって…」

「君達は…この館にいる人?」

 

 男の子は少しだけオヅマ達の方に寄った。

 

「うん。そう。領主様に来ていいよ、って言われて来たの」

 

 マリーがとても簡単な説明をすると、男の子は意外そうに聞き返した。

 

「父上が?」

 

 オヅマはこの時になってようやく、自分達がネストリに怒られた理由がわかった。

 

「すいませんでしたッ!」

 

 あわてて頭を下げると、マリーの手を引っ張る。

 

「行くぞッ、マリー」

「えっ?」

「待って!」

 

 男の子がもう片方のマリーの手を掴む。

 

 そのままオヅマが気付かず歩き出そうとして、「痛ぁいいぃ」と、マリーが大声を上げた。

 

 バタバタと廊下から誰かが走ってくる。

 

 オヅマは見回して、咄嗟にベッドとサイドテーブルの間の暗がりへとマリーを連れて隠れた。

 

「どうかされましたか? 坊ちゃま」

 

 姿を現したのは女中頭のアントンソン夫人だった。

 

「………なんでもない」

 

 男の子は沈んだ声で言った。「なんでもないんだよ。あっちに行って」

 

「でも、痛いと仰言(おっしゃ)っておられたようで…」

「痛いのはいつだって痛いさ! いいからもう放っておいてよ!」

 

 いきなり癇癪を起こす男の子にアントンソン夫人は溜息を隠そうともしなかった。

 

「それでは失礼します」

 

 とりあえず形式的なお辞儀をして、早々に部屋から出て行った。

 

 再びシンとなって、男の子はベッドから降りてくると、テーブルの下にうずくまっていたオヅマ達をじっと見つめた。

 

「あなたはなんていうの?」

 

 マリーは緊張した空気を感じていないのか、ひょっこりとテーブルの上に顔を出して質問した。

 男の子はさっと顔を赤らめ小さな声で早口に言った。

 

「え? 聞こえなかった」

 

 マリーは這いながらテーブルの後ろから出て行く。

 オヅマはものすごく気まずい思いで、立ち上がり頭を下げた。

 

「すいません。あの…オリヴェル坊っちゃん」

 

 マリーがオヅマを振り返る。

 

「オリヴェル?」

 

 それから目の前の男の子を見た。

 

「オリヴェルっていうの?」

 

 男の子は頷いてから、反対に質問してきた。

 

「君たちは、いつからここに?」

 

 マリーは首をかしげてオヅマを見上げる。

 オヅマは頭の中で暦を繰った。

 

「えぇーと確か1ヶ月…くらい?」

 

 男の子はどんよりした顔になった。

 

「そんなこと、僕聞いてない…。誰も、教えてくれない…」

 

 オヅマはあわてて弁明した。

 

「いや。ただの使用人が入ったぐらいのこと、いちいち教えないって! マリーなんてこの通りだから、手伝いにもなんないし…」

「そんなことないもん! この前だってパウルお爺さんと一緒に草抜きして、肥料を花壇に撒いて…ヘルカお婆さんだって食器を拭いたら助かったよって言ってくれたわ」

「わかったから…大声だすなって。あの野郎が来たらどうすんだよ?」

「…あの野郎って?」

 

 首を傾げて尋ねてくるオリヴェルにマリーは「ネストリさん」と事も無げに言う。しばらく狐につままれたような顔になった後、オリヴェルは笑った。

 

「わぁ! やっと笑ってくれた!」

 

 マリーが手を合わせて嬉しそうに言うと、オリヴェルは少しはにかみつつ微笑んだ。

 それから窓の方へと歩いていき、カーテンを開ける。

 眩しい光が一気に暗い部屋に入ってきた。

 

 窓の外は広いバルコニーになっていた。

 オリヴェルはカーテンを久しぶりに開けただけでなく、バルコニーへ出て行く掃出窓も開けた。

 しばらくぶりであったせいで、ギギと軋む。

 

 オリヴェルがバルコニーに出て行くので、オヅマとマリーはついていった。

 柵のところまで来ると振り返り、妙なことを聞いてくる。

 

「君たちって木登り得意?」

「うん! 大好き!!」

 

 オヅマが答えるより早く、マリーが言った。

 ミモザの木が葉を茂らせて、バルコニーにまで枝を伸ばしている。

 

「このミモザ、降りることはできる? 下はたぶん誰も来ないから」

 

 オヅマはバルコニーから少しだけ身を乗り出してみた。

 囲まれた木々と壁の間から、少しだけ修練場が見える。

 おそらく向こうから気付かれることはないし、館の裏側になるのか出入り口がさほどにないせいか人気はない。

 

 ミモザの幹はちょうどいい太さで、マリーでも難なく降りていけそうだ。

 

「いけそうだ」

 

 オヅマはバルコニーに伸びた枝にヒラリと飛び乗った。

 マリーも乗ると、四つん這いになって幹の方へと向かう。

 

 そのまま降りようとして、オリヴェルが言った。

 

「ねぇ、また来てくれる?」

「………」

 

 オヅマは即答できなかった。

 

 ここに来てからは聞いてなかったが、まだ村にいた時に領主館の話をしていた大人が言っていた。『領主様の息子は体が弱いらしい』…と。

 

 すっかり忘れていた。

 そもそもこの館の人達も、誰もヴァルナルの息子については教えてくれなかった。

 

「うん、いいよ」

 

 返事をしないオヅマの代わりに、あっさりとマリーが了承してしまった。

 

 正直、この事態はあまりよくない。

 下手すれば領主館から叩き出されるかもしれない。

 

 しかしどこか諦めたような目で、それでもじっと見つめてくるオリヴェルに否定的な言葉を言いたくなかった。

 

「……またな」

 

 小さく言って、オヅマはするするとミモザの木を降りていった。

 下に辿り着いて上を向けば、もうオリヴェルの姿はなかった。

 

「マリー、お前…なんで『いい』なんて言うんだよ!」

 

 オヅマが怒ると、マリーはまた口をとがらせた。

 

「だって、可哀想だったんだもん」

「可哀想ってなぁ…あっちは領主様の息子なんだぞ」

「領主様の息子は可哀想じゃないの?」

 

 そう言われるとオヅマは口を閉じるしかなかった。

 食べる物にも着る物にも苦労しないで済む恵まれたお坊ちゃんであっても、不幸でないわけではない。

 

 今になって気付く。

 オリヴェルの部屋に充満していたニオイは、きっと薬か何かなのだろう。

 ずっとあの陰気な部屋で暮らして、自由のきかない体に支配されるのは、きっと辛い。

 自分がそうであったと考えるだけでも、憂鬱になる。

 

「お兄ちゃん、あの子が叫んでいる声を聞いた?」

 

 マリーがとても悲しそうな目でオヅマを見上げてくる。

 

「……聞いた」

「私あの声を聞いたときに、リッツォを思い出したの。ホラ、村にいたヌオレラさん家《ち》の子。時々、みんなで遊んでた…」

 

 ヌオレラさんはオヅマの父であったコスタスと同じ小作人だった。

 元は別の領地にいたらしいが、飢饉でこちらに移住してきた人で、あまり村人と馴染んでいなかったせいか、家族は皆いつも暗い顔をしていた。

 

 家族の中の末っ子であったリッツォは、オヅマ達が遊んでいるのを遠くから見ていたので、声をかけて一緒に遊んだりしたものだ。

 

 だが、そうやって仲良くなって一月もしないうちに、リッツォはいきなり死んでしまった。

 死因はよくわからなかった。

 ただ、ヌオレラさん一家はいつの間にか村から去っていった。

 

「リッツォ? なんで?」

 

 オヅマはいきなりマリーがリッツォのことを言い出したのがよくわからなかった。 

 オヅマとそう年も変わらぬように見えるオリヴェルに比べ、リッツォはもっと幼い。二人に共通点があるようには思えなかった。

 

 マリーは顔を俯け、スカートをギュッと掴んだ。

 

「私、ヌオレラさんの家の前を夕方くらいに通ったことがあったの。そうしたら、中から大きな音がしたわ。それからリッツォが泣いていたの。叫んで泣いていたの。とても悲しそうな声だった。……怖かったの。私、怖くて逃げちゃった。そうしたら次の日にはリッツォが死んだって聞いたの」

「………」

 

 オヅマは無表情になった。

 大人の虐待で子供が死ぬのは、そうあることでもなかったが、珍しいことでもなかった。

 

 オヅマだって父からの暴力で死にかけたことは二度や三度ではない。

 雪の吹き荒ぶ冬の真夜中に外に放り出されたことだってある。

 

「マリー」

 

 オヅマは膝をついてマリーの視線に合わせた。

 泣きそうな顔になっている。

 

「そんなことはお前のせいじゃないんだぞ」

「でも、()()()放っておきたくなかったの…」

「わかったけど、無茶したら駄目だ。とりあえず大丈夫だってわかったろ?」

「……でも、寂しそうだったよ」

「そうだな」

「今度、行ってあげようよ。私、お花見せてあげたい。あのお部屋のお花、枯れてたわ」

「………考えとく」

 

 脳裏にチラチラとネストリの顔が浮かぶ。

 あの男に見つかったら最後、領主様に言い訳もできないうちに領主館から叩き出されそうだ。

 

 オヅマはマリーを厨房まで送り届けた後で、あわてて騎士団の馬場に戻った。

 そろそろ皆が朝駆けから戻ってくる。

 厩舎の掃除をしておかねば、大目玉をくらうことになる。

 

 馬場を軽やかに駆けている黒角馬達の姿を見て、オヅマはホッとした。

 朝からえらいことになったが、とりあえず今日も仕事するだけだ。

 

「さて、やるか」

 

 

 

 

*1
1時間前



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第六話 子供達の秘密結社

 騎士団が帰ってくると、ようやく朝食の時間になる。

 

 兵舎の横に備えられた食堂には、厨房から当番兵が運んできた大鍋が三つと、大きな籠の中に山盛りのパンが石積みの台の上に乗っている。

 兵士達はめいめいで皿に料理を盛り、一人につき二個までのパンをとって食べる。

 

 オヅマもこの中で食べることになっているが、子供ということで、パンは一つまでとされていた。

 

「えらくあわててたな、オヅマ。サボってたんじゃねぇだろうな」

 

 ドカンと前に座って声をかけてきたのは、サロモンという騎士だった。

 オヅマと同じ年くらいの息子がいるらしく、何かと声をかけてくる。

 

「いや、途中でお腹が痛くなって…」

「腹が痛いィ? お前、腹減ったからって、馬の餌でも食べたんじゃないだろうな?」

「そんな訳ないだろ」

 

 サロモンは大笑いした後で、握り拳二つ分はあろうかというパンを三口で食べてしまう。

 オヅマからすると勿体ない食べ方だが、なにせ迅速を尊ぶ騎士団においては貴族よろしくゆっくりと食べる習慣などない。

 

「あの、ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」

「なんだ?」

「領主様に息子がいるって聞いたことがあるんだけど…ここにいるの?」

 

 サロモンはチラっと隣にいたゴアンを見て、ゴアンはオヅマの隣に座っていたアルベルトに目配せする。

 彼は副官カールの弟で、騎士団の中では一番の弓使いだ。 

 

「お前ぇ~、その話誰から聞いたんだよ?」

 

 サロモンがムッと怒ったように言ってきて、オヅマはキョトンとする。

 

「村で前に大人が話してたのを聞いたよ」

「なんだ、村でか」

 

 わかりやすくサロモンはホッとした顔になった。

 

「箝口令がひかれてるってのに、誰が言いやがったのかと思った」

「かんこうれい?」

「余計なことをしゃべるな、ということだ」

 

 アルベルトは静かに言った。

 

「執事殿からお前達兄妹に領主様の若君については話すな、と指示された」

「なんで?」

「さぁな」

 

 澄ました顔でアルベルトはスープを啜る。

 

 カールとアルベルトは、ヴァルナルの主筋にあたるグレヴィリウス公爵家に代々仕える騎士の出らしく、傭兵崩れや平民からの志願者が多いレーゲンブルト騎士団の中では際立って作法が良かった。

 

「大方、汚らしいガキが領主様の息子に興味持って会いに行ったりしたら面倒クセェと思ったんじゃねぇの?」

 

 サロモンが適当に言うと、ゴアンがうんうんと頷いた。

 

「子供同士ってのは、引き合うからな。気がつきゃ勝手に遊び始める。それが身分違いであっても関係ないもんなぁ、子供の時は。俺も帝都で昔……」

 

 自分の話を始めるゴアンを無視して、アルベルトはオヅマをジロと見た。

 

「どうしていきなり若君の話をするんだ?」

「えっ? いや…その…」

「村で聞いた話を今頃聞いてきたのは何故だ?」

 

 この弱味を徹底的に突いてくるあたり、カールの剣術と似たものがある。やはり兄弟だ。

 

「えー…っと、その…声が…聞こえてきて」

「声?」

「その、なんか叫んでる…ような、声?」

 

 オヅマはとりあえず嘘はつかないことにした。

 下手な嘘をついたところで、アルベルトは誤謬を見つけたら容赦なくそこを詰めてくるだろう。嘘はつかないが、全ては話さない。

 

「あぁ…あれか」

 

 ゴアンが思い当たったのか溜息をつく。

 

「なんなの、あれ? あの…叩かれたりとかしてるんじゃないよね?」

 

 思わず聞いてしまったのは、マリーの話のこともあるし、階段に上がる前にネストリが叱責していたのを思い出したからでもある。

 

「領主様の息子を叩くような人間がいるわけないだろう。あれは…癇癪だ」

「癇癪?」

「母君もいらっしゃらなくて、領主様もお忙しい身だ。世話人の女も長く続かないし、色々と思うことがどうにもならなくて叫びたくなるのだろう」

 

 アルベルトが丁寧に説明してくれる。

 

「母君…って、領主様の奥方様?」

「…でいらした方、だ」

 

 オヅマが首を傾げると、サロモンがあけすけに言う。

 

「別れたからな。ま、別れて良かったさ。ここにいた時だって、なんかっ言ったら、田舎だの臭いだのと当たり散らして散々だった。一年持たずに都に帰って、男作りやがって、領主様に離縁状なんぞ送りつけてきやがった」

「はぁ…?」

 

 オヅマはいきなり怒り出したサロモンにキョトンとなった。

 アルベルトがパンをちぎりながら冷静に訂正する。

 

「正式には奥方から直接離縁状を送ってきたわけではない。その男が別れてほしいと言ってきたのだ」

「同じこったろ」

「女ごときが離縁を申し出て領主様が受けたなどと噂されてはならぬ。言葉は正確に伝えろ」

 

 領主様とその元奥方に関してはさておき、つまるところオリヴェルは母親に捨てられたも同然ということだ。

 オヅマの脳裏にオリヴェルの諦めきったような寂しい目が浮かんだ。

 

 ヴァルナルは今はこの領地に戻ってきているが、一年の半分以上は公爵の本邸か帝都にいるらしい。

 おそらくわざわざ病弱な息子を連れ回すようなことはしないだろうから、オリヴェルはほとんど一人ぼっちだ。たとえ、領主館に人がたくさんいても家族はヴァルナルしかいないのだから。

 

「オヅマ」

 

 アルベルトが声をかけてくる。

 

 こちらを見ずに、ほとんどきれいになったスープの皿をパンでキレイに拭っていた。これは貴族の作法でないが、食事を残さずに食べて、なるべく洗うのに水を使わないようにすることは、騎士団では戦に備えた行動規範とされていた。

 普段から行うことで、即座に戦時体制に対応できるようにしている。

 

 オヅマはまた痛いところを突かれるかもしれないと、内心で戦々恐々としつつ、平静を装って返事する。

 

「はい?」

「興味を持つくらいは構わないが、若君に会おうなどとは思わぬことだ。ネストリが知れば、面倒なことになる。あの執事は……色々と厄介だからな」

 

 アルベルトには珍しく不満げな表情だった。

 いつも表情を崩さないので、鉄面皮と騎士達が渾名するくらいなのに。

 

「……気をつけます」

 

 既に会ってしまった…とは口が裂けても言えない。

 口が裂けたらもっと言えない。

 オヅマは愛想笑いを浮かべてそう言うしかなかった。

 

 

 

 

 どうやら母は領主に息子がいることは知っていたらしかった。

 その上で、やはりネストリから子供には教えるなと命令されていたのだという。

 

 ネストリは嫌味たらしい鬱陶しい人間ではあるが、人物観察には秀でているようだった。

 オヅマとマリーを見ていて、好奇心旺盛で無鉄砲なところがあるのを見抜いていたらしい。……実際、そうだった。

 

 オヅマはマリーに今日、オリヴェルに会ったことは絶対に大人には言わないこと! と、約束させた。

 その上で、母のミーナには騎士達に聞いたのと同じように、朝に子供の声を聞いたんだけど…と話して、教えてもらえなかった理由を聞き出した。

 

「若君はお体が弱くていらっしゃるから…あなた達から風邪でももらったら大変なことになるの。だから、ね、もしお見かけしたとしても、近くに寄ってはいけませんよ」

「えぇぇ!?」

 

 不満そうにマリーが声を上げる。

 オヅマは机の下でマリーの足を軽く蹴る。マリーはオヅマを睨みつけたが、口をとがらせて黙り込んだ。

 

 オヅマはミーナを安心させるように言った。

 

「大丈夫だよ。若君なんて身分が違い過ぎて、さすがに一緒に遊ぼうなんて思わないよ」

「……そうよね。ここは村みたいに子供がいないから、あなた達には少し寂しいかもしれないけど」

「俺は騎士団で馬の世話もしなくちゃいけないし、館でだって雑用もあるんだから、遊んでる暇なんてないからいい。マリーは…ちゃんとパウル爺の言うこと聞いて、うろつき回らないようにしろよ」

 

 それとなく釘をさすと、マリーは俯いて少し涙を浮かべた。

 オヅマが「マリー…」と手を伸ばして頭を撫でようとすると、げしッと思いっきり太腿の辺りを蹴られる。

 

()ッ!」

 

 そのままマリーはベッドに潜り込んだ。

 

「まぁ、どうしたの?」

「いや。なんか…今日嫌なことがあったみたいで、機嫌が悪いんだ」

 

 オヅマは笑って誤魔化すと、溜息をついた。

 

 マリーとしては約束したのに、行かないでいるのはオリヴェルに嘘をつくみたいで嫌なのだろう。

 しかし、今ここで言い聞かせるのは難しい。明日、ちゃんと説明すればわかってくれるはずだ。

 

 その日はぐっすり眠って、朝からはまた忙しかった。

 

 だから、探してもマリーが見つからないことに気付いた時、オヅマは仕方なしにミモザの木に登るしかなかったのだ。

 

「……やっぱり」

 

 バルコニーの窓から覗いてマリーの姿を見つけた時、オヅマは頭を押さえた。

 マリーは馬鹿ではないのだが、たまに頑固なくらい自分を曲げない。

 

 軽く溜息をついて、オヅマはコツコツと窓を叩いた。

 マリーと話していたオリヴェルがこちらを向く。ニコリと笑って、歩いてくると窓を開けた。

 

「やぁ、いらっしゃい」

 

 なにがいらっしゃい、だ。

 こちらは下手すりゃ解雇(クビ)になる覚悟で来ているのに――――とはいえず、オヅマはポリポリと耳の後ろを掻いて軽くお辞儀する。

 

「………どうも」

「本当に来てくれるとは思わなかったよ」

 

 何気なく言われてオヅマは引き攣った笑みを浮かべつつ、チラリとマリーを見る。マリーはオヅマと目が合うと、プイとそっぽを向いた。

 

 オヅマは内心でマリーに拳を突き上げていたが、まさかオリヴェルの前で叩くわけにもいかない。

 

「マリーが花を持ってきてくれたんだ。庭に咲いてるんだって。なんて言ったっけ?」

「桜草よ。可愛くてキレイでしょ?」

「本当だね。マリーみたいだね」

「…………」

 

 なんだ、このおとぎ話ごっこは。

 オヅマはげんなりしながら、素早く部屋の中を見回した。

 油断なく辺りの気配を探って誰かいないか、じっと聞き澄ます。

 

「大丈夫だよ」

 

 オリヴェルは朗らかに言った。

 

「さっき眠たいから寝るって言ったから、しばらくみんな休憩して来ないよ」

「そっか…あ、いや……そうですか」

 

 オリヴェルはクスッと笑った。

 

「いいよ。無理しなくて」

 

 日差しのある中で見ると、オリヴェルの目の下にほくろがあるのがわかった。

 それにしてもずっと暗い中にいたからなのか、肌が白くて透き通って見えそうだ。

 

「じゃあ言うけど…本当は今日ここに来るつもりはなかったんだ」

 

 オヅマははっきりと言った。

 マリーが走ってきて、オヅマの足にしがみつく。

 

「やめて! 言わないで!!」

 

 オリヴェルはびっくりしていたが、オヅマと目を合わせると何となく事情は察したようだった。

 フッとさっきまでの明るい顔が翳る。

 

「マリー! ここを追い出されるかもしれないんだぞ」

 

 強い口調で言うと、マリーはいつにないオヅマの真剣な顔にビクリと震えて後ずさった。

 オヅマはオリヴェルに深く頭を下げた。

 

「すいません。俺…僕らは、坊っちゃんと遊んじゃいけないんです。余計な病気が移ったりなんかしたら大変なことになるから…ネストリさんに禁止されているんです」

「………いまさら僕が病気になったって、別に心配もしないくせに」

 

 オリヴェルは幼い顔に皮肉な笑みを浮かべてつぶやいた。

 

「いいよ。もう行くがいいさ。そうして二度と来ないで忘れればいい」

 

 そんな憎まれ口をききながらも、オリヴェルの目には涙が浮かんでいる。

 下ではマリーが容赦ない力でオヅマの下腹をポカポカ殴りまくっている。

 

 オヅマは嘆息して天井を見上げた。

 

 漆喰で塗られた白い天井には、ところどころ剥げてはいたが、創生神話の絵が描かれていた。オヅマ達の住む元物置小屋と違い、なんとも豪華だ。

 

 ―――――領主様の息子は可哀想じゃないの?

 

 屈託なく尋ねてきたマリーの言葉がよみがえる。

 

 こんな暖かい部屋で、綺麗な絵のある天井で、食うにも寝るにも困らない生活をしていても、オヅマから見てオリヴェルが幸せであるようには見えなかった。

 おこがましいかもしれないが、自分がその身分になりたいかと問われても、今のままでいいと答えるだろう。

 

 母親は自分を置いて去り、忙しい父からは放任され、多くの召使いにかしずかれながらも、一人ぽっちのオリヴェル。

 泣き叫んでいたのは、一体なんのためだったのだろう?

 

 ぼんやりと天井の絵を見ながら、オヅマはもうなんだか考えるだけ無駄な気がしてきた。

 

「……わかった」

 

 オヅマは二人の説得を諦めた。

 

 だいたい不条理なことを言っているのは大人の方だ。

 どうしていつも従わねばならない?

 

「でも、バレないようにしないと駄目だ」

 

 オヅマはコソッとつぶやくように告げる。

 

 オリヴェルの泣きそうになっていた顔がみるまに笑顔になり、マリーはオヅマに抱きついた。

 

「秘密だね」

 

 オリヴェルが言う。

 

「おう」

 

 オヅマが頷く。

 

「三人だけの秘密」

 

 マリーが楽しそうに言う。

 

 この日から三人の子供による秘密結社が出来た。

 やることは遊ぶことと、大人には秘密にすること。

 

 

 

 

 オヅマはそれでも雑用や騎士団での訓練などもあって忙しく、そう毎日行くことはできなかったが、マリーは厨房が忙しくなる時間帯を除いて、昼過ぎにはミモザの木に登ってオリヴェルの部屋へ向かった。

 

 幸いにもちょうどこの時、一番の難敵であったネストリは不在だった。実家で不幸があったらしい。

 おかげで子供達はわりと気楽に遊ぶことができた。

 

 オヅマ達と遊ぶようになってから、オリヴェルは確実に変化していった。

 

 まず、食べる量が増えた。

 マリーはオリヴェルの食事を母のミーナが作っていることを教え、

 

「この前アーモンドのブラマンジェが出たでしょ? いいなぁ。私、一回だけ食べたことがあるの。とってもおいしいでしょう?」

 

 なんてことを言われると、俄然、そのアーモンドのブラマンジェが楽しみになったりする。

 

 他にもマリーがパウル爺と菜園で野菜を育てていて、夕食の具材になっていることを話すと、やはり嫌いな人参であってもがんばって食べるようになった。

 おかげで多少、顔色もよくなってきたようだった。

 

 主にオリヴェルの世話をしていた女中頭のアントンソン夫人は、その変化を訝しんだ。

 

「最近では、好き嫌いもなくされたようで…結構でございますね」

 

 夫人が微笑みながらも探るような目で、自分を見ていることにオリヴェルは気付いた。

 三人で約束した秘密がバレれば、マリーもオヅマも領主館を追い出される。

 

 オリヴェルはすぐにオヅマに相談した。

 話を聞いたオヅマはふとあることに気付いた。

 

「そういや、お前、最近あんまり叫ばないよな?」

「え? ……あぁ…うん」

 

 以前は五日に一度くらいは癇癪を起こして叫んでいたのが、最近はマリーやオヅマと話すことで不安な気持ちもなくなって、叫ばなくなっていた。

 

「時々、やっとけ。怪しまれるから」

 

 オリヴェルは言われた通り、オヅマが去った後、すぐ大声で叫んだ。

 

 ここ数日はなかった癇癪がまた始まったと、召使い達が慌てて走り回る。

 オリヴェルはその様子を内心、面白がった。

 

 こうした巧妙な工作によって、彼らの秘密はどうにか保たれていたが、実はこの時、一人だけ気付いていた大人がいた。

 

 

 庭師のパウル爺は最近、めっきり自分のところに来なくなったマリーが昼過ぎになるとどこかに出かけているらしいことに気付いた。

 

 その日、注意深く辺りを見回してから走っていくマリーを見かけて、後を追ってみれば、西棟の裏手にあるミモザの木をするする登っていく。

 その先が領主の若君の部屋だというのは知っていたので、そこでようやく合点がいったのである

 

 そういえば何日か前に、マリーが桜草をとっていいのかと聞いてきたことがある。

 てっきり自分たちの部屋にでも飾るのかと思ったのだが、もしそうであればミーナは必ず礼を言ってくるだろうし、息子のオヅマだって何かしら言ってくるはずだった。

 

 マリーがこっそり領主の若君に会いに行っていることを知って、パウル爺はしばし思案の後に何も見なかったことにした。

 うるさい執事が妻であるヘルカ婆を通じて何か言ってきたことがあったが、知ったことではない。

 

 パウル爺はこの領主館において、ヴァルナルが領主となる前からいた古参の使用人だった。()()()でしかないネストリになど、正直何らの敬意もない。

 彼の言うことに従うのは、尊敬する領主様が彼を執事として任用しているから、それだけだった。

 

 パウル爺はずっと思っていた。

 領主の息子が病弱なのは、ずっと部屋に引き籠もってばかりで、周囲の大人が彼に対して無関心であるからだろう、と。

 

 世話はしても、若君に親身になってやれる人間は彼の周囲にいないようだった。

 と言っても、たかが庭師の自分が若君の部屋を訪問できるわけもない。

 

 内心、赤ん坊の頃に一度だけ見た若君を気の毒に思っていたのだが、マリーが彼の友達となってやれるのであれば、喜ばしいことではないか。

 あの元気なマリーと一緒にいれば、きっと若君も元気になられるだろう…。

 

 パウル爺はそう思って、マリー達の秘密を見守った。

 時々、マリーにそれとなく温室の花を渡したりしつつ。

 

 



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第七話 けんかと紅熱病

 オヅマ達兄妹とオリヴェルは急速に仲良くなったのだが、そうして親しみが増すと、我儘を言うようにもなってくるものだ。

 

 ある日、オヅマが騎士団の訓練から帰ってくると、マリーが部屋でポツンと一人、肩を落としていた。

 

「どうした? オリヴェルと喧嘩でもしたか?」

 

 気軽に尋ねると、マリーは力なく首を振る。

 

 喧嘩なんぞあるわけもない。

 オリヴェルはマリーに対して怒ったことなど一度もないからだ。オヅマにはけっこう物言うが。

 

「なんだよ? あ…じゃあ、エッラか? またいじめてきたのか?」

 

 エッラは女中の一人だ。

 館の中でも領主様の寝室などを整頓したりする女中なので、ちょっとだけ女中の中でも地位が高い。それを鼻にかけていて、何かとミーナやマリーにキツく当たってくる。ネストリの女版だ。

 

「ううん。何も言われてない」

 

 マリーは俯いたまま小さな声で言った。

 

「じゃあ、何?」

 

 オヅマはシャツを脱ぎ、手拭いを濡らして絞るとゴシゴシと体を拭いた。

 だんだんと春の陽気で暖かくなって、訓練の後にはけっこう汗をかくようになってきた。

 

「オリヴェルが…楽しくないことを言うの」

「うん?」

「自分なんてどうせもうすぐ死ぬんだ、って。生きてても仕方ないんだ…って」

 

 オヅマは眉を寄せた。

 

 時々、オリヴェルは投げやりだった。

 小さい頃から病気がちで、長く生きられないと大人達が話すのを聞いていたからだろうか。

 

 オリヴェルが体が弱いのは同情するとしても、このオリヴェルのあきらめきった感じがオヅマにはどうにも気に入らなかった。

 

 翌日になってオヅマは朝駆けに騎士団が出かけた隙にオリヴェルの部屋に向かった。

 少しだけ開いたカーテンの間から、オリヴェルが見えた。ちょうど起きたところのようだ。女中のゾーラに顔を洗って拭いてもらっていた。

 

 オヅマは小鳥の真似をして口笛を吹いた。

 オリヴェルは途端に気難しい顔になって、ゾーラをドンと押す。

 

「痛いじゃないか。どうしてそんな拭き方をするんだ! もういい!! 出ていけ!」

 

 ゾーラは内心でやれやれと溜息をついた。

 最近は癇癪も少なくなってきた…などと言っていた無責任なヤツは誰だろうか。

 

 それでも一応頭を下げて謝ると、床に落ちた手拭いを取り上げ、盥《たらい》を持って出て行く。

 

「お前のせいで頭がまた痛くなった! しばらく誰も入ってくるな!」

 

 オリヴェルはゾーラに重ねて怒鳴りつけた。念には念を入れねばならない。

 

 彼女はあからさまな溜息をつくと、振り返ってお辞儀することもなく、バタンとドアを閉じて出て行った。

 

「……なんか、お前うまくなってきたね」

 

 入ってくると、オヅマはニヤと笑って言う。

 オリヴェルはさっきまでと打って変わって微笑んだ。

 

「そりゃあ、君達が追い出されないように僕だって必死だもの」

「申し訳ないことですね、若君」

 

 オヅマがおどけて言うと、オリヴェルは肩をすくめてソファに腰掛ける。

 

「どうしたの? こんな朝早い時間に。珍しいね」

「あぁ、ちょっとさ。言いたいことがあるんだよ」

「言いたいこと?」

「お前、マリーにまたどうしようもないこと言ったろ? どうせすぐ死ぬとか、何とか」

 

 オヅマが言った途端に、オリヴェルはふいと目を逸らした。

 気まずそうな顔になっている。

 

「だって…マリーが春になったらピクニックに行こうとか…大きくなったら帝都に行きたいとか…無理なことを言うから」

「帝都はともかく、ピクニックなんて、なにが無理なんだよ?」

「無理に決まってるだろ。僕はここから出るのは駄目だって言われてるんだ」

「………」

 

 オヅマは白けた顔だった。

 納得いっていない様子を見て、オリヴェルは苛立たしげに赤銅色の巻毛をわしゃわしゃと掻いた。

 

「君達にはわからないよ。外に出て風にあたって…少し歩いただけで息切れするんだ。君みたいに騎士達と一緒に走ったり…馬に乗ったりなんて、一生できないんだ」

「あー…お前が色々とやりたくても出来ないことがあるのはわかった」

 

 オヅマはとりあえずオリヴェルの怒りをなだめた。

 その上で、ジロリと睨むように見つめる。

 

「でも、マリーの前で『どうせ死ぬ』とか言わないでやってくれ」

「どうして?」

「どうして? 聞きたくないからだよ。友達が『生きてても仕方ない』なんて言ってるのを聞いて、いい気分になるもんか」

「…………」

 

 オリヴェルは俯いた。

 さすがに自分よりも幼いマリーを悲しませたのは、申し訳ないと思った。

 

 でも、物心ついてからずっと引きずってきた()()()()はそう簡単に取り払えない。

 

「君には…わからないよ」

 

 自分でも素直でないとわかっていたが、オリヴェルはつぶやく。

 オヅマはハアーッとわざとらしい溜息をついた。

 

「ああぁ…もう。そうやって不幸()()の、やめろよ」

「な……それ…なんだよ、その言い方!」

「わかってほしいから叫んでたんだろ、ずっと。マリーはお前が叫んでいる声が可哀想だって言ったんだ。聞いてて悲しくなるって。だからここに来たんだよ。望みどおりしてやったろうが!」

「うるさい! 君になんかわかるもんかっ!」

「わかってたまるか! お前みたいなひねくれ者!」

 

 売り言葉に買い言葉。

 

 オヅマはバルコニーへと出ていくと、ほとんど落ちるようにミモザの木を降りていった。ちょうどその時にアントンソン夫人が顔を出したので、良かったのかもしれない。

 

「どうなさいました? 坊ちゃま」

 

 アントンソン夫人は怒鳴り声が、いつものオリヴェルの甲高い声と少し違ったような気がして、まさか誰かいるのかと、部屋を見回しながら尋ねた。

 オリヴェルはキッと睨みつける。

 

「なにもない! 入ってくるなと言っただろ!! 出てけ!」

「……はい。失礼致します」

 

 アントンソン夫人はこめかみに軽い痛みを感じながら、お辞儀をしてドアを閉めた。

 どうやら久しぶりに頭痛薬が必要なようだ。

 

 

 

 

 

 

 その日からオヅマはオリヴェルと絶交状態に陥った。

 マリーはそれでも顔を出して、兄とオリヴェルの間を一生懸命取り持とうとしたが、男子二人はこじれると厄介だった。

 

「うるせぇ、ほっとけ」

 

と言う兄の方は、それでも必ずマリーにそれとなくオリヴェルの様子を聞いてきたし、オリヴェルはたまに小鳥の啼声を聞いてはハッと必ずバルコニーを見るのだった。

 そのくせ二人に仲直りしよう、と言っても頑として聞き入れない。

 

「フン。どーせ俺なんざガサツで頭の悪ぃ小作人の(せがれ)だからな。大層お偉い若君の考えることなんざ、わからないさー」

 

 オヅマが口をとがらせて言う。

 本当はそんなこと思ってないくせに…。

 

 憎まれ口をきく兄をマリーは睨みつけた。

 

「オリヴェルは…偉そうなことは一回も言ったことないよ。俺は領主の息子なんだぞーって威張ったりしないよ」

「それは…そうだけど」

 

 オヅマはそこは認めつつも、やっぱり謝る気はないようだった。

 

 オリヴェルはオリヴェルですっかり悄気(しょげ)返っていた。

 

「オヅマは、やっぱり僕と遊ぶのは嫌だったんだ。最初から、嫌だって言ってたし」

「嫌だなんて言ってないよ。それにお兄ちゃん、オリヴェルは自分より年下なのに、とっても物知りだって…すごいって何回も言ってたよ」

 

 マリーは本当のことを言ったのだが、オリヴェルは力なく首を振った。

 

「僕はここで本を読むぐらいしかできないもの。オヅマみたいに騎士達と剣の練習や、馬に乗ったりすることなんてできないから…」

 

 マリーは途方に暮れた。

 どうして二人とも悪いと思っているなら、同時に謝って元に戻ることができないのかしら?

 

 そんなちょっとした喧嘩をしている間に、とうとうネストリが戻ってきた。

 

 久しぶりにネストリに会ったオリヴェルは、蛇に睨まれた蛙のような気分だった。

 ねっとりしたネストリの視線は、顔色が良くなって、多少肉付きも良くなったオリヴェルを注意深く見ていた。

 その場では何も言わずにいたが、疑っているのは明白だった。

 

 だが、領主館はそれどころでない事態が勃発した。

 

 使用人達が相次いで熱を出して倒れ始めたのである。

 

紅熱(こうねつ)(びょう)です」

 

 最初に倒れた馬丁を診察した医者は言った。

 

 紅熱病はこの十数年の間に、帝都とその近郊において度々流行した伝染病だった。

 

 高熱が出て、舌や喉が赤く腫れる。白い肌の人間などは、全身が赤くなることもあった。さほどに長引く病気ではなく、三日から五日間ほど適切な看護を受けて静養すれば、症状は落ち着いた。

 ただ、元から病弱であったり、年老いた人間が罹ると、時に死に至ることもあった。

 

 病名が判明した段階で、高熱を出していた者が四名。喉の痛みや咳などの症状を訴えた者が十名いた。

 

 ヴァルナルは早速、この病への対策を講じた。

 

「無症状の者は家に戻って休ませろ。ただし、体調の変化にはくれぐれも留意して、家族や周囲の人間との接触を極力減らし、伝染(うつ)すことのないように厳命しておけ」

 

 その上で、領内において流行が起きた場合に備えて、主家である公爵に医者の派遣を要請する。

 

 帝都から遠く離れたレーゲンブルトにおいて、この病はまだ未知のものだった。一気に広がる可能性がある。

 

 春の種植えの時期にかかってくれば、収穫量にも関わってくる。

 雪解けの豊富な栄養を含んだ水は、この短い期間にしか流れてこない。

 この時期に種を植えて、成長させることで、作物は十分な栄養によって強くなり、夏に突発的に起こる冷颪(ひやおろし)にも耐えうる力をつけるのだ。

 

「困ったことになりましたね」

 

 カールは執務室でヴァルナルと向き合っていた。

 ヴァルナルの命を受けて公爵本邸に赴き、先程、戻ってきたところだった。

 

 ヴァルナルは公爵からの手紙を読んで、ほっと一息つく。

 

「よかった。公爵様がすぐにも三名、医者を派遣して下さるようだ」

「えぇ。領主様からの手紙を読んでいる間にも、補佐官に直ちに医者を選出するように命じておられました」

「む。そうしたことでは、行動が早くて助かる」

「騎士団の人間はほとんど罹患したことがあるので、大丈夫だと思われます。ただ、オヅマはこちらの人間ですので、もし症状の出た場合には必ず休むように言っておきました」

 

 紅熱病は一度罹患すれば、罹ることはほとんどない。あっても症状は軽い。

 

「とりあえず領主館の中で収まればいいのだが…」

 

 ヴァルナルは溜息をついた。

 一年のうちの数ヶ月、領地に戻るこの時期は色々と仕事は忙しくとも、精神的にはゆっくりできる、ヴァルナルにとってはいい休養期間なのに、今年はそうでもなさそうだ。

 

 その上でますますヴァルナルを悩ますことになったのが、一人息子であるオリヴェルが紅熱病に感染したことだった。

 

 

 

 

 

 

 オリヴェルはその日、喉の痛みで目が覚めた。

 しかしそのことを言わなかったのは、その日に洗顔の盥を持ってきたのが見慣れない女中だったのもあるし、そうした体調の変化について毎日必ず聞いてくるアントンソン夫人がやって来なかったのもある。

 

 理由はマリーがやって来て教えてくれた。

 

「なんだか病気がいっぱい流行(はや)ってるんだって」

「病気が…? じゃあ、みんな病気になってしまったってこと?」

「みんなじゃないよ。私もお母さんもお兄ちゃんも元気だよ。それとえっとパウルお爺さんも、ヘルカお婆さんも元気だけど、もう年取ってるから、病気になったら大変だから、東の塔には行っちゃいけない…って」

「東塔に? どうして?」

「えっと、病気になった人達はそこで寝てるの」

「あぁ…そう」

 

 東塔は領主館から少し離れた場所にある。

 元は兵舎兼見張りの塔だったが、それは戦時のことで、当時に比べて領地における兵員は大幅に縮小され、必要がなくなって、ほぼ放置されている。

 今では時々、騎士達が最上部の見張り部屋までどれだけ早く行けるか競争するのに使用されるくらいだが、この事はオリヴェルも知らない。

 

「じゃあ、アントンソン夫人も病気なのか」

「うん。昨日はまだそんなに多くなかったのに、今日になったらあっという間に増えちゃったみたい。まだ病気になっていない人で、家に帰れる人は帰っちゃったし。だから、今とっても人が少なくなってるんだよ」

「そっか。でも、そのおかげで見つかりにくくなっていいや」

 

 オリヴェルはそう言っていたずらっぽく笑った。

 マリーもニコ、と笑う。

 

 二人は午後の時間を誰に邪魔されることもなくゆっくりと過ごしたのだが、そろそろ帰ろうという時間になって、マリーはオリヴェルの顔色が良くないことに気付いた。

 

「どうしたの? 大丈夫?」

「大丈夫だよ。いつものことで…少し寝ればすぐに戻るから」

 

 言っている間にも、オリヴェルは頭痛がひどくなってきていた。

 本当はマリーと遊び始めたときから、喉の痛みが朝よりもはっきりと痛くなってきていたし、手や首を動かすのもだるかった。

 それでもネストリが帰ってきてから、ここまでゆったりできることも少なかったので、久しぶりに満喫したかったのだ。

 

「大丈夫だから、行って」

 

 オリヴェルはバルコニーを開けてマリーを押し出そうとしたが、窓を開けた途端に吹き付けた冷たい風にゾクリと悪寒が走った途端、目が霞んで倒れた。

 

「オリヴェル!」

 

 マリーは叫んだが、オリヴェルはその時には蒼白の顔になって震えるばかりだった。

 

「オリヴェル! オリヴェル!!」

 

 マリーは何度も叫んだ。けれどオリヴェルは気を失ったままだ。

 

「誰か……」

 

 言いかけてマリーはためらった。

 誰かを呼べば、自分がオリヴェルの部屋に無断で来ていたことがバレてしまう。そうなれば、領主館から追い出される。

 

 ―――――いいな。俺らだけの秘密だからな。

 

 オヅマの言葉が脳裏によぎる。

 しかし、マリーの選択は早かった。

 

 立ち上がって、オリヴェルの部屋の扉を開ける。

 廊下に出て、階下に向かって大声で叫んだ。

 

「誰かッ! 誰か来てーっ! オリヴェルが死んじゃう!」

 

 

 

 

 その声を聞きつけてやって来た女中のナンヌと従僕のロジオーノは、マリーの襟首を鷲掴みして、容赦なく何度も頬を()つネストリの姿に言葉をなくした。

 

「あ…ど、どうしたんです?」

 

 ロジオーノが声をかけると、ネストリは苛立たしそうに睨みつけた後、マリーを襤褸(ボロ)布のように壁に向かって放り投げた。

 ナンヌが駆け寄ると、マリーは真っ赤に頬を腫らし、涙を流す緑の瞳はどこか虚ろだった。

 

「そのガキを折檻(せっかん)部屋に入れておけ!」

 

 ネストリが怒りもあらわに命令する。

 ロジオーノはマリーとネストリの間に割って入り、おろおろと問いかける。

 

「一体、何があったのです? さっき、叫んでいたのはマリーでは?」

「そうだ! このガキ、やっぱり若君の部屋に入り込んでいたのだ。まったく、思った通りだ! だから私はこんな紹介状もない小作風情の親子を館に雇い入れるなど反対していたのに!」

「しかし…あの、さっきマリーはその…お坊ちゃんのことを…」

 

 ネストリは乱れた前髪と、襟を整えながら、ロジオーノがそれ以上言うのを制止した。

 

「若君には私が()()()()と言い含めておく。お前達はとっとと、この汚らしいガキを折檻部屋へ連れて行って、牢に()()()()閉じ籠めておくように。いいな、ロジオーノ!」

 

 ナンヌはロジオーノをじっと見つめた。

 ロジオーノは肩をすくめて軽く首を振ると、マリーを抱き上げる。

 何があったのかは定かでないが、執事の言うことにはとりあえず従わねばならない。

 

 ネストリは二人が去った後で、ニヤリと口元に笑みを浮かべた。

 ようやくあの親子を排除できそうだ。まったく、自分の許可もなく雇う人間など、やはり礼儀もなっていない愚蒙の輩だ。

 

 ドアをコツコツとノックする。

 返事はない。

 

 ネストリはフン、と鼻をならして、

 

「ネストリでございます。入らせていただきますよ」

とドアを開けた。

 

 開け放たれたバルコニーの窓際で倒れているオリヴェルを見つけて、驚嘆したネストリが腰を抜かすのに数秒もかからなかった。

 

 館は一気に騒然となった。

 

 医者によってオリヴェルが紅熱病に罹患したことが診断されると、その看護を誰がするのかということが問題になった。

 

 普段からオリヴェル付きの女中やアントンソン夫人は既に発症して東塔で療養中であった。その他の女中といっても、レーゲンブルトから出たことのない、紅熱病に罹ったことのない者では、いずれ発症して世話できない可能性がある。

 

 ヴァルナルは屋敷にいた使用人に過去に紅熱病に罹患した者がいないかを調べさせた。

 一人だけ見つかった。

 彼女はかつて帝都にいたらしく、罹患した経験があったのだ。

 

 ヴァルナルはその者を執務室に呼んで話をしていたが、ちょうどその時に飛び込んできたのがオヅマだった。

 

「領主様ッ」

 

 

 



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第八話 マリーの献身

 オヅマがヴァルナルの執務室に飛び込む少し前のこと。

 

 

 オヅマは騎士団の厩舎(きゅうしゃ)で黒角馬の毛づくろいをしていたのだが、血相変えて飛び込んできたナンヌを見るなり、何かしら嫌な予感がした。

 

「オヅマ! マリーが…マリーが折檻(せっかん)部屋に…ッ」

 

 走ってきたナンヌはそこまで言って、ゴホゴホと()せる。

 オヅマの顔色がサッと変わった。

 

「マリーが…なんだって?」

「折檻部屋に…ネストリさんに入れられたの! 若君の部屋から出てきたみたいで…怒られて…」

「どこだ? 教えて!」

 

 オヅマはナンヌの手を引っ張って走り出す。

 ナンヌは息切れしてよろけながらも、どうにかオヅマを東棟の地下室へと連れて行ってくれた。

 

 暗く黴臭い、もう何年も閉め切ったままであったろう空気の淀んだ陰気な場所だった。

 扉の脇にあるほとんどなくなりかけの蝋燭がチロチロと燃えている他に灯りはない。

 

 奥にある丈夫な木の格子の向こうで、マリーがぐったりと倒れているのがかろうじて見えた。

 

「マリー!」

 

 オヅマが叫ぶと、マリーはかすかに動く。

 

「マリー! 大丈夫かっ? マリー! マリー!」

 

 暗闇に自分の声だけが響く。

 オヅマの心臓がものすごい勢いで早鐘を打つ。

 格子を握りしめながらオヅマは揺すったが、当然、ビクともしなかった。

 

「…………お…兄ちゃ…」

 

 弱々しい声がした。

 

「マリー! 大丈夫かっ?」

「………ごめん…なさい…ないしょ…って、言ってた…のに」

 

 オヅマはブルブル震えた。

 

 格子を揺する。錠前を引っ張る。

 何をしても扉は開かない。

 

 暗がりにいるマリーがどんな様子かもわからない。

 ナンヌの話では相当にネストリに殴られていたという。怪我をしているかもしれない。

 

「クソッ!! 開けよ!」

 

 オヅマは格子を蹴りつけたが、太い木の格子は何年も置き捨てられていたにも関わらず堅固だった。

 

 オヅマは振り返ってナンヌに問うた。

 

「ここの鍵って!?」

「そんなの…私、わからないわ」

 

 ギリッとオヅマは奥歯を噛み締めた。

 

 本当に自分の選択は合っていたのだろうか、と疑いたくなる。

 こんなことになるなら、レーゲンブルトへの道を選ぶべきでなかった。

 母の言うように帝都に行けば良かったのか…?

 

 また、()がやって来る。

 

 いつも同じだ。

 マリーが傷つけられ、オヅマは何も出来ない。

 

 今と同じ。

 

 オヅマは立ち尽くし、固まった。

 

 隣にいたナンヌはオヅマが急に人形か何かになったように見えて、おそるおそる呼びかけた。

 

「……オヅマ?」

 

 オヅマの目がギラリといきなり光る。

 驚いたナンヌの脇を通り抜けて、オヅマは走って出て行った。

 

 ナンヌは呆気にとられていたが、チラリと格子の向こうのマリーを心配げに見た後、エプロンのポケットから真新しい蝋燭を取り出した。

 ナンヌの仕事の一つとして館内の蝋燭交換があるのだが、小さくなった蝋燭を見つけた時にすぐに交換できるように、常日頃からポケットに何本か持っていた。

 

 ナンヌはほとんど消えかけていたその燭台の火を新たな蝋燭に灯すと、その蝋燭を燭台に置いておいた。

 

 これで少なくとも一晩は持つはずだ。

 こんなところで真っ暗闇になったら、きっとマリーは恐怖でおかしくなってしまうだろう。

 残念ながら女中の中でも下っ端のナンヌに出来ることはそれぐらいしかなかった。

 

「……きっとオヅマが助けてくれるだろうから。待っててね、マリー」

 

 ナンヌは自分に言い聞かせるように声をかけて、そっと折檻部屋から出て行った。

 

 

 

 

 オヅマは北棟にあるヴァルナルの執務室に向かっていた。

 

 オリヴェルと遊んでいたことが、とうとうバレたのだ。

 こうなってはもうどうしようもない。きっと追い出されるだろう。

 

 だが、今はとにかくマリーを助けなければならない。

 ネストリの命令を覆せるのは、唯一ヴァルナルだけだ。

 

「領主様ッ」

 

 ノックもなく突然入ってきた闖入者(ちんにゅうしゃ)を、ドアの側にいたカールが素早く押さえ込んだ。

 

「無礼千万だぞ、オヅマ」

 

 オヅマは後ろ手を引き絞られ、痛みに顔を顰めながら叫ぶ。

 

「お許し下さい! 俺が、悪いんです! マリーは…悪くありません! 若君と会っていたことは謝ります。どうか、お許しください!」

 

 その言葉に、ピクリとヴァルナルの眉が動いた。

 そこにいたミーナは突然のオヅマの告白に驚きながらも、すぐさま膝をついて平伏した。

 

「申し訳ございません、領主様。私の…親である私の監督不行届でございます」

 

 オヅマは母がこの場にいることで、事態は一層悪くなっているのだと認識した。きっと母が先に呼ばれて糾弾されていたのだろう。

 

 実はそれはオヅマの勘違いだったのだが、そのことを指摘する人間はその場にいなかった。

 

「フン! やはり私の思った通りだ!」 

 

 ネストリは勝ち誇ったようにヴァルナルに向かって叫んだ。

 

「こんな卑しい親子など簡単に雇ってはいけないのです! 若君のお部屋に忍びこんだだけでなく、案の定、病気まで持ち込んで!」

 

 カールは青い瞳をギラと閃かせた。

 

「つまり…ご領主様の判断が間違っていたと…ケチをつける訳か、執事殿は」

「そ…そういう訳ではございませんが」

 

 ネストリはヴァルナルの背後にいるパシリコと、オヅマを押さえつけたまま下から睨み上げてくるカール、二方向からの圧のこもった視線に口ごもった。

 

 ヴァルナルはふぅと溜息をつくと、カールに目配せした。

 カールがすぐにオヅマの腕を離す。

 

 ヴァルナルは少し疲れた様子で、オヅマに言った。

 

「オヅマ。今は紅熱(こうねつ)病への対処を講じることが優先される。オリヴェルの病のこともあるので、後日詳しく聞くことにしよう。それと、すまないが、お前の母親を借りるぞ」

「母さんを?」

 

 オヅマは母親が別に連れてゆかれて、厳しく責問されるのかと恐れたが、そうではないことをすぐにヴァルナルが話してくれた。

 

「この病気は過去に一度(かか)っていれば、罹患(りかん)することは少ない。罹ってもさほど重くなることもない。この土地の人間は紅熱病に対する免疫を持たないから、オリヴェルの看護を頼むことができないのだ。お前達兄妹には迷惑をかけることになるが、しばしミーナにオリヴェルの看護を任せたいのだ」

 

 何が起きているのかよくわからず、呆然とするオヅマに代わって、ミーナが答えた。

 

「ありがたきことにございます。必ず若君がご本復(ほんぷく)なさいますよう、微力ながら尽くします」

 

 ネストリは丁寧な言葉遣いで話すミーナを忌々しげに睨みつけていたが、看護をできる者がミーナ以外いないのは確かなことなので、ありとあらゆる悪口雑言を口の中にしまい込んだ。

 

 それでも、

 

「これで帳消しになるなどと思うなよ」

と、余計な一言を言わずにおれぬようだった。

 

 ヴァルナルはネストリの言葉を無視した。

 

「む。では早速にも頼む。ネストリ、ミーナをオリヴェルの部屋に案内して看護に必要なものを揃えよ」

 

 ネストリは不満げに鼻をならしたが、それでも職務に忠実であることが信条だったので、冷たい面差しを固めてミーナを連れて行った。

 

 残されたオヅマに、ヴァルナルは優しい口調で問いかけた。

 

「オヅマ。お前はオリヴェルと仲が良いのか?」

 

 オヅマは逡巡(しゅんじゅん)した。俯いて、正直に話した。

 

「仲は……今、喧嘩してます」

「喧嘩?」

「ちょっと…言い合いになっちゃって…」

「………」

 

 気まずそうに言うオヅマをまじまじと見た後、ヴァルナルはフッと笑った。「成程」

 

 立ち上がると、オヅマの前に来て諭す。

 

「お前達の仲についてはわかった。だが、今はしばらくオリヴェルに会うことはできぬ。お前達もこの地で育ったから、紅熱病に罹ったことはないだろう。しばらく控えよ」

 

 オヅマはその時になって、ようやくオリヴェルもまた伝染病に罹ったことを知り、途端に心配になった。

 

「オリヴェルは…大丈夫だよね? 死んだりしないよね?」

 

 ヴァルナルが少し沈んだ顔になる。

 パシリコが後ろから言った。

 

「そのためにこそ、手厚い看護が必要なのだ。お前達の母親は既に紅熱病に罹ったこともある上、看病の経験もある。若君の世話には適任だ。しばらく母がいなくてお前達も寂しいだろうが、若君のためにわかってくれ」

 

 オヅマは頷いてから、ハッとなって再び頭を下げた。

 

「あの、どうかマリーを許して下さい。妹は俺の言う通りにしただけです。だから、折檻部屋からは出してやって下さい。罰が必要なら、俺が代わりに…」

「ちょっと待て」

 

 ヴァルナルは途中で遮った。

 厳しい顔になってオヅマを見つめる。

 

「マリーを折檻部屋にだと? 誰だ、そんなことをしたのは?」

「言うまでもない、この場にいない御仁でありましょう」

 

 オヅマが言うよりも先に、カールがオヅマの背後で冷たく言い放つ。

 ヴァルナルは深い溜息をついて、頭を押さえた。

 

「まったく…困った執事だな。幼い子供を折檻部屋になど…カール、オヅマを連れて行って、すぐに出してやりなさい」

 

 カールとオヅマが退出した後、ヴァルナルは疲れきったようにソファに身を投げだした。

 眉間を押さえながら揉む。

 

「ブランデーでも用意しますか?」

 

 パシリコがキャビネットに近付きながら言ったが、ヴァルナルは首を振った。

 

「いや…いい。後でオリヴェルの様子を見に行くからな。それにしても、パシリコ…お前は気付いたか?」

「は? なにをでしょう?」

「……いい。しばらく横になるから、半刻半(はんときはん)(15分間)ほどしたら起こしに来い」

「かしこまりました」

 

 パシリコはお辞儀して出て行った。

 

 ヴァルナルは再び深く溜息をついた。

 とんだことになった。てんやわんやの大騒ぎとはこの事だ。まだしも戦場で剣を振りかざしている方が楽な気がしてくる。

 

 この時、ヴァルナルにとって一番厄介だったのは、領地内で起きた伝染性の熱病のことよりも、その熱病に罹ってしまった一人息子のことよりも、それまで全く気にもしていなかった女の姿が勝手に頭に浮かんできてしまうことだった。

 

 消し去ろうとして他のことを考えても、淡い金髪と印象的な薄紫(ライラック)色の瞳がじっと自分を見つめてくる。

 

 ヴァルナルはコツコツと額を叩きながら、独り、その名前をつぶやいた。

 

 

 

 

 オヅマはマリーを折檻部屋から連れ出した。

 

 ネストリに張られた頬は少し赤くなっていた。

 鼻の下に赤い血がこびりついているのは、おそらく鼻血が出たのだろう。

 

「何を考えてるんだ、あの男…」

 

 カールはここに来るまでにオヅマからおおよその事情を聞いていたので、格子の鍵を開けて、倒れていたマリーを見た途端に、痛々しい姿に顔を顰めた。

 オヅマはとりあえず大怪我を負ってないことにホッと一息ついてから、さっと辺りを見回す。

 

 カールに持たされた明るいランタンの灯りで、部屋の中がよく見える。

 そこには昔、使っていたのか血のついた拷問道具がいくつか転がっていた。

 

 それらをオヅマはしばらく凝視してしまった。

 なぜか、それが()()()()()使()()()()()()を知っている……。

 

「オヅマ、あまり見るな。さっさと出るぞ」

 

 カールはぐったりしたマリーを抱き上げて、足早に出て行く。

 オヅマはあわてて後を追った。

 

 オヅマ達家族は使用人の居住する北棟の階下や東棟の屋根裏ではなく、庭園の隅にある物置小屋を改装してもらい、暮らしていた。

 

 マリーを抱っこしてきたカールはベッドにゆっくりと下ろしてから、オヅマに言った。

 

「熱がある。もしかしたら、マリーはもう伝染(うつ)っているのかもしれない」

「えっ?」

「後で医者をやる。診てもらえ」

「え…でも」

「紅熱病で亡くなることは少ないとはいえ、子供は熱で痙攣の発作を起こすこともある。熱冷ましの薬を飲んで、しっかり食べて休ませろ」

 

 オヅマは途端に不安になった。

 

「あの…ちょっとだけ母さんに来てもらうことはできないの?」

「………」

 

 カールは黙り込んだ。

 

 無論、マリーには母親の看病が必要だし、してもらう権利は十分にあった。だが、今はなんとしても若君の看病に専念してもらわねばならない。

 

「残念だが…今は若君が優先だ。元から体が弱い上に、紅熱病は発症した当日の夜が一番熱が上がると言われている。今日はなんとしても側についててもらう必要がある…」

「そんな…母さんは俺達の母さんだぞ!」

「……申し訳ない」

 

 普段は『鬼』と異名されるほど厳しいカールが素直に頭を下げてくるので、オヅマはそれ以上言えなかった。

 

 オリヴェルが苦しんでいるのも予想できる。

 一度、バルコニーからしばらく修練場を見ていただけで、蒼い顔になって倒れかけたこともあったから。

 その時、おんぶして運んだオリヴェルの体の軽さに、内心、驚いたものだ……。

 

「…お兄ちゃん……」

 

 マリーがいつの間にか目を覚ましていた。オヅマの袖を力なく引っ張っている。

 

「マリー、大丈夫か?」

 

 オヅマが手を握りしめると、マリーは頷いて、切れ切れに言った。

 

「大…丈夫…だ…から。私は…お母…さ…いなく…ても。オリ……は、お…か…さん…いない…から……寂し……から……私は…お兄…ちゃ……いる……から」

 

 オヅマの脳裏にぶわっと()の記憶が襲った。

 

 有り得ない()

 

 成長したマリーの傷ついた姿。

 痩せこけ、骨と皮だけになった腕。

 それでも最期までオヅマを信じて、オヅマに心配かけまいと…笑って………。

 

「…マリー……」

 

 オヅマは再び意識をなくしたマリーの手をギュッと握りしめながら、突っ伏して泣いた。

 

 どうしてこの妹は、()()()、どんなに自分が苦しくとも、誰かのためになろうとするのだろう。……

 

 その様子を見ていたカールは兄妹に深く頭を下げ、小屋から出て行った。

 

 



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第九話 アルベルトとマリー

 カールからマリーの言葉を聞いたヴァルナルは深く項垂れた。

 百戦錬磨と呼ばれる豪胆な男であっても、たった六歳の子供のその思いやりに、ひどく苦い思いで感服するしかない。

 

「東塔は罹患者がまだ増える可能性もありますので、マリーは小屋の方で療養させてもよろしかろうと…そのままにしております」

 

 カールは事務的に言いながらも、自分の選択がこれでいいのかまだ決めかねている。

 ヴァルナルの返事がないが、そのまま報告を続けた。

 

「パウル爺にオヅマ達の食料を持っていくように頼んでおきました。くれぐれも中には入らないようにと。しばらくオヅマには騎士団の仕事は休止させ、フレデリク、アッツオ、ニルス、タネリらに代行させます」

「カール…それで…マリーは大丈夫なのか?」

 

 ヴァルナルが俯いたまま尋ねてくる。

 カールは領主が自分の息子よりも使用人の娘の病状を気にかけたことに、つくづくこの主人に仕えて良かったと思った。

 

「医者の話では、今夜の熱さえ超えればおそらく問題はなかろうと。オヅマにも熱冷ましの薬を渡しておいたと言っておりました」

「そうか…退がっていい」

 

 ヴァルナルに言われても、カールはしばらくその場から動かなかった。

 気配を感じて、ヴァルナルが顔を上げる。

 

「ヴァルナル様」

 

 カールはまだヴァルナルが領主となる前に呼んでいた名前で呼んだ。

 

「パウル爺はマリーがオリヴェル様の部屋に遊びに行くのを知っていたそうです。その上で、それは若君の為になることだと思って、黙って見ていた、と。実際、マリーやオヅマらと遊ぶようになってから、若君は以前よりも食事の量も増えて、時には気に入ったデザートなどを所望することもあったそうです。それにヘルカ婆が言うには、ミーナの作る食事を気に入っているようだとも…」

 

 ヴァルナルはどんよりした目でカールを見つめてから、椅子の背にダラリと凭れ掛かる。

 

「カール…私がミーナら親子を放逐するとでも? その程度の分別もできぬ愚かな領主だと思うか?」

「いえ。ただ、ご判断の一助となれば幸いでございます」

 

 カールは静かに頭を下げると、部屋から出て行った。

 

 

 

 

 医者の見立て通り、マリーの熱は一晩を過ぎると小康状態になった。

 目を覚ました途端にお腹が空いた、と言う妹に、オヅマはあきれつつもホッとして少し涙が出た。

 

 喉の腫れがまだひどく、芋をすり潰したスープを啜るのにも、痛そうではあったが、それでも食べようとしていることに、心底安堵する。

 喉の痛みは数日続き、しゃべるのにも一苦労だったが、それも三日過ぎ五日過ぎてゆけば、だんだんといつもの口うるさい妹が戻ってきた。

 

 マリーはオリヴェルがまだ病に臥せっているのを知ると、自分が治ったらミーナと交替して看病すると言ったが、オリヴェルと隠れて会っていたことについて、まだはっきりとどうするのかを聞いていなかったオヅマは曖昧に笑うしかなかった。

 

 その頃になると最初に罹患したアントンソン夫人ら、普段からのオリヴェル付きの女中達も回復して世話するようになっていたので、ミーナが戻ってきても良さそうなものだったが、オリヴェルはこの数日の間にすっかりミーナに頼りきるようになってしまったらしい。

 

「もう、仕方ないわねぇ…オリヴェルったら」

と、マリーは笑った。

 

 常日頃から母親の不在がオリヴェルにとって一番寂しいことなのだと気付いていたので、ミーナがオリヴェルのお母さん代わりになってくれればいいと思っていたのだ。

 

 しかし、そのマリーですらもオヅマが熱を出して倒れると、ミーナを連れてきてくれとパウル爺に頼んだ。

 

「そうしてやりたいのは山々なんじゃがのぉ…」

 

 パウル爺は申し訳無さそうにマリーに話して聞かせた。

 

「お前さんのお母さんも、必死で若君の看病を続けたせいで、体調を崩してしまってな。特別に領主様の温情で、館の方で療養しとるんじゃよ」

「母さんも病気になったの?」

「いや。病気というよりも、疲れてしもうたんじゃ。無理もない。何日も寝ずの看病をしておったんじゃから」

 

 マリーは泣きべそをかきながらも、必死にオヅマの看病をしようとしたが、六歳の子供ではオヅマのやってくれたように、体の汗を拭いて、着替えさせることもできない。

 

 パウル爺からオヅマも紅熱病に罹ったことを聞いたカールは、弟のアルベルトに看病に行くよう指示した。

 

 マリーはいきなりオヅマの看病をしに来たアルベルトに、当然ながら拒否反応を示した。

 無口でずっと表情の変わらない、栗茶色の髪に青い瞳の大男。(アルベルトは騎士団において身長ではゴアンに次いで高かった)

 

 近付けばすぐにさっと離れて一定の距離を保つようにした。

 男が自分を殴れる位置に入ってこないように。

 

「俺が怖いのか?」

 

 アルベルトはしばらくオヅマの看病しつつ、マリーの様子を観察していたが、あまりに自分に対する警戒が強いので、思わず聞いてしまった。

 

 マリーはオヅマの寝ているベッドの反対の壁にあるベッド(といっても、古びて使わなくなった衣装箱を三つ並べてその上に藁と布を敷いただけの簡素なものだ)の隅に、小さく座り込んでいたが、尋ねてきたアルベルトをじいっと見つめた後に、小さな声で言った。

 

「……私を……叩かない?」

「………」

 

 その言葉にアルベルトは一瞬、胸が詰まった。

 オヅマが『妹は大人の男が苦手なのだ』と言っていたことを思い出す。

 

 その理由が何となくわかって、アルベルトの眉間に深い皺ができた。

 ビクリと震えるマリーを見て、あわてて弁解した。

 

「いや。気を悪くさせてすまない。怒ってないんだ。こういう顔なんだ」

「………じゃ、笑って」

「…………」

 

 アルベルトは顔の筋肉を総動員してどうにか笑みらしきものを浮かべてみせたが、マリーはまじまじと見つめた後に、すげなく言った。

 

「笑ってない」

 

 アルベルトは辛辣なマリーの要求にどうにか応えようと頑張った。

 バシバシと頬を叩いて、必死になって口元の筋肉を吊り上げると、

 

「変な顔」

と、マリーはやっぱりにべない評価を下す。

 

 その後もマリーの警戒は容易に解かれなかったが、それでもアルベルトがマリーに「絶対に叩かない」ことを約束すると、少しだけ警戒を解いてくれるようになった。

 

 時々、()()()を教えてくれたりする。

 

「もっと、ほっぺたの肉を柔らかくしないといけないわよ」

 

 最終的にはマリーはアルベルトの頬に両手をあてて、ぐりぐり揉んだりするまでに距離は縮まったが、それはまだ先の話。

 

 

 

 

 

 オヅマは記憶が混乱していた。

 

 割れた鏡が降ってくる。

 その中に映る光景にオヅマは怯え、震え、泣いた。

 

 母が父を殺す。母が縊り殺される。母の死体を鴉がつつく。

 

 妹が壊れる。泣き叫びながら、壊れていく。

 

 何人もの悲鳴。何人もの涙。

 

 恨みと憎しみのこもった目で、オヅマを見つめる。

 

 

 

 ―――――生きるんだ、オヅマ

 

 

 

 男の声が聞こえる。その声も徐々に命を失っていく声だ。

 

 

 

 ―――――あなたが殺したんじゃないわ…

 

 

 

 口の端から血を流しながら、女がつぶやく。

 

 

 

 ―――――お願い。どうか…戻ってきて…あなたを死なせたくない…

 

 

 

 悲しげに呼びかける声。

 

 

 オヅマは耳を塞いだ。

 何度も何度も言い聞かせる。

 

 これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ………

 

 

 ―――――素晴らしい、オヅマ! お前は私の……

 

 

 狂喜する男の声が響く。

 

 オヅマは絶叫した。

 

 叫んで目を覚ましたと思ったが、腫れた喉は声が出なかったらしい。

 

 浅い息をしながら、天井を見る。いつもの天井だ。変わりない。

 

 それでも涙に濡れた瞳に映る景色が夢でないと…誰が証明してくれるだろう?

 あの、悪夢こそが現実(ほんとう)なのだと…そう思えば、簡単に世界は裏返ってしまいそうな気がする。

 

 不意に視界にヌッと入ってきた人影に、オヅマはビクッとして固まった。

 

「大丈夫か?」

 

 聞き覚えのあるバリトンの声に、オヅマはじっと人影を見つめる。

 

「あ……」

 

 アルベルトさん、と言おうとしたが、声が出なかった。

 今になってひどく喉が痛いことに気付く。

 

 アルベルトは濡れた手拭いで、オヅマの涙を拭うと、桶に貯めていた水に手拭いを浸してギュット絞る。

 それから細長く折り畳んで、オヅマの額に乗せた。

 

「とりあえず、一山越えたようだ。この後、夕方頃にまた少し熱が出るだろう」

 

 言いながら、水差しの水をコップに注ぐ。

 オヅマの背を支えるようにして起こすと、コップを渡す。

 

 オヅマは震える手でコップをどうにか包み込むように持つと、一口、口に含んだ。

 

 一つだけ灯った蝋燭のわずかな光りの中で、オヅマは辺りを見回す。

 向かいのベッドの上で、マリーが寝ていた。

 いつもはそれはオヅマのベッドで、今オヅマの寝ているベッドでミーナとマリーが寝ている。

 

 藁がチクチクして、おそらく寝心地は悪いだろうが、病気のオヅマにこちらのベッドを譲ってくれたのだろう。

 

「アル……さん、が看病して…」

 

 一言、言葉を発するたびに喉がヒリヒリと痛む。

 オヅマは顔を顰めて、唾を呑み込んだが、呑み込むのすらも痛かった。

 

 アルベルトはオヅマからコップを受け取ると、テーブルの上に置いた。

 

「カールからお前の面倒を見ろ、と命令された。まだ夜明け前だ。もう少し寝ておけ。日が昇ったら、何か食べられそうなものを持ってきてやる」

「そ…んな……朝…駆け…」

 

 オヅマは恐縮した。

 騎士にとって毎日の朝駆けは重要な訓練の一つだ。それに参加できないなど、アルベルトにとっては不本意だろう。

 

 しかしアルベルトはオヅマの額をゆっくりと押して、そのまま寝かせた。

 

「上官の命令は絶対だ。今の俺の任務はお前を看護して、全快させることだ。子供がつまらん気遣いをするな。寝とけ」

 

 ぶっきらぼうな言い方であったが、不思議と安心できる。

 オヅマは目をつむると、ふたたび眠りについた。

 

 

 



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第十話 勇気を出して

「オヅマ、領主様がお呼びだ」

 

 三日寝込んだ後、快癒したオヅマに声をかけてきたのは騎士団の副官であり、アルベルトの兄でもあるカールだった。

 オヅマにとっては剣術の師匠で、最近では親しくなって軽口も叩ける間柄だったが、その顔はいつになく暗く少し怖かった。

 

 オヅマは直感した。

 ずっと保留になっていたオリヴェルの部屋に忍び込んでいた件について、とうとう裁かれる日が来たのだ。

 

 マリーはカールの顔を見た途端に、嫌な予感がしたのか、オヅマの腰に抱きついてくる。

 

「大丈夫だ」

 

 オヅマはマリーの頭を撫でて笑ってみせた。

 内心で、これからどうするかを素早く決める。

 

 とにかくマリーと母だけはここで面倒を見てもらえるように、なんとしても頼みこまねば。

 幸い、オリヴェルが母になついているらしい…とアルベルトから聞いていた。

 オリヴェルの世話係として、母を置いてもらえる可能性はある。

 自分はここから出されても文句は言えない。自分だけなら、どうにでもなる。

 

 マリーはおそらくオヅマの決意を感じ取ったに違いなかった。より強く抱きついてくる。

 

「マリー、待たせたら怒られるよ。な? 掃除、お兄ちゃんの分もやっておいてくれるか?」

 

 オヅマは箒をマリーに持たせた。

 さっきまで久しぶりに小屋の掃除をしていたのだ。

 

「絶対に、戻ってきてよ!」

「………」

 

 オヅマはこういう時、自分の妙に正直な性格を恨んだ。

 絶対、と言われると頷くことができない。

 

 あるいはもしかしたら激昂したヴァルナルが、騎士達に命じてオヅマを領主館から叩き出すことだって、ないこともない。

 

 一瞬、想像してから首を振った。

 いや、ヴァルナルは寛容な人間だ。せめて家族との別れぐらいはさせてくれるはずだ。

 

 オヅマは微笑んでマリーに手を振ると、カールの後についていった。

 

 

 ヴァルナルの執務室に入ると、正面の大きな執務机を挟んでヴァルナルが座り、その背後にはパシリコが控え、机の手前にはネストリが姿勢正しく屹立して、入ってきたオヅマを横目で睨みつけていた。

 

「さて…何か言うことはあるか? オヅマ」

 

 ヴァルナルは自分が呼びつけたが、その理由をオヅマに尋ねた。

 すぐにオヅマは平伏した。

 

「申し訳ありません! 若君と会っていました!」

 

 素直に告白すると、ネストリは前と同じように勝ち誇ったように叫んだ。

 

「私の言った通りでしょう!」

 

 ズイとオヅマの前に進み出て、これみよがしに大仰な身振りでヴァルナルに訴える。

 

「誰の紹介もなく、卑しい親子などを簡単に雇うから…若君のお部屋に忍びこんだだけでなく、恐ろしい病気まで持ち込んで!」

 

 ヴァルナルはしばらく黙ってオヅマを見つめていた。

 

「……オヅマ。オリヴェルとはいつ頃から仲良くなったのだ?」

 

 ヴァルナルの問いかけにオヅマが答えるよりも早く、ネストリが裏返った声で遮る。 

 

「領主様! そのようなこと、どうでもよろしいでしょう!!」

 

 ヴァルナルは軽く息をついて、ネストリをたしなめた。

 

「必要があるから問うている。しばし口を閉じよ、ネストリ。――――で、どうなのだ? オヅマ」

「えっと…領主館に来てから一ヶ月くらいしてからだから…雪解け月の終わりくらい」

「む。かれこれ一月弱といったところか。マリーもか?」

 

「はい。でも、あの…皆に…大人には内緒にしようって言ったのは俺なんです。だから、マリーもオリヴェルも……若君も悪くないんです」

「なるほど。三人の中では一番の年長であるお前の責任は重いな」

「はい、そうです。だから二人は悪くありません。俺の言う通りにしただけです」

 

 ヴァルナルは椅子の背にもたれかけて、愉しげな表情を浮かべる。

 だが、平伏したオヅマには見えず、沈黙がただただ重い。

 

息子(あれ)は体が弱い。普通の子供のする遊びなどできないだろう。お前達、三人集まって何をしていたのだ?」

 

 それはヴァルナルの単純な興味だったのだが、オヅマは質問の意図が読めずに困惑した。

 

「えっと…なんか絵札(トランプ)を使ったゲームとか、駒取り(チェス)とかをオリヴェル…じゃなくて若君に教えてもらったり、マリーが綾取りを教えたり、俺がその…色々…騎士団の話とかして」

「騎士団の話? オリヴェルがそんなものを聞いて喜ぶとも思えないが…」

 

 ヴァルナルが意外そうに言うと、オヅマは思わず顔を上げた。

 

「そんなことないです! オリヴェルはいつも聞きたがってました。領主様の戦った時の話とかしたら、すごく興奮して、誇らしげでした」

「………」

 

 ヴァルナルはなんとも言えず、オヅマを静かに見つめる。

 

「お前がどうして領主様の戦っている時のことを知っているんだ?」

 

 問うたのはカールだった。

 オヅマの目が泳ぐ。

 カールはフンと鼻をならすと、腕を組む。

 

「大方、ゴアンかサロモンあたりに吹き込まれたな。アイツらのことだから、それ以外のつまらん与太話も話しているんだろう…」

 

 オヅマはとりあえず黙って、再び頭を下げる。

 ここで余計なことは言うべきではない。下手すればゴアンとサロモンが鉄拳制裁を受けるかもしれない。

 

「オリヴェルがな…そうか…」

 

 ヴァルナルは独り()ちた後、立ち上がってオヅマの前まで歩いてきた。

 しゃがみこむと、オヅマの肩に手を置く。

 

「顔を上げなさい、オヅマ。どうやら息子と仲良くしてもらって、礼を言わねばならないようだ」

 

 オヅマは戸惑ったように顔を上げたが、すぐに俯いてつぶやくように言った。

 

「でも…今は喧嘩して…まだ仲直りしてないし…」

「そう言えば、そんなことを言っていたな。あの息子が喧嘩とは…」

 

 ヴァルナルにはいつも気弱そうに、白い顔をしてうつむきがちのオリヴェルの姿しか思い浮かばなかった。まさかオヅマと喧嘩ができるほど、元気になっていたとは。

 

「仲直りをする気はあるのだな」

 

 ヴァルナルは朗らかな笑みを浮かべて立ち上がると、厳かに裁定を下した。

 

「息子と会ったことについては不問にする。但し、これまでと同じく息子に友情を持って接すること。いいな、オヅマ」

 

 オヅマは信じられないようにヴァルナルを見つめた。

 穏やかな表情のヴァルナルに泣きそうになる。

 

「はい!」

 

 ありったけの大声で返事する。

 ほぼ同時にネストリが引き攣った顔で、わななきながらヴァルナルに進言した。

 

「領主様…それでは下の者に示しがつきません! この者は決して若君に会ってはならぬという()()()を破ったのです! その上で若君に伝染病をうつして―――」

 

 そこまで言った時に、バタンとドアが開いた。

 

 その場にいた人間全員がドアの方を見れば、オリヴェルとマリーが顔をしわくちゃにして大泣きしている。

 

「ぼっ、僕が…っ…僕が悪いんだっ! マリーもオヅマも悪くない!!」

 

 オリヴェルが泣きながら、必死に訴える。

 横のマリーも必死に言葉を紡ごうとしていたが、しゃっくり返って言葉にならないようだった。

 

 全員が唖然となって、しばらく執務室には子供の派手な泣き声だけが響いた。

 

 

 

 

 ここで話をマリーに戻そう。

 

 泣きそうになりながらオヅマに手を振って別れたマリーは、しばらく一人しょんぼりと箒を動かしていたが、急に腹を決めた。

 

 箒を放り出し、小屋から飛び出す。

 通い慣れたミモザの木まで来るのは簡単だった。まだ、紅熱(こうねつ)病は館の使用人達の間で流行しており、いつもよりも人気(ひとけ)がなかったからだ。

 

 マリーは祈った。

 オリヴェルに会えますように。そうしてどうにか会話できますように、と。

 

 ミモザの木をするすると登って、バルコニーに辿り着く。

 いつも閉じられていたカーテンは、オリヴェルの指示なのか、すべて開かれていた。

 

 窓越しにベッドに座って本を読むオリヴェルが見えた。

 マリーは嬉しいのと、今の状況の危うさに、うるうると涙目になった。

 

 しばらくその場に佇んでいると、うーんと背伸びしたオリヴェルが、マリーに気付いた。

 

「マリー!」

 

 オリヴェルはすぐさま起き上がり、バルコニーの窓を開けて駆け寄ってくる。

 その部屋にいた女中のゾーラがあわてて出てきて、オリヴェルにガウンを着せながら、マリーを睨みつけた。

 

「まぁ! ネストリさんが言った通りじゃないの! どこから入ってきたの? 若君には会っちゃ駄目って言われていたでしょう、マリー!」

 

 オリヴェルはポロポロと涙を流すマリーの肩をそっと抱いてから、キッとゾーラを睨みつけた。

 

「黙れ! それ以上、マリーを責めるなら、お前なんてここから追い出してやる!」

「わ…若君…」

 

 ゾーラは青くなって後ずさる。

 オリヴェルは冷たい顔のまま、部屋の中にマリーを連れて入った。

 

 とりあえずマリーの涙を袖口で軽く拭ってから、オリヴェルはマリーをベッドに座らせた。

 隣に座ると、オリヴェルは突然、頭を下げた。

 

「ごめん、マリー」

 

 マリーはびっくりして、目をしばたかせる。

 

「どうして? どうしてオリヴェルがあやまるの?」

紅熱(こうねつ)病に(かか)って、ずっとミーナに看病してもらって…体調まで悪くさせてしまって。マリーにもオヅマにもずっと謝りたかったんだ。僕のせいで、ごめん」

「そんなの、全然大丈夫よ。今だってお母さんはこっちの温かい部屋で休ませてもらってる、って聞いてるわ。小屋に戻ってきていたら、私もお兄ちゃんも病気になっちゃってたから、お母さん、またずっと看病しなきゃならなかったろうし…」

 

 何気なくマリーは話したが、オリヴェルは愕然とした。

 

「なんだって? マリー…君も、オヅマも病気になってたの?」

「うん」

「なんてことだ!」

 

 オリヴェルは立ち上がって叫ぶと、隅で小さくなっていたゾーラにつかつかと歩み寄る。

 

「……どうして僕に言わないんだ?」

「そ…それは…その、女中頭様からの命令で……」

「すぐに呼んでこい!」

 

 オリヴェルの迫力に気圧(けお)され、ゾーラはあわてて部屋から出て行く。

 

 すぐにゾーラと共に現れたアントンソン夫人は、ベッドの傍らで所在なげに立っているマリーに気付くと、眉を寄せたが、それよりも部屋の中央で仁王立ちしたオリヴェルの剣幕に内心、驚いた。

 それでも表情には出さず、いつものごとく折り目正しくお辞儀する。

 

「何か、御用とうかがいましたが…」

「マリーとオヅマも熱を出していたらしいじゃないか」

「……そのようで御座います。ですが、もう既に…」

「そういうことじゃない! ミーナに僕の看病をさせるよりも、彼らが優先されるべきだろう! ミーナはマリーのお母さんなんだぞ!」

「お言葉でございますが…」

 

 アントンソン夫人は鹿爪らしい顔で、静かに述べた。

 

「お坊ちゃまの看護をするように…との命をご領主様が下したのでございます。この館で働く人間であれば、逆らえるはずもございませぬ」

「だったら、ミーナはマリーが病気になったことを知っていたのか!?」

「………」

「ミーナに知らせてもいないんだろう、お前達は!」

「……心置きなく坊ちゃまのお世話ができるように、との執事の配慮でございます」

「黙れ! この…」

 

 オリヴェルは拳を握りしめながら、もどかしかった。

 

 こういう時、オヅマは何と言っていたろう?

 よくネストリのことを話していたら言っていた…あの、なんとか野郎…とか言う言葉。なにか汚いもののような……汚物野郎? いや、そんな言い方ではなかった……。

 育ちのいいオリヴェルには縁のない言葉だったので、出なかったのも無理はない。

 

 マリーは激昂したオリヴェルにしばらくびっくりしていた。

 しかし急に黙り込んで考え込んでいる様子を見ている間に、ハッとここに来た目的を思い出す。

 

「オリヴェル!」

 

 マリーは走ってオリヴェルの腕を掴んだ。

 

「大変なの! お兄ちゃんが領主様に呼ばれて行っちゃったの」

「なんだって?」

「お兄ちゃん…きっと怒られるんだわ。私達、もうここにいられない」

 

 マリーは言っている間に涙がまたポロポロとこぼれた。

 

「冗談じゃない!」

 

 オリヴェルは吐き捨てるように言うと、ドアに向かって歩き出す。

 アントンソン夫人があわてて立ち塞がった。

 

「お待ち下さい! 若君! どこに向かわれるのです!?」

「父上のところだ!」

「今はご領主様のご判断にお任せくださいませ!」

「黙れ! そこをどけ!」

 

 叫んでもドアの前から動かないアントンソン夫人に、オリヴェルは殴ろうかと手を振り上げたが、その手をマリーが掴む。

 

「叩いちゃ駄目! 痛いんだよ!!」

 

 泣きながらマリーに言われて、オリヴェルは息を呑む。

 

 いつだったか…オヅマが話してくれたことがある。

 マリーとオヅマの父親は飲んだくれのロクデナシで、マリーはその父に殴られていたのだ、と。

 

 ギリと唇を噛み締めてから、オリヴェルは手を下ろして、アントンソン夫人を冷たく見つめた。

 

「息子が父に会うのを邪魔するなら、お前がここにいる権利はない」

「………若君」

「二度は言わない。今まで黙っていたけど、その()を僕は持っているんだ。違うか?」

 

 アントンソン夫人はその静かな剣幕にたじろいだ。

 ただの病弱で癇癪持ちの子供だと、内心で軽蔑していたことを見透かされたのかと、途端に不安になる。

 

 ドアの前からアントンソン夫人が立ち退くと、オリヴェルはマリーの手を握って廊下へと出た。

 

 

 

 

 久しぶりだった。この廊下を歩くのは。

 

 オリヴェルは左手でマリーの手をしっかり握り、動悸する心臓に右手を当てながら、窓からの光が所々に落ちた薄暗い廊下を、しっかりした足取りで歩いていた。

 

 実のところ、もっと幼い頃は何度か部屋から出て、館内をうろつき回っていたのだ。ただ、たいがい途中で迷ったりしている内に、疲れて座り込む羽目になり、そうなるといつも召使いに抱っこされて部屋に戻された。

 その度に叱られた。

 だから大きくなるに従って、だんだんと出歩くことはなくなっていった。

 

 一年半ほど前。

 

 オリヴェルはその夜、懐かしい人の出てくる夢を見て目を覚ました。

 起きた時にそれが夢だとわかると、自然と涙がこぼれた。

 夢の中に久しぶりに現れたのは、赤ん坊の頃からオリヴェルの世話を見てくれた女性だったが、彼女はオリヴェルが5歳の時に、ひどい言葉を吐いて出て行ってしまっていた。

 

 真夜中の一人ぼっちの部屋は、ひどく寂しい。

 さっきまで見ていた夢が幸せだった分、起きた時の喪失感は深かった。

 不意に人恋しくなって、オリヴェルは部屋からしばらくぶりに出た。

 

 誰か……を求めながら、オリヴェルが探していたのは父だった。

 

 オリヴェルが物心つく頃には長引く戦でおらず、領主として帰ってくるようになっても一年の半分は不在の父。

 当然、親子関係は稀薄なものになっていたが、オリヴェルは時折父が自分の寝ている時に会いに来ているのを知っていた。

 

 以前に何度も父が不在の時に来ていた執務室は、夜遅い時間にもかかわらず灯りが漏れていた。

 まだ、父が仕事をしているのだろう。

 

 オリヴェルは扉の前で逡巡《しゅんじゅん》した。

 ノックをしようか、それともそっと開けて、父の姿だけ覗いてみようか…。

 

 オリヴェルは静かにしていたつもりだったが、騎士の中でも高位の能力を持つ父は、扉向こうの気配を感じたのだろう。

 いきなり扉が開き、暗がりに現れた威圧的な男の姿に、オリヴェルは腰を抜かした。

 

「ヒッ…!」

 

 驚愕と恐怖が同時に襲ってきて、キュウゥと引き絞られる心臓の痛みに胸を掴む。

 

「う……あ……」

 

 一気に気持ちが萎えて、視界が暗くなり、オリヴェルは倒れ込んだ。

 

 父は気を失ったオリヴェルを部屋まで運んで、寝台に寝かせてくれたようだ。

 

「……父上…っ」

 

 父が立ち去りかける寸前に、目を覚ましたオリヴェルはあわてて呼びかけたが、父は振り向きもせず冷たく言った。

 

「……部屋にいなさい」

「…………はい」

 

 ごめんなさい、と小さくつぶやいた声を父は聞いただろうか。

 言い終わると同時に扉はパタリと閉まった。

 

 以来、オリヴェルは部屋から一歩も出なくなった。

 父に会いたいという気持ちもなくなった。……いや、封印した。

 

 けれど、今はなんとしても父に会わなければならない。

 会って、オヅマもマリーも自分の我儘に付き合ってくれただけなんだと…ちゃんと言わなければ!

 

 オリヴェルが武者震いすると、マリーがギュッと握っていた手に力をこめる。

 心配そうなマリーに、オリヴェルはニコリと笑った。

 

「大丈夫!」

 

 オリヴェルは少しだけ足を早めた。

 自分のためだけじゃない。マリーのため、オヅマのためだと思うと、不思議なくらい力が満ちてくる。

 

 

 ―――――わかった…

 

 

 どうしても一緒に遊びたいのだと駄々をこねたマリーとオリヴェルに、オヅマは根負けしたように言って笑った。

 優しい、温かな眼差しに、オリヴェルは初めて胸がじんわり熱くなった。

 

 オヅマは―――…。

 

 領主の息子であるオリヴェルにもぞんざいな口調で、でも決して病弱なオリヴェルを見下したりはしなかった。

 最初から無理だと諦めさせる周囲の大人とは違う。

 

 

 ―――――そうやって不幸()()の、やめろよ

 

 

 辛辣な言葉。

 あんなに怒ってしまったのは、それが本当だったからだ。

 オヅマはオリヴェルの卑屈な心を正確に見抜いていた。 

 

 

 ―――――友達が『生きてても仕方ない』なんて言ってるのを聞いて、いい気分になるもんか!

 

 

 叱られながらも、本当は嬉しかった。

 初めてできた『友達』。

 一方的に自分だけがそう思っているんじゃない。オヅマもオリヴェルのことを友達だと思ってくれている…

 

 オリヴェルは感じたことのない胸の痛みに涙が出てきた。

 ぽろりと一筋頬を落ちると、とめどなく溢れ出す。

 

 嫌だ、嫌だ!

 絶対にマリーもオヅマも館から追い出すなんてことはさせない。

 もし、彼らを追い出すというなら、僕も出て行ってやる!

 

 ようやくたどり着いた執務室のドアを開けると、オリヴェルは叫んだ。

 

「…僕が悪いんだっ! マリーもオヅマも悪くない!!」

 

 

 

 






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第十一話 領主様の度量

 オヅマは呆然としていた。

 

 一体、何が起こっているのだろう?

 

 居並ぶ大人達の間で床に座り込んでいるオヅマを見て、オリヴェルとマリーはわっと駆け寄った。

 

「お兄ちゃん!」

「オヅマ! ごめん!」

 

 二人から抱きしめられ、オヅマは目を白黒させる。

 

「僕のせいで二人を…オヅマ達を館から追い出すなら、僕もここを出て行く!」

「嫌だぁ~!」

「…………」

 

 盛大な泣き声を聞きながら大人達は互いに目を見合わせた。

 

 皆が渋い顔なのは、まるで自分達が子供達を泣かせているような構図で、なんとなく腑に落ちない。

 

 その時、静かだが凛とした声が響いた。

 

「失礼致します。ミーナでございます」

 

 白い寝間着の上にベージュのショールを掛けた姿で、ミーナが頭を下げていた。

 沈着な態度ではあったが、よほど急いできたのは裸足であるのを見れば明らかだ。

 

「このような身なりでご領主様にお目にかかりますこと、平にご容赦下さいませ。我が子達が若君に対して失礼があったこと、聞き及び、(まか)り越しましてござります」

 

 ヴァルナルを初めとして、子供達以外の大人は、ミーナのその古風ながらも分を(わきま)えた物言いに、思わず息を呑んだ。

 

 ミーナはオリヴェルが出て行った後、血相を変えたアントンソン夫人に叩き起こされ、そこで我が子の不行状を聞いて、あわててやって来たのだが、青い顔をしつつも落ち着いた所作でマリーのかたわらにしゃがみこんだ。

 

「おっ…お母さ…」

 

 マリーはしばらくぶりに会えた母に抱きつく。

 ミーナはマリーの背中をさすりながら、オヅマに目配せして頭を下げた。

 オヅマは母の隣で再び平伏した。

 

「申し訳ございませぬ、領主様。前に若君の病もあってご猶予(ゆうよ)をいただきましたが、再度謝罪に参りました。重ね重ね、親である私の責任でございます。許されぬ身なれば、いかようなる罰も(いと)いませぬ」

 

 ミーナの声は少しだけ震えていたが、きっぱりと言い切る姿はある種の崇高ささえ感じられた。

 

 ヴァルナルはふぅと溜息をもらすと、ヒラヒラと手を振る。

 

「罰を与える気など…最初から毛頭ない。オヅマもミーナも頭を上げよ。それと丁度よい、アントンソン夫人。聞きたいことがある」

 

 ミーナの後ろからやって来て様子を窺っていたアントンソン夫人は、急に呼ばれてビクンとしながらも背筋をいつも以上に伸ばして、部屋へと足を踏み入れる。

 

「オリヴェルのこの一月のことだ。普段より世話をしている貴女(あなた)から見て…病気になる前、オリヴェルの体調はどうであった?」

 

 アントンソン夫人は素早く居並ぶ面子(めんつ)を見た。

 途中でネストリが何か言いたげに睨んできたが、フイと目を逸らし、澄まして答える。

 

「病気になる前であれば、以前に比べましてお食事を残されることは少なくなったと思います。嫌いな野菜なども、懸命に食べておられるご様子でございました。そのせいか、体重も増えたと医者(せんせい)が申しておりました。此度の病気も、このところ食事をとって体力をつけていたお陰で、随分と思っていたよりもこじらせずに済んだと仰言(おっしゃ)っておられました」

「そうか。下がってよい」

 

 ヴァルナルが言うと、アントンソン夫人はとっとと出て行った。

 虎穴から逃げられた気分である。

 

「さて…」

 

 ヴァルナルは未だに頭を下げたままのミーナの前にしゃがみこんだ。

 

「そういう訳なので、今後とも息子のためにミーナには滋養のある食事を作ってもらわねばならぬ。よいかな?」

 

 ミーナは一度だけ顔を上げて、朗らかな笑顔を浮かべるヴァルナルを見た後、再び頭を下げた。

 

「ご随意に」

「では、早く元気になってもらわねばな」

 

 ヴァルナルはミーナの手を持つと、立ち上がらせた。

 

「部屋まで送ってやりたいところだが、まだ話さねばならぬこともあるのでな…パシリコ、ミーナを部屋まで送ってやれ。マリーとオリヴェルも部屋に戻りなさい。大丈夫だ。誰も追い出したりはしない」

 

 最後のヴァルナルの言葉に、マリーとオリヴェルはようやくホッと喜色を浮かべた。

 パシリコに連れられて行くミーナと一緒に出て行く。

 

「オヅマ、さっきも言ったようにこの事は不問だ。これからも友として、息子と仲良くしてやってくれ」

 

 オヅマは立ち上がると、ペコリと頭を下げて部屋を出た。

 

 しばらくボーっと廊下で立ち尽くす。

 なんだか全部がいいようにいった気がするが、これは夢なんだろうか? 

 頬を思いきりつねってから、痛みに顰め面になる。

 

 その時、廊下の角からひょっこりとマリーとオリヴェルが顔を出した。

 オヅマはニッと笑って、二人のところへと走っていった。

 

 

 執務室に残っていたネストリは目の前で繰り広げられた一連の出来事に苦虫を噛み潰していた。

 執事の不満げな様子にヴァルナルは軽く溜息をついてから、椅子に腰掛ける。

 

「…こういう事だ、ネストリ」

「ですが、領主様! さっきも申しましたように、それでは下の者に示しがつきません! あの兄妹は決して若君に会ってはならぬという()()()を破ったのです! その上、病弱な若君に悪しき病気を伝染(うつ)して…アントンソン夫人はああ申しましたが、一時は命も危ぶまれたのですよ!」

 

 ネストリは激昂のあまり裏返った声で必死に訴えたが、ヴァルナルを始めカールも冷たい視線だった。

 ヴァルナルは机の上で肘をつき、手を組み合わせて顎を置き、じっとネストリを見上げる。

 

「そもそもまず、私は息子に特定の誰かと会うことを禁じた覚えはない」

「し……しかし、こうして悪い病に罹ることもあると思って…」

「事態は正確に把握せねばならぬ。オヅマ達がオリヴェルと知り合い、一緒になって遊ぶようになったのは先月の話だ。それから一月近くを経てから発症とはおかしいではないか。そもそも、その時には紅熱(こうねつ)病は流行(はや)っていなかったのだ」

「それは……」

 

 ネストリは正確なところを突かれて口ごもる。

 ヴァルナルは相手が怯んだとみるや、鋭い目で刺した。

 

「むしろ、流行し始めたのは君が実家から帰ってきてからと記憶している」

 

 ネストリはギョッとなった。

 まさか自分に矛先が向くとは思っていなかった。

 

「りょ、領主様ッ! わ、私がこの病の元凶と仰言っておいでですか!?」

「この病に関して、誰かに対して感染の責任を問うつもりはない。そもそもどこから流行ったかなど、わかりようもない。領地には他国からの商人達も多く訪れる。明らかに誰と特定できようはずもない」

 

 ヴァルナルは言いながら、ゆっくりと椅子に凭れかかった。

 大きく胸をひらいた姿は横柄にも見えたが、その威容にネストリは口を噤む。

 

 ヴァルナルは重ねて言った。

 

「ミーナは自分の子供よりも優先して我が息子を看病し、その娘は自分もまた病にありながらオリヴェルに母を譲ったのだ。この一事をとっても、息子にとってマリーとミーナが恩人であることは間違いない。恩人を追い出すなど、そのような恥知らずな真似を私にさせるのか、ネストリ」

「………」

 

 ネストリは何も言えなかった。

 ヴァルナルの論法はケチのつけようもない。

 

「私は君に執事としての権能を与えたが、勝手な規則を作って領主館を差配することを命じた覚えはない。この領地においての法は私である。僭越(せんえつ)なことをするな」

 

 普段は柔和なヴァルナルのグレーの瞳に怒りにも似た閃きが宿り、ネストリは軽く後ずさった後、無言で頭を下げた。

 

 ヴァルナルが出て行くよう手を振ると、そのまま部屋を出て行く。

 

「まったく…いよいよ困った執事殿ですね。公爵邸に送り返した方が、本人も嬉しいのではないですか?」

 

 カールがあけすけに言うと、ヴァルナルは苦笑した。

 

「それが、あちらでもさほどに入用ではないらしくてな」

「まったく。不良人材を押しつけないでほしいですね。領主様も律儀に彼を雇っておかずともよろしいのに」

「まぁ…下手に解雇して痛くもない腹を探られるのも面倒だからな」

 

 ヴァルナルが言うと、カールはむぅと眉をひそめる。

 

 本家となる公爵家が目付として家臣の家に使用人を()()ことは、公然の間諜であり、それを断れば忠義を疑われる。

 だが、ヴァルナルと公爵の間でそんな隔たりがあるとは思えない。

 

「まさか。公爵様が領主様に対して不信を抱くことなどないでしょう?」

「公爵様がそうであっても、周りにはいくらでも讒言(ざんげん)しようと待ち構える人間はいる。ま、ネストリごときで狼狽(うろた)えているようでは、私の器も小さいと思われるだろう。それに館の維持管理について彼が優秀であるのは確かなことだ。要は、彼の長所を上手く使って、短所はその都度、()めればよかろう」

 

 ヴァルナルが一応の結論を出した時に、パシリコが戻ってきた。

 

「ミーナを部屋まで送り届けました」

「ご苦労。顔色が思わしくないようだったが、大丈夫だったか?」

「支えようとしましたが、気丈な女でして、最後まで一人で歩いて部屋に入っていきましたよ。部屋に入る時も私に、領主様のご温情に感謝していると伝えてほしい、と言われました」

 

 ヴァルナルはその報告を聞いて、顎髭を撫でる。

 つぶやくように問いかけた。

 

「お前達、ミーナについてどう思う?」

 

 唐突な質問の意図がわからず、パシリコとカールは目を見合わせた。

 やや間をおいて、パシリコは咳払いしてから言う。

 

「えー…確かに多少目を引く女人ではございます」

 

 その答えはヴァルナルの求めたものではないようだった。

 ジロリと睨みつけられ、パシリコは内心で首を傾げる。

 

「厨房の下女とは思えぬほどに、洗練された女人だと思いました」

 

 カールが言うと、それこそが求めた答えであったようで笑みを浮かべる。

 

「そうだ。聞いたか?『いかようなる罰も厭いませぬ』などと古びた言いよう…そこらの領主館の召使いの言葉遣いではない」

「そういえば…さっきも領主様が顔を上げろと仰言ったのに、一度では拝跪礼を解きませんでしたね」

 

 カールが重ねて同調すると、ヴァルナルは我が意を得たりとばかりにニヤリとする。

 

「貴人に対しては、一度の赦しで頭を上げるのは不敬とされるからな。そんな細かな()()()()など、ここでは無用のものだというのに」

 

 あきれたような言い方をしながらも、ヴァルナルの目は穏やかな光を浮かべている。

 

 カールはまさか、と思いつつもそれとなく言ってみた。

 

「そういえば、ミーナは金鴇(キンホウ)の年の生まれと申しておりましたから、今年で28になりますね」

「……どうしてそんなことをいきなり言いだすんだ?」

「いえ。弟と同じ年だと思っただけです」

 

 カールはしれっと矛先を躱したが、パシリコが余計なことを付け加える。

 

「おぉ、そういえばアルベルトはオヅマ達兄妹とは随分と仲良くなったようだし、ミーナとは似合いかもしれんな」

 

 案の定、というべきか、意外に、というべきか…ヴァルナルの顔が一気に無表情になった。

 カールは無頓着なパシリコに溜息をついた。

 

「それでは一件落着しましたし、私はこれにて騎士団に戻ります」

「む。来週からの演習について、各班長と話しておくように」

「はッ」

 

 カールは肘を前に突き出して敬礼すると、部屋から出た。

 

 こういう時は鈍感なパシリコが領主様付きの警護担当で良かったと思う。

 

 それにしても、あの親子は三人とも、この館にとんでもない風を運んできたようだ。………

 

 

 



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第二章
第十二話 領主館の春


 すったもんだの一騒動の後、一番変化があったのは、ミーナとマリーが西棟にあるオリヴェルの部屋の階下に移ったことだった。

 その部屋は元々はアントンソン夫人の小休憩所のような場所であったのだが、マリーが頻繁に(というより毎日)オリヴェルのところに行くこともあり、気難しいオリヴェルの世話係はミーナという既成事実が出来上がってしまったこともあり、

 

「それならばオリヴェルの近くにいた方がよかろう」

 

というヴァルナルの鶴の一声で移動させられたのだった。

 

 アントンソン夫人は厨房付きの下女であるミーナがでしゃばってくるのは不愉快であったが、これであの癇癪持ちの若君の面倒をみなくて済むのだと思うと、いっそせいせいして、ミーナにありとあらゆるオリヴェルに関する仕事を任せた。

 

 それこそオリヴェルの服や下着の洗濯から、給仕から、寝かしつけまで。

 ミーナは年老いたヘルカ婆を放っておくこともできず、厨房の仕事もしながら、新たに増えた世話係としての仕事も文句を言わずにやっていたが、とうとう無理がたたって再び倒れてしまった。

 

 ちょうどその場に居合わせたヴァルナルは、ミーナを部屋に寝かせた後、すぐさまアントンソン夫人を呼んだ。

 

「聞いたところによると、ミーナに洗濯までさせていたようではないか。なぜ、洗濯女中にさせない? 食事の片付けや朝の支度まで……」

「それは…お坊ちゃまがいたくミーナを気に入っておりますので…」

「ミーナに世話係を任せたからといって、他の女中の仕事をさせるようにと指示した覚えはない。この程度のことで、私に口を出させるような無能者はいらぬのだぞ、夫人」

 

 静かな恫喝に、夫人はゾオーッと背筋が凍りついた。

 同時にオリヴェルだけでなく、どうやら領主様にとってもミーナは特別な存在らしい、と推量する。

 下手にミーナに嫌がらせなぞすれば、簡単に解雇されるだろう。紹介状すら書いてもらえぬかもしれない。

 

 アントンソン夫人は深々と頭を下げて陳謝した後、すぐさまオリヴェル付きだった女中のゾーラを呼びつけて、今後は絶対にミーナに洗濯をさせず、朝の支度も以前のように女中達の持ち回りで行うよう言いつけた。

 

 ミーナに仕事を回せて楽ができたと喜んでいた西棟の女中達は、アントンソン夫人の厳しい叱責と、もし今後ミーナの負担になるようなことをすれば、この館から追い出されることを覚悟しろと脅され、一気に肝を冷やした。

 

 その後は多少時間の余裕もできたミーナではあったが、やはり朝早い厨房の仕事と、オリヴェルの世話係の両立はなかなかに大変だった。

 相変わらず、文句を言わずに忙しく働き回るミーナを見て、ヴァルナルは古参の料理人であるヘルカ婆を呼んだ。

 

「ヘルカ婆よ、申し訳ないがミーナにはオリヴェルの世話を(もっぱ)ら任せたいと思うのだ。新たな厨房の下女を雇うまで、しばらく頑張ってもらうことはできるか?」

 

 しかしその申し出に、ヘルカ婆はよりよい提案を示した。

 

「いえ、ご領主様。実は婆めも相談したいことがございました。といいますのも、我が娘…えー、確か今年で三十八だったか、九だったか…紫梟(シキョウ)の年の生まれでございますが…まぁ、それはよろしゅうございます。その娘の夫が先月、病気で亡くなってしまいまして。寡婦となった娘と孫二人を呼び寄せることができましたら、婆めも爺も安心して隠居できるというものでございます」

 

 ヴァルナルは快諾した。

 

 それから数日も経たないうちに、パウル爺そっくりのヘルカ婆の娘・ソニヤは、成人した娘と息子と共にレーゲンブルトにやって来た。

 娘のタイミはソニヤと共に厨房付きの下女となり、息子のイーヴァリはパウル爺について庭師見習いとして働き始めた。

 

 一方、オヅマである。

 

 マリーとミーナにあてがわれた部屋が三人で起居するには手狭であるのに加え、オリヴェルの世話で夜遅い時間に戻ってきて、短い睡眠をとっている母の邪魔をしたくなかったので、オヅマは小屋に留まることにした。

 

 ここであれば、朝早い時間に多少物音がしても、ミーナが敏感に起きてくることもない。最初は少しだけ寂しかったが、別に会えないわけでもないし、慣れてくると一人でいるのは気楽なものだった。

 

 月の冴えた晩に、昔、ミーナがよく歌っていた歌を歌うのも良かったし、夜の眠れない時にひたすら木剣の素振りをするのも自由である。

 それまではさほど気にしていなかったが、ミーナもやはり親なので口うるさく言われることもあり、多少鬱陶しかったんだな…と、子供ながらに思ったりする。

 

 そんなことを厨房の新たな料理人となったソニヤに言うと、「フン。ツッパっちゃって」と軽く笑われた。

 小麦袋を運んだお礼に、今日のおやつのスコーンをつまみ食いしていたオヅマはムッと言い返す。

 

「なんだよ、本当にそう思うんだから」

「ハイハイ。アンタの母親は立派に息子を育てているよ。ちゃあんと、巣立つ準備もしてるってワケだ。さすがだね」

「なんだよ。結局、褒めてんのは母さんじゃんか」

「そりゃあね。あんな出来た人は帝都(キエル=ヤーヴェ)にだってそういないだろうよ」

 

 何気なく言われた『帝都』という言葉に、いまだに顔が一瞬こわばるのは何故だろうか。

 オヅマは誤魔化すように大口開けてスコーンを食べながら、ソニヤに尋ねた。

 

「…帝都に行ったことがあるの?」

「一時ね。小娘の憧れってモンさ。商家で女中をしてたが、そこで旦那に会って、それから旦那につき合って……ま、私もあちこち巡り巡ってここに戻ったってことさ。それより、オヅマ。私は時々閃くんだよ」

「は?」

 

 オヅマは聞き返しながら、2個めのスコーンに手を伸ばしたが、ソニヤは容赦なく引っぱたいた。

 

「痛ぇッ! なんだよ、もう…」

「オヅマ、ちゃんとお聞き。予言だよ。ミーナはおそらく領主様の奥方になるであろう……」

 

 いかにも占い師然と厳かな雰囲気でソニヤは言ったが、持っているのが笏杖ではなく、オタマなので、まるで信憑性がなかった。

 そもそも、予言の内容自体が有り得ない。オヅマは狐につままれたような顔になった後、プッと吹いた。

 

「馬ッ鹿で~。ソニヤさん、冗談キツイよ。ナイナイ、ムリムリ」

「フン。子供にゃわからないだろうよ」

「子供だってわかるよ。一介の召使いが領主様の奥方になんて…どんな絵物語さ。夢見過ぎだよ」

 

 普通に考えれば、オヅマの言っていることはもっともだった。

 ただ、領主館にいた使用人達は徐々に気付き始めていた。

 当人達が自覚する以上に、客観的にはヴァルナルの態度はわかりやすいものだったからだ。

 

 その最たることは、本来であればとっくに公爵領アールリンデンに向かう時期だというのに、いまだに領主館に残っていることだった。

 一応、名目では春先に紅熱病の流行があったせいで、仕事が滞っている…と公爵家には説明しているらしかったが、それだけでないのは明らかだった。

 

 使用人たちは噂した。

 

「やっぱり…ミーナかねぇ?」

「そうだろうよ。やたら頻繁に呼びつけては、オリヴェル様のことを聞いてるっていうが、今までの世話人の女には、そんなことなかったじゃないか。むしろ、遠ざけたりして…」

「下手すりゃ、来月までいらっしゃるんじゃない?」

「いや~、そりゃないだろ。来月ったら、緑清(りょくせい)の月になっちまうじゃないか。朔日(ついたち)には公爵様とご一緒に帝都に行かないといけないだろう?」

 

 毎年、各地に散った貴族達は、緑清(りょくせい)の月朔日(ついたち)には自分たちの所領から出立して、帝都に向かうのが慣例となっている。

 ヴァルナルもまたそれに合わせて、公爵と共に向かうため、それまでに公爵本領地(アールリンデン)に到着していることが、必須なのだ。

 

 確かに紅熱病の流行で多少遅れるのは仕方ないとしても、季節が暖かくなるに従って流行も既に終息しているというのに、まだ向かおうとしないのは、公爵様一筋の忠義者のヴァルナルには珍しすぎることだった。

 

 その理由を考えた時、昨年までと違うことといえば、一つしかない。

 

「領主様にも春が来たねぇ~」

 

 多くの使用人達は、この領主様の不器用な意思表示を微笑ましく見守った。

 

 

 

 

 雨の日と、月に一度の休養日が重なって、オヅマは久々にオリヴェルに会いに来ていた。

 不思議といつでも会えると思うと、足が遠のく。

 オリヴェルのお気に入りはマリーだし、今はミーナにもついてもらっているので、自分はそんなに必要でもないだろうと思っていたのだ。

 

「やっと来た」

 

 しばらくぶりに会ったオリヴェルは、オヅマを見るなりむくれた顔になった。

 

「なんだよ? またぶっ倒れて、おんぶされたいのか?」

 

 オヅマがからかいながら言ったのは、例の執務室の一件の後、三人は抱き合って喜んだのだが、気が緩んだオリヴェルは急に力をなくして倒れ込んでしまったのだった。

 意識を失うまでではなかったが、足に力が入らないというので、オヅマがおんぶして部屋まで運んだのだ。

 

 紅熱病のことがあって、館には公爵家から送られた医師が常駐していたので、いつもの医者を呼ぶまでもなく、診察してもらえた。

 

「おそらく急に走ったからでしょう。まだ体を動かす準備をしないうちから、無茶をすると、体が対応できずに力がなくなってしまうのです」

 

 まだ年若い医師は、オリヴェルに食事を十分に食べて、少しずつ体力をつけていくように助言した。

 それまでオリヴェル専属の老医師はとにかく寝ておけ一辺倒であったが、帝都のアカデミーを卒業したばかりの、新たな知識を身に着けた医師は、まったく違った診断を下したのだった。

 

 彼は紅熱病が鎮火していくと、公爵の本領地に戻っていったが、ヴァルナルの要望で一月に一度は往診に来てくれることになった。

 

「もうおんぶなんて出来ないさ。随分食べるようになって、太ったからね」

 

 オリヴェルはふん、と笑って言ったが、オヅマはつかつか寄ると、あっさり持ち上げた。

 

「うん。ま、多少重くなったな」

「おろせ! 馬鹿!」

「おぅ、そんな言葉言うようになったか。覚えたか? ()()野郎だぞ、クソ野郎。ちなみに女に向かって言う時は…」

 

 スラングを教えていると、マリーが思い切りオヅマの足を蹴った。

 

「オリヴェルにヘンな事教えないでよ!」

 

 オヅマは痛みに耐えつつ、そっとオリヴェルをおろす。

 

「痛ェだろ! オリヴェルごとひっくり返ったらどうすんだよ、お前」

「お兄ちゃんはそんなことしないでしょ」

 

 振り返って怒る兄に、マリーはにっこり笑って言う。ますますこまっしゃくれてきた。

 

 オリヴェルはぎゃあぎゃあと喚くオヅマを見て溜息をもらした。

 

 ここのところは自分もミーナが作ってくれる(オリヴェルの食事に関してだけ、いまだにミーナが調理を担当していた)料理のお陰で、好き嫌いも少なくなり、肉も随分と食べるようになってきたのに、オヅマは会うたびごとに背も伸び、体つきはどんどん鍛えられたものになっていく。

 騎士団で訓練を受けているのだから、当たり前なのだろうが…。

 

「今日は母さんは?」

 

 オヅマはキョロキョロと見回した。

 これだけ大声で喋っていて、ミーナの叱言が聞こえてこないのは不思議である。いつもなら、オリヴェルを持ち上げた段階で叱られ、クソ野郎の段階で頭を殴られていたはずだ。

 

「母さんなら領主様にお茶を淹れに行ったわ」

 

 マリーが当たり前のように言う。

 

「お茶ァ? そんなのネストリか、他の女中がやる仕事じゃないか」

「よくわかんないけど、母さんの淹れたお茶が美味しいんだって」

 

 オヅマはふとソニヤの言葉を思い出した。

 

 

 ―――――ミーナは領主様の奥方になるであろう!

 

 

 ブンブンと首を振って、追い出す。

 一体、何を言い出すのだ…あのおばさんは。

 

「たぶん、僕のことを色々と聞いてるんだと思うよ。父さんはいつも人から僕の話を聞くから…」

 

 オリヴェルは補うように話してくれたが、その顔はさびしげだった。

 

「話せばいいじゃないか、領主様と」

 

 オヅマは軽く言った。「あの時みたいに、執務室でも寝室でも、入っていったらいいじゃないか」

 

「そんなこと……」

 

 頭を振るオリヴェルの脳裏には、昔、夜中に訪ねた時の父の冷たい顔しか思い浮かばない。

 

「ムリ、っつーの禁止な」

 

 オヅマは先手でオリヴェルの言葉を封じた。オリヴェルは詰まって、困ったようにオヅマを見つめる。

 

「だって…何を話せばいいかわからないよ」

「何だっていいじゃないかよぉ。昨日はマリーと遊びました。マリーが興奮してシッコをもらしました、とか」

「そんなことしてないわよ!」

「だったら…そうだな、なんかしたいこととか?」

「したい…こと?」

「そ。なんかあるだろ? お前、ずっとムリムリ言ってやらなかっただけで、本当はいっぱいしたいことはあるだろ?」

「……だって…無理だよ」

「ムリ禁止っ()ったろー! 言うだけ言ってみろよ。なんかないのか? この際、空を飛びたいでも、船乗りになりたいでもいいんだ」

 

 オリヴェルはしばらく考えた後、ポツリとつぶやいた。

 

「馬に…乗りたい」

「馬?」

「……オヅマが捕まえた黒角馬じゃなくてもいいけど…一回、馬に乗ってみたい」

 

 オヅマはポンと手を打つ。

 

「いいじゃんか、それ。言いに行けよ」

 

 しかしオリヴェルは俯いて首を振った。

 

「いい」

「なんで?」

「………」

 

 オリヴェルは黙り込んだ。

 

 昔、オリヴェルが赤ん坊の頃から物心つくまで世話してくれていた侍女は言った。

 

「お父君は忙しくていらっしゃいます。ご迷惑にならぬよう、静かに、いい子にしておかねば、見捨てられてしまいますよ」

 

 幼い子どもに刷り込まれたその言葉は、オリヴェルをヴァルナルの前で萎縮させる。一緒に食事がとれるようになっただけ進歩というものだ。

 それだって、ミーナがしつこく、

 

「領主様は本当はとても若君のことを気にかけておいでですよ。毎日のように私にお尋ねになるのですから」

 

と、言ってくれて、ほんの少しだけ勇気が出たのだ。

 

 しかし、ミーナはそうは言うものの、たまに夕食を共にする父は、やはり難しい顔で黙々と食べるばかりで、声をかけることはためらわれた。

 

「……父上が許してくれるワケがないよ。騎士にとって馬はとても大事なものなんだから。病気の子供の我儘で、そんなことを言ったら、叱られるよ」

 

 オリヴェルの言い訳に、オヅマは首をかしげた。 

 

「……そうかなぁ?」

 

 ヴァルナルは我が子を馬に乗せることも許さないほどに狭量な人間だろうか?

 もっともこればかりはオヅマも否、と確定できなかった。

 

 騎士にとって馬と剣は命そのものだ。

 ヴァルナルにとっては、騎士としての己が第一であり、その誇りこそがヴァルナルを賢明な領主たらしめている。

 

 マリーが消沈したオリヴェルに笑いかけた。

 

「じゃあ、もっともっと元気になって馬に乗りましょ。楽しみでしょ?」

「……そうだね。その時には、僕がマリーと一緒に乗ってあげるよ」

「うん!」

 

 オヅマはふぅと息をついた。

 こういう時のマリーは絶妙のフォローをする。

 

 だが、親密な二人にちょかいを出したくもなる。 

 

「なんだ? 馬に乗りたいなら、兄ちゃんが一緒に乗ってやるぞ」

「嫌」

 

 マリーはすげなく言った。

 予想外に強い否定だ。オヅマはムッとなった。

 

「なーんでだよ。俺だったら、すぐにでも乗せてやれるぞ」

「お兄ちゃん、だって絶対にものすごく速く走るんでしょ? 私が止めてって言っても、止めてくれないで、ゲラゲラ笑ってそうだもん」

「…………」

 

 否定できない。

 オリヴェルがクスッと笑った。

 

「レディを乗せる時は襲歩は駄目だよ、オヅマ。ちゃんと常歩(なみあし)の練習もしないとね」

「そんなこと一生ないから、どうでもいいさ」

 

 オヅマは気のない様子で言うと、オリヴェルの部屋から出て行った。

 

 






次回は2022年5月18日20:00更新予定です。




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第十三話 憧れの騎士

 結局、オリヴェルの願いが届くこともなく、ヴァルナルは今年も公爵領(アールリンデン)へと旅立ってしまった。

 いつもであれば一月前には行ってるので、今年は随分と粘った方である。

 粘った…という言い方になるのは、館にいた多くの使用人達の感想を示したものだ。

 

 玄関ホールまで見送りに来たオリヴェルとミーナに、いかにも名残惜しそうに何度も振り返って出て行く領主様に、彼らは心の中で静かにエールを送った。

 

 最初の結婚で失敗して以来、とんとそちらの方には興味を示さなかった領主様の、ようやく芽生えた恋心だ。

 身分違いとはいえど、むしろそれが故に若い女中などは色めきだった。

 それとなくミーナにどう思っているのかと聞けば、当の本人はたわいない冗談だと取り合わない。

 

 無論、一部には馬鹿馬鹿しいと一蹴する(ネストリを始めとする)使用人もいるにはいたが、地元の発展に大いに貢献してくれた領主様への敬慕が強い多くの使用人は、この不器用な恋の行方を暖かく見守っていた。

 

 騎士団は五分の一を残して、ヴァルナルと共に向かった。

 一応、平時においても領内における騒乱や災害などが起きた時のため、あとは甚だ形式的ながら北方の守りのため、兵力を少しは残しておかねばならない。

 

 オヅマは当然のごとく残留組だった。

 剣術は、最初にオヅマを気にかけてくれたマッケネンが教えてくれる。

 また、旅立つ間際にヴァルナルの許可をとって、とうとう朝駆けにも参加させてもらえるようになった。

 

「お前は本当に勘がいいな。たった二ヶ月そこらで、ここまで乗りこなすとは」

 

 マッケネンは素直に褒めてくれる。

 カールはひねくれてるから滅多と褒めないし、アルベルトに至ってはそもそも口数が少なくて、人を褒めることに慣れていない。

 オヅマは嬉しいが、多少おもはゆい気分だった。

 

「まぁ、馬場で練習してたから」

 

 軽く謙遜すると、同じく残留組になったサロモンが豪快に笑った。

 

「んなこと言って、今日の晩には内股が悲鳴を上げるだろうぜぇ。馬場でちょこちょこ乗るのとは訳が違うんだ。しっかり軟膏塗って、冷やしておけよ」

 

 先達の言葉はやはり真実である。

 その日の夜は内股と尻にチリチリとした痛みが続いて、眠りは浅かった。

 

 それでも朝焼けの景色の中で、馬を並べて太陽に礼拝する…あの一団に加われたことに、オヅマは我が事ながら感動していた。

 もっと先の話かと思っていたのだが、案外と早く叶った。この先は、本当の騎士として認められるようにならねば。

 

 苦手な弓も頑張って練習した。

 指にも掌にもマメができては潰れて、痛みを堪えながら剣を振るって、どんどん手の皮が固くなっていく。

 

「オヅマ、お前、騎士になりたいと言うが、どんな騎士になりたいのだ?」

 

 マッケネンは剣の指導を終えた後に、道具を片付けているオヅマに尋ねた。

 

 オヅマはすぐさま大声で叫んだ。

 

「ご領主様! ヴァルナル様みたいな騎士になりたいです!」

 

 周囲で同じく片付けをしていた騎士達が吹き出す。

 サロモンは大笑いして、オヅマの背をバンと叩く。

 

「ハッハッ! ま、大望を持つのは自由だからな!」

「なんだよ! わかんないだろ」

 

 オヅマはムキになって言い返したが、同じく騎士のスヴァンテは冷笑した。

 

「ハハハ。どうだか。ご領主様を目指すとなれば、黒杖(こくじょう)の騎士というわけだからな…さぁて、あと()()()かかるやら」

「黒杖の…騎士?」

 

 聞き返したオヅマにマッケネンが説明してくれる。

 

「黒杖の騎士は、皇帝陛下より直接その栄誉を受けた一握りの騎士だ。無論、それだけの実績も能力も必要だ。大貴族の息子というだけでもらえる白杖(はくじょう)とは比べ物にならない。嘘か本当かは知らぬが、古くは魔法を使える騎士もいたらしいからな」

「魔法!? そんなのあるの?」

「いいや、ない」

 

 すげなく答えたのは、騎士団においてパシリコに継ぐ長老のトーケルだった。白髪混じりの髭をしごきながら淡々と言う。

 

「儂は生まれてこの方、この帝国の東から西からこの北まであちこち回ったが、そんな代物に出会えた試しは一度としてない。過去のおとぎ話だ」

「いずれにしろ…ヴァルナル様を目指すというのであれば、剣術だけでは駄目だな」

 

 マッケネンはそう言って、ニンマリ笑った。

 その何かを含んだ笑みを見た時、オヅマは自分の発言を少しだけ後悔した。

 

 しかし、やっぱりヴァルナルはオヅマにとって憧れだ。

 

 騎士達がなかなか乗りこなせない黒角馬(くろつのうま)に騎乗して、軽やかに走らせる姿も、剣をとって騎士三人を同時に相手しておきながら、まったく息切れすることもなく打ち負かす姿も、騎上で弓を構えて走りながら的を射抜く姿も。

 

 あんな格好いいところを見せられて、憧れないほうがどうかしている。

 

 翌日、どしゃ降りの雨で訓練が臨時休止になると、オヅマはマッケネンに食堂に呼び出された。

 机の上に乗っている本を見て眉を寄せる。

 

「……なにこれ?」

「読み書きの本だな。それと算術の本もある。あとは礼法」

 

 マッケネンは三冊の本をオヅマの前に並べた。

 

「昨日、お前の母であるミーナから聞いたが、お前、書く方はすっかり放り出しているらしいな」

「………」

 

 オヅマは背をすぼめながら、視線を逸らした。

 

 実のところまだラディケ村にいた頃から、時々ミーナはオヅマに文字を教えてくれようとしていた。

 お陰で読むのはまぁまぁできたが、書くのはインクを買うのも難しかったのもあって、すっかりやる気をなくしてそのままだ。

 

「正直、お前の母のような身分の者が文字を読み書きできる上、礼法まで完璧なのは珍しいくらいだが、せっかく親に素養があっても息子にやる気がないとなぁ」

「だ…だって、いいじゃないですかぁ。騎士の仕事は戦うことなんだし…」

「お前が傭兵か、下級騎士で十分だというならそれでもいいがな。お前は将来どうなりたいと昨日言ってたんだっけ?」

「…………領主様みたいに…なりたい、です」

「だったら、最低でも上級騎士…その上で黒杖を賜ることができるほどにならないとな。そのためには…文武両道、これが()()()の素養だ」

 

 マッケネンの言葉は逃げ出す余地がなかった。

 

 ここで逃げ出せば、オヅマは自分の言葉に嘘をついた恥知らずになる。

 その上で、ヴァルナルの名前まで出して、自らの将来の目標を語ったというのに、早々に投げ出すようではヴァルナルへの不敬と取られかねない。

 

 オヅマは目の前でニコニコ笑っているマッケネンを恨めしく見て、怒鳴るように言った。

 

「わかりましたよ! 勉強すりゃいいんでしょ、勉強!」

「結構」

 

 マッケネンは頷くと、すぐにオヅマに字の書き方を教えた。

 食事の時間が近付くと、オヅマにインクとペンと紙を数枚渡して、

 

「ちゃんと今日やったところの復習をするようにな。明日点検するから。もしやっていなかった場合は、朝駆けには連れて行かん」

 

 オヅマはあんぐりと口を開けて、涼しい顔で立ち去るマッケネンを見た。

 

 知り合ってから短い期間ではあるが、マッケネンはオヅマの性格を熟知していた。 オヅマにとっては、素振り五百回とか、城壁周りを延々走るとかよりも、朝駆けに参加できないことの方が罰として効果的だ。

 

 オヅマはその日から毎晩、小屋で勉強する羽目になった。

 

 

 

 

 オヅマが()()()騎士になるために勉強していることを聞いて、オリヴェルは楽しそうに言った。

 

「なんだ。それだったら、僕と一緒に先生に教えてもらったら?」

 

 オリヴェルは幼い頃から時々、世話係などから文字を教えてもらっていた。

 当然、オヅマよりも読む知識は豊富であるし、書くことにも長けている。

 最近では体調のいい状態でいることが増えたので、そろそろ帝都から家庭教師を招聘することも考えられているらしい。

 

「先生? そんなのいたっけ?」

 

 オヅマが首をひねると、オリヴェルはミーナを示した。ゲッとオヅマの顔が歪む。

 

「冗談じゃない。母さんに教えてもらうなんて御免だよ」

「どうして? とっても丁寧でわかりやすく教えてくれるのに」

「そりゃ、お前がこの館の若君だからだよ。自分の子供相手とは違うの!」

「えぇ? だって、マリーだって教わってるよ。ね? マリー」

 

 マリーはコクンと頷くと、腕を組んで兄をあきれた目で見た。

 

「しょうがないわ。だって、お兄ちゃん、母さんの話を聞いてたら寝ちゃうんだもの」

「母さんがなんか読み出したら、子守唄に聞こえるからな」

 

 そうして船を漕ぎはじめたオヅマの耳を引っ張って、大声で怒鳴られたこともあるのだが、おそらくそんなミーナをオリヴェルは知らないだろう……

 

 ミーナは苦笑して聞いていたが、コホンと咳払いした後にオヅマに言った。

 

「もし、どうしてもわからないことがあったら言って頂戴。教えてあげられることなら、力になるわ」

「大丈夫、大丈夫。マッケネンさんもあれで割と頭いいらしいから。帝都のアカデミーの試験に落ちたから騎士になったんだって。試験受けられただけでも、相当なんでしょ?」

「まぁ…だったら母さんなんて必要ないわね」

 

 ミーナは驚いてから、少し肩をすくめてみせる。

 

 帝国において中小規模の有象無象のアカデミーと名のつく教育機関は数あるが、『帝都のアカデミー』と通称されるキエル=ヤーヴェ研究学術府は最高峰の教育機関だ。

 大陸の智慧の集積学府とも呼ばれ、多くの賢人が在籍して教鞭をとっている。

 

 当然ながらその入学は最難関中の最難関であり、毎年のように多くの人々が受験するが、よほど頭が良くないと入れない狭き門であった。

 しかも通算して五度不合格となると、永遠に入学できない。

 

 中には最初から入学できるとは思っておらず、記念として受験する者もいたようで、昨今では受験の前に一度、考査資料を送った上で受験資格を認可する…という形になっている。

 つまり、受験できるだけそこそこに頭がいいという証左になる。

 

「騎士って大変なのね。剣も弓もやって、お勉強までしないといけないなんて」

 

 マリーはさすがに毎日雑役をしながら騎士団の訓練も受けて、その上勉強までしなければならない兄に、ちょっとだけ同情した。

 

「傭兵とか下級騎士ならまぁいいらしいんだけどさ。やっぱ騎士を目指すなら上級だろ。鎧とか全ッ然違うからな! 下級のなんか野暮ったくて…」

「鎧で決めたの?!」

「それもある」

 

 マリーはあきれて、軽く溜息をもらす。同情するだけ無駄だった。

 オヅマは妹にあきれられていることに気付かず、オリヴェルに尋ねた。

 

「そういや、お前知ってたか? 領主様は黒杖(こくじょう)の騎士って」

「ううん。なに、それ?」

「なんかスゲーんだって」

「はぁ?」

 

 オリヴェルが首を傾げるのを見て、ミーナが説明した。

 

「とても強く、心映えも優れた騎士に送られる名誉ある称号です。領主様は文武において優れておいでですが、その上で稀能(きのう)をお持ちだそうです」

「稀能? なにそれ」

 

 オヅマはわからなかったが、オリヴェルはびっくりしたようだった。

 

「父上が? 本当に?」

「えぇ。私もよくは存じ上げませんが、そう聞いております」

 

 オヅマは二人で話しているのに割って入る。

 

「なぁ、稀能って何さ?」

「稀能っていうのは、ちょっとした特別な力…みたいなもの、かな?」

 

 オリヴェルが迷いつつ言うと、ミーナが補足する。

 

「周囲の人間からは、特殊な能力のように見えるのですが、実際には相当の修練を積んで可能にするものらしいですよ。元からの素養に加えて、己で磨くことで身に着けるのだと…」

「ふぅん。なんか凄いなぁ…。それって領主様が言ってたの?」

 

 オヅマは何気なく聞いたのだが、ミーナの顔は一瞬強張った。母の態度にオヅマの方がかえって動揺する。

 

「え…なに?」

「いえ…なんでもないわ」

 

 ミーナはすぐに笑みを浮かべたが、オヅマは母が何か隠していると気づいた。

 いつもそういう笑みを浮かべて誤魔化すのだから。

 

 ミーナは訝しげに見てくる息子を見つめ返しながら、問いかけた。

 

「オヅマ…あなたも、黒杖の騎士になりたいの?」

「え? ……あ、うん。まぁ…」

 

 返事しながら、オヅマはオリヴェルの前ということもあってちょっと恥ずかしかった。まさか息子の前で、お前の父親に憧れているとは、声を大にしては言いにくい。

 しかしオリヴェルはあまり頓着していなかった。

 

「じゃ、頑張らないとね、オヅマ。上級騎士なら皇宮に配属されるかもしれないから、キエル式礼法は全修(マスター)しないとね!」

 

 笑顔で恐ろしいことを言ってくる。

 礼法はオヅマに課された勉強の中で最も厄介で苦手な科目だった。

 

「ああぁ…もう勘弁してくれよー」

 

 ゲンナリと肩を落とすオヅマを見て、オリヴェルとマリーがケラケラ笑っている。

 

 その様子を微笑ましく見ながら、ミーナはどこか暗い口調でつぶやいた。

 

「………抗えない…ものね……」

 

 






次回は2022年5月22日20:00更新予定です。




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断章 -黒杖-

 その日、オヅマは久しぶりに()の中にいた。

 

 

 冷えた土壁に囲まれた屋内の真っ暗な広間。

 

 自分の手すらも見えない。

 

 その中で片膝をついて、じっとしている。

 いや、ただじっと座っているのではない。

 

 全神経がピリピリと逆立っている。

 

 うなじの辺りから触角のようなものが伸びていく感覚。

 それは徐々に全身に広がる。ありとあらゆる知覚が体表から伸びていって、やがて部屋の中を充満していく。

 

 普通の人であれば聞き取れないはずの、かすかな吐息。

 

 オヅマは一瞬にして跳躍していた。

 

「うぐっ!」

 

 うめき声が背後で聞こえた。

 既にその男は殺っている。

 

 次は正面と斜め右上から。

 少し遅れて後方斜め三十五度の角度。

 一拍おいて真上。

 

 第一陣の刺客達をすべて殺した後、第二陣、第三陣。

 真っ暗闇での死闘において、夜目が利くといわれる山岳民族シューホーヤの腕利きの殺し屋ですらも、オヅマの前では無力だった。

 

 うめき声すらも聞こえなくなって静寂が訪れると、パチンと指を弾く音が響き、四方の壁にある火遣窓(ひやりまど)に火が灯された。

 

 鏡の入ったその特殊な照明器具は、それまで暗闇であったのが嘘のように、だだっ広い広間を明るく照らした。

 

 死体があちこちに転がっていた。

 

 折り重なった死体の下敷きにされていた男の手がピクリと動く。

 オヅマは無造作に死体の上を歩いた。

 

 手の動いた男の元まで来ると、首を鷲掴みにした。

 ベキベキと首の骨が折れる感覚が手に直に伝わってくる。

 

 男の首はヘニョリと有り得ない角度に折れ曲がった。

 頬を伝った死者の涙がオヅマの手首を濡らし、珍しくオヅマは少しだけ眉間に皺を寄せた。

 ポイと首を投げ、立ち上がる。

 

 何も感じない。何も感じてはいけない。

 

 ここに自分はいない。

 これは自分ではない。

 

 ()()()()オヅマのつぶやきと、()()()()オヅマの心が重なる。

 

 

 一度目を閉じて、再び開くとそこは絢爛たる宮殿の中だった。

 

 緋色の絨毯が伸びた先には、頭上に帝冠を乗せた()()が立っている。

 儀仗兵が並び、青い顔の諸侯百家がその後ろで息をひそめている。

 

 高らかなフォーンの音。

 

 ゆっくりと進んでゆくごとに、崩れ落ちたいほどの虚しさが押し寄せる。

 

 密やかな声が聞こえる。

 おそらく常人の耳では聞き取ることのできないほどの、小さなささやき声。

 

「……あれが(くら)皇子(みこ)……」

「目を合わせてはならぬ……」

「取って喰われるぞ……」

「この前も……公爵の……」

 

 オヅマは一度、止まった。

 ここにいる人間のすべてを殺したら、あそこに立つ()()はどんな顔をするだろうか。いや、おそらく喜悦して、よくやったと褒めるだけだ……

 

 シンと水を打ったような静寂。

 もはや誰も口を開くことはない。

 

 オヅマは再び歩き出す。

 

 儀典長が甲高い声で名を呼んでいる。

 何の意味もない名前。何の意味も持たない称号。

 

 小姓達が三人で濃紺に白く縁取りされたクッションを恭しく運んできた。

 その上には金銀の精巧な細工が施された艷やかな黒い杖。

 ()()より賜りし黒杖。

 

「……………」

 

 ()()が何か言っていた。

 

 オヅマは無言で受け取り、その黒杖を頭上に捧げ持つ。

 そのまま深く頭を垂れたまま、後ろに下がる。十三歩。

 それから姿勢を正して、くるりと踵を返す。

 

 右手に黒杖を握りしめながら、オヅマはまるで何も感じていなかった。

 

 空虚な儀式だ。

 オヅマにとっても、()()にとっても、あの場にいた誰にとっても。

 

 湖にせり出したバルコニーからもらったばかりの黒杖を捨てる。

 岩にカン、カンと当たりながら、呆気なく湖に落ちていく。

 

 この程度のものだ。

 

 この程度の、意味のない…価値もない…ただ綺羅びやかなだけの杖。

 

 虚ろな目で沈んでいった黒杖を見ながら、オヅマはうっすら笑っていた。

 自分で笑っていることすら気づいていない空虚な微笑。………

 

  

 ―――――違う!

 

 

 オヅマは必死に目をつむった。 

 

 ()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()

 

 目を閉じて再び開けば、きっと眩しい朝日の中で自分は目覚める。

 

 そこに広がる風景はいつもの、()()()()()()()のはずだ。

 

 






引き続き、挿入話をUPします。



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挿入話 書簡往来

 ヴァルナルよりミーナへ向けて。

 レーゲンブルトを発ってから5日目、公爵の本領地・アールリンデンに到着直後に書いた手紙。

 

『萌芽の月 十五日

 

 新緑の芽が萌えたる時候、手翰(しゅかん)にて申し上げる。

 

 公爵領に到着した。

 いつもであれば雪解けしたばかりの泥濘の中を進むこともあり、もう少し難渋するのだが、今年は遅くに出たのが良かったのか、道程は極めて平穏で特に問題もなかった。

 レーゲンブルトを発った時には、まだそちらでは咲いていなかったアーモンドの花がこちらでは満開である。この手紙を読む頃にはそちらでも咲いているかもしれない。

 

 息子については色々と面倒をかけていると思うが、貴女(あなた)の指導と献身によって、オリヴェルも随分と健やかになったように思う。非常に感謝している。

 

 マリーがとてもオリヴェルを慕ってくれているようで、あの子にも年上としての自覚が生まれたようだ。また、オヅマのように時に喧嘩しても友として向き合える存在ができたことは、有り難いことだと思う。

 

 私が離れている間、もし無理難題を言ってくるような者がいたら忌憚なく申し述べてほしい。息子の為にも貴女の存在は重要である。くれぐれも短慮で領主館を出るようなことのないようにお願いしたい。

 

 今後はしばし公爵邸に逗留の後、慣例の通りに緑清(りょくせい)の月、朔日(ついたち)に、帝都に向かう予定である。

 では、これにて失礼する。

 

 年神様(リャーディア)の加護のあらんことを。 ヴァルナル・クランツ』

 

 

 

 

 この手紙についてミーナから教えてもらったソニヤは言った。

 

「これだから…ご領主様は。こんな手紙寄越すんなら、アーモンドの花を一つ入れるくらいなことするもんでしょー」

「そういうモンなのかねぇ…?」

 

 ゴアンが不思議そうに首をひねると、ソニヤはその大きな背中を容赦なくぶっ叩く。

 

「そういうもんよ! アンタもそれくらいの気配りができないと、いつまでたっても男やもめのまんまだよ!」

「はぁ……」

 

 ゴアンはその後、アーモンドの花が咲いた途端に、その枝を切ってソニヤに持っていったのだが、枝を勝手に切ったことでパウル爺に大目玉を食らい、久々に年上の大人にこってり叱られるという醜態をオヅマ達に見せることになった。

 この事はしばらく騎士団の笑い話になった。

 

 

 

 

 ミーナよりヴァルナルへ、前回の手紙の返信

 

『萌芽の月 廿二日

 

 芽吹きたる新緑も色濃く青の影を落とす時候にて、僭越ながら拙き文を送らせて頂きます。

 

 道程ご無事に到着された由、なによりでございました。

 そちらはやはりレーゲンブルトよりも先に春が訪れているようで御座いますね。

 

 若君はとても元気にお過ごしです。先だっては食事量が足らぬと、初めておかわりされておいででございました。以前は苦手でいらっしゃった青物の野菜なども、おいしそうに召し上がられるようになりました。

 

 若君のご希望で、食事の際、私とマリーがご相伴にあずかるようになりました。

 よろしゅうございましょうか。

 一介の使用人とその娘に許されぬことと申されるのであれば、すぐにも改めるつもりでございます。

 ですが、若君にはご領主様が発たれてより、一緒に食事を召し上がる人もおらず、寂しそうにしておいでです。どうかお許しを賜りたく存じます。

 

 こちらでもアーモンドの花が咲き始めております。若君と一緒に押し花にして栞を作りました。同封しておりますので、よろしければお使いくださいませ。

 

 オヅマについても、最近ではマッケネン卿に文字を習い、騎士としての修身や礼法を教えて頂いております。本人も騎士としてご領主様の役に立ちたいと励んでおります。機会を与えて頂いたこと、誠に有り難く存じ上げます。

 

 数日中には帝都にお出立とのこと、今後の道中の平穏を願っております。

 

 年神様(リャーディア)のご加護のあらんことを。 ミーナ』

 

 

 

 

 実はミーナがこの手紙を送った同日、ヴァルナルもまた再びミーナに宛てて手紙を書いていた。つまり、ヴァルナルはミーナからの返事を待たずして二通目を書き送っていたことになる。

 

 

 

 

ヴァルナルよりミーナへ

 

『萌芽の月 廿三日

 

 青き影深くなる時候、手翰にて申し上げる。

 

 明日よりしばらく帝都への旅支度で忙しくなる。道中、書き送ることができるかわからぬ故、今、このようにしたためている。

 

 オヅマとの出会いから、貴女…達(*『達』は後から書き加えられているようだ)が領主館に来て早三ヶ月が過ぎようとしている。

 まだ、三ヶ月しか経っていないことが意外なほどに、貴女…達(*くどいようだが、『達』は後から書き加えられている)は馴染んでいるように思う。

 

 無論、それは貴女の努力によるところが大きい。今更ではあるが、先の紅熱(こうねつ)病において息子の看病を尽くしてくれたことに、御礼申し上げる。

 

 これはマリーにも、オヅマにも伝えて欲しい。二人は自らも病にあって不安であったろうが、息子のためによく辛抱してくれた。子供ながら、その謙譲の精神には、深く(こうべ)を垂れるものである。

 きっと貴女の教えが良いためであろう。

 

 本日は久方ぶりに公爵家の騎士団が一同に集まっての結団式が行われた。各地領主騎士団と本領地における直属騎士団は互いに切磋琢磨しており、他家のようないがみ合いはない。これも公爵様の器量によるものである。

 明日には先行隊が帝都に向けて出発する予定だ。私は公爵様と同日の出発の予定となっている。あちらに着いたら、また報告する。

 

 年神様(リャーディア)の加護のあらんことを。 ヴァルナル・クランツ』

 

 

 

 

「いや…報告って!? なんでミーナに報告してくんの? これ報告書なわけ? ほんっとにご領主様ときたら…なんだってこう……」

 

 この手紙を読ませてもらったソニヤは頭を抱えた。

 こちらに帰郷してから、館の使用人から、街の昔馴染みに至るまで聞き込んだ結果、ご領主様がどうにもそうしたことに関して不器用な人であると予想はしていたが、これは聞きしに勝るぶきっちょだ。

 

 まぁ、多少(実際は多少ならず)好意を示していることはわかるのだが、それもある程度相手に自分の気持ちが通じていればともかく、この手紙をすんなりソニヤに見せて隣でニコニコ笑っているミーナを見る限り、そこのところに気付いていないのは明白だ。

 

「でも、わざわざ帝都に出立前の忙しい中、書き送って下さって…よほど若君のことが気がかりでいらっしゃるのでしょうね」

 

 案の定、ミーナは見当違いのことを言っている。

 

「いや、若君のことよりあなたのことを褒め称えてるんだと思うけど…」

 

 ソニヤは不器用極まりないご領主様の為にそれとなく援護射撃してみたが、ミーナは堅牢な微笑みを浮かべる。

 

「そうね。こうして認めていただけると、私ももっと心を込めて若君のお世話をしなければと思うもの。本当に、ご領主様は人の心をつかむのが上手でいらっしゃるわね」

「………」

 

 肝心な部分はまったく掴めてないけどね…とは、もうソニヤは言わなかった。黙り込んだソニヤにミーナは話題を変える。

 

「それにしても、やはりグレヴィリウス公爵家というのは大貴族なのですね」

「そりゃあね」

 

 ソニヤは頷いて、ゴアンから聞いたグレヴィリウス公爵家のことを話して聞かせた。

 

「いっても、皇室に次ぐ家門だからね。エドヴァルド大帝の時代から続く古い家系だというし…諸侯百家の長…貴族の中の貴族…ってねぇ。皇帝陛下からの信頼も厚くて……そうそう、ミーナ。ここだけの話だけどね、ご領主様は陛下から皇室直属の騎士にならないかと誘われていたらしいんだよ」

「まぁ…直参(じきさん)ということですか?」

「そうそう、それ! でも、ご領主様は忠誠心の厚い方だから、公爵様の為に断ったっていうんだよ。大したもんだよねぇ…」

「…そんなことして、大丈夫だったのでしょうか?」

「それが…断り方もうまかったらしいんだよ。何を言ったのかは、よく知らないんだが」

 

 ソニヤは肝心なことが言えなくて残念だった。

 この話を教えてくれたゴアンは何かくっちゃべっていたのだが、誰かから聞いたとかいういいかげんな話を、順序もぐちゃぐちゃに話されて、さっぱり意味が不明だったのだ。

 

 ミーナは微笑んだ。

 

「ご領主様のことですから、誠心誠意、真摯に話されたのでしょう」

「うん…そうだね。まぁ、そういうことだけはできるよ、あのご領主様は……」

 

 

 

 

 ヴァルナルはミーナからの手紙を帝都に向かう道中で受け取り、すぐに返信を書き送った。

 

緑清(りょくせい)の月 五日

 

 (さや)けき風に揺れる緑の美しき時候、手翰(しゅかん)にて申し上げる。

 

 道中からの便りである故、早速のことについて申し上げる。

 

 息子(オリヴェル)との食事については、全面的に許す。息子が望み、貴女(あなた)が息子の希望に真摯に向き合ってくれていることを、本当に有り難く思う。

 

 もし、此の事についてやかましく言う者がいれば、私の同意書を同封しておくので、それを示すように。少々、厳しく書いているので、もはや何を言ってくることもないはずだ。

 

 基本的に息子の件については、私よりも貴女の方が配慮が行き届いているだろうから、今後も息子の為になると貴女が判断したことに関しては、私は全面的に同意する。

 

 ただ、今後とも息子に関しての報告はお願いしたい。

 以前にも話した通り、私は長らく息子を放任してきた。

 自らの力で産声をあげることもなく、脆弱に生まれ、産婆や医師からも長く生きることが出来ないと聞かされて、諦めてしまっていた。

 

 その後に戦に向かうこともあり、親子としては稀薄な関係になってしまったが、それは私の勝手な言い訳に過ぎない。

 

 息子には本当に申し訳なく思う。私は長年、親としての務めを果たしてこなかった。しかし貴女からの話で、息子がとても思いやりある子に育ったことを知り、安堵している。

 

 今更ではあるが、息子には今後は親らしく接したいと思っている。そのためには、彼のことを知らねばならぬ。

 

 乱筆乱文にて失礼。

 

 年神様(リャーディア)の加護のあらんことを。 ヴァルナル・クランツ』

 

 

 

 

 そこでヴァルナルは一旦筆を置いたのだろうが、ふと思い出したようである。『追伸』と書かれた後に、

 

『栞をありがとう。早速、使わせていただく』

と、一言添えてあった。

 

 それまで堅苦しい文章で書き綴られていたのに、不意に『ありがとう』と素直な言葉が出てきて、ミーナは思わずフフッと笑ってしまった。

 なんだかその部分だけ、少年のようなヴァルナルの姿が透けて見える。

 

「どうしたの?」

 

 オリヴェルとマリーが不思議そうに見つめる。

 

「いえ…この前の栞を喜んでくださったみたいですよ。良かったですね、若君」

 

 オリヴェルはホッとした顔になった。

 

 

 

 

 ミーナはその後、まだヴァルナルが道中であることに気を遣って返信を控えた。

 伝令もミーナにヴァルナルの手紙を渡すなり帰ってしまったので、まさか別の伝令を立てるわけにもいかず、ヴァルナルから帝都到着の便りがあるまでは…と待つことにしたのである。

 

 そのせいなのかヴァルナルは道中、少しばかり不機嫌に見えた……とは、副官カールの弁。

 

 






次回は2022年5月25日20:00の更新予定です。



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第十四話 騎士は堂々たるべし

 領主館の春は穏やかに過ぎ、初夏の様相となってきていた。

 

 ネストリはヴァルナルからよほどにお灸を据えられたのか、オヅマらに対する態度は極めて事務的ながら概ね平静だった。それでも陰口や、婉曲な嫌味は時折言われたが。

 

 これまでの下男としての仕事や騎士団での訓練に加えて勉強までする羽目になったオヅマは、以前のようにオリヴェルに会っても遊んだりすることはなくなっていた。

 

 来ればたいがい騎士団のことばかり話すオヅマに、マリーは「面白くなーい」とソッポを向いて絵を描いたりしていたが、オリヴェルは熱心に聞いていた。

 

 今日もオヅマが子供の黒角馬が最近どんどん大きくなってきて、気性が荒くなり、騎士達の髪をむしり取ったりするようになって、頭髪の薄くなってきていたゾダルがやられて半泣きになったことを話していると、オリヴェルは大笑いをした後、少しだけ寂しそうにつぶやいた。

 

「いいなぁ…楽しそうで…」

「お前さ、そんなに興味あるんなら、見に来たら?」

 

 オヅマの提案に、オリヴェルは悲しげに首を振った。

 新しい医師の助言もあって、随分と体を動かすようになってきたが、少しでも無理をすると、その夜には体調を崩した。

 

 この前も気分が良いからと庭を散策していたのだが、マリーがパウル爺を見つけて一緒に庭いじりを始めると、オリヴェルはその様子を眺めているうちに倒れてしまったのだ。

 それ以来、オリヴェルはすっかり自信を失くし、また外に出なくなってしまった。

 

「もう暑くなってきましたからね…」

 

 ミーナがそれとなく同意すると、オヅマは口を尖らせる。

 

「まだ緑清(りょくせい)の月だってのに、どこが暑いって言うんだよ」

「あなたには平気でも、若君には季節変わりの急な暑さは(こた)えるの」

「あーあ! 面倒くさい!!」

 

 オヅマが苛々して叫ぶと、ミーナはキュッと眉を寄せた。

 

 近頃のオヅマの言動は少々目に余る。

 騎士団で勉強を見てもらい、稽古をつけてもらうようになって、自信を持つのはけっこうだが、通り越して不遜な態度は問題だった。

 

「オヅマ! 物言いに気をつけなさい!! 若君やご領主様が許して下さっているからって、あなたは図に乗りすぎです!」

 

 久しぶりに叱られ、オヅマはビクリとなりつつも、ムッとミーナを睨みつけた。

 

「なんだよ! 友達なんだから、それくらいのこと言うだろ!」

「友達でいることを()()()()()()んです! (わきま)えなさい!!」

「そんなの知るか!」

 

 オヅマが怒鳴った途端、マリーが泣き喚いた。

 

「わあぁぁん!! お兄ちゃん、お母さんを怒らないでぇよぉ」

 

 マリーは遊び疲れてソファでうたた寝していたのだが、母と兄の言い争う声でうっすらと目を覚ましていたのだ。

 

 オヅマの怒鳴り声でパチリと目を開くと、剣呑たる兄の形相を見て、一気に恐怖に襲われ、身を震わせた。

 

「やだあぁ! お母さんを叩かないでぇ!」

 

 目覚めたばかりで混乱しているのか、マリーはしゃくりあげて泣きながら、ミーナのところへ行こうとして転んだ。

 オヅマが走り寄る前に、オリヴェルが素早くマリーを助け起こす。

 

「大丈夫だよ、マリー。オヅマは叩こうなんてしていないよ」

 

 そっと抱きしめながら、背をさすってなだめる。

 

 オヅマはその場で唇を噛み締めていた。

 マリーが自分と、あの()を重ねて怖がっていることが、ひどく理不尽に思えた。

 ずっとあの()から守ってきたのは、自分だというのに……。

 

「オヅマ…」

 

 ミーナがそっと肩に手をのせてくるのを、オヅマは拒絶して乱暴に払う。

 

「オヅマ!」

 

 オリヴェルが咎めるように声を上げる。

 

 わかっている。自分が言い過ぎたのだ。自分勝手なことを言って、ミーナに叱られて、反省するどころか一人怒っている。

 

 オヅマは拳をつくって、握りしめた。

 クルリと踵を返して、無言でオリヴェルの部屋を後にした。

 

 

 

 

「謝ってこい」

 

 マッケネンの答えは単純明快だった。

 

「………」

 

 オヅマは押し黙ったまま、目も合わせない。

 マッケネンはフゥと溜息をついた。

 

 仏頂面で修練場に現れるなり、ひたすら木刀の素振りをし始めたオヅマを見て、その場にいた騎士は誰もが異変を感じた。

 周囲からの視線の集中砲火を浴びたマッケネンが仕方なくオヅマに理由を聞く羽目になったのだが、なかなかオヅマは口を割らなかった。

 その後、剣撃訓練の相手をしてやってから、ようやく口を開いた。

 

 そこで母親と喧嘩して、妹に泣かれ、若君に咎められ、いたたまれなくなって飛び出してきたことを聞き、出てきたのがさっきの答えだった。

 

「……………嫌だ」

 

 ボソリとオヅマがつぶやくと同時に、マッケネンはベシリと頭を叩く。

 

()ッ!」

「阿呆が。お前が悪いだろうが。そんなこともわからないほど阿呆なら、騎士になるなんぞ諦めるんだな。女子供をいたぶるような男は騎士になれんのだ」

「俺は叩いてない!」

「実際に手が出ているかどうかじゃない。度量の問題だ。お前は極めて了見が狭い」

「……俺馬鹿だから、何言ってるかわかんねー」

 

 再び、今度はゲンコツが頭に降ってきた。

 

「痛ッ! ………マッケネンさんの方が手が出てるじゃねぇか!」

「悪いか。俺の方が悪いと思うなら、ご領主様に言えばいい。言えるか? お前のその短気で傲慢な態度も含めて説明する必要があるぞ」

 

 オヅマは途端に黙り込んでうつむく。

 マッケネンはふぅと吐息をついた。どうやら悪いことをした自覚はあるらしい。

 

「いいか、オヅマ」

 

 マッケネンは優しく諭した。

 

「騎士というのはいつも堂々としていなければならない。堂々と胸を張っているためには、いつも心が明快でないと駄目なんだ。今のお前は堂々としているか? 騎士として、己に間違いがないと、胸を張っていられるか?」

 

 オヅマは黙ったまま、それでもプルプルと首を振った。

 

「だったら、今お前がすべきことは、忠告してくれた母親に謝ることだ。確かにご領主様は、若君の友達でいてくれとお前に頼んだが、やはり()(わきま)えなければならない。それは必要なことなんだ」

「…………わかってる」

 

 オヅマは震える声でつぶやいた。

 

「でも、俺…見せたかったんだ。オリヴェルに…」

 

 マッケネンはフフンと笑った。

 

「お前…自分のいいトコを見せたかったんだろ? 若君に自慢したかったんだな?」

「………」

 

 オヅマは一気に赤くなった。

 それまでハッキリと自覚していなかったが、マッケネンに言われてみると、なるほどそうだった。

 

 子供っぽい自分勝手な感情で、オリヴェルに見せて、単純に「すごい!」と言わせたかっただけだ。

 

 マッケネンが声を上げて笑う前に、こっそり聞いていたゴアンが大笑いしながら、柱から現れた。

 

「ハッハッハッハッ!! オヅマもまだまだ小僧だな~ッ」

 

 大きなダミ声が修練場一帯に響き渡る。

 

「う…っ、うっせえ! なに勝手に聞いてんだよ!」

「いつもは若君に会いに行ったら上機嫌で帰ってくるお前が、いかにも何かありました~ってな顔して戻って来るから、何があったか気になるじゃねぇか」

「そんな顔してない!」

「まるきりわかりやすく出てたけどな。オラ! さっさと謝って来い!」

 

 バシッとゴアンが背を容赦なく叩いてくる。オヅマは痛みに顔を顰めながら、ゴアンを睨みつけた。

 

「……わかったよ」

 

 むくれた顔で、渋々了承する。手早く稽古道具を片付けてから、何度も溜息をつきながら帰って行った。

 

 ゴアンはヒラヒラと手を振ってオヅマを送り出してから、マッケネンの肩を小突いた。

 

「オイ」

「なんだ?」

「お前、さっきの騎士の心得…領主様の受け売りだろ?」

「………知ってたのか」

 

 マッケネンは軽く頬を赤らめた。

 実のところ、騎士は堂々たるべし…という訓戒は、ヴァルナルが言っていたことだった。

 

 しかしいつもなら混ぜっ返すゴアンは少し自嘲めいた顔になって、昔話を始めた。

 

「昔、傭兵だったクセが抜けなくってなァ。南部の戦で落とした城でちょいとばか盗んじまったのさ。その時にヴァルナル様が全員を招集して、さっきのことを言ったんだ。俺は…なんかモヤモヤしちまって、どうにも居心地が悪くなって、その場で名乗り出たんだ。略奪なんぞ、許されるわけもないからな。正直、処刑されるのも覚悟してたんだが…当面の減俸と、騎士権の三ヶ月停止で済んだ。あの場で素直に白状したことで、情状酌量されたんだ」

 

「……素直に言わなかったら大変なことになっていたな」

「あぁ。一月(ひとつき)後に見つかった奴らは、即座に斬首されたよ」

 

 マッケネンは無言で何度も頷いた。

 

 ヴァルナルの温情は苛烈さと表裏一体だ。

 今のところ、オヅマも子供であることも含めて、大目に見てもらえているが、あの態度をいつまでも貫いていたら、いつか厳しく叱責されるだろう。

 

「ミーナ殿が賢くていらしてよかった」

「まったくだ。そういや、知ってるか? なんと今日また領主様から手紙が来たんだってさ。ミーナに」

「また? この前、公爵領に着いたって来たばかりじゃなかったか?」

「そうだよ。もう三通目だとよ。去年とは大違いだ」

「なるほど…女中達が騒ぐわけだ」

「いい加減、あの人もやる気になってきたんだな。いや、良かったよかった」

 

 ゴアンが無邪気に喜んでいるのを、マッケネンはややあきれたように見ていた。

 

 実際に、一召使いが領主と一緒になることなどあるのだろうか?

 身分違いの恋。それこそ、婦女子の好きそうな夢物語ではないか。

 それに、もし万が一、ミーナとヴァルナルが結婚するようなことになれば、オヅマは領主様の息子という立場になる。

 

「…………」

 

 そこまで考えて、マッケネンはいや、と真面目な顔になる。

 ヴァルナルがオヅマの才能を相当にかっているのは確かなことだ。何せ、副官であるカールと、アルベルトという、レーゲンブルト騎士団における実力トップである二人に稽古をつけさせているのだから。

 

 あるいは…ヴァルナルはミーナへの恋慕とは別の意味でも、結婚をすすめるかもしれない。

 それに元々貴族の出でもないヴァルナルにとっては、身分の隔たりはさほど気にならない。むしろ先妻もそうであったが、貴族令嬢などの方が合わなそうだ。

 

「うん…有り得るかもしれんな……」

 

 いつもはその手の話は馬鹿にしたように皮肉を言うマッケネンが、真剣な顔でつぶやくのを、ゴアンは不思議そうに見ていた。

 

 

 






次回は2022年5月29日20:00の更新予定です。



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第十五話 騎士団見学

 マッケネンから諭された後、オヅマはとりあえずその日の夜にはミーナのところに行って謝った。ただ、

 

「オリヴェルは騎士団の訓練とか見てみたいと思うんだ。だから、それは叶えてやりたいんだよ」

とオヅマが言うと、ミーナは嘆息した。

 

「それは…若君も望んでおられるでしょうけど…無理をさせる訳にはいかないわ」

 

 今日のことでも、オリヴェルは気に病んで、夕方に微熱があったくらいだ。

 

「わかってる。無理はさせないようにする。考えるから、オリヴェルにもちょっと待っとけって言っておいて」

「またあなたはそういう物言いを…」

「あー…ハイハイ。えーっと、お待ち下し…下さい…って言っておいて」

 

 言い慣れない言葉遣いに舌を噛みそうになりながら、オヅマは早々に母の前から立ち去った。最近、ミーナの小言がひどく鬱陶しい。

 

 とにかくその日から、オヅマはオリヴェルが無理せずに修練場に来て、見学できる方法を色々と考えた。

 マッケネンに言われたように、自分の勇姿を見せたいというのもあったが、単純にオリヴェルが憧れている騎士達の剣撃や、馬を見せてやりたかった。

 

 ちょうどそんな時に、下男のオッケと一緒に東塔にある不用品の整理をすることになった。

 この前の紅熱(こうねつ)病で急遽、隔離施設として使用された東塔は、これまで放っておかれたのだが、その内部を見たヴァルナルはこれを機に片付け、今後は緊急用施設として維持管理するように命じたのだ。

 

 その不用品の中に車椅子を見つけた時、オヅマはこれだと思った。

 車輪の外れかけた車椅子をもらって帰ると、そこから数日は稽古と仕事の合間に修繕作業に没頭した。

 

 ガタついていた座面には、これも廃棄されていたソファからクッション部分を一部切り出してそれを張り、背もたれの裏側に中が空洞になったポールを取り付け、その先に大きな傘を差した。無論、ミーナが心配していた日差し避けである。

 

 以前に比べれば歩くようになったオリヴェルだったが、それでも修練場と自室の往復はまだ厳しい。おそらく途中でへばってしまい、そうなればいつも通りに庭師見習いのイーヴァリか、騎士の誰かに運ばれることになるだろう。

 

 オヅマはオリヴェルがこの事をとても恥ずかしがっているのを知っていた。

 自分の足で満足に歩くことすらできない上に、運びながら「若君は軽いからいつでもどうぞ」なんて言われて、ひどく自尊心を傷つけられたようだ。

 悔しくて泣いていた。

 

 だから、少しだけオヅマは不安ではあった。もしかすると、オリヴェルはかえって嫌がるかもしれない…と。

 

 久しぶりにオリヴェルの部屋に訪れる時、オヅマは少しだけ緊張していた。

 扉の前でスーハーと深呼吸を繰り返していると、いきなりガチャリと開いてマリーが顔を出した。

 

「あれ? どうしたの、お兄ちゃん」

「よ、や…やぁ…」

 

 マリーはぎこちなく挨拶したオヅマを見て、ブッと吹いた。

 

「なにー?『やぁ』だって! おっかしいの」

「うるせぇな! オリヴェルに会いに来たんだよ!」

「じゃあ、入ればいいじゃない。なんでボケーッと立ってるの?」

 

 マリーは大きく扉を開くと、オヅマを中に招き入れた。

 入って行くと、オリヴェルが向こうも少しだけ緊張した面持ちでソファから立ち上がっていた。

 

「あ…あの…」

 

 オリヴェルはなにかを言いかけて、もどかしげに黙り込む。

 

「なんだよ? …言えよ」

 

 オヅマは待った。いつもならここに訪れるなり、オリヴェルが話す隙も与えずに、オヅマが息切れするまでひたすら喋りまくるのだが、今日は待つことにした。

 

 オリヴェルは大きく肩を上下して深呼吸して、大声で言った。

 

「僕、本当は行きたいんだ!」

 

 オヅマはしばらくじーっとオリヴェルを見つめた。

 

「………どこに?」

 

 しれっとして尋ねると、オリヴェルは困惑したように言葉を探す。オヅマはニヤッと笑った。

 

「もぅ! お兄ちゃんってば、どうしてそんな意地悪言うのよ!」

 

 マリーが相変わらず容赦なくオヅマの背を叩く。

 

()ッ! お前、力強くなったな、マリー」

「うるさい。ちゃんとオリヴェルの言うこと聞いてあげて」

「わかってるって。今日は、俺の野望を叶えに来たんだからな」

「やぼー?」

「野望?」

 

 マリーとオリヴェルはほぼ同時に聞き返す。

 オヅマは頷くと、オリヴェルの手を掴んだ。

 

「天気もちょうどいい。多少、日が強いけど風が涼しいからな。絶好の見学日和ってやつさ」

 

 言いながら、オリヴェルを部屋から連れ出そうとする兄を、マリーはあわてて止めた。

 

「ちょっとお兄ちゃん! 勝手にオリヴェルを連れて行かないで! 外に行くなら、ちゃんとお母さんに言って、上着だって着ないと…」

 

 しかし言っている間にもオヅマはオリヴェルを連れて部屋を出ていく。マリーは薄手のカーディガンを持って、後を追いかけた。

 

「もう! 勝手に出ちゃ駄目だってば!」

 

 マリーは叫んだが、オリヴェルは既にオヅマの手を借りながら階段を降りているところだった。

 下まで降りると、そこには少々風変わりな車椅子が置いてあった。

 

「これ…って」

 

 オリヴェルはポカンとして車椅子を眺めた。

 

「なぁに? この椅子。ヘンな椅子ね」

 

 マリーが車椅子の周囲を一回りしながら言う。

 背もたれにある長いポールの先に刺さったものを指差した。

 

「これ、傘? 開くの?」

「おぅ。ホラ…」

 

 オヅマが留め金を外して傘を開くと、マリーはわっと興奮したように声を上げた。

 

「すごい! すごい!」

 

 オヅマはマリーには威張ったようにそっくり返っていたが、オリヴェルの反応に内心ではヒヤヒヤしていた。

 矜持(プライド)の高いオリヴェルは、車椅子なんて馬鹿にされたと怒り出すかもしれない…と、今になって弱気になってくる。

 

「オヅマ…これ…君が作ったの?」

 

 まだ驚いた様子のオリヴェルに、オヅマは苦笑して手を振った。

 

「いやいや。さすがに作っちゃいないけど…。この前、東塔の整理した時に出てきたんで、ちょっと修理したんだ」

 

 オリヴェルはまじまじと車椅子を観察しながら聞いていたが、急にクルリとオヅマの方にに向き直る。

 

 その時、ミーナの声が響いた。

 

「まぁ! オヅマ! 何をしているの!?」

 

 眉を寄せてあわてて走ってくるミーナに、オリヴェルは朗らかに言った。

 

「見てよ、ミーナ。オヅマが僕のためにわざわざ修理してくれたんだ。車椅子。これだったら、館の隅から隅まで行っても、そう簡単に疲れないよ」

 

 ミーナは奇妙な車椅子の存在に気付くと、眉を寄せて全体を見た後に、不思議そうに傘を見上げた。

 

「………これは、何?」

 

 訝しげに尋ねてくるミーナに、オヅマではなく、オリヴェルが座りながら答えた。

 

「車椅子だよ。オヅマ特製の。ね?」

 

 オヅマはオリヴェルが座ってくれたことで、途端にホッとなって、胸を張った。

 

「おう! どう? 母さん。これだったら、オリヴェルも修練場まで行って帰って来れるだろ? もちろん、気分が良けりゃ途中まで歩いてもいいし、疲れたら座って戻ってこればいいんだ。母さんが押してもいいし、マリーだって押して行けるよ」

「ありがとう、オヅマ。これでもう恥ずかしくないよ」

 

 オリヴェルは心底から言った。

 いつも人に抱っこされて運ばれる恥ずかしさを、オヅマはやはりわかってくれていたのだ。

 

「ま…あ…そう…」

 

 ミーナは嬉しそうなオリヴェルの様子に、何も言えなかった。

 数日前に『待っていて』とオヅマが言ったのは、この事だったのだろうか…。

 

 近頃、とみに生意気になってきた息子の扱いに困っていたものの、やはり心根は相変わらず優しい。

 ミーナは少し申し訳なくなった。

 

「じゃ、早速行こう!」

 

 オヅマはゆっくりと車椅子を押した。マリーが歓声を上げる。

 

「すごい! 座ってるのに動いてる!」

「そういうもんだからな」

「いいなぁ…私も乗ってみたい!」

「じゃあ、僕が押すよ。マリーが乗ってごらん」

 

 オリヴェルは立ち上がると、マリーを乗せて車椅子を押していく。

 

「なにか掴まるものがあるだけでも、歩くのが楽だよ」

 

 オリヴェルは心配そうに()いてくるミーナを安心させるように言った。

 

 オヅマは途中から走り出して、修練場にいるマッケネンにオリヴェルが見学に来ることを伝えた。

 騎士達は初めて領主様の若君がやって来ると知って、俄然、やる気がみなぎる。

 

 マッケネンは素早くその日の修練内容を修正した。

 オリヴェルが馬を見たがっていることを聞いて、本当は予定になかった馬術を急遽入れる。

 オヅマと新米騎士の二人があわてて、馬房から馬を連れてきた。

 

 しばらくして車椅子に乗って現れたオリヴェルを見るなり、騎士達は歓声を上げた。

 野太い男達の雄叫びに、オリヴェルはやはり自分が来たのが迷惑だったかと勘違いしたが、マッケネンが丁重な挨拶の後に、教えてくれた。

 

「若君にいらしていただけると聞いて、皆、とても喜んでおります。ありがとうございます」

 

 まさか礼を言われると思わず、オリヴェルは驚いた。

 考えてみれば、初めてではなかろうか…大人から『ありがとう』と言われるのは。

 

 ミーナがそっとマッケネンに耳打ちして、そう長居できないことを伝えると、マッケネンは頷いて早速、馬術から始めた。

 

 オヅマは少しばかり不満だった。

 修練場での馬術訓練は、非常に繊細な調教訓練でオヅマは苦手なのだ。今回は特にマッケネンの指示で、寄りすぐりの二人だけがオリヴェルに披露したので、オヅマの出る幕はまったくなかった。

 

 その後はいかにも見学者にわかりやすいよう剣技の型の集団演舞。こちらもオヅマの不得手なものだった。

 それでもオリヴェルはすっかり興奮して、ミーナはその様子に少し心配になって、それで切り上げてしまった。

 

「また、見にくるね。今度は、普段通りでいいから…」

 

 帰り際にオリヴェルはマッケネンに言った。

 マッケネンは領主の息子が、訓練内容を変えていることに気付いていたことに驚いた。同時に、子供とは思えぬ思慮深さに感心した。さすがはあのご領主様のご子息だ…。

 

「ハッ! お待ちしております!!」

 

 肘をつき出して騎士礼をすると、後方で同じように騎士達が一斉に敬礼する。

 その列の端にはオヅマもいた。いっぱしの騎士然として、胸に拳をあてて肘を突き出したオヅマの姿を見て、オリヴェルはクスッと笑った。

 

 それを見てオヅマは少しだけバツ悪くなった。

 おそらくオリヴェルは、オヅマの()()に気付いていたのだろう。

 

 それはオリヴェルだけではなかった。

 

「残念だったな、いいところ見せられなくて」

 

 オリヴェルが車椅子に乗って去った後、早速マッケネンとゴアンが、ニヤニヤとからかってくる。

 オヅマはムッと睨みつけた。

 

「おッ! 怒ってるよ…怖いねぇ」

「ま、持ち越しだな。また来ていただけるなら、今度は剣撃訓練から開始してやるよ」

 

 こうしてオヅマにはやや不満の残る結果とはなったものの、オリヴェルにはやはり相当に新鮮で、楽しい時間だったようだ。

 それまで話もしたことのなかった騎士と話せたことも、馬を間近で見たことも。

 

 その日は興奮気味で夕食後には早々に寝てしまったが、特に体調を崩したというわけではなく、心地よい疲労感の中で眠りについた。

 それもまたオリヴェルには初めての経験だった。

 

 

 

<挿入話 ヴァルナルからの書簡>

 

 

 帝都到着後、荷解きする間もなく早々にヴァルナルがミーナに書き送った手紙。

 

緑清(りょくせい)の月 十八日

 

 (さや)けき風に揺れる緑の美しき時候、手翰(しゅかん)にて申し上げる。

 

 本日、帝都に到着した。

 やはり、この時期は各地諸侯が帝都に一気に押し寄せるため、北大門(サザロニアーザ)*1を通るのもひどく難儀であった。通常は閉鎖されている東大門(セトゥルニアーザ)まで開けても、長い列が三日は続いていた。

 

 帝都は既に夏である。

 神殿では新年を迎える準備が進められ、神女姫(みこひめ)様による祈祷は毎夜続いていると聞く。来年の暦譜(カレンダー)も布告され、町のあちこちで(にわか)暦屋(こよみや)が騒々しく売っている。

 来年の遠陽(とおび)の月は一日少ないようだ。

 

 皇帝陛下はやはり春先に亡くなられたシェルヴェステル皇太子殿下のことで、かなり気を落とされているようだ。

 公爵様は非常に信任も厚く、帝都到着を知らせるなり呼び出された。僭越ながら私もまた拝謁させて頂く栄誉に預かった。

 その際に新たに皇太子となられたアレクサンテリ殿下にも拝謁したが、まさしく先祖返りと噂されていた通りの、かのエドヴァルド大帝の容貌を備えた御方であった。

 

 まだ九つであらせられるので、子供らしい稚気はお持ちであるが、皇帝となるに相応しい思慮に富んだ、かつ器量の大きな方であるようにお見受けした。

 

 公爵の息子であられるアドリアン小公爵は、ご幼少のみぎりよりアレクサンテリ皇太子と親しくされておられる。いずれ帝都にて勉学に励まれる年齢となれば、ご学友として近く侍ることを約束されたようだ。

 

 アドリアン小公爵は非常に忍耐強く心根の真っ直ぐな方であられる。

 必ず皇太子殿下のお力になると思う。ただ、子供らしい我儘を言うこともないのが、少々不憫である。

 小公爵にオリヴェルにとってのオヅマのような友が出来れば有難いのだが。

 

 こうして書いている間に、また雨が降り始めた。

 今年は雨季節が早くやってきているようだ。一昨日まで、連続で三日近く降っていた。遅くに出発した者達は、テュルリー川の増水で足止めされているらしい。

 

 健やかに過ごされていることを祈る。

 

 年神様(リャーディア)の加護のあらんことを。 ヴァルナル・クランツ』

 

 

 

 

 ヴァルナルはこの手紙に封をして後は伝令に預けるだけという状態だったのだが、実家にしばらく帰省する旨の挨拶に来たカールは何気なく言った。

 

「ミーナ殿にまた手紙ですか? 日報のような味気ない手紙ばかり送らずに、たまには一緒にプレゼントでも贈られてはいかがです? せっかく帝都に来たのですし…」

 

 そのままカールは言い捨てて休暇に入ってしまったので、ヴァルナルはプレゼントなどという慣れぬ買い物をする羽目になってしまった。

 

 この時、ヴァルナルにとって不運だったのが、既に書いた手紙は封をしてあり、この贈り物が()()()()()()()()を明記できなかったことだ。

 プレゼントなんてものを贈ることに慣れておらず、メッセージカードを同封するという機転をはたらかせることもできなかった。

 

 とはいえ、自分宛ての手紙と一緒に贈り物が届けば、それは普通自分へのものだと思うのだろうが、そこは良くも悪くもミーナが相手であった。

 

 このことで帝都とレーゲンブルトをはさんで一騒動持ち上がるのだが、それについてはまた次回。

 

 

 

*1
帝都に入るために必ず通る門





次回は2022年6月1日20:00頃に更新予定です。



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第十六話 不器用な領主様

 ヴァルナルは溜息をついて、その手紙を机の上に置いた。浮かない顔の上司に、カールは首をひねった。

 

「ミーナ殿からの手紙ですよね?」

 

 尋ねたがヴァルナルは返事をせず、どんよりと頬杖をついた。

 

「………カール」

「はい?」

「お前の助言に従って、一応…贈り物というのを一緒に送ったがな……どうやらオリヴェルが使っているらしい」

 

 カールは首をかしげた。

  確かに先月、レーゲンブルトを発ってから何度目かになるミーナへの手紙を書いている主に、カールは言った。

 

「いつも日報のような味気ない手紙ばかり送らずに、たまには一緒にプレゼントでも贈られてはいかがです?」

 

 本当は…

 

『そうでもしないと、ミーナがあなたの気持ちに気付くことはありませんよ』

 

 …と付け加えたいところだったが、そこはさすがに目上の、いい年の大人に言うべきことでもないだろうと思って控えた。

 

「失礼ですが、どんなものをお贈りになったのです?」

文筥(ふみばこ)と、その中に便箋と封筒。珍しい色のインクとやらも勧めてきたので、それも一緒に」

「……………はい?」

 

 たっぷり間をあけてカールは聞き返した。

 ヴァルナルの言った品を思い浮かべたが、今までカールがしてあげた女性への贈り物の中に、それらは一切入ってこなかった。

 

「もしかして…ミーナ殿が()()()そうした品を望まれたのでしょうか?」

「そんな訳ないだろう。むしろ、それだったら有り難いくらいだ…」

「…でしょうね」

 

 カールは内心でヴァルナルの不器用さに呆れた。どうして好意のある相手…しかも女性に対してそういう品物を選ぶのだろうか?

 

「失礼ですが、領主様。もしかして品物を選ぶにあたって、ライル卿にでも相談されましたか?」

 

 いつもはヴァルナルの警護担当でもある副官のパシリコ・ライル卿は現在、休暇中だった。カールと入れ替わりに、久しぶりの家族水入らずで過ごしている。

 

「パシリコには一応聞いたが…『わからん』だけだ。まぁ、あの男が気の利くようなものを知っているとは思えないしな…」

 

 それは貴方(あなた)もさほどに大差ない……とは、カールは言わないものの、やや白目がちにはなった。

 

「そうですか。では、ご自分で選ばれたわけですね」

「いや。実は…公爵閣下を参考にさせて頂いた」

「公爵閣下?」

 

 カールはやはり首をかしげた。

 武人としてここまで上り詰めたヴァルナルが無骨者であるのは仕方ないにしても、洗練された貴族としての教養を受けて育ってきたグレヴィリウス公爵が、そんな味気ないものを贈るだろうか?

 

「グレヴィリウス公爵閣下がそんなものをお贈りになられたのですか? 誰にです?」

「公爵閣下が女性に物を贈ると言ったら、奥様以外有り得ないだろう」

 

 ますますカールは混乱した。グレヴィリウス公爵が、今は亡き奥方を非常に愛されていたことは有名だった。高位貴族にあっては珍しい相思相愛の、極めて仲睦まじい関係だった。

 それ故にこそ奥方が亡くなった時から、公爵の表情から笑顔は消え、いつも腕に薄鈍色の喪章をつけるようになったのだが……今は、その話はさておき。

 

「本当に、公爵閣下が奥方にそのようなものをお贈りになられたのですか?」

「あぁ。昔、欲しいと言われて、特注のものを作ったらしい」

「………」

 

 カールはもはや隠すこともなく溜息をついた。

 あぁ、そりゃそうだろう。奥方からの希望で、贈って差し上げたのだ。それは、既に公爵と奥方という関係性があってこそ成立するプレゼントだろう。

 

「ヴァルナル様…それは公爵の奥様が()()()プレゼントです。つまり夫婦であればこそ、喜ばれるものなのです」

「そうなのか?」

 

 驚いたように言ってくるヴァルナルに、カールは深々と頷く。ヴァルナルは顎に手をやって考え込みながらつぶやいた。

 

「そうか…そういうものか。しかし、店主にもいいプレゼントだと褒められたのだが…」

「店主? どこに行ってきたんです?」

「雑貨屋だ。文筥といっても色々とあるからな…店主に相談しながら決めた」

 

 カールはしばらく考えてから、慎重に質問した。

 

「失礼ですが…どういった相手に贈るのだと言いましたか?」

「それは…無論、息子の面倒を見てくれている……」

「使用人だと?」

「いや! それは店主も勘違いしたから、すぐに訂正した。だから…その…世話人というか、教育の面でも頼りになる……女性だと……」

 

 カールは頭を押さえた。

 それじゃ店主だって勘違いするだろう。おそらくは家庭教師あたりへのねぎらいとして、プレゼントを贈るのだと思われたに違いない。実際、その通りであれば、気の利いたプレゼントと言える。

 しかし、ヴァルナルが目指したのはそこではない。

 

「便箋とインクについては、一応、女性向けの、紙に押し花なんぞが入ったものにしておいたんだ。インクも…その…書いている時には藍色らしいんだが、日が経つと、紫色に変化するんだ。見本を見せてもらって、これだ! と思ったんだがなぁ……」

 

 いかにも残念そうにヴァルナルは言ったが、カールはげんなりしてきた。

 

「……紫色になるというのは、ミーナ殿の瞳の色に合わせたということですか?」

 

 ヴァルナルは返事をせず、んんッ! と、咳払いする。髭で隠れた頬は見えなかったが、耳の下が真っ赤に紅潮していた。

 

 あぁ、不器用―――…。

 

 カールは眉間を軽く押した。だんだん頭が痛くなってきた…。

 

「おい、カール。お前に言われてやってみたんだぞ。俺がこんなことが苦手なのは、お前はわかっているだろう?」

 

 厳しい口調でヴァルナルは言ったが、それは恥ずかしさを必死に打ち消そうとしているからだろう。カールは軽く溜息をつきながら、クスリと微笑んだ。

 

「それはすみませんでした。助言をした時に、一緒にプレゼント選びもつき合った方が良かったですね」

「そうだぞ。あの後、お前は言うだけ言って休暇を取るから…俺がおかしなものを贈ったとしても仕方がない」

 

 なんとも勝手な言い分ではあったが、カールはヴァルナルのそういう子供っぽいところが嫌いではない。

 

「まぁ、女性への贈り物といえば花が常套ですが、遠く離れた場所ではどうしようもないですしね。となれば…装身具、というのが一番、わかりやすいのではないでしょうか?」

「装身具?」

「ネックレスや耳飾り…というのもありますが、ミーナ殿の性格からしても、そうした華美なものは受け取らないでしょうし、何より仕事の邪魔になりますからね…髪飾りなどがよろしいのでは?」

「髪飾り? 櫛とかか?」

「飾りのついたものであればよろしいですよ。間違っても、ただの髪梳き用の櫛を贈らないで下さい」

 

 カールはあえて念を押した。

 髪を梳く櫛を女性に贈るというのは、いわゆる行為後のマーキングに近いもので、「これで乱れた髪を梳くといい」という婉曲な含意を経て、「昨日、良かったぞ」的な意味合いになってしまう。

 こういう事はさすがに騎士教練などにもなく、ただただこれまでの経験が物を言うので、武人一筋のヴァルナルが知らない可能性がある。

 案の定、ヴァルナルはまったくわかっていない様子で、カールの言った通りのことを反復する。

 

「うむ。髪梳き用の櫛は駄目なんだな」

「そうです。まぁ、妙な誤解をされない為にも、櫛形状の髪飾りは外しましょう。ミーナ殿の職務からして、装飾的に髪を結わえることもないでしょうから、簪などもあまり好まれないと思います。やはり、使用しやすい髪留めなどがよろしいかと…」

「む…で、それはどこで売ってるんだ?」

「………」

 

 カールは微笑んだまま固まった。

 もうこれは、小僧のおつかいに近いのではないのか?

 コホンと、一つ咳をしてから教えていく。

 

「女性への贈り物というのであれば、宝石商などで求めるのが一般的ですが…」

「宝石商か……」

 

 つぶやいて、ヴァルナルは眉を寄せる。すぐにカールには推測できた。

 おそらく生まれてこの方、行ったこともないのではないだろうか。いや、行ったことがあったとしても、おそらくは公爵の護衛として足を踏み入れた程度だろう。

 カールはしかしまた慎重に考えた。現状、ミーナはヴァルナルのそうした好意に対して、まったく気付いていない。それは領主館を出る時の態度からしても明らかだ。そうなるとミーナにとってあくまでもヴァルナルは領主であり、自分の主人ということになる。

 極めて控えめで、己の()に対して厳格なミーナのことだ…主人からの贈り物であっても、使用人風情が持つのに豪華すぎるものであれば、丁重に断ってくるだろう。

 

「いえ、ヴァルナル様。もしかすると、あまりに高価な贈り物であればミーナ殿はかえって恐縮するかもしれません。宝石などのついたものよりは…そうですね……布細工ですとか、あるいは鼈甲、陶器などの髪留めがいいかもしれません。そういえば木彫りなどでも、非常に凝った作りのものもございます…」

 

 カールが熱心に言うのを、ヴァルナルは呆けたように眺めた。

 

「お前…どうしてそんなに詳しいのだ?」

 

 ヒクッとカールの頬が引き攣った。自分は今、誰のために髪留めの話をしていると思っているのだろうか。しかし、あくまでも上官だと言い聞かせてカールは一応、説明した。

 

「前にもお話ししました通り、私には兄弟姉妹が多いのです。私の上に姉が二人、下には妹が四人。六人の女に三人しかいない男共が勝てるわけがありません。特に女性に対する心得については、大層厳しく躾けられました。贈り物のことも然りです」

「ハッハッハッ! 勇猛さをもって鳴るベントソン三兄弟も姉妹には形無しというところか」

 

 ヴァルナルは楽しそうに笑ったが、実際、その家に来てみて女性陣に囲まれ、今の話をしてみればいいのだ。さんざんに吊るし上げられて、家を出る頃にはぐったり項垂れていることだろう。

 

「で、そういうのはどこに行けばいいんだ?」

 

 ヴァルナルがまた子供のような目で尋ねてくる。カールは溜息をついた。

 

「……一緒に行きましょう」

 

 

 





続いて更新致します。



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第十七話 鈍感な親子

 そんな情けない主従のやり取りから十日以上が過ぎた頃―――――

 

「おぅ、オヅマ。こっちこっち」

 

 格闘術の稽古が終わると同時に、マッケネンが意味深な顔で手招きしてくる。

 

「なに?」

 

 滅多と入ることのない会議室に連れて行かれて、オヅマはちょっと不安になった。ここに呼ばれる時はたいがい叱られるからだ。しかし、マッケネンはまったく怒っている様子はなく、むしろおずおずと尋ねてきた。

 

「お前さ、そのー…若君の部屋で、文筥(ふみばこ)とか見たことある?」

「はぁ? フミバコ…って何?」

「手紙とかを入れておく箱だよ。形状はまぁ…こんなのだ」

 

 言いながらマッケネンは戸棚から取り出した大きな四角い箱をみせてくれた。

 

「これは簡素な作りだが、贈り物というからには多少は豪華なんだと思う。これくらいの箱、なかったか?」

 

 オヅマはオリヴェルの部屋の中を思い出せるだけ頭に浮かべてみたが、それらしき物体についてはとんと記憶がない。

 

「知らない」

「あぁ…そ」

 

 マッケネンは残念なような、呆れたような…何とも複雑な溜息をもらした。

 オヅマは首をかしげた。

 

「なに? それいるの?」

「いやいやいや! いらんいらん。ただまぁ…その…なんだ……それって、もしかして若君が使ってるのかなー…って思ってさ」

「そりゃ、オリヴェルの部屋にあるモンならオリヴェルが使うだろ」

「うぅぅ…」

 

 マッケネンは項垂れてから、プルプルと震えた。それからバン! と、なにかを机に叩きつける。

 

「……なに、これ?」

「手紙だ」

「ふぅん。弟さん?」

「違う。ベントソン卿…副官のカール・ベントソン卿からの手紙だ」

「……なに? お目付け役ご苦労さまって?」

 

 オヅマは聞きながら、いつになったらこの会話が終わるのかと思った。この後は下男として、居間の家具やカーテンを夏向けのものに替える仕事が待っているのだ。

 

「読め!」

 

 マッケネンはオヅマに手紙を突きつけた。

 

「えぇ? なんで俺が…」

 

 言いながらも、マッケネンがものすごい渋い顔をして睨んでくるので、オヅマは嫌々受け取った。

 

「えぇ…と…なにこれ? 緑清(りょくせい)の…()き日…に……あー、意味わかんね…」

「最初の部分は定型文だから読まなくていい。五行目から後を読め」

「……これ『文筥』っていうの? あ、ハイハイ。えーと…()()()()は若君に贈ったものではなく、ミーナ殿に贈ったものなので、お前からオヅマに言って、オヅマから若君にそれとなく伝えてほしい………どういうこと?」

 

 オヅマは意味がわからなくて聞き返した。

 マッケネンがヒラヒラと手を振った。

 

「そういうことだ。お前から伝えてくれ」

「なにを?」

「文筥を、贈った相手が、ミーナ殿だということを、だ!」

「贈った…? カール…さんが贈ったの? 母さんに?」

 

 オヅマはにわかに胸がザワザワした。さっきまでのマッケネンと同じような渋面になる。しかしマッケネンはすぐに否定した。

 

「違う! 贈ったのはご領主様だ」

「領主様が? なんで?」

「なんでって…そりゃ…贈りたいと思ったからだろう」

「母さんに? その文筥って手紙入れておくんだろ? なんでそんなの贈るの?」

「こっちが聞きたいよ!」

 

 マッケネンはとうとう叫んだ。

 よりによって、なんだって自分にそんなことを頼んでくるんだ…と、遥か遠く帝都にいるカールに恨み節を送りたくなる。

 それに、オヅマの言う通りだ。なんだって、そんな文筥なんてものを女性に……好意ある女性に贈るんだろうか、我が領主様は。

 

「なんだよぉ…いきなり大声出して」

「いや、すまん。ちょっと…慣れないことを頼まれて……」

 

 マッケネンはフゥともう一度、今度は深く息を吐いてからオヅマをじっと見つめた。

 ミーナもそうだが、オヅマにしても相当に鈍感なのか、まったく自分の母親が領主様に好意を持たれていることに気付いていない。いつだったか料理人のソニヤが言っていたが、自分の母親の身分のことを考えても、まったくもって有り得ないと思い込んでいるらしい。 

 

「なぁ、オヅマ…領主様なんだが」

「はい?」

「あの御方は元は貴族じゃないんだ。騎士でもない。元は帝都近郊の中都市の商家の出だ」

 

 オヅマはそれまで聞いたことのなかったヴァルナルの経歴について、興味を持った。この後、他の下男達から遅刻を叱られるかもしれないが、聞いておきたい。

 

「じゃあ、本当は商人になるはずだったの?」

「いや。跡は兄君が継がれたはずだ。その後に公爵家の騎士だった人に才能を見出されて、その人の養子になる形で騎士になったわけだ」

「へー…じゃ、やっぱり相当に強いんだ」

「うん、そうだ。いや…それは今はいい。つまり、元々貴族じゃないから、非常に自由思考というか…要するに身分とかあまり気にしないんだ。無論、序列は絶対だから、普段は厳しいがな」

 

 オヅマは頷いた。

 それはここに来てからすぐに感じたことだ。ヴァルナルは領主としての務めを果たし、その上で指示や命令するが、身分が低いからと軽んじることはない。それぞれの使用人の働きに対して、いつも感謝を忘れなかった。

 領主のその気風がレーゲンブルト全体にも浸透していて、行政官なども高飛車な人間は少なかった。

 

「だから…その…もし結婚となっても、身分を気にする人じゃないんだな」

 

 いきなり『結婚』という言葉が出てきて、オヅマはキョトンとなった。

 

「え? 領主様、結婚するの?」

「………その可能性がある、っていう話だ」

「へぇ。めでたいね。あ、でもオリヴェルのこと虐めるような継母だと困るな」

「………たぶん、優しい人だと思うぞ」

「マッケネンさん、知ってるの?」

「知ってるよ。お前は…もっと知ってると思うぞ」

 

 マッケネンは目の前にいる、あまりに鈍感な少年をちょっとからかってやりたくなってきた。

 

「えぇ! 俺、知ってんの? 誰? 誰だよ?」

 

 想像もつかないのか、オヅマは興味津々という様子で尋ねてくる。

 マッケネンは手で顔を覆った。思わず口が歪んで笑ってしまう。

 本気で言っているのだろうか? その手のことに聡い人間なら、この会話の流れで大まかにはわかりそうなものだ。

 しかし目の前の亜麻色の髪の少年には、まったく予想もつかないようだった。

 マッケネンは立ち上がると、手紙をヒラヒラ振ってみせる。

 

「ま…ともかく。副官殿からのわざわざの便りだ。すまないが、この手紙のこと頼まれてくれるか?」

「うーん…じゃあ、その手紙もらってもいい? 直接、オリヴェルに渡した方が多分わかると思う。俺が言っても、俺がよくわかってないし」

「あぁ、そうだな。いいぞ、もってけ」

 

 オヅマにカールからの手紙を渡すと同時に、マッケネンは自分の仕事は終わったことにした。

 実のところオヅマの読んだ部分以外に、ミーナの気持ちをそれとなく聞いておいてくれ、などといった無理難題まで要求されていたのだが、マッケネンはその二枚目以降についてはそのまま丸めて捨ててしまった。どだい、自分のような朴念仁に、他人の恋愛の橋渡し役など向いてない。

 

「人選を間違っておられますよ、副官殿」

 

 オヅマが去った後、マッケネンは独り()ちた。

 





次回は2022年6月4日20:00頃の更新予定です。



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第十八話 オヅマの憂鬱

 そうしてカールがマッケネンに宛てた手紙は今、オリヴェルの手の中にある。

 すべてを読んでから、オリヴェルは少し笑ってしまった。

 カール・ベントソン卿は一応気を遣って、『それとなく』オリヴェルに知らせるように記していたというのに、預けた人間がマッケネンとオヅマであったので、もう()()()()()伝わってしまっている。もっとも、それでオリヴェルの気が悪くなることもなかったが。

 

 オリヴェルは立ち上がると、隅に置かれた机の抽斗(ひきだし)から(くだん)文筥(ふみばこ)を取り出した。

 

 ミーナはこれを「お父上からのプレゼントですよ」と嬉しそうに渡してくれたのだが、貰った時から妙な気はしていたのだ。

 白の文筥。しかも蓋には紫に色付けされた(すみれ)の繊細な彫刻。どう考えても女物としか思えない。

 その事をミーナに言うと、ミーナは苦笑して言い繕った。

 

「おそらく領主様はそうしたことは詳しくご存知でないのでしょう。若君の雰囲気に合わせた愛らしいものをお選びになったのだと思いますよ」

 

 今にして思えば、ミーナは相当に鈍感だ。それともわざとわからないフリをしているのだろうか。

 

「なに? これが文筥ってやつ?」

 

 オヅマはオリヴェルが持ってきた文筥をしげしげと眺める。

 

「なんかこれ…キラキラしてねぇ?」

「貝殻を砕いて作った塗料を塗ってるからだと思う」

「へぇ。なんかスゲーんだな。兵舎で見たのなんて、ただの箱にしか見えなかったけど」

「まぁ…贈り物だからね」

 

 言いながらオリヴェルは、オヅマの薄紫の瞳と、蓋に描かれた菫を見比べる。

 オヅマの瞳の色はミーナと同じだ。おそらくこの文筥を選んだ理由も、そういうことだろうと…オリヴェルは訳知り顔に笑みを浮かべた。 

 

「じゃ、これは中身も含めてミーナに渡したらいいんだね?」

「おぅ、そうみたいだな。っつーか、母さんとマリーはどうした?」

「マリーは庭にお花を摘みに行ってくれたんだよ。ミーナは食事の下準備があるんだって」

 

 未だにオリヴェルの食事だけは、ミーナが作っている。最近はマリーやミーナとも一緒に食べるので、オリヴェルの食欲もますます増していた。

 

「オヅマも一緒に食べればいいのに…」

「えぇ? だって、俺はこの後も一人で訓練する予定だし。あんまり腹に入れてると、動きにくい」

「そっか…」

 

 オリヴェルは少しだけ寂しそうに返事してから、机の上に置いてあった駒取り(チェス)の盤を持ってきた。

 

 二ヶ月前の緑清(りょくせい)の月に初めて修練場を訪れて以来、オリヴェルはあの車椅子に乗って何度か通うようになっていたのだが、さすがに暑くなってくると体に負担がかかったのか、一度ひどく体調を崩してしまった。

 

「年が明ければ、多少は涼しくなります。気候が穏やかになるまでは、しばしお控えください」

 

 ミーナだけでなく、マッケネンにまで頭を下げられてはオリヴェルも無理を通すことはできなかった。騎士達の邪魔になることだけはしたくなかったから。

 

 それからはオヅマが気を遣って、頻繁にオリヴェルの部屋を訪れるようになっていたのだが、最近では二人ともすっかり駒取り(チェス)に夢中になっていた。オリヴェルが色々と戦法を教えてあげているので、当初は下手くそだったオヅマも、だんだんと凝った作戦を取るようになってきている。それに騎士達にも教えてもらっているようだ。

 

「ねぇ…オヅマ」

 

 オリヴェルは盤の上の駒を動かしながら、それとなく尋ねた。

 

「ん? なんだ?」

「もし…さ…ミーナと、僕の父上が結婚することになったらどう?」

 

 オヅマは返事をしなかった。

 聞こえてはいたが、盤上に集中していて、オリヴェルの話が頭に入ってこなかった。

 

「オヅマってば!」

 

 オリヴェルが少し強い口調で呼びかけると、眉を寄せて顔を上げた。

 

「なんだよ?」

「もしミーナと、僕の父上が結婚することになったらどう思う?」

「はぁ?」

 

 オヅマは大声で聞き返してから、すぐに笑い出した。

 

「ハハハハッ! 何言ってんだ、お前? いくら母さんがお前の世話するようになったからってさぁ…」

 

 言いかけてから、マッケネンが領主様が結婚すると言っていたことを思い出す。

 

「そうだそうだ。だいたい、領主様は近々結婚するらしいし」

「えっ!?」

 

 驚いたのはオリヴェルだった。そんな話は聞いたことがない。ミーナに宛てて一緒に送られてくる手紙でも、そんな事は言ってきたことがなかった。無論、父がいちいちそんなことで、自分にお伺いを立てる必要はないが。

 

「そうなの? 本当に?」

「おぅ。らしいぞ。…って、聞いた。あ…でも安心しろよ。なんか優しい人だってさ」

「………そんなのわからないじゃないか」

 

 オリヴェルは警戒した。

 今の時期に父が結婚相手を選ぶということは、おそらく帝都にいる貴族の誰かだろう。田舎暮らしを敬遠した母のように、ここを臭いと言って出て行くことは大いに有り得ることだ。

 

「こんな田舎に喜んで来るような優しい人が都にいるとは思えないよ」

 

 トゲトゲしく言うと、オヅマはあっけらかんと言った。

 

「あ、なんかな。俺も知ってる人なんだって」

「………へ?」

「誰なのかなぁ~? マッケネンさん、肝心なこと教えてくんないから…気になるよなぁ」

 

 腕を組んで駒を見ながら、オヅマは考え込む。正直、今のオヅマの気がかりは、領主様の結婚相手のことより、あと一手でオリヴェルの守りを破れるか…ということだった。

 しかし目の前のオリヴェルはもはや盤上の勝負にはさほど興味がない。オヅマの話を頭の中で纏めた後、おずおずと尋ねた。

 

「一応聞くけど…オヅマ、君、帝都にいたことないよね? 知り合いが帝都にいるとか…」

「あるわけないだろ。あんなとこ行きたいとも思わない」

 

 吐き捨てるように言うオヅマに、オリヴェルは少し違和感を覚えつつも、その先を冷静に推理する。

 

 どうやら父が結婚するかもしれない…ということを言い出したのは、マッケネンであるらしい。その上で、()()()のことをオヅマは知っていて、しかも優しい人……

 

「ねぇ、オヅマ。()()()って、君のお母さんのことだと思わないの?」

 

 オリヴェルは思いきって尋ねた。

 

「はいぃ? さっきからなんでそういうヘンなこと言うの? お前」

 

 オヅマは想像もしないのか、オリヴェルを怪訝に見た。

 しかし、オリヴェルは言い重ねる。

 

「ヘンなことじゃないでしょ。だって、オヅマも知っている人で、僕にも優しく接してくれて、父上と結婚するならミーナぐらいしか思い当たらないよ」

「………」

 

 真剣な顔のオリヴェルに、オヅマはヒクヒクと頬を引き攣らせた。

 そんな訳がないと思いつつも、オリヴェルの説明を聞いていると、実際にそうであるような気もしてくる。

 その上でオリヴェルは例の文筥を指さして、オヅマに示した。

 

「この文筥だって、元はミーナに贈るものだったんだって…ベントソン卿も言ってきたじゃないか。こんな綺麗な文筥を贈るんだから、父上はミーナのことが好きなんだよ」

「はぁぁ!?」

 

 オヅマは大声を上げた。

 その時にちょうどマリーが入ってくる。

 

「ちょっとぉ…お兄ちゃん。うるさいわよ」

 

 手にはラベンダーとマーガレットの花束が握られていた。マリーは慣れた手付きで、適当な大きさの花瓶にそれらの花を活ける。それからハイ、とオヅマに水差しを渡した。

 

「なんだよ?」

「この水差しに水入れてきて」

「お前な…」

「行ってきてくれたら、ソニヤさんから貰ったクッキーあげるから」

 

 オヅマは不承不承ながらも無言で水差しを持って出て行く。

 オリヴェルはホゥと溜息をついた。

 

「いつもながら…オヅマは本当にマリーに優しいよねぇ」

「えぇ? そうかなぁ…?」

 

 マリーは首をかしげつつ、ポケットからクッキーを取り出した。ヒマワリの種と胡麻の入った香ばしいクッキーだ。

 

「ねぇ、マリー」

 

 マリーから貰ったクッキーをかじりながら、オリヴェルは尋ねた。

 

「もし…ね。もしかして、ミーナ…マリーのお母さんと、僕の父上が結婚することになったら、どう思う?」

「えぇ?」

 

 マリーにとっても寝耳に水だったらしい。驚いてゴホゴホとむせるので、あわててオリヴェルは自分のコップに入っていた水をあげた。

 マリーは水を飲んで、ホッと一息つくと、コップとクッキーをテーブルに置く。

 

「ね、ね、ね、本当? 本当に、本当?」

 

 キラキラと目を輝かせて聞いてくるマリーに、オリヴェルは安堵した。嫌がられるかもしれないと、ちょっと心配だったのだ。

 

「まだ…わからないけどね。でも、そうなったらいいと思う?」

「思う! だって、そうなったらオリヴェルはお兄ちゃんになってくれるんでしょ?」

 

 すっかり舞い上がった様子で、マリーはオリヴェルの両手を握る。

 

「そうなるね」

「やったぁ!!」

 

 ちょうどその時にオヅマが戻ってくる。マリーはぴょんとソファから降りると、オヅマに向かって走っていった。

 

「ねぇ、お兄ちゃん! 私達、きょうだいになるのよ!」

「あぁ?」

 

 オヅマは聞き返しながら、水差しの水を花瓶に注いだ。半分まで注いだところで、水差しをベッドのサイドテーブルに置く。

 

「なに言ってんだ、お前は。元から俺らは兄妹だろうが」

「違うの! オリヴェルと私と、お兄ちゃんがきょうだいになるの!」

「…………」

 

 オヅマは複雑な顔でオリヴェルを見た。その表情に、オリヴェルの不安がまた立ちのぼる。

 

「おい…いい加減なこと言うなよ」

「いい加減なことじゃないよ。オヅマだって…わかるでしょう?」

 

 オヅマは拳を握りしめた。

 オリヴェルが嘘や冗談で言っているのではないのはわかる。それにマッケネンのあの意味深な話も、オリヴェルの説明で納得できる。

 しかも、今になってまたソニヤのあの予言が脳裏をかすめた。

 

 

 ―――――ミーナはいずれ領主様の奥方となるであろう…

 

 

 オヅマは乱暴に首を振った。

 有り得ない。絶対に、有り得ない!

 

「お兄ちゃん、嫌なの?」

 

 マリーが下から不安そうに覗き込んでいた。

 

「嫌って……なにが」

「オリヴェルときょうだいになるの…嫌なの?」

 

 オヅマはハッとしてオリヴェルを見た。マリーと同じような顔をして、じっとオヅマを見つめている。

 

「嫌じゃない。別に…オリヴェルときょうだいになるのが嫌とかじゃないけど…」

「じゃ、嬉しいよね!」

「………」

 

 オヅマは唇を噛み締めた。本当にオリヴェルと兄弟になるのは、嫌じゃない。むしろ、嬉しいと言っていい。ただ…その前提として……

 

「俺は…父親はいらない」

 

 オヅマはポツリとつぶやくと、オリヴェルの部屋から出た。

 マリーはオリヴェルと目を合わせて首をかしげた。

 

「どうしたんだろう、お兄ちゃん。ご領主様のこと大好きなのに…」

 

 

 

 

 父親―――――。

 

 オヅマにとって、それは忌避すべき存在だった。

 コスタスにせよ…誰にせよ…()と呼ばれる存在が自分にとって善き者であったためしがない。

 

 

 ―――――さすがだ…オヅマ……

 

 

 脳裏に見知らぬ男の声が響く。

 途端に頭痛が走り、胸が引き絞られるように痛む。同時に訪れるのは吐き気がしそうなほどの嫌悪感と憎悪だ。

 

 一体…この声の男は何なのだろう? できれば一生会いたくない…。レーゲンブルト(ここ)にいる限りは安全だろうか。

 

 暗い顔で階段を下っていると、オリヴェルの夕食の下拵えを終えたミーナが上ってくるところだった。

 

「あら、オヅマ。若君に会いに来たの?」

「…………」

 

 声をかけられて、オヅマは憂鬱に母を見つめた。

 

 薄い金髪に、オヅマと同じ薄紫(ライラック)色の瞳、西方の血を継いだ薄い褐色の肌。

 コスタスと一緒であった頃から、ミーナは村でも美人で通っていた。それは知っていた。そのせいでコスタスがますます傍若無人になり、ミーナに寄ってきた男の中には、足の骨を折られてその後びっこをひく羽目になってしまう者もいた。

 

 それからはミーナに迂闊に声をかける者はいなかったが、コスタスがいなくなった途端に、村長の息子のように狙う男共は多かったことだろう。

 そのことも含めて、オヅマはあの村を出てこの領主館に来ることを選んだのだが、結局、母の美しさは誰の目にも止まるのだろうか。

 

 オリヴェル付きの侍女となって以来、それらしい服を着るようになって、いつも身綺麗にしている母は、確かに清楚で美しい部類なのだろう。

 

 オヅマはミーナの立っている踊り場まで降りてから、目の前の母を見て、ものすごく大きな溜息をついた。

 ミーナが目を丸くする。

 

「どうしたの? 随分、疲れているみたいね」

「………母さん、一つ訊きたいんだけど」

 

 オヅマは自分でもこんな質問をするのが嫌だった。しかし、ちゃんと聞いておかないと、この後の自分の気持ちの整理がつかない。

 

「まさかと思うけど、領主様と結婚する…とか…ないよね?」

 

 ポカン、とミーナは口を開けたまま言葉を失っていた。目をパチパチと瞬かせた後で、プッと吹いた。

 

「な…何を言い出すかと思ったら……」

 

 クスクスと小刻みに肩を震わせて笑う母の姿に、オヅマはようやくホッとなった。

 

「だ…だよねぇ?」

「当然でしょう? そんなこと有り得ないわよ」

 

 ミーナはようやく笑いをおさめると、そっとオヅマの頬を両手で包んだ。

 

「私はここで働けて幸せよ。それで十分。オヅマのお陰ね、ありがとう」

 

 今更ながらに言われて、オヅマは顔を赤らめた。

 

「俺も、ここに来てよかったと思ってる。母さんとマリーに…ずっと幸せに生きててほしいから」

 

 ミーナはいきなり大層なことを言う息子を不思議に思ったが、軽くおでこにキスした。

 

「おかしなこと言ってないで。そういえば、勉強は進んでいるの?」

「あぁ……もういいや」

 

 オヅマはあわてて逃げ出した。

 階段をダダッと降りると、残りの五段をぴょんと跳んで、下に着地する。そのまま駆け去ろうとするオヅマにミーナが声を張り上げた。

 

「オヅマ! たまには一緒に食べましょう。若君も楽しみにしているのよ」

「うーん。また、雨になったらね!」

 

 雨の日にはさすがに自主訓練もできないので、その時はミーナ達と夕食を食べることもあるのだ。

 

「待ってるわ」

 

 ミーナは手を振り返し、跳ねるように走っていく息子を愛しく見つめた。

 

 まだまだ子供だと思っていたら大人のような素振りをするし、大人だと思っていたら子供のようなことを言う。

 振り子のように行ったり来たりしながら、オヅマは大きくなっていく…。

 

「そうね。まだまだ子供よね…」

 

 願いを含んで、ミーナは小さくつぶやいた。

 





次回は2022年6月5日20:00頃の更新予定です。



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第十九話 真夏の参礼

 季節は盛夏を迎え、虔礼(けんれい)の月となった。来月には新年を迎える。

 

 無論のこと帝都では盛大な祭りと、皇宮においては連日のように儀式と祭典、それに伴う園遊会や夜会が開かれる。

 それは帝都に限らず、ここレーゲンブルトにおいてもそうであった。さすがに領主が不在であるので夜会等はないものの、近くの神殿に供え物を持って半日以上かけて祈りを捧げるのだ。

 ヴァルナルが領主となって以降、この神事を頼まれていたのはネストリら数名の使用人であったのだが、今回はネストリが勝手にミーナに参拝を任せてきた。

 ミーナは突然のことで、段取りや立ち居振る舞いについてネストリに尋ねたものの、

 

「あれほど見事な礼法を弁えておられるミーナ殿であれば、今更参拝の作法など教えるまでもないでしょう」

と、皮肉たっぷりに拒絶された。

 

「っとに…やることがいちいちネチこいんだよなぁ…」

 

 オヅマはギリギリと歯噛みしたが、ミーナに予め余計な文句を言わないように釘を刺されている。その上、今月は虔礼の月ということで、新年の神を迎え入れる為に、何事においても慎み深く過ごさねばならない…。

 去年までのオヅマであれば、そんなこと何処吹く風であったが、今は騎士の末席に連なる者として、そうした修養も身に着けていく必要があった。

 とはいえ。

 

「だいたいこの暑さ…神様だって嫌がるよ」

 

 オヅマはブツブツと文句を言いながら、神殿までの道を歩いて行く。

 

 参拝には数人の騎士達が従うことになっていた。それは供物の他に、騎士の剣舞もまた神に奉納されるべき儀式であったからだ。

 

 

「オヅマ、お前参加な」

 

 マッケネンが当たり前のように言ってきた時、オヅマは不満げに叫んだ。

 

「嫌だよ~。この暑いのに神殿まで歩くなんてさ」

 

 神殿は領府の外、まったく遮るもののない丘陵を一刻(いっとき)(約1時間)ほど歩いた先、人工的に作られた小高い森の中にある。

 神事ということで、馬に乗ることもできないし、特に見て楽しい景色もない。ただただ青い麦畑と、照りつける太陽を抱いた青空が無情に広がるだけだ。

 

 しかしマッケネンはにべなく言った。

 

「駄目だ。お前、子供だからな。剣舞をしてもらう」

「えぇぇ!!??」

「神様は子供が大好きだからな。子供の剣舞なんて、奉納にはピッタリだ」

 

 確かに神様への奉納として子供達が踊りを披露したりするが、剣舞をしているところなんて見たことがない。

 

「そりゃ、今までお前みたいに剣を扱える子供がここらにはいなかったからな。帝都なんかじゃ、割と多いぞ。まぁ、あっちだったら儀礼用の軽い剣もあるけど、お前いつものやつの方がしっくりくるだろ?」

「……ないんだろ、それ」

「うん、そう」

 

 マッケネンは明るく頷いた。

 

 それから十日間近く、オヅマはみっちり剣技の型の練習をさせられた。

 神殿に奉納する剣舞は、一つ一つの決められた動作を型として覚え、型と型の間においても流麗な舞を求められる。普段において、オヅマも一応訓練としての剣技の型は覚えていたものの、こうした儀礼的なことはまったく実戦とは違う。

 灼熱の太陽の下で練習させられ、ゲンナリするオヅマに、教師役に任命されたゴアンの喝が飛んだ。

 

「コラァ! オヅマ! 背をシャキッと伸ばせッ。顎引け、顎ォ」

 

 ゴアンは帝都の出身なので、子供の頃にはよく剣舞の稚児(ちご)として駆り出されたらしい。人は見かけによらない。

 

「まぁ、いいこともあるんだぞ。格好いい服着せてもらえるからな!」

 

 ゴアンは言ったが、オヅマはそんなことはどうでもよかった。なんだったら、このクソ暑いのに飾り立てた衣装なんぞ着て、剣舞するなんてよっぽどトチ狂っている。

 

 とはいえ、オヅマが剣舞をすると聞いて、とうとうオリヴェルが館を出て神殿にまで行くことを決めたのだから、オヅマとしては失敗するわけにいかなかった。

 

「オヅマ! 剣舞するんだってね! 僕、絶対見たい。絶対、神殿まで行くよ!!」

 

 なんてことをオリヴェルが言い出した時には、ミーナは必死で止めた。

 この暑さの中で、一刻(いっとき)以上も馬車に揺られて行くとなれば、オリヴェルにどんな負担になるかわからない。まして神殿での礼拝は昼過ぎから夕暮れ近くまで行われるのだ。

 この時ばかりはネストリやアントンソン夫人、マリーまでもが一緒になって止めた。マリーなどは、

 

「オリヴェルが一人でお留守番が嫌なら、私行かないから」

とまで言い出したほどだ。

 

 しかし、案外あっさりと認めたのはオリヴェルの主治医であったロビン・ビョルネ医師だった。

 

「じゃあ、僕が同行しましょう。一緒にいれば、何かあっても対処できるでしょうし、予防策も講じられます」

 

 後で聞けば公爵領での新年の祭りにも飽きていたので、こっちでの新年行事に興味があったらしい。

 

「昔からこういう神事や祭事に興味があって、個人的に色々と調べているんです」

「へぇ…先生も物好きだね」

 

 たまたまその場にいたオヅマが言うと、ビョルネ医師はハハと照れたように笑った。

 

 ということで、ミーナが乗る馬車とは別に、オリヴェルとビョルネ医師、マリーと最近オリヴェル付きの女中となったナンヌが乗っている馬車には、暑さ対策として座面に夏場でも冷たい涼雪石が敷かれており、その上にたっぷり綿の入ったキルトの布を重ねてオリヴェル達は座っている。しかも例の車椅子を持って行くことになったので、正直、オリヴェル達の馬車の走行は遅かった。

 

「なんで騎士は馬乗っちゃ駄目で、馬車はいいんだよ?」

 

 額からの汗を拭いながらオヅマがぶつくさ言うと、隣を歩いていたフレデリクがゲンナリした表情で同意する。

 

「ホントだよな…。馬車でいいって言うんなら、俺らだって馬車に乗りたいよ」

「やかましいぞ、お前達」

 

 本日、マッケネンに代わって騎士代表として行くのはゴアンだった。

 額から汗が湧くように流れているのも嬉しそうに、いきいきしている。毎年、この年末の儀式はゴアンの独壇場らしい。

 

「歩くのは基本中の基本だぞ。騎士がこれくらいの行軍でへばっていてどうする」

「お言葉ですけど…」

 

 赤い顔をしながらフレデリクが異を唱える。「それが嫌だから騎士になったんです」

 

「そりゃ、目論見違いだったな。戦でもないのに、こんな暑さで馬を使えるか。大事な足なんだぞ。それに馬をやられりゃ嫌でも歩くしかないんだ。オラ、とっとと歩け歩け。歩かない限り着かないぞ~」

「あぁ…」

 

 フレデリクは肩を落としつつ、それでも言われた通り歩くしかない。

 こんな炎天下で、何もないこの道の真ん中で立ち止まったところで、やってくるのは虫ぐらいなものだ。いや、虫だって暑さで茹だってしまうかと思うのか、草の影にじっと身を潜めている…。

 

 ゴアンがまた先頭に立って行ってしまうと、オヅマはぼやいた。

 

「あの人、なんであんなに元気なの?」

「ゴアンは昔から夏が好きだからな…」

 

 教えてくれたのは、そのゴアンの対番(ついばん)(※基本的に騎士は二人一組)であるサロモンだった。

 

「地面が揺らいで見えるくらい暑くて暑くて、汗がタラッタラ流れてくるのがたまらなく大好きなんだとさ」

「………ただの異常だろ、それ」

「そんなのと対番の俺に言うのか、お前」

 

 ゲンナリと恨み言を言うサロモンを見て、オヅマはご愁傷さまと思ったが、言わなかった。

 神事に付き従う騎士は総勢で八人いたが、オヅマとゴアン、その対番のサロモンを除いて後は皆、くじ引きだった。無論、この場合ハズレくじということだ。暑いの大好きゴアンの馬鹿を除いたら、全員がご愁傷さまだ。

 





続いて更新致します。



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第二十話 神送り

 ようやく神殿に辿り着くと、すぐさまミーナは礼拝所に連れてゆかれた。

 あらかじめオリヴェルが行くことを言っていたので、神殿の方も領主様の若君が来るということで、万全の態勢を整えてくれていたらしい。オリヴェルとマリーらは、遠方からの参詣者用の宿舎へと案内されていった。

 

 一方、オヅマの方はというと早速、奉納の為の剣舞の用意をさせられる。

 

 藍色の軍礼服にシャラシャラ鳴る装身具、藍の房のついた肩章(エポーレット)とそこからヒラヒラ翻る藍のマントには、今年の神鳥であった(ヒタキ)の絵が染め抜かれている。

 

 当初、オヅマは新年を迎えるための参拝であると思っていたので、どうして今年の色である藍色の服なのか疑問であったが、マッケネンが丁寧に教えてくれた。

 

「まぁ、普通は新年を迎える祭りの方が一般的だものな。本来、虔礼(けんれい)の月に行われる礼拝は、この一年の安寧と豊穣に感謝して、その年の年神を天界へと送るものだ。今回、ミーナ殿が行う礼拝もそういうことだ」

「じゃあ、新しい年神様には参拝しなくていいの?」

「それはヴァルナル様が帰ってきてから直接されることになっている。いくらなんでも迎えも送りも他人任せでは、領主として神様に申し訳ないらしくてな」

 

 オヅマはヴァルナルの妙に真面目というか、ちょっと固くも思える性格が面白かった。貴族の中には一年中帝都にいて、領地に戻ることもない人間もいる。そんな人間は神事など気にもしていないだろう。

 

「ま、お前も領主様の代わりに舞を奉納するんだと思って、しっかりと務めろ」

「えっ? 領主様も剣舞とかするの?」

「………しない」

「それ代わりじゃねーだろ!」

 

 この調子だと子供という理由で来年もさせられそうで、オヅマは憂鬱だったが、それでも母やマリー、オリヴェルが楽しみにしているので、マッケネンの言う通り、しっかり務めねばならない。

 

 とはいえ。

 

 化粧なんかさせられるとは聞いてなかった。

 

「嫌だ! どうせ汗かいて落ちるだろ!」

「目の周りにちょっと金粉塗る程度のことだろうが!」

「じゃあ、なんで紅があるんだよ!」

「そりゃ、もちろん唇に塗るんだよ」

「い・や・だ!」

 

 オヅマは強硬に拒絶した。その様子を見ていた神官の一人が、鼻までの仮面を持ってきた。目の周りに金色の装飾が施されている。

 

「これであればよいでしょう? 口紅はまぁ、しなくてもいいのですし」

「そら見ろ! やっぱりしなくていいんじゃないか!」

「チッ! いい話のタネになると思ったのに」

 

 ゴアンが面白くなさそうに舌打ちするのを、周囲にいた神官と騎士達は肩を震わせてこらえた。

 さすがに隣の宮でミーナの祈祷の最中だというのに、大笑いが聞こえてきては、荘厳な儀式が乱されてしまう。 

 

 その後、剣舞を行う場所に案内され、最後の通し稽古を行って本番を待つ。

 

 祈祷が終わる頃には、空がうっすらと朱色になりつつあった。

 北国の夏の夜は短い。冬であればとっくに暗闇に包まれる時間であったが、まだ山の端に太陽は沈んでいなかった。

 

 薄暮の中、神官が松明を持って現れる。白砂の敷き詰められた境内の四隅に篝火が灯った。

 

「さ、行くぞ」

 

 オヅマに合わせて鼻までの仮面を被ったゴアンが軽く声をかける。

 ゴアンとオヅマの他に、二人が剣舞を奉納することになっていた。ゴアン以外は全員が未経験だ。

 

 ゴクリと唾をのみこんで、オヅマは背を伸ばして白砂の上を歩いて行った。

 

 

 

 

 オリヴェルは現れたオヅマの風体にまず目を奪われた。

 仮面をしているが、大人の中で一人だけ子供なのですぐにそれがオヅマとわかる。まして亜麻色の髪が黒の仮面と藍色の服にとても引き立っていた。

 

「うわぁ! お兄ちゃん、かっこいいじゃない」

 

 隣でマリーが素直な感想を述べると、ミーナも微笑んだ。

 

「本当ね。案外と似合ってるわ」

「まぁ、ミーナさんってば、案外だなんて。とっても似合ってますよ」

 

 ナンヌは初めて見る剣舞に少し興奮気味に言った。その横で興味津々とビョルネ医師が凝視している。

 

 さすがに十日間みっちり仕込まれただけあって、オヅマの舞は流麗であった。

 周囲で踊るのが大人ばかりであるせいか、華奢にも見えて、それが一層儚げで、神秘的に思えた。

 篝火と夕闇の中で、鋭く光るように薄紫の瞳がこちらを向く。

 オリヴェルはドキリとしてしまった。

 生きて動いているものなのに、そこには造形物としての美しさがある。これをただ見ているだけなのが勿体ないくらいだ。

 

「あぁ、残念。僕に絵の素養があれば…この神事を描いて記録するでしょうに」

 

 ビョルネ医師がつぶやいた。

 それを聞いて、オリヴェルは思いつく。

 

 今まで暇つぶし程度に絵を描いたことはあったが、確かにこのオヅマの姿は残したいものだ。館に戻ったら、必ずこの記憶を絵に残す。

 そう決めると、オリヴェルは尚の事熱心にオヅマの姿を凝視した。

 手の形も、足の動きも、剣の冴え、舞によって揺れるマントや、シャラリと鳴る装身具の音ですらも全て。

 

 一方のオヅマは途中から妙な視線を感じて落ち着かなかった。

 それは興奮したマリーやナンヌのものでもなく、失敗しやしないかと少し心配そうに見ているミーナのものでもない。神事として興味深く観察するビョルネ医師のものでもなく、すべてを記憶しようとするオリヴェルの熱っぽいものとも違う。

 

 何の感情もない瞳が、ただただオヅマを見ている。いや、少しだけ笑っているようでもある。

 剣舞に集中するほどに、その視線が気になった。全身の感覚が知らせてくる。この目は明らかに違う、と。

 

 オヅマはひたすらに舞った。

 不思議と頭に次の動作はまったく浮かんでこないのに、勝手に体が動く。

 舞うほどに神経が縒り合わされて、一つの束となり、新たなる感覚が生まれるかのようだ……。

 

 ―――――オヅマ…

 

 呼びかける声が直接頭に響く。

 ビクリとして、オヅマは手に持っていた剣を落とした。

 

 だが、ちょうど舞が終わったところだった。

 

「最後にトチったな」

 

 ゴアンが剣を拾って渡してくる。オヅマは肩をすくめて受け取ると、本殿に向かって頭を下げた。

 

 拍手が境内に響いた。

 領主館の人々の参拝を知った領民が来ていて、思っていたよりも多くの人間が見ていたらしい。

 

「…………」

 

 オヅマは辺りを見回した。あの声の主を探したい。だが、まったく見当がつかなかった。

 

「どうした? 行くぞ」

 

 ゴアンに声をかけられる。

 

「あ……うん」

 

 オヅマはボーッとしながら頷く。

 境内から立ち去りかけて、その背にマリーの声が飛んできた。

 

「お兄ちゃん、よかったよ!」

 

 嬉しそうなマリーの顔に、ようやく我に返る。軽く手をあげてから、オヅマはそそくさと走り去った。

 今更ながら、妹や母やオリヴェルに見せられたのが嬉しくもあり、少しばかり恥ずかしくもあった。 

 

 

 

 

 その夜、オヅマ達一行が領主館に帰ることはなかった。オリヴェルがやはり興奮して、少し熱を出したせいだ。

 しかし、ビョルネ医師は落ち着いて言った。

 

「まぁ、今日はこのままここでお世話になることにしましょう。一晩、ゆっくり眠れば体調も戻るでしょう。朝方に出れば、さほどに暑くもないでしょうし」

 

 ある程度、それは予測していたので、神殿側も快く宿泊を許可してくれた。

 

 簡素な夕食を頂いた後、朝からの忙しさで皆早々に眠りについたが、オヅマは目が冴えていた。

 

 まだ、あの声が残っている。女なのか男なのかもわからない、不思議に響く声。

 寝返りを何度か打ったあと、観念して起きあがった。

 どうせ眠れないなら、外に涼みに行こう。

 

 宿泊所から出ると、月が皓々と冴えていた。さっきまで舞っていた境内は月光に白く照らされながら、シンと静まり返っていた。

 

 

 ―――――オヅマ…

 

 

 また、声がする。

 

 

 ―――――オヅマ…

 

 

 オヅマは歩き出した。

 

 声は自分を呼んでいる。さっきのようにあらゆる場所から見つめるのではなく、明らかに一定方向から聞こえてくる。こちらへ来いと招くように。

 何者ともしれぬ声であるのに、オヅマはなぜか恐怖を感じなかった。

 

 灌木の間を抜け、鬱蒼とした木々の間を抜けると、そこには小さな(ほこら)があった。手前にはたっぷりと水をたたえた水甕(みずがめ)があり、その中に月が浮かんでいた。

 何気なしにその水甕の中を覗く。ゆらゆら揺れる水面に、自分の仏頂面が浮かんでいるのをボンヤリ見ていると、

 

 

 ―――――オヅマ…

 

 

 再び声が響き、波紋が揺らめいて水甕の中に現れたのは少女だった。

 オヅマよりも少し年上くらいだろうか。まっすぐな黒髪は胸まで伸びて、眉のところで前髪はキッチリ切り揃えられている。

 

 

 ―――――オヅマ…

 

 

 呼びかけた声のままに赤い唇が動き、うっすらと目を開ける。

 オヅマは息を呑んだ。

 

 それは闇と太陽と蒼天を持った瞳だった。

 黒い瞳孔の周囲に閃くような金色が縁取り、瑠璃、藍、青、水色に変化していく虹彩。

 まるで目の中で花が開いているかのようだ。

 

「………誰だ、あんた」

 

 しばらく見つめてから、オヅマは普通に尋ねていた。

 見も知らぬ少女であるのだが、なぜか彼女に対する警戒心はなかった。水面に映っていることも、さほどにおかしいと思えない。むしろ当たり前のように受け入れる自分に違和感があった。

 

 水の中で少女は微笑んだ。片頬に笑窪ができる。

 

 

 ―――――どうやら…成功のようね……

 

 

「成功? なにが?」

 

 

 ―――――あなたが、私を覚えていないからよ……

 

 

「……何言ってんだ?」

 

 オヅマは頭が混乱した。

 自分はこの水甕の中の少女のことなど知らない。全く覚えがない。

 最近滅多と見ることのない()の中ですら、会ったことはない。

 

「あんた、誰だ?」

 

 少女は微笑むのみで答えない。

 スゥと細めた目が金色に光り三日月のようだ。

 

 

 ―――――忘れていなさい。それでいいの…

 

 

 オヅマは苛ついた。バシャリ、と水を叩く。

 

「だったら、なんで呼んだ!?」

 

 波紋が激しく揺らいで、少女の姿をかき消す。ゆっくりと水面に平穏が戻ると、再び月が浮かんでいた。

 

「おい!」

 

 オヅマは叫んだ。

 水甕の中に少女の姿はもうなかった。

 

 ギリ、と歯噛みしてオヅマは水甕に顔を突っ込んだ。息が続かなくなる寸前まで水の中で目を開いて少女の姿を探したが、当然ながら彼女は現れなかった。

 耐えきれず、プハッと水から顔を出す。ポタポタと雫が落ちて、水面に幾つもの波紋が浮かぶ。

 

「……何なんだよ……」

 

 オヅマはつぶやいてから、ブンと首を振って水気を払った。

 ますます苛立つ。いきなり声をかけてきておいて、忘れろとか……何なんだ。勝手すぎる。

 

「やめたやーめた!」

 

 オヅマは叫んで少女の残像を頭から追い払った。

 こうしたことをいつまでも気にしていたらロクなことがない。

 

 いわゆる狐憑きの類なのだ。

 昔、薬師の老婆が言っていた。不思議なことは起こるものなのだと。ただ、それに心を持っていかれてはいけない。魔物や妖精などに取り憑かれるということは、そういうことなのだと。

 

 祠に背を向けて歩きだすと、森の奥から鹿の啼声が聞こえてきた。

 何かを求める切実な声―――。

 

 

 ―――――オヅマ………幸せ?

 

 

 かすかに問いかけた少女の声は、オヅマに聞こえなかった。

 

 

 

 





次回は2022年6月8日20:00頃の更新予定です。

感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第二十一話 受け取れぬ贈り物

<挿入話 それぞれの書簡>

 

 

 文筥(ふみばこ)の件についてカール・ベントソン卿からの手紙を、マッケネン卿を介し、オヅマづてに受け取ったオリヴェルがカールに送った短信

 

『前略。

 ミーナに文筥を渡しておきました。改めてお礼の手紙が届くと思います。

 ただ、今後、贈り物をする時には、もうすこし、わかりやすいものの方がいいと思います。

 ミーナとオヅマはとても…気づきにくい人達なんです。  オリヴェル』

 

 

******

 

 

 改めてオリヴェルから文筥を受け取ったミーナがヴァルナルに送った謝礼といつもの報告

 

虔礼(けんれい)の月 十六日

 

 厳しき暑さの中に神の影宿りし陽炎(かげろう)の立昇る時候にて、僭越ながら拙き文を差し上げます。

 

 若君様より文筥が私への贈り物であったことを聞いて、大変驚いております。

 このような物をいただいてよろしいのでしょうか。誠にご無礼を致しまして、申し訳ございません。また、ありがたく頂戴して、大事に使わせて頂きます。

 本当に、有難う御座います。

 

 今月は虔礼の月ですので、神殿へ参詣する予定です。

 執事のネストリ様から直々にお声がかかり、若輩の身でございますが、領主様始め公爵閣下、騎士様方、それに何よりレーゲンブルトの領民が健やかに過ごせたことへの感謝を捧げ、年神様に真摯に礼拝させていただきます。

 

 今回は、オヅマが子供ということもあり、剣舞を舞うことになりました。

 そのことでご報告がございます。

 若君がどうしてもオヅマの剣舞する姿を見たいと仰言(おっしゃ)っておいでです。また、主治医のビョルネ先生が付き添ってくださるので、重々注意の上で、若君の希望を叶えたく存じます。

 

 申し訳ございません。

 本来であれば、領主様からの承諾の可否を訊くべきところですが、おそらくこの手紙が帝都に届く頃には、神事は既に終わっていると思います。若君の体調については、万全の注意を払う所存です。どうかお許しくださいませ。

 

 若君は大変勉強熱心であられます。私がお教えできることも、もう僅かとなってまいりました。今は、私の他に時折、いらしていただいた時に主治医のビョルネ先生が教えてくださることもございます。その時にも若君は非常に興味深げに、熱心に話を聞いておいでです。

 できれば早急に、よき家庭教師に教えを乞うことが必要と考えます。

 僭越なことを申し上げているかもしれませんが、何卒ご一考頂きますよう、宜しくお願いいたします。

 

 この一年の豊穣と平和に感謝して、年神様(リャーディア)のご加護のあらんことを。 ミーナ』

 

 

******

 

 

 ミーナの手紙と一緒にオリヴェルからの短信を受け取ったカール・ベントソン卿からオリヴェルへの手紙

 

新生(しんせい)の月 五日

 

 新たなる年の燦々たる()の下に神を迎えたる時候にて、僭越ながら申し上げます。

 

 わざわざのお手紙痛み入ります。

 

 早速、若君の世話係であるミーナへの贈り物の件ですが。

 

 今月ようやく新年で帝都にも様々な市がたち、他国からの珍しいものも多いので、その中から髪飾りを選ばれました。前回の贈り物でよほど反省されたのか、先月来、色々と悩まれておられました。近日中に送られるようです。

 

 もし、ミーナが恐縮して受取を渋るようであれば、若君からもそれとなく後押しいただけると幸いです。

 若君が父君の幸せを願って下さっていることに、安堵致しております。

 

 また、最近では騎士団の修練を見学されているとの事。騎士団を代表しまして、御礼申し上げます。

 若君の関心あることを知って、騎士達の士気も上がることでしょう。

 ただ、この暑さの中であります故、くれぐれもお体にはお気をつけください。

 

 年末の神殿の儀式にもお目見えされたと聞き及んでおります。日に日に健やかになられる若君のご様子に、ヴァルナル様も大変喜んでおられます。

 

 今年は、おそらくですが、レーゲンブルトに戻るのも早くなる気がしております。再び(まみ)える日を楽しみにしております。 

 

 年神様(イファルエンケ)の加護のあらんことを。 カール・ベントソン』

 

 

 

 

 ミーナは困惑していた。

 目の前にはヴァルナルの手紙と一緒に届けられたプレゼントがある。髪留めだった。

 けっして高いものではないようだが、白陽石と呼ばれる純白の石に細かな透かし細工がされており、所々に色硝子の玉が嵌め込まれた美しい意匠のもので、しかもはっきりと手紙の中でミーナに宛てたものである旨が記されていた。 

 

『……帰る時にはこの髪留めをして迎えてくれることを願っている――――…』

 

 マリーはその髪留めを見るなり目を輝かせた。

 

「とっても綺麗! お母さん、してちょうだい」

「え? あ、あぁ…じゃあ留めてあげるわね」

「何言ってるのよ、お母さん! お母さんにして欲しいって領主様が言ってるのに、どうして私がするのよ!」

 

 マリーはどういう訳かいつごろからか、母と領主様がいつか結婚するのだと信じ込んでいる。しかもそれはオリヴェルに言われたのだという。

 ミーナは呆れて二人に誤解だと説明したが、子供達の思い込みというのは時に大人よりも頑固だ。どうにか他人がいるところではそうしたことは絶対に言わないようにと言い聞かせたものの、今はオリヴェルの部屋に三人だけという気安さから、まったく頓着しない。

 

 ミーナはその髪留めを手に取ってから、溜息をついて、そっと箱の中に戻した。

 

「どうしたの? しないの?」

「えぇ…壊してはいけないから」

 

 言いながらミーナは箱に蓋をして、元のようにリボンも結び直す。

 

「ねぇ、ミーナ。それ、まさか父上に返すとかしないでね」

 

 オリヴェルが心配になって言うと、ミーナは苦笑いを浮かべた。

 

「若君は…明敏でいらっしゃいますね」

「駄目だよ。ちゃんと受け取ってあげてよ。父上だって、どれだけ選ぶの大変だったと思うの?」

 

 オリヴェルはあわててカールに言われた通りに()()()する。

 カールの手紙には、ヴァルナルがこの髪飾りを選ぶまでにはひと月近くかかっている…とあった。前回の失敗もあって、相当慎重に吟味したに違いない。

 

「でも、分不相応なものでございます」

 

 ミーナはひどく困ったように言った。

 

「そんなことないよ。別にそれだって宝石でもない、ただの硝子でしょ?」

 

 宝石の髪留めなど贈った日には、きっとミーナが遠慮して受け取らないことをカールが察して、あえてさほどに高価でない贈り物を選びに選び抜いたのだろう。

 

 あの厳格な父が、市などに出かけて必死で選んでいる姿を想像すると、オリヴェルは妙に親近感が湧いた。

 親子の間で親近感というのもおかしな話ではあるが。

 

「お母さん、きっと似合うよ」

 

 マリーは素直に勧める。

 単純にさっきの綺麗な髪留めをつける母の姿が見たかった。

 しかし、ミーナはじっと膝に置いた箱を見つめて、自分に言い聞かせるように言った。

 

()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()だけ、ありがたく受け取っておくことにします。……若君も、おかしな事は仰言(おっしゃ)らないで下さいましね」

 

 それとなくミーナはオリヴェルにもこの事を誰にも言わないように釘を刺す。

 

 頑ななミーナの態度に、オリヴェルもマリーもシュンとなったが、それから十数日後にもシュンと肩を落とした人物がいた。

 

 

 言うまでもなく、贈り主のヴァルナルだ。

 




次回は2022年6月12日20:00頃の更新予定です。



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第二十二話 ルーカス・ベントソン登場

「……頂きました髪留めは大事にしまっておきます。お帰りなられましたら、お返ししますので……」

 

 カールはそこで読むのを止めた。目の前には、わかりやすくガックリと落胆した主の姿がある。

 

「カール……」

「言いたいことはおおよそわかりますが、今ここで私に文句を言っても解決はしません」

「お前に文句を言う気はない。お前にも、ハンネ嬢にも随分と世話になったと思う」

 

 最終的にはカール一人の手に負えなくなってきたので、妹にも手伝ってもらって選んだのだが、結果は完敗…(何をもって負けたとするのか不明だが)…だった。

 やはり同じ女とはいえ、嫁入り前の若い娘よりは、既婚の姉に頼んだ方が良かったのかもしれない。

 カールは気楽に物言える妹に頼んでしまったことを後悔したが、姉の助言があったとしてもミーナの態度が変わることなどあるのだろうか……?

 

「しかし…こうまではっきりと断られたのであれば、潔く諦めた方がいいと思う」

 

 ヴァルナルは顔を上げて言ったものの、その表情を見る限り、未練が残っているのはありありと見えた。

 

「無論、そうできるのであれば、それが理想ですね」

「お前…どうしてそう意地の悪いことを言うのだ?」

「ヴァルナル様が娼館に入り浸ったり、昼日中から人妻と虚々実々の恋を楽しむような輩であれば、割り切って忘れることは可能でしょうが…そういうものでもないでしょう?」

「随分と…慣れた物言いだな」

「私も無骨者ですが、多少なりと、経験はあります。一番よろしいのは会わないことですが、そうなると領地に戻った時にミーナ殿を解雇することになりますね」

「そんなことできるか!」

「そうですね…私も、オヅマを手放すのはどうかと思います。ミーナ殿が出て行くとなれば、オヅマは必ず従うでしょうし」

 

 カールにとっては、正直ミーナとヴァルナルの事情そのものよりも、そのことが原因でオヅマの騎士としての道が絶たれることの方が問題だった。

 人材はそう簡単に手に入るものではない。まして逸材は。

 現状において帝国内は平和であるが、未だに周辺諸国において不穏な動きをする者達はいる。また、戦が始まる可能性はいつでも有り得るのだ。

 

 カールが考えていると、コンコンとノックの音がして、すぐさま扉が開いた。

 

「おぅ…ルーカス」

 

 ヴァルナルが入ってきた金髪碧眼の男に気軽に声をかける。

 カールはジロリと睨みつけた。

 

「ノックの後、こちらが開けるまで待てないのですか?」

「遅いからだ」

 

 ほとんど間をあけずに答えてくる男に、カールはますます渋面になった。

 

 ルーカス・ベントソン。

 カールの兄であり、ヴァルナルとは騎士時代からの友人である。

 今はグレヴィリウス公爵の護衛騎士であると同時に公爵家直属騎士団の団長代理となっている。(団長は公爵本人である為、実質の団長と言っていい)

 

「騎士団再編の件で来たが……お前、なんだ? そのくたびれた情けない顔は」

 

 ルーカスは細い眉の間に皺を寄せ、ヴァルナルを容赦なくこき下ろす。

 

「いや…ちょっと……どうにもできないこともあるのだと…今更ながらに考えていたんだ」

「当たり前だろう。世の中思いのままに動かすことなど、皇帝陛下ですら無理なんだぞ。お前みたいな、騎士として生きていくしか能のない朴念仁の無骨者に、何をできることがあるというんだ?」

「うん…そうだな」

 

 ヴァルナルが一層肩を落とす姿に、カールは苛々した。

 

「そこまで言うことないでしょう! ヴァルナル様も、ちょっとは怒ってください」

「部下に発破をかけられるとは、情けない上司だな」

 

 ルーカスはカールの方を見ようともしない。はなから相手する気もないらしい。部屋の主が勧める前に、当たり前のようにソファに腰を下ろす。

 

「だいたい…お前と似たりよったりの、この朴念仁の弟なんぞの意見を参考にするから、うまくいくものもいかないのだ」

 

 カールはヒクヒクと頬を引き攣らせた。思わず拳を握りしめている。

 

「なんでアンタがそれを知ってるんです?」

「ハンネになんぞ頼んで、口止めができると思うのか?」

 

 おしゃべりな妹から情報が伝わったのかと、カールは溜息をつく。

 一応、カールは余計なことを周囲に話すなと厳重に言い聞かせたのだが、この兄にかかって、あの単純な妹がうまく誘導されたのは間違いない。

 

 ピリピリとした兄弟のやり取りに、ヴァルナルが柔らかく割って入った。 

 

「まぁ、そう言うな。カールも色々と親身になって手伝ってくれたんだ」

「親身なって女にフラれて、一緒に青息吐息じゃ何の実りもないな」

 

 その通りだが、まったくもって同情というものが一欠片もない言い様である。

 

「だいたいのところは聞いたがな、ヴァルナル。お前、その女にちゃんと()()()()()のか?」

 

 心底あきれた口調で吐き捨てるようにルーカスが言うと、ヴァルナルは黙りこんだ。

 ルーカスは腕を組み、足を組んで、横柄な目線で旧友を見下す。

 

「そんなに眉間に皺寄せてるようじゃ、何もしてないな。せいぜい物を贈った程度だろ? 違うか?」

「一応、手紙は書いてる」

「何を? 息子についての礼と、帝都で起きたことの日報程度だろ?」

 

 ヴァルナルはチラとカールを見た。あわててカールは首を振る。

 冗談じゃない。どうしてこの兄に、ヴァルナルがミーナに送る手紙について話して聞かせる必要があるのだ?

 

「そんなことで弟を間諜に使うか。馬鹿馬鹿しい。お前の不器用をどれだけ()()()()()()()と思っているんだ?」

 

 カールは気づかれないように溜息をついた。

 こと、こうした色事について兄とヴァルナルでは、まったくもって勝負にならない。

 

「俺に言わせれば、今のお前はフラれてもいない。まったく相手にされてもいないんだからな」

 

 ルーカスに痛いところを確実に突かれて、ヴァルナルは額を押さえたが、しばらくしてフフッと笑った。

 

「まぁ、そういうことだよな」

「そうだ。一度や二度の失敗程度でやる気をなくすぐらいなら、最初から他人を巻き込んで悩むな。騎士だろうが、お前は。騎士の本分は?」

「行動あるのみ…だ」

「わかってるじゃないか。じゃ、再編の件だが……」

 

 結論が出ると、即座にルーカスは仕事の話を始める。

 その転換の早さにカールは内心で白旗を上げざるを得なかった。なんだかんだで、この兄には一生勝てない気がする。

 

 話が終わると、ヴァルナルは公爵に呼ばれて出て行った。

 

「さすがに…色々と手練(てだれ)であられる方の説得力は違いますね」

 

 立ち上がった兄に、カールは皮肉げに言った。

 ルーカスはまったく動じない。

 

「そうだな。少なくともお前よりは役に立ったろう」

「………ヴァルナル様は先の奥方のこともあって、慎重なのです。若君のこともあるし」

「その若君が一番に気に入っているのだろ、その女を」

「女…と呼び捨てにしないで下さい。しっかりした清廉な女性です」

「ほぉ。お前もぞっこんなのか? それで見合い話も断ったわけか」

 

 兄の笑えない冗談に、とうとうカールは敬語を忘れた。

 

「ふざけんな! ヴァルナル様の奥方にふさわしい女性ということだ!」

「フ…お前といいヴァルナルといい、最初の女が合わなかったからといって、いつまでも引きずり過ぎなんだ。ま、ヴァルナルの場合は、閣下の命令だからといって唯々諾々と結婚なんぞするからだ。あんなもの、補佐官が適当に選んできた女だったんだろうに…俺だったら上手く断ったろうな」

 

 だろうね! とカールは叫びたかったが、そんなことでこの兄は動揺などすまい。グッと抑え込んで、皮肉な口調で言ってやった。

 

「さすが三度も結婚された方の言うことは違いますねぇ~」

「迷惑だろうから、三度目は書類だけで済ませただろうが」

「それでも結局、離縁しただろうが!」

 

 いけしゃあしゃあと言う兄に、結局カールは怒鳴りつけた。

 ルーカスはにべなく答える。

 

「互いの自由を取っただけだ」

「物は言いようって…本当にアンタの為にある言葉だと思いますよ」

「それは光栄だ。今後とも大いに世話になるだろうからな」

 

 ニヤリと口の端を上げて出て行った兄を睨みつけて、チッとカールは舌打ちした。 

 これだから帝都に帰るのは嫌なのだ。

 あの兄はああやって楽しんでいる。

 いっそ、弟のアルベルトのように、教えてやらねば皮肉にも気づかないくらい鈍感であればこうも苛々しないのだろうが。

 





続けて更新します。


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第二十三話 エリアス・グレヴィリウス公爵

 その後のヴァルナルの行動は早かった。

 帝都からの早々の帰郷を決めて、公爵に願い出たのだ。

 

 いつもであれば、他の貴族同様に実織(みおり)の月に入ってから、公爵と一緒に公爵の本領地・アールリンデンに向かい、そこからレーゲンブルトに帰るので、公爵一筋・忠誠心の厚いヴァルナルにしては珍しい行動と言えた。

 

 公爵の側に控えていた家令のヨアキム・ルンビック子爵は、ジロリとヴァルナルを睨みつけた。

 

「勝手な申し出ですな。まだ、実織の月も迎えておらぬ時期から…公爵閣下はまだ帝都にて仕事もおありだというのに…」

 

 鹿爪らしい顔をした子爵の物言いに、ヴァルナルはあくまで平身低頭だった。

 

「申し訳ございません。去年の春先に例の紅熱(こうねつ)病の流行がありまして、畑の様子を見て回る時間があまり取れなかったものですから…秋の収穫に問題がないか少々気になりまして…」

「左様なことは、行政官に任せればよろしいことです」

 

 ヴァルナルのように実際に農夫と会話する領主などほぼいなかったので、子爵のは嫌味ではなく、当然の文句だった。

 

 エリアス・クレメント・エンデン・グレヴィリウス公爵は、家令と配下領主のやり取りを今年度の帝都における公爵邸の予算案に目を通しながら聞いていたが、とりあえず許可の印を押してサインをすると、フゥと息をついて眼鏡を外した。

 

「もう…帰るのか?」

 

 静かに尋ねたその声に特に哀惜はない。だが、透き通った(とび)色の瞳には少しばかり楽しげな光が浮かんでいた。  

 

 ヴァルナルは畏まって頭を下げると、同じことを繰り返す。

 

「は…去年は例の紅熱病の流行がありまして、慌ただしくしておりました故、領民と話す機会もなく、十分に畑を見回ることもできませんでしたので、秋の収穫に問題がないか気になりまして。もし、収穫量が例年よりも極端に少ないようでしたら、備蓄分のことも含めて商人らとも交渉せねばなりませぬし…」

 

 ヴァルナルは嘘がつけないので、これは本心であった。ただ、それが主たる理由かと問われれば否と言うしかない。

 

「ふ…それだけか」

 

 かすかに公爵が笑う。

 トントントン、と机を中指で三度叩くと、家令が一礼してその場から立ち去る。

 

 ヒュミドールから葉巻を取ると、公爵は火をつけて細く煙を吐きながら、ギシリと背を凭せかけた。

 

 ヴァルナル・クランツ。

 今や帝国に並ぶ者なき勇士だが、現在公爵の目の前に立っている男からそうした威容は感じない。相変わらずどこか田舎臭さの抜けない、五歳年下の凡庸な男だ。

 

「用兵においてそなたの迅速なることは認めるが、まさか今日いきなり発揮することでもなかろう。先の帰参は許す。しかし廿日(はつか)の皇家主催の園遊会の欠席は認めない。陛下から是非にと言われている」

 

 ヴァルナルはすぐに「はっ」と同意する。公爵からの命令だけでも服することは当たり前であるのに、まして皇帝陛下の思召(おぼしめし)を無視するわけにはいかない。

 

 公爵は少し苛立たしげに、ほとんど黒髪にも見えるダークブラウンの髪を掻き上げた。

 

「亡くなられたシェルヴェステル殿下のこともあって、陛下としては尚一層、優秀な部下を息子につけておきたいのだろうな…」

「アレクサンテリ皇太子殿下であれば、これから私などより若い世代に優秀な者がおりましょう」

「そうだな……そなたの息子はどうなのだ?」

「オリヴェルは……」

 

 ヴァルナルは言いかけて、病弱な息子の姿を思い浮かべ、首を振った。

 

「最近は随分と体調も良くなってきたようですが、まだ帝都に来るまでの体力もないでしょう」

「そうか…残念だな」

「我が息子よりも、アドリアン小公爵様が十二分に皇太子殿下の補佐(たすけ)となることでしょう」

 

 公爵は返事をしなかった。

 眉間に刻まれた皺が更に深くなり、溜息まじりに煙を吐き出す。

 

「男爵はいつも、我が息子を褒めてくれるな」

 

 ヴァルナルはピクリと身じろぎする。

 公爵がヴァルナルのことを『男爵』と呼ぶ時は皮肉が混じっている。

 

「公爵閣下、アドリアン様は優秀な方です。私の課した修練も文句一つ言わずにこなしておいでです」

「あぁ…そうか」

 

 公爵は興味なさげだった。

 この息子に対する投げやりな態度に、ヴァルナルは意見したくとも出来なかった。

 

 自分もまた、病弱な息子の世話をほとんど他人に任せて放り出してきたのだから。いや、今だって、自分はミーナに任せっぱなしだ。ミーナの献身と好意に甘えている。

 

 ふと、ヴァルナルは自分を省みた。

 こんな男にミーナが心動かされることなどあるだろうか。

 一人の人間として向き合った時に、自分は胸を張って誠実な男だと言えるのだろうか。

 たった一人の息子すら気遣うこともできない…何と話しかければいいのかすらわかってない、不甲斐ない男だ。

 

「…ヴァルナル」

 

 やや強く呼ばれて、ヴァルナルはハッと顔を上げる。

 

「は…っ」

「……最近、多いな。心ここにあらず、か」

 

 公爵はふぅと紫煙をくゆらしながら、若干興味深げにヴァルナルを見つめる。

 再びヴァルナルは頭を下げた。

 

「……申し訳ございません」

「ふ…構わぬ。お前に物思いさせる相手がいるなら結構なことだ。今更のことだが、お前の先妻については、私も不見識であった…」

「いえ! 私めが至らなかっただけでございます。閣下には色々とご配慮頂いたのに、気を煩わせて申し訳ございません」

「そうだな…配下の者の婚姻などは、本来私の口挟むことではないが……」

 

 ハァと、公爵はまた苛立たしげに煙を吐き出した。

 

 そう。他の配下…例えば同じ部下であるルーカス・ベントソンなどが何度結婚して離婚しようとも、大して気に留めず、心配もないのだが、ヴァルナルに関しては少々複雑な事情もあって、公爵は細心の注意を払っていた。

 

 それは皇帝がヴァルナルを直属配下に望んだことで、皇帝の歓心を買う為に縁戚になろうとする不純な輩を排する必要があるからだ。

 

 ヴァルナルが南部の紛争を見事に収束させて帝都に帰還した後、皇帝はとうとう黒杖(こくじょう)叙賜(じょし)を決定した。

 身分低くとも騎士として技と修身を極めた者にとって、最上の名誉である黒杖。

 それまでも何度か声がかりがあったのを、ヴァルナルは恐縮して断っていたが、皇帝は宰相以下の臣下にも根回しして、受け取ることをほぼ確定させた。

 

 黒杖を受けた以上、ヴァルナルが皇帝直属になることは既成事実化していたのだが、式典においてヴァルナルは皇帝からの直参(じきさん)申し出を断った。

 

「恐れながら申し上げます、陛下。私一人を臣下とすれば、いざというときに陛下を守るのは私一人ですが、公爵閣下の元にあれば、私は閣下と共に陛下をお守りいたします。二人だけではございません。公爵麾下(きか)の騎士団の精鋭全ては、陛下の為に命を尽くすでしょう」

 

 その言葉と同時に、式典に加わっていたレーゲンブルト騎士団を含め、すべてのグレヴィリウス公爵家配下の騎士団の騎士達が一同に膝をついて最上位の礼を示した。

 

 皇帝は表情を変えることなく、しばらくその様子を黙って見ていた。

 その間に多くの計算をしたに違いない。

 

 己が威信を否定したかに思えるヴァルナルの申し出、帝国において一、二を争う公爵騎士団の団結、帝国百家と呼ばれる貴族の代表格であるグレヴィリウス公爵家を支持する派閥、公爵家と皇家との反目を奇貨として帝国内に内訌(ないこう)を生じさせようする他国勢力……そうして最終的に、今ここにいる者達に示すべき自らの度量。

 

 ため息と共に皇帝は微笑んだ。

 周到に用意した画策も、結局は純真で誠実な騎士の前で無力であったことを思い知ったかのように。

 

「ふ…む。確かに、クランツ卿の言う事は(もっと)もである」

 

 静かに頷いた皇帝は、しかし黒杖の授与は行った。

 まるでそれだけでも、皇帝の威信を見せつけるかのように。

 

 おそらく皇帝は特にグレヴィリウス公爵を敵対視しているわけではない。

 

『明君は駿馬(しゅんめ)を求め、暗君は駑馬(どば)に安堵する』…と古来より言われるように、優秀な人材を直接配下に置きたいと思うのは、()()()支配者の基本的欲求なのだろう。

 

 だが、それは皇帝に限ったことではない。

 

 以来、公爵と皇帝の間には微妙な駆け引きが行われつつも、表向きは穏便な関係性となっている。

 

 しかし未だにヴァルナルを利用して、公爵家と皇家を離間させようとする輩はいる。そうした者にとって、手っ取り早いのは独り者のヴァルナルの妻として、自らの娘などを送り込んで(たら)しこみ、ヴァルナルを公爵家から訣別させることだろう。

 

 その先手を取って、公爵はそうした心配のない女を補佐官に命じて探させ、ヴァルナルと結婚させたのだが、急場しのぎで誂えた婚姻は結局、一年ほどで終わりを告げた。

 

 自らも最終的には親の決めた許嫁(いいなずけ)とは結婚せずに、亡き妻と強引に一緒になった公爵は、その時になって申し訳ないことをしたと思った。

 誰とても、気持ちというのがあるのだ。

 ヴァルナルなどは特に家門を存続させる気はないのだから、もっと結婚は本人の意志を尊重すべきであった。

 

 ルーカスから聞いたところによると、ヴァルナルが現在、気にかけているのは自分の息子の世話係だという。

 念のために探ったが、元はレーゲンブルト領にある小さな村の未亡人ということで、例の()()()輩の息のかかった者ではないようだった。

 だとすれば、後はこの男が自力で頑張るしかないのだろう。……報告を聞いた限り、なかなか難渋しているようではあるが。

 

「園遊会が済んだら、神速果敢なるレーゲンブルト騎士団の名のままに、帝都を駆けて帰るといい」

 

 公爵はそう言うと、葉巻を灰皿に置いた。

 ヴァルナルは頭を垂れて、直角に曲げた右腕を前に突き出して礼をする。

 

「ハッ! ご配慮、ありがたく」

 

 短く言ってヴァルナルが部屋を出た後、公爵は少し憂鬱な目で壁に架けてある小さな肖像画を見つめた。

 そこには十年前に亡くなった妻が微笑んでいる。

 死んだのはついこの間のように感じるのに、彼女の不在の長さを思うと、とてつもない虚しさが押し寄せてくる。

 

「君の言う通りだ、リーディエ。あの男は稀有なる忠臣だ。君はいつも正しい……」

 

 つぶやいた声は、いつも威厳に満ちた公爵しか知らぬ人であれば、別人だと思うほどに、ひどく弱々しかった。

 





次回は2022年6月15日20:00頃の更新予定です。


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第二十四話 園遊会にて

「おぉ、ヴァルナル。来ていたか」

 

 帝都にいるほとんどの貴族の集まる園遊会において、皇帝から声をかけられるなど、大貴族の中でも数えるほどであるのに、いきなり呼びかけられて、ヴァルナルは飲んでいたワインを喉に詰まらせかけた。

 

「……は…ッ…陛下におかれましては……ご機嫌麗しく…」

 

 あわてて振り返りつつ、頭を下げ、右腕を曲げて胸に(てのひら)を押し当てる。

 今回は男爵として参加しているため、騎士としてではなく一貴族としての挨拶をせねばならない。

 

()()。頭を上げよ。話したいことがある」

 

 皇帝はすぐさま礼を解くことを許した。

(*「よい」、とあえて言うのは二度目の許可でようやく頭を上げて良いとされる本来の礼法を無視してよい、という意味)

 

 ヴァルナルが頭を上げると、燦々たる太陽の下、まばゆいばかりの金髪に青緑の瞳の皇帝が柔和な表情で立っていた。

 

 ジークヴァルト皇帝。その正式なる名をジークヴァルト・リムエル・ボーヌ・シェルバリ・グランディフォリア。

 神より与えられたという大いなる世界の大樹(グランディフォリア)を姓名に戴く、唯一にして絶対の存在。

 

 二十歳で先帝である祖父の死によって皇帝の地位を継いでから、今年で在位は二十七年を迎える。

 本来であれば、父であるシクステン皇太子から皇位を受け継ぐはずであったのが、その父が早世したために、ジークヴァルトはしばらく不安定な地位にあった。

 そのため、皇位継承においても色々と憶測をよんだが、ジークヴァルトに従っていたダーゼ公爵をはじめとする忠臣達の働きによって、それらの風聞は口にした者を含めて粛清された。

 

 グレヴィリウス公爵家は現在の当主の一代前であったが、あえて積極的に()()()つくこともしなかった為に、功をたてることもなかったが、敵対勢力とみなされることもなく過ごした。

 

 だが、それも昔の話である。

 現在の皇帝は穏やかなる品性によって、国民からの支持も高く、貴族達もおおむね平穏なるその治世に満足していた。

 

 ヴァルナルは緊張しつつも、皇帝の背後にグレヴィリウス公爵の姿を見つけて、内心ホッとした。

 

「運の良い男だな、そなたは。いい馬を見つけたそうではないか」

 

 皇帝は公爵からヴァルナルが連れてきた黒角馬(くろつのうま)について聞いたらしい。興味津々といった様子で尋ねてくる。

 

「その馬がいるとわかっていて、サフェナなどという貧弱の地を引き受けたのか?」

「いえ…まったく存じ上げませんでした。偶然に、教えてくれる地元の子供がおりまして。彼のお陰です」

「ほぉ…日頃より民と親しく接しておるそなたであればこそ、そうした注進も来るというものだな。よき心がけだ。そう思うであろう? 大公」

 

 皇帝が背後に立つもう一人の男に問いかける。

 

 深緑の絹地に、金糸で唐草模様の刺繍がされた豪奢な頭巾を被った男が頷いた。

 艶のある禿頭(とくとう)に、赤黒い傷の痕がチラリと見える。頭巾についた飾りがシャラリと上品な音を響かせた。

 

「誠に。諸侯も見倣うべき気風にございます」

 

 落ち着いた穏やかで深みを感じさせる声は、耳朶に心地よく響く。

 

 ヴァルナルはこちらを向いてニッコリと細められる紫紺の瞳に、思わずまた頭を下げてしまった。

 皇帝とは違った意味で、非常に緊張させられる相手だ。

 

 ランヴァルト・アルトゥール・シェルバリ・モンテルソン大公殿下。

 先帝の末息子で、現皇帝よりも五つ年下ながら、皇帝の叔父という立場である。

 

 幼い頃より頭脳明晰で、三才で素数を理解して当代一の数学者の出した暗号を解き、五歳の時には帝国全史を読破して、三十点に及ぶ誤謬を指摘したという天才。

 その上で武芸にも秀で、十九の年には隣国と長く続いた戦役をわずか半年で終結させた功労もあって、黒杖(こくじょう)を拝受した。

 

 たいていの大貴族の子息であれば、騎士としての形ばかりの成人儀式の後に白杖(はくじょう)を授与される。無論、大公もまた持っている。

 だが、黒杖はその人品と技量、実績が伴っていないと戴けぬ名誉である。帝国の歴史においても、白杖と黒杖の二つを同時に持っていた人間はいない。

 

 騎士を名乗る者であれば、ランヴァルト大公―――本来であればモンテルソン大公と呼ぶべきだが、大公本人の意向で多くの人間は彼を名前で呼ぶ―――は、おそらく当代における英雄として、尊敬の対象であろう。

 それはもちろん、ヴァルナルもそうであった。

 

「恐縮にございます」

 

 深く頭を下げたヴァルナルに、皇帝はやや意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「やれやれ。ヴァルナルは私よりも大公に会う方が畏まるようだな」

 

 あわてて取り繕おうとしたヴァルナルよりも先に、大公がハハハと笑った。

 

「クランツ男爵は、同じ黒杖の騎士として、先輩の私を敬って下さっているだけですよ」

「ふん。そうなのか? クランツ男爵?」

 

 皇帝がとぼけたように皮肉っぽく言うと、ヴァルナルはもうカチコチに固まって「は!」とだけ返事した。

 

「陛下、先程も申されました黒角馬でございますが……」

 

 見かねたグレヴィリウス公爵が話を元に戻す。

 

「量産化も含めて研究する必要もございますので、専門家を派遣しようと思っております。できますれば皇家から人材、物資を含めた援助をお願いしたく存じます」

「………そうだな」

 

 皇帝は瞳を細めて、油断なく公爵を一瞥した。

 

 グレヴィリウス公爵家の財力をもってすれば、それくらいの人材も設備も資金も潤沢に用意できるであろう。にも関わらず、こうして数多の人の前で頭を下げて援助を頼む。

 おそらく、良質な馬を量産して皇家に対する叛逆を企てている…などという根も葉もない噂が立つことを、予め回避しようとしているのだろう。当然、その()()の中に、皇家からの間諜が含まれるであろうことも承知の上で。

 

 まったく……可愛げのない男である。

 

 皇帝はしかし内心の不満をおくびにも顔に出さず、「よかろう」と頷いた。

 

「量産がかなえば、我が国の軍備も増強される。是非にも成功させるように。援助は惜しまぬ」

「有難き幸せにございます」

 

 公爵が深々と頭を下げると、皇帝は軽くヴァルナルの肩を叩いて去っていく。

 

「公爵」

 

 大公は皇帝が侍従らと共に去っていくのを見送ってから、振り返って声をかけた。

 

「何でしょうか、大公殿下」

「その専門家だが、すでにめぼしい者はいるのか?」

「いえ。これから人選に入る予定です」

「では、私の方から何人か紹介しよう。今日、ここに来ている者の中にもいる故、一緒に来るとよい」

 

 そう言って大公は歩きかけて、足を止めると、振り返ってヴァルナルに笑いかけた。

 

「クランツ男爵は、少々、休憩が必要であろう? ここでそなたの主人に斬りかかる者はおらぬし、ゆるりと楽しまれるがよかろう」

「お気遣いいただき、恐縮にございます」

 

 ヴァルナルは言いながら、チラリと公爵を見る。公爵はゆっくりと瞬きして頷いた。

 

「ではな」

 

 大公と公爵が立ち去った後、ヴァルナルはハアァーと長く息を吐いた。

 

 本当に正直なところ、ここで休憩をもらわねば酸欠になりそうだった。

 蒙昧(もうまい)な自分にははっきりとわからないが、目の前でかなり緊迫感を含んだやり取りがされていたことは感じ取れた。

 

 グルグルと首を回して、固くなった肩をほぐす。

 あぁ、早くレーゲンブルトに戻りたい…。

 

 だが園遊会はそのまま穏やかに何事もなく終了―――という訳にはいかなかった。

 

 皇帝と大公と公爵から解放され、ワインでほろ酔いになったヴァルナルは酔い醒ましに、人気(ひとけ)のない庭を歩いていたのだが、どこからかギャアギャアと騒ぎたてる声が聞こえてくる。

 酔っ払いでもいるのかと顔を顰めたが、その時、甲高い怒鳴り声が響いた。

 

「アドリアン・グレヴィリウス! 貴様、ただで済むと思うな!!」

 




次回は2022年6月19日20:00頃の更新予定です。


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第二十五話 思慮深き小公爵

 主な会場となっている広大な芝生の敷き詰められた園庭からは、少し離れた薔薇園の中での出来事であったようだ。

 

 グレヴィリウス公爵の長男であるアドリアン・オルヴォ・エンデン・グレヴィリウス小公爵は、苦手な人混みを避けて、ひとり、人気のない薔薇園を散策していた。

 その姿を見かけたのが、ランヴァルト大公の息子であるシモン公子と、その取り巻きの少年達だった。

 

「おや、小公爵はこんなところで誰ぞと逢引でもするのかな?」

 

 シモンがおどけた口調で言うのを、アドリアンは無視した。

 正直なところ、そんな言葉を初対面の、しかも十歳(とお)の子供に言ってくる段階で、自分とは合わぬ部類の人間だということはわかる。見たところ自分よりは三つ、四つ年上のようだが、年上ということ以外での礼儀を必要とする相手ではない。

 

 シモンの方は、元々、初めて父である公爵に伴われて社交の場にやって来たアドリアンが、美男の父と瓜二つの容貌で、同じ年頃からやや年上の令嬢に至るまで、視線の的となっていることに猛烈な敵愾心を持っていたので、当初から仲良くするつもりもない。

 

「やれやれ…小公爵は初めてなので、僕が誰なのかもご存知ないらしい。挨拶もできぬとは、グレヴィリウス公爵家は、まともに息子の教育もしていないようだな」

「………存じ上げております」

 

 アドリアンは面倒に思いながら、シモンの胸元にあるブローチを見る。

 雄牛と鉤爪の鎖、椿の花の意匠は、モンテルソン大公家の紋章だ。

 

 実のところ、その時点でアドリアンは相手がどういう身分であるかを知った。内心では少々まずいことになったと思いつつも、表情は日頃からの鍛錬の成果で、平然としたものだった。

 

「シモン・レイナウト・シェルバリ・モンテルソン公子におかれましては、ご機嫌麗しく…」

「まったく麗しくない」

 

 シモンは憮然として言った。

 周囲の取り巻き達も、冷たくアドリアンを睨みつける。

 自分よりも明らかに年上の人間に囲まれながらも、アドリアンは無表情なままだった。

 

「ご不快にさせたのであれば、失礼します」

 

 素っ気なく言ってアドリアンはその場から立ち去ろうとしたが、その背に向かってシモンが明らかな侮蔑を含んで叫んだ。

 

「さすがは、あの母にしてこの息子だ! 罪人の娘などに(たぶら)かされて、グレヴィリウス公爵も落ちたものだな」

 

 静かに、アドリアンの怒りが沸騰した。

 踵を返すと、再びシモンの方へと歩き出す。

 

 目の前に立って、じっとりと見上げた。

 シモンは自分よりは年下であるはずのアドリアンの殺気を帯びた様相に、多少たじろいだが、フンと鼻で(わら)った。

 

「なんだ、小公爵。真実を言われて腹が立ったのか?」

「……撤回して下さい」

「なんだと?」

「あと一度しか言いません。撤回と謝罪を」

 

 言いながら、アドリアンは握りしめた拳の中で、爪が皮膚を破って血が流れてきたのを感じていた。

 

 しかし目の前のシモンと、その周囲の取り巻き達は変わらずヘラヘラ(わら)っている。

 

「謝罪だって? 僕が何を謝る必要があるというんだ? お前の母親が盗人の娘だというのは本当のことだし、お前が…」

 

 シモンが最後まで言う前に、アドリアンの握りしめていた拳が開いて、バシンとその頬を打った。

 まさか手を出されると思っていなかったシモンは、驚いたままよろけてその場に尻もちをついた。

 ぶたれた頬をそっと触ると、ぬるりと指に血がつく。

 

「ギャッ!」

 

 シモンは情けない声をあげた。

 

「シモン様!」

「大丈夫ですか?!」

 

 取り巻き達があわててシモンを取り囲み、血のついた頬をハンカチで押さえる。

 実際には、その血はアドリアンが拳を握りしめていた時のもので、シモンの頬から流れたものではなかったのだが、恐怖と驚愕で誰も冷静な判断ができなかった。

 

「貴様……」

 

 シモンは怒りのあまり、声が震え、言葉が出ない。

 

 アドリアンはみっともなく地面に座り込んだ年上の少年を、冷たく見つめていた。 

 その目には既に激昂は去っていた。だが、決して許すことのない強靭で冷徹な光が、静かにシモンを見据えている。

 

「亡くなった人を侮辱することは、最も恥ずべき行為です。シモン公子」

 

 アドリアンが静かに抗議すると、震えて声の出ないシモンの代わりに、取り巻き達が口々に文句を言った。

 

「何を言う!? 貴様こそ、公子様に謝れ!」

「そうだ! たとえグレヴィリウス公爵の息子であったとしても、大公の息子たる公子様に、何たる無礼だ!」

 

 騒ぎ立てる取り巻き達のお陰でか、シモン公子はようやく人心地がついたようだった。

 

「アドリアン・グレヴィリウス! 貴様、ただで済むと思うな!! お前ら、コイツの頭を下げさせろ!!」

 

 シモンが命令すると、取り巻き達は素早くアドリアンを囲んだ。

 

 背後にいた一人が肩を掴もうと手を伸ばしたところを、アドリアンはクルリと回転しながら蹴りつける。

 これまた、なぜだか彼らは反撃をくらうと思ってなかったらしい。薔薇の木を支える柱にぶち当たって、気を失った少年を見て、左右の少年達は顔を見合わせて青くなった。

 

 彼らにとって幸いだったのは、この時、割って入ってくれた大人がいたことだ。

 

「おやめください!」

 

 迷路のようになった薔薇園の隅でようやく、公爵の息子の姿を見つけたヴァルナルは、大声で少年達の喧嘩を止めながら、素早くアドリアンを守るように立ち塞がった。

 

「畏くも皇帝陛下の臨席される園遊会で、かような所行はお控え下さい」

 

 さっと見回し、尻もちをついたシモンの衿の紋章を見て、ヴァルナルは膝をつき頭を下げる。

 

「公子様。どうかこの場は寛大な心で…」

「そいつが先に手を出したのだぞ!」

 

 シモンは遮ってヴァルナルに怒鳴りつける。

 ヴァルナルは振り返って、アドリアンを見た。

 

 公爵の生き写しであるかのようなその面差しに動揺は見当たらない。鳶色の瞳は、じっとシモンを凝視したままだ。

 

「事情は存じ上げませぬが、ここは皇帝陛下の庭でございます。騒動があってはなりませぬ」

「知ったことか!」

 

 シモンはようやく立ち上がると、どうやら自分よりも目下であるらしいヴァルナルを蹴りつけようと足を上げた。

 しかし今度現れたのはグレヴィリウス公爵と、ランヴァルト大公の側用人であるヴィンツェンツェだった。

 

「足を下げられよ、公子…」

 

 年経た老人のしわがれた声に、シモンはビクリと止まった。

 

「う…ヴィンツェ…」

 

 強張った顔でつぶやきながら、ゆっくりと足を下ろす。

 

「そこの御仁の言う通りでありましょう。恐れ多くも皇帝陛下の御庭の、新年を祝う園遊会にて無粋な騒ぎを起こすものではありませぬ」

「っ…でも、コイツが先に手を……」

 

 シモンはすっかり意気消沈した様子で、ビクビクとヴィンツェンツェ老人に言い立てたが、皺の深い老人の表情は変わらない。濁った青灰色の瞳は斜視であるせいで目が合わないのだが、不気味な迫力があった。

 

「大公の公子であればこそ模範となるべき…と御父上からの忠告があったばかりというのに、まだ理解できぬようでございますな」

「……ち、父上には言わないでくれ!」

「…………」

 

 ヴィンツェンツェ老人は答えず、ギロリとシモンの取り巻き達を睥睨した。

 

「あそこでノビてる馬鹿を連れてくるように。―――公子、参りますぞ」

 

 そのまま立ち去ろうとして、グレヴィリウス公爵の隣を通り過ぎざま、ボソリとつぶやく。

 

「此度のことは、両成敗ということで」

 

 

 

 

 公子達が去った後、グレヴィリウス公爵は息子を冷たく見据えた。

 ツカツカと歩み寄り、無言でアドリアンの頬を平手で打つ。容赦ない打擲(ちょうちゃく)に、アドリアンは頬を地面に擦りつけて倒れた。

 

「公爵閣下!」

 

 ヴァルナルは叫んだが、ジロリと睨んでくる公爵の剣幕に口を閉ざす。

 

「立て」

 

 公爵は無情に告げる。

 アドリアンは口の端から流れる血を手の甲で拭いながら、立ち上がった。

 

「殴られる時に歯を食いしばることも知らぬのか?」

 

 淡々と言って、公爵は再び息子の頬を打った。

 アドリアンは今度は唇を噛み締めて、よろけつつも、立ったままだった。

 いつの間にか握りしめた拳は震え、またポタポタと血が落ちた。

 

「言い分があれば聞く」

 

 公爵は腰に下げていた小さな杖を持ちながら、息子に問いかけた。

 その声音には一片の感情も感じられない。

 

「……ありません」

 

 息子の短い返答に、公爵は眉を寄せた。「ない……だと?」

 

 アドリアンは俯けていた顔を上げ、父をしっかり見た。

 

「はい。何もございません」

 

 公爵はヴァルナルをチラリと見たが、そもそもヴァルナルにも喧嘩の発端となることについてはわからない。

 

「私も詳しくは存じ上げませぬが、小公爵様は理由もなく手を上げるような方ではございません」

「………息子に甘いな、男爵」

 

 公爵は眉を寄せたまま、今度は杖を振り上げると、容赦なくアドリアンの背を(なぐ)った。

 

「うッ!」

 

 アドリアンはさすがに耐えきれず、膝を折って地面にしゃがみ込む。

 打たれたその時の痛みよりも、じわじわと後から効いてくる鈍い痛みに初めて顔を顰めた。

 

「公爵閣下、それ以上はおやめ下さい」

 

 ヴァルナルは耐えきれなくなって、アドリアンを庇うように公爵に向き合った。

 

「どけ……ヴァルナル」

「お許し下さい、公爵閣下。これ以上の詮議は無用です。おそらく小公爵様は決して口を開かれぬでしょう」

「ヴァルナル。私はお前に何もかもを許したわけではない。出過ぎた真似をするな」

「………」

 

 それでも動けぬヴァルナルの腕を掴んでアドリアンは立ち上がった。

 自ら進み出て、公爵の前に立つ。

 

 まだ齢十歳だが沈着な息子の、自分と同じ(とび)色の瞳に頑固なものを感じて、公爵は諦めの溜息をもらした。

 

「……もうよい。私は帰る」

 

 公爵が立ち去った後、ヴァルナルはそっとアドリアンの傷ついた右手をとった。

 手のひらの皮膚が爪で破かれ、溢れた血で真っ赤だった。

 

「……これほどまでにお怒りであるのなら、尋常のことではなかったのでしょう」

 

 ヴァルナルは事情を聞くことはしなかったが、汲み取った。

 さっきも言った通り、この沈着冷静な小公爵がそうそう激昂することなどあり得ないのだ。よほど腹に据えかねたのだろう。

 

 ハンカチをややキツめに巻いていくヴァルナルを、アドリアンは相変わらず無表情に見ていたが、不意にボソリとつぶやいた。

 

「……母上のことだ」

 

 ヴァルナルは一瞬手を止めた。

 アドリアンを見ると、懸命に泣くことを我慢し、見開いた瞳は真っ赤だった。唇はブルブルと震えている。

 

 ヴァルナルは結び終えてから、微笑んで言った。

 

「小公爵様は、お母上に似て、本当に思慮深い方でございます」

 

 公爵の亡き夫人への愛情は、その(ひと)を失ってもなお深い。いや、いっそ失ったからこそ、より深くなったと言ってもいい。

 エリアス・グレヴィリウスにとって、妻に関する侮辱は自分への侮辱である。もし、公爵がこの事を知れば、たとえ相手が大公家であろうと、ありとあらゆる方法で、シモン公子への報復を行うであろう。

 常軌を逸していると言われることも厭わぬほどに、公爵にとって妻は大事で、決して傷つけてはならぬ(ひと)なのだ。

 下手をすれば大公家と公爵家との争いになりかねない。

 

 アドリアンは考えた末に口を閉ざしたのだ。公爵が事実を知らねば、ただの子供の喧嘩で片付けられる。

 

「ヴァルナル」

 

 アドリアンは優しくされて、思わずこぼれた涙をすぐさま拭った。

 

「はい?」

 

 気づかぬふりをして、ヴァルナルは返事する。

 

「お前の黒角馬(くろつのうま)、乗ることはできるか?」

「さようですな…まだ調教が完全ではございませんので、私の馬に乗るのは難しいかもしれませんが……」

 

 話しながら、ヴァルナルはアドリアンと手をつなぐ。

 そのまま園遊会の会場を逸れて、馬車溜まりへと歩いていく。

 

 母親に似た聡明さを持った小公爵。

 だが、ヴァルナルの手をつかむ手はまだ小さく、震えている。

 

 常日頃からの教育の賜で、決して怯えや不安といった感情を表さぬようにしているアドリアンではあるが、自分よりも上背のある年上の少年達に囲まれて怖くなかったはずがない。

 無情な父からの打擲(ちょうちゃく)に心を痛めぬはずがないのだ。

 

 ヴァルナルは帰る道で、一つの提案を考えていた。

 アドリアンがグレヴィリウス公爵家の跡取りである以上、あの家から逃れることはできない。

 だったらせめて……

 




次回は2022年6月22日20:00の更新予定です。


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第二十六話 公爵家会合にて

「大公家からは何も言ってこぬが、此度の息子の不祥事をそのままにしておくことはできぬ」

 

 園遊会の翌日、主だった家臣が集められた。

 ヴァルナルを含めた五人の領主、直属騎士団の団長代理であるルーカス、補佐官、家令、公爵家に近い縁戚からの代表者達。

 

 彼らは園遊会で公爵家の後継者たるアドリアンが、大公家の嫡男であるシモン公子と騒ぎを起こしたことを聞き、ある者は面倒そうに溜息をつき、ある者は好奇心を丸出しに、ある者はヒソヒソと隣同士で囁きあって、皮肉げな微笑を浮かべた。

 

「原因はなんだったのです?」

 

 尋ねたのはルーカスだった。

 公爵はチラリとヴァルナルを見たが、ヴァルナルは黙して語らない。

 

「……不明だ。息子が口を割らぬ」

「であれば、ただの喧嘩ですな。さほど大袈裟にすることでもございませんでしょう」

 

 ルーカスはあっさりと結論づけた。

 しかし、そこに異議を唱えたのは、公爵家の古くからの縁戚であるアルテアン侯爵だった。

 

「畏くも皇帝陛下のおわす皇居の園庭にて騒動を起こしたのであれば、何の(とが)もせぬ訳にもゆかぬ。それこそ()()大公家が何も言ってこぬのも、こちらの出方を窺っておるに違いない」

「左様。ヴィンツェンツェが見ておったというのであれば、今後、何を言うてくるか…」

 

 アルテアン侯爵に同調するのは、同じく縁戚の一人であるニーバリ伯爵。

 

「よりによって、あの曲者に見られるとは…運が悪い」

「小公爵様も、何を言われたか知らぬが、()()()()()()大公家の公子に手をあげるなど…忍耐が足らぬ」

 

 グレヴィリウス公爵は黙って彼らがしゃべるに任せていた。

 再び、俯いて黙っているヴァルナルを見やる。

 

 アドリアンの剣の師匠でもあるヴァルナルは、その誠実な性格もあって、息子からの信頼も厚い。おそらく真実を知っているはずだ。

 しかし、これだけアドリアンが叩かれて反論もせずにいるというのであれば、今後も言う気はないのだろう。

 

 一方、ヴァルナルはヴァルナルで、とっととこの不毛な議論が終わらないかと、内心呆れ果てていた。

 何が忍耐が足りぬ、だ。アドリアン様は、この場に並んだ訳知り顔の大人の誰とても敵わぬほどの忍耐力の持ち主だ。

 

 議論というには稚拙な、上品な言葉に嫌味と皮肉をまぶした雑談が沸き立ってきた頃、ここがどこであるのかを忘れた短慮な一人が、思わず口に出した一言に一気に場は凍りついた。

 

「所詮、小公爵様もノシュテット子爵などという卑しい罪人の血を引いておるから、かような騒動を起こされるのでありましょう…」

 

 ノシュテット子爵は、公爵の亡き妻リーディエの父である。

 彼は皇宮に勤める役人であったのだが、恐れ多くも皇費を横領した罪で斬首された。後にこれは冤罪であったのではないか…という調査もされたのだが、結局、確たる証拠もなく有耶無耶にされた。

 そのため、いまだに彼女の出自を問題視し、その息子であるアドリアンが誹謗を受けることは珍しくなかった。

 シモン公子がまさにそうであったように。

 

 しかし、ここはその妻をこよなく愛した公爵を目の前にした会合の場であった。

 

 軽口で言ったプリグルス伯爵は、勘違いしていた。

 公爵が小公爵に対しての愛情が薄いのは、その母であるリーディエへの軽蔑に根差したものであると思っていたのだ。

 

 彼はアルテアン侯爵の娘の婚約者というだけで、本来ならばここにいるべき身分の者でもなかったのだが、アルテアン侯を通じて大貴族であるグレヴィリウス公爵家の一門に加われたことで、少々気が昂ぶって増長していたのだろう。

 

 当たり前のように一族の集まりに加わり、いかにも長年いたかのように振る舞っていたが、その禁句を言う限りにおいて、彼にその場にいる資格はなかった。

 今、失った。

 

「…? …え? な…なんです?」

 

 自分の言葉を最後に静まり返ったので、プリグルス伯爵ダニエルはキョトンとなってキョロキョロと周囲を見回した。

 

「………ルンビック」

 

 公爵は静かに家令を呼んだ。

 老家令はすぐさま公爵の傍らに音もたてずに歩み寄った。

 

「ここに」

「あの者は誰だ?」

「アルテアン侯爵の三女プリシラ様とご婚約されましたプリグルス伯ダニエル様にございます」

「………なぜ、ここにいる?」

 

 その言葉と共に公爵から立ち昇る凄まじい怒りの気配に、一同は息が苦しくなるほどであった。

 

 ダニエルは自分が相当に場違いであることを今更ながらに痛感し、この場から立ち去りたかったが、公爵の鳶色の瞳が燃えるかのように怒りを孕んで自分を睨みつけ、恐怖で硬直してしまった。

 

「申し訳ございません、公爵閣下!! おい! 貴様…ダニエル!!」

 

 公爵の怒りに圧倒されて同じように動けなくなっていたアルテアン侯爵がようやく立ち上がり、馬鹿な婿を連れ出そうとしたが、その時にはルーカスの目配せで部屋の隅で警護にあたっていた騎士達がダニエルを羽交い締めにしていた。 

 

「連れていけ。自室にて謹慎されるそうだ」

 

 ルーカスが指示すると、半泣きになっているダニエルはどうにか弁明しようとしたが、騎士達の剛力に柔弱な貴族の若君が敵うはずもない。

 

「お許しください! 公爵閣下」

 

 アルテアン侯爵はそのまま公爵の前まで来て、その場に膝をついて最上位の陳謝の礼を行う。

 公爵は無表情に見つめ、フイと顔をそむけた。

 

「ルンビック、侯爵への借款(しゃっかん)の期限を早めよ。今年いっぱいだ」

 

 冷たく言い放つと、アルテアン侯爵は真っ青になって言い縋る。

 

「こっ…こ、こ…公爵閣下…どうか! どうか、お許しを!! プリグルス伯との婚約は解消致します故…!」

 

 公爵の顔はピクリとも動かず、冷然とアルテアン侯爵を見下ろしていた。

 

「そもそも、娘の…しかも後継者でもない娘の婚約者ごときを、なぜ一門の会同に参席させた? 其処許(そこもと)の不見識が私の怒りを招いているのだ」

「誠に申し訳ございません。重々、反省致します故…借款の期限については……」

「ならぬ。この話はこれで終わりだ。アルテアン侯はこの場からの退出を許す」

 

 公爵はまったく聞き入れる気はないようだった。

 許す、という言葉で強制的な退去を命じられ、アルテアン侯爵はトボトボと部屋から出て行った。

 

 シンと静まり返った中で、コホンとわざとらしい咳をして手を挙げたのは、グレヴィリウス公爵の妹の夫であるマキシム・グルンデン侯爵だった。

 

「…それで、アドリアン小公爵への処遇ですが…皆様におかれては、どのようなものが適切と考えますか?」

 

 そもそも、その話であったことを皆が思い出す。

 

「左様ですな…まぁ、言っても子供の喧嘩ですから、鞭打ち程度がよろしいのでは?」

「三十もすれば十分でありましょう」

「その上で、しばらく謹慎して頂いて…」

「反省文なども(したた)めて、大公家に送ってもよいかもしれませぬ」

「いや。下手に弱味は見せぬほうが良かろう。あのヴィンツェンツェが後に利用して何をか仕掛けてくるやもしれぬぞ」

 

 口々に言っている中で、ヴァルナルはやっと時が来たと思った。

 無言で手を挙げると、公爵が気付いて眉を上げる。

 

「レーゲンブルト領主クランツ男爵」

 

 家令のルンビック子爵が淡々と呼び上げると、ヴァルナルは立ち上がった。

 

「此度のこと…仔細(しさい)は不明ですが、恐れ多くも皇帝陛下の催す園遊会において、小公爵様に不埒(ふらち)があったことは間違いなく、相応の罰が必要と思います。なれど、小公爵様におかれては、まだ心身ともに成長の途上にあります。できますればただ罰を与えるのではなく、今後の精神的向上を(たす)けるような処遇を為すべきかと考えます」

 

 公爵はようやく口を開いたヴァルナルを見て、フッと口の端を歪めた。

 

「それで? 男爵には既に腹案がおありのようだが?」

 

 皮肉げに言うと、ヴァルナルはニコリと笑った。

 

「アドリアン様にはしばらくレーゲンブルトにて、お過ごし頂きたいと思います」

 

 ヴァルナルが言ったことを、その場にいた人間はすぐに理解できなかった。

 レーゲンブルトなどという公爵領においては僻地ともいえる地域に、たった一人の大事な後継者を送リ出せるわけがない。

 

 しかし公爵は思案しながらつぶやいた。

 

「つまり、しばらく放逐させる(てい)をとる…ということか?」

 

 ヴァルナルは頷いてから、先程までの殺伐とした雰囲気を紛らすように明るく申し述べた。

 

「私の考えでは、おそらく大公殿下がこの事に目くじらを立てることはないと思います。今回、特に何も言ってこないのも、たかだか子供の喧嘩だと気にも留めていらっしゃらないのではないでしょうか?」

「ふん…ま、そのようなところであろうな」

 

 公爵もその意見には同意する。

 確かに一緒に現場を目撃したヴィンツェンツェは何かしら考えるところはあるかもしれないが、いつも悠然として鷹揚な大公が、この程度の子供のいざこざに苦言を呈するとは思えなかった。

 

 とはいえ、一応はこちらは身分上、()()()()()()()()必要がある。

 ヴィンツェンツェもわざわざ『両成敗』と言い置いて去った。

 

 アドリアンは()()()()()()()()()()()()

 

「しばらくの間、公爵本邸への立ち入りを禁じるという()を課せば、おそらくは老獪な側用人に文句をつけられることもないでしょう」

「それでアドリアンを連れて、帝都から直接レーゲンブルトに向かうということか?」

 

 ヴァルナルは返事の代わりに頭を下げた。

 

「公爵閣下、どうかアドリアン小公爵様を私めにお預け下さい。決して、信頼を裏切ることは致しません」

「…………」

 

 公爵は長い間、ヴァルナルを無表情に眺めた。

 案外と策士になったものだ。大公家への忖度だけでなく、これでレーゲンブルトに早々に帰る口実もできる。

 まったく…そうまでして帰りたいのか……と、公爵はうっすら苦笑いする。

 

 ヴァルナルは不意に微笑んだ公爵に、首をかしげたが、その時公爵がいきなりジロリと睨むように見てきた。

 

「お前の案に乗ってもよいが、条件がある」

「いかようにも」

「レーゲンブルトにいる間、息子を小公爵として扱わぬようにすることだ。既に知っている者には、一切口外せぬことを命じ、知らぬ者に伝えることを禁じる。一介の騎士見習いとして扱う。それが条件だ」

 

 居並ぶ者達は顔を見合わせた。

 それまでヴァルナルの提言を妙案だと思っていた者達も、公爵のこの言葉に顔色が変わる。

 とりあえず大公家への面目が立つようにと、一時的にアドリアンをレーゲンブルトに送るということだろうと思っていたのだ。しかし、公爵はそこで小公爵に安穏とした生活をすることを許さぬらしい。

 公爵の息子に対して苛烈であること、獅子が我が子を谷に落とすが如くである。

 

 しかしヴァルナルはその条件に、むしろ意を得たりとばかり莞爾と笑った。

 

「よろしゅうございます。幸いにも、領主館にいる大半の人間は地元で雇い入れた者達でございます故、小公爵様の顔は存じ上げませぬ。閣下の仰言(おっしゃ)る条件は簡単に果たせるでしょう」

「クランツ男爵!」

 

 叫んだのは、先程までアルテアン侯爵の隣で談笑していたニーバリ伯爵だった。

 

「仮にもグレヴィリウス公爵家の後嗣であられるアドリアン様に、失礼などあってはならぬ!」

 

 立ち上がった伯爵は公爵に向かって、いかにも恭しく頭を下げる。

 

「恐れながら、公爵閣下。ひとまず小公爵様に本邸への禁足(きんそく)を命じて、いずこかに蟄居(ちっきょ)させるというのであれば、我が伯爵家にてお預かり致しましょう」

 

 すると口々に領主や各家の当主達が叫ぶ。

 

「いや、そうであれば我が家にて面倒をみて…我が家には小公爵様と同じ年頃の娘がおります故…!」

「レーゲンブルトなど遠くてアドリアン様には長旅でお疲れになることでしょう。まして、冬に向かい、凍てつく寒さ。もし、体を壊しでもすれば大変です。我が領地であれば雪も少なく、温暖な気候でありますゆえ…」

 

 今更ながらにアドリアンを預かることで、公爵への恩を売ることができると思ったらしい。彼らの売り込みは熱を帯び、次第に公爵の眉間の皺が深くなっていく。

 

 そろそろ…という頃合いで、ダンッと机を叩いたのは、公爵家直属騎士団の団長代理であり、公爵の腹心とも呼ばれるルーカス・ベントソン卿だった。

 

「貴公らは公爵閣下の言葉を聞いておられたか? 閣下は小公爵様に、騎士としての修練を積むことで、精神的に成長して欲しいと考えておられるのだ。その意を汲み取ることもできずに、自らの名利(みょうり)を求め、アドリアン様をまるで犬猫を預かるかのごとく軽々に扱って、それこそ不敬であろう」

 

 それまで我こそは…と手を挙げていた者達は、ゆっくりと手を下ろす。公爵の苛立ちを感じて、互いに目配せしながら、必死で視線を逸らした。

 

 その中で勇気を持って立ち上がったのは、エシル領主のブルーノ・イェガ男爵だった。曽祖父の代に叙勲され、領地を与えられて以来、代々公爵家に仕える騎士でもある。

 

「もし、騎士団での若君の修練を望みとあれば、我らにて預かることもできます。わざわざ遠方のレーゲンブルトにまで行かずとも、我らが領地であれば本領地からも近く、若君にも多少なりと見知った土地でありましょう…」

 

 しかしその言に、ルーカスは皮肉げに口の端を歪めた。

 

「ほぅ。イェガ男爵は小公爵様の師たる器量があると大言壮語なさるか?」

「そ…それは…多少は…」

「言っておくが、小公爵様の剣の師匠はクランツ男爵だ。彼に実力で勝てるのか? 剣だけでなく、馬術においても、格闘術においても。騎士団同士の実戦試合においてもレーゲンブルトに勝ると申されるのか?」

「ルーカス」

 

 公爵が手を挙げて制した。

 

「それくらいにしておけ。イェガ男爵はじめ、エシルもまた、代々グレヴィリウスを守ってきた優秀なる公爵家の騎士団の一つだ」

「失礼致しました」

 

 ルーカスはすぐさま矛を収める。

 

「イェガ男爵の申し出は有難いが、やはり言い出した者に任せるのがよかろう。―――ヴァルナル」

 

 公爵が呼びかけると、ヴァルナルは「は」と頭を下げる。

 

()であれば、なるべく早くに帝都を出立することだ。三日後。それまでに準備できるか?」

「問題なく」

「よかろう。ルンビック、小公爵を執務室に連れて来るように」

 

 公爵は家令に命じて立ち上がる。ガタガタと皆が立ち上がり、胸に手をあてて敬礼する中を、公爵は去っていった。

 

「フン! うまく取り入ることよ」

 

 ヴァルナルの横を通り過ぎざま、ニーバリ伯爵が吐き捨てていく。

 他の面々も概ね似たような不満げな顔でヴァルナルを睨みつけながら去った。

 

 連なる列の最後であったイェガ男爵はヴァルナルに向かって言った。

 

「公爵閣下はあのように仰言(おっしゃ)られるが、小公爵様は唯一の継嗣であられる。重々、気をつけて監護なさることだ」

「ご忠告痛み入る」

 

 ヴァルナルは特に皮肉でもなく返事をする。

 イェガ男爵はそれでも心配そうにつぶやいた。

 

「これまでにも小公爵様には、色々と不穏なことが起きることがありました故、くれぐれもご用心くだされ」

「承知致した」

 

 明快なヴァルナルに、男爵はそれ以上何も言えなかった。

 神経質に眉を寄せ、嘆息しながら立ち去る。

 

「やれやれ、お前さんもやってくれたもんだな」

 

 最後に残っていたルーカスが呆れたように言った。

 

「そうまでして、早々とレーゲンブルトに戻りたいか?」

「そうまでして?」

 

 ヴァルナルが聞き返すと、ルーカスは肩をすくめる。

 

「早くレーゲンブルトに戻りたいから、格好の口実を考えついたんだろ?」

「まさか。そんな訳ないだろう。そもそも園遊会が終われば帰っていいとの言質(げんち)は頂いていたんだし、こんな事が起こるなど想像もしておらぬさ」

 

 ルーカスはしばらく思案して、「それもそうか」と頷く。

 

「で? 本当に小公爵様の身分を隠して、一介の見習い騎士として生活させるのか?」

「そりゃ当然。公爵閣下からの条件であるのだから」

 

 ルーカスは溜息をついて、嘘をつくことを知らぬ友を見つめた。

 

「まぁ、そうであればこそ…公爵閣下もお前に預けることを決められたのだろうがな…」

 

 おそらく他の者であれば、公爵の条件を受諾しながらも、明らかな贔屓(ひいき)なり手加減をするであろう。だが、目の前のこの男にそうした斟酌(しんしゃく)は無縁であるし、公爵の直々の命令とあれば、疑いもなく実行するに違いない。

 さすがは、公爵閣下の命令というだけの理由で結婚までする男なだけある……。

 

「ま。時間がなくとも、手土産の一つくらいは買って帰ることだな」

 

 立ち去る間際にそんなことを言われて、ヴァルナルは顔色を変えた。

 

「そうか…そうだった。失念していた」

「…………」

「ルーカス…頼みが…」

「お前、本当に進歩がないな」

 

 ルーカスは鈍く頭痛がして、眉間を揉んだ。

 本当に相変わらず誠実だが、気の利かない男だ。

 

「とっとと行くぞ。店が閉まる前に」

 

 苛立たしげに言うルーカスに、ヴァルナルはホッと笑って言った。

 

「すまんな、ルーカス。恩に着る」

「おう。例の黒角馬、公爵様の次にはくれよ」

「わかった」

 

 これも普通であれば社交辞令であろうが、この男のことだ…律儀に守るのであろう。

 ルーカスは溜息をつきながら、ひどく懐かしい気分になって微笑んだ。

 

 





続けて更新します。



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第二十七話 白蛇と大公

「大公殿下の公子に向かっての狼藉(ろうぜき)の罰として、お前にはしばらく帝都並びにアールリンデンの公爵邸への立ち入りを禁じることとなった。クランツ男爵がお前の身を引き受けてくれる。彼と共にレーゲンブルトに向かい、しばらく騎士見習いとして生活するように。自分が公爵家の後嗣であることは、一切口外してはならぬ」

 

 疑問を差し挟む隙もなく、公爵はアドリアンに命令した。

 

「…はい」

 

「領主館の者達は若様のことを存じ上げませぬ。彼らに身分を伝えることのなきように、とクランツ男爵に申し伝えております故、少々の理不尽や無礼は許容なさいますように」

 

 家令のルンビックが補足すると、公爵が再び口を開く。

 

「此度の経緯(いきさつ)が何であるかはもはや聞かぬが、ヴァルナルはお前の意志を尊重して、私にも話さなかったのだ。彼の者の忠義を無駄にせぬよう、公爵家の後嗣として今後恥ずべき言動は控えよ」

 

 アドリアンは深く辞儀した後、顔を上げて言った。

 

「では、すぐにもレーゲンブルトに向かう用意をして参ります」

 

 執務室を出るなり、アドリアンは足取りも軽く自室へと向かう。

 

 少しだけ笑みがこぼれた。

 罰、とは言われたもののしばらくの間、自由になった気がする。

 窮屈で陰鬱な公爵邸を離れて、晴れやかな空の下で存分に空気が吸える。

 何度かヴァルナルから聞いていたレーゲンブルトに、こんなに早くに行けるとは。

 

 元々グレヴィリウス公爵家では、公爵位を継ぐ前に各地の公爵領を回って視察するという慣習がある。だからいずれ行けるだろうとは思っていたが……。

 

 アドリアンは途中から走り出していた。

 必死に隠していたが、楽しみで仕方ない。

 

 いつもは沈着冷静で、老成した小公爵様と呼ばれているアドリアンは、初めての長旅とこれから始まるであろう新生活に、すっかり浮かれていた。

 

 だからこの時は思いもしなかったのだ。

 確かに父は自分にとってひどく辛い罰を課したのだということを。

 

 

 

 

 

 

「……グレヴィリウス公はなんと?」

 

 ヴィンツェンツェ老人は、大公の身体に刺した鍼を一本一本、丁寧に抜きながら尋ねる。

 

 寝台にうつ伏せになりながら、ランヴァルト大公はグレヴィリウス公爵からの書翰(しょかん)―――こうした形式的なものであれば、それを起草したのも書き綴ったのも、おそらく補佐官あたりであろう―――を投げ捨てた。

 

「他愛も無い。此度の詫びと、息子を公爵邸からしばらく追い出すそうだ」

「………ほぉ?」

 

「北部の辺境の地で、しばらく騎士としての修行をさせるらしい。念のいったことだが…これは罰なのかな? ピクニックに行くのと変わらぬ気もするが…」

 

(いささ)かおかしな罰ではありますが、ひとまずこちらの顔は立てた…と、いうところでありましょう」

 

 ヴィンツェンツェ老は喉奥で笑みながら、慎重に鍼を抜いていく。

 

「それで、こちらの()鹿()はどうしている?」

 

 大公は枕の上でとぐろを巻いて眠る白蛇をゆっくりと撫でながら、煙管をふかせた。

 大公の言う()鹿()というのは、息子であるシモン公子のことだった。

 

「北の塔に閉じこめましたが、すぐに御方様(おんかたさま)の手の者によって()けられた由。今、あそこにいるのは替え玉として連れてこられた乞食にございます」

 

 大公は長く煙を吐いた。

 口元にはあきれた笑みが浮かんでいたが、紫紺の瞳は脳裏に浮かぶ息子と妻の姿を冷たく見ている。

 

「まったく母子(おやこ)揃って……ヴィンツェ」

「は?」

其方 (そなた)、あの阿呆共を多少なりと、まともにできる薬でも作れぬか?」

「ホッホホ!」

 

 ヴィンツェンツェ老は声を上げて笑った。ゆっくりと最後の鍼を抜いて、「終了致しましてござります」と静かに告げる。

 

 大公が起き上がり衣服を整えていると、寝ていた白蛇がゆっくりと動いてその背を這っていく。

 

「シモン公子もあれで、目端のきくところもございます。『割れた皿も使いよう』と、申すではありませぬか」

 

「フン…いつまでも母離れできぬ幼子のごとき男に、何の使い勝手があるのやら…。本当に我が息子かと疑いたくなる」

 

「残念ながら、公子様のご容貌は瞳の色を除けば、若き日の殿下によく似ておられます。御方(ビルギット)様の不貞は認められませぬな。……現在(いま)はともかく。先だっても、寝室にてホガニ子爵の令息とマルッケンダント伯爵が鉢合わせして、色々と騒がしかったようでございます」

 

「……男狂いが」

 

 大公は吐き捨てると、ヴィンツェンツェ老に命じる。

 

「その替え玉の乞食とやら、殺さずにおけ」

「おや? よろしいので?」

「割れた皿より使い道があるやもしれぬ」

「………かしこまりました」

 

 ヴィンツェンツェ老は深く辞儀をして、その場を去った。

 

 大公は煙を吐ききると、窓を開けてバルコニーに出た。

 既に夜は深く、ザザザと葉を渡る風の音と共に梟の啼声が聞こえてくる。

 

「つまらぬな……レーナ」

 

 大公はバルコニーの柵に手をついて、首元に絡まる白蛇に話しかけた。

 

「最近になって、やたらとお前の()のことを思い出す。お前が夢でも見せているのか?」

 

 チロチロと白蛇は赤い割れた舌を動かした。

 首から腕を伝って下りていくと、バルコニーの柵を這っていく。

 音もなくスルリスルリと端まで行き、そのまま闇に消えたかと思うと、キキキッと小さな鳴き声が聞こえてきた。

 しばらくすると、喉を太らせて戻ってくる。

 

 大公は満足気に微笑んだ。

 

美味(うま)いか? 皇居の鼠は」

 

 ビクビクと蛇の喉の中で、鼠が動いていた。

 

 





次回は2022年6月26日20:00に更新予定です。



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第三章
第二十八話 領主様の帰還


 領主館はあわただしかった。

 

 いつもであれば霜氷(そうひょう)の月半ば頃に帰ってくる領主様が、一ヶ月も早く帰ってきたからだ。

 

 しかも帰還を知らせる前触れの使いすらもなかった。

 いきなり土煙をあげて現れた一団に、町と外を隔てる古い城門を守っていた当番の騎士は、すわ山賊の急襲かと、色めきだった。

 

 先頭を進む黒角馬(くろつのうま)に気付いて、一人が飛び出して領主館へと知らせに走った。

 

「領主様だっ! 領主様がお帰りになったぞーっ」

 

 そこから領主館はそれこそ大騒ぎになった。

 嘘だろうと飛び出してきたネストリは、門番のジョスに留守の間の守衛を(ねぎら)っているヴァルナルを見るなり、すぐさま踵を返して使用人達に次々と指示を下した。

 

「エッラ、領主様の部屋の片付けは済んでいるのか? 風呂の用意をしておけ。オッケ、食料庫にソニヤを連れて行って、不足がないかを確認させろ。ロジオーノ、食器の準備を。私も後で行く…あぁ! 若君に知らせねば…アントンソン夫人! アントンソン夫人はどこか?! 何? 休暇だと? すぐに戻ってもらえ。領主様が帰還されたと伝えるのだ!」

 

 領主館を仕切るネストリ同様に、あわてまくったのは居残り騎士団の団長代理であったマッケネンだった。

 

「おい! 兵舎の掃除…副官宿舎の掃除の当番は誰だ? ゴアンらだと? あいつら絶対やってないぞ…フレデリク、お前すぐに行って、とりあえずシーツの皺だけでも伸ばしておけ! 風呂場の掃除はしてるんだろうな!? 誰かパウルさんかイーヴァリに言って、泉の水門を開けてもらえ! 食堂も片付けろ! 駒取り(チェス)盤だの何だの放り出してるだろう!!」

 

 マッケネンはよくやっていた方だった。

 居残り組は元は傭兵だった連中が多い。自分よりも年上の先輩相手に、うまくやっていた方ではあったが、それでも多少なりと風紀の緩みがあったのは否めない。

 

 ちょうどその時、早朝から昼過ぎまで行われた調練が終わり、午後の休憩時間であったのもある。

 それぞれが自由時間を楽しんでいて、中には午睡を貪っていた人間もいて、いきなり領主様を始めとする騎士団が帰還したのだと聞かされても、目を白黒させて呆然とするしかない。

 

「起きろ! 鬼が帰ってきたぞ!!」

 

 いつまでも起きないゴアンの耳元でサロモンが怒鳴る。ヒエッと声を上げて、ゴアンは飛び起きた。

 

「なんだッ!? 鬼ッ? 鬼って、鬼カールのことか?」

 

 副官の一人であるカール・ベントソン卿の容赦ないしごきに恐怖する騎士達は、陰で彼のことを『鬼カール』と呼んでいた。

 その場にいた騎士達の間に、その名称を聞いた途端にビリビリとした緊張感がはしった。

 

「ヤバイぞ!」

「宿舎の廊下の窓拭きなんざ、全然やってねぇぞ」

「ヤベェって…あの人、窓の桟の埃までチェックするんだぞ」

「おい! 出迎えするって招集かかったぞ」

「うわ…マズイ…どうすんだよ」

 

 オヅマはいい年した大人たちが右往左往するのをニヤニヤ笑って見ていたが、それを見咎めた騎士のサッチャが怒鳴りつけた。

 

「オイ、オヅマ! お前、兵舎の掃除してろ!」

「えぇ? なんでだよ?」

「お前は一人前の騎士じゃないからな、出迎えしなくたっていいんだ。見習いは、俺らの尻拭いするもんだ」

「堂々と言うことかよ、それ」

 

 オヅマが口をとがらせると、頭の禿げかかったゾダルが申し訳無さそうにオヅマの肩を叩く。

 

「すまん、オヅマ。頼まれてくれ。便所に置きっぱなしにしてるんだ」

「何を?」

(エロ)本」

「なんでそんなモンそんな所に置いておくんだよ!」

「そりゃ、お前…いずれわかるよ」

「知るか、そんなの!」

「頼むから! マジでヤバイんだって!!」

 

 最初に頼んできた禿げのゾダル以外にも数名に頼まれて、オヅマは頬をヒクヒクさせながら彼らの言う通りにするしかなかった。サッチャの言う通り、自分はまだ見習いであるので、正式な騎士達と同列には扱われない。

 

 招集がかかって無人になった兵舎の中を、オヅマは雑巾を持って歩き回った。窓やら机やらを適当に拭いて、食堂に置きっぱなしになっていた駒取り(チェス)盤やら、絵札(トランプ)やら、雑多な遊興(ひまつぶし)道具を、とりあえず空の木箱に次々に入れていく。

 便所掃除をして、例のゾダルに頼まれていた(エロ)本を箱に放り込んだところで、懐かしい声に呼ばれた。

 

「オヅマ」

 

 顔を上げて、彼の姿を見た途端、オヅマは箱を持ったまま走った。

 

「領主様!」

「相変わらず、元気そうだな」

 

 ヴァルナルの優しい笑顔に、オヅマも自然と笑った。

 

「それしか取り柄ないから…あ…いや、取り柄ないです、から」

「ハハハ。そういえば、マッケネンから礼法なども学んでいるらしいな」

「はい。一人前の騎士になるために、頑張ります!」

「結構。それじゃ、一つ頼まれてくれるか?」

 

 ヴァルナルはそう言うと、体をひねって半身になった。

 そこにはオヅマとそう年の変わらなそうな少年が立っていた。

 

 黒髪で、何の感情もない(とび)色の瞳。

 

 オヅマは見た瞬間に、どうも合わなそうな気がした。

 

「なんです? そいつ?」

 

 思わずぶっきらぼうに尋ねると、少年の背後に控えたカールとパシリコの顔が微妙に引き攣ったが、オヅマは気付かない。

 

「彼は私の知人の息子だ。今回、この騎士団の見習いとしてしばらく参加することになった。お前と同じだな」

「はぁ……そうですか」

 

 気乗りしないオヅマに、ヴァルナルは笑って言った。

 

「騎士達が対番(ついばん)になっているのは知ってるな?」

 

 騎士達は基本的に二人一組で行動する。

 元々は戦場において、一人の敵に対峙するにも、二人で行うことで確実に殺傷すること以外に、互いに無防備になりがちな背を合わすことで、複数の敵からの攻撃に対処することを目的にしている。

 戦時においてだけでなく、普段から騎士達は二人で行動することで、阿吽(あうん)の呼吸を持つことが推奨された。

 まぁ、今回のようにお目付け役がいなくなると、大真面目に守るような奴はいなかったが。

 

 オヅマはヴァルナルの言葉を聞いた途端に嫌な予感がしたが、果たしてそれは当たった。

 

「この子は、しばらくお前の対番になる」

「えっ?」

 

 思わず声に嫌悪がこもる。ジロリと目の前の少年がオヅマを見上げた。

 ヴァルナルはハハハと笑ってから、オヅマの肩を叩く。

 

「まだ、見習いとしてはお前に一日(いちじつ)の長がある。しっかり面倒みてくれ。あぁ、もちろん寝る場所もお前の小屋でな」

「えっ? マジで?」

 

 つい、いつもの言葉遣いになる。

 

「オヅマ…」

 

 鬼カールが低く唸るように注意すると、オヅマは首をすぼめた。

 ヴァルナルは黒髪の少年の背を軽く押して、自己紹介するように促した。

 

「……アドリアン…です」

 

 オヅマはポリポリと頭を掻いてから、自分も名乗った。

 

「オヅマだ。よろしくな」

 

 アドリアンはご丁寧に深々と頭を下げてくる。

 その様子を見て、オヅマは彼がおそらく自分のような平民の出ではないのだろうと思った。まぁ、領主様の知り合いの息子であるなら、そうだろう。

 

「じゃあ、早速色々と慌ただしいようだから、頼んだぞ」

 

 ヴァルナルはオヅマにアドリアンを託すと、行ってしまった。

 オヅマは軽く溜息をついてから、アドリアンに尋ねた。

 

「年は?」

「十歳」

「じゃ、俺の一つ下か。アドリアンって長ったらしいから、アドルって呼ぶぞ。いいな?」

「………」

「返事!」

「……はい」

 

 オヅマは眉を寄せると、ハアァと厭味ったらしく大きな溜息をついた。

 

「お前さぁ、その小さい声だと通じねぇよ。ここじゃ」

「………」

「だからぁ、返事っ」

「はい」

 

 アドリアンはいつもより大きな声で返事したものの、オヅマは首を振った。

 

「お前にゃ、発声練習からだな」

「発声練習?」

「いいから、とりあえず…これ持て」

 

 オヅマは片手で持っていた箱をアドリアンに差し出す。アドリアンは何気なく受け取って、思っていた以上の重さに、箱を落とした。

 

「あ~っ! なにやってんだよ、お前!」

「……すまない」

「すまないとか言う前に動け! 拾え!」

 

 アドリアンはあわててしゃがみ込んで、チェスの駒や絵札や、見慣れぬ赤い棒を拾う。これが、重さの理由だったようだ。

 

「これは…なんですか?」

 

 七寸(20センチ)ほどの長さの赤い棒。一体何で作られているのか、やたらと重い。

 

「何って…棒亜鈴(アレイ)だよ。これで指を鍛えたりするんだ」

「指?」

 

 オヅマは人差し指だけで棒を掴む。しばらくして今度は中指。薬指、小指はさすがにプルプル震えてすぐに落ちた。

 アドリアンも他に散らばっていた棒でやってみようとしたが、中指で持ち上げることすら無理だった。重い。

 

 オヅマはアドリアンの白く細い指を見て、せせら笑った。

 

「無理だな」

 

 アドリアンはさすがにムッとなった。

 最初からいい印象でないのはお互い様だ。だいたい馬車の中で、ヴァルナルから同じ年頃の少年を騎士として養育していることを聞いた時から、アドリアンは少しばかり心が波立った。日頃の鍛錬で顔には出さなかったが。

 

 ヴァルナルはこの少年―――オヅマと自分が仲良くなってくれるだろうと思っているようだが、今のところそうなる兆候は皆無だ。

 

「この棒、いただいても構わないだろうか?」

「ハァ? お前、これで練習すんの?」

「あぁ」

「ムリムリ。やめとけやめとけ。素人が最初(ハナ)っから赤棒なんて」

 

 あからさまに馬鹿にしたオヅマの言い方も態度もいちいち気に障ったが、アドリアンはぐっとこらえて反論した。

 

「今日すぐには無理でも、毎日の努力が成果に繋がるとヴァルナルは言っていたぞ」

「オイ!」

 

 オヅマは厳しくアドリアンを見据えた。急に雰囲気が変わり、アドリアンは内心でヒヤリとなる。

 

「領主様のことを、呼び捨てにすんな!」

 

 あっとなって、アドリアンは俯いた。

 あれほど行く道で小公爵であることは忘れるように、と言い聞かせられたのに。

 

「申し訳ありません」

 

 アドリアンが消沈して謝ると、オヅマはフンと鼻息をならして腕組みする。

 

「お前さぁ、領主様の知り合いの息子だから、近所のおじさんくらいの気持ちでいるんだろうけど、ここで騎士見習いとしてやっていく以上、領主様はおじさんじゃなくて、騎士団長だし、ご領主様だし、男爵様なんだ。ちゃんとわきまえろよ」

 

 そういう自分はいまだに時々気安い口調で話すし、なんであればそのご領主様の息子になど、さんざん無礼な口をきいているのは棚に上げて、オヅマは鹿爪らしい顔で言う。

 アドリアンは拳を握りしめながら、もう一度謝った。

 

「はい。すみません」

「も、いいから。拾えよ」

 

 オヅマは赤棒を手早く拾って箱に入れていく。

 アドリアンは近くに落ちていた本を拾って、表紙の題名に首を傾げた。

 

『侯爵夫人の蜜の誘惑』――――?

 

 騎士団にあるのだから、用兵の本か何かかと思っていたのだが、違うのだろうか?

 まじまじ眺めてしまっていると、オヅマが尋ねてくる。

 

「なに、お前。そんなの興味あんの?」

「興味があるというか…何の本かと思って…」

「見たらいいだろ」

「いいのか? 勝手に人の本を…」

「本なんざ回し読みだよ。誰のなんてことねぇ」

 

 言いながら、オヅマは遠くまで転がっていた駒を取りに行く。

 アドリアンは中を開いた。ペラペラめくって、いきなり女の裸が描かれた挿絵が現れてバサリと本を落とす。

 

「ハハハハハッ!」

 

 オヅマはそれまで耐えていたのが弾けて大笑いした。

 アドリアンは青い顔をしていたが、一気に赤くなってペタリと座り込んだ。

 

「な、なんだ! それ!」

 

 恥ずかしさを隠すように、アドリアンは大声で怒鳴った。

 しかし、オヅマは平然として、アドリアンの落とした本を拾う。

 

(エロ)本。騎士団の必須アイテムだろ」

「なんで必須なんだ! そんな訳ないだろう!!」

「そうかぁ? どこでもこんなモンだろ。男所帯なんだから」

「レーゲンブルト騎士団は帝国において、皇家の騎士団にも並ぶ勇猛果敢な騎士団と聞いていたのに……」

 

 アドリアンが信じられないようにつぶやくと、オヅマは肩をすくめた。

 

「おとぎ話じゃあるまいし、貴族のお坊ちゃんばっかが集まったような近衛騎士と違って、傭兵上がりの騎士なんざこんなもんだよ。まぁ、やることやってりゃ文句もないだろ。ホラ、いつまで腰抜かしてんだよ。それとも、別の理由か?」

 

「別の理由?」

「なんかよくわかんねぇけど、ああいうの読んだら、股の間が熱くなるんだろ?」

「ちっ…違うっ!」

 

 アドリアンはすぐに立ち上がった。実際、多少は…少しばかり熱い……ような気はしたが。

 

 オヅマはすべて拾ったのを確認すると、再びアドリアンに箱を差し出す。

 

「両手でしっかり持てよ。お前、力ないから」

 

 不本意ではあったが、アドリアンは両腕でしっかりと箱を持った。

 この重さのものを片手で、なんであれば差し出す時などは中指でつまむように持って渡すなど…どういう指の力なんだろうか。

 

 無言で歩き出したオヅマの後を追いながら、アドリアンは沈黙がひどく気になって、思わず問いかけた。

 

「君も…読むのか?」

「は?」

「さっきの…あの…ああいうの」

「俺は興味ない。本とか読むの嫌いだし。読むんだったら、まだ算術の謎解き本とかやってる方がいいな。解いた時にスッキリするから」

「そうか…」

 

 アドリアンはホッとした。あんなものを始終見せられたら、まともに騎士の訓練などやってられない。

 

「なに? お前、興味あんの? 詳しい人教えてやろうか?」

「ない! まったくない!」

 

 大声で即答すると、オヅマはニヤリと笑った。

 

「声出てきたな。その調子だ」

「…………」

 

 アドリアンは眉間に皺を寄せた。

 それから仏頂面になっている自分に気付いて、困惑した。

 いつもは平常心でいることを心がけて、決して表情を崩すことのないようにしているのに、どうにも調子が狂う。

 

 目の前で楽しげに口笛を吹いて歩いて行くオヅマの亜麻色の髪を見て、ここに来る元凶となった大公の息子のことを思い出した。

 そういえば彼も同じ亜麻色の髪だった。さほどに珍しい髪色ではないが、こうして背を向けていると、妙に似通ってみえる。

 

 アドリアンは嘆息した。

 

 亜麻色の髪の公子と喧嘩して放逐された先で、同じ亜麻色の髪の少年にこき使われるとは……よほど自分は亜麻色の髪の人間と相性が悪いらしい。……

 





引き続き、更新します。



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第二十九話 ネストリの思惑

 ヴァルナルはオヅマにアドリアンを託した後に、領主館に向かった。

 玄関の大きなドアを開いて入ると、大階段の広間には主だった召使いが集合してヴァルナルらを迎え入れた。

 

「お帰りなさいませ、領主様」

 

 代表して執事のネストリが挨拶し、深々とお辞儀すると召使い達が全員頭を下げる。

 

 その中で一人だけ立ち尽くしていたオリヴェルは、久しぶりに再会した父と目が合って、思わず顔を伏せてしまった。

 隣にいたミーナがそっとオリヴェルの手を包む。

 大丈夫、と声にせず言っている。

 

 一方、ヴァルナルもまた久しぶりに対面した息子が、以前に比べて随分大きくなったことに驚きながら、どう声をかけたものか迷った。今更ではあるが、それまで放任してきたせいで、こういう時の当たり前の会話すら出てこない。

 しかし、オリヴェルの手をそっと握ったミーナに気付いて、ヴァルナルもまた勇気をもらった。

 軽く咳払いした後に、息子に近づくと少々緊張しながら声をかけた。

 

「随分と…大きく…元気になったようだな。オリヴェル」

 

 オリヴェルは驚いたようにヴァルナルを見上げてから、ニコリと笑った。

 

「はい。元気になりました。皆のお陰です」

「うむ。騎士達の修練の見学にも来ていたようだな」

「体調の良い時に、皆さんの邪魔にならないように、時々見学させてもらっています。先日も、格闘術の試合を見せてもらいました」

 

 オリヴェルは話しながら不思議だった。

 父とこんなに普通に会話できると思っていなかった。以前は目の前にしただけで怖くて、悪いことをしたわけでもないのに、申し訳ない気持ちになって縮こまっていたのに。

 

 ヴァルナルはオリヴェルの頭を軽くなでてから、頭を下げているミーナをチラリと見た。

 ひっつめた髪に贈った髪飾りはない。

 ヴァルナルは溜息をもらしたが、思っていたほどに落胆はしなかった。手紙で固辞していたのだし、仕方ない。

 

「出迎えご苦労だった。皆、仕事に戻ってくれ。ネストリ、執務室に来てくれ」

 

 ヴァルナルはその場ではあえてミーナに声をかけることはなく、急な領主の帰還で慌てている召使い達に仕事を続けるように促す。

 

 ヴァルナルが階段を上って行くと、その後に続きながら、ネストリはミーナをチラと見てフンと鼻で(わら)った。

 やはり、都から戻ればこの程度の女など目にも入らなくなるのだろう。数ヶ月前までは領主様の贔屓もあったが、そろそろ潮時だと当人もわかったはずだ…。

 

 ネストリは内心せせら笑っていたが、執務室でヴァルナルからグレヴィリウス公爵の後嗣アドリアンが来訪していると告げられると、驚嘆してミーナのことなど一気に吹っ飛んだ。

 

「え…小公爵様…が?」

 

 ヴァルナルは頷いた。

 公爵邸での勤務経験のあるネストリは既にアドリアンの顔を見知っているだろうから、知らせた上で対応させた方がよい。

 

「そうだ。公爵閣下からの直々の仰せで、今回は特に一騎士見習いとしてこのレーゲンブルトで過ごすように言われ、いらっしゃっている。ついては、このこと…つまり、アドリアン様が小公爵様であることはレーゲンブルトで雇った人間に口外せぬようにしてもらいたい」

 

「は…あ…?」

 

 ネストリには意味がわからなかった。

 どうして公爵様はこんな辺境の寒さ厳しい地に、小公爵を来させることにしたのだろうか。

 堅牢なだけで、何らの豪奢も面白みもない、ただの北国の小さな館だ。

 しかも一騎士見習い? 一体、どういうつもりだ?

