良馬場ウマ娘ちゃん日常 (下弦)
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カレンチャン
お兄ちゃんを待ってるカレンチャン


パラパラと粉雪が降り、イルミネーションで色とりどりに照らされ、周りにはカップルや家族たちが幸せそうに歩いている。

 

「はぁ〜、今日も寒いな〜」

 

そんな街中で賑わいを見せ冬を感じる中、カレンは白い息を吹きかけ手を温めながら今か今かとこれから来るであろうトレーナーを待つ。

 

「お兄ちゃん、まだかな」

 

外の時計を見れば約束した待ち合わせの時間にはまだ15分ほどはあるだろう。早く来すぎたことを少し反省。

でも寮を出る前何度も鏡の前でチェックした、隅々までファッションにもこだわったし間違いなく今日1番のカワイイ姿を大好きなお兄ちゃんに早く見せて会いたい気持ちが抑えらなかったのだから仕方ない。

 

「……カレン!ごめん、待たせた!」

 

「お兄ちゃん!」

 

時計と随分長く感じるにらめっこをし続けいくばくかの時間。やっと来てくれたカレンのトレーナーはこちらに気付くと小走りをしながら近づいてきてくれる。

 

「待たせてごめんなカレン、寒かったろ?」

 

「ううん、カレンが早く来ちゃっただけだもん。大丈夫だよお兄ちゃん」

 

「本当にすまない。今日は特に冷えるし大丈夫か? 勝手ながらだが何かお詫びをさせてほしい」

 

待ち人に会えたことの嬉しさからか尻尾が揺れている。彼の顔を見て、今もこちらを心配してくれる姿に自分の心臓がトクントクンと少しだけ大きく音を奏でさっきまでの寂しさが嘘のように心が今温かい。

 

「お詫びなんてお兄ちゃんなら別に良いのに。でも何かしてくれるならそうだな〜?」

 

少し頭を伏せ、かつカワイイ角度を保ちながら考える。何かしてくれると言うなら使わない手はない。

色々としてほしい魅力的な案はいくつか浮かぶが、さっきまで冷えきっている自分の手を見てカレンは言った。

 

「それじゃあお兄ちゃん。カレン、手が冷たいな〜?」

 

手のひらを彼の前で広げてみせつけてみる。

ただカレンが言うのはあくまで冷たいまで、その後何をしてほしいかまでは言わない。ちょっといじわるな小悪魔カレンチャンなのだ。

 

さて今少し困りげな表情のこの人は何してくれるだろう。

カイロやホットドリンクをもってきて手を温めてくれる?

それとも自分の手袋を貸してくれる?

正直、なんでも嬉しいけれどどうせなら私の手を……。

 

「これで良いかい?」

 

握ってくれたら…。

なんてこと考えていたら本当に彼はカレンの手を握ってくれた。さっきまで思い浮かんだものでも普段なら中々しぶってやってくれないのに今日に限ってまさかカレンが一番嬉しくて求めていたものをしてくれるなんて。

 

いけない、顔が熱い。

ああ、ダメだこれは。嬉しくて嬉しくてたまらない。

 

「カレン? ひょっとしてダメだったか?」

 

「ううん、大正解だよ。お兄ちゃん♪」

 

その瞬間、今日一番とも思わせる最高の笑顔が出たと思う。

だって、今まさに彼は少し照れてくれているのか珍しくカレンから少し目を逸らして頬を指で撫でている。鏡なんて見なくてもわかる、お兄ちゃんが照れてくれることがなによりも最高の笑顔ができた証拠だ。

 

「よーし! 今日は目一杯お兄ちゃんとのデート楽しんじゃうぞ!」

 

「デート⁉︎ ちょっとまってカレン⁉︎」

 

こちらも手をしっかりと繋いで彼の手を引いて歩き始める。

急に動いて一瞬ふらついたトレーナーだが、その後は当然のようにカレンの隣を歩き「しょうがないな」なんていいながら困った笑みを浮かべてくれる。それに釣られてなのか自分も笑みが溢れる。

 

待ち合わせの時間だけでこんなに嬉しいプレゼントがもらえるなんて思いもしなかった、でもまだただ本番はここから。

デートは始まったばかり、これからの有意義な時間の中で色んな楽しい思い出の中でカレンが1番だって想ってもらえるように頑張らないと。

 

しっかり離さないように繋がれた手を握り、たまに彼をお茶目な意地悪で困らせながらだがようやく2人のデートが始まる。



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お兄ちゃんへ電話越しに自分の秘めた想いを伝えるカレンチャンの話

朝は好き。

これからお兄ちゃんに会えると思うと楽しみだから。

何を話そうかなって考えるのも楽しいしどんな顔で挨拶してくれるのかな? って思うだけで心が弾んじゃうの。

 

お昼も好き。

お兄ちゃんの事を考える時間が増えるから。

今日は何食べてるんだろうなとか、今何してるのかなって想像するだけでも幸せになれるんだよ。

そして偶然カフェテリアで出会えたりなんかしたらもう最高!

思わず笑顔になっちゃうくらい嬉しいよ。

 

放課後の夕方も勿論大好き、

だってやっとお兄ちゃんに会えるんだもん。

今日のトレーニングの事や昨日見たテレビの話をしたり他愛もない会話をすることだってカレンにとっては凄く幸せな時間に感じるの。

お兄ちゃんの隣にいられる、声が聞こえる、触れ合える。

その事実が何よりも嬉しくて堪らない。

 

でもね、夜は少し苦手なの。

だってお兄ちゃんとお別れの時間になるんだもの。

ただでさえまだまだ足りないとすら感じるお兄ちゃんとの時間が更に短くなると考えると胸がきゅっと締め付けられるように苦しく感じちゃう。

それでも、明日また会いたいって思えるのはやっぱりお兄ちゃんが好きなんだなって実感できる瞬間でもあるの。

 

カレンは今素敵な恋をしている。

初めて会った時からずっと、今でも変わらずあなたのことを想い続ける。

あなたと一緒にいる時間はそのどれもがとてもかけがえのない宝物になるから。

 

 

夜も更けたもう遅い時間にカレンはベッドに寝転び、ぎゅっと枕を抱き寄せ彼への想いを募らせていた。

ふと時計を見ると針は既に23時を指しており、流石にこれ以上起きているのはまずいと睡魔に襲われ始めた身体を起こし部屋の電気を消す。

そして瞼を閉じるがなかなか寝付けず、無意識に浮かんでくるのは彼の優しい表情ばかりで寝よう寝ようと思えば思うほど彼のことばかり考えてしまう。

 

「……やっぱり、まだ眠たくないかも」

 

そう呟き、再び目を開けスマホを手に取るとメッセージアプリを開き連絡先を開くとそこには彼の名前が表示されていてそれをじっと見つめているとある衝動に襲われる。

 

「電話……したいなぁ」

 

時刻はもう23時過ぎ、普通ならこんな遅い時間帯に異性へ電話をかけるのは迷惑かもしれないけれどこの気持ちを抑え込むことはできなかった。

しかしこんな遅い時間に迷惑ではないかと思い改めてすぐに消そうとするが指の動きを止めることができず、結局発信ボタンを押してしまう。

すると数秒もしないうちに着信音が鳴り始め慌てて切ろうとしたがもうすでに遅く、代わりに聞こえてきたのは聞き慣れた声だった。

 

「……もしもし、どうしたカレン?」

 

いつもより低くて少しだけ眠そうな声、きっと仕事終わりなんだろうなと思いながらも彼に自分の声が届くことが嬉しかった。

そして彼が返事をしてくれたことに安心感を覚えつつ言葉を口に出す。

 

「ごめんねお兄ちゃん、ちょっと眠れなくて……」

 

「そっか、俺もちょうどカレンの声が聴きたかったところだよ」

 

彼は冗談混じりに言ったつもりなのかもしれないけど、それは今のカレンにとって本当に嬉しい言葉でつい頬が緩みそうになる。

 

「もう夜も遅いからあまり長話はできないけど少しだけ話そうか」

 

「うんっ!」

 

お兄ちゃんはカレンの事を心配してくれてるみたいだけど、別に特に話すことを決めていたわけじゃなかったことを思い出す。

けれどせっかくこうしてお話しする機会ができたのだから無駄にはできないとなんでもいいから話題を探す。

 

「えーっと……あっ今お兄ちゃんって何してるの?」

 

「ん? 今は少しコーヒー飲みながらひと休み中かな。あとちょっとだけ詰めておきたい資料もあるし」

 

「えっそれじゃあ今カレンとお喋りしてて大丈夫なの?」

 

「今日中ってわけじゃないし全然問題ないよ。それに少しくらいこうして休憩挟まないと逆に集中できなさそうだし」

 

むしろ良いタイミングでカレンが通話してくれて助かってるよ。と続けて言われてしまい思わず胸が高鳴ってドキドキしちゃう。

 

「えへへ、それなら良かった♪」

 

だからこうして返す返事にも自然と笑みが溢れてしまうのは仕方がないよね。

 

それから暫くの間お兄ちゃんは今日はどんな一日を過ごしただとか、カレンが日に日に成長していくのを間近で見れて嬉しいとか色々話を聞かせてくれたの。

彼のその声があまりにも嬉しそうに話してくれるものだから、カレンもカレンで負けじと 「お兄ちゃんの傍に居られて幸せだよ」って伝えたら照れくさそうにありがとうと返されたのが嬉しくて、また笑顔になっちゃった。

 

「……あっと、もうこんな時間か」

 

ふと気付いたようにお兄ちゃんが呟くとカレンも釣られるようにしてスマホの画面を見るともう時計の針が0時を過ぎようとしていていつの間にそんなに時間が経っていたんだろうと思うと同時に寂しさを感じてしまった。

もう少しこのままお兄ちゃんと話していたいという想いはあれど、流石にこれ以上付き合わせるのは悪いと理解している為ぐっと堪えることしかできなかった。

 

でもね、最後に一つだけお願いしたいことがあるんだ。

 

「ねぇお兄ちゃん」

 

「ん、どうかしたか?」

 

「……また、お兄ちゃんの声が聞きたいなって思ってもいい?」

 

その問いにお兄ちゃんは一瞬黙ってしまったが、すぐに優しい声で 「もちろん良いよ」と言ってくれた。

 

その一言が嬉しくて堪らない反面やっぱりお別れの時間が来るのが嫌だなってと感じつつもせめて少しでも長く彼と繋がっていたいと願いながら眠りにつくことにした。

 

うん、お兄ちゃんの声を聞けたからか今夜は良い夢を見れそう。

明日また会えたとき、カレンのことを見て微笑んでくれる彼の姿を想像しながらカレンはゆっくりと夢の世界に意識を落としていった。

 

そんな、いつもならお兄ちゃんに会えない苦手な夜が待ち遠しいと思えるようになったある日の出来事であった。

 

 

そしてその翌日はずっと嬉しさからいつも以上に彼へのスキンシップが少し激しくなったのは言うまでもない。

朝、昼、夕方と時間は進み、日は暮れていきやがて月明かりだけが頼りになる静かな夜の時間帯になった頃。

 

「……ん~、もうかけても大丈夫かなぁ」

 

カレンは自室のベッドの上で寝転がってスマホを手に持ちながらお兄ちゃんの連絡先を開いていた。

 

あとはもう指でタップすれば電話が繋がるという状態なのだが、ちらりと表示されている時計を見ればまだ21時過ぎ。

昨日の夜に電話をかけたこともあり今日も通話をしたいのだが昨日の結構遅い時間でもまだ仕事中だった彼に今通話をかけるのは少し気が引けてしまう。

 

「でもやっぱり声が聞きたくなっちゃうな……」

 

昨日お兄ちゃんと通話をしてからというもの、以前よりも更にお兄ちゃんと話せる機会が増えたことが嬉しくてついつい甘えてしまっている。

 

そしてやっぱりもう少しだけ待って彼が落ち着いたころにもう一度かけようかな、と思ってスマホから意識を離そうとしたときだ。

突然カレンのスマホに一つの着信音が鳴り始め、慌てて手に取って確認するとそこには大好きな彼の名前が表示されていて、それが意味することを理解してさっきよりさらに慌てながら通話ボタンに触れた。

 

「こんばんはカレン。ごめんね夜遅くに、寝るところだったかな?」

 

「ううん、大丈夫だよ! でも驚いちゃった、カレンもかけようとしてたの」

 

「なんだお互い同じこと考えてたのか、偶然とはいえ同じタイミングでかけるのはなんか面白いな」

 

「えへへ、そうだね」

 

お互いに同じタイミングで電話を掛けようとしていたことに気付きなんだか嬉しくてついつい頬が緩んじゃう。

そしてそれは向こうも同じなのか声色からも喜んでくれていて、離れてるのに二人とも同じことを考えてたのかなって思うと凄く幸せな気持ちになれる。

 

「ちょっと早すぎるかなとも思ったんだけどさ、昨日カレンと通話してたらまたこうして声が聞きたくなってさ」

 

「……っ」

 

そんなお兄ちゃんからの不意打ちとも言える言葉を聞き一瞬、胸が大きく高鳴った。

それ程までにその言葉は彼の心から出た本音そのものだということが感じ取れてしまったから尚更嬉しかった。

 

そんなことを言われたらカレンだってもっともっとあなたと話したくて堪らないんだよ、と伝えようとする前に先に彼のほうから話しかけられた。

 

それは少しだけ照れくさそうに、しかしどこか嬉しそうな声色で発せられるものだった。

 

「でもなんだかこうしてるとカレンのファンには少し悪いかもな。担当トレーナーとはいえこうしてカレンとプライベートで話してるなんてさ」

 

冗談交じりに笑い声をあげながら彼はそんなことを言う。

それに対してカレンは一度クスリと笑って一呼吸を置いた後、少しびっくりしてくれるかなって彼の表情を想像しながらこう言ってあげるの。

 

「ふふ、カレンを独り占めできるのはお兄ちゃんだけの特権だからね♪」

 

「……えっと、流石にストレートにそう言われると恥ずかしいな」

 

「今のお兄ちゃんのお顔、真っ赤っかになってそうだね」

 

「あはは、ノーコメントで」

 

きっと今の彼は顔を赤く染めているんだろうなと容易に想像がつく。

普段から優しいお兄ちゃんだけどこういうときに見せる照れたような反応も好き。

 

でもね、本当はカレンもお兄ちゃんに負けないくらいドキドキしているんだ。

こんなにも大好きなお兄ちゃんの声を聞いているだけで、カレンの心は嬉しさや幸せといった感情で満たされていく。

 

「それじゃあ~、もっとお兄ちゃんのお顔赤くさせちゃおうかな~?」

 

「できればお手柔らかに頼むよ」

 

悪戯っぽい口調で言うと苦笑気味に返事をする彼。

うん、やっぱりお兄ちゃんの声は聞いていて心地良い。ずっと聞いていたいと思うほどに。

 

それから暫くの間他愛のない会話を続けていたがカレンと話すお兄ちゃんは本当に楽しそうにしてくれていた。

カレンの話をしっかり最後まで聴いてくれるのはもちろんのこと、時折相槌を打ちつつカレンが喋りやすいように促してくれたりと優しい気遣いを見せてくれる。

 

けれど楽しい時間はあっという間に過ぎていってしまうもので、時計を見ればもう23時を指し示していた。

 

「少し話しすぎちゃってごめんなカレン、名残惜しいけどそろそろ寝ようか」

 

「……うん、そうだね。おやすみお兄ちゃん」

 

「ああ、おやすみカレン。良い夢を」

 

電話越しに聞こえるお兄ちゃんの優しい声に思わずこのままずっと繋がっていたいと思っちゃうけど、明日のこともあるので素直に終えることにした。

 

最後にもう一度挨拶を交わしてから電話を切り、スマホを枕元に置いたあとに近くにあった枕をぎゅっと抱きしめて、ゆっくりと深呼吸をして目を瞑れば先程のお兄ちゃんとのやり取りを思い出して頬が緩んでしまう。

 

「今日もお兄ちゃんといっぱいお話できたなぁ……」

 

つい先日までお兄ちゃんに触れあえないからと苦手だった夜が今ではすっかりと楽しみへと変わる。

彼とお話することが出来たから、寂しいと思っていた時間も楽しく過ごすことが出来るようになったから。

そして何よりこの時間がカレンにとっての幸せな時間へと変わっていったから。

 

「……えへへ」

 

だからね、通話が終わった後でもこうしてお布団の中で思い出してにやけちゃうのも仕方がないよね?

 

また明日も通話できるかなってワクワクしながらぎゅっと枕を抱きしめる力が強くなって再び彼の言葉を思い返す。

彼からの言葉はそのどれもが優しくて温かくて。カレンのことを想ってくれているのが伝わってくるようで。

 

「カレンのファンにも、かぁ……」

 

けれど思い返しながらふと彼が口にしたその言葉を呟きながら考える。

確かにカレンにはウマスタでも、レースに出走するウマ娘としても多くのファンがいてくれて、応援のコメントもたくさん送られてきてくれたり直接会いに来てくれた人だっている。

カレンはそんな人たちが居てくれることがとても嬉しくてカレン自身も大切に思っている、それは嘘じゃない。

 

「お兄ちゃんも、みんなのカレンチャンだからっていう風に思ってたりするのかな?」

 

ポツリとそんな言葉が漏れて、少しばかり不安を感じた。

それは少しだけ、いいや凄く嫌だ。

カレンは確かにみんなのカレンチャンだけど、それでもあなたにはカレンだけを見ていたいと思ってほしいなんてわがままなこと考えてしまう。

 

だってみんなのカレンチャンとしてじゃない、他ならぬ自分自身の気持ちとしてカレンはあなたの1番になりたいと初めて会ったときからずっと願ってたんだから。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

 

夜もすっかりと更けた静かな時間の中で、どこかの誰かさんに問いかけるような声で小さく囁いた。

 

「カレンを独り占めできるのはお兄ちゃんだけの特権なんだよ?」

 

そしてそれは誰にも聞かれることなく静かに消えていく。

 

「やっぱり、待ってるだけじゃ伝わらないよね。……よしっ」

 

自分の中で一つ決意を固めると勝負は次の通話のときと決めてカレンはひとまず眠りにつくことにした。

彼の見る夢の中でもカレンたちが出会えていたら嬉しいなって、そんなことを願いながら。

 

 

そして迎える次の日の放課後。

いつものようにトレーニングを終えて寮に戻ったカレンは自室で今日の授業で出された宿題をこなし一段落ついたところでスマホを手に取る。

昨日と同じように画面を開いて連絡先から彼の名前を探し出しタップすると、程なくしてコール音が鳴り響く。

 

ドキドキと高鳴る鼓動を感じながらもカレンはスマホの向こう側に意識を向けながら早く出てほしいと思いつつ、同時にまだ出ないで欲しいとも思う複雑な心境のまま暫く待つと、やがて呼び出し音が鳴るのが止まり代わりに聞こえてきたのは彼の声だった。

 

「もしもし、こんばんはカレン」

 

「うん、こんばんはお兄ちゃん」

 

たった一言。それだけなのに心が満たされていくのを感じる。

今この瞬間だけはカレンだけがお兄ちゃんの声を聞いているんだと実感できて嬉しさが込み上げてきて思わず口元が緩みそうになるのを堪えて会話を続ける。

 

「なんか、もうすっかりこうして夜に話すのがお決まりになってきたな」

 

「そうだね~、まだ三日目くらいなのにもうなんだか慣れ親しんできちゃった感じはあるかも」

 

「俺もそうかもしれないな。今日もカレンからそろそろ通話来るかなってちょっと期待してたりしてさ」

 

「本当? カレンもね、また今日もお兄ちゃんがもう電話掛けてきてくれるんじゃないかなって待ち遠しかったよ」

 

お互いに笑い合いながらの何気ないやり取り。けれど彼とのこの時間がカレンにとっては何よりも大切で、愛おしいものになっていた。

もうすっかりとこの夜の時間が好きになっていて、ひょっとしたら一番好きなのはお兄ちゃんと話しているこのときなのかもって思えるほどに。

 

「でもお仕事は大丈夫なの? カレンのために無理しちゃうとか絶対駄目だよお兄ちゃん?」

 

「ん、それなら大丈夫。まだ残ってる物はあるけどこうして通話しながら絶賛今もやってるところだし」

 

「……お兄ちゃん」

 

「いやほんと大丈夫だって無理してないから。それにカレンの声聞きながら作業してるほうが一人で黙々とやるよりはやる気も出るからさ」

 

「むぅ、そういうことなら許してあげるね」

 

電話越しに聞こえる彼の声に少しだけ不満を覚えつつもその言葉が嘘ではないことは分かってるから渋々納得することにする。

こうして一緒にお話するのがお兄ちゃんにとっての活力になってくれてるのであればそれはカレンにとっても嬉しいから。

 

「でもでも、カレンの声に夢中になってお仕事の方が疎かになっても知らないよ~?」

 

「ははっそれは困る。ならいっそこっちに集中しようかな」

 

「あー! カレンとのおしゃべりよりもお仕事を優先させるつもりだ!」

 

「ねえまってよ、俺はどっちを優先したらいいのさ……」

 

わざとらしく悩むような口調で言う彼に冗談だと伝えるように笑えば彼も釣られて笑ってくれる。

本当に他愛もない会話だけどその一つ一つが楽しくて嬉しくて幸せで。ずっと続けば良いのにと思って微笑むの。

 

「ふふっそれじゃあ今度カレンと一緒にお買い物に行ってくれたらお兄ちゃんのこと許してあげる」

 

「俺何も悪いことした覚えはないんだけど。……まあ別にいいか、良いよ行こうか」

 

「やった! 約束だからね、忘れちゃ駄目だよ?」

 

「もちろん。カレンとのお出かけ楽しみにしてるよ」

 

「うん、カレンも楽しみ!」

 

二人でお出かけする日を想像するだけで自然と頬が緩んでしまう。

どんな服着ていこうか、逆にどこに連れて行ってくれるのか、そんな風に考えるだけでもワクワクしてくる。

 

「あっでもそのときはちゃんと変装忘れずにな?」

 

「お兄ちゃんは心配性だな~。大丈夫だよ、ちゃんとお兄ちゃんとデートするとき用のおめかししていくから!」

 

「……うん、凄く照れくさいから止めてカレン。動揺してちょっとミスするところだったわ」

 

「えへへっごめんなさい。でもやっぱりカレンとしてはお兄ちゃんにはカワイイって思ってもらいたいな」

 

「ありがとう、まあカレンのことだからそこの心配は特にしてないんだけどさ。やっぱり男の影がチラつくのはカレンのファンたちにとってはあんまり良くないだろうし」

 

「……」

 

そう言った彼の言葉にカレンの胸がチクリと痛んだ気がした。

カレンのことを気遣ってくれているのは嬉しいはずなのに、ファンのことまで気にかけてくれるのは嬉しいと思うべきなのに。

どうしてこんなにもモヤッとした気持ちになってしまうのだろうか。

 

どうしてあなたはそうやってこういうときにカレンからまるで一歩距離を置いたように接してくるの?

考えすぎだということは分かってるけど、それでも思考の片隅でこのままだとあなたがカレンのことを教え子としてしか見てくれなくなってしまうんじゃないかって、そんな子供みたいな不安がどうしても拭えない。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

 

「何、カレン?」

 

カレンはお兄ちゃんの特別な存在になりたい。

他の誰でもないカレンだけがお兄ちゃんの特別であり続けたい。

 

だからこそ今、お兄ちゃんにこの気持ちを伝えなきゃ。

彼が少しも距離なんて取らせる余裕なんてないくらいに、カレンがどれだけあなたのことを好きになっているのか教えてあげるよ。

 

そうしてカレンは一度大きく深呼吸をして覚悟を決めると、ゆっくりと口を開いた。

 

「もしね、いつの日かカレンがみんなのカレンチャンじゃなくなった日が来て。ずっと誰か一人だけのカレンチャンになったとしたらどうする?」

 

「誰か一人のカレン? えっなんか難しい質問だね」

 

「あのね、カレンは今みんなにカワイイを届けているときが一番幸せだよ。ウマスタを通じて色んな人に喜んでもらえることが凄く嬉しい!」

 

でも、とカレンはそこで一旦言葉を区切る。

そして無意識に自分のスマホを握る手が強くなっていることに気付かないまま、今の素直な想いをありのままの自分の言葉で口に出していく。

 

「でもね、実は言ってなかったけどもう一つだけ幼い時からカワイイを伝えていくときに一つだけ一緒にカレンの願い事も乗せていたの」

 

「願い事?」

 

「うん、誰にも内緒のカレンの一番のお願いごと」

 

カレンの言葉を聞いてもお兄ちゃんは不思議そうな声音のまま。

きっとカレンが何を言っているのか分からないって感じなんだと思う。

でもそんなことお構いなしに声高らかに伝えてあげるの。

 

「まだ小さいカレンがみんなにカワイイを伝えていく中で、ひょっとしたらあのとき昔遊園地で私の夢を素敵な夢だねって言ってくれた大好きな人が、その伝えているどこかでカレンをまた見つけてくれたなら、そしてカレンのことを少しでも思い出してくれたら嬉しいなって。……そんな淡い期待を込めた願い事をずっと幼いときからしてたんだよ?」

 

知らなかったでしょ?

と問いかけるように笑えば彼から少し困ったような笑い声が聞こえてくる。

 

「ずっとずっと、カレンはお兄ちゃんに会いたかった。たった一度の偶然の出会いだったけど、それでもカレンの夢を笑わず否定しなかった優しい人。そんなあなたにカレンはあのときから惹かれていたの」

 

少しの間の沈黙。

胸に秘めた想いの一言一言を伝えていくたびに心臓がドキドキと高鳴って張り裂けそうなくらい苦しくて次第に緊張で口の中が乾いてカラカラになっていくのを感じる。

電話越しで良かった、今のカレンの顔を見たら絶対に真っ赤になってる。

だって顔が熱すぎて溶けてしまいそうだもの。

 

それでもまだ終わりじゃない、カレンの伝えたいことはここからなんだ。

大きく息を吸って深呼吸した後、彼に届くようにと想いを込めてもう一度言葉を紡ぐ。

 

「あのね、お兄ちゃん。カレンが、あなただけのカレンチャンになりたいって言ったら……迷惑、かな?」

 

少しだけ勇気が足りなくて問いかける形になってしまったけど、これでようやくカレンの本心が伝わったかな。

 

この想いを伝えきって数秒ほど黙り込んだ後、お兄ちゃんは小さく口を開く。

 

「……いつもみたいに揶揄って言ってるってわけじゃ、ないんだな?」

 

「……うん、もちろんだよ」

 

「……そっか」

 

真剣な声色で訊いてきた彼にカレンも同じように返す。

もうここまで来て冗談だと誤魔化すなんて真似はできないしするつもりもない。

カレンの言葉を聞いて彼はまた少しだけ黙る。

 

それは数秒か数分かわからないけれど、でも体感としてとてつもなく長く感じられて怖くて思わず目を瞑りそうになる。

できれば早く答えてほしい、時間が経てば経つほど不安はどんどん大きくなってもう自分だけじゃ止められなくなるから。

 

それから電話の向こう側から少しだけ深呼吸するような音が聞こえたかと思ったら彼はカレンに向かって言葉を紡いだ。

 

「カレン、そのキミの気持ちは凄く嬉しいよ。……でも、返答はちょっとだけ待ってもらってもいいかな」

 

「……えっ」

 

「ああごめん! そういうつもりじゃないんだ、決してカレンのことを拒否するとかそういう意味じゃないから!」

 

慌てて弁明するように言う彼の言葉にカレンは一瞬呆けてしまう。

 

「俺もカレンの気持ちに真剣に答えたいと思ってるし大切にしたい。けど今はまだ担当同士ってこともあるしキミもまだ学生で、そういうのも含めちゃうとすぐに答えを出せるってわけじゃないからさ」

 

ハッキリとした口調で告げられる彼のその言葉、けれどその言葉の中には所々で少しの不安が混じっているように感じる。

きっと彼もカレンと同じように自分の感情を整理しきれていないからなんだろうと思う。

 

でもそれで良いの。そんな風に迷ってくれてるってことは彼がカレンのことをちゃんと考えて伝えてくれている証でもあるから。

 

「ええっと、その……だから、俺の都合で本当に申し訳ないんだけど。この返事はカレンが卒業してから改めて俺の方から伝えるってことじゃ駄目かな?」

 

恐る恐ると、窺うような様子で尋ねられた問いに対してカレンはその優しさに思わずクスリと微笑む。

 

「ううん、大丈夫だよ。カレンはいつでもお兄ちゃんのことを待ってるから」

 

「ああ、ありがとう」

 

「ふふっそれじゃあ約束ね?」

 

「うん、そのときまでに俺もちゃんと考えて答えを出すよ」

 

「ならそれまでカレンももっとアピールしていかないとね!」

 

「ははっ正直今のままでも十分過ぎるくらいだよ」

 

「お兄ちゃんはわかってないなぁ、恋する女の子は好きな人にはいつだって全力なの!」

 

「……まって、このままだと俺が恥ずかしさで何も言えなくなりそうだ。せめてお手柔らかに頼むよ」

 

電話越しなのにお手上げといった雰囲気を醸し出す彼。

カレンの言葉で一喜一憂してくれるのがなんだか嬉しくて楽しくてつい声を上げて笑ってしまう。

 

そしてその言葉を最後にお互いに恥ずかしさでいっぱいになっておやすみって伝えた後に通話を終えた。

そのままスマホをベッドの上に放り投げてそのままボフンと自分もベッドに倒れ込む。

 

「伝えられた……んだよね」

 

放心状態だが、やっと一歩前に進めた気がする。

まだカレンの想いは届いたわけじゃないけどそれでも大きな進歩に変わりはない。

そう考えるだけでさっきまで不安で押しつぶされそうだった心が、今度は心の底から喜びが溢れてきて胸の奥がポカポカしてくるのを感じる。

 

だけどまだまだ足りないの。

だって、この告白はまだまだ始まりの一つにしか過ぎないのだから。

カレンの初恋が実を結ぶまではもっともっと頑張らないと!

そんなことを思っていると自然と頬は緩んできて、やがてカレンは抑えきれない衝動に駆られて思いっきり笑い声を上げた。

 

でもまずはまた明日大好きなお兄ちゃんに会うために、この幸せに包まれながら目を閉じてゆっくりと眠りについていく。

 

この日の夜は、すっかりと特別大好きな日になった。

 

 

 

そんな電話越しで想いを伝えた翌日のこと。

今日はトレーナー室で彼と二人きり。

昨日の一件もあってか少しだけ緊張しているカレンは、いつものようにソファーに座ってお喋りをしているけどどこか上の空だったりする。

それもこれも全部カレンの目の前にいる彼が原因だ。

 

カレンの隣に座る彼はカレンのことをチラチラと見てくるし時折何かを言いたげな表情を浮かべたりもする。

その度にカレンは彼の方を見て首を傾げるのだけれど、結局は何も言わずにまた視線を外すことが度々繰り返されていた。

 

「ねぇ、お兄ちゃん。カレンの顔になんかついてる?」

 

「そういう訳じゃないんだけどさ。ええ……なんでむしろカレンはそんな自然体でいられるのさ。昨日の今日で変に意識してる俺がおかしいのか?」

 

「カレンも意識してないわけじゃないよ。正直ここに来るまでずっと緊張してた、でもそれ以上に今はこうして一緒に居られることの方が嬉しいの」

 

「……あ〜、駄目だ。カレンには適う気しないや」

 

彼は苦笑しながら少し赤くなった顔を手で隠しながらそっぽを向いた。

 

でもカレンは本当に嘘なんて一つも言ってないし、今こうやって隣に彼が居るって事実が何よりも幸せなの。

そんな彼を見て、カレンはただ上手に隠すことができてるだけで今もずっとドキドキしてるし目も合わせるのだって緊張し続けてる。

むしろ意識してるのはこっちの方なのにって思うけどそれは内緒にしておこう。

 

「……まあいいや、ちょっとカレンに確認してほしい物があるんだけどさ」

 

「なになに? カレンに見せたいもの?」

 

「ああ、ちょっと待っててくれ」

 

そう言うと彼は席を立って部屋の隅にある引き出しの中から一枚の書類と、雑誌を数冊持ってそれをカレンの前に広げていく。

 

なんだろうと思ってその雑誌をよく見ると、カレンも知っている有名なファッション誌でそのどれもがウエディングドレスの特集が組まれているものだった。

 

「……ふぇっ!?」

 

突然のことに驚きを隠せず変な声が漏れて、カレンは咄嗟に彼の方へと顔を向ける。

 

これはつまりそういう……えっ結婚!?

でもカレンはまだ学生だし、それに告白の返事は卒業してからって!?

 

「ああ〜っと、一旦落ち着こうかカレン。急に渡した俺が全部悪いんだけど多分きっと誤解してるから……」

 

カレンの頭の中で色々な思考がグルグルと巡っていく様子を見た彼が慌ててカレンを止めようと声を掛けてきた。

そこでカレンはハッとして一度深呼吸をして気持ちを整えてから彼に問いかける。

 

カレンが落ち着いたのを確認すると、彼は並べられている一冊の雑誌を手に持ってゆっくりと話し始めていく。

 

「えっとな、前にミューズとしてカレンがウエディング衣装モチーフの勝負服を頂いたことがあったろ?」

 

「うん、覚えてるよ」

 

「実はその衣装を着たカレンを今見せた雑誌のデザイナーさんが見ててくれたみたいでさ。ぜひカレンさんにうちでもモデルをお願いしたいって連絡が来たんだよ」

 

彼から伝えられるその言葉に思わず息を呑む。まさかそんなことになっているとは思ってなかった。

そしてそれと同時にあの時のカレンの衣装を見た人たちからこんなにも評価されていたんだという嬉しさが込み上げてくる。

 

「……あっ! じゃあ今まで通話してるときにお兄ちゃんが残ってるお仕事って言ってたのってひょっとして」

 

「そう、まさにこれのことだよ。もう大体はこっちで決めたし後はカレンがどうしたいかっていう返事だけなんだけど。どうする、受けてみるか?」

 

真剣な眼差しでこちらを見つめながら彼が尋ねてきてカレンと視線を合わせてくれる。

だけど、その答えは既に決まっている。

 

「もちろん受けるよ! だってこの機会を逃したら次はいつになるかも分からないもんね!」

 

「そっか、ならよかった。それじゃこの話は正式に進めさせてもらうからよろしく頼む」

 

「うん、任せて。今回もバッチリ成功させちゃうから!」

 

「今回は花嫁としてのモデルだけだけど。うん、カレンなら何も心配いらなかったな」

 

カレンの言葉を聞いて安心してくれたのか、嬉しそうに満面の笑顔を見せてくれた。

そんな彼を見ているとカレンも自然と頬が緩んできて二人で笑い合いながらこれからのことについて話していく。

 

「あっそうだ。ねえお兄ちゃん、カレンが新婦役ってことはもちろん新郎役もお兄ちゃんだよね?」

 

「えっいや別にそんなことないかな? 相手役は向こうも一応決めてくれてるし、それにこれカレンの仕事だし俺はそもそもモデルの人数には含まれてないよ」

 

「駄目、お兄ちゃんも一緒じゃないとカレンは嫌」

 

「う~ん、それなら俺よりもっと適任がいると思うんだけどなぁ」

 

「例えお仕事でもお兄ちゃん以外の人とウエディングなんて絶対カレンしないからね!」

 

「また恥ずかしいことを平然と言っちゃって……。分かったよ、カレンのときは俺が相手役でいいか確認してみる」

 

「やったー♪ ありがとうお兄ちゃん!」

 

「ちょっいきなり抱き着くのはまってカレン!?」

 

その言葉の嬉しさのあまりにカレンはソファーの上で彼をそのままぎゅっと抱きしめていく。

カレンが甘えるように擦り寄っていると、彼は少し慌てながらも次第に観念したのか優しく頭を撫でてくれる。

想いを寄せる相手からこうして貰うだけで心が満たされるのを感じつつ、カレンは彼の胸元に顔をうずめて幸せそうな表情を浮かべていた。

 

「えへへ、でもいつか本物のウエディングドレスをカレンに着させてね? お兄ちゃん♪」

 

今はまだお仕事としての新郎新婦だけど。

いつの日か本当に彼と結ばれる日を夢見てる。

きっとその時には彼の隣に立つカレンのウェディングドレス姿はとても綺麗に映ることだろう。

その光景を想像すると、早くその時が訪れてほしいと願わずにはいられなかった。

 

だから、その日がくるまでずっとカレンは待ってるからね。

昔も今も、そしてこれからもずっとずっと大好きだよ。お兄ちゃん♪

 



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メジロドーベル
トレーナーの髪を拭いてくれるドーベル


その日は少し災難な日、いやちょっぴり嬉しい日でもあった。

 

いつもの様にトレーニングをしているとき、運悪く通り雨にあたってしまい先ほどまで晴れてた空が雲に覆われザアザアと雨が降る。それによりトレーニングは急遽中断。グラウンドにいた生徒たちも急いで片づけを済ませる様子がうかがえる。

 

「急げドーベル、この雨思ったより強いぞ。体を冷やす前に戻ろう!」

 

「分かってるから、トレーナーのほうが落ち着いて!」

 

無論その生徒たちの中にはアタシ、メジロドーベルとそのトレーナーも入っていた。

雨の中でトレーニングをしちゃいけないわけではないが近日中にレースが控えているわけもない、ここで無理に練習し風邪を引いてしまうのは宜しくない。少し慌てながらもないよりはましとタオルを傘代わりにして2人とも自分たちのトレーナー室へと走り扉を開けた。

 

「はぁ、全く急に降ってくるなんて参ったな」

 