 

 しかし……と、ネストリは素早く頭の中で自分がどのように動けばいいのかを構築する。

 

「つまり、私めはアドリアン様を小公爵様であるように扱わないようにする…ということですね。敬語ではなく、()と呼ぶこともないようにせねばならない…と」

 

「そうだ。一応、一緒に生活してもらうオヅマには私の知人の息子ということで紹介している。君にもそのつもりで接してもらいたい」

 

 ヴァルナルが何気なく言った名前に、ネストリはピクリと眉を寄せた。

 

「少々、お待ち下さい。ただいま、領主様はオヅマと小公爵様、二人で一緒に生活してもらう…と仰言(おっしゃ)ったのですか?」

「そうだが?」

「ご冗談を! 小公爵様をあの無礼な小僧と一緒に!? 後でどんなお叱りを受けるかもしれませんぞ! ご再考下さいませ!」

 

 ヴァルナルは笑った。思っていた通りの反応だ。

 

「君の心配はわかるが、この事については公爵閣下、小公爵様共に了承しておられる。よほどのことでもない限り、不敬を問われることはないだろう」

 

「しかし…奴めは若君……オリヴェル坊ちゃまに対しても、時々非常に横柄な口をきいて…この前も母親のミーナに叱られておったのです。しかも、その叱責に不服があるような…不満気な態度で…まったく図々しい」

 

 ヴァルナルは大笑いした。いかにもオヅマらしいエピソードだ。

 

「あの二人については、双方の意志にまかせている。オヅマも騎士としての修養を積めば、いずれ分限を知ることになる。そうなれば自然と相応の態度を身に着けることになるだろう。………私もそうであったしな」

 

 話すヴァルナルの脳裏に、若き日の公爵とその奥方の姿が思い浮かぶ。

 物知らずな若い騎士見習いを、弟のように可愛がってくれた。

 あの日々の思い出があるかぎりにおいて、ヴァルナルがグレヴィリウス公爵家を裏切ることは有り得ない。当然、皇家の直属騎士になることも。

 

「………承知致しました」

 

 ネストリは最終的には了承した。

 考えてみれば、特に自分の負担はない。

 

 元々、ネストリにとって小公爵はあまり有難い存在ではなかった。

 

 グレヴィリウス公爵とその夫人は仲が良かったものの、不思議と子宝には恵まれなかった。公爵は妾をとることもなかったので、当然跡継ぎについて問題視されたが、それでも公爵が夫人と離婚することはなかった。

 そのため、うるさく言ってくる親戚を黙らせる為に、公爵は自分の妹が産んだ男の子を養子とすることに決めたのだ。

 

 それがグルンデン侯爵家の次男・ハヴェルだった。

 まだ、公爵夫人に子供ができる可能性も皆無でなかったので、正式な養子となるのは成人の後とされたが、ハヴェルはほとんどグレヴィリウス公爵家の後嗣としての教育を受け、ネストリは彼の従僕として仕えていた。

 

 ところが、結婚九年目にしてようやく公爵夫人が懐妊。その後に出産。

 ハヴェル公子はあっさりと捨てられた。グルンデン侯爵家に戻されたのだ。

 未だにこの事を恨みに思う人間は多いし、公爵が自分の息子を疎ましく思っているのは有名なことだったので、あるいはハヴェル公子をやはり公爵家の後継とする可能性もあるのではないかと、注意深く窺っている勢力もあった。

 

 ということでネストリとしては、アドリアン小公爵様を()()()()必要がないのであれば、むしろ気楽であった。内心の不満が多少噴き出たとしても、今回においては免除されるということであろうから。

 

「……どうも、腹に一物ありそうな感じですね」

 

 ネストリが去った後、カールは不信感もあらわに言った。

 小公爵がレーゲンブルトに行くことが決まってから、内々に兄のルーカスが領主館にいる使用人について調査している。その中でネストリがハヴェル公子の従僕であったことが、懸念材料として挙げられていた。

 

「大丈夫でしょうか、領主様。彼がもし小公爵様に対して…」

 

 パシリコが不安そうに言いかけると、ヴァルナルは「わかっている」と頷く。

 

「一応、念のために彼がハヴェル公子側の勢力と繋がっているのかは調べている。そのうち知らせが来るだろう。とりあえずしばらくは様子を見るとしよう…」

 

 ヴァルナルは言ってから、少しだけ嫌な予感を持った。理由はない。ただ一瞬、嫌なものが胸をよぎった。

 

 だが行政官の来訪を告げる声に、久しぶりに領主としての顔を取り戻す。

 

「入り給え、ミラン行政官」

 





次回は2022年6月29日20:00に更新予定です。



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第三十話 告白

 その夜、久しぶりに息子との夕食を終え、行政官の持ってきた収穫についての資料に目を通していたヴァルナルは、控えめなノックの音にすぐさま反応した。

 扉が開く前から、そこに立っているのが誰かわかった。

 

「入るとよい、ミーナ」

 

 声をかけると、扉が静かに開いてミーナが入ってくる。

 

 その手にはヴァルナルの贈った箱があった。手紙でも申し伝えてきたように、律儀に返還しに来たらしい。胸の前でその箱を持ったまま、深く頭を下げる。

 

「帰着されたばかりの忙しい中、お時間をとらせて申し訳ございません」

 

 相変わらず丁寧で、品のある言葉遣いだ。

 オヅマは母親は時々、生まれ故郷の西方の訛りがあると言っていたが、ヴァルナルに対するミーナの言葉はちゃんとしたキエル標準語で、その上で洗練された貴族的古語まで使いこなしていた。

 

 ヴァルナルは立ち上がると、執務机の前にあるソファに座りミーナも座るように促した。

 

「その箱を受け取る気はないぞ」

 

 ミーナがテーブルの上に箱を置く前に、ヴァルナルは言った。

 今しも箱を置こうとしていたミーナの手が止まり、困惑したようにヴァルナルを見た。

 

 ヴァルナルはニコリと笑う。

 

「中身が気に入らないなら捨ててもらってもいいし、誰かに……マリーにやってもいい。ただ、マリー以外の女性にあげるのはやめてもらいたいな。一応、選んだ身としては、貴女(あなた)のために買ったのだから」

 

 ミーナは箱を膝の上に置いて、再び頭を下げた。

 

「申し訳ございません。気を遣っていただいたのに…無下なことをと…ご気分を害されたことでしょう」

「私が? まさか、気分を害したりはしない。貴女が奥ゆかしい人物だと尚のこと感心するだけだ」

 

 ミーナはゆるゆると首を振ってから、しばらく黙り込んだ。

 

 ヴァルナルは蝋燭の炎に揺らめくミーナの艶やかな褐色の肌と、耳元に垂れた淡い金の髪を見つめた。

 何かを考え込む伏せた薄紫色の瞳の、長い睫毛すらも美しい。

 

「……迷惑だったか?」

 

 ヴァルナルが自嘲気味に言うと、ミーナは顔を上げてヴァルナルを見てから、少しだけ笑った。

 

「迷惑ではございませんけど…少し……困りました」

「…正直だな」

 

「申し訳ございません。でも、このような贈り物を一介の召使いが頂いて…その前にも文筥(ふみばこ)も頂いて、それでも身に過ぎた物と恐縮しておりましたのに……」

 

 ヴァルナルは一気に渋面になった。今更だが、恥ずかしい。

 あんなものを女に最初の贈り物で贈る男なんぞいないと…ルーカスにも馬鹿にされ、公爵閣下までが苦笑していた。

 

「あれは、こちらこそ申し訳なかった。勘違いさせるようなものを贈って…」

 

「いいえ。とても嬉しゅうございました。あのインクは珍しいものですね。時間が経つと、色が紫に変わって…並んだ文字が(すみれ)色になるのは、読んでいても美しいと思いました」

 

「あぁ! そうなんだ、店主が見本を見せてくれてな。時間が経てば経つほどに、色が薄紫色になっていって、ちょうど……」

 

 嬉しげに話すヴァルナルを、その薄紫の瞳が微笑んで見ている。

 ヴァルナルは言いかけた言葉を呑み込んだ。一気に顔が熱くなる…。

 

 ミーナは急に黙り込んだヴァルナルに、改めて礼を言った。

 

「心遣い、感謝しております。けれど、そこまでして頂かなくとも、私はオリヴェル様のお世話を()げ出すようなことは致しません。少なくとも、無事に若君が成人されるまでは」

 

 ミーナがそう言う理由に、ヴァルナルはすぐ思い至った。

 

 オリヴェルには元々、乳母代わりとなってずっと面倒みてくれた女がいた。

 彼女は元々、オリヴェルの母であるエディットの侍女の一人として帝都からやって来た。

 最終的にヴァルナルとエディットの関係が破綻して、彼女がレーゲンブルトから去った後も、エディットに命じられたのか、自分から志願したのかは知らないが、オリヴェルの世話を一手に引き受けて面倒を見てくれていたのだ。

 

 しかしそこには魂胆があった。

 オリヴェルの世話を焼くことで、ヴァルナルと親密な関係になり、ゆくゆくはエディットの後釜として男爵夫人となることを目論んでいた。

 

 ヴァルナルはオリヴェルの世話をしてくれる彼女に感謝はしていたが、女性としては何らの魅力も感じていなかったので、とうとうしびれを切らした彼女がヴァルナルの寝室に忍び込んできた時に、はっきりとそのつもりがないことを言ったのだ。

 

 すると、彼女は翌日には出て行った。

 しかも子供のオリヴェルに、何かしらひどいことを言い残していったようだ。

 オリヴェルは熱を出して寝込んだ後、何も言わぬ子供になっていた。

 

 ちょうど春の種播きが終了した頃の、公爵邸へと向かう時期であったため、ヴァルナルは医者と女中頭にオリヴェルを任せて出立してしまったのだが、そこから親子の隔絶が始まったのは否めない。

 

 ミーナはおそらくオリヴェルから彼女の話を聞いたのだろう。

 そうであればこそ、尚の事、オリヴェルに対して心を込めて、慎重に接してくれていたに違いない。

 

 この数ヶ月の間のオリヴェルの劇的な変化は、ただオヅマとマリーという友を得た以上に、ミーナという安心できる存在があればこそ、だろう。

 

「貴女がオリヴェルのことを、我が子同様に責任を持って面倒をみてくれていることは知っている。貴女の職務の熱心さを疑う気は微塵もない」

 

 ヴァルナルは一気に言ってから、軽く息をついた。

 

 こんなに緊張するのは、いつぶりだろうか。ある意味、皇帝陛下への挨拶以上に…いや、それとは全く違う緊張感だ。

 

「あの文筥も、その髪飾りも…オリヴェルの世話をしてくれているお礼として贈ったのではない。貴女に私の気持ちを伝えたかったからだ…その……好意を持っていることを…だ」

 

 我ながら口下手な言い様にヴァルナルは情けなかった。

 ルーカスならもっと気の利いた台詞が出てくるだろうに。……

 

 ミーナはヴァルナルの言葉を聞いて、膝の上で手をギュッと握りしめた。

 寄せた眉に憂いが滲み出る。

 

 自分はそういうことからは遠ざかりたかった。

 既に二人も子供のいる(とう)の立った未亡人だ。そんな自分が恋愛など……まして相手はご領主様で、もはや夢物語どころか滑稽話だ。

 

 けれど、目の前にいる(ひと)はミーナのそうした事情を十分に含んだ上で言っているのだろう。

 だとすれば、彼がもっと納得できる理由で断るしかない。

 

「領主様、失礼ですが…見てもらいたいものがございます」

 

 急に決然とした口調で言うミーナに、ヴァルナルは目を丸くしながら、問いかけた。

 

「なんだろうか?」

 

 ミーナは唇をキュッと閉じると、クルリと後ろを向く。

 それからシャツの衿紐を取ると、グイと衿を大きく引っ張った。

 

「ミッ…ミーナ?!」

 

 ヴァルナルは慌てたが、ミーナは静かな声で告げた。

 

「肩を、見て下さい」

 

 言われてヴァルナルは少しだけ目を細めながら、蝋燭の灯りに照らされたミーナのか細い線の肩を見つめた。

 そこには菱形が三つ並んだ、青黒い入れ墨のような痕がうっすらとあった。

 

 ヴァルナルは言葉を失った。

 

「それは……」

「今まで黙っておりましたこと…誠に申し訳ございません」

 

 顔を俯けて謝ってから、ミーナはすぐに衣服を元に戻した。

 再びヴァルナルと向き合い、深く頭を下げる。

 

「ご覧いただいておわかりのように、私は昔は奴隷でございました」

 

 顔を上げたミーナは静かで無表情であったが、告げる言葉は少し震えていた。

 

 ヴァルナルは今見た光景にまだ呆然としながらつぶやく。

 

「………確か、以前は帝都近郊の…ルッテアの商家で働いていたと…前に聞いたが」

 

「はい。けれどその商人が不正で逮捕され、私は幼いオヅマと一緒に職を失って路頭に迷いました。その時に、人に騙されて…奴隷商人に捕まってしまったんです」

 

 ヴァルナルは眉を寄せ、拳を握りしめた。

 

 奴隷売買は帝国においては建国当初から禁止されているが、周辺では未だに残っている国もある。そのせいでか、そうした悪徳商人が帝国内にも隠然と存在していた。 

 奴隷という存在が支配欲をくすぐられるのか、上流階級の中には隠れて()()()()()者もいるらしい。

 

「私も、オヅマも…奴隷としての辱印(じょくいん)を押されました」

 

 奴隷は身体(多くは肩)に無数の針で出来た判子を押されることで、束縛される。その針には一種の麻薬のような薬が塗られており、この作用で奴隷は主人に服従することになる。その後は、定期的にこの判子を主人が奴隷に()()ことで、()()される。

 

「…でも、売りに出される前に、夫が私を見初めてくれて……結婚を条件に私を奴隷から解放してくれました」

 

 実際にはコスタスはミーナから一時的にオヅマを取り上げたのだった。

 その上で飲み仲間だったその奴隷商人に、田舎の母から渡されていた嫁探しの費用をすべて支払って、ミーナとオヅマを買った。

 

 コスタスはミーナを脅したのだ。

 

 自分と結婚すれば奴隷身分から解放し、オヅマも返してやる、と。ミーナに選択肢はなかった。

 

「奴隷から解放され、解役薬(ハグル)をもらって、私の印は少しずつ薄くなっていきましたが…」

 

 淡々とミーナは話す。

 解放時には奴隷印の麻薬を中和するためのハグルの根から作られた薬が渡され、それを服用することで押された印も薄くなる。

 

 建国以来から奴隷を持つことを禁止されている帝国においては、奴隷を嫁にしているなど恥とされるため、コスタスはミーナを結婚と同時に解放したが、オヅマには解役薬(ハグル)を与えなかった。

 オヅマは禁断症状によって、ひどい熱と嘔吐を繰り返し、一時は生死をさまよったが、ミーナの懸命な看護によってどうにか一命をとりとめた。その後は順調に成長したものの……

 

「自然解役(*解役薬(ハグル)を使わず、自らで禁断症状を克服する方法)は、かえって印を濃くするらしいのです。あの子の肩には辱印が残っていましたが……マリーを庇った時に火傷をして……」

 

 ヴァルナルは一度見かけたオヅマの背中の火傷痕を思い出した。

 そういえばその時に、平気な顔をして言っていた。

 

「あぁ、ちょっと竈の火で火傷しちゃって…」

 

 それ以上は言いたくなさそうだったので、あえて聞かなかったが……

 

 ヴァルナルはギリと歯噛みした。

 

 聞けば聞くほど、腸が煮えくり返る。

 主を失って困り果てた親子を騙して奴隷にしたその商人も、金で買って無理やり結婚した元夫も、この場にいたら叩き斬ってやりたい。

 

「僅かな期間であったとはいえ…奴隷であったような女は、領主様に相応(ふさわ)しくありません」

 

 ミーナは微笑みを浮かべて、はっきりと断った。

 

「こうしてお仕事をいただけるだけで、十分にありがたいことだと思っております。どうかこのまま……お仕えすることをお許し下さいまし」

 

 ヴァルナルはミーナの下げた頭の、耳元から垂れた淡い金の髪に手を伸ばしかけて、やめた。

 

「………その箱は受け取らない」

 

 もう一度、最初の言葉を繰り返す。

 ミーナはゆっくりと顔を上げると、箱にそっと手をやって仕方なさそうに微笑んだ。

 

「では…マリーがもう少し大きくなったら、あげることに致します」

「…………」

 

 ヴァルナルが黙り込んで考えていると、ミーナは静かに立ち上がった。

 

「失礼致します」

 

 箱を持って丁寧にお辞儀をし、出て行こうとする。

 

 ドアノブを掴んだミーナの背後で、ヴァルナルがはっきりと言った。

 

「あきらめるつもりはない」

「…………」

 

 扉を開きかけて、ミーナは止まった。

 

 凍りついた心にピシリと亀裂が入る。

 固く引き結んだ唇が震えた。

 じわじわと温かな何かが自分を満たしていく。もうとっくに枯れ果て、置き忘れていた場所に……。

 

 ヴァルナルは立ち上がると、ミーナの背後までゆっくりと歩いていった。

 開きかけた扉に手をかけながら、そっとミーナの右肩にもう片方の手を置く。

 

「私達が出会って、まだ一年も経っていない。貴女の心がそう簡単に私を許すとは思っていない。受け入れられるまで…いくらでも待つ」 

 

 ミーナは無礼だと承知しながらも、返事ができなかった。

 振り払うように出て行くと、廊下を走り去った。

 

 ヴァルナルはまだ手に残るミーナの肩の感触を握りしめた。

 

「こんな年で…情けないな……」

 

 苦く笑うヴァルナルは知らなかった。

 角を曲がったミーナが、紅潮した顔を手で覆いながら、泣いていたことを。 

 

 




次回は2022年7月2日20:00に更新予定です。

感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第三十一話 騎士見習いアドリアン

 アドリアンは疲れきっていた。

 結局、着いたその日からこき使われたが、騎士としての訓練らしきものは一つとしてなかった。

 

 帝都から新たに仕入れた剣や槍、盾などを武器庫に運び、帰還兵の甲冑を一つ一つ磨いて所定の位置に組み上げる。本当はその後に馬の世話もあったようだが、慣れないアドリアンが甲冑を磨いている間に、オヅマは厩舎での仕事も終えて戻ってきた。

 

 その後にようやく食堂で食事を取ることになったのだが、おそらくそれまでには騎士団全員にアドリアンに関する箝口令が敷かれたのであろう。自分をチラチラと見てくる騎士達の好奇心まじりの視線に、アドリアンはいつもの無表情で押し通した。

 

 実際のところ、騎士団の面々は公爵邸で直接アドリアンに対面したことがなくとも、公爵そっくりのダークブラウンの髪と(とび)色の瞳を見て、推測することは容易(たやす)かった為、ヴァルナルは予め騎士団全員に小公爵が来ていることを伝えた上で、決してこの事を口外しないように命じた。もし破った場合には騎士権の剥奪、という強烈な罰則を聞かされて、騎士達は一気に緊張した。

 

 そんな必死に口を噤んでいる騎士達の目前で、何もわかっていないオヅマは小公爵様相手に、不遜で無礼な口を叩きまくっている。

 

「ハァ? かたいだぁ? 文句言ってんじゃねぇーよ」

 

 レーゲンブルト騎士団名物とも言うべき、(騎士の)拳二つ分の大きなパンはいつもアドリアンが公爵邸で食べていたのものと比べると、いくら手で千切ろうとしてもひねることすらできず、かぶりついても歯が立たない。

 困ったアドリアンが諦めてパンを置くと、オヅマは眉を寄せた。

 

「なに、お前? まさか残すとか?」

「食べられないんだから、仕方ない」

「フザけんなよ、この馬鹿! まともに食べない奴が、戦場で生きれるかってんだ」

 

 怒鳴りつけながら、オヅマはアドリアンのパンを掴むと苛立たしげに一口大に千切って木の皿に置いていった。テーブルに落ちたパン屑は集めて、自分のシチューに放り込む。

 

「とっとと食え!」

 

 言っているオヅマは自分のパンを二つに千切ってから、一つに齧り付いて噛みちぎっていく。動物的なその所作に、アドリアンは内心で引いていたが、とりあえず千切ってもらったパンを口に運ぶ。やっと食べられたが、正直、ボソボソしてて味もない。

 

「マズそうに食うなぁ、お前。大して働いてないからだな」

「……ちゃんと武器を運んで、甲冑だって磨いたろう」

「あんなもん働いたうちに入るかよ。ま、今日は来たばっかだからな。明日からはしっかり働け。そうしたら、いやでも食べたくなるさ」

 

 アドリアンは憂鬱になった。

 騎士団での修練だと聞いていたのに、随分と話が違う。こんな小者にさせるような仕事ばかりさせられるなんて。

 

 一方、二人の様子を見ていたゴアン達は互いに目配せしながら、ボソボソと話していた。

 

「おい…それとなく、なんとなく言っておいた方がよかないか?」

「駄目だろ。領主様だって言ってたろうが…オヅマには()()()()()知らせるな…って」

「しかし、あれ…いいのか?」

「知らないから許されてるんだろうが。知ったら対番(ついばん)なんて、気が重くてできないぞ」

「いや…オヅマの場合、知っても態度が変わらない可能性があるぞ。何せ、領主様の若君に対してだって、あの態度だ」

 

 この夏の間に何度か訪れたオリヴェルとオヅマの様子を見ていたサロモンは危惧する。

 

「あいつ、妙に堂々としているというか、そういうこと気にしないからな。知ってて無礼を働いたとなれば、後で領主様が責任をとる…なんて羽目になりかねない」

 

 その言葉に周囲の騎士達は頷いて確認した。

 絶対に、オヅマには目の前にいる黒髪の少年が小公爵様であることを知られてはいけない、と。

 

 自分がひどく危うい存在に思われているとは露知らず、オヅマは早々に食べ終えると立ち上がった。

 

「終了ーっと。じゃ、俺は館の方で仕事あるから。とっとと食えよ。早食いも騎士の素養の一つなんだからな」

 

 早口にまくしたてて、オヅマは食器を水の張った樽の中に放り込むと出て行ってしまった。

 

 アドリアンは咀嚼していたパンを呑み込むと、呆然として空席となった向かいの椅子を見つめた。いたらいたで怒られるばかりで困るが、いなくなったらどうすればいいのかわからない。

 

 所在なげに、もそもそと食べるアドリアンに声をかけたのは、副官のカール・ベントソンの弟であるアルベルトだった。

 

「食べ終えたら、宿舎に行きます」

 

 挨拶もなく、アルベルトは単刀直入に話し出す。

 

「宿舎? 領主館ではないのか?」

「騎士団の見習いは客ではありません。あなたはオヅマの対番なので、オヅマの住む小屋で一緒に寝泊まりしてもらいます」

「………」

 

 どこかで、やはり自分への特別待遇を期待していたのだろうか。

 アドリアンはレーゲンブルトへ向かう馬車の中でヴァルナルに言われたことを思い出した。

 

 

 ―――――あくまでも一見習いとして扱います。それが公爵様からの条件ですから。

 

 

 ヴァルナルの話すレーゲンブルトの美しい冬の景色ばかり思い描いて来たが、そもそもこれは()なのだった。今更ながらに、本来の意味を思い出す。

 

 アドリアンはスープの最後の一匙を啜ってから、アルベルトに言った。

 

「父から、レーゲンブルトにおいては一見習いとして過ごすように言われて来ています。そのつもりで接して下さい。敬語は必要ありません。僕も…気をつけます。もし、先程のように図々しいことを言った場合には、気兼ねなく叱って下さい」

 

 それはその場で聞いている他の騎士達にも言ったのだった。何人かが感心したように頷く。

 

 アルベルトは、小公爵の申し出を素直に受け取った。口調がすぐに切り替わる。

 

「わかった。では、皿に残ったスープやソースはパンで拭って皿をキレイにするように」

 

 アドリアンは貴族の食事作法からすればひどく下品とされるその行為に、少し抵抗があったが、言われた通りにした。

 本当にそんなものがあるのかと思って、何気なく辺りを見回すと、なるほど確かに皆、パンを皿にこすり付けて、残ったスープの痕も残さず食べている。

 

 かたいパンに四苦八苦しながらどうにか食べ終えると、アルベルトは兵舎から離れた、領主館の庭の一隅にある小屋にアドリアンを連れてきてくれた。

 

「荷物は既に置いてある。自分で整理するように。朝はオヅマの指示に従うといい」

 

 そう言って、アルベルトは持ってきたランタンをアドリアンに渡した。

 

「わかりました。有難うございます」

 

 ランタンを受け取ってから、アドリアンは小屋の中に入る。

 思っていた以上に狭い。

 アドリアンの持ってきた旅行鞄は持っている中では中くらいの大きさのものだったのだが、それですら、この小さな部屋の中では大きくのさばって見えた。

 

 アドリアンはとりあえずランタンを小さなテーブルの上に置いてから、部屋の真ん中を占領していた鞄を端に寄せた。それから整理をしようとしたのだが、ベッドを見ると、もうとにかく横になりたくて仕方なかった。

 

 誘惑に負けて(これも生真面目なアドリアンには珍しいことだったが)、アドリアンはベッドにドサリと倒れ込んだ。

 

 もう無理だ。もう動けない。本当に、本当に疲れた。

 

 おいしいとは言えないまでも、食事によって腹も満たされ、ふわふわと眠気がやってくる。

 抗えずに目を閉じると、アドリアンはすぅすぅと寝息をたててそのまま眠ってしまった。

 

 

 

 

 オヅマは館での下男としての仕事を終えた後に、ソニヤからヤギミルクを貰って小屋へと戻った。

 途中でそういえば…と、あの陰気な黒髪少年のことを思い出す。

 一緒に小屋で寝るように、とヴァルナルは言っていた。まだ、食堂にいるのだろうか? だとすれば連れて来てやらないといけない。

 

「あーあ、面倒だなぁ」

 

 オヅマはとりあえずミルクを小屋に置いてから、行こうかと思っていたが、戻ってみれば当の新米見習いは気持ちよさそうにベッドで眠っていた。

 

「テメェ……何勝手に人のベッドで寝てやがるんだよ」

 

 オヅマは靴も脱がずに寝ているアドリアンを睨みつけた。

 ギリと歯軋りしてから、とりあえず暖炉の隅に積んだ煉瓦の上に、ヤギミルクの入った鍋を置く。

 手早く暖炉に薪をくべて火をつけた。いつもならこの時期などはまだ火を起こしたりしないのだが、

 

「南から来た人間には寒いだろうから、暖かくしてあげなさい」

と、ミーナから言われたのだ。

 

 誰かから聞いたのか、母はオヅマが新しく来た騎士見習いの子と一緒に暮らすことを知っていた。

 

「おい、起きろ」

 

 オヅマは声をかけたが、アドリアンは目を覚まさない。

 

「起ーきーろー」

 

 耳元で大きな声で言っても、すぅすぅと寝ている。

 

「起きろって!」

 

 ガン、とベッドを蹴りつけたものの、まったくアドリアンは起きなかった。

 

「帝都からほとんど休みなく帰ってこられたらしいわ。きっとその子も疲れているだろうから、今日はしっかり寝かせてあげなさい」―――――と、言っていた母の声が聞こえてくる。

 

 オヅマは苦虫を噛み潰した。

 

「チッ!」

 

 舌打ちして、仕方なくアドリアンの靴を脱がせると、乱暴に足を掴んでベッドの上に放り投げた。

 うーん、と寝返りをうって、アドリアンはやっぱり眠り込んだままだ。

 

「今日だけだからな!」

 

 オヅマは怒鳴りつけてから、毛布をバサリと被せた。

 どうせどこぞの下級貴族か、商人の子供なんだろうが、ふてぶてしいったらない。

 

 オヅマはテーブルの上にドサリと本を置いてから、温めたミルクをコップに入れた。

 

 今日の領主様の帰還でなくなるかと思ったのだが、マッケネンは突発的な騒動があったにもかかわらず、明日には国語の試験を行うと言ってきた。

 テーブル下に置かれたりんご箱から紙とインクとペンを取り出して、本を見ながらスペルを紙に書いていく。

 

 時々、集中が途切れる度に聞こえてくる寝息に苛立ちつつ、オヅマは蝋燭の火が揺らめいて消えかかるまで勉強した。

 最後の方はもう欠伸しか出なかったが。

 




引き続き更新します。



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第三十二話 レーゲンブルト騎士団の朝

 翌朝。

 

 久しぶりに衣装ケース三つを連ねた上に軽く藁を敷いて、その上からシーツを被せただけの即席ベッドで寝たオヅマは、横にある()()()ちゃんとしたベッドで寝ているアドリアンを苛立たし気に見下ろしていた。

 

「おい! 起きろ!」

 

 横向きに寝たアドリアンの尻を容赦なく蹴りつける。しかし、アドリアンはまったく目を覚まさない。

 

「起きろ起きろ起きろ起きろ、起・き・ろーっ!!」

 

 体を揺すって、耳元で怒鳴りつけて、頬をつねっても、まったく効果がない。多少、眉を寄せたがやっぱり寝ている。

 オヅマは呆れた。

 こんなんでこいつ、騎士としてやってけるんだろうか。戦場で敵が来ても寝ていそうだ。

 

 オヅマは昨日ミルクを入れていた鍋を持つと、もう片方で火かき棒を持ってガンガン打ち鳴らした。

 

「……う…」

 

 ようやくアドリアンが反応した。それでも目を覚まさない。

 

「ったく…この朝の忙しい時に…」

 

 自分はさっさと厩舎に行って馬に餌をやらないといけないのに、このままではアドリアンを起こすまでに朝駆けが始まってしまう。

 

 その時、ギィと扉が開く音がした。振り返ると、マリーが眉を寄せながら入ってくる。

 

「もぅ、お兄ちゃん。外にまで聞こえてるわよ。まだ皆寝てるのに」

「なんだよ。この忙しい時に…お前、なんで来た?」

「お母さんがお兄ちゃんがちゃんと新しい子の面倒見てるか心配してたから見に来たの」

「はぁ? なんで俺が心配されないといけないんだよ。っつーかコイツ起きないんだけど」

「ふーん」

 

 マリーはトコトコとベッドまで行くと、毛布にくるまっているアドリアンを見て笑った。

 

「蓑虫みたーい」

「うるさい。邪魔すんなら出てけ」

「なによぅ、起こすの手伝ってあげようと思ったのに」

「ほーお。じゃ、起こしてみせろよ。その寝太郎、つねったって起きねぇんだからな」

「あら、本当だ。赤くなってる」

 

 マリーはアドリアンの白い頬につねられた痕を見つけて、ツンツンとつついた。

 それぐらいになると、アドリアンはどこからか聞こえてくる話し声に少しずつ意識が覚醒しつつあった。

 

「ねぇー、起きて下さい。起きないと、お兄ちゃんがちこくして怒られちゃうんですよー」

 

 マリーはアドリアンの頬をペチペチと叩いた。

 うっすらとアドリアンが目を開く。

 

「あ、起きた」

 

 マリーが言うと、靴の紐を結んでいたオヅマは「えっ?」と立ち上がる。

 

 一方、アドリアンは目を覚ますと同時に自分を見つめる生き生きとした緑の瞳に、しばらく混乱した。

 自分がどこにいるのか、この目の前の小さな女の子は誰なのか。

 

「おはよう。今日はお天気だって」

 

 ニッコリ笑って言われて、アドリアンは掠れた声で尋ねた。

 

「誰? 君」

「私はマリーよ。はじめまして。南の方から来たんでしょ? 寒くない? 起きられる?」

 

 アドリアンはゆっくり起き上がった。

 そこでようやくマリーの背後に仏頂面で腕を組むオヅマの姿をみとめて、あぁ…今日も怒鳴られるのかとゲンナリした顔になった。

 

「なんだ、その顔。とっとと靴履け。朝は忙しいんだよ」

「もう、お兄ちゃん。来たばっかりなんだから…やさしくしてあげなさいよ」

 

 マリーがオヅマに向かって叱りつけるのを、アドリアンはまだボンヤリとした意識で見ていた。

 

「え……お兄…って……妹?」

「あぁ」

「…………」

 

 マリーと名乗った少女の、ニコニコと笑う顔は愛嬌たっぷりだった。兄と違って。

 

「じゃあ、私、お手伝いできたし、帰るね」

「おぅ、明日も頼むわ」

「もー、明日は自分で起きてね……えーっとなんて名前だっけ?」

 

 帰ろうとするマリーに、アドリアンはあわてて名乗る。

 

「アドリアン・オル……」

 

 全ての名前を言いかけて、はっと口を噤むと、オヅマが面倒そうに言った。

 

「アドルだ、アドル。とっとと帰れ」

「じゃあ、アドル。またね」

 

 手を振って帰るマリーに思わず手を振り返していると、隣からものすごく冷ややかな視線を感じた。

 

「ヘラヘラ笑って手なんぞ振ってんじゃねぇよ。とっとと靴はいて、行くぞ!」

「笑ってなんか…」

「いいから、早くしろよ! 朝駆けに間に合わなくなるだろ!!」

 

 アドリアンは一気に目が覚めた。

 

 朝駆け。

 それはグレヴィリウス公爵家配下の騎士団であれば、必ずやっている修練の一つだ。

 公爵邸にいる時に直属騎士団の朝駆けには何度か参加したことがあるが、神速を持ってなるレーゲンブルト騎士団の朝駆けとなれば、どれほどのものであるのか気になる。

 

「待って、すぐに」

 

 アドリアンはあわてて靴を履いて紐を結ぶ。

 途中でオヅマはもう出て行った。追いかけて外に出た途端に、寒さに身が縮んでくしゃみが出る。オヅマが獣の毛皮でできたベストを放り投げてきた。

 

「着ろ。行くぞ」

 

 まさかの心遣いにアドリアンは驚きながらも、すぐさま着た。随分と暖かくなったが、前を走っているオヅマはシャツ一枚の軽装だ。

 

「オヅマ! 君は? いいのか?」

「いるか。まだ秋だってのに」

 

 アドリアンの感覚だと吐いた息が白くなっている時点で秋ではないと思うのだが、オヅマはやはり北国の人間なのか寒さに強いらしい。

 

 厩舎に行くと、例の黒角馬(くろつのうま)が何頭か並んでいた。

 

「うわぁ…」

 

 アドリアンは感嘆の声を上げた。

 

 ツヤツヤと磨かれた黒光りする角、綺麗に編みこまれた長い鬣。

 帝都にはヴァルナルの騎乗するシェンスと、カールの騎乗するストラマという二頭しか黒角馬はいなかったが、ここでは十数頭が餌を食べていた。

 

「おぅ、来たか」

 

 同じく馬当番のアッツォがオヅマに声をかける。アドリアンをチラとだけ見て、軽くお辞儀した。アドリアンは頷いて、まだ子供らしい角のない小ぶりの黒角馬の前に立った。

 この馬が大きくなる頃には、自分にも与えてもらえるだろうか。

 

「コラ」

 

 オヅマは憧れの眼差しで黒角馬を見上げるアドリアンの尻を蹴りつけた。両手には餌の入ったバケツを持っている。

 

「のんびりすんな。あそこに置いてあるバケツ、隅の二頭の飼い葉桶に入れとけ」

「あ…はい」

 

 アドリアンはあわてて指示通りに並んでいるバケツから二つを持って、指し示された馬の飼い葉桶に入れる。随分と量は少なかった。これで足りるのだろうか。他の普通の馬についても、アドリアンが聞いていた馬が一日に食べる量からすると、随分少なく思えた。

 

「なぁ、これで足りるのか?」

 

 心配になって尋ねた。まさかレーゲンブルト騎士団に馬の餌をケチらなければならないような事情はないだろうが。

 

「朝駆けの前はこれで十分なんだよ。やり過ぎたら、途中でへばるか疝痛(せんつう)で止まっちまうから」

「あ…そう…なのか」

「まさか、いっぺんに一日量やるとでも思ってたのか?」

 

 オヅマにあきれたように言われて、アドリアンは赤くなった。毎日世話をしているオヅマなどからすれば、机上の学問だけで身につけた知識は浅いと思われても仕方ない。

 

「ま、おいおい覚えてけよ。俺もそうだったし」

 

 意外にもオヅマはこの事に関しては、さほど馬鹿にすることもなかった。無知であっても馬を気遣ってのことであれば、それは別に怒ることではない。

 

 それから馬房の掃除や水を運んだりして、あっという間に時間は過ぎた。

 起き出した騎士達がやって来て、それぞれ自分の馬に鞍をつけていく。

 

「おはようございます」

 

 騎士達は、すれ違うたびに頭を下げて挨拶をして、馬の糞を外の肥溜めに運んでいる小公爵様を見て驚くと同時に感動した。まさかそんなことまでなさるとは思ってなかったのだ。

 反面、やらせているオヅマを引き攣った顔で見比べたが。

 

「おはよう」

 

 ヴァルナルが現れると、一気に場が引き締まった。

 オヅマを見つけて声をかける。

 

「オヅマ。アドリアンも行くから、鞍をつけるように」

「え? そうなんですか?」

 

 オヅマは多少イラっとした。自分は馬に乗り始めてから、朝駆けに連れて行ってもらえるまで数ヶ月かかったのに、アドリアンは来た翌日から許可されるのか。

 

「不満そうだな。しかし、アドリアンは騎乗に関してはお前よりも先輩だぞ」

 

 信じられないように見てくるオヅマを、アドリアンは澄まし顔でフイと目線を逸らした。

 ようやくここへ来て、オヅマより秀でたものがあるのだとわかって、正直、アドリアンとしてはこれまでの『ポンコツ』で、『役立たず』の汚名を返上したい。

 

 しかし、オヅマはアドリアンのツンと気取った顔が腹立たしかった。

 

「フン。経験があるのと、才能は別だからな」

 

 わかりやすく牽制してくるオヅマを、アドリアンは鬱陶しそうに見つめた。いつもならそうした輩は相手にしないのに、おそらく昨日からさんざやられっぱなしで、アドリアンの堪忍袋もそろそろ限界だったのかもしれない。

 

「そうだね。少なくとも経験に裏打ちされた才能の方が、経験のない才能よりは上だろうね」

「なにィ? どういう意味だァ!?」

 

 少年二人のやり取りに、ヴァルナルはフッと笑った。

 

 どうやら順調に仲良くなっていっているようだ。

 

 

 

 

 初めてレーゲンブルト騎士団の朝駆けに参加したアドリアンは、なだらかに続く丘陵の中途でいきなり止まった一団の中で、首を傾げた。

 

 ここで終わり? 随分と中途半端な気がする。

 まだ、ようやく馬の足がのびのびと動くようになってきた…ぐらいなのに。

 

 隣でオヅマも当たり前のように馬首を東に向けるので、同じようにしてアドリアンは並んだ。

 それから一列に並んだ騎士団は静まり返って東の空を見つめていた。

 

 まだ太陽が昇る前の朝焼けの空は、澄んだ空気の中で朱色や紫の雲が空に滲んでいた。頭の上ではまだ星が光っている。朝と夜が交代しようとしている隙間の、静かで、美しい変貌の時間。

 やがて山と地平の間から、眩い光がカッと閃いたかと思うと、真っ赤な塊が現れる。

 

 ふと、隣からの視線を感じて向くと、オヅマが見ていた。

 目が合ってニヤと笑ってから、真面目な顔になって太陽の方へと向き直り、頭を下げる。

 見れば、オヅマの向こうに連なる騎士達も太陽に向かって頭を下げていた。まるで礼拝するように。

 

 アドリアンは不思議な光景を見ているように思った。

 馬の嘶き、小鳥の囀りですらも、この儀式の一部であるかのようだ。

 自然と自分も太陽に向かって頭を垂れる。

 誰の命令でもない。自由意志とも違う、何らかの、ただただ感謝を捧げたくなる静謐で豊饒なる時間。

 

 幼いアドリアンはそこまで難しく考えられなかったが、後になってこの時のことを思い出すと、そんなふうに評した。

 

 終わりも特に誰が号令をかけることもなく、騎士達は再び馬首を目的地へと向けて走り出す。

 

 オヅマは隣で走っているアドリアンを何度か窺った。

 なるほど、確かにヴァルナルの言った通り、馬の騎乗には慣れているらしい。

 

 領主館を出て、町を静かに走る時もまったく上体がブレることなく、初めて乗る馬をうまく操縦していた。城門を出て麦畑の間の道を早駆けしていく時も、全く遅滞なく()いてくるし、長く走っているのに姿勢が崩れない。

 

 馬の方も慣れている人間だとやはり疲れない。体重移動が上手なので、走る馬に負担がかからないからだ。アドリアンの乗る馬は人によく馴れた馬ではあったが、それでも最初にオヅマが乗ったときよりも楽そうに見えた。嘶きも少ない。

 

 今日はサジューの森に入って、アラヤ湖で軽く休憩した後に戻るコースらしい。

 オヅマのかつて住んでいたラディケ村に行くためには、この辺りの小さい山々の峠道を三つほど越えていかねばならない。ヴェッデンボリの山々の手前にあるので、小ヴェッデンボリとも呼ばれるが、高さも含めた峻険さにおいては、国境を隔てる本家の山々とは比較にもならない。

 

 サジューの森はそうした小ヴェッデンボリの一つ、ゴゴル山の山裾に広がる森だ。騎士団の演習用にある程度の整備がされているので、馬を思い切り走らせることが出来る。

 

「なかなかやるじゃねぇか」

 

 アラヤ湖で()()()()()休憩に入ると、オヅマは水の入った革袋をアドリアンに投げつけた。

 

「ちゃんとついてきたな」

「当然だろう」

 

 アドリアンは澄まして答えてから、袋の結びを解く。

 しかし、実のところはあまり余裕はなかった。

 

 さすが神速をもって鳴るレーゲンブルト騎士団だけあって、町中はともかく、丘陵に入ってからの速さと言ったら……。

 普段、公爵家の直属騎士団と一緒に朝駆けを経験していても、どうにかついていけた程度だ。

 

 しかもあの速さでありながら、ヴァルナルの指揮で途中、編成まで変えていた。

 例の黒角馬などは、森の中に入って勾配の厳しい坂をあっという間に駆け上がっていった。

 普通の馬でついていくのすら必死であったのに、これで黒角馬を操ってあの速さを制することなどできるのだろうか。

 

 手が震えていたせいか、うまく革袋を持てずに、飲もうとした水がバシャリと顔にかかった。

 

「あーっ!」

 

 オヅマが声を上げる。

 

「なにやってんだよ、お前! ヘッタクソ!!」

 

 アドリアンはカチンときた。

 いつもならそれでも表情を変えないのだが、やはり昨日レーゲンブルトに来てから、どうにも感情の制御がうまくできない。

 

「いつもはちゃんと出来るんだ!」

「どうでもいい! 服、濡れちまったろうが。とっとと脱げよ」

「これくらいどうってことない!」

「その狸の毛皮は俺んだろうが!」

「あ……」

 

 アドリアンは気付くと、静かに謝った。「すまない」

 




引き続き更新します。



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第三十三話 ライバル

 少し離れた場所から二人の様子を見ていたヴァルナルは、クックッと肩を震わせた。小公爵があそこまでコロコロと表情を変えるのは、初めて見た気がする。

 

「小公爵様……アドリアンも、やはり同じ年頃の少年相手であれば、素が出るようですね」

 

 カールが言うと、ヴァルナルは頷いた。

 

「あぁ。おそらくそうだろうと思って、連れてきてよかった。オヅマはあれで何だかんだ言いながら、面倒見がいい」

「そうですね。ま、兄の性分でしょうかね」

 

 カールは相槌をうちながら、チラと隣にいる図体ばかりデカくなった(アルベルト)を見て、あきれた吐息をもらす。

 

「そうか。じゃあ、ルーカスもお前の面倒を見ていたんだろうな」

 

 ヴァルナルがもう一人の厄介者のことを口に出すと、カールの眉間に皺が寄った。

 

「あの人は面倒を見てたんじゃなくて、僕らを家来にして遊んでただけですけどね」

「ハッハハハ!」

 

 ヴァルナルが大笑いすると、アドリアンは驚いたようにそちらを見た。

 

「なに?」

 

 オヅマは、狸の毛皮のチョッキに、手ぬぐいを押し当てて、水を吸い取りながら尋ねる。

 

「いや……ヴァル……男爵があんなふうに笑うのだと思って」

「はぁ? いつもあんな感じだろ。気さくで、豪快で」

「公爵邸にいる時は緊張しているのかな?」

「公爵邸?」

 

 オヅマが聞き返すと、アドリアンはハッとして固まった。周囲でそれとなく聞いていた騎士達もピタリと動きを止める。

 

「あ…いや……その…僕は…その…公爵様の従僕なんだ!」

 

 アドリアンは咄嗟に言ったが、オヅマはさほどに興味もないようだった。

 

「ふぅん。オイお前、そのシャツも濡れてるんだろ。脱げ。これ、着とけ」

 

 オヅマが腰にある小さな鞄から、皺くちゃのシャツを取り出すと、アドリアンは目を丸くした。

 

「君、シャツを持ち歩いているのか?」

「朝駆けの時は、いつもだったら汗かくから着替える用に持ってんだ。今日は、寒かったからな。思ったより汗かかなかった」

「やっぱり寒かったんじゃないか…」

 

 アドリアンはシャツを受け取って着替えながらブツブツつぶやいたが、それでも乾いたシャツはありがたかった。正直、あの濡れたシャツのまま、またあの速さで帰るとなると、風邪をひきそうだ。シャツは乾くかもしれないが……と思っていたら。

 

「………君、なにをやってるんだ?」

 

 オヅマがシャツを木の枝にくくりつけている。

 

「あ? これ持って走りゃ帰った頃には乾くだろ」

 

 アドリアンは押し黙った。

 なんとなく、同じようなことを考えていたのが……微妙に嫌だ。

 

「なんだよお前、その顔」

 

 渋い顔になったアドリアンを見て、オヅマは眉を寄せる。

 

「いや……何も…」

「っとに、塩漬けキュウリみたいな顔しやがって…」

「な…っ…だ、誰が塩漬けキュウリだ! だいたい、どういう意味だ、それ!」

「うわ、面倒くせ、コイツ。そんなの適当にわかるだろ」

 

 オヅマはいかにも鬱陶しそうにアドリアンに吐き捨てる。

 その様子を見ていた騎士達は半ばあきれつつ、オヅマの言葉に思わずプッと笑う者もいた。

 厳しく躾けられて、滅多と表情を変えることのない小公爵様を、『塩漬けキュウリ』とは。

 

 

 基本的にはこんな調子の二人であったが、領主館に戻ってから本格的な修練が始まると、はっきりと好敵手(ライバル)として互いを意識した。

 

 特にそれが際立ったのは剣撃の稽古においてだった。

 

 

 

 

 オヅマはアドリアンよりも一歳年上ということもあり、力勝負では負けなかったが、その分アドリアンはヴァルナル仕込みの剣捌きで、オヅマの攻撃を時にいなし、素早い身のこなしで(かわ)し、そう簡単に降参しない。

 正直、開始十秒で終わらせるつもりだったオヅマには誤算だった。

 

「チッ……こうなりゃ本気だすぞ」

 

 オヅマが間合いをとってつぶやくと、アドリアンもニヤリと笑う。

 

「へぇ。じゃあ、僕もそろそろ本気になることにするよ」

「言ってろ、馬鹿野郎!」

 

 怒鳴るなり、オヅマは跳躍する。太陽を背にして、その姿は一瞬翳り、まともに見上げたアドリアンの目を強い太陽の光が射た。

 

「くっ!」

 

 アドリアンは目が眩んで、当てずっぽうに剣を振るう。

 ガツッ! と木剣が鈍い音をたてた。

 

 オヅマの振り下ろしてきた剣をまともに受けて、アドリアンの手首にビリッと痛みがはしった。

 構え直す隙も与えず、オヅマはすぐさま次の攻撃に移る。

 その切り返しの早さによけることができず、アドリアンはガチリと剣身(ブレード)を正面から受け止めた。

 

 木剣の交差した部分が拮抗した力でギギギと震える。

 オヅマは力で押してくる。このままでは勝てない。

 アドリアンは歯を食いしばって受け止めつつ、いなすタイミングを探っていたが、オヅマは本気といった言葉に嘘はないようで、その隙を見せなかった。

 

 手首が痛い。痺れてくる。

 アドリアンの額から汗が噴き出た。

 

 一方、オヅマはなかなか降参しないアドリアンに苛立った。木剣を持つ手に力をこめ、ますます追い込む。近く、近くへと間合いを詰めて、いきなりドンと腹を蹴った。

 アドリアンは軽く吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられた。

 

 周囲にいた騎士達が顔色を変えてアドリアンを見たが、ヴァルナルは動かなかった。

 パシリコが囁く。

 

「よろしいのですか?」

「………通常訓練だろう?」

 

 ヴァルナルは腕を組んだまま二人の様子を見ている。

 

「しかし……」

 

 パシリコが言う前に、アドリアンが声を荒げた。

 

「卑怯だぞ! 剣における勝負でいきなり腹を蹴るなんて!」

 

 アドリアンは公爵家を継ぐ者として、善性に基づいた騎士道の()()を習う。ヴァルナルもそのように指導するように言われているので、公爵邸においては剣の試合中に腹を蹴るなどという()()()行為は許されない。

 

 だが、レーゲンブルト騎士団はこれまで実際に戦を何度も行ってきた実戦部隊だ。本来の戦場においては、礼節を弁えた戦闘行為など行われない。相手によってはこちらの常識など通じないことも多いのだから。

 

 故にレーゲンブルト騎士団においては、()()ではなく()()の訓練が行われる。

 

 オヅマは木剣を肩にかつぎながら、地面に倒れたアドリアンを見下して、せせら笑った。

 

「知るか。そうしちゃ駄目なんて、誰が言ったんだよ」

「騎士として恥ずかしいと思わないのか?」

「騎士として為すべきことは、すべてを尽くして勝つことだ」

「な……」

「つまらねぇ矜持(こと)にこだわって、くたばって戦えなくなれば、結局意味がねぇだろうが」

 

 アドリアンはさっとヴァルナルの方に目を向けたが、グレーの瞳は冷厳としてアドリアンを見ていた。

 緊張が走って、騎士達が固唾をのむ中、ヴァルナルはゆっくりアドリアンのところまで歩いてくる。

 

「立て」

 

 太陽を戴いて、ヴァルナルの姿が暗く翳った。「いつまで座り込んでいるつもりだ?」

 

 アドリアンはいつも優しく接してくれたヴァルナルの冷徹な姿に、泣きそうになりながらも立ち上がる。

 ヴァルナルはニヤリと笑って、オヅマを見た。

 

「勉強しているようだな、オヅマ。さっきの台詞はオルガス大元帥の言葉か?」

 

『騎士として為すべきことは、すべてを尽くして勝つことだ』とは、実のところ先達の名言であった。

 

 オヅマは肩をすくめた。

 

「マッケネンさんが覚えておけ、って」

「あぁ、そうだ。力を尽くし、精神(こころ)を尽くす。それが私の騎士としての在り方だ。さ、続けろ」

 

 ヴァルナルがそう言って立ち去ると、騎士達は再び動き出す。

 あちこちで気合が上がる中、アドリアンは冷や汗をかきながら唇を噛み締めていた。

 手首が痛い。

 

「行くぞ」

 

 オヅマが構えるなり、土を蹴る。

 アドリアンは気を奮わせて集中した。ここではこれまでの修練など通用しない。

 

 痛みに耐えて剣撃訓練が終了した頃には、アドリアンの手首は赤く腫れていた。

 

 

 

 

 一方、この二人の訓練風景を見ながら、悶々とした気分になっていたのは、修練場で見学していたオリヴェルだった。

 

 木剣が飛んでこないように、建物の陰になったところから見ていたのだが、正直、他の騎士達の訓練など一切、目に入ってこない。ただただオヅマとアドリアンの立合う様子を睨むように凝視している。

 

「わぁ、あの子も強いのね」

 

 隣でマリーが無邪気に新参の見習い少年を褒めるのも気に入らない。

 

「オヅマの方が強いよ、全然」

「でも、お兄ちゃん……ホラ! また空振りした」

「オヅマはちゃんと攻撃してるけど、あの子は逃げてばっかりだ」

 

 オリヴェルはアドリアンが小公爵だとは知らなかった。

 ただいきなり父が連れてきた、騎士見習いの少年であるとしか聞いてなかった。

 オヅマと対番(ついばん)になったと父が話していて、その時点からあまり彼に対していい印象を持てなかったが、こうして目の前でオヅマとまともにやりあっているのを見ると、否が応にも自分の脆弱な身体と比べてしまって、苛立たしい。

 

「あっ!」

 

 マリーが声を上げる。

 

 オヅマに蹴られて、アドリアンが吹っ飛ばされていた。

 

「ひどい、お兄ちゃんってば。あんな不意打ちして」

 

 マリーが同情して言うのも、オリヴェルには面白くなかった。

 

「仕方ないよ。戦うって、そういうことなんだから」

 

 マリーはチラとオリヴェルを振り返って、じっと見てからプンと膨れ面になって横を向く。

 

「なんだか、オリー…怖い」

「怖い? なにが?」

 

 オリヴェルが戸惑って尋ね返すと、マリーが反対に尋ねてくる。

 

「あの子のこと知ってるの?」

「うぅん、知らない」

「じゃあ、どうして嫌うの? 何も知らないのに」

「嫌ってなんか……」

「嘘。嫌いって顔して見てるもの。駄目よ、オリー。あの子だって、ここに初めて来たばっかりで、きっと困ってたりするのに、そんなに冷たくしちゃあ。私と初めて会った時みたいに、ちゃんと優しくしてあげて」

 

 年下の子に諭されて、オリヴェルは恥ずかしくなって俯いた。

 マリーの言うことはもっともだ。ミーナがここにいても、同じことを言われるだろう。そのミーナはオリヴェルを修練場まで連れてきた後に、少し用があるからと戻っていってしまった。

 

 オヅマとアドリアンの間に立って、父が何か言っているようだ。

 アドリアンは立ち上がった。オヅマと父が話している。

 父が二人に背を向けて歩きだすと、止まっていた騎士達が動き出した。

 オヅマとアドリアンも稽古を再開する。

 

「………いいな」

 

 オリヴェルはつぶやいた。

 自分にはあんなふうに体を動かすことはできないだろう。

 きっと、この先もずっと。

 新しくオリヴェルを診てくれているビョルネ医師に言われた。

 

「君は、おそらく完治する…ということはできません。本来、体を守るべき働きが非常に弱い。他の人であればかなり無理しないと症状として表れないことでも、君の場合は少しばかりの無理で、症状が出ます。それが熱であったり、眩暈であったり、失神であったりするわけです。これらのことは、それ以上君が無理をしないための体の防衛本能ですから、無視してはいけません。この状態の場合はおとなしく今まで通りに体を休めて下さい。元気になれば、散歩などして徐々に体力をつけていく…繰り返すうちに、多少は改善されていくはずです。ただ、まったく普通の人と同じようになるのか、と聞かれればそれは難しいでしょう…」

 

 寂しそうに二人を見つめるオリヴェルを見て、マリーは少しだけ申し訳なくなった。

 自由の利かない体をかかえて、一番もどかしい思いをしているのはオリヴェルだ。きっと、オリヴェルはあの黒髪の少年が羨ましいのだ。本当はあそこで兄とやりあっているのが自分だったら良かったのに…と思っているに違いない。

 

「オリー」

 

 マリーが呼びかけると、オリヴェルが振り向く。

 

「そろそろ戻ろっか。私、ちょっと寒くなってきちゃった」

 

 オリヴェルは冬が近いのに、相変わらず軽装のマリーを見て笑った。

 

「そうだね。戻ろう」

 

 




次回は2022年7月3日20:00に更新予定です。




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第三十四話 招かれざる客

「あーあ…この後、なんもできねぇじゃねぇか」

 

 オヅマはぶつくさ言いながら、アドリアンの手首に薬草から作った膏薬をべったり塗りつけて、手ぬぐいを割いて巻いていく。

 アドリアンはなれない膏薬の臭気に眉を寄せた。

 

「くさい…」

「我慢しろよ、それぐらい。っとに、いちいち軟弱な野郎だな」

「くさいって言っただけだろう」

「そういう文句を言うのが軟弱なんだよ」

「………」

 

 アドリアンは黙り込んだ。

 確かに、いつもであれば我慢できそうなものだ。どうしてこの少年を前にすると、文句をつけたくなるのだろう…?

 

「よし、終わった!」

 

 最後にキュッと結んでから、オヅマはバチンと思い切り患部を叩いた。

 

「………痛い」

「おまじないだろ。治るように、っていう」

「君のはそういうのじゃない」

 

 ジロリとアドリアンが睨むと、オヅマはへーへーと気のない返事をして立ち上がる。

 

「ほら、行くぞ」

「どこへ?」

「挨拶しに。領主様の息子に」

「は? どうして?」

「領主様に紹介してやってくれって頼まれたんだよ。いいか、オリー……オリヴェルは体が弱いからな。無理させないでくれよ。でも、体が弱いってのをやたらと言うのは禁止だ。あいつ、プライド高いから」

 

 アドリアンは眉をひそめた。

 自分はともかく、オヅマはあくまでレーゲンブルト騎士団の一騎士見習いじゃなかったろうか? にもかかわらず、領主の息子を名前で呼び捨てにするなんて…どうしてこんな無礼をヴァルナルは許しているのだろうか。

 

「君、領主様のご子息と知り合いなのか?」

「友達だ」

「………え?」

「何だよ、その顔」

「いや…」

 

 友達? 領主の息子と? 見習い騎士が?

 

 混乱するアドリアンを見て、オヅマはイライラと怒鳴りつけた。

 

「早く! いいから行くぞ。っとに…いつまでそんな萎びたリンゴみたいな顔してんだ」

「萎び…って……君は、どうしてそういうおかしな誹謗をしてくるんだ!」

「ひぼー? 難しい言葉使いやがって…平民にゃわかんないねー。言っとくがな、これはただの悪口。怒るんだったら、もうちょっと気の利いた返ししてこいっての」

「………」

 

 言っている間にもオヅマは小屋から出て、さっさと歩いて行く。

 アドリアンは甚だ不本意だったが、ついていくしかなかった。とりあえず、今はここでの暮らしに慣れるまで、オヅマのそばから離れたら何をすればいいのかわからない。

 

 領主館に入っていくと、オヅマは勝手知ったる様子で、時々すれ違う使用人達に気軽に声をかけながら進んでいく。

 いつも修練場へと向かう廊下を途中で折れて、東棟の奥の階段を上がると、よく磨かれたドアの前で、朝見たオヅマの妹が立っていた。かたわらには茶器やお菓子を載せたワゴンがある。

 

「おう、マリー」

 

 オヅマが声をかけると、マリーと呼ばれた妹がこちらを向く。パッと振り返った顔が明るくて、向日葵(ヒマワリ)を連想させた。

 

「お兄ちゃん! それに…えーと…アドル! だったよね?」

 

 アドリアンが頷くと、マリーは屈託なく笑った。

 

「ちょうど良かった。お兄ちゃん達が昼の休憩になったら来るって聞いてたから、今、お茶とお菓子用意したところ」

「ウォ! ピーカンパイだ。やった! 食おう食おう」

 

 オヅマはワゴンの上の、ナッツのごろごろ乗ったパイを見るなり、小躍りした。アドリアンのことなどすっかり忘れた様子で、ドアを開けて入っていく。

 

 オヅマよりも小さいマリーが、まるで母親のようなあきれた溜息をつくのが、アドリアンには少し滑稽だった。思わずクスリと笑ってしまって、マリーが見上げてくる。

 

「あ…ごめん」

「どうして謝るの? だって、おかしいでしょ、お兄ちゃん。いっつもあんなになるの。ピーカンパイ大好きで。あ、ごめんだけどドア開けてくれる?」

 

 本来であれば小公爵である自分を顎で使うなど考えられることでなかったが、今はその身分を隠すようにと言い含められている。だが、たとえそうでなくとも、不思議とアドリアンは抵抗を感じなかった。

 自然にドアを開けて、マリーを通してやる。それから中に入っていいのか、少し逡巡して立ち止まった。

 

「どうしたの? 早く中に入って、アドル。一緒にパイ食べましょ」

 

 マリーの笑顔に許された気分になって、アドリアンはおずおずと中に入った。

 だが、すぐに自分が招かれざる客であると知る。

 

 大きな天蓋ベッドからカーディガンを羽織って降りてきた少年は、アドリアンが入ってくるなり、睨みつけてきた。明らかな敵意がそこにはあった。

 

「マリー、君…その子の名前知ってるの?」

 

 オリヴェルがひどく険のある顔で言ってくるので、マリーは戸惑いながら頷いた。

 

「うん。今朝、会ったから」

「今朝? いつ?」

「いつって…」

「起き抜けだよ。コイツ、寝起きが馬鹿みたいに悪いから、マリーが起こしてくれて助かったわ。明日も起こしに来てくれよ」

 

 オヅマが一人掛けソファにどっかと腰を降ろしながら言うと、オリヴェルはあからさまにフンと鼻で笑った。

 

「オヅマはちゃんと一人でも夜明け前から起きてるっていうのに、君は誰かに起こしてもらわないと起きられないの?」

「昨日はここに着いたばかりで、少し疲れていただけだ。明日からは、ちゃんと起きるさ」

 

 アドリアンがムッとなって言うと、オヅマが囃し立てた。

 

「おぉ、そりゃありがたいねぇ。お前と対番(ついばん)でさえなけりゃ放っておくけど、お前が遅刻したら俺まで連座だからな。あ、それと今日はお前があっちのベッドで寝ろよ。昨日は起きないから仕方ないと思って許したけど」

 

 オリヴェルはそこまで聞いていて、ハタと気付いた。

 

「ちょっと待って! オヅマ、君、この子と一緒に暮らしてるの?」

「あぁ、対番(ついばん)だからな」

「なんだよ、それ! どういうこと!?」

「はぁ…?」

 

 オヅマはオリヴェルの剣幕にぽかんとなった。

 なんでこんなに怒るんだろうか。

 

 反対にクスクス笑ったのはマリーだった。

 

「やだー、オリーったら。お兄ちゃん、とられたと思ってるー」

「ちっ…違…っ」

 

 オリヴェルは指摘された途端に真っ赤になった。

 白けた目で見るアドリアンと目が合って、アドリアンの方はさすがにまだ自分より年下とわかるオリヴェルの()()()()()にプッと吹いた。

 

「………失礼」

 

 薄笑いを浮かべて、大人びた雰囲気を漂わせるアドリアンを、オリヴェルは嫌悪もあらわに睨みつける。

 ピリピリした雰囲気に、オヅマはため息をついた。

 

「もー、いいからさ、そういうの。早く食べるぞ、俺もう待てないから」

 

 面倒くさそうに言って、言葉通りに、マリーがパイを切り分けている間に一切れとって食べ始める。

 

「もう、お兄ちゃん! 皆で食べるようにって言われてるんだからね、勝手に食べないで! 早く、オリーもアドルも座って。みんなで食べよ」

 

 マリーに促され、アドリアンはオヅマの隣に座った。

 その真向かいにオリヴェルが座って、じっとりと睨みつけてくる。

 随分と嫌われたものだ、とアドリアンは内心で嘆息しつつ、オリヴェルの姿を観察していた。

 

 赤胴色の髪はヴァルナル譲りだろう。だが巻毛はおそらく母親から。グレーの瞳も父親のに比べると青みがかっている。左目の下にあるほくろが、白い肌に目立って見えた。

 そういえば、第一印象が悪すぎて失念していたが、この少年は体が弱いのだとオヅマが言っていた。それに以前にヴァルナルからも病弱な息子がいると聞いたことがある。

 しかし、目の前の少年は病人とは思えないくらいに元気だし、ヴァルナルが言っていた『壊れそう』な脆弱さも感じない。むしろ、領主の息子らしい矜持も尊大さも持ち合わせた、普通の貴族の若君だ。

 

「あ、お前…ちゃんと自己紹介しろよ。オリヴェルも」

 

 オヅマは二切れ目のパイを食べながら、アドリアンの肩を小突いた。

 

「オリヴェル・クランツ。銀鶲(ギンオウ)の年生まれだ」

 

 まるで競っているかのように、先にオリヴェルが自己紹介を終える。

 アドリアンは今度は溜息を隠さなかった。

 

「アドリアン……。黒鳩(コクキュウ)の年だ」

「なんだ、一歳しか違わないじゃないか」

 

 オリヴェルが横柄な様子で言うのを、アドリアンは冷たく見た。

 

「そうだな。一歳しか違わないのに、随分と幼く見えたよ。下手をすればマリーよりも年下かと思えそうだ」

「なんだって?」

「もう! 二人とも! いい加減にして」

 

 マリーがとうとう怒り出す。

 

「せっかくお茶淹れたのに、冷めちゃうわ。ピーカンパイだって、お兄ちゃんに全部食べられても知らないから!」

 

 オリヴェルとアドリアンは睨み合ってから、テーブルのパイに手を伸ばす。

 すでに半分がなくなっていた。

 二人で呆然とオヅマの方を見つめると、言い争いなど知らぬとばかりに、オヅマはもう何切れ目かわからないピーカンパイを頬張っていた。

 




引き続き更新します。




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第三十五話 アドリアンの二つの悩み

 最初は慣れないことばかりで、何かとオヅマに叱られまくっていたアドリアンであったが、ひと月も過ぎる頃には手慣れた様子で日々の雑務もこなすようになっていた。

 騎士たちの方も最初は『小公爵様』という遠慮があったのが、オヅマがあの調子でまったく頓着なく接するので、だんだんと麻痺してきたのか、同じような扱いになってくる。

 

 オヅマは口は悪かったが、きちんとしたところもあった。

 最初に会った日にアドリアンが棒亜鈴(アレイ)で鍛錬しようとしていたことを覚えていて、数日後には自分が使っていたという緑の棒亜鈴を出してきてくれた。

 

「まずは、緑からだ。一つの指で持ち上げて、この砂時計の砂が全部降りるまで。全部の指でやって、簡単にできるようになったら、次はこの青のやつ。その次がこの黄色な。いきなり重いやつでやろうとすんなよ。手綱だって握れなくなるぞ」

「あ…ありがとう…」

 

 アドリアンが戸惑いながらも礼を言うと、手だけでなく足の指でも棒亜鈴を掴んでみせてくれた。

 

「これやってると、足の指がよく動くようになるんだぜ。色々、便利なんだ」

「どう便利なんだ?」

「木登りして、手じゃとれない木の実を取ったりできる」

「………ごめん。どういう状況かがよくわからない」

 

 アドリアンが真面目くさって答えると、オヅマはあきれたように笑った。

 

「そこはなんとなくでいいんだよ!」

 

 なんとなく―――というのが、今ひとつ理解できなかったが、アドリアンはオヅマにつられるように少しだけ笑った。

 やっぱりここに来て良かった。公爵邸では何も言わずとも、アドリアンの行動に沿って皆が動いてくれるが、そこに気持ちはない。ただただ淡々と職務をこなす者達がいるだけだ。誰も、自分を『アドリアン』として見ず、公爵家の後継者として扱うだけ。別に()()でなくとも、誰でもいい……。

 

 だが、そのアドリアンにしても、こればかりはどうにかしたいという悩みが二つばかりあった。その一つが毎日のベッド争奪戦だ。

 

「なんだって、お前に()()()ベッドの方を譲らなきゃならないんだよ。新入りは藁ベッド。ほら、いけいけ」

 

 アドリアンにしてみれば、その()()()ベッドとやらもさほどに心地いい代物ではなかった。それでも、衣装箱を三つ合わせてその上に適当に藁を敷いて、シーツを被せただけのベッドよりはマシだ。

 

 最初のうちはオヅマに言われてその藁の敷かれたベッドで寝ていたのだが、十分に睡眠できなかった。チクチクと藁が体を刺してくるし、なんか痒くなってくるし、朝起きたら体中が痛い。睡眠不足では満足に雑務も訓練も行えない。

 

「これじゃあ、仕事に支障を来す。交代で寝ることを提案する」

 

 アドリアンが抗議すると、オヅマは冷たく吐き捨てた。

 

「うるせぇ。慣れろ」

 

 そのまま問答無用で自分は()()()ベッドですぅすぅ寝始める。

 アドリアンは不承不承、また藁ベッドに寝たのだが、自分でも相当にストレスが溜まっていたのかもしれない。

 とにかくチクチクしないベッドで寝たい……と、夜中に起きてフラフラ立ち上がったことまでは、うっすら覚えている。だが、その後にまさかオヅマの寝ているベッドに潜り込んでいたとは思わなかった。

 

「てめーッ、なんでこっち入ってきてんだぁーッ!」

 

 怒号と同時に蹴飛ばされ、床に落ちて、寒さでゆっくりと目が開く。

 

「………うるさいな」

 

 自分に合わないベッドのせいで、夜遅くまで眠ることのできないアドリアンの寝覚めは非常に悪かった。その時ですらも目をこすりながら、またオヅマのいるベッドに戻って寝ようとしていた。

 

「入ってくんな! 馬鹿! 起きろ!!」

「………」

 

 起きていれば言い返すが、まだ意識が覚醒していないアドリアンはそのままコテンとベッドに倒れて寝た。

 するとしばらくして、オヅマはアドリアンの顔に、熱湯にくぐらせて固く絞った熱い手拭いをビシャリと叩きつけた。

 一瞬、熱ッ! となりながらも、すぐに手拭いの熱は冷めてゆき、ほんわりとした温かさが瞼をやさしく刺激する。

 

「…………ありがと」

 

 アドリアンはようやく目を覚ます。そのまま熱い手拭いで顔も拭けて一石二鳥だ。

 実はこの熱々手拭い攻撃は、いくら怒鳴ろうが叩こうがつねろうが、一向に起きないアドリアンに弱りまくったオヅマが、母・ミーナから教えられたものだった。

 

「起きるのが嫌だと、なかなか起きないけど、気持ちいいと目が覚めるでしょう?」

 

 聞いた時には半信半疑だったが、効果は覿面(てきめん)だった。

 そのためにオヅマは起きてすぐに水を温め、熱湯にくぐらせた手拭いをアツ、アツと言いながら水で手を冷やしつつ固く絞る…という余計な朝の用事が増えているのだが、これが寝坊助アドルには一番有効なのだから仕方ない。

 

「ありがと、じゃねぇよ! 勝手に入ってくんな!!」

「仕方ないだろ。眠れないんだから」

「何が眠れないだ! 今だってグースカ寝まくって起きねぇくせに!」

「十分に眠れないから、朝が起きられないんだ!」

「うるせぇ! とにかく、入ってくんなったら、入ってくんな! 気持ち悪い」

「はぁ?」

 

 アドリアンは過剰に反応するオヅマにちょっと違和感をもった。一緒に寝るくらい、どうってことでもないだろうに。

 

「とにかく、交代で藁と()()()ベッド、どちらかで寝ることを提案したい」

 

 すっかり目が覚めたアドリアンが再度抗議すると、オヅマはチッと舌打ちした。

 

「交代は嫌だ。じゃんけんで決める」

「じゃんけん?」

「お前、じゃんけんもしたことねぇの?」

 

 オヅマは心底あきれつつも、アドリアンに丁寧にやり方を教えてくれた。簡単な模擬戦の後で、

 

「じゃ、今日帰ってからじゃんけんで決めるからな。それで負けたら藁ベッドだ。文句はなしな」

 

と勝手に決めてしまった。しかしまぁ、確率として()()()ベッドで寝られる可能性を得ただけマシだ。

 その後は毎夜、ベッド争奪戦のじゃんけんが繰り広げられた。勝率は互いに五分五分といったところだ。

 

「でも、結局コイツ、藁のベッドで寝てても、朝にはこっち入ってきて、勝手に寝てやがるんだぜ。っとに…いい加減にしろっての」

 

 オヅマがぶつくさ言うと、マリーとミーナは笑っていたが、仏頂面なのはオリヴェルだった。

 

 これが悩みの二つめ。

 オリヴェルはいまだにアドリアンに心を開かない。

 

 もはや定例会のように、三日に一度くらいの頻度でオリヴェルの部屋を訪れては、ほぼオヅマの愚痴を皆で聞く会になっているのだが、オリヴェルは笑い話のようなことでも、ずっとムスッとしたままだった。よほどにアドリアンとオヅマが一緒にいるのが気に食わないらしい。

 

「ベッドなんて、どこかに余ってるのがあるんじゃないの?」

 

と言うのは、アドリアンの為ではない。寝ぼけたアドリアンがオヅマと一緒に寝ることを阻止するためだ。

 しかしミーナはハタと手を打った。

 

「まぁ、確かにそれはそうですわね。オヅマ、一度ネストリさんに聞いてみたら?」

「言ったよ、とっくに」

「なんと仰言(おっしゃ)っていたの?」

「居候に特別待遇はないってさ」

「まぁ…」

 

 ミーナはひどく気の毒そうにアドリアンを見る。

 その何か言いたげな様子を見て、アドリアンはこの人は自分の正体を知っているのだろうな…と感じた。

 

 実際、ヴァルナルからの再三のアプローチにあれだけ鈍感であったミーナは、アドリアンの言動を観察していて、すぐに思い至ったようだ。いまだ気まずいヴァルナルにわざわざ会いに行って、尋ねた。

 

「領主様、あのアドリアン…様は、もしかして公爵家の方ではございませんか?」

 

 ヴァルナルとしては隠すつもりだった。

 相手がミーナでなければ、素知らぬフリを貫けたかもしれない。ただ、あの夜以来、久しぶりに二人だけで会うことに多少、緊張していたのもあり、思わぬ質問であったこともあり、顔に出てしまった。

 

「ミーナ……これは公爵閣下からの命令なのだ。小公爵様の身分を明かさず、一騎士見習いとして扱うように…と」

「まぁ…そんな。オヅマがどれだけ無礼なことをしていると…」

「それはあらかじめ予想した上だ。小公爵様も甘んじて受け入れられておられるのだ。だから貴女も、くれぐれも遠慮しすぎて、小公爵様であると他の者に知られることのなきように…気をつけて接してほしい」

 

 そんな訳でミーナはオヅマのアドリアンに対する態度に正直ハラハラしどおしだったが、それでも謝るわけにはいかない。

 

「じゃあ…一度、ご領主様に伺ってみましょう」

 

 ミーナとしてはなるべくヴァルナルとまともに会って話す機会は避けたかったが、アドリアンが誰かを知らぬはずがないネストリが、なぜか小公爵を冷遇するのであれば、仕方ない。

 

 ミーナからの話を聞いたヴァルナルが、その日のうちにカールに命じたので、騎士達によって不要となっていたベッドがオヅマの小屋に新たに運ばれ、衣装箱はお役御免となった。

 これで一件落着となったと思ったが、新たに来たベッドが、元からあった()()()ベッド よりも寝心地がいいとわかると、オヅマは言った。

 

「じゃ…これからは勝った方が新しいベッドな」

 

 ベッド争奪戦は結局続く羽目になった。

 




次回は2022年7月6日20:00の更新予定です。




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第三十六話 雪月夜の剣舞

薄墨空(うすずみそら)の月の朔日(ついたち)に神殿に参拝に向かう。ついては、オヅマ…剣舞を頼むぞ」

 

 ヴァルナルににっこり微笑まれて、オヅマは顔を引き攣らせた。

 夏の参礼でのオヅマの剣舞は案外と評判になっており、伝え聞いたヴァルナルとしてはどうしても見たかったのだ。

 

「いや…もう忘れちゃって…」

「じゃあ、ゴアンにもう一度教えてもらうか?」

「いや! やっぱ覚えてます」

 

 即座に否定する。またあのやる気満々のゴアンの熱血指導がされるかと思ったら、それだけで日々の労働が増える気がする。

 

「よし。アドルと二人で舞ってもらうからな」

「はい?」

「頼んだぞ」

 

 ヴァルナルは否を言わせない。ニッコリと笑顔だけを残して去った。

 

「………君が剣舞を舞うとは意外だな」

 

 しばらく間があって、アドリアンが言うと、オヅマはジロリと睨んだ後で、はあぁーっと長い長い溜息をついた。

 

「なんだってまた剣舞なんぞ…」

 

 アドリアンは首を傾げた。

 

「君は時々、妙なことに拘泥(こだわ)るんだな。神殿で剣舞を舞うくらい、ちゃっちゃとやれば済むことじゃないか」

 

 ちゃっちゃとやれ…というのはオヅマの口癖で、今やアドリアンの耳にこびりついて離れなくなっている。

 

「お前、やったことあんの?」

「そりゃあ…一応」

 

 公爵邸で神殿に参拝する際には、他の親戚の子供らと一緒に舞うのが恒例行事になっていた。しかも自分は公爵家の継嗣であるため、一人で舞う部分もあるくらいだ。もっともそんなことをオヅマに言うわけにはいかない。

 

「とにかく、領主様のご命令なんだから仕方ない。さっさと流れを決めてしまおう」

 

 珍しくこの件に関しては、アドリアンが主導権を握ることになった。

 剣技は型が決まっているので、それさえマスターしていれば、あとは剣技と剣技の間を繋げる舞で流れを作ってしまえばよい。

 適当に…とは思っていたものの、実際に任されるとアドリアンは手を抜かなかった。剣技の型についても、止めるところはピタリと止め、払う時の角度にまで文句をつける。

 

「ダーッ! 無理、もう無理!」

 

 あまりに厳しい駄目出しにオヅマが匙を投げようとすると、アドリアンは憎たらしいほどに冷静な顔で訊いてくる。

 

「君、マッケネン卿に聞いたけど、ヴァルナ……男爵のようになりたいんだろう?」

「………」

「黒杖を授与された者は、皇帝陛下の御前で剣舞を披露することになってる。当然、男爵もしているんだ。その緊張感たるや、相当だったろうな」

 

 実際にはヴァルナルは剣舞は下手だった。剣技の型は覚えているのだが、舞うとなると別物になるらしく、繋ぎの部分がどうしてもぎこちなくなってしまうらしい。

 だから、ヴァルナルに比べればオヅマなど相当に上手と言っていいのだが、今はとにかくやる気を出させなければならない。

 

「ったく…どいつもこいつも、なにかっつーと()()を持ち出しやがって…」

()()?」

「領主様みたいになりたいって言ったけど、なれるかどうかなんてわかんないだろ!」

「そりゃそうだろうね。じゃ、諦める?」

「…………」

 

 オヅマは文句は言うが、一旦引き受けたことは投げ出さない。いかなる時も。一ヶ月近く対番(ついばん)としてそばにいて、だんだんとわかってきた。

 

「文句言い終わったんなら、次の型にいくよ」

 

 アドリアンは手拭いで汗をふいてから、再び剣を持ってスタスタと歩いて行く。

 オヅマは長い溜息をついてから、ヨイショと立ち上がった。

 

「だんだん生意気になってきやがった…」

「これで普通だけど」

「うるせぇ。湿気(シケ)たクッキーみたいな顔しやがって」

「…………君のその悪口はいまだに意味がわからないよ」

 

 むっすりと言ってから、アドリアンの口の端に思わず笑みが浮かぶ。

 オヅマとこういう軽口を叩き合うのも悪くない気がしてきていた。

 

 

 

 

 薄墨空の月、朔日(ついたち)

 

 朝に降っていた雪がやんだ頃合に、ヴァルナルは神殿へと馬橇を走らせた。

 

 オリヴェルは今回も来ていた。

 オヅマと一緒にアドリアンが剣舞を舞うというのが気に入らないが、またオヅマの舞が見れるのであれば無視などできるわけがない。

 しかも、今回はちゃんと画板にスケッチ用の画用紙を数枚と、尖筆(*黒色顔料を細長く削って周囲に布を巻き付けたもの)も持ってきていた。

 今度こそ目にも焼きつけて、できうる限りその姿を紙に描いて留めないと。

 

 オヅマはオリヴェルが剣舞の絵を描いていると知ると、

 

「へぇ。見せてくれよ」

 

と気軽に言ってきたが、オリヴェルは絶対に見せなかった。ミーナにも見せていない。マリーだけが知っていた。

 マリーは「せっかく上手なんだから、皆に見せればいいのに」と言ってくれたが、オリヴェルはとても人に見せられるものではないと思っていた。

 だって、頭にこびりついた映像の十分の一も写し取れていないのだから。

 

 今回もビョルネ医師が同行していた。

 オリヴェルに何かあった時のため…ということもあったが、当人としては珍しい冬の参拝ということで「大変、興味深いです」と、むしろ嬉々として随行している。

 

 ヴァルナルは神殿に辿り着くと、すぐさま本殿で礼拝を行う。

 その間にオヅマとアドリアンは剣舞を舞う予定の境内を確認しに行った。夏には白砂が敷き詰められていた境内は、今は真っ白な雪に覆われていた。

 

「とりあえず、踏み固めておこう」

 

 アドリアンが言う。

 新雪は柔らかく、しっかり踏み固めておかないと、まともに剣舞などできたものじゃない。やってきた騎士団員総出で境内を踏み固めてから、簡単な流れの確認を行う。

 今回は見物に回ったゴアンは感嘆した。

 

「いやぁ…なんとも見事だな。アドルが構成考えたのか?」

「あ…はい」

「大したもんだ。流麗っていうのか…淀みがないのに、決まるとこ決まってるしな」

「…ありがとうございます」

 

 アドリアンは素直に頭を下げながら、なんだか恥ずかしかった。こんなにあけすけに褒められたことがないので、慣れない。

 

「良かったな。この人、嘘だけは言えないから」

 

 オヅマが言うと、ゴアンは「この野郎」と捕まえにかかる。オヅマはペロと舌を出して逃げた。ケラケラ笑って走り回るのをアドリアンはやや呆れて見ていた。

 雪道を二刻(約二時間)近く歩いてきたというのに、元気なことだ。

 

「じゃあ、三ツ刻(みつどき)の鐘がなったら着替えることにしよう」

 

 アドリアンが声をかけると、「おぅ」と返事したオヅマがゴアンに捕まって雪の中に埋もれた。

 まったく…戦場においては鬼の集団と、味方からすら恐れられるレーゲンブルト騎士団の実体がこんなのだと知ったら、帝都の近衛騎士団などひっくり返ることだろう。………

 

 

 

 

 夏は夕闇の頃に始まったが、冬の夕暮れはあっという間に過ぎ去った。

 昼頃に少しだけちらついていた雪も止み、今は綺麗に晴れて月がくっきりと濃紺の空に浮かんでいる。

 雪上の四隅の篝火からは、パチパチと木の()ぜる音。

 

 だが、それより何より夏との違いで一番オヅマが驚いたのが……

 

「なんだって、こんなに人が来てるんだよ!?」

 

 予想外の観衆に戸惑うオヅマに、ゴアンが言った。

 

「夏にお前の剣舞見た奴が教えたんだろ。かっこいい子供(ガキ)が剣舞を舞ってた、って。それで今回もやるって聞いて、広まったみたいだな。前回見られなかった奴らは相当期待してるみたいだ…」

 

 雪深い田舎においては、こうしたことですら数少ない娯楽の一つだった。

 サフェナに住まう人々の多くが、帝都から帰還した領主様の立派な姿を拝見することと、二人の子供が舞う剣舞を楽しみにしていた。

 これから先、大帝生誕月までは祭りらしい祭りもない。雪籠りの前の、ささやかともいえる話のタネだった。

 

「皆、少し遅くなったが、新年をつつがなく迎え、明るき年に幸多いことを願う。今年の収穫も例年と変わらず、これも皆の精励恪勤によるものと有難く思っている。今年の実りをもたらしてくれた昨年の年神(リャーディア)に感謝を、来年の実りを約束してくれる今年の年神(イファルエンケ)への祈りをこめて、これより小さき騎士達が舞を舞う。大層練習したようだ。私もだが、皆も期待していることだろう。共に楽しもう!」

 

 ヴァルナルは領主らしい威厳を持ちながら、快活な弁舌で領民達を労い、オヅマ達の登場を盛り上げた。

 オヅマがその大袈裟な紹介に辟易していると、見物人の中から声がかかる。

 

「オヅマー!」

「オヅマ親ぶーんッ!」

 

 オヅマはゲッとなって見物人の中をざっと見渡した。おそらくラディケ村でよく遊んでいた子供達だろう。親分、と呼ぶのは特にオヅマについて回っていた粉屋のティボだ。

 

「親分なのか、君?」

 

 ざわめきの中で聞こえにくいはずなのに、アドリアンがしっかり聞きつけて尋ねてくる。

 オヅマは渋い顔になった。

 

「……村にいた時の友達(ダチ)公だよ。まさか村から来るなんて…あいつら今日こっちに泊まるのかな?」

「そんなに遠いところからも来ているのか?」

「いいとこ見せないとなぁ、オヅマ」

 

 ゴアンが笑って、背中を叩く。

 

「冗談じゃねぇよ…ったく」

 

 オヅマはくしゃくしゃと前髪を掻いた。

 急になんだか落ち着かない。

 

 その様子を見たアドリアンは、クスリと笑って仮面をつけた。涅色(くりいろ)地に、目の周りに金色の装飾的な線が縁取られた、今回の衣装に合わせて作られた仮面だ。

 

「珍しいな、君が緊張するなんて」

「うるせぇや」

 

 オヅマはイライラと言い返した。正直なところ、昔の知り合いに見物されるなんて考えてもみなかった。小っ恥ずかしいし、失敗もできない。

 眉間に神経質な皺が寄って唇が乾いた。ハァ、と何度もため息をつく。

 

 本当に珍しいオヅマの緊張した様子に、アドリアンは目を丸くした。ふと、昔、ある人にしてもらったことを思い出す。

 

 アドリアンは人差し指と中指を伸ばして軽く自分の唇に触れた後に、オヅマの額にその二本の指を当てた。

 

 オヅマが首を傾げる。

 

「なんだよ、今の?」

「おまじないだよ。知らないか?」

「………」

 

 オヅマはなんとなく知っているような気もしたが、結局思い出せなかった。

 一方、そばでその様子を見ていたゴアンは息を呑む。

 

『なんと…小公爵様はオヅマに()()を刻んだぞ…!』

 

 盟誓を刻む…それは自分に忠誠と服従を誓った騎士に対し、主が騎士たるの承認を与えることを意味するものだ。

 本来の儀式においては、主が二本の指で唇に触れ、その指で剣身を撫でるような仕草をした後に、頭を垂れた騎士の後背部にその剣をそっと当てるのだが、時に簡略化してアドリアンのように指で行うものもある。

 

 公爵家配下の騎士達はすべて、皆、公爵に対し忠誠を誓い、公爵からの盟誓を刻まれる。

 確かにまだ見習いでしかないオヅマと小公爵では、おまじない程度の意味しかなさないものではあるが、将来的にオヅマが小公爵によって騎士に叙任されることを約束した…と、取れないこともない。

 

 呆然としているゴアンを置いて、アドリアンとオヅマは月明りに照らされた境内へと出て行く。

 わあっと歓声が上がった。

 二人が中央で半眼を閉じて佇立していると、徐々に興奮を帯びた静けさがその場を覆っていく。

 

 ドン、と太鼓の音が響くと同時に、剣舞が始まった。

 

 

 

 

 それは夏のものとはまた違っていた。

 

 二人は互いに剣を交わらせて、戦っているかのような動きを見せたかと思うと、次には指の先までもピタリと合わせてまったく同じ舞を見せる。

 蹴り上げて宙を飛ぶ雪ですらも、彼らの舞の一部であるかのようだった。

 

 カキンと剣を打ち鳴らし、クルリと回って位置が入れ替わると急にザクリと剣を雪に突き立てる。そのまま二人とも、まるで精巧に仕組まれた人形かのように、ピッタリ同時に後ろに宙返りした。

 

 見物客から「オオォ!」とどよめきのような喝采が上がる。

 

 雪の上に降り立って、格闘術の技の型を二つほど披露した後、今度はその場で剣の方へむかって体をひねりつつ横向きにまた跳躍して回転する。同時に雪に突き立った剣をとって、再び剣技の型を次々に見せていく。これが恐ろしいほどピッタリ息があっていた。

 

「すごいな…」

 

 オリヴェルは横で父がつぶやくのを聞いた。同じように聞こえていたカールが、隣でそっと囁くように話す。

 

「小…アドルが相当にしごいていたようですよ。さすがというべきか…」

「そうだな。私も教えてもらいたいくらいだ」

「アドルの負担が増えるからやめて下さい」

「……ひどいな…」

 

 ヴァルナルが拗ねたように言うのを、オリヴェルはポカンと見ていた。

 視線に気付いたヴァルナルがオリヴェルの方を振り返る。少し気まずそうな…なんとも言えない顔で見つめた後、ぎこちなく笑って尋ねてきた。

 

「…描けているか?」

「あ…はい」

 

 オリヴェルはあわててまたオヅマ達に視線を戻す。

 

「できたら見せてくれ」

 

 オリヴェルは尖筆を走らせながら、チラとヴァルナルを見た。やさしい目と目が合って、またあわててオヅマ達の剣舞を必死で見ているフリをした。

 

 ミーナがオリヴェルの世話をするようになってから、父との距離はどんどん近くなってきてはいたが、帝都から帰ってきてからというもの、話しかけてくることが多くなった。

 以前は、一緒に食事していてもほとんど黙々と食べているだけだったのに、最近はミーナやマリーから色々と教えてもらうのか、オリヴェルの読んだ本の話や、オヅマの話をしているうちに、自分の見習い騎士時代の話までしてくれるようになった。

 

 オリヴェルは父の変化が嬉しくもあったが、同時に子供っぽく喜ぶのもなんとなく気恥ずかしくて、時に素っ気ない態度になってしまうことが申し訳なかった。

 ある意味、この親子はそろって不器用なのだろう。

 

 境内ではオヅマ達の舞が終わりを迎えていた。

 最後に再び剣を交わすと、剣技の型を一つ行ってから、最初に立っていた位置で静止して佇立する。

 ゆっくりと剣を胸の前にまっすぐに降ろしてゆき、柄頭(ポンメル)を下腹に押し付けると、剣の樋の部分を眉間に触れる寸前まで寄せて、そのまま恭しく本殿に向かって拝礼した。

 

 おぉぉ、と観衆が感嘆と称賛の声をあげる。

 

鳴り止まぬ拍手と歓声の中を、アドルとオヅマは粛々と歩き去った。

 





次回は2022年7月9日20:00に更新予定です。




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第三十七話 七色トカゲの子守唄

「今日は、ここで皆で寝るとよい」

 

 そう言ってヴァルナルに案内された部屋に入った子供達は、中に入るなり、中央にどでーんと置かれた巨大なベッドに目を丸くした。

 

「うわぁ! すっごいおっきいベッド!」

 

 マリーが一番に走っていって、ポンポンと羽毛を詰め込んだ白いキルトに触れる。

 

「ふわっふわ!」

「乗ったらいいぞ、マリー」

 

 ヴァルナルが遠慮している様子のマリーに言うと、マリーはキラキラとした目でヴァルナルを見てから、

 

「わあぁいっ!」

 

と、靴を脱ぎ飛ばしてベッドに倒れ込んだ。

 

「オリヴェルもお兄ちゃんも、アドルも来て! すっごいよ…見てみて、でんぐり返ししても落ちなーいっ!」

 

 ベッドの上で転げ回るマリーを見て、オリヴェルも思い切って靴を脱ぐと上に乗った。バタリと大の字になって寝転んで、「うわぁ…広いなぁ」とつぶやく。

 

 前回と同じようにオリヴェルの体調のこともあって、神殿内の宿泊施設に泊まることになったのだが、領主用にと用意された部屋の、自分が五人寝ても余るほどの大きなベッドを見て、ヴァルナルは閃いた。

 これほどまでに大きなベッドで自分一人が寝るより、子供達が一緒になって寝た方が楽しめるのではないか…と。

 

 思い浮かんだのは自分の小さな頃の思い出だった。

 昔、兄弟たちと一緒のベッドで寝て、いつまでもしゃべっていたこと。おしゃべりが過ぎて夜中まで起きていたら、母親にこっぴどく怒られたこと。

 あの時はこんなに大きなベッドでもなかったが、冬になるとまるで小さな動物が温めあうかのように重なり合って寝たものだ。

 

「…うん。いいかもしれん」

 

 思いつくと、ヴァルナルはすぐ行動に移した。

 

 騎士達に用意された宿泊所の一室で寝る準備をしていたオヅマとアドリアンを呼び寄せ、ミーナと一緒に寝ようとしていたマリー、既に寝間着に着替えていたオリヴェルを連れてくる。

 アドリアンは、はしゃぐ年下二人を微笑ましく見ていたが、ふと気になってヴァルナルに尋ねた。

 

「もしかしてここはご領主様の部屋ではないのですか?」

「あぁ。でも、お前達で一緒に寝るといい」

「それは…」

 

 アドリアンが戸惑っていると、眉間に皺を寄せたオヅマが尋ねる。

 

「じゃあ、領主様はどこで寝るんです?」

「私か? 私はお前達の部屋で寝るよ。一人には、やたら大きい部屋だと寒いばっかりだからな」

「そんな…じゃあ、俺はそっちで寝ます。ベッド二つあったし…」

 

 オヅマは遠慮ではなく希望で言ったのだが、アドリアンが余計な気遣いをする。

 

「いや。君はマリーのお兄さんなんだし、オリヴェルだって喜ぶだろう。僕があっちの宿舎で…」

 

 言い合う二人に、ヴァルナルはいかにも偉そうに腰に手を当てて命令する。

 

「駄目だ。お前達はここでマリーとオリヴェルと一緒に寝ること」

 

 ヴァルナルが言った途端、マリーが歓声を上げる。

 

「やったー! お兄ちゃんと寝るの久しぶりね。お歌うたって」

 

「歌?」

「歌?」

「歌?」

 

 その場にいたオヅマ以外の男全員が聞き返す。

 オヅマは真っ赤になって怒鳴った。

 

「歌わねぇよ! もうそんな年じゃないだろ!」

「何よぉ。一緒に小屋で寝てた時には歌ってくれたじゃない」

「嫌だ! 歌わない!!」

 

 言っている間にも、マリー以外の三人の目が興味津々と自分を見てくるので、オヅマは念を押した。

 

「絶対に歌わないからな!」

 

 マリーはオヅマの態度があまりに剣呑としているので、メソメソと泣き始めた。ひっくひっくとしゃくりあげる女の子とオヅマを見比べて、男達の非難めいた視線がオヅマに集中する。

 

「……な…んだよ」

「そんなにムキになって言うことでもないだろう」

 

 アドリアンが半ばあきれた口調で言うと、オリヴェルも珍しく同調した。

 

「ちゃんとマリーに謝って!」

 

 ヴァルナルはさすがに多勢に無勢で責められて困った様子のオヅマを見て、フッと笑った。

 

「オヅマ…別にお前が歌を歌うことを馬鹿にしたんじゃない。少々、驚いたが…マリーも久しぶりに聴きたかったんだろう。いつも一生懸命頑張っている妹のささやかな願いくらいきいてやれ」

 

 そう言って軽く肩を叩き、部屋を出て行く。

 

 残されたオヅマはじろっとアドリアンとオリヴェルを見てから、部屋に灯されたランプの火を消していった。ベッド脇のテーブルに置いてあった一つだけを残して、ゴロリとマリーの横に寝そべる。

 

「早く寝ろよ、お前ら。明日は朝早いんだからな」

 

 不機嫌に言って目をつむる。

 

 アドリアンは嘆息し、オリヴェルは少ししょんぼりして、ベッドに乗ると横になった。すぐさまベッドを覆うくらい大きな羽毛たっぷりのキルトが上から掛けられる。怒っていても兄らしい性分が出てしまうオヅマに、マリーはクフフと笑った。

 

「みんなで寝たら、あったかいね」

 

 マリーの隣で寝ていたオリヴェルはホッとした笑みを浮かべる。

 

「そうだね。こんなの初めてだもんね」

 

 マリーとオリヴェルは二人で笑いあった。初めてのことで興奮して、なかなか眠れそうにない。

 

「寝ろ」

 

 ぼんやりとした灯りの中でムッスリしたオヅマの声が響く。

 

「寝れなーい。やっぱりお兄ちゃん歌って」

 

 またマリーが甘えた声で言うと、苛立たしげな溜息が聞こえてきた。

 

「僕はもう寝たら何も聞こえないよ、オヅマ」

 

 オヅマと一番離れた端から言ったのはアドリアンだった。

 

「たぶん、もうすぐ寝る…オリヴェルも、そうだろう?」

 

 いきなり尋ねられ、隣からそっと手の平に合図されたオリヴェルは、どぎまぎしながら頷いた。

 

「うん。僕も、もう眠たくなってきたから…」

 

 うすらぼんやりした部屋の中は静かになり、規則正しい寝息が聞こえ始める。

 

 オヅマはマリーが寝たかとグルリと寝返りをうって見れば、マリーの目は爛々と開いてオヅマが歌うのを待っていた。

 軽く溜息をついた後に、昔――といっても、まだ一年ほど前だが――よく歌っていた、母の生まれた西方地域に伝わる子守唄を小さな声で歌う。

 

 

 金の砂が動いて

 七色トカゲが顔を出す

 銀の月見て

 真珠の涙ぽろぽろ

 瑠璃の涙ぽろぽろ

 

 朱色の風が吹いて

 七色トカゲが歌うたう

 紫の雨に打たれて

 真珠の涙ぽろぽろ

 瑠璃の涙ぽろぽろ

 

 真珠の涙ぽろぽろ

 瑠璃の涙ぽろぽろ………

 

 

 

 

 

 

 ―――――オヅマ……

 

 

 まただ。

 また、自分を呼ぶ声。

 

 だが、以前の少女の声ではない。若い男の…

 

 

 ―――――オヅマ……

 

 

 涼やかな鈴の音のように、心地よく響く声。

 沁み入るような懐かしさと同時に……

 

 

 ―――――いつか……君に……会える……

 

 

 頬を撫でられた気配がして、オヅマはゾワリと(おのの)いて目を覚ます。

 

「……ッ…!!」

 

 しばらく固まったまま、暗闇を凝視する。

 荒い息遣いが自分のものだと気付くまで、少しかかった。

 胸を掴むと、心臓がものすごい勢いで拍動している。ゆっくりと息を整え、目を一度閉じる。冷汗が脇や背中を湿らせていた。

 

 背を向けた真後ろで寝息がきこえる。だが、それはそこにいるはずのマリーのものではなかった。というのも、この寝息をオヅマは何度か聞いていたからだ。

 クルリと寝返りをうつと、案の定そこにいたのはアドリアンだった。

 

「てめぇ…」

 

 風邪でもひいたのか、声がカサついていた。

 グイーっとアドリアンの腹を足で押して、向こうに押しやると、オヅマは起き上がった。

 

 最初にそこにいたマリーはいつの間にか布団(キルト)の奥に穴熊か何かのように潜り込んで、そのマリーを包むようにオリヴェルが身を寄せ合っている。

 

「犬の子か、お前らは」

 

 オヅマはズキズキする頭を押さえながらつぶやくと、ベッドから出た。

 

 ふぅと息をついてソファに座る。

 ヴァルナルの好意は嬉しかったが、正直、オヅマは皆で一緒に寝るのは嫌だった。マリーだけならばともかく、オリヴェルやアドリアンと一緒なのはどうにも気持ちが悪い。

 

 アドリアンは何度かオヅマのベッドに潜り込んで叱られる度に、オヅマのこの『気持ち悪い』という意味がわからないようだった。オヅマにだってよくわからない。ただ……嫌なものは嫌なのだ。

 

「…………」

 

 痛い、頭が。

 目覚める前に聞こえた声は記憶からもう消えていた。残っているのは、奇妙な懐かしさと、相反するこの気分の悪さだけ。

 

 何度目かの溜息でどうにも気持ちが晴れないので、オヅマは着替えると靴を履いて部屋を出た。

 

 ポツポツと蝋燭の灯された廊下を抜けて、外廊下への扉を開くと、冷たい空気が一気に押し寄せた。一瞬、ブルリと体を震わせた後、オヅマは長く息を吐く。白い息が吐いてからすぐに消えていくのを見てつぶやいた。

 

「そんなに寒くもないか」

 

 空は相変わらず晴れていたが、風もなく、北国生まれのオヅマにはさほど寒さは感じない。

 いつもアドリアンに貸している狸の毛皮のチョッキを着ていれば、十分だ。

 

 特に目的もなかったが、なんとなく舞を舞った境内の方へと向かう。

 あの広い場所で体を動かせば、この気味悪い汗も流れていくだろう。

 とにかく今はあの声の残滓(ざんし)を消し去りたい。

 

 宿泊所の外廊下を伝って本殿へと向かう。

 月は既に中天を通り越して、西の空へと傾いていた。鉄紺の空には、星々がまぶしたように大小の光を放っている。

 

「ゴルドー…ダム…サザヴェナ……マヨリ……」

 

 夜空を見上げながら、オヅマは朱や金、(あお)の星の名前をつぶやいた。

 いくつかを口にしてから、ふと考える。

 誰に、星の名前なんて教えてもらったろうか? 母さん…? いや、そうじゃなかった。

 あの、北の空で動かない白い星の名を教えてくれたのは……

 

 ぼんやり考えながら足を進めていると、中庭の方からボソボソと人の話し声が聞こえてくる。

 オヅマは眉を寄せた。声に聞き覚えがある。

 咄嗟に息を潜めて足音を消す。

 そろそろと歩いて、柱の陰からそっと覗くと、そこにいたのは母とヴァルナルだった。




引き続き更新します。



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第三十八話 揺れる心

 ミーナが少しだけ寝て目を覚ましたのは、いつも一緒に寝ていたマリーの寝息が聞こえないことに違和感をもったからかもしれない。

 それこそ赤ん坊の頃からずっと自分のそばで寝ていたのだ。ラディケ村の小さなベッドでも、オヅマと一緒にマリーを挟んで親子三人で身を縮めて寝ていた。冬の寒さは隙間風の入る家の中で容赦なかったが、それでもミーナにとって安堵と幸福を感じる時間だった。

 

 オヅマもマリーもどんどん大きくなっていく。

 オヅマが生まれた時のことなど、昨日のように鮮明に思い出せるのに、それももう十年以上昔なのだ。

 

 窓向こうには、静寂を包んだ(しろ)い月が浮かんでいる。ミーナはしばらく見つめていたが、月明りに誘われるように外に出た。

 

「あ……」

 

 外廊下を歩いて中庭に出ると、そこで剣を振るうヴァルナルを見つけて足を止める。

 

 ヴァルナルはヴァルナルで、昨夜見たアドリアンとオヅマの剣舞に興奮が醒めやらなかったのかもしれない。一度横になったものの、浅い眠りですぐに目覚めてしまい、何度かベッドの中で輾転(てんてん)反側(はんそく)した後に、あきらめて起き上がった。

 眠れぬ夜を無駄に過ごすこともない…と思って、庭に出てきて久しぶりに剣技の型の復習などを始めたのは、無論、昨夜の子供二人の剣舞に刺激を受けたからだろう。

 

 かすかに聞こえた女の声にピタリと動きを止めて振り返る。そこに立っているのがミーナだとすぐにわかったが、しばらくヴァルナルは声をかけられなかった。

 

 質素な寝間着にベージュのショールを羽織っただけのミーナの姿は、飾り気がない分、皓い月明りの下で一層神秘的に見えた。まるで月からの精霊であるかのようだ。淡い金の髪は、月からの光を集めて光り、薄紫の瞳は臈長(ろうた)けた愁いを覗かせている。

 

 ミーナはしばらく困ったように視線をさまよわせてから、無言で頭を下げ、踵を返した。

 

「ミーナ」

 

 思わず呼びかけてから、ヴァルナルは何を言うべきなのかを探さなくてはならなかった。

 ミーナは立ち止まり、振り返ってヴァルナルの言葉を待ったが、慎重に言葉を選んでいるらしい主の姿に、少しだけ心が緩んだ。

 

「マリーがいなくて、なんだか起きてしまいました。ご領主様も何か気になることでもございましたか?」

 

 ヴァルナルにこんな時間に起きていることを聞く前に、自分のことを言うのが礼儀であろうとミーナが朗らかに話すと、ヴァルナルはホッとした笑みを浮かべた。

 

「あぁ…いや、少々気が立ってるというか…おそらくオヅマ達の舞が見事であったからだろうな。あれを見て以来、どこか気持ちが落ち着かないのだ。まだまだ私も及ばぬところもあるのだと思うと、居ても立ってもいられない…」

 

 ミーナはヴァルナルの話に少し笑ってから、ポケットから取り出した手拭いを差し出した。

 

「汗を拭いてくださいまし。風邪を召されでもしたら大変です」

「あぁ、すまない」

 

 ヴァルナルが受け取って汗を拭くと、ミーナが手を出す。

 

「いや、いい。これは私の方で…洗っておく」

「何を仰言(おっしゃ)っておられます。領主様に洗濯などさせるわけには参りません」

「いや、いい」

「こんなことで気を遣っていただいては、かえって恐縮致します。私は領主様の下僕でありますのに」

 

 ミーナの言葉にヴァルナルはピクリと眉を寄せる。手拭いを手の中にギュッと掴んで、ヴァルナルはミーナを見つめた。

 

「ミーナ…頼みがあるんだが」

「なんでございましょう?」

 

 ミーナはヴァルナルの真剣な声音に、あえて気付かないように振る舞った。

 

「その…この前にああしたことを言ったので、気まずいだろうとは思うが……せめて前のように振る舞ってくれないだろうか?」

 

 ミーナは目を伏せて、唇を引き結んだ。

 ヴァルナルの真摯で温かな眼差しに、また、ジワリと泣きそうになってくる。

 

「帝都に向かうまでの間、貴女(あなた)と話す時間はとても有意義だった。オリヴェルのことも詳しく、楽しく話してくれて…私の話にも耳を傾けてくれて…。貴女は聞き上手なのだろうな。貴女と話していると、時々上手に話を整理してくれて、頭がすっきりとまとまるのだ。そうだな…相談相手でいいから、以前のような時間を作ってくれないだろうか?」

 

「相談相手なんて…私などが……勿体ないことでございます」

 

 頭を下げながら、ミーナの声は震えた。

 どうしてこの人はこんなにも優しいのだろうか。決してミーナに迫るのではなく、丁寧に、穏やかに、手を差し伸べてくれる。

 

 かつてミーナが手を伸ばした相手は、何も知らないミーナにただ先を示してみせた。彼の大きな手は、明るい将来へとミーナを誘っていた。

 けれど、ある日ミーナは唐突に気付かされた。あの手を掴んではいけなかったのだと。自分には、そのような資格などなかったのだと。

 

 もう二度と、間違ってはいけない。

 そう決めた。

 ……はずだった。

 

 心を固くして、自分はただオヅマとマリーの『母』として生きるのだと…『女』としての自分を封印した…。

 

「ミーナ」

 

 ヴァルナルは一歩だけ近寄ると、優しく呼びかけた。

 おずおずと顔を上げたミーナを見て、ニコリと笑う。

 

「手紙でも書いたが…私は貴女にとても感謝している。オヅマもマリーも、優しくて純粋で、本当に素晴らしい子達だ。オリヴェルにとっても、小公爵様にとっても、きっと将来、かけがえのない友となる」

 

「そんな…畏れ多いことでございます」

 

「いや。身分に関係なくつき合える友がいることは、何よりの財産だ。私にも、故郷に帰れば私が男爵であることなどお構いなしの友人が何人かいる。彼らと話していたら、いつも安心できるんだ」

 

 ミーナは少しだけ微笑んだ。

 多くの友人に囲まれて、楽しげに談笑するヴァルナルの姿がすぐに想像できる。

 

「私は貴女を困らせたいわけじゃない。だから、無理強いをしているなら、謝る。はっきり断ってもらって構わないが…………駄目だろうか?」

 

 了承を求めるヴァルナルの顔は、どこか少年っぽいあどけなさを含んでいた。まるで子供が母親にクッキーを食べていいのか、と訊いているようだ。

 ミーナは思わず笑みを浮かべた。この人に打算はないのだろうが、なぜだか心が(ほど)けてしまう。

 

「私などはただ話を聞くだけでございますが…領主様の助けとなるのであれば、喜んで話し相手ぐらいは承ります」

 

 ミーナは恐縮しながらも、きっぱりと言った。

 心の中でしっかりと自分に言い聞かせる。

 出過ぎなければいいのだ。自分の身分を弁えて、決して踏み外すことのないように。

 

 一方、ヴァルナルは見ていてわかり易すぎるくらいにホッとした表情を浮かべた。

 

「良かった。断られたら、しばらく仕事が手につかないところだった」

「まぁ…御冗談を仰言っておられず、そろそろお寝み下さいませ」

 

 そう言うと、ミーナはベージュのショールをフワリとヴァルナルの肩にかけた。

 

「風邪を召してはいけませんから」

「しかし貴女が寒いだろう」

「私の部屋はすぐそこですし…もう戻ります。おやすみなさいませ」

 

 ミーナは挨拶すると、すぐに駆け出した。

 ヴァルナルと話すのはミーナにとっても楽しかった。だから今も本当はもっと話していたかった。けれどそういう自分の気持ちに、ミーナはあわてて鍵をかけないといけなかった。

 

 ヴァルナルは挨拶を返す暇もなく行ってしまったミーナの後ろ姿をしばらく呆然と見つめていた。

 なんとなく――――あるいは希望的観測かも知れないが、多少、手応えがあったのではないだろうか…? 

 

 肩に掛けられたショールから、ほのかに残った温かさが伝わってくる。同時に爽やかで、どこか異国情緒を感じさせる甘さを含んだ香りがした。

 

「…………」

 

 ヴァルナルはショールの端を掴むと、そっと唇を当てた。




次回は2022年7月10日20:00更新予定です。




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第三十九話 母と領主様

「………だから、無理強いをしているなら、謝る。はっきり断ってもらって構わないが…………駄目だろうか?」

 

 オヅマはヴァルナルが母に向かって、まるで何か許しを乞うかのように尋ねている姿を見て、胸が詰まった。

 同時に、オリヴェルの言っていたように、ヴァルナルが母のことを好いているのだとはっきり認識する。

 

 だが、母は以前に言っていた。

「そんなことは有り得ない」と。

 だから、きっと断るだろうと思ったのに。―――――

 

「私などはただ話を聞くだけでございますが…領主様の助けとなるのであれば、喜んで話し相手ぐらいは承ります」

 

 オヅマから見て、母は後ろを向いていたが、笑っているようだった。

 随分と打ち解けた様子の二人を見て、オヅマはひどく動揺した。

 呆然としている間にも、二人は楽しそうに喋って、母は背伸びしてヴァルナルの肩にショールなんて掛けている。

 

 オヅマはそれ以上見ていられなくて、足早にその場を立ち去った。一旦、建物の中に入ってから、宿舎に戻ってくる二人と鉢合わせすることを避けて、元々向かっていた本殿の方へと多少遠回りしながら黙々と歩いていく。

 

 何だか…裏切られた気分だった。

 母にも、ヴァルナルにも。

 

 さっき剣舞を舞った境内には、夜半に少し降った雪が積もっていた。

 オヅマは柔らかな新雪を蹴った。苛立ちのまま無茶苦茶にに蹴りつけて、境内を歩き回っていると、不格好な木剣が落ちていた。見物客が忘れていったのだろうか。

 

 オヅマはその木剣を手に取ると、ブン、ブンと素振りを何度かしたが、一向に脳裏から先程の光景が消えない。いや、嫌なのはあの二人の仲良さそうな姿ではなく、それを見ている自分の気持ちだ。どうしてもモヤモヤする…。

 

 ギリリと歯軋りして、オヅマは苛立ちと一緒にザクリと木剣を地面に刺した。そのまましゃがみ込んで、静かに息を潜める。

 

 自分が何をしようとしているのか…オヅマにはわかっていなかった。

 シンと冷えた夜の静寂に溶け込んで、オヅマは自分を追い払いたかった。何も考えたくなかった。

 

 首を項垂れて、内へ内へと意識を沈めていく。

 うなじがピリピリしてきて、ゆっくりと神経が伸びていく感覚。

 背に、肩に、足の裏からも、神経の根が周囲に張り巡らされてゆく。………

 

 急にオヅマは木剣を掴んで跳躍した。

 

 なんの気配もなくそこにいたヴァルナルめがけて、木剣を突きつける。

 

「……………眠れないか?」

 

 ヴァルナルはいきなり自分に向けられた切先に、驚いたようではあったが、それでも悠然と笑って問うてきた。

 

「…………」

 

 オヅマは黙っていた。

 何を言えばいいのかわからない。なぜか体が固まってしまって、剣をヴァルナルに向けたままだ。

 

「オヅマ…?」

 

 ヴァルナルは硬直したオヅマをしばらく見つめてから、やれやれと笑った。

 

「武者震いならぬ、武者強直(きょうちょく)というやつか。緊張しすぎだ…」 

 

 ヴァルナルはオヅマの持つ木剣をバシリと手刀で打った。

 元々木剣に適さない木で作られていたのだろう。あっけなく折れてモロモロと崩れていく。

 

 オヅマは手の中で形を失った木剣の屑を凝視していた。まだ、体の強張りがとれない。

 

 ヴァルナルはオヅマの両肩をガシリと掴むと、「ハッ!」と気合を入れた。途端に力が抜けて、オヅマはヘニョリと雪の上に膝をつく。

 ヴァルナルは倒れそうになったオヅマの腕を掴んだ。

 

「無茶をするからだ…一体、誰に聞いた?」

「………え?」

「全方位の索敵(さくてき)術など…そうそうやっていいものじゃない。見よう見真似でやろうとしても、相当な修練を積まねば……」

稀能(キノウ)…?」

 

 オヅマがつぶやくと、ヴァルナルはふっと笑った。

 

「そうだな。だが、まだお前には無理だ。今、立ってもいられないのだから」

「領主様はできるんですか?」

 

「私か? 私は…多少は使えるが、稀能と呼べるほどのものでない。達人ともなれば、そう…この森一つ分程度であれば、すべての敵を感知して全滅させることも可能だろうな。『千の目・(まじろぎ)の爪』と言ってな…」

 

「『千の目』……」

 

 その言葉を聞いた途端、オヅマの胸がザワザワと蠢く。

 また()が襲ってきそうで、オヅマはブンブンと頭を振った。

 

「オヅマ?」

「……なんでもないです。離してください」

 

 ヴァルナルは怪訝に思いながらも、オヅマの腕を離す。

 オヅマはふらつきながら立ち上がると、ヴァルナルをチラとだけ見て、すぐに目を伏せた。

 

「オヅマ…お前は……」

 

 ヴァルナルが言いかけると、オヅマは遮るように問うてきた。

 

「騎士は…気配を読むんだって…聞きました」

 

「あぁ。それは騎士としての修練を積めば、多少なりと身に入ることだ。その中で特に鋭敏な者であれば、より特殊な修練を積むことで覚知(かくち)していく」

 

「覚知?」

 

「そうだ。稀能は特殊な人間が持つ力じゃない。皆、それ相応の能力を秘めている。自身でそれを覚知し、発現させ、制御できるかどうかだ。能力だけが突出して、使いこなせない者は悲劇的な末路を迎えるからな」

 

 言いながら、ヴァルナルはオヅマの能力に密かな危惧を抱いた。

 

 甚だ未完のものではあるが、今、オヅマは確実に全方位索敵術――通称『千の目』――を発現させようとしていた。その上、ヴァルナルの気配を感知して襲いかかってきた、あの速度。まさに『(まじろぎ)の爪』と言うべき敏捷さではないか。

 

 まだ、騎士としての訓練を受け始めて一年にも満たず、わずか十一歳の子供が使用していい能力(ちから)ではない。このまま勝手をさせれば、確実にオヅマ自身の身体に影響を及ぼすだろう。

 

 明らかなる素質を認めながらも、ヴァルナルは喜べなかった。

 まだ早い。早すぎる覚醒は、本人にも周囲にも害となりかねない。

 目の前の無自覚なオヅマに、ヴァルナルの眉間の皺は深く憂いを帯びた。

 

「領主様の稀能(キノウ)は何なんですか?」

 

 ヴァルナルの心配も知らず、好奇心旺盛なオヅマは尋ねてくる。

 

「私か……」 

 

 ヴァルナルは一瞬迷った。言えば、きっとオヅマは教えてくれと言ってくるに違いない。しばしの躊躇の後に、ヴァルナルは結局話した。

 

「わたしの稀能は『澄眼(ちょうがん)』と呼ばれる」

「『澄眼』? どんなものですか?」

「うーん…有り体に言えば、相手の動きを読むんだな」

「………どう動くかを予測するってこと?」

 

「そうとも言える。周りから見ると、そうなのかもしれない。だが、私からはただ相手が()()()()に見えるというだけだ」

 

()()()()見える?」

「カールの千本突きを見たことがあるか?」

 

 オヅマに剣を教えてくれているカールは、稀能とまではいかないが、凄まじく早い突き技を連続して行う千本突きの名手でもある。

 オヅマ自身が相手をしたことは勿論ないが、何度かその技を他の騎士相手に繰り出しているのを見たことがあった。

 目にも留まらぬとはあのことで、隣で暇な騎士達が何度突いているかを競って数えていたが、あまりの速さに誰もが途中で数えるのをあきらめた。

 

「あのカールさんの攻撃も、『澄眼』を使えば、()()()()見える…ってことですか?」

「あぁ。まるで蝶が舞ってるみたいにな」

「じゃあ、あの高速の攻撃をすべて凌げるってことですか?」

「そうだな。何度か立ち合ったが、今のところ突かれたことはないな」

 

 オヅマは今更ながらヴァルナルの凄さに感嘆した後、やはり予想通りの行動をとった。

 

「教えて下さい!」

 

 ヴァルナルはかすかなため息をついた。

 

「とりあえずは、体力だ。お前はまだまだ基礎体力が足りない。しっかりとした土台がないと、どんな技能も身につかないからな」 

 

「もっと走れってことですか? もっと速く走れるようになって、剣の素振りを毎日二百回、いや三百回したら…」

 

 焦ったように言うオヅマに、ヴァルナルは頭を振りながら笑って、ポン、と肩を叩く。

 

「今のお前に必要なのは、身体の成長だ。つまり、よく食べて、よく動き、よく眠る。そうすれば勝手に大きくなって、充実していく。ただし、一朝一夕には出来ない」

 

「………」

 

 ヴァルナルの前でなければ、オヅマは舌打ちしたい気分だった。

 結局、子供だから駄目なのだ。いつだってそうだ。子供であるから許され、子供であるから禁じられる。

 自分はもっと早く、強く、大きくなりたいのに…!

 

 オヅマは急に黙り込むと、一歩後ろに下がった。

 今更になって、ベージュのショールが目に入ってくる。プイと、そっぽを向いて、冷たく尋ねた。

 

「どうしてこっちに来たんですか?」

「……来てはいけなかったか?」 

 

「領主様に駄目なことなんてありません。でも、早く帰った方がいいんじゃないですか? せっかく風邪をひかないようにって……そのショール…」

 

 ヴァルナルは苦笑した。

 やはり見られていたか、と。なんとなくミーナとの会話の途中で視線を感じて、彼女が去った後に人の気配を辿って来たら、オヅマがいたのだ。

 

 正直、多感な時期の少年には見たくないものだったかもしれない。

 オヅマが母と妹のことを誰より、何より大切に思っていることは、ヴァルナルも承知している。家族思いの少年には、男女のことはあまりに異質だろう。ましてそれが自分の母であれば、尚の事、拒否反応が出ても不思議はない。

 

「オヅマ…誤解しないでくれ。ミーナには時々、話し相手になってほしいと頼んでいただけだ」

 

「嫌いだったら、そんなこと頼まないでしょう?」

「ま…それはそうだな」

 

 オヅマのすげない態度にヴァルナルは少し戸惑った。

 いつもは騎士見習いとして、可愛がっていた存在が、急にとてつもない壁になった気がする。

 

 オヅマは真っ直ぐにヴァルナルを見つめて尋ねた。

 

「好きなんですか、母さんのこと」

「………ああ」

 

 ヴァルナルは緊張しながらも目を逸らさなかった。

 ミーナと同じ薄紫色の瞳は静かで、なんの感情も見えない。

 しばし互いに見合ってから、ふっと、目線を下に向けたのはオヅマの方だった。

 

「……マリーとオリヴェルは……きょうだいになれるって喜んでました」

「きょうだい??」

 

 ヴァルナルはいきなり話が飛躍して、思わず聞き返した。

 オヅマは怪訝にヴァルナルを見る。

 

「だって、俺の母さんと結婚するなら、きょうだいになるんでしょう? 俺とマリーと、オリヴェルは」

「いや! 待て! まだ、その…結婚だとかは考えてない…というか…」

 

 ヴァルナルは慌てて否定したが、それは余計な誤解を招いたようだ。

 

 オヅマはギュッと眉間に皺を寄せてから、また視線を逸らせてどこか軽蔑を含んだため息をつく。

 

「あぁ、そうですね。領主様ぐらいのご身分の人が、母さんを()()()()()()()()()になんかしないですよね。なんて言うんだっけあれ…二番目の…妾っていうの?」

 

「馬鹿を言え! そんなつもりは毛頭ない!」

 

 ヴァルナルはさすがに強硬に否定した。

 しかしオヅマの顔は暗く翳ったままだ。

 

「俺は子供だから…大人のすることに口出しはできないけど……」

 

 オヅマは少しかすれた声で低く言ってから、ギロリとヴァルナルを睨みつけた。

 

「マリーと、母さんを不幸にするなら、領主様であっても許しませんから」

 

 ヴァルナルは真っ直ぐにその目と対峙しながら、ゴクリと唾を呑み込んだ。

 この威圧感は何なんだろうか。ただの子供と思えぬ、暗く沈んだ迫力は。

 

 ヴァルナルは軽く息を吐いて、やや強張りながら笑みを浮かべた。

 

「ミーナを不幸にするなど、絶対にあってはならないことだ。それはお前と同じ意見だよ、オヅマ」

「………」

 

 オヅマはふと我に返ったようだった。急に瞳の力が弱くなって、項垂れるように頭を下げた。

 

「すみません。生意気なことを言いました…失礼します」

 

 そのまま立ち去ろうとするオヅマに、ヴァルナルは思いきって呼びかけた。

 

「オヅマ! 私は………お前の父親にはなれないか?」

 

 ピタリと歩みを止めて、オヅマはゆっくり振り返った。さっきと同じ暗い顔でボソリとつぶやく。

 

「俺は父親はいらない」

「…………」

 

 ヴァルナルの胸に乾いた冷たい風が吹いた。

 

 はっきりと、一線を引かれた。

 

 騎士として、領主としてのヴァルナルへの敬意はありながらも、こと親子ということに関して、オヅマは明確に拒否した。

 

 ヴァルナルは言葉が出なかった。

 しかしすぐに、オヅマ達家族が、父親を失ってまだ間もないことに気付く。

 

「あ…いや……そうだな。すまない。まだ父親を失って一年も過ぎていない内から…無神経だった」

 

 ミーナから聞く限りひどい父親であったと思うが、子供の思いはまた他人にはわかりえぬものだろう。

 オリヴェルとて、何年も実の息子を放任してきた不人情な父親であっても、父として慕ってくれているのだから。

 

 しかし、オヅマはヴァルナルの言葉に、フッと皮肉げに頬を歪ませた。

 

「あんな野郎が父親? 冗談でしょ。あんなのは父親じゃない。だいたい血も繋がってないんだから」

 

 ヴァルナルはオヅマが既に自分の出生について知っていたことに驚いた。思わず問いかける。

 

「オヅマ…お前、知ってたのか?」

 

「何を? あのクソ親父が自分の父親じゃないってことをですか? そりゃ、本人に嫌ってほど聞かされたんだから、知ってますよ」

 

 オヅマは話しながら、ヴァルナルがその事実を知っていたことこそ驚きだった。あの口の堅い母が教えたのだとしたら…つまり、そこまで親密だということか。

 

 さっき二人を見た時の苦い気持ちがまた甦る。

 

 生まれた時からずっと一緒にいて、いつも自分とマリーを見ていてくれた母。

 オヅマの決断を受け入れ、新たな生活を与えてくれた尊敬する領主様。

 

 どちらも大好きな存在なのに、二人が二人だけの世界にいることが、オヅマにはひどく落ち着かない。

 

「母さんからも聞いてます。はっきりと言われたわけじゃないけど、否定しなかったんで。本当の父親のことも聞いたけど、教えてくれなかった。いっそ、死んだって言ってくれればいいのに、迂闊に『死んだ』なんて話して、そいつが言霊に触れて死んだりしたらいけないって…迷信信じて、いまだにそのロクデナシを守ろうとしているのが、本ッ当に……」

 

 ギリ、とオヅマは奥歯を噛みしめる。

 幼い頃のやり取りが脳裏に浮かんだ。

 

 

 ―――――母さん、俺の本当の父さんはどんな人なの?

 

 ―――――それは…教えられないの。ごめんね、オヅマ。

 

 ―――――…ううん。いいよ。だって母さんを捨てた奴だもの。悪い奴だよ。

 

 ―――――オヅマ、そうじゃないの。母さんが愚かだったの。物知らずだったのよ。だから恨まないで…

 

 

 虫酸が走る。()()()()のことを庇うなんて。

 そう思ってから、オヅマは少し混乱した。

 ()()()()? 自分は一体、誰を思い浮かべた?

 

 一方、ヴァルナルは嫌悪感もあらわなオヅマの顔に、この少年のまだ短い半生を思った。

 一体、どれほどの虐待によって、この根強い不信が植え付けられたのだろうか…。

 

「悪かった」

 

 ヴァルナルが頭を下げると、オヅマは戸惑ったように見た。

 

「なんで領主様が謝るんですか?」

「いや。言葉足らずでいらぬ誤解をさせた。しかし、安心してくれ…というのも変だが、ミーナにはしっかり断られてるんだ」

「え?」

「一度、正直な気持ちを打ち明けたが…断られた。きっぱりとな」

 

 オヅマはまじまじとヴァルナルを見た後に、またボソリとつぶやいた。

 

「馬鹿だな…」

 

 ズバリと言われ、ヴァルナルは情けない笑みを浮かべる。

 

「いや…ま、その通り…馬鹿な男だ。きっぱりフラれてるのに…いつまでも恋々(れんれん)と…我ながら不甲斐ないことだと…」

 

「違うよ」

 

 オヅマはやや大きな声で否定した後に、俯いて言った。

 

「馬鹿なのは、母さんだよ。どう考えたって、あんな男より領主様の方が絶対いいに…」

 

 語尾はかすれ、喉に何かが引っ掛かったのか、それとも照れ隠しにか、オヅマはゴホゴホと咳き込んだ。

 

「………失礼します」

 

 ヴァルナルがポカンと口を開けている間に、オヅマは走って部屋に戻っていった。

 




次回は2022年7月13日20:00に更新予定です。



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第四十話 おしゃべり騎士達の噂話

 神殿への参詣からひと月が過ぎ―――――

 

 遠陽(とうび)の月に入ってから、騎士団においては雪上野営が行われる。二週間近く、近くの山中に籠もって、そこで実戦的な訓練が行われるのだ。

 オヅマとアドリアンは見習いではあったものの、大の大人の、しかも屈強な騎士をもってしても『地獄』と言わしめる、この過酷な訓練への参加は認められなかった。下手をすれば凍死の可能性もあるからだ。

 

 当然ながらオヅマは不本意だった。カールにも参加を認めるよう頼んだが、鬼副官はにべなく「駄目だ」の一言で片付けた。

 騎士団が野営に向かう前日、ぶぅぶぅ文句を言っていたオヅマに、アドリアンは何気なく尋ねた。

 

「文句ばかり言ってるが…オヅマ、君、大丈夫なのか?」

「なにが?」

「野営の時は、寒さで死なないように、対番(ついばん)は一緒の寝袋で寝るんだよ」

「……嘘だろ」

 

 オヅマは唖然となった。

 ついさっきまでは明日一緒にコッソリついていこうか…とすら考えていたのに。

 思わぬ難問にオヅマは唸った。どうにかしてそれは回避したい。いずれ自分が訓練に参加する、その時は。

 

 だが真剣な顔で()()()()()にこだわるオヅマに、マッケネンはあきれた。

 

「なにをつまらんことを。実際、行ってみればわかるさ。それこそゴアンであろうが、トーケル御爺(おんじ)だろうが、温かけりゃいいんだ。足の爪先だって、交互に股の間に入れて温めなけりゃ、凍傷になりかねないんだからな」

 

「寝袋に入ってりゃ、一人でも十分温かいよ、俺は」

 

 オヅマはそれでも強がったが、サロモンがヘッと鼻で笑う。

 

「言ってろバーカ。たまにいるんだよな、お前みたいな奴。そういう奴に限って、行軍の後に飯も食わずに対番を無理やりに幕廬(テント)に引っ張っていきやがるんだ。なぁ、ヘンリク?」

 

 いきなり呼ばれたヘンリクは、食べかけていたパンを喉に詰まらせそうになりながら、サロモンを睨みつけた。

 

「俺…ッ…は……『どうにかして温かくならないのか』って、聞いただけだ! 足の指が凍りついて凍傷になりそうだったんだからな。そうしたらアルベルトが、テントに帰ればどうにか出来るって言うから……」

 

「行く前には散々、誰が男となんぞ一緒に寝るかー!って、大口叩いてたくせになぁ。一日目であっさり陥落だよ」

 

 からかう同輩達に、ヘンリクは居心地悪そうに小さくなりつつも、ムッと睨みつけた。

 

「仕方ないだろ。アルベルトなんだぞ、俺の対番。あんたみたいにゴアン相手でも腕っぷしじゃ負けない人はいいけど、俺なんざとても敵うわけない。警戒だってするさ…」

 

「馬鹿じゃねぇのか、お前。あのクソ寒い中で汗でもかいた日にゃ、次の朝には二人揃って凍ってら。だいたい寒さで縮み上がって、()()だって……」

 

 そこまで言いかけたサロモンを、マッケネンが強めに小突く。すぐにサロモンは目の前で耳を赤くして俯いているアドリアンに気付いて口を噤んだ。

 

 しかしオヅマはまったく気にしない。パンをブチリと千切って飲み終わったスープの皿を拭きながら、斜め前に座って静かに食べているアルベルトに尋ねた。

 

「それじゃ、その時はヘンリクさんと寝たの? アルベルトさん」

「そーいう誤解されるような言い方すんなよ、オヅマ」

 

 ヘンリクは渋い顔で抗議するが、アルベルトは無言で頷いた後、

 

「あの時はとにかく腹が空いていたから、ヘンリクを温めながらパンを食べていたな…」

 

と、相変わらずの無表情でつぶやく。

 オヅマはその様子を思い浮かべて、あきれたように言った。

 

「どんなけ寒がりなんだよ、ヘンリクさん」

「うるせぇ! 俺は南の生まれなんだよ。こんな寒さ有り得ねぇんだよ!」

「寒いってわかってたのに、なんでレーゲンブルトなんて希望したんだ? 元々、ファルミナの騎士団だったろう、お前」

 

 ファルミナは公爵領の南の飛び地だ。レーゲンブルトよりも大規模の騎士団が駐在している。ヘンリクは元はその騎士団に代々勤める騎士一家の出だった。

 マッケネンが問うと、ヘンリクは口をとがらせてボソリと言う。

 

「そりゃ…ヴァルナル様がいらっしゃるから」

「最終的にはそれなんだよなぁ」

 

 サロモンはさもありなんと頷いてから、ヘヘッと笑った。

 

「いっそ、ご領主様が全員まとめて面倒見てやりゃ問題ないんだろうけどな」

「それは駄目だろ!」

 

 いきなり立ち上がり、大声で怒鳴ったのはオヅマだった。

 サロモンらだけでなく、食堂にいた騎士達の視線が集中する。

 オヅマは我に返ると、ごまかすようにカチャカチャと音をたてて皿を重ね合わせ、洗い場の水樽に放り込んでその場から立ち去った。

 

「……なんだ、あれ?」

 

 サロモンがあっけにとられていると、アドリアンも釈然としない顔で話す。

 

「神殿の参拝の後から、ちょっと妙なんです」

「妙って?」

 

「なんだか…ヴァル……クランツ男爵に対して、他人行儀というか。稽古中とかはそうでもないんですけど、前は男爵の手柄話なんかもよくしていたんですけど、最近はあまり気乗りしてこないから、話すこともなくなって…」

 

 サロモンとマッケネンは目を見合わせた。

 

「……領主様ってソッチの趣味あったっけ?」

「どうしてそういう話になるんだ、お前は。だいたい、好きな女の息子なんだぞ、オヅマは」

「好きな女?」

 

 アドリアンは聞こえてきた言葉に敏感に反応した。

 

「好きな女って…男爵が…好意を寄せる相手がいるってことですか?」

 

 その質問については、アドリアンだけでなく、その周囲にいた騎士達全員が聞き耳をたてた。全員の脳裏に一人の女性の姿が浮かんでいたが、誰がその名を言うのかと、皆が顔を見合わせている。

 

 口を開いたのは、アルベルトだった。

 

「ミーナだ」

 

 簡潔な答えに、アドリアンは聞き返した。

 

「ミーナ? オヅマのお母さんですか?」

 

 アルベルトはパンを口に含んで頷く。

 

 アドリアンはしばらく考えて、ハタと思い至った。

 領主館の中で、元々公爵家で働いていた執事などを除いて、地元(レーゲンブルト)で雇用された使用人はすべてアドリアンが公爵の息子であることを知らない。

 無論、それはオヅマやマリーも、ヴァルナルの息子であるオリヴェルでさえ知らされていなかった。

 しかし、オヅマの母親だけは例外的に知っている。なぜなのかと思っていたが……

 

「そういう事だったんだ…」

 

 アドリアンはつぶやきながら、オリヴェルの部屋で何度か会ったオヅマの母親の姿を思い浮かべた。

 

 淡い色の金髪に、オヅマと同じ薄紫色の瞳。西方からの血が混じっているという、やや褐色の肌は、いつも艷やかだった。確かに美人である。帝都の貴婦人達の中にいても、おそらくちょっと目立った存在になるだろう。

 それに容貌の美しさだけでなく、折々ににじみ出る所作の典雅さは、正直、こんな田舎にいるのが不思議なくらいだ。

 

「オヅマはおそらく、領主様の気持ちを知ったのだろう。それで自分はどうすればいいのか、決めかねているのかもしれない」

 

 普段は無口なアルベルトは、実のところ人の観察に長けている。その結論にマッケネンは内心で頷いたが、アドリアンは首を傾げた。

 

「どうすれば…って、オヅマは男爵のことを尊敬しているのだから、自分の母がその男爵の妻になるなら、喜ばしいことじゃないのですか?」

 

 その問いに答えたのはマッケネンだった。

 

「騎士として憧れるのと、自分の父親になるってのは、少々勝手が違うからな」

「そう…なんですか?」

 

「オヅマの死んだ父親はロクでもない男だったらしいからな。子供相手に平気で暴力を振るうような奴だったそうだ。そのせいでオヅマは父親ってやつに、どうも疑心暗鬼なところがある」

 

「アドル、一緒に暮らしているのだから、オヅマの背中の火傷痕を見たことがあるだろう?」

 

 アルベルトが珍しく尋ねてくる。

 アドリアンの脳裏に、すぐにオヅマの痛ましい火傷痕が浮かんだ。背中の右上半分の引き攣った赤い肌。理由を聞いたが、オヅマは小さい頃に転んで竈の火があたったのだ…としか言わなかった。

 

 頷くと、アルベルトはこれまた珍しく顰め面で言った。

 

「あれはオヅマが妹を庇った時の火傷痕だ」

「マリーを?」

 

「そうだ! あろうことか、そのロクデナシの父親の野郎が、赤ん坊のマリーをぶん投げようとしやがったのを、止めた時に竈の火に当たって火傷したんだと! っとに、胸糞悪い親父だ! 死んで当然だな!!」

 

 激昂して言ったのはサロモンだった。

 

 アドリアンは驚いた。普段のオヅマとマリー、ミーナの様子からはそんな壮絶な過去があったことなど露ほども感じられない。むしろ、亡くなった父親も含め、ごく当たり前の平和で穏やかな家庭を想像して、自分との違いに少しばかり嫉妬していたぐらいだ。

 

「まぁ、領主様のことは確定事項でもないから、あまり騒ぎ立てない方がいいだろうな。オヅマも、変声期が来ているようだし、そろそろ難しい年頃に入ってるのさ」

 

 マッケネンが穏やかに言いながら、周囲で聞いている騎士達にそれとなく釘をさす。

 その上で、アドリアンには難題を出してくる。

 

対番(ついばん)として…アドル、オヅマの相談にも乗ってやってくれ」

 アドリアンが返事しないうちに、重ねて「おう、頼むぞ」とサロモンが言うし、鉄面皮のアルベルトも無言で頷く。

 

 

 ……そんな訳で、騎士団が雪上野営に向かった後、アドリアンはひとり悩んでいた。

 誰かの相談なんて乗ったこともないし、そもそもオヅマは相談なんてしてくる人間でもない。それに悩みを打ち明けてくれるほど、自分が信頼されているとは思えなかった。

 

 むしろやたらため息をつくアドリアンに、オヅマの方が尋ねてくる。

 

「なんだよ? なんか気になることでもあんのか?」

「いや…特に何も」

「…っとに、最近はなくなったと思ってたのに、またひしゃげたパンみたいな顔しやがって」

「…………」

 

 アドリアンはぎりぎりで苛立つ感情を抑えた。

 

 どうして素直に同情させてくれないんだろうか……()()()は。 

 





引き続き更新します。


感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第四十一話 小さな画伯

「あら」

 

 扉を開けて出てきた(ひと)に、アドリアンは思わず固まってしまった。

 

 決められた修練と雑用を終えて、いつものごとくオリヴェルの部屋へと向かったアドリアンとオヅマだったが、オヅマは途中で下男の一人に呼ばれて行ってしまった。

 

「先、行っといてくれよ。すぐ行くから」

 

 軽く言い置いて行ってしまったが、正直、オヅマがいないならアドリアンがオリヴェルの部屋に行く理由などほとんどないのだ。

 部屋の主は相変わらず、敵対心もあらわだし、アドリアンの方でも年下の子供の相手などしたことないので、どうすればいいのかわからない。

 

 ようやっと最近になって、三人で駒取り(チェス)の総当たり戦(現在、第二期節(セカンド・シーズン)第一期節(ファースト・シーズン)はアドリアンが優勝)をやったりするようになったが、対戦している間もオリヴェルがアドリアンに話しかけることは皆無だった。

 

 だから今も正直行きたくなかったが、行かないと行かないで今度はマリーがむくれるらしい。

 

「だって、三人だとお兄ちゃんとオリヴェルが駒取り(チェス)始めたら、私、やることないんだもん」

 

 マリーはあれでけっこうおしゃべりなのだが、話が激しく前後するので、かなり根気よく聞いてやらないと意味がわからない。

 オヅマはハナから聞く耳を持たないし、オリヴェルはいちいち指摘しては話が止まってしまうので、マリーとしては、とりあえず黙って、時々相槌をうってくれるアドリアンは格好の話し相手なのだった。

 

マリー(あいつ)が怒ったら一番始末が悪い」

 

と、オヅマは言う。

 もっともアドリアンからすると、オヅマもオリヴェルもマリーに滅法甘くて、ご機嫌を窺っているように見えるが。

 

 ということで、アドリアンはやや憂鬱になりつつオリヴェルの部屋の前まで来て、ノックした。

 そこで扉を開けてくれたのが、いつものマリーでなくミーナであったのだ。まともに薄紫色の瞳と目が合って、思わず騎士達の話を思い出す。

 

 

 ―――――男爵が…好意を寄せる相手がいるってことですか?

 

 ―――――ミーナだ…

 

 

 やっぱり、美しい。

 アドリアンは再確認する。

 

 相手に安心感を与えるふわりとした上品な微笑み。

 ヴァルナルはきっとミーナの容姿だけでなく、穏やかで優美な雰囲気に惹かれたのだろう。

 

 二人のことを考えると、アドリアンはどういう顔をしていいかわからず、下を向いた。ミーナは特に何か気にする様子もなく朗らかに尋ねてくる。

 

「いらっしゃい、アドル。珍しいのね、一人?」

「あ…オヅマはちょっと用があって呼ばれて…すぐに来ると思います」

 

「あら、そう。ごめんなさいね。若君とマリーも、今は温室に花を見に行っているのよ。なんでも珍しい花が咲いたらしくて…あなたも行ってみる?」

 

「いえ」

 

 アドリアンはすぐに断った。

 オリヴェルがマリーのことが好きなのは明らかなので、そんなところに行ったら、殺されそうな勢いで睨まれた挙句、嫌味の一つ二つじゃ済まない。

 

「そう? じゃあ、中で待ってて頂ける? すぐに戻ると思うわ。私はおやつの用意をしてきますね」

 

 ミーナは扉を大きく開いて、アドリアンを招き入れる。

 なんとなくアドリアンは断るきっかけを掴みそこねて、そのままおずおずと中に入った。

 

 いつもは四人で騒がしい部屋の中はシンとしている。

 曇り空が見える窓は差してくる日の光も弱く、昼間だったがランプが灯されていた。

 

 アドリアンはいったん、ソファに座ったものの、なんだか落ち着かなくて立ち上がる。

 ふと、隅の方に置かれた三脚が目に止まった。イーゼルようだが、なぜだか壁の方にむかってキャンバスが置かれて、上から布が被せられている。

 

 アドリアンは少し迷った。

 オリヴェルが、自分とオヅマの剣舞の絵を描いているらしいことは、マリーから聞かされていた。ただ、

 

「オリヴェルったら、絶対に誰にも見せないのよ。私はちょっとだけ見れるんだけど、お母さんにもお兄ちゃんにも絶対に見せないの。下手だからって。そんなこと全然ないの。すごく上手なのに……」

 

と言っていたので、オリヴェルがアドリアンに見せないであろうことは確実だった。

 

「…………」

 

 しばらく考えてから、アドリアンは布を取った。

 どうせ一生見せてもらえないなら、今見ておくしかないだろう。あのオリヴェルが自分をどう描いているのかも、実はかなり興味があった。

 

 イーゼルを持ち上げて、キャンバスをこちらに向けてから、アドリアンはその絵に言葉を失った。

 

 雪を蹴り上げて舞う二人の姿。

 白い月の光。

 篝火の炎。

 閃く剣の鋭さすらも、伝わってくる。

 

 九歳の子が描いたとは思えぬほど、上手な絵だった。自分(アドリアン)のことも、案外ちゃんと描いてくれている。手前のオヅマに比べると、細かな表情は描かれていないが。

 

 思っていた以上の完成度に、アドリアンはすっかり見入っていたのだろう。

 扉が開いたことにも気付かなかった。

 

「あーっ!!」

 

 大声で後ろから叫ばれて、アドリアンはビクリと肩を震わせると同時に、ここがオリヴェルの部屋であったことに気付く。

 おそるおそる振り向くと、オリヴェルが凄まじい憤怒の形相で、睨みつけていた。反対に隣で笑っていたのはマリーだ。

 

「あっ、見たんだ! ね、ね、上手でしょ? とっても上手でしょ?」

 

 オリヴェルが何かを言う前に、マリーはアドリアンのところに走ってきて、ニコニコ笑って早口に尋ねてくる。

 

「あ……」

 

 アドリアンは少しだけ気まずいながらも、オリヴェルをじっと見つめてから頷いた。

 

「うん。とても上手だと思う」

 

 途端にオリヴェルの顔が真っ赤になる。

 

「う、嘘つくなっ!」

「嘘じゃない」

「上手いわけないだろッ! 全然っ、全く、全然、見たことの半分だって描けてないんだッ」

「そんなことないってば!」

 

 マリーが同じように声を張り上げて言うが、珍しくオリヴェルはマリーの言葉にすら激しく首を振った。

 

「駄目なんだよ、こんなの!」

 

 言うなりオリヴェルがつかつかとこちらに歩いてきて、キャンバスを取り上げようとする。アドリアンは咄嗟に伸びてきたオリヴェルの手を掴んだ。

 

「何するんだ、離せ!」

「離したらどうする気だ? せっかくの絵を」

「どうしようが僕の勝手だ! お前に見られて、馬鹿にされるくらいなら、叩いて破って捨ててやる!」

 

 アドリアンはイラっとなった。右手でオリヴェルの手首を掴みながら、左手でキャンバスを取り上げた。

 

「返せ!」

 

 躍起になってオリヴェルは怒鳴る。

 アドリアンの頭上高くにキャンバスをもって行かれて、頭一つ分は身長差のあるオリヴェルには手を伸ばしても届かない。

 

 アドリアンはあきれたようにため息をついた。

 

「いい加減にしたまえ。勝手に僕の気持ちを決めつけないでもらいたい。さっきも言ったように、僕はこの絵が上手だと言っている。嘘じゃない」

 

 いつものようにアドリアンは冷静な物言いだったが、妙に迫力があって、オリヴェルは少し戸惑った。

 

「………そんなわけ…」

 

「嘘じゃない、と言っている。僕が君に嘘をつく必要があるのか? 領主様の息子であっても、オヅマ同様、今まで忌憚ない付き合い方をしてきたはずだ。それは君も重々承知だろう?」

 

「君に…何がわかるというのさ」

 

 オリヴェルはアドリアンの態度にやや圧倒されつつも、これまでの反感はそう消えない。ジロリと睨んで問うと、アドリアンはキャンバスを下ろして、まじまじと間近に眺めながらつぶやいた。

 

「マリ=エナ・ハルカム……」

「え?」

「だぁれ、それ?」

 

 マリーが尋ねると、アドリアンは絵を見たまま説明する。

 

「ただ見たままを捉えて絵にするのではなく、自分の心に感じたものも絵にする…そういう創作理論を提唱した画家だ。女の画家ということもあって、あまり知られてないけど、僕の母が後援者(パトロン)だったから家にいくつか絵があって……」

 

 言いかけてアドリアンはハッとなり、あわてて口を噤んだ。

 チラとオリヴェルとマリーを見る。オリヴェルの方は、怪訝な顔でアドリアンを見ていたが、マリーは訳がわからないようだった。

 

 アドリアンは軽く咳払いしてから続けた。

 

「つまり、君は彼女と同じような考え方なんだろう。僕やマリーからすれば、君の絵は十分に上手だ。おそらく誰の目から見てもそうだ。でも君は、君の目で見て、君の感じた全てを絵にこめたいのに、それができないから下手だと思うし、全然できてないと思ってしまうんだ」

 

「…………」

 

 オリヴェルはポカンとなった。

 今まで自分の中にあった形にできないモヤモヤしたものが、アドリアンの言葉によって、ようやく目の前に現れたかのようだ。

 

「実際に、マリ=エナ・ハルカムの絵を見れば、君なら何か感じるところがあるのかもしれないけど…」

 

 アドリアンは話しながら、公爵邸に頼んで一枚、送ってもらおうかと思案する。

 おそらく飾ってあるものの他に、彼女が残していった絵が倉庫にあるはずだ。

 しかしすぐに無理だと諦めた。今は自分は罰を受けている身だ。父が許すはずがない。

 

 フッと暗い顔になって俯いたアドリアンを見て、マリーがそっと袖を引っ張った。

 

「どうしたの? 大丈夫?」

 

 心配そうに自分を見上げる緑の瞳。

 アドリアンは思わず微笑んだ。

 いつもマリーにやり込められてブツブツ文句言いながらも、妹の言う事を聞くオヅマの気持ちが少しだけわかった。

 

 そうか…()という存在は、可愛いものなのか…。

 

 話にだけ聞いたことのある異母妹のことを思い出す。彼女も確かマリーと同じ年頃ではなかったろうか…?

 

「アドル…君は…一体…?」

 

 オリヴェルは今になってようやく、アドリアンの正体について考えていた。

 父の知り合いの息子だと聞いていたが、話の内容や、アドリアン自身の持つ妙に落ち着いた振る舞いといい、およそそこらの貴族の若君とも思えない。

 

 アドリアンはオリヴェルの質問には答えず、キャンバスを差し出した。

 

「この絵が完成したら、僕が貰いたいくらいだ」

 

 オリヴェルはキャンバスを受け取って、まじまじと眺める。

 やっぱり、自分ではまだまだ下手だ。あの時の感動の半分も、この絵からは感じ取れない。

 

「あら、駄目よ。アドル。この絵は私が貰うの。これの前に描いてた絵はお兄ちゃんにあげる予定なのよね? オリー」

 

 マリーが言うと、アドリアンはクスリと笑みを浮かべた。

 

「なんだ、オリヴェル。君、まだ一枚も発表していないのに、信奉者(ファン)が三人もいるんだな」

「三人?」

「マリーと、オヅマと、僕と」

 

 オリヴェルは真っ赤になった。

 素直に言えば嬉しいのだが、今までの経緯もあって、アドリアンにどういう顔をすればいいのかわからない。

 

 隣で二人の様子を見ていたマリーは満面の笑みを浮かべて言った。

 

「やっぱり私の言った通りだったでしょ、オリー。アドルは素直で物知りだから、ちゃんと見て、ちゃんとしたこと言ってくれるって」

「え…」

 

 アドリアンはマリーの言葉に驚いた。素直? 自分が? 一度もそんなことを言われたことがない。

 

 一方、オリヴェルは絵とアドリアンを見比べてから、小さな声でようやく勇気を出す。

 

「あ………あり…がとう」

 

 アドリアンはまさか礼を言われるとも思わず、その事にも目を丸くした。

 しかし、こちらの反応を窺うように下から見上げてくるオリヴェルに、ニコと微笑みかける。

 別に大したことを言ったわけでもないが、オリヴェルの自信に繋がったのならば何よりだ。

 

 オリヴェルの方も、オヅマ以外にはいつも無表情なアドリアンにいきなり微笑まれて、びっくりしながらドキリとなった。

 今まで冷たさすら感じていた赤っぽい鳶色の瞳が、急に優しい物柔らかな印象に変わる。

 整った顔立ちのせいもあって大人びた印象だったが、笑った顔は同じ年頃の少年らしい屈託のないものだった。

 

「アドル…君って……」

 

 オリヴェルが胸の奥で考えていたことを尋ねようとした時、ドアが勢いよく開いて、オヅマの無遠慮な大声が響いた。

 

「おーい、チビ共。今日はイチジクのパイだぞ。早い者勝ちだからな~」





次回は2022.07.16.に更新予定です。



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第四章
第四十二話 春祭り


「あぁっ、バカ。下手。違うっての! 右、右、左、左、前に行って手拍子して……行き過ぎなんだよ、どこまで行くんだよ! 後ろ退がれ!」

 

 矢継ぎ早な指導に、アドリアンは足がもつれてよろめく。

 

「ダーッ! ヘッタクソ!!」

 

 オヅマは我慢ならぬように叫ぶと、ダンダンと苛立たしげに足で床を踏み鳴らした。

 アドリアンはムッとなって、睨みつける。

 

「君の教え方も問題があるぞ!」

「うるせぇよ! なんであんな小難しい剣舞ができて、こんな簡単なのができねぇんだよ、お前は」

「剣舞と、お祭りの踊りは全然違う」

()()()、体動かすのは一緒だろ!」

「体を動かすのは同じでも、考えるところが違うんだ!」

「なんだよ、それ! そんなモンいちいち考えんな、バーカ!!」

 

 二人の怒鳴り合いを見て、オリヴェルはつぶやいた。

 

「この二人、対番(ついばん)なのにこんなに仲悪くて大丈夫なの?」

「大丈夫」

 

 マリーは肩をすくめて笑った。

 

「こうやってギャーギャーワーワー言ってる喧嘩は仲がいい喧嘩。って、前にお母さんが言ってた」

「………」

 

 オリヴェルは喧嘩する二人を眺めて頷く。

 そういえば、オヅマと前に喧嘩した時も、大声で怒鳴り合っていたっけ?

 

「オヅマって、なんだかうまく怒らせるよねぇ」

 

 オリヴェルが感心したように言うと、マリーはプッと吹いた。

 

「なぁに、それ? うまく怒らせる、って」

 

「だって、僕も昔そうだったけど、アドルもあんまり大声で怒鳴ったりするような感じじゃないでしょ? でも、何故かオヅマとしゃべってると、気がついたら大声で笑ったり、怒ったりできるんだよね」

 

 マリーはふーん、と兄とアドリアンを観察して、頷く。

 

「確かに…お兄ちゃん、才能あるかも」

 

「なに、ブツブツ言ってんだ、二人して。誰が才能あるんだ、これのどこが?」

 

 言葉尻だけを聞きつけたオヅマが不満げに吐き捨てると、マリーがしれっと言った。

 

「違うわよ。お兄ちゃんが人を怒らせる名人だって話してたの」

「はぁ?」

「正しくは、()()()人を怒らせる、ね」

 

 オリヴェルが付け加えると、オヅマは眉を寄せ、背後にいたアドリアンは顎に手をやって思案した後に、「確かに」と頷く。

 

「なんだよ、三人して!」

 

 オヅマはムッとなって、隅にあるソファに寝転んだ。

 ちなみに三人がいる場所は、領主館の中で中規模の式典やパーティーなどが開かれる広間の一つだ。

 

「もー、俺知らねーし。そんなオッチョコチョイの世話、これ以上見てられっか、っての」

 

「………拗ねた」

「拗ねたね…」

「忍耐力のない奴だ」

 

 三人から静かに抗議されたが、オヅマは無視した。

 対番だからといって、祭りの踊りまで教えてやる義理はない。

 

 事の起こりは、前日の早春の祭りで起きた些細なイザコザだった。いや、ちょっとした子供同士のケンカというか…あるいは普段は抑制のきいたアドリアンが、めずらしくムキになった、と言ってもいい。

 

 もっともそうなったのも、オヅマの売り文句のせいではあったのだ……。

 

 

 

 

 季節は春に向かっていた。

 大帝生誕月に入り、領府では五日市に合わせて祭りが行われる。

 

 レーゲンブルトの領民にとっては、一年の中で、なんであれば新年の祝いよりも待ち遠しい早春の祭り。

 大帝生誕祭。

 オヅマ達は、先日、五日に行われた前祭りにヴァルナルとミーナ、警護の騎士達と共に、四人の子供達全員で出かけたのだ。

 この時期になると大雪が降ることもなく、祭りの前ということで街の人々や騎士団総出で雪かき作業が行われることもあり、オリヴェルも車椅子に乗って出掛けられた。

 

 こうしてオリヴェルは生まれて初めて、毎年領府で行われていた春祭りに参加することができたのだった。

 去年までは遠くから聞こえてくる楽しげな音に肩を落とすだけだったのに、今年は父もいて友達までもいる。その実感にオリヴェルは泣きそうになりながら、笑って過ごした。

 

 中央の広場には、祭りに合わせて特別に許可された様々な露店が並び、四人の子供達はそれぞれに楽しんだが、大帝の雪像を中心に周りを囲んで円舞が始まると、ぼんやり見ていたオヅマとアドリアンを同じ年頃の少女達が誘った。

 

「いいじゃないか、行ってこい」

 

と、ヴァルナルに言われて二人は最初、戸惑いながら踊りの輪に加わったが、すぐに周囲の振りを見て覚えたオヅマに対して、アドリアンはなかなか覚えられないようだった。

 一周してもまだ足元が覚束ないアドリアンは早々に輪から出たが、オヅマはどんどん早くなっていく音楽に合わせて、器用に踊っていく。

 最終的に輪が小さくなって、十人ほどになって音楽が止むと、それぞれが大人子供関係なく残った自分たちを称え合って別れた。

 

「天才って言われたー!」

 

と、嬉しそうに頬を上気させて戻ってきたオヅマは、気まずそうなアドリアンを見て薄ら笑った。

 

「早々と逃げ出しやがって。もうちょっと粘れよ」

「仕方ないだろ。僕は君と違って、ここは地元じゃないんだ」

 

「俺だって今日が初めてだよ。村じゃこんな踊りなかったし」

「そうだとしても、見たことくらいはあるんだろ。地の利は君にある」

 

「たかだか祭りの踊りに地の利もクソもあるか。やる気の問題だろ、やる気。どこぞの誰かさんが、剣舞の時にさんざ人をシゴキまくって言ってたよなぁ」

 

 アドリアンはジロッとオヅマを睨みつけた。

 

「剣舞と祭りの踊りはまったく違うだろ!」

「体動かすのは一緒だろうが」

「剣舞は剣技として役に立つけど、祭りの踊りは別に踊れなくたって問題ない」

 

 ツンと言い返したアドリアンに、ヴァルナルは苦笑しつつも、それとなく指導する。

 

「オヅマのように、早く踊る必要はないが、自分の身体を自在に動かせるようにしておくことは重要だぞ、アドル。踊りは柔軟性と俊敏性を育てる。決して、無駄にはならない」

 

 アドリアンは憮然となってつぶやいた。

 

「……覚えろってことですか?」

「これは命令じゃない。助言だ。お前が必要ないと思うなら、無理強いはしない」

「…………」

 

 黙り込んだアドリアンに、余計な一言を言わずにおれないのがオヅマだった。

 

「おぅ。無理すんな。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()から~」

 

 

 ―――――斯くして。

 

 アドリアンはオヅマに次の本祭(十五日)までに踊れるようになるため、特訓を受けているのだが、教官は見て覚えろの一点張りだった。

 

 

 

 

「もー、しょうがないなぁ」

 

 マリーは椅子から立ち上がると、「ちょっと待ってて」と部屋を出て行った。しばらくすると、母のミーナを伴って戻ってくる。

 

「私と一緒に踊ろ、アドル」

 

 マリーが手を出しながら言った。アドリアンは目を丸くする。

 

「君と?」

「そ。お兄ちゃんほどじゃないけど、だいたい覚えてるから。ゆっくりやれば、アドルなら簡単に覚えられるわよ。それにやっぱ音楽がないとね。お母さんが笛を吹いてくれるから」

 

 言われて、ミーナははにかんだように微笑む。

 

「久しぶりだから、うまく出来るかわからないけれど…」

 

 そう言って、色褪せた朱色の袋に入っていた笛を取り出した。

 蔦の浮き彫りが施された象牙色(アイボリー)の横笛。村祭りで使用されるような、粗末な木の笛ではなく、専門の職人の作ったものとすぐにわかる。

 

横笛(トラヴェルソ)が吹けるのですか?」

 

 アドリアンは驚いた。

 趣味として楽器を楽しむ人は貴族に多いが、その中でも横笛(トラヴェルソ)は音を出すことすらも難しくて、手を出す人は少ない。

 アドリアンも一応、四弦琴(ヴィオローネ)を習ってはいるが、音楽にあまり興味がないせいで、他の習い事からするとあまり捗々(はかばか)しくなかった。そもそも、レーゲンブルトに来てからはまったく手もつけてない。

 

 しかし、その笛に興味を持って見ていたのはアドリアンだけではなかった。

 いつの間にかこちらに来ていたオヅマは、興味というにはあまりに切羽詰まったような顔で、ミーナの手にある横笛を凝視していた。

 

「……その笛…」

 

 オヅマはつぶやいた。

 

「お兄ちゃん、知ってるの?」

 

 マリーがきょとんとして訊くと、ミーナも笑いながら尋ねてくる。

 

「オヅマ、覚えているの? 小さい頃、何度か吹いてあげたけど…」

 

 だが、オヅマの脳裏にあるのは、母がその笛を吹いている姿ではなかった。

 

 ()が、また訪れる。

 

 

 一人で……母も亡くし、妹からも離されて、一人ぼっちにされたオヅマの手にあった家族の欠片。

 どうしようもない孤独の中で、唯一あった安らぎの時間は、母の(のこ)したこの笛だった。誰に習うこともなく、ただ必死に音を鳴らして、懐かしい曲を奏でた。

 

 ()()()()、それが死んだ母との会話だった。………

 

 

「お兄ちゃん?」

「オヅマ、どうしたの?」

 

 目の前で静かに泣いているオヅマに、マリーもミーナも驚いた。無論、アドリアンもオリヴェルも。

 

「………なんでもない……」

 

 オヅマは乱暴に涙を拭うと、足早に部屋から出て行った。

 





引き続き更新します。


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第四十三話 呼び起こされる痛み

 オヅマは苛立ちと悲しさでおかしくなりそうだった。

 

 あの笛。

 今の今まで忘れていたのに、目の前にした途端、知りたくもなかった事実を突きつけられる。

 

 あれは、ミーナのたったひとつの宝物だった。コスタスに見つかれば、すぐに売られてしまうだろうから…と、ずっと隠していた。ここに来る時に持ってきたのだろう。

 そのはずだ。あの時、()の中でミーナはオヅマに言ったのだから。

 

「ベッドの下に箱がくっついているわ。そこに、お母さんの大事なものが入っているの。それを持って、ガルデンティアに行って、…………様に見せなさい。()()と、あなたを見ればきっと……」

 

 オヅマは()の中の母を払った。

 もうあれは()だ。何も起きていない。母は父を殺してない。絞首刑になっていない。今、ここで、幸せに暮らしている。

 

 しかしオヅマが苛立つのは、一年が過ぎようとする今になって、古い()を思い出したことではない。

 あの笛が、()()()()()()()()()()()()であるということ、それが腹立たしいのだ。激しく嫌悪しているのに、オヅマはその理由を考えたくなかった。頭がまた痛くなってくる。

 

「クソッ………捨てればいいのに…あんな…モノ……」

 

 つぶやくと、またさっきの孤独な自分が浮かぶ。たった一人のオヅマを慰めてくれた相棒。最後まで捨て去れなかった唯一の…繋がり。

 

「…やめてくれ……」

 

 激しい頭痛にうわ言が洩れる。

 

 オヅマはフラフラと覚束ない足取りで小屋まで戻ってくると、ベッドに倒れ込んだ。

 

 痛い。痛い。頭が痛い。

 

 

 ―――――哀しげに、帝都の空へと響く笛の音。

 

 

 オヅマは耳を塞ぐが、幻聴はしつこく聴こえてくる。

 いや、あるいは母が吹いているのだろうか?

 

 『()』。

 

 これは、いったい何なのだ。

 本当に()なのだろうか。どうしてただの()がこうまで自分を引っ掻き回す? どうしてはっきりとした実感を伴って、こうまで自分に干渉してくる!?

 

 考えるほどに、痛みが増大する。

 頭も、耳も、目も、手も足も…もうどこもかしこも痛い。身体(からだ)が引き千切られそうだ。

 

 自分を包む闇の中で、オヅマはのたうち回った。

 

 永遠にこの痛みは消えないのか。

 永遠にこの掻き毟られる苛立ちを抱いて生きるのか――――……?

 

 嫌だ! 助けてくれ! 嫌だ…嫌だ……嫌だ……

 

「…ぅう……く……」

 

 息することすら苦しくなってきた―――――その時。

 

 

 ―――――オヅマ……

 

 

 柔らかく、自分を呼ぶ声。

 永遠に続くかに思えた苦痛が、突然、フイと消えた。耳を押さえていた手に、そっと触れる手を感じる。

 ゆっくりと耳から手を下ろすと、また声が呼びかけてくる。

 

 

 ―――――忘れていなさい、オヅマ

 

 

 闇と、太陽と、青い空の瞳が、自分を真っ直ぐに見つめている。

 

 夏の参礼で神殿に行った時に、水甕に現れた不思議な少女。

 勝手に訳のわからないことばかり言って、勝手に消えた。

 けれど今、あの煌めく花を宿した瞳は、オヅマの()()を吸い取っていくようだ………。

 

 助けを求めるようにオヅマは手を伸ばした。

 フッと、何者かが笑った気配を感じる。それからそうっとオヅマの手を優しくつつみ、滑らかな頬に押し当てる。

 冷たくて柔らかな皮膚の感触。

 

「…………」

 

 オヅマは彼女の名を呼んだ。けれどその名をオヅマは知らない。知らないはずの名前は、口に出すと同時に記憶から消えていく。

 

 濃稠(のうちょう)な闇の中で、彼女の姿はなく、ただ静かな気配だけがある。

 

 オヅマの目から涙がこぼれた。

 自分でも訳の分からない()に翻弄されていた自覚はあった。その()から逃げることしかオヅマはできない。

 

 自分が何をすればいいのか、何をしたいのか……

 

 

 ―――――生きたいように…生きて……。それでいいの……

 

 

 不可解な自分の状態をすべてわかった上で、その存在は受け止めてくれると、確信していた。

 まるで神様のような、けれど神様よりも近い位置で、オヅマを見守っていてくれる。

 

 ようやくホッと息をつくことができた。このまま()に追い詰められて、自分だけが狂っていくのかと、ずっと恐怖していた……。

 

 

 ―――――オヅマ………幸せ…?

 

 

 問われた答えを言う前に、オヅマは眠りに落ちた。

 心地よい安息の闇の中、久しぶりに何を考えることもなく、ぐっすりと眠った。

 

 

 

 

 目を開くと、アドリアンがいつもの表情の乏しい顔で覗き込んでいた。

 

「……起きたか?」

 

 オヅマはしばらくぼんやりとアドリアンを見つめた後、眉を寄せた。

 

「今、何時だ?」

「……もうすぐ夕刻からの修練が始まる時間だ」

「ヤバっ!」

 

 あわてて起き上がる。

 喉が渇いて軽く咳をすると、たっぷり水の入ったコップが差し出された。

 

「おぉ…」

 

 受け取って、一気にゴクゴク飲み干す。

 

「悪ぃ。……生き返った」

「大袈裟だな」

「うるせぇ。ちょっとは使えるようになってきたかと思ってホメてやったらこれだ」

「褒めた? 今のが?」

 

 アドリアンは聞き返しながら、内心ホッとする。どうやらいつものオヅマのようだ。

 腕を組んで皮肉な口調で言ってやった。

 

「人を褒めている余裕があるのなら、顔を洗ってから行くんだな。大泣きした赤ん坊みたいに涙の筋が残ってるよ。タロモン卿(*ゴアンの姓)あたりが、しつこく聞いてくるだろう」

 

「……っ、うっせぇなぁ」

 

 オヅマは急にさっきまでのことを思い出した。

 いきなり泣き出したオヅマに、きっと全員唖然としたことだろう。

 

 今日ばかりはあまり表情のないアドリアンが有り難かった。妙に心配されたり、同情されたら、たまったものじゃない。そもそも、どうして泣いてしまったかの理由も、もうおぼろげだ。

 

 盥に水を張って、オヅマは一瞬止まった。水面に映る自分をしばらく見つめる。

 一体、何を期待したのだろう。この水に誰かの顔が浮かぶことなど有り得ないのに。

 すぐにバシャバシャと顔を洗った。

 

「フン、だんだん口減らずになってきやがって。生意気なやつには踊りなんぞ教えてやんねーぞ」

 

 手拭いで顔を拭きながら言うと、アドリアンは澄まし顔になる。

 

「踊りの方は君の妹君にみっちり仕込んで頂いたから、もう完璧だよ」

「へえぇ。マリーにねぇ…」

 

 オヅマは言いながらちょっと意外だった。

 オリヴェルがよく許したものだ。最近は仲良くなってきたとはいえ、マリーがアドルを褒めるとひどく気分を害していたのに。

 

「オリヴェルも一節(ひとふし)だけ一緒に踊ったよ。祭りの日も輪に入らなければ踊れるかもな」

「なんだ、なんだ、お前ら…いつの間にそんなに仲良くなってんだよ」

「怒りっぽいお兄さんが行方をくらましている間だよ。さ、行くぞ。本当に遅れそうだ」

 

 オヅマはあわてて修練場に向かいながら、チラと隣のアドリアンを窺った。

 

 第一印象は湿っぽくて、嫌味なくらい大人びた、世間知らずのお坊ちゃんだと思っていたが、こうしてくだけた物言いをするようになって、気心が知れるようになると、アドリアンは十分に優しい性格だ。

 

 今も踊りの話をしながら、ミーナのことにも、ミーナの持ってきた笛のことにも触れない。

 オヅマがあの笛に何かしら触発されて泣いたことを感じ取ってくれたのだろう。

 わかっていて、あえて何も聞かないでいてくれることが、オヅマには有り難かった。

 

「……あーあ、()()かぁ…これ」

 

 小さくつぶやいたオヅマを、アドリアンは不思議そうに一瞥した。

 





次回は2022.07.17.に更新予定です。



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第四十四話 アウェンスの肉屋

 少し時間が戻って、おおよそ一月半前。

 薄墨空(うすずみそら)の月、中頃―――――帝都。

 

 アウェンスの肉屋の二階、中央の部屋は普段は閉じられていて滅多と開くことはない。そこに案内されるのは、肉屋で「豚のレバーを三百(もんめ)。血抜きはこちらで」と店のオヤジに頼み、「レバーパテでも作るのかい?」と聞かれて、「いや、塩蒸しにする」と答えた人だけ。

 塩蒸しは帝国ではあまり知られていない調理法なので、そもそもそんな言葉を普段の生活において使う帝国人はいない。

 これは二階の中央の部屋へ案内されるための符牒だ。

 

 その日、そこにやって来たのは、貴族にしては少々くたびれた格好をした青年だった。癖の強い栗茶の髪に、澱んだ赤褐色の瞳。何日も体を洗っていないのか、少々臭う。

 しかし、案内役である肉屋の女将は、腫れぼったい瞼を何度か瞬きしただけで、疲れたような表情に変化はなかった。

 

「こちらでお待ちを」

 

 久しぶりに開いた中央の部屋は、少し埃っぽかった。

 青年は眉を寄せて、ゴホゴホと咳き込む。

 内心、こんな狭苦しい汚い部屋で客を待たせるなんて…と憤慨していたが、肉屋も含めて周辺一帯は、自分の生きてきた世界とは隔絶した下層の者達の住む場所で、下手に文句を言った日には、まともな姿でここから出られる保証はない。

 

 案内されて座った椅子の前には、両替商で使うかのような大きな机が一つと、その向こうに革張りの背凭れ椅子が一脚。椅子の背後にある窓からは、すぐ隣の家の煙突と陰鬱な冬の空が見えるだけ。いっそその窓を開いて、この部屋の淀んだ空気を外に出したかったが、なにせ油断ならない場所で勝手に動くことは憚られた。

 

「………遅い…」

 

 青年は苛々と足を揺らす。コッコッコッコッ、と床に踵を打ち付けるたびに、埃がかすかに舞って、薄暗い部屋を浮遊した。

 時間が経つにつれ、青年は緊張で神経が逆だった。一体、いつになったら()()とやらは現れるのだろう? 窓の外の景色が夕暮れ近くになってきた頃、ようやく背後のドアが開いた。

 

 青年はビクリと立ち上がる。

 

「おぉ、客人。お待たせした」

 

 ドアをパタンと閉めて、日焼けした浅黒い肌と少し褪せたような赤毛の男が青年を不躾にジロジロと眺めた。

 青年はムッとして、男を睨みつけた。

 

「いったい、いつまで待たせる気だ? 僕はちゃんと君らの知り合いからの仲介でやって来た客だぞ」

 

 赤毛の男は無精髭をザリザリと撫でてから、慇懃に挨拶した。

 

「これはこれは、申し訳ございませんでしたな、若様。少々、連絡に行き違いがあった模様でございます」

「連絡を怠ったのは肉屋の男か?」

「………」

 

 青年の問いかけを、赤毛の男はニコリと笑って答えない。

 それから心の中でケッ! と吐き捨てる。

 どうもつまらない客のようだ。

 ()()()()()()に来て、こちらの内部事情をあけすけに訊いてくるなど、まったくわかっていない。

 確かに連絡役の肉屋夫婦はすぐに報告に来なかったが、新規の客を()()待たせるのは、その反応を見ることも含めてこの世界の常識だ。

 

 黒の革張り椅子に座ると、赤毛の男は笑顔を張り付かせて青年に向き合った。

 

「それで、どういったご依頼でしょう?」

 

 青年はいよいよとなった途端に、また緊張で顔が強張った。

 ゴクリと唾をのんでから、余裕のあるところを見せようと笑ってみせたが、右の口の端が少し上がっただけだった。

 

「こ…子供を…殺してほしい…」

「ほぅ、子供?」

「そうだ! 子供を殺して……」

 

 青年は急に大声で叫んでから、逡巡するかのように落ち着きなく目を動かした。

「いや……」とつぶやいて、手指の爪を噛み始める。

 

 赤毛の男はそれとわからぬようにため息をついた。

 おそらくこうした依頼をすることも始めてならば、誰かを直接的にしろ間接的にしろ殺したこともないのだ。殺人を依頼する程度で、こうまで落ち着きをなくすなど。

 しかし、一応はここを聞き出してきた『客』であるから、それなりの接遇をせねばならない。

 

 赤毛の男は相変わらず笑みを浮かべて、続きを促す。

 

「どうされました?」

 

 青年は親指の爪をしばらく噛んでいたが、男の声でハッと顔を上げた。

 

「あ、いや……殺すのは……いい」

「では依頼はなかったことに?」

「いや。殺すのは僕が…直接、やる。お前達は、その子供を誘拐してきてほしい」

「依頼は誘拐、ですな」

 

 赤毛の男は確認する。

 青年が頷いた。

 

「まずは前金として五十(ゼラ)。成功報酬として百(ゼラ)

 

 青年は眉を顰めた。

 

「高くないか? たかが誘拐だぞ。殺すのを頼んではいない」

 

 赤毛の男は笑っていたが、その口の端がニイィと吊り上がった。

 

「若様、誘拐というのは…案外と、殺人よりも面倒なものなのです。なにせ()()()()()()()というのは、色々と危険が多い。誘拐された方は当然探し回るし、誘拐された当人も逃げようとする。こちらはその為に色々と手配が必要でね。つまるところ、人件費がかかるんです」

 

 丁寧な口調ながら、赤毛の男の醸し出す異様な迫力に、青年の顔が強張った。

 

「……わかった。しかし、今は三十(ゼラ)しかない。成功した場合は百七十払おう」

「ふむ…しめて二百(ゼラ)ですか……」

 

 青年の申し出に赤毛の男はしばし考えた後に、いかにも如才ない商人然とした笑顔に戻る。

 

「ようございます。それで、誘拐する子供というのは?」

 

 そこで青年はまた、片頬だけをヒクヒクと動かして笑った。

 

「あ…あぁ……アドリアン……アドリアン・グレヴィリウス小公爵だ」

 





引き続き更新します。



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第四十五話 エラルドジェイ(1)

「エラルドジェイ、仕事だ」

 

 その声を聞いた途端、エラルドジェイと呼ばれた男は、紺色の髪を物憂さげに掻き上げた。髪と同じ濃紺の瞳がジロリと赤毛の男を見つめる。

 

「さっきの客?」

「そうだ」

 

 赤毛の男は、青年の前の笑顔が嘘であったかのように、強面を微動だにさせない。

 エラルドジェイはふあぁ、と大あくびをして、床に直に置かれた皿からナッツをつまんだ。ボリボリ食べながら、いつの間にかとりだした胡桃の実を二つ、ゴリゴリと掌で回す。

 

「珍しいな、ニーロ。あんたがあんな阿呆そうな客の依頼を請けるなんて」

 

「どうせ、勘当でもされた下級貴族の放蕩息子か何かだろうが、一応、念のために調べとけ。今はピグルボにあるアーケンシの親爺がやってる壺宿(つぼやど)にいる」

 

 ニーロ、と呼ばれた赤毛の男は命令して、どっかと椅子に腰掛けた。

 

 ピグルボはここから大通りを挟んだ、運河沿いに東西に長く伸びた街の一画だ。

 帝都を流通するあらゆる荷物をここで荷分けするため、広大な集積地の周囲に商人や、運河を行き来する箱舟(ゴンドラ)の船頭達の居住区がある。

 壺宿はあまり金のない商人や、冬から春の間だけやってくる季節労働者達が宿泊する簡易な宿泊施設で、小さい部屋にはベッドが一つきり。あくまで寝るだけの部屋で、虫や鼠が這い回るような、ありがちな安宿だった。

 

「なんだよ、()けさせたんなら、そのまま調べてこりゃいいじゃないか」

 

 エラルドジェイが面倒そうに言うと、ニーロはジロリと睨んでぼそぼそ言い訳する。

 

「生憎、尾行が精一杯だ。新入りだからな、襤褸(ボロ)でも出されちゃ困る。せっかくの金づるを……」

 

 三ヶ月前に、ちょっとだけ見どころがありそうな孤児の坊主を雇って養成しているようだが、三ヶ月してまだ尾行が精一杯とか言うなら、あまり役に立ちそうもない。 

 

 エラルドジェイは大きなため息をついて尋ねた。

 

「いくらで請け負ったんだよ?」

「とりあえず、前金で三十」

(カーク)?」

(ゼラ)だ」

 

 エラルドジェイは目を丸くした。

 

「三十(ゼラ)だって? 一体、どこの大物を始末するように言われたんだ? 勘弁してくれよ。俺は命張った仕事なんぞする気はな~いぜ~」

 

 ニーロはニヤリと笑って、無精髭の生えた顎を撫でさする。

 

「大した仕事じゃねぇ。殺しでもないんだからな。坊やの誘拐さ」

子供(ガキ)の誘拐? それで三十(ゼラ)? うーわ…このオッサン。ボりやがって」

「知ったことか。相場を知らない馬鹿が悪いんだよ。向こうが言ったんだからな、今は三十。後金で百七十だ」

 

 エラルドジェイはナッツをガジリと噛み砕いて、渋い顔になった。

 

「嫌だなぁ…そんなので二百(ゼラ)だって? 嫌な感じだよ…」

 

「泣き言言ってんじゃねぇよ、エラルドジェイ。この平和ボケした国じゃ、俺らみたいな商売を必要とする貴族なんぞ、そうそういやしねぇ。来るのはゴミみたいな街で、お山の大将気取ってケチな勢力争いばっかりしている奴らの、ケチでしみったれた依頼だけさ。親分連中の暗殺ごっこで、チマチマ稼ぐしかないのに比べりゃ、ガキ一人誘拐して二百金。こんないい仕事ないだろうぜ」

 

「ンなこと言って、貴族相手の仕事にゃ用心に用心を重ねないといけない…って言ってたのは、どこの誰だよ」

 

 現皇帝の即位に至るまでの政争で、こうした暗殺や誘拐、時に汚職の捏造なども行う闇ギルド組織は、貴族間において大いに利用されたのだが、皇帝即位で事態が終了すると同時に、現在の宰相であるダーゼ公爵によって、徹底的な闇ギルド狩りが行われ、帝都に大小合わせて五十近くあったこうした組織は根こそぎ壊滅させられた。

 

 そのためニーロは貴族が関わる案件については、非常に慎重だった。

 皇帝の代替わりから数年後に発足した、自分のような後発の弱小闇ギルドでさえも、帝都の治安維持部隊―――通称、鷹の目―――に目をつけられたら、その時点で徹底的に叩き潰されることは間違いない。

 

「だから、調べてこいと言っているんだ。ちょっとでもあの、白髭宰相と関わりがあるようなら、手を引くさ」

 

 帝国宰相のダーゼ公爵は当年取って五十歳になるが、見事な白髭の持ち主で、庶民からは白髭宰相と呼ばれている。そこには皇帝を支えて長く平和な施政を行っているダーゼ公への尊敬や好意と一緒に、一部の不満分子からの皮肉も込められている。

 

「誘拐するのが宰相閣下の一人娘なんてことじゃないだろうな?」

 

「そんなもん千(ゼラ)積まれたってお断りだよ。誘拐する子供(ガキ)の名前はアドリアン・グレヴィリウス。グレヴィリウス公爵家のお坊ちゃんだとよ」

 

「長たらしい名前だな」

「お前が言うな」

 

「で、下級貴族のお坊ちゃんがなんだって、その公爵家の坊やを誘拐したいのか…ってのを、()()探ればいい訳だな?」

 

 依頼人に対して、その依頼の動機を訊くことはタブーである。

 そもそもそこに関心などもないし、依頼人の言葉が()()であるという保証もない。

 そのため、依頼があった場合、ある程度の情報は自分で探るのが鉄則だ。

 

 貧民街にたむろする連中の縄張り争い程度のことであれば、普段からの情報で概ねわかっているので、特に調査する必要もないが、今回のように新規の、まったくこれまでとは違う貴族相手となれば、それなりに調べる必要が出てくる。

 あるいは治安組織の罠である可能性もあるからだ。

 

 エラルドジェイはようやく立ち上がると、手早く白い布を紺の頭に巻きつけ、パチリと端を猫の形のブローチで留めた。

 そのまま出口へと歩きかけて振り返る。

 

「その男のシュミは? 女? 男?」

「おそらく女の方がいいんじゃないか?」

「じゃあ、娼婦(ねえ)さん達に頼もうかな。五十(カーク)ほどは必要経費だよな?」

 

 ニーロはニヤリと笑って頷いた。

 

「いいともさ。俺ゃ、今気分がいい」

 

 

 

 

 

 

 その後、エラルドジェイに言い含められた娼婦によって、その青年の目的が大まかには知れた。

 

 彼の名前はダニエル・プリグルス()伯爵。

 どうやらダニエルはグレヴィリウス公爵家に連なる家門の女性と婚約していたそうなのだが、グレヴィリウス公爵の逆鱗に触れた為に、婚約は破棄され、隠居していた父が伯爵位を再承継して、自分は実家からも追い出されたらしい。

 その原因をつくったのが、十歳になるアドリアン・グレヴィリウスだと信じきっているようだが、

 

「どー考えても、たぶん、八つ当たり? みたいな感じよね」

 

と、エラルドジェイに報告してくれた娼婦は呆れたように言った。

 

「ふぅん…なるほどねぇ」

 

 煙管(キセル)をふかしながらエラルドジェイはやれやれ…とため息をつく。

 

 貧民街(スラム)の不毛な縄張り争いの次は、頭の弱い青年貴族の気晴らしに付き合わねばならないとは…なんだって自分はこんな仕事をしているのやら。

 

「ただ、金回りは良さそうだったわよ。勘当されたけど、お金はたんまり持たされたみたいね。私、チップで一(ゼラ)も貰っちゃった!」

「そりゃあ、御大尽だね」

 

 ぼんやりした様子で相槌を打ちながら、エラルドジェイは素早く考えを巡らせる。

 

 勘当された貴族のお坊ちゃんが金を持たされた? 少々、奇妙な話だ。

 もっとも、父親は勘当を言い渡しても、甘い母親なんかが憐れんで、自分の指輪なんぞを息子にやることもないではない…。

 

 疑問を解消するために、エラルドジェイは次の日にはダニエルを勘当した(正確には伯爵身分を剥奪されて追われた)というプリグルス伯爵家についても調べたが、当主は確かに彼を放逐したが、母親は既に十年前に亡くなっていた。

 そもそも伯爵家ではあっても、特に後ろ盾となる有力貴族の傘下にあるわけでもなく、あまり金回りはよくないようだ。

 羽振りの良いダニエルの金の出処が実家である可能性は低い。

 

 その上で、今回の目的(ターゲット)であるアドリアン・グレヴィリウス小公爵について調べて、帝都から遠く離れたレーゲンブルトにいることを突き止めると、エラルドジェイは一気にやる気をなくした。

 

「冗談じゃないぜ。あんなクソ寒い田舎に行って、しかもガキ連れて、えっちらおっちら帰ってくるなんぞ! 途中で公爵家の騎士団にでも見つかって打首だ!」

 

 大声で喚き立てるエラルドジェイに、ニーロも頷く。

 

「そうだな。さすがにレーゲンブルトからこっちに連れてこいというのは、面倒だ。失敗の確率が高くなる」

「そうだろ!? そうだよな? じゃ、この仕事はご破算―――…」

 

「というわけにもいかない。三十はもらってるからな。しかし、後金の百七十が貰えるかどうかは微妙だな。金の出処があの若様じゃないとなれば、少々、面倒くさいことに巻き込まれる可能性もある」

 

「なんで面倒だってわかってる仕事に手を出すんだよ」

「………うまくいきゃあ、大口の取引先になるかもしれん。しかも、この先ずっとな」

 

 エラルドジェイはしばらく黙り込んで、首を右、左にカクンカクンと動かして、ニーロの思惑を探る。それから渋い顔になった。

 

「おいおいおい…勘弁しろよ、オッサン。公爵家に恩売って、取り入ろうってのか?」

 

 ニーロは自分の思惑を探り当てたエラルドジェイを見て、ニヤリと笑った。

 

「エラルドジェイ。皇家でなくたって、この国の貴族…大貴族ともなりゃ、そりゃあ…色んな輩が集まってくるんだろうぜ。うまいこと立ち回りゃあ、()()()()()恩が売れる。選ぶのは俺らだ」

 

「そう上手くいくかねぇ…?」

 

 ニーロの思惑としては、天秤にかけて()()()()と手を組みたい…というところだろう。

 

 今回の依頼をしてきたダニエルの背後には、おそらく現在の公爵家に敵対する勢力がある。公爵の跡継ぎであるアドリアンを始末すれば、彼らには有利になるのだろう。詳細は不明としても、現公爵を狙うよりは、小さな後継者を狙う方がやり易いと思うのは当然だ。

 

 だが、問題は奴らがさほどに()()()()()()()()()()()()()()()()()ことだ。

 本当に小公爵を片付ける気でいるのなら、自身で優秀な暗殺者を仕立てるはずだ。

 公爵の逆鱗に触れて婚約破棄された、およそ頭がいいとは言い難い甘ったれたお坊っちゃんに、いかな子供とはいえ公爵の継嗣をどうにかできるはずもない。

 ダニエル自身もそれがわかっているから、ここに頼みに来たのだろう。

 

 その上で、ニーロとしては、もし今回の誘拐が失敗した場合には、誘拐した小公爵を助けた(てい)で、公爵家への取っ掛かりを持ちたいわけだ。

 

「『紅玉(ルビー)』と『翠玉(エメラルド)』は一緒に取れない*1って言うぜ」

 

 エラルドジェイが言うと、ニーロはフッと笑った。

 

「まぁ、そうだな。昔なら尻込みしてたかもしれん。けど、もう俺の人生の折り返し地点はとうに過ぎてんだ。勝負に出るなら、今かもしれん」

「何言ってんだ、アンタ」

 

 巻き込まれるエラルドジェイはたまったもんじゃない。吐き捨てたが、じっと見つめてくるニーロの目に負けた。

 

「俺はそんなに器用に立ち回れるかわからんぜ」

「逃げる時にゃ、全速力で逃げな。俺も、そうする」

「……ったく。なんだってここへきて勝負に出るかねぇ、オッサンは」

「オッサンにはオッサンの浪漫があるのさ。若造にゃ、わからんて」

 

 そう言って、ニーロはいつものように無精髭を撫でさする。その楽しそうな様子を見て、エラルドジェイはため息まじりに腹をくくった。

 

 奴隷として売られ、気まぐれな主人の折檻で半殺しにされ、汚泥の中で死にかけていたエラルドジェイを拾って育ててくれた恩人だ。まともなことは教えてくれなかったが、それでも無事に十八になるこの年まで生きてこれた。

 このまま捨てて逃げても、きっとこの男が文句を言うことはないだろう。だが、恩人を捨て去るような薄情者に自分はなれない。

 そう育てたのも、この男だ。

 

「仕方ねぇ。とりあえず、あの馬鹿若様を連れて、レーゲンブルトまで行くさ」

 

*1
二兎追う者は一兎も得ず、の意





次回は2022.07.20.更新予定です。



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第四十六話 嚆矢――火事

 大帝生誕月、満月の日。

 

 オヅマは()()()から一年が過ぎたことを思い出し、少しだけ感慨にふけった。しかし、コスタス()のことを思い出す前に、早々に回想を消し去った。

 あの時も今も、大事なのは母と妹が幸せで過ごしていることだ。それだけで、自分もまた幸せなのだから。

 

 その日は十五日の本祭の日で、マリーから祭りの踊りの特訓を受けたアドリアンが、いよいよ練習の成果を見せることになっていた。

 

 朝はまばらだった人も、昼過ぎになって流れ者の鳴物師達が賑やかに通りを巡り始めると、皆いよいよかと家から顔を出し、あわてて祭りに出て行く準備を始める。

 娘達は髪を梳って結い上げ、若者は目当ての娘に贈るための花冠を物色し、旦那達は仕事を早々に切り上げて麦酒を呷り、女房達も作り置きの料理を作った後には見慣れぬ露店を冷やかして回る。

 

 前祭りの時と同じように子供達四人とヴァルナル、ミーナと護衛のパシリコ以下騎士四人で祭りの広場に向かう途中で、領主館からあわてて出て来たのはカールだった。

 

「領主様!」

 

 呼び止めてから、目をかすかに伏せ内密の話だと告げる。ヴァルナルはカールに近寄って事情を訊くと、少しだけ眉を寄せた。

 

「火事だと…?」

「古い小屋でしたので火の回りが早く、今、消火しておりますが…」

 

 カールが伝えに来たのは、領主館の敷地内でちょっとした火事が発生したことだった。

 まだ原因等も不明ではあるが、失火にせよ不審火にせよ、一つ間違えれば大事になるため、すぐさまヴァルナルに報告に来たのだ。

 

 しばらく考えて、ヴァルナルは少し離れた場所でこちらを心配そうに窺う四人の子供達とミーナを見た。

 これで、念のため外出は中止しよう…などと言おうものなら、子供達の落胆は明らかだ。それに、消火がされていたとしても、領主館が安全である確認はまだ済んでいない。

 

 ヴァルナルは待っているミーナ達の元へと向かうと、少し残念そうに言った。

 

「すまぬが、領主館に仕事を残してきたようだ。すぐに向かうから、先に行ってくれ」

「何かあったんですか?」

 

 オヅマはカールの表情で、何か異変があったのを感じていた。しかしヴァルナルは安心させるように笑って、オヅマの肩を軽く叩く。

 

「なに、すぐに片付ける。お前達の踊りも見届けなければな。アドルがマリーに教えてもらったというし」

「でも…!」

「頼むぞ、オヅマ」

 

 ヴァルナルはそれ以上言わせず、カールと共に領主館に戻っていく。途中でパシリコを指で呼び寄せた。

 

「関係ないとは思うが、小公爵様から目を離すな」

 

 素早く指示すると、パシリコは「ハッ」と短く返事する。

 すぐさまオヅマ達のところに戻ってきたパシリコは、慣れない笑顔で促した。

 

「さ、参りましょう」

 

 子供達は釈然としないながらも、祭りの中心となっている広場へ向かって歩き出した。

 

「せっかくの祭りだから、楽しみましょう」

 

 ミーナが気分を変えるように弾んだ声で言ったが、オヅマは肩をすくめた。

 

「んなこと言ったって、気になるよ」

 

 チラ、と斜め前を歩くニルスを見る。

 ヴァルナルがいなくなった途端、まるで子供達を守るように騎士達が四方を固めて歩いていた。無論、オリヴェルがいるからだろうが…少々警備が厳しくないか? 

 いまだに『アドル』の正体を知らないオヅマからすれば、それは当然の疑問だった。

 

 ミーナは元気のなくなった子供達を見て、ハタと思いついた。

 

「そうだわ。せっかくだから、領主様がいない間に、領主様への贈り物を選ぶのはどうかしら?」

「父上への…贈り物?」

 

 オリヴェルが聞き返すと、アドリアンが珍しく明るい笑顔になった。

 

「それはいい! いつもヴァル……領主様には世話をかけているし、お礼がしたいと思っていたんだ」

「わたし、領主様にプレゼント選ぶ!」

 

 マリーが楽しそうに手を上げると、オリヴェルの顔にも笑顔が戻る。

 

「そうだね! 皆で選ぼう。あ、ミーナも手伝ってね。父上が喜びそうなもの、何がいいか教えて」

「……領主様は母さんが選んだものだったら、何でも喜ぶだろ……」

 

 オヅマは白けた顔でつぶやいたが、賑やかな祭りの音にかき消された。

 

 広場にはこの日だけ出店を許可された露天商が立ち並んでいた。

 色とりどりの布を店先に並べ、帝都で流行(はや)っていると通りかかる女達に声をかける布売り。小さなけし粒が沢山入った鉄鍋を火にかけながら、時折砂糖水をかけて、グルグル回している金平糖売り。大釜にたっぷりの茶を作り、素焼きの小さなコップで提供している茶屋。子供達が群がっている独楽(コマ)売りの前では、店主が見事な技を披露して、拍手喝采を浴びていた。

 

 その中の一つに、木彫りの仮面を売っている店があった。

 仮面といえば、たいがい子供達が面白がって買うものであったのだが、そこに並んでいる仮面は精巧過ぎて、おそらく売っている主のこだわりが強いのか値段もまぁまぁしたので、閑古鳥が鳴いていた。

 

「いいね……この仮面、もらえるかい?」

 

 丈の長い薄鼠色のマントに目深にフードを被った男が、並べられた仮面の中から、今年の瑞鳥である雀の面を差した。

 店主は仏頂面のまま、ジロリと男を睨んで愛想なく言った。

 

「二十(ガウラン)。びた一文負けないぞ」

「構わないよ」

 

 男は五十ガウラン銅貨をピンと指で弾き、銅貨が店主の掌に落ちる寸前に、雀の仮面を取った。

 店主が金を確認し、驚いて顔を上げた時には、既に男の姿はなかった。

 

 

 

 

「おい、ヴァルナル・クランツが館に戻ったぞ。どうやら()()()()()()()()()みたいだな」

 

 ダニエルが横柄な口調で話しかけてきて、まるで自分がうまくやったかのように胸を反らす。

 エラルドジェイはさっき買った雀の面を片手に持ちながら、軽くため息をついた。

 

「それは良かった。役立たずでなくて」

 

 その言葉の後に『誰かさんと違って』と言いたいのをこらえる。

 帝都から、この北の果ての辺境に来るまで二十日近く、この男と一緒に旅をしてきた自分を褒めてやりたい。

 





引き続き、更新します。


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第四十七話 エラルドジェイ(2)

 ニーロの賭けに乗った後、娼館に入り浸っているダニエルを訪ね、レーゲンブルトに一緒に行くように()()すると、当然ながら彼は反吐が出そうな顔でエラルドジェイを睨んだ。

 

「冗談じゃない。何のために()()()()()()()()に頼んだと思ってるんだ? レーゲンブルトなんて辺境のクソ寒いところに行きたくないから、大金を払ってやったのだぞ。それなのに、なんだって僕が行かねばならないんだ?」

 

 案の定の反応ではあった。

 そりゃあ、こんな場所にいて、北の果てに行こうなんぞと言われたら、普通は断るだろう。エラルドジェイが反対の立場でも、ふざけんなと叩き出すところだ。

 しかし、こちらは物見遊山に誘っているわけではない。

 

「今回の依頼は誘拐です。拉致して、二十日以上かけて移動するとなれば、発見される可能性は高くなる。追手はなかなかに面倒な相手ですしね」

 

 誘拐してすぐに帝都に運べる魔法でもない限り、あのレーゲンブルト騎士団を出し抜いて小公爵を連れ去るというのは至難の業だ。

 

「それをどうにかするのが、お前らの仕事だろう?」

 

「私共も仕事は成功させたいと考えております。その為には、一番確実で安全な方法を取る。最終的に、()()()()()を叶えるのであれば、なおのこと、帝都まで連れてくるより、辺境の田舎で始末した方が無難だと思いますよ」

 

「フン。お前達が無能だと御託を並べているだけの気がするがな」

 

 エラルドジェイはすぅぅ、と頭から冷たい血が流れていくのを感じた。

 ベッドの上で寝そべって様子を窺っていた女は、薄布を羽織って、ベッドから降りた。

 そのまま無言で出て行く女に、ダニエルはあわてて立ち上がったが、声をかける間もなくエラルドジェイに首を掴まれ、ベッドに押し倒された。

 

「……わからん人だな、アンタ。こういう事を頼むのなら、自分がどういう立ち位置にあるのかをわかった上で行動するもんだ。金さえ出せば、俺達が唯々諾々と従うとでも思ってるのか? 俺はここでアンタを殺して、そのままアンタの持ち金を奪うこともできるんだぜ?」

 

 無論、ハッタリである。

 こんなところで、依頼人を殺して金を奪ったとなれば、信用は一気にガタ落ちだ。

 しかし、依頼人と請負屋の関係を主従か何かと勘違いしている世間知らずの若様には、少々キツめに言っておいたほうがいいだろう。

 

 脅迫しながら笑顔を貼りつかせているエラルドジェイがよほどに薄気味悪かったのか、ダニエルは必死で頭を振って謝る素振りを示す。

 エラルドジェイは首から手を離すと、ベッドから降りた。

 酷薄な光を浮かべた濃紺の瞳が、ゴホゴホとむせるダニエルを見つめる。

 

 大きく開いた袖口に手を引っ込めて、再び出てきた手の中には胡桃が二つあった。ゴリゴリと手の中で弄んだ後、パキリといともたやすく割る。ボロボロと、エラルドジェイの手の中から落ちていく胡桃の殻を、ダニエルはぽっかり口を開けて見つめていた。震える手が無意識に先程まで押さえられていた首に触れる。

 

「ダニエル・プリグルス…」

「な……な、なぜ僕の名前を……」

 

 急に名前で呼ばれて、ダニエルはあからさまに動揺した。

 なぜ、教えていないはずの自分の名前を知っている…?

 

 いつまでもベッドの上で情けなく自分を見上げているダニエルの襟を掴んで強引に立ち上がらせると、エラルドジェイは耳元で囁いた。

 

「……()()に自分の手柄を示したいなら、それなりの労力を見せた方が、相手の心証は良くなるものさ。金をもらうってのは、そういうことだ。言ってる意味、わかるかい?」

「…………」

 

 ダニエルはブルブルと震えるばかりで、理解できているのかはわからない。

 エラルドジェイは狡猾な笑みを浮かべ、ダニエルを抛り出した。

 

「で、どうする? やめるか? まぁ、やめてもらっても俺らは特に問題はない。アンタが思ってるように、下層のゴミ屑みたいな存在なんでね。ただ、アンタに金をくれた奴は、()()()()()()()()()()()()()()()に、容赦はないと思うがね。それは、アンタの方がよくわかってるんじゃないのかい?」

 

 金を受け取った時点で、既にダニエルの未来(さき)は知れていた。

 目先の金に心を奪われて、この男は浅はかにも自分を売ったのだ。売ったという自覚もないままに。

 今となれば、ダニエルが肉屋に来たのも、自分で情報を手に入れたのではなく、仕向けられたと考えた方が自然だろう。

 この男はもはや完璧に操られている。その小公爵とやらを殺さねばならないという狂気じみた思考も含めて。

 

 エラルドジェイはダニエルと向き合いながら、素早く計算して、この仕事が終了したら早々に、しばらく身を隠すべきだと思った。

 成功の是非を問わず、どうせこの男は遠からず消される運命だ。

 こちらとしては、金だけもらってトンズラして、しばらくは大人しくしてやり過ごすのが一番穏便に済む。

 ニーロにも伝えた方がいいだろう。いや、ニーロであればそれくらいのことは、もうわかっているか。

 

「…………わかった。レーゲンブルトに行く」

 

 ダニエルは白い顔で了承した。

 もはや自分が後戻りできないところまで来ていることを、ようやく悟ったようだ。

 

 

 

 

 斯くして、エラルドジェイは帝都からレーゲンブルトまでの長い道中、この気位ばかり高くて鼻持ちならない厄介者のお守りをせねばならなかった。

 途中で何度か殺して金を奪って逃げようかとも思ったが、無論、そんなことは出来ない。

 商売の信用を失う…ということだけでなく、()()が中途半端に足を突っ込んだエラルドジェイやニーロの口を封じる可能性がある。

 この男は防波堤だ。

 最後まで生かしておき、一連の事件の首謀者として()()()()()()()()()、あの世に持っていってもらわねばならない。

 





続いて更新します。


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第四十八話 ネストリの選択

 エラルドジェイがレーゲンブルトに到着して、すぐに小公爵の所在は知れたが、手出しするのは難しかった。

 

 勇猛果敢をもってなるレーゲンブルト騎士団は、ただの力自慢の集まりでなく、団長であり領主のヴァルナル・クランツの下、よくまとまった隙のない集団だった。

 領主館内で小公爵を誘拐することは難しい。

 

 そう考えていたエラルドジェイには有難いことに、季節は大帝生誕月を迎えて、レーゲンブルトのような田舎町でもそれなりに賑わう祭りが行われるようだった。

 

「五日の前祭に、領主のヴァルナル・クランツが子供らと一緒に祭りの広場に来るようだ。その中にアドリアンもいる」

 

 ダニエルが領主館内にいる協力者から情報を得たのは、到着して三日後のことだった。どうやらダニエルが本腰を入れて、レーゲンブルトに行くことを知ると、黒幕の方から協力者の情報を教えてくれたらしい。

 

 エラルドジェイは詳しく訊くことは避けた。過剰な情報は、身を滅ぼす。仕事に必要なことだけわかればいい。

 

「そうですか…」

 

 エラルドジェイはその日は動かなかった。

 注意深く領主達一行を観察して、じっくり手筈を練る。

 

 領主ヴァルナル・クランツをどうにかせねばならない。

 あの男は相当の手練(てだれ)だ。さすがは黒杖の騎士なだけある。彼がいる限り、手出しが出来ない。

 

 離れた場所から、仲睦まじい領主一行の話に耳を澄ました。

 常人であれば不可能な集中力で、周囲のざわめきを消して、彼らの声だけを聞き取る。

 

 どうやら彼らはまた十五日の本祭の日にやって来るらしい。(くだん)の小公爵は広場で行われた群衆円舞で上手に踊れず、同行していた亜麻色の髪の少年から、散々な言われようだった。

 少年の小気味よい口ぶりが、エラルドジェイには面白かった。この少年はきっと目の前の黒髪の少年が、公爵の継嗣だと気付いていない。

 グレヴィリウス公爵は息子を一騎士見習いとして扱うように言ったらしいが、ヴァルナル・クランツは馬鹿正直にそれを実行しているらしい。

 子供達四人がとても親しげに会話するのを聞いて、エラルドジェイはうっすらと笑った。どうにか…やれそうだ。

 

 手ぶらで戻ってきたエラルドジェイに、ダニエルは一気に苛立った。

 

「なんだ、収穫なしか? 大口を叩いていたわりに、なにもできないんだな」

「………そう思います?」

 

 低い声で問いかけたエラルドジェイと目が合った途端、ダニエルは娼館での出来事を思い出したようだった。さっと顔色が変わって、卑屈な笑みを浮かべた。

 

「いや…その……き、期待していたんだ。それでついカッとなった……」

 

 依頼する者と、請負う者。―――――

 ダニエルはこの関係性を度々、勘違いする。

 最初の忠告から、旅の間も何度か言い聞かせてやったというのに、まだわからないらしい。本当に、馬鹿すぎて虫酸が走る。

 

「構いません。期待されているのは、嬉しいですからね。さて、色々と準備が必要になってきました。まず金が要りますので、用意して下さい」

 

「ま、またか?」

「必要経費です。ここまで来て、失敗してもよろしいので?」

 

 軽蔑するほどに、エラルドジェイの口調は丁寧になった。

 内心で吐き捨てる。

 くどくどと文句を言わずに、お前は金だけ出せばいいのだ。

 

 ダニエルは不承不承に頷いて、荷物の中から小袋を一つ取り出す。中には金貨が入っていた。エラルドジェイは確認してから、ダニエルに指示する。

 

「領主館の方に伝言しておいて下さい。十五日の日に、領主が子供達と一緒に外出できぬようにしろ、と」

「は? どういうことだ?」

 

「言ったことを言ったままやってもらうだけです。領主と子供達を離すように……そうだな……半刻(30分)ほどでいいです。とにかくヴァルナル・クランツを領主館に足止めして、子供らだけで祭りに行くようにさせて下さい」

 

 

 領主館で、ダニエルからのその伝言を受け取ったのは、ネストリだった。

 

 

 

 

 ひと月ほど前のこと。

 

 ネストリは、いつも世話になっている帝都の商人から手紙を渡された。差出人の名前は自分の兄であったが、中に入っていたのは別人からの手紙だった。

 

 アルビン・シャノル。

 元グレヴィリウス公爵家の継嗣であったハヴェルの乳兄弟で、今は執事として彼のそばについている。当然、ハヴェルの従僕であったネストリとは知己であり、懐かしい友でもあった。

 

 小公爵がレーゲンブルトに来たことで、何かしら自分に言ってくるだろうとは思っていたが、果たして書かれていた内容の曖昧さにネストリは首をひねりながら、考え込んだ。

 

 アルビンが要求してきたことは一つ。

 

『これから人がそちらに向かう。頼みを聞いてやってほしい』

 

 それだけ。

 

 それからしばらくして、領主館近くの両替商にあるグレヴィリウス公爵家が所有する私書箱に書簡を取りに行った中に、ネストリ宛の私信が入っていた。

 緑色の封筒には、両替商の手を経た時に押される印判がない。おそらく誰かがここに来て、直接入れたのであろう。私書箱を借りている商人は多いので、なりすまして両替商に入り込むことは難しくない。

 

 その手紙には、今後のやり取りの方法が書かれてあった。

 曰く、あちらからの手紙は今後もこの私書箱に届くこと。ネストリが連絡をとる場合は『十一番』の私書箱に手紙を入れること。

 

 十一番の私書箱は公爵家の私書箱の左隣一つ下だった。

 私書箱には投函用の口と、鍵で開ける受取口があったが、ネストリが公爵家の私書箱の手紙を取るついでに、その十一番の私書箱に投函するのは容易であった。

 

 ちなみに両替商にはこの時、簡易な郵便設備も併設されていた。

 使用は富裕商人や貴族に限られていたが、彼らにとって各自に点在する両替商の持つ伝達能力は極めて有用であったので、為替などの取引以外にも、私信を頼むようになった。

 

 領主館における執事の仕事の一つに、この両替商にある私書箱の手紙を取りに行くことも含まれていた。(受取口の鍵はネストリとヴァルナルだけが持っていて、ヴァルナルのそれはほぼ保管用であった。)

 そんな訳で普段からネストリは五日に一度は両替商を訪れてはいたのだが、ここ最近は、ほぼ毎日訪れる羽目になっていた。

 

 というのも、どうやら帝都の方で黒角馬の研究を行うことが決まったらしく、その関係の学者らがレーゲンブルトに来ることになったのだ。準備のための書類などが頻繁に届き、中には翌日に返答しろ、などという無理難題をふっかけてくる輩もいた。

 余計な仕事が増えたネストリはすこぶる機嫌が悪かったが、おかげで、私書箱を見に行くこと自体は怪しまれなかった。

 

 私書箱の手紙は、当初、ヴァルナルについての簡単な質問であった。

 日が経つにつれ、領主や子供達、騎士団の動静について教えるように…と、だんだん具体的な内容を尋ねてくる。

 それでもネストリはさほど悩みもせずに彼らのことを教えた。別にそれらはネストリでなくとも、誰でも知っていることで、秘密を漏洩していることにはならない。

 

 だが、とうとう相手はネストリに選択を迫ってきた。

 

『十五日の日、領主を館に足止めし、子供達と一緒に祭りに行くことを阻害せよ。方法はそちらに任す』

 

 これは確実に十五日の本祭りの日に、何かしら行うことを示唆している。

 しかも、おそらく小公爵に対して。

 

 まだ日があったので、ネストリは一度断った。すると、筆跡の違う字で書き送られてきた内容は苛烈だった。

 

『こちらはこれまでの貴方の手紙をすべて保管している。脅されたと訴えても、貴方の罪が消えるわけでない。己が立場をよくよく考えよ』

 

 ネストリは頭に血が昇った。

 忌々しげに手紙を破り、暖炉に()べたが、考えてみればこの手紙を取っておけば良かった。

 これまでのやり取りについても、ネストリとしては自分に余計な疑いがかかるのを恐れて、読んですぐに燃やしていたのだが、相手の方は自分の書いたものを残していたのだ。

 卑怯だ! とネストリは憤慨したが、自分の浅慮を恨んでも既に手紙は全て灰になっていた。

 

 ネストリはしばらく考えた。

 天秤にかけたのは、小公爵とハヴェル公子ではない。

 このまま辺境の田舎の一領主館の執事としてくすぶったまま終わる自分と、帝都もしくはアールリンデンで執事長となりうるかもしれない自分。

 そこに思い至れば、ネストリの決断は早かった。

 

 了承の意を伝えてから、具体的な方法を考えようとしたが、まったく浮かばないまま十五日を迎えてしまった。

 

 何をするにしろ、自分が協力者だとバレてはならない。その場合、ヴァルナルが容赦なく自分を尋問する前に、アルビンが暗殺者にネストリを始末させる可能性もあるからだ。

 

 ネストリはひと月前の手紙を忌々しく思った。

 あの手紙は捨てていないが、読み返しても、アルビンは特に妙なことは書いてないのだ。もしネストリが手紙を公表して、アルビンが詰問されたとしても、どうとでも言い逃れできる言葉を使っている。

 

 一緒にいた頃には頼もしかったアルビンの狡猾さが、ネストリを苦しめていた。どうして一度でも友だなどと思ったのだろう…。

 

 数日来、ネストリは胃薬を手放せなかった。その日もシクシクと痛む腹を押さえながら、いよいよ祭りに向かう領主を見送るため、廊下を足早に歩いていたが、ふと、ネストリの視界の隅に、薄汚れた掘っ立て小屋が映った。

 

 それはオヅマの住む小屋だった。

 この前の大風で穴が空いた屋根には板が打ち付けられ、窓硝子にも罅が入っている。

 

「………」

 

 ネストリはどんよりとその汚らしい小屋を見つめた。

 

 考えてみれば、オヅマがこの領主館に来てからというもの、ネストリがいい具合に整えてきた環境が全て崩れてきている。

 たかだか辺境の片隅の貧相な村で暮らしていただけの小僧のせいで、領主館の平穏はめちゃくちゃだ。

 

 その上、今のこのネストリの忙しさは、オヅマが見つけてきた黒角馬も原因なのだ。あんなものを見つけてきて、鼻高々と領主様に献上して、取り入って騎士見習いになるなど、まったくもって嘆かわしい!

 しかもその母や娘までもが、領主様とその息子を籠絡(ろうらく)しようとしている。まったくもって忌々しい!

 

 こうなると、今、自分の置かれている不本意な状況までもが、オヅマに遠因があるような気がしてくる。

 そう…全ては、あの小生意気なガキのせいだ!

 

 ネストリはふらつきながら小屋の前まで来て、小屋の脇に置かれた薪を見つめた。すると不思議なことに、小屋が燃え盛っているような光景が脳裏に浮かんだ。

 

「…………」

 

 心臓が早鐘を打つのと同じ速度で、ネストリは思考した。

 

 この小屋が燃えれば…少しだけでもいい。

 邸内で火事が起きたとなれば、一応、領主(ヴァルナル)は様子を見に戻るだろう。危ないから、子供達は連れてこない……はずだ。 

 

 ネストリは小屋の中に入って、消えた暖炉の火を起こした。

 暖炉から火のついた薪を一本取り出してベッド近くに放り出す。チロチロと燃える火がシーツを燃やしていくのを見て、ネストリは満足気に微笑んだ。

 

 自分は間違っていない。間違ったことはしていない。あの生意気な小僧が、火の後始末をしっかりしなかったのが悪いのだ……。

 

 外に出てから素早く辺りを見回し、誰もいないことを確認する。

 この日はヴァルナルが一部を除いて領主館で働く者達に特別休暇を出していたので、元々、人は少なかった。

 ネストリは澄まし顔で少し乱れた衣服を整えると、平然と玄関ホールへと向かった。

 

 しばらくしてから、オヅマの小屋から上がる黒い煙を見て、大騒ぎしたのは下男のオッケだった。

 

「うわぁ! 火だぁ! 火だぁ!! オヅマの小屋が燃えてるゥ」

 

 





次回は2022.07.23.に更新予定です。


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第四十九話 二の矢――掏摸、老婆

 ヴァルナルが火事の一報を受けて領主館に戻った後、オヅマ達は広場に連なる露天商を見回っていた。

 ミーナの思いつきで、ヴァルナルへの日頃の感謝を込めたプレゼントをすることになったが、なかなか子供達は決められない。

 

「わぁ! 見て見て! この飴細工、可愛い! 猫よ。あっ、お人形さんのもある! これだったら、領主様も喜ぶんじゃない?」

 

 マリーはどちらかというと自分の欲しいもの、自分が貰って喜ぶものに目がいく。

 

「馬鹿か。そんなモン、領主様が欲しがるわけあるか」

 

 オヅマが吐き捨てると、マリーはふくれっ面になりつつも、さすがに大の大人が飴細工の人形をペロペロ舐めるものでもない…と思ったのだろう。物欲しげに見つめた後、しょんぼりと肩を落として隣の店へと向かっていく。

 すかさずオリヴェルが店の親爺に1ガウラン銅貨を払って、その飴細工の人形を買った。

 

「はい、マリー。これ食べながら、もうちょっと探そう」

 

 手渡された人形の飴細工にマリーはすぐ笑顔になった。

 

「っとに…オリー、お前マリーに甘すぎだぞ」

 

 オヅマが注意すると、オリヴェルは笑った。

 

「だって、僕、買い物なんて初めてなんだもの。ちょっとした練習だよ」

「なんだそりゃ」

 

 アドリアンはそんなやり取りをしている三人の後ろから、露天商を見回ってヴァルナルにふさわしい贈り物はなんだろうかと考えていたが、そのせいで多少、ぼんやりしていたのかもしれない。

 

 目の前から雀の仮面を被り、頭に白い布を巻いた、西方民族衣装(ドリュ=アーズ)を着た男が歩いてきているのに気付かず、ドンとぶつかる。

 

「あ…っ」

「失礼」

 

 男は軽く言って、足早に群衆の中を縫うように歩き去った。

 

 アドリアンは男に謝罪する間もなかったな…と見送ってから、ふと違和感を感じた。腰に下げていた革袋(金入れ)が…ない。

 

掏摸(スリ)だ!」

 

 叫ぶなり、アドリアンは走り出した。

 その声を聞きつけたらしい雀の面の男がチラとこちらを見るなり、物凄い速さで駆け去っていく。

 オヅマも一緒に追いかけてきて、アドリアンを追い越しざま問うた。

 

「どんな奴だよ!?」

「あそこの西方民族衣装(ドリュ=アーズ)を着た奴だ! 雀の面を被って、白い布を頭に巻いた…!」

 

 聞いた途端、オヅマは前方にそれらしい男の姿を見つけて速度を上げる。

 祭りで賑わう人の間を縫って、目の前に立ち塞がろうとする荷車に足をかけて跳躍し、驚く人々の頭の上を飛ぶ。

 雀の面の男がまた振り返り、身軽なオヅマがどんどん距離を詰めてきているとわかると、いっそう足を早めた。

 アドリアンは必死でオヅマを追いかけ、アドリアンを追いかけて、パシリコ達騎士も走りながら声をかけた。

 

「お待ち下さい! アドリアン様!!」

 

 パシリコが思わずヴァルナルに厳命されていたことを忘れて、敬称をつけて呼んでしまったのは仕方ないだろう。彼らもいきなり走り出したアドリアンを追いかけるのに必死で、そこを気にしている暇はなかったのだ。

 ただ、その時、にわかのスリ騒ぎで、ややザワついた広場にミーナとマリー、オリヴェルを置いていってしまったことは、痛恨の過失となった。

 

「……スリって?」

 

 残されて呆然となっていたマリーが尋ねる。

 

「……こういう人の多い場所とかで、勝手に他人の財布とか取る人のことだよ」

「泥棒ってこと?」

「うーん……どちらかというと、盗っ人?」

「なにが違うの?」

 

 マリーがなおも尋ねてきて、オリヴェルは考え込む。

 

 そんな二人の姿をミーナは微笑んで見ていたが、その時、自分の横を通り越した老婆が小さな袋を落とした。

 

「あ! 待って!」

 

 ミーナはあわてて老婆の落とした小袋を拾うと、大声で呼びかける。しかし老婆は耳が遠いのか、そのまま人の群れの中へと分け入ってしまう。

 

「あ…マリー、ちょっと待っててくれる?」

 

 ミーナが言うと、マリーはオリヴェルの椅子の傍らで頷いた。

 

「大丈夫。ここから動かないようにするから」

「ミーナも転ばないようにね」

 

 マリーとオリヴェルに見送られて、ミーナはあわてて老婆を追いかけた。幸い、老婆の足が遅いので、さほどに走ることもなく、すぐに追いついて声をかけた。

 

「あの…さっき、落とされましたよ」

 

 背後からやさしく肩を叩かれ、老婆は怪訝に振り向いてから、ミーナの手にある色あせた若草色の袋を見て、

 

「ありゃりゃりゃりゃ!」

と、ひどくびっくりした声を上げた。

 

「こりゃあ…すみませんねぇ…。うっかり落としたものをこうして正直に届けて下さるとは…なんとまぁ、よくできた御人だ」

 

「いえ…良かったです。それじゃあ」

 

 ミーナはそのまま踵を返して戻ろうとしたが、老婆はガシリと意外に強い力でミーナの腕を掴んだ。

 

「お噂は聞いております。領主館の方でしょう? 若君の世話係をされておられる…」

「は……はぁ…?」

「ご領主様もようやく()き方と巡り会えたようでございますねぇ。嬉しいことです」

 

 ミーナは老婆の言葉に戸惑った。

 一体、どうしてそんな噂が広がっているのだろうか?

 

 ほぼ領主館の外に出ることのないミーナは知らなかったが、地元民の多い領主館の使用人達がたまに実家に帰省すれば、領主館で起きた種々の出来事を家族達に話すのは当たり前だった。その中でも領主様の恋の行方については、多くの領民の関心事であったのだ。

 

 ただ、この時の老婆が本当にそんなことに興味があったのかどうかは、わからない。そもそも、フードを目深に被り、声の枯れた老婆が本当に()()であったのかすら。

 

「本当に、本当に、ありがとうございます」

 

 老婆は深々とお辞儀すると、そのままクルリと細い路地へと消えていった。

 ミーナは少し困惑しつつも、とりあえず老婆に小袋を渡せたことに満足して、人の群れの中を歩き出す。

 

 マリーとオリヴェルと別れた場所まで戻ってきて、二人の姿がないことに気付いた。キョロキョロと辺りを見回すが、どこにもいない。

 

「マリー?」

 

 少し大きな声で呼びかけたが、元気なマリーの声は返ってこない。

 あるいは人の多いこの場所で待つのが邪魔になると思って、二人が移動したのかもしれない…と、ミーナは広場の隅の方を見て回ったが、どこにもマリー達はいなかった。

 

 だんだんと心配が増してくる。

 

 あるいはオリヴェルの具合が悪くなって、マリーが領主館に連れ帰ったのかもしれない。

 ミーナは広場から出て、領主館に向かう道へと小走りに向かった。しかし途中で、建物の影に捨て置かれたオリヴェルの車椅子を見つけ、一気に顔面蒼白になった。

 

「………若君…オリヴェル様ッ!」

 

 大声で叫んで辺りを見回す。しかし、どこにも見慣れた人影はない。

 

「マリー! どこにいるの!?」

 

 恐怖が喉元を這い上ってくる。

 泣きそうになるのを必死でこらえながら、ミーナは必死で二人を呼んだ。それでも何の返事もない。

 

 広場から円舞の音楽が流れてくる。

 ミーナは膝をガクガク震わせつつ、広場へと向かった。

 

 お願い、頼むから…二人とも広場にいて。あきれるほど平和な笑顔で見物して手拍子をしていて…。

 

 絞めつけられる心臓を押さえながら歩くミーナに、穏やかに声をかけてきたのはヴァルナルだった。

 

「ミーナ、遅れたが…間に合ったかな?」

 



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第五十話 雀の面の男

 スリを追いかけていたオヅマは、人のまばらな城塞外壁近くまで来て、ようやく捕まえられそうになって手を伸ばしたが、その時突然、目の前の男が驚くべき跳躍力で外壁の上に飛び乗った。

 

「……やれやれ」

 

 雀の面を被ったまま、男はあきれたようにつぶやいてオヅマを見下ろす。

 

「大した坊やだね。俺に追いつくとは」

「うるせぇ、この雀野郎! とっととアドルの(カネ)を返せ!」

「金? あぁ…」

 

 男は腰に吊り下げていた革袋を取ると、何の未練もないようにオヅマに放り投げた。

 

「は?」

 

 オヅマは袋を受け取って、ポカンと口を開ける。

 

「なんだよ。返して欲しかったんだろ?」

「そうだけど……」

 

 オヅマは革袋をまじまじ見つめた後で、キッと雀の面の男を睨みつけた。

 

「簡単に返すんだったら、最初っから取るなよ!」

 

 思わぬ説教に、男は一瞬絶句してから、ケラケラ笑い出した。

 

「おっもしろいなぁ、お前。ここに来て、一番の収穫だよ」

「何を訳のわかんねぇことを…この野郎。そこ動くな! とっ捕まえる!!」

「動くなと言われて、素直に聞くような奴はスリなんてしないんだよ~」

 

 雀の面の男は楽しそうに言うと、ヒラリと壁の向こうへと姿を消した。

 

 向こうはかつての城塞の外壕跡で、崩れた瓦礫と岩だらけの場所だ。普通は城塞外門から外に出ないと、この壁の向こうには行けない。

 門はここから遠く離れた場所にある。いったん門まで行って、この壁の裏まで走って辿り着いたとしても、その頃には男がいなくなっているのはほぼ確実だ。

 

 オヅマは高い壁を見上げて、男のように走って飛び乗ることができるかと試してみたが、古びた煉瓦を爪で引っ掻くのがせいぜいだった。

 

「チッ! クソ…」

 

 舌打ちしていると、後ろからアドリアンがようやく追いついて声をかけた。

 

「逃したか…?」

「逃がしてない! ホラ」

 

 オヅマは男から渡された革袋を突き出した。

 アドリアンは受け取って、目を丸くした。

 

「え…なんで?」

「知るか。なんか返してきたんだよ。っとに…あっさり返すなら盗るなってんだ」

 

 オヅマはぶつくさ言いながら、元来た道を戻り始める。

 その時、パシリコ達がようやく到着した。

 

「おぉ、オヅマ。駄目だったか?」

「違う! (カネ)は返ってきたっての!」

 

 パシリコが意味がわからぬ様子でアドリアンの方を見ると、アドリアンは革袋を持ち上げて見せる。

 

「…ひとまず、無事ということか」

「帰りましょう。マリー達が待ってる」

 

 アドリアンは促してから、むくれたオヅマに問うた。

 

「スリの男が観念して君に返してきたの?」

「観念?………そんな感じじゃなかったけどな」

 

 オヅマは雀の仮面の男との会話を思い出す。

 なんか人を食ったやつだった。ムカつくが、さほどに嫌な感じもしない。

 

「返せーっ言ったら、ハイどうぞーって返してきた」

「………妙だな」

 

 アドリアンは顎に手を当てて考えながら、手首に下げた革袋を見つめる。

 何だか、違和感がある。似ているが、これはさっきまで自分の持っていたものと同じだろうか?

 

 ゆっくりと歩きながら、アドリアンは袋を開けて中身を見た。

 お金は入っていた。金額を正確に数えたのは数日前なので、そこは同じかどうかわからない。しかし、銀貨も入っているので、盗まれたとは考えにくい。

 軽く揺すって中身の確認をしていると、シャラシャラと鳴る硬貨の間からやや分厚い紙が出て来た。

 

 アドリアンが紙を取り上げるのと同時に、広場から円舞の音楽が聴こえてくる。

 

「おっ! もう始まってんぜ」

 

 オヅマが軽くアドリアンの肩を叩き、硬直していたアドリアンの手から紙が落ちた。

 

「あ? なんだ、これ?」

 

 オヅマは落ちていく紙を素早く空中で拾って、何気なく見た。しかしアドリアンがあわてて取り上げる。

 

「……なんだよ?」

 

 オヅマは眉を寄せた。なんだかアドリアンの様子がおかしい。

 

「……いや。なんでもない」

 

 アドリアンは紙を一瞥した後、再び革袋に放り込んで、広場へと歩き出す。

 

 オヅマはフンと鼻を鳴らした。

 この数ヶ月、対番(ついばん)で一緒に生活してきたせいで、わかる。あの態度は何かあったのだ。

 あの紙も意味深だった。

 何かを示すかのような図形と、チラとだけ見えた言葉。

 

『誰にも知られてはいけない』―――――

 

 マリー達はどこかと探していると、人の間を縫って、カールが現れた。

 

「オヅマ…こっちだ」

 

 暗く厳しい顔をして、小さな声で呼びかけてくるカールに、オヅマはすぐに異変を感じた。

 

 無言で歩いて行くカールに()いて、円舞で盛り上がる広場を抜けると、樅の木の下にあるベンチで、青い顔をした母が、ほとんど抱きかかえられるようにヴァルナルに寄りかかっていた。

 

「母さん!」

 

 オヅマは走って行く。

 

 その背後で、暗い顔のアドリアンが立ち尽くしていた。

 






感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第五十一話 陥穽

「ミーナ、遅れたが…間に合ったかな?」

 

 

 ミーナは振り返ってヴァルナルの顔を見た途端に、思わずガクンと脱力した。必死でこらえていた涙が一筋頬を伝う。

 

「ミーナ? どうしたんだ!?」

 

 普段、滅多と…というより、一度も泣いたことのないミーナの涙に、ヴァルナルは驚いた。同時に子供達の姿が見えないことに気付く。

 

「……子供達は、広場か?」

 

 問いかけると、ミーナはヴァルナルの腕を掴んで震える声で、それでもはっきりと伝えた。

 

「アドリアン様とオヅマ達は…スリを追って……マリーと若君の姿が見当たらなくて、椅子がそこに……」

 

 ミーナが伸ばした指の先をカールが見に行くと、誰乗ることもない車椅子が寄せられた雪の上に置き捨てられていた。車輪が一つ、脱輪している。

 

「ヴァルナル様! 椅子が…」

 

 一瞬ですべてを把握して、ヴァルナルは素早くその場にいた騎士達に命令する。

 

「カール、小公爵様を探せ。アルベルトとヘンリクは、オリヴェルとマリーを。広場を中心に周辺一帯をあたれ。サッチャ、領主館に戻ってマッケネンに知らせろ。総員で領府周辺の警邏(けいら)を行い、少しでも不審な者がいたら身柄を拘束しろ」

 

 カール達が散っていくと、ヴァルナルは顔色のないミーナを樅の木の下にあるベンチまで連れてゆき、座らせた。

 

「申し訳ございません…私のせいです」

 

 ミーナはもう涙を見せなかったが、死にそうな顔でつぶやくように言った。

 ヴァルナルは首を振ると、震えの止まらないミーナの手を握った。

 

「そんなことはないはずだ。貴女(あなた)がそう簡単に子供達と離れるとは思えない。すまないが、詳しく教えてほしい。何があった? 些細なことも含めて、全て教えてくれ」

 

 ミーナはヴァルナルの温かい手に縋るようにもう一つの手を重ねて、ヴァルナルと分かれた後のことを思い出しながら話していく。

 

 皆で領主様への贈り物をしようという話になって、露店を見回っていたこと。途中でアドリアンがスリに遭遇して、アドリアンとオヅマと警護の騎士達がスリを捕まえに行ったこと。それから…

 

「その後、私とオリヴェル様とマリーは三人で待っていようと思ったのですが、その時ちょうど…お婆さんが通りかかって、小袋を落としていって…。お金が入っているみたいだったので、私はあわてて追いかけたのです。すぐに戻るからと、マリーに言って。お婆さんにもすぐに追いついて、小袋を渡して、帰ってきたら……二人とも……どこにも…」

 

 ミーナは必死で涙をこらえ、痛む胸を押さえた。

 か細い声で何度も繰り返す。

 

「申し訳ございません。本当に、申し訳ございません…私の責任です。私が、あの時離れたから……」

「違う。貴女のせいではない」

 

 ヴァルナルは弱々しく首を折り曲げるミーナの細い肩を抱いた。

 

 虚空を睨み据えるヴァルナルにとって腹立たしいのは自分自身だった。

 ミーナはしきりと自分の責任と言うが、何がミーナのせいであるものか。すべては自分の責任だ。

 

 ギリ、と奥歯を噛み締める。

 

 嵌められた。見事に。

 領主館の火事から始まっていたのだ、一連の出来事は。

 

 これだけのことをするのであれば、やはり彼らの狙いはアドリアン小公爵に違いない。

 だが、今はマリーとオリヴェルまでもがいなくなっている。

 ミーナの話を聞く限り、子供達は別々にいた。

 せめて、どちらか一方の無事を確認したい。

 

 そう時はかからず、広場のアーチをくぐってこちらに向かってきたオヅマとアドリアンを見て、とりあえずヴァルナルはホッとした。

 

「母さん!」

 

 オヅマが走り寄ってくると、ミーナは立ち上がってオヅマに抱きついた。

 

「オヅマ! マリーが…マリーがいないの!」

 

 オヅマの顔がさっと強張る。

 ほぼ同時に、アーチからアルベルトとヘンリクがこちらに向かってきて、ヴァルナルに告げた。

 

「オリヴェル様もマリーも、見当たりません」

 

 オヅマはすぐに広場に向かって走り出そうとして、ヴァルナルに腕を掴まれた。

 

「オヅマ、落ち着け! 計画的なものであれば、軽々な行動は控えねばならない」

 

 この時に及んで冷静なヴァルナルが、オヅマには苛立たしかった。カッとなって思わず怒鳴りつける。

 

「うるさい! なんでマリーが…マリーは巻き添えだろ! 狙われたのはオリヴェルだろ!」

「オヅマ! やめなさい!!」

 

 ミーナが泣きそうな声で止める。

 

「なんてことを言うの! 領主様のお気持ちも考えずに!!」

「なんで俺がそんなこと考えないといけないんだよ!」

「オヅマっ!」

 

 ミーナも精神的に動揺していたのだ。

 パシン、とオヅマの頬を()ってから、我に返った。

 

 信じられないように自分を凝視してくるオヅマに、ミーナの目から大粒の涙があふれ、その場に崩折れた。

 

「…ごめ……ん…な…さい」

 

 ほとんど消え入りそうな母の声に、オヅマは何も考えられなかった。

 父からの暴力には慣れていても、母が自分に手を上げたことはない。決して、そんなことはしないと…信じていたのだ。

 

 呆然と立ち尽くすオヅマの横に来て、アドリアンはヴァルナルに言った。

 

「僕たちも、マリーとオリヴェルを探したい」

 

 しかしヴァルナルは即座に首を振った。

 

「いけません。今は、カール達と一緒に領主館に戻って頂きます」

「でも…今回のことは僕らにも関係がある。元は僕がスリを追いかけたせいで、三人を置いていってしまった」

「それも含めて、考える必要があります。今は、とにかく戻ります」

 

 ヴァルナルは固い表情で決定を下すと、ミーナを抱き起こして連れて行った。

 

「……オヅマ」

 

 アドリアンはまだ固まったままのオヅマの肩を叩く。「とりあえず、戻ろう」

 オヅマは、ジロリとアドリアンを見た。

 

「……マリーとオリヴェルを置いていくのか…?」

「そんなことはしない。必ず助ける、二人とも」

 

 アドリアンがはっきり言うと、オヅマはまじまじと、その横顔を見つめた。いつもと同じ無表情に見えるが、鳶色の瞳には怒りが滲んでいた。

 

 歩き出したアドリアンの後をオヅマはついていった。陰鬱な薄紫の瞳に、一瞬、金の光が閃いた。

 





次回は明日2022.07.24.に更新予定です。


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第五十ニ話 『誰にも知られてはいけない』

 マッケネン達は周辺をくまなく調べ、怪しそうな人物への尋問も行ったが、オリヴェルとマリーの行方はわからなかった。

 

 オヅマは平常心でいられないだろう…ということで、会議への参加は認められなかった。演習における作戦会議などには、将来的な勉強も含めてこれまで全て参加してきたが、こと身内の関わる事件であるということで、今回は外された。

 

 領主館に来て一年。

 初めて、オヅマはヴァルナルを恨んだ。ヴァルナルだけでなく、普段から世話になっている騎士達も全員、嫌いになった。

 

 しかも腹立たしいことに、オヅマが今いるのは館内にある客室の一つだった。

 ヴァルナルが戻ったのは領主館で起きた火事が原因で、しかもその火事が起きたのはオヅマの小屋だったのだ。

 

「お前、ちゃんと火の始末したんだろうな?」

 

 サロモンの問いかけに、オヅマはムっとなって言い返した。

 

「当たり前だろ!」

「しっかり実況検分したわけじゃないからわからんが…ベッドの辺りが一番燃えてるんだ。まさかと思うが、お前、煙草とか吸ってたりしねぇだろうな?」

「はぁ? フザけんなよ! どうやって吸うかも知らねぇわ!」

 

 いきりたっているオヅマの様子に、筆記をしていたマッケネンはフゥとため息をついて、質問を変えた。

 

「それで、お前が追いかけたスリの男は雀の面を被ってたんだな?」

「おう」

「服装は頭に白い布を巻いて…異国の服だったと…」

「あぁ。なんて言うんだ、あれ。アドル、お前あン時、(なん)()ったっけ?」

 

 オヅマは窓際の椅子に腰掛け、地図を広げて見つめているアドリアンに声をかけた。

 アドリアンはチラとマッケネン達を見て、静かに答える。

 

西方民族衣装(ドリュ=アーズ)だと思う」

「ドリュ=アーズか……」

 

 マッケネンは眉を寄せて考え込む。

 帝国には各地からの商人がやって来て、異国の衣装を着ていても、奇異に思われることはない。その中でもドリュ=アーズを着た商人というのは、レーゲンブルトのような辺境においても、さほどに珍しい存在ではなく、普段から出入りしている。

 しかも祭りの日であれば、似たような服装の旅芸人なども、いつもより多く来ていただろうし、風体からの特定は難しい。まさかずっと雀の面をしているわけでもなかろうし。

 

「あの野郎が関係してんのか!?」

 

 オヅマはマッケネンに掴みかからんばかりに詰め寄ったが、マッケネンはのけぞりながら立ち上がる。

 

「それも含めて考えるということだ。いいか、オヅマ。くれぐれも勝手な行動をするなよ」

「じっとしてりゃ、マリーが助かるって言うのかよ!」

 

 マッケネンは厳しい顔でオヅマを見て、落ち着かせるように肩を叩いた。

 

「いいか、オヅマ。その掏摸(スリ)の男も関係しているとなれば、これは明らかに計画的な誘拐なんだ。下手に動いたら、マリーもオリヴェル様も……危険だ」

「危険…って」

 

 オヅマはかすれた声でつぶやき、二、三歩よろけた。それまで考えまいとしていた現実を突きつけられる。

 

「命の危険がある、ということだ。いいか、ヴァルナル様の指示があるまでは動くな」

 

 マッケネンとサロモンが出て行った後、オヅマは苛立ちのまま拳を壁に叩きつけた。噛み締めた唇は切れて血が流れ出す。

 

「下手に怪我したら、いざという時に助けに行けないよ」

 

 アドリアンの冷静な声に、オヅマは振り向きもせず固まっていた。

 しばらくして、低く問いかける。

 

「……お前、何か知ってるだろ?」

「なにが?」

「あの紙、何だよ」

 

 アドリアンは地図を机の上に置いて、革袋からオヅマに言われた紙を取り出す。

 

「これのこと?」

 

 オヅマはつかつかと近寄ると、アドリアンの手から紙を掠め取った。しかし真っ白なその紙に目を剥く。

 

「オイ! フザけんなよ!! 馬鹿にしてんのか!?」

「馬鹿になんてしていない。あの時の紙はそれだ」

「嘘つけ! 何か書いてたろ!? なんか…図形と、『誰にも知られてはいけない』って」

「…一瞬なのに、よく見てるね」

 

 アドリアンは苦い笑みを浮かべて、オヅマから紙を取り上げると、地図の上に置いた。

 

「おい……」

 

 オヅマはとうとう我慢できなくなった。

 アドリアンの襟首を掴んで、今しも殴りかからんばかりに怒鳴りつける。

 

「お前なんなんだよ!? どういうつもりだ!!」

 

 アドリアンの表情はそれでも揺らがない。

 問いかけに答えず、反対に尋ねた。

 

「シレントゥって、わかる?」

「は? シレントゥ?」

 

 シレントゥは領府の外を流れるドゥラッパ川の河岸にある倉庫街のような場所だ。帝都や他の地域から運ばれてくる荷物がそこに荷揚げされる。規模は帝都のものと比べ物にならないが、ヴァルナルが来てから整備され、領府と最短で繋がる広い道も作られた。

 

「今日中にそこに行かないといけない」

 

 アドリアンは静かに言った。

 

「マリーとオリヴェルを助けるために」

「………」

 

 オヅマはアドリアンをまじまじと見つめながら、あの時見た紙のことを思い出した。

 

「地図か…あれ…」

 

 紙に書いてあった四角や波線。

 オヅマはアドリアンの襟を離すと、地図の上に置かれた真っ白の紙をもう一度取って、まじまじと見つめた。

 

「なんで…? あの時は確かに…」

「そういうインクがあるんだよ。時間が経つと消えるんだ…」

「チッ! いちいち鬱陶しいな」

「でも、まったく見えなくなるわけじゃない。()()()()()()()()()()()

 

 アドリアンは紙をオヅマの手から取って、再び地図の上に置いた。

 

「じゃ、行こうぜ。シレントゥにマリーもいるんだな!?」

 

 オヅマはマントを羽織りながら、飛び出さんばかりにドアへと走っていく。

 ノブを掴んで開けようとした時、背後に近づいたアドリアンの気配を感じると同時に、チクリとうなじに小さな痛みが走った。

 

「なん……だ…」

 

 クルリと振り返ったが、すぐに視界が歪んだ。

 ガクリと膝が力を失って倒れる。

 見上げるとアドリアンの右手の中指に見たことのない黒い指輪があった。

 

「『誰にも知られてはいけない』んだ、オヅマ」

 

 つぶやいたアドリアンの声に、見えなかったが表情の想像がついた。

 

「………うる…せ……この…しな…びた……」

 

 いつものように悪口を言いかけて、オヅマは気を失った。

 



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第五十三話 シレントゥ三番埠頭

 シレントゥの三番埠頭に姿を現したアドリアンに、エラルドジェイは紺の瞳を細めた。

 ぬかりなく周辺の人の気配を探る。

 既にその日の荷降ろしは終わっており、舟はすべて桟橋に繋がれ、辺りはほぼ無人だった。不自然に動く影も見当たらない。

 

 アドリアンは紙の内容をきちんと覚えているようだ。迷うことなく指定した倉庫に向かっていた。三番埠頭の一番端にある、冬場はほとんど使われることのない倉庫。

 

 アドリアンがその巨大な二枚扉の前に立つと、エラルドジェイは雀の面を被って、倉庫の屋根の上から降りた。

 アドリアンの背後に立つと同時に、剣をその背に当てる。

 

「ようこそ、小公爵。約束をお守りいただいて何より」

 

 十歳だと聞いていたが、アドリアンはよほどに自制の教育をされているらしい。じっとしたまま、冷静に尋ねてくる。

 

「マリーとオリヴェルは?」

「無論、今からご案内致しますよ」

「一つだけ訊きたい。今日のことは、僕をここに来させるためか?」

「えぇ。あなたに是非にも会いたいと仰言(おっしゃ)る方がいまして」

「………」

 

 それ以上質問することなく黙り込んだアドリアンに、エラルドジェイは微笑んだ。

 普通であれば、「一体誰が? なんのためにこんなことを?」と騒ぎ立てそうなものだが、アドリアンは律儀にも一つだけの質問を守ってくれるらしい。

 同じ貴族のお坊ちゃんでもダニエルとは大違いだ。大貴族の若様ともなれば、その品性も知性も格段に違ってくるものなのだろうか。それともこの小公爵様が、普通の子供ではないのだろうか。

 

 エラルドジェイはアドリアンの首に刃を向けたまま、腕を伸ばして扉をコココッ、コツッと打つ。合図となる独特のリズムのノックだ。

 大きな扉の一部をくり抜いた小さな通用口が開いた。

 

「中へどうぞ」

 

 

 

 

 背後から促され、アドリアンは歩を進めた。

 中に入って三歩で背後の扉が閉められ、一瞬、暗闇になる。しかしすぐに明かりが辺りを照らした。

 大きなフードを被った男が、ランタンの明かりを遮っていたシェードを取ったのだ。

 

「ありがとさん。これ、約束のやつな」

 

 アドリアンの背後の男が金を渡しているようだ。チャリン、チャリンと二回音がした。フードの男の顔は見えなかったが、軽く会釈するとアドリアンの入ってきた通用口から出て行った。一瞬だけ空気が動いて、再び淀む。

 

「そのランタン、持ってもらえますかね、小公爵様」

 

 アドリアンは黙って言われた通りにランタンを持ち上げる。すかさず背後の男が剣の切先でツンと肩をつついた。

 

「妙な真似はなさらぬように。あの二人を助けたいのであれば」

「………わかっている」

「では、そのまま真っ直ぐこの通路をお歩き下さい」

 

 アドリアンは歩きながら、倉庫内部の様子をざっと確認した。

 今、アドリアンが歩いている真ん中の通路の両端に木材で出来た(やぐら)のようなものが組まれている。おそらく入荷した物品を仕分けするための整理棚なのだろう。

 それぞれに階段があって、アドリアンのいる一階部分から二階の棚部分に歩いて行けるようになっている。今は繁忙期でないせいか、棚には大小の箱が置き捨てられているようだった。大きいものは大人一人が入れるくらい。中身が入っているのかどうかはわからない。

 つきあたりまで来ると、扉があった。

 

「開けて下さい」

 

 言われた通りにして開けると、ゆるやかなカーヴの石階段が地下へと続いている。

 

「降りて下さい。少々滑るかもしれませんから、足元はくれぐれも気をつけるように」

 

 男は剣先をアドリアンの耳元につけながら、意外にも優しい声で言う。まったく、脅迫しながら親切とは、おかしな男だ。

 

 石の階段を下りきると、そこは蟻の巣のようにいくつかの部屋に分かれたワイン貯蔵庫になっていた。階段から一番遠くにある唯一、扉のある部屋から明かりが漏れている。

 

「あの扉のある部屋に行って下さい」

 

 アドリアンは唾を呑み込んだ。

 おそらくあそこにマリーとオリヴェルがいる。

 二人の無事を確認できた時、アドリアンにとっては最も危険が迫ることになるのだろう。

 

 アドリアンが扉を開くと同時に、背後の男がグイと背を押し、中に向かって呼びかけた。

 

「さぁ、ようやくアドリアン・グレヴィリウスを連れて来てやったぞ」

 

 

◆ 

 

 

 オヅマが目を覚ますと、部屋の中はうっすらと暗かった。

 窓の外には夕焼け空が広がっている。

 

「あの野郎……」

 

 起き上がって、うなじに手をやる。痛みはないが、おそらく針か何かを刺されたのだろう。気絶させる薬が塗り込まれた針。

 アドリアンの中指にあった黒い指輪を思い出す。

 あれだ。あれに針が仕込まれていたのだ。

 

「…なんであんなもん持ってんだ、あの馬鹿」

 

 オヅマは苛立たしげにつぶやいて立ち上がる。

 フラフラと窓辺にある机のところまで来て、アドリアンの残していった紙と地図を見つめた。

 

 紙の方はやはり真っ白だ。

 オヅマは必死に思い出そうとした。

 

 確か紙の横長の一辺に沿って波線が引かれ、直角の端には扇形の弧が書かれてあった。扇形の中心には『3』の文字。それから長方形が六つか七つ、並んでいて、その中の一つに何か印がされていた気がする。

 空白の部分には、少し滲んだ文字で『誰にも知られてはいけない』。

 その他にも小さな文字が書かれていたと思うが、その部分はアドリアンに取られてしまって読む暇がなかった。

 

「………そういうことか」

 

 しばらく考えて、オヅマは納得した。

 おそらくマリーらを誘拐した犯人は、アドリアンに一人で来るように要求してきたのだ。

『誰にも知られてはいけない』。誰かに知られた時には……。

 

 そこまで考えて、オヅマはギリっと歯ぎしりした。

 

 マリーとオリヴェルがまさに命の危機にあることを、今更ながらに思い知る。

 

 なんだってアドリアンにそんなことを要求してくるのかがわからないが、オヅマはとにかくじっとしている気はなかった。

 

「………領主様に言う訳にはいかないな」

 

 オヅマは騎士達に話すことはすぐに選択肢から排除した。

 向こうが『誰にも知られてはなならない』と要求して、人質をとっている以上、騎士団を動かせば必ず勘付かれてしまう。

 だが、オヅマ一人であれば…子供であれば、あちらも油断しているはずだ。

 

 オヅマは腰のベルトに短剣を差した。本当は剣が欲しいところだが、走るときに邪魔になるし、兵舎にまで取りに行っていたら誰かに見つかるだろう。

 

 そっとドアを開け、辺りを見回したが、誰もいなかった。

 

 息を殺して気配を感じ取る。

 ピリピリとうなじが逆立つ感覚。

 凄まじい集中力が、オヅマを無駄のない行動に導いていく。

 

 騎士達や領主館の召使い達の動きを視認するよりも早くに察知して、身を隠しつつ、外に出た。

 

 夕焼け空はあっという間に暮れて、星が光り始めている。

 

 オヅマは走り出した。

 

 必ず助ける。マリーも、オリヴェルも、アドルも。

 



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第五十四話 金貨三枚分の男

 ダニエル・プリグルスは粗末な椅子に座って、縄をかけられた二人の子供を血走った目でどんより見つめていた。

 

 赤銅色の髪の少年は、白い顔で少し苦しげな息をしつつも、必死でダニエルを睨みつけている。栗色のクセっ毛の少女も、そんな少年を心配そうに見ながら、時々、涙を浮かべた緑の瞳でダニエルを睨みつける。

 

 ダニエルは置いてあった年代物らしいワインを瓶ごと飲んでいたが、とうとう空になると、苛立たし気に地面に叩きつけた。

 バリン、とけたたましい音が洞窟のような部屋に響き、女の子供がキャッと悲鳴を上げる。

 その恐怖する様子を見て、ダニエルはハハハと笑った。

 

「怖いか? 僕が怖いか? 怖いだろう…? もっともっと怖い思いをさせてやろうか? えぇ?」

 

 ダニエルは涎を垂らしながら、フラフラと子供達に近寄っていく。その目は少年と少女を映しながらも、頭の中では会ったこともない少年を勝手に彼らに重ねていた。

 

 いよいよアドリアン・グレヴィリウス小公爵がやってくる。

 自分の前に。

 そうして自分は彼を殺す…!

 

 考えれば考えるほどに、ダニエルは平常心を失っていった。

 

 この地下に来て半日。目についたワインを飲まずにはいられなかった。

 ほとんど酔っ払っていたのに、いつものように楽しい気分にもなれず、眠気もやってこない。

 フワフワとした酔いが足をフラつかせても、ダニエルの神経は逆立っていた。異常な緊張感と酩酊が同時にやってきて、自分でも訳が分からない。

 

「ハハハハ」

 

 笑いながら子供達の方へと向かっていく途中で、ギィと扉が開く。

 ほぼ同時に、エラルドジェイの声が響いた。

 

「さぁ、ようやくアドリアン・グレヴィリウスを連れて来てやったぞ」

 

 ダニエルがさっと目をやると、そこには公爵そっくりの鳶色の瞳に黒髪の少年が立っていた。

 不意にあの時の―――会合で公爵に睨まれた時のことを思い出して、ダニエルは硬直した。

 

「マリー! オリヴェル!」

 

 アドリアンはダニエルの向こうで恐怖に小さくなっている二人のもとへと走っていく。

 

「アドル!」

「わあぁぁん!!」

 

 泣き叫ぶマリーを抱きしめながら、アドルは手の中に隠し持っていた小さな剃刀で素早く二人の縄を切った。

 オリヴェルはハッとアドリアンを見たが、アドリアンは口元に指をあてて黙るように指示する。

 

 三人の背後では、ようやく我に返ったダニエルがあわてて腰の剣を抜こうとして、エラルドジェイに止められた。

 

「なにをする!? 貴様ッ」

 

 びくとも動かせないような力でダニエルの腕を掴みながら、エラルドジェイは余裕の笑みを浮かべて左手の掌を差し出す。

 

(カネ)

「っ……後で渡すッ!」

「冗談じゃない。依頼は完遂した。即座にもらうのが、ウチの流儀でね。この期に及んでガタガタ抜かす気かい?」

 

 紺の瞳が細く不気味に笑うほどに、エラルドジェイの力が増していく。ミシミシと骨が軋むのがわかって、ダニエルは降参した。

 

「わかった、わかった! わかったから! すぐに渡す!! 渡すから…離してくれ!」

 

 エラルドジェイはダニエルの腕を離すと、その鼻先にさっきまでアドリアンを脅していた剣を向けた。

 

「とっととしろよ」

 

 ダニエルは恐怖に顔を引き攣らせながら、椅子の傍に置いておいた鞄から赤い布張りの箱を取り出した。

 

「こ、これ…」

「開けて見せろ」

 

 エラルドジェイが冷たく指示するとダニエルはすぐに蓋を開ける。

 十ゼラ金貨がきれいに二十枚並んで、眩い光を放っている。

 エラルドジェイはニヤリと笑って、蓋を閉じるとダニエルから箱を取り上げた。

 

「どうも。じゃ、俺はこれで」

「まっ、待てッ! 約束では、後金は百七十(ゼラ)のはずだ! 三十(ゼラ)は返せッ」

 

 エラルドジェイは心底呆れ返ったため息をついた。

 クルリと振り返って、ダニエルの冷や汗の浮いた赤ら顔を軽蔑もあらわに見つめる。

 

「こういう時に、()()()もできねぇようだから、アンタは捨てられるんだよ。誰からもな」

「な……なに…?」

 

 エラルドジェイは箱から十ゼラ金貨三枚を取り出すと、ダニエルに向かって放り投げる。地面に音をたてて落ちた金貨を、ダニエルは情けなく四つん這いになって拾い集めた。

 

「………クズが」

 

 小さな声でつぶやくと、エラルドジェイは持っていた剣をアドリアンの足元に放り投げた。

 困惑して自分を見つめるアドリアンに手をヒラヒラと振って、エラルドジェイはその部屋から出て行った。

 

「運が良けりゃ、生き残るさ。どちらかがな」

 

 誰に言うでもなく、エラルドジェイは独り()ちた。

 




次回は2022.07.27.に更新予定です。


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第五十五話 埠頭倉庫の攻防(1)

 オヅマはシレントゥに向かって走っていくほどに、集中力が研ぎ澄まされていくのを感じていた。

 アドリアンの残していった紙のことを思い出して、一つ一つの図形の意味を解いていく。

 あれがシレントゥの地図であるとするならば、波線はおそらく川を指している。ドゥラッパ川だ。それから扇形に『3』の文字は、おそらく埠頭の番号だ。埠頭は川に向かって、扇形の桟橋が架かっているから。

 

 日が完全に落ちた頃に、人気(ひとけ)のないシレントゥの3番埠頭に辿り着くと、オヅマは立ち並んだ倉庫の前をゆっくり歩いていった。端にある倉庫の前まで来て、チリチリとうなじが逆毛立った。

 

 オヅマは倉庫の大きな二枚扉を見上げた。

 無数の(びょう)が打ち込まれた木の扉の右下には、通用口らしき小さな扉がある。おそらく荷物の搬入時以外はこの扉から出入りしているのだろう。

 

 オヅマが黒ずんだ通用扉に手をかけて押すと、ギッとやや大きな音をたてて開いた。

 

 倉庫の中は真っ暗だった。天窓から星は見えても、光が差し込むほどではない。

 暗闇の中でじっと目を凝らす。徐々に目が慣れてくると、中央に大きな通路があり、その左右に木の(やぐら)のようなものが組まれていることがわかった。今はあまり使用されていないのか、ガランとしていて人の気配はない。

 いや……違う。何かが、息をひそめてこちらを窺っている。確実に、オヅマを見ている何者かがいる。

 

 オヅマは腰の短剣を抜いて、構えながら誰何(すいか)した。

 

「誰かいるのかッ!?」

 

 闇の中で、クスリと笑ったような気配。

 オヅマはカッと血が昇った。

 

「テメェ! あの雀の奴かッ!?」

「やれやれ…時間差で来るとはねぇ。あの小公爵様、思った以上に策士だな。確かに『誰にも知られないように』来てはくれたけど、残された人間が勘付くことについては預かり知らぬ、というわけだ。…………まぁ、予想の範囲内ではあるけど」

 

 ガランとした倉庫に響く若い男の声に覚えがあった。間違いない。昼間に見た雀の面の男だ。

 

「クソ野郎! マリーとオリーを…アドルも返せッ!」

「そんなこと言わずに。せっかく助けに来たんだから、助けてみたらどうだい?」

 

 楽しそうに言って、男が暗闇で素早く動く気配がすると同時に、オヅマは反射的にその場から飛び退(すさ)った。

 空気を斬りつける銀色の閃き。

 かわしたと思ったが、頭を軽く切られていたらしい。額を血が伝う。

 

 オヅマはギリと奥歯を噛み締めて、すぐに短剣を振るったが、この暗闇においても雀の面を被った男は、ガチリと右腕を立てて刃を受け止める。

 見たことのない武器だった。腕に装着されているのか、幅広の袖口から爪のような長く細い刃が四本伸びていた。刃の間から男の傷だらけの拳が見える。

 

「その短剣で、どこまでやれるかな?」

 

 男は笑うと、四本爪の武器に体重をのせてギリギリと押してくる。オヅマは押し切られる前に、目一杯の力で短剣を四本爪に押し返すと、素早く後ろに飛んで間合いをとった。

 しかし直後に男が向かってきて、ギリギリで避けたオヅマの目の先で四本爪が弧を描く。

 

「……クッ!」

 

 オヅマは四本爪を短剣で払うと、クルリと身をよじらせて、男の死角を狙った。しかし、男は外壁に飛び乗ったあの跳躍力で、二階へと飛び上がると姿を消した。

 

 オヅマはゼイゼイと激しく息しながら、油断なく辺りの気配を窺った。

 そろりと動いて、二階への階段を登ろうとした時、真横に何かが落ちてきて、硬い音をたてた。

 

「それ、使うといーよ」

「……なに?」

「ここに置いてあった鈍刀(なまくら)だけど、その短剣よりはマシだろ?」

 

 オヅマはギロリと声のした方を睨みつけた。

 

 忌々しいが、男の言う通りだった。間合いの短い短剣で、あの男の長い爪のような武器をかいくぐって、仕留めるのはかなり難しい。

 

 オヅマはそっと、足で剣に軽く触れた。何か細工をしている訳でもなさそうだ。

 短剣を腰に戻しながら、床に転がった剣の柄頭をツイと足ですくうように蹴り上げて、素早く右手で掴む。

 

 両手で剣を構えたと同時に衣擦れの音がして、上から男が降ってきた。反射的に剣で防ぐ。男は弾かれた反動を利用して後方へとクルリと宙返りすると、左右に身軽に動いて撹乱しつつ、隙をつくように狙ってくる。

 

 たっぷりした袖口から伸びた四本爪の武器は、それ自体が腕であるかのように、剣よりも早く俊敏に動く。

 男の攻撃は不規則だった。

 オヅマの攻撃をしのぐと、急に姿を消す。それでオヅマがキョロキョロと辺りを見回していると、不意をつくように二階からだったり、太い柱の陰から急に襲いかかってくる。

 オヅマは襲ってくる刃を弾きながら、かわすだけで精一杯だった。それでも腕や頬に切り傷が増えていく。

 

「なんだ…入ってきた時はもっと出来ると思ったんだけどな。集中が切れてきたか? 坊や」

 

 また姿を消した男が、いかにも残念そうに言ってきた。

 その台詞で、この男がまだまだ本気でないことがわかる。

 オヅマはその楽しげな様子に歯噛みしながら、冷静にこの状況を分析した。

 このままでは駄目だ。弄ばれて、疲れるだけ。男の作り出したこの()を、変えなければならない。

 

 オヅマは激しく肩を上下させながら、男の声からおおよその位置を推測した。

 入ってきた扉を背にして、中央の通路の右側の木組み。二階部分にいる。

 

 オヅマはその反対にある左側の木組みの二階にダダッと駆け上り、木枠の間を縦横無尽にすり抜けていった。

 子供の利点で、大人であれば確実に木の枠に頭なり足を打ち付けるところだが、オヅマは(ましら)のように素早く掻い潜っていく。

 荒い息遣いもあえて隠さなかった。気配を散らせて、男の鋭敏な感覚を混乱させるのだ。少しの間でいい。それから――――

 

 隅にある大きな箱の陰に、オヅマはしゃがみ込んだ。

 

「……なんだ? 今度は鬼ごっこか?」

 

 男があきれたように言うのが響いた。一階部分の通路に出て来たようだ。

 オヅマは三度の深呼吸で乱れた息を整えた。

 

 それから、うすく目を(つむ)る。

 

 ゆっくりと、空気に自分を馴染ませていく。

 

 全方位索敵術『千の目』。

 それは相手の気配を読み取るだけではない。

 自らの気配を消し、相手に悟らせず、敵の所在を察知する。

 

 どうしてそんなことを知っているのか、オヅマは考えなかった。

 何も考えない。

 そうしなければ、マリーも…オリヴェルも、アドルも……誰も助けられない。

 

 ()、必要なのだ。

 彼らを助けるために、自分は何がなんでも、この目の前の敵を()()せねばならない。……

 

 





遅くなってすみません。引き続き更新します。


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第五十六話 埠頭倉庫の攻防(2)

 一方、エラルドジェイは急に消えた少年の気配を用心深く探っていた。

 ちょこまかと猫に追いかけられた鼠のように動き回っていたかと思ったら、この静けさ。

 荒い息遣いすらも潜めて、一体、どこに隠れたのか……?

 

 まるで自分以外には誰もいないかのような静寂にエラルドジェイは眉を寄せた。

 あるいは外に逃げたのか…と考えて、すぐに否定する。倉庫の出入り口は少年が入ってきた通用扉しかない。油を差してないせいか開閉時には必ず音がなるし、外から入ってくる空気の流れで気付かない訳がない。

 

「………フ」

 

 エラルドジェイは無意識に手が震えている自分に笑った。馬鹿馬鹿しいことに、自分は緊張しているらしい。あの少年に。体の動かし方も剣の扱いも、まだ稚拙な子供相手に?

 

 エラルドジェイはぐっと拳を握ると、ヒュンヒュンと四本爪を素早く振り回した。シンとした空気を掻き斬る音にも、反応はない。

 

 エラルドジェイはゆっくりと通路を歩き出した。

 

 少年の考えていることはわかる。

 おそらくエラルドジェイの真似をして、隠れて気配を消し、不意打ちしてくるつもりだろう。であれば、襲わせるまでだ。

 

 あえて足音をたてて、何の構えもとらずにフラフラと歩いてみせる。

 その実、素早く視線を四方八方に動かし、わずかな物音も聞き漏らさないように耳を澄ませ、いつ少年が襲いかかってきても対処できるように臨戦態勢をとる。

 

 そこまで警戒しながらも、エラルドジェイは内心では自分が少年に負けることを考えていなかった。どんなに気配を消しても、襲撃する間際の殺気や、そもそもこちらに近づく足音を、そう簡単に素人が消すことなどできないだろう……。

 

 それが、エラルドジェイの油断だった。

 

 もっと早くに攻撃に備えるはずであったのに、気づけば少年は真後ろにいた。

 剣を振り下ろす直前の、ヒュッと息を吐く音でかろうじてエラルドジェイは振り向いた。

 自分の反応が遅れたことに驚愕して、エラルドジェイの四本爪は封じられた。

 

 少年の剣が真っ二つにエラルドジェイを断ち斬ろうとする。

 常人であれば、確実に殺されたはずだ。

 だが、反射的に危機を()けたエラルドジェイの敏捷性が、わずかに少年の振るう剣に勝った。

 剣の軌跡から、どうにか致命的な傷を負うことはすり抜けたものの、頭を覆っていた白い布と、雀の面が切られて床に落ちる。

 

 カラーンと乾いた音が倉庫内に響いた。

 

 エラルドジェイは大きく飛び退(すさ)って、間合いをとった。

 急激な動作と、有り得ない事態に、呼吸が乱れる。大きく肩を上下させながら、少年と対峙したエラルドジェイは、そこで一層信じられないものを見る。

 

 闇の中で光る金の目。

 

 それは…明らかに普通の人間でないことを示すもの。

 

「お前…その目……」

 

 だが驚くエラルドジェイと同様に、目の前の少年は信じられないようにエラルドジェイを凝視していた。剣を振りかぶったまま、硬直している。

 

「…………エラルドジェイ…」

 

 少年が自分の名前をつぶやいて、ますますエラルドジェイは困惑を深めた。

 

 

 

 

 静かに―――――

 

 チリチリとうなじに集中する神経を、ゆっくり伸ばしていく。

 

 視覚よりも聴覚よりも鋭く犀利な感覚。

 ヒタヒタと倉庫中に蜘蛛の巣のごとく張り巡らせる。

 

 深く深く集中するほどに、心臓の音ですらも消えていく。

 呼吸しているのかもわからなくなる。

 絶対的な無音の中で眠気にも似た気怠(けだる)さが訪れるのは、今、必要としない知覚を一時的に閉じるからだ。

 

 だが、一度(ひとたび)敵を捕捉すれば、一気に開放される。

 

 相手に反撃の(いとま)を与えず、なんであれば自分が斬られたという自覚すらないまま滅殺する『(まじろぎ)の爪』。

 

 オヅマは男を捕捉するなり音もたてずにその背後に迫った。

 息を浅く吐いて、剣を振り下ろす。

 だが、間一髪で男はかわした。(きっさき)をかすめたのは、男が頭に巻いた白い布と、ずっと腹立たしかった雀の面。

 

 白い布と雀の面が床に落ち、ちょうど天窓から差す月の光に男の姿があらわとなる。

 

「………」

 

 オヅマはその紺色の髪と紺の瞳を見た途端、剣を振りかぶったまま硬直した。

 

 見開いたまま閉じることもできない瞳の奥で、一気に()が押し寄せてくる。

 

 

 

 腰まで伸びた紺の髪。楽しげに笑う紺の瞳。

 

 手持ち無沙汰だと言って、いつも胡桃を二つ三つ持って、手の中でゴリゴリ回すのが癖だった。

 人を食ったような喋り方は、誤解されることも多かったが、本当は義理人情に厚い、やさしい男だった。

 

 

 ―――――仕方ない。お前は恩人だからな。俺は恩は忘れないことにしてるんだ…

 

 

 馬鹿なエラルドジェイ。

 大した恩じゃなかったのに、むしろこっちが助けられたことの方が多かったのに。最後の最後まで…オヅマを見捨てなかった。

 

 

 ―――――生きるんだ、オヅマ…

 

 

 力をうしなっていく声。

 助けられなかった命。

 大事な『恩人』の、最期の言葉。

 

 

 

「エラルドジェイ…」

 

 オヅマはつぶやき、涙が一筋こぼれた。

 自分でも訳がわからなかった。

 

 

 

 

 また、おかしな()自分(オヅマ)を支配している。

 

 男の名前など知らないはずなのに、自然と口をついて出た。

 呼びかけながら、奇妙な懐かしさが胸を締め付ける。

 

 生きている。彼が生きている―――――

 

 勝手に涙がボロボロこぼれる。

 オヅマは今になって息が苦しくなってきた。知らない間に息を止めていたのだろうか。深呼吸したいのに、喉元にこみ上げてくる嗚咽が邪魔をする。

 

 一方、エラルドジェイは自分の『秘めたる名』を言い当てられ、信じられないようにオヅマを見つめた。

 

 エラルドジェイは古代の民と呼ばれる氏族の末裔だった。

 もはや帝国においても、その他の国においても数少なく、消えていくだけの一族。

 

 彼らの特徴は紺色の髪と同じ色の瞳、それから『秘名(ハーメイ)』と呼ばれる一族の長老あるいは両親から与えられた名前を持つことだった。

秘名(ハーメイ)』は兄弟間であっても教えられることはなく、正式な結婚は互いの『秘名(ハーメイ)』を教え合うことで結びつきを強めるものとされた。

 

 もっとも、ただ両親から与えられ、言い伝えとしてしか『秘名(ハーメイ)』の成り立ちを知らぬエラルドジェイからすると、さほどに重要なものでもない。

 ただ、自分の中に残る民族の血がそうさせるのか、よほどに信用した相手にしか『秘名(ハーメイ)』を教えることはなかった。

 

 つまり、今、エラルドジェイのことを『エラルドジェイ』という名前で呼ぶ相手は、ニーロともう一人しかいない。そしてそれはこの目の前のガキではない。絶対に。

 

 フウゥ、とエラルドジェイは長く息を吐いた。ほどけた髪を掻き上げて「やれやれ…」と首を振る。

 

「最初からどうにも嫌な感じだったが……いよいよもって奇妙なこと、この上もないな。今日会ったばかりの子供(ガキ)が俺の秘名(ハーメイ)知っている上、そのガキの瞳が金龍眼(キンリョウガン)だって? 冗談じゃないな、まったく」

 

 寸前までの緊張感が嘘のように、軽い調子で話すエラルドジェイに、オヅマはまだ懐かしさを感じつつも、本来の目的を思い出して剣を構え直す。

 

 エラルドジェイはチラと一瞥して、少年の目を確認した。

 もう金の光は失われている。

 見間違い? いいや、そんな訳がない。あの時、確かに暗闇で金色の目が爛々と光っていた。………

 

「やめろよ。もう、そんな気ないだろ、お互い」

 

 エラルドジェイはあきれたように言ったが、オヅマはじっとりと見据えている。 

 

「………それは、マリー達の居場所を教えたら考える」

「マリー?」

「俺の妹だ。オリヴェルと、アドルも……三人はどこだ? 教えろ。素直に言えば、見逃してやる。どうせ請け負っただけだろ?」

 

 エラルドジェイは皮肉な笑みを浮かべた。

 

「ほぅ。俺がそういう()()だってことまでご存知ってワケか?」

 

 オヅマはエラルドジェイを睨みつけながら、片手で持った剣をまっすぐその鼻先に伸ばす。

 

「早くしろ。マリー達がいなくなって、俺とアドルまで消えて、領主様が何もしないと思うか? アドルはお前の指示に従ったけど、手掛りは残していった。俺にわかるくらいなんだから、領主様にここがわからない訳がない」

 

 これはオヅマにとってはハッタリだった。

 地図にはシレントゥに印はされていたが、あの真っ白な紙を見てもおそらくヴァルナルには何もわからないだろう。

 

 だが、それは嘘にならなかった。

 いきなり天窓がバリンと割れて女の声が響く。

 

「騎士団が来てる!」

 

 エラルドジェイは左腕を持ち上げるような仕草をして、四本爪を袖の中に仕舞った。

 もう仕事は完遂している。まさかの()()が想像以上の事態になったが、そろそろ退き際だろう。

 

「この通路の先にあるドアだ。地下室にいる。とっとと行くんだな。依頼人はお前の()()を殺す気でいる」

 

 聞いた途端に、オヅマは走り出す。

 地下へ通じる扉を開けた途端に、マリーの声が響いた。

 

「しっかりして! オリヴェル!!」

 





次回は2022.07.30.に更新予定です。



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第五十七話 レーゲンブルト騎士団、動く

 少し時は戻る。

 

 

 領主館でオヅマ、アドリアン二人の不在に気付いたのは、食事を運びに来た従僕のロジオーノだった。

 

 明かりもついていない薄暗い部屋はシンとして誰のいる気配もない。

 少年二人が腹を空かせているだろうから…と、たっぷりのシチューとパン、ハムにキュウリのピクルスまで用意してワゴンに乗せてきていたロジオーノは驚愕し、すぐさま近くにいた騎士に知らせた。それはアルベルトで、すぐに部屋に向かい二人の不在を確認すると、珍しく領主館内を走って執務室にいたヴァルナルに報告した。

 

 ヴァルナルは即座に領主館内を手分けして探すように命じた後、カールとパシリコを伴ってオヅマ達に与えた客室へと向かった。

 暖炉の火もなく、静まり返った部屋は冷えていた。出て行って随分経ったらしい。

 

 カールが窓際のテーブルに置いてあった地図に気付く。

 

「シレントゥに印があります」

「シレントゥ?」

「それと…これは何でしょうか。すこし分厚いカードのような紙が…」

 

 パシリコが持ってきた白い紙を手に取り、ヴァルナルはしばらくまじまじと眺めた後、

 

「手拭いを濡らして、固く絞って持ってこい」

 

と指示する。

 

 パシリコは不思議に思いつつ、自分の手拭いを水差しに残っていた水で濡らすと、固く絞ってヴァルナルに渡した。 

 ヴァルナルはその手拭いで紙を覆い、少しだけ湿らせる。それから燭台に灯った蝋燭の上で炙るように細かく動かした。

 

「あっ!」

 

 パシリコが声を上げる。カールが得心したようにつぶやく。

 

「炙り出しインクですか…」

「そのようだ」

 

 相槌を打ちながら、ヴァルナルは紙に浮かび上がった簡易な地図と文字を読み取る。

 

『お友達を助けたいなら、シレントゥにある下記の場所まで来ること。但し、誰にも知られてはいけない』

 

 アドリアンを一人でおびき寄せるためだろう。

『誰にも知られてはいけない』という文字だけが、やたら大きく書かれていた。

 

 ヴァルナルは紙を握りしめると、静かに指示を下す。

 

「総員、騎乗準備。シレントゥに向かい、包囲せよ。一番隊は私と共に3番埠頭に向かう。館内に共犯者がいる可能性もある。表向きにはボーグ峠に山賊が現れたと布告せよ。道中で編成を行う」

 

 カールとパシリコの顔が一気に引き締まった。ハッ、と敬礼してすぐさま部屋を出て行く。

 

 ヴァルナルはしばらくその場に佇んでいたが、拳を握りしめたかと思いきや、地図の置かれたテーブルを思い切り殴った。一枚板で作られた頑丈なテーブルにミシミシと(ひび)が入る。

 

 怒りを孕んだグレーの瞳は、誰もいない暗い部屋の中で、見えない敵を睨みつけている。

 

 してやられた。

 一度ならず、二度、三度…いや幾重にも張り巡らされた計略。

 

 領主館の火事、アドリアンを狙った掏摸(スリ)、ミーナをおびき寄せた老婆、マリーとオリヴェルの誘拐。

 それでも小公爵(アドリアン)をこちらで確保している限り、奴らの思惑通りにいかないと…油断していた。

 まさかこんな形で、直接アドリアンに交渉していたとは。

 

 すべては、自分の慢心が招いたものだ。

 苦い自虐を呑み込んで、ヴァルナルは歩き出す。今は自分を責めて感傷に浸っている暇はない。

 

 扉を開けると、そこにはミーナが立っていた。

 青ざめた顔をしながらも、いつものように姿勢正しく、胸の前でしっかりと手を握り合わせている。

 

「ミーナ……」

 

 よりによって一番今、会うのがつらい相手であったが、おそらくミーナの心境はヴァルナルとは比較にもならないだろう。

 

 だがミーナは静かに謝った。

 

「オヅマがまた…勝手をしたようで申し訳ございません」

 

 その言葉を聞いて、ヴァルナルはギリと奥歯を噛み締めた。

 誰が言ったのだろう? アドリアンだけでなく、オヅマもまた行方不明であると。マリーだけでなく、オヅマもまた危険な状態であると知って、二人の母であるミーナが平静でいられるはずもないのに。

 

「オヅマは…放っておけなかったのだろう。きちんと彼に言い聞かせることが出来なかった私の責任だ。貴女(あなた)が謝ることではない」

 

 ミーナは俯けていた顔を上げると、真っ直ぐにヴァルナルを見つめた。

 

「どうか……助けて下さい」

 

 切実な声と、見る間に薄紫の瞳の中で震える涙に、ヴァルナルは胸が痛くなった。 

 ミーナは気丈に涙を必死で抑えて、もう一度訴えた。

 

「お願いします。子供達を助けて下さい………お願い…」

 

 ヴァルナルは唇を噛みしめると、そっとミーナの肩に手を置いた。

 

「必ず…」

 

 短くつぶやいて、ヴァルナルは足早に立ち去った。

 自分がいなくなれば、ミーナはその場に崩折れて泣くのだろう。

 それを慰める資格は自分にない。

 

「総員、揃いました」

 

 館前の広場に集った騎士達を見て、ヴァルナルは胸にある感傷を追いやった。

 用意されていた黒角馬のシェンスに跨ると、軽く手を上げて叫ぶ。

 

「征くぞ。皆、我に続け!」

 

 既に騎士団の山賊討伐が行われることは城下に知らされていた。大通りには人っ子一人いない。

 

 ヴァルナルは先頭で大通りを一気に駆け抜けた。城門を出てしばらく街道を走っていたが、分かれ道で急に馬を止めると、振り返って号令した。

 

「これよりシレントゥに向かう。包囲せよ。一番隊のみ我に続け」

 

 騎士達は一瞬だけザワついたが、副官以下の司令各員が既知であるように平静なのを見て、すぐに理解した。普段の演習においても、急な目的変更はよく行われることだ。

 

 ヴァルナルが走り出すと、カールとパシリコが各隊の長に短く指示を与え、騎士団はにわかに編成を組み直して動き出す。

 この最小限の伝達と、柔軟で迅速な陣形組成こそがレーゲンブルト騎士団をして、神速と呼ばしめるものだった。

 

 シレントゥまでの道は、より多く早く荷物の搬送をするために、ヴァルナルが数年かけて整備したため、いつもの朝駆けなどに比べれば平坦な道だった。

 夜となって最早通る人もいない道を、ヴァルナルは思いきりシェンスを走らせる。

 本気で走らせると、シェンスは見る間に後続を引き離していく。

 ヴァルナルの他には副官を始めとする一番隊の数名だけが黒角馬に騎乗していたが、同じ黒角馬であってもシェンスはやはり元々首領格であっただけに、その速さは群を抜いていた。

 

 土煙を上げてこちらに向かってくる異様な領主の姿と、その背後に連なる黒々とした集団を見て、倉庫の屋根で見張っていたエラルドジェイの雇った女楽師は、あわてて天窓を割って叫んだ。

 

「騎士団が来てる!」

 




引き続き更新します。


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第五十八話 アドリアン対ダニエル

 アドリアンはエラルドジェイの残していった剣をすぐさま拾うと、ダニエルに向かって構えた。

 背後にマリーとオリヴェルを隠す。

 

「あの野郎…裏切りやがって」

 

 ダニエルはアドリアンに武器を残していったエラルドジェイを恨んだが、おそらく当人がそこにいたら「そもそも仲間でもない」と(うそぶ)いたことだろう。

 

「やる気か? えぇ? このクソガキめ…卑しい血を受け継いだくせに、威張りくさって」

 

 ダニエルはフラフラとよろけながら、アドリアンに充血した目を向ける。

 腰の剣を抜くと、ブンと振った。

 

「キャアッ!」

 

 マリーが悲鳴を上げ、アドリアンのマントを掴む。カン、と弾いてアドリアンはオリヴェルに声をかけた。

 

「相手の目的は僕だ。隙を見て逃げてくれ!」

「アドル!」

 

 オリヴェルが叫んでいる間にも、ダニエルは応戦してくるアドリアンに血が昇って遮二無二、打ちかかってくる。

 騎士に比べればまったくなってない戦いぶりだったが、それでも大の大人が渾身の力でしつこく打ち込んでくると、アドリアンも防戦一方になる。

 しかも、背後ではマリーとオリヴェルが恐怖で足がすくんでいる。

 

 アドリアンはダニエルの剣を弾かずに受け止めた。ギギギと刃が擦れ合って不快な音をたてる。正直、力勝負となれば子供の腕力でそう持つ訳もない。

 だが、今はダニエルを足止めさせなければ、マリー達が動けない。

 

「行け…っ! 早く!!」

 

 アドリアンが怒鳴りつけると、オリヴェルはゴクリと唾を呑み込んで、マリーの手を引っ張った。

 

「駄目よ、アドル! 一緒に…」

 

 マリーはどうにかしてアドリアンも一緒に逃げて貰いたくて声をかけたが、オリヴェルが遮った。

 

「僕らがいたら邪魔だ!」

 

 白い顔で怒鳴って、マリーを引きずるように走り出す。

 剣を交わらせたまま膠着している二人のそばをすり抜ける時に、ダニエルが大声で怒鳴った。

 

「待て! ガキ共ッ」

 

 ダニエルの気が逸れた一瞬の隙を狙って、アドリアンは彼の腹を思い切り蹴った。ダニエルはどぅと倒れ、置かれていた椅子に腰を打ち付けた。

 

「ぅぐあッ!」

 

 悲鳴と同時に、空きっ腹にさんざ流し込んだワインが逆流して辺りに飛び散る。

 地面に無様に転がったダニエルの目の先に、アドリアンは剣の(きっさき)を突きつけた。

 

「誰だ…お前は」

 

 問いかけると、ダニエルは血走った赤い目でアドリアンを睨みつけ、精一杯ふんぞり返って名乗った。

 

「ダニエル・プリグルスだ!」

「……………誰だ?」

 

 アドリアンは本当にこの男のことを知らなかった。当然のことである。ダニエルがまだプリグルス伯爵であった頃でさえ、二人に面識はない。

 

 しかし、ひたすらアドリアンを殺すことだけを考えて、はるばる帝都からこの北の果てのレーゲンブルトにまでやって来たダニエルは、アドリアンのこの態度に怒り心頭になった。

 

「おのれ…罪人の血を引く卑しいガキめ!! 貴様などがグレヴィリウスの後継など、許されるものか!」

 

 アドリアンはあからさまな誹謗にも、わずかに眉を顰めただけだった。静かに問いかける。

 

「僕を殺すように指示したのは誰だ?」

「………」

 

 ダニエルはその問いに一瞬、顔色を変えたが、ヒクヒクと頬が痙攣した後には、口の端を歪めて笑い出した。

 

「ハハ…ハ………。いいや、俺だ。俺が貴様を殺さねばならぬと思ったのだ。貴様のせいで俺の人生は滅茶苦茶になった。全ては貴様が招いたことだ……」

「何を言って…」

 

 アドリアンは意味がわからず重ねて問おうとしたが、その時、マリーの甲高い声が響いた。

 

「しっかりして! オリヴェル!!」 

 

 アドリアンがハッと扉の向こうを見た途端に、ダニエルは思いもよらぬ素早い動きで走り出した。

 

「待てッ!」

 

 あわてて追いかけるが、ダニエルは開け放たれた扉から出て、一目散にマリー達のもとへと近づいていく。また人質にとるつもりだ。

 

 壁に灯ったランプの明かりに照らされ、オリヴェルが階段の下で倒れているのが見える。マリーが必死でオリヴェルを抱き起こそうとしていた。

 

 しかし、こちらに剣を振りかざして走ってくるダニエルに気付いて硬直する。

 

「マリー! 逃げろッ」

 

 アドリアンは叫んだが、マリーは動けない。

 恐怖と、自分がここで逃げれば確実にオリヴェルが殺されると思った。

 もはや声も出ず、マリーは心の中で叫んだ。

 

 

 ―――――お母さん! お兄ちゃん!

 

 

 ギュッと目をつむると同時に、頭の上を何かが飛ぶ気配がした。

 

 ビュン! と剣のうなる音。

 それから重い……何かが落ちた音。

 

 マリーはそろそろと目を開いた。そこに兄の後ろ姿を見てホッとなったのも束の間、地面に落ちたダニエルの首とまともに目が合って、喉が千切れんばかりに絶叫した。

 

「マリー!」

 

 アドリアンがあわててマリーを抱きしめて、ダニエルの首を見せないようにしたが、既にマリーは気を失っていた。

 




引き続き更新します。


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第五十九話 早すぎる発現の代償

 エラルドジェイに教えてもらって地下室の螺旋階段を降りていたオヅマは、剣を振り上げてマリーに襲いかかろうとしていたダニエルを見て、一気に憎悪した。

 

 階段の途中で跳躍する。

 

 ザンッ!

 

 殺すつもりなどなかったのに、気づけば剣が吸い付くようにダニエルの喉元を狙っていた。

 オヅマが地面に着地すると同時に、重い音をたててダニエルの首が落ちた。

 

「キィャヤアアアアアァァ!!!!」

 

 マリーの絶叫が地下に響き渡る。

 

 オヅマはゆるゆると振り返って、アドリアンに抱きかかえられ、白い顔で気を失っているマリーを見つめた。

 それからダニエルの首を見て、信じられないように自分の剣をまじまじと眺める。

 

 赤い血がべっとりついた剣。

 

 オヅマは必死で強張った手を開いて、その血のついた剣を抛り出した。それでもはっきりと、首を斬った感触が残っている。

 

 意味がわからないのは、()()()()()()()()()()ことだ。

 

 命を奪う。息していたものを殺す。拍動していた心臓を止める。

 どうしてその行為に()()()()()()のか?

 

 ガタガタと震えながら、オヅマは自分を抱きしめる。

 

 自分は誰かを殺したことなんてない。

 今初めて、殺した。

 仕方がなかった。

 マリーが殺されそうだったから、自分は助けた。

 それだけだ。

 それだけ。

 仕方がなかった…。

 

 必死で何度も言い聞かせて、オヅマはガクリと膝をつくと四つん這いになった。

 いきなり汗が噴き出してくる。ポタポタと信じられない量の汗が額から落ちてくる。

 

「あ……あ……」

 

 急に胸が苦しくなった。

 ぐるぐると中で何かが渦巻いて、喉をせり上がってくる。

 

 ゴボッ! と吐いたのは大量の血だった。

 見る間に地面に広がって、ダニエルの首も血溜まりに浸かっていく。

 

「オヅマ!」

 

 アドリアンがマリーを抱きかかえたまま叫ぶと同時に、階段の上からヴァルナルの声が響いた。

 

「そこにいるのかッ!? 誰か、返事しろっ」

 

 アドリアンは必死に叫んだ。

 

「ここです! 早く来て下さい! オヅマが血を吐いてるんです! 早く!」

 

 ヴァルナルは転びそうな勢いで階段を駆け下りると、そこで倒れていたオリヴェルを見て蒼白になった。すぐに抱き起こして必死に声をかける。

 

「オリヴェル! オリヴェル!! しっかりしろ! オリヴェル!!」

 

 アドリアンは自分の息子が倒れている姿を見たヴァルナルが動転するのは無理もないことだと思ったが、オヅマの様子が気になった。

 マントを脱いで地面に敷き、その上にマリーをそっと寝かせた。

 目覚めた時にまたダニエルの首を見ないように、階段の方に頭を向けておく。

 それからすぐにオヅマに駆け寄ったが、血溜まりに倒れ込んだオヅマの惨状に、一瞬、声を失った。

 

「オヅマ、しっかり…」

 

 地面に突っ伏していたオヅマを抱き起こすと、その目はカッと見開かれ、キョロキョロと眼球が動いていた。

 

「あ……」

 

 自分に声をかけられていることがわかったのか、手を伸ばして声を出そうとするが、同時にゴボゴボっと血が噴き出す。

 

「オヅマ! オヅマッ!!」

 

 アドリアンは伸ばしてきたオヅマの手を掴んで必死に呼びかける。

 オヅマはアドリアンの手を掴むと、かすかに、囁くような小さな声で言った。

 

「……見え……な…い」

 

 アドリアンは泣きそうになった。

 こんな弱々しいオヅマは見たくない。

 頼むから誰か助けて――――と、救いを探した時に、ヴァルナルがアドリアンの肩を叩いた。

 

「お待たせした。……すまない」

「ヴァルナル……」

 

 アドリアンが見上げると、視界の端で、オリヴェルを抱えて階段を上っていくゴアンの姿が見えた。その後を、マリーを抱えたサロモンが続く。

 

 ヴァルナルはアドリアンの腕の中にいるオヅマに声をかけた。

 

「オヅマ………大丈夫だ」

 

 言いながら、オヅマの目を大きな手でそっと覆う。

 

「『千の目』を使ったな? お前には、まだ無理だと言ったろうに……」

「………たす…け……たかっ…た……」

 

 かろうじてつぶやいたオヅマを、ヴァルナルは沈痛な面持ちで見つめながら、明るい口調で言った。

 

「あぁ、助かった。皆、無事だ。マリーもオリヴェルも、アドルも。お前が助けたんだ。安心しなさい。もう、大丈夫だ。少し……寝るといい」

 

 掌でオヅマの瞼が閉じたのを確認して、ヴァルナルはそっと手を離した。

 さっきまで見開かれたまま震えていた薄紫の瞳は閉じられ、穏やかな寝息が聞こえてきて、アドリアンはホッとした。

 いつの間にか側に来ていたアルベルトが、オヅマを軽々と抱き上げる。

 

「あ…一緒に行ってもいいですか?」

 

 アドリアンが尋ねると、ヴァルナルが頷いた。

 

「……私もすぐに向かう」

 

 アドリアンは軽く辞儀して、オヅマを抱えたアルベルトの後に続いた。

 

「………こいつが首魁でしょうか?」

 

 カールが血溜まりに落ちたダニエルの首をランタンで照らしながら尋ねる。

 ヴァルナルもしゃがみ込んでダニエルの首をまじまじと検分した後、首をひねった。

 

「あれ…この男……どこかで……」

「ご存知なのですか?」

 

 カールが驚いて問うと、ヴァルナルは頷く。

 すぐにカールは問い詰めた。

 

「誰です? 思い出して下さい。重要なことです。どこで会いましたか? 何か言葉を交わした憶えは?」

「そう矢継ぎ早に言ってくるなよ。確か…あの時だ。公爵閣下の逆鱗に触れて追い出された男だ。アルテアン侯のご息女の婚約者か何かで、一門の会同に参席していて……名前は…えー……ダミアン…じゃない。ダ、ダ……ダグラス…だったか……?」

 

 ヴァルナルの脳裏には、情けなく騎士達に連れてゆかれるダニエルの後ろ姿が印象的で、正直、あまり顔も名前も覚えていなかった。

 元々、見知った顔でない上に、公爵の怒りを買ったのであれば、今後会うこともないと、記憶からすっかり消し去っていたのだ。

 

 カールは眉を寄せた後、すくっと立ち上がった。

 

「とりあえず、一度、小公爵様と話す必要があるでしょう。ここは私の方で検分も含めて処理しておきますので、領主様は館にお戻り下さい」

 




次回は明日2022.07.31.に更新予定です。


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第六十話 聴取

 ヴァルナルはアドリアンも休ませたほうが良いだろうと思い、質疑は明日に行うつもりだったが、アドリアンの方から執務室に訪ねてきた。

 

「小公爵様、とりあえず今日のところはお休みになられた方がよろしいのでは?」

「休めるわけがない。今回のことは、全部僕の責任だ」

 

 眉を寄せて苦しげに言うアドリアンを、ヴァルナルはすぐに否定した。

 

「そんな訳がありません。今回のことは、すべて私の油断が招いたものです。この平和な田舎町であれば、謀略や悪意からは無縁であろうと…」

 

 言いながらまた、怒りがこみ上げてくる。

 ヴァルナルは拳を握りしめた。

 

 アドリアンはヴァルナルの震える拳をじっと見つめた。

 それからゆっくりと首を振る。

 

「ヴァルナル、今回のことは間違いなく僕のせいだ。僕をおびき寄せた人間がはっきりとそう言ったのだから。マリーもオリヴェルも……僕のせいで攫われて、あんな辛い目に遭わせることになった。………すまない」

 

 謝ったのは領主であるヴァルナルでなく、オリヴェルの父親であるヴァルナルにである。仄暗い地下の中で倒れていた息子に狼狽して、必死で呼びかけていた姿は父親のものだった。

 

 ふ…と、アドリアンは自分をオリヴェルに当てはめてみる。だが、より暗い顔になるだけだった。あの父が自分を心配するなんてことは有り得ない。

 

 ヴァルナルはアドリアンの沈んだ顔を痛ましく見つめた。

 本当はアドリアンに少しの間だけでも公爵家の(くびき)から自由になって、同じ年頃の子供達と遊び、時にケンカもして、子供らしい生活を満喫してもらいたくて連れてきたのに…。

 結局、グレヴィリウスの後継という現実は、こんな北の辺境までも追いかけてくるのか。

 

 ヴァルナルは軽くため息をついて、気持ちを切り替えた。

 

「謝罪は…今ので最後にしてください。いくつか伺いたいことがございます。よろしいですか?」

 

 アドリアンが頷くと、ヴァルナルはマッケネンに書記を頼んで、事情を尋ねる。

 

「まず、あの紙は?」

「スリに革袋(金入れ)を取られて、戻ってきたら中に入っていたんだ」

「インクが特殊なものであることも気付いた上で、あえて残されていったのですね」

「ヴァルナルなら気付くだろうと思って。すぐに教えることは出来なかったから…」

 

 申し訳なさそうに言うアドリアンに、ヴァルナルは頷く。

 

「わかっております。『誰にも知られてはならない』と書かれていれば、騎士団が動いたと向こうが感知した瞬間に、マリーもオリヴェルも…」

 

 言いかけてヴァルナルは口を噤んだ。たとえ未遂に終わったとしても、そもそも未遂であったことも含めて、口に出したくもない。

 

 アドリアンはその危険性を回避しつつ、どうにかして伝えたかったのだろう。だから、ある程度の時間が経過した―――自分が誘拐犯と接触した―――後に、第三者が気付くようにしておいたのだ。

 

 ヴァルナルは苦い笑みを浮かべた。

 小公爵のなんと冷静で周到なことか。

 

 確かに火事も含めた一連の出来事が誘拐犯の奸計によるものであるなら、領主館に共犯者がいる可能性は高い。もし、館内で騒ぎたてれば、たちどころに犯人の知るところとなるだろう。

 もっとも、言ってくれればやりようはいくらでもあった。到底、褒める気にはなれない。

 

「それで指定された場所に行くと、あの男…首を斬られた男が待っていたと?」

「いいや。待っていたのは、別の男だ」

「別の男?」

「スリだ。でも、同一人物かどうかはわからない。雀の面をしていたから」

「雀の面でしたら、倉庫内に真っ二つに割れて落ちていました」

 

 パシリコが口を挟むと、筆記者のマッケネンも言い足した。

 

「雀の面と、白い…おそらく頭の巻き布が落ちてました。小公爵様が仰言っていた西方民族衣装(ドリュ=アーズ)を着た男のものと考えられます。鋭利な刃物で切られた形跡がありました」

「それは…」

 

 ヴァルナルは考え込む。アドリアンに一応尋ねた。

 

「その男と交戦したのですか?」

「いや。男は依頼を受けて、僕をおびき出したみたいだ。あの首の男から金貨を受け取っていた。それと……僕に剣を残して去って行った」

 

 ヴァルナルは眉を寄せる。

 マッケネンも書いてから尋ねた。

 

「剣を小公爵様に渡して…ということですか?」

「正確には、僕の足元に剣を放り投げて出て行ったんだ。お金の支払いのことで、少し不満があったみたいだ。『依頼は完遂した』と言っていたし、おそらく金で雇われたんだと思う」

「闇ギルドの人間か…」

 

 ヴァルナルは苛立ちを含んだ声でつぶやいた。

 現宰相ダーゼ公爵によって、帝都の闇ギルドはほぼ駆逐されたが、やはり帝国内において、まだその勢力は健在らしい。

 

「では、雀の面の男と対峙したのは、オヅマでしょうか?」

 

 パシリコが言うと、ヴァルナルは頷いた。

 

「おそらくそうだろう。『千の目』を発動したのも、その雀の面の男に対してだったのやもしれぬ。他の死体はなかったのだな?」

「はい。首を斬られた男以外は」

「オヅマの発現がどれほどのものであったかは知らないが、あの()()()倉庫内で『千の目』で捕捉され『(まじろぎ)の爪』で攻撃されているのに、生き残っているのであれば、その男もまた相当の実力者というわけだ…」

 

 そう語るヴァルナルの脳裏には、冬に神殿でオヅマに木剣を突きつけられた時のことが思い浮かぶ。あの時の、まだまだ不完全な発現であっても、オヅマの鋭い突き攻撃にヴァルナルは目を(みは)ったものだった。

 本気を出していない状態であの(はや)さであったのだから、今回のように本気で向かったのであれば、そう簡単に切り抜けることはできなかったはずだ。

 

 もっともその反動として、オヅマの身体的負担は甚大なものになってしまった…。

 

 ヴァルナルはまた自分への苛立ちが再燃しそうになるのを押し留めて、一度目を閉じてから、質問を再開する。

 

「つまり依頼した人間というのが、あの首の男という訳ですね。何か話しましたか?」

 

 アドリアンはふっと、目線を伏せてから、暗い声で言った。

 

「僕のことを恨んでいるようだった。おそらく誰かからの指示かと思って訊いたけど、答えずに…自分の意志で僕を殺しに来たのだと言っていた。自分が不幸になったのは、僕のせいだと…」

 

 ヴァルナルはあきれたため息をついた。自分の失言によって公爵の怒りに触れた挙げ句に、このような暴挙に出るとは…つくづく馬鹿としか言いようのない男だ。

 だが――――

 

「口止めされていたのか…? どう考えても奴のような軽輩が、今回のような大胆な行動を起こすとは考えにくい。誰かに焚きつけられでもしない限り」

 

「でも…嘘を言っているようには見えなかった。僕は彼のことを知らなかったから、どうしてあんなに恨んでいたのかわからない。名前も言われたけど、何度思い返しても覚えがなくて…」

 

「奴の名前をご存知なのですか?」

 

 尋ねたのは筆記者のマッケネンだった。顔に見覚えのあるヴァルナルは、とうとう男の名前を思い出せなかったのだ。

 

「ダニエル・プリグルスと名乗っていた」

「あぁ!」

 

 ヴァルナルはパンと手を打った。

 

「そうだ。ダニエルだ。ダニエル・プリグルス。伯爵だったはずだ」

「彼は一体、何者だ? どうしてあんなに…」

 

 アドリアンはダニエルのことを知っているらしいヴァルナルに反対に尋ねた。

 

「知る必要もないですよ。ただの逆恨みです。自業自得だというのに、反省できないから、いいように利用されるのです」

 

 ヴァルナルは吐き捨てるように言ってから、釈然としないアドリアンの目に見つめられて、眉間の皺を揉んだ。

 

「会同で…閣下を怒らせたのです。それで閣下には刃向かうことができぬから、小公爵様に恨みを持ったのでしょう」

「父上を怒らせた? なぜ?」

「………小公爵様の配慮がなければ、シモン公子もまた公爵閣下の逆鱗に触れていた、ということです」

 

 ややあってヴァルナルが答えると、アドリアンはすぐに納得した。

 恐れ知らずにも母のことを父の前で誹謗したのだろう…あの愚かな男は。

 

 それまでは自分の預かり知らぬところで傷つけることでもあったのかと、アドリアンはかすかに罪悪感を持っていたのだが、理由を知れば、もはやダニエルに気兼ねする必要もない。ヴァルナルの言う通り、ただの逆恨みに過ぎない。

 

 むしろ、そんな男に振り回されてマリーやオリヴェル、オヅマまでもが、心身に傷を負ったことの方が腹立たしい。

 

「念のため伺いますが、そのダニエル・プリグルスの首を斬ったのはオヅマですね?」

 

 マッケネンが尋ねてくるのを、アドリアンはキョトンとして見つめる。目の前で一部始終を見ていたアドリアンからすれば当たり前のことなのだが、考えてみれば、あの場で剣を持っていたのはオヅマだけではない。直前までアドリアンがダニエルと対峙していたのだから、アドリアンがダニエルの首を斬ったと考えることもできる。

 

 アドリアンは頷いてから、すぐにハッとなって大声で訴えた。

 

「でも! あの男は…ダニエルはマリー達を襲おうとしていたんだ! オヅマはマリーを助けるために仕方がなかった。あの時には、選んでいられる余裕なんて…」

 

 まさかオヅマが殺人犯として糾弾されるのかと思って、アドリアンは一気に青ざめた。

 慌てるアドリアンをヴァルナルがなだめる。

 

「落ち着いて下さい。ただの事実確認です。オヅマを責めるつもりはありません」

「ヴァルナル! オヅマは…殺したくなんかなかったはずなんだ。あの男の首を刎ねた後に、ひどく震えて、怯えているみたいだった! だから、今回のことを父上に報告するなら、すべて僕の責任だと言ってくれ!」

 

 アドリアンもまた、あまりに立て続けに起こった非日常の出来事に、神経が昂ぶっていた。自分のせいで、これ以上ヴァルナルやオヅマを振り回したくなかった。

 

 いつもの冷静な小公爵からは考えられぬほど取り乱した様子に、ヴァルナルは立ち上がると、アドリアンの前にしゃがみこんで、両肩に優しく手を置いた。

 

「大丈夫です、アドリアン様。事実のままに伝えるだけです。それで、公爵閣下は十分に事情を汲まれることでしょう」

 

「いいや! 必ず父上に言ってくれ。すべての原因は僕にあると。僕を守ろうとしないでくれ、ヴァルナル。父上は、僕に期待なんかしていない。今更、僕の評判が悪くなっても、不出来な息子だってことに変わりないんだ。僕は平気だ。鞭打ちでも、幽閉でも…!」

 

 ヴァルナルは愕然とした。

 アドリアンの肩に乗せた手が震える。

 

 どうしてここまで自分を追い込むのだろうか、この若君は。否、彼にこんなことを言わせているのは、大人の側に問題がある。

 

「……少し、休みなさい。アドル」

 

 ヴァルナルはあえて命令した。

 オヅマやマリー、オリヴェルだけでない。

 アドリアンもまた、精神(こころ)に傷を負った。

 

 人殺しを目の当たりにし、初めての友達が瀕死となる姿を見て、()()()()()が落ち着いていられるわけがない。

 

 マッケネンが扉の横で警護にあたっていたアルベルトに声をかけていた。

 

「アドル、アルベルトが部屋に案内する。聴取はこれで終わりだ」

 

 マッケネンが優しく促すと、アドリアンはまだ何か言いたそうにしていたが、ヴァルナルはあえて背を向けた。

 

「………失礼します、領主様」

 

 アドリアンは辞儀すると、静かに執務室を出て行った。

 




引き続き更新します。


感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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断章 -千の目- Ⅰ

 ()が…また、来ている。

 

 ねじれながら、緩やかな流れとなっておし寄せてくる。

 

 昏い()が。

 

 オヅマは抗うこともできない………。

 

 

 

 

 

 

『千の目』

 

 数ある稀能の中においても、突出して修得が難しいとされている。

 なぜならば、多くの稀能において重要とされる視覚野を、一時的に喪失させるからだ。盲目ではない人にとって、視覚というのは感覚の中でも広範な分限を持つ。故にこそ人は視覚に依存し、依存していることにすら気付かない。

 

 この視覚野を喪失させることで得るのは、より広範な、より鋭敏なる感覚。

 

 極端なまでに研ぎ澄まされた集中、絶無の境地によって引き起こされるこの身体現象を理解できぬ者は、魔術や人外の者による異能と呼ぶこともあるだろう。

 実際、この能力はただ才覚あれば取得できるものでなく、また同時に努力によって必ず身につくと保証されるものでもない。

 素質、才能、不断の努力、そして―――――

 

「適切な、教育だ」

 

 その声はやさしく響いた。

 口元に浮かぶ微笑と柔らかな口調に、オヅマは盲目的に彼を信じた。

 

 言われるがまま、『千の目』修得に向けた訓練を受け入れる。

 

 彼は呼吸法や瞑想といった集中力を高めるやり方を自ら教えてくれた。低く深みのある声はオヅマの耳朶に心地よく響き、徐々に侵蝕していく。

 

 何度か昏倒し、鼻血を出し、時々視力が戻らなくなったりする度に、彼はオヅマをやさしく介抱してくれた。なかなか上達しないオヅマを見放すこともなく、辛抱強く励まして導いてくれる。

 

 オヅマが基礎的な集中方法を身に着けた後、彼はオヅマにある女を紹介した。

 

「彼女はリヴァ=デルゼ。女だが、有能な戦士だ。今日からは、この者がお前の()()だ。言う事をしっかり聞いて励むように」

 

 女―――リヴァ=デルゼは挨拶をせず、オヅマを見てニヤリと笑っただけだった。顔立ちは若かったが、白いものが多く混じった頭髪と、凄みある雰囲気は老獪な年増女にも見えた。

 

 その日から、オヅマは生傷が絶えることのない身体(からだ)となった。

 

 屋敷の一角にある半ば廃墟のようになった館と、その広い庭で、より実地的な修練が行われた。

 

 最初は隠した鼠を、教えてもらった集中の方法を使って見つけることから始まった。それから太らせた大兎、利口でよく躾けられた豆猿、猛毒を持った甲殻蛇。

 最初檻に入れられていたそれらの動物は、やがて放たれて動くようになる。この時から見つけ次第、殺すことを命じられた。それは百匹近くの時もあれば、広範な敷地の中で三匹だけということもあった。

 

 発見と同時に瞬時に殺す。相手に反撃の隙も与えないように、こちらの存在を知られず殺傷に及ぶことが理想とされた。

 

『千の目』の対となる『(まじろぎ)の爪』と呼ばれる稀能。

 

 これもまた当然、修得する必要がある。

 罠の仕掛けられた野山を昼夜を通して駆け回り、オヅマはどんどん身軽に、より敏捷に、速くなっていった。

 運動機能は瞬く間に成長していったが、少しでも気を抜けば、落とし穴に落ちて串刺しになりそうなことも、崖を転がり落ちて冷たい川で溺れそうになることもあった。

 文字通り死にかけそうになりながら、それでもオヅマはしぶとくこの修練に耐えた。

 

「いい子だ」

 

 リヴァ=デルゼはオヅマが失敗をしない限りにおいて、優しく、機嫌が良かった。

 背丈は並の男よりも頭一つ分高く、白髪の多く混じった薄茶色の髪はバッサリと耳下で切っているので、一瞬男かと見紛う容姿であったが、ピッチリと着た戦闘用の服は豊満な胸も、くびれた腰も隠そうとせず、しなやかで引き締まった女体を顕示していた。

 

「よかろう。では、次の課題に移ることにする。明後日に、西の庭にある温室に来るように」

 

 言われた通りに訪れたその温室は、まるで手入れがされておらず、天井の硝子は所々割れていた。珍しい異国の木が硝子を突き破るように伸びていたが、途中で枯れて大きな灰色の葉が萎びて垂れ落ちている。花はほとんどなく、どこからか伸びた蔦が全体を覆い、石畳の間からは雑草が伸び放題。噴水の水はとうに涸れて、女神と妖精の彫像には罅が入り、黒い黴が染み付いていた。

 

「ここに五体いる。いつものように()れ」

 

 リヴァ=デルゼは指示だけして、大木からダラリと垂れ落ちた大きな葉を持ち上げ、鬱蒼と茂る灌木の間を抜けて立ち去った。

 

 この訓練において、リヴァ=デルゼがいつもどこにいるのかは不明だった。よほど巧妙に姿を隠しているのか、オヅマがどれだけ集中して探ってみても、彼女の気配を感じたことはなかった。

 あるいは訓練中は、オヅマのことなど放ってどこかに行っているのかとも思ったが、リヴァ=デルゼはオヅマが課題をこなすとすぐさま姿を現した。やはり、どこかで目を光らせているのは間違いない。

 

 オヅマは剣を左手に持ち、立膝をついた。

 

 砂粒よりも小さな羽虫がそこいら中を飛んで、ささやかな音をたてている。

 オヅマは顔の周りを飛び回る虫を追い払って眉を寄せた。

 この虫は邪魔だ。集中を削ぐ。

 だがその中であっても『千の目』を使えてこそ、稀能と呼べるのだろう。

 

 ゆっくりと深呼吸を三回。うっすらと開いた目は、斜め下を見つめる。

 そこにはたんぽぽの綿毛が揺れていた。

 ふと、マリーを思い出す。いつも綿毛を見つけては、必ずぷうっと吹いていた……。

 オヅマは一瞬だけ、やわらかく笑った。それからすぐに表情を固める。

 

 ゆらゆらと綿毛が揺れている。

 揺れているのを見ている。

 徐々に…その姿がぼやけていく。

 どんどん暗くなっていく視界。

 眠る前の微睡(まどろ)みに似た気怠さと、奇妙な高揚。

 チリチリとうなじが痛痒くなって、尖っていく感覚。

 神経がそこに集中していく。

 太く縒り合わせられた縄。

 それをゆっくりと静かに、(ほど)いて行く。

 解いて、細く、長く―――――神経の糸を伸ばしていく。

 

 ―――――フゥ…。

 

 密やかな息遣いを感知する。

 

 一体目を捕捉すると同時に、オヅマは跳躍した。

 噴水の背後にある茂みの裏にいる。左に持った剣で即座に首を狙って、すんでで止めたのは、微かな幼い悲鳴が耳に入ったからだ。

 

「……助けて」

 

 視覚が戻ると同時に目の前で震えて泣いている少女に、オヅマは困惑した。

 

「お願い、助けて」

 

 少女が呆然とするオヅマに縋って頼んでくる。

 浅黒い肌は、おそらく西方の民族。オヅマの母と同じかもしれない。涙を浮かべた赤茶の瞳が、必死に懇願していた。

 

「あ……」

 

 オヅマは後ろによろけかけて、ドンと何かに当たった。

 振り返ると、リヴァ=デルゼが酷薄な笑みを浮かべてオヅマを見下ろしている。

 

 剣を持ったままだったオヅマの左手を掴むと、グイと前に突き出す。

 鋭い銀色の鋼は、女の子の細い首を正確に刺し貫いた。

 

 目を見開いたまま、女の子はビクビクと痙攣した後、グッタリと力を失った。

 

 リヴァ=デルゼはオヅマの手を抛り出した。

 途端に重くなった剣は、オヅマの手から離れる。

 

 女の子は首を串刺しにされたまま、地面に倒れた。

 ゆっくりと血が広がって、石畳を濡らし、割れ目に染み込んでいく。

 

「駄目な子だ」

 

 リヴァ=デルゼはあきれたため息をついた。「こんな簡単なこともできないなんて」

 

 オヅマは死んだ女の子を凝視しながら尋ねた。

 

「この子は……()()なんですか?」

「そうだ。あと四体いるが…あぁ、一体はこっちを見てるな。奴を片付けてこい」

 

 オヅマは視線を感じる方向へと目を向けると、巨木の大きな葉が落ちた灌木のところにチラチラとこちらを窺う少年の姿があった。オヅマと目が合うなり、あわてて逃げ出す。

 

「ふん…逃げたか。早く行って片付けてこい」

 

 オヅマはそこでようやくリヴァ=デルゼを見上げた。その目には困惑と嫌悪と反抗が浮かんでいる。握りしめた手は震えていた。

 

 リヴァ=デルゼはクスリと嗤うと同時に、容赦なくオヅマの頬を(なぐ)った。オヅマがよろけると、その足を払い、地面に倒れ伏したオヅマの頭を踏みつける。石畳にめり込みそうなほど力をこめて、後頭部をグリグリと圧迫しながら言った。

 

「いい気になるな、小僧。閣下の命令だから、仕方なく面倒みてやっているというのに…」

「嫌だ…子供を……人を殺すなんて…嫌だ!」

 

 オヅマが叫ぶと、リヴァ=デルゼはドスリと腹を蹴る。

 ゴロゴロと転がって、オヅマは女の子の死体の横で止まった。

 見開いたままの目がオヅマを見ていた。赤茶の瞳からこぼれた涙の跡。口から垂れた血。

 

「………ごめん」

 

 小さくつぶやいたオヅマの目からも涙がこぼれる。上からリヴァ=デルゼのあきれた溜息が聞こえた。

 

「これは報告せねばならないな」

 

 吐き捨てるように言って、リヴァ=デルゼはつかつかと歩き出す。

 足音が遠ざかってから、子供の悲鳴が何度か聞こえた。

 

 オヅマはむくりと起き上がり、すぐさま走り出す。悲鳴の上がった方をあちこち走り回ったあと、入り口近くに捨てられた四人の子供達の死体を見つけた。

 リヴァ=デルゼの姿はなく、入ってきた扉は閉じられて外から鍵がかけられていた。

 温室の硝子を破って出ることはできた。だが、オヅマはそのままそこに留まっていた。

 

 自分の訓練の為に集められ、殺される予定だった子供達。

 オヅマが拒否しても、結局彼らは死ぬしかない運命だった。

 

 いや、オヅマが先生(リヴァ=デルゼ)を怒らせなければ死なずに済んだのだろうか。だが、リヴァ=デルゼを怒らせないためには、自分がこの子達を殺すしかないのだ……。

 

 延々とループする思考にオヅマは疲弊した。

 気力が削ぎ落とされて倒れ込む。

 

 そのまま遠のく意識の中で(ねが)った。

 どうかこのまま目が覚めないことを。……

 




次回は2022.08.03.に更新予定です。


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第六十一話 アドリアンの涙

 アルベルトについて部屋に案内されたアドリアンは、暖炉の火が灯されたその人気(ひとけ)のない部屋を見回した後、尋ねた。

 

「オヅマは?」

「隣の部屋だ」

「じゃあ、僕もそっちで寝る」

「申し訳ないが、ベッドの用意ができていない。今日はゆっくり休むようにと、領主様からも言われただろう?」

「……ちゃんとしたベッドなんていらないよ。ソファでもあれば十分だ。それに…どうせ眠れそうにない」

 

 アドリアンはそう言うと、部屋を出て行く。隣と言われて、右か左のどちらだろうかと迷っていると、左の扉からミーナが出て来た。

 

「あっ…」

 

 声をあげたアドリアンに気付いてミーナは俯けていた顔を上げる。

 いつも綺麗に結いまとめた髪が少し乱れ、憔悴した表情には色濃い疲労が見てとれた。それでもアドリアンを見た途端に、すぐさま背筋を伸ばし、腰を低くして深く頭を下げた。

 

「…此度のこと、どうかお許し下さいませ」

「………やめてくれ」

 

 アドリアンは苦しげにつぶやいた。

 この人に対しては、ヴァルナルよりも申し訳なく感じる。いっそ(なじ)られた方が良かった。

 

「僕が巻き込んでしまった。オヅマもマリーも、オリヴェルも。あなたは…僕を恨んだっていいんだ」

 

 ミーナはオヅマと同じ薄紫色の瞳でアドリアンをじっと見つめて、小さく震えるアドリアンの手を取った。

 

「傷ついたのは、あなたも同じはずよ。アドル」

 

 あえてミーナは小公爵としてではない、一騎士見習いの『アドル』に呼びかけた。

 

「大丈夫。マリーも、オヅマも、若君も…みんな無事です。この子達はきっと元に戻ります。私がそうします。必ず、元気にしてみせます」

 

 顔色は悪かったが、ミーナの瞳は強い光を帯びていた。引き結んだ唇は確乎とした笑みを浮かべて、アドリアンを励ます。

 

 この時になって、ようやくアドリアンは涙を流した。

 止めようもなくボロボロと泣く自分が恥ずかしくて、乱暴に目をこするアドリアンをミーナがフワリと抱きしめた。

 

「つらかったわね、アドル。可哀相に…」

「………」

 

 アドリアンはもう耐えられなかった。

 涙がまた奥から溢れて出てくる。みっともなくしゃくり上げて泣くことを止められなかった。 

 

 今回の誘拐騒ぎだけではない。これまでずっと蓋をして、我慢してきた感情が溢れて、アドリアンは自分でもどうしてなのかわからないくらい泣いた。

 

 

 

 

 オヅマの様子を見にやって来たヴァルナルは、少し離れて二人を見ていた。

 ミーナにやさしく抱かれて泣きじゃくるアドリアンを見てホッとすると同時に、ますますミーナへの思慕が募る。

 おそらくこの館の中で、誰よりも心身共に疲れているであろうに…どうしてあんなに人を思いやることができるのだろう。

 

 ヴァルナルはさっきまでの自分の態度を省みて嘆息した。

 アドリアンが公爵邸で味わってきた忍従の日々を知っていながらも、ヴァルナルは彼を見守ることしかできなかった。子供らしい日々を送ることもなく、年不相応に老成し、自らを追い詰めるアドリアンの悲しみを慰めることはできなかった。

 

 ヴァルナルの視線に気付いたミーナがこちらを向く。美しい薄紫(ライラック)色の瞳は、柔らかな光を浮かべてヴァルナルを見つめた。

 

「領主様…」

 

 ミーナが呼びかける。

 アドリアンはあわててミーナから離れた。

 

「あぁ……オヅマの様子を見に来たんだ」

「ありがとうございます。さっきまで少し熱があったのですけど、今はひきました。お医者様にも診て頂いて、とにかく目を覚ますまで様子を見るしかないと…」

「そうか。後で………いや、今日じゃなくて、落ち着いてからでいいのだが、オヅマのことで少し訊きたいことがある」

 

 ミーナの顔が一瞬、ピクリと強張った。だが、すぐに目線を伏せて頭を下げる。

 

「畏まりましてござります」

 

 ヴァルナルは真っ赤に目を腫らしたアドリアンに優しく呼びかける。

 

「眠れないか? アドル」

「………はい」

「では、二人でオヅマを看護するとしよう。ミーナ、貴女(あなた)はオリヴェルとマリーも見ているのだろう? 無理をせずに、時々体を休めるように。たまには人に頼ることだ。貴女を助けたいと思う人間は多くいるのだから」

「はい。領主様のご厚意で、マリーも若君と同じ部屋で休ませていただいて、一緒に看護ができます故、そんなに疲れてもおりませぬ。ありがとうございます」

 

 ミーナはいつも通りに胸の前で手を組んで辞儀した後に、クルリと振り返ってアドリアンの濡れた頬をハンカチで拭った。

 穏やかにアドリアンを見つめてから、クスリと笑う。

 

「目を冷やした方がいいわね、アドル。明日には蜂に刺されたみたいにぷっくり腫れてしまうことでしょう」

 

 そのままハンカチをアドルに渡して、ミーナは去っていった。

 




引き続き更新します。


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断章 ―千の目― Ⅱ

 ()は続いていた。

 

 オヅマは抗いながらも、目を開くことができない。

 

 見たくないのに…。

 

 どうして安らかな眠りが()()には訪れないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 温室で倒れ、意識を失ったオヅマが目を覚ますと、そこには穏やかな微笑を浮かべた男がいた。はっきりと顔がわからない。

 

「大丈夫か? オヅマ」

 

 優しげに声をかけてきて、額に乗せた手拭いを盥に入れて絞り、オヅマの額の汗を拭う。

 

 いつの間にか運ばれていたらしい。天蓋のある豪奢なベッドに横たわる自分に、オヅマは眉を寄せた。

 

「……ここは?」

「私の部屋だ」

「閣下の…?」

 

 オヅマはざっと部屋を見回して、そこが自分の部屋でないとわかるとすぐに起き上がった。だが、男はオヅマの肩をそっと押して寝かしつける。

 

「気にせずともよい。疲れているのだろう。ゆっくり休むとよい」

「閣下……先生が…リヴァ=デルゼが…子供を殺せと」

 

 オヅマは言いながら、涙を浮かべて死んでいた女の子を思い出し、声が震えた。

 あの子は、自分が殺した。リヴァ=デルゼがオヅマの腕を掴んで、無理に殺させたが、あの子の死の慄えをオヅマは感じた。手に、彼女の重みが残っている。

 

 男はそっとオヅマの頭を撫でた。

 

「あぁ……つらい思いをしたのだな、オヅマ。可哀相に…」

「閣下、すみません。すみません……閣下」

「なぜ謝る?」

「期待に添えなくて…きっとお役に立つと…言ったのに」

 

 男はにっこり笑うと、ゆるゆると首を振った。

 

()()()()、オヅマ。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 深みのある声はじんわりと胸に染み込んでいく。オヅマは泣きそうになったが、次に男の放った一言に凍りついた。

 

「マリーは、残念がっていたよ。お前に会えないことを」

「………え?」

「今回の課題が済めば、久々に妹に会いに行くのもよかろうと思っていたのだ。それで伝えてあったのだが、今回は仕方がないな」

 

 心臓を氷の手で鷲掴みされたかのようだった。

 オヅマは言葉を失い、そのまま出て行く男を見送った。

 

 

 ―――――信用するな。

 

 

 遠くで冷たく言い放っている()()がいる。

 

 

 ―――――これが、アイツのやり方だ。

 

 

 オヅマの目から涙がこぼれ落ちた。

 

 マリー。

 懐かしいマリー。

 一体、いつになったら、お前に会えるんだろう……。

 

 

 泣きながら眠り、再び目を開くと、再びあの温室にオヅマは立っている。

 

 背後でリヴァ=デルゼが前と同じように言う。

 

「五体だ。お前が大層嫌がるから、獣にしてやった。今度はしくじるな」

 

 オヅマはホッとした。

 やはり人を…子供を殺すなんてことしたくない。

 

 地面に膝をついて、意識を集中させていく。

 教えられた通りに、焦らず、ゆっくりと、確実に。

 

 ポタポタと罅割れた天井から雨粒が落ちてくる。

 今日は朝から雨で、重苦しい雲が空をずっと覆っていた。ザアァと絶え間なく降る雨の音が、この温室を世界から隔絶する。

 その中心でオヅマは静かに、気配をなくしていく。 

 

 閉じかけた半眼が開くなり、その場にオヅマはいなかった。

 網にかかった最初の獲物は、朽ちて半分屋根の落ちた東屋(ガゼボ)のそばにある棕櫚の木の下でモゾモゾと動いていた。

 地面を這いずり回るその茶色い獣に向かって、オヅマは躊躇なく剣を突き刺した。

 

「…こはっ!」

 

 声がした。明らかに獣ではない声が。

 

 剣を抜くと同時に、獣の皮がめくれる。

 まくれあがった茶色の毛皮の下から、人の腕が見えた。

 

 オヅマがすぐさま毛皮を掴んで剥がすと、自分と変わらぬ年頃の少年が背中から血を流して倒れていた。

 

「…………」

 

 オヅマはカランと剣を落とした。

 目の前の少年の死体を茫然と見つめる。

 

「…あ……」

 

 自分が殺人という行為を行ったのだと自覚して、オヅマは叫びたかったが、何かが喉を塞いで声が出ない。

 

「閣下に感謝しろ」

 

 立ち尽くして動けないオヅマに声をかけてきたのは、リヴァ=デルゼだった。

 

「お前が()()()子供(ガキ)を殺すのに躊躇するようだと報告したら、わざわざ獣の皮を被せてやるようにとご配慮して下さったのだ」

「……獣…?」

 

 オヅマは死んだ少年の横に落ちた茶色の毛皮を見た。それから少年を見ると、大声を出せぬように猿轡(さるぐつわ)をかませられ、膝を折り曲げた状態で足を(くく)られていた。両足首の包帯は、おそらく逃げられぬよう腱を切ったのだろう。

 

「今回は一度で仕留めたじゃないか。次もその調子で()ってこい」

 

 リヴァ=デルゼが楽しげに言うのが、オヅマには理解しがたい。

 プルプルと首を振ると、リヴァ=デルゼは即座にオヅマの横腹を蹴りつけた。

 

 ザザッと、石畳の上を転がりつつ吹っ飛ばされ、オヅマは水たまりにベシャリと顔を打ち付けた。

 ギリ、と奥歯を噛みしめて、脇腹を押さえながら叫ぶ。

 

「嫌だ! こんなこと……したくない!!」

 

 リヴァ=デルゼはコツ、コツと硬い靴底の音を響かせて、オヅマの所まで来る。

 また蹴られることも覚悟しながら、オヅマはリヴァ=デルゼのセピア色の瞳と対峙した。

 ニィィ、と彼女は三日月のような微笑を浮かべた。

 オヅマの髪を引っ掴んで、グイと顔を寄せる。

 

「いい相貌(かお)だ。ゾクゾクする…」

 

 オヅマはもはやリヴァ=デルゼという人間に不快感しかなかったが、それでも必死に訴えた。

 

「先生……できません。閣下に報告してもらっても構いません」

「オヅマ」

 

 リヴァ=デルゼは半笑いを浮かべ、奇妙なほど大きく首を傾げて、オヅマに問いかけた。

 

「何が違うというのだ? この奴隷の子供(ガキ)と、お前が今まで殺してきた(ケダモノ)達と。両方とも命があった。生きて死んでいくことにおいて、同等だろう? なぜ、兎は殺せて、ガキを殺せない? なにを躊躇している? あの兎や猿だって、お前に殺されることを望んでいたと思うのか?」

 

 その言葉はオヅマの中で反芻され、拭いがたい真実として積もっていく。

 ガク、ガクと震えながら、オヅマは視線の先にある少年の死体を見た。

 

 さっきまで死の恐怖に怯えながら、隠れていたのだろう。必死で、生きようとしていたのだろう。

 その命を奪った気味悪さが、はっきりと手の中に残って、赤黒く染み付いていく。

 リヴァ=デルゼの言う通り、オヅマはこれまでに数多くの動物を殺してきている。その声なき者達の、理不尽な死をもオヅマの責任であるなら、もうこの両手は真紅に染まっているのだろう。

 

 リヴァ=デルゼはつまらなさそうに、オヅマを(ほう)った。

 濡れた地面に尻もちをついて、オヅマは呆けたように虚空を見つめた。

 リヴァ=デルゼはオヅマの前で腕を組み、しばし無言だった。

 

 硝子の()れ目から雨が降り落ちる。

 

 葉を濡らす雨の音。

 木々の間を飛ぶ鴉の羽音。

 微かに聞こえた小さな咳。

 

 冷たい静寂の後に、ボソリとリヴァ=デルゼは言った。

 

「…()()……()()()

 

 その言葉の意味を、オヅマはすぐに理解できなかった。

 見上げたオヅマと目が合ったリヴァ=デルゼは、しばらく無表情だったが、やがてニヤリと嗤ってもう一度言った。

 

()()()()()……()()な」

 

 オヅマはぼんやりとリヴァ=デルゼを見つめながら、その言葉の意味を理解するよりも早くに、彼女の服を掴んで訴えていた。

 

「やめて…くれ。マリーは……マリーは関係ない」

「そうかな? そう思うか? いかな閣下とはいえ、何の役にも立たぬ兄妹の面倒を無償で見て下さるほど優しくはない。閣下が許しても、周囲の人間が許すかどうか…。()()()というのは、いつ、どんな時に起こるのかわからぬものだ」

「何を言ってるんだ!? やめろよ!!」

 

 リヴァ=デルゼは必死なオヅマの姿を見て、セピアの瞳をうっとりと細めた。恍惚とした愉悦に酔いながら、歌うように話す。

 

「知っているか? オヅマ。閣下が目をかけて育てているのはお前だけではない。奴らも今日のお前と同じように、課題を与えられている。奴らの課題の()()がいつも奴隷とは限らぬ」

 

 オヅマの薄紫の瞳は絶望に覆われた。

 顔色の変わったオヅマを見て、リヴァ=デルゼは満足そうに微笑む。そして、無情に命令した。

 

「立て」

「………」

 

 言われるままにオヅマは立ち上がる。

 

「剣を持て」

 

 少年の死体の側に落ちていた剣を拾う。

 

「残りは四体だ。漏らさず()()しろ」

「…………はい」

 

 ―――――時間はかからなかった。

 

 五人目の少女の首を裂いて殺した後、オヅマは吐いた。

 胃が空になって酸っぱい胃液だけになっても、吐き気は収まらなかった。青ざめた顔で浅い呼吸を繰り返す。

 強さを増した雨が、オヅマの全身を濡らしていく。

 

 ふと視線を感じて横を見ると、少女の緑の目がオヅマを見ていた。

 

 マリーと同じ緑の瞳だ……。

 




次回は2022.08.06.更新予定です。



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第六十二話 悲鳴

 夜明け前に響いた鋭い悲鳴に、アドリアンはハッと目を覚ました。

 

 目の前では、さっきまでベッドに横たわっていたオヅマが起き上がって、苦しそうに()()()()()()()()()()()()()()()

 

「オヅマ! やめろ!」

 

 アドリアンは必死で自らの首を絞めるオヅマの指を掴んだ。しかし、まるで貼り付いているかのように、取れない。

 寝椅子(カウチ)で寝ていたヴァルナルもあわてて駆け寄り、オヅマの手首を掴んだ。

 

「よせ! オヅマ!」

「やめてくれ! 頼むから!!」

 

 アドリアンは情けなかった。

 こんなにオヅマが苦しんでいるのに、自分はブルブル震えて助けることもできない。

 

 ヴァルナルはギリと歯噛みすると、手首を掴む力を徐々に加えていく。これ以上やれば骨が折れるかもしれない…と危惧したところで、オヅマの手は力を失くした。

 

 ゴホッゴホッと噎せ返るオヅマの背を、アドリアンは撫でさすった。涙が出てきそうで唇をかみしめる。

 

 ヴァルナルはオヅマの手首が折れていないかを確かめて、大丈夫だとわかると、ホッと息をつく。

 

「お前は…無茶ばかりする」

 

 あきれたように言いながらも、ヴァルナルは心底安堵した。

 ひとまず目を覚ましたのであれば、大丈夫だ。あとはしっかり静養して、しっかり食事をとれば治るだろう。

 

 身に過ぎた稀能の発現は時に身体に損傷を与えるが、基本的にはしっかり寝てしっかり食べていれば日にち薬で治る。ヴァルナルでさえ、今持っている稀能をきちんと修得するまでには、幾度となく嘔吐や頭痛、鼻血や眩暈などを繰り返していたので、この症状に対する療法については概ねわかっていた。ただ、血を吐くほどの劇症は初めて見たが……。

 

「まだ早いと言っただろう…」

 

 ヴァルナルは諭しながら、オヅマの頭を撫でようとして、パン! と手を払われた。

 

「……オヅマ?」

 

 問いかけると、オヅマは伸びた前髪の間から剣呑に見てくる。だが、視線が合わないのは、おそらくまだオヅマの目に光が戻っていないせいだろう。 

 

「まだ視力が戻っていないようだな」

「………誰だ?」

 

 オヅマの声はひどく低かった。威嚇しつつも、目が見えないことで怯えているのか、カタカタと細かく肩が震えていた。

 アドリアンはオヅマの手を握った。

 

「大丈夫だ、オヅマ。みんな、無事だ」

 

 オヅマは眉を寄せた。

 

「……みんな? 無事?」

「あぁ。マリーもオリヴェルも…」

「……マリー……」

 

 オヅマはつぶやいて、見えないはずの両手をまじまじと見つめる。

 

「……嘘だ」

 

 アドリアンは小さな声に首を傾げた。

 

「オヅマ?」

「俺は…殺した!」

 

 いきなり叫んで、オヅマは頭を掻き毟る。髪の毛がブチブチと千切れた。

 

「やめろ、オヅマ!」

 

 ヴァルナルはすぐさまオヅマの手を掴む。動かないように握りしめる。

 オヅマはうぅぅと唸りながら、視線をさまよわせた。

 

「オヅマ……すまない。本当に…ごめん…。僕のせいだ…全部、僕のせいなんだ。本当に…本当に……ごめんなさい…」

 

 アドリアンは震える声で何度も謝った。涙があふれてくる。

 

「オヅマ…落ち着け。お前は間違っていない。あの時、お前はマリーを助けただけだ。いや、あの場にいる皆…オリヴェルもアドルも助けた。自分を追い詰めるな。お前の判断は間違っていない」

 

 ヴァルナルが必死で諭すが、オヅマはギロリとヴァルナルの声のする方を睨みつけて怒鳴った。

 

「ふざけるな! 間違っていないだと? ()()が、間違っていないだと?! 狂っている…お前らは狂ってる!!」

「……オヅマ」

「俺は殺した! 人を殺した!! 無意味に、殺しまくったんだ!!」

 

 ヴァルナルは眉をひそめた。

 何か…おかしい。勘違いしている。悪夢でも見たのだろうか。

 

「オヅマ。気を静めろ。お前は思い違いをしている」

「離せ! 離せ!」

 

 オヅマはバタバタと足を動かして、布団(キルト)を払い除けると、ヴァルナルの腹を蹴りつけた。不意打ちにウッ、となりながらもヴァルナルはオヅマの手を離さなかった。

 

「離せよ!」

 

 オヅマは叫んだが、急に力を失った。もとより血を多く吐いて貧血であったのに、起き抜けに暴れたせいで、失神寸前だった。

 前のめりに倒れかけたオヅマを、ヴァルナルが抱きとめる。

 オヅマは白い顔でつぶやいた。

 

「……俺は……人を…殺した…」

 

 ヴァルナルはオヅマを抱きしめると、安心させるように背中をやさしく叩く。

 

「オヅマ…誰もお前を責めることはできない」

 

 オヅマは力なく首を振った。

 薄れかける意識の中で、緑の瞳の少女が問いかけてくる。

 

 

 ―――――ドウシテ、私ヲ殺シタノ?

 

 

 オヅマの目から涙がこぼれ落ちた。

 自分もあの子と一緒だ。最初から選択肢などない。それでも自分のしたことは赦されるのだろうか?

 

「オヅマ…()()()()。誰も、お前を責めはしない。誰にも、文句は言わせない。……()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 安心させるようにヴァルナルは優しく言った。

 

 だが、その言葉はオヅマに絶望を()び起こしただけだった。泣きそうになりながら、顔が苦く歪む。

 

「………見捨ててくれれば……よかったのに……」

 

 そうであれば、自分は化け物にならずに済んだのに。―――――

 

 そのままオヅマは再び深い眠りに落ちていった。

 




次回は2022.08.07.更新予定です。


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第五章
第六十三話 疑われる男


 ネストリは戦々恐々としていた。

 

 ヴァルナルはとりあえず発作で気を失ったオリヴェルら子供達の看護を第一に考え、領主館で起きた火事のことは後回しにしたようではあったが、シレントゥで起きた事件の処理を終えて戻ってきたカールは、迎えたネストリを見て冷たく言った。

 

「妙なことが起きているようですよ、執事殿。後ほど、あなたの意見も伺いたい」

「…意見?」

「領主様や若君の居住する館ではなかったとはいえ、仮にも邸内の…しかも小公爵様が住まわれていた小屋が火事になったのです。執事として、原因を調査することは当然でしょう?」

「あぁ…それはもちろん!」

 

 ネストリは必死で答えたが、ピクピクと顔が強張る。  

 カールはそんなネストリを冷淡に見て去っていった。

 

 

 ―――――疑われている!

 

 

 はっきりと自覚して、ネストリの背中に冷や汗が噴き出る。

 

 こんなことは想定していなかった。自分は手紙を受け取って、相手の言う通りにしただけだ。火事にしたって、人がいないことを確認してやったのだ。事実、誰も死んではいない。

 ()()()()悪いことなどしていないのに、どうしてこんな目に遭わねばならないのだ。

 まさか領主の若君を誘拐するなど思っていなかった。本気で小公爵をどうにかしようとするなんて…思いもよらなかったのだ。

 

 元来小心者のネストリのような男は、もし()()()から「小公爵を殺してこい」と直截に言われても、できるはずもなかった。

 ネストリができることといったら、子供じみた嫌がらせ―――藁を敷いたベッドではよく眠れない小公爵に、まともなベッドを与えてやらぬとか、時々館内で迷っている小公爵にまったく違う方向を教えてやるとか―――それこそネストリの心が傷まず、溜飲が下がるという程度のものだ。

 

 ネストリは大それた野望を持ったりはしなかった。彼は意気地なしなので、身に過ぎた野望のために奮励努力するよりも、自分に出来うる範囲での栄達を求めた。そのこと自体は極めて平凡な願望であるのに、なぜかネストリは今、薄氷の上に立っていた。自分でもどうしてこんな事になってしまったのか、わからない。

 

 既に夜も更けていたことから、その日のうちに尋問されることはなかったが、ネストリは翌朝のことを考えると憂鬱以上に恐怖で眠れなかった。

 

 しかしネストリは助かった。

 

 翌朝、とうとう例の黒角馬の研究班の一団が到着したのだ。

 ただでさえ誘拐事件の動揺がまだ収まっていない領主館は、てんやわんやの大騒ぎとなった。

 

 とりあえず研究者らの寝居する客室の準備を整え、こちらの事情を知らない学者らからの無頓着で世間知らずな質問にいちいち答えねばならない。これはネストリ一人だけのことでなく、ヴァルナルもまた領主として対応する必要があり、騎士団も同様だった。

 

 ネストリはホッとしつつも、先延ばしになっただけだとわかっていた。それまでにどうにか自分への嫌疑が晴れる言い訳を考えねばならない。

 どうしたものかと考えつつ、今日もまた両替商に行く必要があった。

 いつものように私書箱の前に立って、憂鬱な顔で受取口の鍵を開ける。束になった書類と一緒に、薄汚い袋が一つ入っていた。色褪せているが、緑色だ。いつも送られてきていたあの手紙の封筒と同じ色。

 

「………」

 

 ネストリは眉を顰めながら、恐々とその袋を手に取った。

 やや重い。

 中を見れば、金貨が二枚入っていた。一枚取り上げて、思わず落としそうになる。十ゼラ金貨だった。すぐさま袋に戻して、ネストリはその袋をポケットに突っ込んだ。

 

 サッとあたりを見回す。

 両替商の大きな机の向こうでは、事務方の人間が熱心に書きものをしていて、こちらを見た様子はない。むしろジッと見てくるネストリに気付いて、少しだけ顔を上げ、怪訝に見た後にまた仕事に戻る。部屋の隅にいる番兵は船を漕いでいるし、他に人はいなかった。

 

 ネストリは忙《せわ》しなく両替商を出た。足早に領主館に戻り、執事室に入るともう一度ポケットの中から袋を取り出して、中身を確かめた。汚らしい袋の中にあったものと思えぬほど、その金貨二枚はまばゆい金の光を放っていた。

 

「………なんてことだ」

 

 こんな大金を持っていたら、それだけで横領かと疑われそうだ。

 まして、今のこの時期にこんなものがあるのは迷惑でしかない。絶対に今回の事件との関連性があると思われるだろう。

 

 一体、相手は何のつもりだろうか? まさか報酬とでも言うつもりか。それとも口止め料か。あるいは、今後も協力を頼むという圧力か。

 

 ネストリはギリと歯噛みして、金貨を床に叩きつけたかったが、その音をもし騎士にでも聞かれたら…と思うと、鬱憤を晴らすことすらもできなかった。

 金貨を握りしめてブルブル震えているネストリの背後のドアがノックされ、ロジオーノが声をかけてくる。

 

「ネストリさん。いらっしゃいますか?」

 

 ネストリは天を仰ぎ、眉間をきつく押さえ込んだ。

 どうしてこうも次々と仕事がやって来るのだ。こっちはそれどころでないというのに!

 

 ネストリはポケットに金貨の入った袋をねじ込むと、仏頂面でドアを開けた。

 

 その後も帝都からの一癖も二癖もある学者や、職人達の相手をしながら、通常の執事としての仕事に明け暮れて、ようやく考える時間ができたのは、深夜になってからだった。

 

 とりあえずは火事だ。

 火事についての疑いさえ晴れれば、後に起きたことに関してはネストリの知るところではない。

 本当に何も知らないのだ。相手が誰だったのか、一人なのか複数なのかすらも知らないのだから。

 

 そうして火事のことばかり考えていたせいなのか、ネストリの足は自然と火事で消失したオヅマの小屋跡に向かっていた。

 




引き続き更新します。


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第六十四話 下男オッケ

 領主館で勤める下男のオッケは、元は山に捨てられた孤児だった。

 その頃、飢饉がサフェナ一帯を襲い、親は山に子供を捨てることが珍しくなかった。

 山に猟をしに来ていた若き日のパウル爺が狐の集団に襲われているオッケを助け、連れ帰ったのだが、よほどに恐ろしい目にあったからなのか、あるいは元からなのか…オッケには著しい知能の遅れがみられた。

 狐達から助けたパウル爺(その頃はもちろん爺じゃない)が、

 

「お前、大丈夫か?」

 

と尋ねても、

 

(おで)はオッケ。七歳」

 

と、繰り返すばかり。

 それ以外の言葉も、簡単な挨拶も知らず、ひたすら、

 

(おで)はオッケ。七歳」

 

と言うだけ。

 

 山の中にどれくらいの期間いたのかわからないので、その七歳というのも本当なのか怪しい。ただ、パウル爺はオッケに出会ったその年に、彼が七歳であったのだと決めた。

 

 その時にはパウル爺は既に領主館の庭師として働いていた。当時、厨房下女であったヘルカ婆といい仲になって、数年後には結婚することも決めていた。だから、オッケを引き取ることを少しばかり迷ったのだが、かといって山に放って帰ることもできなかった。

 

 その後にヘルカ婆とちょっとした喧嘩になりつつも、パウル爺はオッケの親代わりとなった。

 幸い、当時の領代官が小柄で痩せっぽちのオッケを見て、

 

「おぉ。煙突掃除にちょうどいい」

 

と言ってくれたので、オッケは領主館での仕事にありつけた。

 

 大きくなるに従って煙突掃除ができなくなると、下男として使役されるようになった。体は大きくなったが、オッケの知能の方はさほどに向上しなかった。

 やはり元からのものだったようだ。あるいは、そのせいで親はオッケを山に捨てたのかもしれない。

 

 しかし考えなしで、難しい言葉を理解できないオッケではあったが、言われたことには素直に従ったし、皆が顔を顰めるような仕事(肥樽の糞尿集めなど)も嫌な顔することなく、教えれば言われた通りやるので、ひどく重宝がられた。

 いつしかオッケは領主館で最年長の下男になっていた。

 

 そんなオッケに困ったことが一つあった。それは酒好きなことだ。

 成人して酒を嗜むようになると、オッケはすっかり虜になってしまい、毎日呑むようになった。しかも呑むほどにひどく暴力的になった。ヘルカ婆がようやく見つけてきた嫁までも、オッケの酒乱に閉口して逃げてしまったほどだ。

 朝になって素面に戻ると、パウル爺の説教を平身低頭で聞き入るオッケだったが、その夜には飲んでいた。パウル爺は三度目でもうあきらめた。

 

 その日も、オッケはこっそり地下の酒の貯蔵庫から拝借したワインを一本まるごと空けてしまって、いい気分でフラフラ庭を歩いていた。

 すっかり焼け落ちたオヅマの小屋の前まで来て、ぼんやりとそこに佇むネストリを見つけて声をかける。

 

「おぉい…執事さん、どうしたんだい?」

 

 ネストリは突然声をかけられ、ビクッとなってから、そろりと振り返った。そこにいるのがオッケとわかると、途端に軽蔑した目になる。

 

「なんだ、お前か。また、くすねてきたな。いい加減にしないと、これまでの分も含めて領主様にご報告するぞ。お前なぞ、簡単に解雇できるのだからな」

 

 オッケは酔っていると、自分に対する侮蔑に過敏になった。

 

「なんだと? この野郎。カイコ? 難しい言葉使って、また(おで)を馬鹿にしてやがるな」

「……解雇というのは、お前をこの領主館から追い出すということだ」

 

 ネストリが丁寧に、ゆっくりと、(あざけ)って言うと、オッケはブンブンとワイン瓶を振り回す。途中で灌木の間に挟まって、手からすっぽ抜けたのにも気付かない。

 

「この野郎! この野郎!! お前だって、この前オヅマの小屋から出て来たじゃないか。あのあと火事になって大変だったんだぞ!」

 

 ネストリは一瞬、言葉を失くした。

 

 見られたのか? と、すぐに火事の時のことを思い出す。そういえば、この小屋の火事に一番最初に気付いたのはオッケだと言っていた……。

 

「見ていたのか?」

 

 呆然とつぶやいたネストリを見て、オッケはケラケラ笑った。

 

「おぉ…見てたよぉ。見た! 見た! キョロキョロしてたよな? (おで)と一緒だ。(おで)が酒盗む時と一緒!」

 

 ネストリはブルブルと唇を震わせると、オッケに近寄ってグイと襟を掴んだ。

 

「………オッケ、誰にも言うな」

「えぇ?」

「今のことを誰にも言うな。わかったな…!」

 

 素面(しらふ)であるなら、オッケは頷いたかもしれない。だが、日頃から自分に対して高圧的で、馬鹿にした態度もあらわなネストリに対して、オッケも不満が溜まっていた。ムン、と口を曲げて、

 

「やーだね」

 

と、襟を掴んだネストリの手を払う。

 

 ネストリはギリと奥歯を噛み締めて、オッケを睨みつけた。

 オッケごときが自分に対して傲慢に振る舞うこと、それ自体がネストリの自尊心を傷つけた。大声であらん限りの罵倒の言葉をぶつけてやりたかったが、今回は耐えるしかなかった。なにしろ、相手はネストリが一番見られたくなかったものを見ているのだ。

 オッケは馬鹿だが嘘はつかない。「誰か見たか?」と訊かれれば、必ずネストリの名前を出すに違いない。なんとしても、今、言いくるめておく必要がある。

 

「わかった。いいものをやろう」

 

 ネストリは金貨の使い道を見つけた。

 ポケットから取り出した二枚の十ゼラ金貨の入った袋を押し付ける。

 

「なんだい、これ?」

「見てみろ」

 

 オッケは袋をまさぐって金貨を一枚取り出すと、月に向かって掲げて目を丸くした。

 

「うわぁ…綺麗な石だなぁ。真ん丸のお月さんみたいだ」

 

 ネストリは苛々と歯噛みしたくなるのをこらえて、笑ってみせる。

 

「これは石じゃない。(きん)だ。お金だ。とても高価なものなんだ」

(カネ)ェ? 金なんて貰えるのかい? いいのかい?」

「あぁ。構わない。だから、さっき言ったこと…私がオヅマの小屋から出て来たことを…誰にも言わないでいてくれるか?」

「あぁいいよ」

 

 オッケは軽く請け負って、金貨を月にかざしながら上機嫌で鼻歌など歌い出す。そのままフラフラと歩いて行くオッケに、ネストリは付け加えた。

 

「その金のこともだぞ! 私からだと言っては駄目だ!」

「あーい」

 

 オッケは振り向きもせず、ヒラヒラと手を振って歩いて行く。

 

 ネストリは見送りながら、急にとてつもなく不安になった。

 あの男は本当に黙っておくのだろうか。酔いが醒めて、朝になればすっかり忘れているかもしれない。そうしてあの金を持っていることが発覚したら、確実にヴァルナルは奇妙に思って尋ねるだろう。

 

「この金貨はどこで手に入れた?」

 

と。

 そうなった時、オッケが酔いと一緒にネストリのことを忘れていてくれればいいが、下手に覚えていたら絶対に話すに違いない。

 

 

 ―――――駄目だ!

 

 

 ネストリはあわててオッケを追いかけた。

 

「待て、オッケ! やはりその金は返せ」

「ハアッ? 嫌だ」

「嫌じゃない。返せ、返すんだ。お前なんかが持っていても、仕方ないだろう!」

「なんだと!? コイツめ、やっぱり(おで)を馬鹿にしやがって」

「うるさい! いいから返せ!」

「嫌だ! これは(おで)んだ! (おで)んだぞ!!」

「大声を出すな、この馬鹿…ッ!」

 

 ネストリはオッケの口を塞いだが、もとより酔っていたせいで足元が覚束なかったオッケがよろけた。

 

「うわぁ!」

「うあっ」

 

 二人もろとも倒れて、ゴッ! と鈍い音がした。

 

 ネストリは顔を顰めながら起き上がると、オッケの持っていた袋を取り上げる。

 

「お前には意味もないものだ」

 

 鼻で嗤いながらネストリは立ち上がりかけて、ピタリと止まった。

 

 崩れた花壇の石に頭を打ちつけたオッケは、目を見開いたまま、虚ろにネストリを見ている。いや、見ていない。オッケはもう何も見ていなかった。

 

「…ッ…ヒィ…」

 

 ネストリは驚きのあまり、尻もちをつく。手から袋が落ちて、中から金貨が一つコロコロと地面を転がった。

 

 しばらくその態勢で見つめていたが、オッケが起き上がる気配はない。

 

「おい」

 

 ネストリは小さく呼びかけたが、返事はない。

 四つん這いになって、そろそろとオッケに近づく。そうっと心臓に耳をあてたが、鼓動は聞こえてこなかった。

 ネストリは反射的に飛び退(すさ)った。動きを止めたオッケの心臓と対照的に、ネストリの心臓は跳ね上がらんばかりの勢いで拍動する。

 

「あ…あ…」

 

 ネストリは(おのの)いた。

 震えながら、固まった首を無理に動かして辺りを見回す。

 

 誰もいない。誰もいない。誰も……見ていない。

 

 確認が済むと、ネストリは立ち上がった。

 肩で息をしながら、死んだオッケをしばらく見つめる。

 

 ヒュイィィ! と急に響いた獣の声にビクリと身を震わせると、我に返った。

 

「そ…そ……そう…だ」

 

 ネストリはガクガクと膝を震わせながらも、落ちた金貨を拾って袋に入れた。それをオッケのポケットにねじ込む。それから灌木の間に引っ掛かっていたワイン瓶を、オッケの足元に転がした。

 

「お前だ。お前がやったんだ、ぜんぶ」

 

 すべてをオッケに被せて、ネストリは足早にその場から立ち去った。

 

 

 

「ふ……ん」

 

 深夜のその出来事を、冬枯れの木立に隠れて見ていた人物は、興味深げな吐息をついて、ゆっくり来た道を帰っていった。

 




次回は2022.08.10.更新予定です。


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第六十五話 信じる男

 翌朝、オッケの死体を見つけたのは、パウル爺の孫で庭師見習いのイーヴァリだった。

 イーヴァリはまずパウル爺に知らせた。あわてて駆けつけたパウル爺は、幼くして亡くなった唯一の息子を看取った時以来、号泣した。

 

「馬鹿が…だから酒は控えろと言ったに……」

 

 パウル爺はオッケの足元に転がったワイン瓶と、オッケ自身から漂う酒の匂いに、おそらく酒に酔ったオッケが転んで、打ち所が悪く死んでしまったのだろうと思い込んだ。

 だから、騒ぎを聞きつけてやって来たヴァルナルにも、そのように言った。

 

「申し訳ございません、領主様。最期の最期まで、醜態を見せて死によりました……」

 

 泣きながら深々と頭を下げるパウル爺に、ヴァルナルは何も言わず、肩を叩いて慰撫した。

 傷心のパウル爺がヘルカ婆に連れられてその場を離れると、オッケの死体を囲んでいた騎士達が動き出す。

 

「ど、どうしたんですか?」

 

 イーヴァリが驚いて尋ねると、パシリコが眉間に皺を寄せて答える。

 

「一応、不審死ではあるからな。単純な事故なのか調べる必要がある」

「え…? 酔って足を滑らしたんじゃ…」

「それを調べてるんだ」

 

 二人が話している間も、ヴァルナルは騎士達が周辺を調べる様子を黙って見ていた。実は人を待っているのだが、起床した使用人達が何事かとざわめいている中、一番にやってきそうなその人間はまだ来ない。

 

「あっ…」

 

 オッケの死体の持ち物を確認していた騎士のサッチャが声を上げる。すぐにヴァルナルの元にやってきて、手に持った色褪せた緑の袋を差し出した。

 ヴァルナルは受け取って、中のものを取り出した。十ゼラ金貨が二枚。

 

「なっ、なんでオッケが…」

 

 そばにいたイーヴァリが思わず声を上げる。

 十ゼラ金貨などは、庶民には縁のない金だった。ずっと領主館で過ごしてきたオッケにとっては、おそらく一度も見たことのない部類の金であったはずだ。

 

 ヴァルナルはその金貨をしばらく見つめた。

 アドリアンが話していたことを思い出す。

 

 

 ―――――首の男(ダニエル)から金貨を受け取っていた……

 

 

 あとで、この金貨をアドリアンに見せて確認する必要があるだろう…。

 

「領主様、もしやオッケのやつが火をつけたのでは…?」

 

 パシリコが言うと、イーヴァリは「まさか…」と言いかけて、すぐに口を噤んだ。ヴァルナルは注意深くイーヴァリを見ながら、パシリコにあえて尋ねた。

 

「どういうことだ? パシリコ」

「つまりオッケがこの金を貰って、火つけを請け負ったのではないか…ということです」

「ふ…む。イーヴァリ、お前はどう思う? オッケがそんなことをすると思うか?」

 

 イーヴァリはしばらく考え込んだ後で、おずおずと言った。

 

「その…オッケは……すごく純粋なんです。だから、自分に()()ことをしてくれた人間の言うことは、無条件に信じちゃって。もし、誰かにその…金貨を貰ったら、そいつの言うことは、疑いなくきいてしまったのかも…しれない…かな…って」

 

 イーヴァリの語尾はだんだんと弱くなっていった。

 周辺の状況調査を行っていたカールが異変を感じてこちらにやって来ると、パシリコから話を聞き、険しい顔で自分を見てくる。

 

「放火だぞ? そんな大変なことを頼まれて、疑いもなく実行するか?」

 

 カールが聞き返すと、イーヴァリは残念そうに溜息をついた。

 

「俺とかなら、勿論断ったと思うけど……オッケは…わかんないです」

「あの…」

 

 その時、遺留物の捜索にあたっていた騎士のゾダルが手を上げる。

 

「火事の第一発見者はオッケです。ひどくあわてた様子で俺に知らせてきて」

「そういえばそうだったな」

 

 カールが頷く。ゾダルは続けて言った。

 

「俺、おかしいと思ったんです。オヅマはしっかりした奴だから、暖炉の火を消し忘れるとかないだろうし、あんな庭にぽつんとある小屋に、どこからか火が飛んでくるわけもないし。だから俺、オッケに訊いたんです。火事を見つけた時に、誰か見なかったかって」

「なんと言っていたんだ?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、ゾダルははっきりと言った。

 

「誰もいなかった…って」

「お前が火をつけたのか? と尋ねた方が良かったのかもな。そうすれば案外、すんなり認めたかもしれん」

 

 カールが皮肉げに言ったが、それはある意味、正鵠を射ていた。

 

 ゾダルの問いにオッケはよくよく考えて答えたのだ。「誰もいなかった」と。

 なぜならば、彼がネストリを見たのは()()()()()()()で、()()()()()()()()ではなかったから。

 

 オッケは純粋で、正確な男だった。

 彼の中では、ネストリがオヅマの小屋から出て来たことと、火事の因果関係は生じていなかった。

 だが、それはもはや誰にもわからぬことだった。

 

 イーヴァリはうつむいて嘆息した。

 利用されていたことも知らずに、オッケはお金をくれた()()()の為に、放火なんて罪を犯してしまったのかもしれない。だからこそ、今、こうして罰を受けて死んでしまったのかもしれない…。

 

 祖父の悲しそうな姿を思い浮かべて、イーヴァリは泣きそうだった。

 

「馬鹿なやつだが…アイツは儂の息子みたいなもんじゃ……」

 

 ヘルカ婆との間の息子を亡くして以来、パウル爺にとってオッケは息子同然だった。愚かで、人の機微に無頓着な人間ではあったが、オッケはパウル爺を心底から慕っていたし、パウル爺もまた愛情をかけた。

 年経て、また再び息子を亡くしたパウル爺の悲しみを考えると、イーヴァリはひどく心が沈んだ。

 

 暗い顔をしてうつむくイーヴァリの横で、ヴァルナルは領主館から現れたネストリを見て、冷たくつぶやいた。

 

「……やっと来たか」

 




引き続き更新します。


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第六十六話 皮肉の連鎖

 前夜。

 

 ネストリはオッケを置いて領主館内にある私室に戻った後、靴も脱がずにベッドに潜り込んだ。

 

 ガタガタと震えが止まらない。

 また、これで考えねばならないことが増えた。

 

 オッケの死体は朝には見つかる。死因についてはすぐにわかるだろう。転んで頭を打った。それだけだ。実際にその通りなのだから。自分は一緒に転んだだけだ。殺してはいない。殺してはいない。……

 それでも死体を探って金貨が見つかれば不審に思われる。あんなものを下男が持っているはずがないのだから。

 

「ふ…ふ……ふふ…」

 

 ネストリは震えながら笑った。

 

 あれは天啓だった。

 

 ネストリはあの時、思いついた自分を褒めたかった。うまくいけば…うまくやれば、ヴァルナルに火事の犯人をオッケと思わせることができる。

 

 つまり、筋書きとしてはこうだ。

 オッケは謎の人物から金を受け取って、領主館で火事を起こせと頼まれた。その通りに実行し、金を貰って浮かれたオッケは大酒をくらい、運悪く足を滑らせて頭を打って死んだ。

 

 見事だ。

 我ながら見事なくらい、単純で隙のない理由ではないか。

 こうしたことは複雑にしてはいけない。簡単であるほうが、襤褸(ボロ)は出にくいものだ。これはかつての同僚であるアルビンの言葉だった。

 

 アルビンはまたこうも言っていた。

 

「すべてを嘘で固める必要はない。嘘は最小限でいい。さもないと、後々厄介になる。大事なのは、認めても良いことと、絶対に認めてはならないことを、きっちり自分の中で分別すること。認めるべきことは認める」

 

 その上でもっとも肝となることは…

 

「聞かれたことだけに答えることだ。言葉が足りないことは、嘘にならない」

 

 自分をこんな窮地に落としてくれたことは恨むが、彼の助言は非常に有益だ。

 

 ネストリは布団にくるまりながら、一晩中考えた。

 明日の朝になって、ヴァルナルに呼ばれた自分がどういう行動をすればいいのか。どういう態度であれば、疑われずに済むのかを。

 

 早朝にドアを激しく叩く音にビクリと起き上がったネストリは、しばらく放心していた。とても眠れるとは思えなかったのに、案外と自分は寝ていたらしい。

 

「ネストリさん! ネストリさん! 起きて下さい、大変です!!」

 

 ドアを叩きながら叫んでいるのはロジオーノだろう。

 ネストリはテーブルにあった水差しの水をコップに入れて一口含んでから、フラフラ歩いてドアを開けた。

 

「……大丈夫ですか?」

 

 ロジオーノはようやくドアを開けて現れたネストリの顔色の悪さに、思わず尋ねた。

 ネストリは暗い顔で、眉を寄せる。

 

「なんだ?」

「あ、あの…オッケが…死んでて」

 

 ネストリは寝ぼけたようにも見える、鈍い反応だった。しばらく間を空けて、問い返す。

 

「オッケが…死んでる?」

「はい。庭で…あのオヅマの小屋のあった場所です」

「庭?」

「はい。今、領主様達が何か調査してるみたいです」

 

 ネストリはロジオーノに気付かれぬよう、ゴクリと生唾を飲み下す。それからあわてた様子で叫んだ。

 

「何だと!? 領主様が? もう起きておられるのか?」

「はい。イーヴァリが騎士達に話したみたいで、そこから伝えられたみたいです」

「すぐに行く!」

 

 ネストリは一度戻って、鏡の前に立つと、乱れた髪を丁寧に梳《す》いた。

 深呼吸して、じっと鏡の中の自分を見つめる。

 ひどい顔だった。目の下にクマもできているし、ここのところ食べることすら削って仕事をしているせいか、頬もゲッソリこけている。

 昨夜汚れた衣服をあわてて着替えると、ネストリは部屋を飛び出した。

 

 ロジオーノに案内されて、昨日のあの場所に向かうと、気付いたヴァルナルとカールの冷たい視線が自分を射てくる。

 

 ネストリは一気に緊張した。震えを止めるのが精一杯だ。

 久しぶりに走って息切れしながら、ヴァルナルの元まで辿り着くと、その向こうに見えるオッケの死体に青くなった。

 

「お…なんという…こと」

 

 愕然とするネストリを、ヴァルナルはじっと観察する。今のところ、驚いている姿に不審な素振りはない。

 

「随分と、遅かったですね。執事殿」

 

 カールは明らかに疑わしい様子で言ってくる。ネストリは「すみません」と謝ってから、一応言い訳した。

 

「例の帝都からの学者や職人らの逗留の為の予算組みなどが山積しておりまして…加えて、館の仮予算編成の時期でもございますので、少々寝不足気味でございました故、申し訳ございません」

「あぁ、そうだな。色々と無理させておる。すまぬな、ネストリ」

 

 ヴァルナルもそれはわかっていた。

 確かにここ数日…いや、帝都から黒角馬の研究者が来ると知らされてからは、その準備のための館の改築や、兵舎に隣接する研究施設の増築のことで雑務に追われている。  

 

「それでオッケのことだ。そなた、この事態をどう思う?」

「……それ…は…」

 

 ヴァルナルの問いかけに、ネストリは詰まった。

 聞かれたことだけを答えればいい…というアルビンからの助言も、こうした曖昧な質問ではどう答えれば正解なのかわからない。下手なことを喋れば、自ら墓穴を掘ることになりかねない。

 ヴァルナルの手には金貨の入った袋があるが、あの袋の中身が金貨であることを言えば、即座に終了だ。

 

 ネストリは落ち着きなく目を動かしていたが、オッケの足元に転がったワイン瓶を見つけて、「ああっ!」と大声を上げた。

 

「どうした?」

「あぁ……領主様、申し訳ございません」

 

 ネストリは急に深く腰を折り曲げた。

 

「…なぜ、謝る?」

「私は、領主様に伝えるべきことを伝えておりませんでした。執事として許されざることです」

「なにをだ?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、ネストリは深々と頭を下げたまま、かすかに肩を震わせながら言った。

 

「オッケが地下の貯蔵庫(セラー)から、時折、酒を盗み出しておるのを…実は存じておりました!」

「………」

 

 予想外の答えに、ヴァルナルもカールも、その場にいて聞いていた人々はポカンとなった。

 

「月に二、三本程度のことでしたので、長年勤めてきた実績のある下男ですし、ワインも手前にある安い物しか盗ってはいないようだったので、大目に見ていたのです。一応、本人には再三注意をしてはいたのですが……」

 

 ネストリは言葉を区切ると、これ見よがしに大きな溜息をつきながら首を振った。

 ヴァルナルはネストリをじっと見つめてから、手に持っていた袋を差し出した。ネストリは困惑しながらヴァルナルを見上げた。

 

「…これは…なんでしょうか?」

「中を見てみろ」

 

 ヴァルナルに無理やり袋を押し付けられ、ネストリは嫌々ながら受け取った。

 緊張した面持ちで中身を見れば、当然ながらそこには十ゼラ金貨が二枚入っている。

 

 ネストリはブルブル震えた。

 気付かれているのか? 自分がこれをオッケのポケットにねじ込んでいったことを? いいや、そんな筈はない。あそこには誰もいなかった。誰にも気付かれてはいない。誰も知らないはずだ……。

 

「こ、こ…これは……?」

「オッケが持っていたのだ」

「オッケが? そ、それは…まさか……」

 

 ネストリの頭の中が高速でぐるぐる回る。

 この場合の返事は? どう言えば正解だろうか? 火事を誰かに指示された、その対価だと言うべきか? 喉まで出かけてアルビンの言葉が甦る。

 

 

 ―――――絶対に認めてはならないことを、きっちり自分の中で分別すること。

 

 

 そうだ。火事のことは絶対に認めてはならない。ここで火事のことを一言でも自分から言い出せば、その時点で終わりなのだ。

 

「すっ…すぐに金庫を調べて参ります!」

 

 ネストリが言うと、ヴァルナルは眉をひそめた。

 

「金庫?」

「こ、この金貨はオッケが金庫からくすねたのではないのですか?」

「……オッケが…金庫の金をくすねるような機会があったと思うのか?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、ネストリは項垂れた。

 

「申し訳ございません。ない、と言い切りたいのですが…絶対とは申せません。この数日は私も館の中を飛び回っていることもあって、時に執務室の鍵をかけずに行くこともございました。金庫の鍵はいつもしめていたと思うのですが、それもあるいは…もしかすると……」

 

 ヴァルナルはしばらく顎に手をあてて思案した。

 

 チラとネストリを見れば、ここ数日の過重労働で相当に疲れているようだ。目の下のクマは嘘でないだろう。その上でこの騒ぎだ。当人もかなり参っているのだろう。狼狽する様子にも不自然なところは見えない。

 

 ヴァルナルは領主館で火事が起きた時から、ネストリを疑ってはいた。おそらく火事だけであったなら、ヴァルナルはネストリを容疑者として尋問していただろう。

 だが、その後に立て続けに起こった誘拐や小公爵の失踪などを考えた場合、果たして彼にそこまで加担する度胸があるのかが疑問だった。

 

 ネストリは少々性格に難はあるが、仕事熱心で真面目な小心者だ。たとえ小公爵と敵対する勢力の代表とされるハヴェル公子の従僕であったとしても、ただそれだけの縁で、そこまでだいそれたことをする男に思えなかった。

 それにルーカスからの報告によると、彼がハヴェル公子の従僕であったのは確かだが、さほどに重用されていた訳でもなく、どうやら今はほとんど交流はないらしい。

 

 その上での、今回のオッケだ。

 

 領主館の使用人を疑うことはしたくなかったが、オッケという男の性質を考えると、イーヴァリの言うことも頷けるのだ。

 オッケは信頼した人間に対して盲目的に従うところがある。当人に何の悪気もなくとも、その人の為であると思ったならば短絡的な行動を起こしかねない。

 

 それに彼自身が残していった証言もある。

 

『火事の時には誰もいなかった』。

 

 正直者のオッケがそう言うのであれば、それはおそらく真実なのだろう。誰か、でなく自分がいただけなのだから。

 

 あるいはネストリが唆して、オッケに小屋に火をつけるように指示したのかとも考えたのだが………現在のところのネストリの言葉にも態度にも、そうした様子は微塵も窺えなかった。

 

「一応、金庫は調べておくように。ネストリ、君にもかなり無理をさせてすまなく思うが、睡眠はとることだ。記憶が曖昧になるほどに疲れているようでは、いい仕事もできまい」

「は……」

 

 ネストリが頭を下げると、カールが手を出してくる。

 

「その袋を返してもらおうか」

「は、はい。勿論」

 

 ネストリはカールに金貨の入った袋を返してから、ホゥと息をついた。

 

 どうやら…虎穴を脱したようだ。

 




次回は2022.08.13.更新予定です。


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第六十七話 ひとまずの帰結

「あの時の金貨かどうかはわからないけど、確かにダニエル・プリグルスが渡していたのは、十ゼラ金貨が二十枚入った箱だった。相手の男が確認していたから、間違いないよ」

 

 アドリアンはオッケの持っていた袋に入っていた金貨を見て言った。

 

 平民の子供であれば十ゼラ金貨など見たこともないのでわからなかったろうが、アドリアンはさすがに授業で習っていたこともあって、ダニエルが見せた金貨を見た瞬間にそれが十ゼラ金貨であると認識していた。

 

「……わかりました。ありがとうございます」

 

 ヴァルナルが丁寧に礼を言うと、アドリアンは尋ねた。

 

「火事の下手人が見つかったと聞いたけど…」

「……おそらくそうではないかという人物は見つかりました」

「誰だ、その裏切者は?」

 

 アドリアンの声が鋭く響く。

 ヴァルナルは眉を顰め、パシリコとカールは無表情に黙り込んだままだった。

 

「裏切者と呼ぶのは難しいでしょう」

 

 ややあってヴァルナルが重々しく口を開くと、今度はアドリアンが眉を寄せる。

 

「どういうことだ?」

「彼がそれを裏切行為だと思ってやっていた確証がないのです。あるいは全くの善意であったかもしれない…」

「それは…どういう…?」

 

 アドリアンは、ますます意味がわからない。重ねて問うと、ヴァルナルは溜息をついて頭を振った。

 

「彼は死亡しました。おそらく深夜から夜明け間近。酔っ払って、足を滑らせて庭の石に頭を強く打ちつけて…」

 

 アドリアンはすぐに朝の騒動を思い出す。

 

「確か、下男が一人死んだと…」

「えぇ。この袋が彼のポケットに入っていました。どうやら買収されたようです」

「そんな…。まさか殺されたのか?」

「それはないでしょう。口封じであるなら、なにも領主館で殺す必要はない」

 

 オッケの仕事の一つに、肥樽から集めた糞尿を発酵させて作った肥料を、近隣の農家に運ぶというのがある。

 途中には人気(ひとけ)のない道などもあるのだから、始末するならそちらで殺した方が、よっぽどラクな上に、犯人についても野盗の類と思われて余計なことで疑われずに済む。

 それともそうした余裕もないほど急いでいた…?

 オッケが悔悛し自白するとでも言い出して、衝動的に殺してしまったか…?

 

 だがその場合であれば、金貨の入った袋をそのままにしておくのはおかしい。

 もしオッケがこの金貨を持っていなければ、ただの酒に酔った上での不幸な事故で処理されていたはずだ。

 二十(ゼラ)もの大金をオッケが持っていたことで、かえって事件化している。犯人がいるのであれば、なぜわざわざ不審感を持たせて自らを危機に追い込むのか…それとも捜査されようが自分は捕まらないという絶対的な自信があるのだろうか。だとすれば、随分と大胆不敵な人間だ。

 

「……いずれにしろ、彼は既に死亡しました。無論、彼がダニエルや雀の面の男と会っていた形跡がないかは調べますが、それでも最終的な因果関係を掴むのは難しいでしょう」

 

 ヴァルナルの結論に、アドリアンは子供とは思えぬ皮肉げな笑みを浮かべた。

 

「結局、今回も()()()()は出て来ないということか」

「アドリアン様…」

「ヴァルナル。今回のこと、もう父上には伝えたのか?」

「すでに早馬を出しております」

「………そうか」

 

 アドリアンは一気に暗い顔になって、うつむいた。再び顔をあげると、いつもの無表情に戻っている。

 

「じゃあ、もういいだろうか? オヅマを一人にしておきたくないんだ。また起きて、おかしなことになるかもしれないから」

「勿論。あまり無理をされぬよう」

「わかってる」

 

 アドリアンは頷いて執務室から出て行った。

 

 バタン、とドアが閉まると、ヴァルナルは背凭れに背を投げ出して、眉間を揉んだ。

 

「さすがは公爵閣下のご令息でいらっしゃいますね」

 

 カールはふぅと大きく息を吐く。「あの静かな威圧感というか…」

 

「怒りを内に秘める方々だからな…」

 

 ヴァルナルは公爵がダニエルに対して激怒した時のことを思い出す。

 あの時ですらも、激昂して声を荒らげるようなことはしない。それくらい自制をするように、幼い頃から矯正されているのだ、あの人達は。

 

 ヴァルナルはいついかなる時であっても表情を動かすことのしない公爵が、奥方の前だけは少年のように戸惑っていたのを思い出す。

 もし、奥方が―――リーディエ様が生きていらっしゃれば、こんな状況になることもなかったろうに。

 

 だがヴァルナルはすぐに気を引き締めた。今はそんな感傷に浸っている場合ではない。

 

「それで、オッケとダニエルらの繋がりは?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、パシリコが首を振る。

 

「オッケがよく行っていたという飲み屋(バル)などにも聞いて回りましたが、これというのは。特にこの一月(ひとつき)は大帝生誕祭もあるので、異郷からの商人や旅芸人などの出入りも激しく…」

「例の雀の面…もうつけてないだろうが……掏摸(スリ)の男は?」

「こちらもこれといった情報はございません。あの時シレントゥを囲みましたが、出てきたのは在来の商人らだけで」

 

 パシリコが難しい顔で答えた後に、カールが続ける。

 

「舟でドゥラッパ川から逃げた可能性もありますので、近隣の川沿いの町も探索に当たらせていますが…やはりこの月というのは、馴染みでない人間が多く流入するので、特定は難しいかと…」

 

 

 後になって。

 

 起き上がって話せるまでに回復したオリヴェルからも誘拐された時のことを聞いたが、決定的な情報は得られなかった。

 

 ミーナが老婆を追いかけていくのを見送った後、フードを被った男に「ここを大きな荷車が通るので、少し道の端に寄ってもらいたい」と頼まれ、その男がやや強引にオリヴェルの車椅子を押してゆき、マリーはあわてて追いかけた。

 そうして広場の隅の方に辿り着くと、いきなり紙のお面のようなものを被され、ツンと鼻にくる臭いがしたと思った途端に気を失った。どうやらその面に即効性の気絶薬が仕込まれていたらしい。マリーも同様であったようだ。

 

 ミーナにも老婆の特徴などを訊いたが、フードを被っていて影になっていたので、顔がよく見れなかったのもあり、特定はできなかった。

 そもそも本当に老婆であったのか、という問題もある。

 これが計画の一部であるなら、変装した共犯者である可能性の方が高い。

 

 現場での聞き込みなども行ったが、祭りが終わると同時に別の土地へと行ってしまった露天商も多く、領民達も賑わい中で、小さなスリ事件を覚えている人間は少なかった。

 

 これで事件はひとまずの帰結を迎えるしかなかった。

 首謀者であるダニエル・プリグルスが死んだことで、すべては推論の域を出なかった。

 

 唯一、この件について詳しく知っているはずの雀の面を被っていた男の行方は杳として知れず、オヅマは時折寝言でその名を呼んでいたが、それがまさか騎士団が血眼で追っている男だとは誰も気付かなかった。

 




次回は2022.08.14.更新予定です。


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第六十八話 氷解のとき

 誘拐された日、あの埠頭倉庫の地下で倒れていたオリヴェルは、数日、高熱が下がらない状態だった。

 主治医のビョルネ医師は生憎、公爵家本領地のアールリンデンにいて、診てもらうことができず、以前世話になっていた老医師が診察したが、前と同じで安静にしておくように、と指示するだけだった。

 

 ヴァルナルは仕事を片付けてから夜中になると、オリヴェルを見舞った。

 

 つらそうに顔を歪めて眠る息子を見る度に、自分がひどく不甲斐なく思えた。

 それは息子を危険な目に遭わせてしまったこともそうだが、長い間、幼い息子を放り出してきた自分が、どうしようもなく愚かで不人情に思えたからだ。

 

 一、二年ほど前であろうか――――…

 

 一度、オリヴェルの方から自分を訪ねてきてくれたことがあった。

 長かった南部戦役が一段落つき、領主としての仕事が充実してきた頃ではあったが、まだ長い戦の残滓のようなものが体に染み付いていた。

 

 だから自分を見たオリヴェルが卒倒した時、このか弱い息子に、血にまみれた自分は毒のような存在なのだと思った。

 

 それからはなるべく近づかないようにした。今にして思えば、そうして守ったのは自身の心であって、オリヴェルではなかったのかもしれない。

 

「父上……来てた…ですか?」

 

 救出して三日が過ぎた真夜中に訪れたヴァルナルに、目を覚ましたオリヴェルが掠れた声で尋ねてくる。

 ヴァルナルは怖がらせないようにと、ぎこちなく笑った。

 

「あぁ…すまないな。ミーナは今、少しオヅマの方を見に行っているんだ」

「……オヅマ…オヅマ……が…どう…して…」

 

 オリヴェルはオヅマがあの場に来たことを知らないのかもしれない。今、言って余計な心配をさせる必要はない。

 ヴァルナルは口を噤み、水差しの水をコップに注いだ。

 オリヴェルの背に腕を回してそっと起き上がらせる。

 

「少し飲んだ方がいい」

 

 オリヴェルは父から水を飲ませてもらいながら、ぼうっと考えた。

 そういえば、こんなふうに間近に父を見るのは初めてだ。抱っこされて運ばれたことはあるが、あの時のことはあまり覚えていない。ただ……

 

「父上…」

 

 オリヴェルはあまり力の入らない手で、ヴァルナルの腕を掴んだ。

 

「言いたかったことが…あるんです」

「なんだ?」

「ごめんなさい…」

 

 ヴァルナルは意味がわからぬようにオリヴェルを見つめた。

 オリヴェルは浅い息で肩を揺らしつつ、もう一度言った。

 

「ごめんなさい。父上」

「なぜ、お前が謝るのだ? 悪いのは私の方だ。お前を危険な目に……」

「ううん。あの時……昔、父上の執務室に夜中に行ったことがあったでしょう? あの時、僕びっくりして倒れてしまったから。父上に会いたくて行ったのに、いきなり倒れて…。あれから僕、ずっと父上が僕のことを情けない息子だと思ってるって…思い込んでいたんです…」

 

 ヴァルナルはここ数日、オリヴェルを見るたび思い出していたあの日のことを、オリヴェルもまたずっと気にしていたのかと、胸を()かれた。

 

「馬鹿な…そんな訳がないだろう」

 

 ヴァルナルが即座に否定すると、オリヴェルは微笑んだ。

 自分の隣に置かれた小さなベッドで眠るマリーをチラリと見る。

 

「マリーが…言ったんです。もしかしたら、父上は僕が倒れたのが、自分のせいだって思っちゃったんじゃないか…って。僕を驚かせて倒れさせちゃったから、会うのがこわくなっちゃったんじゃないか…って」

 

 ヴァルナルもまた、寝返りをうつマリーを見て微笑んだ。

 

「……あぁ、そうだな。マリーの言う通りだ」

「ごめんなさい、父上。僕が…もっと強かったら…」

 

 再び謝罪するオリヴェルを、ヴァルナルはそっと抱きしめた。

 

「お前は弱くなんかないぞ、オリヴェル。自身と真摯に向き合って、きちんと謝罪ができるのは、(つよ)い心を持った人間だけだ。私はお前を誇りに思っている。至らない父親だったのに、お前は十分に優しくて毅い子に育ってくれた…」

 

 ヴァルナルはまだ熱のあるオリヴェルをゆっくりと寝かしつけると、自分と同じ赤銅色の頭を優しく撫でた。

 

「ありがとう、オリヴェル。私はお前を…愛しているよ」

 

 初めて言われたその言葉を、オリヴェルは素直に受け止めた。それは言われるまでもなく、もう十分にわかっていたからだ。

 

「うん。僕も…父上のことが、大好きです」

 

 ニコリと笑って言うと、ヴァルナルは心底嬉しそうに微笑んだ。

 




引き続き更新します。


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第六十九話 ずっと友達

「マリーが…話せないんです」

 

 夕食後、オリヴェルの部屋を訪れたヴァルナルは、まだ少し顔色の悪い息子から告げられた。

 

「話せない?」

「声が出ないみたいで…」

 

 ヴァルナルは息をのみこんだまま固まった。

 マリーの方を見ると、起き上がってはいるが、いつもの元気は失せて、ぼんやりと、見ているのかわからない本を眺めている。

 その傍らで痛ましげに娘を見つめるミーナを見ると、気付いて目が合った。

 

「ビョルネ医師が来たら、マリーも診てもらおう」

「お気遣い頂き、有難うございます。申し訳ございません。本当に……」

 

 頭を下げるミーナに、ヴァルナルは「当然のことだ」と元気づける。

 

「おそらく一時的なものだろう。幼い子どもが見るには、少々…なまぐさすぎるモノであったからな」

 

 アドリアンから一部始終を聞いているヴァルナルは、ダニエルの首を見たマリーが、あの倉庫中に響き渡る叫び声を上げたと知って、心底気の毒に思った。生首など、大人であっても見れば相当に衝撃を受けるものだろう。

 

 ヴァルナルは痛ましげにマリーを見てから、そばに座っているミーナに視線を移す。

 無理をしないようにと言ったが、やはりミーナはこの数日、まともに眠っていないのだろう。ひっつめた髪はところどころ髪が垂れ、マリーを優しく見守る目の下にはクマが濃かった。

 

 ヴァルナルはしばし考えてから、ミーナに呼びかけた。

 

「ミーナ、前も言ったが…少し話がある」

 

 ミーナは顔を上げてヴァルナルを見て、何を訊かれるのか察したのだろう。口を引き結んで、コクリと頷く。

 

「オリヴェル、しばらくミーナを連れて行っても構わないか?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、オリヴェルは当然のように了承した。

 

「大丈夫だよ。何かあったらナンヌに言うから」

「うむ。マリーのことも、頼むぞ」

 

 ヴァルナルとミーナが連れ立って出て行き、しばらくすると、そうっと扉が開いてアドリアンが顔を出した。

 

「アドル!」

 

 オリヴェルが声を上げると、マリーは扉の前に立つアドリアンの姿を見るなり、ベッドから降りて、裸足のまま走って飛びついた。

 

「あぁ…マリー。元気になったみたいだね」

 

 アドルは突然のことに驚きつつも、マリーを優しく抱き止めた。

 

「……元気は元気なんだけど…」

 

 オリヴェルは浮かない顔で口籠る。

 

「どうした?」

「マリー…今、しゃべれないんだ」

「えっ?」

 

 アドリアンが聞き返すと同時に、マリーの手に力が加わる。アドリアンは腰にしがみつくマリーの背をやさしく撫でた。

 

「本当に? マリー。僕の名前を呼べる?」

 

 マリーはアドリアンのお腹に埋めていた顔を上げると、懸命に名前を呼ぼうとしたが、息が漏れた音がかすかに聞こえただけだった。

 

「……なんてことだ」

 

 アドリアンが頭をおさえると、マリーの唇はプルプルと震え、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。

 アドリアンはあわててしゃがみ込むと、マリーの手を握って、やさしく話しかけた。

 

「ごめんよ、マリー。君に怒ったんじゃあないんだ。僕は……僕が、悪いんだ。君たちを巻き込んで…怖い思いをさせて、ごめん。本当に…」

 

 アドリアンは言いながら自分も泣きそうになって、唇を噛み締めた。

 

 どうして自分は守りたいと思った人を傷つけるんだろう…。

 生まれた時から、まるで宿命づけられたかのように、いつも自分にとって優しく愛しい人達は、自分のせいで傷ついて去ってしまう。

 

 暗い表情になるアドリアンを、マリーは濡れた瞳で見ていたが、ギュッと手を握り返した。

 

「……大丈夫だよ」

 

 隣でオリヴェルが言った。

 

「マリーも、そう言ってる。そんなこと考えなくていいって」

「でも…僕は…」

「君は、僕たちを助けたんだよ、アドル。あの男から……大人相手に立ち向かってくれたんだ。僕たちを逃がすために。それがどれだけ勇気のあることか、君は自分でわかってないだろう?」

 

 マリーはオリヴェルの言葉を聞いて頷くと、隅にある机まで行って、そこに置いてある紙にせわしなく何かを書いた。

 持ってきた紙を見たアドリアンは、(とび)色の瞳に涙を浮かべた。

 

 

 ―――――ありがとう、アドル。

 

 

 紫色のインクで書かれた幼い文字。

 自分のせいで声まで失ったのに、どうしてお礼なんて言うのだろう。自分よりも小さくて、ひどく怖い思いをしたに違いないのに、どうして…?

 

「まだ……僕と友達でいてくれるのか?」

 

 アドリアンが涙声で尋ねると、オリヴェルはニコリと笑った。

 

「ずっと友達だよ、僕たちは」

 

 マリーもアドリアンの手を握って、何度も頷いた。

 笑った顔にはいつもの向日葵(ひまわり)のような温かさと明るさが戻ってきている。

 

 アドリアンは立ち上がると、手で涙を拭って笑った。

 

「ありがとう」

 




次回は2022.08.17.更新予定です。


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第七十話 嫉妬の相手

 オリヴェルの部屋を出て執務室に入ってから、ヴァルナルは護衛のパシリコに外に出るように命令した。

 二人きりになった部屋で、ヴァルナルはテーブルを挟んで向き合うミーナをしばらく見ていた。

 そういえば、この状況はレーゲンブルトに戻ってきた時以来かもしれない。

 ヴァルナルの頼みもあって、ミーナと再び話す機会は増えていたが、いつもは食事後に茶話室などで談笑するのが常だった。

 

「オヅマのことだ」

 

 ヴァルナルがオヅマの名前を出すと、ミーナは顔を強張らせて目を伏せる。

 

「医者からはどういった説明を受けた?」

「……身体に非常に深刻な負荷がかかって、今は重度の貧血状態だと…」

「その深刻な負荷の原因は、『千の目』と呼ばれる稀能(キノウ)の発現によるものだ。十分に身体の素地が整わないうちに、無理に能力の発現をすれば、当然負荷がかかって身体に異常を及ぼす。皮肉なことだが、技が高度で完成されているほどに、負荷は増す。私が助けに入った時には、オヅマは大量の血を吐いていた」

 

 ミーナはギュッと膝の上で両手を握りしめた。眉間に寄った皺は深く、動揺する心を静めるためにふぅと微かな吐息をつく。

 

「ミーナ、『千の目』を知っているか?」

 

 ヴァルナルが問うと、ミーナはしばらくしてコクリと頷く。

 

「……言葉には…聞いたことがございます。見たことは、ございません」

「騎士であればある程度、相手の気配を読むという基礎的な能力を伸長させることで、『千の目』に近い技能は身につく。だが『千の目』と呼ばれる稀能の域まで高めることができるのは、ほんの一握りの人間だ。私の知る限り、帝国においてこれを稀能として扱いうる人間は五指に満たぬ。ミーナ、オヅマは誰かの教えを受けたことはあるのか?」

「いいえ」

 

 ミーナの返事は早く、強かった。

 

「そんなことを知っているわけがありません。オヅマはただの……小さな村で育っただけの子供です」

 

 ヴァルナルはいつにないミーナの頑なな態度に困惑した。彼女はいったい何を恐れ、何を隠そうとしているのだろう…?

 

「…オヅマの治療の為もあって、私も少々『千の目』について調べた。それでわかったのは、『千の目』というのは独学で修得できるような技ではないということだ。人並み外れた才能があったとしても、手順を踏んで、専門的な教育を受けなければ、そもそも技として発現させることすら不可能なのだ。だからこそ、おかしい。オヅマにあそこまで反作用の症状が現れることが。あれは確実に『()()()()()()()()()使()()()からこそ現れるものだ。そうでなければ、吐血などという劇烈な症状は生じない」

 

 ミーナはかたく口を引き結んだまま、しばらく黙り込んでいた。やがて視線を彷徨《さまよ》わせてから、小さな声で尋ねてくる。

 

「その『千の目』というのは…血による承継があるのでしょうか?」

「うん?」

「血族に、同じような稀能を持つ人間がいれば、その子供にも受け継がれたりするのでしょうか?」

「………」

 

 ヴァルナルはじっとミーナを見つめた。

 

 ミーナの言いたいことはわかる。要はオヅマの稀能が遺伝によるものなのか…ということだろう。

 

 だが稀能において遺伝はまったく関係ない。

 ヴァルナルなどは父祖の代から商人であったし、反対にベントソン三兄弟など曽祖父は二つの稀能を扱った強者であったらしいが、今のところ子孫にその稀能を持つに至った者は出ていない。

 

 すぐにも否定すればいいのに、ヴァルナルは反対に問うてしまった。

 

「心当たりがあるのか?」

「…………」

 

 ミーナは再び押し黙った。

 愁いを帯びた薄紫色の瞳が遠くを見つめている。

 

 ヴァルナルは眉を寄せた。苦い気持ちが胸に広がる。

 

 この一年の間、ミーナは自らの身の上についてある程度語ってくれたが、決して口に出さなかったことが一つだけある。

 それはオヅマの実の父親のことだ。

 正直、興味がないと言えば嘘になる。ヴァルナルの中では一年前に亡くなった元夫よりも、オヅマの実父の方がより心を波立たせる存在ではあった。

 ミーナが容易に口にしないこと、それ自体が、彼女の心に占めるその男の度合いの大きさ、深さを感じさせたからだ。

 

 だが今はそんなつまらない悋気(りんき)を起こしている場合ではない。

 

「稀能は遺伝ではない。血縁はあまり意味を持たない」

 

 ヴァルナルが答えると、ミーナはホッと息をつく。それからようやくヴァルナルの顔を見た。

 

「すみません。私にもオヅマがいつの間にそうしたものを身に着けたのかはわかりません。村にいる頃に、頻繁に薬師のお婆さんの手伝いをしてはいましたが…」

「そうか…」

 

 これ以上、ミーナからオヅマの稀能について聞くのは無理そうだった。

 ヴァルナルはひとまず疑問を封じた。このことはオヅマの恢復(かいふく)を待って、オヅマ本人から聞いた方が早いだろう。

 

「よし。ではこの話はこれまでだ。次はミーナ、君の休養について話そうか」

 

 ヴァルナルが急に話を変えたので、ミーナは一瞬、何と言われたのか、わからなかった。

 

「え?」

 

 戸惑っていると、ヴァルナルは腕を組んで、少し怒ったような口調で言う。

 

「この数日、まともに寝ていないだろう? これは領主としての命令だ。ここでしばらく体を休めるか、自分の部屋に戻って休むか、どちらがいい?」

「そ…そんな…大丈夫です」

「悪いが、二択だ。どちらかを選びなさい。選ばなかったら、ここで寝てもらう」

 

 らしくない強引なヴァルナルの態度に、ミーナは唖然となった。

 しかし、ふとヴァルナルの耳が真っ赤になっていることに気付く。

 他方、ヴァルナルは厳しい表情を作るのに必死で、自分の耳が赤く熱くなっていることなど、まったくわかっていなかった。

 

 あの誘拐騒ぎ以降、ヴァルナルは何度となくミーナに休むようにと声をかけているのだが、ミーナは事件の原因が自分であるとでも考えているのか、まるで赦しを求めるがごとく、子供達の看病をほとんど寝ずにしていた。

 また、オリヴェルが紅熱病に倒れた時のように、無理が祟って倒れでもしたら…と思うと、ヴァルナルは気が気でない。

 

 ということで甚だ不本意ではあるが、目上の者には従順なミーナに、命令という形での休養を迫るしかなかった。

 あえて二択にしたのは、ただ休めと言っても、これまでの事例から(かんが)みて、ミーナが微笑んで無視することはわかっていたからだ。しかも二択の形式でありながら、実質的には一択しかなかった。(ミーナが領主の執務室で仮眠するなど、選ぶはずがない)

 

 ミーナはヴァルナルが睨むように自分を見てくるのが、必死に懇願されているような気がしてきた。

 考えてみれば、そのつもりはなかったが、自分はずっとこの寛大な領主の言葉を無視してきた。こんなに心配させていたのかと思うと、なんだか申し訳ない気分になってしまう…。

 

「申し訳ありません…ご心配をおかけして」

 

 ミーナが頭を下げると、ヴァルナルはふっと固めていた顔を緩めた。

 

「……謝るのではなく、少しは言う事を聞いてもらいたい」

「はい。では、しばらく自室にて休ませて頂きます」

「わかった。じゃあ、行こう」

 

 ヴァルナルは立ち上がると、ミーナに手を差し出した。ミーナがキョトンとしていると、ヴァルナルは咳払いして言った。

 

「このまま途中で倒れてしまいかねない顔色だ、ミーナ。一応、部屋まで送らせてもらう」

 

 それは本当にミーナが倒れそうで心配だというのもあり、またミーナが何かしらの理由をつけて、オリヴェルらの待つ部屋に戻るかもしれないので、防止の意味もあった。(まぁ、実際にはそれも言い訳だということはヴァルナルもわかっている。)

 

 ミーナは微笑むと、ヴァルナルの手を取った。

 

 執務室を出て部屋に向かうまでの間、二人はあくまでも一般的な礼儀の範疇で、腕を組んで歩いた。

 

「お優しい領主様に、こんなに心労をおかけして本当に申し訳ないことです」

 

 ミーナは恥ずかしさを紛らすように、少しおどけたように言った。しかしヴァルナルは大真面目な顔で答える。

 

「君のことを考えるのは嫌ではないが、できれば別のことで考えたいものだな」

「別のこと? どんなことをですか?」

 

 ミーナは首をかしげた。

 

「それは……」

 

 ヴァルナルは何と言おうか考えながら、視線をミーナに向ける。

 こちらを窺っているミーナと目が合うと、薄紫の瞳にライラックの花が自然と思い浮かび、その満開の花の下で佇むミーナの姿を想像した。

 

 細かな刺繍の施された白地のドレスに、真珠の髪飾り。

 花嫁衣装を着た美しいミーナ……。

 

 ヴァルナルはあわてて視線を逸らした。

 こんな妄想をするなんて、本当に自分はどうかしている…。

 

 困ったように黙りこくって、また耳を赤くするヴァルナルを見て、ミーナもなぜか顔が赤らんだ。二人はそのまま何ともいえぬ沈黙の中を歩いてゆき、ミーナの部屋の前で立ち止まる。

 

「あ…それでは…」

 

 ミーナはヴァルナルの腕から手を離したが、その手をヴァルナルがいきなり掴んだ。

 

「……あ」

 

 掴んでしまってから、ヴァルナルは自分でも驚いてしまったが、戸惑いを浮かべるミーナの表情に少なくとも嫌悪がないとわかると、ギュッと力をこめた。その手を口元に持っていってから、そっと離す。

 

「ちゃんと、寝るように」

「はい…」

 

 ミーナは挨拶もそこそこに部屋に入ると、そのままベッドに倒れ枕に顔を(うず)めた。  

 

「……馴れ馴れしくしては駄目よ。ちゃんと…自分の立場を弁えないと……」

 

 つぶやいた独り言を必死に心に刻み込む。

 そうせねばならないほどに、自分が動揺しているのを、ミーナは認めたくなかった。 

 




次回は2022.08.20.の更新予定です。


感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第七十一話 懐かしい人の夢

「ところでオヅマも寝込んでいるって聞いたけど、どうしたの? まさかオヅマもあの時一緒に来ていたの?」

 

 オリヴェルに尋ねられて、アドリアンはふっと目を伏せる。

 考えてみれば、あの時オリヴェルは気を失って倒れていたから、オヅマがダニエルの首を落としたことは知らないのだろう。

 

 マリーがギュッとアドリアンの手を握ってくる。小さく震えていた。

 

「マリー、大丈夫だよ」

 

 アドリアンはマリーの頭を撫でてやってから、オリヴェルに簡単に事情を話した。

 

「オヅマは僕の後に来たみたいなんだ。それで…僕達に剣を向けてきた男がいたろう? あいつがマリーを襲おうとしたのを止めたんだよ」

「なんだって? あのクソ野郎…」

 

 オリヴェルは貴族の若君にあるまじき言葉を吐いたが、アドリアンは注意する気はなかった。内心、アドリアンとてそう言いたい気分だった。

 

「マリーを襲うなんて、なんて卑怯な男なんだ。でも……どうしてマリーを?…あの時、僕らは逃げて…」

 

 オリヴェルが当時のことを思い出そうとするのを遮るように、マリーはまた急に机の方へと向かうと、紙に何かを書いて持ってくる。

 

 

 ―――――お兄ちゃんに会いたい。

 

 

「僕も会いたい。いいかな? お見舞いに行っても?」

 

 オリヴェルも言い出して、アドリアンはしばし考え込んだ。

 

「……オヅマは、静養中なんだ。今はずっと寝てて…」

「絶対に騒いだりしないから! 顔を見るだけでいいんだ」

 

 オリヴェルが懇願すると、マリーもうんうんと頷いて、緑の瞳でじいーっとアドリアンを見つめてくる。

 

「うーん…じゃあ…あの、ひとつだけいい?」

「なに?」

「オヅマ…時々、おかしな夢を見てるみたいで、うなされたり、いきなり飛び起きて…ちょっと、妙なことになったりするんだ。今はほとんどないんだけど。だから、もし、そういうことになっても、あんまり驚かないでくれるかい?」

 

 マリーとオリヴェルはきょとんとしながらも、とりあえず了承した。

 

 アドリアンに連れられて、オヅマの眠っている部屋にやって来たマリーは、寝台に眠る兄のあまりに青白く、生気のない顔を見て、途端にボロボロ泣き始めた。

 

「マリー…大丈夫だよ。ちゃんと静養したら…よく寝たら、治るって領主様も言ってるからね」

「どうしてこんな…。あの男がやったのか?」

 

 オリヴェルは怒りながらも信じられなかった。

 

 騎士団の訓練を度々見に行っていたオリヴェルは、マッケネンやその他の騎士が、オヅマが子供ながらに剣の才能がズバ抜けていると、こっそり喋っているのを何度か耳にしていた。

 特にアドリアンと一緒に訓練するようになってからは、アドリアンの正確な剣技を模倣し、すぐさま身に着けていった。

 

 マッケネン曰く、剣技が正確であれば無駄な力が入らず、より伸びやかで鋭い剣使いとなるらしい。

 事実、オヅマと立ち合った騎士の何人かが、ただでさえ素早いオヅマの動きに翻弄され、鋭く正確な剣捌きに、たちまちやられて降参することは珍しくなかったのだ。

 

 だから見るからに鈍重そうなあの酔っぱらいの男に、オヅマがやられたとはとても思えなかった。

 

「いや…オヅマが体を悪くしたのは、稀能を使った…らしいんだ」

「稀能!?」

 

 オリヴェルは思わず大きな声を出して、あわてて口を押さえる。

 

「稀能って…あの…父上が使えるっていう……?」

 

 コソコソとアドリアンに尋ねると、アドリアンは困ったように首を振った。

 

「僕も詳しくは教えてもらえなかった。ただ、オヅマが相当に無理をしてしまって、体が耐えきれなかった…ってことらしい」

 

 オリヴェルは泣きそうになって、オヅマの寝顔を見つめた。

 

 あの時―――アドリアンに逃げるように言われ、オリヴェルはマリーを引っ張って、部屋から飛び出した。

 薄暗く空気の澱んだ地下を走り、ようやく階段のところまで来たところで、オリヴェルは急に脱力感に襲われた。トトトト、といきなり奇妙な動悸がしたかと思うと、目の前は真っ暗になった。

 

 マリーは倒れたオリヴェルを放っておけなかったのだ。

 そこで足止めされている間に、あの男はマリーに襲いかかってきたのだろう。それを見たオヅマは怒り狂い、我を忘れた。―――

 

 自分が無事にマリーをあの地下から連れ出していれば、マリーが危険な目に遭うことも、オヅマがマリーの為に無理することもなかったろうに。

 あぁ…なんて自分は無力で情けない存在なのだろう。いつも守られてばかり。小さいマリーにすらも、守られている。

 

 一方、アドリアンは今更ながら、自分の選択肢が間違っていたことに苦い気持ちを噛みしめる。

 

 犯人に呼び出されて領主館から出るとき、オヅマの首に刺したのは一時的に相手の意識を失わせる、針のついた護身用指輪だった。だいたい目覚める時間も半~一刻弱(30~50分間)ほどとわかっていたので、そのくらいに目覚めたオヅマがヴァルナルに知らせて、シレントゥに向かってくれるものと考えていたのだ。

 

 だが、オヅマはあのメモの文句を見ていた。

 

『誰にも知られてはならない』。

 

 だから、誰にも知らせずにアドリアンの後を追ってやって来たのだろう。

 誰よりマリーの安全を考えるオヅマであれば、そういう行動に出ることは十分に考えられることだったのに。

 

「………う…」

 

 オヅマは三人の気配に気付いたのだろうか、うっすらと目を開いた。

 

「オヅマ!」

「オヅマ!」

 

 オリヴェルとアドリアンが声をかけ、マリーは兄の手を握りしめる。

 

 オヅマはしばらくぼんやりと天井を見上げていた。

 やがて自分の手が握られていることに気づくと、目線をマリーに向ける。だが、虚ろな目はマリーを見ていなかった。

 

「……マリー」

 

 掠れた声で妹の名を呼ぶ。

 

「…………」

 

 マリーは「お兄ちゃん」と呼ぶことが出来なかったが、ギュッと手に力をこめた。オヅマはマリーの手を握り返して、力なく微笑む。

 

「マリー……久しぶりに……エラ……ジェイに…会った」

 

 マリーは首をかしげた。

 誰かの名前のようだが、マリーには聞き覚えがない。

 

 だが、オヅマはうっすら笑ったまま言う。

 

「懐かしい…よな。……相変わらず……胡桃……持って…んの…かな……」

 

 それからオヅマは瞼を閉じて、再び眠りに落ちた。

 

「胡桃?」

「なんのことだろう? また夢かな」

 

 オリヴェルとアドリアンは不思議がった。

 マリーにも意味がわからなかったが、穏やかな兄の顔を見て、きっとその人がいい人なのだろうと思った。




次回は2022.08.21.更新予定です。


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断章 ー帝都・キエル=ヤーヴェへの道ー

 また…落ちていく。

 

 ()の中に。

 

 ゆっくりと、落ちていく―――――。

 

 

 

 

 煙となって空へ昇っていく母を見送って、オヅマはマリーと共に母の遺言通り、帝都(キエル=ヤーヴェ)へと向かった。

 

 当初は街道を歩いていたが、いわゆる関所に来ると金を要求された。

 五銅貨(ガウラン)は、いつも街道を利用する商人にとっては必要経費であり、大した金額でなかったが、家ごと、全て売っ払っても銀貨八枚に満たなかったオヅマらには、この先の長い旅程を考えると簡単に渡せる金額ではない。

 

 家財で得た金以外にも、ずっと世話になった鍛冶屋の爺さんや、ミーナに時々、針子の仕事を頼んでいた宿屋の女将などが餞別にいくらかまとまった金を持たせてはくれたが、それもまた首都に行く為に十分とは言い難かった。

 そのため、オヅマは仕方なしに整備された街道ではなく、裏街道と呼ばれる正規でないルートで首都まで目指すことにした。

 

 しかし、子供二人の道中はそう簡単なものではない。

 裏街道の多くは山道で、獣に襲われることも、山賊に追いかけられることもあった。

 まだ早春の頃であったから、暗くなれば冷え込むこともあって、大きな木の(うろ)の中に落ち葉をありたけ集め、マリーと二人抱き合って眠ることもあった。

 

 ある日のこと、オヅマが水を求めて岩清水の音がする方へと歩いていると、(くさむら)からヌウッと人影が現れた。

 オヅマは咄嗟に人(さら)いだと思った。これまでにも何度か人攫いの男がオヅマとマリーを襲うことが続いていた。

 

「マリー、逃げるぞ」

 

 言いながら二人は腰の袋に集めていた棘玉(鋭い棘のある硬い殻に覆われた種子)を落としてゆく。

 だが、影は追いかけては来ず、ドサリと背後で何かが落ちたような音がした。

 

 オヅマとマリーはチラと目を見合わせてから、手近にあったコナラの木にスルスルと登った。

 枝の上から、しばらく様子を見る。

 

 道に男がうつ伏せに倒れていた。

 長い袖の、袖口の広がった上衣に、短い黒のベスト。足首ですぼまったヘチマのようなズボン。全体的に薄汚れて、所々破れていた。黒っぽい髪が、これも薄汚れた巻布(ターバン)の間から飛び出ている。時々見かける異国の商人のような格好だ。

 

「お兄ちゃん……あの人、怪我してるんじゃない?」

 

 マリーが小さい声で尋ねてくるのを、オヅマはシッと制した。

 もしかしたらあれは囮で、あの男の仲間が周囲に潜んで、自分達を捕まえようとしているのかもしれない。

 注意深く辺りを探り、鳥や栗鼠(リス)などが奇妙な動きをしていないか窺う。人間が隠れていたりすれば、まず動物達の挙動が警戒を帯びる。

 

「マリー、お前ここにいろ」

「嫌だ」

 

 別行動をしている時に一度誘拐されかけてから、マリーはオヅマの側を絶対に離れなかった。

 

「………俺の後に来いよ」

 

 オヅマもやはり心配ではあった。

 なるべく音をたてないように、そっと木から降りると、辺りに目を光らせつつ倒れている男に近づいていく。途中でマリーの背丈ほどの木の枝を拾って、その枝でまずツン、と男の足をつついた。

 

「………」

 

 男に反応はない。

 ツン、ツン、とまたつつくが、男は動かない。

 

「マリー、よく周りを見てろよ。誰かいないか」

「うん」

 

 オヅマはより警戒を強めてから、男の脇あたりをツンと押した。

 

「………ぐ…」

 

 かすかに声が漏れたが、男は動かない。

 もう一度、今度は強めに同じ脇を押した。

 

「ぐひゃッ!」

 

 妙な声を上げて、男は急に起きた。

 

 オヅマとマリーはあわてて後ずさって、茂みの中に隠れた。

 男は起き上がってから、キョロキョロと辺りを見回して、ボリボリと頭を掻いた。かろうじて頭に巻かれていた布がとれて、長い紺の髪が解けて落ちた。

 

「おぉい」

 

 男が声をかける。

 

「誰か知らねぇけど、助けてくんねぇ?」

 

 オヅマは息をひそめて、男の様子を見ていた。

 ああして油断させて、マリーとオヅマが近寄った途端に態度が豹変するかもしれない。

 

 男は溜息まじりに、まだ呼びかけていた。

 

「頼むよぉ。困ってんだ、これでも。…ホラ、見てくれよ」

 

 男はいきなりベストを脱いだ。

 元は白かったと思われるシャツの背中は真っ赤だった。一目で血だとわかる。

 

「背中…やられちまった……ヤベぇな、これ。マジで……ヤベぇかも…ホントに……」

 

 男は言いながら段々と顔色が悪くなっていく。

 ゆっくりと体が傾いていき、そのうちまた地面に倒れた。

 

「……お兄ちゃん」

 

 マリーが心配そうに言った。

 

「あの人、怪我してるよ」

「………後ろからついてこい」

 

 オヅマはそれでも気を許さなかった。

 鍛冶屋の親爺が餞別にとくれた分厚い刀身の短剣を持って、そろそろと近寄る。

 

 足で男の脇腹あたりを軽く蹴った。反応はない。もう一度蹴ってみたが、動かなかった。

 

 オヅマは男の間近まで来て、その背中をまじまじと見た。

 シャツには何か小さな鋭い刃物で破かれた穴が四箇所ほどあり、その穴周辺に赤の色が濃かった。

 オヅマは眉を寄せ、持っていた短剣で男のシャツを切り裂いた。案の定、背中には刃物が刺さったらしい傷跡が四箇所ある。まだ出血していた。

 

「マリー、あそこに艾葉(ヨモギ)があるから適当に千切ってきてくれ」

「うん!」

 

 マリーは兄がようやく怪我をした男を助ける気になってくれたので、ホッとしてすぐさまヨモギが群生している場所に走っていく。その間にまた意識を取り戻したらしい男がかすれた声でつぶやく。

 

「……腰の袋に……薬……」

 

 オヅマが男の腰にある袋を探ると、いくつかの薬が入っていた。

 オヅマはその中から外傷用の塗り薬と、柿渋で染めた晒し布を取り出す。

 塗り薬を傷口にたっぷり塗り込むと、しみたのか男がうめいた。

 

「…っ…痛……」

 

 オヅマは反射的に一度地面に置いた短剣をすぐさま手に取った。

 

「動くな。動いたらもう、手当てしないぞ」

「………物騒なモン持って」

 

 男はククッと笑って、手を真上に上げてヒラヒラさせた。

 

「なーんもしねぇよ。頼むわ、ホント」

 

 オヅマはその後も警戒を緩めなかったが、とりあえず男の傷の手当てをした。

 マリーの千切ってきてくれたヨモギの葉をぐしゃぐしゃと揉んでから、傷口の上に重ねて、その上から柿渋の晒し布を巻き付けた。

 

「手際いいな、お前」

 

 男は途中からすっかり目が覚めていたようだった。

 あんな怪我をして、相当痛いだろうに、微塵も苦しげな素振りは見せない。

 オヅマは眉を寄せると、男の持っていた袋の中から、赤い小さな紙包みを取り出した。

 

「これ、痛散薬?」

「お、よくご存知で」

 

 オヅマはその紙包みと、水の入った革袋を渡す。

 

()んでおけよ。痛いんだろ」

「へへ」

 

 男は笑って受け取ると、手慣れた様子で紙包みごと飲み込んだ。ゴクゴクと革袋の水を飲むと、ぷはぁと息をつく。

 

「いやぁ。助かった助かった。坊や、慣れてんな」

「………薬師のお婆さんとこで、ちょっと教わったから」

 

 オヅマは一年前に亡くなった薬師のお婆さんのことを少しだけ思い出した。

 偏屈で変わり者の、口やかましい婆であったが、こうして旅していると彼女の教えは非常に役立つことが多かった。今となっては感謝している。

 

「そうか。道理でな」

 

 男は革袋をオヅマに返すと、じっと自分を見てくるマリーをチラリと見る。マリーはすぐさまオヅマの背中に隠れた。

 

「妹か?」

 

 問いかけられても、オヅマは答えない。

 男はフッと笑った。

 

「そうか…お前らか」

「なに?」

「噂になってんぜ、お前ら。言ってもこの界隈でだけど。ガキが二人で旅してるって。ちょこまか逃げやがってクソムカつくって、人買いの野郎が飲み屋で騒いでた」

 

 オヅマはさっと顔が強張った。

 やはり子供二人では目立つのだ。

 

 街道を歩いている時でさえ、奇異に感じた人が声をかけてきたりして、そのまま保安衛士(ほあんえじ)に引き渡されそうになってあわててマリーと逃げたのだ。

 その後はそれとなく隊商の列に並んだりして誤魔化していたが、関所はそう簡単に通れなかった。そこでも役人に疑われ、保安衛士が出てくる前に逃げた。

 

 男はニヤリと笑って腕を組む。

 

「さぁて。どうしたもんかねぇ…」

 

 オヅマはすぐさま短剣の柄に手をやる。しかし男は平然としていた。ザリザリと伸びた無精髭を撫でる。

 

「お前ら、どこまで行く気だ?」

帝都(キエル=ヤーヴェ)

 

 オヅマが止める前に、マリーが答えた。

 

「マリー! 勝手に言うな!!」

 

 オヅマが怒鳴ると、マリーはビクリと身をすくめる。

 男はハハハと笑った。

 

「そう怒るなよ、坊や。まぁ、そんなこったろうとは思ってたよ。孤児でも浮浪者でも、食い扶持のありそうな場所を目指すもんだ」

「俺らは、知り合いのところに行くんだ!」

「知り合い?」

「母さんに言われて…そこに行けば、きっと……どうにかなるって…」

「ふぅん」

 

 男は頷いてから、オヅマに尋ねてきた。

 

「じゃ、その知り合いの紹介状みたいなの、母親からもらってねぇの?」

「………」

 

 オヅマは目を伏せて拳を握りしめる。マリーは泣きそうな声で「お母さん…」とつぶやいた。

 男はそれ以上のことは聞かなかった。紺色の瞳でじいっとオヅマを値踏みするかのように見つめた後、ふっと笑顔になった。

 

「まぁ、俺はこれでも義理は通す方だ。お前らが困ってるなら、一緒に行ってやってもいい」

「断る」

 

 オヅマは即座に断った。

 男は肩をすくめた。

 

「この先、子供だけじゃあ無理だと思うぜ。特にそのお嬢ちゃんなんか、なかなか可愛い顔してるし、人買いが欲しがりそうだ」

 

 オヅマは唇を噛み締め、手に持った短剣をより強く握りしめる。しかし男はフルフルと首を振った。

 

「そーんな短剣振り回したって、それこそ十人がかりで囲まれたらどうする? お前、一人で相手できんのか? 相手している間に、妹は(さら)われるだろうぜ。正直、ここまでは運が良かった。っつーか、さすがにこんな北の果てまで来るような悪党もいなかったってだけだ。いたとしても田舎モンの悪党はたいがい間抜けだからな」

 

 マリーはオヅマの腕にしがみついた。

 ラディケ村を出発してからずっと、気の休まる時がない。オヅマも限界だったが、マリーも疲れていた。ふっくらしていた頬もこけ、緑の瞳はいつもオドオドと怯えていた。

 

 正直、すぐにでも飛びつきたい申し出だったが、それでもオヅマは容易に男を信じなかった。

 

「……アンタが怪我をした理由は?」

 

 睨みつけて尋ねると、男は一瞬顔を固めてから、ニヤっと片方の口の端を上げた。

 

「お前…いいね。いつも、そうやって油断なくしてろよ。ここらにいるたいがいの大人なんざ、信用ならねぇからな」

「あんたも大人だろ?」

「まぁ、一応な。今年なった」

「今年?」

 

 オヅマは思わず聞き返した。帝国の成人年齢は十七歳だ。 

 

「そうだよ。正直、ここいらをウロつきまわってるゴロツキのオッサン共よりかは、お前らの方が年は近いだろうぜ」

「………見えない」

 

 オヅマが素直に言うと、男は少し眉を寄せて、ザリザリと顎髭を撫でた。

 

「このナリだからな…ま、さっぱりすりゃ、わかるさ」

「……で?」

「で?」

「怪我の理由は?」

 

 オヅマが再び尋ねると、男は観念したように溜息をついた。

 

「わかったよ。…実をいうと、俺は今、追われてる。保安衛士(ほあんえじ)とゴロツキ共…まぁ、その他モロモロ。ヤツら、はっきり俺だとわかってないが、少なくとも一人で旅してる男に声かけて回ってるみたいなんだ。そこで…」

「俺らと一緒にいれば、ごまかせるってこと?」

 

 男はパチンと指を弾いた。

 

「察しがいいな、坊や」

「坊やじゃない。オヅマだ」

 

 オヅマが名乗ると、マリーもすぐに自己紹介した。

 

「私はマリーよ」

「俺は……ジェイ」

 

 男は言いかけて、しばらく黙り込んだ。何かを考え込んでる様子に、マリーが首をかしげる。

 

「どうしたの?」

「いや…そうだな。俺の名前はエラルドジェイだ」

「エラ…ド…?」

 

 聞き慣れない名前にマリーが苦戦していると、エラルドジェイは笑った。

 

「無理しなくていい。これはお前らと三人だけの時の名前。普段はジェイとだけ呼んでくれ」

「なんで?」

 

 オヅマは意味がわからない。貴族でもないのに名前が二つもあるなんて。

 するとエラルドジェイはポリポリと頬を掻きながら、少し恥ずかしそうに話した。

 

「エラルドジェイは隠された名前なんだ。よっぽど親しい人間以外は教えない…っつーのが、俺の家に伝わってる古くさい掟ってヤツなの。まぁ、俺はさほどに気にしてるわけじゃあないんだけどさ。でも、古代の氏族の血ってヤツが俺にもまだ残ってんだろうな。秘名(ハーメイ)ってのは、ホイホイ誰にでも教えたくないんだ」

 

「じゃあ…なんで俺らに教えるのさ?」

「お前らに信頼してもらうためさ」

「信頼?」

「誠意の証ってやつ」

 

 オヅマにはエラルドジェイが秘めたる名前を教えることの意味があまり理解できなかった。正直、それで誠意の証と言われても、特に何も感じない。

 

 だが、一緒に旅をすることが一方的にオヅマ達の利益になるのではない…むしろ男がマリーとオヅマの協力を必要としていることこそが、男への警戒を少し薄れさせた。

 無償の好意よりも、利害関係があった方が、まだ安全だ。

 

「厄介事に巻き込まれるのはゴメンだ。あんたが危なくなっても、俺はマリーを連れて逃げるからな」

 

 オヅマは冷たく言ったが、男は意図を理解したのかニコっと笑った。

 

「勿論だ。俺も足を引っ張りたいわけじゃない」

 

 オヅマは立ち上がると、膝についた土を払った。

 

「しばらくはその傷の手当てだってしなきゃならないだろ。もうすぐ日が暮れる。野宿できそうな場所を見つけないと」 

「それだったら、いくつか心当たりがある」

 

 エラルドジェイも立ち上がり、背中の傷に痛みがはしったのか、顔を顰めた。

 

「大丈夫?」

 

 マリーが心配そうに聞くと額に汗を浮かべながら、エラルドジェイはやっぱり笑う。

 オヅマはあきれながらも、エラルドジェイの脇に入り、体を支えてやった。

 

「おいおい~、無理すんなよ~」

「無理してんの、アンタだろ」

「ハハ、大丈夫だって。俺、普段からルトゥ(*麻薬の一種)吸ってっから、そんなに痛みとか感じないんだ」

「………よくないだろ、それ」

「こういう商売してっと、必需品でな」

 

 オヅマは眉間に皺を寄せて言った。

 

「俺、煙草とか嫌いだからな」

 

 

 その後、帝都到着までの一月近く、オヅマはエラルドジェイと行動を共にした。

 エラルドジェイを追いかけてきたゴロツキや、保安衛士によって捕まりそうになりつつ、三人はどうにかやり過ごした。

 

 幸いにも途中でエラルドジェイが懇意にしている旅芸人一座と行き合い、この一団に加わることで追手からはほぼ逃れることができたし、オヅマ達兄妹も、客寄せなどを手伝って芸人達から可愛がられた。

 

 帝都に入り、オヅマが向かう場所がガルデンティアだと聞いたエラルドジェイは、少しばかり真面目な顔で、声をひそめた。

 

「お前があそこと関わりがあるとは思わなかったな。……もし、追い出されたらすぐに俺ンとこに来いよ。帝都だったらアウェンスの肉屋にいるニーロっていう赤毛の男か…そこが駄目なら、ちょっと遠いけどアールリンデンのホボポ雑貨店、覚えてるか? 途中で寄ったろ? あの時はいなくて紹介できなかったけど、ラオっていう、ハゲ親爺に俺の名前を言ったらいい」

「ジェイって?」

「いや。この二人は俺の秘名(ハーメイ)を知ってるから、そっちを教えた方が話が早い」

「ふぅん。案外、誰にでも教えてるんだな」

「なんだぁ? 嫉妬か、オヅマ」

「フザけんな! バーカ!」

 

 エラルドジェイはしょっちゅうオヅマをからかったが、その目はいつも優しかった。

 

 このあと彼とは別れたが、後年になって再会した時も、彼はオヅマへの恩義を忘れていなかった。

 終世、兄貴分としてオヅマを見守り続けてくれた。

 

 ()()()()()()()()()()()、エラルドジェイとの出会いは人生における最大の僥倖だった。もし、彼に会えていなかったら、きっとオヅマもマリーも行き倒れて死ぬか、山賊か人買いに捕まってオヅマは殺され、マリーは売られでもしたことだろう。

 

 オヅマにとってもエラルドジェイは恩人であった。

 

 しかし後になって考えるほどに、彼はある意味、地獄への使者とも言うべき役割を果たしたのだった。その皮肉に気付かされながらも、オヅマはエラルドジェイのことを恨んだことは一度もなかった。

 

 あの時もあの後になってからも、オヅマの昏い人生において、彼との旅はただ唯一、光の差した日々だった。

 




次回は2022.08.24.更新予定です。


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第七十二話 公爵家の使い

 その日、領主館の門は宵の頃を過ぎても閉じられなかった。グレヴィリウス公爵家の使者が訪れるとの先触れがあったからである。

 その後、使者が到着したのは、夜半に近い時間だった。

 

「久しぶりございます、小公爵様」

 

 執務室に呼ばれて、グレヴィリウス公爵家直属騎士団の団長代理であるルーカス・ベントソンの姿を見た途端に、アドリアンの顔は固まった。

 

 ――――とうとう来た…!

 

 アドリアンの予想通り、ルーカスはアドリアンを迎えに来たのだった。アドリアンの従僕であるウルマスも一緒だった。

 

「大変な目に遭われたようで、公爵閣下も心配しておられます」

 

 ウルマスは言ったが、まったく心が籠もっていなかった。この場面に合わせて言っただけの、三文芝居の台詞に過ぎない。

 

「………いつ出る?」

 

 アドリアンは簡潔に尋ねた。

 

「明朝には」

 

 ルーカスが答えると、アドリアンはビリッと眉を寄せる。

 隣で聞いていたヴァルナルが思わず聞き返した。

 

「明朝? こんな夜遅くに着いたばかりだというのに?」

「出来得る限り早く帰還するようにとのお達しでな。しばらく視察で公爵家本領地(アールリンデン)を離れられるし、それまでに小公爵様のご無事な姿を確認しておきたいのだろう。―――馬、頼むぞ」

「それは勿論だが…」

 

 ヴァルナルは公爵家からずっと走ってきた馬の交換に応じつつ、少しばかり意外だった。

 いつも息子に対して、ほとんど無関心な公爵閣下が心配しているとは。

 初めての長期に渡る息子の不在が、あるいは公爵にもいいように作用したのかもしれない。 

 

 だが、アドリアンの顔は暗かった。

 そんなわけがないことは、息子のアドリアンが一番よくわかっている。

 父は怒っているのだ。こんなことに巻き込まれ、ヴァルナル達に迷惑をかけた自分(アドリアン)に。

 だからしばらく領地を離れる前に、()()()()()叱っておきたいのだろう。

 

「この帰還は僕が赦されたということか、それとも…今回の事件のせいか?」

 

 アドリアンが尋ねると、ルーカスは淡々と答えた。

 

「公爵閣下は特に何も仰言(おっしゃ)っておられません。ですが、本来であればクランツ男爵がアールリンデンに来るのに合わせて、小公爵様も戻ってこられることを考えておられたと思いますゆえ、此度の騒ぎが原因と考えた方が、よろしかろうと存じ上げます」

「今回のことで、男爵が咎められることはあるのか?」

 

 アドリアンが強張った顔で尋ねると、ルーカスはチラとヴァルナルを見てから、すげなく言った。

 

「それは無論。あれだけ大言壮語しておいて、小公爵様を危険な目に遭わせたのですから、それなりの罰は生じることでしょう」

「ヴァルナルは関係ない! 彼に何も言わずに行ったのは、僕の独断だ」

 

 アドリアンが激すると、ヴァルナルは首を振った。

 

「小公爵様。此度のことは、ひとえに私の不徳の致すところ。あなたに罪科(つみとが)はございません」

「おぅ、そうだ。こんな騒ぎになって、レーゲンブルトの狼軍団の首領としては、不徳の上、面目丸潰れだ。皇帝陛下から黒杖を返せと言われても文句は言えないな」

 

 ルーカスが重ねて茶々を入れると、ヴァルナルはやれやれと溜息をついて微笑む。

 

「ま、このようにベントソン卿が仰言るからには、さほどに心配なさることはございませんよ」

「うん? どういう意味だ?」

(けい)の皮肉が絶好調な時は、心配するなということだからな」

「フン」

 

と、ルーカスは鼻をならしてから「ま、そういうことだ」と軽く肩をすくめる。

 それでもアドリアンの顔は曇ったままだった。

 

「オヅマが……まだ、治ってないのに…」

 

 小さな声でつぶやくと、ルーカスは首をひねった。

 

「オヅマ?」

「小公爵様と対番(ついばん)にさせていた少年だ。黒角馬を見つけてくれた子だよ。そうだ。ビョルネ医師は一緒に来たのか? 彼に一度、診察してもらいたいんだ」

 

 ヴァルナルが尋ねると、それまで黙っていたウルマスがようやく出番だとばかりに口出しする。

 

「ビョルネ医師であれば、来て早々にクランツ男爵の世子君の診察に赴かれました。なんでも誘拐されたというではありませんか。このような大事(だいじ)、もはやレーゲンブルトに小公爵様を預けることはできぬと公爵閣下もお考えになられたのでございましょう」

 

 ヴァルナルは心中でかすかに苛立ったが、何も言わなかった。

 実際のところ、そう考える人間は公爵家に多いことだろう。

 

 ルーカスもまた、来るまでにこうした非難を幾度も聞いていたので、今更わざわざ否定する気にもなれなかった。

 彼らが公爵の真意を勝手に斟酌(しんしゃく)して、言いたい放題言うのはいつものことだ。

 

 譜代の家臣でないヴァルナルへの風当たりは昔も今も強い。

 まして公爵の信頼も厚く、継嗣の小公爵までもが彼を贔屓(ひいき)しているとなれば、おこぼれにも預かれぬ者らには相当に業腹(ごうばら)なのだろう。

 

「ウルマス、お前、この数日の馬車旅で腰が痛いと言ってなかったか? 今日は早くに寝た方がいいだろう。明日の早朝…黒五(くろいつ)(どき)(*午前五時前後)には出る。準備を怠らぬよう」

 

 ルーカスは言葉だけ丁寧に、言外に「とっとと出てけ」と退出を促す。ヴァルナルとアドリアンからも白い目で見つめられ、ウルマスはきまり悪そうに身じろぎして、そそくさと執務室から出て行った。

 

「で? その目端のきく坊主がどうしたって?」

 

 ルーカスはすぐにヴァルナルに向き直る。ヴァルナルは目を伏せた。

 

「血を吐いて倒れたんだ。稀能(キノウ)を発現させて」

「稀能? ガキが?」

 

 ルーカスはさすがに驚いたが、すぐにいつもの皮肉げな顔になる。

 

「まったく。黒角馬だけでも妙な代物拾ってきたと思ったのに、なんだってお前ばっかり、そんな面白そうなモンを見つけてくるんだ?」

「見つけたんじゃなくて、向こうから来たんだが…ルーカス、この周辺で『千の目』を教授できるような老師はいるだろうか?」

 

 老師、というのは『先生』という意味で、必ずしも老人というわけではない。だが『練達の師』といった意味合いが強く、その場合、多くは経験豊富な老人であるため、たいがいの人は年寄りを思い浮かべるだろう。

 ルーカスはどちらの意味で取ったのかはわからないが、何名かを脳裡に思い浮かべながら尋ねた。

 

「『千の目』? なんだ…まさか、そのガキの稀能が『千の目』だとか言うんじゃなかろうな?」

「そのまさかなんだ…おそらく」

「おそらく?」

「実際にその場に立ち合った訳じゃないからな」

 

 ルーカスはしばらく黙り込んでから、ハハハと乾いた声で笑った。

 

「ないない。ある訳がなかろう。ガキに扱えるような代物じゃない。『千の目』を一度行使しただけで、失明した、足が使い物にならなくなったなんて話もあるくらいだぞ? 老師だって?『千の目』の遣い手なんぞ、ほとんどが隠棲して行方不明だよ。今、所在がはっきりしていて、しかも確実に『千の目』を遣える人など大公殿下しかいない」

「……やはり、そうか」

「あの御方が弟子をとったなんて話は聞かないし、まして、そのガキいくつだ?」

「今年で十一になる」

「ハッ! あるわけがあるか。十一のガキがまかり間違って『千の目』なんぞを発現したら、血反吐はいて死ぬか、良くて一生寝たきりだ」

 

 アドリアンはその言葉を聞いた途端、執務室から飛び出した。

 オヅマの寝る部屋に向かう途中で、オリヴェルの主治医のビョルネ医師に会った。

 

「あ…小公爵様」

 

 小さく声をかけてきたビョルネ医師の腕をひっぱって、アドリアンは部屋まで連れてくると、必死に頼み込んだ。

 

「オヅマを診察してくれ! 頼むから、治してくれ!」

 

 ビョルネ医師は目を白黒させながらも、寝台に眠る青い顔の少年が、いつも少々尊大なくらいに生意気で元気だったオヅマだと気づくと、顔色を変えた。

 

「どうしたことでしょうか、これは」

「稀能を発現したんだ。それで血を…大量に血を吐いたんだ。血溜まりができるほどの」

 

 ビョルネ医師は眉を寄せたものの、鞄から聴診器を取り出すと、まずは心臓の音を聞いた。それから脈をとり、全身の状態を確認する。

 もう一度、聴診器の大きな逆三角錐を心臓の上あたりにあてて、小さな逆三角錐に耳を当てた。

 

「うーん…」

 

 ビョルネ医師はしばらく考え込んだ。

 アドリアンは切羽詰まった顔で尋ねる。

 

「治るのか? 治るよな? ………頼む、治してくれ」

「はぁ…えぇ……うーん。それは…どうしたものか…」

 

 もごもごと口の中で言葉を選んでから、ビョルネ医師はきっぱり言った。

 

「寝てます」

「は?」

「ですから……よく寝てるなーって」

「フザけてるのか!?」

 

 アドリアンは珍しくイラっとなって怒鳴ったが、ビョルネ医師は小鼻を少し掻いて冷静に説明した。

 

「いえいえ。フザけてなどいません。病人を前にして、そんなことは。しかし、オヅマを診察して僕が言えるのは、『よく寝てる』ってことだけです。眠ることで身体を回復させているのでしょう」

「それだけなのか? 失明とか…足が動かなくなってるとか……」

「瞳孔も一応光に反応していますし、足の筋肉に強張(こわば)りなどもございませんし、反対に弛緩(しかん)もしておりません。問題はないかと…。詳しくは意識を取り戻してから、本人に問診をしてみないとわかりませんが」

 

 アドリアンはビョルネ医師をじっと見つめた。

 必死な眼差しに、ビョルネ医師はたじろぎながらも繰り返す。

 

「た……たぶん、問題はないと…」

 

 アドリアンは急にオヅマの眠るベッドに突っ伏すると、戸惑うビョルネ医師に静かに言った。

 

「問題ないならいい。…下がってくれ」

 

 ビョルネ医師は「はぁ」と頭を下げて、部屋を出た。

 出たところで、ヴァルナルとルーカス二人に囲まれる。

 

「どうなのだ? オヅマの状態は?」

 

 ヴァルナルに尋ねられ、ビョルネ医師はアドリアンに言った言葉を繰り返す。

 

「特に、重篤な症状は見受けられません。呼吸も落ち着いておりますし、心臓も脈も正常です。関節などの異常や、筋肉の強張りや弛緩もないですし、瞳孔の反応も正常です」

「つまり?」

 

 ルーカスが結論を促すと、やはりビョルネ医師はこう言うしかなかった。

 

「よく寝てます」

「…………」

「…………」

 

 男三人は顔を見合わせて黙った。

 ビョルネ医師は心の中で、この()はなんだろうか…? と気まずくなって、話を変える。

 

「あの~…オリヴェル様の診察も行いましたが、微熱が続いておられるようですので、薬を処方いたしておきました。いつも通りミーナ殿に頼んでおきましたが…」

 

 ミーナの名前が出て、ヴァルナルはハッと我に返った。

 

「あぁ…すまない。来て早々に診ていただいて、感謝する」

「いえ。では私はいつもの部屋に下がらせて頂きますので…もし、何かございましたら、いつでもお呼び下さい」

 

 ビョルネ医師はそれ以上、何か言われる前に部屋に引っ込むことにした。

 ルーカスの指揮で、けっこう強引な行程でここまで来たせいで、さすがに疲れていた。

 

 ビョルネ医師を見送った後、ルーカスとヴァルナルは部屋の扉をそっと開いて中を覗き見た。

 燭台の灯りに照らされ、ベッドに眠るオヅマのかたわらで、アドリアンが突っ伏しているのが見える。かすかに、嗚咽(おえつ)が聞こえた。

 

 ルーカスは扉を閉じると、フゥと溜息をつきながら歩き出す。

 

「随分、ご執心じゃないか。我が小公爵様は」

「あぁ…対番だったし…」

 

 ヴァルナルは言いかけて、フフッと笑った。

 

「なんだ?」

「最初は険悪だったんだ。オヅマに対番になるよう言った時なんて、二人して睨み合っていたよ」

「ほぅ?」

「喧嘩もして、一緒に剣舞も舞って…こちらが何かを言わなくとも、友になるんだな。オヅマにとっても、小公爵様から吸収することは多かったようだ。色々大変なことがあったが、あの二人が仲良くなったことが、私には一番喜ばしい。これで罰を受けて放逐されても、私には十分な収穫だ」

 

 満足気に言うヴァルナルに、ルーカスはフンと鼻を鳴らす。

 

「よく言う。放逐などされないことがわかってるくせに」

「それなりの罰が生じると言ったのは(けい)だ」

「罰を与える前に、事件の詳細を聞く必要がある。どうやら馬鹿が首謀者になってるようだが……」

 

 言いながらルーカスは執務室まで戻ってくると、勝手にキャビネットからブランデーを取り出した。

 

「で? なにがあった?」

 

 ブランデーを口に含んで訊ねるルーカスの青い瞳が鋭さを帯びた。

 

 ヴァルナルは気を引き締め、一連の出来事を話し始めた。

 





更新が一日遅れました。大変申し訳ございません。
引き続き、更新します。


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第七十三話 サコロッシュの女狐

 領主館の火事から始まって、オッケの死に至るまで。

 ヴァルナルの知りうる全てのことを話した後で、ルーカスは皮肉げに頬を歪めて言った。

 

「首謀者が、あのダニエル・プリグルスだって?」

「………彼が、闇ギルドの人間を雇って、小公爵様をおびき寄せたのは間違いないようだ」

「フン。あんな男にグレヴィリウス公爵家を敵に回す度胸があるものか。どうせサコロッシュの女狐あたりが使嗾(しそう)したのだろうよ」

 

 サコロッシュは、マキシム・グルンデン侯爵が本邸を構える地所の名前だった。

 そこにはグレヴィリウス公爵の妹であり、公爵家の元養子であったハヴェル公子の母であるヨセフィーナ・グルンデン侯爵夫人がいる。

 

「………」

 

 ヴァルナルは黙り込んだ。

 ルーカスの言葉はおそらく間違っていないだろうが、証拠もない以上、簡単に首肯はできない。

 言っても、相手は公爵閣下の妹で、グルンデン侯爵家の女主人なのだ。

 

 しかしルーカスは頓着しない。

 

「奴らの目的はお前だぞ、ヴァルナル。まさかあんな小物にグレヴィリウス家の小公爵を殺せるわけもない。もし万が一、成功すれば、奴らには儲けものだし、失敗したとしても、ヴァルナル・クランツの信用を(おとし)めることはできる。レーゲンブルト領主であり、帝国で最も勇猛果敢な騎士団の団長、皇帝陛下の覚えめでたい黒杖の騎士。そんなのがアドリアン様の後盾とあっちゃ、奴らには目の上の瘤だ。隙あらば足を引っ張ろうと、綱をいくつも用意してあるんだろうよ」

 

 今回の事件の動機を、ルーカスはすぐに見抜いた。

 それは推測であったが、おそらく間違っていない。

 

 小公爵の謹慎にあたり、目付けという大役を任じられ、多少持ち上がったヴァルナルの権威を、上がった分だけ落としてやろうということだ。

 

「相変わらず、()()()()御方だよ。見た目が上品なだけ、ゾッとする」

 

 ルーカスは嫌悪もあらわに吐き出した。

 

 おそらく多くの人にとって、ヨセフィーナ・グルンデン侯爵夫人は人の良い温和で上品な貴婦人という印象であろう。しかし、ヴァルナルもルーカスも彼女がかつて、公爵の亡き夫人であるリーディエに対して、ひどく陰湿ないじめをしていたことを知っていた。

 

 ルーカスなどは、少女時代のヨセフィーナに惚れられてしまい、しつこくつきまとわれた挙句、当時付き合っていた彼女にまで嫌がらせをしてきたので、心底辟易もし、正直、蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っている。

 

 帝国の女性貴族序列の上位にある彼女は、穏やかな外見の裏に、すさまじいまでの自尊心を秘めていた。滅多と表に出すことのないその気位の高さは皇后の域と言ってもよい。

 

「……それにしても」

 

 ルーカスは自分でも少々冷静でなかったと思ったのか、ブランデーを一口飲んでから話題を変えた。

 

「小公爵様の対番(ついばん)……オヅマだったか? 随分と気に入られているようだな。そうだ、思い出した。お前、知ってるか?」

「何を?」

「小公爵様が、そのオヅマとやらに盟誓(めいせい)を刻んだことさ」

「は?」

 

 ヴァルナルは寝耳に水だった。

 ルーカスはヴァルナルの驚いた様子にしたり顔になる。

 

「なんだ? 知らなかったのか? 騎士達の間じゃ、けっこう話題になってたって話だがな」

「知らん…」

 

 呆然とヴァルナルがつぶやくと、ルーカスはクックッと喉で笑う。

 

「ま、小公爵様ご本人はおまじないとしてやっていたみたいだからな。カールもその程度のものだと思って、お前にわざわざ言わなかったんだろう。しかし略式ではあるが、やっていたことは間違いないみたいだぞ」

「なんで(けい)が知っているんだ…」

「弟には嫌われてるが、俺を慕う元部下は多いんでね」

 

 レーゲンブルト騎士団には、かつて公爵家直属騎士団にいた者もいる。彼らにとっては、ルーカスはかつての上司にあたる。

 端正な容貌に似合わず、ルーカスは気さくで、下町の酒場にも平気で出入りし、居合わせた部下達に奢ったりするような豪放な性格であった。そのため、ヴァルナルとは違った意味で、騎士達には人気だった。

 

「その小僧、お前の惚れてる女の息子なんだろ?」

 

 急に言われて、ヴァルナルは飲みかけていたブランデーを喉に詰まらせた。

 ルーカスはニヤニヤ笑いながら、水差しの水をコップに注いでやる。

 

「っとに…今更、女を知らないガキでもあるまいに、何を顔を赤くしてんだかな。その分じゃ、さほど進んでもいなさそうだが……お前、とっととその女と結婚しろよ」

「なんでそんな話になるんだ?」

 

 ヴァルナルは水を飲んでようやく落ち着くと、ルーカスに抗議する。「関係ないだろ、今!」

 

「大いにあるね」

 

 ルーカスは含み笑いをしつつも、その目は真剣だった。

 

「お前がその女と結婚すれば、そのガキはお前の息子になる。公爵家配下の家門の子弟が、小公爵様の近侍(きんじ)になるのは、昔からの慣習だ。閣下はお前の息子が体が弱いから諦めていただろうが、その…オヅマと言ったか、そいつであれば任につくことは可能だろう?」

「………」

 

 ヴァルナルはまじまじとルーカスを見つめた。

 真剣な顔で平然と冗談を言うような男ではあるが、この事に関してはふざけて言っているわけでもなさそうだ。

 

 黙ったままのヴァルナルに、ルーカスは重ねて言った。

 

「まして小公爵様ご本人がお望みとあれば、騎士見習いの身分であっても、側仕えは可能だ。お前に断ることができるか? 公爵家での小公爵様の不遇を思えばこそ、ここに連れて来たのだろう?」

「それは…そうだが…」

「小公爵様も今年で十歳になられた。そろそろ近侍をつける年頃ではあるのだからな。俺はまだ聞いてないが、ルンビックの爺さんあたりは選別を始めているだろうよ」

 

 近侍は、少年である小公爵の世話係であると同時に、作為的に作られた友人でもある。大貴族の子息であるほどに、その友人関係は将来的に重要となるので、いわゆる幼馴染も選ばなければならない。

 

 ルーカスは戸惑いを浮かべるヴァルナルに詰め寄った。

 

「いいか、ヴァルナル。()()()()()()()()()()()()()()()。小公爵様には、身近で親身になってやれる存在が必要なんだ。その為にはまず、小公爵様ご自身が望まれる者であることが理想だろう?」

「しかし……オヅマは、ただの騎士見習いで…」

「だからこそ!」

 

 ルーカスは察しの悪い友に苛立った。

 

「ただの騎士見習いとして公爵家に入るよりは、()()ヴァルナル・クランツ男爵の『息子』として行く方が、奴の為にもなるってことさ。箔もつくし、背後にレーゲンブルトの騎士団がいるとなれば、そう簡単に挑発してくる馬鹿もいないだろう」

 

 ルーカスの言うことがいちいち(もっと)もで一理あるだけに、ヴァルナルは困り果てた。

 なにしろミーナには一度はっきり断られているし、当のオヅマ本人からは父親はいらぬ、とキッパリ一線を引かれている。

 

 ルーカスは気弱にうつむく友の顔に、呆れた溜息をつきながら立ち上がった。

 

「ま、考えておけ。そう遠くもない未来だ」

 




この度は水曜の更新が遅れましてすみませんでした。
次回は2022.08.27.土曜日に更新予定です。


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第七十四話 今はお別れ

 アドリアンは顔を上げて、しばらくオヅマの寝顔を見つめていた。

 

 きっと今の自分はひどい顔をしているだろう。

 オヅマが元気であれば、なんと形容するだろうか? 塩漬けキュウリ? 湿()けたクッキー?

 本当に、いつもひどくて、意味のわからない誹謗だ…。

 

 

 ――――はぁ? ヒボー? 言っとくけどな、これはただの悪口。怒るんだったら、もうちょっと気の利いた返ししてこいっての。

 

 

 前にオヅマに言われたことを思い出して、アドリアンは少し笑った。

 

「君、後で調べたけど『誹謗』も『悪口』も同じ意味じゃないか……」

 

 返事をせぬオヅマに向かって話しかける。

 考えてみれば、悪口を言った当人が悪口だと堂々と認めた上で、逆に気の利いた返答を求めるなど、何とも尊大極まりない。

 しかし、アドリアンは今、その『悪口』が聞きたかった。その上で今度はこう言ってやりたい。

 

「よくも次から次に考えつくものだね。あと三つほど悪口とやらを述べてみたらどうだ? いい悪口だったら、僕の分のピーカンパイを差し上げるよ」

 

 考えてから、アドリアンは首を振る。

 どうもあんまり気の利いた返しじゃない。

 

 静まり返った部屋で、アドリアンは昏々と眠り続けるオヅマを見ていた。

 明日の今頃にはもうオヅマのそばにはいられない。

 

「……ねぇ、起きてよ。もう、体は大丈夫だってビョルネ先生だって言ってたじゃないか。もうあれから十日以上経ったんだ。起きて、せめて見送ってくれよ…」

 

 言っているうちにアドリアンはボロボロと涙を流した。

 こんな形でオヅマと別れねばならないのかと思うと、どうしても悲しくて仕方がない。

 

 再び突っ伏して、うっうっ、と(むせ)び泣いていると、不意に呼ばれた。

 

「………アドル…?」

 

 アドリアンはヒクッと喉を引き攣らせてから、顔を上げた。

 オヅマの目がうっすらと開いていた。

 

「オヅマ!」

 

 大声で呼びかけると、オヅマはぼんやりしつつも顔を顰めた。

 

「……ぅるせぇ」

「ご、ごめ…」

 

 謝ろうとすると、まだ引っ込みのつかない涙のせいでヒクッと喉が鳴る。

 

 オヅマはボゥっと天井を見つめたまま尋ねてきた。

 

「お前、泣いてんの?」

「…………悪いか」

 

 アドリアンがきまり悪くなって小さく言うと、オヅマはフッと笑った。

 

「いいや。やっと…」

「え?」

「お前さぁ…いつも……しかめっ面して誤魔化して…っけど、ずっと泣きそうだったろ? ……だからシケたクッキーなんだよ」

「………」

 

 アドリアンは返事ができなかった。

 いつもわからない悪口だと思っていたが、そんな意味があるとは思わなかった。

 

 公爵家の跡継ぎとして、感情を表に出してはいけない、と言われ続けてきた。だからその通りにした。その通りにすることが当たり前で、理由なんて考えなかったし、その方がラクだった。

 少しでも疑問を持てば、惨めに傷ついた自分に気付かされる。悲しくて泣きたくなる自分が溢れそうになる。

 だから、押し籠めた。誰にも、自分にすらも見えない心の奥底に。

 

「……諦めんな」

 

 オヅマは掠れた声だったが、強く、怒ったように言った。

 

「悟った顔して…諦めんな。もっと…足掻(あが)けよ。俺は……抗う。もう…諦めない……絶対に…もう…二度と……」

 

 まるで自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、オヅマの瞼は再び閉じた。

 アドリアンはちょっと怖くなって、オヅマの胸にそっと手をやった。ゆっくりと上下する心臓の鼓動を確かめて、ホゥと息をつく。

 

「ありがとう、オヅマ」

 

 アドリアンは立ち上がると、礼を言った。

 

 ただの偶然かもしれない。

 それでもアドリアンはオヅマが自分の声に応えてくれたのだと信じた。

 

 

 

 

 

 

 オリヴェルは真夜中に密かにやって来たアドリアンに目を丸くした。

 

「どうしたの?」

「起きてたのか。ちょっと顔だけ見ようと思ってたのに」

 

 アドリアンは深夜にもかかわらず起きていたオリヴェルに少し驚いたようだった。

 ミーナはヴァルナルからの再三の指示もあって、自室で休んでいる。次の間では侍女のナンヌが仮眠をとっていた。

 

「ビョルネ先生に診察してもらってから目が冴えちゃって」

「そうか。体はもう大丈夫?」

「うん。ちょっとだけ熱があるからって、薬をもらった。マリーは寝てたから、明日見てもらうんだ」

「……オヅマも診てもらったけど、とりあえず大丈夫みたいだ。今は寝て回復させてるんだって」

「そっか。良かった」

 

 オリヴェルはホッとしてから、アドリアンの顔をじっと見つめた。

 

「なに?」

「………帰るの? アールリンデンに」

 

 その質問で、アドリアンはオリヴェルが自分の正体に気付いていることを知った。

 オリヴェルは黙り込んだアドリアンに「やっぱりそうか」と、少し笑みを浮かべる。

 

「いつから…?」

 

 アドリアンがかすれた声で尋ねると、オリヴェルは首をかしげた。

 

「さぁ? いつからだったか…色々あり過ぎて忘れちゃったよ。あぁ、でも、最終的にはあの時のことを思い出したんだ。君があの地下の部屋に入ってきた時さ。仮面を被った男が言ったろ?『アドリアン・グレヴィリウスを連れて来てやったぞ』って。あの時は恐ろしくてそれどころじゃなかったけど、ゆっくり思い出してみたら、やっぱりそうなのか…って」

「すまない。騙すつもりとかじゃなくて…」

 

 アドリアンが謝ろうとするのを、オリヴェルはあわてて止めた。

 

「違うよ! 別に怒ってないよ。理由もないのに、アドルが僕らに嘘をつくはずないって、わかってる」

 

 それに…と、オリヴェルはまたアドリアンの顔を見つめる。

 普段の貴公子然としたアドリアンからは想像できないほどに、泣いたあとが、腫れぼったい目にも、紅潮した頬にも残っていた。

 

 オリヴェルは安心させるように、ニコリと笑った。

 それに……そんなことは大したことじゃない。

 

「もう、帰るの?」

 

 オリヴェルはもう一度尋ねた。

 コクリと頷いたアドリアンに、唇を噛み締める。

 

「いつ?」

「明日の朝……黒五ツ(どき)(*午前五時前後)には出るらしい」

「そんなに早く!? 公爵家の使者は今日着いたばかりだろう!?」

 

 オリヴェルは思った以上の性急さに、思わず大声を上げたが、マリーがうーんと唸って寝返りをうったので、あわてて声をひそめた。

 

「なんだって、そんなに急ぐのさ。せめて金の三ツ(どき)(*午前七~八時頃)くらいだったら、マリーだって見送りできたのに」

 

 アドリアンは苦い笑みを浮かべて言った。

 

「これ以上、不甲斐ない息子を男爵に預けておくのが申し訳なくなったんじゃないかな。実際、迷惑ばかりかけたしね」

 

 オリヴェルはアドリアンの寂しげな顔を見て、胸がしめつけられた。

 

 どうしてグレヴィリウス公爵家のただ唯一の後継者である彼が、この帝国において皇子と同じくらい恵まれた環境にいる人が、こんなに悲しい顔をしなければならないのだろう。

 

 そう考えたときに、オリヴェルは自身を振り返った。

 

 自分もまた周囲からの圧力に耐えられず、息することも苦しくなっていたではないか。そうしてたまらなくて泣き叫んでいた。

 オヅマとマリーが来てくれなかったら、自分はずっと悲しい存在のまま、死んでいくだけの子供だった。

 

「アドル…また、来てよ」

 

 オリヴェルが言うと、アドリアンはやっぱり悲しそうに笑って頷かなかった。

 オリヴェルはアドリアンの片腕を掴んで、繰り返した。

 

「来てよ。来なきゃ駄目だよ」

「……どうして?」

 

 オリヴェルの必死な目に、アドリアンは聞き返した。

 

 自分だって本当はもう一度、ここに戻ってきたいとは思ってる。

 だが、こんな事件が起きてしまったのは自分の()()なのだ。そう簡単に父が許すはずがない。

 

 オリヴェルはキッと強い目でアドリアンを見つめた。

 

「僕は…言わないよ」

「え?」

「君が小公爵様であるとしても、ここではただのアドルだ。マリーもオヅマも君の正体を知らない。僕から彼らには言わない。君自身の口から、オヅマにもマリーにも告げるべきだと思う。いずれ…そうしてくれるよね?」

 

 オリヴェルの真摯な眼差しに、アドリアンはまた泣きそうになった。

 あんなに最初は自分を嫌っていたオリヴェルが、また来てくれと懇願するなんて。

 

「そうだね…二人には僕から言わないと……」

 

 アドリアンが頷くと、オリヴェルはまたにっこりと笑みを浮かべた。

 アドリアンの手をギュッと握る。

 

「また、会おう」

「あぁ……必ず」

 

 そうしてアドリアンはオリヴェルとの別れを済ませたのだが、明朝になっていざ出ようとしたときに、領主館から飛び出してきた小さな人影に再び驚くことになった。

 




次回は2022.08.28.に更新予定です。


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第七十五話 父の与えた罰

 オリヴェルはまだ夜も明けないうちから、遠くから聞こえる馬の(いなな)きで目が覚めた。おそらくアドリアンが明朝に出ることをわかっていたから、眠りも浅かったのだろう。

 

 昨晩、アドリアンとまた会うことを約束して別れたものの、オリヴェルにはどうしても気にかかることが一つだけあった。

 マリーだ。

 朝…日が昇って起きたマリーに、アドリアンが帰ったことを伝えたら、きっと驚くだろう。そして、きっとひどく悲しむに違いない。

 

 オリヴェルにはマリーが翠玉(エメラルド)のようなあの緑の瞳から大粒の涙をこぼす姿が想像できた。

 

 チラ、とヴァルナルが帝都で買ってきてくれた小さな振り子時計を見る。黒の四ツ(どき)を半分ほど過ぎている。起こすなら今起こさないと、間に合わない。

 

 オリヴェルは決心すると、マリーに呼びかけた。

 

「マリー、マリー。起きて。起きて、マリー。アドルが帰っちゃうんだよ、マリー!」

 

 マリーは元々早起きであったので、さほどにくずることもなく目を覚ました。ぼんやりと、まだ夢見心地のマリーに、オリヴェルは少し強い口調で繰り返した。

 

「マリー、アドルが帰っちゃうんだ!」

 

 マリーは急にハッと瞳を大きく開いた。

 信じられないようにオリヴェルを見つめる。

 

「アドル、朝早くに…今、もうすぐここから出発しちゃうんだ。お別れに行くなら……」

 

 オリヴェルが話している途中で、マリーはベッドから降りて駆け出した。

 寝間着のまま、靴も履かずに。

 

 

 ――――嫌だ!

 

 

 マリーは走りながら、心の中で叫んだ。

 涙がこみ上げてくるたびに、ゴクンと唾を飲み込む。

 

 

 ――――嫌だ! 嫌だ! どうして? どうしてこんなに急なの? どうして今なの? 

 

 

 疑問があふれる。

 言いたいことはいっぱいあった。

 せっかく覚えた祭りの踊りのことだって、春になったら川べりのれんげ草を摘みに行くことだって、勧めてもらった少し難しい本を、今、一生懸命読んでることだって。

 

 玄関ホールが見える場所まで来ると、ちらほらと大人が集まっているのが見えた。

 まだ夜明け前で、ほとんどの使用人は寝ている時間だ。

 薄暗い中、ランタンを持ったネストリの姿を見つけて、マリーの足が竦んだ。いつもは怒鳴りつけるように命令するのに、今は静かにコソコソとなにやら指図している。

 

 やがてコツコツと固い足音が聞こえてきて、マントを羽織った大柄な金髪の男が玄関の扉へ向かって歩いて行く。その後に付き従うように、黒髪の少年が歩いて行くのを見て、マリーはあわてて走り出した。

 階段を駆け下りながら、心の中で何度もアドリアンの名を叫ぶ。

 

「お気をつけて」

 

 扉の前にはミーナが立っていた。優しい笑顔を浮かべて、アドリアンを送り出す。

 

「ありがとう」

 

 アドリアンの声が聞こえる。

 

 マリーはようやく玄関ホールまで降りてくると、一旦、苦しくて立ち止まった。ハァハァと激しく肩が上下する。スゥと息を吸い込むと、また走り出した。

 

「おゥッ!」

 

 ネストリは脇をすり抜けていった小さな突風に、思わず声を上げた。

 

「あっ…待て」

 

 あわてて手を伸ばしたが、なるべく他の使用人に気づかれないよう静かに送り出すこと…と、ヴァルナルに厳命されているので、大声で怒鳴ることもできない。

 

 ミーナは自分の前を走っていった小さな影を、一瞬驚いたように見送ってから、飛び出していったのがマリーとわかると、あわてて後を追いかけた。

 

「マリー!」

 

 ミーナが叫ぶと、馬車の前でヴァルナルに挨拶していたアドリアンが気付く。

 

 マリーは心の奥底から必死に叫んだ。

 

「アドル!」

 

 泣きながら自分の胸に飛び込んできたマリーに、アドリアンは心底驚いた。

 同時に、ホッと笑みが浮かぶ。

 

「良かった。声が…戻ったんだね」

 

 しかし、せっかく戻ってきたマリーの声は、泣きじゃくってまともに発することもできなかった。

 アドリアンはマリーが寝間着姿で寒そうだったので、すぐに自分の外套(コート)を掛けてやった。

 

「嫌だ! どうして帰っちゃうの!?」

 

 マリーはどうにか嗚咽(おえつ)を飲み込むと、泣きながらアドルに訴えた。

 

「お兄ちゃんだって、まだ治ってないのに! お祭りの踊りだって踊ってないよ! 約束したじゃない!」

 

 小さな女の子が、しゃくり上げながら真っ赤な顔で小公爵に怒鳴りつける様子を見て、ルーカスはニヤニヤと笑っていた。

 ヴァルナルは突然過ぎて驚くばかり。

 ミーナがマリーの肩に手をかけて、やさしく諭した。

 

「マリー。アドルはおうちに戻ることになったの。だから、ちゃんとお別れを言いましょう」

 

 言いながらマリーをアドリアンから引き剥がそうとしたのだが、マリーは「()ッ!」と叫ぶと、ますますアドリアンの腰にしがみついた。

 

「まったく…なんと無礼な」

 

 ウルマスが眉間に皺を寄せてつぶやくのを聞くと、アドリアンは黙るように目で制してから、マリーにやさしく言った。

 

「ごめんね、マリー。急に決まって、驚いたよね。踊りもせっかく教えてくれたのに、踊れなくなってごめんね。オヅマのことも……ごめん」

 

 アドリアンの声は震えていた。

 そっと自分の背中をさするアドリアンの手に、マリーは落ち着いてくると、手を緩めた。

 少しだけ離れて、じっと涙に濡れた目でアドリアンの(とび)色の瞳を見上げる。

 

 アドリアンに会ったばかりのころ、この鳶色の目が少しだけ怖かったのをふと思い出した。

 悲しくて、辛い気持ちを押し殺した、硝子のような瞳。

 日が経つにつれ、その瞳はやさしい光をともすようになった。

 今ではマリーはこの鳶色の瞳が大好きだった。

 

「マリー」

 

 アドリアンはマリーと目線を合わせるように立膝になると、そっとマリーの濡れた頬に手をあて涙を拭った。 

 

「ありがとう。友達になってくれて」

 

 マリーはコクンと頷くと、また涙がボロボロこぼれた。

 アドリアンはやっぱり行ってしまうのだと、マリーにだってわかっていた。だからもう何も言えなかった。

 

 アドリアンは喉奥からこみ上げてくるものを押さえて唇をブルブル震わせたが、それでも懸命にマリーの前で笑顔を浮かべた。

 

「きっと…………また、来るよ」

「本当!?」

「うん。必ず、来る。その時には皆で祭りで踊ろう。今度こそ」

「絶対よ! 絶対に約束よ!! アドル!」

 

 マリーは大声で叫んでアドリアンに抱きついた。

 

 返事の代わりにアドリアンはマリーを抱きしめて、そのまま持ち上げる。今になって気付いたが、マリーは裸足だった。

 

「ヴァルナル」

 

 呼びかけると、ヴァルナルがすぐに腕をのばしてアドリアンからマリーを引き取った。

 

「世話になった。でも、また必ず来る。今、約束したからね。マリーと…オリヴェルとも」

「……お待ちしております」

 

 ヴァルナルは何も言わなかった。

 今回のことがあって、またここに来るのは簡単なことではない。だが、アドリアンがそう決意するのであれば、自分も出来得る限りのことはしよう…。

 

 アドリアンは馬車に乗ると、窓越しに手を振った。

 ヴァルナルに抱きかかえられたマリーが、両手で手を振っていた。

 

 馭者が声をかけて馬が走り出す。

 まだ夜明けの前の暗い道を、ゴトゴトと進んでいく馬車にマリーはいつまでも手を振っていた。

 

 ずっと振っていれば、早くにアドリアンがまた戻って来るような気がして。

 

 

 

 

 

 

 馬車の中でアドリアンはまた無表情に戻って、暗い窓の外を見るともなしに見ていた。

 

 領府を抜け、街道を走り出すと、徐々に夜が明ける。

 アドリアンの脳裡に、初めての朝駆けのときのことが浮かんだ。

 

 金の曙光が地平線を貫くように光って、やがてドロドロと滴り落ちそうな赤の太陽が空へと昇っていく。

 東の空にたなびく雲は紫や橙に光り、西の空には輝きを失っていく三日月が、しずかに地平に沈んでいく。

 

 

 ――――なかなかやるじゃねぇか。

 

 

 ニヤリと笑ったオヅマの顔が懐かしい。

 もう、懐かしいものになっていることに、アドルは途端に胸が苦しくなった。

 

 血がにじむほどに唇を噛み締めて泣くのをこらえていると、昨夜のオヅマの声が聞こえてくる。

 

 

 ――――ずっと泣きそうだったろ?

 

 

「うっ…」

 

 アドリアンは耐えきれず、嗚咽(おえつ)した。

 目の前に座っているウルマスがギョッとして、声をかけてくる。

 

「ど、どうなさいました?」

「………」

 

 アドリアンは両手で顔を覆うと、もはや悲しみを押し殺すこともなく、声をあげて泣いた。今はひたすら泣きたかった。

 

 たった数ヶ月。

 なのに長く暮らしてきたアールリンデンにいた頃よりも、思い出は深くアドリアンに刻まれていた。

 

 

 ――――この子は、しばらくお前の対番(ついばん)になる

 ――――えっ?

 

 

 互いに嫌悪感しかなかった初対面。

 

 

 ――――だからぁ、返事っ

 

 

 理不尽なくらいに横柄で、尊大な対番。

 絶対に仲良くなるなんて、有り得ない。

 

 

 ――――おはよう。今日はお天気だって

 

 

 傍若無人な兄とは対照的な、笑顔のかわいい、エメラルド色の瞳の少女。

 慣れない生活の中で、唯一彼女だけが最初からずっと変わらず、やさしかった。

 

 

 ――――オリヴェル・クランツ。銀鶲(ギンオウ)の年生まれだ

 

 

 なぜか初対面で好戦的だった、尊敬する騎士の息子。

 仲良くなれるかもと想像していたのに、思っていたよりも子供っぽくてがっかりした。

 それでも彼の描く絵の見事さを褒め称えると、顔を真っ赤にして小さく礼を言った。

 

 

 ――――あ…あり…がとう

 

 

 そういえば、その時にマリーに言われたことが意外だった。

 

 

 ――――アドルは素直で物知りだから…

 

 

 今までに『素直』な子供だと言われたことは、一度もなかった。むしろ周囲の人間が言うように、妙に老成したつまらない部類の子供だと自覚していたし、そうあろうとしてきた。

 でも嬉しかった。

 後で何度も思い出しては噛みしめた。彼らの前でだけは、自分は子供でいいのだと、許された気がした。

 

 優しい妹と違って、天邪鬼な兄の方はいつも人を怒らせるようなことばかり言ってきた。

 

 

 ――――お前に出来ないことがあったって、別に問題ないから~

 

 

 思い出してもムカっ腹がたつ。あの言い方。完全に馬鹿にしている。

 幼い頃から完璧であることを求められて、いつも応えてきた。大人しく降参することなどできなかった。

 そうやってムキになって対抗する自分が新鮮だった。

 

 けれど、いつも憎まれ口を叩いていた彼の痛々しい姿に、言葉を失った。

 

 

 ――――見え…ない…

 

 

 その声は、普段の傲岸不遜な彼からは想像できないほどに弱々しかった。

 蝋のような白い顔で、それでも彼が言ったのは一言。

 

 

 ――――たすけたかった…  

 

 

 ただひたすらに、守るもののために戦ったオヅマ。

 

 

 ――――君は、僕たちを助けたんだよ、アドル

 

 

 自分を責めるばかりのアドリアンを勇気づけてくれたオリヴェル。

 

 

 ――――『ありがとう、アドル』

 

 

 声を失うほどの恐怖を味わいながら、それでも笑って励ましてくれたマリー。

 

「……うぅ…うぅッ…!」

 

 アドリアンは涙を堪えなかった。

 つらいことを乗り越えるために、今はひたすら悲しみたい。自分を憐れみたいのだ。

 

 ポカンと見ていたウルマスは、ゴホンと咳払いすると鹿爪らしい顔で注意する。

 

「小公爵様、そのようにみっともなく泣くものではございません。公爵閣下が見れば情けなく―――」

「うるさい! 黙っていろ!!」

 

 アドリアンが一喝すると、ウルマスは言葉を詰まらせウヒっ! と妙な音を出した。

 それからはなるべく小さくなって沈黙する。

 

 ガタゴトと音をたてながら、馬車は朝焼けの空の下を進んでいた。

 

 アドリアンは洟をすすると、窓の外へと目をやった。

 

 だんだんと温かさを帯びてきた早春の光が、まだ種蒔き前の雪の残る畑に燦々と降り注いでいる。

 雲雀(ひばり)が時折、鋭く鳴いて飛んでゆく。その先には、遠く藍色に霞むグァルデリ山脈が美しく聳え立っていた。

 

 流れゆく朝の景色が美しいほどに、涙がこぼれる。

 アドリアンはさめざめと泣きながら思った。

 

 父は確かに()を与えたのだと。

 それも、とてつもなくつらい罰を。

 

 彼らに別れを告げなければならないことが、心が引き千切られるみたいに痛む。

 こんなに苦しい気持ちになるなら、いっそ鞭打ちでもされた方がマシだ。

 

 だが―――――

 

 もしオヅマ達に会えないままに、公爵邸で過ごしていたら…?

 

 アドリアンはゾッとした。

 あのまま泣くこともなく、つらい気持ちを押し殺して生きていくなんて、今ではもう考えられなかった。

 

 

 ―――――諦めんな。もっと…足掻(あが)けよ……

 

 

 血の気の失せた顔で、それでもオヅマはアドリアンを励ます。

 

 

 ―――――俺は…抗う。

 

 

「…う…クッ…!」

 

 アドリアンはまた喉を這い昇ってきた嗚咽を飲み込んだ。

 

 きっと、また来る。

 約束したのだ。

 

 誰であっても約束は破ってはならないが、彼らを裏切ることは絶対にできない。

 だから、また戻ってくる。必ず、会いに行く。

 そのためには、父とも向き合う。

 

 ギリ、と奥歯を噛み締めてアドリアンは顔を上げた。

 

 決然とした(とび)色の瞳は、いつもの諦めと無関心の鎧を捨て去っていた。

 




次回は2022.08.31.更新予定です。


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第六章
第七十六話 慈悲深き死神


 湖畔の都とも呼ばれる帝都・キエル=ヤーヴェは縦横に運河がはしっている。だから水死体が上がるのは珍しくなかった。まして貴族の住まうような上層地区でなく、下層の掘っ立て小屋の並ぶ貧民街であれば、酔漢や、ならず者同士が喧嘩で水路に落ちて命を失うのは日常茶飯事であった。

 

 その日、ガシャナ地区の水路で見つかった死体は、正確には水死体ではなかった。彼の背中には大きく深い傷跡があったからだ。しかも両足首と腰には藻の絡んだ紐が巻かれていた。

 途中で紐は千切れていたが、おそらくその先には死体を沈めるための重石がつけてあったのだろう。日が経って、紐についた藻を魚が食っているうちに、紐が千切れて死体が浮かんだのだ。

 

 一応検分にあたった警邏(けいら)隊の庶衛士(しょえいじ)(*公的認可のある民間警察官)によってそうした推測は行われたが、だからといって彼らが死体の男を殺した犯人を見つけることはなかった。

 よくある荒くれ者同士による喧嘩の末のことであろうと、特に捜査が行われることはなかったのだ。

 それも珍しくない日常の光景だった。

 

 ガヤガヤと騒がしい群衆に紛れて、エラルドジェイはその死体を見ていた。

 ゴツっと、そそっかしい警邏隊の新米庶衛士が死体の頭を蹴ると、上を向いていた男の顔がこちらを向いた。

 エラルドジェイは口の中でその名を呼んだ。

 

 ……ニーロ。

 

 自分の師匠であり、養父(ちち)でもあった男。

 

 

 ――――もう俺の人生の折り返し地点はとうに過ぎてんだ。勝負に出るなら、今かもしれん……

 

 

 勝負に負けた彼の顔は白く、ぶよついて往時の面影はなかった。

 

 エラルドジェイはその場を立ち去った。

 

 どうやら見通しは甘かったらしい。なぜ自分達が目をつけられたのかはわからないが、黒幕はダニエルだけで済ます気はないようだ……。

 

 慎重に身を隠しながら、エラルドジェイは数日の間、ニーロを殺した犯人について探った。

 それは案外とすぐに割れた。

 

「あんたが裏切ったとはな、アウェンス」

 

 ニーロの作った弱小闇ギルドの受付係兼構成員でもあったアウェンスと、その妻のグリエは、エラルドジェイが自分達の新居に現れた途端、真っ青になった。

 

 肉屋が閉店していた段階で、エラルドジェイはアウェンス一家ごと消されたのかと思って心配していたのだが、何のことはない。中身を開ければ、アウェンスは今回のダニエルの前金三十(ゼラ)目当てにニーロを襲ったのだった。

 

 小さなギルドで、構成員などエラルドジェイの他にはアウェンスとその妻ぐらいなものだったから、上下関係などあってないようなものだった。

 だからニーロもアウェンス達を警戒していなかったのだろう。

 さもなければ、背後からあんなにグッサリときれいに刺されることなど有り得ない。いっても、ニーロはエラルドジェイにこの稼業のイロハを教えてくれた達人なのだから。

 

「ジェイ…」

 

 アウェンスがかすれた声で呼びかける。

 

 ニーロ同様に家族同然の付き合いをしつつも、エラルドジェイは彼らに秘名(ハーメイ)を教えることはしていなかった。

 なぜだかはわからないが、教える気になれなかった。

 今となれば、自分の感覚は合っていたようだ。

 

「……勘弁しとくれ、ジェイ!」

 

 普段無口なアウェンスの妻・グリエが叫んだ。

 

「息子の薬が()ったんだよ!」

 

 エラルドジェイは眉を上げる。

 

「マルコがどうしたって?」

 

 アウェンスとグリエの間には子供が二人いた。

 子供達は二人とも、両親が裏でどういう仕事をしているのかは知らない。

 ニーロとエラルドジェイのことも、家の二階を間借りしている居候としか思っていなかった。

 

 マルコは今年で九歳になるが、エラルドジェイが知り合った頃には既に病気の身の上だった。

 アウェンス達はその病気について詳しいことを教えなかったが、よほどの重病であろうことは、マルコがずっとベッドで過ごし、家から一度も出たことがないことを考えれば、おおよそ理解できた。

 

 だからこそエラルドジェイもニーロも、自分達の報酬からいくらか家族に援助していたのだが―――――…

 

「紫蝶病なんだよ…」

 

 力なくグリエは言った。「もう、足は動かない…」

 

 紫蝶病は、下半身から紫斑が増えていき、徐々に神経が麻痺して、最終的には全身に紫斑が広がって心臓の麻痺が起きて死に至る病気だ。

 初期の両足裏に現れる蝶のような形の紫斑の段階で治療を開始すれば全治も可能であるが、庶民にはその薬も、治療するために医者に通うことも難しい。

 一度、罹患すればただただ死を待つしかない。

 

 しかもこの病は伝染病ではないのだが、その見た目の醜悪さから忌み嫌われ、罹患した者が虐待を受け、捨てられたり殺されることも珍しくなかった。だから、アウェンス達は隠していたのだろう。いくら家族ぐるみで仲良くしていても、こうした病を嫌悪して豹変する人間は少なくない。

 

 しかしエラルドジェイの表情は動かなかった。

 

「なんで素直にニーロに言わなかった?」

「言ったさ! 言って、助けてほしいと頼んだんだ!! でも、アイツは『待て、待て』って……ちっとも助けてくれなかった」

 

 アウェンスはウロウロと目を泳がせながら、それでもエラルドジェイの方を見ようとせずに必死に抗弁する。

 

 エラルドジェイは眉を寄せた。

 ギリ、と奥歯を噛む。

 

 馬鹿野郎め…そんなところで、サプライズでもしようと企んだのか? もう少しで百七十(ゼラ)が入るから…そうすれば、一気に驚かせて、嬉しがらせてやれると思ったのか…?

 

()()()()が、治る薬をくれるって言ったんだ!」

「でも、先月までに金を持って行かないと駄目で…仕方なかったんだよ!」

 

 必死になって弁解するアウェンス達に、エラルドジェイはクスリと口の端を歪めた。

 

()()()()? なんだ、その怪しい集団は」

「怪しいことなんてない! ()()()()は私ら弱い者達に手を差し伸べてくださる慈悲深い方々で…」

「慈悲深い神様は生贄としてニーロを要求したのか?」

 

 エラルドジェイが皮肉を言うと、アウェンスは黙り込んだ。

 おそらくエラルドジェイまでの間合いを測っているのだろう。そっと、左腕を背後に挿した短剣に伸ばしている。

 

「アウェンス。俺らの商売にとって一番重要なものは?」

 

 エラルドジェイが尋ねると、アウェンスは視線をさまよわせた。

 

「……技…か?」

「違う。信用だ」

 

 エラルドジェイは言い切ると同時に、一歩前に出て右手を払う。

 瞬時に現れた四本爪は正確にアウェンスの喉笛を掻き斬った。隣で驚いたグリエが悲鳴を上げる前に、横に払って同じように喉を裂く。

 凄まじい勢いで血が噴き出して、家族の団欒部屋は真っ赤に染まった。

 

「裏切者を許しておくようじゃ、闇ギルドの信用にかかわる。たとえ構成員が一人でもな」

 

 グリエとアウェンス二人の血飛沫を浴びながら、エラルドジェイは無表情に言った。

 

 ふと見れば、アウェンスの短剣が血溜まりに落ちていた。短剣にしては分厚く長い刀身は、さすが肉屋とも言うべき重量感だった。これで背中を一突きされれば即死だったろう。

 

 エラルドジェイはその短剣を手に取った。

 

「母さん? 父さん? どうしたの?」

 

 マルコが奥の部屋から呼ぶのが聞こえた。

 エラルドジェイは爪鎌(ダ・ルソー)を袖の中にしまうと、冷たい顔のまま、声のする方へと歩いていく。

 

 昼間でも光が差さないように、マルコの部屋には分厚いカーテンが引かれたままだった。この病気は日光で痛みを生じるらしい。昔、奴隷であった頃の仲間が同じ病気になっているのを見ていたから、エラルドジェイは知っていた。

 

「母さん? ………誰?」

 

 マルコは扉を開けて入ってきた血塗れのエラルドジェイを見ても、無反応だった。

 

「俺だよ、マルコ。わかるか?」

 

 エラルドジェイが声をかけると、マルコの顔がほころんだ。

 

「ジェイ! 久しぶりだね!!」

「あぁ…元気……でもないか」

 

 エラルドジェイがマルコの頭を撫でると、マルコは少し驚いたように目を瞬かせた後に笑った。

 

「ごめんね。もう目が見えないんだ。もしかしたら…気味の悪い顔になってるかもしれない」

「そんなことはねぇよ。相変わらず丸猫みたいな顔だ」 

 

 エラルドジェイは言ったが、確かにマルコの頬や首に紫斑が出ていた。

 

 失明し、顔にまで紫斑が出ている。もはやマルコの命は風前の灯だ。ここまできて、一体、どんな治療を施せば治るというのか…?

 その()()()()とやらに何を吹き込まれて、アウェンス達は間違ったのだろう。

 

「なぁ、マルコ。早く治りたいか?」

 

 エラルドジェイが尋ねると、マルコは一瞬、寂しそうに目を伏せてからコクンと頷いた。

 

「そうか…」

 

 エラルドジェイはもう一度、マルコの頭を撫でた。

 同時に、アウェンスの短剣で心臓を一突きする。

 マルコは呻くことすらなく、事切れた。

 

「………さっさと死んで、さっさと生まれ変わってこい」

 

 短剣を抜いて、マルコの見開いたままの瞼を閉じる。

 

 ゆっくりとベッドに寝かしつけると、「帰ったわよぉ」と帰宅を告げる声が聞こえた。

 どうやら娘が帰ってきたらしい。

 

 本当は今すぐに窓から逃げた方がいいのがわかっていたのに、エラルドジェイは途端に体が重くなった。

 動くこともなく佇んでいると、父母の死体を見て腰を抜かした娘のカトリが四つん這いになりつつ、必死で歩いて扉に縋りつきながら入ってくる。

 

「ジェイ……」

 

 カトリはエラルドジェイを見てつぶやいた。

 

「どうして……?」

 

 




引き続き更新します。


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第七十七話 少女の恋、悪魔の誠実

 カトリは今年で十五才になる少女だ。

 両親と弟との四人家族。

 

 どこにでもある家庭だと思っていたが、父親が見つけてきてくれた商家で召使いとして働き始めると、両親がちょっと変わった仕事をしているのではないか…と少しずつ疑うようになった。

 

 それは両親だけでなく、二階に住む居候の男達にも感じた。

 

 けれどカトリは慎重だったので、自分の持った疑問を簡単に誰かに打ち明けることもなかった。まして、その内の一人はカトリにとって、とても大事に思う人であったから、彼との関係性が壊れることの方がカトリには怖かった。

 

 その人はまだ冬の厳しい日に、突然姿を消した。

 これまでにも何度かいなくなることはあったが、今回は長かった。

 

 カトリが我慢できずに、残っていた赤毛のおじさんに尋ねると、「しばらく遠方に買入に行ってんだ」と言われた。

 何か不穏なことをしに行ったのだろう…とカトリは気を揉んだ。

 

 毎日、カトリは月に祈った。

 彼が無事に戻ってきますように。もう一度彼と会えますように。

 

 だが彼と会えないまま、ある日、赤毛のおじさんがいなくなり、カトリ達家族は店を畳んで、これまでよりも少しいい場所に家を買って引っ越した。

 

 弟は清潔で空気の通りのいい家を気に入ったようだった。少しだけ元気になった。

 両親達は「()()()()に言われた通りに家を変えてよかった。薬ももらえたし、きっとマルコは治る」と喜んだ。

 カトリも弟が元気になって、両親が嬉しそうな顔を見るのは嬉しかったが、彼に会えなくなってしまったことだけが、心にポカリと寂しい穴を開けた。

 

 一時的に快方に向かっていた弟の体調は、春が近づくにつれ、また悪くなっていった。

 両親は弟を治してもらうために、()()()()のところへ何度も行って頼み込んで薬をもらってきたが、その薬を服んでも弟は一向によくならなかった。

 

 紫斑はとうとう首にまで出てきて、目が見えなくなり、弟にとって唯一の楽しみだった本を読むことも出来なくなった。

 

 今日はカトリの給料日だった。

 今月は使用人が風邪で何人か休んで泊まり込むようなこともあり、少しばかり多めにもらったので、久々に弟の好きなアーモンドを砂糖衣で包んだ菓子を買った。

 

「帰ったわよぉ~」

 

 弟の喜ぶ顔を楽しみに帰ってきたカトリは、家に入った瞬間、血の匂いに顔を顰めた。

 それは覚えのある匂いだった。ついこの間まで肉屋をやっていた父に染み付いた匂いでもあった。

 父がまた肉屋を始めるのだろうか…とカトリは首をかしげながら、部屋の扉を開けた。

 

 飛び込んできた光景は、カトリの脳を麻痺させた。

 声も出ず、西日が差す真っ赤な部屋をしばらく眺めていた。

 ぼんやりと考えたのは、この部屋が真っ赤なのは西日のせいなのか血のせいか、どちらなのだろう…という、的外れなものだった。

 

 徐々に冷静さを取り戻すと、我に返る。

 

 (マルコ)は? 

 

 カトリはあわてて弟の待つ部屋へと向かおうとしたが、足がうまく動かなかった。

 それでもとにかく前へと前進したくて必死に歩く。

 ほとんど四つん這いになりながら弟の部屋に辿り着くと、扉が半分開いていた。

 

 カトリの心臓がドクンと波打った。

 よろよろと扉にすがりついて立ち上がる。

 一歩足を踏み出して、薄暗い部屋に佇む男の横顔を見て、つぶやいた。

 

「ジェイ…」

 

 懐かしい人。

 いつも無事を月に祈っていた人。

 紺色の髪と同じ色の瞳の、愛しい人。

 

 その彼はどうして、あんなに血に(まみ)れているのだろう…?

 

 心の(うち)で問いかけながら、もうカトリにはわかっていた。

 彼が両親と弟を殺したことを。

 

 カトリの薄茶の瞳の中で涙が震えた。

 

「どうして…?」

 

 エラルドジェイは自分が鈍重になったと思った。問われても、すぐに答えが出てこない。

 涙をこぼすカトリをじっと見つめて、反対に問いかける。

 

「どうして…? なにが…?」

 

 なんの表情もないエラルドジェイに、カトリはブルブルと震えると、涙声で叫んだ。

 

「どうして……どうして私の家族を殺したのよ!?」

 

 この状況で何も言わずに横たわる弟。既に死んだことは、確かめずともわかった。

 

 エラルドジェイは激昂するカトリをしばらく見つめ、静かに言った。

 

「裏切ったからだ」

「……裏切った?」

「お前の両親は、俺達を裏切って金を盗んだ。俺らは闇ギルドだ。裏切者は制裁されなければならない」

 

 闇ギルド、という言葉にカトリはどこかで納得していた。ずっと胸に秘めていた疑問が指し示す答えの一つにあったからだ。しかし、だからといって理解できるわけがない。

 

「どうして殺される必要があるのよ…。お金なら返すわ。私が働いて…」

「金だけの問題じゃない。お前の両親はニーロを殺した」

 

 カトリは愕然とした。

 

 いきなり姿を消した赤毛のおじさん。

 カトリの誕生月になると髪飾りを買ってくれ、マルコには本を買ってくれたおじさん。ちょっと強面だけれど、優しかった。

 その人を…両親が…殺した?

 

「……嘘」

「嘘じゃない。ニーロは殺されて、運河に沈められた。この前、浮いてきたけどな。ぶよぶよの顔になって、耳が魚に食われてたよ」

 

 エラルドジェイは思い出して口の端を歪めた。

 悪党らしい最期と言えるのかもしれない。

 ニーロは恨んだりもしていないだろう。仲間だと思っていた奴らに信頼されてなかったことを少々苦く思うだろうが。

 

 カトリは両親が人殺しをしていた事実に震えていたが、それでも納得できぬことがあった。

 

「……マルコは? なんでマルコを殺したの!?」

「………」

 

 エラルドジェイはベッドに横たわり、白い顔のマルコを見つめた。

 頬の紫斑は薄くなってきていた。不思議なことに、この病気は死んだら紫斑がどんどん薄くなっていく。命とともに、病も昇華されるように。

 

「…どうせ長くない」

 

 マルコを見下ろしたままエラルドジェイがつぶやいた言葉に、カトリは一気に憎悪が膨らんだ。

 

「ふざけないで! 勝手に決めないでよ!!」

「まさか…お前も両親と同じ、()()()()とやらの言葉を信じているのか?」

「なんですって?」

「この病気がここまで進んで、治るわけがない。期待だけさせて、騙されて、人まで殺して……救いようがない」 

 

 カトリは全身が怖気(おぞけ)だった。

 この男は何を言っているのだろうか? 人を三人も殺しておいて、平然と血塗れの姿で、一欠片の後悔も反省もなく。

 

「………人殺し」

 

 無意識につぶやいたカトリの言葉に、エラルドジェイは顔を上げて振り返った。無表情だったその顔に微笑がひらめく。

 

 カトリは震え泣きながら、目が離せなかった。

 

 エラルドジェイはゆっくりとカトリに近寄ると、持っていた短剣を差し出した。

 

「………?」

「持て。お前の父親の形見だ」

 

 カトリは何も考えずに受け取った。血のついた(きっさき)はエラルドジェイに向けられている。

 カトリの目の前で、エラルドジェイが手を広げた。

 

「殺せよ」

 

 カトリは途端に重くなった短剣を持ったまま、慄えが止まらなかった。

 涙に濡れた瞳でエラルドジェイを睨みつける。どうしてこんな選択をさせてくるのだろう、この男は。

 

「どうせ一突きで殺すなんてできないだろうから…何度でも刺せばいい」

 

 悪魔のようだった。

 カトリはしゃくり上げながら、短剣をエラルドジェイに向けたまま動けない。

 

 エラルドジェイはしばらく待っていたが、いつまでたってもカトリが来ないので、一歩、足を進めた。こちらが動くことで、恐怖し、自分の身を守ろうとして攻撃するのは、当然の反応だ。それは正当防衛で、カトリは何も悪くない。

 

 だが、エラルドジェイはわかっていなかった。

 カトリはエラルドジェイが両親と弟を殺したことに驚愕し、失望し、憎悪していたが、彼自身への恐怖はなかったのだ。

 むしろ、自分が彼を殺すことを恐れた。

 

 もう一歩。

 カトリに近づいていくのに、彼女はまったく殺しにこない。

 

 エラルドジェイは眉を寄せ、もうどうでもよくなった。

 一気に彼女に近づいて、そのまま自分からカトリの持つ短剣に刺されようと思ったが、寸前でカトリは短剣を手放した。

 

 カラン、と音をたてて短剣が床に落ちる。

 

「いや……」

 

 カトリはか細い声で言った。「絶対に…いや」

 

 潤んだ薄茶の瞳が自分を見上げている。

 エラルドジェイは急に苛ついた。自分でもどうしてこんな気分になるのかわからない。

 

 カトリの腰を掴み寄せると、強引に彼女の唇を奪った。

 驚いて固まったカトリは、一瞬、静かだったが、すぐに抵抗した。

 

「嫌ッ!!」

 

 思っていたよりも強い力で押し返されて、エラルドジェイはよろめくと、ハァと息を吐いた。

 

 自分でも悪い状態だとわかった。神経が昂ぶってて、何をするかわからない。

 思い出したのは、最初の殺人の時だ。あの時も似たような状態になって、帰ったらニーロに娼館に連れて行かれた。

 

 エラルドジェイはカトリを見た。

 出会った頃はまだ子供だった。ずっと子供だと思っていた。でも引き寄せた腰は細く、抱きしめた時の胸は膨らみがあった。

 

 危ない。このままだと、確実に犯す。

 

「………ジェイ」

 

 カトリが弱々しい声でエラルドジェイを呼ぶ。

 いつの間にか前髪を上げた額は広くて、乱れた髪が垂れ落ちているのが、煽情的だった。

 

 エラルドジェイはまた一歩、カトリから離れた。

 ギリ、と唇を噛み締め、拳を握りしめる。狂気と理性の分かれ目で、エラルドジェイはますます表情を失くした。

 

 ふと出た言葉は自分でも理解できなかった。

 

「……ジェイは通り名だ」

「………なんですって?」

「本当の名はエラルドジェイだ」

 

 早口に言うと、エラルドジェイは窓まで走っていき、その場から逃れた。

 

 カトリはエラルドジェイが去っていった窓の外を見つめて、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、急にガクリと崩折れた。

 

 一体―――何が起きたのだろう?

 あの男は自分に何を残していったのか…?

 

 カチカチと歯が鳴る。

 いきなり押し寄せてきた恐怖と、悲しさと怒りと、この後に及んでも消えない彼への想いがぐちゃぐちゃになって、カトリの中で渦巻く。

 

「わあああぁぁッッ!!」

 

 カトリは慟哭した。

 彼が唇に残していったアーモンドの味が、なまぐさい血の臭いと一緒に染み付いた。

 

「………許さない」

 

 ウッウッとしゃくり上げて泣きながら、つぶやく。

 何度もつぶやいて、カトリは必死に彼を憎んだ。

 

「……許さない! 絶対に…絶対に……許さない!!」

 





次回は2022.09.03.土曜日に更新予定です。


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第七十八話 公爵閣下からの召喚状

 ヴァルナルがグレヴィリウス公爵からの召喚状を受け取ったのは、誘拐事件のあった日から一月と十日が過ぎた、雪解けの月の末日のことだった。

 

 既にいつでも行けるように準備を整えていたので、召喚状が届くやいなや、ヴァルナルはレーゲンブルトを出立した。

 通常であれば五日はかかる道程を、黒角馬を自ら駆って、三日で公爵家本領地・アールリンデンに辿り着いた。

 

 種撒きの月を迎えたアールリンデンは、春の陽気でアーモンドの花がほころびはじめていた。

 

 種々の春の花が咲き乱れる公爵邸の庭は、亡き公爵夫人が特に力を入れて造成されたものだった。庭師が夫人の想いを継いで今も丹精こめて世話しているらしい。青臭く甘い匂いが春風に乗って運ばれてくる。

 ヴァルナルは清新なその風を胸深く吸い込んだ。

 

 邸内に入って公爵の執務室に通じる大廊下を歩いていると、ファルミナ領主のセバスティアン・オルグレン男爵は待っていたのか、形式的な挨拶もそこそこに、痛烈な皮肉を浴びせてきた。

 

「小公爵様を守れぬばかりか、我が子を犠牲にするとは…黒杖が泣くことよな、ヴァルナル・クランツ」

 

 艶やかなルビーのような赤い髪が自慢のオルグレン男爵は、前髪に一房大きな巻髪をいつも作っているのだが、鷲鼻に垂れたその巻髪がフンと荒い鼻息で揺れるのが、ヴァルナルにはいつも滑稽だった。特に今回のように嫌味を言ってくる時には、なおのこと笑いそうになる。

 

「……勝手に息子を殺さないでもらえますか? オリヴェルは死んでおりません」

 

 あえてムッと怒ったのも、実のところは吹き出しそうになるのを堪えるためだった。しかし、オルグレン男爵は怒ったヴァルナルを見てかえって気をよくしたようで、またフンと鼻を鳴らした。

 

「ほぉ。よくも口答えなどできるものだ。私なら平身低頭して、ただひたすら謝るのみ。クランツ男爵は、此度のことをあまり大したことだと思っておらぬようだな。犯人を処分できたゆえ、失地回復できているとでもお思いかな?」

 

 普段、ヴァルナルに嫌味など言えることが滅多とないからなのか、オルグレン男爵は執拗だった。

 いきりたって言うほどに、鼻の上に垂れた巻髪がぶらんぶらん揺れて、まるで木にぶら下がる蓑虫のようだ。

 

「あれほどまでに公爵閣下の前で見栄を切っておきながら……」

 

 ぶらん、ぶらん。

 

「大事な小公爵様を危地に追い込むとは………」

 

 ぶらーん、ぶらーん。

 

「誠に騎士としての心がけ、その精神を鍛え直す必要がありましょうな!」

 

 ぶららーん。

 

「……………」

 

 ヴァルナルは顔を俯けて必死で笑いを堪える。

 その姿は一見すれば、反論できずに屈辱に震えているように映ったのだろう。

 

「……オルグレン男爵、さように追い詰めるものではありませんよ」

 

 柔らかく割って入る声に、ヴァルナルはピクッと眉を寄せた。

 顔を上げてみればオルグレン男爵の背後に、にっこりと柔和な笑みを浮かべた芥子(けし)色の髪の、小太りの男が立っている。

 

「……久しぶりですな、シャノル卿」

 

 ヴァルナルはすぐさま気を引き締めた。

 オルグレン男爵などよりも、もっとタチの悪いのがやってきたからだ。

 

 アルビン・シャノル。

 グレヴィリウス公爵の元養子であった、ハヴェル公子の乳兄弟だ。

 彼の母親は公子の乳母として、男爵夫人の称号をもらっているが、あくまでこれは一代名誉であるので、彼自身に爵位はない。一応、公子の執事兼補佐官として准騎士の位は与えられているものの、貴族として扱われる身分ではなかった。

 ヴァルナルとの関係性で一番近いものといえば、執事のネストリが昔ハヴェル公子の従僕であったので、彼と知見があるということだろうか。

 

「アールリンデンでお会いするとは思ってもみませんでした」

 

 まずヴァルナルが「なんでお前、こんなところに来てるんだ?」と遠回しに尋ねると、アルビンはそのふっくらしたマシュマロみたいな顔に、人の良い笑みを浮かべた。

 

「えぇ、それが嬉しいことに、此度ハヴェル様のご婚約がまとまりまして。まだ、内々のことではありますが、まずは一番に公爵閣下にご報告に上がりましてございます」

 

 アルビンは慇懃に言いながら、その苔緑(モスグリーン)の瞳は油断なくヴァルナルの様子を窺っている。

 ヴァルナルはアルビンの誘い水に乗った。

 

「それはめでたいことです。お相手はいずこのご令嬢です?」

「イェガ男爵のご長女でございます」

「ほぅ…」

 

 ヴァルナルはかろうじて笑みを保って相槌をうつと、素直に驚いてみせた。

 

「イェガ男爵に、そのような年頃のご令嬢がいたとは初耳です。私が知っている限り、イェガ男爵家は男の御子方三人の後に、ようやくご令嬢が誕生したと喜んでおられたのが、つい最近のことと思っておりましたが……」

「ハハハ、男爵。もうそのご令嬢も十一歳でいらっしゃいますよ。時は等しく流れても、人それぞれに早さは違うようですね」

 

 ヴァルナルは笑顔を浮かべたまま、顔が引き攣りそうになった。

 今年で十一歳ということは、ハヴェルとは八歳差ということだ。

 無論、そうした年齢差の結婚がないわけではないが、わざわざ侯爵家の令息が選ぶにしては、身分も年も離れすぎている。

 

 アルビンはヴァルナルの心の(うち)を見透かしたように、付け加えた。

 

「イェガ令嬢も六年もすれば十七歳。立派な婦女(レディ)となられます。その時には年の差もさほど気になるようなことでもないでしょう」

「なるほど。六年も前から婚約を急がれるとは、よほどに見込まれたものですね。イェガ令嬢も」

「えぇ。とてもお可愛らしい方でいらっしゃいますよ」

 

 腹の探り合いはそこまでだった。

 ヴァルナルが来たことを伝え聞いたアドリアンが走ってやって来たからだ。

 

「ヴァルナル!」

 

 アドリアンはヴァルナルの姿が廊下の中央に見えると、大声で呼びかけた。

 

 正面玄関から公爵執務室のある本館に通じる大廊下には、召使いや、公爵家に出入りの商人、職人、領地行政官など、多くの人々が忙しく行き交っていたが、普段はおとなしい小公爵の声が響くと、皆驚いたように立ち止まった。

 注目を浴びる中を、アドリアンはまったく気にも止めずに早足に歩いてくる。

 

 アルビンは一瞬、冷たい表情を見せてから、すぐにいつもの得体のしれぬ笑顔に戻って、近づいてくる小公爵に向かって恭しくお辞儀した。

 ヴァルナルも深く頭を下げる。

 その場にいて一人だけ昂然とアドリアンに立ちふさがったのが、オルグレン男爵だった。

 

「いけませんぞ、小公爵様! このような罪人と軽々に口をきくなど!!」

 

 アドリアンは足を止めると、巻髪を揺らすオルグレン男爵を見上げた。

 

「罪人?」

「左様。畏れ多くも小公爵様を守ることもせず、危機を招いたのです。今日、このアールリンデンに()ばれた理由も、公爵閣下からの厳しい叱責のうえ、何かしら処分が下されるのでありましょう。まさしく罪人も同様!」

 

 ヴァルナルは言われるがままにしておいた。実際、今日、ここに呼ばれたのはそういう理由であろうし、アドリアンを危地にやったことには間違いない。 

 

 しかしアドリアンは苛立たし気に眉を寄せると、静かにオルグレン男爵をたしなめた。

 

「危機を招いたのは僕自身の浅はかさによるものだ。ヴァルナルに罪はない。このことは父にも申し伝えてある。彼が罪人として罰を受けるのであれば、僕も同様に罰せられるべきだろう」

 

 いつもはどんな誹謗や中傷を受けても、黙って耐えているだけの小公爵が珍しく言い返してきたので、オルグレン男爵は目を白黒させた。

 滅多と表情を変えることのないアルビンまでもが、思わず顔を上げてアドリアンを見た。

 

 アドリアンはその二人を見上げつつも、公爵と同じ(とび)色の瞳に怒りを滲ませて問いかけた。

 

「ところでオルグレン男爵は、僕に対して礼を失することを気にしておられぬらしいな。シャノル卿も」

 

 婉曲な恫喝にオルグレン男爵は、あわてて胸に手をあてて頭を下げた。

 

「もっ…申し訳ございません。小公爵様」

「………失礼いたしました、()()()様」

 

 アルビンが再び頭を下げて謝ると、アドリアンは口元に微笑をひらめかせた。

 

「珍しいな。シャノル卿が僕を()()()と呼ぶのを初めて聞いた」

「……長く…不明であったことをお詫び致します」

 

 アルビンは素直に自分の非礼を詫びた。

 彼はアドリアンの不在の時はもちろん、本人を目の前にしても「アドリアン()()」と呼んでいた。

 それは勿論間違いではない。だが、公爵の跡継ぎであることを認めまいとする明確な意志表示でもあったのだ。

 

 今までアドリアンはその無礼な態度を許してきた。

 自分よりも年上で、周囲からも認められ、父とも親しく話すことのあるハヴェルの方が小公爵たるに相応しいと思っていたからだ。

 だが、レーゲンブルトからの帰り道にアドリアンは決めた。もう小公爵であることから逃げないと。

 

「二人とも、既に用件は済んだように思うが、まだここにいる理由が?」

 

 アドリアンが暗に立ち去ることを求めると、アルビンはまたふくよかな顔に柔和な笑みを浮かべて如才なく言った。

 

「長々と居残って申し訳ございません。クランツ男爵がもうすぐ来着されるらしいと聞き及びまして、一言ご挨拶がしたくて留まっておりました」

「わ、私もそうでございます! 他意はございません」

 

 オルグレン男爵もあわてて調子を合わせると、アドリアンは二人を冷めた目で見た。

 

「では、これにて希望も叶いましたので、小公爵様のご意向に添いまして、臣は下がらせて頂きます」 

 

 慇懃無礼とはこの事なのかもしれない。

 アルビンは言葉だけは丁寧に、流暢に言って去ろうとしたが、アドリアンはその丸い背に呼びかけた。

 

「シャノル卿。叔母上に伝言を頼めるか?」

 

 アルビンは立ち止まり、しばし間をあけて振り返った。見事なくらいの笑顔だった。直前まで額に浮いていた青筋はどこに隠したのであろうか。

 

「ヨセフィーナ様に何か?」

「見舞いの品をありがとう、と。とても綺麗な白薔薇だった」

 

 その言葉にヴァルナルはむゥ…と、ほとんど聞こえない声で低く呻いた。

 周囲でそれとなく聞き耳を立てながら歩き回っていた人々も、ピタリと一瞬、動きを止めた者はそれが何を意味しているのかを知っているのであろう。

 

 白薔薇は亡き公爵夫人リーディエの最も好んだ花であった。

 彼女が若くして亡くなった時、その棺や祭壇、彼女が永遠に眠る墓地への道までもが、帝国中の白薔薇を集めたのではないかと思われるほどの、溢れんばかりの白薔薇で埋め尽くされた。

 

 その葬儀以来、このアールリンデンにおいても、帝都においても、公爵家の庭に白薔薇は一切植えられない。禁忌の花であった。

 そうした事情を侯爵夫人が知らぬ訳がないのだから、その見舞いとやらが純粋な同情や心配から来たものでないことは明白だ。

 

 アルビンは侯爵夫人の意図を承知しつつ、今この場でその事を持ち出したアドリアンに密かな苛立ちを覚えた。

 ずいぶんとこましゃくれたことをするようになったものだ……。

 

「お慰みになったのであれば、なによりでございます。ご伝言は(しか)と承りました」

 

 何も知らぬとばかりに、アルビンは笑顔で言ってその場から立ち去った。

 その後にオルグレン男爵がワタワタと追いかけていく。リボンで縛った巻き毛が揺れるのを見て、きっとあの蓑虫のような前髪も揺れているんだろうな…と、さっきの光景が思い浮かぶと、ヴァルナルはとうとう堪えられず噴き出した。

 

「どうした?」

 

 アドリアンが目を丸くする。

 

「いえ…なんでもありません」

 

 ヴァルナルは軽く咳払いして、どうにか笑いをおさめると、改めてアドリアンに挨拶した。

 

「失礼しました、小公爵様。お元気そうで何よりです」

「僕は大丈夫だ。それより、オヅマは? もう意識は戻ったのか?」

「………私が出る時にはまだ…」

 

 ヴァルナルが残念そうに言うと、アドリアンの顔は曇った。「そうか…」と力なくつぶやく。

 

「小公爵様、何か御用があおりだったのでは?」

「あぁ、実は…」

 

 アドリアンが言おうとしたときに、ヴァルナルを呼ぶ従僕の声が響く。

 

「クランツ男爵! 公爵閣下がお待ちですよ!!」

 

 アドリアンは一瞬口を噤んでから、早口で言った。

 

「父上との話が終わったら、僕の部屋に来てもらえるか? 頼みたいことがあるんだ」

「承知しました」

 

 その場でアドリアンと分かれると、ヴァルナルは公爵の待つ執務室に向かった。

 




遅くなってすみません。引き続き、投稿します。


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第七十九話 グレヴィリウスの継嗣

 既に公爵は大廊下での一悶着について聞き及んでいたらしい。執務室にはルーカス・ベントソンもいて、早速楽しげに尋ねてきた。

 

「アルビン・シャノルと軽く小競り合いがあったようじゃないか」

「あぁ。…だが私などより、小公爵様が上手にあしらって下さったよ。いつの間にあんな物言いができるようになったのだろうな。頼もしい限りだ」

「ハッ! よく言う。誰がそんな風に変えたのやら」

 

 ルーカスは笑ったが、公爵は息子の成長に対して無関心な表情だった。

 ダニエルの事件のことで、さすがの公爵も息子の身を案じ、予定よりも早い帰省を命じたのかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。

 

 ヴァルナルは内心で嘆息した。

 まだ、()()()()()()()は解かれていないようだ…。

 

「それより、ハヴェル・グルンデン公子が、イェガ男爵令嬢と婚約すると聞いたんだが…」

 

 ヴァルナルは話を変えた。

 今はこちらのことの方が重要だ。

 

「あぁ、らしいな」

 

 ルーカスが頷いた。

 

「……よろしいのですか?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、公爵の(とび)色の瞳が鋭く見つめてくる。

 

「なにか、気になることがあるのか?」

「お分かりでしょうに。明らかな牽制です。八歳も年の差があって、侯爵令息の相手が同系列家門の男爵令嬢なんて。イェガ男爵とエシルの騎士団を抱き込もうとしているのは、明白です」

 

 強い口調で言うと、公爵は興味深げに微笑んだ。

 

「フ……お前がそんなことに頭が使えるようになるとはな」

「馬鹿にしておいでですか?」

「まさか。お前が賢いのはわかっておる」

「やっぱり馬鹿にしていますね…」

 

 ヴァルナルはちょっとむくれたように言ってから、顔を引き締めた。

 

「今回のダニエル・プリグルスの件も含めて、彼らはなりふり構わず小公爵様に手出ししてきているのですよ。よろしいとお考えですか?」

 

 公爵は無表情になり、背凭れに身を沈めると、手を組んでしばらく黙り込んだ。

 思っていたよりも長い沈黙に、ヴァルナルはゴクリと唾を飲み込んだ。

 静かな緊張感が漂う中、公爵の口から出たのは、無情な言葉だった。

 

「私は、グレヴィリウスの存続を考えるのみだ」

 

 ヴァルナルは固まった。

 いつもは余裕綽々と、とぼけた態度のルーカスもピクリと眉を寄せ、真顔で口を引き結ぶ。

 

「そ…れは…どういう意味です?」

 

 ヴァルナルはすっかり困惑して問いかけた。

 

「小公爵…アドリアン様を後継から外すこともあると?」

「それはない。しかし、過去においても必ずしも継嗣が公爵家を相続した訳ではない。その都度、選ばれた…あるいは、選択の余地なくして選ばせた。もし、純粋な長子相続だけが正統であると考えるのであれば、私も外れる。なにしろ三代前の方は嫡出子でもなかったのだから」

 

 現グレヴィリウス公爵エリアスの曽祖父のベルンハルドは、元は庶子であったが、嫡出の兄達が次々に流行病で亡くなり、公爵家に引き取られている。彼以降、グレヴィリウス公爵は代々冷血公爵の異名を持つことになるのだが、その話はまた別で語られるとして。

 

「それは…そうですが」

 

 ヴァルナルが少し気まずそうに同意すると、公爵は薄ら笑って尋ねた。

 

「私がこの地位にあるのも、ただ安穏と父からの地位を承継しただけと、思っているのか?」

 

 ヴァルナルはまた黙り込んだ。

 

 エリアスもまた、腹違いの弟を推戴(すいたい)する勢力との抗争の末に現在の地位にある。

 反対派を黙らせたからこそ、彼の権威は絶対的なものとなり得ているのだ。

 

 考えてみれば、その弟はハヴェル公子の母でもあるヨセフィーナ・グルンデン侯爵夫人の実弟であった。もしかすると我が子可愛さだけでなく、彼女には弟の復讐という目的もあるのかもしれない。

 

 しかし……。

 

「しかし、まだアドリアン様は子供です」

 

 ヴァルナルは静かに、それでもはっきりと伝えた。

 まだ、子供のアドリアンを後継争いに引きずり込むべきではない。いずれ避けようのないことだとしても、今は大人の手で彼を守るべきだ。

 

 だが最もアドリアンを守れる立場にいるはずの公爵は、やはり無表情に淡々と答える。

 

「だが、私の子だ。グレヴィリウスの正統を重んじる人間にとっては、私の子であるという正当性を否定してまで、ハヴェルを推戴しようとは思わぬ。()()であることの不足分を十分に補って余りある()()だ。むしろ、ハヴェルは劣勢なのだ。であればこそ、家臣団の味方を一人でも多く増やそうとするのは、むしろ当然のことだ」

「では、アドリアン様が暴漢に襲われてもよいと仰言(おっしゃ)るのですか!? 今回のような卑怯極まりない手段で」

「…………」

 

 公爵は否定も肯定もしなかった。目を伏せて再び沈思黙考する。

 

 ヴァルナルには公爵の考えがわからなかった。

 あれほどに愛した(ひと)の息子であるならば、少しでも安寧に地位が相続できるように考えるものではないのか。まさか本気で、息子を憎んでいるというのか……? 

 

「今回のことでいうなら、目付役であるところのお前の失態というのが一番の問題だがな」

 

 重く凍りついた空気を、軽い口調で変えたのはルーカスだった。

 公爵も顔を上げると、フッと笑う。

 

「まったくだ。小賢しい手に引っ掛かって…小人(しょうじん)(*つまらない人間)の知略ぞ」

「申し訳ございません」

 

 ヴァルナルは素直に頭を下げた。この事については、なんと処分されようが文句は言えない。

 

「いかようなる罰も受ける所存です」

「ふ……ん」

 

 公爵はヴァルナルをじっと見つめていたが、意味深な薄ら笑いを浮かべた後、まったく別の話を始めた。

 

「ところで、面白い拾い物をしたそうじゃないか。黒角馬を見つけてきた小僧らしいな。主犯の男の首を斬ったのは」

「………は」

「まったく。お前はつくづく運がいい。その小僧の母親だと? お前が今、口説いている女は」

「ちっ、違…い……ません…が」

 

 一気に顔を赤らめるヴァルナルに、公爵はクックッと喉奥で笑う。

 

「相変わらず、この手の話になると少年だな。ルーカス、これがあのレーゲンブルトの荒くれ者達の首領だなどと、陛下も信じられまいよ」

「まったくです。未だに手も握っておらぬようですし」

「て、手ぐらい、握った…っ」

 

 ヴァルナルが真っ赤になって抗議すると、ルーカスは苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。

 

「………それを大声で閣下に報告するな。この万年純情中年が」

 

 気恥ずかしそうに首をすぼめるヴァルナルに、公爵はクスリと笑みを浮かべてから、「さて」と机に両肘をついて、その組み合わせた手に顎を乗せる。

 

「このいつまでも及び腰の男に、どういう()()が適当であろうな…ルーカス」

「そうですねぇ…」

 

 ルーカスは意味深にニヤニヤと笑った。

 

「この男のことですから、今年ものんびり帝都になんぞ行ってる間に、当の相手が別の男と一緒になってた…なぁんてことに、なっとることもあるやもしれません」

「………え?」

 

 ヴァルナルは愕然とした。頭が真っ白になった。

 

「おいおい…」

 

 ルーカスはあきれたように溜息をつきながら首を振った。

 

「お前は時々、本当に馬鹿だな。相手の女がお前に惚れているというならともかく、そうでないなら、有り得ない話じゃなかろう? 薄暗かったからはっきり見えなかったが、美人だったなぁ」

 

 うっとりした様子で(もちろんワザと)話すルーカスに、ヴァルナルはあわてた。

 

「いっ…いつ見たんだ!」

「この前、小公爵様を迎えに行った時だよ。見送りに来ていただろうが。ホレ、あの小さな娘が走ってきた時に。目の覚めるような美人というのじゃないが、ああいう女を好く男は多いだろうな。まさかお前、口説く男が自分以外にはいないと思っているのか?」

 

 ルーカスはあきれたように言いつつも、内心でニヤニヤ笑っていた。

 目の前では、いつも騎士然として何事にも動じることのない男が、落ち着きなく視線をさまよわせている。

 

「でも、ミーナからそんな話は聞いてない…」

「わざわざ自分に言い寄ってくる男の話を好き好んでする女……がいないわけじゃないが、お前のそのミーナとやらは、そういう自慢をするような女なのか?」

「そんなことはしない!」

「だったら黙ってるだけかもしれんだろうが」

「………」

 

 ヴァルナルは言葉をなくした。

 

 あまりにわかりやすい動揺に、公爵はまたクックッと笑ってから、ヒュミドールから葉巻を取り出した。

 

「まさか…この年になって家臣からこんな青臭い話をされると思わなかったな」

 

 楽しげに言いながら、手慣れた様子で葉巻の吸口をカットし、火をつける。

 葉巻の先にじわじわと灰色の円環ができると、公爵は静かに吸って、口腔内で味を楽しんでから、ふぅと煙を吐いた。

 微かなシナモンの香りと、針葉樹(シダー)を燃したときのような焦げた清涼感が漂う。

 

「…で、どうなのだ?」

「は? ……どう、とは?」

「手応えは?」

 

 ヴァルナルはうっと詰まった。ルーカスならばともかく、まさか公爵御本人からこんな――俗な――質問をされるとは思ってなかった。

 一体何を、どこまで答えればいいのかわからず、ヴァルナルは中途半端に口を開いたまま固まった。 

 

「その様子だと、まったくない、という訳でもなさそうだな」

 

 見透かしたように言って、公爵はまた一口、煙を喫する。

 

「へっ? そうなの、お前?」

 

 ルーカスは意外だったのか、公爵の前にもかかわらず、くだけた口調になった。

 

「そ…れは、まぁ…」

「まさか手ぇ握ったくらいで脈アリとか思うなよ。ガキじゃないんだからな」

「………」

「駄目だ。コイツ本当に…」

 

 ルーカスが額を押さえて天を仰ぐと、さすがのヴァルナルもムッとなって小さな声で抗議した。  

 

「…そういうことは、言葉で説明できるものじゃないだろうが……」

「あぁ! まだるっこしい奴!! 閣下、裁定を願います」

 

 ルーカスはとうとう我慢できなくなって、公爵に訴えた。

 

 公爵は葉巻をゆっくりと燻らせる。

 鳶色の瞳が、やや悪戯(いたずら)っぽく笑っていた。

 

 一口吸って、フゥと長く煙を吐いてからヴァルナルに宣告した。

 




次回は本日の20:00に更新予定です。
今回は遅れて申し訳ございませんでした。


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第八十話 クランツ男爵への罰

「レーゲンブルト領主、ヴァルナル・クランツ男爵。今回の小公爵殺害未遂事件における目付け怠慢の罰として、そなたには新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)を禁じる」

「…………え?」

 

 ヴァルナルは聞き返した。

 新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)は、毎年、緑清の月朔日を境に帝国中の貴族が帝都へと向かう恒例行事である。

 帝都に赴いて、皇帝より新年の挨拶を賜ることは貴族にとって栄誉であり、それができない貴族―――つまり、帝都までの旅費を工面することもできぬほど貧乏であったり、何らかの理由によって皇家もしくは主家となる大貴族から帝都への訪詣(ほうけい)を禁止されることは、恥とされる。

 

 無論、戦時であったり、周辺地域との紛争を抱えている辺境伯などは特別に免除されていることもあるが、当然ながらヴァルナルはごくごく一般的な男爵位の貴族であった。通常の貴族の常識ならば、この罰は相当の恥辱をもって受け止められただろう。

 

 しかし、ヴァルナルの反応は違った。

 

「……あの、それで……いいんですか?」

 

 公爵はチラとルーカスと目を見合わせた。

 

「クランツ男爵、もう少し困るなり、驚くなり、嘆くなりしてもらいたいものだな。これは主が臣下に出す懲罰としては、なかなかに厳しいものだぞ」

 

 ルーカスがわざとしかつめらしく言うと、ヴァルナルはハッと顔を引き締めた。腕を曲げて謝意を示す。

 

「申し訳ございません。臣ヴァルナル・クランツ、謹んで公爵閣下の御意に従います」

 

 公爵はフ…と鳶色の瞳を細めたが、口元は皮肉げに歪んだ。

 

「殊勝なことだ。朝の騒がしい客人と違って」

「騒がしい客人?」

 

 ヴァルナルが首をひねると、ルーカスがあきれたように答えた。

 

「朝からアルテアン侯が乗り込んできてな。例の事件の首謀者がダニエル・プリグルスだとわかった途端に、しつこいくらいに公爵閣下に弁明に来る。来るのはいいが、毎度毎度、お涙頂戴の三文芝居を見せられるんで、正直、食傷気味だ」

「しかしアルテアン侯は、ご息女とダニエルとの婚約を破棄されたんじゃなかったか?」

「あぁ。だからこちらもアルテアン侯に文句を言う気はないというのに、何をトチ狂ったんだか、今日など、とうとうそのダニエルと婚約していた三女を勘当したなんて言ってきてな。そんなことされても、こちらはどうしようもないというのに…」

 

 そう言って、ルーカスは呆れ返った溜息をつく。

 

 実際、今日などは面会の許可もなくやって来て、たっぷり二刻(*二時間)近く居座った。公爵が一切会わないと言ったために、ルーカスが相手する羽目になったのだ。

 

「侯の目的は、借款の期限猶予だろう」

 

 公爵が煙を吐いてから静かに言った。「まだ、あの時の言葉を取り消していないからな」

 

「そういえば、そうでしたな。どうなさるおつもりで?」

「撤回する気はない。今回の事件と、あの時のことは別の話だ」

「しかしそうなると…また、やってきますよ」

「有能な騎士団長がいて助かる」

「代理ですよ、私は」

「あぁ、有能な団長代理だ。お陰で私は後顧の憂いなく仕事ができる」

 

 公爵は澄まして言い、ルーカスはげんなりした顔になる。

 

 相変わらずだなぁ…とヴァルナルはちょっと懐かしい気分になった。

 ヴァルナルからすれば、ルーカスの流暢で巧みな弁舌にはいつも圧倒されるくらいなのだが、さすがのルーカスも公爵閣下には敵わないのだ。決して口数が多い方ではないのに、不思議なことだ。

 

 それはさておき。

 

「あの、今回の帝都への禁足は私だけのものと考えてよろしいですか?」

 

 騎士達の中には帝都に家族を持つ者もいる。

 ヴァルナルは毎年帝都に帰ることを楽しみにしている彼らを、自分の懲罰に巻き込みたくなかった。

 

 公爵はすぐにヴァルナルの意図を理解した。

 

「無論そうだ。騎士らにまで罰が及ぶことはない」

「では、帝都に帰参希望の騎士については、例年通りに出立させてもよろしいですね?」

 

 その問いに答えたのは、ルーカスだった。

 

「あぁ。パシリコが責任者になればいい。カールには実務処理をがっつりやらせるからな。そうそう。来年は帝都結縁祭(ヤーヴェ=リアンドン)も開かれるからな。希望者は参加させてやれ」

 

 帝都結縁祭(ヤーヴェ=リアンドン)は新年の帝都で開かれるお見合いパーティーイベントだ。

 この祭りの期間中、大小のパーティーが帝都の各地―――それは裕福な商家の屋敷であったり、街の酒場であったり、中には公園であったり―――で開かれ、多くの男女が種々のパーティーに顔を出して、将来の伴侶を探すのだった。

 

 無論、親族間の取り決めによって婚姻が結ばれる上位貴族は、これらの宴に参加しない。

 祭りの参加者のほとんどは中産階級の商人や職人と、その娘、それから騎士といった下級貴族達だった。

 

 位を与えられながらも、基本的にはいずれかの貴族家の従属者である騎士は、普段の仕事で女性と知り合う機会もないので、毎年行われるこの祭りを心待ちにしている者が多かった。実際に結婚に至った者も少なくない。

 

「あぁ、そうか。今年はなかったんだったな」

 

 先年、皇太子であったシェルヴェステルの不予(ふよ)(*貴人の病気のこと)は、新年を心待ちにしている民の迷惑にならぬように…との故人の意思によって、新年のお祭り騒ぎが終了した頃に発表された。

 その後、数ヶ月に及ぶ闘病の末に逝去したが、その時は既に当年(藍鶲(ランオウ)の年)の結縁祭(リアンドン)は行われた後であった。皇帝は若くして(きさき)もないまま夭折(ようせつ)した皇太子を(いた)んで、今年(金雀(キンジャク)の年)の結縁祭(リアンドン)は全面的に禁止した。

 

 当然、それを楽しみにしていた多くの男達(おそらくは女達も)はガックリしたが、最期まで民衆に寄り添った優しい前皇太子のことを思うと、誰も文句は言えなかった。

 

 というわけで、来年の結縁祭(リアンドン)には相当闘志を燃やしている騎士は多いはずだ。

 

「わかった。希望者は帝都に行かせる。レーゲンブルトに家族がいる者はおそらく残ることに文句はないだろう」

 

 ヴァルナルが真面目くさった顔で言うと、ルーカスはややあきれたような、意味ありげな視線を送った。

 

「……なんだ?」

「いや……」

 

 ―――― お前もその一人か?

 

という言葉が喉元まで出かかったのを、ルーカスは飲み込んだ。そんなことを言ったところで、顔を赤らめる中年を見るだけだ。クソ面白くもない。

 

 公爵は二人の応酬を楽しげに見ながら、煙を吐ききると、灰皿に葉巻を置いた。

 

退()がれ」

 

 簡潔な言葉で、この一件についての終止符を打つ。

 ヴァルナルはペコリとお辞儀して、出て行こうとしたが、扉の前で足を止めた。

 

「……なんだ?」

 

 無表情に戻った公爵が尋ねる。ヴァルナルは振り返って、率直に尋ねた。

 

「あの…小公爵様は帝都に行かれるのでしょうか?」

「………無論だ」

「その…剣技の指導などは…?」

 

 奥歯に物の挟まったようなヴァルナルの問いかけに、公爵の眉は少し神経質な苛立ちを帯びたが、声は平静だった。

 

「男爵が領地に戻っている間は、いつもベントソン卿を始めとする騎士達によって指導されている。問題あるまい」

「そう…ですか……」

 

 ヴァルナルは頷くが、そこから動かない。

 公爵はジロリとヴァルナルを見た。

 

「なんだ? 言いたいことがあるなら言え」

 

 ヴァルナルは一度、深呼吸をし、怒られることを覚悟した。

 

「はい、あの…小公爵様を冬の間にまた、レーゲンブルトに迎えることは無理でしょうか?」

「なに?」

 

 公爵の鳶色の瞳がどんよりと不穏な気配を帯びる。すぐにヴァルナルは言い添えた。

 

「いえ…冬の間ずっとが無理であれば……その、来年の大帝生誕月だけでもよいので、いらして頂くことはできませんでしょうか?」

「男爵は、今、自分が罰を受けた身であることをわかっておられぬようだ」

 

 公爵が皮肉げに言うと、ヴァルナルの背中に一気に重くなった空気がのしかかる。低い姿勢からチラと見えたルーカスの顔も『余計なことを言いやがって』と言わんばかりに渋かった。

 

 ヴァルナルはより深く頭を下げながら言った。

 

「申し訳ございません、閣下。ただ、今回のことで小公爵様は対番(ついばん)となったオヅマにも、まともに挨拶できぬまま帰ったことを、大層、気にかけていらっしゃいます。どうか彼らに再会の機会を与えていただけませんでしょうか?」

「………僭越だぞ、ヴァルナル」

 

 再び葉巻を持った公爵の目は冷たかった。

 椅子から立ち上がると、ヴァルナルに背を向けて窓の外を見やる。

 

「………褒美が欲しければ、結果を出せ」

「褒美?」

 

 ヴァルナルは公爵の真意が理解できなかったが、目の前に迫ってきたルーカスがほとんど無理やりに部屋から押し出した。

 

「この馬鹿!」

 

 部屋から出るなり、ルーカスはヴァルナルの頭に拳骨を落とした。

 

「褒美をねだるには早いだろうが。時機を見ろ、時機を。今じゃないだろうが」

「褒美…って……別に俺は褒美がほしいわけじゃなくて」

「お前がどう思ってるかなんぞ、どうでもいいんだよ。いいか? 今回の罰をなんで出すことにしたのか、お前わかってるだろうな? 閣下がどういう結果をお望みなのかも」

「それは…」

 

 ヴァルナルはルーカスに拳骨された頭をさすりながら、少し顔を赤らめた。

 

「ミーナと多少なりと進展するようにと…」

 

 ルーカスはもう一度、同じ場所に拳骨を落とす。痛がるヴァルナルを青い目で睨みつけた。

 

「なんだってこの期に及んでこの男はまだ腑抜けたことを抜かしていやがるんだろうな。『多少の進展』? フザけんな、馬鹿。こっちはお前が来ないせいで、忙しくなることがほぼ決定なんだぞ。未亡人相手にチンタラと恋愛ごっこやってる場合か。とっととモノにしてこい!」

「そんな横暴な…」

「いいか、ヴァルナル」

 

 ルーカスは深呼吸して気を落ち着けると、ヴァルナルの耳元で囁く。

 

「閣下の望みは、例の小僧だ」

 

 ヴァルナルはゴクリと唾をのむ。

 

「オヅマを……小公爵様の近侍にしたい、という話か?」

 

 ルーカスは頷いた。そして付け加える。

 

「それも、ヴァルナル・クランツの息子としてな。出来得れば、今年中に」

「無茶な…!」

「無茶でもなんでも、やるんだよ! その為に上参訪詣(トルムレスタン)の随行禁止なんていう、御大層な名目の罰をクランツ男爵(おまえ)に与えたんだぞ。()()()は小公爵の最強の後盾がとうとう公爵閣下の怒りを招いたと、ラッパ吹いて大喜びだろうよ。それが一転、ヴァルナル・クランツの息子が小公爵の近侍になったとなれば、それこそ泡吹いて、目ン玉ひん剥くことだろうよ」

 

 ヴァルナルはルーカスの言っていることを理解できても、それを実現することが途方もなく難しいことがわかっていたので、容易に頷くことができなかった。

 

 無論、本心ではミーナに受け入れてもらい彼女と結婚し、オヅマ達と家族になれればいいなと思っている。だが、ミーナやオヅマにこの状況を知られたくはなかった。

 ヴァルナルは純粋にミーナを愛している。

 彼女を自らの栄達の道具にするつもりもなければ、その息子を政争の具とすることも避けたかった。

 

 だが一方で、アドリアンもまたヴァルナルにとって、大事な人()の息子だった。

 ヴァルナルとオヅマが処分されるかもしれないと、必死になって叫んでいたアドリアンの姿が苦く思い浮かぶ。

 

 

 ―――― 僕を守ろうとしないでくれ、ヴァルナル。僕は平気だ。鞭打ちでも、幽閉でも…!

 

 

 あんなことを言わせてはいけないのに。

 アドリアンはまだ子供で、守られるべき存在であるのに。

 

 思い悩むヴァルナルに、ルーカスは苦い顔で言った。

 

「閣下はああ仰言(おっしゃ)るが、決してアドリアン様を見放しているわけじゃない。自分にとってのヴァルナル・クランツを息子にも持たせてやりたいと願うのは、おそらく偽らざる親心だ。閣下ご自身は認めないだろうがな」

「…………」

 

 ヴァルナルは痛ましげに眉を寄せる。

 

 公爵の複雑な胸の(うち)は、すべてをわかりようがなくとも、察することはできる。自らの感情の不均衡(アンビバレンス)に、一番悩み、持て余しているのは公爵自身だろう。

 

 困り果てたヴァルナル()の様子に、ルーカスは自分でも性急すぎたと反省し、軽く息をついた。

 ()()()と一緒になって焦ってはいけない。既に綱引きが始まっているのだから、慎重に、確実に、物事を進めなければ。

 

「一応言っておくがな…エシルからは、小公爵様の近侍として三男のエーリクがつくことになっている」

「イェガ男爵の息子が近侍に?」

「そうだ。だからこそ、あちらも大慌てで男爵家の、まだ子供相手に婚約なんぞと、トチ狂ったことを考えたわけだ。だからな、エシルが既にあちらについたなどと心配しなくていい。イェガ男爵には頭が痛いことだろうが……」

「そうか」

 

 ヴァルナルはホッと胸を撫で下ろす。

 どうやら公爵も、アドリアンとハヴェル公子の後継者争いについて、まったくの無関心というわけではなないらしい。

 

「じゃ、俺は戻る。お前は? アドリアン様に会っていくのか?」

 

 ルーカスに尋ねられて、ヴァルナルはアドリアンに呼ばれていたことを思い出した。

 

「あぁ。さっき会った時に、閣下との面会後に来てほしいと言われている」

「そうか。じゃ、行ってくるといい。ずいぶん、しっかりされたよ。色々とあったが、俺は小公爵様がレーゲンブルトに行ったことは、収穫だったと思うぞ」

 

 快活に言うルーカスに、ヴァルナルはホッと安堵の笑みを浮かべる。

 

「ありがとう」

 

 素直に感謝すると、ルーカスはまた皮肉げな口調に戻った。

 

「ふん。誰かさんのせいで、俺があの荒くれ者どもの世話をする羽目になったんだ…いいブランデーを用意しておくことだな。再会の時に朗報と一緒に受け取ろう」

 

 ルーカスはニヤリと笑って、ヴァルナルの背をバンと叩く。

 少々強い力にヴァルナルは顔を顰めたが、「頑張るよ」とつぶやいて、友にしばしの別れを告げた。

 

 




引き続き更新します。


感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第八十一話 エリアスの胸の裡

「そなた達は、よほどに息子を公爵にしたいようだな」

 

 戻ってきたルーカスに公爵はつぶやくように言う。まだ窓際に立って、日暮れの庭園を憂鬱に見下ろしていた。 

 

「お望みではありませんか?」

 

 ルーカスは尋ねてから、いつになく真面目な顔になって、その場に直立した。

 

「私もヴァルナルも、貴方(あなた)のご意志を何より尊重します。公爵閣下―――エリアス様が、これ以上アドリアン様に肩入れするな、手助け無用だと仰言(おっしゃ)るのであれば、その通りに致しましょう」

「………」

 

 背を向けたままの公爵(エリアス)の顔はわからない。だが、本気でアドリアンの廃嫡(はいちゃく)を考えるのであれば、既にやっているだろう。

 その時にどういう手順で行い、廃嫡したアドリアンのその後の処遇についてすらも、ルーカスは考えていた。この公爵の懐刀は何か命じられる前から、主君の気持ちを忖度して、いくつかの方策を考えているのだ、常に。

 

 問いに答えず、エリアスは淡々と話す。

 

「レーゲンブルトに行って、色々とあったようだな。帰ってきたら、随分生意気になったと、不満をもらす従僕もいたようだが…」

 

 ルーカスは丸い腹をいつも重そうに揺らして走り回っていた小公爵付きの従僕―――ウルマスの姿を思い浮かべた。

 

「かの男はアドリアン様に対して礼を失したのです。それを咎めただけのこと。生意気だなどと、申し立てる方がどうかしているのです」

 

 数日前、ウルマスは解雇された。

 元はウルマスの怠慢である。

 

 ウルマスが自分の用事を優先して、アドリアンが歴史の教師に授業の時間変更を求めた伝言を忘れた。

 それまでであれば、形だけの謝罪で終わった話であったのだが、アドリアンは何度も重ねられた自分への非礼に何らの反省もない従僕に対して、とうとう解雇という罰を下した。

 

 無論、ウルマスはすぐさま執事に文句を言い、執事もまたアドリアンに撤回を求めたが、彼らはかえって小公爵の怒りに火を注ぐ結果となった。

 

「この家ではいつから従僕や執事が主の息子に物申すようになったんだ? 礼儀も弁えぬ者がグレヴィリウスにいる必要はない」

 

 最終的に家令のヨアキム・ルンビック子爵にまで話がゆき、ルンビックは感情的になって文句を言い立てる従僕と執事の話を聞いた後、アドリアンの元を訪れて今回の経緯について尋ねた。

 アドリアンは極めて冷静に彼らの非礼について一つ一つ話して聞かせ、結果、家令は執事と従僕ウルマスを解雇した。

 

 この件以来、公爵家においてそれまでアドリアンを軽んじていた人間は戦々恐々としている。

 いつ、自分達も解雇の憂き目にあうかもしれない。

 

 しかしエリアスは冷淡に言った。

 

「礼を失していたのは今に始まったことでもなかろう」

 

 ルーカスは眉を寄せた。

 

「知っていらっしゃって、手立てを講じなかったのは、アドリアン様への恨みからですか?」

「………恨み?」

 

 エリアスは振り返ってルーカスを見つめる。

 (とび)色の瞳は赤い夕空を映しながら虚ろだった。そこにあるのは恨みでも憎しみでもなく、底知れぬ絶望だった。

 

 ルーカスは内心でエリアスを痛ましく思った。

 元々、この人は傷つきやすいのだ。それがわかっているからこそ、硬く自分の気持ちを覆った。幼い頃からの()()と、自らの強靭な意思によって。

 殻を開かせることができたのは、唯一リーディエ夫人だけだったが、彼女の死によって、再び殻は閉じられた。

 

 十年以上の歳月を経てもなお、エリアスが味わったあの時の絶望は続いているのだ…。

 

「ルーカス・ベントソン。お前はあの子がグレヴィリウス公爵たるに相応(ふさわ)しいと思うか?」

 

 エリアスは夕日を背にして、問いかける。その顔は逆光で翳っていた。

 

 ルーカスは冷静に所感を述べる。

 

「将来のことはわかりかねますが、少なくとも、今回のレーゲンブルト行きがアドリアン様に何かしらの覚悟をさせたことは間違いないでしょう。()()はあわよくばアドリアン様を殺害し、クランツ男爵の評判を(おとし)めたかったのでしょうが、結果として、後継としてはいささか自信の足りなかったアドリアン様に強固な意志を持たせることになりました」

 

 そう。皮肉にもアドリアンを追い落とすことを画策しながら、()()()はもっとも厄介な人間を目覚めさせた。

 虎の尾を踏んだのだ。まだ、小さい虎だが。

 

 エリアスは腕を組むと、軽く首をかしげながら問うた。

 

「影響を与えたのが、お前の言っていた対番(ついばん)の小僧というわけか?」

「小僧だけでなく、ヴァルナルの息子も含めて、子供同士、随分と仲良くなったようです。おそらく自分だけを狙ったのであれば、アドリアン様も今まで通り、黙って受け入れられたのでしょうが、()が危機に遭って、さすがに我慢ならなかったのでしょう」

 

 それは推測であったが、おそらく正解だろう。

 ルーカスは話しながら、フ…と口の端に笑みを浮かべた。

 

「エリアス様が公爵になると決められた時と…似ていますね」

 

 エリアスもまた、当主の息子として生まれながらも、さほどに公爵の地位に興味はなかった。なんであれば、周囲の人間の軋轢さえどうにかできれば異母弟に譲ってもよかった。

 だが、異母弟一派はよりによって、もっとも手を出してはならぬ相手に危害を加えようとしたのである。

 リーディエの危機を目の当たりにして、エリアスは確実な安寧を手に入れるために、公爵位に執着するようになった。彼が本気で望んだ時、もはや阻止できる者はいなかった。

 それまで大人しく柔弱なる小公爵とエリアスを侮っていた異母弟一派は、徹底的に叩き潰された。

 

「あなたの子ですよ、アドリアン様は」

 

 ルーカスが言うと、エリアスはまた窓の外を見て、亡き妻の丹精した庭園を眺めた。

 

「酔狂な者達だ」

 

 静かに、エリアスはつぶやく。

 

「進んでこんな重荷(モノ)を背負いたがるとは……」

 

 鳶色の瞳は虚ろだったが、その言葉は今も昔も偽らざるエリアスの本心だろう。

 

 ルーカスは目の前の主を見つめながら、その心中を思った。

 

 この人はそもそも公爵になどなるべき人ではなかった。護るべき人のために、自ら望まない姿になったのに、その人はもはや旅立ち、エリアスに残ったのは公爵という地位だけだった。……

 

「ヴァルナルの健闘を祈りましょう」

 

 ルーカスはいつもの軽い口調で言った。

 エリアスはフッと笑う。

 

「そうだな。嘘か本当かわからぬが、もし真実、その小僧に『千の目』という稀能(キノウ)の片鱗があるのならば、私から大公殿下に口添えしてもよかろう…」

 




次回は2022.09.07.に更新予定です。


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第八十二話 アドリアンに灯った希望

「あぁ、ヴァルナル。よく来てくれた」

 

 ヴァルナルがアドリアンの部屋をノックすると、現れたのは本人だった。普通は従僕が取り次ぐものなのに…とヴァルナルは少し不思議に思いつつも、招かれるままに部屋へと入った。 

 

「従僕はどうしたのです?」

「あぁ。ちょっと他に頼みごとがあって…」

「授業はないのですか?」

 

 通常であれば、この時間は学習しているはずだ。

 

「朝のうちに済ませてある。昼にはお前が来ると聞いていたから」

「わざわざ申し訳ございません」

「いいんだ。父上のところで茶を飲んだか?」

「いえ…」

 

 言えば出してくれたかもしれないが、赤くなったり青くなったりして、それどころではなかった。 

 

「じゃあ、用意しよう」

 

 アドリアンがチリンと慣れた様子でベルを鳴らす。

 しばらくして茶器の乗ったワゴンを運んできた若い従僕を見て、ヴァルナルはあっと声を上げた。

 

「サビエル! お前、何をしているんだ?」

「何って、見ての通りお茶の用意です」

 

 淡墨色の髪に、父親譲りの真っ青な瞳の青年は澄まして言ってから、クスリと悪戯(いたずら)っぽく笑ってヴァルナルに挨拶した。

 

「お久しぶりです、クランツ男爵」

「なーにがクランツ男爵だ。いつも通り呼べ、いつも通り」

 

 本人からの許可があっても、サビエルは慎重だった。チラとアドリアンを見て、小公爵が頷くのを確認してから親しげに呼びかけた。

 

「久しぶり、ヴァルナルおじさん」

 

 ヴァルナルは懐かしそうにサビエルの肩やら腕やらをペチペチ叩いた。

 

 サビエル・ラルドン。

 彼はルーカスの息子だった。

 一番目の妻が、ルーカスと別れた後に出産したのだが、彼女は事実を知ったルーカスとよりを戻すことも、ベントソン家の跡継ぎにすることも拒否した。

 

 ルーカスは元妻の意志を尊重して、サビエルを息子として認知はしなかったが、彼が成人するまでの援助を行い、頻繁に会いにも行っていたので、ヴァルナルも幼い頃から見知った仲だった。

 

「いつの間に小公爵様の従僕なんて…お前、いくつになったんだ?」

 

 ヴァルナルはいつの間にか自分と同じ目の高さになっているサビエルに驚くしかない。

 

「十八です」

「えぇ?! もう成人過ぎてたのか? すまん、何の祝いもせず」

「いいですよ。この二、三年はあちこち回って修行中みたいなものでしたからね。この前、急に小公爵様の従僕に空きができたとかで、面談があって…有り難いことに雇い入れてもらえました」

 

 公爵家においては、従僕をはじめとする使用人達ですらそう簡単には働けない。

 多くは各地の屋敷において実績を積み、主人からの推薦状を持った上で、公爵家での面接の機会を得る。そこで家令や執事などから認められて、ようやく働くことを許されるのだ。

 

 無論、公爵家に特別の伝手などがあれば、面接を免除されて、主人からの直接指示による雇用も可能であるが……

 

「ルーカスに頼まなかったのか?」

 

 サビエルには強力な縁故(コネ)があるのだから、ルーカスから公爵本人に頼めば、従僕になることはさほどに難しいことではない。

 だが、ヴァルナルの質問にサビエルは当然のように答えた。

 

「父が僕に便宜など図るわけがないでしょう。なんだったら、下手こいてオロオロするのを楽しんで見ているような人ですよ」

「……違いない」

 

 ヴァルナルは頷きながらも、ルーカスであれば息子が望むのなら、口添えするだろうと思った。もし、しないのであれば、それはきっとサビエルが望まなかったからだ。こういうところは母親譲りの潔癖さだ。

 

「それでは私はこれで。御用の際にはいつでもお呼び下さい」

 

 サビエルは用意を整えると、早々に立ち去った。

 

「サビエルはとても気がつくんだ。色々と助けてくれる」

 

 アドリアンはお茶を飲みながら穏やかな笑みを浮かべる。

 ヴァルナルはホッとした。

 前の従僕はアドリアンに対して時に不敬極まりない態度を取ることもあったが、サビエルであればそんなこともないだろう。

 それは今、このアドリアンの穏やかな様子を見てもわかる。

 

「ようございました。しかし…まさかサビエルが従僕になっているとは思いもよりませんでした。最初にベントソン卿から紹介がありましたか?」

「いいや。ベントソン卿だって知らなかったみたいなんだよ。僕が反対に紹介したんだ。今後は色々と剣術の稽古の事とかで連絡を頼むこともあるだろうから、見知っておいてもらったほうがいいと思って」

「ほぅ」

 

 ヴァルナルは思わず身を乗り出した。

 その時のルーカスの顔は見ものだったはずだ。

 

「どうでしたか? ベントソン卿の反応は?」

「サビエルはとても礼儀正しくお辞儀して、自己紹介をしたよ」

 

 言いながらアドリアンもヴァルナルの求めることがわかったのか、少し悪戯(いたずら)っぽい目になる。

 

「それで僕はベントソン卿も同じように挨拶して済むと思っていたら、いつまでたってもベントソン卿が何も言わないんだ。どうしたのかと思って見たら、顎が外れちゃったのかと思うくらい口をぱっくり開けたまま、呆然自失ってああいう状態なのかな…? なにせ、しばらくの間、サビエルを穴が開くくらい見つめていたよ」

 

 ヴァルナルは大笑いした後、残念そうに言った。

 

「いやぁ…是非にも、その場に同席したかったですね。ベントソン卿が本気で驚く姿など、そうそう見られるものではない」

「僕も一体どうしたのかと思ったよ。それから事情を聞いたら二人が親子だっていうから、今度は僕が顎が外れるくらい驚いてしまった。サビエルだけが平然としていたな。ヴァルナルはベントソン卿から聞いてなかったのか?」

「まったく聞いてません。まぁ、おそらく私が驚くだろうと思って黙っていたのでしょう」

 

 実際には、それどころでない話が続いたせいで、ルーカスが忘失したのだろうが。 

 

 アドリアンはクスリと笑ってから、話を変えた。

 

「父上との話はどうなった?」

 

 アドリアンは父に何度もヴァルナルに非がないことを訴えてはいたが、父がどこまで自分の言葉をきいてくれているのかはわからなかった。

 

 レーゲンブルトより戻ってから、毅然とした態度をとることで、以前に比べ、公爵家の使用人達からは侮られることもなくなってきたが、巌のごとく冷淡な父の前では、アドリアンはまだまだ無力だった。

 

「あぁ…新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)の随行禁止になりました」

 

 ヴァルナルがあっさり言うと、アドリアンは愕然とした。

 思わず聞き返す。

 

新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)の随行禁止…って、帝都に行けないってこと? 本当に?」

「えぇ、まぁ仕方ないです」

 

 ヴァルナルは肩をすくめてお茶を口に含んだが、アドリアンは立ち上がった。

 

「……父上に意見してくる」

 

 足早に扉へと向かうアドリアンを、ヴァルナルはあわてて止めた。

 

「待って下さい! 大丈夫です。大した罰じゃないです」

「なにが!? 新年の帝都への出入りを禁止されるなんて、まるで罪人じゃないか!」

「いや、まぁ…一応、罰ですから」

「撤回してもらう!」

 

 いきりたつアドリアンをヴァルナルはなだめつつ少しばかり嬉しかった。思わず顔がほころぶ。

 

「……笑っている場合か?」

「いえいえ。小公爵様がこうまで怒って下さることが嬉しいのです。ですが、本当に大丈夫です。私はこの罰に納得しておりますし……その…なんでしたら……ありがたくもある話…ではあるので」

 

 アドリアンは、急に声が小さくなって、気恥ずかしそうに言うヴァルナルを怪訝に見た。

 

「ありがたい?」

「はぁ…まぁ……色々と大変ではあると思うのですが、こうまで尻を叩かれるのであれば、とりあえず全力を尽くす…といっても、向こうが嫌がるようであれば無理強いはできませんが…」

 

 口の中でブツブツ言っているヴァルナルを見て、アドリアンは首をかしげる。

 

「ヴァルナル? 何を言ってるんだ?」

 

 不思議そうに問われて、ヴァルナルはハッと顔を上げた。

 

「申し訳ございません」

「いや…レーゲンブルトでなにか大変なことがあるのか?」 

 

 アドリアンの問いかけに、ヴァルナルは溜息をついた。

 確かに大変なことだ。自分にとっては。

 

 嘆息するヴァルナルをアドリアンは心配そうに見つめた。

 ヴァルナルもじっと見返しながら、小さな声で尋ねた。

 

「あの、小公爵様。例えば…例えばですが、もし、オヅマが小公爵様の近侍となる……なんてことがあれば……」

 

 ヴァルナルの話が終わる前にアドリアンの顔がパッと輝いた。

 

「本当か!?」

「…………」

 

 ヴァルナルはアドリアンのその顔を見た途端に、自分の言葉を否定することが出来なくなった。

 

「オヅマがここに来るってことか?」

 

 アドリアンの心は一気にわきたった。

 レーゲンブルトでろくに話すこともできずに別れてしまい、また再会できるかどうかもわからない。何であれば二度と会うこともないかもしれないと覚悟していたので、ヴァルナルの話はアドリアンとって雲間に差した光明だった。

 

 ヴァルナルはあまりに嬉しそうなアドリアンの様子に、困りつつも喜んだ。

 グレヴィリウス家の少々特殊と言える教育方針によって、常に表情を崩すことのない、異様に大人びた少年であった小公爵様が、こうまで感情豊かに見せるようになったのは、オヅマのお陰だろう。

 

「えぇ…条件が整えば可能かもしれません」

 

 ヴァルナルが認めると、アドリアンは「条件?」と聞き返す。

 ヴァルナルはポリポリと頬を掻いて、言いにくそうに話した。

 

「その…私が……オヅマの父になれば…ということです」

「ヴァルナルが、オヅマの父?」

 

 アドリアンは鸚鵡返しにたずねてから、しばし黙考した。

 真っ赤な顔の師匠をまじまじと見つめる。

 

「あぁ……」

 

 さほど時間もかからずアドリアンは事情を汲み取ると、椅子に戻った。

 

「そういうことか」

 

 言いながら、父がヴァルナルに与えた罰の意味もわかって、内心でホッとした。

 文字通りの処罰ではないようだ。

 一年の半分をアールリンデンと帝都で過ごすヴァルナルでは、いつまでたっても進展しないだろうから、という…ある意味、温情だ。

 

「ヴァルナル」

 

 アドリアンはにっこり笑って言った。「がんばって」

 

 ヴァルナルはハハと力なく笑いつつも、「善処します」と答えるしかなかった。

 

 斯くして―――――

 

 ヴァルナルは覚悟を決めるしかなかった。

 オヅマをアドリアンの近侍にする。そのためには今のままのオヅマを公爵家に上げるわけにはいかない。最低限の教養と礼儀作法を身につけてもらう必要がある。

 

 それにこれはオヅマにとっても有用なことだった。

『千の目』などという稀能(キノウ)をむやみに発現して、その度に吐血などしていればそのうちに命を落とす。

 オヅマには適切な指導を行える師が必要だ。

 アドリアンの近侍となれば、ゆくゆくは帝都にも行くことになるだろう。そこで大公殿下に指導をお願いすることもできるやもしれぬ。………

 

 むろんこれらのことは全て、オヅマが意識を取り戻して、順調に回復していけば、の話だ。

 ビョルネ医師の診察では、特に身体の異常は見られない、とのことだった。「おそらく数日中には目を覚ますでしょう」とも。

 

 小公爵の近侍に求められるのは、健康と知力、体力だ。

 意識さえ戻れば、おそらく健康と体力については申し分ない。

 問題は知力。マッケネンの話だと、頭は悪くないようだが、ムラッ気があるので、なかなか教えるのには難儀しているらしい。……

 

 

 

 ゆっくりと……錯綜する思いが、オヅマの人生を動かしていく。

 なにも知らぬオヅマが目を覚ますのは、それから十日後のことだった。

 




次回は2022.09.11.更新予定です。


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第八十三話 オヅマ、目覚める

 誘拐事件のあった日から二月(ふたつき)ほどが過ぎた種撒き月の半ばに、ようやくオヅマははっきりと目覚めた。

 

 騎士見習いとして当然のように夜明け前の時間に目を覚まし、いざ起き上がってみれば、元いた小屋とはあまりに違う豪華な内装の部屋に混乱する。いつも隣のベッドで寝ていたアドリアンの姿もなく、薄暗い部屋の中で、オヅマはゾワリと肝を冷やした。

 

 

 ―――――まさか……()()()なのか?

 

 

 内心で問いかけながら、オヅマにも()()()がどこであるのかは、はっきりわかっていない。ただ、見ていた()の中で、同じような豪華なベッドで寝ていた気がして、オヅマは怖くなった。

 

 

 ―――――私は決して、お前を見捨てたりはしない……

 

 

 低い男の声が不気味に響く…。

 

 耳を押さえて身を縮こまらせていると、ドアが開いた。

 ビクリと顔を上げて、そこに現れた母の姿に、オヅマは心底ホッとした。

 

「母さん…」

 

 ミーナはオヅマが寝たきりとなってから、毎日早朝には息子の様子を見に行くことが日課になっていたが、その日、扉を開けて入るなり呼びかけてきたオヅマの姿に、信じられないように呆っと立ち尽くした。

 

「母さん?」

 

 オヅマがもう一度声をかけると、ミーナはダダッと駆け寄るなり、オヅマを抱きしめた。

 オヅマは久しぶりに母親に抱かれて少し気恥ずかしかったが、幸いなことにマリーもいないので、そのまま受け容れた。

 母の匂いが懐かしかった。

 

 ミーナは涙を流しながら、ようやく目覚めた息子の頬を撫でて、再び抱きしめる。「よかった」と何度もつぶやきながら。

 

「それで…マリーは? 大丈夫?」

 

 ようやく落ち着いた母にオヅマがまず尋ねたのはマリーのことだった。

 あの時、悲鳴を上げて倒れたマリーの白い顔で、オヅマの記憶は止まっている。

 

「大丈夫よ。もう元気にしているわ」

「……そっか」

 

 オヅマはホッとしたものの、少しだけ心配だった。マリーは男の首を斬った自分を恐ろしがるかもしれない。

 もし、マリーが自分を避けるようなら……そう考えて暗い顔になった時、当のマリーが姿を現した。マリーもまた、母と同じようにオヅマの様子を毎日見に来ていたのだ。

 

「お兄ちゃん!」

 

 マリーは起き上がっているオヅマを見るなり叫んで、飛ぶように抱きついた。

 

「ごめんね! 私のせいで…ごめんね!」

 

 マリーがしゃくり上げて泣きながら言うのを、オヅマは不思議がった。

 

「なんでお前が謝るんだよ?」

「だって、お兄ちゃん…私を助けてくれたのに、私、怖くて…叫んじゃったから…お兄ちゃん、必死だったのに……私が…」

 

 オヅマは泣きそうになった。

 さっきまでの心配は吹っ飛んだ。

 マリーは…やっぱりマリーだ。あんな怖い思いをさせたのに、謝るなんて。

 

「バーカ。気にしてねぇよ」

 

 オヅマは笑って、マリーの頭を軽くポンポンと叩いた。

 

 それでも泣きじゃくる妹を慰めて、いったん落ち着かせてから、オヅマは早速、以前のように騎士見習いとしての朝の仕事にとりかかろうと思ったのだが、情けないことに長く寝たきり生活であったために、すっかり筋肉が落ちていた。生まれたての仔山羊よりも、よろよろと歩く自分に愕然とする。

 

 すぐさまビョルネ医師の診察を受け、徐々に筋力を戻すことと栄養を摂取することを指示された。

 

「いーいですか? 徐・々・に! です。君はなんでも性急すぎるところがありますからね。徐々に、ゆっっっっくりと! 焦らず! 身体の機能を戻していくように!」

 

 早く治せと喚くオヅマにビョルネ医師は念に念を押して諭した。

 オヅマは不満だったが、実際に動こうとしても体が言う事をきかないのだから、医師の言われた通りにやっていくしかなかった。…………が、やはり気が逸る。

 

「それにしても……よく食べるね…」

 

 オリヴェルは目の前で三本目の鹿肉ソーセージを食べるオヅマに呆れつつ圧倒された。一本あたり四十(もんめ)(*約150グラム)近くある鹿肉ソーセージは、オリヴェルなどは普段でも半分食べるのがやっとだ。大人でも二本で十分という質量のものなのに、数時間前に意識を取り戻したばかりでよく食べられるものだ…。

 

「仕方ねぇだろ。たくさん食って、力戻さないといけないんだから…」

「徐々に、って言われてたと思うけど…」

「運動はできることからやってくしかないけど、食べるのはできるから、やれるだけやる」

「お腹壊さないようにね…」

 

 オリヴェルにできる忠告はそれぐらいだった。

 三本目のソーセージを食べる前には、レバーパテを挟んだパンも一個丸ごと食べているし、シチューもおかわりしている。見てるこっちが胃もたれしそうだ。

 

「お兄ちゃーん、ピーカンパイ出来たよ~」

 

 オリヴェルがオヅマの食欲に白目がちになっている間にも、マリーが焼きたてのピーカンパイを運んでくる。甘く香ばしい匂いはいつもならおいしそうに思うのだが、今日は無理だな…とオリヴェルは軽く溜息をついた。

 

 まぁ…でも。

 

 マリーの心底嬉しそうな笑顔が見れたのが、オリヴェルには一番喜ばしいことだった。

 アドリアンも帰って、オヅマの意識も戻らず、この二月(ふたつき)の間のマリーは本当に元気がなかった。

 

 アドリアンが帰る直前に声が戻ると、毎日頻繁に…というよりほとんど詰めっきりでオヅマの部屋にいて、返事のない兄に呼びかけたり、話しかけていた。時々うなされていると、以前にオヅマが歌ってくれた子守唄を歌うこともあった。

 それでも目を覚まさない兄に、毎日泣いていた。

 

 オリヴェルはそれを見ていることしかできない自分がもどかしかった。本当に自分はいつも見ていることしかできない……。

 

「あーあ。アドルがいたら、きっとすごく喜んだのに…残念だわ。お兄ちゃん、どうしてもっと早くに起きなかったのよ?」

 

 マリーは半分に切り分けたピーカンパイを手に持って食べる兄の旺盛な食欲に、すっかり安堵して言った。

 

「ずっとずうぅーっと、アドルが看病してたんだから。帰るまで、ずっと。お兄ちゃんがなかなか起きないから、お別れの挨拶もできなかったじゃない」

「知らねぇよ。あいつが勝手に帰ったんだろ」

「仕方ないよ。実家に呼ばれたんだから。きっと、色々聞いて心配されたんじゃないかな」

 

 オリヴェルが言うと、マリーは少しだけ寂しそうな顔になった後に、「そうだ!」と声を上げた。

 

「アドルに貰ったものがあるの。お兄ちゃんにも見せたげる!」

 

 言うやいなや、マリーは走って行った。

 

「………元気なやつ」

 

 オヅマはあきれたように言いつつも、微笑んだ。

 何より、マリーが無事であればいい。元気で笑ってくれていれば、自分の痛みなど軽いものだ。

 オリヴェルも頷いてからホッとしたように言った。

 

「良かったよ。あの後、少しの間、マリー、声が出なくなってたんだ」

「え?」

 

 オヅマはピーカンパイを食べる手を止めた。「なんだって?」

 

 オリヴェルは自分の軽率な発言を後悔したが、今更、ごまかすこともできない。

 

「あの…ほんの少しの間だったけど…マリー、ショックで声が出なくなっちゃって…」

 

 オヅマの顔が固まるのを見て、オリヴェルはあわてて言い足した。

 

「本当にちょっと間だから! アドルが帰るときに、ギリギリで戻ったんだよ」

「……アドルが帰る時?」

「うん。アドルが帰るって知って、マリー、あわてて追いかけて…その時に声が出たんだって」

 

 オヅマはしばし、その情景を思い浮かべた。

 そうして鸚鵡返しに尋ねる。

 

「……アドルを追いかけて?」

「う…ん……そう…」

 

 オリヴェルは戸惑いながら頷いた。

 オヅマは面白くなさげに腕を組んで、再びつぶやく。 

 

「……アドルを追いかけて…」

「……そうだね…」

「…………」

「…………」

 

 オヅマはぎゅうぅと顔中のパーツを真ん中に寄せて渋い顔になったし、オリヴェルもなぜか、モヤモヤした気分が湧き出てきた。

 

 

 ――――なんでアドル相手にそんな必死になるんだ?

 

 ――――仕方ないよね。アドルはあの時、帰るところだったんだから…。

 

 

 両者の解釈は微妙に食い違いつつも、オヅマもオリヴェルもこの話題についてあまり深入りしない方がよろしかろう…という点で一致して、二人は黙り込んだ。

 

 しかし、戻ってきたマリーが無邪気な笑顔を見せて、(くだん)の人物の名を叫ぶ。

 

「見て! 見て! これ! アドルに貰ったの!!」

 

 頬を紅潮させて走ってきた妹が、嬉しそうにアドルの名を呼ぶ。オヅマの眉がピクッと苛立ちを浮かべた。

 オリヴェルもニコニコと笑いながら、そっとマリーから視線をそらす。

 

 マリーは別れ際にアドルにかけてもらったコートを大事そうに抱えて、オヅマの前に立つと、自分の体に合わせるようにして見せびらかした。

 

「格好いいでしょう、このコート! とってもあったかいの。アドル、大きいから私が着ても、袖から手が出ないの」

「……じゃ、俺がもらってやる」

 

 オヅマがヒョイと取り上げると、マリーは真っ赤な顔で怒り出した。

 

「冗談じゃないわ! 私がもらったんだから!!」

「こんなモン、お前が着るやつじゃないだろ。男物なんだから」

 

 黒を基調に、紺の縒紐で縁取りされた襟や袖口、中央部分には裏地に使われた黒狐の毛が縫い込まれ、間隔をあけて金色の釦が並んだそのコートは、確かに少女のマリーが着るには硬質な印象だった。

 

 しかし、マリーにはそんなことは関係ない。

 

「返してよ!」

「………」

 

 憤然と抗議するマリーはもう涙を浮かべていた。

 オヅマはいつもなら軽口を二、三挟んでから返すところだったが、この時は早々に差し出した。

 どうも…具合が悪い。色々と。

 

 マリーは怒ったようにオヅマからコートを取り上げ、ブツブツ文句を言いながらコートの皺を伸ばしたりしていたが、ふと目に止まったものに声をあげる。

 

「……あれ? なんだろ、これ?」

「どうしたの?」

 

 オリヴェルとオヅマもなんとなく気になって覗き込むと、マリーは襟元にある小さな紋章(エンブレム)を示した。

 

「これ、なんだろ? ……鹿? と、スズランよね、この花。これは鎌?」

「うん、そうだね」

 

 オリヴェルはすぐにわかった。

 

 牝鹿とスズラン、交差した鎌と剣はグレヴィリウス公爵家の家紋だ。

 つまり、このコートは特別に誂えた一点物なのだろう。グレヴィリウス公爵家の一人息子であれば、不思議もない。むしろ、質素なくらいだ。

 

「グレヴィリウスの家紋だな」

 

 オヅマが言うと、オリヴェルは驚いた。

 

「オヅマ、知ってるの?」

「知らない訳があるかよ。鎧にも刻んであるし、盾にもついてるぜ。この鹿は牝鹿なんだぞ、マリー」

「そうなんだ」

「牝鹿はサラ=ティナ神の化身ってことで、選ばれたらしいや。まぁ、だいぶ昔の話で本当かどうかわかんねぇらしいけど」

「へぇ…でも、なんでアドルのコートについてるの?」

 

 マリーの単純な質問に、オリヴェルは詰まった。

 

 アドリアンが直接、オヅマとマリーに自分の正体を話すことを約束したので、領主館では未だにアドリアンが小公爵であることについて箝口令が()かれている。

 

 オリヴェルは約束した当人だから、無論、言うわけにはいかない。

 口ごもっていると、オヅマは当然のように言った。

 

「そりゃそうだろ。あいつ、公爵の………」

 

 オリヴェルはオヅマの口から出て来たまさかの言葉に顔を引き攣らせた。いつの間に知っていたのかと思ったが……

 

「従僕だし」

 

 次に続いた言葉に、一気に脱力する。

 ソファに倒れるように体を凭せかけた。

 

「どうしたの、オリヴェル? 大丈夫? 気分が悪いの?」

 

 マリーが心配そうに尋ねると、手を振って笑った。

 

「いや…大丈夫。ちょっとめまいがしただけで…」

「じゃあ寝ておいた方が…お母さん呼んでくる?」

「いや、大丈夫。うん……そうなんだよ。従僕…公爵様の従僕らしいよね」

 

 オリヴェルは自分に言い聞かせるように言った。

 あぁ…心臓に悪い。

 

「ま、そういうことだから。マリー、それ支給品だろうから、今度会ったら返せよ」

 

 オヅマが言うと、マリーは少ししょんぼりしながらも、頷いた。

 

「そっか。そうだね…アドル、あの時私があわてて寝間着で来たから、きっと寒そうだと思ってかけてくれたんだ」

「なんだよ。貰ったんじゃねえじゃねぇか、それ」

「だって返せって言われなかったもん。領主様だって、もらっておけばいいって…」

「だあぁ~っ!!」

 

 オヅマはくしゃくしゃと頭を掻いて叫んだ。

 

「どうしてなんだって、みんなして甘い! マリーに甘すぎる! 領主様まで!!」

「……………」

 

 オリヴェルはあきれた…というより、もはやゲンナリとオヅマを見つめた。

 

 一体、どの口が何を言っているんだろうか。

 この領主館で…というより、おそらくこの世で最もマリーに甘いのはオヅマだろうに。 

 




引き続き更新します。


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第八十四話 ヴァルナルの教え

 オヅマが完全に目を覚ました三日後、ヴァルナルが領主館に帰ってきた。

 公爵からの処分があった翌日にアールリンデンを発ったヴァルナルは、その足で領地視察を行い、十日ほどかけて領府(レーゲンブルト)に戻ってきたのだ。

 

 夕暮れ間近に帰ってきた領主様を出迎えた一同の中で、特にニコニコと笑って中央にいたのがオリヴェルとマリーだった。

 二人の嬉しそうな様子に、ヴァルナルは疲れがふっと弛んだ。

 

「どうした二人とも。えらくご機嫌だね?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、オリヴェルとマリーは目を見合わせてから、また笑った。

 

「実は……」

 

 オリヴェルが話そうとすると、マリーはヴァルナルの手を掴んだ。

 

「駄目よ、オリー。領主様、こっちに来て!」

 

 マリーがヴァルナルを引っ張って行こうとするのを、ミーナはあわてて制止しようとしたが、ヴァルナルが手で止めた。

 

「いや、構わない。マリー、どこに連れて行ってくれるんだい?」

「こっち!」

 

 マリーだけでなく、オリヴェルももう片方の手を掴んで、ヴァルナルを引っ張っていく。

 ヴァルナルは案外と強い力で引っ張るオリヴェルに成長を感じた。今では階段を登るのも、息切れする様子もない。あるいは病が治癒したのではないか…と密かな希望を持ってしまう。

 無論、病が治ろうが治るまいが、オリヴェルが愛すべき息子であることに変わりはないが。

 

 二人が引っ張っていく先が、療養しているオヅマの部屋だと気付くと、ヴァルナルは思わず問いかけた。

 

「オヅマの意識が戻ったのか?」

 

 二人はニコと笑って答えず、扉を開く。

 

「お兄ちゃん! 領主様が帰ってきたよ!」

 

 マリーがヴァルナルと手を繋ぎながら入って行くと、オヅマはしばらくその光景に固まった。背後からはオリヴェルと母であるミーナの姿も見える。

 

 オヅマは読んでいた本をかたわらに置くと、キッとヴァルナルを睨んだ。

 

「オヅマ…戻ったか」

 

 ヴァルナルはオヅマの剣呑とした様子に少し驚きつつも、鷹揚に微笑んだ。

 

「………戻ったのは、領主様の方じゃないんですか?」

「それもそうだな」 

 

 オヅマはニコニコと笑っているヴァルナルと、同じように笑顔の母を見て、ムスっと仏頂面になった。

 兄の不機嫌な様子に、マリーが小首をかしげる。

 

「どうしたの? お兄ちゃん。なんで怒ってるの?」

「……なんでもねぇよ」

「お腹すいた?」

「違う」

「じゃあ、なんで怒ってるの?」

「怒ってんじゃなくて! その……なんか……仲良さそう…だな…って」

「え?」

 

 聞き返したのはマリーだけではなかった。その場にいた全員が、揃って訳がわからないような顔になるのも、オヅマにはひどく落ち着かない。

 くしゃくしゃと頭を掻いてから、ヴァルナルに問いかけた。

 

「まさか、俺が寝てる間に勝手に家族になったんですか?」

 

 ヴァルナルとミーナは絶句し、オリヴェルとマリーはぽかんと口をあけた。

 

 一番最初に反応したのはミーナだった。真っ赤に上気した顔で、病み上がりの息子を怒鳴りつけた。

 

「何を馬鹿なこと言ってるの! まだ寝ぼけているの?!」

 

 下からマリーがあどけなく問うてくる。

 

「お母さん、私達、家族なの?」

 

 違います! と言いかけてミーナは口ごもった。

 オリヴェルがじっと見つめてくる。その瞳には微かな期待があった。

 

「…………」

 

 ミーナは困って、うつむいた。

 

 オリヴェルの世話をするようになってから、もう一年になる。

 長く淋しい境遇にあったオリヴェルに同情し、ミーナは誠心誠意、仕えてきた。時に、オリヴェルがあまりに自分を卑下して、投げやりなことを言うと、厳しく叱ることもあった。

 

 今では、息子同然に思っている。

 オリヴェルもまた、ミーナのことを母同然に思って打ち解けてくれている。

 

 その目の前で『家族ではない』と断言することは、ミーナを信じてくれているオリヴェルを失望させてしまうだろう。

 

 それに――――

 

 ミーナはチラっとヴァルナルを見た。

 マリーの質問に、戸惑いながらも朗らかな笑みを浮かべている。

 

 ミーナはなぜか胸がしめつけられた。

 

 さっきから無礼な態度の息子にも、寛容な領主様。

 彼の前で『家族ではない』と、はっきり言うのが正直、嫌だった。

 それに―――どこかで、ヴァルナル()きっぱり否定しないでいてくれることに、喜んでいる自分がいる……。

 

 ミーナは自分に湧き起こる、甘く、不穏な気持ちを静かに押し隠した。

 

「………オリヴェル様。そろそろ夕餉の時間でございますから、お召し替え致しましょう」

 

 ミーナが声をかけると、オリヴェルは頷いてから、ヴァルナルに尋ねた。

 

「じゃあ、父上…今日は一緒にお食事できますか?」

「あぁ、もちろんだ」

 

 ヴァルナルが頷くと、オリヴェルは嬉しそうに笑って、オヅマに声をかけた。

 

「オヅマも一緒にどう?」

「まさか…」

 

 ヴァルナルが帝都に行って留守の時には、オリヴェルが一人では寂しいからと、母やマリーも加えたみんなで一緒に食事することはあったが、さすがに領主様と一緒のテーブルにつくことなど考えられない。

 

 オリヴェルは少し残念そうに笑って、無邪気に言った。

 

「これでみんなで食事できたら、本当に家族みたいなのにね」

 

 オヅマとミーナは固まり、ヴァルナルは苦笑し、マリーだけが楽しげに同意する。

 

「本当ね!」

「………さ、参りましょう」

 

 ミーナはぎこちなくオリヴェルを促し、マリーの手を取る。

 

「じゃあね」

 

 三人が去っていくと、部屋にはヴァルナルとオヅマ二人きりになった。

 

 

 

 ヴァルナルはコホンと咳払いすると、ベッドの横に置かれている椅子に腰掛けた。

 

「別に家族になったわけじゃない。お前が意識を失くしている間に、そんな勝手なことをするわけもないだろう」

「………」

 

 オヅマは眉を寄せた。

 母の反応を見る限り、勝手に結婚したとかいうのではないようだが、それにしても随分と仲良くなっている気がする。

 だがそれを認めるのも癪で、オヅマは話題を変えた。

 

「それで…俺、詳しいことあんまり聞いてないんですけど、もう大丈夫なんですか? アドルが帰ったのって、今回のことのせいですか?」

「あぁ…そうだな…」

 

 ヴァルナルはオヅマの様子を慎重に窺った。

 

 ほぼ昏睡状態となっている間も、オヅマは何度か意識を取り戻すことがあったのだが、その度に意味不明なことを口走ることが多かった。自分で自分の首を絞めるようなことまでしたくらいだ。

 おそらく初めて殺人をしたことによる衝撃なのだろうとヴァルナルは推測していたが、まだ引きずっていないだろうか?

 

 とりあえず一連の事件のあらましを説明すると、意外にもオヅマはダニエルの殺人についてあっさりと肯定した。

 

「じゃあ、俺があの男を殺したのは問題ないですね」

 

 冷淡な口調でオヅマが言うのを、ヴァルナルは違和感を抱きつつ頷いた。

 

「あぁ…あの状況で捕縛は難しかったのだろうと…アドリアンも言っていた」

「マリーを殺そうとしてたんだから…殺されたって当然だ」

 

 オヅマは固く組んだ自分の両手を見つめながら断じる。

 ヴァルナルの方を見ようとしないその目は暗かった。

 

「オヅマ…あの男が死んだのは自業自得だが、お前が殺すことは当然じゃない」

「………」

 

 オヅマはどんよりとした目でヴァルナルを見た。

 

「人を殺すことを、当たり前だと思わないでくれ。それでお前は苦しむかもしれんが、受け止めなければならない」

 

 オヅマはその言葉をゆっくり反芻してから、眉を寄せる。

 

「………戦で、何十人…何百人と殺してきた人が言うんですか?」

「あぁ…そうだ」

 

 オヅマの辛辣な問いに、ヴァルナルは苦しそうに頷く。オヅマは拳を握りしめながら、皮肉な笑みを浮かべた。

 

「そんなの…おかしい。そんなの…自分を憐れんでるだけじゃないか。何の意味があるんだよ」

「オヅマ……」

 

 何か言いかけるヴァルナルを遮って、オヅマは話を打ち切った。

 

「事件がもう終わったんなら、俺から言うことは何もないです。マリーとオリヴェルが無事ならいいし。この部屋もお客様用だから、明日には兵舎か…下男部屋にでも移ります。オッケの部屋が空いてるでしょう?」

 

 オヅマの中であの事件はすっかり過去のものになっていた。

 首謀者は死に、騒動は終わった。それ以上のことを自分が考える必要はない。そう。考えなくていい。考えても、仕方ないのだから――――。

 

 ヴァルナルは無機質な表情になったオヅマを心配そうに見つめていたが、軽く息を吐いて気持ちを入れ替えた。

 

「いや。お前には別に部屋を用意する。それまではここにいればよい」

「は? なんで?」

 

 怪訝にオヅマが問うたが、ヴァルナルは答えず、さらにつけ加えた。

 

「下男の仕事もしなくてよい。それとこれからはオリヴェルと一緒に授業を受けてもらう」

「はい?」

「マッケネンから基礎的なことは学んでいたようだが、今後は礼法も含めて、専門の教師から教わるように。あぁ、それと今日はまだ歩くのも難しいようだからいいが、今後、食事は私達と一緒にとってもらう」

 

 次から次へと奇妙なことを言われて、オヅマはすっかり面食らった。

 

「何言ってんですか? 食事って…領主様と、ってことですか?」

「そうだ。礼儀作法も、実地で学ぶのが一番早いからな」

「なんで食事の礼儀作法なんて学ぶ必要があるんですか? 関係ないでしょう、騎士になるのに」

 

 ヴァルナルはフフっと意味深に笑って立ち上がると、オヅマに尋ねた。

 

「騎士になるのは、何の為だ?」

 

 あまりに基本的な質問だ。

 

「……強く…なるため?」

 

 オヅマは反射的に答えつつも、自信がなかった。

 案の定、ヴァルナルがゆるく首を振る。

 

「強くあろうとすることは騎士にとって必要だが、それが目的となってはいけない。オヅマ、お前はもう体現している。お前があの男を殺したのは、なぜだった?」

「それは…マリーを助けるために」

「そうだ。騎士は護るべきものの為に、騎士になる。そのために体も心も鍛えていくのだ。覚悟しろ、オヅマ。これまで以上に、厳しくてしていくつもりだからな」

 

 楽しそうに言ってヴァルナルが立ち去った後、オヅマは呆然とつぶやいた。

 

「嘘だろ…」

 

 




次回は2022.09.14.に更新予定です。


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第八十五話 アドリアンの贈り物

 アドリアンはヴァルナルに、少々かさばる荷物を託した。

 そもそもヴァルナルに部屋に訪ねて来るよう頼んだのは、その荷物を渡すためである。

 

「なんですか? これは?」

「お土産…かな? オリヴェルに渡してくれ」

「オリヴェルに?」

 

 ヴァルナルは少し意外だった。オヅマに宛てたものだと思っていたからだ。

 アドリアンは頷いて、

 

「絶対に渡しておいてくれ。オリヴェルのためになるものだから」

と、念を押した。

 

 それをヴァルナルから受け取って、包みを解いたオリヴェルは、現れた色彩豊かな絵画に声をなくした。

 

「わぁ…すごい!」

 

 一緒にいたマリーが歓声を上げる。

 

 絵は全部で三枚あった。

 大きさはちょうど、大・中・小と一枚ずつ。

 

 一番大きいのは夜の荒野を描いたもの。中くらいのものは舞台の上で踊る踊り子、一番小さいものは、胸までの女性の肖像画だった。

 その中でも一番にオリヴェルの目を引いたのは、踊り子のものだ。

 

 踊り子の姿は完全なものではなかった。

 ブレたような線、無心に踊る踊り子の心情を表したような無機質な表情。

 いくつもの色が煙のように踊り子の輪郭を取り巻き、粗末な舞台の上に立つ彼女を異質なものにしている。

 振り出した指の先からは、紫の煙のような揺らめきが空間を漂っている。まるで呪いか祈りを具現化したかのようだ。

 暗がりの客に顔はない。彼らは彼女の踊りに圧倒されているかのように、その姿は灰色に歪んでいた。

 卑賤な身の上であるはずの踊り子のほとばしる生命力は、神々しくさえあった。そう感じられるだけの迫力を持って、その絵は描かれていた。

 

 

 ――――ただ見たままを捉えて絵にするのではなく、自分の心に感じたものも絵にする…

 

 

 オリヴェルはアドリアンの言葉を思い出した。

 まさにこの絵は、画家の心情―――この踊り子を見た時に感じた感動もそのままに描いているのがわかる。

 

 夜の荒野の絵は、踊り子のものに比べると落ち着いたものだった。

 だが、風でうねる荒野の草木はどこかおどろおどろしく、対照的に濃紺の空に浮かぶ満月の光は静謐で、冷たさを孕んで、地上の闇夜を照らしていた。

 

 女性の胸までの肖像画は既存の肖像画からは、大きくかけ離れた絵だった。

 なにせ、顔の色が一定ではない。点々と細かく塗られた赤、緑、白、黒、青、灰、紫、黄。様々な色で形作られていた。

 それなのにちゃんと人の顔として違和感がない。

 黒い目には、映り込んだ画家の姿も描かれていた。それはこの肖像画の女性と似通った顔立ちの女性だった。眉の太さが印象的だ。

 

「なんか、手紙もあるぞ」

 

 解いた包みの中に紛れていた藍色の封筒をオヅマが見つけて、オリヴェルに差し出す。

 オリヴェルが受け取ると、マリーが興味津々と尋ねてくる。

 

「なんて書いてるの? ねぇ、読んで」

 

 オリヴェルは頷くと、声に出して読んだ。

 

「『懐かしい友、オリヴェルへ。

 以前に話したマリ=エナ・ハルカムの絵を君に贈るよ。

 倉庫に仕舞われていたものから、僕が選んだ。

 彼女の活動は長くなかったけれど、最初の頃と終わりの頃でずいぶんと描き方が変わっていったようなので、それがわかるように選んでみた。

 初期の頃のものは夜の荒野の絵だ。

 その次が踊り子の絵。

 一番新しいものが自画像。

 この自画像を描いた後に、彼女は公爵家から出て行ってしまって、その後の行方はわからない。他所(よそ)で彼女の絵が出回ったこともないから、彼女は公爵家から出た後には、描くことをやめてしまったのかもしれない。

 女性の画家で、少しばかり特殊な絵なので、あまり好む人は少なかったのだろうね。

 君が描きたいと望む絵の参考になればと思う。

 いつか君の描いた絵を飾りたいと思うよ。待っているね。小さな』………」

 

 中途半端に止まってしまったオリヴェルの顔が赤くなって、マリーが「どうしたの?」と声をかける。

 

「いや。うん…」

 

 オリヴェルは曖昧な笑みを浮かべて手紙を封筒にしまおうとしたが、オヅマがさっと取り上げた。

 

「あっ!」

 

 オリヴェルが声を上げると同時に、オヅマが手紙の末文を読み上げる。

 

「……『待ってるね。小さなオリヴェル画伯様。信奉者(ファン)の一人より』……あいつ、口がうまいな」

「もう! オヅマ! 返してよ」

「はいよ。オリヴェル画伯」

 

 オリヴェルに手紙を渡してから、オヅマは三枚の絵をまじまじと見て肩をすくめた。

 

「なーんか…普通にうまいって感じの絵じゃないけど、夜中に飛び出てきそうな感じがするな」

「そうだね。躍動感というか…なんというんだろう、画家の気持ちみたいなのが、とても強く感じるよ」

「ふーん。じゃ、気に入ったんだな?」

「え? ……うん、もちろん」

 

 頷いてから、オリヴェルはもう一度手紙を見てみる。最後の一文を読んで、また顔を赤くしながら笑みを浮かべる。

 

「…まさかアドルが僕の絵のことを気にかけてくれていたとは思わなかったよ。大したことじゃないし、忘れてると思ってたのに」

「そういうやつさ。抜けてるときもあるけど」

 

 オヅマは少し懐かしくなった。

 自分が寝込んでいる間に帰ってしまったと聞いた時には、不思議と寂しさを感じなかった。

 どうせまた会えるだろう、と何故か確信に近く思ったのだ。だが、こうして手紙なんかをもらうと、遠く去ってしまったのだと妙に実感する。

 

 一人、ふくれっ面になったのはマリーだった。

 

「なんでオリーにだけ? 私は? 私にお手紙ないの?」

「え? あれ? ないのかな…?」

 

 オリヴェルはあわてて包み紙の間を調べてみたが、手紙もメモも何もなかった。

 

「文句言うなよ。お前はアドルからあの外套(コート)をもらってんじゃねぇか」

「それはそうだけど…。私もお手紙欲しいんだもん」

「俺なんざ、なーんももらってないんだぜ。さんざ世話してやったってのに」

 

「まぁ、よく言うわ」

 

 それまで静かに子供達を見守りつつ、繕い物をしていたミーナがあきれたように言った。

 

「あなたが意識を失っている間、一番面倒をみてくれていたのはアドルなのよ。それこそ水を飲ますのだって、濡らした手拭いで口を湿らせてくれたり、毎日着替えだって手伝ってくれて」 

「知らねーし」

 

 オヅマは面倒そうに答えつつも、どこかでボンヤリと覚えがあるような気もしていた。ハッキリと目覚めるまでに、何度か意識を取り戻すこともあったらしいが、その時の記憶は全部おぼろげだ。

 

「ラベンダー水で体だって拭いてくれていたんですからね。お陰で、起きた時に臭くなかったでしょう? 感謝しないと」

「あぁ、もう! わかったわかった」

 

 だんだん恥ずかしくなってきて、オヅマは立ち上がった。

 

「あら、どこ行くの?」

「図書室。明日までに調べとけって言われてるから」

 

 ヴァルナルは領地視察から帰ってきた日の予告通り、その翌々日にはオヅマとオリヴェルに一緒に授業を受けさせた。ビョルネ医師から、まだ激しい運動は禁止されているが、座学は問題ないと承諾を得たからだ。

 

 最初の授業は老学者による歴史の授業で、オヅマはマッケネンから時々学んでいたとはいえ、オリヴェルに比べると学力差は明らかだったので、早速、宿題を言い渡されたのである。

 

 ミーナは案外と真面目に取り組む息子に、目を細めた。

 最初に聞いたときには驚いたが、元から怜悧なところのあるオヅマに、勉強の機会が与えられたことは、ミーナは素直に嬉しかった。

 

 もっとも、その先に待ち受けることにはかなり不安ではあったが……。

 




引き続き更新します。


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第八十六話 盛大なる誤解

 ヴァルナルが視察から帰った翌日、ミーナはヴァルナルの執務室に()ばれた。

 

「オヅマを…近侍に?」

 

 ヴァルナルから話を聞いて、ミーナは信じられなかった。

 

 公爵家の継嗣であるアドリアンがレーゲンブルトにきて、騎士団の訓練を受けさせるために、同じ年頃のオヅマが対番(ついばん)になることは理解できた。だが、あくまでこのレーゲンブルトにいる間だけの、暫定的な関係であろうと思っていたのだ。

 

「とても…有り難いお話ではございますが……あの子に務まるとは思えません」

 

 ミーナは息子の性格を冷静に見極めた上で言った。

 

 騎士としてならばともかく、近侍というのは主人の身の回りの世話を含め、来客の接待や備品管理といったあらゆる雑務をこなしていかなければならない。

 そのため、ただ主に仕えればいいというものではなく、周囲の人間との関係性も円満に運んでいく必要がある。

 

 オヅマは素直で明るい性格ではあるが、貴族の家で働くには少々口が過ぎることがある。言葉遣い一つをとっても、とても務まる職務とは思えなかった。

 

 ヴァルナルは頷いてから、クスッと笑った。

 

「まぁ…貴女(あなた)の心配はわかる。オヅマの素直さは、我の強さでもあるからな。なかなか、小公爵様のように受け入れてくれる人間ばかりではないだろう」

 

 ミーナはコクリと頷いた。

 小公爵であるアドリアンにしろ、目の前のヴァルナルにしろ、オヅマはむしろ恵まれているといっていい。通常の貴族階級の人間であれば、オヅマの言動を不快に思って、とうに放逐されていてもおかしくない。

 

「だが、貴女も薄々感じていたかもしれないが、小公爵様は公爵邸において、必ずしも心地の良い環境にいるとはいえない」

 

 ヴァルナルの言葉に、ミーナは子供にしてはあまりに落ち着き払ったアドリアンのことを思い出す。

 

 昔、ミーナが働いていた商家の子供達でさえ、もっと我儘で気まぐれであったものだが、帝国の一二を争う大貴族の若君にしては、アドリアンは大人しく忍耐強かった。

 そもそも自分の身分を隠して、一騎士見習いとして、隙間風の吹き込むような小屋に寝泊まりするなど、普通の貴公子であれば憤慨して癇癪を起こしているだろう。

 

 よほどに公爵家での教育が行き届いているのだろう…とミーナは内心で感嘆しつつも、一方で老成したアドリアンの姿が痛々しかった。

 それは子供にしてはあまりに(いびつ)で、アドリアン自身もまた苦しんでいたのは、誘拐事件のあったあの日に、ミーナの腕の中で堰を切ったように泣きじゃくった様子から明らかだ。

 

「公爵家で、小公爵様は我慢を強いられているのですか?」

 

 ミーナの口調は少しだけ怒りを帯びた。

 もはやアドリアンもミーナにとって、家族に近い気持ちを持つほどに(ちか)しい存在だった。彼が不遇であることは、ミーナも嬉しくはない。

 

「貴女は……やさしいな」

 

 ヴァルナルはミーナが厳しい顔つきで問いかけてくるのを見て、思わずぽろりと言った。

 ミーナは戸惑いつつ、ヴァルナルに小さく抗議する。

 

「領主様。私は、心配しているのです」

「あぁ、すまない」

 

 ヴァルナルは笑ってから、顔を引き締めた。

 どうにも不意に気持ちが溢れてきてしまう。止めようがない。

 

「確かに貴女の言う通り、小公爵様は我慢を強いられることが多い立場にある。普通、公爵家の息子であれば、もう少し我儘であってもよさそうなものだが、アドリアン様はグレヴィリウス家の教育方針もあって、あまり自分を出されぬ…出さぬように訓練されているのだ。

 だからこそ私はここに連れてきた。オヅマがきっと小公爵様の硬くなった感情を解《ほぐ》してくれるだろうと思ったからだ。実際、その通りになって小公爵様は随分と素直に気持ちを表すようになられたし、私はこれはいい傾向だと思っている。

 だが、やはりあちらに戻ればここにいた時と同じようにはいかない。小公爵様ご自身もそれはわかってらっしゃるし、納得された上で過ごされておいでだが……」

 

 話を聞きながら、ミーナの脳裡にはレーゲンブルト(ここ)でのびのびと過ごしていたアドリアンの姿が浮かんだ。

 

 オヅマにからかわれて大声で怒ったり、二人で台所に忍び込んでハムをつまみ食いしてソニヤに叱られたり。

 来たばかりの頃はヴァルナル以外の人間には心を許していない感じであったが、日が経つにつれ、オヅマを通じて領主館の使用人達とも気安く話すようになっていた。

 

 ミーナは知っていた。

 少々人見知りのするアドリアンのために、オヅマが領主館の使用人達を紹介して回っていたことを。

 

 いかに対番とはいえ、四六時中一緒にいるわけではない。

 アドリアンが一人でいても、困ることのないように、自分以外の人間にも頼み事ができるようにと、オヅマはそれとなく環境をつくってやったのだ。

 もっとも、当人はまったくそういうつもりもなく、

 

「なんでも俺に聞くな! もっと詳しい人がいるんだよ! そっちに訊いた方が早いだろ!」

 

と、あくまで自分の手間が増えるのを嫌がっただけ…というのもあるが。

 

 だが、もしオヅマがアドリアンのことを嫌っていたなら、そんな気遣いはしなかっただろう。

 

 なんだかんだと文句を言いながら、オヅマにとってもアドリアンは気の合う友達であったのだと思う。

 目覚めてアドリアンが家に帰ったことを聞いてから、オヅマはほとんどアドリアンの話をしなかった。

 それとなくミーナが話をしてみると、

 

「まぁ…仕方ないんじゃねぇの。元からずっとここにいる予定じゃなかったみたいだし」

 

と、あっさり納得しつつも、つまらなさそうにため息をつく回数は多かった。

 

「オヅマが小公爵様の支えになることができればよいとは思いますが…」

 

 ミーナは二人の少年たちがここにいた頃のように楽しく過ごせるのであれば、すぐにも賛成した。

 しかし、グレヴィリウス公爵邸で働くとなれば話は別である。

 下手をすれば、オヅマの言動がアドリアンに迷惑をかけるかもしれない。いや、絶対に迷惑をかける。奔放な息子のことを思い浮かべて、ミーナは確信していた。

 

「あの子には…近侍は務まりません」

 

 ヴァルナルは苦笑いを浮かべた。

 予想はしていたが、ここまではっきりと言われるとは。

 

 しかし、素直に折れることもできない。将来的に騎士になるとしても、グレヴィリウス公爵家の騎士になるのであれば、それなりの礼儀作法や教養は求められるのだから。

 小公爵様付きの近侍として、しっかりとした学習の機会を得ることは、オヅマの心身の成長にとっても、意義のあることなのだ。

 

「実は、小公爵様にこの話をしてしまってな…その時の小公爵様のお喜びようといったら……がんばってどうにか叶えるようにと…激励されてな」

「まぁ……」

 

 ミーナはアドリアンの気持ちを嬉しく思いつつも、やはり複雑だった。

 息子が失敗することよりも、公爵家で長く忍従を強いられてきたアドリアンが、オヅマの不手際のせいで、より苦境に立たされでもしたら、申し訳が立たない。

 

 それに…気になることが一つある。

 

「領主様。グレヴィリウス公爵家ほどのお家柄であれば、その近侍となるべきは、爵位のある家のご子息であろうかと思います。オヅマは領主様の格別のお引き立てで、今、ありがたくも騎士の末端である見習いとして仕えさせて頂いておりますが、とても公爵家の若君のお側に上がるような身分ではないと思います」

 

 とうとうその話に及んで、ヴァルナルの顔に緊張が浮かんだ。「あー…うん…」と頷いてから、何度か咳払いした後に、ヴァルナルはおずおずと言った。

 

「だから…その…オヅマを……息子…に」

「息子? オヅマを…ですか?」

 

 ミーナは思わず聞き返した。だが同時に、ヴァルナルがこの話をミーナにしてきた理由も実はそこにあったのだと思い至る。

 

 ヴァルナルはヴァルナルで、もう心臓が飛び出そうなくらいに激しく鼓動していた。

 

「あ…あぁ、そうなんだ。その…できれば、そうなればいいかと…思って…いるんだが…どうだろう?」

 

 問いかけたがミーナの返事はない。眉を寄せて考え込む姿を見て、ヴァルナルはあわてた。

 

「いや! 元々考えてはいたんだ。なにも今回の話にかこつけて、急にそうしようと思ったわけじゃなく…!」

 

 ヴァルナルとしては、小公爵の近侍の話が出たからミーナとの()()を望んでいるのだと思われることだけは避けたかった。そうした自らの利得だとか、義務としての婚姻でミーナを縛ることはしたくなかったのだ。

 

 一方、ミーナは料理人のソニヤや、やたらと厨房に入り浸るゴアンから聞いた、ヴァルナルが騎士になった経緯を思い出す。

 

 ヴァルナルは元は商家の出で、剣術の才能を当時の公爵家の騎士団長であったクランツ男爵に見出され、養子に入ったのだという。

 そういう人であるならば、オヅマの才能を買って、()()として育てようという気になったのも頷ける。

 親としては息子が認められることは嬉しいが、やはりヴァルナルにはオリヴェルという歴とした息子がいることを考えると、ミーナは素直に喜べなかった。

 

「……若君はどう思われるでしょう」

「オリヴェル? オリヴェルは無論、喜ぶだろう。元々、一人きりで寂しい思いをしていたのが、貴女達親子が来てくれたことで元気になった。むしろ、私などよりも、ずっと積極的に勧めてきたくらいで…」

 

 ヴァルナルは話しながら、ついこの間、オリヴェルに真剣な顔で言われたことを思い出す。

 

「父上。僕はおそらく父上の後を継いで騎士になることはできません。だから、もし将来オヅマが僕の兄上になってくれるなら…それで父上の後を継いで男爵になることも、譲ります。だから……僕に遠慮して、諦めたりしないで下さい。ミーナにも、そう言って下さいね」

 

 まさか息子から結婚を勧められるとは…と、ヴァルナルは少々自分が情けなかったが、オリヴェルはオリヴェルで、自分が親の結婚の足枷になってはいけないと必死で考えたのだろう。

 幼い息子だと思っていたが、時々こうした早熟なところがある。

 

 ミーナはオリヴェルが賛成してくれていると知って、少しだけホッとした。

 この事が原因で、子供達の仲に罅が入るようなことだけは避けたかった。

 

 オリヴェルにわだかまりがないのなら、オヅマがヴァルナルの()()として、自ら望む騎士としての道を歩んでいくのを、ミーナが止める道理はない。

 これまでと同じように、見守っていくだけだ。

 

「ありがとうございます。元々考えていて下さったなんて…嬉しいです」

 

 ヴァルナルはミーナの言葉に、ポカンとなった。

 思わず確認する。

 

「え? ………本当か?」

「えぇ。有難いことです」

 

 ミーナはニコリと微笑む。

 

「…………そう…か」

「はい」

 

 この短い会話は、双方ともに重大な誤解を孕みながら、不思議に成立してしまった。

 

 ヴァルナルはぎこちなく、やや含羞(はじらい)を含んだ笑みを浮かべ、ミーナはそんなヴァルナルに優しい微笑みを返す。

 見つめ合いながら、互いが実はまったく別の方向を向いていることに、ヴァルナルもミーナも気づいていなかった。

 

「そうか……」

 

 もう一度、確認するようにつぶやいて、ヴァルナルはじっくりと自分の気持ちを噛みしめた。

 何とも言えぬ甘美な高揚感だ。しかしすぐに浮足立つ自分を戒めた。

 ミーナが()()を承諾してくれても、今度はオヅマという壁が待っている。

 

「オヅマのことだが、私から話そうと思う。簡単に父親とは認めないだろうが…」

「まぁ、そんな。オヅマは領主様のことを大層尊敬もしていますし、憧れております。急なことで驚くかもしれませんが、きっと喜ぶと思います」

「………そうだろうか…」

 

 冬の神殿でオヅマから言われた言葉が頭から離れない。

 

 

 ―――――俺は父親はいらない

 

 

 あの拒絶はそう簡単に覆ることはないだろう。

 オヅマの『父親』に対する拒否反応は、相当に根深い。

 

 だが、実の息子であるオリヴェルに対してすら、ようやく父親らしい態度で接することができるようになったのは、ついこの前からだ。自分が父親であることを長年放棄してきたのだから、これくらいの冷遇は甘んじて受け入れるべきだろう。

 その上で、いつかわかりあえるための努力を怠らないことだ。

 

「いずれにせよ、オヅマには準備としてオリヴェルと一緒に勉強させようと思っている。今回の帝都からの黒角馬の研究者の中に、教師として招いた人達もいるのだ。彼らから学んで、できれば今年中…は無理としても、来年には近侍として公爵家に行ってもらいたい。あちらに行ってからも、無論、小公爵様らと一緒に多くのことを学ぶだろう」

 

 やや早口になって話すヴァルナルに、ミーナは頭を下げた。

 

「何から何までご配慮いただいて、有難うございます。ただ、オヅマにはまだ小公爵様付きの近侍となることは知らせないでもらえますでしょうか」

「それは…どうしようかと思っていたが、なぜだ?」

「あの子はこれまで、騎士になるために頑張ってきました。いきなり近侍と言っても、おそらく拒絶することでしょう」

 

 ヴァルナルは頷きながらも、一応訂正する。

 

「近侍ではあっても、騎士としての修練はしてもらうがな」

 

 近侍には当然ながら小公爵の安全を守るという役目もあるので、護衛としての修練を積むのは当然だった。そもそも下位貴族の子息であれば、騎士の目録を取るぐらいのことは当然とされている。

 

 ミーナは頷いたが、息子の頑固な性格もわかっていた。

 

「丁寧に説明すればわかるだろうと思いますが、すぐには受け入れないだろうと思います。それに、もうひとつ」

「なんだ?」

「若君から聞きました。小公爵様はご自分のことについて、ご自身の口から直接、オヅマとマリーに話したいと思っていらっしゃる、と。今、オヅマに小公爵様付きの近侍となることを言えば、きっと不思議に思って色々と小公爵様について周囲にも聞いて回ることでしょう。もし、不本意な形で耳にすれば、あの子のことですから、アドリアン様が自分に正体を明かさなかったことを不満に思って、むくれてしまうかもしれません」

 

 ヴァルナルはプッと吹いた。

 

「さすが…母親だな。よく見ている」

「諭せばわかってくれるだろうとは思いますが…小公爵様ご自身のお考えを尊重した方がよいように思います」

「あぁ…そうだな」

 

 ヴァルナルは頷いてから、穏やかな目でミーナを見つめた。

 本当に、思慮深く、篤実な人だ。自分のような無骨な男には、もったいないくらいだが、もはや彼女はなくてはならない人だ。

 

「ミーナ」

 

 ヴァルナルはおもむろに立ち上がると、たった四、五歩の距離であってももどかしいのか、足早にミーナに近づいてその手を取った。

 

「ありがとう。受け入れてくれて、嬉しく思う」

「……あ……はい」

 

 ミーナはいきなりこちらに来て手を握られたことで、びっくりしてしまった。途端に心臓が跳ねて、顔が火照ってくる。

 

 ヴァルナルはその顔を赤らめたミーナの姿を、愛しく思って、手に力を込めた。

 

「正式には、また後日…ちゃんと申し込みたいと思っている。今は少々忙しいので、すぐには無理だと思うが…きちんとしたいんだ。待っててもらえるだろうか?」

「……はい。わざわざ、有難うございます」

 

 ミーナは内心で首をかしげた。

 貴族の子弟を迎え入れるというのならともかく、一平民の子供と()()縁組をするのに、さほどに形式ばってやるという話はきかない。

 そもそも卑賤の身分を迎え入れることは、貴族であれば恥とされるので、大袈裟にはしないものなのだ。

 

 しかしヴァルナルの真摯な瞳を見て、ミーナは納得した。

 おそらくヴァルナルがきちんとしたいと言うのは、オヅマの親であるミーナへの礼儀なのであろうと。

 

「それでは…私はこれで」

 

 ミーナが辞去を告げると、ヴァルナルはややぎこちなく頷いて、名残惜しいながらもそっと手を離す。

 

「あぁ。う…む。では……また」

 

 いつも通りにミーナは召使いとして礼儀正しく頭を下げて出て行く。

 

 ヴァルナルは手のひらに残った滑らかな肌の感覚を一旦握りしめてから、息をつくと、机の隅に積まれた書類をとって仕事を始めた。 

 

 こうして―――――

 

 盛大な誤解を生じたまま、彼らはひとまず自分達の仕事に戻った。




次回は2022.09.18.に更新予定です。


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第八十七話 家庭教師たち

 ミーナやヴァルナルの思惑は知らず、オヅマはひとまず言われたままにオリヴェルと一緒に勉強することになった。

 

 帝都から迎えられたのは三人の教師。

 

 一人はトーマス・ビョルネ。

 今年二十三歳になる比較的若い教師であったが、彼はアカデミーに十歳で入学したという俊英だった。通常は十五歳前後が入学する者の平均年齢であるので、これが相当な特別待遇であったのは間違いない。

 

 元々は黒角馬の研究員の一人として来ることになっていたが、オリヴェルの家庭教師を探していたヴァルナルの代理人が、彼が研究班に入っていることを知って白羽の矢を立てたのだった。

 

 だが何よりオヅマ達が驚いたのは、彼がオリヴェル付きの主治医でもあるビョルネ医師の双子の兄だということだった。

 

「すげぇ似てる」

 

 ビョルネ医師が兄と一緒に紹介に訪れた時、思わずオヅマがうなると、トーマスはケラケラ笑った。

 

「そりゃ、似てるだろうねぇ。双子だから」

「うわっ! 眉の上のホクロが左右対称だ。なんで?」

「それはだね、双子というのは産まれた時にさっくり真ん中で切って開くんだ」

「トーマス! 嘘を吹き込むんじゃありません!!」

 

 職業柄丁寧な言葉遣いが身に染み付いているロビン・ビョルネ医師に比べると、トーマスは学生からそのままアカデミーでの研究員となって長くいたせいか、くだけた物言いだった。

 

 彼の研究テーマは『生物の親子間特性が伝達する場合の相違あるいは突発異変要件についての考察』という意味不明(ふくざつ)なものであったが、オヅマ達に教えることになっているのは数学だった。

 学生であった頃にアカデミー主催の数学コンクールで何度も優勝したことがあり、数学分野での教師免状も持っていたからだ。

 

 だが天才であっても人を教える…まして貴族の令息の家庭教師などは初めての経験だったので、その授業内容はまったく型破りだった。

 教科書通りに進まないトーマスの独特な指導に、オリヴェルは四苦八苦したが、オヅマの方はどんどんのめりこんでいった。

 元々マッケンに教えてもらっている頃から、数学はオヅマの得意科目だった。矛盾のない答えが出ること、その筋道が明解であることが、オヅマには心地よかったからだ。

 

 トーマスはオヅマに数学的な好奇心が旺盛であるのをすぐに見抜くと、普段の数学の基礎的な学問の他に、自らが考えたパズル的なものや、一風変わった謎解き問題をやらせた。

 

「キミ、将来アカデミー目指したらどうだ?」

 

 トーマスはいつもの軽い口調の中に、少しばかりの真剣味を混ぜてオヅマに言ったが、オヅマはげんなりした。

 マッケネンから聞いているが、アカデミーに入るための勉強は相当に難しいらしい。数学だけではなく、広範囲な知識を求められるのだという。

 

「ムリムリ」

 

 即座に否定したオヅマにトーマスは少しばかり残念そうではあったが、授業は手を抜かなかった。

 もっとも「自然の中にある数式を発見しに行こう!」と言って、そのまま鱒釣りを始めたこともあって、これにはヴァルナルもやや苦言を呈していたが。

 

 トーマス・ビョルネ先生に対するオヅマの評は「変人。時々まとも」だった。

 

 

 次に帝国古語、帝国公用語と、主に西方諸国での主流言語であるルティルム語を教えるケレナ・ミドヴォア。

 年齢については特に言わなかったが、三十代前後であろう。

 

 彼女は特に教師免状などは持っていなかったが(そもそも帝国においては女子が通う教育機関そのものがなかった)、両親の都合で幼い頃に西部連合の一つであるラーナヤ王国で過ごし、そこで読み書きといった極めて初歩の教育を受けた。

 成人後に両親と共に帝国に戻って結婚したが、夫は一年ほどして事故で亡くなり、未亡人となった彼女は得意分野である語学経験を活かして家庭教師の職についた。

 数人の令嬢方の指導を行い実績を積み重ねる中、ヴァルナルが代理人を通じて語学堪能な人物を教師として迎えたいと募集し、ちょうど別家でそろそろ家庭教師を辞める予定であったケレナをその家の主人が推薦した。

 

 もっともケレナ自身は自分が男の子の家庭教師などになれると思っていなかった。女が男に物を教えるなど、傲慢極まりないと考える帝国人は男女問わず多数派だったからだ。

 しかし、ヴァルナルは緊張状態にある西部連合との、今後起こりうるかもしれない最悪の事態も考え、西方地域の言語、風俗、習慣も含めた知識の深い人物を望んでいたので、ケレナはまさしく最適の人物であった。

 

 彼女は教師としての自分に自負もあったし、教え方も丁寧で、温厚な人物であったが、自分の容姿についてはあまり自信がなかったようだ。

 痩せぎすで、女にしては背が高いことを嘆き、ひっつめるのも大変だというボリュームのある焦茶色の髪を、いつも手でギュウギュウと押さえつけるのが癖になっていた。

 

 一度、ヴァルナルが授業の様子を見に来た時には、緊張からか髪をやたらと触っていたせいで、最終的には髪留めが外れてしまって、ばっさり髪が落ちてしまった。

 いちばん見られたくない自分のみっともない姿を、よりによって雇い主である領主様に見られてしまったケレナは、真っ赤になって不浄場(トイレ)に籠もってしまった。

 オヅマやオリヴェルも含めて男性陣は呆然とするばかりで、ミーナがケレナをなだめてどうにか落ち着かせたものの、その日の授業は中止になってしまった。

 

 翌日になって自分の非礼を詫びた後、ケレナはいつも通りに授業を始めたものの、やはり髪を押さえる癖はそう簡単に治らないようだった。

 

「そんなに気になるなら、毎日髪の毛を濡らしておいたらいいんじゃないですか?」

 

 オヅマがあきれて言うと、ケレナは真面目な顔で答えた。

 

「それは一度やってみたけど、冬は駄目です。一日で風邪を引いてしまったので」

「えぇ? 本気でやったの?」

「えぇ。でも乾いてきたら、もっとひどい状態になってしまうし、あまりいい方法ではないのです」

 

 ケレナが嘆息するのを見ながら、オヅマも首をかしげた。

 隙間なくきつく編み込まれてびっちり後ろで纏めたケレナの髪はさほどに乱れているわけではなかった。本人だけが気にしているのだろうと思う。 

 

「……やっぱ先生って、ちょっとヘンだな」

 

 オヅマのケレナ・ミドヴォア先生に対する評価は真面目な変わり者だった。 

 

 

 残りの一人は歴史、哲学、礼法について教えてくれるジーモン・アウリディス教授。年齢は六十を越していることがわかるのみだ。

 

 この老教授は最初の挨拶から石像のような人であった。刻み込まれた皺はほとんど動くことがなく、表情はいつも無愛想なまま固まっていた。

 

 かつては帝都アカデミーの歴史学教授であったらしいが、神話体系に関しての激しい論争に敗れて、アカデミーを去ったらしい…ということは、トーマス・ビョルネが噂として聞いたのをオヅマ達に語ってくれた。

 

 礼法について詳しいのは、今は没落したが伯爵家の出で、その伯爵家は代々皇室に侍従を出すほどの名門であったので有職故実の知識が深く、そのこともあって選ばれたのだろう…とこれまたトーマスが教えてくれた。

 

 しかし彼もまた、他の二人とかわらず…いや、比較しても相当な変わり者であった。それは最初の歴史の授業ですぐにわかった。

 

「御二方とも既に歴史については学ばれておるようだが、今はどのあたりことについてご存知かな?」

 

 オリヴェルは自主的な学習の他に、ロビン・ビョルネ医師からも時折話を聞いたりしてパルスナ帝国の中期に起きた内乱ぐらいまでは知識があったし、オヅマはマッケネンのスパルタ授業によって少なくともパルスナ帝国の成り立ちから草創期のあたりまでは習っていた。

 二人の説明を聞いた後、ジーモン教授はやはり無表情に顎髭をしごきながら、首を振った。

 

「つまらんですな」

「はい?」

 

 オリヴェルが思わず聞き返すと、ジーモン老教授は簡素なグレーの装丁の本を二冊、鞄から取り出し、オヅマとオリヴェルそれぞれの前に差し出した。

 

「当面の教科書はこちらになります」

 

 オヅマはその本の題名を読んで首をかしげた。

 

(スイ)戦役(せんえき) ~帝国における南部地域の研究~ イクセル・オーケンソン著』

 

「翠ノ戦役って、領主様が出ていたやつじゃないのか?」

 

 オヅマに言われて、オリヴェルは頭の中で今まで習った戦争の歴史について考えてみる。

 南部は紛争地帯なので、歴史上何度か戦場となっているのだが、翠ノ戦役と通常呼ばれるものは、ついこの間まで行われていた戦争のことだろう。終結したのは六年ほど前だ。

 オヅマの言う通り、この(いくさ)に父は参戦している。

 

「うん。父上は、この戦いで戦功をたてて領主になったんだって聞いた」

 

 オリヴェルが頷いて言うと、ジーモン教授はゆっくりと首を振った。

 

「間違いではないですが、正確ではございませんな」

「違うの?」

「翠ノ戦役は翠鴾(スイホウ)の年に始まり、間に何度かの休戦期間を経て、最終的には翠鴉(スイウ)の年に終結いたしました。ゆえにこれを『翠ノ戦役』と呼びます。

 大きくは二つの期間に分かれます。

 翠鴾の年に戦端が開かれ、その後に紫鷺(シロ)の年に休戦協定が結ばれるまでの翠鴾(スイホウ)(えき)。クランツ卿…あぁ、いや失敬……領主様の戦功はこの(えき)におけるものにございます。

 その後、二年の休戦の後に藍雀(ランジャク)の年に再び戦端が開かれました。こちらは藍雀(ランジャク)(えき)と呼びます。こちらにも領主様は出征なさって、武勲をたてられましたが、なぜか褒賞はさほどに与えられておりません。本人が固辞したと伝え聞いております」

 

「へぇ…なんでだろ? 今度聞いてみようかな?」

 

 オヅマが何気なく言うと、ジーモン教授は初めて表情らしい表情―――キッと鋭くオヅマを見据えた。

 

「そう! それこそが重要です」

「へ?」

「今、この時。いずれ歴史の中の人物となるであろう者に直接事由を聞くことができる…この時代こそが重要なのです。時の過ぎゆくは早く、人はあっという間に歴史に埋もれる。この時代に起きたことは、この時代に生きる人々が刻んだ歴史なのです。今であれば、歴史に埋もれそうな事柄であっても、当人に訊くことが可能であるのに、なぜわざわざ遠い遠い、もはや誰もその真実の姿を知ることもないエドヴァルドの話などを、必死に覚える必要がありましょうや」

 

 オヅマもオリヴェルも目を見合わせて、さすがにヒヤリとなった。

 エドヴァルド大帝を呼び捨てにするなど、子供であっても有り得ない。もしここが帝都の広場などであったら、警邏隊に捕まって、すぐさま牢屋行きだ。

 

「物事には因果というものがあるのです。すべての事象は繋がりの中にあります。歴史を学ぶというは、それらを丹念に追究することにあります。故にこそ、私の授業においては、因果が明らかなる現代のおけることから歴史の考察を行ってまいります。エドヴァルドの話は壮大なる因果の繋がりの果てに語られることです」

 

「……あの、先生」

 

 さすがにオリヴェルは二度にわたる教授の不敬を見逃すことができなかった。

 

「エドヴァルド大帝のことを呼び捨てになさるのは…いけないと思います」

 

 老教授はしばしオリヴェルを見つめた後、またゆるゆると首を振った。

 

「エドヴァルドが、なぜ大帝と成り得たのか、なぜこの帝国を創ることができたのか、若君はどう考えておられる?」

「それは…神聖帝国を滅ぼして、人々が彼に従ったから……?」

「ふむ。そちらの小童(こわっぱ)はどう思うか?」

 

 小童、という言葉にオヅマはムッとしつつも、マッケネンから教わったことをそのままに話す。

 

「周辺諸国を平定した後に、神聖帝国と戦争して勝ったからだろ。それでヤーヴェ湖の近くに帝国を築いたって……」

 

 ジーモン教授はあきれた鼻息をついた。

 

「やはり肝心なことは何も知らぬ」

「はぁ?」

 

 オヅマはこの風変わりな老人に苛立った。 

 

「さっきからなんなんだよ、爺さん。意味のわかんねぇことばっか言いやがって」

 

「吾輩からすれば、君らのような者達ばかりであることこそ意味がわからぬ。エドヴァルドがあの強大にして永世不可侵とまで呼ばれた神聖帝国に立ち向かうためには、『名も知れぬ神女(みこ)姫』の存在は必要不可欠であったのに。それは数々の文献を精査に読み、一つ一つの事象を丹念に拾い集めれば、歴然たることであるのに、誰も彼女を知らぬのだ」

 

 ジーモン老教授は一気に言ってから、ポカンとした少年達の顔を見てすぐに反省した。

 

「失敬。ひとまずエドヴァルド大帝の事蹟については、またいずれの日にか、因果考証の果てに行うことと致しましょう。今はこの本…吾輩の弟子の書いたものです…この本を読み、分からないことがあれば質問するように。そうして互いの考察を深めていくのが私の授業です。おわかりいただけますかな?」

 

 つまりジーモン教授の歴史の授業は帝国創建からの時代を下るのではなく、現在から遡っていくらしい。

 だが、老教授にとって常識的な歴史認識の上で説明されることも多く、そうなるとオリヴェルはある程度わかっても、オヅマにはちんぷんかんぷんだった。

 そのためオヅマは否応なく歴史の授業について予習が欠かせなかったし、この初めての授業の時に早速、宿題まで出されてしまったのだった。

 

 オヅマは三人の教師の中で、この老教授こそ「一番の変人」と評した。

 

 無愛想で冗談の通じない、質問に対する答えが少しでもあやふやだとフン、と鼻を鳴らして授業を中断してしまうこともあるような、気難しい性格だった。

 

 そんな老教授に対して一つだけオヅマが楽しみにしていることは、彼が授業の中盤で淹れてくれるアップルティーだった。

 見た目とは裏腹に、この老教授はなかなかの甘党で、途中でマリーが運んでくるお菓子を心待ちにしているようだった。

 彼にとっておいしいアップルティーとお菓子は、思索を深めるために必要であるらしい。……

 

 この三人の他にもう一人、領府の行政官が十日に一度訪れて、領地の地理や特産物などのことについて教えてくれた。

 領地経営などオヅマには関係ないだろうと思ったが、これもまたヴァルナルの意向で授業を受けるように命じられた。

 

 騎士見習いでしかないのに、どうして自分がここまで勉強しなくてはいけないのかとオヅマは疑問であった。そのうえ、本来の騎士となるための訓練に参加できないこともあって、日に日に鬱屈がたまっていった。

 

 だからこそ、事件は起きてしまったのかもしれない。

 




遅くなりまして、申し訳ございません。
次回は2022.09.21.更新予定です。


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第七章
第八十八話 迷惑なる都人


 帝都から来た黒角馬の研究班の中には、どうしてこんな人物が紛れ込んでいるのやら…と思われる人も少なからずいた。

 ある学者の助手という名目の女性であったり、研究員らの統率をとるためと言いつつ、何らの指導力も発揮していない人物、馬の研究だというのに馬を怖がって近寄ることもできぬ者までいた。

 

「真面目に研究に取り組んで頂いている学者の方々はともかくとしても、なんだって、この胡散臭い人間の面倒まで見ないといけないんだ?」

 

 ヴァルナルはすっかり閉口していた。

 

 学者にクセの強い人間が多いのは、若い時分に一応アカデミーの一隅に籍を置いた者としてある程度免疫があったが、それ以外のやたら役職名だけは偉そうな人間については予想外もいいところだ。

 

「一応、皇室からの援助も頂いているので、その関係での目付役といったところでしょう」

 

 カールは答えるが、それくらいのことをヴァルナルがわかっていないわけがない。わかっていて言うということは、つまり愚痴だ。

 

「…っとに、我儘放題だ。この前なんぞ、何を聞いてきたと思う? 『水辺の輝き(ヤーヴェ=アルミントン)(*帝都で有名な宝石商)』はないのか? だと。なんだって、馬の研究に来て、宝石屋の話が出るんだ? そんなもの、ここにあるわけがないだろうに」

「帝都と同じように過ごそうとされるのは困りものではありますね」

 

 応対するカールも普段にはない不満を溜め込んでいる。

 

 ヴァルナルは皇室からの回し者―――一応、正式な任官を受けてはいる―――に辟易しているようだが、カールの方はクセの強い学者たちに手を焼いていた。

 

 彼らは良くも悪くも生粋の研究者であった。

 騎士団の訓練中であっても、お構いなしに黒角馬の生態について尋ねてくる。

 どういう指示をしてどう動くのか、それは通常の馬に比べてどうなのか、命令に従うようになるまでにどれくらいの時間がかかるのか、個体差は大きいか少ないか……次から次へとまくしたててくる。

 

 そういう質問に「訓練中だ」と断っても、彼らは自分達の研究の方が高尚で意味があるのだと言わんばかりに無視して続けるし、少しばかり威嚇の意味を込めて腰に手をやれば、「力の行使に知性は負けんぞ!」と、かえって奮い立つほどだ。中には騎士()()()は、無知蒙昧な輩であると放言する者までいた。

 

 カールはそれでも忍耐強くしている…というか聞き流しているが、騎士達の中には我慢ならない面々も多く、この前も学者の門下生らと一触即発になりかけた。

 

「いつまでの予定なんですか?」

「ヘルミ山の調査などが終了したら、おそらく帝都に何頭か連れ帰るだろう。本格的な交雑などの研究はあちらでするだろうから、ここには一年ほどだと思うが……」

「長いですね…」

「長いな…」

 

 主従二人が情けない顔で溜息をついていると、勢いよく扉が開いた。

 

「りょ、領主様ッ! 大変です!」

 

 あわてた様子で入ってきたのは従僕のロジオーノだった。

 彼と執事のネストリは、何かと要求の多い客人らへの対応を行う最前線にいるので、大変なことが毎日のように起こる。

 

「今度は何だ?」

 

 ヴァルナルはもう耳にタコといった感じで、あきれ半分に問い返した。

 

「まさかヤーヴェ貝のオイル蒸しでも食べたいと言い出したか?」

 

 ヤーヴェ貝とは、帝都のキエル=ヤーヴェにある湖で穫れる貝である。帝都人ならば誰でも一度は食べる馴染み深いものだったが、当然ながら北の辺境のレーゲンブルトではいっさい手に入らない。

 

「違います! オヅマがっ」

「オヅマ?」

「オヅマが副使のギョルム卿の部屋に乗り込んでいって…」

 

 さすがにヴァルナルもカールも顔色を変えて、すぐさま部屋を飛び出した。

 

 今回、黒角馬研究班の計画進行管理を担当する副使の名目でやってきたギョルム卿は、ヴァルナルの最も苦手とする人物だった。

 彼自身は吏士(りし)という貴族というには微妙な身分だが、彼の叔父というのがソフォル子爵という皇帝付きの侍従であるせいか、その権威を振りかざしてきて何かと文句が多い。

 彼もまた何のためにいるのかわからない部類の一人だった。

 

 しかしなぜオヅマが…?

 ヴァルナルは走りながら疑問に思った。

 

 ヴァルナルらであれば、彼と直接話すことで、苛立つことも多かったが、オヅマなどそもそも会うこともないはずだ。

 

 体調が戻ってくるとオヅマは以前のように騎士見習いとしての仕事をするようになった。まだ貧血状態が解消していないので、訓練などは禁止されていたが、馬の世話については餌やりや馬房の掃除などを嬉々としてやっていた。

 

 当然ながら厩舎に頻繁に訪れる学者達の相手もすることになり、騎士達の多くが面倒くさがってぞんざいな態度であるため、オヅマは両者の潤滑油的な役割を果たした。黒角馬を発見したヘルミ山の話などもしていて、学者達からのオヅマの評判は悪くなかった。

 

 しかしギョルム卿は今回の黒角馬に関する生産計画の管理を担っている…と肩書があるにもかかわらず、厩舎を訪れたこともない。オヅマが会う機会など本来ないはずなのだ。

 

 以前、紅熱病(こうねつびょう)の患者を一時的に収容していた東塔の下に、今回の研究班用の宿泊施設が作られている。その施設の一番日当たりのいい、南側の隅にあるギョルムの部屋の扉は開いていた。

 何人かの召使いが興味深そうに覗いては、ヒソヒソ言い合っている。

 

「何をしている?」

 

 ヴァルナルが近づいていくと、皆があわてて頭を下げて散っていった。

 やれやれ、と軽く溜息をついて、開きかけたドアの把手に手をかけると同時に。

 

「気持ち悪いんだよ! このぬっぺり頭!」

 

 声変わり途中の、かすれかけたオヅマの怒鳴り声が聞こえてきて、ヴァルナルとカールは一瞬目を見合わせ、思わず吹きそうになった。

 ぬっぺり頭…というのは、やたらと髪用油を塗りつけたギョルム卿の頭髪のことを言っているのだろうが、確かにその通り、特徴をよく捉えた言葉だった。

 

「一体何事だ?」

 

 とりあえず顔を引き締めてギョルムの部屋に入ったヴァルナルは、そこでお茶のワゴン近くに立っているミーナの姿を見るなり固まった。

 

 

 

 

 

 

 時間は少しばかり戻る。

 

 騎士団での朝の仕事をひとまず終えた後、オヅマは学習室へと向かっていた。途中、階段から降りてくる(ミーナ)と行き合う。

 

「あら、オヅマ。今からお勉強の時間?」

「うん。母さんは?」

「私は、ちょっとお手伝いよ。お客様が沢山おみえだから、皆、色々と忙しいみたい」

 

 オヅマは眉を寄せた。

 東塔下に増築された別館で、黒角馬の研究の為にやってきた学者らが寝泊まりしているのは知っている。そのせいで、領主館の使用人たちがてんてこ舞いだということも。

 

 だが本来、ミーナはオリヴェルの世話係だ。

 

 最近、大勢の客が来て忙しいことにかこつけて、何かとミーナに仕事を頼んでくる人間が多い。ソニヤのように、本当に忙しいから頼んでくる者もいたが、中には元々厨房の下女であったミーナへの嫉みから、面倒を押し付けてくる者も多かった。

 

「誰に言われたの?」

「え? エッラからだけど」

「……無視しとけよ、そんなの」

 

 領主の部屋付き下女のエッラは、オヅマら親子が領主館で働き始めた頃から、何かと意地悪をしてくる性悪女だとオヅマは思っている。

 

 しかし、ミーナは首を振った。

 

「忙しいのよ、本当に。若君のお勉強の時間であれば、私の体は空いているから、その時ぐらいは手伝わないと」

「母さんが働いている間に、あの女はゆっくり茶でも飲んで悪口ばっかり言ってるさ」

「あの女、なんて言っては駄目でしょう! この前もジーモン先生に注意されていたじゃないの。気をつけなさい。じゃあ勉強、頑張ってね」

 

 ミーナはそれ以上オヅマに止められる前に、東塔の方角へと向かっていく。

 オヅマは釈然としないながらも、自分もまた授業の時間まで間もなかったので急いだ。

 

 学習室に着くと、既にオリヴェルが来ていて、今日勉強するルティルム語の予習をしていた。

 

「あ、オヅマ。おはよう」

 

 朗らかに朝の挨拶をしてくるオリヴェルの横に座りながら、オヅマは早口で尋ねた。

 

「オリヴェル。さっき母さんと会ったんだけどさ、エッラが何か言いに来たのか?」

「え? あぁ…うん。来てたよ。何か呼ばれてるから行ってきて欲しいって」

「呼ばれてる?」

「僕もちゃんと聞こえなかったけど、誰かがミーナを呼んでるから行ってきてほしい、って。僕もちょうど授業の始まる時だったから、二人で一緒に部屋を出て、途中で別れたけど……」

 

 オリヴェルは話しながら、どんどんオヅマの顔が険しくなっていくので、小さな声で尋ねた。

 

「なにか、いけなかった?」

「いや……」

 

 オヅマはしばらく考えこんだ後、立ち上がった。

 

「ちょっと行ってくる」

「え? なに? どうしたの?」

「ミドヴォア先生には、罰は後で受けますって言っておいてくれ」

「えぇ?!」

 

 オリヴェルが驚いている間に、オヅマは学習室を飛び出した。

 

 すぐに向かったのはリネン室横にあるちょっとした物置部屋だった。

 物置部屋といいながら、実のところ下女達の休憩室のようになっていて、中にはテーブルに椅子が四脚、仮眠用の寝椅子(カウチ)まである。

 

 荒々しく扉を開けて入ってきたオヅマに、椅子に座ってのんびりお茶を飲んでいたエッラと、同じく下女のアグニがビクリと振り返った。

 

「ちょ…何よ、急に」

「母さんを呼んだのって、誰だ?」

 

 オヅマが尋ねると、アグニは首をかしげ、エッラはフンと鼻をならしてそっぽを向いた。

 オヅマはつかつかと中に入っていくと、エッラの前に立った。

 

「誰だ、って訊いてるんだよ」

 

 エッラはジロリと横目でオヅマを睨んだ後、ハア~といかにも面倒そうに溜息をつく。

 

「なんでアンタにそんなこと言われなきゃなんないのよ。領主様に気に入られてるからって、調子に乗るんじゃないわ。ここじゃ、アンタも、アンタの母親も新参者なんですからね」

 

 領主館に勤める地元の人間は概ねオヅマら親子に優しく、特にミーナの礼儀には見習うべきところが多かったので、好意的に接してくれていたが、中には例外もいる。エッラなどは、そうした者達の急先鋒とも言うべき存在で、日頃から何かと陰湿な嫌がらせをしてきた。

 

 オヅマはギリと歯噛みしたが、赤くなった顔はすぐに冷たく無表情になった。以前であれば怒り狂って、エッラに掴みかかるくらいのことはしていたが、アドリアンの言葉を思い出したのだ。

 

 まだアドリアンが領主館にいた頃、エッラがマリーの育てていた花をわざと枯らした―――無論、当人はそんなことは認めなかったが―――ことがあり、そのことでオヅマはエッラを責め立てた。

 それこそ飛びかかって殴りそうになったのだが、アドリアンは止めてオヅマを諌め、エッラに静かに警告したのだ。

 

「非道なことをした人間を、領主様が許すと思いますか?」

 

 結局、その後にエッラはネストリを通じてヴァルナルから譴責処分を受けた。

 

 この時アドリアンはオヅマに一つ助言した。

 

「オヅマ。彼らみたいな手合いはね、大して悪いことをしたと思ってないんだ。だから、自分が何をしたのか自覚させる方がいい」

 

 そのあとしばらくおとなしかったが、反省はしていなかったらしい。

 オヅマは冷たくエッラを見据えた。

 

「今、オリヴェルが倒れて世話係の母さんがすぐに駆けつけることもできなかった場合、領主様は理由を尋ねるだろうな。その時に俺はオマエに仕事を押し付けられたんだと言うことになる。それでいいわけだな?」

「なんですって!? 勝手なことを」

「勝手をしているのは誰だ? 母さんがオリヴェルの…若君の世話係をしているのは、領主様からの命令だ。その命令を無視して、勝手を言っているのはオマエの方だろう」

 

 エッラは真っ赤になってオヅマを睨みつけた。

 オヅマはチラと隣で気配を消そうとしているアグニを見る。あわてて視線を逸らしたアグニにも、冷たく言った。

 

「母さんに仕事押し付けて、ここで二人でのんびり茶を飲んでいたと、報告するからな」

「ちょっと! 私は関係ないわよ!!」

 

 アグニが怒鳴ると、オヅマはバン! とテーブルを叩いた。

 

「誰だ? 母さんを呼んだのは!?」

「…………ギョルム様よ」

 

 エッラは忌々しげに答えた。

 腕を組んで、オヅマと目を合わせようともしない。

 

「またあの野郎か…」

 

 オヅマは舌打ちした。

 

 ギョルムとかいう都から来た役人は、新たに東塔に作られた食堂で偶然にも手伝いに来ていたミーナを見かけ、その姿に惹かれたのであろう。たびたび、ミーナを呼びつけては用事を言いつけたり、オリヴェルやマリーらと一緒に庭を散策しているのを尾けたりと、何とも気持ち悪い男だった。

 

 呼ばれたと聞いた時からギョルムではないかと思っていたが、同じようにミーナの容姿に魅力を感じて言い寄ってくる男は少なくなかった。

 特に、この黒角馬の研究班でロクに仕事らしい仕事をしていないような奴ほど、しつこかった。マリーにまで歓心を買おうとすり寄ってくる奴もいたほどだ。

 まともに仕事している学者を除くこのテの奴らはとっとと帰ってほしい。

 

「ミーナ、やたらと気に入られてるみたいよ。この前にも呼ばれていたもの。淹れてくれるお茶が美味しいとかなんとか言って」

 

 アグニがご丁寧に教えてくれる。

 オヅマはすぐに出て行こうとしたが、エッラがフンと鼻を鳴らして蔑むように言った。

 

「アンタの母親も本当に大した女よね。領主様だけじゃなく、都のお役人連中にまで色目使って」

「…………」

 

 オヅマの頭の中で、エッラは首を絞め上げられ、壁に投げつけられていた。実際にしなかったのは、エッラの誹謗した相手である母が、心の中で必死にオヅマを止めたからだ。 

 

「今の言葉…忘れないからな」

 

 オヅマは静かに言った。怒りを押し殺した声音に、エッラもアグニもゾクリと背筋が凍ったが、もはや弁解する暇は与えられなかった。

 

 東塔まで走ってきて、オヅマは両手に書類をずっしり抱えたロジオーノに尋ねた。

 

「ギョルムっていう奴の部屋はどこだ?」

 

 

 

 

 

 

「……なぜ、ミーナがここに?」

 

 ヴァルナルが平坦な声で尋ねると、ギョルムは細い目でジロリと睨んでから答えた。

 

身共(みども)が呼びつけました」

「ギョルム卿、彼女は東塔の召使いではありません。私の息子の世話係です」

「そのようなこと、身共の知ったことではありませぬな。私はただ、帝都にいた頃と同じく、朝のこの時間には美味なる茶を飲みたく思い、この館では一番上手に淹れる者として、彼女を指名したまでのこと。―――それより」

 

 ギョルムはツイ、と小さな杖でオヅマを指した。

 

「そこな小僧。無礼なる小僧でございますな。勝手に人の部屋に入ってきた挙句、悪口雑言。かような卑しき者を雇わねばならぬとは、まことに北の辺境で領主など…大変でございましょうなぁ。クランツ男爵は」

「何が悪口雑言だ! テメェは母さんに手ぇ出そうとしてただろうが!」

 

 オヅマが怒鳴ると、ミーナは赤い顔を俯ける。泣きそうに目が潤んでいた。

 

 ヴァルナルは怒り狂いそうになった。

 衝動を抑え込むために拳を握りしめる。

 衝動―――つまり目の前で乱れた前髪に櫛をあて、胸ポケットから小さな鏡を取り出して、自分の姿をまじまじと眺めているぬっぺり頭の男を、半殺しにしてやりたいという―――衝動だ。

 

「ミーナは領主様の命を受けて、若君の世話係をしております。お茶の用意は東塔の召使いにお願いして下さい」

 

 カールはヴァルナルの殺気を感じて、さりげなくその斜め前に立った。素早くオヅマに目配せする。

 オヅマは気づいて頷くと、母の袖を引っ張った。ミーナは困ったように視線をさまよわせたが、ヴァルナルが軽く顎を引いて出て行くように示すと、深くお辞儀して、オヅマと一緒に部屋から出て行った。

 

 ギョルムは出て行ったミーナを名残惜しそうに見送った後、ギロリとカールを睨みつける。

 

「ここの召使いはまともに茶を淹れることが出来ぬ。まずい」

 

 ギョルムが吐き捨てるように言うと、ヴァルナルはカールを押しのけてギョルムの前に立った。

 

「では、ご自分で淹れて下さい」

「なんですと?」

「私達はここで、黒角馬の研究の為にあなた方のお世話をするよう公爵閣下から命じられましたが、美味しいお茶を淹れることまで頼まれておりません。なにぶん北の隅にある小さな辺境の土地ゆえ、都のように洗練されたおもてなしなど、とても出来ません」

「なんと!」

 

 ギョルムは杖を口元にあて、あきれたように叫んだ。

 

「自らの至らぬことを棚に上げて、客に茶の用意もせぬとは! 辺境の片田舎を理由にできるものではありませぬぞ」

「たとえ客であったとしても、この領主館にいて領主の私の許可なく、我が下僕《しもべ》に勝手をしていいという法はない。…ギョルム卿」

 

 ヴァルナルは一歩、ギョルムに近寄るとその肩に手を置いた。

 

「このレーゲンブルトにおいての法は、領主である私だ。領地内での争議は領主の裁量に任せられている。それは皇帝陛下ですらも認めること」

 

 徐々に肩に加えられる力にギョルムは少し眉を寄せながらも、まだ抗議した。 

 

「きさ……くっ、クランツ男爵! 身共は皇帝陛下より任を受けてこの地に来ておるのだぞ! 無礼をして陛下より賜りしこの杖に(きず)為せば、どうなるかわかっておろうな?」

「…………」

 

 ヴァルナルはふっと肩を掴む力を緩め、無表情にギョルムを見つめた。灰色の目には侮蔑が浮かんでいたが、ギョルムは気付かなかった。むしろ、沈黙して力を弱めたヴァルナルに、自らの権威が勝ったのだと思った。

 ニヤリ、と口の端に卑しい笑みを浮かべる。

 

「身共の叔父が陛下の侍従であること…お忘れではあるまい? 勝手に陛下のご威光を笠に着るような真似をして、ご不興をかうのは男爵の方であろうぞ」

「………そうかな?」

 

 ヴァルナルは不敵に問い返した。

 再びギョルムの肩を鷲掴みにし、穴をあけそうなほどに強く、力をこめていく。

 

「陛下の威光を笠に着て、驕慢極まりない態度で我が領地の秩序を乱しているのは、貴方(あなた)の方だと思うぞ、ギョルム卿。さっきから私への言葉遣いも、少々嫌味が過ぎて無礼だ」

「…ッ、痛ッ! 痛いッ、痛いッ! 離せ! 離してくれ!!」

 

 ギョルムはヴァルナルに掴まれた肩に激痛が走って喚き立てた。

 ヴァルナルは手を離すと、冷たくギョルムを見下ろした。

 

「勘違いするな、ギョルム卿。私はレーゲンブルトの領主、グレヴィリウス公爵家の剣、有難くも皇帝陛下より黒杖を賜った帝国騎士クランツ男爵である。分を弁えるべきは私か、貴方か…どちらだ?」

 

 普段は穏やかで寛容なヴァルナルの、今まで欠片も見せなかった領主としての威容に、ギョルムは圧倒された。ブルブルと震えながら謝る。

 

「……申し訳ございません」

「よろしい。今後、我が下僕への行き過ぎた饗応を求めた時には、領主館より退去願うことになる。重々、承知されよ」

 

 ヴァルナルは極めて丁寧に礼節をもって警告したが、ギョルムを見る目は少しでも文句を言おうものなら、その場で首を捻り潰すくらいの殺気を帯びていた。

 ギョルムが真っ青になって椅子からずり落ちそうになっているのを冷たく見下ろした後に、部屋を出て扉を閉める。

 

「………申し訳ございません」

 

 廊下で待っていたミーナがすぐに謝ってくる。

 ヴァルナルは眉を寄せた。言葉が出てこない。重くなりかけた空気を払うようにオヅマが怒鳴った。

 

「なんで母さんが謝るんだよ! 悪いのは、あのぬっぺり頭だろ!!」

「オヅマ!」

 

 カールは鋭く諌めたあと、ヴァルナルに執務室に戻るように促した。

 確かにここでは人目があり過ぎる。

 

 ヴァルナルが歩き出すと、カールに合図されミーナも従う。当然のようにオヅマもミーナの後についてくる。

 

 執務室に戻るまでの間、ヴァルナルは一言も話さなかった。

 ひどく長い時間に思えた。





次回は2022.09.25.更新予定です。お楽しみに。



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第八十九話 ヴァルナルの苛立ち

「それで…何があった?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、ミーナが再び頭を下げて謝った。

 

「申し訳ございません。自らの職務を全うせずに、領主様にご迷惑をおかけしました」

「謝罪はいい。何があったかを聞いている」

 

 ヴァルナルの少し冷たい言い方に、ミーナは困ったように言い淀む。胸が引き絞られるように痛み、泣きそうになった。

 

「あの野郎が母さんを呼びつけたんです」

 

 代わりに憮然として答えたのはオヅマだった。

 ミーナはオヅマを見て、軽く首を振って黙るように目で訴えたが、オヅマは気づかないフリをした。

 

「あの野郎、しつこかったんです。これまでにも何度か母さんを呼びつけて。だから、また呼ばれて行ったって聞いて、俺、嫌な感じがしてあの野郎の部屋に抗議しに行ったんです」

「抗議をしに行ったというより、喧嘩を売りに行った…と言ったほうが正しいと思うがな」

 

 冷静にたしなめるカールに、オヅマはカッとなった。

 

「だって、母さんが叫んでたんだ!『やめてください』って」

 

 ヴァルナルは即座に立ち上がった。

 

「なにかされたのか!?」

 

 おそらく剣を持っていたら鞘から抜いていたことだろう。それくらいヴァルナルの全身から怒気が溢れていた。

 

「……なにも。腕を掴まれて…少し…驚いただけです」

 

 ミーナはヴァルナルの顔をまともに見れなかった。静かに申し述べる声も震える。

 

「母さんは悪くないです。あの野郎が…」

 

 またオヅマが割り込むと、ミーナはオヅマの服を引っ張った。黙るように、無言で諭す。

 オヅマは唇を噛みしめると、そっぽを向いた。

 

 ヴァルナルは再び椅子に腰掛けると、頭を垂れるミーナを見つめ、ひどく苛立った。

 黒角馬の研究班が来て、その人数の多さに領主館の人手が足りなくなっているのはわかっている。ミーナが忙しくしている同僚を手伝おうと思うのは当然のことだった。だが……

 

「ミーナ…顔を上げてくれるか?」

 

 ヴァルナルは言ってから、顔を上げたミーナを見つめて深く溜息をついた。

 

貴女(あなた)にお願いしているのは息子の世話だ。そのことはわかっていると思う。今回、使用人が足らず、皆が忙しいので手伝おうとした貴女の気持ちを否定する気はない。厨房での手伝いなどは随分助かっていると、ソニヤからも聞いている。それについては許そう。だが…ギョルム卿に呼ばれたから行く、というのは手伝いではない」

 

 ミーナは恥ずかしくなった。

 召使いとしての領分を、ミーナは十分にわかっている気でいたが、ヴァルナルに諄々と諭されると、自分が出過ぎた真似をしたのだと身に沁みてくる。

 

「ギョルム卿からの言葉を貴女に伝えた人間にも問題はあるが、私は貴女には毅然と断ってほしかった。それを問題視する者がいるのであれば、私が秩序を教える必要があるだろう。このレーゲンブルトにおいては、客人の用命に応えることよりも、私の下知に従うことが最優先とされるべきだ。違うか?」

「……その通りにございます」

「では、自らの職責を全うするように。………下がりたまえ」

 

 ヴァルナルが重々しく言うと、ミーナは深く頭を下げてお辞儀した後に執務室から出て行く。扉が閉まる前のミーナの小さく萎んだ背を見て、ヴァルナルは拳を握りしめた。

 

 本当は―――――

 

 あのか細い体を抱きしめて、怒鳴りつけてやりたかった。

 なんであんな男のところに行ったのか、と。

 召使いという立場上、断りづらかったのはわかるが、その優しさを誰にでも向けてほしくはない。ましてたびたび部屋に呼びつけてくる男など、下心があるのがわからないはずがなかろうに!

 

「……エッラです」

 

 黙り込んでいたヴァルナルに、オヅマが言った。顔を上げると、不満げにオヅマは言葉をつなぐ。

 

「母さんにギョルムの野郎……ギョルム卿が呼んでるから行けって言ってきたのはエッラです。それで自分はのんびり茶を飲んでました」

 

 ヴァルナルは溜息をついた。

 カールはやれやれと肩をすくめると、ヴァルナルに進言した。

 

「一度、ちゃんと皆を集めて言っておいた方がよろしいのでは?」

「そうだな。この数ヶ月は色々と目まぐるしくて等閑(なおざり)にしていた…私も悪いのだ。近く、使用人達には帝都からの研究者らへの対応について、私の方から直接指示することにしよう。彼らはこの館において居候であって、客人ではない、ということも含めてな」

研究班(あちら)にも、一応言っておいた方がよろしいのでは?」

「そうだな…総勢のまとめ役であるラナハン卿と、学者側からも代表として誰か一人、出てもらおう。騎士の訓練にも支障をきたしているようだし、今回の研究が全てにおいて優先されるなどと考えてもらっては困る」

「執事殿に会合の段取りを頼みますか?」

「いや。ネストリも新たに雇い入れる使用人の面接などで忙しい。すまないが、お前がやってくれ」

「承知しました」

 

 カールはすぐに執務室を出て行った。

 残されたオヅマは目の前で次々に決められていく物事をただ見ているしかなかったが、領主としてテキパキと処理するヴァルナルの姿に、今更ながら感心していた。

 少しばかり格好良くも見え、引き換え、さっきの自分の行動がひどく子供じみて恥ずかしい。

 

「あ…じゃあ、俺も…」

 

 ペコリと頭を下げて出て行こうとするオヅマを、ヴァルナルは呼び止めた。

 

「待て、オヅマ。お前、授業はどうした?」

「………すみません。無断欠席しました」

「そうか…」

 

 頷いてから、ヴァルナルは机の上に積まれた書類を見やる。急ぎの案件はなかった。

 

「これから行っても補講は免れぬだろう。ちょうどいい、話がある。そこに座れ」

 

 ヴァルナルはオヅマにソファに座るように示す。自分も立ち上がり、オヅマの目の前の一人掛けのソファに腰を下ろした。

 

「ずっと訊きたかったんだ。シレントゥの、あの倉庫でのことだ。雀の面を被った男と、戦ったのか?」

 

 ヴァルナルの突然の質問に、オヅマの心臓はドクンと跳ねた。

 




引き続き更新します。


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第九十話 軽くなった心

 あの男が何者で、どこに消えたのか……今も騎士団の捜索は続いていた。

 

 オヅマにはその二つともに心当たりがあった。だが、説明するのはひどく難しい。

 ()で見たのだ、などという理由が信じられるわけもない。下手をすれば、まだ治ってないのかと病人扱いされそうだ。

 それによくよく考えれば、オヅマにだってよくわかっていなかった。

 本当に()の中のエラルドジェイと、あの男が同一人物なのか……?

 

 いいや。

 

 オヅマは内心で首を振る。

 彼が()()エラルドジェイであることは明白だった。たまたま夢に出て来ただけの、よく似た男などではない。

 それは一年前に見た、母が父を殺して絞首刑になる()と同じく確信に近いものだった。

 それにあの時、あの男だって認めていたではないか。

 

 

 ―――― 奇妙なこと、この上もないな。今日会ったばかりの子供(ガキ)が俺の秘名(ハーメイ)を知っている上……

 

 

 エラルドジェイという名前が秘名(ハーメイ)であることなど、本人以外にわかるはずもない。

 そういえば妙なことも言っていた。

 目が何とか、とか? なんと言っていたっけ? 金の……目…?

 

 ぼんやりと考えていると、ヴァルナルが声をかけてきた。

 

「オヅマ? 聞いているか?」

「あ、はい! あの…戦いました」

 

 ヴァルナルは腕を組み、探るようにオヅマを見てくる。

 オヅマは目を伏せた。

 

 あの時、あふれる感情に押し流されて、エラルドジェイを逃してしまった。

 確実に裏切りとも取られかねない行為だ。

 だが、エラルドジェイをあのままヴァルナルに引き渡せば、厳しい尋問が待っている。

 普段は軽口ばかり叩いているが、あれでエラルドジェイは口の堅い人間だった。いつまでも白状しなければ、拷問されることだって有り得るだろう。

 

 奴は仕事として請け負っただけだ。

 きっと、それだけのことなんだ……。

 

「強かったか?」

 

 ヴァルナルに尋ねられて、オヅマは「え?」と聞き返す。再びヴァルナルが繰り返した。

 

「強かったのか、その雀の面の男は?」

 

 オヅマは質問の意図が理解できず戸惑ったが、頷いた。

 

「はい。俊敏で、無駄に思えるような動きで翻弄したかと思ったら、確実に隙をついてきて…相当に場数を踏んでいるんだろうと思いました。それに爪鎌(ダ・ルソー)っていう、見慣れない西方の武器を使いこなしていました」

 

 倉庫での戦闘時は初めて見る武器に驚いたが、()の中ではエラルドジェイはあの武器をほぼ常時身につけていた。

 

 爪鎌(ダ・ルソー)と呼ばれるその武器は西方で生み出されたもので、長く伸びた爪のような鋭い刃を、腕にある装着具に取り付ける。普段は幅広の袖の中に仕舞われているのだが、いざ攻撃のときには長い刃が袖口から現れる。

 基本的には一撃必殺の暗殺用で、エラルドジェイのように戦いのために使うことはない。

 それに()でいつもエラルドジェイがつけていたのは一本爪の爪鎌(ダ・ルソー)だった。四本爪など、重いだろうし、普段使いするには少々扱いづらい。

 

 そこまで考えた時に、オヅマは軽く息を呑んだ。

 そう、重さ。あの重さの爪鎌(ダ・ルソー)を軽々と振り回していた。その一つをとってもエラルドジェイの驚異的な身体能力がわかる。

 

 よくも自分などが太刀打ちできたものだ。

 稀能(キノウ)が発現できていなかったら、どうなっていたのだろう…。

 

「相当に強かった…それで『千の目』を使ったわけだな」

 

 ヴァルナルはまるでオヅマの心を見透かしたかのように言う。その声は少しだけ怒っているようだった。

 

「無茶をする」

 

 苦々しく言ったヴァルナルに、オヅマは抗議した。

 

「でも、そうしないとマリーを……オリヴェルやアドルも助けられないと思ったから」

「わかっている。オヅマ、私が訊きたいのは、お前が誰から『千の目』という稀能を習ったのか…ということだ」

「…………」

 

 それこそオヅマは沈黙するしかなかった。

 

 ()の中で男が囁く。

 

 

 ―――― 大丈夫だ、オヅマ。私は決してお前を見捨てたりはしない…

 

 ―――― 妹は…無事だ。今は、な。

 

 

 リヴァ=デルゼの禍々しい笑みが脳裡に閃いて、オヅマは頭を押さえた。

 

「大丈夫か?」

 

 ヴァルナルが気遣うようにオヅマを見てくる。

 

「大丈夫です」

 

 オヅマは答えてから、大きく深呼吸した。

 

「………特に誰からも習ってません。なんとなく…出来ただけで」

 

 ()の中で教わったなどと言って、誰が信じるだろう。

 あんな非道なことを訓練として強要される毎日。もう忘れたい。思い出したくもない。ただの夢として消えていってほしい。

 

 しかしヴァルナルは首を振って、ミーナにした説明と同じことを話した。

 

「お前が眠っている間に色々と私も『千の目』について調べたが、あれは()()()()()()()で出来るような生半可な代物ではない。適切な指導を受けなければ、発現することすら―――」

 

 何気ないヴァルナルの言葉に、オヅマはゾクリと背筋が冷えた。

 

 

 ――――適切な…教育だ

 

 

 まるであの男がヴァルナルの口を借りて言っているかのように聞こえる。

 

「………もう、使いません」

 

 オヅマは決心して言った。

 ヴァルナルが困惑したようにオヅマを見る。

 

「オヅマ…私は責めているのではない。不思議に思っただけだ。『千の目』が素晴らしい能力であることは間違いないのだから…」

 

 素晴らしい能力!

 あぁ…なんて気味悪く響くのだろう。

 そうやってあの男も褒めそやして、オヅマをいい気にさせた。

 

「いいえ。もう二度と使いません」

 

 耳障りなことを言われて、オヅマはますます頑なになった。

 

「……オヅマ…」

 

 ヴァルナルは意固地になって言い張るオヅマに当惑しつつも、しばし考えた。

 

 いずれにしろ『千の目』は、今のオヅマには扱えるものではない。この先、体格も大きくなって、順調に騎士として成長していけば、いずれ使いこなしていけるのかもしれない。

 それに以前、オヅマが望んでいた『澄眼(ちょうがん)』の修練を積めば、より体力や身体の強化にも繋がって、『千の目』の反作用も減じるだろう。

 誰に教わったのかは気になるところであるが、重要なことではない。

 オヅマが『千の目』という常人とかけ離れた御業を行うことによる、健康被害が問題なのだ。今回、当人がその危険性を自覚して、使わないことを決めたのであれば、それはそれで良い。

 将来『千の目』の遣い手として当代一の人物に紹介できる日もあるやもしれぬ。もし不完全なところがあれば、()の方が正しく導いてくださるであろう。……

 

「よかろう。では、今後はくれぐれも自重するように。今回のようなことが二度とあれば、さすがに今のように何の後遺症もない…という状態では済まないだろうからな」

「はい。それでは失礼します」

 

 頷いて立ち上がりかけたオヅマを、ヴァルナルはあわてて引き止めた。

 

「あっ、ちょっと待て。実はまだ一つ、言いたいことがある」

「はい?」

「その……」

 

 ヴァルナルは逡巡した。

 さっきまでは聞こえることもなかった心臓の鼓動が耳の裏で鳴っている気がする。

 ゴクリ、と唾を飲み下してから深呼吸する。

 

 オヅマは妙に緊張しているかのようなヴァルナルの様子に首をひねった。

 

「どうしたんですか?」

「いや…その、言いたいことがある」

「はい?」

 

 オヅマはキョトンとして座り直す。

 どうして同じことを繰り返すのだろう?

 

 ヴァルナルはもう一度深呼吸してから、しっかりとオヅマを見据えて言った。

 

「まだ正式に申し込んではいないが、私はミーナと一緒になるつもりだ」

 

 急なヴァルナルの話に、オヅマは頭が真っ白になり、しばらく固まった。

 

 いったい、今日のヴァルナルはどうしてこうも立て続けにオヅマを驚かせ、気持ちをざわつかせるのだろうか。

 正直、これ以上聞きたくない。逃げ出したい衝動にかられた。 

 

「……オヅマ」

 

 呼びかける声に、あの冬の日の神殿のことを思い出す。

 

 母のことを好きなのだとヴァルナルに言われた時から、遅かれ早かれ、こういう状況が訪れるだろうとは覚悟していた。そのせいでこの数ヶ月は、ヴァルナルに対して以前のように親しく接することができなかった。認めたくないというより、どう話せばいいのかわからなかった。だから遠ざけて後回しにするしかなかったのだ。

 だが、もう逃げられない。

 

 オヅマはヴァルナルを睨みつけるように凝視して、問いかけた。

 

「………母さんに、言ったんですか?」

「あぁ。一応、了承もしてもらっている」

「母さんが? そんなの聞いてない……」

 

 オヅマはこの数日の母の様子を素早く思い返す。しかし、まったくそれらしい素振りはなかった。母の性格であれば、そんな重大事を息子である自分に隠しているだろうか…?

 だがヴァルナルはすぐに、その疑問に答えた。

 

「ミーナには私からお前に話すと言ってあったんだ」

「あぁ…」

 

 ヴァルナルから口止めを頼まれていたのであれば、わからなくもない。

 それでもオヅマは複雑だった。

 思わず溜息ともつかぬ吐息がもれる。

 

「オヅマ」

 

 俯いて黙り込んだオヅマに、ヴァルナルは言葉を選びつつ話しかけた。

 

「お前が、私を父親として認めないだろうとはわかっている。だが、私はお前達と家族になりたいと思っているんだ。さっき…ミーナに厳しい態度になったのも、正直、腹が立ったからだ。おそらく理由はお前と同じだ」

 

 オヅマはピクリと顔を上げる。厳しい顔のヴァルナルと目が合った。

 

「………あの野郎のこと、殴りたくなるくらい…ですか?」

 

 さっきまでの気持ちが再燃しかけて、思わず口汚くなる。

 しかしヴァルナルは咎めることもなく、頷いた。

 

「……誰もいなけりゃ半殺しにしてただろうな」

 

 ヴァルナルは口元に笑みをたたえつつ、グレーの瞳は剣呑な光を浮かべていた。

 さっきのことを思い出したのか、手の甲に筋が浮かぶほど強く肘置きを掴んでいる。

 

「………」

 

 不思議なもので、目の前で自分よりも怒り狂っている人間がいると、対照的に気持ちが落ち着くらしい。

 オヅマはさっきまで冷静に見えていたヴァルナルが、実は相当怒りを秘めていたことに、少々面食らっていた。しかもその理由はオヅマと同じだと聞いて、嬉しいような、よくわからない気分だった。

 

「俺は……変わりません」

 

 ようやく出てきたのは我ながら素っ気ない言葉だった。

 

「母さんが決めたなら、俺は反対はしません。でも、レーゲンブルト(ここ)に来た時からずっと、俺の目的は騎士になる、それだけです」

「あぁ…わかっている」

 

 ヴァルナルは少しだけ寂しく思いつつも、笑って頷いた。

 やはり、オヅマは『父親』を認めないらしい。根強い『父』への不信は、先年亡くなった養父からの虐待だけでなく、自分と母親に手を差し伸べることのなかった実父の薄情も含まれているのかもしれない。

 

 ヴァルナルはある程度予想していた。

 今は形式的なだけの関係でもよい。時間をかけて育てていくしかない。

 

「それでいい。私もお前が騎士になることを望んでいる。今は座学ばかりでつまらぬこともあるだろうが、上級騎士になるなら、そうした勉強も必須だからな。頑張ってくれ」

 

 マッケネンからオヅマが騎士としての爵号を与えられる上級騎士を目指していることは聞いていた。最初は嫌々だった勉強も案外と真面目に取り組んでいて、物覚えもよく、なにより知識を増やすことに貪欲だと。

 これまで教育の機会が与えられず、本人も必要ないからと遠ざけていただけで、実は知能としては同年代の少年らに比べて高いだろう…とは、新たに雇った数学教師トーマス・ビョルネの評価だった。

 

 オヅマはヴァルナルからの激励に無言で頭を下げた。

 

「お話は、それだけですか?」

 

 固い表情のまま尋ねると、ヴァルナルが頷く。

 

「あぁ。呼び止めて済まなかったな」

 

 オヅマは立ち上がると、ピシリと姿勢を正した。右手を握りしめて拳をつくると、その腕を直角に曲げて胸の前に突き出し、軽く顔を俯ける。上位者への騎士礼だ。まだ子供ながら、一年の成果で所作はなかなか様になっている。

 そのまま半回転して出て行くのかと思ったが、扉の前でオヅマの足が止まった。

 

「……どうした?」

 

 ヴァルナルが問いかける。

 オヅマはしばらく逡巡してから向き直った。

 

「あの……」

「なんだ?」

「母さんのことなんですけど…」

 

 オヅマの暗い表情にヴァルナルは一瞬、不穏な予感がした。

 やはり反対なのだろうか…と、顔が強張りそうになりながら、それでも鷹揚に促す。

 

「うん? どうした?」

「母さんは…自分さえ我慢すればいい、って思っちゃうんです」

「………」

「いつも、そんなふうに我慢ばっかりしてるから、時々、見てるこっちが腹が立ってくるんだけど…だから……あの」

 

 オヅマはうまく言葉が出てこなかった。

 口籠る少年の姿に、ヴァルナルはフッと微笑んだ。 

 

「あぁ…そうだな。そういうところは大いにある。お前はよくわかっているな、オヅマ。だから、ずっと母親を支えてきたんだな」

 

 何気ないヴァルナルの言葉に、オヅマは不意に泣きそうになった。

 

 ずっとコスタス()の暴力から母と妹を守ってきた。

 父が死んで、レーゲンブルト(ここ)に来ることに決めてからも、自分の選択は合っていたのかと…何度も自問自答した。

 いつも母と妹の幸せを願いながら、自分が母達の人生の行き先を決めてしまったという後ろめたさがあった。だからこそ自分には、絶対に母達を幸せにする責任があるのだと…ずっと思ってきた。

 

「これからは、私も一緒に支えていきたいんだ。お前一人では、少々荷が重かろう?」

 

 不思議なことに、ヴァルナルに言われて初めて、オヅマは自分が背負っていたものが重かったのだと実感した。

 軽くなった心がじんわりと温かい。

 涙が浮かび上がってくるのを感じて、オヅマはグッと唇を噛みしめた。

 

「…………失礼します」

 

 そのまま返事ができずに、頭を下げて執務室から出た。

 

 我ながら素直じゃないとは、わかっている。

 ヴァルナルは一方的にオヅマらから母を取り上げようとしているのではない。一緒に歩もうとしてくれているのだ。

 その心遣いをオヅマは十分に感じ取りながらも、単純に喜べなかった。

 

 一方、ヴァルナルはオヅマが出て行った途端に、ヘタリと背もたれに体を投げ出してホゥと息を吐いた。

 相当に緊張していたらしい。

 それでも顔は自然と緩む。

 

 思っていたよりも強硬な反対はなかった。

 少なくとも嫌われてはいないようだから、まだ望みはあるだろう。……

 




次回は2022.10.02.更新予定となります。


感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第九十一話 不戦の墓標

 眠りから醒めて半月ほどが過ぎて、オヅマはようやく騎士の訓練を許された。

 それまでにも徐々に機能回復の一環として軽く走ったり、激しくない体操などは許されていたが、ようやくビョルネ医師によって完治を認められ、剣撃訓練も含めた全ての訓練の許可が出た。

 当初は剣の重さにややぎこちない動きだったが、以前の感覚を取り戻すのは早かった。

 

「おぅおぅ、よく動くな。豆猿かよ、小僧」

 

 相手したサロモンが忌々しそうに言いながら笑う。オヅマもニヤリと笑った。

 

「ふん。病み上がり相手に息が上がってんぜ、オッサン」

「このクソガキがっ」

 

 怒鳴りながらも、サロモンは楽しそうに木剣を振るう。

 見ているゴアンやマッケネンも、オヅマの変わりないすばしこさと、鋭い剣使いに安堵の表情を浮かべた。

 

「どうやら、忘れてないようだな」

 

 マッケネンが言うと、ゴアンが首をひねる。

 

「なにをだ?」

「数ヶ月、小公……アドルと学ぶ中で、正確な剣技を身に着けたのが、今回の空白期間で失われたら勿体ないと思っていたんだが…子供の吸収力というのは、大人には真似できないな」

「ハハハ。まぁ、最初はそれこそ猿真似だったが、真似も続ければ身に着くんだろうよ。――――ヨシ、終了!」

 

 砂時計の砂が全て下に落ちたのを確認して、ゴアンがパンと手を叩く。

 鍔迫り合いして睨み合っていたサロモンとオヅマは、オヅマが蹴りつけるのをサロモンが掠られつつも避けて終了した。

 

「小指一本分、足が短かったな」

 

 サロモンが嗤うと、

 

「じゃ、明日には蹴られてぶっ飛ばされるだろうな」

 

と、オヅマがしれっと言い返す。

 

 なんだと、この野郎…とサロモンはオヅマの首に腕を回し、絞め上げるようなマネをしながら嬉しそうだった。

 マッケネンはフッと笑った。

 実際、あの年頃の子供の成長は一夜で麻のごとく伸びる。明日にはサロモンは蹴られて転がっているかもしれない。

 

「しかし良かったよ、お前。倉庫からアルベルトに抱えられて出てきたのを見た時には、本当にもう死んだかと…」

 

 隣で同じように剣撃訓練をしていたゾダルがしみじみと泣きそうな声で言った。

 

「ホントにな。顔が血だらけで…拭いたら真っ白だし。マジで死んだと思った」

 

 ゾダルの相手をしていたサッチャは肩をすくめる。

 

「それでも、首魁の野郎をきっちり殺ったんだから、大したモンさ」

 

 サロモンはまるで自分のことのように誇らしそうに言って、オヅマの頭をガシガシと撫でた。

 

「いってぇな! 爪たてんな」

「オホッ! この威勢のいいこと! よっぽど溜まってたな」

「当たり前だろ! っとに、すぐにでも出来るっていうのに、大袈裟すぎるんだよ。カールさんだって、医者がいいというまでは駄目だ、っていつまでも許可してくんねーし」

 

 オヅマは口をとがらせた。

 目覚めてから七日ほどで体調は十分に戻っていたのに、ビョルネもカールも慎重で、なかなか訓練の参加許可がおりなかったのだ。

 

「それにしても、バッサリいったもんだ。斬口も鮮やかなもんだった」

 

 感嘆して言ったのは騎士団の長老トーケルだった。

 ダニエルの死体はあの後、騎士達によって運ばれて検分され、一振りで綺麗に首を断ち斬ったオヅマの腕前に皆が驚いた。

 

「斬られたこともわからなかっただろうな、あの男」

 

 その言葉にオヅマは無表情になると、冷たく言った。

 

「だったら、残念だな。もっと痛めつけてから殺せばよかった」

「…………」

 

 その場にいた騎士達は急に鼻白んだ。

 マッケネンは微妙な空気を察して、パンパンと手を打った。

 

「さて、そろそろ終了とするか。各位、道具の点検して問題なけりゃ夕飯だ」

 

 ぞろぞろと騎士達が兵舎へと戻っていく。

 オヅマを囲んでいたサロモン達も、気を取り直すように背伸びしたり、軽口を叩きながら散っていった。

 

「オヅマ、一緒に行こう」

 

 マッケネンは木剣を入れた籠を持って小屋へと向かうオヅマに声をかけた。籠の持ち手の一つを取って、隣で一緒に歩き出す。

 オヅマは軽く息をついた。

 

「もう大丈夫だって、本当に」

「あぁ…わかってる。ちょっとだけ言いたいんだ」

「なんだ、説教か」

 

 オヅマはマッケネンの久しぶりに見せる教師としての顔に、やや面倒さを感じつつも、話を促した。

 

「なに?」

「お前があの男を殺したことは…まぁ、当然といえば当然だ。向こうがお前の妹を人質にとったんだから、あちらも覚悟の上のはずだ」

「………そうだよ。マリーを殺そうとしていやがったんだからな」

 

 オヅマは小屋の扉を肩で押し開けると、さっきと同じ冷たい声で肯定する。

 隅のいつもの場所に籠を放り出すように置くと、マッケネンに向き合った。

 

「それでマリーも、オリヴェルもアドルも助かったんだ。問題ないだろ?」

 

 マッケネンは頷かなかった。だが、オヅマの言うことは認めた。

 

「あぁ、そのことは問題ない。問題なのは、お前の精神(こころ)だ」

「はぁ? なにそれ」

「今だって、必死になってお前は思い込もうとしているだろう? 自分は悪くないんだと。当然のことをしたし、妹や大事な友達を救ってやったんだと」

「……だって、その通りだって…さっきマッケネンさんだって言ったじゃないか」

 

 マッケネンは苛立つオヅマを静かに見つめた。深い青の瞳は、いつも優しい。

 

「……昔、つっても六年ほど前のことだけどな」

 

 軽く息をついてからマッケネンが話し始めたのは、今、歴史の授業で習っている(スイ)の戦役での逸話の一つだった。

 

「…南部での紛争の時だ。俺達は勝って、後は意気揚々と引き揚げるだけだった。だが、ヴァルナル様が俺達に指示したんだ。

 敵味方関係なく、兵らの遺体を埋葬する…と。

 味方はまだわかる。どうして敵まで埋葬してやる必要があるのかと…俺も思った。だって、その中にはきっと俺の殺した奴もいるはずなんだ。殺し合った相手の遺体を埋葬なんて、馬鹿げていると…その時は思ったよ。

 不承不承に、ほとんどの騎士達は俺と同じように、ぶつくさ文句を言いながら穴を掘って遺体を埋めていった」

 

 オヅマはうんうんと頷いた。

 そりゃそうだろう。味方であればまだしも、なんだって敵の遺体まで埋めてやる必要があるのか。

 普通は放っておく。

 死者の装備品を身ぐるみ()っていく死体剥ぎが、荒稼ぎとばかりに跋扈した後には、狼や鴉、禿鷹に食われるままに任せておくものだ。

 

「ヴァルナル様も…捕虜の交換交渉や、野営地の引き払い、凱旋準備やらで、ほとんど寝てなかっただろうに、俺らと同じように穴を掘って遺体を埋めて、墓標代わりにそこらにある石を置いて…敵も味方も関係なく、同じように土に還ったんだ。

 ヴァルナル様は名も知れぬ敵か味方かもわからない兵士の墓に、かろうじてその場に残って咲いていたシオンの花を供えて帰路についた。俺は思ったよ。偽善だと」

 

 いつもはヴァルナルについて尊敬してやまないマッケネンですら、この時のヴァルナルの行動には首をひねった。死体を埋葬などをしても、喜ぶ者などいない。まして敵兵の家族が有難がるわけもない。

 

「でも、そこは象徴の地となった。何千という石が連なって置かれただけの粗末な墓地だったが、帝国側にとっても、南部の部族民にとっても、自らの同朋が傷つき果てた場所として認知された。

 ヴァルナル様がそこまで考えて、埋葬を行ったのかはわからない。でも、あの場所に行って戦の雄叫びを上げることは、誰もできないだろう。無数の死者が証人として足元に眠っているんだ…」

 

 オヅマは黙りこくった。

 

 反論はできた。

 歴史教師だって言っていたではないか。

 南部紛争は二年の休戦期間を経て、再度勃発したと。一度目の戦争の時にだって、人々は死んでいたはずだ。なぜその時に二度目を回避することができなかった?

 

 人は何度も繰り返す。

 失敗を。成功を。

 成功だと思っていたことが、時を経て失敗であったと気付くこともあるし、気付かぬままに過ごすこともある。逆もまた然り。

 

 人の紡ぐ歴史に明確な答えなどない。

 現在を基準に過去の優劣や善悪を評価するのは意味がない。なぜなら、現在ですらもいずれの未来において過去となるからだ。……

 

 先日、歴史の授業で話していたジーモン老の言葉が蘇る。

 聞いた時には何を言っているのかと思っていたが、今、なんとなく意味がわかるような気がする。

 

 マッケネンの話は続いていた。

 

「一度、ヴァルナル様に伺ったことがあるんだ。どうしてあの時、埋葬したのか、と。そうしたら―――」

 

 

 ―――― 自分の心の安寧のためさ。ただの、独り善がりだ。

 

 

 苦味を含んだその言葉を、空虚な諦観を浮かべた灰色の瞳を、マッケネンは忘れられなかった。

 帝国で一二を争う騎士であっても、歴戦をくぐり抜けた勇者であっても、彼もまた人であった。自分と同じ、人の死に心を痛める人間だった。

 

「俺は、ヴァルナル様ほどに秀でた人間じゃない。ただの凡人だ。だからこそ、本来であれば人を殺した経験は後になるほどに重荷になったはずだ。俺が殺した人間、ひとりひとりに、自分と同じように家族がいたのだろうと、当たり前のことを考えるほど、つらく感じて…下手すれば精神(こころ)を病んでいたかもしれない。

 だから、今は有難く思っている。あの場で、あの時に、敵味方関係なく埋葬したことが、今の俺を救ってくれている。あの行為は俺にとって必要な贖罪だったんだ」

 

 言いきってから、マッケネンは自分の長広舌が恥ずかしくなって、胡麻化すように笑って物置小屋から出て行く。

 オヅマは後に続きながら、ヴァルナルに言われたことを思い出していた。

 

 

 ―――― オヅマ、人を殺すことを、当たり前だと思わないでくれ。それでお前は苦しむかもしれんが、受け止めなければならない

 

 

 哀しそうに言ったヴァルナル。

 あの日オヅマが言ったように、自分を憐れんでいるだけだと、ただの偽善に過ぎないと、きっと非難されることも多かったろう。

 それも含めてヴァルナルは受け止めた。

 自らが行った殺戮への嫌悪も、矛盾も、虚しさも。

 

 いっそ…ただ、命令されるままに人を殺し、何の痛痒も感じぬほどであれば、ずっと楽に生きられるのだ。

 仕方がないと、自分には選択肢はなかったのだと、必死に言い繕って言い訳して、精神(こころ)を摩耗し鈍麻させてゆけば。

 

「………」

 

 不意に頭が痛む。

 閃光のように脳裡をかすめたのは、反吐が出そうなほどに平然と人を殺していく無情な男の姿だった。

 

 顰め面になって立ち止まったオヅマを振り返り、マッケネンは苦笑して謝った。

 

「すまんすまん。オッサンの説教なんぞ、若いモンには有害でしかなかったな」

 

 オヅマは軽く吐息をついた。

 顔を上げると、肩をすくめて重苦しい雰囲気を払う。

 

「ホントだよ。オッサンはいちいち話が長い」

「オッサン言うな!」

「マッケネンさんが自分で言ったんじゃねーか」

「自分で言うのはいいが、人から言われると腹が立つんだよ!」

 

 オヅマは笑った。

 心から笑えた。

 

 大丈夫だ。

 ここの人は、誰もオヅマに殺人を強制したりはしない。

 誰もオヅマを脅したりはしない。

 彼らと一緒にいる限り、自分は()()でいられるはずだ……。

 





次回は2022.10.09.更新予定です。



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第九十二話 騎士たちは帝都へ

 緑清(りょくせい)の月を前に、騎士団の半数近くの騎士達が帝都へ旅立つことになった。

 帝都に家族が待つ者もいたが、独身の騎士のほとんどは、四ヶ月後の新年に行われる帝都結縁祭(ヤーヴェ・リアンドン)に参加するのが目的だった。

 出立を翌日に控えた彼らは、未来の嫁さん候補にプレゼントするための品物を買いに、街へと連れ立って出て行っている。

 どの男も浮足立って、希望と期待だけが膨らんでいるようだ。

 

「っとに…ゾダルさんまで行くんだもんなぁ」

 

 最近ますます頭頂部の地肌が目立ってきたゾダルを思い出して、オヅマは少しばかりあきれ口調だった。

 聞きつけたゴアンが眉を下げて、情けなく言い繕う。

 

「そう言ってやるな。アイツ、昔、あの祭りで知り合った女と、いいとこまでいったんだよ。結局フラれたけど」

「そういうゴアンさんはなんで行かないの? 独身だろ?」

「俺のことはほっとけ」

「ふーん。こっちに()い人がいるんだ」

「オヅマ!」

「ハイハイ」

 

 今回ばかりは対番(ついばん)も一時的に解除され、ゴアンの対番であるサロモンは帰参組だった。代わりに組んでいるのはマッケネンだったが、彼もまた独身であるのに、残留した理由はむしろ結縁祭(リアンドン)に参加するよう強制されるのを嫌ってだった。

 この時期に帝都にいる多くの年頃の男女は、奇妙な熱気と賑わいの中でそれぞれに交歓を楽しんでいたが、そうした独特の雰囲気に馴染めない人間はどこにもいて、マッケネンもその一人だった。

 

「…どうも、あの祭りは苦手だ」

「そんなこと言ってて、ずっと一人だったらどうするんだよ?」

「うるさい。子供が口出すことじゃない」

 

 マッケネンは邪険にオヅマを追い払った。オヅマはチッと舌を鳴らす。

 大人ってやつは、そういう話になった途端、子ども扱いしてくる。

 もっともオヅマだって興味津々というわけではない。ちょっとからかいたかっただけだ。

 

 前の年に亡くなった前皇太子に遠慮して、新年行事である帝都結縁祭(ヤーヴェ・リアンドン)が今年は禁止になったのもあり、開催を心待ちにしている騎士達は多い。

 騎士達に限らず若い独身男女であれば、新年の夏の輝きと共に訪れる賑やかで楽しい ――― 場所によっては、ほんの少しばかり淫らな狂騒となることもある ――― この祭りに心を馳せて、長い冬を過ごしたことだろう。

 

 オヅマは結縁祭(リアンドン)自体にまったく興味などなかったが、それでも帰参組の浮かれ気分には引きずられがちだった。

 

 だが帰参組の全員が喜び回っていたわけではなく、中には眉間に皺を寄せて苦虫を噛み潰す者もいた。

 ヴァルナルの右腕であるカール・ベントソンだ。

 

 帝都に家族のいるパシリコは当然として、カールは副官の一人として残留を申し出ていたものの、ヴァルナルは許可しなかった。

 

「どうしてです? 私はいまさら結縁祭(リアンドン)に参加する気はないですよ」

 

 カールがムッとなって言うと、ヴァルナルは「そうじゃない」と首を振った。

 

「お前を()らないと、ルーカスが何を言ってくるか…」

「………領主様、私を人身御供にしましたね?」

「人聞きの悪いことを言うな。私が行けない中、騎士たちをあちらで引き受けてくれるんだ。色々と雑務があるのは違いないし、手伝ってやってくれ。……兄だろ?」

 

 ヴァルナルが最後に付け加えた一言に、カールは顰めっ面になると、ボソリと吐き捨てた。

 

「……あの野郎、最初からその気だな…」

「カール? なにか言ったか?」

「いえ…わかりました。拝命致します。問題児どもの引率と監督と、ルーカス・腹黒・ベントソン卿の補佐ですね」

「……なにか不穏な言葉が混じってたような気がするんだが?」

「気のせいです」

「そうか?」

「ええ」

 

 カールの鉄面皮がまったく微動だにしないので、ヴァルナルはそれ以上、何も言えなかった。これで下手に「兄弟仲良くな」などと言おうものなら、あの青い目で冷たく睨まれて、凍りつきそうだ。

 

 もう一人のベントソンであるアルベルトは、他の騎士たちのようにはしゃいだりはしなかったものの、リアンドンに参加はするらしく、マリーに笑顔の特訓を受けていた。

 

「アルさんは決して悪い顔ではないのだから、もうちょっとかわいく笑ったら、きっと女の人も安心して声をかけられると思うの!」

 

 言いながら、アルベルトの頬や口の端を持ち上げてマッサージしたり、にらめっこをして笑わせようとするのだが、オヅマはその練習は無駄に終わるだろうと思った。

 オヅマから見ると、無理矢理に笑ったアルベルトの方がよっぽど不自然で怖かった。しかしアルベルト本人が特に嫌がることもなく大人しく妹の相手してくれているので、何も言わないことにした。

 騎士たちは皆、マリーに甘いが、アルベルトは特に甘い気がする…。

 

 雲ひとつない晴天の、熱を帯びてきた太陽の眩しさに夏の気配を感じる頃、帰参組は帝都へ向かって旅立った。

 

「いい嫁さん見つけてこいよー」

「おーう。美人の姉妹のいる嫁さん連れてきてやるー」

「フラれてしょぼくれて帰ってこいよー」

「うるせえ! お前らなんぞ、指くわえて見てな!」

 

 見送りの声に怒号が入り交じる中、ゾロゾロと騎士たちは領主館から出て行く。

 

 その途中では、こちらで仲良くなった村娘に怒鳴り込まれ、「私がいるのにどうしてリアンドンに参加するのよ!」と詰められている騎士も何名かいたらしい。

 彼らが村娘をどう言いくるめたのかはわからないが、ドゥラッパ川にかかるシチリ橋を戻ってくる者はおらず、一団は予定通り帝都へと向かったのだった。

 




引き続き更新します。


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第九十三話 ケレナの噂話

 ミーナは早朝に領主館敷地の南西の隅にある小さな祠に向かう。

 そこは普段ほとんど人も来ないような場所で、長らくその管理は信心深いヘルカ婆が行っていた。

 料理人としての職を娘のソニヤに譲った後も、領主館の一隅に住まわせてもらっているのだからと、ヘルカ婆は体があちこち痛んできた今もこの仕事を続けていた。しかしこの間、水の入った重い桶を運んでいたときに転んでしまい、足を捻挫してしまったらしい。

 

「じゃあ、私が代わりに行きます」

 

 ミーナはすぐさまヘルカ婆の代わりを申し出た。

 オリヴェルがヴァルナルと朝食を食べるようになってからは、ミーナがオリヴェルの朝食の準備をすることもなくなり、早朝は比較的ゆっくり過ごせるようになっていた。

 ここに来て以来、何かと世話を焼いてくれるヘルカ婆への恩返しができるなら、何でもしたかった。

 

 そんな訳でこの数日は、ミーナが祠の掃除などをしている。

 

「あら、ミーナさん」

 

 ポプラの連なる小道を歩いていると、声をかけられた。振り返ると、オヅマの家庭教師でもあるケレナ・ミドヴォア女史が立っている。

 

「こんな朝早くから…偶然ですわね。あなたもお散歩かしら? 少し寒いけど、いい朝ですわね」

 

 早口に話しかけてくるケレナにミーナは多少戸惑いつつも、すぐに桶を傍らに置くと、臍の上あたりで手を組み、頭を下げた。

 

「朝早くにお目にかかります」

 

 ケレナは目をパチパチと瞬かせると、苦笑した。

 

「まぁ…そんな畏まった挨拶をされるような身ではありませんのに。私など、ただの家庭教師ですし」

「いえ。息子がいつもお世話になっておりますから。辛抱強く接して頂いて、恐縮しております」

「オホホホ」

 

 ケレナは否定もできず、笑って誤魔化した。

 実際に、オヅマはケレナの授業で船を漕いでいることが少なくない。珍しく起きていれば、魔方陣の落書きをしていたりする。

 

「私も今まで教えてきたのは女のお子さんばかりだったので、まだ試行錯誤しておりますの。彼らの興味ある教材を用意できればよろしいのですけど」

「先生も大変ですわね」

「えぇ、そうですわね…大人になって、先生なんて呼ばれていても勉強ですわ。むしろ子供より熱心に取り組まないと、あっという間に追い抜かされてしまいます。子供の持つ集中力というのは、いつも目を見張るものがありますから」

 

 二人は話しながら祠の前にたどり着いた。

 大きな翌檜(あすなろ)の木の前には、白煉瓦で組まれた小さな祠が建てられている。屋根の部分だけが黒く瀝青(れきせい)で塗装されていた。

 

「まぁ、こんなところに祠堂(しどう)があるなんて思いもしませんでしたわ」

 

 ケレナは驚いたように言って、まじまじと飾り気のない質素な祠を眺めた。

 

「毎朝、ミーナさんが世話されているの?」

「えぇ…ずっとヘルカさんが管理されていたんですけど、この間、足を痛めてしまって、私が代わりに」

 

 話しながらミーナは祠から(さかずき)を取り出し、中に残っていた水を捨てると、桶の水を注いで元の位置に置いた。周囲に植えられた神に捧げるための花に水をやり、ついでに伸びてきた雑草をむしる。最後にポケットから香木の欠片を取り出すと、それを杯の手前に置かれた小さな陶器の器に入れて、火をつけた。

 フワリと、森の清しい香りに混じって微かな甘い匂いが漂う。

 

「あぁ…この香りを嗅ぐと、神殿にいる気分になりますわね」

 

 ケレナがスゥと深く吸って胸をふくらませる。

 ミーナは微笑した。

 

「神殿で使われる深鳴香(ジュデキュス)などはとても手に入りませんが、この地域には銀雪花樹(ルミリア)という似た香りの木があるんです。だから、ここの人達は自分たちの家の神棚にも、毎日のようにこの香木を供えるんですよ」

 

「まぁ、珍しいですわね。神様をお祀りするのは帝都の庶民もしますけど、さすがに香木を毎日焚くなんてできませんわ。あっという間に破産してしまいます。その木は帝都にはないのかしら?」

 

「寒冷な場所でないと、育たないらしいですわ。庭師が言うには」

「あら、残念」

 

 そこで一旦、会話は止まった。

 

 ミーナは静かな表情で、祠の正面で腰を落として片膝立ちになると、ピンと指を伸ばした手を胸の前で交差し、瞑目して頭を下げた。正式な神前での拝礼式だが、庶民で知る者は少ない。貴族であっても、古典礼法をよほどに叩き込まれなければ、ここまで自然と身につくことはないだろう。

 

 ケレナもまた、そうした拝礼があることを知らず、とりあえずミーナに(なら)って頭を下げた。

 

「この祠は何の神様を祀っているのかしら?」

 

 ケレナはすぐに顔を上げると、まだ祈っていたミーナに尋ねた。

 ミーナは目を閉じたまま、やさしく答える。

 

「特に決まってなくて、年神様をお祀りしているようですよ」

「あら。じゃあ今年はイファルエンケだから……恋人達の神ですわね。だからかしら? ミーナさんが熱心にお願いしているのは」

「え?」

 

 ミーナは目を開いた。

 振り返って目が合うと、ホホホとケレナは笑った。

 

「聞いておりますわ。ミーナさんがご領主様と随分とご昵近だと。この屋敷の人達はみな、優しいですわね。普通、主と自分の同輩の召使いがそんな仲になろうものなら、嫉妬してひどく当たる者も珍しくないのに」

 

 ミーナは困惑しつつ、首を振った。

 

「そんなことはありません。先生の仰る通り、私は一介の召使いなのですから、領主様と昵懇だなんて…畏れ多いことです」

 

 固い口調で返すミーナに、思っていた反応と違ったのか、ケレナは狼狽して言い繕った。

 

「あら、そんな……困ったわ。私、皮肉を言ったわけじゃございませんのよ。気を悪くされたのかしら? ごめんなさい」

「いえ、違います。本当に…本当に、私はそんなことは考えてもいませんので」

「あら……そうなんですか」

 

 ケレナはやや残念そうに言ってから、ふっと表情が翳った。

 

「まぁ、結婚すれば男は変わると申しますものね。ご領主様も以前の奥様とは上手くいかなかったようですし…」

 

 ドクン、とミーナの心臓が強く跳ねた。

 

 それまでにも何度となくヴァルナルの前妻の話は聞いていたが、たいがいが「田舎を嫌って出た薄情者」というものだった。話す者達のほとんどがレーゲンブルトに長年住み暮らしている者達なのだから、致し方もない。

 

 しかしケレナは公爵家からの紹介で来ている。

 点々と各地の貴族の家を渡り歩く中で、ヴァルナル・クランツ男爵の様々な風聞を聞いたのかもしれない。

 

「以前の奥様は…ここが嫌になって出ていかれたと聞いておりますが」

 

 ミーナがか細い声で言うと、ケレナは軽く溜息をついてゆるゆると首を振った。

 

「確かに田舎暮らしを嫌う女の方もいらっしゃるでしょうが、それでも夫がそれなりに気を遣っていれば、逃げるように出ていかれるようなことはないと思いますわ。まして幼い息子をおいて。私が聞いたのは、クランツ男爵が奥方を他の女性とくらべては非難していたと…」

 

「他の女性?」

 

「ミーナさんはご存知かしら? グレヴィリウス公爵の亡くなられた奥様のこと。リーディエ様と仰るのですけれど、美しくて、その上、とても賢い夫人でいらしたようですの。領主様は公爵閣下にお仕えすると同時に、リーディエ様にも相当に傾倒されていた……あるいは」

 

 ケレナはコソリと小さな声で囁いた。

 

懸想(けそう)されていたのかもしれません」

 

「………」

 

 ミーナは聞きながら、心臓を冷たい剣で刺し抜かれた気分だった。

 ケレナは黙り込むミーナに頓着せずに話を続ける。

 

「そのせいか、前の奥方はリーディエ様と比べられて、とても冷たい扱いを受けたと聞いております。無論、それは片方の意見であって、私も領主様に実際に会ってみれば、噂は噂だと認識を改めましたけれどね」

 

 ひとしきり話してからケレナはもう一度、祠に向かって頭を下げた。

 

「……イファルエンケは漂泊の神でもありますものね。私のような根無し草には有難い神様ですわ。もっとも、ここにはもうしばらくいさせてくださいとお願いしましたけど」

 

 笑って言うケレナに、ミーナは微笑み返しながらも、心中には不穏な思いが渦を巻いていた。

 突如湧き出たドス黒い気持ちが、ミーナの顔に翳をつくる。

 

「ごめんなさいね、ミーナさんはとても真面目でいらっしゃるのに、こんな話をしてしまって。見たところ私と同じような年頃でいらっしゃるものだから、親しくなれるかと思って…実は前々から機会をうかがっていたんです。ご迷惑だったかしら?」

 

 ケレナは申し訳無さそうに言った。自分がミーナの機嫌を損ねたと感じたらしい。

 ミーナはあわてて強張った顔に、無理やり笑みをつくった。

 

「いえ、そんな私なんて。いちいち真面目に考えすぎてしまって、つまらなかったですね。申し訳ありません」

「いえいえ、そんな。でもせっかくこうして知り合えたのです。内容は違っても、若君のお世話するという立場は一緒なのですし、もしよろしければ友達となっていただきたいわ。本当は私、とてもおしゃべりなんです」

 

 ケレナはそう言って、手を差し出す。跪いていたミーナは、その手を掴んで立ち上がった。

 

「私などでよろしければ」

「そんな謙遜なさらないで、ミーナさん。あなたが時折歌っているターディ語は、今ではほとんど聞かなくなった希少言語なんですよ。文字を持たない、歌で語り継がれた民族の言語ですわ。私、興味深く聴かせてもらっていたんです」

 

 ケレナはいきいきとした好奇心を隠すこともなく、楽しげに言った。

 

「お恥ずかしいですわ。誰もいないと思って歌っていたのに」

「ふふふ。あなたの歌声に耳を傾けている方は、私以外にもいらっしゃると思いますわよ」

 

 ケレナはおしゃべりだという言葉に違わず、ミーナと一緒になって館に向かって歩いている間、ずっと話していた。

 

 前の職場での令嬢がすぐに仮病を使って授業をサボったりしていたことや、昔、住んでいたラーナヤ王国のこと、ここに来るまでに泊まった宿屋のひどい料理のことなど、様々な話を面白おかしくミーナに語った。

 

 当初は礼儀正しく控えめな態度を崩さなかったミーナも、ケレナの飾らない人柄と、辛辣ながらも率直で、ちょっとした()()()()を含んだ話術に、いつの間にか声を出して笑っていた。

 

 ミーナはケレナの話に相槌をうちながら、ふと思った。

 

 そういえば、自分には同じ年頃の友達というのがいたためしがない。――――

 

 幼い時にとても慈しみ育ててくれた存在はいたが、自分と同じ年頃の子供と遊んだ記憶はなかった。

 その後の人生においても、力になってくれたのは年上の女性ばかりで、自分と同じ年頃の少女が、リボンを揺らしながら楽しげに笑って過ぎていくのを、オヅマを抱きながら見つめていたのを思い出す。

 彼女らを羨んだりしたことはない。

 ただ、自分とは別の世界にいるのだと思った。自分がその世界に加わることはないのだと……。

 

 感傷に浸る前にミーナはその思い出を振り払った。

 とめどなくおしゃべりするケレナを見つめる。

 当たり前に過ごしてきた日常の朝に、突如現れた同じ年頃の『友達』が、とても貴重な人のように思えた。

 

 ケレナは辻音楽家が壊れたアコーディオンで見事に演奏した話で一区切りした後、ハーッと長く息をついた。

 

「あぁ、久々ですわ。こんなに気楽におしゃべりできたのは。家庭教師って、ちょっと特殊でございましょう? 召使いというわけでもなし、かといって客人というわけでもなし。主や主の家族からは召使いに毛の生えたもの、みたいな扱いですし、使用人からすれば客人でもないくせして態度のでかい女だと陰口を叩かれることもあって、なかなか心許せる人間というのに巡り会えないんです」

 

「まぁ…大変ですのね」

 

「えぇ。ですから、今までは遠方にいる姉に手紙で愚痴を言うのが唯一のおしゃべりだったんですの。姉は病であまり外に出ることもできない身の上ですから、私からの便りが唯一、楽しみなんだと言って…」

 

 言いかけたケレナの目に、一瞬、涙が浮かんだ。ミーナが気付いて言う前に、ケレナはあわてて涙をぬぐって、ニコリと笑った。

 

「でも、長く書いていると腕が痛くなるし、指にはタコができてしまうし…何より、分厚くなってしまって切手代が馬鹿になりませんわ」

 

 肩をすくめてみせるケレナに、ミーナは笑った。涙が少し気にはなったが、ケレナが避けたい話題なのかもしれないと思って、あえて触れなかった。

 

 館に入ってからも、ケレナのおしゃべりはとどまるところを知らなかったが、本館の北棟へと続く廊下を歩いていると、いきなりケレナは真っ赤になって口を噤んでしまった。

 

「……どうされたの?」

 

 ミーナが尋ねると、正面からネストリがつかつかと早足で歩いてくるところだった。

 

「ミドヴォア先生、こちらにいらしたんですか」

「まぁ……ネストリさん」

 

 ケレナの声はさっきまでの賑やかなものと打って変わって、か細く小さくなった。

 ネストリはチラとだけミーナを見て、ケレナに尋ねた。

 

「こんな朝早くから何をされていたのです?」

「あ…散歩を。早くに目覚めまして。それで、途中でミーナさんに会って…ちょっとおしゃべりしていたんです」

 

 ネストリは眉を寄せると、ジロリとミーナを見た。

 

「お前はなぜ、朝から歩き回っているのだ?」

「私はヘルカさんが足を痛めてしまったので、代わりに祠堂の世話を…」

「あぁ、あれか」

 

 ネストリはフンと鼻を鳴らす。「ま、よかろう」

 

「あ、あの…声が大きかったかしら? ごめんなさいましね」

 

 ケレナが申し訳なさそうに言うと、ネストリは「あ…いや」と気まずそうな顔になり、ゴホンとわざとらしい咳払いをする。

 

「朝は忙しい時間ですから、職務に怠慢な者がいないかと思ったまでです。きちんと理由のある行動であるならば、私もむやみに咎めるつもりはございません」

「あ…ミーナさんは私のおしゃべりに付き合って下さっただけですのよ。ごめんなさいね、ミーナさん。断りづらかったのですわね」

「いえ、そんなことは」

 

 ミーナが言いかけるのを遮るように、ネストリは強い口調で言った。

 

「ミーナは息子の勉強をあなたに見てもらっているのですから、あなたに対して礼を尽くすのは当然のことです。そんな気遣いは無用です」

「そんな…私などは…ただの…家庭教師に過ぎませんから……」

 

 訥々と話すケレナの頬から首に朱が差す。

 ミーナはちょっと驚いた。もしかすると、ケレナは…? 