「うん、やっと調子でてきた感じだったのに。気分そがれちゃった」

 

「それは俺もだ。だがまあこればかりは仕方ないさ。それより少し雨浴びたろ? はい、タオル」

 

「ん、ありがと」

 

次は芝2000mのタイムの計測の予定で結構自信があった分もやもやする。気分を無理やり抑えてトレーナーから受け取ったタオルで髪をふき取りながらちらりと窓から外をみれば雨はどんどん強くなっているようで、どうやら今日の練習は完全に中止になりそうだ。思わずため息がでそうになるのを我慢してソファーに腰を降ろす。

 

「とりあえず雨が落ち着くまでドーベルはここにいるといいよ。何か飲み物を入れよう、ココアでもいいかい?」

 

「うん、ミルクも一緒にお願い」

 

「ん、了解」

 

そんなやりとりをして待つこと少し、出来上がったココアを渡し終えるとトレーナーもアタシの対面側に腰を降ろして自分用のコーヒーを飲み始めながらもう思考を切り替えているのか手にはバインダーを持ち、アタシのトレーニングメニューの変更部分を頭を悩ましながら書いている。

 

そう言えば、普段一緒にトレーニングにつきあってくれるけどこうしてメニューを組み立てる彼の姿をまじまじと見たことはなかったなとふと思った。

一度に気になったら中々また無視できるものでもないので多少の申し訳なさを感じながらココアを飲むふりをして少し目線を上げて今だ真剣な眼差しでバインダーと睨めっこを続ける彼を見る。

 

よく見ると結構顔綺麗に整ってる方だよねとか、今誤字したなとか、口元に手を当てるのクセなのかなとか、いつも少しうるさいくらいなのにこういうときは結構静かなんだなって発見を幾つか見つけて目を奪われているといくばくか、真剣になりすぎていたのか熱いコーヒーをそのまま飲み「あちっ!」なんて声が聞こえてきた。

 

「ふふっ」

 

いきなりそんなまぬけな声が聞こえてしまったものだから不意打ちすぎて笑ってしまった。

 

「……ドーベル?」

 

「あっごめん。なんでもないの」

 

「こっちから顔までそらして笑ってる君を見てなんでもないなんて思えないんだけど」

 

さっきまでちょっとかっこ良かったのに変なところなんか抜けてるな。なんて考えていたら笑いすぎてしまったようでお返しと言わんばかりにジト目でこちらを見てくる。どうしようかなと思いながら目線を合わせていると、彼の髪がまだ少しだけ濡れていることに気が付いた。

 

「ねえトレーナー、ちょっとそのまま動かないで」

 

「え? いやドーベル一体何を……」

 

「ほら、まだ髪濡れてるでしょ。ちゃんと拭かなきゃ」

 

「このくらいなら平気だよ。……ドーベル!?」

 

「平気じゃない。はぁ、どうして男性はそう大雑把なの。自然乾燥でも髪の毛って結構痛んじゃうんだからしっかりしてよね」

 

仮にもメジロ家のトレーナーなのだから身だしなみくらいはビシッとしてもらわないと困る。

なんて誰に言うわけでもなく自分への都合のいい言い訳を取り繕いながら乾いたタオルを手にもち座る彼の後ろに移動してまだ湿っている髪の毛をタオルで包み込むようにして力加減に気を付けながら優しく拭いていく。

 

「……なんだか手慣れているね。よくこういうことをしてあげているのかドーベルは」

 

「弟や妹たちがいること知ってるでしょ。あの子たちがお風呂からでたときはよくこうしてアタシが髪を乾かしてあげてたの。力加減とか大丈夫?」

 

「問題ないよ。うん、凄く心地いい」

 

急なことでトレーナーは初めは誰かに見られたらどうしようなどとぶつぶつ言っていたがだんだんと諦めたのか今はさっきまでの戸惑いは何処へやら、随分とリラックスして目を閉じてこちらに任せてくれている。

拒否されたらと不安だったが、このくらいの距離感まではセーフなのだろうか。

ただまあなんだろうか、弟や妹たち家族にしていたときとは違って自分にトレーナーが身を任せてくれるというのは少し、彼から自分への信頼を感じているようでこちらも心地いい。

 

「それにしてもドーベルがこんなにも近くで過ごしても平気なくらい心を開いてくれるなんて思いもしなかったよ。契約したばかりの頃からは考えられなかった君の進歩だね」

 

「別にこれはその、アタシが気になったからこのままムズムズするのが嫌だったってだけで」

 

こんなとき、素直に言えずちょっと捻くれて答えてしまう自分に少しガッカリする。タイキシャトルのようにとは流石に無理だがそれでもあの子のように素直に少しだけなれたら、ちょっとあなたの傍に近づくためにああだこうだと色んな都合のいい理由を探さなくても済んだのだろうか。

 

「それでも凄いじゃないか。苦手だった男性の俺をトレーナーに選んでくれて、今ではもうこうして触れても大丈夫だなんてさ。俺実は結構嬉しいんだぞ? 君以上に喜んでるかもしれない」

 

「何お世辞? 急に恥ずかしいこと言わないでよ……そりゃあ、ずっとあの頃のままってわけにはいかないし。アタシだって成長したって少しくらいは言えるけどさ」

 

「嘘なんかじゃないさ。男性が苦手な君があえて苦手な男性トレーナーの俺を信じて克服しようと努力してくれる。だから俺も君の信頼に応えるべく負けじと努力してると思ってる。当たり前かもしれないけど、担当バがトレーナーを信じてくれるっていうその当たり前が俺にとっては嬉しくて嬉しくて仕方ないよ」

 

「……ッ!」

 

「いって!?」

 

「ご、ごめん! 大丈夫?」

 

「ちょっと髪引っ張られただけだから、気にしないで」

 

突然そんな恥ずかしいことを大真面目に言わないでほしい。思わず力加減を間違えてしまったことは反省する。でもあれは冷静でいるほうが無理じゃないだろうか、これもきっとトレーナーなりの冗談だからって勘違いしようにもできないじゃないか。

でもトレーナーから成長したと認めてもらえるのは嬉しい、気づかれないように小さくガッツポーズをとった、心なしか口元も少し緩んでいる気がする。

 

「ん、いけない。少し眠くなってきた」

 

「ならこのまま寝ちゃったら? 髪ももう大丈夫だし、何かあったら起こしてあげるからさ」

 

「まだやること残ってるんだけど。まあ、今日くらいは良いかな。お言葉に甘えて少しだけ休むよ」

 

「うん、おやすみ」

 

「ああ、おやすみドーベル」

 

そのまま言葉を最後に、彼はあっさりと眠りにつき規則正しい呼吸音が聞こえてくる。

そして役目を終えたタオルを邪魔にならない場所に置くと、トレーナーがしっかりと眠っていることを何度も確認して自分の胸に手を当てた。

 

「…………ああもう」

 

心臓の鼓動がうるさい。

一呼吸間をおいて、眠るトレーナーに背を向けてずっと熱いままの顔を両手で覆う。

レースのとき以上に緊張したのではないか、今まで上手く噛まずに会話ができていたことに心の底からほっとする。よく家族にやっていたとはいえ相手は異性、それも少なからず好意を向ける人だ。平然を装っていただけで初めからずっと緊張していた。

 

ココアをもらって彼を見ているときも、乾かすことを都合のいい理由にして少しばかりの勇気で彼のサラサラの髪に触れた時だって、ずっとずっと、心臓がうるさくて胸が張り裂けそうだった。

 

「……今のこんなだらしない顔、見られなくてほんと良かった」

 

レース前緊張を和らげるための深呼吸しても、何をしても全く収まりそうにない。

 

トレーナーは成長したと言ってくれたけど正直今でもアタシはまだ男性や周囲からの視線は苦手、それでもなんとかなっているのはトレーナーがアタシが走り切る姿を信じてくれてるから。

 

トレーナーだって、男性が苦手という指導のしにくさ、そしてメジロ家を担当するという重荷もけして楽ではないはずなのにずっとメジロドーベルは強いウマ娘だと自信満々に言ってくれるからその期待に少しでも答えたくて、自分が変われるようにずっと頑張ったと思う。

 

今思えばいつからだろう、彼と過ごす時間が苦ではなく楽しいへと変わっていったのは。

自然体で会話もできるようになった、手だって握れる、インタビューなどで周囲の人たちに戸惑っていれば助けてくれる。自分に足りないほんの少しの勇気をいつだって分けてくれた人。

 

まだ彼限定だけど、苦手がだんだんと好きに変わっていく、今までの自分の心が少しづつ変化し続けて満たされていく。

 

「………………好き」

 

でもそしたらこんな風に、抑えきれなくなってつい漏れてしまう。でも悪くない、言葉に出せば出すほどその満たされたはずの想いは強くなっていとおしさのような感情が芽生える。

 

きっとアタシにとって、トレーナーは言葉では言い表せないくらいに特別な人。

 

眠る彼の隣に座って僅かばかりの勇気を出し少しだけ指を絡ませて手を握る。胸が張り裂けそうなのは変わらない、トクントクンともはや聞きなれた心音が聞こえる。けれど彼のそばにいるこの時間、空間が随分と心地良い。

 

「……アタシ、アンタと一緒に頑張るから。絶対」

 

今はまだ、素直に言うことができないけど、いつか……ううん、絶対。

まずなによりも男性や周囲の人たちへの恐怖心を克服してほしいというあなたの信頼に答えられたときには精一杯の感謝を伝える。あなたのウマ娘は誰よりも強いのだと誇れるほどに。

 

「だからちゃんと、アタシのことを見ててね」

 

そしてそのとき、アタシのこの気持ちにあなたが気づいてくれたら、そしてあわよくばあなたもアタシと同じ想いを抱いていてくれていたなら……嬉しいな。

 

そんな都合の良い未来を想像していたら、いつの間にかあんなに強く降っていた雨が止んでいたらしい。トレーナー室にはぐっすり眠れそうな心地の良い日差しが差していた。

 



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偶然が重なってトレーナーとの距離が少しづつ縮まっていくメジロドーベル

メジロドーベルのお誕生日祝いに書いたものになります。


一度、深く深呼吸。

ドキドキして今なおうるさい心臓の鼓動を感じながらアタシは今、トレーナーの自宅前にいた。

今日はトレーナーが忘れていった書類を渡すためにやって来たんだけどいざこうして扉の前に立つと緊張してしまう。

別に何かやましいことがあるわけじゃないのに異性の家にお邪魔するというのは少しばかり緊張するものだと思う。

 

「……よし」

 

いつまでもここにいても仕方ない。意を決してチャイムを押す。

けれどピンポーンと鳴る音が響いた後しばらく待ってみるも反応がなく、念のためにともう一度鳴らしてみても同じだった。

 

留守かぁ……どうしよう、このまま帰ってもいいんだろうけど……。

でも、もしまだ仕事しているのにこの書類がなかったら申し訳ないし……。

 

「……あれ、ドーベル? どうしてこんなところに?」

 

「ひゃっ!?」

 

突然背後から声をかけられて思わず飛び上がってしまう。

振り返るとそこにはアタシの担当トレーナーである彼が買い物袋を持ちながらこちらを見て不思議そうに首を傾げていた。

 

まさか後ろにいたなんて思わなかったし、急に声をかけられたこともあって変な悲鳴を上げてしまったのが凄く恥ずかしい。

とりあえず平静を取り繕うように咳払いを一度して誤魔化すと、あとはもうそのままの勢いで手に持っていたものを差し出した。

 

「……えっと、はいこれ! その、アンタが昨日忘れていった書類!」

 

「え、わざわざ届けてくれたのか? ありがとう」

 

彼は驚いた様子でアタシを見つめた後、嬉しそうな笑顔を浮かべてそれを受け取ってくれた。

ちょっと照れくさいけど喜んでくれているみたいだし、悪い気はしない。

よし、これで目的は達成だね。後はこの場から離れるだけかな。

 

そう思ってさっさと帰ろうと踵を返そうとしたとき、彼から呼び止められた。

何だろうと思って立ち止まると、彼は頭を掻きながら言った。

 

「そうだドーベル、キミさえ良かったら上がっていくかい? このお礼ってわけじゃないけどお茶くらい出すよ」

 

「……えっ? いいの?」

 

「もちろん。あ、それとも用事があったかな?」

 

「ううん、大丈夫」

 

「じゃあぜひ、遠慮せずに入ってくれ」

 

「それじゃあその……お邪魔します」

 

誘われるまま彼の家に上がり込むことになった。

玄関に入り靴を脱いで中に入ると、意外にも整理整頓されていて綺麗な印象を受けた。男の人の家だからもっと散らかっているものだと思っていたけれど、そんなことはなかったようだ。好奇心をくすぐられたアタシはキョロキョロと見渡しながらついていく。

 

彼の案内のままリビングに入ってみるとそこもまたきちんと片付いていた。

テレビ台にはゲーム機が置かれていて、壁際には本棚がある。ちらっと見るだけでも漫画が多い気がするのは彼が少年趣味なのか、それとも単純にそういう性格をしているだけなのか。

 

「それじゃあドーベルはちょっと座って待っててくれる?」

 

「うん」

 

言われた通りソファーに座って待つことに。

けれど流石に暇なので手持ち無沙汰になったアタシは改めて室内を見渡すことにした。

やっぱり思ったより綺麗にしているかも。

あまり物が無いというか、生活感はあるんだけどどこか殺風景な雰囲気もある。まあ男性の家に入ったことなんて無いから分からないけど、多分これが普通なのかな?

 

それからしばらくして彼が戻ってきた。

手にはマグカップを持っていて中にはココアが入っているのか湯気が立ち上っていた。

 

「はいドーベル、熱いから火傷しないようにね」

 

「ん、ありがと」

 

差し出されたカップを両手で受け取るとじんわりとした温かさを感じた。

何度かフーッと息を吹きかけて冷ましてから口をつけると甘い味が広がっていく感覚に自然と頬が緩んでしまった。その様子を見ていたトレーナーも微笑みを浮かべて同じように自分の分の飲み物を口にしていた。

 

ココアを飲みながら少し落ち着きを取り戻し冷静になってくると今になって自分が彼と二人きり、それもアタシは男性の部屋にいるということに意識し始めてしまい途端に心臓が激しく脈打ち始めていき顔に熱が集まってきてしまう。

 

……ど、どうしよう。何か話した方がいいよね? でも何を話せば……。

 

せっかく落ち着いたのにまたぶり返してきた緊張のせいで上手く言葉が出てこず沈黙が続く。

チラリと視線を向けると、彼はいつも通りの穏やかな様子だった。

それがなんだか悔しくて、アタシだけが意識しているのが何だか恥ずかしかった。

 

「……ねぇ、アンタって漫画とか読むの? 結構たくさんあるけど」

 

けれど結局話題として出てきたのは部屋を見渡した時に気づいたその程度のものだった。

それでもアタシにとっては精一杯の会話の糸口だったんだけど、彼は特に気にすることもなく答えてくれる。

 

「うん、好きだよ。暇があれば読んでいるくらいには。ほら、ここにあるやつはほとんど俺の私物」

 

「ふーん。そうなんだ……アンタも漫画とか読むんだね」

 

「……興味あったりする?」

 

「べ、別に……。ただ、意外だったから……」

 

「そうか? まぁ確かに女の子が好きそうなものじゃないかもしれないけどさ」

 

「そ、そんなことないと思うけど……」

 

「えっ?」

 

「ア、アタシもその、好きなの。……少女漫画とかだけど」

 

そう言い終えると最初はポカンと口を開けていたトレーナーの表情がどんどん嬉しそうに変わっていった。

まるで子供のようにキラキラとした目をしながらアタシのことを見つめてくる。

正直に言って凄く恥ずかしかった。今までに見せたことのないような反応に思わず目を逸らしては誤魔化すようにまた一口、ココアを飲んだ。

 

「そっか! じゃあさ、今度ドーベルのオススメの漫画教えてくれないか?」

 

「え? で、でもアンタの読んでるジャンルと結構違うよ?」

 

「構わないさ。キミが好きなものを俺も知りたいんだ」

 

「そ、そこまで言うならちょっとだけなら良いよ」

 

「本当か! ありがとう、楽しみにしてるよ!」

 

本当に心の底から喜んでいるその姿に何だかむず痒い気持ちになる。

嬉しいような、照れ臭いような、そんな感じ。

けどこうして共通の話題を見つけることが出来たのは大きいかも、だってこれからはもっと気軽に話しかけられるようになるってことでしょう?