 

「では私は仕事がありますので、これで。ミーナ、そろそろ若君の起きられる時間だろう? いつまでもフラフラと歩き回っていないで、きちんとお世話するように」

 

 ネストリはビシリと言い置いて、足早に去っていった。 

 ケレナはその後姿をポーっと見つめている。

 

「……ネストリさんと仲がよろしいのですね」

 

 ミーナがそっと声をかけると、ケレナは真っ赤になりながらブンブン首を振った。

 

「いえっ! そ、そ、そういうわけではございませんのよ! ただ、この前ちょっと助けていただいて…」

「助けた? ネストリさんが?」

 

 あのネストリが誰かを助けるというのがミーナには信じられない。

 

「えぇ…その…図書室で調べ物をしている時に、ちょっと高い場所にある本が取れなくて…梯子を持ってきて取ろうとしていたら、私の立て掛けが悪かったのかよろけてしまって、その時に咄嗟に助けていただいたのですわ」

「まぁ…」

 

 ミーナは聞きながら、ネストリに対する認識を少しだけ改めた。

 さっきも含めて、ここに来た当初からミーナには終始一貫として冷たい人間ではあるが、他の人には情けある対応もできるようだ。

 

 下男のオッケが死んでからの手続きなども、パウル夫妻は自分達で埋葬の手配もせねばならぬと困っていたらしいが、ネストリがテキパキと指図してあっという間に埋葬し、簡易ながら葬儀も行ってくれたらしい。

「ちょっと見直したよ」とヘルカ婆も言っていた。

 

「それで好ましく思っていらっしゃるのね?」

 

 ミーナがにっこり笑って言うと、ケレナは「違います!」と懸命に否定したが、真っ赤になった顔は隠しようもない。

 

 素敵なことだ…とミーナは微笑ましく思いながらも、どこかで羨ましさが心を引っ掻いた。

 人を好きになるのは素晴らしいことなのに、どうして自分はいつも好きになってはいけない人ばかり、好きになってしまうのだろう……。

 




次回は2022.10.16.更新予定です。


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第九十四話 思いがけぬ来訪者

 春の暖かさが初夏のやや汗ばむ暑さに変わってきた頃、帝都へ向かう人々の群れに逆行するかのように、一人の客がレーゲンブルトにやって来た。

 

「テュコ! どうしたんだ、お前」

 

 応接室に通された客人を見て、ヴァルナルは挨拶もすっ飛ばして尋ねた。

 

 ソファに座ってキセルをふかしていた、ヴァルナルと同じ赤銅色の髪の男は、ハハハと豪快に笑いながら立ち上がって、深々とお辞儀する。

 

「お久ししゅうございます、クランツ男爵。快く迎え入れてくださって、ありがたき幸せ」

 

 ヴァルナルは渋い顔をしつつ、男の前の肘掛け椅子に座りながら、早口に言った。

 

「やめぇ。なんじゃぜ、そン気持ち悪い挨拶」

 

 突然の領主様の訛り言葉に、その場にいた女中や従僕は目が点になった。

 

 しかし男の方はケラケラ笑う。

 

「いやっはぁー、道々噂にされようレーゲンブルトの領主様じゃぜなぁ。いつも都で会ぅとったじゃ、わからんもんぜ。じゃぜ、久々ン来たが、こン館も…なぁン、綺麗になったぜなぁ。昔、一度来たときなンぞ、みすぼらしいもンじゃったぜのぉ」

 

「いつの話じゃそりゃ。戦の前じゃろぜ」

「おぅ、おぅ。あン頃りゃ、お(まン)、領地放っぽって行きよったぜなぁ…」

 

 応接室にいた召使い達は、皆が皆、呆気に取られたように目の前で交わされるやり取りを見ていた。 

 

「あの…ご領主様」

 

 ネストリはひどく戸惑いつつも、執事の心得として懸命に平静を装ってヴァルナルに声をかける。

 

「お客人のテュコ・エドバリ様からたくさんの土産を頂いております。こちらが目録です」

 

 ヴァルナルは受け取ると、さっと目を通してふふん、と笑った。

 

「シロルの酢漬けとはまた、懐かしいのを持ってきてくれたもんじゃぜ」

「おぅ。(かか)様が持ってけとうるせぇじゃ。あぁ、そこン女中さん。これ、上手(うも)()()()くれっじゃ」

 

 そう言ってテュコは腰に括り付けていた袋を取って、一番近くに控えていたエッラへと差し出した。

 

「なんぜ、それ?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、テュコは胸を張ってやけに誇らしげに言った。

 

「豆よな。よぅ煎った豆じゃぜ」

「豆ェ? なン、それは」

「まぁ、まぁ。ホレ、アンタ。早ぉ受け取っじゃ」

 

 エッラは眉を寄せながらも、テュコから袋を受け取ると、途方にくれたようにヴァルナルを見た。しかしヴァルナルは気付かず、テュコはいかにも愉しげに妙な節回しで嫌味めいたことを言う。

 

「これをどうやって()()()ことができるか~。まぁ、こんなクソ田舎じゃ、都の流行(はやり)なんぞ知らんぜなぁ~」

「なんぜ、それ」

「まぁまぁ。とにかくそイ、厨房に持ってって、うまンこと()()()きてくざっしゃい」

 

 不承不承にエッラが出ていくと、テュコはまたキセルをふかし始める。

 

「またお前は、えぇ年して悪戯好きじゃぜ」

 

 ヴァルナルがあきれたように言うと、テュコはニヤリと笑った。

 

「本当はお(まン)が都ン帰って来ように、新年の集まりで()()を皆に振る舞おうと思ぉとったんじゃぜ。なぁン、これまでは上ツ方々(*皇室等の上位貴族)くらいしか手に入らんもンじゃったぜなぁ」

「ほぅ…じゃぜ、そんな貴重なモン使ぅて、無駄になっちゃらせんぜ? 勿体ない」

「ハハハ。ちょっとの量じゃぜ。仲間と一括で大量に仕入れて、まぁ、ありゃ試供品みたいなもんじゃぜに」

 

 ヴァルナルは目の前に座るテュコをまじまじ見つめた。

 いつも都で会う時には、家族の宴会の場であったので、旅装姿のテュコを見るのは久しぶりだった。

 駱駝色の帽子を被り、濃緑のフェルトコートの下には、年をとるにつれ膨らんできた腹がベルトの上に乗っている。こうした恰幅の良さはいかにも商人としての風貌だった。(*帝国において商人は多少肉付きの良い者の方が信頼される)

 

 テュコ・エドバリ。

 彼はヴァルナルの実弟だった。

 十二歳でヴァルナルがクランツ家の養子に入るまでは、同じ屋根の下で毎日のように取っ組み合いの喧嘩をしつつ、おやつを分け合った仲である。年が一つしか離れていないので、今では兄弟というより友達のようになってしまった。

 ちなみに当然ながら、ヴァルナルの旧姓はヴァルナル・エドバリである。

 

「で?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、テュコはうん? と眉を上げる。ヴァルナルは軽く首をひねった。

 

「ここに来た理由(わけ)はなんじゃぜ?」

 

 

 

 

 

 

 一方、テュコから挑発的な言葉と共に、小袋を受け取ったエッラはイライラと足音も荒々しく厨房に向かっていた。

 

 この領主館に勤め始めてからというもの、エッラはヴァルナルにそこはかとない恋心にも似た尊敬を抱いていた。時には自分が男爵夫人になるような夢も見ていた。

 しかし、あの方言丸出しの商人風情の男と、気安くおしゃべりを始めただけでなく、一緒になってひどい訛りで話しだした途端に、自分の描いてきていた期待やら理想像やらが一気に崩れ落ちた。

 憧れていた自分が腹立たしい。

 その上、自分と同じような平民であろう男に指図され、ひどく自尊心が傷つけられた。(エッラもまた()()()()()()()()()名のしれた商家の娘であった)

 

 エッラは厨房に乗り込んでくるなり、バン、とテュコからもらった袋を作業台に叩きつけた。

 

「はい、これ!」

「…なんだい、これ?」

 

 いきなり現れるなりご立腹のエッラに眉をひそめながらも、厨房の料理人、ソニヤは袋の中身を見て首をかしげた。

 黒く小さな粒がいっぱい入っている。

 

「なぁに?」

「どうかしたんですか?」

 

 ちょうどその時は、夕食に使う食材の下準備中だった。

 厨房下女である娘のタイミは当然として、最近では、オリヴェルの授業時間中に暇を持て余したミーナが、以前のように厨房に来て、他愛無いおしゃべりをしながら手伝っている。

 ヴァルナル直々に諭されたように、ミーナの仕事は本来オリヴェルの世話係であるが、厨房での手伝いについては、ヴァルナルが特別に許可してくれたのだ。

 

「豆かい、こりゃ?」

「知らないわよ! 都で流行(はや)ってるとか何とか言ってたけど。適当に料理しちゃって」

 

 怒鳴り散らすエッラに、ソニヤはふんと鼻を鳴らす。

 

「知らないってね…そんなわからないものをおいそれと料理なんぞできないよ」

「あんたは料理人でしょう!? 文句言ってないで、とっとと作りなさいよ。()()()こいって、言われてるんだから」

()()()こい? なんだい? 皿にでも盛ればいいのかい?」

「だから…知らないわよ!」

 

 ソニヤとエッラが噛み合わない会話をしている間に、タイミが袋から中身を一粒取り出した。

 

「なんだろ? これ」

 

 ミーナはタイミの指先につままれた、小指の先ほどの褐色の艶光りした小さな粒を見て、パチパチと目を瞬かせた。

 

「それ……」

「え? なに?」

 

 ミーナは袋を引き寄せると、クンと匂いを嗅いで頷く。「やっぱり」

 

「なぁに? ミーナは知ってるのかい?」

 

 ソニヤが尋ねると、ミーナが答えた。

 

「えぇ。おそらく珈琲豆だと思うわ」

「こーひーまめ?」

「…どうしてこんなものが、ここに?」

 

 ミーナがつぶやくと、エッラが面倒そうに言った。

 

「都からの商人みたいな男が持ってきたのよ。偉そうにして、訛りがひどい男。領主様まで一緒になって、ベラベラ喋ってみっともないったら! どうでもいいけど、知ってるんなら、さっさと作ってよ。私が持っていかないといけないんだから」

 

 ソニヤはエッラの高圧的な態度に憤慨したが、それでも客を待たせるわけにもいかない。ミーナに頼んで、その豆をどうすべきなのかを尋ねた。

 

「臼で粉にするんですけど、匂いがキツイからそれ専用の石臼か何かでないと…」

「困ったね。水車小屋の石臼は小麦を挽くのに使うし、それ以外のも匂いが移るとあっちゃ、あんまり使いたくない」

「じゃあ、袋の中である程度叩いてから、すりこぎで()ってみましょう。あんまり細かくはならないかもしれないけど、()れることはできると思います」

 

 ミーナの指示で珈琲豆を細かく砕いて()ったあと、粉になったそれを水の張った鍋の中に入れて沸騰するまで煮詰める。吹きこぼれないようにグツグツとしばらく煮ると、お湯は見る間に真っ黒になった。

 ミーナは火を止めると、しばらくおいてからその上澄みを丁寧にすくって、お茶用のポットに注いだ。

 

「なに、これ? 毒か何かじゃないの?」

 

 見慣れない黒い液体がポットになみなみと注がれるのを見て、エッラは眉を寄せた。

 

「いえ…珈琲豆はこうやって飲むもので…あと…」

 

 ミーナは詳しく教えようとしたが、エッラは遮った。

 

「あぁ、もういいわ! 持っていくから!」

 

 カチャン! と苛立たしい音をたててポットの蓋を閉じると、カップなどと一緒にお盆に載せ、さっさと厨房から出て行った。 

 

「やれやれ、まったく。礼も言いやしない、あの子は」

 

 ソニヤがあきれかえった様子で言うと、娘のタイミはイーッとエッラの去った方に向かって歯を剥いた。

 

「あんなだから、騎士たちからも嫌われるのよ。性格悪いんだから」

「大丈夫かしら? あの飲み物、あのままだと飲みにくいかもしれないんだけど」

 

 ミーナが心配そうに言うと、ソニヤはヒラヒラと手を振った。

 

「知ったこっちゃないよ。あんたがせっかくご丁寧に説明しようとしたのを振り切って行っちまったのは、あの子の方なんだからね」

 




次回は2022.10.23.更新予定です。


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第九十五話 テュコの話

 応接室で久しぶりに向かい合った(テュコ)は、ますますふてぶてしい男になっていた。もっとも、商人として各地を渡り歩いては商談を繰り返しているのだ。多少ならず図々しくあらねばやって行けないのだろう。

 

「理由がなきゃ来ちゃいかんぜ?」

 

 テュコはいちいち勿体ぶる。ヴァルナルは苛立たしげに舌を打った。

 

()よ言や。暇じゃないんじゃぜ」

「なんぜぇ~、えらそうに」

 

 テュコはおどけた口調で言うと、ポリポリと耳裏を掻いた。

 

「来年は都に帰って来ン上に、手紙であン意味ありげなこと書いてくっじゃ、気にもなるんじゃろぜ」

「意味ありげ?」

(かか)様への手紙で息子(オリヴェル)ンこと書くは当然としても、やたらと世話する女ンこと、褒めちぎっとったじゃ? まぁ、しつこぉに書いとぉぜ、母様がこりゃ間違いなくなんぞあるに違いないじゃっぜ、どン女ぞ見てこい…ぞ言いよぉじゃ。まーた息子が失敗しとんじゃと、老婆心が疼いたんじゃぜ」

 

 ヴァルナルはハァと溜息をついた。いい年をして未だに実母に心配させるとは、我ながら情けない。

 頭をかかえて項垂れると、テュコはハッハッと笑った。

 

「なン、ウチの一番の出世頭じゃぜなぁ。母様も(なン)かと心配になるんじゃろぜ。まして、自分の目の届くところにもおらんぞに、あることないこと頭の中でばぁっかり気ィ揉んでしまいようぜ。じゃぜ、ワシが様子でも見て来ようと…ま、こっちに用もあったぜなぁ」

 

「うん? なにか目ぼしいものがあるのか?」

「おぅおぅ、領主様。商機があるとみるや、すぅっぐに飛びつくのぉ」

「フザけとらんぜ、テュコ」

 

 ヴァルナルは真面目な顔で言った。

 品種改良がうまくいき、気候に恵まれたのもあって、この数年は豊作が続いているものの、元々北部で育てられる穀物は限られている。数年でも冷夏となれば、領民は一気に困窮してしまうだろう。

 ヴァルナルにとって、民生の安定はいつにおいても喫緊の課題だった。

 

 これまでもテュコは兄とはいえ、領主でもあるヴァルナルにそう簡単に手の内は見せなかった。

 商人からすれば、いい商売のタネを見つけても、それを領主から流通禁止にされたり、高い関税をかけられるのはあまり嬉しくない事態だ。

 

 ヴァルナルの方もそれはわかっていたし、実家と癒着しているなどという面白くない噂が立つのも嫌であったので、兄弟との商売上の取引は控えていた。

 だが、情報は積極的に求めた。

 

 商人というのは、色々な要因が商売に関わってくるので、貴族社会よりも情報が早く、またそこに貴族特有の情報操作が行われることも少ない。

 彼らの目的はいつも自分の利益であるので、そのベクトル分を差し引いて考えれば、おおよその正確な情報は手に入る。

 

「なにか、()()がある…という訳じゃないんぜ。ちょいとばか、商人の間で持ち上がっとぉ話があっじゃ。今、ここから帝都に向かう道は、ヤルムの森を抜けて、アールリンデンまで出てから、グァルデリ山脈をぐるーっと回って向かうじゃろ? これ一本しかなぁぜ? それを西に一本、増やしたらどうじゃろぜ…とまぁ、そんな話が出とぉじゃぜに」

 

「西? しかし、あっちは…」

 

「わーっとる、わーっとる。西も山が連なっとっじゃ。しかし低い山、低い山を通っていけば、行けんこともない。元は若い行商人がルートを見つけよったんじゃぜ。もし、こっちの道が通って、トゥルクリンデンにまで出れっじゃ、そこから帝都まではセーン川を下ればすぐじゃぜ。そうなれば、今の半分、例のお(まン)の見つけた黒角馬なんぞで飛ばせば、もっと短く来ることも可能じゃろぜ」

 

「それはそうかもしれないが…」

 

 ヴァルナルはテュコほどには嬉しがりはしなかった。

 帝都までの街道が増えるのはいいことのようだが、その整備や維持管理を考えると手放しに賛成はできない。

 そもそも工事を行うこと自体が、相当な費用を要する上に、領地境界に関わってくるので、自分だけの一存で決められることでもない。

 時間も費用も関係者への根回しも相当な労力だ。

 そこまでして取り組むべき必要性と見返りがなければ、とてもではないが安易に首肯できない。

 

 だがテュコはそんな兄の心中をすぐに察して、ニヤリと商人らしい狡猾な笑みを浮かべた。

 

「短くなりゃ、運べるモンもあるんぜ、領主様。それもこっちじゃ、ほぼ年がら年中タダで転がっとるもンぞに、帝都に行けば、千倍以上の値段で取引されるもんじゃぜ」

「千倍!?」

 

 ヴァルナルは目を剥いた。

 こっちではタダ同然で、帝都に行けば千倍の値になるようなものが、一体、この貧弱な土地のどこに転がっているというのだろうか?

 

 テュコはパイプの煙をふぅと吐くと、勿体ぶって間をあけ、十分にヴァルナルの注意を引き付けてから言った。

 

「氷じゃ」

「氷?」

「そうじゃ。ヴェッデンボリの湖やら、洞窟やらでもえぇ。氷を切り出して、帝都に運ぶんじゃぜ。夏場なんぞ、そりゃ飛ぶように売れるっじゃ」

「………」

 

 ヴァルナルは言葉をなくした。

 確かに氷ならば豊富にある。

 冬に限らず、ヴェッデンボリ山脈を少し登れば、中腹の池は夏でも氷が張っているほどだ。

 

 皇室や一部高位貴族しか口にすることのできない夏の氷は、今はトゥルクリンデン近くにある皇室直轄地の氷室で保存されているものを、セーン川を下って運ばれている。

 だが、それも冬の間に切り出したもので、夏までに徐々に溶けて、帝都に着いた頃には相当に小さくなっているらしい。

 

「今日、ワシが持ってきた豆もそうじゃが、氷なんぞも庶民には夢のような食い物じゃぜなぁ…病気でもなぁで、夏でも(けず)()が食えるなン、嬉しいて帝都の雀も小躍りしよぉぜ」

 

 ゴクリ、とヴァルナルは唾を呑み下した。

 確かに、それが本当に叶うのであれば、このサフェナが潤うのは間違いない。しかも収穫前の、一番金がなくなる時期。新たな資金源となるものが加われば、どれだけ助かることか。

 

 それにこちらから帝都への距離が短縮するということは、同様に帝都からこちらに向かうことも容易になるということだ。

 そうなれば向こうからの物資は届きやすい。物の流通が進めば、人も動き、人が動けば、帝都の進んだ生活水準にこちらも近づくだろう。

 

 すべてがいい方向に向かうように思えた。

 だが、やはりその前に立ちはだかるのは、莫大な元手と関連各位への根回しだ。

 

「魅力的な話だが、問題はトゥルクリンデンの主たるダーゼ公爵が納得されるかということだろう。街道を切り拓くには、私だけの力ではとてもではないが無理だ。ダーゼ公はじめ、グレイヴィリウス公爵閣下、それに皇帝陛下からの許しを得る必要もある」

「んん。じゃぜ、奴ら、ワシにわざわざ話を持ってきよったんじゃぜ。なにせ、ワシはあの、黒杖を拝受した英雄ヴァルナル・クランツの弟じゃぜなぁ~」

「……そういうことか」

 

 単純にこの弟が自分に会いに来るなど、おかしいと思ったのだ。

 最初に言った母親の心配を解消するためというのがついでで、本来の用事はこの事だったのだろう。

 

「お前、年とってますます狡賢くなってきよったぜ」

 

 また、昔馴染の言葉に戻ってヴァルナルはテュコを見た。

 ハッハッと弟が笑い、パイプをふかしていると、ノックがして「失礼します」とエッラが入ってきた。

 

「おぉう…来たか」

 

 テュコはさてどうやって大笑いしてやろうかとばかりに待ち構えていたのだが、テーブルに置かれたカップに黒い液体がなみなみ注がれると、目を(みは)ったまま黙り込んだ。

 ヴァルナルは眉を寄せて、素直な疑問をつぶやく。

 

「なんだ、それは…飲み物なのか?」

 

 真っ黒な液体。焦げたような独特の香り。

 カップに入れられているが、口に入れるものなのかと疑ってしまう。

 

 エッラはそんな領主の様子に顔を強張らせた。

 内心で、ミーナへの恨み言が堰を切ったようにあふれる。

 

 テュコはカップを持ってクン、と匂ってから、ゴクリと一口飲んだ。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 ヴァルナルが尋ねたが、テュコは答えなかった。エッラをじっと睨むように見て、鋭く尋ねる。

 

「女中さん、これ、アンタが淹れたんぜ?」

「ちっ、違います!」

 

 エッラは即座に否定した。

 

「ミーナが勝手にあの豆を潰して、この気味の悪い飲み物を作ったんです。私は仕方なく持ってきただけです!」 

 

 自分がこの奇妙な飲み物を用意したのだと思われ、不興をかってはたまらない…とエッラは必死に言い訳した。

 実際、作ったのはエッラでない。

 

 テュコはしばらくカップの液体を見つめていたが、エッラに向かってニヤリと笑った。

 

「ほぅか、ほぅか。そりゃ、女中さんも難儀じゃったぜ。すまんが、これを作った者を呼んできてくれんぜ?」

「すっ、すぐに!」

 

 エッラはホッとすると同時に、ミーナへの怒りが沸々とわいて、足音も荒々しく応接室を出て行った。

 

「………おい、なんなんだ?」

「まぁ、まぁ。兄貴よ。ミーナといえば、オリヴェルの世話係の女とおんなじ名前じゃ? まさかこの館にミーナが何人もいるわけじゃなかろうぜ?」

「ミーナは一人しかおらん。なんぜ、彼女に…」

「大丈夫じゃぜ、兄貴。なんも叱ったり怒鳴ったりする気はないっじゃ。ま、ちぃと黙って見とってたもうぜ」

 

 テュコはニヤニヤ笑って、また一口、黒い液体を口に含む。十分に味わってから飲み下すと、満足げな吐息を漏らした。

 

 

 

 

 一方、再び厨房に乗り込んだエッラは、ミーナを見つけるなり真っ赤な顔で迫った。

 

「ちょっと、ミーナ! アンタ、やっぱりあれ、違うじゃないの!」

 

 エッラはさっき、得体の知れない豆を持ってきたときよりも怒り狂っていた。

 

「えっ? そんなはずは…」

 

 驚いて椅子から腰を浮かせたミーナを、エッラはここぞとばかりに非難する。

 

「しらばっくれて! 私に恥をかかせる気だったのね。本当に、親子して意地が悪いったらありゃしない!」

「ちょっとアンタ! 勝手にあの豆持ってきて、どうにかしろって言ったのはそっちじゃないか!」

 

 ソニヤはエッラの剣幕に呆然としているミーナに加勢したが、エッラはえらそうに腕を組むと、フンと鼻をならしてそっぽを向いた。

 

「お客様も領主様もお怒りよ。あんたを呼んでるわ。とっとと応接室に行きなさいよ」

「ハァ? なんだってミーナが怒られなきゃなんないんだい?」

「そんなこと、私に言っても仕方ないでしょ。ともかく、あの不気味な飲み物を淹れた人間を呼んでこいって言われたの! とっとと行ってきなさいよ!!」

「コイツ、どこまで根性がひん曲がってるんだろうね…!」

「なんですってぇ!?」

 

 ソニヤとエッラの喧嘩のかたわらで、ミーナはしばらく考え込むと、母親を応援していたタイミにそっと声をかけた。

 

「ごめんなさい、タイミ。ミルクはまだあったかしら?」

「ミルク? 朝に絞っておいたのがあったと思うけど」

「じゃあ、ちょっともらっていくわね」

 

 ミーナはミルクを小さな陶器のポットにいれると厨房を出た。

 背後ではまだソニヤとエッラが言い争って、タイミも加わって賑やかだったが、とりあえずは呼ばれた以上、行かねばならない。

 

「もしかして…少し苦すぎたのかしら?」

 

 ひとりつぶやいて、ミーナは足早に応接室に向かった。

 

 

 

 

「失礼致します。ミーナにございます」

 

 応接室に入ると、ヴァルナルがいつも通り朗らかな笑みを浮かべて迎えてくれた。

 

「あぁ、すまないミーナ。弟がなんだか知らないが呼べと言うんで」

「弟?」

 

 ミーナはヴァルナルの前に座って、キセルをふかしている商人らしい男をさっと見た。

 ヴァルナルと同じ赤銅色の髪と、ややふくよかではあるが、ヴァルナルと似通った顔立ちに、養子先の兄弟ではなく、実弟だとすぐにわかった。

 

「はじめてお目にかかります。ミーナと申します」

「あぁ、アンタがミーナさんか。ワシはテュコ・エドバリと申します。すまんぜ、急に呼び出して。ちぃと聞きたいことがあるんぜ」

 

 ミーナはテュコの訛りに面食らったが、話を聞き漏らすまいと顔を引き締めた。

 

「はい、何か?」

「この珈琲を淹れたのはあんたじゃと聞いたが、間違いないんぜ?」

「はい。私にございます。お口に合わなかったでしょうか?」

 

 ミーナが遠慮がちに尋ねると、テュコはハッハッと笑った。

 

「いやっは~、こぜン美人の淹れたもンは、口の方をあわせるもんぜ」

 

 早口に言われてミーナはパチパチと目をしばたかせる。

 ヴァルナルがはぁ、と頭をかかえた。

 

「テュコ、何が言いたいんぜ? はよう、言えっじゃ。ミーナも忙しいんぜ」

 

 弟に引きずられたのか、ヴァルナルもまた訛って話すのを見て、ミーナは驚いた。

 ポカンと自分を見つめるミーナにヴァルナルはハッとなり、ゴホゴホとわざとらしい咳払いをする。

 

「テュコ、お前がいきなり訳の分からないものを持ってきたんだ。文句を言うのは筋違いだぞ」

「文句? ハァ~、まさかまさか。文句なン、つけようもないぜ。ちゃーんとした珈琲の淹れ方じゃぜに。むしろワシはびっくりしたっじゃ。こン、クソ田舎に珈琲を淹れりょうな御仁がおるとは思わんかったぜ。アンタ、ミーナさん。一体、どこで覚えてきたんじゃぜ?」

 

 軽く尋ねられミーナは息を呑んだ。

 

 




引き続き、更新します。


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第九十六話 ミーナの素性

 ニコニコと笑いながらも、テュコは油断なくミーナの様子を窺っている。

 ヴァルナルはテュコの意図を察して、眉を寄せた。正直、あまりミーナの昔の話を聞きたくない。

 

「それは…商家で働いていたときに」

 

 思わぬ質問にミーナは当惑した。落ち着きなく視線をさまよわせながら、小さな声で答える。

 テュコは首をひねった。

 

「商家? どこぜ、場所は?」

「……ルッテアです」

「ルッテア? そりゃおかしなことぜ~。こン豆はつい先ごろまで、都ンいる貴族ン中でも、相当格のある方々しか口にされることのなかった品じゃぜに。コールキアの方で生産拠点が出来て、上からの許可も出て、ようやっと我々みたいなモンの手にも入るようになってきたんじゃぜなぁ」

 

 ミーナの顔が強張り、徐々に青ざめていくのを見て、ヴァルナルはそれ以上、テュコが問い詰めようとするのを止めた。

 

「やめろ、テュコ。いいじゃないか。おいしいものが飲めたのだから」

「そぜに言いよぉわりには、お(まン)、一口しか飲んどらんじゃ」

「うるさいな」

 

 ヴァルナルが苛立たし気につぶやくと、ミーナはおずおずと声をかけた。

 

「領主様、よろしければミルクを入れて飲んでみてはいかがでしょう? 飲みやすくなると思います」

「ミルク? うーん…じゃあ、入れてみてくれ」

 

 ヴァルナルが珈琲の入ったカップを差し出すと、ミーナは持っていたポットからミルクを注いだ。

 黒の液体は見る間に薄い茶色になった。

 ヴァルナルはゴクリと唾を飲み下してから一口含む。まろやかで濃厚なミルクの味と一緒にほどよい苦味を舌に感じて、それが絶妙に調和していた。

 

「うまい」

「よかった…」

 

 ミーナは心のつぶやきが思わず声に出ていた。

 嘘のないヴァルナルの言葉に安堵する。微笑むと、ヴァルナルも固くなっていた表情を緩めた。

 

「やれやれ…ワシはすっかり邪魔者じゃぜな~」

 

 テュコがあきれたように言って、わざとらしく肩をすくめてみせる。

 

「あ…すみません」

 

 ミーナはあわててその場から後退(あとずさ)ると、ミルクのポットを抱えつつ、深く頭を下げた。それは召使いとしてのお辞儀であったが、実のところは赤くなった顔を隠すためだった。

 

「御用がお済みでしたら、私は失礼させていただきます」

「あぁ、ご苦労だった」

 

 ヴァルナルはテュコがこれ以上何をか言い出す前に、早々とミーナを下がらせた。正直なところ、意味ありげにミーナを見る弟の視線から彼女を隠したかったのだ。  

 

 ミーナが出て行った途端、テュコは頬に浮かべていた笑窪を消した。

 

「兄貴…お(まン)、あン女子(おなご)の身の上はちゃんと調べよぅぜ?」

 

 鋭く問われて、ヴァルナルはキョトンとなった。

 

「なんだ…いきなり」

「おかしいぜ、あン女子」

「おかしい?」

 

 ヴァルナルは問い返しながら戸惑っていた。

 テュコが珍しく真剣な顔になっている。

 

「言ったぜ? こン珈琲っじゃ、元々一部の上流貴賓の方々にしか飲まれることのないもんじゃったぞに…ルッテアなんぞ中途半端な街の、一介の商人が飲めるようなもんじゃなぁぜ」

「例外的にたまたま手に入れたんじゃないのか?」

 

 ヴァルナルは大して気にもせず言ったが、テュコは首を振った。

 

「そぜなこっじゃ、ありえんぜ。こン飲み物は元々、大公家から広まったんじゃぜ」

 

 テュコが口にした言葉に、ヴァルナルは引っ掛かった。

 

「大公家…?」

 

 帝国において、大公は皇帝と同じく唯一の人しかいない。

 

 ランヴァルト・アルトゥール・シェルバリ・モンテルソン大公閣下。

 

 最近、やたらと()の方のことを考えるようになった。

 それは無論、オヅマの『千の目』のことがあったからだが、今回また別の話題から彼の名を聞くのは偶然……なのだろうか?

 

「ホレ、あのイェルセン公国との戦で大公殿下が領土の一部を戦功としてもらったっじゃ? そン中にコールキア一帯があって、そこン少数部族の間で飲んじょった珈琲が殿下に献上されて、気に入られて飲まれるようになったんじゃぜ。帝国内じゃ、しばらくは大公殿下が独占しとったじゃ。そン後で殿下が皇家の上ツ方々にも紹介されて、徐々に都にいる貴族にも広まったんじゃぜなぁ」

 

 話しながら、テュコはまたミーナの淹れてくれた珈琲を一口飲んだ。満足気に息を吐く。

 

「見事なもんじゃぜ。こぅも美味(うも)ぉ淹れるとは。兄貴、あン女子はなかなか只者(ただモン)じゃなかろうぜ」

「………」

 

 ヴァルナルは少し考えた。

 

 確かに前々から気になっていたことではあった。

 レーゲンブルトのような片田舎では不似合いなほどの、ミーナの挙措の美しさ。

 

 今までは帝都近郊のルッテアの商家で働いて、そこで身につけたと聞いて納得していたが、よくよく考えれば、あぁまで完璧な礼儀作法を商家が仕込むとも思えない。

 

「まだ、世間的にはさほど知られてもいない珈琲の淹れ方を知っとるなン、よっぽどの家格の屋敷に勤めてたはずじゃぜ。いや……もしかしたら、皇宮ってことも」

「まさか!」

 

 ヴァルナルはテュコの想像を笑い飛ばそうとしたが、顔は強張った。そんな兄を見て、テュコはまたキセルをふかす。

 

「わからんぜぇ。今は子供も産んで多少老けとぉっじゃ、若い頃はもっと美しかったんじゃろぜ。あン美しさなら、皇宮で一級女官として働いていたとしても不思議はなぁぜ」

 

 皇宮の一級女官といえば、学識、所作、礼式の全てに習熟し、容姿においても優れている、と認められた『完全無欠の女中』とも呼ばれる存在である。

 彼女らは貴賤の区別なく厳しく教育されており、皇宮にあまたいる召使いの中でも別格だった。その完璧な礼儀作法を習得させるために、自分の娘を預ける上位貴族家もあったほどだ。

 歴史上では、彼女らの中から皇帝の后となった者もいる。

 

 ヴァルナルはテュコの言葉を結局、否定できなかった。

 古語や、古典礼法にも通じたミーナのふるまいは、皇宮の一級女官となっても十分に通用するだろう。

 

「まぁ、見たところ(かか)様が心配しとぉっじゃ、性悪女には見えんぞに、なんぞ隠しとぉことがあるんじゃろぜ、あン様子では」

「それがどうした?」

 

 ヴァルナルは超然として言った。

 

「隠したいことなんぞ、人間生きてれば一つ二つ出来て当たり前だ」

「ハハッ」

 

 テュコは笑った。

 これは相当、入れ込んでいるようだ。前のように公爵の肝煎りだという理由だけで貰い受けた女とは違う。

 

「兄貴にそン本気(マジ)もンの女子ができるぞなぁ~、人は変わるもんじゃぜ。オリヴェルのことも十分に面倒見てくれとぉっじゃ、本当(ホン)の親子でもないぞに、有難いことじゃぜ。実の(かか)は放っぽっていきよったぜなぁ」

 

 あけすけなテュコの言葉に、ヴァルナルは眉をしかめた。

 脳裏に前妻の姿が浮かぶ。

 

 互いに愛せないままに終わってしまった妻。

 世話してくれた公爵と公爵夫人のためにも懸命に愛そうとはしたが、形式的なことが済めば、何をすればいいのかわからなかった。

 その後、南部の紛争が再び始まってしまったのもあり、紆余曲折を経て別れてしまった。

 

 今となれば、彼女には失礼なことをしてしまったと思う。

 自分は彼女に興味を持つこともなく、気持ちを推し量ることもしなかった。

 

 今回、アドリアンの近侍としてオヅマを公爵家に送りこむためには、ミーナと結婚することが理想だと言われても、ヴァルナルは即断できなかった。

 それがアドリアンの為になることだとわかっていても、こちらの事情で婚姻を進めることは、ミーナを利用するようで嫌だった。

 

 そのくせ前妻のことは、公爵の意であるというだけの理由で結婚し、周囲の人間に貴族として認めてもらうための道具として利用することにためらいはなかったのだ。

 なんとも身勝手な話だ。

 

 ヴァルナルは来し方を思い、自らに慚愧した。であればこそ、今度は間違えないように、ゆっくりと手堅く進めたいとは思う。

 ただ、そのためには相当に忍耐力が必要だと、日々、思い知らされているが。

 

「……近いうちに正式に申し込むつもりだ。決まればまた、知らせる」

「ほぅか…」

 

 テュコは短く頷き、パイプの灰を灰皿に落として立ち上がった。

 

「ほいじゃ、ワシはこれで失礼するとしよう。街道の話はまだまだ先の長い話じゃぜ、また追々にな。ワシらの方で話が進めば、いい按配で動いてくれっじゃ。期待しよぉぜなぁ~」

 

 ヴァルナルはテュコの物言いにフッとあきれた笑みを浮かべた。

 つまり、テュコの仲間である商人たちも、それぞれの筋から街道新設について願い出るのだろう。だが皇帝陛下にまで話が伝わるのはそう容易ではない。そこで、ヴァルナルに後押しを頼みにきたのだ。

 

「まったく、タヌキになってきたのは姿形だけじゃないな……」

 

 ヴァルナルがあきれたようにつぶやくと、テュコはニッと笑った後に、ぽんと手を打つ。

 

「おぉ、そうっじゃ。甥っ子の顔くらい見て行かねば、母様にどやされる。前にここン来た時は、おっ怖い乳母にロクに顔も見せてもらえんじゃったぜなぁ~」

 




次回は2022.10.30.更新予定です。


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第九十七話 七年ぶりの甥

 午後の授業が終わると、オヅマは騎士団での訓練に戻り、オリヴェルは自室に戻って絵を描くというのが通常であったが、その日は授業の終わりがけにやってきた男のせいで、二人ともが足止めされた。

 

「よぉ、オリヴェル。叔父さんじゃ、覚えとぉぜ?」

 

 急に見知らぬ男に訛り言葉で声をかけられ、オリヴェルはひどく困惑した表情を浮かべる。

 オヅマが素早くオリヴェルを隠すようにして立ち塞がると、男はハッハッと笑った。

 

「おぅおぅ、勇敢な(あん)ちゃんに守られて…。ま、覚えとるわけないぜなぁ~。お(まン)に会ぅたのは、赤ん坊の頃と、まぁだまともに言葉も喋れん頃じゃったぜに」

「…え……あの」

 

 オリヴェルは思い出そうとしたものの、さすがに記憶の片隅にすらも残っていない。

 ただ、自分や父と同じ髪色のこの男を見て、おそらく親戚―――しかも父の生家の人間 ――― であろうということはなんとなくわかった。

 

 一方で、オリヴェルの隣にいたオヅマは男の説明を聞いてすげなく言った。

 

「そんな小っせぇ頃のことなんか、覚えてるわけねぇだろ」

 

 オリヴェルを見にやって来た男―――テュコは、甥っ子を庇う亜麻色の髪の、少しばかり浅黒い肌の少年を見て、すぐにそれが(ヴァルナル)の手紙に書いてあったミーナの息子だとわかった。なにより母親と同じ薄紫(ライラック)色の瞳がそうと語っている。

 

「ほ、お前は…オヅマ…じゃぜ?」

 

 オヅマは怪訝にテュコを見上げると、ムッと言い返した。

 

「俺は確かにオヅマだけど、アンタは? 人の名前を聞く前には自分の名前を言うもんだろ」

「おぉ、そン失礼やったぜ。ワシはテュコ・エドバリと申すじゃ」

 

 男の名乗りを聞いて、オリヴェルは「やっぱり」とつぶやくと、少しだけ顔をほころばせた。安心させるようにオヅマの肩を叩いてから、前に進み出る。 

 

「はじめまして…じゃないかもしれないけど…ごめんなさい、僕は覚えてなくて。テュコ叔父さん、はじめまして。オリヴェル・クランツです」

 

 テュコは尻込みすることもなく、気負うこともなく、堂々と自己紹介するオリヴェルに時の早さを感じた。

 

 

 七年前 ―――――

 

 ヴァルナルが戦で南部に行ってしまい、残された息子(オリヴェル)のことが気になって、テュコはレーゲンブルトを訪れた。

 息子の母親は北の辺境暮らしが我慢ならなかったらしく、ヴァルナルが戦の準備で忙しくしている間に、間男と一緒に出て行ってしまったという。小さく病弱な、幼い息子を置いて。

 

 テュコはその女が目の前にいたら盛大に文句を言ってやりたかったが、その時点ではまだ行方もわからない状態だった。自分の侍女を息子の乳母として残していったというのが、せめてもの親心だったのかもしれない。

 

 ヴァルナルが出征し、とうとう父までも出て行ってしまった不遇の甥に同情して、テュコはわざわざ足を伸ばしたのだが、この訪問は不愉快な結果に終わった。

 

 甥の乳母という女は、テュコが平民であるというだけの理由で、ろくに甥っ子の顔も見せないばかりか、抱っこさえ許さなかったのだ。

 ヴァルナルがいればそんな態度はとらなかったであろうに、まったく見くびられたものだ。

 

 最終的にテュコは「二度と来んぜ!」と憤慨しまくってレーゲンブルトを後にした。

 ヴァルナルが戦から戻ってきても、テュコはその乳母のいる限りレーゲンブルトを訪れることはしなかった。戦が終わり、南部との行き来がまた戻ってきて、商売が忙しくなったというのもある。

 

 あの頃、乳母にぴったり張りついて、血色の悪い顔で、テュコを怖々と窺っていた小さな子供。

 同世代の子供に比べて一回り小さく、細く、弱々しかった。

 言葉を話すこともできず、固まっていた幼い甥っ子が、こうまで変わるものか……。

 

 感傷に浸るテュコとは対照的に、驚いた顔になったのはオヅマだった。

 

「叔父さん?」

 

 聞き返してから、もう一度テュコを見上げる。

 

 ヴァルナルと同じ赤銅色の髪、目の色はやや緑がかった灰色だ。笑みを浮かべる口元がヴァルナルと似ているようにも思えたが、全体的にヴァルナルよりも一回り大ぶりだった。特にベルトの上にどっかり乗った腹のあたりが。

 

 一方のテュコは、オヅマの、母親とは違って強い光を帯びた薄紫の瞳をじっと見つめた。まともに見つめ返してくる顔は、いかにも生意気そうだ。

 

 テュコは笑みを浮かべ、再びオリヴェルに話しかけた。

 

「はじめましてでいいぜ、オリヴェル。オヅマは正真正銘のはじめまして、じゃぜな。お(まン)ことはヴァルナルから聞いとぉぜ。あン角の生えた馬を見つけて連れてきたっじゃ?」

「別に連れてきたんじゃねぇ……です」 

 

 テュコがヴァルナルの縁戚であると気付いたのだろう。オヅマは無理やり言葉を改めた。

 

「ハッハッハッ! 聞いてた通りの奴じゃぜ! しっかし大した肝っ玉ッじゃ。なぁン伝手ものぅて、直接領主の館に乗り込むなン! お(まン)、騎士になれんじゃったら、ワシが雇うてやっぜ。その度胸は商人に向いとぉぜ」

「冗談じゃねえ」

 

 オヅマは反射的に答えてから、すぐに丁寧な言葉遣いに戻す。

 

「………俺は…騎士になると決めてます」

 

 固い口調で言いながら、キッとテュコを見上げる。

 薄紫の瞳には、やはり強靭な光が宿っていた。

 

 テュコは無精ヒゲの生えた顎をなでて、興味深そうにオヅマを見た。

 

 商売柄、人相からその為人(ひととなり)を推察するのが当たり前になっているテュコの目から見て、オヅマは少々変わっていた。

 ヴァルナルからの手紙で、北端の村に住んでいた小作の息子だと聞かされ、どんな野暮ったい田舎の少年だろうかと思っていたのだ。

 

 ところが実際に会ったオヅマの印象は、むしろ都にいる貴族の悪ガキに近かった。 

 オヅマが今着ている絹のシャツや、紺色の目立たないながらも細かい刺繍の入ったベスト、黒茶色の膝丈のブリーチズなどは、下手に慣れない田舎者が着れば、不釣り合いで滑稽にも見えたろうが、オヅマは違和感なく着こなしていた。

 

 

 ―――― 貴相がある……

 

 

 それはいわゆる貴人らしい上品な相貌というわけではない。貴族であっても卑しい者はいくらでもいる。

 そうではなくオヅマに垣間見えるのは、人を動かしうる力を持つ者に顕れる、何かしらザワザワと心を掻き立てられるような独特の存在感だった。

 

 

 ―――― まったく。とんだ拾いモンをしたもんじゃぜ、兄貴は。 

 

 

 テュコは内心で一つ年上の兄の、妙な巡り合わせに吐息をもらした。

 

 そもそも商家の四男坊が公爵家に仕える騎士に養子にもらわれ、その上で公爵閣下から引き立ててもらうこと自体、相当まれなことであるのに、今度は再婚相手の息子が人品ただならぬ相を持っているとは。

 つくづく、(ヴァルナル)という人は安寧に生きられぬ人生らしい。

 

 一方、オリヴェルは沈黙したテュコが機嫌を悪くしたと思い、とりなすように話題を変えた。

 

「叔父さんは今日は父上に会いに来られたのですか?」

「ん? ワシか? んん~…じゃぜなぁ…ま、そンこともあっじゃ、仕事ンついでもな。珍しい動物の毛皮が入ったぜ、それ見にな」

「毛皮?」

「おぅ。エドバリ家の商売はな、生地屋じゃ。じゃぜ、ワシの仕事は各地出歩いて生地の材料になりそうな目ぼしいモンを見つけてくるこっじゃ。まぁ、たーまに生地以外の珍しいモンも商売の種になりそうじゃったら拾うもんじゃぜ、大兄貴に怒られることもあるが……」

 

 大兄貴、とテュコが呼ぶのはエドバリ家五兄弟の長兄・ジグナルのことだった。

 ジグナルは兄弟にとって早くに亡くなった父の代わりで、厳格、真面目、頑固一徹の人である。

 弟達が喧嘩を始めると、問答無用の喧嘩両成敗で拳骨がふってくるような人であったので、兄弟達は彼の影を見ただけで怯えるくらいであった。

 

 オリヴェルもまた、(ヴァルナル)の幼い頃の思い出話の中で、恐怖の存在として語られていたことを思い出す。

 もっともそれを面白おかしく語れるほどに、長兄は弟達から慕われているということなのだが。

 

「ま、お(まン)の元気な姿を見れたっじゃ、なによりじゃぜ、オリヴェル」

 

 テュコはオリヴェルの頭を一撫ですると、オヅマに向き合った。

 

「オヅマ…お(まン)、なかなかえぇ面構えしとっじゃ。美人の(かか)様に似ぃとぉじゃぜ、シャンとした(こわ)(まなこ)を持っちようぜ」

 

 訛っている上に早口のテュコの言葉は、ほとんど意味がわからなかった。ただ、「美人の母様」ということだけ聞き取れて、オヅマはハッと思い当たった。

 

「母さんに会ったの?」

「おぉう。そりゃ会おうぞに。大事ン甥の世話をしてもぅとぅじゃぜなぁ」

「………」

 

 オヅマは眉を寄せ、テュコを胡散臭そうに見た。

 言葉がいちいち意味深に聞こえる。

 テュコはオヅマの勘の良さにニヤリと笑みを浮かべ、ポンと肩を叩いた。

 

「ま、()()()()()お互い知らぬ仲でなし、あんじょう頼むっじゃ」

「………よろしくお願いします」  

 

 とりあえずオヅマはおとなしく頭を下げた。

 

 どうやらヴァルナルはこの男に母を紹介したらしい。

 実弟にまで会わせるのであれば、ミーナと結婚するという言葉は嘘でないのだろう。だとすれば、この男はオヅマにとってもゆくゆくは叔父になる。

 いかにも思惑ありげな言動は正直好きになれないが、商人であれば、多少は仕方ないものなのかもしれない。

 

「もう帰られるのですか?」

 

 名残惜しそうに言うオリヴェルに、テュコはヴァルナルと同じ優しい笑みを浮かべた。

 

「おぅ、また近いうちに来るっじゃ。ほいじゃ、またぜ」 

 

 手を上げて、テュコは去っていった。

 唐突な登場と同じく、あっという間の退場に、オリヴェルもオヅマもしばらく放心していた。

 

「………なんぜ、あのおっさん」

 

 しばらくしてオヅマがつぶやくと、オリヴェルはプーッと吹いた。

 

「オヅマ、伝染(うつ)っちゃってるよ」

「そりゃ、そうなるだろ。なんなんだよ、あの言葉」

「すごい訛りだったね。そういえばウスクラって、百年ほど前に帝国に滅ぼされたギリヤ王国の人がたくさん移住してきた…って本で読んだことあるけど、そのせいなのかな?」

 

 ウスクラはヴァルナルの出身地で、帝都南西部にある中都市だ。

 

「じゃあ…領主様もあんなヘンな喋り方するのか?」

「どうだろう? 僕は聞いたことがない…な」

 

 オリヴェルはしばし思案してから首を振った。父があの独特な方言を話している姿は記憶にない。

 

「ったく…しばらくは『じゃぜ』が耳について離れそうもないぜ」

 

 オヅマはブツクサ文句を言いながら、またテュコの語尾が伝染っている。

 オリヴェルは苦笑して頷いた。

 

「………本当だね。しばらく耳に残りそうだ」

 

 それから数日間、食事の時間になると、オヅマとオリヴェルの間でなんとかヴァルナルに「じゃぜ」を言わせようという謎の挑戦が行われたのだが、ヴァルナルは二人の不自然な会話に思惑を察したのか、一切、訛りを口にすることはなかった。

 




引き続き、更新します。


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第九十八話 誤解はそのままに

 テュコが去った翌日に、オヅマは(ミーナ)の部屋を訪れた。

 

 

 ヴァルナルが実弟にまで結婚の報告をしているのであれば、そろそろ本格的に準備に入るのだろう。

 だが、オヅマには違和感があった。

 そもそも母はどうしてこの結婚を承諾したのだろうか?

 

 あれほどに「分を弁えなさい」としつこく言う人が、爵位を持つ貴族と結婚するなど、本来であれば有り得ないことだった。

 それこそヴァルナルがよほどしつこく ―――― 誠心誠意、心を尽くして口説いたとしても、それでも相当に迷ったはずである。

 

 その上で決めたのだろうが、それにしては母の態度に悩ましい様子は一切感じられなかった。普段から苦悩を見せない人ではあるが、オヅマはたいがい感じ取ってきた。それが今回はまったくない。

 

 実のところ、オヅマはこの話題については避けてきた。

 ヴァルナルに言ったように、自分は変わりなく、ただ騎士になりたいだけで、母親の恋愛話など聞きたくもない。

 それでも一度生じた違和感を無視できるほど、この事に対して無関心でもいられなかった。二人の結婚は自分だけでなく、マリーにも、オリヴェルにも関わることなのだ。

 

 逡巡の末、オヅマは母に直接、聞いてみることにした。

 

 

 普段、オリヴェルの部屋で会うことがほとんどで、勉強と騎士団での訓練に忙しい息子の久しぶりの来訪に、ミーナは目を丸くした。

 

「あら、どうしたの? 訓練は今日はお休み?」

 

 いつもであれば、午後の授業が終わって、騎士団の訓練に参加している時間だった。

 

「うん。雨がひどいから、午後からは休みになった」

「そう。なにか食べる?」

 

 部屋の中に促して、ミーナは棚に置いてあったビスケットの入った瓶に手を伸ばしたが、オヅマは首を振った。

 

「いや、いい。ジーモン先生の授業でケーキ食べたから」

 

 オヅマは椅子に腰掛け、テーブルの上に置いてあった繕い物をチラと見た。

 

「オリヴェルの?」

「いいえ、あなたのよ。領主様から古着を頂いたから、丈を詰めているの。古着といっても、ほとんど手を通されていないらしいから、きれいよ」

 

 嬉しそうに言う母に、オヅマは困った顔になる。

 幸せそうな母の姿には安堵するが、反面、妙に疲れたような気持ちになるのはなぜだろうか。

 うかない顔のまま、オヅマは母に尋ねた。

 

「母さん、あの話なんだけど…結局、どうなってんの?」

「あの話?」

「だから…あの…『家族』になるって話だよ」

 

 オヅマにしては回りくどい言い方になってしまったのは、自分の口から『結婚』なんて言葉を出したくなかったからだ。

 母とヴァルナルのことは当人同士で決めればいいとわかっていても、一方の当事者の息子としては色々と複雑だった。

 

 ミーナは首をかしげていたが、すぐに「あぁ」と思い当たったらしく、ニッコリ笑った。

 

「領主様がお話しになったのね。えぇ、近々正式に、きちんとした場を設けたいと仰言ってたけど…例の帝都からのお客様…じゃなくて、馬の研究の人達だとか、それに領地の視察にも行かれてお忙しいでしょうから、新年が明けてからになるのじゃないかしら?」

「あ……そう」

「早く、皆に発表したいのでしょうけど、もうしばらくお待ちなさい。慶事は焦るな、と昔から言いますからね」

 

 朗らかな笑みを浮かべて諭すミーナに、オヅマはますます違和感を強くした。

 

「………嬉しそうだね」

 

 ボソリとつぶやく。その声音には微量の嫌悪が混じった。

 息子の機嫌が急に悪くなったように見えて、ミーナはパチパチと瞬きしたが、すぐに微笑みに戻った。

 

「そりゃあ嬉しいわ。あなたの為になることだし」

「……は?」

 

 オヅマは思わず聞き返した。「俺の為? ……って、何が?」

 

「何が…って、領主様の息子になるなんて、あなたには有難いことじゃないの。騎士になりたいのでしょう?」

「それはそうだけど……俺は…俺の為??」

 

 オヅマは混乱した。

 まさか、母はオヅマを騎士にするために、ヴァルナルとの結婚を決めたのだろうか? だとしたら、とんでもない話だ。そんなことは望んでいない。

 

「母さん! 俺の為とかだったら、やめてくれ」

「え?」

「俺は別に領主様の息子にならなくたって、騎士になるよ!」

「えぇ…そうね」

 

 ミーナはオヅマの目の下の傷跡をそっと撫でた。訓練では生傷がたえない。

 

「あなたが今のまま、きちんと訓練して騎士様達にも可愛がられて、しっかり勉強すれば、ゆくゆく騎士になることはできるでしょう。でも、ご領主様の()()になれば、きっともっとできることは増えると思うの。やりたいと思っても身分が低ければ、機会さえ与えられないわ。でも、領主様の息子であれば、いろんなことに挑戦できると思うの。だから母さんはいいお話だと思って…」

 

「ちょっと待って」

 

 オヅマはミーナがそれ以上何か言おうとするのを止めた。

 しばし母の言葉を反芻する。

 

「……………養子?」

 

 間違いのないようゆっくり聞き返すと、ミーナは不思議そうに首をかしげてから、「えぇ」と頷いた。

 

「領主様から…そう聞いてないの? なにか別のお話だった?」

「…………」

 

 ミーナの顔はまったく善良で、嘘をついているとか、はぐらかしているような感じではない。

 

 オヅマは頭の中でようやく合点がいった。

 領主様との『結婚』を控えているにしては、あまりにもいつもと変わりない母。

 あれほどまでに領主としてのヴァルナルを尊敬し、恭謙に振る舞っていた母が、その領主と結婚するというのに、その態度はあまりに普通すぎた。

 だが、当人に『結婚』の意志がなければそれも頷ける話だ。

 

「母さん、一応聞きたいことがあるんだけど」

 

 オヅマは少し頭を押さえながら、母に問う。

 

「なぁに?」

「領主様から、母さんには、どういうふうに話があったの?」

「それは……あなたを自分の息子にしたい…って。前々から考えていて下さったみたいよ」

「俺を息子にしたい、って言っただけ?」

「そうよ。何をほかに言うことがあるというの?」

「…………」

 

 いや、あっただろう……と、オヅマは心の中でヴァルナルに指摘せずにおれなかった。

 どうしてはっきりと示さなかったんだ。完璧に誤解されてるじゃないか。

 

「あなたの同意もなく決めて悪かったわ。あなたにとって、この養子縁組はとてもいいことだと思ったの。領主様は若君にもちゃんとお話されて、若君もあなたと兄弟になれると喜んで下さってるらしいわ。でも、勘違いしては駄目よ。領主様の正当な後継者はオリヴェル様ですからね。この御恩を忘れずに、ちゃんと分を弁えて、若君をたてるように――――」

 

 またいつもの調子でお小言めいたことを言い出した母を、オヅマは白けた顔で見ていた。

 はぁ、と溜息がもれる。

 

「オヅマ、ちゃんと聞いてる?」

「はいはい…聞いてます」

 

 返事しながら呆れ果てた。

 悩んでいた自分にも、言葉足らずのヴァルナルにも。

 

 

 ――――― 俺の知ったことじゃないさ。領主様がいけないんだし…

 

 

 オヅマは放っておくことに決めた。

 こういう事は当事者同士で解決すべきだ。

 

 ミーナはヴァルナルの養子になる心構えについて説教していたが、オヅマは適当に切り上げて部屋を出た。

 

 歩きながらフッと笑みがもれる。

 なんだか急に面白くなってきた。

 

 この誤解がとけた時、母もヴァルナルも、いったいどんな顔をするんだろうか…?

 




次回は2022.11.06.更新予定です。


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第八章
第九十九話 罪深き好奇心


 ケレナはしょんぼりした。

 

 その日の朝の散歩は少しだけ寝坊して遅くなってしまった。眠る前に読み始めた本のせいで、ついつい夜更かししてしまったのだ。

 

 最近、朝の散歩のついでに、祠の拝礼に来るミーナとおしゃべりするのが日課のようになっていた。短い時間だが、ケレナは楽しみにしていた。

 しかし今日は行き違いになってしまったようだ。

 仕方ない。ミーナは使用人として、朝は何かと忙しい。

 

 ケレナは肩を落とし、祠からポプラ並木を通って、庭師が丹精こめた薔薇園に向かって歩き出した。

 たいがいの貴族の家に薔薇園はあるものだが、ここの薔薇は少しばかり古い品種のものが多く、匂いが素晴らしい。芳しい香りを吸い込むだけで、沈んだ気持ちも晴れるというものだ。

 

 しかし向かう道の先に人影が見えて、ケレナは足を止めた。

 

「……あら?」

 

 首をかしげた目線の先で、同僚のトーマス・ビョルネが誰かと話している。

 トーマスには双子の弟がいて、確かに彼らはそっくりであったが、服装と髪型で区別できた。

 医者である弟がいつもきちんと身なりを整えているのに対して、トーマスは平民達が着る腰までのチュニックシャツに、西方の民のような、たっぷりした幅広のズボンを履いていた。その上、長く伸ばした灰色の髪を括りもせずに垂らしているので、後ろ姿だけを見て女性と勘違いされていることもあった。

 

「せめて腰のベルトをして、髪は束ねて括りなさい」

 

と、うるさ方のジーモン教授からは度々叱られているが、本人はまったく聞く耳がないらしく、お小言は右から左に流れていく。

 

 ケレナはトーマスが少し苦手であった。

 明らかに格上であるジーモン教授に対する態度も横柄であったし、服装と同じく言動も突飛で、あまり共感できない。

 それでも同じ教師として、挨拶くらいせねばならないだろう。そもそも一本道を塞ぐように立つ男達がいけないのだ。

 

 ケレナは興味半分、面倒さ半分で近寄っていった。

 ボソボソと話す声に混じって、やや甲高い男の声が切れ切れに聞こえてくる。

 

「………ありがたい! ………辺境で………が…手に入るとは………」

 

 ありがたい? 手に入る? 一体、なんのことだろう?

 ケレナはゆっくりと音をたてないように歩きつつ、耳をそばだてた。

 

「お役に立てたようでよかったですよ。では、ギョルム卿」

 

 トーマスはギョルム卿なる男の肩を軽く叩くと、ケレナに気づくことなく、立ち去ってしまった。

 

 

 ――――― あら、残念。なんだか密会みたいな雰囲気だったというのに、終わってしまったわ。

 

 

 ケレナはふぅと息をつくと、素知らぬ顔で残された男 ――― ギョルムの方へと歩いていった。

 

「あら? あなたは…」

 

 ケレナは近づくにつれ、ギョルムに見覚えがあることに気付いた。

 一方ギョルムは、いきなり現れたケレナにびっくりした様子で、あわてて手に持っていた何かを背後に隠した。

 

 

 ――――やけに気になるわね

 

 

 チラとだけ窺って、ケレナはギョルムに微笑みかけた。

 

「おはようございます。よい朝ですわね」

 

 ギョルム卿、と言いかけてケレナはすんでで止めた。もしうっかり言って、盗み聞きしていたことを咎められたら、言い逃れできない。

 

 ギョルムはヒクヒクと頬を引き攣らせて、ケレナを見つめた。随分と警戒しているようだ。

 ケレナはギョルムをざっと見た。

 

 皺だらけではあったが、白地に緑のラインの入った丈の長いベスト。それに腰のベルトにある金具には象牙色の小さな杖が吊り下がっている。

「卿」とトーマスが呼んでいたことからも、おそらく行政官であろう。

 

 それにしても目を引くのはペッタリと貼り付いたような頭だ。髪油のつけすぎでテカテカ光っているのが、かえっていやらしい印象だった。

 それでもケレナは礼儀を守った。

 笑みを浮かべて、ギョルムに問いかける。

 

「もしかして、あなたもミーナさんに会いにいらしたのかしら?」

 

 そう尋ねたのは、以前にこの男がミーナに親しげに話しかけていたのを思い出したからだった。

 自分との共通項としてミーナのことを持ち出しただけなのだが、ギョルムは驚いたように目をむいたまま黙り込んだ。

 ケレナはギョルムの様子に、自分の勘違いだったのかと首をひねった。

 

「あら…違いまして?」

「あ……いや」

 

 ギョルムはそらした視線を泳がせてから、上目遣いにケレナを見た。

 

「ミ…ミ、ミーナはここに来るのか?」

 

「ええ。今日はもう帰られたようですけれど、もうちょっと早い時間であれば、そこのポプラ並木の奥にある祠堂に毎日、礼拝に来られますのよ。祠の掃除などもなさっていて、信心深いことですわ。ああした人だから、領主様の目に留まるような幸運を手に入れるのでしょう。私などは、気まぐれにしかお願いしないから、神様も匙を投げて…」

 

「そ、そ、そうか…毎朝、祠堂に…」

 

 ギョルムはケレナの話を遮って、ひとりブツブツつぶやく。

 

 ケレナは少しだけ後悔した。

 今更ではあるが、目の前の男のくたびれた姿が気になった。

 

 行政官にとって支給される制服は、権威付けのため、あるいは自らの所属を誇示するためのものだ。当然、その身だしなみには相当に気を使う。

 であるのに、この男のこの体たらく。正直言って、見苦しい。

 

 眉をひそめたケレナの前で、ギョルムは考えに夢中になるあまり、うっかりさっき隠したものを落としてしまったようだ。

 クリーム地に赤茶の活字が印刷された円筒が、ころころとケレナの足元まで転がってきた。

 

「あら…」

 

 ケレナはすぐにその筒箱を拾い上げた。

 さっきからやけに隠すので、何なのだろうかと思っていたが、なんのことはない。帝都ではよく見かける葉巻の銘柄だった。

 おそらくこのレーゲンブルトでは手に入らなくて困っていたところに、トーマスが持っていたか、手に入れたかしたものを譲ってもらったのだろう。

 

「落とされましたよ」

 

 ケレナが差し出すと、ギョルムはかすめ取るように奪って、礼も言わずに立ち去った。

 

 しばし呆然とした後、ケレナは憤然となった。

 

「………なんなの、あれ!」

 

 ギョルムの失礼過ぎる態度に、ケレナは怒り心頭だったが ―――――

 

 数日後、ケレナは自身の旺盛な好奇心を後悔することになる。……

 




引き続き、更新します。


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第百話 自分勝手な男

「わあっ、見て見て! チョウチョが(さなぎ)から孵ろうとしてる」

 

 マリーが小枝にいる蛹を見て声をあげた。

 茶色の硬そうな殻を破って、今しも蝶が出てこようとしている。

 オリヴェルはマリーの指差す方を見て、眉をひそめた。  

 

「これがチョウチョ? なんか、白くて透明だけど…?」

 

 正直、触るのもためらうくらい気味悪い。

 

 ミーナは水の入った(おけ)をいったん置いて、二人の子供達に近寄った。

 

「生まれたばかりだから、まだ完全じゃないんですよ。ゆっくりゆっくり色が差して、きれいな蝶になるんです。この大きさですし、きっとアゲハ蝶の一種でしょうね」

 

 オリヴェルは振り返ってミーナに尋ねた。

 

「ゆっくりって、どれくらい時間がかかるんだ?」

「さぁ…私の覚えでは一刻か二刻(*一~二時間)くらいだったでしょうか?」

「そんなにかかるんじゃ、飛ぶまで見ていられないな」

 

 オリヴェルが残念そうに言うと、マリーが口を尖らせる。

 

「なぁに、またお勉強?」

「勉強は朝食のあとだよ。マリーだって、このあと食べるでしょ?」

「でも、朝食をさっさと食べて見に来ればいいじゃない」

「それは……」

 

 オリヴェルは口ごもる。

 朝食後にはジーモン老教授の歴史の授業なので、予習しておきたいのだ。

 

「やっぱりお勉強じゃない」

 

 マリーはプイとそっぽを向いた。

 困り果てるオリヴェルにミーナはきっぱり言った。

 

「娘を甘やかさなくてよろしいです、若君。午後の授業のあとには毎日遊んでいただいているのですから、十分でございます。……マリー、わがまま言わないの」

「はぁい」

 

 マリーは不承不承に頷いてから、オリヴェルの袖を引っ張った。

 

「じゃあ、このコが殻から出てくるまでは見ておきましょう。小鳥が食べにきたら追い払わないと!」

「え…でも」

「よろしゅうございますよ、若君。祠にはいつでも行けますが、蛹から孵る蝶を見る機会はいつでもというわけにはいきませんから。せっかくですし、ゆっくりご覧なさいませ」

 

 そう言うと、ミーナはまた桶を持って祠堂(しどう)への道を歩いて行く。

 

 背後ではオリヴェルが「あっ! もう、ちょっと色がついてる」と、蛹から孵っていく蝶を見て興奮した様子だった。

 

「すぐに戻りますから、あちこちに行かないでくださいましね!」

 

 ミーナが呼びかけると、「はーい」と二人一緒に返事がかえってくる。

 眩しい朝の光の中、仲良く蛹を見守る二人の姿にミーナは目を細めた。

 

 

 

 

 いつもミーナが早朝に行っている祠堂への礼拝のことを知り、オリヴェルが行きたいと言い出したのは昨日のことだった。

 

「領主館にそんな祠があるなんて知らなかった。僕もお参りに行きたい」

 

 オヅマの剣舞を見てから、ビョルネ医師に色々と各地の祭礼について教えてもらうこともあって、オリヴェルは年のわりに神殿や神事に興味がある。

 

「でも、特に何もないただの祠ですよ」

 

 ミーナはあまり期待してガッカリさせるのも嫌で、正直に言った。

 都にある祠堂や小神殿などと比べ、簡素で、これといった特色もない。

 ヘルカ婆が丁寧に手入れしてきたが、維持のための予算を割り当てられることもなく、嵐で煉瓦が部分的に崩れても、修復されることはなかった。

 ヘルカ婆に頼まれたパウル爺が、応急処置として古びた赤煉瓦を継ぎ当てしてくれただけだ。

 

「いいよ。見てみたいだけだから」

「私も一緒に行く!」

 

 そばで聞いていたマリーも言い出すと、ミーナにはもう止めようもない。

 いつもより早くオリヴェルとマリーを起こして、三人で祠堂に向かうことになった。

 

 早朝の清々しい風と、朝露の残る庭が、オリヴェルには新鮮だったのだろう。寝ぼけ眼が一気に目覚めたようだった。

 

「すごい。きれいな空だ…」

 

 藍から橙へとゆるやかに色が変わっていく空には、羊雲が遠くまで広がっていた。

 しばらく魅せられたように、オリヴェルはその場に立ち尽くしていた。

 マリーはそんなオリヴェルに、早朝にしか咲かないツユクサの花を見せたりしながら、朝の散歩を楽しんでいたが、その時に蝶の蛹を見つけたのだった。

 

 

 

 

 オリヴェルとマリーといったん別れ、ミーナは祠堂に向かった。

 ポプラの木の連なる道を抜けると、小さな黒い屋根の祠が見えてくる。

 

 祠の前まで来て、水のたっぷり入った重い桶をよいしょと置き、一息ついていると、不意に背後から呼びかけられた。

 

「随分と遅かったな、ミーナ」

 

 苛立ちを含んだ少し甲高い声は覚えがあった。

 振り返ると、充血した目で少し顔の赤らんだギョルムが立っている。

 

 ミーナは反射的にギョルムと距離をとった。

 少し酒臭い。酔っているのだろうか…?

 

 あの一件のあと、ギョルムは上司であるラナハン卿から注意をされたらしい。

 しばらくは大人しかったが、(あつもの)が喉元を過ぎると性懲りもなく、再びミーナに声をかけてきた。

 

 その頃にはヴァルナルの威令によって、帝都からの研究員とその随行者達が勝手に領主館の使用人に命令すること、本館にみだりに立ち入ることを禁止していたので、直接には無理だったのだが、東塔で彼らを世話する女中などを通じて手紙を送ってきたのである。

 

 ミーナは当然ながら無視した。

 最初の一通だけ読んだが、自分勝手なギョルムの言い分に腹が立つのを通り越し、ゾッとなって、すぐに捨てた。

 その後の手紙についてはすべて読むこともなく、火に()べた。

 

「ギョルム卿……どうしてここに?」

 

 ミーナは思わず尋ねた。

 以前のようにまた後をつけまわされていたのだろうか?

 

 だが、彼ら ――― 帝都からの研究班の人々 ――― は、本館への出入りは基本的に禁止されている。特にギョルムについては、ヴァルナルに一度、目をつけられているのもあって、使用人だけでなく館を巡回している騎士達からも厳しく監視されていたはずだ。

 

 ミーナがこの祠に来るようになったのは、例の一件以降のことだから、彼がどうやって朝ここにミーナが来ることを知っていたのかが不思議だった。

 だが、特に隠していることでもないのだから、東塔(ひがしとう)付きの女中などから聞いたのかもしれない。

 

 ギョルムは驚くミーナを見て、傲然と胸を張り、目を細めた。

 

「驚いたかね? フン、まったく忌々しい。あの成り上がり領主のせいで、こうしてコソコソと会いに来ねばならぬなど。しかし、今はあの面倒な領主も視察とやらでおらぬし、早朝であれば騎士共は皆、朝駆けとやらで出払っておるゆえ、確かに逢引するにはよい時間であろう」

 

 まるでミーナがギョルムに会うために、わざわざ早朝の礼拝を行うようになったかのような言い方だった。

 ミーナは明らかな嫌悪を感じたが、それでも表情に出さず、もう一歩後ろにさがった。

 

「……私はあなたに会いたくありません。ご領主様からも叱責されました。自らの職責を全うするように、と」

「おぉ、ミーナ。可哀相に。あの男に叱られたのか。それで何も言えず、私の手紙に返事を書くことすら恐れておったのだな」

「違います」

 

 ミーナはきっぱりと言ったのだが、ギョルムはゆるゆると首を振った。

 

「あの野蛮な田舎騎士のことだ。相当におまえにキツく当たったのであろうな。心配することはない。私と一緒になれば、あの男ももはや私に対して文句を言うこともできぬ。聞けば、こんな辺鄙な田舎だが神殿があるそうではないか。すぐにでも神官に婚姻承認を申し出れば、ひとまずは夫婦となれるゆえ、早々に取計(とりはから)おうぞ」

 

「…………」

 

 ミーナはもはや呆気にとられた。

 ギョルムの頭の中で、物事がどのように運ばれていったのだろうか。

 ミーナは一度たりとギョルムに結婚を望んだこともなく、それらしい振舞いをした覚えもない。

 ただ、言われるままにお茶を淹れに行って、二言三言話したにすぎない。にもかかわらず、ギョルムは既にミーナと結婚することを決めていた。

 

 ミーナはぎゅっと自らの腕を掴んだ。

 あまりにも勝手で、ありえない話で、いったいどこを訂正すればギョルムが考えを改めるのか、ミーナにはわからなかった。ただ、ともかくも自分にその意思がないことだけは言う必要がある。

 

「あの、ギョルム様。私は誰とも結婚するつもりはありません」

「…………何と?」

 

 薄ら笑いで聞き返してくるギョルムに、ミーナは繰り返した。

 

「誰とも結婚するつもりはありません。もちろん、あなたと結婚するなんて、一切考えておりません」

 

 はっきりと言ったにもかかわらず、ギョルムはかえってニッタリとだらしない笑みを浮かべた。

 

「ハハハ。君が私と結婚するなど、恐縮するのはよくわかる。都に憧れも畏れも抱いておろう。しかし、問題ない。万事、私がよきに計って……」

 

 ミーナはこれ以上、ギョルムの妄想につきあうのが我慢できなくなってきた。

 この男の想像の中で、一度でも自分がこの男の横で花嫁となっていたことすらも、おぞけだつ。

 

「やめてください! 私はあなたとは結婚しません! 都にも行きません!!」

「………」

 

 ギョルムはミーナの激しい拒絶にキョトンと目を丸くして固まった。

 

 ミーナは重ねてギョルムに言い立てた。

 

「領主様のことを悪しざまに言うのはおやめください! 領主様はとてもご立派な方です。いきなりやって来た私の息子の願いを聞いてくださって、私達家族を温かく迎え入れてくださいました。それだけでも一生かかっても返せない御恩があるというのに、どうしてあなたのような厚かましい方と縁を結んで、都に行くことなどあるものですか!」

 

 珍しくミーナは激越な口調になっていた。

 自分でもどうしてこうも腹が立つのかがわからなかったが、もはや口からこぼれ出た言葉を戻すことはできない。

 それに撤回する気もなかった。

 怒りが昂じたとはいえ、それはミーナの本心だった。

 

 ギョルムは徐々にワナワナと身を震わせると、広い額に青筋が浮かんだ。

 

「なん…と……無礼な」

 

 つぶやきながら、フラフラとよろける。

 道が空いたのを見計らって、ミーナは立ち去ろうとしたが、ギョルムはすれ違って去ろうとするミーナの手首を、意外にも早い動作で掴んだ。

 

「…っ! 離してください!」

「うるさい、このアマめ!」

 

 ギョルムは怒鳴りつけて、ミーナの手首を締め上げた。

 

「あの田舎者領主に、よほどほだされたとみえる。いい気になるなよ。どれほどに見目が良かろうと、貴様ごとき卑賤の身が、成り上がりとはいえ帝国諸侯の末端である男爵家になど入れるものか!」

 

 ミーナは自分への誹謗よりも、ヴァルナルを貶めようとするギョルムの勝手な妄想に腹が立った。

 

「……っ…そんなこと、わかっています! 私は…私と領主様はそのような関係ではございません! 私はともかく、ご領主様に対して失礼です!」

 

「フン! 身の程知らずな望みを持つ女であればこそ、哀れに思って声をかけてやったというのに……これだから卑しい者は。少し優しくすればすぐにつけあがりおって!」

 

「……」

 

 身の程知らず――――ギョルムの言葉にミーナは悲しくなった。

 あれほど自分に言い聞かせていたのに、やはりどこかで自分は期待していたのだろうか。であればこそ、ギョルムのような人間にまでも見透かされてしまったのだろうか。

 

 二度と同じ過ちは繰り返さない。

 必死になって自分を律してきたつもりだったというのに、それでも消せない。本当に自分は卑しい人間なのだ。

 

 己の自省の中で打ちのめされ、静かになったミーナに、ギョルムは悪辣な企みを立てた。

 このまま手籠めにすれば、この女は言うことを聞くだろう。女がギョルムに従い、妻となれば、あの忌々しい領主でさえも文句を言うことはできない。―――――

 

「来いッ!」

 

 ギョルムはミーナを強引に祠の裏側へと引っ張って行こうとしたが、その時、足元で拳ほどの大きさの石が跳ねた。

 

「ミーナから離れろ!」

 

 オリヴェルが叫んだ。

 




次回は2022.11.13.更新予定です。


感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第百一話 巻き戻る運命

 異変に気付いたのはマリーだった。

 

 オリヴェルとマリーは、白っぽい半透明の体からゆっくりと黄緑色に変わっていく、孵化したばかりの蝶を目を輝かせて見ていたのだが、いきなりマリーがミーナの去っていった方角へと首を向けた。

 

「………お母さん」

「え? どうしたの、マリー」

 

 オリヴェルも同じ方向を向いたが、そこにマリーのつぶやいた人の姿はない。

 

「お母さんの声がした。なんだか、怒ってる声」

「え?」

 

 マリーは次の瞬間には走り出した。

 

「待って、マリー!」

 

 オリヴェルもあわてて後を追う。

 途中で息が苦しくなって、少し嫌な予感がした。

 最近では滅多となくなっていたが、こうしていきなり激しい運動をすれば、また以前のように倒れてしまうかもしれない。

 

 だが、普段はオリヴェルの体調を一番に考えてくれるマリーが急ぐからには、よほどのことなのだろう。

 

 一方、マリーは必死になって走っていたが、普段あまり歩くことのない道だったせいか、張り出した木の根に足をひっかけて転んだ。

 その間にオリヴェルが追いついて、マリーに手を差し出した。

 

「大丈夫、マリー?」

 

 激しく肩を上下させながら、それでも自分を気遣うオリヴェルを見て、マリーはハッと我に返った。

 

「ごめんなさい、オリー。走らせちゃって」

「いいよ。早く行こう。心配なんでしょ?」

「うん…」

 

 それでもマリーはオリヴェルの無理にならない速度で、小走りに急いだ。

 ポプラの並木道を抜けたところで、男の恫喝する声が聞こえてきた。

 

「………哀れに思って声をかけてやったというのに、……これだから卑しい者は。少し優しくすればすぐにつけあがりおって!」

 

 オリヴェルとマリーは、男に腕をとられて項垂れるミーナの姿に、真っ青になった。

 マリーが母を助けようと飛び出しかけるのを、オリヴェルはあわてて止めた。

 口に手をあてて、声を封じる。

 

「マリー、静かに…!」

 

 オリヴェルはマリーの耳元でささやく。

 マリーが戸惑った顔で振り返ると、オリヴェルは冷静に言った。

 

「マリー。すぐに誰か…騎士に知らせて。朝駆けから戻ってきているはずだ。それまでは僕がミーナを助けるから」

「………」

 

 マリーは首をブンブンと振った。

 あの男は危険だ。母に対してひどいことをしたのだから、オリヴェルにだってするかもしれない。

 

 しかしオリヴェルは悲しげに微笑んで言った。

 

「マリー、僕はもう走れない。君に行ってもらうしかないんだ」

 

 話している間にも、男が「来いッ!」とミーナの腕を掴んで引っ張って行く。

 

「早く!」

 

 オリヴェルはマリーを来た道に押しやって、自分は足元に落ちていた拳ほどの石を拾った。

 マリーは一度だけ振り向いて、コクンと頷くと、駆け出した。

 

 

 

 

 

 

「早くミーナを離せ!」

 

 オリヴェルは叫びながら石を投げたが、石はギョルムの手前で落ちてしまう。もしミーナに当たったらと思うと、思いきり投げることをためらったせいもある。

 自分の目の前で力なく落ちる石を見て、ギョルムはせせら笑った。

 

「なんだ、細っこいガキだな。石ひとつ、まともに投げることもできぬとは。軟弱者め」

 

 その言葉にオリヴェルは歯噛みして、手に掴んでいた石を今度は力をこめて投げる。

 鋭い軌跡を描いた石は、直接ギョルムには届かなかったが、地面を跳ねてギョルムの脛に当たった。

 ギョルムは顔を顰めて、当たった脛をさすりながら、激怒した。

 

「こッ…ンの小僧めがッ! 思い出したぞ、貴様。あの領主の息子だな!? 父親ともども無礼な奴らだ。私は皇帝陛下より命を受けてここに派遣されたのであるぞ。私に石を投げるのは、陛下に向かって投げると同じこと!」

 

「うるさい! 貴様こそ、そのバターを塗りたくったような頭を、父上の前で下げることになるさ!」

 

「こッ…の…」

 

 ギョルムの怒りはオリヴェルに向かい、一歩、足を踏み出す。

 しかし今度はミーナがギョルムの腕をがっしりと掴んだ。

 

「やめてください! 若君に何をする気です!?」

「このッ、クソアマがッ!」

 

 ギョルムはバタバタと腕を上下させて、ミーナの手を振りほどこうとしたが、ミーナは固く掴んで離さない。

 自由のきく手でミーナの頭をグイグイと押しやっても、必死で抵抗してくる。

 苛立ちが極みに達し、ギョルムは容赦なくミーナの頬に平手を浴びせた。

 一発。

 二発。三発。

 痛みと衝撃で、ミーナの意識が一瞬遠のく。

 

 それでも手を離さないミーナに、ギョルムの怒りは倍増した。

 ミーナの髪を引っ掴んで荒々しく揺さぶると、とうとうミーナの手がギョルムの腕から離れた。

 ギョルムはミーナを地面に叩きつけるように投げ倒し、足で頭を蹴りつけようとする。

 

 ギョルムの凶行に唖然として動けなかったオリヴェルは、そこでようやく我に返ると、震える声で怒鳴りつけた。

 

「なにするんだ! この野郎!」

 

 オリヴェルは低く背を屈めて走ると、ギョルムの腰に飛びついた。

 引き剥がそうとギョルムは腰を動かしたが、オリヴェルはしっかり掴んで離そうとしない。

 

「こッ…の、クソガキめが!!」

 

 ギョルムは吠えるように叫びながら、オリヴェルの背中に拳を叩き込んだ。

 

「おウッ!」

 

 オリヴェルはうめいてその場に崩折れた。

 初めて人から受けた暴力に、背中の痛み以上に恐怖と怒りと悔しさで、呆然と凍りつく。

 

 ギョルムはオリヴェルの赤銅色の髪を見て、領主であるヴァルナルを思い出した。

 あの男の息子だというだけで、ひどく苛立たしく腹立たしく、憎々しい。

 

 グイ、とオリヴェルの襟を両手で掴んで絞め上げる。

 

「全く腹立たしい…。わざわざこんな辺境に派遣されて、身分もない卑賤の女と、成り上がり者の息子風情にこのような辱めを受けるとは!」

「……ク…っ…離…せ」

 

 オリヴェルはギョルムの腕を掴んだが、貼り付いたかのように動かない。

 息が苦しい。

 だんだんと意識が朦朧としてきた。

 

 一方、ミーナもまだ頭がクラクラしていた。

 薄暗い視界にオリヴェルの首を掴むギョルムの姿がボンヤリと見える。

 

「や…めて……」

 

 本当は意識は眠ろうとしていた。

 しかしミーナは抗った。

 今、自分が気を失えば、オリヴェルが殺されてしまう。

 

 その危機意識は、ミーナに古い記憶を()び起こした。

 

 

 ――――このクソガキがッ! 殺してやる!

 ――――やめろ! やめろ! マリーになにするんだぁっ!

 

 

 泣き叫ぶマリーを乱暴に掴む(コスタス)

 その夫の足にまとわりつき、蹴られるオヅマ。

 赤ん坊のマリーを放り投げる夫。あわてて拾ったオヅマが体勢を崩す ――――

 

 ―――― うああぁぁぁぁっっ!!

 

 凄まじい悲鳴。

 

 あの時、ミーナが立ち上がることさえできれば、あんなひどい火傷を負うことはなかったのに。

 

 守れなかった。

 母親なのに、子供を守ってやれなかった。

 

 二度と、しない。

 二度と、私の息子にこれ以上の苦痛を与えることは……

 

 

 ミーナは立ち上がると、フラフラと歩いて、ほとんどすがるようにギョルムの腕を掴んだ。

 

「やめてッ! やめなさいよッ! 私の子供に何するのッ!!」

 

 顔は紫色になり、必死に怒鳴りつけるほどに髪は乱れた。

 ギョルムは一瞬、ミーナの幽鬼のような迫力に怯えたが、舌打ちしてその腹を蹴りつける。

 ウッ、とうめいてミーナは地面に尻もちをついた。

 

 腹を押さえながら再び立ち上がろうとして、ふと地面についた手の先に固いものが触れる。

 見れば、壊れて半分になった白煉瓦だった。

 祠の修理のときに捨てられた一部だろう。

 ミーナはその煉瓦を手に取ると、ギッとギョルムを睨みつけて立ち上がった。

 

「やめてッ!」

 

 ミーナは煉瓦でギョルムの背を打った。

 

「離せッ! 離しなさいッ!! 私の子供を傷つけるなら、殺してやるッ!!」

 

 恨みと憎しみをこめて叫びながら、ミーナはひたすら煉瓦をギョルムの背に叩きつける。

 

「うぐッ…」

 

 痛みに顔を顰め、ギョルムはオリヴェルの襟を離した。

 

 ようやく苦しさから解放されたが、オリヴェルは力なく地面に倒れ伏した。

 視界の隅で、這々の体で逃げようとしているギョルムに、まだ煉瓦を振り上げるミーナの姿が映った。

 

「よくも! 私の息子に……許さない! 許さないわ!!」

 

 ゆっくりと視界が暗くなっていく。

 オリヴェルの目から涙がこぼれ落ちた。

 

 ミーナ…やめて。もう、いいから。

 もう、僕は大丈夫だから。

 もう、傷つけないで……。

 もう、傷つかないで………。

 お願い………お母さん…。

 

 

 

 

 

 

 その日の朝駆けは本来であれば、ヴァルナルは領地視察の為、不在であった。

 しかし黒角馬(くろつのうま)だけでの少人数の移動は思っていた以上に早く、あと一泊野宿の予定であったのが、夜の間に戻ることができたのだ。

 もっともその帰還を知っているのは、出迎えたネストリらわずかの従僕だけであった。

 

 朝駆けから戻ってきた騎士らの中にヴァルナルの姿を見つけるなり、マリーはすがるように叫んだ。

 

「領主様!」

 

 ヴァルナルはマリーの切羽詰まった顔に、すぐさま異変を感じ取って駆け寄った。

 

「どうした?」

「お母さんを助けて! ヘンなおじさんがお母さんを連れて行こうとしてるの!」

 

 その言葉に、ヴァルナルの顔は一瞬固まった。

 すぐに鋭く尋ねる。

 

「どこだ!?」

「南の隅にある祠。ポプラの道の向こう」

 

 マリーが泣きながら言うのを聞くやいなや、ヴァルナルは走り出した。

 その後をゴアンが追う。

 続けて行こうとした騎士達をマッケネンは止めて、しゃがみこんでマリーに尋ねた。

 

「マリー。その『ヘンなおじさん』というのは、どんな男だった?」

「えっと…なんか、髪がぴっとり貼り付いてて…」

 

 その特徴だけで、マッケネンはカールから聞いていた要注意人物について思い至った。

 ギョルムの逃亡を阻止すべく、騎士達に館内各所の出入り口を固めるように素早く指示を下す。数人を残してマリーの保護を頼み、自分はゴアンの後に続いた。

 

 その時、オヅマは厩舎で帰ってきたばかりの馬の状態を確認しているところだったが、そこに騎士団の最長老トーケルが顔色を変えてやってきた。

 

「オイ! オヅマ! マリーがなんか血相変えて来て…領主様が飛んで行ったぞ」

「えっ!」

 

 オヅマはあわてて厩舎から出ると、数人の騎士達が集まっている方へと走っていく。

 オヅマが来たのに気付いた騎士達は囲みを開いた。

 騎士達に守られるようにして、真ん中でマリーが泣いている。

 

「マリー! どうした?」

「お兄ちゃん!」

 

 マリーはオヅマに抱きつくと、母の危急を報せた。

 

「ギョルムの野郎か!」

「わかんない。オリヴェルもいるの! 助けて、お兄ちゃん」

 

 オヅマはマリーをトーケルに預けると、すぐさま祠に向かって走り出した。

 本来の道筋を行くのももどかしく、修練場を横切って壁に空いた穴をくぐる。密集した低木の隙を無理に通り抜け、花壇を飛び越え、ほぼ庭を突っ切っていくと、マッケネンの後ろ姿を見つけた。

 グン、と加速して追い抜かす。

 

「オヅマ! お前は待っていろ!」

 

 マッケネンが叫んだが、オヅマは無視した。

 灌木を迂回することもなく飛び越え、あっという間に先を走っていたゴアンも抜かしていく。

 

 

 

 

 ヴァルナルはポプラの並木道を走っている途中で、額から血を流して逃げているらしいギョルムに出くわした。

 

「ひ…ひ…ヒィ……助け……たすけてくれぇぇ」

 

 情けない声を上げ、チラチラと後ろを振り返りながら走ってくる。

 

 ヴァルナルはギッと眉を寄せて、腰の剣に手をやった。

 ギョルムはいきなり前方に現れたヴァルナルにギョッとしつつも、ほとんど転ぶような勢いで必死に駆けてきて、ヴァルナルに縋りついた。

 

「あぁ、助けてくれ! 領主殿! 気の狂った女が……ヒッ」

 

 話している間に、後ろを向いたギョルムの目に髪を振り乱して追ってくるミーナの姿が映った。

 血のついた白煉瓦を振り上げながら、憤怒の表情で迫ってくる。

 

「ミーナ!」

 

 ヴァルナルが叫んだが、ミーナの目にはギョルムしか見えていなかった。

 自分の息子を(しいた)げ、痛めつけ、殺そうとする男を、決して許さぬ母親の瞋恚(しんい)に燃えた眼。

 

「ミーナ!」

 

 ヴァルナルの声は、ギョルムの「ヒイイィィ!」という甲高い悲鳴にかき消された。

 ミーナが手にもった煉瓦を振り上げたと同時に、ギョルムはヴァルナルの背後に逃げ込んだ。一瞬、ギョルムに気を取られたヴァルナルの胸を、ミーナの振り下ろした煉瓦が(したた)かに打つ。

 

「ぐっ…!」

 

 うめきながらも、ヴァルナルは煉瓦を持つミーナの手首を掴んだ。

 

「離して!」

 

 ミーナが叫ぶと、グイと体を抱き寄せて耳元で囁く。

 

「ミーナ…落ち着け。私だ」

 

 低く穏やかな声に、ミーナは固まった。

 

 ヴァルナルは、ぽんぽんと優しくミーナの背を叩いて落ち着かせた。

 怒りに見開ききった薄紫の瞳がパチパチとまたたく。

 

「母さん…」

 

 (ほう)けたミーナの耳に、息せきって走ってきたオヅマの声が聞こえた。 

 

「母さん…大丈夫?」

 

 自分を気遣う息子の声に、ミーナの瞳から涙が一筋こぼれた。

 力の抜けた手から煉瓦が落ちる。

 

「若君…が……」

 

 かすれた声で、かろうじてつぶやく。

 すぐさまマッケネンが先にある祠へと向かい、そこで倒れたオリヴェルを見つけた。

 

「少々呼吸が乱れています。…すぐにビョルネ医師に診てもらいます」

 

 マッケネンがオリヴェルを抱きかかえながら報告する。

 オリヴェルの白い顔を見たヴァルナルは一瞬、眉を寄せた。

 

「頼む」

 

 短く言って、ヴァルナルはどうにか怒りを鎮めた。

 マッケネンは頷くと、オリヴェルをかかえたまま、館に向かって走っていった。

 

 ゴアンはヴァルナルの背後で腰を抜かしているギョルムを冷たく見下ろした。

 

「……帝都からおいでの方々は概ね優秀だが、中には阿呆も混じってるようだな」

「そ…そ…その女が私を殺そうとしたのだ!」

 

 ギョルムは逃げる時に転んだのか、顔に泥がへばりついていた。白の行政官の服も汚れている。

 

「領主様、ひとまずコイツは連れて行きます」

「そうしてくれ」

 

 ヴァルナルは振り向きもしなかった。 

 ゴアンはギョルムを立ち上がらせると、連れて行こうとしてオヅマにも声をかけた。

 

「オヅマ、行くぞ」

「え? でも、母さんが…」

 

 ゴアンはチラとヴァルナルとミーナを見やる。

 ミーナはまだ放心状態らしく、ヴァルナルが支えていた。

 

「いいから。ミーナのことは領主様に任せて…お前はマリーに伝えてやれ。母親は無事だと」

「…………わかった」

 

 オヅマはどこかムズムズと落ち着かない気分だった。だが、おそらく今ここで、自分のやれることはないのだろう…。

 

「お願いします」

 

と、一言、ヴァルナルに言ったのは、オヅマの妙なプライドだった。あくまでも自分がお願いして、ヴァルナルに母のことを頼んだのだ…と自分を納得させたかった。

 

 ヴァルナルはその時になってやっと振り返った。

 フッと笑った顔に、オヅマは安心と同時にちょっとした苛立ちも感じ、軽くヴァルナルを睨みつけたが、すぐに踵を返した。

 

 マリーの待つ馬場の方へ歩きながら、オヅマはふと…妙なことを考えた。

 

 虚脱した母の姿が、あの日……()の中で、父を殺した後の母の姿に重なって見えたのだ。

 

 オヅマが傷つけられたことで激昂した母。

 ()の中で死んだ母。

 あの事件は消えた。なくなったはずだ……。

 

 だが母が持っていた血のついた白煉瓦を見て、オヅマの脳裏には血のついた延べ棒が思い浮かんだ。

 

 必死に抗い、避けたと思っても、どこかで必ず運命というのは、本来の姿を取り戻そうとするのだろうか。………

 

 





引き続き、更新します。


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第百二話 言えない秘密

「ミーナ…大丈夫だ」

 

 ヴァルナルはミーナに優しく声をかけた。何度も。

 

 ミーナはヴァルナルに体を預けたまま動かない。

 気を失っているのだろうかと、ヴァルナルが少し腕の力を緩めて下を覗き込むと、視線に気付いたミーナが顔を上げた。

 

 ヴァルナルは思わずミーナの頬に触れた。

 ギョルムに何度も殴られた頬は赤く腫れている。口の()には血が滲んでいた。

 

「あの男……」

 

 怒りに震えた言葉の先は言わなかった。

 傷ついたミーナに聞かせられるものではない。

 

 乱れた髪の間に見える薄紫の瞳からは、涙がとどまることなく流れていた。

 

「ミーナ…」

 

 ヴァルナルはミーナの乱れた髪を耳にかけてやり、頭の土汚れを軽く払ってやる。あふれる涙が伝う頬を両手で包み込むと、血の気のない唇を親指で撫でてから、そっと口づけした。

 

「…………」

 

 唇が離れると、ミーナはパチパチと何度か瞬きをし、涙に濡れた目で呆っとヴァルナルを見つめた。

 

 少しはにかみながら、ヴァルナルが微笑む。

 

 その笑顔にミーナは温かな喜びを感じると同時に胸が痛んだ。

 泣きぬれた顔が悲しげに歪む。ごめんなさい、と声にならない言葉が口から漏れ出た。

 

「ミーナ?」

 

 ヴァルナルが問いかけると、ミーナは目を逸らして、そっとヴァルナルの胸を押しやった。

 

「……申し訳…ございません」

「ミーナ、なぜ謝るんだ? 君は何も悪くない」

 

 ヴァルナルは自分から離れようとするミーナの手を掴んだ。

 

「いいえ!」

 

 ミーナは大声で、断固として否定する。

 

「大恩ある領主様に私は…故意でないとはいえ、暴力を振るいました。許されぬことです」

「私の胸に煉瓦を叩きつけたことか? 他愛ない。あの程度のこと」

 

 ヴァルナルは笑った。

 快活な笑顔に、またミーナの胸が痛む。再び俯いて、声を詰まらせながら懸命に言葉を紡ぐ。

 

「どうか…私を許さないでください。私は許されるべき人間じゃないんです。領主様のことも、ギョルム卿のことも…ひどいことをしました」

 

 ギョルムの名前が出て、ヴァルナルは顔を顰めた。

 

「あの男について君に罪などない。どうせ君に不埒をはたらいたのだろう? それにオリヴェルにも…君は息子を守ろうとしてくれたのだろう?」

 

 ヴァルナルはおよそ何事が起きたのかを想像できた。

 どうせあの男は懲りもせずにミーナに言い寄ったのだ。それをミーナが拒否して揉めていたところに、オリヴェルとマリーが居合わせたのだろう。

 

 しかしミーナは頭を振ると、弱々しく懇願した。 

 

「私を罰して…責めは私一人にお収めください。どうか…オヅマは…オヅマのことだけは、かねてよりのお話どおりに養子としてお迎えくださいますよう、お願いします。勝手を申しますが、どうか…あの子の希望を潰さないでやってください……」

 

「…………うん?」

 

 ヴァルナルはひとしきり聞いてから、首をひねる。「養子?」

 

 ミーナは下を向いたままコクンと頷き、か細い声で言いつなぐ。

 

「はい。どうか……あの子は領主様を尊敬しております。どうか騎士として、このまま育ててやってくださいまし。どうか…どうぞ…よろしくお願いいたします」

 

 ヴァルナルはしばらく思考が停止し、何度か瞬きしてからやっと我に返る。

 コンコン、と眉間を軽く指で叩いて、フゥと溜息をもらした。

 

「養子…か、そうか……そういう解釈だったんだな」

 

 自嘲の笑みを浮かべて、ヴァルナルはしばし無言だった。

 長い沈黙に、ミーナはそろそろと顔を上げる。

 

「領主様?」

 

 首をかしげたミーナの無垢にも思える勘違いに、ヴァルナルは苦笑した。

 

「ミーナ、私としてはオヅマと養子縁組して親子になるつもりはなかったんだ」

「え?」

「私は…君と結婚して、オヅマとマリーの父親になりたかったんだ。そして君にはオリヴェルの母親になってほしかった。そのつもりであの時も話していたんだが、そうだな。たしかに養子縁組という形の親子もあるわけだから、君が勘違いしても無理はない」

 

 ミーナはヴァルナルが何気なく言った言葉が、幻聴なのかと思った。

 

「……結婚?」

 

 思わずつぶやくと、ヴァルナルが頷く。

 

「あぁ、そうだ。私は君と一緒になりたいんだ。君と一緒に…子供たちを連れて祭りにもまた行きたいし、長い冬の夜を皆で賑やかに過ごせたら幸せだとも思う」

 

 そこまで言ってから、ヴァルナルはおもむろに片膝を地面につき、垂直に曲げた膝の上に腕を乗せて、頭を垂れた。

 それは貴人への礼儀であると同時に、正式な結婚を申し込むときの所作だった。

 

「辺境の、貧しい領地の領主だ。華美な暮らしは約束できないが、君はささいな日常の幸せを知っている人だと思う。どうか…結婚してほしい」

 

 ミーナは答えることができず、固まった。

 ヴァルナルが顔を上げる。グレーの瞳は真剣で冗談を言っているのではない。

 こんな冗談を言うような人間でないことは、ミーナもよくわかっている。わかるからこそ、拒むしかなかった。

 

「………できません」

 

 ポツリと言って、涙がこぼれる。

 

「ミーナ!」

「できません! 私はそんな…領主様と結婚できるような身分ではありません!」

 

 この期に及んでも頑ななミーナに、ヴァルナルは少しだけ苛立った。

 グイ、とミーナの手を掴む。

 

「私は、君の身分について問題にしたことなんてない。私が聞きたいのは君の本心だ!」

「……私は…」

 

 ミーナは苦しげに顔を歪めた。

 言わなければならないことはわかっているのに、その言葉は本心じゃない。

 

 アナタノコトハ、好キジャナイ。

 モウアナタトハ、会ワナイ。  

 

 別れを伝える言葉は、ミーナの喉で引っ掛かって、嗚咽する。

 

 ヴァルナルはミーナの手を包みこみ、自分の額に押し当てて、静かに懇願した。

 

「頼むから、(うん)と言ってくれないか? 私はオヅマも、マリーも、オリヴェルも、皆で一緒に幸せになりたいんだ。そこに君がいないで、どうやって皆、幸せでいられるんだ?」

 

 ミーナの脳裏に子供たちの姿が浮かんだ。

 暖炉の前で、冗談を言い合ってふざけて遊ぶ子供たちを、穏やかに見つめるヴァルナルと…その隣に自分がいれたら、どれほどに幸せだろうか。

 

 ヴァルナルは顔を上げると、ミーナの手をギュッと握りしめた。

 

「ミーナ、私は、君を愛している。誰よりも」

「………」

 

 触れられた部分から伝わる温かさが愛おしい。震えて求めそうになる。

 真摯なヴァルナルの視線を避けるように、ミーナは地面に転がった白煉瓦を見つめた。

 

「ご覧になったでしょう? 私は、ギョルム卿を……下手をすれば殺していたかもしれないんです」

 

 さっきまでの狂ったような自分を思うと、尚の事ヴァルナルに相応(ふさわ)しくない。

 

 だがヴァルナルの表情は変わらなかった。

 

「そんな理由で私が納得すると思うのか?」

「…………わたしは…領主様には…ふさわ…しく…」

 

 言っている間にも、自らの心に反した言葉は喉奥で萎んでいく。

 

「逃げないでくれ、ミーナ」

 

 ヴァルナルが勇気づけるように、握っていた手に力をこめる。

 

 ミーナはとうとう観念するしかなかった。

 ずっと避けて、認めずにきた自分の本心。決して許されないのだと戒めて、諦めた気持ち。

 

 それでも最後の最後に、避けられない問題がミーナを迷わせる。

 

「私は…誠実ではありません。あなたのことを愛していても、あなたに全てを話すわけにはいかないのです。きっと…死ぬまで、あなたに話すことのできない秘密を抱えています。不実だと…思われませんか?」

 

 ヴァルナルはフッと笑うと、立ち上がってミーナを抱き寄せる。もはや抗うこともせず、ミーナは身を任せた。

 

「言わなくていい。私も無理に知ろうとは思わない。隠し事があることが不実だとも思わない。私にだって……君に言えないことはある。戦地でのことなど、一生…誰にも言いたくないものだ」

 

「それは…当然のことです。ご領主様は戦って苦しい思いをされたのですから」

「あぁ。だから秘密なんてものに、こだわらなくていい…ということだ」

 

 ミーナの目はそれでも愁いに沈んでいた。この選択が愛する人を苦境に追い込むことになりはしないかと…。

 

 ヴァルナルはつい、とミーナの顎をつかんで持ち上げた。

 

「心配しなくていい。たぶん、私はわかっている…君の秘密を。確信はないが…おそらくね」 

 

 ミーナは目を見開いた。「どうして…?」とつぶやきが漏れる。

 

 ヴァルナルはミーナの頬を愛しげに撫でて微笑んだ。

 

「色々と…重なることが多かったんだ……」

 

 オヅマの稀能(きのう)『千の目』から始まって、ミーナの磨かれた所作、まだ一般的でなかった珈琲豆を知っていたこと…。

 その都度、脳裡に現れた人を、ヴァルナルはもはや無視できなかった。

 偶然というには、条件が揃い過ぎている。

 それはオヅマの容姿の点も含めて。

 ()の人もまた、頭部の手術をして禿頭(とくとう)となる前には、亜麻色の髪であったと聞いている……。

 

「私の想像の通りであるなら、君が頑なにその秘密を守る理由もわかる。だから、言わなくていい」

「……う…っ…」

 

 ミーナは一気に気持ちが緩んだ。

 薄紫色の瞳から、また涙があふれ出す。

 ようやく、安心していい場所にたどり着いたような、自分を長く縛っていた鎖から解き放たれたような気分だった。

 

 もう一度、ヴァルナルと唇を重ねてから、ミーナは温かく広いその胸に抱かれて、ようやく幸せになることを受け入れた。

 





次回は2022.11.20.更新予定です。


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第百三話 皇室と大公家

 ギョルムは領主館地下牢に入れられた。

 彼の部屋を調べると『目覚まし(ファトム)』と呼ばれる麻薬成分を含んだ葉巻が見つかった。

 帝国において麻薬の類を摂取することについて禁止する法律はなかったが、服用する人間には常識的な行動が求められたため、これを逸脱した段階で処罰された。特に官吏であれば、その職を失うのはもちろんのこと、帝国の威信を傷つけたとして庶民よりも強い罰則を与えられる。

 

 ミーナを襲ったあの朝は、前夜にかなり飲酒をしていたらしい。

 ハッキリと目覚めるために、ファトムを吸ったのだと言う。(ファトムには覚醒、興奮作用がある)

 しかもその理由は早朝に祠を訪れるミーナに会うためだったというのだから、呆れるしかない。

 

 ヴァルナルはすぐにもギョルムに対しての処罰を行いたかったが、それでも一応、彼が官吏として皇帝陛下の命を受けてここに来たことは間違いない。

 一存で処理することで軋轢が生じ、グレヴィリウス公爵に迷惑をかけたくもなかったので、仕方なくギョルムの直属上司であるところのラナハン卿を通じ、帝都皇室府(=皇府)への具申を願い出た。

 

 しかしラナハン卿の対応ははっきりしなかった。

 

「ま、ま、クランツ男爵どの。確かにギョルム卿には色々と問題はあったが、誰か傷つけたというものでもなし……」

 

 ラナハン卿は典型的な事なかれ主義の官吏であった。

 彼は今回の事業計画の責任者になったという栄誉だけは受け入れたが、実質的な役目自体はおおむね部下任せであった。まして、自分の責任の所在を問われるような事態は、隠せるものなら隠し通したかったのである。

 

 ヴァルナルはラナハン卿の能天気な態度に、一気に険しい顔つきになった。

 

「……傷つけて…ない?」

「あ、いやいや。男爵どののご子息には無体なことをした。謝罪が遅れましたな。申し訳ございません。(わたくし)の監督不行き届きにございますれば、伏して、伏して、お詫び申し上げる!」

 

 ラナハン卿はこれ見よがしに大声で謝って、何度も頭を下げる。

 ヴァルナルはギリと奥歯を軋ませた。

 ラナハン卿にとっては、ミーナは一介の召使いの女で、被害者にもあたらないらしい。

 

「ラナハン卿、男爵殿のご子息ばかりでなく、ギョルム卿が襲った女というのは男爵殿の婚約者も同然の女性であったのですよ。おわかりですか?」

 

 今にも殴らんばかりに拳を握りしめたヴァルナルを見て、穏やかに割って入ったのは、ベネディクト・アンブロシュ准男爵だった。

 彼は皇府からではなく、大公家から派遣された学者らのまとめ役として来ている。

 ゆるやかに波打った栗茶(マルーン)の髪に薄緑色の瞳、いつも頬に柔和な笑みを浮かべた優しい風情の男であった。年はヴァルナルよりも二、三年上といったところであろうか。

 

 そんなベネディクトから言われたことに、ラナハン卿は「えっ?」と思わず聞き返した。

 

「婚約者ですと? 女中と聞いておりますが…」

 

 普通、女中などは貴族にとって結婚相手になるものではない。彼らはあくまで使役される側の人間で、主と関係を持ったとしても、妾となるのがせいぜいであった。

 

 信じられない、という目でまじまじと見つめてくるラナハン卿を、ヴァルナルはギロリと眼光鋭く睨みつける。

 

「なにか? 生憎とご存知の通り、私は元は平民でございますから…貴き方の風習には馴染めぬところがございましてね」

「い、いや……その…意外でございましたので」

 

 ラナハン卿はヴァルナルの威圧的な視線に耐えきれず、あわてて弁解すると、それとなく目を逸らした。

 殺伐とした雰囲気を知ってか知らずか、ベネディクトはあくまでも穏やかな口調で話を続ける。

 

「派遣官の失態ということで、()()()()()()()()ラナハン卿に代り、私がギョルムに対しての尋問を行いました。どうやらあの男は既成事実を作って、無理にその女性との婚姻を目論んだようです」

 

「………なんだと?」

 

 ヴァルナルの声は怒りが昂じて平坦になった。

 ベネディクトは頷くと、この苛立たしくも恐ろしいギョルムの計画を詳細に語った。

 

「男爵殿が領地視察に行かれている間に、その女性と接触する機会を窺っていたようです。彼女が人気(ひとけ)のない祠に毎朝足を運んでいることを聞きつけ、男爵殿が視察から戻る前に行動を起こしたようですが、運悪く……失礼、これはギョルムからの見地ですが…男爵殿は前夜に予定を前倒ししてお帰りになられていた……という事を彼は知らなかったのでしょうな。その上で早朝であれば、騎士達も朝駆けでおらぬと踏んでいた。その日に、男爵殿のご子息が一緒に行かれたことで、いつもよりも遅くなったのは幸いでした。

 ギョルムとしては、彼女に婚姻を迫って了承させれば、男爵殿に一泡吹かせることができる、という幼稚な考えもあったようです。しかし彼女が案に相違してギョルムの要求をきっぱり撥ね返したので、カッとなって強引な手段に出た…と。一度、我がモノとしてしまえば、女性側の声などあってなきが如しですから。その後は無理矢理に婚儀を済ませれば、男爵殿がこの地の領主であったとしても、()という肩書がある以上、文句は言えぬだろうと踏んでいたようです」

 

 ヴァルナルの顔は赤を通り越して、蒼白になった。

 できうるものなら、今すぐに剣を持って地下牢に乗り込んで、ギョルムを叩き斬ってやりたい……!

 

 ラナハン卿はそのただならぬ様子にあわててとりなした。

 

「ま、ま、男爵どの。結局はどうということもなかったのですし……」

「どうということもないだと!?」

 

 ヴァルナルはとうとう怒りが極限に達して、拳を机に打ち付けた。

 ビリビリっと空気が振動し、テーブルに置いてあったカップはガチャリと音をたててひっくり返る。

 ラナハン卿はヒッ! と悲鳴をあげて仰け反った。

 一方、ベネディクトは冷静に話を続ける。

 

「ラナハン卿、こうまで不躾を重ねたのです。我々は(さき)の会合においても、男爵殿に釘をさされました。客ではない、と。我々はこちらに滞在()()()()()()いるのです。その上で、この不始末。官吏としてのあるまじき不行状。本来であれば、レーゲンブルト領主たるクランツ男爵の一存で、ギョルムを罰してもよいところです。男爵殿は我々の顔を立てて、皇府への具申を申し出て下さっているのですよ。まさか……」

 

 ベネディクトは一旦そこで言葉を切ると、隣に座っているラナハン卿の耳元で低く囁いた。

 

「己の保身のために、なかったことにされるおつもりですか?」

 

 まさか自分の味方だとばかり思っていたベネディクトまでが、非難してくると思っていなかったラナハン卿は、とうとうヴァルナルの要求を聞き入れざるを得なかった。

 

 

 帝都に書翰(しょかん)を送り、ギョルムの処罰を求めることになった。

 この時、ベネディクトの進言でミーナに対する不埒な所業については、詳細に書かれることはなく、あくまでも領主館において一使用人に対して、極めて許されざる暴力行為を行ったとだけ記された。

  

「女性を不必要に辱める必要はございません。ギョルムについては、麻薬使用による不行状だけでも、帝国吏士としての不名誉は免れぬのですから」

 

 ベネディクトは、ラナハン卿の書いた書翰を確認のために見せにきた時に、ヴァルナルにそう説明した。

 

 ヴァルナルとしてはギョルムの最も許されない行為はミーナへの暴力であったのだが、実際のところ、一地方領主の使用人を皇帝陛下の命を受けた役人が暴行したことよりも、麻薬使用によるギョルムの失態の方が、皇府(むこう)は問題視するのだろう。

 それに、ミーナへの不要な詮索もされずに済む。

 

「アンブロシュ卿、色々と適切に動いていただいて、助かる。正直、私も今回のことでは冷静な判断ができずにいたところだ」

 

 ヴァルナルが素直に言うと、ベネディクトはニコリと笑った。

 

「愛する(ひと)の危難を前にして、平静でいられる人間はおりません。男爵殿は十分に、理性的に振る舞っておられたと思いますよ」

「いや…あの場に(けい)がおられなかったら、ラナハン卿を殴りつけていたところだ。のらりくらりとかわされて、本当に我慢ならなかった」

「ラナハン卿も、ギョルムの背後の人間に思いを致さずにはおれなかったのでしょう。陛下の侍従の中でもソフォル子爵というのは、少々、面倒な方でございますから」

 

 ソフォル子爵は身分こそ子爵位だが、その献身的で機転のきく対応により、皇帝のお気に入りだった。

 侍従長は別にいたが、陛下の信頼が厚いという事実は、何よりの権力であった。

 そのため、皇宮を訪れてまず挨拶をすべきはソフォルの執務室がある東藍宮(とうらんきゅう)だとまで言われるほどである。

 

「今の侍従長のバラーク伯爵はお年のこともあって、度々体調を崩され、ソフォル子爵が実質的に侍従長としての役割を担っているようです。今回のことで、子爵の機嫌を損ねることになれば、ラナハン卿の今後にも関わりますから……」

 

「それにしたって、情けない。あれで今回の総責任者なんだからな…」

 

 ヴァルナルはそれでも憤慨を隠せなかった。

 ミーナを軽んじるあの態度はもちろん許せなかったが、そもそも総責任者としての役目をまるで果たせていない。

 

 ギョルムの件はすでに、ミーナへの不必要な饗応を要望してきた時点で、かなり厳しく、その監督責任を含めて是正するように申し伝えてあった。にもかかわらず、この状況である。

 そもそも自分の部下であるのに、顔色を窺っている時点で、ラナハン卿に指導的役割を課すのは無理というものだ。

 

「ギョルムをこの事業に参画させたのも、ソフォル子爵が出来の悪い甥御のために、名誉挽回の機会を与えたのだと聞いております」

「なんなんだ、それは。大事な皇帝陛下より下達(かたつ)のあった事業だというのに、そんないい加減な人事を……」

「正直なところ…」

 

 ベネディクトは意味深な咳払いをして、少し言い淀んだ。

 ヴァルナルは先を促す。

 

「どうなされた? 忌憚なく申されよ」

 

「いえ……この事業計画は冬になる前に急遽策定されたと聞いておりますので、おそらくこれから冬になろうという時に、冬の寒さ厳しい北の辺境に好き好んで行く人間はなかなか……人選に難渋したと聞き及んでおります」

 

「ハハハ! そうだろうな」

 

 ヴァルナルは笑った。

 実際、皇府から送り込まれた人間は、あまり仕事ができるようには見えない。

 

 いや、帝都においては彼らも優秀な官吏であるかもしれないが、なにせここでは、ラナハン卿をはじめとして意欲がないのだ。

 左遷されたと思っている者もいるかもしれない。

 

「申し訳ございません。失礼なことを…」

 

 ベネディクトはヴァルナルが笑ったので、安心したようだ。苦笑しつつ謝った。

 ヴァルナルは軽く手を上げ謝意を制してから、ベネディクトをじっと見つめた。

 

「私としては今後の実質的な総責任者はあなたに任せたいと思うのだ、アンブロシュ卿。あなたは准男爵であるのだし、身分としてはラナハン卿よりも上だ。文句も出まい」

「そうはいっても、私は皇府から依頼を受けてここに来ているわけではありません。あくまでも大公家からの要員です」

「しかし、皇府への経過報告の書類なども、結局はあなた方が作成されたものを、ほぼ丸写しして送っているらしいではないか。そもそも皇府からの研究費用の三割近くを、あやつらへの特別赴任手当に拠出しているというのだから…とんでもない無駄使いだ。大公家はそうではないのだろう?」

「私共は閣下からの命令で来たというよりも、志願して来た者が多いので手当等は特に頂いておりません。業績に応じて、追って特別支給はあるやもしれませんので、むしろそれを楽しみに皆、研究やその準備を手伝っております」

 

 今回の黒角馬(くろつのうま)の増産並びに軍馬仕様研究についての事業には、皇府、大公家、グレヴィリウス公爵家が主だった出資と研究要員を出している。

 

 この中でグレヴィリウス公爵家が主に行っているのはレーゲンブルトにおける研究者らの衣食住の提供で、これは当然ながらグレヴィリウス公爵の命を受けて、ヴァルナルが担っている。

 

 その他、学者や助手をはじめとする人材と研究費用については、皇府と大公家が折半しつつ全体の八割以上を占めている。

 これは帝国に何か重大な脅威のあった場合、大公家が先鋒として戦地に赴くことが約束されているためだ。

 

 少々話が逸れるが、ここで大公家と現皇帝を主軸とする皇室との関係性について、軽く説明しておこう。

 

 現皇帝選出に至る過程において、当時、まだ十五歳という若さでありながらも、天才との聞こえ高い少年であった大公 ―――― この時はまだ第七皇子であったランヴァルトもまた、後継者争いに巻き込まれた。

 

 彼は叛意(はんい)のないことを証明するため、自らに大公としての地位を与えることを、皇太孫であったジークヴァルトに要求した。

 要求することで、ジークヴァルトが皇帝になることを認め、彼への服従を誓ったのだ。

 その上で今後、帝国の行う全ての戦において、先頭に立って戦うことを約束したのである。(無論、その一番最初の戦は、ジークヴァルトに敵対していた他の後継者らの掃討だった。)

 

 以来、大公家騎士団は帝国軍における先鋒としての役割を担っている。

 実際には、ジークヴァルト皇帝の代における粛清や、領土紛争などほとんどにおいて、大公家騎士団のみで決着がついてしまうので、彼らは帝国において事実上の主力騎士団と言っても過言ではなかった。

 

 そんな彼らにとって、軍馬の確保は重要案件だった。

 まして黒角馬(くろつのうま)などという能力の高い馬がいるとなれば、いっそ独占したいくらいであろう。

 そういう意味で、大公家には皇府よりも切実な事情があったのは間違いない。

 

 ヴァルナルは嘆息した。

 

 大公家には大公家の思惑があるのだろうが、少なくとも人員は確かな人々が来ている。

 皇府は学者はさすがにアカデミーからの生え抜きの優秀な者を揃えたようだが、それもやや常識外れの者が多い。

 そうした者達も含め、きっちり監督する者が必要だというのに、その責任者がもっとも優柔不断で役立たずときている。

 目の前にいる准男爵の恭謙で真面目な取り組み方とは大違いだ。

 

「アンブロシュ卿、表向き皇府からの委任を受けた者をたててしかるべきだということは、私にもわかっている。しかし正直、ラナハン卿が統制をとるのは今回の件をみても、難しいのは明らかだ。何より彼自身が積極的にそうしようと努めていない。

 その点、あなたには皇府からの要請でやってきた学者達も一目置いていると聞く。あなたの差配の元で、大公家の研究者らには、研究に没頭できる環境が整えられている…と、正直羨んでいる者もいるようだ。

 私からは金銭的な援助も、権限を与えることもできぬが、今後の研究の進行について、あなたへの支持を示すことぐらいはできる」

 

 言っているヴァルナル本人がまだるっこしさを感じたが、皇府がこの事業に参画している以上、ラナハン卿ら官吏達を全面的に否定するような真似はできない。

 だが、あくまでも現場において、ベネディクトが事業の中心的な役割を担うことに賛意を示すぐらいであれば、さほどに目くじらをたてられることもないだろう。

 そもそも、そこまで気にするのであれば、もうちょっとマシな実務家を寄越してもらいたいものだ。

 

 しかしベネディクトは安易な返答は避けているようだった。自分が大公家の人間であるために、下手をすれば大公に迷惑がかかると考えてのことだろう。

 

 ヴァルナルは続けて具体的な課題を指摘した。

 

「現状においては大公家からと皇府からそれぞれ選出された研究者らが、それぞれ別途に研究を行っていると聞く。そのために我が騎士団への質問内容なども重複され、騎士団としても疲弊しているのだ。この二つの研究班を一つにまとめて、両者活発な論議を尽くしてもらいたい。これが大公家にとっても皇府にとっても、我らグレヴィリウスにとっても理想的な形だと思う。その場合、彼らを上手にまとめ上げることができるのは、あなた以外にないと思うのだ。どうだろう?」

 

「ふ…む」

 

 重ねてお願いされ、ベネディクトはしばし考え込んだ。

 最終的に頷いたのは、ヴァルナルの指摘した問題点について、自分でも気になっていたからだ。

 

「よろしいでしょう。あくまでも()()という範囲において、ですが」

「無論だ」

 

 ヴァルナルはニッと笑ってから、すぐ申し訳なさそうに声を落とした。

 

「しかし最終的にはラナハン卿の手柄となってしまうだろうな、表向きは。(けい)には申し訳ないが」

「そのような事は些事(さじ)です。私の(あるじ)は大公閣下です。閣下さえご存知あれば十分……」

 

 言いかけてベネディクトはふと言葉を途切らせる。

 

「なにか?」

 

 ヴァルナルが問いかけると、ハッと顔を上げ、しばし見つめ合ってから、少し挑戦的な笑みを浮かべた。

 

「ひとつ願いがございます」

「なんだろう?」

「一応、こう見えて、私も騎士の端くれでございます。叶うならば、男爵殿と一度、手合わせ願いたい」

「そんなことなら、いつでも」

 

 ヴァルナルは快諾した。

 むしろ帝国の最大にして最強と呼ばれる大公家騎士団の一員であったというのなら、こちらも楽しみなくらいだ。

 

「本当ですか? ありがたい!」 

 

 ベネディクトは心底嬉しそうであった。

 ヴァルナルはいつも穏やかで、感情の起伏をあまり表すことのないベネディクトの興奮した様子に少し驚きながらも、微笑んだ。

 

「そのように喜ばれるなど。いつでも仰言(おっしゃ)っていただければよろしかったというのに」

「いや…そういう訳には」

 

 ベネディクトは少し自分が高揚したのが恥ずかしくなったのか、コホリと咳払いして気持ちを落ち着かせる。

 

「アンブロシュ卿」

 

 ヴァルナルは気さくな口調で呼びかけた。

 

「…私は身分こそ男爵の位にありますが、卿からすれば若輩の身でありましょう。まして、私は元は平民の出。そう堅苦しく考えずともよろしいのですよ」

 

 しかしベネディクトは重々しく首を振った。

 

「なにをおっしゃる。たとえ平民の出であろうが、騎士にとって黒杖の騎士なる方を尊崇せずにおれましょうか」

「私などは黒杖といっても、まだまだ……。アンブロシュ卿は大公殿下の側近くにおられたのですから、私がまだまだヒヨッ子同然であることなど、見破られておられるでしょう?」

 

『大公』という名称に、ベネディクトは胸を張りニコと微笑む。

 

「大公閣下はまったく別次元の方でございますれば…」

 

 そこには己の(あるじ)に対する尊敬と賛美と、そこはかとない()()()()があった。本来であれば大公『殿下』と呼び習わすところを、あえて大公『閣下』と呼ぶのは、武人としてのその人への畏敬からくるものであろう。

 

 ヴァルナルはかすかに心の中で、何かチリチリと()けるようなものを感じた。しかし、すぐに打ち消す。

 

「では、近いうちに機会を設けましょう」

「このような機会を与えていただき、感謝至極。楽しみにしております」

 

 いつもの貴族礼でなく騎士礼をして、ベネディクトは部屋を出ていった。

 

「大公……ランヴァルト閣下……」

 

 ヴァルナルはつぶやく。

 その人の顔を思い浮かべ、しばらく黙念と虚空を見つめていた。

 





次回は2022.11.27.更新予定です。


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第百四話 ケレナの悔恨

「ミーナさん、ちょっとお話したいことがあるの。よろしいかしら?」

 

 ケレナがめずらしく深刻な顔でミーナに声をかけてきたのは、ギョルムの事件のあった翌々日のことだった。

 

 ミーナはベッドで休んでいるオリヴェルの顔色を窺った。

 事件後、ビョルネ医師から安静にしておくようにと指示され、今は勉強も休んでいる。穏やかな寝息をたてているオリヴェルを確認した後、窓辺の椅子で繕い物をしていたナンヌに付き添いを頼んだ。

 

「すぐに戻るわ」

「大丈夫ですよ。マリーちゃんも今は寝てますし」

 

 ナンヌは笑って請け負ってくれる。マリーは午前中に草抜きで庭を動き回って疲れたのか、ソファでぐっすり眠っていた。

 

「ありがとう」

 

 ミーナは礼を言って、廊下で待つケレナに声をかけた。

 

「お待たせしました。少し、出ましょうか」

 

 そう言ったのは、自分の眠気を追い出したかったのと、ケレナの顔が暗かったので気分転換をさせたかったのもある。

 館から出て、ミーナとケレナは庭の噴水そばにある東屋へと向かった。

 

 日差しは暑くなってきたが、影になった場所では涼しい風が吹いている。

 最近ではケレナに午後の授業がないときに、しばしば二人で話すことがあり、この東屋はケレナのお気に入りの場所だった。

 

 いつもなら「風が気持ち良いわ!」と大きく()()をして、いきいきと話し始めるケレナは、今日はすっかり落ち込んだ様子で背を曲げ、憂鬱な顔で俯いている。

 

「どうなさったの? そんな暗い顔をして」

 

 ミーナは東屋の中でケレナと並んで座ると、ギュッと膝の上で手を握りしめて、ひどく思い詰めた様子のケレナに尋ねた。

 しかしケレナはしばらくやはり黙りこくっていた。

 

「なにか心配ごとでも?」

 

 ミーナが首をかしげ、重ねて問いかけると、ケレナは急に立ち上がるなり、ミーナに向かって深々と頭を下げた。

 

「ごめんなさい! ミーナさん」

 

 いきなり大声で謝られて、ミーナはきょとんとケレナを見上げた。

 ケレナはおそるおそる顔を上げ、ミーナと目が合うと、泣きそうに顔を歪めた。

 

「ごめんなさい、本当に…」

 

 そのままその場に崩折れてしまったケレナをなだめて、ミーナはとりあえず隣に座らせると事情を尋ねた。

 

「いったい、どうされたの? いきなりなぜ謝罪なんて…」

 

 ケレナは軽く首を振りながら、ミーナの差し出したハンカチで目頭を押さえた。

 

(わたくし)があんまりにも考えなしだからですわ。本当は、昨日気づいた時に、すぐにでも謝りに来たかったのですけど、昨日はミーナさんが休まれているからと…ナンヌにも言われまして」

 

「あ…それは」

 

 一時的にであれ、我を忘れるほどに激昂したせいであるのか、ギョルムのことがあった日、ミーナは発熱してしまった。

 熱は夜には収まったのだが、ギョルムに殴られた頬の腫れがまだ引かず、眩暈(めまい)もしていたので、しばらく体を休めるように、とのビョルネ医師からの指示で安静にしていたのだ。

 

「ごめんなさい。少し体調を崩していて…」

 

「とんでもない! ミーナさんが謝ることなど、何一つありませんわ。()()()()()があったのですから、体をいたわるのは当然のことです。もっと十分に休まれていてもいいくらいですのに…あぁ、今日また私がこうして煩わせてしまって…」

 

 ケレナの言葉に、ミーナの顔が少しだけ曇った。

 

 ギョルムのことについて、館では特に箝口令が布かれたわけではなかったが、誰もが大っぴらに話すことは控えた。

 だが、人の口に戸は立てられない。

 ミーナとしては、ギョルムと()()()()()()()()()()思われるのだけは避けたかったので、本調子ではないものの、今朝から仕事に戻ったのだ。

 それでも、まだかすかに赤く腫れた頬を見て、何人かは痛ましそうに、何人かは物見高く、両者ともに勝手に事件を想像しては噂しているようだった。

 

「大したことではなかったのですし、あまり大袈裟に考えないでください」

 

 大事(おおごと)にしてほしくなくて、ミーナはケレナの過度の同情をやんわり拒否した。

 

 しかしケレナは首を振った。

 

「いいえ。ミーナさん…私はあなたに謝る必要があるのです。あぁ…本当に。あの男、あの破廉恥極まりない不逞な男に、私はうっかりあなたのことを話してしまったのです!」

 

「………え?」

 

 意味がわからずポカンとなるミーナに、ケレナは堰を切ったように話し始めた。

 

「数日前、私、いつものように朝の散歩をしていましたの。あなたとまたお話できないかと思っていたのですけど、その日はちょっと寝坊してしまいまして…前夜に読み始めた本が……あぁ! 考えてみればあの本も不吉なものでしたわ。『罪人たちの朝』なんて! ついつい面白くて止まらなくて、寝る時間がすっかり遅くなってしまったんですの。それで、朝起きるのが遅れたせいで、残念ながらあなたにお会いすることはできませんでした。そのまま薔薇園の方にでも一人で行こうとしていたら、あの男がビョルネと話しているところに出くわしたんです」

 

「……ビョルネ先生と?」

 

 知った名前が出てきて、ミーナは聞き返す。

 ケレナは深く頷いてから、ハタと気づいたように、つけ加えた。

 

「あぁ、トーマスの方ですわよ。間違ってもロビン・ビョルネ医師(せんせい)ではございません。あの双子、顔立ちはそっくりですけど、身なりや行動はまったく異なりますからね。間違えられては、ロビン医師が不憫というものですわ」

 

「あの、トーマス先生と…ギョルム卿は何を?」

 

「さぁ? 私が近付いて挨拶する前にトーマスの方は去っていってしまいましたから。あぁ、でも葉巻をもらっていたようですわ。こちらでは手に入りにくいので、融通してもらっていたのでしょう。それからあの不埒な男と話すことに……あぁ! 今、思い出しても忌々しいですわ! あの男の口車にのって、うかうかと…私ったら余計なことを…」

 

 ケレナは自分の失態がよほどに悔しいのか、何度も苛立たしげな溜息をついた。

 ミーナは冷静だった。

 トーマスとギョルムが会っていたことは気になるが、ひとまず()いて、ケレナに先を促した。

 

「ギョルム卿と話されたのですか?」

 

「えぇ。不本意なことですけど、私、あの男を何度か見かけたことがございましたの。ホラ、あなたにもしつっこく声をかけていたでしょう? 私、その時はあの男が、とんでもない不逞の輩だなどと知らなかったものですから、普通に朝の挨拶をしましたのよ。

 それからどういう話の流れなんだか、気がつくと私、あなたがいつも早朝に祠堂(しどう)に行くことを話してしまったんです。やっぱり夜遅くまで本を読んで、寝不足でボンヤリしていたのかしら? ついつい聞かれるままに答えていたら、あなたのことを話していたんですわ。

 ですから、あなたがあの祠堂の近くであの男に…その…とんでもない事をされたと聞いて…最初は驚くばかりだったんですけれど、よくよく考えたらもしかすると、私のせいであなたを危険な目に遭わせたのではないかと……あぁぁ!! ごめんなさい、ミーナさん。どうか許して頂戴!」

 

 ケレナはまた大声で謝ると、座ったままミーナに頭を下げ、泣きじゃくった。

 

「あ……」

 

 ミーナは唖然として、ケレナの話をすぐに飲み込めなかった。

 

 つまり、数日前の朝に、ギョルムはトーマスと話していた。その後にケレナと会って、ケレナからミーナが毎朝、祠堂に行くことを聞いた…ということだろうか。

 

 ミーナは思い当たることがあって、眉を寄せた。

 昨夜、ミーナの様子を見に、部屋を訪れたヴァルナルが話していたことだ。

 

 ギョルムは事件前日に深酒し、寝起きに『目覚まし(ファトム)』という、麻薬を含んだ葉巻を吸ったらしい。帝都にいる頃から時々吸っていて、こちらでの生活が合わず、寝覚めもよくない日が続き、その量は増えていったのだという。

 

 今のケレナの話から推測すると、その葉巻を渡したのはトーマス・ビョルネだということだろうか?

 

 この事はヴァルナルにも伝えたほうがいいのかもしれない。

 違法なものでないにしろ、扱いには注意が必要なものだ。

 トーマスがそこまで常識がない人間とは思わないが、間違って子供達が口にしたりすることのないように、注意してもらった方がいいだろう。

 

 考え込んでいると、いきなり怒声が降ってきて、ミーナもケレナもビクリと身を震わせた。

 

「なにをしている!」

 

 青筋をたてて猛然と早歩きで向かってくるのはネストリだった。

 ズカズカと東屋に乗り込んできて、ミーナを怒鳴りつける。

 

「貴様、ミドヴォア先生に何を言った!?」

 

 どうやらミーナがケレナを泣かせていると勘違いしたらしい。

 ミーナが呆然として釈明するよりも早く、ケレナが立ち上がってネストリをなだめた。

 

「あぁ! 違うのです、ネストリさん。私がミーナさんに謝っていたのです。昨日もお話ししましたでしょう? 私のせいでミーナさんが危険な目に遭ってしまって…」

 

「しかし…こんなに貴女(あなた)を泣かせるほどに責める必要もないでしょう。なにも貴女だって故意にギョルムに話したわけではない。あの男が貴女を誘導して、情報を引き出したのですから…」

 

 どうやらネストリは、この件について既に、ケレナから相談を受けていたらしい。

 ミーナはパチパチと目を瞬かせて、いつの間にかすっかり仲良くなっているらしい二人を見ていた。

 どうすればいいのかわからず、立ち尽くしていると、じっとりとネストリが睨みつけてくる。

 

「なにか言うべきことはないのか?」

 

 それは質問という体裁をとった強要であった。

 ミーナはあわててケレナを慰めた。

 

「あの、ケレナさん。そんなにご自分を責めないでください。私はあなたのせいだと思っていません。悪いのはギョルム卿ですから」

 

 ケレナは目を潤ませて、おそるおそる尋ねてくる。

 

「お許しくださるの? ミーナさん」

 

 ミーナはニッコリ微笑んで頷いた。

 

「ネストリさんが仰言(おっしゃ)られるように、あなたが悪いわけじゃないんですから」

「じゃあ…じゃあ…これまでのように、お友達でいて下さる?」

「もちろん」

 

 ミーナが即答すると、ケレナの顔から暗さが消えた。

 

「良かった! 本当にごめんなさいね。ありがとう。あぁよかった……よかったわ……私、すっかり嫌われてしまうと……」

 

 今度は安堵感からか、ケレナは再び泣き始めた。

 

「大丈夫ですよ。貴女はべつに悪いことはしていません。たいしたことではないんですから、そう罪悪感を抱かずとも……」

 

 めずらしくネストリが親身になって慰める姿に、ミーナは内心で驚いた。

 目の前にいるのは、本当にあのいつも冷たく(いかめ)しい、時々嫌味なことを言う執事と同一人物なのだろうか? 二人はいつの間にこんなに仲良くなったのだろう…?

 

 ともかく、いつまでもここに立っているのは、少々おかしな状況に思えた。邪魔をしないよう、ミーナはそっとその場から立ち去った。

 その後すぐにヴァルナルの執務室に向かい、ケレナから聞いた話を伝える。

 

 ただ、ギョルムがミーナの毎朝の礼拝について知り得た経緯(いきさつ)については触れなかった。今更、その原因がケレナにあったとわかったところで、大して意味がないように思えたからだ。ケレナが話さなくとも、他の使用人から聞くことだってできただろう。特に隠していたことでもないのだから。

 

 ミーナからの話を聞いて、ヴァルナルはすぐにトーマスの事情聴取を行うよう、マッケネンに指示した。

 

 





引き続き更新します。



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第百五話 尋問、そしてギョルムの最期

「君がギョルムに葉巻を渡しているのを見た、という証言がある」

 

 マッケネンはムッスリした顔で切り出した。

 

 問われたトーマス・ビョルネは、うーんと首をひねる。

 考えながら、ティーポットから冷めた紅茶を、見たこともないような大きな白いカップに注いだ。

 デカいカップだな…とマッケネンが眉を寄せて見ていると、トーマスはクイとカップを持ち上げて笑いかけてくる。

 

「大きいでしょ? これ。僕が作ったんだよね。普通のカップで飲んでたら、あっという間になくなっちゃって、何度も淹れにいかないといけないからさ。もう一つあるよ。飲む?」

 

 同じくらいの大きさの枯草色のカップを戸棚から取り出したが、マッケネンは丁重に断った。

 せめて出すなら温かい紅茶を出してほしいものだ。

 

「あ、そ」

 

 トーマスはスペアのカップを戸棚にしまうと、なみなみと紅茶を注いだ御手製の白いカップ片手に、すっかりクセのついた肘掛椅子にドスンと腰掛けた。

 

 他の研究者らは東塔にある新設された宿舎で寝泊まりしていたが、トーマスは家庭教師でもあったので、本館に部屋をもらっていた。

 その部屋でマッケネンが事情を聞いたのは、もしいつものように兵舎内で取り調べとなれば、トーマスの教え子であるオヅマに勘付かれるだろうと思ったからだ。なるべくこうした事については、子供に知られたくない。

 

 しかし、尋問相手の部屋で尋問するというのは、既に空気からして相手側の支配下にあるので、非常にやりづらい。まして相手がマッケネンにとっては鬼門とも言うべき男であった。

 

 トーマスはマッケネンがアカデミーを受験していたことをオヅマから聞いたらしく、以来、妙に話しかけてくるようになった。

 しかし十歳でアカデミーに入った天才は、やはり凡人であるマッケネンには計り知れぬところがあり、相手するだけで気疲れするので、最近では見かければなるべく避けるようにしていたのだ。

 

 しかし今回はれっきとした仕事である。避けては通れない。

 マッケネンは覚悟を決めて、いつも以上に気持ちを引き締めて来たものの、既にトーマスのペースに巻き込まれつつある。

 

 わざとらしく咳払いして、マッケネンは再び気を引き締めた。

 トーマスは冷めきった紅茶をゴクゴク飲んでから、またうーんと思案する。

 

「会ったかもしれないし、覚えてないな」

「………覚えてない?」

 

「このド田舎ではねぇ…なかなか葉巻一つ手に入れるにも大変なのさ、みんな。僕はここでの暮らしが案外と合っているみたいで、自然と吸わなくなったんで余っているけど、僕と反対の人もいるから、そういう人達には必要なんだろうね。だから、わりと頻繁にあげちゃってるんだ。その中にギョルム卿がいたとしても、いちいち覚えてないな」

 

「生物博覧誌を一冊まるごと暗記している人とは思えない答えだな」

 

 マッケネンが皮肉ると、トーマスはハハハと笑った。

 

「そりゃあ、興味のあることなら覚えるさ。みんな勘違いしているようだけど、僕は天才とかじゃないんだよ。必要な時に必要なことを必要なだけしか覚えようとは思わないからね。たいがいの人は、不必要なことまで覚えようとするから、無理だ…ってなってしまうんだよ」

 

「………大したもんだ」

 

 マッケネンはボソリとつぶやいた。

 ()()()()なのかをわかるからこそ、()()というわけだ。凡人の凡才たるゆえんを嫌味なくらい(えぐ)ってくるトーマスに、ますます不快感が募る。

 

 しかしトーマスは不機嫌になるマッケネンを見て目を細めた。

 

「僕はあまり人に興味を持たないんだ。基本的に。だからその人の顔とか名前とか、覚えようと思わない。一応、努力はしてみるけどね」

 

 マッケネンは内心で納得した。

 前に一度、厩舎を訪れたトーマスら学者一行が話しているのを聞いたことがあるのだが、その時、トーマスは同行の学者らを、「なめし皮」「瓜坊くん」「ツギハギ眼鏡卿」などと好き勝手に呼んでいたのだ。しかもそれらは固定でなく、トーマスの機嫌次第でいくつかの別名があるらしかった。

 学者らはトーマスが勝手につけた渾名(あだな)に文句を言うこともなく、まともに応対していたので、マッケネンはつくづく学者というのは奇妙な人間達だと思ったものだ。

(実際のところ学者たちは、トーマスに名前を覚えてもらうことを、あきらめている)

 

「まぁ、いずれにしろ、ギョルム卿に僕が葉巻を渡していたことが、罪になるとは思わないね。その葉巻が()()()()()()()ものだとしても、禁止されているわけじゃないし。人によって効きやすい人がいるのは確かだけど。僕なんかはわりと効きが悪いんで、続けざまに三本吸っても、どうってこともないね」

 

 マッケネンは眉を寄せた。

 実はマッケネンもファトムを吸ったことがある。

 騎士になって初めての戦場で、先輩の騎士から勧められた。

 いざ決戦を控えた時に吸って、気分を高揚させるのだと聞いたが……トーマスの言を借りるなら、マッケネンは効きやすい体質なのだろう。

 吸った直後から興奮状態で、戦場での記憶は曖昧だった。生き残るために人を殺したというより、勢いのままに殺していった……。

 

 マッケネンは過去の自分を苦々しく思い出しながら、重苦しく言った。

 

「……吸うことは禁止しないが、少なくとも若君とオヅマに授業をする前日は控えて頂きたい。子供たちの前で奇態を晒すようなことがあっては困る」

 

「心配しなくていいよ。さっきも言ったように、僕はここでの暮らしが合っているせいで、最近はほとんど吸ってないんだ」

 

「………意外だな」

「なにが?」

「君のような人間が、この土地に合うとは思わなかった」

 

 トーマスはフフと笑い、長い髪の一房をくるくるとねじっていく。

 

「それが案外合っているのさ~。適度に刺激的で、適度に退屈で」

「………それはけっこうなことだ」

 

 マッケネンのため息は深かった。

 トーマスはねじった髪の毛をパと離すと、肘掛けに頬杖をつきながら、楽しそうに微笑んだ。

 

「ま、そういうことだから、僕からギョルム卿について、何かしらの情報を得ようとするのは、無駄だと思うよ。リュリュ・マッケネン卿」

「…………」

 

 マッケネンは呆気にとられた。

 目の前でニッコリ笑うトーマスをまじまじと見つめる。

 

 騎士団でも自分(マッケネン)()()を知っている人間は少ないというのに、どうやって知った?

 

 ちなみにマッケネンというのは姓なのだが、これがややこしいことに名としても存在するために、騎士の多くは彼の()()がマッケネンだと思っている。平民は姓を持たないことも多いので、当然の反応だった。

 マッケネンにとってはむしろ、勘違いしてもらえる方が有り難かったのだ。本名を知られるよりは…。

 

 マッケネンはハッと我に返ると、トーマスを睨みつけた。

 いかにもしてやったり顔が癇に障る。

 

「その名前で呼ぶな」

 

 低く恫喝するようにマッケネンは言ったが、トーマスは微笑む。

 

「どうしてさ? 可愛い名前じゃない、リュリュ」

「だから呼ぶなと言ってるんだ!」

「なんで? 嫌いなの?」

「嫌いに決まってるだろう! そんな赤ん坊みたいな名前」

 

 リュリュ、というのは多くの場合、愛称であった。

 それも子供や、犬猫などのペットに対する呼びかけとしての名前で、当然ながらそのイメージは愛くるしく、無垢なものといった感じだ。

 

 マッケネンは幼い頃はまだしも、長じるに従ってこの名前が嫌いになっていった。どう考えても自分とは乖離(かいり)したものに思えたからだ。

 トーマスもまた、そこについては同感であるようだった。

 

「まぁ…そうだよねぇ。額に傷まであるような、コワーい顔した騎士様が『リュリュ~』なんて呼ばれてたら、思わず二度見して笑っちゃうよね~」

「わかってるなら言うな! 今後一切!」

「……………リュリュ~」

 

 トーマスがこっそりとつぶやく。

 

 マッケネンは立ち上がった。

 無駄だ。これ以上はまともに話ができる気がしない。

 とりあえず聞いたことだけヴァルナルに伝えて、それで不十分だというなら、日を改めて今度こそしっかりとガッチリと理論武装して、気をキリキリに引き締めて臨むしかない。

 

「あ! ねぇねぇ、リュリュ」

 

 ドアノブに手をかけたマッケネンに、トーマスは懲りずに名前で呼びかける。

 マッケネンはギロリと睨むと、トーマスに向かってビシリと人差し指を突き出した。

 

「その名前で呼んだら、無視するからな」

「無視されたら、また呼ぶよ。いいの? 他の騎士さん達には知られたくないんでしょ~?」

 

 マッケネンはぐっと詰まった。

 すかさずトーマスは話を続ける。

 

「僕だって、時と場合というのはわかっているさ。人前では呼ばないであげる。だから、僕が『リュリュ』と呼んだ時には、必ず返事すること」

 

 マッケネンは拳を震わせながら、無言で承諾するしかなかった。そうしないと、騎士達にあの小っ恥ずかしい名前が知れ渡ってしまう。

 

 トーマスは明らかに面白がっていた。

 第一印象から嫌な感じであったのが、今回のことで決定的になった。

 

「…貴様のような奴が討論大会で優勝するんだろうな」

 

 マッケネンが苦りきった顔で言うと、トーマスは大袈裟に肩をすくめた。

 

「まさか。あんなつまらないものに出るような人間に見える? 僕が」

「ほぅ、それは賢明だったな。もし出ていれば、今よりお前を苦手に思う人間が増えていたはずだ」

 

 マッケネン渾身の嫌味だったが、トーマスは一枚上手であった。

 

「僕を苦手に思うような奴は、たいがいの場合、僕に憧れているんだよ」

「………もういい」

 

 これ以上話していると、生気を吸い取られそうな気がする。

 マッケネンは再びドアノブに手をかけようとしたが、その背にトーマスが問いかけた。

 

「そういえばさぁ、僕とギョルム卿を見たっていう証言者は、いったいどこでそんな場面に出くわしたの?」

 

 マッケネンは扉を開きかけて動きを止め、怪訝にトーマスを見た。

 

「何故、そんなことを聞く?」

「質問に質問を返すものではないよ、リュリュ。僕はキミからの質問には素直に答えた。僕にはキミに質問する権利がないとでも?」

 

 マッケネンはため息まじりに答えた。

 

「庭園で見た、と聞いている」

「庭園? いつ? 夜中?」

「………早朝だ」

「ふ……ん。……そう」

 

 トーマスはあらぬ方を向いて、右眉上のホクロをポリポリ掻く。ゴクゴクと紅茶を飲み干すと、書棚から何かの本を取り出し読み始めた。

 

「おい…」

 

 マッケネンは今の質問の意図を尋ねたかったが、トーマスは見向きもしなかった。もうマッケネンに興味をなくしたのか、それとも研究者として集中しだすと、周囲と隔絶してしまうのか…。

 

 マッケネンは吐息をつくと、トーマスの部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 マッケネンから報告を受けたヴァルナルは、この件については打ち切った。

 特に目新しい情報もなく、トーマスの言う通り、葉巻のやり取りだけでは、何の罪にもならない。むしろ善意であげた…というだけのことだ。

 

 ミーナの心配していた子供達への影響にしても、当人が最近はほぼ吸っていない、というのであれば、問題ない。一応、ヴァルナルからも再び注意をすると、トーマスはその日のうちに、持っていたすべての葉巻を、雑貨商に売っ払ってしまった。

 

「たぶん、しばらく必要ないから~」

 

と言うトーマスの笑顔が、マッケネンにはものすごく不吉に思えたが……。

 

 さて、ギョルムのその後について簡単に記しておこう。 

 

 

 帝都は遠く、ラナハン上級吏士、アンブロシュ准男爵、クランツ男爵連名でギョルムの処断を求める書翰が皇府に届いたのは、事件が起きて二十日ほどが過ぎた頃だった。

 

 皇府の長官からその書翰を渡され、目を通したギョルムの叔父であるソフォル子爵は、とうとう匙を投げたらしい。

 処置について長官に任せ、長官はギョルムの処分を、レーゲンブルト領主であるヴァルナルの裁量に委ねる…と返した。

 

 その返事を受け取った時点で、既に事件が起きてからは一月半以上が過ぎていたわけだが、ヴァルナルにはまだギョルムへの怒りと憎悪がくすぶっていた。

 即座に首を刎ねたいくらいだったが、一方で時間は冷静さを与えてくれていた。

 この男の死をミーナが知ることすらも、苛立たしい。そんなことでいちいちミーナの気を煩わせたくはなかった。

 

杖笞(じょうち)をそれぞれ五十。黥頬(げいきょう)の後、放逐。以降、五十年間は、領地内への入足を禁じる」

 

 杖笞(じょうち)とは制裁棒による殴打と、鞭打ち刑の二つを行うものであり、黥頬(げいきょう)とは頬に罪人であるという入墨を彫ることである。その上で着の身着のまま、領内から放逐。

 当然ながら、(いれずみ)のある罪人に手を差し伸べる人間などいるわけもない。放逐罪の罪人に手を貸せば、その人間もまた罪に問われるからだ。

 帝都に戻ろうにも金もなく、どこまで行けるのかわからない。

 要するに野垂れ死にすることを想定した上での刑罰だった。運良く生き残れたとしても、真っ当な道を歩むことは難しいであろう。

 

 もっとも帝都に戻って罰を受けるとなれば、ギョルムは罪を一等減じたとしても斬首となっていただろうから、どちらが良いのかはわからない。

(ちなみに減じられなかった場合は絞首刑となり、これは親族までもが社会的に抹殺されるので、叔父であるソフォル子爵としては帝都にギョルムが戻ってくるのを敬遠したのも、そうしたところであろう。)

 

 最終的にギョルムは、杖笞罪を受け、襤褸布のようになって、川べりをふらついていたところを、雨季に入って水嵩を増したドゥラッパ川の出水(でみず)に巻き込まれて、そのまま行方不明となった。……

 





次回は2022.12.4.に更新予定です。



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第百六話 剣術試合

 ギョルムの処罰について、帝都皇府からの返事を待っている間、騎士団においては先の約束どおりに、ヴァルナルとベネディクトによる剣術試合が行われようとしていた。

 

 修練場には騎士以外にも多くの見物人が押しかけていて、いつもとは違う、一種、異様な様相を帯びている。

 

「まるで闘技場じゃねぇか」

 

 ゴアンは増える見物客を見回して、あきれたように肩をすくめた。

 

「まぁ、仕方ないだろうな。実際、俺らだって楽しみだし」

 

 マッケネンは腕を組みながら軽く息をつく。それは自分自身も少々興奮しているのを鎮めるためだった。

 

「スヴァンテやらサッチャがいたら、さぞ騒がしかったろうな。自分も名乗り出て、下手すりゃ大公家との団体戦にでもなったかもしれん」

 

 ゴアンは人の名前を借りてそんなことを言いながら、実際には自分がその先鋒に立ちたいくらいであった。

 マッケネンはそんなゴアンの気持ちに釘をさす。

 

「なるか。大公家から騎士なんて来てないのに。アンブロシュ卿がたまたま騎士だったってだけの話だろうが」

 

「しかし、騎士だってのに…なんだって、学者相手の調整役みたいなことをしてるんだろう。っとに、ヤツらときたらお高くとまってやがって、面倒くさいばっかりだってのに」

 

「そんなクセのある者達をまとめるだけ、有能ということだろう。准男爵という爵位まで頂いているんだ。大公閣下からの信任も相当厚いのだろうよ」

 

「フン。そうなると、ますます代理戦だな。あっちはランヴァルト大公閣下、こっちはグレヴィリウス公爵閣下」

 

「事を大袈裟にするな。ただの試合だ」

 

 マッケネンがたしなめていると、背後から「間に合ったぁ」とオヅマが割って入ってきた。

 

「おぅ、間に合ったな」

 

 ゴアンは笑って声をかけたが、マッケネンは眉を寄せた。

 

「オヅマ、授業は?」

「終わったよ」

「本当か?」

「本当だってば! トーマス先生だから、融通きかせてくれたんだよ」

「あいつか…」

 

 マッケネンは眉間に寄った皺を押さえた。

 

 初対面から馴れ馴れしかったが、ギョルムに関しての事情聴取の後、ますます親しげに声をかけてくる。

 無視を続けると、口が『リュ…』の形になるので、マッケネンとしては仕方なく相手するしかない。

 まったく、よりによって厄介な人間に本名を知られてしまった。

 しかもいまだに、その名前をどこで、誰に聞いて知ったのかと尋ねても教えてくれない。……

 

 苦虫を噛み潰したマッケネンと対照的に、オヅマは目を輝かせて辺りを見回していた。

 いつもとは違う、熱気を帯びた修練場に訳もなく血が沸き立つ。

 

「あっ、来た!」

 

 オヅマが声を上げると同時に、ウオォと軽いどよめきが起こった。

 

 本館側の渡り廊下の扉が開いて、ヴァルナルが姿を現した。

 兜はしておらず、赤銅色の髪が強い風で逆立ち、精悍な顔に漲る自信は、まるで獅子の威容だ。

 錫色の鎧に身を包み、背には紺青と白が半々になったマントが翻っていた。

 

 白地には、青くグレヴィリウスの家紋が、紺青の生地には白でレーゲンブルト騎士団の紋章がそれぞれ染め抜かれている。(ちなみにレーゲンブルト騎士団の紋章は、盾の前に剣が三本交差したものだった)

 

 いつもなら内輪の試合程度のことで鎧を着てマントをつけたりはしないが、今回は大公家臣下であるベネディクトへの礼儀もあって、一般的な披露試合と同じ扱いになったようだ。

 

 一方のベネディクトは、鎧は同じく錫色の一般的なものだったが、漆黒のマントに大公家の紋章が染め抜かれていた。

 真紅の椿に、金の目の雄牛の頭、鉤爪の鎖。

 バサバサと翻るマントの裏地は、こびりついた血のような朱殷(しゅあん)の色。

 

 家紋も含め、なんとなく不気味で嫌な感じだ。

 

 オヅマはマントを羽織った、栗茶(マルーン)の髪の男をほとんど睨みつけた。誰だか知らないが、あのマントを背に負う者に対して、いい印象を持てない。

 

 オヅマの視線を感じたのか、不意に男がこちらを向く。

 薄緑の瞳と目が合った途端、オヅマはウッと小さく呻いた。

 

「どうした? オヅマ」

 

 マッケネンに声をかけられる。オヅマはサッと男の視線から逃れた。

 

「あ…あの人とやるの?」

 

 動揺をごまかすように尋ねると、ゴアンが頷く。

 

「おう。ベネディクト・アンブロシュ准男爵だと。お前、会ったか?」

 

 黒角馬(くろつのうま)の研究者などが、発見者であるオヅマを訪ねてくることが多かったので、ゴアンは訊いたのだが、オヅマはブルブルと首を振った。

 

「ううん! 知らない……たぶん」

 

 言いながら、そっと顔を上げて、気づかれないようにベネディクトを凝視する。

 

 微かな既視感。

 会ったことなどないはずなのに…。

 

 モワモワと湧き上がる感情が何なのかわからない。

 これが自分の気持ちなのか、どうしてそんな気持ちになるのか。

 

 オヅマはゆっくりと深呼吸すると、頭を振った。

 とりあえず今は、目の前で行われる試合に集中しよう。

 

 ヴァルナルが東側の定位置に立つと、ベネディクトは向かいあうように立った。

 何かヴァルナルに話しかけられ、朗らかな笑みを浮かべて答えている。

 

「東方、ヴァルナル・クランツ。西方、ベネディクト・アンブロシュ。両名の試合をこれより始める……」

 

 審判役を務めるのは、パシリコが不在の今は騎士団最年長となったトーケルだった。

 剣術試合における作法に従って両者の名を読み上げ、簡単にルールを述べていく。

 

 オヅマは我知らず心臓を掴むかのように胸を押さえた。

 何か、ひどくざわつく。

 この感覚はエラルドジェイに遭遇した時と似ていた。だが、あの時のようにすんなりと受け入れることができない。

 

 目の前ではヴァルナルもベネディクトも試合用の擬似剣を鞘から抜き、交差させた状態で静止している。

 トーケルが手を振り上げたと同時に、ベネディクトは動いた。

 

 溜めの動作もなく、剣を振り下ろす。

 その素早い動きに、騎士達から軽くどよめきが漏れた。

 

 しかしヴァルナルはその速さに動揺することもなく、カン! とベネディクトの剣を弾く。そこから一歩前に踏み込みつつ、弾かれて大きく開いたベネディクトの胸元にむかって剣を突き出す。

 ベネディクトはすんでで飛び退(すさ)って、剣を構えたが、そのときにはヴァルナルはまた間合いを詰めて、剣を振り下ろしてくる。

 

「くっ!」

 

 ベネディクトは思っていたよりも速いヴァルナルの攻撃に、防戦一方になった。

 何度かヴァルナルの剣を弾きながら、壁側に追いつめられていく。

 

 あと数歩で、動けなくなる位置まで来た時に、剣を弾かずにまともに受け止めた。

 一瞬、鍔迫り合いとなったが、ベネディクトはヴァルナルの剣を渾身の力で押し返すと、壁際まで飛び退って間合いをとった。

 

 乱れた息を整える。

 もはやこれで逃げ場はない。

 

「さすが……」

 

 ベネディクトは小さく感嘆した後、ニッと笑って言った。

 

「では、始めましょう」

 

 ヴァルナルはベネディクトの言葉に眉をひそめた。

 打ちに行こうとしたが、その時にはベネディクトにはもう隙がなかった。

 

 姿勢を真っ直ぐに、左足を後ろに引いて、剣を大上段にかかげる。

 その構えを見て、ヴァルナルは奥歯を噛みしめた。

 

 ―――― 来る!

 

 咄嗟にヴァルナルが構えたと同時に、ベネディクトの姿が消えた。

 

 見物人がえっ? と目をパチパチ瞬かせる。

 騎士達もほとんどが同様だった。オヅマも凝視していたのだが、その一瞬、ベネディクトは完全に消えたように見えた。

 

 再びベネディクトが彼らの前に姿を現したのは、カァンと剣の交わる音が響いた時だった。

 ヴァルナルによって弾かれたベネディクトは、修練場の砂の上でズササッと滑って、かろうじてひっくり返ることなく止まった。右手に持っていた剣を左手に持ち替え、再び深く息を吸い、胸に空気を溜め込むと同時にまた姿が消えた。

 だがこれも結果は同じだった。

 

 ヴァルナルはすぐさま応戦して、ベネディクトからの剣を剣で防ぐ。ギリギリと鍔競(つばぜ)り合いが始まると、ベネディクトは長引く前に押し戻して間合いをとる。

 ハッ、ハッ、とほんの少しの間のことであるのに、ベネディクトは激しく肩を上下させた。

 

 オヅマは二人の構え合う様子を見ながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 徐々に余裕のなくなっていくベネディクトと対照的に、ヴァルナルの表情は静かだった。

 かすかに開いた口元から細く長い呼吸がされているのがわかる。

 灰色の瞳は瞬くことなく、ベネディクトを見つめている。

 

 オヅマにはわかった。

 ヴァルナルは今、稀能を発現している。これが『澄眼(ちょうがん)』なのか。

 

 ベネディクトはハッと声に出して息を吐くと、すぐさま鼻から空気を吸い上げて止めた。ほぼ同時に再び地面を蹴る。

 また、姿が消えた――――ように、見物人からは見えた。

 

 地面を蹴り上げ、一足飛びに自分に向かってくるベネディクトの姿が、()()()()()()()()のは、ヴァルナルだけであった。自分に向かって剣が振り下ろされる寸前までその場に留まり、十分に引きつけてから、ヴァルナルはそれこそベネディクトさえも捉えられぬ敏捷さでかわす。

 ベネディクトはそのまま地面に向かって剣を振り下ろし、修練場の固い土に(ひび)が入った。

 しゃがんだ状態で固まってしまったのは、隣で立っているヴァルナルの剣がベネディクトの首の上で止まっていたからだ。

 

「……勝ち、東方ヴァルナル・クランツ」

 

 審判であるトーケルはしばし唖然と見守っていたが、あわてて勝負の終了を宣言する。

 

 うおぉ、と野太い歓声が上がった。

 

 ヴァルナルは静かに剣を鞘にしまった。

 ベネディクトはうなだれていたが、息を吐ききると、ゆっくりと立ち上がった。顔には満足気な笑みが浮かんでいる。

 

「有難うございます、男爵殿」

「こちらこそ。まさか『絶影捷(ぜつえいしょう)』の稀能をお持ちとは…」

 

「いえ。まだそこまでの域には至っておりません。習得しようと励んだのですが、師匠からは認めてもらえませんでした。しかし、男爵殿に『澄眼』を出させたのなら、私も自慢できるというもの。そう思ってもよろしいでしょうか?」

 

 ヴァルナルは頷いた。澄んだ灰色の目には嫌味でない自負がみえた。

 

 オヅマは清しい笑顔で頷き合う二人の姿を見て複雑だった。

 たった一度の試合でまるで数年来の友人のごとく、心を通わせたのがわかる。

 

 だが、オヅマはベネディクトへの警戒心が高まるばかりだった。また、じっと睨みつけるように見ていると、視線に気付いたヴァルナルが声をかけた。

 

「オヅマ、こっちに」

 

 オヅマはぎゅっと眉を寄せ、ヴァルナルのもとへと歩いていった。

 

「なんですか?」

 

 騎士見習いと思えぬつっけんどんなオヅマの口調に、ベネディクトは驚いたようだった。

 

「ずいぶんと…男爵殿に対して()()()な態度ですね」

 

 あえてはっきりと生意気と言わなかったのは、朗らかに接しているヴァルナルに遠慮したからだった。しかし、ヴァルナルにはベネディクトの本来言いたいことはすぐにわかったらしい。

 ハハハと笑って、オヅマの肩を叩いた。

 

「失礼。少々、生意気なところもありますが、これで信義に厚い子なのです。それに騎士としても有望で、目をかけてじっくり育てているところです」

 

「左様ですか」

 

「アンブロシュ卿、差し支えなければ、この子に絶影捷(ぜつえいしょう)の一端を披露してもらうことはできませんか?」

 

「え? それは…」

 

「はたから見ているのと、実際に立ち合うのとでは、得るものも大いに違います。私はこの子に、経験を積ませたいのです」

 

 ベネディクトはチラリとオヅマを見た。

 見上げてくる薄紫の瞳は反抗的といってもいいくらいだった。恐れを知らない無垢な瞳を、少しばかり驚かせてやりたくなる。

 

「…いいでしょう」

 

 さほど深くも考えず、ベネディクトは頷いた。

 

 オヅマはオヅマで、この急なヴァルナルの申し出に当初は戸惑ったが、すぐに受け入れた。

 

 絶影捷(ぜつえいしょう)、と呼ばれるその稀能は、あまりの速さに、その者の影ですらも追いつくことができない、という意味を込めて名付けられたという。

 

 いったい、どれほどの速さであるのか。

 その影も追いつけぬほどの速さをもってしても、見取ってしまうヴァルナルの稀能とはいかほどのものなのか……?

 こればかりは、実際に相対しなければわかりようもない。

 

「普段の修練の成果を見せてみろ」

 

 ヴァルナルは軽く言ったが、実のところ、騎士団での訓練を再開してからの数ヶ月の間、ヴァルナルは折を見てオヅマに稀能『澄眼』の修練を行っていた。

 当人にはまだ伝えていないが、普段の訓練とは明らかに異なるものなので、なんとなく気付いてはいるようだ。

 

 この初歩的な修練において、見込みがなければ諦めるつもりであったが、案の定、オヅマはヴァルナルの意図したことを理解した上でこなしていっている。このまま進めば、習得に向けてより特化した実技を教えていくことになりそうだ。

 

 だが多くの稀能においてそうだが、いくら実技面での習得ができたとしても、結局は使用の際にどれだけ平常心を保って、稀能という特殊能力を発現できるか、ということが一番の課題なのだ。

 こればかりは場数を踏むしかない。

 

 経験を積むにしても、相手が強者であるほどに、有益なのは言うまでもない。

 その点、絶影捷の遣い手(当人は稀能の域でないと謙遜するが、ヴァルナルには十分に達人の域に思える)であるベネディクトなどは、貴重な対戦相手といえる。

 オヅマは運がいい。

 

 ヴァルナルに押されて、西側の位置にオヅマは立った。

 剣術試合においては、格上の人間が東側に立つことになっている。これは特に何かしらの順位が決められたものでなく、両者暗黙の了解の下、自らで格下と思えば西側に立つことが慣わしだった。

 

「東に立ってもよいぞ、勝てると思うなら」

 

 ベネディクトは笑みを浮かべ、東側の場をあけた。明らかな挑発行為だ。

 オヅマはギッと睨みつけた後、澄ました顔で東側に立った。

 オオゥ、と見物人からどよめきが起こる。

 

「身の程知らずが…」

「いいぞ! やれやれ!」

 

 見物人の反応は眉をひそめる者と、囃し立てる者に二分された。騎士団の面々もまた同様だった。

 

「領主様、オヅマに注意しなくていいのですか?」

 

 前者であるマッケネンはヴァルナルに伺いを立てる。ヴァルナルはフッと笑って言った。

 

「心配するな。恥をかきたいというなら、止める必要もない」

「しかし、もしアンブロシュ卿が不敬とお怒りになられたら…」

「あれが怒っているように見えるか? 気にせずともよい、マッケネン。ただの冗談だ。見ればわかろう?」

 

 ヴァルナルの言う通り、ベネディクトは冗談のつもりの挑発に乗ったオヅマに、俄然興味が湧いた。

 なかなかどうして、この年で勇敢な少年ではないか。もっとも、この場合は勇敢というよりは蛮勇と言った方がいいかもしれない。

 

「ふん。では、お相手願おうか」

 

 ベネディクトは西側に立つと、剣を中段に構えた。オヅマも同様に構える。

 交差された状態で、剣はしばらく静止している。

 トーケルが両者の名前を読み上げ、手を振り上げて開始を宣言した。

 

 すぐさまオヅマはぐっと下に腰を落とし、ベネディクトの足元すれすれから上に向かって剣を払う。子供の体の小ささを活かし、瞬時に間合いを詰めてきたオヅマに、ベネディクトは内心驚いた。

 顎先に伸びてきた剣先をかろうじてかわす。

 

「成程」

 

 間合いをとって、ベネディクトは自らの油断を叱った。

 

「さすがはクランツ卿の秘蔵っ子というわけか」

 

 つぶやきながら、剣の握りを変える。同時に地面に平行に跳躍し、今度はベネディクトが一気に間合いを詰めた。

 

 オヅマは急に目前に迫ったベネディクトに、一瞬、固まった。だが、振り下ろされる剣先を正確に見定めて、ギリギリでかわす。

 ベネディクトは間髪を入れず、振り下ろした剣を横に払った。これは避けられず、オヅマはカン! と剣で受けた。

 刃が擦れ合って、ギギギと耳障りな音をたてる。

 

「『澄眼(ちょうがん)』は発現できそうかな? 坊や」

 

 ベネディクトがまた挑発してくる。

 オヅマは無言だった。押してくる圧力に耐えるのに必死で、余計なおしゃべりなどしていられない。

 

 鍔迫り合いから先に逃れたのはベネディクトだった。再び大きく間合いを取ると、スゥと息を吸い込む。

 オヅマはすぐに意図を察した。だが、ヴァルナルのようにすぐさま対応するのは難しかった。

 

 絶影捷(ぜつえいしょう)と呼ばれるその異様な速さ。

 オヅマの目の前からベネディクトが一瞬消えた。

 さっき見物していた時と変わらない。オヅマには何も見えなかった。当然、避けようもない。

 

 ヒュッ、と耳元に小さな風の唸る音がして、ピタリと頬に冷たい剣身が当てられた。ヴァルナルがベネディクトの首で寸止めした時と同様に、オヅマもまた硬直するしかなかった。

 勝負は一瞬でついたのだ。

 

「勝利、西方。ベネディクト・アンブロシュ」

 

 通常の試合において、西方が勝つことなどはまず有り得ないことだった。負けた時に自分が東方であれば、一生、恥をかかえて生きることになる…というのは大袈裟であったが、実際、騎士にとってはそれくらい恥ずかしいことであった。

 

 見物人の大笑いを、オヅマは凄まじい恥辱と感じた。だが、それも自分が招いたことだ。

 

「まだ、クランツ卿の域には達していないようだ」

 

 ベネディクトは剣を鞘に収めると微笑した。そこに試合前の挑発的な皮肉はない。

 オヅマは一歩後ろに下がってから、頭を下げた。

 

「誠心の剣をいただき、有難うございます」

 

 剣術試合後の、負けた側の形式的な文句であったが、オヅマの心境には合致していた。

 ヴァルナルの言う通り、自分にはまだまだ場数が必要で、ベネディクトはその貴重な一つの経験をさせてくれたのだ。

 

 莞爾として笑い、ベネディクトはオヅマの肩に手を置いて言った。

 

「ここにいる間は、クランツ卿の許可があれば、いつでも相手しよう。精進したまえ」

 

 

 ――――― 本日より、閣下から君の後見を頼まれた。閣下直々に特に頼むと言われるなど、君は相当に期待されているようだ。精進したまえ……

 

 

 不意に ―――― ()が閃く。

 

「………」

 

 オヅマは喉が詰まって返事ができなかった。

 

 ヴァルナルに軽く会釈して、ベネディクトは修練場から出て行く。

 オヅマはその背に翻るモンテルソン大公家の紋章に眉を寄せた。

 

 気に食わない。

 威嚇する金の目の雄牛も、何かを捕らえようかとする鉤爪(かぎづめ)も、婀娜(あだ)めいた真紅の椿も。なんと気味悪く忌々しい紋章だろうか。

 

 ゆっくりと、また押し寄せてきそうになる()を、オヅマは振り払った。

 

 





引き続き更新します。


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第百七話 オリヴェルの残念な一日

 オリヴェルはベッドの上でふくれっ面だった。

 

 父と大公家の騎士・アンブロシュ卿なる人が模擬試合をするとオヅマから聞いて、楽しみにしていたのに、

 

「駄目です」

 

 ミーナは頑として見物を認めてくれなかった。

 

 ギョルムの事件の後、オリヴェルはやはり寝込んでしまったのだが、今回はわりと回復が早く、一日ほど微熱で寝込んだ後は、すっきりしたものだった。食欲も普通にあったし、歩けと言われれば、領主館を一回りできそうなぐらい元気を取り戻していたのに、ミーナは心配して今日の試合を観に行かせてくれなかった。

 

「いけません。ビョルネ先生だって、しばらく興奮するようなことは控えるように仰言(おっしゃ)っておいでですから」

「大声出さないようにするから……」

「大声を出す出さないの問題じゃございません。剣闘技など若君は気持ちが昂ぶるでしょう?」

 

 ミーナが言うのも仕方なかった。

 

 普段の騎士達の練習試合程度のものであったとしても、オリヴェルは夢中になり過ぎて、発熱することがあった。ましてや戦うのが父であるヴァルナルとあれば、興奮の度合いは比較にならないだろう。

 

 ギョルムによって首を絞められたオリヴェルはすぐにビョルネ医師の診察を受けたが、その症状は当初、あまり楽観できない状態だった。それは当然のことで、首を圧迫されて一時的にであれ窒息しかけたのだから、まさしく九死に一生を得た状態だった。

 ビョルネ医師の適切な見立てと素早い処置、薬の投与で思っていたよりも随分早く回復したが、最低でも一週間の安静が義務付けられた。

 

「脈の状態があまりよろしくないのです。安定するまでは当面、学習なども休止です。些細な刺激であっても、一気に増悪して心臓に負担を与えることもありますから」

 

 ビョルネ医師からの言葉に忠実な(しもべ)となったミーナは、オリヴェルの懇願にも負けなかった。

 

「アンブロシュ卿はしばらくこちらにいらっしゃると聞いております。また機会を設けられるかもしれませんから、今回はお見送りください」

「そんなのいつになるかわからないし、本当に二度目があるかなんてわからないじゃないか」

 

 オリヴェルはツンと口をとがらせる。

 ミーナは取り繕うように言った。

 

「若君からお願いすれば、領主様も考えて下さるでしょう」

「嫌だ。僕はそんなの頼みたくない」

 

 オリヴェルはミーナの提案を即座に退けた。

 

「父上は、僕が騎士団の練習を見に行くのだって、あんまりいい顔しないもの」

 

 きっと、断られる――――。

 オリヴェルはどんよりした顔で溜息をついた。

 

 ヴァルナルとしては、病弱な息子が、騎士団の練習風景など見て、驚いて卒倒でもしないかと気になって仕方ないので、オリヴェルの見学に対してあまりいい顔をしなかったのだが、親の心子知らずだ。

 

「ミーナが父上に頼んでよ」

 

 オリヴェルが少し怒った口調で言うと、ミーナは「えっ?」と戸惑った顔になる。

 

「ミーナの言うことなら父上も()()()聞いて下さるでしょ?」

「そ…そんなことは…ございません」

 

 ミーナの顔は真っ赤になり、否定する声は尻すぼみになった。

 

 これはナンヌから聞いたことだが、ギョルムに襲われ気を失ったオリヴェルが、マッケネンに抱っこされて領主館に戻ってきた後に、同じようにミーナがヴァルナルに抱かれて戻ってきたのだという。

 

 あの後、ミーナは凄まじい怒りと極度の緊張から解放された反動で、気を失ってしまいヴァルナルによって運ばれたのだった。

 当然ながら、それは領主館において使用人達の噂の的となり、もはや二人の仲はほぼ公然のものとなっている。

 

 ナンヌはこの話をまるで恋愛小説の一幕であるかのように、うっとりした様子で話してくれた。

 オリヴェルは聞きながら少々恥ずかしかった。

 前々から父とミーナが結婚してくれればいいとは思っているが、周りから囃し立てられるのは、息子としては少々複雑だ。

 

 だから、ちょっとばかりミーナにも意地悪なことを言ってしまいたくなる。

 オリヴェルはすっかり怒った様子で、ツンと口を尖らせ、つまらなそうに窓の外に目をやる。

 

「今日だけは…勘弁くださいまし、若君。また都合がつけば、機会を設けてくださるようお願いしてみますので」

 

 ミーナは困り果て、仕方なくオリヴェルの頼みをのんだ。

 オリヴェルはさっきまでの拗ねた態度をコロリと変えて、ニッコリ笑った。

 

「うん。絶対に言ってね。僕、楽しみにしてるから」

「かしこまりました」

 

 ミーナは苦笑して頷いた。

 

 後日。

 

 結局、この件についてヴァルナルに進言したのはオヅマだった。

 試合の話を聞いたオリヴェルがしきりに「見たかったなぁ」と、羨ましがるので、オヅマがヴァルナルに頼んだのだ。

 

「またアンブロシュ卿と試合してください。オリヴェルが見たがっているから」

「ハハ。そのうちな」

 

 ヴァルナルの返事は曖昧だった。

 確約できなかったのは、二人とも仕事を抱えていたからだ。

 

 ベネディクトの方では本来の仕事 ――― 黒角馬(くろつのうま)の増産計画の件で忙しくなり、ヴァルナルは領地の視察以外にも、テュコから聞いた新たな街道についての調査を始めた。

 

 

 ―――― しばらくは無理そうだ…。 

 

 

 オリヴェルはガックリと肩を落とした。

 大人たちからすればあれは余興で、より大事なことがあれば、そちらが優先されるのは仕方ない。

 

 しょんぼりと日々を過ごしていたオリヴェルに、朗報がもたらされたのは、春から夏に移りゆく緑清(りょくせい)の月、末日のことだった。

 

 午後にオリヴェルの部屋を訪れたヴァルナルは、その場にいた子供たちとミーナに向かって、おずおずと切り出した。

 

「今度、皆でピクニックにでも行かないか?」

 





次回は2022.12.11.更新予定です。


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第百八話 渓谷にて(1)

 サフェナ南西部にあるヒルヴァニス渓谷は、夏を迎えたこの時期、一年で最も美しい景色に彩られる。赤、紫、ピンク、白、青、黄色、橙……自生する様々な野の花が咲き乱れ、まるで天上の花園のごとき美しさだ。

 

 浄闇(じょうあん)の月を迎えて、帝都などではすっかり夏も本番となり、うだる暑さに人々もげんなりする時候であった。しかし北国においては朝方などは寒いほどで、昼でも山の近くでは涼しい風が吹く。

 

 天蓋のない簡素な馬車の上で、マリーは歓声を上げた。

 

「すごい! すごいわ!! 谷の奥までお花畑が続いてる!」

 

 馬車の隣で黒角馬(くろつのうま)のシェンスに(またが)っていたヴァルナルはニコリと笑みを浮かべた。手綱を握る腕の間にはオリヴェルがいる。シェンスの(たてがみ)をつかみながら、オリヴェルも感嘆の声をあげた。

 

「すごい! こんなところがあったなんて…匂いにまで色がついてるみたいだ」

 

 感受性豊かな息子の表現に、ヴァルナルはほぉ…と感心してしまった。

 この時期にこの渓谷を訪れたのは初めてではなかったが、初めての時でもそのような感想は出てこなかった。ただ美しいと息を呑んで見つめていただけだ。

 

 テュコから聞いた帝都への新たな街道のことで、ヴァルナルは南西部のダーゼ公爵領に隣接したロージンサクリ連峰まで、一度調査も兼ねて訪れた。

 その時に、この渓谷を埋め尽くす花畑を見て、自然と思い浮かべたのはマリーの笑顔だった。

 

 花好きのマリーは、領主館にやって来た時から変わらず今も、庭師のパウル爺やイーヴァリの後をついて回っている。花の知識は、既にヴァルナルなどよりもずっと詳しいくらいだ。

 マリーをここに連れてきたらさぞかし喜ぶだろうな…と思った。

 帰ってきてそのことをミーナに話すと、ミーナは頷いてから少し思案顔になった。

 

「どうした?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、ミーナは「いえ…」と首を振ったものの、重ねて問うたヴァルナルに遠慮がちに言った。

 

「昔、皆でピクニックに行きたいと話していたことがあるのです。あの頃はまだ若君のお体も弱くていらしたので、無理だろうと思っていたのですが、今であれば、きちんと準備していけば行けるような気もしたのですが……領主様がお忙しいのに、難しいですね」

 

「それくらいなことは、なんでもない」

 

 ヴァルナルは朗らかに賛同しながら、ミーナに注意した。

 

「但し、貴女(あなた)が私のことを『領主様』と呼ぶのは、そろそろ変えてもらいたいが」

「それは……」

 

 ミーナは困った。

 ヴァルナルとの仲について、領主館どころか領府内においてほぼ公然のことになっているとはいえ、それでも今はまだ、自分はヴァルナルの下僕の立場だ。

 

「今更、誰もが知っているのだから…そう堅苦しく考えるようなことでもなかろう」

 

 ヴァルナルはお見通しとばかりに、軽い口調でミーナの言い訳を封じてくる。ミーナは苦笑しつつ、それでも首を振った。

 

「まだ子供たちにはきちんと知らせておりません。せめてあの子たちに、これからのことも含めて話してからでないと…」

「ふむ…そうか。そういえば、そうだな…」

 

 ヴァルナルは考え込んだ。

 ギョルムのことがあって、ミーナと互いの気持ちを確かめ合えたとはいえ、まだ子供たちにはちゃんと伝えていなかった。

 

 オリヴェルなどは(さと)いし、オヅマには前々から伝えていたのでわかってはいるだろうが、いよいよ家族となるのであれば、確かに一度、きちんと話しておく必要があるだろう。

 

 そう考えたときにヴァルナルは一気に緊張するのがわかった。

 まさかこの期に及んで、子供たちから反対されたらどうすればいいのだろう?

 

 オリヴェルは賛成してくれている。オヅマは当人としては複雑なようだが、母であるミーナの意志は尊重すると言っていた。

 だが、マリーは?

 マリーが自分のことを嫌っているとは思えなかったが、それはあくまでも()()としてのヴァルナルであって、()として受け入れてくれるかどうかは未知数だ。

 

「………よし、行こう。ピクニックに」

 

 ヴァルナルは決めた。

 そこで子供たちにミーナと結婚し、家族となることを話すのだ。

 

 かしこまった場を設けるよりも、広々とした空の下でのんびりと話してやった方が、子供たちに緊張せずに聞いてもらえるだろう…と、ミーナに説明したものの、実際にはヴァルナルの方が緊張するので、花の力を借りた…というのが正直なところだ。

 

 作戦(?)が功を奏して、マリーは渓谷に広がる絶景に歓喜している。

 

「小道があるわ! ここからは歩いていきましょう!!」

 

 マリーは言うやいなや、飛び降りそうな勢いだった。

 馭者台(ぎょしゃだい)に座っていたオヅマはあわてて手綱を引いて馬車を止めた。

 

「落ち着けよ、マリー。花が逃げていくわけじゃなし」

 

 オヅマは興奮する妹にあきれて言ったが、マリーは既にステップからぴょんと飛び降りて、花畑を貫く一本道を歩き始めていた。

 

「あぁ! いい匂い!! 春の匂いもする! 夏の匂いもする!」

「待って、マリー!」

 

 オリヴェルが馬上から声をかけたが、マリーは目の前に広がる花の絨毯に夢中だった。

 

「降りるか?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、オリヴェルはしばらく迷っていた。

 

「また、帰りにも乗せてやろう。疲れていないなら」

 

 ヴァルナルの言葉にオリヴェルはパッと顔を輝かせた。

 うん、と頷いたオリヴェルに微笑みかけると、ヴァルナルは先に降りてから息子をそっと下ろした。

 地面に足が着いた途端、オリヴェルは豆が弾けるような勢いでマリーの元へ駆けていく。

 

「走ってはいけません、若君!」

 

 オヅマの手を借りて降りたミーナは、あわてて後を追っていった。

 残ったオヅマは嘆息しながら、荷物を下ろす。

 ヴァルナルは、ついてきていたトーケルとゴアンに、シェンスと馬車を預けた。

 

「しばらく戻ったところに羊飼いの家があったろう? そこで休ませてもらうといい」

 

 言いながらトーケルに小袋を渡す。心付けだ。身分のある者が出先で困ったときに、その地域の住人に休憩を要求し、その見返りとして金品を渡すのは、よくある話だった。休憩を提供する方にとっても実入りのいい副収入となるので、断る家はほぼない。 

 

「ハッ! では、何かありましたら笛にてお呼びください」

 

 ゴアンとトーケルは騎士礼をすると、馬車と馬を連れて、来た道を戻っていった。彼らはヴァルナルについて何度かここを訪れているので、今更、見物したいとも思わなかった。まして領主()()の邪魔をするなどもってのほかだ。

 

 その場に残されたオヅマとヴァルナルは何となく目が合った。

 

「行こうか、オヅマ」

 

 ヴァルナルは声をかけて、オヅマの足元に置いてあったバスケットを手に取ろうとする。しかしその前にオヅマがバスケットを持ち上げた。

 一瞬、気まずい空気が流れたが、ヴァルナルはすぐに何もなかったかのように、話しかけた。

 

「重くないのか?」

「大丈夫です」

 

 オヅマは領主様に運ばせるわけにもいかないと思って、そこにあった荷物を全部持とうとしたが、ヴァルナルは敷布だけオヅマから取り上げた。

 

「これは私が持とう」

「あ…じゃ、お願いします」

 

 オヅマはおとなしく任せることにした。

 正直、バスケットともう一つの巾着袋だけでまぁまぁの重量があるので、そこに長細くて重い敷布を担いで歩くのは、バランスを取りにくい。ヴァルナルはすぐにわかったのだろう。

 

 二人並んで歩く。

 微妙な沈黙を消したのは、やはりヴァルナルだった。

 

「オヅマ、お前に礼を言わなければな」

「はい?」

「オリヴェルは喜んでいたよ。シェンスに乗せてやれてよかった。ありがとう」

 

 ヴァルナルが感謝したのは、このピクニックに行くことになった時、オヅマがある提案をしてきたからだ。

 

 

 数日前 ―――――

 

 

「今度、みんなで西の渓谷に行くときなんですけど…その時に領主様の馬にオリヴェルが一緒に乗ることはできますか?」

 

 騎士団での訓練が終わった後に、久しぶりにオヅマの方から声をかけてきた。ヴァルナルは少し驚きつつも、その内容に首をひねった。

 

「オリヴェルを? 無論できるが…馬車の方がいいんじゃないのか?」

 

 ギョルムに襲われた後、しばらくは安静に過ごすように指示されたオリヴェルの体調は、もうすっかり良くなっていた。とはいえ、生来からの病弱な体質が治ったわけではない。無理は禁物だ。

 今回のピクニックにおいても、オリヴェルには馬車に乗ってもらうつもりだった。

 

 オヅマもそのことは十分に承知していたが、それでもヴァルナルに頼んだ。

 

「前からオリヴェルが言ってたんです。いつか馬に乗りたいって。叶うなら、黒角馬(くろつのうま)に乗ってみたいって。でも騎士にとって馬は大事なものだから、無理だろうって諦めてたんだけど……」

 

 オヅマは一旦言葉を切ってから、じっとヴァルナルを見つめた。

 

「オリヴェルの望みを叶えてもらえませんか?」

 

 緊張した固い表情だったが、必死さがにじみ出ていた。

 ヴァルナルは気持ちが熱くなって、泣きそうになった。

 

 血の繋がりのないオリヴェルのことも、マリー同様に、オヅマは兄として気にかけてくれている。ヴァルナルが家族になろうとする前から、三人は既にきょうだい同然なのだ。

 

 ヴァルナルは、あの時オヅマを ――― 一年半前に門番のジョスと押し問答していた無鉄砲な少年を ――― 追い返さなくてよかった…と心底思った。

 もしオヅマ達親子が領主館に来ることがなかったら、きっとオリヴェルは元気になることもなく、自分もまた罪の意識から息子を遠ざけたままだったろう。

 こんな些細な願いを知ることもないままに………。

 

「わかった。道中ずっとはさすがに難しいが、途中から乗せることぐらいは大丈夫だろう。一応、ビョルネ医師の了承を得ねばならないが、オリヴェルの体調さえ良ければ問題なかろう」

 

 ヴァルナルが承諾すると、オヅマの顔はパッと明るくなった。

 

「ありがとうございます!」

「いや、むしろ礼を言うのは私の方だ。父だというのに、息子のそんな些細な望みさえも知らなかった…ありがとう、オヅマ」

 

 

 

 

 そのときの会話を思いながら、ヴァルナルはもう一度言った。

 

「……お前のお陰でオリヴェルの望みを叶えてやれた。ありがとう、オヅマ」

 

 不意に礼を言われて振り返ったオヅマは、繰り返されるお礼の言葉に目を丸くした。

 自分は特に何かしたつもりはなかった。ただ、オリヴェルが前から言っていた希望を伝えただけだ。

 

「俺は…別に…」

 

 目をそらし、スタスタと歩いていく。

 また気まずい沈黙が漂いかけると、ヴァルナルが声をかけてきた。

 

「オヅマ……すまないな」

 

 今度は謝られ、オヅマは怪訝に振り返った。

 

「なにがですか?」

「まだお前には認めてもらえないだろうとわかっているのに、私はミーナと結婚することを決めた。お前の気持ちを無視することになって…申し訳ないと思っている」

「………無視なんて、してない」

 

 ボソリと反論するオヅマに、ヴァルナルは聞き返した。

 

「そうか?」

「今、話してくれているじゃないですか」

「それはそうだが…」

 

 それ以上、ヴァルナルが話そうとするのを遮って、マリーの大声が響く。

 

「なにしてるのぉ? はやくーっ! お腹ペコペコだよーっ」

 

 その辺りで一本だけ高く伸びたエルムの木の下で、ぶんぶんと両手を振っていた。

 

「おう! 今行く!」

 

 オヅマは逃げるように駆け出した。

 

 優しくて、寛大なヴァルナル。であればこそ厄介だった。どうしても父として受け入れられない。

 どんなに尊敬し、信頼をしていても、それだけは叶えてやれないのだ。

 

 ヴァルナルは溜息をついて、軽く頭を振った。

 まだまだ先は長いな…と、小さくなっていくオヅマの背を見送る。

 ふぅ、と溜息をついて、ヴァルナルは花々の咲くなだらかな道をゆっくりと上っていった。

 

 

 

 

「ちょうどいい場所があったな」

 

 バサリと敷布を広げてから、ヴァルナルは初夏の日差しを遮って涼しい影を落とすエルムを見上げた。花の時期が終わって、新緑の美しい頃合いだった。

 

「はい。ここでしたら、影になって涼しいですし、見晴らしもいいですし」

 

 ミーナが木漏れ日に眩しげに目を細めて言う。

 柔らかな表情を浮かべ、優しく微笑むミーナ。見惚れそうになって、ヴァルナルはごまかすように目を周囲へと向けた。

 

「あぁ……」

 

 なだらかな傾斜に色とりどりの花が咲き乱れている。

 美しい景色だ。この土地の人間には『女神(サラ=ティナ)の秘密の花園』と呼ばれているらしい。

 

「…うん、そうだな」

 

 そう言ってまた視線を戻せば、そこにはこの景色の中でひときわ美しい花のような女《ひと》が座っている。

 こんな日はそうそう人生にないだろう。……

 

「ねー、早く食べよお」

 

 マリーはすでにバスケットを目の前に置いて、いつでも開ける準備をしていた。

 

「父上も、オヅマも座って」

 

 オリヴェルは空いている場所をポンポンと叩いて招く。

 ヴァルナルはミーナと向かいあうように座り、オヅマはやや逡巡しつつもそこしか空いていないのでヴァルナルの隣に座った。

 

「そぉーれっ!」

 

 マリーが待ちかねたとばかりにバスケットを開く。

 中には硬めに焼いたライ麦パン、ハム、チーズ、ゆで卵、ヴァルナルの好物というシロルの酢漬け、ニンジンとタマネギをソテーしたもの、キャベツのピクルスなどの昼食の材料となるものの他に、スコーンとジャムも入っていた。

 

 パンにバターを塗って、自分の好きなようにハムやらスライスしたゆで卵なりを乗せて食べる。

 ヴァルナルはミーナが用意してくれた豪華なトッピング――― ハムとゆで卵、ニンジンとタマネギのソテーの上にシロルの酢漬け ―――を受け取って、その掌ほどの大きさのパンを一口でパクリと食べる。咀嚼して飲み込むと、しばらく無言だった。

 

「……どうされました? おいしくありませんか?」

 

 ミーナは自分の作ったものが何か悪かったかと心配そうに声をかけたが、ヴァルナルは真面目な顔で言った。

 

「……うまい」

 

 ミーナはしばしヴァルナルを見てから、ニッコリ微笑んだ。

 マリーは二人の姿を見て、クフフと笑う。

 

「仲良いねー」

「本当だね」

 

 オリヴェルはマリーに同意して、ハムとチーズとキャベツのピクルスを乗せたパンを食べる。しばらく無言で味わった後、「……おいしい」とヴァルナルと同じ顔でつぶやくので、マリーがケタケタと笑った。

 

 オヅマもいざ食事となると、旺盛な食欲に素直に支配される。

 しばし子供たちは静かに食べることに集中した。

 

 ヴァルナルはミーナの用意してくれた二つのパンを食べた後に、コホと軽く咳払いして、おもむろに口を開いた。

 

「その…君たちに話がある」

 

 マリーはジャムを塗ったスコーンを頬張ったまま、ヴァルナルに目を向ける。

 オヅマはおおむね何を言い出すのかわかっていたので、わざとに顔をそむけ、オリヴェルはそんなオヅマとヴァルナルを交互に見つめて困惑した。

 

 ヴァルナルはすぅ、と息を吸って、いざ言おうとしたが――――

 

「ダメーーーッ」

 

 幼い甲高い声が響いた。

 




引き続き更新します。


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第百九話 渓谷にて(2)

「ダメーーーッ」

 

 マリーが突然叫ぶ。

 勢いよく立ち上がると、キョトンとして固まっているヴァルナルの手を掴んだ。

 

「行きましょう、領主様」

「行く?」

「そうよ。ちゃんと用意しないと! ホラ、立ってくださいまし」

 

 ミーナの言葉をマネて、ヴァルナルを立ち上がらせると、マリーはぐいぐいと引っ張っていく。

 

「マリー、何をするの。やめなさい」

 

 ミーナがあわてて叱りつけて止めようとしたが、マリーは鋭く母を制止した。

 

「お母さんはここにいて! 待ってて!!」

 

 それでも何か言って追いかけようとするミーナを、ヴァルナルが手で制した。

 

「マリーが言うからには、大切なことなんだろう。しばらく待っていてくれ」

 

 オヅマはあきれ顔で二人を見送ろうとしたが、マリーがチョイチョイと手招きする。

 

「はぁ?」

 

 オヅマが首をひねると、鋭い声が響いた。

 

「……来て! オリーも!」

 

 オヅマとオリヴェルは顔を見合わせて、どちらともなくあきらめ顔で立ち上がった。この中で一番の権力者はマリーだ。どうして逆らえようか。

 

「まぁ、マリー。いったい…皆を連れてどこに行くの?」

 

 ミーナはすっかり困惑して問いかけたが、マリーの返事はにべなかった。

 

「いいから! お母さんはそこにいて! こっち来ちゃダメよ!!」

「見える場所にはいるようにするから、母さんはそこで待っててよ」

 

 オヅマは心配する母に言ってやる。それからオリヴェルに手を差し出した。

 

「行くぞ」

「え…あ、うん」

 

 オリヴェルはいつものことなのに、少しドキドキした。

 オヅマは少し傾斜のあるこの道でオリヴェルが転ばないように…と、手を貸してくれただけだ。それだけのことなのに、オリヴェルはどこか落ち着かなかった。

 

 今日、この日に、父が皆でピクニックに行こうなどと言い出した時から、なんとなく予想はしていた。父がミーナとの結婚について、いよいよ自分たちに正式に言ってくれるのだろうと。

 だが、いざその瞬間がやってきそうになると、とても嬉しい反面、不安になった。本当に自分はオヅマ達兄妹と『きょうだい』になれるのだろうか…?

 

「ねぇ、オヅマ。僕は…君たちと『きょうだい』になっていいのかな?」

 

 おずおずと尋ねると、オヅマは一度、足を止めてオリヴェルを見つめる。

 無表情に見えたその顔は急にくしゃりと笑った。

 

「なに言ってんだ、今更」

 

 オリヴェルはオヅマの細めた瞳に、ホッとして微笑み返した。 

 

 

◆   

 

 

 マリーは母の姿がすっかり遠く、小さくなったのを確認してから、ようやくヴァルナルの手を離した。

 

「領主様! さ、花かんむりを作りましょう!!」

 

 腰に手をあてて、高らかに言い放つ。

 

「花かんむり?」

 

 ヴァルナルが不思議そうに首をかしげると、もどかしげに説明した。

 

「もー、領主様ったら。求婚(プロポーズ)に花かんむりは絶対じゃないの」

「ぷッ、プロポーズ…!?」

「そう! 今日、領主様には、お母さんにプロポーズしてもらいます!!」

 

 マリーが当然のごとく宣言する。

 ヴァルナルはポカンとなった。

 

 マリーは母とヴァルナルが結婚することを、周囲の様子からなんとなく感じていた。その上で今日、この時期に花で埋め尽くされる渓谷に行くことが決まって、ナンヌとタイミが話しているのを聞いたのだ。

 

「きっと、そこで求婚なさるのよ!」

「花かんむりをミーナさんにそっと載せて……キャー! いいじゃなーいっ」

「領主様にしては考えたわよねー」

 

 年頃の娘二人は想像だけでかまびすしい。

 だが、マリーはいやな気はしなかった。

 母が領主様(ヴァルナル)のことが好きなのはずっと前から知っていたし、身分が低いからと諦めていたのもわかっていた。

 だからこそ領主様の方から、ちゃんと求婚(プロポーズ)してあげて欲しかった。 

 

「領主様、ちゃんと言わないとお母さんは気付かないわ。ううん、気づかないフリをしちゃうの。お母さんはね、自分が幸せになることはいつも諦めちゃうの。だから、わかりやすく言ってあげないと駄目なのよ!」

 

 マリーは真剣そのものの顔で両手に拳を握りしめ、熱弁を振るった。

 

 ヴァルナルは呆気にとられつつ、どうしようか迷った。

 実のところ、プロポーズはすでに済んでいる。ただ、あのときはミーナも自分も互いに気が動転していた直後だったので、確かにちゃんとした求婚の場であったとは言い難い……。

 

 一方、オヅマは妹の洞察力に驚いた。

 自分と同じようにマリーもまた、母がすぐに自身を犠牲にすることに気付いていたのだ。それだけでなく、うっかり者の母には、しっかりと明確に言わないと真意が伝わらないことも。

 

「マリー…お前、知ってたのか?」

 

 オヅマが問うと、マリーは首をかしげた。

 

「なにが?」

「母さんと領主様が…その……」

 

 オヅマがどう言おうか迷っていると、マリーは腕を組んで、いかにもあきれたような溜息をついた。

 

「お母さんと領主様が好き好き同士なのは、ずっと前からわかってたわよ。ね? オリー」

 

 呼びかけられたオリヴェルがコクリと頷く。

 オヅマもヴァルナルも愕然となった。

 

「だって…父上がミーナを見る時、ものすごく優しい目をしていたし……」

「お母さんだって、領主様とお話できた日はすっごい機嫌良かったし」

「…………」

 

 ヴァルナルとオヅマは二人して開いた口が塞がらなかった。一番、無頓着に思えたマリーが実は最もこの事に関しては鋭かったのだ。

 

「お前…なんで言わないんだよ」

 

 オヅマが不満げにもらすと、マリーはフンと鼻息も荒く、兄を圧倒した。

 

「お兄ちゃん、こういう事は周りが余計なことをしてはいけないのよ。私も最初は領主様とお母さんをくっつけようと思って色々やろうとしたんだけど、パウルお爺さんとヘルカお婆さんに言われたの。『自然に任すのが一番』だって」

「…………」

 

 もはや何も言えなかった。

 マリーは正しい。いつも物事をよく見て、本質をつかむ。これこそオヅマがマリーに勝てない理由なのだ。

 

「さ、うんっと可愛くて綺麗な花かんむりを作るわよ。オリーはムラサキツメクサを集めてちょうだい。お兄ちゃんはレンゲね。それで土台を作って、領主様と私はいい匂いのする、とびきり綺麗な花を探しましょう」

 

 その後、マリーの監督の下、男達は黙々と花摘みにいそしんだ。

 

 半刻が過ぎ、マリーの手を借りてヴァルナルは花かんむりを完成させた。

 

「見て!」

 

 マリーは出来上がった花かんむりを掲げてみせる。オヅマもオリヴェルもすっかりくたびれていたが、その出来栄えに拍手した。

 

「うん、すごく綺麗だ。きっとミーナに似合うよ!」

「あぁ。うんうん、大したもんだ…」

 

 オヅマは適当に言いつつも、内心で感嘆した。

 ムラサキツメクサとレンゲの土台に絡まるように留めつけられた青や白、紫の大小の花。

 祭りの店先で売られているような華やかなものではないが、落ち着いた色合いはむしろ母に似合うだろう。まさかヴァルナルにこの手のセンスがあるとは思えないので、妹の意外な才能に驚くばかりだ。

 

「さ、領主様! 行きましょう!」

 

 マリーは花かんむりをヴァルナルに渡し、ミーナの方へと送り出す。

 

 ヴァルナルは数歩歩いてから立ち止まった。

 急に緊張してくる。自分一人だったら「また今度」と回れ右して帰っていたかもしれない。

 しかし後方には鬼戦士のごときマリーの緑の目が光っていた。

 

「領主様、頑張って」

「父上、しっかり」

「…………」

 

 二人からの声援がヴァルナルを追い立てる。オヅマは何か悟りきったかのような顔で、黙って手を振っていた。

 

 もう後には退()けない――――…。

 

 ヴァルナルは唾を飲み込み、ふぅと深呼吸すると、エルムの下に座るミーナに向かって歩き出した。

 

 昨夜はオリヴェルの準備に、今日は朝早くから昼食の準備に忙しかったためか、ミーナは寝不足だった。

 既に夏の陽気ではあったが、エルムの木陰は涼しい風が通り、心地良さに睡魔がフワリと訪れる。太い幹に背を凭せてうつらうつらしていると、視界の隅にヴァルナルのブーツの先が見えて、ハッと目を覚ました。

 

「あ、すみません…少し眠くなってしまって」

 

 あわてて体を起こして膝立ちになる。

 顔を上げると、立ったままのヴァルナルがミーナを見下ろしている。

 逆光のせいで表情は見えなかったが、手に持っているものにミーナは微笑んだ。

 

「花かんむりですね。すみません、あの子ったら領主様に自分のものを持たせて…」

 

 フッと笑う気配がして、ヴァルナルがミーナの前にしゃがみこんだ。

 

「マリーの言う通りだな」

「え?」

「君の子供たちは、本当によく母親のことを見ている。君が彼らのことを心配して心をかける以上に、彼らは君のことを心配してるし、大好きなんだろう」

 

 ミーナはいきなり言われて戸惑ったが、それでもニコリと笑った。

 

「えぇ、そうですね。二人とも、私のことを大事にしてくれます。時々、申し訳なくなるくらい」

「ミーナ。彼らはまだまだ子供だから見守る必要はあるだろうが、そろそろ君自身が幸せになることを考えても良さそうだよ」

「私は…」

 

 ミーナはヴァルナルの優しい灰色の瞳を見つめて、愛しそうに微笑む。

 

「今、十分に幸せです。これ以上ないほどに」

「それは困るな」

 

 ヴァルナルは残念そうに肩をすくめた。

 

「私と一緒になって、もっと幸せになってもらいたいんだよ」

 

 ヴァルナルは言いながら、手に持っていた花かんむりをミーナの頭上にそっと載せた。

 ミーナは驚きながら、急に恥ずかしくなって赤くなった。

 

「まぁ、こんな…花かんむりなんて。若い娘でもないのに…」

 

 若い男女の間で交際を申し込む時に、花かんむりを女性に捧げるのはよくある風習だったが、ミーナはもはや自分がそんなことをされるとは思っていなかった。

 

「恥ずかしいです。私なんかがいい年して…」

「美しいよ、ミーナ。まさに、『ミーナ』の名前にふさわしい」

 

 ヴァルナルの言う『ミーナ』とは、神話に出てくる妖精の始祖となった美少女の名前だ。彼女は今年の年神であるイファルエンケと、人間の女の間に生まれた双子の女の子の片割れだった。

 神話では「飛び跳ねる足跡からは花が咲き、微笑めば花歌う」と形容される美貌の持ち主として描写されている。

 

 ヴァルナルは右手を差し出して、ミーナに恭しく頭を下げた。

 

「ミーナ。あなたを妻に迎えたい。長く、共にいることを許していただけますか?」

「あ……」

 

 ミーナはその時になって、ようやくマリーがヴァルナルを連れて行った理由がわかった。

 自分を応援してくれる子供たちの気持ちが嬉しくて、薄紫の瞳に涙が浮かぶ。

 

「えぇ……もちろん」

 

 本当はもっと言いたいことはあったが、ミーナが言葉にできたのはそれだけだった。嗚咽をのみこんで声にならなかったのもあるし、ヴァルナルの手に手を重ねた瞬間に引き寄せられてキスされたのもある。

 

「キャーッ」

 

 マリーの黄色い歓声が谷間に響いた。

 

 ヴァルナルのキスは一瞬だった。ミーナを抱き寄せたまま一緒に立ち上がると、後ろを振り返り、背後で見ていた子供たちに向かって手を振る。

 

 マリーが満面の笑みを浮かべて駆け寄った。

 ヴァルナルは軽々とマリーを抱き上げると、ニッコリと笑って礼を言った。

 

「ありがとう、マリー。お陰様で、成功したよ」

「おめでとう、領主様! よかったね!!」

 

 マリーは嬉しくてたまらぬように言ってから、ヴァルナルに抱きついた。

 

「ねぇ、領主様。もう『お父さん』って言ってもいいの?」

 

 思わぬ質問に、ヴァルナルは驚いて声が出なかった。

 期待してキラキラと緑の瞳を輝かせるマリーに、泣きそうになりながら微笑みかける。

 

「もちろんだ! もちろんだよ、マリー!」

 

 ミーナはマリーがくれたプレゼントと、ヴァルナルの目に少しだけ光った涙に、自分も目を潤ませる。

 マリーはクフフと笑ってから、花かんむりを載せた母をうっとり見た。

 

「とっても綺麗、お母さん。本当に『ミーナ』みたい!」

 

 ミーナは、はにかみつつ微笑んだ。

 本来であれば花かんむりをもらえるような年齢ではない。はたから見れば、いい年をしてみっともないと言われるかもしれなかったが、それでも素直な娘の言葉が嬉しかった。

 

 少し遅れてオリヴェルがやって来る。

 恥ずかしそうに「おめでとう」と言って、マリーの指示で作った小さな花束(ブーケ)をミーナに差し出した。

 

「ありがとうございます、若君」

 

 ミーナの言葉にオリヴェルは少し沈んだ顔になる。マリーが目敏く気付いて、すぐ母に注意した。

 

「お母さん、ダメよ。()()じゃないでしょ!」

 

 ミーナはハッとなってから、おずおずと言い直した。

 

「ありがとう……オリー」

 

 ニッコリと笑って花束を受け取ると、ミーナはオリヴェルを抱きしめた。

 

 オヅマは少し離れた場所からその様子を見ていた。

 一歩、踏み出そうとしたが ――――― 急に美しい花々の咲き乱れる景色は消え、暗黒に閉じ込められた。

 

 

 ――――― お前は不幸そのものだ!

 

 

 憎しみだけを吐いたような言葉。

 

 オヅマは固まった。

 不意にブチリと何かに断ち切られて、自分の感覚を失う。

 

 何も聞こえず、何も見えない。

 ()()()()()()()の感覚だけが、凍りついた意識に流れ込んでくる。

 

 混沌の暗闇の中、目の前には鎧を着た男。

 怒りに満ちた暗い赤茶の瞳が、オヅマを睨みつけている。

 

 

 ――――― マリーはお前が殺したも同然だ。彼女はお前の狂気の犠牲になったのだ……

 

 

 震える声は怒りが昂じてなのか、まだ癒えぬ悲しみを抱いているからなのか。

 

 

 ――――― お前は…この世に昏闇(こんあん)を呼びし厄災の主だ。誰をおいても、お前を殺す! 

 

 

 銀色の閃きが迫ってきて、オヅマを斬った。

 

 同時にゴォォと轟く音。

 その音はゆっくりと遠ざかっていった。

 

「……………」

 

 やがて閉じた瞼の向こうに光を感じ、オヅマはゆっくりと目を開いた。

 そこは元の渓谷だった。

 見渡すかぎり花が咲き、青く山々が連なる。晴れた空に、雲が流れてゆく。

 

 平和な景色の中でマリーが笑っていた。母も、オリヴェルも、ヴァルナルも。

 小さく美しい、絵に描いたかのように、幸せな家族。

 自分にはそこに入る資格があるはずなのに、オヅマの足は動かなかった。

 

 

 ―――――― こわい…。

 

 

 自分があの中に入ったら、夢のようなあの家族が消えてしまう気がする……。

 

 オヅマは二三歩、後ろに歩いてから、クルリと踵を返して走り出した。

 

 大事だから、そっとしておきたかった。

 どうか、あの家族が永遠にありますように…。

 

 切実な願いに胸が痛む。

 自分でもこの痛みの理由がわからなかった。

 





次回は2022.12.18.更新予定です。



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第百十話 渓谷にて(3)

「ふぅ…」

 

 オヅマは渓谷を流れる小川の近くをフラフラと歩いていた。

 さっき見た()の残滓が心を重くする。だがそれに囚われていると、またあの暗闇が襲ってきそうで、オヅマは頭を振って無理やり嫌な気分を追い出した。

 

 すぅ、と息を吸い、マリーと母の笑顔を思い浮かべた。マリーとヴァルナルが作った花かんむりをのせた母は、本当に幸せそうで美しかった。

 よかった…と息をつく。

 もう、オヅマが心配しなくてもいい。ヴァルナルには母と妹を幸せにする力がある。決して裏切ることのない、誠実で穏やかな夫であり、やさしい父であることだろう。

 

 心底からの安堵感と同時に、気が抜けた。

 ぼんやりと小川のせせらぎを見つめる。一仕事終えたあとのような、疲れているがさっぱりした気分だ。

 

 オヅマはしばらく川べりに立って、見るともなしに川の流れを見ていたが、ふとこちらにやってくる人の気配に気付いて何気なく目をやった。

 

 女の子だ。小川に架けられた小さな橋を渡ってこちらに来る。

 オリヴェルと同じくらい ――― 十歳くらいだろうか。レースをふんだんにあしらったアイボリーのドレスに、小さな薔薇の造花をいくつも挿した、いかにも高価そうな帽子。一目で貴族のお嬢様だとわかる。観光にでも来たのかもしれない。

 いや、それよりも ―――

 

「おい、やめろ!」

 

 オヅマは走りながら鋭く叫んだ。

 しかしビクリと振り返った女の子の手は、今しもその先にある青い花に触れようとしている。

 

「触るな!」

 

 オヅマは近くまで来ると、すんでのところで女の子の手を払った。「キャッ」と小さな声があがる。

 払ったオヅマの手が女の子の被っていた帽子を飛ばし、山からの風に乗って川に落ちた。と同時に、藤色が入り混じった光沢のある銀の髪が風になびく。

 つややかに波打ち、キラキラとまばゆく光り散る髪。

 驚いてオヅマを見上げる丸く大きな瞳は、透明な青翠の虹彩が光を受けて様々な色に輝いている。まるで宝石のようだ。

 

 

 ――――― 妖精?

 

 

 オヅマは思わず、その浮世離れしたかのような少女に見入ってしまった。

 しかし ――――

 

「あぁーっ!」

 

 幻想的な雰囲気は一気にかき消された。

 女の子が大声で叫ぶ。

 オヅマは我に返ると、あわてて女の子の手を引っ張った。

 

「こっち来い!」

「なによっ、お前!」

 

 女の子がギロっとオヅマを睨みつける。

 

「いきなり怒鳴りつけるなんて、なんて野蛮なの!」

 

 いかにもご令嬢らしい言いようにオヅマは鼻白んだが、掴んだ手に力を込めて、無理にその場から連れ出した。

 

「ちょっとっ! 何をするの、無礼な!!」

「うるせぇ! その花に触れるな!! イボだらけになるぞ!」

 

 とりあえず危険な毒花から離れて、オヅマは女の子を叱りつけた。しかし女の子も負けていない。

 

「うるさいのはお前よ!」

 

 ブン、と腕を振って逃れると、ピシャリとオヅマに命令する。

 

「早く、わたくしの帽子を取りに行きなさい!!」

「はあぁ?」

「お前のせいで、帽子が川に落ちたのではないの! 早く取りに行って!!」

 

 オヅマはヒクヒクと頬を痙攣させた。さっきまでの穏やかで幸福な時間が嘘のようだ。

 

「なんだと…この……」

 

 怒鳴りつけそうになるのを我慢して、オヅマは女の子を見つめる。

 長い睫毛の下のくっきりした二重の目、柔らかな曲線を描く鼻筋、尖らせた小さな朱色の唇。ぽってりした頬は白く、興奮しているせいかほんのりと赤く色づいている。

 しかし黙ってさえいれば人形のような愛らしさを裏切るのは、女の子のきつい眼差しと、傲然たる態度だった。

 

「とっとと取りにお行き!」

 

 女の子は川を流れていく帽子を指さして命令する。水深が浅いせいなのか、石にぶつかっては止まりつつ、徐々に川を下っていっている。

 

「フザけんな! なんで俺が…」

 

「あぁ! 馬鹿なの、お前? 理由はさっき言ったわ。お前の手がわたくしの帽子を払い落としたのよ。お前に原因があるのだから、お前が取りに行くのが当然でしょ。そうでなくとも、男であれば貴婦人(レディ)の落とした物くらい、くどくど言わずに拾いに行きなさいよ。あぁ…また流され始めたわ。早く!」

 

「…………」

 

 女の子のあまりに高飛車な態度に、オヅマは怒りを通り越して呆気にとられた。チラと川を流れていく帽子を見る。

 いつまでたっても動かないオヅマを、女の子は怪訝に見つめてからハァと溜息をついた。

 

「あぁ…わかったわ。お前、水が怖いのね。もう結構よ」

 

 それからスタスタと歩き出す。

 勝手にカナヅチ扱いされ、オヅマはイラッとした。甚だ不本意ながら、走って女の子を追い抜く。すると女の子がムッとした顔になり、並んで駆け出した。

 

「おい、来るな!」

「もう結構と言ったでしょ!」

「うるせぇ、チビ!」

「誰に向かって、なんてことを言うの!」

 

 喧嘩しながら、裾長いドレスをたくし上げて走るのは難しかったのだろう。女の子が川べりの石に躓いてコケた。

 オヅマはチッと舌打ちしてから手を差し出したが、女の子はギロリと睨みつけて「先に帽子を取ってきて頂戴!」と、怒鳴りつけてくる。

 

 オヅマは拳を固く握りしめ、グッと我慢した。これは常日頃、礼儀作法を教えてくれているジーモン教授の「とにかく女性には丁寧に接するように!」という教えの賜物かもしれない。

 とはいえ、泣かないでいてくれるのは助かる。そのことだけは認めてやろう…とオヅマは気持ちを落ち着かせると、川の中に入って、小さな岩に引っ掛かっていた帽子を取り上げた。

 

「ほら」

 

 オヅマは地面に座り込んでいる女の子に帽子を差し出した。

 女の子はひったくるように取ると、軽く振って水を落としてから、澄ました顔でまだ濡れている帽子を被った。

 

「お前、馬鹿なの?」

 

 オヅマは目を丸くして尋ねた。それはさっき女の子に言われたお返しでもあったが、実際になんで濡れている帽子を被るのか、意味がわからない。

 しかし女の子はフンと鼻を鳴らした。

 

「うるさいわね、無礼者。男の前で結ってもいない無様な髪を晒すなんてこと出来るわけないでしょ」

 

 ツンとして言ってるそばから、女の子の頬に水が伝っていく。

 

「帽子を被ってるほうが無様に見えるけどな」

 

「お前、さっきから、わたくしが()()()()()許してやっているけど、本当に失礼よ。謝ってもらうべきところだけど、帽子を取ってくれた褒美として許してやるわ。さ、早く立ち去りなさい。わたくしの家来が来れば、叱られるわよ」

 

「………それはどうも」

 

 オヅマはだんだん相手するのも疲れてきて、喉まで出かかっていた文句を押し込めた。

 何を言っても、この小生意気なチビ女には叶わない気がする。

 そのまま立ち去ろうとして、振り返ると女の子はまだ座り込んでいた。

 

「おい。家来は来るんだろうな?」

 

 オヅマが呼びかけたが、女の子はこちらを見ることもない。

 肩をすくめてまた歩き出したが、後ろから小さなくしゃみが聞こえてきて、足を止める。

 オヅマはげんなりして深い溜息をつくと、仕方なく女の子のところに戻った。

 

「なによ?」

 

 女の子はスン、と洟水をすすって、相変わらずの澄ましっぷりだ。

 

「家来はいつ来るんだよ?」

「お前には関係ないことよ。放っておいて」

「足は? 痛いのか? ひねったか?」

「…………」

 

 女の子はソッポを向いて返事をしない。

 オヅマは軽く息をついて、足首をみようと手を伸ばしかける。しかし急に女の子の足が動いて蹴られそうになり、オヅマは咄嗟に避けた。

 

「あっ…ぶねぇな! このクソチビ!!」

「誰がチビだというのよ! 図体だけデカいウドの大木に言われたくないわ!!」

「さっきから…達者な口だな!」

 

 怒鳴りつけてから、オヅマは女の子の腕をグイと引っ張って立ち上がらせた。

 

「いぃ()ッたぁーいッ!」

 

 女の子が悲鳴を上げる。

 

「そらみろ! 怪我してんじゃねぇか」

「だから何よ! しばらくすれば歩けるわ」

「あぁ、もう…本当に面倒くせぇチビだな」

 

 オヅマはぐしゃぐしゃと頭を掻いてから、女の子の前にしゃがみ込んだ。

 

「なによ…」

「グダグダ言ってないで背に乗れ。おんぶして家来とやらのとこに連れてってやるから」 

「へ、平気だと言って……」

 

 いいかげん素直でない女の子が鬱陶しくなってきて、オヅマは怪我しているらしい左足をビシリと打った。

 

「痛ッ!」

 

 よろけて女の子が背に倒れかかると、そのまま持ち上げる。軽く悲鳴を上げたものの、女の子はオヅマの背でようやく静かになった。

 

「どこだよ、家来は」

「………その先にある橋の向こうにいるわ」

「なんだってこんなとこまで来たんだよ…」

 

 オヅマはブツクサ言いながら歩き出す。

 橋を渡る前に、女の子はさっき触ろうとしていた群青色の花を見つめてオヅマに問うてきた。

 

「あの花…って、触ってはいけないの?」

 

 オヅマは川辺に咲く群青色の花をチラとだけ見た。

 一株に一つしか咲かない、大人の手ほどもある大きな花で、形は百合に似ている。肉厚のつややかな群青色の花弁。中心部にいくほど白く、金色の花粉が風に揺れるたび、花びらにまぶされたように点々と散って、斑の模様をつくる。

 

 確かに美しい花だった。しかも、そうそう見かける花ではない。

 オヅマも村近くに群生していた数株を見ただけだ。それらは薬師の婆によって焼却された後、抜かれた。

 そのとき婆に言われたことを、女の子に話す。

 

「死んだりはしないけど、触ったら全身に鱗みたいなイボが出来て、熱が出るんだよ。下手すりゃ目にまで膜が張ったみたいになって、見えにくくなったりな。しばらくは痛いし、治るまで十日ほどかかる。潰したり、妙な薬で無理矢理治そうとしたら、痘痕(あばた)になったり、肌が青黒くなって残るんだ。とにかく十日間は我慢して放っておきゃ治るが……触らねぇのが一番いいだろ」

 

「………毒草なのね」

 

「あぁ。聞いたことないか? 青鱗草(セイリンソウ)とか、青鱗蘭(セイリンラン)とか。別名で『龍の好物』とか、あと『離ればなれの花』ってのもあったな」

 

「………知らない」

 

 女の子は暗い声でつぶやいた後、しばらく黙り込んでいた。それでも気になることがあるのか、尋ねてくる。 

 

「ねぇ、あの花ってこの辺りでは有名なの?」

 

「珍しい花ではあるけど、危ない花だから地元の人間は知ってるだろ。花が咲かない間は気付かないんだよな。葉っぱだけだから。葉のときは毒がないし」

 

 この花の不思議なのは、花が咲いている間は葉が落ちてしまい、花が枯れると葉が復活する。つまり花と葉が両方あることはないのだ。別名『離ればなれの花』の由来である。

 葉の状態のときには毒性はなく、茎や葉を触っても問題ないが、花を咲かせている間のみ、毒が生成されるらしい。葉のときと花のときで茎の状態も違っていて、花のときには茎に細かな粒状の突起物ができるのだという。毒はその突起物を破ることで肌に湿潤していくのではないか…というのが、薬師の婆の見立てだった。

 

 長く伸びた茎の先にある花は、重たげで折れそうで、いかにも取ってくださいと言わんばかり。女の子が手を伸ばしたのもわからないではない。

 村にいた頃にも近所の子供(チビ)がうっかり取ってしまって発症し、その後に薬師の婆の処置で良くなったが、それでも右肩から顎にかけて、痘痕が残ってしまった。

 

 オヅマはそのときにマリーに注意したことを、女の子にも言って聞かせた。

 

「綺麗に見えるけど、よく知りもしない草やら花やらを簡単にとろうとするな。山の花は動物に食べられないように、苦かったりして毒があるのが多いんだよ」

 

「別にわたくしが欲しかったわけではないわ」

「は? 誰かに頼まれたのか?」

 

 オヅマは何気なく聞いたが、女の子は「うるさい」とつぶやいて押し黙った。

 誰に頼まれたのか知らないが、危ないことだ。

 

「そいつに言っておけよ。あれは毒花で危ないからって」

「…………」

 

 女の子は答えなかった。どうやら毒花を取ってこいと言われたのが相当こたえたらしい。

 言ったのが誰だか知らないが、大人だとすれば、よほどのマヌケか馬鹿でない限り十中八九ワザとだろう。

 オヅマはなんだかザワザワと落ち着かない気分になった。こんな小さい子供に、なんでそんな恐ろしいことをする…? 

 

 橋を渡ったところで、()()らしい騎士達が走り寄ってきた。

 

「お嬢様!」

 

 一番早くに来た金髪の騎士が手を伸ばしてきたが、女の子はなぜかオヅマの肩をしっかり掴み、離れようとしなかった。

 

「オイ、家来だろ?」

 

 オヅマが尋ねると、女の子は小さい声でボソリと言った。

 

「この人は嫌。そっちの…赤毛の男にして」

 

 なんだそれは…と、オヅマは怪訝に思ったが、女の子の声が妙に暗く沈んで聞こえて、言われた通りに斜め前に立っていた赤毛の騎士に背を向けた。赤毛の騎士はすぐに女の子を抱き上げる。

 

「ありがとう、少年」

 

 太い眉を下げて、赤毛の騎士が礼を言う。金髪の騎士の方は、ムッと怒った様子だった。オヅマがわざと自分を邪険にしたと思ったらしい。女の子の声は聞こえなかったのだろうか? しっかりと訓練された騎士であれば、あれくらいの囁き声でも判別できそうなものだが。

 オヅマは気にしないことにした。どうせこの場限りのことだ。

 

「足をくじいたみたいです」

 

 一言だけ報告すると、オヅマはチラリと女の子を見た。

 さっきまでの高慢で尊大な態度はどこへやら…騎士の腕の中でおとなしくしている。

 オヅマの視線に気付くと、ジロリと睨んできた。さっきは美しい瞳にばかり目がいって気付かなかったが、右目の下にホクロが二つ並んでいる。

 

 カサリ、と何かの記憶が動く音がした。

 しかし、結局思い出せない。

 

 オヅマは軽く頭を下げ、踵を返して駆け出した。

 橋を渡ってから、一旦止まって呼吸を整え、ゆっくり歩き出す。だがすぐに背後から呼び止められた。

 

「おい! 待て小僧!」

 

 振り返ると、さっきの金色の髪の騎士が、小袋を持ってこちらに走り寄ってくる。オヅマは眉を寄せた。薄く歪んだ唇と青の瞳にはあからさまな軽蔑。女の子がもう一人の赤毛の騎士を指名した理由がなんとなくわかった。少なくともあちらの方が人は良さそうだ。

 

「なんですか?」

 

 オヅマが尋ねると、金髪の騎士は小袋をオヅマの目の前に突き出した。

 

「お嬢様からの心付けだ」

 

 オヅマはムッと騎士を睨みつけた。

 

「いらねぇよ」

「やせ我慢をせずともよいから、とっとと受け取れ」

 

 騎士は、はなからオヅマが小遣い欲しさに、女の子を助けたと決めつけている。

 

「いらねぇっ()ってんだろ! そっちこそとっとと帰れ!!」

 

 オヅマは怒鳴りつけると、騎士が何か言い返す前に走り去った。

 

 誰がやせ我慢だ! 人を馬鹿にして。

 

 走りながら、水辺近くに咲く青鱗草(せいりんそう)をチラリと見やった。群青色の花弁は美しかったが、その毒性を知っていると、ひどく不気味に思える。あとで焼却処分するようにヴァルナルに言っておかねば。

 

 オヅマは女の子の顔を思い浮かべた。

 光を反射してキラキラと輝く宝石のような瞳。気の強そうな ――― 実際、小生意気な ――― 引き結ばれた口元。ほんのりと紅潮した薔薇色の頬にかかった、けぶるような銀の髪。

 あの高慢な口さえ閉ざしておけば、可憐なる美少女には違いない。もし、あの花を触ってあの美しい顔がイボだらけになるかと思ったら、他人事ながらちょっとゾッとする。

 

 色々と文句はあったが、まぁ、触らせなくて良かった…と、オヅマは自分を納得させて、女の子のことは忘れることにした。

 

 

 

 

 エルムの木へと向かう途中で、探しに来たオリヴェルとマリーに遭遇した。

 

「あぁ…良かった」

 

 オヅマの姿を見つけるなり、安堵して駆け寄ってきたオリヴェルは、少し顔色が悪い。

 

「おい、無理すんな」

「大丈夫だよ」

「どこが大丈夫だよ。ったく、こんな山の中腹で走ったりするから……」

 

 オヅマが怒ったように言うと、マリーがすぐに抗議する。

 

「なによう。お兄ちゃんがいきなりいなくなるのがいけないんじゃない!」

「ちょっと川の方に行ってただけだろ」

「川? 川になんかあった?」

「クッソ生意気な銀狐が一匹……」

 

 オヅマは言いかけて口を噤んだ。

 脳裡で青翠の瞳がオヅマをギロリと厳しく睨んでくる。

 マリーとオリヴェルは意味がわからず首をかしげたが、オヅマはぶんぶんと頭を振って、少女の残像を払った。

 

「もぅいいわ。行きましょ」

 

 マリーがオヅマの手をとる。すかさずオリヴェルに声をかけた。

 

「オリーはそっちの手を握って。お兄ちゃんを()()()()します!」

「連行?!」

 

 オヅマがびっくりしている間に、オリヴェルが笑みを浮かべて、マリーの指示に従った。「さ、みんなで帰るよ」

 

 三人で手を繋いで歩いて行く先、エルムの木の下でヴァルナルとミーナが立っていた。

 

「おとーさーんっ! お兄ちゃん、捕まえたーっ」

 

 マリーはオヅマの手を握るのと反対の手を大きく振った。

 もうすっかり当たり前のように、ヴァルナルに呼びかける。ヴァルナルも手を振って応えていた。ニコニコ笑った顔は心底嬉しそうだ。

 

「良かったね、マリー」

 

 オリヴェルが言うと、マリーは少しだけ恥ずかしそうに、それでも喜びが溢れた笑みを浮かべる。それからオヅマの手を離して、またヴァルナルの元へと走って行った。

 

「マリー、ずっと『お父さん』って呼びたかったんだって」

 

 オリヴェルは、ヴァルナルの腰に抱きつくマリーを見ながら言った。

 

「父上がミーナにプロポーズしたら、すぐに『お父さん』って言おうって……決めてたんだって」

 

 オヅマは楽しげに会話するヴァルナルとマリーを見つめた。もう父娘(おやこ)にしか見えない。

 

「……お前もな」

 

 ややあって、オヅマは言った。「え?」と首を傾げたオリヴェルに目を向ける。

 

()()()じゃなくて()()()だろ。ま、無理する必要ないけど。言いたければ別に俺とかマリーに気兼ねすんなよ。マリーだって、母さんだって喜ぶさ」

 

「うん……そのうちね」

 

 オリヴェルは少しはにかみつつ、オヅマに問いかけた。

 

「オヅマは?」

「うん?」

「オヅマも、喜んでくれる?」

 

 オヅマはふっと笑った。

 

「母さんとマリーが喜んでるのに、俺が嫌がるわけないだろ」

 

 オリヴェルは微妙な面持ちになった。オヅマ自身の気持ちは、いつもマリーとミーナの後だ。ためらいながら、重ねて問うた。

 

「オヅマは? 父上のこと、呼ばないの?」

「……………そのうち」

 

 小さくつぶやいて、オヅマはゆっくりとなだらかな坂道を上っていく。

 

 初夏の花々が咲き乱れる渓谷に、家族の笑い声が響いていた。

 

 




次回は2022.12.25.更新予定です。


感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第百十一話 公爵の名代

 ヴァルナルとミーナの結婚が当人と家族の間で決まったとしても、貴族と平民の、いわゆる貴賤結婚は通常認められなかった。

 そのためヴァルナルはルーカスを通じて適当な貴族家門にミーナの養子縁組を頼んでいた。形式的にでも貴族の養子となれば、それまで針子であろうが傭兵であろうが、一応は貴族として扱われる。

 

 実際には、こうした貴賤結婚は商人などの裕福な平民と、困窮した貴族家との間に取り交わされるのがほとんどだった。平民の妻(もしくは極めて稀であるが夫)を養子とする貴族家への謝礼は平民側が行い、家系図の書換などの煩雑な手続きや儀式に関する費用なども負担した。

 そうしたメリットもなしに、貴族が平民と結婚することなど考えられなかった。

 

 一方で、養子縁組の交渉とは別に、グレヴィリウス公爵に婚姻の許可を願い出なければならない。

 一定以上の家格を持つ帝国貴族は、基本的にはその結婚において、自分の系統である主家からの婚姻の許可をもらう必要がある。

 

 無論、時に主家よりも隆盛を誇る分家や家臣が無視して、勝手に婚儀を行うこともあるのだが、その場合においても貴族間での根回しは必要だった。

 貴族における婚姻はただ一組の男女が一緒になるということではなく、家同士の繋がりであり、当然その縁によって貴族間の勢力図にも変化が生じるのだから、好き勝手していいものではない。

 

 この二つの面倒な手続きは、同時進行で行われた。

 というのも、ヴァルナルの結婚は通常考えられる貴賤結婚から逸脱していたので、ミーナを養子とする側の貴族家は謝礼の他に、この婚姻が正当なものであることを重要視したのだ。この場合の正当性の証明は、公爵が結婚を許可する、ということだった。

 

 というわけで、レーゲンブルトでもギョルムの一件などでひと悶着あったが、帝都にある公爵家においてもなかなかに面倒な状況が進行していたのだった。

 この婚儀について、主に段取りしていたのは、不承不承に帝都へ向かったカールだった。無論、それを任せたのが兄のルーカスであったのは言うまでもない。

 

「お前の主の慶事なんだからな。部下が動かないわけにはいかないよな」

「なんで俺だけ…パシリコさんだっているだろうに…」

 

 ぶつくさ文句を言う弟に、ルーカスは意地悪い笑みを浮かべた。

 

「別にライル卿に頼んでもいいぞ。ヴァルナルの婚儀が三年後でいいというなら」

 

 正直なところ、養子縁組する貴族家への根回しやら、貴族の家系図を所管する貴族省の役人への()()()など、帳簿には書けない金がかかる。

 謹厳実直なパシリコでは、いちいち領収書を要求しかねない。

 

 カールは嘆息して主の幸せな結婚のために奔走するしかなかった。

 帝都結縁式(ヤーヴェ・リアンドン)で浮かれた男女を横目に見ながら。

 

 しかも腹立たしいことに、その結縁式(リアンドン)でしっかり弟のアルベルトに相手ができて、そのまま家族への紹介と同時に、既に神殿で婚姻を承認してもらったと告げられたときには、そのまま驚きと疲労で倒れそうになった。

 

「フザけんなよ。どういうことだ、これ…」

 

 カールは悶々としながらも、仕事はきっちりやった。嫌味な兄にも文句をつけられぬほど、きっちりと。

 

 その甲斐あって、ようやく公爵からの返事がレーゲンブルトに届いたのは、明けて朱梟(しゅきょう)の年、落穂の月二十日頃のことだった。

 

 

『新生の月 廿日

 

 新たなる年の天光射したる都より時候の挨拶と共に申し伝える。

 

 受け取りたる婚姻許可申請については、その旨を了承し、許可する。

 追って名代(みょうだい)を遣わし、許可状を与える。

 

 別儀については、ベントソン卿からの書信にて了知すべし。

 

 年神様(サザロン)の加護あらんことを。

 

 エリアス・クレメント・エンデン・グレヴィリウス』

 

 

 必要最小限のことだけ書かれた短い手紙であったが、仕事以外においては筆不精の公爵閣下からの手紙は貴重なものだった。それだけで、ヴァルナルには公爵閣下が祝福してくれていることがわかった。

 ミーナは穏やかな顔で手紙を読むヴァルナルに、ホッと息をつく。

 

「どうした?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、ミーナは髪留めからハラリと落ちた髪を耳にかけた。

 その髪留めは、ヴァルナルが前に送ったあの白陽石の細工物だった。初めてこの髪留めをしてくれたとき、ヴァルナルは褒めちぎったが、今日もやはりよく似合っている。ヴァルナルの頬に笑みが浮かんだ。

 

「いえ…もしかすると、お許し頂けないかとも思って」

 

「そんなわけがない。むしろ、勧めて下さっていたくらいなのに。色々と準備することが、新年の行事などと重なって遅くなってはしまったが、これですべて認めてもらえたということだ。公爵閣下の名代はおそらく騎士達の帰還と一緒に来るだろうから、用意しておかないとな」

 

「どなたが来られるのか、ご存知なのですか?」

「あぁ、当然。最上級のブランデーを用意しておかないとな」

 

 その時、ヴァルナルが思い描いていた名代はもちろんルーカス・ベントソンだった。

 去年アールリンデンの公爵邸で、礼品を用意しておけと言われていたぐらいだ。

 そのつもりで、わざわざ自ら酒屋に出向いて買いに行ったのだが、果たして現れた()()に、ヴァルナルは驚嘆した。

 と同時に、公爵閣下に言われたことを思い出したのだった。

 

 

 ――――― 褒美が欲しければ、結果を出せ……

 

 

 

 

 

 

「まだ来ないねぇ~」

 

 ティボが遠く都へと続く道を見ながらつぶやく。

 

 城塞門の物見台、屋上テラスを囲んだ塀の上。

 立ち上がって街道を見ているティボの隣でオヅマは寝そべり、ふわふわと浮かぶ雲を見ていた。

 昨日までは冷たい風が吹き、今年最初の雪がちらつくほどに寒かったのに、今日になればまた温かさが戻る。

 秋と冬の間を行ったり来たりしながら、寒暖の差は徐々に寒さへと傾いていき、北国はやがて雪の季節を迎える。今はまだ、色づく紅葉の隙間に秋が残っているようだ。

 

「先触れで来たのが黒角馬(くろつのうま)だったからな。本隊はほとんど普通の馬だし、大人数だから、そうそう身軽に移動もできないさ」

 

 オヅマが訳知り顔に答えると、ティボは「なるほどねッ」と大袈裟に感心してみせる。

 

「さすが、オヅマ親分だねッ」

「やめろって、それ」

 

 オヅマは恥ずかしくて、渋い顔になる。

 オヅマを『親分』と呼んだティボは、ヘヘッとそばかすのあるしし鼻をこすった。

 

 ティボはオヅマのいたラディケ村の粉屋の三男坊だ。今回、黒角馬の研究者達が大勢やってきて、人手の足りなくなった領主館で下男を募集したところ、オヅマがいることを知っていたので応募したらしい。

 ちょうど粉屋には三つ子が生まれて、家も手狭になり、いずれ働くならば…と両親に申し出たのだという。

 

 オヅマよりも三歳下のまだ九つという最年少ではあったが、「俺はチビだから狭いところも掃除できますよ。それに大人に比べたら、食べる量だって少ないですよ」と、自分で自分をうまく売り込んで、まんまと領主館での下男の職を手に入れた。

 

 連日、面接でスレた大人ばかりを相手にしていたネストリの気まぐれというか、疲れが癒やしを求めたのかもしれない。

 オヅマと違って、ティボは取り入ることに長けていたので、ネストリは意外にもティボをかわいがっていた。

 

「……お前、俺と一緒に来たのはいいけど、お使いは? 行かなくていいのか? ネストリに頼まれてるんだろ?」

「そうだねぇ。この調子じゃまだまだ来そうにないし、ちょっくらひとっ走りしてくるねッ」

「おぅ」

 

 ティボはぴょんと塀の上からテラス側へと飛び降りた。

 

(あけ)一ツの鐘が鳴ったら、館に帰れよ。戻ってこなくていいから」

「あーいッ」

 

 のどかで陽気な声が響く。

 オヅマは思わず笑ってしまった。

 ティボは仕事の覚えも早く、抜け目ない性格なのもあるが、何よりあの底抜けの明るさが好かれるのだろう。同じ下男として働いていたオヅマとは違い、誰からも可愛がられている。

 

 そろそろ見納めであろう蝶が飛んできて、オヅマの周りをふわふわ巡る。

 ぼんやり見ていると、遠くからドドドと響く音が聞こえてきた。

 オヅマは起きて立ち上がった。

 街道の先、土埃の中、うっすらと見えていた集団がだんだんと色濃くなって近付いてくる。

 

 オヅマの顔がパッと輝いた。

 ようやく帰ってきたのだ。懐かしい騎士達が。

 

 オヅマはティボと同じように塀の上から飛び降りると、物見台の中の螺旋階段を二段飛ばしで降りていく。

 門の前で待っていると、先頭で近付いてくるカールと目があった。

 

「おぉーいぃッ!」

 

 オヅマが手を振ると、カールはオヅマの前まで馬を進めてきて止まった。

 

「元気そうだな、オヅマ。また背が伸びたか」

「そう? わかんないけど」

 

 オヅマが首をかしげて答えていると、カールの背後で四頭立ての馬車が止まった。

 派手ではないが、大きな箱型車室(キャビン)が車輪の上に取り付けられた、大貴族の乗る部類のものだ。

 

 黒く磨き上げられた躯体。辻馬車などに比べて大きく、鉄で補強された車輪。

 馭者席横のランプは、銀色の金属で作られたスズランが明かりを灯す造形となっている。天蓋の正面中央には、真鍮で作られたグレヴィリウス公爵家の紋章が取り付けられていた。

 

「なに? 馬車…誰か乗ってんの?」

 

 オヅマが訝しげに尋ねると、カールは口端に笑みを浮かべて言った。

 

「公爵家からの使者だ」

「えっ?」

 

 オヅマは何か悪いことでも起こったのかと身構えたが、その時、いきなり大声で呼ばれた。

 

「オヅマ!」

「へっ?」

 

 思わず間の抜けた声が出る。キョトンとしたまま、声のした方へと向くと、馬車の扉がやや乱暴に開いた。

 

「お待ち下さい! 飛び降りるのは危険です!! タラップをつけてから…!」

 

 馬車から必死で制止する男の声が聞こえてきた。

 

「大丈夫だよ、これくらい!」

 

 懐かしい少年の声にオヅマはあわてて駆け出した。

 豪奢な設えの車室(キャビン)に立っているアドリアンと、目が合ったのは一瞬だった。

 

「待っ……」

 

 オヅマが止める前に、アドリアンは扉口から飛び降りていた。

 間一髪でオヅマは受け止める。

 衝撃で足がビリビリするのを、歯を食いしばって耐えた。

 痛みが過ぎてから、アドリアンをそろそろと地面に下ろして、オヅマは怒鳴りつけた。

 

「こンの馬鹿がッ! 下手すりゃ足の骨折るぞッ!!」

 

 響き渡った怒声に、周囲は静まり返った。

 まだ車室に残っていたアドリアンの従僕のサビエルはあんぐりと口を開けたまま言葉を失い、オヅマの背後にまで来ていたカールは天を仰いで眉間を押さえる。

 ゾダルやヘンリク、アルベルトなどのオヅマも知ったレーゲンブルト騎士団の面々は静かな溜息をつき、見慣れぬ公爵家騎士団の数人は唖然となって硬直していた。

 

「………このくらい、どうってことないよ」

 

 アドリアンは口を尖らせて言う。

 オヅマはピシッ、とアドリアンのおでこを指で弾いた。

 

「油断大敵! ここいらはちょっと傾斜があるんだ。それにお前、ずっとコレ乗ってたんだろ? いきなりこんな高さから飛び降りたら、折れなくたって、捻挫するぞ。気をつけろ」

 

 アドリアンは額をさすりながら、オヅマの相変わらずの世話焼きぶりに、フッと顔が緩んだ。

 

「相変わらずだなぁ、オヅマ」

「あぁ? なんでだよ。カールさんだって、背がだいぶ伸びたって…」

 

 言いかけてオヅマはアドリアンの目に浮かぶ涙に、またキョトンとなる。

 

「なに泣いてんだ? お前」

「うん……」

 

 アドリアンは指でこぼれそうな涙を拭ってから、笑った。

 

「……元気になってよかった」

 

 オヅマの意識が戻らないままアールリンデンの公爵邸に戻り、そこから十ヶ月が過ぎていた。

 その後にオヅマが元気になったということを人伝に聞いても、アドリアンの中ではまだ、オヅマは白い顔で昏々と眠っていた。実際に会うまで、ずっと心配だったのだ。

 

「あ……うん」

 

 オヅマは少しきまりが悪かった。

 ミーナからアドリアンが非常に親身になって介抱してくれていたという話を聞いていたので、申し訳ない気持ちもある。といって、今更ありがとう…とお礼を言うのも随分と時が経ってしまった気がして、なんとも言葉に表しにくかった。

 

 ポリポリ頭を掻いてから、オヅマは何気なくアドリアンを見て眉を寄せた。少し離れて、頭から足までまじまじと眺める。

 

「………お前、なにその格好? えらくめかしこんで」

 

 濃紺の生地に少しくすんだ金糸で、シダ状の植物の刺繍がされたジレと、同様の柄の膝丈まである上着(ジュストコール)。袖口の折り返しには、それこそ砂粒ほどの輝石やシークインが縫い込まれ、カフスには黒光りする美しい石が嵌め込まれていた。

 濃紺の絹糸で編まれた飾緒(レニヤード)は左肩から右胸にかかって弧を描いて垂れ、途中で半円形の留具が薄鈍色(うすにびいろ)のマントを留めていた。

 右肩にだけかかったマントは、ゆるやかに風の中ではためいている。

 

「え…ああ……うん」

 

 アドリアンは少し気まずい様子になってもじもじする。

 オヅマはさっきカールから言われたことを思い出した。

 

「あ! もしかして、お前が使者なの? カールさんが言ってた」

「あ、うん…」

「なぁんだ。そっか。それでそんな()()()()着てんだな!」

 

 途端に背後のサビエルがブフッと吹いた。

 オヅマが怪訝に見上げると、さっと頭を下げる。「失礼致しました」

 

「誰、コイツ?」

 

 オヅマは指さしてアドリアンに尋ねる。

 

「………従僕だよ」

「従僕? あぁ……お前の同僚か」

 

 アドリアンは答えず、曖昧に笑って、オヅマの腕を掴んだ。

 

「さぁ、領主館に向かおう! マリーやオリヴェルにも会わないと!」

 

 アドリアンはやや強引にオヅマを引っ張って、門の中へ向かって歩き出した。




次回は2023.01.01.更新予定です。


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第百十二話 小公爵さま

 領主館前には、既に先触れから到着を聞いていたのか、ヴァルナルを始めとする残留組の騎士や領主館の使用人達が、並んで待っていた。

 

「アドル!」

 

 一緒に並んでいたマリーは、たまらないように駆けていくとアドリアンに抱きついた。

 

「帰ってきたのね!? 本当に、本当に、アドルね!?」

 

 興奮して早口に問いかけながら、マリーの目からは涙があふれた。

 まさか会えると思っていなかったアドルに会えたことと、アドルが約束を守ってくれたことが、なにより嬉しい……。

 

 アドリアンはにっこり笑って、マリーを抱きしめて頭を撫でた。

 

「ただいま、マリー」

 

 その言葉に、マリーはまたうるうると瞳を潤ませながらも、ニッコリと笑い返した。

 

「おかえり、アドル!」

「おかえり……アドル。ようこそ」

 

 マリーの背後に来ていたオリヴェルが、少しはにかんだ顔で声をかけてくる。

 アドリアンはオリヴェルが以前よりもずっと大きくなって、顔色も良くなっていることに少し驚きつつ微笑んだ。

 

 オヅマは妹が嬉しそうなのはよかったものの、それにしてもアドリアンに()()()()()()のが少々気になった。それとなくアドリアンから引き剥がしながら、マリーに言う。

 

「おぅ、そうだ。マリー、お前、あのコート、アドルに返せよ。お前が持っていったから、見てみろ。こんなやたら仰々しい()()()()、着せられてやがる」

 

 背後から数歩離れて()いてきていたサビエルは、また吹きそうになってあわてて口を押さえた。公爵家からのアドリアン付きの警護の騎士たちも、皆、フルフルと頬の肉を震わせている。

 

 そんな周囲の様子など露知らず、マリーはアドリアンにすまなそうに言った。

 

「そうなの? ごめんなさい、アドル。あの時、私が寝間着だったから…貸してくれたのよね。すぐに返すわ」

「いや…いいよ。別に、あれくらいは…」

「なに格好つけてんだよ、お前は! 支給品なんだから、大事にしろ!」

 

 オヅマはそう言って、アドリアンの背中を容赦なく叩く。

 アドリアンがよろけると、さすがに警護の騎士たちは顔色を変えた。大事な小公爵様を打ち据える不届き者を捕えようと、あわてて駆け寄る。

 だが、その足音にオヅマは反射的に振り返った。瞬時に、戦いに対応するための筋肉が固く引き締まる。

 

 アドリアンは軽く息を呑んだ。

 隣にいるオヅマの態度は、一瞬にして隙のないものに変化していた。一触即発かのような緊張が、張り巡らされる。

 アドリアンは素早く目配せして、自分を守ろうとする騎士たちを後ろに退がらせた。

 

 ふっと、オヅマの薄紫の瞳から緊張が消える。ニヤリと笑うと、何もなかったかのように叫んだ。

 

「よーし! 今日は久々に駒取り(チェス)総当り戦やるかぁー」

「いいね」

「じゃあ、第三期節(サード・シーズン)だね」

 

 オリヴェルとアドリアンはすぐに賛成したが、マリーは一人、ぷぅとふくれた。

 

「やぁだ! つまんない」

「ハハ。じゃあ、まずはオリヴェルとオヅマがやるといい。その間、僕は久しぶりにマリーの話をいっぱい聞くよ」

 

 アドリアンが言うと、マリーはニッコリ笑って頷いた。「それならいいわ」

 オヅマは呆れ、オリヴェルは苦笑する。

 

 相変わらずの四人の姿に、ヴァルナルが目を細めて声をかけた。

 

「さて、四人の悪戯妖精(シャンクリ)*1たち。再会の祝宴はスコーンが焼き上がってからにしてもらえるかな? そろそろ公爵家の使者に挨拶したいのだが」

 

 オリヴェルがハッとして、アドリアンの前をさっとあけた。オヅマも体を横にして、アドリアンがヴァルナルの前まで行けるようにする。訳がわからぬ様子のマリーは、オリヴェルに手を引かれて、その隣に立った。

 

 アドリアンはゆっくりと進み、ヴァルナルの前に立った。

 

「ご苦労さま、ヴァルナル」

 

 微笑んでねぎらうと、ヴァルナルは深く頭を下げた。

 

「ようやくおいでいただけたこと、何よりの喜びにございます」

「うん。僕もまさか公爵様から、こんな大役を仰せつかるとは思ってなかったけど、ここにまた来ることができて、こうして直接お祝いを言えて嬉しいよ。まずは公爵様…いや、父の名代(みょうだい)として、ヴァルナル・クランツ男爵のご成婚を祝福する。おめでとう、ヴァルナル。それにミーナも」

 

 アドリアンはニコリと微笑んでミーナを見た。ミーナも微笑み返して、恭しくお辞儀する。

 

「……オリー? どういうこと? アドルとお父さんは何を話してるの?」

 

 マリーには急にアドルが見知らぬ子供のように思えた。オリヴェルの腕をギュッと掴みながら、怯えたように尋ねる。

 オリヴェルは安心させるようにマリーの肩をポンと叩いた。

 

「アドルは公爵閣下の代わりに、父上の結婚を祝いに来たんだって」

「公爵閣下? でも…さっき父って……」

 

 困惑するマリーと同様に、オヅマもまたアドリアンに平身低頭のヴァルナルと、深くお辞儀をする母を交互に見て、目を瞬かせ棒立ちになった。

 

 アドリアンはクルリと振り返り、オヅマを見つめた。

 鳶色(とびいろ)の瞳に緊張が宿り、スゥと息を吸い込む。

 

 しかしアドリアンが口火を切る前に、オヅマが問うた。

 

「お前…もしかして、公爵…様の……息子?」

 

 先に言われて、アドリアンはコクリと頷く。

 ふぅ、と静かに深呼吸して息を吐ききると、周囲の驚いた様子の人々の姿を見回してから、自らの名を名乗った。

 

「改めて、自己紹介するね。僕の名前はアドリアン・オルヴォ・エンデン・グレヴィリウス。グレヴィリウス公爵エリアスの息子だ」

 

 人々はポカンとなった。

 帝国の公爵家のご子息など、彼らにとっては雲上人(うんじょうびと)同然だった。ゆっくりとざわめきが広がる。しかし――――

 

「えええぇぇぇぇーーーーっっっ!!」

 

 一拍置いて、すべてをかき消すオヅマの叫びが、その場に響き渡った。

 

 

 

 

 オリヴェルの部屋に向かうまでの間、誰も口を利かなかった。

 沈黙は部屋に入った途端に破られた。

 

「どーゆーことっ!?」

 

 マリーは急にアドリアンに詰め寄った。

 

「公爵様の息子って?! オルヴォって、なに? どういうこと??」

「落ち着いて、マリー」

 

 オリヴェルがあわてて制止しようとするものの、マリーの勢いは止まらない。一人だけ訳知り顔のオリヴェルをキッと睨みつけた。

 

「オリー、知ってたの?!」

「え? あ、あの……うん」 

「ええぇぇ??」

 

 マリーは唸るような大声を上げながら、オリヴェルににじり寄ると、矢継ぎ早に尋ねまくった。

 

「いつ? どうやって知ったの? どうして話してくれなかったの? 最初から知ってたの?」

「ち、ち、違うよ」

 

 オリヴェルはあわてて否定する。

 部屋の隅の出窓に腰掛けていたオヅマが冷たく言った。

 

「最初は知らないだろ。だって、オリーは最初はアドル……()()()()()のことを毛嫌いしてたもんな」

「本当にぃ?」

 

 マリーが疑心暗鬼な様子で見つめると、気の毒なオリヴェルはうんうん、と激しく頷いた。

 

「知らなかったんだよ。本当に。本当に本当だよ。知ったのは、ずっと後で…」

「いつなの?」

 

 マリーが再び尋ねると、オリヴェルは困った顔で押し黙った。

 確実に知ったきっかけを言えば、マリーが()()()()()()()を思い出してしまう。またショックを受けるかもしれないと思うと、オリヴェルは話せなかった。

 

 そんなオリヴェルに助け舟を出したのはアドリアンだった。

 

「オリヴェルはグレヴィリウス公爵家について、知ってることも多かったから、僕の正体も見抜いたんだよ。それから言わなかったのは、僕が頼んだからだ。僕も、公爵様…父上からレーゲンブルトで過ごす間は、ただの見習い騎士として、クランツ男爵の下で修行に励むようにと言われていたから…。君たちには僕の口から直接、伝えたかったんだ。それから謝りたかった。ごめん。嘘をつくようなことをして……」

 

 頭を下げるアドリアンを、マリーはしばらく睨んでいたが、ふぅという溜息とともに、膨らんでいた頬が元に戻る。

 

「仕方ないわ。公爵様の命令なんだったら、アドルは子供なんだから、言うこときかなきゃいけないんだし。オリヴェルもアドルに頼まれて黙っていたんでしょ?」

 

「うん、ごめんね。マリー」

 

 オリヴェルはそれでもやっぱり謝った。

 どこかで罪悪感があった。本当は…自分は伝えたくなかったのかもしれない。アドルが小公爵だということを…。

 

「オヅマも…ごめん」

 

 アドリアンは出窓に座って、こちらを向くことのないオヅマのそばまで来て、頭を下げた。

 オヅマはチラとだけ見て、またそっぽを向く。

 

「謝るなよ。別にお前は悪くないんだってことになったんだろ、今」

 

 冷淡に言うオヅマに、アドリアンは不安になった。

 

「………怒ってるのか?」

「怒る? ()()()()()相手に、()()()()()()()が怒るなんてこと、できるわけないだろ」

「………」

 

 アドリアンが寂しげに俯くと、マリーがつかつかと寄って兄に注意した。

 

「お兄ちゃん! 冷たいわよ、そんな言い方」

「何が……」

 

 オヅマは面倒そうにマリーに目をやり、ジロとアドリアンを見た。

 すぐに目線を逸らして出窓から降りると、妹の目の前に立って言い聞かせる。

 

「いいか、マリー。母さんが結婚したら、俺たちは領主様の子供になるんだ。そうしたら、ますます身分ってものに縛られることになる。前と同じようになんて、できるわけねぇ。俺なんか、騎士になるんだから、このままいけばコイツ……じゃない…あー…()()()()()()()()()()()()の配下になるんだぞ」

 

 ジーモン老教授の礼法授業で、覚えたばかりの敬語をひねくりだして、オヅマは皮肉っぽく言う。

 アドリアンはさっきからオヅマが『小公爵さま』と言うたびに、チクチクと胸が痛かった。

 

「それは……」

 

 言い淀んで、アドリアンは口を閉じる。

 実際、この先にはオヅマには近侍として来てもらうことをアドリアンは望んでいる。そうなれば、ますます主従としての関係性は強化されるのだろう。

 

 静まり返った部屋で、口を開いたのはマリーだった。

 

「そんなのおかしいわ」

「……なにが?」

 

 オヅマが怪訝な様子で問いかけると、マリーはじっと兄を見つめて言った。

 

「お兄ちゃんはアドルが小公爵さまって、わかってたら、お友達にならなかったの?」

「……そりゃ…なれねぇだろ」

「どうして?」

「どうしてって……公爵家の若様なんだぞ?」 

「じゃあ、もう友達でなくて平気なの?」

「そ…ん……」

 

 オヅマはそれ以上、言葉をつなげることができなかった。

 自分の望むことと、せねばならないという義務の間には厳然とした隔たりがある。何かを言おうとしても、空回りするばかりだ。

 

 マリーはプイとそっぽを向いた兄と、寂しげに俯くアドリアンを見比べた。

 しばらく考え込み、言葉を選びつつ途切れ途切れに語りかける。

 

「私、アドルに初めて会ったときから、きっとどこかの貴族の若様なんだろうと思ってたわ。オリーと同じように。まさか公爵家の若様だとは思ってなかったけど。でも、アドルは私にもお兄ちゃんにも、無礼だって怒ったりなんかしなかったわ。ずっと優しかったし、だから私はアドルが好きになったの。小公爵さまだとしても、アドルはアドルだもの。これからだって、ずっと仲良くしていたいわ。お兄ちゃんはそうじゃないの?」

 

 真っ直ぐな緑の瞳が、オヅマを見つめる。

 怒っているのではないのに、こういうときのマリーは妙な迫力があった。オヅマは途端に気まずくなる。

 マリーは首を大きくかしげて、アドリアンを下から覗き込んだ。

 

「アドルは? まだ私たちと友達でいてくれる?」

 

 このとき、アドルは本当にマリーが女神のように思えた。

 無垢なエメラルドの瞳は、強く正しい、女神サラ=ティナの真誠(しんせい)の瞳のようだ。*2

 

「……もちろんだよ。ずっと僕らは友達だ」

 

 泣きそうな震える声でアドリアンが答えると、マリーがニッコリ笑った。

 オリヴェルも三人のそばにやってきて同意する。

 

「僕もアドルのこと、友達だと思ってるよ。あのときも、言ったでしょ?」

 

 

 ――――― ずっと友達だよ、僕たちは…

 

 

 今も、気持ちは変わっていない。

 

「ありがとう」

 

 アドリアンはホッとしたように微笑み、もう一度オヅマを見つめた。

 オリヴェルも、マリーもじいっと見つめてくる。

 オヅマは三人からの視線に気圧(けお)されながらも、しばらく眉を寄せて不機嫌そうにしていたが、実のところ、マリーの言うことにぐうの音も出なかった。

 

「お兄ちゃん」

 

 マリーの呼びかけに、オヅマはハアァと長い溜息をついて、くしゃくしゃ頭を掻く。

 

「わーったよ。わかってるよ、そんなこと。アドルが友達なのは、当然だろ」

 

 マリーはニコリと笑った。

 

「じゃ、これまで通り!」

「なんだそりゃ…」

「いいの! 私たちは一人が乞食になって、一人が公爵様になっても友達よ!」

 

 マリーが高らかに宣言する。

 

 少年たちは目を見交わして、同時にくしゃりと笑った。

 ここにいる男共はみな、大きくなってもマリーには敵わないだろうと思った。

 

*1
神話に出てくる妖精

*2
女神サラ=ティナは、すべての物事を見抜く真実の瞳を持っている、という神話から




次回は2023.01.08.更新予定です。


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第百十三話 結婚式

 以前にオヅマとアドリアンが剣舞を舞ったあの神殿で、ヴァルナルとミーナの結婚式が執り行われた。

 

 

 

 既に二ヶ月前に公爵から内々の許可をもらっていたヴァルナルは、帝都近郊に住む家族に知らせておいたので、テュコは年老いた母親を連れてレーゲンブルトにやって来ていた。

 前回の式では参席することも許されなかった母親は、「よかったっじゃ~」と何度もつぶやきながら、涙をハンカチで拭っている。

 数日前にはミーナと会って、すぐにその優しい人柄がわかったのだろう。ようやく肩の荷が下りた…と、既に壮年に近い息子のことを、新たな妻に頼んだ。

 

 

 参席者はさほど多くなかった。

 領主館を代表してヘルカ婆とパウル爺、騎士たちを代表してパシリコとカール。それに家庭教師達と、ビョルネ医師。

 その他には領府の行政官ら数人と、近隣の貴族家からの代表者や、その名代である家臣。レーゲンブルトにおいて有力者とされる商人など。

 

 書面上だけであったが、ミーナと養子縁組をしたニクラ准男爵家からは娘が一人、立会人として遠路はるばるやって来ていた。

 ヤーデ・ニクラと名乗った彼女は、帝国の女性にしては珍しく丸い鼈甲(べっこう)の眼鏡をかけていた。この眼鏡をしている限り、美人に見えることはないと諦めているのか、化粧っ気もなく、いつもムッと怒ったような顔を崩さない、堅苦しそうな女だった。

 

「もう少し愛想よくなさればいいのに」

 

と、ケレナ・ミドヴォアは非難したが、ミーナは素っ気ないながらも、ヤーデの飾らない心根が好もしく思えた。

 年は自分よりも三つ若かったが、とてもしっかりしていた。

 病弱な母に変わって准男爵家の内向きのことを差配してきたので、しっかりせざるを得なかったのだろう。

 

 彼女は参列者席にケレナと並んで座った。性格的には水と油の二人であったが、花嫁衣装に身を包んだミーナを見たときには、二人は同時にうっとりとため息をついた。

 

 

 そのミーナは白に金銀の微細な刺繍がされた生地で作られたドレスを着て、頭には真珠の髪飾りをつけていた。

 この二つは婚礼に欠かせぬ花嫁の装束だった。

 

 特にこの真珠の髪飾りは、一般的には母親からのものを引き継ぐが、貴族間では少々特殊な事情があった。

 というのも、この真珠の髪飾りを誰から貸してもらうか、あるいは贈与してもらうかで、その花嫁の貴族社会における立ち位置、あるいは後ろ盾となる者を推し量る材料となったからだ。

 

 今回、ミーナの髪飾りは、特別に公爵から先の公爵夫人であったリーディエのものを貸与された。これはミーナが公爵家に(ゆかり)ある者だと公に知らしめたのと同様であった。

 もっとも、この北の辺境の地においては、その効力はまだ発揮されることはなかったが……。

 

 ただ、そのいわれを聞いてミーナの心は少しだけさざなみ立った。

 

 見事な髪飾りだった。

 いくつものスズランの透かし彫りがされた白金の台座の、花の部分に真っ白な真珠が嵌め込まれている。真珠だけでなく、ダイヤやアクアマリン、オパールなども、さりげなく配されていた。台座の左右、耳の上あたりから、雫型の真珠が連なって肩まで垂れていて、その真珠はミーナの瞳のようにほんのり紫がかっている。

 

 この髪飾りは、元々グレヴィリウス公爵家の女主人に伝わるものであったらしいが、現公爵エリアスの指示によって、妻・リーディエに似合うように随分と作り変えられたらしい。

 さすがは公爵夫人の婚礼用に作られた髪飾りというべき、見事な意匠だった。美しく格調高い。

 

「あぁ…そういえば、こんな髪飾りをなさっておられたなぁ」

 

 式の前日にその髪飾りを確認したヴァルナルは、目を細めて昔を思い遣る。その顔には亡き人への懐かしみと、在りし日の思慕が見えた気がした。

 

「………恐れ多いことでございます」

 

 ミーナはいつものように恐縮しつつ、どこかでこの髪飾りを拒否したい気持ちが芽生えた。無論、そんなことを言うわけもない。ましてヴァルナルが喜んでいるのを見れば尚のこと。

 

「公爵様がわざわざ、亡き奥方様のものを貸して下さるとは、有難いことだ。もし、生きておられれば、奥方様から貴女に直接渡されたことだろうな」

 

 ヴァルナルは亡き公爵夫人を思い浮かべて素直に言っただけだったが、ふとミーナの表情が暗いことに気付くと、首をかしげた。

 

「どうした? なにか問題でも?」

「いえ……このような立派なものを、私などがしていいのかと…少し、緊張しまして」

「ハハハ。ま、恐れ多いことではあるが、公爵閣下からのお気持ちだ。有難くお借りすることにしよう」

「はい……」

 

 ミーナはヴァルナルへの疑問を呑み込んで、静かに頷いた。

 式当日、ミーナの憂いに気付いたのはマリーだけだった。

 

「どうしたの? お母さん。どこか痛いの?」

「え?」

「だって、泣きそうな顔してるから」

 

 言われてミーナはあわてて笑った。

 

「大丈夫よ。少し、緊張しているの」

「なぁんだ」

 

 マリーは安心したように言って、兄達の待つ参列者席へと戻って行った。

 

 ミーナは己の中に沸き起こる黒い靄を払いのけようとしたが、うまくいかなかった。

 せめて今日だけは一点の曇りもなく迎えたかったというのに……。

 

 

 神を祀る祭壇の前には年老いた神官と、その斜め前にアドリアンが立っていた。

 公爵の名代であるアドリアンは、神官による婚儀の前に公爵からの結婚許可を皆に知らせる役目がある。

 そのせいか、今日はオヅマと再会した時よりも豪奢な衣服に身を包んでいた。

 

 涅色(くりいろ)上着(ジュストコール)には、百合の花をモチーフにした刺繍が施されており、大きく折り返された袖口には柘榴(ざくろ)石のカフスボタンが付けられている。

 前を開いたジュストコールの間からは、金糸銀糸を混ぜて織り上げられた上品なアイボリーのジレ。白絹のクラバットには、袖口のカフスボタンと同じく、菱形に切り取られた柘榴石のブローチが留められていた。

 

 こうまで豪華な衣装を身に纏っても、アドリアンが着れば、それは普段着であるかのように自然に見えた。

 

「……お前、こうしてみれば、生まれながらの若様だな」

 

 結婚式が始まる少し前、別の部屋で準備していたアドリアンを見て、オヅマが言った。

 

「なに? 皮肉?」

 

 アドリアンは少し強張った顔で尋ねる。

 まだ、オヅマは自分に対して思うところがあるのだろうか…。

 しかしオヅマは「違う」と即座に否定した。

 

「そんな高そうなもん着てても、似合ってるからさ。いや…着こなしてるっていうのか? あーあ…考えてみれば、お前、俺が起こさないと起きないし、しっかりお坊ちゃんだったんだよな。なんで気付かなかったんだろ、俺」

 

 オヅマはブツブツ言いながら、うろうろと歩き回る。

 なにげなく褒められて、アドリアンは少しはにかみつつ、落ち着きなくうろつき回るオヅマを眺めて言った。

 

「そういう君も、なかなかサマにはなってるよ」

 

 今日はオヅマもまた、領主の息子として正装せねばならなかった。そのせいでオヅマは生まれて初めてジュストコールなんてものを着る羽目になっている。

 

 チャコールグレイのベルベットに、前身頃の(へり)にくすんだ金糸で蔦などが刺繍された、わりあいとすっきりしたデザインのもので、オヅマの亜麻色の髪がよく映える。

 

 もっとも当のオヅマは自分の姿になど、まったく興味がないようだった。

 

「冗談じゃねぇ。こんなの着てちゃ、障害物訓練なんぞ出来ないぜ」

「普通、それを着て障害物訓練はしないものなんだよ」

 

 アドリアンはあきれたように言って笑った。

 その後、やっぱりオヅマには窮屈だったようで、いよいよ式が始まるという直前になって、クラバットを外したいなどと言い出した。

 カールに一喝され、今は仏頂面ながらもおとなしく参列席に座っている。

 

 隣にはオヅマと同じ刺繍がされた、深緑のベルベットのジュストコールを着たオリヴェルが座っていた。

 アドリアンが来てから興奮気味で、また少し熱が出たが、もう大丈夫のようだ。顔色も良い。

 

 そのオリヴェルの隣にはマリー。

 若草色の、軽やかなフリルが幾重にも重なったドレスを着て、ちょこんと座っている。

 ナンヌに赤みがかった栗色の髪をきれいに結ってもらって、ヴァルナルに買ってもらったピンクのリボンを結び、すっかり愛らしいお嬢様になっていた。

 ニコニコと嬉しくてたまらぬ様子だ。

 

 

 中央扉が開いて、ミーナとヴァルナルが並んで祭壇へと歩いてくる。

 アドリアンの前で止まると、頭を下げた。

 やや強張った顔でアドリアンは軽く頷き、朱色の絹にくるまれた巻物を開く。静かに深呼吸をした後、ゆっくりと読み上げた。

 

「『グレヴィリウス公爵エリアス・クレメント・エンデンは、臣下ヴァルナル・クランツと、ニクラ准男爵(むすめ)ミーナ・ニクラとの結婚を許可する』。なお、この婚儀について、公爵名代としてアドリアン・オルヴォ・エンデン・グレヴィリウスが立会い、両名の婚姻承認が成立したことを見届ける」

 

 アドリアンは巻物をクルクルと丸めてから、ヴァルナルへと差し出した。

 

「ありがとうございます」

 

 ヴァルナルは受け取ると、祭壇へと足を進める。

 ミーナはヴァルナルの傍らでアドリアンに静かに目礼した。

 それから老神官の前へと二人並んで立つ。

 

「ヴァルナル・クランツ、ミーナ・ニクラ」

 

 老神官のおごそかで悠揚な声が、式殿の高い天井に響いた。

 

「本日、主母神サラ=ティナの御前(おんまえ)にて、伉儷(こうれい)*1の約を結ぶことに異議はないか?」

「ございません」

「ございませぬ」

 

 ヴァルナルとミーナが答えると、老神官は列席の人々へと目を向けて、同様に尋ねる。

 

「居並びし者の中に、異議はあるか?」

 

 この形式的な文句に実際に異議を唱える者など、いたためしがない。

 参列者は何も言わずに沈黙を過ごす。ややあって答申者 ――――これは通常、その場にいる中で最も年配の者に割り当てられる――― が、神官の審問に答えた。

 

「ございませぬ、神官様」

 

 今回、この役を仰せつかったのはパウル爺だった。

 まさか自分が領主様の婚儀に出席できるなど、まして答申者になるなど思ってもみなかったので恐縮しきりだったが、領主様直々に頭を下げられ、ミーナからもお願いされては断ることなどできなかった。

「冥土の土産話にはなるじゃろう」とヘルカ婆に話しながら、自らの生きてきた長い歳月を思った。

 たった一言。

 短い言葉だったが、やや震える声でパウル爺はその大役を全うした。

 

 老神官は頷くと、クルリと回って祭壇に向かって頭を下げ、小さくなにごとかをつぶやく。神語とよばれるもので、神官だけが使う言葉だった。

 言い終えて頭を上げると、老神官は祭壇中央にあった螺鈿細工(らでんざいく)の匣から金の腕輪を二つ取り出した。

 貧しい平民であればこうした儀式は簡略化するが、貴族や裕福な商人などは、腕輪を互いの手首にすることで、より象徴的な婚姻の証とした。

 

 ヴァルナルとミーナは老神官から腕輪を受け取り、互いの腕に嵌めた。

 

「主母神サラ=ティナの御前にて、ヴァルナル・クランツとミーナ・ニクラの婚姻が成立したことを言明する」

 

 老神官が音吐朗々と儀式の終了を告げると、参列者から拍手と祝福が溢れた。

 

 

 その後、宵の頃には領主館で祝宴が開かれた。

 ヴァルナルは領主館の大広間と庭を開放して、領民たちが自由に入れるようにした。

 領主館内は騒がしく幸せな空気に包まれ、酔いの回った者たちが歌い出すと、招かれた辻音楽師たちがそれぞれの楽器で音を奏でる。

 やがてその音と歌に合わせて、人々は集って踊り始めた。

 

「あっ、これ…あの時の円舞だわ」

 

 マリーが気付いて、ステップを踏んだ。いつかの春祭りで、アドリアンが踊れなくて教えてやったものだ。

 

「みんなで踊ろう!」

 

 言うや否や、そばにいたオリヴェルの手を掴み、少し離れた場所にいたアドリアンの手も取る。こっそりワインを舐めていたオヅマにも声をかけた。

 

「お兄ちゃん、みんなで踊るわよ! アドル、お兄ちゃんと手を繋いで!」

 

 この日、アドリアンはあのときの約束を果たした。

 

 

 ――――― 皆で踊ろう。今度こそ

 ――――― 絶対よ! 絶対に約束よ!! アドル!

 

 

 あの日、突然の別れに泣きじゃくっていたマリーは、今、アドリアンの隣で満面の笑みを浮かべて踊っている。

 白い顔で眠っていたオヅマも、アドリアンを勇気づけてくれたオリヴェルも、皆で一緒に踊る。歌う。

 子供たちのはじけるような笑い声が響いた。

 

 楽しそうな子供たちを見ていたヴァルナルとミーナは、互いに目を見交わして微笑んだ。そっとヴァルナルの手がミーナの手を包み、ミーナは少しヴァルナルにもたれかかる。

 

 宴は夜更けまで続いた。

 

 結婚式にも出ず、領主館でこの祝宴の準備に奔走していたネストリは、時間が経つにつれ、もはやこの宴の後片付けについて考えることを放棄してしまった。

 勧められるままにワインを飲んで、ケレナと踊りだす。

 ヴァルナルは咎めなかった。むしろ、ネストリの仕事ぶりを褒めて、手ずからワインを注いでやったりする。

 

 あらゆる料理を作りきったソニヤも、ゴアン相手に出鱈目なステップを踏んで踊り始め、タイミとナンヌは息の合ったコーラスを響かせた。

 酔っ払って陽気になったパウル爺とヘルカ婆までもが踊りだすと、やんやと歓声が上がった。

 

 誰もが笑顔で、誰もが喜んでいた。

 

 オヅマにとって、この夜のレーゲンブルトは世界で一番平和で、幸せな場所だった。

 

 

 

<第一部 了  第二部につづく>

 

*1
夫婦のこと




ここまで読んで頂き、有難うございます。
来週に番外編更新後、しばしお休み頂きます。

今後も読んでいただけるよう頑張ります。



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番外編
コップのお花と領主様 前編


 これはまだ、オヅマ達家族が、レーゲンブルト領主館にやって来て間もない頃のお話 ――――

 

 

*** ** ***

 

 

 ――――― ここ、どこ…?

 

 マリーは広い領主館の中で迷子になっていた。

 

 さっきまでお母さんのあとについて歩いていたと思っていた。

 ちょっと、中に入り込んでしまった可哀相な()()()()()()()を逃がしてあげたいと思って、窓に誘導してあげたのだ。

 窓の外からの花の匂いに誘われたのか、()()()()()()()は出ていった。

 マリーはホッとしたのも束の間、今、自分のいる場所がどこなのかわからないことに気付いた。

 

「お……お、おかあさーん」

 

 そっと母を呼ぶ。

 館の中で大声を出してはいけないと言われていたので、本当は叫びたいのを必死にこらえて、マリーはなるべく小さな、それでも近くにいる母が気付いてくれるようにと、細心の注意をはらって呼びかけた。

 しかし、近くにいないのか母が来てくれる様子はない。

 

 マリーはそろそろと自分が来た(と思われる)方向へと歩き出した。

 確か、どこか角を曲がったのだ。

 何度、曲がったろう? 一度じゃなかったような気がする。

 あの()()()()()()()は気まぐれで、あっちに行ったりこっちに行ったり戻ったりしていたから。

 

 マリーはおぼろげな記憶で歩き回ったが、やがて昼間でも薄暗い廊下の中途で立ち止まると、急に不安でたまらなくなってきた。

 

「おかあさん……」

 

 震える声で呼ぶが、やさしい母の声は聞こえない。

 

「……おにいちゃん…」

 

 兄を呼ぶと、マリーの脳裏でオヅマがめずらしくかしこまった顔で話す姿が浮かんだ。 

 

 

 ――――― いいな、マリー。俺たちはこれから領主様のお館で働くんだ。ほとんどは母さんと俺が働くけど、お前もやれることはやるんだぞ。一緒に、母さんを助けてやろうな。

 

 ――――― うん!

 

 

 レーゲンブルトの領主館に行く前日、オヅマはそう言ってくれた。

 マリーはうれしかった。オヅマはマリーを厄介者扱いしたりしない。小さくともできることはある、と認めてくれた兄の役に立ちたかった。

 

 マリーは涙を浮かべていた目をごしごしこすると、顔を上げた。

 スゥと息を吸って、大きく吐くと、ゆっくり前に歩き出した。

 

 とにかく一方向に歩いていこう。

 いくら大きくとも館の中なのだ。そのうちどこかに辿り着くし、誰かに会えるはずだ。

 きっと怒られるだろうけど、そのときには素直に迷子になったと言って、必死に謝ろう。

 

 そうして暗い廊下を進んでいったとき、どこかでバタンと扉が閉まって、誰かが歩く音が聞こえた。

 マリーはビクリとしたが、あわててその足音に向かって走っていった。

 しかし角を曲がったときには、もうその足音は聞こえず、足音の主の姿もなかった。

 

 しょんぼりしながら、そのまま進んでいくと、大きな扉の前に辿り着いた。

 さっきの扉の音はこれだろうか?

 マリーはその頑丈そうな大きな扉を見上げた。

 

 すると急に扉が開き、

 

「誰だ?」

 

と鋭く誰何する声と一緒に、巨大な影がヌゥっと現れた。

 

「…ヒャッ!」

 

 マリーはすっかり神話か物語に出てくる凶悪な巨人が出てきたのかと思って、腰を抜かした。ガタガタ震えて、さっきまで必死にこらえていた涙が溢れ出す。

 

 だが巨人はすぐに小さくなった。

 マリーの前に跪き、小さな姿になって、優しい声で呼びかけてくる。

 

「すまないね…驚かせてしまったようだ……大丈夫かい?」

 

 思いもよらないやわらかな声音に、マリーは反対にびっくりしてしまった。

 よくよく見れば、その人は巨人ではない。

 灰色の瞳は心配そうにマリーを見て、怖がらせまいと一生懸命身を縮めている姿は、ちょっと面白かった。

 少し気持ちに余裕ができると、目の前の大人をようやくまともに見れるようになって、その人の赤銅色の髪を見た途端に、マリーは「あっ!」と立ち上がった。

 

「ご、ごめんなさい! りょうしゅしゃま!」

 

 あわてて早口になったせいで、赤ちゃんみたいな言葉になった自分に真っ赤になる。

 ここにいることも含めて、きっと怒られるんだとマリーは身を固くしたが、

 

「ハハハッ!」

 

 ()()()()()()()()は、おかしそうに笑った。

 それからマリーの名を呼んだ。

 

「マリー…といったかな? オヅマの妹の」

「はい! あの…ごめんなさい、領主()。私、迷子になってしまったんです。勝手にウロウロしてしまって、ごめんなさい」

 

 懸命に謝罪しながら、マリーはまたボロボロと泣けてきてしまった。

 怒られなかったのにはホッとしたものの、自分がこんなところにいたことで、もしかしたら母や兄が代わりに怒られるのかと思うと、申し訳なくて情けない。

 

「あっ、あぅ…あの…私がっ…私が悪いからあっ……」

 

 嗚咽に喉をつまらせながら何とか謝ろうとするマリーに、領主ヴァルナルは驚きつつも、そうっと頭をなでた。

 

「大丈夫だ。誰も怒ったりはしないよ。しかし……」

 

 ヴァルナルは辺りを見回してから、ふぅと息をつくと、マリーに手を差し出した。

 

「とりあえずこっちにおいで」

 

 マリーは泣きながらも、その大きな手を掴んだ。

 

 いつもは大人の男の人の手なんて怖くて触ろうなんて思わない。

 パウル爺はおじいさんだから怖くなかったが、目の前の人は亡くなった父と同じくらいの大人の人で、しかも領主様だ。

 本当だったら恐ろしくて逃げたい気持ちになってもおかしくないのに、不思議と目の前の人には恐怖を感じなかった。

 むしろ、マリーに遠慮しているかのような、壊れ物をそっと扱うかのような気遣いを感じる。

 

 立ち上がって、ヴァルナルと一緒にその部屋に入ったマリーは、壁一面の本と、奥に鎮座する立派な執務机、鈍く輝く磨かれた鎧、壁に架けられている二つの旗などから醸し出される重厚な雰囲気に圧倒された。

 

 ヴァルナルに勧められるままにソファに腰かける。

 ぼーっとマリーが部屋を見回している間、ヴァルナルはあちこちに視線をさまよわせてから、ハッと何か思いついたように、執務机の抽斗(ひきだし)から小さな瓶を取り出した。

 その瓶を片手に、マリーの前のソファに腰かけると、蓋を開けて、中から小さな赤い実のようなものを数粒、手の平にのせた。

 

「食べてごらん。おいしいかは…わからないが」

 

 そう言って、ヴァルナルは分厚い手の平を伸ばしてくる。

 マリーはその見たことのない赤い実を一粒、つまんだ。ジイッと見つめる。赤い実はぷっくりと丸く膨れて、ツヤのある光を帯びていた。

 

 ヴァルナルは手の平にあった実を全部口に放り込み、二三度咀嚼する。「む……」と、眉を顰めて少し唸った。

 マリーはヴァルナルの顔をそっと窺った。

 気づいたヴァルナルが、ぎこちない笑みを浮かべる。

 

 マリーは赤い実を口に含んだ。

 プチリ、と皮を破った途端――――

 

「酸っっっっぱーーーいッ!!!」

 

 口中にひろがった酸味に、マリーは口をすぼめて目もすぼまった。

 

「だ、駄目だったか?! 嫌なら出しなさい。ここに出せばいいから」

 

 ヴァルナルはあわててマリーの口の先に両手を受け皿のようにして出してくれる。

 マリーは目をギュッとつむって、口をしっかり閉じながらも、フルフルと首を振った。

 

 しばらくすると徐々に酸っぱさはなくなり、湧き出した唾液と混ざってかすかに甘くなる。

 マリーはその甘い唾をゴクンと飲み込むと、目を開いた。

 

「酸っぱかったけど、おいしい!」

 

 マリーの笑顔を見て、ヴァルナルはホッとしたようだった。

 

「それは良かった。実はこれは眠気覚ましでね。ついつい仕事中にウトウトしそうなときに、食べるんだ」

「そんな大事なものいただいて、すみません」

「いやいや。そんな大したものでもないよ。おいしかったのなら、あげようか?」

「いいえ。これは領主様のお仕事に必要なものですから、いただけません!」

 

 きっぱりと断るマリーに、ヴァルナルはまた楽しげに笑った。

 

 その後、マリーはヴァルナルからその実について教えてもらった。

 この実はロンタの実といって、レーゲンブルトのような寒い場所では採れないということ。東南部のズァーデン地方の特産品で、あちらでは染料や、傷薬としても使うのだという。

 

 ちょうどその時に、ヴァルナルの副官であるカールが戻ってきた。

 

「何事ですか、これは…」

 

 カールは、小さい女の子と領主という取り合わせに眉を寄せたが、ミーナを連れてくるようにと命じられて、その子が最近入った見習い騎士・オヅマの妹であることに気付いた。

 

 そう時を置かずしてカールに連れられてやって来たミーナは、ようやく見つかった娘にホッとしつつ、ヴァルナルに平身低頭して、何度も謝りながら執務室を出て行った。

 マリーは母に手をひかれながら、閉まっていく扉の向こうのヴァルナルにこっそり手を振る。

 すぐに気づいたヴァルナルも手を振ってくれた。

 

 マリーの心にヴァルナルの優しい笑顔が残った。

 

 

 

 

 その後にマリーは母からも兄からもこってり絞られたが、そんなに気持ちが沈むことはなかった。

 

「ご迷惑ですから、もう二度とあんなところにまで行ってはいけませんよ」

 

と、母からはきつく言われたものの、マリーはあの時のヴァルナルの笑顔を知っている。

 あれは迷惑と思っている顔に見えなかった。それに、あのとき貰ったロンタの実のお礼もまだしていない。

 

 翌日。

 マリーはヴァルナルへのお礼を思いついた。

 

 自分のコップを持ち出し、パウル爺のところに行って、コップに飾れそうな花をいくつか摘ませてもらう。今度は迷子にならないようにパウル爺に付き添ってもらって、前にも来た執務室にやって来た。

 

 コツンコツンとノックすると、カールがパウル爺を怪訝に見た後に、その隣にいるマリーを見て首を傾げた。

 小さな花の入ったコップを持っている。

 

「何か用か?」

 

 カールが尋ねると、パウル爺が軽く頷いてマリーに目をやる。

 カールが視線を下げると、丸い鮮やかな緑の瞳が真っ直ぐに見上げてきた。

 

「領主様にお礼を持ってきました!」

「お礼?」

 

 カールが聞き返すと同時に、扉の向こうからヴァルナルの朗らかな声が響いた。

 

「入ってもらえ、カール」

 

 カールは扉を開けて、マリーを中へと促す。

 マリーは胸を張って、堂々と執務室に入ると、大きな執務机の向こうに座るヴァルナルにペコリと頭を下げた。

 

「やぁ、マリー。今日はもうロンタの実はいいのかな?」

「はい、大丈夫です。今日は、お礼に来ました!」

「ほぅ?」

 

 ヴァルナルが小首を傾げると、マリーは白やピンクの小菊を集めたコップを差し出した。

 しげしげとそのこじんまりした花の贈り物を見つめてから、ヴァルナルはクスリと笑って受け取った。

 

「ありがとう、マリー。わざわざ気を遣ってもらって、すまないね」

 

 マリーはヴァルナルの笑顔が見れたので、もうそれだけで十分だった。

 満面の笑みを浮かべてピョコンとまたお辞儀をして出て行こうとすると、ヴァルナルが呼びかけてくる。

 

「マリー、ところでこのコップは君のかい?」

「はい!」

「花を活けるのに使ってしまって、君のコップがないと困るんじゃないのか?」

「いいえ。もう一つあります。それは少し小さくて、もう使わないから」

「そうか。殺風景な部屋が明るくなったよ。ありがとう」

「はい!」

 

 まさしくそれこそマリーの狙い通りだった。

 このことを思いついたのは、マリーがこの執務室の重苦しい雰囲気を思い出したからだった。花でも飾れば、もうちょっとヴァルナルの笑顔と同じやわらかい空気になるような気がしたのだ。

 

「花が枯れたら、また新しいのを持ってきてくれるかい?」

 

 ヴァルナルの言葉に、マリーは喜んだ。

 自分にしかできない新たな仕事を、領主様直々にもらうことができた。これは母にも兄にも自慢していいだろう。

 

 数日後、菊が萎れてきた頃合いで、マリーは新たな花を摘んで飾っておいた。

 

 しかし、この数日、領主の執務机に見慣れぬこじんまりした花が飾ってあることを不審に思っていた掃除番の下女・ドーリは、花が変わったのを見るとさすがに執事のネストリに報告した。

 

「花を飾るなど……あの領主様が?」

 

 ネストリも最初は信じられなかったが、実際にヴァルナルの不在中に執務室に行ってみると、みすぼらしいコップに貧相な花が活けられている。

 ネストリは眉を寄せると、ドーリに命じた。

 

「理由はわからぬが、領主様が花を飾りたいのであれば、こんな汚らしいものはみっともない。早々に片付けて、花瓶にそれらしい花を活けておけ」

 

 ドーリは忠実に働いた。

 アントンソン夫人にネストリからの命令を伝え、夫人が花を白磁の花瓶に活けた後、それを執務机の端に置いた。

 それから()()()()()()()()()コップを厨房へと持っていく。

 

「ねぇ? これって、ここの?」

 

 母と一緒に厨房で豆の皮剥きをしていたマリーは、そのコップを持ったドーリに驚いた。

 

「そ…どうしてそのコップ持ってるの?」

「え? なに、これアンタの?」

 

 言いながら、ドーリはコップに飾ってあった花を無造作に掴んで、ゴミ捨ての籠に投げ捨てる。

 

「あっ」

 

 マリーは声を上げたが、ドーリは気にも留めずにコップをテーブルに置いた。

 

「なんだか知らないけど、このコップに花が飾られて執務室に置いてあったの。みすぼらしいから、ちゃんとした花瓶に花を活けておけってさ。そのコップ、ここだったら何かに使えるでしょ?」

 

 言うだけ言ってドーリは去っていった。

 

 マリーは呆然となった。

 

 

 ――――― あんなに喜んでくれたのに……みすぼらしいなんて…… 

 

 

 ポロポロと涙が溢れてくる。

 

 ミーナは泣き出したマリーを、そっと抱きしめた。

 マリーが領主様直々に執務室に花を飾ることを頼まれたと、自慢げに言っていたのは数日前のことだ。

 だが、その時からミーナはいずれこんなふうになるのではないか…と危惧していた。

 おそらく領主は、小さなマリーに気を遣ってくれただけなのだろう…と。

 

 ただ……

 

 

 ――――― こんなに早く、こんなにあからさまにすることないじゃないの…!

 

 

 ミーナは傷心の娘の頭をなでながら、少しばかりヴァルナルを恨みに思った。

 

 

【後編につづく】

 




引き続き更新します。


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コップのお花と領主様 後編

 騎士団の演習から戻ってきたヴァルナルは、すぐに執務室に飾られた花瓶の花に気付いて、眉を寄せた。

 無言で椅子に腰掛けて、机を見回すがマリーの活けてくれたコップの花はない。コップすらなくなっていた。

 

 コツコツコツ、と指で机を叩く。

 すぐにパシリコが執事を呼んできた。

 

 ネストリは帰館時に挨拶と簡単な報告を済ませたのに、すぐにまた呼ばれたので、内心首を傾げながら、慇懃な様子で領主の前に立った。

 

「なにか御用でございましょうか?」

「……これは?」

 

 ヴァルナルが執務机の上に置かれた豪勢な花を指さして尋ねると、ネストリは「ああ」と頷いてから、頭を下げた。

 

「お気に召さなかったでしょうか? アントンソン夫人に頼んだのですが…」

「そういうことじゃない。誰がこんなものを置くように言った?」

「は? あ…あの…いえ、ドーリからこの数日、執務机にその…大変みすぼらしいコップに、そこいらの野花を摘んだものを入れただけの…その、花が飾ってあると聞き及びまして、それで……」

 

 話しながら、ネストリは首筋からじっとりと汗が噴き出してきた。

 ヴァルナルの表情は変わりないように見えるが、グレーの瞳が刺すように自分を睨んでいるような気がする。

 

「…それで、領主様の執務室にそのようなわびしい花を飾っておくのは申し訳ないと思い……きちんと花瓶に、相応の花を飾っておくべきかと……思い……まして」

 

 ネストリはヴァルナルの視線を避けて自然と頭が下がっていったが、そのまま「すみません!」と謝る前に、ヴァルナルが軽く手を上げて制した。

 

「そうか。気遣いをさせたな。だが、悪いがこの花瓶は必要ない。正直、執務の邪魔になるのでな。片付けてくれ、今すぐに」

 

 存外、ヴァルナルの口調は普段の仕事を命じるときと変わらなかった。

 ネストリはかしこまって、花瓶を持ち上げた。

 まぁまぁ大きな花瓶だったので、中の水と合わせると相当な重量だった。ブルブルとネストリの二の腕が震える。

 そのまま出て行こうとして、ヴァルナルに呼び止められた。

 

「それで、ここに置いてあったコップの花は?」

「そ…それは……ドーリに持って行かせたので……」

「ではドーリに持ってくるように言え」

「は……はい」

 

 ネストリはとりあえず花瓶を片付けた後、すぐさまドーリを呼んだ。

 執事の機嫌が相当に悪いと同僚から聞いて、頭も低く現れたドーリに、待っていたとばかりに大声で怒鳴りつける。

 

「貴様が余計なことを言うから、あんな重いものを運ぶ羽目になったじゃないか! 執務机に置いてあるものなど、領主様のものであるのだから、余計な詮索をしなければいいものを! とっととあのコップと花を元通りにしておけ!!」

 

 ドーリはさすがにネストリの勝手な言い分に腹を立てたが、たかが下女風情が執事の言うことに逆らっても、後々面倒になるだけと荒い鼻息を吐いて落ち着かせた。それから再び厨房に向かい、ミーナに尋ねた。

 

「ごめんだけど、さっきのコップ…やっぱり戻しておけって言われたのよ。どこにあるの?」

「え? コップは…」

 

 ミーナは視線をさまよわせた。

 あの後、意気消沈したマリーはコップを持って小屋に戻ってしまった。今はパウル爺と草むしりをしているはずだ。

 

「マリーが持って行ってしまって…」

「あら、困ったわね。どうもあのコップの花が良かったみたいなのよ」

 

 ミーナはついさっきまでとはまったく違った状況に、目を丸くして尋ねた。

 

「あの…いったい、何が…?」

「さぁ? なにがなんだかよ、私も。私はいつも通りに掃除して、ここのところ執務机にコップに活けられた花が飾ってある、って言っただけなのにさ。ネストリの野郎が勝手に、みすぼらしいだの抜かしてアントンソン夫人にまで頼んで花を活けてもらったってのに、結局、領主様はお気に召さなかったみたいなの。こってり叱られたんじゃない? ともかく、あのコップの花の方を戻しておけってさ。本当に勝手だよ。いい迷惑」

 

 ドーリは理不尽な執事のことを思い出して、さんざ文句を言い連ねてから、ハアーッとため息をついた。

 ミーナはしばらく考えてから、ドーリに申し出た。

 

「あの…よろしければマリーに伝えて、マリーに持っていかせましょうか? ドーリさんもお忙しいでしょうし」

「あら? そうしてくれる? そうね。領主様もマリーだったら、子供だから怒ったりしないわよ。私もネストリの野郎にさんざ叱られたってのに、この上、また領主様にまで文句言われるのはキツイしさ」

 

 ドーリは自分がこのケチのついた仕事から逃れられるとわかると、スッキリした様子で厨房から出て行った。

 

 ミーナは手早く下拵えを済ませた後、庭にいるマリーに声をかけた。

 

「マリー。さっきのコップは小屋にあるの?」

「うん。もう使わないから、戸棚の奥に置いた」

「じゃあ、もう一度、あのコップにお花を活けて持って行きましょう。領主様は、マリーの用意したお花がよろしいんですって」

「…………」

 

 てっきり喜ぶだろうと思っていたマリーの顔は、また沈んだ。

 

「どうしたの? 領主様のお部屋のお花を飾るおしごと、よ」

「でも…みすぼらしいん……でしょ?」

 

 か細い声で言うマリーに、ミーナは微笑みながらそっと頭をなでた。

 

「そんなことないわ。お母さんはマリーが選んだお花はかわいらしくて好きよ」

「でも……」

「じゃあ、とりあえず持って行って、領主様に尋ねてみましょうか。本当に必要じゃなかったら、正直に仰言(おっしゃ)って下さい…って。それで要らないと言われたら、持って帰って家に飾りましょう。ね?」

 

 マリーはそれでも浮かない顔だったが、ミーナが一緒に行ってくれると言うので、さっきバラバラに散ってしまった勇気を集めて、もう一度ヴァルナルの待つ執務室へと向かった。

 

 それでも大きな扉の前に来ると、気持ちが沈む。

 マリーはあの時入った執務室の重厚な雰囲気を思い出した。

 

 確かにあの重苦しい雰囲気を和らげようと花を飾ることを思いついたものの、自分の持っているコップに入っている小さな花々はあまりにも貧相でみすぼらしい。

 どう考えたって、立派な花瓶に活けられた、パウル爺が丹精して育てた温室の花を飾った方が、派手で見栄えもいいだろう。

 

「マリー? どうしたの?」

「……やっぱりいい」

 

 マリーは回れ右して立ち去りかけたが、その時、扉が開いてパシリコが顔を覗かせた。

 ミーナとマリーをそれぞれ一瞥した後に声をかけてくる。

 

「ご領主様がお呼びです。中に入るようにと」

「あ…はい」

 

 ミーナは頷くと、その場に踏ん張って動こうとしないマリーの背を軽く押す。

 

「マリー……入りましょう」

「……やだ!」

「マリー、きっと大丈夫よ」

 

 ミーナは優しく励ましたが、マリーの顔はギュッと眉を寄せたまま固まっている。

 困っていると、ヴァルナルが出てきた。マリーの姿を見て、ニコリと笑ってひざまずく。

 

「持ってきてくれて、ありがとう。マリー」

 

 受け取ろうと手を伸ばしたが、マリーは花の入ったコップを抱きしめるように持ってプルプルと頭を振った。

 

「駄目なの」

 

 目を真っ赤にしながら、震える声でマリーがつぶやく。

 ヴァルナルは首を傾げた。

 

「なにが駄目なんだ?」

「だって……私のお花…みすぼらしいの。小さくて、みっともないの」

「そうだろうか? マリーはそう思うのか?」

 

 反対に尋ねられ、マリーは困ったように黙り込む。ヴァルナルはポンと優しくマリーの頭に手をやる。

 

「マリー。私はね、正直、花のことはよくわからない。しかし、仕事の途中で君の花を眺めるのは大好きなんだよ。どうしてだと思う?」

「………お花がきれいだから?」

「そうだな。それもある。だけど、それ以上に君が私のために選んで摘んでくれたことが嬉しいと思うんだよ。仕事で疲れたときに、マリーの花を見たらそういう気持ちを思い出して、とても心が休まるんだ。だから、この数日はとても仕事がはかどった。ロンタの実が必要なかったくらいだ」

 

 マリーはあの酸っぱさを思い出して、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 顔を上げると、あのときと同じヴァルナルの笑顔があった。

 マリーはもう一度、持っているコップの花を見つめた。

 

 ピンクの撫子(なでしこ)、カモミール、霞草……。

 

 どれも頼りなげではかない。

 確かにみすぼらしくも見えるのだろう。

 けれど…どの花も美しく、力強いのだ。花はそこに咲いているだけで、どんなに傷ついた心でも、元気づけてくれるのだから。

 

 マリーがコップを差し出すと、ヴァルナルは受け取って、深々と頭を下げた。

 

「ありがとう、マリー。これからもお願いするよ」

「はい! 頑張ります!」

 

 ヴァルナルは微笑んで立ち上がると、くしゃくしゃとマリーの頭を撫でた。

 ちょっと力が入って荒々しかったが、マリーにはその強さがヴァルナルの愛情に思えた。

 

 

 

 

 ミーナは例の紅熱病(こうねつびょう)の騒動の後、オリヴェルの世話を任されるようになっていたが、時々に、報告も兼ねてヴァルナルと一緒にお茶を飲むようになっていた。

 

「そういえば…」

 

 たまたまマリーの話題となったときに、ヴァルナルはマリーと出くわした経緯を話した。

 

「……怖がらせてしまったかと思って、なるべく小さくなって話しかけたんだが…」

 

 ミーナは話を聞きながらその時の様子を思い浮かべて笑っていたが、ふと思い出すことがあって、途端に目の前のヴァルナルに申し訳ない気持ちになった。

 

「あのときは……すみません」

「ん? どうして謝る?」

 

 ヴァルナルがキョトンとして、俯くミーナに尋ねる。

 ミーナはしばらくどう言えばいいのかと迷っていたが、思いきって白状した。

 

「あのとき私、誤解して…領主様にその…少し……腹が立ってしまいまして」

「え?」

「最初、ドーリさんがマリーの飾ったコップの花を持ってきた時に、すっかり領主様のご指示だと思って、こんなにあからさまに…邪険にしなくてもいいのに…と、ちょっと恨んでしまったんです」

「…………」

 

 ヴァルナルは唖然として黙りこくった。

 

 ミーナは上目遣いにヴァルナルを見て、身を縮めると、もう一度謝った。

 

「本当に申し訳ございません! まだ勤め始めて間もない頃とはいえ…失礼な勘違いでした。今後は気をつけます」

 

 真面目くさって頭を下げるミーナをまじまじと見つめた後、ヴァルナルは耐えられないように大笑いした。しばらく笑い続けるので、今度はミーナがキョトンとなった。

 

「ハハッ! いや…何を言い出すかと思えば、わざわざ自分からそんなこと言うなんて…本当に貴女(あなた)という人は正直というか……」

 

 ミーナはヴァルナルに指摘されて少しきまり悪かったが、いつまでもヴァルナルが肩を震わせて笑っているので、さすがに注意した。

 

「そんなに笑うことではありませんわ」

「いや、確かにそうだ。貴女が誠実な人だということがわかって何よりだ」

 

 ヴァルナルは言ってから、どうにか笑いを収めると、再びミーナを見つめた。

 さっきまで大笑いしていたのに、今度はやや微笑を浮かべながら自分をじっと見つめてくるヴァルナルに、ミーナは首をかしげた。

 

「なにか…?」

「いや」

 

 ヴァルナルはフッと目を伏せると、少しはにかみつつ、つぶやいた。

 

「貴女がここに来てくれて良かったと、思ったんだ」

 

 ミーナはその言葉をまともに受け取って、真っ赤になって俯いたが、すぐに心の中で注釈を加えた。

 

 

 ――――― 違うわ。私が来たことで、マリーやオヅマが来てくれたことが嬉しいと仰言(おっしゃ)っておいでなのよ!

 

 

 フゥ、と息を吐いて心を落ち着けてから、ミーナは顔を上げた。ヴァルナルの顔が少し赤いように見えたが、気のせいだと思うことにした。

 

 

*** ** ***

 

 

 この堅牢なるミーナの心が解れて、ようやく二人が結ばれるまで、まだしばらく時間が必要であったことは、もはや言うべくもないだろう。

 

 彼らが晴れて結婚し、ヴァルナルの娘となった後も、マリーは父親の執務室にコップの花を飾る仕事はやめなかった。

 

「これは私の最初の仕事。これからもずっと続けるの。前は領主様のため。今はお父様のためにね!」

 

 

【END】

 




しばらくお休みします。
次回は2023.02.05.に更新予定です。

今後ともよろしくお願い致します。


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第二部 第一章
第百十四話 公爵邸への長い道


 ガタン、と大きく揺れて馬車は止まった。

 中に座っていたキャレ・オルグレンは、そっと窓のカーテンを開いた。オリーブグリーンの瞳が落ち着きなく外の様子を窺う。

 

 鹿のレリーフがされた美しい白の門柱と、磨き上げられた鍛鉄(ロートアイアン)の門が見えた。

 

 落ち着かない手が知らず知らず、パサついた硬い赤髪を掴む。

 

 馭者がキャレのことを伝えると、門番は馬車の側面に取り付けられていたオルグレン家の紋章を確認し、馭者に二三、質問する。

 その答えを聞くと、おもむろに、大音声で呼ばわった。

 

「オルグレン男爵家、入場也ィ」

 

 門が声に合わせてゆっくりと開く。同時に門番小屋から白い鳩が飛び立った。おそらく公爵邸へ客の来訪を(しら)せる鳩だろう。

 馬車がふたたび走り始める。

 門のあたりは石畳の敷き詰められた開けた場所になっていたが、すぐにくねった並木道に入った。冬枯れのメタセコイアが、高く、わびしく、陰鬱な空に伸びている。

 

 とうとう、入ってしまった ―――――

 

 キャレは唇を噛みしめると、腹を押さえた。

 キリキリ痛む。

 いずれ来る、やがて来ると思っていた日はあっという間にやって来て、キャレを逃さなかった。

 これから先のことを考えるだけで、背中に冷や汗が伝う。

 

 

***

 

 

 キャレが兄であるセオドア・オルグレンから、公爵嗣子であるアドリアン・グレヴィリウス小公爵の近侍(きんじ)になるよう()()されたのは、一月(ひとつき)ほど前のことだった。

 

「小公爵と同じ年頃の近侍を…とのことでな。残念ながら我ら()()()適当な年頃の男児はいない。仕方なく、貴様に白羽の矢が立ったというわけだ」

 

 その声音も、言葉も、彼がキャレのことを兄弟として認めていないことは明らかだった。

 セオドアはキャレよりも十歳年上の二十一歳。

 つややかなルビー色の髪はキャレと同じであったが、水色の瞳はいつも冷たい。深く刻まれた神経質そうな眉間の皺は額まで伸び、実年齢よりも十歳は老けて見えた。

 キャレにとっては幼い頃から頭を下げることが当然の存在で、単純に兄と慕うことは許されなかった。

 

 父であるファルミナ領主セバスティアン・オルグレン男爵には一番目の妻と、その後に迎えた二番目の妻との間に二人の息子と二人の娘がいたが、彼らとキャレは同等ではない。

 キャレの母はオルグレン家の下女で、たまたま酔った領主が気まぐれで手を出したに過ぎず、懐妊するなど想定外であったのだ。たとえ領主様の子供であったとしても、庶子などはまともに扱ってもらえるはずもない。

 

「で、でも…僕…」

 

 久しぶりに兄がこのみすぼらしい離れを訪れることだけでも、キャレ達にとっては驚くべきことで、その上、いきなりそんな話をされても困惑するしかなかった。

 何を言うべきなのかキャレが言葉を探していると、兄はまるでキャレの返事など最初から聞く気もないとばかりに立ち上がった。

 

「ま、あの小公爵であれば、貴様のような庶子風情がちょうど似合いというものだ」

 

 堂々と、目上であるはずの小公爵に対して無礼なことを言う兄に、キャレはビクビクしつつも注意した。

 

「そ、そんな…グレヴィリウスの小公爵様に、失礼なのでは…?」

 

 兄はジロリとキャレを見ると、一歩近寄って、キャレの真っ赤な髪を鷲掴みにした。

 

「誰に、何を、言っている? 私に諫言だと? んん? 貴様が? この私に?」

「す…みませ…」

 

 最後まで謝ることすら許してもらえなかった。

 兄は苛立たしげにキャレの髪を掴んだまま、椅子から引きずり下ろし、壁に向かってキャレを投げつける。

 容赦ない暴力にキャレはうぅ…と呻いて、床に転がった。

 兄は指の間に残ったキャレの千切れた真っ赤な髪を、陰鬱な目で見つめた。

 

「…フン、忌々しい。下賤の血を引きながら、オルグレンの証を受け継ぐとは…」

 

 フッと吹いて指の間の髪を散らし、再び扉へと向かう。

 ドアノブに手をかけたところで、クルリと振り返って唇を歪めた。

 

()()()()行っても構わないぞ。せいぜい四、五年ほどのことであろうからな。だが、()()オルグレン家の名を(けが)すような真似はするな」

 

 

***

 

 

 キャレはあの時の兄の顔を思い出し、キュッと身を縮めた。

 兄は()()()()()()言ったのだ。『どちらでも』と。

 そう言えば、キャレ達がどういう選択をするのかをわかった上で。

 

 普通に考えれば、男爵家の庶子風情がグレヴィリウス大公爵様の跡継ぎである小公爵様に仕える…というだけでも不敬かもしれぬのに、その上でキャレの選択は無礼極まりない。

 バレれば即座に処断され、下手をすれば首が飛ぶかもしれない。

 

 にもかかわらず、兄は余裕綽々としていた。

 まるで小公爵様の不興をかっても構わない、とでも思っているかのようだった。

 だとすれば、兄にとってキャレは捨て駒同然だ。

 今は一応、小公爵の側にキャレを置いておく必要があるが、いざ何かあれば切り捨てる気だろう。

 兄の冷酷な水色の瞳を思い出し、キャレの胃がまたキリリと痛んだ。

 

 自分の先に続く道が、どんどん地獄に続いているように思える。

 それにしても長い。

 曲がりくねった道の先に、まだ公爵邸は見えない。

 気付けばメタセコイアの並木道は終わり、今度は糸杉の連なる並木となっていた。背の高い、太い幹の糸杉は百年をゆうに越しているように見える。何十本もの木々が百年ちかく、無事に成長してきたということが、グレヴィリウスという家の強固な歴史を表しているような気がする。

 

 キャレはブルリと震えた。

 この先、自分は戦場に赴くのだ。

 決して本心を出してはならず、決して()()()()()()()()()()

 

 キャレが覚悟した後も、糸杉の並木道はまだ続く。

 門に入ってから延々と続く道に、もしかすると公爵邸とは別の場所に向かっているのではないのか…と、疑い始めたとき、ようやく並木道が切れて、いきなり光が窓から差し込んできた。

 

「あぁ、やっと着いた~」

 

 安堵する馭者の声が聞こえてきた。彼もやはり長いと思っていたのだろう。

 

 ふたたび窓から覗いてみると、そこには有り得ないほど広大な庭園が広がっていた。

 きれいに刈り込まれたシュラブ、規則正しく植えられたモクレンやコブシの木。所々に雪の残る広大な一面の芝生と、同じくらい大きな池。やや急な勾配を降りて整備された道に沿ってゆけば、池から引かれた小さな人工の川の先に、噴水があった。馬車はその巨大な噴水の周囲に沿って進んでゆく。

 いくつかの馬車が、噴水正面の巨大な建物の前に停まっていた。

 

 ここがグレヴィリウス公爵家の本領邸。

 しかし小さな窓から見える程度であっても、そこは邸宅というより、もはや城だった。

 さすがにパルスナ帝国がまだ小さな王国であった頃から、功臣を輩出してきた家柄であれば、ここまで宏壮で雄大な居城を持つに至るのだろう。

 

 馬車が止まる。

 キャレはここで降りるのかと腰を浮かしかけたが、外から馭者と話している大声が聞こえた。

 

「案内するから、ついてきてくれ」

 

 公爵家の使用人だろうか? ずいぶんと若い声だ。

 

「ここじゃないのか?」

 

 遠くファルミナからキャレ一人のために長旅をしてきた馭者は、うんざりしたように返す。

 

「ここで降りてもいいけど、小公爵様の別館までまた歩かないといけないんだよ。これがまた長いんだ。それにアンタだって、ここだと用が済んだら、とっとと出てけと追い出されちまうぜ。あっちだったら、とりあえずホットワインにビスキュイぐらいは用意してある」

 

 くだけた口調だったが、寒い中、ずっと外で手綱を握っていた馭者をいたわってくれているのは伝わってきた。

 声の主に興味がわいて、キャレは窓から覗き見たが、亜麻色の後頭部が見えただけだった。馬に乗っているらしい。キャレとそう変わらない年の少年のようだ。

 

「オホッ、ありがてぇ。じゃ、そっちに行くとしよう」

 

 馭者はあっさりワインにつられて、再び馬に鞭を当てる。

 先導する少年のあとに続いて、また馬車は動き出した。

 反動で再び椅子にドシンと座る羽目になってから、キャレはため息をついた。

 

 公爵邸の門をくぐってから、何度も覚悟して疲れてきた。

 こうなると、もう早くたどり着いてほしい。……

 

「………長い」

 

 キャレはムッスリとつぶやいた。

 

 

***

 

 小公爵の住居であるアールリンデン公爵本邸の西館に着いた頃には、キャレは緊張が続きすぎて、ぐったりしていた。

 それでも本番はここからなのだ。気を奮い立たせて、停車した馬車からゆっくり降りる。

 

 西館の玄関前庭園はさすがに先程通り過ぎた正面玄関ほど壮麗なものではなかったが、それでもファルミナの領主屋敷の玄関前よりも広く、きれいに整備されていた。

 中央の噴水には羽のある少女像が水甕(みずがめ)を持って、そこから水が放物線を描いて落ちている。その周囲を囲む冬枯れの芝生は、ほんのりと雪に覆われていた。

 正面玄関から続いてきた石畳の道は、この噴水周りをぐるりと囲んで、一つは西館脇の道へと細く伸び、一つは来た道に戻るように作られている。脇への道はおそらく厩舎にでも繋がっているのだろう。

 

 館の周囲には一定間隔で配された七竈(ナナカマド)の木が、赤い実をつけていた。

 この木は小公爵の住まいである西館を象徴する木で、そのために西館は別名を七竈(ナナカマド)の館、引いては小公爵自身を示す隠喩としても使われる。…というのは、キャレがファルミナにいた頃に、唯一親しく話すことができた騎士のおじさんから聞いた話だ。

 

 庭園の隅に並んだ花壇は、まだ春と呼ぶには早い季節であるせいか、何も植わっていない。淡いベージュ色の煉瓦が積まれて作られた花壇の中央部分にはタイルが嵌め込まれており、そこにはスズランの絵が描かれていた。おそらく春になれば、この花壇にはグレヴィリウス家の象徴であるスズランの花が並び咲くに違いない。

 

 そんなことをキャレがボンヤリ考えている間に、乗ってきた馬車は西館脇へと続く石畳の道を去って行ってしまった。

 一人取り残されたキャレは途方に暮れる。困惑と怯えを浮かべたオリーブグリーンの瞳が、キョロキョロと辺りを見回す。

 

「ようこそ、アールリンデンへ」

 

 いきなり呼びかけられてキャレはビクリと震えた。

 本来、歓待を示すその言葉に身構えてしまったのは、そこに人を見下すかのような横柄さが滲んでいたからだろう。すぐさまキャレの脳裏に長兄の姿が浮かび、声の主を見る顔が強張る。

 

 見上げた先、幾何学模様の彫刻がされた玄関扉の前に立っていたのは、金髪を後ろにきれいに撫でつけた、いかにも近侍らしい身なりのきちんとした少年だった。

 細いターコイズブルーの瞳が鋭くキャレを見て、素早く品定めする。

 

 キャレは一気に気まずくなって、身をすぼめた。

 その様子に少年はフンと明らかに見下した笑みを浮かべる。この時点でキャレは少年よりも下の地位になってしまったようだ。

 

「失礼だが、まずは貴君の名前を伺おうか」

 

 自分の名乗りをせずに、相手の名を問う時点で、それは決定的だった。

 キャレは憂いた顔で、ボソボソと名乗った。

 

「キャレ・オルグレンです」

「………どこのオルグレンだと?」

 

 少年は眉を寄せて、馬鹿にしたように尋ねてくる。

 そんなこと、本当は言わなくてもわかっているだろうに。

 オルグレン男爵家からキャレが小公爵様付きの近侍として行くことは、既に連絡がきているだろうし、こうして来るのがわかっているから待ち構えていたに違いないのだから。

 それでも格式を重んじる貴族であれば、名乗りすらまともに出来ぬことは恥とされる。

 

「ファルミナ領主、セバスティアン・マレク・オルグレンの息子であるキャレ・オルグレンです」

「………で?」

 

 少年は厭味ったらしく問いかけてくる。キャレが困惑して黙り込むと、大仰にため息をついて肩をすくめた。

 

「やれやれ、さすがに庶子というだけあって、まともな教育も受けていないのだな」

 

 キャレはカッと赤くなった。やはり、そのことも伝えられていたのか…と深く恥じ入る。

 しかし庶子とわかっているのに受け入れてくれるとは、公爵家はずいぶんと寛大だ。それともやはり兄の態度からしてもそうであるように、小公爵様は家臣らから相当に侮られているのだろうか。

 

 どうやら自分はあまり将来に期待が持てない人に仕えることになったらしい…と、キャレが暗澹とした気分でいると、溌剌と張りのある声が響いた。

 

「なんだよ、まだそこにいたのか、お前ら」

 

 振り向けば、亜麻色の髪の少年が建物横の小道からこちらに歩いてくる。

 おそらく、さっきの先導役の少年だろう。約束通りに馭者を案内してくれたようだ。

 お礼を言おうかと思ったが、先に金髪の少年が怒鳴りつけた。

 

「オヅマ、貴様…なんだその格好は!」

 

 オヅマ…と呼ばれた亜麻色の髪の少年が、面倒そうに首を傾げる。

 

「なにが?」

「上着はどうした? クラバットをしろと、いつも言っているだろうが!」

「うるせぇなぁ。クラバットなんぞつけてられっか、鬱陶しい。上着はキツイし」

「新しいのが届くまでは我慢して着ろ!」

 

 亜麻色の髪の少年はハァとあらぬ方を向いてため息をつくと、相手にするだけ無駄とばかりにキャレの方へと視線を向ける。薄紫の瞳がじっとキャレを見つめてきたが、先程の金髪の少年の品定めするかのような視線と違って、純然と興味深そうな様子だった。

 

「すっげー髪だな。柘榴(ザクロ)みたいな色じゃねぇ?」

「あ……」

 

 キャレがどう言えばいいのか困っていると、金髪の少年はまたフンとあきれたように鼻を鳴らす。

 

「オルグレン家の赤毛といえば有名だろうが。そんなことも知らないのか、貴様」

「その程度のこと覚えてるからって、いちいちひけらかすようなことでもねぇだろ。ほんっとにお前、自慢したがりだよな」

「なっ!」

 

 怒鳴りつけようとした金髪の少年を無視して、亜麻色の髪の少年はキャレに手を差し出してきた。

 

「俺、オヅマな。あーと…一応、オヅマ・クランツって名前だ。お前は?」

「キャレ・オルグレン…です」

 

 やや遠慮がちに言いながらキャレも手を出すと、オヅマはぐっと握手した。

 

「おう、キャレか。言いやすいな。よろしく」

「………よろしくお願いします」

 

 思っていたよりも強い力に、キャレはドキリとした。また小さく体が縮こまりそうになる。

 

「こいつの名前聞いたか?」

 

 オヅマが金髪の少年を指さして尋ねてくるので、キャレは素直に首を振った。

 

「なんだよ、まだ言ってないのか? っとに、いちいち勿体ぶるよなぁ」

 

 あきれたように言いながら、首筋をポリポリ掻く。

 金髪の少年はさっきからのオヅマの態度に怒り心頭のようだった。

 

「なっ…ぼっ、僕は……注意してやっているんだろうが!」

「注意する前に自己紹介くらいしろよ。あ、こいつの名前はマティアスな。怒りん坊マティって呼んだら、たいてい振り返る」

「誰が怒りん坊マティだ! マティアス・ブルッキネンだ。アハト・タルモ・ブルッキネン伯爵の息子にして、グレヴィリウスの青い(ほこ)、ブルッキネン伯爵家の()()なる跡取り息子だ!」

 

 マティアスはわざわざ『正統』を強調して言ったが、オヅマはまったく意に介していないようだった。無視を決め込んで、キャレを館内に(いざな)う。

 

「じゃ、早く行こう。アドル…っじゃねぇ……小公爵さまがお待ちだから」

「よろしくお願いします」

 

 キャレは深々とお辞儀した。

 

 これでようやく公爵邸の()に入れる。

 長かった。ファルミナ領を出てから長かったが、公爵家の門からここに至るまでの道が、最後の最後で追い打ちをかけるように延々と続いて、キャレは正直、疲労困憊だった。

 

 そうした感想を持ったのは、キャレだけではなかったようだ。

 オヅマは小公爵の部屋に案内しながら言った。

 

「門からここまで長かったろ~? 俺も初めてここに来たときにさぁ、長くて長くて、もう眠くって…」

 

 




次回は2023.02.12.投稿予定です。


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第百十五話 マリーの見送り

 キャレがアールリンデンにやって来る三ヶ月前 ――――

 

 

 ヴァルナルとミーナの結婚の後、オヅマは自分に思わぬ仕事が課せられていることを知った。

 

「近侍って、なに?」

 

 問い返すオヅマに、ヴァルナルの隣に座っていたアドリアンが気まずそうに答えた。

 

「僕をそばでお世話する……係?」

「なんだよ、それ」

 

 オヅマはあきれた顔になった。

 

「お前、まだ世話してもらわねぇといけないの? まさか自分のケツも拭けないとか?」

「そうじゃない!」

 

 アドリアンは真っ赤になってすぐさま否定したが、かといって適当な説明も思いつかない。助け舟を出したのはヴァルナルだった。

 

「公爵家のような大貴族の後継者は、そうした職務の者達が側に仕えるということだ。無論、手助けするようなこともあるが、召使いのような日常生活での細かいことはしない。どちらかというと、小公爵様と一緒に勉強したり…あとは客の相手をしたり…」

「なにそれ。俺、そんなの無理。口悪いから」

 

 オヅマはあっさりと一蹴した。自分が生意気で口の減らないガキであることは、自他共に認めるところだ。

 

「………」

 

 アドリアンは否定もできず、残念そうに目を伏せる。

 あまりにもしょんぼりしたアドリアンを見て、ミーナがとりなすように言った。

 

「そうは言っても、ジーモン先生のお陰で、あなたも随分と礼儀作法については身についてきたわ。語学もミドヴォア先生が最近ではとても集中しているって褒めてくれていたし…」

 

 オヅマは母の言葉をむず痒い気持ちで聞いていたが、ふと気付いて眉を寄せた。

 

「ちょっと待って。もしかして、俺がオリヴェルと一緒に勉強してたのって、これのため?」

 

 ヴァルナルとミーナは目を見合わせた。問いかける視線に答えたのはヴァルナルだった。

 

「あぁ、実は前々から公爵閣下からも……はっきりとではないが、お前を小公爵様の近侍にするのはどうか…という申し出があってな」

 

 オヅマはますます眉間の皺を深めた。一気に険しい顔になる。

 

「まさか…そのために母さんと結婚したんですか?」

「違う!」

 

 ヴァルナルは即答した。それだけは断じて否定した。

 それこそ、そうした誤解を招くからこそ、ヴァルナルとしてはオヅマをアドリアンの近侍にすることに躊躇したし、ミーナが勘違いしないように腐心してきたのだ。

 

「この話が出る前から、ミーナのことは好きだったんだ。もし、この話がなくとも、私はミーナを愛しているし、結婚も――――」

「あ、もういいです」

 

 オヅマはそれ以上聞きたくなくて、すぐさま断ち切った。

 言われなくとも、ヴァルナルが母のことを()()()()()()大事に思っているのは、わかっている。

 今更ノロケ話など、ご勘弁願いたいところだ。

 それはミーナも同様であったようで、赤く上気した頬に手を当てながら、また話を元に戻す。

 

「私は、前にも言ったようにいい話だと思うのよ。色々と大変でしょうけど、小公爵さまと勉学をご一緒する機会なんて、そうそうあることではないし、見聞を広めることはあなたにとって無駄にならないと思うの」

「小公爵さま…ねぇ」

 

 オヅマにはいまだにアドリアン―――アドルが、あのグレヴィリウス家の小公爵様であるということ自体、信じられない。

 

「どうしても嫌なら、無理にとは言わないよ」

 

 なんて…気の弱いことを言っているアドルが小公爵さま?

 将来のグレヴィリウス公爵?

 嘘だろう、と笑ってしまいたくなる。

 

「嫌とかじゃねぇよ。でも、俺はこんなだし、お前に迷惑かけるだろ、どっちかというと」

「大丈夫だよ」

 

と言ったのは、それまで静かに話を聞いていたオリヴェルだった。

 

「オヅマはわりと人を見てるもの。オヅマが無礼な口をきくのは、そういう言い方を許してくれそうな人か、反対にオヅマがものすごく軽蔑してるかしているような人だから、心配するほど迷惑なことにはならないよ」

「オリー……お前それ、褒めてるっつーか…どちらかっつーと、(けな)してないか?」

 

 オヅマは複雑な気分になって聞き返した。なんとなく自分がとんでもない奴に思えてくる。

 だが、オリヴェルはまったくの善意であった。

 

「だってジーモン先生にはとても丁寧に接してるじゃないか。ミドヴォア先生にだって。反対にトーマス先生になんか、それこそ騎士の人たちと変わりないくらいくだけた感じだし。あと、パウル爺にも時々フザけたこと言ったりするけど、ものすごく敬っているっていうのはわかるもの」

「もういい」

 

 だんだん恥ずかしくなってきて、オヅマは遮ったが、今度はマリーが口出ししてくる。

 

「お兄ちゃんが言いたいこと言って、ときどき口が悪くなることぐらい、アドルは最初からわかってるわよ。ねぇ? それでも来て欲しいっていうんだから、公爵様の後を継ぐためのお勉強って、よっぽど大変なのよ。お兄ちゃんはアドルを助けてあげようって思わないの?」

 

 鋭く急所をついてくるマリーに、オヅマは詰まった。

 ヴァルナルが感心したように唸り、アドリアンもまた驚いたようにマリーを見つめた。オリヴェルとミーナは、いかにもマリーらしい言いように微笑んでいる。

 

「………わかったよ」

 

 オヅマは観念した。

 そもそも『クランツ男爵の息子』なんてものになった時点で、もうこれから先のことを考えてもどうしようもない。

 小公爵様の近侍なんて、自分にできるかどうかはわからないが、仕える相手がアドリアンであるのは、まだしも救いだ。これで馬鹿で高慢ちきなお坊ちゃんだったら、喧嘩を売って早々に勘当される羽目になるだろう。

 

 その後、公爵の名代としての役割を終えたアドリアンと共に、アールリンデンに向かうことにした。

 

「いいのか? 君にだって、いろいろと準備というか……用意するものがあるだろう?」

 

 アドリアンが驚いて尋ねると、オヅマは肩をすくめた。

 

「そんなもん、ねぇよ。いつでも身一つでどうにでもできるようにしてるからな」

「でも…別れを惜しむ時間だって」

「そーゆーのが苦手なんだよ。別に今生の別れってわけでもねぇのに。決まったらとっとと行動したいんだ、俺は」

 

 出立の日。

 

 オリヴェルはさすがに寂しそうであったが、マリーはにっこりとアドリアンに注文した。

 

「じゃあ、お兄ちゃんを貸してあげるから、時々、何をしているのか教えてね、アドル」

 

 最初から兄が手紙もろくすっぽ書かないであろうと想定しているらしい。たぶんそれは間違いない…と、オヅマも納得できたので、文句もなかった。

 その上で小公爵であるアドリアンに近況報告を寄越せと言うあたり、マリーもオヅマに負けず劣らず大胆なのだが、不思議と誰も違和感を持たなかった。

 

「わかった。困ったときには、マリーに教えを乞うことにするね」

 

 言われたアドリアンもニッコリ笑って応じると、オヅマはむぅと眉を寄せた。

 

「なんだよ、俺がよっぽど問題児みたいに言いやがって…」

「そうだって自分でも言ってたじゃないの!」

 

 ピシャリとマリーが言うと、オヅマは黙り込むしかない。周囲に集まった家族と、レーゲンブルト騎士団の面々、領主館の使用人たちは、大笑いした。

 

 おそらく数年はレーゲンブルトに戻ってこない…長期間に及ぶお別れだというのに、愁嘆場になることもなく、オヅマは旅立った。

 皆が笑顔で見送ってくれたことが、オヅマには有り難かった。下手に泣かれでもしたら、ましてマリーにでも泣きつかれて、行くなと駄々をこねられたら、とてもじゃないが出発できなかったろう。

 

 オヅマは、妹がもう自分だけを頼ることがなくなったことに、少しばかり寂しさを感じつつも、ホッとしていた。

 今は母も、オリヴェルも、ヴァルナルもついてくれている。

 もうオヅマ一人だけで、マリーを守ってやる必要はない。――――

 

 実のところ、マリーは遠くに行く兄に心配かけまいと、必死に笑って見送ったのだ。オヅマの乗る馬車が見えなくなった途端、大泣きして、ヴァルナルに抱っこされて館に戻ってからも、泣き止まず、泣きながら眠ってしまった。

 

 そのことをオヅマが知るのは、もっとずっと後になってからだ。……

 




引き続き、投稿します。


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第百十六話 三人目の近侍

「……で、あんまり長いから、着いたら起こしてくれって頼んで、もう一回寝たんだよ」

 

 キャレは聞きながら、迂闊に相槌をうっていいのか迷った。

 

 どうやら目の前を颯爽と歩く少年―――オヅマは、相当に小公爵様と仲が良いらしい。だが隣を歩くマティアスは、オヅマの話にずっとブツブツ文句を言っていた。

 

「…ったく、不敬な…小公爵さまに起こしてもらうなど考えられん。クランツ男爵はいったいどういうつもりで…そもそも公爵様だって……」

 

 二人の様子を慎重に窺いながら、キャレは考える。

 

 下手にオヅマの話に迎合しても、マティアスから不興をかいそうだ。さっきからの態度を見ても、彼がオヅマに対して相当に不満を持っているのはわかる。

 何かにつけてネチネチと嫌味を言われたり、くだらない意地悪をされては面倒だ。

 なにより彼が伯爵家の嫡子であるなら、男爵家の子息に過ぎないオヅマなどは本来太刀打ちできる相手ではない。

 

 確かにクランツ男爵の勇名はキャレも耳にしたことはあるが、結局のところはキャレの父と同じく一地方領主に過ぎず、ましてサフェナ=レーゲンブルトはキャレの住んでいたファルミナよりも帝都から遠い北の辺境だ。

 申し訳ないが豊かな領地とも言い難いし、グレヴィリウス公爵家において、とても厚遇されている印象は受けない。

 

 だとすれば、たとえ今、小公爵様に気に入られているとはいえ、オヅマにすり寄るというのは、少々短絡的だろう。

 身分の上ではマティアスの方がキャレやオヅマよりも上なのだ。

 彼をないがしろにすれば、将来的に報復をしてくるかもしれない。

 

 それに小公爵様がオヅマを気に入ってるといっても、それも気まぐれで一時的なものかもしれない。だいたい、その小公爵様ご自身がグレヴィリウス公爵家内において微妙な立場なのだ。

 

 ともかくも目立たぬように、どちらに加担することもなく、中立、無難に過ごす。これが一番いいのだろうが…果たしてうまくいくのか。

 

「……おい」

 

 いきなり目の前にオヅマの顔が迫っていて、キャレは「ヒャッ」と飛び退った。

 

「な…なな何でしょうか?」

 

 あわてて尋ねると、オヅマはキョトンとした顔でキャレを見て、首を傾げた。

 

「お前、いくつだ?」

「……じゅっ、十一です」

「十一? じゃあ、アドル…小公爵さまと同じ年じゃねぇか。なんだ、もっと年下かと思ったぜ」

「まったく…お前は同じ近侍となる者たちについての身上書も読んでいないのか? 年齢のことなど、名前の次に書かれてあるだろうが」

 

 マティアスがまたイライラした調子で注意すると、オヅマはケロリと答える。

 

「あんなもん、読もうが読むまいが、来てから当人と話せばいいだろ」

「そんなことで小公爵さまの近侍が務まると思っているのか! ちゃんと互いの身分もわかった上で…」

「身分なんざ、どうせ俺が一番下なんだろ。だったら見るだけ無駄無駄~」

「一番下だと思うなら、もう少し態度を――――」

 

 マティアスの抗議をまたオヅマは途中で無視して、キャレに尋ねてきた。

 

「十一ねぇ…。年のわりに体小せぇし、お前、まだ声変わりとかきてないの? 高い声だな。まぁ、マティのキンキン声よりはマシだけど」

 

 キャレはギクリと顔が強張った。なにか言おうとするものの言葉が出てこない。

 だが、幸いにもマティアスの怒鳴り声で、キャレの動揺はかき消された。

 

「誰がキンキン声だっ!」

「あぁ、うっせ。発情した猫よりうるせぇ」

 

 オヅマはうんざりしたように吐き捨てる。

 その言葉にマティアスは一気に耳まで赤くなって、ますます声高に怒鳴りつけた。

 

「はっ、発情ッ? きっ、貴様…よくもそんな…破廉恥なッ」

「破廉恥ィ? お前こそ、何考えてんだよ。顔赤くして。さてはイヤラシイこと考えたな?」

「オヅマ・クラぁンツっ! 貴様ァァ、今日という今日は許さんぞッ!」

「ほぉ? じゃ、どうすんだ、今日は?」

「…………かッ…家令のルンビック子爵に言ってやる!」

「なんだよ、またか。ルンビックの爺さんだって、口論程度のことで言ってくるなって怒ってたろうが。近侍同士のいざこざは、近侍同士で解決しろって」

「貴様に問題があるからだろうがあッ! どうして俺が叱られねばならんのだっ」

「そりゃ、お前が近侍筆頭とか自分で言ってるからだろ。どうにかしろよ」

「それが筆頭に対する口の聞き方かッ!!」

 

 キャレは呆然と二人の言い争いを見ているしかなかった。

 下手に止めに入って、また自分の声に興味を持たれるのも避けたい。今度は彼に違和感を持たれないように…と、とりあえず唾を呑み込んだ。

 

「いつまで小公爵さまを待たせるつもりだ」

 

 ようやく止めに入ったのは、太く、低い声だった。

 決してマティアスのように怒鳴りつけているわけではないのに、ささくれだったその場の空気を鎮めるだけの、包容力を感じさせる男の声だ。

 

 オヅマの背後から近付いてきたのは、キャレが見上げるほどに背も高く、ガッチリとした体格の男だった。

 短く刈った胡桃(くるみ)色の髪と、同じ色の小さな瞳は無表情で何を考えているのかわからない。

 オヅマは肩をすくめて、進んでくる男に道を開け、マティアスはフンと鼻をならしつつも黙り込んだ。

 

 男はキャレの前に立つと、丁寧にお辞儀した。

 

「初めてお目にかかる。私はエシル領主イェガ男爵三男のエーリク・イェガだ」

「あ…初めまして。キャレ・オルグレンです」

 

 かろうじて挨拶を返しながらも、キャレはエーリクに圧倒されていた。

 近侍というのは、基本的には小公爵様とそう年の変わらない者が命じられると聞いていたのだが、キャレの前に立っている男はどう見ても二十歳を越しているように見える。

 

 当惑するキャレの心情がわかったのか、オヅマが気安くエーリクの肩に手を回して笑いかける。

 

「ハハッ、なんでこんなおっさんが近侍なんだろなーって思ってんだろ?」

「いっ、いえ…そんなことは」

「いいって、いいって。たいがい驚くんだよ。俺だって、初めて会ったときに思ったもん。絶対に年、間違ってないか? って。ま、俺らの中では一番の年長なんだけどさ。これで十五歳だから」

「十五?!」

 

 思わず聞き返してしまって、キャレはあわてて口を押さえた。

 エーリクを怖々見上げるが、そういう反応に慣れているのか無表情は動かなかった。

 

「我らへの挨拶よりも先に、小公爵さまに挨拶すべきだ」

 

 低く抑揚のない声で言われて、キャレは身をすぼめる。

 自分の不用意な発言に、やはり気分を害したのかと思ったが、オヅマが笑って否定した。

 

「そうビクビクすんなって! 怒ってんじゃねぇから」

「………行くぞ」

 

 エーリクがボソリと言って、先に立って歩き出す。

 マティアスがまたギロッとオヅマを睨みつけてから、その後を追う。

 キャレはどうしようかと立ちすくんでいたが、

 

「行けよ」

 

と、オヅマに促され、ふたたび歩き出した。

 

 ―――― さぁ、いよいよ小公爵さまと対面だ。

 

 キャレは顔を引き締めた。

 




次回は2023.02.19.投稿予定です。


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第百十七話 小公爵との対面

「はじめまして、キャレ。着いて早々、喧嘩に巻き込まれて大変だったね」

 

 小公爵の第一声は優しかった。

 キャレは驚いて思わず顔を上げた。

 

 入ってきた時には、黒檀色の髪と鳶色の瞳の、公爵に似ているという端正な顔が冷たく思えて、すぐに頭を下げたのだが、今、微笑を浮かべたその表情はやわらかく、穏やかで、安心感さえある。

 

「どうした?」

 

 固まったキャレに、オヅマが声をかけてくる。

 自分の状況を思い出し、キャレはあわててふたたび頭を下げた。

 

「おっ、お初にお目にかかります。ファルミナ領主セバスティアン・オルグレン男爵の息子のキャレ・オルグレンと申します。本日、小公爵様にお会いできる機会を与えて頂いたこと、誠に嬉しく、ありがたき幸せにございます」

「こちらこそ。いいよ、もう顔を上げて」 

「は……」

 

 キャレはそのまま上げそうになって、あわてて止まった。貴人に対して、一度の許しで頭を上げることは不敬にあたる…と、騎士から聞いた儀礼についての話を思い出す。

 なかなか頭を上げないキャレに小公爵がふたたび言った。

 

「いいから、顔を上げて、キャレ。今後は僕がいいと言ったら、一度目で顔を上げてくれ」

 

 ややあきれたように言われて、キャレはおずおずと顔を上げた。

 

「礼儀というのは必要だけど、不要な部分もあるね。こんな意味のない習慣はなくなっていいと思うんだけどな…」

 

 面倒そうにつぶやく小公爵に、マティアスがしかつめらしい顔で滔々と述べる。

 

「意味がないということはございません。礼儀というのは、指標(ガイド)だと、私の作法の教師は申しておりました。これがなくては、人はどのように行動すればいいのかわからなくなってしまいます。特に下々の者などは」

 

 小公爵は「そうかな?」と肩をすくめてから、キャレに視線を戻す。まじまじと見つめてから、感嘆の吐息をついた。

 

「確かにオルグレン家の人に違いないね、その髪の色は。見事なものだな。父親のオルグレン男爵よりも美しいルビーレッドだ」

「とんでもございません」

 

 キャレはすぐさま否定する。

 謙遜ではない。この髪をちょっとでも自慢しようものなら、父も兄も烈火の如く怒った。庶子の自分が、オルグレンの紅玉(ルビー)の髪を持って生まれたことすらも、彼らには苛立たしく腹立たしい。

 たとえここに彼らがいなくとも、どういった経緯で彼らの耳に入るかもしれないと思うと、キャレはなんとしても否定したかった。

 

 小公爵は断固としたキャレの口調に首を傾げたものの、それ以上、髪については言わなかった。

 

「じゃあ、改めて自己紹介しようか。僕はアドリアン・グレヴィリウスだ。アドルと呼んでくれていいけど、今のところ実践してくれているのは、オヅマくらいだ」

 

 鳶色の瞳はチラリとオヅマを見た。

 マティアスは苦虫を噛み潰したような顔になり、エーリクも直立しながら、茶色の瞳だけをジロリとオヅマに向ける。小公爵 ――― アドリアンの隣の椅子に座っていた、柑子(こうじ)色の髪のやや小太りな少年も、恨めしそうな目でオヅマを見ていた。

 それぞれの表情から、キャレは彼らの勢力均衡がだいたい理解できた。

 

 おそらく近侍たちはほぼ全員、オヅマに対していい感情を持っていない。

 キャレが油断なく観察している間も、アドリアン小公爵の話は続いていた。

 

「オヅマとマティが犬猿の仲であるのは、さっきのでわかったよね? たいがいはつまらないことで喧嘩しているだけだから放っておいてもいいけど、どうしても困ったらエーリクか僕に言ってくれ。エーリクはもう自己紹介は済んだ?」

 

 問いかけに、エーリクは無言で頷く。

 あまりに愛想のない態度にアドリアンは苦笑いしていたが、咎めることはなかった。

 すぐに隣に座る柑子色の髪の少年に声をかける。

 

「じゃあ、残るはテリィだけみたいだ」

「あ…は、は、は…はい」

 

『テリィ』と呼ばれた少年は立ち上がって、キャレと向かい合った。

 

 座っているときには縮こまっていたので気付かなかったが、わりと大柄で()()()()な体型をしている。ぷっくり膨れたお腹あたりの、どうにかして留めたボタンがいまにも弾けそうだ。

 やわらかそうな柑子色の髪は、ゆるやかに波打っているが、耳の上あたりで一房ピンとはねていた。寝癖だろうか。草色の瞳はキャレを警戒しつつ、すぐに逃げる算段をしている小動物的なひ弱さと、(ずる)さが入り混じっていた。

 

「あ、あ、あ……あの、え、え……ちゃ、チャリス…チャリステリオ・テルン」

 

 そこまで言ってから、チャリステリオはハアァーと一息ついた。

 

「まったく。自分の名前くらいスラスラ言えないのか」

 

 案の定、マティアスがイライラと突っ込む。チャリステリオの顔が一気に青ざめた。

 

「マティアス、静かに」

 

 おだやかに(たしな)めつつ、アドリアンの鳶色の目がすっと細められると、マティアスはバツ悪そうに口を噤んだ。

 しかし静かな空気がチャリステリオには余計にプレッシャーだったのか、なかなか口を開かない。

 

「テリィ、僕から紹介してもいい?」

 

 とうとうアドリアンに言われると、チャリステリオは待っていたかのように何度も頷いた。

 

「彼はテルン子爵家の嫡男のチャリステリオ・テルン。ちょっと緊張しやすくてね。ピアノがとても上手なんだよ。今度、聴かせてもらう機会もあるだろう。あ、チャリステリオって長いから、テリィって呼んでる。年は僕らより二つ年上だ。キャレは確か黒鳩(こっきゅう)の年生まれだったと聞いてるけど、合ってる?」

「あ、はい」

「じゃあ、僕と同じ年だ。良かった。全員年上じゃなくて」

 

 ニコリと微笑まれ、キャレは思わず顔を赤らめた。

 普通にしていると端正な顔立ちは、むしろとっつきにくく見えるのに、笑った途端に少年らしいあどけなさが浮かぶ。

 

 この先、この顔に慣れるのだろうか…と、我が事ながらキャレは心配になった。

 

 

***

 

 

「どんな感じ?」

 

 互いの挨拶を終え、簡単な茶話会が開かれた後、キャレはマティアスに西館を案内してもらうことになった。まだ来て間もないエーリクとテリィも、確認のために一緒に向かい、二人きりになったところでアドリアンがオヅマに尋ねた。

 

 オヅマは冷めた紅茶を飲みながら、うーんと思案する。

 

「なんか、小さい」

「ハハッ、確かにね。僕と同じ年にしては小さい気もするけど、どうだろう? オルグレン男爵の庶子だったって話だから、もしかしたら冷遇されていたのかもしれないね」

「庶子だった?」

「今回、僕の近侍になるにあたって、正式に嫡出子認定はされたみたいだよ。まぁ、文書だけの、あくまで形式的なものだろうけど」

「庶子だから、まともにご飯も食べさせてもらえなかったってことか?」

「わからないけど、その可能性はある。とても用心深くもあるようだし」

 

 アドリアンは穏やかに言いつつも、鳶色の瞳を細めて考え込む。

 オヅマは軽く肩をすくめて尋ねた。

 

「で? 小公爵さまのお考えではどちらだと?」

「どちら?」

「敵か味方か」

 

 アドリアンは苦笑した。どうもアールリンデンに来てからというもの、オヅマはすっかり疑心暗鬼になっているらしい。

 

「キャレ自身がどういう考えなのかは、まだわからない。ただ、オルグレン家としてはあまり僕に期待していない、といったところかな。彼を差し出してきたということは」

「なんだ? 気に食わないのか?」

「そういうことじゃないけど。オルグレン家に僕の近侍として出仕する子息を打診したときに、ルンビックが考えていたのは男爵の次男のラドミールだった。ところが男爵が送ってきたのは、オルグレンの家系図に名前も記されていない庶子…ということは、つまりそれが彼らの答えなんだろう」

 

 オヅマはアドリアンの言葉を反芻して、確認する。

 

「つまりオルグレン家は限りなく敵に近いわけだ。キャレ本人はまだ保留か?」

「そうだねぇ。なにせあの子はなかなか本心を見せないと思うよ。よっぽど家でいじめられて、他人の顔色を注意深く見る癖がついてしまったのかな? まぁ、僕としてはキャレが来てくれて良かったと思ってるけど」

「なんでだ?」

「同じ年だから。ラドミールだったら、僕より二つ年上だから、僕が一番年下のチビになっちゃうだろ?」

「なにをつまんねぇことにこだわってんだ、お前は」

 

 オヅマがプッと笑うと、アドリアンはむくれて口をとがらせた。

 

「君にはわかんないよ。年上ばっかりなのが、どれほど気を遣うか…。誰かさんはしょっちゅう怒りん坊さんと喧嘩するし。エーリクは基本的に言うことは聞いてくれるけど、何考えてるかわからないし。テリィはすぐに泣き出すし…」

 

 うんざりしたように言って、アドリアンは深くため息をつく。その様子をオヅマは腕を組んで見つめた。

 

 なんだかんだ言いつつも、アドリアンはこの問題児の集団をよくまとめている。

 グレヴィリウスの小公爵様であれば、近侍の一人や二人、気に食わないと叩き出すなど朝飯前だろうが、アドリアンは辛抱強く接している。

 それは元からの気質なのか、それとも小公爵という立場がそうさせているのか ――――

 

 

 ――――― 両方だろうけど、ま、どっちかといえば元からか…

 

 

 少し考えてオヅマは結論を出す。

 なにせレーゲンブルトで騎士見習いでいた頃には、とんでもない無礼を重ねまくったオヅマに、文句を言いつつも、最終的には従ってくれていた。

 いくら小公爵であることを隠して生活するように命令されたとはいえ、普通の貴族の坊々(ボンボン)なら、とてもじゃないが我慢できるわけがない。

 

 それは、ここへ来て他の近侍たちを見て、確信した。

 エーリクはともかく、マティアスやテリィなどは、おそらく一日持たないだろう。ここでの暮らしを当たり前のように享受している彼らを見ると、一般的な貴族というのが、本当に贅沢なんだということがよくわかる。

 

 ヴァルナルは男爵位を持つ貴族とはいえ、やはり本質は騎士で、元は裕福な商家の出とはいえ平民であったので、生活態度も質実剛健、簡明素朴。普段の服も基本的には詰め襟の騎士服だった。仕事が終わった後の家族だけの時間ともなれば、飾り気のない綿のシャツにトラウザーズ、ガウンを羽織る程度だ。

 それだってオヅマには十分すぎるほどだと思うのに、テリィなどは、服だけでも百着近く持ってきて、老家令に眉をひそめられていた。

 

 こうも育ってきた環境の違う者同士が、当然ながら会ってすぐに仲良くなるわけもない。ましてオヅマなど彼らにとっては異物でしかないだろう。それでもなんとかやっていけているのは、アドリアンの調整力によるところが大きい。

 決してへりくだることもなく、かといって高圧的でもなく、それぞれの言い分を聞いて、オヅマにも物を言うし、彼らの行き過ぎた特権意識について注意することもある。

 

「ご苦労さま」

 

 とりあえず感謝のつもりで言ったが、アドリアンはジロリとオヅマを睨みつけた。

 

「他人事みたいに言ってるな。言っておくけど、この前だってルンビックからお小言をもらったんだぞ、君らのことで」

「アイツと一括りにしないでくれよ」

 

 アドリアンはもはや言い返す気力もなくなって、ハァとまたため息をつくと、話題を元に戻す。

 

「とりあえずキャレについては、しばらく様子見」

「へぇへぇ。承知」

「これで全員揃ったから、そのうちルンビックの方から()()()に挨拶に出向くように言われるだろう。そのつもりでね」

 

 オヅマはかすかに眉を寄せた。

 アドリアンが何気なく言う「公爵様」というのがひっかかる。自分の父親なのに、まるで目上の他人のようだ。

 

「なに? 緊張してるの?」

 

 なんの違和感もない様子でアドリアンが尋ねてくる。オヅマは軽く息を吐くと「まぁな」と頷いた。

 

 アールリンデンに到着してしばらく経つが、まだこの巨大な屋敷の当主であるグレヴィリウス公爵本人には会えていなかった。

 いちいち一人一人、新たな近侍が来るたびに挨拶に来られても迷惑なので、全員が揃ってから挨拶に来るように……とは言われなかったが、要はそういうことだ。

 

 アドリアンは笑った。

 

「さすがのオヅマも、公爵様には緊張するんだな」

 

 まだ家族になったばかりのヴァルナルとオヅマの関係も微妙なものではあったが、アドリアンと公爵閣下の間にも相当に面倒なものがあるらしい。

 そのせいで、この公爵邸において、アドリアンの立場が複雑なものであると気付くのに、そう時間はかからなかった。

 




次回は2023.02.26.投稿予定です。


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第百十八話 老家令の暗示

 三ヶ月前 ―――――

 

 オヅマがアールリンデンにやって来たときには、まだ近侍は誰も来ていなかった。

 

「しばらくはお前が小公爵様の近侍として奮励努力するように」

 

 挨拶するなり、初対面の家令の爺さんに難しい言葉を言われ、オヅマは「はぁ?」と聞き返した。

 扉横に立っていたアドリアンの従僕・サビエルは、頭を押さえ内心で天を仰ぐ。

 

 彼はレーゲンブルトからこのアールリンデンに来るまでの間に、オヅマと小公爵であるアドリアンの仲が、非常に()()()()()()なものであることは承知していた。それでもアールリンデンに来たからには、少しは萎縮して畏まるかと思っていたオヅマの態度は、まったく変化もない。

 この広大なグレヴィリウス公爵邸の、厳格なる番人である老家令を目の前にしても、だ。

 

「今のは、何だ?」

 

 初対面の少年の不遜な態度に、家令であるルンビック子爵はいつもの鹿爪らしい顔を険しくした。

 

「あ、すみません。意味がわかんなかったもので」

 

 オヅマはまったく悪びれることもなく言う。

 

「意味がわからない? 何がだ?」

「えぇと…奮励努力っつーのは、つまり頑張れってことですかね?」

「そうだ」

「だったら頑張れよ、でいいのに。いちいち難しい言葉使わなくてもさー」

 

 老家令はしばらく黙りこくって、一言つぶやいた。「成程」

 

 それはオヅマの言うことに納得したのではなく、クランツ男爵が送り込んできた近侍には、()()()礼儀作法の教育が必要だと自らに言い聞かせたのだ。

 

 しかしルンビックがオヅマにつけた礼儀作法の教師は、たった一日で退職を願い出た。

 

「私には無理です!」

 

 泣きながら帰っていく家庭教師に対して、オヅマの態度はふてぶてしいほどに傲然としたものだった。

 

「あんなネチネチと鬱陶しいやつに教わったら、礼儀より先に卑屈が身につくぜ」

「卑屈になるかどうかは、君次第だろ」

 

 アドリアンの従僕であるサビエルがあきれたように言ったが、オヅマはどこ吹く風だった。

 ルンビックはまた「成程」と独り言ちて、新たな教師を連れてきた。

 しかしこれまた初日にして、サビエルが飛び込んできた。

 

「大変です! ルンビック様!」

「なにがあった?」

「オヅマがまたやったみたいです!」

 

 道すがらに聞いてみれば、サビエルが偶然廊下を歩いていたら、オヅマが授業を受けている部屋から、男の「助けてくれっ」という悲鳴が聞こえてきたのだと言う。あわてて扉を開けると、礼法教師が真っ青な顔で腰を抜かしており、その前にオヅマが剣呑たる表情で立ち尽くしていた。

 オヅマはすぐにサビエルに気づいたものの、驚く様子もなかった。

 

「言いにいけよ。あの爺さんに」

 

 サビエルはその雰囲気があまりに恐ろしすぎて、あわててルンビックを呼びに来た…とのことだ。

 

 ルンビックが部屋に辿り着くと、礼法教師はまだ青ざめた顔で、尻もちをついたままだった。オヅマはやってきたルンビックの厳しい顔にも、なんら悪びれる様子もない。

 

「なにがあった?」

 

 ルンビックはオヅマに問うたが、震える声で叫んだのは、礼法教師だった。

 

「そ、その小僧がっ…いきなりっ…わ、私にっ…剣をっ…」

「剣?」

 

 ルンビックが聞き返すと、オヅマはケッと嘲笑った。

 

「剣なんて持ってるわけないだろ。これだよ」

 

 左手に出したのは小刀だった。木筆*1を使うときに、削るのに使うものだ。

 

「それで何をしたのだ?」

「鞭を切った」

「鞭?」

「そこの野郎がなってないとか言って、鞭出してきて叩こうとするから、ふざけんなと思って」

 

 見れば床には真っ二つになった馬用の鞭が落ちていた。

 あまり褒められたことではないが、教師が鞭を持って、言うことをきかない子供を打つのはよくあることだ。

 ルンビックはため息をつき、オヅマに言った。

 

「先生はお前の間違いを正そうとしたのだろう」

「間違いってなんだよ! 頭を下げる角度云々言って、グイグイ頭押してくるから、手を払っただけだろ。そうしたらコイツが逆上して、鞭持っていきなり叩いてくるから」

 

 どうやら礼法教師は最初の授業ということもあり、今後、馬鹿にされぬために、権威を示したかったようだ。

 しかし相手が悪かった。

 オヅマはまたふてぶてしく言い放つ。

 

「フン。自分の思い通りにならないからって、鞭打つ奴の礼儀作法なんぞ、習う必要もない」

 

 ルンビックはサビエルに先生を引き取らせるように頼んで、オヅマをとりあえず椅子に座らせた。

 床に落ちていた鞭を拾って切り口を見れば、見事なほどにスッパリときれいに切られている。さすがは黒杖(こくじょう)の騎士であるクランツ男爵の肝煎りというだけあって、まだ少年ながら相当に腕は立つようだ。

 

 ルンビックはしかし、オヅマの前にある机の上にその鞭を放り投げた。

 

「礼を知らぬは、猛獣の類と変わりない。そのままでは小公爵様にとって、障碍(しょうがい)ともなりかねぬ」

「フン。礼儀を教わるなら、最低限『礼儀』を知っている人間に教わりたいもんだ」

「成程」

 

 ルンビックはまた頷いた。しかし納得したわけでないのは、いつものことだ。

 しばらく考えてから、ポケットから鍵を取り出して机に置いた。

 

「なんだよ?」

「これは私の執務室の鍵だ。すまぬが、本館にある私の執務室に行ってきて、机の上に置いてある眼鏡を取ってきてもらえるかな?」

「はぁ? なんで俺が…」

「このアールリンデンにおいて、お前にどうして礼が必要なのかを、お前自身が知るべきであろうと思うのでな」

 

 ルンビックが漂わせる峻厳な風格は、さっきまでの礼法教師とは比べ物にならない。

 オヅマは不承不承に鍵を取ってポケットに突っ込むと、部屋を出た。

 

 とりあえず本館へと向かって、その辺りで仕事をしている女中にルンビックの執務室を尋ねた。

 

「……誰です? あなた」

 

 女中は見慣れない顔のオヅマに、不信感もあらわに問うてくる。

 

 オヅマのいる世嗣用の西館 ――― 別名七竈(ナナカマド)の館は、本館からやや離れた場所にあって、こちらに来てからというもの、オヅマはそこから離れることもなかったので、顔を知らなくても当然だ。

 

「あ…俺、いや僕は小公爵さまの近侍の…」

 

 言いかけるや否や、女中は表情を変えた。気まずそうに目を逸らすと「ごめんだけど、他の人に聞いて」と、逃げるように行ってしまった。

 

「は? なんだあれ?」

 

 オヅマは呆気にとられたが、気にしても仕方ない。

 ちょうど通りかかって、その状況を見ていたらしい従僕と目が合ったので、声をかけた。

 

「あの、すみません。家令のルンビック様の執務室を探しているのですが…」

 

 若い従僕は曖昧な笑みを浮かべると、手を振って「僕わかんない」と、これまたどこかへ行ってしまう。

 オヅマは首をひねりながら、その後にも何人かの召使いに声をかけたが、誰も彼もオヅマが小公爵付きの近侍であることを聞くと、目を逸らして、そそくさと逃げてしまう。

 

 どういうことだ?

 

 考え込んでいると、肩を叩かれた。

 ハッと顔を上げると、そこには丸顔の中年の従僕が、笑みを貼りつかせて立っていた。

 

「君、どうしたかな?」

 

 尋ねられ、オヅマは素早く観察した。いかにも人良さげに見える丸顔の、中年の従僕だ。ボタンがはち切れそうになっている膨れた腹、短い足。祭りで売られる木彫りの【坊や人形】に似ている。

 

「あ…ルンビック様の執務室を探していて」

 

 オヅマは言いながら辟易としていた。何度目だろうか、この台詞(セリフ)

 

「ルンビック様の執務室に、なぜ用があるのかね?」

「眼鏡を取ってこいと本人に言われまして」

「ルンビック様が? 君に?」

 

 従僕は糸のような目を少し開いて、ジロジロとオヅマを探るように見つめた。

 

「失礼だが、君は本館付きの従僕ではないようだが?」

「あ、俺…僕は、小公爵さまの近侍になった…」

「おぉ! そうか。……君か」

 

 最後まで言い終わらないうちに、従僕は大きく頷いた。

 

「先程来、小公爵様の新たな近侍となった少年が、畏れ多くも公爵様の執務される本館をうろつき回っていると聞いていたが、君であったわけか」

「はぁ…?」

 

 オヅマは従僕の権高な物言いが気になったが、とりあえず今は黙っておくことにした。やや警戒しつつ返答を待っていると、従僕はまたニッコリとした笑みを貼りつかせて、自分の歩いてきた廊下の先を指さした。

 

「この廊下をまっすぐ行って、あそこの大きな壺が置かれている角を右に折れて、そこから三つめの角を左に曲がった先の突き当りの扉だ。そこが、ルンビック様の執務室だよ」

「右に曲がってから、三つめの角を左…でまっすぐ……」

「そうそう」

 

 従僕はオヅマの確認にいちいち大仰に頷くと、「それじゃ」と手を上げて去っていく。

 

「ありがとうございます!」

 

 オヅマは丸い後ろ姿に深く頭を下げた。思ったよりも悪い人じゃないようだ…と、ホッとする。

 しかし程なくして、それがあの丸顔従僕の仕掛けた悪戯だと気付いた。

 

「左に曲がって…まっすぐ……って、庭に出たじゃねぇかッ」

 

 むかついて地団駄を踏む。ギリギリと歯噛みしてから、オヅマはチッと舌打ちした。

 腹立たしいが、今ので確実にわかった。

 

 オヅマは自分の名前は言わなかった。小公爵の近侍だということを言っただけだ。

 つまり、皆はオヅマ・クランツという一個人を馬鹿にしたのではない。()()()()()()であるオヅマを敬遠し、最後の従僕に至っては堂々と嘘を教えたのだ。

 

 なぜ?

 小公爵の近侍をからかって、小公爵本人から不興を買うという想像力はないのだろうか?

 

 

 ―――― このアールリンデンにおいて、お前にどうして礼が必要なのかを、お前自身が知るべきであろう…

 

 

 ルンビックの澄ました顔が思い浮かぶ。

 オヅマはその場でしばらく立ったまま考え込んでいたが、また、のんびりした声に呼びかけられた。

 

「んん? なんだァ、小僧? こーんなとこで…見慣れない顔だな…いや、もしかして」

 

 庭師らしい青年だった。北方では珍しく、日焼けした肌はやや浅黒い。

 オヅマはじっと庭師を見つめた。

 こいつはどうなのだろうか? 逃げるのか、知らないと嘯くのか、それとも嘘をつくのか。

 

 だがそのどれでもなかった。

 青年は被っていた季節外れの麦わら帽子を取ると、オヅマに向かってペコリと頭を下げてから、恭しい口調で尋ねてきた。

 

「あンのォ、もしかして迷ってしまわれたかねェ? こっちは貴族の若君が来られるような場所じゃねぇんスよ」

「………」

 

 これまでの対応と違って、庭師のいかにも貴族子弟に対する態度に、オヅマはかえって戸惑った。

 

「あンのォ…大丈夫ですか?」

 

 再び尋ねられ、あわてて頷くと、オヅマはゴクリと唾をのんだ。

 

「あの、俺…じゃねぇ、僕、小公爵さま付きの近侍なんです。家令のルンビック様に執務室に行って、眼鏡を取ってこいといわれまして」

「え?」

 

 庭師は固まった。

 それからオヅマをじっと見つめる。「小公爵様の…近侍?」

 

 恐る恐るといったように問い返しながら、ジリジリ後ろに下がる。そのまま放っておいたら逃げるとわかったので、オヅマは素早く庭師の腕を掴んだ。

 

「逃げるなよ」

 

 思わずドスの利いた声になってしまうのを、一度深呼吸して、ニヤリと慣れない愛想笑いを浮かべた。

 

「逃げないで、教えてもらえませんか? ここに来て間もないので、まだ把握できてないんですよ。こんなに大きなお屋敷なんでね」

「えぇぇ…」

 

 庭師は情けない声をあげる。

 

「困ったなぁ。今日はハヴェル様もいらっしゃってるってェのに…」

「ハヴェル?」

 

 聞き返しながら、オヅマは庭師の腕をグリッと捻る。気の弱い庭師はすぐさま降伏した。

 

「イタタタタ! わっ、わかりましたんでェ。教えます! 教えますから、手ェ離して下さいよォ!」

「嘘をつくなよ」

 

 オヅマは先回りして言ったが、庭師はあきれたようにため息をついた。

 

「まさかァ。小公爵様の近侍の方に、俺らみたいなンが、嘘なんぞつけるはずもありませんでさァ。しかし…こっからだとルンビック様の執務室のある棟とは、まったくもって反対方向ですよ」

「そうかい。じゃ、アンタが案内してくれよ」

「勘弁でさァ。ルンビック様の執務室なんぞ、行ったこともないんでさァ。北棟まではお送りしますんで、それで勘弁でさァ」

 

 確かにこれだけの規模の屋敷の、一介の庭師風情では、家令の執務室なんぞに行く機会などないかもしれない。あるとすれば、それは何かしらヘマをしたときで、場所を覚えるほどに行くことがあれば、もうその時点で解雇されるだろう。

 

「わかった。北棟まで案内してくれ」

 

 庭師は嘆息しながら歩き出す。

 オヅマは庭師の後ろについて歩きながら、注意深く観察していた。

 

 庭師は植え込みと建物の間の、あまり人目につかないところを選んで歩いている。ときどき、チラチラと辺りを見回しては、人がいないことを確認しているようだった。

 外廊下や、使用人専用の薄暗い廊下を通り抜けて、庭師は小さな扉の前で立ち止まった。

 

「この扉の先に階段があるんでさァ。確か執務室は二階だったって聞いたから…あとは、そのへんの奴らに聞いてください。あっ、俺っちにここを教えてもらったってことは、言わねェで下さいよォ」

「なんでだよ?」

「なんでってェ……そりゃ、そのォ……マズイんでさァ」

「マズイ?」

「なるべく…七竈(ナナカマド)*2人間とは関わっちゃァいけないんでェ」

 

 オヅマは言葉をなくした。

 あからさまな疎外。しかもオヅマに対してではなく、小公爵であるアドリアンに対しての…。本来であれば不敬極まりない態度だ。

 

 庭師はギュッと眉を寄せて黙り込んだオヅマに、ペコリと一礼して、早々に立ち去った。

 

*1
*先端を削りインクをつけて書く道具

*2
*小公爵の居館、あるいは小公爵自身への隠喩




次回は2023.03.05.投稿予定です。


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第百十九話 公爵家の跡継ぎ

「……なんだってんだ」

 

 オヅマは困惑しつつも、庭師に教えられた扉を開けて中に入った。

 急な狭い階段が上へと伸びている。おそらく使用人専用の通用口だろう。階段下の空間にはバケツなどの掃除用具が置かれていた。

 階段を登ると、そこにも扉がある。開くと、薄暗いガランとした空間に出た。

 目がなれると、壁という壁に大小の肖像画が飾られているのに気付く。

 

「なんだ、ここ?」

 

 オヅマは初めてなのでわからなかったが、そこは公爵家代々の家族の肖像画が飾られた画廊だった。

 ウロウロしつつ何となしに見ていると、一枚、見知った顔がある。今よりももう少し幼い頃のアドリアンの肖像画だった。難しげな顔をして一人、ちょこんと豪奢な椅子に座らされている。

 

「くっだらなそーな顔」

 

 オヅマはクスッと笑って他にもアドリアンの絵はないかと周辺をざっと見たが、その絵以外にアドリアンの肖像画はないようだった。

 その他の明らかに古そうな時代の絵も見つつ、とりあえず明るい方へ向かって歩いていく。

 

 柱を挟んで色の変わった壁に、ひときわ大きな絵が架けられてあった。

 絵には三人の人物。

 椅子に座った上品そうな女性と、その女性の斜め前に立っている少年、彼らの背後に立っている冷たい顔をした男。

 

 男の顔を見るなり、その面差しから彼が公爵閣下であることはすぐにわかった。おそらくアドリアンが大きくなったら、こんな顔になるのだろう…と思われるほどに似通っている。

 

「グレヴィリウス公爵とその夫人のリーディエ様だよ」

 

 いきなり背後から声をかけられ、オヅマが振り返ると、そこには眼鏡をかけた男がにこやかな笑顔を浮かべて立っていた。

 

 さっきの従僕のこともあるので、オヅマは男の笑顔を見ても警戒を解かなかった。だが、着ているものは従僕の御仕着せではない。

 柔らかそうな絹のシャツに、上着を羽織っただけの軽装は、使用人には許されない。客人でも、特に公爵家と縁の深い人間でなくては、非礼とされるだろう。

 

 だが、今のオヅマには目の前の男が誰であるのかを知るすべはまだなかった。ただ、注意深く見るしかない。

 返事をしないオヅマを、男はたいして気に留める様子もなく、近付いてきて隣に立った。

 

 これといって目立つような風貌ではない。

 長身というわけでもないが、背が低いというわけでもない。引き締まった体躯に、ピンと伸びた背は、上品でありながら自然で悠揚とした佇まいだった。

 

 おそらく貴族であろう。

 多くの貴族は子供の頃から、その立ち居振る舞いについて注意される中で、立ち姿一つでも洗練されたものになる。

 

 それでいて眼鏡の奥の穏やかなアンバーの瞳と、柔和な微笑みに威圧感はなかった。ゆるやかに波打った樺茶(かばちゃ)色の長髪を、無造作に後ろに流して茶色のリボンで一つに括り、耳には青の小さな石が嵌め込まれたピアスをしている。

 

 年はよくわからない。

 オヅマよりも年上であるのは間違いないだろうが、眼鏡と落ち着いた雰囲気のせいか、二十歳程度にも、あるいは三十歳以上にも見える。

 

 男は隣で絵を見上げながら、聞いてもないのに説明してきた。

 

「この絵画は公爵夫人のお気に入りだったんだ。なんでも夫人曰く『この絵が一番自分を美しく描いてくれた』って。他の絵だって、十分にお綺麗だと思うんだけどね。僕なんかは、ほら、そこにある横を向いたお姿の絵」

 

 そう言って、男は隣の壁に架けてある細長い絵を指さした。そこには公爵夫人の立ち姿が描かれている。

 横向きで、長い髪を後ろに垂らし、白い百合を手にもって慈しむように見つめている姿の絵。見ればその壁には公爵夫人の絵ばかりがあった。

 

 つややかに波打つ鴇色(ときいろ)のブロンドと、深い青の瞳。優しげでありながら、気品ある面差し。

 おそらく彼女がアドリアンを産んだという公爵夫人なのだろう。意志の強そうな、ギュッと引き締まった口元がアドリアンそっくりだった。いや、この場合アドリアンの方が母親に似ている、と言うべきなのだろうが。

 

「真ん中の子供は?」

 

 オヅマは公爵閣下ら三人の絵に視線を戻して問うた。中心に立っている子供…淡い蜂蜜色の髪色からして、絶対にアドリアンではないとわかる。

 

 男は「さぁ?」と首を傾げた。

 

「公爵夫人が生きていた頃に、この屋敷にいた子供といえば一人しかいないね」

 

 いかにも思わせぶりな言い方に、オヅマはあまりいい印象を持たなかった。

 

 もう一度、目の前の絵を見上げる。

 

 まるで家族みたいだった。

 子供の肩にそっと手を置いた公爵夫人の表情には、母親として慈しんでいるのが見て取れる。公爵の方は乏しい表情なのでわかりにくいが、子供の背にぎこちなく手を添えている様子から、嫌々でないことはわかる。中央に立っている子供は、やや緊張している様子だが、それでも嬉しそうな顔をしていた。同じ子供の絵でも、仏頂面のアドリアンとは真逆だ。

 

「なんで ――」

 オヅマは絵を見上げながら尋ねた。「そんなこと知ってるんだ?」

 

「うん?」

「この絵が公爵夫人のお気に入りだって。一番自分を美しく描いてくれた…なんて、本人以外から聞くことないだろ?」

 

 男は眼鏡の奥の目を細めたが、その質問には答えなかった。

 

「君は、迷子かい?」

 

 今頃になって尋ねてくる。

 オヅマはどうにもこの男を信用できなかったが、事実、今の自分は迷子と同じ状態だった。

 頷くと、男は重ねて問うてくる。

 

「どこか行きたいところでもあるの?」

「家令のルンビックさまの執務室に。眼鏡を取りに」

「そんなことのために、わざわざ西の館から? ご苦労なことだね」

 

 自分に関することは何も言っていないのに、オヅマがどこから来たのかもわかっているらしい。この様子だと、おそらくオヅマが小公爵付きの近侍であることも知っているのだろう。

 オヅマが男の名を聞こうとすると、男は「案内しよう」と歩き出した。

 

 一瞬逡巡したが、オヅマは男の後についていった。どこに連れて行かれるにしろ、どうせ自分一人ではこの本館内で迷子になるだけだ。

 また嘘を教えられるかとも思ったが、男は親切にもオヅマを執務室の前まで連れてきてくれた。

 

「ここだけど、鍵がかかってるよ」

「鍵はもらってます」

 

 オヅマはルンビックから預けられた鍵を取り出すと、鍵穴に入れて回した。ガチャリと音がする。間違いなく家令の執務室だ。

 

「ありがとうございます。助かりました」

 

 オヅマは頭を下げた。

 腑に落ちないことは多いが、とりあえず助けてもらった礼は言わねばならないだろう。

 

「ハハ。大したことでもないよ。じゃあ、僕はこれで」

 

 男は軽く手をあげて、来た道を戻っていった。

 

 

 

***

 

 

 

「遅かったな」

 

 ルンビックは眼鏡を持って帰ってきたオヅマを見るなり言った。

 後ろに組んだ手には懐中時計がある。

 

「あともう少しでサビエルを迎えに行かせようかとも思ったが」

「フン」

 

 オヅマは眼鏡を机に置くと、どっかと椅子に座り込んだ。

 

「で? どういうことなんだよ?」

 

 腕を組んで尋ねるオヅマに、ルンビックはとぼけたように聞き返してくる。

 

「どういうこととは?」

「しらばっくれんなよ。本館に入ってアンタの執務室がどこかを使用人に聞いても、逃げられるし、無視されるし、嘘までつかれた。こっちは小公爵さまの近侍だと挨拶しているにも関わらず、だ」

 

 ルンビックは驚かなかった。予想していたのだ。いや、むしろ十分にわかった上でオヅマを行かせたのだろう。

 

「なかなか難渋したようだ。それでもこうして持ってきたわけか」

「一人、気弱そうな奴を締め上げて、執務室があるっていう北棟まで案内させたんだ。そいつが別れ際に言ってたよ。『七竈(ナナカマド)の館の人間とは関わってはいけない』って。公爵家で働いている下男風情が、公爵さまの次に偉い小公爵さまに対して、どうしてそんな言葉が吐けるんだろうな」

 

 ルンビックはオヅマをジロと見つめた。

 コホリ、と小さく咳払いして澄まして言う。

 

「それがこのアールリンデンにおける小公爵様の立場だ」

「まるでアドルに問題があるみたいに言ってるけど、使用人にそんなことを許している人間が、そもそも不甲斐ないって話だろ」

 

 率直で辛辣なオヅマの指摘に、ルンビックは内心で苦笑する。

 

「それは私に問題があるということだな」

 

 静かに自分の非を認めたが、オヅマはより追求を深めた。

 

「あんた()含めて、だ。使用人に息子の……」

「それ以上のことは言うな。ここで暮らすなら」

 

 暗に公爵への批判を言いかけたオヅマを、ルンビックはあわてて厳しい顔で制止した。

 しかしオヅマは怯むこともない。

 

「言わせるなよ、だったら」

「………まったく」

 

 ルンビックはそっとため息を漏らした。

 元は小作人の小倅だと聞いていたが、このふてぶてしいほど堂々とした態度はどうだろうか。その上、ただ単に腕っぷしが強いだけでもなく、頭も回る。これはなまじの礼法の教師では太刀打ちできないだろう。

 

「お前の指摘は間違っていない。しかし、現状においてはそう簡単に私の一言で変わることでもない。この問題については、お前もいずれわかってくるだろう」

 

 ルンビックは鹿爪らしい顔で言いながら、声には苦渋が滲んでいた。

 

 オヅマはルンビックの様子から、彼がこの状況を作り出しているわけではないのだとわかった。

 では一体、誰が、あるいは何が、小公爵たるアドリアンに対する無礼を許しているのだろうか?

 

 しばし考えてオヅマが思い出したのは、北棟の画廊だった。

 あれだけ絵があった中で、アドリアンの絵は一つだけだった。

 ひきかえ亡くなった公爵夫人の絵は、大小様々のものが十以上は飾られていた。

 それに ――――

 

「あんたの部屋に行く前に、なんか絵がいっぱい飾ってある広間みたいなところに出たんだ。そこに妙な絵があった」

「妙な絵?」

「公爵さまと、たぶん奥さんだろうな。鴇色(ときいろ)の髪の上品そうな女の人。それと真ん中にアドルじゃない子供が立ってる絵だよ」

 

 ルンビックはすぐにその絵を思い浮かべることができた。

 同時に、この話における急所を突いてきたオヅマに、気付かれぬよう動揺を飲み込む。

 

「あれは、なんだ? アドリアンに兄ちゃんでもいたのか?」

「兄か。兄…とも言えるな」

「なんだよ、奥歯に物が挟まったみたいな言い方して」

「小公爵様が生まれる前、この公爵邸の継嗣として育てられていたのは、公爵の甥御であったハヴェル様だ。公爵様と奥方には長く御子ができなかった。それで公爵様の妹であられるヨセフィーナ様のお産みになられたハヴェル様が養子として、この公爵邸に参られたのだ。奥方様は、我が子同然に慈しみ育てられた。しかし、その後に奥方様は小公爵様を身籠(みごも)られ、公爵様はハヴェル様との養子縁組を解消された」

 

 ルンビックの話を聞きながら、オヅマはその『ハヴェル』という名前に眉を寄せた。聞き覚えがあると思ったら、さっき庭師の男がつぶやいていた名前だ。

 

 

 ――――― 今日はハヴェル様もいらっしゃってるってェのに…

 

 

「つまり、あの絵の子供はそのハヴェルって奴で、この公爵邸の人間はそいつの味方ってことか?」

 

 オヅマが単刀直入に訊ねると、ルンビックはさすがに渋い顔になった。

 

「……ハヴェル様は今も公爵邸に足繁く来られる。公爵夫人が養子縁組解消を了承する代わりに、解消した後にもハヴェル様が自由に公爵邸に出入りできるよう、公爵様に懇願されたからだ。公爵夫人が亡くなった今も、それは続いている。使用人の古い者は、ハヴェル様の不遇に同情する者も多い。彼らから話を聞いた者達もまた同様に…」

 

 オヅマは話を聞きながら胸糞が悪かった。

 皆してハヴェルという奴を悲劇の子供みたいに祀り上げているようだが、それで実際に身の置き所がない状態になっているのは、本来正統な跡継ぎであるアドリアンだ。

 しかも当人にはどうしようもない、生まれる前のことで。

 

 今更ながら、オヅマは自分がここに連れてこられた意味がなんとなくわかってきた。

 近侍として、アドリアンの警護的なことをしておけばいいだけだろうと思っていたのだが、無論、そのことも含めて、この公爵邸で孤立しているアドリアンを(たす)けなければならないらしい。

 

 しばらく考え込んで、オヅマはルンビックに尋ねた。

 

「そのハヴェルは今日も来てるって?」

「……そのようだ」

「俺が絵で見たのは淡い色した金髪の子供(ガキ)だったけど、もしかして、そいつ大人になって髪色が変わったのか?」

 

 ルンビックはオヅマの問いに、さすがに驚きを隠せなかった。「そうだが」と頷いて、訊ねる。

 

「なぜそれを?」

「俺が会ったのは、暗いくすんだ茶色っぽい髪の奴だったんでね。眼鏡をかけた、ニコニコ笑ってる兄ちゃんだ。青いピアスもしてたな。ハヴェルってのはそいつか?」

 

 ルンビックは眉間の皺を押さえつつ、とりあえずオヅマに注意した。

 

「今度からその方に会ったら、きちんと接するように。間違っても『兄ちゃん』などと、下賤の言葉で呼んではならぬ」

 

 オヅマは既にルンビックの話を聞いてなかった。

 

 あの男が(くだん)のハヴェル公子であるならば、確かに人当たりは良さそうだ。オヅマのことをアドリアンの近侍と知ったうえで、意地悪せずにルンビックの執務室に連れて行ってくれた。

 だが、自分の正体を言わずにいたことも含めて、見たままの性格かどうかは大いに疑問が残るところだ。……

 

 ルンビックはゴホンゴホンと大きく咳払いし、オヅマの注意を戻した。

 

「いずれにしろ、お前がこの邸内で粗相すれば、その矛先は小公爵様に向くということだ。お前自身が責任を取ると言っても、通じぬ。近侍であるお前の不手際は、お前の主である小公爵様の監督不行届となる。であればこそ、小公爵様のお立場を悪くするようなことは控えねばならぬ」

「だから、物知らずな田舎者の元平民には礼儀作法が必要だって?」

 

 ルンビックは重々しく頷いた。

 オヅマはしばらく老家令と睨み合っていたが、ツイと目を逸らすと、軽くため息をついた。

 

「言っとくけど…俺は()()()()()()()()()()()なんてことは嫌いだ。そこまでアドルに忠誠を誓うつもりもないし、そもそもあいつだって望まないはずだ」

 

 ルンビックは眉を寄せた。

 この公爵家の後嗣である小公爵付きの近侍でありながら、(あるじ)に忠誠を誓わぬなど…あり得ない。

 元平民であるがゆえの無知というものでもないだろう。むしろ平民であれば、もっと公爵家に対して畏怖し、盲目的に従うはずだ。

 

 だとすれば、この傲慢な態度は一体どこから出てくるのだろう。

 生意気を通り越して、威風堂々と、何ら悪びれることのない自信に満ちた立ち居振舞い……それこそまるで、貴族の若君そのものではないか。

 

 

 ――――― この少年を本当に小公爵様の近侍にして良かったのか…?

 

 

 ルンビックの危惧に気付くことなく、オヅマは話を続ける。

 

「だけど、あんたの言う通り、ここで生活する上で、俺にある程度、礼儀作法が必要なのはわかってる。だから、俺は俺の意志で学ぶさ。ただし、やたらと卑屈なのも、意味もなく鞭打つ奴もゴメンだ。俺自身が尊敬もできない奴から礼儀を習うなんぞ、おかしな話だろ」

「成程」

 

 ルンビックは頷いた。

 

 その二日後。

 新たな礼法の教師としてオヅマの前に立ったのはルンビック本人だった。

 

「どうやらこのアールリンデンで、お前を教えるに値する礼法教師は私しかおらぬようだ」

 

 

 

 それから三ヶ月が経って。

 

 

 

 他の近侍たちが来てからは、オヅマも彼らと同じ礼法教師の元で教わるようになった。家令から直々に礼法の教育を受けた成果であるのか、今のところ教師を辞めさせるには至っていない。

 

 それでも時々ルンビックはオヅマを自らの執務室に呼び出した。

 きちんと学習が出来ているかを確認するためであったが、茶菓子の用意を整えて家令の執事室を出た女中は肩をすくめて言った。

 

「なんだか、おじいちゃんと孫みたい。あの二人」

 




次回は2023.03.12.更新予定です。


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第百二十話 毒見の当番

 アドリアン小公爵への挨拶を終えたあと、西館の主な出入りする場所 ――― 食堂、勉強室、図書室、応接室などに案内され、キャレが最終的に辿り着いたのは自らの部屋だった。

 

「ここがお前の部屋になる。この『青い鳥』を目印にするといい」

 

 マティアスは扉に貼り付けられた、青い鳥の描かれたタイルを指さして言った。次に周囲の部屋についても説明してくれる。

 

「この斜め前の一番大きな扉が、さっきお前を連れてきた小公爵様のお部屋だ。お前を通したのは、寝室の次の間にあたる私室だが、小公爵様は主にそこで過ごされている。

 近侍の部屋は小公爵様の部屋の周囲に、それぞれ一部屋与えられている。

 私はお前の隣、小公爵様のお部屋の向かいにある『白の鳥』、チャリステリオは私の隣の『黄色の鳥』、エーリクとオヅマは小公爵様の部屋を挟んでそれぞれある。

 チャリステリオの部屋の向かいにある『赤い鳥』がエーリクで、お前の部屋の向かいの『黒の鳥』がオヅマの部屋だ。覚えたか?」

「………たぶん」

 

 チラリと背後の扉を窺うと、キャレの部屋の扉と同じように中央よりやや上に小さなタイルが貼り付けられ、そこに黒い鳥の絵が描かれてあった。

 キャレが頭の中でそれぞれの鳥の色と、近侍たちの顔を結びつけている間も、マティアスの解説は続いていた。

 

「この配置は当然のことながら、小公爵様をお守りするためだ。何かあったときには、すぐにでも駆けつけられるようにな。夜中であっても関係ない。そのつもりでいるように」

「……はい」

 

 素直に頷きながら、キャレの顔は強張った。

 それじゃあ、夜もまともに寝るな、ということだろうか。ただでさえ気詰まりだというのに、まったく気の休まる時がない。

 

「お前の荷物はもう部屋に運ばれている。早々に整理を済ましたあとには、藍一ツ刻(らんのひとつどき)に晩餐だ。ちゃんと衣服を整えて食堂に参るように」

 

 いつの間にやらキャレはすっかりマティアスの指揮下に置かれたようだ。同じ近侍というよりも、目上の監督生から指示されているように感じる。

 だが、キャレとしてはこうした人間がいることの方が有り難かった。どうせ自分にはできそうもない役割を、代わりにやってくれる人がいるなら、任せた方が安全だ。

 

「それでは、私は小公爵様に報告してくる。各自解散」

 

 マティアスが去ると、案内の間ずっと黙っていたエーリクが声をかけてきた。

 

「キャレ」

 

 太く低い声に、キャレはビクリとなる。もはやクセになっているようだ。大人の男の声に、今から怒られるのではないか、と身構えてしまう。

 エーリクはキャレの怯えた反応に少し戸惑ったようだが、気にせず言った。

 

「マティアスは一応、心構えとして言っているだけだ。小公爵さまは夜中にむやみやたらと起こすような我儘なことはされない。そんなに心配する必要はない」

 

 すると、これも案内の間、マティアスからの質問に頷くぐらいであったテリィが同意する。

 

「うん。小公爵さまはとても優しい方でいらっしゃるから、そんなに心配しなくていい。よっぽど無礼なことを言ったりしなければ、お許しくださるよ」

「そうですね…」

 

 頷きながらも、キャレは複雑だった。

 自分が今、ここにいる事自体が、既にして十分に無礼なのだ。真実が明らかになったときに、あの優しく朗らかな顔が、どれほど怒りに満ちるだろう。

 端正なアドリアンの顔を思い浮かべ、その顔が冷たく自分を睨みつけることを想像すると、キャレの心臓は絞られるように痛んだ。

 

 

***

 

 

 キャレは部屋で持ってきた物を箪笥に片付けるなどして過ごしていたが、遠くから藍一ツ刻を報せる柱時計の音が聞こえてきて、ハッと我に返った。

 マティアスに言われていたことを思い出し、あわてて外に飛び出す。

 とりあえず階段ホールまで出てきて、食堂の場所がどこだったかを必死に思い出そうとしていると、背後から声をかけられた。

 

「おぅ、キャレ。迷子か? 一緒に行こうぜ」

 

 くだけた口調は振り返る必要もなく、誰であるのかわかる。

 そろりと振り返って、キャレは小さくつぶやいた。

 

「オヅマ…さん」

「さん、なんぞいらねぇよ。俺たちゃ同じ穴のムジナなんだからな」

 

 キャレは少し首を傾げた。それはちょっと意味が違うような気がしたが、「はぁ…」と、曖昧に頷いておく。

 並んで歩きだしてから、キャレは少しばかり後悔した。

 もっと早くに出るか、あるいは怒られることを承知でもっと遅くに出れば、声をかけられることもなかったろうに。

 

 キャレは最初に会ったときから、このオヅマ・クランツという人間がどうも苦手だった。初対面にもかかわらず、妙に距離の詰め方がうまいというか、気づけば近くにまで来ている。

 

「あの、オヅマ。もうちょっと急いだほうが」

 

 既に晩餐開始の時間は過ぎてしまっているのに、オヅマの足取りはゆっくりだった。キャレは急がせようとしたが、オヅマはまったく頓着しない。

 

「大丈夫だよ。アドルは今、エーリクさんと一緒にルンビックの爺さんとこに行ってるし」

「………」

 

 また、だ。

『小公爵様』に対していかにも馴れ馴れしい言いよう。他の近侍とは明らかに違う。

 思わず上目遣いに睨むように見てしまうと、オヅマが気付いたのか目が合う。キャレはあわてて俯いて視線をそらした。

 

「マティの案内はわかりやすいだろ?」

 

 オヅマはキャレが睨みつけていたことには触れず、いきなりマティアスの話を始めた。

 

「え? あ…はい」

 

 キャレは戸惑いつつも頷く。

 

「あいつは口やかましいけど、自分を頼ってくる人間にはいい格好したいから、何かと面倒みてくれるさ。わからないことがあったら、基本的には奴に聞くといい」

「はい」

 

 キャレは返事しながら意外だった。

 出会った当初から何かとやりあっていた二人なのに、オヅマはマティアスのことをそれなりに認めているらしい。

 

「あとはアドルの世話に関することは、サビエルさんに聞けばいい。まぁ…世話っ()っても、アイツたいがいのことは自分でやっちまうけどな。他所(ヨソ)のお坊ちゃんだったら、それこそシャツから靴下までいちいち着せてもらうところだろうけど、アドルはそういうのも基本的には自分でやっちまうんだ。騎士団で見習いとして生活していたからな」

「騎士団で…見習い?」

「そう。レーゲンブルト騎士団でな。俺はそれからの仲だから、他の奴らよりは、過ごしている時間が長い分、多少気安いんだよ。俺が小公爵さまをアドルって呼ぶ理由は、そういうことだ。ま、西館(ココ)でだけにしておくから、大目に見てくれ」

 

 途端にキャレはバツが悪くなって、また俯いた。

 やはり気付かれていたのだ。やけにアドリアンと親しげなオヅマに対して、キャレが内心、おもしろく思ってないことを。

 チラリと横目で窺うと、オヅマはピンと背を伸ばして悠然と歩いて行く。

 

 ふわりと柔らかそうな短い亜麻色の髪、妙に自信ありげに見える薄紫の瞳、どこか異国の雰囲気を漂わせる浅黒い肌。成長期なのか、やたらと手足が長細くてバランスが悪そうに見えるが、二、三年の間には均整のとれた体格になるだろう。

 いかにも大貴族の若様の近侍として選ばれそうな容姿だ。

 近侍として選ばれるのは血筋のほかにも、側にいて不快さを感じさせない見目好い者というのも、実のところ考慮に入れられる。

 

 キャレはそっと溜息をついて、目にかかる自分の前髪を引っ張った。

 今のところ、自分を象徴するのは、このオルグレン家特有の赤毛だけだ。それだって結局のところ、キャレの自信になるものではない。

 いちいち差を感じてしまって、キャレの溜息は増すばかりだった。

 

***

 

 結局、気まずくなって黙っている間にキャレ達は食堂に辿り着いた。

 オヅマの言う通り、アドリアン小公爵はまだ来ていない。細長いテーブルの主人席は空いていた。

 オヅマはドアから一番近く、アドリアンの座る席から見て左斜め横の席に座る。

 テーブルを挟んだその向かいには、テリィが着席していた。どことなく青い顔で、ひどくビクビクした様子だ。

 テリィの横にはマティアスが澄ました顔で行儀よく待っていた。

 

「お前、そこ」

 

と、オヅマはマティアスの隣に用意された席を示した。既に食器はセッティングされている。

 キャレはふぅと気付かれぬようにため息をもらした。やはり後発してやって来た自分などは、席次も小公爵たるアドリアンから一番遠い場所に用意されるらしい。

 キャレは無言でその席に座った。

 

「お前」

 

 座るなり、マティアスがジロリと見てくる。キャレはその顰めた顔だけでビクリと震えた。

 

「な…なにか?」

「なんだ、そのみすぼらしい格好は。寸法も合ってないようだし…まともな晩餐用の服も持ってきていないのか?」

「あ……」

 

 キャレは恥ずかしさで真っ赤になって俯いた。

 

 家から持たされた幾つかの服は、兄達がさんざ着回して色褪せたお下がりだった。中には一体いつの時代のものかと思えるような、古びたデザインの虫食いのものまであった。その中から、まだしも状態の良さそうなものを着てきたのだが、それでもマティアスから見れば、みすぼらしいものなのだろう。

 寸法も、恰幅のいい兄らと比べて、細くて小さなキャレではブカブカなのはわかりきっている。なんとか袖や裾などは詰めてみたのだが、縫い目も荒くて、明らかに下手だった。針仕事は苦手なのだ。

 

 キャレは泣きそうになるのを必死でこらえた。じっと黙って、震えそうになる体を固くしていると、チッとオヅマの舌打ちが聞こえた。

 

「着るモンなんぞなんでもいいだろ。みすぼらしい…って、十分じゃねぇか。破れてないんだから」

「馬鹿なのか、お前は。破れた服など着ていては、小公爵さまの近侍としての品位を疑われる」

「どうせ、そのうちお仕着せくれるんだろ? それまでなんだから、いいじゃないか」

「近侍の制服はあくまでも外出や勉強の時のものだ。食事時には、それ用の服に着替えるのが当たり前だろうが」

「面倒くさ」

「そういう態度が…」

 

 また二人がやりあっている間に、ようやくアドリアンとエーリクが現れた。

 キャレは一瞬、バチリとアドリアンと目が合い、あわててお辞儀するフリをして泣きそうな顔を隠した。

 

「…なにかあった?」

 

 アドリアンは自分の席につきながら、誰にともなく尋ねる。

 マティアスが澄まして答えた。

 

「特に何もございません」

 

 アドリアンはチラリとオヅマに視線を送る。

 しかしオヅマは反論する様子もなく、同じように澄ました顔で「何も」と言葉少なに答えるのみだった。

 

 キャレはホッとした。

 ここで妙な正義感を発揮して、キャレの情けない状況について訴えられても、一層惨めになるだけだ。

 

 アドリアンはしばらくオヅマとマティアスを見比べていたが、追及しなかった。

 エーリクがオヅマの隣に座ったのを見て、「じゃあ、食べようか」と朗らかに宣言し晩餐が始まる。

 

 しかしキャレの前にはすぐに運ばれてきた前菜が、アドリアンのところにはない。不思議に思っていると、アドリアンの右斜め横に座っているテリィがカチャカチャと無作法な音を立てている。

 キャレは眉をひそめた。

 気になって見ていると、テリィはキャレと同じ前菜のパテを少量、ナイフで切ろうとしているようだが、手が震えているせいなのか、まったくパテにナイフが入っていかず、皿にナイフとフォークがカチャカチャ当たっているのだった。

 キャレはアドリアンの顔を窺い見た。そこに苛立ちといったものはなく、むしろ気の毒そうにテリィを見つめている。

 

「あ…あ…ああ…」

 

 焦っているのか、テリィの顔は青く、額には冷や汗がうっすら浮かんでいた。

 いつまでも進まないテリィに、とうとう業を煮やしたマティアスが怒鳴りつけた。

 

「チャリステリオ! なにをしている!? さっさとしろ!」

「すっ、すみませんっ」

 

 テリィは謝ると、泣きそうな顔になりながらようやくパテを小指の先ほど切って、その欠片をフォークで刺した。震える手でそれを口元に運び、ギュッと目をつぶってパクリと食べる。二三度咀嚼してから、ゴクリと飲み下す。しばらく目をつぶったままで、そろそろと目を開くと、ホーッと息をついた。

 

「だ、だ…大丈夫、みたい…です」

 

 テリィが言うなり、アドリアン付きの従僕であるサビエルが、テリィの目の前にあった皿をアドリアンの前に置いた。

 キャレは内心でつぶやく。

 

 ――――― 毒見…

 

 キャレの想定はすぐさまマティアスによって肯定された。

 

「キャレ・オルグレン。このように毎日の食事において、小公爵さまの召し上がるものについては、我らが毒見をせねばならぬ。明日の当番はお前だ」

「当番?」

「そうだ。毎日交代で毒見の検分役をすることになっている。わかったな?」

「………はい」

 

 途端にキャレは一気に食欲がなくなった。

 テリィが動揺して手が震える理由もわかった。

 誰であっても、死を目前にして怖くならないはずがない。

 しかしそんなキャレとテリィの動揺を軽く蹴飛ばすようにオヅマが言った。

 

「ったく、怖がり過ぎだっての。だいたい毒見ったって、一応、厨房でも確認はしているんだろ? こんなの要るかねぇ?」

「馬鹿者。近侍が主人の毒見を務めるのは、古来より決められたことだ」

 

 案の定、マティアスが渋い顔になる。

 オヅマはフン、と鼻を鳴らすと、これみよがしに目の前に置かれた二皿めの料理を、あっという間に平らげた。

 マティアスが眉間に皺を寄せて、オヅマを睨みつける。

 

「まったくみっともない。丸呑みしているかのようではないか。もっと落ち着いて食べられないのか?」

「そんなチンタラ食ってたんじゃ、怒られるんだよ、騎士は。な? エーリクさん」

 

 いきなり自分に差し向けられた問いかけに、エーリクはさほど驚いた様子もなく、にべなく言った。

 

「時と場合による。今は、ゆっくりと黙って食べるべきだろう」

「チェッ! なんだよ、自分だってもう食っ……食べ終わってるってのにさ」

 

 舌打ちするオヅマに、マティアスは自分が優勢とみるや、火に油を注ぐがごとく付け加える。

 

「エーリクは貴様と違って、みっともない食べ方はしていない」

「みっともない食べ方ってなんだよ!」

「貴様のような食い意地の張った食べ方だ!」

 

 テーブルを挟んで二人の言い合いが激しさを増し、いよいよどちらかが立って喧嘩が始まるか ―――― という頃合いで、パン! と手を叩く音が大きく響いた。

 

「そのくらいにしておきましょうか?」

 

 ニッコリ笑いながら制止したのは、小公爵付きの従僕であるサビエルだった。彼は給仕も行っている。

 本来であれば、爵位のある貴族子弟に対して物言える立場ではないはずだが、オヅマもマティアスも不承不承な表情を浮かべながら黙り込んだ。

 

 キャレは不思議に思いつつも、とりあえず目立たぬよう食べることにした。

 オヅマではないが、キャレもまた出てくる料理がすべて豪華で、本当ならがっつきたいくらいだった。

 最初は特別に今日やって来た自分のために、わざわざアドリアンが用意してくれたのか、と勘違いしたくらいだ。

 

 キャレは故郷(ファルミナ)に残してきた家族のことを思った。

 ここに来る前に、母らの待遇が少しでも良くなるよう、兄に頼んできたが、大丈夫だろうか。

 今、自分が食べているような豪勢な食事は望むべくもないが、せめて空腹を抱いて寝るようなことがないようにはしてほしい……。

 

 暗い顔で、キャレはローストされた小羊肉(ラム)を噛み締めた。ジュワリと肉汁と濃いソースが口中で混ざって、とてつもなくおいしかった。




次回は2023.03.19.更新予定です。


感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第百二十一話 公爵閣下との対面

 予定していた近侍がすべて揃ったので、ようやく公爵閣下と対面することになった。それでも忙しい公爵が、彼らと息子である小公爵のために割いた時間は、四半刻*1と短い。

 

 この日に合わせて支給された制服は、濃紺地の上下で、立襟の上着の胸にはグレヴィリウスの家紋が金銀の糸で刺繍されていた。

「公爵家の近侍にしては地味」と、やや不満げにマティアスは言ったものの、文句など言えようはずもない。

 簡素なその格好に身を包み、近侍たちは公爵の執務室に向かった。

 

 彼らは初めて公爵を見る者、あるいは遠くから見たことのある者、それぞれであったが、部屋に入るなり大きな執務机の向こうに座っている公爵閣下を見て、誰しもが同じ感想を抱いた。

 

 

 ――――― そっくり父子(おやこ)

 

 

 黒檀色の髪に(とび)色の瞳。

 端正過ぎて、やや冷たく見える面差しまで似通っている。

 唯一、アドリアンと違いがあるとすれば、眉間に刻まれた深い皺くらいなものだろう。

 

「グレヴィリウス公爵エリアス・クレメント閣下であらせられる」

 

 控えていた家令のルンビックのいかめしい声に、近侍たちは頭を下げた。

 

「……五人か」

 

 公爵が並んだ近侍を見て、まず言ったのは人数だった。

 

「は。ニーバリ伯爵家のオットーは、持病があるとのことで」

「そうか」

 

 公爵が無表情に頷くと、右端にいたアドリアンが一歩前に進み出て、近侍らを順に紹介した。

 

「手前より、ブルッキネン伯爵家嫡嗣マティアス、次にテルン子爵家嫡嗣のチャリステリオ、エシル領主子息のエーリク、ファルミナ領主子息キャレ、最後にサフェナ領主子息のオヅマ…以上の五名です」

 

「……面を上げよ」

 

 公爵の抑揚のない陰鬱な声が響き、近侍たちは一斉に頭を上げた。

 公爵は表情を変えることなくそれぞれを見てから、立ち上がった。

 ルンビックが意外そうに目を瞬かせたので、これは予想されていない行動なのだろう。

 

 公爵はゆっくりと居並ぶ近侍たちの方へと寄っていくと、まずは筆頭であるマティアスに低い声で尋ねた。

 

「年は?」

「じゅっ…十二歳でございます!」

 

 マティアスは恐縮しきりで声が裏返った。

 公爵はすぐに隣のテリィへと視線を移す。

 

「じ、じゅ、じゅっ、じゅう、じゅう…十、三にございます!」

 

 テリィも顔が引き攣り、何度も詰まらせながら何とか答える。二人に比べると、落ち着いて答えたのは最年長のエーリクだった。

 

「十五歳になります」

「十一歳です」

 

 キャレもエーリクに倣って、なるべく落ち着いて答えたあとで、続くオヅマをチラリと窺った。

 オヅマの顔はマティアスらのように恐縮もせず、かと言ってエーリクのような従順を示す無表情でもなかった。どんよりとした公爵の視線を、射るかのように見つめ返している。

 

 キャレは内心で嫌な予感がした。何かひと悶着起きそうな気配だ。その不安はキャレに限らず、その場にいた当事者以外の人間が共通で抱いた。

 

「十二歳です」

 

 思っていたよりも静かな口調でオヅマは答える。

 しかし挑戦的な視線がそらされることはない。

 

 公爵はしばらくの間、その真っ直ぐな視線を無表情に見下ろしていた。

 ふと、その空虚な瞳が揺らぐ。

 だがそれはとても微細な変化で、その場にいる者たちにはわからなかった。

 

 公爵は歩を進めると、オヅマの目の前まで来て止まった。

 

「オヅマ……ヴァルナルの新たな妻の連れ子であったな」

「そうです」

 

 オヅマは公爵相手でも、まったく怯む様子もない。緊張していないわけではなかったが、オヅマのやや強硬な態度にも理由はあった。

 

 公爵家においてアドリアンの立場が微妙なものになっているのは、おおむね公爵の態度に問題がある…ということは、オヅマだけではないヴァルナルやルンビックも含めた認識だった。

 無論、大人達はそのことを大っぴらに言わなかったが、実の息子を蔑ろにする公爵閣下に対し、オヅマは疑問を含めて、自分の感情を押し殺そうとは思わなかった。

 

 公爵はオヅマの不遜な態度を咎めなかった。

 冷徹な表情は変わることがなく、オヅマを見下ろしている。

 

 しばらく無言で見つめられ、さすがにオヅマが居心地の悪さを感じ始めると、いきなり公爵は妙な質問をしてきた。

 

「その髪の色は誰からのものだ?」

「は?」

 

 予想もしない問いかけに、オヅマは思わず聞き返した。

 ルンビックがギッと眉を寄せて睨みつけたが、背の高い公爵に遮られて、オヅマからは見えない。

 驚いて答えられないオヅマの髪を公爵はグイッとつまんで、再度尋ねてくる。

 

「この髪は誰より受け継いだ? お前の母は淡い金髪(ブロンド)、水路に落ちて死んだ父は茶色の髪色だと聞いている。その父ともお前は血が繋がっていないのだろう?」

 

「………」

 

 オヅマは押し黙った。

 ヴァルナルが結婚するにあたって、その許可を与える公爵家が、ある程度ミーナについて調査した…とは聞いていたが、まさかラディケ村に住んでいた当時のことまでも調べられているとは思っていなかった。

 

「存じ上げません」

 

 オヅマはキッと公爵を睨みつけた。

 

「それが何か重要なんですか? 祖母、祖父か、あるいは()()()()が同じ髪色であったかもしれません。そこまでは俺…僕も、母に詳しく聞いておりません」

 

 話しながら頭を後ろへ引くと、公爵の手にあった髪がするりと抜ける。

 公爵は初めて表情を歪め、嘲るように言った。

 

「お前の真実の父について、母親は話しておらぬのか?」

「聞く必要はないと思っております」

「十二にもなって、己の出自に疑問も持たず、母にも聞かぬとは、自らを知る努力が足りぬな。自己を精察せぬ者は向上せぬぞ」

 

 オヅマは拳を握りしめ、ギリと歯軋りする。

 

「さっきから、何が言いたい……」

 

 一触即発の雰囲気に、アドリアンがあわてて間に入った。

 

「公爵閣下! 父上! 今日は、挨拶だけと伺っております」

 

 公爵はオヅマを庇う息子を冷たく見た。

 

「以前からの仲であるからと、少々、贔屓が過ぎるのではないか? お前の臣下の無作法であるならば、責はお前が受けよ」

「……わかっています」

「そうか」

 

 言うなり公爵はアドリアンの頬を張る。

 執務室に響いた鋭い音に、オヅマも、他の近侍たちもびっくりして息をのんだ。

 テリィなどは驚き過ぎて、固まった顔のまま目に涙が浮かんだ。

 

 冷静なのはアドリアンだけだった。よろめきながらも、どうにかその場でこらえると、頭を垂れて謝罪する。

 

「申し訳ございません、公爵様」

 

 アドリアンの白い頬には赤い手形が浮かび上がっていた。

 

 一方、公爵はまた元の無表情に戻り、クルリと踵を返して椅子に戻った。

 

「用向きが済んだのであれば、退がれ」

 

 眼鏡をかけると、一顧だにせず積まれた書類を手に取る。

 ルンビックが頷いた。

 

「対面は終了である」

「失礼致します」

 

 アドリアンがお辞儀して出ていくと、近侍たちは後に続いた。

 

 本館にいる間、黙りこくって静かであったが、西館に戻った途端に、案の定マティアスの雷が落ちた。

*1
十五分ほど




引き続き、更新します。


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第百二十二話 許されない一言

「なにを考えているんだ!! この愚か者ーッ」

 

 怒り過ぎて声がひっくり返ったせいで、真剣に怒っているのにどこか滑稽になる。しかし、いつもなら混ぜっ返して馬鹿にするオヅマも、このときばかりはムッスリと押し黙っていた。

 

 マティアスは言い返さないオヅマを、ますます激しく非難する。

 

「よりによって公爵閣下にあのような無礼な態度! まったくもって有り得ない!! 貴様が下賤の身の上であることは承知していたが、今日という今日は許せん! 小公爵さまにまでご迷惑をおかけするとは、臣下として恥ずべきことだ!」

 

 このときアドリアンは、サビエルによって自室で手当てを受けていたので不在だった。

 近侍たちは、勉強室兼サロンとなっている、いわゆるたまり場で、この後に控えた歴史の授業の準備のため集まっていたが、公爵との対面後、当然ながらそこはオヅマを弾劾する場となった。

 

「僕、よくは知らなかったけど、君、クランツ男爵と血の繋がりはないのか?」

 

 テリィが仏頂面のオヅマに怖々尋ねる。

 オヅマはためらいもなく認めた。

 

「そうだ」

「じゃ、じゃあ……あの噂は? 新しいクランツ男爵夫人は、元々は召使いだったらしい……っていうのは?」

 

 口の立つオヅマがいつになくおとなしいので、テリィはここぞとばかりに疑問をぶつけた。以前、母とその友人である貴婦人達が面白おかしく噂していたのだ。

 

「その通りだ」

 

 オヅマは素っ気なく、これもまた肯定する。

 その答えにテリィは目をまん丸にすると、しばらくブツブツと頭を整理するようにつぶやいた。

 

「その連れ子ってことは……本当のところは、身分もない、ただの雇い人の息子ってこと……?」

 

 今回の近侍の人選については情報が錯綜して、クランツ男爵の()()ということで、前妻の息子であり、正当なクランツ家の後継者であるオリヴェルとオヅマが混同されていた。

 テリィは病弱であると聞いていたクランツ男爵の息子が、自分よりも年下のくせに体格も大きく、馬も乗りこなしているのを見て、混乱していたのだ。

 

 ようやく納得がいくと、テリィはその口元にかすかな嘲りを浮かべた。

 

「要は、君は元はただの平民ということじゃないか。本来であれば、こんな場所にいるのだって…」

「そのことについては小公爵さまはご存知なのでしょう?」

 

 テリィの言葉を遮ったのはキャレだった。

 何かを訊かれたり、言うべき必要がない限りほとんど話すことをしないキャレの、やや強い語気にテリィがムッとしたように見る。

 

「だからこそ、公爵閣下が注意していらしたんじゃないか。たかだか平民出身の、まともな礼も弁えない者を贔屓しすぎるから、こうして不興を買うようなことになって。ルンビック卿に礼儀作法を習ったとはいっても、一朝一夕に身につくものじゃないし。そのことは君だって思うところはあるはずだ。違うか、キャレ?」

 

 キャレはうつむいた。

 実際、キャレもまたここに来た当初から、オヅマと小公爵であるアドリアンがあまりに親しいことに、違和感とかすかな苛立ちがあった。オヅマから理由を聞いて、納得できる部分もあったが、それでも彼らの関係性は他の近侍と一線を画しているように見える。

 

 キャレの沈黙で間隙ができると、それまで黙っていたエーリクが低い声で言った。

 

「オヅマの身分について、我らが論ずるのは分に過ぎたことだ」

「どういう意味だ?」

 

 明らかに不機嫌に問うたのはマティアスだった。

 

「まともな礼儀も心得ない猿のような奴のために、小公爵さまに恥をかかせても、見て見ぬふりせよと? ただでさえ、この公爵邸での小公爵さまの地位は不安定だというのに、この不遜で無礼な者のせいで、ますます窮地に立たせることになるのだぞ!」

 

 しかしエーリクの表情は変わりなく、冷静だった。

 

「オヅマがクランツ男爵の息子ということで、ここに来ている……ということは、既に公爵家において()()()()()()()()()()()()ということだ。これに異議を唱えるのであれば、それこそ公爵閣下に物申すべきだろう」

「そっ……」

 

 マティアスは押し黙った。

 不満顔のテリィもやはり口を噤む。

 さっき会っただけでもその厳粛な迫力に圧倒されたというのに、できればこのあと半年は、公爵とは会わずに過ごしたい。

 

 エーリクは扉横に立って、何も言い返さないオヅマを見た。握りしめた拳に、物言わぬ怒りが込められているのだろう。

 

「公爵閣下の言う事にも一理はある。孤児であるならまだしも、母という存在がいるのに、己の出自について問うことをしないのは、何か理由でもあるのか?」

 

 エーリクの問いかけに、オヅマは目をそらす。

 

 小さい頃には無邪気に問うていたが、その度に見せる母の哀しげな様子に、やがて父について一切話すことはなくなった。母が避けるのと同様に、いつしかオヅマ自身も本当の父という存在を忌避し、なんであれば憎しみに近い感情を抱くようになっていた。

 

「……父親が()()男なのか、わからないんじゃないの……?」

 

 テリィがこっそりとつぶやく。その声にはあきらかな揶揄(やゆ)があった。

 一番近くにいたキャレは顔が固まった。

 本当に小さな声だったので、扉近くのオヅマには聞こえてないだろう…と思って、そちらを向いたときには、既にオヅマは目の前に迫っていた。

 キャレは思い出した。

 騎士は囁くような小さな声も聞き取る訓練をする。雑踏にいても、戦場にいても、声を聞き分けて増幅させるのだ。

 オヅマも、おそらくエーリクも習得しているのだろう。彼は即座にオヅマを止めようと手を伸ばしたが、間に合わない。

 

 既にオヅマはテリィの襟首を掴んで、宙に持ち上げていた。

 

「どういう意味だ? それは」

「……ぅうっ……ご、ごめ……」

「俺の母親を侮辱するなら覚悟の上だろうな?」

 

 低いその声は、ただの恫喝でない()()を感じさせる。

 そばにいたキャレは真っ青になってカタカタと震え、マティアスは金切り声を上げた。

 

「やめろ! やめろ! なんてことをしてるんだ!? 狂っているのか、お前は!」

 

 直接的にオヅマを止めることが出来たのはエーリクだけであった。

 テリィの首を絞めるオヅマの腕を掴み、珍しく怒鳴った。

 

「いい加減にしろ! その短気をどうにかしろと言われたんだろうが!」

 

 オヅマはギリッと奥歯を噛みしめると、テリィを離した。

 

「ヒャイッ!!」

 

 無様に尻もちをついて、テリィは情けない声を上げる。

 キャレは「大丈夫?」と声をかけたが、恐怖と助かったことの安堵で、テリィはそれこそ子供のようにしゃくり上げて泣き始めた。

 

 マティアスは額を押さえ、うめくようにつぶやいた。

 

「まったく…どうかしてる……」

 

 オヅマは剣呑としたオーラを漂わせてその場に立ち尽くし、エーリクは厳しい目でオヅマを牽制しながら深呼吸して、乱れた息を整える。キャレは殺伐とした雰囲気に息が詰まりそうで、ひたすら自分の存在を小さくした。

 

 重苦しく、ヒリヒリとした空気が流れる中、カチャリと扉が開き、現れたのはアドリアンだった。

 

「…………なに?」

 

 扉を開くなり、目が合ったのはキャレ・オルグレンだった。泣きそうな顔でこちらを見つめている。

 

「なに? どうしたの?」

 

 アドリアンは入った途端に、その場の空気がかなり悪いとわかった。

 

 テリィは床に座り込んで、また泣いているし、エーリクは怖い顔でオヅマを睨みつけている。背を向けたオヅマの表情はわからなかったが、アドリアンの声を聞いても振り向かないのだから、きっと穏やかな顔をしているわけではないだろう。

 

 マティアスが小走りにやってきて、深々と頭を下げた。

 

「申し訳ございません、小公爵さま。少し、(いさか)いが生じまして」

「あぁ、そう」

 

 アドリアンは軽く頷いて、ゆっくりとした足取りでオヅマらの方へと歩いていく。

 キャレはあわてて椅子から立ち上がり、エーリクやマティアス同様に頭を下げた。

 

 テリィの前に立って、しばらくアドリアンは無言だった。うつむいたまま、じっと立ち尽くしているオヅマには一顧だにしない。

 

 テリィはしゃくりあげながらも、指の間から小公爵の履いている磨き上げられた革靴をチラチラ見つつ、待っていた。

『大丈夫、テリィ?』と、優しくいたわる声を。

 

 しかしアドリアンの顔には、同情は一片たりとなかった。しばらく待っても、しゃがみ込んだまま一向に泣き止まないテリィに、冷たく呼びかける。

 

「テリィ、立ってもらえる?」

 

 テリィはそれでもなかなか立ち上がらなかったが、アドリアンが眉を寄せるのを見たキャレが、すぐさま小声で叱責した。

 

「チャリステリオ、立って下さい。いつまでも泣いていてはみっともないです」

「まったくだ」

 

 マティアスも言って、二人で手を貸してテリィを立ち上がらせる。

 

 テリィは自分にちっとも優しくないアドリアンに失望した。

 

 自分は祖父に言われて仕方なしに、ここに来たのに。

 母だって反対していたし、小父(おじ)だって今更、小公爵に肩入れする必要などないと言っていたのに、祖父が御恩顧云々なんて知りもしない昔話を始めて、結局なし崩しにここに来る羽目になった。

 それでも公爵家で冷遇されている小公爵に同情したからこそ、支えてあげようと思っていたのに、こんな態度をされるなんて…!

 

 テリィは心の中でつらつらとこれまでのことを振り返る。

 すると鼻の奥がツンとしてきて、ますます涙があふれて止まらない。

 

 マティアスとキャレは、またひどくしゃくり上げて泣き出したテリィに驚いた。目を見合わせて、キャレは首をひねり、マティアスは渋い顔になった。

 

 情けなく泣き続けるテリィに、アドリアンは内心で嘆息した。

 自分よりも二歳年上の子爵家の嫡嗣は、なにせ泣き虫だ。男でも女でも、すぐに泣く人間というのは、どうにも話が通じない。

 

 アドリアンはややあきれたように命令した。

 

「テリィ…いや、チャリステリオ。君の口からなにがあったのかを説明したまえ」

「うっ…ぅ…お…オヅマ…がっ……」

 

 しゃくりあげるテリィの言葉は切れ切れだったが、懸命に訴えた。

 最終的に「オヅマが僕の首を絞めた」という言葉を聞いて、アドリアンは公爵にも似た眉間の皺を浮かべ、マティアスに命じた。

 

「マティアス、テリィの首を見せてくれ」

 

 言われてマティアスはテリィの襟の留具を外した。

 白い首にくっきりついた赤い痣に、アドリアンは一気に冷たい顔になった。

 

「………サビエル」

 

 アドリアンが静かに呼ぶと、扉を背に控えていたサビエルが「は」と頭を下げる。

 

「テリィを連れて行って。一応、医師に見せた方がいいだろう」

「かしこまりました」

 

 サビエルは泣き続けるテリィを促して、部屋から出て行った。

 

 バタン、と扉が閉まると同時に、アドリアンは隣に立っていたオヅマの頬を打った。

 

 キャレは悲鳴を上げそうになって口を押さえ、マティアスとエーリクは目の前の光景が信じられないように口を開いたまま固まった。

 

 その場にいて、この状況について把握できていたのはアドリアンとオヅマだけだった。

 アドリアンは何も言わず下を向いたままのオヅマの頬に、再び手を上げる。パシッと乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。

 

「ルンビック卿から忍従を学ぶようにと、言われたよね?」

 

 アドリアンが冷たく言うと、オヅマはしずかに跪いた。

 

「………申し訳ございません」

 

 淡々とした言葉に感情はない。あくまでも主従として、自分の不手際を謝しているだけだった。

 アドリアンはオヅマの謝罪が形式的なもので、テリィに対して何らの申し訳無さも感じていないのはわかったが、それについて咎めようとは思わなかった。

 だが ――――…

 

「君に近侍になることを望んだ以上、僕が受けるべき罰については甘んじて受ける。その覚悟はしている。しかし、チャリステリオに対する暴行は許されない。彼が君を怒らせるようなことを言ったにしろ、暴力は控えろ。それは君自身の価値を下げる行為だ」

 

 オヅマは唇を噛みしめた。

 何の反論もできない。

「はい」とおとなしく頷くと、アドリアンは重ねて言った。

 

「公爵閣下に対しても同じだ。僕は閣下が僕を嫌う理由はわかっているし、納得もしている。だから……心配しなくていい」

 

 最後の言葉でアドリアンは引き締めていた顔を、ふっと緩めた。

 

 無理に作られた穏やかな表情に、オヅマは眉を寄せる。

 なんだって、()()()親を庇うようなことを言うのか…納得できない。

 

 アドリアンはオヅマの内心をおおよそ理解しつつ、そのことについては話を打ち切った。

 

「さて。じゃ、今回の罰についてだけど」

 

 さきほどまでの冷ややかな剣幕が嘘のように、いつもの朗らかな口調に戻る。

 オヅマはぶたれた頬をさすりながら、立ち上がった。

 

「罰?」

「そりゃそうだろ。僕は君についての責任があるんだから、責任者としては反省させる必要がある」

 

 オヅマはさっき、アドリアンが公爵から頬を()たれた姿を思い出した。

 自分が頬を()()打たれたのは、その『罰』を含んでいるのかと思っていたのに、今のアドリアンの話だと別に『罰』が用意されているということか?

 

「ちょっと待て! 俺、さっきお前……小公爵さまに殴られましたよね? しかも二度!」

「僕の平手打ちなんて、君にとっちゃ蝿に顔を突つかれた程度だろ。君への罰はベントソン卿に頼んでおいたから、とっとと行ってこい。授業の方は、後で補講してもらうように、オーケンソン先生に言っておくから」

 

 アドリアンは澄まして言った。

 オヅマが渋い顔で突っ立っていると、やや意地悪な笑みを浮かべて、別案を提示する。

 

「それとも、謹慎にするかい? 今から三日間、自室から一歩も出ずに反省文を…」

 

 途端にオヅマの顔が引き攣った。以前にその罰をくらったときが一番きつかったことを思い出す。

 

「………行きます」

 

 即座に頷いて、オヅマは足早に部屋から出て行った。

 




次回は2023.03.26.更新予定です。


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第百二十三話 公爵の憂慮とルーカスの思惑

 公爵は息子の近侍たちが去った後、仕事に没頭しているように見えたが、珍しく小一時間ほどで、人差し指がコツコツコツと机を打って、休憩を知らせてきた。

 ルンビックは書きかけの書類をすぐに脇に置いて、チリンとベルを鳴らす。

 すぐさま扉が開き、姿を見せた従僕にお茶の用意をするように命じてから、恭しく公爵の執務机の前に行って、決裁の済んだ書類の束を引き取ろうと手を伸ばした。

 

「ルンビック。お前はあの者を最初に見たとき、どう思った?」

 

 公爵のこの質問に対して「あの者とは?」などと問い返すような家令であれば、このグレヴィリウス家では必要とされない。むしろ、ルンビックにとって意外であったのは、まだ公爵が『あの者』――― オヅマについて、考えていたということだった。 

 

「クランツ男爵が才を見出してわざわざ自らの息子にした、と聞いておりましたので、いかにも騎士であるクランツ卿のお眼鏡にかなうような少年だと思いました。頑健で、そこそこに頭もよろしい」

 

 ルンビックは実際に感じたままのことを言ったが、公爵にはそれ以外の答えが必要であるようだ。

 

「何か気にかかるようなことがございますか?」

 

 聞きながら、ルンビックはあらゆる可能性を考えた。

 オヅマの品行に不備が多くあるのは認めるところだ。だが、そんなことはある程度、当初から予定していた。だからこそ公爵も今日の初対面でのオヅマの数々の無礼について、直接叱責することは控えたのだろう。

 公爵自身が直接罰を与えれば、それはオヅマの親であるクランツ男爵にまで責任が及ぶ。あの場ではオヅマの直接的な上役である小公爵を叱責し、後に小公爵からオヅマに罰を与える…というのが、もっとも穏便な手段なのだ。

 

 考えている間に従僕がお茶を持ってくる。ルンビック自らポットのお茶をカップに注いで公爵へと持っていき、自らの分も注いで一口含んだ。

 

「……あの者に稀能(きのう)があることは知っておろう」

 

 公爵はカップから立ち上る湯気を陰気に見つめながらつぶやく。

 ルンビックは頷いた。

 

 そもそもクランツ男爵の結婚を進めたのは、年少ながら稀能を発現するなどという驚異的な身体能力を持つオヅマを、小公爵の近侍として召すためだ。

 公爵本人よりも、どちらかといえば小公爵に何かと肩入れする騎士団の団長代理たるルーカス・ベントソン卿の肝煎りではあったが、ルンビックはこの人選は間違っていないと評価している。

 

「あの者の発現した稀能が何であるかは知っておるか?」

「『澄眼(ちょうがん)』ではないのですか?」

 

 ルンビックはてっきりオヅマがクランツ男爵からその稀能の訓練を受け、年少ながら非凡な才覚で発現させたものと考えていたのだが、公爵のその質問によって、自分が間違っていたことを悟った。

 案の定、公爵は首を振る。

 

「『千の目』…それに『(まじろぎ)の爪』」

「それは、大公殿下の………」

 

 言いかけて、ルンビックは言葉が詰まった。

 その稀能から連想する人物と、先程の公爵の質問がルンビックの顔を強張らせる。

 

 

 ――――― お前はあの者を最初に()()()()、どう思った?

 

 

 ()()()()…ということは、性格や礼儀などの問題ではないのだ。あくまで初対面でのオヅマの容姿について、公爵はルンビックがどういうことを考えたのか、聞きたかったのだろう。

 

「お前も姉上の結婚の準備などに携わったのであれば、()()()()()()姿()について、覚えておろう?」

 

 ルンビックは無意識に体が固くなった。

 今、公爵が何気なく『姉上』と呼んだ女は、この公爵家にとって禁忌とも言うべき存在だった。

 

 現公爵の姉、エレオノーレ・ベルタ・エンデン・グレヴィリウスは公女として生を受け、尊き身分に相応した貴人、すなわちランヴァルト大公に輿入れしたが、悪業の末に醜悪な死を迎え、公爵家においても、大公家においても、恥なる存在として抹消された。

 

 今に至るまで、ルンビックはエレオノーレ公女については意識して忘れていたし、十数年の時を経て、すっかり忘却の彼方にあった。

 公爵にとっても色々と迷惑をかけられたので、思い出したくもない存在であるはずだが、それでも大公殿下について思いを致すれば、自然と浮かんでくるのかもしれない。

 

「それは…はい、畏れ多くも何度かお声がけして頂いたこともございますれば」

 

 なるべく公女については触れず、ルンビックは答える。

 

()()()()が、()()姿()()()()()()前、あの者と同じような髪色であったと思わぬか?」

 

 大公その人を明らかにするのも憚るかのように、婉曲な言い回しで、公爵は問いかけてくる。

 ルンビックは無理に笑みを浮かべ、引き攣った顔になった。

 

「恐れながら、公爵閣下。あのような髪色の者は、さほどに珍しくもございません。このアールリンデンにも、いくらでもおりましょう」

 

 多少の濃淡はあっても、亜麻色の髪というのはさほどに珍奇な髪色ではない。むしろ、帝国の貴族というのであれば、公爵のような黒髪と見紛うような濃い髪色の者の方が珍しかった。

 

「髪色だけのことではない。稀能もだ」

「稀能は……血によって継がれるものではございませぬ」

「わかっている」

 

 公爵は苛立たしげに眉間の皺を深くし、冷めた茶を口に含んだ。

 

「だが、あの者の目つきや、他者を覆うような気の強さ…容姿だけのことでなく、近いものを感じさせる」

「まさか…」

 

 ルンビックはゆるゆると首を振った。

 

 確かに公爵閣下と同じく、オヅマの尊大さにはルンビックも奇妙なものを感じてはいたが、それでも多少特徴的な性格と髪色だけで、大公殿下に似ている、などと結論づけるのは少々強引に思えた。

 

「公爵閣下、それだけで()()()との縁を語るのは、いささか無理があるように思います」

 

 ルンビックは率直に言った。

 稀能という共通点がなければ、おそらく多くの人間が、オヅマと大公殿下が似ているなどという感想は持たないだろう。その稀能にしても、最前(さいぜん)話したように、遺伝はないのだ。

 

 公爵は自分と異なる老家令の意見に怒りはしなかったが、納得もしていないようだった。

 

「直接聞いた方が早いかもしれぬな」

「は? 直接…ですか?」

 

 公爵はしばらく考えてから、鋭くルンビックに尋ねた。

 

「確か…ヴァルナルが新たな街道について話が持ち上がっていると言っていたな」

「は。何度かロージンサクリ連峰の麓まで訪れて、調査をしておられるようです。この前には測量士を紹介してほしいと申されまして、何名か派遣しております」

「新たなる街道となれば大事業だ。私が無視しておくこともできぬであろう」

 

 それは公爵本人がサフェナ領を視察する、ということだった。相談ではなく、決定だ。

 

 ルンビックは頭を下げた。

 

「では、日程について直ちに調整致します」

 

 

 

***

 

 

 

 公爵家騎士団の団長代理(*団長は公爵本人)という立場にあるルーカス・ベントソンは、少々特殊な地位にある。

 

 彼の身分は上級騎士に過ぎなかったが、曽祖父が当時のグレヴィリウス公爵を助け、絶対的忠誠を誓ったという過去から『真の騎士』の称号をグレヴィリウス家から与えられた。

 この名称は略したもので、実際には『唯一にして絶対なる忠誠者にして、グレヴィリウス公に直言することを許されし真実の騎士』という長々しいものだが、ようは公爵家内において、唯一公爵に対して、公然と『物言える』人物といえる。

 

 この称号、本来は一代限りで、爵位のように子孫に継承していくものではない。実際、ルーカスの祖父と父には『真の騎士』の称号と権威は与えられなかった。

 だが現公爵エリアスは忌憚のない意見を言ってくれる稀有な存在として、その役割を再びベントソン家の嫡嗣ルーカスに与えた。その上で公爵家直属騎士団の団長代理という実質的な軍事権を掌握する立場でもある。

 同じグレヴィリウス家門の、より身分の高い家柄の者であっても、彼を蔑ろにすることはできなかった。

 

 しかしオヅマはそうした事情を聞いて知ってはいても、目の前のオッサンがさほどに偉い人間だとは思えなかった。

 何かというと二言目には「モテないぞ」というのが口癖で、面倒な事務仕事を放り出しては副官に追い回され、厨房下女を口説いておやつを貰っているオッサンを尊敬しろという方が難しいだろう。

 正直、これがあの真面目なカールと、無口なアルベルトの兄なのかと疑いたくなるくらいだ。

 

 今日も今日とて、アドリアンからオヅマの処遇について委託を受けたルーカス・ベントソンがまず言ったのは――――

 

「そう、カッカして怒りっぽい野郎はモテないぞ、小僧」

「………」

 

 オヅマは無表情に受け流した。予想を裏切らない。その科白(セリフ)も、フフンと右の頬だけを吊り上げた薄笑いも。

 ルーカスは白けた顔のオヅマを見て、肩をすくめた。

 

「やれやれ…わかりやすい。妙なところでお前たち父子(おやこ)は似ているな。血も繋がってないってのに」

 

 無論、この場合ルーカスの言った『父』はヴァルナルのことだった。

 オヅマは眉を寄せる。

 

 似た父と子供というなら、公爵とアドリアンはそっくりだった。どう考えても血が繋がった親子に違いないというのに、あの二人の言動はひどく他人行儀だ。

 

「アンタ達は、なんで何も言わないんだ?」

 

 オヅマの問いに、ルーカスは首を傾げる。

 

「アド…小公爵さまと、公爵閣下のことだ」

 

 躊躇なくオヅマが言うと、周囲の空気がザワリと緊張を帯びる。

 ここは修練場で、オヅマとルーカスからは遠巻きながらも、騎士たちが剣術の稽古を行っていた。

 

 ルーカスはやや意外そうに目を見開いて、オヅマを見つめた。まともに見返してくる生意気な薄紫の瞳に、再びフ…と笑みを浮かべる。

 

「小公爵さまがなにか仰言(おっしゃ)ったのか?」

「あいつが言うわけないだろ。むしろ、心配しなくていいって言われたさ」

「心配? お前が小公爵さまを心配したのか?」

 

 あきらかにその口調は嘲弄を帯びていた。言外に「お前ごときが」と、言っている気がする…。

 オヅマはギロリとルーカスを睨みつけた。

 

「あいつは公爵閣下に嫌われても仕方ないし、納得しているって言うんだ。絶対、そんなわけないのに」

「なぜそう思う?」

「本気で親に嫌われても仕方ないなんて考えてるなら、そんな親の言うことなんぞ、聞いてやる必要もない。無視すりゃいいし、とっとと出て行きゃいいんだ。出て行かないのは ―――― 」

 

 言いかけて、オヅマは急に口を噤んだ。ふと、自分の中に甦りそうになる気持ちに、ひどく苛立ち、気分が悪くなる。

 

 

 ――――― 大丈夫だ、オヅマ……私は決して、お前を見捨てたりはしない

 

 

 オヅマの記憶にあるその言葉は、ヴァルナルに言われたものであるはずだった。初めて人を殺して錯乱したオヅマをなだめるために。なのにどうして、思い出すその声音はヴァルナルでないのだろう?

 まるで呪詛のようにオヅマを縛り付ける。……

 

 一方、ルーカスは急に黙り込んだオヅマをしばらく見つめていたが、ふっと視線を落とすと自嘲するように溜息をついた。

 

 オヅマの言う通りだ。

 小公爵アドリアンは長く、公爵からの無関心に耐えている。自分には嫌われる理由があるのだと、自らに言い聞かせ、無理に納得させているのだろう。

 その健気で痛ましい覚悟をわかっていても、ルーカスは公爵を諫める言葉を持たない。自分にはその役割が与えられており、許されているのに、何も言えなかった。自分が何かを言っても、公爵閣下の沈んで凍りついた心を動かすことなどできないだろう。

 

「それで、何も言わない小公爵様の代わりに、公爵閣下に対して意見しようとしたわけか」

 

 ルーカスはまた薄ら笑いを頬に浮かべて、あきれたように言った。

 

「意見なんぞしてねぇよ。公爵閣下がいきなり意味のわからねぇことを言ってきたから」

「お前…」

 

 ルーカスは額を押さえた。

 よくもまぁ、あの公爵を目の前にして、ここまで不遜でいられるものだ。ある意味、豪胆でさえある。

 

「俺の髪色が誰に似たかなんて、知るわけねぇだろ! 挙句に実の父親のことなんぞ聞いてくるから、知らねぇって言っただけだ」

「お前の実の父親だと?」

 

 ルーカスもさすがに公爵の意図が理解できなかった。なぜ、今になってそんなことを?

 

 しかしオヅマはこれ以上、この不毛なことについて考えることすらも不快だった。

 

「もういい。罰は?」

 

 話を打ち切って、ルーカスを急かす。

 既に決めていたのかルーカスの返答は早かった。

 

「修練場の草むしり」

「……クソジジィ」

「と、修練場十周」

 

 これ以上、下手に文句を言えば言うほど罰が増えると思ったのだろう。オヅマはくるりと背を向けると、さっそく近くの草からむしり取っていく。

 その様子を見ながらルーカスは、公爵の思惑について考えた。

 

 確か、以前行った調査では、ラディケ村で死亡した父親はオヅマと血が繋がっておらず、別の男が父親であるらしい…という、ややあやふやなものではあった。

 だが、幼い子どもをかかえた貧しい平民女が再婚するのは珍しくない。

 だからこそ公爵も深く追求せず、ヴァルナルの結婚を承認したのだ。

 

「……ま、気まぐれということもあるか」

 

 ルーカスはとりあえずその件については思考の片隅に追いやった。

 

 さほど重要なことでもない…と思っていたのだが、案に相違して、その夜にはサフェナ=レーゲンブルトへの同行を命じられた。

 その理由が新たな街道の視察と、オヅマの実父について、オヅマの母親に問い質すつもりらしいとルンビックから聞かされ、ルーカスは正直困惑した。

 

「どうも腑に落ちませんね…」

「私もそこまで大事(おおごと)にすることではないとは思うが…公爵閣下には、色々と考えられることがおありのようだ」

 

 ルンビックの煮え切らない返答にも違和感を持ちつつ、ルーカスは明後日に迫った出発の準備に追われた。

 その中には小公爵と近侍らの訓練を、ルーカス不在の間、誰に任せるかということも含まれている。

 

 ルーカスはしばし考えたのち、二つの書信を(したた)めた。

 一つは留守居中、小公爵らの訓練を任せる騎士に向けて。

 もう一つは ――――

 

 




次回は2023.04.02.更新予定です。


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第百二十四話 弓試合(1)

 急遽決まった公爵のサフェナ=レーゲンブルト地域の視察に同行して、ルーカスとその直属部隊であるところの第一隊がアールリンデンから出て行った。

 彼らは小公爵アドリアンとその近侍たちの騎士訓練を指導する役割を担っていたので、不在の間、その任は弓部隊である第五隊に託された。

 

 第五隊隊長のマウヌ・ヘンスラーは、弓上手で知られた遊牧民の血を引くらしく、帝国人にしては背が低かった。また弓騎士という特殊な事情もあってか、長く伸ばした柿色の髪を後ろに撫でつけて一括りにしている。

(弓騎士はいざ弓の弦が切れたときに、自らの髪を代用した…という古い時代の話を信じて、髪を長く伸ばす者が多い。もっとも、実際の戦においてそのようなことが行われたという話は聞かない)

 

 髪色と同じ髭が鼻から下にびっしり生えているのも、弓騎士であれば戦や試合において、兜をあまり必要としないためであろう。一時は男らしさの象徴として髭を蓄える者は多かったが、今では少し流行遅れの感であった。

 

 彼は狡猾な光を浮かべた茶褐色の瞳で、アドリアンをじっくり舐めるように見てから、一転、愛想笑いをつくった。

 

「お越しいただいてなにより。小公爵様にはご機嫌麗しく…」

 

 慇懃な礼をしながらも、その声はどこか空々しかった。立ち並ぶ騎士たちも、多くがどこか白けたような、冷たい顔だ。

 

 オヅマは初めて本館に行って、使用人たちに振り回されたときのことを思い出し、眉を寄せた。同じような侮蔑の視線を感じる。

 アドリアンもそれは感じ取っているのだろうが、表情に出さないのはいつものことで、至って平然と挨拶を返した。

 

「初めて会うね、ヘンスラー卿。ベントソン卿より、弓について指導を仰ぐように言われて来た。よろしく頼む」

「畏れ多きことにございます。しかし、残念でございますな…」

 

 ヘンスラーはかしこまって頭を軽く下げてから、いかにもガッカリしたかのように肩を落とした。

 

「私は小公爵様には何度かお会いしたことがあると思っておりました。やはり、弓部隊程度の隊長であれば、小公爵様の記憶の片隅に置いていただくことは叶わぬようでございますな」

 

 傷ついたふうを装って、ヘンスラーはそれとなくアドリアンを誹謗する。

 卑屈で嫌味な言い回しに、アドリアンは一瞬鼻白んだが、すぐにニコリと笑った。

 

「そうか。それは僕が悪かった。なにせ、先年の闘競会(ダルスタン)での弓術部門の優勝者は確か、レーゲンブルト騎士団のアルベルト・ベントソン卿であったのでね。彼の記憶が強くて」

 

 アドリアンの婉曲ながら痛烈な皮肉に、ヘンスラーの頬がヒクリと歪む。

 

 三年に一度、グレヴィリウスの公爵家内では武術競技大会 ――― 通称闘競会(ダルスタン)が行われる。

 公爵家下にある騎士団の精鋭たちによって、様々な武術 ――― 剣術、格闘術、馬術など ――― を競い合うのだが、騎士団としての評価のほかにも、個々人の評価が行われ、そこで優秀者として名を馳せることは、戦争の行われない時代において、騎士の能力を示す一つの指標であり、最大の栄誉であった。

 

 ヘンスラーは公爵家直属騎士団の弓部隊を率いる身であれば、当然、弓部門において優勝してもいいはずであったが、実際にはレーゲンブルト騎士団一の弓使いと呼ばれるアルベルトが最優秀者として表彰された。

 

 このことはヘンスラーにとって、とてつもない恥辱であったので、アドリアンの皮肉は確実にヘンスラーの矜持をえぐった。だが無論、小公爵様相手に怒鳴りつけるほど、ヘンスラーも子供ではない。

「ハハ……ハ…」と渇いた声で笑ったあとで、奇妙なほどニンマリと口の端を吊り上げた。

 

「なるほど、確かに闘競会(ダルスタン)で優勝もできぬような情けない男を、小公爵様がご存知の訳もございませぬ。ハヴェル公子様におかれては、私のような非才の身にも優しくお声がけ頂き、臣下としては誠にありがたく、その慈悲深い心根に涙を流したものにございます」

 

 今度こそアドリアンはしばらく硬直した。

 横で聞いていたオヅマは、ヘンスラーのあからさまな嫌味に、一歩足を踏み出しかけたものの、すぐにエーリクに止められる。

 

 アドリアンはゴクリと唾を呑み込んでから、冷たい眼差しで投げやりに言った。

 

「どうやらヘンスラー卿は、僕らに稽古をつけたくはないようだ」

「まさか。そのようなことは毛頭ございません。団長代理より頼むと任された以上、小公爵様を始めとする近侍の方々に、弓の技を学んでいただきたいと考えております」

 

 ヘンスラーは自分の言葉によってアドリアンが動揺したとみるや、不敵な笑みを頬に漂わせる。

 

「じゃあ、ご指導をたまわろうか」

 

 ずい、とオヅマがアドリアンの前に出ていくと、ヘンスラーは顔を顰めて、わかりやすいほどはっきりとした軽蔑の眼差しで見つめた。

 

「お前は確か、クランツ男爵の息子…に()()()()()()の小僧であったかな? 母親の出世で成り上がって、今や小公爵様の近侍とは……親子ともども、よほどに神の恩恵があったものよ。いや、母親の方は、妖魔女(アルミエッタ)の祝福でも受けたのかな?」

 

 妖魔女(アルミエッタ)は、男を惑わす精霊の類で、娼婦たちが信奉することから、娼婦の別称でもあった。明らかな挑発行為にオヅマはギロリと睨みつけたが、この前のように手を出すことはなかった。

 深呼吸をすると、急にヘラっと笑みを浮かべる。

 

「隊長殿のつまらない嫌味をいつまで聞く必要があるんでしょうかね? 僕らは今日、ここで弓の稽古をするように言われて来たってのに…なんです? ここは弓術訓練場じゃなくて、討論場なんですか? いや、こんなくだらないやり取りを討論と呼ぶのも失礼か。せいぜい場末の賭場で、酔っぱらいが絡んできたと言った方がいいんでしょうかね?」

「なんだと!?」

 

 おどけたオヅマの口調に、ヘンスラーは怒気もあらわにする。「無礼な小僧め! 口を慎め!」

 

「どっちが」

 

 あきれたように言うと、オヅマはまた一歩、ヘンスラーに迫った。

 近頃になってまた急激に伸びてきていたオヅマの背は、成人男子としては背の低いヘンスラーとそう変わりない。

 自分よりもはるかに年下であるはずなのに、その上、ついこの間まで平民であったというのに、目の前に立つ少年の傲然とした視線に、ヘンスラーは妙に威圧された。

 半歩後退り、我知らずオヅマを見上げる。

 

 スッとオヅマは薄紫の瞳を細めると、腕を組んで言った。

 

(にわか)に貴族のお坊ちゃんに()()()()()の、生意気な小僧の口を閉ざしたいなら、騎士らしく勝負したらどうだ?」

「な…なに…?」

 

 急な申し出にヘンスラーは困惑した顔になる。

 しかしオヅマは既に返事を聞くつもりもない。

 

「エーリクさん、あんた弓は?」

 

 くるりと振り返って、エーリクに問いかける。

 

「一応」

 

 簡潔なエーリクの返事にオヅマは頷き、マティアスに視線をやる。

 

『ム・リ・だ!』

 

 声にせず、マティアスは口だけで怒鳴る。

 キャレはその横でブンブンと首を振り、テリィに至っては俯いて目を合わせようともしなかった。

 

「まぁ、予想どおりか。こちらは三人だ。そちらも三人選んで【的射ち(テル=ディオット)】で勝負すればいいだろう?」

「勝負…?」

 

 ヘンスラーは聞き返しながら、半笑いになった。馬鹿にしたようにオヅマを見つめる。

 

「我ら弓部隊の者と【的射ち(テル=ディオット)】の勝負だと? 本気で言っているのか?」

「その方がお互いにわかりやすいだろ? アンタらが勝ったら、アンタの好きなようにするがいいさ。どれだけしごかれようが、放っておかれようが、文句も言わないさ。その代わり、俺らが勝ったときには、訓練を指導する教官はこちらで選ばせてもらう」

 

 オヅマの要求に、当然ながらヘンスラーは激昂した。

 

「なんだと? 私が指導者不足だと言いたいのかッ」

 

 あからさまな自分への軽侮を感じて、怒鳴り散らすヘンスラーに対し、オヅマはルンビック仕込みの丁重で礼儀正しい言葉遣いで応じた。

 

「教えられる方にも選ぶ権利があるということですよ、隊長殿。一応、曲がりなりにも、こちらは小公爵さまで()()()()()()。本来、お前ごときが気軽に馬鹿にしていいような御方ではない。違いますか?」

 

 最後につけ加えられた静かな恫喝に、またヘンスラーはたじろぎ、後退(あとずさ)った。

 オヅマはフンと笑うと、「ああ」と思い出したように付け加えた。

 

「当然ですが、まさか成人もしていない子供相手に五分五分で勝負しようなんて思わないですよね。まして、本職の弓部隊の隊長が。ハンデはつけてもらいますよ」

「ふん。威勢のいいことを言っておいて……なんだ?」

「こちらは一人につき持ち矢は三本。的に当てた分だけ有効。そちらは一人につき持ち矢は一本。【正中(トル)】と【四色州(サス)】のみ有効。一人でも外したと同時に負け」

 

 的は円状になっており、【正中(トル)】はその中心にある赤子の手の平ほどの大きさの円だった。その枠内は白に塗られている。

 【四色州(サス)】は円を四等分にしたその(へり)に、三日月型の枠が設けられており、それぞれ金色、朱色、藍色、黒色に色分けされていた。

 名人ともなれば【正中(トル)】に的中させるなど当たり前で、四隅にある【四色州(サス)】の方が命中度は下がる。少しでもずれれば、的を外すことになるからだ。偶然に当たることはあるものの、狙って命中させることの難しい的枠だった。

 

「ム…外せば……負け、だと?」

 

 かなり高難度の条件にヘンスラーは渋い顔になったが、オヅマがけしかけるように揶揄する。

 

「さすがに弓部隊の隊長でも、難しいですかねぇ?」

「フン! 馬鹿馬鹿しい。我らがその程度のことできぬと思うてか。三本だと? 五本くれてやってもいいくらいだ!」

「へぇ、そりゃありがたい。じゃあ、僕らは五本で勝負させていただきましょう」

 

 あっさりと、より容易(たやす)い方を選んだオヅマに、ヘンスラーは内心で歯噛みしながら、嘲るように言った。

 

「そのような甘い条件で勝って恥ずかしいとは思わないのか? 貴様の親となったクランツが聞けば、さぞかし嘆くことであろうな」

「『春が来れば勝てる戦を冬にする必要はない』…ってね」

 

 オヅマはいけしゃあしゃあと古人の言葉を引用すると、コインをポケットから取り出して空中に投げた。クルクル回って落ちてくるコインを、ピシャリと手の甲の上で閉じ込める。

 

「裏だ!」

 

 ヘンスラーが叫んだ。

 オヅマは「じゃあ、俺らは表」と言ってから蓋していた手を上げる。

 

 裏だった。

 

「では、我らが先攻をもらおう!」

 

 順番を決めるだけのことなのに、勝ち誇ったようにヘンスラーは叫ぶ。

 オヅマは肩をすくめて了承した。

 

「へぇへぇ。じゃ、俺らは後攻で」

 

 ヘンスラーはあきれた様子のオヅマをジロリと睨みつけてから、すぐに取り澄ました顔で、ルールの追加を申し出てきた。

 

「これだけ譲ったのだから、せめてそちらは全員、一本くらいは的に当ててもらわねばな。一人でも五本すべての矢を的に当てることができなかった場合は、そちらの負けだ」

「……いいでしょう」

 

 オヅマが頷くと、ヘンスラーはニヤリと笑った。

 

「では、正式な弓試合と同じく、相対(あいたい)する射手は同じ弓で勝負することにする!」

 

 大声で宣言するなり、ヘンスラーはくるりと背を向け、立ち並ぶ弓部隊の方へと歩いていく。

 オヅマはキョトンと、その後姿を見ていた。

 

 【的射ち(テル=ディオット)】は、射手が一斉に的を狙うものではなく、一番手、二番手といったように、一人ずつ立ち代わりながら勝負していく。

 このとき、各番手において先攻となった相手と同じ武器を使うことになっているが、基本的に使用する武器は弓一択なので、問題となるようなことでもない。

 

 しかし、ヘンスラーの笑みにエーリクは厭な予感がした。

 

「……まずいぞ」

 

 ボソリとオヅマに囁く。「長弓(ながゆみ)でやる気かもしれん」

 

「まさか」

 

 オヅマは顔を引き攣らせた。

 

 通常【的射ち(テル=ディオット)】に用いられるのは、いわゆる一般的に呼ばれる弓で、これは三尺(*90センチ)ほどの長さのものだ。

 しかし、長弓となればその倍の六尺(*180センチ)近いものになる。

 複数の木材を使って作られた強弓(こわゆみ)で、射程距離が長く、名人丈夫が弓引けば、遠く一里先の鎧をも貫くほどの威力を持っていた。

 ただし使いこなすのが難しいうえに、正確さよりも飛距離と威力を優先させた武器であるので【的射ち(テル=ディオット)】で使用することは、普通であれば考えられなかった。

 

 チラリと弓部隊の集まっている方を窺うと、どうやらヘンスラーはそうした提案をしたらしいが、選ばれた射手は首肯しなかったようだ。

「冗談じゃない! そんな馬鹿馬鹿しいことできるか!」と、怒鳴りつけるダミ声が聞こえてくる。

 

 騎士団において、普段の訓練や模擬試合等で、騎士間での上下関係はあまりなかった。彼らは個々人が一騎士としての矜持を持っており、あくまでも上役は潤滑な組織運営の為に必要な役職の一つ、という考え方であった。

 無論、戦場においては命令系統の混乱を防ぐために、上意下達が絶対とされたが、普段において騎士たちを従わせるには、彼らを納得させるだけの技倆と人格が求められたのは言うまでもない。

 

 ヘンスラーは残念ながら、弓部隊の隊長としては、まだまだ隊を掌握しているとは言い難いようだ。

 

「常識のわかる人間がいてくれて良かったぜ」

「お前が言うか、お前が」

 

 マティアスはようやく文句が言えるとばかりに、オヅマに噛みついた。

 

「こんな無茶なことを言い出して。この前、灸を据えられたばかりだというのに、どうして反省しないんだ!」

「まぁまぁ」

 

 アドリアンは朗らかにマティアスを制すると、チラリとオヅマを窺った。

 

「元はあちらが仕掛けてきたようなものだし、ああまであからさまな態度をとられて、ただ黙っているというのも、かえって侮らせるだけだろう」

「しかしもし負けて…」

 

 マティアスはゾッとした。

 あの隊長の性格からしても、負けて放っておくようなことはしないだろう。オヅマが宣言した通りに、しごき回されるに違いない。

 オヅマは自分で招いたこととしても、どうして自分までもが同様の扱いを受けねばならない!?

 

「まぁ、殺されるほどのことはされないさ」

 

 アドリアンはさらりと冗談にもならぬようなことを言う。

 

「そんな…安心できませんよ!」

 

 めずらしくマティアスはアドリアンにすらも異議を唱えたが、これは徐々にオヅマに毒されてきたせいなのか、負けたときのことを考えて戦々恐々となっているせいなのか…おそらく両方だろう。

 

「あの…オヅマさん。三人っていうのは…?」

 

 おずおずと尋ねたのはキャレだった。

 自分もマティアスもテリィも弓はできない。近侍の中で経験があるのはオヅマとエーリクの二人だけだった。

 オヅマは当然のようにアドリアンを指さした。

 

「そりゃ、小公爵さまに出てもらうしかないだろ」

「えっ?!」

 

 来たばかりで、まだ騎士団での稽古を経験していなかったキャレは驚いたが、マティアスもテリィも今更といった感じだった。

 

「まったく。自分の主に勝負させるとは…クランツ男爵はいったい、どういうつもりでお前を寄越したんだ」

 

 マティアスは額を押さえながら、あきれたように首を振る。テリィはキャレにこっそりと教えた。

 

「大丈夫。小公爵さまはあれで、なかなかお強いんだ」

 

 それでもキャレは自分と同じ年で、背格好もまだまだオヅマやエーリクに比べて小さいアドリアンのことが心配だった。

 気遣わしげに窺っていると、ふとアドリアンと目が合う。安心させるように微笑まれ、キャレは赤くなって俯いた。

 

「さて、決まったようだな」

 

 オヅマが不敵な視線を向ける方には、ヘンスラーが二人の騎士を引き連れて立っていた。

 

 一人は長く弓部隊で戦ってきた古参らしき、頬に大きな傷跡のある騎士。極端に盛り上がった左肩からしても、ベテランの射手に違いない。

 レーゲンブルトで長老と呼ばれていたトーケルと同じ、四十歳(しじゅう)を過ぎたくらいであろうか。波打つ豊かな茶髪には白髪が多く混じっていた。灰色の丸い目で、オヅマらを見ていたが、敵意は感じられなかった。

 

 もう一人は弓部隊にしては珍しい、スラリと細身の背の高い青年であった。

 今の今までどうしてその存在に気づかなかったのかと不思議なくらいの美しい顔立ちだったが、表情は冷たく固まっている。

 短く刈った銀髪に、細い切れ長の蒼氷色(フロスティブルー)の双眸は、オヅマらの姿を捉えながら、まるで見ていないようだった。

 

 オヅマはチラとだけアドリアンに目配せする。アドリアンはふっと瞼を微かに閉ざし、頷いた。

 

「こちらからは、私とこの二人だ」

 

 ヘンスラーが胸を反らして後ろの二人を示すと、アドリアンは二人の騎士にニコリと微笑みかけた。

 

「姓名は?」

 

 尋ねると老騎士が一歩、前に進み出て、恭しく騎士礼をした。

 

「はっ! 小公爵様にお目通りが叶い、恐縮至極にございます。私めはヨエルと申す者。以後、お見知りおき……」

 

 ヨエルがすべてを言い終わらぬうちから、銀髪の男が断ち切るように名乗った。

 

「ヤミ・トゥリトゥデスと申します」

 

 自分の言葉を遮られたヨエルはギロリとヤミを睨んだが、そのときにはヤミはアドリアンに深々と頭を下げ、再び上げた顔はやはり無表情に凍り固まっている。

 ヨエルはチッと舌打ちすると、元いた場所に戻った。

 

 アドリアンは満足げに頷いてから、ヘンスラーに呼びかけた。

 

「さぁ、では始めようか」

 

 

 




次回は2023.04.09.更新予定です。


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第百二十五話 弓試合(2)

 弓部隊側の一番手はヨエルだった。

 彼は普通の弓を使い、落ち着いた所作で射場に立つと、あっさりと矢を放って、【正中(トル)】に射ち込んだ。

 

 オォッ、と見物していた騎士たちが声を上げる。

 ヨエルは特に喜ぶこともなく、次の射手であるアドリアンに軽く目礼すると、後ろに下がった。

 どうやらヨエルにとってこの程度のことは、朝飯前であるらしい。

 

 アドリアンはヨエルと同じ普通の弓を持ち、まず一矢を放つ。

 ヨエルほどの勢いはないものの、やや弧のある放物線を描いて、トスリと的に当たった。

 

「三の円」

 

 審判の騎士が朗々と告げる。

 中心部分から三番目の輪の中。

 幾人かの騎士たちは、軽く感嘆の声をもらした。

 

 この年齢であれば的に当てること自体、難しい。

 膂力がついていないと、的に届きもしないからだ。これは普段から小公爵が騎士の訓練に真面目に取り組んでいるという証であった。

 

 アドリアンは一つ深呼吸してから、二の矢をつがえた。

 教えてもらったように、力が入り過ぎないように、姿勢を正しくして ―――― 放つ。

 

 鋭く飛んでいった矢は、【正中(トル)】の近くに当たった。

 これには騎士たちがどよめき、ヘンスラーも思わず身を乗り出した。

 

 オヅマはニヤリと笑う。

 レーゲンブルトでアルベルトから教えてもらっているときも、弓ではアドリアンの方が上手だった。特に、こうした儀礼的な色合いの強い【的射ち(テル=ディオット)】などにおいては、冷静沈着なアドリアンはより強みを増す。

 

 その後の三本もアドリアンは的に命中させた。

 射場から立ち退くアドリアンに、ヨエルが拍手を送った。

 

「見事にございます、小公爵様。そのお年で、ここまで修練を積まれるとは、大したものでございます」

「ありがとう、ヨエル」

 

 アドリアンはニッコリと笑って、熟練の弓騎士からの賛辞を受け入れた。

 オヅマらの待つ場所へと戻ってから、フゥと息をつく。

 

「あぁ、緊張した…」

「見事です、小公爵さま」

「素晴らしいです」

 

 マティアスとテリィは、拍手しながら大袈裟に褒めそやす。

 キャレはアドリアンの襟が汗で濡れているのを見て、そっと手ぬぐいを渡した。

 アドリアンは少し驚いたようにキャレを見たあとに、「ありがとう」と笑って受け取る。涼しい顔をしていたが、正直なところ、心臓は飛び出そうなくらい激しく打っていたし、今だって手は震えていた。

 

 一方、オヅマとエーリクは次の射手であるヤミが持っている弓を見て、顔をしかめた。

 

「野郎…長弓でやる気だ」

「……ヨエル卿と小公爵さまを合わせて良かったな」

 

 試合が始まる前から、長弓を使わない騎士 ――― ヨエルに対し、アドリアンをぶつけることは決めていた。とてもではないが、長弓であればアドリアンは矢をつがえることもできなかったろう。

 

「フン、あんなモンで的に当たるのか…」

 

 オヅマは希望も含めて毒づいたが、射場に立ったヤミの姿は湖に立つ鶴のように、優美でありながら、一切の動揺もなかった。自らの身長ほどもある長い弓を苦もなく引き絞ると、流れるような動作で矢を放つ。

 鋭く、勢いのある矢が、ドスリと的の左上辺にある三日月型の枠【金色州(サス)】に突き立った。

 

「やった!」

「さすが、ヤミ!」

 

 騎士たちは一気に歓声を上げたが、ヤミ本人はまるで関心もないように、射場を後にする。通り過ぎざま、チラリと蒼氷色(フロスティブルー)の瞳がオヅマらを見た。

 

「どうする?」

 

 エーリクが厳しい顔で問うてくる。

 

「エーリクさん、長弓は?」

「一応やってはいるが…正直、五本すべてを当てるのは無理だと思う」

「一本でもいいさ。俺もそのつもりでやるし」

「じゃあ…」

「とりあえず、先行ってくれ。どうせあの人参頭の隊長殿も長弓で来るだろうから…そっちはどうにかする」

「わかった」

 

 エーリクは立ち上がると、長弓を持って射場に立った。

 近侍の中では最年長で大柄なエーリクであっても、長弓を扱うのは難しかった。ただ力があればいいというだけでなく、細かな動作を調整せねばならない。

 矢のつがえ方、的を狙う角度、踏ん張る足の間隔。

 自らの体格をよくわかった上で、自然条件も加味して瞬時に計算しながら的を狙うのは、相当な修練を要する。

 

 ギリギリと弓を引き絞る。

 だが、自分で矢を放った瞬間にエーリクは失敗を悟っていた。

 案の定、矢は的に届かず地面に落ちる。

 

「残念!」

 

 後ろからヨエルが励ますように声をかけた。「もっと弓を押せ!」

 

 エーリクは一息ついた後に、再び矢をつがえた。

 ギリギリと(つる)を引きながら、ゆっくりと()を計っていたが、背後から騎士らの「長いな」という小さな声が聞こえた途端に矢を離してしまった。

 また、矢は的に届かず落ちる。

 

 なんとなく騎士らの冷笑を感じて、エーリクの背に汗が噴き出した。

 妙に焦って矢をつがえたものの、何か違和感を覚えて、思わず矢を降ろす。

 

「無効、一本」

 

 射場に立って、矢をつがえる動作を途中で止めた場合、無効となる。つまり一本が無駄になった。

 エーリクは思いきり渋い顔になり、ため息をついて一度、射場から降りた。

 

 明らかに動揺しているエーリクに、オヅマがのんびり声をかける。

 

「そんなに真剣になんなくてもいいって、エーリクさん」

「そうそう」

 

 アドリアンも気安い口調で言って、先程キャレからもらった手ぬぐいをエーリクに放った。

 

「別に命がかかってるわけじゃない。負けたって、僕らがすべきことはそう変わりないんだから」

「は……」

 

 エーリクはアドリアンから受け取った手ぬぐいで額や首の汗を拭うと、深呼吸してから再び射場に立った。

 父や兄から教わったことを反芻してから、再び弓を持って、引き絞る。焦らず呼吸を繰り返し、自らの気が充溢するのを待って放つ。

 矢は鋭く的を射た。

 

「二の円」

 

 審判の判定に、騎士たちがどよめき、数人から拍手が起こった。

 

 ヘンスラーは背後でムッスリと押し黙っている。

 五本すべてを的に当てられなかった場合に負けとしたのは、長弓で勝負すれば少年らの膂力では弓引くこともできないと高をくくっていたからだ。

 しかし、さすがは武門の誉れ高いイェガ男爵家。幼い頃から並外れた訓練を受けてきたようだ。

 

 エーリクはその次も上手く出来たように思えたが、やはり体力は限界だった。

 最後の矢はトスリと的の手前で土に刺さった。

 

 しかし、ともかくも負けとならずに済んだ。

 戻ってきたエーリクをマティアスとテリィがまた褒めそやし、キャレはアドリアンに頼まれ、冷たい水で絞った手ぬぐいを渡した。

 

 オヅマはチラリとヘンスラーを窺った。赤くなった顔は、どんよりとした怒りを秘めて固まっている。

 組んだ手で口元を隠して、オヅマはこっそり意地の悪い笑みを浮かべた。

 

 ――――― 首尾は上々……

 

 長弓を持って立ち上がったヘンスラーに、オヅマは声をかけた。

 

「隊長殿、提案がある」

「なんだと!?」

 

 ヘンスラーは怒気も露わに、小さな目をひん剥いた。

 

「これ以上、何を要求してくる気だ!? さんざこちらは譲ってやったというのに!」

「そう怒るようなことでもないさ。この最後の勝負については、俺を先攻にしてもらいたいんだ」

「ハァ!?」

 

 ヘンスラーは大声で問い返すと、ヒクヒクと頬をひくつかせながら、オヅマを軽蔑しきった目で見た。

 

「なんだ? 今頃になって、我らが長弓で勝負してきたので臆したか?」

「もちろん、武器についてはそちらで選んだ物を使う。長弓でしろというなら、長弓でするさ。その代わり、先に俺がする…というだけのことだ」

「なに?」

「ただし、俺が五本すべてを的に当てられなかった時も即座に負けとせずに、隊長殿も勝負すること。もし、隊長殿も負けたときは引き分け。再度、俺と隊長殿とで勝負だ」

 

 ヘンスラーはオヅマの言ってきた内容を反芻したあとで、ハハハハと皮肉げに嗤った。

 どう考えても、その条件はオヅマ側が不利だった。引き分けとなって、勝負がつくまでやれば、体力的なことを考えてもヘンスラーの有利は揺るぎない。

 

「ふん。最後のあがきか……」

 

 嗤笑してつぶやくと、オヅマはなおも巧みに言ってくる。 

 

「こちらとしては一応、この勝負を受けてくれた隊長殿に敬意を表して、花道を作ってやろう……ってことさ。俺が失敗して、アンタが成功すればそれで勝敗はつく。最後の最後で笑う方が気持ちいいだろ?」

「………」

 

 ヘンスラーは少しためらった。

 胡散臭げにオヅマを見て、問いかける。

 

「なんのつもりだ? 何か企んでいるのではなかろうな?」

「企むというほどのことじゃない。俺だって、これでも騎士の端くれだ。自滅して負けるよりは、相手方に勝たれて負けるほうが、すっぱり後腐れなく受け入れられる…ってだけのことだ」

「ふむ。それがお前の騎士としての矜持というわけだな」

 

 ヘンスラーはしばし小さな目でオヅマの真意を推し量ったあと、「いいだろう」と承諾した。

 オヅマは長弓を持って、射場に立った。

 スゥと息を吸い込む。

 正直なところ、自信はない。アルベルトから弓の稽古を受けてはいたものの、長弓はまだ早いと言って教えてはもらえなかった。

 とりあえずエーリクの所作を真似てやってみたが、想像以上に長弓は硬かった。矢をつがえることすら難しい。(つる)を十分に引き絞るまでに、指が千切れそうだった。

 

()ッ!」

 

 弓を構える前に、矢がその場にポトリと落ちる。

 

「無効」

 

 審判が無情に告げる。

 オヅマは唇をかみしめた。

 

 背後ではヘンスラーがニヤニヤと笑っていた。

 大の大人ですら手こずる長弓を、成長著しいとはいえ、まだ騎士見習いの少年ごときが扱えるはずもない。

 ようやく企図していた通りに事が進んでいる……。

 

「オヅマ。しっかりと体の芯をつくれ」

 

 エーリクが声をかける。「(つる)を引くより、弓を押すんだ」

 

 オヅマはコクリと頷くも、やはりそう簡単なことではない。

 長弓を持って考え込んでいると、ざわざわと話す騎士たちの声が耳に入ってくる。

 

「やはりまだ子供には早かったんだ……」

「エーリク・イェガは兄たちからみっちりしごかれたんだろう……」

「クランツ卿は、剣は一流だが弓の扱いは……」

 

 オヅマは眉を寄せた。

 

 早い……。

 ()でも同じことを言われた。

 

 

 ―――― まだこの子には早ぅございます、閣下!

 

 

 そう、早かった。

 まだ早いと自分でもわかっていても、それでも早く役に立ちたくて、認められたくて必死だった……。

 

 

 ―――― 本人にやる気があるのだから、やらせてみればよかろう。

 

 

 その声に反射的に怖気(おぞけ)が走る。

 それでもオヅマは恐れながら、()をゆっくりと手繰り寄せる。

 

 

 ―――― 己の中に一つの柱をつくるように……

 

 

 オヅマは射場に立ち、ゆっくりと、静かに、弓に矢をつがえる。 

 

 

 ―――― 力点を置く場所が大事なのだ……

 

 

 一息ついてから、グイッと思いきって弦を引き、弓を押す。

 

 騎士たちがどよめいたが、オヅマには聞こえていなかった。ギリギリと弦を持つ指が痛みを増していく。

 

 

 ―――― 弦を無理に引こうと思うな。弓を遠くへ押せ……

 ―――― 背の骨を近くしろ……

 

 

 脳裏に響く声は的確に指示する。

 

 吐きそうな嫌悪感を押し籠めて、オヅマは矢を放った。

 トスリ、と的の手前の地面に刺さる。

 

 騎士のある者は残念そうに声を上げ、ある者はやはりな、としたり顔になる。

 一本目では余裕の笑みであったヘンスラーは、届かないまでも二本目の矢を飛ばすことができたオヅマに、内心でジリジリとした焦りがこみ上げていた。

 

 オヅマは息を吐いた。

 通常の弓の感覚で構えると、姿勢が保てない。長弓に応じた体勢に変えなければ……。

 

 さっきよりも足の間隔を開いて立つ。

 胸深くに息を吸い込み、静かに吐いていく。

 

 集中は周囲の雑音を消し、徐々に静謐な空気がオヅマの中に満ちていく。

 その過程は、稀能(きのう)『千の目』を発現するときと似ていた。

 

 ふと、あの日の恐怖が甦る。

 マリーに襲いかかる男の首を斬ったときの、有り得ない既知感。

 ビクンと震え、意図せず放たれた矢は力なく地面に落ちた。

 

「惜しい!」

 

 ヨエルが叫んだが、オヅマには聞こえていなかった。

 

 じっとりと汗がにじむ。

 頭に直接聞こえてくる声が、ひどく鬱陶しい。それでもその苛立ちを排除し、押し殺さねばならない。

 

「オヅマ」

 

 アドリアンが心配そうに声をかけてくる。「大丈夫か? 顔色が悪い……」

 

 さっきまでふてぶてしいくらいに元気で口達者であったオヅマが、やけに追い込まれたような、余裕のない表情になっているのが気になった。

 

「大丈夫だ」

 

 オヅマは笑った。

 手を上げて、棄権でも言い出しそうなアドリアンを制する。

 

 アドリアンの隣にいたマティアスが渋い顔でつぶやいた。

 

「まったく。言い出しっぺが苦戦してどうするんだ」

「ハッ……」

 

 オヅマは思わず吹き出した。

 こんな時でも、文句を言ってくるあたり、マティアスらしい。

 

「確かにな」

 

 頷いてから深呼吸し、肩を思いきり持ち上げてストンと落とす。どうも余計な力が入っていたようだ。

 

「マティアスの言う通りだ。さっきお前も言ったろう? ()()()()()()()ならなくていい」

 

 エーリクが励ますと、オヅマは驚いたように目をしばたかせた。

 

「珍しく、エーリクさんにしちゃ気の利いたことを言ってくれるね」

「お前が言ったことだろう」

「そうそう。だから気が利いてるんだ」

 

 オヅマはとぼけたように言って、スゥと息を吸い込むと、的を睨みつけた。

 

 あと、二本。

 

 心を澄まして、気持ちを落ち着ける。

 あの声にも動揺しないように、ただ指示としてだけ聞く。

 

 

 ―――― 美しい動作は正しい結果を生む……

 

 

 しっかりと土を踏みしめて、その場に根を下ろしたかのように重心を低く、立つ。真っ直ぐに意識を上下に伸ばして、体に芯を持つ。矢をつがえ、弓を上げて、構える。

 ビュイン、と放たれた矢は、的の縁ギリギリをかすめて的を支える盛土に刺さった。

 

 ああーっと、騎士らも、マティアスたちも声を上げた。

 いよいよあと一本。これを外せば負けとなる。

 しかし、オヅマに焦りはなかった。

 

 

 ―――― 少し下につがえるのだ……

 

 

 今は素直に、その声の言う通りにする。胸の奥に奇妙な懐かしさが沁みたが、無視した。

 最後の矢をつがえて、弓を上げながら、弦を引く。

 (やじり)の先に的を睨み、狙いを定める。

 

 

 ―――― 当てようと思わず、正しく射ることに集中しろ……  

 

 

 まるでオヅマの心を見透かしたかのような、適切な指導。ギリ、と奥歯を噛みしめて、オヅマは矢を放った。

 

 ドスリ!

 

 三の円の下側に、矢が刺さった。

 

「やったぁ!」

 

 テリィが大声で叫び、騎士たちもどよめいた。

 

 オヅマはホゥと息をつくと、弓を下ろして、ゆっくりと射場から出た。

 

「ご苦労さま」

 

 戻ってきたオヅマにアドリアンが声をかける。

 

「まだまだ……」

 

 オヅマはニヤリと笑ってヘンスラーを見た。

 

 急に、自分の弓によって勝敗を決さねばならない状況に陥って、ヘンスラーはすっかり焦って顔色をなくしていた。

 

 




次回は2023.04.16.更新予定です。


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第百二十六話 弓試合(3)

 マウヌ・ヘンスラーの弓術の腕は間違いないものだった。

 速射においては、グレヴィリウス配下のどの騎士団の騎士よりも多く矢を射ることができたし、長弓を使った遠射においても、誰よりも遠くまで矢を飛ばすことができた。

 だからこそグレヴィリウス公爵直属騎士団における弓部隊の隊長を任命されたのであり、弓使いであることに誇りもあった。(騎士の主流はやはり剣術であったので、弓使いはやや下に見られることがあった)

 

 彼の配下の騎士たちは、やや直情径行な性格であっても、ヘンスラーの実力は認め、弓使いとしての研鑽を怠らない彼を、それなりに尊敬していた。

 ただ、騎士らは実力も十分にある隊長の、唯一にして最大の弱点もわかっていた。

 ヘンスラーは極端にプレッシャーに弱かったのだ。

 

 これまでに公爵家で行われた闘競会(ダルスタン)で優勝できないのは、まさにそれが原因であった。

 特に正確性を求められる【的射ち(テル=ディオット)】においては、その緊張が如実に現れる。

 オヅマが【的射ち(テル=ディオット)】を提案してきたときに、自分の得意な種目を言っても良かったのだが、そこはやはり相手が子供ということもあって、油断していたのだろう。

 

 オヅマはヘンスラーが闘競会(ダルスタン)で優勝していないことを知った時から、彼がおそらく緊張に弱い類なのだろうと推測していた。

 公爵直属騎士団の弓部隊の隊長が、本職である弓の競技で優勝できないなんてことは、実力主義を旨とするグレヴィリウス配下の騎士団において有り得ないことだったからだ。

 

 だからこそ順番を入れ替え、自分が成功することによって、彼にかかる重圧をより重くしたのだった。

 無論、自分が失敗する可能性もあったが、より『勝つ』ことにこだわれば、こうした小細工めいた戦法を取らざるをえない。 

 

 案の定、ヘンスラーは押し黙ったまま座り込んで、まだ射場に入ることすらできずにいた。

 離れた場所からでも、額からふつふつと汗が噴き出ているのがわかる。

 

「隊長」と声をかけて促したのは、ヤミだった。

 相変わらず何を考えているのかわからない表情をしている。

 少なくともヘンスラーを励ましているようには見えなかった。

 

「わかっている!」

 

 ヘンスラーは怒鳴って立ち上がった。

 壁に掛けてあった長弓を取ると、足音も荒々しく射場へと入る。

 何度も深呼吸を繰り返してから、ようやく足を開いて構えの体勢をとった。

 

 しかしこの時、極度の緊張状態にあったのだろう。

 ヘンスラーの動作は、やたらと強張っていた。矢をつがえ、弓を上げて的を狙うも、なかなか()てない。

 

 ヘンスラーの顔色はどんどん悪くなっていった。ギリギリと(つる)を引き絞る音が、彼自身を圧迫するかのように……。

 

 オヅマは素知らぬ顔で、ヘンスラーの息遣いを注意深く窺っていた。

 やや震えながら、必死に気持ちを落ち着けようと呼吸を繰り返している。

 

 吸って、吐いて、吸って、吐いて……大きく吸って、いよいよ矢を放つという寸前の、いざ息を吐くその瞬間に ――――

 

「はぁ…」

 

 オヅマは軽く溜息をもらした。

 

 ヘンスラーの矢は的を大いに外し、修練場の板塀にザクリと刺さった。

 

「うああっ!」

 

 ヘンスラーはすっかり狼狽した様子で叫んだ。

 その場にへたりこみ、頭を抱え込む。

 

 アドリアンは少し気の毒に思えてきて、声をかけようとしたが、その時パチパチと背後から拍手が聞こえてきた。

 その場にいた全員が一斉に振り返る。

 

 そこには眼鏡の男が立っていた。

 穏やかなアンバーの瞳が、ざっと居並ぶ騎士らを見回す。

 強い風が吹いて、乱れた樺茶(かばちゃ)色の髪を掻き上げると、くしゃりと笑った。

 

「あいつは……」

 

 オヅマは見覚えがあった。

 初めて本館を訪れて迷っていたときに、ルンビックの執務室を教えてくれた男だ。

 

「ハヴェル様!」

 

 ヘンスラーは叫ぶと、あわてた様子で立ち上がり、男の前へと駆け寄った。

 

「ハヴェル公子がいらっしゃるとは…なんとも周到な」

 

 マティアスが苦々しい顔でつぶやいた。

 テリィもそろそろとエーリクの背後から、ハヴェルの前で跪いてひどく恐縮した様子のヘンスラーを見て、毒づいた。

 

「あの隊長、ハヴェル公子が来ているから、いいところを見せようとしたんじゃないの? じゃないと、こんなバカげた試合に乗らないだろう」

「だとしたら、隊長殿は下手こいたな」

 

 オヅマは腕を組んで、ハヴェルとヘンスラー二人の様子を見ていた。

 どっちにしろ、こちらの意図したことは成功したのだ。むこうの思惑など、知ったことではない。

 

 一方、アドリアンは無表情にハヴェルらを見ていた。

 土下座する勢いで謝るヘンスラーに、ハヴェルはいつも通りの優しい笑顔で接している。「気にするな」と励まされて、ヘンスラーがいたく感激しているのがわかった。

 

 ハヴェルの斜め後ろには、腰巾着よろしくアルビン・シャノルが控えている。

 小太りで人の良さそうな笑みを浮かべているが、それが顔に貼り付けられた愛想であることは、彼の為人(ひととなり)を知っていればわかることだ。

 アドリアンの視線に気付いたのか、つと、顔をこちらに向けた。視線が合うと、アルビンは苔緑(モスグリーン)の瞳を細めて、軽くアドリアンに会釈する。

 

 気付いたハヴェルが顔を上げ、アドリアンを見た。

 柔和で上品な面差しに変化はない。

 じっと立って自分を凝視するアドリアンに、悠揚と歩み寄ると、朗らかに声をかけた。

 

「久しいね、アドリアン。また、背が伸びたようだ」

「……お久しゅうございます、ハヴェル公子」

 

 硬い面持ちで挨拶をするアドリアンの横に立ったオヅマは、胡散臭げにハヴェルを見つめた。

 

「あんた…」

 

 声をかけようとすると、先にハヴェルが手を上げた。

 

「やぁ、オヅマ。大したものだね。さすがはクランツ男爵の秘蔵っ子なだけある」

「……なんで俺の名前」

「この前会ったじゃないか? もう忘れたかい?」

「会ったけど、名前を教えた覚えはない」

「ハハッ! よく覚えているね」

 

 ハヴェルは笑って誤魔化すと、今度はエーリクに声をかけた。

 

「お久しぶり、エーリク。君もまたひときわ大きくなったね。そういえば、この前ルイース嬢にブローチを送ったのだけれど、喜んでもらえたかな?」

 

 エーリクの妹、本年十二歳になるルイース・イェガは去年、ハヴェル公子と婚約したばかりだ。妹の婚約者ということであれば、それは自然な質問ではあったが、エーリクは気まずそうに答えた。

 

「その…こちらに来て、まだ妹とは連絡をとっていませんので…わかりかねます」

「ハハッ! そりゃそうだね。アールリンデンには慣れた? エシルが恋しくなってないかい?」

「大丈夫です」

 

 エーリクはなるべく言葉少なに答えた。

 いずれこうした場面に遭遇することは予想していたものの、よりによって今とは、なんとも間が悪い。

 

「あぁ、すまない。エーリクには気まずいことだよね。今のこの状況は」

 

 ハヴェルはエーリクの内心を見抜いたかのように、ハハハハと屈託なく笑った。

 

「あの…なにか御用でしょうか?」

 

 アドリアンは緊張した顔で、一歩前に進み出て尋ねた。

 エーリクは措くとしても、オヅマまで知っているらしい様子に胸がざわつく。

 ハヴェルは表情の硬いアドリアンの胸中を知ってか知らずか、のんびりと話した。

 

「いや、アルテアン侯が借金のカタに渡してきた銀山の件で、公爵閣下に会いに来たんだけど、生憎と不在でいらしたから、どうしたものかとブラブラ歩いていたら、なんだか面白そうなことになっていたから見物していたんだ」

「見物…」

 

 必死にやっていたオヅマやエーリクのことを侮辱されたように感じて、アドリアンはムッと眉を顰めた。

 

「途中から見ていたんだけれど、楽しそうじゃないか。弓部隊相手に大したものだよ。だけど ―――」

 

 ハヴェルは微笑みを浮かべたまま、前屈みになると、アドリアンの耳元に囁きかけた。「ヘンスラー隊長の立場も考えてあげないと」

 

 柔らかさの中に、細かい針が混じっている気がする。アドリアンはゾワリと背筋に寒気を感じた。

 

「何か問題でもあるんですか?」

 

 オヅマが横からやや横柄な口調で問いかけると、ハヴェルは快活に言った。

 

「もう一度勝負しよう!」

「はぁ?」

 

 オヅマは明らかに不満げに声を上げる。

 ハヴェルはあわてた様子で付け加えた。

 

「もちろん、君らの要望は受け入れるよ。今回の勝負は、間違いなく君らの勝ちだ。それは弓部隊の諸君も、隊長も無論、受け入れるさ。ただ、単純に僕が勝負してみたい…ってだけだよ」

「あんたが? あんたが弓をやるのか?」

 

 驚いてオヅマが尋ねると、ハヴェルはおどけたように肩をすくめてみせた。

 

「おや? ずいぶんと馬鹿にされたものだね。僕だってこれでも騎士としての訓練は受けているよ。もちろん、君ほど上手じゃないかもしれないが。さ、さっさとやろう。あ、僕は長弓なんて無理だから、普通の弓でいいよ」

 

 言いながらハヴェルは弓を取る。

 オヅマは眉を寄せた。気づけばハヴェルのペースで進んでいる。しかし今更、嫌だとも言えない。

 不穏なものを感じつつも、オヅマが壁から弓を取ると、ハヴェルが言った。

 

「あ、相手は君じゃないよ、オヅマ」

「なに?」

「相手はアドリアンだ」

 

 ハヴェルが名前を呼び、視線をアドリアンに向けると、その場はシンと静まり返った。

 オヅマはギッとハヴェルを睨みつけ、アドリアンは硬い面持ちでハヴェルを見つめる。

 

「ハヴェル公子…それは」

 

 エーリクが声をかけると、ハヴェルは首を傾げた。

 

()()()()()()()考えなくてもいいさ、エーリク。単純に、僕はアドリアンが射つのを見逃したから、見たいと思っただけで」

「そんな程度なら、俺がやる」

 

 オヅマが言うと、ハヴェルは肩をすくめた。

 

「君はさっき長弓を五本も射ったから、疲れているだろう?」

「もう大丈夫だ」

「………オヅマは優しいねぇ。ね、アドリアン?」

 

 ハヴェルは横目でアドリアンを見てくる。

 眼鏡の奥のアンバーの瞳が、アドリアンを試すように窺っていた。アドリアンは拳を握りしめると、ハヴェルの前に進み出た。

 

「わかりました。でも、これ以上長く試合するのは騎士たちの迷惑になります。互いに一本で終わりにしましょう」

「あぁ、それはいいね」

 

 ハヴェルはニコリと笑って頷くと、軽い足取りで歩いて行く。射場に入る手前で立ち止まると、クルリと振り返った。

 

「ここは、先に小公爵様のお手並みを拝見しましょう」

 

 恭しく頭を下げてアドリアンを射場へと促す。

 アドリアンはハヴェルの笑顔がいちいち不気味だったが、オヅマから弓を受け取って射場へと上がった。

 

 スゥと息を吸って、ゆっくりと吐く。

 矢をつがえてから、しばし瞑目して、静かに瞼を開くと、弓を上げて(つる)を引き絞る。

 焦らず、いつも通りに ―――― 十分に溜めて、放つ。

 

 矢はトスリと的のほぼ中央に当たった。

 

「当たった!」

 

 テリィが声を上げ、マティアスもエーリクも、明らかにホッとした表情を浮かべる。

 

「おぉ~、すごいな。ほとんど真ん中じゃないか」

 

 ハヴェルは素直に感嘆し、戻ってくるアドリアンを褒め称えた。

 

「大したものだよ、アドリアン。君の年で的に届くなんて。真面目に訓練に取り組んでいるようだね」

「……ありがとうございます」

 

 アドリアンは小さな声で礼を言うと、早々にハヴェルから離れた。

 オヅマは戻ってきたアドリアンの浮かない様子に、軽く肩を叩く。

 

 ハヴェルはアドリアンとオヅマの無言の応酬を微笑ましそうに見てから、射場へと立った。

 特にもったいぶるでもなく矢をつがえて、弓を構える。

 シュッと放たれた矢は、的を外して盛り土に刺さった。

 

「あぁ~!」

 

 ハヴェルは情けない声を上げると、くるりと振り返って恥ずかしそうに頭を掻いた。

 

「やれやれ。自分から言い出して、失敗するなんて…とんだ恥晒しだ。しかし、やってみてわかったよ。ヘンスラー隊長が失敗するのも無理ないことだ。なかなかどうして、実際に射場に立って居並ぶ巧者たちの前で、最後の最後に当てなければならない…というのは、相当の緊張感だね」

 

 ペラペラと喋るハヴェルに、アドリアンの顔が強張った。ようやくハヴェルの意図を悟って、ギュッと拳を握りしめる。

 

 最初からハヴェルは失敗するつもりだったのだ。

 多くの部下の前で失態を演じたヘンスラーを許すことで、自らの度量を示すために。

 これでヘンスラーは、ますますハヴェルへの忠義を深めることだろう…。

 

 案の定、ヘンスラーはハヴェルの前に駆け寄り、いたく感動した様子で跪いた。

 

「お気遣い、ありがとうございます! 今日の日の公子様のお優しさに、このマウヌ・ヘンスラー、身を賭しても報いる所存」

「ハハ、大袈裟だなぁ」

 

 言いながらハヴェルが弓を差し出すと、ヘンスラーは小姓のように頭の上で捧げ持った。

 

「じゃ、お邪魔したね、諸君。これからもグレヴィリウス公爵家の為に励んでくれたまえ」

 

 ハヴェルは朗らかに言って、去っていった。

 あとに続くアルビン・シャノルが一度、振り返って、オヅマらにニヤリと笑みを放つ。彼らの思惑がうまくいったのは、明らかだった。

 

 




次回は2023.04.23.更新予定です。


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第百二十七話 善良なるもの、それは…

「気にするな」

 

 オヅマはアドリアンに言った。強い口調に迷いはない。

 

 訓練を終えて、次の授業まで小休憩となっていた。

 それぞれが自室に戻ったが、オヅマは汗をかいた衣服を着替えると、すぐにアドリアンの部屋を訪ねた。

 アドリアンは当然ながら浮かない顔をしていたが、その憂いを払うようにオヅマは毅然として言った。

 

「俺らの目的は達成できてる。今日は元々、ヨエル卿を弓の先生にすることと、ヤミ卿に接触できればよかったんだから」

 

 それは、ルーカス・ベントソンがサフェナ=レーゲンブルトに行く前に、アドリアンに書いて寄越したメモのことだった。 

 

 曰く ―――

『ヨエルを師とし、ヤミ・トゥリトゥデスを引き入れるべし』

 

 脆弱な支持基盤しか持たない小公爵のために、ルーカスとしては今のうちからアドリアンの下で働く人間を厳選して、確保しておかねばならないと考えたのだろう。

 

 

***

 

 

 ハヴェル主従が去ったあと、オヅマは当然のこととして、自分たちの弓の指導役を選んだ。ヘンスラーはブスッとしていたが、自分が負けたことは間違いないし、約束は約束だ。

「好きにしろ」と言い捨てて、去ってしまった。オヅマはかねての計画どおりに、ヨエルとヤミに指導を任じた。

 

奴吾(やつがれ)にそのような大役を任せていただけるとは…喜んでお受け致します」

 

 ヨエルは素直に拝命したが、ヤミは面倒そうに首を振った。

 

「私は人を教える任ではありません」

「手取り足取りとは言わないさ」

 

 当人に言われるまでもなく、オヅマにもヤミが指導者として適任でないことはわかっていた。それでもルーカスがああまで指示してくるのであれば、彼と接点を持つことでの利点があるのだろう。

 幸いにもヘンスラーが彼らを選んでくれたおかげで、指導役をお願いしてもそうは不自然に思われない。おそらくルーカスは以前から、彼らが弓部隊の中での実力者であることを知っていたのだろう。

 

「アンタは前で手本を示してくれるだけでいい。俺らは見て盗む」

「……できるものなら」

 

 ヤミは冷たく言ったが、アドリアンは微笑んだ。

 

「ありがとう、トゥリトゥデス卿」

 

 

***

 

 

 当初の目的は果たされたに違いなかった。

 それでも、アドリアンは憂鬱だった。

 

「君…いつの間にハヴェル公子と知り合いになっていたんだ?」

 

 暗い顔で尋ねると、オヅマがキョトンとなる。

 

「あれ? 言ってなかったか? ルンビックの爺さんに頼まれて、初めて本館に行ったときに会ったんだよ」

「それ、いつの話?」

「さぁ…? こっちに来たばっかくらいかな?」

「………」

 

 アドリアンは難しい顔で黙り込む。

 ハヴェルは気安い様子でオヅマに接していた。まるでずいぶん前からの知り合いであるかのように。

 

「会って、なんの話をしたの?」

「なんの話……って」

 

 オヅマは珍しく機嫌が悪そうなアドリアンに戸惑った。

 その時にしていた話はアドリアンの亡くなった母のことだ。それも、その母と、父である公爵と、幼いハヴェルの描かれた絵の話。

 なんとなくそのまま正直に話すのもためらわれる。

 

「本館で迷子になってたから、道を聞いたんだよ。ルンビックの爺さんの執務室まで案内してもらった…ってだけだ」

 

 嘘ではない。―――― すべてではないが。

 

「案内してもらった? 彼が君を?」

 

 アドリアンはひどく意外そうに尋ね返す。

 訝しんだ様子でオヅマをまじまじと見つめた。

 

「それ、本当にルンビックの執務室だったのか?」

「あぁ。ちゃんと鍵も開いたし」

「嘘は教えなかったんだね……」

「嘘をつきやがったのは、鬱陶しい従僕の野郎だよ。それに女中もぜんぜん教えてくれねぇから、あっちこっち行って迷子になっちまって…」

「そう……」

 

 アドリアンは沈んだ顔になって相槌をうつと、陰気に言った。

 

「それで君はハヴェル公子に親切にされて、嬉しかったんだろうね」

「は?」

 

 オヅマはまったく訳がわからなかった。なんだっていきなり、自分が非難されているのだろう? 

 

「なに言ってんだ、お前は」

 

 困惑しきったオヅマをアドリアンはジロリと見てから、ハァと嘆息して背もたれに倒れ込んだ。

 

「みんなそうなんだ…」

「なにが?」

「みんな、ハヴェル公子のことが好きなんだよ。この屋敷の人間は。従僕も女中も、騎士たちも。みんなにとって、彼はいい人なんだ」

 

 アドリアンは無表情に、抑揚のない声で言い放つ。

 めずらしく投げやりな様子のアドリアンに、オヅマは首をかしげた。

 

「お前は?」

 

 問いかけると、アドリアンは鈍くオヅマを見つめる。

 

「僕?」

「お前はアイツのこと、嫌いなのか?」

「…………」

 

 アドリアンはどんよりと絨毯の模様を見つめていたが、キュッと唇を噛みしめたあとに、ボソリとつぶやいた。

 

「……嫌いじゃない」

「なんだ、そうなのか」

 

 オヅマが気抜けしたように言うと、アドリアンはまた眉をしかめた。

 

「嫌いじゃないけど、好きにもなれない。今日のことだって、彼が一筋縄ではいかない人間だとわかったろう?」

「まぁ、それはな。上手に持っていかれた」

「呑気だな、君は。それとも君もハヴェル公子に心酔したのか? ヘンスラー卿のように」

 

 イライラした様子で言ってくるアドリアンに、オヅマは目を丸くした。本当に今日のアドリアンは珍しい。

 

「なーに苛立ってんだよ、小公爵。さっきも言ったろ? 今日はヨエルの爺さんとヤミ卿に繋がりを持てれば目的は達成。それ以外のことなんて、大したことじゃねぇよ」

 

 言いながらピシリと軽くアドリアンの額を指ではじく。

 痛そうに顔をしかめて、アドリアンは少しだけ赤くなった額を押さえた。しばらくそのまま考え込んでから、おずおずとオヅマに尋ねる。

 

「オヅマ…君は、いなくなったりしないよね?」

「はぁ?」

「僕から離れたりしないよね?」

 

 オヅマはフッと笑った。

 いつもは大グレヴィリウス公爵家の若様として、肩肘張って大人びたことを言ったりしているが、まだまだ(おさな)いところもあるのだと思うと、少しばかり安堵する。

 

「バーカ。誰のために、アールリンデンくんだりまで来たと思ってんだよ。ルンビックの爺さんに堅っ苦しい礼儀作法まで仕込まれて」

「……ごめん。無理させて」

 

 小さな声で謝るアドリアンに、オヅマは決然と言う。

 

「無理はしてねぇ。必要だからやってるだけだ」

 

 アドリアンは弱々しく笑ってオヅマを見てから、また目を伏せた。

 

「僕は……自信がない」

 

 消え入りそうな声でつぶやく。

 

「なにが?」

「ハヴェル公子は…いい人なんだ。今日のことだって、僕にとっては不快だったけれど、周囲の人間からすれば、彼の方が公明正大で優しい人間なんだと思うだろう。誰もが彼を認める。それは当然のことなんだ。僕だって、グルンデン侯爵夫人(おばうえ)だとか、シャノル卿にはいろいろと嫌味なことも言われたけど、ハヴェル公子本人が僕に対して冷たい態度をとったりしたことはないんだ。今日も注意されたけど……あの時、ヘンスラー卿を負かすことばかり考えて、彼の名誉を考えていなかったのは確かだしね。公爵様もハヴェル公子を信頼されて、いろいろ任されているし、きっと僕なんかより……」

 

 その先に続く言葉を言うことができなかったのだろう。

 アドリアンは口を噤むと、膝の上で組み固めた両手に目線を落とす。また唇を噛みしめてから、力なく言った。

 

「ハヴェル公子はいい人なんだよ。………たぶん」

 

 オヅマはアドリアンの言葉と、ハヴェルに会ったときのこと、今日のことを反芻してから、皮肉げに顔を歪めた。

 

「まぁ、確かにお前の言う通り、いい人かもしれねぇけど……」

 

 一旦言葉を切って、アドリアンの肩をポンと叩く。

 

「俺はああいう笑い方をする奴を、無条件に信じる気はねぇよ」

「オヅマ…」

「知ってるか? 優しい顔で、優しい声で、優しいことを言ってくる奴が、必ずしも善良な人間とは限らねぇんだぜ」

 

 アドリアンはハッと顔を強張らせた。

 それはまさしく、アドリアンがいつもハヴェルに対して感じる、得体の知れない不気味な印象を肯定してくれる言葉だった。

 

「君も……そう、思うのか?」

「ハヴェルに対してはまだわからねぇ。だから、これからは敵になるにしろ、ならないにしろ、知っていかねぇとな。苦手だからって避けてたら、手の打ちようもないだろ? ああいうのは、相手するとなったら面倒だ」

 

 アドリアンはオヅマの話を聞いて、パチパチと目をしばたかせた。

 アールリンデンに来てから、自分はオヅマを庇護する立場として振る舞っていたが、やはりオヅマは年上なのだ。苦手意識からハヴェルを避けていた自分より。……

 

 ようやく心が穏やかになって、アドリアンの顔に微笑みが戻った。

 

「そうだね。僕も一度、じっくりハヴェル公子と話すべきなんだろうな」

「そのうちな。まだ、今はやめとけ。あの野郎の方が上手(うわて)なのは、今日のでわかった」

「うん。もっと勉強して、自信をつけないと」

 

 アドリアンは両手に拳をつくって、自分に言い聞かせる。

 先の見えない将来も、茫漠とした不安も、これまで一人で立ち向かってきた。そばで支えてくれる、見ていてくれる人間がいると思うだけで勇気が湧いてくる。……

 

 しかしふと見上げれば、オヅマの顔はどこか空虚で、寂しげだった。

 

「もし…ハヴェルの野郎が()()()と同じような奴なら、容赦する必要もない……」

 

 アドリアンは呼びかけようとしたが、喉が詰まって声にならなかった。

 

 つぶやくオヅマが、急に知らない人間になったかのように思えた。

 




引き続き、更新します。


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断章 ― 優しき主君 ―

 レーゲンブルトでベネディクト・アンブロシュと出会った頃から、オヅマは彼の出てくる()を頻繁に見るようになった。

 

 長弓(ながゆみ)のことも、その時に見た()の一つだ。

 

 

 

*** ** ***

 

 

 

「本日より、閣下から君の後見を頼まれた。閣下直々に特に頼むと言われるなど、君は相当に期待されているようだ。精進したまえ」

 

 紹介されて初めて会ったとき、この城の中ではめずらしい部類の人間に、オヅマは少々戸惑った。

 

 ベネディクト・アンブロシュ卿。

 快活な声と、実直そうな薄緑の瞳。柔らかな栗茶色(マルーン)の髪は、()の中ではもう少し長かった。紐で結んでも収まりが悪かったので、切ったのかもしれない。

 

 オヅマを見たときに、聡明な彼にはもうわかっていたはずだ。

 目の前で無愛想に立っている少年が、()()()()()()()()()()()()()()()()()なのかは。

 それでも彼は深く尋ねることもせず、快くオヅマの身柄を引き受けた。独身であるのに、養子として。

 その日からオヅマは、ただのオヅマからオヅマ・アンブロシュの名前を与えられた。

 

 当初、オヅマはベネディクトを嫌っていた。

 オヅマにとって(あるじ)として忠誠を誓った相手は、『閣下』『殿下』と人々から尊崇を込めて呼ばれる唯一人だけで、それ以外は目に入ることすら邪魔だった。

 一日でも早く『閣下』の役に立ちたかった。そばにいることを許される、信頼される()の一人となることが、オヅマにとって最大の目標だった。

 

 そうやって思考すら操られていることに気付きもせず ―――――

 

 長弓を習得したいと思ったのは、大人ですらも扱いづらいこの武器を、子供の自分が使えるようになれば、きっと喜んでもらえるだろうと思ったからだ。いかにも背伸びしがちな、馬鹿なガキの考えそうなことだ。

 

 ベネディクトは反対した。誠実な大人としては当然の反応だった。

 

「まだこの子には(はよ)ぅございます、閣下!」

 

 しかし閣下と呼ばれた男は、チラとだけベネディクトを見て、不満顔のオヅマに微笑みかけた。 

 

「本人にやる気があるのだから、やらせてみればよかろう」

「しかし…こんな子供がやれば、体を痛めます。下手をすれば、しばらく起き上がることも…!」

 

 男はベネディクトにみなまで言わさず、その先の言葉を捕えるかのように優雅に指を動かした。

 

「心配は無用。コツさえつかめば、子供であっても使える。乃公(だいこう)の昔も、同じ年頃であったが、射ることができた。アンブロシュ卿のように甲冑を着た騎士を射殺(いころ)すことはできずとも」

 

 ベネディクトはオヅマに(なまぐさ)い話を聞かせたくなかったのかもしれない。口を噤み、仕方なく男の前から引き下がった。

 

「さぁ、オヅマ。とりあえずはいつもの弓を射るときと同じように…そう、足はもう少し開くとよい。重心を低くして、根を張るように……」

 

 ()を見る()()()が混乱するのは、いつもこの男が親切であったことだ。

 

 あれほどの嫌悪を植え付けておきながら、男がオヅマに対して直接的に暴力を振るったことはない。衆人の前で面罵することもなかった。

 ただの家臣の養子である騎士見習いの少年に、長弓を自ら教えてくれるなど、本来の男の地位からすれば有り得ないことだった。周囲の人間はそれがどれだけすごいことなのかを繰り返しオヅマに話し、オヅマに男への憧憬と忠誠を植え付けた。……

 

「己の中に一つの柱をつくるようにして、まっすぐに立つのだ。この体勢がしっかり出来ねば、弓引くこともできぬ。基本姿勢はしっかりと叩き込め。これは長弓に限らず、通常の弓においても同様だ」

「はい」

 

 頷いて、いよいよ矢をつがえて、弓を上げ、(つる)を……引こうと思うが、まったくビクリとも弦は動かなかった。

 

「ハッハッハッ!」

 

 男は大笑いをしたあと、オヅマの手に自分の手を添えて、丁寧に教えてくれる。

 

「力点を置く場所が大事なのだ…己の力で無理に弦を引こうと思うな。弓を遠くへ押せ」

 

 わかりやすく、的確に。

 弓を持つ手の握り形までも詳しく教えてくれる。

 最初に弦を引けたのは、男の力によるものだった。ぴったりとオヅマに寄り添って補助しながら指導は続く。

 

「背の骨を近く…そう、背の上に二つ、コブのような骨があるだろう? あれを寄せるように。姿勢は動かすな」

 

 間近にかかる息を()()()、オヅマは男が矢を射る瞬間を慎重に待った。

 

「…よし」

 

 落ち着き払った声が耳元に響くと同時に、つがえた矢を放つ。

 トスリ、と的の中心よりやや右に刺さった。

 

「ふむ。今度は一人でやってみよ」

「はい」

 

 オヅマは言われた通りに、先程の感覚を丹念に辿りながら矢をつがえ、弓を構える。さっきはあれほど硬く、ビクリとも動かなかったはずの弦が容易に引っ張れたことに、オヅマは内心で驚き喜んだ。

 チラ、と男を窺うと、微笑みをたたえてオヅマを見ている。

 

 この先のオヅマの考えなど、わかりやすいほどだったろう。

 親切に教えてくれた男に、いいところを見せたかった。的にしっかりと矢を射て、褒められたかったのだ。

 

 鏃先を見据えて的に狙いをつけて、放つ。

 しかし矢は的の前で落ちた。 

 見ていた何人かの騎士たちから失笑が漏れ、男のお付きの道化師(ヴァルガー)はおどけた様子で、からかった。

 

「やれ! まだチビッコ騎士には無理かいのぅ!!」

 

 オヅマよりも背の低い小人であるのに、顔は醜悪な老人で、いつも赤やら青やら黄やらが入り混じった派手な服を着ていた。ケケケケ、と体をひねって大笑いすると、とんがり帽子の先、靴の先、手首足首につけた鈴がチリンチリンと耳障りな音をたてる。

 ギロリとオヅマが睨みつけると、「おォ~、怖や~怖や~」とわざとらしく体を震わせて、男のマントの影に隠れた。

 

「オヅマ」

 

 深みある穏やかな声で呼びかけられる。「弓の真ん中より少し下につがえるのだ」

 男は細かく、わかりやすく指示してくれる。

 

 オヅマは自分が誇らしかった。

 今、この場で男は自分だけを見てくれている。それだけで震えそうなくらいに嬉しかった。

 昂揚し、どんどんと力が満ちていくのに合わせて弦を引き、弓を構える。

 

「美しい動作は正しい結果を生む」

 

 詩を詠ずるかのような男の声。

 オヅマの耳には道化師(ヴァルガー)の鈴も、騎士たちの冷笑まじりの囁きも聞こえなかった。

 男の ――― (あるじ)の言葉だけが聞こえていた。

 今度こそ成功させようと、的の中心を睨み、狙いを定めると、男はまるでオヅマの心底までも洞察したかのように言った。

 

「当てようと思わず、正しく射ることに集中せよ」  

 

 この瞬間、オヅマの頭は空になった。

 自ら感じた歪みを咄嗟に修正して、矢を放った。

 ビュン、と鋭く飛んだ矢は、的のほぼ中心に刺さる。

 

 パン、パン、と男がゆっくりと拍手する。

 驚いて固まっていた道化師は、ハッと我に返ると、

 

「やったー、やったー! やったゾイ! チビ騎士様が当てたゾイ!」

 

と、オヅマの周りをクルクル回りながらはしゃいだ。

 男はオヅマにゆっくりと近寄ると、道化の首根っこを掴んで、ポイと投げ捨てる。ヒィと道化は悲鳴を上げながら、地面を転げてぐったりのびた(フリをした)。 

 

「よくやった、オヅマ。見事なものだ」

 

 成功に興奮して上気したオヅマの頭を優しく撫でて、褒め称える。

 しかし、すぐにバサリとマントを翻して振り返ると、心配そうに控えていたベネディクトを見て目を細めた。

 

「だが、アンブロシュ卿の言う通り、無理は禁物。成長に合わせて徐々にせねばな。感覚を忘れぬよう、三月(みつき)の間、長弓を射るのは一日三本までとせよ」

「大丈夫です!」

「そのようなことを言って、今晩にでも、卿の手を煩わせることになるであろうよ。後のことは頼んだぞ、アンブロシュ卿」

「はっ!」

 

 ベネディクトは自分の言葉を無視することなく、きちんと理解してくれていた主に、今更ながら感動した。胸を打って忠義を刻み、恭しく騎士の礼をとる。

 

 オヅマは自分への別れの言葉もないままに、去っていく男の姿をずっと見つめていた。その背に揺れる、漆黒のマント。染め抜かれた真紅の椿、金の目の雄牛、鉤爪の鎖の紋章。

 

「いつかお前も、あれを身に纏う日がくる」

 

 ベネディクトがオヅマの肩に手を置いて言った。「それまでに閣下のお役に立てるよう、励まねばな。お互いに」

 

 それまでベネディクトはオヅマの保護者役として自分の役割を考えていたらしい。だが、この時から彼はオヅマを自分と同じ騎士として扱い、接することにしたのだと…後に語った。

 

 この変化は少しだけオヅマにも伝わったのか、それまでベネディクトに対して一切心を許すこともなく過ごしていたが、徐々に彼と会話するようになった。やがて離れて暮らすマリーのことも話すようになり、最終的に彼はマリーも一緒に引き取って育ててくれた。

 

 オヅマはベネディクトから男に関する武勇伝を聞き、ますます男への尊敬を深めた。時々に会う男が、高い身分であっても自分を見下すことなく、優しく接してくれる態度に、いつも胸を熱くした。

 

 この時はまだわかっていなかった。

 

 男の期待に応えることが、どんどんと自分を追い込んでいくのだということを。

 それは自分だけでなく、周囲の人間までも不幸にしていくのだと。

 

 一年後、オヅマの身体能力が優秀であることを認めた男は、いよいよ本格的な訓練を課した。

 アンブロシュの邸宅から再び城へと戻り、稀能(きのう)『千の目・(まじろぎ)の爪』を習得するため、リヴァ=デルゼによる非道な修練が始まった。

 

 オヅマの笑顔はどんどんとなくなった。

 時折、アンブロシュの家に戻っても、以前と変わり果て沈んだ様子のオヅマに、ベネディクトは幾度となく心配して声をかけてくれていたが、オヅマにもう彼の声は届かなかった。………

 




次回は2023.04.30.更新予定です。


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第二章
第百二十八話 グレヴィリウス公爵の来訪


 エリアス・グレヴィリウス公爵は、まずは新たな街道建設の調査について実地で確かめるべく、レーゲンブルトを経ることなく、直接ロージンサクリ連峰へと向かい、麓の村で止宿した。

 そこでヴァルナルと合流して一泊した翌日に、山間の道の途中まで行き、調査についての詳細な報告を受ける。その後には隣接するダーゼ公爵側との折衝において必要とされる、具体的な利益や維持管理の配分等について、ヴァルナルと話し合った。

 

 ここまでの過程で、公爵の目的が街道建設の下見だとヴァルナルは疑いもしなかった。実際に、レーゲンブルトへと向かう道すがら、並んで黒角馬(くろつのうま)に乗っている間も、公爵は新たなる街道に関することしか話さなかったのだから。

 

 しかし公爵がわざわざ辺境の地にまで足を運んだ理由が、そればかりでなかったことをヴァルナルが知ったときには、既に審問は始まっていた……。

 

 

***

 

 

 夕食を終えた後、ヴァルナルは公爵に呼ばれた。

 

「今から?」

 

 思わず聞き返したのは、行きたくなかったからではない。

 アールリンデンからそのままロージンサクリの麓まで行き、街道建設予定の山道を視察…という強行軍であったので、ようやくレーゲンブルトに辿り着いて、今日は早めに休まれるであろうと思っていたのだ。

 

 公爵の伝言を届けに来たのは、ルーカス・ベントソンだった。

 

「新婚夫婦の語らいの邪魔をするのは俺としても不本意だが、閣下からのご命令なのでな。男爵夫人も一緒に、と」

「ミーナも?」

 

 ヴァルナルは首を傾げた。

 正直、公爵は貴婦人連中相手に楽しく語らうという人ではない。というより、昔からその容貌に心寄せる婦人方は多く、つきまとう女にはあからさまに邪険に扱うことも少なくなかった。

 唯一の例外が亡くなった奥方であったわけだが、夫人を失ってからなど、必要に応じて仕方なく相手せねばならない状況を除き、女性と話すことはほぼないと言っていい。

 

 隣に座るミーナと目を見合わせる。

 

「何か…お気に召さないことが……」

 

 心配そうにミーナがつぶやくと、ルーカスはあわてて笑みを浮かべて否定した。

 

「そのようなことはございませんよ、男爵夫人。正直、このような辺境の田舎で、こうまで行き届いた饗応をしてもらえるとは思ってもみませんでした。しかも急なことであったというのに、誠に男爵夫人の細やかな配慮には感謝するばかりです」

「そんなことは…」

 

 ミーナは謙遜したが、ヴァルナルは天性の色男ぶりを発揮するルーカスからミーナを隠すように立ち上がり、大声で牽制しにかかる。

 

「そうだろう! いや、実は大変だったんだ。この時期はいつも執事(ネストリ)が年に一度の休暇で帰省していて、不在でな。正直、私などはまともなことはできまいと諦めかけていたんだが、ミーナの見事な采配で、こうして公爵閣下を迎えても恥ずかしくない用意を整えることができた」

「それはそれは…」

 

 ルーカスは苦笑した。女のことで、こうまでこの男が変わるとは思わなかった。

 しかし、胸中ではより不安が増大する。それはヴァルナルにではなく、この準備を取り仕切ったのがミーナであった…ということに、だ。

 だが憂いを面に出すことなく、とぼけた様子でヴァルナルをからかった。

 

「無骨なヴァルナル・クランツには勿体ない方であられるようだな、男爵夫人は。婚儀を上げて間もないが、後悔はしておられませんか? もし、これ以上、この男とつき合いきれぬとなった場合には、私めを頼って下さい。なんなりと」

「まぁ…」

 

 ミーナはルーカスの冗談にクスクス笑い、ヴァルナルは思い切り苦虫を噛み潰した顔になる。

 

「いい加減にしろよ…お前」

「怖い顔をするな、男爵。悋気(りんき)の強い男は、奥方に嫌われるぞ」

「うるさい。早く行くぞ」

 

 ヴァルナルはミーナの手を取り、ルーカスをジロリと睨みつけて部屋を出ていく。ミーナは軽く会釈してルーカスの前を通り過ぎた。ルーカスは恭しく騎士礼をしながら、軽く息をつく。

 

 ついこの間まで病弱なお坊ちゃんの世話人、その前は厨房の下女、もっと前は飲んだくれの夫に虐げられていた、奴隷上がりの妻でしかなかった女だというのに、ちっとも卑しさを感じさせない。元からの美しさだけでなく、身についた教養から滲み出る品性。ただの平民出の女には、不釣り合いなものだ。

 それこそ公爵閣下の疑念を招くほどに……。

 

 

***

 

 

「ヴァルナル・クランツ、公爵閣下の前に罷り越しましてございます」

 

 頭を下げるヴァルナルから一歩下がって、ミーナも無言でお辞儀する。

 右手でスカートをつまむ優雅な指の形、左手はそっと卵を持つかのように胸に添え、頭は下げずに、目を伏せてまっすぐに背を伸ばしたまま腰をやや落とし屈める…。

 その美しい所作を、公爵は無言で注視していた。

 

「………あの?」

 

 何も言わぬ公爵にヴァルナルが首をかしげる。

 

「あぁ…」

 

 公爵は我に返ると、コツコツとテーブルを人差し指で叩いてから、ミーナに言った。

 

「呼び立てて早々すまぬが、男爵夫人に頼みたいことがある」

「はい?」

 

 ミーナは驚きながらも気を引き締めた。

 公爵が目で合図すると、若い従僕がワゴンに被せてあった白い布を取った。そこに置いてあったのは、少し形の変わったカップ類とポット、ハンドルのついた黒い箱のようなもの、それに小さな布袋だった。

 

「これは…」

 

 ヴァルナルはワゴンの方から漂う匂いに、すぐに思い出す。以前に弟・テュコが持ってきた黒い豆と同じ匂いだ。

 

「最近、帝都で流行っているらしい。珈琲(カフィ)と言ったかな。私も以前に茶会で供されたのを飲んだが、悪くはなかった。だが、使用人たちは未だに淹れ方に戸惑う者も多いようでな。公爵邸に精通している人間がおらぬ。聞けば男爵夫人は大層上手に淹れることができるらしいな」

 

 鷹揚に言いながらも、公爵の鳶色の瞳は油断なくミーナの挙動を窺っていた。

 ミーナは突然のことに戸惑うばかりで気づかなかったが、ヴァルナルはチリチリと胸の奥で焦りだす。

 

 おそらくはテュコが話したのであろう。

 公爵家とヴァルナルの実家の間に直接取引はないが、公爵邸に出入りする大商家は重要な取引先だ。彼らに珈琲豆を売りつける際にでも、ちょっとした話題として持ち出したのかもしれない。

 

「そこの従僕に教えてやってくれ。男爵夫人の教えとあらば、間違うことなく学ぶであろう。必要とされる道具は揃えたつもりだが、まだ何か入り用か?」

「いえ…」

 

 ミーナはチラリとワゴンの方を見やった。以前に作った時にはなかった豆を挽くためのミルまで用意されていた。

 

「十分にございます。それでは失礼して、淹れて参ります。しばしお待ち下さいまし」

 

 ミーナはまた優雅に辞儀をすると、くるりと踵を返すときにヴァルナルと目が合った。心配そうなヴァルナルの手にそっと触れて微笑んでから、若い従僕を連れて部屋を出ていく。

 

 ヴァルナルは扉の閉じる音を聞いてからも、しばらくは黙り込んでいた。

 公爵はヒュミドールから葉巻を取り出すと、カチリと専用鋏で先を切ってから火を点ける。

 フゥと煙を吐いてから尋ねた。

 

「何か言うべきことは?」

 

 ヴァルナルは言葉に詰まった。

 だが、こうして尋ねてくるということは、公爵もまた、疑念の範囲内であるということだろう。

 

「……ございません」

 

 しばし考えて答えたヴァルナルに、公爵は眉を寄せた。

 

「それがお前の選んだ()()か?」

「何のことを仰言(おっしゃ)っておられるのか、わかりかねます」

「ほぅ、そうか」

 

 公爵の顔はいつもよりも冷たく、声には苛立ちが含まれていた。

 吐き出した紫煙が天井へとたゆたって上りゆくのを見つめながら、公爵は独り言のようにつぶやいた。

 

「……十三年ほど前のことだったか。我が姉が不名誉な死を迎えたのは」

 

 ヴァルナルはいきなり公爵が始めた話に目をしばたかせた。

 

 公爵の姉・エレオノーレが貴婦人にあるまじき不行状によって、悲惨な死を迎えたことは、公爵家にとっては恥辱であり、語ることも許されぬ禁忌であった。

 ヴァルナルは当時、南部戦役に出征していたため、詳しいことはよくわからない。  

 ただ、ある時を境として、公爵を始めとして誰一人、エレオノーレに関することを話さなくなった。いや、なんであれば当初から公爵家に存在していなかったがごとき扱いであった。

 

 それなのに今、公爵が唐突にその姉の話を始めたことに、ヴァルナルは困惑するしかない。

 

「そなたは遠く南の戦で忙しかったゆえ、知らぬであろう? 我が姉が ――― いや、正式なる名前で呼ぶならば、エレオノーレ・モンテルソン()大公妃殿下の犯した恥ずべき罪が何であったか…」

 

 聞くほどに不気味で、ヴァルナルは答えを知りたくもなかったが、公爵の(とび)色の瞳は先を促すことを無言で訴えてくる。

 ヴァルナルは気を落ち着かせるように、一つ息をついてから尋ねた。

 

「何であったのでしょうか?」

「下賤の男共と遊び呆けた挙句、病に罹ったのだ」

「それは……」

 

 ヴァルナルは絶句した。

 その先の言葉は頭に浮かんだが、故人の、しかも元とはいえ大公妃殿下であった人のことである。口に出すのは憚られた。

 しかし公爵は無表情に言い放った。

 

瘡毒(そうどく)よ。見るも無惨な姿になる前に、自らを()じて死を選んだ。どちらにせよ、名誉なことではない。大公側からは長きに亘って姉の侍女を務めた者、姉に男を紹介していた仲介人らなどからの聞き取りで、結婚以前より姉にそうした()()があることがわかり、こちらに賠償を請求してきた。

『そのような荒淫なる女と大公を結婚させたのは、グレヴィリウスの落ち度である。あるいは大公殿下にも病の危険があったやもしれぬ』…とな。公爵家にとっては恥ずべき事態であるゆえ、すべてを秘匿するという条件もつけた上で、その代償としてエン=グラウザを差し出すしかなかった」

 

 南東にある島嶼(とうしょ)群の一つ、エン=グラウザ島は元はグレヴィリウス公爵家の所有であった。

 元は小さな漁村があるだけの貧しい島であったが、そこにある山がダイヤモンド鉱山であることがわかり、公爵家における重要な収入源の一つとなっていた。しかも南部戦役における補給路の一つとして港湾施設が整えられ、この十数年での発展はめざましい。

 

 ヴァルナルは公爵家の内政については無頓着であったので、詳しくは知らなかったが、大公家とグレヴィリウス公爵家間の微妙な確執については薄々感じていた。

 近いところで言うなら、小公爵であるアドリアンと大公家のシモン公子との(いさか)いがあったことで、家臣団の中には忌々しげに舌打ちして「()()()()()()()()大公家と!」と、声高に言う者もいたのだ。

 その時は大して気にも留めなかったが、今となれば彼らが過敏になって言い立てるのも無理ないことだった。

 

 だが今、そのことよりも問題とすべきは ――――

 

「それとミーナのことで何か関わりでもあると申されるのでしょうか?」

 

 思いきって尋ねたヴァルナルに、公爵は答えることなく、また全く別の話題を持ち出す。

 

「オヅマと言ったか? お前の新たな息子の名前は」

「は? あ……はい」

「肌の色と瞳の色は母親から引き継いだらしいな。確かに西方の民の血が混じっている。だが、髪は何処(いずこ)から引き継いだのか…当人も知らぬようだ」

 

 ヴァルナルの顔は強張った。自然と目を伏せてしまう。

 

「そなたも少しは覚えがあるのではないかな? 今のお姿が印象深いので忘れてしまうが、大公殿下もまた、あの者と同じような髪色をしていたのだ」

「それは…」

 

 言いよどむヴァルナルに代わって、ルーカスが首を傾げて尋ねた。

 

「恐れながら、閣下。さすがに髪色だけで類推するのは乱暴だと思いますがね。正直、オヅマの髪色はそう珍しくもないものですよ。閣下と小公爵のような髪色であれば、それは間違いなく親子であると認められるでしょうが」

「わかっている」

 

 否定されても、公爵の声に苛立ちはなかった。やや皮肉げな笑みを浮かべつつ、淡々と話を続ける。

 

「…ルーカス、男爵の新たな息子の年齢は?」

「十二と聞き及んでおります」

「我が姉が不行状によって亡くなったのは十三年前。その一年後に生まれた子供。母親の腹におる頃であれば、我が姉の亡くなった時期に重なる」

「それは、偶然でございましょう!」

 

 ヴァルナルはさすがに強く反論した。

 

 肝心なことに触れない公爵の真意については理解しても、先程聞いたばかりの公爵の姉・エレオノーレの自死とオヅマの誕生に関係があるなどとは思えない。

 しかし公爵はまた無表情となり、鳶色の瞳をすうっと細めた。

 

「そう…偶然だ。だが同時に、不思議なことよ。男爵夫人がそれまでの身分にそぐわぬほどの礼儀作法を身につけておるということが。正直に答えよ、ヴァルナル。今日のこの(もてな)し、お前の差配によるものか?」

「………いえ」

 

 ヴァルナルは苦しげに否定する。さっきルーカスにも言ったばかりだ。

 執事であるネストリのいない中、ミーナの采配によって、領主館はその客に相応(ふさわ)しい様相に作り変えられた。

 

 ありとあらゆる磨けるものは磨き抜かれ、手すりなどは木目の表情も判別できるほどつややかに、廊下を照らす銀の燭台一つ一つに至るまで徹底的に。

 館内の美術品や絵画などが飾られてあった広い廊下には、現グレヴィリウス公爵本人の肖像画と、それより幾分小さいヴァルナルの肖像画が掛けられ、その間にはヴァルナルが公爵から拝領した甲冑が飾られた。

 吹き抜けとなっている玄関広間中央の階段上からは、グレヴィリウス公爵家の紋章が染め抜かれた幕と、レーゲンブルト騎士団の幕が並んで垂らされており、これは公爵への歓迎と忠誠を示すものだった。

 この客室も、赤褐色であった絨毯は群青色の地味な柄のものに変えられ、カーテンなどの織物類も、同じ色合いの生地で揃えられてあった。家具は基本的に白を基調として統一してあるので、おそらく公爵家を象徴する色である青と白に合わせたのだろう。

 

「このような辺境で、こうまで行き届いた饗応を受けるとは思わなかった。先程の晩餐も…献立に合わせて使用する食器、燭台や花器の選別、配置に至るまで…よほどに有職(ゆうそく)に通じた者でなければ、用意できぬであろう。そう…たとえば皇宮の女官などのように」

 

 以前に弟にも言われたことだった。

 ヴァルナルは顔を固くしたまま、黙り込んだ。

 

 公爵は葉巻を(くゆ)らして返事を待っていたが、何も言わぬヴァルナルに軽く吐息をつくと、更に畳み掛けた。

 

「あの当時、姉の死についてこちらでも調査した。結局、我が姉の恥辱に(まみ)れた罪が覆ることはなかったが。姉の死に前後して、家令を始めとして数人の執事や従僕、下女なども問責を受けて解雇された。その後は行方をくらましたもの、()()()()()()()()を遂げたもの…様々だ。行方不明者の中には、大公家にて皇宮の女官とすべく養育されていた娘もいたらしい」

 

 ヴァルナルは息を呑んだ。

 ついに我慢ができずにその場に崩折れるように跪く。

 

「……公爵閣下、お許し下さい。今、私から申し上げることは、何もございません。ミーナは一生言わぬと決めています。私もまた、妻の選択を尊重します」

「…………」

 

 公爵は陰鬱な目でヴァルナルを見下ろした。

 

 ちょうどその時、ノックの音が響いた。

 

 




次回は2023.05.07.更新予定です。


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第百二十九話 迷いの中の選択

「出来上がりましてござります」

 

 ミーナはしとやかにお辞儀したが、入るなり床に跪いたヴァルナルに気付いて目を丸くした。ヴァルナルはごまかし笑いを浮かべて、あわてて立ち上がり、ソファに腰掛ける。

 ミーナは釈然としなかったが、従僕がカップに黒い液体を注いでくれたので、まず公爵に運んだ。

 

「公爵様はそのままでお飲みになられますか?」

「……あぁ」

 

 公爵は返事しながらも、ミーナの質問の意味がよくわからなかった。というのも、彼が今までに飲んだことのある珈琲は、いつも出されたものをただ飲むだけであったから。

 ミーナは無表情な公爵のささいな疑問など知ることもなく、ルーカスとヴァルナルにも勧めた後に、ミルクの入った器をヴァルナルの珈琲の横に置いた。

 すぐにルーカスが見とがめる。

 

「なんだ、それ。お前だけ」

「いや、苦くて」

 

 言いながらヴァルナルが珈琲にそのミルクを入れると、ルーカスも公爵も驚いたように目を見開いた。

 

「ミルクなんぞ入れて、大丈夫なのか?」

「あぁ。まろやかになって飲みやすい」

「ふん。俺ももらおう」

 

 ルーカスは残りのミルクを入れると、色の変わった珈琲を見て眉をしかめた。

 

「これ、本当に大丈夫なんだろうな?」

「自分で入れておいて今更」

「いや。雨が降ったあとの川みたいに濁ってるからさ。まるでドロ…」

 

 さすがに淹れてもらった人を目の前にして泥水と言うのは気が引けたのか、ルーカスはあわてて弁明した。 

 

「失礼、男爵夫人。私も珈琲を飲んだことはあるのですが、さすがにこのような珍奇な飲み方を見たことがなかったもので」

「えぇ、そうだと思います」

 

 ミーナは頷いて微笑んだ。

 

「昔、これを初めて飲んだときにとても苦くて、私が勝手にミルクを入れたんです。だから、正式な飲み方かと聞かれれば違うのでしょうね」

「初めて…というのは、いつの頃だ?」

 

 不意に割り込んで尋ねたのは公爵だった。

 

「それは…」とミーナは答えかけて、急に口を閉じた。

 微笑んでいた顔が急速に緊張を帯びる。

 しばしの沈黙のあとに、目を伏せて謝罪した。

 

「申し訳ございません。遠き記憶ゆえ…つまびらかに思い出せませぬ」

 

 公爵は心細げに佇むミーナを厳しく見つめつつも、咎めることはなかった。

 カップの中の黒い液体を一口含む。以前に淹れてもらったものと同じ味だった。

 苦味と、後口に残るわずかな酸味。鼻腔に入り込む燻した豆の芳醇な香り。

 

「確かに、聞いていた通り男爵夫人は珈琲を淹れるのがお上手なようだ」

「お褒めに預かり恐縮にござります」

「不思議なものだ。私が以前に飲んだ時と同じ味がする。実はその時は大公殿下がお手づから淹れて下さったのだ」

 

 ハッとミーナは息をのんだ。

 その場で小さく身をすぼめるミーナを見て、ヴァルナルは立ち上がると、そっと肩を抱いた。  

 

「公爵閣下…」

「私は事実を言ったに過ぎぬ」

 

 素知らぬ顔の公爵に、ヴァルナルは苦しげに懇願した。

 

「お汲み下さい。先程も申した通り、ミーナは息子のオヅマにも告げるつもりはないと言っているのです。それも()()()の迷惑とならぬ為です」

「まったく…」

 

 公爵はあきれたようにフッと皮肉げに頬を歪めた。

 

「男爵夫人はともかく、お前も嘘をつけぬ男よな、ヴァルナル。適当に言い繕うこともできたであろうに」

「それは……」

「男爵夫人は西方のターディの民の血を引き継いでいるらしいな。今は散り散りとなって、民族としては失われたが、嘘なき民(タード=イ・ェリア)と呼ばれる種族の(さが)ゆえ、嘘をつくよりは沈黙を貫くということか」

 

 ヴァルナルは公爵がそこまで知っていることに驚いた。

 

 ミーナの家系は曽祖父の代に西方地域の山奥から出てきて帝都に移り住んだ。

 ミーナは幼い頃に流行病(はやりやまい)で亡くなった両親の代わりに育ててくれた祖父母から、古き民族の歌や習俗などを教えられるでもなく覚えたのだという。

 その中でも独特なのが言霊(ことだま)信仰で、口に出した言葉は力を持ち、不吉なことを言えばその通りになってしまう…というものだった。

 

「迷信でしょうが、もし何かあったらと思うと…迂闊なことは言えなくて」

 

と、話をしてくれたのは結婚後のことなので、ヴァルナルも知ったのはつい最近だった。

 

 ミーナは俯いていたが、何度か逡巡した後、沈痛な面持ちで口を開いた。

 

「お許し下さいまし。私の過ちでありました。何も知らぬ子供だったのです。幼き頃よりひとかたならぬ厚意を受けて、勘違いして…お慕い申し上げました。けれど許されぬことでした。あの子を身籠ったときに、自らの浅慮(あさはか)さに気付かされたのです。これ以上、迷惑をかけてはならぬと…」

「それで今に至るも申し出なかったと? 騙されて奴隷にされても、助けを求めなかったのか?」

 

 公爵は厳しい口調で問うていたが、(とび)色の瞳は痛々しくミーナを見つめていた。言葉だけでは推し量れない公爵の本心を感じて、ミーナは少し気持ちが安らぎ、素直に言った。

 

「……ありました。あの子を生んだばかりの頃は、どうすればいいのかわからなくて、とにかく縋りたい一心で、門前まで行って、門番に頼んだことも。当然、その場で追い返されました」

 

 ミーナはそこまで話してから、苦い笑みを浮かべた。

 

「情けない話でございます。先の夫が亡くなったときも、気が動顛していたのでしょう。一度は都に向かおうとしていたのです」

 

 ヴァルナルは驚いた顔でミーナを見つめる。その視線を感じて、ミーナは顔を上げると、ふわりと微笑んだ。

 

「オヅマに感謝しております。あの子がここに連れて来てくれなかったら、私はきっと今も不安の中で揺れて、縋ってしまっていたかもしれません。つらいとき、苦しいときにはいつも、幼い私を慈しんで育てて下さった日々を、思い出さずにはいられなかったから」

「ミーナ…」

 

 ヴァルナルは懐かしそうに言うミーナの腰を、無意識に引き寄せていた。

 

 公爵は仲睦まじい新婚夫婦から目をそらすと、ぬるくなった珈琲をゴクゴクと飲んだ。

 コトリ、とカップを皿に戻し、ミーナに問いかける。

 

「あと一つだけ夫人に聞く。そなたを育ててくれた恩義ある家から出たのは、そなた自身の選択によるものか?」

 

 ミーナは公爵の厳しい視線を受け止めてから、フッと目を伏せた。

 唇を一度強く噛みしめ、苦い記憶を思い起こす。

 やがて静かに話した。

 

「……(さと)されたのです。私があまりにも無知であったので、自らの身分をわきまえるように言われました。私のような下賤の身から、()()()の血を継ぐ者が生まれたとなれば、()()()の品位に(きず)をつけることになる…と。厳しいお言葉でしたが、それでようやく気付いたのです。ですから…」

 

 再び面を上げ、公爵の鳶色の瞳から目を逸らさずにミーナは言った。

 

「迷惑とならぬ為に、自らの意志で出ました」

 

 公爵はしばらくその薄紫色の瞳と対峙したあとに、軽く息をついた。

 

「男爵夫人の決意は尊重しよう。以降はヴァルナルと話すことがある。退がってよい。ハンス、お前もだ」

 

 公爵の言葉にミーナはホッとした顔になり、深々と頭を下げた。いつも旨とする礼儀作法からは少々逸脱していたが、その分、素直な感謝を表していた。

 

 ミーナが去り、従僕がカップ類を片付けて部屋を出ると、ヴァルナルもまた、深々と公爵に頭を下げた。

 

「ありがとうございます、公爵閣下」

 

 しかし公爵の表情は厳しい。

 眉間に深く憂いを刻み、ボソリとつぶやいた声は重かった。

 

「事はお前が思うほど簡単ではない」

「まだ、何か?」

 

 ヴァルナルが困惑して尋ねると、公爵は軽く溜息をついた。

 

「夫人については、もはやそなたと結婚したゆえ如何(いかん)ともし難いとはいえ…オヅマをどうする?」

「オヅマは…当然、私の息子として育てるつもりです」

「それで済むと思うのか? 都に行けば、皇帝陛下の覚えめでたいそなたが、放っておかれるはずもない。当然、新たな夫人のことも、その連れ子のことも、口さがない貴族(スズメ)どもの格好の話題となろう。()()()が母子を目にすれば、そこにいるのが自分の息子であることは、誰よりも早くに察せられるであろう。もし、自分に卑賤の血が混じった息子がいるなどと知れば、あるいは ――― ()()を考えられるやもしれぬ」

「まさか……」

 

 ヴァルナルは呆然とつぶやいたが、公爵のどんよりと曇った顔は晴れない。

 しかし暗い雰囲気をかき混ぜるかのように、ルーカスがのんびりと言った。

 

「失礼ながら、私はそうは考えませんね、公爵閣下」

 

 公爵はジロリとルーカスを見つめる。鳶色の瞳は憂鬱そうであった。

 

「……申してみよ」

 

 ルーカスは軽く目礼すると、「さて」と言って、おもむろに立ち上がった。

 

「我らだけであれば、もはや()()()などと、まだるっこしい呼び方をする必要もないでしょう。通り名でお呼びすることに致しますよ。ランヴァルト大公でございますが、先程の男爵夫人の話を聞いていても、大公はおそらくミーナ殿に深い愛情を持っておられたと思うのです。下女相手に戯れに手を出したなどというものではなく。そのような女であれば、あの大公のこと、()()などという無体なことはなさらぬと考えます。むしろ私が危惧するのは、大公がオヅマのことを知って、己が父親であるという主張をしてこられたときのことです」

 

 ヴァルナルの顔は強張り、公爵は変わらぬ表情のままルーカスに問いかけた。

 

「あの大公が、下賤の血を引く者を己の息子などと認めると思うか?」

「確かにランヴァルト大公は貴きご身分にございますが、一方で非凡異才をお好みになられる方でございます。自らに利する者であれば、その身の上が卑しくとも関係なく引き立てるでしょう。あの素性もわからぬ側用人が、いい例ではありませんか」

「…あの生意気な小僧にその価値があると?」

「お忘れでございますか? 公爵閣下。オヅマは稀能(きのう)を発現したのです」

 

 公爵はそこでハッとしたように硬直した。

 ルーカスは公爵からヴァルナルへと視線を移しながら話を続ける。

 

「オヅマの発現させた稀能が『千の目・(まじろぎ)の爪』であっただろうというのは、ヴァルナルの推測に過ぎませぬが、もしそうであれば、大公から教えを受ける機会を与えようと言っておられたではありませんか。ただの小僧であったとしても、素養があれば、ランヴァルト大公はその技を伝えるために、熱心に教育されるでしょう。ましてそれが自らの息子となれば……当然の権利を主張してくると思われます」

 

 帝国において、子供の()()()は父親にある。

 それまで母親によってのみ養育されたとしても、父親が子供を自らのものとして所有の権利を主張したときには、子供と母親が引き離されることも珍しくなかった。

 

 公爵は当然のように頷いた。

 

「そうなれば、オヅマを大公家へと送ることになるであろう」

「それはできません!」

 

 即座にヴァルナルは叫んだ。「私たちは家族です。家族の一人が欠けるなど、許容できません!」

 

 公爵はしかし冷たく言った。

 

「そうして強硬に反発して、大公側から誘拐犯と訴えられたらどうする?」

「誘拐? なぜ、そんな…」

()()()()()()()()()()()()()()()()。夫人をはじめ、お前も責を問われる可能性がある」

 

 ヴァルナルは唖然となった。もし、本当にそんなことになれば、問題は自分だけでは済まない。公爵閣下にも迷惑をかけることになる。

 だが、あの鷹揚なる大公殿下が、本当にそんな狡猾な真似をするだろうか?

 

 少し考えてヴァルナルは苦しげに息を吐いた。

 

 先程ルーカスも言っていたように、大公自身にミーナへの愛情があったのは間違いないように思える。もし、かの方が本気でミーナを取り戻そうとしたとき、あるいは多少強引であっても手段を選ばぬかもしれない。

 そうなれば、自分に抗うすべなどあるだろうか?

 いや、それよりも、今は大公殿下の名誉のために身を隠しているミーナが、あちらから関係を戻すことを望まれたとき、拒む理由などあるだろうか……。

 

 顔色をなくして佇立するヴァルナルに、ルーカスがバン! と背を叩いた。

 

「そう暗く考えるなよ。まだ大公(あちら)は何もご存知ない。知っているのは我らだけだ。つまり、ゲームを始める権利はこちらにあるということだ。公爵閣下も、将来有望な騎士見習いをみすみすくれてやるつもりもないでしょう? 小公爵様とてお気に入りだというのに」

 

 公爵は息子の話題に軽くピクリと眉を動かしたが、むっすりと黙ったままだった。

 

「しかし、ミーナの気持ちがまだ大公殿下に残っていたとしたら……」

 

 ヴァルナルは頭をかすめた可能性がみるみる膨らんで、小さな声でつぶやく。

 ルーカスは腕を組んで、弱気になっている友にあきれた視線を向けた。

 

「いたとしたら…なんだ? どうぞと差し上げるわけか? さっき家族が云々言ってたくせして、もう降参か?」

 

 ヴァルナルは拳を握りしめ俯いた。

 ミーナの気持ちを尊重しようという良心と、誰にも渡したくはないという執着が激しくぶつかって、自分でも自分の気持ちをどこに置けばいいのかわからない。

 

 また悩みはじめた友人に、ルーカスはあきれたように言った。

 

「おいおい。本気で悩むか、お前。いいか? 女ってのは、けっこうあれで薄情な生き物なんだ。新しい男が出来たら、綺麗サッパリ前の男のことなんざ忘れてしまうものなのさ。お前の前妻だってそうだったろうが」

「………彼女はそもそも俺を好いてもいなかった」

「そうだったか? ま、いずれにしろ、そうそういつまでも昔の男を思い続ける女なんてのは、いないのさ」

 

 ルーカスは自らの経験に基いて結論を出したが、それでもヴァルナルはミーナの言動を思い返して、自信なげにつぶやいた。

 

「しかし…さっきは何度も思い出していたと」

「俺の見るところ、ミーナ殿のあれは女として恋い慕うというより、育ててもらった恩を感じているだけだと思うがな」

「それは……そうか…な…?」

「ま、いざ再会してランヴァルト大公がお前よりいい男に思えたら、そりゃそっちに行くかもしれん」

 

 ルーカスの指摘に納得して、少しだけ安堵しかけたのも束の間、意地の悪い親友はニヤリと笑ってすぐさま蹴落としてくる。

 からかわれているとわかっていても、ヴァルナルはガックリ肩を落とした。

 

「おぉーいッ!!」

 

 いつになく卑屈になりがちな友の背を、ルーカスはバンバン叩いて励ました。

 

「しっかりしろよ、ヴァルナル・クランツ! 会う前から及び腰でどうする」

「そうは言っても……その昔、大公殿下は公爵閣下と共に宮中でも有名な美男として並び称されていたではないか。いや、今だって大公殿下を慕う御婦人は多いと聞くし…」

 

 ヴァルナルがブツブツ言うと、負けじと(?)ルーカスも胸を張った。

 

「大公だけではない。公爵閣下だっていまだに園遊会に招かれるたび、渡してくれと俺に文を預けにくる貴婦人が列をなしているぞ」

「……なにを馬鹿げたことを」

 

 さすがに脱線が過ぎる二人の話に、公爵はあきれかえった溜息をついた。鬱陶しそうに伸びてきた前髪を掻き上げて、ヴァルナルをギロリと睨む。 

 

「そもそも、結婚する前からわかっていたのだろう? 大公の側女(そばめ)と知っていても妻としたのであれば、今更、己の容色と較べて落ち込む時期はとうに過ぎておろうが。まったく、これがあの勇猛無双と呼ばれるヴァルナル・クランツとは…」

 

 公爵は馬鹿馬鹿しくてたまらぬといった感じで吐き捨て、深く寄せた眉間を揉んだ。

 項垂れるヴァルナルと対照的に、ルーカスは肩をすくめてうそぶいた。

 

「戦場で悪鬼と恐れられる男であってもこうなってしまうのですからな。まことに女というのは偉大な生き物です」

 

 公爵はうんざりしたようにルーカスを手で制した。この男はいつも男女の話となると、やたらと饒舌になる。

 

「ともかく…ルーカスも言ったように、ゲームの手札はほぼこちらにあるのだ。肝心要のお前の(はら)が定まっておらねば、方策もたたぬ。ヴァルナル・クランツ、お前はどうしたい?」

 




次回は2023.05.14.更新予定です。


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第百三十話 公爵が天秤にかけたもの

 公爵の問いに、ヴァルナルの答えは早かった。

 

「私はミーナと別れるつもりはありません。オヅマも…大公殿下に稀能(きのう)の教えを受けることになったとしても、息子であることに変わりはありません」

「………そうか」

 

 公爵は頷いた。相変わらず表情は乏しかったが、うつむけた顔はどこか苦く、憂いを帯びて見えた。

 

 ヴァルナルは少し気になったが、ルーカスが話を先へと進めていく。

 

「父権については、ある程度の時間をかければ、ヴァルナルであっても主張することは可能でしょう。再婚相手の連れ子とはいえ、今は正式に息子であるのですから」

「勝算があるのか?」

 

 公爵が不機嫌そうに尋ねると、ルーカスは余裕のある笑みを浮かべた。

 

「私自身は非才の身ですが、歴代の妻たちは有能な者が多いもので。二番目の妻は、こうしたことでの実務に()けておりましてね」

「あぁ…」

 

 ヴァルナルはすぐに思い当たった。

 

 ルーカスの二番目の妻、レティエ・フランセンはいわゆる訴訟代理人(或いは交渉人)だった。

 その職業は国に正式に認められているわけではないのだが、法に疎い者たちに代わって、裁判などの交渉事を行う人間は古くから存在している。

 彼らの身分は貴族であったり、平民であったり、果ては博徒(ばくと)であることすらもあったが、一貫しているのは優秀でなければ続けられないということだった。

 訴訟代理人を名乗るのは勝手であったが、実績がなければ信頼を得られない。誰からも必要とされなくなると同時に、彼らは仕事を失うのだ。

 

 有象無象にいる訴訟代理人の中でも、レティエはその界隈では有名で、顧客の多くは中流貴族の女性だった。これは元々、不幸な結婚をした友達の相談に乗るうちに、法律を学ぶようになったせいでもある。

 

「女性側からの離婚の相談なども多くこなしていますから、当然ながら子供のことについても俎上(そじょう)にのぼることが多いようです。効果的な方法くらいは考えてくれるでしょう」

 

 ヴァルナルは少しばかり気まずかった。

 前妻も彼女の相談者であったと聞いていたからだ。

 

「俺に力を貸してくれるのか? レティエ女史が」

 

 心細げにヴァルナルが言うと、ルーカスは鼻で笑った。

 

「なんだ? 心配しているのか? お前は彼女から言わせると、そう悪くない夫だそうだ。なにせ離婚に早々に応じた上に、ほとんど希望通りに慰謝料も払ったからな。金をケチらなくて良かったな」

 

 ヴァルナルは何も言えなかった。それも結局は面倒だったから、さっさと済ませたかっただけなのだ。

 あの当時は戦争が一旦終結したものの、いつまた戦端が開かれるかもしれないという緊張状態が続いており、とても家族のことなど考えていられなかった。

 

 今更ながらに自分の身勝手に後悔し、悄然となるヴァルナルを無視して、ルーカスは話を元に戻す。

 

「いずれにしろ、新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)に男爵夫人を連れて行くのは、控えたほうがいいだろうな。先程、公爵閣下も言われたように、万が一にでも大公の目に入れば、気付かれる可能性は高い」

 

 ルーカスの指摘にヴァルナルは頷いた。

 

「それは、最初からそのつもりだった。ミーナもオリヴェルのことが心配であるからと…帝都へ行くことは前向きでなかったし」

「それこそ物見高い輩に群がられては、たまったものではなかろうしな。だが、今回は許されても、毎年病弱な息子を理由にして、奥方が帝都に訪詣(ほうけい)もせぬでは、陛下への不遜だと騒ぎ立てる者も出てくるやもしれん。覚悟はしておくことだ。オリヴェルの病気についても、寒い北の地では体にこたえるのではないのか? 温暖な帝都の方が、案外快方に向かうかもしれんぞ」

「………考えておく」

 

 二人の話し合いがまとまったところで、公爵はゆっくりと椅子の背に凭れかかった。

 

「よかろう」

 

 短く言って瞑目する。これは『話は終わった』という意思表示だ。

 

 ヴァルナルは無言で頭を下げると、部屋を出た。

 

 

***

 

 

 一方、ルーカスは閉じられた扉の前で、去っていくヴァルナルの足音が徐々に遠くなっていくのを聞き、その場にいないことを確信してから振り返った。

 その顔にはさっきまでの余裕綽々とした小憎たらしい笑みもなく、むしろどこか切実だった。

 

「エレオノーレ様のことを、故意に話題から遠ざけましたね…?」

 

 公爵はゆっくりと瞼を開く。(とび)色の瞳が冷徹さを帯びてルーカスを見ていた。

 無言の公爵に、ルーカスは重ねて問うた。

 

「閣下。オヅマとエン=グラウザを天秤に乗せるおつもりですか?」

 

 公爵はのっそりと背もたれから体を起こすと、再びヒュミドールから葉巻を取った。先を切って火をつけ、味わったあとに、ふぅと煙を吐く。

 

「エン=グラウザは重要な土地だ。喜んで渡したわけではないのだからな」

 

 その言葉は肯定を意味していた。

 ルーカスは難しい顔になって考え込んだ。

 

 おそらく公爵は、十三年前のエレオノーレ元大公妃の自死と、ミーナがオヅマを妊娠したことに関係があるとみているのだろう。

 

 公女エレオノーレは元から皇帝の(きさき)になるべく育てられた娘だった。

 その相手が当時皇太孫であったジークヴァルトであろうが、それ以外の皇子であろうが、『皇帝』という身分に嫁ぐべく教育を受けてきたのだ。

 しかし先代皇帝死亡後に起きた政争で、グレヴィリウス公爵家が積極的に皇太孫ジークヴァルトへの支持をしなかったこと、エレオノーレが当時の彼の愛妾に度重なる嫌がらせを行ったことで、彼女は皇后の地位から除外された。

 新皇帝となったジークヴァルトは、半ば強引にエレオノーレを大公家に()させた。

 

 当然ながらエレオノーレは不満であったし、()()()()()()()()()()に興味もなかった。

 それが黒杖までも賜るような勇者であり、帝国建国以来の秀才と呼ばれる男であっても、彼女の矜持を満足させられるものではなかったからだ。

 

 エレオノーレと大公との仲は冷え切っていた。

 そんな夫婦は貴族であれば珍しいものではなかったろう。

 大公のような身分の男が、他に愛妾を持つことも、特に責められることでもない。事実、エレオノーレの輿入れの後に伯爵家の娘が側室に入って、早々に子供をもうけている。(現在、彼女が実質的な大公夫人としての役割を担っているが、すでに大公の情はなくなっているようだ。)

 

 ミーナの何がエレオノーレの気に入らなかったのかは、わからない。

 

 夫の相手としては、あまりにも身分の低い、西方の血の入った娘を嫌ったのかもしれない。

 帝国において、貴族階級であれば特に、西方の民を差別する因習は隠然と残っている。公爵邸にいた頃にエレオノーレが露骨に彼らを嫌った様子はなかったが、これは当時の公爵邸に、西方地域の出身者が下女下男くらいしかいなかったせいであろう。エレオノーレにとって下女下男の類は、木立の影程度にしか認識されなかったのだから。

 またあるいは驕慢な態度を示しつつも、大公に対して独占的な愛情を持っていたのかもしれない。さっきヴァルナルと話していたようにランヴァルト大公のその昔といえば、帝都中の女性の憧れの的であったのだから。

 

 公女として生まれて、何をしても罪の意識のない彼女のことだ。

 皇宮女官として育成している側仕(そばつか)えの娘一人、罵倒して追い出すことに躊躇などなかったろう。

 先程ミーナは穏便な言い方をしていたが、あるいはエレオノーレ本人から聞くに堪えない怒罵を浴びせられた末に、追い出されたのであったら…?

 

 掌中の珠のごとく可愛がってきた側女(そばめ)が、ある日突然姿を消した。

 それがひとかけらの愛情もない妻によって放逐されたのだと知ったとき、あの大公が、果たして何もせずにいるだろうか……?

 

「エレオノーレ様の死が、大公によって捏造されたものであるとお考えですか?」

 

 ルーカスが問いかけると、公爵は煙を吐いてから無表情に語る。 

 

「もし姉がミーナを追い出し、大公が怒り狂ったとしても、大公妃は皇帝の詔勅(しょうちょく)を受けて降嫁(こうか)してきたのだ。そう簡単に離縁もできぬし、公爵家に帰すこともできぬ。非を言い立てられて、あらぬ噂を流されることも避けたかったのであろう。誇り高き姉の心も名誉も無残に傷つけて自死させ、加えて公爵家(われら)からエン=グラウザを手に入れる……ガルデンティア(*大公家の居城)の狡猾なる老爺の考えそうなことではないか」

 

 ルーカスの脳裏に、いつも大公のそばに付き従う不気味な老人の姿が思い浮かんだ。

 

「オヅマを差し出して、大公家に過去の偽証を認めさせ、エン=グラウザを取り戻すおつもりですか?」

 

 ルーカスの問いかけに公爵はすぐに答えなかった。葉巻から、ゆらめき上る煙を眺めていた。

 

「少なくとも…見極める材料にはなるであろう」

 

 固まった顔のまま、冷たく公爵は言った。

 

 オヅマという存在そのものが、場合によっては大公側の急所となる。

 身分の低い愛妾への偏愛が過ぎて、正妻である大公妃 ――― しかも皇帝の媒酌(なかだち)で輿入れした、パルスナ帝国累代の家臣であるグレヴィリウス公爵家の公女を蔑ろにした挙句、あらぬ汚名を着せて、名誉も含め完膚なきまでに抹殺するなど、たとえ大公であろうと簡単に許されることではない。

 

 もし大公側が、オヅマやミーナを元大公妃(エレオノーレ)の死亡捏造に繋がる重要人物であると考えるならば、放っておくわけがない。彼らの存在を抹消しようと動き出すだろう。

 そうなればオヅマには、()()としての価値があるということになる。

 反対にオヅマを大公子として認めて、引き取りたいと言うのであれば、それはそれで()()()()として、せいぜい高く売りつけてやるまでだ。

 

「無論、あちらもそう簡単に認めぬであろう。『影』を送って、再度綿密に調べさせる必要がある」

「それは…」

 

 ルーカスは眉をひそめた。

 

 グレヴィリウス公爵直属の隠密部隊 ―――― 『鹿の影』。

 彼らの詳細についてはルーカスも把握できていない。

 彼らは公爵当人とだけ契約し、その全容は公爵しか知らないからだ。

 

 しかし以前に、それこそエレオノーレの死亡について調査するために、間者としてガルデンティアに送り込んだ者達は、すべて消息を絶ったと聞く。

 だからこそ今に至るもこの件については、詳細がわからないままだったのだ。……

 

「大丈夫でしょうか…」

「ふ。ベントソン卿に心配されるとは、『影』もずいぶん侮られたものよ。そうは思わぬか?」

 

 公爵はいきなり誰に言うともなく、やや大きな声で呼びかける。

 ルーカスは急に背中がもぞもぞして、辺りを見回した。

 当然、部屋には公爵と自分以外誰もいないのだが、どこかの物陰から見られているような気がして落ち着かなかった。

 それこそ今この時にも『影』はその名の通り、鹿(*グレヴィリウス公爵家の象徴であり、公爵当人を指す言葉)の影として、息をひそめているのかもしれない。

 

 ルーカスは軽く咳払いしてから、公爵に言った。

 

「調査についてはお任せしますが、ヴァルナルがオヅマを渡すとは思えませんね」

「あぁ…」

 

 公爵は眉間を押さえ、フゥと煙を吐きながら溜息をつく。

 

「……まったく、真面目な男に貞淑な妻というのは厄介なものだな。夫人がもっと俗物で、辺境の一領主の妻などよりも、大公の愛妾(あいしょう)の方に興味を示すような人間であるなら、簡単に別れたであろうに」

「そのような女であれば、ヴァルナルが好きになるわけがありませんよ」

「……だから面倒なのだ。あの二人が別れて、息子共々大公のもとに送り出し、こちらへの()()()()()エン=グラウザを返還するのであれば、問題は簡単に済む。ヴァルナルも安全であろう」

「大公が嫉妬して、ヴァルナルにまで危害を与えると?」

 

 ルーカスは意外そうに肩をすくめて言ったが、公爵の顔は暗く沈んでいた。

 最後に一口吸った葉巻を銀の皿の上に置くと、灰になっていくさまをじっと見つめている。

 

「お前たちは知らぬのだ。貴き方々のおぞましさを…」

 

 つぶやいた公爵の声は冷え切っていた。

 その場にいたルーカスに言ったというよりも、自らに言い聞かせるかのようだった。それに、本当にこれは微々たるものであったが、いつも傲然とした公爵には有り得べからざる()()が、垣間見えた気もした。

 

 ルーカスはゴホンと咳払いすると、恭しく頭を下げた。

 

「クソ真面目で面倒な家臣のために、色々と苦心なさる公爵閣下であればこそ、我らが主君。永遠なる忠誠を尽くすことを、ヴァルナルの分まで誓います」

「……相変わらず、口が達者だな」

 

 公爵はフゥと息を吐いて、背もたれに倒れるように身を委ねた。

 

「お前達を離してはならぬと…言われたからな」

 

 誰に? と聞く必要もなかった。

 本来、家臣のことなどに頓着もしない冷徹な小公爵であったエリアスを変えたのは、唯一人、妻であったリーディエだけだ。彼女は様々なものを公爵に与えてくれたが、その最たるものは人としての情であったのかもしれない。

 

「小公爵様にとってのオヅマもまた、そうであると思いますよ」

 

 ルーカスが微笑して言うと、公爵は宙を無表情に見つめたまま問うた。

 

「私があの小僧と大公を結びつけた理由がわかるか?」

「髪の色と……目鼻立ちですか?」

「髪色などはありふれたものだと、そなたも言っておったろう。顔も、相似するところはあるが、さほど似通っているというほどのこともない。だが、あの小僧に会った瞬間に、大公の姿が自然と浮かんだのだ」

 

 ルーカスが首をひねると、公爵は皮肉げに頬を歪めた。

 

「身に纏うあの稟質(ひんしつ)。他者を覆う…尊大なる威勢…」

「それは……」

 

 言われてルーカスはここに来る直前に、公爵邸で家令のルンビックと話したときのことを思い出す。

 老家令はオヅマの臨時の礼法教師となって以来、この問題児と話すことが多かったのだが、元々小作人の小倅だったとは思えぬ態度のデカさに、初対面から違和感を持っていたようだった。

 

「傲岸不遜なことこの上もないのに、自然と受け入れてしまうのだ……」

 

 老家令と同じものを、公爵も感じ取ったのかもしれない。

 塵埃(じんあい)の中で育っても輝石は光を失わない…ということだろうか。

 

「正直、今日あの小僧が大公の血を受け継いでいると聞いても、驚きはなかった。シモン公子などに比べても、容色を含めて、大公の優れた資質はオヅマに流れたようだ。もっとも稀能(きのう)については、さすがに信じられなかったが…」

「稀能は血による承継はないものとされていますからな。不思議なことです」

 

 ルーカスは同意しながら、オヅマの持つこの類まれな才能を、しばらくは隠しておく必要があると思った。

 大公にとっては、息子であるという事実よりも、オヅマが『千の目・(まじろぎ)の爪』という稀能を扱うことの方が、より魅力的であることだろう。

 

 当初予定していた、大公に稀能についての教えを乞うことは、避けた方が良いのかもしれない。

 その場合、他に教える人間を見つけなければならないが、今現在、大公の他で『千の目・瞬の爪』を教練できるような遣い手がいるのだろうか?

 いや、いっそのこと……

 

 ルーカスが忙しく頭の中で考えを巡らせている間に、公爵は話を切り上げた。

 

「具体的な方策は、既にそなたに腹案があろう。ヴァルナルと話し合って決めよ。くれぐれも大公家にさとられぬようにな」

 

 公爵に指示され、ルーカスは「承知しました」と頷くと、踵を返して部屋を出た。

 

 扉を閉める間際にチラリと一瞥する。

 椅子に凭れかかって、虚空を見る公爵の顔が、ひどく疲れて見えた。 

 




次回は2023.05.21.更新予定です。

感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第百三十一話 キャレと小公爵

 キャレがアールリンデンを訪れて、早くも一月が過ぎていた。

 冬芽は温かみを増してきた日差しの中で、徐々に青く伸び、春告鳥が物慣れぬ様子で鳴き始める。

 

 ノックの音にキャレが扉を開けると、立っていたのはアドリアンだった。

 

「しょ、小公爵さま」

 

 驚いて声を上げるキャレに、アドリアンが「シッ」と唇の前に指をたてる。

 キャレはその様子に声を潜めた。

 

「どう…なされましたか?」

「ちょっと、来てもらえるかな?」

「は…はい」

 

 キャレが頷くと、アドリアンはニコリと笑って自分の部屋へと入っていく。キャレは首を傾げつつも、その後に続いた。

 

 今は午後からの勉強が終わり、晩餐までの自由時間だ。近侍たちはそれぞれに過ごしている。

 自室に籠もる者、図書室へ行く者、修練場で自主訓練する者、様々だ。

 キャレはもちろん、自室に籠もって、自分だけ合格点をもらえなかった歴史の復習をしていた。

 

「そろそろ一月(ひとつき)になるね」

 

 アドリアンは部屋に戻ると、くるりと振り返ってキャレに言った。

 穏やかな笑みを浮かべているが、その端正な顔立ちには、相変わらず慣れない。

 キャレはドギマギしながら頷いた。

 

「はい。色々とご迷惑をおかけしております」

「そんなことはないよ。キャレが来てくれたお陰でオヅマとマティの喧嘩が減ったし」

「……そうなんですか?」

 

 今でも顔を合わせれば一日に一度は必ず、軽い口喧嘩が始まるのに、あれで減ったのか…とキャレは内心で呆れる。

 いったい、どれだけ喧嘩していたのか、あの二人。

 

「マティもオヅマも、キャレにじーっと見られていると、なんだか気になっちゃって怒る気が失せちゃうんだって。不思議だね」

「はぁ……?」

 

 その理由はキャレにもわからなかった。ただ、いつも「またやってるなぁ」と半ばあきれて、半ば感心して見ているだけだ。

 曖昧な返事しかできないキャレに、アドリアンは話を続ける。

 

「オヅマが言うには、マリーに見られてるみたいだって」

「マリー?」

「オヅマの妹だよ。オヅマが一番頭が上がらない相手」

 

 何気なく出てきた『妹』という言葉に、キャレの顔は固まった。それでも必死に笑って、無理やり口を動かす。

 

「い…意外、ですね。オヅマさんにそんな相手がいるなんて…」

「そう思うよね。僕だって、日頃のオヅマを見ていたら、怖いものなしとしか思えないんだけど、マリーには本当に弱いんだ。まぁ、マリーが強いっていうのもあるんだけど」

「小公爵さまは、マリー…さんとお知り合いなのですか?」

「うん。レーゲンブルトにいる頃にね、とても世話になった。明るくて優しくて、いつもニコニコ笑ってる可愛い子なんだ」

 

 キャレはアドリアンと同じように笑顔を浮かべながら、心がザワザワと波立った。

 

「そう…なんですね。小公爵さまにとっても妹のような方なのでしょうか?」

「うーん…」

 

 アドリアンは考え込んでから、ふと沈んだ顔になった。

 

「僕は…本当の妹に会ったこともないからな…」

 

 自嘲したようにつぶやくアドリアンの大人びた表情に、キャレは胸をつかれた。

 

 アドリアンに異母妹がいることは、テリィから教えられた。

 テリィは噂好きの母親が、女友達相手に喋っているのを聞きかじっていて、その手の情報に詳しかった。

 

「公爵様が夫人を亡くして一年ほどした頃に、亡くなった夫人の遠縁の娘が夫人そっくりだって聞いて、一度()()()()ってやつになったみたいなんだ。でも結局、公爵夫人とは比べ物にならなくて、すぐに離れに追いやられたみたい。その後に娘が生まれたんだけど、公爵様は見ることもなく、最終的には公爵邸からも追い出しちゃったらしいよ」

 

 キャレはその娘について少しだけ同情した。

 自分と同じように婚外子というだけで、虐げられる。それは大公爵グレヴィリウスにおいても同じらしい。

 

 話しかけづらくなって黙り込むと、アドリアンがハッと我に返った。

 

「あ、ごめん。来てもらっておいて、忘れるところだった。こっちだよ」

 

 言いながらまたアドリアンが部屋の中を横断していって、隣の寝室に通じるドアの把手を取った。

 キャレはドキリとなった。そこは近侍であっても、おいそれと入れる場所ではなく、完全なるアドリアンの私室(プライベートルーム)だった。おそらく他の近侍たちも入ったことはないはずだ。いや、オヅマは別かもしれないが。

 

「え? あの……」

 

 キャレはさすがに躊躇したが、アドリアンは扉を開いたまま首をかしげて待っている。

 

「では、失礼します」

 

 キャレはおずおずと寝室に入った。

 アドリアンに気付かれないように、目だけを忙しなく動かして部屋を見回す。

 

 その正直な印象は ―――― 案外狭くて…暗い。

 

 ファルミナにいた頃、キャレは姉たちの寝室を掃除したことがあったが、ここよりもずっと広くて明るく、絢爛豪華だった。

 部屋には花が飾られ、家具は金メッキの装飾が施されたきらびやかな白塗りのもので統一されていた。化粧台(ドレッサー)やソファ、テーブル、チェストに、一度も駒の動いたことのない駒取り(チェス)台なんかもあった。

 

 一方、この部屋の内装は姉たちの部屋に比べると、みすぼらしいとまでは言わないまでも、非常に質素に感じられるものだった。

 絨毯はモティケ織の豪奢なものではあったが、紺色をベースにした落ち着いた色合い。家具も金メッキの飾りなどはなかったが、つややかに磨かれた深いマルーンの色合いのそれらは、いっそ重厚な趣であった。バルコニーに面した窓のカーテンは、深い緑色に金糸で細かな刺繍が施され、いかにも重たそうな生地だ。

 家具の数も天蓋ベッドに姿見、三脚の洗面台、書き物机(エスクリトワール)と椅子など、必要最低限のものしか置かれていない。

 正直、大グレヴィリウスと呼ばれる公爵家の若君の寝室にしては簡素に思えた。

 しかし『寝室』ということだけで考えるならば、あんなに広くて仰々しい場所で寝るよりは、ずっと落ち着いて眠れる気はする。

 

 アドリアンはぼんやり立っているキャレの横を抜けて、窓と反対にある両開きの扉を開け放った。

 

「こっちに来て」

 

 キャレはますます訳が分からなかったが、言われるままに動くしかない。

 アドリアンに()いて扉の中に入ると、そこにはズラリと洋服が掛けられていた。

 自分の連れてこられた場所が、小公爵の部屋に隣接した衣装部屋だとわかると同時に、あきれるほどの衣装の数にキャレは圧倒された。

 

「………」

 

 唖然として立ち尽くすキャレに、アドリアンがなんとも微妙で曖昧な笑みを浮かべた。

 

「こんなことをするのは、君にとってはあまり嬉しいことじゃないかもしれないけど…よければ、好きな服を持っていくといい」

 

 言われた途端に、キャレは絶句して俯いた。身の置き所のない恥ずかしさに、ただ黙って唇を噛み締めるしかない。

 アドリアンは申し訳なさそうに言った。

 

「嫌かな?」

「…………」

 

 キャレは返事ができなかった。

 今のアドリアンの言葉も、その声音から、優しさが伝わってくる。そうやって優しくされるほどに、キャレは泣きそうだった。

 自分には今まで、そんな優しさを向けてくれる人がいなかったから。

 

「マティアスから聞いてる。オルグレン家に何度か服を送ってくれと頼んだのに、何の返事もないらしいね」

 

 最初の晩餐のときにマティアスから「みすぼらしい」との指摘を受け、キャレは嫌々ながらもオルグレンの兄に、できれば新品の、それが無理なら兄達があまり着なかったような古着でいいので、送ってもらえないかと手紙に書いて送ったのだが、梨のつぶてだった。それは予想通りなので、キャレは傷つかなかった。

 

 幸い、近侍用の制服がそう待たされることもなく支給され、三着の制服を着回すことでどうにかした。洗濯物を多く出して、使用人に臍を曲げられても厄介なので、自分で洗ったりすることもあったが、キャレは気にしなかった。ファルミナにいた頃には毎日のようにやっていたことだ。

 

 だがアドリアンは、キャレが難渋しているのを見て、憐れに思ったのだろう。

 

「本当はずっと気にしていたんだけど、まだ会って、よく知りもしないうちから、こんなことをしたら、君は()()を受けたみたいになるだろう?」

 

 アドリアンの言葉に、キャレはハッとして顔を上げた。

 ニコリと笑うアドリアンの鳶色の瞳は優しく、やわらかな光を宿している。

 

「僕は君と友達になりたいと思ってる。だから、これは()()じゃなくて、友達として助けたい……自分にできることをしたいだけなんだ」

 

 キャレは自分のカラカラになった心が、あふれる涙で満ちていくのがわかった。

 

 友達。

 それは今までキャレの人生にいなかった存在だった。

 本の中の、自分には手に入らない絵空事のように思っていたものが、思いもかけない形で目の前に差し出された。

 

「……ありがとう…ございます」

 

 泣くのをこらえて声が震える。

 アドリアンが心配そうに尋ねてきた。

 

「もしかして怒ってる?」

「まさか! そんな……」

「本当? 怒りすぎて震えてる…とかじゃない?」

 

 そう言ったアドリアンの顔は、いつもの怜悧な小公爵様ではなかった。自分と同じ、相手のことを窺って、少し自信のなさげな子供の表情。

 キャレはフフッと思わず笑ってしまった。

 なんだか可愛く思える…。

 

「良かった」

 

 アドリアンは安堵して嬉しそうに微笑んだ。

 キャレもニコリと笑い返す。いつものような愛想笑いではない。自分の心を素直に表したものだった。

 

「さて。じゃ、選ぼう!」

 

 それからいよいよ服選びが開始したのだが ―――― 早々にキャレはアドリアンと友達になったことを少しだけ後悔した。

 

「あれ? ……なんか思ってたよりも小さいね」

 

 同じ年とはいえ、アドリアンはキャレよりも背が高くて、現在着ているものだとキャレには大きすぎた。

 

「………すみません」

「謝るようなことじゃないけど…」

 

 アドリアンは笑ってから、ポンとキャレの両肩に手を置いた。もうちょっとでキャレは悲鳴を上げそうになって、あわてて口を押さえる。

 

「…? どうかした?」

 

 不思議そうに尋ねてくるアドリアンに、キャレはなんとか笑みを浮かべた。

 

「いえ、なんでも」

「うん、やっぱり小さいな。肩が細くてブカブカだ」

 

 アドリアンは容赦なくキャレの肩をなぞって、だいたいの肩幅を把握すると、衣服の間を縫って奥へと進む。

 

「うーん……じゃあ、奥にあるのだったら着れるんじゃないかな。これとか…」

 

 衣服の中を探って動き回るアドリアン越しに、一瞬、小さなドアのようなものが見えた気がした。

 キャレはもう一度見ようとしたが、その時にはアドリアンが数着持って、キャレに渡してくる。まるで新品のように、型崩れもせず、色褪せもしていない服ばかりだ。

 

「いいんですか? 新品みたいですが」

「うん。袖を通してないのもあるかも。この頃に僕、レーゲンブルトに行ってたから、帰ってきたら小さくなっちゃって、着れなかったのもあったと思う。だからちょうど良かったよ。着てもらえた方が、仕立て屋も嬉しいだろう」

 

 なんだかえらく庶民的なことを言うアドリアンが、キャレには微笑ましかった。

 

 最初は兄からの命令で来て、どうなることかと戦々恐々とばかりして、生きた心地もなかったが、こうなったら肚をくくるしかない。

 

 なんとしても、絶対に、秘密がバレることのないように。

 これまで以上に細心の注意を払って。

 せっかくできた()()を失わないためにも、どうあっても自分はここで『キャレ』として生きていくのだ…!

 

 





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第百三十二話 出迎え

 すっかり雪も解けて、耕作の始まる種蒔( たねま)き月を過ぎ、萌芽(ほうが)の月を迎えると、アールリンデンの公爵邸はにわかに忙しくなった。

 帝都への訪詣(ほうけい)を控え、北東部に分散するグレヴィリウス家門の諸家が公爵邸へとやって来るからだ。

 

「あれ? 今日はエーリクさんいないの?」

 

 勉強室に入って開口一番オヅマは尋ねた。

 授業前に近侍たちは勉強室に集まることになっているのだが、いつもオヅマは一番遅いので、来たら全員揃っているのが常だった。

 しかし今日はエーリクの姿がない。

 

「具合でも悪いのか?」

 

 尋ねながら椅子に座ると、マティアスが鹿爪らしい顔で話し出す。

 

「エーリクは今日、エシルからイェガ男爵がお()でになるから、出迎えだ。荷入れや騎士団宿舎の設営を手伝うから、今日いっぱいは休務となると………昨日、本人が言っていただろうが! 忘れたか!?」

 

 マティアスは普通に話そうと思っているのだが、結局怒鳴ってしまうのは、もはや習慣と言ってよかった。

 また始まった二人の口喧嘩に、口挟む者は誰もいない。

 

「あぁ~、そうだったっけ?」

「ちなみに私は明日、テリィもこの数日中には来るからな! その時にはお前! ちゃんと近侍としての役目を忘れずに…」

 

 また説教を始めようとするマティアスを無視して、オヅマはキャレに尋ねた。

 

「キャレ、お前は? お前のとこはいつ来るんだ?」

「あ…僕の…ところは……」

 

 キャレはおどおどと目を泳がせた。

 こちらに来てから、オルグレン家からは何の音沙汰もない。アールリンデンにいつ頃来るかなど、全く知らされていなかった。

 しかし、その問いにテリィがあきれたように言った。

 

「何言ってるんだよ、オヅマ。ファルミナはアールリンデンより帝都に近いから、来ないよ。帝都への道すがらに合流するだけさ」

「あ、そうなのか」

「ちゃんと所領配置について頭に叩き込んでおけば、そんな間抜けな質問などしないだろうに」

 

 マティアスが嫌味っぽく言うと、オヅマは肩をすくめた。

 

「覚えなくたって、地図を見ればいいじゃねぇか」

「覚えないから考査を二度も受ける羽目になるんだろう!」

「二度受けて駄目なら、三度目で覚えればいいのさ~」

「貴様ァ……」

 

 また口喧嘩が再燃する。

 テリィはため息をついて、軽く頭を振ると読書に戻った。キャレもルティルム語の復習で忙しかったので、関わらないようにした。

 エーリクかアドリアンがいてくれれば、丸く収めてくれるが、エーリクはさっき言った理由でおらず、アドリアンもまだ来ていない。もっとも最近ではエーリクとアドリアンですらも、自然消火しそうなときには放っておきがちだった。

 この場合、自然消火はマティアスが疲れて降参するか、オヅマが面倒くさくなって投げ出すかだが……

 

「ハイハイハイハイ。わかったわかったー」

 

と、まったく気のない返事をしてオヅマが強引に終了させる、というのがほとんどだった。

 

 マティアスはまだ何か文句を言いたげだったが、そこにちょうど具合よくアドリアンが現れた。

 走ってでも来たかのように、息が乱れ、肩を大きく上下させている。

 

「オヅマ! なにしてるんだ!」

 

 いつになく興奮気味に呼ばれて、オヅマはキョトンとなった。

 

「どうした……んですか?」

 

 後半に敬語をつけ足したのは、当然ながらマティアスが厳しく睨みつけてきたからだ。

 

「ヴァルナルがもう来るって。早く迎えに行かないと…」

「へ?」

「さっき鳩が来たらしい」

 

 鳩、というのはグレヴィリウス公爵邸の正門に入った時に、館に向かって来客を報せる鳩のことだ。

 

「あれ? 朔日(ついたち)に出発って言ってなかったっけ?」

 

 オヅマがそう尋ねるのは、マリーと頻繁に手紙のやり取りをしているアドリアンから、ヴァルナルが萌芽の月朔日にレーゲンブルトを出発する予定という話を聞いていたからだ。

 

 ちなみにオヅマはレーゲンブルトから届く手紙を読みはするものの、返事は滅多と返さなかった。自分のことを書くのが億劫であったし、何を書けばいいのかもわからない。ようやく書いたとしても「元気。問題ない」という素っ気ないものであったので、段々とオヅマに届く手紙は少なくなった。

 当人に聞くよりも、アドリアンとやり取りをしているマリーからの情報の方が、オヅマについての近況を詳しく知ることができたからだ。

 反対にオヅマもレーゲンブルトでの出来事については、マリーからの手紙を読んだアドリアン伝手に聞くため、今回の訪問日時のこともアドリアンから聞いていた。

 

 朔日に出発であれば、おそらくアールリンデンに到着するのは五日あたりと言っていたのに、今日はまだ三日。

 

「ヴァルナルと数名の騎士達は黒角(くろつの)馬で来たみたいだ。輜車(にぐるま)とかは後から来るみたいだけど」

 

 アドリアンに言われて、オヅマは納得した。

 ヴァルナルやカールを始めとする司令部隊は全員、黒角馬に乗っている。馬車でもなく騎馬で、しかも黒角馬で、ヴァルナル達だけで先行するのであれば、早く到着してもおかしくない。

 

 とはいえ―――― 。

 

「なんで迎えに行かないといけないんだ?」

「なんでって…」

「どうせ今日は無理でも、そのうち修練場で会うことになるだろ、たぶん」

 

 面倒そうに言うオヅマにアドリアンは目を丸くした。

 

「会いたくないの?」

 

 当然のように尋ねると、オヅマはムッスリと渋い顔になる。

 

「会いたいとか、会いたくないとかじゃなくて……別に必要じゃないなら、無理して会う必要もないだろ……っていうだけだ」

 

 予想外のオヅマの反応に、アドリアンは少し気勢をそがれた。

 アドリアンの予想では、オヅマが驚きつつも「一緒に行こう!」と、飛び出して行くのだと思っていたのだ。それこそアドリアンなど追い抜いて、一人で本館の方へと走っていくぐらいだろうと思っていたのに…。

 

「じゃあ、いいよ。僕、一人で行ってくる」

 

 アドリアンが踵を返して行こうとするのを、マティアスがあわてて止めた。

 

「お待ち下さい、小公爵様! ルティルム語の授業はどうするおつもりです?」

「エーリクと一緒に補講を受けるよ」

 

 マティアスは珍しく ――― というより、初めてアドリアンに大声で反対した。

 

「いけません! 今、本館に行けば諸侯が集まっているのです。その中で、小公爵様が特定の者に対して出迎えるなど、あってはいけません!」

「……去年…はいなかったけど、毎年、迎えに出てるよ」

「今までは許されていても、今年からはお控え下さい」

「どうして? 僕のことなんて、誰も目くじらたてたりしないさ」

 

 マティアスの強硬な姿勢に、アドリアンも流石にムッとなって言い返す。

 しかしマティアスは頑として譲らなかった。

 

「小公爵様は今年から我ら近侍を持たれました。これは小公爵様を半分大人(シャイクレード)として扱うことを、公爵様が認められたからです」

 

 半分大人(シャイクレード)

 帝国貴族特有の言い回しで、文字通り成人に達してはいないものの、子供と呼ばれる年齢を過ぎたと見做される。

 品行についても子供であれば許されていたことが、ある程度の責任をとる年齢であるとされ、厳しい見方をされるようになるのだ。

 

 アドリアンは十一歳という年齢だが、近侍を自分の周囲に置くことは、命令を下せる立場であると同時に、相応の責任を課せられる。

 まさしく()()()()、ということだった。

 

「小公爵様は、公爵様同様に、家門のすべての者に対して公平であるべきです。人目のある…まして、上参訪詣(トルムレスタン)のために公爵邸にやって来た諸侯の前で、特定の人間に対して特別に振る舞うことは、いらぬ誤解を招きます」

 

 アドリアンはマティアスの言いたいことはわかったものの、やはり納得できかねた。

 建前では公平だとか言っているが、ある程度の贔屓差があるのは、誰もがわかりきっている。居並ぶ諸侯の中に、自分の味方が少ないことも。

 反論しかけたアドリアンを止めるように、オヅマが手を挙げた。

 

「マティに賛成」

 

 アドリアンは驚いてオヅマを見た。

 一方の当事者であるマティアスも含め、その場にいた全員が意外な挙手にポカンと口を開いた。

 

 オヅマは全員が呆気にとられた顔をしているのを見て、プッと吹いた。

 

「なんだよ、皆して鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」

「いや……」

 

 マティアスは何を言えばいいのかわからなかった。

 まさかオヅマが自分に同調するなど思ってもみなかった。いっそ聞き間違えかと勘繰ったが、目の前ではアドリアンがオヅマに詰め寄っていた。

 

「どうしてだよ!? 僕がヴァルナルと親しいことなんて誰でも知ってる。今更、気にしたって何も変わらないだろ!」

「今更…ね」

 

 オヅマは片頬に皮肉な笑みを浮かべて、ジロリとアドリアンを見た。

 薄紫の瞳に厳しい光が宿り、アドリアンは声を詰まらせる。

 

「お前の…小公爵さまの言動でいくつか気になることがある」

「え…?」 

「さっきもそうだった。『僕のこと()()()』とか、『()()変わらない』とか。ときどき、小公爵さまはご自分で自分自身を(おとし)める。こういうの謙譲とは言わないよな、なんて言ったっけ?」

 

 オヅマに尋ねられて、アドリアンは答えられなかった。

 この一年で自分としては大きく変化した自覚はあったものの、やはり染み込んだ卑屈な精神は、そう簡単になくならない。

 この公爵家において、目立たぬように…自分という存在を希薄にすることは、望まれたことでもあり、自ら進んで行ったことでもあった。

 忸怩として唇を噛みしめ、アドリアンは黙り込む。

 アドリアンの沈黙にマティアスは当惑しつつ、オヅマの横柄な態度がまた目についた。

 

「オヅマ、失礼だぞ。小公爵さまと話すときに腕を組むな、腕を」

 

 いつものごとく小言を言うと、オヅマはやれやれといった感じで、マティアスの横に立って、その肩をポンと叩く。

 

「ホレ、見てみろ。こんな忠義者のマティアスが、わざわざお前に反対までして、言ってんだぞ。俺は別にお前が領主 ――― じゃなくて、クランツ男爵に会いに行こうが行くまいが、どっちでもいいとは思うけど、コイツがこうまで反対するならやめておいた方がいいと思う」

 

 マティアスは言われたことを反芻してから、眉を寄せた。

 横でなれなれしく自分の肩に手を置いているオヅマをジロリと見上げて尋ねる。

 

「ちょっと待て。お前、それは結局、僕の意見を理解していない…ということじゃないのか?」

「ん? あぁ…最初の方、聞いてなかったんで」

「いいかげんな! 人の意見に賛同するなら…」

 

 マティアスがまたガミガミと説教を始める前に、アドリアンは静かに言った。

 

「わかった。……確かに、マティの言うことが正しいと思う」

「小公爵さま……ご理解いただき、ありがとうございます」

 

 マティアスは安堵の息をついて、頭を下げた。

 しかし急にしょんぼりと肩を落とすアドリアンを見て、少々気まずい様子でうつむく。

 

「オヅマ…あの、君は本当に迎えに行かなくていいの?」

 

 キャレがおずおずと尋ねると、オヅマが答えるよりも早くマティアスが怒鳴った。

 

「そうだ、オヅマ! お前は行ってこい!」

「はぁ?」

 

 オヅマはあからさまに面倒そうな顔になった。

 

「なんでわざわざ…訓練で会えるだろ?」

「必ず修練場に来られるという保証もないだろうが。来たばかりなら色々とやるべきことも多くて忙しいだろうし、そもそも、お前はクランツ男爵の息子なんだぞ! 父親の迎えくらい行って当然だ! エーリクだって行っている。我々だって家族が到着のときには出迎えるのが礼儀なんだ」

「家族…ねぇ」

 

 オヅマは自分でも実感がなかった。

 ヴァルナルと母が結婚して、自分はヴァルナルの息子として、ここにいる。それはわかっているが、『家族』と呼ぶには、まだどこかで違和感があった。

 これはオヅマだけでなく、ヴァルナルもそうなのだろう。

 マリーへの親しげで気楽な接し方に比べると、ヴァルナルはあからさまにオヅマに遠慮し、どこか持て余しているように見えた。

 迎えなんて、望んでもいないだろう。

 

 しかしマティアスはオヅマの複雑な心境については、一切頓着しなかった。

 

「いいから行ってこいッ!」

 

 尻を蹴りつける勢いで追いたてられ、オヅマは仕方なしに本館へと向かった。

 

 

***

 

 

 新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)に集まった人々の群れで、本館へと向かう廊下はごった返していた。

 オヅマがその中を縫って歩いていると、近侍服に気付いた者が物珍し気に見ては、近くにいる者を捕まえてコソコソと話したりしている。多くの者は眉を(ひそ)め、口の端に冷笑を浮かべていた。

 オヅマはますます仏頂面になって、早足で人々の間をすり抜けていく。

 ようやく馴染みのある騎士服とマントを見つけて、引き締めた顔の筋肉が緩んだ。

 

「マッケネンさん、久しぶり」

 

 マッケネンは振り返ると、まじまじとオヅマを見てからプッと吹いた。

 

「なんだ…お前……いっぱしの近侍やってるじゃないか」

 

 チャコールグレイの繊細な模様が織り込まれた生地に、グレヴィリウスの家門が胸に刺繍された近侍服は、元より怜悧で整ったオヅマの容貌によく合っていた。

 レーゲンブルトにいた頃には、ツギ当てした粗末な服を着ていた印象であるので、雲泥の差と言っていい。

 もっとも残念ながら、中身はそう変わっていないようだ。

 

「近侍なんだから当たり前だろ」

「ハハッ。違いない」

「オヅマ」

 

 マッケネンの背後から、厳しくオヅマを見ていたカールがズイと前に出てきて言った。

 

「先にヴァルナル様に挨拶しないか」

 

 オヅマは軽く息をついてから、あえて視線を外していたヴァルナルに目を向けると、深くお辞儀した。

 

「お久しぶりです、領主……いや、クランツ男爵様」

 

 言い慣れた「領主様」という言葉から変えたのは、公爵邸において『領主』という限定地域の主君を表す言葉に『様』をつけていいのは、公爵閣下唯一人であるからだ。また、他地域の領主との混同を避けるためもある。

 それでいてヴァルナル様とも呼べないのは、オヅマの微妙な距離感というべきものだった。

 

「あぁ、久しいな。オヅマ」

 

 ヴァルナルは相変わらず朗らかに言ったが、ややぎこちなかった。

 二人はそこで一旦、互いに何を言うべきかを考えあぐねているようだった。

 奇妙な沈黙が流れる。

 

「あ…ミーナは……元気にしてるぞ」

 

 ヴァルナルはとりあえず思い浮かんだ中で、オヅマが最も気にかけているだろうミーナについて触れた。

 しかし案外と、オヅマの反応は淡泊だった。

 

「あぁ、そうですか。良かったです」

「マリーも、オリヴェルも元気だ」

「あぁ。はい…知ってます」

「知ってる?」

「アドルから聞いてます」

 

 何気なく言った名前に、周辺で聞き耳を立てていた者達がザワリとする。

 オヅマが咄嗟に言い繕うよりも先に、ハハハと快活な笑い声が響いた。

 

「いやぁ、聞いていた通りだな」

 

 明るい茶髪に青い瞳の、騎士らしき男がゆっくりとこちらに歩いてくる。

 兜以外は鎧に身を包み、その胴当てに刻まれた交差した剣と戦斧(せんぷ)の紋章を見てオヅマはつぶやいた。

 

「エシル…?」

「そう。初めまして、オヅマ。エーリク・イェガの兄のイェスタフ・イェガだ。よろしくな」

 

 弾むような口調で言いながら、イェスタフは驚いているオヅマの手を掴んで持ち上げると、有無を言わさず握手してくる。拒むつもりはなかったものの、少々強引な挨拶にオヅマはたじろいだ。「どうも」と軽く返事して、早々に手を離す。

 イェスタフは特に気にする様子もなく、すぐにヴァルナルに屈託ない笑顔を向けた。

 

「久しいですねぇ、クランツ男爵。去年はおられなかったから、随分とがっかりしたんですよ。今年こそはみっちりとお相手願います」

 

 ヴァルナルも相好を崩して、親しげな様子で言った。

 

「さて、どこまで私を追い込んでくれるのか、楽しみだな。ラーケルは元気か?」

「もちろんです。兄も今年こそは一本取ると息巻いてますよ。それに、今年は弟もいますしね。ご子息から聞いているとは思いますが」

「うん?」

 

 ヴァルナルがキョトンと聞き返すと、イェスタフは悪気もなくオヅマに目線をやる。戸惑いを浮かべるヴァルナルに、オヅマは素っ気なく言った。

 

「エーリク・イェガは同じ近侍です」

「あぁ…そうか。そうだったな」

「なーんですか! 親子だってのに、かしこまっちゃって。聞いてますよ、男爵。大恋愛の末に結婚されたと。それで、奥方はもうお部屋に?」

 

 イェスタフは早口に言ってから、キョロキョロと辺りを見回す。

 周囲の貴族連中も興味深げに窺っていた。しかし彼らはヴァルナルの返事に一様に落胆した。

 

「あ…いや。その、妻は領地で息子の面倒を見る必要があるので来ていない」

「えぇー! そうなんですかぁ…」  

 

 辺り構わずイェスタフは叫び、大仰なほどに肩を落とした。

 チラとオヅマの方を見てため息をつく。

 

「公爵閣下一筋のクランツ男爵を()としたって聞いて、どんな(ひと)かと思っていたんですよ。オヅマの顔から想像するに、きっと美人だろうし…」

 

 そういう目で見られていたとわかり、オヅマはムッと顔をしかめた。

 しかしオヅマが抗議する前に、イェスタフの頭に拳骨が落ちた。

 

「この馬鹿が! 下世話な言葉を使うな!」

 

 一喝する声と、殴られた頭の痛みにイェスタフは首をすぼめると、さっきまでの大声が嘘のように小さく「すみませーん」と謝った。

 イェスタフの頭を殴った男 ――― ブルーノ・イェガ男爵はすぐにヴァルナルに頭を下げた。

 

「申し訳ない、クランツ男爵。愚息がとんだ失礼を…」

「いや。いつもながら元気なご子息でなによりだ。気にしないでくれ。言っていることは間違ってない」

「は?」

「イェスタフの言う通り、我が妻は美しいんだ」

 

 堂々と人前でのろけるヴァルナルにイェガ男爵は一旦、言葉に詰まった。目を瞬かせてから、イェスタフ同様にオヅマをチラリと見てから、ようやく頷いた。

 

「………成程」

 

 オヅマはまた眉を寄せて、イェガ男爵親子を憮然と見つめた。

 ざっと見たところ、エーリクは父親に似たようだ。胡桃色の髪と、真一文字に引き結んだ唇。あまり感情を見せることのない小さな瞳も同じだが、瞳の色は青かった。

 

「それでは、また後ほど」

 

 ブルーノ・イェガ男爵はそれ以上、何か言うべきことが見つからず、息子を引きずるようにしてその場から立ち去った。

 嵐が去った後のなんとも言えぬ奇妙な空気に、ヴァルナルは軽く咳払いしてから、(いかめ)しく言った。

 

「小公爵様に対しての言い方はもう少し考えるように」

「はい」

 

 オヅマは静かに頷く。

 目を合わせることのない二人の微妙な距離感に、カールとマッケネンは見合って互いに肩をすくめる。

 

 そのとき、またオヅマを呼ぶ声が響いた。

 

「これはこれは。久しぶりに父親に会えて、嬉しくて声も出ないようだな、オヅマ」

 

 低いながらもよく通る声は、広い廊下の隅々にまで聞こえた。

 オヅマはまったく思ってもいないことを言われ、声をかけてきた男 ――― ルーカスにあきれた視線をやった。

 

「なに言って…」

 

 否定する前に、ルーカスはオヅマの背を強めに叩いた。

 

「秋の暮にレーゲンブルトを出てから半年ぶりくらいか? 懐かしかろう? せっかくの親子の語らいに、いつまでも廊下で突っ立っていては、人目を気にしてまともに喜ぶこともできまい。たっぷりと積もる話もあろうからな。カール、諸々の手配はお前がしておけ」

 

 兄からの問答無用の命令にカールは一瞬眉をひそめたが、すぐにルーカスの意味深な目に気付いて恭しく騎士礼をして頭を下げた。

 

「かしこまりました」

「さ、行くぞ。クランツ男爵と、ご子息」

 

 わざとらしい言い方でオヅマを呼び、ルーカスは先に立って歩き出す。

 

 オヅマは不服であったが、これ以上ここにいて好奇の視線にさらされるのも嫌だった。

 仕方なく、ヴァルナルから数歩おいて後に()いていく。

 途中でチラリとヴァルナルがオヅマを見た。

 なんとなく寂しそうな顔をしているように思えて、オヅマは視界に入らないようにルーカスの背だけ見ていた。

 




次回は2023.06.04.更新予定です。


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第百三十三話 ルーカスの話

 そこはいくつかある公爵家本館の応接室の中でも、最も小さな部屋であった。

 それでも内装は簡素ながら上質な調度品で揃えられており、飾り物らしき美々しく装飾された甲冑まで飾られてあった。

 正直、オヅマが領主館で暮らしていた小屋よりも広い。

 

「さて、本題だ」

 

 女中が茶を運んできて出ていき、確実にその足音が遠のいたのを確認したあとで、ルーカスが唐突に話を切り出した。

 

「オヅマは新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)に同行させない」

「なんだって?」

 

 聞き返したのはヴァルナルだった。

 

「オヅマは小公爵様の近侍だぞ。小公爵様が帝都に行かれないということか?」

「そんなわけがないだろう」

 

 ルーカスはあっさり否定する。

 涼しい顔でお茶を口に含んでから、オヅマをジロリと見て問いかけた。

 

「何か言いたいことはあるか?」

 

 オヅマは急な話すぎて、何のことだか意味がわからなかった。ルーカスに言われたことを反芻してから、確認する。

 

「俺は帝都に行かないってことですよね?」

「そうだ」

「まさかと思いますけど、やっぱり俺に近侍は向いてないってことで、匙を投げた…とか?」

 

 若干の希望を含みながら尋ねると、ルーカスはハッと吐き捨てるように言った。

 

「今更なにを…。お前みたいな態度もデカけりゃ、口も立つ、こまっしゃくれの子供(ガキ)が近侍に適さないことぐらい、最初からわかってるよ」

 

 だったらどうして近侍なんかにしたんだ! ―――― と言いたかったが、今はその事について文句を言うべき状況ではない。

 オヅマはしばし考えてから、また別の可能性について尋ねた。

 

「じゃあ皆が帝都に行っている間、俺はレーゲンブルトに戻っておくんですか?」

「そんな訳あるか」

 

 ルーカスはあきれたように言ってカップを皿に置くと、オヅマに命令した。

 

「お前は我らが帝都に行っている間に、ズァーデンに行ってもらう」

「ズァーデン?」

「それは…」

 

 ヴァルナルはいち早くルーカスの意図を察した。「師匠のところにか?」

 

「師匠?」

 

 オヅマが首をかしげると、ヴァルナルは頷いた。

 

「私の師匠がおられるところだ。そこで私も『澄眼(ちょうがん )』を習得するための、特別な訓練を受けた」

 

 オヅマはにわかに胸がざわめいた。ヴァルナルが使う稀能(きのう)『澄眼』を指導した師匠のところへ行け、ということは――――

 

「俺に稀能の修行をしに行けってことですか?」

「嫌か?」

 

 ルーカスの問いにオヅマは即答する。

 

「まさか! 行かせてもらえるなら、今からでも」

「ハッ! いい返事だ。じゃ、今日にでも紹介状を書いてやろう。その間に準備を整えておけ」

 

 ルーカスはオヅマの気持ち良い返事に上機嫌で言ったが、ヴァルナルは顔色を変えた。

 

「ちょっと待て。本気で言ってるのか?」

「あぁ、そうだが?」

 

 ルーカスがさも当然とばかりに首を傾げると、ヴァルナルは怒鳴った。

 

「まだ早い!」

「はぁ?」

「オヅマはまだ十二歳だぞ! 早すぎる」

「来年には十三です」

 

 オヅマがムッとして言うと、ヴァルナルも負けじと声を張り上げる。

 

「当たり前だろうが! 新年には私だって三十七だ」

「へぇ? お前、もう三十七なのか。年とったな~」

 

 ルーカスが感心したふうを装って混ぜっ返すと、ヴァルナルはキッと睨みつけた。

 

「話を逸らすな、ルーカス! 修行なんて早すぎだ。まだ十二歳だっていうのに」

「そんなこともないだろ。お前の修行の方が遅かったくらいだ。最も成長の著しい時期……お前、コイツがここに来てどれだけ背が伸びたと思う? この前支給された訓練着も早々に仕立て直さないといけなかったくらいなんだぞ。今は適齢期なんだよ、むしろ。俺のひいじいさんもこれくらいの年齢が一番素直に吸収するって、覚書に書いてたぞ」

 

 ルーカスの曽祖父であるディシアス・ベントソンは、当時のグレヴィリウス公爵であったベルンハルドの腹心の部下だった。ルーカスの前に『真の騎士』の称号を与えられ、それは名誉だけのものではなく、実際に二つの稀能を使いこなしたという剛の者でもあった。

 ヴァルナルは既に故人とはいえ、偉大なる先達の言葉を無下にする訳にもいかず、俯いてなんとか反駁の言葉を探した。

 

 その間にルーカスはのんびり茶を飲みながら、オヅマに尋ねる。

 

「さっきはああ言ったが、本当に今日出発せんでもいいんだぞ。ヴァルナルと積もる話もあるだろうし、騎士団の奴らとも久々に会いたいだろう」

「それは…」

 

 オヅマはチラリとヴァルナルを見てから、きっぱり言った。

 

「レーゲンブルトのことなら、アド…小公爵さまから聞いてるんで、たいがい知ってます。それに行くのがわかってるのに、じっとしている方が落ち着かない」

「まぁ…お前、どうせこうなったら、まともに座学の授業なんて受けていられないだろうなぁ」

「そうですよ。このあとに眠い歴史の授業なんて受けてたら、途中で嫌になって、そのまま出て行くと思います。今日は暖かいし、『旅立ちには吉日』ってこういう日のこというんでしょ?」

 

 古典の詩の一節を持ち出したオヅマに、ルーカスはニヤリと笑った。 

 

「イシネラーヴルの詩か。一応、ちゃんと勉強してるんだな」

「そうだ!」

 

 急に叫んだのはヴァルナルだった。

 

「十二の子供に一人旅なんて危ないだろう!」

 

 どうやら『旅立ち』という言葉で、思いついたらしい。

 ようやくヴァルナルがひねくりだした言葉に、ルーカスはまたあきれたように首を軽く振った。

 

「お前ねぇ…公爵領地内で、公爵家の人間に手を出すような馬鹿がいると思うのか? だいたい、そう簡単にやられるようなガキかよ、コイツが」

 

 ルーカスがクイと顎をオヅマに向ける。

 

 ヴァルナルはオヅマを見た。

 さっきまではあからさまに目線を逸らしていたのに、今は真っ直ぐに自分を見つめている。

 ミーナと同じ薄紫の瞳は真剣で、必死だった。

 

 ヴァルナルは嘆息した。

 どうしてよりによって、息子になったオヅマからの最初の()()()()がコレなんだ…?

 

「言っておくが…師匠は容赦ないぞ」

 

 ヴァルナルは多少、怖がらせようと思って言ってはみたものの、オヅマはまったく動じていなかった。むしろ、その言葉を肯定と捉えたようだ。

 

「はい! 頑張ります! じゃあ、早速準備します」

 

 嬉しそうに言って立ち上がる。

 ヴァルナルは久々にオヅマの笑顔を見た気がした。ミーナとのことがあってから、オヅマとはどこか一歩置いた距離感になっていて、こんな嬉しそうに素直に笑いかけられるのは久々な気がする。

 

「あ、そうだ。小公爵様に一応、ちゃんと報告しておくようにな」

 

 ルーカスに言われて、オヅマの脳裏にアドリアンの顔が浮かぶと同時に、元々ヴァルナルに会いに来た用事を思い出す。

 

「あっ、そうだった。あの領主…じゃなくて、男爵様。アドル…じゃなくて小公爵さまが、是非にも稽古をつけてほしいと仰言(おっしゃ)ってました」

「あぁ…わかった」

 

 ヴァルナルは頷いた。

 内心では、いまだに自分の呼称が家族としてのものではなく、身分上の敬称になっているオヅマに少々複雑な気持ちを抱いたが、まだ親子となって一年も経っていないのだ。それまで騎士見習いと、領主という関係だったのだから、無理もない。

 

「明日の修練で伺うと申し伝えてくれ」

「はい。では、失礼します」

 

 ピシリと騎士礼をとって辞儀すると、オヅマは弾むような足取りで部屋を出て行った。

 

 

***

 

 

「さて…」

 

 ルーカスは茶をすべて飲み干してから、おもむろに胸ポケットから手紙を取り出した。

 

「レティエからだ」

 

 ヴァルナルは一気に緊張した面持ちになり、手紙を受け取ると一息ついてから読み始める。

 読み進めながら、どんどんと渋い顔になっていき、読み終わったときにはハァと深い溜息をついた。

 

 ルーカスは苦笑した。

 ヴァルナルの今の気持ちはわかる。

 

 ルーカスの二番目の妻であり、訴訟代理人として活躍するレティエ・フランセン。

 彼女に手紙を送ったのは、レーゲンブルトにおいてオヅマが大公の息子であり、今後、大公がオヅマの父親であることを主張してくることを危惧された為に、何かしらの手立てを講じる必要が生じたからだった。

 

 たまに帝都にいるときには、ルーカスからのちょっとした食事の誘いであっても無視か丁重に断ってくる元妻であったが、仕事に関連するような事となると、返事は早かった。

 当然ながら、詳しいことは伝えず、あくまで知り合いの話として、登場人物については曖昧なままに相談したものだったが、レティエは真摯に答えてくれた。

 

 曰く。

 

「『既成事実を確固たるものにする。』これがなんだかんだで一番効果があるようだ」

 

 ルーカスが言うと、ヴァルナルは力なくつぶやいた。

 

「あぁ。最低でも一年は親子としての関係を強固に…ということだが……」

 

 帝国においては、子供の養育権は父親にある ―――ということは前にも書いたが、養父と実父が子を巡って対立した場合においては、実父の権利が先に擁護される。(無論、双方合意した養子縁組の場合は、実父は権利を養父側に譲渡したと見做されるので、この限りにない)

 

 そのため、現状においてはオヅマの実父たる大公・ランヴァルトが、もしオヅマのことを知って、引き取りたいと言ってきた場合、ヴァルナルに抵抗する手段はないに等しい。

 しかし、たとえ法の規定があったとしても、解釈や情状酌量という余地によって当事者の利益を最大限に考慮する…というのは、円滑な社会環境のためには必須のことだ。

 ましてそれが単純な利益関係ではない、親子や夫婦といった情愛の絡むものであれば尚の事、杓子定規に法に則って解決されるものでもない。

 

 ヴァルナルとオヅマの場合、必要とされるのは、親子関係という『事実』を積み上げることだった。

 ヴァルナルとオヅマの親子間の絆がより強くなれば、血の繋がりのない間柄であっても、おいそれと実父の権限だけを主張できない。

 まして実父側が自らの子に対して、何らの庇護も与えてこなかったとなれば、養父側における扶育実績も鑑みて、交渉できる余地は十分にあるとのことだった。

 

「なかなか厳しいところを突いてくる…」

 

 自嘲気味に言うヴァルナルに、ルーカスは首をかしげた。

 

「なにか問題か?」

「さっきのオヅマの態度を見たろう? いまだに『領主様』『男爵様』なんだぞ」

「ハハッ! そりゃあ、仕方ない。つい先ごろまでは、お前は奴にとって領主様で、奴は見習い騎士だったんだからな」

「わかってるさ…そう簡単でないことは。しかし、こんな状態ではとても親子関係とは言えない。まして今は一緒に暮らしてもいないんだからな。この上、今回の帝都への訪詣(ほうけい)もオヅマが同行しないとなれば、疎遠になるばかりだ」

 

 弱気に言うヴァルナルを、ルーカスは一笑に付した。

 

「ふん。貴族の親子で一緒に暮らしているかどうかなんぞ、大した意味もないさ。公爵閣下と小公爵様とて、同じ敷地内にいるってだけで、館は別だし食事も一緒にとらんだろうが。帝都でお役目付きの貴族などは、領地に家族を残して一年の半分は会えないんだぞ。子供に顔を忘れられたと嘆いている者もいるくらいだ」

「彼らは血がつながっているだろう…」

 

 ボソリと低く、ヴァルナルはつぶやいた。

 結局のところ、ヴァルナルのオヅマに対する遠慮はそこにつきる。

 

 ルーカスはやれやれ…と、あきれたため息をつくと、強い口調で言った。

 

「お前、レティエの手紙をしっかり読め! 大事なのは、親に親としての自覚があって、子に子としての自覚があるのか…ってことだ。親であるお前の方は問題ないよな? じゃ、オヅマはどうだ? お前の息子として行動しているか、否か?」

 

 厳しい問いを突きつけられて、ヴァルナルは眉を寄せて考え込んだ。

 

「自覚……あるのか?」

 

 断定できず、聞き返すヴァルナルに、ルーカスは嘆息した。

 戦場であれば、相手方の思惑にいち早く気付いて、臨機応変に対処するというのに、どうして私的なこととなると、こう鈍感極まりないのだろう? 

 

「ハッ! まったく…わからん奴だな。自覚がなかったら、とうの昔にあの坊やはこんな堅苦しい場所からトンズラしてただろうよ。さっきの態度を見たろうが。華やかなりし水の都よりも、厳しいお師匠さんの待ってる田舎に修行に行く方がいいなんて…よっぽどここでの生活に辟易してるんだろうさ」

 

 ヴァルナルの顔がまた苦渋を帯びる。

 小公爵様のためとはいえ、オヅマには近侍なんて役目は窮屈この上ないのだろう。最初は当人も無理だと言っていたのだから。

 しかし、結局オヅマはここに来ることを選んでくれた。

 あのとき、本当は求めていないことを、彼に強いてしまったのではなかろうか…?

 

 いちいち悩みがちな友に、ルーカスは発破をかけるように言った。

 

「いいか、ヴァルナル。お前が思う以上に、アイツは冷静だし頭も回る。どれくらいまでが許容範囲か考えた上で、まぁ……そこそこにかき回してくれているが、今のところルンビックの爺様も、公爵閣下でさえも、追い出さずにいるんだ。っとに、そういう周到なところはさすがというしかないな」

 

 言ってからルーカスはしまったと口をつぐむ。

 しかし遅かった。

 案の定、ヴァルナルは一層暗い顔になって押し黙ってしまった。

 生来のものと思われるオヅマの素養に、実父である大公の影を感じずにはいられない。…

 

 ルーカスは何度目かになる長い溜息をついたあとに立ち上がった。

 ゆっくりした足取りで窓へと向かい開けると、キィン、キィンと騎士たちが修練場で剣術稽古をする音が聞こえてくる。

 ルーカスは腕を組んで、騎士らの訓練風景を眺めながら、勿体ぶって切り出した。

 

「正直、言わんつもりだったんだがなぁ…仕方ない。特別に教えてやろう。あの坊やはな、レーゲンブルトが好きなんだと」

「へ?」

 

 急に思いもかけないことを言われて、ヴァルナルはキョトンとなった。

 

 ルーカスは驚いた様子のヴァルナルを見て目を細めた。

 窓辺から、またゆっくりとヴァルナルの方へ歩きながら話を続ける。

 

「俺も当人から直接聞いたわけじゃない。騎士連中だったり、他の近侍相手に言っていたのを聞きかじったり、又聞きした内容を総合的に判断するに、だ。レーゲンブルト騎士団の一員として過ごしてきたことは、奴の誇りなんだ。騎士団は自分にとって家族同然なんだとさ。だから、ここにはレーゲンブルトを代表して来ている、っていう自覚はあるようだぞ」

 

 ヴァルナルはパチパチと目を(しばた)かせた。

 オヅマにとってレーゲンブルト騎士団が、大切な存在であってくれるのは素直に嬉しい。だが…そこにヴァルナル個人は含まれているのだろうか?……

 

 ルーカスはまだ弱気な友の肩にぽんと手を置いた。

 

「わかっているか? ヴァルナル。レーゲンブルト騎士団は、お前が一から作り上げたんだぞ」

「………」

「あいつは()()()()()()、『レーゲンブルトが好きだ』と言っているんだ。つまり、ひねくれ者なりに、お前を尊敬しているし、お前の息子としての立場を理解している、ってことさ」

 

 ヴァルナルはルーカスの言葉をゆっくりと反芻し、徐々に顔をほころばせた。ほのかな自信がじんわりと胸を熱くする。

 

 わかりやすく喜んでいる友の姿を見て、ルーカスは軽く首を振った。

 

 ルーカスからするとヴァルナルの悩みは今回の件において、あまり重要な項目ではなかった。心の中のことなど、他人にはわかりようもないし、本人だってたまにわからなくなるくらい不確かなものだ。

 それに正直、取り越し苦労に近かった。

 ルーカスから見れば、オヅマもヴァルナルも、十分に親子として認め合っている。それでもぎこちないのは、互いに遠慮しあって足踏みしているせいだろう。

 はたから見てわかりやすいくらいだったが、ルーカスに口を挟む気はなかった。そちらについては、親子で勝手に解消してもらおう。

 

 現状、彼らに必要とされるのは、心の絆より ――――

 

「お前がミーナ殿と結婚した以上、オヅマはお前の息子になったし、法的にも親子と認められている状態だ。あとはこの()()を、より強固にしていくだけだが、一番わかりやすいのは時間だ。親子という関係性が継続した時間そのものが『既成事実』になる。そのために最低でも一年は必要ってことだ」

「だから、オヅマを帝都に行かせないと?」

「そうだ。まだ大公側(あちら)にオヅマの存在を知られるわけにはいかない。小公爵様の近侍であれば、皇家(こうけ)の園遊会に参加もするだろうからな。下手に鉢合わせでもして、疑われたら面倒なんだよ」

 

 実際に出会う可能性は低いものの、何が起きるかはわからない。以前にシモン公子とアドリアンが広い皇宮の庭で出会って、騒動になったこともある。

 

「それはわかったが、なんだって師匠のところに…」

「それも色々と考えた結果な、まず一つにはお前らの親子関係に、()()意味を持たせるという効果もある。お前と同じ稀能(きのう)を修得したとなれば、親子間での継承として、目を引くことだろう」

 

 稀能は遺伝による承継はない。であればこそ、血の繋がりをもたないオヅマとヴァルナルにとって、同じ技を使うことが、いわば一つの絆として親子関係を補強するものとなる。

 だがルーカスの意図するのはそればかりでない。

 

「結局のところ今は大公殿下にオヅマを指導してもらうわけにもいかんだろう? それでさっきの俺のひいじいさんの覚書の話になるんだが、稀能ってのは大元は繋がりがあるようなんだよな。己の感覚を集中的に研ぎ澄ませることで、常人には不可能と思える技を為す、っていう。その感覚を集中させる方法は色々とあるみたいだが、多くは呼吸によって整える……って書いてたんだが、合ってるか?」

「あぁ、まぁ…そうだな」

 

 ヴァルナルは頷いた。

 呼吸による精神集中が一番とっかかりやすいというのもあって、多くの稀能における最初の修養は、己の呼吸を自在に操れるようにすることから始まる。もっとも、実のところはこれが一番の難関で、これさえできればその後の技の習得自体はさほどに難しいものではない。

 多くの騎士や戦士、修道者は稀能を体得しようとするが、たいがいがこの呼吸の修練で脱落する。理由は簡単で、地味な上に、体得できるまでに時間がかかるからだ。

 

「だとすれば、オヅマもその呼吸の整え方ってのを習得しておけば、今後、自分で修練を積むとしても有用だろう。それにそういう理由じゃないと、小公爵様も納得しないだろうしな。本当の意図をお話しするわけにもいかぬし」

「それはそうだな…」

 

 ルーカスの言う通り、オヅマから帝都へ同行できないことを聞いたアドリアンは、血相を変えた。

 

 

 




次回は2023.06.11.更新予定です。


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第百三十四話 北宸宮の花

「なんだって!?」

 

 ルティルム語の授業が終わり、次の授業までの間、勉強室で読書をしていたアドリアンは、ようやく戻ってきたオヅマの言葉に目を剥いた。

 

「それはつまり、新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)の同行禁止ということなのか?」

 

 次の授業の予習をしていたマティアスは立ち上がり、オヅマの方に寄ってきて、強張った顔で尋ね返す。

 オヅマが頷くと、テリィがそれ見たことかとばかりに言った。

 

「やっぱり。そんなことになるんじゃないかと思ったよ」

 

 キャレはにわかに張り詰めた雰囲気に身を竦ませた。

 いつもは温厚なアドリアンが厳しい顔になっている…。 

 

「誰がそんなことを決めたんだ!?」

 

 アドリアンが怒鳴りつけるように問うと、オヅマは平然と答えた。

 

「ルーカスのおっさん」

「ベントソン卿が? どうして…」

 

 公爵邸において、自分を次期公爵として扱ってくれるルーカス・ベントソンは、アドリアンにとってヴァルナルと並んで信頼できる大人だ。そもそもオヅマをアドリアンの近侍として推挙したのも彼であるのに、なぜオヅマに新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)を禁じるなどと言い出したのか…?

 

 そのアドリアンの問いに答えるかのように、マティアスがつぶやいた。

 

「やはり、さすがにベントソン卿も、お前の行いを危惧されたということか……」

「どういうこと?」

 

 アドリアンが鋭く問うと、マティアスはビクリと身を震わせたものの、コホンと咳払いしてから、鹿爪らしい顔で述べた。

 

「それは、オヅマの日頃の行動を思い返せば小公爵さまとて理解できると思います。今とても…」

 

 言いながらマティアスは横目でオヅマをジロリと睨みつける。

 椅子に大股で跨がり、反対向き ―― 背もたれに腹をあてて座るなど、無作法極まりない。しかしオヅマはマティアスの非難をこめた眼差しも、どこ吹く風とばかりに無視していた。

 マティアスは苦虫を噛み潰し、やや大きな声で続けた。

 

「…多少は礼儀作法を身につけたとはいえ、小公爵さまに対する気安い態度、先の公爵閣下への謁見においても無礼があったのは覚えておられましょう? 帝都においては、今よりも厳しい目にさらされるのです。オヅマの不用意な行動で、小公爵さまに迷惑がかかっては一大事、と……ベントソン卿も考えられたのでしょう」

 

 テリィもうんうん、と頷いて続ける。

 

「あちらに行けば、グレヴィリウス家門だけでなく、多くの貴族が集まるのだものね。下手したら皇帝陛下にだって、拝謁するかもしれないのだから」

「そんな、(おそ)れ多い……」 

 

 キャレは皇帝陛下という言葉そのものにすらも恐懼して声が震えた。

 しかしマティアスは重々しく首肯(しゅこう)する。

 

「確かに。小公爵さまは皇家(こうけ)主催の園遊会などにも招かれるだろう。そのときには、我らも付き(したが)うことになる。畏れ多くも皇家の方に対して、万が一にもご不興を買うようなことがあれば……」

「あれば…?」

 

 キャレが怖々と尋ねると、テリィが手刀をつくって自分の首を斬る素振りをする。キャレは真っ青になった。

 

 アドリアンは近侍たちのやり取りをジリジリした怒りを持って見ていたが、ふとオヅマが何も言わずにいることに気付く。見れば、ニヤニヤと笑っている。

 いつものオヅマであれば、テリィにもマティアスにも一言二言は言い返しているはずだ。

 

「オヅマ! なにを笑ってるんだ」

 

 アドリアンが怒鳴りつけると、オヅマは椅子の背もたれに顎をのせて、彼らのやり取りを面白そうに眺めていたのだが、うーんと背伸びした。

 

「いやいや、確かに言われてみれば…と思ってさ」

「なにを他人事みたいに…もういい!」

 

 アドリアンは憤然として立ち上がると、ドアへと歩いて行こうとして、オヅマに腕を掴まれた。

 

「離せ! ベントソン卿に抗議しに行く!!」

「いや、待てって。冗談冗談」

 

 オヅマは立ち上がると、落ち着かせるようにアドリアンの肩を叩いた。

 

「冗談?」

「いや…帝都に行かないってのは本当なんだけど。理由は俺の素行云々じゃねぇんだ」

 

 言い聞かせながら、オヅマはアドリアンを再び椅子に座らせる。

 

「どういうことだ?」

 

 マティアスが怪訝そうに問うと、オヅマは自慢げに言い放った。

 

「修行だ」

「修行?」

 

 キャレが問い返す。「修行って……あの、剣士とかが山に籠もったりするやつですか?」

 

 幼い頃に読んだ絵物語を思い出して尋ねると、テリィが一笑に付した。

 

「馬鹿じゃないの。いつの時代の話だよ。今どき、そんな時代錯誤なことしてる人間がいるもんか」

「まぁ…山に籠もるかどうかは知らねぇけど……」

 

 オヅマは薄っすらとした笑みを浮かべてテリィを見ると、スゥと息を吸い込んだ。

 テリィは瞬時にいつか味わった恐怖感を思い出し、一歩後に退がったが、そのときにはオヅマはやはりもう目の前に来ていた。避ける間もなく、バチン! と思いっきりおでこをはじかれ、目に火花が飛ぶ。

 うぅーっと呻きながら、テリィはおでこを押さえて丸く縮こまった。

 

 キャレはまたもグズグズと泣き始めたテリィを白い目で見た。

 いつもながらというか、どうしてこの人は無自覚に人を怒らせるのだろうか?

 自慢げに「修行だ」と言ったオヅマの態度を見ていれば、その『修行』を馬鹿にするようなことを言えば、不快に思われることなどわかりそうなものなのに。

 

『泣き虫テリィ』に辟易している近侍たちは、誰も彼を慰めようとしない。

 アドリアンもチラと見ただけで、すぐにオヅマに問うた。

 

「修行? もしかして…稀能(きのう)の?」

 

 オヅマはニカッと笑った。

 

「そう! 領主様の師匠のところに行けってさ!」

 

 アドリアンはあまりに嬉しそうなオヅマの様子に、何も言えなくなった。もちろん、話が急すぎて、考えが追いつかなかったのもある。

 

「キ…ノウ、というのは…なんですか?」

 

 キャレが尋ねると、オヅマは鼻白んだように言った。

 

「なんだよ、キャレ。お前、ファルミナの騎士団で多少は訓練を受けてただろうに、稀能のことも知らないのか?」

「えっ、あっ…す、すみません」

 

 キャレはあわてて謝ったが、アドリアンがとりなすように言った。

 

「仕方ないよ。稀能を持った騎士なんて、そうはいない。グレヴィリウスの家門の中でも、稀能をもった騎士なんて、ヴァルナルだけなんだから」

「へ? そうなの?」

 

 驚いたオヅマに、マティアスが付け加える。

 

「正直、テリィの言ではないが、今じゃおとぎ話に近い話だ。私も実際にその技を見たこともないし、本当にあるのかどうか疑わしく思っていたが…お前がそんなことを言うからには、クランツ男爵の稀能というのは、本当らしいな」

「当たり前だろ! どれだけ凄いか……カールさんの千本突きだって、蝶が舞ってるみたいに見えるらしいんだからな! 今度見せてもらえ!!」

 

 興奮したように言うオヅマを、今度はアドリアンが落ち着かせた。

 

「まぁまぁ、それはともかく。じゃあ、君はヴァルナルのお師匠様のところに、稀能の修行のために行くから、帝都には行かないということか?」

「そ! じゃ、そういうことで!」

 

 オヅマがそのままご機嫌に出て行こうとするので、アドリアンはあわてて腕を掴んだ。

 

「ちょっと待て! いつ行くっていうんだ!?」

「さぁ? おっさんから紹介状もらったら、すぐにでも出ようかと思ってるけど」

「すぐ…って、まさか今日!?」

「善は急げって言うからな~」

「修行に行くことが()()ことなのか、お前には…」

 

 マティアスがややあきれたようにボソリとつぶやく。

 キャレも内心で頷いた。騎士の訓練でも厳しくて音を上げそうになるのに、それよりも厳しそうな修行なんて、嬉々として行くオヅマの心境が理解できない。

 

 しかしオヅマはむしろそんなマティアスらを見下すように言った。

 

「どうとでもいえ。俺は帝都になんか、これっぽっちも行きたいと思わないんでね。あんな汚ねぇ川ばっかの湿気た街、黴が生えそうだ」

「………え…?」

 

 アドリアンはにわかに生じた違和感に、微かに声を上げる。

 しかし小さな声はかき消された。ようやく泣くのをやめたテリィが立ち上がって、憤然と抗議していた。

 

「それって貧民街の話だろう? 貴族の居住区は綺麗に整備されて、川だって定期的に掃除されているさ」

 

 しかしオヅマはフンと鼻で笑うと、傲然と言い放った。

 

「あぁ、そうだよな。掃除するたびに、沈められた白骨死体も出てきてちょっとした騒ぎになるんだろ? ましてヤーヴェ湖の底には数万と骨が積み上がってるんだろうぜ。毎夜毎夜亡霊が湖から這い上がってくるから、北宸宮(ほくしんきゅう)魔除けの花(シファルデリ)で囲われて、プンプン甘い匂いが鼻につく」

「…………」

 

 アドリアンも近侍たちも、そのとき何も言えなかった。

 彼らが作り出した沈黙は、それぞれに意味が違っていた。

 マティアスを始めとする近侍たちは、オヅマの話の後半の内容がよくわからなくて、意味を掴みかねてキョトンとしているだけだったが、アドリアンは一人、混乱していた。

 先程から自分の認識とオヅマの言葉に奇妙な齟齬を感じて、どう言うべきなのかを迷っている間に、サビエルが教師の来訪を伝えに来る。

 

「じゃ、俺、準備があるから行くわ。先生らに伝えておいてくれ。あ、それとクランツ男爵は明日の修練に来てくれるってさ」

 

 オヅマは早口に言うと、逃げ出す勢いで出て行った。

 アドリアンが声をかける暇もない。

 まるで嵐が去ったあとのような空白の沈黙がしばし続いたあと、マティアスがコホリと咳払いした。

 

「まったく。授業を受けたくないから、今日すぐに出るなどと言ったのではないのか、あいつ…」

 

 鹿爪らしい顔で小言を言いながら、手早く用意してあった本を抱え、隣の講義室へと向かっていく。テリィも同調しながら続いた。

 アドリアンはのろのろと準備しながら考えていた。

 

 オヅマは帝都に行ったことはない ―――― はずだ。

 それは当人から確かに聞いた。

 生まれてこの方、一度も行ったことなんてない。行きたいとも思わない、とも。

 でも、だとすればなぜ、知っているんだろうか?

 

 帝都は運河だらけの街で、確かに貧民街と呼ばれるような一部集落においては、夏ともなれば川の水がひどい臭気を放ち、疫病もはびこる。黴臭い、せせこましい街なのだ。

 貴族の居住地では、そのようなことのないように定期的に川浚いが行われる。

 その時に白骨死体が出るというのも、実際にある話だ。

 それに何より……

 

「小公爵さま?」

 

 考え込んでいるアドリアンに、おずおずと声をかけたのはキャレだった。

 アドリアンはハッと我に返った。

 

「あ、ごめん」

「いえ。考え事をされているのに、邪魔をしてすみません」

「いや…いいんだ」

 

 言ってから、アドリアンはキャレに尋ねた。

 

「キャレ、さっきのオヅマの話だけど…おかしいと思わなかった?」

「え? あ…すみません。ちょっと内容がよく…私には…理解できなくて」

「いや、オヅマは帝都に行ったことなんかないはずなんだよ。それなのに、帝都のことをよく知ってるみたいに言ってなかったか?」

「それは……」

 

 キャレはオリーブグリーンの瞳を落ち着きなく動かし、必死で考えながら答えた。

 

「帝都に行ったことのある騎士などから、聞いたりしたのではないですか? 私も、帝都に行ったことはありませんが、水の都と呼ばれるところですし、あちこちに運河があるって、聞いてます。皇宮にも確か舟で行くことができるのだと聞いたことがあるのですが…」

「あぁ…うん」

 

 アドリアンは少しだけ落胆する。

 自分の違和感を共有する人は近侍の中にいないようだ。準備をして講義室に向かい、授業を受けながらも、まだアドリアンは考えていた。

 

 北宸宮(ほくしんきゅう) ―――― それは広大な皇宮の中にある、皇帝一家の住まう場所だ。

 ここは皇帝一家の完全に私的な領域で、皇宮の中でも、もっとも厳重に警備されている。それこそ宰相であろうとおいそれと入れる場所ではない。当然ながら、公爵家の騎士団の一騎士などが立ち入れるはずもない。

 皇帝陛下の覚えめでたいヴァルナルであっても、さすがにここに呼ばれたことはないだろう。あったとしても、北宸宮でのことは他言無用が不文律で、真面目なヴァルナルであれば、行ったことすら誰にも話さないはずだ。

 それに北宸宮という呼び方自体、あまり一般的に知られているものではないから、キャレが理解できなくても当然だ。きっと反応を見るに、マティアスとテリィも似たような感想だったのだろう。

 

 なのに、オヅマは確かに言った。

「北宸宮」と。

 当たり前のように。

 しかも…

 

 ――――― 北宸宮は魔除けの花(シファルデリ)で囲われて、プンプン甘い匂いが鼻につく…

 

 北宸宮の中は、皇帝の寝居である主宮、(きさき)たちの住まう後宮、皇太子の居住する皇太子宮がある。

 アドリアンは前に一度だけ、皇太子宮に行ったことがあった。

 まだ、(さき)の皇太子であったシェルヴェステル殿下が生きておられた頃だ。

 オヅマの言う通り、確かに宮殿の周囲には、シファルデリという花が甘ったるい匂いを漂わせていた。

 

 長く伸びた白の花蕊(かずい)、ヒラヒラとなよやかに風に揺れる純白の花びら。

『魔除け』というには儚げな印象の花だったが、一斉に咲くと夜には仄かに光るのだと言っていた。そのため、闇夜を守る光りの花として、魔物を退けると伝えられるようになったのだろう…と。

 アドリアンは後にも先にも、北宸宮でしかシファルデリを見たことがない。

 

 

 ――――― どうしてこのお花をいっぱい植えているのですか?

 

 

 アドリアンが尋ねると、皇太子殿下(シェルヴェステル)悪戯(いたずら)っぽく微笑みながら、小さな声で言った。

 

 

 ――――― 内緒だよ、アドリアン。北宸宮にはね、()()()()()()()()が大勢いらっしゃるんだ。いちいち相手しているのも大変だから、この花を渡してお帰りいただくんだよ……

 

 

 あのときは意味がわからなくて、そのままにしていた。

 今さっき、オヅマに言われたときに思い出し、同時にようやく理解したのだ。

 過去からのお客様 ――― それはつまり死んだ亡霊のことを指していたのではないか…?

 

 一つの疑問の解消は、新たな疑問を生じさせる。

 いったいどうして、オヅマはそんなことを知っているのだろう?

 

「…………」

 

 アドリアンは黙念と考え込み、教師からの問いかけも耳に入らなかった。

 

 





次回は2023.06.18.更新予定です。


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第百三十五話 親の心、子の心

 準備をしていたオヅマが、再びルーカスに呼ばれたのは昼過ぎだった。

 

「よう、準備はできたか?」

 

 ルーカスは内心で、まさか朝に言ったことを昼までに済ませることなどできまいと高をくくっていたらしい。オヅマがほぼ準備を終了したと伝えると、自分で聞いておいて、目を丸くした。

 

「へ? お前、本当に準備終わったの?」

「当然でしょう。騎士であれば、戦場でもすぐに身支度できるようにと、訓練を受けるじゃないですか」

「まぁ、そうだが…」

 

 ルーカスは頷きながら、少しばかりヴァルナルが気の毒になった。良くも悪くも、有能な息子を持つと父親は寂しい思いをするらしい。これはヴァルナルだけのことでなく、ルーカスの実感でもあったのだが、今は感傷に浸る暇はない。

 

「ま、いいや。じゃ、一応これ持ってけ」

 

 机の上に置かれた二通の書状を指し示すと、オヅマは二つを手にとってまじまじと眺めた。

 

「一通が俺からの紹介状で、一通がヴァルナルからの親書だ」

 

 二通の書状の宛名は空白で、紹介状にはルーカスの署名、親書にはヴァルナルの署名があるだけだ。

 

「はい。あのー、で、そのお師匠さまのお名前は?」

 

 オヅマが尋ねると、ルーカスはニヤリと癖のある笑みを浮かべた。

 

「知りたいか?」

「知りたいか…って、知らないと向こうに行って、誰を訪ねればいいのかわからないでしょうが」

「そうだよな」

 

 ルーカスは言ってから、ため息をついて椅子に凭れこんだ。

 

「それについては、同行するマッケネン卿に頼んである」

「はぁ?」

「恨むなよ。それがお前の()()との取引なんでな。十二歳の()()()息子を送り出す()()としては、せめて無事に向こうに辿り着くように…そこは確約しろとうるさくてな」

 

 オヅマはルーカスの言葉の中にある、いくつかの違和感と、ヴァルナルの過保護な干渉に、一気に渋面になった。

 

「……一人で行けます」

「決定事項だ」

 

 ルーカスはにべなく言った。オヅマにとっては鬱陶しいことだろうが、今回の急な決定について、このあたりがヴァルナルの譲歩の限界であったのだろう。

 

「ま、いいじゃないか。ヴァルナル本人が行くとは言わなかっただけ。お前の()()()につき合ってくれたんだと思え」

 

 ルーカスの軽い揶揄(やゆ)に、オヅマの眉がピクリと上がる。

 

「なんか俺が我儘言ってるみたいに聞こえるんですけど、余計な迷惑をかけたくないから言ってるんです。レーゲンブルトからここに来るまででも、いくら黒角馬(くろつのうま)だったとはいえ、強行軍だったんでしょうから」

 

 理路整然とオヅマが反論すると、ルーカスはすぐに謝罪した。

 

「おぉ、すまんすまん。そうだな。お前は()()()()()()()()()()だものな。()()()()()につき合ってやるくらいの度量はあるだろ?」

「…………」

 

 屁理屈において、ルーカスに勝る人間を見たことがない。オヅマは抗議するだけ無駄だと悟った。

 

 その後、旅装に着替えて西門の前に向かうと、マッケネンとヴァルナルが待っていた。まだ少し心配そうなヴァルナルに、オヅマは軽く吐息をついた。

 

「大丈夫だって言ってるのに…」

「わかっているが、なにかあってからでは遅い。ミーナが知ったら、同じように心配するだろうし。あぁ、ミーナからお前に、ことづかっているものがある」

 

 そう言ってヴァルナルは、若草色の細長い包みを渡してきた。

 オヅマは受け取りながら、なんとなく中身の想像ができて顔をしかめた。

 

「これのこと、なにか聞きましたか?」

 

 オヅマの問いにヴァルナルはキョトンとして首を振った。

 

「いや。お前が持っておいたほうがいいだろうと…自分にはもう必要ないと言っていた」

 

 オヅマは黙って、しばらくの間その包みを見ていたが、無造作に背嚢(はいのう)に突っ込んだ。

 用意されていた黒角馬(くろつのうま)に乗ってから、ハッと思い出す。

 

「そういえば、この馬、有難うございます」

 

 その馬は、オヅマがアールリンデンに来てしばらくしてから、ヴァルナルから送られてきたものだった。オヅマがずっと飼育して、調教もしてきた黒角馬で、ヴァルナルの騎乗馬であるシェンスの子供だ。

 

 ヴァルナルはフッと笑みを浮かべた。

 

「あぁ。お前がずっと世話してきて、慣れていたからな」

 

 希少種である黒角馬には騎士たちが優先的に乗る権利が与えられたが、この馬に限っていうなら癖が強くてなかなか乗りこなす者がいなかった。オヅマでさえもレーゲンブルトにいた頃には、なかなか乗せてもらえない文字通りのじゃじゃ馬だったが、こちらで一対一で世話するようになるとだんだんと懐いて、オヅマだけは大人しく乗せるようになった。

 

「名前はなんとつけたんだ?」

「カイルです」

「そうか。呼びやすいな。いい名だ」

 

 ヴァルナルは軽くカイルの首を撫でて、馬上のオヅマを見上げた。

 

「よもやお前が投げ出すようなことはしないと思うが…あまりにもつらく思うなら、無理せずに戻ってきたらいい」

 

 オヅマはヴァルナルの優しい言葉に、目をしばたかせてから、冷ややかに言った。

 

「母さんと反対のこと言うんですね」

「……え?」

 

 驚いたヴァルナルを、オヅマは一度睨むように見て、ふっと視線を逸らす。カイルの編み込んだ(たてがみ)を撫でながら、オヅマは硬い声音で話した。

 

「レーゲンブルトを出る少し前に、言われたんです。クランツ男爵家の一員として、小公爵さまのために、ちゃんとお役目を果たすように、って。それができなくて投げ出すなら、ここに戻ってくることは許さない…って」

「ミーナが……」

 

 ヴァルナルはつぶやいて目を伏せた。

 溜息と共に飲み込んだ唾は苦かった。やはり血のつながりのある親子であればこそ、突き放すようなことも言えるのだろう。ミーナにはきっとわかっているのだ。オヅマが一度決めたならば、きっと投げ出すような性格でないことは。

 ヴァルナルもオヅマとこの二年近くを過ごしてきて理解はしているつもりだったが、すべてをわかっていると言い切る自信はなかった。

 実の息子であるオリヴェルに対してすら、ようやくわかりあえたと、思えるようになったばかりなのだ。ましてついこの間、親子になったばかりのオヅマに、安易に父として接するのは、おこがましい気もする。

 

 だがオヅマには、ヴァルナルのその遠慮がかえって苛立たしかった。いっそ、お前なんぞ気に入らないと言ってもらったほうが、よっぽど気が楽だ。

 

「奥方様は、あれでめっぽう、厳しい方ですからね」

 

 マッケネンは二人の微妙な空気感をなじませるように、笑って言った。

 

「オヅマに限らず、ご家族の方は皆、一度ならず叱られておられるのではありませんか? もちろん、ご領主様も」

「私が?」

「この前も叱られておられたではありませんか。奥方様が執務室にコホルの根の薬湯(やくとう)を持って来られたときです」

「あれは……」

 

 ヴァルナルは渋い顔になった。チラと目をやれば、オヅマが訝しげに見つめている。

 

「なにかあったんですか?」

 

 マッケネンに問いかけるオヅマの声は、どこか心配そうでもあった。「喧嘩…?」

 

「いや、大したことじゃない」

 

 マッケネンが言う前にヴァルナルがあわてて弁明した。

 

「何度かうたた寝して、ちょっと風邪を引いたもんで、それを心配されただけだ」

 

 マッケネンも笑いながら同調する。

 

「そうそう。心配してくださっているというのに、やれ苦いとか、気合で追い払うとか妙な言い訳をして、最終的に怒られて、口をきいてもらえなくなっちゃったんですよね」

「あのあと、すぐに()んださ…」

 

 ヴァルナルは苦い顔でつぶやく。

 ミーナの叱責と、コホルの根の薬湯の不味さを思い出すと、自然にそんな顔にもなってしまう。

 

 オヅマは母とヴァルナルのやり取りを想像して、思わずクスリと笑った。胸中で母が幸せであることに安堵する。しかしこれ以上、ノロケ話を聞く気もなかった。

 

「そろそろ行きましょう、マッケネン卿」

 

 手綱を握り、馬首を進路方向へと向ける。

 

「……気をつけてな」

 

 ヴァルナルは少し後に退(さが)って、二人を送り出した。

 オヅマはゆっくりとカイルを歩かせて、二三歩行ってから、振り返る。

 

「行ってまいります……ヴァルナル様」

 

 やや長く感じる沈黙のあと、オヅマは言った。

 ヴァルナルはしばし(ほう)けたようにオヅマを見たあとに、ニッコリ笑った。

 

「あぁ、行ってこい。……待ってるぞ」

 

 

***

 

 

「っとに……過保護だよ」

 

 オヅマはあきれてため息をつく。

 隣に並んで黒角馬(くろつのうま)に乗っていたマッケネンがフフッと笑った。

 

「ま、仕方ないさ。俺だって弟が一人でここまで来るなんて言い出したら、誰かに連れてきてもらえと言うだろうしな」

「マッケネンさんの弟は帝都にいるんだろ? それだったら、まだわかるよ。いったって、ここからズァーデンなんて、このままのんびり行ったって三日か四日ってところなんだし、俺一人でも十分だっていうのにさ」

 

 オヅマはむくれて口を尖らせながらも、なんとなく気になってチラと後ろを振り返った。

 軽く走ってきただけなのに、もうアールリンデンは遠い。久しぶりに晴れ上がった春空の下、こんもりした森から公爵邸の尖塔が小さくのぞいていた。

 

 

 ――――― 行ってこい。……待ってるぞ…

 

 

 見送るときのヴァルナルの嬉しそうな顔が、オヅマには少しむず痒かった。

 ヴァルナルが単純に見習い騎士であるオヅマの上役であるなら、素直に期待されることが嬉しく、待ってくれることを心強く思っただろう。

 ただそれが『父親』という立場になった途端に、オヅマにはどこか奇妙で心地悪かった。

 

 父親(コスタス)はオヅマにとって、物心つく前から高圧的で暴力的で、忌避すべき対象だった。一分(いちぶ)たりとして、その存在がオヅマにとって心安らかであったことはない。

 

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 だから、ヴァルナルがどんなにいい父親であったとしても、素直に父と呼べなかった。

 呼んだ途端に何かが狂って、ヴァルナルもまたオヅマにとって許しがたい存在になってしまうような気がする。

 それが怖かった…。

 

 しかしオヅマの複雑な胸の内など、ヴァルナルには知りようもない。

 わかりやすく寂しそうな笑顔を浮かべるヴァルナルに申し訳なくて、オヅマとしては譲歩と謝罪も含めて「ヴァルナル様」と呼ぶのが精一杯だった。……

 

「ここいらはもう暖かいな。レーゲンブルトじゃ、萌芽の月でも暖炉に火を()べることもあるってのに」

 

 マッケネンは春の訪れた道を進みながら、のんびり言った。

 オヅマはふと顔を上げて、道端に咲く野花を見てマリーを思い出した。

 

「向こうは、相変わらず?」

 

 懐かしいレーゲンブルトのことを尋ねると、マッケネンは様々なことを話してくれた。マリーのこと、オリヴェルのこと、騎士団のこと…。

 

 その中でも驚いたのが、黒角馬の研究団がいよいよ帝都に戻ることになったという話だった。研究自体はまだ帝都近郊で続けるようだが、レーゲンブルトでの研究団自体は解散するらしい。

 しかも、トーマス・ビョルネは帝都のほうでの研究に専念するため、教師の職を辞して、もう帰ってしまったらしい。

 そのことを嬉しそうに話すマッケネンにオヅマは首をかしげた。

 

「マッケネンさん、トーマス先生と仲良かったんじゃないの?」

「……おそろしいことを言わないでくれ」

 

 げんなりしたようにマッケネンが言うと、オヅマはプッとふいた。

 癖のある先生であったので、正直者のマッケネンにとっては、疲れる相手であったのかもしれない。トーマスはマッケネンのことを、大層好いていたようではあるが。

 

「トーマス先生だったら、帝都でもマッケネンさんに会いに来そうだね」

「そうなんだよ。アイツ、『また帝都でね』とか言って帰っていきやがった! 冗談じゃない。絶対に会わんぞ!!」

 

 マッケネンは固く誓ったが、オヅマには帝都に到着するやトーマスが待ち構えているのが想像できた。

 トーマスは自由奔放で、プライドが高く、自分なりの基準で認めた人間としか仲良くならない。マッケネンはアカデミーを受験するくらいなので、騎士としては相当に知識もあり、考察も深い。

 たいていの人間とは話すだけ時間の無駄と豪語していたトーマスがそこまで気に入ったなら、そうそう手放すわけがない。

 あの人は時々、人をおもちゃみたいに扱って楽しむようなところがある。

 

 レーゲンブルトから休みなく走ってきたマッケネンの騎乗馬・ドゥエリの体調に合わせて、旅程はゆっくり進んだ。

 野宿すること一泊、途中の宿場町で一泊して、荒野の道を往くこと半日、夕暮れ近くの西日の差す中、ズァーデン村に辿り着いた。

 

 

***

 

 

 強い西日の光に目をすぼませながら、村のほぼ中央を貫く一本道を馬に乗って歩いていると、かすかに柑橘のような酸っぱさを感じさせる、爽やかな匂いがしてくる。

 

「なんだろう、この匂い…」

 

 オヅマがつぶやくと、マッケネンが道々に植えられている木を指さした。

 黄色い小さな花が毬のように群がって咲き、葉の形は楓に似ている。

 

「あれだよ。ロンタっていう木だ。黄色い小さい花が咲いてるだろ? あれから匂ってくるのさ」

 

 聞いたことがあるなと思ったら、ヴァルナルが常日頃に食べる実の名前だった。

 

「ロンタの実って、あのものすごく酸っぱい実だろ?」

「そうそう。領主様が眠気覚ましに食べるやつ」

「え? そういうことだったの? 俺、単純に好きなんだって思ってた」

「好きか嫌いかでいえば好きなんだろうけど、大好物ってわけじゃないだろうよ。どちらかというと、非常食だしな。あれを食べていると、怪我したときに膿みにくいんだ」

「へぇ…そうなんだ」

 

 話しながらもマッケネンは道を進んでいく。

 

 見慣れない黒角馬に、村人たちは驚いて振り返り、口々に噂話を始めていた。

 もっともマッケネンのマントに翻るレーゲンブルト騎士団とグレヴィリウス公爵家の紋章を見れば、誰も文句など言ってこない。

 オヅマもまた、グレヴィリウスの紋章が背に染められた青藍色のマントを羽織っていた。

 どこからどう見ても公爵家から来た人間だとわかったのか、村人の誰もオヅマらの通行を咎めることはなかった。

 

 しばらく歩いていると、つばのない茶色の帽子を被った小太りの男が声をかけてきた。

 

「もし、グレヴィリウス公爵家の方とお見受け致しますが……」

 

 マッケネンは予想していたのだろう。馬を止めると、騎乗したまま男に言った。

 

「まさしく我らはグレヴィリウス公爵家より参った。これなるは小公爵様の近侍を務めるクランツ男爵の子息、オヅマ公子であらせられる」

 

 男はあわてたように帽子をとると、ハハッと平伏した。

 周囲に見物に来ていた村人たちも、あわてたように跪く。

 

 オヅマはひどく居心地が悪かった。ついこの間までは、自分こそこの人々と同じように頭を下げていたというのに。

 しかも『オヅマ公子』なんて、聞くだにゾッとする。

 しかし黙っておいた。ここでマッケネンに文句を言っても仕方ない。

 男はこの村の村長だという。ここに来た理由を聞いてきたので、マッケネンが答えた。

 

「老師の元に来た」

「あぁ、ルミア様の元へ…それはそれは。そういえばクランツ男爵様も昔おいでになりましたな。あの折は私はまだ…」

「すまないが、先を急ぐので失礼する」

 

 マッケネンは長くなりそうな村長の話を打ち切って、再び馬に合図して歩き始めた。

 オヅマはまだ何か言いたげな村長と目が合ったが、さすがに男爵の息子においそれと口をきくような無礼はしてこない。軽く会釈をしてから、マッケネンの後に続いた。

 

「なぁ…」

 

 山道を進むマッケネンにオヅマは声をかけた。

 老師の家はどうやら村から少し外れた、森の中にあるらしい。 

 

「老師って……もしかして女なのか?」

 

 尋ねたのは、さっき村長が「ルミア様」と言っていたからだ。それは女性名だった。

 マッケネンは残念そうに「あーあ」と声を上げた。

 

「ベントソン卿から、実際に会うまでは内緒にしておけと言われたのになぁ」

「は? 何考えてんだ、あのおっさん」

「またお前は! あの人、ああみえてものすごく偉い人なんだぞ。呼び方に気をつけろ」

「いないんだから、いいだろ。それより女なのか?」

「そうだよ。でも、女だからってみくびってたら、痛い目みるぞ。とんでもない()()なんだからな」

 

 マッケネンはニヤリと意味ありげに笑ったが、オヅマはふいに嫌な感覚になった。

 

 

 ――――― 女だが、有能な戦士だ……

 

 

 思い出したくもない。

 その声も、自分を睥睨するセピアの瞳の大女も。

 

 あまり整備されていないデコボコ道を上って、マッケネンは二本のロンタの木の間にある、小さな石造りの家の前で止まった。爽やかな香りが漂ってくる。

 屋根とロンタの木の間は板が渡されてあって、ちょっとしたバルコニーみたいになっていた。もっともその上でヒラヒラと揺れているのは洗濯したシャツのようだったので、物干し場と言ったほうが正しいのかもしれない。

 

 家の前で馬を止めると、まるで待ちかねたかのように、ギイィと扉が軋みながら開く。

 

「お久しゅうございます。ルミア=デルゼ老師。修練者を連れて参りました」

 

 マッケネンはあわてて馬から降りて挨拶したが、オヅマは馬上で凍りついた。

 

 そこにいたのは初老の女だった。

 しかし堂々たる体躯は先程の村長よりも一回りは大きく、耳下で短く切った白髪はふさふさと波打っている。彫りの深いくっきりとした顔立ち。浅黒い肌に皺はあるものの、『婆』というにはそのピンと伸ばされた背に年老いた印象はない。

 大きなセピア色の瞳が、眼光鋭くオヅマの様子を窺っていた。

 

「………デルゼ…?」

 

 オヅマはかすかにつぶやいたが、喉が干上がってほとんど声にならなかった。

 

 





次回は2023.06.25.更新予定です。


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第百三十六話 ルミアとハルカと豆猿

 マッケネンはいつまでも馬から降りてこないオヅマを不審そうに振り返って、ギョッとなった。

 

「どうした? オヅマ」

「………え?」

「顔が、お前…真っ青だぞ」

「いや……」

 

 オヅマはごまかすように無理に笑みを作ると、馬から降りたものの、ほとんど落ちたに近かった。

 マッケネンはあわててオヅマを支えた。

 

「大丈夫か? どうしたんだ、いきなり…」

「大丈夫だよ」

 

 答えながらも、オヅマの頭はガンガンと殴られたように痛み、得体の知れない恐怖感で背中は汗でびっしょりだった。

 

 得体の知れない…?