 

そしてそれはつまり彼との距離が少しずつ縮まるということでもあって……。

そこまで考えると突然頭がボンッと爆発したと錯覚しそうになるくらいには一気に思考が沸騰したみたいに熱くなった。

 

「なんかドーベル顔赤いけど大丈夫?」

 

「うぇっ!? な、なんでもないからっ! ちょ、ちょっと暑いだけ!」

 

慌てて取り繕ったせいで余計な心配をかけさせてしまったかも。

一つ咳ばらいをして落ち着いた後、気を取り直してそれからはしばらく二人で普段の生活についてだとか、トレーニングメニューの話だとかそんな感じに他愛もない話をして過ごした。

 

けれどやっぱり漫画の話が一番話せたかな。

好きな作品の感想を言い合ったり、お互いに勧めあったりと話は盛り上がった。

もちろんアタシが読んだことがない作品もあるから、その度に彼がお薦めしてくれる漫画を貸してもらって一緒に読んだりするのが心地よかったし、そのときいつもより近い距離で、それも嬉しそうに話してくれる分妙にドキドキしたりして恥ずかしくなったりもしたけど、でもそれ以上に楽しくてアタシも自然と笑って過ごせていた。

 

こうして過ごしているとやはり彼はアタシにとって変に緊張もしない、自分の素を出せるとても心地よい相手だということが分かる。

改めて彼の側にいると感じるこの安心感が好きだと再確認する。

 

そんなときだったか、突然トレーナーのほうから見事なお腹の音がなったのは。

 

「ごめんドーベル。その、実は小腹が空いてたからさっきコンビニ行ってたこと今になって思い出したよ……」

 

「あはっ何それ。ホントそういうとこちょっと抜けてるよね、アンタ」

 

「うっ……返す言葉もない……」

 

「いいよ、気にしないで。あっそうだ、良かったら何かアタシ作ろうか?」

 

「それは流石に申し訳ないよ」

 

「アンタとアタシの仲でしょ、遠慮はなし。それにコンビニのご飯じゃいざという時に力でないよ?」

 

「ははっなんだかドーベルに頼りっぱなしだな俺。うん、それじゃお言葉に甘えてお願いしようかな」

 

「分かった。すぐ作るね」

 

「ああでも、食器の場所とかわからないとこあるだろうから俺もついていくよ。それと流石に頼りっぱなしは嫌だから手伝わせてもらうぞ?」

 

「うん」

 

そう言って立ち上がってキッチンへ向かい冷蔵庫を確認。

彼から使っていい材料と大まかな必要な場所を聞いていくつか使えそうなものを取り出して調理に取り掛かり二人並んで台所に立つ。

 

慣れない部分もあるからちょっと時間がかかるかもしれないと思って作業をしていたが、アタシが火を使っているときは彼は他の材料の下準備やその都度でてくる洗い物をしてくれたりと以外にも調理はテキパキと進んでいき自分の予想とは裏腹に数十分ほどでオムライスが完成してテーブルまで運んでいく。

 

うん、我ながらなかなか上手に出来たと思う。

でもまさか彼が料理ができるなんて知らなかったな、正直そっちに驚いた。

 

「はい、どうぞ。冷めない内に食べちゃって」

 

「うん、ありがとうドーベル。それじゃあ、いただきます!」

 

そして一口食べたら彼は驚いた表情を見せて、かきこむように目を輝かせて次々とスプーンを口に運んでいく。

 

「もう、そんなに急いで食べると喉詰まらせるよ」

 

「ははっ悪い悪い。でも凄く美味しいよドーベル!」

 

「これくらい普通だよ。別に特別なことは何もしてないし」

 

「そうなの? じゃあ単純にキミの料理が俺好みの味ってことなのかな」

 

「……ばか」

 

不意打ちの褒め言葉に思わず顔を背けて誤魔化すように自分も一口頬張る。

でも、上手く味が分からないのは絶対彼のせいだと思う。

 

それからまた他愛のない話をしながら半分ほど食べたころ、玄関の方からピンポ〜ンとチャイムの音が聞こえてきた。

 

「あっまずい……今日届く日だったっけ」

 

「もしかして宅配便とか頼んだの?」

 

「まあそんなとこかな。ちょっと行ってくるから待ってて」

 

「良いよ、トレーナーはまだ食べてる途中でしょ。アタシが受け取ってきてあげるから」

 

席を立とうとする彼を制止して玄関へと向かう。

もう一度鳴ったチャイムに 「はーい」と返事をしながら扉を開けるとそこには予想通り少し小さな荷物を持った配達員さんの姿があった。

サインをお願いしますと言われてペンを持つと一瞬間違えて自分の名前を書きそうになるのを抑えてペンを一旦止めた。

 

流石にメジロの名前をここで出したら大騒ぎになっちゃいそうだもんね。

 

「……ッ!」

 

ただ、そのときアタシが彼の苗字でサインをするっていう部分に妙に意識してしまいドキドキしてしまった。

 

普段はアタシのトレーナーとしてしか接していないからこうやって彼の姓を書くだけなのにそれがまるで夫婦みたい、なんて一瞬よぎってしまうのが我ながら恥ずかしい妄想をしていると自覚して顔が熱くなると同時に自己嫌悪でどこかに隠れてしまいたい気持ちになる。

 

けれどそんな気持ちとは裏腹に心臓の音はバクバクと大きくなっていく。

落ち着け、ただサインするだけで何もない。そう心の中で何とか冷静さを保ってサインを終えると配達員さんは笑顔を浮かべて去っていきアタシも彼の元へと戻っていく。

 

「ありがとうドーベル。わざわざ出てもらって悪かったね」

 

「気にしないで。それよりはいこれ、お届け物。結構小さいけど何買ったの?」

 

「ああ~えっと……それはちょっと……」

 

興味本位でそう聞けばなんとも歯切れが悪く、視線を泳がせながら言い淀む彼に首を傾げる。そのままたっぷり5秒ほど間を開けてから彼は観念したのか気恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。

 

「まあ、もう隠しても仕方ないかぁ……」

 

「隠す?」

 

「ドーベル、その荷物ちょっとあけてごらん」

 

「えっ良いの?」

 

「うん」

 

言われるがまま少しドキドキしつつ丁寧に開けていくと中から出てきたのはマグカップだった。

シンプルなデザインだけどとても可愛らしい。

一目見て思わず目を奪われるほど気に入ってしまうくらいにはアタシのセンスに合う物だった。

 

そして、それだけじゃない。

良く見ると箱の中に小さなメッセージカードが入っているのを見つけた。

それを取る自分の手が震えているのが分かる。

緊張しながらそれを取り出して目を通すとそこには短い文章で 「お誕生日おめでとう」と書かれていた。

たったそれだけの文字なのに嬉しくて涙が出そうになった。

こんなに嬉しい贈り物は初めてだったから。

 

「本当は当日にキミを呼んで渡すつもりだったんだけどね。なんか偶然サプライズみたいになっちゃったけど、良かったら使ってくれると俺としても嬉しいかな」

 

「うん、使う。大事にする。一生大切にするから……」

 

「あはは、流石にメジロ家で使うティーカップほどではないから、トレーナー室でお茶するときくらいにしか使えないだろうけど……」

 

「ううん、そんなことないよ。トレーナーからくれたものがアタシにとってはどんな高価なプレゼントよりも価値があるから」

 

「……その、そこまで喜んでくれると流石に……うん、照れるな」

 

受け取ったマグカップを大切に胸に抱きしめながら、頬を掻いてそっぽを向ける珍しい彼の表情を見て思わず笑みがこぼれてしまう。

 

今日だけでトレーナーとの共通の趣味を知れて、さらにはこんなに素敵なプレゼントまで貰えて、もう幸せ過ぎて夢なんじゃないかと思ってしまうくらい嬉しくてたまらない。今もずっとドキドキして胸の奥が温かくて、表情だって緩み切ってきっとだらしない顔になっているに違いない。

 

「ドーベル。少し早いけどお誕生日おめでとう。そして、どうかこれからもずっと俺と一緒に歩んでほしい」

 

「……うん」

 

差し出された手を握り返すと伝わってくる彼の優しくて暖かいアタシが一番安心できる手の温度を感じながら、この日一番の笑顔で応えた。

そしてもう一度、マグカップに視線を移してはいつこの子を使おうかと思考を巡らせながら彼と繋いだ手に少し力を込めた。

 

 

そしてそんな幸せな時間を過ごした次の日。

アタシはあのときの嬉しさが忘れられず頬が緩みっぱなしになっていた。

ちゃんと切り替えないとと意気込んでトレーニングをしている時にそれは起こった。

 

唐突だけどアタシは彼のことをアンタだったり、トレーナーってそのまま言ったりするけど他の人が彼を呼ぶときは違う。

みんな大抵苗字で呼び合ったりするものだと思う。

 

そして今日も丁度練習が終わって、一息ついているときだった。

ちょうどトレーナーに用があったのかグラウンドの外からたづなさんが彼のことを呼ぶ声がアタシの耳に聞こえたの。

 

正直まだ昨日のことで浮かれていたこともあるし、荷物を受け取ったときに彼の苗字でサインしたときに意識したことも原因だと思う。

 

たづなさんが彼を呼んだそのとき、なぜかアタシが答えなきゃと咄嗟に思ってしまって反射的に声を出してしまったのだ。

 

「はーい!…………あっ」

 

そして、その返事をした瞬間にハッとした。

けれどやってしまったと思ったときにはもう遅い。

目の前には驚きながらこちらを見つめる彼の姿があり、そして隣にいたたづなさんは口元に手を当てながら 「あらっ」と呟いている。

 

完全に空気が凍ったことを実感したけど今更訂正なんてできない雰囲気だし、そもそもそんなこと恥ずかしさで言える余裕がすでにない。

アタシの顔はみるみると熱を帯びていき、こみあげてくる羞恥心にたまらずその場から全力疾走で逃げだした。

 

「ちょっドーベル!? どこへ行くつもり、てかはっや!? 流石俺の愛バ……じゃなくて、ちょっと待って止まってくれドーベル!」

 

後ろから聞こえる大慌ての彼の声も無視してひたすら走る。

恥ずかしい、恥ずかしい! 恥ずかしいッ!

顔が熱い。心臓が爆発しそうなくらいバクバクいっている。

 

なんであんな反応してしまったんだろう。

もっと冷静に対応できたはずなのに。もうほんっとアタシのバカ!

 

そう心の中で自分に怒りをぶつけながら、なんとかトレーナー室へと戻ると扉を閉めてズルズルとその場に座り込む。

そのまましばらく項垂れていること数分弱、ガチャリとドアノブが動く音が聞こえて思わずビクッと身体を震わせる。

 

「……おっいたいた」

 

恐る恐る視線を向けるとそこには彼がいた。

表情はいつも通りに見えるけれど、どこか困ったような様子にも見える。

 

けれどそんな彼にアタシは何も言えずに黙ったままでいることしかできないなか、彼はゆっくりと近づいてきてアタシと目線を合わせるようにしゃがみこむと優しい声で言った。

 

「可愛らしいミスをしちゃったなドーベル」

 

「……うるさい。分かってるから言わないで」

 

「はいはい」

 

「うぅ……あの場にいた周りの子たちみんな、アタシのことを変な子だって見るような眼で見てる気がする」

 

「まああれだけ堂々と返事したらねぇ……」

 

「……もうやだ、視線が怖い」

 

「その言葉、まだ出会ったばかりのキミを思い出すなぁ……」

 

笑いながら言う彼に対してアタシは口を尖らせて不満をアピールすると、それに気づいたのか 「ごめんごめん」と謝ってくる。

 

「とりあえず、落ち着くためにも何か淹れようか。キミにプレゼントしたあのマグカップをせっかくなら使いたいんだけど……良いかい?」

 

そんな風に聞かれてしまえば、首を横に振る理由もなくてコクリと小さく頷く。

それを見たトレーナーが嬉しそうに立ち上がって少し待つと、またあのときと同じココアが入ったマグカップを渡してくれた。

 

一口飲むとじんわりとした温かさが口の中に広がっていく。

そのままちびちびとココアを飲んで落ち着いていると、なんだか嬉しそうにアタシを見て優しく微笑んでいる彼と目があった。

 

「……な、何? じっと見つめて、アタシの顔に何かついてる?」

 

「ん? ああそういうわけじゃないんだ。つい嬉しくてさ」

 

「嬉しいって、なにがよ」

 

「えっと……上手く伝えるのが難しいんだけどさ。もう結構キミとも長い付き合いだけどまだまだ俺の知らない部分がたくさんあるなって思ってね。昨日も含めて知らなかったドーベルの新しい一面を見れたのが嬉しいんだ」

 

その言葉を聞いてアタシは思わず顔を背けてしまう。

だんだんと顔が熱くなっていくのが自分でも分かる。

そんなアタシの様子に気づいていないのか、それとも気づいていながらなのか分からないけど彼は話を続けていく。

 

「なんだか少し照れくさいけど俺はまだまだ知らないキミのことをもっともっと知りたいと思ってる。だからかな、ちょっと今俺ワクワクしてるんだ、ちょうど今日も珍しいドーベルが見れたし」

 

「……そのことは言わないでって言ってるでしょ」

 

「そうだったね、ごめん。……でも、改めてこれからもよろしく頼むな、ドーベル」

 

「……うん、こちらこそ」

 

恥ずかしくて彼の顔がまともに見れないけど、それでもアタシの精一杯の気持ちを込めて返事を返す。

 

それに、知らない部分を知れたのはトレーナーだけじゃなくてアタシもそう。

アタシも知らない彼の姿をたくさん見れたから。

普段あなたが漫画が好きだなんて知らなかった。

一緒にご飯を作れるなんて思わなかったし、あなたが料理ができるなんて想像すらしなかった。

きっとアタシたちはお互いのことを知っているつもりだっただけで、まだまだお互いに知らないことはたくさんあるのだろう。

 

でも、それでもいいかなって思う。

だってそれは、まだまだアタシが気づけてない彼の魅力がたくさんあるってことでしょ?

彼がアタシのことを知りたいと思ってるのと同じくらい、アタシもアンタのことをもっとたくさん知りたい。

 

だからこれからもたくさん、アタシの大好きなあなたのことを教えてね。

 

「……あっでも、もしさっきの件で理事長とかそれこそメジロ家から俺が呼び出しとかくらったりしたら、そのときは助けてねドーベル?」

 

「……さっきまでちょっとカッコよかったのに台無しなんだけど」

 

「俺だって怖いものは怖いんだよ……」

 

「ふふっまあ元はと言えばアタシのせいだもん。もしそうなったときはちゃんとフォローしてあげるから安心して」

 

「ありがとうドーベル……」

 

最後の最後で締まらないのがなんともアタシのトレーナーらしい気がする。

けれどそんな彼を見てるとさっきまでの自分のことなんて忘れてしまったかのように思わずクスっと笑みがこぼれて、彼もそれに釣られるように笑っている。

 

やっぱりこうして変な緊張もいらない自分の素を出せる彼と過ごす時間が一番心地良いと思いながら、アタシはカップにある残りのココアを飲み干した。

 



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彼方、その先へ…

今回のお話はウマ娘の固有スキル自体を獲得するイベントがもしあったら、または固有スキルにさらに進化や覚醒みたいなイベントがもしもあったらどんな感じになるかな~って想像したものになります。


とある日のこと、アタシとトレーナーはあるウマ娘たちの幼稚園に訪れていた。

目的としてはよくある学校行事の一つでトレセン学園からウマ娘とそのトレーナーさんが子供たちと交流する場を設けるというものだ。

 

まあ、簡単に言えば将来はこんな風になりたいっていう幼稚園生たちの夢の手伝いを兼ねたふれあい学習って感じかな。

 

「はい、それじゃあみんな! 今回遊びに来てくれたメジロドーベルさんとそのトレーナーさんに大きな声で挨拶しましょう!」

 

先生の掛け声とともに元気よく声を出す子どもたちの姿が微笑ましい。

元気だなぁ、なんてことを思いながらアタシは生徒たちを見つめる。

 

「はは、なんだか気恥ずかしいな」

 

「何言ってんのよ。ほら、アンタもしっかり挨拶してよね?」

 

アタシの横で少し緊張した面持ちの彼は照れくさそうに頬を指で撫でているそんな彼に苦笑しつつ、子供たちに向かって大きく手を振ってみれば子どもたちも笑顔を浮かべて大きく手を振り返してくれた。

 

「それではトレーナーさん、メジロドーベルさん。今日一日よろしくお願いします」

 

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

 

そういってくれる幼稚園の先生にアタシたちは頭を下げて子供たちの方へと視線を向けるとみんな今にも遊びたいのかうずうずとしているようだった。

 

「よしっそれじゃあ早速グラウンドに出て遊ぼうか!」

 

彼の言葉を聞いて嬉しそうな表情をした子供たちは一斉に駆け出していくその様子を見て思わず口元が緩んでしまう。

 

「……さて、俺たちも行くぞドーベル」

 

「うん!」

 

笑みを浮かべながら彼と一緒にグラウンドへと飛び出してそれぞれアタシと彼のグループに別れて子供たちの相手をすることにした。

 

「ねぇねぇお姉ちゃん! これ読んで!」

 

「いいわよ。えっとこれは……」

 

まず最初にやってきたのは絵本を読んで欲しいらしいその幼いウマ娘の子のリクエストに応えてアタシはその子の隣に座って本を読み始める。

そしてそれを見ていた他の子たちも次第にアタシの周りに集まってきていつのまにか大勢に囲まれながら読み聞かせを始めることになった。

 

「……こうして王子様とお姫様はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」

 

パタンッと本を閉じて周りを見るといつの間にやら目を輝かせていたり眠っていたりと反応はそれぞれだったが満足してくれたようで少し安心する。

ふぅ、と一息ついて立ち上がって彼の方はどうなっているかなと思い外の様子を伺ってみると、彼は子供達に囲まれているというよりはなぜか逃げ回っていて追いかけっこをしているみたいになっていた。

 

「あはは! 待てー!」

 

「ちょ、ちょっとストップ! 一旦止まろう? なっ!?」

 

「えーなんでー?」

 

「なんでもだよ! なんでみんな鬼で逃げるの俺だけなの!? おかしくない!?」

 

「だってこの前テレビで見たもん! こういう時は一番足の速い人が鬼になるんだよって!」

 

「自分以外の全員が鬼の追いかけっことか勘弁して欲しいんだけど!」

 

楽しげに逃げ回る彼を子供たちは笑いながら追いかけていて、その姿を見たアタシは思わずクスリと笑ってしまう。

 

「……何やってるんだか」

 

呆れたように呟くけど内心ではあんな風に走り回っている姿を見るのは初めてだったので少し新鮮な気持ちになった。

いつも少し背伸びして大人びている彼が今は童心の頃に戻っているのか子供のように無邪気に笑っていて、なんだかそれがとても面白く感じられたのだ。

 

「あ、ドーベル良いところに! 助けてくれ!」

 

アタシの姿を見つけるなり助けを求めてくる彼にわざとらしく肩をすくめてため息をつきながら、少しだけ助け舟を出す。

 

「もう、仕方がないなぁ……。ほらみんな、トレーナーが困っているからそこまでにしてあげなさい?」

 

「でも、まだ捕まえてない!」

 

一人の少女がそう言うと他もそれに同意するように声を上げる。

それに対して笑みを浮かべながらゆっくりと近づいていく。

 

「大丈夫、アタシが代わりに鬼になってあげるから。それでいいでしょう?」

 

「えぇ〜、お姉ちゃんが?」

 

「うん、だからほら早く逃げないと捕まっちゃうよ?」

 

「わかった! みんな行こう!」

 

渋々と言った様子ではあったが子供たちはアタシの言葉を信用してくれたのかグラウンドを好きなように駆けていく。

 

それをクスクスと笑いながらアタシは一人残った彼に向き直ると、そこではまだ触れ合いが始まったばかりだというのに地面に大の字で寝転がっている姿が目に入った。

 

「ちょっと、いくらなんでもバテるの早すぎじゃない?」

 

「……あはは、子供たちの体力には勝てなかったよ」

 

「なにそれ、まるで年寄りみたいなこと言って」

 

「まあ、小さくても流石に相手はウマ娘。流石にあの人数は無理だね」

 

そう言って苦笑する彼にアタシが手を差し出すと彼はその手を握って立ち上がり、服についた砂埃を払って呆れたように苦笑する。

 

「ありがとうドーベル。助かったよ」

 

「別に、アンタが勝手に倒れ込んだだけでしょ?」

 

「それでもさ。あのままずっと追いかけられてたら誰か怪我してかもしれないからさ」

 

「はいはい、どういたしまして」

 

素っ気なく返事をするけれどアタシはそんな彼の言葉に少し嬉しくなって頬が緩んでしまう。

そんなアタシを彼はいつものように楽しそうな視線をくれたがすぐにグラウンドの方へと視線を向けた。

 

「それじゃあドーベル、そろそろあの子たちのところへ行ってやってくれないか? みんなドーベルが来るのを待ってたみたいだしさ」

 

「うん、分かった。じゃあまた後でね」

 

「ああ」

 

アタシは彼に手を振ると待ちぼうけているみんなの元へと駆け出して、追いかけっこをしている子供たちの中に飛び込んでいった。

それからアタシは子供たちと遊びながら時折彼の方へと視線を向けると、丁度息を整え終わったらしい彼と目が合ってお互いに微笑み合う。

 

そんな穏やかな時間を過ごしているとあっという間にお昼の時間となって、アタシたちは子供たちがご飯食べているのを眺めつつ自分達も昼食を食べながらさっきまでの時間のことを話していく。

 

「子供の体力ってほんと凄いな。今日は久々に思いっきり走り回った気がするよ」

 

「ふふ、アンタは普段デスクワークばっかりで運動不足だったんじゃない?」

 

「否定はしない」

 

冗談めかした口調で話すと彼もそれに合わせて笑うその表情を見てアタシもまた一緒に笑い合った。

 

「でも揉みくちゃにされながらも楽しそうに遊んでたよね。子供って結構容赦ないし疲れたでしょ?」

 

「まあ、それは確かにな。……ドーベルは流石に慣れてた感じだったけどさ」

 

「そりゃあ小さい頃から慣れてるからね」

 

「あー、なるほど。弟や妹たちか」

 

「そ、正解」

 

納得したように呟いて彼はお弁当のおかずを口に運ぶ。

こうして二人きりでゆっくり過ごすのは久々なこともあって会話は弾み、穏やかで楽しい時間が過ぎていった。

 

子供と遊ぶのも嫌いではないけれどこうして彼の隣でただゆったりとした時間を過ごせるのが一番良い。

 

「……さて、もうすぐお昼ご飯の時間も終わりか」

 

時計を見るとすでにお腹を満たし終えた子がポツリポツリと現れ始めていて、アタシたちもそれに合わせるようにゆっくりと食事を終わり始める。

そうして全員食事が終わると子供たちは遊具で遊んだり友達同士集まったりと思い思いの場所でくつろぎ始めてまた賑やかな空間へと戻っていく。

 

そんな中でアタシ達もまた子供たちを見守るような形でその様子を眺めていく。

 

「なんか……改めてだけどこういう風に子供を見る機会なんてあまりないから新鮮だよなぁ」

 

「ふふ、そうだね。でもみんな楽しそうで良かった」

 

「だな」

 

彼はそう呟きながら楽しげに遊ぶ子供たちの姿を優しい瞳で見つめている。その横顔がなんだかとても愛おしくて、思わずじっと見入ってしまう。

 

するとそんなアタシたちの元に数人の子たちが集まってきて、何かを期待するような眼差しを向けてきた。

 

「ねえねえもっかい鬼ごっこしよう!」

 

「えっもう一回?……ええっと、ちなみに最初の鬼って誰がするのかな?」

 

子供の身長に合わせるように屈みながら彼が問いかけるとその子たちは楽しそうに笑ってトレーナーを指差した。

 

「……マジか」

 

それを見た彼が引き攣った笑みを浮かべると子供たちは楽しそうに笑っていて、どうやらみんな彼を鬼から逃げる側に回してくれるつもりはないらしい。

 

そんな光景がなんだか可笑しくてアタシはクスクスと笑い声を上げてしまう。

 

「……ねえ、ドーベル。キミからも何とか言ってくれない? 流石に誰も捕まえられない鬼ごっこはきついんだけど」

 

困り果てた様子の彼にアタシは口元に手を当てて笑みを隠しながら彼に近寄ると耳元に口を近づけて囁いた。

 

「大丈夫、タイミング見てアタシが代わりに捕まって交代してあげるから」

 

「……はは、ありがとう」

 

苦笑しながら彼はそう言うと、諦めがついたのか小さくため息を吐いた後に子供達の方へ向き直る。

 

「よし! じゃあ十秒数えたら追いかけるからな? はい、い〜ち!」

 

彼の言葉に元気よく返事をした子供たちが散り散りにグラウンド内を逃げ周り再び鬼ごっこが始まって、そんな彼らの姿をアタシたちは笑顔で眺めていた。

 

「……ほら、ドーベルも逃げなきゃ。数え終わっちゃうぞ?」

 

「うん、分かってる。……でも、もう少しだけこうしていたいな」

 

「随分と余裕を見せてくれるね」

 

「そういうわけじゃないよ。ただ、アンタとこうしてのんびりするのも悪くないって思っただけ」

 

「冗談だって。分かってるよ」

 

彼はアタシの言葉を聞いて嬉しそうな表情で笑うと、少しだけゆっくりしたリズムでまた数を数え始めていく。

けれど、会話はそれで終わったはずなのに不思議と彼との距離は今だに近いままでアタシはただ黙って彼のカウントを隣で聞いていた。

 

「はい、十秒終了!……結局、ドーベルは数え終わるまでずっとここに居たな」

 

「ふふ、いいじゃない別に。それにアンタに足で負けるなんて思ってないし」

 

「それは俺が一番よく知ってるよ」

 

「なら、問題ないでしょ?」

 

「言ってくれるじゃないか」

 

悪戯っぽく笑うと彼も釣られるように微笑んでくれた後、鬼である彼はすぐ近くにいるアタシを目掛けて走り出す。

 

それを合図にアタシも彼から逃げ出すように軽い足取りで駆け出した。

そんなアタシたちの姿を見て他の子供たちもまた楽しそうに笑いながら同じように追いかけっこを始めていき、その輪はどんどん広がっていく。

 

「さあみんな、鬼に捕まる前にこっちに集まって一緒に逃げましょう!」

 

アタシはわざとらしく大きな声で叫ぶと、それを聞いた子たちが一斉に走ってくるとあっという間にアタシは子供に囲まれてしまった。

けれどそれも想定内だったので慌てることなく子供の手を繋いでそのまま走り出し、子供たちもそれに合わせて楽しそうに声を上げて走る速度を上げていく。

 

そして少し離れた後方から笑みを浮かばせた彼が走って来る姿が見えて、アタシも思わず笑みを溢す。

 

そうして鬼ごっこを再開したアタシたちはしばらくの間、くたくたに疲れるまでグラウンドを走り回り続けた。

 

「さて、そろそろお昼寝の時間だね」

 

そうして時間は進み日が暮れ始めた頃、アタシがそう口にすると子供たちは名残惜しそうにしながらもそれぞれ遊んだ感想を楽しそうに喋りながら素直に遊具から離れてそれぞれの教室にに戻って行く。

 

「……あれ、あの子たちなにしてるんだろ」

 

そんな時、二人の子供がグラウンドの隅で何かを軽い言い合いをしており、気になったので近寄っていくとその子たちの身長に合わせるように屈んで話しかけてみた。

 

「ねえどうしたの? 喧嘩しちゃったのかな?」

 

「あっドーベル先生。……えっと、実はね……」

 

一人の子が恥ずかしそうにしながら事情を話してくれると、自分たちの好きなウマ娘がどっちのほうが速くて強いかを話しているうちにいつの間にかヒートアップしてしまいお互い譲れなくなってしまったのだという。

 

「めじょまっきーん!」

 

「りゃいあん!」

 

そして二人の言い合いで言ってるのはその発言からメジロマックイーンとメジロライアンのことだとすぐに分かった。

 

「……そっか、二人ともその子たちが大好きなんだね」

 

確かに二人は同じメジロ家、人気もあるからそう言う話が起きることも理解できる。

でもほんの少しだけ、子供たちにこんなに楽しそうに話題に出る二人が羨ましくて、同時にアタシも同じメジロ家なんだけどなってちょっとだけ寂しく思ってしまう。

 

「ねえ、ドーベル先生だったらどっちが速いと思う?」

 

「えっ? う、う〜ん……そうだなぁ」

 

不意打ち気味に質問されてアタシは少し返す言葉に詰まってしまう。

こういうときどちらの味方に付いても収まりは付かないことは理解しているので少しどうしたものかと頭を悩ませる。

 

そんな時だ、困っているアタシの後ろから彼が肩をポンと叩いてきたのは。

 

「はい、お喋りはそこまで。みんなもう帰る時間だから早く教室に戻ろうな」

 

「ええ〜、まだどっちが速いか答え聞いてないよ!」

 

「ん? ええっと、どっちが速いかだっけ。それなら当然、俺はメジロドーベル一択だな!」

 

彼はアタシの代わりに子供たちの前で堂々と宣言してくれた。

突然のことでアタシは驚いて彼の方を見ると一度こちらに目配せしてから笑みを浮かべている。

 

「マックイーンやライアンも凄いけどその二人にだって負けない。いいや、それ以上にドーベル先生の走りは凄くてかっこいいんだ」

 

彼は優しい笑みのままポカンとしてある子供たちの頭を撫でると、続けてアタシの方を見て言った。

 

「彼女の走りは今日の鬼ごっこなんて比べ物にならないんだぞ?……そうだ、キミたちさえ良ければ次のドーベル先生が走るレースを見に来るかい?」

 

その彼の言葉を聞いて目を輝かせた子供たちは元気よく返事をしてた後、期待した瞳でこちらを見る。

 

するともうさっきまでの話題はどこかへ忘れてしまったのか、或いはレースを見れる喜びが勝ったのか、その後はもう楽しそうにはしゃぐ子供たちは彼の 「それじゃあ楽しみは後にして、今は教室に戻ろうか」って一言でみんな大人しく部屋へと戻って行った。

 

そんな子供たちの姿を見送った後、アタシと彼は自然と顔を合わせるとお互いに笑みを溢し合う。

 

「上手いこと話を逸らせたね。ありがとう、トレーナー」

 

「どういたしまして。まあ、自分の好きなウマ娘が勝ってほしいっていう思いは誰にだってあるからね。まだ幼い年頃の子たちだったから強引だけど誤魔化せたよ」

 

「けどまさか急にアタシを出したのは驚いたかな。でも、冗談でもあの二人よりアタシの方が速いって言ってくれたのは嬉しかったよ」

 

正直あの場面でアタシの名前を出すとは思ってなかったし、あんな風に言われたらさすがに照れてしまう。

けれど少し照れくさそうに笑うアタシを見て隣にいる彼はなぜだか不思議そうな顔を浮かべてアタシのことを見つめてきた。

 

「冗談なんかじゃないよ」

 

「えっ?」

 

「確かにさっきは誤魔化すために名前を出したけど嘘は言ってない。俺は本気でそう思ってる」

 

体ごとこちらを向いて真っ直ぐアタシの目を見ながらそう言ってくれる彼に、その雰囲気に飲まれて思わずアタシは息を呑む。

 

そのまま彼は一度 「ドーベル」と、アタシの名前を呼んでから続けるように口を開く。

 

「例え相手がメジロマックイーンだろうとメジロライアンだろうと。いいや、皇帝シンボリルドルフが相手だったとしても、俺はドーベルが勝つ姿を信じてる」

 

そう断言してくれる彼に対してアタシは何も言い返せなかった。

思わず自分の胸に手を当ててしまうほどに胸の鼓動が激しく高鳴って、彼の言葉が頭の中で何度も繰り返されていく。

 

その言葉は嬉しい、けれどやっぱりどこかその期待に不安に感じてしまう自分もいるのも隠せないわけで。

 

「……本当に、そう思う?」

 

だからつい、アタシはそう聞いてしまった。

すると彼はいつものように優しい笑顔で、迷いなくはっきりと口にする。

 

「ああ、本当だよ。だから次のレースであの子たちに見せてあげよう、メジロドーベルの強さを!」

 

その時の光景をもうすでに想像しているのか、楽しそうに笑う彼はハイタッチを待ってるかのように片手をこちらに差し出してくる。

その手をじっと見つめながらアタシはゆっくりと手を上げて、そして彼の手と軽く触れ合わせた。

 

「うん、分かった。あの子たちのためにアタシ頑張る。……もちろん、アンタのためにも」

 

「おう、その意気だ!」

 

彼と手を合わせたその瞬間、アタシの心にあったモヤモヤとしたものが一瞬にして吹き飛んでいった気がした。

 

そして同時に、体の奥底から湧き上がるような熱さが全身を駆け巡っていく。

まるでアタシの走りたいって気持ちを代弁してくれているみたいに力がどんどん溢れてくるような感覚が伝わっていった。

 

「……何、これ」

 

今までに味わったことのない感覚に戸惑いながら、この一瞬の時間だけ。

アタシの周りの音が消えたと錯覚したような、まるで今だけなんでも出来るような全能感にも似た高揚感に包まれていた。

 

「……ベル? ……ドーベル? 大丈夫か?」

 

ふと気がつくと、彼が心配そうな表情でアタシの顔を覗き込んでいで、そこでようやく自分が彼の呼びかけに反応出来ていないことに気がついてハッとする。

慌ててアタシは彼に一言謝ってから首を横に振ってからなんでもないと伝えると、ホッとしたように彼は笑う。

 

「まあいいや。それじゃあ俺たちも行こうドーベル。もうそろそろこのふれあい学習も終わりだろうしさ」

 

「……うん、そうだね。戻ろうか」

 

彼の言葉に返事をしながらアタシは立ち上がって教室へと戻っていく。

そのころには先程まで感じていた不思議な感覚は既に無くなっていて、もうすっかり元通りだ。

 

自分でもよく分からないまま、けれどとりあえず今は気にしないでおこうと決めて教室に戻った後はみんなと残りの時間を楽しく過ごして今日のふれあい学習は無事に終了した。

 

お別れのときには子供たちも笑って手を振ってくれて、レース絶対に見に行くからねって大声で約束してくれた。

そんな子供たちの言葉を嬉しく思いながら、アタシたちはまた来るねって伝えた後にその楽しい時間の感想をお互いに言いながらトレセン学園へと帰路につく。

 

 

そしてそのふれあい学習からまた少しだけ時間が経ったある日のこと。

 

アタシは今トレセン学園のグラウンドで呼吸を整えながら目の前に居る対戦相手へと向けてその闘志を静かに燃やしていた。

今日は模擬レースをする日だけど、その相手になってくれているのは同じメジロ家でありアタシが越えなければならない二人。

 

「今日はよろしくお願いしますわ、ドーベル」

 

「へへ、なんだかこうして一緒に走れるなんてちょっと緊張しちゃうな」

 

そう言って微笑みかけてくるのはメジロマックイーンとメジロライアンが相手だった。

 

傍に居たマックイーンが礼儀正しく挨拶をして、ライアンは少し照れくさそうに頬を掻きながらアタシを見つめる。

そんな二人の様子を見てからアタシは一つ息を吐いて、そして同じように口を開いた。

 

「うん、アタシの方こそ今日はよろしく。今日の模擬レース、受けてくれてありがとう」

 

そう言ってアタシは素直に礼を口にすると二人はお互いの顔を見て微笑んでいるようだった。

 

「でも、いくら二人が相手でも負けないから。今日のレースはアタシが勝つ」

 

アタシがそう宣言すればマックイーンとライアンは笑みを浮かべたまま、しかし瞳の中に宿った強い意志がより一層強く輝かせると同時にアタシに闘志の秘められた視線をぶつけてくる。

 

「今言いたいことはそれだけ、それじゃあまた後でね」

 

そうしてアタシは二人に背を向けてスタート位置に向かうために歩き出す。

 

「……今日のレース、ただの模擬レースと侮っていたら痛い目に遭いそうですわね」

 

「だね、メジロ家が集まって走るってことで観客も多いのに目もくれてない。今日のドーベルは気迫が違うよ、油断したらすぐに追い抜かれそうかも……」

 

「相手にとって不足なし、ですわね」

 

後ろで二人が何か話しているようだったけど、集中しているせいなのかアタシの耳には入ってこなかった。

 

アタシの中にあるのは勝利の思いのみ。

この模擬レースだってトレーナーが 「ドーベル自身が今の自分の力を信じられるように、全力でぶつかって来い」と言って、幾つもの無理を通して作ってくれた舞台。

 

だからアタシはその期待に応えられるように、このレースに勝ちたいと心の底から思っている。

 

「……大丈夫、大丈夫。アタシは負けない。アタシは強い」

 

誰にも聞こえないように小さく呟くとアタシは自分の頬を両手で軽く叩いてから気持ちを切り替えてゲートへと向かっていく。

 

そして全員のゲートインが完了すると、ついにアタシたちの模擬レースが始まった。

 

一斉に飛び出していくアタシたち。

その勢いのままに最初のコーナーを曲がって直線を駆け抜けていき、向こう正面に差し掛かるころには早くも先頭争いが繰り広げられている。

 

「ッ!……やっぱり速い!」

 

この模擬レースで全体のペースを握っているのはやはりと言うべきかマックイーンだ。

 

ハイスピードで展開されるレースの中で先行しつつ、後ろにいるアタシたちの様子を伺いながらこちらのペースを崩しにくると同時にそれに合わせてこちらのスタミナがどんどん削られていく。

 

そしてライアンもそのマックイーンを抑えるどころかむしろ望むところだと言わんばかりに張り合って加速していく。

 

駄目、ここで焦っちゃ。

まだ大丈夫、まだまだいけるはず。

そう自分に言い聞かせながらもアタシも懸命について行くように脚を動かし続ける。

けれどその思いとは裏腹に二人との差は少しづつ開いていき、このままではまずいと本能的に悟ってしまう。

 

それでも諦めずに必死に食らいついていこうとするけれど、そんなアタシに対してマックイーンは僅かに口角を上げながらさらにペースを上げて逃げ切る体勢に入る。

 

「……ッ!」

 

マックイーンの表情を見て、そしてその走りを見てアタシは思わず歯ぎしりしてしまう。

 

まるで早くここまで辿り着いて来いとアタシを試すかのような、そんな彼女の表情を見てアタシは沸々と湧き上がる感情を抑えきれない。

 

「……上等じゃない。絶対に負けてなんかあげないから」

 

しかしその意志は燃えていても肝心の体が付いてこれなければ意味がない。

 

徐々に離れ始める距離。

心臓がバクバクと張り裂けそうで呼吸すら辛い。

もう限界なんじゃないかと思うほどに苦しくて、足は重くなって思うように動いてくれない。

前へ前へと行こうとすればするほどにアタシの体は前に進まなくなっていく。

 

まるで今なお開き続ける距離の差が今のアタシの限界なんだと、それを物語っているかのようにすら錯覚する。

 

「ドーベルッ! 良いぞ、そのままぶち抜いちまえ!!」

 

けれど、そんな中でもアタシの耳には確かにその声が届いた。

きっと今の状況でもその声を届けてくれるトレーナーはアタシの勝利を信じて疑っていないのだろう。

だからこそ、そのトレーナーの声がアタシの心をさらに奮い立たせる。

 

「……ッ!」

 

そして、彼の声援を聞いてアタシは無意識のうちに更に一歩踏み出した。

 

瞬間、ふれあい学習の最後に感じたときと同じ感覚がアタシの体全体を駆け巡る。

 

今度はあの一瞬だけじゃなくて、ハッキリと感じることが出来た。

それは、全身に力がみなぎり疲れなんて忘れてしまうほどの力強さ。

周りの雑音や思考の雑念すらも吹き飛ばし、ただひたすらに集中力が研ぎ澄まされて意識だけが覚醒するような不思議な感覚。

スパークが弾けるように視界がクリアになり、自分の体とは思えないくらいに軽くなったように感じられる。

 

「……これなら、行けるッ!」

 

アタシの踏みとどまりそうだった足は、今度こそ地面を踏み砕く勢いで力強く蹴り出して一気に加速していく。

そして、その瞬間アタシの目に映るのは今までよりもずっと遠くまで見通せる景色が広がる。

 

その先に見えるのは、遥か彼方。

マックイーンとライアンの姿はまだ遠い。

でも、不思議と焦りはない。

アタシにはこの最終コーナーを曲がるまでに必ず追いつけるという確信があったからだ。

 

「来たね、ドーベル!」

 

加速を続け差を縮めていくアタシにまずはライアンが嬉しそうに笑みを浮かべた。

けれどそれ以上の言葉は要らない。

一度視線を交わすアイコンタクトだけで、負けるつもりはないと伝えるには十分だった。

 

お互いの瞳からは闘志が消えておらず、むしろここからが本番だと言わんばかりにギアを上げて加速していく。

 

負けたくない、勝ちたい。

その想いがアタシの心を満たしていく。

 

もう不安はどこにもない。

だってアタシの体をどこまでも突き動かして前へと引っ張ってくれる声が届いたから。

 

そしてアタシとライアンの距離が遂に並びかけていけば前を行くマックイーンも迎え撃つようにさらにペースを上げて、それを見たアタシとライアンもさらに闘争心から加速を増して、抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げていく。

 

それなら先はもうメジロ家三人だけの領域となった。

誰も割り込むことが出来ず、最後までこの三人だけの戦いになる。

こちらが抜き返せば他二人も負けじと加速してを幾度となく繰り返す。

 

そしてアタシたちは互いに全力を振り絞って最後の直線へ差し掛かったころ。

 

ゾーンの領域へとたどり着いたアタシだけじゃない、この二人もいつのまにかその領域の力を使い全力中の全力を引き出しながら駆け抜けていく。

 

そしてそんなアタシたちにとって残り数百メートルはあまりにも短い距離でしかなく、この勝負の結末はすぐに訪れた。

全員がもつれあうようにゴール板を通過した後、アタシ達は同時に電光掲示板に視線を向ける。

 

「……」

 

この場にいる全員が沈黙してゆっくりと表示されていく結果を見つめる中、ついにレースの結果が表示される。

 

その瞬間に響き渡る歓声。

大番狂わせが起きたことを喜ぶもの、マックイーンとライアンの勝利を予想して今な唖然としている者たちと反応は様々だけど、そんなこと今はどうだっていい。

 

結果は……アタシが1着。

アタシがマックイーンを抜いてライアンにも競り勝った。

 

アタシが、勝ったッ!