 いや、わかっている。

 すっかり忘れていた()の中から、リヴァ=デルゼの腕が伸びてきて、オヅマの頭を鷲掴みにしていた。

 

 

 ――――― 悪い子だ…

 

 

 ねっとりと絡みつく囁きは、真綿でゆっくりと首を絞めるかのように、オヅマの思考を止める。抗うだけ無駄だと、諦めて受け入れることを強要してくる。

 

 

 ――――― どうせなら愉しめ…オヅマ…

 

 

「……う…」

 

 息が、できない。

 オヅマは首を押さえて、その場にくずおれた。

 ぐるぐると視界が回って、意識を保つことが苦しい。いっそ気を失いたかったが、異常なほどに逆立った神経はそれを許さなかった。 

 

 マッケネンがそばで必死になって呼びかける声も、奇妙な雑音に紛れてよく聞こえない。

 オヅマの肩を強く掴むマッケネンの手だけが、オヅマを()でない現実にいるのだと実感させてくれていた。

 しかし、嘔吐感と頭痛は治まらない。

 

 その時、あきれた溜息が聞こえた。

 

「ずいぶんと弱々しいガキを寄越したもんだね。剛勇なるグレヴィリウスにしては、人選を間違えたんじゃないのかい?」

 

 オヅマを苦しめていたリヴァ=デルゼの幻影は、その声でパッと霧散した。急速に頭痛も嘔吐感も消失する。

 顔を上げると、腕を組んだ女 ――― ルミアがオヅマを見下ろしていた。

 

 ――――― 違う…

 

 よくよく見れば、そこにいるのはリヴァ=デルゼではない。

 女にしては大柄な体つきと、セピアの瞳は似通っていたが、年齢がまったく違っていた。

 オヅマの()に出てきていたあの悪魔は、二十代後半くらいだ。目の前の老女はいくら若く見えても、五十より下ではないだろう。それに ―――

 

「なんだい、坊や。会うなり吐きそうな顔して倒れ込むような奴に稽古をつけるなんぞ、御免蒙るよ、私は」

 

 ハキハキした切れの良い話し方は、リヴァ=デルゼとまるで違っていた。

 声も、着実な人生経験を積んできた者の、低く落ち着きのある、安心感のもてる声音だ。婀娜(あだ)っぽく、ねばりつくような、酒ヤケしたあの女の嗄声(しわがれごえ)とは違う。

 

 オヅマは一度、大きく息を吐いてから立ち上がった。

 軽く服についた土を払って、ルミアに頭を下げた。

 

「醜態をさらし、失礼しました。オヅマ・クランツと申します」

「クランツ?」

 

 ルミアは少しだけ考えて、意外そうにオヅマを見た。

 

「あの男の息子がこんなに大きくなったとは意外だね。病弱で十歳(とお)までも生きられないと言っていたのに」

 

 オリヴェルと勘違いされているとすぐにわかって、オヅマは訂正した。

 

「いえ。俺…僕は、オリヴェルではありません。クランツ男爵とは、母が再婚して…」

「なんだってェ? 再婚? あの男、また懲りずに結婚したのかい?」

 

 ルミアはひどく驚いて、頭をおさえた。

 

「なんだってまた…。どうせ、失敗するだろうに」

「失敗?」

「あの男は結婚にゃ向かないよ。どこまでいっても主君一筋、頭の中身が騎士根性で塗り潰されているような男なんだからね」

 

 オヅマは複雑だった。

 確かにそうだとも思うが、母に対するヴァルナルの態度を見る限りは、今のところは極めて良好であるように思える。

 

 何も言えなくなっているオヅマの隣で、マッケネンがククッと笑った。

 

「いや、老師殿。それが、ヴァルナル様もすっかりお変わりになられましてね」

「へぇ?」

 

 ルミアは理解しがたいといった感じで腰に手を当て、首をひねる。

 

「あの男が? 公爵に立ってろと言われたら、三日どころか一月、下手すりゃ半年でも立ってそうな、あの男が?」

「そうなんです。新たな奥方は、顔立ちだけではなく、心映えも優れた御方でして」

「ふぅん…」

 

 ルミアは適当に相槌を打ってから、チラリとオヅマを見て、尋ねてきた。

 

「お前さん、お母さんに似てるのかい? それとも父親?」

「………父の顔は知りません。肌の色と瞳の色は母と同じです」

「母親の髪の色は?」

「……金髪ですけど…それがなにか?」

「ふーん……」

 

 ルミアはジロジロとオヅマを無遠慮に眺め回してから、また腕を組むと、フンと鼻を鳴らす。

 

「なんだい。なんだかだ言って、やっぱりあの男、面食いじゃないか」

「ハイ?」

「いや。当人は顔なんぞ気にしないとか言ってたがね、私は前々から思ってたんだ。この男はおそらく面食いだと」

「…………」

 

 オヅマは黙り込むしかなかった。

 まるでヴァルナルが母の色香に惑わされたような言い方だ。そんなわけがない…と抗議できないのは、母が美人であることは疑いようもないからだ。もっとも息子の立場でそれを認めるのもなんだか面映ゆい。

 

「まぁ、リーディエ様のような方を近くに見ていたら、女を見る目が厳しくなっても、仕方ないだろうが…」

「リーディエ?」

「公爵閣下の亡くなった奥方様だよ」

「あ……」

 

 以前に見た(とき)色の髪の貴婦人の絵を思い出す。

 確かに美人ではあった。

 母と比べてとなると……やっぱり息子なので公平な判断は下せない。

 

 気まずそうなオヅマを窺い見てから、マッケネンは安心したように言った。

 

「大丈夫そうだな? じゃ、俺は帰るぞ」

「えっ? もう?」

「おぅ。今から駆ければ夜までにターゴラ(*前夜に泊まった宿場町)には着く。早く帰って、ヴァルナル様にお前を無事に送り届けたことを伝えないと、きっとやきもきして待っておられるだろうからな」

 

 マッケネンは笑って言ってから、ルミアに深々と頭を下げた。

 

「それでは、私はこれで失礼します。先程は緊張と、この数日の旅の疲れが出たせいで、少しばかり調子を崩したようです。一晩寝れば、おそらく明日からは目を見張られることでしょう」

 

 マッケネンはオヅマの才能を称賛しつつ、さりげなくオヅマの体調を気遣って、今日一日は休ませてくれるように頼んでいた。

 ルミアは肩をすくめて、オヅマをまたチラと見た。最初にオヅマを値踏みしていたあの目だ。

 

「じゃあな。がんばれよ」

 

 励ますようにオヅマの肩を叩くと、マッケネンは馬にまたがった。

 

「あ…うん。ありがとう、マッケネンさん」

 

 オヅマは今更ながらに、ちょっと心細くなった。

 本当ならここまで送ってきてくれたマッケネンに、丁重に感謝の意を述べるべきであったが、昔馴染みの気安さもあって、一瞬、レーゲンブルトにいた頃の、見習い騎士に戻ってしまった。

 マッケネンはオヅマの()()を見破ったのだろう。クスリと笑って、馬上から亜麻色の頭を、やや乱暴に撫でた。

 

「…がんばれ」

 

 もう一度、勇気づけるように言ってから、マッケネンは馬首を来た道へとやると、颯爽と駆け去っていった。

 

 

***

 

 

「はい」

 

 家に招き入れられるなり、ルミアは手を出してきた。

 

「はい?」

 

 オヅマが聞き返すと、面倒そうに「アンタの世話代だよ」とそのものズバリ言ってくる。オヅマはややあきれつつ、首に下げていた『世話代』の入った袋をルミアに渡した。

 

「ふ…む」

 

 ルミアは袋の中身を素早く確認すると、澄ました顔で言った。

 

「さすがに大グレヴィリウスだね。ケチな田舎伯爵とは違うよ」

「はぁ…そんなもんですか」

「そりゃそうだよ。色が違う」

 

 自分の授業料…という現実味のある話について、オヅマはあまり聞きたくなかった。背嚢(はいのう)から書状を取り出し、ルミアに差し出す。

 

「これ、ベントソン卿からの紹介状と、ヴァルナル様からの親書です」

「あぁ…」

 

 ルミアは受け取って、署名だけチラと見ると、机の上に放り投げた。

 

「読まなくていいんですか?」

「こんなの形式的なモンさ。アンタを来させることは、ベントソン卿が前もって(しら)せてきていたし、ヴァルナルなんぞ…どうせ、あれやこれやと、くどくどしいことを書いてきてるんだろうよ。寝る前に読めば丁度いいだろう」

 

 なんてことを言うのであれば、ヴァルナルの手紙は睡眠導入剤としての役割を持たされたのだろう。

 

 ルミアは煙管(キセル)に葉を詰めると、「さて」とオヅマをまたじっと見つめてくる。

 オヅマは反射的に目をそらした。どうもあのセピアの瞳は、居心地が悪い。

 

 ルミアはパと空中に煙の輪を吐いて、尋ねてきた。

 

「オヅマと言ったか…お前さん、既に一度、稀能(きのう)を発現しているそうだね。しかもよりにもよって『千の目』だって? 奇ッ怪な技を身に着けたもんだ。誰に習ったんだい?」

「………わかりません」

「わからない?」

「勝手に……出来たんです」

「ホハッ!」

 

 ルミアは吹いてから、ゴホゴホとむせた。

 

「勝手に出来たァ? とんでもないホラをふくもんだ」

「ホラじゃないです! 本当に…」

 

 しかしその先に続く言葉をオヅマは言えなかった。

 ()で修行したなどと言って、信じてもらえるはずもない。まして、あの()が、今のオヅマと繋がりがあるなど、認めたくもなかった。

 

 ルミアは胡散臭げにオヅマを見てきたものの、それ以上追求するのも面倒に思えたらしい。

 

「まぁ、いいや。悪いがウチでは、自分の面倒は自分で見てもらうよ。まずは、今日のアンタの()()()()を調達してきな。ハルカ!」

 

 鋭く呼ぶ声に、部屋の隅に伸びた細長い木の棒からスルスルと子供が降りてきた。春先でまだ寒いだろうに、短い袖のシャツに、膝までの短いズボンに裸足。オヅマがラディケ村でいた頃と同じような格好だ。

 タタッと走ってきて、ルミアの隣に立ち、そこでようやく女の子だと気付いた。

 

「この子は私の孫でハルカ=デルゼだ。ハルカ、オヅマだ。新たな稽古仲間さ」

 

 オヅマはにわかに、また胸がザワザワした。レーゲンブルトでアンブロシュ卿に会ったときと同じような感覚だ。

 

 ハルカと呼ばれた娘は、年の頃であればマリーとそう変わらないか、少し下くらいだろう。

 やや黄みのある日焼けした肌に、切れ長の腫れぼったい一重の瞳、鶸茶(ひわちゃ)(*灰色がかった黄緑色)の髪。

 幼さに似合わぬ無表情で、初対面の人間に対する好奇や警戒は見えない。

 ルミアと同じセピア色の瞳は、どんより曇っていて、オヅマを見ているのかすらわからなかった。髪もまたルミアと同じように耳下で切り揃えていたが、一房だけ赤い筒型の髪飾りをして、耳横に垂らしていた。

 

「ハルカ……」

 

 オヅマは無意識にその名をつぶやいていた。

 初めて会ったはずなのに、聞き覚えのある名前、見覚えのある無愛想な顔。

 だが、オヅマはそれ以上、思考を辿っていくことはしなかった。その先に見え隠れするリヴァ=デルゼの姿は、不穏しか()び起こさない。

 

 ブンと頭を振って不吉な影を追い出してから、オヅマは手を出して挨拶した。

 

「よろしくな、ハルカ。俺はオヅマだ」

「…………」

 

 ハルカはオヅマの手をしげしげと眺めていたが、握手することはなかった。何も見なかったかのように、戸口へとすとすと歩いて行く。

 

「ついていきな」

 

 ルミアは煙管をふかしながら、すげなく言った。

 オヅマはコクリと頷き、ハルカの後に続いて家から出た。

 

 夕闇の迫る森の中、ハルカは一度もオヅマの方を振り返ることなく、黙々と歩いていた。

 

 決して早いわけではないが、まるで足に羽でもついているかのように、軽やかだ。裸足だが、常日頃から歩いていて足裏が強くなっているのだろう。ちょっとした枝などでも平気で踏みしだいていく。

 しかもよく見れば、足首には黒の足輪(あしわ)をつけていた。

 オヅマも騎士団での訓練で、たまにあの足輪をして、走練などをすることもあるので、知っていた。あれは重りなのだ。重量は様々あるが、一番軽いものであっても、慣れない者であれば、普通に歩くことすらできない。

 しかしハルカの足取りに、重さは一切感じなかった。

 それだけでもこの少女が尋常ならざる身体能力を持っていると計り知れる。

 程なくしてオヅマはそれを確信できた。

 

「うわっ」

 

 いきなり斜め上から何かが飛んできた。

 反射的に()けると、間一髪、さっきまで右足のあった場所に叩きつけられ、何かの果実が無残につぶれていた。

 黒っぽい果汁と、中の緑色の粒が地面に飛び散っている。

 

「なんだ…?」

 

 背を屈めて見ると、プワンと独特の臭いが鼻についた。

 

「うげ…これ、スジュの実じゃねぇか」

 

 オヅマは途端に鼻をつまんで(しか)め面になったが、のんびりしている間は与えられなかった。

 ビュッと音がして、背にそのスジュの実がベチャリと当たる。

 

「ゲッ!」

 

 咄嗟に後ろを向いて確認しようとする間に、また実が飛んできてベチャベチャと腕と腹にぶち当たった。

 

 キャッキャ! と楽しげな声が響く。

 

 オヅマはキッと実の飛んできた方向へと目を向けた。

 暗くなってきた木々の枝々に、ポツポツと浮いた小さな赤い光。

 よく見れば、それは目だった。さらに目を凝らすと、薄緋(うすひ)色の毛に覆われた、黒い顔の猿たちが枝の上から並んでオヅマを見ていた。

 

「……豆猿?」

 

 つぶやくと同時に、また左斜め上からビュンと飛んできたのをよけると、枝に並んでいた豆猿たちが一斉に散って、あちこちからスジュの実を投げてくる。

 

「だぁッ! なんだ、コイツら!!」

 

 オヅマは相手しきれないと思い、走り出した。

 いつの間にかいなくなっていたハルカの姿を見つけると同時に、息をのむ。

 前を走るハルカもまた、豆猿からスジュの実を投げられていたが、流れるような身のこなしでよけていた。

 オヅマは信じられなかった。

 重いはずの足輪をしていてなお、あの俊敏な動き。

 

 ハルカはオヅマの視線に気付いたのか、こちらを向いた。

 一瞬、隙ができてハルカの足にベチョリと実が当たる。しかしハルカは全く気にする素振りもなく、再び駆けていった。

 やがて木々が途切れて、川べりの拓けた空間に出ると豆猿達の攻撃はやんだ。

 

「お前……」

 

 オヅマはハルカに聞きたいことが色々とあったが、息が切れて言葉にならない。

 一方、オヅマよりも動き回りながら走っていたハルカの顔は涼しく、息切れもしていない。肩がまったく動いていないので、隠しているわけでもないだろう。

 

 ハルカはしばらくオヅマと見合っていたが、ついと横を向くと、川にザブリと入った。

 足についていた果汁が見る間に流れていく。

 そのままザバザバと大きな岩がいくつか並んでいるところまで歩いていくと、しばらく、じいぃーっと佇んでいた。

 

 オヅマは静かにしていた。

 ハルカが魚を狙っているとわかったからだ。

 案の定、ハルカは急に手を川の中に突っ込むと、魚を一匹掴んでいた。そのままポイとオヅマのいる川べりへと投げる。

 土の上で魚がピチピチはねていた。

 

 オヅマが飛んできた魚からまた再びハルカの方へと目をやると、ハルカはじっとオヅマを見ていた。

 やはり表情は乏しく、何を考えているのかわからない。

 オヅマはハッとルミアに言われたことを思い出した。

 

 ――――― 今日のアンタのおまんまを調達してきな…

 

 つまり、自分の食い扶持は自分で取ってこい、ということだ。

 

 オヅマは靴だけ脱いで、川に入っていった。

 ズボンを脱ごうかとも考えたが、さっき豆猿どもにさんざんスジュの実をぶつけられたせいで、すっかり汚れて今更濡れるのを気にするような状態でもない。

 

 ハルカは川の中に入ってきたオヅマに、別の岩場を指し示した。

 

「わかった…」

 

 オヅマは頷いて、素直にその場所へと向かう。

 岩の水に浸かっている部分にはびっしりと苔が生えていた。

 ハルカと同じようにしばらくじっとしていると、白い魚がゆっくりと寄ってくる。よく引き付けてから、オヅマも同じようにして手で掴み取ろうとしたが、魚はパシャリと響いた水の音に、間一髪で逃げていった。

 

「チッ……タモでもありゃあな……」

 

 オヅマはつぶやき、ハルカの方を見ると、ちょうどハルカがまた川に手を突っ込んで、魚を取っていた。

 いや、取っている…というより、魚を叩いて川から飛ばしている、と言ったほうが近いだろう。手はまっすぐに指を伸ばして、川に入れるときも水音をなるべくたてないように水面と垂直にして、そこからの動作は一気だ。

 

「そうか…」

 

 オヅマは要領を得ると、すぐさま一匹魚をすくい取った。同じように岸辺へと飛ばす。

 二人で大小十匹近くを取ってから、ハルカが持っていた布袋に魚を入れて帰り道についた。

 そのときにはすっかり辺りは暗くなり、豆猿達もねぐらに戻ったのか、もう実をぶつけてくることはなかった。

 

「なぁ…」

 

 オヅマは少し前を歩くハルカに声をかけた。

 ハルカは足を止めて振り返るが、黙ったまま、オヅマを見つめるだけだ。

 

「さっき、お前、豆猿からスジュの実を投げられてたの…ぜんぶよけてたのか?」

 

 ハルカは少しだけ考え、左足を少しだけ持ち上げた。

 どうやら全部は避けられなかった…ということらしい。

 そこはさっき、実がぶつけられたところだったが、川の水ですっかり綺麗になっていた。

 

「いや、それはお前、俺に一瞬、気ィ取られたからだろ? 悪かったな」

 

 ハルカはまじまじとオヅマを見ていたが、やっぱり何も言わなかった。肩にかけていた袋を軽く持ち直して、また歩き始める。

 

「あ、おい。それ重いんだったら…」

 

 オヅマは少し小走りになってハルカの後を追ったが、そのとき、足元がズルリと滑った。

 

「うあッ!」

 

 声を上げて、見事に尻もちをつく。

 ベットリと黒っぽい汁が、手についた。おそらく尻にも。

 先程、豆猿達が投げまくっていたスジュの実が、地面に叩きつけられて潰れ、それに足をとられたらしい。

 

「……プッ」

 

 ハルカが思わずといったようにふきだす。

 それまで一切の感情をなくしたかのように、凍りついていたハルカの表情が緩むのを見て、オヅマはホッとした。

 年相応の、可愛らしい笑顔だ。

 

「そんな顔するんだな…お前」

 

 立ち上がりながら、思わず出た言葉が、胸を()く。

 まるで随分と前から彼女を知っていたかのような感覚に、自分でも理解が追いつかなかった。

 

「あ、いや…」

 

 訂正しようとしたが、ハルカの顔から既に笑みは消え、鈍い目でオヅマを見上げるだけだった。

 

 オヅマは少しだけ頭痛がしたが、軽く頭を振って痛みを飛ばした。

 無表情にじぃとオヅマを見つめるハルカに、またニッと笑ってみせる。

 そのときに魚を入れた布袋が、ハルカの肩に食い込んでいることに気付いた。

 

「それ、貸せ。俺が持つ」

 

 オヅマは布袋をハルカから取り上げて歩き出したが、ハルカはボンヤリ佇んでいた。

 

「なにしてんだよ? ホラ、行くぞ」

 

 ハルカに手を差し出すと、ハルカはオヅマの手と顔を交互に見て目を何度かしばたかせた。戸惑っているようだ。

 オヅマは、グイとハルカの手を取った。

 

「行こう。腹減った」

 

 手を引いて歩き出す。

 不思議そうに見つめながらも、ハルカはオヅマの手を離さなかった。

 





次回は2023.07.02.更新予定です。


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第百三十七話 デルゼの一族

 ルミアはすっかり青黒く染まったオヅマの服を見てゲラゲラ笑った。

 

「まぁ、まぁ! 見事にやられたもんだ!」

「よく言うよ…」

 

 オヅマはつぶやきながら、ひどく臭う自分の服に眉を寄せる。

 

「よりによってスジュの実なんぞ投げてきやがって、あの豆猿ども」

「ホ。アンタ、スジュの実を知ってんのかい?」

「知ってるよ。薬師の婆さんと一緒に取りに行ってたから…」

 

 春先に青黒の実をつけるスジュの実は、特に美味しくもない上に、実が熟してくるに従って臭ってくるようになる。その臭いは有り体に言えば、牛糞だ。しかし庶民にとっては有難いことに、煮詰めて濾すとクリーム状になり、それは簡単な傷薬として使えた。もっとも臭いが残るので、あまり人気はない。

 

「ほぉ、お前さん。薬の心得があるのかい?」

「心得ってほどじゃない。単純に頼まれて、薬草を取りに行ってただけだ」

「フン。ま、いい。とっとと着替えてきな。臭い服着て、食卓に座られちゃ迷惑だよ」

 

 言われるまでもなかった。オヅマが着替えを持って外に出ると、ハルカが魚の袋を持って待っていた。

 オヅマの顔を見ると同時にクルリと背を向けて、歩き出す。

 

 おとなしくついていくと、家から数歩の距離に、伏流水の湧き出る泉があった。

 周囲には石を並べて膠泥(モルタル)で固めた簡単な洗い場が作られている。

 

「ん」

 

 ハルカは洗い場の隅を指さした。

 どうやらそこで洗えということらしい。

 

「わかった」

 

 オヅマが汚れた服を脱いで着替えている間に、ハルカはさっき捕ってきた魚を洗っていた。手際よく小さな刀で腹をさばき、(はらわた)を掻き出して、それを持ってきた瓶に入れている。おそらく肥料か何かにするのだろう。

 

 オヅマも洗濯桶に汚れた服を入れて洗っていたが、完全に落ちそうにはなかった。色はともかく臭いは取り去っておきたいと思って、ひたすらガシガシ布をこすって洗っていると、不意に青々とした葉っぱが差し出された。

 

「ん? なんだ? ……あ、洗濯草か、これ」

 

 オヅマはハルカの持ってきてくれた草を見て、すぐにわかった。

 

「ありがとな、助かる」

 

 (のこぎり)状の葉っぱを数枚受け取って、水につけて揉んでいると、徐々に泡立ってくる。

 これは洗濯草と呼ばれる、どこにでも生えている雑草だった。水に浸けて揉み込むと泡が立つ。その名の通りに洗濯するときの、石鹸代わりとなるものだった。

 それでも完璧に汚れが取れるわけでもない。やっぱりまだらに青の染みが残っていたが、オヅマは気にしなかった。

 公爵邸にいるときと違い、うるさ方(=マティアス)もいないし、修行に来て着飾るつもりもない。そもそも汚れてもいい服を持ってきている。

 

 オヅマが洗っている間、ハルカは既に自分の仕事を終えて待っていた。

 何も言わず、じっとオヅマを見つめている。

 

 たまたま訪れた沈黙に、オヅマはやや逡巡しながらハルカに問いかけた。

 

「なぁ、ひとつ聞いていいか?」

 

 ハルカは軽く首をかしげる。

 

「もし、言いたくなかったら言わなくてもいい…」

 

 あえてそんなことを言ったのは、むしろ自分のためだった。

 まだためらいがある。それを聞いたところで、今のこの状況が何か変わるわけでもない。

 しかし、オヅマは結局尋ねた。

 

「お前の母さんの名前は?」

 

 ハルカはパチパチと目をしばたかせたあとに、ポツリと言った。

 

「リヴァ=デルゼ」

 

 聞いておいて、頭を殴られたかのような痛みが走る。

 しかし、オヅマは必死で動揺を隠した。

 ハルカには関係のないことだ。あの女が母親であったとしても…。

 

「……そうか…」

 

 オヅマは無心になって、服に泡をなすりつけるようにして洗った。

 

 まだオヅマを凝視するハルカの背後、木立に紛れて二人の様子を窺っていたルミアは、ゆっくりと家へ戻っていった。

 

 

***

 

 

 夕食はオヅマとハルカの捕った魚と、麦の粥だった。自分で()()()()の用意はしないといけないが、主食となるものは、さすがに出してもらえるらしい。

 あるいは最初にルミアの言ったように、授業料の()()()()からであろうか。

 いずれにせよ、オヅマは久々の粗末な食事に、ラディケ村にいた頃のことを思い出し、少し懐かしくなった。

 あの頃からすれば、公爵邸での豪華な食事が信じられない。

 いまだにアールリンデンにある自室のふんわりしたベッドの上で目を覚ますと、夢みたいに思えてひどく混乱する。

 

 食べ終えて食器の片付けを手早く済ませると、ハルカは早々にベッドのある屋根裏部屋へと向かった。

 日が落ちたら眠るというのが、庶民の基本的な生活だ。食事中も眠そうにしていたから、もう寝るのだろう。

 

 オヅマは剣の素振りでもしに行こうかと立ち上がったが、ルミアに呼び止められた。

 

「少しばかり話をしようか、オヅマとやら」

 

 考えてみれば、夕方に訪れてから挨拶もそこそこに、すぐに豆猿の森(オヅマ命名)へと送り出されて、その後には洗濯やら、腹ペコを満たすための食事に忙しく、確かにルミアとロクに話していない。

 

 オヅマは頷くと、再び椅子に座った。

 ルミアはランプから火をとって、煙管(キセル)をふかし始めると、オヅマをジッと見た。

 

「随分、あの子と仲良くなったもんだね」

「そう…ですかね…?」

 

 オヅマにはよくわからなかった。

 特に嫌われているとも思わないが、今日会ったばかりで、随分と仲良くなった…と言われるほど、ハルカと打ち解けたとも思えない。

 

 首をかしげるオヅマをルミアはジロリと見ると、ハアァーと煙を吐く。たゆたう紫煙の中、少し沈んだ声でつぶやいた。

 

「正直、村の子からは()け者にされているし、どうしたもんかと気を揉んでいたんだ。ここに来て二年になるが、いまだに私にも完全に心を許しているとも思えないしね」

「二年?」

「あぁ。あの子が四歳のときに、母親が預けに来てね。まったく、いきなりやって来たかと思ったら、無口で無愛想な子どもを置いていった」

「……四歳」

 

 オヅマはつぶやいて、頭の中で計算した。つまり、今は六歳ということだ。マリーよりも二歳下。

 今更ながらに驚く。

 ハルカの表情には、どこにも幼さが見えない。さっき、思わず噴き出したときの笑顔に一瞬、子供らしさが見えたものの、すぐに元の何を考えているのかわからない顔に戻ってしまった。

 

 ルミアは考え込むオヅマを何気ないように眺めてから、プカリと煙で輪っかをつくって空中へと泳がせた。

 

「アンタ、あの子を気味悪くは思わないのかい?」

「気味悪い?」

「見た目からしてわかるだろうが、あの子の父親はいわゆる『(あい)の民』と呼ばれる賤民だ」

 

『穢の民』と呼ばれる人々は、古い時代から存在する。

 牛馬、豚などの屠殺(とさつ)業、動物の皮剥ぎ、刑場での首斬り道化、隔離された伝染病患者の世話やその死骸の処理など、彼らは社会における、人々から敬遠される職業を担う者たちだった。

 元は奴隷であったが、帝国において奴隷制度が廃止されたときに、彼らは奴隷から平民となったものの、差別は残った。

 全員がそうというわけではないが、表情の乏しい一重の瞳と、黄みがかった肌、くすんだ黄緑の髪色は、彼らの容姿をもっとも象徴するものとして認識されている。

 

「長く虐げられてきたせいか、奴らはほとんど感情を表すことがない。それが習性になっちまってるのさ。あの子も、その特性を継いでいるのかして、ほとんどしゃべらない。聾唖(ろうあ)かとも思ったくらいだが、耳も聞こえているし、まったく話せないわけでもないんだよ。でも、蹴られてもうめき声一つあげない」

「蹴られる? 蹴ったんですか?」

 

 オヅマは思わず大きな声になった。まさか()()()()虐待されているのか…? と、ルミアを睨みつける。

 しかしルミアはあきれたようにオヅマを見て、肩をすくめた。

 

「私がそんなことするもんかね。村の子供(ガキ)どもが、あの子をいじめていやがったのさ。あの子がずーっと黙っているから、無理にしゃべらせようとしたんだと」

 

 オヅマはホッとすると同時に、眉を寄せた。

 おそらく子供らは、周囲の大人達の反応から、ハルカを()()()()()()()()()として、標的にしたのだろう。どんなに蹴られても罵られても、一言も言い返すことのなかったハルカの姿が容易に想像できた。

 

 ルミアは苦々しい表情になるオヅマを、興味深げに見ていた。

 

(あい)の民』に対しての、多くの人間の対応は無視だろう。

 たまに過激な目立ちたがり屋が、自らを誇示するために、無体な暴力をふるったりする。

 あるいは本当に稀に、憐れんで手を貸してやろうとする者もいる。

 だがそうした篤志家もまた、己の自己満足のためにすることが多いので、十分な報酬 ――― 尊崇や敬慕、感謝といったものが自分が望んだ熱量で返ってこないと、手のひらを返したように彼らを責め立てたりする。

 

 しかし目の前のこの少年の孫に対する態度は、そのどれにもあたらない。

 ルミアはまた煙を吸って味わい、フワリと輪をつくって宙に浮かべる。

 

「あの子を引き取ってからも、あんたみたいに教えを乞いに来る人間は何人かいたがね、たいがい皆、気味悪がって遠ざけるよ。たまに仲良くなろうとして声をかけた奴らも、あんまりにも素っ気なくて、冷たく思えるんだろうね。最終的にはみんな、あの子を嫌うか、いないものとして扱うんだ。あの子も、そうやって扱われることに慣れているんだろう。文句も言わないで、淡々としたもんさ…まったく、ガキらしくないガキだよ」

 

 ルミアは吐き捨てるように言いながらも、実のところ祖母として、多少気にしてはいるのだろう。だがどう扱えばいいのかわからず、持て余しているようだ。

 

「ハルカは…普通にいい奴だと思います」

 

 オヅマは素直に言った。

 確かにハルカは無口で、無愛想だ。とっつきにくい相手だろう。だが、彼女にとってはそれが()()で、特に相手を嫌っているわけでもないし、警戒しているわけでもないのだ。

 なぜかオヅマは勝手にそう理解していた。初対面からずっと素っ気ないハルカに対して、不思議と不満は感じなかった。

 

「確かに何を考えてるかわからないところはあるかもしれないけど、ハルカは親切だと思います」

「ほぅ?」

「さっきも俺が洗濯してたら、洗濯草を持ってきてくれたし、魚をとるときも…口には出さないけど、やり方は教えてくれたし。無口なだけで、よく気のつく、いい奴です」

 

 ルミアはニヤリと笑った。

 薄く煙を吐きながら、それとなく疑問を示す。

 

「随分、わかった言いようだね。まるで昔にあの子に会ったことがあるみたいじゃないか」

「まさか…今日初めてです」

 

 言いながらも、オヅマの胸にピリピリと小さな痛みがはしる。ルミアは首をかしげて、問いかけた。

 

「じゃあ、なぜあの子の母親のことを聞いたんだい?」

 

 サッとオヅマの顔が強張る。

 ルミアはその表情に穿つように重ねて問うた。

 

「お前さん、私の娘のことを…リヴァ=デルゼを知ってるのかい?」

 

 

***

 

 

 ルーカス・ベントソンが久々に寄越してきた手紙には、新たに修行してほしいという少年のことが書かれていた。

 

 グレヴィリウス公爵家からは、過去に何度か騎士や、騎士見習いの少年がやって来て修行を受けたが、()()になったのはヴァルナル・クランツだけだった。

 そこそこ見所のある人間を選んではいるのだろうが、多くの者はまず女に師事することに対して拒否感を示した。その後には修行そのものよりも、普段の生活に不満を持ち、最終的には修行自体に音を上げて去る。

 

 元々平民で、幼い頃から忙しく働く母の下で育ったせいなのか、ヴァルナルにはそうした偏見もなく、そのうえでよほどに(あるじ)から厳しく言われてきたのか、決して音を上げなかった。

 正直、ルミアはヴァルナルに才能があるかないかと言われれば、ないと思っていたが、最終的には当人の執念が勝ったようだ。

 

 ヴァルナル以降、公爵家から来る者は少なくなった。

 戦争があったせいもあるが、ある程度、ヴァルナルによって適性を見極められたのもあるだろう。それは剣の腕といったことだけでなく、ここで一定期間、暮らすことに文句を言わないという性格や価値観も含めて。

 

 オヅマを送ってきた男 ――― マッケネンも、前にここに来た一人だった。

 穏やかで篤実な性格で、剣にしろ、体術にしろ、平均以上に優れた資質を持っていたが、如何せん頭が良すぎた。頭で考える癖が強くて、ルミアにしては珍しく、教えることを拒否した。

 

「お前さんは、こうした技を身につけるよりは、軍略の才を伸ばす方がよかろう」

 

 ルミアの言葉にマッケネンは、やはり自分でも思うところがあったのか、素直に応じて戻っていった。

 その後に公爵家での扱いがどうなるかと思ったが、ヴァルナルの元で自らの道を着実に歩んでいるようだ。

 

 だが、この目の前の少年。

 新たにヴァルナルの息子となったというオヅマ。

 

『稀能の発現有り。千の目・(まじろぎ)の爪と思われる…』

 

 その一文に、ルミアはひどく不穏なものを感じた。

 

 古今において数多くの稀能が創出された。続く(つか)い手のないまま(すた)れたものもある。

 その中においても『千の目』は特殊であった。

 騎士などが神経を澄ませて索敵を行うこと自体は、昔からある技…というよりも、人間の持つ一種の危険回避能力の伸長であるに過ぎない。

 しかし『千の目』は、別名を全方位索敵術と呼ばれるだけあって、その技において捉えられるのは、自分を中心とした周囲数里にも及ぶ広範なものだ。しかもそのために、この技は自らの視力を一時的に喪失させるという。

 一つの感覚野を削るなどということ自体が尋常でないうえに、彼らが技を発現させる間、その気配は空気のように消える。あるいは視覚野の喪失とそれは連動しているのかもしれない。

 いずれにせよ、ルミアの教える『澄眼』に比べると極めて繊細であり、至難の技だった。独学での修得など絶対にありえない。実際に『千の目』を操ることのできる術者でなければ、教えることは不可能なのだ。

 

 その上で『(まじろぎ)の爪』。

 これは元は『絶影捷(ぜつえいしょう)』と呼ばれる稀能の技から発展させたもので、違いは相手に気配を悟らせずに、相手を殺傷するものだ。

 

『千の目』にしろ、『絶影捷』にしろ、技それ自体は、相手を害することを目的とするものではない。

 しかし『瞬の爪』は、創出されたときから、殺傷することが目的であった。いや、より確実に殺傷するために創られた… と言ったほうが正しいだろう。

 

 この二つはそれぞれ独立した技であったのだが、これを結びつけたのが、ランヴァルト大公その人であった。

 彼は幼い頃から天才と名高いほどに優秀な頭脳を持っていたが、マッケネンのように理屈でもって物事を考える、というタイプでもなかったようだ。

 

 かつて彼は現皇帝のために、後継者候補であった自らの異母兄弟と、その家族も含めて始末していった。

 その中には広大な離宮の森に隠れて隣国への逃亡を図った者もいたが、彼はこの技をもって、彼らを捕捉してたちどころに惨殺したという。

 逃げた異母兄の皇子はもちろん、その妻子…乳飲み子を抱く乳母も含めて。

 

 長くかかるかと思われた後継者争いが、彼のお陰ですみやかに終息し、人々は彼を称賛し、彼の稀能もまた高く評価されたが、ルミアはどこか気味悪かった。

 

『千の目』はともかくとしても、そこに『瞬の爪』を組み合わせるとなれば、その修練は尋常のものではない。

『千の目』は命の鼓動、命の脈、命の律動を感じる技だ。

 対して『瞬の爪』は、それらを瞬時に抹殺する。

 おそらく、修行を積む上で何がしかの命の犠牲が払われなければ、会得することは難しいだろう。

 

 こうしたルミアの不安を増大させたのが、娘がその大公に魅入られて、その下で働くようになったことだ。

 ルミアが持っている大公への疑懼(ぎく)を語ったところで、熱に浮かされるように彼を崇拝する娘に通じるはずもない。むしろルミアを遠ざけた。

 

 もっとも ――― 母娘(ははこ)としての関係は最初から破綻していたが…。

 

 ルミアは自分と娘の関係について苦い気持ちを飲み下した。

 発端は、その名に含まれる一族の特殊な事情による。

 

 デルゼの一族は、なにかしらの技能を持ち、全うすることを生涯の目的とする。

 技能の種類は様々だ。

 ルミアの母は、刺繍に長けた人で、注文も絶えなかった。

 他にも優れた料理人であったり、宝石職人であったり、軽業師(かるわざし)であったり…いずれにせよ一つの技芸を身につけ、それで身銭を稼ぐことが、一族の習わしであった。

 

 ルミアは叔母からの薫陶を受けて、剣士としての技を磨いた。

 元々『澄眼』と呼ばれる稀能は、ルミアの何代か前の先祖が創出した技だった。長らく子々孫々に細々と受け繋がれてきたが、誰にでも頑張れば身につけられる…といった類のものではなかったので、叔母は自分の娘よりも、適性のあるルミアに技を伝えたのであろう。

 

 デルゼの一族は、集合個体としての側面を持ち、一族の子供は一族全体で育てるという気風がある。(もっとも昨今では各地に散って、忠実に守る者も少なくなってはきているが。)

 

 いずれにせよルミアは叔母の元で修行を積み、その後には戦士として各地の紛争において功績をたてた。

 女だと馬鹿にする者ももちろんいたが、そういう人間から叩きのめしていったので、次第に彼女を侮る人間はいなくなった。

 やがて戦場で知り合った男といい仲になって、娘を産み、母に預けた。

 ルミアとしては、娘には母の技を継いでほしかったのだ。

 

 しかしルミアの知らぬ間に母が亡くなり、娘は従姉妹夫婦、その知り合いの行商人などをたらい回しにされ、行方知れずとなった。

 ルミアは娘は死んだと諦め、自分の罪悪感と一緒に娘への情愛を封じた。

 それから十数年を経て、最終的に伝手を頼ってルミアの元にたどり着いた娘に再会したものの、もはや母娘としての関係には戻れなかった。

 彼女がルミアのところに来たのは、母親を探していたからではなく、より強くなるためだった。

 母という存在に何らの思慕も、期待もないようだった。

 

 ルミアに娘を諭すことなどできるはずもなかった。

 彼女の生きてきた道程が生半可なものでなかったのは明らかだ。

 戦士であれ、闇ギルドの組織構成員であれ、おそらく娘は生き延びるための手段として、強くあることを選んだ。その手札の一つとして、ルミアの持つ稀能の技を手に入れたかった。

 そう…母子相伝など彼女には何らの意味もない。

 ただひたすらに仕事において、必要であるから。

 残念なことに、娘はルミアの血を色濃く継いだのか、戦士としての素質は十二分にあった。

 

 ルミアは不本意ながら娘に技を伝えた。彼女はさほど労せず修得すると、まともに母娘としての会話のないまま、唐突に去った。

 そのまま一切の交流もなく断絶していたのだが、二年前にひょっこりとハルカを連れて現れた。

 

「否やはないだろう?」

 

 当然のように言われて、ルミアに断ることなどできなかった。

 自分がかつて母にしたように、娘もまた母であるルミアに、自分の娘を預けたのだ。

 

「その娘にも『澄眼』を教えておけ」

 

と言って去ったので、いずれ役に立つ年齢となったときには、引き取りに来るのかもしれない。

 

 いずれにしろ今、娘は大公家にいる。

 おそらく『澄眼』だけでなく『千の目・瞬の爪』を修得するために。

 あるいは既に修得して、大公の護衛にでもなっているのかもしれない。だとすれば、大公に代わって『千の目』を教える立場にあるとしても、不思議はないだろう。

 

 そこへきて、今回のオヅマの話だ。

 

『稀能の発現有り。千の目・瞬の爪と思われる…』

 

 あの稀能が、むやみに発現などするはずがない。

 適正な教練もなしに、偶然に発出できるような代物ではないのだ。

 

 ルミアの疑念をますます深めたのは、オヅマの態度だった。

 ルミアを見るなり、ひどく動揺して倒れそうになった…。

 それに ――――

 

 

 ――――― お前の母さんの名前は?

 

 

 まるで確認するかのように、ハルカに尋ねていた。

 なぜそんなことを聞くのかと思った。しかも「リヴァ=デルゼ」と答えたハルカに、オヅマの反応はどこか奇妙だった。

 

 

 ――――― ……そうか…

 

 

 まるで既知のことであったかのように、少し暗い声でオヅマは頷いた。

 

 あり得ない稀能の発現と、娘の名前を知っていること。

 それらを結びつけるのは、オヅマが娘から『千の目・瞬の爪』の修練を受けていたかもしれないという可能性だ。

 

「お前さん、私の娘のことを…リヴァ=デルゼを知ってるのかい?」

 

 





次回は2023.07.09.更新予定です。


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第百三十八話 オヅマの修行とアドルの手紙

 ルミアの問いに、オヅマはしばらく答えられなかった。

 

 知っている、と言ってもそれは()の話で、現実においてオヅマはリヴァ=デルゼを知らない。

 会ったこともない。

 たとえ今、このときも()の中のリヴァ=デルゼの哄笑(こうしょう)が、脳髄に染み込んでズキズキ痛んでいたとしても…。

 

「知りません」

 

 静かに答えると、オヅマはギュッと唇を引き結んだ。

 何を聞かれようと、そうとしか答えることはできない。

 ()のことを思い出すのも、話すのも嫌だったし、信じてもらえるはずもないのだ。

 

 ルミアは深刻な顔で黙すオヅマを、しばらく見つめていた。

 大きなセピアの瞳がじっと見てくる。 

 それはリヴァ=デルゼのように威嚇するものではない。問い詰めるものでもない。だが、穏やかでありながら透徹とした光が、オヅマを貫くように見ていた。

 ちょっとした嘘程度なら、この目の前で洗いざらい白状しただろう。

 だがオヅマのそれは嘘ではなく、()物語でしかないのだ。本気で話し始めたら、気が狂ったと思われる。

 

 剣術の試合で対峙するかのように、オヅマは必死でルミアの目に耐えた。

 にらみ合いは思ったほど長く続かず、先に目を伏せたのは、ルミアのほうだった。

 

「あぁ、そうかい。じゃ、いいや」

 

 軽い溜息とともに、あっさりと自らの疑問を放り出す。

 オヅマは面食らった。

 

「へ?」

「なんだい、拍子抜けみたいな顔して」

 

 ルミアのセピアの瞳がジロリとオヅマを見たが、そこには特に疑心暗鬼な様子もない。ふたたび煙管(キセル)を咥えて煙草をのむと、プハーっと煙を吐いて言った。

 

「私は面倒くさがりでね。当人が言わないことを、いちいち聞いて厄介事をかかえるのも御免蒙りたいし…ま、アンタが娘を知っていたところで、私がアンタに教える内容が変わるわけでもない」

 

 オヅマはゴクリと唾を飲んだ。

 反射的に体が強張ったのは、リヴァ=デルゼから受けた修練を勝手に記憶しているからかもしれない。

 

「あの…修練の内容って、どんなものですか?」

 

 思い切って尋ねると、ルミアはクッと片頬に笑みを浮かべた。

 

「とりあえずは、スジュの実を当てられないように、川まで辿り着くことだ」

「え?」

「しばらくは、あの豆猿共がアンタの師匠になる」

 

 ルミアの言葉通り、翌日からオヅマはほぼ毎日、豆猿たちに()()をつけてもらうことになった。

 

 

 

***

 

 

 

「だーッ!! テメーらッ!」

 

 怒鳴りつけながら逃げ回るオヅマの背に、またスジュの実が一つ当たる。

 

 すばしこい豆猿たちは、木の上からだけでなく、地上にまで降りてきて足元から投げてくることもあり、それこそ全方位からオヅマに襲いかかってくる。

 いや、正確には彼らはオヅマを襲っているというより、オヅマ()遊んでいた。

 

 ルミアはこの一帯を縄張りとしている豆猿グループを餌付けして、彼らに修行にやってきた人間の稽古をつけてもらっているらしい。

 多くの修行者達がルミアの元を早々に去っていくのも、この屈辱的な稽古についていけない…という理由もあった。

 確かに貴族や、騎士として代々家門を継いできた誇り高い者であれば、猿ごときに馬鹿にされているかのようなこの修行を、耐え忍ぶのは難しかったろう。

 

 しかもルミアからは猿に手出しをすることは、重く禁じられている。

 もし、猿に対して攻撃を行った場合には、修行の一切を停止され、主君には「恥知らずの不埒者」と通告された。

 これはもはやその家門で騎士としての職を奪われるに等しい。

 騎士でなくとも、ルミアは近隣の傭兵組織にも顔がきくので、もし『埒外者(ゼルガイ)』の書状が出回ったときには、戦士として働くのも容易でなかった。

 どちらにしても、猿への暴行が明らかになった時点で、ルミアの鉄拳制裁は覚悟せねばならない。

 

 オヅマは豆猿たちの()()を屈辱とは感じなかった。

 そもそも容赦なく投げてくる実を避けるのに必死で、そんなつまらないことを考える暇もなかった。

 最初に魚を取りに行ったときと同じように、シャツをほぼ真っ黒にしては、洗濯草で洗う日々が続いた。

 

「あんなの、どうやってよけろってんだ…」

 

 ボヤくオヅマの横には、まったく汚れていないハルカがいる。

 

「お前、どうやってよけてるんだ?」

 

と、オヅマが聞いても、ハルカは表情を変えずに目を瞬きするだけだった。

 

「まだまだだねぇ」

 

 ルミアは今日も洗濯するオヅマを見て笑った。

 

「無理ですよ。一個よけても、次には後と横から来るんだから」

 

 オヅマがぶつぶつと文句を言うと、ルミアはフンと鼻をならす。

 

「そうかい。ヴァルナルなら、全部よけてるだろうがね」

「………」

 

 ヴァルナルの名前を出されてはグウの音も出ない。

 確かに『澄眼(ちょうがん )』の稀能(きのう)を発現すれば、猿たちの投げてくるスジュの実もまたゆっくりと見えて、よけることなど造作もないのだろう。

 

「アンタはまだまだ限界が早いね」

「限界が早い?」

「最初の十個までは、まぁまぁよけられる。でも、走っていくほどに、当てられる数が増える。粘り強さが足りない。途中でへたばっちまうのさ」

「………」

 

 オヅマはムっとなった。

 レーゲンブルトにおいても、公爵家の騎士団での訓練においても、オヅマはそこそこ体力のあるほうだとされていた。カールのような華麗な剣技は無理だとしても、粘り強さ(スタミナ)には定評があったのだ。

 

 ルミアは明らかにふてくされたオヅマを見て、片頬を上げて笑う。

 

「不本意、と言いたげだね」

「……正直、騎士団の走練だって、俺は一番最後まで残ってます」

 

 騎士団で行われる走練は、速さを競うものよりも、長く走っていられることのほうが重要視される。オヅマは持ち前の負けず嫌いもあって、終了を言い渡されるまで走っていることが多かった。

 

 しかしルミアはヒラヒラと手を振った。

 

「あんなの、チンタラ走ってるだけじゃないか。足を動かしてるってだけだよ。ま、自信があるなら……」

 

 次の日から、ルミアは早朝の走練を課した。

 しかも背負子(しょいこ)を背負わされ、二山越えて、最近間引きが行われた森まで行って、間伐材を(まき)にして持って帰ってくるように指示された。

 

「ふん。余裕だ」

「そうかい? あの子にどこまでついていけるかねェ?」

 

 言ってるそばからハルカは黙々と準備して、さっさと出発する。

 

「馬鹿にすんなよ、婆さん」

 

 気安い口調で言って、オヅマは走り出した。

 走ることは、オヅマの得意分野であった。昨日も言ったが、レーゲンブルトにいた頃でも、走練では騎士団の誰にも負けたことはない。そもそもヴァルナルに目をかけられたのも、ラディケ村からレーゲンブルトまでの距離を、とんでもない速さで走ってきたことが発端だと、のちにカールから聞いている。

 

 豆猿たちからの()()ではハルカに遅れをとっても、山を走るだけならば負けることはないだろう…。

 オヅマは余裕綽々と走り出した、が。

 

 

***

 

 

「情けないねぇ。いつまで座りこんでるんだい。とっとと飯食って、豆猿たちのところに行きな!」

 

 ようやく帰ってきたものの、薪の入った背負子をドサリと降ろしたと同時に、オヅマはその籠に寄りかかるように座り込んで動けなかった。

 目の前では、ハルカが自分が運んできた薪を薪小屋に置いていっている。その顔は同じ距離を走ってきたとは思えぬほど平然としていた。

 

「化物かよ、お前は…」

 

 何気なくつぶやくと、ハルカが暗い目でジッと見てくる。すぐにオヅマは訂正した。

 

「違う。お前がスゴイ奴ってことだ」

「ハハッ! レーゲンブルト育ちの騎士見習いも兜を脱いだかい」

 

 ルミアに笑われても、オヅマはもはや何も言えなかった。

 実際、自分が未熟であることは、今回の山走りで痛感した。

 

 豆猿たちからの稽古は慣れないものであったから仕方ない、と誤魔化せたが、走る訓練はレーゲンブルト騎士団にいた頃からやってきたことだった。それもオヅマには自信があったのだ。

 しかし、ハルカの脚力はオヅマの想像を遥かに超えていた。

 

 小川を軽く飛び越え、坂道を駆け上り、険しく足場の悪い獣道でも、一向に速度が落ちることはない。ほとんど壁のようになっている岩場もあったが、這い登るのも降りるのも、それこそ猿のように速かった。

 それに健脚であるという以上に、身体をそこまで酷使しても、ハルカが息を乱すことはほぼなかった。

 心肺機能の鍛え方が違うのだ。しかし ――――

 

「これって……『澄眼』に関係あるんですか?」

 

 オヅマが尋ねると、ルミアはフフンと笑った。

 

「訓練を()()()のと、()()は違うんだよ。何のためかは、自分で考えな」

 

 言い捨てて、ルミアはオヅマに背を向ける。

 

「…クソ…っ」

 

 オヅマは自分がみっともなくて、苛立った。

 ルミアはオヅマが迷っていることに気付いているのだ。

 豆猿たちからの稽古にしろ、この走練にしろ、いったい何のためにやっているのかわからない。

 その上、その与えられた課題を、何一つ満足にこなせていない自分…。

 

 黙念と地面に座り込んでいるオヅマの前に、いつの間にかハルカが立っていた。

 顔を上げると、やっぱり表情のない一重の瞳が、オヅマをじっと見つめていた。

 

「なんだ…?」

 

 問いかけると、ボソリとハルカが言う。

 

「……なれ」

「なれ?」

 

 問い返すオヅマにハルカは頷いた。

 もう一度言う。

 

「なれ。なれる」

「なれる…?」

 

 ハルカは頷くと、オヅマの()ってきた薪を運んでいく。

 オヅマもノロノロと立ち上がると、薪を運びながらつぶやいた。

 

「なれ…なれ…なれる…馴れる…?」

 

 

 

***

 

 

 

 緑清(りょくせい)の月に入ると、季節は一気に暑さを帯びた。

 比較的過ごしやすいとされるここ東北部のズァーデン地方であっても、確実に夏の気配が草いきれに混じって匂い立つ。

 

 あれからもオヅマの日常はそう変わりなかった。

 早朝から二山越えての走練と薪拾い、豆猿たちからの()()も続いていた。

 

 一月近く、この修業をしている間に、オヅマはハルカの言っていた『なれ』の意味が徐々にわかりはじめていた。

 要は『馴れろ』ということだ。

 頭で考えるよりも馴れて、体を順応させていく。

 

 確かに最初の頃に比べると、豆猿たちからのぶつけられる実の数も格段に減った。それはある意味、目が馴れた、といえる。

 豆猿たちが投げてくる実が、さほど速く感じなくなってきたのだ。目だけでなく、投げた実の迫ってくる音や、豆猿の気配といった感覚も、以前に比べるとひときわ鋭敏になった気がする。

 走練においても、今ではハルカを追い越すまでになったが、これにはまた別の事情もあった。

 

「さて。稀能(きのう)をやるなら、()()というヤツを教えようか」

 

 ルミアは勿体ぶって言い出したが、実際にそれは稀能修得の鍵となるものだった。

 

 呼吸による集中。

 これができなければ、稀能を発現することは不可能と言ってもいい。

 

 そのために学ぶのが呼吸法なのだが、多くの修行者たちにとって、呼吸という普段からやり馴れているはずのこの動作、あるいは極めて必然的な生命維持活動は、いざ『技能』として行うと、最も難度の高い、修得に時間のかかる代物だった。

 しかしオヅマはルミアの手本を真似ただけで、なんの造作もなく出来てしまった。むしろ最初から集中が深すぎて、鼻血が止まらなくなり、ルミアが急遽止めに入ったくらいだ。

 

 呼吸による集中は神経を研ぎ澄まし、尋常でない力を引き出すが、身体にも影響を及ぼす。その副作用を減らすためにも、体を鍛える必要があるのだ。

 

 ルミアはオヅマの持つ特異な才能に驚きつつも、やはり疑問がぶり返した。

 これは才能なのか、あるいは既に()()()()()()のではないか…?

 しかしオヅマに尋ねることはなかった。聞いたところで、また「知らない」と言うのが目に見えている。

 

 話を元に戻すと。

 

 オヅマはこの呼吸法を利用することによって、心肺能力も飛躍的に向上し、走練においてはハルカを追い抜いた。もっとも、これまでハルカが凄すぎたのであって、これでようやく年の差分になっただけだと、オヅマは思っている。

 

 ルミアは時々、オヅマの剣撃の相手もしてくれたが、わざと隙をつくって、オヅマに存分に打ち込ませるだけだった。

 

「ちゃんと攻撃しろよ! 稽古になんねーだろ!!」

 

 まったく向かってこないルミアにオヅマが怒って言うと、しゃあしゃあと返してくる。

 

()()()()()()()()()()は、アンタ次第だね」

「こンの…クソ婆ッ」

 

 悪態をつくが、ルミアはカラカラ笑って相手しない。

 オヅマは口ではルミアに文句を言いながらも、そろそろ気付き始めていた。

 

 

 ――――― 訓練を()()()のと、()()は違うんだよ 

 

 

 おそらくここでは騎士団のように、与えられた訓練をこなすだけでは駄目なのだ。自分にとって何が必要なのか、何を学ぶべきなのかを、自ら見出していかねばならない。

 

 だが『澄眼(ちょうがん)』という稀能を修得するために来て、オヅマはまだ何一つとして理解できていない。

 与えられた課題の中で、いったい何が必要なのか、自分がいったい何を学べばいいのか。

 今のところは、ただ()()()()()というだけ。

 成長できているのかもわからない。

 

 しかし修行について悩むところはあっても、オヅマはここでの生活をある意味満喫していた。

 早朝から日暮れまで、自分のおまんまを調達することも含めて、ほぼ走り回っているような毎日ではあったが、公爵邸での堅苦しい日々に比べると、ずっと気楽だ。

 ルミアは師匠で、偉そうではあったが、礼儀作法に厳しいわけでもない。(「クソ婆」と言われても笑っていたくらいだ)

 ハルカも相変わらず愛想はなかったが、オヅマが困っていると無言で手助けしてくれたし、最近では剣撃稽古の相手もしてくれる。

 

 そんなわけで、すっかりこちらでの生活に馴染んでいたオヅマに、アドリアンからの手紙が届いたのは、緑清の月半ばの、雨の日のことだった。

 

 

***

 

萌芽(ほうが)の月 末日

 

 新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)の前日、晩春の夜に書き記す。

 

 いよいよ明日には帝都へと出発する。

 元気かい? たぶん元気だろうと思ってる。

 何かあれば公爵邸に(しら)せが来る、ってベントソン卿が言っていたから、何も来ないということは無事なんだろう。

 

 君が()()()()()手紙なんて書くはずもないしね。

 

 君のことだから、師匠という人の厳しい稽古にも、()()()()ついていってるのだろうね。公爵邸よりもそちらでの暮らしの方が、案外楽しかったりするのじゃないかい?

 僕は明日から長旅だ。帝都に着いたあとのことを考えても、憂鬱になるばかりだよ。

 

 この前、ヴァルナルに剣術の稽古を受けているときに、僕もズァーデンに行って修行を受けたいと言ったら、皆に反対された。

「大貴族の若君には必要ございません」だってさ。

 誰が言ったのかは、想像できるよね?

 大公殿下だって稀能者なんだから、僕だっていいじゃないかと言ったけど、「大公殿下は別格でございます」だってさ。

 本当にマティの石頭にはかなわないよ。

 

 そういえば黒角馬(くろつのうま)が、とうとう公爵家の騎士団にも入った。

 僕も黒角馬と普通の馬との(あい)の子を一頭、もらえたよ。白葦毛(あしげ)の、まだ角も短いけど、とてもおとなしくて利口な()だ。

 どうせなら騎乗して帝都まで行きたかったけど、それも禁止された。

 帰ってくるまではおあずけだってさ。

 

 エーリクも特別にヴァルナルの厚意でもらえたんだけど、彼は帝都まで騎乗して行くことを認められて、もう嬉しくてたまらないみたいだ。

 普段は固まってる顔が、馬のことを考えていると、緩んじゃうんだろうな。

 馬具の手入れをしながらにやけてるエーリクを見て、キャレが「エーリクさんは、何か悪いものでも食べたのでしょうか?」って、真面目に尋ねてきたよ。久々に大笑いしたな、あれは。

 

 僕らが帝都から戻る頃には、君も帰ってきているだろう、ってヴァルナルが言っていた。

 修行って、何年もかかるのかと思って、君がそうだったらどうしようかと思っていたけど、ヴァルナル曰く「半年でモノにできないなら、もうそれは才能がないということです」だってさ。

 厳しいね。

 それに稀能を修得できてからも、鍛錬は必要なんだって。だからヴァルナルは、騎士団の訓練以外でも、自分だけの時間をつくっては、鍛錬しているらしい。

 君もヴァルナルのようになっていくなら、ますます差が開く一方だ。

 剣術においては君と互角でありたかったのに。

 

 いずれにせよ、僕はものすごく憂鬱だってことだ。

 嬉々として修行に行ってる君と違って。

 まさか本当にあの日のうちに出発するなんて思わなかったよ。聞きたいこともあったけど…まぁ、また帰ってきてからにしておく。

 

 アールリンデンに戻ったら、しばらくはみっちり補講を受けてもらうよ。再来年の紫鴇(しほう)の年には、アカデミーに入ることになってるからね。

 そのつもりで!

 

 年神様(サザロン)の加護あらんことを。

 

 アドリアン・オルヴォ・エンデン・グレヴィリウス』 

 

***

 

 

「…………」

 

 オヅマはそのままそっと畳んで、読まなかったことにしようかと思ったが、そうもいかない。

 

 アドリアンはおそらくヴァルナルからここでの情報を得たのだろう。その上で、オヅマがここの生活に順応しきって、羽根を伸ばしていると予想した。

 間違ってない。さすがだ。

 しかし ―――

 

「俺に当たるなよ、俺に。愚痴を書いてくるか、わざわざ」

 

 自然と溜息がもれる。

 

 おそらくこの手紙で一番言いたかったのは、ロクに説明もせずに早々にズァーデンに旅立ったオヅマへの文句だ。

 普段、物分かりのいい、よく出来た小公爵様然としている分、反動がオヅマに来る。他の近侍にもこんな愚痴が言えればいいのだが、最初から小公爵として対面しているせいか、なかなか難しいのだろう。

 

「……っとに、困った小公爵サマだ」

 

 言いながら、手紙をまたざっと読み返す。

 途中にある一文に顔が曇った。

 喉にこみあげてくる苦味を無理に飲み下し、深呼吸する。

 脳裡に浮かび上がってきそうなその影を打ち消して、仕方なくペンを手に取った。

 

 

『緑清の月 某日

 

 前略 嫌味たらしい小公爵さま …………』

 





次回は2023.07.16.更新予定です。


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第百三十九話 会うことのなかった男

 ルミアの課す修行は日暮れまでで、その後に夕食を食べたあと、寝るまでの時間は自由だった。もっとも自由といっても、洗濯や身の回りの掃除などは自分でせねばならないし、ランプの油も節約せねばならないので、やれることは少ない。

 それでもオヅマはほぼ毎日、剣の素振りだけは欠かさなかった。これはもうレーゲンブルト時代から続けてきたことなので、雨であろうが雪であろうが、やらねば気持ち悪いのだ。

 

 その夜も素振りをしたあとに行水して汗を流し、屋根裏部屋のベッドに寝転がったオヅマに、珍しくハルカが近づいてきた。物言いたげに立っている。

 

「ん? なんだ?」

 

 起き上がると、ハルカは若草色の細長い包みを差し出してきた。

 

「あ……」

 

 それは、ここに来るときに、ヴァルナルがミーナから預かったと渡してきたものだ。

 昨晩、そろそろ夏物の服が必要かと思い、持ってきた荷物の整理をしたときに、(ふくろ)の底にあったそれを取り出して、そのまましまい忘れていたらしい。

 

「落ちてた」

「おぅ。すまねぇな」

 

 受け取ったものの、ハルカはじーっとその包みから目を離さない。

 

「なんだ?」

 

 オヅマが尋ねると、ハルカは首を傾げる。

 珍しく興味をもったようだ。普段、滅多と感情を表すことのないハルカの好奇心に、オヅマは少し嬉しくなった。

 

「中身、見るか?」

 

 言いながらハルカの返事を待つことなく、オヅマは包みを開く。

 そこにはやはり予想していた通り、笛があった。蔦の浮き彫りが施された象牙色の横笛(トラヴェルソ)

 

「…笛?」

 

 ハルカが小さな声で尋ねる。

 

「あぁ。母さんが持っとけって…無理やりな」

「母さん…? 形見?」

「違う違う! 生きてるよ。自分には必要ないから、俺に持っとけって」

 

 オヅマは言ってから、その笛を見つめた。また暗く、懐かしい気持ちがこみ上げる。

 黙り込んだオヅマに、ハルカが尋ねた。

 

「笛…吹ける? オヅマ」

「え? あ…うーん…どうだろうなぁ」

 

 オヅマは自信なさげにつぶやいたが、チラとハルカを見れば、その眼差しは期待に満ちあふれていた。普段は腫れぼったく細い目が、いつもの三倍は開いて『聴きたい、聴きたい』と訴えてくる。

 

 オヅマはポリポリと額を掻いた。

 ハルカがお願いすることなど、まずもってないので叶えてやりたいが、果たして()のときのように吹けるのだろうか…?

 

「家の中だと、婆さんが起きるかもしんねぇから、上に行こう」

 

 そう言ったのは、()の中でも屋根の上で吹いていたからかもしれない。

 ルミアの山小屋の屋根は、隣のロンタの木との間に板を渡してあって、ちょっとした露台が組まれている。そこは普段は主に洗濯物を干す場所だった。

 山の中の木々に囲まれた家とはいえ、見上げると無数の星が瞬いている。

 

「吹けなかったら、勘弁な」

 

 オヅマは一応、あらかじめ断っておいた。

 別に吹けなくても、ハルカがあからさまにガッカリするようなことはないだろうが、期待させている分、できない自分にオヅマ自身がガックリきそうだ。

 

 目を瞑って、思い出す。

 ()の中で無心に吹いていた自分を。

 両手で柔らかく笛を持ち、そっと唄口に唇を添わせる。

 

 軽く息を吹きかけると、懐かしい音が鳴った。

 オヅマは古い友達に久しぶりに会えたような気持ちになった。じんわりとした温かさに包まれる。

 ゆっくりと、最初はたどたどしく音を探りながらであったが、音色を奏でるほどに、もはやオヅマは自分で吹くというよりも、ただ指の動くまま、息の紡ぐままに任せた。

 

 笛を正式に習ったことはない。

 ()の中で、エラルドジェイと旅する途中で一緒になった旅芸人の楽士に、音の出し方を教わっただけだ。

 曲も、よく聞いていた子守唄しか吹けない。

 いつも同じ曲だったのに、飽きもせずに聞いていた ――― ()()()()

 

 不意に訪れた既知感に、オヅマは吹くのをやめる。

 どうしたのかと見つめるハルカと目が合った。

 

 

 ――――― 我が主君(きみ)……

 

 

 幻聴と同時に、眼下の森の一隅でガサガサと不自然な音がして、オヅマはビクリと肩を震わせた。

 

「なんだ…?」

 

 闇に包まれた森の中に目を凝らす。

 雲に覆われていた月が出てきて、木々の間に光を落とすと、白っぽい布のようなものがちらと見えた。それから地面に何か落ちたか、倒れたような音。

 

「人…」

 

 ハルカがつぶやく。

 オヅマは頷くと、笛をハルカに預けた。

 

「俺が見てくる。戻ってこなかったら、婆さんに知らせろ」

 

 オヅマは囁くように言ってから、屋根の上からヒョイと飛び降りた。

 布の見えた場所に向かって早足で、しかし音をたてぬように細心の注意を払って近づく。

 また月は雲に隠れたのか、辺りは暗かった。

 枯葉が堆積してできた柔らかい土の上を踏みしめていくと、樫の根本に何かの塊のような影が見えた。

 

 そっと近づくと、「う…」とかすかなうめき声が聞こえ、塊がもぞもぞと動く。

 どうやらそれは人で、起き上がろうとしているようだ。

 

 オヅマは足を止め、低く身構えた。

 いつも腰にかけているナイフの柄に手を伸ばす。

 

 しかし人影はどうにか身を起こしても、立ち上がることはできなかったらしい。そのまま樫の幹に凭れるようにして、仰向けに倒れ込んだ。

 

 オヅマは再びゆっくりと近づく。

 ゆっくり、ゆっくり……そうしてやがて、白い月光がまた射して、樫の木の根本に身を投げだした男の姿を見た途端、オヅマは息をのんだ。

 

「エラルドジェイ…?」

 

 呆然とつぶやく。

 

 まるで、あの()が繰り返されるかのように。

 薄汚れた衣服、すっかり解けた頭の巻布(ターバン)から伸びた紺の髪。手から転がった胡桃。

 

「……よぉ」

 

 小さく呼びかけられる。

 うっすらとエラルドジェイの夜空を宿したような濃紺の瞳が開いて、オヅマを見ていた。

 

「笛の音に惹かれて来てみたら……あのときの坊やか…」

 

 きれぎれに言って、フッと笑う。

 気が抜けたのか、グラリと体が(かし)いだ。

 

「エラルドジェイ!」

 

 オヅマは叫ぶと、あわてて駆け寄った。

 

 

***

 

 

 オヅマがエラルドジェイを引きずるようにして、どうにかルミアの家まで連れて行くと、既に異変を察していたルミアが家の前に立っていた。

 ハルカが走り寄ってきて、オヅマの反対側でエラルドジェイを支えて、助けてくれる。

 

「また、()ッたないのを連れてきたね」

 

 ルミアは腕を組んで言い放ち、眉を寄せたものの、オヅマに目配せして家の中に運ぶように指示する。

 オヅマはそのままエラルドジェイを家の中に運ぶと、部屋の隅にある診療用のベッドの上に寝かせた。

 

 ルミアはかつて傭兵であった時代の知識を活かして、たまに村人たちが怪我したり骨折したりしたときに、簡単な医療行為を行っている。食堂兼居間となってる部屋の隅には、患者を診察するときのために、簡易なベッドが置かれていた。

 

 ルミアはベリベリと容赦なくエラルドジェイの服を破き捨て、腕に仕込んであった四本爪の爪鎌(ダ・ルソー)も手早く取り外した。

 その間にもエラルドジェイの体を診察していく。いくつかの打撲、擦過傷、それに脇腹にはかなり深い刺し傷があった。

 既にそのときには、ハルカはきれいな水を汲みに泉に向かい、オヅマは(うみ)止めの薬を煎じ始めていた。

 

「……俺を助けないほうがいいかもしれんぜ」

 

 エラルドジェイがつぶやく。

 オヅマが助けてから、意識が戻ったかと思ったら、急に気を失ったりを繰り返していた。

 ルミアは皮肉げに言うエラルドジェイに、眉を寄せて尋ねた。

 

「なんでだい?」

「……ゴロツキどもが狙ってやがるのさ。探しているかもしれない…」

「私らの心配をしているのかい?」

「一応…ね…」

 

 エラルドジェイは言いながらまた気を失った。

 ルミアはあきれた溜息をつきながら、(さらし)布を破いていく。

 やがてハルカが水を(たらい)に入れて持ってくると、破いた布を水につけ、固く絞って汚れた傷口周りを拭いていく。ハルカも一緒に刺し傷でない部分の泥汚れなどを拭った。

 オヅマは煎じた膿止めの薬を木の椀に入れ冷ましている間に、戸棚から蒸留酒を持ってきてルミアに渡す。ルミアは受け取ると口に含み、プーッと刺し傷におもいきり吹きかけた。

 

「……ッ痛えッ!!」

 

 またエラルドジェイが目を覚ます。

 オヅマはすぐさまエラルドジェイの体を支え起こすと、ハルカに目配せしてテーブルの上の膿止め薬の入った椀を持ってこさせた。

 

「飲め」

 

 口元に椀を差し出すと、エラルドジェイはプイと顔をそむけた。

 

「ゲッ! やだよ、これ。マズイやつじゃん」

「グダグダ言ってんじゃねぇよ! 嫌なら怪我なんかすんな、馬鹿!」

「うわー、怪我人に容赦ないな…」

 

 いつまでも飲もうとしないエラルドジェイを、ルミアが静かに脅す。

 

「早く飲みな。それとも私が口移しで飲ませてやろうか?」

「………いただきます」

 

 おとなしく椀を受け取ると、エラルドジェイは一気に呷った。オゲー、といかにもまずそうに舌を出し、ぽろりと涙をこぼす。

 

「情けないな、これくらいで泣くなよ」

「だってマズイんだもん」

「ガキみたいなこと言うな」

 

 言っている間にも、ルミアが縫合するための準備をしているのを見て、オヅマはエラルドジェイを強引に寝かしつけ、両手を押さえつけた。ハルカは両足の上に覆いかぶさって、全身で押さえつける。

 

「えっ? なにっ? なにすんのっ?」

「縫うんだよ」

 

 江鮫(かわざめ)*1の髭から作ったという特殊な糸を針に通しながら、ルミアがあっさりと言う。

 

「えぇっ? そんな、せめてルトゥくらい吸わせて」

「馬鹿お言い! 子供がいるのに、()ませられるかい!!」

 

 ルトゥは麻薬入りの煙草だ。確か()の中でも言っていたのを思い出す。

 

 

 ――――― 俺、普段からルトゥ吸ってっから、そんなに痛みとか感じないんだ…

 

 

「普段から服んでたら、そんなに痛みとか感じないはずだろ。大袈裟に痛がるなよ」

 

 オヅマが言うと、エラルドジェイはキョトンとした顔になり、ルミアはフンと鼻をならした。

 

「この若造が。そんなもん常用すんじゃないよ」

「いや…そうだけど…そうだけどさぁ……痛ァーーッッ」

 

 容赦なく、いや些か懲らしめるためもあったのだろうか、いつもよりも念入りにじっくりと、ルミアはエラルドジェイの脇腹の傷を縫合していった。

 

 

***

 

 

 縫合のあと、ルミアは早々に寝床に戻った。

 

「あとは任せたよ」

 

 オヅマは頷き、手伝おうとするハルカにも寝るように言った。

 

「あとは俺がやっておくから。お前は先に寝て、明日俺が寝坊しそうだったら、起こしてくれ」

 

 ハルカは不服そうであったが、結局オヅマの言う通りにした。

 実際のところ、オヅマはさっきからハルカの瞼が下がりそうになるのを見ていた。早寝早起きのハルカには、相当に夜更かしな時間帯だ。

 

 新たな晒で脇腹も含めて胴体をグルグル巻きにすると、エラルドジェイは自らの姿を見て肩をすくめた。

 

「なんだか、これって、木乃伊(ミイラ)ってやつみたいだな」

「フザける元気があるなら大丈夫だな」

 

 言いながら、オヅマは一つを残してランプを消していく。さっきまでは手当てのために、あるだけのランプをつけていたが、もう必要ないだろう。

 

 汚れた服や晒などを片付けていると、エラルドジェイが声をかけてきた。

 

「なぁ、お前さ。なんで俺を助けるんだ?」

 

 オヅマは一瞬、ピタリと動きを止めてから、なんてことないように言う。

 

「怪我人は放っておけないだろ」

「今回だけのことじゃないぜ。前もだ」

「あのときは……」

「俺を逃がしたじゃないか、あのとき。正直、あそこから逃げても、とっ捕まると思ってたんだ。でもお前、俺のこと言わなかったろ? 騎士団の奴ら、俺を見ても素通りだったからな」

 

 オヅマは黙り込んだ。

 エラルドジェイとの対決のあと、ダニエルの首を斬ったあたりのことは、その後の悪夢も含めて思い出したくない。

 

「まぁ、俺はいいんだけどさ。どっちにしろ命拾いできたから」

 

 エラルドジェイは答えないオヅマを深く追求してはこなかった。

 こういうところも、変わってないな…と、オヅマは懐かしい気持ちになった。

 

「それで? あんたはどうしたんだ、その傷」

 

 反対に尋ねると、エラルドジェイは気まずそうに目を逸らす。

 

「また誰かに追われてるのか?」

「また?」

 

 耳聡く聞きつけて、エラルドジェイが問い返すのを、オヅマは適当にいなした。

 

「あんたのことだから、そんなのかと思ったんだよ」

「まぁ、間違いじゃあないけどな」

「いったい誰にやられたんだ? あんたがこんな一方的にやられるはずないだろ」 

「おっ。さすがに一度はやりあっただけあって、俺の実力はお見通しってか」

「フザけるな。ここらのゴロツキや山賊程度に、あんたがこんなになるまでやられるわけない。それこそ人質でもとられない限り…」

 

 オヅマがそう言うのは、また()でのことを思い出したからだ。

 エラルドジェイと共に旅している途中で、マリーとオヅマ二人を人質にとられて、エラルドジェイがそれこそゴロツキどもから散々に痛めつけられたことがあった。このときはオヅマが拘束の縄を切ったことで、反撃の端緒となり、その場にいた全員がエラルドジェイに完膚なきまでに叩きのめされた。

 

「いやー、お恥ずかしい」

 

 エラルドジェイはとぼけたように言って頭を掻く。

 

「昔の知り合いが人質になっちまって、こりゃあ仕方ないかと思ってたら…これが見事に騙されちまって」

「は?」

「いやー。油断油断」

 

 やけにニコニコと笑うエラルドジェイを見て、オヅマはそれ以上は言っても無駄だと諦めた。

 

「もう寝ろよ。心配しなくても、ここは大丈夫さ。ここいらの奴で、師匠に手を出す馬鹿はいない」

「師匠? もしかしてさっきの婆さん?」

「あぁ。あの人は稀能(きのう)を扱えるんだ。そうじゃなくとも、元は戦士だからな。まともにやって勝てる相手なんて、そうはいない」

「へぇ。稀能の戦士なんて、下手な三文小説にしか出てこないもんだと思ってたけど…あ、そういやヴァルナル・クランツがそうだったっけ? え? お前、もしかして修行中? ご領主様に行ってこーい、って送り出されたの?」

「……そうだよ。ホラ、あんた…熱出てきてるんだろ? ったく、具合が悪くなってくると、やたら喋りだすんだからな。寝ろって」

 

 オヅマは無理やり寝かせてから、手持ち無沙汰そうに指を動かしているエラルドジェイに気付く。

 

「明日、胡桃(くるみ)とってきてやるよ。あの樫の木あたりに落ちてるだろ…」

 

 何気なく言うと、エラルドジェイは怪訝な顔になった。

 

「お前……なんで知ってる?」

「え?」

「俺が胡桃で遊ぶの。なんでそんなことまで知ってるんだ?」

 

 またオヅマが返事に窮すると、このことばかりはさすがにエラルドジェイも無視できなかったらしい。

 

「俺、お前とどっかで会ったことあったっけ? あの倉庫で会ったよりも前にさ」

「さぁ…あるのかもな」

 

 オヅマは答えながら、自分でも()と現実が混ざり合って、記憶としておかしな状態だった。

 

 オヅマにとって、エラルドジェイは懐かしい人だった。

 今こうして話せるだけでも、嬉しくてたまらなかった。

 けれど、今のエラルドジェイは一緒に帝都まで旅したことなどない。なんであれば最初の出会いは、()だったのだ。

 

 自分だけに、あまりに鮮明で思い入れの強い()の記憶があることが、オヅマにはもどかしくて、寂しかった。

 ()()エラルドジェイと()()()()()()()()()()自分。

 けれど、()()エラルドジェイに出会うために、むざむざ母を悲惨な死に追いやることなど論外だ。

 コスタスは水路に落ちて死んだ。それがもっとも()()()(コスタス)の死に方だ。 

 

「くそ……ちゃんと聞きたいってのに……眠い」

 

 エラルドジェイはぶつぶつ文句を言いながら、瞼が下りていくのを止められないようだった。

 ルミアに言われて焚いておいた安眠香が効いてきたらしい。

 オヅマが立ち去ろうとすると、はっしと腕を掴み、必死に眠気と戦いながら尋ねてくる。

 

「お前……名前…は…?」

「オヅマだよ」

「オヅマ……オヅマ……誰だっけ……?」

 

 むにゃむにゃと寝言のようにつぶやきながら、とうとうエラルドジェイの瞼が落ちた。

 

「おやすみ」

 

 オヅマはクスリと笑って、ランプを消した。

 

 

*1
*東部の川に生息する鮫の一種





次回は2023.07.23.更新予定です。


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第百四十話 流れ者たち

 次の日になって、オヅマとハルカが朝の走練を終えて帰ってきても、エラルドジェイは寝ていた。

 

「別に問題はないさ。おそらくこの数日、まともに寝てなかったんだろう。目の下にクマができていたしね」

 

 ルミアの言う通り、ぐっすり眠っていて呼吸は穏やかだった。

 オヅマはひとまず胸をなでおろすと、豆猿たちの稽古の前にエラルドジェイを見つけた森の方へと入っていった。

 昨日約束していた胡桃(くるみ)を探すため、(かし)の木の周辺をキョロキョロと見回す。

 

「なにを探しているの?」

 

 女の声に振り返ると、そこにはやや茶味がかった金髪の、化粧の濃い女が立っていた。やたらと胸を強調したような肉感的で、派手な色合いの服を着ていることからしても、村人の類でないことは知れた。山賊の首領が囲っている女か何かだろうか。

 

「フン。坊やがジロジロと見ることねぇ」

 

 薄茶の瞳を細め、婀娜(あだ)っぽい口調で言う女を、オヅマは半ば軽蔑の眼差しで見て、無視した。早く稽古に戻りたかったし、そのためにはさっさとエラルドジェイの胡桃を見つけてやらねばならない。

 

 何も見ず、何も聞こえていなかったように無視するオヅマに、女はギリッと奥歯を噛み締めた。

 

「坊やが探しているのは、コレじゃないの?」

 

 凝りもせずにまた声をかけてくる。

 オヅマは鬱陶しそうに振り返って、女の手の中に胡桃を見つけた。

 

「あっ、それ」

 

 言いながら手を伸ばすと、女は胡桃を握りしめて自分の胸元に引き寄せる。

 ニィと紅い唇が吊り上がった。

 

「やっぱりね」

 

 オヅマは女のつぶやきを怪訝に思いながら、怒鳴りつけた。

 

「オイ! それ返せよ!!」

「あら、どうして?」

「欲しがってるやつがいるんだ」

「あら、そう」

 

 女はますます楽しげに笑って、オヅマに問いかけた。

 

「誰が、欲しがってるの?」

 

 その悪意を滲ませた微笑みに、オヅマは直感する。

 

「…………お前か?」

 

 問いかけながら、ほぼ確信していた。

 エラルドジェイのあの傷。 

 

 

 ――――― 昔の知り合いが人質になっちまって……

 

 

 たとえ人質がいて、殴られるようなことがあったとしても、あの脇腹の傷はそう簡単に負わせられるものではない。

 

 

 ――――― 見事に騙されちまって…

 

 

 それこそ、騙し討ちにでもあわない限り。

 

「お前だな? ……ジェイを刺したの」

 

 女は一気に様相の変化したオヅマに、やや後ずさる。しかし口元には皮肉げな笑みをどうにか浮かべた。

 

「ふ…ふ……あの男、やっぱり死んでないのね。アンタが助けたの?」

「答える必要があるか?」

 

 低く答えながら、オヅマは女を睨みつけて一歩、近づく。

 女はまた一歩、あとずさった。

 

「ちょ…っと、待ちなさいよ。アンタに関係ないでしょ?」

 

 薄茶の瞳は焦りの色を浮かべながら、必死でオヅマを睨みつける。

 しかしオヅマは冷然と女を見て言った。

 

「助けた以上、関係ないとは言えない」

「やさしいこと! でも、無駄よ。あんな男に」

「あんな男?」

「ヤツは冷酷な男よ。悪魔よ。お菓子でも貰って、使いっ走りにでもされた? 人当たりは良くても、アイツは最低の男よ。騙されてるのよ、アンタ」

 

 早口に悪口雑言を並べ立てる女を、オヅマはしげしげと見つめたあとに、ハァーッと溜息をついた。

 髪を掻き上げて、ポリポリと額を掻きながら、あきれたように言う。

 

「なんだよ…あんた、ジェイに捨てられて、逆恨みしてんの?」

「なっ! 誰がッ!!」

 

 女は途端に真っ赤になった。「ふざけんじゃないわ!」と、持っていた胡桃を投げつけてくる。

 頭と胸、別々の方向に飛んだ二つの胡桃を、オヅマは難なく掴み取った。

 

「たいがい女の人って、言い当てられたら真っ赤になって怒り出すって聞いてるよ」

「アイツが言ったの!?」

「いや。…悪い大人から」

 

 このとき、オヅマの脳裡にいたのはルーカス・ベントソンだったが、当然ながら女はそんなことは知らない。

 

「子供に何を話してるのかしら! あの馬鹿!!」

 

 すっかり勘違いして怒り狂う女を、オヅマは白けた目で見ていた。

 本当にこんな間抜けな女にエラルドジェイがやられたのか? と、信じられなくなってくる。今、ここに来ているのも、刺したはいいが、やっぱり気になって探していたのだろう。

 

「お姉さん、ジェイに会いたいの?」

「そんなわけないでしょ!」

 

 反射的に言ってから、女はハッとした顔になって唇を噛み締める。

 しばらく黙りこくっていたが、オヅマを暗い目で()め上げながら、ボソリと言った。

 

「あの男は…人殺しよ」

 

 オヅマは無表情に聞いていた。

 そんなこと、とうの昔に知っている。

 

 エラルドジェイは闇ギルドの人間だ。

 脅迫でも、窃盗でも、それこそ誘拐、殺人ですらも、金で請け負うような商売をしている。

 だからといって、エラルドジェイを責めても問題は解決しない。

 雇う側の人間がいる限り、エラルドジェイがいなくなっても、別の誰かがエラルドジェイの稼業を引き受けるだけだ。

 

「病気の子供だって……平気で殺すようなヒトデナシよ!」

 

 女は叫んだ。

 悲痛な声が森の中に響く。

 

 オヅマはしばらく黙っていたが、やがて冷たく言い放った。

 

「それがどうした。俺だって人を殺した」

 

 どんよりと曇ったオヅマの瞳は、感情を失くしていた。

 女は呆気にとられたように立ち尽くす。

 

 オヅマはゴクリと、苦い記憶と一緒に唾を飲み下した。

 

 あの日。

 倉庫の中で首を斬った男。

 たとえマリーを助けるためだと言い訳しても、あのとき(じか)に触れて断ち斬った命を、無視することはできない。

 それは()であっても同じだ。

 ()の中で、無造作に殺されていった子供たち。

 オヅマ自身が手を下した者も、そうでない者も、彼らの死はオヅマによってもたらされた。

 (なまぐさ)い血の匂い、死の慟哭(どうこく)、喪われた魂の重さ。

 すべてが生々しい。

 

「あの男に…命令されたの?」

「違う! ジェイがそんなことさせるはずないだろ!!」

 

 オヅマは即座に反論してから、もう一度女を観察した。

 

 最初見たときには、娼婦崩れか何かかと思ったのだが、やたらと厚ぼったく似合ってない化粧といい、パサパサの油っけのない髪といい、どこか素人臭い。

 

 今はどうだか知らないが、きっとこの女は()()()な世界で、()()()に生きてきたのだろう。そこで暮らす人間は善良で、秩序正しく、優しく生きられる。

 それは間違ってない。

 きっとそれが世の中の正しい有り(よう)だ。

 そうした日常こそが、『()()()()()()()()()()()

 

 だけど ―――

 

 オヅマは受け取った胡桃を、エラルドジェイのようにゴリゴリと手の中で擦り合わせながら、女に言った。

 

「あいつはお姉さんと違って、命の値段が安い場所で生きてきた。人を殺す分、自分の命もすり減って軽くなる。理解できないだろうけど……そういう人間は、存在()るんだよ」

「………」

 

 女はまじまじとオヅマを見つめていた。

 白粉(おしろい)の浮いた顔に困惑を滲ませながら、震える声でつぶやく。

 

「なによ……私だって…私だって……殺すんだから…アイツを……殺すんだから」

 

 オヅマの薄紫の瞳はまた、スウッと表情を失くした。

 

「そう」

 

 一言いってから、ゆらりと動く。

 次の瞬間にはいつの間にか取り出していた小さなナイフを、女の首に触れるか触れないかでピタリと構えていた。

 

 女はオヅマが一瞬で自分の近くに来ていたことに驚き、次には首に冷たいナイフの刃を感じて、ヒッと息を呑んだまま微動だに出来なかった。

 

「お姉さんがどうしようが勝手だけど、俺の目の前でジェイを殺すなら、俺がためらうことはない。今、ここで殺さないのは、ジェイがあんたを()()()()()からだ。あの男が本気で報復するなら、あの程度の傷で逃げるわけがないんだからな」

 

 また低い声で言ってから、オヅマはゆっくりと後ろにさがった。そのときにはもうナイフは手の中にない。

 

「命拾いしたのがどっちなのか、わかっておいた方がいいよ」

 

 女は無表情に話すオヅマを、蒼ざめた顔で見つめた。

 よろけるように後ずさって、地面から突き出した木の根に足をとられて転ぶ。そのままあわてて立ち上がると、ガクガク震える足で、森の中を逃げていった。

 

「おい」

 

 オヅマが呼びかけると、ガサリとわざとらしく草を揺らす音がして、のんびりとした声が響いた。

 

「やれやれ…おっかないガキだなぁ」

 

 オヅマは軽く溜息をついてから、持っていた胡桃をエラルドジェイに投げた。

 

「見てたんなら、出てこいよ」

「いやぁ。また刺されても嫌だし」

 

 まったくもって緊張感のないエラルドジェイに、オヅマは腹が立った。

 なんだって、あんな女に付け狙われるようなことをしたんだろうか。

 ()では、エラルドジェイのつき合う女といえば、たいがい娼妓(しょうぎ)の類だったはずなのに。

 

「フン。言ってろ、色男」

「色男!? 俺が?」

「女に追っかけ回されるようなのを色男って言うんだろ?」

「誰だよ、そんなの言ったの?」

「悪い大人だよ」

 

 当然ながら、これもまたルーカス・ベントソンの言語録に()る。 

 

 エラルドジェイは頭をかかえて深い溜息をついてから、気を取り直したように顔を上げるとニカッと笑った。

 

「ま、どうせお前もそのうち色男になるんだろうよ」

「言ってろ、馬鹿。くだらねぇ」

 

 オヅマは言い捨てると、足早にルミアの家へと戻っていった。

 

 

 

***

 

 

 

 ルミアはエラルドジェイの引き締まった体にある無数の傷痕や、爪鎌(ダ・ルソー)という特殊な武器を見たときから、堅気の人間ではないとわかっていたようだ。

 家に戻ってきて、早々に去ろうとするエラルドジェイに言った。

 

「あんたが闇稼業の人間だってことくらい、最初からわかっていたよ。そのくらいのことで、この私がビビるとでも思ってんのかい?」

 

 エラルドジェイはルミアの迫力に肩をすくめた。

 

「いやいや。さすがは稀能(キノウ)の戦士でいらっしゃることだ。でも、俺のせいで厄介事に巻き込まれるのも面倒だろう?」

「寝入りばなを起こされて、傷を縫わされた時点で、十分に厄介で面倒だったよ」

「そいつは申し訳ない。でも」

「命を助けてもらった礼は?」

 

 ルミアはエラルドジェイの言葉を遮って、ズイと顔を寄せて迫る。

 エラルドジェイは背を反らせながら、笑みを浮かべた。

 

「いやぁ~、いずれそのうちに…あ、金なら」

「あいにくと、金には困ってないね。今のところ」

「そう言わずに。金で解決ってのが、お互い気楽じゃありませんか、婆様」

「私は必要とする以上には持たないことにしているのさ。金でも物でも」

 

 にべないルミアに、エラルドジェイは笑ったまま、話の接ぎ穂を失って目を泳がせる。

 オヅマと目が合うと、助けを求めた。

 

「オヅマ~、お前見たろ? な?」

 

 情けない声で言ってくるエラルドジェイを冷たく見たあとで、オヅマはルミアに言った。

 

「こいつ、女に追い回されてます」

「違う違うッ! そうじゃないッ! そうじゃないだろッ」

 

 あわてるエラルドジェイをルミアはあきれたように見て、煙管(キセル)を咥えた。

 

「なんだい、そういうことかい。ってことは、その腹の傷も女にやられたんだね。あえて刺されてやったのかい?」

「いやいや、まさか。そこまで俺もお人好しじゃないし」

「フン。どうだかね」

 

 フワーっと煙を吐いて、灰捨てにポトリと煙草の灰を落とすと、ルミアは立ち上がった。

 

「いずれにしろ、まだ傷口だってまともに閉じちゃいないってのに、放り出すようなことはできないさ。それと恩はなるべく早く返してもらわないと、私も年なんでね」

「だから金は…」

「金よりも、アンタには傷が治ったらやってもらいたいことがある。それまでは、ここで養生しな」

 

 それ以上は聞く耳を持たないとばかりに、ルミアは家から出ていってしまった。村に用事があるらしい。 

 

「あぁ~行っちゃった。もー、どうすんだよ。またカトリが男共連れてきたら」

 

 エラルドジェイはガシガシ頭を掻いて、ハーッとうなだれた。

 オヅマは何気なく言った名前を聞き逃さない。

 

「あの女、カトリって言うんだ」

「へ? あれ…言ってた?」

「あんたたまに、抜けてるんだよな。ま、師匠がああ言ってるんだから、おとなしく養生してろ」

 

 自分よりも年下の少年になだめられ、エラルドジェイはむず痒そうな顔になったが、結局留まった。

 要因はいくつかあったが、最終的にこの家の居心地がいいというのが、最大の理由であった。

 しかしその選択をした自分に、エラルドジェイは後に嘆息して反省することになる。

 

 

 

***

 

 

 

 夜。

 草木も眠ろうかという時間に、ザワザワと森の中から現れたのは、帝都での縄張り抗争に負け、流れに流れて東の村にまでやって来た無法者たちの一団だった。―――――

 

 

 

 

 彼らは逃亡している途中で、偶然に金回りのいい女と出会い、彼女と契約して、ある男を探すことになった。

 昔からの伝手や、女の資金を使って裏社会の情報網からようやく男を見つけ出すことができたのだが、頼んできた女はその男をすぐに殺さなかった。

 

「痛めつけるだけ痛めつけて、十分に後悔させてやるのよ。殺すのは、それから」

 

 無法者たちの首領であるボフミルは、女の言葉に首を傾げたが、ひとまずは言う通りにした。

 その女を襲ったフリをして男を誘い込むと、彼女を人質(もちろんこれもフリだ)にして散々に痛めつけた。女の迫真の演技に、男も騙されたようだ。黙ってされるがままにされていたが、一瞬の隙をついて、ボフミルの部下の一人をたちまちのうちに倒してしまった。

 すっかり泡を食ったボフミルたちが慌て惑う間に、男は彼女を連れて逃げようとした。

 ボフミルは仲間を失った上、金づるの女まで奪われてはたまらないと追いかけたが、男は唐突に止まった。

 

「……カトリ」

 

 男が女の名前を呼ぶと、カトリと呼ばれた女は、血のついた短剣を持ったまま、ヨロヨロと後ずさった。

 脇腹を押さえる男の指の間から、血が流れていた。

 

「やったのか?」

 

 ボフミルが呆然として尋ねると、カトリはコクリと頷く。

 カトリも信じられないように、自分の手にあった短刀をまじまじと見つめたあとに、急に「ヒッ!」と声を上げて、短刀を落とした。

 

 ボフミルは眉を寄せた。内心で嘆息する。

 やはりこの女は無理だったのだ、と。

 本気で殺す気などない。殺すなんてことはできない女なのだ。

 

 刺された男もそれをわかっていたのだろう。

 かすかに笑い、ホゥと息を吐ききったあとに、恐ろしいほどの速さでその場から走り去った。

 

「追いかけて! 早く!」

 

 女に言われて追いかけたものの、ボフミルは追いつくとも思えなかったし、正直これ以上、男とカトリを会わせたくもなかった。

 

 地元民たちが弓の森と呼ぶ、さほど広くもない山へと逃れたことはわかったが、夜の森を探索するのは、十分に手入れの行き届いた里山であっても危険だった。狼や熊に襲われて死ぬ杣人(そまびと)は毎年いるのだ。

 実のところボフミルの父もまた木樵(きこり)だったが、腹をすかせた狼に襲われて片腕を食われて以降、まともに仕事もできなくなって、酒浸りになった挙句にボフミルを人買いに売ったのだった。

 

 戻ってきたボフミルから、男が森に(のが)れたことを知ったカトリは、おそらく朝のうちから見て回ったのだろう。

 帰ってきて、男がいる場所を見つけたと言ってきたが、その顔は青かった。

 

「わかった。じゃあ、俺らでやる」

 

 ボフミルが言うと、カトリは逡巡していた。

 

「でも、誰かがあの男に殺されるようなことがあったら…」

「馬鹿にすんじゃねぇ。そんなひ弱な野郎どもじゃねぇよ」

 

 ボフミルは怒ったように言って、カトリには来ないように強く言って聞かせた。

 来られても、男に対してまだ複雑な感情を残したままでは、かえって急場で変心するかもしれない。

 あの男は見たところ、闇稼業を生きてきた人間だ。殺す気迫で来た人間に対して、容赦しないだろう。命を賭けてやりあうときに、迷いを残した人間が中途半端に出てきては、かえって邪魔になる。

 

 ボフミルは手下に、カトリの言っていた森の中の家を探らせた。

 男の姿は見えなかったが、どうやら老婆が孫二人と暮らしているらしい。 

 

「男の子は、只者じゃないわ。恐ろしい子供よ」

 

 カトリが口出ししてきたが、ボフミルはわずらわしくなって無視した。

 

 食料を買うついでに村でさりげなく聞いてみれば、森の中の一軒家で老婆とその孫娘が住んでいるという。

 その老婆はかつて戦士であったようで、貴族家の騎士などが修行に訪れる師匠(マスター)クラスの古強者らしい。

 ただ、ここ数年は、昔戦場で痛めた足が悪くなって引きずり歩くようになり、そのうえ最近では持病の腰痛に悩まされて、不自由することが多くなってきたという。

 

「それで、ずっと世話になってきたグレヴィリウス公爵家が、下僕を送ってきて面倒を見てやってるんだとよ」

 

 その話を聞いて、ボフミルは眉を寄せた。貴族に関係する人間がいる、というのは、少しばかり想定外だ。

 

「どうします? 親分」

 

 手下が尋ねると、ボフミルは軽く溜息をついて言った。

 

「仕方ねぇ。坊やにゃ、運が悪かったと思ってもらうしかねぇさ」

 

 村に一軒しかない酒場の亭主はおしゃべりで、聞いてもいないのに、老婆が昨晩、森で行き倒れになっていた男を救助したのだということまで教えてくれた。重傷を負って、寝込んでいるらしい。

 

 ボフミルは酒場を出て、ニヤリと笑った。

 カトリが与えた傷は、思ったよりも深傷(ふかで)だったようだ。それなのに走って逃げたから、相当に出血したのだろう。

 

「ヤツが動けないんなら、大したことないさ」

 

 余裕綽々としてボフミルは言ったが、彼は偽の情報を掴まされたということに気づいていなかった。

 

 

 

 そうして ――――― 夜。

 ボフミルたちは行動を開始した。

 

 

 

***

 

 

 家人たちが深く眠りについたと思われる頃合いで、ボフミルたちは森から姿を現した。

 

 数人が家を囲うように松の枝葉を並べ置くと、持ってきた松明(たいまつ)で火をつける。火そのものよりも、黒い煙があっという間に家を包み込んだ。

 

 バン、と扉が開いて子供が出てくる。

 扉の前はわざと空けておいたので、子供は躊躇することなく走ってくる。ゲホゲホと咳しながら出てきた子供を、手下の一人がさっさと捕えて後手に縄で縛った。

 続いて出てきた老婆は、捕えられた子供を見て叫んだ。

 

「ハルカ! おぉ、なんということ!!」

 

 すっかり気が動転した老婆を、また別の手下があっさり捕え、同じように縄で手を縛り上げる。元戦士の古強者といえど、孫娘の一大事には骨抜きになってしまうものらしい。噂通り足も引きずっており、もはや歴戦の勇士も昔日の栄光だ。

 

 ボフミルはあきれたように笑った。

 

「すまないねぇ、婆さん。俺らもアンタたちをどうこうしようとは思わない。アンタが昨日、助けたとかいう男に用があってね」

「おぉ…お助けを」

 

 老婆は震えて言って、頭を下げる。

 ボフミルは満足そうに頷いた。

 

「そのまま黙ってじっとしときな。悪いようにはしねぇよ」

 

 ボフミルは口を布で覆ってから、手下一人と一緒に家の中へと入った。

 暗がりの中、目を凝らすと、簡素なベッドの上で寝ているらしい人の姿が見て取れる。ボフミルがベッドに近づいて、覆っていた毛布をガバリと取り除けると、果たしてあの男が眠っていた。

 

「寿命が一日伸びただけだったな」

 

 ボフミルは悪党らしい薄笑いを浮かべ、男を刺そうとナイフを掲げる。

 そのとき、男の目がカッと開いた。

 紺の瞳が、窓辺から差し込む火の明かりを宿して、ボフミルを凝視する。

 やがてニヤリと笑った。

 

「……そのとおりだ」

 

 男はつぶやくなり、目にも留まらぬ速さで起き上がり、ボフミルの首に刃を当てていた。

 

「親分!」

 

 一緒に来ていた手下が叫ぶと同時に、もんどりうって倒れた。

 驚くボフミルと対照的に、男は微動だにしない。首の皮一枚分だけ刃をあてた状態で止めて、じいっとボフミルを窺っていた。

 

「殺さないのか?」

 

 ボフミルの背後から尋ねる声は、若かった。

 

「ふむ……どうするかな」

 

 刃をボフミルの首にあてたまま、男は考え込む。

 しかし待てなかったのか、また若い声が軽く咳き込んで言った。

 

「とりあえず外に出ようぜ。煙臭くて」

「うん。そうしようか」

 

 男はボフミルの首をちょんちょんと優しく叩き、扉の方へと促す。怖々と向きを変えたボフミルの前を、背の高い少年が手下を片手で引きずっていた。チラとこちらを見た瞳は、裏の世界である程度の時間を過ごしてきたボフミルをして、戦慄させるほどに冷たかった。

 

 外に出ると、いつの間にか火は消されて、老婆と孫娘を捕えていた手下は二人とも地面に突っ伏して倒れていた。

 

「遅いよ、二人とも」

 

 不満気な老婆の台詞に、ボフミルは自分が嵌められたことをようやく悟った。

 





次回は2023.07.30.更新予定です。
感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第百四十一話 星月夜の笛の音

「で? どうすんだい、コイツら」

 

 ルミアが軽く顎をしゃくって、エラルドジェイに尋ねた。

 顎の示す先には、地べたに並んで座らされているボフミルたちがいる。それぞれ後ろ手に両手首を括られ、一本の長い縄で全員を繋いで、互いを拘束し合うようになっていた。

 

「どうするかなぁ…」

 

 のんびり言いながら、エラルドジェイはボフミルらの前を悠然と歩いて、一人一人を観察する。

 

「えぇと…首領はあんた?」

 

 エラルドジェイはボフミルの前にしゃがみこんで尋ねた。

 ひときわ大きな体つきと、頬の傷跡、さっきから落ち着かなく辺りを見回す男たちに比べると、エラルドジェイだけを見据えている様子といい、おそらくそうであろうと当たりをつけた。

 

「そうだ」

 

 ギロリと青い瞳でボフミルはエラルドジェイを睨みつける。

 

「一応、聞くけど…カトリの旦那とか?」

「馬鹿を言え! 金で雇われただけだ」

「金? あぁ~…」

 

 エラルドジェイは頭を押さえて天を仰ぎ見た。「そういう使い方するかー」

 

 オヅマは腕を組み、心底呆れ返ってエラルドジェイを見ていたが、ツンツンとハルカに腕をつつかれて振り返った。

 

「女、いる」

 

 ハルカの言葉に、オヅマは無言で頷いた。

 ハルカのあとに()いていくと、木々の間に朝に出会った女の姿が見えた。

 カトリ、とエラルドジェイが呼んでいたことを思い出す。

 

 カトリはエラルドジェイに意識が集中しているのか、踏みつける枝の音にも無頓着で、まったくオヅマたちに気付いていなかった。

 オヅマは真後ろに立つと、カトリの肩をツンとつついた。

 

「キャアァッ!!」

 

 カトリの悲鳴に、かえってオヅマの方がビクリとなった。

 ハルカもあまりにも無防備な叫びに驚いたようで、反射的にオヅマの服の裾を掴む。

 

「あ……」

 

 カトリはオヅマを見て顔を強張らせたものの、オヅマの背から窺い見るハルカに気付くと、途端に警戒を解いた。

 しゃがみこんで、ハルカと同じ目線になり、謝ってくる。

 

「ごめんなさい。驚かせちゃったわね」

「ハルカに謝る前に、あんたが傷つけた奴に謝るのが先なんじゃないの?」

 

 オヅマの言葉に、カトリはムッとした顔になった。

「誰が!」と吐き捨てるように言って、立ち上がる。

 オヅマが呆れ返った溜息をついていると、エラルドジェイがこちらに向かって呼びかけてきた。

 

「オヅマー? 連れてきてくれるかー?」

「だってさ。行って」

 

 促すとカトリはギロリとオヅマを睨みつけてきたが、じっとオヅマの後ろから見てくるハルカの瞳に気まずくなったのか、おとなしく前を歩いて行く。

 

 ボフミルたちが縄で縛られているのを見て、カトリは唇を噛みしめると、申し訳なさそうに頭を下げた。ボフミルは軽く嘆息して頭を振る。

 

「フン。ならず者どもを使うにしては、随分と()()()()お嬢さんだね」

 

 ボフミルの内心をすくいとるように、ルミアが皮肉げに言った。

 

「本当にな。運がいいよ、カトリ。お前」

 

 エラルドジェイは腕を組んで、にっこり笑う。「奇跡の組み合わせだ」

 

 カトリはエラルドジェイの言葉の意味がわからなかった。

 それにニヤニヤと笑うその顔も腹立たしい。

 

「なに言って…早く、ボフミルたちを放してやってよ! 悪いのは私なんだから!! 私が全部頼んだのよ。アンタを見つけて、痛めつけて……殺すのだけは、私が直接しようと思ってたのに、アンタを逃したから……」

 

 エラルドジェイはヘラヘラ笑って、頭を掻いた。

 

「すまないなぁ…俺、悪運がいいみたいでさ」

「うるさい! この人殺し!! こんな(カネ)…要らないわ!!」

 

 カトリは首にさげていた布袋を取って、エラルドジェイに投げつけた。

 受け取られなかった袋が、エラルドジェイの胸に当たって、足元に落ちる。

 ガチャンと重たい音がして、袋から金貨が数枚転がった。

 手下の数名が思わず首を伸ばす。

 ボフミルはエラルドジェイを見上げ、じっと黙り込んだまま凝視していた。

 

「やれやれ」

 

 エラルドジェイは袋を拾い上げ、転がった金貨を中に戻した。  

 

「俺なんか捕まえるためにあげたわけじゃあないんだぜ。これだけあれば贅沢しなきゃ、それなりに楽しく暮らせるだろうし、どっかで何か教えてもらって、手に職つけることだってできるだろ? 結婚の持参金にしても十分だろうし」

「結構よ! そんな血塗られたお金! もらったって幸せになんかなれるもんですか!!」

「いや、これは()()のじゃない。えーと……誘拐?」

 

 言いながらエラルドジェイがチラとオヅマを見る。オヅマは白い目でエラルドジェイを見返した。

 

「テメー……あのときのかよ」

 

 つぶやくオヅマに、エラルドジェイは袋を掲げて笑った。

 ありがとう、と口が動く。

 オヅマは今、この瞬間、エラルドジェイの尻を思い切り蹴り上げてやりたかった。

 何だってマリーとオリヴェルとアドリアンを誘拐したときの報酬が、回り回ってこんな鈍臭い女に流れ着いているのか。 

 

「同じようなものよ! この恥知らず!!」

 

 子犬のように吠えるカトリに、いつの間にか煙管を持ってきて吸っていたルミアが、ホーッと白い煙を星空に向かって吐き出した。

 

「なんなんだい、まったく。痴話喧嘩は他所(ヨソ)でやっとくれよ」

「いや、婆様。痴話喧嘩じゃありませんて」

「そうとしか見えないがね。とにかくさっさと片付けておくれ。私ゃ、もう寝るよ」

 

 大欠伸して、ルミアはゆっくりと家へと歩いて行く。

 オヅマはまだしがみついていたハルカの背を軽く叩いた。

 

「お前も眠たいだろ。もう大丈夫だから、寝ておけ」

 

 ハルカはコクリと頷くと、ルミアの後について家に戻っていった。

 カトリは去っていく小さな背中をずっと目で追っていた。その悲しげな眼差しに、ふざけた笑みを浮かべていたエラルドジェイが真顔になる。

 

 しばしの沈黙のあと、声をあげたのはボフミルだった。

 

「俺らは保安衛士に引き渡してもいい。カトリは…逃してやってくれ」

 

 カトリはギョッとしたようにボフミルを見た。

 

「何を言うの? 私があなた達に頼んだんじゃない。だから…」

「そうだ。情けねぇ話だ。まんまと罠に嵌って、お縄になったんだ。俺らはその程度だったってことだ」

 

 ボフミルは淡々と言って、エラルドジェイを見上げた。

 

「カトリから話を聞く限り、お前はとんでもない極悪人だと思ったが、金を寄越すってことは、少しは悪いと思ってるんだろう。だったら、ちゃんと謝ってカトリが身を立てられるように手伝ってやれ。なんならお前が貰ってやったほうがいい気もするが…」

「冗談じゃないわ! ふざけたこと言わないで!!」

「だったらなんで殺さなかった!?」

 

 ボフミルが怒鳴りつけると、カトリは絶句して固まった。

 悔しそうに唇を噛み締めるカトリを、ボフミルは憐れむように見て言った。

 

「お前、この男を殺したくないんだよ、本当は」

「違うわ…違う…。コイツは…マルコの仇よ…」

「弟さんのことは気の毒だが…もう、長くなかったんだろう? 正直、俺らみたいな軒下卑賎(ゴートゲル)*1は、先の長くない仲間は一思いに殺してやるんだ。苦しんで世の中を恨みながら死ぬよりは、死を()()れて、さっさと生まれ変われば、今度は寒くない、ひもじくない家に生まれてこれるって…そう言われてるんだ」

 

 暗い顔で話すボフミルの隣で、手下たちはうなだれて聞いていた。

 中には思い出すことがあったのか、嗚咽をもらす者もいる。

 しかしカトリはブルブルと握りしめた拳を震わせた。

 

「なによ…みんなして…」

 

 怒りを押し殺した声はくぐもって低い。

 

「カトリ…」

 

 エラルドジェイが呼びかけると、カトリは顔を上げるなり、その頬を思いきり平手打ちした。

 

「アンタ達のことなんか知らないわ! 私は両親も、たった一人の弟もこの男に殺された!! だから私はコイツに復讐していいのよッ」

 

 金切り声で叫んで、カトリはまた森の中に走り去っていく。

 

「カトリ!」

 

 ボフミルが叫ぶのを見て、エラルドジェイはハァと溜息をついて、その腕の縄を切った。

 オヅマも手下たちの縄を切っていく。

 

「追ってくれ」

 

 エラルドジェイは金貨の入った布袋をボフミルに渡した。

 

「いいのか? もし、俺がこれを持って逃げたら…」

「そうなったら、カトリもそれまでの運だったってことだな。本物の狼に食われるか、人の皮を被った狼に食われるか」

 

 ボフミルは眉を寄せ、布袋を握りしめると、カトリの後を追って森に入っていった。

 手下たちはすぐにボフミルを追いかけていく者、戸惑って立ち尽くす者に分かれたが、その場に留まったままの男たちにオヅマは冷たく言った。

 

「行かねぇなら、保安衛士に引っ張ってってもらうぞ。もちろん、歯向かうなら即座にこの場で殺す」

 

 少年の酷薄な声に恐れをなして、残っていた手下も競うように逃げていった。

 

「本当に、お前…ときどきおっかないぞ~」

 

 エラルドジェイがふざけたように言うのを、オヅマは白けた目で見て尋ねた。

 

「いいの? あれで?」

「うーん…まぁ、な。だってアイツら、まぁまぁいい奴のほうだよ。皆殺しにするつもりで襲ってきたら、こっちも後腐れなく殺したけどさ。ちゃあんと、婆さんとハルカちゃんは助けようとしてたろ? わざわざ逃げ道つくってくれてさ。いや、本当に…あんなのでよくやってこれたなと思う」

 

 エラルドジェイは半ば感心し、半ばあきれたように言った。

 

 実際、ボフミルはその義理堅さゆえに騙され、縄張り争いの末に帝都から逃亡する羽目になっていたが、そんなことは知る由もない。

 

「そんな()()()()()ヤクザ者と、()()()な世間知らずの女がつるんで、何が出来るんだかな」

 

 オヅマは心底あきれていた。

 よくもまぁ、あんなのでエラルドジェイと渡り合おうとしたものだ。

 女には最初から覚悟がないし、ヤクザ者は依頼者に同情している。

 仕事となったら狡猾で、手段を選ぶことのないエラルドジェイの相手ではない。

 

 当のエラルドジェイは、オヅマの白けた視線にも、平然としたものだった。

 

「だから奇跡の組み合わせ、って言ってるだろ。あの首領の男、いっそこんな稼業から足洗って、手下どもと一緒に荷運び屋でもやりゃあいいのに。カトリも、あの男の女房(おかみ)さんになってさ…きっと大切にしてもらえると思うんだけどな」

「あんた、あの女にあのときの金、全部やったの?」

「ん? いや、一応幾分手元に残しておかないとねー…俺も多少は色々と必要で」

「抜かりないね、相変わらず」

 

 オヅマは欠伸すると、家へと歩いて行く。

 エラルドジェイは小走りにその後に()いて行き、また尋ねた。

 

「なぁ、お前、やっぱりどっかで会ったことあるのか?」

「……さぁね」

()らすなよぉ。気になって寝れねぇじゃんか」

「だったら寝るなよ。アイツらがまた襲ってくるかもしれねぇだろ。寝ずに番しとけよ」

「うわっ! 嫌味ッ!! やだねー。意地悪オヅマくんだよ」

「やかましい。とっとと寝て治せ」

「寝れない。あ、そうだ! あの笛、吹いてくれよ。あれ、よく眠れそうだから」

「………あれは」

 

 オヅマの顔が途端に曇る。

 断るつもりで振り返ると、エラルドジェイは期待に満ちた眼差しでニコニコ笑っている。

 

 

 ――――― オヅマ。あれ、吹いてくれよ。よく眠れるからさ…

 

 

 また、()の中のエラルドジェイの声が響く。

 オヅマは軽く首を振ってから、憮然とした口調で尋ねた。

 

「なんで俺が笛吹いてたの知ってんだよ」

「ハルカちゃんに教えてもらった」

「いつの間に? ……あぁ、そうか」

 

 あの無口で無愛想極まりないハルカと、いつの間におしゃべりする仲になっていたのかと思ったが、考えてみればエラルドジェイは子供にやたらと好かれるのだった。それこそ()でのオヅマも最初は疑心暗鬼であったが、仲良くなるまでに時間はかからなかった。

 やることは物騒極まりないのに、エラルドジェイはどこか親しみやすい雰囲気を持っていた。

 マリーも…懐いていた。

 

 家に戻ると、結局、オヅマは屋根上にのぼって笛を吹き始めた。

 

 そっと夜の静寂(しじま)を壊さぬように。

 目をつむり、満天の星を感じながら。

 

 ()の中で吹く笛は、オヅマの祈りであり、喪われた人々との会話だった。最初は母だけだったのが、やがて一人、また一人と増えていった。

 その中にエラルドジェイもいた。ハルカもいた。

 

 今、奏でるこの音色がいつか鎮魂歌にならぬように。

 オヅマは祈りよりも強く、自らに誓う。

 

 しかし胸の奥底深くに刻んだ熱い決意と相反して、その表情は落ち着いていた。

 

 嫋々(じょうじょう)と響く笛の音は、星月夜の空の下で休む者たちに、ひとときのやすらぎを与えるようだった。

 

 

***

 

 

 森の中を歩くカトリの耳にも、笛の音が聞こえてくる。

 柔らかく穏やかな曲調の中に、どこか哀切な音色を感じて、こらえていた涙がぽろりとこぼれた。

 

「カトリ…」

 

 ボフミルが呼びかけてくる。

 さっきから後ろに黙って()いてきていたのを知っていた。あえてカトリに声をかけないでいてくれたことも。

 カトリは立ち止まると、涙を拭って振り返った。

 

「……ごめんなさい」

 

 深く頭を下げてから、スンと洟をすすって顔を上げると、苦く笑った。

 

「私のせいね。私が…強くないから。あんな男なのに、殺すのをためらうなんて…まだ私の考えが甘いんだわ、きっと。もっと冷酷非道でなければ、いけないのよね。あの男以上に。あの男を殺しても平然としていられるくらいに…」

 

 言葉を重ねるほど、陳腐に聞こえてくる。

 ボフミルはゆるゆると首を振った。

 

「強いとか強くないとかじゃない。俺らは…生きていくだけなんだ。どこであろうと、生きていくしかないんだ。あの野郎もそうだし…お前の弟だって、病気になっても生きようとしてただろう?」

 

 弟のことを言われ、カトリはまた泣きそうになった顔を伏せた。

 久しぶりに会ったエラルドジェイの変わらぬ姿に、マルコを思い出さずにはいられない。

 

「そうよ、生きようとしていたわ。もう長く生きられないとわかっていても、懸命に生きようとしていたの。薬がどんなに苦くても、がんばって飲んだの。我慢して飲んで、いつか治るって信じていたのよ」

 

 話すほどに思い出は次々に溢れ出す。

 エラルドジェイがマルコを殺したことよりも、二人が仲睦まじく笑いあっていた姿が、まだカトリの中で鮮明だった。

 

「マルコは…ジェイのことが大好きだった。コマ回ししたり、鬼遊びをしたり、雨の日は家の中で積み木取りしたり。でも、マルコが本当に喜んでいたのは、ジェイと話しをすることだったのよ」

 

 その光景を思い浮かべると、マルコの笑い声までも聞こえてきそうだった。

 カトリはまた泣きそうになって、ごまかそうと饒舌になった。

 

「子供って、なんの話をしているのか、わからないときがあるでしょう? 伝えたいことが上手に伝えられなくて、聞いてて意味がわからなくて…私なんてよく遮っては、どういうことなのか尋ねてたら、もうマルコはしょげて話す気がなくなっちゃって。……もっと、ゆっくり聞いてあげたらよかった」

 

 思い出して、またカトリは目を伏せ、沈んだ声になる。しばらく黙って、こみ上げてくる涙を喉奥で抑え込んでから、顔を上げた。

 

「ジェイは黙って、ずーっと聞いてたの。マルコの話すままに、ずっと聞いてやってたの。私みたいに遮ったりしない、聞き流したりもしない……だから、マルコはジェイと話をするのが大好きだった。本当に…ジェイのことが…大好きだったのよ……」

 

 自分で言った言葉に、カトリの目からまた涙がこぼれた。

 

 どうして?

 あんなに仲が良かったのに。あんなに優しくしてくれていたのに。

 どうして、マルコを殺したのか?

 まるで当然かのように。

 なんのためらいもなく。

 

 そのことがカトリには理解できず、いつまでも苦しいままだ。

 せめてエラルドジェイに少しだけでも後悔が見えれば、カトリの胸に凝り固まった怒りと哀しみの塊は、徐々に溶けていくのだろうに。

 

 カトリは涙を拭い、またボフミルに頭を下げた。

 

「ありがとう。力になってくれて」

「俺らは金で雇われただけだ」

 

 ボフミルは眉間に深い皺を寄せると、あえて冷たく言った。

 それからエラルドジェイに渡された布袋を差し出す。

 

「この先のことを考えるなら、割り切って受け取れ。金は金だ。なけりゃ困るし、あっても腐らない」

 

 カトリは睨みつけるように布袋を見ていたが、ホーッと長い溜息をついて受け取った。

 

「このお金が汚いとか言ってたら…いつまでたっても、あの男に馬鹿にされるだけなのね」

 

 ボフミルはその言葉に、また首を振ったが、何も言わなかった。

 カトリはまだ、諦めていない。もはや彼女の中では、ジェイを憎むことが生きるために必要不可欠なのだ。

 

「はい」

 

 カトリは袋から三枚、金貨を取り出した。「もうここで、別れましょう」

 

 ボフミルは受け取ったものの、憮然として言った。

 

「森を抜けるまでは、仕事のうちだ。その先は…俺らで決める」

「でも…」

 

 カトリが言う前に、ボフミルは先に立って歩き出す。

 逡巡するカトリに、手下の一人が真面目くさった顔で言った。

 

「夜の森は危険です。一人で来るなんて、無茶しちゃいけません」

 

 カトリはフッと笑ってしまった。

 ボフミルの手下たちは、皆、なんだかんだで気のいい男たちだ。

 

 そもそも彼らと知り合ったのも、宿場町でゴロツキたちに襲われそうになっていたカトリを助けてくれたことがきっかけだった。

 女の一人旅であれば、何度か危うい目に遭うこともあったが、彼らと共に行動するようになってからは、平穏だった。彼らが襲ってくる可能性だって考えられないことはなかったが、ボフミル以下、手下たちは依頼人であるカトリを丁重に扱った。

 

 

 ――――― 運がいいよ、カトリ。お前…

 

 

 ふと、さっきのエラルドジェイの言葉が思い浮かぶ。

 カトリは途端にムッと眉根を寄せて、猛然と歩き始めた。

 悔しいが、今の自分はまだエラルドジェイの掌の上だ。彼にいいように転がされている。

 

「あ…笛の音がやんだ……」

 

 最後尾にいた手下がつぶやく。

 カトリはふと立ち止まり、振り返った。

 

 エラルドジェイは笛なんて吹いたことはなかった。音痴なのだ。あんまりにも下手で、マルコと二人、腹を抱えて大笑いしていた光景がまた脳裡に浮かぶ。

 カトリは自分のしみったれた感傷を追い払うように、ブンブンと頭を振った。

 再び歩きだして、エラルドジェイと親しげに話していた少年のことを思い起こす。

 

 あの少年が吹いているのだろうか…?

 

 薄紫の瞳の、やもすればエラルドジェイよりも冷たい面差しの少年。

 なんのためらいもなく、カトリの首筋にナイフをあてがって、脅迫してきた。

 はったりなんかではない、本気の殺意。

 

 カトリは胸をおさえた。

 エラルドジェイがあの底知れない、不気味な少年と一緒にいることが、ひどく不安に思えた。

 

*1
*家を持てず軒下でしか生活できないような下賤、浮浪児などを指す言葉





次回は2023.08.06.更新予定です。


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第三章
第百四十ニ話 新年の帝都にて


 二十日近くの旅程、帝都へ入る北大門(サザロニアーザ)の前で待たされること三日目にして、帝都郭内へ。それから半日近くをかけてようやくグレヴィリウス公爵の帝都本邸にたどり着いたとき、さすがにアドリアンも疲労困憊で、自室に入るなり長椅子に転がった。

 

 こういうときにお小言を言いそうなマティアスは、帝都にある自家の館へ行っている。

 いつもであれば、帝都到着後の一切の差配は、マティアスの母であるブルッキネン伯爵夫人が行っていたらしいが、その夫人が領内で事故に遭い、負傷して今回は来られないので、慣れない父を手伝うためだった。

 幼い頃から伯爵家における当主の仕事を近くで見てきて、それらを詳細に記していたというマティアスであればこそ、可能なことだろう。

 

 そこへくると、テリィもまた、年輩の祖父が心配なので、身の回りの世話をしてやりたいと、一時的な暇乞いをしてきたものの、果たして本当に()()テリィに人の面倒が見れるのかどうか疑問だった。

 それにテルン老子爵のことはアドリアンも見知っていたが、印象としては矍鑠(かくしゃく)とした元気な老人だ。慣れない孫に世話などされても、一喝しそうに思うが、追及はせずに許可した。許可しないと、また泣きだしそうだったから。

 

 キャレとエーリクはアドリアンに()いて公爵邸まで一緒に来たものの、キャレが体調を崩してしまい、馬車内でほとんど寝込んでいる状態であったので、エーリクに自室まで運んでもらっている。

 

「お疲れですね。お茶を用意致しましょう」

 

 サビエルはさすがに従僕として、(あるじ)の前で疲れた溜息をつくようなことはなかった。いつも通りに、アドリアンの望むことを汲み取って動いてくれる。

 

「うん。頼む。喉が渇いた」

 

 サビエルが部屋を出ていくと入れ違いに、エーリクが姿を見せた。

 

「キャレは部屋で寝かせておきました」

「あぁ、ありがとう。どう? キャレの様子は?」

「風邪ではないようです。熱もないですし、咳などもしてません。一応、医者に見せようと言ったのですが、当人がしばらく寝れば治るというので、とりあえず寝かせています」

「そうか。まぁ、初めての新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)だし、馴れなくて疲れが溜まったんだろうね。今日のところは、食事も部屋でとるといい。エーリク、今日は来たばかりで、おそらく使用人たちは忙しくしているだろうから、君が気にかけてやってくれ」

 

 いつものことだが、到着初日の帝都の公爵邸は猫の手も借りたい忙しさとなる。

 公爵のことはもちろん、一緒に公爵邸に逗留する貴族の対応までせねばならないからだ。

 アールリンデンにおいてもそうであるように、帝都の公爵邸においても、軽視されている小公爵の、その近侍のことなど、正直、まともに面倒をみてくれる保証はない。

 

「はい。では私がキャレと同室ということでよろしいですか?」

 

 エーリクが尋ねたのは、広大なアールリンデンと違い、この帝都公爵邸内では近侍は二人で一部屋があてがわれるからだった。

 特に部屋の割り振りは決められていなかったが、マティアスとテリィがおらず、体調を崩したキャレの面倒を見るのであれば、必然同室になる。

 

「うん、その方がいいだろう。キャレもマティと一緒だと、ずっと怒られてるみたいで気が休まらないだろうし、テリィだと我儘につき合わされて困るだろうから。エーリクだったら、一番休めるだろうしね」

 

 話している間に、サビエルがワゴンを押して入ってくる。

 

「おや、エーリク公子。キャレ公子の体調はいかがですか?」

「特に問題ありません。寝ています」

 

 にべなく答えるエーリクに、サビエルはにっこり笑った。

 近侍たちはそれぞれに長所短所を持っていたが、それはコインの表裏と同じで、一見素っ気なくみえるエーリクの短所は、見方を変えれば余計な無駄口を叩かないという長所でもあった。それは同時に口堅いということでもある。

 

 この数ヶ月、サビエルはアドリアン付きの従僕として、近侍たちに身の回りの世話について指導することもあったので、全員を弟のように思っていた。

(もちろん、近侍は貴族子弟であるため、従僕であるサビエルは節度を弁えた上での接し方を心がけてはいたが)

 その中の一番の問題児は、幸いにも今回の訪詣から外されたため、何かとクソ忙しい道中に余計な仕事が増えることもなく、サビエルとしては有難いことこの上もなかった。

 いたらきっとなにかしら、ひと悶着起こしていたに違いないのだ。

 普段は父親(=ルーカス)に感謝することなどそうもなかったが、今回ばかりは「いい仕事してくれましたね!」と心の中で快哉を叫んだ。

 

 そんな従僕の内心など知ることのないアドリアンは、一仕事終えたエーリクに一緒に茶を飲むかと声をかける。

 しかしエーリクは空気を読まないという短所、あるいはたとえ小公爵であっても(おもね)ることはないという長所を存分に発揮して、あっさり断った。

 

「イクセルの様子を見に行きたいので」

 

という理由を聞いたときに、アドリアンは苦笑しながらも許可した。

 ヴァルナルから特別の計らいによって贈られた黒角馬(くろつのうま)と普通馬の間の子 ―― イクセルを、エーリクはそれこそ大事な大事な宝物のように心をこめて世話していた。

 到着したときにキャレが倒れてしまったので、仕方なく兄のイェスタフに頼んで、厩舎まで連れて行ってもらっていたが、よっぽど嫌だったのだろう。何度も「勝手に乗るな!」と念押ししていた。

 

「やっぱりエーリクもお兄さんの前だと、弟に戻るんだな。あんなに必死になってるエーリク、初めて見たよ」

 

 エーリクが去ったあとで、お茶を飲みながらアドリアンは思い出して笑った。

 

「兄上のイェスタフ卿はエーリク公子とはまた違ったご様子の方でしたね。見た目もそうですが、性格もなんというか…対照的というか」

 

 サビエルがイェスタフの姿を思い浮かべながら言うと、アドリアンは一口茶を含んでから頷く。

 

「そうだね。僕もイェスタフ卿とは今回初めてまともに話したけれど、雰囲気はエーリクよりも柔らかい印象だったな。なんだか、オヅマと気が合いそうだ」

「確かに。あぁ、そういえば…」

 

 サビエルはオヅマの話題が出てきて、あわててポケットをまさぐった。

 

「オヅマからの便りが届いていたようです」

「オヅマから?」

 

 アドリアンはわかりやすいほどに、嬉しそうな顔になった。

 サビエルの差し出した手紙を取り上げると、紙小刀(ペーパーナイフ)も使わずに開封する。しかし、読む時間は短かった。しかも読み終えたあとには、ガッカリしたように溜息をついた。

 

「いかがなさいました?」

 

 アドリアンは何も言わずに、サビエルに手紙を渡した。

 サビエルはいざ読もうと手紙を手に取ったものの、すぐに読み終えた。

 

 文面は簡素そのものだった。

 

 

緑清(りょくせい)の月 某日

 

 前略 嫌味たらしい小公爵さま

 

 お察しの通り。こちらは順調。

 帰ったら、俺が修行して差し上げましょう。それまでご壮健にお過ごしあれ。

 

 オヅマ・クランツ』

 

 

 サビエルは一枚だけの便箋をそっと封筒に戻してから、アドリアンに尋ねた。

 

「これはいかが致しますか? 焼却しますか? それとも古紙として出しましょうか?」

「いや…一応、文箱に入れておいて。筆不精の人間の書いた貴重な手紙だから」

 

 アドリアンの言葉には、たっぷりと嫌味が含まれていたが、本来それを味わうべき相手は遠く離れた場所にいて、聞こえることなど当然ながらあり得ない。

 

 苛立ちと一緒に茶を飲み干すと、アドリアンは憮然とした表情でしばらく考えこんでいた。

 

「ねぇ、サビエル。オヅマが()()()()()()()嫌がることって、何だと思う?」

 

 問われてサビエルは、空になったアドリアンのカップに再び茶を注ぎながら思案する。

 

「左様でございますねぇ……オヅマ公子は、なにせ身軽な恰好を好まれます。近侍服なども、一番簡素なものがお好きなようですし。ですから、きらびやかに着飾ったりするのなんて、最も苦手とされるのではないでしょうか?」

「確かに…」

 

 アドリアンは首肯して、ニンマリと笑った。

 

「じゃあ、帝都にいる間に、遠く離れた地で修行に励むオヅマのために、凝りに凝った服と装飾品(アクセサリ)を買っておいてあげるとしよう。褒美として」

「それはきっと震えるほどにお喜びになるでしょう」

 

 長旅のあとで疲れすぎた思考は、のどかな田舎でのびのび過ごしているだろうオヅマに対して、羨望や鬱憤を感じずにはいられなかったのだろう。

 

 ()()()()()復讐をを企てる主従二人の顔は、ひどく愉しげであった。

 

 

***

 

 

 この時期に帝都に来る貴族の過ごし方は、帝都郭内に屋敷を持っているか否かで、まず分かれた。

 郭内に屋敷のある人間は、そこで過ごす。

 アドリアンも帝都において一、二を争う宏壮な公爵邸において、これから五ヶ月近く滞在することになる。

 

 郭内に屋敷を持たない人間には、またいくつかの選択肢がある。

 一つは郭内でこの新年の時期だけ家を借りるもの。

 この家の規模は様々で、一家族だけで住むためのこじんまりとしたものから、一族全員で滞在するための大規模な屋敷を借りる者もいた。こうした家々は普段であれば貸家専門業者、あるいは大商家によって管理され、多くの場合は何代にも渡って関係性を築き、その伝手によって借りることが多かった。

 

 最近ではこうした貸家業から発展して、大規模邸宅を貴賓客専用の宿にする例も増えてきていた。

 商人からすれば、一つの家族に貸し出すよりは複数人を相手にしたほうがより実入りがいいのは言うまでもなかったし、貴族側でも夫婦二人だけや単身者などは、家一つを借りて召使いなどを引き連れて帝都に来るよりも、身軽かつ費用を抑えられるという需要もあったのだ。

 

 ただ、一部の古い考え方の貴族などからは、この新たな業態は敬遠された。

 彼らは自分たちの部屋の隣に見知らぬ誰か、あるいは自分よりも格下の貴族がいるなどという状況そのものが有り得ないことだった。

 それに部屋を一歩出れば、貴族同士顔を突き合わせるのであれば、そこは社交場であり、当然ながら身なりにも気をつけねばならず、疲れてしまうという声もあった。

 

 最後の手段は懇意の貴族や、主として仕える大貴族の邸宅に居候するという形だ。

 費用の点でいえば、これは一番安上がりであった。

 だが体面を重んじる貴族にとって、こうしたいわゆる『間借り』とも呼ぶべき状況は恥ずべきものとされ、多くは敬遠された。

 もっとも元々貴族でもなかったヴァルナルなどは、どうせ公爵邸に日参するのだから、いっそ一緒にいた方が楽だとばかりに、毎年公爵邸に滞在していた。今年においてもそれは変わらない。

 

 騎士たちも、帝都やその近隣に家族のいる者などは、しばらくの帰省が許された。

 それ以外の者は警護や、治安維持といった仕事に従事することになるが、これも交代制で、多くの独身の騎士たちは、間近に控えた帝都結縁祭(ヤーヴェ・リアンドン)の準備で気もそぞろだった。

 それを当て込んだ商人たちも、プレゼントになるような品をこぞって仕入れし、特に花屋などは女性に送るための凝った花冠のサンプルなどを店先に並べて、周辺の同業者と競って声を張り上げていた。

 

 その他にも、新年の暦譜(カレンダー)を売る露天商、帝都名物と銘打った揚げ菓子屋、夏に向けた薄物の布織物や、来年の年神となるフィエンの木彫り像を売る店、一年で最も多種の果物を並べた果実商では、圧搾機で搾った即席ジュースなども売っていたし、最近になって庶民にまで出回りだした珈琲も、露店で売られるようになっていた。当初は物珍しかったが、次第にその独特の味わいを好む者は増えてきているようだ。

 大釜で荒く挽いた豆を煮ていると、濃厚な香りに誘われた人々がチラホラとやって来る。上澄みを掬って供されるので、中に挽いた豆が混ざっていることもあったが、飲めば疲れがとれる…と、一種の薬湯(やくとう)として飲用する人間も多かった。

 

 なにせ、この新年を控えた帝都の雰囲気というのは、気温の上昇とともに、一種独特の熱気をはらみ、一年の中で最高潮に盛り上がる時期であった。

 人々は楽しそうでありながらも、とにかく忙しい。

 運河をゆく小舟すらも渋滞するほどだ。

 

 こうした帝都の華やかさに一役買うのが、各貴族家で催される夜会や園遊会、婦人方を中心とした小規模な茶話会、詩の朗詠会などであった。

 誰が誰に招待状を送った、送っていないと、貴族社会においては、かしましく噂されるのが常であったが、グレヴィリウス公爵家の若君であるアドリアンなどは、毎日のように届くこうした宴への招待状や手紙の山を見るだけで、憂鬱だった。

 

「こちらは宰相公……ダーゼ公爵主催の園遊会の招待ですよ。返事を出さなくてよろしいのですか?」

 

 マティアスら近侍は、揃ってアドリアンに来た手紙の山を開封しては中身を確認し『不要』『保留』『返事必須』に、分類していた。オヅマがこの作業を任されていたら、きっと早々にやる気をなくし、途中から適当にやって、マティアスといつものごとく口喧嘩が始まったことだろう。

 

 わざわざ尋ねてくるマティアスに、アドリアンはうんざりしたように言った。

 

「断りの返事なんて出したって仕方ないだろう」

「いえ。行かれてもいいんじゃないかと…」

「えぇ? どうして?」

「いえ、別にまだいいとは思いますが…」

 

 言葉を濁すマティアスに、アドリアンは首をかしげる。するとテリィが得意げに言葉を継いだ。

 

「ダーゼ公爵閣下の息女は確か来年で十一歳ですよ。小公爵さまよりも、一つ年下」

 

 テリィの意図をいち早く察したキャレの手が止まった。チラとアドリアンを横目で見れば、当のアドリアンは鈍い目でテリィを見ていた。意味がわからず、問いかける。

 

「だから、なに?」

「将来のことを見据えて、送ってこられた…ということも考えられます」

 

 マティアスが再び口を開く。

 

「将来?」

 

 アドリアンはまた聞き返し、近侍らの興味深げな顔を見回してから、しばし考え込む。やがて答えに行き着くと、一気に顔を赤くした。

 

「何言ってるんだ! そんなのまだまだ、まだまだ先のことだろ!!」

 

 テリィはようやく意図を飲み込んだアドリアンを見て、ニヤニヤ笑いながら話した。

 

「そりゃ結婚なんてまだまだ先でしょうけど、グレヴィリウス公爵家の若様であれば、もう婚約という話が出てきたって、おかしくはないですよ。ダーゼ公爵に限らず、ご令嬢方はきっと今か今かと手ぐすね引いて待っておられることでしょう」

 

 アドリアンは思いきり渋面になると、まだその招待状を持っていたマティアスから取り上げて、『不要』の箱に放り込んだ。「あぁー」と、テリィがもったいなさそうに声を上げる。

 

「いいんですかぁ? ダーゼ公爵の一人娘といえば、噂では相当な美少女らしいですよ。母方が北方の異民族の血を引いていたとかで、珍しい髪色らしくて。小公爵さまとお似合いかもしれません」

「くだらない! ただでさえ明後日の夜には、ここで夜会が開かれるんだぞ。それだって嫌だっていうのに、どうして他所(よそ)の集まりにまで顔を出さないといけないんだよ」

 

 吐き捨てるようにいうアドリアンに、マティアスがまた鹿爪らしく申し述べた。 

 

「そうも言ってはおられません。不本意でしょうが、こうした集まりにおいて顔を見せて知遇を得ることは、将来的にも必要なことだと…先生方も仰言(おっしゃ)っておられました。まして婚約は重大事です。自らの目で候補となるご令嬢方を確認しておくことも必要です」

 

 アドリアンは唇を噛み締めて押し黙ったあとに、吐き捨てるようにつぶやいた。

 

「どうでもいいよ。どうせ公爵様がお決めになるだろうから」

 

 背後で聞いていたサビエルも、近侍達も、その投げやりな態度に少しばかり違和感を持った。

 誰も言わないが、アドリアンの母親である亡き公爵夫人は、本来の婚約者ではなかったものの、公爵閣下からの熱烈な求愛によって結ばれた。当然、その息子であるアドリアンもまた、両親のような恋愛結婚を望んでいるだろうと、皆が予想していたのだ。

 しかしアドリアンは自分の将来の伴侶について、どこか忌避していた。なんであれば、結婚なんてしたくもなかった。

 

「小公爵さまは、どのような方が相手であっても、公爵様のご命令に従うということですか?」

 

 少し震える声で尋ねたのは、意外にもキャレだった。

 近侍たちは目を丸くして、やや紅潮した顔で、問いかけるキャレを不思議そうに見た。

 しかし、アドリアンは普段は無口なキャレまでもが、こうした話題になると俄然口を開くことにも、多少苛立った。

 

「そうだよ」

「それでよろしいのですか?」

 

 キャレが重ねて問うてくるので、アドリアンはますます不機嫌になった。

 

「それでいい。なんの文句がある? 公爵様が…いやどうせルンビック子爵かザウナール補佐官あたりが、公爵家に見合った、然るべき令嬢(ひと)を選ぶだろうさ」

「小公爵さまのお相手ですよ? どうしてそんなに他人事のようにおっしゃるのです? 公爵閣下のように、ただ一人の愛する人と結ばれたいとは思われないのですか?」

 

 その日のキャレは、まったくもって理解不能だった。

 いつもなら、ここまではっきりと不快感を表すアドリアンを目の前にしたら、ビクビクしながら口を噤むものなのに、キャレは自身にも自分がどうしてこんなにムキになって言い立てるのかわからなかった。

 アドリアンはダン! と机を叩くと、とうとう立ち上がった。

 キャレはアドリアンが机を叩いた音にビクリと震えて、身を固くする。だが、スタスタと扉のほうへと歩いていくアドリアンをあわてて呼び止めた。

 

「お待ちください、小公爵さま!」

 

 その甲高い鋭い声にアドリアンの足が止まる。しかし振り向くことはなかった。

 キャレはギュッと自分のシャツを鷲掴みしながら、ゴクリと唾をのみこんだ。自分でもどうしてこんな勇気が出てくるのかわからない。けれど止められなかった。

 アドリアンの拒絶の背を見つめながら、たどたどしく言葉を紡ぐ。

 

「私は…庶子です。望まれぬ子でした。父は母を妻とも認めませんでした。だから…公爵閣下と奥方様のご関係は、とても…その……いいものだと、思います」

 

 最後は重くなっていく空気に押しつぶされるように小さい声になったが、キャレは言い切った。

 アドリアンは佇立したまましばらく黙していたが、やがてまた低くつぶやいた。

 

「僕は父上とは違う。僕は…誰か一人を特別に思うなんてことはしない」

 

 静かな声音には、断固とした意志があった。

 キャレはアドリアンの冷たい面に、心臓が凍りついて、ミシリと罅割れた気がした。

 

 アドリアンの姿が扉の向こうに消えても、キャレは固まったまま、閉じられた扉を見続けた。

 



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第百四十三話 グレヴィリウス家の夜会(1)

 帝都のグレヴィリウス公爵邸で催された年末の夜会は、家門の一族と家臣団だけの内輪のみというものであったが、その規模は周辺で行われていた諸々の貴族家の(パーティー)を圧倒していた。

 帝都のあちこちから公爵邸に向かった馬車の列、あるいは運河を渡ってくる舟も列をなし、訳知り顔の帝都っ子たちは「またグレヴィリウスの大行列か」と噂した。毎年のことで、もはや名物になっているのだ。

 

 一方、公爵邸内においては、公爵が姿を現して挨拶をするまでのひととき、多くの者達がワイン片手に雑談に興じた。

 一年ぶりに再会した旧友との会話を楽しむ者、帝都での今旬の流行について話し合う者、どこの誰から聞いたのかもわからぬ噂話をまことしやかに囁く者。

 集まった者はそれぞれに夜会の雰囲気に酔いしれる。

 

 アドリアンもまた父である公爵が姿を見せるまで、いつものように壁際のすみっこで、おとなしくライム水を飲みながら待つだけのつもりだったのだが、今年は勝手が違った。

 アドリアンを目ざとく見つけた一人が挨拶を始めると、次から次へとやって来る。

 

「お初にお目にかかります、小公爵様。私は…」

「初めまして、小公爵様。一段と大きくなられましたわね…」

 

 怪訝に思いつつも、アドリアンは一応、形式通りの挨拶を返した。

 彼らも公爵に嫌われていると噂される小公爵と、心底から仲良くなりたいわけではないのだろう。長話することもなく早々に立ち去っていく。

 個別には短い時間であったが、何十人と相手せねばならないアドリアンには苦痛でしかなかった。

 一旦、途切れたときに溜息が出る。

 

「なかなか大変なご様子ですね」

 

 聞き慣れた声に、アドリアンはホッとして振り返った。

 

「あぁ、ヴァルナル…」

「まだ宴も始まっておらぬうちから、疲れたような顔をなさっておいでだ。近侍たちはどうしました? 彼らに適当にあしらってもらえばよろしいでしょうに」

「ずっと家族と離れ離れに暮らしていたから、今日くらいは一緒に過ごしてもらおうと思って……でも確かに、マティには残っておいてもらえばよかったな。彼だったら、うまくさばいてくれたろうから」

「ほぅ。優秀なご令息がおられるようですな」

 

 ヴァルナルは感心したように言って、安堵の息をもらす。

 オヅマ以外にも、アドリアンを補佐する少年がいてくれるのは心強い。やはり同世代の繋がりというのは、大人相手とはまた違った経験を与えてくれるものだ。

 

 ヴァルナルの朗らかな声と眼差しに、アドリアンはようやく力を抜いて、ウーンと伸びをした。

 

「去年までは、こんなに声をかけられることもなかったっていうのに、今年は皆どうしたんだろう? やけに挨拶してくる」

「それはこの一年ほどで、随分と小公爵様が成長なさったからですよ。近侍もつくようになって、半分大人(シャイクレード)として、彼らも認めざるをえないのでしょう」

 

 アドリアンはヴァルナルの言葉に軽く肩をすくめた。

 貴族はそんな曖昧な理由で動きはしない。しかしヴァルナルに貴族(かれら)の思惑について訊いても、おそらくわからないだろう。

 

「どうかなぁ…」

 

 首をかしげるアドリアンに、ヴァルナルはニヤリと笑った。

 

「そのように気弱なことを申されて…噂はお聞きしておりますよ、弓試合のことなど」

「あれはオヅマとエーリクが頑張ったんだよ」

「ご謙遜ですな。小公爵様も見事、(まと)に射られたと聞いております。ヨエル卿が珍しく褒めそやしておられました。私など、いまだに彼には指導を受けるくらいなのに…」

 

 ヴァルナルの称賛が面映ゆくて、アドリアンはあわてて話を変えた。

 

「そういえばオヅマから手紙が来たんだ」

「ほぅ! それは珍しい。私どもには、とんと送ってきません。一度だけもらったのも、たったの二行でして」

「あぁ…」

 

 アドリアンが苦く笑うと、ヴァルナルが「まさか…」とつぶやく。

 

「そう。時候の挨拶とサインを除いて二行だよ。なんでも、帰ったら僕に稀能(きのう)を教えてくれるらしいよ」

「ハハハ。まぁ、きちんと学んでいるのであれば、何よりです」

 

 少しばかり嬉しそうなヴァルナルに、アドリアンは不満げに口をとがらせた。

 

「僕は焦ってるんだよ、ヴァルナル。剣術においてはオヅマと同等でいたかったのに、これでもう確実に追い越されちゃった…」

「オヅマは小公爵様をお守りするのが役目ですから、同等であっても困るのですが…しかし、そうおっしゃるのであれば、少しばかりお教えしましょうか?」

「えっ? できるの?」

「『確実にできる』とは、申せません。しかし精神集中を行うための呼吸法などは、伝授できます。あくまで伝えるだけで、何度も稽古して身につけられるかは、小公爵様の素養と努力によります」

 

 言いながらも、ヴァルナルは難しいだろうと思っていた。

 この先、小公爵であるアドリアンには公爵家後継者として、今まで以上に多く、細かい教育がなされていくだろう。騎士らとの剣術や馬術の訓練は続くとしても、そこに稀能を修得するための稽古の時間などとれようはずもない。

 まして再来年には最高学府であるキエル=ヤーヴェ研究学術府(通称:帝都アカデミー)に入学する予定なのだから、その勉強でますます忙しくなるに違いない。

 

 だが、あえてヴァルナルが教えると言ったのは、アドリアンにも目標を持ってもらいたかったからだ。勉強でも訓練でも、当たり前のように与えられた課題をこなすのではなく、自らの意志で選択したものを学び、身につけることの喜びを味わってほしい。

 呼吸による精神集中は稀能に限らず、種々のことで役に立つ。アドリアンであれば、応用させることはできるだろう。

 

「ぜひ、頼む!」

 

 アドリアンは嬉しくて、少しばかり声が大きくなった。周囲にいた数人が、振り返る。眉をひそめる者もいたが、アドリアンは見ていなかった。

 

「もし、これで僕の方が早くに修得できたら、オヅマもびっくりするだろうな」

 

 想像して思わず笑みが浮かぶ。しかし、ふと気付いた。

 

「待って。ヴァルナルが教えることができるなら、どうしてわざわざオヅマをズァーデンになんて行かせたの? ヴァルナルが教えてあげればいいじゃないか」

 

 急に尋ねられ、ヴァルナルの顔が固まる。

 どう言えばいいのか…と言葉を探していると、なんとも絶妙なタイミングで現れたルーカスが、すかさず助け舟を出した。

 

「それはもちろん、師匠であられるルミア=デルゼ老師のほうが、ヴァルナルよりも優れた指導者であられるからです」

「ルーカス…」

 

 あきらかにホッとした顔になって、ヴァルナルはルーカスを見る。

 ルーカスはヴァルナルをチラと横目で見てから、滔々と理由を説明した。

 

「それにクランツ男爵はこう見えてお忙しい。領主としての仕事、レーゲンブルト騎士団の団長としての仕事、それに帝都においては公爵閣下の騎士としての仕事もあります。オヅマの指導だけをするというわけにはいきません。短期間で十分な成果を出すには、専門の指導者の教えを仰ぐのは当然でしょう」

 

 アドリアンはルーカスの説明に納得はしたものの、顔はまだ不満気だった。

 

「僕もオヅマと行きたかったな…」

 

 ポツリと本音が出る。

 こんなところで、心のこもらない上辺だけの挨拶に首を振るだけなら、いっそオヅマと二人で汗を流して、へたばりそうなくらい走り回っているほうがいい。

 

 しかし現実はアドリアンの想像を冷たく裏切った。

 

「まぁ、アドリアン。すっかり大きくなったこと」

 

 いかにも親しげに、やさしく呼びかけてきた声。

 アドリアンは強張った顔で、声の主を見た。

 

「叔母上…」

 

 そこに立っていたのは、くすんだ金髪に赤茶色の瞳の、ふっくらとした容貌の貴婦人だった。

 たっぷりと白粉(おしろい)を塗った白い顔から年齢を推し量るのは難しいが、ややたるんだ顎下には、所謂(いわゆる)『豊満のネックレス』と呼ばれる、くっきりと深い皺が一筋あった。

 

 ヨセフィーナ・オーサ・エンデン・グルンデン侯爵夫人。

 アドリアンの叔母であり、現公爵エリアスの異母妹。

 実家であるグレヴィリウスから、エンデンの姓を受け継いだ彼女は、間違いなくこの場において、最も高貴な女性であった。

 

「叔母上…お久しぶりです」

 

 アドリアンは丁重に挨拶するものの、彼女のにこやかな微笑みに対して、笑顔を向けることはなかった。

 ヴァルナルとルーカスの顔も引き締まる。

 

「ごきげんよう、ベントソン卿」

 

 明らかに強張った顔の男たちを気にかける様子もなく、ヨセフィーナは片手を差し出した。

 ルーカスは眉を寄せたものの、差し出された手を持ち上げるように取って、軽く頭を下げ、形式的な挨拶を返した。

 

()き日にございます、侯爵夫人」

 

 元平民の成り上がり貴族と蔑まれていたヴァルナルは、彼女に無視されるのが常であったので、そのまま立っていたのだが、今回なぜかヨセフィーナはヴァルナルにも手を差し出した。戸惑いつつ、ヴァルナルもルーカスと同じように貴婦人への礼を行う。

 

 ヨセフィーナはゆっくりと手を戻しながら、満足そうに笑みを浮かべた。

 それからおもむろに、ヴァルナルに向かって話しかけてきた。

 

「そういえば、クランツ男爵は再婚されたと、お聞きしました」

「は…」

「すぐにも(わらわ)には、紹介いただけるものと思っておりましたのに、アールリンデンにお越しになることもなく、新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)にもおいでにならぬとは……よもや()()()()でも抱えておいでかしら?」

 

 柔らかい物言いの中に含まれた痛烈な侮蔑に、ヴァルナルは言葉をなくした。何を言われたのか、一瞬、わからなくなって、怒るよりも、いっそ呆気にとられる。

 

 患いの種 ―― つまり男爵夫人となったミーナの身体に何かしらの問題があるのか、ひいては不具者であるのかと皮肉っているのだ。

 

 いち早く気付いたルーカスが、それとなくたしなめた。

 

「ご心配には及びません。しかし侯爵夫人、たとえ家臣の一人とはいえ、クランツ男爵は歴とした帝国貴族にございます。その奥方に対し、会いもせぬうちに身体の瑕疵(かし)をまず問うとは、侯爵夫人らしくもない軽忽(けいこつ)なるお言葉でございますな」

 

 しかしルーカスの、怒気を押し殺すあまり平坦になった冷たい声音にも、ヨセフィーナは全く臆さなかった。「あら、まぁ!」とわざとらしく驚いてから、ホホホと笑う。

 

「そのような非道(ひど)いことは申しておりませんことよ、ベントソン卿。ただ、突然に貴い身分となった者であれば、礼儀を身につけるのも大変でございましょうから、さぞ難渋されて、体を壊されたのかと思いましたのよ。でも、そのように()()()をなさるような物言いをしたのは、確かに(わらわ)の不徳でございますわね。ご不快な気分にさせたのであれば、謝りましょう、クランツ男爵」

 

 ヨセフィーナの言葉は、いちいち一筋縄ではなかった。

 最後の言葉などは、言外に「(わらわ)に頭を下げろと言う気か?」と問うている。

 無論、格上の侯爵家、しかも公爵閣下の妹であるヨセフィーナに対し、ヴァルナルが謝罪を求めることなど、できるはずもなかった。

 

「いえ…妻が健康であることをわかっていただければ十分でございます」

 

 ヴァルナルは今になって沸々と怒りが湧いてきていたが、もはや苦言を言う場面は過ぎ去っていた。唇を噛み締め、先程ヨセフィーナが手を差し出してきた理由に、ようやく思い至る。

 それまではにわかに男爵となったヴァルナルを明らかに馬鹿にして無視していたのに、今日に限って礼を求めてきたのは、貴族として認める代わりに、ここに連れて来なかったミーナについて嫌味を言いたかったのだろう。

 

 案の定、ヨセフィーナはまたヴァルナルに問いかけてくる。

 

「それでは、いかような理由があって、男爵夫人は来られぬのでしょう? (かしこ)くも皇帝陛下に対し、年初の礼を欠くなど…よほどのことでございましょうね?」

「それは…領地に残した息子が病弱でございますゆえ、その世話を…」

 

 ヴァルナルが説明を終わらぬうちに、ヨセフィーナは扇で口元を隠して、眉をひそめた。

 

「まぁぁ…そのようなことは女中にでも任せればよろしいことでございましょう、男爵。あぁ、そういえば男爵夫人は元々、ご子息の世話人だとか? でも、だからといって妻女となさった以上、いつまでも世話人同様に扱うというのはいかがかと思いますよ。男爵が奥方に対し、使用人のように接しておられれば、周囲の者たちも奥方を侮ることでしょう。彼女の品位を(きず)付ける真似をなさっておられるのは、むしろ男爵、貴方(あなた)ではございませんこと?」

 

 もし、その言葉が本心からのものであるならば、ヴァルナルも首肯して、自らの行いを反省したことだろう。しかしヨセフィーナの勝ち誇ったような顔に、そうした思慮深さは感じられなかった。むしろ白々しく聞こえてくる。

 

 だが反論もできず、ヴァルナルが黙りこんでいると、ヨセフィーナの左右に立っていた貴婦人たちが、それぞれに声を上げる。

 

「さすがでございますわ、グルンデン侯爵夫人」

「侯爵夫人のお言葉を聞けば、きっとクランツ男爵夫人も勇気づけられることでしょう」

「侯爵夫人のおやさしいお心遣いには、いつもながら頭が下がる思いでございます」

 

 彼女たちは大仰なほどにヨセフィーナを称賛し、中にはヴァルナルにあからさまな皮肉を言ってくる者までもいた。

 

「殿方は何かというと、妻子を残して都に来たがるものですもの。まだ新婚であられるのに、男爵夫人もお可哀そうに…」

 

 婦人方からの白眼視に、ヴァルナルはひたすら耐えるしかなかった。女性相手に声を荒らげることなどできない。まして今は夜会の最中なのだ。華やかな宴席で怒声を上げるなど、もってのほかだ。

 ヴァルナルは気づかれぬように、静かに長く息を吐いて、心を落ち着かせた。

 

 しかし無表情になって口を噤むヴァルナルの姿に、そばにいたアドリアンは我慢できなかった。

 貴婦人連中に向かって、鋭い視線を向ける。

 

「クランツ男爵は誰よりも奥方に対して礼を尽くしておられます。勝手な憶測で、本人を目の前にして誹謗するなど、それこそ無礼なことです」

 

 それまで静かであった小公爵が急に口出ししてきたので、貴婦人たちは驚いて固まった。

 それこそ自分の悪口を目の前で言われても、何も言ってこないおとなしい小公爵が、まさか自分ではない他人を庇うなど思ってもみなかったのであろう。

 

 だが、ヨセフィーナは扇で口を隠したまま、すっと目を細めた。

 ツイ、と一歩近づくと、アドリアンの前髪にそっと触れて、ニコリと笑った。

 

「本当に、どんどんお兄様に似てきて…こうして『二本の剣』を従えている姿も、まるでお兄様の真似事をなさっておられるかのよう」

 

『二本の剣』は、ヴァルナルとルーカスを指し示したものだろう。

『真似事』という言葉も含めて、そこはかとない揶揄(やゆ)を感じながらも、アドリアンも言われた二人も反論はしなかった。

 

「…亡きリーディエ様がご覧になられたら、きっと喜ばれたことでしょうね。それとも寂しくお思いになるかしら? 残念ながら小公爵様の容姿には、御母上に似たところが、()()()()ございませんもの」

 

 (たの)しげにヨセフィーナは言ってから、ホホホと声に出して笑う。

 チラ、と隣の貴婦人に視線を向けると、亡き公爵夫人の名前が出てきて、強張った顔になっていた彼女らも、慌てた様子で次々に同意した。

 

「えぇ…まったくでございますわ」

「公爵閣下にはよく似ておいでですけれど、公爵夫人のお姿を思い浮かべることはできませんわね」

「リーディエ様は(とき)色の髪の色でございましたし、瞳もサファイアのように青くていらっしゃいました」

「そうそう。そういえば、ハヴェル様のあの青のピアス。元々は公爵夫人の瞳の色に合わせて公爵閣下が職人に作らせたものだそうですわね。大変、お気に入りだった大事な品を、ハヴェル様に譲られたのだとか」

「それは仲良くされておられましたものねぇ。まるで実の親子のように…」

 

 言いかけて、彼女は口を噤んだ。さすがに本当の母親のいる前で言うには、不適切と感じたのだろう。

 だがヨセフィーナは笑みを崩さず、胸にそっと手を充てて、いかにも大事なものを抱くかのようにして、優しく話を続けた。

 

「よいのですよ。本当に公爵夫人には感謝するしかございません。ひとときの時間ではございましたが、我が息子を我が子同然に慈しんでくださって…ハヴェルには今も忘れえない大事な御方でございます」

 

 叔母の話を聞くほどに、アドリアンの心は冷えていった。

 無表情な顔が凝り固まり、(とび)色の瞳はガラス玉のようになった。

 

 これにはヴァルナルは自分のことよりも怒りが湧いた。

 一見、無邪気にみえる婦人らのおしゃべりに、悪意しか感じなかったからだ。

 

 進み出て注意しようと思ったときに、新たに現れた人物が、やんわりと彼女らを制止した。

 

「小公爵様の前で、あまり故人について、訳知り顔に語るものではありませんよ」

 





引き続き更新します。


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第百四十四話 グレヴィリウス家の夜会(2)

「まぁ、ハヴェル」

 

 ヨセフィーナは息子が急に割って入ってきたことに、少々驚いたようだった。しかしすぐに笑みを取り戻す。

 

「イェガ男爵とのお話は終わりまして?」

「えぇ」

 

 ハヴェルは母親と同じような心のこもらない笑みを貼りつかせて、ヴァルナルに問うた。

 

「どうかされましたか? クランツ男爵」

「いえ……」

 

 ヴァルナルは一歩さがった。今は自分がしゃしゃり出る必要はないだろう。

 ハヴェルはヴァルナルからアドリアンに目線を落とすと、小首を傾げた。

 

「どうしたんだい、アドリアン。顔色が悪いね」

「いえ。そんなことはありません」

 

 いつになく強い口調で言い切って、アドリアンはハヴェルと目を合わすのを避けた。

 ヴァルナルは何気なくアドリアンを隠すように立ち、ルーカスがハヴェルに声をかけた。

 

「お母上をお探しでしたか」

 

 質問ではなく断定して言ったことで、ここでもルーカスは婉曲な本心を滲ませた。つまり ――― 母親を探しに来たなら、とっととその女どもを連れてあっち行け!――― ということだ。

 

 しかしハヴェルはわざとなのか、それとも本当にわからないのか「いや」と即座に否定した。

 

「母上を探していたわけじゃないんだが、リーディエ様のことを話しているのが聞こえてきたので、何の話かと思って…」

 

 言い終わらぬうちに、ヨセフィーナがまた無邪気に(見せかけて)割って入る。

 

「まぁ、ハヴェル。大したことではありませんよ。アドリアンが公爵閣下にあまりにそっくりだと話していただけです。亡き公爵夫人がご覧になられたら、自分に似たところのない息子に、少しばかり、がっかりなさるんじゃないかしら? とね」

「がっかり…?」

 

 ハヴェルは顎に手をやってしばらく考えながら、ヴァルナルの背後にいるアドリアンを見やる。

 目が合うと、アドリアンはまた視線を下に向け、逸らした。

 ハヴェルは優しく微笑んで言った。

 

「リーディエ様なら、がっかりどころかお喜びになると思いますよ。公爵閣下の小さい頃の姿を見ることができた、と。なにせ公爵閣下のご幼少の頃の絵は一切ございませんから」

 

 ピクリとルーカスは眉を上げる。

 ハヴェルの意図に、一瞬、怒りが沸騰した。

 

 現公爵エリアスの母は、前公爵の正妻であったソシエ=レヴェとなっているが、実のところはソシエの妹であったミシアだった。

 第一子であるエレオノーレ公女が生まれたのちには、前公爵夫妻はほとんど言葉を交わすこともなく、当然ながら夜を共にすることもなくなってしまっていた。そうした中で前公爵は妻の妹であるミシアと情を交わすようになり、生まれたのがエリアスだった。

 だがエリアスを産んだミシアは、姉との不和が生じることを望まず、公爵邸から遠く離れた別邸で息子と共に暮らすことを選択した。ミシアはエリアスが三歳の年に風邪をこじらせて肺を病み、そのまま亡くなった。

 その頃には側室のエルダフネがヨセフィーナを産み、また二人目を妊娠していたために、ソシエは急遽、妹が生んだ子供を実子として引き取り、彼を後継者として認めさせたのだ。

 自分の地位を安泰させるために引き取っただけの、自分の夫を掠め取った妹の子供に、愛情などあるはずもない。エリアスは公爵家において放置されたも同然だった。

 一般的な貴族の親であれば、幼少時の可愛い盛りに、自分の子供の絵を描かせるものだったが、そうした理由でエリアスの幼少時の絵は一切ないのだった。

 

 公爵家内において、エレオノーレの恥辱にまみれた死以上にこの話は禁忌で、アドリアンですらも父の出生についてなど知らなかった。

 しかしハヴェルはあえて匂わせるような発言をすることで、自分もまた、公爵閣下からの信任が厚いことをルーカスに示したのだ。

 

 しかも糾弾される前に、それ以上の言及を避け、早々に話題をリーディエに戻す。

 

「母上、それにオデル子爵夫人も、リーディエ様についてよく知りもしないのに、勝手なことを申し上げて、小公爵様の御心を乱すようなことはお控えください。()()()()()()()()()()()()、亡くなられた母親のことを、小公爵様が()()()ご存知のはずもございません。本当か嘘かも、判断できぬことでしょう」

 

 ハヴェルは巧みに同情を交えながら、母親とその取り巻きたちを叱責した。

 

 アドリアンは無表情に聞きながら、また背にゾッと寒気が這い登ってきた。

 いつもこうだった。

 ハヴェルはいつもこうやって、アドリアンの心を凍りつかせ、身動きさせなくするのだ。

 

 ヴァルナルもルーカスも、()()()()()()アドリアンを守ろうとしているハヴェルを止めることができない。

 

「小公爵様にとって、母上はもっとも(ちか)しい、女性の親族であられるのですよ。母代わりとして、情誼(じょうぎ)を尽くすは当然のこと。もしリーディエ様が母上の立場であれば、きっと慈愛をもって温かく接してくださったことでしょう。そういう方でございましたよ、()()()は」

 

 ハヴェルは懐かしそうに、その呼び方を口にする。眼鏡の奥の琥珀(アンバー)の瞳には、かすかな寂寥が滲んでいた。

 

 ヨセフィーナは鼻白んだ顔になってから、すぐに隠すように笑ったものの、どこか強張っていた。

 ジロリと上目遣いに息子を見る目には、明らかな苛立ちがあった。

 しかしハヴェルは、母親からの強い視線にもまるで気付いていないかのようだった。

 うっとりとした微笑を浮かべて、アドリアンを見つめる。

 

 ヴァルナルはアドリアンの肩にそっと手を置くと、ズイとより前へと進み出て、ハヴェルからの視線を完全に遮った。

 

 アドリアンは下を向いたまま、固まっていた。

 自分が何を言われたのか、理解できなかった。

 耳に入ってきたハヴェルの言葉について、頭が考えることを拒否している。

 

「おや? 小公爵様のご気分がすぐれないのかな?」

 

 ハヴェルがいけしゃあしゃあと問いかけ、ルーカスが受けて立とうとしたとき。

 

 公爵の登場を予告する音楽が、重々しく鳴り始めた。

 

 ルーカスは開きかけた口を閉じると、ハヴェルに辞去の礼をすることもなく、さっさと公爵の椅子が置かれた高座へと向かっていった。

 

「小公爵様、参りましょう」

 

 ヴァルナルもアドリアンを促して、ルーカスの後についていく。

 その場を離れる間際にチラリとハヴェルを一瞥した目は厳しく、怒りが滲んでいたが、ハヴェルはにこやかな笑みを崩さなかった。

 

 

 

***

 

 

 

「ごめん、ヴァルナル。もう大丈夫だ」

 

 アドリアンは高座の手前で、送ってきてくれたヴァルナルに礼を言って離れた。

 

「気になさる必要はございません」

 

 ヴァルナルが断固とした口調で言うと、アドリアンは口元にだけ笑みを浮かべつつも、その顔は苦しそうに歪んだ。

 だが、短い(きざはし)を上り、ルーカスを始めとする護衛らの前、公爵の座る椅子の脇に直立したその姿には、もはや先程までの気弱なところは微塵もなかった。

 公爵の面差しそのままに、冷たく、何らの感情も見せない。

 

「公爵閣下の御出座(おでま)しにございます」

 

 ようやく公爵の登場を知らせる従僕の声が響く。

 それまで雑談、あるいは悪口に興じていた人々は、すぐに口を閉じ、一気に広間は静まり返った。小さな(しわぶき)の音ですらも響くほどに。

 

 高座の横にあるドアが開き、公爵エリアスが姿を現すと、居並ぶ人々は揃って頭を下げた。

 エリアスは高座の中央に用意された、従僕五人がかりで運んできた大きな椅子に腰掛ける。軽く手を上げて、静かに告げた。

 

「よい。頭を上げよ」

 

 その言葉で、人々は一様に頭を上げたものの、目の前に座るエリアスのどんよりとした、端正なだけに一層冷たく感じる無表情に、また自然に目線を下に向けた。

 中にはそのまま目が離せなくなって、熱く見つめる婦人や令嬢もいたが、彼女らをエリアスが見ることはなかった。若い頃からそうした熱い眼差しを向けられてきたせいなのか、いつしか無意識に、自らに纏わりつく熱心な視線を遮断するようになっていた。

 

「みな、無事に帝都に到着したこと祝着至極である。今宵はゆるりと過ごせ」

 

 いつもながらの短く、心のこもらぬ挨拶に、居並ぶ人々もまた形式的な辞儀を返す。

 家令ルンビックの合図で楽隊が音楽を奏で始めると、人々は再び動き始めた。

 

 この宴での公爵の出番というのは、ほぼ最初の挨拶に尽きた。

 彼がこうした宴席に興味がないのは明らかで、それでも公爵という立場柄、早々に立ち去るわけにもいかない。そのため、彼はワインを一本あけるまでは、その座にいることにしていた。

 

 あらかじめ家令と補佐官で選定し、限られた者だけが公爵と談笑する(実際に公爵が『笑う』ということはほぼなかったが)権利を得た。その選定の基準となったのは、多くの場合、この一年の間にその家で結婚や出産といった慶事があったときである。弔事は会話が弾まないので忌避されるが、一旬節*1を周るような大往生であった場合などは、故人の功績を讃えて偲ぶこともあった。

 

 今年初頭に亡くなった前シェットランゼ伯爵について、息子の新たなシェットランゼ伯爵がエリアスと話し終えた後、呼ばれたのはヴァルナルだった。

 高座に上がり、エリアスの前に立って深々と挨拶したヴァルナルに、公爵は肘掛けに頬杖をつきながら、くだけた口調で話しかけた。

 

「早々に難癖をつけられたようだな」

 

 既にヴァルナルがヨセフィーナに嫌味を言われたことを聞いていたらしい。

 

「……大したことはございません」

「フ…さぞ、皆、興味津々なのだろう。手ぐすねひいて待っていたようだが、今回は出鼻を挫かれたといったところか。しかし存外残念なのは、其方(そなた)のほうではないのか?」

 

 そう言って公爵が秀麗な面に少しばかり微笑をひらめかせると、高座の下からチラチラと窺い見ていた数人の婦人たちから、軽い驚きの声と溜息が混ざって聞こえてきた。ヴァルナルは声のしたほうをチラリと一瞥してから、またエリアスに向き直って問い返した。

 

「…と、申しますと?」

「見目麗しい妻女を自慢したかったのではないのか? 本心では」

「え?」

 

 考えてもいなかったことを言われ、ヴァルナルは詰まった。

 酒が入ったせいだろうか。いつも峻厳な(とび)色の瞳は柔らかく、長年の気安い友人への()()()()が混ざっていた。

 ヴァルナルは苦笑しながらも、咳払いすると、澄まして答えた。

 

「まぁ、否定はいたしませぬ」

「フ…言うことよ。そういえば、男爵夫人の饗応への礼がまだであったな」

「そのような…当然のことをしたまでです」

「いや、辺境の地であるのに、必要にして十分なる心遣いであった。ああしたときに、過度な饗応(もてなし)をしてくる者もいるが、男爵夫人は誠に最善を知る。男爵の薫陶のよろしきもあったのであろう。後ほど目録を送るゆえ、受け取れ」

 

 目録、というのはつまり礼品の目録のことだ。

 これはヴァルナルに対して、先だってのレーゲンブルト訪問について感謝の品を贈るということだった。

 目録のある礼品を贈る、ということは、公爵家の公式年事録に記載されることを意味する。膨大なグレヴィリウス家の史録に、たとえ一文であったとしても名が残るのだ。

 それまでにもクランツ男爵の名は、公爵家史録に幾度となく記載されているのに、戦乱が静まって尚栄誉を受けることに、人々は羨望と同時に、彼が確実に()()()()()()()()をつけていっていることを感じた。

 

 このことも含め、彼の息子が小公爵の近侍として付くようになったことを鑑みても、公爵であるエリアスが、ヴァルナル・クランツ男爵を()()()信頼していることは明らかだ。

 無論、エリアスもそうした人々の反応を計算の上で言っているし、その公爵の意図を汲み取るのが貴族というものであった。

 

 先年の新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)への随行を禁止されて以来、クランツ男爵は公爵の不興を買い不仲となったと、まことしやかに囁かれていたが、今回のことでその噂が立ち消えるのは間違いなかった。

 

 そうして公爵と男爵との会話を聞き齧った者たちによって話が口々に伝わる中で、公爵と男爵との仲を取り持ったのが、クランツ男爵の二番目の妻となった、平民出身の美しい男爵夫人らしいと、人々は新たに噂し合った。

 

*1
六十四年





次回2023.08.20.更新予定です。


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第百四十五話 グレヴィリウス家の夜会(3)

 公爵の短い挨拶が終わると、アドリアンは早々に高座の上から退場した。

 そこではこれから本心を見せぬ貴族たちの、美辞麗句を使った()()()()()が行われるのだ。

 

 小さい頃から、アドリアンはこの一種異様な緊張感を持った大人たちの応酬が苦手であった。幼い頃は意味がわからないままに聞いていて、それでも何かしら彼ら ―― 特に父である公爵 ―― の言葉に、押し潰されそうな圧力を感じて、それだけで息が詰まりそうになることもあった。意味が少しずつわかるようになると、それはそれで、やはり疲れた。

 

 以前は青い顔をしたまま黙って耐えていたのだが、去年になってようやく、アドリアンはその場から逃れるということを覚えた。(その行動の変化を及ぼしたのは、レーゲンブルトでの生活であったのは言うまでもない)

 

 内心、いつ怒られるかとハラハラしながらも、短い階段を降りて振り返れば、目の合った父の表情に変化はなかった。

 その後になっても注意されなかったので、アドリアンは拍子抜けしたが、おそらく自分があそこに居ようが居まいが、大して意味もないのだと理解した。なので今回は特に気にもせず、高座から降りた。

 

「小公爵さま」

 

 すぐさま寄ってきたのがマティアスであったので、アドリアンはホッと息をついた。

 

「マティ、どうしたんだ? 今日は家族と過ごせばいいと言ったろう?」

「はい。いえ、先程まで小公爵さまがその…グルンデン侯爵夫人と何か…その…」

 

 言いにくそうにするマティアスに、アドリアンは微笑んだ。

 

「心配してくれてありがとう。大丈夫だよ。いつものことだ」

 

 いつものこと ――― そうは言っても、上品な言葉にまぶされた悪意に慣れることはない。

 自分に言い聞かせるように言うアドリアンに、マティアスは一瞬、同情の眼差しを向けたが、それこそ小公爵には嬉しくないことだろうと、表情を引き締めた。

 

「父が小公爵さまにご挨拶をしたいと申しまして、連れて参りました」

 

 言いながら、自分の後ろに立っている男を紹介する。

 マティアスと同じターコイズブルーの瞳に、小柄で猫背気味の、丸っこい顔。乳白色の髪は柔らかく癖が強いようで、しきりと頭頂部を押さえつけるようにして撫でていたが、アドリアンに向かってお辞儀したときに、甲斐なくモワンと膨れ上がった。

 

「あ…」

 

 アドリアンは思わず声が出た。

 さっきから頭を触っているものだから、自然と目がいってしまっていたのだ。

 マティアスの父はアドリアンの顔を見て、「ハハハ」と気弱そうに笑った。

 

「すみません。今日は雨が降っていたせいか、どうにも言うことを聞いてくれませんで…」

「だから油をつけて、整えるようにと…母上も仰言(おっしゃ)っておられたではありませんか」

「あれはにおいがキツイ。ワインがおいしく飲めなくなるじゃないか」

「そんなことどうでもいいでしょう! まったく、父上は…」

 

 いつものごとく、マティアスは実の父に対しても口やかましい。しかし息子のお小言にも馴れているのか、マティアス父は飄々としたものだった。

 再び胸に手をあてて、恭しくアドリアンに辞儀する。

 

「お初にお目にかかります。マティアスの父の、アハト・タルモ・ブルッキネンと申します」

「初めまして、ブルッキネン伯爵」

 

 挨拶しながらアドリアンは不思議だった。

 帝都に来て、家門の関係者を集めた夜会が開かれるのは恒例行事で、アドリアンはそれこそ乳母に抱っこされていた頃から出席していたが、目の前の伯爵の姿を見た覚えがなかった。伯爵以上は、さすがに数も多くないので、この数年の間であれば一度くらいは顔を合わせていたはずなのだが…?

 

「私であれば、小公爵様にお声がけすることも許されるだろうと、妻から厳命されまして。息子が近侍としてお仕えしているのに、親が挨拶もできぬでは申し訳ないと…」

 

 伯爵の言葉にアドリアンは小首をかしげる。隣のマティアスが渋面になって、父親を小突いた。

 

「父上。挨拶だけでいいですから」

「あぁ、わかってるよ」

 

 伯爵は鷹揚に頷きながらも、まだ話し足りないのか、やきもきする息子を脇に置いて話を続ける。

 

「小公爵様、いずれは我が領地にもいらして下さいませ。小さな領地ですが、シュテルムドルソンの金物細工は、帝都でも有名でして」

「あぁ、知ってるよ。マティから紙小刀(ペーパーナイフ)をもらったから」

 

 近侍として公爵家に来た際に、マティアスは自らの領地の名物である金物工芸を紹介する意味もこめて、近侍ら全員とアドリアンに紙小刀(ペーパーナイフ)を贈った。切れ味はもちろんのこと、柄の部分には表にグレヴィリウスを表すスズランが、裏にはそれぞれの家紋のレリーフが施されてある唯一品だ。

 

「あぁ、あれは妻が職人にやかましく言って作らせたものでして。気に入っていただけたのならば何より。妻もさぞ喜ぶことでしょう」

「…ち! …ち! …う! …え!」

 

 マティアスは囁きながら怒鳴るという、なかなかない芸当を発揮しながら、父親のおしゃべりを制止した。

 

「余計なことは言わなくていいんです! ご挨拶が済んだら、もうあちらで好きなだけワイン飲んでて下さい。でも、飲みすぎないで下さいよ!」

「どっちなんだい、それは…」

 

 伯爵は困ったように言いながらも、息子に対してニコニコとした笑みを崩さない。その笑みは貴族特有の表面的なものではなく、いかにも温和な人柄を窺わせた。

 

「このように口やかましい息子でございますが、忠誠心は間違いようもないので、どうぞ引き立ててやって下さいませ。お元気であらせられて、何よりでした。妻も安堵することでしょう」

「はぁ…?」

 

 最後にまた妻のことを持ち出す伯爵に、アドリアンは疑問を感じつつも、軽く会釈して、彼を見送った。

 

「申し訳ございません、小公爵さま。我が親ながら、ずっと学問に夢中で、どうにも浮世離れしたところがありまして…」

「伯爵は学者でいらっしゃるのかい?」

「学者というほど、立派な肩書もないのです。アカデミーで学を修めたわけでもありませんし。自分の好きなことをひたすら研究している…ただの在野(ざいや)の研究者に過ぎません。そのせいで伯爵としての仕事の大半は、母が行って参りました」

「あぁ…」

 

 アドリアンは得心した。

 おそらくブルッキネン伯爵は、こうした夜会などに出ることを忌避し、代わりに妻である伯爵夫人が出席し、夫の名代としての役割を果たしていたのだろう。しかし当然ながら伯爵夫人が伯爵の仕事を代行はできても、伯爵自身として認められることはない。そのために小公爵であるアドリアンに対して、表立って挨拶に来ることはなかったということだ。ただ ―――

 

 

 ――――― 私であれば、小公爵様にお声がけすることも許されるだろうと…

 

 

 あれはどういうことだろうか?

 高座の上などで貴賓に対し、身分の下の者が勝手に口をきくことは許されない。しかし高座下の、今いるような場所であれば、声をかけることなどは別段、気を遣う必要はない。最低限の礼儀さえ守っていれば、非公式の挨拶をするのは自由だ。

 実際さっきも、公爵が姿を見せるまでのアドリアンは、そうした挨拶を受けていたのだから。

 

 だが先程の伯爵の口ぶりからすると、伯爵夫人はそうした挨拶ですらも許されなかったようだった。アドリアンにはそれが少し奇妙に思えた。

 

「マティ、伯爵夫人は今回は来られなかったようだけど、昨年まではおいでだったんだよね? じゃあ、一度くらいは僕、会っているのかな?」

 

 何気なく尋ねると、マティアスの顔は曇った。何を言うべきか、思案しているようだ。

 

「…何度か、お見かけしたことはあります。私もそばにおりましたので」

 

 ひどく持って回った言い方にアドリアンは釈然としなかったが、あえて軽い調子で続けた。

 

「そうなんだ。じゃあ、声をかけてくれれば良かったのに」

「それは…許されておりませんので」

「許されない…って、ただ声をかけることが? どうして?」

「その…母は女でございますので…」

「別に伯爵夫人が女だからといって、僕に声をかけることが不敬だなんて、誰も思わないだろう?」

 

 女性に対してより優位なのが男であるというだけで、女性を蔑むことはしない、というのが、基本的な貴族の考え方だ。まして伯爵としての仕事を取り仕切ってきた実績のある女性であれば、それなりに丁重に扱われる。小公爵と話すことぐらい、女だからと目くじら立てられるようなことでもないだろう。

 

 そこまで考えてから、アドリアンはマティアスの言葉を反芻した。

 

 許されていない ――― ?

 

「許さないって…誰が…」

 

 言いながらも、アドリアンにもそんな命令ができるのは、ここで唯一人しかいないことに思い至る。

 急にマティアスと同じように口が重くなった。

 

 父である公爵がそう命じたのであれば、誰が抗えようか。

 だが、どうしてそんなことをするのだろう?

 公爵は基本的にアドリアンに関心がない。誰と付き合おうが、何をしようが、公爵家の名に傷をつけるようなことでない限り、放任だ。公爵にとってアドリアンは跡継ぎというだけの存在で、実体のあるものとして自分の目の前に立つことすらも鬱陶しいのだ。

 

 アドリアンはそれ以上、考えることはやめた。どういう意図なのかは知らないが、公爵がアドリアンとブルッキネン伯爵夫人に話してほしくないと考えている以上、従うしかない。

 

 強張った顔で沈黙する二人に、今度声をかけてきたのは、テリィ ―― ではなく、彼の祖父だった。

 

「お久しゅうございますなー! 小公爵様!!」

 

 あたりを憚らぬ大音声が響いた。

 周囲の耳目が自分に集まるのにも臆する様子もなく、大股に近づいてくるなり、ガハハと笑ってポンポンとやや強めにアドリアンの両肩を叩く。

 

「いやぁ、大きくなられた! この分ですと公爵閣下も超すのではありませんかな? ハッハッハッ」

 

 恰幅のいい大きな体を揺らして笑う老人は、テリィの祖父であるグレーゲル・アートス・テルン子爵。フサフサとした癖の強い白髪頭には、テリィと同じ柑子(こうじ)色の髪が混じっている。

 

 アドリアンは元気な老人のやや痛い挨拶に苦笑した。

 嫌われ者の小公爵に対し、形ばかりの挨拶で去っていく貴族が多い中で、テルン子爵はアドリアンがまだもっと小さい頃から唯一、気さくに声をかけてくれる気のいい老爺だった。ただ、この大声と、力加減を間違えた挨拶には、いつも閉口させられる。

 

「久しいな、テルン子爵。身体(からだ)はもうよくなったのか?」

「うん? からだ? 吾輩は至って健康にございますぞ。四年後も余裕で一旬節(いちじゅんせつ)を迎えるでありましょう!」

 

 一旬節を迎える…とは、八つの色と八種類の鳥からなる年の組み合わせが一巡して、自分の生まれ年が再び訪れたことを言う。六十四歳を迎えた老人は皆、この区切りを祝い、自慢するのだ。

 近隣諸国に比べて帝国の医療水準は高いものの、それでも赤子や幼児の死亡は多く、平均寿命は低い。成長して大人になったとしても、数年前にまだ南部の戦役などもあったことから、長生きできる者は少なかった。

 

 アドリアンは相変わらず壮健な老子爵を頼もしそうに見てから、ようやっと姿を現したテリィにあきれた眼差しを向けた。やはりこの前、一時休暇をもらうために、祖父の世話云々と言っていたのは、適当な方便だったようだ。

 

 隣に立っていた老子爵はフンと鼻息も荒く、大声で孫を呼ばわった。

 

「チャリステリオ! なにをしておる!! 早く来んか!」

 

 テリィは息がきれたのか、途中で一度立ち止まって荒い呼吸を整えていたが、祖父にまた怒鳴られると、あわてて小走りにやって来た。何かを食べている途中だったのか、口がモゴモゴ動いている。

 

「チャリステリオ。食べながら走るなど、みっともないぞ」

 

 マティアスは本当は怒鳴りつけたいくらいであったが、周辺で聞き耳をたてているであろう貴族連中の前で面罵するのはさすがに控えた。また泣かれでもして、これ以上の耳目を集めるのは面倒と考えたからだ。

 

「だって…だって…お祖父(じい)さまが、きゅ、急に小公爵さまに挨拶したいとか言って、行かれるから…」

 

 テリィの言い訳を遮って、テルン子爵がまた大きな声で、今度はマティアスの肩をバンバンと叩いて誉め称えた。

 

「いや、さすがはブルッキネン伯爵のご子息! 母上に似て、しっかりしておられる。ウチの凡愚な孫とは比べ物にならん! 伯爵夫人もさぞお喜びでありましょう。小公爵様はもう彼女には会われましたかな?」

 

 老子爵の問いかけにアドリアンが首を振ると、マティアスは妙に落ち着かぬ様子で、早口に説明した。 

 

「母は来ておりません。領地にて馬車の事故に遭い、療養しておりまして」

「なんと! それは大変ですな…ご夫君はあまり頼りにもできぬでしょうに」

「一応、怪我が治るまで、外に出ることはできませんが、決裁などの座ってできる仕事はしておりますので」

「おぉ…さすがさすが。さすがは公爵夫人の…」

「テルン子爵!」

 

 マティアスはあわてた様子で、子爵の言葉を遮ると、アドリアンに向き直った。

 

「小公爵さま、空腹ではございませんか? ベランダのほうに食事の用意が…」

「マティアス…」

 

 アドリアンはさすがに不自然なマティアスの言動に、怪訝な顔で問いかける。

 

「何を隠そうとしている?」

「何も…隠してなどは…」

 

 アドリアンはしばらく押し黙ってから、老子爵に問いかけた。

 

「テルン子爵、さっき言いかけていたのは、どういうこと? 公爵夫人というのは、僕の母上のことか?」

 

 老子爵はやや緊張を帯びた雰囲気に、目をパチクリさせながら、アドリアンの問いかけに頷いた。

 

「左様でございます。ブルッキネン伯爵夫人は昔、公爵夫人の侍女でありました。とても有能で、公爵閣下にとってのベントソン卿同様、ブラジェナ嬢は公爵夫人の右腕と呼ばれておりました。あの頃は才気煥発な公爵夫人の打ち出す施策に、我らは振り回されつつも、何とも充実した…楽しい日々にございました」

 

 テルン子爵は先代の公爵の時代から引退するまでの間、公爵家領内で主に土木・営繕などを管轄する工部の任にあった。当時のことを懐かしく語る老子爵の顔は、どこか誇らしげでもあった。

 

 一方でマティアスは軽く溜息をついて、眉を寄せる。

 

「公爵閣下から、そのことについては申し上げることのないようにと、厳命されているのに…」

「ホッ、そのようなこと。こうして貴君が小公爵様の近侍となるを認められたのです。公爵閣下もお許しあってのこと。もはや気にする必要なぞない」

「そうでしょうか……?」

 

 マティアスは心細げにつぶやき、チラリと高座の上の公爵を窺った。

 アドリアンも同じように見やる。

 

 老子爵の大声が聞こえてはいたのだろう。

 接見しつつも肘掛けに頬杖をついて、鳶色(とびいろ)の瞳がどんよりとこちらを見ていた。背後に控えるルーカスが、やや困ったような苦笑いを浮かべている。

 老子爵もまた体をひねって公爵を見ると、茶褐色のどんぐり眼を大きく開いて下唇を突き出し、まるで(フナ)のようなトボけた顔をしてみせた。

 公爵が軽く眉を寄せ、視線を逸らす。

 老子爵は肩をすくめ、クルリとアドリアンに向き直った。

 

「ふむ…されど公爵閣下におかれては、やはり面白くござらぬようですな。老人の昔話はここまでにしておきましょう。優美にして剛毅なる鹿*1の不興を買って、我が孫が小公爵様の近侍から外されるようなことがあっては、元も子もない。では、失礼」

 

 来たときと同様に、老子爵は唐突に去っていった。

 

 どうやらテルン子爵はこれまでも、公爵の機嫌を見極めてアドリアンと接触してきていたらしい。(理由はわからないが)マティアスの母であるブルッキネン伯爵夫人のように、公爵に目をつけられて、アドリアンから遠ざけられないように。

 その匙加減がわかるのは、やはり長年に亘って公爵家で勤めてきたからだろうか。

 

「ただの声の大きいお爺さんと思っていたけど、やっぱり一筋縄ではいかないな」

 

 アドリアンは子爵の大きな背中を見送りながら独り言ちた。

 

「小公爵さま…」

 

 心配そうに呼びかけてくるマティアスに、アドリアンはそれ以上、詳しく聞こうとは思わなかった。訊いてもマティアスにはきっと答えられないのだ。

 

「確かにお腹が空いてきたし、軽く食べに行こうか。テリィ、何がおいしかった?」

 

 祖父に置いていかれて、どうすればいいのかと目を泳がせるテリィに声をかける。

 

「あ…そ、それならやっぱり海老と何かのムースのパイ包みか、もっとしっかり食べたいなら、か、軽くローストした鴨でなにかを巻いた…」

「『なにか』ばっかりじゃないか」

 

 マティアスがあきれたように言う。

 アドリアンは笑って二人を促した。

 

「じゃあ、食べに行こう」

「あっ、それならベランダ側のテーブルよりも、東の小部屋のほうが人も少ないんで、まだ残ってると思います」

「お前、テーブルを見回っていたのか…」

「あらかじめ偵察していてくれて助かるね」

 

 いつものような会話になりながら、テリィの案内で東にあるパーティションで区切られただけの小部屋に入ると、確かに広間の中心から少し離れた場所にあるせいか、人気はほぼなかった。従僕が数人、控えているだけだ。

 

「あ、これこれ。これがおいしかったんです~」

 

 テリィがお目当ての料理を見つけて、足早に近づこうとしたとき、バルコニーのある窓のカーテンが荒々しく揺れ動いた。

 

「放っておいてくれって、言ってるでしょう!!」

 

 ひどく苛立たしげな甲高い声。アドリアンを始めとしたその場にいた人間が、驚いて声のしたほうに目を向ける。

 

 大きく揺れるカーテンの間から姿を現したのは、キャレとエーリクだった。

 

 

*1
グレヴィリウス公爵の意





次回2023.08.27.更新予定です。


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第百四十六話 グレヴィリウス家の夜会(4)

 時間は夜会の始まる前に戻る。

 

 

***

 

 キャレはアドリアンからもらった豪華な夜会服を着てから、玄関ホールに向かった。

 正直、気が重い。本当は行きたくない…。

 

 憂鬱な気分で階段を降りていると、近侍たちの話す声が聞こえてきて、キャレはあわてて駆け下りた。

 既にキャレ以外の全員、アドリアンも含めて集まっていた。

 皆、夜会に行くので当然ながら着飾っている。しかし、キャレの目には一人しか入ってこなかった。

 

 マティアスと話をしているアドリアンの姿は、それこそ昔、何度も読んだおとぎ話の王子様のように見えた。

 

 つややかで光沢のある白の生地に金糸で繊細な花綱模様(フェストゥーン)が刺繍された上着。大きく折り返された袖口や、襟の一部はグレヴィリウスを表す青藍色の生地になっており、銀糸でやはり細かな刺繍が施されている。

 右肩にかけられている青藍色の飾り用マントが柔らかく揺らめき、その留具(クラスプ)は、グレヴィリウス公爵家の家紋が造形されてあった。スズランの部分は月長石、鹿にはアクアマリンが嵌め込まれてある。

 

 思わずぼうっと見惚(みと)れていると、気づいたアドリアンと目が合って、キャレはあわてて顔を伏せた。

 

「あぁ、キャレ。よく似合ってるね」

 

 いつも通りに気さくに声をかけられ、キャレは唇を噛み締めた。

 

 一昨日、ダーゼ公爵家の園遊会に顔を出すか否かから、アドリアンの婚約について話が及び、自分に関することであるのに、ひどく投げやりな態度のアドリアンに納得がいかず、思わぬ言い争いになってしまった。

 それからキャレはずっと気まずい。

 アドリアンにとってもそうであってくれるならばまだしも、現実は素っ気ないほどだった。

 その日の夕食の際に、アドリアンが「きつい物言いをしてしまったね」と申し訳なさそうに言ってきて、その後はいつもと変わらぬ態度であった。

 

 キャレは有難くはあったものの、同時に寂しかった。

 キャレにとってあの(いさか)いは真剣勝負だった。だがアドリアンにとっては、大したことでもなかったらしい。

 それが寂しくて、なぜか苦しかった。

 今までは見るだけで心が温かくなったアドリアンの微笑みも、空虚に見えてくる。

 喉が詰まったように感じながら、キャレはなんとか返事した。

 

「あ…ありがとう…ございます。小公爵さま」

「まるで誂えたみたいにピッタリだ。色もキャレの髪と合ってるし」

 

 無邪気に話すアドリアンが、少し苛立たしい。いや、憎らしい。

 キャレが黙っていると、マティアスがとりなすように言った。

 

「確かに。臙脂(えんじ)色がよく似合っています」

「小公爵さまはこの服を着られたことは?」

 

 テリィの問いかけに、アドリアンは首を振った。

 

撫子(なでしこ)の刺繍がなんだか可愛らしすぎる気がして、着るのを避けてるうちに小さくなっちゃったんだ。だから、新品だよ。キャレ」

「は…はい…ありがとうございます」

 

 キャレはもう一度礼を言い、もう頭を下げっぱなしだった。

 

 そのまま皆で本館の大広間へと向かう。

 キャレはずっと黙ったまま、前で談笑するアドリアンたちに()いていった。一歩進むたびに、足取りは重くなっていく。どうせならずっと廊下が続けばいいのに…と、虚しく願う。

 

 やがて大広間前まで来て、急にアドリアンが立ち止まり、振り返った。

 

「今日は皆、家族が来ているだろうから、一緒にいるといい。僕もどうせ始まったらしばらくは高座でかしこまっているだけだしね」

「本当ですか?」

 

 すぐに嬉しそうに反応したのはテリィだった。マティアスは少し戸惑ったように問うた。

 

「よろしいのですか?」

「あぁ。また秋になったら離れ離れになっちゃうんだし、せっかく家族と会える機会だ。こういうときくらいは一緒にいるといいよ」

「私は残ります」

 

 厳然と言ったのはエーリクだった。「誰もいなくなったら、小公爵さまを警護する者がいなくなります」

 

 しかしアドリアンは笑って、エーリクの腕を軽く叩く。

 

「公爵家の騎士を馬鹿にするもんじゃないよ、エーリク。彼らが今日、どれだけ配備されていると思ってるんだ。それこそエシルからだって、警護任務に就いている者もいるだろう?」

「しかし…」

「じゃあ、命令」

 

 アドリアンは腕を組んで、いかにも威張ったように言ったが、(とび)色の瞳は柔らかく微笑んでいた。

 エーリクは仕方なさそうに頷いた。

 

 キャレはアドリアンの発言を聞いたときから、顔色を失くしていた。

 ただでさえ憂鬱であったのに、よりによってあの家族と一緒なんて、死刑宣告みたいなものだ。

 

「あの…あの…小公爵さま…私は……」

 

 キャレはおどおどと声をかけたが、テリィの大声に遮られた。

 

「じゃあ、失礼致します! また後ほど!」

 

 早口にアドリアンに礼を言って、我先にと走り去っていく。

 マティアスは「まったく…騒々しい…」と苦々しく見送ってから、アドリアンに礼を言って、やはり少しばかり足早に立ち去った。エーリクも黙って頭を下げると、行ってしまった。

 アドリアンは三人の近侍たちを見送ってから、歩きかけて、ふと気づいたように振り返った。

 

「あれ? キャレ、君も行ってきたらいいよ」

「あ…いえ…私は……」

 

 キャレが迷っていると、アドリアンはハッとした顔になった。

 

「そうか…君は…」

 

 キャレが元々庶子で、オルグレン家で冷遇されていたことを思い出したらしい。しばらく考えてから、尋ねてきた。

 

「そういえば、キャレ。ファルミナの騎士団が合流したときにも、君は特に挨拶とか行ってないよね?」

「は…はい」

「君が家族に対して複雑な思いがあるのはわかるけど、一度も挨拶がないというのは、かえって非難されるよ。オルグレン家の()()として、顔を見せるくらいはしたほうがいいんじゃないかな」

 

 キャレは一気に肩が重くなった。

 普通であれば、アドリアンの言うことはもっともなことだ。だがキャレはなるべくならば、オルグレン家の人々とは顔を合わせたくなかった。まして、こんな格好をしていたら、何と言われるか…。

 

 しかしアドリアンは安心させるように、キャレの肩を叩く。

 

「大丈夫。彼らは君を嫡子として認めたのだから、無下になんてできないよ。ましてこんなに大勢の人が集まる場所で、子供に怒鳴りつけるようなことしたら、それだけで騎士が飛んでくるさ」

 

 話している間に、日が落ちて、軽やかな音楽が聞こえてきた。

 夜会が始まったのだ。

 

「一言挨拶したら、すぐに退散したらいいよ。僕も公爵様の挨拶が済んだら、すぐに高座から降りて、壁際で大人しくしておくつもりだから。あとで合流しよう。じゃ」

 

 アドリアンは軽く言って、大広間に入っていった。止める暇もない。キャレは口を開いたまま、しばらく立ち尽くしていた。

 

 置いていかれた…。

 

 オルグレン家の人々に挨拶に行かねばならないことよりも、アドリアンに放置されてしまったことが、キャレにはショックだった。

 やっぱりあの日から、小公爵さまは怒っているんじゃないだろうか…?

 頭がぐるぐる回って、また嫌なふうに考えてしまう。

 

 泣きそうになるのをこらえて、キャレは大広間に入った。

 貴族が出入りする大きいドアからではなく、使用人用のドアから入ったのは、少しでも目を引きたくなかったからだ。

 なるべく誰とも目が合わないように俯き加減になって、長く伸びた前髪の間から、周囲を見回す。オルグレン家の人の顔がないのを確認すると、壁沿いに目立たぬよう歩いていった。

 

 とりあえず公爵閣下の挨拶が済んでアドリアンと合流するまでの間、どこかに隠れておこう。

 アドリアンはああ言うが、あちらだってキャレが挨拶に来ることなどきっと望んでいない。そもそも帝都に向かう途中で合流してきたときだって、何も言ってこなかったのだから。

 オルグレン家の中にキャレは最初からいない。

 近侍となるために嫡子となったものの、実子と同じ権利が与えられることなどないのだ。

 

 人々のさざめきから遠のくように、キャレは人のいない場所を探した。

 大広間の隅、パーティションで仕切られた小部屋を見つけると、ホッと息をついた。そこはおそらくちょっとした軽食や飲み物などが供される場所なのだろう。テーブルがいくつも並べられてあったが、まだ夜会が始まったばかりというのもあって、テーブル上にあるのは飾り花と、いくつかのワイン、ライム水ぐらいだった。貴族らしき人はおらず、従僕や女中が忙しそうに動き回っているだけだ。

 

 キャレはライム水をもらって、喉を潤す。一言も話していないが、緊張のせいで喉がカラカラだった。一気に飲み干して、二杯目のグラスに手を伸ばそうとしたときに、背後から呼びかけられた。

 

「こんなところにいたか…キャレ」

 

 ザラリとした陰湿な声。

 キャレは一瞬、息が止まった。それでも長年の条件反射で、即座に振り返って頭を下げてしまう。

 チラリと視界の端に、自分と同じルビーの髪が見えた。

 久しぶりに会う兄、セオドアがそこに立っていた。

 

 (セオドア)はゆっくりとキャレに近づいてくると、目の前に立ったまましばらく何も言わなかった。

 キャレの目には、兄の履いているきらびやかな靴しか見えない。今しもその靴が自分に向かってくるのではないか、と体が震えてくる。

 

「キャレ…」

 

 兄が妙にやさしげな口調で呼びかける。

 キャレはゴクリと唾をのんで、次の言葉を待った。

 

「キャレ、顔を上げておくれ。久々の再会じゃないか」

 

 不意に肩に手を置かれて、思ってもみない言葉を言われ、キャレは困惑した。

 おそるおそる顔を上げると、セオドアは笑みを浮かべていたものの、やはり青い瞳は冷たさを帯びていた。

 

「ずっと待っているのに、お前がなかなか姿を現さないから、わざわざ探し回ってしまったよ」

 

 言葉だけはまるで肉親のようだった。

 いや、実際に肉親ではあるが、彼がいわゆる肉親としての『情』をキャレに向けることなどあるわけもない。今も笑みを浮かべながら、キャレの肩を掴む力はギリギリと圧力を増してくる。

 

「今日は母上もいらっしゃっていてね…ここ数日、また頭痛がひどくていらしたんだが、公爵家の夜会に出ぬわけにもいかない」

 

 セオドアの言葉を聞いて、キャレは彼がどうして声をかけてきたのかわかった。

 

 オルグレン家当主の二番目の妻、セオドアにとっては継母にあたるハイディ夫人には持病があって、しばしばひどい癇癪をおこして卒倒する。

 普段、穏やかに暮らしている分には発作は起きないのだが、キャレら親子を見ると、ほぼ毎回発症した。

 そのためファルミナにいた頃には、キャレは男爵夫人のいる棟に近づくことは禁じられていた。

 

 彼女は夫が召使いに手を出したことについては嫌々ながらも黙認したが、その卑しい者が自分と同じように夫の子を産んだことが許せなかった。

 二番目の妻としてオルグレン家に入って、彼女は当主セバスティアンとの間に一男一女を設けたが、次男は彼女と同じ明るい茶色、次女はくすんだ金髪であった。

 それでなくとも亡くなった一番目の妻の子供が二人ともに、見事なくらいオルグレン家特有のルビーの髪色であることに引け目を感じていたのに、卑しい召使いの子供までもが、同じルビー色の髪であることに、ますます彼女の矜持は傷ついた。

 そんなことからハイディ夫人は、キャレら親子を蛇蝎のごとく忌み嫌っていたのだ。

 

 もし、人々の大勢集まる夜会で、いつものごとく大声で喚き散らして、泣き叫んで、自分の髪の毛を引きむしった挙げ句に失神などしたら、オルグレン家は笑い者だ。

 

「…夫人は、広間にいらっしゃるのですか?」

 

 キャレが尋ねると、セオドアはフンと馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

 

「一度はいらしたが、人の多さに目を回されて、すぐに休憩部屋に引き籠もったさ。まったく、役に立たぬ。いっそクランツ男爵のように、理由をかこつけて領地(ファルミナ)に閉じ込めておけばいいのに、父上も体面だけは気にするからな。何もしないくせに…」

 

 セオドアはよっぽど父に対する鬱憤が溜まっているのだろう。

 セオドアが成人してからこの数年、父は領地に関することでも、家庭内のことでも、面倒事はすべて長子であるセオドアに押し付けている。それでいて何か世間的に注目されそうなことだけは、すべて自分の手柄で持っていく。セオドアの苛立ちはどんどん積もり、その吐出口にキャレはいる。

 

 今も広間では、きっと父がそこらにいる貴族相手に、愚にもつかない自慢話をしているのだろう。その間にセオドアは、ハイディ夫人を休憩部屋に押し込み、万が一にも彼女の目に入らぬようにと、キャレを探し回っていたのだ。

 今、こうして釘を刺すために。

 キャレの消極的な判断は、ある意味正解であったわけだ。

 

「てっきり小公爵と一緒に姿を見せると思っていたのに、広間に入ってきた小公爵に近侍が一人もついておらぬから、一体どういうことかと思ったよ。…アドリアン()()も軽んじられたものだな」

 

 セオドアは口調だけは柔らかく言っていたが、途中から侮蔑をあらわにした。

 アドリアンを小公爵として呼ばないところだけとっても、十分に意趣を含んでいる。

 キャレに対して一言、釘を刺すだけで済むはずもないとは思っていたが、まさか矛先を小公爵さまに向けるとは…。

 キャレはキッとセオドアを睨みつけた。

 

「それは小公爵さまが、今日は家族と一緒に過ごせと仰せられたのです。ずっと離れ離れだったから、せめて今日くらいは…と」

 

 いつもであれば、キャレがセオドアに物申すことなど有り得なかった。しかし、ことアドリアンに対して、批判されるのは我慢ならない。

 

 意外にも言い返してきた()に対し、セオドアはピクリと眉を上げる。上っ面だけの微笑すらも消え、冷たかった目はますます厳しくキャレを睨み据えた。

 

「……こちらに来なさい」

 

 キャレの腕をがっしり掴むと、強引に引っ張っていく。

 無理矢理に連れて行かれたのは、小部屋から続く小さなバルコニーだった。

 セオドアはキャレを隅に追いやると、威嚇も露わに前に立って睥睨した。

 

「私の目が届かなくなった途端に、随分と生意気な口をきくようになったではないか? これもアドリアン公子の影響か?」

「……小公爵さまです」

「なんだと?」

「小公爵さま、です。ここはグレヴィリウス邸です。公爵家の人に対して、礼儀を失しているのは兄上の方だと思います」

 

 ファルミナにいた頃のキャレであれば、セオドアにここまで威圧されれば、すくみ上がって震えるばかりであったろう。事実、さっきまではオルグレン家の面々と顔を合わせる、ということだけで震えていたのだ。

 だが、アドリアンへの誹謗を許すことはできなかった。それが例え長年に亘ってキャレに従属を強いてきた兄であっても。

 

 セオドアはもはや怒りを隠さなかった。

 

「貴様…っ」

 

 荒々しくキャレの髪を掴むと、苛立たしげに振り回して恫喝する。

 

「誰に向かって、そんな口をきいているんだ? よっぽどアドリアン()()に気に入られているようだな。服までもらって。フン! お下がりをもらって尻尾を振って、物乞いの真似か? 貴様にはお似合いだ…!」

 

 それでも大声で怒鳴るのだけ控えたのは、警備の騎士たちに見咎められるのを恐れたからであろう。

 

「お前のような、オルグレン家の面汚しがこの夜会に出るだけでも虫酸が走るというのに、賢しらに楯つくような真似を…どうやらロクな礼儀を教えてもらっていないようだな…!」

 

 キャレの頭を掴みながら、セオドアの手が振り上げられる。

 キャレは反射的に目を閉じた。

 

 





引き続き、更新します。


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第百四十七話 グレヴィリウス家の夜会(5)

 一方 ―――――

 

 エーリク・イェガにとって、夜会という活動はもっとも無意味なものだった。

 せめてアドリアンの警護という役割があれば、すこぶる意味のあるものとなり得たが、ただ親族と一緒に過ごせといわれても手持ち無沙汰でしかない。

 

 広間に入って早々に家族らの姿を見つけたものの、父母らは既にハヴェル公子と談笑しており、エーリクに気付いたのは次兄・イェスタフだけだった。

 

「なに、お前? なにしに来たんだ?」

「……小公爵さまに、今日は家族と過ごせと言われた」

 

 不満げに話すエーリクに、イェスタフは軽く肩をすくめる。

 

「ふん。せっかく小公爵さまが気を遣ってくださった…ってのに、ブーたれた顔してやがる」

「うるさい。ラーケル兄さんは?」

「エシルからも警備の騎士を出してるからな。そっちの監督官だ」

 

 エーリクは溜息をつくと、羨ましげにつぶやいた。

 

「いいな。俺も一緒にできないかな」

 

 イェスタフはそんな弟にあきれたように言った。

 

「ハー…やれやれ。勤勉クソ真面目どもめ。せっかくの夜会だってのに、ちっとも楽しむ気がないな。その制服からして。さっき、チラッと見たけど、お前と同じ近侍の奴はやたらとビラビラした服着てたってのに」

 

 マティアス、テリィ、キャレは三人とも夜会用の服を着用していた。中でもチャリステリオは、それこそ一週間前から選びに選び、帝都に来てから靴下やら手袋、ブローチなどの小物類をわざわざ新調したというから、よっぽど気合が入っていたようだ。

 

 しかしエーリクはアドリアンの警護をするつもりであったので、最初から動きづらい夜会服ではなく、いつもの近侍用の制服を着ていた。

 おそらくオヅマがいれば、同じ格好をしていたことだろう。

 今日ばかりは、小生意気な年下の少年の不在が恨めしかった。オヅマならば、きっとアドリアンを説き伏せて、二人で警護できていたはずだ。

 

「夜会服なんて、動きにくいだけだ」

 

 エーリクは脳内でテリィのやたらゴテゴテした、レースがはみ出しまくった夜会服を思い出し、苦々しく言った。

 イェスタフは(しか)りと頷いたあとで、ワインをぐびりとあおる。

 

「おい。飲み過ぎるな、ってラーケル兄さんに言われてんだろ」

「うるさいねぇ。まだ一杯目だっての」

「ここ、家じゃないんだからな。酔っ払って脱ぎだすなよ」

「お前、近侍になって口うるさくなったんじゃねぇの?」

 

 エーリクはムッと口を閉ざした。口うるさいのはマティアスの専売特許だというのに、自分が言われるなど心外だ。

 

 それでもイェスタフは弟からの忠告を守って、チビチビと舐めるようにワインを飲みながら、ぐるりと辺りを見回した。

 集中して耳を澄ませると、人々のさざめきの中から、チラホラと気になる単語が聞こえてくる。

 

「……さっそくグルンデン侯爵夫人が……」

「小公爵様はどうして一人で…」

「ベントソン卿とクランツ男爵が……」

 

 イェスタフは皮肉げに口を歪めると、弟に聞かせるともなく言った。

 

「しかし、夜会なんて行事に近侍を連れ歩かないなんてな。普通、ここぞとばかりに見せびらかすもんだってのに」

「……そうなのか?」

「よくは知らないけど…そういうもんじゃないの? いわゆる権威付けってやつだよ。ま、見たところお前らの中に、華のある奴っていなさそうだからなぁ。小公爵様お一人で十分ってのもあるけど…」

 

 近侍に見目好い者が数名含まれるのは、まさしくこうした場において、誇示するという理由もある。

 エーリクは憮然となった。

 

「一応、いるさ」

 

 そうは言うものの、それが自分でないことはわかっている。

 

 イェスタフはアールリンデンで一度だけ会った少年のことを、すぐに思い出した。

 

「あぁ、そういやオヅマ・クランツがいたか。でも、今はどっか行ってんだろ? 他にいないのか?」

「ほかは…」

 

 考えつく限り、あとはキャレぐらいなものだろう。ただ、オヅマと違って引っ込み思案で、いつもオドオドしているので、とてもではないが『華』があるようには見えない。 

 

 弟の言葉が途切れると、イェスタフは話を変えた。

 

「それにしても、小公爵様ってのはお優しい方だな」

 

 その言い方に若干の皮肉を感じて、エーリクは眉を寄せる。兄はニヤと笑うと、弟の肩を軽く叩いた。

 

「まぁ、そう威嚇すんなよ。見てみろ、あれを」

 

 クイと顎をしゃくるほうを見てみれば、ハヴェルが両親と話していた。

 母の斜め後ろには、ハヴェルと婚約した妹が控えている。

 いつも活発で、なんであればお転婆な部類の妹が、俯いてじっとしているのが、なんだか可哀相だった。

 

「今日来るのだって嫌がったんだぜ、あのルイースが。おそらく公子様からすれば、自分と結婚できるなんて名誉だろー…ってなモンなんだろうな。十二の娘の気持ちなんて、お構いなしだ。同じ貴族でも、さすがにあそこまで格が上がると、面の皮も厚いとみえる。そんな御人を相手にするには、小公爵様は少々、()()()()だと思ったのさ」

 

 エーリクは兄の指摘に頷くことはできなかった。

 確かに小公爵であるアドリアンは、ハヴェル公子のような権謀術数に長けたところはないのかもしれない。それは年齢からいっても、無理なことだ。いくら大人びているとはいえ、まだ十一歳でしかないのだから。

 だが、少なくともエーリクはこの数ヶ月、七竈(ナナカマド)館(*小公爵の住居の別称)で一緒に生活する間に、自然と彼を(あるじ)と認めるようになった。

 きっと見ているだけでは、わからないのだ。

 アドリアンの言葉も態度も、偉ぶったところはないが、公爵の後継者としての威厳は十分にある。

 

「小公爵さまは、優しいだけの人じゃない」

 

 エーリクがはっきり言うと、イェスタフは少し意外そうに眉を上げた。

 

 エシルにいる頃、弟が声に出して主張することはなかった。だからといって従順というわけでもない。反論はしないが、黙って従わない。それがエーリクだった。

 

 イェスタフはエーリクが小公爵の近侍になることが決定したとき、心配だった。

 この無口で強情な弟が、誰かの下で腰も低くおべっかなぞ言うはずもなし、本当にやっていけるのだろうか…と。

 まして()()小公爵相手に。

 その頃の小公爵といえば、従僕の少しばかりのミスに癇癪を起こし、理不尽なことを言って、執事諸共に辞めさせた、などという噂も広まっていたのだ。

 

 しかしどうやらエーリクには徐々に小公爵への忠誠心というものが育っているようだ。小公爵という人の為人(ひととなり)について、再考したほうがいいのかもしれない。

 

 一方、エーリクはふとこちらを見てくる視線に気付いて目を向けると、母の頭越しにハヴェルと目が合った。

 反射的に顔が引き締まる。

 

「俺、ちょっと風にあたってくる」

 

 声をかけられる前に、エーリクは踵を返してその場から離れた。

 どうせ今話したところで、父母も含め気まずいだけだ。

 この前も弓試合の話が父の耳に入って、不要な対立は控えろと、釘を刺されたばかりなのだから。

 

 家族から離れると、人気のない場所を探して、誰もいなかった小さなバルコニーに出た。

 

 すでに夕闇だった。

 さっきまで降っていた雨が蒸れた風を運んでくる。

 

 エーリクはこれまでに一度だけ、帝都を訪れたことがあったのだが、雨季の時期特有の湿気を帯びた風が好きになれず、以降は家族が帝都に向かうのを見送ってきた。夏場であっても冷たい、エシルの早朝の風が懐かしかった。

 

 来る途中で従僕のトレイから取ってきたライム水をちびちび飲んでいると、いきなりガシャガシャと耳障りな音がして、思わず視線を向ける。

 エーリクのいるバルコニーから柳の木を隔てた別の部屋の窓が開いて、そこのバルコニーに誰か出てきたらしい。

 涼しげに揺れる柳の枝の間を、見知った顔が横切っていった。

 

「……キャレ?」

 

 薄暮の残照と、部屋から漏れ出るわずかな明かりの中に、キャレのルビーレッドの髪が見えた気がした。

 しかも誰かに腕を掴まれて、無理やり引っ張られているようだった。

 

 エーリクは目をしばたかせ、今見た光景について、しばし考えた。

 

 こうした宴会においては、バルコニーはしばしば男女の逢引場所とされる。

 でもって、先程兄がワインを飲んでいたように、宴席が始まる前から酔っ払っている者がチラホラいる。

 そのうえで貴族の中には、しばしば少年を好んで、遊び興じる者がいるという。……

 

「まさか…」

 

 エーリクはすぐさまバルコニーを飛び出した。 

 

 

 

***

 

 

 

 キャレはしばらく目をつむったままだった。

 すぐにも兄に頬を()たれると思ったのだが、なぜか痛みはやって来ない。それどころか、掴まれていた髪も離された。

 

 どうしたんだろう?

 

 キャレがそろそろと目を開けると、なぜかそこにはエーリクがいた。しかもセオドアが振り上げた手を、しっかと掴んでいる。

 

「この子は小公爵さまの近侍ですよ。おわかりですか?」

 

 低く、剣呑としたエーリクの声を、キャレは初めて聞いた。

 日頃は無口で無愛想ながらも、基本的にエーリクは穏やかな人だ。声を荒げることもしないし、苛立たしく舌打ちするなんてこともない。

 だが今は、小さい胡桃(くるみ)色の目が、冷たくセオドアを睨み据えていた。

 

 セオドアはいきなり現れた闖入者に苛立ちをみせたが、すぐにそれがキャレと同じ近侍の一人と気付くと、ヘラっと笑った。

 

「いや…誤解をなさっているようだ。私はこの子の兄でしてね」

「兄?」

「とりあえず手を離していただこうか?」

 

 セオドアはエーリクの手を振り払うと、ジロリと睨み上げる。

 

「失礼だが、貴殿は? 弟と同じ近侍の方とお見受けするが」

 

 エーリクはキャレのぐしゃぐしゃになった髪を見て、眉を寄せた。同時に目の前の男が同じ髪色であることを確認する。

 

「エーリク・イェガと申します」

 

 硬い声で答えると、セオドアは軽く驚いたようにうめいた。

 

「おぉ…イェガ男爵家の。存じております。確かハヴェル様と婚約された…」

「婚約したのは妹です」

 

 セオドアの差し出した話の接ぎ穂を、エーリクは頓着することなく切り捨てる。セオドアはやや鼻白んだ顔になったが、無理に笑顔を貼りつかせた。

 

「ハハッ! それは勿論そうです。イェガ男爵家の方々とは懇意にしたいと思っておりましたので、こうして知遇を得ることができて嬉しい限り」

 

 セオドアは上機嫌で言ったものの、エーリクの表情は変わらなかった。

 

「なぜキャレの頭を掴んでいたのです?」

 

 硬い声で問いかけると、セオドアは侮蔑も露わにキャレを見て、半笑いで言った。

 

「おやさしいことですな、エーリク公子。しかし生意気な弟を正す責務が兄にはございましてね。エーリク公子も、兄君たちに幾度となく叱責されたことはおありだと思いますが…?」

「叱責? キャレが何かしたのですか?」

 

 エーリクが真面目くさって尋ねると、セオドアは苛立ちを眉に浮かべた。

 

「無礼を無礼とも弁えぬ者です。ほかの方々にご迷惑をかける前に矯正しておくのが、オルグレン家の長子である私の責務です」

 

 セオドアは傲然と言い放って、またキャレをジロリと見据える。

 キャレが身を竦ませると、エーリクはキャレを庇うようにセオドアの前に立ち塞がった。

 

「おや? 他家の事情に口出しなさると?」

 

 セオドアは腕を組み軽い口調で言ったが、エーリクをじっとりと見つめる瞳は、蛇のそれであった。

 

 キャレはエーリクの後ろから二人の様子を怖々と窺っていたが、ふと見れば、エーリクの手は少し震えていた。

 大柄なエーリクは、セオドアの背を超えてはいたが、それでもまだ子供だ。大人相手に意見するなど、相当の勇気が必要だろう。まして相手が悪意しかないならば、特に。

 それでも顔だけは、いつものように平静だった。あるいはこうしたときに動揺を悟られぬために、普段から無愛想にしているのだろうか…?

 

 二人はしばらく睨み合っていたが、やがて開いた窓から聞こえていた楽曲が変わると、セオドアは肩をすくめて言った。

 

「公爵閣下がおみえになるようだ。これにて失礼するとしよう。キャレ、わかったな? くれぐれも目立つことのないように」

 

 最後に『隅に引っ込んでいろ』と念押しして、セオドアは立ち去った。

 

 エーリクはフゥと深呼吸すると、キャレに向き直った。

 

「お前、本当に兄なのか? あの…人は」

 

 キャレはしばらく黙り込んでいた。

 一応、礼を言うべきなのだろう。エーリクのお陰で兄に殴られずに済んだのだから。

 けれど、正直なところ余計なお世話だった。

 殴られることなどいつものことでキャレは慣れていたし、人目を気にする兄であれば、夜会という場において、怪我になるような酷い目に遭わせることはなかったろうから。

 それに何より、兄に虐げられている自分を見られることのほうが、よっぽどキャレには恥ずかしかった。いっそ見て見ぬふりしておいてほしいくらいだ。

 

「聞いた通りです。兄に生意気なことを言ったんです。それで叱られていただけです」

 

 すげなく言うキャレに、エーリクはムッと眉を寄せる。

 

「俺だって兄がいるし、生意気だって、拳骨を食らうことだってある。だが、あの人は…まるで、お前を一方的に虐めてるみたいだ」

 

 キャレはギリッと唇を噛み締めた。

 (みじ)めだ。

 兄の理不尽な言葉や暴力よりも、エーリクの同情がキャレを惨めにさせる。

 そのことに気づかないエーリクに、それこそ理不尽な怒りが沸き立ってくる。

 

「わ……僕は、()()()()()()子供じゃないですから」

 

 キャレが自分を嘲るように言うと、エーリクの表情に戸惑いが浮かんだ。

 

「嫡出の子じゃないから、理不尽な扱いを受けても当然だって言うのか?」

「そうですよ!」

 

 キャレは噛みつくように叫んだ。

 

 エーリクの考える『正しさ』が、キャレを一層追い詰める。だがファルミナにおいては、その『正しさ』は間違っていた。

 時々、キャレたちの扱いについて、父やセオドアに物申す人もいた。けれど、そうした人々は皆、口にした次の日にはいなくなった。

 あそこでは父やセオドアだけが『正しい』のだ。

 

「なんですか、今頃になって。僕が庶子だってことも、オルグレン家から見放されてるってことも、知っていたでしょう? この服だって、どうして小公爵さまからの頂き物を着ているのか…。今まで何も言ってこなかったくせに、どうして今、そんなことを言うんですか?」

 

 エーリクは急に饒舌になって、舌鋒鋭く詰め寄るキャレに、圧倒されていた。

 なんだか妹に怒られているような気分になってくる。

 昔、妹のお気に入りの人形の足を引き千切ってしまって、凄まじく怒鳴りつけられて泣き喚かれたときと似ている…。

 

「それは…その……よくわかってなかったっていうか…」

 

 弁解するようにボソボソと言うと、キャレはますますいきり立った。

 

「わかってないんじゃなくて、興味なんかなかったんでしょう? エーリクさんが興味があるのはイクセル*1のことと、剣術のことぐらい。その次に小公爵さまがいて、私のことなんて、ずっとずっと…ずーっと先の先の、いるのかいないのかわからないぐらいで……だったら、そのまま放っておけばいいじゃないですか!」

 

 エーリクは呆然としつつ、激昂するキャレを見つめていた。

 

 キャレの言う通りだった。

 今までエーリクにとって、キャレは近侍の一人というだけの存在だった。

 エーリクと並んで無口な上、引っ込み思案で、騎士の訓練でも勉強でも、とにかく不器用で、正直、見劣りする存在だ。

 だからきっと無意識に、エーリクはキャレという子に価値を見出していなかった。小公爵様を守る盾としての役割を、キャレには期待していなかった。存在があることをわかっていながら、無視していたのだ。

 

 エーリクは途端に自分がものすごく悪いことをしていた気がした。もしかすると、さっきキャレに対してひどいことを言っていたあの男よりも、自分はもっと冷たかったかもしれない。

 

「その…すまなかった」

 

 エーリクは反省してすぐに謝ったが、キャレは受け入れなかった。

 

「謝ってもらう必要はありません。私…僕も、放っておいてもらいたかったから。これまでと同じように接してもらえばいいです」

 

 あまりに頑ななキャレに、エーリクは閉口した。とはいえ、この状況を放っておくことはできない。ここで放り出したら、今度こそエーリクは故意に無視したことになってしまう。

 

 そのまま横を通り過ぎようとしたキャレの腕を、あわてて掴んだ。

 

「待て。もし困ってるなら、一度、小公爵さまにも相談して ―――」

 

 あまりにも能天気なエーリクの提案に、キャレの怒りが飽和した。

 荒々しくエーリクの手を振り払うと、さっさと小部屋に入る窓へと向かう。中に入る把手に手をかけたときに、また肩を掴まれ、キャレは心底苛ついてエーリクに怒鳴りつけた。

 

「放っておいてくれって、言ってるでしょう!!」

 

 

*1
エーリクの馬





次回は2023.09.03.更新予定です。


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第百四十八話 グレヴィリウス家の夜会(6)

 キャレは部屋に入るなり、自分が注目されていることに気付いた。しかもひどく間の悪いことに、目の前には驚いた顔で固まっているアドリアンがいる。

 

「あ……」

 

 冷水を浴びせられたかのように、キャレは我に返った。

 一気に血の気が引く。

 だが、もっと困ったのはアドリアンの顔を見た途端に、涙が出てきてしまったことだった。

 

「…何があった?」

 

 アドリアンが尋ねると、エーリクはアドリアンの前に進み出て、深々と頭を下げた。

 

「お騒がせして、申し訳ございません。その…」

 

 エーリクは迷ったが、結局は頑なに拒んだキャレの意思を汲んだ。だが、適当な言い訳も思い浮かばない。

 

「特に、何もありません」

 

 何の説明にもなってない答えに、マティアスは眉を寄せたが、アドリアンはすぐに頷いた。

 

「あぁ、そう。じゃあ、いい。……それでテリィ、おいしいのはどれって?」

 

 何事もなかったかのように、クルリとキャレ達に背を向けて、テーブル近くにいたテリィに声をかける。

 テリィは緊迫した状況に目を丸くしていたが、アドリアンに朗らかに尋ねられて、ハッと我に返った。

 

「あ、あの…ハイ、これです」

「じゃあ、食べよう。エーリクと、キャレも。お腹が空いていると、気が短くなってしまうっていうからね」

 

 言っている間にも、ベランダ側のテーブルにはなかった料理を目指し、チラホラと食いしん坊貴族たちが部屋に入ってくる。

 アドリアンは皿に手早く数品を盛って、キャレのほうへと向かった。

 

「え…?」

 

 キャレはどこか気まずくて、皆から離れた壁際に立っていたのだが、近づいてくるアドリアンに困惑しておどおどと目を泳がせた。

 アドリアンはキャレの前に立つと、手に持っていた皿を「はい」と差し出す。キャレは目をしばたかせ、アドリアンをぼんやりと見つめた。

 

「キャレの好物のさくらんぼのタルトもあったよ。その海老と何かのムースのパイ包みはテリィのオススメだ。何か、がどんなものかは食べて確認するしかないけど」

 

 アドリアンは少しおどけたように言って、朗らかに笑う。

 キャレはますます目が離せなかった。優しい光を宿した(とび)色の瞳を見ていると、また泣きそうになってくる。

 

「あれ? 違ったっけ? さくらんぼのタルト、好きだと思ったんだけど」

「いえ…」

 

 キャレはさっと指で零れそうになった涙を拭うと、皿を受け取り、さくらんぼのタルトを一口食べた。

 

「……美味しいです」

 

 ようやくキャレは笑えた。

 アドリアンも微笑む。

 

 タルトを食べながら、キャレは初めて兄に感謝していた。

 兄の思惑がどうあれ、こうしてアドリアンに出会えたこと。それがキャレにとって、何よりの喜びだ。

 

 

***

 

 

 一方、他の近侍たち ――― マティアス、エーリク、テリィの三人は、微妙な表情でキャレとアドリアンの様子を窺っていた。

 

「なにがあったんだ? 結局は」

 

 マティアスが怪訝にエーリクに尋ねたが、やはりエーリクはうまく言い繕えなかった。

 

「ちょっと……」

「なにその気になる言い方」

 

 テリィは肩をすくめると、大口を開けて海老と何かのムースのパイ包みにパクつく。今日はこれで五つは食べている。このパイ包みは人気のようで、もうあと三つほどしか残っていなかった。

 

「あ、先にあと一つもらっておこう…」

 

 まだ手元の皿に一つ残っているというのに、テリィはまたそのパイ包みを取ろうとして、トングに手を伸ばした瞬間に、横から掠め取られた。

 

「おい!」

 

 ムッとなって叫んだのは、そのトングを取ったのが自分よりも小さな女の子だったからだ。

 

「ぼっ、僕が先に取ろうとしていたんだぞ!」

 

 しかし女の子の方は、そんなテリィをジロリと見て、吐き捨てるように言う。

 

「先に取られたのは、あなたが鈍臭いからでしょ」

「な、なにっ?」

「なぁに? こんなところで大声出して。みっともなーい」

 

 いかにも憎らしげな口調で言いながら、女の子はトングを素早く動かして、残っていたパイ包みをすべて取ってしまった。

 

「あっ! オイ! かっ、勝手に全部取るな!」

「どうしてよ? 私は自分の分以外に、お兄様の分も取ってあげてるんだからね」

「そっ、そんなの知るか! 僕が一切れ取ろうとしてたんだ!」

「あなた、もう皿に一つ乗っているじゃないの!」

 

 テリィよりも明らかに年下 ―― おそらく十歳前後 ―― であろうが、女の子は口達者だった。

 気の強そうな青い瞳と、今日の日のためにとキツく編み込み、結い上げた胡桃(くるみ)色の髪から、ゆるく巻いた毛が幾筋か垂れて、口きくたびに揺れる。

 

 二人の小さな喧嘩に大人たちは少々あきれ顔ながらも、どこかしらほのぼのと見ていたが、一人ゲンナリした顔になったのはエーリクだった。

 

「どうした?」

 

 マティアスが尋ねると、エーリクは「いや…」と軽く首を振ってから、

 

「すまないが、ちょっと、これ持っててもらえるか?」

 

と、皿を預けた。

 

「なんだ?」

 

 首を傾げるマティアスを置いて、エーリクはテリィと言い争いをしている少女のほうへと歩いて行く。

 

「ルイース」

 

 いきなり背後から野太い声で呼びかけられて、女の子はビクリと震えた。皿に乗ったパイ包みが跳ね上がる。もう少しで落ちるところで、女の子は上から蓋するように手で押さえつけた。

 

「ちょっと! エーリク兄さん。いきなり声かけないでよ。びっくりするじゃない!」

「兄さん?」

 

 テリィが驚いたように、エーリクを見上げる。

 

「なに? 君の妹?」

「あぁ。ルイース、こちらは俺と同じく近侍のチャリステリオ・テルンだ。ちゃんと挨拶しろ」

「あらまぁ」

 

 ルイースは驚いたように言ってから、目の前で皿の上のパイ包みをパクリと食べた。

 

「おい! なっ…なんで食べるんだ!」

「私の皿にあるものを食べて何が悪いのよ」

「なっ…なんて口の利き方だ! ぼ、ぼ、僕は…っ、てっ、テルン子爵家の嫡子だぞ!」

 

 慣れない人間に対して、テリィはどうしてもどもってしまう。その上、怒っているので、ますます症状がひどくなった。

 

 そんなテリィにルイースは小馬鹿にしたように、それでも一応兄の顔を立てて挨拶した。

 

「まぁ、そうでしたの。気付きませんでした。ルイース・イェガと申します、テルン公子。それにしても、ずいぶんと()()()()()おいでのようですわね。そんなことでは、せっかくのおいしいパイが口の端からボロボロとこぼれてしまうんじゃないかしら?」

 

 ルイースの辛辣な指摘に、テリィは自分でも気にしていたから尚の事、恥ずかしさと怒りで、もう首まで真っ赤になった。

 妹の背後で苦い顔のエーリクに、半泣きで抗議する。

 

「おい! エーリク! ちょっとひどいんじゃないのか、君の妹」

「………すまん」

「謝る必要なんてないわよ、エーリク兄さん。この人、ベランダ側のテーブルでも、このパイ包みをたらふく食べていたんだから。それで、こっちに残ってるかと思ってきたら、こっちでも漁ってるなんて……さもしいったらないわ!」

「なっ! なっ!」

 

 テリィは怒りすぎて、もはや言葉も出なかった。茹でられたように真っ赤になるテリィを見て、ルイースはあきれたように笑った。

 

「まぁ! 嫌だ。子爵家の跡継ぎになる人が、年端もゆかない女の子相手にプリプリ怒るなんて…品位はどこに置いてこられました?」

「いい加減にしろ」

 

 あまりに嫌味な妹の物言いに、エーリクが軽くその頭を小突くと、挿してあった髪飾りが落ちた。

 

「きゃあッ! ひどい!! 何するのよ!?」

 

 ルイースは金切り声で兄を怒鳴りつけた。

 エーリクはますます面倒になったと、苦虫を噛み潰したような顔になる。

 

「……悪い」

 

 ボソリと謝ったが、ルイースの怒りは収まらない。

 皿を荒々しくテーブルに置くと、エーリクに詰め寄った。

 

「この髪を結い上げるのにどれだけ時間がかかったかわかってるの? 今日は朝早くから湯浴みして、マーサとロッティとエッカたち三人がかりで髪を洗って乾かして、朝ごはんをつまみながらドレスを着て…」

 

 噛みつかんばかりの剣幕で言い立てる妹に、エーリクは閉口した。

 こうなると怒るだけ怒って、疲れて鎮火するまで何もできない。

 

 しかし、その噴火した火山みたいになっているルイースの肩を、そっと叩く人がいる。

 エーリクはハッとしたが、止める間もなかった。

 

「なにっ?」

 

 ルイースは怒りのままに振り返り ――― 固まった。

 

「これ。落ちたままだと踏まれるから」

 

 穏やかに言ってルイースの髪飾りを差し出したのは、アドリアンだった。

 

 

 

***

 

 

 

 ルイース・イェガはエシル領主ブルーノ・イェガ男爵家の一人娘だ。

 

 当主のブルーノは勿論、跡継ぎとしての男は望んだものの、それは長男が出来て、その後に次男が生まれたことで、もう十分だと思った。だから三番目もまた男であったときは、わかりやすく落胆し、生まれたばかりのエーリクを抱いた妻から、大層な叱責を受けた。

 

 であるから、四番目に生まれてきた待望の娘を彼が猫可愛がりしたのは、想像に難くない。

 それはブルーノだけでなく、どれだけ可愛く着飾っても、ひたすら汚すことしかしてこない男三人の成長に呆れ果てていた妻・アイナも同様であった。

 両親だけではない。

 当時は壮健であったイェガ男爵の前当主、年の離れた兄二人(エーリク除く)、エシル騎士団の騎士たちから、イェガ家で働く使用人まですべて、ルイースを溺愛した。

 

 ちなみにエーリクはルイースとは三歳しか違わないので、兄達ほどに妹に甘くはなかったが、喧嘩することはなかった。

 幼い頃に妹を泣かしたときに、兄達からこっぴどく叱られて以来、この妹の我儘に対抗するのは諦めたのだ。

 

 そういうわけで、エシルにおいてルイースは無敵であった。

 皆から『この世でもっとも可愛らしいお嬢様』と言われ続け、自分でもそう思って生きてきた。これまでがそうであったように、これからの人生も、自分の望むままに進んでいくことを信じて疑わなかった。

 

「ルイース、お前の結婚相手が決まったんだ…」

 

 気まずそうに父が話してきたとき、ルイースは世界が一気に氷で覆われたのかと思った。

 まだ自分は初恋すらしたことがないのに。

 きっとこれから恋物語の女主人公(ヒロイン)同様に、自分も素敵な人と出会って恋をして、それから結婚するのだろう…と、()()()いたのに。

 

 だがルイースは自分を励ました。

 もしかしたらその結婚相手こそ、自分にとって理想の王子様であるかもしれないではないか。

 だが姿絵を見せられ、相手の年齢を聞いた途端に、ルイースのわずかな希望も打ち砕かれた。

 

「やだ!」

 

 ルイースは姿絵をテーブルに放り出し、ソファにふんぞり返って叫んだ。「やだやだやだやだやだやあぁぁあだッ!!」

 

 両親も兄も、ルイースの反応を予想していたのだろう。

 とりあえずその場では、無理に言い聞かせようとはしなかった。

 

 ルイースはその後も断固として拒否したものの、いつもたいがいのルイースの我儘を許してくれる父ですらも、この件については、娘の願いを聞き入れることはなかった。

 そもそも当初からルイースに拒否する権利はなかったのだ。

 

 その日から、ルイースは何をしても楽しくなくなった。何をしても無駄に思えた。それこそ花嫁教育よろしく、相手の家から派遣されてきた女の家庭教師は、ルイースのやることなすことにケチをつけ、挙句の果てには母にまで文句をつける。

 本当に嫌で嫌で嫌でたまらなかった。

 

 しかもその婚約者とやらは、自分と婚約しても一度もエシルに挨拶に来ることもなかった。定期的にルイースにプレゼントを送りつけてきたが、どれもこれも、まったく面白みのない、平凡な、愛情なんてものは欠片も感じられない贈り物ばかりだった。

 ルイースは自分もそうだが、相手もさほどに自分と結婚したいわけではないのだと理解した。贈り物に簡単なメッセージは添えられていたものの、手紙などは一切来なかったからだ。

 

 今日、初めてその婚約者と会ったが、彼は最初にルイースに丁重に挨拶したあとは、ひたすら父と話すばかりだった。

 ルイースは母の後ろで、チラチラと何度か彼を観察していた。

 終始笑顔で、一見、優しそうであったが、時々眼鏡の奥のアンバーの瞳が、周囲の人々を威圧的に見回していた。

 なによりルイースは、彼の薄い、血色の悪い唇が好きになれなかった。

 

 成人は十七歳。あと、五年。

 ルイースは楽観的に考えることにした。

 人生には何があるかわからない…と、亡くなった祖父の言葉を思い出す。

 もしそうならば、向こうから婚約を破棄してくることだってあるかもしれない。いや、むしろ……破棄させればいい。

 

 そこからルイースはずっと、ハヴェル・グルンデン公子から婚約破棄をさせるための方策について考えていたのだが、考え事をしていればお腹も空く…ということで、まだ料理が豊富に残っているらしい東の小部屋に訪れた。

 まさかそこで『運命の出会い』が待っているなどとは露と思わず。

 

 こうしてルイース・イェガにとっての物語は始まった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 アドリアンは首を傾げた。

 目の前でさっきまで尻尾を踏まれた子犬のように怒りまくっていたルイースが、振り返った途端に固まって、アドリアンの差し出した髪飾りを受け取ってくれないからだ。

 

「あの…? これ、あなたのですよね?」

 

 アドリアンは一応尋ねた。

 どう考えてもそれはエーリクが妹をちょっと叱りつけたときに落ちたものなので、間違えようもなかったが、何か声をかけないと、目の前の女の子が永遠に動かないような気がする。

 

 エーリクは止まってしまった妹を怪訝に見て、いつまでも受け取ろうとしないので、一歩前に進み出た。アドリアンの手から髪飾りを取ろうとして、脇腹を思いきり肘で突かれる。

 

「ぐッ!」

 

 いきなり呻き、エーリクは脇腹を押さえて止まった。

 

 アドリアンも、傍にいたキャレも、何が起きたのか理解できなかった。それはルイースの着ていたドレスの装飾のドレープに隠され、脇腹を()()小突いたのが、彼らからちょうど死角になっていたからだ。

 

「エーリクさん? どうしたんですか?」

 

 キャレが尋ねてもエーリクは返事しない。斜め前から、自分を睨みつける妹の激しい威嚇を感じる。…… 

 

「ありがとうございます」

 

 兄を牽制したルイースは振り返ると、にこやかに笑ってアドリアンから髪飾りを受け取った。  

 

「優しい御方、お名前をお伺いしてもよろしいかしら?」

 

 その台詞を聞いて、その場にいた数人の令嬢達は思わず吹き出しかけた。

 それは、彼女らのような娘たちであれば誰でも一度は読んだことのある、少女向け小説『茨の城のかわいいお姫様』に出てくる一節であったからだ。それ以外のご令嬢でない面々は、ルイースの質問に苦笑いだった。

 

 エーリクは脇腹を押さえたまま、慌てまくった。

 

「な…馬鹿、ルイース、お前…ッ」

 

 しかしアドリアンはそんなエーリクの様子を面白げに見ていた。軽く手を上げて制する。

 

「いいよ、エーリク。初めて会ったのに、名乗らないのは確かに失礼なことだ。初めまして、イェガ令嬢。僕はアドリアン・グレヴィリウスと言います」

「あっ!」

 

 そこでルイースはようやくそれが小公爵であることに気付いた。

 考えてみれば、その黒檀(こくたん)色の髪を見た瞬間に思い至っても良さそうなものであったが、それよりも何よりもルイースは、ただただアドリアンという目の前に立っている少年に見惚(みと)れるばかりだったのだ。

 

 同時に、ルイースはますます高揚した。

 まさに今、この場、このときこそが、自分のために(あつら)えられた舞台であるかのように思えた。

 

 

「初めまして、小公爵さま。(わたくし)はルイース・イェガと申します。あ…エーリクは私の兄ですわ」

 

 ルイースは鬱陶しい家庭教師に今は感謝した。

 小公爵であるアドリアンの前で、非の打ち所がない優雅な挨拶をすると、ルイースは父がよく褒めてくれる『花が(こぼ)れるような笑み』を浮かべた。

 

「まったく、なんで小公爵さまに気づかないんだよ。さっきだって、閣下と一緒に高座に立たれていたっていうのにさ…」

 

 さっきまで言い争っていたテリィがブツブツ言い、マティアスも鹿爪らしい顔で頷く。彼らはルイースのあまりの豹変ぶりと、小公爵であるアドリアンに対する馴れ馴れしい態度に、不快感も露わであった。

 一方で近侍二人からの厳しい目にも、ルイースはまったく平然としたものだった。

 

 確かに公爵閣下の挨拶のときに、高座に公爵と似た少年がいたのは知っている。

 ただ、離れていたし、人が多く立っていてよく見えなかったのと、そもそもその時にはハヴェルとの婚約破棄のことを考えるのに忙しく、正直気にしていられなかったのだ。

 

「兄から小公爵さまのお話を聞いて、一度、お会いしたいと思っていました。今日、こうして会うことができて、とてもとても嬉しいです!」

 

 アドリアンは急にルイースが自分のほうに一歩寄ってきて、妙に熱っぽく言ってくるので、思わず半歩さがった。

 

「それは…どうも。じゃあエーリク、久々に妹さんと一緒に…」

 

 さりげなくエーリクのほうへと促したが、ルイースはまったくそこから動こうとせず、きっぱりと言う。

 

「いいえ! 小公爵さま。兄なんてどうでもよろしいのです!」

「え?」

「エーリク兄様はいつも、ずーっと、むっつり押し黙ってばかりで、つまらないのです。一緒にいても、ちぃーっとも楽しくなんかありません。それよりも私は小公爵さまとお話がしたいですわ。いえ、是非にもお話ししたいことがございます!」

 

 アドリアンは困惑し、助けを求めるようにエーリクを見つめた。エーリクは頷くと、妹の腕を掴んだ。

 

「いい加減にしろ。小公爵さまに対して、失礼だぞ」

「黙ってて頂戴、エーリク兄様。普段は縫い付けたみたいに口が開かないのに、どうしてこういうときには開くのよ」

「……いいから、お前が黙れ」

 

 エーリクはいっそ妹の口を塞ぎたいくらいだったが、前にそれをしたときに噛まれたことを思い出す。あのあと膿んで、しばらくは剣を持つのも難儀したのだ。

 

 しかしルイースは別の手段を編み出したようだった。

 この日のために新調した舞踏靴(パンプス)のヒールで、思いきりエーリクの靴を踏みつける。

 

「がッ!」

 

 エーリクはまた呻いて、今度はうずくまった。

 兄から逃れると、ルイースはアドリアンの手を掴んだ。

 

「助けてください、私を。望まない結婚を強いられているんです!」

 





引き続き、更新します。


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第百四十九話 グレヴィリウス家の夜会(7)

「……それ…って」

 

 アドリアンは絶句した。

 エーリクの妹であるルイースがハヴェルと婚約したということは、アドリアンもルーカスから聞いて知っていたが、まさか当人がこうまであけすけに内情を喋るとは思わなかったのだ。

 

 驚いて固まる周囲に我関せず、ルイースは続ける。

 

「小公爵さまが私と結婚してくだされば、私はあの人と結婚せずに済むわ! だって、あの人よりも小公爵さまのほうが偉いでしょう? あ…偉いってだけじゃなくて、小公爵さまがとても素敵だってことが一番ですわ。えぇ、もちろん」

 

 アドリアンは呆気にとられた。

 いったい、この女の子は何を言ってるんだろうか? というかそもそも、自分が()()()()()()言っているのか、わかっているのだろうか?

 

 テリィはもちろん、マティアスですらも、ルイースの突然の申し出に開いた口が開いたまま、何も言えなかった。

 小部屋にいた人々は皆、一様に石と化してしまったようだった。

 

 エーリクはいつまでも(うずくま)っていることもできず、痛みをこらえてどうにか立ち上がった。

 今度こそなんとしてもこの妹の口を塞がねばならない。

 久々に怒鳴りつけようと息を吸い込んだとき、鋭い声が響いた。

 

「なにを言っているんですか、あなたは! 無礼にも程がある!!」

 

 叫んだのはキャレだった。

 それまであまりに急な状況に混乱して何も言えなかったキャレは、それこそルビーの髪を炎のように揺らめかせる勢いで、怒りに震えていた。

 

「参りましょう、小公爵さま! このような礼儀知らずを相手になさる必要はございません!!」

 

 キャレはルイースが握っているのと反対のアドリアンの手を掴むと、グイと引っ張る。

 

「ちょっと!! 何するのよ!」

 

 負けじとルイースもしっかり掴んで離さない。

 

「離しなさい! 失礼な!」

 

 キャレが怒鳴りつけると、ルイースも青い目に怒りを灯して睨みつける。

 

「あなたこそ邪魔をしないで頂戴! (わたし)は、今、とっても大事な話をしているのよ!!」

「お黙りなさい! あなたが勝手に話し始めただけでしょう!」

「うるさいわね! あなたには関係ないでしょう!」

「私は小公爵さまの近侍だから、十分に関係はあります!」

「私だって、その近侍の妹なんだから、いいでしょ!」

「なにそれ!」

「なによ!」

 

 甲高い声で喚き散らす二人の間で、アドリアンは呆然とするばかりだった。

 喧嘩をやめさせようと口を開いても遮られ、腕をあっちにこっちにと引っ張られて、為す術もない。

 そうこうしている間に耳も痛いし、腕も痛くなってきた。

 

「ちょ…っ…と」

 

 さすがに腹が立ってきて、抗議しようと思ったとき、入口に現れた人の姿に顔が強張る。

 そこにいたのは、父とハヴェルだった。

 一気に、背中に汗がふきだした。

 

「黙れ…」

 

 渇いた口の中でつぶやくが、すっかり喧嘩に夢中のキャレにもルイースにも聞こえない。

 エーリクやマティアスも、公爵閣下の前で怒鳴り声をあげる勇気はなかった。というよりも、目の前で言い合っている二人以外は、公爵が現れた途端に空気が冷えたかと思うくらいの緊張を感じて、とても口をきける状態でなかった。

 

「うるさい! 黙れ!!」

 

 アドリアンが怒鳴ると、ようやくキャレとルイースは口を開けたまま止まった。

 手首を掴んでいた二人の力が弱くなったので、アドリアンは両手を振り払った。

 すぐにその場に片膝をついて、父に頭を下げる。

 

 キャレも、そこに公爵がいることに気付くと、一気に青くなって、ほとんど崩折れるように跪いた。

 ルイースは恐る恐る振り返り、公爵とハヴェルの姿を認めると、さすがに血の気が引いて、キャレと同じようにへなへなとその場にしゃがみ込んだ。

 

 さっきまで騒々しかった小部屋は水を打ったように静まり返った。

 そこにいた人々は皆、公爵に対して頭を下げたが、それは敬意を表すというよりも、かの人の視界に入ることを恐れたからだった。

 唯一、頭を下げることもなく、公爵の隣で相変わらず笑みを浮かべていたのはハヴェルくらいなものだ。

 

 ピンと張り詰めた空気の中を、公爵 ―― エリアスはゆっくりとアドリアンの前に歩いて行く。

 跪いた息子の前に立ったまま、しばらく無言だった。

 

「……この騒ぎはなんだ?」

 

 静かな問いかけに、アドリアンはすぐに答えられなかった。

 元はと言えばルイース・イェガが訳の分からないことを言い出したのが発端ではあるが、そのことを今ここで言えば、彼女自身もその兄であるエーリクも、ひいてはイェガ男爵も身の置き所のない状況になるだろう。

 

「申し訳ございません」

 

 アドリアンが謝ると、エリアスは眉をわずかに上げた。

 

「謝るのであれば、この騒ぎの(もと)となったのは自分であると認めるのだな?」

「それは…!」

 

 マティアスが顔を上げて言いかけるのを、アドリアンはキッと睨んだ。マティアスはすぐに強い視線に気付き、口を閉ざす。

 アドリアンは再び深く頭を下げて、静かに認めた。

 

「はい。そうです」

 

 エリアスの(とび)色の双眸がスッと鋭くなり、眉間に気難しげな皺が寄る。

 アドリアンはまた父から叱責を受けると身構えたが、そこに割って入ったのは朗らかなハヴェルの声だった。

 

「まぁ、仕方ございませんよ、公爵閣下。小公爵様はなにせ、閣下に似ておられますから。年相応のご令嬢であれば、のぼせ上がるのも無理ございません」

 

 エリアスは怪訝にハヴェルを見た。

 

「相変わらず暢気(のんき)だな。そこの子女は其方(そなた)の婚約者であろう?」

「えぇ」

 

 ハヴェルはニコリと微笑むが、顔色を失くして座り込んだままのルイースに手を差し伸べることはなかった。

 

「まだまだ幼いので、世情に疎いところも、純真無垢と申せます」

「寛大なことだ…」

 

 エリアスはつぶやいてから、ルイースに目をやる。

 ルイースはしゃがみ込んだまま、公爵からの視線を浴びて、震えが止まらなかった。恐怖でボロボロと涙があふれてくる。しゃくりあげて泣き出したものの、誰も彼女をなだめることはなかった。

 

 エリアスは再びアドリアンに問いかけた。

 

「お前の罪がわかるか?」

「………騒ぎを起こしたことです」

「そう。近侍と令嬢の慎みない争いを招くなど、グレヴィリウスの品位に瑕をつける醜態ぞ。それにハヴェルの面目も傷つけた」

 

 アドリアンは黙って頭を垂れる。

 空気はどんどんと重さを増し、その場に居合わせた人々は息苦しくなるほどだった。

 そんな中で、ハヴェルだけが笑っていた。

 

(わたくし)のことなど、お気になさらず。たかだか一侯爵家の次男坊に過ぎませぬ。名門エシルのご令嬢であらせられるルイース嬢にとっては、八歳年上の婚約者など、けむたいだけの存在でございましょう」

「言うことよ」

 

 エリアスは、ハヴェルの物柔らかな言葉の中に含まれた嫌味に、皮肉げな微笑を浮かべ振り返った。

 背後にはブルーノ・イェガ男爵が、跪いて頭を垂れている。

 

 そもそもこの部屋に訪れたのは、高座での謁見を終えたエリアスに、ハヴェルが新たな婚約者を紹介したいと申し出てきたからだった。

 当然、婚約者であるルイースの親であるイェガ男爵もまた、公爵に直接娘を紹介するとなれば放っておくわけにもいかない。それにルイースはより豊富に料理が残っている東の小部屋に行ったばかりであったので、男爵は二人の案内がてら共に向かったのだ。

 

 だが衝立だけで遮られたその部屋から聞こえてきた娘の大声に、ブルーノは凍りついた。

 

 ―――― 小公爵さまが私と結婚してくだされば、私はあの人と結婚せずに済むわ!

 

 一緒についてきた妻は、娘の突拍子もない発言に顔色を失くして倒れてしまった。ブルーノはあわてて次男に妻の介抱を頼み、自分は公爵の背後でただただ恐懼して頭を下げるだけだった。

 

 目の前では、とばっちりでしかないにも関わらず、小公爵であるアドリアンが、公爵からの静かな叱責に黙って頭を下げていた。

 ブルーノはひどく心が痛んだが、自分に発言権などあろうはずもない。

 

「イェガ男爵、なにか言うことはあるか?」

 

 エリアスは、大きな体を小さくしてかしこまるブルーノに尋ねた。

 だが、返事はない。

 

 ブルーノは何かを言わねばならないとは思いつつ、何を言えばこの場が穏便に済むのかがわからなかった。何かを言おうとして開いた口は震えたままカラカラに渇き、額から噴き出す汗も止まらない。

 

 エリアスが苛立たしげに眉を寄せると、緊迫した主従の間にハヴェルが割って入った。

 

「公爵閣下、お許しください」

 

 ハヴェルはエリアスの前で、アドリアンと同じように片膝をついて、恭しく辞儀をした。

 

「このような仕儀となりましたのは、私の不徳の致すところでもあります。此度(こたび)の婚約の意義について、まだ幼いご令嬢に気詰まりな思いをさせるのも悪く思い、あえて詳しく語らずにいたのですが、そのことでご令嬢の()()を招いてしまったようです。それに、イェガ男爵にも申し訳なく思っております。父にとって娘というのは、特に愛しい存在だと聞きます。まして男爵におかれては掌中の珠のごとく可愛がってきた一人娘。正直、不本意であったことでしょう」

「そのようなことは…ッ」

 

 ブルーノはあわてて否定しようとしたが、ハヴェルは振り返り、ほんのわずかに首を傾げた。

 柔らかなアンバーの瞳が、一瞬冷たく光って、ブルーノを刺す。

 ハヴェルは再びエリアスの方に向き直ると、頭を下げたまま続けた。

 

「まだまだ幼いご令嬢では、受け容れるのに時間もかかろうと…それは私も了承しております。ですから誠実に、気長に向き合っていこうと考えております。何事も心をこめることが重要だと…かつてリーディエ様も仰言(おっしゃ)っておられましたから」

 

 亡き公爵夫人の名前を、この場で口にすることができるのは、ハヴェルくらいであった。

 懐かしそうに言うハヴェルの様子に、エリアスの鳶色の瞳が愁いを帯びる。

 だがすぐにいつもの冷徹な表情に戻ると、ブルーノに言い渡した。

 

「ハヴェル公子の温情に免じて、令嬢の不始末については不問としよう。早急に()()して、十分に()()致せ」

「……はっ」

 

 ブルーノは平伏しながらも、またどっと全身から汗が噴き出た。

 公爵の言っている内容は、ある意味苛烈であった。

『保護』という名で()()し、『養生』という言葉で()()させろと言っているのだ。 

 

 震えるブルーノよりも早くに、腰を抜かした妹を抱え上げたのは、いつの間にか戻ってきていた次男のイェスタフだった。

 公爵とアドリアンに黙って頭を下げると、父と共にその場から立ち去った。

 

「では、私も幼き婚約者の様子を見てまいります」

 

 ハヴェルもまた、公爵に一礼すると踵を返して歩き出す。

 一度だけ振り返って、アドリアンを一瞥した。その目には憐れみが浮かんでいたが、再び前を向いた口の端にはうっすらと嗤笑(ししょう)がひらめいた。

 

 ハヴェルの背を見送りながら、アドリアンは拳を握りしめた。

 見えなくともわかる。彼が自分を嘲笑ったことが。

 

 今、この場において、一番の道化はアドリアンであった。

 

 

***

 

 

「この者はお前の近侍か?」

 

 エリアスはルイースについての()()が済むと、またアドリアンに向き合った。アドリアンの斜め後ろで、額をこすりつけんばかりに平伏するキャレを、ジロリと見つめる。

 

 キャレは公爵の視線が自分に向けられているとわかっただけで、ますます恐縮して体を固くした。心臓が凄まじい勢いで拍動して、冷や汗が止まらない。頭だけが熱く煮え(たぎ)り、首から下は冷え切って、小刻みに震えだす。

 

「……キャレ、謝罪……謝れ、早く…」

 

 マティアスがヒソヒソと囁き声で促してきて、キャレはハッと顔を上げた。途端に冷たく冴えた公爵の目が自分を射る。

 

「あ…う……」

 

 キャレは頭が真っ白になって、もう言葉を紡ぐこともできなくなった。

 その場にいた者たちの視線がキャレを責め立てた。

 怪訝に見つめてくるアドリアンの目ですらも、キャレを追い詰めてくる。

 呼吸することすら、ままならなくなってきた。……

 

「……キャレ?」

 

 アドリアンは思わず声をかけた。

 あまりにも顔色が悪い…というより、もう真っ白だった。

 

 キャレの異変に気付き、いち早く動いたのは意外にも公爵であるエリアスだった。

 キャレの前に屈み、息も絶え絶えとなっている口を大きな手でフワリと覆う。

 そのときにはキャレはもう意識が朦朧となっていたが、低く呼びかける公爵の声だけが聞こえた。

 

「ゆっくりと息を吐け、長く……」

 

 苦しげに顔を歪めながら、キャレはひたすら公爵の言う通りにした。

 ゆっくりと、長く、息を吐く。吐ききってから、静かに鼻から息を吸う。

 

 平坦な声は、まるで神官の読み上げる念誦(ねんず)のように淡々としていたが、キャレにはそれが安心できた。

 

 徐々に呼吸が整い出すと、今度は急激な眠気に襲われる。

 なにか大きなものに包まれた心地よさに、そのまま身を委ねたかった。

 

 かすかに開いた目に、アドリアンと似た端正な顔立ちの男が映る。

 (とび)色の瞳に表情はなく、どんよりとしていたが、怒っているようではなかった。

 

 ――――― 本当に、似てる…小公爵さま…

 

 そんなことを思いながら、キャレは気を失った。

 いや、眠った…と言った方が正しいのかもしれない。

 夜会のことを考えると胃がキリキリ痛んで、昨夜はロクに眠れなかったのだ。

 その上、いよいよ夜会が始まると兄に脅迫され、礼儀知らずの令嬢相手には大喧嘩。さすがに心身ともにクタクタであった。

 

「……手慣れたものにございますな」

 

 寝入ったキャレを抱くエリアスの背後から声をかけたのはルーカスだった。

 エリアスはジロリと見やって尋ねた。

 

「どうであった?」

「大したことではございません。今日、ここで宴会があるのを聞きつけた者どもが、おこぼれに(あずか)ろうと、集まったようです」

 

 ルーカスは公爵の警護として高座の隅に控えていたのだが、警備の騎士たちから門前で騒ぎが起きていることを聞き、向かったのだ。

 

 この時期、帝都の貴族の家では大小の宴会が開かれるが、新年前の気を良くした貴族たちの懐が緩むのを見越して、物乞いの類が集まる。それは珍しいことではなかったが、警備の騎士たちをも騒然となるほどのものであったのか、責任者であるルーカスに報告が来たのだった。

 

「少々、面倒な集団が居座って、やれ神の恩恵云々と御託を抜かすので、蹴散らそうとした騎士たちとちょっとした騒動になったようです。私が出張ってもよかったのですが、ちょうど暇そうにしていたクランツ男爵に任せてきました」

 

 ヴァルナルが聞いていれば、おそらく目を白黒して「勝手に押しつけて帰ったくせに!」と抗議したことだろう。だが、今ここで聞かずとも、エリアスは二人の間に起きたおおよその経緯を理解していた。

 

「相変わらず、貧乏籤を引く男よ」

「ま、美しく賢明な奥方を娶った代償であれば安いものでしょう。――― エーリク」

 

 ルーカスは楽しげに言って、アドリアンの背後に控えていたエーリクに声をかけた。

 

「いつまで公爵閣下に近侍の介抱をさせるつもりだ? 早く運べ」

 

 エーリクはあわてて中腰になって駆け寄ると、公爵の腕の中で眠りについてしまったキャレを抱きかかえた。

 そこにいた面々に一礼して、小走りに出て行く。テリィも重苦しい雰囲気から逃げ出すために「付き添います」と言い訳して()いていった。

 

 アドリアンは信じられない光景に呆然としていた。

 ()()公爵閣下が、()()父が、アドリアンの近侍をしばしの間とはいえ、その腕の中で介抱していたのだ。

 目の前で自分を鈍く見つめる人と同一人物なのか? と疑いたくなる。

 

 一方でエリアスは久々に間近に息子の顔を見て、驚いて目を何度も(しばた)かせる姿に、ふと妻の癖を思い出した。

 急に気分が重くなって、視線を伏せる。

 無言で立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。

 

 アドリアンはそれ以上の叱責がないことにまた驚きつつも、あわてて叫んだ。

 

「あ…ありがとうございます! 父上」

 

 エリアスはビクリと立ち止まったものの、結局振り返ることなく出て行った。

 

「なにか面白いことがあったようですね」

 

 ルーカスがのんびりと言った。

 本来であれば警護のために公爵に()いて行くべきであったが、立ち去り際にエリアスが手で制してきたのだ。一人にさせろ、と。

 

「あんまり面白くないよ…」

 

 アドリアンはさっきまでのことを思い出し、げんなりした。

 自分と同じ年の近侍と女の子の引っ張り合いに巻き込まれるなど、二度とゴメンだ。一から話すのも疲れそうで、アドリアンは話題を変えた。

 

「それより『手慣れたもの』って?」

「は? 何がでございましょう?」

「とぼけないでよ、ベントソン卿。さっき、キャレを介抱している公爵様に『手慣れたものですね』って言ってたじゃないか」

「あぁ…」

 

 ルーカスは笑うと、やや意地の悪い顔になった。「知りたいですか?」

 

「勿体ぶらないで下さい、ベントソン卿」

 

 横から言ったのはマティアスだった。

 彼はキャレとルイースの言い争いを止めようとしたのだが、頭の中で理論武装している間に、公爵の登場で沈黙を余儀なくされたのだった。

 

 ルーカスはやたら真剣な顔の近侍に肩をすくめた。

 

「そう大したことでもございません。昔、公爵閣下も小公爵として近侍を従えておられましたが、その中にああした発作を起こす癖のある者がおりましてね。あるときにリーディエ様から発作が起きたときの対処法を教えていただき、それからは閣下自ら介抱されるようになったのですよ。何度かやっているうちに、いつの間にやら、その近侍の発作もなくなりました」

「公爵様が?」

 

 アドリアンとマティアスはほぼ同時に聞き返し、顔を見合わせた。

 ルーカスはハハハと笑ってから、アドリアンの肩をポンと軽く叩いた。

 

「そのように吃驚(びっくり)されておられますが、小公爵様とて、閣下に介抱されたことはございますよ」

「え?」

 

 アドリアンはギョッとした。

 目の前で見たことすら信じがたいのに、自分がその対象であったなど有り得ない。

 

「嘘だ。そんなのあるわけない」

「いえいえ。さすがに覚えておられないでしょうが……まだ揺り籠の中に眠っておられるような頃に、ひどい癇癪を起こされて、夜中にずーっと泣いておられたのです。閣下がたまたま声をききつけて、見に行かれて……」

 

 ルーカスは語りながら思い出す。

 わずかな灯りの中で、ぎこちなく赤ん坊を抱いたエリアスの姿。

 泣き叫ぶ小さな小さな息子相手にも、真面目くさった顔で「息を長く吐け…」と、リーディエに教えてもらった通りにつぶやいていた。

 

「泣き疲れて眠られるまで、お抱きになっていらっしゃいましたよ。ようやく眠ったのを見て、乳母に任せて帰られましたが…」

 

 実際にはエリアスはアドリアンが眠りにつくと、ルーカスに預けて去ってしまった。自分が息子を()()()()など、認めたくもないかのように。

 

 アドリアンは初めて聞いたその話に、ひどく複雑な気持ちになった。

 今まで父に対して愛情を感じたことはない。そもそも愛情のある人だと思わなかった。あったとしても、向ける相手は死んだ公爵夫人に対してだけで、たとえその(ひと)の血を引いていても、アドリアンに対しては恨みしかないのだと思っていたのだ。

 

「僕は…覚えてない。知らないよ」

 

 アドリアンはポツリとつぶやき、悄然とその場から離れた。

 マティアスが追いかけようとするのを、ルーカスは素早く腕を掴むとニヤリと笑った。

 

「何があったか、聞こうか」

 





次回2023.09.10.更新予定です。


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第百五十話 エラルドジェイの稽古

 一方、ズァーデン村にて ――――

 

 

「えぇ~、やだよ~」

 

 助けた対価として、オヅマの修行につき合うように言われたエラルドジェイは、手をヒラヒラ振って拒絶した。

 

「俺、誰かに教えたりとかすんの苦手だし、稽古とか、ちょー面倒」

「うるさいね。お前さんの得手不得手も、好き嫌いも知ったこっちゃないんだよ」

「横暴だなぁ、(ばば)様。俺に拒否する権利はないの?」

「なにが権利だ。お前やら私みたいな、地獄行きが確定している奴に権利なんぞあるもんかい」

「言ってくれるねぇ」

 

 エラルドジェイは不承不承に受け入れたものの、本人も言った通り、誰かに教えたりすることに一分(いちぶ)たりと興味はなかったので、当然ながら稽古の手は抜きまくっていた。

 

「ちゃんと相手しろよ!」

 

 オヅマは怒ったが、

 

「本気だって~。オヅマが強いんだって~。降参、こうさーん」

 

と、まったくもって張り合いのないこと甚だしい。

 

 オヅマが相変わらず豆猿(まめざる)相手に格闘していても、高みの見物を決め込んで、何であれば木の上で寝ていることすらあった。

 

「よし、わかった。取引だ」

 

 オヅマは業を煮やして、エラルドジェイに言った。

 

「豆猿の森に入れ。一つも実をぶち当てられずに、川までたどり着けたら、もう修行につき合わなくていい」

「へぇ?」

「ただし、木の上に登るのはナシだぞ」

 

 豆猿たちは、まぁまぁ頭もいい。修行のときはルミアが口笛で呼ぶと集まってきて、木の下を通る人間に対して実を投げるように訓練されている。つまり木に登ると攻撃はしてこない。

 

 エラルドジェイはポリポリと耳裏を掻いてから、

 

「あぁ、いいよ。乗った」

 

と、気軽に引き受けた。

 日頃からオヅマらが修行している姿を見ていたので、おおよそは心得ているらしい。

 

「じゃ、始め!」

 

 開始するなり、オヅマは隣にいるハルカに目配せすると、二人ともスルスルと木に登った。

 ハルカは枝々を飛び移って先へと急ぐ。

 オヅマはエラルドジェイの動きを見ながら、自分もロンタの木から実をとって投げた。

 

 季節が過ぎたので、もうスジュの実はなく、豆猿たちはロンタの若い実を投げてくるようになっている。赤ちゃんの拳ほどの大きさで、皮の部分がまだ分厚くて固く、当たると地味に痛い。それに衝撃を受けると、赤い粉のようなものを出す。

 これで当たったかどうかの判別がしやすいのはスジュの実同様だが、洗濯が大変というところまで一緒で、オヅマは豆猿たちとの訓練の時は、もうそれ専用の服にしてあった。その服はもはや元の色がなんであったのかわからないほどに、気味悪く染まっている。

 

「おいっ! なんでお前まで投げてんだよッ」

 

 エラルドジェイはすぐにオヅマが投げてきたのに気付いて抗議してきた。

 抗議しながらも、豆猿からの実をよけているあたり、やはり尋常ではない。

 

「俺が投げないとは言ってない」

 

 オヅマはいけしゃあしゃあと答えながら、両手に四粒持って、一気に投げつける。

 

「そういう(こす)いことを……うおッ」

 

 豆猿たちとは違う速さの、かなりの勢いで飛んできた実に、エラルドジェイは飛び退ってよけ、その隙にまた別方向から飛んできた実をバシリと一つは足で蹴り、一つは拳で殴って落とした。

 

「あッ! 当たった!」

 

 オヅマは声を上げた。

 しかしエラルドジェイは、ポイと石を放り投げて笑った。

 

「ざーんねん!」

 

 いかにも馬鹿にしたように言って、また先へと走っていく。

 オヅマはエラルドジェイが落としていった石をチラと見て、チッと舌打ちした。どうやらいつの間にか石を掴んでいて、それに実を当てて落としたらしい。石に赤い粉がついていた。

 

 オヅマはまた枝を渡りながら追いかけた。

 しかし思っている以上に、エラルドジェイは身軽で素早く、もう木々の向こうに川面がキラキラ光るのが見え始めていた。

 

「おいッ! 蹴るのずるいだろ!」

 

 オヅマが怒鳴ると、エラルドジェイは面倒そうに見てから、こっちに向けて実を蹴ってきた。

 どこまでも人を食っている。

 

「クソッ! あいつ、本気だな!!」

 

 オヅマは腹が立ってきて、もう木から降りて走り始めた。

 すると今度はオヅマにも実が降ってくる。

 

 もはや実を()けるのは癖となっていた。身を反らしたり、跳んだりしながら、オヅマはエラルドジェイの後を追った。

 途中でどうしても()けられそうにない実を手で掴んでは放り出し、蹴ったりするようになったのは、エラルドジェイの行動から即座に覚えたことだ。

 

 だが、もうエラルドジェイは川へと出ていくところだった。

 

「ハルカ!」

 

 オヅマが叫ぶと、エラルドジェイの前にハルカがぶらん、と枝から吊り下がった。

 

「おおぅ…っと、ハルカちゃん」

 

 正面衝突しそうになって、エラルドジェイはハルカを抱きしめた。ちょうど、そこは森の木々が途切れる境で、豆猿たちからの攻撃は止んだ。

 

「危ない、危ない。吹っ飛ばすところだ…」

 

 ハルカを抱っこしながら、エラルドジェイはヨシヨシとその背をやさしく叩く。

 ハルカはやっぱり無表情に抱かれるままになっていたが、エラルドジェイの背後に来ていたオヅマと目が合った。

 オヅマが頷く。

 

「ジェイ…」

 

 ハルカに珍しく名を呼ばれ、エラルドジェイはすぐに「うん?」と問いかける。その瞬間に、ゲシ、と額にロンタの実をなすりつけられた。

 

「よっしゃ、当たった!」

 

 背後でオヅマが快哉を叫ぶと、エラルドジェイは固まった笑顔のまま、クルリと振り返った。

 

「おい…」

「当たったもん。な? ハルカ」

「当たった」

 

 ハルカもエラルドジェイの腕の中でコクリと頷く。

 

「お前ら…」

 

 エラルドジェイは抱っこしたままのハルカと、オヅマの顔を三度ほど往復してから、ハァーっと息を吐いて、ハルカをゆっくり降ろした。

 

「……やられた。クソガキどもが」

 

 ボソリとつぶやいてから、エラルドジェイは楽しくてたまらないように大笑いした。

 オヅマも笑い声をあげ、ハルカは二人を不思議そうに見ていた。

 

 

***

 

 

 賭け(?)に負けたエラルドジェイは、とうとう手抜きなしで修行につき合う羽目になったが、そうなると今度、音を上げたのはオヅマのほうだった。

 

 エラルドジェイはルミアと同じで、何かを手取り足取り教えることはしない。

 稽古の種類もただ一つ、実戦を模した剣撃だ。

 ひたすらオヅマがエラルドジェイ相手に打ち込んでいき、確実な打撃 ―― 本物の剣であれば、行動不能となり得るような攻撃 ―― を与えるまで続けられた。

 

 早くて二刻*1、長くなると三、四刻近く、ぶっ通しだ。休憩なんてもちろん与えられない。少しでも隙を見せれば、容赦なく打ち込まれる。

 精巧に作られたとはいえ擬似剣なので、むろん斬られるようなことはないが、打ち身やちょっとした切創は日常茶飯事だった。

 

 しかも騎士団と大きな違いは、稽古の場所。

 エラルドジェイの気まぐれで決まるその場所は、おおよそ稽古場としてはそぐわないところばかりだ。

 豆猿(まめざる)たちが去った後の林立する木立の間、川に点在する不安定な岩場の上、天井の低い洞窟の中なんてこともあった。およそ平地の開けた場所なんてことはまずもってない。

 時間も雲雀(ひばり)が鳴き始める早い朝のときもあれば、午後のうだるような暑さの中で開始されることもあったし、曇り空で星も出ていない新月の闇夜なんてこともあった。むろん、この時期のズァーデン地方では珍しい雨が降った日も関係ない。

 

 今日の訓練は一つ山を越えたところにある鍾乳洞の中だった。

 狭くはないが、松明(たいまつ)で照らされている場所以外は暗く、あちこちに身を潜ませるのにちょうどいい穴があった。しかも水が一滴落ちるだけでもかなり反響し、隠れられると位置が掴みづらい。

 エラルドジェイはその特性をしっかりと活かして、わざと石を壁にぶつけたりしてくるから、本当に厄介だった。

 

「……あんたもこういう修行させられたの?」

 

 稽古が終わったあと、オヅマは尋ねた。

 エラルドジェイは岩の間から流れ出る岩清水をゴクゴクと飲んでから、口を拭いながら少し上を向いて思案する。

 

「まぁ、そうかな」

 

 エラルドジェイにこうした稽古をつけてくれたのはニーロだった。

 いかつい外見からは意外に思われがちだったが、わりと細かい性格で、理屈っぽかった。稽古を始める前には目的と理由を教えてくれたし、終わったときには改善点も指摘してくれていた。

 もっとも、それをエラルドジェイが理解していたかといえば……

 

「なんかごちゃごちゃ言ってたけど、一応、教えてもらってたんだろうな」

 

という、故人が聞けばガックリ肩を落とす結果ではあるが。

 

「へぇ。ルミアはあんたがシューホーヤの体術を身につけてるんだろう、って言ってたけど、そういうの?」

「うーん? よくわかんねぇ…」

 

 続くオヅマの質問にもエラルドジェイは首を傾げるしかない。

 シューホーヤは西にある山岳一帯を根城とする民族で、彼らの中でも戦士と呼ばれる者たちは並外れた運動能力を持つ。柔軟性をいかした独特の体術が伝わっており、そのためシューホーヤの戦士は、ある国では要人警護、ある国では傭兵部隊、また別では暗殺者として重宝されている。

 

「でも、シューホーヤの人間じゃなかったな。見てくれからすると」

 

 黒い艶のある肌と、橙色の瞳、縮れた金髪を数十本近く細かい三つ編みにして、巻布(ターバン)の中に纏めているのが、多くのシューホーヤの民の姿だ。赤毛の典型的な帝国人顔のニーロには当てはまらない。

 

「まぁ、ヤツがシューホーヤの人間に教えてもらったりはしてたかもしれねぇけど」 

「ふぅん。じゃあ、あんたのお師匠さんて元戦士か何かだったの?」

「……随分、興味津々だな」

「そりゃ、そうだろ。聞いたことないんだから」

 

 オヅマは言いながら()でのことを思い出していた。

 一緒に旅したときも含めて、エラルドジェイの強さに脱帽しながらも、彼がいったいそれをどうやって身につけたのか、など訊いたことはなかった。仕事をこなす中で、自然と強くなっていったんだろうと、勝手に思っていたから。

 

 エラルドジェイはオヅマの言い方にかすかな違和感を覚えつつも、ポリポリと耳裏を掻いて思い出す。

 

「戦士…とは聞いてないな。どっかの貴族の隠密組織にいたって話は、聞いた気がするけど」

「隠密組織?」

「そ。弱小貴族なんかはさすがに無理だけど、そこそこの政治的影響力のある貴族なんかは、私的な諜報組織みたいなの? そういうのを()()()()んだよ。どこの貴族だったとかは忘れたけど、最終的には代替わりしたときに新しい主人が合わなくて、そのまま抜けた…みたいなこと言ってたな。ま、酒入ってたから、どこまで本当かわかんないけど」

 

 ニーロが貴族からの仕事にあまり乗り気でなかったのは、おそらくそこでの経験もあるのだろう。手痛い裏切りでもあったのか、あるいは単純に金払いが悪かったのか。

 いずれにせよ、そこそこ義理堅い男を失望させる何かがあったのは確かだ。今となっては、もう訊くことなどできないが。

 

「それって、グレヴィリウスにもあるのかな?」

 

 オヅマは少しばかり考え込む。

 そんなものがあるとは、ルーカスからもヴァルナルからも聞いたことがない。

 しかしエラルドジェイはヒラヒラと手を振った。

 

「そりゃ、大グレヴィリウス公爵家にないわけないだろうぜ~」

「でも、俺、会ったことないぞ」

 

 真面目くさって言うオヅマにエラルドジェイは大笑いした。

 

「ハハハハッ! 堂々と俺は影の組織の一員ですって、名札つけて歩いているわけじゃないからな。普段は普通に仕事してるんだろうよ。従僕とか、庭師とか、あとは馴染みの商人だったりすることもあるし……騎士の中にだっているだろう」

「騎士に?」

「そういう可能性もあるって話」

 

 オヅマは神妙な顔になって、黙り込む。

 もし、そういう組織がグレヴィリウスにあるとして、おそらく彼らは公爵直属なのだろう。だとすれば将来的にはアドリアンにも関わってくる話だ。いずれハヴェルとの後継争いは本格化する。そのとき、彼らを手中に収めておかねばならない。あちらにつくようなことになったら…。

 

 そんなオヅマの心中を読んだのか、エラルドジェイがニヤリと笑った。

 

「そういう奴らの特徴、教えてやろうか?」

「……え?」

「日常でも音をたてない」

「音をたてない?」

「足音がしない、とか。スープを飲むときも、啜る音はもちろん、スプーンが皿にこすれる音もしない。なにせ音をたてないことが自然になっちゃってるような奴は、けっこうな割合で、そういう部類の人間である可能性が高いんだよな。癖だな。もう職業病ってやつ? だから、気配がないんだよ」

「……いきなり背後に立たれて、びっくりしちゃったりして?」

「そうそう。あと、印象が薄い。会ったら思い出すのに、なぜか記憶に留まりにくいヤツ。知らない間に軽く暗示でもかけてんのかねぇ、アレ。たぶん諜報活動のときに、痕跡が残らないようにするためだろうな」

 

 オヅマは記憶を()って、探す。

 使用人も含めて、オヅマが思い出せる限りの公爵家と関わりのある人間を、ゆっくりと丹念に思い返す。

 

「あ……」

「お、いたか?」

「いた…一人、それらしいのが…」

 

 騎士としての訓練を受けて、そこそこ気配に敏感なオヅマをもってしても、いつの間にか背後に立たれて何度か驚かされた人間。

 何度も訓練につき合ってもらい、そこそこ面識があるはずなのに、会う度に「こんな顔してたっけ?」と、なぜか見とれてしまう男。今の今まで、しっかりと記憶を手繰(たぐ)ってこないと、その姿も顔も、まったく()()()()()()()()。あんなに目立つ容貌をしておきながら。

 もし()()がそうであるなら、今更ではあるが、ルーカスの意図もわかる。

 

「そうか…そういうことか……」

 

 オヅマはボソリと独り()ちた。

 

 

*1
二時間





次回は2023.09.17.更新予定です。
感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第百五十一話 深夜の図書室

「ヒャアッ!!」

 

 キャレは驚いて飛び退(すさ)った。

 そのまま体勢を崩して、ぺたんと尻もちをつく。

 目の前に立つ男の端麗な面に、苛立ちがさっと浮かんで、あっという間に消えた。

 キャレはしばらく男をまじまじと見てから「あ!」と、声をあげる。

 弓部隊の一人で、近侍たちに弓を教えてくれている……

 

 ――――― 誰だったっけ?

 

 こんなに綺麗な顔をしているのに、どうして名前を忘れてしまったのだろうか。

 

「あ…あ、あの…すみません。えと…ヤ、ヤ…ヤミ…」

 

 それでもキャレは、どうにか頭の中から彼のおぼろげな名前をひねくりだした。

 

「ヤミ…トゥッ……トゥトゥリデス卿」

「トゥリトゥデスだ」

 

 ヤミは冷静に訂正してから「ヤミでいい」と、素っ気なく言ってくる。

 

「あ…はい。すみません、ヤミ卿。わた……僕、なかなか人の名前が覚えられなくて」

 

 キャレは丁寧に謝ったが、ヤミは大して興味もないように、足下に落ちていた本を拾った。

 

 ここは帝都の公爵家の中にある図書室であったが、夜半に近い時間なので、当然ながら人気(ひとけ)はない。

 キャレは誰もいないと思っていたのに、本を取ってクルリと出口へ向いた途端、そこに亡霊みたいに長細い、白っぽい人が立っていたので、驚いて腰を抜かしてしまったのだ。

 

「……人の体に興味が?」

 

 拾った本をキャレに差し出しながら、ヤミが問うてくる。

 キャレは自分が本をいつの間にか落としていたことに気付いた。

 一気に顔が熱くなる。

 

「あぁっ、すっ、すみませんっ」

 

 あわてて受け取ろうとしたが、ヤミは取れないように、ツイと本を上げた。

 

「あ…あの?」

 

 キャレは戸惑って、おずおずとヤミを見上げた。

 蒼氷色(フロスティブルー)の瞳が、無表情にキャレを見下ろしている。

 

「あの……なにか?」

 

 かろうじてキャレは問いかけたが、蒼の瞳はただ冷たく見つめるばかりで、何を考えているのかわからない。

 さっきまでは恥ずかしさで真っ赤になっていた顔が、徐々に恐怖で冷めていく。

 

 ヤミは持ち上げていた本をキャレの前に差し出した。

 キャレは少しばかりためらいながらも手を伸ばしたが、急にグイと肩を掴まれると、ヤミの顔が間近に近づいてきた。

 

「ヒ……」

 

 悲鳴を上げたかったが、喉を押し潰されたように声が出ない。

 一気に全身が強張ったキャレの耳元に、ヤミの鼻先がかすかに触れた。かと思うと、またグイと押し戻される。キャレは呆然と突っ立っているしかなかった。

 

 ヤミはまた手に持っている本の表紙を見つめ、それからキャレを見て、スッと目を細めた。

 再び本をキャレに差し出したが、キャレはもはや驚きと恐怖で動けない。

 ヤミはやや苛立たしげに眉を寄せ、無理やりキャレに本を押し付けた。

 

「もう、そろそろ…といったところか?」

 

 ボソリと、ヤミがつぶやく。

 キャレは慄然として、息を呑んだ。カチカチと奥歯が鳴る。

 何も言えず固まるキャレに、ヤミは淡々と言った。

 

「男を乞えば、(メス)の臭いは強くなる。バレたくなければ、想いは断つことだ」

 

 すべてを見透かしたかのように言われて、キャレは一気に冷や汗が噴き出た。

 泣きそうになって、うっ、と嗚咽する。

 しかしヤミはそんなキャレの姿に顔をしかめ、一層冷え冷えとした口調で突き放した。

 

「とっとと去れ。泣き言を聞くつもりはない」

 

 キャレの目の前でバチンと指を鳴らすと、無情に背を向ける。

 

 キャレは本を抱きしめると、あわてて走り去った。

 バタン、と図書室の扉を閉める音が響く。

 

 遠く足音が去っていくのを確認してから、ヤミはまた周囲の気配を探った。誰もいないことを確信してから、キャレの残していった燭台の蝋燭をフッと消す。

 一気に図書室は真っ暗になったが、ヤミはしばらく目を慣らしてから、行動を開始した。

 

 キャレの取った本が置かれていた本棚の側面にある、隠されたレバーを引くと、本棚がゴゴと動く。壁面を背にしていたはずの本棚の後ろにはぽっかりと開いた空間があった。

 少し進んだところに階段があったが、下へと続くその先はより深い漆黒へと呑み込まれている。

 ヤミが少し屈んで小さな空間に入ると、本棚は再び動いて、ヤミごとその場所を隠した。

 

 図書室はようやく深夜の静謐を取り戻した。

 

 

***

 

 

 ルーカス・ベントソンは騎士団での調練に合わせた生活を送っているので、早寝早起きが基本だ。だが今夜は少々、先だっての夜会で知り合った御婦人との()()()()()()()があって、遅くなってしまった。

 実家に帰ることもできたが、この時期は婚家で暮らす姉達も帰省しているので、何かとつつき回されるよりは、多少面倒でも顔の利く門番に開けてもらって公爵邸の自室に戻るのが一番という結論に至った。

 

 そんなわけで広い公爵邸内を深夜一人歩いている途中で、湿っぽい子供のすすり泣く声が聞こえてきたときには、正直、その手のことはまったく信じていないルーカスであっても、一瞬、肝が冷えた。

 声に近づくにつれ、それが本当に子供で、しかも小公爵の近侍の一人キャレ・オルグレンとわかると、ルーカスはホッとすると同時にあきれたように声をかけた。

 

「おいおい。どうした、キャレ・オルグレン。深夜にこんなところを歩き回って、迷ったのか?」

 

 キャレは響いた声にビクリと震え、一瞬、泣くのをやめたが、燭台を持ったルーカスに気付くと、途端にホッとしたように呼びかけながら、大粒の涙を流した。

 

「ベ…ベントソン卿…ッ」

「おいおい。本当に迷子になったのか?」

「す、す…すみません」

 

 キャレはひどく心許なげにしょんぼりと謝る。

 その姿にルーカスは少しだけ危惧を抱いた。

 

 近侍の中ではキャレは正直、出来の悪い部類だった。

 剣術や体術といった武芸全般もそうであったが、聞くところによると勉学の方でもあまり振るわないらしい。はっきり言って劣等生ではあったが、アドリアンからはそれなりに気に入られているようだ。

 ただ、気に入られ方、にも色々とある。

 

 キャレの容色は悪くない。

 いつも自信なげにしている姿はひ弱でもあったが、反面、守られるべき存在としては、ある種、男にとって庇護欲をかきたてるものがあるだろう。

 

 近侍と主の間の疑似恋愛は、正直なところ古くからあって、結婚前の貴族の若君が女のことで問題を起こさぬための防波堤として、認められてもいる。

 ただキャレを見ていると、妙な危うさを感じる。

 悲愴感というか、何か切羽詰まったものを感じさせるのだ。

 それがアドリアンに対して、何かしらの不都合を生じせしめるのではないか…と危惧させる。

 

「なんだって、こんな時間にこんなところにいるんだ?」

 

 問いかけながら、キャレが胸に抱く本が目に入った。えらく分厚い本だった。

 

「なんだ? 図書室にでも行ってたのか?」

「は…はい。すみません」

「なんでまた? 明日にでも来ればいいだろうに」

「ちょっと…急に調べたいことがあって……すみません」

「謝らなくてもいいが、燭台も持たずに歩き回って……だから迷ったんだろう?」

「え…? あっ、燭台」

 

 ルーカスはあきれた。

 どうやら燭台を図書室に置き忘れてきたらしい。

 

「おいおい。危ないな。本の置いてある部屋に火器を持ち込んで忘れるなんて。もし、火事にでもなったら、お前が一生働いても返せないかもしれんぞ」

「す、すみませんっ」

 

 あわてて踵を返そうとするキャレに、ルーカスは「待て、待て」と呼びかけた。

 

「いいから、お前はもう部屋に戻りなさい。これを貸してやるから」

 

 燭台をキャレに渡し、ルーカスは図書室へと向かうことにした。どうせ目が冴えているので、眠気を呼び込むための本を数冊借りていくつもりだった。

 

 キャレは受け取ってから、何か言いたげにルーカスを見つめる。

 

「どうした?」

「あ、あの…さっき、図書室で人に会って…」

「は? この時間に?」

「はい。僕もびっくりしたんですけど、さっき、あの…弓の…あの人……綺麗な顔をした方です」

 

 キャレは言いながら、どうして名前が出てこないのか不思議だった。しかも綺麗な顔と言いつつも、その印象すらもまたぼやけてきているのだ。

 

 だがルーカスはそのキャレの言葉と態度で、すぐさま彼の名前を言い当てた。

 

「ヤミ・トゥリトゥデス卿か」

「あ、はい。そうです」

 

 キャレが頷くと、ルーカスはニヤリと笑った。

 キャレは訳がわからなかったが、理由を聞いても言ってくれない気がした。

 

「それじゃ…ありがとうございます、ベントソン卿」

「おう。子供は夜更かしせずに寝ろよ」

 

 ルーカスは暗い廊下を去っていくキャレを見送ったあと、図書室へと足早に向かった。

 

 

***

 

 

 ヤミが階段を降りた先には、小さな扉があった。

 かなり屈んで入らねばならないその部屋の中へと足を踏み入れると、フワリと染み付いた葉巻の香りに包まれる。

 薄暗い小部屋の中には、その場をほぼ占めるテーブルと椅子が二脚あるだけだった。だが絨毯も含めて年代物の重厚な雰囲気を醸し出している。

 

 ヤミは奥の暗がりにある椅子に座った人物 ――― 公爵エリアスに一礼すると、前置きもなく話し始めた。

 

「ガルデンティア*1からの連絡はありません。使用人の女に探ってみましたが、殺されてはいないようです。うまく夫人に取り入ることはできたものの、少々、難儀な御方らしく、執着がひどくて、今は部屋から外に出ることも許されない状況です」

「………」

 

 カチリ、と葉巻を切る音がして、ややあってシダーの香りが揺らめく。

 

「それで?」

「使用人はこの十年でそっくり入れ替わったようです。当時のことを知る人間はほぼおりません。エレオノーレ様が女主人であったことすら知らぬ者がほとんどです」

「……きれいに抹消されたということか」

 

 抑揚のないエリアスの声が響く。

 ヤミは頷いた。

 

「予想通りだな。そちらは」

 

 ボソリとつぶやき、エリアスはハーッと長く煙を吐いた。

 蝋燭のかすかな光に煙がたゆたい、影へと消えていく。

 

 オヅマの出生に、姉であったエレオノーレの恥辱に満ちた死が絡んでいると考えたエリアスは、直属の諜報組織に再調査を指示した。

 十三年前の前回においては、直接姉の死に関連することを探っていた中で、ガルデンティアに送り込んだ間者がすべて戻ってこなかったので、調査は終了せざるを得なかった。

 しかし今回は当時を知る、あるいは当事者とも言うべきミーナという切り札を持っている。別角度から切り込み、姉の冤罪を晴らすことができれば、ダイヤモンド鉱山のある、今は南東の海の要衝となりつつあるエン=グラウザ島を取り戻すきっかけとなる。

 

 エリアス個人としては、正直なところ姉の汚名返上にも、エン=グラウザ島の領有にも、さほどに関心と熱意があるわけではなかった。

 むしろ個人的な心情の点でいうなら、十三年前の未熟な自分を嘲笑ったであろう大公家に対して、矜持が傷つけられた…という部分が大きい。

 また個人的な感情とは別に、公爵家が本来持っているべきものは取り戻すべき、という義務感は、強くエリアスにのしかかっていた。長くグレヴィリウス公爵として過ごす中で、彼の矜持はグレヴィリウス公爵家のそれとほぼ同等になってしまっていたのだ。

 

「以前に言ったクランツ男爵夫人の身柄を保護した従僕については?」

 

 大公本人には一切告げないことを約束しながらも、エリアスは当時の状況についてミーナから聞き取るようにルーカスに命じていた。当然、こちらの思惑に気付かせないように。

 ミーナは言い渋ったが、最終的には「恩人の消息を知りたいとは思いませんか?」という、情に訴えるやり方で情報を引き出したらしい。もっとも尋ねた時点で、その恩人が死亡している確率は高かったが。

 

「川にて死体が発見されております。十三年前の報告書に記載がありました」

 

 案の定、ヤミの報告は無情だった。

 

 ミーナは大公家から出て行ったのち、本来であれば天涯孤独で、しかも身重であったので、すぐにも行き倒れることは目に見えていた。しかし彼女の不遇に同情した従僕の一人が、秘密裡に彼女を保護して、知り合いの商人にその身柄を託したのだ。

 ミーナはその商人の伝手によって、ルッテア*2の商家の住み込み女中となり、オヅマを産んでいる。

 

「従僕が行方不明になった当時の日時から勘案するに、大公が男爵夫人(ミーナ)の失踪を知る前に、既に消されたようです。これは、おそらくエレオノーレ様のご指示かと」

「……()もあろう…」

 

 エリアスは驚かずに首肯する。

 姉の驕慢な気質からしても、自分の命令に逆らって、追い出した娘に手を貸した男を許すわけがない。しかもその従僕が大公に告げ口などして、自分の罪が明らかとなった上、追い出した娘まで取り戻されでもしては、無駄骨どころか自分だけが傷を負う羽目になりかねない。

 

 こうしてミーナの行方について一切不明となったまま、大公の知るところとなったあとには、関わった者たちへの苛烈な処罰が下されたのだろう。

 家令や執事をはじめとする相当数の召使いが解雇となっているが、それが果たして文字通りのものであるのか、あやしいものだ。彼らのその後を調べても、事故死や、自死、あるいはいまだに行方不明の者がほとんどなのだから。

 

「ただ、その死んだ従僕から男爵夫人を託された商人を突き止めることができました。行商人でしたので、なかなか足取りを追うのが難しかったのですが、幸いにも今はアールリンデンにて陶器工房のオーナーになっています。彼から当時の状況について聞くことはできるかもしれません」

 

 エリアスはクスリと笑った。

 

「存外と世の中は狭いものだな。我が領内にて、数奇なる運命に巻き込まれた者が三人も共存しているとは」

「………」

 

 ヤミの返答はなく、エリアスの下知を待っている。

 エリアスは再び葉巻を吸って、煙を吐いてから命令を下した。

 

「即刻、向かうがよかろう」

 

 ヤミはまた一礼すると、すぐさま踵を返して部屋を出た。

 バタリと閉められた扉を陰鬱に眺めて、エリアスはつぶやいた。

 

()が為の忠誠か………ヤミ・トゥリトゥデス」

 

 

***

 

 

 ヤミは階段を上り、真っ暗闇の空間にしばらく立っていた。

 外に出る前に気配を確認する。壁にある小さな窓を塞いでいたフラップを開き、そこから外を覗き見る。人の姿はなかった。もう一度、息を殺して、かすかな気配すら感じないことを確信すると、壁から飛び出た丸い取手のレバーを引いた。ゴゴと音がして本棚が開く。

 

 出てから一瞬、眉を寄せた。

 テーブルの上にキャレが忘れていったはずの燭台がない。

 あるいは途中で気付いて、取りに来たのだろうか。だとしても、おそらく本棚については気付かなかったはずだ。

 

 大して気にもとめずにヤミは図書室を出て、そこで声をかけられると同時に、燭台を取りに来たのがキャレでないことを悟った。

 

「トゥリトゥデス卿、深夜に図書室にまで来て読書か?」

 

 背後から響く聞き覚えのある声に振り返ると、ゆらめく蝋燭の灯りの中に、ルーカス・ベントソンの姿があった。

 ヤミはすぐに彼が待ち伏せしていたのだとわかった。

 

「…ベントソン卿こそ、こんな時間にわざわざ?」

 

 内心の動揺を知られぬように、ヤミが微笑をつくって尋ねると、ルーカスは肩をすくめた。

 

「ちょっとばかし、目が冴えてね。穏やかな眠りを与えてくれる本を探しに来たんだが、()()()()()()()()()()()()()、待っていたんだ」

 

 意味深な言い方にヤミはかすかに苛立ったが、素知らぬ顔をしていなした。

 

「邪魔ではありません。私も同じような理由ですから」

「ほぉ? で、いい本は見つかったのか?」

「あいにくと先客にとられました」

「先客?」

「小公爵様の近侍の…キャレ・オルグレンでしたか? あの子に持っていかれました」

「……そんなにその本がよかったのか?」

 

 ルーカスが首をかしげると、ヤミは先程のキャレの姿を思い浮かべ、うっすらと笑む。

 

「ええ。『ゾール百科事典人体編第三巻雌雄差異考察』という本です。キャレがどうしても必要だと言うので、譲りました」

「事典? 人体の…雌雄? そりゃまた、随分と奇妙な読み物を持っていったものだな。わざわざ深夜に取りに来るような本か?」

「まったくですね。まぁ、あの年頃であれば、男女の性差について、色々と悩みをかかえる時期であるのかもしれませんね」

 

 ルーカスはさっき、キャレに会ったときの危惧を思い出した。フッと視線を落とし、顔が翳る。

 

「では…」

 

 ヤミはキャレのことでルーカスの気が逸れたと思い、そのまま立ち去りかけたが、相手はやはり公爵の右腕と呼ばれる男だった。そう簡単に逃してはくれない。

 

「あぁ、そうだトゥリトゥデス卿。明日は小公爵様らの弓稽古があったな」

 

 ヤミは眉間に皺を寄せたが、振り返った顔はいつものごとく、ただ無表情なだけだった。

 

「申し訳ありませんが、明日の稽古にはつき合えません」

「またか? 最近、忙しいようだが、一応こちら()お前の仕事の一つだぞ」

「……了解はしておりますが、明日はアールリンデンに一度、戻らねばならなくなりました」

「なんだ? ヘンスラーの忘れ物でも取りに行くのか?」

 

 皮肉げに問うてくるルーカスに、ヤミは口の端を歪めた。

 

「あの男のために? 私が? わざわざ?」

「ハァ…やれやれ。自らの直属の上司に対する言葉ではないな」

「……ベントソン卿」

 

 ヤミはもはや上辺だけの話をするのも面倒になってきて、ルーカスにずばりと言った。

 

黒角馬(くろつのうま)にてアールリンデンに向かうことをお許し頂きたい」

「俺が許すと思うのか?」

「許すでしょう。私が誰からの命令で動いているのか、ご存知であるのならば。今、ここでつまらぬ腹の探り合いをするのも、いいかげん滑稽ではありませんか?」

「……とうとう尻尾を出してくれたということか」

 

 ルーカスは乾いた笑いのあとに、ヤミをじっと見つめた。

 蝋燭の光が揺らめく青い瞳は、静かにヤミを圧迫している。

 

「だったら、俺がわざわざお前を小公爵様のそばに配したことの意味は、わかっているのだろうな?」

 

 低く問いかける声にも、抑圧された気迫が込められていた。

 だがヤミはとぼけたように小首を傾げ、その白皙の面に艶麗な微笑を浮かべた。

 

「妙なことを仰言(おっしゃ)る。私一人を仲間にしたところで、『影』の総意を得られるわけではない。『影』は光に付き随う。小公爵様に光あれば、『影』も自然とその足下にひれ伏すだけのこと」

「小公爵様のご器量次第というわけか?」

「そうですね……」

 

 ヤミはスッと目を細めると、愉しげに言った。

 

「あえて私を配下にとお望みなら、私を満足させる仕事を与えていただければ、いかようにもお役に立ちましょう。賢明な団長代理であれば、おわかりですね?」

 

 ルーカスは苦虫を噛み潰す。

 この男の、姿形にそぐわない嗜好を知っていればこそ、本来であればアドリアンに近づけたくはなかった。

 

 ヤミはルーカスの憮然とした表情に、軽く肩をすくめる。

 

「最近はつとに平和で、なかなかそうした仕事のお呼びもないので、非常に持て余しております。アールリンデンから戻ったときに、ベントソン卿が用意してくださっておればよろしいのですが」

「馬鹿を言え。そうそうお前を必要とするような事件など起こってたまるか」

 

 ルーカスが吐き捨てるように言うと、ヤミは鬱陶しいほどに美しい微笑を返してきた。

 

「それでは黒角馬はお借りします」

 

 抜け目なく言って、去っていく。

 

 ルーカスは軽く舌打ちすると、渋い顔でヤミの後ろ姿を見送った。

 

 ヤミ・トゥリトゥデス。

 表向きは公爵家騎士団の第五隊に所属する弓の名人であるが、同時に公爵直属の諜報組織『鹿の影』の一人でもある。

『鹿の影』の存在は既に知って久しいが、その実体はほとんどわからなかった。公爵はルーカスにさえも、彼らのことは教えなかったからだ。

 だが彼らの去就は、将来におけるアドリアンの地位保全のために黙過できない。先程ヤミも言っていたように、彼らの総意が公爵の地位を約束するものでなくとも、彼らを使役できるかどうかは公爵の器量に関わってくるからだ。

 

 ヤミはようやくルーカスが見つけた『影』の一人だった。

 しかしヤミが『影』の一人とわかっても、ルーカスは当初、彼をアドリアン側に引き入れるべきか悩んだ。それは彼の言う「満足する仕事」に関わる彼自身の嗜好が、ルーカスにはあまり好もしくないものであったからだ。

 

 ヤミのもっとも満足する仕事。それは拷問であった。

 

 美麗なる顔に似合わず ―― いや、あるいはその美しさすらも凄絶なる陰惨さを助長するかのように、ヤミは嬉々として拷問する。ルーカスは役職上、その現場を何度となく見たことがあったが、それこそ怖気の走る光景だった。

 

 そんな加虐趣味の性格異常者を小公爵(アドリアン)の近くに置くのは、正直本意でなかったが、他の『影』の者を知ることができない以上、今はヤツのような者であっても、味方としておく必要がある。

 

「……早まったか」

 

 ルーカスは軽く後悔したが、いずれ後継争いが本格化したときに、彼のような存在が必要であることは痛感していた。それは現公爵のときもそうであったからだ。

 

「結局…眠れそうにないな」

 

 ぶつくさとつぶやきながら、ルーカスは磨き上げられた窓越しに、まだ星のまたたく空を見上げた。

 

 

*1
大公家の居城

*2
帝都郊外の都市の一つ





次回は2023.09.24.更新予定です。


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第百五十二話 澄眼習得(1)

 オヅマは帝都から遠く離れた場所で、ヤミ・トゥリトゥデスが公爵直属の諜報組織の一員だと気付いたものの、だからといって今、なにをするということもなかった。

 わざわざアドリアンに知らせるようなことでもないし、ルーカスに答案用紙よろしく「アンタが引き入れろ、って言ったのは、ヤミが公爵の諜報員だからだろ?」なんてことを手紙で書き送るなんて、馬鹿馬鹿しすぎる。

 

 とりあえずは自分のやるべきことをするだけだ。

 オヅマはヤミについては、また公爵家に戻ってから考えることにして、目下は修行に専念することにした。

 

 浄闇(じょうあん)の月に入って早半月が過ぎ、季節は夏本番を迎えている。

 

 まだ朝の涼しい風が吹く中、ハルカと共に走りに行こうとしたオヅマを、ルミアが呼び止めた。

 

「待ちな。今日は走りはナシだ。オヅマ、お前さんはあの酔っぱらいを起こしてきな。ハルカ、アンタは足輪を外しな」

 

 オヅマもハルカもキョトンとして目を見合わせたが、それぞれ言う通りに動いた。

 ハルカがその場に座りこんで足輪を取っている間に、オヅマは家に戻って、屋根裏部屋へと向かった。隅っこに(しつら)えたハンモックを揺らすと、中でいびきをかいて寝込んでいるエラルドジェイが、ひどく渋い顔で呻くようにつぶやく。

 

「勘弁してくれ……夜通しだったんだぞ……」

 

 オヅマはあきれてため息をついた。

 エラルドジェイはここでオヅマの修行につき合うようになり、時々村のほうにも出向くようになった。余所者(よそもの)にはなかなか心を開かない村人も、ルミアの客人であることを含め、気さくでざっくばらんなエラルドジェイの人柄に、すぐに打ち解けた者が多かったようだ。

 そのせいか、度々村に一軒だけの酒場を訪れては、夜遅くまで飲んでいた。

 

「朝まで飲んでんじゃねー」

 

 オヅマがゲシゲシと下から蹴り上げながら、小言めいて言うと、エラルドジェイはかすれた声で訂正した。

 

「飲んでない…飲む暇なんかあるか」

「なにやってたんだよ、夜通しで」

「そりゃお前…」

 

 言いかけて、エラルドジェイは目をつむったまま、ムフフと気味悪く笑う。

 オヅマは呆れ返った眼差しで、ニヤケ顔のエラルドジェイを見た。

 

「寝たまま笑うな。気味悪い」

 

 冷たくオヅマが言うと、エラルドジェイはパチリと目を開いた。

 ぼんやりとオヅマを見つめて、パチパチ目をしばたかせると、ムクリと体を起こす。

 

「やべぇ、やべぇ。お子様相手にくっちゃべっちまうところだ」

「はぁ? どうでもいいから起きろよ。婆さんが呼んでるんだ」

「あーあ」

 

 エラルドジェイはため息をついてから、ヒョイとハンモックから飛び降りた。うーんと背伸びしながらぼやく。

 

「あー…本当に。カトリどもが来る前にとっとと逃げておきゃよかった」

「よく言うぜ。すっかり馴染んでるくせして」

「そりゃ、どうせ休むんなら満喫しないとな。まぁ、いっても開店休業みたいな状態だったけど」

 

 エラルドジェイの言葉に、オヅマは首をかしげた。

 

「そういや、アンタ。そもそもなんでこんなところに来てたんだ? まさか帝都であいつらに捕まって、わざわざこっちにまで連れてこられたわけじゃないだろ?」

「まーね」

 

 エラルドジェイは否定しなかったものの、それ以上のことは言わなかった。どうやら仕事らしい。こういう口堅さも、相変わらずだ。これ以上は訊いても、教えてくれないだろう。

 オヅマは早々に追及をあきらめ(そもそもそんなに興味もない)、エラルドジェイを促した。

 

「ほら、行くぞ」

 

 外に出ると、ルミアとハルカは並んで立っていた。

 

「おまたせ~」

 

 エラルドジェイが、さっきまでの眠そうな様子とは打って変わって、上機嫌でルミア達に挨拶すると、ジロリとルミアが睨んだ。

 

「…酔っ払ってたわけじゃないようだね。腰は? 傷めてないだろうね?」

「ご覧の通り」

 

 エラルドジェイが澄まして言うと、ルミアはフンと鼻を鳴らしてからオヅマに説明した。

 

「いいだろう。じゃあオヅマ、今からここで、この二人を相手にしてもらうよ。相手といっても、アンタは()けるだけだ。手を出すのは禁止。ハルカには短剣をもたせてある。木でできたものだから大丈夫だろうが、よぉく削ってあるから下手すりゃ怪我するよ。アンタはこれ」

 

 ルミアは自分が持っていた木剣をエラルドジェイに渡した。

 通常の剣と同程度の長さだ。

 エラルドジェイはブンブン振り回してから、微妙に柔らかくしなるその剣に、クスッと笑った。

 

岩柳(レントゥーン)で作った木剣とはねぇ。なかなか扱いづらいものを渡してくるじゃないの」

 

 岩柳(レントゥーン)は、帝都以南でよく見られる枝垂柳と違って、幹が岩のように固い。枝も枝垂柳に比べると太くて固いが、同じようにダラリと垂れ下がっており、吹きすさぶ暴風の中にあってもそうそう折れない。

 細い枝は鞭になり、太い枝は今回のような木剣になったりした。ただ、枝によってしなり具合に差があり、扱いづらいとして、騎士団で練習用に使うことはない。

 

「さて、始め」

 

 朝の挨拶をするぐらいの適当な調子で、ルミアは開始を宣言する。

 

 オヅマが文句を言う間もなく、ハルカが向かってきた。

 高く跳躍して真上から狙ってくる。

 オヅマは瞬時に飛び退(すさ)って、大きく息を吸った。

 呼吸による集中を始める。

 その間にも、足輪を取ったハルカは異様なほどの(はや)さでオヅマを追い詰めてくる。

 

 ハルカばかりに気を取られてもいられない。

 手数はハルカよりも少ないものの、ハルカが一瞬息を整える間を埋めるように、エラルドジェイがオヅマに容赦なく攻撃してくる。

 しなりのある木剣は、ギリギリで避けても、思いもよらぬ角度でオヅマの鼻先をかすめた。

 ピュッと肌を切り裂いて血が飛ぶ。

 

「おいおい、澄眼(ちょうがん)とやらはそんなモンか?」

 

 エラルドジェイが嘲るように言うと、オヅマは冷たく見据えながら、呼吸を深めた。

 二人からの攻撃をかわしながら、どんどん集中を増していく。

 途中から耳鳴りがしてきて、オヅマは少しずつ、自分がある一定の境地に近づきつつあることを自覚した。

 

 ルミアは目の前で繰り広げられる立合いを無表情に見ていた。

 ハルカはもちろん、エラルドジェイもまた職業柄と言うべきか、身軽な上に対人の格闘に(こな)れている。だが、その二人からの攻撃をオヅマはすべて(かわ)していた。

 始めた直後はまだ反射だけで、なんとかかろうじて()けて…といった感じだったが、今は明らかに余裕がある。

 

 ルミアもまた呼吸を深め、集中してオヅマの動きを追った。そうして確信する。

 オヅマが『澄眼(ちょうがん)』を発現していることを。

 おそらくあの薄紫の瞳は、ハルカの俊敏な動きも、エラルドジェイの意表をついた攻撃も、まるで水の中で動いているかのように、ゆっくりと捉えているのだろう。

 

 まったく恐ろしい子どもだ。

 たった二ヶ月そこらで発現まで持っていくとは。

 

 ヴァルナルでさえも、視界の順応や気配の察知といった無意識下での感覚野の拡充に二ヶ月。呼吸法を習得し集中を高め、自らの身体を自在に扱って、稀能(きのう)を覚知するまで四ヶ月。修行を始めて半年で、ようやく『澄眼(ちょうがん)』を発現するに至ったのだ。

 

 ルミアは才能もないのにダラダラと居続けられるのを良しとしなかったので、一応修行の期限を半年と区切っていたのだが、当然ながら中には何としても習得したいと、一年近く居座り続ける者もいた。だがそうした者の多くは、結局、出来ないまま去るしかなかったのだ。

 

 ルミアは軽くため息をつき、目をつむる。

 まったくヴァルナルはとんでもないのを息子にしたもんだ…と、内心で嘆じる。

 

「やめ」

 

 パン、と手を打ってルミアが制止すると、ハルカはピタリと動きを止めた。

 エラルドジェイも振り上げた岩柳(レントゥーン)の木剣を下ろす。

 

 ハルカはいつもの無表情、エラルドジェイも少しばかり笑みを浮かべていたが、軽く息が上がっていた。

 二人共に相当な速さでオヅマを追いこんでいったのに、まるで行動の先の先を読んでいるかのように、オヅマは全ての攻撃を躱していった。しかも二人よりも動きは激しかったであろうに、まったく息切れもしていない。

 

「大丈夫…そうだね」

 

 ルミアはオヅマを見て言った。

 ハルカに近づくと、その手から短剣を取り上げる。それからエラルドジェイには、木剣をオヅマに渡すように言った。

 

「私はこれから森に入る。アンタ、私を見つけて打ちかかってきな」

「それ…」

「三十数えたら、開始だ。ハルカ、頼むよ」

 

 オヅマはルミアの真意に気付き当惑したが、それ以上説明することもなくルミアは森へと入っていく。

 ハルカは声に出すことなく、三十数えてからオヅマの背中をポンと叩いた。

 

 オヅマは頷くと、いつも豆猿(まめざる)たちに固い実を投げつけられていた森に入った。

 今は豆猿たちはいない。出産のシーズンとなり、生まれた子どもの世話があるので数も少なくなっていたし、そもそもルミアから餌の合図がない限りは、(ねぐら)に籠もって、こちらにまでやって来ないのだ。

 

 オヅマは森の半ばまで歩いてくると、切り株の横に少し開けた場所を見つけた。

 ストンと片膝をつき、ハアァーと長く息を吐く。

 

 ルミアの意図するところは明らかだ。

 オヅマに『千の目』を見せてみろと言っているのだ。

 確かに、今のこの昂揚…尋常でないほど鋭敏になっている感覚であれば、発現はおそらく可能だろう。 

 

 木剣を左手に持ち、右手は膝の上に置いて、その上に額を乗せる。

 スゥゥと息を細く柔らかく吸い込んで、一度軽く止める。それからゆっくりと、徐々に、口からだけでなく、全身から吐き出していった。

 首の後ろ辺りがチリチリして、鋭敏な神経が伸びていく感覚がする。

 

 うっすらと開いた目は、曇っていった。

 眩しい木漏れ日が揺らめいて、消える。

 虫の音も、どんどん遠くなる。

 漆黒の、まるで次元の違う空間に置かれたような孤独感。

 

 そこにビリッとした不快な違和感が生じるや否や、オヅマは動いていた。

 

 木々の間を音もなく抜ける。

 人間の気配に敏い動物ですらも、オヅマの通ったことに気付いていないようだった。一瞬、何かが過ぎていったことだけを感じて鈍く見たものの、既にそのときにはオヅマの影すらもない。

 

「ハアッ!」

 

 鋭い気合と共に、ガッ! と、ルミアは寸前でオヅマの木剣を短剣で受け止めた。

 オヅマは見開いた目の先に、額から汗を一筋垂らしたルミアの姿を見つけた。

 

「…見事」

 

 ルミアがしわがれた声で言ってニヤリと笑う。オヅマはホッとすると同時に、木剣を離し、その場に座り込んだ。

 

「なに…させて……くれてんだ…よ」

 

 一気に汗が噴き出す。

 先程までの静かな呼吸が嘘のように、荒い息遣いだった。

 

 ルミアは肩をすくめて笑った。

 

「なんだい? 私を殺すかもしれないとでも思ったかね?」

「……まさか、木剣にやられるようなことはねぇと思ったけど……」

 

 オヅマは答えながらも、実のところ心配ではあった。

 自分でもこの技を使うとき、どこまで制御できるのか、わからないのだ。

 

 そう考えると、あの埠頭倉庫でよくもエラルドジェイを殺さなかったものだ。

 あのとき、確実にオヅマは目の前の()である、エラルドジェイを殺すつもりだった。殺さずに済んだのは、おそらくオヅマがまだ未熟であったことに加え、エラルドジェイの驚異的な身体能力がそうさせなかったのだろう。

 

「おぉ~、(ババ)様さ~すがぁ~」

 

 当の本人は呑気に歩いてきて、パンパンとわざとらしい拍手なんぞする。

 

「いきなりオヅマが消えたから、まさかと思ったけど、さすがは稀能(キノウ)の戦士。『師匠(マスター)』と呼ばれるだけはあるねぇ~」

「ふん。おちょくるんじゃないよ。ちょうどいい。アンタ、坊やを運んどくれ」

「え?」

「…大丈夫だよ」

 

 オヅマは息を切らしながら言って、無理に立ち上がったが、ぐらりと視界が回った。平衡感覚がなくなっているのか、二三歩よろけて、ドサリと地面に突っ伏して倒れる。

 

「あ~あ~」

 

 エラルドジェイがあきれた声を上げる。

 

稀能(キノウ)の副作用だ。ま、体はまだこれから鍛えていく必要があるだろうね」

 

 ルミアの声が遠ざかっていく。

 

 キィィィンと高い耳障りな音が頭の中で響いていた。

 オヅマは顔を歪めながら立ち上がろうとするものの、視界が暗く、眩暈もひどくて、どうやって立てばいいのかわからない。

 

 急にふいと体が浮いて、間近にエラルドジェイの声がした。

 

「ったく…無茶するもんじゃねーぜ。ただのガキのくせして」

「……誰…が…ガキ…だ……」

 

 切れ切れにオヅマがつぶやくと、エラルドジェイはからかい半分に言ってくる。

 

「無理して背伸びするもんなんだよ、ガキは。無茶するのがカッコイイと思ってやがるんだよな、ガキなだけに」

「……うる…せ…ぇ」

 

 文句を言いながらも、オヅマは心の中で笑っていた。

 

 エラルドジェイはきっと、オヅマの奇妙さに気付いている。

 まるで昔、会ったことがあるかのように話すことも含め、オヅマが時折見せる子供とは思えぬ酷薄な表情も、おそらく今、ルミアとの立合いを見て、埠頭倉庫で襲ってきたオヅマが、稀能(キノウ)を使っていた事にも気付いたろう。

 

 それでも『ただのガキ』と言ってくれたことに安堵する。

 きっとこのまま何も言わなくても、エラルドジェイがしつこく尋ねたりすることはない。

 

 いつでもエラルドジェイは、オヅマをありのまま受け止めてくれた。

 きっと、ずっと、そうなんだろう…。

 





引き続き更新します。


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第百五十三話 澄眼習得(2)

 立て続けに二つの稀能(キノウ)を発現したせいなのか、オヅマはルミアとの立合いのあと、三日間寝込んでしまった。ほんの数時間ではあったが視力が喪失し、耳鳴りと眩暈が続いていたので、歩くのも難しかったのだ。

 

「稀能って、けっこう不便なんだな」

 

 エラルドジェイは村で仲良くなったという、農家の娘からもらった紅柑子(べにこうじ)の皮を剥きながら言う。酸っぱい匂いがして、オヅマは湧き出た唾を飲み込んだ。

 

「……ちゃんと体を鍛えたら、大丈夫になるさ」

 

 ムッスリと言って、少し沈んだ顔になる。

 ヴァルナルにも以前から言われていたことだが、やはり稀能という常人には及ばぬ逸脱した能力を使うことは、相当な負担が生じるのだ。身体が十分に成長しないまま無理に使えば、おそらく副作用でどんどん体が弱ってしまうだろう。

 

「ま、せっかく早くに発現するに至ったんだ。あとはゆっくり体になじませることだね」

 

 ルミアが言うと、エラルドジェイが聞き返した。

 

「なじませる?」

「あぁ。稀能ってのは、技を覚えてハイ終わり、ってなモンじゃないんだよ。その技を自分の体に馴染ませていくことで、より精度を増すこともできるし、まったく別のモンに仕立てていくこともできる。『澄眼(ちょうがん)』を極めた者の中には、人を見て、具合の悪いところを判別できる人もいたそうだよ」

「ほぇー。医者じゃん、それ。(ばば)様もできるの?」

「残念ながら、いまだに修養が足りないようでね。わかりやすく、もうあと数ヶ月ほどで死ぬような病の人間はわかるが、まぁ、そんなのは普通の人間であっても、気付きそうなもんだしね」

 

 オヅマは二人の話を聞きながら、浮かび上がる人物の姿に眉を寄せた。

 ドク、ドク、と心臓が大きく鼓動を響かせる。また、頭痛がしてきて額を押さえると、エラルドジェイが口に紅柑子(べにこうじ)の実を一切れ、グイと押し込んできた。

 

「なーに、難しい顔してんだよ」

 

 オヅマはもぐもぐと実を食べてから、軽く一息ついて、ルミアに尋ねた。

 

「それって、例えばモノの一番弱い部分とかを見抜いたりするやつなんかもある?」

 

 ルミアは目をしばたかせ、問い返す。

 

「モノの一番弱い部分…? 急所ってことかい?」

「うん、そう。そんなやつだ。例えば橋とかでも、()()って場所を一撃するだけで、木っ端微塵になっちまうような…」

「えらく具体的だね。そうさね…それはつまり…」

 

 ルミアは立ち上がると、古びた箪笥の抽斗から棒を数本取り出した。棒にはそれぞれ赤や黄の色が塗られている。それはオヅマには馴染みある棒亜鈴(アレイ)だった。

 

 ルミアは黒の色が塗られた棒亜鈴をエラルドジェイに差し出すと「これ、曲げてみな」と、ニヤリと笑う。

 エラルドジェイはヒラヒラ手を振った。

 

「冗談でしょ、婆様」

 

 棒亜鈴は鉄でできたものだが、当然ながら重さに従って重く、分厚くなっていく。黒はもっとも重いので、よほどの怪力の大男が青筋たてて、ようやくほんの少し歪む程度だろう。それに長さも騎士団にあったものに比べると短く、中途半端な長さで、両手で曲げるように持つこと自体難しい。

 

 しかしルミアは無理にエラルドジェイに棒を持たせた。エラルドジェイは肩をすくめ、とりあえず棒の両端を持って曲げようとしたが、やはりうまく力を乗せることができずに、早々にあきらめた。

 

「無理、無理。ハイ、婆様の番」

 

 エラルドジェイがルミアに棒を差し出すと、ルミアはそのまま持っておくように言った。

 

「もうちょっと下の方、もっと下だよ。うん、そこらあたりだ」

 

 ルミアはわりと細かくエラルドジェイに持つ位置を指示すると、大きく深呼吸する。それからスゥッと目を細くして、息をしているのかわからないほど静かに、長く、息を吐いていく。

 無表情な顔に微かな笑みが浮かぶと同時に、ルミアは棒の一点に親指を押し当て、残りの指で棒を掴んで、そのまま親指でグイと棒を曲げた。

 

「うげー…」

 

 エラルドジェイは感嘆しつつも、少し気味悪そうに声を上げた。

 オヅマはその折れ曲がった黒の棒を見て、眉を寄せた。チラとルミアを見ると、少し得意げに笑っている。その顔は、やはりあの女に似ていた。親子なのだから、当たり前だが。

 

「こういうことかい?」

「……あぁ」

 

 オヅマはどこか気落ちした様子で頷いた。

 エラルドジェイは妙に沈んでしまった空気を壊すように、オヅマの肩をやや強めに叩いた。

 

「なーんだよ。言い出しっぺが、しょぼくれた顔しやがって。せっかくなんだから、お前もやってみたら?」

 

 能天気に言うエラルドジェイに、ルミアは大声で怒鳴りつけた。

 

「馬ァ鹿! この子は今、稀能の副作用で休んでいるんだよ。こんな状態で無理したら、また寝込んじまうだろ」

「あぁ、そういやそうだった。じゃ、やり方でも訊いておけば?」

 

 軽い調子でエラルドジェイに言われ、オヅマはしばらく考えてから、再びルミアに質問する。

 

「それって、一体、どう見えてるんだ?」

「どう見えて…? ふ…む、難しいことを言う」

 

 ルミアはポリポリと、額を中指で掻きながら考える。

 

「どう見える…というより、そこしか目に入らなくなるからね」

「なんだそりゃ」

 

 エラルドジェイは首を傾げたが、オヅマにはなんとなくわかるような気がした。

『千の目』によって対象を捕捉するときもそうだ。

 まるで世界がギュッと(せば)まったかのように、相手と自分しかその場にはいない。間違えようもなく、ただそこに存在することだけを知覚する。――――  

 

 考え込むオヅマのかたわらで、エラルドジェイとルミアが話を続けていた。

 

「あー、やっぱ稀能ってヤベェのな。周りが見えてないなんて、怖い怖い」

「そんなことをお云いだが、お前さんも()()()()()()()()()ことがあるんじゃないのかい? お前さんほどの手練(てだれ)であれば、確実に自分が異能に近いものを発現しているのを感じたことはあるはずだよ」

「さぁ? どうだかね~」

「まったく、この食わせ者が。お前さんの身体能力がありゃ、稀能の技も一つどころか二つ三つとつかえそうなものだってのに」

「勘弁だよ~。キョーミないし~」

 

 面倒そうに言って、エラルドジェイは残っていた紅柑子の実をパクリと食べる。

 オヅマはジッとエラルドジェイを見つめて、問いかけた。

 

「稀能をつかっていたら、廃人になると思ってんのか?」

 

 エラルドジェイは驚いたようにオヅマを見てから、フッと笑った。親指で小鼻を軽く掻く。

 

「俺のことを、よぉくおわかりだねぇ? オヅマくん」

 

 皮肉げにエラルドジェイが言う。

 オヅマはハッとなり、目を伏せた。

 

 親指で小鼻を掻くのは、エラルドジェイの機嫌が良くないとき ――― 有り体に言うと、怒っているときだ。おそらくオヅマがまた、エラルドジェイ本人か、親しい人間しか知り得ないことを言ったからだろう。

 無理に尋ねてくることはないが、さすがに自分の内心までも読み取ったかのように指摘されると、不気味にも思えるだろうし、嫌悪もしてしまうのかもしれない。

 オヅマは言い淀んで、また沈黙した。

 

「じゃ、俺、カイルの散歩にでも行ってくるわ」

 

 エラルドジェイは立ち上がると、カラリと言って出て行く。

 

 オヅマがアールリンデンから乗ってきた黒角馬(くろつのうま)のカイルは、こちらでの修行の間、最低一日一回はオヅマが運動がてら乗って、周辺を散策していた。

 オヅマが寝込んでいる間は、エラルドジェイが代わりに遠乗りなどに行ってくれていたらしい。どうやって乗りこなしたのかと訊けば、エラルドジェイはそれこそ()で見たように、オヅマに黒角馬の耳と(つの)の間の()()について話したあとに、ふと思い出したのか、笑って言った。

 

「…っつーか、なんでお前に教えてるんだよ、俺は。お前、あの馬の本場にいたんだから、知ってんだろ」

 

 オヅマは返事に詰まった。

 本来であれば、黒角馬(あれ)はエラルドジェイが発見したのだ。

 エラルドジェイが商人に教えてやり、そこから皇家に直接納められ、軍馬としての研究が進められた。だが、その当時珍しかった純血種の黒角馬は気性が荒く、多くの者は乗りこなすのに難渋した。オヅマもその一人で、たまたま黒角馬の話題が出たときに、エラルドジェイが発見者の強みで内緒にしていたことを、教えてくれたのだ。

 

 ベッドの上で、オヅマは意気消沈した。

 あれは()でしかないのだと言い聞かせても、どうしてもエラルドジェイに対する申し訳なさがつのる。

 ルミアは珍しく悄然としたオヅマを見つめ、軽くため息をついた。

 

稀能(キノウ)を使いすぎて廃人…か。いまだにそんなことを考えるヤツもいたんだね」

「廃人までいかなくても、あんまり無理したら、体を壊すって聞いたことあるけど…?」

 

 オヅマが言うと、ルミアは大きく頷いて、オヅマの額をコツリと指で突いた。

 

「あぁ、そうさ。今のお前さんみたいにね。しかし廃人にまで()()()ようなのは、さすがにもう、この時代にゃいないだろうよ」

 

 オヅマはルミアの奇妙な言い回しに眉を寄せた。

 

「廃人に『なれる』?」

「ああ」

 

 ルミアは頷くと、箱から煙草を取り出した。カチカチと火打金を鳴らし、火がつくとすぐさま煙管に詰めてふかしはじめる。

 

「お前さんもわかってるだろう? 稀能を発現するには、常人を超えた集中が必要だ。この集中によって、いったい何が起きているのやらわからないことは多いが、私が感じるのは一種の特殊な空間と繋がっているような感覚だ」

「特殊な…空間?」

「そう。そこでは、この世の(ことわり)が一切通じなくなるというか…空間がねじ曲がるというか…時間も何もない…なにせ、この世とは別の、何かしらの()()の中に入っていくような感覚がある。お前さんはないかい?」

「………わからない。集中したときには、もう何も考えないから」

 

 ルミアはフッと笑うと、オヅマの肩を叩いた。

 

「確かにお前さんは気をつけたほうがいいかもしれないね。集中が過ぎて、もし後戻りできそうもない領域にまで()()()()()()ら、それこそ廃人になっちまうのかもしれないよ」

 

 オヅマは自分が稀能を発現するときの感覚を思い出そうとしたが、急に怖くなってやめた。ブルブルッと頭を振って、話を変える。

 

「さっき、この時代にはいないって言ってたけど…昔はいたのか?」

「そうさね。それこそ神聖帝国の時代まで遡れば、いたかもしれない。あの時代のことはほとんど文献にもないから、想像の域でしかないがね。案外とお伽噺(とぎばなし)で語られているようなことが、実際にあったのかもねぇ…」

 

 ルミアは言いながら、遠くを見てフーッと煙を吐く。自分でも半信半疑といった感じだ。

 

「お伽噺? それって、体が鉄でできた巨人とか、空を飛ぶ魔女とか?」

「そう。私の知り合いに『(くろがね)の腕』っていう稀能を持っている奴がいてね。これも集中によって、一時的に腕とか足を鉄みたいに硬くさせるものさ。あるいはそれが全身ともなれば、鎧なんぞ着なくとも済む。まぁ、そんな奴ぁ見たことがないが」

「『鐡の腕』…そんなのもあるんだ」

 

 オヅマが興味深そうにつぶやくと、ルミアはグイとオヅマの頬をつねった。

 

「次から次に手を出すもんじゃないよ、まったく。いいかい。お前さんは確かに稀能と相性がいいんだろう。あの()()はそうおいそれと、誰もが真似できるもんじゃないよ。だが、嵌まることのないようにしな。廃人とまでいかなくとも、集中が深いせいで、体に影響が出やすい。成長期のせいか、制御もしにくいんだろう。前にも血を吐いたらしいじゃないか。そこまでなるなんて、よっぽどだよ」

「そうなのか?」

 

 オヅマは意外な気がした。

 それこそ()での修練を思い出すと、血を吐くなど珍しいことでもなかった。終わって一人ベッドに横たわっても、吐き気と眩暈と頭痛で、一睡もできない日もあった。いっそ血を吐いて気絶した方がマシだと思えたくらいだ。

 

 ルミアは腕を組むと、戒めるように言った。

 

「おそらくお前さんが『千の目』を発現できちまうのも、あの集中力のせいだろうよ。今回は無理させちまったが、もうしばらくは使わないようにしな。今のお前さんじゃ、まだまだ早い」

「要は、しっかり体を作れ…ってことだな」

 

 オヅマは軽く嘆息した。

 結局、最初にヴァルナルに稀能を教えてほしいと頼んだときから、状況はそう変わってないというわけだ。

 

「だったら、もっと年とってから来れば良かった」

 

 オヅマがつぶやくと、ルミアも頷いた。

 

「まったくだよ。ベントソンの長男坊もなんだって、こんな早くに来させたんだか」

「え? 今が一番いい時期なんじゃないの? 成長期に修練した方が、伸びるから…って」

 

 前にルーカスが言っていたことと矛盾するルミアの言葉に、オヅマは困惑した。

 最後の一吸いをして、灰を捨てながら、ルミアは当然のように話す。

 

「まぁ…確かに伸びるのは伸びるが、反面、制御がしにくいってのは、さっきも言ったろ? 諸刃の剣なんだよ。早くに習得して反復して練習に励めば、若くして熟練した遣い手になるっていう良さもあるが…私ゃ、あんまり勧めないね。いっても二年や三年のことだ。男は十から十二歳あたりで最初の成長期があって、それが一旦止まったあとに、十五、六くらいから、またズゥンと大きくなる。その時でもいいんだよ。実際、ヴァルナルはそうだったろう?」

「えぇ? じゃあ…」

 

 オヅマは考え込んだ。

 この時期にルーカスがオヅマを遠ざける目的で、ここに来させたのであれば、つまりオヅマを帝都に行かせたくなかったということになる。オヅマも元々行きたくもなかったので、願ったり叶ったりではあるが、なにかしら隠された意図があるのだろうか…?

 

 しかしオヅマが考えるのを遮るように、ルミアがパンパンと手を打った。

 

「あぁ、また考え込んじまって! さぁさ、寝た寝た。治ったら、シュテルムドルソンに行ってもらうつもりなんだから」

「シュテルムドルソン?」

 

 鸚鵡返しに問いかける。

 そこはズァーデンの高地を下って、東南にある小さな町だ。ズァーデンはグレヴィリウス公爵家の直轄領だが、シュテルムドルソンは確か配下の貴族家の領地であった。

 どこの家だったか…と、それこそ所領配置の地図を思い浮かべていると、フワフワと心地よい睡魔が訪れる。ちょうどよい眠りへの呼び水となったようだ。

 なぜか小言をいうマティアスの顔が浮かんだが、オヅマは完全に無視して目を閉じた。

 





次回は2023.10.01.更新予定です。


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第百五十四話 受け取られなかった笛

 ルミアは特に修行が終わったとは告げなかった。 

 体調が戻ると、荷物を纏めるように言われ、それでなんとなく、ここでの生活は終わりなのだと思った。

 

「シュテルムドルソンに着いたら、モンスの鍛冶屋に行きな。町に入って、モンスと言えば誰でも知ってるだろうよ」

 

 オヅマは頷いて、カイルに荷物を乗せる。オヅマ一人であれば乗って行くつもりであったが、エラルドジェイも同行するので、歩いて行くことにしたのだ。

 どうせ早くにアールリンデンに戻ったところで、アドリアンもいないので、やる事は残された騎士団の連中と一緒に訓練するくらいであろうし、それにやたらと早くに帰って、帝都に来いなどと言われるのも避けたかった。(もっともオヅマをここに来させたルーカスの意図からすると、その命令が下る可能性は低かったが)

 

 エラルドジェイはアールリンデンの知り合いを訪ねるらしい。オヅマはその知り合いが誰なのかも知っていたが、また()()()()()()()を言った…と、エラルドジェイの気分をざわめかせたくはなかったので、言うことは控えた。

 そんなエラルドジェイもまた急ぎの用はないので、オヅマと一緒にのんびり旅することにしたようだ。

 

 いざ出発となって、オヅマはルミアと並んで立っているハルカを見つめた。数ヶ月一緒に過ごしたものの、ハルカはやはり無表情にオヅマを見送るだけだ。普通であれば素っ気ないを通り越して、冷たいぐらいに思えたろうが、そういうわけではないことをオヅマはもう知っていた。

 

 ここにいる間も、オヅマは()を見た。

 

 ()の中に何度も出てきたハルカは、オヅマにとって最も信頼のおける部下だった。彼女がオヅマを裏切ったことは一度もない。たとえ命令が無理難題、非情非道なものであっても、ハルカはいつもオヅマの為に尽くしてくれた。――― 最期のときまで。

 

 オヅマは背嚢の中に突っ込んであった、若草色の細長い包みをハルカに差し出した。

 

「これ、やるよ」

 

 ハルカはじっとその包みを見てから、顔を上げて短く問うた。

 

「笛?」

「あぁ」

 

 オヅマが頷くと、ハルカはまた包みをじっと見てから、ブンブンと頭を振った。

 

「なんで? 笛、気に入ってたろ?」

 

 ここにいる間、ハルカの無言のおねだりにほだされて、何度か吹いてやった。きっと欲しがるだろうと思ったが、ハルカはグイとオヅマに笛を押し返した。

 

「ダメ。お母さんの笛、大事」

 

 いつも無表情なハルカが、少しだけ怒ったように言うのに、オヅマは胸を衝かれた。

 黙り込んだオヅマの肩を、エラルドジェイが軽く叩きながら笑った。

 

「ハハッ! ハルカちゃんは吹きたいんじゃなくて、お前が吹いてるのを聴くのが好きなんだよな?」

 

 エラルドジェイに問いかけられて、ハルカはコクコクと頷いた。

 

「だとよ。だから笛をやるんじゃなくて、今度また聴かせてやれよ」

「今度って…?」

「いつか、でいいんだよ。いつか、また、だ」

 

 エラルドジェイが軽く言う。何気ない言葉に、オヅマは暗い顔でうつむいた。

 

 いつか、また…会えるのだろうか?

 会っていいのだろうか? 

 

 ()で喪われた彼らに会えたとき、オヅマは心底嬉しかった。だが、今は少し怖い。妙な焦燥感がつのる。この先も自分は彼らに関わっていいのだろうか…?

 

「おい!」

 

 エラルドジェイに強く背中を叩かれて、オヅマはハッとなった。軽くため息をついて、笛を再び背嚢に戻す。

 正直、この笛を母が大事にしていたということに苛立つが、笛自体に罪はない。それに結局、母にとってこの笛は不要になったのだ。つまり、それだけヴァルナルを信頼しているというあらわれだろう。ずっとずっと大切にしてきたこの笛を手放してもいいくらいに…。

 

「じゃ、行くか」

 

 エラルドジェイに言われて、オヅマは頷き、ルミアとハルカ、二人に頭を下げた。

 

「…お世話になりました」

「修行はまだ続くと思いな。あとはお前さん次第だ」

 

 ルミアは最後まで厳しく釘を刺す。オヅマは「はい」と、ルミアのセピアの瞳から目を逸らさず、しっかりと返事した。

 ハルカは手を振ることもなく、やはりどんよりとオヅマを見上げる。オヅマが手を出すと、じっとその手を見て首を傾げた。

 

「握手だ。俺と反対側にある手を出すんだ」

 

 言われた通りにハルカが手を出すと、オヅマはギュッと握った。オヅマが手を離して「じゃあな」と言うと同時に、ハルカが唐突に尋ねてきた。

 

「どうして手を握ってくれるの?」

 

 ルミアはギョッとし、エラルドジェイも驚いたようにハルカを見つめる。オヅマもびっくりして黙っていると、ハルカは続けざまに問いかけてくる。

 

「汚くないの? 気持ち悪いって…どっか行けって、蹴らないの? どうして?」

 

 ハルカはオヅマが来たときから不思議でならなかった。

 どうしてこの男の子は会ったばかりの自分を、汚いと言わないのだろうか?

 多くの人間は ―― 大人でも子供でも ―― 自分を見ると、汚いと言って追い払った。じっと見つめると、見るなと石を投げられた。それなのに、オヅマは会ったその日には、ハルカの手を握ってくれたのだ。

 

「……ハルカ…」

 

 ルミアが苦々しくつぶやく。

 オヅマは腰をおとすと、ハルカと同じ目線になって言った。

 

「ハルカ、お前はいい奴だ。汚くなんかないし、気持ち悪くなんかない。今度、そんなことを言ってくるやつがいたら、ブン殴っていい」

「…おいおい」

 

 途中でエラルドジェイがたしなめるのを、オヅマは無視して続けた。

 

「お前はルミアと一緒。俺の師匠だ。感謝してる」

「ジェイも?」

 

 ハルカに言われて、オヅマはあわてて付け加えた。

 

「あぁ、そうそう。そうだった」

「そうだった…ってなんだよ。あんなに一生懸命相手してやったってのにさー」

 

 エラルドジェイがプーッと膨れてみせると、ハルカはうっすらと笑った。オヅマは最初の日に思わず笑ったハルカの笑顔を思い出した。そう。こうやって少しずつでも笑ってくれればいい。

 

 ()の中のオヅマは、ハルカの笑顔をほとんど見たことがなかったが、マリーが言っていた。

 

 

 ――――― ハルカちゃん、笑ったらとっても可愛いんだから!

 

 

「俺、妹がいるんだ。マリーっていう。いつかハルカにも会わせてやるよ。……きっと、仲良くなるだろうから…」

 

 ハルカは不思議そうに聞いていたが、コクリと頷いた。

 オヅマは立ち上がって、ハルカの頭を軽く撫でてやった。

 

「じゃあ…」

 

 踵を返し数歩進むと、森の中からビュン、と真っ赤な実が飛んできた。難なく掴み取って、森の方へと目を向ける。木々の間から豆猿(まめざる)たちが見ていた。そういえば、この豆猿たちもまた、オヅマにとって師匠なのだった。

 

「ありがとな!」

 

 飛んできた実を持って手を振ると、豆猿たちはヒューイヒューイ、と機嫌のいい鳴き声を響かせた。

 

「ったく、ここの豆猿どもときたら、妙に頭がいいぜ。(ばば)様、奴らと話せるんじゃないのか?」

 

 エラルドジェイが肩をすくめて言う。

 

「そうかもな…」

 

 オヅマは笑って、豆猿が投げてきた実を齧った。それは熟したロンタの実で、ちょうど甘さと酸っぱさの入り混じった果肉が柔らかかった。この状態は一日と持たないので、今朝、獲ってきてくれたのだろう。

 

「……よかった」

 

 オヅマはつぶやいた。

 ()の中では、オヅマは何十頭もの豆猿を殺した。豆猿たちの断末魔の悲鳴は赤子の泣き声そっくりで、修行が終わってベッドに潜り込んでも、いつまでも耳奥で響いた。

 

 今回の修行では、殺さずに済んだ。誰も、何も、傷つけずに終えられた。それがオヅマにとっては一番の収穫だった。

 

 

***

 

 

「どしたい? 随分と悄気(しょげ)てるな?」

 

 ルミアの家を出発し、仲良くなった一部の村人にも挨拶して、ズァーデン村を後にしたオヅマは、しばらく無言で歩いていた。草笛を吹いていたエラルドジェイが飽きたのか、声をかけてくる。

 

「ハルカちゃんに笛突き返されて、しょぼくれてんのか?」

「違う…」

 

 オヅマはすぐに否定してから、ハルカの言った一言がずっと気になっていることに気付いた。

 

 ―――― お母さんの笛、大事…

 

『お母さん』。

 

 ハルカにとって、母はリヴァ=デルゼだ。

 たとえあんな女であったとしても、やはり()()として、慕わしい存在なのだろうか…?