 

「良しッ!」

 

その喜びから思わず大きくガッツポーズをするアタシ。

すると、隣では同じようにマックイーンとライアンが悔しそうな表情を見せた後、すぐに笑顔を向けてこちらに手を伸ばしてくる。

 

「おめでとうございます、ドーベル。今回は勝ちを譲りますが次は絶対に負けませんわよ」

 

「あはは、行けると思ったけど負けちゃったか。……うん、でも本当に強くなったねドーベル。あたしもまた鍛え直さなきゃ!」

 

二人とも本気で悔しがっているようで握手を交わす手に込められた力は凄まじかった。

 

きっとそれだけ本気で戦い抜いて、アタシに対してライバルとして認めてくれているからこそだろう。

だからこそアタシもその気持ちに応えるべく精一杯の力を込めてその手を握り返す。

 

「ありがとう、二人とも。でも次も勝利するのはアタシだから」

 

その言葉を最後に、マックイーンとライアンは一度満足げに笑ってお互いに健闘を称え合う。

 

「ドーベルッ!」

 

そしてその後は無邪気な満面の笑みを浮かべながら彼が駆け寄ってきてくれた。

 

そんな彼にアタシも笑みを浮かべながら小さく片手を挙げて待ってみると、その反応を喜んでくれたのかお互いにハイタッチを交わす。

 

「まずはお疲れ様、そして勝利おめでとう。最高の走りだった!」

 

「うん。ありがとうトレーナー。あの時アンタが声を届けてくれたから勝つことが出来たよ」

 

「なんだ、嬉しいこと言ってくれるじゃないか。でも、いつだってキミは俺の想いも一緒に背負って戦ってくれていただろう?」

 

そう言って彼は微笑んで見せる。

それはきっと、いつも通りの優しい彼の笑み。

けれど、今のアタシはその笑みを見るだけで心が満たされるのを感じる。

 

特別気分の良い今日くらいは素直に甘えても良いかな?

なんて、嬉しさで頬を緩ませながら彼の傍に近づこうとしたとき。

 

「……あ、あれ?」

 

先ほどまでのレースで限界を超えて力を使い果たしてしまったせいだろうか。

突然、視界が歪み始めたと思うと体がふらついて彼に倒れこむようにもたれ掛かってしまう。

 

「お、おいドーベル!? どうした!?」

 

その異変に気付いた彼が慌てて支えてくれるけど体に力が入らない。

どうしてって思った矢先に、冷静にマックイーンが口を開いて教えてくれる。

 

「慌てなくても大丈夫ですわ。先ほどのレースでゾーン状態に入ったのですもの。ドーベルの体は今まさに限界以上の力を引き出した反動で極度の疲労に襲われているだけ、少し休ませてあげれば問題ありません」

 

その言葉を聞いて安心すると共に体から一気に力が抜けていく。

どうやらマックイーンが言う通り、しばらくは動けそうにないみたいだ。

 

「あのときのゾーンか。……ありがとうマックイーン」

 

「いえ、礼には及びませんわ。むしろあんなに素晴らしい走りを見せてくれたのですもの、これぐらい当然のことです」

 

「そう言ってくれると助かるよ。それにしてもゾーンか、やっぱりドーベルは凄いな!」

 

嬉しそうな表情で笑いかけてくる彼、嬉しいんだけど正直もう限界が近いから眠ってしまいたい。

 

そんなアタシたちを見てまたマックイーンは一度微笑むと、最後に付け加えるようにこう口にする。

 

「もし本当にドーベルがあなたの声でゾーンに入ることができたと言うなら、あなたはドーベルにとってそれだけ特別な存在だということでしょうね」

 

「……そっか、それが本当ならこれほどに嬉しいことはないな」

 

「私たちにとって想いの力というのは何よりも大きな武器の一つ、まさに今のレースがそう。……まあ、まずはドーベルを休ませてあげてくださいまし」

 

「ああ、そうだな。色々とありがとうマックイーン」

 

マックイーンの言葉を受けて、その後に彼はアタシをお姫様だっこのように優しく抱きかかえてくれる。

 

「やっぱり、ドーベルは強いウマ娘だよ。俺の言葉でってのはちょっと照れくさいけど……ありがとうなドーベル。最高だ!」

 

その言葉を最後まで聞き終えたアタシはそこで意識を失った。

 

だからアタシを抱きかかえる彼の表情をアタシ自身は知らない。

けれど、アタシのことを抱きしめるその温もりがあまりにも暖かくて、心地よくて。

そのまま彼に身を委ねるように体を預けたアタシは、幸せに包まれながらゆっくりと眠りについていく。

 

想いの力、なんて大それたことを言うつもりはないけど……。

少なくともアタシにとっては、アンタの声がアタシに届いたあの瞬間が一番強くなれた瞬間だったんだよ?

 

誰よりもアタシの勝利を疑わないあなただから、アタシも迷わず全力を出すことが出来たんだ。

 

だから、本当に感謝してる。

これからもずっと、この気持ちだけは変わらないから。

アタシの大好きな、世界一カッコいいアタシだけのトレーナー。

 

……おやすみなさい。

 

 

 

なんて、うまく最後を締められたら良かったんだけど。

やっぱりアタシたちはそう上手くは綺麗に行かないようで、あの白熱したレースが終わって次にアタシが目を覚ましたときは保健室のベッドの中だった。

 

隣では心配そうな顔でアタシを見つめて立っている彼と目が合うと、彼は嬉しそうに笑みを浮かべながらアタシに声をかけてくれる。

 

「良かった、気が付いたかドーベル。体調はどうだ? 食欲は? 痛みとかは無いか?」

 

「えっと、それは大丈夫。それよりここって……?」

 

「保健室だよ、倒れたキミを運んできたんだ」

 

「そっか、ごめんね迷惑かけて」

 

「いや、謝ることじゃないさ。むしろ俺はキミの凄さを改めて実感させられてもう嬉しくて嬉しくて仕方ないよ」

 

アタシが目覚めたことを心の底から喜んでくれているのか、彼はいつも以上にテンションが高い。

けれど、そんな彼の姿を見ているとアタシも自然と笑みがこぼれてしまうと同時にあのレースが夢ではないことを実感する。

 

「そっか、勝った。勝ったんだよねアタシ。マックイーンやライアンに……」

 

「だから言ったろ? 冗談なんかじゃないって」

 

「……うん!」

 

彼と話してしばらくその余韻に浸っていると、先ほどのレース内容が思い出されてまた興奮してくる。

彼の声を聞いた後にゾーンに入ってアタシは勝利した。

 

そして、勝利した後アタシは……。

 

「……そうだ、アタシ。意識を失ったときアンタに抱き抱えられて……」

 

勝利の喜びですっかり忘れていたけど、最後の方で彼に抱かれながら眠ってしまったことを思い出す。

 

一度冷静になったせいかその光景が鮮明に頭の中に流れてきては止まらない。

すると途端に恥ずかしさがこみ上げてきて、レースのときとは別の意味で体が熱くなってくるのを感じる。

今すぐここから逃げ出したくなる衝動に駆られていると、ふとあることに気が付きアタシは思わず口を開く。

 

「あのとき確か観客もたくさんいたはず。……てことはまさか、アタシのあの光景が全部見られてた……!?」

 

「……ええっと、それについては。その……ごめんドーベル」

 

「ちょっとなんでアンタが謝るのよ! 余計に恥ずかしくなるじゃない!」

 

「いやだって、あのとき正直俺も舞い上がってたから。……うん、他の子に運んでもらえば良かったとか全く思いつかなかった」

 

申し訳なさそうに俯きながら、自分の浅はかさを悔いるように謝罪を口にする彼。

 

だけどアタシは別にそのことに対して怒っているわけじゃなくて、ただ純粋に恥ずかしくて死にそうなだけ。

むしろお姫様だっこは嬉しかったというか、またやってほしいというか……。

 

「……ねえトレーナー」

 

「何、ドーベル?」

 

「今教室に戻るとアタシ、絶対周りにいた子たちに囲まれて色々と聞かれると思うの」

 

「それはきっと、俺も同じだと思うな。むしろ揶揄われるだけで済めばいいけど……」

 

「その、目を覚まして言うのもあれなんだけど。……もう少しだけここにいてもいい?」

 

「……うん、俺もそれに賛成」

 

お互いに顔を赤くしながらそんなやり取りをした後、アタシたちはしばらくの間保健室で二人きりの時間を過ごすことにした。

 

せっかくの二人きりだというのにドキドキっていう感じじゃなくて、どちらかと言えば傍にいてくれる安心感の方が大きい不思議な時間。

 

まあ、教室に戻った時の覚悟は後々で決めるとして、今はこのままこの他愛ない幸せな時間を噛みしめよう。

なんだかんだあったとしても、こうして大好きな彼と二人きりで過ごせる時間がアタシのレースで勝利したご褒美だと思えばそれはそれで悪くない。

 

さっきまでとは打って変わって静けさの漂う優しい時間の中。

アタシはその少しばかりの幸せな時間を逃さないように、彼の手を優しく握ったのだった。

 




今回の話をゲーム的な流れにして説明するなら
・ふれあい学習イベント
子供のどっちが速い?の質問でトレーナーの想いを知る。
想いの力でゾーンに入るために必要な「きっかけ」を獲得
・模擬レースイベント
マックイーンとライアンとの模擬レース途中でイベント
メジロドーベル固有スキル「彼方、その先へ…」獲得
マックイーンとライアンに勝利でさらに固有スキル強化

みたいな流れを想像してやってました…。


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想いが実って大好きな人と同棲してる、少しだけ未来のメジロドーベルの話

今回の小説はpixivで津乃目龍奈さんからアイデアを頂いて
「疲れて帰ってきたトレーナーを温かい晩ご飯と一緒に出迎えて添い寝するss」
という素敵なシチュエーションで書かせて頂きました。
自分なりに考えてこれはもうトレセン学園卒業後の未来の話だなって決まり、初めてもうトレセン学園での全部が終わって新しいことが始まってる未来の話を書くので色々とおかしいところあるかもしれませんが書いてて楽しかったです。
素敵なアイデアをありがとうございます!


 

少し日も暮れて、そろそろあの人も帰ってくるころだろうかと期待に胸を躍らせながらトントンと包丁の音を立てる。

料理をしている最中でも頭の中でずっと考えてしまうのは愛しいあの人のこと。

今日はどんな顔で帰ってくるだろうか、どんな話を楽しそうに話してくれるだろうか。

そんなことを考えているだけで自然と笑みがこぼれてくる。

 

「ふぅ……こんなものかな」

 

いつも通り美味しくできたはず……。

味見をしてみたけれど、我ながら中々に上出来だと思いながらテーブルの上に出来上がった料理を並べていく。

きっと今頃仕事を終えてお腹が減っていることだろうから早く帰ってきてくれるといいな……。

 

そんなことを思っているとタイミング良く玄関の方から鍵を開ける音が聞こえてくる音が聞こえたアタシは急いで出迎えに行くためにエプロンを脱いで玄関へと向かう。

するとそこには疲れ切った顔をしたあの人が、素敵な笑顔を向けて立っていた。

 

「ただいま、ドーベル」

 

「うん、おかえりなさい!」

 

あぁ……幸せってこういうことを言うんだろうなって。

毎日変わらない時間に、変わらない笑顔で帰宅する彼を見て、この瞬間のために生きていると言ってもいいくらいに心の底から幸せな気持ちになれるの。

今まさにアタシ、メジロドーベルはトレセン学園を卒業してから想い人であった彼と結ばれて、晴れて同棲という人生の中で一番最高とも言える日々を過ごしている。

 

そしていつまでも玄関にいるわけではなく、そのまま彼の鞄を持ってあげてリビングまで誘導して行きながら会話は続く。

 

「ご飯できてるよ、先に食べる?」

 

「そうだね、それじゃあ先に食べようか」

 

「ならすぐに用意してくるからちょっと待っててくれる?」

 

「うん、ならその間に着替えを済ませておくよ」

 

鞄を置いて着替えに行った彼を横目にキッチンへと戻り、戻ってきた彼が着席したら食事が始まるのだ。

 

「はいどうぞ」

 

「ありがとう。いただきます」

 

こうして二人きりでの夕食の時間が始まった。

二人で向かい合って座るとなんだか新婚夫婦みたいだと恥ずかしくなってくるけどそれも今となっては悪くないと思っている自分がいて、目の前では美味しそうに食事をしている彼の姿があって、それを見ているだけでも嬉しさを感じてしまう。

それだけでもう十分に満足できる。

 

「……美味しい?」

 

「勿論。いつもの俺の大好きな、俺好みの味だよ」

 

「……ふふ、そっか」

 

いつもくれるその言葉が嬉しくてテーブルの下で小さくガッツポーズをしながら喜んでしまうあたり、まだまだアタシには乙女らしいところがあるのかもしれない。

 

「ごちそうさまでした」

 

「はい、お粗末様でした」

 

食後の挨拶を済ませると食器を下げて洗い物を始める。

料理を作るのはアタシで、洗い物などの片付けは彼がやってくれている。

これも普段からの習慣で特に不満はない、むしろこれこそが当たり前なのだとすら思えるほどにアタシ達の生活の一部になっているのだ。

だから別に特別なことなんて何もなくていい、一緒に過ごせる時間があればそれで十分だと思う。

 

「今日も本当においしかった。ありがとな」

 

洗い物をしてくれていた彼に後ろから声を掛けられる。

 

「んー? ふふっどうしたの急に、大袈裟じゃない?」

 

「料理の腕前がまた上達したんじゃないか? 俺としては嬉しい限りだけど」

 

「そ、そんなこと言われてもなんにも出ないから……」

 

照れ隠しのように素直になれず憎まれ口を叩いてしまうけれど、彼はそんなアタシのことをよく知っているからこそ、いつも通りの反応として受け止めてくれているようだ。くすくすと楽しそうに笑っていた。

 

「……ばか」

 

それからしばらく経ってから、アタシ達はいつも通りソファーに座ってゆったりとした時間を過ごしていた。

アタシは隣にいる彼の肩へ頭を預けて寄り添うように体重をかけて、彼もそれを気にせずお互いの温もりを感じられるような体勢になっていた。

 

「……ねえ」

 

「うん?」

 

「いつもお仕事お疲れ様」

 

「……ありがとう、ドーベルもお疲れ様」

 

お互いに労いの言葉を掛け合うこの時間がとても好きだ。

 

「いつも遅くまで大変だよね」

 

「まあね、でもやっぱり俺にはトレーナーって仕事が一番性にあってると思うからさ」

 

「うん、それは分かってるよ。アンタがアタシの担当をしてくれた時からずっと」

 

「そっか、なら良かった」

 

アタシはあの頃からずっと彼のことを見ていた。

他の誰よりも近くで、誰よりも多く貴方を知っていると自負している。

そしてそんなあなたにずっと惹かれて好きになって、恋人として付き合えたことがどれだけ幸せなのかを実感する度に大好きという言葉だけでは足りないくらいに胸の奥がドキドキと心地良く締め付けられていく。

 

「……ドーベル?」

 

思考に駆られているといつの間にか無意識のうちにアタシは彼の手を握っていたようで、それに気づいた時には顔から火が出るのではないかという程に熱くなるのを感じた。

 

「あっ……えっと、その……」

 

慌てて手を離そうとするアタシだったけど、それを察したかのように今度は彼から優しく握り返してくれる。

それが嬉しくて、恥ずかしくて、手を離して欲しいけど離さないでほしい。

それでももっと触れ合っていたいと思ってしまうアタシは我ながら単純で、面倒臭い女だなぁとつくづく思う。

 

「……本当に、今でも不思議に思うよ。俺がキミと恋人になるなんて夢みたいだって」

 

握られた手を自分の頬に当てながら彼の方を見ると彼もまたこちらを見ていて目が合った。

 

「……アタシは、ずっとこんな日々を望んでた。ただ傍にいたかっただけじゃなくて、こうやってアンタと一緒に過ごす日々を望んでいたの」

 

「なんだか、少し照れくさいな」

 

「ふふっ今更?」

 

「そりゃそうだろ。そんな恥ずかしいことストレートに言うんだから、男性恐怖症はどうした。……ああもう、俺はこういうのに慣れてないんだよ」

 

そう言うと彼は恥ずかしそうに顔を自分の腕で隠すその仕草がなんだか可愛らしく見えて思わず笑みが溢れてしまう。

アタシだけが知っている、アタシだけの彼の姿。

 

「今のその心境、まだ担当時代のアタシがアンタにいつも思ってた気持ちと同じよ」

 

「……マジで?」

 

「うん、マジで。いつもストレートに伝えてくるんだから、本当にずるい人」

 

「……なんか、やり返されたと思うとちょっと悔しい」

 

「ふふっざまあみなさい」

 

口ではそんな悪口を言いながらもアタシの表情はとても幸せに満ち足りた、そんな緩みきった笑顔になっているだろう。

その証拠に彼の反応がいつも以上に優しいものへと変わっている。

 

「はいはい、もう降参だよ」

 

「よろしい」

 

勝ち誇るようにアタシが微笑むと、彼は諦めて溜息をつく。

すると少しだけ拗ねたような、それでいてどこか照れたような子供っぽい態度を見せてくれて、学生時代はアタシばかりが振り回されていた気がしていたけれど今はこうしてちょっとだけやり返すことも覚えてきた。

それもまた昔の自分から嬉しい変化だと思えるし、アタシも変わったのかなと思える。

 

「……まあでも」

 

「うん?」

 

「俺も、好きだよ。そういうところも含めて」

 

けれどやっぱりこうして不意打ちのようにアタシの心を満たして簡単に持っていってしまう彼の言葉にはやっぱり敵わないなぁと思った。

 

「キミから告白された時は俺なんかがドーベルと釣り合うのか、なんて最初は考えちゃったりもしたけどさ」

 

「……うん」

 

「今はそんなこと考えてる暇もないくらいに、俺の方が夢中になってる」

 

「……」

 

「本当、惚れたら負けってよく言ったものだなって思った」

 

そう言って彼は苦笑いをするけれど、その言葉とは裏腹に彼の声音は穏やかで優し気なものになっていた。

それはきっと、アタシも同じなんだと思う。

だって、好きな人と想いを通じ合わせることができたのなら誰だって同じ気持ちになるはず。

心の底から愛している人が隣にいるだけでアタシは満たされていく。

 

「……アタシもさ、夢みたいだって思うよ」

 

「んっ?」

 

「アンタと恋人になれたことが」

 

昔を思い返す様に胸に手を当ててゆっくりと瞼を閉じる。

 

「色々あったけど、それでもやっぱりアタシはアンタの側にいるときが一番安心できる。一緒に居たいと思えるの」

 

「……俺も、きっとそうだよ」

 

「うん、知ってる」

 

「そっか」

 

アタシ達はお互いに見つめ合うと少しだけ照れくさくて、お互いに目を逸らしてしまう。

そして再び目が合うとどちらからともなくお互いにクスッと笑ってアタシ達の間に流れる空気が和やかで心地良いものに変わっていく。

そんな穏やかな時間がアタシには堪らなく愛おしかった。

 

「……ドーベル」

 

「なに?」

 

「えっと、あのさ……。少しだけこうしてても良いか?」

 

そう言いながら彼はアタシの肩を抱き寄せて優しく抱き締めてくれた。

アタシは拒まずに彼の胸の中に収まると、背中に手を回すその服越しから伝わる彼の温もりはまるで陽だまりのような優しさがあった。

 

トクントクンと、一定のリズムを刻む心臓の音。

それがアタシの耳に届く度にアタシの鼓動もまた早くなっていく。

この音が、アタシのものなのか彼のものなのかは分からない。

だけど、それでも構わない。

今、この時だけはお互いが同じ時を共有しているということに変わりはないんだから。

 

「……好きよ、あなたのことが誰よりもずっと」

 

「……俺も、キミのことが大好きだよ」

 

「うん、ありがとう……」

 

それだけ言うとアタシ達は暫くの間そのままの状態で寄り添い合っていた。

互いの存在を確かめるように抱きしめ合いながら、ただただ静かに。

 

そんな時間を過ごしてどれぐらい経っただろうか、時計を見ると既に時刻はもう遅くそろそろ寝ないといけない時間だ。

 

「もうこんな時間になっちゃったんだね」

 

「ああ、楽しい時間はあっという間だ」

 

「そろそろ寝ようか?」

 

「うん、そうしよう」

 

名残惜しかったけれど、明日もあるんだからいつまでも起きていられない。

アタシは彼に手を引かれて寝室に向かうと、ベッドに腰を下ろした。

 

「じゃあ電気消すよ」

 

「うん、お願い」

 

彼が部屋の明かりを消して真っ暗になった部屋の中でアタシの隣に座ると、二人分の重さを受けたダブルベッドのスプリングが軋む。

 

「ねえ、もう少しこっちに来て」

 

「ん、了解」

 

そう言うと彼はアタシが言った通りにこちらに近付いてきて、ぴったりと身体がくっつく。

すると、先程よりも彼の体温をより近くに感じられてとても落ち着くことが出来た。

 

「なんかこういうの恥ずかしいな」

 

「アタシも。でも、嫌じゃないでしょ?」

 

「……まあね」

 

そんな会話を交わした後、アタシは彼の首筋に顔を埋めた。

すると彼は少しだけ驚いたような反応を見せるけれど、すぐに受け入れてくれて頭を撫でてくれるその感触が心地良くて、思わず甘えたくなる。

 

「今日はなんだかいつも以上に積極的だね?」

 

「……そういう気分なの」

 

「そっか」

 

素直なアタシがちょっと嬉しいのか、彼はどこか嬉しそうな声音になっている気がする。

 

「こうしてくっついてるとさ、うまく言えないんだけど。……なんか、安心する」

 

隣にいる彼はそう言ってくれた後に少し強めに、でも壊れ物を扱うようにそっとアタシのことを抱き締めてくれた。

 

「ほんと何なんだろうなこの感覚は、自分でもよくわからないや」

 

そんな言葉を口にしながらも、彼はまた優しい表情をしていた。

 

「キミの担当だったころは一緒に強くなろうって、キミを誰よりも強いウマ娘にしてみせるって思って必死になってた」

 

「今は違うの?」

 

「そう言う訳じゃないよ。今でも俺はキミ以上のウマ娘を知らない。……でも」

 

アタシの問いかけに対して、彼は少し考えるようにして答えを出す。

 

「今はさ、こうやって隣でドーベルが笑ってくれるだけで幸せなんだよ。キミの暖かさを側で感じられるこの時間が好きだ」

 

「……またアンタはすぐそういうことを平気で言う」

 

「改めて思い返すと、ついな。……ひょっとして照れてる?」

 

「……うるさい」

 

その言葉に図星だったアタシは照れ隠しにそっぽを向いてしまう。

けど、ドキドキと心臓の鼓動がうるさいのはアタシだけじゃなくて。彼の胸に耳をぴとっと当ててみると、彼の心臓もまたアタシと同じように早鐘を打っていた。

 

「あんな恥ずかしいこと言っておいて、お互い様じゃない」

 

「そりゃそうだ」

 

そんなことを話しながらいつの間にかクスクスと笑い合う。

お互い昔に比べて知ったことは増えたし変わった部分もあれば、こんな風に変わらない部分もあったりするこの時間が堪らなく愛おしい。

そして、これからもきっとそんな関係のまま、彼と歩んでいけたらいいなって思う。

そう思わせてくれたのは、間違いなく彼だ。

そんな彼のことが、アタシは大好きだ。

 

「キミが俺を選んでくれて本当に嬉しい。ありがとう」

 

「……ドーベル」

 

「えっ?」

 

「キミじゃなくて、ドーベルって呼んで」

 

「……ははっそうだな! うん、分かったよ。ドーベル」

 

「ふふっありがとう」

 

アタシが彼の名前を呼ぶと、彼は優しく微笑みながら応えてくれる。

たったそれだけなのに胸の奥が熱くて仕方がない。

ただ名前を呼び合って、ただ側にいるだけ。

それだけのことが、どうしてこんなにも心を満たしてくれるんだろう。

それはきっと、相手が他ならぬアンタだからだよね。

 

「ねえ、もう一度言って?」

 

「何を?」

 

「アンタに名前を呼ばれるの、アタシは好きなの」

 

「……」

 

「だめ?」

 

「まさか、急に言われて少しびっくりしただけ。勿論何度だって言うよ、これから先もずっと」

 

そう言うと、彼はゆっくりと口を開く。

アタシの名前を、大切な宝物のように口にしながら。

 

「……大好きだよ、ドーベル」

 

「うん、アタシも大好きだよ。……大好き」

 

大好きだと伝える。

たったそれだけのことが担当時代なら、とても勇気のいることできっとまだ出来なかったことだ。

だけど今となってはそれができる。

担当ではなくて、恋人っていう関係になれたからこそようやくアタシは自然と言えるようになった。

それもこれも全部、あなたのおかげ。

その事実が、たまらなく幸せでアタシの心を満たしていく。

 

「それじゃあそろそろ寝ようか、おやすみ」

 

「うん、おやすみなさい」

 

そうして、アタシ達は静かに眠りにつく。

明日はどんな日になるんだろう。

明日は何をして過ごそうかな。

明日も変わらず側にあなたがいる。

そんな些細な幸せを考えながら、アタシはとても幸せな気持ちで夢の世界へと旅立っていった。

 

 

 

そして、翌朝。

彼よりも早起きをしたアタシはキッチンの前でエプロンをつけて朝食を作っていた。

もうそろそろ起きてくるかなって思っていると、だんだんと寝室の方から彼が眠たげに目を擦りながら起きてくる。

 

「おはよう、ねぼすけさん?」

 

「……ああ、おはよう。ドーベル」

 

「ほら、早く顔洗ってきて? 朝ごはん出来てるよ」

 

「んー、了解」

 

彼はまだ少し意識がはっきりしていないみたいだったけれど、それでも言われた通りに顔を洗いにいく。

その後、テーブルについたアタシと彼は向かい合うようにして座り、いただきますをして朝食を口に運んでいく。

 

「今日は帰り遅いの?」

 

「んー、どうだろう。遅くなる様なら連絡するけど、まあいつも通りに帰れると思うよ」

 

「そっか、じゃあ夕飯作って待ってるね」

 

「いつも本当にありがとうな。帰った時を楽しみにしてる」

 

そんな会話をしながら、穏やかな時間が流れていく。

そしてお互いに朝食を食べ終わると彼を送り出すために玄関まで見送る。

すると彼は靴を履き終えるとこちらを振り向いて、一度優しく微笑んでから口を開いた。

 

「それじゃあ行ってくるよ、ドーベル」

 

「うん、頑張ってね。行ってらっしゃい」

 

その言葉を最後に彼の背中を見送って、アタシは家に戻る。

彼のいない家はどこか寂しく感じるけど、それはきっとアタシがそれだけ彼のことを好きになった証拠なんだ。

さっきまでのやりとりを思い出していると、自然と頬が緩む。

やっぱり彼の隣にいるのは心地が良い。

だからこれからもずっと隣にいたい。

 

「よしっ!」

 

そのためにはまず、アタシは気合いを入れて家事を頑張る。

掃除に洗濯、料理の練習もまだまだ。

 

だけど、大丈夫。

これから先もずっと、彼と一緒ならきっとどこまでだって行ける。

だってアタシの隣にはこんなにも素敵な恋人が、いずれは誰よりも自慢できる旦那様がいてくれるのだから。

 

「今日も疲れて帰ってくるだろうから、アタシも頑張らないとね!」

 

一歩ずつ、一歩ずつ。

あなたといる時間を大切にしながら。

誰よりもアタシを信じてくれるあなたと共に、この素敵な未来に向かってどこまでも歩いていこう。

 

ここがアタシのいるべき場所で。

あなたと一緒にいれば、他に居たい場所なんてアタシにはないのだから。

 



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仕事中の彼の仕草をつい目で追って気になっちゃうメジロドーベルの話

授業も終わった放課後のトレーナー室を3回ほどノックしてからいつものように返事を待ってからドアを開ける。

するとそこにはアタシがよく知っているトレーナーがパソコンに向かってキーボード音が響き渡る中、彼は振り返ると優しい笑顔を浮かべていつも通りにこう告げる。

 

「お疲れ様、ドーベル」

 

「……うん、そっちこそお疲れ。まだ忙しそうだね」

 

「うん、悪いけどまだ少しかかるから適当に待っててもらってくれるか?」

 

「わかった。終わったら教えて」

 

「了解」

 

アタシは彼の言葉に小さく微笑みながらそう返すと一冊の少女漫画を取り出しながら適当な場所に鞄を置いて、残りの彼の作業が終わるまでの暇な時間を潰すためにソファーの方へと向かい腰掛ける。

 

「……」

 

そしてそのまま持ってきた漫画を開いて読み始めるのだが、そんな時でもチラリと横目で彼の様子を伺うように視線を向ける。

そして気づかれたら恥ずかしいから、適当なタイミングでまた漫画を読んではページを捲る。

 

「……」

 

お互い無言の中でキーボードの音と漫画をめくる音だけが室内には響いているけど、それでも決して嫌じゃない静寂。

彼も仕事に集中してるから少しズルいけど、こうして眺めていても邪魔にならないから嬉しいしなんだか安心する。

 

するといつの間にか、アタシの漫画をめくる音の回数が少なくなっていく。

だんだんと漫画ではなくて、漫画に隠れるように盾にしながら彼の方をボーッと無意識に見つめてしまっていた。

 

「……よし! 後はこれで良いかな」

 

「……ッ」

 

そんな時間の中で唐突な彼が声を上げその一言にハッとなって大慌てで漫画に視線を戻して、バレてないか不安になりつつも顔を上げると目の前では椅子に座って伸びをしている彼の姿が目に映る。

 

「……やべっ! ここミスってる。えっ嘘ぉ……」

 

「……ふふっ」

 

そこに別にやましいことは何もないんだけど、何だか変に意識してしまったせいか笑いが込み上げてきて堪えきれなかった。

するとそんな声が聞こえたのか、彼が不思議そうな表情をしながらアタシを見てきた。

 

「なんだなんだ? さっきから慌てたり笑ったり忙しいな、ドーベル?」

 

「えっ!? あー、いやこれは……ね」

 

「まぁ、キミが楽しそうなら良いけどさ。……それよりその読んでる漫画、逆さまだぞ?」

 

「……へっ?」

 

指摘されてから手元を見てみると、確かにアタシが手にしていた筈の漫画が逆さまになってしまっていたようで、そのことに気がついたときはもうわたわたと大慌てである。

戻そうと動かす手にも力が入りすぎていて上手く直らない、結局また元に戻ってしまったところで彼が面白おかしそうに笑い出してしまう。

 

「……ふふ、変なドーベルだな。何してるんだよ全く。あっはは!」

 

「ちょっ……わ、笑う事ないでしょ!?」

 

必死になっている姿を見てさらに笑う彼に対しムキになっていくのだったが、それが余計と彼のツボを刺激してしまったらしくついに腹を抱え始めたのだった。

アタシはというとその様子に対して呆れ半分恥ずかしさが半分でありつつ、ただでさえ熱い頬を更に熱くさせたまましばらく膨れて彼を少しだけ強く睨むしかなかったのであった。

 

「ふふふ、悪かったよ。ちょっとからかい過ぎたってば……」

 

「ふん、知らない」

 

「ありゃりゃ……拗ねられちゃったかな」

 

困ったような顔をしながらも優しく笑ってはアタシの隣へと移動してくる彼。

ただ近くに来てくれる。

それだけの事がとても嬉しく思えて、ついニヤけそうになるのを我慢するのも合わせたアタシはまたぷいっとそっぽを向く。

 

「ドーベルごめんって。だから機嫌をなおしてくれよ?」

 

こうやってこちらの方を向いて話しかけてくる彼の姿を見ると、いつも以上に胸の奥はドキドキと早鐘を打つように激しく鼓動を打ち始めて止まらない。

けれど同時に少し彼の優しさを利用したズルい手ということも分かるから、素直に喜べない部分も確かにあるのだ。

 

「……ほら、ドーベル。こっち向いてくれ」

 

「……ん」

 

そんな風に色々と考えている間に彼に名前を呼ばれて我に帰ると、ゆっくりと横を向きながら視線を向けると彼の優しい瞳と視線が重なる。

そんな彼の瞳を覗き込むと自然と落ち着いてくるから不思議なもので、彼は優しく微笑みながらまた口を開いた。

 

「……うん、やっと目を合わせてくれたな」

 

「えっと……ご、ゴメン」

 

「ん? ああ違う違う、責めてるわけじゃないから。俺の方こそドーベルを怒らせてしまったんだし。……そうだな、うん。おあいこだよ」

 

「別に怒ってないよ、本当に。……ただちょっとだけ恥ずかしかっただけで……」

 

「そっか。それなら良かった」

 

「うん、心配しないで大丈夫だから」

 

お互いに見つめ合った状態でクスリと笑いあうと、ようやくいつもの雰囲気に戻る。

彼の隣に座る中で再び漫画を読み進めていくと彼も彼で仕事に戻るけれど、さっきと少し違うのはわざわざノートパソコンをこっちまで持ってきては話題を振ってくれたりして、先ほどより少し賑やかになりながらアタシの隣で作業を始めていく。

 

そんな状況の中、ついさっきみたいにチラチラと横目で見ているとなんだか彼と一緒にいる時間を独り占めできているみたいで嬉しかった。

 

「……俺の作業気になるのか?」

 

するとその姿を見ていたことに気づいた彼が、キーボードを叩く手を一旦止めながら聞いてきた。

 

「えっと、そうだよね。ずっとチラチラ見てたら流石に気づくよね、ごめん。邪魔しちゃった?」

 

「そういう訳じゃないけどさ。ちょっとそんなに見つめられると少し恥ずかしい」

 

苦笑いしながら照れる彼が何だか可愛くて思わず小さく笑ってしまうと、「笑わないでくれよ……」なんて困ったように照れながら言われてしまう。

 

……だってしょうがないじゃないか、こんなにも愛しい人の仕草の1つ1つを見ていたくなるのだから。

 

「……ねぇ」

 

「どうしたドーベル」

 

「……やっぱりなんでもない」

 

きっと、昔のアタシなら考えられなかったこと。

苦手な男性が今ではただ1人、大事な好きな人に代わって少しだけ仕事中の仕草なんかまで気になるくらい意識しちゃってる。

それに今はとても、隣に居てくれるのが心地良くて安心する。

 

たった一人の愛おしくて大好きな人が、こんなにも気になって気になって仕方ない。

 

「変なドーベルだな」

 

「ふふっ、でもそれお互い様だと思う」

 

「えっ俺もか?」

 

「うん」

 

そうしてまたアタシたちは顔を見合わせて一緒に笑う。

たったそれだけのことなのに、不思議と心の底から幸せな気持ちになれたのだった。

 

それからは時々会話を挟みながらも、それぞれ黙々と時間を過ごす。

時折聞こえる時計の針が進む音や、アタシと彼以外に誰もいないこの空間ではそんな小さな音がやけに大きく聞こえて、それが何だか心地よくて落ち着く。

アタシの心臓の鼓動はとてもゆったりとしていて、一定のリズムを刻んでいる。

まるでここだけが世界から切り離されているかのような感覚。

 

「……あっ読み終わっちゃった」

 

そんなとき漫画のページがちょうどいいところで終わってしまったせいもあって、つい名残惜しく感じてしまい無意識のうちにそんな言葉が出てしまった。

2人の男女がこれからやっと進展するのかな、とワクワクしていたところだったので尚更である。

ただまあ別の意味合いとして、漫画本を閉じるということは同時にこっそり彼を見るために隠れるアタシの盾が無くなってしまったという事でもあるのだが。

 

「……んっ? あれ、もう読み終わったのか」

 

「うん、良いところだったんだけどね。続きが凄く気になっちゃって……」

 

「はは、その気持ちは凄い分かるな。俺も漫画とかはついつい一気に読んじゃうタイプだし」

 

「ふふっ、そうだよね。アタシもそんな感じかも」

 

「やっぱり続き気になると一気読みしたくなっちゃうよな!」

 

「うん、大好きなシーンは何度も読み返したりね」

 

「ははっ! 分かるよ、俺もそんな感じ」

 

「あとたまに、こういう話の展開だと次どうなるんだろうって、先が早く知りたくてウズウズしちゃったりして。それでまた1巻から読み直したりとかね」

 

「ああ、それある。結局その1巻を読み直してそのままずっと読みふけって時間が消えるんだ」

 

「アンタの場合は仕事もあるから大変だね」

 

「……ここだけの話、たまにそれで仕事忘れてやらかしたりして何度か怒られたよ」

 

「駄目じゃないそれ……」

 

「あはは……」

 

「……もうっ」

 

彼はアタシの反応からもう読み終えたと思ったようで、閉じられた本をじっと見つめると少しだけ寂しそうな顔をしたと思えば、そこから広がる会話に可笑しくってまた笑ってしまって、それに釣られて彼も笑ってくれた。

 

「……あっそうだ」

 

そんな風に笑っていればこの漫画の新刊がもうそろそろ発売する事を思い出す。

丁度読み終わったタイミングも良かった。

 

「……あのさ」

 

──なら少しだけ恥ずかしいけれど、折角だから……。

 

「その、ええっと……この漫画のことなんだけどね?」

 

「うん、どうした?」

 

「……も、もうすぐ続きの新刊がでるの。それで、アンタさえ良かったら一緒に付き合って欲しいんだけど……どうかな?」

 

よし言えた!