 

「お前、今はアールリンデンにいるんだろ? だったら、そう離れたところでもないし、この馬ならさっとひとっ走りして、いつでも会いに行けるだろ」

 

 エラルドジェイには、オヅマが寂しがっているように思えたらしい。

「違うよ」と、オヅマは首を振った。

 

「ちょっと…ハルカの母親のことを考えてたんだ」

「ハルカちゃんの母親? あぁ…」

 

 聞き返して、エラルドジェイは眉を(ひそ)めた。何かしら訳知った様子に、オヅマは胸がざわめいた。

 

「なんだ? ハルカの母親のこと、知ってるのか?」

「知ってる、っつーか…まぁ、ハルカちゃんから聞いただけなんだけどさ」

「ハルカが何て言ってたんだ?」

「うーん」

 

 エラルドジェイは腕を組み、しばらく思案していた。チラ、とオヅマの顔を見て尋ねてくる。

 

「お前、聞いたことないの?」

 

 オヅマは苦い顔になり、首を振った。

 気になってはいたものの、リヴァ=デルゼのことを思い出すのも嫌で、初日に母親の名前を聞いて以来、話題にすることを避けていたのだ。

 

 エラルドジェイは一息ついてから、「ま、いっか」と話し出した。

 

「ハルカちゃん、もっと小さい頃はお父さんと暮らしてたらしいんだよな。それがある日突然、母親がやって来て 、金貨の入った袋をドンと置いて、ハルカちゃんを連れて行ったんだ。それからしばらくは母親と一緒に暮らしてたみたいだけど、今度はお父さんが現れて…」

 

 父親は『金は返すから、ハルカを返してくれ』と、リヴァ=デルゼに懇願したらしい。二人は口論となり、父親は途中でハルカを廊下に出した。ハルカが待っていると、ドンと音がして、やがてドアから出てきたのは母親だった。

 

「……ハルカちゃんはそれからすぐに(ばば)様の家に連れて行かれて、父親とはその時を最後に会ってないらしい」

 

 話を聞きながら、オヅマの顔から徐々に血の気が引いていった。オヅマの知っているリヴァ=デルゼであれば、言い争いをして平和的に解決することなど有り得ない。その父親という男に殴りかかるぐらいはしていそうだし、なんであればひと思いに殺していてもおかしくない。

 おそらくその想像はエラルドジェイもしたのだろう。黙り込んでいるオヅマの隣で、遠い目をして言った。

 

「デルゼってさ、元々は女系一族なんだよな」

「女系一族?」

「あぁ。今はそうでもなくなってきたみたいだけど…本来、結婚もしないし、夫を持たない。しかも生まれた子が男だったら、里子に出すんだ。女だけがデルゼの姓を継ぐ。だからハルカちゃんが父親に育てられたって聞いたとき、意外だったんだ。でも、もしかしたら、自分で立って歩けるようになるまで、父親に()()()()()()()のかもな」

 

 オヅマの顔が歪んだ。ギリ、と唇を噛み締める。

 

 ()と同じであるなら、エラルドジェイの憶測は当たっている。

 リヴァ=デルゼはおよそ母性というものを持たぬ人間だった。子供はもちろん、生まれたばかりの赤子であろうが、産み月を迎えた妊婦であろうが、必要とあらば一切容赦なく斬って捨てた。

 

 ハルカのことも、泣くばかりで何もできない赤子の世話が面倒で、父親に育児を押し付けたのだろう。今だって、結局はルミアに預けっぱなしだ。要はハルカの世話係を父親から自分の母親に変えただけのことだ。

 

 ―――― あの子の父親は(あい)の民だ…

 

 ルミアが言っていたのを思い出す。 

 

 オヅマはレーゲンブルトの春祭りにやって来た行商や旅芸人の中に、何度か彼らの姿を見かけたことがあった。卑賎の身分とされ、虐げられることが多かったせいで、人目につかぬようにと、誰もが俯いて黙々と作業していたが、赤子を負うた母親も、幼い息子に草笛を作ってやる父親も、家族に対してだけはニコニコと笑いかけ、愛情深いように見えた。

 

 もしかすると、ハルカの父親は自ら育てると申し出たのかもしれない。そしてあの女は歩けるようになるまでであれば、誰が世話しても同じだと思って、これ幸いと押し付けた…。

 

 考えている間に、それが間違いないと、オヅマは()()()()しまった。()でそれこそ、リヴァ=デルゼが言っていたのを思い出したからだ。

 

 

 ―――― 自分が育てると言い張るから、一旦くれてやった……

 ―――― 穢の民(あいつら)と一緒に暮せば、よく言うことをきく、従順な子供(ガキ)になるだろう……

 ―――― よく出来た娘さ……

 

 

 リヴァ=デルゼにとってハルカは駒だ。

 自分にとって従順で、文句を言うこともない、優秀な……。

 

「そんなに心配なら、いずれお前が引き取ってやりゃいいんじゃねぇの?」

 

 エラルドジェイが軽い調子で言ってきて、オヅマは顔を強張らせた。

 

 

 ―――― まったく可哀想に。お前にいいように使われてるじゃないか……

 

 

 同じような調子で、だが少しだけ叱責を含んで、()の中のエラルドジェイは言っていた。

 

 オヅマにリヴァ=デルゼを悪く言う資格などあるだろうか。

 ()で、ハルカを使い勝手のいい駒として使役していたのは、オヅマも同じだった。いや、何であれば最後まで、ハルカはオヅマの駒として利用された挙句…

 

「おい!」

 

 気がつくとエラルドジェイがオヅマの肩を強く掴んでいた。

 ハッと我に返って、オヅマは息が乱れていることに気付いた。大きく深呼吸し、吐き出す息とともに、不意に思い出した()の中の人影を追い払う。

 

「真剣になるなよ。俺は、ただの思いつきでくっちゃべってるだけなんだから」

「あぁ…わかってる」

 

 オヅマは無理に笑顔を浮かべた。

 

 そうだ。今は()とは違う。

 ()()()に行っても、オヅマと出会うことがなければ、ハルカが悲惨な結末を迎えることはないかもしれない。むしろ自分といれば、きっとオヅマはハルカを頼ってしまうだろう。騎士として、ハルカは誰よりも有能で、信頼のおける部下だったのだから。

 

 それでも、いずれ迎えにくるリヴァ=デルゼにハルカをみすみすやるのは、気が進まない。あの女が娘に対し、虐待まがいの指導をすることも、都合のいいように使役するのも目に見えている。

 

 オヅマはもう一度、深呼吸し、青く晴れ渡った空を見上げた。

 暗澹とした気分と相反した澄んだ空。渡っていく(とび)がピィィと鋭く鳴いている。

 オヅマはため息をつくと、再び歩き始めた。

 





次回は2023.10.08.更新予定です。


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断章 - ハルカの忠誠 - Ⅰ

 ()の中で見た一番最初の記憶にあるハルカは、おそらく十一、二歳であったろう。オヅマは成人して大公家の騎士となっており、ハルカは少女という年齢であっても、既に幼さは失われていた。

 

 初めて会ったときのことは覚えていない。

 リヴァ=デルゼが娘だと紹介していたが、それはオヅマにではなく、主君に対してであって、自分には関係ないと思い、見てもいなかった。

 だからオヅマにとって、ハルカとの最初の出会いは深夜の井戸端だ。

 

「…うっ……くっ…」

 

 切れ切れに聞こえてくるのは、痛みをこらえている声。そうとわかったのは、オヅマにも覚えがあるからだった。

 

 梟の鳴き声すら途絶えた深夜。

『主城』と呼ばれる中心部の棟から離れたところにある西の館。

 もはや誰も訪れることなく、廃墟となって久しい。

 昔は季節の花々に彩られた美しい庭も、今は雑草に覆われ乱立する木々の枝葉が鬱蒼となって、不気味な様相を呈している。

 その一角にある井戸の側で蹲っている人影に、オヅマは眉を寄せた。

 

「なにをしている?」

 

 低く声をかけると、人影はビクリと立ち上がり、すぐにそこから飛び退(すさ)った。

 

 その身のこなし、重たい剣を震えることなく構える姿に、オヅマは内心で舌を巻いた。

 大したものだ。こんな時間であれば誰も来ることなどないだろう…と、おそらく気を抜いていたであろうに、瞬時に危険を察知して無駄のない動き。しかも今、こうして向き合っていて、隙がない。

 

 ただ、オヅマは少しだけ眉を(ひそ)めた。

 さっき後ろ姿を一瞥した限り、短く髪を切っていたので、てっきり少年かと思っていたら、上半身裸のまま振り返ったその姿は少女だった。目に入ってきた、少しだけ膨らみのある未成熟な胸を見て気付く。

 オヅマは表情を変えることなく、少女を観察した。

 脇腹や腕に残る青黒い打ち身の痕や無数の切創、先程まで聞こえていた痛々しい声に、少女の置かれたおおよその状況を察した。

 

「怪我か?」

 

 尋ねても少女は返事しなかった。

 剣先が徐々に震えだしたのは、おそらく寒さからだろう。雪が降る季節を過ぎたとはいえ、早春の深夜はまだまだ凍える寒さだ。

 

「俺はオヅマだ。この大公家に仕える騎士だ。お前の名前は?」

「……ハルカ……デルゼ」

「デルゼ? では、お前はリヴァ=デルゼの縁故の者か?」

「リヴァ=デルゼは私の母」

「………そうか」

 

 オヅマはその返答だけで、少女の怪我が誰によるものなのかを、すぐに理解した。

 

「剣を下ろせ。母がリヴァ=デルゼであるなら、俺と同じだ」

「同じ?」

「俺はリヴァ=デルゼより教えを受けた」

 

 ハルカはその言葉でようやく警戒を解いた。そろそろと剣を下ろし、鞘にしまった。同時にくしゅり、と小さくくしゃみする。

 オヅマは軽くため息をつき、自分の羽織っていたマントを取ると、ハルカの肩にかけた。

 

「うっ」

 

 途端に顔をしかめるハルカを、オヅマは怪訝に見下ろす。

 

「どうした?」

 

 問うてもハルカは答えず、痛みをこらえているのか唇を噛みしめるだけだ。

 オヅマはしばし考え、ハルカに後ろを向かせた。そっとマントを取ると、とがった肩甲骨の一部と背中のほぼ中央を火傷(やけど)していた。火膨れして爛れた皮膚が痛々しい。

 

「母親にやられたか?」

 

 ハルカはコクリと頷く。

 オヅマはギリッと奥歯を噛みしめると、そうっとハルカの肩にマントをかけた。

 

「傷に障るだろうが、少しだけ我慢しろ」

 

 ハルカがまたコクリと頷く。

 オヅマは井戸の蓋に置かれたハルカのシャツを手に取った。

 背中の一部分が黒く焦げて穴が開いていた。おそらくリヴァ=デルゼが、暖炉の火かき棒ででも殴ったのだろう。理由など知らない。あの女の情緒に平穏などないのだから。

 

「来い」

 

 オヅマが呼びかけると、ハルカは不思議そうに見つめたまま突っ立っていた。

 

「手当てしてやるから、ついて来い」

 

 言うだけ言って、オヅマは歩き出した。

 ついてこようがこまいが、そのまま自分の寝床に帰るつもりだったが、結局ハルカはついてきた。

 

 誰住むこともなくなった西の館は、窓はすべて外から板が打ちつけられ、内側はカーテンが閉められてあった。ほとんどの家具には布で覆いがかけられ、埃がうっすらと堆積している。

 淀んだ空気の中を、オヅマは迷うことなく二階にある一室に向かう。

 そこはオヅマが勝手に自室として使っている場所だった。

『主城』にも、部屋は用意されてあったが、豪華な天蓋ベッドや、数々の高価そうな調度品に囲まれたその部屋よりも、この誰もいない廃墟同然の館の一室の方が、オヅマは落ち着いた。

 

 部屋に着いて、燭台に炎を灯すと、ぼんやりとした橙の光の中に埃がゆるやかに流れていく。

 部屋に一つだけの椅子を示したが、ハルカはドアの前で立ち尽くしていた。

 オヅマは軽く苛立ちながら言った。

 

「そこの椅子に座れ」

 

 哀れなことに、この無口な娘は命令されることに慣れているようだった。

 

 オヅマは部屋の隅にある大きな箱を開けた。

 そこには数枚のシャツやズボンといった軽装のほかに、薬や晒布、包帯などが置いてある。

 オヅマ自身も怪我を負ったときに、自らで手当てするためだ。

 この館に無造作に捨て置かれていたその箱は、開くときにキーッキキ、と軋む。魔女の高笑いのような独特の音に、ハルカが「えっ?」と声を上げた。

 

「なんだ?」

「……変な音がした」

「これだ」

 

 オヅマは包帯と薬を取り出して、足下の箱を軽く蹴った。

 

「…油をさせば直るだろうが、面倒だ」

 

 とりとめもないことを言いながら、机の上に包帯を置くと、ハルカにマントを脱ぐように言った。まだ、そうした羞恥心が育ってないのか、元からないのか、ハルカはすぐにマントを脱いだ。

 

「……少し痛むぞ」

 

 オヅマは一応言って、ハルカの背の火傷に薬を塗っていく。ハルカは最初だけビクリと身を震わせたが、その後は耐えているのか、まったく身じろぎしなかった。

 騎士の中にはちょっとした怪我でも大袈裟に騒ぎ立てて、手当てするのも一苦労する輩がいたが、ハルカはその点、我慢強いようだ。

 火傷の痛みは負ったその時よりも、時間が経つにつれ痛みが増す。完治するまでは痛みと痒さに耐えないと、瘡蓋(かさぶた)を掻きむしったりすれば、治りが遅くなるし、下手すればそこから膿んで、別の病気になってしまいかねない。

 

「だから絶対、患部に触れるな」

 

 オヅマの説明をハルカは真剣な表情で聞き、最後にコクリと頷いた。

 包帯を巻き終えてから、オヅマはさっきの箱から自分が昔着ていたシャツを取ると、ハルカに放り投げた。

 

「もう小さくなったやつだから、やる」

「………」

 

 ハルカはシャツを手にして、しばらく固まっていた。

 

「早く着ろ」

 

 オヅマが言い直すと、ハルカはシャツを広げてまじまじと見てから、袖に手を通した。

 オヅマはドアを開くと、クイと顎をしゃくって出ていくように促したが、やはりハルカはぼーっと突っ立ったままだ。

 

「出ていけ」

 

 冷たく言うと、ハルカはパチパチと目をしばたかせてから、コクリとまた頷く。

 部屋からハルカが出ると、オヅマはすぐに扉を閉めた。

 

 リヴァ=デルゼの娘という時点で、オヅマにとっては忌避すべき対象であるように思えたが、母親から虐待を受けているのを知ると、無視もできない。

 ザリ、と自分の右肩にある火傷痕に爪を立てる。

 幼い頃、父と名乗っていた男によってつけられたその醜い痕は、奴隷の印である辱印(じょくいん)を消してはくれたが、いまだに湿気の多い日には痛痒くなって、掻き毟りたくなった。

 母に殺され、母を道連れにしておいてなお、あの男はしつこくオヅマの中にこびりつく。

 

 蝋燭を消して真っ暗闇となった部屋で、オヅマはサイドテーブルに置いてあったワイン瓶を取ると、直接あおった。思ったよりも昨日飲んでしまったようで、すぐに空になった。

 最近ではもうワインを飲むくらいでは、眠れなくなってきている ――― …

 

 板をぶち破った窓から空を見ると、月が雲から出てくるところだった。眠ろうと身を横たえても眠気は訪れず、オヅマは起き上がると、ため息をついて枕下に置いてあった母の形見の笛を取り出した。

 

 窓を開けて、そこから屋根へと登る。

 風が少しだけ吹いていたが、外套(がいとう)を羽織っていればさほど寒くもない。

 唄口に唇を添わせるように当てると、軽く息を吸ってから吹き始める。

 

 こうして眠れぬ夜などに時々吹きたくなるから、誰の邪魔になることもない場所を探している間に見つけたのが、この西にある閉じられた館だった。(あるじ)の極々私的な場所として作られたというが、その時はそこがどういう場所であるのかはオヅマは知らなかった。

 

 月に話しかけるように吹くその笛の音を、ハルカが聴いていたと知ったのは、もっとずっと後になってからだ。……

 

 

***

 

 

 その後にオヅマは火傷(やけど)の手当てを数日続けながら、ハルカの剣の実力を確かめるために、何度か立ち合った。そうしてハルカが母親(リヴァ=デルゼ)に勝るとも劣らぬ剣の実力があることがわかると、主君にかけあった。

 

「リヴァ=デルゼ師の娘、ハルカ=デルゼの指導をお任せ願えないでしょうか?」

「ほぅ…?」

 

 珍しいオヅマからの申し入れに、主君は興味深そうに眉を上げた。

 並び控えていたリヴァ=デルゼがすぐさま声を上げる。

 

「何を勝手な! 我が娘のことに、お前が口を出すかッ」

「まぁ待て、リヴァ=デルゼ。話を聞くとしよう」

 

 主君がリヴァ=デルゼをなだめて、軽く首を傾げて見てくる。

 オヅマは頭を垂れたまま、静かに申し述べた。

 

「リヴァ=デルゼ師の娘は、師のすぐれた指導によって、着実に力をつけております。ゆくゆくは優秀なる女騎士となるに違いありません。そうなれば、いずれは公女様の護衛として仕えさせるがよきように思います」

「ふ…む。そうだな。リヴァ=デルゼ、異論はあるか?」

 

 リヴァ=デルゼはオヅマをギロリと睨みつけたが、主君の言葉を否定はできなかった。

 

「……いえ、そのようになればよいと思い、稽古をつけております」

「そうか。(あるじ)が至らぬゆえ、公女(むすめ)のことなど忘れていたが、乃公(だいこう)の配下の者共は(みな)、周到なることよ。……それで? オヅマ」

「その娘をいずれ公女様の護衛騎士とさせるおつもりであれば、リヴァ=デルゼ師が教育を担うは不適当と存じます。公女様は皇宮(こうぐう)に参られることもおありです。相応(ふさわ)しい立ち居振る舞いを身につけねばなりませぬ」

「ふ…」

 

 主君は笑みを浮かべ、リヴァ=デルゼは激昂した。

 

「ふざけるな! 貴様!! 私を嘲るかッ」

 

 オヅマはゆっくりと顔を上げると、冷たい眼差しでリヴァ=デルゼを見つめた。ふぅ、とわざとらしくため息をつく。

 

「…かように、閣下の言葉を待つこともなく喚き散らす有様にて」

「なッ!!」

 

 リヴァ=デルゼは何も言えなくなった。顔が真っ赤になり、怒りに握りしめた拳が震える。その場にいる何人かがせせら笑った。彼らはこれまでにリヴァ=デルゼから散々、無能、愚物と馬鹿にされてきたので、痛快至極だったのだろう。

 主君はチラリとリヴァ=デルゼを見てから、肘掛けに頬杖をついてオヅマに問いかける。

 

「それで? お前が教えるにふさわしいと言うのか?」

「…私は閣下より直接、薫陶を受けております」

 

 オヅマの隙のない弁舌に、主君はハッハッハッと愉しげに笑った。

 

「弁術について、よく学んでいるようだな。よかろう。ではその娘のことは、これよりオヅマに任せることにしよう」

「閣下!」

 

 リヴァ=デルゼはそれでも食い下がろうとしたが、主君は立ち上がり、軽く手で制した。

 

師姉(しけい)リヴァ=デルゼ。親子というは、師弟に向かぬものだ。故にこそ、私も其方(そなた)に託したのだ。……わかるな?」

 

 主の顔に浮かぶ笑みの裏側に、そこはかとない恫喝があることをリヴァ=デルゼは瞬時に感じ取ったのであろう。すぐさま恐縮したように頭を下げ、震える声で了承した。

 

 そうしてハルカはオヅマの下で、貴族への礼儀作法も含め、剣術の指南を受けることになった。

 数年の間に、ハルカはオヅマの意図した通り公女の護衛騎士となり、同じく公女の侍女となっていたマリーと行動を共にすることが多くなった。

 マリーは喜んだ。オヅマがハルカの教育を任されるようになって、何度となくアンブロシュの屋敷に連れて行ったことがあったので、マリーにとって、ハルカは妹同然だったのだ。

 

 ただ、ハルカが成長するに従って、有能な女騎士になってゆくのは喜ばしいことだったが、周囲の人間からの誤解にはオヅマも辟易した。

 それはマリーですらもそうだった。

 

「お兄ちゃん。ハルカちゃんのこと、どう思ってるの?」

「…騎士見習いだ」

「それだけぇ?!」

 

 マリーは不満そうに声を上げ、ブツブツと文句を言った。

 

「まったく。お兄ちゃんがそんなだと、ハルカちゃんが可哀相だわよ…」

 

 オヅマはため息をついた。

 マリーに限らず、ハルカとオヅマの仲について曲解する者は多かった。いちいち否定して説明するのが面倒なので放っておいたのだが、そのせいで無駄なおしゃべりを聞く羽目にもなった。

 

 

***

 

 

「残念だったなァ、オヅマ。その女の処女は俺が奪っちまったんだ。そっからはもう、どんな奴にでも股を開きやがって…とんだアバズレだ!」

 

 大公家騎士団の金や備品を横領していた男は、追い詰められた挙句、愚にもつかないことを言い出した。

 彼を追跡する任務を負ったオヅマは、ハルカを伴っていた。その頃になるとより実践的な訓練として、いくつかの任務を共に行うようになっていた。 

 下卑た笑みを浮かべる男を、オヅマは面倒そうに見た。

 どうやら男はオヅマが驚き、動揺すると思っていたらしい。最後の最後に、せめて一矢報いる……というには、あまりにもお粗末な言動だ。

 

 うんざりしながら、オヅマはハルカに「真実か?」と問いかけた。ハルカがいつものごとく、無表情にコクリと頷く。

 

「この男は、今、お前を誹謗している。どうしたい?」

「…どうでもいいです」

「じゃあ殺せ」

 

 オヅマが言うなり、ハルカは男をバッサリ斬り捨てた。

 オヅマは男の絶命を確認してから、ハルカに尋ねた。

 

「お前…コイツに抱かれたのは、お前の意志か?」

「私の…意志?」

 

 ハルカは困惑したようにつぶやく。しばらく考えてから真面目に答えた。

 

「わかりません」

 

 オヅマは眉を寄せ、男を見つめた。

 ブツブツとしたニキビ痕が残る、下膨れ顔の醜男。身丈も背の高いハルカより頭一つ分ほど低く、腹も出張っている。

 どう考えても、ハルカを組み伏せることができる手合ではない。

 もし本気でハルカが抵抗していれば、即座に殺せただろうし、殺すのが面倒ならば気絶させれば済む話だ。

 

 オヅマはため息をついて立ち上がると、ハルカと向き合った。

 

「お前の私事についてどうこう言う気はないが、男を選べ」

「……どのような男がいいのですか?」

 

 そういう質問を普通にしてくるのが、ハルカらしかったが、オヅマは心底面倒臭かった。それでも答えてやらねばならない。ハルカは間抜けに見せて計算高い貴族令嬢のように、あどけないフリをしているのではなく、本当にわからないから聞いているのだ。

 

「……家内の者は控えろ。今回のように後々面倒になる。病気持ちは論外。あとは、この男のようにグダグダとくだらぬ事を言う奴はやめておけ。猿以下だ」

「わかりました」

 

 ハルカはオヅマに言われたことを、おそらく胸の中で反芻しているのだろう。その生真面目な様子に、オヅマはまたため息をつく。

 

「お前、マリーに知られていないだろうな?」

 

 ハルカは首を傾げた。オヅマは軽く首を振った。

 

「知っていれば、マリーが俺に何も言わないはずがないから、知らないんだろうが…知られることのないようにしろ。こうしたことは他人に秘すものだ」

「はい」

「マリーがもし知れば、心配する…」

 

 オヅマがつぶやくように言うと、ハルカは少しだけ申し訳なさそうな顔になった。

 

「マリーはいつも私を心配します。私が傷つくことを知らないのが、可哀相だと言います」

「……そうだな」

「それと、マリーは私があなたのことを好きだと思っているみたいです」

「…あぁ」

 

 オヅマは答えながら、歩き始めた。

 一番近い宿場町に戻り、そこで男の死亡を申告する必要がある。保安衛士に大公家の金を横領した罪により男を処した旨を伝え、彼らに死体の始末を頼むのだ。もちろん処理費用を払って。

 

 しばらく無言で歩いていたが、オヅマはふと立ち止まると、振り返って問うた。

 

「お前……俺が好きなのか?」

「いいえ」

 

 ハルカは即答してから、急に片膝をついた。

 

「オヅマ、あなたは私の(あるじ)です。私の主君はあなただけです」

 

 まるで誓うかのようにハルカは言った。顔を上げ、オヅマを見つめるセピアの瞳がいつになく熱を帯びている。

 だがオヅマはそのハルカの誓いを、物憂げに見つめるだけだった。

 

「……この場だけにしておけ」

 

 つぶやくように言って、オヅマはハルカに背を向けると、再び歩き始めた。

 

 





引き続き、更新します。


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断章 - ハルカの忠誠 - Ⅱ

「お許し下さい。どうか、どうかお許し下さい……」

 

 目の前に跪く領主を、オヅマは無表情に見ていた。

 

「命乞いはそれで終わりか?」

 

 オヅマの隣にいた男が、冷ややかに尋ねる。

 黒い照りのある肌に、つややかな暗金髪(ダークブロンド)を丁寧に幾重にも編み込んだシューホーヤの血を引く騎士。薄暗い部屋の中で、蝋燭と同じ色の瞳は、まだ戦の興奮から抜けきっていないのか、剣呑な光を浮かべている。

 元々、主君からの命令で嫌々オヅマの下につくことになったので、鬱憤がたまっていたのだろう。残忍な戦いぶりだった。今も、不毛な敗戦処理など早々に終えて、さっさと居城(ガルデンティア)に戻りたいに違いない。

 

 男が剣の(つか)に手をかけると、跪いていた領主が後退り、あわてて背後に控えていた女二人を示した。

 

「どっ、どうか命だけは! この娘どもを差し上げますので! どうかッ」

 

 領主は必死になって懇願する。

 そこには髪を結う暇もなく連れてこられた、金髪と赤茶の髪の娘が二人、跪いていた。二人の娘のうち、赤茶の髪の妹らしきほうが姉にすがりつき、金髪の姉はギロリとオヅマを睨みつけた。

 

「ほぉ……」

 

 興をそそられたのは、(つか)に手をかけていたシューホーヤの騎士だった。

 コツコツと姉妹のほうへと歩み寄り、睨む姉の顎を捕らえて、不躾にまじまじと見つめた。

 

「ふん。なるほど……姉妹それぞれに嗜好する者がいそうだな」

 

 舐めるほどの距離で言われて、妹は姉の胸の中に顔を隠し、姉はベッと男に向かって唾を吐いた。

 

「嘆かわしい! 帝国に多大なる恩顧を受けてきたシューホーヤの騎士が、よくもこのような真似を!」 

 

 男はニヤリと笑い、頬についたその唾をグイと手の甲で拭ったあとに、姉の頭を引っ掴んだ。

 

「ふん! さすが皇宮(こうぐう)の侍女であらせられるだけありますねぇ。しかし、生憎と私はシューホーヤの血を引いていても、近衛(このえ)の騎士ではございませんでねェ」

「近衛騎士でなくとも、かの地の民はみな、帝国からの援助を受けて生活しているのです! 貴方(あなた)とても例外ではないッ」

「援助ね……フン!」

 

 騎士はブンと姉をオヅマに向かって放り投げ、姉に駆け寄ろうとした妹の腕を掴んだ。嫌がって身を(よじ)る妹の姿を楽しむように見て、無理やり接吻をする。じっくりと舐め回されたのか、妹はクタクタとその場に脱力した。

 

「ファル……」

 

 オヅマはそこでようやく声をかけた。「あとにしろ」

 

 しかしファルと呼ばれた男は、フフンと鼻で嗤う。

 

「今回は譲ってやったのだ。これくらいの恩賞はあってもよかろう? 心配せずとも、俺が十分に()()してやったあとに、お前にやるさ」

「……くだらないことを」

 

 オヅマは軽くため息をつくと、自分の前で無様にこけたまま睨みつけてくる姉を見下ろした。

 姉はギリと唇をかみしめ、オヅマから目をそらすこともない。

 

(けが)らわしい…! 貴方が皇宮(こうぐう)に姿を現すようになってから、狂っていったのです。すべてが狂っていった!!」

 

 オヅマは自分を(なじ)るその言葉に、なんらの苛立ちもなかった。ただ、問いかける。

 

「言うべきことは、あるか?」

「言うべきこと?」

 

 姉は鸚鵡(おうむ)返しに問い、ケタケタと笑った。

 

「言うべきこと……。あぁ、そうね。あるとすれば貴方が初めて皇宮にやって来たその日に、毒入りのお茶でも飲ませてやれば良かったと思うだけよ!」

「あまり意味がないな……」

 

 オヅマはつぶやくと、剣を抜いたかどうかもわからぬ速度で、首を斬った。

 

 自分に死が訪れたことも知らぬ姉の首が、ゴロリと転がる。

 妹の悲鳴が響いた。

 

「お姉さまあぁぁッ!! いやあーーぁッッ!!」

 

 そこに現れたのはハルカだった。

 静かに歩いてきて、悲痛な叫び声をあげる妹の姿を一瞥するが、表情が変わることはない。

 

「おやおや。相変わらずご同伴か、まったく。ハルカ、最近オヅマは忙しくて、相手してもらえないんじゃないのか? ()()()、俺が相手してやろうか?」

 

 ファルがからかうと、ハルカはジロリと彼を見て生真面目に答えた。

 

()らない。家中(かちゅう)の者は相手に選ぶなと言われている」

「ハッ! なんだなんだ、オヅマ。お前さん、そんなことまでご指導しているのか?」

 

 あきれたファルの前を通り過ぎて、ハルカはオヅマに一本の巻物を差し出す。

 

「連判状だそうです。ジョルスなる騎士が渡してきました」

「ジョルス!?」

 

 突っ伏して泣くばかりだった妹は、その名を聞いて、驚いたように顔を上げた。ヨタヨタと這いながら、ハルカの足にすがりつく。

 

「ジョルスは? ジョルスは無事なの?」

 

 ハルカはその細く震える手を払い除けることなく、泣き濡れた妹の視線を冷静に受け止めながら頷いた。それからオヅマへと向き直る。

 

「その騎士が、これを渡すことと引き換えに助命を願っております」

 

 オヅマはかすかに眉間に皺を寄せ、ファルはうすら笑いを浮かべ、娘二人を差し出した領主は、ワナワナと震えて天を仰いだ。

 その中でまたも、妹が哀しげに叫ぶ。

 

「嘘よ! ジョルスが…裏切るなんて!! 嘘、嘘ッ!」

 

 オヅマはハルカにジョルスを連れてくるよう指示した。

 現れたジョルスは、蒼白となった旧主には冷たい一瞥をくれたが、泣きぬれた目で自分を見つめてくる赤茶の髪の娘からは目を逸らした。

 

「ジョルス!」

 

 妹はジョルスに駆け寄ると、その腕を強く掴んだ。

 

「どうしてッ? なぜ父様を裏切るようなこと!! あなたは…あなた…言ってくれたじゃないの。私とずっと一緒にいてくれるって……私のことを愛してるって……」

 

 いつまでも自分を見ようとしないジョルスに、ふりしぼるように投げた問いかけは、最後には惨めな涙にかき消された。

 

「やれやれ……」

 

 ファルが半ば笑って、ポンと娘の父親である領主の肩を叩く。

 

「お嬢様は、騎士相手の恋愛ごっこに夢中であられたようですな」

 

 しかし領主はそんなことはどうでもいいように、オヅマの手にある巻物を凝視していた。

 

 オヅマは列記された名前を一通り見てから、領主のそばまで歩いてきて、目の前で広げてみせた。

 

「これが、全てか?」

「…………さようでございます」

 

 領主はもはや観念して、頭を垂れる。

 だがオヅマの瞳は酷薄な光を帯びた。

 

「一人、足りぬであろう?」

「………は?」

「もう一人、いるだろう?」

「………?」

 

 領主が怪訝にオヅマを見上げる。

 オヅマは控えていた従者にペンを持ってくるように言い、そのペンで巻物の中の、列記された氏名の一番最後に『ある人物』の名を書き加えた。再び巻物を広げると、書き加えられたその名を見た領主は、凝り固まった。

 

「ま……さか……」

「その顔は、つまり真実ということか」

「違います!」

 

 領主は激しく首を振り、否定した。

 蒼白の顔が、あっという間に赤紫に変色する。

 

「そのようなこと有り得ませぬ! 決して、決して……なんと畏れ多い、なんという……恐ろしき(はかりごと)を!!」

「ああ……そうだな」

 

 オヅマはそう言うと、巻物をもって背を向ける。

 

「ハルカ」

 

 名を呼んで軽く手を振る素振りをすると、ハルカはためらいもなく領主を斬りすてた。

 続けざまに肉親が殺される姿を見た妹は、もう悲鳴を上げることもできないようだった。呆然と倒れた父親を見るばかりだ。

 一方、死んだ領主を忌々しげに見てから、ジョルスはオヅマの前に跪いた。

 

「……どうか、我が主君として、我が剣に誠実をお与えください」

 

 騎士が主君との契りを結ぶときの、一つの常套句だった。

 オヅマは答えなかった。その場でジョルスを見下ろすだけだった。

 なかなか自分と契約を交わそうとしないオヅマを不審に思ったのか、ジョルスが顔を上げる。

 

「必要ない」

 

 その言葉と同時に、ハルカがジョルスの首を落とす。

 たった一人残された哀れな妹が、再び悲鳴を上げ、泣き叫びながら、彼の遺体にすがりついた。

 

「やれやれ……」

 

 ファルは肩をすくめて、軽く頭を振った。

 

「恨まれるぞぉ、オヅマ。命と引き換えに渡したものであろうに……」

「元より……関わりある者は、皆殺しせよとのご命令だ。例外はない」

 

 オヅマの声は硬く、冷たく、命令を下す。

 しかしそれまで躊躇なかったハルカは、剣を下げたまま、オヅマをじっと見つめた。オヅマは細いセピアの瞳を見返し、ゆっくりと瞬きする。それでもハルカは動かない。

 

「ハルカ」

 

 オヅマが諭すように名を呼ぶと、ハルカは唇を引き結び、背後から妹をグサリと刺し貫いた。

 

「あ……あぁ……」

 

 哀しげにうめき、妹はジョルスの上に折り重なるようにして息絶えた。

 ファルがその姿を見て、ヒャハハと嘲笑った。

 

「ハハッ! うん、いいじゃないか。報われない騎士と、世間知らずのお嬢様の恋の結末としては、上々だァ」

 

 オヅマはもう興味もなかった。すぐにその場を立ち去ろうとして、ハルカが跪く。

 

「……どうした?」

「………叱責を」

 

 オヅマはしばらくハルカを見つめると、手で軽く鶸茶(ひわちゃ)色の頭を押さえた。

 

「よくやった」

 

 感謝の代わりに言うと、ハルカは驚いたようにオヅマを見上げた。

 その様子を見ていたファルが胡散臭そうに首を傾げた。

 

「なんだかなァ…お前たち。まるで主従のようじゃあないか……?」

 

 

***

 

 

 ハルカが本来の主である大公よりも、オヅマに忠義が厚いことはわかっていた。

 だが、そんなことをガルデンティアにいる曲者(くせもの)たちに知られれば、オヅマ自身も、ハルカも、身の置き所を失うだろう。そうなれば公女の侍女をしているマリーとて、何もなしでは済まされない。

 大公の強固にして強烈な自尊心を知っていればこそ、オヅマは自らが彼に猜疑をもたらすことに恐怖した。

 

 ハルカがオヅマに寄せる忠誠を知られぬために、オヅマはハルカと自分に生じている誤解については、あえて解かずにおいた。

 こうしたことは得てして、当人たちよりも周囲が勝手に盛り上がって噂するものだ。その噂に踊らされた者の中に、ハルカの母親であるリヴァ=デルゼもいた。

 

「フン。私の娘と相当に仲良くやっているようだな。なんだ、私が()()()()()()手管で、我が娘を(よろこ)ばせてくれているわけか?」

 

 昼間から酒を飲んでいたらしい。呂律(ろれつ)の回らぬ舌が、ペチャクチャとくだらぬことを吐き散らす。

 

 数年前からリヴァ=デルゼは体を壊しがちになり、もはや戦士としての価値はなくなりつつあった。

 皮肉なことに、身体能力の向上と滋養強壮のために長年飲んでいた薬が、かえって老化を早めたらしい。まだ四十歳にもなっていないのに、歯も抜け、髪も薄くなったリヴァ=デルゼの面相は、すでに老婆のようだった。

 

 いつもであればこうした世迷(よま)(ごと)は無視するのだが、帝都東部で起きた叛乱鎮圧のために向かう今は、オヅマも少なからず気分が昂揚していた。それと見せないが、明らかに気が立っている。そのせいなのか、思わずリヴァ=デルゼの挑発に乗ってしまった。

 

「前々からハルカがお前の娘だというのが信じられなかったが、今日、ようやくわかった」

 

 軽蔑も露わに言うと、リヴァ=デルゼはギロリと充血した目で睨んでくる。「なぁにおぉぅ?」と、だらしなく涎を垂らしながら吠えた。

 

「おそらくハルカは父親似なんだろう。少なくとも母親のように、酒に溺れて()れ事を吐き散らす、下品な女にはならなかったようだな」

「なんだと…?」

 

 リヴァ=デルゼは目を見開き、ブルブルと唇を震わせた。

 

「貴様…私が…あの男に……あの穢らわしく卑しい賤民に、この私が劣るとでも言うかアッ!?」

「あぁ、そうだ」

 

 平然と肯定するオヅマを、リヴァ=デルゼは刺し殺さんばかりに睨みつける。しかし、その怒りに燃えた瞳は、かえってオヅマの嗜虐心(しいぎゃくしん)を煽った。

 

「ハルカの優れた資質はすべて父親譲りだ。卑しい(あい)の民よりも、お前は醜く、愚かで、心貧しい人間だ。もっとも、そうなるように仕向けられたとするなら、憐憫(れんびん)の情をかけてやらぬでもないがな」

「貴様…ッ」

 

 リヴァ=デルゼはギリギリと歯噛みして、オヅマを睨みつける。だが、何故か喉の奥が絞められているかのように、言葉が出てこない。ジワリジワリと足元から這い上ってくるその感情にリヴァ=デルゼは困惑し、うろたえる。

 その憫然(びんぜん)たる様子を見て、オヅマは不敵に嗤った。

 

「どうした、リヴァ=デルゼ。昔はその口からするすると悪態、侮言(ぶげん)罵詈雑言(ばりぞうごん)が止まらなかったというのに、今は舌が震えて言葉にもならないか?」

「ぐ…お…オノレ……オノレ…」

 

 酒焼けした掠れ声は、オヅマを恫喝するに至らなかった。

 昔、リヴァ=デルゼが恐怖によって支配し得たと思っていた少年は、今や彼女の背をゆうに越して、仰ぎ見る存在となっている。彼我(ひが)の力の差は歴然で、自分が目の前に立つ男に永遠に勝てないのだと悟った彼女は、明らかに動揺し、怯えた。

 

「リヴァ=デルゼ…」

 

 オヅマが一歩近寄ると、リヴァ=デルゼは一歩後ろに退()がった。

 

「『千の目』を習得することもできず、所詮騎士にすらなれなかったお前であっても、大公家に恩義を感じているのであれば、礼を守る程度のことはできるだろう?」

「な…なに…を」

「今、お前の目の前にいるのは、誰だ?」

「…うぅ…うぅ…」

 

 リヴァ=デルゼは混乱しているようだった。

 これまで傲慢に他者を睥睨して生きてきた彼女にとって、怯えは主君に対してのみ抱くものであって、断じて目の前の、かつてのか弱い小僧相手に感じるものではなかった。

 おどおどと目線を泳がせて、薄紫色の瞳から必死に逃れようとする哀れな師に、オヅマは畳み掛けた。

 

「大公閣下は、お前に()()育てるように申された?」

「それ…は……」

「その表情(かお)であれば、お前はそうと知っていて、私を()()()鍛え上げてくれたのだな?」

 

 オヅマの薄紫色の瞳に金色の影が閃くと、リヴァ=デルゼはヒッと潰れた悲鳴を上げた。

 ザザッとあわてたように後退(あとずさ)って、足がふらつき尻もちをつく。

 オヅマはまた一歩近寄って、リヴァ=デルゼを見下ろした。

 

「答えろ、リヴァ=デルゼ。今、お前の前に立っているのは誰だ?」

「……お、おお…オヅマ…公子……様」

 

 恐怖と驚愕によるしゃっくりが起きて、リヴァ=デルゼの声は裏返った。

 オヅマはうっすらと口許に微笑を閃かせる。

 夜会であれば、その端麗な微笑みに目を奪われる令嬢もいたことだろう。だが、ここにいるのは、怯える老婆だけだった。

 

「あぁ、そうだ。()()が無事『陛下』となられた暁には、貴様は私を『殿下』と呼ぶことになるのだろう。どうする? 今ここで、これまでの過ちを悔いて頭を下げるか。それとも皇宮(こうぐう)の、諸侯が居並ぶ前で惨めに打擲(ちょうちゃく)されたいか?」

 

 リヴァ=デルゼは震えながら、頭を下げた。すると上からズシリと踏まれ、否応なしに額を床にしたたか打ちつけた。

 

「懐かしいな、リヴァ=デルゼ。かつてお前に同じことをされたとき、痛みよりも、抗いようもない恐怖を感じたが、お前はどうだ?」

「お…許し……を…公子…様」

 

 リヴァ=デルゼがそれこそ哀れな乞食婆のごとく、か細い声で寛恕(かんじょ)を乞う。

 オヅマはギリギリと足の力を増しつつも、その表情は虚無だった。平坦な、なんらの感情もない言葉が口から滑り出る。

 

「あぁ、許してやるとも、先生。お前から女を悦ばせる(すべ)まで学んだお陰で、困ることもない。有難いことだ。感謝してほしいか?」

「…うぅ…うぅ……」

 

 リヴァ=デルゼはうめき、コフッとわずかにもどした。嘔吐物の酸っぱい臭気にオヅマは眉を寄せ、リヴァ=デルゼの頭から足を降ろした。

 

 目を閉じ、大きく息を吐く。

 自らの昏い興奮に吐き気がする。

 頭が痛い。ひどく痛む。また薬をもらわないと……。もう、あの薬でなければ、痛みが収まらなくなってきている……。

 

 爪をたてて拳を強く握りしめたのは、このままだと、哀れで弱いだけの存在となったリヴァ=デルゼを殺してしまいそうだったからだ。

 

「酒を抜いて、公女の護衛に戻れ。()()()()()()()()

 

 今や大公家の騎士団を率いるまでになったオヅマの、直属にして腹心の部下となったハルカは、既に公女の護衛というおもちゃでも出来そうな任務から離れ、オヅマと共に戦場に赴くことが多くなっていた。そのため娘の代わりに、リヴァ=デルゼが公女の護衛を任されるようになったのだ。

 

 戦場において戦うことこそ第一義としてきたリヴァ=デルゼにとって、これは屈辱以外の何物でもなかった。そのせいで気分を腐らせて、酒を飲む日々が続き、ズルズルと堕落していったのだろう。

 

 落ち窪んだセピアの瞳は汚く濁り、往年の血気盛んで、倨傲なる女丈夫の面影はすっかりない。それでも僅かの自負と、娘への強烈な嫉妬が、リヴァ=デルゼを()()に戻す。

 

「……公女の…護衛…」

 

 リヴァ=デルゼはつぶやきながら、ゆっくりと体を起こした。

 オヅマは既にその場から立ち去りかけていたが、背後から低く笑う声が聞こえてくると足を止めた。

 

「…ふ…ふふ…公女の、護衛…公女の……侍女は…誰だった…か…なァ?」

 

 瞬時にオヅマは振り返って、タンと軽く踏み出すと同時に、いつの間にか抜いていた剣が一閃して、リヴァ=デルゼの耳をザクリと斬った。

 

「ギャアアァァ!!!!」

 

 リヴァ=デルゼが叫び、左耳のあった部分を押さえてのたうち回る。

 オヅマはどんよりと、リヴァ=デルゼを見つめた。

 醜い女だ。骨の髄まで腐った、どうしようもない女。

 オヅマは落ちていた左の耳をつまむと、苦痛に歪んだリヴァ=デルゼの顔に投げつけた。

 

「その怪我では、護衛の任も無理であろう。自室にて十分に休養するがいい。公女には話しておく」

 

 吐き捨てるように言って、踵を返し歩き出す。

 今、この場で役立たずの戦士くずれを一人殺しても、オヅマが糾弾されることはないだろう。理由などいくらでも作れるし、それが嘘であろうがなかろうが、リヴァ=デルゼを擁護する者などいない。

 

 それでもオヅマは結局、殺すことができなかった。この女がハルカの母親であるという事実が、頭を()ぎったからだ。

 

 たとえ母親を殺されても、ハルカのオヅマへの忠誠が揺らぐはずもなかったが、それでもハルカにとってはたった一人の身内だ。年々体が不自由になっていく母を、ハルカは文句も言わずに面倒見ている。それはハルカ特有の愛情のない義務感からだったが、それでも唯一の肉親を、ハルカはハルカなりに大事にしているのだ。

 

 ハルカの忠誠に、オヅマは何も(こた)えられない。何をしてやればいいのかもわからない。

 だからせめて、形だけの盲目的なものであっても、子としての務めを果たそうとするハルカの気持ちを無下にしたくなかった。―――――

 

 

「総員、配置完了しております」

 

 ハルカが告げる。

 オヅマは遠くに雨で(けぶ)る集落を捉え、憂鬱に眺めた。

 

「ハルカ……」

 

 呼びかけると、かたわらで黒角馬(くろつのうま)に騎乗していたハルカがすぐにオヅマを見る。

 オヅマは前を向いたままつぶやいた。

 

「裏切るなよ……俺を」

 

 ハルカは驚いたように瞬きすると、胸に拳をあてて宣言する。

 

「我が命は、貴方と共に」

 

 その顔が満足げに微笑んでいたのを、オヅマは知らない。

 





誠に申し訳ないですが、作者の体調不良につき、次回2023.10.15.更新はお休みさせていただきます。



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第四章
第百五十五話 馬泥棒と鍛冶屋


 エラルドジェイと交互にカイルに乗りながら、日が暮れた頃合いで、シュテルムドルソンにたどり着いた。

 農作業を終えて家路に急ぐ農夫にモンスについて尋ねると、

 

「あぁ、おやっさんか。知ってるが、今日はもうやめておいた方がいい。あの親父、日が暮れたらもう寝るからな。一旦、寝たら朝日が昇るまでそう簡単に起きないんだ。っつーか、起こしたらそりゃあ…大変なことになるぞ」

 

と、いかにも戦々恐々とした様子で言うので、エラルドジェイと宿屋に泊まることにした。

 

「はあぁ…俺もすっかり田舎の暮らしに馴染んできたよな。日が暮れて眠くなってくるなんてさ…」

 

 エラルドジェイは簡素な宿の食事のあと、すぐにベッドに転がった。

 

「明日は夜が明けたら起きて、モンスのところに行くからな」

「へーい。お前は? どっか行くの?」

「剣の素振り」

「やれやれ。ごくろーさん」

 

 ヒラヒラ手を振って、エラルドジェイは体を横に向けると、すぐに寝息をたて始めた。オヅマは内心残念に思ったが、気を取り直して部屋を出た。

 本当はルミアの家にいた頃のように一緒に稽古したかったが、今日はさすがにほぼ一日歩き詰めだったのだから、疲れているだろう。オヅマも疲れていたが、毎日の素振りは既に安眠のための習慣になっていて、たとえ三十回程度でもやっておかないと気持ちが落ち着かず、眠れない。

 

 外に出ると、昼間の熱した空気とは違い、涼しい夜風が吹いている。

 宿の小さな庭の一角でオヅマは軽く体を動かしたあとに、素振りを始めた。

 集中していると、時間が経つのはあっという間だ。

 軽く汗をかいて、そろそろ終わろうかというときに、オーン、オーンと低く鳴く声が響いた。ただの馬とは違う、黒角馬(くろつのうま)特有の鳴き声だ。オヅマはすぐさま厩舎に向かった。

 

 カイルの馬房の前で何者かが右往左往している。どうやら、カイルを盗んで連れて行こうとしているようだ。

 

「おい」

 

 オヅマが声をかけたときには、既にその馬泥棒の背に短刀があてられていた。

 

「大した度胸だな。騎士の馬を盗むのがどういう事か、わかっているんだろうな?」

「ヒッ! ヒイィィッ!! す、すんませんっ」

 

 馬泥棒はすぐさま諸手を上げて降伏の意を示したものの、即座に後ろから鋭い気合と共にビュン! と、斧がオヅマの脳天めがけて振り下ろされる。

 

「死ねッ!」

 

 だがオヅマはわかっていた。仲間がいる気配は察知していたので、あえて声をかけておびき出したのだ。

 

 馬泥棒をドンと押し、斧の攻撃をギリギリでよける。ブン、と斧は空を切り、勢いと重みでガッチリと土に刺さった。そのまま抜けなくなって「む、む」と、男は斧を持ったまま唸る。オヅマは斧相手に苦戦する男の脇腹を、思いきり蹴りつけた。急所をしたたか殴られて、男が地面に泡を吹いて倒れる。

 すぐさま剣を持った男が向かってきたが、オヅマもさっきまで素振りで使っていた剣を抜くと、男の直線的な攻撃をあっさりとかわし、腕を斬った。

 ギャアア、と斬られた男が騒いでいる間に、三人目が(くわ)を持って襲ってくる。同時にまた別の方向から大きめの石が飛んできたが、これらも難なくよけることができた。豆猿たちの動きと、四方八方から飛んできたスジュの実に比べれば、のろまでしかない。

 柄の上半分を切って鍬の部分を落とし、驚く男の手を斬りつけると、再び飛んできた石をよけた。どうやら隠れた場所から石を投げているようだ。オヅマが石がくる方角へと走り出した途端に「うげっ」と悲鳴が上がった。

 

「……ご苦労さん」

 

 オヅマが石を投げていたらしき男の場所にたどり着くと、一足先に来ていたエラルドジェイが、既に()していた。足元にハゲ頭の、おそらくこの盗人の中では一番の大男が、ぐったりと倒れていた。

 オヅマはハァと息をついて、剣を鞘にしまった。

 

「あんたさぁ、たまにズルイよな」

「は?」

「いいとこ取りしちゃってさ。こういうのって、最後まで俺がやっつけないと、格好悪いんだって」

 

 エラルドジェイはプハッと吹いた。口をとがらせて言うオヅマが、いかにも少年らしくて可愛らしい。

 

「オゥオゥ、可愛いことをお云いだよ、坊やが。ま、それはそうとして、また性懲りもなく泥棒しようとしてやがるぜ」

 

 エラルドジェイが顎をしゃくると、最初に声をかけた馬泥棒が今しも馬房の柵を取ろうとしている。オヅマは軽く眉を寄せると、タンと軽く地面を蹴って、男に迫った。

 

「すっ、すんませんッ!!」

 

 いきなり目の前に現れ、切っ先を突きつけられた男は、即座にその場にひれ伏した。オヅマはそれでも剣を男に向かって構えたまま、じっとりと睨みつける。

 

「さっきも聞いたよな。騎士の馬を盗むってのが、どういうことかわかってんのか? 殺されても文句は言えねぇんだぜ」

「ゆ、許してくだせぇ。アイツらに言われて、仕方なかったんで。アイツらの賭場でスッちまって、そうしたら盗んででも金を持ってこいって…」

「相手が悪かったな」

 

 オヅマはすげなく言って剣を振り上げる。男がヒィッと声を上げると同時に、鋭い男の声が響いた。

 

「待て! 領内で勝手な真似は許さん!」

 

 ガチャガチャと音をたてて、甲冑を着た騎士たちがオヅマたちを取り囲む。どうやら宿屋の主人が騒ぎを聞きつけ、通報したらしい。

 オヅマに向かって剣を構え、なんであれば捕らえようとしているかのような騎士たちに、オヅマは鼻白んだ顔になった。

 

「大人しくしろ」

 

 まとめ役らしい壮年の騎士が前に出てくると、オヅマをジロジロと見て問うてきた。

 

「誰かの従者か? 主人は?」

 

 プハッと笑ったのはエラルドジェイだった。それまで気配に気付いていなかったのか、騎士たちが驚いて振り返ると、エラルドジェイはニヤニヤ笑いながら言った。

 

「そいつは従者なんかじゃねぇよ。一応、騎士…だっけ?」

「騎士見習いだ」

 

 オヅマが憮然として言うと、先程オヅマに問うてきた騎士が、腕を組んでフンと睥睨する。

 

「騎士見習い? ウチではないな。どこの騎士団だ?」

「レーゲンブルト騎士団だ」

「レーゲンブルト騎士団だと? 我が領内に何の用だ!?」

「別にアンタらに用はない」

 

 オヅマが冷淡に言うと、その騎士はムッとした顔になった。

 

「いずれにせよ、レーゲンブルト騎士団の者であろうと、このシュテルムドルソンにて騒ぎを起こすのであれば、拘束させてもらうぞ」

 

 凄んで言ってきたが、オヅマはますます白けた。オヅマが子供であるとみるや、事の次第を問うこともしない。典型的な人の話を聞かない大人、だ。

 オヅマは一つため息をついてから、ふたたび剣を鞘に収めた。

 

「その前に、ここでは自分の馬を盗まれそうになった場合、そのままくれてやれ…っていうことになってるのか?」

 

 揶揄もあらわに尋ねると、まとめ役の騎士は「なに?」と地面に座り込んだままの男を見やった。小さな集落であれば、たいがいの人間が顔見知りであるように、どうやら馬泥棒とこの騎士も顔見知りであるらしい。

 

「クート! お前、また何を…」

 

 言いかけて、ようやくそこが馬房の前であることに気付いたようだ。しかも馬房の中には、通常の馬では考えられないほどにデカく、黒い角のある馬がこちらをジッと見ている。

 あわてて辺りを見回し、大きくもない庭の中で、数名の男が倒れていることに気付いた。

 

「これは、一体…」

 

 困惑してつぶやく騎士の男に、「クート」と呼ばれた馬泥棒の男が、のんびりと声をかける。

 

「いやぁ、すまんなぁ、ラッセ。どうもタチの悪い胴元に当たってさぁ。身ぐるみ剥がされた挙句、金がねぇなら盗んできやがれときたもんだ。しかも、ちょうどこの坊や…あ、いや、この騎士様の馬が目に入ったのかして、かの有名なレーゲンブルトの馬だってんで、あれを盗んでこいって言われてさァ……いや、だから、俺も嫌だと言えなくて…」

 

 クートはチラチラとオヅマの顔色を窺いながら、ラッセという騎士に話す(てい)でくどくどと言い訳する。ラッセはハーッとあきれたため息をつき、苦々しい顔つきでオヅマに向き直った。

 

「どうやらこの男が失礼を致したようだ。本人も言っている通り、本意ではなかったことゆえ、この場は収めてもらいたい」

 

 言葉は丁寧であったが、男がオヅマを子供とあなどって屈服させようとしているのは明らかだった。

 オヅマはフンとせせら笑うと、腕を組んで問うた。

 

「それで? アンタらはここまで来て、コイツらを無罪放免にするってのか? とんだ保安(ほあん)衛士(えじ)だな」

「保安衛士ではない! 私はブルッキネン伯爵配下の騎士、ラッセ・オードソンだ!」

 

 一般的に衛士はその土地の役人が管轄する下級官吏であり、騎士は主君に忠誠を誓った直属配下なので、ラッセはオヅマの勘違いに猛烈に腹を立てた。

 もっともこれは、オヅマもある程度予想した上でのことだ。

 略式だが甲冑をつけ、主家の紋章を染めたマントを羽織ったラッセの格好からして、保安衛士でないことは既に承知していたから。(ちなみに保安衛士の制服は、灰と黒の縞模様の上着に灰色のズボン、堅いつばのついた黒の帽子だ)

 

「騎士であるなら、自分の言動に少しは気をつけるんだな。アンタはまず、この場での状況もロクに確認せず、俺をここで無駄に騒ぎを起こした無法者と決めつけた。その勘違いを謝りもしないで、次には馬泥棒を見逃してくれという。騎士にとって馬は剣と同じ。その()()を知っていて言うのなら、俺はアンタを騎士と認めないし、そもそも()()がわからないというなら、これもまた騎士といえないんじゃないか?」

 

 ラッセは自分よりも遥かに年下の少年の、滔々(とうとう)とした弁舌に目を丸くしながらも、その皮肉げな口調に腹を立てた。

 

「見逃せとは言っていない! こやつらは引っ捕らえる」

「あぁ、そうかい。じゃ、さっさと連れていってくれよ」

 

 人を食ったような少年の物言いに青筋を立てつつも、ラッセはすぐさま配下の騎士に指示して、倒れているゴロツキ共と、馬泥棒をしようとしていたクートを捕えさせた。

 

「えぇぇ? 俺もォ?」

 

 クートは不満そうに言いながらも、素直に縄に巻かれ、騎士たちに連れられていく。

 

「これでよかろう」

 

 ラッセは尊大に言ってきたが、オヅマは冷めた顔だった。

 

「せいぜい牢屋に放り込んで終わりになりそうだな。レーゲンブルトなら、たとえ顔見知りであっても…いや、なんなら顔見知りである分、こんなことをしようもんなら、鞭の数が二十は増えたろうがな」

「こっ…ここは、レーゲンブルトではない! 領内の差配は領主様にある!」

「もちろんだ。じゃ、もういいよな」

「待て。今日はもういいが、明日、この騒ぎの仔細(しさい)を聞くから、領主館に出頭しろ」

「はぁ? 仔細も何も、見た通りだろうが」

「双方の意見を聞いた上で、領主様に報告する」

 

 オヅマはハーッとため息をついた。

 なんとまぁ、四角四面というか、融通がきかないというか、馬鹿というか。この顛末を見ておいて、なにが双方の意見だ。

 

 一方のラッセは、目の前の少年のいちいち人を小馬鹿にするような態度に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。

 

「なんだ、そのため息は! 見習い騎士風情が、生意気な。たとえレーゲンブルト騎士団に所属してようとも、この領内で騒ぎを起こせば、領主様によって裁定がなされるのは当然のことだ!」

 

 わめき立てるラッセを、オヅマは相手するのも面倒だった。あさっての方向を見ながら、ひとり言のようにつぶやく。

 

「そもそも自分の領内で騎士の馬を盗むような輩がいるってことを、恥にもしない領主なら、何を聞いてどう裁きをつけるってんだか」

「なっ、なんだとッ! おのれ、我が(あるじ)を馬鹿にしくさるかッ!!」

 

 ラッセが腰に()いた剣の柄に手をやると、背後に控えた数人の騎士も同じように攻撃態勢をとる。

 オヅマはそれまで浮かべていた皮肉げな笑みすらもスッと消した。

 音もなくラッセの間近に迫り、柄にあてたラッセの手を押さえつける。

 ラッセはいつの間にか目前にいた少年の敏捷さにも驚いたが、自分の手を押さえつけるその力の強さにも息を呑んだ。

 

「ひとつ、さっきの泥棒に言っておけ」

 

 静かでありながら、妙に圧迫してくる声が、ラッセたちの気勢を削いだ。

 

黒角馬(コイツ)を盗んだ時点でレーゲンブルト騎士団が動く。盗んだやつも、買ったやつも、仲介したやつらも、全員、ただでは済まさない」

 

 ラッセは言葉を失った。

 子供とは思えぬその気迫、もはや殺気と言ってもいい。

 

 そのままスタスタと宿に戻っていく少年を、止めることもできなかった。

 困惑するラッセの肩をポンポンと軽く叩いたのは、白いターバンを巻いた西方の商人のような風体の男 ―― エラルドジェイだった。

 

「ま、今日のところはこのあたりで。俺らも一日中歩きづめで疲れて気が立ってるんだ。大目に見てよ。それと、この馬さぁ、よっぽど慣れた人間じゃないと、扱える代物じゃないよ。さっきの男、下手に連れて行こうとしてたら、蹴り殺されてたよ、この馬に」

「まさか…」

「知らないのか? レーゲンブルトの黒角馬(くろつのうま)だよ、コイツ。普通の馬と同じだと思ってたら、とんでもないぜ。馬力分、破壊力も凄まじい。一蹴りでアンタの頭くらい、軽く吹っ飛ぶだろうぜ」

 

 ラッセは馬房の中から、自分を見下ろす黒角馬を仰ぎ見た。仄かに赤く目が光っている。

 

「あぁ~、興奮しちまったんだな。目が赤く光ってるときは、危険なんだ。さ、とっとと帰った帰った」

 

 軽い調子で言われムッとしつつも、ラッセは踵を返した。それでもさっきまでの狼狽ぶりが己でも恥ずかしかったのだろう。ゴホンと咳払いして振り返ると、鹿爪らしい顔で言いつける。

 

「ともかく、明日にはお前たち両名で領主館に来るように。よいな?」

「ハイハーイ」

 

 エラルドジェイは軽く請け負った。それは了承したからではなく、ここでオヅマのように反発したところで、事が長くなるとわかっていたからだ。こうした手合に理屈をつけて勝ったところで、大した意味もない。

 

 ラッセもまた、少年に続き無礼極まりない男に渋面になったが、これ以上の詮議を続けても煙に巻かれるだけと感じて、喉奥に文句を押し込んだ。

 この領内にいる間は、彼らの様子などいくらでも知りようはあるのだ。

 

 宿に戻ったエラルドジェイは、既に寝息をたてて眠っているオヅマを見て、軽くため息をついた。

 

「…っとに。なんだって、あんなおっかない気配出すんだかな……」

 

 ふざけたように言いながらも、エラルドジェイの顔にはかすかな不安がよぎった。

 

 

 

***

 

 

 

 翌朝、起きて食堂へ向かうと、早々に宿屋の女将が謝ってきた。

 

「本当に申し訳ない。ウチの亭主がクートのヤツを入れちまったみたいで…」

 

 貫禄のある女将のあとから、大柄な体をすぼませて宿屋の主人がやって来て、ひたすら謝りまくる。

 どうやら昨夜、オヅマの馬を盗もうとしていたクートというのは、亭主の幼馴染で、昔からこの辺りでは悪童として知られ、いい年した今においても少々困り者であるらしい。

 昨夜はめずらしく酒など持ってやって来たので、二人で酒盛りを始めたのだが、酒の弱い亭主は早々に眠り込んでしまい、あの騒ぎで目を覚まし、あわてて領主館に知らせたのだと言う。

 一方、女将は眠ったら朝日を見るまでぐっすり寝てしまうタチらしく、昨夜の騒ぎもまったく知らず、朝になって亭主から聞かされたのだという。

 

 二人からさんざに謝られた上、朝食にソーセージのおまけもあったので、オヅマはそのことについて二人に詰め寄ることはしなかった。

 昨夜の騎士も、同じように自分の非を早々に認めて謝りさえすれば、ああまで嫌味たらしいことを言わずに済んだというのに、自分の役回りに権威がつくにつれ、無駄に威張るようになる部類の人間らしい。

 

「で、どうする? 一応、なんか領主館に来いって言ってたけど?」

 

 エラルドジェイに尋ねられて、オヅマは平然と言った。

 

「予定通りだよ。まずはルミアに言われた鍛冶屋のオヤジのとこに行く」

「それから行くのか?」

「別に行く時間まで指定されてないだろ? 一応、顔は出すさ。気が向けば」

 

 予定が決まると、二人はさっさと朝食を食べて、ルミアに言われた鍛冶屋のモンスを訪ねた。

 

 応対した赤毛で吊り目の若い女は、つっけんどんな態度ながらも、ルミアからの紹介だと言うと、オヅマ達をモンスのいる鍛冶場に案内した。

 まだ、仕事前なのか炉に火はなく、炭が入ったいくつかの木桶やら、大小のハンマー、ゴツそうな皮の手袋などが無造作に置かれた小さな作業場の中央で、老爺(ろうや)が小さな椅子(スツール)に腰を降ろし、朝の一服とばかりにパイプをくゆらせていた。

 

「お爺さん、お客さん。ルミア(ばば)のお弟子さんだって」

 

 女が素っ気ない口調で声をかけると、ゆっくりと老爺がこちらに顔を向ける。頭髪は寄る年波なのか、それとも元から短くしているのか、半ばまでツルリと禿げていたが、白い眉と髭がもっさりと老爺の顔を覆っていた。

 

 使い込まれた鉄床(アンビル)の、鳥の(くちばし)のようになった部分に手をかけて、老爺はよっこらしょと立ち上がる。どうやらこの老爺がモンスであるらしい。

 

「ほぉ……ルミアの弟子が来るとはな…」

 

 白い顎髭をしごきながら、モンスは興味津々といった様子でオヅマを眺めた。

 ルミアと同じか、少し年上くらいの老爺であったが、大きな緑の瞳はまるで子供さながら好奇心をみなぎらせて、オヅマをまじまじと見つめてくる。

 あまりに凝視されて、オヅマはやや仰け反った。

 

「…なに?」

 

 眉を寄せて問いかけると、モンスはホッホ、と髭の間からくぐもった笑い声をたてた。

 

「いや、ハ、すまんすまん。ルミアの弟子がワシを訪ねてくるなんぞ…ヴァルナル・クランツ…いや、そのあとに一人、娘が来たか。久しぶりじゃて……それにしても……小僧、お前幾つになる?」

「新年には十三だ」

 

 あえて現在の年ではなく、再来月に控えた新年になってからの年齢を言ってしまうのは、昨夜子供扱いされたことへの、ちょっとした抵抗があったのかもしれない。

 モンスはそうしたオヅマの心持ちに覚えがあったのか、ホッホ! と朗らかに笑った。

 

「自らの年を嵩増(かさま)すは少年。若く盛るは年増女。年を忘るるは老人。いや、ハ、さてもさても、その年齢(とし)で、ルミアのお墨付きをもらうとは……将来、恐るべき哉」

 

 モンスはさっきまでのひん剥いた目とは逆に、見えているのか、見えていないのか、わからぬくらい細い目で、優しくオヅマを見て、両手を差し出した。

 

「手を見せてもらえるかの?」

「手?」

「そうじゃ。お前さんの剣を作らねばならぬでな」

「え? なんで?」

 

 尋ねながらも、オヅマはつられるようにしてモンスに自分の手を乗せる。モンスは細い目を糸のようにして、穏やかに笑った。

 

「ホッホ。相変わらず説明をせん婆じゃな、あやつ。ルミアの元に修行に来よる奴は多くいるが、ルミアが弟子と認めて、技を伝授したと認める者はそうおらん。認められた者だけがワシの元に来て、剣を授けることになっとる。…これがルミアなりの弟子への餞別での」

 

 オヅマはようやくルミアの意図を知り、言葉もなかった。

 モンスの言葉ではないが、説明がなさすぎだ。こんなことなら、もっとちゃんと礼を言うべきだった。

 オヅマが呆気にとられている間にも、モンスはオヅマの手を握ったり、指の一本一本の長さを自分の手で確認したりして、フムフムと頷きながら、構想を練っているようだ。得心すると、そっとオヅマの手を離した。

 

「フム…まだまだ成長するじゃろうし、最終的な(モン)は成人になってからとして、今のお前さんにピッタリな(モン)を作ってやろう」

「本当に?」

「あぁ。お前さん、運が良いぞ。ちょうど、セトルデンからいい鋼が手に入ってな…」

 

 セトルデンはサフェナ=レーゲンブルトと境界を接した、同じグレヴィリウス配下のシェットランゼ伯爵の領地だ。北にヴェッデンボリ山脈に連なる豊富な森林資源をもち、海に面した東には良質な鉄鉱石と石炭の取れる山があるので、昔から鉄鋼・鋳造の町として有名だった。昨日までオヅマのいたズァーデン村の東を流れる川の上流に位置しているので、下流にあるこのシュテルムドルソンに良質の鋼が入ってくるのだろう。

 

 モンスはいくつかの鋼をオヅマに見せて、どれがいいか問うてきた。オヅマはよくわからないながらも、なんとなく気になったものをいくつか手に取って見比べる。その間、ずっと手持ち無沙汰にしていたエラルドジェイが、モンスに尋ねた。

 

「爺さん。アンタ、剣を作るなら(とぎ)もやるのか?」

(とぎ)? なんぞ砥いでほしいモンがあるのか?」

 

 モンスはエラルドジェイの格好を見て、西方から来た商人と思っていたらしく、意外そうに尋ね返す。

 エラルドジェイはゴソゴソと左腕に仕込んでいた爪鎌(ダ・ルソー)を取り外し、モンスに見せた。

 

「これをちょいとばか、砥いでおいてもらいたくてね」

「おぉぉ…!」

 

 モンスは唸り声をあげ、また目をカッと開いた。緑の瞳が爛々と輝きを帯びる。

 

「こりゃあ…お前さん、シラネの逸品じゃないか! この刃、この絶妙な反り、こんな鋭利な刃はシラネでしか作れん! ハ、なんとまぁ、美しく凄まじい…。さすが…さすがというしかない。これほどまでのものであるのに銘すら残さんとは…なんと勿体ない!! ハ、いやぁ…ハ、見事じゃ~」

 

 ひどく興奮するモンスに、オヅマとエラルドジェイは目を見合わせる。

 

「シラネって…西の端っこにある国だったっけ?」

 

 オヅマが尋ねると、エラルドジェイは自分でもうろ覚えなのか、首をかしげつつ思い出した言葉を連ねた。

 

「いや。どっかの集落? みたいのだろ。鍛冶屋ばっかが集まってる…みたいな。伝説の。本当にあるのかどうか知らないけど」

「そこで作ってもらったのか?」

「いや~…まー、もらった…つーか、戦利品っつーか…」

 

 いきなり歯切れの悪くなったエラルドジェイに、オヅマは察した。

 おそらく殺した相手からぶんどったのだろう。よりよい武器を求めるのは騎士だけでなく、殺し屋も同じだ。何であれば騎士よりも、より日常的に、より実践的に、殺傷能力の高い武器を求めるものなのだろう。

 

「よくもまぁ、あんな重いもんをぶん回せるね」

「そうなんだよなぁ。お陰で右の腕ばっか太くなってきちゃってさ。なーんか体が傾くんだよなー」

「だったら、四本もつけるなよ。二本で十分だろ」

「まぁ…そうなんだよなぁ。その方が軽いしな~。そうすっかな、この際」

 

 話していると、ようやくモンスが興奮を鎮め、エラルドジェイに言った。

 

「ワシは砥は苦手じゃが、弟子の一人は得意にしとってな。若いが腕はえぇぞ。ホレ、さっきここに案内してきよった、無愛想な娘がおったじゃろう? アルニカと言うんだが…あいつに頼むとえぇ。えぇ仕事しよる」

「そっか。じゃ、彼女に頼むとしよう。それで代金だけどさ、この四本の爪鎌の二本をやるからさ、それでどうだい?」

「ホッホ~! えぇのか?! いや、ワシも嬉しいが…もう一人の弟子はシラネの剣に、そりゃあ憧れておっての。アンタがくれるというなら、有難い。研究熱心な奴じゃて、きっと十分に勉強しよるだろう。こうしちゃおれん。おい、アルニカ! おい、ケビ! 凄いモンがあるぞ~」

 

 モンスはやっぱり浮足立つのを止められないようで、スキップしそうな勢いで作業場を飛び出すと、弟子たちを呼びに行った。しかしすぐに戻ってくる。再び現れたその顔は、うって変わって不機嫌極まりなかった。

 

「お前さんらに用があるらしいぞ」

 

 ぶっすり言ったモンスの背後から、わらわらと現れたのは、昨夜の騎士御一行様だった。

 

「領主館に出頭せよと申したであろう!」

 

 ラッセが居丈高に怒鳴るのを、オヅマとエラルドジェイは白けた目で見つめたあと、顔を合わせて同時に長い溜息をついた。

 





引き続き更新します。
前週はお休みいただき、申し訳ございませんでした。


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第百五十六話 ブルッキネン伯爵夫人

 ラッセにほとんど無理矢理に連れられて、オヅマはこの領地を治めるブルッキネン伯爵の領主館へとやって来た。

 シュテルムドルソンの中心部から少しだけ離れた場所にあるその建物は、元は北部要塞の一部であった無骨なレーゲンブルトの領主館と違い、どちらかというと広大な屋敷というに相応(ふさわ)しかった。アールリンデンのもはや城ともいうべき公爵邸とは比べ物にならないが、それでも来る道すがらに見てきた商家の邸宅とは、格段の差がある。

 

 オヅマ達は門番に胡散臭そうに見られながら門扉を通ったものの、館内へは案内されず、最終的に辿り着いた場所は、灰色の石畳が敷かれた、いわゆる裁きの場だった。

 

 オヅマはまたため息がでた。

 

「これ、手に縄がかかってないだけで、ほとんど罪人扱いじゃねぇ?」

 

 エラルドジェイが言うのも、相槌をうつ気力すらない。

 既に昨夜の段階で、オヅマがレーゲンブルト騎士団に所属していることは、知っているはずだ。その上でこの扱い。

 どうやら迎えにきた威張りくさった騎士同様に、領主も話の通じる人間ではないようだ。いや、この時期であれば領主は帝都に行っているだろうから、行政長官といったところか。

 

「あーあ、さっきまではいい気分だったってのに」

 

 オヅマが空を仰いでぼやくと、張りのある女の声が響く。

 

「不満げな様子ね」

 

 上を向いていた顔を水平に戻すと、館から現れたのは松葉杖をついた女だった。

 モスグリーンの落ち着いた色合いの詰襟ドレスを着て、楕円の眼鏡をかけている。ぴっしりと後ろにひっつめた乱れのない金髪と、薄茶色の厳しい眼差し、尖り気味のややしゃくれた顎。

 オヅマはなんとなく見たことがあるような、奇妙な感覚にとらわれた。

 

 女は用意されていた椅子に腰掛けると、ゆっくりとオヅマ達を眺め回した。頭からつま先まで二往復したところで、大きくため息をつき、おもむろに口を開く。

 

「まったく……。レーゲンブルト騎士団も質が落ちたと、ヴァルナル・クランツに言ってやらないとね。他人の領地に来た挙句、馬を泥棒されそうになったからって、領主に文句をつけて、金をせびり取ろうとするような子供を寄越すなんて」

 

 まったく…のあとから続く言葉があまりにも早口で、オヅマはすぐに理解できなかった。

 ただ一言、一番違和感をもった言葉に反応する。

 

「金?」

 

 問い返すと、女は大きく頷いた。

 

「えぇ、聞きましたよ。意気揚々と黒角馬(くろつのうま)でやって来たはいいものの、うまく扱えなくて馬に逃げられたうえに、そのまま馬を盗まれそうになったところに、ラッセたちが来て、引っ捕らえてもらえたんでしょう? それで『ありがとう』と、素直に感謝して終わればいいものを…。なんですって? 騎士の馬を泥棒するような奴を野放しにしておいたのは、領主の責任だから慰謝料を支払えと?」

 

 オヅマは呆気にとられた。

 いったい何がどうなって、そんなことになっているのだろう? いや、首謀者は明らかだ。オヅマは女のそばに立つラッセを睨みつけたが、ラッセはフンとあさっての方向を向いて素知らぬ顔だ。

 女はオヅマがラッセを睨むのを見て、眉間に指をあて、苛立たしげにため息をついた。それから顔を上げると、キッと真っ直ぐにオヅマを睨み据える。

 

「この期に及んでその反抗的な態度はいかがなものでしょうね。素直に自らの行いを反省するなら、とりあえず不問にしましょう。ただし、クランツ卿には知らせますよ。彼から、たっぷりと叱ってもらいますからね」

 

 どうやらこの目の前の女は、ヴァルナルを知っているらしい。さっきからその名前を呼ぶときは、旧友に対するような気安さがある。

 それにしても ――― と、オヅマはもはや言い返すのすら面倒になってきて、じっくり女を見つめた。

 

 女である以上、領主ではないだろう。現在の帝国において、貴族の位を女が持つことは許されていない。例外的に継嗣となるべき男児のいない場合に、娘が父の爵位と領地を相続することは許されているが、爵位と領主の地位は与えられない。それも一定期間内に婿を迎えるか、自らの息子に譲ることが条件だ。

 

 では、非常に珍しいことではあるが、女の行政長官だろうか?

 帝都においては、まだまだ政治行政に女が関わることは少ないが、地方においては人材が少ないために、女性の行政官もいる。レーゲンブルトでも、書記官として二人、雇われていた。

 だが、いくら他領地の有能な官吏であったとしても、貴族であるヴァルナルを呼び捨てにするような非礼をするはずがない。そもそもそんな礼儀知らずな人間であれば、領主も雇わないだろう。女性の行政官は概ね、その優秀さを買われて雇用されるものなのだから。

 

 だとすれば、この目の前にいる、人の話を聞くこともせずに決めつけてかかる、横柄きわまりない女は…?

 

「貴様! そのようにジロジロと無遠慮に見るものではない! 伯爵夫人に対して、失礼であろう!!」

 

 有難いことに、オヅマに答えを教えてくれたのは、ラッセだった。

 

 歴史上においても現在においても、亭主を尻に敷いて、それこそ領主さながらに威勢を振るう女傑はいる。どうやら目の前の伯爵夫人も、その部類らしい。しかも居並ぶ騎士や役人たちの顔を見る限りにおいては、それなりに人を従えさせる力も持っているようだ。

 

「おやめ、ラッセ。言ってもまだまだ子供。分別を教えてやるのが、大人の役割というものですよ」

 

 伯爵夫人は部下をたしなめ、オヅマをジロリと見つめる。その目は謝罪を待っているようだったが、オヅマは無視した。

 内心、白けきっていた。

 とんだ三文芝居だ。いっそこのままここで捕まって、ヴァルナルに知らせてもらって、互いにどんな反応をするのか見てみたい気もしたが、そんなことになったら一番悲しむのは(ミーナ)だろう。

 泣かれでもしたらと考えるだけで、気分が萎える。

 さて、どうするか……?

 

 憂鬱な表情でオヅマが思案している間にも、伯爵夫人は気忙しそうに尋問してくる。

 

「じゃ、とりあえず名前を聞こうかしらね? お名前は? 騎士見習いの坊や。それと隣のお前は商人なの? 見たところ、商売道具も何も、持っていないようだけど?」

 

 伯爵夫人に問われて、エラルドジェイはニッコリと笑った。

 

「主に糸の行商をしております、奥様」

「糸の行商?」

「はい。ですが、土地土地を巡りますので、手紙を言付かったり、荷物を届けたり、別の土地の風聞を酒場で話し聞かせたりと…ま、様々に役立ててもらっております」

「ふん。如才ないことね。ま、いいわ。お前の名前は?」

「ジェイ=ロー・スムと申します」

 

 すらすら言って、エラルドジェイは深々と頭を下げる。完全な嘘ではなく、真実を織り交ぜて言うあたり、手慣れたものだ。 

 伯爵夫人はオヅマに目を向ける。そのときになって、オヅマは自分がまだ名乗りもしていないことに気付いたが、いざ名乗るとなると渋い顔になった。

 

「……オヅマ」

 

 口をとがらせて、ボソリと言う。

 伯爵夫人は聞こえなかったのか首をかしげて、耳をオヅマの方へと向けた。「なんですって?」

 

「大きな声で名乗れ!」

 

 案の定、ラッセが怒鳴りつけてくる。

 エラルドジェイがコツリと肘を小突いてきた。

 

「ちゃんと名乗れよ。いい加減、面倒だ」

「……わかったよ」

 

 オヅマはため息をつくと、さっきよりは大きな声で名乗った。

 

「オヅマ・クランツだ」

「オヅマ・クランツね…」

 

 伯爵夫人は復唱してから、ややあって動きを止めた。

 まじまじとオヅマを見つめてくる。

 

「オヅマ…クランツ?」

 

 問い返されて、オヅマは不貞腐れた顔で頷く。

 

「なっ…き、貴様! 嘘をつくな!! あのクランツ男爵の息子だと? 有り得んッ」

 

 ラッセが半ば驚き、半ば慌てたようにまた怒鳴ってきたが、オヅマは平然と言い返した。

 

「あぁ、そうかい。嘘と思うなら、それこそヴァルナル・クランツ男爵にお伺いをたててみるといいさ」

「ちょっとお待ちなさい!」

 

 伯爵夫人はラッセとオヅマ両方を制して、再び尋ねる。

 

「オヅマ・クランツ? 本当にあなたが、あの……オヅマだというの?」

 

 パチパチと目まぐるしく伯爵夫人は目をしばたかせる。

 オヅマは静かに息を吐いてから、礼儀作法で習ったとおりに、恭しくお辞儀してみせた。

 

「えぇ、左様でございます。伯爵夫人。このような形でお目にかかることができ、重畳(ちょうじょう)至極(しごく)にございます」

 

 言葉だけ丁寧であったものの、そこに気持ちは当然こもっていない。

 だが伯爵夫人は怒らなかった。唖然と口を開いたままオヅマを見つめて、目の瞬きがようやく収まると、ニッコリと笑みを浮かべた。

 

「なるほどね。あなたが……オヅマ・クランツ。フフ…息子が言っていた通り、生意気で傍若無人な坊やだこと」

 

 腕を組み、非難めいたことを言いつつも、オヅマを見つめるその眼差しに、先程までの峻厳とした冷たさはない。

 

「息子?」

 

 オヅマが問うと、伯爵夫人は大きく頷いた。

 

「えぇ、そうよ。あなたと同じ近侍の、マティアス・ブルッキネンは、私の息子よ」

 

 今度はオヅマが驚く番だった。

 

「マティの母親?」

「あら、マティなんて呼ばれているのね。随分と仲良くなったこと」

 

 伯爵夫人はそう言って、隣に控えた侍女の手を借りて立ち上がると、オヅマに軽くお辞儀した。

 

「私はこのスモァルト=シュテルムドルソンの領主、アハト・タルモ・ブルッキネン伯爵の妻、ブラジェナ・ブルッキネンよ。奇妙な出会いとなったものね、オヅマ・クランツ」

 

 上から見下ろす視線に、オヅマは最初に会った日のマティアスのことを思い出した。そうしてようやく、最初に伯爵夫人を見たときから抱いていた、奇妙な既視感の正体を悟ったのだった。

 

 

***

 

 

 ブラジェナはその後、オヅマへの尋問を一旦中止した。

 控えていた侍女と執事に指示して、オヅマは領主館内の貴賓客用の応接室、エラルドジェイは使用人用の応接室にそれぞれ通された。

 おそらく客人に向けて、もっとも高級な調度品で飾られた部屋のソファで、オヅマが落ち着きなく待っていると、気忙しい足音が近づいてくる。バタンとブラジェナが扉を大きく開いて入ってきた。

 

「お待たせしたわね」

 

 ツカツカと歩いてきて、ブラジェナはオヅマの前に立つと、いきなり深々と頭を下げた。

 

「え? なに? いきなり……」

「ラッセと、馬を盗もうとしていたクート、昨日宿屋に向かったその他の騎士から詳しく、再度事情聴取をしました。随分と誇張され、部分的に虚偽もあったようですね。彼らに代わり謝罪します。申し訳ないことをしました」

 

 オヅマはしばし唖然として頭を下げるブラジェナを見ていたが、状況を把握すると、途端に面倒くさくなった。

 

「もう、いいよ」

 

 色々と文句も言いたかったが、誤解が誤解とわかったならば、これ以上蒸し返すのも時間の無駄だ。オヅマはそれで話を打ち切ろうとしたが、ブラジェナは頭を上げると、真面目くさった顔で続けた。

 

「ただし、彼らにも言い分があります。貴方(あなた)の、この地の領主に対する態度が甚だ不遜であった……と。彼らの忠誠心が、貴方に対する偏見を生んだのです。これは貴方にも責がありますよ、オヅマ」

 

 まるで教師に諭されているような気分になって、オヅマはげんなりした。

 この、最初から人を矯正しようとしてくるあたり、本当に出会ったばかりの頃のマティアスを思い出す。

 

「本来であれば、先程も申した通り、ヴァルナル・クランツ男爵に一報して、貴方への譴責(けんせき)を進言すべきでしょうが、こちらにも落ち度があり、(おそ)れ多くも小公爵様の近侍である貴方に対して、知らぬこととはいえ不当な扱いを行ったのですから、不問と致します」

 

 どう考えてもそちらの勘違いが多分を占めていると思ったが、オヅマはあえて何も言わないことにした。もし言って、またくどくどと自らの正当性を言い立てられるのも面倒だ。

 

「それで? どうしてこの地に貴方が? マティアスからは貴方が帝都に行かず、なにか特別な訓練を受けに行ったと、聞いていますが」

 

 ブラジェナは侍女に用意させたお茶を飲みながら、オヅマにシュテルムドルソンを訪れた経緯を尋ねてきた。

 オヅマは少々渋い茶に顔をしかめながら、簡単に説明した。

 

「ズァーデン村のルミア=デルゼ老師の元で修行し、終わったあとに、この地のモンスという鍛冶屋に行くように指示されたんです」

「モンスのところに? どうしてまた?」

「剣を作ってもらうためです。修行が終わったと師匠に認めてもらったら、モンスに剣を作ってもらうことになってるみたいです。それで……」

「あぁ、そういうことね。でも、貴方も少し迂闊よ。シュテルムドルソンがブルッキネンの領府(りょうふ)であることは知っていたでしょう? だったらどうして、すぐにここに来ないの?」

「え? なんで?」

 

 オヅマが不思議そうに尋ね返すと、ブラジェナはふぅとため息をつく。軽く額を押さえた。

 

「オヅマ。口の利き方に気をつけなさい。目上の人間に『なんで?』なんて、気安い口調で話すものではありません」

「はーい」

 

 オヅマはブラジェナからそっと目線を逸らして、一応返事した。

 まさかこの期に及んで、ブルッキネンという名前が、マティアスの姓であることに気付いていなかったとは言えない。言ったらまたそのことで『勉強不足ですよ!』と、新たなお説教が始まりかねない。

 ブラジェナはオヅマのまったく反省がみられない態度に、眼鏡をクイと上げると、懇々と諭し始めた。

 

「よいこと、オヅマ。貴方はお母様がヴァルナル・クランツと結婚したことで(にわか)に息子になって、色々と戸惑うことも多いでしょうから、教えておきます。ここはブルッキネン伯爵家の領地で、貴方はクランツ男爵の公子であるのだから、他領地を訪れたのであれば、その土地の主に対して面会を乞い、挨拶をするものです。無断で領地に来て、コソコソと内緒で動き回っていたら、いらぬ詮索をされるのですよ。わかりますね?」

「はい、わかりました」

 

 オヅマは素直に頷いたが、ブラジェナの説教はまだ終わらない。

 

「それに貴方は私の息子同様に小公爵様の近侍でもある。同じ近侍という(よしみ)もあるのだから、尚の事、一言くらい来参の挨拶をするものです」

「………」

 

 オヅマはもう作り笑いを浮かべたまま固まるしかなかった。

 本当に、早く終わってくれ…。

 

 しかし願いむなしく、ブラジェナは勝手にオヅマに領主館に逗留(とうりゅう)するよう決めつけてきた。

 

「どうせモンスのところで剣を作っている間は、ここで待つことになるのでしょう? であれば、この領主館に滞在すればよいのです。小公爵様の近侍ともあろう身分の者が、そこいらの宿屋にいては、宿の者たちも恐縮して困り果てることでしょう」

 

 そもそも、そんな身分であることを明かしていなかったというのに、勝手にブラジェナが派遣した領主館の召使いによって、オヅマの身の上は知れることになってしまった。おまけにブラジェナは周到にも、黒角馬(くろつのうま)が慣れた人間でないと扱えないことを考慮し、エラルドジェイに頼んで、カイルを領主館に連れてきてしまった。

 

「まぁ、いいんじゃね? ふかふかベッドでぐっすり寝れるし、おまんまもたらふく食べられるし」

 

 呑気にエラルドジェイは言ったが、ブラジェナは当初、エラルドジェイをオヅマの従者か何かと思い、使用人用の空き部屋を用意していたのだ。

 しかし、オヅマはこれについては厳然と抗議した。

 

「ジェイは従者ではありません。彼は………恩人です」

 

 ようやくオヅマが絞り出した言葉に、その場にいたエラルドジェイの眉がピクリと上がる。ブラジェナは、背後で微妙な表情になって黙り込むエラルドジェイに気付かず、オヅマに問いかけた。

 

「恩人ですって? 旅の途中でお世話になったの?」

「まぁ…はい。そうです」

 

 無論、ブラジェナの言う旅というのは、ズァーデンからここに来るまでの旅のことを言っているのだろう。だが、オヅマの中で鮮明なのは、()の中での、帝都までの長い道のりを、エラルドジェイと共に過ごした日々だった。

 今更ながらに、痛感する。

 あの()で味わった多くの経験と、それに付随する感情は、もはや手に入れることはできない。寂しい痛みが、チクリチクリと胸を刺す。

 

「まぁ、貴方がそこまで言うのなら、こちらの方もそれ相応に遇するべきでしょうね」

 

 ブラジェナはオヅマの意見を尊重してくれ、オヅマの隣の部屋をエラルドジェイに提供してくれた。

 こういう話せばわかる対応をしてくるところまで、親子してそっくりだ。

 オヅマはすっかり忘れ去っていた、口やかましい友を思い出し、苦笑した。

 





引き続き更新します。


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第百五十七話 ブラジェナの話

 それからもブラジェナはオヅマの礼儀作法教師よろしく、何かとうるさく言ってきた。

 しかも二言目には、

 

貴方(あなた)は小公爵様の近侍として、恥じない行いを心がけねばなりません!」

 

と、アドリアンを持ち出してくる。

 

 内心、面倒で仕方なかったが、マティアスの母親だと聞いたら無下にもできないし、そもそも怪我をして、足が不自由になっている貴婦人相手に、怒鳴りつけるようなことはしたくもない。

 それにオヅマとて、ブラジェナが決して意地悪で言っているわけでないのはわかっていた。

 

「よいですか、オヅマ。貴方のように、元は平民であった者が貴族社会で生きていくためには、それこそどの貴族よりも貴族らしい立ち居振舞いを、身に着けねばなりません。それが、貴方自身を無用な争いから守ってくれるのですよ」

 

 ブラジェナは切々と教え諭す。そこにラッセのような尊大さも、自らの権威を誇示する意図もない。ブラジェナは心底、オヅマの行く末を心配し、同時に小公爵であるアドリアンのことを思いやっていた。

 オヅマは最初、ブラジェナがそこまでアドリアンについて気にかけるのは、自分の息子が近侍として仕えているからだろうと考えていたのだが、実は別の理由があった。

 

「え? 公爵夫人の侍女……ってことは、アドルのお母さんに(つか)えてたってこと?」

 

 オヅマの問いかけに、ブラジェナはピクリと眉を寄せた。

 

「オヅマ、また間違えています。アドルではありません。小公爵様とお呼びなさい。貴方と小公爵様が、レーゲンブルトで対番(ついばん)として仲良くしていたということは了承していますが、人前では…」

「あぁ、はい。わかりました。……それで小公爵さまのお母上の侍女をされていたって?」

「えぇ。そうですよ」

 

 ブラジェナはお茶を含み、穏やかな笑顔になった。

 

「懐かしいことです。リーディエ様にお仕えした日々は、私にとって最も光り輝く宝物のような思い出です。本来であれば、結婚した時点でお役目を辞するべきでしたけど、どうしてもリーディエ様とご一緒にいたくて、主人にも了承の上で、お勤めを続けさせてもらいました。マティアスを妊娠して、仕方なく(いとま)をもらうことになりましたが、それでも生まれる前も後も、何かと気にかけてもらいましたわ。マティアスも抱っこしていただいて、ちょうどその頃にはリーディエ様も、ようやく小公爵さまを身籠られて。本当に、本当に…あれほどに幸福に満ちた時間はなかった……」

 

 笑顔が急速に翳ると、ブラジェナの瞳から涙がポトリと落ちた。すぐさまハンカチで拭って、顔を引き締める。

 

「けれど、最上の幸福というのは、大いなる不幸への予兆とはよく言ったものです。あの御方があんなに早くに亡くなられるなんて。知ったときには、私もまた気落ちして……マティアスがいなかったら、いっそ後を追っていたかもしれません」

 

 オヅマは半ば恍惚として話すブラジェナを見ながら、渋いお茶を啜っていたが、ふと気付いた。ずっと公爵邸に来てから思っていた疑問を、この人であれば答えてくれるのではないか?

 

「俺……」

「『僕』」

「あ、僕…ずっと疑問だったんですけど、どうして公爵閣下はアドリアンに冷たいんですか?」

 

 公爵邸において、ルーカスも家令のルンビックも、果てはハヴェルからですらも、公爵閣下が亡くなった奥方をとても愛していたと聞いた。だから不思議だった。どうしてそんなに愛した人の子供に対して、ああまで冷淡なのかと。

 

 最初は、貴族の親子関係だからそんなものなのかと、納得させていた。そもそも、広大な敷地内にいくつかある館で別々に暮らし、寝食も別ともなれば、親子としての情愛が薄くなっても当然だと思った。

 

 けれど他の近侍たちから、それぞれの家庭の話を聞くとそうでもないらしい。

 テリィなどは母親と頻繁に手紙のやり取りをしているし、月に一度は実家から衣服や保存のきく食品などを送ってくる。エーリクもあれで案外とマメに家族とは連絡を取っていたし、マティアスもこの新年に合わせて母親が刺繍してくれたというハンカチを受け取って、テリィのように騒ぐことはなかったが、それでも嬉しそうにしていた。

 それぞれに違ってはいても、どの家庭においても、家族への敬慕や親愛はあった。貴族であっても、そこは平民と変わりなかったのだ。

 

 アドリアンは物心ついたときには既に七竈(ナナカマド)館に暮らしていたという。本来、そこで暮らし始めるのは、半分大人(シャイクレード)として認められるようになってから。近侍らを持つようになってからのことらしい。

 このことはルンビックがつい口を滑らして言ってしまったのだが、そのときにオヅマは疑問に思って老家令に尋ねたのだ。『どうしてアドリアンは小さいときから、あそこで暮らしているのか?』と。

 

 老家令は難しい顔になり、首を振った。

 重い口を開いて言ったのは一言。

 

「公爵閣下が、そうお決めになったのだ」

 

 オヅマは更に問いたかったが、ルンビックは再び同じ言葉を繰り返した。それは公爵の決めたことに異を唱えることは許さない、と言外に伝えていた。それでオヅマは沈黙するしかなかったのだが、今、ここでならば聞いてもいいだろう。おそらくブラジェナはその答えを知っているだろうから。

 しかしオヅマからの質問に、ブラジェナもふっと目を伏せ、沈黙した。沈痛な面持ちで、静かにお茶を飲む。

 

「伯爵夫人、ここはアールリンデンではありません。ここにいる者の誰かが、告げ口しますか?」

 

 オヅマが答えを乞うと、ブラジェナは顔を上げて、いつになくボウっとした表情でつぶやくように話す。

 

「いいえ。…いえ、違うのよ。私はやはり公爵閣下は、まだ深い悲しみの中にあられるのだろうと…そう思ったの」

「それは、公爵夫人が亡くなったことに?」

「えぇ。そう…。私にとって、リーディエ様が唯一無二の(あるじ)であったように、閣下にとってはこの世でたった一人、誰よりも…何よりも大事な御方だったのでしょう。それこそ、お父上から猛反対され、勘当寸前となっても、断固として選び取った人だった。いえ…むしろ、閣下が公爵になったのは、リーディエ様を守るためだったのかもしれないわ。強固で揺るがぬ地位を持つことで、リーディエ様を守り、同時に繋ぎ止めようとしたのかもしれない」

 

 ブラジェナはリーディエに関することになると饒舌になった。だが、肝心なことを教えてくれない。オヅマは焦れったかったが、また不味(まず)いお茶を一口飲んで、心を落ち着かせた。

 

「そこまで好きだったのに、その奥方の子供であるアドリアンに冷たすぎないですか?」

 

 もう一度、同じことを尋ねると、ブラジェナはハーッと長い溜息をついた。

 

「それは…小公爵様を出産したことで、リーディエ様が亡くなられたからよ」

「は?」

 

 オヅマは面食らった。じっくりと噛み砕いて理解してから、念のため聞き返す。

 

「あの、公爵夫人がアド……小公爵さまを産んで、その、お産のときに亡くなられた……から、息子のことが、嫌いになった……とか、そういうこと…ですか?」

 

 ブラジェナは悲しそうにコクリと頷いた。

 

「はぁ!?」

 

 オヅマは思わず大声で叫ぶと、立ち上がった。

 

「なんだよ、それ! アドルが悪いわけじゃねぇだろ。命がけで産んでもらっておいて、なんで生まれた子供が嫌いになるんだよ!?」

 

 出産は命がけだ。オヅマのいたラディケ村でも、お産がもとで命を落とす母親はいた。だが、残された父親が、生まれてきた我が子を邪険にしたなど、聞いたことがない。オヅマの知っている限り、そうした寡夫(やもめ)の方が、むしろ子供を溺愛していたものだ。

 

 ブラジェナは、突然怒り出したオヅマに、呆気にとられた。しかしすぐに粗暴な言葉遣いに気付いて、いつものように叱りつける。

 

「オヅマ。またアドルなどと…」

 

 しかし今のオヅマには、ブラジェナの言葉は耳に入らなかった。

 ずっと疑問で、ずっとこの質問をするたびに暗い顔をする大人連中に、よっぽど何か重大で、隠したいような秘密があるのかと思っていたら……なんのことはない。

 

「自分の、大好きだった人が子供を産んだせいで、死んだから……その子供が嫌い!? なんだ、それ! ガキか。ガキでも、もっと物分りがいいぜ!」

 

 一気呵成(いっきかせい)にまくしたてても、オヅマの憤懣(ふんまん)は収まらなかった。

 あるいは大グレヴィリウスとも呼ばれる公爵家の当主として、本当はアドリアンに対して愛情を感じていても、あえて冷たく接しているのか……と、オヅマなりに()()()()()考えたこともあった。けれど蓋を開けてみれば、なんという()()()()()理由だ。

 

「俺の村に四人の子供産んで、五人目を産んだ時に亡くなったおばさんがいたけどなぁ……兄弟連中、みんな五人目の弟のこと、めちゃくちゃ可愛がってたぞ。おやっさんだって、俺がちょっといたずらして泣かせたら、拳骨振り回して怒ってたし。それが普通だろ? 違うのかよ?」

 

 ブラジェナは粛然として固まっていた。もはや言葉遣いを正すことなど念頭にない。

 オヅマの言うことは正しい。ずっと前からわかっていた。ただ、ブラジェナがそのことを公爵(エリアス)に言う機会は失せていた。

 

 アドリアンが生まれた直後から、エリアスはほとんど息子を顧みることがなかった。その冷たすぎる仕打ちに、ブラジェナは直接エリアスに諫言した。

 しかし、まだまだリーディエを亡くした悲しみが癒えていないエリアスは、ブラジェナを敬遠した。

 リーディエのもっとも近しい侍女であったブラジェナは、それこそ幸せの絶頂でいた頃を共にした存在であった。であればこそ、彼女の遠慮ない直言は、エリアスにとってより厳しく、よりつらいものであったのだろう。

 

 運の悪いことに、ちょうどその頃にまた南部地域が不穏になって、再び戦端が開かれる可能性があった。

 ブラジェナの援護射撃をしてくれそうな二人 ――― ルーカス・ベントソンとヴァルナル・クランツは、準備などに忙しく、最終的には二人とも出征してしまった。その他の良心のある人々も、多くは戦地に赴いて、ある者は死に、ある者は近親者の死に衝撃を受けて、姿を見せなくなっていた。

 

 文字通り、ブラジェナは孤立無援となってしまった。

 その頃になると、公爵が息子である小公爵に対し、何らの愛情もないということは公爵邸内はもちろん、グレヴィリウス家門の中では周知の事実となっていた。

 

 それでもブラジェナは、リーディエに仕えていたときと同様に、硬骨なる衷心(ちゅうしん)から、必死に訴えた。

 

「閣下。小公爵様は閣下とリーディエ様の間のご子息ではございませんか。どうか、親としての愛情をもって、小公爵様に接して下さいませ」

 

 しかしこの真摯(しんし)な訴えは、繰り返すほどにエリアスにとっては耳障りとなったのであろう。

 

 最終的に不興を買って、ブルッキネン伯爵家そのものが数年の間、アールリンデンに来参することも、新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)への同行も禁止された。

 この公爵家からの処置は、すぐさま近隣のグレヴィリウス配下家門の知るところとなり、忖度(そんたく)した彼らによって、ブルッキネン伯爵家は爪弾(つまはじ)きされた。一時期は金工細工のための材料さえ買えない事態に陥ったほどだ。

 

「お前のその差し出がましい口のせいで、我が家が破滅したらどうするのだ!?」

 

 当時まだ存命であった先代のブルッキネン伯爵とその夫人から、ブラジェナは厳しく叱責され、しばらく大人しく過ごすことを余儀なくされた。

 一切の公爵家との関わりを禁じられたのだ。

 

 三年に及ぶ暗黙裡の謹慎処分ののち、ようやくブルッキネン伯爵家が許されて、新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)へと向かうにあたっても、ブラジェナにはアドリアンとの接触を一切禁じるとする厳命が下った。

 それでもいいと、ブラジェナは受け入れた。

 遠くからでも、アドリアンの健やかに育った姿を見たかったから。

 

 ただ、五歳までアドリアンを親身に世話した乳母が、肺を病んで亡くなった後は、どんどんアドリアンから笑顔が消えていった。

 彼女の死後に新たな乳母は置かれず、数名の傅育官(ふいくかん)と従僕によって、アドリアンは養育された。その頃からアドリアンには子供らしい我儘は許されず、公爵家の若君として、忍従と責任を強いられる日々が始まったのであろう。

 

 久々に会ったルーカス・ベントソンに、どうにか孤独なアドリアンの環境を改善できないのかと、意見したこともあったが、彼もまた慎重であった。

 

「それは伯爵夫人も自ら経験したのであれば、お分かりだろう? 閣下に対して、小公爵様の養育について下手に口出せば、遠ざけられてしまうのだ。もし私やヴァルナルまでが、閣下の不興をかって、公爵邸から事実上追放された場合、誰が小公爵様を守れる? あの女狐がすぐさま、手下(てか)の者を送り込んでくるだろう。公爵閣下は正直、継嗣(けいし)が誰になろうと興味もないのだ」

 

 ブラジェナは忸怩たる思いを抱えながらも、ルーカスの言葉に頷くしかなかった。

 ヴァルナル・クランツは、悩み、落ち込むブラジェナを励ました。

 

「ずっとこのままということはないだろう。リーディエ様のことは、閣下にとって、つらくてたまらぬことだろうが、それでも生きている限り時間は進む。時間が経てば、小公爵様への態度もあるいは多少、変化していくかもしれない…」

 

 その言葉には、(ヴァルナル)自身の希望も含まれていたのだろう。そうしてヴァルナルは言葉通りに、公爵エリアスの止まった時間を少し押し進めてくれたようだ。

 思わぬ事件から、彼が小公爵をレーゲンブルトに連れて行ったことによって、それまで膠着(こうちゃく)していた事態は動き始めた。……

 

 息子であるマティアスを近侍にと、ルンビックからの打診を受けたときには、ブラジェナは驚いた。近侍の選定については老家令ら、公爵の補佐官が行うにしても、最終的に許可を出すのは公爵当人である。つまりこれはエリアスがブラジェナのことを許した、ということを意味していた。それが見当違いでないというのは、ルンビックが別に寄越した私信によって、この選定において公爵がまず決めたのが、マティアスであったと記してあったからだ。

 ただ近侍として決定した旨の書面には、アドリアンにブラジェナがリーディエの侍女であったこと、ひいてはリーディエに関することを一切話さないことが、再度下知されていた。

 

 ブラジェナはエリアスの歪んだ悲しみを感じた。

 本来であれば、最もアドリアンが知りたいであろう、亡くなった母親のことを教えない。そのことを知っている人間をなるべく遠ざけ、あるいは口止めすることで、アドリアンに母親への愛情を持つことすら禁じる。

 これこそエリアスがアドリアンに行っている、もっとも冷たい()()だった。

 

 きっとエリアスに近しい者であるほどに、何も言えなかったのだろう。

 ルーカスにしろ、ヴァルナルにしろ、あまりに愛しすぎた奥方を亡くしたエリアスの、絶望と虚無を理解できてしまうから。

 

 

 けれど、今、ブラジェナの目の前にいる少年は違う。

 彼にとってリーディエは既に失われた人であり、アドリアンこそが護られるべき存在なのだった。当然のことだ。そもそもこの状態をリーディエが喜ぶはずがない。

 

貴方(あなた)の言う通りよ」

 

 ブラジェナは静かに認めた。それからじっとオヅマを見上げる。眼鏡の奥の薄茶色の瞳は、静かにオヅマの怒りを受け入れていた。

 

 オヅマはともかく言いたいことを言ったので、ハァと息を吐いて椅子に腰かけた。それでもイライラして、残っていた不味(まず)い茶を一気にあおる。苦虫を噛み潰したような顔で、ガシャンと(ソーサ)にカップを置くと、ブラジェナの侍女が澄ました顔で、またカップに茶を注ぐ。

 

「小公爵様には何らの罪もない。ただ、公爵閣下を始めとする私達が、あまりにもリーディエ様と、リーディエ様を愛してやまない公爵閣下のお姿を知っているから、その思い出を大事にするあまりに、小公爵様を(ないがし)ろにしてきたのよ」

「…なんでだよ…」

 

 オヅマはカップから立ち昇る湯気を睨み、つぶやいた。

 

「アドルは周りの大人がそんなでも、一度も文句なんて言ったことないんだぞ。なんだったら、自分が悪いんだとか思ってやがる。なんで自分の子供にそんなふうに思わせるんだよ。アドルは生まれてきただけだろ? 自分の息子なのに、なんで…」

 

 ――――― 愛してやれない?

 

 言いようのない苛立ちと困惑の中で、その問いはオヅマの硬く握りしめた拳に閉じ込められた。

 

 ふと、オヅマの脳裏に死んだコスタスのことが浮かんだ。

 コスタスは一度もオヅマを愛したことなどないだろう。それは当然で、自分の息子でないから。その上、ミーナがオヅマの父親をいまだに忘れていないことを知っていたから、見たこともない男への嫉妬がすべてオヅマに向かったのだろう。コスタスからの仕打ちを許す気はないが、彼がオヅマを嫌う理由は納得できた。

 

 けれど、アドリアンは違う。今の話を聞いて、何一つとして納得できることなどない。

 

 ブラジェナは途切れた先の、オヅマの言葉がわかったようだった。痛ましげに、悲しく告げる。

 

「公爵閣下は『愛を知らない人』だったの」

 

 遠くを見つめるブラジェナには、エリアスの暗い顔が脳裏に浮かんでいた。

 

 

 ―――― あの子を…どうやって愛するかなどわからない。リーディエがいれば、教えてくれたろうが…私だけでは、子供の愛し方などわからない……

 

 

 かつて、ブラジェナがアドリアンを見ようともしないエリアスに詰め寄ったとき、彼は言った。ひどく困り果てた、本当に途方に暮れた顔で。

 

 そのときにはまだ、ブラジェナはエリアスという人間を理解していなかった。だからこそ、しつこくエリアスに食い下がってしまい、最終的に伯爵家ごと禁足を命じられてしまったのだ。

 

 けれど時間はエリアスだけでなく、ブラジェナにも必要であったのかもしれない。

 謹慎している間、ブラジェナはリーディエとの思い出を偲ぶ中で、思い至ったのだ。

 

 

 ――――― 彼は、愛することを知らなかったの…

 

 

 昔、リーディエが言っていた……。

 言われたときには、ブラジェナはあまり意味を考えることもなかった。リーディエが言うのであれば、そうなんだろう……と思っただけだ。

 けれど、その言葉こそが、エリアスにとってリーディエの存在が、どういうものであったのかを知らしめていた。

 なぜ彼があれほどまでにリーディエを溺愛し、尊敬し、なんであれば崇拝し、執拗なほどに固執したのか。

 

 エリアスは幼い頃から公爵家内で幽霊のように育った。

 実母を失い、伯母である先代公爵夫人に引き取られたものの、待っていたのは無視と、公爵家継嗣としての厳しい教育だった。

 誰に愛されることもなかった子供は、誰を愛することもなく、愛し方も知らなかった。リーディエだけが、彼に愛を教えた。

 

 美男で堂々とした見た目とは裏腹に、エリアスの中身は幼い子供と変わりなかったのだ。

 かつてブラジェナがエリアスに親としての愛情を持つことを迫ったとき、彼は本当に()()()()()()()のだ。どうやって()()()()()()()を愛すべきなのかを。ましてその息子が、自分の最愛の妻の命を奪って生まれてきたと思えば余計に、どうすればよいのかわからず、拒むしかなかった……。

 

 ブラジェナは胸の痛みを和らげるために、長く吐息した。

 

「オヅマ。貴方の言うことはもっともだし、間違いではないわ。でも公爵家において、公爵閣下のご不興をかえば、近侍から外されることもあるかもしれない。そうなれば一番困るのはアドリアン小公爵様よ。そのことをわかったうえで、行動なさい」

 

 ブラジェナは自らの経験から、オヅマにそう忠告した。

 

 オヅマはようやくこの数カ月間考えていた問題の解答を得たものの、まったく釈然としなかった。

 元々、公爵閣下に対しては、アドリアンにそっくりということ以外、陰鬱で厳しい人という印象しかなかったが、そこに『いけ好かない奴』というのが加わった。

 アールリンデンに戻り、いずれ公爵閣下と顔を合わせたときに、ブラジェナの忠告を思い出せるのかどうか……自信はない。

 





次回は2023.10.29.更新予定です。


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第百五十八話 ハヴェルとリーディエ

 ブラジェナはその後も、折に触れてリーディエのことを語って聞かせてくれた。

 それまで我慢していた分、真正直で誰におもねることもないオヅマには、嘘偽りなく話せたのかもしれない。

 

「元々、リーディエ様は先代の公爵夫人で、閣下の母上であらせられるソシエ=レヴェ様の侍女だったの。なんでも夫人の遠縁であられたらしいわ。その頃には、実は別の方との婚約も決まっていて、グレヴィリウス家には花嫁修業として、お越しになったそうよ。そこで閣下と知り合われて…。リーディエ様は当時十五歳でいらしたから、二つ年下の閣下のことは、弟のようだったと、仰言(おっしゃ)っておられたわ」

「年下? 公爵夫人って、閣下より年上だったのか?」

 

 オヅマは驚いた。

 帝国においては、結婚するとき、男よりも年下の女が好まれる。それは当然ながら、その方が子供ができる可能性が高くなるからだ。(もっとも貴族間であれば、そこは双方の思惑なども絡んで、年齢など後回しにされることも往々にしてあったが)

 

 これまで聞いただけでも、二人の結婚は障害が多かったであろうに、まして女性側が年上とあっては、尚のこと周囲からの反対は想像に難くない。

 

「えぇ、そう。女は…その…十二歳くらいから急に体つきも含めて成長が著しいから、きっと公爵閣下に会った頃は、それこそお姉さんと坊やといった感じだったのでしょうね」

 

 もちろんブラジェナも、その頃のリーディエのことは知らない。だからエリアスとの馴れ初めについては、すべてリーディエから聞いた話だった。

 

「本当はこんな話を、小公爵様にお聞かせできればいいのだけれど……」

 

 ブラジェナは寂しげに言って、お茶を一口飲んだ。

 ちなみにいつもこうした話を聞くのは、ブラジェナから午後のお茶に招待されたときになっている。

 オヅマはクッキーを齧りながら、内心首をかしげた。

 両親の馴れ初めなんて、さほどに興味もないだろう……と、オヅマなんかは思うが、アドリアンはまた違うかもしれない。

 

 ブラジェナは暗くなりかけた雰囲気を払うように、あわてて話を変えた。

 

「そうそう。それにヴァルナルを見つけてきたのも、リーディエ様だったのよ」

「え?」

「町で、剣の稽古をしているヴァルナルを見つけて…紆余曲折あって、騎士見習いとして公爵家の騎士団に入ることになったみたい。今にして思うと、やっぱりリーディエ様のご慧眼というか、先見の明あったればこそよね。だから、ヴァルナル・クランツもリーディエ様にだけは頭が上がらなかったの。それこそリーディエ様にとっては公爵閣下に続く、弟分みたいな存在だったのでしょうね。そのせいで閣下がたまにヴァルナルにまで嫉妬していたけれど」

 

 ブラジェナは当時のことを思い出し、クスクス笑った。

 オヅマは元からグレヴィリウス家門の騎士でもなかったヴァルナルが、どうして公爵に対してああまで頑なに忠実であろうとするのか、なんとなくわかったような気がした。

 皇帝陛下から黒杖を拝受してもなお、皇家直属の騎士とならなかった理由も。

 自らを見出してくれたリーディエと、そのリーディエの意思を尊重して取り立ててくれたエリアスへの恩義に、生涯かけて報いる。それこそがヴァルナル・クランツという騎士の(もとい)なのだろう。

 

「一つ、聞きたいんだけど…」

 

 オヅマはライム水を一口含み、この際であるので公爵家の中で何かと話しづらくなっていることを、ブラジェナにぶつけることにした。

 

「ハヴェルってのは、どういう奴なんだ? 元々は別の家の子供だったんだろ? なんだって公爵の養子になったんだ?」

 

 オヅマの質問に、ブラジェナはしばし黙り込んだ。

 少し冷めたお茶を啜って、苦い顔で話し出す。

 

「それは……公爵ご夫妻が結婚されて、五年が過ぎてもお子様が出来なくて……それで色々と文句を言う者が多かったのよ。中には大っぴらに、離婚するよう迫ってくるようなのもいて……」

 

 公爵夫妻が貴族には珍しい恋愛結婚で、相思相愛であることは疑いもなかったが、にも関わらず、子供はなかなか生まれなかった。公爵夫人として後継者を生み育てることが、もっとも重要なことであると考える人々からすれば、この事実はリーディエという女性の()()を問うに恰好の的となった。

 

 もちろん、エリアスがリーディエと離縁することなど考えられない。

 しかし当時、公爵家を継いで間もないエリアスには、先代公爵以来の宿老たちを黙らせるだけの力がなく、普段は毅然としていたリーディエも、こと後継者問題については頭を悩ませた。こればかりは自分の意志と、行動力によって、どうにかなるようなことではなかったからだ。

 

 周囲の気難しく、口やかましい老人たちを黙らせるために、エリアスはハヴェルを養子として迎えた。

 義母妹であるヨセフィーナと、グレヴィリウス累代家臣であるグルンデン侯爵家の息子であれば、誰も文句など言えようはずもない。

 しかもそれまでエリアスに対して、やや距離を置いていたグルンデン侯爵家との縁を結ぶことで、家内一門の勢力図は大幅に書き換わった。

 

 こうしてハヴェルは大人たちの様々な思惑によって、公爵夫妻の養子となったが、エリアスの幼少期の不遇を知っているリーディエは、同じようなつらい思いをさせることだけはしたくなかったのだろう。

 幼くしてやって来た可愛い甥を、実子同様に愛情を持って育てた。

 

「とても、仲の良い親子でいらしたわ。ハヴェル様も最初は緊張なさっていて、なかなかうち解けることもなかったけれど、徐々にリーディエ様がハヴェル様の心をほぐしていったの。それこそ、知り合われたばかりの頃の公爵閣下と同じように……」

 

 ブラジェナは懐かしそうに、幸せであった日々を惜しむように、ハヴェルとリーディエについて語る。

 

 オヅマは尋ねたものの、どこか釈然としなかった。

 怪訝そうなオヅマの表情に、ブラジェナが首をかしげる。

 

「どうしたの?」

「いや……俺、ハヴェルに会ったけど」

「あら、本当? やさしいお方でいらしたでしょう」

 

 にこやかに言われて、オヅマはますます渋い顔になった。

 脳裏でハヴェルに会ったときのことを思い出す。

 一度目は、本館内にある公爵家代々の家族の肖像画が飾られた画廊、二度目は弓試合のときだ。

 一度目のときはルンビックの執務室を教えてもらったし、二度目のときには自らが負けることで、ヘンスラーの矜持を保ち、アドリアンにも一応花を持たせてくれた。やさしい……と言えば、やさしいのだろうが……。

 

「正直……あんまりいい感じはしなかった」

 

 素直に言うと、ブラジェナは寂しそうにうつむき、ため息をついた。

 

「マティアスからの手紙で、色々と話は聞いているわ。ハヴェル様が弓試合のときに、その場で恥をかいた弓隊長を助けて、小公爵様の印象が悪くなるように仕向けた…と」

「まぁ、そうかな……」

 

 少なくとも、弓部隊の隊長であるヘンスラーは、確実にハヴェルの味方になったことだろう。いや、元からどちらかというとハヴェル寄りではあった気がするが。

 

「私はその場にいなかったから、よくはわからないけど、ハヴェル様は別に小公爵様をおとしめようとしたわけではないと思うの。むしろ、それまであまり親しくしてこなかった弓部隊と小公爵様との間を取り持とうとして…」

「ないない。そういう感じじゃなかった」

 

 ブラジェナが言い終わる前に、オヅマは遮った。

 

「あいつ、笑ってるけど、目が笑ってないんだよ。ああいうやつ、信用できない」 

 

 思ったまま口にすると、ブラジェナの指導が入った。

 

「これ、オヅマ! いけませんよ。ハヴェル様は今でもれっきとした公爵家の継承序列二位でいらっしゃるのですからね。間違っても()()()などと、不遜極まりない呼び方をしてはいけません!」

「えぇぇ?」

 

 不満げに大声をあげるオヅマを、ブラジェナは小さな子供を戒めるように睨む。オヅマはツンと口を尖らせて尋ねた。

 

「なんでそんなに庇おうとするんですか? 伯爵夫人はアド…小公爵さまの味方なんですよね?」

 

 ブラジェナはその問いかけに、ひどく難し気な顔になった。くるくるとスプーンでお茶をかき混ぜながら、その揺らめく波紋をしばらく見つめる。

 

「私は…味方だとか、敵だとか……そんなふうにハヴェル様を見ることができないの」

 

 ブラジェナは哀しげにつぶやいた。

 

「さっきも言ったけれど、ハヴェル様とリーディエ様は血の繋がりはなくとも、本当の親子のように仲良くていらしたの。リーディエ様が小公爵様を妊娠されて、ハヴェル様との養子縁組は解消となったけれど、お二人はずっとお変わりなくお過ごしで、ハヴェル様も小公爵様の誕生を一緒に心待ちにしておられたのよ。リーディエ様にも『兄として可愛がってあげてね』と言われて…」

 

 オヅマは聞きながらあきれた。ブラジェナも、ブラジェナから聞く公爵夫人も、ドレスと宝石のことしか話さない女に比べると頭はいいようだが、少なくとも人を見る目は曇っているんじゃなかろうか?

 ブラジェナは冷淡に話を聞き流すオヅマに、ゆっくりと首を振りながら、またため息をついた。

 

「誤解があるのよ。きっと。そう…そういえば、弓試合のときにはアルビン・シャノルもいたようね」

「アルビン・シャノル?」

「いつもハヴェル様について回ってる、おなかを壊した猫の(フン)みたいな髪の色の、小太りの男よ」

「………」

 

 オヅマはハヴェルのそばに付き従っていた小太りの、嫌味な笑顔を浮かべていた男の姿を思い出したが、それよりもブラジェナの説明があまりにも悪意に満ちているので、思わず押し黙ってしまった。

 オヅマの沈黙を肯定と捉えたのか、ブラジェナはハヴェルへの情愛を滲ませた態度から一変して、いかにも憎々しげに話した。

 

「あの男、ハヴェル様が公爵家にいた頃から、何かとついて回って、しつこかったの。ハヴェル様の乳母の子だかなんだか知らないけど、やたらと頻繁に訪ねてきていたわ。リーディエ様はハヴェル様の友人だとお認めになって、優しく接しておられたけど、私はわかってたの。当時は子供だったけど、あの頃から狡猾だったのよ。サコロッシュの女狐の命を受けて、時々、探りに来ていたのよ。それだけじゃない。わざわざハヴェル様に釘を刺していたの。『リーディエ様のことを信用してはいけない』…ってね」

 

 ブラジェナは今でも覚えている。広い公爵邸の庭の、隅にある四阿(あずまや)で一人泣いていたハヴェル。なかなか口を開こうとしないハヴェルに辛抱強く尋ねると、泣きながらハヴェルは言った。

 

「母上が…お母様……公爵夫人を信じてはいけないって…」

 

 アルビンは必ず口頭で、ハヴェルと二人だけでいるときに、侯爵夫人からの伝言を伝えた。くれぐれも実母である侯爵夫人への恩を忘れることのないように、リーディエの愛情を信じてはいけない…と。

 

「僕は、どうしたらいいんだろう? お母様のことは大好きだけど、信じてはいけないの?」

 

 二人の母親の間で、いつも揺れ動き、惑い、苦しんでいた小さなハヴェル。

 ブラジェナはそれからはハヴェルとアルビンを二人きりにさせないように、わざと気の利かない侍女のフリをして、アルビンの余計な口を封じてやった。

 

 アルビンはこのときのことを覚えていたのだろう。

 ブルッキネン伯爵家への謹慎が解けて、帝都での公爵家の夜会に久々に出席したとき、ブラジェナはハヴェルに挨拶しようと思って行ったものの、アルビンが立ち塞がった。

 

「失礼ですが、伯爵夫人。いかに旧知の間柄とは申せ、ハヴェル様に親しげに声をかけられては、こちらも困るのです。今は一応、許されたとはいえ、またいつ公爵閣下のお怒りに触れるやもしれぬ伯爵夫人と迂闊に話して、こちらにまで累が及んではたまりません。故・公爵夫人の腹心であられた伯爵夫人であれば、まさかハヴェル様に迷惑をかけるようなことを良しとはされませんよね?」

 

 ブラジェナはその時のことを思い出し、拳を握りしめた。

 そうまで言われては、脛に傷持つブラジェナとしては引き下がるしかなかった。自分のせいで、ハヴェルまでが不利益を蒙るようなことがあってはならない。

 

「シャノル家なんて、貴族としては末端も末端だから、どうにかハヴェル様の歓心を買って、のし上がろうと必死なのよ。今も小公爵様との対立を煽って、ハヴェル様を継嗣にしようと画策しているのだわ。女狐と一緒に」

「女狐ねぇ…」

 

 オヅマがややあきれたようにつぶやくと、当人があわてた。

 

「あっ! あら、ごめんなさい。言っちゃってたかしら?」

「言ってました。サコロッシュの女狐……ってのは、グルンデン侯爵夫人のことですか? アドルの叔母さんの」

「えぇ……そう」

 

 ブラジェナは少しだけ気まずそうにしつつも、否定はしない。それどころか(くだん)の人物を思い出したせいか、表情はまた険しくなった。

 

「きっと、ハヴェル様もグルンデン侯爵家に戻られてから、あの女に色々と言われたのだと思うわ。なにせあの女、なにかと嫌味で鬱陶しいことばかり言ってきてたから……。フン! リーディエ様が公爵夫人になられる前には、自分がまるでグレヴィリウスの女主人であるかのように振る舞っていたのが、ぜーんぶリーディエ様に取られたもんだから、逆恨みしてるのよ。当たり前よね。年がら年中、ドレスやら宝石やら、皺伸ばしのクリームのことしか話してないような人間に比べたら、リーディエ様のほうが見目麗しい上に、知識も豊富で、おしゃべりも楽しいから、皆夢中になってしまうのよ! あの皇帝陛下のご愛寵深かったセミア妃だって、リーディエ様のことを『お姉様』とお呼びになって、それはそれは仲睦まじくお過ごしでいらしたのだから。それに(さき)の皇太子殿下にも……」

 

 話している間に様々なことを思い出すのか、ブラジェナは早口でまくしたてる。どうもリーディエの話になると、侍女時代に戻ってしまうらしい。口調も声の高さも、日頃の(おごそ)かな伯爵夫人から一変して、かしましい小娘のようだ。

 オヅマはそれ以上、ブラジェナのリーディエ自慢を聞くのも疲れてきて、無理やりに話を遮った。

 

「つまり、そのグルンデン侯爵夫人っていうのが、女狐で、ハヴェル公子の本当の母親で、アルビンっていう腹を壊した猫の糞みたいな頭の奴を駒にして、公爵家を乗っ取ろうとしてるってわけですね?」

 

 ブラジェナは急に話を遮られたので、ポカンとしていたが、オヅマの言葉にハッと我に返ったようだ。

 

「オヅマ、貴方(あなた)……あけすけに言いすぎよ」

 

 うめくように言って、ブラジェナは額を押さえた。

 オヅマは肩をすくめて、ライム水を飲んだ。

 まったく、誰が言っているのだろうか? その言葉をそのままお返ししたい。

 

 ブラジェナは軽く咳払いすると、取り澄ました顔に戻り、再び話をハヴェルに戻した。

 

「ハヴェル様にも色々としがらみや、背負うものがおありなのでしょう。アルビンや侯爵夫人にしつこく言われて、表立って堂々と動けないのかもしれない。でもね、今でもリーディエ様の命日には、私宛にお手紙とお花を届けてくださるのよ。一緒に故人を(しの)びましょう……とね。きっと、ハヴェル様も本当のところは、小公爵様に()()として接してあげたいという気持ちはおありだと思うの」

 

 オヅマは文字通り、苦虫を噛み潰すしかなかった。あの男がアドリアンを()として見てるとはとても思えない。

 あの目。

 明らかにアドリアンを苦しめ、痛めつけようとしているあの目。

 あれは心の底に恨みと憎しみを抱えた人間の目だ。……

 だが押し黙るオヅマに、ブラジェナは熱心に訴えてくる。

 

「オヅマ、お願いよ。もし、ハヴェル様が小公爵様のために、協力を申し出てくることがあれば、そのときは信じてあげてほしいの。きっと彼は小公爵様の力となってくれるはずよ……」

 

 真摯(しんし)に見つめてくるブラジェナに、オヅマは否と言えなかった。そもそもそんなことがあり得るのか疑問だ。いや……

 

「わかりました。一応、覚えておきます」

 

 そんなことは有り得ない、と断定したからこそ、オヅマは頷くことができた。どうせ有り得ないのだから、嘘をついても、嘘ともならないだろう。

 ブラジェナはオヅマの本心を知ることもなく、ホッとした笑みを浮かべた。

 

「時間はかかっても、リーディエ様の望む形になればきっと…小公爵様もハヴェル様も幸せになれるわ」

 

 ブラジェナのリーディエへの信頼は、盲目的と言ってよかった。

 オヅマはそのことが少しだけ気に障った。ブラジェナは善意の人間だ。けれど彼女のその真っ直ぐな思いやりが、オヅマを不安にさせ、苛立たせ、救いのない暗澹(あんたん)とした気分にさせる。

 ただ一人を強烈に尊崇(そんすう)する人間は、たいがい足元を掬われるのだ。……

 

 




次回は2023.11.05更新予定です。


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第百五十九話 詠唱

 いよいよ剣が出来上がったとモンスから連絡を受け、オヅマとエラルドジェイはすぐに向かったが、その途中、道端で木樵(きこり)らしい老人が倒れ込んでいるのに出くわした。

 

「おい!」

「どうした、爺さん?」

 

 オヅマとエラルドジェイは、老人に駆け寄って声をかけた。

 

「う…う…胸が…」

 

 老人は胸を押さえて、苦しそうに息していた。額には冷や汗が浮かんでいる。

 

「おい、しっかりしろ」

 

 オヅマはそのまま意識を失いそうになる老人に呼びかけた。「持病か? 薬か何か持ってないのか?」

 

 老人はゆっくりと首を振り、かすれた声で言った。

 

「サク…せん…せ…い…の、とこ…に……連れ…って、くれ」

「サク先生?」

 

 オヅマが問いかけると、後ろで様子を見ていたエラルドジェイの眉がわずかに寄る。しかしオヅマは気付かなかった。

 荷車を引いた男が通りかかり、教えてくれた。

 

「あぁ、サク先生な。こっから少し行ったとこにある、旧神殿を借りて、俺らみたいな貧しいモンの病気をみてくれてるのさ」

 

 オヅマはそんな奇特な人間がいるのかと半信半疑であったが、とりあえず男に頼み、荷車に老人を乗せて旧神殿へと向かった。町の中心部から少しだけ離れた、こんもり茂った小さな林の中に、半ば朽ちた神殿があった。かつてはシュテルムドルソンの神殿として、各種の行事などが行われていたようだが、今は郊外の小高い丘に新たな神殿ができて、そちらに神官は移ったのだという。

 

 オヅマたちが老人を運んでくると、こうしたことは珍しくないようで、その場にいた男たち数人が、老人を神殿内の一番広い空間に並べられたベッドの上へと寝かせた。彼らもまた怪我や病気でここを訪れた者らしかったが、互いに助け合うのが当然になっているようだ。

 

 やがて呼ばれてやって来たのは、水色の薄物の上着を羽織った男だった。オヅマはおや? と思った。オリヴェルの主治医であるロビン・ビョルネもまた、時折あの上着を着ているのを見たことがあったからだ。

 男は老人の顔色を見ながら脈をとり、胸の音などを確認すると、かたわらにいた同じ服装の若い男に手早く指示する。最後に老人に一言声をかけてから、こちらに向かってきた。

 

「アンタがサク先生?」

 

 オヅマが近づいてきた男に尋ねると、男は少し驚いた顔をしたあとに、ニッコリと笑って言った。

 

「はい、私はサク・レミァンと申します。ヨルフを運んでくれてありがとうございます」

 

 明るい栗色の髪に、同じ色の瞳の、柔和な微笑みを浮かべた男 ―― 年齢は三十を少し過ぎたほどだろうか。

 礼を言われ、オヅマは素っ気なく返した。

 

「俺らは別に大したことはしてない。荷車に乗せてもらえたから、早く運べたんだ」

 

 荷車の男は神殿の前でオヅマらに老人を託した後には、さっさと帰ってしまっていた。

 

「そうですか。色々な人に助けられて、ここに来ることができたのは、きっとヨルフの徳でしょうね」

「徳?」

「えぇ。彼には、困っているときに助けられるだけの、徳があったということです」 

 

 オヅマは首をかしげた。なんだかよくわからない。

 チラとエラルドジェイを見ると、珍しく不機嫌そうであった。

 

「どうした?」

 

 問いかけてもエラルドジェイは答えず、じっとサクを見ている。

 

「アンタ、ここで金のない人間相手に、医者みたいなことしてるようだが、本当の医者か?」

 

 エラルドジェイが冷たい表情で尋ねると、サクは少しだけ顔を曇らせた。

 背後にいた数人の少年や若い女、先程老人をベッドに運ぶのを手伝ってくれた男などが、ムッとした表情で睨みつけてくる。

 

「本当の医者ってなんだよ!」

 

 最初に怒り出したのは、少年だった。

 

「本当の医者なんか、こんなところで、俺等なんか()てくれるわけないだろ! 本物の医者じゃなくたって、先生はちゃんと俺等の体を診て、ちゃんと薬だってくれて、治してくれるんだ!」

「そうよ!! それに文字だって教えてくれて、本だって読ませてもらえるんだから!」

「先生のことを悪く言うなら、出てけ!!」

 

 あっという間に敵だらけになったようだった。オヅマが戸惑っていると、サクがいきり立つ人々を「まぁまぁ」と制した。

 

「彼は訊いてきただけですよ。僕は別に気にしていませんから。ミッツもラドリーも、本の続きを読んでおきなさい。イルモさんも、戻って戻って」

 

 サクはそれぞれに声をかけて散らせた。瞬く間に燃え上がった熱気が落ち着くと、振り返ってオヅマとエラルドジェイにニコリと微笑みかける。

 

「すみません。皆さん、僕よりも正義感が強いというか…この場所を大事に思ってくれているものですから。前に一度、この領地の役人や騎士団の人たちがやって来て、色々と詮索されたもので…それで嫌な思いをされた方もいて」

「ふぅん。で、結局アンタは医者じゃないんだろ?」

 

 オヅマはあえて軽い調子で尋ねた。

 サクは笑ったまま頷いた。

 

「えぇ。アカデミーを出てはいません。ただ、ザルゴリ医師の下で八年学び、一応免許状は頂いています」

 

 医者にも色々あって、勿論、一番信頼されるのはアカデミーを卒業した後、実地での修行を積み、アカデミーの外部組織である医会(サナテル)で証明をもらった医師だ。彼らこそが『本物の医師』と呼ばれる。だが、非常に数が限られており、そのほとんどはグレヴィリウス家などの貴族家か富裕な商人のお抱え医師となったので、平民を診療することは稀だった。サクはおそらくそうした医師の下で弟子となり、免状をもらって、いわば第二の医師として活動しているのだろう。

 

「それにしたって、わざわざこんな辺鄙(へんぴ)な場所で、しかも貧乏人相手になんか…金にならないだろ?」

 

 第二の医師と呼ばれる存在であっても、医者はあらゆる場所で必要とされる。町中で金持ち相手に診療する方が儲かるだろうし、貧民を相手にしても忙しいばかりで、実入りは少ないはずだ。

 

「お金を目的としているわけではありません。私たちは、より多くの、傷ついた人々を救いたいだけです」

「はぁ?」

 

 サクの言葉の意味が、またわからない。

 傷ついた人々? 救う? 誰のために? 何のために?

 オヅマが呆気にとられていると、またエラルドジェイが鋭く尋ねた。

 

「救うにしたって、薬でもベッドでも、用意するには金が必要だろ? 自分の金で(まかな)ってるのか?」

 

 ずっと剣呑とした表情のエラルドジェイにも、サクは笑顔を崩さなかった。

 

「もちろん僕にそんな財力はありません。ここの運営は、数多くの方々のご好意で成り立っております」

「要は、寄付()()()()わけだろう?」

()()()()()わけではありません。どなた様も皆、私たちの活動に賛同して下さった上で、自らに出来うる限りにおいて、ご寄付いただいているだけです。中には多大なるご寄付をくださる方もいらっしゃいます。貴族の方にも、そうした奇特な方がいらっしゃるのです。数多くではございませんが…」

 

 話している間に、神殿の奥から、ひっつめ髪をやや乱した中年の女が、あわてた様子で走ってきた。

 

「先生! サク先生! ミョーリが産気づいたんだけど、顔色がどんどん悪くなってきちまって…」

 

 サクの温和な顔が、一瞬で引き締まる。中年女のあとから現れたのは、先程、木樵老人の処置について指示されていた青年だった。同じような服を纏っているので、彼もまた第二の医師として、先輩であるサクの活動を手伝っているのであろう。(第二の医師が弟子をとって免状を与えることはできないので、弟子ではないと思われる)

 

「エルッケ。『ゴハ』はもう焚いているか?」

 

 サクが緊張した面持ちで尋ねると、エルッケと呼ばれた青年が頷いた。

 サクは向かいかけて、ふと振り返ると、オヅマとエラルドジェイに申し訳なさそうに言った。

 

「すみませんが、これで。まだ何か聞きたいことがおありでしたら、いつでも訪ねていらして下さい。私達の理念についてお聞きくださったら、きっとご理解いただけると思います」

 

 オヅマらに返事する暇も与えず、サクはその場から走り去った。

 

「いや、もう来ないけどさ……」

 

 慌ただしく去っていくサクの背中を見送って、オヅマはつぶやく。

 正直、やっていることは立派なんだろうが、また会って話を聞こうとは思えなかった。どうにもあのテの人間と話すのは苦手だ。根本的に自分とは合わない気がする。 

 エラルドジェイも似たようなものなのだろうか……と隣を見ると、エラルドジェイはいつになく険しい表情で立っていた。

 

「おい、どうし……」

 

 尋ねかけると、エラルドジェイは急に踵を返して歩き出す。

 

「え? あ……オイ」

 

 あわててオヅマは後を追ったが、途中、廊下を歩いていると、フワリと何かの匂いが漂ってきた。

 濃厚で甘ったるい、頭が(とろ)けてきそうな独特の匂いが、鼻腔に貼りついてくる。

 

 オヅマは反射的に鼻と口を腕で押さえた。しかし隙間を縫って忍び込んできた、べっとりとした匂いは、ゆっくりとオヅマの中に浸透してくる。

 キィィンと、奇妙な耳鳴りが聞こえ始め……

 

「…うッ!!」

 

 急に、頭を殴られたかのような激痛が走る。

 オヅマはその場にしゃがみこんだ。

 先を歩いていたエラルドジェイが怪訝に振り返る。

 

「どうした?」

 

 呼びかけてくるエラルドジェイの声が遠くなり、その姿も歪んだ。

 頭の中からも外からも、ガンガンとひっきりなしに叩かれているかのように痛い。そのうち頭が痺れたようになって、キーンと高い耳障りな音が耳奥を刺す。

 

 閉じた瞼の裏には蠢く影……。

 バサリ、と何かに包まれる感覚……。

 低く響く不気味な歌……。

 

「オヅマ!」

 

 エラルドジェイの声に、かすかにオヅマは目を開いた。

 目が回る。ぐるぐると回っている。ひどく気分が悪くて、冷たい汗が全身から噴き出た。

 倒れたオヅマの周りに集まった人々が、ざわざわと何か言っている。

 

「……ここで休養していきなさい」

「あとでサク先生に診てもらって…」

「大丈夫だ。あの先生はとてもいい人だよ…」

 

 降ってくる老若男女の声に混じって、遠く奥深い場所から聴こえてくるのは、妙に間延びした詠唱(えいしょう)……。

 

 

 ――――― (よろこ)(たも)う。(よろこ)(たも)う。いざ、(われ)らが(かみ)なる御世(みよ)へと…

 ――――― (よろこ)(たも)う。(よろこ)(たも)う。(おお)いなる……の(くだ)りし…

 

 

 そのままゆっくりと引きずられるようにして、強烈な眠気が襲ってくる。

 だが目を閉じてはいけない。どこからか、誰か……懐かしい声が、必死で呼びかけてくる。

 

 

 ―――― 目を開けて。目を開けなさい、オヅマ。

 ―――― 苦しくとも、眠ってはいけない……

 ―――― 起きなさい。……エラ……ド……イに…助けを……借り……て……

 

 

 その声が響くと、痺れた頭に稲妻のような痛みがはしった。

 オヅマは奥歯を食いしばり、無理やり目を開けた。声が正しいかどうかよりも、これ以上、遠くから聞こえてくる、気味悪い詠唱(うた)を聞きたくなかった。

 言われた通りに、エラルドジェイの腕を掴む。まるでそれが、ただ唯一の命綱であるかのように。

 

「こちらに連れてきて下さい。とりあえず私が診ましょう」

 

 いつの間にか先程の青年医師エルッケがやって来て、エラルドジェイにオヅマを奥に運ぶように指示していた。

 オヅマは痛む頭を押さえながら、その指の間から彼を見た。

 暗い緑色の細い目。

 その目と目が合った途端、()が囁いた。

 

 

 ――――― 大丈夫にございます、皇子(みこ)様。貴方様は選ばれし方……

 

 

 ()の中、恍惚とした顔で、オヅマを見上げてくる男の顔は、今よりも少し老けている。その目に宿る狂気じみた尊崇に、オヅマはゾッとした。

 

「嫌だ!」

 

 叩きつけるように叫んで、立ち上がる。だがすぐに足がガクリと萎える。

 かたわらのエラルドジェイに(もた)れかかりながら、オヅマは必死に懇願した。

 

「行こう、ジェイ…早く……!」

 

 エラルドジェイは困惑しているようだったが、頷いてオヅマを支えた。

 

「お待ちなさい! そんな状態で」

 

 エルッケが立ち塞がろうとするのを、オヅマはギロリと睨みつけた。

 

「失せろ! お前の手助けは要らぬ!!」

 

 少年とは思えぬ凄まじい気迫に圧倒され、エルッケは腰を抜かした。

 隣にいたエラルドジェイは、一瞬、オヅマの瞳に閃いた金の光に気付き、それとなく長い袖で隠す。

 

「コイツの心配なら無用だ。俺()はここの領主様の客人でね。そっちで診てもらうよ。じゃあ、邪魔したな」

 

 いつものように皮肉めいた笑みを浮かべて、エラルドジェイはオヅマを引きずるように外に出た。

 

 

*** 

 

 

 旧神殿へと続く草の茂る小道の脇で、オヅマは盛大に吐いた。

 ようやく一息ついたときには、全身汗でびっしょりで、さっきまでとは別の意味で気持ち悪かった。

 少しよろけながら、神殿の柱の一部であったらしい朽ちた石台の上に腰掛ける。

 

「どうしたんだよ、お前。いきなり」

 

 エラルドジェイが水の入った革袋を渡しながら尋ねてきた。

 オヅマは受け取って、水をゴクゴク飲むと、一息ついた。口の端に垂れた水を拭いながら、軽く頭を振る。外に出て、あの匂いから逃れると、不思議と頭痛は収まった。

 

「わかんねぇ…あの匂い嗅いだら、なんか、いきなり頭が痛くなって」

「あぁ、あれな。妙なヤツだったな。俺もあんなの初めてだ」

「初めて? あんたが?」

 

 エラルドジェイは、ある種の後ろ暗い薬 ―― 麻薬や毒薬などに精通している。外傷治療などにおいて使用されることのある麻酔薬なども、その範囲に入るものなので、たいがいは知っていた。

 

「なんか言ってたな? ゴハとか…なんだゴハって」

 

 エラルドジェイは腕を組み、ブツブツとつぶやく。あそこで使っていた薬の名前らしいが、昔、村で薬師の婆の手伝いをしていたオヅマも、あんな香をかいだことはなかった。

 オヅマは酸っぱい唾を飲み込んで、視線を落とした。

 本当に自分でも訳が分からない。

 これまで見てきた()は、なんとなく()()という存在を感じられたのだが、今の()にはまったく自分がなかった。まるで他人の夢を無理やり見させられているかのようだった。 

 

 考えていると、また吐き気がしてくる。

 オヅマは深呼吸してから、話を変えた。

 

「ジェイ、あんたも何かあんのか? あの先生のこと、なんか睨んでたような気がするんだけど」

 

 オヅマが尋ねると、エラルドジェイは眉を寄せた。ポリポリと、軽く鼻の頭を親指で掻く。

 

「まぁ…なんだか気に食わないんだよ、ああいうのは。『先生』なんて呼ばれて、上から救ってやってる気になってるようなヤツは」

「ふぅん」

「ま、いいことしてるんだろうけどな。ここの『先生』とやらは。たぶん。世の中にゃ、看板だけ同じように掲げて、悪どいことするヤツもいるから…」

 

 何か理由があって嫌っているらしいことはわかったが、エラルドジェイはそれ以上は言わなかった。 

 

「で、どうする? 今日のところは、領主様のお屋敷に戻るか?」

 

 エラルドジェイはまだ顔色のよくないオヅマを(おもんぱか)って言ったが、オヅマは首を振った。

 

「いや、行くよ。もう大丈夫だ」

 

 明るく言って立ち上がる。

 このまま屋敷に戻って寝かされたほうが、よっぽど考えてしまいそうだった。もう一度、水を口に含み、軽く口内を(すす)ぐと、ベッと地面に吐きつけた。

 粘りつくような甘い香りから逃げるように、オヅマは足早に歩き出した。

 

 




引き続き更新します。


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第百六十話 老鍛冶の背中、母の眼差し

 当初の予定通りモンスを訪ねると、見事な剣が出来上がっていた。

 今まで持っていたものよりもやや軽い気がしたが、その分、振りやすくなっている。(つか)もオヅマの手にしっくり馴染んだ。

 

「軽いが強度は十分にある。そこの兄ちゃんからもらった爪鎌(ダ・ルソー)の刃を参考にしてな、色々と勉強させてもらったよ。あっちの(はがね)はやっぱりいいモンを使ってる。切れ味が凄まじい。お前さんが『澄眼(ちょうがん)』をちゃんと習得したなら、大して力を込めなくても、ずっぱり敵を斬っちまうことだろうよ。それこそ(よろい)ごとな」

「そんなに?」

 

 オヅマは剣を持って、その銀色に閃く剣身を見つめながら問うた。剣には一筋の溝のようなものが伸びていた。

 

「これ、なに?」

「剣の重さを少しだけ軽くしながら、十分な強度と切れ味を失わせないための、シラネの技だ。まぁ、お前さんがこれから大きくなって、これで物足りなくなってきたら、その時は作り直してやるから、持って来い」

「わかった。ありがとう」

 

 オヅマが素直に感謝すると、モンスは少しだけ寂しげに笑った。

 

「もっとも、その時にまだ…(ワシ)(つち)を握れとるかは、わからんがの。無理だったら、この男に頼むといい。腕はまだ儂にゃ敵わんが、まぁ…その頃には超えておるじゃろうて」

 

 モンスの隣にいた弟子のケビが、驚いたようにモンスを見た。

 

「あ、ケビ。めっちゃ喜んでる~」

 

 エラルドジェイがからかうと、ケビは顔を赤くしてうつむいた。

 多くの鍛冶屋(かじや)がそうであるように、モンスもケビも大男の類だったが、ケビは人見知りが激しく、とても恥ずかしがり屋だった。

 

「からかうんじゃない」

 

 エラルドジェイの頭を容赦なくバシリと叩いたのは、同じく弟子のアルニカだった。こちらは女だてらに鍛冶屋になろうというだけあって、背も高くがっしりとした体つきで、相当に気が強い。彼女はエラルドジェイの爪鎌(ダ・ルソー)の刃の()ぎを任されていた。

 剣ができるまでの間、オヅマとエラルドジェイは何度かこの工房を訪ねることもあり、今ではこの鍛冶屋の三人とも、すっかり打ち解けた仲だった。

 

「ホラ、お前の! 腕のところにコブウシの革を貼って、ベルトの皮も交換しておいたよ」

「おぉッ! スゲぇ! (あね)さん、ありがとう!」

 

 エラルドジェイは二本刃になった爪鎌(ダ・ルソー)を受け取って、早速腕に装着した。

 今まで刃の土台となっている木枠の部分は剥き出しで、エラルドジェイは擦れやズレ防止のために、腕に布を巻いたりして、その上から装着していたのだが、アルニカは土台部分にコブウシの革を貼り付けてくれたのだった。

 

「おぉ、ベルトもなんか簡単に取り付けられるようになってる。さすが…芸が細かいねぇ」

 

 エラルドジェイは感心しきりだった。

 アルニカは満更でもない様子でフンと鼻を鳴らした。

 

「そんな物騒なモンを何に使うんだかは聞かないけど、自分の身を守るんだったら、ちゃんと道具の世話はしてやるもんだ」

「へーい」

 

 エラルドジェイはご機嫌で返事して、そのまま出ていく。

 

「こら、後金がまだだよ!」

 

 すぐさまアルニカは追いかけていった。

 オヅマも剣を受け取ったものの、その代金についてはどうなっているのかと思ったら、モンスがすぐさま答えてくれた。

 

「お前のお代はいらねぇぞ。ルミアからの餞別だからな」

「そっか…」

 

 オヅマはありがとうの言葉を飲み込んだ。

 今更、ズァーデンに戻ってルミアに礼を言うのは違うのだろう。おそらくルミア自身、そうした感謝の言葉を聞くのが嫌だから、モンスのところに行け、としか言わなかったのだから。

 

「アイツは妙なところで、()()()()ちゅうもんがあってな」

 

 モンスはそう言って、ハッハッと肩を揺らして笑った。いかにも昔ながらの知り合いらしい、懐かしげな様子だ。

 

「本当にありがとうございました」

 

 オヅマは再びモンスに礼を言った。騎士団の支給品ではない、初めて自分の剣を持てたことが誇らしかった。モンスは嬉しそうに微笑み、オヅマの肩を叩いた。

 

「頑張れよ」

 

 オヅマは力強く頷いて外に出た。すぐに気付いたアルニカが、エラルドジェイからふんだくった代金を握りしめて、声をかけてくる。

 

「行くんだね」

「はい。ありがとうございました。色々と無理言って…お世話になりました」

 

 礼を言ったのは、アルニカに頼んで、何度か剣が作られる工程を見学させてもらったからだった。モンスはやはり職人気質らしく、決してそうしたことは許してくれなかったので、アルニカがこっそりオヅマに見せてくれたのだ。

 

 アルニカはオヅマが手に持った剣をじっと見つめながら、ポツリとつぶやいた。

 

「……アンタの剣が、もしかすると親方の最後の()()になるかもしれない」

「え?」

「このところ、背中が痛いって言っててさ。もう鎚も持てなくなってたんだ。仕事は私とケビで、どうにかこなしてたけど、アンタの剣はルミア(ばば)からの……大事な人からの頼まれ事だから……自分がやるって、遅くまで無理してた」

 

 

 ―――― その時にまだ…儂が鎚を握れとるかは、わからんがの……

 

 

 さっきモンスが言っていたことは、決して遠い未来の話ではなかったのだ。

 アルニカはオヅマの肩をポンと叩いた。

 

「弟子の私が言うのもなんだけど、親方の腕は帝国でも指折りのもんさ。アンタ、しっかり精進して、その剣に恥じない男になりな」

 

 オヅマはアルニカの目を真っ直ぐに見つめて頷いた。

 

 モンスは自分の身体(からだ)の不調を、あえて言わなかったのだろう。

 鍛冶職人として、どの仕事も手を抜かずにやってきた。それこそ初めて鎚を握った最初の日から、最後に鎚を置くその時まで。

 たとえオヅマの剣が最後の仕事であるとしても、モンスはこれまでと変わりなく、懸命に、そして淡々と作り上げたのだろう。

 

 職人らしい無骨な、だが強烈な矜持(きょうじ)

 

 オヅマは剣を握り直した。手に持つ重みが、また一つ増す。

 

「必ず」

 

 短く言って、オヅマはモンスの工房を後にした。

 

 

***

 

 

 領主屋敷に戻ると、ブラジェナが血相を変えてやって来た。

 

「オヅマ! あぁ、良かった。大丈夫なのね?」

「はい?」

「さっき『祈りの手』の者が来たのよ。貴方(あなた)が突然倒れて、顔色も悪くしていたから、無事なのか心配になって来たのだと…」

 

 早口に問いかけながら、ブラジェナはオヅマの全身を見回す。

 オヅマはブラジェナから出てきた聞き慣れない言葉を、そのまま鸚鵡(おうむ)返しに尋ねた。

 

「『祈りの手』って?」

「旧神殿で、貧しい者たちに治療や教育をしている者たちのことよ」

「彼らを……知っているんですか?」

 

 オヅマが問うと、ブラジェナは顔を曇らせた。

 

「えぇ。あれは元々、リーディエ様が始めたことだったの……」

 

 意外なことから、またリーディエの話が始まった。

 

 今でもまだ行き届いているとはいえないが、十数年前『医療』はもっと閉鎖的であった。

 貴族などの富裕層が貧しい人々に対して、食糧や衣料といったものの施しをすることはあっても、彼らを治療するなどということは考えられなかった。

 というのも病に罹った人間というのは、不浄の者、()れざる者と呼ばれ、下賤であるほどに忌避、嫌悪されたからだ。

 

 その上、アカデミーを出た医術の技を持ついわゆる『医者』は、貴族や富裕の者のために尽くすのが当然とされていたので、彼らが貧しい人々に医術を(ほどこ)すなど、ほぼ有り得なかった。

 これは貴族らが自らの特権意識によって、庶民を(しいた)げていたというよりも、当然すぎて誰もおかしいと思わなかったというのが正しい。

 

 それは貧しい者たちも一緒で、彼らもまた自分たちが医者の医療行為を受ける立場にあるという認識に乏しかった。

 彼らはちょっとした怪我や病気などは、民間療法や薬草を摘んで自ら治したし、あえてその道の専門家に尋ねることがあるとすれば、せいぜいが薬師の爺婆に頼む程度だった。(いまだにこうした考えの人間は多く、オヅマなども少々の腹痛などは、公爵家に生えている薬草を勝手に摘んできて、煎じて飲んだりしている)

 それでも快方に向かう兆しがなければ、諦めて死を待つ。それが庶民の選択肢だった。

 

 リーディエはこの状況に憤慨(ふんがい)し、アカデミーを訪れ、当時医会(サナテル)において最も権威のあった、医学教授のダリミル・バラケシュに掛け合った。ダリミルはリーディエの熱意と、極めて理路整然とした説得に感服し、数名の医師の派遣を了承した。

 その後、その中から特にこの活動を熱心に行う者が出て、貴族の中からも賛同者が現れ、段々と組織として大きく、その範囲も広がっていった。

 リーディエは当初、この成果を喜んだが……

 

「大きくなっていくと、やはり純粋に貧しい者を助けようという人間だけではなくなっていくようね。やがて、この活動を利用して私腹を肥やす者たちが現れてきて、リーディエ様はひどく落胆されてね。その頃に実は、最初のお子様がお腹におられたのよ。でも、ショックで流れてしまって……。それから積極的に彼らを手助けすることは、控えるようになられたの。だから、私も彼らがこのシュテルムドルソンに来て活動していることは知っていたけど、寄付はしていないわ。あくまで旧神殿を使う許可を与えただけ」

「そっか…」

 

 オヅマは頷いて、ブラジェナから聞いた故・公爵夫人リーディエについて考えた。

 肖像画を見る限りは、おとなしやかな美しいだけの女性に思えていたが、存外、活動的で気が強そうだ。もし生きていたら、自分の息子を(ないがし)ろにする夫を、こっぴどく叱りつけていたことだろう。

 

 いずれにしろ、もうここでの用事は終わった。

 これ以上、亡くなった人について聞こうとも思わないし、そろそろブラジェナの作法教師のごときお小言にも辟易(へきえき)していた。

 オヅマはブラジェナに早々に出発する旨を告げた。

 

「まぁ、今日? そんな急に…」

「今の時間に出れば、ターゴラ(*近くの宿場町)にはたどり着くことができるから」

「……そうね。この時期は帝都へ行く人間を狙って、野盗なんかがウロウロしているし、野宿はなるべくしないほうがいいでしょうね」

 

 ブラジェナは不承不承であったが、オヅマの希望を受け入れた。それでも最後まで、彼女は饒舌(じょうぜつ)だった。

 門前でカイルに乗ろうとしたオヅマに、ブラジェナはかしこまった口調で話し始めた。

 

「オヅマ、貴方は信用できる人間だと思います。息子(マティアス)は少し気が弱いから、貴方には頼りなく思えるところもあるでしょうけど、どうか仲良くしてやってね」

「気が弱い? あいつが?」

 

 オヅマは思わず聞き返した。

 初対面のときから、マティアスが気が弱かったなどという印象を持ったことがない。

 

「……こんなこと言うのなんですけど、マティには最初からものすごく威張られてる感じなんですけど」

「えぇ? 威張る? あの子が?」

 

 ブラジェナは信じられないようだった。オヅマは腰に手を当て、マティアスの()姿()を再現してみせた。

 

「『僕はマティアス・ブルッキネン! アハト・タルモ・ブルッキネン伯爵の息子にして、グレヴィリウスの青い(ほこ)、ブルッキネン伯爵家の正統なる後継者だ!』……っていうのが、アイツの初対面の挨拶なんですけど」

「まぁ!」

 

 ブラジェナは目を丸くして驚いてから、心底楽しげに笑った。

 

「まぁ、あの子ったら…私が教えたのをそのまんま…」

「教えた?」

「えぇ。あの子、近侍に決まったときに、ものすごく不安がっていてね。他の近侍と仲良くできなくて、意地悪されたりしたらどうしよう…って、ものすごく悩んで心配するものだから、私、言ってやったの。『先手必勝よ!』って」

「先手必勝……?」

「そう! 何事も最初が肝心ですからね! 会ったときに毅然(きぜん)とした態度でいれば、相手だって、そうそう馬鹿にした態度なんてとらないものよ、って。そのときに、さっきの言葉を、まぁ…いわば()()の例として出したのだけど…そう。そのまま使ったわけね。やるじゃないの、あの子。虚勢も続けていれば、いつかは身につくものよ」

 

 息子の成長を喜ぶブラジェナを、オヅマはややあきれた眼差しで見ていた。

 

 マティアスのあの偉そうな態度が虚勢?

 しかも息子をけしかけていた?

 

 オヅマは初対面で吐かれた、マティアスのあの挑戦的な()()を思い返す。あれが懸命に虚勢を張っていたのだと知ると、どこか滑稽にも思えてくる。

 

 そういえば、あの()()、律儀にも近侍全員に言っていたような……。

 

 オヅマはブラジェナに気付かれないように、ため息をついた。

 少々、マティアスが不憫になってくる。

 

 ブラジェナに会った当初は、マティアスの口やかましさは母親譲りで、似た者親子とばかり思っていたが、ブラジェナの豪胆で一本気、やや向こう見ずな気性は、息子には受け継がれなかったようだ。

 内心、オヅマはホッとしていた。ブラジェナの言う()()()()が、マティアスを慎重な性格にさせたのだろう。正直、マティアスがそのまんまブラジェナの男版だったら、きっとオヅマとは今以上に険悪な仲になっていたに違いない。

 伯爵夫人で、同じ近侍の母親で、年上の女性であるから、オヅマも多少礼儀をもって接しているが、これが同世代の同じ近侍であれば、もっと遠慮なく言い合っていたはずだ。

 

「マティは、十分に頼りがいがありますよ」

 

 オヅマが言うと、ブラジェナはまた驚いて、薄茶色の目を丸くした。まじまじとオヅマを見つめてから、一見冷たく見える硬質な眼鏡の奥の瞳が、柔らかく微笑んだ。

 

「ありがとう、オヅマ。気をつけてお帰りなさい」

「はい。じゃあ、お世話になりました」

 

 オヅマはカイルに乗ると、軽く首を叩いて合図して歩き出した。

 既にエラルドジェイはシュテルムドルソンから出て、街道を進んでいる。

 この二十日ほどの滞在中、エラルドジェイはあれこれと指図してくるブラジェナに閉口し、早々に領主屋敷から出て、町中で知り合った人間(おそらく女)の家を点々としていたので、別れの挨拶は無用と考えたのだろう。

 

 トコトコ進んでいると、背後からブラジェナが大声で叫ぶのが聞こえてきた。 

 

「今度は小公爵様と、マティアスと一緒に来てちょうだいね!」

 

 オヅマは振り返り、軽く手を振った。

 実際にその状況を想像すると、おもわず笑みがこぼれる。

 あの母親とアドリアンの間で、あたふたしているマティアスが容易に思い浮かんだ。

 




次回は2023.11.12.更新予定です。
感想、評価などお待ちしております。お時間のあるとき、気が向いたらよろしくお願いします。


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第百六十一話 『夢』の話

「あ…」

 

 オヅマは森の中に切り拓かれた街道を歩いている途中で足を止めた。

 巨大なアカスギの木の脇に、旅の守護神であるイファルエンケの小さな像がある。いや、像らしきものと言ったほうがいいのかもしれない。長年の風雨にさらされて、もはや顔も判別できなくなったそれは、知らない人間が見れば、ただのデコボコした岩にしか見えないだろう。

 

 アールリンデンまであと一日といった旅程。

 そろそろ日暮れに近い時間帯。

 

 急に足が止まったオヅマに、グフゥとカイルが不思議そうに(いなな)く。

 先を歩いていたエラルドジェイが振り返った。

 

「どうした?」

 

 尋ねられて、オヅマはどう言うべきなのか逡巡した。

 おそらく明日にはアールリンデンに到着する。今日がエラルドジェイと過ごす最後の晩になるだろう…。

 

 昨夜、泊まった宿でエラルドジェイは言った…… ――――

 

 

 

「ま、とりあえずアールリンデンに着いたら、俺の仕事も終了だな」

「仕事?」

「婆様に頼まれてたんだよ。お前をアールリンデンまで送ってやってほしい、って。婆様も、それはお前の新しい父親? に、頼まれたとか何かで、ブーブー文句言ってたけど」

 

 オヅマはすぐにわかった。

 ヴァルナルがオヅマに持っていかせた親書。そこにおそらく書いていたのだろう。考えてみれば、行くときにだってわざわざマッケネンを護衛につけてきたヴァルナルが、帰りの心配をしないはずがない。

 

「まぁ、俺もアールリンデンに用があったから。ついでだし」

「ラオのとこ?」

 

 オヅマは反射的に尋ねて、ハッとした。

 ラオとは、アールリンデンにホボポ雑貨店という店を構える、少々気難しいが面白い店主だ。

 だが当然、オヅマは()()()()()()()()()()

 また、エラルドジェイが怪訝に首をかしげる。

 

「俺…お前に言ったっけ? ラオのこと」

「なんか…チラッと…聞いた気がして……」

 

 オヅマは適当にいなしたが、顔はやや強張っていた。

 蝋燭も消したあとで、二つあるベッドにそれぞれ寝ていたから、気付かれることはなかったが、きっとエラルドジェイは腑に落ちなかっただろう。ルミアのところにいる間に、ラオの話など一切出てくることはなかったはずなのだから。

 それきり何も聞かず、エラルドジェイは眠りについたようだった。オヅマはホッとしながらも、どこか寂しい気持ちで眠った…… ――――

 

 

 

 いつまでも立ち尽くしているオヅマに近づいてくると、エラルドジェイもまた像に気付いたようだった。

 

「なに、お前。これが何なのか、わかってんの?」

「ん……」

 

 オヅマははっきりと答えられなかった。

 その像は、実はその先に裏街道へのルートがあることを示すものだった。

 帝都へと向かう正規の街道に沿う裏街道は、まったく別のルートが続いているわけではなく、要所に設けられた関所を避けるようにして出来上がったものだ。ゆえに、ある場所から裏街道へと抜けて、関所をやり過ごし、再び正規の街道へと戻るようになっている。

 裏街道への出入口を示すものは、こうしたイファルエンケの像であったり、旅人たちへの雨しのぎにと作られた掘っ建て小屋であったり、時にはよくよく目を凝らして見ないとわからないような、卑猥な言葉が彫られた岩であったりする。

 

「なに、お前。帝都に行ったことあるのか?」

「いや…」

「なんで行ったことないのに、()()に反応するんだよ。誰かに聞いたのか?」

「………」

 

 オヅマは黙ったまま、あたりを見回して誰もいないことを確認すると、ガサガサとイファルエンケの像の後ろの草藪を割って入っていった。カイルが少し不満そうに(いなな)いたが、オヅマに連れられ、仕方なさそうに草を踏み、細い枝を折りながら進んでいく。

 

「おいおい。なんでわざわざ…。お前なんかが、()()()使う必要ないだろー?」

 

 エラルドジェイは呼びかけながら、オヅマの後についてくる。

 細い獣道を歩きながら、オヅマの脳裏には()の中、エラルドジェイと共に帝都へ向かっていた日々が思い浮かぶ。

 

 

 ―――― オヅマ、こっちだ。こっちに美味(うま)い水が飲める場所があるんだ……

 

 

 やがてたどり着いた場所は、小さな滝壺だった。

 岩場から染み出した水がチョロチョロと流れて、岩の窪みに溜まっている。人間だけでなく動物たちの水飲み場でもあるので、今も栗鼠(りす)のような動物が飲んでいたが、オヅマが近づくとあわてて逃げていった。

 

「ここを知ってるとはな。教えてもらったのか?」

 

 エラルドジェイは意外そうに言いながら、水を(すく)ってゴクゴクと飲んだ。「あー…うまい」

 

 オヅマは本当においしそうに水を味わうエラルドジェイを、懐かしげに見つめた。

 

 

 ―――― ここはな、別名()()()()()の泉って呼ばれてるんだ。普通に街道を歩くようなヤツらには、一生飲むことはできない。だから、誰にも言うなよ。

 

 

 あの約束は守った。オヅマは誰にも言わなかった。

 けれど、あの後再びこの場所を訪れたときには、もう水は()れて落ち葉が積もっていた。

 

「あぁ……」

 

 オヅマが頷くと、エラルドジェイは手の甲で口を拭いながら、皮肉るように言った。 

 

「まったく、誰だよ。公爵家の近侍なんかに、ここを教える馬鹿は。しかも、ホイホイと俺みたいなならず者に教えてやがる。こういう場所は普通、よっぽど信用している人間にしか教えないもんなんだぜ」

 

 オヅマはグッと拳を握りしめた。

 

「俺に…ここの場所を教えたのは、あんただよ」

 

 エラルドジェイは最初、それをオヅマの冗談だと思ったようだった。だが、オヅマの顔にふざけた様子が微塵もないのを見ると、(いぶか)しげに眉を寄せた。

 

「何言ってやがる? 俺はお前に教えたことなんぞないぜ」

「……今日は野宿しよう」

 

 オヅマが答えず歩きかけると、エラルドジェイはグイと肩を掴んだ。

 

「おい、ちょっと待て。ずっと思ってたけどな、初めて会ったときから、おかしかったんだよ。俺の秘名(ハーメイ)を知ってたり、いきなり泣き出したり、胡桃(くるみ)のことだって……!」

「わかってる。俺もおかしいと思ってる。だから、あんたには話す。話すから、今日は『狼の(ほら)』で野宿しよう」

 

 エラルドジェイは言葉をなくした。

『狼の洞』は、この辺りでいつもエラルドジェイが使う野宿の場所だ。誰が描いたのか、狼の絵が描かれた洞穴があって、勝手にエラルドジェイが名付けた。その名はもちろん、場所のことだって、オヅマに言ったことなどない。

 折れた枝を拾いながら『狼の洞』にたどり着くと、二人は黙々と火を(おこ)して焚いた。ユラユラと揺れる火影(ほかげ)に照らされた洞穴の中に、下手くそな狼らしき動物の絵を見つけて、オヅマはフッと笑った。

 

「なんだよ?」

 

 エラルドジェイは落ち着かないのか、些細なオヅマの仕草にも過敏になっていた。

 

「いや、これ狼の血で描かれたって言ってたから…」

「は? 誰が?」

「アンタが。狼の血で描いてるから、熊も山狗(やまいぬ)も寄ってこないとかなんとか言ってて…」

「そんな訳あるか」

「そうだよな。でも、俺しばらく信じてたんだ」

 

 エラルドジェイはすっかり困惑したようにオヅマを見つめてから、フゥとため息をついた。周囲をなんとなしに見回すと、あちこちに落書きがあった。これを描いた人間は、雨にでも降り籠められて、よっぽど暇を持て余していたのだろうか。

 

「で?」

 

 エラルドジェイはオヅマに視線を戻し、問いかけた。

 

「これだけ意味ありげな状況作っておいて、何も言わないってこともないんだろ?」

 

 オヅマはエラルドジェイをチラと見た。やっぱり相変わらず…こういうときに人の心を(ほぐ)すのが上手い。冗談めかした言い方をしながら、ちゃんとオヅマの話を聞こうとしてくれる。

 背後で眠っているカイルの(たてがみ)を撫でながら、オヅマは軽く息を吐いた。少し震えているのが自分でもわかる。何度か口を開いては閉じて、小さい声で言った。

 

「俺……夢を、見るんだ」

「夢?」

「うん。なんか……ものすごく懐かしいような、でも見たくない夢。その夢の中で、俺は……ものすごく後悔してる。ずっと、苦しくて…ずっと…」

 

 泣きそうになる ――― 。オヅマは言いかけて、感傷的になりそうな自分に必死に歯止めをかけた。

 今はあの()に囚われてはならない。

 

「……その夢の中で母さんが死んで、俺は妹と二人で帝都に行くことになるんだ。だけど、子供二人の旅なんて怪しまれて、裏街道を行くしかなくて。そのときにアンタと出会って、一緒に行くことになって…そこから…ずっと、帝都に着いてからも、ずっと…世話になって……」

 

 話すオヅマの脳裏に、()の中でのエラルドジェイとの日々が、一気に押し寄せてくる。同時に苦いものがこみあげてきて、今ここで一緒にいることも、悪く思えてきた。

 あの()の中で、エラルドジェイは最後までオヅマを助けようとしてくれていた。それなのに()()()は、結局のところエラルドジェイの意見を聞かなかった。

 決してあの()のようにはならないのだと、そう思って行動してはいても、暗く、つらく、苦しかったあの日々は、あまりに鮮烈で、重たくて、オヅマの願いをも無理に捻じ曲げてきそうなほどだ。

 もしこの先に、あの通りの日々が待っているのだとしたら、もうエラルドジェイには近づかない方がいい。彼に頼ってはいけない。彼を犠牲者にしてはいけない。

 そう思うのに、結局、こうして今も一緒にいる。

 これもまた()の中での()()()に沁み込んだ、エラルドジェイへの甘えだ。

 騎士や公子といった身分に関係なく、オヅマを唯一人のオヅマとして接してくれたのはエラルドジェイだけだった。だからいまだに、無意識に彼に頼ろうとしてしまう。勝手なことだ。

 

「ふぅん…」

 

 オヅマがうつむいて黙り込んだので、エラルドジェイは軽く相槌をうつ。

 どうしたものかと、天井を仰ぎ見ると、そこにも絵があった。明らかに指で適当に描かれた狼の絵とは違い、こちらはきちんと筆で描かれたものだった。どうやら、ここで過ごす暇つぶしに、絵を見ていた者達が、そのうち思い思いに描くようになったようだ。

 旅人の守護者(イファルエンケ)を描いたらしい、雀の面を被った七本指の男神の絵をぼんやり見ながら、エラルドジェイはポリポリと耳裏を掻いた。

 

「じゃあ、その夢の中で俺に会ったから、俺のことを知ってたって訳か。初めてあの…倉庫で会ったとき」

 

 オヅマはコクリと頷いた。

 

「俺の秘名(ハーメイ)も、俺がお前の夢の中で話したんだな? 胡桃(くるみ)で遊ぶことも、ラオのことも」

 

 矢継ぎ早に尋ねてくるエラルドジェイに、オヅマはただ頷くしかなかった。

 きっと、普通に考えればおかしい奴だと思われるだろう。

 そう思われて当然だ。

 これでエラルドジェイがあきれて、あるいは気味悪がってオヅマから離れるならば…それはそれでいいのだ。きっと。

 オヅマは無理矢理に自分を納得させた。

 だが、やはりエラルドジェイはエラルドジェイなのだった。

 

「なぁんだ。そういうことか。だったら……うん、わかった」

 

 すんなりと、あまりにもあっさりと肯定するエラルドジェイに、オヅマはむしろ戸惑った。

 

「嘘だって、思わないのか?!」

 

 思わず大声で尋ねると、エラルドジェイは肩をすくめる。

 

「うーん。まぁ…こういうのってさ、結局のところ俺にとっちゃ、どっちが腑に落ちるかっつーか……要は気持ちよく過ごせるかってことなんだよな。俺は……そりゃ、ちょっと不気味だったよ。教えたはずがないのに、俺の秘名(ハーメイ)を知ってるとか、時々、俺の顔を見てはお前が泣きそうになったりしててさ。だから何故なのか…ってのは知りたかったんだ。で、お前はその理由が夢の中で俺に会ってた、ってことなんだろ?」

「うん…そうだけど……信じられるのか?」

「嘘なのか?」

「嘘じゃない! 嘘みたいだって、思うだろうけど…でも、本当に、そうなんだ…」

 

 オヅマは唇を噛み締めた。

 これ以上、いったいどう言えば信じてもらえるのだろう?

 エラルドジェイは深刻な顔をしたオヅマを見て、フッと微笑んだ。

 

「俺はお前を信じるよ。だからお前の言うことも信じる。その方が気が楽だし、色々と考えるのも面倒だからな」

 

 

 ―――― 考え過ぎなんだよ、お前は。迷ったら、自分の気持ちが楽になる方を選べばいいんだ…

 

 

 ()の中と、同じだった。

 楽観的で、単純で、いつも自分に一番素直であったエラルドジェイ。

 そのあっけらかんとした自信が、()()()にはいつも羨ましくて、頼もしかった。

 けれど今は()と変わりないエラルドジェイに、漠とした不安がつきまとう。

 

「俺を信じて…いつか…危ない目に遭ったらどうするんだよ」

「へぇ…それはお前の夢の中で俺、危ない目に遭ったってことか?」

 

 (たもと)にしまっていた胡桃を出して、ゴリゴリと掌の中で遊びながら、エラルドジェイは冗談めかして問うてくる。

 その時オヅマの脳裏には、()の中のエラルドジェイの残像がいくつも行き交っていた。今のようにからかって笑うエラルドジェイも、文句ばかりのエラルドジェイも、珍しく真剣な顔のエラルドジェイも、哀しげに微笑みながら倒れてゆくエラルドジェイも。

 

 あぁ ――――

 どうして()()は、彼を信じなかったのだろう…?

 どうして彼の言葉を聞こうともしなかったのだろう…?

 

 そのことについて思い出そうとしても、頭の中で靄がかかったかのようにわからない。鈍く頭痛がしてくる。

 

「おい!」

 

 急にエラルドジェイがオヅマの肩を掴み、大声で呼びかけた。オヅマはすぐに我に返った。あれほど戒めたのに、やはり冷静でいられなかったらしい。

 

「ごめん…」

「お前、なんだか疲れることになってんのなー」

「え?」

「いや、だってお前……今だって、いきなり貴族のお坊っちゃんになったりなんかして、なんかいろいろと大変そうじゃんか。そのうえ、夢のことでも悩んでるとか……なーんか、面倒くさそー」

 

 いかにも辟易したように言うエラルドジェイに、オヅマは内心苦笑しながらも、ムッとなって言い返す。

 

「…なんだよ。人が真剣に悩んでるってのに」

「そりゃまた、ご苦労さま。でもな、俺のことに関してなら、あんまり意味ねーぜ」

「……どういうことだよ」

「ルミアの(ばば)様が言った通りさ。俺みたいな奴は、死んだところで地獄に行くのは決まってんだ。だから生きてる間は、せいぜい気楽に生きるのみ~」

 

 しゃあしゃあと(うそぶ)いて、エラルドジェイは手品師のように(てのひら)胡桃(くるみ)をもてあそぶ。一個になったり、二個になったりと思っていたら、掌を裏返して戻すと胡桃は消えていた。驚かないオヅマにエラルドジェイは肩をすくめると、だんだんと小さくなってきた焚き火を見つめながら言った。

 

「だから、お前が俺のことを心配する必要なんてないんだよ。俺は、いつだって俺が思ったように生きてるさ。たぶんお前の夢の中の俺だって、そうだったろ? それともなにか? お前に『恨んでやる~』っ()って、死んでいったのか?」

 

 黙って首を振ると、エラルドジェイはパンパンとやや強くオヅマの肩を叩いた。

 

「だよな~! たぶん、そうだろうと思った。お前の夢でも、俺、たぶんお気楽者だったんだろうな~」 

「……痛いな」

 

 小声で文句を言いながら、オヅマは泣きそうになるのを必死でこらえた。

 どうしてこんなにも変わらないんだろう。()でも、今も、エラルドジェイはオヅマの欲しい肯定をくれる。

 エラルドジェイはハハハッと笑って、ゴロリと寝転がった。

 

「そういうことで、今後一切、そういう顔すんのナシな」

「そういう顔?」

「そういう、泣く一歩手前みたいな顔。苦手なんだよ、泣かれるの」

「……泣くか」

「泣いてただろーが。最初」

「うるさい」

 

 オヅマはムッとしながら、小さくなってきた焚き火に、残りの小枝を放り入れる。ブワッとまた火が大きく燃え上がった。

 

「じゃ、これで貸し借りなしってことで。今後はお互い気楽な付き合いといこうぜ、兄弟!」

 

 エラルドジェイが一件落着とばかりに言うので、オヅマはしばし考えた。

 

「今回のことは、稽古してもらったからいいとして。レーゲンブルトでマリー達を誘拐したのは、まだ貸しだろ」

「えぇ? そんなこと言われても、あれ仕事なんだけど?」

「……仕事はともかく、そのあと騎士団に黙ってたのは、まだ貸しだ」

「黙っててくれなんて頼んでないだろー」

「俺が黙ってたお陰で逃げおおせて、あのドジな女に金を渡すこともできたんだろ? ついでに言うなら、今でも調査は継続中だ。俺はグレヴィリウスの人間で、いつでも言える立場なんだ。だから今も継続して、俺はお前を(かくま)ってるってことだ」

「うわっ! ズルッ! コイツ…闇稼業の人間相手に、脅迫してやがる。なんつー悪ガキだ」

 

 ブツブツ文句を言うエラルドジェイに、オヅマはニヤリと笑った。

 

「言ってろ。貸しはまだ継続中だ。しっかり払ってもらう」

「あーあ。さっきまでの泣きべそかいてたガキはどこにいったんだよ…」

「泣いてねぇ、ってんだろ! もう寝るぞ」

「あーあ…とんでもねぇクソガキ…」

 

 エラルドジェイはしばらくの間、たらたらと愚痴っていたが、やがて静かな寝息に変わった。

 オヅマはホッとして寝そべりながら、エラルドジェイとの新たな関係性を考えた。

 今度こそ間違わないために。

 ()のように友人ではなく、仕事、あるいは損得勘定で成り立つような間柄であれば、エラルドジェイはいつでもオヅマを、()()()()()ことができるはずだ……。

 




次回は2023.11.19.更新予定です。


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第百六十二話 ハヴェルの奉仕隊

 新年をあと数日後に控えて、アールリンデンも帝都ほどではないにしろ、どこか浮き立った雰囲気だった。市場などはいつもの店に加え、新年特有の暦屋(こよみや)やら、来年の年神であるフィエンの像を売る店などが増えて、賑やかしい。

 レーゲンブルトもいる頃には、ラディケ村と比べてその規模の大きさに目を丸くしたものだったが、アールリンデンはまたひときわ盛大で、もはやラディケ村で行われていた新年の祭りなど、子供のままごとのようにすら思える。

 浮かれ気分の人々の間を抜け、人気(ひとけ)の少なくなった井戸の前で、エラルドジェイが言った。

 

「じゃ、ひとまずここで別れるか」

 

 しかしオヅマは「いや」と、首を振った。

 

「ラオを紹介してくれ」

 

 エラルドジェイに頼んだのは、アールリンデンにあるホボポ雑貨店の亭主との橋渡しだった。店頭に置いてある花器だの、煙草入れだのを買うだけならば、エラルドジェイの顔利きは必要なかったが、オヅマが欲しいのはラオが隠れて扱うような品だ。

 

「え? あ、そっか。ラオのことも知ってたっけ」

 

 エラルドジェイが驚くと、オヅマはもはや()のことを話したせいか、当然のように頷いた。

 

「あぁ。禿げ頭のおっさんだろ。髪の毛の代わりにヘンな入れ墨した…」

「入れ墨? そんなのしてないと思うけどな…」

 

 エラルドジェイが首をひねる。

 オヅマはハッと口を噤んだ。

 ()でラオに会ったのは、今のオヅマの年齢から数年経ってからのことだった。今は、まだ違う姿なのかもしれない。

 

「まぁ…とりあえず、行こう」

 

 オヅマはそのまま中心街に向かおうとして、エラルドジェイに止められた。

 

「おいおい。そっちじゃねぇよ」

「え? 日時計広場からメルドゥク路を抜けて、角にある噴水の前じゃなかったっけ?」

「そんないい場所にあるわけないだろ、あのボロ店が」

「ボロ店?」

 

 ()でオヅマが訪れたときには、アールリンデンでも指折りの大商家の店が並ぶ、中心街の一等地にあったのだが、それも違うらしい。

 

「こっちだ」

 

 エラルドジェイについていった先は、中心街から少しばかり離れた、粗末な住居が密集したいわゆる貧民街らしかった。ただ、オヅマの()で見た帝都の貧民街に比べると、落ちているゴミや汚物の類も少なく、劣悪な環境でもない。そもそも石畳が貼られて、下水溝なども備わっているような貧民街など見たことがない。むしろ帝都であれば、割合といい町の部類だ。

 

「まぁ、若様の近侍なんぞが、こっちにゃ来ないか」

「いや…レーゲンブルトから来て、朝の遠駆け以外で公爵邸から出たことなくてさ。あそこにいたら、必要なもんほとんどあるし」

「そりゃそうか」

 

 話しながら歩いていると、少し開けた広場のような場所に、人々が集まっていた。大きな天幕が張られた下で、身なりのきちんとした男と、下女らしき女が数人、やってくる人々に毛布を渡している。奥の方では何かスープのようなものと、いかにも固そうな黒パンが配られていた。

 いわゆる『施し』というやつだ。新年の前後になると、やたらと増える。

 ラディケ村でも、レーゲンブルトでもこうしたことは行われていた。

 もっとも昨年のレーゲンブルトにおいては、新年の祝いというよりも、領主であるヴァルナルの再婚を祝して、そのお披露目も兼ねた大盤振る舞いといった様相ではあったが。

 今も目の前で行われていたが、アールリンデンという都市(まち)の規模からすると、群がる人の数はさほど多くなかった。やはりこの地においては、帝都ほどに困窮した人が少ないのかもしれない。これもブラジェナの言っていた前公爵夫人・リーディエの社会奉仕活動の成果なのだろうか?

 オヅマたちが近づくと、天幕の中にいた薄茶の砂色の髪の男が目敏く見つけた。

 

「おや、公爵家の方ですか?」

 

 問いかけられ、オヅマは頷くしかなかった。

 アールリンデンに着くまでは、正直そこらの農民と変わらないような格好をしていたのだが、今日は公爵邸に入るので、騎士の訓練服を着て、公爵家の紋章が染め抜かれた、グレヴィリウスの色である青藍のマントを羽織っていたのだ。

 

「何をしてるんですか?」

 

 オヅマが尋ねると、男は微笑んで言った。

 

「ハヴェル様の篤志にて、アールリンデンに住む民が健やかに新年を迎えられるように、ささやかながら物品をお配りしております」

「ハヴェル…?」

 

 オヅマは眉を寄せて、居並ぶ人々と渡されている品物を見た。

 帝国の東北部に位置し、夏でも比較的涼しいアールリンデンとはいえ、この時期に毛布は必要としないだろう。おまけにスープとやらも、チラと木の椀の中身を見たが、なんだかよくわからない草のようなものが入っているだけで、灰汁(あく)らしき白い泡が椀の隅にこびりついていた。正直、おいしそうには見えないし、あまりよろしくない臭いもしてくる。

 目線を天幕に向けると、そこにはグルンデン侯爵家の紋章である白百合と金の弓矢が二本、刺繍されてあった。

 オヅマがジロジロと見回している間に、男のそばにやってきて耳打ちする者がいる。存在感のあるその姿に、オヅマはすぐに思い出した。以前に公爵邸の本館で、オヅマに嘘を教えてきたあの丸顔の、ずんぐりむっくり従僕だ。

 

「これはこれは。小公爵様の近侍が何故、このような場所に?」

 

 やたらと大声で(特に「小公爵様」を聞かせるように)、顔だけは相変わらず人良さそうな微笑を浮かべて尋ねてくる。

 周囲で施しを受けていた人々が、途端に眉をひそめ、コソコソとささめきあった。

 

「小公爵って、あの、我儘放題だっていう……?」

「とんでもない癇癪持ちで、少しばかり気に食わないことがあったら、すぐに暴れまわるんだってよ」

「公爵様も匙を投げていらっしゃるそうな……」

「まったく。リーディエ様もお嘆きであろう……」

「ハヴェル様はちゃあんとリーディエ様に育てられたから、いまだにわたしらみたいなモンにも、こうして気配り下さって……」

 

 耳を澄まさずとも聞こえてくる人々のコソコソ話に、オヅマは黙り込んだ。

 こうまでアドリアンのことが()()()に伝わっていることに、内心、怒りよりも驚きがあった。公爵邸に籠もって、ほぼ町中に出てくることのない小公爵について、たとえ領民であってもそう詳しく知っているはずがない。だというのに、噂する人々はまるで見てきたかのように、誰もがアドリアンを()()で、()()()()の、()()な小公爵であると断定している。

 ここまで()()()()()されているということは、つまり、そのように()()()()()()()()ということだ。

 それが誰の意図によるものか……。

 オヅマはスゥっと目を細めた。

 

「名前は?」

 

 オヅマはずんぐりむっくりの質問には答えず、反対に問いかけた。

 え? と丸顔従僕はどこか(あざけ)ったような笑みを浮かべて、小首をかしげた。

 オヅマはもう一度尋ねた。

 

「名前だ。お前の」

 

 冷ややかに問いかけられ、従僕は少し鼻白んだが、ヒクヒクと頬を痙攣させながらも慇懃(いんぎん)に挨拶した。

 

「これは、失礼。小公爵様の近侍が、(わたくし)ごときの名前などご存知なくても当然でしょうな。ハヴェル様は、公爵邸の使用人は洗濯女の名前まで全てご存知ですが」

「それが名前か?」

「は?」

「『これは失礼。小公爵様の近侍が、私ごときの名前などご存知なくても当然でしょうな。ハヴェル様は、公爵邸の使用人は洗濯女の名前まで全てご存知ですが』というのが、お前の名前なんだな?」

 

 すっかりきれいに(そら)んじて返すオヅマに、かたわらにいたエラルドジェイがククッと肩を震わせた。

 従僕はすっかり笑みを消し、憤然として名乗った。

 

「わっ、私にはフーゴという名前がございます!」

「だったら、とっととそう名乗れ。くどくどとおしゃべりな従僕だな」

「な…なんと、無礼な」

「無礼?」

 

 オヅマは聞き返しながら、一歩、フーゴへと歩み寄る。

 フーゴは自分よりもはるかに年少でありながら、ジワリと這い寄る威圧感に思わず背を反らした。

 

「お前、何者だ?」

 

 静かに低い声でオヅマが尋ねる。

 フーゴは動揺しつつもどうにか平静を装って、必死になって言い返した。

 

「はっ? な、なんですと?」

「お前は、グレヴィリウス家のなんだ? 使用人だろ? 本館の従僕だよな?」

「さ、左様…」

「じゃあ、俺が誰なのか知っているか?」

「そ…れは」

「まさか、グレヴィリウスの本館で働くような従僕が、小公爵さまの近侍の名前さえわからないとでも言う気か?」

「お…オヅマ……公子」

 

 フーゴは一歩後退り、小さく背をすぼめながら絞り出すように言った。オヅマを見上げる目に、戸惑いと怯えが見え隠れする。

 オヅマは腕を組み、うっすらと不敵な笑みを浮かべた。

 

「わかってるんじゃないか。じゃあ、聞こう。今、ここで無礼があったのは、お前か? 俺か?」

「も……申し訳ございません」

 

 フーゴは薄紫の瞳が迫るのに耐えきれないように、頭を下げた。

 オヅマは傲然とフーゴを見下ろして言った。

 

「色々と俺に対して思う所はあるんだろうな。でも、貴族の屋敷で仕えるのであれば、出自がどうあれ、(くらい)に対して頭を下げることは、一番最初に躾けられたことだろ? お前の立ち振舞がグレヴィリウスの品格を下げる。ルンビック子爵に、そう習わなかったのか?」

 

 家令であるルンビックを持ち出した途端、フーゴはあわてたようにペコペコと何度も頭を下げた。自分の無礼な行為を告げ口されると思ったらしい。

 

「も、申し訳ございません! どうかお許し下さい!! 私が至りませんでした、どうか…!」

 

 オヅマは答えず、最初に声をかけてきた砂色の髪の男を見た。強張った顔で、じっと見つめている。オヅマがギロリと睨むと、ハッとしたように頭を下げた。追随するように、隣にいた下女たちも同じように頭を下げる。

 

「公子様と気付かず…失礼を……」

「お前はグルンデン侯爵家から来たのか?」

「は、はい」

「そうか。それで、これはハヴェル公子の篤志ってわけだ?」

「左様で、ございます…」

 

 男は消え入りそうな声で言って、身を小さくする。まだ少年といっていい年齢であるのに、その威圧感は自らの仕える主人以上のものがあった。チラと腰にある剣に目がいって、ますます体が固くなる。有り得ないとは思っていても、いきなり抜き打ちで斬られそうな気がする。

 だが身を細らせる男の予想に反して、オヅマはそれまでの冷然とした態度を一転させた。組んでいた腕を解くと、軽く頭を下げ、明るい口調で礼を述べたのだ。

 

「小公爵さまに成り代わり、礼を言っておく。小公爵さまは成人前で、こうしたことが大っぴらにできないんだ。ハヴェル公子の()()()()()()()()()()()()()()()()から、色々と()()()()()()んだろうな。有難いことだ」

 

 薄紫色の目を細めて微笑む姿に、男は思わず目を惹きつけられた。隣に並んだ下女たちも、それまでの緊張が解けると同時に、少年の整った顔立ちに(にわか)に気付いて顔を赤くする。

 事の成り行きを見ていた民たちまでもが、急に現れたこの傲慢でありながら、優雅に笑う少年に一瞬にして魅了されたようだった。

 

「行こう、ジェイ」

 

 エラルドジェイに声をかけて、バサリと青藍のマントを翻す姿もまた、堂々としたものだった。その洗練された立ち居振る舞いを見た数人の少年たちは、わかりやすく憧れの眼差しを向けた。

 

 エラルドジェイは少しばかりこそばそうな笑みを浮かべて頷くと、再び先に立って歩き出す。

 しばらく黙念と歩き、人の姿がまばらになったところで、いざ冷やかしてやろうかと振り返って、「ゲッ!」と声を上げた。

 

「どうした?」

 

 オヅマは怪訝に尋ねたが、エラルドジェイは何も言わずにオヅマの背後を睨んでいる。誰かいるのかと振り返ると、そこに立っていたのは、短い銀髪に蒼氷色(フロスティブルー)の瞳の、見目麗しい青年だった。

 

「見事でしたね、オヅマ公子」

「ヤミ・トゥリトゥデス卿…?」 

 

 オヅマが名前を確認するように尋ねると、ヤミは少し眉を上げて、やや驚いたように言った。

 

「よく、私のことを覚えておいででしたね」

 

 それから舐めるようにエラルドジェイを見て、(つや)やかな笑みを浮かべた。 

 

「もっとも、その男と一緒にいるのであれば、不思議はないかもしれませんが……」

 

 オヅマはその言葉にエラルドジェイに向き直った。ヤミと相反して、エラルドジェイは不機嫌極まりない仏頂面だ。

 

「おい、ジェイ…知り合いなのか?」

 

 尋ねると、エラルドジェイは反対に尋ね返してくる。

 

「なんで、お前が知ってんだ?」

「なんでって、この人はグレヴィリウス騎士団の騎士だぞ」

「はぁ? コイツが騎士? グレヴィリウスの?」

 

 大声でエラルドジェイは非難するように喚いてから、額を押さえた。

 

「グレヴィリウスも血迷ったんじゃないのか? なんでこんなのを騎士になんて…」

「失礼だぞ、フィリー。公爵家で勤める者が二人もいる前で、しかもこのアールリンデンで、よくもそのようなことが言えたものだな」

「ヘッ! お前こそ、よくもそんな御託が並べられるな! せいぜいそのお綺麗な顔で騙くらかしたんだろうが、どうせそのうちボロが出やがるさ!」

 

 オヅマは急遽始まった喧嘩(?)に、目を白黒させながら、二人の会話に割って入った。

 

「ちょっと待ってくれ。えーと、知り合い? なんだよな?」

 

 ヤミは頷き、エラルドジェイはギリギリ歯ぎしりしながら否定も肯定もしない。とりあえず肯定と捉えて、オヅマはエラルドジェイに尋ねた。

 

「フィリーって? ジェイ以外に名前があるのか?」

「通り名ですよ、いくつかあるうちの」

 

 エラルドジェイが答えるより先に、ヤミが答える。

 

「うるせぇ! 余計なこと言うな」

「聞かれたから答えただけだ。それにしても ――― 」

 

 ヤミは一旦、言葉を切ってオヅマとエラルドジェイをそれぞれ見つめた。

 

「まさかお前が、オヅマ公子と知り合いというのは……興味深いな」

「あぁ。俺が怪我しているジェイを助けたんだ。ヤミ卿とジェイは?」

 

 オヅマはすぐに話題を入れ替えた。

 以前、エラルドジェイと公爵家の諜報組織について話していたとき、思い浮かんだのはヤミだった。今も、背後に立たれても気付かなかった。彼がもし本当に公爵直属の諜報員ならば、今オヅマに声をかけてきたのも何か意図があるのかもしれない。

 ヤミはさらりと答えるオヅマにやや鼻白んだ顔になったが、すぐに元のうっすらとした笑みを浮かべた。

 

「元々は、奴隷仲間…といったところです」

「奴隷仲間?」

「えぇ。同じ奴隷商人のもとにいて、それぞれ別の場所に売られました。私は一時期、白の館におりまして、偶然にこの男がやって来て、仕事を手伝って欲しいと言うもんですから……」

「白の…館?」

 

 オヅマが眉を寄せて聞き返すと、ヤミはクスリと笑った。

 

「オヅマ公子はまだまだご存知ないでしょうが、世の中には様々な店がございます。女を買う店を赤の館というのに対して、男を買う店は白の館と…」

 

 オヅマの顔が歪み、軽く唇を噛む。おおよその予想はしていたものの、瞬間的な嫌悪感はどうしようもなかった。

 

「黙れ! 子供になに言ってんだ、お前は」

 

 エラルドジェイが怒って言うと、ヤミは目を細めて笑った。

 

「そうやって隠し立てするほどに、妙に怪しまれるものだろうに…」

「仕事だろ?」

 

 いかにも訳ありげな雰囲気を作ろうとするヤミに、オヅマは冷たく切り込んだ。

 

「ジェイは仕事でそこに来て、あんたも一時期いたってことは、お互い様だったんじゃないのか?」

 

 オヅマの問いに、ヤミは笑みを浮かべたまま、軽く首を傾げる。いかにも昔、妓楼にいたと思わせる(なま)めかしい仕草だった。

 

「お互い様?」

「店の()()とはまったく違った用件で、そこに潜り込んでいたんじゃないのか?」

 

 ヤミは笑顔をスッと消して、エラルドジェイを冷たく睨んだ。

 

「私のことを話したのか?」

「俺がお前のことなんか話すか。だいたい、お前がコイツと知り合いなんて、今さっき知ったんだぞ」

 

 エラルドジェイが吐き捨てるように言うと、ヤミは急に白けたように鼻を鳴らした。

 

「ふん。まぁいい。私はこれで失礼する。あぁ、オヅマ公子。先程はなかなかに痛快でしたよ。ですが、尻尾をいくら切ったところで同じ。小公爵様に着せられた汚名を返上なさるのでしたら、口先だけでなく、何かしら行動で示すべきでしょう」

「…()()()()ヤミ卿からの忠告であれば、素直に聞くことにしましょう」

 

 オヅマが()()()()()()すると、ヤミの顔は微かに苛立ちを帯びた。だが結局何も言うことなくヤミが去っていくと、エラルドジェイが長い吐息をついた。

 

「やれやれ。とんだ奴と鉢合わせちまった」

「ヤミ卿がグレヴィリウス公爵家の騎士だって、知らなかったのか?」

「知るわけあるか。野郎と会うなんざ、あの時以来だってのに。まったく…よくもあんなのを騎士なんかにしたな。グレヴィリウスって大馬鹿なのか」

「単純な騎士じゃなさそうだけどな」

 

 ヤミの消えた通りの角を見ながら、オヅマはポツリとつぶやく。エラルドジェイが怪訝そうに首を少し傾げた。

 

「前にあんたが教えてくれたろ? 公爵家の諜報組織の話」

 

 以前、稽古中にエラルドジェイが言っていたことだった。

 グレヴィリウスのような大貴族であれば、私的な隠密組織を抱えているだろう…と。そのときに諜報員の()を教えてもらい、オヅマはヤミが組織の一員であろうと目星をつけていたのだが、どうやら先程の反応を見るに、当たっていたようだ。

 それはエラルドジェイの態度からも肯定された。

 

「あぁーあ。うん。まぁ、それは…そうだろうな」

「白の館で会ったのも、お互いにそういう状況だろ?」

「……まぁな」

 

 エラルドジェイは素っ気なく言ってから、歩き出したが、急にクルリと振り返った。

 

「おい、お前。あんまりアイツと仲良くなるなよ」

「は?」

「アイツはなぁ…アイツは、性格が良くない! というか変態だ。だから相手すんな」

「……どういう知り合いなんだよ、あんたら」

 

 オヅマは訳が分からなかった。どうもエラルドジェイとヤミの間には、元奴隷仲間という以外の繋がりがあるようだ。それにしても『変態』とは…?

 

「もういい! 行こうぜ、ホラ、行くぞ」

 

 エラルドジェイは訝しげなオヅマの表情に、あわてて背を向けて歩き出す。

 オヅマは首をかしげつつも、その後についていった。

 

 




次回は2023.11.26.更新予定です。


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第百六十三話 ホボポ雑貨店(1)

 ようやくホボポ雑貨店に着いたが、オヅマはその貧相で小さな店に衝撃を受けた。 

 ()でのホボポ雑貨店は、そもそもこんな外れた場所ではなく、アールリンデンの中心部の一等地に、立派な店を構えていたのだ。

 ()の通りであるならば、あと数年もすれば、大当たりするような何かが売れて、店が大きくなるのだろうか? 今、見る限りにおいてはとてもそうは思えないが。

 

「相変わらず汚ねー店」

 

 エラルドジェイはあきれたように言いながら、ククッと笑う。店のドアを開けようかと手を伸ばしたときに、急に開いた。

 

「ホラァ、とっとと出た出た。ウチで買うようなモンは()()ェ!」

 

 太くて低いしわがれ声に怒鳴られながら、大きな荷物を背負った男が扉から転がるように出てくる。エラルドジェイと同じような西方民族衣装(ドリュ=アーズ)を着ていた。

 

「おぉっと…」

 

 エラルドジェイがコケそうになった男を支えると、男は顔を上げるなり叫んだ。

 

「エッジュエイ!!」

 

 エラルドジェイも、よく日に焼けた褐色の肌に、プリッとした肉厚の唇が特徴的な男の顔を見るなり、すぐに名を呼んだ。

 

「サーサーラーアン!」

「オォゥ!」

 

 二人の男は懐かしげに肩を叩きあった。

 その場にいてポカンと成り行きを見ていたオヅマは、男を追い出そうとしていた店主・ラオと目が合い、その姿を見た途端に噴き出しかけた。あわてて後ろを向いて肩を震わせる。

 ()で見ていたラオは、見事な禿頭で、長年大事に手入れしていた髪をばっさり切ったときに、寂しくなった頭に幾何学模様の入れ墨を入れていた。しかし今、目の前にいるラオは、まだわずかに残った髪の毛に未練があるのか、頭頂部からわずかに生えている一束をきれいに三つ編みにして、ぺったりと頭に貼り付けていたのだ。しかもそれが額のあたりでくるんとなっていて、要はものすごくヘンだった。

 

「おい…小僧。お前、笑ってるな?」

 

 ラオがしわがれ声で剣呑に言ってくる。オヅマは深く息を吐いてから、顔を引き締めて振り返った。

 

「いや。笑ってない」

「嘘つけ! 笑ってたろうがーッ!!」

 

 カブのような形のラオの顔は、真っ赤になって赤カブになる。オヅマはこらえきれず噴いてしまい、見ていたエラルドジェイがまぁまぁとなだめた。 

 

「仕方ないだろ。普通、初見(しょけん)は笑うって。だから巻布(ターバン)するか、帽子でも被ってろ…っていうのにさ」

「うるせぇ! だいたい、お前なんだ? いきなり人の店の前で、大声上げやがって!」

「アンタが最初に大声上げてたんだろ。ま、いいや。入ろう入ろう。ホラ、入った入った」

 

 エラルドジェイは言いながら無理やりラオを店の中へと押し入れる。振り返ってオヅマと、さっき再会したらしい男にも声をかけて促した。

 

 店の中に入ると、小さくみすぼらしい店構えに相反して、店内は小綺麗に片付けられていた。売っているものも整理して陳列されており、わかりやすい配置になっている。

 オヅマはなんとなく懐かしかった。

 ラオは店内・倉庫にある品物の、置かれている場所、個数まで正確に把握しており、買いに行けばたちどころに品物を出してきた。もしないものがあると「沽券に関わる」らしく、何が何でも手に入れてくれる。

 オヅマがキョロキョロと店内を見回している間に、ラオはプカプカとパイプを吹かせながら、エラルドジェイに文句を言っていた。

 

「なんだ、なんだ。まったく、お前の知り合いだったのか?」

「あぁ。サーサーラーアンって言うんだ。ホラ、何年前だっけかな、アレ。ファル=シボの森で山賊どもにしつこく追い回されてさぁ、ボロボロになったって話、前にしたろ? あン時に、このオッサンが助けてくれたのさ」

 

 オヅマはその話を聞きながら、ハッと息を呑んだ。

 ファル=シボの森は、前夜に野宿した『狼の(ほら)』や『ならずものの泉』があった場所だ。そして()の中で、オヅマとエラルドジェイが出会った場所でもある。

 確かあのとき、エラルドジェイは怪我をしていた。徒党を組んだ山賊達に追い回され、さすがに数が多すぎて相手しきれず、どうにか逃げていた途中でへたばってしまい、そこをオヅマとマリーが助けたのだ。

 ()で見た一連の光景に、(ひび)が入る。

 オヅマは強張った顔で、エラルドジェイの話を聞いていた。

 

「売り物の薬まで使ってさぁ、助けてもらったんだ。ホントはあのときにアンタに紹介しようと思ってたんだけど、いなかったから、教えておいたんだよ。アールリンデンにいるラオって親爺に頼んだら、大概のものは引き取ってくれるって」

「適当なこと言うな! こんなピラッピラの黄ばんだ布、誰が引き取るか!」

「そう言うなよ~。俺もサーサーラーアンには恩があるしさー。助けてくれて帝都に向かうまでも、なんだかんだと宿の金も貸してもらったままでさー。あ! サーサーラーアン。金! 金返すよ。俺、今わりと金持ちだからさ!」

 

 エラルドジェイは小袋を取り出し金を出そうとしたが、サーサーラーアンは血管の浮き出た、かさかさの手で制止した。

 

「不要、不要ネ。エッジュエイ。俺モ、エッジュエイが助ケルくれた。お互イさま、ネ」

「なんだよ、もう…。相変わらず下手くそだな、こっちの言葉」

 

 エラルドジェイは少しきまり悪そうにしながらも、小袋を元に戻す。

 それからラオに目を向けた。

 

「……ということです」

「なにがだ! 知るか!」

「そーいわずー。『お互イさま』ネ。ラオ兄さん」

 

 エラルドジェイがカタコトっぽく言うと、ラオは苦々しく煙を吐く。

 

「っとに…だからさっきからコイツ、来るなり『エッジェイ、エッジェイ』って、うるさかったんだな。下手くそな帝国公用(キエル)語でカタコトしか通じないし」

「本当にな。サーサーラーアン、アンタ、あのあと帝都から周辺ぐるっと回って帰る、っ()ってたけど、あんまり上手くなってないな、言葉」

 

 サーサーラーアンは肩をすくめた。

 

「むツかしいネ。キエル語。帝都、ルティルム語、喋ルの人多い。助かっターネ」

「いや、駄目じゃん。それ…」

 

 エラルドジェイはやれやれと嘆息する。

 帝都においては、第二言語としてルティルム語を使う人間も少なくない。そちらの言葉で話せば通じたので、帝国公用(キエル)語の習得が進まなかったのだろう。

 

「っとに…あン時にゃ、お前がいつまで経っても来ないから、俺一人でヘルミ山に向かったんだぞ。そしたら、もうレーゲンブルト騎士団が山、占拠しててよ。手出しできなくなっちまった。気づきゃあクランツ男爵にきれいに掻っ攫われちまって…俺の計画が台無しだァ」

 

 ポッポッと激しく煙を吐いて、ラオは赤い顔で文句を垂れる。

 エラルドジェイは苦笑いを浮かべてオヅマを窺ったが、一方のオヅマはさっきから感じていた()との齟齬(そご)に、ますます顔を固くしていた。

 ラオの言葉で、オヅマはラオの店がいまだに小さく、貧民街の一角にある理由がわかった。

 ホボポ雑貨店が繁栄するきっかけとなったのは、それこそ黒角馬(くろつのうま)だったのだ。――――

 

 店主のラオはエラルドジェイから黒角馬の情報を聞きつけ、おそらく一人では無理だとわかったあとに、傭兵(ようへい)などを雇って捕獲したのだろう。当初、黒角馬は商人たちの運搬用の馬として、丈夫で馬力もあるため重宝された。徐々に帝都で知れ渡るようになり、最終的には皇家の近衛師団の馬として献上されるまでになった。

 ()では。――――

 

 オヅマは気まずい思いを噛み締めた。

 ファル=シボの森でエラルドジェイを助けられなかったことも、黒角馬を()()()してしまったことも。

 ()の記憶を利用して、オヅマは今の状況を手に入れた。そのことによって違いが生じるのは当然だったが、直接的に自分が関わっていない変化には、正直無頓着だった。

 エラルドジェイが()と同じように怪我して、森の中を彷徨(さまよ)っていることにはまったく思い至らなかった。ラオが今に至るも黒角馬を手に入れることができず、ホボポ雑貨店がいまだ小さな雑貨商として(くすぶ)っていることも。

 

「どうした?」

 

 エラルドジェイが暗い顔のオヅマに尋ねかけてくる。オヅマは自分でも顔が引き攣るのがわかった。それでも無理に笑みを浮かべる。

 

「いや……アンタがレーゲンブルトに土地勘あるのが不思議だったんだけど、けっこう来てたんだな」

 

 マリー達を誘拐したときも、シレントゥの埠頭倉庫なんていう、土地の人間でなければ知ることもないような辺鄙(へんぴ)な場所を指定してきた。ヘルミ山だって、地元の人間でも忌避するような場所なのに、黒角馬について知っていたということは、あの辺りをよほど熟知しているということだ。

 しかしオヅマの問いにエラルドジェイは少し顔を歪めた。

 

「まぁ……隣だからな」

「隣?」

 

 オヅマが聞き返すと、エラルドジェイはちょん、とオヅマの腰の剣をつついた。

 

「それ、その(はがね)さ。そいつを作ってる場所で、俺、働いてたんだ。奴隷としてな」

「え……」

「朝から晩まで、鉱山でさ。他の奴らがどんどん死んでって、最後に残ってた奴も死んだときに逃げた。ラオとは逃げた途中で会って……その時からの仲だ」

 

 オヅマは脳裏で素早く地図を広げた。

 サフェナ=レーゲンブルトと隣接するのは、セトルデン。シェットランゼ伯爵の領地だ。鉄鋼に関わる豊富な資源を基にして、その土地に根を張る豪族であったが、確か現公爵エリアスの曽祖父ベルンハルドの時代に、グレヴィリウスの配下になったはずだ。

 エラルドジェイが元奴隷であることは知っていたが、まさか鉱山で働かされていたとは思わなかった。正規の鉱夫でさえ、その仕事に音を上げる者は多いのに、まして奴隷であったならば、どれほど酷い待遇であったのかは想像に難くない。おそらく人間扱いなどされていなかったはずだ。

 空気が重くなったと感じてか、エラルドジェイはパン! と手を打った。

 

「ま、それはそれとして! サーサーラーアン、なんかこの布のほかに何かないのか? このオッサン、珍しいモンには目がないんだぜ。象の形の尿瓶(しびん)とかさ、百年塩漬けにされた人魚の骨とか」

 

 エラルドジェイが言ってる間にも、ラオはブツブツと「ありゃ贋物(にせもの)だった…」と悔しそうにつぶやいている。

 

 オヅマは机に置かれた布に目をやった。

 一見、くすんだような白だ。黄ばんだとまでは言わないまでも、まっさらな白でもない。

 サーサーラーアンの説明によると、これは傷んだり、古くなっているわけではなく、この生地(きじ)特有の色なのだという。西方の一部地域にある固有の植物から取り出した繊維で糸を紡ぎ、その糸で作った織物らしい。

 長くその植物の自生する近辺の村でのみ生産・消費されていたのだが、偶然、サーサーラーアンはその布を手にする機会があり、生地の肌触りの良さに惚れ込み、大量に買い込んだのだ。

 そのときには夏に向けて帝都に持っていけば売れるだろう……と大いに期待していたのだが、残念ながら目論見はハズレた。

 帝国の商人の反応は、おおむねラオと似たりよったりであった。

 サーサーラーアンはそれこそ藁にもすがる思いで、エラルドジェイに言われたこのホボポ雑貨店を訪れていたのだ。

 

 ラオとエラルドジェイが、二人独特のノリで盛り上がっている間、手持ち無沙汰のオヅマはなんとなくその布を撫でてみた。確かに言われるように、サラサラとした触り心地のいい生地だった。

 サーサーラーアンがニコニコと商売人らしい愛想の良さで、サンプルの生地を手渡してくる。オヅマはよくわからないまま受け取って裏返したりしていたが、指先に触れる素材の滑らかな風合いに、なんとなくぼんやり思い出した。

 

 ()の中で、確かこんな布が流行(はや)ったような気がする。

 当初、平民しか着ていなかったものが、貴族にまで広まったのは、マリーがその布でドレスを作ったからだ。

 安価で丈夫で、しかも夏の暑さの中でも着心地のいいその布をマリーは気に入り、仲の良かった()()や針子らと一緒に、布を染めたり、デザインまで考えてドレスを作った。

 当初「安物」と馬鹿にしていた令嬢たちも、涼しげでいながら清楚な装いのそのドレスに、結局は我先にと争って生地を買い求めるようになった。……

 

「おーい。どうしたぁ?」

 

 エラルドジェイにのんびり声をかけられて、オヅマはハッと我に返った。

 

「あ……いや、その……涼しそうな生地だと思ってさ」

 

 話しながらエラルドジェイにサンプルの生地を渡すと、受け取ったエラルドジェイも指先で感触を確かめて頷く。

 

「あぁー。確かにな。ハハッ、さっきの『施し』で配ってた毛布とは大違いだ」

「毛布? なんだ、奴ら。まーた配ってやがんのか?」

 

 ラオは聞きつけると、眉をギュッと寄せた。パイプをふかせながら、あきれたように毒づく。

 

「いい加減、やめりゃーいいのに。十年前ならともかく、もうだーれも欲しがってねぇってのにさ、アレ。役人だか、街の顔役の奴らが、ここいらの人間は並べーって、無理に並ばせてんだぜ。誰ぞへの、おべっかとりに。っとに、迷惑だよなぁ」

「……そうなのか?」

 

 オヅマは聞き返しながらも、なんとなく合点がいった。あの『施し』に並んでいた人々。数もそう多くなかったし、正直、物をもらわねばならないような身なりではなかった。

 

「このクソ暑いってのに、毛布なんぞいらねーってんだよ。しかもあの毛布、どこで仕入れたんだか、織りも荒いし、(にお)うし。っとに、馬鹿にしてんぜ」

「確かにな。このクソ暑い中、あんな毛布抱えて帰るだけでも、汗かきそうだ」

 

 ラオとエラルドジェイの会話を聞きながら、オヅマの中でちょっとした悪だくみ(?)が浮かんだ。

 それとなく……ハヴェルを始めとする嫌味ったらしい大人連中に、一泡吹かせることができるのではなかろうか。

 大事(おおごと)にする必要はない。

 ただ、ハヴェルにおもねって、アドリアンを馬鹿にする、フーゴのような人間を歯ぎしりさせてやるような、そんな()()()()()()()痛快なこと……。

 

「[この布、どれくらいあるんだ?]」

 

 オヅマはサーサーラーアンにルティルム語で尋ねた。 

 エラルドジェイとラオがキョトンとオヅマを見る。サーサーラーアンもびっくりしていたが、すぐにニコリと笑って、さっきまで背負っていた大きな荷物を指さして答えた。

 

「[これ全部]」

 

 オヅマはニヤリと笑った。

 

「よし、買った」

 

 




引き続き更新します。


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第百六十四話 ホボポ雑貨店(2)

「お買いアゲ、ありがーとネー!」

 

 サーサーラーアンは上機嫌で、すっかり軽くなった背負子(しょいこ)を持って、早々に帰っていった。質に入れた母親の形見が流れてしまう前に、取り戻したいのだという。

 

「また、近いうちに飲もうぜ!」

 

 エラルドジェイが陽気に見送って店に戻ると、ラオが大声で叫んでいた。

 

「ハァ? この布をここに置けだぁ?」

「あぁ」

 

 オヅマが当然かのように頷くと、ラオはまた顔を真っ赤にしていきりたった。

 

「冗談じゃねぇ。ウチでこんな布を買うつもりはねぇぞ!」

「買ってもらうつもりなんてないさ」

 

 オヅマは即座に否定すると、机に山と積まれた布地をピンと指で弾いた。

 

「今日、ここいらの人間は、有難くもこの季節には全く必要のない毛布をもらってる。だから宣伝してくれ。毛布一枚と引き換えに、この布を一反やるって」

「はぁ?」

「交換だよ、交換。早いもの勝ちだーって宣伝したら、この店にもわんさと人が押し寄せるだろうぜ」

 

 ラオはポカンとしながらも、頭の中では素早く算段したらしい。あちこちに目を動かしてから、ジロリと睨むようにオヅマを見た。

 

「フン。その交換作業だって、布の保管だって、ワシがやるんだろうが」

「もちろん、そこのところの手間賃は払うよ。まずは手付で三銀貨(カーク)。そのあとは毛布一枚につき、八銅貨(ガウラン)で。どうだい?」

「引き取った毛布はどうする?」

「毛布は……冬に格安で売るってのは?」

「ふん。そう上手くいくかな」

 

 ラオは腕を組み、渋る顔を見せる。エラルドジェイがわかりやすくおべっかを使った。

 

「ま、そこは稀代の大商人ラオ・アールン=カー・ダイの腕の見せ所ってね~」

「なーにを! まったく、こういう時ばっかり調子のいいことを! だいたい、さっきのもそうだが、この小僧はなんなんだ? 見た所、グレヴィリウスの人間みたいだが…見習い騎士か?」

 

 今更ながらに問われて、オヅマはまだ自己紹介もしていなかったことに気付いた。

 

「あ、俺は…」

 

 名乗ろうとすると、横からエラルドジェイがサラリと言う。

 

「オヅマ・クランツ。ヴァルナル・クランツ男爵の息子さ」

「なんだと?」

 

 即座にラオの顔が険しくなった。ズイと顔を近づけて、まじまじとオヅマを睨んでくる。

 

「お前がクランツ男爵の息子? ()()クランツ男爵の? お前が?」

「あ…その」

 

 説明しようとする前に、ラオは噴火した火山のように真っ赤になって怒鳴った。

 

「クランツ! クランツ!! あぁ~、ワシの商機を奪ったクランツぅ! よくも、よくもおォォ!! ワシの黒角馬(くろつのうま)を横取りしやがった~! アイツぅぅ!!」

 

 いきなり立ち上がると、芝居がかった身振り手振りでまくしたてる。

 オヅマは呆気にとられ、エラルドジェイはまた始まったとばかりに、ため息をついて鼻をほじる。

 

「そう! あれは…雪解けの月とはいえ、まだまだ寒い風の吹く季節。ワシは雪も残るヘルミ山に向かって…」

 

 誰も聞いていないのに、陶酔したラオが語り始めた。

 まだ寒さの厳しい冬の終わりにヘルミ山くんだりにまで行ったこと。

 山を守るレーゲンブルト騎士団に追い返され、自分の遠大な計画が頓挫(とんざ)したこと。 

 あまりのショックで帰り道でコケて捻挫して、一ヶ月近くは松葉杖の生活になったこと。

 そうしてヴァルナルへの恨み、恨み、恨み。

 

 オヅマは途中からすっかり芝居を見ている気分で、ラオの言うに任せた。

 それにしても仮にも息子だと言っているのに、その息子の目の前で父親の罵倒をするとは、ラオもある意味肝が据わった男である。ただ、その恨みの対象については訂正が必要だ。

 

「クランツ男爵に黒角馬(くろつのうま)のことを言ったのは、俺だ」

 

 オヅマが硬い声で言うと、帝都に店を出すという計画について話していたラオが、ピタリと止まった。 

 

「なんだと?」

「俺、元々は小作人の息子で、ラディケ村ってとこで暮らしてたんだ。ヘルミ山にもしょっちゅう行ってたから、黒角馬のことも知ってて。きっと男爵なら欲しがるだろうと思って、教えたんだ」

 

 ラオはワナワナと体を震わせた。

 

「お、お、お前ェ~、お前かぁ~! 俺の黒角馬を自分の出世の道具に使いやがってェェ」

「黒角馬は元からアンタのじゃないだろ。それに俺は、出世なんか望んでない」

「何を言いやがる? 息子になんぞなっておいて」

「それは母さんが領主様と結婚したからで、俺が望んでそうなったわけじゃ…」

「あぁぁ~! クソッ、クソクソクソッ…クッソッ!」

 

 ドタドタと駄々をこねる子供のように、地団駄踏んで悔しがるラオを見て、オヅマは黒角馬についてのみいえば、自分の判断が案外正しかったのかもしれないと思った。

 というのも()の中では、ラオを始めとする商人らによって黒角馬が乱獲され、純血種は絶滅の危機にあったのだ。特に(オス)の黒角馬はその気性の荒さと、(メス)を選ぶために非常に交配が難しく、下手すれば殺傷処分される場合もあったという。

 今回はレーゲンブルトに集結した研究班によって、増産化に向けた計画的な交配が行われたので、今でも純血種は残されている。今後も保存されていくだろう。

 

「ま、もう終わったことだ。だろ? ラオ」

 

 頃合いを見計らってエラルドジェイが声をかけると、ラオはそれまで怒り狂っていたのが嘘のように、あっさり頷いた。

 

「ま、そうだな」

 

 急な態度の変化にオヅマはコケそうになったが、ふと思い出す。

 ()のラオも、たびたびこうした癇癪(かんしゃく)を起こしたが、発散してしまえば後は淡々としていた。切り替えが早く、一つのことに執着せず、商売の種を見つけてはどんどん手を出す…というのがラオの(あきな)いの方針だった。もっともそのせいで、後年、借金がかさんで夜逃げしていたが。

 ラオが落ち着くと、エラルドジェイはオヅマに問うた。

 

「…で、毛布を持ってきた奴らに言っておくのか? これは小公爵様の近侍であるオヅマ公子からの『(ほどこ)し』だって」

「いや」

 

 オヅマは即座に否定した。「いらないよ。そういうのは。むしろ言わないでくれ」

 不思議そうにエラルドジェイが首を傾げる。

 オヅマはフゥと軽くため息をついた。

 

「さっきも言ったろ? 俺は元々、貧しい小作人の(せがれ)だったからな。わかってんだ。民ってのは、簡単に味方にもなるけど、簡単に敵にもなる。そうしてどんどん貪欲になる。一度もらったら、二度目が欲しくなる。二度目を手に入れたら、よりいいものを欲しがるようになって、それに(こた)えていかないと、途端に手の平返して、くれた奴に文句言い出すんだ」

 

 それはジーモンが言っていたことだった。

 レーゲンブルトで、オヅマとオリヴェルに歴史を教えてくれていた老教授。

 その言葉を聞いたのは、授業後のお茶の席でだ。オリヴェルは今ひとつよくわからなかったようだが、それこそ平民でもあったオヅマには、妙に腑に落ちた。

 

「ほぉ…」

 

 ラオが感心したように唸り、エラルドジェイはククッと背を丸くして笑った。

 

「なるほどな。本当に、油断ならねぇガキだ」

 

 オヅマは少し得意げにニヤリと笑った。

 今回のことは、別にアドリアンの評判を高めたいというのではなく、ただのオヅマの意地悪だ。ハヴェルの……いや、あのフーゴを始めとする公爵邸でアドリアンをいじめてきた人間に対して、ちょっとばかし泡を吹かせてやりたい…というだけ。うまくいけば胸がすくし、いかなければそれはそれで構わない。

 お金はラオとサーサーラーアンに対しての、オヅマなりの慰謝料…のようなものだ。

 勝手なことだとは、わかっている。だがエラルドジェイを助けてくれたサーサーラーアンには感謝したかったし、ラオには別の商機を与えてやりたかった。それが正解なのかどうかは、わからないが……。

 

 とりあえず予想外の案件が一つ済むと、オヅマはようやく本来の目的についてラオに持ちかけた。

 

「頼みがある。というか、注文だ」

「んん? なんだ?」

 

 オヅマがその品について話すと、ラオは一気に困惑した顔になった。

 

「お前…どこでそんなもん……いや、それ…手に入れてどうするんだ? まさか…」

「心配しなくても、使うのは俺だよ」

「お前が? いや、お前が使うにしたって…」

「いいから! とにかく注文したから。前金で一金貨(ゼラ)払う」

「………」

 

 ラオは不承不承といった様子であったが、やはり商人らしく金で頷いた。

 一方、エラルドジェイは腕を組んだまま、厳しい顔で尋ねてきた。

 

「お前…それ、なんで必要なんだ?」

「まぁ色々ね。いずれは役に立つだろうかな、と思って」

「役に立つ…たって、お前、それは……」

 

 エラルドジェイは言いかけて、オヅマの顔に強固な意志を見て取ると、口を噤んだ。これ以上、何を言っても無駄だと悟ったのだろう。

 オヅマが注文したものは、およそ一般人の知り得るような代物(シロモノ)ではなかった。エラルドジェイのような裏稼業を生きてきた人間ですらも、話に聞いたことはあっても、実物を見たことはない。

 だが、()()()()()()()()()。知っているのであれば、エラルドジェイが危惧することも、十分にわかった上で頼んだのだろう。

 

「一応、探すにゃ探すが、そう簡単にゃ手に入らんぞ。一月(ひとつき)…いや、二月(ふたつき)ほどはかかるかもしれん」

「わかってるよ。エラルドジェイ、はい」

 

 オヅマが手を出すと、エラルドジェイがキョトンとその手を見つめる。

 

「ハイ? って…なんだ、この手?」

「一金貨(ゼラ)貸して」

「お前なー! さっきサーサーラーアンの布のお代だって、俺が立て替えてやったろうが!」

「わかってるよ。仕方ないだろ。手持ちがないんだから。ちゃんと返すって」

 

 近侍としてアールリンデンに来てから、ヴァルナルからは不自由しないようにと、定期的にお金を送ってくる。だが、やたらと衣装やらに浪費するテリィと違い、オヅマは滅多と使わないので、まぁまぁ貯まっていた。

 これといった使い道が思い浮かばないのだから、こうしたときに思いきり使ったほうがいいだろう。それでも足りなくなったら、アドルに借りねばならないだろうが…まぁ、必要経費と認めてもらえる…はず、だ。

 

「じゃ、頼んだ」

 

 用件が済むと、オヅマは店の外に出た。

 待っていたカイルの首を軽く叩いて、なにげなく振り返る。

 

『ホボポ雑貨店』

 

 その看板ですらも、ところどころ文字が読めず、切り貼りした板を繋げて作ったようなみすぼらしいものだ。

 オヅマはまた気分が沈んだ。

 これもまた、オヅマが母を助けたことで生じた、()との違いだ。

 何にとって、誰にとって、良かったのか悪かったのか……オヅマには判断できない。その資格もない。さっきは自らの心の平安のために、金で手をうつ、という一つの解決策を試みたものの、やはり(しこり)は残る。

 

「どうした?」

 

 見送りにきたエラルドジェイに問われると、オヅマは謝りたい衝動にかられた。だが、唇を噛み締め目を伏せる。

 ここで謝ったところで、エラルドジェイに許しを乞うたところで、何になるだろう。

 二年前、エラルドジェイを助けたのはサーサーラーアンだ。オヅマではない。

 助けられたかもしれなかった……などと言ったところで、何の意味がある? 言って、自分の気持ちが平穏になることもない。

 エラルドジェイは何かしら感じ取ったのだろう。ポリポリと耳の裏を掻きながら言った。

 

「お前さぁ…その、夢っての? あんまり考えすぎるなよ」

「………考えてるわけじゃない。フッと浮かんでくるんだ。夢で見たな…って、思い出しちゃうんだよ」

 

 その言葉を聞いて、エラルドジェイは少しためらいがちに言った。

 

「俺、お前のことで言うか言わないか、迷ってたことがあるんだけど……」

 

 珍しく逡巡(しゅんじゅん)するエラルドジェイに、オヅマは薄紫の瞳を(またた)かせる。

 

「なに?」

「お前、気付いてるか? 時々、お前の目、金色に光るんだ」

「は?」

「俺も初めて見たときには見間違えかと思ったけど……。この前もさ、あの、妙な集団 ―― 『祈りの手』だっけ? あそこの若い医者に怒鳴ったことがあったろ? あの時も、ちょっと光ってたんだよな」

 

 オヅマはエラルドジェイの話を聞きながら、訳がわからず混乱した。

 

「ジェイ。アンタ、まさかそれ……金龍眼(きんりょうがん)とか思ってる?」

 

 エラルドジェイの言う『金に光る目』というのは、一般的には金龍眼(きんりょうがん)と呼ばれ、それを持ち得るのは皇家(こうけ)の血を引く者だけだ。

 初代皇帝・エドヴァルドの息子であったヴェルトリスに現れた後には、五代目までは皇帝に引き継がれたが、戦争や政変があったりする中で、金龍眼を持つ皇帝は消えていった。金龍眼が皇帝の証とされて、それを持っていた皇帝を弑逆(しいぎゃく)し、その目玉をくり抜くなどの蛮行(ばんこう)が行われたためだ。

 その後、時々忽然(こつぜん)皇家(こうけ)の中に金龍眼持ちが現れたが、過去の忌まわしい歴史をふまえ、その瞳は必ずしも皇帝となることを約すものではなくなった。

 

 それでもやはり、金龍眼を持つということは特別なことであった。

 その瞳には何かしらの不可思議な力が宿っているとも言われ、サラ=ティナ女神を始めとする神々の恩恵を受けるのだと、まことしやかに語られた。

(もっともその瞳のせいで殺された歴史を(かんが)みるに、この伝承が皇家(こうけ)の権威付けのための作り話であろうことは、多くの学者の認識するところである)

 こうした恣意的(しいてき)な話もあるように、金龍眼に関する伝承は多く不確かであったが、唯一事実とされていることがあった。それは、この金龍眼を持つ者が、同時代に一人しか現れない、ということだ。

 

「……うーん…」

 

 即答できないエラルドジェイの真面目な顔を見て、オヅマは徐々に唇を歪め、しまいにプハッと噴いた。

 

「ハハッ! ハハハハッ!! おっかしい…可笑(おか)しいだろ、そんなの! ハハッ」

 

 オヅマは笑った。腹を抱えて。何度も「可笑しい、可笑しい」と繰り返しながら。まるで念じるかのように、何度も。

 オヅマがあまりにも笑うので、異変を感じたカイルが軽く(いなな)いた。オヅマは隣で身を震わせる馬に、ようやく笑いをおさめた。軽く首を撫でてカイルを落ち着かせたが、自分はまだ落ち着かない。異様な早口で、エラルドジェイ相手にまくしたてる。

 

「俺に皇家(こうけ)の血でも入ってるって言う気か? ついこの間まで、豆猿(まめざる)相手に喚き散らしてたのに? スジュの実、当てられまくって、洗濯草でブツブツ文句言いながら洗濯してたんだぞ? ハルカと二人で朝から(まき)運んで、山越えて、クタクタになって……アンタにだって散々に打ち込まれて、膏薬(こうやく)塗りすぎて気分が悪くなって……」

「わかったわかったわかった。……俺の見間違いだ」

 

 エラルドジェイは取り憑かれたように言い立てるオヅマに、ちょっと狂気じみたものを感じて、とりあえず撤回した。

 だが、オヅマはまだ否定を重ねる。

 

「だいたい、今、金龍眼(きんりょうがん)を持ってるのは皇太子だろ? だから皇帝も息子を猫可愛がりしまくってる、っていうじゃないか……」

「ん? いや、それは…」

 

 エラルドジェイはオヅマが勘違いしていると思い、訂正しかけたが、やめておいた。今のオヅマに正確な情報を伝えても、より混乱しかねない。

 

「あぁ、うん。そうだな。お前の言う通りだ。俺の錯覚だよ。悪い悪い」

「……っとに、メグスリノキでも煎じて飲んでおけよ」

 

 エラルドジェイに素直に謝られると、オヅマはようやく矛先を降ろした。

 自分でもどうしてこんなに興奮したのか、あるいは動揺したのかわからない。

 軽く息を吐いて気を取り直すと、カイルにまたがった。

 

「じゃ、とりあえず俺、公爵邸に戻るから。……色々、世話になったな」

「しんみりしたこと言ってやがるけど、金、返せよ」

 

 ムッスリとエラルドジェイが言うと、オヅマは朗らかに笑った。

 

「わかってるって。明日にでも、ちゃんと持ってくるさ」

「おぅ。利子一割な」

「どんな高利貸しだよ!」

 

 ふざけたやり取りがオヅマには心地よかった。

 これこそが自分の望んでいたこと、自らの選択によってもたらされた喜びだ。

 手を振ってエラルドジェイと別れ、公爵邸へとカイルを走らせるオヅマの心から、後悔ばかりの()が、少しだけ(ほど)けて溶けていった……。

 

 

 




次回は2023.12.03.更新予定です。


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第百六十五話 麗しき銀の髪の少女

 新年を告げる神官の声とともに、帝都では本格的なお祭り騒ぎが始まった。

 皇宮(こうぐう)でも宴会が連日のように開かれる。

 

 その中でも新生(しんせい)の月五日に開かれた皇太子殿下主催の園遊会は、同じ年頃 ―― 十二歳前後 ―― の子息令嬢が、ほぼ強制的に集められた。

 ましてグレヴィリウス公爵家の嫡男(ちゃくなん)であるアドリアンは、現皇太子とは同年齢で、顔見知りでもある。よほどの重病でもない限り、不参加など許されるわけもない。当然、その近侍(きんじ)たちも(しか)り。

 

 ということでキャレもまたアドリアンに付き従って、(おそ)れ多くも皇宮に初めて足を踏み入れた。

 帝都の公爵邸内ですら迷子になってしまうキャレにとって、皇宮は会場となっている庭園だけでも、その公爵邸がそのまま入ってしまうんじゃないかと思われる広さだった。

 青々とした芝生に、噴水、それどころかヤーヴェ湖に流れ入る川をそのまま造形の中に組み込み、小舟(ゴンドラ)に乗って、ちょっとした川遊びまでできるようになっている。

 それ以外にもきれいに刈り込まれた植栽(しょくさい)、美しい彫刻の数々。しかもこれだけ広大であるにも関わらず、花壇に咲く花に(しお)れているものなど一つとしてなかった。

 キャレが圧倒されてボンヤリしていると、エーリクに腕を引っ張られた。

 

「ボーッとするな。迷子になるぞ」

「はっ、はい。すみません!」

 

 キャレはあわてて謝ってから、数歩先を進んでいたアドリアンがこちらを向いているのに気付く。だが、キャレと目が合った途端に、アドリアンはフイと逸らしてまた歩き始めた。

 

 あの夜会での一件以来、アドリアンはキャレを避けがちだった。

 怒っているのは明らかだ。

 気を失ったあと、目が覚めてからアドリアンに謝りに行ったが、態度はにべなかった。いつもなら「気にしないで」と優しく声をかけてくれるのに、今回ばかりは無言で頷くのみだった。

 どうやらキャレとエーリクの妹の間でアドリアンの腕を引っ張りあったことで、腕を傷めたらしい。それでも―――

 

「お(とが)めがないだけ、マシだ」

 

と、マティアスに言われて、キャレは頷くしかなかった。

 本来ならば、すぐさま近侍の役目を()かれて、ファルミナに帰れと追い出されても、文句は言えないのだから。

 

 そのファルミナといえば、夜会での騒ぎを知っているだろう兄・セオドアからは、意外なことに、なんの連絡もなかった。すぐにもオルグレン家の帝都屋敷に呼ばれて、それこそ体罰も含めた叱責(しっせき)を受けることを覚悟していたのだが、まったく音沙汰がない。それがいっそう不気味だった。

 ……色々なことがキャレを追い詰める。

 晴れ渡った空の(もと)、目に映る壮麗(そうれい)な景色と裏腹な自分の心が重くて、キャレは長くため息をついた。

 

「ああして待っておられるのは、お前を気遣ってのことだぞ」

 

 エーリクが横から、小さく言ってくる。

 エーリクもまた、妹のせいでこんなことになったと、どこか申し訳ない気持ちがあるのか、キャレに何かと気遣ってくれる。今もアドリアンの態度にキャレが傷ついたと思ったのだろう。

 キャレはグッと唇を引き結んだ。

 

「はい。わかっています……」

 

 喉奥を詰まらせながら言って、先を歩くアドリアンの背中を追う。

 態度は冷たくなったが、アドリアンはやっぱり優しい。自分がその優しさに甘えて迷惑をかけたのだから、今は耐え忍ぶしかない。

 

 それにしても……と、キャレは前を歩くアドリアンの背中をまじまじと見つめた。

 初めて会ったときからすると、アドリアンは随分と大きくなった気がする。とくに帝都を出発してからここに至るまでの二、三ヶ月の間は、急に背が伸びたようで、二歳年上のテリィが「僕とほぼ同じですよ」と嘆いていた。

 そのテリィは、皇宮の園遊会でも相変わらず、食い意地が張っていた。

 

「ずーっとここで待ってても仕方ないだろ。あとで小公爵さまが戻っていらしたときに、どういう料理があるのかを調べておくのも、近侍の仕事だと思うけど?」

 

 皇太子殿下への拝謁(はいえつ)のため、アドリアンはマティアスを(ともな)って謁見天幕へと出向いていた。随行者(ずいこうしゃ)は一人と決められていたので、マティアスがお付きになるのは必然だったが、残されたエーリク、キャレ、テリィは手持ち無沙汰で仕方ない。

 今日、どんな食事が用意されているかと、三日前から浮足立っていたテリィが、言い出すのは自明だった。

 テリィの言葉にエーリクは渋面だったが、ハァとため息をついて了承した。

 

「なるべく早く戻ってこい。キャレ、君もすまないがついていってくれ」

 

 キャレは正直行きたくなかったが、自分にテリィの監視を頼んだエーリクの気持ちも理解できた。一緒に行かないと、テリィは次々にテーブルを回って、おそらく一刻(*約一時間)以上戻ってこないだろうから。

 こうしてキャレはテリィと一緒に、庭園内の各所に(しつら)えられた、小さなテント下のテーブルを見て回っていたのだが、そろそろ帰ろうかと呼びかけたときに、「あっ」とテリィが声を上げた。

 

「どうしました?」

「あ、あれ、見ろ。オヅマだ!」

「えぇ?」

 

 キャレが驚いてテリィの指差す方を見てみると、たしかに亜麻色の髪の男の子が人の群れの間を歩いている。後ろ姿で顔は見えなかったが、背格好はオヅマに似ていた。

 

「……似てますけど、違うでしょう。オヅマなわけがない」

「いいや。わからないぞ。もしかして、早くに修行が終わったか……いや逃げ出してきたのかも。それで、僕らが皇宮でおいしい思いをしていると知って、あわてて追いかけてきたのかも」

「いや、ないでしょう」

 

 テリィじゃあるまいし……と、内心でキャレはあきれる。だが、後ろ姿だけは確かにオヅマそっくりだった。

 

「ちょっと、近寄ってみよう」

 

 テリィは言うなり、小走りに近寄っていく。いつもは大きなお腹をかかえて、何事にも鈍重(どんじゅう)そうに行動するのに、こういうときだけすばしっこかった。

 キャレは仕方なくテリィを追いかける。

 近寄るほどに、オヅマに似ていた。背格好だけでなく、なんというかにじみ出る()()()()()雰囲気が……。

 

「キャレ、ちょっと声かけてみてよ」

「えぇ? 嫌ですよ。テリィさんが気付いたのですから、テリィさんが声をかければいいでしょう」

「そう言わず! 声をかけるだけだよ。別人だったら、振り向かないさ」

「嫌ですってば……」

 

 言っている間に人混みを抜けて、灌木(かんぼく)の間を進む散歩道のような場所に出る。

 そこでキャレは、オヅマと似たその人物もまた、その先を歩く銀色の髪の少女を追っていることに気付いた。少女に悟られぬように、そっと歩いている。

 キャレが(いぶか)しんでいると、そのオヅマに似た少年の右手に握られているものが目についた。

 飴細工だ。白鳥を模して作られた飴細工が、棒の先でキラキラ光っていた。

 

 少年はどんどんと少女に近づいていく。

 右手の飴細工が今しも少女の髪へと寄っていくのを見て、キャレはすぐにピンときた。おそらくこの少年は、前を歩く少女の銀の髪に飴細工を引っ付けようとしているのだ。

 こうやって気になっている少女にちょっかいを出して、少しでも知遇(ちぐう)を得ようとするのは、どの身分の少年であってもよくやる常套(じょうとう)手段だった。

 キャレにも覚えがある。

 ただキャレの場合は、二番目の兄による単純ないじめだったが。

 飴が髪にくっついたときの厄介さを覚えていたキャレは、思わず声を上げた。

 

「あっ、あのっ! ちょっと、そこの人ッ」

 

 人気(ひとけ)のない道で張り上げた声に、前方を歩いていた二人が振り返る。

 少年の顔を見た途端、キャレはそれがオヅマではない、まったくの別人だとすぐにわかった。

 肌色も違うし、瞳の色も薄紫色の瞳ではなく、茶色だ。それに年齢もオヅマより年上だろう。もしかすると成人(*十七歳)しているのかもしれない。疱瘡(ほうそう)(わずら)ったらしい(あと)が、額から頬骨にかけて点々と赤く残っていた。

 

 だが、キャレが思わず見蕩(みと)れてしまったのは、むしろそのオヅマに()()()()()()()少年ではなく、彼が飴細工をなすりつけて、悪戯(いたずら)をしようとしていた女の子の方だった。

 燦々(さんさん)と照る太陽の下で、輝く銀の髪。両耳に垂らした軽く波打ったその髪は、銀色だけでなく、藤色が混じっていた。最近の流行らしい、ゆったりと結い上げた頭には、種々の花と真珠(パール)が留められ、それだけでも十分に華麗であったが、振り返ったその顔の玲瓏(れいろう)たる美しさは、言葉を失わせた。

 おとぎ話のお姫様でも、ここまで美しくはないだろう。もはや、妖精か女神の域だ。

 

 女の子は自分が呼びかけられたのかと思って振り返り、キャレをじっと見てくる。

 吸い込まれそうに丸くて大きな、美しく(きら)めく青翠(あおみどり)の瞳。

 キャレは目が離せず、ボーっと女の子を見つめた。

 しかし女の子の方は、自分のそばに立っていた飴を持っている少年 ―― というより男に気付くと、眉をひそめた。

 ギロリと睨みつけられ、男がきまり悪そうに目を逸らす。

 女の子は青翠の瞳にありありとした軽蔑を浮かべると、急にプイと背を向け、そのままスタスタと植栽の間に消えて行ってしまった。

 キャレは少しだけ残念に思ったが、すぐにそんな悠長な状況でないと悟る。

 

「なんだッ、貴様ッ!!」

 

 邪魔をされた亜麻色の髪の男が、不機嫌も露わに怒鳴りつけてくる。キャレはハッと我に返った。少女の美貌に、一瞬、男のことを忘れ去っていた。

 

「あ…あの…すみません。人違いでした……」

 

 キャレがあわてて小さい声で謝罪すると、亜麻色の髪の男はズイとキャレの前に立ち、腰に手を当て、肩を(いか)らせた。

 

「人違いだと? この僕を誰と見間違えるというんだ? えぇ!? 僕は大公家(たいこうけ)嫡嗣(ちゃくし)シモン・レイナウト・シェルバリ・モンテルソンなるぞ。この僕を誰ぞと見間違える不敬をおかすとは、無礼千万!」

 

 キャレは一気に真っ青になり、その場に(ひざまず)いた。地面に頭をすりつける勢いで下げながら、必死に謝った。

 

「も、も、申し訳ございません! その、大公子(たいこうし)さまと知らず……どうかお許し下さい!」

「どういうつもりだッ! 貴様ッ!」

 

 頭の上から降ってくる怒号(どごう)に、キャレはただただ青くなってひれ伏すだけだった。何か弁明を…とは思うものの、声が喉でつまって出てこない。

 

「一体、どこの家の者だ? 名を名乗れ!!」

 

 問われてもキャレは言えなかった。もしここで名乗れば、自分がグレヴィリウス小公爵の近侍であることを説明せねばならない。そうなれば、きっとアドリアンにも迷惑がかかる……。

 キャレは目をつむって、どうかこのまま穏便に済むことを願った。怒鳴るだけ怒鳴って、なんであれば蹴られてもいいから、そのままあきれて帰ってくれないだろうか…?

 キャレがひたすら頭を下げている間に、いつの間にかシモン公子(こうし)の近侍たちがやって来たようだった。

 

「いきなり姿を消されたので、あわてましたよ」

「どうです、首尾は? ダーゼ公女と()()()()にはなれましたか?」

 

 聞き覚えのある名前に、キャレは素早く頭の中で記憶を繰った。そうしてすぐに、アドリアンに来ていた招待状の一件を思い出す。

 

 

 ―――― ダーゼ公爵閣下の息女は、確か来年で十一歳ですよ。小公爵さまよりも、一つ年下……

 

 

 ニヤニヤ笑いながら言っていたテリィの顔が浮かぶ。

 そう言えばテリィは…と頭を下げたまま辺りを見回したが、今日に合わせて新調したというゴテゴテした飾りの靴は見当たらなかった。どうやらいち早く逃げたらしい。本当に……妙なところですばしこい。

 だがテリィのことなど、すぐに頭から消え去った。今、キャレの頭を占めているのは、テリィでもなければ、目の前の大公子でもない。幻のように現れて去った、あの美しい少女のことだった。

 キャレは泣きそうになった。やっぱり高位貴族ともなれば、あんな人並み外れた容姿のお姫様もいたものだ。もしアドリアンがあの公女様を見たら、一瞬で恋に落ちるに違いない。きっと目の前の公子も、あの公女様の気を引きたくて、悪戯しようとしたのだ。近侍たちの言葉からも、それは感じ取れる。

 しかし公子シモンは、近侍たちの言葉にムッとなって言い返した。

 

「フン! 誰が()()()公爵の令嬢ごときと知り合いたいものか! あんな高慢で無礼な女。大公家に対しての礼儀を(わきま)えておらぬから、ちょっとばかり懲らしめようとしたら……もっと無礼な奴がいたんだ、コイツが!」

 

 シモンはそう言って、キャレを指差す。シモンの近侍たちの視線がキャレに刺さった。

 

「なんだコイツ……」

「貧相なチビだな」

「見ろ、あの頭。揃え髪(*おかっぱのこと)なんぞして、いまどき時代遅れな……」

「いや。まだ五歳かそこらなのかもしれんぞ」

 

 ヒソヒソと、キャレにだけ聞こえるように囁く誹謗(ひぼう)が、上から降ってくる。

 あからさまな悪意に、キャレが首をすぼめて縮こまると、頭にべチャリと何かをなすりつけられた。さっきの白鳥の飴細工であることは、すぐにわかった。おそらくあの麗しい姫君相手に、成功できなかった腹いせだろう。

 キャレはみっともない自分の姿を想像し、恥ずかしさと情けなさに、ますます小さく固まった。そのみじめな様子を見て、シモンを始めとする近侍たちがケラケラと嘲笑(あざわら)う。

 急に近侍の一人が、グイとキャレの襟首を掴んで顔を上げさせた。

 その姿を見て、キャレの背筋がゾクリと冷える。

 黒い肌に、きつく編み込んだ暗い金髪(ダークブロンド)。橙色の瞳。一目見てわかる。皇家(こうけ)における最強の近衛隊とも称される、山岳民族シューホーヤ。大公家公子ともなれば、彼らのような優れた身体能力を持つ者を近侍とできるのだろうか。

 

「オイ、お前。その髪の色からすれば、東の……シャンゼ辺りの出だな?」

 

 そのシューホーヤの近侍に問いかけられ、キャレは驚いた。まさか自分の髪の色から、出自を言い当てられると思っていなかったのだ。

 

「シャンゼ? どこの家門だ?」

 

 シューホーヤの少年の後ろで、シモンが他の近侍に問いかける。

 キャレはギュッと目をつむった。頼むから、思い出さないでほしい…!

 

「東部はセイデン侯爵とバルディアガ伯爵、メーアー伯爵……」

 

 キャレは内心ホッとした。

 シャンゼ地方の中でも、オルグレン家の領地は、グレヴィリウス家からは飛び地となっているので、なかなか思い浮かばないらしい。

 しかし目の前のシューホーヤの近侍は、キャレの顔色をじっと窺っていて、背後の近侍たちからはとうとう出なかったその名を告げた。

 

「飛び地がありますよ。確か、ファルミナ。グレヴィリウス公爵家だったか……?」

「グレヴィリウス!」

 

 途端にシモンが激昂する。

 キャレの顔色が変わったのを見て、シューホーヤの出身と思われる近侍は不敵に笑い、グイとより強く襟首を掴み上げる。

 

「どうやら正解のようです。公子様」

「おのれ! またしてもかッ。いちいち鬱陶しい奴め!!」

 

 シモンは憤然と言ってから、無遠慮にキャレを眺め回し、フフンと笑った。

 

「なんだ、お前。もしかして、あの忌々しいグレヴィリウス小公爵の近侍か? ……あーあ、そのようだな。これは」

 

 目敏く襟に留めたグレヴィリウス家の紋章のブローチを見つけられて、キャレは観念した。もうこれで……隠しようもない。

 苦痛に顔を歪め、泣きそうなキャレを見て、シモンはひどく(たの)しそうに笑った。

 

「ふぅん。あいつ、こういうのが好みなのか。澄ました顔して、近侍を選ぶときには、趣味が出るな」

 

 さわさわと頬を撫でられて、キャレはゾッとした。鼻先が触れるくらい近くまで顔を寄せられ、思わず叫ぶ。

 

「い、嫌だッ!!」

「うわっ! 唾が……コイツっ」

 

 シモンは飛び退(すさ)ると、キャレの(つばき)のかかった頬を手で拭い、怒鳴りつけた。

 

「ファル! こいつを痛めつけろ!!」

御意(ぎょい)

 

『ファル』と呼ばれたシューホーヤの近侍は、キャレを地面に叩きつけるように投げると、うつ伏せになった背をドスリと踏みつけた。

 シモンはしゃがみこんでキャレの顎をつまみ上げると、この状況にすっかり陶酔したかのように断罪した。

 

「今回については、完全にお前の失態だぞ。小公爵に告げ口したくばするがいい。こちらも正式に抗議するまでだ」

「……お、お許しください」

「ふん。あいつと違って素直じゃないか……」

 

 シモンは笑いながら、ベシリとキャレの頬を打った。

 

「まったく、主従ともども僕を苛立たせる……」

 

 返す手で反対の頬も打つと、シモンの指輪がキャレの頬を引っ掻いて血が垂れた。

 シモンは満足げに立ち上がると、それまで何もせずに控えていた三人の近侍たちをチラと見た。合図を受けて、近侍たちはそれぞれにキャレの背中やら脇腹やらを容赦なく蹴り始める。

 キャレは耐えた。

 こんなことはどうってことない。慣れている。公爵家に来てからは平穏だったが、元々、自分はこうして蔑まれる存在だった。だから慣れている……平気だ……。

 キャレは丸く身を固めながら、痛みをこらえるために、必死で言い聞かせた。

 

「やめろ!」

 

 朦朧(もうろう)となりかけたときに、鋭い声が響いた。

 すぐにそれが誰かわかった。

 涙でぼやけた視界に、アドリアンが駆け寄ってくるのが見えた。

 





引き続き更新します。


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第百六十六話 正義の公女と大公ランヴァルト

 アドリアンはテリィから大公家(たいこうけ)のシモンという名前を聞いた途端に、一昨年前の(いさか)いを思い出し、すぐさま向かった。

 昨年はあちらが病を患ったとかで、皇家(こうけ)での宴席にすべて欠席していたので顔を合わすこともなかったが、やはり何かしら(くすぶ)っていたのだろう。

 えっちらおっちらと、ほとんど歩いているに近い速度のテリィを追い立てるように走って、ようやくその場所にたどり着くと、少年たちに囲まれて暴行を受けていたキャレが、今しも力を失って倒れそうになっていた。

 

「やめろ!」

 

 鋭く制止すると、アドリアンの声にビクリと震えてシモンが振り返る。

 キャレを足蹴(あしげ)にしていた近侍たちの動きも止まり、その隙に、エーリクがアドリアンを追い越して、彼らの前にズンと立った。自分たちよりも年上と(おぼ)しき ―― おそらくエーリクのほうが年下ではあるのだが ―― 長身の男に威圧され、シモンの近侍たちが後ずさると、エーリクは彼らをギロリと睨みつつ、倒れたキャレを抱き起こす。

 

「どういうことです、これは?」

 

 アドリアンが尋ねると、シモンは病のせいか痘痕(あばた)の残る顔に、嫌味たらしい笑みを浮かべて言った。

 

「それはこちらも聞きたいことだ。グレヴィリウス小公爵には、我らになにか遺恨(いこん)でもおありか? 近侍を使って、無礼を働くとは」

「無礼? キャレがなにかしましたか?」

「僕を誰ぞに間違えて呼び止めたのです。しかも注意をしたら、唾を飛ばしてきて……」

 

 アドリアンは厳しい顔で、エーリクに抱えられたキャレを見る。

 キャレはきれぎれに「すみません…」を繰り返すばかりだ。汚れた頬には、何か鋭利なもので切られたかのような赤い切創があった。

 ギリ…とアドリアンは歯ぎしりした。

 

「確かに無礼があったかもしれません。ですが、それならばまずは、僕に対して抗議するべきでしょう。このように直接、罰を与えるのは行き過ぎではありませんか?」

「ふん。本当に罰を与えるのやら。そのように可愛らしい近侍では、小公爵も()()()()()()()()()をかけられるのでは?」

 

 アドリアンはその意味が、よくわからなかった。だが、シモンのあばた顔に浮かんだ嗤笑(ししょう)に、どこかしら卑猥(ひわい)な、ひどくいやらしいものを感じて、一気に不快感が沸き立った。

 

「無礼はそちらだろう、シモン公子! 他家の近侍に対して乱暴を働いた挙句、勝手な憶測で僕を侮辱する気か!?」

 

 二年前であれば、シモンも同じようにいきり立って、また暴力沙汰となったかもしれない。だが、二年の間にアドリアンが成長したように、シモンはより狡猾になったようだ。

 

「これは失礼。少々口が過ぎたようだ」

 

 すぐさまに鉾を収められ、アドリアンはそれ以上の抗議を封じられた。

 

「だが、そこの近侍も謝っているように、無礼があったは事実。罰を与えるは必定(ひつじょう)。害を受けたは当方にある。後で罰したと言われても、こちらには確かめようもないこと。(しか)らば、我らが目の前にて、この近侍、罰して頂きたい」

 

 アドリアンはまたチラリとキャレを見てから、ぐったりした姿に唇を噛み締めた。シモンの言葉が聞こえていたのか、キャレはまだ謝ろうと、エーリクの腕の中で身じろぎする。

 アドリアンはすぐにシモンに向き直って言った。

 

「彼は今、動けません。代わって僕が謝罪いたします」

「ほぉ……」

 

 シモンは待ちかねたとばかりに、口を歪めた。アドリアンを睥睨(へいげい)して、ツイと地面を指差す。

 

「そこに……頭をつけて、衷心(ちゅうしん)より詫びて頂こうか」

「…………」

「無理であるならば、近侍の誰ぞに代わってもらってもよいのですよぉ」

 

 シモンの言葉に、すぐに進み出たのはマティアスだったが、アドリアンは止めた。

 

「いい、マティ」

「いけません小公爵さま。これではグレヴィリウスの品位に……」

「いいから……」

 

 アドリアンはマティアスを押しとどめ、その場に膝をついた。

 きつく拳を握りしめて、頭を下げようとしたとき、鋭い女の子の声が響いた。

 

「お待ちなさい!」

 

 その場にいた面々はすべて、声のする方へと視線を向ける。

 キャレはエーリクの腕の中で顔を動かした。シャッシャッと衣擦(きぬず)れの音がして、膝をついたアドリアンの横に立ったのは、先程去ったとばかり思っていたダーゼ公女だった。

 

「な……なんだ……」

 

 シモンはいきなり現れた公女に、完全に面食らったようだった。

 アドリアンもまた、初対面ながら自分をジロリと睨むように見る公女の迫力に、少し気圧(けお)された。

 近侍らに至っては、なべて全員が驚いて口を開けっ放しになっていたが、理由はどちらかというと公女の神々(こうごう)しいまでの美しさに圧倒されてのことだろう。

 二人の公子の様子をそれぞれに見てから、公女はフゥと息をついた。

 

「グレヴィリウス小公爵様、お立ちになって下さい。あなたが謝る必要はございません」

「え?」

「そのような謝罪は無用と言っています。彼は……」

 

 ダーゼ公女はチラリと背後のキャレを見て、少し痛ましそうに眉を寄せた。

 

「無礼など働いておりません。むしろ、(わたくし)を助けてくれたのです」

 

 アドリアンは呆気に取られた。

 目の前の少女の美しさよりも、その青翠(あおみどり)の瞳に宿る、燃え盛るような怒りに引きつけられる。

 

「どういうことですか?」

 

 アドリアンは立ち上がりながら尋ねた。

 少女はジロリとシモンを睨みつけ、その強い視線に、ビクリとシモンは震えて後ずさる。

 

「な、なにを……」

「しらばっくれることですね、シモン公子。私が気付いていないとでも思ったのですか? 貴方(あなた)は先程、私が貴方に対して、すげない態度を取ったことに腹をたてて、どうにか仕返ししてやろうと、私の後をつけてきたのでしょう?」

「ばっ……そっ、そんなことは……っ」

「後をつけて何をしてくるのかと思えば、幼稚にも飴細工を私になすりつけようとしていましたね? 否定なさる気? でしたら、そこの彼の頭にへばりついているものは何かしら? せっかく美しいルビーの髪が台無しだわ」

「ぬっ、濡れ衣だッ」

 

 シモンは喚いたが、公女はまるで相手する様子もなかった。持っていた扇をベシリと手の中で打って、シモンを威嚇し黙らせると、クルリとアドリアンに向き直る。

 

「順を追ってお話ししましょう、グレヴィリウス小公爵様。私は今日、このシモン公子に舟遊びに誘われたのですけれど、気分が優れなかったので断ったのです。それから皇太子殿下との謁見を終えた後に、一人きりになれそうな場所を探して歩いていたら、誰かが後をつけてきました。

 正直、そうしたことは珍しくもありません。私は無視してそのまま歩いていたのですが、突然、後ろから大きな声が聞こえました。貴方の近侍が声を上げたのです。振り返ったら、今しもシモン公子が私の頭に飴をなすりつけようとしていました。

 私はそのままそこにいたら、この幼稚な公子様の(すね)を蹴りつけそうでしたので、お父様の教えに従って、しばらくその場を離れ、気持ちを落ち着かせていました。それから気付いたのです。貴方の近侍はおそらく、私がシモン公子に悪戯されそうだと察して、声を上げてくれたのだろうと。

 それで私が戻ってきたら、貴方が今しもこの卑劣な男に、無用の謝罪をなされようとしていたわけです。お分かり頂けまして?」

 

 おそらく自分よりも年下ながら、公女の堂々とした話しぶりにアドリアンは圧倒されっぱなしだった。それはシモンも同様であったが、ハッと我に返ると、あわててブンブンと頭を振る。

 

「違うっ! そんなのは嘘だッ!! 言いがかりだッ」

 

 しかし公女はまったく臆する様子を見せなかった。ギロリと睨みつけると、一歩シモンににじり寄った。

 

「シモン公子。貴方はグレヴィリウス小公爵様ばかりか、(わたくし)までも侮辱なさる気? どうして私が嘘を言わねばならないの? 皇帝陛下から厚い信任を受け、陛下直々に大勲章を賜りし宰相ダーゼ公爵の、ただ唯一の公女たる()()私が、いったい誰におもねって嘘を言う必要があると言われるの?」

 

 シモンは自分よりも年少の公女相手に、すっかり気を呑まれていた。

 公女の美しさはこの場合、確かに武器であった。その神々しいばかりの美貌は、気弱な人間であればひれ伏すしかない。吸い込まれそうな青翠の瞳は、それこそサラ=ティナ神の真誠の瞳であるかのごとく強い光を放ち、懦弱(だじゃく)な嘘など見破って天罰を与えそうであった。

 

 シモンが反論できずに、その場が一瞬沈黙すると、パンパンと手を打つ音がした。

 

「やぁ~、さすがさすが。白髭宰相の娘御なだけあって、なんとまぁ気の強い公女様だ~」

 

 ニコニコと笑いながら、(はや)し立てるように言って現れたのは、太陽の光をそのまま写し取ったかのような、煌めく鬱金(うこん)の髪の少年だった。

 その(かたわ)らには、豪奢な錦の頭巾(ずきん)を被った男が立っている。

 

「皇太子殿下!?」

「大公殿下!!」

 

 その場にいた全員が、それぞれに声を上げる。

 例外はエーリクに抱えられて朦朧としていたキャレと、父大公の出現に蒼白になったシモンだけだった。

 

「どうして、ここに…?」

 

 アドリアンが呆然と尋ねると、皇太子・アレクサンテリはヘヘッと悪戯っぽく笑った。

 

「だって~、アドリアンがえらくあわてて走って行ったっていうからさぁ。しかも、シモン公子となんかあった~とか聞いてさ~。こりゃあ、見物に行かないとねぇ。僕、一昨年(おととし)の喧嘩は見逃しちゃったしね~」

 

 アドリアンは憮然となって、眉間に皺を寄せる。

 アレクサンテリがその皺を二本の指でニョイと引き伸ばしてきて、アドリアンはムッと手を払った。

 

「おやめください。見世物ではございません」

「おやおや。そんなことを言って。穏便(おんびん)に済ませるために、わざわざ大公殿下を連れてきてあげたのに? しかも人払いまでしてあげたのに?」

 

 まるで小動物が甘えてくるときのように、丸くてやや垂れ目の、アレクサンテリの紺青(プルシアンブルー)の瞳が、あどけない表情を見せる。だが、アドリアンはそんなあざとい皇太子の演技よりも、言われたことにハッとなって周囲を見回した。相当大きな声で怒鳴っていたのに、近辺に物見高い貴族の姿はない。

 

「いつから……?」

「さぁ? そんなことはさておき。大公、どうしよう?」

「左様でございますな……」

 

 アレクサンテリに問われ、大公であるランヴァルトが息子へと目を向ける。

 すぐさまシモンは目線を逸らしたが、大公はまるで地面の上を浮遊するかのごとく音なく移動し、息子の目の前に立った。

 

「弁明があれば聞こうか?」

 

 やさしく問いかける父に、シモンは唇を震わせながら答える。

 

「そ…それは…その……ですから、あの……だ、ダーゼ公女の……誤解……」

「ほぅ。誤解? ではグレヴィリウス小公爵の近侍に、暴行したことについては?」

「それは……無礼があったので、少し……戒めの…ために……」

「その上で、小公爵に対してまで、地に頭をつけて謝罪をするよう迫ったと?」

 

 シモンの手がブルブルと大袈裟なほどに震えた。穏やかな雰囲気を漂わせながら、厳しく自分を見つめてくる父の顔をまともに見れずに、ギュッと目をつむる。

 ランヴァルト大公はその姿を見て、かすかな吐息をもらし、息子の肩をそっと掴んだ。

 

「よいか、シモン。先程の公女の言葉、(われ)はあれを嘘と思わぬ。なぜか? それは公女の品格がそうさせる。グレヴィリウス小公爵も(しか)り。(とうと)き身分であれば、品性を磨くことで、()るべき信頼というものがあろう。だが、其方(そなた)にはそれがない。(われ)が日頃、教え諭すは、そのことよ。まだ、わからぬか?」

「………わ、わかっております」

「わかっておるならば、今、ここで其方(そなた)の品性を示せ」

「…………」

 

 父の求めることがわからず、シモンは首をすぼめて縮こまるしかなかった。

 ランヴァルト大公は軽く目を閉じて、深くため息をつくと、アレクサンテリに向き直った。

 

「帝国の(うるわ)しき太陽樹の青き枝、皇太子殿下の催される会にて無粋な騒ぎを起こしました。お許し下さい」

「いいよいいよ。むしろ、僕は面白かった」

 

 アレクサンテリは本当に愉しげに言って笑う。

 ランヴァルト大公はもう一度頭を下げると、今度はダーゼ公女と目を合わせる。

 

「ダーゼ公女、愚息が失礼致した。親として代わって謝罪する。お許し願えるだろうか?」

「もちろんでございます。むしろ、大公殿下にそのような気遣いを受けるなど、もったいないことでございます」

 

 ダーゼ公女はその麗しい姿を一切裏切ることのない、完璧なまでの作法で受け答えた。

 次にアドリアンを見るランヴァルト大公の紫紺(しこん)の瞳は、とても穏やかだった。

 

「グレヴィリウス小公爵。一昨年に続き愚息の数々の無礼、お詫びのしようもござらぬ。貴公の近侍については、十分に慰謝致しますゆえ、此度は()()()お収めいただけるだろうか?」

 

 アドリアンは大公の意をすぐに汲み取った。つまり、前回のような家同士のいざこざにならぬようにしようと、申し出ているのだ。

 アドリアンとしても、それは願ったり叶ったりだった。これでまた問題を起こしたとなって、その発端がキャレだと公爵に知られたときに、キャレをこれ以上(かば)いきれない。おそらく近侍の任を解かれて、ファルミナに戻されるだろう。そうなればまた、異母兄を始めとするオルグレン家の人々から、()がひどい扱いを受けるのは明らかだ。なんであれば、家の体面を傷つけた…と、より一層に虐待されることだろう。

 

「はい。僕も少し言い過ぎた面があったやもしれません。大公殿下のご配慮に感謝致します」

 

 アドリアンは心から感謝を込めて言うと、ランヴァルト大公はフッと笑った。

 

「グレヴィリウス公が羨ましい限りだ。このように賢明なるご子息が跡継ぎであれば、安心でありましょうな」

「……そんなことは」

「いいや、小公爵は近侍のために膝をつくことすら(いと)われぬ。自らの部下を宝と思ってのことでしょう。故にこそ、あなたの近侍もまた、あなたに尽くすことを厭わぬ。これこそが理想的な主従の形です。(わたくし)も学ばせていただいた」

 

 あまりの賛辞にアドリアンは赤くなった。どう返答すればいいのか困っていると、大公はそっとアドリアンの頭に手を乗せた。

 

「また、ご指導いただきたいものだ」

 

 柔らかく微笑んで、ランヴァルト大公は去った。

 シモンらも後に続き、いつの間にかその場に来ていた大公家の騎士らしき人々も続く。

 列の最後尾には、夏だというのに灰色の長衣を着て、フードをすっぽりと被った、宴席には少々みすぼらしい恰好の人物が、ゆるゆるとついていった。

 アドリアンはすぐに思い出した。一昨年前にシモンとの喧嘩の仲裁に入った老人だ。名前をなんと言ったか……と、その背を凝視していると、ふいに老人が立ち止まり、振り返った。フードの奥から濁った目がこちらを見ている。焦点の合わぬ視線にアドリアンがたじろいでいると、ニヤリと笑って去っていった。

 





次回は2023.12.10.更新予定です。


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第百六十七話 皇太子アレクサンテリ

「……やれやれ。相変わらず、気味悪いのを引き連れてるなぁ」

 

 アレクサンテリは大公の姿が見えなくなってからつぶやく。

 アドリアンはムッと眉を寄せた。

 

「大公殿下はどのような者であれ、能力を見て判断されておられるのです。そうして今の盤石(ばんじゃく)なる大公家を作られたのだから、素晴らしいことではありませんか」

「おやおや。随分と、急に、またコロリと懐柔(かいじゅう)されたものだね~。僕にはぜーんぜん、なついてくれないってのに」

「なつくとかそういうことじゃ……」

「そういうフザけた態度をお示しになるから、小公爵様からの信頼を得られないのですわ」

 

 アドリアンが反論するのを遮って、鋭く言ったのはダーゼ公女だった。

 アドリアンは今更ながらに、挨拶もしていないことに気付いて、あわてて自己紹介しようとしたが、それも公女は止めた。

 

「先に近侍の方の手当をなさったほうがよろしいでしょう」

「あぁ、そうだ。エーリク、チャリステリオ、マティアス。君らでキャレを医務所に連れてゆきたまえ」

「え?」

 

 近侍を始めとしてアドリアンも呆気にとられた。

 どうして皇太子がグレヴィリウス小公爵の近侍の名前を(そら)んじているのだろうか? だが疑問を問いかける暇もなく、皇太子の合図でやって来た騎士らに連れられて、渋るマティアスも含め、近侍たちは強引に連れて行かれてしまった。

 見送ってから、ダーゼ公女が急に気落ちした様子で言った。

 

「ごめんなさい、グレヴィリウス小公爵様」

「え?」

「私、面倒ごとになるのが怖くて、少しためらったんです。お分かりかと思いますけど、シモン公子は何かと厄介な御方でしょう? できればあまり関わり合いたくなかったんです。でもそのせいで、あなたの近侍のあの方はひどい目に遭ってしまって。申し訳ないことをしましたわ」

「そんなことはありません。ダーゼ公女様のお陰で、僕は不用意なことをせずに済みました」

 

 アドリアンは公女の生真面目な告白にやや面食らいながらも、彼女の誠実な態度に感謝し、頭を下げた。すると公女は麗しいその顔の中心に、不満そうな皺を作って、アドリアンの額をツイと指で押し上げる。

 

「それは確かにそうですわね。グレヴィリウスの名を背負う方が、そうそう頭を下げるなどしてはいけません」

 

 ダーゼ公女はいかめしく言ってから、急にニッコリと笑った。その微笑は人並み外れた美貌からすると、どこか親しみがあって、アドリアンは少しハッとなった。

 公女はツイとスカートの片方をつまみ、腰を少し下げて挨拶する。

 

「今更ですけど、初めてお目にかかります。ヴィリヤミ・アンセルム・リルクヴィスト・ダーゼの娘、ヴィオラ=ヴィーリア・ティルザ・リルクヴィスト・ダーゼと申します。忘れていただいても構いませんけど、今度会うときにはダーゼ公女ではなく、名前で呼んでいただけると、私も気安く接することができますわ」

 

 アドリアンはハキハキとしたヴィオラの物言いに、(こころよ)さを感じた。クスリと笑ってから、自分も挨拶する。

 

「エリアス・クレメント・エンデン・グレヴィリウスの息子、アドリアン・オルヴォ・エンデン・グレヴィリウスです。僕の方も、気安くアドリアンとお呼びください、ヴィオラ嬢」

 

 ニッコリ笑いあうと、アレクサンテリが間から割って入ってきた。

 

「なんだよ、なんだよ。僕も混ぜておくれよ。あ~…ジークヴァルト・サムエル・ボーヌ・シェルバリ・グランディフォリアの息子、アレクサンテリ・エサイアス・カミル・シェ……」

「知ってます」

「存じております」

 

 ヴィオラとアドリアンがほぼ同時に遮ると、アレクサンテリは「も~っ」と地団駄踏んだ。

 

「まったく、なにさ~。僕だって、わりと功労賞ものだったと思うのに」

「大公殿下のお言葉を胸に刻んで下さいませ。日頃からの行いによって、信頼と品性が育つのです」

「ヴィオラ、君は本当に十一歳なのか? 時々、僕の伯母さんかなにかなんじゃないかと思うよ」

「それは光栄ですわ。皇太子殿下の伯母であれば、からかわれることもないでしょうから」

 

 ツンと言って、ヴィオラはそっぽを向いたが、そこに声がかかった。

 

「お嬢様! お探ししましたよ」

 

 彼女を探していたらしい従者が、あわててやって来る。ヴィオラの顔が一瞬、嫌悪に歪んだが、すぐにフゥとため息をつくと、アレクサンテリとアドリアンに軽く頭を下げた。

 

「それでは私はこれで。あ、アドリアン様。一つ頼んでもよろしいでしょうか?」

「なんでしょう?」

「あの勇気ある赤毛の近侍に、お礼を言っておいて下さいまし。なんであれ、私は嫌な思いをせずに済みました。ありがとうと、お伝え下さい」

「………はい。わかりました」

 

 アドリアンは頷き、従者と共に去るヴィオラを見送った。

 その様子を見て、アレクサンテリがニヤニヤ笑う。

 

「おや~。やっぱりアドリアンも、『トゥルクリンデンの宝玉』を前にするとメロメロになっちゃう?」

「なんですか、それは。僕は……ご身分のわりには、随分と気さくな方だと思ったまでです」

 

 そう。普通、他家の近侍のために、わざわざ証言するなど面倒なことに首を突っ込まないものだ。まして公爵家の令嬢であれば、世間の雑事など知らぬとばかりに、超然と過ごすことが優雅とされるのに。しかも礼まで言ってきたことに、アドリアンはちょっと驚いて、すぐに返事できなかった。

 アレクサンテリはハハッと笑った。

 

「まぁ~確かにねぇ。ヴィオラは真面目ないい子なんだよ。今をときめくダーゼ公爵家の一粒種だなんてのが、少々可哀相なくらい、いい子なんだよねぇ~。だから僕もちょっとばかりためらってるんだ」

「はい?」

「わかるだろ。彼女も(きさき)候補ってことさ。まぁ、数あるうちの一人だけど」

「そうですか」

「あれ? 嫉妬しない?」

「……皇太子殿下、そろそろ天幕に戻られたほうがよろしいんじゃないですか?」

 

 アドリアンがあきれて言うと、アレクサンテリがガシリと腕を掴んだ。

 

「いやいや。むしろ、僕が君を探していたのは、実のところ別の理由でね」

「え? なんですか……離してください」

「いいからおいで」

「いや、あの……僕、キャレの状態を見に行かないといけないし……」

「死にゃしないよ、あの程度。それより、久しぶりに君に会いたいって人がいてね」

「僕に? 誰が?」

「さぁ~、行っくぞぉ~」

 

 目を白黒させるアドリアンなどお構いなしで、アレクサンテリはがっしりと腕をつかみ引っ張っていく。

 

「ちょっと、どこ行くんです? 皇太子殿下!」

 

 

***

 

 

 そうして連れて行かれて、(うなが)されるままに小舟に乗ってから、アドリアンは嘆息して尋ねた。

 

「頼みますから、どこに向かうのかぐらい教えてください」

「ちょっと離れた四阿(あずまや)だよ。小島の中にある」

 

 パルスナ最大の湖であるヤーヴェ湖畔に立つ皇宮(こうぐう)は、平地部分と複雑な湖の入江を利用して建てられている。ヤーヴェ湖には大小合わせて百以上の島があり、中には本当に小さな庭だけが作られた島もあった。当然ながら安全上の問題から、この風光明媚な土地はヤーヴェ湖も含めて皇家(こうけ)が所有しており、無数の島には各所に警備の騎士が配されている。

 

 小舟に揺られて目的の島に向かっている間、アドリアンは目の前の皇太子を恨めし気に見つめていた。アレクサンテリの突拍子もない行動はいつものことながら、慣れない。しかも(さき)の皇太子が亡くなって、新たな皇太子となって以降は拍車がかかった気がする。単純にその日の気分ですることもあれば、さっきみたいに妙に用意周到に整えていることもある。

 

「……なぜ、大公殿下を連れてこられたんですか?」

「うん?」

「従僕でも、騎士でも、いくらでも仲裁に入ることはできましたよね?」

「やれやれ。アドリアン。君は時々、自分が何者であるのかを忘れるね。大公家の公子と、建国以来の名家であるグレヴィリウス公爵家の嫡嗣が言い争いをしていて、そこらの騎士が止めに入ることなんてできないよ。それこそ取っ組み合いの喧嘩でもしていれば別だけどね」

「……すみません」

「いやぁ、僕としてはあの大公(おおおじ)がヘコヘコ頭を下げるなんて、至極痛快だった。頼んだ甲斐があったよ」

「また、そのような……失礼ですよ」

「だって、あのバカシモンのために大公が頭下げるとは思わなかったんだもの。てっきり、その場で鉄拳制裁かと思ったんだよねぇ。案外、大公もあれで親らしい情なんてあるんだろうか?」

「……十分におありだと思いますよ」

 

 アドリアンは答えながら、父親の姿を思い浮かべた。父は大公のように息子に教え諭すようなことはしないだろう。一昨年もそうだった。ただ無表情に打ち据えて、処罰を与えるだけ。しかもそれはアドリアンの為ではなく、グレヴィリウス家の名誉の為だ……。

 沈んだ顔になるアドリアンを見て、アレクサンテリがフフンと笑って問いかけた。

 

「羨ましい? シモンが」

「……別に…」

 

 アドリアンは言葉少なに答えてから、それ以上アレクサンテリにこのことについて問われる前に、反対に尋ねた。

 

「それより、どうして皇太子殿下が僕の近侍について、ご存知なのですか?」

「うん? 近侍? そりゃあ、そういう情報網を持ってるからさ。ついでにさっきシモンについていた近侍の名前も教えようか? リアンとタヴィト、チェスラフ、あと今日は来てなかったけど、ルミールっていうのと、一番気になるのはシューホーヤの特徴を持った奴だろう? どうやら混血児のようだけどね。あいつはね、えーと…面倒くさい名前だったな。ファル=ヴァ=ルフ、だったかな? 西方(あっち)の名前はどうにも読みづらいや。普段はファルって呼ばれてるみたいだよ」

 

 早口に言って、アレクサンテリは肝心要(かんじんかなめ)のことについては、詳細を話さない。こういう抜け目ないところも含めて、信用ならないのだ。

 

「一昨年の君とのことで、そのときの近侍は役に立たないって、総取っ替えされたみたいだよ。ファルは元は貴族の子弟じゃない。確か、家臣の誰かの養子になったんじゃなかったかな? あぁ、そういえば君のとこにも似たようなのがいるね」

 

 問われてもアドリアンは答えたくなかった。なんとなくアレクサンテリには、オヅマのことを知られたくなかった。それにこの様子では、どうせオヅマの名前も、今年帝都に来ていない理由も知っているのだろう。案の定、アレクサンテリは大きく肩をすくめて、ペラペラとまた喋りだす。

 

「やれやれ。よっぽどその近侍はお気に入りらしいね。まぁ、わからないじゃあないよ。あのヴァルナル・クランツが目をかけて、息子にまでしたくらいだ。あぁ、でも母親が美人なんだったっけ? それでうまいことクランツ男爵をけしかけて、結婚にまで漕ぎつけさせて、将来有望株の騎士見習いをまんまと息子にできた…ってわけだ。さすがは結婚と離婚を三度も繰り返すだけあるね、グレヴィリウスの()()策士殿は」

 

 アドリアンはアレクサンテリの言葉が途切れるのを待って、フゥと息を吐いた。静かに警告する。

 

「……皇太子殿下、知り得たことを知ったと仰言(おっしゃ)るなら、それもまた一つの指標(しるべ)となりますよ」

 

 アレクサンテリはしばしアドリアンを見つめたあとに、ニッコリ笑った。

 

「やぁやぁ、まったく。小公爵殿ときたら、随分と大人びたことを仰言(おっしゃ)いますね!」

「……殿下と同じ年ですが?」

「やだな~。聡明謙虚な小公爵殿なんかに比べたら、僕なんてまだまだお子様ですよ。くちさがない、おしゃべりのおバカさんでよろしいのです」

 

 いかにも子供っぽい口調で言いながら、アレクサンテリの紺青(プルシアンブルー)の瞳は無表情で、何を考えているのかわからない。昔からそうだった。色濃いその瞳は、一見小動物的な愛らしさもあるが、瞳孔とその周囲の区別がつかず、まるで塗り潰されたようで、目から彼の意図を読み解くのは困難だ。

 アドリアンはこれ以上アレクサンテリの韜晦(とうかい)につき合うのも疲れてきて、水面に咲く色とりどりの睡蓮を眺めた。

 ヤーヴェ湖自体が、皇宮の庭の一つのようなものであるため、人工的に岩を組み、池のようにして種々の水生植物が植えられている。遠くの入江の方には、水に浮かんでいるかのように群生した木々の林なども見えた。

 アドリアンはしばらく水面を無表情に眺めていた。水夫の(かい)がゆっくりと水を掻き、舟に押されて花が揺れ、葉が揺れる。パシャリと小さな魚が跳ねて、キラキラと飛沫が昼の日差しの中できらめいた。

 時間の流れがひどく緩やかに感じられて、軽く咳ばらいしたときに、アレクサンテリが(ふなべり)から身を乗り出して、大きく手を振りながら叫んだ。

 

「おおーいッ、姉上ーっ」

「姉上?」

 

 アドリアンは怪訝にアレクサンテリを見てから、同じように舷から少しだけ体を傾ける。

 

「あ……」

 

 アドリアンは驚いて固まった。

 小島にある小さな四阿(あずまや)から、小柄な女性が手を振っていた。

 アドリアンと似て非なる漆黒の髪、星月夜をそのまま写し取ったかのような神秘の瞳。

 

「イェドチェリカ様……」

 

 つぶやくようにその名を呼ぶと、長く伸びた黒髪が風になびき、夜の瞳が細く笑った。

 

 





引き続き更新します。


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第百六十八話 神女姫となる皇女

 桟橋(さんばし)にたどり着くと、アドリアンは水夫が手を出す間もなく舟から飛び出した。

 走って近づこうとして、途中で突き出た岩に足を取られ、待っていた人の手前にぶざまに膝をつく。

 

「まぁ、アドリアン。そそっかしいことね」

 

 美しい声が降ってきて、そっとアドリアンの手を取った。

 フワリ、と甘い香りが漂ってくる。

 

魔除けの花(シファルデリ)の……」

 

 アドリアンがつぶやくと、目の前の女性がニコリと笑う。両端を上げた唇に、(うっす)らと(べに)が引いてあることに気づくと、アドリアンは奇妙な部分がドキリとして、思わず目を伏せた。

 

「まったく。姉上を見た途端に豹変(ひょうへん)するじゃないか、小公爵。手まで握っちゃって」

 

 あきれたようにアレクサンテリが言ってくる。アドリアンは自分に添えられた手に気付き、あわてて手を離した。

 

「す、すみませんっ! 皇女(こうじょ)様」

 

 あわてて立ち上がる。すると皇女・イェドチェリカは目を丸くしてアドリアンを見つめた。

 

「まぁ……アドリアン。貴方(あなた)にだけ時間が早く回ったのかしら? 随分と背が伸びたのではなくて?」

「あ、それは……はい」

 

 アドリアンは、イェドチェリカに成長した自分の姿を見られるのが、少しだけ恥ずかしかった。背をやや丸くして、赤くなってうつむいていると、フフとイェドチェリカは笑って、アドリアンの手を再び取った。

 

「さぁ。こちらにいらっしゃい。この暑さの中、舟になんか乗ったから、顔が赤いわよ。削氷(けずりひ)を頼んであるから、あそこで食べましょう」

 

 手を握られてアドリアンがドギマギと挙動不審になるのもお構いなく、イェドチェリカは四阿(あずまや)へと進んでいく。

 

「おぉぉ、さすがは次代の神女姫(みこひめ)様。ちゃんと蜜はかけていただけるんですよね?」

 

 アレクサンテリは削氷(けずりひ)と聞いた途端に、目の色を変えた。二人を追い越して、我先にと四阿(あずまや)へ駆けていく。イェドチェリカはクスクス笑った。

 

「相変わらず、甘ったるいものが好きねぇ、アレクは」

 

 あきれたように言う、柔らかな声音が懐かしい。アドリアンが聞き入っていると、イェドチェリカが振り返った。

 

「風は少し涼しくなってきたかしら……ね、アドリアン?」

「……は、はい」

「フフ……声も少しだけ変わったわね」

「え……あ、そう……でしょうか?」

「えぇ、そうよ。変わったのはわかるけど、貴方(あなた)がおチビちゃんだった頃の声が、もう思い出せないわ」

 

 その婉麗な微笑を、アドリアンはボーっと見ていたが、それが強い日差しのせいでのぼせているのか、久しぶりに会ったその(ひと)に魅入られているのか、自分では判然としなかった。

 湖の上を渡ってきた冷たい風に、イェドチェリカの真っ直ぐに伸びた純黒(じゅんこく)の髪が、サラサラと揺れる。その様はまるで古代の絵から抜け出てきたかのような、どこか異質で玄妙な、言葉にできない美しさだった。

 

 皇帝の第五皇女であるイェドチェリカ・シェルバリ・グランディフォリア。

 当年十七歳になる彼女は、ヤーヴェ湖を隔てた西南の小国からやってきた王女を母として生まれたが、王女はイェドチェリカ()を産んだときに亡くなった。

 イェドチェリカはその黒髪と黒い瞳 ――『夜貴(よき)ノ瞳』を持っていることで、生まれたその場で神女(みこ)となることが決められた。

 

 皇家(こうけ)においては、基本的に金髪碧眼(きんぱつへきがん)の子が多く生まれる。歴代皇帝はそれと決められてはいなかったものの、全てが金髪であった。これは代を重ねるごとに、皇帝は太陽と同じく光り輝く金の髪でなければならぬ……という不文律になっていった事情もあっただろう。

 特にアレクサンテリなどは、色濃い鬱金(うこん)の髪と、紺青(こんじょう)の瞳という初代皇帝エドヴァルドと同じ特徴を持っていたので、先の皇太子が亡くなり、彼が皇太子として立太子したときには、「エドヴァルド大帝の生まれ変わりたる、アレクサンテリ殿下!」と、喝采を叫ぶ者もいた。

 

 無論、皇后側妃(そくひ)は帝国内外から皇帝に嫁いできて子を()すわけだから、母方の血を引いて赤毛や茶髪、銀髪の皇子もいたし、緑や栗色の瞳を持つ皇女もいる。だが二百有余年の歴史を持つ皇家(こうけ)においても、黒髪の子供はほとんどいなかった。

 というのも、そもそも黒髪を持つ一族は、徹底的に排除されたからだ。

(アドリアンやエリアス公爵もまた黒に近い髪ではあるが、厳密には暗い橙味を帯びた黒檀(こくたん)色の髪である)

 

 黒髪 ――― 特にイェドチェリカのような純黒の髪は、ホーキ=シェン神聖帝国において貴人(きじん)と呼ばれる人々だけが持っていた。

 神聖帝国を征服する過程で、エドヴァルドは彼らを徹底的に駆逐・殲滅(せんめつ)していき、エドヴァルドの死後も、歴代皇帝治世下のパルスナ帝国において、いわゆる『貴人狩り』は続けられた。

 

『神聖帝国の貴人は根絶やしにする』。

 

 それはパルスナ帝国創建時からの国是(こくぜ)であった。()に下ったわずかな生き残りですらも抹殺され、彼らはこの世から絶滅した。

 

 だが、皆殺しにされた貴人の中で、唯一生存を許された者がいる。

 その唯一人こそが、初代皇帝エドヴァルドの伝説の妻にして、宝冠なき皇后 ―― いわゆる『名もなき神女姫(みこひめ)』だった。

 彼女の黒髪は子である二代目皇帝ヴェルトリスには引き継がれず、その次代を経て彼女にとって曾孫(ひまご)にあたる皇女の代において発現した。当初は不吉とされ、この皇女を殺すことすら考えられたが、女児が誕生した日の夜に皇帝の枕辺に『名もなき神女姫(みこひめ)』が立ち、告げた。

 

 ―――― 皇家(こうけ)に誕生する黒髪の赤子は、神女(みこ)として、主母神(しゅぼしん)サラ=ティナに(つか)えさせよ。

 

 以来、皇家(こうけ)に生まれた黒髪の女児(不思議とこれが女児にしか黒髪は生まれない)は、生まれると同時に、ヤーヴェ湖に浮かぶ孤島・シュルハーナの神殿にて、生涯をサラ=ティナ神に仕えることが決められた。

 黒髪の女児が生まれぬ場合においても、帝国の安寧を祈る立場である神女姫(みこひめ)の存在を途切れさせるのはよくないとして、彼女らが老いたり病気などで亡くなった場合は、その時、皇家にいる未婚の皇女が神女姫(みこひめ)となることが決められた。

 

 そんなわけでイェドチェリカは、生まれた翌日には皇宮(こうぐう)を出て、シュルハーナ神殿にて次代の神女姫(みこひめ)となるべく育てられた。

 ちなみに現在の神女姫(みこひめ)は先代皇帝の娘で、既に老齢でほぼ寝たきりとなっているらしい。そのため、毎日のお祈りも含めた実際の神女姫(みこひめ)としての役割のほとんどを、イェドチェリカが(にな)っているのだという。

 だからアドリアンは、今日、皇宮(こうぐう)に来ても、彼女に会えるとは思っていなかった。きっと新年の祭祀(さいし)などで忙しいだろう……と。

 

 元々、アドリアンとイェドチェリカを会わせてくれたのは、先代の皇太子であったシェルヴェステルだった。彼が亡くなって以来、イェドチェリカとアドリアンを繋ぐ縁は途絶えてしまい、昨年も一昨年も、シェルヴェステルが(やまい)()せるようになったその前の年から、アドリアンは彼女と会えなくなっていた。

 そうしてずっと気にかけていたからだろう。アレクサンテリとの謁見の場で、当代の神女姫(みこひめ)の容態がよくないという話が出ると、思わず口走ってしまった。

 

「あの……イェドチェリカ様は、お元気でいらっしゃいますか?」

 

 会うことは諦めていたが、せめて消息なりと知りたかったのだ。

 その言葉を聞いたときのアレクサンテリの反応は、特に変わらなかった。

「元気だよ」といつもの調子で軽く答えつつ、こっそりシュルハーナの神殿にいるイェドチェリカに、鳩でも飛ばしたのだろう。

 

 アドリアンはチラリとアレクサンテリを見遣(みや)った。視線を感じたのか、目が合う。アレクサンテリはパチパチとわざとらしくまばたきすると、ニィッとおおきく口の両端をつり上げた。劇の合間に出てくる回し者の道化のような、作り物めいた笑顔だ。

 アドリアンは軽くため息をつくと、イェドチェリカに尋ねた。

 

「あの……よろしかったのですか? お忙しいのでは?」

 

 神女姫(みこひめ)として忙しいイェドチェリカに迷惑だったのではないかと、アドリアンは恐縮して言ったが、当の神女姫(みこひめ)(正確には次代)であるイェドチェリカは、「いいえ、まったく」と笑った。

 

「まったく?」

「えぇ。神殿にいて、神女姫(みこひめ)が忙しいことなんてなくてよ。ほとんどのことは巫女(みこ)たちがやってくれるもの。神女姫(みこひめ)なんて(いにしえ)の言伝えで出来上がった、ただの張り子よ」

 

 少し投げやりなイェドチェリカが気になったが、アドリアンは何も言えなかった。

 確かにイェドチェリカの言うように、神女姫(みこひめ)という存在は一種の象徴だ。彼女らは神女姫(みこひめ)となることを定められた日から、シュルハーナの神殿に籠もる。出てくるのは、新年の行事のときにパルスナの安寧を祈る舞を舞うときと、新たな皇帝に祝福を与えるとき、それと皇帝が亡くなったときの鎮魂(ちんこん)の儀式のみ。それらですら皇宮(こうぐう)の中の一部領域でしかなく、普段においてシュルハーナ神殿は皇家(こうけ)の人間以外、入ることは禁じられているのだ。だから『お祈り』と言っても、実際に何をしているのかはアドリアンすら知らなかった。

 

 それ以上イェドチェリカは神女姫(みこひめ)の仕事については触れず、他愛ない天気の話なんかをしながら歩いて行く。

 話しながら、薄黄色の木香薔薇(モッコウバラ)に覆われた四阿(あずまや)の中へと入っていくと、目を引いたのは、ワゴンに乗せられた巨大な物体だった。茶色い布が(かぶ)されたそれを見て、アドリアンはすぐにわかった。さっきイェドチェリカが「削氷(けずりひ)」と言っていたから、おそらく氷であろう。

 まだ夏の日差しの残るこの季節に、あんな大きな氷を、こんなささやかな茶会に持ってきてしまう皇家(こうけ)権力(ちから)を、今更ながらに思い知る。

 しかし一方で、白いテーブルの上に並べられていたお菓子の中に、皇宮(こうぐう)(きょう)されるものとしては珍しいピーカンナッツのパイを見つけて、思わずアドリアンはまじまじと見つめてしまった。

 

「どうかして? アドリアン」

「あ……いえ」

 

 自分の行いがはしたないことだと気付き、アドリアンはすぐに目線をそらせたが、イェドチェリカは注意深く窺っていたようだ。

 

「ペカンパイが気になるようね。もしかして、貴方も好きなの?」

「は、はい。あ……皇女様もお好きなんですか?」

「……えぇ。偶然にね。食べることがあって」

 

 イェドチェリカは微笑みながら、アドリアンを席につかせると、手ずからパイを切り分けてくれた。目の前に置かれたパイは、前にアドリアンがレーゲンブルトで食べたものとほぼ同じだ。違いは、わざわざイェドチェリカが、アドリアンのために切って取ってくれた、ということ。

 アドリアンがそれを食べていいものかどうか迷っていると、横からじろじろと見ていたアレクサンテリが渋い顔になって言った。

 

「なーんだか、ゴロゴロと木の実がいっぱい乗ってて、不格好な食べ物だなぁ。栗鼠(りす)用のパイみたいだ。姉上、まさかこのお茶会に、栗鼠やら熊やらを招待しているんじゃあないでしょうね?」

「あらあら、まったく。文句の多い皇太子様ですこと。うるさい御方を黙らせるには、こちらの方がよろしいようね」

 

 そう言ってイェドチェリカが、ワゴンの前に立っていた下女に目を向ける。

 ワゴンに乗っていた巨大な物体から布が取り払われ、案の定、透明な氷の塊が現れた。専用のナイフを持った下女が氷を削り、それを別の下女が精巧にカッティングされた硝子の器の中に受けていく。

 こんもりと盛られた氷が目の前に置かれると、アレクサンテリは途端に上機嫌になった。

 

「わーい! やったぁ。さー、蜜をたぁーっぷりかけてぇ……」

 

 すっかりはしゃいで、陶器に入った茶色の蜜をたっぷりと氷の上にかけていく。氷が全部溶けるんじゃないかというくらいに、蜜を回しかけるアレクサンテリにあきれて、イェドチェリカが制止した。

 

「アレク、あなたかけすぎよ。アドリアンの分がなくなってしまうわ」

「あ、ごめん。足りなかったら、お前、持ってきてよ」

 

 アレクサンテリは悪びれもせず、側に控えていた下女に命じる。

 

「まったく。取りに行くのだって、手間だというのに。サトリ、頼めるかしら?」

 

 イェドチェリカは怒ったように言いつつも、弟の我儘を受け入れて、下女に頼んだが、アドリアンはあわてて止めた。

 

「いえ! あの、僕は甘いのは苦手なので、いいです。このままで十分……」

「まぁ、アドリアン。氷だけなんて、なんの味もしないわよ」

「……いいんです」

 

 アドリアンは小さく返事しながら、心の中でつぶやいた。どうせまともに味なんてわかりそうもない……と。

 イェドチェリカは困ったように、少し考え込んでから、ニコリと笑った。

 

「だったら、私と同じ蜜でもいいかしら? あまり好む人は少ないけれど……」

「え?」

「やめておけ、小公爵。姉上の味覚は、我々から少々かけ離れておいでだからな」

 

 アレクサンテリが即座に止める。自分はたっぷり蜜のかかった氷を食べながら。

 アドリアンは二人を交互に見てから、おずおずと言った。

 

「あ……よろしければ、イェドチェリカ様と同じものをいただきたい……です」

 

 言いながらまた顔が赤くなってくるのを感じて、アドリアンは自然と俯いた。その様子を眺めて、イェドチェリカはクスリと笑った。

 

「もちろんよくてよ、アドリアン。まったく、この謙虚さを誰かさんにも見習っていただきたいものね」

 

 やんわりとした嫌味も、アレクサンテリはパクリと蜜氷(みつごおり)を食べて受け流す。弟の高慢な態度に、イェドチェリカはため息をついてから、テーブルにあった細口の瓶を手に取った。中には薄い緑色の液体が入っている。サラリとしたその液体が、アドリアンに用意された削氷の上にかけられると、わずかに溶けて、キラキラとした緑色の氷になった。

 

「食べてみて頂戴」

 

 イェドチェリカが悪戯(いたずら)っぽい目で勧めてくる。アドリアンはちょっとだけ逡巡した。昔からこの悪戯好きの皇女様は、たわいもないことだけれども、アドリアンを驚かせるようなことをしてくるのだ。だがアドリアンは自分が驚いているのを見て、楽しそうに笑っているイェドチェリカが好きだった。

 

「……いただきます」

 

 サクリ、と陶器のスプーンですくって食べる。一口、口に入れた途端に冷たさと一緒に酸味が伝わってきて、アドリアンは目をしばたかせた。だが喉に流し込むと、ほのかな甘さが口中に残った。

 

「あーあ、酸っぱかったろう? まったく、姉上も何を好き好んで、こんな酸っぱいものをかけて食べるんだか」

 

 まるで自分が食べたかのように、酸っぱそうに口をすぼめてアレクサンテリが悪態をつく。無礼な弟のことはすっかり無視して、イェドチェリカはアドリアンの顔を覗き込んだ。

 

「どう? アレクの言うように、酸っぱかったかしら?」

「あ……いえ。酸っぱかったけど、美味しいです」

 

 アドリアンが素直に言うと、アレクサンテリは信じられないように肩をすくめた。

 

「ライムの汁の蜜なんて、なにがおいしいんだよ」

「あ、ライムの汁なんですね。どこかで食べたような、覚えのある味だと思った」

 

 イェドチェリカはフフっと笑って、自分の氷にもそのライムの果汁の蜜をかけた。

 

「ライムをれんげ蜜に漬け込んだシロップに、色付けのデチュルの葉を加えて、少し煮立たせたものよ。本当は、れんげ蜜に漬け込んだライムを氷の上に乗せて、一緒に食べるとまた美味しいらしいけど……」

「ライムを氷の上に乗せて、食べる?」

 

 アレクサンテリは聞き返して、ウゲーと舌を出した。

 

「ライムを氷に乗せて食べるなんて。勿体ない。栗鼠のパイといい……姉上、いったいどこで、そんな下品なものを覚えてきたんですか?」

 

 ライムを蜂蜜などに漬け込んで食べるのは、庶民の定番料理の一つだった。夏にはそのまま食べたりするし、冬まで残ったものはケーキに乗せて焼いたりもする。

 そういえばレーゲンブルトにいた頃に、ピーカンナッツのパイ以外にも、オヅマの母のミーナがこのライムケーキを作ってくれた。オヅマが上に貼り付いているライムばかりさっさと食べてしまい、マリーからしこたま怒られていたのを思い出す。

 

「……そういうものが好きな人がいたのよ」

 

 イェドチェリカはアレクサンテリの質問に静かに答えて、削氷を一口食べると、思い出し笑いをするアドリアンに問いかけた。

 

「アドリアン、なんだか幸せそうに笑っているわね。なにかいいことでも思い出したのかしら?」

 

 アドリアンはハッとなって、笑顔を引っ込めた。

 時々、この皇女様といい、亡くなられた(さき)の皇太子といい、皇家(こうけ)の人というのは妙に鋭い。

 

「あ、いえ……ちょっと。近侍の一人に、ライムの蜜漬けが好きなのがいたと思って」

「…………あら、そう」

 

 イェドチェリカはニコリと相槌を打った。

 その返答が少しだけ、ほんの少しだけ遅かったのに気付いたのは、アレクサンテリだけだ。その声音がやや沈んで聞こえたのも。

 だが彼は「やっぱり削氷は糖蜜だ~」とわざとらしく言って、姉のかすかな動揺を見逃してやった。

 

「近侍の好きな食べ物まで知っているなんて、アドリアンは目下(めした)の人間にも、ちゃんと気を配っているのね。あなたの近侍になった者は、幸せそうだわ」

「そう……でしょうか。その、彼はちょっと、特別なので」

 

 イェドチェリカに褒められるのが妙にこそばくて、アドリアンは削氷をスプーンでつつきながら、小さな声で言う。

 イェドチェリカは首をかしげて、先を促した。

 

「特別?」

「えぇ。お互いに率直というか……僕も彼に文句を言いますし、彼も僕の悪いところは遠慮なくズケズケ言ってきますし……喧嘩もしますが……」

 

 言いながらアドリアンは考えた。オヅマは、自分にとってどういう存在なのだろう?

 その答えは考えるよりも早く、口からこぼれでた。

 

「……一番、信頼しています」

 

 イェドチェリカは数年前まで、どこか気弱で自信なさげだった小公爵が、すっかり大人びた顔になり、胸を張って言うのを聞いて、にっこり微笑んだ。

 

「そう、良かったわ。あなたも、その近侍の子もね」

 





次回2023.12.17.更新予定です。


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第百六十九話 皇宮の噂話

 楽しい時間はあっという間に過ぎるというが、アドリアンは正直ものすごく長い時間が経ったようにも感じたし、小島の桟橋(さんばし)で手を振るイェドチェリカの姿が見えなくなった途端に、さっきまでのことが夢なんじゃないかとすら思った。

 

「おーい、小公爵」

 

 ボーッとなっているアドリアンに、アレクサンテリが声をかける。

 アドリアンは我に返ると、魂が抜けたようになった自分の姿をアレクサンテリに見られたことが、ひどくきまり悪く思えた。

 

「な、なんでしょうか?」

 

 あわてて取り繕って答えるアドリアンを、アレクサンテリは半笑いで見つめる。

 

「まったく、わかりやすすぎるよ、小公爵。君が姉上のことが()()好きだというのはわかったけどね、生憎(あいにく)神女姫(みこひめ)様は生涯独身で、身綺麗に過ごすっていうことになっているんでね」

「そ、そんなこと…当然でしょう! わかってます!!」

「どうだかねー。君も()()グレヴィリウス公爵の息子だからなー。お父君同様、好きになったら、どうなることだかねー?」

 

 父母のことに触れられて、アドリアンは急にムッと押し黙った。

 機嫌の悪くなったアドリアンを見て、アレクサンテリは薄ら笑むと、水面に浮かぶ花を見ながら話を続けた。

 

「当代の神女姫(みこひめ)であられるエヴァサリア様も、お若い頃はそれはそれはお美しい方だったそうだよ。亜麻色の髪の麗しい乙女で、イェドチェリカ姉上のように黒髪じゃなかったから、十六歳までは普通に皇宮(こうぐう)に暮らしていて、貴族の若君連中は何としても自分に降嫁(こうか)してもらおうと躍起(やっき)だったらしい。そのせいで決闘なんかもあったとか。それで曽祖父(おおじい)様が余計な争いの種にならぬように、って神女姫(みこひめ)にしてしまったらしいけど……さぁて、それで本当に収まったんだか」

 

 なんとなく、アレクサンテリが嫌な方向に話を持っていこうとしている気がして、アドリアンは、顔をしかめたまま黙り込んだ。しかしアレクサンテリは組んだ足に肘をついて、顎を手に乗せながら、特に面白くもなさそうな顔で続ける。

 

「君も両親のことで色々と悩ましいようだけど、このシェルバリの家系もけっこう面倒な人が多くてねぇ」

 

 シェルバリ、というのは初代皇帝エドヴァルドの元の姓で、代々皇家に継がれた古い姓名だ。

(ちなみに『グランディフォリア』は四代目の皇帝が即位したときに、初代神女姫(みこひめ)によって伝えられた、神より(たまわ)りし大いなる名とされている)

 そんな由緒ある名前を、まるで揶揄(やゆ)するかのように口にするアレクサンテリに、アドリアンはそっと注意した。

 

「殿下。お立場を(わきま)えて下さい。ここは皇宮(こうぐう)の中です」

「わかってるよ。だから言う相手は選んでるんじゃないか。僕も、君を信頼しているんだよ、ア・ド・ル」

 

 ニンマリとアレクサンテリが笑うのを、アドリアンは仏頂面で見つめた。

 絶対に、ワザと言っている。

 「アドル」と。

 公爵家においてはオヅマ以外、誰も言うことのないアドリアンの愛称を。

 

 アレクサンテリはアドリアンが不機嫌になるのが、楽しいらしかった。嬉しそうに「フフ~ン」と鼻歌を歌いながら、ユラユラと体を揺らせて、わざとに小舟を不安定にさせる。それでも水夫は慣れたもので、上手に(かい)を動かして、なるべく波立たせないように舟を安定させた。

 アレクサンテリの体がようやく止まると、今度は口が(せわ)しなく動き出す。

 

「君のお父上は突発的にあぁなったのかもしれないけど、皇家(こうけ)の人間は昔っから、ちょっとばかり『愛情』ってやつの()()がおかしいことになっててねー。それこそ初代皇帝だって、名も残さなかった神女姫(みこひめ)にこだわって、最後まで皇后を置かなかっただろ? あれから三百年近く経っても、呪いみたいに皇家の人間は、一人の人間を深く愛してしまうとおかしくなるんだ。

 僕の現皇帝(ちちうえ)もそうさ。いまだに亡き兄上のことはもちろん、十年以上前に死んだセミア妃のことまで、いつまでも恋い慕っておいでさ。妃のお気に入りの宮殿は、死んだときのまま、鍵の壊れたドアさえそのままにしてあるというんだから。それでいて、一つの物も動かさずに掃除しろっていうんだ。前に気付かないだろうと思って、花瓶をちょいとずらして掃除した下女は、腕を切られて帝都から追い出されたってさ。なかなかだろ?」

 

 アレクサンテリは同意を求めてくるが、当然アドリアンは頷かなかった。

 

「………皇帝陛下のなさることですので、僕から申し上げることはございません」

 

 しかつめらしく返事すると、アレクサンテリはつまらなそうにため息をついた。

 

「ま、そういうことだから。神女姫(みこひめ)にしたところで、皇家の人間に変わりない。エヴァサリア様も、同じ。だぁれも来ない神殿奥で、いったい誰と、何をしていたかなんて、だぁれも知らない」

「殿下!」

 

 さすがにアドリアンは強く非難した。

 たとえアレクサンテリが皇太子であろうと、いや皇太子であるならば、自分が(まも)るべき皇家の人々について()(ざま)に言うなどもってのほかだ。そもそも彼のためにもならない。

 しかしアレクサンテリは、相変わらずニヤニヤと腕を組んで笑っていた。

 

「おお、怒ってる。怒ってる。いいね。これが、喧嘩ってやつ? 信頼ってこういうことだよね?」

「フザケたことを言ってないで、口を慎んでください。恐れ多くも国を守護するために、毎日祈ってくださっている神女姫様に向かって……」

「なーにを。さっき、姉上だって言ってたじゃないか。暇だって。あんな湖の上にぽつーんと浮かんだ神殿で祈ってようが、祈ってまいが、だぁれも知らないさ。口を慎むゥ? なーにを言ってるんだか。皇宮にはあいにく、()()()()()()()人間しかいないよ。僕以外は」

「誰が……」

 

 アドリアンはいよいよ呆れかえり、ため息も隠さなかった。

 すると急にアレクサンテリはアドリアンの隣に腰掛けてきて、耳元で囁いた。

 

「『貴畜』って言葉、聞いたことある?」

「……キチク?」

「最も貴くて、最も忌むべき(ケダモノ)

「……どういうことです?」

 

 アドリアンが眉をひそめて尋ねると、アレクサンテリは(たの)しげに紺青(こんじょう)の瞳をすうぅっと細めた。

 

皇宮(こうぐう)にはね、皇宮でだけ働いて、そのまま柱の染みにでもなっちゃうんじゃないかと思うくらい、ながーく働いている、ヌシみたいな女官やら侍従がいてね。そういう()()()()()()()奴らは、皇紀にも()らない裏事情を、ご丁寧にもうすーく、うすーく何十年もかけて噂として広めてくれるんだ」

「……なにを仰言(おっしゃ)りたいんです?」

「ランヴァルト大公が先代皇帝であられる、僕の曽祖父・シェルスターゲ皇帝の末息子ということは知ってるよね?」

「それは、もちろん」

 

 大公ランヴァルトはシェルスターゲ前皇帝の末子で、今の皇帝よりも年下の叔父であることは誰もが知っている事実だ。その母であるマイア妃は女官として勤めていて、皇帝からの信頼も厚かったので、年は離れていても、二人がそういう仲になったことに驚く者はいなかった。

 

「じゃあ、僕のお祖父(じい)様であられる当時の皇太子シクステン殿下が、二十四歳の若さで亡くなったことも知ってるよね? 一応、病死ってことになってるけど、こんな話をするんだから、真相はもちろん違う。で、さっき僕は、神女姫(みこひめ)がいつも神殿に籠もって、何をしてるかわからない、と言った。でもってその神殿中枢に行けるのは、皇家(こうけ)の人間だけ。この二つが導く答えが何か……わかるゥ?」

 

 まるで歌い文句かのように、どこかおどけた調子で、アレクサンテリは問いかけてくる。うっすらとした口元の微笑とは対照的に、紺青の瞳はガラス玉のように無機質で、何を考えているのかわからない。

 

 アドリアンは凝然として、アレクサンテリを見つめた。膝の上に置いた拳が震える。自分の脳が勝手に推理して、答えを導くことに、うんざりした。

 アレクサンテリの持って回った話を理解できないくらい、馬鹿だったら良かったのに……。

 こんな話はもっと大人になってから聞きたかった。

 しかも今、イェドチェリカに会ったばかりだから余計に生々しくて、それがアドリアンにはひどく腹立たしかった。まるでイェドチェリカもそうだと言わんばかりではないか。絶対にそんなことあり得るはずがないのに。

 

 アレクサンテリはそんなアドリアンの心を、更にザラザラした言葉で刺激してくる。

 

「あぁ。別にそれが真実かどうかなんてわからないよ。実際にシェルスターゲ皇帝の子かもしれない。だって、神殿に行けるのは皇太子だけじゃない。()()()()()()()()()()()()()()

 

 アドリアンはもう相槌も打てなかった。

 言いようのない気味悪さが背筋を這い上る。

 この国で最も清純とされる神女姫(みこひめ)が、実の父や兄と許されぬ関係であった……なんて。

 そんなおぞましいことは、考えたくもない。

 

 だがアドリアンにとっては衝撃的な皇家のこの()()は、一部の上流貴族や長く皇宮に勤めている者であれば、誰もが一度は耳にしたことのある話であった。

 アドリアンにとって不幸だったのは、多感な青少年期にそうした話を聞いてしまったということだ。それはアレクサンテリも同様であったが、彼は良くも悪くも皇宮に暮らす人間であった。

 

「あぁ、心配しないで。僕はそういうの、まったく興味ないから。兄上も、姉上と仲は良かったけど、まぁ……なかったろうよ。父上は、姉上のことを嫌っておいでだからなぁ。ま、ともかく。姉上は、()()()()()()ないと思うよ。エヴァサリア様に比べたら、()()()だしね。君も、そこはわかるでしょ?」

 

 アドリアンはひどく気分の悪い状態だったが、アレクサンテリの言葉にホッとした。当代神女姫(みこひめ)の過去の行いがどうであったにしろ、自分にとって大切な人たち ――イェドチェリカ皇女と、前皇太子シェルヴェステル ―― が、そんな目で見られるのは我慢ならない。

 しかし胸をなでおろしたのも束の間、アレクサンテリは今度はアドリアン自身に関係する人について話し出す。

 

「ちなみについでに言うと、シクステン皇太子(僕のおじいさま)を斬ったのは、君の祖父のマルツェル公だよ。二人は親友だったというのにね。マルツェル公はエヴァサリア様の熱心な信奉者だったらしくて、シェルスターゲ皇帝(大おじいさま)(そそのか)されて、バッサリ誅殺(ちゅうさつ)したってさ。本当かどうかは知らないけど、その後に君のお祖父(じい)さん、なぜかサフェナの東北部をもらえたね。そう、そう。かのレーゲンブルト騎士団の本拠地。特に勲功(くんこう)もないのに」

 

 アドリアンは静かに深呼吸しながら、目を閉じた。とりあえずアレクサンテリの口が閉じるのを待つしかない。今は下手なことは何一つ言うべきではないのだ。「やめて下さい」と言えば、アレクサンテリはますます面白がって、皇宮の()()をあれやこれやと話し出すに違いない。

 

 実際、アレクサンテリは、普段こんなことを大っぴらに話せる相手もいないことから、まぁまぁ得意になっていた。同世代でこの話が理解できる上、重要性を十分に認識して、ちゃんと秘匿(ひとく)してくれるであろう人間は少ない。というより、アドリアンくらいしか思い当たらなかったから、ここぞとばかりに口が止まらなかった。

 

「でもそのせいで、現皇帝(ちちうえ)から、グレヴィリウスは目をつけられちゃったんだよなぁ。何と言っても、自分の父親を殺されたわけだから。お陰で現皇帝(ちちうえ)の立場も一時は危うかったしね。今じゃすっかり政治中枢(キエルバウザ)から遠のいちゃって。君の高祖父のベルンハルド公は『影の皇帝』とも呼ばれる大宰相だったのにねー。まぁ、またベルンハルド公みたいに、権力を持たれたら面倒っていうのもあるんだろうけど。そういえば皇宮では豺狼(さいろう)を冠して呼ばれる人間が二人いたな。一人はベルンハルド豺相(サイショウ)公。もう一人は豺狼の子……」

 

 舟はようやく桟橋(さんばし)についた。おそらく水夫はアレクサンテリの合図でつけるように指示されていたのだろう。

 舟から降りたアレクサンテリが、最後にとどめとばかりに刺してくる。

 

「だから、そういうことだよ。ランヴァルト大公が皇宮において、『貴畜(キチク)』って呼ばれる理由(ワケ)は」

 

 アドリアンはようやくそこで、アレクサンテリがこんな話をしてきた理由がわかった。先程、アドリアンが大公のことを尊敬するような素振(そぶ)りを見せたから、彼は早々にアドリアンから大公に対する尊崇(そんすう)を取り払いたかったのだ。

 

『貴畜』。『豺狼の子』。

 そんなふうに陰口を叩かれて、この皇宮の中で生きていたのだろうか、あの大公殿下は。自分にはどうしようもない、父母の無責任の罪咎(つみとが)を一身に受けて……。

 

 ギュッと拳を固く握りしめて、アドリアンは湖の方を見つめた。水面に浮かぶ睡蓮の花を見ながら、静かに告げる。

 

「……長く話しすぎましたね、殿下。いくら夏とはいえ、水の中にずっといては体も冷えます。()()のためにも、今後は舟でのお話は控えられたほうがよろしいでしょう」

 

 言うだけ言って(きびす)を返すと、アドリアンはその場を去った。アレクサンテリが目配せすると、一人の従僕がアドリアンを促して園遊会の場へと案内する。

 

 アレクサンテリはフゥ、と息をついてから、クシャクシャと両手で頭を掻いた。

 水辺にしゃがみこむと、スーッと睡蓮の花が三つ寄ってくる。アレクサンテリは小石をつまむと、ポイと、それぞれの睡蓮の花の真ん中に投げ込んだ。花弁に隠されて見えないが、その睡蓮の真ん中には、なぜか穴が空いていた。

 

「もう、情けないったらないよ。こういうのって、隠密にやってこそじゃん? なにバレちゃってんの? 貴族の坊や相手にさぁ」

 

 言いながら、ポイポイとアレクサンテリは花の中に小石を放り込む。ゴボゴボと花の周囲に泡がいくつも浮かんだ。

 

「でも嬉しいことだよねー。あのグレヴィリウスの小公爵様に心配してもらえてさ。いいね。僕なんて、あんなに教えてあげたのに、まったく有難がってる節もないし。あーあ、これが兄上との人徳の差ってやつー?」

 

 ゴボボッ、と大量の泡とともに、ぷっかりと浮かんでくるのを待つこともなく、アレクサンテリは立ち上がって背を向けた。

 

「アレ、役に立ちそうもないよー」

 

 早足に歩きながら、誰にともなく言う。すぐに「御意」と静かな声が返ってきた。

 そのままアレクサンテリは少し口をとがらせ、ひどくつまらなそうな顔で去っていった。

 




引き続き更新します。


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第百七十話 不遇の姫君

 アドリアンはようやくアレクサンテリから解放されると、キャレが応急処置を受けているという医務所に向かったが、その途中で思わぬ人に呼び止められた。

 

 

「小公爵様。アドリアン小公爵様……」

 

 か細い、心もとなげな声で呼びかけられて、アドリアンは足を止めた。声のした方を見ると、一人の令嬢がヒョコ、ヒョコと、片足をひきずるようにして、懸命にこちらに向かって歩いてくる。

 灰色の髪を三つ編みにして上で纏め、銀の山茶花(サザンカ)の花飾りをピンで留めただけの、簡素な結髪(ゆいがみ)。骨ばった細面の顔に、憂鬱そうな青鈍色(あおにびいろ)の瞳。くすんだピンクの質素なドレスは、痩せぎすな体に合っておらず、なんだか顔色までも悪く見える。

 本当はアドリアンよりも多少年嵩(としかさ)なだけのはずだが、いろいろとちぐはぐで、実際の年齢よりも十歳は老けて見えた。

 だが一般的にはただ歩いているだけのその動作は、彼女にとっては健常な人間が走っているのと同様であったのだろう。額に汗が浮かんでいるのに気付くと、アドリアンはやや足早に、その令嬢の方へと歩み寄った。

 

「お久しぶりにございます。イェドヴェリシア公女」

 

 頭を下げると、令嬢はハァハァと荒い息を整えながら、ぎこちなく笑った。

 

 大公家の公女、イェドヴェリシア・パウラ・シェルバリ・モンテルソン。

 大公家公女と言っても、ランヴァルトと親子としての血の繋がりはない。名前にも示すように、本当は先程会ったばかりの次代神女姫(みこひめ)である、イェドチェリカの双子の妹である。

 本来であれば、第六皇女として皇宮(こうぐう)で暮らすはずであったが、彼女自身の左足が生来から畸形(きけい)であったこと、皇家(こうけ)において双子を不吉とする因習、その他にも誕生時に彼女を抱いた侍女が、その数日後に事故で亡くなったことまでも理由にされて、彼女は不吉な皇女(おひめさま)とされた。

 その後、そうした不吉な忌み子が双子の妹であっては、神女姫(みこひめ)となるイェドチェリカの神聖なる品格に(きず)がつくという理由で、二歳のときに大公家に養女として出されることになった。

 このときまで彼女は皇宮(こうぐう)内において、()()()()()として扱われていた。しかし大公家(ランヴァルト)は引き取るにあたっての条件として、イェドヴェリシアを『皇女(こうじょ)』として認知することと、結婚までの生活保障費用を要求した。

 皮肉なことに、彼女はそこでようやく『第六皇女』となった。と同時に、皇籍を離脱した。

 これがもし、彼女を産んだ母であるシュディファリア妃が健在であるか、あるいは(きさき)の母国が、帝国に対して強い交渉力を持っていれば、イェドヴェリシアもまた皇女として育てられたであろう。だが、シュディファリア妃は出産後に死亡し、妃の母国もまた山間の小国に過ぎず、皇宮における彼女の後ろ盾はなかった。

 皇帝の親としての愛情は、当時皇太子であったシェルヴェステルにのみ注がれており、他の子供は、皇帝にとっては生きていれば利用する程度の駒に過ぎなかったのだ。

 

 ちなみに、皇帝はこれまでに十人の子供をなしたが、四人は幼くして夭折(ようせつ)。二人の皇女については、成人を待たずして他国の王族に嫁がせている。

 現在の皇太子であるアレクサンテリなどは、現皇后であるターニャ=エレストが産んだが、この皇后が息子を皇太子位につけるために、存命中のシェルヴェステル皇太子に対して様々な嫌がらせを行い、暗殺を画策したであろうことは、もはや帝都に住む平民までが知っていることだ。そのためか、現在に至るも皇帝と皇后の仲は険悪で、皇太子となったアレクサンテリに対しても、皇帝は未だに皇太子が拝受(はいじゅ)するはずの皇太子宮に移ることを許していない。

 

 イェドヴェリシアはこうした皇宮における、水面下の政争(せいそう)とは無縁に育てられただけ、ある意味、幸せといえるのかもしれない。ただ大公家において、彼女が幸せに暮らしているのか……というと、そうでもないようだ。

 大公家からすれば、いきなり皇女の一人を下げ渡されて面倒を見ねばならず、しかも捨てられたも同然とはいえ、皇帝陛下の息女。適当に扱うわけにもいかない。

 こうして皇家からは追い出され、大公家からは厄介者扱いされるなかで、本来であれば、今この国で皇后の次に尊崇(そんすう)を集めるべき女性であるのに、彼女はいつも所在なげで、人目につかぬよう、地味に、静かに、卑屈に、縮こまっていた。

 

 彼女は長年、左足の不自由を理由にして、こうした皇家の行事に参加することも(まれ)であったが、去年、シモンが疱瘡(ほうそう)の病で出られなかったために、仕方なく引っ張り出されたらしい。不自由な左足を引きずって、慣れない挨拶を交わし、口さがない令嬢たちからコソコソと陰口を叩かれていた。

 皇帝のお気に入りで、先般(せんぱん)とうとう侍従長となって、伯爵位まで得たソフォル伯爵の孫令嬢などは、彼女をあからさまに侮蔑(ぶべつ)し、取り巻きを使って彼女をつまづかせたりした。

 もとより貴族令嬢・夫人の類が、綺麗に着飾った裏で、陰湿な行為を行うような人々であることは、アドリアンも叔母とその取り巻きたちから学んでいたので、驚きはしない。だが公女があまりに惨めったらしく打ち沈んでいる様子に、少しばかり苛立った。もしこれが、双子の姉であるイェドチェリカであれば、このようなことは許さないし、されたとしても堂々と抗議できるはずだ。双子であるというのに、イェドヴェリシアは姿形も含めて、イェドチェリカとはまるで似ていなかった。

 アドリアンは正義感というよりも、この少々愚鈍な公女のせいで、双子の姉であるイェドチェリカまでもが()(ざま)に言われるかもしれない、という危惧から彼女を助けた。知己(ちき)となったのは、その時である。

 

「おいでになるとは存じませんでした。ご挨拶が遅れて、申し訳ございません」

 

 イェドヴェリシアの差し出してきた手をとり、貴婦人への挨拶をしながらアドリアンは意外に思っていた。

 去年はシモンの欠席で仕方なく出てきたようだが、今年はシモンが来ているのだから、彼女がわざわざ出てくる必要もなさそうなものなのに。

 イェドヴェリシアは相変わらず、どこか気弱な笑みを浮かべた。

 

「いえ。ずっと……別室におりましたので。お気になさらず」

「何か御用でしたでしょうか?」

「あ……いえ、あの……シモン公子様が、あなたに失礼なことをしたと聞いて……申し訳ございません」

 

 アドリアンはかすかに眉を寄せた。

 

「シモン公子の非礼を詫びに、わざわざ……?」

「あ、はい。本当に失礼をいたしました。大公殿下も十分に叱っておられましたが、(わたくし)からも小公爵様に一言、お詫び申し上げたくて」

 

 アドリアンは以前にも感じた苛立ちを、また再燃させた。いや、今回はさっきアレクサンテリから聞いた、極めて不愉快な風聞もあってか、尚の事、腹が立った。

 

「どうして公女様が、シモン公子の非礼を詫びねばならないのですか? それに公子はあなたよりも年下で、本来のあなたのご身分を考えれば、比べ物にすらなりません。公子()などと、自分の弟に向かって敬称で呼ぶ必要なんて、ないと思います」

 

 イェドヴェリシアはいつになく強い口調で言うアドリアンに、少々戸惑ったようだった。落ち着きなく目線を泳がしてから、またいつものように、悲しげにうつむく。

 

(わたくし)など……皇宮(ここ)でも、ガルデンティア(*大公家居城)でも、あってなきが如き存在です……」

「あなたが、そうお思いになるのはご自由ですが、皇宮(ここ)に来られるのであれば、せめて虚勢でも胸を張って振る舞うべきです。皇宮(ここ)には、あなたの姉であるイェドチェリカ皇女殿下もいらっしゃるのですから」

 

 イェドチェリカの名前が出た途端に、イェドヴェリシアは(はじ)かれたように頭を上げた。

 青鈍色の瞳が、穴があきそうな程に強くアドリアンを見つめる。先程までの気弱そうな表情が一変して、青ざめた顔には驚愕と困惑と、今しも噴きこぼれそうな怒りが集積していた。

 ギュッと、それだけが頼りであるかのように握りしめた扇子(せんす)が、ミシミシと音をたてる。

 

「姉は……皇女殿下のことは……関係ないでしょう」

 

 様々な感情を押しこめた声は低く、まるで瞬時に悪霊が乗り移ったかのように、ドス黒く響いた。

 アドリアンはイェドヴェリシアの急変に驚きながらも、我に返って気付いた。自分がイェドヴェリシアに八つ当たりしていることに。アレクサンテリの話はやはり衝撃が強すぎて、知らず知らず引きずっていたようだ。

 

「……申し訳ございません。少し、言い過ぎました」

 

 慌てて頭を下げたが、イェドヴェリシアは暗澹(あんたん)とした表情で、アドリアンを見つめたあとに、黙したままその場を立ち去った。

 




次回は2023.12.24.更新予定です。


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第百七十一話 ガルデンティアの主

 大公城ガルデンティア ――― 帝都近郊のガルデンティアの丘の上に建てられたその壮麗な屋敷を、帝都の人々は『城』と呼んだ。

 それは実際に帝都防衛のため、皇宮(こうぐう)を中心に周囲八箇所に作られた、城塞の一角でもあった。

 だが、ただの城塞ではなく同時に大公の居所(きょしょ)でもあることから、(あるじ)の品格に見合うだけの体裁は求められたのだろう。

 

 皇帝から、先の皇嗣(こうし)争いにおけるランヴァルトの活躍の褒賞として与えられたとき、この城塞は他の七つの城塞と同じように、実戦を想定しただけの外郭の一防衛拠点に過ぎなかった。それを『大公としての威容を損じることのないように』という皇府(こうふ)からの条件付きで貰い受けたランヴァルトは、半年で見事に壮麗なる城へと変貌させた。

 城の外壁を藍黒石(らんこくせき)という、南方でしか採掘できない希少な石で覆ったのだ。

 そのほかにもいくつかの館を新築したり、内装や園庭も、大公家としての面目に恥じないものに整えられたが、これらはすべてランヴァルト個人の私費によって行われた。つまり皇府はランヴァルトという稀代の英雄を使役しつつ、彼が必要以上に力をつけぬようにと、細心の注意をもって彼を牽制(けんせい)していたのだ。

 

 ランヴァルトの方もこの程度のことは想定していた。

 表面上、平和で穏健な治世の裏で、ありとあらゆる不穏の目を摘むことは、皇府における常套手段であったから。それが皇帝主導であれ、その従順なる配下の者によってであれ、目をつけられぬよう彼らの意図をいち早く汲み取って行動することこそ、皇家(こうけ)に生を()けた者の処世術であった。

 

 彼は皇府からの疑念を解消するために、この大公城改築において、皇帝個人から借金までした。そのことは大っぴらにはされないまでも、皇帝当人と宮廷内においては、冷やかしの対象ともなった。

 借金そのものは三年で返済したものの、この事実はいつまでも宮廷内において大公を馬鹿にする恰好のネタにされた。もちろん、ランヴァルトはあえて許容した。それが彼の狙いであったからだ。

 

 いずれにしろ、大公城はその異様なる外観ゆえに『黒城(こくじょう)』『夜城(やじょう)』(中にはいささかの冷笑を込めて『蝙蝠の巣窟』と呼ぶ者もいたが)などと呼ばれ、勇壮でありながら、気品高く、典雅(てんが)(おもむき)(たた)える歌が、数多(あまた)の吟遊詩人たちによって作られた。

『夜空を(まと)った』と歌の文句になるほどに、藍黒石(らんこくせき)(つや)やかな美しさで固められた城を、ガルデンティアの麓に住む人々は称賛し、自慢しあった。

 

 

***

 

 

 その夜城において、皇宮(こうぐう)から戻ったランヴァルトを待っていたのは、息子とその母だった。自らの居室にて待ち構えていた二人を、ランヴァルトは冷ややかに一瞥した。

 

「誰がここに入る許可を与えた?」

 

 静かな声であったが、それだけでも彼らは威圧されて言葉が出なかった。

 実のところ、この居室に入るにあたって、親子は大公の従僕から止められた。だが、現在大公の唯一の妻であるシモン公子の母、ビルギット・アクセリナ・モンテルソンは横柄に申し立てた。

 

(わらわ)はこの大公家における女主人ですよ。()(ほう)らごときに制止される身分ではありません。控えなさい!」

 

 母親の姿に追従するように、シモン公子も従僕らを責め立てた。

 

「お前たちに母上を止める理由などない。控えろ!」

 

 従僕たちは早々に説得をあきらめた。大公が戻れば、彼らが顔色を失くし、震えながら(ひざまず)くであろうことを予想していたからだ。実際に目の前でその通りの状況となった彼らを見て、従僕らは内心ほくそ笑んでいた。

 

「お、お…お許し下さいまし。我が子のことで、重大な決定がなされたと聞きまして、寛恕(かんじょ)を願いたく(まか)り越しました」

 

 震えながらも、なんとかビルギットは夫に申し立てた。いかにも(しお)らしく、なよやかに姿(しな)をつくって。

 ランヴァルトはビルギットの媚態(びたい)を無視し、軽く首をかしげた。側にいたヴィンツェンツェ老人がボソボソと告げた。

 

「先程の、グレヴィリウス小公爵との件につきまして、シモン公子様にリヴァ=デルゼの下で、修行をなさるよう決められたことにございます」

 

 ランヴァルトはフ…と笑い、マントの留具(クラスプ)を外した。すかさず従僕たちが取り囲んで、(あるじ)の装飾品を手際よく取ってゆく。最後に頭巾をとると、赤黒く変色した切創(せっそう)が露わとなった。

 頭頂部から眉間近くにかけて、醜く這う蚯蚓(みみず)のようなその(あと)は、本来であれば美麗なるランヴァルトの顔に(キズ)なすものであったが、不思議と年経るに従い、年長者らしき風格とともに、魁偉(かいい)なる威容を持たせた。

 シャツとズボンに、従僕からかけられたガウンを羽織っただけの軽装となった彼は、椅子に腰掛けると、肘掛けに肘をついて、愚鈍そうな顔をした母子を見つめた。

 

「なにが重大なのだ? その程度のことで」

「その程度ではございません! あの女戦士は、狂っております。この前にも修行と称して、騎士相手に半死半生のむごき行いをして、その騎士は立つこともできず、盲目になったというではありませぬか! もし、シモンも同じような目に遭って、もし、殺されでもしたら……!」

 

 ビルギットは声高に、涙声で訴えた。実際に目に涙も浮かべた。しかしランヴァルトの返答は冷たかった。

 

「あの程度で死ぬのであれば、それまでだ」

 

 ビルギットはヒクッと喉を詰まらせ、ハンカチで目元を拭いながら、大袈裟に愁嘆(しゅうたん)した。

 

「そのような……シモンは大公殿下の、ただ一人の子でございますのに……」

 

 しかしその言葉にランヴァルトの表情は一気に消えた。一切の感情のない虚ろな紫紺の瞳。酷薄な視線に、ビルギットの涙は引っ込んだ。気まずそうに目線を泳がせてから、あわてて話題を変える。

 

「そ……それに、今、シモンはアカデミーにて勉学に励んでおります。修行などで体を痛めて、授業に欠席するようなことになれば、他の公子方々との交流も途絶え、大公家嫡嗣(ちゃくし)としての面目も……」

「嫡嗣と決めた覚えはない」

 

 鋭くランヴァルトが言うと、またビルギットはうっと詰まって、唇を噛み締めた。

 世間では大公の継嗣となる男子がシモン一人であるため、シモンが大公家嫡嗣と見られていたが、ランヴァルトはその点について明言したことはなかった。それどころか、今や明確に否定した。

 ビルギットは曖昧なうちに我が子の世襲を固めようとしていたのだが、今この場において、それははっきりと打ち砕かれた。

 

 悔しげにうつむく母親と、冷たく自分を見る父親の間で、うろたえたのはシモンだった。彼は大公家の嫡嗣であると幼い頃から母親に言われ、周囲からもそのように扱われていたので、すっかりそのつもりであった。

 

「そ、そんな……だって、僕は…僕は、父上の子ではありませんか……」

 

 弱々しい息子からの問いかけに、ランヴァルトは鬱陶しげにため息をついた。

 

「お前が乃公(だいこう)の息子というのならば、リヴァ=デルゼの修行ごときに恐れをなして、それを母親に直訴した挙句、母子二人して嘆願に来るなどという醜態は見せぬものだ。それに……勉学?」

 

 ランヴァルトはコツコツと肘掛けを中指で打ちながら、皮肉げに口もとを歪めた。

 

「その年になってもまだ二葉(によう)(*アカデミーにおける学習進度の指標。最大九葉(くよう))しか取れぬ者が言うことか? 来年には成人(*十七歳)を迎えるというのに……いったい、三年の間に何を勉強していたのだ?」

「そ、そ……それは……去年は病気で休むこともあって……」

小賢(こざか)しい。言い訳ばかり達者だな」

 

 吐き捨てるようにランヴァルトが言うと、壁際に並んでいた従僕らが静かに嘲笑する。シモンは真っ赤になって、母親同様に俯いた。

 

 ランヴァルトはしばらくの間、無表情に、この情けない母子を見つめていた。

 コツコツコツと肘掛けを叩いていた中指が止まると、うっすらと口の()に笑みを浮かべて言った。

 

「リヴァ=デルゼの修行を受けることを免除してやってもよい」

 

 パッと親子が同時に間抜けな顔を上げる。自分たちの意見が通ったことで、喜びの笑みが浮かんでいたが、ランヴァルトのつけた条件にすぐ顔を曇らせた。

 

「但し、シモン。貴様の代わりに、近侍から誰か一人、リヴァ=デルゼの修行を受けるという者がおれば……だ」

 

 シモンは背後に並んでいた近侍たちを振り返った。目のあった一人はすぐに目をそらし、次の者はあわてて俯いて目を合わさないようにした。

 唯一、シモンの目線をそらさず受け止めたのは、シューホーヤの混血児、ファル=ヴァ=ルフだけだった。目が合うと、彼は(だいだい)色の瞳を細めて、ゆっくりと前に進み出た。シモンの斜め後ろに(ひざまず)き、恭しくランヴァルトに申し述べた。

 

「大公閣下の(おぼ)()しとあらば、(わたくし)めが喜んでシモン公子様に成り代わり、リヴァ=デルゼ様より指導を賜りたく存じます」

 

 ランヴァルトはまさか近侍から出てくると思っていなかったので、多少驚いたが、目の前に進み出たファルを見ると、ニヤリと笑った。

 

「お前……そうか。また身代わりになるというわけか」

 

 ファルは、一昨年前のアドリアンとの喧嘩で、シモンがガルデンティアの北塔に閉じこめられたときに、その替え玉として連れてこられた乞食の少年だった。本来であれば、用済みになったと同時に殺されてもおかしくなかったのだが、大公の気まぐれで救われた後に、シューホーヤの血を引くことがわかり、騎士見習いとなった。

 そうして今、ファルは驚きのあまり口を開いたまま固まっていた。まさか自分のような者のことを、この城の(あるじ)たる大公が知っているとは思っていなかったのだ。ハッとして我に返ると、その場に額を打ちつける勢いで平伏した。

 

「こ、この帝国の、しゅ、守護者たる大公閣下に、この…私などを……覚えていただけて、大変……大変、うれしく思います!」

 

 ファルはしどろもどろになりながらも、ともかく大公への尊崇を懸命に示した。

 その様子を直接の(あるじ)であるシモンは白けた様子で見ていたが、ランヴァルトは笑みを浮かべたまま立ち上がって、ファルの前まで来ると、愉しげに見下ろしながら尋ねた。

 

「お前の名前は?」

「ファル=ヴァ=ルフ・アンブロシュと申します」

「あぁ…アンブロシュ卿の息子となったのだったな。よかろう。では、せいぜい励め」

「はっ!」

 

 ランヴァルトは軽くファルの頭を撫でてやると、くるりと(きびす)を返した。先程までのファルへの態度とは打って変わって、冷然と妻と息子の二人を見やる。

 

「いつまでその間抜け面を、乃公(だいこう)の前に並べておく気だ? 用向きは済んだであろう。とっとと失せろ」

 

 シモンはあわてて頭を下げると、逃げるように足早に去っていった。

 一方、母であるビルギットはまだ名残惜しそうにして、何度も振り返っては秋波(しゅうは)を送っていたが、ランヴァルトは彼女に一瞥もくれなかった。

 実のところ、ビルギットは夫の怒りを買うことはわかっていた。たとえ夫婦であっても、この城の主であるランヴァルトの自室に勝手に立ち入るなど、無作法であり、許されることではない。それでもこの数ヶ月の間、口きくことのない夫に声をかけてもらいたいばかりに、少々無理を言って、押し入ったのだ。

 彼女からすると、息子のことは(てい)のいい口実で、本心ではただひたすらにランヴァルトに会いたかったというだけだった。娘時代から変わらず、たとえ夫の容姿が若い頃から変貌したとしても、彼女の心は一途にランヴァルトを想っていた。だが、夫は彼女の恋情を徹底的に拒否した。

 

「失礼致します……」

 

 彼女が小さな声で辞去を告げたときも、まるで耳に入っていないかのように、ランヴァルトは無視した。ビルギットはその冷淡な横顔を、それでも目に焼き付けるように閉じる扉の隙間から必死に見つめていた。

 

 

 ようやく己の部屋から()()がいなくなると、ランヴァルトはベッドに腰掛けた。すぐにヴィンツェンツェが用意しておいた煙管(キセル)を渡す。受け取りながら、壁際に居並ぶ三人の従僕に言った。

 

「下男としてやり直すか、出て行くか……どちらだ?」

 

 従僕たちは最初、自分たちに言われたのかどうかがわからず、澄ました顔で立ったままであったが、その後に誰も返事する者がないので、互いに不安げに目を見合わせた。

 

「大公閣下のお言葉を聞き逃すとは、一介の召使いにあるまじき態度……」

 

 ヴィンツェンツェがボソボソとした声ながら、下からジロリと睨めつけるように彼らを見ると、従僕らは途端にあわてて跪いた。

 

「も、申し訳ございません! (わたくし)共に言われたと、気付きませんでした」

「お許し下さい!」

「申し訳ございません!」

 

 従僕らは口々に謝ったが、ランヴァルトは彼らを見ようともしない。ベッドに上がると、頭側の飾り棚に立て掛けてあるクッションに(もた)れ、長い脚を投げ出すように座った。

 ベッドの下の隅でとぐろを巻いて寝ていた白蛇が、スルスルとランヴァルトの足を伝い這ってくる。太腿のあたりで鎌首をもたげ、チロチロと赤く割れた舌を踊らせた。ランヴァルトはその小さな頭を、指先で撫でてやりながら、ゆっくりと煙管を吸った。

 

「揃いも揃って、のうのうと……よくも乃公(だいこう)の部屋に、あのような愚物どもの侵入を許したな。貴様らは騎士がおらねば、(あるじ)の部屋を守ることすらできぬのか……」

 

 独り言のようにつぶやきながらも、ランヴァルトの口調にはありありとした嫌悪があった。

 従僕らはひれ伏しながら、震える声で訴えた。

 

「わ、わ、(わたくし)どもも御方様(おかたさま)をお止めしました! どうか謁見室にてお待ちあるようにと。しかし、この大公家の女主人たる者に逆らうのかと……公子様もご一緒になって責められたので、仕方なく……」

 

 言いながら、その従僕はだんだんと、それが自分たちの言い訳でしかないことに気付いたのだろう。声が小さくなっていった。

 ランヴァルトはふぅーっと長く煙を吐いてから、ひどく気怠げに言った。

 

「それで乃公(だいこう)に、あの鈍物(どんぶつ)どもの処理を押し付けたわけか。フ……従僕ごときに使役されるとは、馬鹿にされたものよ」

 

 従僕たちは、自分たちの行動が浅はかであったことを、今更ながらに思い知った。この明敏にして苛烈な主人の前では、虎の威を借る狐もまた、その爪牙(そうが)によって処されるのだ。

 ブルブルと震えて押し黙る従僕らの前に、ヴィンツェンツェがスススと音もなく近寄って声をかけた。

 

「返答せよ。下男となってやり直すのか、それともガルデンティアを去るか。去るのであれば当然、推薦状はない」

 

 それは選択肢がないも同然であった。元は大公城の使用人であった者が、推薦状もなく放り出されたとなれば、当然問題があったと見られる。就職できる場所が今以下の環境になることは必至であった。当然給金も。

 

「下男として……再び誠心誠意お(つか)えしたく……」

 

 一人の従僕が涙ながらに頭を下げると、他の二人も追従した。ヴィンツェンツェは「下がれ」としわがれ声で彼らを部屋から出した。

 

「やれ……どうにも昨今(さっこん)下僕(げぼく)は、(あるじ)が誰かを見誤るようにございますな」

 

 ヴィンツェンツェの言葉に、ランヴァルトはフッと笑った。腕を這う白蛇の冷たい肌が心地よい。目を(つむ)ったまま、皮肉げに言った。

 

「老人が近頃の若造に文句をつけるのは、百年前から変わらぬようだぞ」

「おや、そのような意地悪を申されますかな」

 

 とぼけたように言ってから、ヴィンツェンツェはまたスススと大公の寝そべるベッドの脇まで足音なく歩く。ランヴァルトから煙管(キセル)を恭しく受け取ると、隣に置かれた長細い机にある灰落(はいおと)しに灰を捨て、煙管をそっと専用の木の皿の上に乗せた。

 机の上には他に、帝国ではあまり見かけることのない白い磁器の香炉(こうろ)と、巻かれた布が置いてあった。

 ヴィンツェンツェは慣れた所作で香炉の蓋を取ると、すでに温まった灰の中に黒い丸薬のようなものを(うず)めた。ゆっくりと匂いが立ち昇ってくるのを確認して蓋をする。それからおもむろに巻かれた布を机に広げた。ズラリと百本近い(はり)が、長さもまちまちに並んでいた。それらは一見デタラメに布に留められているように見えて、実は使い勝手のいいように整然と並べられたものだった。

 

「シモン公子を嫡嗣(ちゃくし)とせぬのであれば、どこぞに代わりとなる御子(おこ)でもおられますのか?」

 

 ランヴァルトはその質問には答えず、ゆっくりと目を開くと、暗い天蓋(てんがい)を見上げた。ビルギットに言われたときと同じように、また無表情になる。だが明らかに変わった空気にも、ヴィンツェンツェは動じなかった。鍼を一本、一本取り上げては(すが)めて見ながら、愉しげに話す。

 

「ひとまずシモン公子は()()()()()()き、もし大公閣下の()()()を受け継ぎし御子(おこ)がいらっしゃるのであれば、お会いしたいものにございますな」

「………乃公(だいこう)が外に女でも作って、子を()しているとでも?」

 

 暗く苛立たしげな声に、ヴィンツェンツェはニタリと口の端を上げた。

 

「さすれば()()()が増えますゆえ。しかし、そのご様子では期待できませぬな」

「…………」

「大公閣下も、あのように未だに乳離れもしておらぬような、魯鈍頓馬(ろどんとんま)な息子では、頼りなくお思いでありましょう。他に大公閣下の()()()()()を受け継ぎし御子(おこ)あらば、()()も多少は己の立場の危うさに気付いて、刻苦勉励(こっくべんれい)するのではありませぬかな?」

「……()りもせぬ子を仮定したところで、今更であろう……」

 

 投げやりに言うランヴァルトに、ヴィンツェンツェはヒッヒッヒッと肩を揺らし、いやらしい笑い声を響かせた。

 

「閣下とてまだ、精が尽きたわけでもありませぬでしょう……今からでも」

 

 鍼を持って振り返ったヴィンツェンツェの顔は、卑猥(ひわい)な皺で歪んでいた。

 ランヴァルトの眉間の皺が深くなり、嫌悪も露わにヴィンツェンツェを睨みつける。濁った青の瞳と目が合うと、寝台に仕込まれた剣を手に取った。目にも止まらぬ速さで抜かれた剣の切先が、ヴィンツェンツェの鼻先に突きつけられる。

 

(わずら)わしい口だな。その首ごと、()()斬り捨ててやろうか」

「おォ~ゥ、怖や~怖や~」

 

 ヴィンツェンツェは怖がって震えてみせると、ポトリと鍼を落として首をすぼめた。そのまましゃがみこんで、すっぽりと自分を包むマントの中に入り込む。頭を覆っていたフードがダラリと後ろに垂れた。 

 ランヴァルトは灰色の布の中でゴニョゴニョと動く物体を、忌々しげに見つめた。切先を向けたまま、低く恫喝(どうかつ)する。

 

「勘違いするなよ、化け物。乃公(だいこう)がお前を必要としているのではない。お前が乃公(だいこう)を必要としているのだ。そうであろう?」

「左様」

 

 ヴィンツェンツェはニョイと布越しに顔を示した。布を一枚隔てたそれですら、またニタリと笑っているのがわかる。ランヴァルトは苛立たしげに、剣を振るってその布を斬り裂いた。

 

「ヒャアァッ!」

 

 老人のかさついた、素っ頓狂な高い声が響いた。

 両目を斬られたヴィンツェンツェは「やれ、痛や~、痛や~」と、フザケた様子でつぶやきながら、絨毯の上に落ちた鍼に手を伸ばす。しかし、すんででランヴァルトがその鍼を取り上げると、そのままブスリとヴィンツェンツェの右手の甲に突き刺した。

 

「おぉ、これはこれは……拾っていただけるとは、祝着(しゅうちゃく)の極み」

 

 ヴィンツェンツェは大して痛がる様子も見せず、手の甲から(てのひら)まで貫かれたその鍼を、血に濡れた左手で、グネグネと動かしながら抜いていく。

 ランヴァルトはもちろん、何ら悪びれることもなく、冷たく吐き捨てた。

 

「どこまでも白々しい者よな、ヴィンツェ。道化(ヴァルガー)であった頃のほうが、まだ可愛げがあったぞ」

「ホッホホ! では、では、可愛い道化に戻りましょうかな?」

「黙れ。……今日はもうよい。下がれ」

 

 ヴィンツェンツェはボタボタと目から血を流しながら、鍼を机の上に置いた布の、元あった場所に丁寧に戻すと、深々とランヴァルトに辞儀した。

 

「では、今宵は香のみ焚いておきますゆえ。ごゆるりと……」

 

 そのまま扉へ向かって、スススと足音もなく進んでゆく。しかし把手(とって)に手をかけたところで「そういえば……」と、なにかを思い出したように振り返った。

 

「あの娘がおりましたな。ついぞ見つかりませなんだが、もし(はら)んだ子を無事に産めておれば、本日お会いになられたグレヴィリウス家の小僧や皇太子とも、そう変わらぬ年の頃でありましょう。生きておれば、閣下のよろしき()となりましたものを」

 

 ランヴァルトは無言で剣を投げた。

 ドスリ、とヴィンツェンツェの耳をかすめて、扉に刺さる。

 

「精気が有り余っておるのはそちであろう、ヴィンツェ。とっとと小屋に戻って、お前好みの(しかばね)でも抱いて寝ろ」

「ホッホホ! では、では、そう致しますかな……」

 

 ヴィンツェンツェは、また下卑(げび)た笑みを浮かべると、軽く辞儀をして、部屋から出て行った。

 パタリと扉が閉まる。

 どこまでも人を食った、自らを()じることのない老人に、ランヴァルトは苦く舌打ちした。

 

「……不死者(しにぞこない)め。いっそあの皺首、斬ってやればよかったか……」

 

 苛々しながら無意識に薬指の爪を(かじ)りかけて、不意に思い出の中の少女が止める。

 

 

 ―――― 駄目ですよ、ラン。この前だって、血が出ちゃったでしょう……

 

 

 ランヴァルトは苦々しく拳を握りしめてから、ゆっくりと息を吐き、軽く頭を振った。ベッド脇の丸テーブルに置かれたデキャンタを手に取ると、そのまま赤い液体をあおって、ゴホゴホと()せる。

 よろめくようにベッドに腰を降ろすと、枕の上でとぐろを巻いていた蛇が、するすると寄ってきた。チロリと気遣わしげにランヴァルトの指先を舐める。

 何度も咳して息を整えると、ランヴァルトはまた白蛇の頭を軽く撫でた。一瞬だけ緩んだ顔も、バタリと倒れて暗い天蓋を見つめているうちに、また苦いものに変わっていく。

 

 

 ―――― ()()()を受け継ぎし御子……

 ―――― ()()()()()を受け継ぎし御子……

 

 

 老人の低いかすれた声が、嫌味に反芻する。

 何度も言われてきたその言葉は、もはやランヴァルトに何らの感慨も与えなかった。

 ただ、感情が冷え、凝り固まっていくだけだ。

 

 

 ―――― シモンは大公殿下のただ一人の子でございますよ……

 ―――― もし孕んだ子を無事に産めておれば……

 

 

「……うるさい」

 

 力なくつぶやく。

 何もかもが鬱陶しく、重かった。

 

「子など……()らぬ……」

 

 言ったのかどうかわからぬほどに、小さく囁く。

 やがて甘い匂いが強く感じられるようになっていくと、体がフワリと浮かんだかのような感覚になり、とろとろとした眠気が訪れた。耳元を蛇が這っていく(かす)かな音が聞こえる。

 

「レーナ……」

 

 腕に沿って移動していく蛇の、ヒンヤリとした体をそっと撫でて、ランヴァルトは目を瞑った。

 忌々しい老人の言葉に反応して、懐かしい思い出が去来する。

 そんな自らの惰弱(だじゃく)が、ランヴァルトには(うと)ましかった。

 夢寐(むび)にも忘れぬその面影の名を呼ぶことすら、(いと)わしかった。……

 



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第五章
第百七十二話 キャレの秘密


「なんで……」

 

 キャレはシーツについた赤黒い染みに震えた。

 いずれ早晩(そうばん)来るであろうことは予想していた。そうしたものが女にはあるのだと、母や女中たちを見て知っていたから。念のため、こちらに来てからは、専門の本なども読んだ。だが、実際にその女としての(シルシ)を目の前にすると、考えねばならないことが多すぎて、たちまち飽和し、呆然となってしまう。

 ぼんやりしている暇はない。さっさと誰にも見つからぬように洗い場に行き、汚れたシーツを洗わねばならないとわかっているのに、体が動かない。

 

 どうして、よりによって今日なんだろうか。

 皇宮(こうぐう)で騒ぎを起こしたその日に、どうしてまたこんな困難なことが起こるのか。

 

 あの後、エーリクに抱きかかえられて皇宮の医務所に着いたが、キャレはなんとか保った意識をふりしぼって、医者の診察は固辞した。普段から騎士の訓練などで、不器用な自分はいつも怪我をしているから……などと言い(つくろ)って、塗り薬だけもらって(のが)れた。

 下手にシャツを脱がされでもしたら、いくら胴に布をキツく巻いているとはいえ、その時点で不審に思われてしまうだろう。医者ならば、最近丸みを帯びてきたキャレの体つきを見て、勘付いてしまうかもしれない。

 

「大丈夫か?」

 

 アドリアンは皇太子殿下との極めて私的な謁見(えっけん)の後、戻ってくるなりキャレに尋ねてきた。キャレはただうつむいて「大丈夫です」と、小さな声で言うのが精一杯だった。

 本当は蹴られた脇腹も、踏まれた背中もジクジクと痛くてたまらなかったけれど、心配でもされて、公爵邸でも医者に診てもらうようなことになったら元も子もない。

 

 帰りの馬車で、ダーゼ公女がわざわざ礼を言ってくれた…と、話していたことだけが耳に残った。ズキリと胸が痛んだのは、やっぱりアドリアンもあんなに綺麗な少女であれば、()かれても仕方ないと思いつつ、自分の境遇に不憫(ふびん)さを感じたからだろうか。

 自分も髪を伸ばして結い整え、美しいドレスを着たら、アドリアンは振り向いてくれたんじゃないのか……。

 そんな淡い期待を抱いたのが、あるいはいけなかったのか。

 

 公爵邸に帰るなり、キャレは自室のベッドに引き籠もった。アドリアンから事情を聞いたサビエルが医者を手配しようとしたが、キャレは必死に固辞した。

「今はとにかく体を休めたいから、一人にさせて欲しい」と。

 珍しくキャレがきっぱり拒否するので、サビエルも諦めて引き下がってくれた。一応、顔などの汚れを拭くために、水の入った(たらい)と、手ぬぐいを置いていってくれたのは、心底有り難かった。

 

 廊下の足音にビクビクしながら、どうにか顔や蹴られたところを拭き終え、もらった塗り薬を塗った。髪の毛の飴も、(たらい)にその部分をつけて洗い落とした。

 ようやく寝間着に着替えたところで、どっと疲れが押し寄せた。

 サビエルに言ったことは、はからずも本当になってしまったようだ。ひどくだるくて、とにかく眠くてたまらない。

 そのまま言葉通りに、キャレは眠った。おそらくこの疲れは、今日あの乱暴な大公家の若君連中に、暴行を受けたせいだろう…一眠りすれば、このけだるさも解消するだろう……そう、思っていた。

 

 だが、今にして思えばあれは兆候だったのだ。

 本にも載っていた。

 ()()の前後には、ひどく眠くなったり、体が重くなったりするのだと。

 

「………洗わなくちゃ」

 

 つぶやいて再確認する。ともかくこの汚れたシーツを洗濯せねばならない。

 しかし普通は下女が洗ってくれるものを、近侍がえっちらおっちら運んで、水場で洗ってなどいたら、絶対に不審がられるだろう。

 このときばかりは、ここがファルミナの掘っ立て小屋でないことが恨めしかった。あそこであれば、キャレがシーツを運んでいようと、井戸端で洗濯していようと、誰も気に留めなかっただろうに。

 ギリ、と唇を噛みしめて、キャレは憂鬱にシーツの赤黒い染みをまた眺める。それから今は何時かと、部屋に一つある柱時計を見た。藍二ツ刻(らんのふたつどき)を少し過ぎた頃。既に夕食は終わって、明日の連絡が済んでからの自由な時間帯だ。

 この時間であれば、同部屋のエーリクは自主訓練か、イクセル(*エーリク所有の黒角馬)を走らせに出ていて、戻ってくるまでには半刻(約三十分)以上はあるだろう。使用人たちも遅い夕食をとり、夜中の施錠確認とランプの消灯までの間は、各自の部屋で思い思いに過ごすはずだ。

 

 ―――― 助かった……

 

 キャレは少しホッとしてベッドから降りると、シーツを取り外した。

 敷布団にも少しだけ染みがついている。だが、さすがに一人で、この分厚く重い布団を運んで、洗濯するのは無理だった。ぬるま湯を持ってきて、こっそり夜中にでも染みを抜いていくしかない。

 なるべく洗濯物に見えないように、シーツを折りたたみ(このときもなるべく染みが見えないように)、そっと把手(とって)に手を伸ばしかけたときに、いきなり扉が開いた。

 

「ひっ!」

 

 キャレは後ろへと尻もちをついて倒れた。

 

「あ、キャレ。起きたのか?」

 

 エーリクが扉を開けて、入ってくる。だがそれよりも、その後ろから入ってきたアドリアンに、キャレの顔は固まった。

 

「起きているのか? それならちょうど良かった。一応、簡単に食べられそうなものを……」

 

 言いかけてアドリアンはピタリと動きを止め、凝然(ぎょうぜん)としてキャレの落としたシーツを見ていた。エーリクの持ったランプの灯りに照らされて、ちょうど染みになった部分がめくれあがって見えている。

 

「血じゃないか! しかもこんな……やっぱりひどくやられたんだな? 一体、どこを怪我したんだ?」

 

 エーリクがあわててランプを床に置いて、キャレの体に触れる。思わずキャレは「キャッ!」と甲高い悲鳴を上げてしまった。すぐに口を両手で塞ぎ、自分を凝視するアドリアンとエーリクを見上げる。

 二人からの強い視線に、キャレはたまらず、フイと目をそらして背を向けた。どうにか言い訳をしないと……と、必死で考えを巡らせながら、落ちたシーツに手を伸ばす。

 すると背後からアドリアンが尋ねてきた。

 

「キャレ、それは?」

 

 キャレの背中に向けて指をさすアドリアンの顔は、ひどく困惑しているようだった。

 キャレは戸惑いつつ指をさされた背中の方に目を向ける。グイと寝間着の長いワンピースを引っ張って、青ざめた。

 お尻のあたりにホトリとついた真っ赤な血。

 今更ながらに思った。

 シーツについているんだから、寝間着についていて当たり前だ。どうしてこんな当然のことを見落としていたのだろう……。

 

「あ……あ……」

 

 キャレは許しを乞うように手を組み合わせ、ボロボロと涙をこぼした。

 キャレの食事を運んできていたサビエルは、主人と近侍らの奇妙な雰囲気に気付くと、アドリアンの背後から覗き込んだ。彼はすぐに事態を把握(はあく)した。素早く、キャレとアドリアンの間に割って入る。

 

「いけません、小公爵様。すぐにここから出て下さい」

「サビエル、どういうことだ?」

「とにかく出てください。エーリク公子も、とりあえずこの部屋から出てください」

 

 サビエルがここまで切羽詰まった顔で、断固として言うことなどない。

 アドリアンはチラとキャレに鋭い視線を向けたあと、部屋から出て行った。エーリクもひどく戸惑った顔のまま出て行く。

 

 残されたキャレは、しゃくり上げながら泣き崩れた。

 もう終わりだ。これでもう終わり。

 すべて終わりだ……。

 

 

***

 

 

 ひとまずサビエルの機転で、キャレの部屋には口の固い年増(としま)の女中が呼ばれた。彼女はサビエルの説明と状況で察し、キャレに手早く()()()()について教えると、汚れたシーツと寝間着を持って出て行った。

 キャレが着替え終えるのを待って、サビエルが暗い顔で告げる。

 

「ルンビック様がお待ちです」

 

 キャレは胸を押さえた。心臓がギュウゥと引き絞られたかのように痛む。

 頷くと、サビエルの後について歩き出した。

 

 公爵邸の暗く、広い廊下はシンとして人もおらず、まるで処刑場に連れて行かれるかのようだった。いや、実際そのようなものだ。今まで公爵邸の人間、全員を(だま)していたのだ。叱責(しっせき)程度で済むはずがない。

 倒れそうになりながら、それでも進む。

 ひどく長い時間に感じたその道程(どうてい)ですらも、できれば永遠に続いてほしかった。家令(かれい)の部屋へと着いたら、もうそこでキャレの人生は終わるのだから。

 しかし無情にサビエルはその扉をノックする。

 

「連れて参りました」

 

 すぐに扉が開く。中から開けたのは、エーリクだった。チラとキャレを見る目には、まだ困惑があった。

 (うなが)されて中に入ると、そこにはエーリクとアドリアン、それに家令のルンビック子爵が厳しい顔で座っていた。

 

「そこに……」

 

 家令が静かに、机を隔てた、自分の真向かいに置かれた椅子を示す。

 キャレは泣きそうになりながら、部屋の奥まった場所で顔をうつむけて座るアドリアンを見た。キャレを見ようともしない。暗くて表情はわかりにくかったが、その雰囲気からキャレに対していい感情を抱いていないのは明らかだった。

 

「……そこに座りなさい」

 

 再び家令に言われて、キャレはおずおずと浅く腰掛ける。

 家令は机の上の書類 ―― おそらくオルグレン家からの身上書(しんじょうしょ)などであろう ―― を読んでから、鼻の上に乗った小さな丸眼鏡を取り外した。

 

「さて、それでは聞こうか。君は誰かね?」

「ぼ…僕……」

「その一人称は女性には不適当と思われるがね」

 

 ルンビックに柔らかく言い(とが)められ、キャレはビクリと体を震わせた。

 

「も、も、申し訳……ございません。あ、あの、あの私は……カーリンと、申します」

「カーリンか……ふむ」

 

 ルンビックはもう一度眼鏡をつけて、机の上にある紺色の背表紙の本をペラペラとめくる。それは配下家門の一族について記載された名鑑(めいかん)だった。めくっては、また戻りを繰り返して、カーリンの名前を探しているようだ。

 だがカーリンは諦めていた。そんな立派な本に載るのは、嫡出子(ちゃくしゅつし)か、庶子(しょし)であっても男子だけだ。カーリンのことなど、あの父が、ご丁寧に名簿を提出しているはずがない。

 案の定、見つからなかったのか、ルンビックはため息をつくと名鑑を置いてまた眼鏡を外した。

 

「カーリン、君はオルグレン家とかかわりがあるとみて良いのだな。その髪はさすがに(あざむ)けるはずもない。父はセバスティアン・オルグレン男爵か?」  

 

 カーリンはコクリと頷いた。

 

「キャレというのは? 男爵は君を男子と偽って、身上書を出したのか?」

 

 もしそうならば、虚偽記載である。当然、セバスティアンには相応の罰が与えられる。

 だが、カーリンは力なく首を振った。

 

「いいえ、違います。キャレはいます。私の弟です」

「弟?」

「はい。私達は双子なんです……」

 

 それからキャレは自分の生い立ちについて語った。

 

***

 

 カーリンたち姉弟(きょうだい)が生まれたのは、寒い冬の日であったという。

 母親は産気づいても、当然ながら医者など呼んでもらえず、仲間の出産経験のある女中たちの手を借りて、カーリンたちを生んだ。

 

 当主のセバスティアンからは、ねぎらいの言葉一つ与えられることはなかった。

 当時の執事が見るに見かねてセバスティアンにかけあい、産湯代(うぶゆだい)としてわずかながらの金品が与えられたものの、父親は生まれた我が子を見に来ることさえなかった。

 それでもこの執事のお陰で、数年の間、カーリンたち親子は衣食住の満たされた生活を送ることができた。

 

 母は文盲(もんもう)であったが、男爵家の子供であるならば、最低限の教養は必要だろうと、五歳の頃から読み書きについても教えられた。

 執事は先代男爵からの古参であったため、幼い頃から世話になってきた現当主セバスティアンも、さすがにむげにできなかったのだろう。

 だが執事が老齢によって体調を崩し、退職した途端に、カーリンたちはそれまで住んでいた離れの家から追い出され、邸内の隅にある掘っ建て小屋へと強制的に移住させられた。

 

 前執事から頼まれていた数人の心ある使用人や騎士が、カーリンら親子の待遇について、新たな執事やセオドアに意見したりしたが、彼らは例外なく排除された。そうなると、もはや誰もカーリンら親子を守ろうとしなくなった。カーリンらに優しくして、それを領主ら一家 ―― 特に領主の子供たちと奥方 ―― に見咎(みとが)められでもすれば、彼らは領主館での仕事を失い、推薦状もなく追い出されるからだ。

 

 こうしてカーリンたち親子は、領主館内で孤立無援(こりつむえん)となった。

 それでも与えられた掘っ建て小屋で、親子三人細々(ほそぼそ)と暮らしていたのだが、三年前の九歳のとき、弟のキャレが風邪をひいて、こじらせてしまった。高熱が何日も続いて、カーリンは執事に医者を頼んだが、やはり無視された。

 母は飲食を()って、ひたすらに祈り続けた。

 奇跡的に弟は助かったが、痩せた体は弱々しく、しかも熱で頭が少しおかしくなってしまったのか、ひどく癇性(かんしょう)(たち)になっていた。

 

 弟のキャレはその頃、騎士団で下男として働かされていたが、母はか弱い弟を気遣って、カーリンに弟の代わりをするように言った。カーリンの方は母と一緒に洗濯をしたり、台所で皮むきなどの手伝いをするくらいであったので、母としては病弱な弟を、常に自分の目に届く場所に置いておきたかったのだろう。

 カーリンは不承不承ながらも、母から涙ながらに頼まれては拒否もできなかった。少しでも弟に似るようにと髪を肩まで切って、弟の衣服を着て、下男の仕事を始めた。

 

 男女の双子ながら、キャレとカーリンは背格好も含め、容貌も似ていた。まだ子供であったというのも、幸いしたのだろう。ほとんどの人間はキャレとカーリンが入れ替わったことに気付かなかった。

 唯一、うっすらと勘付いたのは兄であるセオドアだけだったが、興味はないようだった。彼にしてみれば、妹であろうが弟であろうが、厄介者であることに変わりない。入れ替わっていることを(とが)めることすら、面倒であったのだろう。

 

 カーリンに大きな転機が訪れたのは、去年、十一歳の早春。

 兄がグレヴィリウス家の小公爵様の近侍(きんじ)になるよう言ってきたときだ。

 さすがにこればかりは、カーリンもキャレの代わりに行くのは難しいと思った。

 当然、母に相談した。

 だが、弟を溺愛していた母は、カーリンの提案 ―― つまり、(キャレ)を近侍として差し出すことには、強硬に反対した。そんなことになったら、か弱い弟は胸が潰れて死んでしまうと繰り返した。

 カーリンはあるいは公爵家に行けば、きちんとお医者様にも診てもらえて、キャレの病気も治るかもしれないと説得したが、母も弟もかたくなに拒んだ。

 

 この時点で、本当であれば兄に正直に話し、どうにか近侍となることを取り下げてもらうよう懇願(こんがん)すべきだった。

 だが、結局カーリンが選んだのは無謀ともいえることだった。

 女であることを隠したまま、弟の代わりに近侍となるべく、グレヴィリウス家へと向かったのだ。

 

 道中、何度も何度も馭者(ぎょしゃ)に言って引き返そうかと考えた。

 だがもし、そんなことをしたら、おそらくセオドアはカーリンたち親子を許さないだろう。

 自分だけでなく、母も弟も領主館から追い出される。

 粗末な掘っ建て小屋であっても、そこにいる限り、きちんと仕事さえしていれば食うに困らず、冬の寒さに震えることもない。

 

 それにどこかでカーリンは希望を持ったのかもしれなかった。

 延々と続くかに思えたファルミナでの単調な暮らし。

 あそこにいる限り、カーリンは最下層の人間だった。

 領主の娘であっても、一度も認められたこともなく、なんであれば館の一部の使用人たちは、あからさまにカーリンを馬鹿にして(いじ)めた。そうすれば正当なる領主の子である兄姉の機嫌が良くなるからだ。特に現奥方の二人の子供は、カーリンをいたぶることを楽しんでいた。

 

 自分のやっていることに後ろめたさを感じながらも、カーリンは結局、グレヴィリウス家に来ることを選んだ。

 この間違った選択をした時点で、自分には何一つとして弁明(べんめい)の余地はない。

 わかっていた。

 わかっていたのだ……。

 

***

 

「……では、ここに来たのは君の一存ということだな。本来であれば、父であるオルグレン男爵に事情を説明して、断るべきところを、自らの境遇から逃れるために、家族をも(あざむ)いて来た……と」

 

 ルンビックが重々しく言うと、声を上げたのはエーリクだった。

 

「待ってください! キャレに一方的に責任を押し付けるのは、おかしいです!」

 

 それはエーリクの勘であった。グレヴィリウス家で催された夜会での、キャレと兄であるセオドアとのやり取り。あのときに感じた異様な雰囲気は、ずっとエーリクの中で違和感としてくすぶっていたが、今日ここに至って、ようやく腑に落ちた気がする。

 

「キャレは……あ、いえ、この…子、が弟と入れ替わっていることに、兄であるセオドア公子は気付いていたかもしれません。もし、わかった上で、ここに越させたのであれば、むしろ非はセオドア公子にあるのではありませんか? キャレに……この子だけに罪を与えるのはおかしいです。選択の余地なんて、ほとんどなかったんですから」

「ふ……む」

 

 ルンビックは気難しく頷いてから、カーリンに尋ねてきた。

 

「どう思う? カーリン。君は兄のセオドア公子が、君が女であることをわかった上で、ここに来ることを止めなかったと、証明できるかね?」

「…………」

 

 カーリンは暗い顔でうつむいた。あの時、確かにセオドアは言った。

 

 

 ―――― ()()()()行っても構わないぞ……

 

 

 だが、それで言質(げんち)を取れるわけがない。あれはカーリンとセオドアだけの会話で、セオドアが「そんなことを言った覚えはない」と言われればおしまいだ。そうして十中八九、セオドアは「知らなかった」と言うに決まっている。

 沈んだ空気を切り裂くように言ったのは、アドリアンだった。

 

「そんなことはどうでもいい」

 

 ルンビックはそれまで黙っていた小公爵の冷たい声音に内心驚きながらも、静かに尋ねた。

 

「小公爵様におかれては、どうお考えでありますか?」

 

 アドリアンは爪が食い込むほどに強く肘掛けを掴みながら、一切カーリンを見ることなく、冷ややかに断じた。

 

「ここにオルグレン男爵の()()であるキャレではなく、カーリンという()()を寄越したということだけでも、オルグレン家の(あやま)ちだ。僕らのすべきことは、彼らの失態を指摘し、責任を追及したうえで、彼女を送り返すだけだ。それ以上のことをこちらが考えてやる必要があるのか?」

 

 常になく冷たいアドリアンの態度に、声を上げたのはエーリクだった。

 

「小公爵さま! オルグレン家において、キャレが弱い立場であることは、小公爵さまもご存知ではないですか。今日のことだって、これ以上、キャレの立場が悪くなることのないようにと、考えられたうえで ―――」

「この子は()()()じゃないだろう!」

 

 アドリアンは鋭く叫び、エーリクの言葉を遮った。エーリクがうっと詰まると、アドリアンは憤然と立ち上がって、カーリンの前へと歩いていく。

 伏せた目線の先にアドリアンの足が見えて、カーリンの背に無言の圧力がずっしりとのしかかった。

 

「顔を上げろ」

 

 冷たい命令が降ってきて、カーリンはゆっくりと顔を上げた。いつもやさしく自分を見てくれていた鳶色(とびいろ)の瞳に、かつてないほどの怒りを感じて、カーリンは唇を震わせ、涙をにじませた。

 そんなカーリンの痛ましい姿にも、アドリアンは苛立たしさしか感じないようだった。

 

「まるで自分が被害者のように振舞うんだな。けれど、君が僕らを騙していたことに変わりない。違うか?」

「……っ…す、すみま…せ…」

「謝罪はオルグレン家にさせる。明朝にも、男爵と嫡嗣(ちゃくし)であるセオドア公子に来てもらい、彼らに引き取らせろ」

 

 そのままアドリアンは部屋を出ようとしたが、重苦しい雰囲気をかき混ぜるかのごとく、軽い声が響いた。

 

「そう簡単にも参りませんよ、小公爵様」

 

 アドリアンがキッと睨む先にいたのは、ルーカス・ベントソンだった。いつのまに入ってきていたのか、暗がりからゆっくりと姿を現す。

 

「……どういうことだ? ベントソン卿」

 

 厳しくアドリアンが問いかけると、ルーカスは肩をすくめて、カーリンをチラと見下ろした。泣きそうな顔を見て、困ったような苦笑いを浮かべる。

 

「こんなか弱いお嬢さんだというのに、気付かなかった我らの不明も糾弾(きゅうだん)されますよ」

「な……僕らは、騙されていたんだぞ!」

 

 アドリアンは抗議したが、ルーカスの表情は平然としたものだった。

 

「そうですね。しかしグレヴィリウス家の若君であらせられるアドリアン小公爵様が、このような小娘にまんまと騙されたということのほうが、より面白い醜聞(しゅうぶん)として吹聴(ふいちょう)されることでしょう。地方の一男爵家に過ぎないオルグレンの失態(しったい)よりも」

 

 アドリアンはギリッと歯噛みした。固く握りしめた拳を、どこに振り落ろすこともできないまま踵を返して足早に戻ると、先程まで座っていた椅子にドスリと腰を降ろす。

 ルーカスはまだ怒りが収まらない様子のアドリアンを、少しばかり愉しげに見てから、カーリンに目を向けた。

 

「さて。では、カーリン嬢。もう一度、伺いましょう。君の見るところ、セオドア公子や父上は、君を()と承知で、ここに()させたと思われますか?」

 

 この場に来てから初めてやさしく問われて、カーリンはホッとなると同時に涙があふれた。ルーカスは慣れた様子で、胸元のポケットからハンカチを取り出し、カーリンに渡すと、なだめるようにその震える肩を、トントンとやさしく叩いてやった。

(ちなみに、一連の()()()()を見ていたサビエルは、部屋の隅に控えながら、やや白けた目で父親を見ていた。)

 

「父は……ほとんど会って、おりませんから、存じ上げないと…思います。兄は……おそらくわかっていた…かも、しれませんが……」

 

 切れ切れにカーリンが言うと、ルーカスが後を続ける。

 

「わかっていた上で寄越したにしろ、このことを糾弾したところで、彼は『知らなかった』とシラを切る、そうお思いですね?」

 

 カーリンは涙をぬぐいながら、コクリと頷いた。ルーカスは得心したように軽く目を閉じると、カーリンの手を取った。

 

「よろしい。では、カーリン嬢への問責はこの辺にしておきましょう。今日は色々と疲れておられるようですからね。エーリク。お前、部屋まで連れて行って、戻ってくるように。カーリン嬢、念のため部屋の鍵を閉めて、お(やす)みください」

 

 思わぬ幕切れにカーリンは戸惑った。

 

「え、でも……私は……牢屋に入れられるのではないのですか?」

 

 おそるおそる尋ねると、ルーカスはクスリと笑い、ルンビックはため息をつきながら首を振った。

 

「そんなことをするつもりは毛頭ない。いいから、今日のところはベントソン卿の指示に従って、ちゃんと寝なさい」

「……はい、わかりました」

 

 カーリンが立ち上がると、ルーカスが支えていた手をエーリクへと差し出した。エーリクはぎこちなくカーリンの手を取ると、ギクシャクしながら扉へと歩いていく。

 カーリンは部屋を出る寸前に、チラとアドリアンを窺った。けれどやはり、暗がりに静かに腰掛けるその姿からは、明らかな拒絶が感じられた。

 カーリンは胸を押さえた。

 アドリアンの言う通り、自分が騙したのだから、怒って当然なのだ。

 仕方ないのだと言い聞かせても、やはり涙は止まらなかった。頭を下げて、泣き濡れるカーリンの前で、扉は無情に閉まった。

 

 




引き続き更新します。


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第百七十三話 錯綜する思惑

「それで、どうする?」

 

 ルンビックが尋ねると、ルーカスはさっきまでキャレの座っていた椅子に腰掛けてから、壁にはりついていたサビエルに声をかけた。

 

「密談には喉を潤すものが必要だ。頼めるか?」

 

 サビエルは無言で頭を下げると、部屋を出た。これで本当に茶を持ってくるのは、従僕としては真面目だが、状況理解ができない愚か者に分類される。つまりはしばらく部屋を出ろ、という含意(がんい)なのだ。

 三人だけになった部屋で、ルーカスはまず、アドリアンに声をかけた。

 

「随分と怒っておられますねぇ、アドリアン様」

 

 ややからかうような口調に、アドリアンはムッと眉を寄せた。「当然だろう」と憮然として言うと、ルーカスはハハハと声に出して笑い出す。

 

「なにがおかしい?!」

 

 アドリアンが憤然と抗議すると、ルーカスは笑いをおさめ、鋭く問うた。

 

「それはキャレ……改めカーリン嬢が小公爵様を(たばか)っていたとお考えになるからですか? それとも自分が知らぬまま、初潮(はじまり)を迎えたような女性を近くに置いていたという、後ろめたさからですか?」

 

 アドリアンは言い返そうとして、唇を噛み締めた。

 正直、キャレが女であったことを知ったときに、すぐに思い浮かんだのは今日、シモンに言われたことだった。

 

 

 ―――― そのように可愛らしい近侍では、小公爵も()()()()()()()()()をかけられるのでは?

 

 

 アドリアンにまったくその気はなくとも、周囲にはなんとなく見抜かれていたのだろうか。そう思うと一気に恥ずかしくもあり、知らぬまま同じ年の女の子と接していた自分に、ひどく苛立った。

 同時に、急に見せられた女性の証に反射的な嫌悪と、罪悪感も感じた。

 それにシモンの言いがかりから、せっかく自分を庇ってくれたランヴァルト大公や、ダーゼ公女にも申し訳ないような気持ちになり……ともかく、アドリアンはすっかり混乱していたのだ。

 この内心の動揺を抑えるために、これまで騙してきたカーリンの責任にして、己の怒りを正当化したかったのかもしれない。

 押し黙るアドリアンを見てから、ルンビックが軽く首を振った。

 

「仕方なかろう。まだ小公爵様のご年齢であれば、(こな)れた対応などできるはずもない。ベントソン卿の息子がいてくれたお陰で、そう騒ぎになることもなく済んだのだ。後から(ねぎら)ってやってくれ」

「ハハ。それは家令殿の方から直接言ってやって下さい。私が言ったところで、素直に受け取る息子ではございませんのでね。さっきも白い目で見られて、背筋が凍りそうでしたよ」

「……妙なところで似た者親子だの」

 

 あきれたように言って、ルンビックは「それで…」と本題に入った。

 

「どうしようとお考えだ? 策士殿は」

「そうですな。普通であれば、小公爵様の申される通りに、オルグレン家の失態を糾弾した上で、相応の罰を与え、カーリン嬢を送り返す……という手順なのでありましょうが」

「それでは問題があると?」

 

 ルンビックの問いかけに、ルーカスはうっすらと笑みを浮かべたが、その青い瞳は冷徹に揺れるランプの炎を見つめていた。

 

「もし、そうなった場合、オルグレン家への処罰は公爵閣下がお決めになるとして、面目を失ったオルグレン家においては、現当主であるセバスティアンが、当主としての資格を問われることでしょうな」

「それはそうであろう。知っていたにしろ、知らなかったにしろ、このような失態……おそらく隠居して、身を引くことを余儀なくされるであろうな」

「その場合、誰が一番得をします?」

 

 ルーカスの問いかけに家令は太い眉をピクリと動かし、アドリアンはハッとした顔になった。

 ルーカスは腕を組むと、背もたれにのっしりと寄りかかった。

 

「先程、カーリン嬢も申されておりましたでしょう。セオドア公子はあるいはわかった上で、自分を寄越したかもしれぬ、と。もしそうであるならば、遅かれ早かれ、こうした事態になることは予想しておったでしょうし、むしろ企図(きと)していたかもしれません」

 

 ルーカスの話に、アドリアンはカッとなった。

 要するに、男爵家におけるお家騒動に巻き込まれたのではないか。継嗣(けいし)がいつまでも居座っている当主を失脚させるために、妹を使って、アドリアンを利用したのだ。

 

「もしそうなら、なおのこと、そのことを問い詰めればいいじゃないか! わざとわかった上で、キャレ……妹を近侍として寄越すなど、僕を馬鹿にしたも同然だ!」

 

 ルーカスは肩をすくめた。

 

「それは先程も申しました。問い詰めたところで『知らなかった』『我々も騙されていた』と、シラを切るのがオチだと。カーリン嬢の話からすると、数年に及んで、弟君と入れ替わっていたようですからね。ましてオルグレン家からは見向きもされていなかった、というのであれば、カーリン嬢が双子の弟と入れ替わっていたことを知らずとも無理はない。おそらく父であるセバスティアンなどは、本当にまったく知らぬことでありましょう」

「…………」

 

 アドリアンは黙り込んだ。ルーカスの言うことは、いちいちもっともで反論の余地もない。アドリアンとしては、ただただ自分の無力さを痛感するだけだ。

 

「……セオドア公子といえば、確か、ハヴェル様の近侍となるべく名前が挙がっていたな」

 

 ルンビックが思い出したようにつぶやくと、ルーカスは大きく頷いた。

 

「えぇ。結局、ハヴェル公子は公爵家から出ましたから、正式な近侍というものでもありませんが。ただ、継承順位二位の立場に見合った待遇を、という閣下のご配慮で、公爵家からもハヴェル公子には、相応の予算が組まれておりますからな。その範囲内で、有力な子息を集めたのでしょう。オルグレン卿の亡くなった前夫人は、グルンデン侯爵夫人の取り巻きでもありましたしね」

「では、此度(こたび)のことで、セオドア公子まで罰するとなれば……」

「当然、黙ってないでしょうね。過重罰(かじゅうばつ)だと、言ってくるでしょう。実際今回のことで、当主のセバスティアンはともかく、嫡嗣(ちゃくし)のセオドアにまで責任を問うのは難しいでしょうしね。……ま、こういう狡猾(こうかつ)な、いやらしいことを考えそうではありますよ。あの女狐の使いの(てん)は」

 

 内心の不機嫌が噴き出したかのようなルーカスの隠喩(いんゆ)に、ルンビックは軽く息をついた。

 彼の言う女狐がグルンデン侯爵夫人ヨセフィーナを指し、その使いっ走りの貂がハヴェルの執事たるアルビン・シャノルを指すことは明白だった。理由はアルビンが勝手に貂をモチーフとした家門紋章をつくり、さりげなく襟やハンカチなどに刺繍していたからだ。もっとも、シャノル家は正式なる貴族ではなく、皇府に紋章使用のための届け出もしていないので、これはあくまで私的なものとみなされ、その増長ぶりを苦々しく思う者も多かった。ルーカスも当然ながらその一人である。

 

「やれやれ。ベントソン卿もまだまだ、青いところがおありのようだな。あのような若造相手に、口を汚すこともなかろう」

「お気になさらず、家令殿。その名前を言えば、かえって口を(すす)ぐ必要がありますので、別名を呼んだまでです。貂はかわいい動物ですからね」

 

 にっこりと笑う公爵の右腕に、ルンビックはもはや意見することは諦めた。

 

「いずれにしろ、この状況下においてオルグレン家の失態は明白であるとしても、その責任を問われるのは当主たるセバスティアン卿で、彼が隠居やむなしとなれば、次に継ぐのはセオドア公子となるわけだ」

 

 ルンビックがまとめると、ルーカスはまた真面目な顔に戻って頷いた。

 

「正直、セバスティアン卿が無能であることは知られておりますからな。公子にとっては、ロクに仕事もせずに、いいとこ取りだけする、鬱陶しい父親を排斥(はいせき)できるのだから、オルグレン家の評判が()()落ちたところで、さほどのことでもない。それにあの()のことだ。こちらがオルグレン家の非を言い立てれば、同じように言ってくるでしょうよ。『数ヶ月もの間、近侍として仕えさせておいて、気付かないとは、小公爵様も、周囲にいる人間も、少々愚鈍であろう』と」

 

 言いながらルーカスはチラとアドリアンを見た。

 肘掛けに置いた拳がかすかに震えている。普段の物腰柔らかな態度は母であるリーディエを思い起こさせるが、こうして怒りを押し殺す様は、公爵である父エリアスそっくりだった。

 ルーカスはアドリアンの気を紛らすように、少し自嘲気味に告白した。

 

「私も少々迂闊(うかつ)でしたよ。今にして思えば、気付いている者もいたのです。それとなく示唆(しさ)されていたようですが、生憎とまったく思い至りませんで……」

 

 話しながらルーカスの脳裏に、ヤミ・トゥリトゥデスの言葉がよみがえる。

 

 

 ―――― あの年頃であれば、男女の性差について、色々と悩みをかかえる時期であるのかもしれませんね……

 

 

 わざわざキャレが深夜に図書室を訪れたことも含め、ヤミがわざわざキャレの持って行った本の名前を言ってきた時点で、奇妙だと思ったのだから、もう少し考えるべきだったのだ。あの時はヤミが、諜報組織・鹿の影の一員だという言質(げんち)を取ることばかりに頭がいって、キャレとのことはただの雑談としか考えていなかった。

 

「今更、言うても詮無(せんな)きことはさて()き、それで結局カーリン嬢と、オルグレン家の処遇についてはどうするのか?」

 

 ルンビックに結論を(うなが)され、ルーカスは軽くため息をついた。

 

「さて、それです。こちらとしても、セオドア公子の思惑に乗ってやるつもりもなし……かと言って、女子であるカーリン嬢を近侍のままにしておくこともできません。一番よろしいのは……」

 

 言いかけたときに、コンコンと扉をノックする音が響いた。返事する前に、サビエルが客の来訪を告げる。

 

「クランツ男爵が来られました。それとエーリク公子も戻っておみえです」

 

 ルーカスはチラリとルンビックを見て、無言の承諾を得ると「入ってもらえ」と返事した。少し戸惑うアドリアンに、ニヤリと笑ってみせる。

 

「せっかくですから、ここはクランツ男爵の見解も伺うとしましょう」

 

 

***

 

 

 サビエルは待機中に用意していたお茶を、手早く各自の近くのテーブルに置いた。やや冷めかけたお茶を、ルンビックは静かに一口含み、ルーカスは喉が渇いていたのか、すぐに飲み干した。アドリアンは手もつけない。

 ヴァルナルは入るなり妙な緊張感が漂う雰囲気に、困惑したようにつぶやいた。

 

「なんだ、一体……? 小公爵様まで。このような時間に」

 

 ルーカスが「まぁ、こっちに来い」と呼ぶと、ヴァルナルの動きに合わせて、サビエルがさりげなく椅子を持ってくる。用意された椅子になんとなく座ってから、ヴァルナルはどこか落ち着かない様子で、その場にいる人間を見回した。

 しかしルーカスはヴァルナルの物問いたげな視線を無視して、まずはエーリクに声をかけた。

 

「カーリン嬢は? ちゃんと送ったか?」

「はい。ちゃんと鍵もかけさせました」

「よろしい。満点の回答だ」

 

 ルーカスは言ってから、軽く顎をしゃくって、さっきまでエーリクが座っていた椅子へと(うなが)す。

 サビエルは全員が着席したのを見計らって、再び部屋から出て行った。

 

「おい、どういうことだ? いきなり出て行って、なかなか戻ってこないからどうしたのかと思って来てみたら……」

 

 実のところヴァルナルとルーカスは、さっきまで二人で、亡くなった友人たちを偲んで飲んでいたのだが、そこへサビエルが慌ただしくやって来て、家令がルーカスを呼んでいる旨を告げた。ルーカスが出て行った後、ヴァルナルはしばらく一人で飲んでいたが、どうにも落ち着かない。何かあったのだろうかと思い、家令の部屋に向かう途中に、沈んだ様子のエーリクに会い、彼も同じ部屋に向かっていたので、一緒にやって来たのだった。

 

「一体、何があったんだ?」

 

 ヴァルナルが尋ねると、ルーカスは唐突に言った。

 

「困ったことになった。キャレ・オルグレンが女だったんだ」

「は?」

「本当の名前はカーリン・オルグレンだそうだ。女だと思って見たら、確かに女だな。どうして今まで気付かなかったんだか不思議だ。どう考えても力も弱いし、体つきも細いし、声にしても……」

「おいおいおい。待て。ちょっと待て。いきなり何を言い出した?」

 

 ヴァルナルは突然すぎて意味が理解できず、遮って再び尋ねたが、ルーカスの答えは同じだった。

 

「小公爵様の近侍であるキャレ・オルグレンは、女だったと言ってるんだ。で、彼女をどうしようか……というのが、今の議題だ」

「…………さっぱり理解できん」

「私がご説明しましょう」

 

 ルンビックがかいつまんで説明すると、ヴァルナルは百面相になりながらも、どうにか納得したようだ。ブツブツと口の中で起こったことを反芻してから、ルーカスに確認した。

 

「つまりオルグレン家、特にセオドア公子に知られることなく、カーリン嬢をファルミナに戻したいということか」

「まぁ、そうだ」

 

 ヴァルナルはさほど考えることもなく言った。

 

「そんなこと、(けい)が悩むほどのことでもあるまい。ファルミナにいる本物のキャレと交代させればよいではないか」

 

 ルーカスは特に驚きもせず、頷いた。

 

「ま、そうなるよな」

「問題でもあるのか? よっぽどの重病人というなら仕方ないだろうが……」

「いやぁ、カーリン嬢の説明を聞く限りは、母親が大袈裟にしているだけのような気がするな。そもそも最初は弟に行くように言っていたくらいなのだから、もし、本当に歩けぬほどの重病人ならば、そんな提案もしないだろう」

 

 ルーカスの言葉に同調したのはエーリクだった。

 

「僕も、さっきキャレ……カーリン嬢に少し聞きました。弟の病状はそんなに悪いのかと。でも、聞く限りは普通に飲み食いもしていて、多少、言語不明瞭なところはあるようなんですが、少なくとも病気というほどの症状でもないような気がします」

「なるほど。お前もあらかじめ考えていてくれたんだな、エーリク。カーリン嬢の行末について」

 

 ルーカスは少しばかり意地の悪い微笑を浮かべたが、エーリクはキョトンと目をまたたかせてから、真面目な顔で言った。

 

「僕は前にセオドア公子がキャレ……カーリン嬢を、その……(いじ)めているような、そういう場面を見たことがあったのです。そのときから、オルグレン家におけるキャ…カーリン嬢の立場が弱いものであることは、なんとなく承知していたのですが、当人から口止めされて、誰にも言わずにおりました。今にして思えば、もっと早くに小公爵さまにお伝えした上で、対処してもらうべきでした。もしかしたら、そのときにでもカーリン嬢から、正直に言える機会もあったかもしれませんから……」

 

 ルーカスは至って純粋なエーリクの言葉に苦笑した。どうにも自分はスレた大人だと、自分自身のうがった見方に辟易する。

 

「じゃあ、つまりカーリン・オルグレンをファルミナに戻し、弟の本物のキャレを連れてきたら、それでこの件については終わりということか?」

 

 暗い声で問うてきたのは、それまで黙りこくっていたアドリアンだった。声と同じく暗い鳶色(とびいろ)の瞳がじっとりとルーカスを見ている。

 ルーカスはアドリアンに向き合うと、軽く首をかしげた。

 

「気に入りませんか?」

「……オルグレン家については、不問ということか。セオドア公子も」

「そうですな。この場合、彼らを糾弾することこそ、あちらにとっては好機となりかねませんから」

「………そうか」

 

 アドリアンはほとんど消えるような声で言うと、立ち上がった。

 

「じゃあ、明日の早朝にもカーリン・オルグレンをファルミナに連れて行ってくれ。黒角馬なら半日で行けるだろう。エーリク、君が連れて行け」

 

 淡々とした口調で命令して、出て行こうとするアドリアンに、エーリクはあわてて問いかけた。

 

「あのっ、キャレにはもうお会いにならないのですか?」

 

 アドリアンはジロリとエーリクを見た。その鳶色の瞳は、父公爵と同じくどんよりと曇っていた。

 

「……()()()には、会おう。君が連れてくれば。だが彼女はキャレではない。もう会う必要もないだろう」

 

 そのまま呆然となるエーリクを残して、アドリアンは部屋から出て行った。

 

「やれやれ…」

 

 ポリポリとルーカスが突き出た頬骨を掻きながら(ひと)()ちた。

 

「どうにも、よほど腹に据えかねるようだ」

「あんなに怒っておられるのは、珍しいな。それにキャレ・オルグレンのことは、何かと気にかけていらっしゃったのに」

 

 ヴァルナルが腑に落ちないように言うと、ルーカスは少々鈍感な友の肩を叩いた。

 

「仕方あるまい。小公爵様にとっては、キャレは弟のような存在であったのに、いきなり妹になったと言われても、困惑されて態度が硬化してしまうのは、あの年頃であれば、あり得ることだ。それにキャレは……」

 

 そこまで言いかけてエーリクの存在を思い出すと、ルーカスは一旦、口を噤んだ。軽く咳払いをして、誤魔化すように笑みを浮かべる。

 

「じゃ、お前は小公爵様のご命令通り、早朝、目立たぬように出立しろ。カーリン嬢をファルミナに送り届けて、今度こそ()()()キャレ公子に来てもらうように。母親には公爵家の医者が定期的に診察するから、心配ないと請け負ってくればいい。それでも何か問題があったときには、そうだな……ゴルスルム通りの俺の家に連絡をくれ」

「はっ」

 

 エーリクは短く承知すると、騎士礼をして出て行った。

 ヴァルナルはエーリクの足音が遠ざかるのを確認してから、ルーカスにまた物問いたげな視線を向ける。ルーカスは気付いていたが、手を上げて制止した。

 

「ちょっと待ってくれ。一服したい。家令殿、葉巻を一本頂いてもよろしいですかな?」

 

 ルーカスは許可を求めながら、既に机の上の葉巻箱(ヒュミドール)から、一本手にしていた。ルンビックは自分もまた一本取り上げると、ジョキリと葉先を切って、ルーカスに鋏を渡した。

 

「さっき、お前も言ったろう? 小公爵様がキャレ・オルグレンのことを、何かと気にかけていらっしゃった……と」

 

 同じように葉先を切って火をつけながら、ルーカスは先程詰まらせた話を始める。ヴァルナルは頷いた。

 

「あぁ、正直、キャレはあまりよく出来たほうでもなかったからな。小公爵様も気遣って、色々と手助けされていたんだろうと思うが」

「そうだ。小公爵様としては、あくまでも少々出来の悪い近侍の()()を助けてやろう…という、まぁ親切心だったわけだ。それが女であったとなれば、馬鹿にされたようにも感じるであろうし、どこか気恥ずかしくもあるのだろう。そこについては、特に問題ではない。どちらかといえば、問題なのはキャレ ―― いや、カーリン嬢の方だ」

 

 言ってからルーカスはハアァと長い溜息まじりの煙を吐いた。

 以前に感じた危惧が、こうした展開を迎えるとは……

 

「カーリン嬢がオルグレン家で肩身の狭い思いをしていた、というのは想像に難くない。実際、話を聞いてもそうであったようだしな。おそらく彼女にとって、小公爵様は初めて目上で、自分に対して優しくしてくれた人物であったわけだ。加えて小公爵という立場も、公爵閣下譲りの容姿も、憧れるには十分だろう。憧れが過ぎて、淡い恋心となるのは当然の成り行きだ」

 

 ルンビックもまたため息まじりに煙を吐くと、軽く首を振りながらボソボソと言った。

 

「あるいは小公爵様も薄々、感じておられたのかもしれませんな。それで女とわかった途端に、カーリン嬢に対してより拒否感が強まったのやもしれません。容姿も同じながら、あの年頃の公爵閣下も、女性に対しては厳しく接しておられましたからな」

「あぁ、女嫌いであらせられたものな。リーディエ様に出会うまでは」

 

 ルーカスも同意すると、ヴァルナルは一人驚いた顔になった。

 

「そうなのか? 俺と出会った頃には、そうでもなかったような気がするが」

「閣下の人生はリーディエ様に会う前と会った後で分かれるんだ。会う前ときたら、今の小公爵様など可愛いと思えるくらいに、それはそれは恐ろしいくらい暗くて大人びた……もう子供というよりも、感情のない人形に近かったな」

 

 ルーカスは言ってから、少しばかり喋りすぎたとしばらく黙り込んだ。全員が少し疲れた吐息をつく。淀んだ沈黙の中で、煙が闇へと漂っていく。

 ルーカスは何度か煙を味わって、虚空へと吐いてから、再びカーリンに話題を戻した。

 

「……もし、カーリン嬢が小公爵様に惚れることまで見込んで、奴らが彼女を送り込んできたのだとすれば、これは相当にしたたかな企みだぞ。それこそ策に乗ってオルグレン家の失態だと責め立てれば、気付かなかった小公爵様を()(ざま)に言うばかりか、下手をすれば女だとわかった上で、男装させて仕えさせていたのではないか……などと、それこそ尾びれ背びれをつけて、いやらしい噂を流していたかもしれん」

「そのようなこと……!」

 

 ルンビックは目を見開き、わなないた。持っていた葉巻を、苛立たしげに灰皿へとなすりつける。「そのようなこと、断じて避けねばならぬ!」

 

「もし、そのようなことになれば、キャレ……いや、カーリン嬢の小公爵様に対する純粋な気持ちも、奴らに利用されかねない、というわけか」

 

 ヴァルナルも眉をひそめて重々しくつぶやき、ギリッと奥歯をきしませた。「そうまでしても、小公爵様の評判を落としたいか……!」

 

 取るに足らない噂であっても、貴族社会において、それを武器とするのは常套手段であった。そうして、それらをうまく取り扱い、もっとも効果的に使ってこそ、()()()()()()()()貴族といえた。いまだに平民感覚の残るヴァルナルには、まったくもって肩の凝る話だ。

 ルーカスは二人の様子を見ながら、葉巻を吸い、考えをまとめていく。煙を吐ききると、不敵な笑みを浮かべた。

 

「セオドア公子としては、厄介者の妹を送り込んで、自分はオルグレン家の当主となり、一方で小公爵様の評判を落とすことができれば、ハヴェルへの忠誠を示せる好機と思ったのであろう。妹のことなぞ、最初から使い捨ての駒程度にしか考えておらん。あるいは小公爵様に気に入られれば、それはそれで利用価値があるとでも思ったのかもしれないな。ま、一男爵家の公子風情の思惑にこちらが乗ってやる必要もなかろうよ」

 

 ひとまずは()()()の思惑をかわすことはできた。それが今回の件についての、とりあえずの結論だった。しかし、物事はいつもそううまく運ばないものなのだ。

 

 

 翌日、アドリアンとルーカスから言われて、カーリンを伴ってファルミナへと向かったエーリクは、翌々日の夜にはゴルスルム通りのルーカスの私邸に現れた。かたわらに暗い顔のカーリンを連れて。

 

 




次回は2024.01.14.更新予定です。


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第百七十四話 カーリンとキャレ

 二人揃って暗い顔でうつむく姿を見て、ルーカスは軽くため息をついた。

 どうやら交渉は失敗に終わったらしい。

 ベントソンの私邸からの連絡を受け、ルーカスと一緒に来たヴァルナルが、エーリクに尋ねた。

 

「何があった?」

 

 エーリクは頭を下げると、うめくように言った。

 

「申し訳ございません。ご命令を果たすことができませんでした!」

 

 ルーカスは二人の前の椅子に腰掛けると、理由を話すように促した。チラリとエーリクの隣で、身を縮こまらせているカーリンを見やる。この数日の出来事に疲弊しきった顔は、青白く、痩せこけていた。

 

「ご命令通り、ファルミナに向かいました。途中、カーリン嬢の具合が悪くなることもあって、少しばかり到着時間は予定より遅れたのですが、ちょうど夜の訪れた頃合いでファルミナの領主館に到着したので、人目に付くことなく、キャレ公子と母親の住まう家を訪ねることができたのですが……」

 

 

***

 

 

 エーリクは勝手知ったるカーリンの手引で、領主館裏手の林から、邸内へと入った。

 ファルミナの領主館は、他の多くの領主館と同じようにやや勾配のある土地の上に建てられており、前面には町が、後背(こうはい)には雑木林が広がっていた。邸内の主要な建物と領主家族が過ごす館は、おもに前面側に集中しており、林の方は一応動物()けに塀があったものの、所々崩れた部分もあり、門に見張りもなかった。領主家族の住む中心部の館周囲に堅固な内壁があるため、外壁についてはおざなりになってしまったようだ。戦の日々が遠のき、財政状況も芳しくない貴族の屋敷においては、よくあることだった。

 内壁と外壁の間にある裏手の庭には、使用人たちが自分達用に作ったわずかな畑のほかは、旧修練場のあった場所も雑草だらけで、すっかり荒れ果てていた。その古い修練場にあった、騎士らの休憩所であったところが、カーリンら親子の住む小屋だった。

 

「あちらから人が来ることはほとんどないので……」

 

 カーリンは警戒するエーリクに、弱々しく言った。

 基本的にカーリンたちは無視される存在だった。彼女らの住まいは、鬱蒼としたイチイの木に隠されるようにしてあったが、これは親子達が現男爵夫人の目に触れることのないよう、茂る枝葉をはらうこともせず、あえて伸ばし放題にしていたためだった。

 もっともそのおかげで、エーリクの黒角馬(くろつのうま) ―― イクセルを連れて入っても、気付かれずに済んだのではあるが。

 

 日も沈んでそろそろ寝ようという時間にやって来たカーリンとエーリクに、カーリンの母・ゾーラはまるで幽霊でも見たように腰を抜かした。

 驚く母に動揺した弟のキャレは、ひどく混乱したようだ。

 

「い、いいい、い、い、一体、なにィ? ()ぁに? なんぁんだよ! お前らはァ!? 勝手に来て、何ぁんだ! 誰だ? 出てけ、出てけ、出てけェッ!!」

 

 金切り声を上げながら、なだめようとするカーリンにやみくもに殴りかかる。手をブンブン振り回して、顔でも胸でも叩きまくって、腹にも蹴りをいれる。

 カーリンは彼らが落ち着くのを待っているかのように、黙って弟からの情け容赦ない暴行を甘受していたが、見ていたエーリクは当然ながら黙っていられなかった。

 

「いい加減にしろ!」

 

 一喝して、その弟の腕を掴み上げる。すると今度は母親がヒィィと、これまた甲高い悲鳴を上げて、エーリクの足に縋りついた。

 

「やめてェ! やめてやってちょうだい!! そんなことをしたら、キャレが死んでしまうぅー」

「うわぁぁん! 痛いいィィ、痛いいィィ」

 

 母親の悲鳴を聞いた弟は、同じように叫びながら、大袈裟に泣き始める。泣きながら、ブンブンとエーリクの手を振り回す力は、まぁまぁあったので、エーリクはすぐに彼の現状について把握できた。要するに、十分に元気だろうということだ。

 

 エーリクはざっと(キャレ)の容姿を見た。

 ランプの明かりだけなので、細部はわからないが、確かにカーリンの言ったように、異性の双子とはいえ顔つきは似ていた。

 今はおそらく(カーリン)に化けているからだろう。長く伸ばした髪は、確かに赤い。ただ、カーリンのように定期的に洗髪をしていないからなのか、お世辞にもルビー色の(つや)やかな美しさはなかった。

 

 それにカーリンからは、ここでは最低限の食料しかもらえなかったと聞いていたが、この目の前の弟は、カーリンが公爵家に来たばかりの頃に比べると、断然に肉付きが良かった。今のカーリンと遜色ないほど……というより、入れ替わるのであれば多少食事制限をして、痩せさせる必要があるように思える。

 その差にエーリクは少し釈然としないものを感じたが、いずれにしろ、どちらのことも修正可能な範囲だと冷静に分析した。

 ただ、エーリクをにらみつけてくる瞳は、同じ緑色であったが、なんだか少し濁って見えた。これは主観的なものも入っていたのかもしれない。つまり、エーリクのこの弟に対する第一印象は、すこぶる悪かった。

 

「エーリクさん、離してあげて下さい。キャレはすぐに(あざ)になってしまうんです」

 

 カーリンからも言われて、エーリクはしぶしぶ弟の腕を離した。

 よろけて無様に尻もちをついた弟に、母親がすぐさま駆け寄って、親子はヒシと抱き合った。

 

「うわぁぁん! 痛いィィ! 母さぁん、痛いィィよぉ」

「可哀相に、可哀相に。おぉ、キャレ。痛かったろうねぇ、可哀相にぃぃ」

 

 いちいち大袈裟な親子二人のやり取りに、エーリクは呆気に取られるばかりだったが、カーリンは無表情に弟と母の様子を眺めていた。

 やがて親子二人がすすり泣くようになると、そっと腰をおろして声をかけた。

 

「キャレ、お母さん。私です。カーリンです」

 

 母親はゆっくりと顔をあげると、まじまじとカーリンを(すが)め見て、つぶやいた。

 

「カーリン…?」

 

 弟もじっと姉を見つめてから、突然すっくと立ち上がると、バシリとカーリンの頬を打った。

 

「びっくりさせるなァ! お、お、俺の心臓が止まったらどうするんだァッ」

 

 エーリクは驚くと同時に、さっきから姉への暴行を繰り返す弟に対して、さすがに我慢ならなかった。一歩、前に乗り出すと、カーリンがすぐさま制止する。

 

「エーリクさん。大丈夫……私は大丈夫ですから……」

 

 落ち着いたカーリンの様子から、エーリクはすぐに理解した。カーリンにとって、こんなことは日常なのだと。

 それからどうにか二人を椅子に座らせ、経緯(いきさつ)を説明したが、親子はカーリンが話している途中でも、いきなり遮ってはまったく関係のない話 ―― 狸が使用人の畑を荒らした話や、当主不在を狙って執事や従僕たちが酒盛りをした話など ―― をして、まともに聞こうとしなかった。

 特に弟はじっとしていられないのか、頻繁に椅子から立ち上がっては、ウロウロと歩き回ったり、自分の上唇と下唇を交互に引っ張ったり、動物の鳴き真似をしたりと、邪魔するようなことばかりをする。

 

 それでもカーリンが辛抱強く説得している間、エーリクはともかく黙っていた。

 本当は動き回る弟の首根っこを掴まえて、無理やり椅子に縛り付けておいてやりたいくらいだったが、エーリクが少しでも動くと、カーリンは敏感に反応して、たしなめるようにエーリクを見てくるのだった。おそらくカーリンは何も指摘しないことが、物事が早々に終わることを経験で知っていたのだろう。

 

「……そういうことだから、やっぱりキャレに公爵家に行ってもらわないといけないの」

 

 ようやくカーリンが話し終えても、母親の反応はなかった。ポカンと口を開け、ボヤーっとしている。弟はそんな母の腕を引っ張って、わめき立てた。

 

「ねぇェ、母さぁん。コイツら、俺をここから連れて行こうとしとるのォ? 嫌ァだ、嫌ァだ! 嫌ァだよぅ、俺。母さんから離れるなんて、嫌ァだよぅ!」

 

 母親は腕を掴んで必死に訴える息子にハッと我に返ると、また「可哀相に」と頭を撫でて抱きしめる。

 エーリクは会ったときから、まったく変わり映えしない親子の様子に、苛立たしげにため息をついた。

 

「……ベントソン卿から、キャレ公子には医者の診察を受けさせると、約束して頂いております。決して、不自由な生活はさせません」

 

 しかし弟はそんなエーリクをビシリと指差して怒鳴りつける。

 

「コイツ嫌ァい! さっきから俺を睨んでくるゥ!」

「キャレ、失礼なことを言わないの」

 

 カーリンがさすがに厳しくたしなめると、弟はギッと姉を睨みつけ、机に置かれてあった木の皿を投げつけた。

 エーリクは反射的に手を伸ばし、カーリンの顔をかばった。バシリと手に当たった皿の硬さに、もし当たっていたらと思うと、さっきからの態度も含めて、この我儘極まりない弟への苛立ちが沸騰した。

 

「いい加減にしろ! 姉を一人で公爵家に送っておいて、貴様は今の今まで、母親と一緒にのうのうと暮らしていたんだろうが!! それを詫びるどころか、さっきから……」

 

 太い声で怒鳴りつけられると、弟は震え上がって、母親にしがみついた。ヒック、ヒックとしゃっくりが止まらない息子の背を、母親は懸命にさすってやりながら、エーリクではなくカーリンに文句を言った。

 

「カーリン! お前、こんな時間にいきなり来たかと思ったら、何だい! 私たちを脅しに来たのかい!! なんてひどい子だ。病気の弟に怒鳴りつけて……!」

「カーリンは関係ないだろう! 怒ってるのは俺だ!」

 

 エーリクは吠えるように怒鳴ると、ドスンと拳で机を打った。

 この母親にも腹が立つ。さっきから弟ばかりを庇って、同じ娘であるカーリンのことは、ただの一度も心配する素振(そぶ)りはない。娘が初潮を迎えたことにすら、まるで関心を示さず、いたわる言葉の一つもなかった。

 そのうえ、エーリクと直接言い合うのを恐れて、言い返してこないとわかっているカーリンに非難の矛先を向けるなど、卑怯極まりない。

 

 母親はエーリクの剣幕に、おどおどと目を泳がせて、必死に視線を逸らした。その卑屈な態度も、エーリクには業腹(ごうはら)ものだったが、隣にいたカーリンの深い溜息に、自らも軽く息をついて怒りをどうにか収めた。

 カーリンはようやく大人しくなった弟に、やさしく声をかけた。

 

「キャレ、公爵家はここよりもずっと立派で、ベッドも広くて、パンだって柔らかくておいしいのがいっぱい食べられるよ。服も、きれいな服を小公爵さまから頂いたから……」

 

 カーリンの話を、鋭い声で遮ったのは母のゾーラだった。

 

「冗談じゃない! その小公爵様とやらが、どんなに冷たくて恐ろしい人か! ちょっとでも気に入らないと、すぐに鞭をもってきて()つんだろう! そうして逆らったら、身ぐるみ()いで追い出すそうじゃないか!! そんな恐ろしい場所に行けだなんて……甘い餌で私らを騙そうたって、そうはいかないよッ!!」

 

 一体、どこでそんな噂をきいたのか、根も葉もない母の反論に、カーリンはあわてて首を振った。

 

「小公爵さまが冷たいなんて、とんでもない。とても優しい……本当に、優しい方よ」

 

 少しだけカーリンの言葉に苦さが混じったのは仕方ない。

 昨晩から、帝都を経つ朝になっても、とうとうアドリアンが姿を見せることはなかった。カーリンは謝罪はもちろん、別れの挨拶も、これまでの感謝も、一言もアドリアンに伝えることは許されなかったのだ。

 相当にアドリアンが怒っているということを確信し、カーリンは暗然たる気持ちをかかえてここに戻ってくるしかなかった。もう二度と会えないのだと思うと、今更ながらに泣きそうだった。

 そんなカーリンの苦しみを、双子の弟であるキャレは、なんとなく感じ取ったのかもしれなかった。だが、さっき母親が言ったことを鵜呑みにしていた彼は、姉のちょっとした言葉と言葉の()を、覆い隠せなかった嘘がにじみ出たのだと誤解した。

 

「嘘だ! カーリン、嘘つくな!! お前、今ちょっと言いにくそうにしてたじゃないか。やっぱり小公爵は意地悪なんだあッ」

 

 エーリクはとうとうアドリアンのことまでも誹謗するこの母子(おやこ)に対し、もはや怒り以外の感情はなかった。彼らもまた、このファルミナの領主館において(しいた)げられているのかは知らないが、それでも彼らの態度は許されるものではない。

 ギロリと睨みつけると、弟はすぐにエーリクの怒気を感じたのかして、また母親にしがみついた。

 カーリンはこれ以上、アドリアンの話をしても親子に信用してもらえそうもないとわかると、すぐに話を変えた。

 

「さっきエーリクさんが言ってたでしょ? 公爵邸に行って、お医者様にも診てもらったら、キャレの病気もきっと良くなるから」

 

 だが母親はカーリンの申し出に対し、フンと鼻息を荒くしてまくし立てた。

 

「生憎と、こっちでも十分にしっかりとよく診て下さる()()()()がいらっしゃるんだ。私らみたいな貧しい人間にも、分け隔てなく診て下さる方々さ。キャレもあの方たちから薬をもらうようになって、随分と太って、熱を出すことも少なくなって……」

 

 だが母親は急に話を止めると、あわてた様子で否定した。

 

「でも、まだまだキャレを一人になんてさせられないよ。先生たちからの薬はここにいないと貰えないし、それに、この子は私がいないと駄目なんだ! とてもとても一人で公爵邸なんかに行って、気難しい小公爵の相手なんぞさせられないよ!」

「…………」

 

 カーリンは深くため息をついた。

 おそらく母親は弟が健康になってきたことを知られれば、ますますカーリンたちが(キャレ)を公爵邸に送り込む口実にすると考えたのだろう。

 

「……今日のところは、もう夜も遅いから寝ましょう」

 

 カーリンが疲れ切った様子で言うと、母親はすぐさま立ち上がった。

 

「そうだね。明日にしよう。明日、明日! 今日はもう遅い! 明日、ゆっくりと話を聞くよ。それでいいだろう? さ、キャレ。母さんと一緒に寝よう」

 

 親子二人はそそくさと食堂兼居間から立ち去った。

 カーリンは彼らの後ろ姿をぼうっと見送った。うつろな目の下には、濃い影がわだかまっている。

 エーリクがその姿を見ていると、視線に気付いたのか、ハッとした様子で頭を下げた。

 

「すみません、エーリクさん。不快な思いをさせてしまって……」

 

 そうして自分に詫びてくるカーリンが、エーリクには気の毒でたまらなかった。

 領主である父親の無視、異母兄姉(きょうだい)からのいじめ、唯一の安らぎであるはずの実の母と弟からの疎外。

 このファルミナの領主館において、最もまともな人間はカーリンだけだ。そうして、まともであるがゆえに彼女は憂き目をみている。……

 

「俺のことはいい。お前こそ、ここまで無理してきたから疲れているだろう。自分の部屋で寝ておけ」

「……私のベッドは、そこです」

 

 カーリンは暖炉横にある、藁の積まれた場所を指して苦く笑った。

 

「すみません。ろくにベッドもなくて。キャレとお母さんが寝るベッドはあるんですけど、あの二人はあのベッドじゃないと眠れなくて。キャレは寝付きも悪いし、たぶん、今日は夜遅かったので、眠くていつもより不機嫌だったんです。色々と失礼なことを言って、本当に申し訳ありません」

 

 また謝ってこられて、エーリクは自分の不甲斐なさに奥歯をかみしめた。

 本来謝るべきはカーリンではない。だが、もうカーリンにとって、弟のことで謝るのは当たり前のことで、その理不尽さについて考えることを放棄してしまっているようだった。それは、母と弟を見るカーリンの、寂しさを押し殺した無表情が物語っていた。

 エーリクはため息をついてから、額をおさえた。

 

「お前、そういうことをするな。今回のことは、お前だけの責任じゃない。あの弟じゃ、お前が代わりに行こうと思うのだって無理もない」

「…………」

 

 カーリンはうつむいたまま、椅子に腰かける。背を丸く曲げて座った姿は、人生を半分終えた老女のようだった。

 

「一つ、聞いてもいいか?」

「はい?」

「その……」

 

 エーリクは迷ったが、思いきって尋ねた。

 

「なんだって、お前の母親はああまで弟のことを……その、甘やかすんだ? 正直、見たところ病気なんて罹ってるようにみえないし、何だったら、お前のほうが痩せてるくらいだ」

「……高熱を出して、死にそうになるまで……キャレはとても利発な子だったんです」

 

 カーリンは話しながら、その頃の弟を思い出したのか、少し微笑んだ。

 

「私はその頃から鈍臭くて、よく叱られてました。だからキャレが手伝ったりしてくれて。あの子も騎士団でこき使われて大変だったのに……」

 

 少々生意気なところはあっても、その頃のキャレは優しい、頼りがいのある弟だった。だから、母の期待が弟に集中するのも無理ないことだった。

 

「……母にとって、弟は希望だったんです。いくら庶子とは言っても、この紅玉(ルビー)の髪は、オルグレン家の血を引く何よりの証です。しかも今の奥方様のお子様はどちらもこの髪を持っていなかった。もちろん、この家を継ぐのはセオドアお兄様です。でも……」

 

 そこでカーリンは少し声を落とした。囁くようにエーリクに問いかける。

 

「……エーリクさん、覚えてますか? グレヴィリウス大公爵ベルンハルド老閣下のこと」

 

 その名前を聞いて、すぐにエーリクはカーリンが言いたいことに思い至った。

 

 グレヴィリウス公爵ベルンハルド。

 アドリアンの高祖父にあたる人物で、その頃、借金がかさみ、領地を切り売りするまでになっていたグレヴィリウス家を再興させ、帝国宰相にまで登り詰めた、別名『影の皇帝』。その圧倒的な統率力と、冷酷無比とも呼ばれた政治力は、時の皇帝すら彼の前で玉座に着座するのをためらうほどだったという。

 まさしくグレヴィリウスが()を冠するまでになった、その(いしずえ)を築いた人であった。

 しかしそんな偉大な彼の生涯において、いまだに軽蔑もあらわに囁かれるのがその出自だった。

 

「ベルンハルド公が、元は庶子であったことを母は知って、希望を持ってしまったんです」

 

 カーリンは皮肉げに頬を歪めた。

 そう。ベルンハルドは元は庶子であった。しかも嫉妬した父公爵の妻たちによって、身重であった母諸共に奴隷商人へと売られたのだ。そのまま、もはやグレヴィリウス家に関わることもなかったはずの彼が、奇跡的に戻ってこれたのは、本来後を継ぐべき兄や従兄弟たちが相次いで流行病で亡くなったからだった。

 

「母は考えたんです。もし、ベルンハルド公と同じように、はやり病でお兄様たちが相次いで亡くなったら、キャレがオルグレン家の当主になれるかもしれない……って」

 

 エーリクは首を振った。そんなことが、そう簡単に起きるはずがない。

 ベルンハルドの兄達が亡くなったのは、流行病に加えて、生活も相当に乱れていたせいとされる。それに兄達が亡くなったからといって、ベルンハルドが順風満帆に公爵位を相続できたわけではない。決して表向きには語られない策謀や、陰惨な闘争を経て、彼はその地位を得たのだ。

 カーリンの兄であるあの忌々しいセオドア公子はもちろん、二番目の兄であるラドミール公子も、至って壮健だと聞いている。

 むしろ今となっては、キャレにこそ瑕疵(かし)があると見られるだろう。熱病からどうにか生還したものの、話し方を含め著しく対人への接し方に問題がある。

 

「正直、あの弟を連れて帰るのが正解なのか……俺にもわからなくなってきた」

 

 エーリクがボソリとこぼすと、カーリンは哀しそうに目を伏せた。

 

「でも……私が、これ以上、小公爵さまのお側にお仕えすることはできませんから」

 

 絞り出すように言った声は震えていた。暗くて見えないが、かすかな嗚咽に、カーリンが泣いているのがわかった。

 エーリクはしばらく言葉を探したが、こういうときに気の利いたことが言える人間でないのは、自分が一番よくわかっている。

 

「もう、お前も寝ろ。ともかく今日は、寝ておけ。明日の朝には説得して、あの弟を何としても連れて行かねばならないんだからな」

 

 ぶっきらぼうに言うと、エーリクはドア横にどっかと座って、マントをクルリと巻いた。

 

「エーリクさんが、こっちで寝てください。あまり寝心地は良くないかもしれませんが……私は椅子に座ってでも眠れますから」

 

 カーリンがあわてて椅子から立ち上がって言ったが、エーリクは「いい」と短く言って目をつむる。それでも気にして突っ立ったままのカーリンに、むっすりとエーリクは言った。

 

(イクセル)を外に繋いでるから、何かあったときのためにここで寝てるんだ。いいから、お前はそっちで寝ておけ」

 

 しかしエーリクも帝都からファルミナまでの強行軍に、案外と疲れていたようだ。すっかり寝入ってしまい、朝になってカーリンに揺り起こされた。

 

「エーリクさん! エーリクさん! 起きて下さい。お母さんたちが、いないんです!!」

 

 




次回は2024.01.21.に更新予定です。


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第百七十五話 悩む策士とその妹

「……それで朝になったら、ベッドはもぬけの空で、親子はキャレ……じゃなく、カーリン嬢の持っていた金をすっかり盗んで消えていた、ということか」

 

 ルーカスはエーリクからの報告を聞いて、天を仰いだ。多少、難渋するだろうとは思っていたが、まさか逃げるとは。

 

「それにしても……」

 

 言いかけてルーカスはカーリンを窺った。青ざめた顔は疲れきっていて、今しも倒れそうだ。

 

「カーリン嬢、ひとまず今日は休んだほうがいい」

 

 声をかけると、一拍置いて、カーリンはハッと顔を上げた。

 

「も、申し訳ありません! あ、あの…なにか、申されましたか?」

「相当に疲れているようだから、体を休めるようにと言ったのだ」

「いえ! 大丈夫です。お気遣いさせて、すみません」

 

 一生懸命に背筋を伸ばして言う姿は、痛ましさしかなかった。ルーカスは一息ついてから、厳しい顔になって命令した。

 

「いや、駄目だ。今からクランツ男爵と密談があるのでな。すまないが、退席してもらおう」

 

 はっきりと退出を命じられ、カーリンは恥ずかしそうに、頭を下げて謝った。

 

「す、すみません。気が回らなくて……」

 

と言うのは、おそらくルーカスがさっき言った「体を休めろ」というのが、退席を求める婉曲な言い回しだと思ったからだろう。

 ルーカスはカーリンの誤解をあえて解こうとは思わなかった。すぐに女中を呼ぶと、客室に案内させた。

 

「それにしても……まさか実の母と弟がそんなだとはな」

 

 ルーカスはカーリンがいなくなってから、嘆息混じりに先程言いかけた言葉を続けた。

 エーリクはカーリンの前であったので、極めて抑えた表現をしていたが、それにしても聞くだに苛立たしい関係性だ。弟ばかりを異様に依怙贔屓(えこひいき)する母親に、久しぶりに会った姉の話をまともに聞こうともせず、幼児のように暴力を振るう弟。

 ルーカスの予想としては、カーリンの事情を聞けば、母親は渋々ではあっても受け入れるであろうと思っていたのだ。

 いくら可愛がっている息子のことが心配とはいえ、とうとう娘が初潮を迎えたと知れば、()()()()母親ならば、そのまま娘に男のフリして、近侍を勤めろなどとは言わないだろう。ましてこちらでは、その息子の病気についても了承した上で、医師による診察もしようと申し出た。ファルミナの片田舎で療養するよりは、より良い治療が受けられるだろう……と、()()()()親であれば考えると思ったのだ。

 そう。()()()()()()()()

 

「正直、あの弟では無理だろうと…僕は思いました」

 

 エーリクはカーリンがいないので、はっきりと言った。

 

「我儘で横暴で、とてもじゃないですけど、近侍の役目を担うのは無理だと思います。だけど、彼を連れて行かないと……カーリンをこのままにもしておけないから、ひとまず連れて行って、ベントソン卿に会ってもらって、判断してもらおうと思っていたんです」

 

 どこまでも実直なエーリクをねぎらうように、ルーカスはぽんと軽くその肩を叩いた。

 今更ではあるが、少々焦りすぎたきらいがある。キャレがカーリンという女であることに驚いて、焦って、事を急ぎすぎた。

 

「すまなかったな、エーリク。お前にも色々と面倒をかけた。お前は公爵邸に戻れ。小公爵様に報告を済ませて、少し休むといい」

 

 エーリクはすぐに立ち上がった。彼もまた、自分がここにいることを望まれないとわかったのだろう。だが、やはりどうしても気にかかることがあった。

 

「あの、カーリン……嬢については、どうなるのでしょう?」

「そのことも含めて、今から考える」

 

 ルーカスの返事にエーリクはしばらく言いにくそうに下を向いていたが、やがて思いきった様子で顔を上げた。

 

「あの! カーリンをそのまま近侍として……」

「駄目だ」

 

 ルーカスはみなまで言わさず、即答した。

 これまで聞いてきたエーリクの話、その話をしているときの態度、現状を考慮すれば、真面目で堅物の最年長近侍がそう言うであろうことは、容易に想像できた。

 まして好意のある相手であるならば、なおさら力になってやりたいと思うのも無理はない。(もっとも、この鈍感な近侍の少年は、その好意の種類をまったく自覚していないようだが)

 

 一方、エーリクは一切の妥協の余地もないルーカスの返答に、力なく項垂れた。

 わかっていたことだった。そんなことは許されない。なにより彼らの主人であるアドリアンが決して赦さないだろう。一昨日のアドリアンの態度からも、それは明らかだった。

 キャレがカーリンという()であることがわかって以降、アドリアンがカーリンと目を合わせたのは、糾弾したときくらいで、その後は見向きもしなかった。

 はっきりとした拒絶と、苛立ち、嫌悪。ここまで信頼を失って、近侍でいることなど許されるわけがない。

 それでも訊いてしまったのは、カーリンがそれこそ必死に、床に頭をこすりつけるようにして、エーリクに頼み込んできたからだった。

 

 

***

 

 

 (キャレ)と母親が失踪したとわかったとき、エーリクはすぐに探そうとした。朝方に出たのであれば、(イクセル)を走らせれば、どこかで見つけ出すことも可能かと思ったからだ。

 だがカーリンは出ようとするエーリクを止めた。

 

「お願いです! 弟のことは、諦めてください!」

「そんな訳にはいかないのは、わかってるだろう?」

「無理なんです! キャレには無理です。私も久々にこっちに戻って来て、わかりました。あの子には、小公爵さまの近侍なんてお役目、できっこありません!」

 

 エーリクもそれには同意できた。だが、ルーカスから連れてこいと言われている以上、ひとまずは何としても連れて帰らねばならない。その上で(キャレ)の性状を見て、判断してもらうしかない。そう思っていたのに、当人が逃亡したとなっては……。

 

「……俺も正直、お前の弟に適性はないと思う。でも、決めるのは俺たちじゃない。それはわかっているだろう?」

「わかってます……でも、お願いです! どうか、お願いします! 私を連れて、戻ってくれませんか?」

「そんなこと……」

 

 できるわけがない、と……エーリクには言えなかった。

 本来、連れて帰らねばならないキャレをこのまま逃し、カーリンを連れて帰れば、事態は解決しないまま、エーリクは叱責を受けるだろう。だがこのままここにカーリンを残せば、母親と弟をなくした彼女が、今まで以上に孤立するのは目に見えている。

 オルグレン家のほうでは、弟のキャレはまだ公爵邸にいると思われているから、母親だけが失踪したことになるだろうが、そのことも含めてカーリン()()が責められ、ひどい扱いを受けるに違いない。

 エーリクが悩んでいる間も、カーリンは必死に、それこそエーリクの腕に縋りついて、頼み込んでくる。

 

「お願いします! どうか、お願いします!! せめて、ちゃんと謝りたいんです。騙すつもりはなかったんです。お願いです! 小公爵さまに……」

 

 エーリクは唇をかみしめた。カーリンの気持ちはわかるが、そう簡単に決めていいことではない。それに問題はほかにもある。

 

「この館の人間が、逃げた母親と弟を見つけたらどうする? あの二人が捕まったら、今回、俺たちがここに来たことも話すだろう。すべてが明るみになれば、小公爵様のお立場を危うくするんだぞ」

 

 だがエーリクの問いに、カーリンは皮肉げな笑みを浮かべ、ゆるゆると首を振った。

 

「この館の人達が私達親子を探すなんてこと、有り得ません。ずっと厄介者と言われてきたんですから。面倒な仕事を押しつける相手がいなくなって、多少は困るかもしれませんけど、きっといなくなって、せいせいしたと思うはずです」

「しかし……」

 

 なおも渋るエーリクに、カーリンは言い重ねる。

 

「母とキャレも、見つかれば、公爵邸に連れて行かれると怖れていましたから、必死で身を隠そうとするでしょう。キャレは自分の身を守るためなら、きっと……なんとしてでも、逃げます。あの子はそういうことだけは、知恵が回るんです。病気になっても、そこだけは変わらなかった……」

 

 いなくなった弟の姿を虚空に見つめながら、カーリンのあきらめきった声が苦く響く。 

 

 エーリクは迷った。自分がどういう行動をとるべきなのか、カーリンにどう言ってやるべきなのか。

 考えるなかで、思い浮かんだのはカーリンの兄であるセオドア公子のことだった。このままカーリンをここに残していって、彼がすんなりと見逃すだろうか? 弟と妹が入れ替わったことに気付いたように、再び入れ替わって元に戻ったことに気付くのは有り得る話だ。そうなった場合、カーリンはまたあの狡猾な兄によって利用されるかもしれない……。

 考え込むエーリクのかたわらで、カーリンはしばらくボンヤリとしていたが、ハッと我に返ったようだ。あわててその場に跪くと、頭を下げて、必死にエーリクに懇願してくる。

 

「お願いです! 一度だけでもいいから……小公爵さまに、もう一度だけ会わせてください!……お願いします。どうか……」

 

 その涙声の混じった訴えを、心優しきエーリクに無視できるわけがなかった。最終的にエーリクはカーリンの希望を受け入れた。……

 

 

***

 

 

「カーリンは小公爵さまに一言だけでも、謝罪したいと言っています」

 

 エーリクが低い声に懇願を滲ませると、ルーカスは渋い顔で腕を組んだ。

 

「それは……小公爵様がお決めになることだ。報告したときにでも、申し上げるといい。お会いになると言うのならば、こちらに来てもらう必要はあるが……いずれにしろ、カーリン嬢が今のまま公爵邸に戻ることは有り得ない」

 

 きっぱりと言われて、エーリクはただただ黙って頭を下げると、肩を落としたまま出て行った。

 しょんぼりと出て行くエーリクを見送って、ヴァルナルはつぶやいた。

 

「いい子だな……」

 

 同じ近侍が女であったと知って、大いに戸惑っているであろうに、ひとまずは自分の気持ちを押しこめて、主であるアドリアンの命令のために働き、かつての同僚であったキャレ(=カーリン)の不遇に同情して、懸命に彼女を守ろうとしている。

 ヴァルナルは騎士の訓練として、何度かアドリアンと共に近侍らの稽古もつけていたので、自然、エーリクのことも、剣を通してその為人(ひととなり)を理解するようになっていた。兄のイェスタフと違い、大胆な切り返しや駆け引き技といったような、見た目にわかりやすい派手さはなかったが、どっしりと腰の据わった、剛直な剣使いだった。

 真面目で実直、というのがエーリクに抱いた印象で、その通りの行動にヴァルナルは感心していた。

 

「まったくだ」

 

 ルーカスも同意してから、やや皮肉げにため息をもらした。

 

「ま。エーリクも例の妹御のせいで、いろいろと大変だったようだからな。()()妹に比べると、カーリン嬢の気の毒な状況には、一層、憐れみを感じることであろうよ」

 

 年末に開かれたグレヴィリウスの夜会で、とんでもない失態を犯したエーリクの妹、ルイース・イェガは、あの後すぐに母親と一緒に領地へと戻った。実質的な謹慎だった。

 エーリクにそれとなく事情を聞いたところ、実際には妹よりも母親のほうが精神的に参ってしまったのだという。婉曲な非難の手紙がしばらく続き、他家の夜会などに出ても、グルンデン侯爵夫人の息のかかった貴婦人連中が、ヒソヒソと噂しあって、針の(むしろ)であったようだ。

 しかし母が弱るのに対して、娘の方は相変わらず大胆というか、思慮が浅いというか、エーリクにしつこくアドリアンの近況などを訊いてきたらしい。父母のどちらにも似ず、なかなか図太いお嬢さんらしい。

 もっともエーリクからその話を聞いたルーカスは、一切、妹にはアドリアンについての話をしないように厳命した。これ以上、あの娘に引っ掻き回されるのは御免である。

 

「それにしても、カーリン嬢についてはどうするんだ? ここでしばらく預かっておくのか?」

「あぁ……」

 

 ルーカスは苦い顔で頷いて、これからの予想される出方を考える。

 

 息子(向こうでは娘と思っているだろうが)と母が出奔したとなれば、おそらく当主であるオルグレン男爵に連絡はいくだろうし、セオドアも知ることになる。

 そうなればオルグレン男爵はさておき、セオドアは『キャレ』として送り込んだ妹に、母親たちの失踪について、何か知ってることはないかと尋ねてくるだろう。より確実な情報を知るために、直接会いに来るかもしれない。

 そのときにカーリンがセオドアを前にして、知らぬ存ぜぬとシラを切るのは難しそうだ。とてもではないが、今のカーリンに狡猾な兄の相手は手に余る。

 それにこの数日の変化は、確実にカーリンを中性的な子供から、女性にしていた。

セオドアは妹がこれ以上嘘をつくのが限界と知れば、すぐにも行動を起こすだろう。

 近侍として行っていたのが実は妹で、父がとんでもない失態を犯した……と、ハヴェルを通じて、訴えてくるに違いない。表向きは謝罪として。

 そうなれば公爵家として、オルグレン家を叱責しないでは済まされない。

 当主・セバスティアンは責任をとって隠居。近侍が女だと気付かなかった小公爵に対する醜聞が一斉に放たれ、人々は面白おかしく(さえず)り合うのだろう。

 こちらとしては、一番良いのは、向こうに貸しを作ることだ。出来うれば、セバスティアンに。セオドアを蚊帳の外にして、現当主のセバスティアンに恩を売ることができれば、あちらの思惑を潰すことができる。……

 

「ルーカス」

 

 考え込んでいると、肩を叩かれた。ヴァルナルがいつの間にか近くに来て、顔を覗き込んでいる。

 

「また先の先の、先の先まで考えているだろう?」

 

 ややあきれたように問われて、ルーカスは苦笑した。

 

「まぁ……そうだな」

「まったく。駒取り(チェス)でもそうだ。卿は考えすぎて、動けなくなる。もっと単純に考えろ。とりあえず、今一番せねばならんことは何だ?」

「今……か」

 

 ルーカスはそれについては、すぐに答えた。

 

「今せねばならんことは、カーリン嬢……いや『キャレ』とセオドアの接触を避けることだな。なにせこの二人が会うのは避けたい」

「だったら、このままここで(かくま)っておけばいいじゃないか」

「出来ないこともないが……できれば同じ帝都にいるという状況を避けたいんだ」

 

 ルーカスは半ば独り言のように、思案をめぐらせながら言った。

 カーリンをこのままここに匿うことは可能だが、セオドアは公爵邸に『(キャレ)』がいない理由をしつこく問うてくるだろう。

 

「俺も周辺には注意しているが、万が一ということもある。もしここに『キャレ』がいるとわかったときに、正面から面会を求められたら、会わせないわけにもいかん。一応、肉親だからな」

 

 下手にシラをきって面会を拒絶すれば、向こうが強硬手段に出ないとも限らない。

 ともかく『キャレ』は帝都にいる限り、どこまでも不安要素なのだ。

 それはセオドアだけのことではなく、カーリン自身の性格もまた危うい。

 アドリアンへの恋心は認めるが、その思慕が募るあまりに突飛な行動をしないとも限らない。そもそも弟に成り代わって、公爵邸に来るという大胆な行動をとる娘なのだから。

 

 ルーカスの話を聞いていたヴァルナルは、要点をまとめた。

 

「ふぅ…む。つまり時間的にも距離的にも離しておきたいというわけか」

「あぁ。しばらくの間『キャレ』には公爵邸を出てもらって、奴らに利用されないようにしたい」

 

 ヴァルナルは公爵の知恵袋とも呼ばれる友が悩む様子を、興味深げにみてから、自分もしばらく考える。

 答えは意外に早く出た。

 

「じゃあ、カーリン嬢を我が領地にお招きしようか?」

「……なんだって?」

「カーリン嬢をレーゲンブルトに連れて行けばいいじゃないか? そうなれば、おいそれと連れてこいとも言えないし、自分で行くにしろ距離もあるし。ともかくは一定期間、会わずには済むだろう」

 

 ヴァルナルの申し出がピースとして差し出されると、次々とルーカスの頭には今後の計画が絵を描くように映し出された。

 

「そうか……二人だけがいなくなるから問題になるわけだ。いっそ三人ともいなくなったとなれば……」

 

 つぶやいて、ルーカスはニヤリと笑った。

 

「さすがはクランツ男爵。いい一手を示して下さった」

「そうか?」

 

 ヴァルナルは首をかしげつつも、気分は良かった。切れ者と自他共に認められている公爵の右腕が、こうした駆け引き事で他者を褒めることは滅多とない。思わず頬が緩んだ。

 

「ま、ウチであればマリーもいるし、オリヴェルもいるから、カーリン嬢が寂しく思うことも少ないだろう」

 

 胸を張って請け負うヴァルナルに対し、ルーカスはこの件において一番協力を仰がねばならない人物のことを思い出した。

 

「おぉ、そうだ。クランツ男爵夫人には、迷惑をかけることになるな」

 

 妻のことを指摘されると、ヴァルナルは待ってましたとばかりに、自慢の妻についてのろけまくった。

 

「大丈夫さ。ミーナは本当に心優しい人間だからな。事情を話せば、むしろカーリン嬢に同情して、色々と世話を焼きたがることだろう。この前も怪我した雛鳥の面倒を見てたくらいだからな。ちゃんと怪我を治したら、空に放ってやって……今でも時々、庭の木に来るらしい。マリーが楽しみにしていて……」

 

 ルーカスは軽く天を仰いだ。

 この前の飲み会でもそうだが、ミーナの話になるともう止まらない。止める手立てのないまま、いよいよミーナが少女の頃に世話してやって、そのまま懐かれたという蛇の話に及んだときに、ちょうど都合よく扉がノックされた。

 

「おぅ! 誰だ? 入れ」

 

 ルーカスが殊更大きい声で返事すると、やや驚いたように、目を丸くしながら入ってきたのは妹のハンネだった。

 

***

 

 ハンネ・ベントソンは、ベントソン家の末娘である。

 若かりし頃から壮年に至っても、女性関係に不自由したことのない父は、生涯に三人の妻を持ち、九人の子供を持った。ハンネは父の三番目の妻が生んだ唯一の子供であったが、母はハンネを生んだ一年後に役者の男と浮気して、あっさり姿をくらましてしまった。

 父譲りの明るいハニーブロンドに、ベントソン家固有ともいえる青い瞳、頬の雀斑(そばかす)は愛嬌だと、生まれながら伊達男(自称)の父はハンネを可愛がってくれたが、その父も八歳のときに亡くなり、ハンネはほぼ姉と兄たちによって育てられた。

 彼らは幼い妹をただ甘やかすこともなく、かといって母の違うハンネをいじめるようなこともなく、それなりに程よく厳しく育ててくれた。

 そのせいかハンネは末娘にありがちな我儘放題のお嬢様になることもなく、むしろ八人の兄姉らを極めて冷静に観察したうえで、自らの持ち回りに合った行動をするという、次兄カールに言わすと「ちゃっかり娘」に育った。

 

 そんなハンネにとって、一番上の兄であるルーカスは、もっとも一筋縄ではいかない人物だった。

 父譲りの伊達男気質を多分に受け継いだ軽薄な男にみえて、その実、この二十四歳年上の兄が本心を見せることは、ほぼなかった。いつもどこか腹に一物ありそうな、意味深な微笑を浮かべている兄の、めずらしく屈託ない顔に、ハンネは少々戸惑った。

 

「なに? 兄さん、妙に嬉しそうなんだけど……」

 

 兄と同じ青い瞳が訝しげに窺う。

 そんな妹の表情に、ルーカスは苦笑した。

 

「なんだ。俺が嬉しそうだと問題か?」

「問題じゃないけど、なんかありそうで」

「お前、兄を何だと思ってるんだ?」

「油断ならない金髪キザ野郎よ」

「…………」

「言っておくけど、これは私だけの意見じゃなくて、エイニ姉さんはじめとする女一同の総意よ」

「もういい。用件を言え、用件を」

 

 ルーカスは妹の背後に控えた他の姉妹たちの影を追い払うように、手をヒラヒラ振りながら言った。この姉妹連合(元妻も含む)を敵に回して勝てるわけがない……。

 ハンネは軽く鼻をならすと、腰に手を当て、座っている兄を厳しく見下ろした。

 

「あの子のことよ。カーリンちゃん。聞けば昨日も今日も馬に乗って移動してたっていうじゃないの。可哀相に。ただでさえ()()の時期は、お腹が痛くなったり、熱っぽくなったり、色々とつらいのよ。最低でも三日は安静にしておくべきなの!」

 

 妹からの思わぬ抗議に、ルーカスはきまり悪そうに目線を泳がせた。

 ヴァルナルもさすがに気まずくなって、なるべく気配を消そうとする。

 大の男二人が、実際にでかい図体を縮こまらせる様子を、ハンネは腕を組んであきれたように見つめた。

 

「まったく。どうして最初に私に聞かないのよ。私じゃなくっても、兄さんだったら、いくらでもそういうことに詳しい女性には事欠かないでしょ」

「……どういう意味だ、それは」

「最近もどこぞの未亡人と、夜の公園でデートしてたらしいじゃない。今の恋人じゃなくったって、相談できる相手はいるでしょ」

 

 ルーカスは苦虫を噛み潰して、しばらく黙った。下手に否定しても肯定しても、今は妹の毒舌の餌食になるのが目に見えている。

 一方、ヴァルナルは兄と妹の間の、緊張感とも違う微妙な空気にモゾモゾしつつ、おそるおそる口を開いた。

 

「その……ハンネ嬢。カーリン嬢には近々レーゲンブルトに行ってもらおうと……思って……いるんだが……」

 

 言っている間にも、ハンネの青い目がジイーッとヴァルナルを凝視する。

 

「いつ?」

 

 ハンネはヴァルナルが言い終わるやいなや、鋭く兄に問うた。

 

「……早ければ早いほど」

「まさか今日とか明日とか言うんじゃないわよね?」

「………無理か?」

 

 ルーカスが小さい声で尋ねると、ハンネは頭を押さえた。

 

「あの子の体調考えてる? 寝れば治るような状態じゃないわよ。体もだけど、本当に精神的に参っちゃってるの。それなのにレーゲンブルトまでなんて、そんな長旅……まさかと思うけど、一人で行かせるわけじゃないわよね?」

「まさか。年若い娘一人を行かせるわけないだろう。レーゲンブルト騎士団から一人ついて行って……あぁ、そうだ、カールに行かせよう」

 

 ルーカスはいつもこういうときに身軽に動ける弟を思い出し、ちょうどよいとばかりに言ったが、ハンネは強硬に反対した。

 

「まぁ……駄目よ! カール兄さんは、ヤーデとせっかくまとまりそうなんだから」

 

 妹からの思わぬ報告に、驚いたのはルーカスだけではない。ヴァルナルも唖然となった。

 

「え? あいつ、ようやく相手できたのか?」

「ヤーデ? ……それは、まさか……」

 

 それぞれに問いかけられて、ハンネはキョトンとしながらも冷静に答えた。

 

「えぇ。そうよ。ヤーデ・ニクラ准男爵令嬢。もちろん、クランツ男爵はご存知よね? 奥様の養子先なんだから。知らなかった? あの二人、付き合ってるの」

 

 まったく予想もしていなかった展開だった。ポカンとしている男二人に、ハンネが語ったところによると。

 

 前年、弟のアルベルトにも先を越されて腐っていたカールではあったが、ヴァルナルの結婚のために忙しく働きまわっている間、ミーナとの養子縁組交渉で何度となくヤーデ・ニクラと会うことが増えていった。もちろん当初は業務上の付き合いではあったが、婚儀の後にも、何かしら連絡は取り合っていたのだという。

 

「で、カール兄さんがこの新年に帰ってきてからは、何度も会ってるうちにデートしてるみたいになっちゃって、そういう話になったみたい」

 

 ルーカスは長い溜息をついて、背もたれに凭れかかりつぶやいた。

 

「あーあ…手頃に使えるやつがいなくなったなー」

 

 一方、ヴァルナルも深く息を吐いてから、しみじみとつぶやく。

 

「縁で繋がる縁か……」

 

 勝手にしんみりしている男たちに喝を入れるように、ハンネがパンと手を打った。

 

「ともかく! そういうことだから、カール兄さんは駄目。アルベルト兄さんも、まだ新婚だから駄目。それ以外の人選で、もちろん馬車を用意してよ。まかり間違っても、今回みたいに馬に乗せての移動なんて言語道断。その上で、付添人として私も同行します!」

 

 当たり前のように宣言されて、ルーカスは顔色を変えた。

 

「お前が? お前も一緒に行くってことか?」

「当然よ。あんな若い()と、騎士だけで行かせる気? 言っておくけど、カーリンちゃんは()()の手当ての仕方だって、まだよくわかってないの。私がついて行ってあげないと、一人じゃ困っちゃうわよ」

 

 それについて言われると、男二人はもはや黙り込むしかない。

 ルーカスは渋い顔になって、眉間の皺を揉みながら、妹に尋ねた。

 

「で、つまるところお前の目的は?」

 

 話の早い兄の質問に、ハンネはにっこり笑った。

 

「そりゃあもちろん、クランツ男爵夫人に会いたいからよ! ヤーデから聞いたの。とーってもキレイで、()()()人だって! カール兄さんも……あのアルベルト兄さんでさえも、褒めてたのよ。それに夜会で公爵様が、わざわざクランツ男爵の奥様に贈り物したって、評判になってたでしょ? ご存知? クランツ男爵。貴方の奥様は今、帝都の一部の社交界では、幻の男爵夫人なんて呼ばれておいでよ」

「は、ハハ……」

 

 さっきまで聞いてるほうが面映ゆいほどに妻自慢をしていたヴァルナルでさえも、このハンネからの噂話には、愛想笑いを浮かべるしかなかった。

 まさか自分の知らない間に、そこまで妻が話題になっているとは思っていなかったのだ。正直なところ、綺麗で心優しい、思慮深い、この上なく美しい妻であるということに異論はないが、いざミーナが帝都に来たとき、そうした好奇の視線に立つのは、あまり喜ばしくない。

 それはルーカスも口には出さなかったが同意見だった。なにせ目立つのは色々な面で困るのだ。

 しかしハンネは男たちの困惑した顔にも平然としたものだった。

 

「そういうことで、私はカーリンちゃんと一緒にレーゲンブルトに行くから。クランツ男爵の奥方と、お子様たちへのプレゼントを買う時間くらいは下さるわよね?」

 

 言うだけ言って去ろうとする妹に、ルーカスはあわてて声をかけた。

 

「おい、ハンネ。言っておくが……」

 

 しかしハンネは兄譲りのしたたかな笑みを浮かべて振り返る。

 

「わかってるわよ。カーリンちゃんのことは、内緒なんでしょ」

「…………」

 

 ルーカスは嘆息して顎をしゃくると、妹に出て行くよう促した。

 詳しい事情についてはもちろん話していないが、妹は相変わらずの観察力で、なんとなしにカーリンの存在が知られてはいけないものだと感じ取っていたらしい。

 まったく、我が妹ながら聡い。―――

 

 似た感想を持ったらしいヴァルナルが、感心したように言ってくる。

 

「随分としっかりされるようになったものだな、ハンネ嬢は。いくつになられたんだったかな?」

「二十歳だ。息子(サビエル)と同じだからな」

「あぁ、そういえばそうだったな。いやぁ、そう考えたら卿の父上も、大したものだな。孫と同じ年の娘を授かるとは」

「……俺の父のことはさておき、卿こそどうなんだ?」

「は?」

「四人目」

 

 ヴァルナルはしばらく考えて、意味を悟ると、一気に顔を赤くした。

 

「そっ…れは、まだっ……いや、まだ…というか、考えてはいないというか……」

「やれやれ。行くぞ、純情中年」

 

 ルーカスは肩をすくめると立ち上がって、ヴァルナルを誘った。

 

「ようやく不肖の弟が(かたづ)くらしいからな。一応、兄としては祝いをしてやらんといかんだろう。卿も一緒に祝え」

「もちろん!」

 

 ヴァルナルもすぐに立ち上がり、二人はそれぞれに弟であり、部下でもあるカールをどうからかってやろうかと、ニヤニヤ笑いあった。

 




次回は2024.01.28.更新予定です。


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第百七十六話 アドリアンの不信とセオドアの来訪

 同日。

 帝都、公爵邸内の一室。

 小公爵アドリアンの部屋にいるのは、エーリクと、マティアス、部屋の主であるアドリアンの三人だった。

 テリィは母親から連絡があり、一緒に出掛けている。この頻繁な外出に、いつもならばマティアスは文句タラタラであったが、今日は比較的すんなりと送り出した。理由は、テリィがいてはできない話をするからだ。

 

 キャレがエーリクと共にファルミナに行ったあと、マティアスはルーカスに呼ばれて、キャレが女であったことを聞かされた。その際に、この件に関してきつく口止めされた。

 

「特に、同じ近侍のチャリステリオ・テルン。奴には漏らすな。口が軽いうえ、必ず母親に話すだろうからな。テルン子爵は信頼できる人だが、あの母親は最近グルンデン侯爵夫人に近づきつつある。重要な案件について、奴は外せ」

 

 同じ近侍であっても、全員が全員アドリアンに忠誠を誓ってやって来るわけでないことはわかっていた。中には敵対勢力があえて間諜(かんちょう)として送り込む場合もある。それは当人がわかっていることもあったし、自覚のないときもあった。

 そもそもキャレも、オルグレン家がハヴェル公子勢力と繋がっていたために、秘密事項については疎外される立場だったのだ。

 マティアスの母・ブラジェナもまた、オルグレン家が大人しく近侍を送ってきたことを(いぶか)しんでいた。

 

「ファルミナの少年には、慎重に接しなさい」

 

と手紙に書いてきていたが、果たして思いもよらぬ事態に、マティアスはしばらく混乱していた。だが、アドリアンはやや沈んだ様子ながらも、平生(へいぜい)とそう変わらず冷静で、その姿を見てマティアスも平常通りにすることを心がけた。

 ルーカスの話では、ファルミナからは新たに…というべきか、入れ替わりで()()のキャレが来ると聞き、また彼には一から教えてやらねばならぬと意気込んでいたのだが……。

 一人、悄然(しょうぜん)と帰ってきたエーリクを見て、マティアスは交渉が失敗したと悟った。

 

 エーリクからファルミナでの顛末(てんまつ)を聞いたアドリアンは、すぐに返事せず、しばらく考え込んでいた。

 

「それで、結局カーリン嬢の願いを聞き入れて、一緒に帰ってきたということか?」

 

 マティアスもハッとなるほど冷たく、アドリアンは問いかけた。エーリクも感じたのだろう。コクリと頷いてから、少し困惑したようにアドリアンを見上げた。

 

「……おかしいと思わなかったのか?」

 

 鳶色(とびいろ)の瞳は、(ひざまず)くエーリクを無表情に見つめている。

 

「は……おかしい…とは?」

「起きた時には母と弟の姿はなく、カーリン嬢の持っていた金も盗まれていた。そうして彼女は君を起こし、弟には近侍の役目は無理だからと、自分を連れて帰るように頼んできた。……僕には、カーリン嬢が母と弟に金をやって、しばらく身を隠すよう指示したうえで、狂言を演じた……ようにも思える」

「まさか……!」

 

 エーリクは絶句した。あの日の朝の、カーリンの姿を思い出して、ブンブンと首をふる。

 

「そんな訳ありません! カーリンは母親も弟も、必死で説得しようとしていたんです。今回のことも反省して……。ここに戻ってきたのも、ただひとえに小公爵さまに一言お詫び申し上げたいと……その一心です!」

「無用だ」

 

 エーリクはカーリンに代わって弁明しようとしたが、アドリアンは冷たく拒絶した。その上で、エーリクにも疑いの目を向けた。

 

「エーリク。君はこの帝都に来てから、キャレ……カーリン嬢と同室だったな。気付かなかったのか?」

「………え?」

「知っていて、黙っているよう頼まれたか?」   

「まさか! そんな訳ありません」

 

 エーリクが即座に否定すると、これにはマティアスも同調した。

 

「それは有り得ません、小公爵さま。エーリクの性格は、小公爵さまも、十分に理解しておいででしょう。キャレが女だとわかっていて、誤魔化すだとか……そんな嘘をつける人間ではありません!」

「あぁ……エーリクは、そうだ」

 

 アドリアンは静かに頷いてから、ボソリとつぶやく。

 

「……キャレも……そうだと思っていた」

 

 自分と同じ年の、どこか鈍臭(どんくさ)くて、引っ込み思案の()()

 ルーカスからは、ハヴェル公子一派であるオルグレン家から来るので、一応、注意するようにと言われていた。だが、やってきたのはオルグレン家で疎外されて育った庶子で、どこか自信なさげな様子が、オヅマと出会う前の自分を思い起こさせた。

 アドリアンは()にも自信を持ってほしかった。自分もまたオヅマのように、()に希望を抱かせる存在になれると思った。だが……

 

「……キャレは嘘をついていた。一度、嘘をついた人間を信じることは難しい」

 

 重く苦いその言葉に、エーリクとマティアスはうつむいて黙り込んだ。

 顔には出さないものの、キャレの嘘によって、もっとも傷ついているのはアドリアンなのだ……。

 マティアスとエーリクはそれぞれにアドリアンの心情を思いやり、特にエーリクはアドリアンにカーリンに会ってもらうよう説得するのはあきらめた。

 どんな言い訳をしようとも、どれだけ謝ろうとも、アドリアンの心に一度根差した不信は、そう簡単に取り払えるものではない。

 

「それにしても、これからどうするのだろう? キャレの不在については、今は外出しているとだけ言っているが……何日もとなると、さすがにテリィも不審に思うだろうし」

 

 マティアスは不透明な先行きに困惑していたが、そう時を置かずしてルーカスから連絡を受けた。

 

「キャレ公子はファルミナにいる実母から、()の体調が悪いと連絡があり、しばらくファルミナに帰省することになった……とのことです」

 

 夕食時にサビエルから聞かされた近侍たちは、互いに目配せして、事態の成り行きを考えた。

 一人、のんびりしていたのはテリィだ。

 

「へぇ。キャレ、ファルミナに戻ったんだ。お姉さんなんかいたの?」

「……そのようだな」

 

 マティアスは素知らぬ顔で相槌をうち、エーリクも、アドリアンも黙した。

 彼らは、この数日の騒動が嘘のように、平生と変わらぬ時間を過ごした。

 いつもどこか自信なさげな、伏し目がちの少年『キャレ』は、もういない。『キャレ』の不在に、彼らは少しずつ慣れていった。……

 

 

 

***

 

 

 

 マティアスはルーカスから近いうちに、オルグレン家から連絡が来ると言われていた。キャレの母親らの失踪を知ったら、すぐにも誰かキャレに会いに来るだろう…と。

 案の定、キャレ(=カーリン)がファルミナから戻ってきて二日後に、オルグレン家からやって来たのは、異母兄セオドアだった。

 

「キャレの実母と()が姿を消してしまいまして。弟が何か連絡を受けていないかと思い、来たのですが……キャレはどうしました?」

 

 セオドアはいかにも心配しているふうを装って言ったが、その目は油断なくマティアスの挙動を探っていた。

 マティアスはそれとわからぬよう、唾を飲み下してから、澄ました顔で言った。

 

「どういうことでしょう? 我らはキャレ公子が、実の母君から連絡を受けて、ファルミナに戻ったと聞いております」

「キャレがファルミナに戻った? そのようなこと、聞いておりません」

 

 セオドアが責めるように言ってくると、マティアスはムッとなって言い返した。

 

「それをこちらに問われても困ります。我々も、そう聞かされただけですから。オルグレン家にはとっくにご連絡がいっていると思っておりました。そちらの領地のことですから。行き違いになっていることはありませんか?」

「それは……聞いて、おりません」

 

 セオドアは小さい声で返事しながら、落ち着きなく目を泳がせた。

 本来、キャレと親元であるオルグレン家との意思疎通が普通にできていれば、こうした問題は起こりようもない。こうして訪ねてきていること自体、普段からキャレとオルグレン家が相互に密な連携を取っていなかったことを示している。それは一族をまとめる当主にとっても、その後を継ぐ嫡嗣(ちゃくし)にとっても、恥ずべき事態だった。

 

「あの……キャレの実母から連絡ということですが、本当に実母からだったのですか?」

 

 それでもセオドアは簡単に自分の非を認めたくないのか、おかしなことを聞いてくる。マティアスは眉をひそめた。

 

「僕がその連絡を受けたわけでもないので、わかりかねます。どうしてそのようなことを問われるのですか?」

「いや……キャレの母親は文盲(もんもう)ですから、文字が書けるはずもなく……」

「そのようなこと、貴家にだって執事なり従僕なり、代筆できる者はおりますでしょう?」

「我が家にあの女の代筆をしてやるような者……」

 

 思わず口走ったセオドアの言葉に、マティアスは鋭く聞き返した。

 

「まさか、たとえ召使いとはいえ、当主の子を生んだ女性に対して、危急の用件を代筆することすら拒むような、そんな不届きな下僕がいるのですか?」

「えっ……い、いや! そんなことは……」

 

 セオドアはマティアスの冷ややかな視線に、強張った笑みを浮かべた。「確かに…誰ぞ従僕が書いたのやも……」

 マティアスは震えそうになる手をしっかりと互いに握りしめながら、ふぅと一つ息を吐くと、いつも通りのしかつめらしい顔で問いかけた。

 

「オルグレン家においてそのような認識であるならば、キャレは一体、どこに行ったのでしょうか? まさかと思いますが、近侍の役目を放擲(ほうてき)して、その実母らと一緒に行方をくらましたのではありませんよね?」

 

 マティアスが詰めていくと、セオドアはあわてて立ち上がった。

 

「いや、私もあわてて参りましたので、家内の者にきちんと話も聞かず……もう一度、確認してみます」

「そうなさって下さい。こちらとしても、十日間ほどの滞在と聞いておりますが、あまりに長くなるようでしたら、近侍の役目についても考えてもらわねばなりません」

「もちろんです。もちろん……すぐにも帰るように申し伝えますとも!」

 

 這々(ほうほう)(てい)…とまではいかずとも、セオドアに文句をつけさせることなく追い返したマティアスを、ルーカスは称賛した。

 

「さすが稀代の口達者、ブラジェナ女史の息子だな。あの詰め方、大したものだ」

 

 だがマティアスはあまり喜べなかった。今も背中に冷や汗が伝うのを感じながら、自分にはああいった交渉は向かないことを思い知るばかりだ。母であれば、いっそ嬉々としてやっていたかもしれないが。

 マティアスは自分の未熟さをこれ以上語られるのも億劫であったので、早々に話題を変えた。

 

「しかし、キャレ…カーリン嬢についてはともかく、失踪した母親と弟のキャレについてはどうするんです? 彼らがセオドア公子に見つかったら、カーリン嬢がファルミナに行ったことも、向こうの知るところに……」

 

 心配そうに尋ねるマティアスに、ルーカスはいかにも不思議そうに小首をかしげた。

 

()()()()がファルミナに行った? 何を言っているんだ、マティアス。ファルミナに行ったのは、()()()だ。病気の姉に会いに()()()()()()()のだろう? そこで()()()()が行方不明となったのか、死亡したのかは知らぬが、気の毒なことだな。動揺した()()()()()()()、失踪するのも無理はない。彼らはきっと、()()しているのだろう」

 

 滔々(とうとう)と、さも当たり前のように述べるルーカスに、マティアスはゾッとした。

 要するに、こちらにとっても、セオドア公子にとっても、切り札となるのはカーリンなのだ。彼女を手中にしておくことが、向こうに付け入る隙を与えないために、最も重要なことであって、キャレとその母親がたとえセオドアの手に落ちようとも、大して有効な反証とはなり得ない。

 ましてエーリクからの話を聞く限り、キャレの知能にやや問題があるとなれば、彼らの言葉はまともに取り合ってもらえないだろう。(いや、()()()()()()のだ。この場合)

 無情だが、この世で弱者はいとも簡単に利用され、救われることは少ない……。

 

「………」

 

 また冷や汗が背筋を流れる。自分はやはり大グレヴィリウス公爵家の、権力争いの中枢にやって来ているのだと、今更ながらに自覚する。

 生唾を飲み込むと、マティアスはルーカスに(なら)って問いかけた。

 

「それで、結局キャレ…ではなく、()()()()はどこに行くことになったのでしょう?」

 

 ルーカスはニヤリと頬を歪めると、それまでしていた肩の凝る話を追い払うように、明るく言った。

 

「あぁ、しばらくレーゲンブルトに行ってもらうことになった」

「レーゲンブルトというと、オヅマの……」

「あぁ、そうだ……」

 

 ルーカスは頷いてから、ハッと思い出したように顔を上げた。

 

「そうだ。そういえばオヅマがいたな。アイツ、もう修行も終わってアールリンデンに戻っているだろうから、ついでにレーゲンブルトまで送らせよう。カーリン嬢も見知った顔がいたほうが、多少は安心できるだろうし、オヅマが仲介すれば向こうの家族も受け入れやすいだろう」

「それはそうですが……そもそも、オヅマはキャレが女だということを、知らないのでは?」

 

 マティアスが冷静に尋ねると、ルーカスはポカンと口を開けた。

 

「…………そういや、忘れてたな」

 




引き続き更新します。


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第百七十七話 カーリンの旅立ち

 その後はゴルスルム通りのベントソン家において、着々と準備が整えられ、いよいよレーゲンブルトにカーリンたち一行が旅立ったのは、ファルミナから戻って十日ほど過ぎた頃のことだった。

 

 思ったよりも時間がかかったのは、これからの旅程を考えて、カーリンの体調が十分によくなるのを待ったのと、気忙しいベントソン一家の人々が、帝都からそれぞれの自宅に帰る前に、カールの結婚式を強行させたからだった。

 これはニクラ家の方でも、いつまでも行かず後家になっている娘が、本当に結婚するのか気を揉んでいたため、(当人らを除いた)両家の堅い結束によって実現したことだった。おそらく二人だけで進めていたら、三年後になっていただろう……というのが、抗議してきた次兄(カール)に対するハンネと姉たちの総意だ。

 

 アドリアンは見送りなどするつもりはなかったが、行き先がレーゲンブルトと聞いて、嫌々ながらも足を運んだ。

 オヅマ達への手紙を同行するマッケネンに託すため…と理由をこじつけたが、実際にはレーゲンブルトに行きたい気持ちが抑えられなかったからだ。

 

 

***

 

 

 カーリンをレーゲンブルトに()ると聞いて、当初、アドリアンは反対した。

 

「どうしてレーゲンブルトなんだ!?」

「考慮の結果です。今はカーリンをセオドア公子に会わせるわけにはいきません。向こうにきっかけを与えてしまいますからね。かといってこのまま帝都に残しておいては、いずれ見つかる危険性もありますし、もし見つかって堂々と兄として会いに来られたら、こちらとしては現状、止めることはできません。物理的にも時間的にも距離を置くことが必要なのです」

 

 ルーカスの説明はもっともだと理解できたが、それでもアドリアンは納得がいかなかった。

 

「だからって、どうしてレーゲンブルトなんだ!?」

 

 不満げに問うたその言葉には、多分に嫉妬に近いような、複雑なものが含まれていた。だが、それも仕方ない。アドリアンにとって、レーゲンブルトは特別な地だった。そこでアドリアンは精神的に生まれ変わり、オヅマやマリー、オリヴェルといった、初めての友を得ることができたのだ。

 

 今回、カーリンがそこに行くことで、マリーやオリヴェルがカーリン()()楽しく過ごすのだと思うと、アドリアンは面白くなかった。

 マリーの性格からして、きっとカーリンを快く受け入れ、やさしく世話してやってくれるだろうことは目に見えていた。オリヴェルは新たな友達に少しばかり戸惑うだろうが、なんだかんだで親しくなっていくことだろう。オヅマだって驚くには違いないだろうが、三歩歩いて振り返ったら、もう「カーリン」と当たり前のように呼びかけていそうだ。

 自分のこの気持ちが(はなは)だ独善的なものだとわかっていても、アドリアンはどうしても腹立たしかった。

 ましてそこに自分がいないとなれば、なおさら。

 

「一緒に行きたいと、お思いですか?」

 

 ルーカスがアドリアンの心中を見透かして尋ねてくる。

 すぐさまアドリアンの瞳が、期待にきらめいた。

 

「行っていいのか?」

「それはもちろん……駄目です」

 

 あっさりと言うルーカスの顔には、悪戯(いたずら)っ子のような、少し意地悪な笑みが浮かんでいる。

 一瞬膨れ上がった希望が、一気にひしゃげて、アドリアンはムッと押し黙った。

 コロコロと豊かに揺れるアドリアンの表情に、ルーカスは大声で笑った。

 

「ハハハハッ! 小公爵様も、ずいぶんと素直になられましたな」

「ふざけないでくれ、ベントソン卿」

「いや、失敬。ようやく年相応になられたと思いましてね」

 

 しみじみと言うルーカスを、アドリアンは睨みつけた。

 我ながら子供っぽい言動だと思うし、少し恥ずかしくもある。フイと目を逸らすと、軽く息をついてから、いつもの大人びた顔つきになって言った。

 

「キャレ……カーリン嬢は今まで男として過ごしてきたから、服もないだろう。彼女が困らないように、用意を整えてやってくれ。これまで近侍として働いた……(ねぎら)いとして」

 

 ルーカスは目を細めた。

 さっきまでカーリンがレーゲンブルトに行くことに、ほとんど嫉妬といってもいいほど渋っていたというのに、一方でこうして身の回りの品にまで配慮する。本当にこの少年は、公爵(エリアス)公爵夫人(リーディエ)、二人の子供だと再確認する。

 

「かしこまりました」

 

 ルーカスは深々と頭を下げた。下げながら、再び忠誠を新たにする。将来、グレヴィリウス公爵家を継ぐ、小さな(あるじ)に。――――

 

 

***

 

 

 だが、実際に見送りとなれば、やはりアドリアンはカーリンに対して厳しかった。カーリンの背後に停まっている焦茶色の質素な馬車を恨めしく見つめる。それに乗ればレーゲンブルトに行けて、オヅマ達にも会えるのだと思うと、むくむくと苛立ちが湧いてくる。……

 

 一方、カーリンはまさか会えると思っていなかったアドリアンの姿に涙を浮かべそうになった。しかし自分を見るその目は、女とバレたあの日と同じように冷たい。

 カーリンは必死に唇を噛み締めてこらえた。

 

 アドリアンは本当であれば、カーリンに話しかける気など毛頭なかった。だが、いざ目の前にすると、どうしても釘を差しておきたくなった。

 

「一つだけ、言っておく。オヅマの妹であるマリーと、弟のオリヴェルは、僕にとって、とても大事な友達だ。彼らを……傷つけるようなことをしたら、決して許さないからな」

 

 アドリアンの鳶色(とびいろ)の瞳は、厳しく、カーリンを睨みつけていた。

 

「……は…い……」

 

 カーリンはかろうじて返事したが、みるみるうちに、止めようもなく涙があふれた。あわてて頭を下げると、すぐに馬車に乗り込む。

 

「気をつけてな」

 

 エーリクがあわてたように声をかけたのにも、気付かなかった。

 

 ルーカスは念には念を入れていた。姉たちが帝都から自宅へと帰るのに合わせて、ハンネとカーリンをレーゲンブルトに向かわせたのだ。

 その日にベントソン家からは、数台の馬車が連なって出て行ったが、新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)からの帰還となれば、おかしく思われることもない。実際に、帝都での新年行事を存分に楽しんだ人々が、今後に予想される混雑を避けて、早めの帰路につくのは珍しいことではなかった。

 

「旅行には、いい季節ね」

 

 カーリンの前に座ったハンネが、窓に流れてゆく景色を見ながら、いきいきとした表情で言った。

 

「……はい」

 

 カーリンはかろうじて返事したが、泣き腫らした顔は、憂鬱に凝り固まっていた。

 アドリアンの冷たい面差しが忘れられない。あからさまな嫌悪と苛立ちが、細かくカーリンを切り刻む。

 だが、カーリンが泣いてしまうのは、そんな冷徹な態度よりも、アドリアンの優しさを思い出すときだった。

 

 慣れない騎士団での稽古で、いつもカーリンを気にかけてくれていた……。

 家庭教師からの宿題に四苦八苦するカーリンに、丁寧に教えてくれた……。

 口下手なカーリンの話を急かすこともなく、ゆっくりと聞いてくれていた……。

 いつも……いつも自分を助けてくれていた、頼もしい小公爵さま。

 

「…………」

 

 また涙がこぼれそうになって、カーリンは顔を上げると、窓向こうの空を見つめた。

 夏の暑さが(やわ)らぎ始め、そろそろ秋の風が空高く吹き渡るようになった、(すが)しい晴天の朝だ。しかしカーリンには、その高く澄んだ空すらも恨めしかった。

 

 アドリアンが好きだった。

 でも、もう二度と、優しかったあの瞳を見ることはないのだろう……。

 




次回は2024.02.04.更新予定です。


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第百七十八話 ヤミとエラルドジェイ、ふたたび

 一方、帝都での騒動などまったく知らぬオヅマは、のんびりと新年を迎えていた。

 ラオは新年早々から店を開き、早速毛布とサーサーラーアンの持ってきた布の交換を始めたが、当初はその宣伝を見ても、交換に応じる人間は少なかった。

 やはりハヴェルの奉仕隊が公爵家にかかわっていることを知っており、そこからもらった毛布であるので、二の足を踏む人間が少なからずいたようだ。そのこと以外にも実質的な問題として、交換できるこの布について信用されなかったのもあるだろう。見慣れない西方の織り生地(きじ)は薄くてやわらかく、庶民らの生活において最も必要とされる丈夫さがないと思われたらしい。

 

 オヅマはこの結果に少しばかりイラついた。

 

「わかってないな。この布ものすごく丈夫だし、乾きもいいってのに」

「お前、なんだ。知ってたのか、この布のこと」

 

 ラオに問われて、オヅマはハッとなる。こういうふとしたときに出てくる()の記憶は、どう説明したものかわからない。

 

「えっ…と、えー…その、あれだ。クランツ男爵の弟が、生地屋なんだ。それで教えてくれたんだよ」

 

 咄嗟に出てきたテュコの存在に、オヅマは快哉を叫びたかった。

 ヴァルナルの弟であるテュコは生地屋というだけでなく、自ら新たな取引先を求めて旅して回るので、あちこちに顔が広い。

 最初の対面のときには胡散臭いオッサンと思ったが、その後に母たちの結婚式で会ったときには、交友関係の広さと、如才ない立ち回りには少々驚かされたものだ。レーゲンブルトの名だたる商家とすでに知り合いらしく、披露宴の片隅で彼らと新たな街道のことについて熱心に話し合っていた。

 あるいは今回、引き取った毛布についても、テュコであれば相談にのってくれそうだ。それに新たな商売を思いついては、いまいち根回しや資金組みといった実行性に欠けるラオと、そうした部分を補ってくれそうなテュコを会わせたら、面白いことになりそうな気もする。

 オヅマが考えている間に、ラオはラオでジロジロとオヅマを眺めていて、何かしら思いついたようだった。

 

「オイ、小僧」

「なに?」

「お前、この布でシャツでも作ってこい」

「は?」

 

 オヅマがキョトンとしていると、ラオはオヅマの買ったサーサーラーアンの布を渡してくる。

 

「ホレ。さすがに貴族様の着るような上品なやつは無理だろうが、お前、騎士の訓練のときに着るようなやつだったら、いくらあっても構わないだろう。そういうの作ってこい。腕のいい針子、紹介してやるから」

「はぁ…? なんで……」

「いいから言う通りにしろ。お前だって、この布さばきたいんだろ?」

 

 ラオは腕を組んで、いかにも自信ありげに言ってくる。

 オヅマは腑に落ちなかったが、あえて反論せずにおいた。こういうときのラオは、意外に冷静に物事を見て、手を打っているのだ。

 

「……わかった」

 

 オヅマは頷くと、布を手に取って立ち上がった。

 

「エッダっていう針子だ。家はジェイが知ってる。そこらウロついてるだろうから、適当に拾って連れてってもらえ」

「はいはい」

 

 オヅマはラオに言われるまま店を出ると、エラルドジェイを探した。

 夏の昼過ぎは、誰もまともに働いてなどいない。多くは家か店の中で涼みながら、夕暮れを待っている。夏になると昼の日差しはきついが、夕暮れを過ぎてからの風は涼しく、日も長くなるので、皆、夕方から朝に中断した仕事を始めるのだ。

 もっとも新年になったばかりのこの十日近くは、ほとんどお祭り気分で、誰もまともに仕事などしていない。商店なども仕入れ先が休みであったりするので、休みのところが多かった。活況なのは市場に集まる大小の露天売りや、羽振りのいい者たちからのチップを期待する、吟遊詩人や大道芸人たちくらいなものだ。

 ダラリと影で腹ばいに眠っている犬の横を通り、路上で駒取り(チェス)を楽しむ老人の輪をチラリと見やる。時々、エラルドジェイが相手しているのだが、今日はいない。

 建物の影を渡り歩き、角を曲がると、人気(ひとけ)のない路地裏の細い道から、エラルドジェイの声が聞こえた。

 

「ついて来んな!」

 

 オヅマはとっさに息をひそめた。

 エラルドジェイが怒鳴ることなど、そうそうない。ふざけあってわめき散らすことはあっても、今のように苛立たしさを全面に押し出して怒鳴りつけることなど、滅多となかった。

 

「…やれやれ。こちらは()()()お前のことは忘れていなかったというのに…つれないことだ」

 

 相手の声にオヅマはすぐさま身を隠す。間違いなく、この前会ったヤミ・トゥリトゥデスの声だった。

 そういえば、二人は知り合いのようだったが……?

 

「いちいち言い方が気色悪いんだよ! 失せろ! だいたいよくもノコノコ俺の前に、その(ツラ)さらしてられるな。お前のせいで、こっちは死にかけたってのに」

「ハハハ。まさか山賊共が徒党を組むとはな。だがまぁ、お前のことだ。そう簡単に死ぬとは思ってなかったが、やっぱり死ななかったな」

「……死んで欲しかったのかよ」

「まさか。そんな訳がないだろう。俺とお前の仲で」

「だから、そういう気持ち悪いことを言うなっての!」

「そう言うな、フィリー。俺も最近は、大して面白味のない状況でな。贔屓(ひいき)にしていた店も、また出入り禁止になってしまったし」

「ヘッ! テメェのせいだろうが。いい気味だ。どうせまた度が過ぎたんだろうが」

 

 エラルドジェイは吐き捨てるように言う。オヅマに背を向けているヤミが、軽く肩をすくめるのが見えた。

 オヅマは本当に細心の注意を払った。この二人相手に気配を殺すのは、相当に集中が必要だ。まるで稀能(きのう)を扱うときのように、丁寧に呼吸を行う。効果があったのか、普段であればどちらかがとうに気付いていてもよさそうなのに、まだ会話を続けている。

 

「あれくらいで()()()なんて、つまらない女だ。泣いて頼むから相手してやったというのに。本当につまらない」

「そこそこ慣れた(ねえ)さん相手に、何したら出入り禁止になるんだよ、お前は」

 

 ハーッとあきれたため息をもらすエラルドジェイに、ヤミは長い背を曲げて乞うように言った。

 

「お前みたいに、()()()()()()()はそういないよ、フィリー。俺としては、理想形に近いんだがな」

「ふざけんなッ!」

 

 ベシリとヤミの美麗な顔を容赦なく叩いて、エラルドジェイがこちらに向かってくる。オヅマはあわててその場を離れた。人通りのあるところまで戻って、意味もなく噴水の周囲をぐるぐる歩いていると、エラルドジェイに声をかけられた。

 

「お前、なにしてんの? このクソ暑い中」

「あっ! ああ、エラ……ジェイ。その、探してたんだ」

「は? なに?」

「らっ、ラオからアンタに、エッダっていう針子のところに連れて行ってもらえって」

「あぁ…いいぜ。行こう」

 

 エラルドジェイはさっさと前に立って歩き出した。

 オヅマは背後からねっとりとした視線を感じた。おそらくエラルドジェイも感じているはずだ。だが、あえて無視しているのもわかった。オヅマとしても無視するしかない。

 ヤミの蒼氷色(フロスティブルー)の瞳が、興味深げにエラルドジェイとオヅマの背を見つめていた。

 




引き続き、投稿します。


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第百七十九話 針子の家の少女

 エラルドジェイに連れられてエッダという針子の住む家を訪ねると、ドアを開いて出てきたのは少女だった。

 マリーと同じくらいだろう。頭に巻いた赤いスカーフから、薄いピンクの髪がゆるやかに波打って垂れている。その髪色は、いつか見たアドリアンの母・亡き公爵夫人リーディエを思い出させた。ただ瞳の色は赤みの強い茶色で、丸っこい、おっとりした目だ。

 まだあどけなく、ふんわりした柔らかな印象で、正直、こんな下町の雑多な場所には似つかわしくなかった。

 少女はまじまじと自分を見つめてくるオヅマに怖気(おじけ)付いたように、少し後ずさりしたが、ドアノブをしっかりと握りしめて、やや震えながら尋ねた。

 

「ど…どちらさまですか?」

「よっ! ティア! エッダはいるかい?」

 

 エラルドジェイがオヅマの背後からズイと乗り出してきて、気軽に声をかけると、ティアと呼ばれた少女は、途端にホッとした顔になった。

 

「ジェイさん! あ…あの、こんにちは。久しぶりです。あの、エッダさんは今、ちょっと納品に行ってて」

「あー、そっかー」

「あ、でもそんなに遠くないから。すぐに戻ってくると思います。あの、どうぞ」

 

 ティアは早口に言って、エラルドジェイとオヅマを招き入れた。

 招いても、針子の家で客人にお茶を出す習慣などない。勧められるまま、明らかにどこかで拾ってきたと思われる不揃いの椅子に座る。オヅマは気まずそうに立ち尽くすティアを、しばらく見るともなしに見ていた。

 

「おいおい~、お前。そうジロジロと見るもんじゃないぜ~。わかるケドさ~」

「は? なにが…?」

「ティアが将来別嬪(べっぴん)さんになりそうで、今でも思わず見とれちゃうのはわかるけど~」

 

 ジェイがふざけたように言うと、ティアは真っ赤になってうつむいた。

 オヅマはあきれたようにエラルドジェイを見てから、抗議しようとしたが、ちょうどその時にエッダが帰ってきた。

 

「あら! ジェイ!! やーっと私のところに来てくれたのね!」

 

 入るなり、エッダの目にはエラルドジェイしか見えていなかったようだ。ガバッとジェイに抱きついてからは、オヅマとティアの存在などお構いなしに、いちゃつき始めた。

 

「ひどいわ。こっちに来てるって聞いてから、ずっと待ってたのに、ぜーんぜん来てくんないんだものッ! どうせミリーゼのほうから会いに行ったんでしょう? でもあのコ、春には嫁ぐのよ。あー! だから今のうちにって、迫ってきたのね! そうでしょ?」

 

 エラルドジェイは軽くエッダにキスしたあとに、クルリと体をひねってオヅマを紹介した。

 

「エッダ、客。コイツがお前さんに仕事を頼みたいらしい」

「え? …なに?」

 

 エッダは久々の邂逅(かいこう)を邪魔されたと思ったのか、急に不機嫌になった。

 

「アンタ、誰?」

「オヅマ。この布で、服を作ってもらいたいんだ」

 

 オヅマがエッダに布を見せると、エッダは布地をスッと触ってから、オヅマから取り上げて、厚みやら触り心地を確かめていた。

 

「フーン。これでね。ハイハイ。請け負いましょう。で、誰の服? アンタの?」

 

 オヅマが頷くと、エッダはティアに指示した。

 

「じゃ、ティア。このコの採寸よろしく」

「えっ? あ、あの…はい」

「じゃ、私たちは、久々の祝杯といきましょう!」

 

 エッダは有無を言わさずエラルドジェイを引っ張って行く。エラルドジェイは仕方なさげに ―― とはいえ満更でもない顔で、エッダと共に出て行った。ドアの向こうから手を振るエラルドジェイを、オヅマは白けた表情で送り出した。

 

 本当に、あの男は…。

 この前にいたシュテルムドルソンでも、その前のズァーデンでも、行くところ行くところで気軽に女をつくる。

 とはいえ、驚くことでもなかった。()でも聞き上手でやさしいエラルドジェイは、女に好かれていたから。特に、仕事でつらい目に遭っている女ほど。

 

「あ、あの…オヅマ…さん。あの…」

 

 後ろから怖々と呼びかけられて、オヅマは振り返った。

 どこかで見たかのような、赤い褐色の瞳と目が合う。

 

「あぁ、ごめん。ティアだっけか? それで、俺どうすればいいんだ?」

「あ、あの…そこに立っててもらって…」

 

 言われた通りに立っていると、ティアは踏み台を持ってきた。よいしょと台の上に立って、オヅマの肩にいくつか型紙を合わせていく。

 貴族の子弟などであれば、きちんと巻き尺などをつかって測り、なるべくぴったりにつくるのが当然とされたが、裕福でない平民がオーダーメイドの服を(こしら)えることは少なかった。彼らの多くはいくつかの大きさの型紙を合わせ、一番しっくりきたもので服を(あつら)えた。そもそも誂えるということすらも少ないくらいで、多くは他人の古着をもらったり、自分で作ることがほとんどだ。そのため針子という職業は多くの場合、その取引相手は中堅商家のおかみだったり、専門の仕立て屋(テーラー)、ドレスショップからの下請けなどであった。

 

「あの、オヅマ…さん。この服は、あの、お葬式用ですか? それとも…」

 

 ティアが聞いたのも、普段であれば服を誂えることなどしない平民が、わざわざ服を仕立てるとすれば、たいがい結婚式か葬式といった、礼装でしかなかったからだ。

 

「いや、訓練着っつーか、普段でも着るようなやつ。襟つきのチュニックみたいなのがいいんだよな。さっきジェイが着てたのみたいなやつ。あ、でもあそこまで丈が長いのじゃなくて、膝上くらいでいい。できたら胸にポケットがあると便利だな。あと肩口を補強して……」

 

 オヅマの矢継ぎ早な注文に、ティアはにわかにパニックに陥った。

 

「えっ、えっ…と、え、あの……」

 

 あわてた様子で型紙を持ったまま小さな部屋をうろつきまわる。

 オヅマはたまらず、プハッと吹いた。ちょこまかと動く様が、マリーを思い出させる。まるで小栗鼠(リス)のようだ。

 ティアは少し困ったような、けれどほんの少しだけムッとしたようにオヅマを睨んだ。

 

「あぁ、悪りぃ悪りぃ。なんか妹を思い出して…」

「妹さんが、いらっしゃるのですか?」

「うん。レーゲンブルトにいる」

「じゃあ、オヅマさんはこちらには…えっと、ご奉公に来たんですか?」

「あぁ、うん。まぁ、そんなやつ」

 

 オヅマは適当に答えてから、『奉公』という言葉にふっと笑みが浮かんだ。

 言われてみれば、今の自分の立場はアドリアン小公爵様に()()()せねばならないのだろうが、これまでの自らの態度を振り返っても『奉公』というのは、しっくりこなかった。

 

 ティアは首をかしげたが、それ以上は聞いてこなかった。

 真面目くさった顔でオヅマの要望を小さな反故紙(ほごし)に書き、オヅマの体形に合った型紙と一緒にピンで留めた。

 

「いつ頃できそう?」

「あ…えっと、さっきドレスの仕事が片付いたから、たぶんそんなにかからないと思いますけど……おいそぎですか?」

「急ぐわけじゃないけど、さすがに一年後とかだと困るな」

「えっ? まさか…そんな……」

 

 ティアは戸惑ったようにオヅマを見てから、冗談だとわかるとクスクス笑った。

 穏やかな笑顔に、オヅマはその様子にうーんと首をひねって言った。

 

「なーんか、ティアって町の子って感じじゃないな」

「え……ど、どこか、おかしいですか?」

 

 オヅマの言葉に、ティアはどこかおどおどしたように尋ねてくる。

 

「いや。おかしいとかじゃなくて。なんかのんびりしてるっつーか、あくせくしてないっつーか」

 

 オヅマとしては、どちらかというと褒めたつもりだったのだが、ティアはその言葉にシュンと肩を落とした。

 

「そんなこと……ないです。わたし…わたしも、ちょっとだけだけど、エッダさんのお手伝いして、きちんと働いて……ます」

 

 訥々(とつとつ)とした口調ではあるが、ティアは断固として言う。

 オヅマはすぐに謝った。

 

「ごめん。なんか、嫌な気持ちにさせたんなら謝る。ちょっと、ここんところ、勢いのいいおばさん達の相手してたからさ。その二人に比べると、なーんかのんびりすんなぁ……って思っただけなんだ」

 

 ティアはすぐに顔を上げ、申し訳なさげに頭を掻くオヅマを見て、あわてて謝った。

 

「い、いいえ! あの、ごめんなさい。わたし…ひねくれて考えてしまって……あの、その……オヅマさんは悪くないです。わたしが、勝手に、いやなふうに取ってしまったから…ごめんなさい。あの……」

「あぁ! もういいもういい!!」

 

 オヅマは手を振って、ティアがそれ以上言うのを制止した。それでも申し訳なさそうに身をすくめるティアに、ビシリと言う。

 

「ティアは間違ってない。働いている自分を侮辱されたら、誰だって嫌な気分になるさ。まぁ、多少気にし過ぎって感じはするけど、別に駄目なことじゃねぇよ。それに、すぐに謝ってくれたしな」

「……ごめんなさい」

「だからもう謝るなって。それより、手伝いってなにしてんの? ティアも服とか縫うの?」

 

 オヅマはそれ以上ティアに謝らせないために、話題を変えた。

 

「あ、はい。わたし……刺繍が好きで。それで時々お手伝いしてます」

「刺繍かぁ。そっかー。あ、それじゃあさ、一つ頼んでいいか?」

 

 言いながらオヅマはポケットからハンカチを取り出した。

 白い簡素な綿のハンカチには、レーゲンブルト騎士団の紋章が刺繍されている。ミーナが自ら刺繍して、持たせてくれたものだった。

 

「これ、この紋章さ。これを襟とかに、あんまり目立たないように、小さく刺繍しておいてくれるか?」

「これ……あの、貴族の家の紋章ですか? あの、大丈夫ですか?」

 

 ティアは心配そうに尋ねた。貴族の家紋を勝手に刺繍したりすれば、当然ながら刑罰に処される。

 オヅマは笑った。

 

「大丈夫。俺、レーゲンブルト騎士団の見習いだから」

「あ…騎士様だったんですか?」

「いや、見習いだよ。見習い。だから、大っぴらにはできないけどさ。忘れないようにしておきたいんだ」

 

 ティアはその刺繍をしばらくじっと見つめていた。うつむいた顔の表情はわからない。

 

「レーゲンブルト騎士団って……グレヴィリウス公爵家の騎士団の一つ、でしたよね?」

 

 ボソボソと尋ねてくる声は暗かった。

 オヅマは急に硬化したかに思えるティアの態度に、首をかしげつつも頷いた。

 

「あぁ、うん。そうだけど。なに? なんかやりにくいか?」

「いえ」

 

 ティアは小さくつぶやいて、顔を上げた。ニッコリと笑っているが、どこか強張っているようにも見える。

 

「じゃあ、エッダさんに相談して、小さく刺繍しておきますね」

「うん。頼んだ」

 

 オヅマは快活に言って、前金を払うと出て行った。

 気にはなったが、あんな年頃から働くような子であれば、いろいろと事情があるのだろう。今日会ったばかりのオヅマが聞いて、そうやすやすと話すわけもない。まだあどけなさは残っていても、そうした分別だけはしっかり持っている……そういう目をしていた。

 

「……ん?」

 

 考えていると、なぜか会ったばかりの頃のアドリアンの顔が浮かんだ。

 萎びたニンジンみたいな顔をしていた、あの頃のアドリアン。

 脳裏にしばらく二人の顔を並べてから、オヅマは首を振った。

 大公爵家のお坊ちゃんと、下町の女の子に似たところなんかあるわけがない。

 …………たぶん。

 

***

 

 夕暮れ近くになり、また人通りの戻ってきた道を進んで、ラオの店に繋いであるカイルの元へと急ぐ。普段、オヅマは黒角馬(くろつのうま)のカイルに乗って、アールリンデンに来ていた。公爵邸とアールリンデン市街はさほど離れていないのだが、なにせ公爵邸自体が広いので、たとえアールリンデン市街に一番近い西門から出るとしても、歩きでは一刻近くかかってしまうからだ。

 

 戻ってきたオヅマに、今から飯屋に行こうとしていたラオが声をかける。

 

「おぅ。小僧、行ってきたか?」

「あぁ。頼んでおいたよ。何なんだよ、一体」

 

 オヅマはもう一度訊いてみたが、ラオはニヤリと笑って教えてくれなかった。

 

「言わん! うまくいくかどうかわからんからな!」

「……なんだ、また実験か」

()()?」

「いや……なんか試してるんだろーな、って思ってさ。アンタのことだから」

「小僧! 大人に向かってアンタとか言うな」

「アンタ時々子供みたいなんだからいいだろ」

「誰が子供じゃーッ!!」

「……そういうのだよ」

 

 オヅマはあきれたように言ってから、カイルにまたがった。

 

「帰るのか? 一緒に飯、食っていかんか?」

 

 こう見えて一人で食べるのはわびしいらしく、ラオは時々、オヅマを夕食に誘ってくる。エラルドジェイは、まだエッダと祝杯を挙げているらしい。

 オヅマはさっきの服の前払いで、手持ちの金がもうなかったので、ラオに尋ねた。

 

「おごってくれんの?」

「……とっとと帰れ」

 

 即座にラオはそっぽを向いて歩いていく。本当に、見事なくらいケチで、わかりやすい大人だ。だから信頼できるというのもあるのだが。

 

「なぁ、オッサン」

「……ラオ大人(たいじん)と呼べ」

「誰だよ、それ。なぁ、オッサン、エッダさんのところにいる女の子、知ってるか?」

「……なんだ、小僧。早速、恋の悩みか?」

「馬鹿か。そうじゃなくて、あの子、普通の町の子か?」

 

 あの場では初対面で詳しく聞くのも(はばか)られて、あっさり帰ったものの、やはり気になる。無論、ラオの言うような意味合いではなく、最初の印象から、どうしてもティアに違和感を持たずにいられなかったのだ。

 ラオは伸びた髭を軽く引っ張りながら思案する。

 

「エッダのところにいる娘ェ? 誰だ? ゾフィは違う店に奉公に出たと言っていたし」

「ティアだよ。ティアっていう、薄いピンクの髪の女の子」

「…………む」

 

 ラオは急に眉を寄せると、じろりとオヅマを見上げる。すぐに目をそらすと、フンと鼻を鳴らした。

 

「あの娘か……エッダもお節介な」

「なんで?」

「こっちの台詞(セリフ)だ、小僧。なんでその娘のことを訊く?」

「なんでって……だから、あの子なんか、変だろ」

 

 オヅマの言葉に、ラオはまた髭を引っ張りながら、なにか探るような目つきで見てくる。

 

「例えば? どういうところが?」

「どういうところって……なんか、町の子にしてはその……おとなしいっつーか、穏やかっつーか」

「……品がいいか?」

「あ! そう、それ! なんか上品なんだよな、雰囲気が。話し方とかも」

「…………」

 

 ラオは一瞬沈黙し、ややあってため息とともにぼそぼそとつぶやいた。

 

「……やれやれ。(ギョク)は泥をまとっても玉か」

「は? なんか言った?」

 

 馬上のオヅマには聞こえなかった。だがラオはにべなく「知らん」と(うそぶ)き、澄まし顔になって言った。

 

「その娘のことなら、どうせそのうちお前の耳には入ってくるだろうよ」

「へ? どういうこと?」

 

 オヅマにはまったく訳がわからない。ラオひとりが知ったかぶった笑みを浮かべ、分かれ道に来て手を振る。

 

「じゃあな、小僧。そうだ、その馬にさっき甘藷(サツマイモ)食わしてやったから、今度、金払えよ」

「はぁ? 頼んでねぇし!」

「小公爵様の近侍がケチなこと言うな。一銅貨(ガウラン)程度で」

「『程度』っていうんなら、それくらい奢れよ!」

「ケチじゃない金持ちはいない。金持ちになるにはケチじゃないとなー」

 

 もっともらしいことを大声で叫びながら、ラオはカラカラ笑って薄暮の道を歩いて行った。

 

 



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第百八十話 ズロッコの少年たちとラオの『実験』結果

 それからシャツが出来るまでの間、オヅマはひょんな事から下町にたむろする少年たちの一団と妙な縁を持つことになった。

 きっかけはオヅマが喧嘩を売ったことに端を発する。

 

 

 ズァーデンでの修行が思ったよりも早く終わり、オヅマは公爵邸に戻ってきていたが、案の定というべきかアドリアンらのいない七竈(ナナカマド)館(*小公爵専用の館)において、オヅマがすべきことなどほぼなかった。

 残った使用人はなべてオヅマに冷淡であったし、ひどいときには食事の用意を忘れていることもあった。

 居残り組の騎士団の面々も、口やかましい上役が不在となれば、当然ながらサボりがちで、朝の訓練以外は、ほぼほぼ自主訓練という名の休息だ。一騎士見習いの稽古相手をしてくれるような、熱心な騎士は残念ながらいなかった。(もっともこれはオヅマの所属がレーゲンブルト騎士団であったために、一部の騎士たちがやっかんで嫌がらせをした……という事情もあったりしたが)

 いずれにしろ、いたところで煙たがられるだけなので、オヅマとしても外に出ているほうが気楽だった。

 

 その日も朝の騎士団での訓練を終えると、オヅマは早々にホボポ雑貨店へ向かった。ラオに例の布交換の進捗状況を聞いてから、カイルを繋がせてもらって、市街地をうろつく。

 レーゲンブルトと違い、南北に広くのびたアールリンデンにおいては、町の様子も南と北で随分と違っていた。

 北東にある公爵邸周囲にはグレヴィリウス家門の貴族の別宅、それからやや裕福な商家の家々が軒を連ねている。そこから南に行くに従って、種々の商店が立ち並び、人が賑わう、いわゆる繁華街となっていく。

 オヅマは繁華街の中心となっている毎日市場の開かれる大広場を抜けると、雑然とした裏通りの道を進んだ。表通りを歩いていると、やたらと花売り娘やら、魚売りのおばさんに声をかけられて、いちいち断るのが面倒くさかった。

 

 裏通りはいわゆる下町で、庶民の生活圏だった。雑多な生活のにおいを感じながら歩いていると、騎士よろしく木剣をもった子供たちが、ワーワーと(いくさ)ごっこをしながら走って行く。

 なんとなく気になってついていくと、彼らは塵の街(ズロッコ)と呼ばれる地域(*いわゆるアールリンデンにおける貧民街)の、狭く入り組んだ道を迷いもせずに走っていき、やがて路地裏のやや開けた場所に出た。

 そこは下町に住む子供たちのたまり場であるようだった。

 下は三歳ほどから、上はオヅマと同じくらいの年齢の子供たちが群がって、それぞれに遊んでいる。端っこで道に絵を描いているおとなしいのもいれば、先程のチビっ子騎士たちと一緒になって、戦ごっこに興じる者もいる。

 オヅマはラディケ村にいたときの自分を思い出し、少しだけ懐かしかった。

 村でもそうであったが、オヅマ以上の年齢の子供がいないのは、多くは十三、四歳にもなると働き出すからだ。男の子だと、その頃には体つきもしっかりしてくるので、十分な働き手となる。おそらくあの頃、オヅマと一緒に遊び回っていた悪童たちは、今頃しっかり働いていることだろう。

 

 ざっと見て帰ろうとしたときに、路地裏の隅からビュンと聞き慣れた音がした。反射的に見ると、空になった林檎箱やらワイン樽やらが無造作に積まれた一角で、藁色(わらいろ)の髪の少年が一人、剣の素振りをしている。年の頃はオヅマと同じくらい。背格好もそう変わらない。

 黙々と熱心に素振りする姿が、この路地裏の騒がしさからは一線を画していて、オヅマはしばらく見ていた。

 

「なんだよ、オマエ!」

 

 急に下から声がして、オヅマが下を向くと、チビっ子騎士が三人ほど睨みつけてくる。

 

「さっきから、俺たちのあとを尾けてきたな!」

「怪しいぞッ!!」

 

 精一杯の敵意を全身にみなぎらせて、チビっ子たちは怒鳴りつける。小さな尖兵(せんぺい)の甲高い声に、周辺で遊んでいた子供たちがわらわらと寄ってきた。

 

「オマエ、知ってるぞ! この前からここらをウロつきまわってる奴だろ!」

「なんか怪しいと思ったら、もしかしてサンドールのスパイか!」

「コイツ! また、叩きのめされたいか?」

 

 (いき)り立って詰め寄ってくる少年たちを、オヅマは興味深く見つめた。

 ラディケ村のような小さな村ですらも、多少の貧富の差から子供たちは二分されて、それぞれにグループをつくって対立していたのだが、やはりアールリンデンにおいてもそうしたものがあるらしい。

 数日、街を歩き回る中でサンドールという地域にも行ったことがあったが、ここに比べると、瀟洒(しょうしゃ)な建物が並ぶ、やや裕福な中間層の住宅街だった。どうやらあちらにも似たような悪童グループがあって、彼らとは犬猿の仲らしい。

 

 さっきまで素振りをしていた少年が、ゆっくりとやって来てオヅマの前に立った。

 

「喧嘩、売りにきたのか?」

 

 低く唸るように言って、ズイとオヅマの鼻先に先程まで素振りをしていた剣を向けてくる。

 オズマはまじまじとその古びた剣と、固く張った筋肉を見つめた。

 

「へぇ…こりゃまた、重そうな剣だなぁ。これを毎日振ってたら、そりゃそんな腕にもなるわけだ」

 

 軽い調子で言うオヅマに、少年はギュッと深い皺を眉間に刻む。灰色の瞳がますます剣呑な光を帯びた。

 いよいよ本気になるのを見極めて、オヅマはワインの空樽に突っ込まれていた木剣を手に取った。

 

「買うか? 喧嘩」

 

 少年は平然と自分に尋ねてきたオヅマに一瞬鼻白んだ顔になったが、すぐにニヤリと頬を歪めた。一気に好戦的な表情になると、持っていた剣を近くの少年に押し付け、樽から木剣を取った。

 

「やれ! レオシュ!!」

「やっつけろ!」

「サンドールの奴なんかにレオシュが負けるもんか」

 

 平和だった子供たちの遊び場は、一気に殺伐たる闘技場となった。

 オヅマは木剣を構えながら、周辺から浴びせられる野次を悠然と聞いていた。

 どうやらこの藁色の髪の少年はレオシュという名前で、この一帯の悪童たちの親分格であるようだった。貴族の少年たちのような身分上の違いがない彼らにとって、喧嘩が強い、腕っぷしが立つというのは、わかりやすくリーダーとなる条件だ。

 

 カン、と乾いた音から始まった打ち合いは、そこから一刻近く続いた。

 周囲で騒ぎ立てていた血気盛んな少年たちでさえ、最後の方になるとフラフラになっているレオシュが心配になって、泣きそうな顔になっていた。

 勝負は既についていた。ただ、レオシュが負けを認めないので、終わらなかったのだ。とうとう息が上がって、レオシュが膝をつくと、オヅマはその鼻先に木剣を突きつけた。

 

「どうする?」

 

 問いかけたオヅマは息も上がっていない。

 レオシュは半ば化け物を見るように睨みつけてから、長い吐息と共につぶやいた。

 

「参った……」

 

 

 その後のズロッコの悪童団が、レオシュ以下、オヅマの前にひれ伏したのは言うまでもない。強いものに憧れる、という図式は、少年たちにとって最もわかりやすく、納得のいく基準なのだから。

 しかもオヅマがレーゲンブルト騎士団の騎士見習いであることを知ると、彼らの尊敬はますます深まった。少年たちにとって、騎士はやはり憧れの職業で、しかもグレヴィリウス公爵家の騎士になることは、アールリンデンに住む少年であれば、一度は夢見ることだった。

 この少年たちのオヅマへの羨望は、意外な形で意外な効果を生むことになった。

 

 

***

 

 

 エッダに頼んでおいたシャツが出来上がると、ラオはオヅマにそのシャツを着て街中を歩くようにと指示した。

 

「はぁ? なんで?」

 

 オヅマは意味がわからなかったが、ラオの『実験』に説明を求めるのも馬鹿らしくて、ともかく言う通りにした。というよりも、シャツの着心地が思った以上によくて、命令されるまでもなく、オヅマはシャツを毎日のように着た。

 するとすぐに反応したのは、ズロッコの少年たちである。

 彼らはオヅマのようになりたかったが、当然ながら稽古してもすぐに強くなれるわけではない。手っ取り早く()()()()()()()()として、同じ恰好を真似るのは、当然のなりゆきだったろう。

 

 オヅマがシャツの元になった布のこと、それがホボポ雑貨店で()()()()()()()()()()()()()()と交換できることを教えてやると、少年らは先を争うように、納戸(なんど)の隅に置き捨てられていた毛布を持ってホボポ雑貨店を訪れた。そうして布を手に入れると、母親らに頼み込んでシャツを縫ってもらった。

 

 こうして下町の少年らが一様に似たようなシャツを着て、街中を闊歩(かっぽ)するようになると、その先頭を歩くオヅマの端麗な容姿もあいまって、人々は彼らに注目するようになった。

 

 もうこの先は言うまでもないだろう。残り少ないシャツの布を求めて、多くの人々がホボポ雑貨店にやってきた。()()()毛布を持って。

 新生(しんせい)の月が終わる頃には、サーサーラーアンが持ってきた布は、きれいになくなった。

 

「ハッハッハー! さすがワシ! たいしたもんだな、ワシ!」

 

 ラオは得意満面だった。臆面もなく自画自賛するラオに、エラルドジェイがあきれたように言う。

 

「功労者はほとんどオヅマだと思うけど?」

「わかってないな、ジェイ。こういうことはな、仕掛けた人間の手柄なんだよ。コイツは俺の指示で動いただけー」

 

 オヅマは内心でイラッとしたが、黙っておいた。

 今回のことで、実際ラオには色々と世話になっているし、自分としてはいいシャツを手に入れることもできたのだから。

 

 こうして、オヅマを広告塔にして布をさばくというラオの目論見は、紆余(うよ)曲折(きょくせつ)を経ながらも、ひとまず成功したのだった。

 




次回は2024.02.25.更新予定です。


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第百八十一話 ティアと母親

「おぅ、レオシュ。今日は仕事か?」

 

 オヅマが声をかけると、レオシュは振り返ってニッと笑った。手にはワインが三本入った(かご)を持っている。軽く持ち上げてみせた。

 

「おぅ、配達でさ」

「ご苦労さん。それで最後か?」

「あぁ」

「じゃあ、ちゃっちゃと終わらせて、やるか」

 

 オヅマが軽い調子で誘うと、レオシュは「おぅ」と頷いて微笑んだ。

 

 あの日の喧嘩から、オヅマはレオシュと度々、打ち合い稽古をするようになっていた。当初は負けたことで、レオシュはオヅマに対してへりくだる態度を見せていたが、オヅマは早々にやめさせた。

 

「やめてくれよ。同じ年なんだし、友達ってことでいーじゃんか」

 

 レオシュはオヅマのそうしたあけっぴろげな態度に驚いた。

 元は平民とはいえ、今はれっきとした貴族の若君で、しかも聞けばあのグレヴィリウス小公爵の近侍だという。威張りくさってもいいくらいなのに、孤児の少年の稽古相手になると言ってくれるばかりではなく、友達として接してくれるなど、とても考えられなかったのだ。

 レオシュは戸惑いつつも、オヅマの自然な振る舞いに合わせて、徐々に友達としての関係性に慣れていった。

 

「お前、この前も酒屋の配達してたけど、そこで働くのか?」

 

 歩きながらオヅマは尋ねた。

 レオシュは三年前に両親を事故で失い、今は孤児院で暮らしている。働くために、そろそろ孤児院を出るよう言われているらしい。

 下町に暮らす少年たちは、親が商売をしていればそのまま店の手伝いをし、兄弟が多ければ他の店に奉公に出された。レオシュのように孤児である場合は、口利きや飛び入りで店の手伝いなどをさせてもらう中で、雇われる機会を得ることが多い。(但し、これはアールリンデンが比較的治安が良いから可能なことで、帝都などでは貧困地域に住む孤児がまともな商売につくことなど、ほぼ有り得なかった。)

 

「わかんねぇ……親爺さんは色々任してくれるけど、女将さんはいい顔しねぇし」

 

 レオシュが諦めたような顔で言うのも無理ないことだった。

 元々レオシュはアールリンデンの生まれではなく、両親は他国から流れてきた者たちだった。帝都であれば他国人も多く暮らしているが、長くグレヴィリウス公爵家のお膝元であるアールリンデンにおいては先祖代々、その地で暮らしてきた土着の民が多く、余所者はそれだけで偏見を持って見られた。しかもレオシュは下町の悪ガキ共のリーダー格として、一部の大人からは非行少年として見なされていたのだ。

 

「チッ! わかってねーなー」

 

 オヅマは苛立たしげに舌を鳴らす。

 少年らの上に立つ者としての面子(メンツ)があるために、悪ぶってみせているところがあるが、レオシュは極めて真面目で面倒見のいい男だった。ちゃんと話せばすぐにわかることだ。

 

「よし。じゃ、お前、レーゲンブルト騎士団に入れよ。俺、口利いてやるから」

 

 オヅマが満更冗談でもない口調で言うと、レオシュは大人びた笑みを浮かべた。

 

「レーゲンブルトねぇ……俺ゃあ、寒いのが苦手だからなぁ」

「なに甘えたこと抜かしてんだ。寒いのなんか、すぐ慣れるさ」

「いやー、でもレーゲンブルト騎士団って荒くれ者が多いって聞くぜ。俺なんか、アールリンデンでお上品に育ったから……」

 

 のらりくらりと、レオシュは冗談でかわす。

 オヅマは首をかしげた。

 

「なんだよ、お前。騎士になりたくて、剣の稽古してんじゃねぇの?」

「まぁ、最終的にはそうなんだけどな」

「最終的?」

「俺にもいろいろと計画がある、ってことだよ。俺は俺の実力で騎士になるさ。見習い騎士サマのお世話にゃならねぇよ」

「なんだよ……」

 

 オヅマは少し鼻白んだ。騎士になることに憧れているレオシュであれば、すぐにでも飛びつくと思ったのだ。しかし文句を言いかけて、オヅマはゆっくりと口を閉じた。

 たとえ孤児でもレオシュにだって矜持(きょうじ)はある。彼は彼なりに、自分の行く道を決めているのだ。それを夢見がちな少年の青臭い選択だと(わら)う者もいるかもしれないが、オヅマにはレオシュの意志が眩しかった。ただの見習い騎士でしかないくせに、大口を叩いた自分が恥ずかしくなった……。

 

「騎士団のことより、今の俺にゃ、この先のお得意さんのほうが気が重いぜ」

 

 レオシュは自己嫌悪で黙り込むオヅマの気を紛らすように話を変えた。

 

「は? なんで?」

「ちょっとなぁ……困ったおばさんでさ」

「困ったおばさん? なんだよ、払いが悪いとか?」

「払いはまぁ……今日は無理でも、後で持ってきてくれるからいいんだけどさ。酒が切れると、暴れるんだよな」

 

 オヅマはすぐに思い当たって眉を寄せた。酒に酔って当たり散らす人間の厄介さは、嫌というほど理解している。

 

「酒乱か……」

「いつもじゃないんだけどさ。いつもはどっちかというと、メソメソ泣いて……あー、でも泣きながら暴れてることもあったな」

「うわ、面倒くさ」

「まぁ、俺は酒だけ渡して帰ればいいから、いいんだけどさ……」

 

 言っている間に、その家の前にたどり着くと、レオシュは肩を大きく上下させて深呼吸した。

 住宅の立ち並ぶ場所からは、少しだけ離れたところにある、この辺りでは大きめの家だった。だが門扉は傾いており、荒れた庭を取り囲む外壁には蔦が生い茂っていて、まるで廃屋にも近い様相だった。

 半ば開いている門から、体を斜めにして入っていくレオシュの後に()いて、オヅマも中に入った。門から玄関までの間には石畳が敷かれていたのだろうが、今や石は割れて、間から草がぼうぼうと伸びている。

 

「……ここに住んでるのって、貴族?」

 

 オヅマが尋ねると、レオシュは振り向いて頷いた。ひそひそと囁く。

 

「俺も詳しくは知らねぇんだけど、なんか公爵家から追い出されたらしいんだよ」

「公爵家から?」

 

 このアールリンデンにおいて公爵家といったら、グレヴィリウスを指す。しかし追い出されたということは、元は公爵邸で暮らしていたということになる。誰なのかとレオシュに訊こうとしたときに、玄関の扉が荒々しく開いた。

 

「早く買ってきなさいよ!」

 

 ガサガサの酒焼けした女の怒鳴り声が響く。同時に女に腕を引っ掴まれていた少女が、乱暴に放り出されて、オヅマ達の前に倒れ込んだ。見覚えのある服装と、薄いピンク色の髪を見るなり、オヅマは叫んだ。

 

「ティア!」

 

 オヅマの声を聞いて、ティアは反射的に顔を上げたが、目が合うなり、すぐにうつむいた。

 

「ティア、大丈夫か?」

 

 オヅマが声をかけて手を差し伸べても、ティアはギュッと両手を握り合わせて立たなかった。目を合わさないよう顔を伏せたまま、肩を震わせている。

 

 一方でレオシュに気付いた ―― というよりも、レオシュの持っているワイン瓶に気付いた女は、険しかった表情を一変させて近寄ってきた。

 

「あらぁ、遅かったじゃないの。あんまり遅いから、娘に買いに行ってもらおうかと思っていたところよ」

 

 レオシュは顔をしかめながらも、客相手に商品を渡さないわけにもいかない。仕方なさげに持っていた(かご)を女に差し出した。

 

「どうも、ご苦労さま」

 

 酒臭いゲップをしながら、女はニヘラと笑って籠を受け取る。

 その女の手首をオヅマは掴んだ。

 女はギョッとしてオヅマを見てから、そこにいるのが、籠を持ってきた少年と同じ年頃の子供だとわかると、すぐに傲慢な顔つきに戻った。

 

「な……なにするのよ! 無礼者! 手をお離し!!」

「あんた……ティアの母親か?」

 

 問うたのは、女が『娘』と言っていたからだ。だが目の前で酒臭い息を吐く女の、落ち窪んで濁った青の瞳にも、乱れた茶色の髪にも、ティアと似たところはあまり窺えなかった。

 おそらく長く飲酒しているせいだろう。くすんだ黄褐色の、病人めいた(つや)のない肌をしていた。どこか体を悪くしているのかもしれない。

 

「なにを言って……クリスティア! こいつはお前の知り合いなの?!」

 

 女はオヅマの質問を無視して、ティアに苛立たしげに問い詰める。

 

「クリスティア?」

 

 オヅマが聞き返すと、それまで地面に座り込んでいたティアがいきなり立ち上がった。母親の手首を掴んでいるオヅマの腕に(すが)りつき、泣きそうな顔で頼み込んでくる。

 

「お願いです、離してください。お母様は体が弱いんです。そんなに強く掴まれたら、骨が折れてしまうんです。お願いします」

 

 か細いながらも切実なティアの声に押し切られて、オヅマは掴んでいた手を離した。

 途端に女はひったくるように籠を背後に隠し、ギロリとティアを睨みつけた。

 

「なんと情けないこと! こんな下賤(げせん)の者を相手に懇願するなんて。これだからお前は駄目なのよ。下々(しもじも)の者と交わっている間に、すっかり心までも卑しく育ったものね!」

「そんなこと……失礼です。この人は……下賤の者なんかじゃ」

「お黙り!」

 

 パシリと乾いた音が響く。女がティアの頬をぶっていた。

 おそらくこうした行為は、頻繁にあるのだろう。それくらい自然に、レオシュもオヅマも止める間もないほど、素早かった。

 

「おい! やめろ!」

 

 オヅマは叫んだが、ティアがまた止めるようにオヅマの腕を掴む。ギリッとオヅマが歯噛みすると、隣にいたレオシュが一歩、進み出て女に言った。

 

「娘さんの言う通りですよ。コイツは俺みたいなのとは違います。れっきとした公爵家の騎士ですから……一応」

 

 最後に小さく一応、と付け加えたのは、オヅマが見習い騎士であるということを慮ったレオシュなりの良心であったが、女はまったく気にも留めていなかった。

 

「公爵家ですって?」

 

 大声で問い返すと、濁った目を大きく見開いて、オヅマへとズイと歩み寄る。

 

「お前……貴方(あなた)はグレヴィリウスの騎士なの!?」

 

 オヅマは返答に窮した。

 オヅマの所属は、正確にはグレヴィリウス公爵家直属の騎士団ではなく、レーゲンブルト騎士団で、しかも見習い騎士という身分だ。だがこの面倒な説明を女がおとなしく聞く様子はない。籠をボトリとその場に落とすと、急にオヅマの両肩を掴んできた。

 

「迎えに来てくれたのね!? やっと、迎えに来てくれた!」

 

 女はガサガサの声で叫ぶと、けたたましい笑い声を響かせた。あまりに急変した女の態度に、オヅマは困惑した。

 

「は? 迎え?」

 

 問いかけるが、女はもう既にオヅマも眼中にない。虚空を見つめる瞳が爛々(らんらん)と輝いて、かすかな狂気を帯びた。

 

「ようやくお許し頂けたのね。待っていたわ。ずっと……待っていたのよ。今日は馬車は来ていないの? あぁ、いきなりなんてことはないわね。ちゃんと戻る準備を整えないといけないもの……ドレスだって、靴だって、もう随分と時代遅れのものばかりで……」

 

 オヅマは勝手に話を進める女に呆気にとられた。

 ティアがあわてて母親に走り寄り、ドレスのスカートを掴んで、必死に訂正しようとする。

 

「お母様、違います。この人は……公爵家の人だけど、違うんです」

「うるさいッ!」

 

 女はスカートにまとわりつくティアを鬱陶しそうに払うと、ぺたりと尻もちをついた自分の娘を冷たく睨みつけた。

 

「お前なんかがいたら、公爵家に戻れないじゃないの! だいたい、お前が女だから棄てられたのよ! お前が男の子だったら、公爵様は私を選んだわ! そうよ……きっとそうよ!私が悪いんじゃない!! お前が女だとわかっていたら、私だって()()()()()しなかったのに!!」

 

 積もり積もった怨念をぶつけるように、女は早口にティアを責め立てる。

 

「私のせいじゃない! 全部、ぜーんぶ、お前のせいだッ!!」

 

 まるで獣のように吠えたてて、女がまたティアに掴みかかろうとするのを、オヅマはあわてて止めた。

 

「やめろ!」

 

 鋭く言って、ティアを背後に隠す。レオシュは女を羽交い締めにした。

 馬鹿にしていた下町の少年から、思わぬ(はずかし)めを受けたと思ったのか、女は身悶えしながら激昂する。

 

「お離し! お前ごときが、私に触れていいと思ってるの!?」

 

 レオシュは女からの蔑みの言葉に、痛痒(つうよう)も感じていなかった。自分は下賤で、女は貴族。女の言う通りだと思っている。

 だが、前々からずっと女に対して不満を持っていたレオシュは、身分の差を承知しながらも、女の言葉に従う気はなかった。

 この場において、レオシュを従わせることができるのはオヅマと……

 

「お願い。お母様を離して」

 

 ティアの懇願に、レオシュは顔を(しか)める。チラリとオヅマを見て、頷くのを確認すると、そっと女の腕を離した。

 女はレオシュに毒づきながら逃れたものの、元よりおぼつかない足取りに、よろけて自分が置いたワインの入った籠につまづき、無様に倒れた。

 

「お母様!」

 

 ティアが駆け寄ったが、女は気付いていないようだった。しばらく突っ伏したまま動かない。

 まさか気を失ったのかと、オヅマとレオシュは一歩近付く。

 すると女がゆっくりと起き上がった。

 さっきまでの怒りはどこに消えたのか、放心したように座り込んだまま、目の前に転がっている黒いワイン瓶を見ている。土で汚れた顔を拭いもしない。

 やがて手を伸ばしてワイン瓶を掴むと、ゆっくり起き上がった。

 

「私は……悪くないわ。私は悪くないのに……私は…あの女に唆されて……嫌だった……私は……嫌だったのに……」

 

 ブツブツとつぶやきながら、女は転がっていたほかのワイン瓶も拾い上げて、大事に胸に抱え込む。

 

「お母様、大丈夫ですか?」

 

 駆け寄って心配するティアの声も、もう女の耳には届いていないようだった。

 

「私は悪くない……私は悪くない……私は、悪くない……」

 

 まるで自らに暗示をかけるかのように、何度も繰り返しながら、女は蹌踉(そうろう)とした足取りで、館へと入っていく。

 

「お母様……」

 

 ティアは心細げに呼びかけたが、女が振り返ることはなかった。

 

「ティア、大丈夫か?」

 

 オヅマが問いかけると、ティアは振り返るなり、すぐに頭を下げた。

 

「すみません……ご迷惑をかけました」

 

 丁寧だが、その声音はどこか空虚に聞こえた。ゆっくりと上げた顔は、ぼんやりとしていて、諦めが濃い。

 

「ティア……?」

 

 オヅマはもう一度、呼びかけた。

 ティアはハッと我に返って、また頭を下げて謝ってくる。

 

「すみません。いきなり、お母様がおかしなことを言って……」

「謝らなくていい。お前が悪いんじゃないだろ。それよりあのおば……お前のお母さんに、ちゃんと話したほうがいいだろ? なんか勘違いしてるみたいだ」

 

 ティアは首をプルプルと振ると、いなくなった母親の影に怯えるかのように、小さな声で言った。

 

「ともかく今日は帰ってください。お母様にはあとで、私からちゃんと話しておきますから」

「そんなことしたら、お前また……」

 

 オヅマはすぐに想像できた。妙な勘違いをしている母親に、ティアが真実を告げれば、今よりも一層機嫌が悪くなるだろう。そうなれば、絶対またティアに暴力を振るうに違いない。

 だがティアはオヅマにそれ以上は言わせなかった。赤く腫れた頬もそのままに、オヅマを真っ直ぐ見上げる瞳は、強固にオヅマからの干渉を拒否していた。

 

「大丈夫です」

 

 (かたく)ななティアに、オヅマは何と言えばいいのかわからなかった。迷うオヅマの肩をレオシュが軽く叩く。

 

「今日のところは帰ろうぜ。あ、お代はいつも通りに頼みますよ」

 

 レオシュが酒屋の配達員らしく、極めて淡々として言うと、ティアは小さく頷いた。

 オヅマはまだティアに聞きたいことはあったものの、レオシュに突つかれて仕方なく歩き出す。門を出る前に振り返った。

 

「ティア。なんかあったら、ホボポ雑貨店のラオって親爺のところに行け。ジェイもいるから」

「…………」

 

 だがティアは哀しそうに、少し笑っただけで、返事をしなかった。

 

 オヅマは門を出て、しばらく歩いたところでレオシュから、あの家のこと ―― あの頓狂で横柄極まりない女について聞かされた。

 

 曰く。

 あの女は昔は公爵邸で暮らしていたのだという。だがある日、いきなり追い出され、さっきの家に移り住むことになったらしい。

 女はこの仕打ちが不服であったのだろう。レオシュが酒屋で配達の仕事を任される頃には、すっかり酒浸りの生活になっていた。

 

「あの子、ほとんど毎日、八つ当たりされてんだ。さっきみたいに殴られたり、俺が前に見たのは、ずーっとブツブツブツブツ、泣きながら文句言ってるのにつき合わされててさ。あれはあれで、しんどいよ。俺もうんざりした。いい加減にしろって、客じゃなかったら、はっ倒したくなったよ」

 

 オヅマ自身、酒乱の父親を持っていたので、ティアの状況は容易に想像できた。

 酒に狂った人間は、極めて厄介な化け物だ。酒を飲んでいない状態でも、酔ったようにくだを巻く。

 

「レオシュ」

 

 オヅマが呼びかけると、レオシュはすぐに頷いた。

 

「わかってるって。俺も時々、見に来てたんだ。あの子、我慢強いからさ。ずーっと言われっぱなしの、やられっぱなしだから」

 

 何を頼まれるのかはわかっていたらしい。オヅマはニッと笑った。

 

「さすが。ズロッコの悪ガキ共を従わせるだけあるよ、お前」

 

 この面倒見の良さがあるからこそ、オヅマに負けてもレオシュは悪童達からの尊敬を失わないでいられるのだろう。

 

「頼むな」

 

 オヅマは言いながら、ティアとその母親が、一体グレヴィリウスとどういう関係にあるのかが気になった。

 

 

 ―――― 迎えに来てくれたのね!?

 

 

 その言葉が指し示すように、公爵邸から追い出されたというのは本当なのだろう。しかもオヅマが公爵家に関わりのある騎士だとわかっても、尊大な態度のままであったのだから、公爵家において、相当な身分であったのだと思われる。

 

 こういうときに話ができそうなルンビックや、ルーカスは遙か帝都で、ここにはいない。前に意味ありげなことを言っていたラオも、今はにわかに人気となったあの布を今度は本格的に仕入れるために、サーサーラーアンに会いに行っていた。エラルドジェイもどうせ飲み屋か女の家にでも行っているのかして不在であったし、エッダに訊くことも考えたが、勝手にティアの身辺を探るようで、なんだか悪いような気もする。

 いっそティアが助けを求めでもしてくれれば……と、オヅマは嘆息した。

 あの家から出たいと言ってくれれば、あのまま母親がわめき立てようと連れ出してやったが、ティアの態度は終始オヅマから母親を(かば)っているかのようだった。

 だが、そんなティアの気持ちもオヅマには何となくわかった。

 どんなに暴力を振るわれても、それが親であるという一点だけで、子供は必死に親の愛を乞う。

 自分はコスタスにそんな感情を抱かなかったが、もし(ミーナ)があの母親のようであったとしたら、それでもティアのように必死に守ろうとしただろう。母親と自分たちの棲む世界を。

 

 オヅマは消化不良の気分を抱えて公爵邸に戻ってきたが、都合よくと言うべきか、まるでこの状況を見たかのようなタイミングで、ブラジェナからの手紙が届いていた。

 

『略儀 オヅマ・クランツへ 言い忘れていたことがあります。』

 

 あの礼儀作法の権化のようなブラジェナが、時候の挨拶もすっ飛ばして書いてきた内容に、オヅマは最初、ブラジェナがオヅマの近辺に間諜(かんちょう)でも忍ばしていたのだろうかと思った。それくらいブラジェナは、ちょうどオヅマが知りたいと思っていたことを、書き送ってきてくれたのだ。

 

 

『略儀 オヅマ・クランツへ

 

 大変重要なことで、言い忘れていたことがあります。

 公爵閣下がリーディエ様亡き後に、一時的に第二夫人としていた女性のことです。

 彼女の名前はペトラ・アベニウス。この女には気をつけてください。幼い小公爵様を亡き者にしようとしたのです。……』

 

 





次回は2024.03.03.更新予定です。


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第百八十二話 忘れられた公女

 オヅマはその文言に息を詰まらせた。ゴクリと唾を飲み下して、ブラジェナからの手紙の続きを読み進める。

 

 

『……(はか)らずも公爵閣下の御子を懐妊(かいにん)したので、自らの子に後を継がせようとでも企んだのでしょう。浅慮(せんりょ)なことです。しかしすぐに明るみになって、公爵邸からは追い出されました。

 アールリンデン市街にある小さな館で、今も監視され生活しています。もちろん公爵邸への出入りは禁止されていますが、元は女狐(めぎつね)が送り込んできた女です。最近はあまり見かけなくなったようですが、何度か図々しく押しかけてくるようなこともあったようです。

 特に泣き落としなんかは信じないように。

 前に門番の一人がそれでコロッと騙されて、まんまと中に入れてしまい、もう少しで小公爵様と鉢合わせるところでした。幸い、ベントソン卿が止めてくれたようですが。

 追放後に子供は生まれましたが、女児でした。そうとわかっていれば、小公爵様を暗殺しようなどという、不埒(ふらち)なことを考えなかったでしょうに。つくづく運もない、考えも浅い女です。だから女狐に利用されるような羽目になるのです。

 追放後に生まれた女児は、サラ=クリスティア・アベニウスと言います。

 彼女は小公爵様にとっては妹ですが、グレヴィリウスもエンデンの姓も与えられぬ庶子同然の娘です。わざわざ会う必要はありませんが、警戒のために、貴方(あなた)も知っておいたほうが良いでしょう。

 くれぐれも、女だからといって、ほだされてはなりませんよ! 娘もです!

 

 不悉(ふしつ)  ブラジェナ・ブルッキネン』

 

 

 ブラジェナはおそらくあわてて書いたのだろう。普段は見せないようにしている本心が、手紙の随所に表れていた。いくつかの言葉から、公爵の第二夫人であったペトラと、その娘であるサラ=クリスティアへの軽蔑が読み取れる。

 オヅマは手紙を机に置くと、頬杖をついて、コツコツと机の右隅を中指で叩きながら考え込んだ。

 

 ブラジェナが心配するのは無理ないことだが、オヅマはもう既にサラ=クリスティアと知り合っている。彼女の立場がわかったからといって、てのひらを返すように冷淡に接することなどできなかった。

 たとえ母親がかつてアドリアンの命を狙ったとはいえ、そのときにはまだ母親の胎内(たいない)にいたティアに責任があるわけがない。何もわからないまま、彼女は母親共々公爵邸から放逐され、忘れ去られたのだ。

 そうして大きくなっていくに従い、ティアは自らの生い立ちを知ったのだろう。母親が犯した罪も。

 今にして思えば、初めてオヅマと会ったとき、ティアの様子は少しおかしかった……。

 

 

 ―――― レーゲンブルト騎士団って……グレヴィリウス公爵家の騎士団の一つ、でしたよね?

 

 

 問いかけてきたティアの顔は少し強張っていた。オヅマがそうだと言ったあとに、取り繕うように笑った顔も。

 オヅマが公爵家に関わりのある人間だとわかっても、ティアは自らの身の上を言わなかった。自分が本当は公爵の娘だと名乗って、虐待する母親から逃れるために、保護を求めてもいいのに。

 

 オヅマはハァーっとため息をついて、大きく後ろに反り返った。足を机の縁にひっかけると、椅子を傾けて不安定なバランスでギィギィと揺らす。

 

「……っとに、無駄に似てやがる……」

 

 二つの顔を思い浮かべて、(ひと)()ちる。

 そうした思慮深さや、我慢強さ、同時に貴族らしいプライドの高さが垣間(かいま)見えるところまで、ティアの性格はアドリアンに似ていた。

 一緒に育っていなくとも、兄妹は似るのだろうか?

 マリーと自分に似たところなど、へらず口くらいしか思い浮かばない。妹のそばかす顔を懐かしく思い出してから、脇に押しやって、オヅマは再びティアのことについて考えを戻す。

 アドリアンがこの場にいて、ティアのあの窮状を知っていたら、どうするだろう?

 

 会ったこともない異母妹。

 自分を幼い頃に殺そうとした女の娘。

 

 おそらくアドリアンは、ティアの存在については知っていたはずだ。何度かそんな話をした気がする。

 だが、会いに行くことはなかった。それは仕方ないだろう。たとえアドリアンが会うことを望んだとしても、絶対にルーカスなりルンビックなりが、許さなかったであろうから。

 そうした周囲の忖度(そんたく)が、アドリアンをますますティアから遠ざけた。あるいは第二夫人が自分を殺そうとしたことも知っていて、尚のこと、会いづらくなってしまったのかもしれない。

 だが今のティアの状況を知っていたら、放置はしておかなかったはずだ。

 

 酒乱の親を持った子供が、どれだけ理不尽な暴力にさらされるか。

 オヅマはまだ耐えられた。

 男だから、兄だから、守るべき存在があるから…と、幼いながらに自分を奮い立たせて、コスタスの横暴に耐えることができた。

 だがティアは一人だ。

 今もあの古く傷んだ館の中で、誰に知られることもなく、空になった瓶を投げつけられてるかもしれない。

 

「チッ!」

 

 オヅマは舌打ちした。

 いずれにしろ手詰まりなのだ。ルンビックかルーカスでもいれば、どうにか取り計らってくれただろうが、現在公爵邸に残っているのは、邸内を管理するだけの執事と従僕だけ。

 そのうえ彼らは、オヅマをほぼ無視していた。

 特に例のハヴェル奉仕隊の一人であるフーゴは、あの時オヅマにすっかりやり込められたことが、よほど屈辱だったのだろう。あることないこと(ほぼないこと)、オヅマに対しての誹謗中傷を撒き散らした。そのせいか、最近では夕食も用意してくれない。(これはオヅマが公爵邸の食事がまずいから、街で食べたほうがいいと言っていた…という噂を立てられたせいだ。無論、オヅマは一度もそんなことを言ったことはない。これまでに数回、街の食堂でエラルドジェイやラオらと食事をして帰って、その日の夕食を断ったことがあったので、それが曲解されたのであろう)

 

 ともかくも今、公爵邸内において頼りになる存在はなさそうだった。

 ブラジェナからの手紙を読んだあと、残留する騎士らに話を聞こうとしたが、まともに取り合ってくれなかった。中には話を聞いてくれる者もいたが、基本的にはティアら母娘(おやこ)と関わり合いになるのを避けた。

 ペトラが公爵邸から追放された経緯(いきさつ)を知る老騎士は言った。

 

「本当だったら、あの女は首を落とされてもおかしくなかったんだ。公爵閣下の子を身籠(みご)もっているからと、ギリギリ殺されることを免れただけだ。娘には気の毒だが、そういう星の(もと)に生まれたと諦めるしかない」

 

 まったくもって不条理だった。しかも腹立たしいことに、その不条理を一番よく理解し、耐えているのは、当のティアなのだ。

 いろいろと考えあぐねて、オヅマが出した結論は、ともかくもう一度ティアに会う、ということだった。今日の状況だけを見ても、オヅマには詳しいことはわからない。ひとまず本人から話を聞きたかった。

 

 翌日。

 どんよりと曇る空模様を気にしながら、オヅマは再びティアの家へと向かった。

 

 

***

 

 

 相変わらず門は傾いて、ひび割れた外壁には(つた)が絡まり、庭は荒れ放題。ちょっとした幽霊屋敷の様相すらある。

 オヅマは扉の横にある、一度も磨いたことのなさそうな真鍮(しんちゅう)のノッカーを叩いた。二度叩き、しばらく待っても現れる人はいない。もう一度、今度は三回叩いてみたが、館はシンと静まりかえっていた。

 

「……いないのか?」

 

 オヅマはつぶやいて、そういえば……と考える。

 ティアは普段から針子(はりこ)のエッダの家に出入りしては、何かと仕事をもらっていた。この時間ならば、エッダのところに行っているのかもしれない。

 

 最初はティアが幼いながら働いていることも、市井(しせい)に住む子供であれば普通にあることだからと気にもしていなかったが、公爵の娘であるという事実を知ると、その状況に疑問が出てくる。

 いくら公爵邸から追い出されたとはいえ、こうして家を用意され、監視されているならば、わずかであっても公爵家からの援助はあるはずだ。母親はどうあれ、ティアは公爵の娘なのだから、公爵家の体面を考えて、最低限の養育費などは渡されているだろう。公爵本人はともかく、家令のルンビックがそうした配慮をしないはずがない。にもかかわらず、ティアが働きにでなければならないほどに、生活が逼迫(ひっぱく)している……?

 矛盾の理由を考えて、オヅマは眉を寄せると、扉向こうにいるはずのペトラの姿を思い浮かべて睨みつけた。

 もう一度、確認のためにノッカーを叩こうと手を伸ばす。その時、目の前の扉がギィィと開いた。暗がりにぼうっと、まるで幽霊のようにティアが立っている。

 

「ティア?」

 

 オヅマは思わず問いかけた。「おい、大丈夫か?」

 

 ティアはまるで魂が抜けたようだった。オヅマが肩を掴むと、ビクリと震えて顔を上げる。その顔は真っ青で、今にも倒れそうだ。

 

「オヅマ……さん……?」

 

 不思議そうにオヅマの名を呼びかけてくる。オヅマは「あぁ」と返事してから、軽くティアの肩を叩いた。

 

「おい。大丈夫か? なんかあの母親にされたのか?」

 

 ティアはオヅマの言葉を聞いて、しばらくボケッと見つめ返してから、いきなりブルブルと震え始めた。

 

「ティア?」

「……お、お、お母様が……」

「なにかされたのか!?」

 

 オヅマが強い口調で問い返すと、ティアはふるふると首を振った。赤みがかった茶色の瞳(今にして思えば、その瞳の色もアドリアンや公爵に通じるものだ)から、涙がポロポロとこぼれ落ちる。

 

「お、お母様が……目を覚まさないんです。体が……冷たくて」

「…………」

 

 オヅマはすぐに事態をのみこんだ。ティアの手を掴むと、中に入っていく。暗い廊下を歩きながら、静かに問うた。

 

「どこだ?」

 

 ティアは無言でオヅマの前へと歩を進めると、廊下を曲がり階段を上っていく。動揺を見せまいと胸を押さえていたが、もう片方の手はオヅマの手をしっかりと掴んでいた。

 二階には三つの扉が並んでおり、一番奥の唯一白く優美な彫刻が施された扉の前で、ティアは止まった。

 

「ここか?」

 

 オヅマが尋ねると、ティアは頷いた。涙を必死に止めようと、きつく唇を引き結んでいる。

 オヅマが扉の把手(とって)に手をかけて開くとき、ティアはまたギュッとオヅマの手を強く握りしめた。

 

 キィィと、また扉が耳障りな音をたてて開いた。どうもこの家の扉はすべて、この数年近くいっさい油がさされていないらしい。

 部屋の中は、窓から燦々と太陽の光が射していたが、どこかどんよりと濁った空気だった。酒の匂いが充満していたからかもしれない。

 奥に置かれたベッドの上に、昨日会ったばかりの女 ―― ペトラが仰向けに寝ていた。

 

 オヅマはそろそろと近づき、ようやくベッドの近くまで来て、眠っているペトラの顔を覗き込んだ。

 瞼は閉じられ、軽く開いた口から(よだれ)が垂れている。

 その姿は飲んだくれて、そのまま眠ってしまったようにしか見えない。

 だが、白くなった顔色と固まった四肢は、それまでにオヅマが見てきた死人を彷彿(ほうふつ)とさせた。

 ラディケ村にいた頃、それこそこうした死人を(とむら)うときに、子供が死体を清拭(せいしき)するという風習があって、小遣い欲しさにオヅマは何度も死人と接したことがあったのだ。

 それでも一応、オヅマは寝ている女の口元に手をやり、手首の脈を確かめた。そっと手を下ろすと、軽く息をついて言った。

 

「死んでる……な」

 

 ティアは「う……」とうめくような声を発すると、ぺたんとその場に座り込んだ。

 とうとう耐えることができなくなって、涙があふれてくる。

 

 オヅマは何も言えず、再びベッドの上に横たわるペトラを見つめた。

 まさか昨日の今日で亡くなるなんて思わない。

 だが初対面の印象においても、ペトラの顔色は悪かった。ただでさえ身体が不調であったのに、昨夜はまた、しこたま飲んだのだろう。

 追放処分を解除されると勘違いして祝杯でもあげたか、あるいは自らの境遇を一層恨んでか……。いつもより酒量も多くなって、とうとう体が耐えきれなくなってしまったのかもしれない。

 

 だが、もはやペトラの死について考えている場合ではなかった。

 考えるべきは、ティアのことだ。

 監視しているのならば、本来、すぐにでもこのことは報告されるはずだが、オヅマの見るところ、この家内にいるのはティアとペトラだけで、使用人の姿はなかった。監視といっても、実際にはこの二人は放置されていたようだ。とはいえ、公爵邸となんら接点がないわけでもないだろう。

 

「ティア……お前の母さんが死んだことを伝えなきゃいけない人とか、いるか?」

 

 オヅマが尋ねると、ティアは目に涙を溜めたまま、しゃくり上げそうになるのを必死にこらえながら言った。

 

「サル…さんに……」

「サルさん?」

「サル…シムさんっていう人が、いつもお金を持ってきてくれていたんです。お役人さんだって聞いてます」

「役人か……」

 

 目立たぬように公爵家からの追放者を監視するには、格好の人選だ。

 公爵家にとって、ペトラの存在は『恥』だから、関係性を大っぴらにすることなく、管理下に置いておきたかったのだろう。

 

「じゃあ、そいつを呼んできたらいいんだな」

 

 オヅマが言うと、ティアはおびえた顔になる。

 

「で、でも、勝手に来るなって…怒られるから……来るまで待ってないと……」

「来るまで…って、今日来るのか?」

 

 ティアは首をぷるぷる振ると、小さくつぶやいた。「いつも十五日頃に……」

 

「そんなに待ってたら……」

 

 死体が腐っちまう、と言いかけてオヅマは止めた。

 いくら虐待されていたとはいえ、ティアは母親に対してオヅマがコスタスに抱いていたような憎悪は持っていない。むしろ、その死に衝撃を受け、悲しんでいる。酒に溺れて娘を虐待するような母親であっても、愛情はあったのだろう。

 オヅマはティアの小さな両肩に手を置くと、少しだけ身を屈めて安心させるように笑った。

 

「ティア、今回は緊急事態だ。わかるだろ? 心配すんな、俺が行ってくるから。お前が怒られるようなことはさせない」

 

 ティアはしゃっくりを呑み込み、じっとオヅマを見上げる。

 アドリアンを彷彿とさせる鳶色(とびいろ)の瞳が潤み始めると、またぶわっと涙があふれた。

 

「…ごめんなさい……」

 

 かすれた声が、必要もなく詫びる。

 オヅマはギリッと奥歯を噛みしめた。

 目の前のティアの表情は、出会ったばかりのアドリアンと同じだった。自分が悪いのだと卑下して、抗うことを諦めてしまった寂しい顔。

 どうしてこの兄妹は、会ったこともないはずなのに、こうも似ているのか。

 その理由に思い至ったとき、オヅマは心底から公爵に腹が立った。

 そもそも公爵が、自分の子供に対して少しでも気にかけてくれていれば、二人がこんな情けない顔をすることはないはずなのだ。

 

「ティア」

 

 オヅマは少しだけティアの肩を強く掴んだ。

 

「いいか? 俺は迷惑とか思ってない。助けたいと思ってるだけだ。だから謝るな」

 

 ティアはまたまじまじとオヅマを見つめてから、コクリと頷いた。蒼ざめていた顔に、少しだけ赤みが戻った。

 オヅマはペトラの遺体にシーツを被せると、気の抜けたようになっているティアを、とりあえずソファに座らせた。

 

「待ってろ。すぐに連れてくるから」

 

 ニコリと笑って言うと、不安そうに見上げてくるティアの頭をヨシヨシと撫でてやった。年齢もそう変わらないせいか、どうにもマリーと同じように扱ってしまう。

 ティアがはにかみつつも、少しだけ嬉しそうに笑うのを見てから、オヅマは足早に館を出て行った。

 

 

***

 

 

 クリマコルス・サルシムはアールリンデンの行政文官であり、アベニウス母娘(おやこ)の保護監視員であった。彼は公爵家に対して、母娘の現状を知らせる役割を持っていたが、この数年、その報告書はいくつかの文字を書き換えただけで、内容はおおむね同じだった。

 基本的には公爵の元第二夫人・ペトラの不行状を書き連ねたあとに、その娘であるティアに関しては「特に問題なく暮らしている模様」とだけ書き記して終わり。

 

 ただこの数年間は、ペトラ・アベニウスが不摂生による身体の不調を申し出てきていること、そのせいで医者や薬などの出費が増えたこと等々を記して、()()()()()、さほど()()()()()()()()()()()、あくまでも()()の生活費の増額などを要求した。

 ペトラは医者に(かか)ったこともなく、薬を処方されたこともないのに。

 そうして母娘(おやこ)が知ることなく、加算された医療費の分も()()、彼の(ふところ)を潤した。そうやって彼は、母娘に充てられた公爵家からの生計費を着服(ちゃくふく)していたのだ。

 

 だから今、ペトラの死を伝えられたときにサルシム行政官が抱いた最初の感想は、

 

『ゲッ! あの女、死にやがったのか。どうすんだよ。このまま報告したら来月分の給付がなくなっちまう。どうすんだ……ツケの支払いが……』

 

 という、あくまでも自分の取り分が減ることへの心配だった。

 しかし、そんな本音を顔に出すわけにはいかない。あくまでも最初の『ゲッ!』で表情を止めて、サルシム行政官は目の前にいる少年をジロリと見た。

 

「で……お前は、なんだ? あの娘の友達か何かか?」

「友達? まぁ、そうだな。ティアは友達だ」

「フン! 母親に似て、あの年から男を手玉にとるのが得意なようだな」

 

 サルシムは小さくつぶやいたつもりであったが、その悪意に満ちた誹謗をオヅマは聞き逃さなかった。眉をひそめると、じっとサルシムを見つめる。

 

「なんだ?」

 

 横柄にサルシムが尋ねてくると、オヅマは低く言った。

 

「あんた……公爵家からティアたちを見ておくように言われたんだよな?」

「なんだ、貴様。礼儀知らずな……まぁ、お前のような者に礼儀を求めるだけ無駄だろうが」

 

 サルシムが半ば苛立たしげに、半ば侮蔑もあらわに言う。

 オヅマは白けた顔で問いかけた。

 

「監視役とはいえ、ティアは公爵閣下の娘だろう? 人に礼儀云々(うんぬん)言う前に、あんたこそ礼儀を(わきま)えたほうがいいんじゃないのか?」

「なんだと、貴様ッ! 子供だからと大目に見てやっていたら、いい気になりおって……生意気を言うな!!」

 

 サルシムが手を振り上げると、オヅマはそのまま殴られてやった。ベシリと頬を打つ音は、うまく当たらなかったのか鈍く、大して響かない。オヅマは軽く舌打ちすると、大袈裟によろめいて尻もちをついた。コケるときに、わざと手で近くに置いてあった水差しをひっかける。ガシャン! と水差しの割れる音がして、周囲の視線が一気に集中した。

 サルシムがフンと満足げに鼻を鳴らす。

 オヅマは内心ほくそ笑んでいたが、殴られた頬をさすりながら立ち上がると、ギロリとサルシムを睨みつけた。

 

「な……なんだ?」

 

 自分の鉄拳制裁にまったく臆することのないオヅマを、サルシムは気味悪げに見つめる。

 オヅマはサルシムを睨み据えたまま、冷然と言った。

 

「俺の礼儀作法について文句があるなら、ルンビックの爺様にでも言えよ」

 

 切り出したその名前は、効果てきめんだった。サルシムの表情が一変する。周囲の役人たちもザワリとうろたえた。

 

「ルンビック様の知り合いか?」

「あの態度……そこらのガキではないぞ」

「もしかして……」

 

 コソコソと周囲が囁き合う中、サルシムは助けを求めて目線を泳がせたが、誰も目を合わせようとはしなかった。

 

「な…! 貴様……いや、お前……いや、き、君は……」

 

 途端に呼び方を変えるサルシムに、オヅマは呆れかえった。だが、今のこの状況における自分の立場については、よくわかっているようだ。

 オヅマは襟先をピンと弾いてみせた。サルシムはそこに刺繍された紋章に気付き、まじまじと確認してから、かすれた声で確認してきた。

 

「レーゲンブルト騎士団……? まさか、貴様……いや君は、クランツ男爵の……」

「さすがに行政官がこの紋章を知らないわけがないな。俺の名前を言ったほうがいいか?」

「お、オヅマ……公子」

「へぇ、知ってるのか。役所に籠もりっきりで、俺のことなんざ知らないと思ってたけど、公爵家からお喋りな雀でもやって来てるのか?」

「しっ……失礼しました!」

 

 サルシムはあわててその場に(ひざまず)くと、平身低頭して謝った。

 以前はどうあれ、今のオヅマはクランツ男爵のれっきとした息子だ。いかにサルシムが行政官であったとしても、貴族の若君に対して文句を言うなど許されない。それどころか手を上げたなどと知られた日には ――― !

 サルシムは一気に蒼ざめ、汗が噴き出した。

 オヅマはそんなサルシムを見て、無表情に問いかける。

 

「何のことに謝ってるんだ?」

「……申し訳ございません!」

 

 ひたすら平謝りしてくるサルシムの後頭部を見下ろしながら、オヅマは軽くため息をついた。

 

「俺は礼儀を尽くす相手を選ぶ主義でね。相手の身分次第で、コロコロ態度を変える人間に対しての礼儀は、生憎(あいにく)、持ち合わせてないんだよな」

「は、あ…ハイ。それはもう、確かにそう……左様にございます」

 

 (てのひら)返しとはよく言ったものだが、サルシムの変わり身の早さに、オヅマはあきれると同時に腹が立った。こういう手合いとは、まともに話すのも惜しい。

 

「それで? ティアの母親が亡くなったんだけど? まさか放っておくつもりじゃないよな?」

「ハイ! ハイ! それはもう、すぐにでも手配致します」

「手配も必要だけど、ともかくアンタが確認しないといけないだろ? 早く来てくれよ。ティアはもう一人なんだ。これからのことだって不安がってる。あんな小さい娘を一人で、あんなボロい館に放ったらかしにしておく気か?」

「も、もちろんにございます! わざわざ、気にかけていただくとは、誠にオヅマ公子はおやさしい……」

「おべんちゃらはいい。早く来い」

 

 オヅマはサルシムの挽回につき合ってやる気はなかった。さっき殴られてやったのは、これ以上、四の五の文句を言わさないためだ。

 オヅマは役人達の好奇の視線を無視して、足早に役所の通路を抜けていった。

 ヒソヒソと囁く役人らに紛れて、蒼氷色(フロスティブルー)の瞳が興味深げにオヅマを観察していた。

 




次回は2024.03.10.更新予定です。


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第百八十三話 葬儀のあとで

 一応、サルシムは役人としては優秀であるようだ。

 ペトラの遺体を確認したあとに、医者を呼び、死亡診断書を書かせた。その後には公爵家の墓守人たちを呼んで、手早く葬儀を手配した。

 葬儀といっても、公爵家において罪人であるペトラは、既に家族もおらず、親戚からの縁も絶たれて、知り合いもない。見送るのはティアだけだった。

 

 オヅマは隣でティアに付き添ったものの、昨日の出会いがよくなかったのもあって、正直、その死を素直に(いた)む気にはなれなかった。

 ただ、棺桶に寝かされたペトラの遺骸を見つめている間に、茶色だと思っていた髪の中に、数本ティアと同じ薄いピンク色の髪を見つけて、おそらく昔は、彼女もピンクの髪であったのだろうと思った。髪の色は成長して変わることがある。特にピンクブロンドは、長ずるに従って茶色や赤髪になることが多い。

 オヅマはなんとなく、ペトラが公爵家に第二夫人として迎え入れられた理由がわかった。わかると、公爵の執着と冷酷さに、ますます反吐(ヘド)が出そうであったが。

 

 ペトラの遺骸は灰色の棺桶の中に安置され、ティアに見送られた後には、早々に墓地へと運ばれ埋葬された。

 すべてのことが終わった頃には、日が傾きかけていた。

 

 (ニレ)の木が並ぶ道をトボトボと帰路につく。

 オヅマはティアを家まで送っていくつもりだったが、サルシムは分かれ道にさしかかると、ヘコヘコと頭を下げて言った。

 

「それでは、(わたくし)めはこれで。今日のことは速信(そくしん)にて、ルンビック様に伝えますので」

 

 そのまま早々に立ち去ろうとするサルシムを、オヅマは鋭く止めた。

 

「ティアはどうするんだよ?!」

 

 サルシムは足を止めると、困った顔で振り返る。

 

「どうする……と、私におっしゃられましても、この娘……いや、お嬢様のことについては、私の一存ではどうにもならぬことでして」

「じゃあ、このままティアを一人にしとくってのか?」

「そのことも含めて、ルンビック様のご指示を仰がねばならぬことでして」

「指示って……配達人が帝都まで行って、また戻ってくるのを待ってる間は?」

「それは……あの館にてお待ちあるように……」

「一人で!?」

 

 オヅマがはっきりと非難をこめて聞き返すと、サルシムは気まずそうに目を伏せた。さすがにサルシムも、まだ十歳になったばかりの女の子を、たった一人、あの古びた家に置いておくのは気が咎めたのだろう。

 黙り込むサルシムに、オヅマはますます声を荒げた。

 

「今すぐにルンビックの爺さんに手紙を送ったって、帝都までどれだけかかると思ってんだ? 行って戻ってくるまでに、一月(ひとつき)は過ぎるぜ。その間、ティアを一人きりにする気か? いくらアールリンデンの治安がいいったって、そんなの危なすぎるだろ」

「公子のご意見はご(もっと)もですが……私にもいかようにできぬことはありまして……」

 

 サルシムは弱々しく言い訳してから、ハッと思いついたように顔を上げた。

 

「一時的に孤児院のほうに身を寄せるというのはどうでしょう? そちらであれば、知り合いもおりますので、ご紹介できます」

「嫌です」

 

 はっきりと断ったのはティアだった。

 蒼ざめた顔だったが、断固とした強い鳶色(とびいろ)の眼差しが、サルシムを睨むように見つめていた。

 

「孤児院には行きません。私はお母様とあそこで暮らすように言われているんですから、これまで通り、あそこで暮らします」

「ティア」

 

 オヅマは急に大人びたティアに驚きながらも、腰を落として視線を下げると、なだめるように言った。

 

「お前の気持ちもわかるけど、あの家にお前一人で暮らすなんて危険だ。この街は安全なほうだけど、悪い奴らがいない訳じゃない。女の子が一人っきりで暮らしてるなんて知られたら……」

 

 言いかけてオヅマは口を噤むと、素早く周囲を見回した。

 誰かが、こちらを見ている……?

 

「……誰だ?」

 

 なんとなく視線を感じた方向に向かって問いかけると、フッと笑う気配がして、木々の暗がりから、ヌウッとヤミが姿を現した。

 

「さすが……オヅマ公子には隠しおおせぬようですね」

「だ、誰だッ?」

 

 サルシムは音もなく現れ出た長身の男に驚いて、()頓狂(とんきょう)な声を上げたが、ヤミは彼を見ようともしない。蒼氷色(フロスティブルー)の瞳を細くして見やったのは、怯えた顔で固まるティアだった。

 

「なんの用だ?」

 

 オヅマは背後にティアを隠しながら尋ねる。

 ヤミは静かに歩み寄って、オヅマの前で立ち止まると、いきなり片膝をついて、恭しくティアに向かって頭を下げた。

 

「初めてお目にかかります、サラ=クリスティア公女様。私は公爵閣下の配下、グレヴィリウスの騎士、ヤミ・トゥリトゥデスと申します。気軽にヤミとお呼び下さい」

 

 その場にいたオヅマもサルシムも、もちろんティアも呆然となった。

 ヤミは固まっている三人に優美に微笑みかける。その微笑だけで、ティアの警戒を取り去った。

 

「ヤミ……卿」

 

 ティアがつぶやくように確認すると、ヤミは軽く頭を下げて立ち上がった。

 

「早速、覚えていただいて光栄にございます、公女様。ところで、オヅマ公子。そろそろ日も暮れようという頃合いです。立ち話するようなことでもなし、ひとまず公女様には(ニレ)の館に戻っていただいたほうがよろしいのでは?」

「楡の館?」

「公女様が暮らしておいでの館の名前です。ご存じではありませんでしたか?」

 

 ヤミ独特の揶揄(やゆ)したような物言いに、オヅマはムッとなったが、斜め後ろのティアに目を向けると、確かに顔色がよくなかった。当然だろう。朝から死んだ母親を前にして、落ち着く暇もなかったのだろうから。ティアの先行きのことも心配だが、今日のところは、ひとまず家に帰って十分に休ませる必要がある。

 

「サルシム卿には早急に報告書を書いてもらわねばなりませんし、ここで別れるのがよろしかろうと思いますよ」

 

 サルシムは騎士であるヤミの急な登場に目を白黒させていたが、その言葉を助け船と思ったのだろう。「では、失礼」と早口に繰り返しながら、そそくさと中心街のほうへと走り去った。

 

「……小役人が」

 

 微笑を浮かべたまま、吐き捨てるようにつぶやいたヤミの声は冷酷な響きを帯びていた。

 怪訝(けげん)に見上げたオヅマに、ヤミがそっと唇に人差し指をあてる。オヅマはちらりとティアを見た。気付いていないようだ。おそらくオヅマにだけ聞こえるように言ったのだろう。

 あからさまな警戒の目でヤミを見つめてから、オヅマはプイと顔をそむけると、ティアに手を差し出した。

 

「ティア、帰ろう」

 

 ティアは少し戸惑いつつも、オヅマの手を握る。

 まるで兄と妹のように、手を引いて歩く二人の後ろを、三歩ほど間隔を空けてヤミが従った。

 

「で?」

 

 帰ってくるなり、急に気が抜けたのか、ソファで眠り込んでしまったティアに毛布をかけて、オヅマはヤミに問いかけた。招待してもいないが、図々しく上がり込んでいる。ヤミは一人掛けソファに長い足を組んで座り、オヅマの問いに首をかしげた。

 

「なにか?」

「なにか、じゃねぇよ。どういう魂胆だ?」

「魂胆とはまた…不穏な言い方をしますね、オヅマ公子」

「アンタの正体については、おおよそ見当はついてる。今更だろ。俺を張ってたのか? それともティアか?」

「やれやれ」

 

 ヤミはため息をついてから、また冷たい声音になる。

 

「辺境の田舎者領主のにわか息子と、こんなボロ家に幽閉された力もない公女を、どうしてわざわざ見張る必要が?」

「テメェ……」

 

 先程、ティアに対して行った騎士の礼が、心からのものではないとわかっていたとはいえ、こうして堂々と言われるとやはり腹が立つ。

 だが、ヤミは怒るオヅマにも平然としたものだった。

 

「たまたまですよ、今回については。少々、役所に用があって訪ねたら、公子が派手に()()()をしておられたので、気になりましてね。まぁ、そこからは確かに()()()おりました。ですが、結果的には良かったのではないですか?」

「なにがだ?」

「先程の件です。お嬢様の護衛のことですよ。確かにこんなボロ家で、愛らしい少女が一人で暮らしているとなれば、早々に人買い共が(さら)いに来るでしょうからね。おそらくそうなっても、公爵閣下は放っておかれるでしょう。ルンビック卿あたりは、一応捜索させるでしょうが」

 

 オヅマはギリと歯噛みした。

 また、ここでも公爵の無関心がオヅマを苛立たせる。

 おそらくヤミの言うことは正解なのだろう。前に言っていた公爵直属の諜報組織に属するヤミであれば、より公爵の真の姿を知っているのだろうから。

 オヅマは一度、強く拳を握りしめてから、パと開いて力を抜いた。ここでヤミに怒っても仕方ない。

 

「それで、ここまで来て何する気だ? アンタがティアの護衛として、ここに泊まってくれるのか?」

「さすがにそれは無理ですね。私もこれで忙しい身でして」

「なんだ、それ。じゃあ、なんで声かけたんだよ?」

「おや? どちらかというと、声をかけたのはオヅマ公子であったと思いますが?」

 

 いけしゃあしゃあと言うヤミを、オヅマは睨みつけた。その言葉で尚のこと、あのときヤミがわざとオヅマに気付かせるよう、気配を()()()のだとわかる。

 

「私よりも適任がおりましょう、オヅマ公子の周囲に。サラ=クリスティア嬢も、今日会ったばかりの私よりも、多少なりと言葉を交わしたことのある顔見知りのほうが、緊張せずに済む……」

 

 オヅマはヤミの返答にすぐに思い至った。

 

「ジェイか……」

「彼はオヅマ公子に()()()心を許しているようですし、頼めばやってくれるのでは?」

「…………」

 

 オヅマはヤミを見つめた。言ってることが、いちいち(もっと)もなのが、ひどく胡散臭い。

 オヅマは外泊を禁じられている。

 べつに決まりを破って嫌味を言われるくらいであれば構わないのだが、下手をするとアドリアンの近侍を外されてしまうという可能性がある。それは避けたかった。アドリアンの為にも、今となってはティアの為にも。

 

「じゃあ、アンタがジェイを呼んできてくれよ。どうせジェイの行きそうな場所の心当たりあるんだろ? 知り合いみたいだし」

 

 何気なく言ったオヅマに、ヤミはニコリと笑う。妙に嬉しそうな様子だ。オヅマはなんとなくジェイに申し訳なくなった。どうもヤミにうまく乗せられた気がする。

 

「アンタ……なに考えてるか知らないけど、ジェイに無理を言うなよ」

「ずいぶんあの男と仲が良いようですね、オヅマ公子。彼がどういう(たぐい)の人間かも、わかった上でのようだ」

 

 オヅマは答えなかった。ヤミに聞きたいことは色々とあったが、無表情で蓋をする。今はティアの安全が最優先だ。

 ヤミは頑ななオヅマの態度に、少しだけ苛立ちをみせた。

 

「あの男は、なにか私のことを言っていましたか?」

 

 やけに真剣な声音で尋ねられ、オヅマはきょとんとなった。

 

「は?」

「あれから、何か言ってませんか?」

「…………」

 

 オヅマはまたヤミをまじまじと見つめる。

 どうもエラルドジェイが関わると、この男はいつもの余裕がなくなるようだ。

 オヅマはしばし思案した。

 前にエラルドジェイが言っていたこと……?

 

 

 ―――― アイツは、性格が良くない! というか変態だ。だから相手すんな!

 

 

 思い出した言葉がそのままポツリと出る。

 

「…………変態」

「はい?」

「性格が良くない変態だ、っ()ってたな」

「………………ほぉ」

 

 言われた瞬間、硬直したヤミの顔は、ゆっくりと薄ら笑いを取り戻したものの、つり上げた口の端はやや引き攣っていた。

 いきなりガタンと立ち上がる。その音でティアが目を覚ました。しかし先程の丁重な挨拶はどこへやら、ヤミはカツカツと苛立った足音を立てて出て行った。

 

「……ヤミ…卿は、怒っておられたのですか?」

 

 ティアが心配そうに尋ねてきたが、オヅマは首を振った。

 

「わかんね。ま、ティアは気にしなくていいさ」

 

***

 

 それから半刻ほどして、エラルドジェイがやって来た。

 とてつもない仏頂面で。

 

「……お前、あの野郎に俺を売ったな?」

 

 入ってくるなり、エラルドジェイがぼそりと言う。

 オヅマは訳がわからなかった。

 

「は? なにが?」

「アイツとは関わるなって言ったろ? なんで、あの野郎に頼み事とかするんだよ」

「頼み事って……あんたを探して連れてきてくれって言っただけで」

「俺は、アイツに会うのも嫌なの! なに会うきっかけ作ってくれてんだッ」

 

 オヅマは眉を寄せてエラルドジェイをまじまじと見てから、肩をすくめた。怒ってはいるが、本気じゃない。多少、気分を害したようではあるが。

 

「ごめんごめん。緊急事態でさ。ちょっと頼みたいことがあって」

「……っとに、あの野郎に使いをやらせるなんて、お前どこまで豪胆なんだ。あとで、どんな要求してくるか知らんぜ」

「うん。そん時ゃよろしく」

「恐ろしいこと言うなーッ!」

 

 エラルドジェイは叫んだが、オヅマは無視して話を続けた。

 

「ジェイ、あのさ、急で悪いんだけど、しばらくこの家でティアの護衛をしてもらいたいんだ」

「は?」

「今日、ティアのお母さんが亡くなったんだ。だからティアを一人っきりにするわけにもいかないだろ?」

「え!?」

 

 エラルドジェイはさすがに驚き、ティアを見つめる。

 突然のエラルドジェイの来訪と、そこから続く意味不明な会話に呆気にとられていたティアは、あわてて頭を下げた。

 

「ごめんなさい、ジェイさん。あの……無理しなくていいです。私は一人でも……ちゃんと戸締まりはしっかりするようにしますから」

「いやいやいや。戸締まりったって、この家じゃ……」

 

 言いかけてエラルドジェイは口を(つぐ)むと、ニコッと愛嬌のある笑みを浮かべた。ティアの目線に合わせるようにしゃがみこんで尋ねる。

 

「俺はティアの護衛なら、喜んでやるよ。ティアはどうだい? こんなおっさんと一緒に家にいるのは御免被りたいか?」

 

 ティアはぷるぷると頭を振った。

 

「そんなこと思いません。でも……いいんですか?」

「ぜーんぜんッ! 暇、ヒマ~。どうせ飲んで騒いでるだけで」

「でも…でも、エッダさんが、ジェイさんは夜になったら忙しい、って言ってましたよ」

 

 ティアが申し訳なさそうに言うと、エラルドジェイはきまり悪そうに頭を掻く。

 オヅマは白い目になって、軽くため息をついた。

 

「……誰に何を言わせてんだか」

「いや、違う違う。誤解だって! 一応、仕事もあるんだって」

()、ね。一応、ね」

 

 あきれたように言って、またため息をつく。どうせまた、あちこち娼家(しょうか)なり女の家なりを、渡り歩いているのだ。

 エラルドジェイは真っ向否定することもできず、逆に怒りだした。

 

「こンのクソガキ! 人にもの頼むなら、ちょっとはヘコヘコしろ」

「それとこれは別。じゃ、俺はまた明日来るから……ティア、今日はちゃんと食って寝ろよ。食い物はあるよな?」

「あ、はい。それは大丈夫です」

「よし」

 

 オヅマは頷くと、エラルドジェイに目配せして、ポーチまで誘った。

 

「なんだ? まだなんかあるのか?」

 

 玄関扉にもたれながら、エラルドジェイが尋ねてくる。広がった袖がゆらゆらと動いているのは、おそらく中でまたゴリゴリと胡桃(くるみ)を回しているからだろう。

 

「もう知ってるかもしれないけど、ティアさ、実は公爵の娘なんだ」

「は?」

「知らなかったか? ラオのオッサンは知ってたみたいだけど……」

 

 エラルドジェイは首をひねった。

 

「言ってたかもしれんけど……俺、ラオの言うことはけっこう筒抜けで聞いてるからな」

「……まぁ、そんなわけだから。とりあえず一ヶ月ほど、帝都からの連絡が来るまで、夜だけでもいてやってほしいんだ。朝にはティアはエッダさんのところに行くだろうし」

 

 生活費のほとんどが、母親の酒や煙草などの嗜好品、高価な食品、ドレスなどに使われていたために、ティアはエッダのところで手伝いをして、わずかながら給金をもらい、細々とした生活必需品を買っていたらしい。

 ただ、そうするようにと勧めてくれたのは、実はエッダだった。たまたまティアが庭で母親から折檻(せっかん)を受けているのを見たエッダが、せめて日中くらいは自分のところで過ごせるようにと、申し出てくれたのだという。

 ティアの家庭の複雑な事情を、街に住む人々はなんとはなしに知っていて、ティアたち親子とあまり積極的に関わろうとはしなかった。だが、エッダは自らも同じような境遇 ―― 親からの虐待 ―― にあったらしく、見て見ぬふりはできなかったのだろう。

 エラルドジェイもこうして引き受けてくれるあたり、ラオからしたら、二人揃ってお人好しと言われるかもしれない。

 

「じゃ、頼んだ」

 

 オヅマはエラルドジェイに手を振ると、とっぷりと日の暮れた道を歩き出した。

 思いのほか、長い一日になってしまった。サルシムについては、少し態度の気になるところはあるが、ひとまず今日のところは感謝するとしよう。オヅマだけでは、葬式の手配など、どうすればいいのかもわからなかったのだから。

 

 カイルを引き取りに来たオヅマから、今日あった一連のことについて聞かされたラオは、一言だけ商人らしく忠告した。

 

「オヅマ、ジェイはいい奴だがな、ケジメのわかってない奴には容赦ない。あいつはお前に色々と()()があるかもしれんが、今回のことはちゃんと報酬を支払ってやれ。お前が出す必要はない。公爵家から出させりゃいい」

 

 オヅマはラオの言葉に首肯(しゅこう)した。

 確かに、今回の件でもっとも責任をとるべきは公爵なのだ。公爵当人に言うわけにはいかないが、ルンビックであれば、事情を汲んでそれなりの額を出してくれるだろう。

 

「さすがだな、オッサン。たまにいいこと言うぜ」

「『たまに』は余計だ」

 

 憮然として答えるラオに手を振って、オヅマは公爵家へとカイルを急がせた。

 

 空には星が光り、すっかり夜だった。

 満天の空の下、宵の闇を抜けてカイルが駆ける。

 

 公爵邸までの道のりを走らせながら、オヅマはふとレーゲンブルトの、朝駆けで毎日通った道を思い出した。

 途端に懐かしさがこみあげてきて、このままカイルと一緒に帰ってしまおうか……なんて考えてみる。無論そんなことをする気は毛頭なかったが、不意に訪れた郷愁は、オヅマを少し感傷的にさせた。

 前にテリィが母親に会いたいと言って、泣いているのを見て笑っていたが、今は少しだけその気持ちがわかる。

 レーゲンブルトに来てから今まで、こんな気分になったことはない。だが、今日は……今日だけは、心底母親(ミーナ)に会いたかった。…………




2024.03.24.更新します。


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第百八十四話 いざ、レーゲンブルトへ!

 ペトラの突然の死から十日が経った頃、思わぬ客がアールリンデンにやって来た。

 

「久しぶりだな、オヅマ」

 

 レオシュと一緒に、ティアのところに食料を持って行く途中で声をかけてきたのは、マッケネンだった。

 

「え…マッケネン…さん……?」

 

 まさか帝都にいるとばかり思っていたマッケネンの登場に、オヅマは驚きを通り越して白昼夢でも見ているのかと思った。ボーッと見上げていると、マッケネンがいきなり頬っぺたをつねってくる。

 

「い……イテテテ、テテッ! 痛ェッ! 痛ってェてのッ!!」

 

 オヅマが情けなくわめくと、マッケネンはカラカラ笑って手を離した。

 

「ハハッ! 驚いた白狸の子みたいな顔するからだ」

「なんだよ、それ……」

 

 オヅマは頬を撫でさすっていたが、ハッと横から自分を見るレオシュに気付くと、すぐに手を下ろした。

 

「あ、レオシュ。この人、俺と同じレーゲンブルトの騎士だよ。優しい顔してっけど、けっこう言いたいこと言うし、稽古に関しちゃ鬼みたいな人だ」

「お前に言いたいこと言うとか言われたくないんだけどな……レオシュっていうのか。オヅマが世話になってるみたいだな。よろしくな」

 

 マッケネンが朗らかに声をかけると、レオシュは戸惑いつつもペコリと頭を下げた。固くなるレオシュを見て、オヅマがククッと笑う。

 

「緊張しちゃってるよ、コイツ」

「う、うるさいな」

 

 レオシュは少し頬を赤らめたが、マッケネンの前であるので、すぐに口を噤んだ。

 本来ならば、自分のような身分の人間が、オヅマという貴族の息子相手に対等の口をきくなんてことはあり得ない。下手をすれば、貴族への侮辱罪で問答無用で牢屋に叩き込まれてもおかしくないのだ。

 だがもちろん、マッケネンがレオシュの口の利き方を(とが)めることはなかった。むしろ、負けん気の強い、やや意地っ張りの弟分と友達になってくれていることが、有難いくらいだ。

 

「お前たち、どこかに行くのか?」

 

 マッケネンの問いに、オヅマは少しだけ目を泳がせた。

 

「あーあの……まぁ、ちょっと。マッケネンさんは? どうしてまた今頃……もしかして、もう帰ってきたのか?」

「まさか。今回は、ちょっと……まぁ護衛と説明係みたいなもんだ」

「護衛? 説明係?」

 

 マッケネンはそれ以上は言わず、チラとレオシュを見た。

 

「すまないが、ちょっとオヅマに用があるんだ。いいか?」

 

 レオシュは素直に頷くと、オヅマに言った。

 

「ティアに持ってくだけだから、俺一人でも大丈夫だ」

「あ……うん。じゃあ、頼まぁ」

「おう。じゃあな」

 

 レオシュは邪魔をしないようにと、さっさと走っていった。

 マッケネンが去って行くレオシュを見ながら、オヅマに問いかける。

 

「あの子……孤児だろ?」

「えっ? そうだけど……」

「やっぱりな」

「なんでわかったんだ?」

「なんとなく…な。俺も親を亡くして、一時的に孤児院にいたことがあるから……わかるんだ。あの目……」

 

 マッケネンは言いかけて、ゆっくりと口を閉じる。雑踏に去ったレオシュを見送って、くるりとオヅマに向き直った。

 

「悪いが、ちょっとついてきてもらっていいか? そう遠くない」

「あぁ。もちろん」

 

 オヅマは即答して、マッケネンの後に従った。

 中心街からは少し離れた、小さな宿屋の二階。そこでオヅマを待っていたのは、キャレによく似たルビー色の髪の娘と、ルーカスの妹であるハンネ・ベントソンだった。

 

 

***

 

 

「……ん?」

 

 オヅマが部屋に入ったとき、椅子に座っている二人の令嬢のうち、一人についてはすぐにわかった。公爵邸内にあるルーカスの私室を訪ねたときに、何度か会ったことがあり、ルーカスからも「妹だ」と紹介されていたからだ。

 

「久しぶりね、オヅマ。また大きくなったんじゃない?」

 

 ハンネは相変わらずだった。いつも会うたびに同じことを言っては、オヅマの頭をくしゃくしゃと撫でる。

 

「やめろって。なんで? なんで、ハンネさんがここに?」

「私は、まぁ一応、付き添いよ。名分としては」

「名分?」

 

 オヅマは聞き返しながら、ハンネの隣に座っている赤い髪の令嬢を見やる。

 ニンマリとハンネが笑った。

 

「どうしたのー? オヅマ」

「あ、いや……なんか知り合いに似てて」

「あらー? どの知り合い?」

「近侍のキャレ・オルグレンっていう……」

 

 途端にパチパチとハンネが拍手する。

 オヅマはきょとんとして、ハンネとそこに座ったルビー色の髪の娘を交互に見た。

 

「え? なに? え……まさか」

「そのまさかよ。はい、じゃ一応ご挨拶しましょうか。カーリン」

 

 ハンネが声をかけると、カーリンはおずおずと立ち上がって、どこか決まり悪そうに自己紹介をした。

 

「その……お久しぶりです。オヅマ……公子。私は、あの……カーリン・オルグレンです」

「カーリン?」

「ごめんなさい!」

 

 カーリンはいきなり叫ぶように謝って、深々と頭を下げてくる。

 オヅマは狐につままれたように、ボケっとなった。

 ハンネが扉脇に立って様子を見ていたマッケネンに声をかける。

 

「どうやら説明が必要なようよ、説明係さん」

「承知しました。さ、そろそろいいか? オヅマ」

 

 マッケネンに声をかけられ、オヅマは困惑した。

 

「どういうことなんだよ?」

「だから、それを今から説明するんだ。ま、ともかく座ろうか。ハンネ嬢とカーリン嬢も」

 

 マッケネンはオヅマの肩を押すようにして椅子に座らせると、ここに来た経緯を話し始めた。

 すべてを聞き終わったとき、オヅマはしばらく自分の中で、この異常事態を反芻した。つまりは女のカーリンが男のキャレだと偽っていた……ということだ。

 ムゥと眉間に皺を寄せて腕を組み、ジロリとカーリンを睨みつける。

 

「…………で、お前、今まで騙してたわけ? 俺らを?」

「……すみません」

 

 カーリンは座ったまま、また頭を下げ、もう一度言った。「本当に、すみません」

 

 オヅマはじーっとカーリンを見てから、ブハッと吹き出した。大声で笑い始めると、自分でもなかなか止められない。

 

「マジかよ! やってくれてんな! あーっ、そうか。そうだよなー。お前、ほんっとに力ないし、走るのも遅いし、いーっつもなんかビクビクしてたもんなーっ」

 

 あっけらかんとしたオヅマの態度に、戸惑ったのはカーリンだった。

 

「あ、あの……オヅマ公子、怒ってないのですか?」

「怒る? んー……こりゃ、怒るっていう問題じゃねぇな。どっちかっつーと、一杯食わされたというか、まんまと騙されたというか……ま、どっちみちお前、バレちゃったんだろ? あ、そうだ。アドルは? アイツ、どんな顔してた?」

 

 アドリアンのことを聞かれて、カーリンは途端にうつむいた。

 ひどく暗い表情を見て、オヅマは首をかしげる。

 ややあって、カーリンがポツリとつぶやいた。

 

「小公爵様は……怒っておられました」

「あー……」

 

 オヅマは前髪をかき上げて、ポリポリ掻いた。

 なんとなく想像がついた。

 アドリアンは優しいのだが、あれでやっぱり大貴族のお坊ちゃんなので、めっぽうプライドが高い。特に自分を馬鹿にされることには、ひどく矜持(きょうじ)が傷つくようだ。

 オヅマは泣きそうになりながら、スカートをギュッと掴んでいるカーリンを見て、軽く肩をすくめた。

 

「ま、仕方ないよな。お前が悪いし。色々事情はあるんだろうけど。正直に打ち明ければ、アドルはちゃんと考えてくれたさ。だいたいお前には甘かったろ? お前が実家であんまりいい待遇じゃないからって、気にかけてたみたいだし」

「……はい」

「先にお前がアドルを信じなかったんだから、今、アドルがお前のことを信じられなくなっても仕方ない。しばらくはあきらめとけ」

 

 あっさりとオヅマが言うと、ハンネが優しくカーリンの背をなでた。

 

「そうよ。カーリン。一生、許してくれないと決まったわけではないわ。いずれ小公爵様も、あなたの気持ちをわかってくれるわよ」

 

 カーリンはスンと(はな)をすすってから、プルプルと首を振った。

 

「私なんて……許されなくて当然です」

「あーっ! そういうの、やめろって。見てるこっちが陰気になる」

 

 オヅマが面倒そうに言うと、マッケネンがコツリと頭を叩いた。

 

「言い過ぎだぞ、お嬢様なんだからな、カーリン嬢は。もう『近侍のキャレ』じゃない」

「へぇへぇ。で、このままレーゲンブルトに行くってこと?」

 

 オヅマはメソメソするカーリンが鬱陶しくて、マッケネンへと向き直る。マッケネンは神妙な顔になって頷いた。

 

「あぁ。ともかくはオルグレン家から離す必要があるということだ。その間にベントソン卿が手立てを考えてくれるだろう」

「ふぅん。いいねぇ。俺もしばらくぶりに帰りたいや」

「うん? お前も行くんだぞ」

「は?」

「言わなかったか? 今回、カーリン嬢をレーゲンブルトに連れて行くにあたって、お前も一緒に行って、ミーナ殿をはじめとするご領主様一家に紹介してもらうことになってる」

「いやいやいや。さっきの説明、そこ抜かしてますけど!」

「あ、悪い。なんかもうお前の顔見たら、行くもんだと思って」

 

 とぼけた顔のマッケネンを睨みつけてから、オヅマは思案した。

 

 ティアのことはジェイに頼んでいるとはいえ、さすがにアールリンデンからオヅマがいなくなると、心細い思いをすることになるだろう。

 あの日和見主義の役人(サルシム)は、どうも信用できない。

 ペトラの葬式からこのかた、一度もティアの住む館に姿を見せたことがないし、役所を訪ねても忙しげに対応して、まともに話も聞かない。一度、オヅマがちゃんとルンビックに報告したのか確認すると、ひどく怒って、それからはオヅマが訪ねても、姿を見せないようになった。

 あからさまに避けている。どうも怪しい。

 

 サルシムだけのことではない。

 元々、ティアの母親はハヴェルの実母に利用されていたのだから、その死を知った『女狐(めぎつね)』とやらが、今度はティアを利用しようと企むかもしれない。

 エラルドジェイは強盗や人攫(ひとさら)いからはティアを守ってくれるだろうが、貴族相手の交渉事は不向きだ。それにもうすぐ仕事で遠方に行くと言っていたし……。

 

「なんだ? 難しい顔して」

 

 マッケネンが問うてきて、オヅマはジロリと見上げた。

 

「レーゲンブルトに行くときに、友達を一人連れて行く」

「友達?」

「あぁ。別にいいだろ。自分の家に友達を連れて行くぐらい」

「それはまぁ……いいと思うが。なんだ? さっきの子か?」

「レオシュは違う。女の子だ」

「はあぁぁ?」

 

 マッケネンは思わず大声で聞き返し、ハンネは「まぁ!」と面白そうに手を打つ。カーリンは呆気にとられたようにオヅマを見た。

 

「なに、なに? オヅマのガールフレンド?」

 

 ウキウキしたように尋ねてくるハンネに、オヅマは軽く眉を寄せた。

 

「そーいうことじゃないから。最近、母親が死んで一人ぼっちなんだよ。どうせだったら、一緒に行けばいいだろ。マリーと年も近いし」

「あらー! いいじゃないのー。ねぇ、カーリン。マリー嬢と、その子と、三人で遊べるわよ」

 

 ハンネに言われても、カーリンは戸惑うだけだった。

 こうして女に戻って、レーゲンブルトという未知の土地に行くことも不安だらけなのに、その先で遊ぶなんて悠長なことはとても考えられない。

 

 

 さて、そこから馬車の点検・修理とあれやこれやの準備に二日を経て、レーゲンブルトへ向かうカーリンらの前に、オヅマが(くだん)の女の子を連れて現れた。

 おそらくお下がりであろう、子供にはやや大きめのボンネットを被り、女の子は不安そうにオヅマの斜め後ろに立っている。左手には小さな鞄を持ち、右手はしっかりとオヅマの手を掴んでいた。

 ボンネットから長く垂れた髪が、ふわりと風に揺れるのを見た途端、ハンネが駆け寄って声を上げた。

 

「あらぁ、可愛い子! 鴇色(ときいろ)の髪なんて、リーディエ様と同じだわ。お嬢ちゃん、お名前は?」

「あ……あ、あの……」

 

 戸惑ってオヅマの背に隠れようとする女の子に、オヅマがやさしく声をかけた。

 

「一応、旅の道連れだからな。ちゃんと挨拶しろよ」

「うわー、やさしーのー」

 

 ハンネがからかうと、オヅマはムッとしたように女の子を前へと(うなが)し、手を離した。

 女の子はおずおずとハンネらの前に立つと、ギュッと胸元のリボンを握りしめ、はっきりと名乗った。

 

「サラ=クリスティア・アベニウスです」

「サラ=クリスティア……アベニウス?」

 

 聞き返してハンネは首をひねる。「なんか、どこかで聞いた気がするんだけど……」

 

 いち早く、少女の正体に思い至ったのはマッケネンだった。まじまじとティアを見た後、ゆっくりと顔を強張らせながらオヅマに尋ねた。

 

「お、お前……まさかと思うが、その子……」

「あぁ。アドルの妹だよ。母親は違うみたいだけど」

 

 ハンネはあっと息を呑み、マッケネンは天を仰いだ。少し離れた場所から見ていたカーリンもあんぐりと口を開ける。

 

「おい……おいおい……ちょっと待て。ちょっと待て」

 

 マッケネンは眩暈(めまい)がしそうになって、(ひたい)を押さえる。やや乱暴にオヅマの肩を掴むと、無理矢理ティアに背を向け、小声でわめき立てた。

 

「おい! どういうつもりだ?! こんな……なんだって、お前がアベニウスの娘と知り合いなんだ!?」

「まぁ、そこは追々話すからさ。とりあえず出発しようよ。早くしないと朝市の荷車で混むぜ」

「そういうわけにいくか。家令殿の許可は? もしかしてベントソン卿からの指示とか、そういうことか?」

「違うけど、大丈夫だろ。どうせこれまで放ったらかしてたんだし」

 

 オヅマがムッとしたようにつぶやくと、マッケネンはハーッと息を吐いてから諭した。

 

「お前な……アベニウス夫人は罪人なんだぞ……」

「知ってるよ。でも、あのおばさんなら、もう死んじまったし。ティアに罪はない。だろ?」

「……そうは言っても」

「責任者みたいなオッサンがいるにはいるけど、アテにならないんだよ。たった一人の身寄り亡くしてティアは一人っきりだってのに、指示がないと動けないとかなんとか言ってさー。様子も見に来やしねぇ。心配しなくても、一応手紙書いて、ルンビックの爺さんに届けてくれるように頼んである。まぁ、事後承諾になっちまうけど……仕方ないだろ」

「うーん……」

 

 マッケネンはうなりながら、背後で不安げに佇んでいる少女を見た。

 フワリとゆるやかにうねる薄いピンクの髪に、かつて一度だけ見たことのある公爵夫人の肖像画が思い浮かぶ。だが今、オヅマを見つめるその瞳は、父や兄と同じ(とび)色であった。紛れもないグレヴィリウスの血が、目の前の少女にも受け継がれている。

 

 結局、マッケネンはオヅマの選択に同意した。

 まるでたった一つの頼みの綱であるかのように、オヅマを見つめるティア。この二人を引き離すのは、さすがに酷だ。オヅマも残してはいけないと考えたからこそ、連れて行くと決めたのだろう。

 

 マッケネンの了承を得ると、オヅマはカーリンにもティアを紹介した。

 

「おう、キャレ。じゃないな、えーとカーリンだったっけ? この子、アドルの妹な」

「あ……はぁ……」

 

 カーリンは曖昧に返事した。何を言えばいいのか、わからなかった。 

 目の前でおずおずと自己紹介するティアを呆然と見つめる。

 前に一度だけアドリアンが言っていた「会ったことのない妹」。

 公爵邸から母子共に追放されたとはいえ、歴とした公爵家の姫君である。ようやくそのことに気付くと、カーリンはあわてて頭を下げた。

 

「いえ、あの私は……そんな頭を下げられるような、そんな……そんな人間じゃないですから」

 

 カーリンは畏れ多くて、ひたすら恐縮したが、ティアは初めて会ったカーリンの事情など知らない。小首をかしげるティアに、オヅマがまた屈託なくカーリンの紹介をする。

 

「あ、ティア。こいつ……って言ったら駄目なんだった。えーと、なんだ……この…子は、カーリン・オルグレン。元々はキャレって名前で、俺と同じ近侍だったんだけどさ、女だってのがバレて、大目玉くらって追い出されたんだと」

「……え……あ、は、はい」

 

 ティアは一応返事したものの、オヅマがさらりと語った内容が突飛すぎて、すぐに頭に入ってこなかった。

 背後でマッケネンが大きなため息をついた一方で、大笑いしたのはハンネ・ベントソンだった。

 

「まぁまぁ、まったく。オヅマにかかったら、お家の一大事も巷談(こうだん)弁士(べんし)辻話(つじばなし)になってしまうわね」

 

 巷談弁士というのは、最近になって帝都に現れ始めた辻芸人の一種だ。

 名前通り、ちまたで噂となった事件や、時には貴族間の権力闘争まで面白おかしく、巧みな(たと)えを交えて人々の前で披露する。

 今までにもこうした風聞を詩に混ぜて各地を歌い歩く吟遊詩人などはいたが、彼らの多くが悲劇的で、叙情味あふれるものであるのに対し、巷談弁士の語りは軽妙、滑稽味がウリとされた。

 というのは……さておき。

 

「ねぇ、カーリン嬢。深刻に考えるのが馬鹿らしくなってこない?」

 

 ハンネはずっと暗い顔のままのカーリンに声をかける。

 カーリンはそれでもそう簡単に切り替えることなどできなかったが、あまりにもカラリと受け流すオヅマの態度に救われたのは間違いなかった。ようやく少しだけ笑みを浮かべ、チラリとティアを見る。

 ティアもまたオヅマの明るさに救われているのであろう。ニコニコと笑っていた。その笑顔にアドリアンの面影を見出(みいだ)して、カーリンはティアに少しだけ親近感が湧いた。

 

 少女二人に笑顔が戻ると、ハンネはまとめるようにパンパンと手を打った。

 

「さぁさ。尽きないおしゃべりは馬車の中でするとして。とりあえず出発しましょう。いざ、レーゲンブルトへ!」

 

 




次回は2024.03.31.更新予定です。


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第百八十五話 令嬢達のごあいさつ

 ハンネのおしゃべりがそろそろ尽きようかという五日目にレーゲンブルトに到着すると、領主館の玄関前ではミーナやマリー、オリヴェルのほかに懐かしい面々が待ち構えていた。(むろんオヅマの帰還を歓迎していないであろうネストリも)

 

「お兄ちゃーんっ!」

 

 数ヶ月ぶりに会った妹は、すっかり『お嬢様』になっていた。だが見た目が変わっても、中身は同じ。スカートをたくし上げて、オヅマのもとへと走ってくる姿は、庭で走り回っていた頃と変わらなかった。

 

「お帰り、お兄ちゃん!」

 

 自分の胸に飛び込んできた妹を抱きとめると、懐かしい甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 

「お……これはロンタのジャムパイ!」

「残念! ライムケーキです!」

「おぉー! 久しぶりだな。母さんのライムケーキ」

「あら。作ったのは私よ」

「お前が? ……それ、食べられるんだろうな?」

「失礼ね! ちゃんと何度も練習して、お母さんのお墨付きだってもらったんだから!」

「練習……」

 

 オヅマはマリーの背後に立っているオリヴェルの苦笑いでおおよそ想像がついた。たぶん『練習』につき合わされたオリヴェルは、今日のライムケーキを食べることはないだろう。

 

「お帰り、オヅマ。なんか、また大きくなったね」

 

 オリヴェルがオヅマを見上げて言うと、オヅマはポンポンとオリヴェルの肩を叩いた。

 

「お前ね、どっかの親戚のおじさんみたいなこと言うんじゃないよ。っていうか、お前もけっこう肉がついたじゃないか。背も伸びたし。もう母さんと同じくらいじゃないか?」

 

 オヅマが尋ねると、それまで微笑んで様子を見守っていたミーナが大きく頷いた。 

 

「そうなの。もう少しで越されそうよ」

 

 マリーは近寄ってきた母のために兄から離れた。

 ミーナはふわりとオヅマを抱きしめて「おかえりなさい」と、嬉しそうに言う。

 オヅマは少し気恥ずかしくもあったが、軽く母を抱きしめ返した。昔は抱きついて見上げていた母の薄紫の目を、今は見下ろすようになっている。

 二人してそれぞれに似た感想を抱いたのだろう。目を見合わせて笑い合っていると、背後からハンネが声をかけてきた。

 

「さて。感動の再会はそれくらいにしてもらってもよろしいかしらね? とりあえず揺れない椅子に座りたくって」

 

 オヅマはあわてて母から離れると、振り返った。

 

「あ、そうだった。とりあえず紹介しないと」

 

 ミーナは馬車から降りて立っていた三人の前に進み出ると、深々と頭を下げた。

 

「ようこそお越し下さいました。レーゲンブルト領主、ヴァルナル・クランツの妻のミーナと申します。遠路お疲れでしょうから、早速どうぞ中へ……」

 

 そつなく挨拶して中へと促す母に、オヅマは少しだけ落ち着かなかった。

 ヴァルナル・クランツの妻……その言葉がすんなりと出てきたことに、ちょっとだけ動揺してしまう。事実なのだが、まだ慣れない。

 複雑な顔で立ち尽くしていると、マリーがオヅマの脇腹を突っついてきた。

 

「なーにボーッとしてるのよ、お兄ちゃん。さっ、私にも紹介してちょうだい。お兄ちゃんのガールフレンドはどの人? まさか全員じゃないわよね?」

「ばっ、馬鹿か、お前! そんなわけないだろ!」

「そうよね。じゃ、どの子?」

「全員、違うよ!」

「あらー、私が立候補してもいいわよ」

 

 ハンネがまたからかってくると、オヅマは即座に拒否した。

 

「謹んでお断りします」

「まー、失礼!」

 

 ハンネは怒ったように言って、ミーナの横に並ぶと親しげに話しかけた。

 

「お噂はたくさん聞いておりましたけど、本当に美しい方でしたのね。お会いできて嬉しいですわ。さ、子供たちは子供同士でじゃれ合わせておいて、私たちは大人の会話を楽しみましょう!」

「え? は、はい……」

 

 ミーナはハンネの勢いにややたじろぎながらも、曖昧に笑って一緒に歩き出す。

 オヅマは内心で母にエールを送った。これからしばらくは、あのおしゃべりにつき合わされるだろう。

 オヅマがぼんやりと母らの背中を見送っている間に、こちらの小さな令嬢達も挨拶を交わしていた。

 

「はじめまして。私はマリー・クランツです。えーと、九歳です。あなた達は?」

 

 明るく屈託ないマリーの質問に、カーリンとティアは目を見合わせて互いに譲り合う。ややあって、ティアが先に名乗った。

 

「はじめまして。私はサラ=クリスティア・アベニウスと言います。えっ…と、今年で十歳になります。オヅマさ……いえ、オヅマ公子様には、とてもお世話になってます。今回も急に来ることになって……迷惑をかけて、すみません」

 

 やっぱりティアはここでも「すみません」から始まるようだ。

 オヅマは嘆息した。

 

「あのなー、ティア。もう『すみません』は禁止だ、禁止。あと、俺はオヅマ公子とかいいから。今まで通り、オヅマでいい」

「あ……す、すみ……」

「『すみません』禁止!」

 

 すかさずマリーに止められて、ティアは困ったようにうつむいた。

 マリーはニコリと笑うと、ティアの手を取った。

 

「大丈夫。『すみません』が口癖の人はね、代わりに『ありがとう』と言うようにするといいのよ。ここに来てくれてありがとう、ティア」

 

 キラキラとしたマリーの緑の瞳に圧倒されて、ティアは口ごもったが、オヅマに通じる無邪気さにようやく頬が緩んだ。

 

「はい。……よろしくお願いします」

 

 ひとまず挨拶を終えて、ティアはチラと促すようにカーリンをみやる。

 カーリンはゴクリと唾を飲み込んでから、一歩進み出た。

 

「はじめまして。カーリン・オルグレンと言います。今年、十二歳になりました。あのオヅマ公子……いえ、あのオヅマさんとは、その……」

 

 言いかけてカーリンは気まずそうに口を噤んだ。

 まさか女だというのに、小公爵様の近侍になってました……なんてことを、大っぴらに言えようはずもない。

 だが、残念というべきか、有難いというべきか、ここにはオヅマがいたのだった。

 

「あ、コイツな。俺と同じアドルの近侍だったんだ」

「え?」

 

 マリーもオリヴェルもきょとんとなる。

 カーリンはすぐに訂正しようとしたが、オヅマは構わず話し続けた。

 

「来たときにはキャレって名乗ってたんだけど、女だってバレて……本名はカーリンっていうんだってさ。俺もまだ慣れてないから、いまだにキャレって言いそうになるけど」

「キャレって……確かアドルの近侍の人だったよね?」

 

 オリヴェルはアドリアンから届く手紙をマリーと一緒に読んでいて、その中に何度か出てきた名前だと思い当たったようだ。

 

「あぁ! ルビー色の髪がすごくきれいな人でしょ。アドルがとっても褒めてたわ」

 

 マリーがパンと手を叩いて思い出す。それからカーリンを見た。

 

「じゃあ、今は帽子で隠れてるけど、カーリンさんはきれいな紅毛(あかげ)なのね? うわぁ、あとで髪を()かせてちょうだい!」

 

 マリーが言うのを、カーリンは呆然と聞いていた。

 アドリアンが自分の髪を褒めていたのだということを人づてに知って、まだ嬉しく思ってしまう自分がいる。

 泣きそうになって胸を押さえたカーリンを、オヅマが不思議そうに見た。

 

「どうした? しんどいのか? 先に部屋で寝ておくか?」

「いえ、大丈夫です」

 

 カーリンは軽く目の端に浮かんだ涙を指で払って、無理矢理に笑顔を浮かべた。

 

「あの……よろしくお願いします」

「うん! よろしくね、カーリン!」

 

 こうしてひとまず、令嬢たちの初対面は終了した。

 

 

***

 

 

 初めて会った日にはぎこちなかったティアとカーリンも、マリーの奔放さに巻き込まれるように日々を送る中で、徐々に堅苦しさはなくなっていった。

 マリーは思っていた以上に、この二人の来訪を心待ちにしていたらしい。同年代の女友達がいなかったので、嬉しくてたまらぬようだった。

 

 ただ、そうなると面白くないのが、一人。

 

「……オリー、仕方ないだろ。女は女同士で集まりがちになるもんさ」

 

 オヅマがなだめると、オリヴェルはムスッとした顔のまま、絵を描く手を止めて言った。

 

「別に……怒ってるわけじゃないよ」

「いや、怒ってるよ、お前。わかりやすく」

 

 オヅマの指摘に、オリヴェルは少しだけ気恥ずかしそうにもしたが、それでも納得しかねる様子だ。

 

「……マリーだけじゃないよ。ミーナ…母様だって、ハンネさんとミドヴォア先生が連れて行っちゃうし。この前なんて女たちばっかで、みんなしてフェン(*紫蘇の一種)の葉をむしる作業とかしだしてさ。去年は僕だって一緒にやってたのに!」

「なんだよ。やりたかったなら、行けばよかったじゃんか」

 

 オヅマは言いながら、何が羨ましいのかと思う。フェンの葉をむしったあとには、しばらく手がくさいのに。

 オリヴェルはますますいきりたった。

 

「冗談だろ! 母様たちだけじゃないんだぞ? マリー達も、そこにソニヤとヘルカ婆も、ナンヌとタイミまで一緒なんだぞ?」

「うっへぇ。そりゃ、また。呼ばれても行きたくないな」

 

 オヅマは身を震わせて、首を振った。女が三人寄っただけでも、かしましいことこの上もないのに、それが十人ともなれば……。下手に一言でも口きこうものなら、百倍の勢いでやり込められそうだ。

 いつだったか、ヘルカ婆と娘のソニヤにやんやと文句を言われて、じっと黙ってやり過ごしていたパウル爺に、オヅマは訊いたことがある。なんで言い返さないのか、と。するとパウル爺は、深い深いため息のあとに言った。

 

「嵐にたてつく人間はおらん……過ぎ去るのを待つだけじゃ」

 

 パウル爺ほどの人生経験を積んではいないオヅマでも、とどまることを知らない女のおしゃべり集団を前にすると、似た気持ちになる。なんというか、もう手も足も出ないし、出したくない。

 

 まだ子供のマリー達三人であったとしても大変なのだ。

 オヅマもつい最近経験したばかりだった。発端となったのは、元近侍であったキャレ改めカーリンの発言だ。……

 

***

 

「あの、オヅマ……さん。前に気になったことがあるんですが」

「うん? なんだ?」

「あの……オヅマさんの部屋って、小公爵様の隣でしたよね。私、一度だけ小公爵様の衣装部屋に入らせていただいたことがあるんですが、そのときに小さなドアがあったんです。あのドアの先って、もしかしてオヅマさんの部屋ですか?」

 

 アドリアンの寝室から続く衣装部屋に入ったことのあるカーリンは、そこで小さなドアを見たことがあった。後で考えてみると、その先にあるのは隣のオヅマの部屋しかない。

 

「あぁ、あれな。うん、一応何かあったとき用。もしアドルの寝室に悪い奴が来ても、すぐに対応できるように……ってことらしいぜ」

「そうなんですね……」

 

 カーリンはようやくあの小さいドアの謎を解決したものの、どこか浮かない顔だった。

 アドリアンの部屋は、オヅマとエーリクの部屋に挟まれた真ん中にある。寝室と次の間と呼ばれる日常生活を送る空間に分かれており、オヅマの部屋は寝室側、エーリクの部屋は次の間側に配置されている。

 普段、近侍たちが入るのは次の間までで、カーリンも何度となく行ったことがあったが、隣のエーリクの部屋に通じるような扉はなかった。他の近侍たちの部屋も廊下を挟んでいるので、なにかあっても、アドリアンの部屋に入るには廊下側のドアから入るしかない。

 つまり、オヅマだけが廊下に出ることもなく、直接アドリアンの寝室に行ける。

 それだけアドリアンがオヅマを信頼し、同時に家令を始めとした公爵家の管理者からも認められているということだ。

 

「小公爵様は、本当にオヅマ公子のことを信頼されているんですね……」

 

 どこか沈んだ口調でカーリンが言うと、ティアもまた少しさみしそうにつぶやく。

 

「仲がいいんですね……お二人は」

 

 奇妙な沈黙が流れて、オヅマが困惑していると、マリーがいきなり叫んだ。

 

「ちょっと、お兄ちゃん! ずるいわよ、それ」

「は?」

「どうしてお兄ちゃんの部屋だけ、アドルの部屋にすぐに行けるようになってるのよ!」

「だから、なんかあったときの為だって」

「そんなのずるい。内緒で二人で夜更かしして遊べるじゃないの」

「お前なぁ……そんな暇あるか。こっちはあの部屋に戻ったら、ほとんど寝るだけだ」

「だったら何かあったときも寝てるじゃないの」

「そん時は起きるに決まってるだろ!」

 

 ギャーギャーと怒鳴り合う兄妹を、カーリンとティアはぼんやり見ていた。

 口達者な二人の兄妹ケンカはリズムよく響き、明るく滑稽で、思わず聞き入ってしまう。止めるべきなのかどうかもわからない。

 

「そういえばアドルが朝駆けの日は、お兄ちゃんに叩き起こされるから、心臓に悪いって言ってたけど、それってその扉から入って行ってるんでしょ?」

「なんでそんなこと、お前が知ってるんだよ」

「だって、アドルから手紙が来てたもん。朝駆けに行くのはいいけど、いきなり布団を剥がされて、大声で怒鳴られて起こされるから、心臓が縮み上がりそうになるって」

「それはあいつの寝起きがどうしようもなく悪いからだろ! 朝駆けに一緒に行きたいから起こせって頼んできたのはあっちだぞ! 俺だってそんな余計な用事、増やしたくもねぇよ!」

「だったらカーリンに頼めばいいじゃないの。カーリンだったら、そんな乱暴な起こし方しないわよ! ねぇ、カーリン?」

「えっ?」

 

 いきなり自分に振られて、カーリンは驚きつつも、とりあえず返事した。

 

「あ、あの……そ、そうですね。一応、そっと起こすと思います」

「ホラ見てごらんなさい。お兄ちゃんよりも、カーリンの方がよっぽど優しく起こしてくれるでしょうに。まったくアドルも……なんでもかんでもお兄ちゃん頼りはよくないわよ。もっと人をえらばないと!」

 

 わかったふうに言うマリーに、オヅマは腕組みしてフン、と鼻を鳴らす。

 

「お前らはアドルの寝起きの悪さを知らないから、そんなことが言えるんだよ。そっと、だぁ? ちょっと揺すったくらいで起きるんなら、俺だって苦労しねーわ。だいたいなぁ、カーリン。お前だって何度か寝坊してたろうが。食事時間に遅れてきて、マティに怒られてたくせに」

「そ……それは、前の日に復習をしていて……」

「言い訳すんな。お前だけが復習してんじゃねぇよ。俺だって、マティだって、エーリクさんだってやってる。テリィの野郎は……わかんねぇけど」

 

 近侍の中で二番目の年長者であるテリィは、すでに履修済みだといって、勉強についてはあまり真剣ではなかった。彼が本気で取り組んだのは、得意のピアノが弾ける音楽くらいだが、オヅマはあまり彼の演奏が好きではなかった。腕自慢が鼻について鬱陶しい。

 

「……すみません」

 

 結局カーリンが謝ると、マリーが猛抗議した。

 

「カーリンは関係ないでしょ! お兄ちゃんとアドルの話をしているんだから」

「お前がいきなりカーリンのことを言ってきたんだろ!」

 

 ビシリと兄に言い返されて、マリーは一瞬ひるんだように口を噤むと、チラとカーリンを窺った。垂れるようにうつむいた顔は、悲しげで、元気がない……。

 マリーは再び緑の瞳に強い光を浮かべて、キッと兄を見返した。

 

「だってアドルってば、お兄ちゃんばっかり贔屓しているじゃない。私はカーリンとだって仲良くしてほしいの!」

「別に、仲が悪くなったわけじゃねぇだろ。キャレって男だと思ってたのが、カーリンっていう女の子だってわかって、びっくりしてるだけだ」

 

 オヅマには、アドリアンとカーリンの仲がそんなに悪くなったとは思えなかった。アドリアンは元々キャレ(であったカーリン)に同情的であったし、話せばわかる人間(ヤツ)だ。今は驚いて、自分でもどう接すればいいのか掴みかねているだけだろう。

 大したことでもないように言うオヅマに、マリーはブンブンと首を振った。

 

「だって、だって、アドルってばひどいのよ。カーリンが女の子だってわかった途端に出て行け、なんて。カーリンにだって言いたいことがいっぱいあったのに。わたし、今度の手紙ではアドルにちょっと文句を言おうかと思ってるの」

 

 オヅマは眉をひそめた。

 この数日一緒にいたせいか、マリーはカーリンの境遇に同情的だ。だがカーリンのことは、一方的な話を聞いて判断していい問題ではない。

 

 レーゲンブルトに来るまでの旅程で、オヅマはマッケネンからカーリンの追放が色々と複雑な思惑のもとに決められたことだと聞いている。

 アドリアンの態度が急変したのは、当然、今まで男だと思っていたキャレが女だと知った衝撃もあったろうし、裏切られたというのもあるだろう。しかし本当は、どこかで自分を笑い者にしている存在がいるのだということが、一番腹立たしいのだ。おそらく。

 

 むしろ、オヅマにとって今はカーリンよりアドリアンが心配だった。

 マッケネンからオヅマ宛てだと託された手紙にも、アドリアンはカーリンについては一言も書いていなかった。

 皇家の園遊会に行ったことや、来年のアカデミー入学に向けての勉強がいよいよ難しくなってきたことなど……なんてことのない日常の、ちょっとした愚痴程度のものだ。

 マリーがもらったものも、同じような内容だった。違いはそこにオヅマへのちょっとした恨み節が混じっていたことぐらい。

 

 本当であれば、これだけの大騒動だ。

 アドリアンが何も書かないはずがないのに、あえて書いていないことが、アドリアンの心情を語っていた。

 つまり語りたくないくらい、怒っている。あるいは動揺している。

 今のアドリアンの状態はあまりよくない。……たぶん、とても不安定な気持ちでいるだろう。

 

「マリー、お前……そういうのはやめておけ」

 

 オヅマが真剣な顔で言うと、マリーは怪訝に兄を見つめた。

 洞察力の優れた妹は、すぐにオヅマの変化を感じ取ったらしい。じっと見つめてから、静かに尋ねてくる。

 

「どうして?」

「アドルはお前からの手紙をすごく楽しみにしてるんだ。読んでガッカリさせるようなことはしないでやってくれ」

 

 マリーは口を開きかけて、ゆっくりと閉じるとうつむいた。

 ちょっと頭に血が上ってしまったようだ。あんまり仲の良さげなアドルと兄に、少しばかり嫉妬してしまったのかもしれない。……

 

「アドリアン……お兄様は、きっと大変なんでしょうね。私なんかと違って」

 

 シンと静まりかえった中で、口を開いたのはティアだった。

 当初、ティアはアドリアンのことを「アドリアン小公爵様」と呼んでいたのだが、マリーが改めさせた。

「ティアがどうしてもイヤっていうなら、無理にとは言わないけど、アドルは素直に『お兄ちゃん』って呼ばれたほうが、喜ぶと思う」

と。

 さすがにマリーのように気安く『お兄ちゃん』とは呼べないものの、それからは話の中でアドリアンの話題になると、ぎこちないながらも『アドリアンお兄様』と呼ぶようになった。

 

「私は……公爵家からは見放されてるけど、でも、エッダさんのところで刺繍しているときは夢中になって、何も考えずにいられたし、今だってこうして楽しく過ごせているけど……アドリアンお兄様は、公爵邸にいる限り、気の休まることがないんだろうなって。あそこは綺麗だけど、冷たい場所だと……お母様がよく(おっしゃ)ってました」

 

 ティアは話しながら、亡くなった母親の姿が脳裏に浮かんでいた。

 酒に溺れ、毎日泣きながら、公爵邸に戻れる夢を見ては、同時に「あんなところは地獄同然だ」と吐き捨てていた母……。

 最後まで詳しいことを聞けずじまいではあったが、ティアにとって、公爵家は決して心穏やかに過ごせる場所ではない。オヅマや、カーリンからの話を聞く限りにおいて、兄であるアドリアンも同様のようだ。

 

「まぁ、ここみたいにとはいかないさ。今はな」

 

 少し重くなった沈黙をかき混ぜるように、オヅマがまた軽い調子で言う。ティアは思わず聞き返した。

 

「今は?」

「アドルが公爵になったら、変わるさ。あそこも」

 

 はっきりと確信したように言うオヅマを、ティアはまじまじと見てから微笑んだ。

 

「やっぱり、マリーの言う通りです」

「は?」

「ずるいです。オヅマさんとアドリアンお兄様の仲が良すぎて、カーリンじゃなくても羨ましくなってしまいます」

 

 その場にいた女子全員の総意であったのか、マリーが「そうよ、そうよ」とまた騒ぎ出すと、カーリンまでもジトっとした目でオヅマを見て嘆息する。

 オヅマはもうこれ以上何を言っても無駄……というより、かえって勘違いが積み重ねられる気がしてきて、早々にその場から出て行った。

 出た途端に部屋の中から、三人の笑い声が響く。オヅマは振り返ってドアを睨みつけてから、ふっと頬を緩めた。

 

 ともかくもカーリンにもティアにも笑顔が戻った。それでよしとしよう。

 

 




次回は2024.04.07.更新予定です。


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第百八十六話 ペトラ・アベニウス

 少しだけ時間は戻って、オヅマらがレーゲンブルトに向かう直前。

 

 オヅマがティアと一緒に早朝の人気(ひとけ)の少ない道を歩いていると、黒角馬(くろつのうま)に騎乗したヤミ・トゥリトゥデスとばったり行き合った。

 

「おや……これはこれは。お二人で、ご旅行ですか?」

 

 旅装姿のティアと、大きな布袋(ぬのぶくろ)を肩に(かつ)いだオヅマの姿は、さすがにそこらでの買い物だとは言いにくかった。しかもまだ(いち)も開かれていない時間帯だ。

 

「レーゲンブルトにティアを連れていく」

 

 堂々と隠すことなく言うと、ヤミはかすかに眉を動かした。

 

「ほぉ、それはまた。家令殿(かれいどの)からそのような指示があったのですか?」

「そんなわけねーだろ。まだ、向こうからはなしのつぶてだよ。俺がレーゲンブルトに行かないといけなくなったから、ティアも連れて行くことにしたんだ」

成程(なるほど)……」

 

 ヤミはチラリとティアを見てから、ニヤリと笑った。

 

「さぞかし、あの小役人はあわてることでしょうね」

「知るか。だいたいアイツ、なんか信用できないんだよ。ティアの様子も見に来ないし、ちゃんとルンビックの爺さんに報告したのかも怪しいし。―― で、ヤミ卿は? もしかして帝都に戻るのか?」

 

 オヅマはヤミの姿を見て尋ねた。

 それこそ前回に見たときのラフな格好と違い、きちんとグレヴィリウス家の騎士服に身を包み、黒角馬にも荷が下げられている。こちらもそうだが、ヤミもこれから旅に出ていくような身なりだ。

 

「えぇ、まぁ……一応」

 

 少し警戒をにじませながらヤミが返答すると、オヅマは「そりゃ都合がいい」とつぶやきながら、ゴソゴソとベルトに挟んでおいた手紙の入った筒を取り出した。

 

「じゃあ、これ、ルンビックの爺さんに届けてもらえないか? どうせそろそろあっちも帝都を出発()つ頃だろうから、途中で渡してもらってもいいし」

 

 ヤミはオヅマの差し出した手紙をすぐに受け取ろうとはしなかった。じっと見てから問いかける。

 

「……その役目を私が負う理由がありますか?」

「もちろん、あるだろ。ヤミ卿はグレヴィリウスの騎士で、ティアはグレヴィリウスの子だ。公女の居場所について家令に知らせることは、配下の騎士としては当然で、重要な任務だろ」

 

 ヤミは(しか)めっ面になったものの、最終的にはオヅマの手紙を受け取った。ふん、と面白くなさそうに鼻をならしてから、またいつもの薄笑いを浮かべる。

 

「私がこの手紙を家令殿に渡さなかったら、どうします?」

「単なる職務怠慢だろ。あんたが手紙を渡さなくたって、遅かれ早かれ、ティアのことはルンビックの爺さんに伝わるよ。帝都からアドル達が戻ってきたら、俺もアールリンデンに帰るからな。そのときに言うだけのことさ」

「さぞ叱責(しっせき)されることでしょうね」

「だから?」

 

 オヅマがあえてふてぶてしく答えると、ヤミはククッと声に出して笑ってから快諾(かいだく)した。

 

「いいでしょう。この手紙は確かに家令殿にお渡ししますよ。オヅマ公子(こうし)

 

 

***

 

 

 そのオヅマからの手紙を帝都で受け取ったルンビックは困惑した。

 十日以上前にアベニウス母娘(おやこ )の監視員であるサルシムから定期報告書が届き、そこにはペトラの死亡についてなど一言も触れられていなかったからだ。

 いつもとほぼ変わらず……多少の違いがあるとすれば、またペトラの酒量が増えてきて、医者に(かか)ることが頻繁であるということくらいで、その娘のサラ=クリスティアについては、前回と全く同じ文面だった。

 (いわ)く「特に問題なく、暮らしている模様」。

 

 だが一方、オヅマからの手紙にはペトラの死亡と、サラ=クリスティアを連れてレーゲンブルトに向かうことが書かれている。

 

 ルンビックは思案の後、公爵の懐刀(ふところがたな)であるところの騎士団団長代理、ルーカス・ベントソン卿に相談した。

 というのも数日前にルーカスがやってきて、アベニウス母娘(おやこ)について、何か変わったことはなかったかと、聞いてきたからだ。ルンビックがサルシムから送られてきた報告書を見せると、ルーカスはざっと読み、「特に変わりありませんな」とだけ言って、わざわざやって来た詳細については語らなかった。

 

 ルンビックの要請で再び現れたルーカスは、オヅマからの手紙を読んでまず一言。

 

「オヅマも隅に置けませんな」

 

 ルンビックは眉を寄せつつも、公爵の右腕であるルーカスのこうした性格については熟知していたので、今更声を荒げることはしなかった。

 

「オヅマがサラ=クリスティア嬢と出会ったことについてはさておき、今はペトラが死んだという事実についてだ。ベントソン卿の見解を伺ってもよいかな?」

 

 ルーカスはクスリと笑った。

 

「その前にはっきりさせておきましょう。家令殿はオヅマが嘘をついているとお考えか? それともサルシム行政官か?」

「そのようなこと……聞くまでもない。嘘をついておるのはサルシムであろう」

「偶然ですな。私もそう思います」

「白々しいことを申すな。オヅマが……あの筆無精がわざわざ(わし)あてに嘘の手紙など書いて寄越すものか。筆跡も見たが、オヅマの字に相違ない。それに貴殿がこの前に来たときに、アベニウス母娘(おやこ)のことを尋ねたろう? もうその時には知っておったのではないのか?」

 

 ルーカスは黙したまま、ニンマリと微笑する。

 ルンビックは軽く首を振った。

 おそらく彼独自のルートで、ペトラ死亡の情報を手に入れたのだろう。どのように手に入れたのかなどと、ルンビックは尋ねる気はなかった。そうしたことは互いに触れずにおくものだ。

 

 一方、ルーカスは微笑の裏でめまぐるしく思考していた。

 ルンビックが推測したように、ルーカスは『ペトラ・アベニウス死亡』についての情報を既に掴んでいた。四日前、ハヴェルの屋敷に潜ませている手下(てか)の者が報せてきたのだ。

 聞いたとき、ルーカスは脳裏に浮かんだ女の姿に、皮肉っぽく口元をゆがませた。

 リーディエと同じ鴇色(ときいろ)の髪を持ちながらも、その品性においてはまったく似ていなかった、哀れな女。いつもオドオドと挙動不審な、それでいて急にヒステリックに怒り出す愚かで無知な女 ―――

 

 

 

 ペトラ・アベニウス。

 

 田舎の役人の娘であったペトラは、縁戚であった元公爵夫人・リーディエと容貌が似ているというその一点でもって、グレヴィリウス公爵家にやって来た。

 表向きは公爵に(つか)える侍女という(てい)で。

 彼女を連れてきたのは、彼女の父が(つか)えていた領主・アールバリ伯爵であったが、裏で糸を引いていたのがヨセフィーナ・グルンデン侯爵夫人であるのは間違いなかった。社交界にデビューもしていなかった、ペトラの付添人まで買って出るほどであったから。

 それだけではない。ことこうした工作において、女狐(ヨセフィーナ)は用意周到だった。

 

 既に退職していた女中頭を半ば脅迫して連れてきて、立ち居振る舞いから食の好みに至るまで、徹底的にペトラをリーディエに似せたのだ。

 元より稀少な鴇色(ときいろ)の髪はそのままに、やや太り気味であったのを強引なまでの食事制限で痩せさせて、多少面長に見える顔は念入りに化粧して誤魔化し……ペトラは必死にリーディエになろうと努めた。そうなれば自分も愛されると思っていた。いや、思い込まされていた。

 

 しかし公爵エリアスが、見た目だけ似せたペトラに心を開くことはなかった。

 当然だ。どれだけ似せても、ペトラがリーディエ本人になれるはずもない。

 リーディエの打てば響くような煥発(かんぱつ)さは、ペトラには皆無(かいむ)だった。

 みずみずしいまでの感性と、深い洞察。新たな芸術や学問への強い探求心。一方で身分の貴賤を問わず向ける眼差しは比類ないほどに優しく、情け深かった。

 あのような女性が、そうおいそれと出現するわけがない。いくら外を取り繕っても、中身が伴わないペトラは、ただのハリボテでしかなかった。

 

 あるいは女狐(ヨセフィーナ)はこの時点で、ペトラを見限ろうとしていたかもしれない。

 その危機感がペトラを常になく大胆にさせたのか……。

 彼女は一計を案じた。

 公爵付きの執事に直談判して、エリアスの寝所に手引きするよう頼み込んだのだ。

 

 むろん普段であれば、善良で真面目な執事が、そのようなことを了承するはずもない。だがリーディエを亡くして以降一年近く、不眠によるエリアスの心身の状態は深刻だった。まるでリーディエを失った空白を埋めるかのように、ちょうどそのときに南部戦役が再燃しようかという慌ただしさもあって、なおのことエリアスは仕事に没頭した。

 ルーカスも気付きながら、自身もまた戦の準備に忙しく、十分に公爵の健康状態について配慮することができなかった。

 

 善良で真面目な執事は悩んだ末、きっと忠義心からペトラに望みを託したのであろう。

 彼もまた、この公爵家がもっとも美しく軽やかな笑い声に包まれていた日々を知っていた一人であった。

 以前と同じとまではいかずとも、ペトラの献身によって公爵に癒やしが訪れることを、心から祈っていたのだろう。(思慮は足らずとも、ペトラが懸命にエリアスに尽くそうとしたのは本心であったろうから)

 

 ペトラは執事の手引きで、とうとうエリアスの寝所に忍び込んだ。

 不眠症であった公爵は、薬香を焚いて寝るようになっていたのだが、どうやらこれも催淫・幻覚作用のあるものに変えられたようだ。

 

 そうして一夜を共にしたあと、公爵は自分の行為を嫌悪しつつも、同時にやはりリーディエに似ているペトラを、どうしても遠ざけることができなかったのだろう。

 公爵夫人として認められることはなかったが、第二夫人として公爵邸に居住することを許された。

 ペトラはリーディエに比べれば愚鈍で、臆病な性格ではあったが、少なくともその時点においては、公爵の気に(さわ)る存在ではなかったのだ。

 だが公爵の子を妊娠してから、彼女の人生は転落の一途をたどった。

 おとなしく、ただ母親として、生まれてくる我が子を楽しみにしていればよかったものを、一体誰に何を吹き込まれたのか……。

 

 ある日、ペトラは小公爵の住居である七竈(ナナカマド)の館に入り込み、幼いアドリアンを殺害しようとした。

 しかし凶行は失敗に終わった。

 そのとき、アドリアンをかばって死亡したのは、例の善良なる執事だった。

 彼は最期まで己の愚かな選択を悔い、死をもって自らの責任を全うした。

 

 その後、ペトラについて、公爵の処理は淡々としたものだった。

 公爵邸からの追放、アールリンデンにある小さな館での蟄居(ちっきょ)謹慎(きんしん)

 以降、公爵の関心がペトラに戻ることはなかった。

 

 女狐のほうも、アドリアン殺害に失敗した時点で、素早く切り捨てた。

 巧妙な黒幕は、ペトラが何も言えないように、あくまでも彼女が自分自身の欲望によって、アドリアンを殺そうとしたのだと言わしめた。おそらく、罪の一切を認めれば、死を免れることができるなどと、うまく誘導したのだろう。

 

 最終的にペトラの一縷(いちる)の望みとなったのは腹の子だったが、それも女児であった時点で、はかなく消え去ったのだった。―――

 

 

 

 四日前の時点でペトラ死亡の一報を受けていたルーカスではあったが、正規のルートではなかったため、情報としては不確定要素を多分に含んでいた。裏を取るためにルンビックのもとに出向いて、アベニウス母娘(おやこ)の現状について確認したのだが、サルシムからの報告書に死亡の事実はない。ルーカスは真偽を確かめるべく、アールリンデンに騎士を派遣したが、その報告を受ける前にやってきたのがオヅマの手紙だったのだ。

 間者(かんじゃ)からの情報が正しいのだという確信を得て、ルーカスはもう一度、サルシムからの報告書の日付を見た。

 落穂(おちほ)(つき)三日。封筒に押された印章の書簡受取日はその翌日だ。

 

「……オヅマの手紙では、ペトラが亡くなったのは前月の新生(しんせい)(つき)末日。加えて監視官でもあるサルシムにも伝えたとある。これはサルシムは言い逃れできませんね。さて、家令殿(かれいどの)はどうしてサルシムがこのような虚偽を働いたと思われますか?」

 

 ルンビックは苛立ちを眉間ににじませながら、苦々しく言った。

 

「人の欲というは、心弱き者には(あらが)えぬものよ。大方(おおかた)、サルシムはアベニウス母娘(おやこ)の生活費用を着服(ちゃくふく)でもしておったのだろう。証拠もなく、断言はできぬが……」

「まぁ、そのようなところでしょうな。所詮は公爵家から見放された女と、見下していたのでしょう。実際、私もすっかり忘れておりましたしね。銀行には連絡されましたか?」

 

 給付金は定例報告書をルンビックが受け取って確認した後、銀行からアールリンデン行政府に支払われる。それをサルシムが出納課(すいとうか)から受け取り、アベニウス母娘(おやこ)に渡すことになっていた。

 

「報告書が届いてすぐに、銀行には給付の裁可を通達しておる。おそらく給付金は既にサルシムの手に渡っておるだろう」

「管財人も奴であったのですか?」

「当初は別の人間がやっていたようだが、(さき)の管財人が高齢で辞めたあとは、サルシムが一手に引き受けておったようだ。今回の件で調べたら、帳簿がすべてサルシムの手によるものであった」

 

 自らの不注意にルンビックが後悔をにじませると、ルーカスは軽い調子で慰めた。

 

「仕方ないことです。この大グレヴィリウス家を取り仕切る家令殿が、顔も知らぬ一行政官の素行をいちいち調べ回っていては、寿命が百年あっても足りませんよ」

「サルシムについてもそうだが、第二夫人についても、今少し配慮すべきであった」

 

 ルンビックはペトラに憐憫の情をみせたが、ルーカスは同意しなかった。

 本来であれば、アドリアンの命を狙ったことで、斬首されても仕方ない女だ。情けをかけるべき相手ではない。

 だが、その娘については確かに、もう少し考えてやるべきであったかもしれない。

 認知されていないとはいえ、曲がりなりにも公爵閣下の血を引く娘だ。

 ハヴェルの屋敷に忍ばせた間諜(かんちょう)からの情報によると、()()()がペトラ死亡の情報を得て、真っ先に指示したのは、サラ=クリスティアの確保だった。『公爵の娘』という()を手に入れて、その母同様に利用しようとしていたのだろう。

 

 そこまで考えて、ルーカスは思わずフフッと肩を震わせて笑った。

 そんな小狡(こずる)い大人たちの目の前から、お姫様を掻っ攫っていった騎士となったわけだ……あの小生意気な坊主が。まったく、してやってくれる。

 

「なにを笑っておるのだ?」

 

 気難しい顔で問いかけてくるルンビックに、ルーカスは肩をすくめた。

 

「いえ。オヅマがなかなかうまく動いてくれたと思いましてね。もっとも、当人は何もわかっていないでしょうが」

「ふむ、そうだな。サルシムもまさかオヅマが直接私に知らせるとは思ってなかったのだろうて。オヅマは案外とあれで律儀者だ。私を心配させまいとしたのであろう」

「サルシムにすれば、所詮は子供と(あなど)っておったのでしょうな。まったく浅はかな男だ」

 

 ルーカスは笑みを浮かべつつ、吐き捨てるように言ってから、「そういえば」と話を変えた。

 

「オヅマの手紙はずいぶんと早く届きましたね。速信でもないのに」

「それなら、この手紙を届けてくれたのはトゥリトゥデス卿だ。黒角馬(くろつのうま)にて帰参したようでな。ついでにとオヅマから手紙を言付(ことづ)かったらしい」

「ほぉ」

 

 ルーカスはますます(たの)しげに笑った。「それは重畳(ちょうじょう)

 

 

***

 

 

 自分の執務室に戻ってきたルーカスは、すぐさまヤミ・トゥリトゥデス卿を呼んだ。

 相変わらず艶麗(えんれい)なる顔に、十日近く馬に乗って移動した疲れはあまり見られない。こういう顔に似合わぬ頑健さも、ルーカスは評価していた。当人には絶対言ってやらないが。

 

「アールリンデンからの帰参、ご苦労だったな。ヤミ卿」

「は。仕事も終わりましたゆえ」

「といっても、数日もすれば我らも帝都を出発する予定だがな。ヤミ卿には気忙しくさせて、申し訳ないことだ」

「とんでもございません。この程度のこと」

「そうか? そう言ってもらえると助かるな。実は、ヤミ卿には先にアールリンデンに戻ってもらいたいんだ」

 

 ルーカスがぬけぬけと言うと、ヤミはさすがに眉を寄せた。

 

「…………はい?」

「ま、聞け。(けい)はオヅマの手紙を持って来てくれたな。大変助かった。それで新たに仕事があってな」

「……サルシムの逮捕ですか?」

 

 ヤミがすぐに指摘すると、ルーカスは目を細めた。

 

「なんだ。卿も事情は察していたのか?」

「そうですね。サルシム当人にも直接会いました。小役人風情のわりに、金回りはいいようですよ。これは別の仕事ついでに、たまたま聞いた話ですがね」

「成程な。ではすまないが、そのサルシムの捕縛と、アベニウス母娘(おやこ)への生活費を横領したことについて、調査してもらえるか? あぁ、サルシムの家の捜査については、他の騎士たちにさせる。君に()()お願いしたいのは、()()()()()()への調査だ」

「…………」

 

 ヤミはルーカスの意味を持たせた言い方にすぐ気が付いた。ピクリと眉が動き、無表情にルーカスをじっと見つめる。

 

「サルシム本人への調査、というと?」

 

 あえて問うたのは、確実な言質(げんち)を得るためだ。

 ルーカスはすぐに意を汲んだが、それでも言葉は厳選された。

 

「こうしたことは、今後の見せしめとすべきだろう。公爵家の金を横領するなど、許されぬことだ。ましてそれが()()()()()()()()()()()()()()のならば……()()()()()()()()()()、しっかりと理解(わか)らせてやらないとな」

 

 ヤミはルーカスの言葉に目を細めて頷き、さらに問うた。

 

「それで……哀れなサルシムを利用した()()は誰とお考えで?」

「……そうだな。太った(てん)にするか、それとも紅毛(あかげ)(いたち)にするか。いずれ帝都から戻ったときには、愉しい戯場(ぎじょう)にご招待するとしようか」

 

 ルーカスの話を最後まで聞き終えると、ヤミはにっこり微笑んだ。

 

「以前言ったことを覚えておられたようで、ありがたいことです。早速、向かうことにいたしましょう」

 

 そう言って踵を返したヤミの顔が、喜悦に歪む。

 

 ルーカスは大股に歩き去って行くヤミの後ろ姿を冷たく見送った。

 ふ……と、自らの心の(きし)みを感じて、ルーカスの頬に皮肉な笑みが浮かぶ。これからヤミが行うであろう行為を想像して、今更心が痛むようならば、そもそも許可を与えるべきではないのだ。

 

「悪党だな……」

 

 自嘲気味につぶやく。

 そうだ。正義などではない。利用できるものは、できうるかぎり効果的に利用するまでのこと。今までもそうしてきたし、これからもする。その先でいずれ、自分もみじめな最期を迎えるのだろう……。

 

 




次回は2024.04.14.更新予定です。


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第百八十七話 サルシムの顛末

 サルシムはどうして自分がこんな目に()っているのかわからなかった。

 気配もなく背後に立っていたかと思うと、気付いたときには腕をひねられ、動けない状態にされていた。

 すさまじい痛みに、サルシムの額に汗がにじむ。

 だが、サルシムの腕を強く掴む男は、まるで大したことでもないように、ニコリと美しい顔に笑みをたたえていた。

 

「これはサルシム卿。闇夜の晩に散歩とは、なかなか乙なことですね」

「お、お前ッ……」

 

 サルシムは男の名前を叫ぼうとして、混乱した。

 前に一度会ったことがある。……ような気がする。こんな美しい顔であれば必ず覚えているはずなのに、今再会しても記憶にその名が出てこない。

 

 一方でサルシムの前にいた西方の衣装に身を包んだ男は、胡散臭そうに騎士を見つめて尋ねていた。

 

「なんだよ、お前。なにしに来たんだ? 帝都に戻ったんじゃなかったか?」

「お前こそ、ここで何をしているんだ? とうの昔に公女はいないのだろう?」

 

 そこは元々ひどくわびしく、荒れた小さな館ではあったが、(あるじ)を失ってなお一層、荒廃が進んだようだ。家の脇に伸びる(ニレ)の木が、ざわざわと落ち着かない葉擦れの音をたてる。

 腕を掴まれたまま身を震わせるサルシムを無視して、騎士と、頭に布を巻いた男がのんびりと会話している。

 

「俺はたまたま通りかかったから、ついでに見回ってただけさ。この前も空き巣が入ろうとしてやがったからな。そうしたら、いきなりこのオッサンが怒鳴りつけてきて」

「それはそれは……サルシム卿も見回りでいらっしゃったのかな? それとも公女殿下に会いにいらしたのか……意外に仕事熱心でいらっしゃることだ」

 

 騎士はまた目を細めて、サルシムを見る。

 一見笑ってみえる美しい顔が、サルシムには恐ろしくてたまらなかった。冷たく(こご)えそうな青い目は獰猛(どうもう)に光っていて、明らかにサルシムを()()しようとしていた。

 目の前の紺色の瞳の男もまた、それを感じたのだろう。

 

「お前ェ~、目がイッてるぞ。また、ヤる気か?」

 

 眉をひそめて言う男に、騎士はにべなく言った。

 

「仕事だ」

「どんな仕事だよ……」

 

 うんざりしたように男が吐き捨てると、騎士はうすく笑みを浮かべる。

 

「そういう仕事だ。お前もつき合え。どうせオヅマ公子(こうし)に報告するんだろう? この男の末路も教えてやるほうが親切というものだぞ」

「いらねーよ。オヅマだって知りたがらないさ」

 

 そのまま踵を返そうとする男に、騎士が声をかけた。

 

「公女がどういう状況に置かれているのかは、オヅマ公子は知っておいたほうがいいと思うがな。守りたいと思っているなら」

 

 男はうんざりしたように振り返り、ポリポリと首の裏を掻きながら、深くため息をついた。チラ、とサルシムを見て、ケッと吐き捨てる。

 

「こんなオッサンをひん剥いたところで、なーんも出てきやしねーだろーに」

「出てくるものは、さして重要じゃない。()()()()ことが大事でね」

「サイテーな奴だよ、相変わらず」

「さっきも言ったろう。これは仕事だ。俺を責めるのはお門違いというものだ。必要とする人間がいて、必要とする場合があるということだ」

 

 男はムッスリと眉を寄せて腕を組み、しばらく黙りこくった。ギロリと騎士を睨みつける目は冷たく、軽蔑もあらわだった。

 

「本当に、悪辣(あくらつ)だよ。貴族ってやつは」

「そんなことを今更言うのか。可愛いな、お前」

「うるせぇ。とっとと持ってけよ、ソレ」

 

 騎士は頷いたようだ。ようだ……というのは、男が「もってけ」と言った次の瞬間には、サルシムは気を失ったからだった。

 

***

 

 それから哀れなサルシムは、自らの勤め先でもある役所地下の、犯罪者たちを一時的に勾留(こうりゅう)しておくための牢屋に運ばれた。

 

 役所の責任者でもあるバラーシュ行政長官は、サルシムを肩にかついで入って来たヤミに、何事かと急な来訪を非難したが、グレヴィリウス公爵家の紋章の入った『特別審問官』の徽章(きしょう)を見せられると、黙って地下へと案内した。

 

 空気の淀んだ、どこか()えたような酸っぱい匂いのする土牢の中で、サルシムが洗いざらい白状するのに時間はかからなかった。

 

 

 彼は元々アベニウス母娘(おやこ)の生活費を横領していたが、ペトラの死亡でいよいよそれがなくなるかもしれない、と考えた。まだ娘(サラ=クリスティア)がいるのですぐに打ち切られることはなくとも、大幅に減額されるのは間違いない。

 サルシムは焦った。

 博打(ばくち)でスッた金や酒代のツケばかりか、家の改築費用についても、母娘(おやこ)の給付金をアテにしていたからだ。今後のことはまた考えるとしても、せめて来月分の給付だけは、いつも通りの額をもらわねば困る。

 

 普段からこうした小細工に長けていた彼は、すぐに方法を思いついた。

 ペトラの死亡を公爵家に伝えず、来月分の彼女らの生活費を受け取ってしまえばよい。もちろん永遠に報告しないわけではなく、定期報告書を書き送って、給付金を受け取った後に、死亡したことにすればよいのだ。死亡証明書についても、行政官である彼には簡単に改竄(かいざん)できる。

 

 どうせ見捨てられた母娘(おやこ)である。

 誰も詳しく調べたりなんかしないだろう……と、サルシムはたかをくくっていた。

 実際、彼の上司でもあるバラーシュ長官は、ペトラの死亡を報告してもまるで興味もなさそうで、なんであれば面倒だから知らせなくてもいいというくらいの対応だった。

 

 唯一、心配であったのは、ペトラの死亡を知らせにきたオヅマ・クランツと、急に現れた騎士らしき男のことであったが、サルシムが公爵邸にいる知り合いに訊いたところ、彼らについてはさほど気にしなくてもいいという結論になった。

 あの小生意気なクランツ男爵の息子は、元々小作人の息子で、公爵邸の使用人にすら無視されており、騎士のほうも、新年の上参訪詣(クリュ・トルムレスタン)に参加できぬ残留組であれば、大して期待されてもおらぬ落ちこぼれであろうとのことだった。(もちろんこれはサルシムも、サルシムにその情報を教えた者も、ヤミのことを完璧に勘違いしていたのだが)

 

 こうして、いつも通りの定期報告書を送ったあとに、サルシムはアベニウス母娘(おやこ)の給付金を満額受け取った。目論見通りだった。それからようやく、ペトラの死亡をルンビックに知らせた。しかも既に葬儀を済ませたこと、故人の意向を尊重して、手配なども含めて物入りであったと嘘を並べ立てて、なんであればまだ尚、公爵家から金をふんだくる気でいたらしい。(この死亡報告書を、帝都からアールリンデンに帰省する途中で受け取ったルンビックが呆れかえったのは言うまでもない)

 

 それまで誰にも横領の事実がバレていなかったので、サルシムは少々(おご)っていたのだろう。賭け事のために、こっそり使っていた妻の持参金を素知らぬ顔で補填(ほてん)し、改築した家に老いた母を迎えた。

 

 事態が急変したのは、四日前に受け取った差出人不明の手紙によってだ。

 

 その手紙にはサルシムがこれまでに(おこな)ってきた横領のことや、ペトラ死亡について故意に隠匿(いんとく)したことが(しる)されていた。これらの不正の事実を公爵家に知られたくなければ、ペトラの娘であるサラ=クリスティアを所定の場所へ期日 ―― それはちょうどヤミと鉢合わせた昨日 ―― までに連れて来るように、と書かれてあった。

 明確な脅迫であった。

 しかも誰からかわからない上、具体的な帳簿改竄(かいざん)についても示されてあって、サルシムの精神は軽く恐慌をきたした。

 サルシムは要求をのむしかなかった。

 手紙には妻子と母のことも触れられており、断れば家族に危険が及ぶのは明らかだった。

 

 

「……それで、サラ=クリスティア公女を(さら)おうとして、(にれ)の館にやって来たというわけですか」

 

 ようやく問われて、サルシムは切れ切れに答えた。

 

「ちが……攫う……つもり、は……保護……しよう、と」

 

 必死にひりつく喉から絞り出す。

 牢屋に来てすぐに、彼は半裸で鎖に繋がれ、目隠しをされた状態で、尋問もされず、ただひたすら鞭や杖で打ち据えられた。

 痛みに叫び、泣き、助けを乞い、サルシムは問われる前に、すべての罪を告白した。

 そこでようやくされた質問だった。

 サルシムとしては誤解されて、より過重な罪となることを避けたかったのだろう。

 

 しかしその返事に、ヤミは頷くでもなく、ただニッコリと笑った。

 

「物は言いようですね、サルシム卿。では、その手紙を出したのは誰だとお考えになりますか?」

「……し、知らん」

「知らないとはまた悠長な。知らない相手の言うことを聞いて、公女を誘拐しようとしていたのですか?」

「ち……ちが…」

「あぁ、申し訳ありません。『保護』でしたね。『保護』。便利な言葉だ。しかし(ほどこ)す相手を、最初から下等の存在としか見てないようにも聞こえます。本来、こうした言葉を使える人間は限られているのですよ。あなたごとき()()の身が、安易に使ってよいものではない。……そう思いませんか?」

 

 見えないからこそ、ヤミの声からひどく殺伐としたものを感じて、サルシムは身を縮こまらせた。

 

「まぁ、手紙のことは措いておきましょう。いずれわかることです」

 

 カツ、カツ、と靴音を響かせて、ヤミはゆっくりとサルシムの周囲を歩きながら、チラリと背後を振り返る。そこにはバラーシュ行政長官が一応見分すると言って立っていたが、彼はヤミと目が合った途端、気まずそうに視線をそらせた。階段や柱の陰から、この状況を見物していた役人らも一様に顔を伏せた。

 沈黙に耐えられなかったのは、目隠しをされたサルシムだった。ガチャガチャと手足の鎖を鳴らして、必死に訴えた。

 

「お、お、俺は……俺は脅迫されてッ! 仕方なかったんだ! あんな娘、俺はずっと、放っておいたのに。あ、あの、手紙……あの手紙を読んでくれ、読めば俺が脅され……」

「うるさい」

 

 大声でわめき立てるサルシムに、ヤミがビシリと鞭をふるう。続けて何度も無造作に打ち据える。

 

「なかなか頑丈じゃないですか。ちょっと休憩したら、もうそんなに元気になって」

 

 ヒッ、ヒッと声をあげてサルシムは痛がっていたが、ややあってから臭気がしたかと思ったら、失禁していた。

 ()部下の醜態にバラーシュ行政長官は渋い顔になり、仕事と言い訳して姿を消した。つられるように様子を窺っていた役人たちも消える。

 

「……要は」

 

 それまで気配を消していたエラルドジェイが、暗がりからヌッと姿を現した。

 

「そのオッサンがティアの家の金を横取りしてて、自分と家族はその金でご機嫌に暮らしてたけど、いきなり妙な手紙が舞い込んできて、悪行の数々をバラされたくなかったら、言うこときいて、ティアを連れてこいと脅迫されたわけだ」

「そうだな。それは事実だ」

「じゃ、俺はそれをオヅマに伝えりゃいいよな」

 

 軽く言って去って行こうとするエラルドジェイを、ヤミは残念そうに引き留める。

 

「おいおい。これからが本番だぞ。その妙な手紙を寄越したのが誰なのか、知りたくないのか?」

「興味ねぇよ、そんなもん」

「オヅマ公子は興味を持つやもしれんぞ」

「あいつには今の話だけしておけば、あとはどうにかするさ。ともかく俺はとっととここから出たいんだよ。臭ェし、飽きたし。どうせこれからお前がすることなんて、意味ないんだからな」

「意味が、ない?」

 

 ヤミの声がひんやりとした冷気をまとう。「どういう意味だ?」

 そこはかとない怒気を滲ませるヤミに、エラルドジェイも冷たい眼差しで応えた。

 

「どうせこれからは、お前が()()()()()()を、()()()()()()なんだろ。ただの自慰じゃねぇか。そんなもん、見たくもねぇよ」

 

 エラルドジェイが吐き捨てるように言うと、無表情にヤミが鞭を振るう。さっきまでエラルドジェイの立っていた場所を、鞭が鋭く(くう)を切った。狙っていた男はいつの間にか階段へと移動している。

 エラルドジェイは崩れかかった頭の巻き布を押さえながら、数段上がったところでサルシムに声をかけた。

 

「おい、オッサン。あんたしっかり拳を握りしめてろよ。コイツ、指の骨折るのから始めるから」

「なっ、なにッ!?」

 

 サルシムの声が恐怖でひっくり返る。

 エラルドジェイはそのまま階段を駆け上っていった。

 牢屋に残されたのはヤミとサルシムだけ。

 

「さて……フィリーからのご要望もあったことだし」

 

 ヤミはニィィと口を歪めて、世にも恐ろしい微笑を浮かべる。

 サルシムはその顔を見ていなかったが、ゾクリと身を震わせた。

 

「た、た、たた……助け……」

 

 必死に助命を乞う姿に、ヤミは優しく耳元で囁いた。

 

「もちろん。私はあなたを助けたいと思っておりますよ、サルシム卿」

 

 言い終えると同時に、靴底に鉄板を入れた特注の靴が、サルシムの左足を踏みつけた。

 サルシムの絶叫が響く。

 サルシムの左足の指の骨がすべて折れたことを確認してから、ヤミはゆっくりと靴をあげた。

 あまりの痛みにサルシムは声も出ず、折れた指を触りたくとも鎖に繋がれた手は届かない。

 ほとんど鎖に吊られるように立っているサルシムに、ヤミは静かに尋ねた。

 

「さて、そろそろ本題に入りましょうか。先程、あなたは『脅迫』されていたと仰言(おっしゃ)ってましたね。教えてください。あなたを脅迫したのは誰です?」

「し…知らな……わから……ない。許して、くれ……」

 

 サルシムは泣きながら、(よだれ)を垂らしながら、全身から噴き出る冷や汗に凍えながら、必死に訴えた。

 だがヤミは急に「あぁ、私としたことが!」と、芝居がかった手振りで叫んだ。

 

「すみません。聞き間違えましたね。尋問は正確にしないと。では、もう一度、最初から」

 

 言うなり、今度はサルシムの右足の親指を踏みつける。足先で踏んでいるだけなのに、万力(まんりき)で挟まれたかのように、びくとも動かない。

 ベキリとくぐもった音が響いて、サルシムは悲鳴を上げた。

 ヤミは「さて」と、靴を床にこすりつけるようにして、サルシムの足から離す。

 サルシムは声を上げたかったが、何度も悲鳴を上げたせいで喉が切れたのか、ヒューヒューと(かす)れた呼吸音が漏れただけだった。

 

 ヤミはにっこりと微笑み、サルシムの耳元に口を寄せて、低く尋ねた。

 

「では、サルシム卿。横領を繰り返すあなたを()()して、金を渡すよう()()してきたのは誰です?」

「………………は?」

 

 サルシムは気息奄々(きそくえんえん)となりながら、かろうじて残った意識下で聞き返した。

 かすかにため息が聞こえると、いきなり目隠しを取られる。

 薄暗い牢屋の中だったが、急に光が戻ってサルシムは目を(すが)めながら、ヤミを見上げた。

 

「ゆっくり()()()()()()()()()よろしいですよ。ひとまず()()()()は終了したことだし、場所を変えましょうか。公爵邸の方がふんだんに道具もありますし。()()()が来るまで、じっくり考えていただきましょう」

「………………」

 

 サルシムはカチカチと歯の根が震えるのを止められなかった。

 美しい顔だった。

 銀の髪は暗い牢屋の中で、星屑を(まと)ったかのように(きら)めいていた。それなのに自分に向かって微笑みかける彼に、サルシムは恐怖しか感じなかった。ここに来る前にも見た、酷薄で獰猛な瞳……。

 この一瞬、サルシムは自分がこの世ではないどこかに()ちたのだと思った。

 目の前で微笑んでいるのは正義の女神(セトゥルエンケ)が遣わした審問の使徒(ゴルス)で、彼を満足させる答えを出さない限り、この苦痛が終わることはないのだ。……

 

 




引き続き更新します。


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第百八十八話 帝都の出会い(1)

 ふたたび時間は戻り、カーリンがレーゲンブルトに旅立って数日後の帝都。

 落穂(おちほ)の月、初め頃のことである。

 

 

 アドリアンはオヅマの服を買いに出かけていた。それは帝都に着いて、オヅマからの素っ気ない手紙を読み、そのときにはオヅマを少し困らせてやろうという、ちょっとした冗談で言っていたのだが、今となっては、そんな軽い悪戯心は失せていた。

 しかしキャレ改めカーリンの件以降、すっかり意気消沈した小公爵を心配した従僕のサビエルが、気分転換にと勧めてきたのだ。

 

 その日はマティアスが領地に帰る父の見送りのため不在であったので、サビエルとエーリク、それに「衣服のことならば、お任せを!」と自信満々のテリィが随行した。都でも一番の高級店が並ぶ通りを歩いていたが、道行く人々の楽しげな様子を見るアドリアンの顔は、やはり浮かない。

 

「アッ、あんなところに新しい店が出来てるぞ! なんだろ? 美味しそうな匂いがしてくる……」

 

 そんなアドリアンにお構いなく、テリィは店々を見て回る。

 エーリクが渋い顔で注意した。

 

「テリィ、お前の買い物じゃないんだぞ。小公爵様の買い物なんだ」

「わかってるさ。でも、少しぐらい食べたりもするでしょう? おなか空いてませんか、小公爵様。そろそろお昼ですよ」

「……あぁ、そうだね」

 

 アドリアンが適当に返事すると、テリィは合意と受け取ったのか「じゃあ、行きましょう!」と、意気揚々と歩き出す。

 エーリクが止めようとするのを、アドリアンは手を上げて制した。

 

「いいよ。テリィも歩き回ったから、おなかが減ったんだろう」

「しかし、まだ小公爵様が買い物もされていないのに」

「いいよ。まだ決められないから」

 

 アドリアンはそのまま先導するテリィの後をついていったが、急にテリィは「あっ」と声を上げると、いきなり走り出した。

 

「おい、待て! テリィ、勝手な真似をするな!!」

 

 エーリクがあわてて止めるが、テリィは聞こえていないようだ。アドリアンは走って行ったテリィが目指す方向へと目を向けた。

 通りを歩く人々の群れの間から、薄い緑色の昼用ドレスを着た婦人と、その隣でクセの強い赤茶色の髪の男の姿が見える。二人とも走ってくるテリィに気付いてか、足を止めていた。

 婦人の方は、テリィが近くまでくると、ニコニコと笑って抱きしめた。その様子を見ていた男が二言三言、声をかける。テリィが婦人の手から離れて、こちらを振り返り、アドリアンを示すと、二人の顔が固まった。

 一瞬、アドリアンはこの様子を見て、なんとなく歓迎されていない感じを持った。だが、男のほうは驚いただけだったのかもしれない。あわてたようにアドリアンに近付いてくると、(ひざまず)いて挨拶しようとするので、すぐに止めた。

 

「人通りのある場所です。そうした挨拶は控えてください」

「おぉ、これは……確かに、申し訳ございません。まさかこのような街中(まちなか)で小公爵様にお会いできることがあるなどとは思わず」

「ガイスおじさんは、小公爵様に会うのは初めてだっけ?」

 

 テリィが親しげに話しかけると、ガイスと呼ばれた男は頷いてから、(かしこ)まった様子でアドリアンに挨拶した。

 

「失礼致しました。まずご挨拶すべきところを……私はガイス・プシビルと申します」

「小公爵様、前にもお話ししましたよね? ガイスおじさんは、僕のお祖母(ばあ)様方の縁戚で、僕にとっては先生のような人なんです」

 

 テリィはめずらしく、どもることなく、すらすらと説明する。

 アドリアンは以前にテリィから聞いていた話を思い出して頷いた。

 

 テリィの父は先の南部戦役に出征し、死亡している。当時幼かったテリィに父の記憶はなく、祖父も爵位を再承継したばかりで忙しかったために、遠縁の小父(おじ)に教育されたのだという。おそらくその小父というのが、目の前にいるカーキ色の髪の男のことなのだろう。

 

 ガイスは人の良さそうな笑顔を浮かべていたが、大きな薄灰色の瞳はガラスのような、どこか無機質な印象だった。その目がまじまじとアドリアンを見つめて観察している。やや居心地の悪さを感じつつ、アドリアンが挨拶を返そうとすると、ガイスは急にフイと後ろを向いて声をかけた。

 

「ステラリア、貴女(あなた)も挨拶をしないと」

 

 それまで数歩離れた場所で、目立たぬようにしていた婦人が、仕方なさげに少し前に進み出る。恥ずかしいのか、恐縮しているのか、アドリアンと決して目を合わせようとせず、軽く腰を屈めてお辞儀した。

 

「チャリステリオの母の、ステラリア・テルンと申します。いつも息子がお世話になっております。このような場所でお会いするとは思わず、失礼致しました」

 

 固い声は単純に緊張で強張っているのか、あるいは何か含むところがあってなのかわからない。

 アドリアンが名乗っても、ステラリアは決して目を合わせなかった。

 

「今日は、このような場所で小公爵様はいったい何をなさっておいでで?」

 

 ガイスが尋ねると、アドリアンが答える前にテリィが語ってくれる。

 

「小公爵様は今日は服を買いにこられたんです。でも、なかなかお眼鏡に適うものがなくって、歩き回っていたんです」

「まぁ……」

 

 ステラリアが口元を隠した扇の向こうから、かすかな非難を滲ませる。

 おそらく大グレヴィリウス公爵家の継嗣であるのに、既成服を買いに回ることが信じられなかったのだろう。

 アドリアンとて、当然ながら今までの人生で、服を買いに出かけたことなど、一度もない。

 そんなテリィの母の見当違いを見抜いて、すぐにサビエルが付け加えた。

 

「小公爵様ご本人の服を買いに来たのではありません。今回、帝都に来れなかった近侍への土産(みやげ)です」

「帝都に来なかった近侍のために、わざわざ服を買ってやるとは……小公爵様は誠に臣下思いでいらっしゃることです」

 

 ガイスは賞賛してから「しかし……」と、すぐにやや低い声で付け加えた。

 

「一人にのみ贔屓(ひいき)が過ぎるのは、如何(いかが)なものかと。古くは近侍同士で(ちょう)を争ったこともあったとか。こうした物品は、近侍たち全員に差し上げるべきかと思いますよ。そうすればいらぬ(いさか)いも起きぬでしょう」

 

 ガイスの差し出口に、アドリアンはムッと眉を寄せた。

 どうしてわざわざ諍いが起こることを前提に話すのだろう……。

 

 しかしアドリアンは苛立ちをすぐに表情から消して、勝手な憶測で無礼な提案をしてくるガイスをじっと見るだけにとどめた。

 知ってか知らずか、ガイスは相変わらず本心の見えぬ笑顔を貼り付けて、アドリアンを見下ろし視線を受け止めている。

 そんな二人の不穏な空気に気付かず、テリィがガイスに問いかけた。

 

「今日は二人でどこに行くの?」

「メルツァー劇場です。そろそろ我らも領地に戻るので、見納めておこうかと。今回の劇の公演は今日までですしね」

「えっ?! そうなの? それは……見に行きたいなぁ……僕も」

 

 テリィは急に甘ったれた声になり、チラとアドリアンを見てくる。

 それまでアドリアンの背後に控えていたエーリクがヌッと出てきて、仏頂面で尋ねた。

 

「チャリステリオ公子、我々は小公爵様の買い物を手伝うために来ているのだぞ。わかっているな?」

 

 低い声にそこはかとない恫喝を感じて、テリィは「わ、わかってるよ!」とあわてて取り繕った。

 その様子を見たテリィの母・ステラリアが、いかにも怯えたように「まぁ……怖いこと」と扇子の影でつぶやく。

 アドリアンがやや面倒になってきて嘆息すると、ガイスが取りなすように言った。

 

「よろしければ、小公爵様もご一緒にいかがですか? 今期の芝居はなかなかの傑作でございますよ。役者の熱演もさることながら、筋立てもよろしく、見応えのある内容でございます」

「そうそう! 僕も一度、母上と見に行きましたが、楽しかったですよ。間抜けな肉屋たちの合唱が面白くて! それに、メルツァー劇場の軽食は豪華なんですよ。鹿肉のクレープ包みが、すごくおいしいんです」

 

 テリィはその料理を想像してか、とろけるような顔になって、熱心にアドリアンを誘う。

 だがアドリアンはすぐに首を振った。申し訳ないが、劇場という場所はアドリアンには鬼門だった。

 芝居好きの叔母、ヨセフィーナ・グルンデン侯爵夫人は、その劇場の後援者の一人で、おそらく今日が最終公演となれば、会う可能性は高い。会えば婉曲な嫌味の一つ二つで済まないばかりか、下手をすれば同じボックス席に案内されるかもしれない。

 考えるだけで、憂鬱になる。

 

「僕はいい。チケットもないことだし」

「そのようなこと! グレヴィリウスの小公爵様がお越しとあらば、最も良い席を用意するでしょう」

 

 ガイスが大仰に言うのが、アドリアンにはひどく苛立たしかった。

 

「僕は、そうした行為を好まないんだ、プシビル卿」

 

 ピシャリと言うと、ガイスは少しだけ鼻白んだ。

 アドリアンはその顔を見ることもなく、すぐにテリィを送り出す。

 

「君は行ってくるといいよ、テリィ。お母上もそろそろ領地に帰られるのだろうし、家族で観劇できる機会もそうないだろう。服のことは気にしなくていい。どうせ今日は、買う気がしないから」

「で、で……でも」

 

 テリィは落ち着きなく視線を泳がせた。エーリクはもちろん、サビエルもやや冷たい目で、テリィを見ていたからだ。

 だがアドリアンは朗らかに笑って二人を制すると、ガイスにテリィのことを頼んだ。

 

「じゃあ、プシビル卿。観劇が済んだら、テリィを公爵邸まで送り届けてくださいね」

「もちろんでございます。小公爵様のおやさしいお心遣いに、感謝するばかりです」

 

 ガイスの大袈裟な敬語が、アドリアンにはいちいち癪に障ったが、顔には出さなかった。

 テルン一家 ―― 正確にはガイスは一家に入らないのだろうが、去って行く三人の後ろ姿を見る限り、どう見ても仲の良い父母と息子にしか見えなかった ―― が行くと、エーリクが不満げに問うてきた。

 

「よろしいのですか? あのようなことをお許しになって」

「構わないよ。正直、テリィの意見は、あまり参考になりそうもない」

 

 買い物を始めて一刻(*約一時間)が過ぎていたが、テリィはオヅマの服を選ぶというより、後日、自分が買うとき用に自分好みの服を物色するばかりで、あまり役に立っていなかった。

 

「しかし……最近のテリィは目に余ります。小公爵様に対して甘えが過ぎる」

 

 めずらしく憤然と言うエーリクを、アドリアンは物珍しげに見て、肩をすくめた。

 

「そうだね……マティがいたら、きっとひどく叱りつけていただろうな。なんだったら、テルン夫人とプシビル卿にも説教していたかもしれない」

 

 いつもは色々と厳しくて口やかましい(自称)筆頭近侍のことを思い出して、アドリアンがクスクス笑いながら言うと、エーリクがシュンとなった。

 

「申し訳ございません。お力になれず……」

「なに言ってるの、エーリク。君には君の、マティにはマティの役割があるってことだよ。十分に、君は僕を助けてくれているよ。いつもありがたいと思ってる」

「…………」

 

 エーリクはそのアドリアンの言葉に、じんわりと胸を熱くした。ここで忠誠の誓いを立てたいくらいであったが、その時、パン、パンと乾いた拍手が響いた。

 エーリクはとっさに剣の柄に手をやって身構える。

 アドリアンも一瞬、顔を固くして警戒した。

 その人物は拍手を止めると、ゆっくりと歩み寄ってきて、頭を覆っていたフードを少しずらした。フードの影になって見えなかった顔があらわとなった途端、アドリアンは息を呑んだ。

 

「た……大公殿下?!」

 

 




次回は2024.04.21.更新予定です。


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第百八十九話 帝都の出会い(2)

 その名称はかろうじて、アドリアンの口の中に封じられた。あわてて両手で口を塞いで、道行く人々に聞かれることのないようにしたからだ。

 大公ランヴァルトは、心底仰天しているアドリアンに、ニコリと微笑んだ。

 

「久しいな、小公爵。元気そうで何より」

「……どうして」

 

 アドリアンは思ってもみなかった邂逅に混乱していた。

 どうしてこんなところに大公殿下がいるのだろうか? 警護の人も連れずに……?

 

「今は忍びできているのだ」

 

 ランヴァルトはアドリアンの心を見透かしたかのように言った。

 確かに言われてみれば、ランヴァルトの姿は質素なシャツとズボンに、薄っぺらなフード付きの上着を羽織っただけの、一般的な平民の格好だった。

 

「まさか、お一人なのですか?」

 

 ざっと見回してもそれらしき警護の騎士がいないので、アドリアンが心配になって問うと、ランヴァルトは不思議そうに首をひねった。

 

「私に警護の者が必要か?」

「それは……」

「我が臣下は優秀であるが、いまだ私に(かな)う者はおらぬ。息抜きに来たというのに、警護など面倒なだけだ」

 

 あまりにも堂々とした言いように、アドリアンは言葉もなかった。

 確かにこの国において、剣や体術などの勝負でランヴァルトに勝てる人間などそうそういるわけもない。強烈な自負に圧倒されながらも、それは嫌味に聞こえなかった。むしろ穏やかで深みのある声同様に安堵感を与え、同時に尊敬に近い好もしさを感じた。

 ランヴァルトは再びフードを目深にかぶりながら言った。 

 

「それにしても……小公爵は誠に臣下思いであられることだ」

 

 ランヴァルトは先程のアドリアンの言葉を聞いていたのだろう。フードの奥の紫紺の瞳が、やさしくアドリアンを見つめている。

 しかし今のアドリアンは素直に喜べなかった。

 ふと脳裏にさびしそうな顔をして、レーゲンブルトに旅立ったキャレ……カーリンが浮かぶ。

 暗い顔になってうつむくと、ランヴァルトがポンと肩を叩いた。

 

「立ち話も嫌いではないが、場所を変えたほうがよかろう。よろしければ、ご一緒していただけるかな?」

「あ……はい」

 

 アドリアンはほとんど反射的に返事していた。断るという選択肢すら思い浮かばなかった。エーリクもサビエルもただただ驚いてしまい、(あるじ)の急場の決断について、意見することすら忘れてしまった。

 

 ランヴァルトは大通りの道から、細く伸びた路地の奥へと入って行くと、こぢんまりとした店の前で立ち止まった。

 鍛鉄(ロートアイアン)を組み込んだガラス入りの扉の横に、小さな看板が架かっている。よく見ればそこには黒い文字で『茶寮(ラデュ=シィーク)・七色蜥蜴(トカゲ)の巣』と書かれてあったが、看板自体が焼いた板であるので、読みづらく、およそ店の存在を知らせるための看板としての役割は果たしていなかった。おそらく普通に通りかかったら見逃してしまうだろう。それに見つけたとしても、重厚な趣のあるその店構えに、おいそれとは入れそうもない。

 だがランヴァルトは躊躇することもなく、その店の扉を開けた。中は薄暗く、少しだけひんやりとしていた。

 

「もうそろそろ涼雪石は必要ないだろう」

 

 入るなり、ランヴァルトが言うと、受付のカウンターに腰掛けていた店の主人とおぼしき男がのっそりと立ち上がって、トボけた顔で首をひねる。

 

「左様ですかな? 私などは、まだまだ暑いような気もするのですが」

 

と言うのは、彼のでっぷりと太った体を見れば想像ができた。ぴっちりしたシャツの(ぼたん)は今しも取れそうだ。

 ランヴァルトはフンと笑って、店主の肉付きのいい胸を指でグイと押した。

 

「それはお前が年がら年中、一枚多く()()を巻いているせいだ」

「おぉ、ひどい言われよう」

「嘆くなら、少しは動け。日がな一日、ここで本ばかり読んでは砂糖菓子ばかり食っておるから、そうも太るのだ」

「ヤレ、ハァ……耳の痛きことを言われますなぁ……」

 

 アドリアンは緊張していたのだが、思わず始まった店主とランヴァルトの軽妙なやり取りに、思わずぷっと吹いてしまった。店主がピクリと顔を上げて、(すが)め見てくる。ランヴァルトは体を横に向けると、アドリアンを店主に紹介した。

 

「ゾルターン、こちらはグレヴィリウス家のアドリアン公子だ。アドリアン、こちらはこの茶寮の主人であるゾルターンだ」

「初めまして、公子様」

 

 ゾルターンはニコリと商売人らしい笑みを浮かべてお辞儀する。見たときから丸顔で細い目をしたその姿は、時折公爵邸の庭の隅で日向ぼっこをしている丸猫を思い起こさせたが、笑うとますます似ていた。

 

「初めまして、ゾルターン」

 

 アドリアンはつられるようにニコリと笑って、手を差し出した。

 ゾルターンはまさか貴族のお坊ちゃんから握手を求められるとは思わず、びっくりしたように手を泳がせたあとに、あわてて服で手汗を拭ってから、恭しく握手した。

 

「恐縮にございます、公子様」

「挨拶が済んだのなら、我らは二階に行く(ゆえ)、従者たちの案内を頼む」

 

 言ってから、ランヴァルトは勝手知ったる様子で、受付横の階段を上って行く。心配そうなサビエルとエーリクに「大丈夫だよ」と声をかけてから、アドリアンはランヴァルトの後に続いた。

 二階は壁際に書棚が並び、大きな窓近くにゆったりとしたソファが置かれてあった。窓の向こうには、紅葉と黄葉が美しく入り混じった楓が、秋の風に葉を揺らしている。その色とりどりの葉の間から青い空と、運河を行き交う箱船(ゴンドラ)が見えた。太い焦げ茶の窓枠の中、その景色はまるで一枚の絵のように美しい……。

 ぼんやり見ているアドリアンに、ランヴァルトが朗らかに呼びかけた。

 

「どうぞ、アドリアン。あぁ、馴れ馴れしかったかな? 小公爵と言ったほうがよいか?」

 

 ランヴァルトがソファに腰掛けて、向かいの場所を示す。アドリアンは勧められるまま、その場所に腰掛けながら答えた。

 

「いえ、構いません。名前を覚えてくださっていて、有難く思います」

「ふむ。その様子だと、ここでの決まりについては、おおよそ想像できたようだ」

「そうですね……」

 

 店主は大公であるランヴァルトに丁重な態度で接しつつも、その身分で呼ぶことはなく、ランヴァルトはアドリアンを紹介する際に「グレヴィリウス家のアドリアン公子」と言っていた。普通、人に紹介する際は貴族であれば、かならず爵位についても伝えるものだが、ランヴァルトはあえて公爵家と言わなかった。

 

「身分の差なく振る舞う場所であるならば、それに(なら)うべきかと思いましたので」

 

 アドリアンの言葉に、ランヴァルトは満足げに頷いた。

 

「やはり君は頭が良い。非常に、場というものを(わきま)えている。その年で大したものだ」

「誉められるほどのことではございません」

「いや。正直なところ、私がここに人を連れてくることは少ない。シモンも連れてきたことはない。今日も、一人でのんびりと読書でもしようかと、急に思いたって来たのだ」

「それは、ご迷惑だったのでは……」

 

 アドリアンは腰を浮かしかけたが、ランヴァルトは無用と手で制した。

 

「構わぬ。招いたのは私だ。この場にそぐわぬ者であれば連れて来ることもなかったが、君であれば、この茶寮(ラデュ=シィーク)静謐(せいひつ)を破ることもなかろう」

茶寮(ラデュ=シィーク)……」

 

 アドリアンは先程看板で見かけたときから気になっていたその名をつぶやいた。帝国においては、あまり馴染みのない言葉だ。

 

「あぁ。西の国では茶や煙草を喫する店があちこちにあってな。向こうで使われていた言葉を、そのまま充てたのだ」

「そうだったのですね。では、大公……ランヴァルト様がこの店のオーナーでいらっしゃるのですか?」

 

 ランヴァルトはアドリアンの問いに、シッと口の前に人差し指をたてた。

 

「そのことは内緒だ、アドリアン。私がこんな小さな店に出資したと知れては、またうるさく騒ぎ立てる雀どもが、好奇心で押し寄せるであろうからな。ここは基本的には、通う者から紹介を受けた者しか入ることはできないが、貴族という特権で無理強いをしてくる連中というのは、残念ながら少なからずいる」

 

 アドリアンはコクリと頷いた。

 確かにこの場所に、観劇の最中であろうとおしゃべりをする叔母や、平民であるゾルターンに横柄な態度をとるであろうシモン公子などはふさわしくない。

 近侍の中でも、今日はエーリクが一緒で良かった。ちょうどテリィが母親に会って、別れたのも今となれば僥倖(ぎょうこう)といえるだろう。もし、一緒だったら、おそらく大公はここにアドリアンを連れてこなかったような気がする。

 近侍の中であれば、マティアスなどは一応、大声を出したりはしないだろうが、この雰囲気に落ち着かなくて、始終アドリアンに話しかけてきそうだ。オヅマは……どうだろう? 本を読んでいる間は大人しくしていそうだけれど……。

 思わず考えこんでいると、従業員らしき男が飲み物を持って来た。独特な幾何学模様のカップに、銀色のケトルから黒い液体が注がれる。

 

「これは……?」

 

 アドリアンは見たことのないその飲み物に眉を寄せた。

 

珈琲(カフィ)だ。君は初めてかな? この数年で街の屋台などでも売られるようになったようだが……」

「申し訳ございません。存じ上げませんでした」

「謝ることではない。よければ飲んでみたまえ。あまり口に合わぬかもしれないが」

 

 言いながらランヴァルトがその液体を口に運び、おいしそうに飲むのを見て、アドリアンはカップを手に取った。立ち上る湯気とともに若干焦げたような、独特な香りがしてくるが、不快なものではない。アドリアンは覚悟を決めると、一口啜った。熱い液体と一緒に苦みが喉におちてきて、思わず顔をしかめた。

 

「ハハハッ! 君にはまだ少し早い味であったかな」

 

 ランヴァルトが楽しそうに笑う。

 そのときに気付いた。そういえば大公もまた、皇家(こうけ)の人なのであった。かのエドヴァルドの血を継ぐ人々は、揃いもそろって悪戯好きらしい。

 アドリアンは少し悔しくなって「大丈夫です」と言うと、再び飲もうとしてランヴァルトに止められた。

 

「まぁ、待ちたまえ。アドリアン。君のような者にも楽しめる飲み方というものがあるのだ。スヴェン、ミルクと蜂蜜を持ってきてくれ」

 

 スヴェンと呼ばれた鉛色の髪の男は、黙って頷くと階下へと降りていく。しばらくしてミルクと蜂蜜を持ってくると、テーブルの上に並べ、ランヴァルトの無言の指示を受けて、再び階下に去った。

 ランヴァルトは手慣れた様子で、アドリアンのカップにミルクと蜂蜜を注ぐと、ソーサーに置いてあった銀のスプーンで丁寧に掻き混ぜた。黒と白を混ぜ合わせて出来上がった薄茶色の飲み物に、アドリアンは躊躇した。

 

「毒の心配があるならば、私が先に一口いただこうか?」

「い、いえ。まさか……そんなことは考えていません」

 

 あわててカップを手に取り、おそるおそる口をつける。一口含んだ瞬間に、アドリアンは目をパチパチと瞬かせた。苦みがミルクのまろやかさと蜂蜜の甘さで中和されたのか、先程と違って断然飲みやすい。

 

「どうだ? 随分と飲みやすくなったであろう?」

「はい。とても美味しいです」

 

 アドリアンが素直に言うと、ランヴァルトは目を細めた。

 

「私はそうした飲み方はあまりせぬが、やはり子供には苦いようだな。これをはじめて見たときには、私も驚いたものだ」

「これも西方から伝わった飲み方なのですか?」

「いや……これは、昔、我が屋敷で世話していた娘が考えついたものだ。今の君と同じ……いや、君よりもハッキリとまずそうな顔をしてな。それでも私が淹れたものを飲まないのも失礼と思ったのか、どうにか美味しく飲もうと考えたのだろう」

「すごいですね。とっさにこんな組み合わせを考えるなんて」

「あぁ。そういう気働きのできる娘だった……」

 

 ランヴァルトは視線を落とし、つぶやくように言ってから、再び珈琲を口に含む。ふと訪れた沈黙を壊してはいけない気がして、アドリアンは黙ってミルク入りの珈琲を飲んだ。

 ランヴァルトは珈琲を飲み干してから、本題を切り出した。

 

「ここに君を招いたのはほかでもない。過日の君の近侍に対しての慰謝について、話し合おうと思ったのだ」

「あ……」

 

 アドリアンは皇宮(こうぐう)での一連の出来事を思い出した。

 そういえばあの時、ランヴァルトは慰謝すると言っていたのだ。但し、一昨年のように家同士の(いさか)いとならぬようにと提案され、アドリアンは受け入れた。この場合、アドリアン側から慰謝金などの請求か、不問に付す旨を伝えるべきであったのだが、例の一件でそれどころではなくなってしまい、すっかり忘れていた。

 アドリアンはしばらく逡巡したあとに、ランヴァルトに頭を下げた。

 

「なんらの連絡もせずにすみません。あのことであれば、もはや慰謝は不要です。お気持ちだけで十分にございます」

「……よいのか?」

「はい……ご迷惑をおかけしました」

「いや。君がそのように決着をつけることは予想していたが……そういえば、あの近侍はその後、特に問題はないか?」

 

 急に核心に触れられた気がして、アドリアンは胸がズキリと痛んだ。

 

「……どうかしたのか?」

 

 急に表情が固まったアドリアンに、ランヴァルトが軽く首をかしげる。アドリアンはあわてて強張った顔を隠すように目を伏せた。

 

「いえ……特に何も。問題なく……」

 

 なんとか返事をするが、既に動揺を見られてしまったあとの声は弱かった。

 クスリとランヴァルトが笑った。

 

「君は嘘がつけぬ性質だな。母上と一緒で」

「母に会ったことがおありなのですか?」

「そう多くはないが、一応、挨拶程度には」

「…………」

 

 アドリアンは黙り込んだ。

 一度も話すことのない、肖像画でしか知らぬ母。

 思い出も何もないアドリアンには、その存在をどのように扱うべきなのかわからない。それなのに以前シモンに言われたような悪口を聞くと、腹が立ってたまらなくなるのだ……。

 

「もしや、亡くなりでもしたか?」

 

 急に問われて、アドリアンはハッと我に返った。

 

「え?」

「あの近侍が、あの後、急死でもしたのかと……それで私に(しら)せるのも躊躇したのではないのか?」

「いえ、違います! そういうことじゃありません」

 

 あわてて大声で否定してから、アドリアンは息を呑む。響き渡った自分の声に身をすぼめた。

 

「……申し訳ございません」

 

 小さい声で謝るアドリアンを見て、ランヴァルトはクックッと肩を震わせた。

 

「いや。素直でよろしいことだ。まだ子供であられるのだからな」

 

 ランヴァルトは鷹揚に言って許してくれたが、アドリアンは『子供』だと言われたのが、少し悔しかった。軽く咳払いしてから、しかつめらしい顔で、一応公然となっている理由を話す。

 

「その……あの近侍は家族の具合が悪くて、しばらく休暇をとっております」

「なるほど。それでそんな暗い顔をしているのだな」

「はい?」

「殴られて腫れてはいたが、美しいルビーの髪をしていたし、背も君より低くて華奢そうであった。しばし会えぬことで、君が打ち沈んでも不思議はない」

 

 アドリアンはしばらくランヴァルトの言った意味がわからなかったが、唐突に理解すると顔を真っ赤にして否定した。

 

「ち、違います! そういうことじゃなくて」

「そう気に病むことでもない。君くらいの年であれば、未熟であるがゆえに迷いやすいものだ。近侍など、昔はそうした相手として勤める者もいたようだし」

「本当に違います。閣下のお考え違いです」

「そうなのか? それにしてはこの近侍の話になった途端、君はひどく取り乱しているようにみえるが」

「それは……」

 

 アドリアンは指摘されて、またうつむいた。

 どう言えばいいのかわからない。いまだにアドリアンはカーリンの件について、自分の気持ちを整理できていない。だが、そのことをランヴァルトに相談するのは、あまりに個人的すぎて失礼な気もする。

 黙り込んだアドリアンに、ランヴァルトは話を変えた。

 

「ところで今日は土産でも買いに来たのかね?」

「え? あ、はい。あの、今回帝都に来ることができなかった近侍が一人おりまして」

「ほぉ。彼も病気か?」

「いえ。違います。あの、実は……稀能(キノウ)を習得するためなんです」

 

 ランヴァルトの眉がピクリと上がる。「稀能を?」

 

 アドリアンはすぐにランヴァルトもまた稀能を持っていることを思い出し、先程までの重苦しい気持ちを振り払うように身を乗り出した。

 

「はい。あの、クランツ男爵の息子なのですが、男爵と同じ『澄眼(ちょうがん)』という稀能を学ぶために、その師匠のいる地へと向かったのです」

「ほぉ……それはまた、将来有望なる近侍を持たれたものだ」

 

 ランヴァルトはさすがに少し驚いたように、紫紺の目を見開いた。

 

「しかし息子とは……稀能の技は親子間で自然に伝わるものでもないのに、クランツ男爵の子息は、よほどに父上から篤く薫陶を受けていたようだな」

 

 ランヴァルトが感嘆するように言うと、アドリアンはすぐに訂正した。

 

「いえ、オヅマはクランツ男爵と血の繋がりはないんです。元々は平民だったのを、男爵が才能を認めて騎士見習いにして……そのときにオヅマの母親と妹も一緒に領主館で働くことになって、その後、オヅマの母とクランツ男爵が結婚したんです」

「あぁ。そういえば、どこぞで耳にした。クランツ男爵が新たな妻を(めと)ったと。賢夫人と評判らしいな。……ではそのオヅマというのは、(くだん)の妻の連れ子というわけか」

 

 ランヴァルトは得心してから、少し皮肉げにつぶやいた。

 

「……そういうことであれば、(ちまた)の噂のように、必ずしもクランツ男爵が奥方の美しさにうつつを抜かして……ということでもなさそうだ」

 

 アドリアンは意味深に話すランヴァルトに首をひねった。

 

「どういう意味でしょう?」

「クランツ男爵はそのオヅマとやらの才能に惚れ込んで、正式な嫡子(ちゃくし)とすべく、その母親と婚姻を結んだのでは?」

「まさか! クランツ男爵はそんなことを考えるような人じゃありません。本当に奥方を好いておいでなんです。それは僕も間近で見て知っています。立会人として結婚式にも出席しましたから」

 

 アドリアンが少々ムキになって否定すると、ランヴァルトは素直に謝った。

 

「ハハ。すまぬ。貴族の結婚というは、なにかしら相互の利益なしに成立することは少ないものだからな。少々うがった見方をしてしまったようだ。――― それで、そのオヅマという近侍の土産を買うつもりであったのか?」

「あ……そう、ですね。その土産というか……」

 

 話が戻ると、アドリアンは少し逡巡しつつ、オヅマに服を贈ることになった経緯について、簡単に説明した。すべてを聞いたランヴァルトは、心底楽しげに大笑いした。

 

「なるほど。つまり君は、修行の地でのびのびと過ごしているその近侍が羨ましくなって、少々意地悪な報復を考えているわけだな?」

 

 要約されると、自分の子供じみた考えが恥ずかしかった。アドリアンは話し終えてから、すぐに撤回した。

 

「でも、やめておきます。話してたら、自分の考えが子供っぽいものだと気付きました」

「なぜ? 構わないだろう。君はまだ子供なのだから」

「……半分大人(シャイクレード)ではありますし、来年にはアカデミーにも入ります。そうしたらあっという間に十七(*成人年齢)になりますから」

 

 精一杯背伸びしてみせるアドリアンを見て、ランヴァルトは微笑みながら、(さと)すように言った。

 

「そう生き急ぐものでもない、アドリアン。十七になる前であろうとなかろうと、いずれ、今のまま過ごすことを許されぬ時期がくる。その時には、否が応でも大人にならざるを得ないのだ……」

 

 そう言うランヴァルトは、十四歳の頃にはすでに皇家の後嗣争いに巻き込まれ、現皇帝の為に自らの兄姉を粛清している。いや、それ以外においても、皇宮の中で、早く大人にならざるを得ない環境であったのだろう。

 言葉だけではない重みを感じて、アドリアンは胸を()かれた。

 ふと皇太子であるアレクサンテリの言ったことが思い出される。

 

 

 ―――― 貴畜(キチク)……

 ―――― 最も貴くて、最も忌むべき(ケダモノ)……

 

 

 アドリアンは唇を噛みしめてうつむいた。

 そんなアドリアンを見て、ランヴァルトは軽く首を振った。

 

「すまぬ。年寄りくさいことを言ったな。忘れてくれ」

「いえ、そんなことはありません。とても有益なお言葉です」

「……そうか」

 

 ランヴァルトは静かに頷くと、残っていた珈琲を銀のケトルから自分のカップに注いだ。ぬるくなった珈琲を一口飲んでから、再び話を戻す。

 

「あぁ、そういえば……君の要望を満たしそうな店が一軒あるぞ」

「え?」

 

 アドリアンが顔を上げると、ランヴァルトは目を細めた。

 

「近侍の……オヅマと言ったか? その者に服をやるのだろう?」

「あ、はい」

「君が溜飲(りゅういん)を下げたいのであれば、場末の古着屋で役者の払い下げの服でもやればよかろうが、今回については君の度量をみせたほうが、彼には効果的であろうよ。今後のためにも」

 

 ランヴァルトの助言に、アドリアンは素直に頷いた。

 

 

 

 アドリアンにとって、ランヴァルトは非常に魅力的な人物だった。

 最初の印象は少し怖くも思ったが、会話をするほどにアドリアンはもっと彼と話したくなった。

 ランヴァルトの穏やかで悠揚(ゆうよう)とした物腰も、時折見せる悪戯(いたずら)っ子のような眼差しも、深い経験に裏打ちされた含蓄(がんちく)ある言葉も、アドリアンにはすべてが印象深く、端正な風格を感じさせた。

 だからオヅマの服を買う店を紹介してもらうために、また次に会う約束をしてもらえたとき、アドリアンは嬉しくてたまらなかった。断ることなど選択肢にもない。再び会えるその日を、それこそ指折り数えて待ったのだった。

 

 

 




次回は2024.04.28.更新予定です。


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