勇気を振り絞った甲斐があった!

 

自分でもわかるくらい耳と尻尾が激しく動いてしまっている。

恥ずかしさから頬は熱を帯び始めて真っ赤に染まっているのだろう。

それでもちゃんと言わないとと思ってアタシは思い切って彼に聞いてみたのは大正解だったようだ。

 

「ああ、もちろん構わないよ。キミさえ良いのなら一緒に行こう!」

 

すると彼は快く了承してくれた。

それもとても爽やかな笑顔を浮かべて。

「じゃ、決まりだな」と言ってまたアタシの大好きな微笑みをこちらに向けてくれるものだから、アタシはますます恥ずかしさがこみ上げてきてしまって抑えが効かなくなりそうだ。

慌てて彼から視線を逸らすと自分の膝の上に置いていた漫画にまた視線を落として、今の顔を見られないようにそっと彼からの視線を外した。

 

「……ふふっやったぁ」

 

でも内心は飛び上がるくらい嬉しさが込み上げてくるようで、こうやって彼との繋がりが出来ていくのが何よりも嬉しい。

今のこうして2人で静かな時間も大好きだけど、次の約束をして一緒に出掛ける時間もとっても素敵なものになると確信しているから。

だから今はこのまま、ただただ静かに彼の隣で幸せを噛み締めていよう。

 

「はは、嬉しそうだねドーベル」

 

「……うん、だってすっごく楽しみだもん」

 

「そういってくれると嬉しいな。俺も同じだよ、ドーベルとこうして過ごせるのが楽しくて仕方ない」

 

「……そっか、ふふっ♪」

 

そんな他愛もない話をまた繰り返す。

何気ない会話のキャッチボール、そしてお互い見つめ合うと自然と微笑んで。

たったそれだけの事がアタシにとっては凄く特別で、大切な時間だから。

ずっと続いてほしいと、そう思うほどにはそれは何気ないひとときのお喋り。

アタシにとってはとても大切な時間で、そしていつかきっと彼にとってもかけがえのない時間になればいいと願いを込めて。

 

「……ねえ」

 

「うん、どうした。ドーベル?」

 

「アタシね。アンタと一緒に居る時が1番楽しいかも」

 

そんなアタシにしてはストレートな素直な気持ちを伝えれば彼は一瞬だけポカンと口を開いて呆然としていた。

けれどもすぐに優しい顔に戻るとまた、いつものアタシを安心させてくれる柔らかな表情で笑いかけてくる。

 

そうして彼がゆっくりと口を開くとその声色はとても優しくて暖かくて。

アタシにとっての1番の特効薬を贈ってくれる。

 

「俺も、ドーベルと一緒にいるときが一番居心地が良いよ」

 

だからアタシは今日も明日もその先も。

この人のことを好きでいて、想い続けていく。

そんなこの胸に秘めたあなたへの想いが少しでも伝わるといいな、なんて淡い期待も抱きながらまたアタシと彼の2人だけの時間を楽しんでいく。

 

彼と一緒に出かけられる楽しみが、彼と一緒に居られるワクワクとドキドキが。

またこうして1つ増えたことが嬉しくて嬉しくて止まらないから、小さく素敵な笑みをアタシは彼に向けて送り返した。

 

するとそのときの彼もまた。

お返しと言わんばかりに素敵な顔をアタシに向けてくれたの。

 

 

 



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アドマイヤベガ
恋をしていることに気が付いたアドマイヤベガ


「アヤベ、最後に一周だけタイムを計っておこう」

 

その日もいつものように練習していた。

毎日同じコースで、同じメニューをこなす。

最初は物足りないと思っていたが、今ではそれが当たり前になっていた。

 

「……ええ」

 

彼の言葉に私は飲みかけのスポーツドリンクを置き、スタートラインに立つ。

そして彼のスタートの合図と同時に芝の道を駆け抜けていく。

風を切り、砂塵を巻き上げながら、前へ前へと進んでいく。

そこから先はずっと、一定の呼吸音と足音が聞こえるだけで、他の雑音は一切聞こえない。ただ自分の走る音だけが耳に入ってくる。

 

うん、今日も調子が良い。このままなら自己ベストを更新できそうだ。

そのまま走りながらだんだんとギアをあげ、第4コーナーを迎えて一気にトップスピードまで持っていきラストスパートをかけると、周りの景色が見えなくなるほど速くなっていく。もう私の視界にはゴールしか見えていなかった。

 

そしてそのままゴールラインを超えると同時に、トレーナーが満足げに頷きながらストップウォッチを押した。これで今日のトレーニングは終わりだ。

 

「うん、良いタイムだ。やっぱりアヤベは凄いな」

 

「別に大したことじゃないわよ」

 

「いや、そんなことは無いさ。良い走りだった。次のレースが今から俺楽しみで仕方ないよ」

 

まるで自分のことのように嬉しそうに笑って彼はこちらにタオルを手渡してくるとそれを受け取って汗を拭いながら私は息を整える。

 

これが私にとっての日常だった。

いや、新しい日常になりつつあると言った方が正しいか。

今まで一人で走ってきたこの時間を彼と過ごすようになってから、随分変わった気がする。

 

前までは一人の方が良かったはずなのに、今は誰かと一緒にいる方が心地よいと感じるようになった。それはきっと、トレーナーという存在が大きいだろう。彼が私をここまで導いてくれたのだ。だから私は彼に感謝している。

 

もちろん恋愛感情などではない。ただ純粋に尊敬できる人……。

でも最近はそれだけでは済まなくなってきているような気がしてならない。

 

「それじゃあ後は俺が片付けて置くから、アヤベはもう戻って休んでて良いよ」

 

そう言い終えるとトレーナーはテキパキと練習道具を片付けながら一度こちらに手を振った後去っていく。

 

「……あっ」

 

そのだんだんと小さくなっていく彼の背中を見て、なぜか私は思わず手を伸ばす。

けれどその伸ばした掌が何かを掴むことはなく、空を切るだけだった。

なぜこんなことをしたのか自分でもよく分からない。ただ無意識のうちに体が動いていた。

 

一体何を掴もうとしたんだろう?

今の自分が分からなかった、どうしてあんな行動をとったのか理解できなかった。

ただ一つ分かることは、私の胸の奥底にあるモヤモヤが晴れることはないということだけだ。

 

私は伸ばしていた右手をゆっくりと下ろした後暫くその場に立ち尽くして、一つため息をついた後自室へと戻りベッドへと倒れ込んだ。

 

「……はぁ」

 

なんだかよくわからないけど私の心の中は嫌な気分に包まれていた。

こういう時は大抵良くない事が起きる前兆だと決まっている。

例えばレースで負けてしまったりとか、怪我してしまったりとかなんだけど、今回はどうもそういう予感がしない。

 

「……なんなのかしら、この感じ」

 

もう気にせずとりあえず寝ようと思い目を瞑ってみるが、全く眠れない。

普段ならすぐに眠りにつくことができるのに、何故か今日に限って全然眠くならなかった。仕方なくスマホを取り出して適当にネットサーフィンをしても長く続かず結局飽きてしまい電源を落とす。

 

時計を見ると時刻は既に22時を過ぎていた。

いつもならそろそろ就寝時間だけどまだ起きていられる。明日も朝練があるし、早めに寝た方が良いとは思うが、どうしても眠ることができなかった。

 

……よし、少し散歩しようかしら。

たまには夜の学園を歩くというのも悪くないだろう。

そう思って着替えと外に出る準備を整えてからゆっくりと部屋を出る。

 

「……静かね」

 

流石に夜中になると誰もいないようで、辺りからは物音一つ聞こえない。

時折吹く風が木の葉を揺らす音だけが耳に入ってくる。雲もほとんど無く、星々がよく見えて、その中で月が一際と輝いていてとても綺麗だった。

満月にはまだ遠いがそれでも十分なほど大きく輝いている。

 

「風が気持ち良い……」

 

頬を撫でるように吹き付けてくる優しい風に身を任せていると、自然と笑みがこぼれてきた。

やはり自然の風というのはいいものだ。人工的な物よりもずっと優しく、それでいて力強く感じる。それが心地良くてつい鼻歌を歌いながら歩いてしまう。

 

……うん、やっぱり外に出て正解だったかもしれない。

こうやってゆっくり歩いているだけでもかなり癒される。

 

「……」

 

それなのに、なぜだか私の心の中はぽっかりと穴が空いたように満たされることはなかった。

何が足りないのか、何故そう思ってしまうのかは自分でも分からない。

ただ漠然と寂しいと感じてしまうのだ。

 

おかしいわよね、別に今の状況に不満なんて無いはずなのに。

むしろ今までより充実していると言ってもいいほどだと思う。それなのに、この虚無感は一体どこから来ているのか。

 

気が付けば私はスマホを手に取り、担当トレーナーである彼へと電話をかけていた。

 

「……もしもし?」

 

「ん? アヤベ? こんな時間に珍しいね」

 

「ごめんなさい、まだ仕事中?」

 

「いや大丈夫だよ。ちょうど仕事が終わったところだったから」

 

「そうなの? お疲れ様」

 

「ありがとう。で、どうかしたのか? 何か用事があったんじゃないのか?」

 

「えっと、特に何かあったわけじゃないの。ただ、ちょっと話し相手が欲しかっただけ。今って大丈夫かしら?」

 

「もちろん良いよ。俺もひと段落ついて落ち着いているところだったから」

 

「そう、良かったわ」

 

電話越しに聞こえる彼の声はいつも通り優しげで、声を聞くと安心する。

そして私は今日の授業であったこと、そのとき今日友人たちと話したこと、トレーニングメニューで感じたこと等。勿論今感じているこの夜の景色も加えて、色々と彼に話していった。その間彼は相槌を打ちながら静かに聞いてくれていて、私が話す度にちゃんと答えてくれる。

 

その反応が嬉しくて、先ほどまで感じていたぽっかりと穴の開いていた心が埋まっていく。そして気が付いた時には私はすっかり夢中で彼と会話をしていた。

 

「ねえトレーナー」

 

「何、アヤベ」

 

「……今、そっちに行ってもいいかしら」

 

「えっ!?……まあ、構わないけど」

 

「じゃあ行くから、待ってて」

 

そう言い終えると通話を切って、私は彼の元へと足を進めた。

 

コンコンッと扉をノックすると、どうぞと返ってくる。

その言葉に従って部屋に入ると、そこにはソファーに座っている彼の姿があった。私はゆっくりと歩みを進め、その隣に腰を下ろす。

 

「急に来て悪かったわね」

 

「全然良いさ。俺も一人で退屈してたところだから」

 

「ふふ、それは私も同じよ」

 

二人で顔を見合わせて笑う。

 

「でもまさか、こんな時間に訪ねてくるとは思わなかったけど……」

 

「それは……私も自分で驚いたわ。でも、なんだか話してるうちにここに来たいって思ったらいつの間にか……」

 

「……そっか」

 

「迷惑だったかしら?」

 

「そんなことはない。俺もキミと話してると楽しいし」

 

「ふふっそう。嬉しいわ」

 

「……それにしても随分と上機嫌だね。もしかして何か良いことでもあったのか?」

 

「どうしてそう思うの?」

 

「そりゃ、キミのことだからね。普段のアヤベなら絶対に言わないようなことを言ったり、表情だって普段より柔らかいし。それくらい見れば分かるよ」

 

「……」

 

「……アヤベ?」

 

「……あなたのそういうところが、ズルいわよね」

 

私は思わず顔を背けてしまった。

どうしてか彼の瞳を見ると体が熱くなってきてどうしようもなく鼓動が速くなってしまう。今も尚ドクンドクンと胸の中で高鳴り続け、体中に響き渡っている。

 

もう、本当になんなのかしらこれ。

今までに経験したことの無い感覚に戸惑いを隠せない。そして彼もこちらに視線を向けて言うものだから更に心臓が跳ね上がった気がした。

 

一つ間をおいて振り返ると私たちはそのまま見つめ合う。

お互いに何も言葉を発さず、そのままただ時間だけが過ぎていった。

 

「……何か飲み物でも入れるわ。確かコーヒーで良かったわよね、砂糖とミルクは?」

 

「え?……あっうん。砂糖二つで」

 

「わかったわ、ちょっとまってて」

 

その空気に耐えきれなくなって半ば逃げるように席を立つ。

キッチンへと向かうと、コーヒーを入れるためテキパキと作業を進めていく。

 

けど私の頭の中はさっきまでの光景でいっぱいになっていた。

やっぱりおかしいわよね。前までは彼と一緒にいてもここまでドキドキすることはなかった、それが今ではまともに目を合わせることすらできないほど緊張してしまう。

 

「一体どうしたのかしら……」

 

そんな自分の変化に疑問を抱きながらも、手だけはしっかりと動かしていた。

 

「はい、お待たせ」

 

「ありがとう」

 

彼の前にカップを置くと、自分も再び彼の隣に座った。

二人分の体重がかかったソファーがギシッと音を立てる。

 

「なんていうかさ、こうして二人でゆっくりするのは久しぶりだよな。もうURAの三年間が終わったなんて信じられないや」

 

「そうね……。正直実感が湧かないわ」

 

「ははっ俺も同じだよ」

 

彼の言葉に私は小さく笑みを浮かべた。

この三年間は私の中で変化の大きいものだった。

これまでの人生で体験してきたどの出来事よりも一二を争うほど濃いもので、きっと一生忘れることは無いだろうと思う。嬉しいこともたくさんあったけど、それ以上に辛いことや苦しいことが数え切れないほどあった。

 

でもそれも全て乗り越えて今がある。その事実に改めて喜びを感じた。

そして同時に、これまで彼と過ごしてきた日々を思い返す。

 

「ねえ、トレーナー。私……ちゃんと自分らしく走れてるかしら」

 

「……大丈夫、アヤベはちゃんと頑張っているよ」

 

「どうしてこんなことを言うのか、聞かないのね」

 

「まあ、アヤベのことだからね。大体は想像つくよ」

 

「……そう」

 

彼の優しい眼差しに私は少しだけ目を逸らしながら手に取ったコーヒーに視線を移し、それを口元へと運ぶ。そして一息ついたところで私は彼に向き合って話始めた。

 

「……最近ふと思うの。また誰か私の大切な人がいなくなってしまったらどうなるんだろうって」

 

「うん」

 

「あの子が私の元から離れてからそれでも自分らしく走るって決めた、その意志は揺るがないわ。……でも、また誰かが私の傍からまたいなくなってしまったらって思うと……」

 

「不安になっちゃうんだろう?」

 

「ええ」

 

彼と出会う前までの私は、妹のために走ることだけが生きる意味だった。

それがお姉ちゃんとして唯一、妹にできることだったから。

 

けれど私は彼と出会った。そしてたくさんの友人たちに恵まれて私はようやく新しい自分自身の人生を歩み始めた。

勿論、妹のことを忘れるわけじゃない。今でも彼女の存在は私にとってかけがえのない存在であることに変わりはない。

 

でも、だからこそ、また同じことが起きたら、いなくなってしまうことが怖くなる。そのとき私は耐えられるだろうか。

 

いつの間にか、一人で過ごす当たり前が一人でいることに不安を感じるようになっていた。

いつの間にか、隣にいないことに寂しさを覚えるようになっていた。

いつの間にか、私の隣には彼がいるのが当たり前になっていた。

 

だから、もしいなくなったときのことを考えるだけで胸が苦しくなった。

あなたという心の支えを失ってしまったら、今の私がどうなるかわからない。

 

「大丈夫、アヤベの走りを見てくれる人はたくさんいる。少なくとも俺はその一人だし、他の子たちだってそうだ」

 

「そうかしら」

 

「ああ、アドマイヤベガは強いウマ娘だ。それはずっと傍にいた俺が一番良く知ってる。それは俺だけじゃなくて、きっとあの子だってそう言うさ」

 

「そう、そうよね……」

 

「だから自信を持っていいんだよ。ありのままのキミで全力で走って、そして一番にゴールする姿を俺に見せてくれ」

 

彼の言葉を聞いて私は自然と小さく笑みを浮かべていた。

不思議と気持ちが楽になったような気がして、それと同時に胸の中にあったモヤが晴れていくような感じもする。

彼の言葉には不思議な力がある。それはまるで魔法のように迷いを断ち切ってくれるような、私にとってかけがえのない存在なのだ。

 

「……私は、きっと弱くなったわ。もう一人で過ごしてたあの頃には戻れないくらいに。失いたくない大切な人が今の私にはたくさんいるってことに気づいたから……」

 

「そんなことはないさ。確かに昔のキミは一人でも大丈夫なほど強かったかもしれない。けどだからといって、今のキミが弱くなったっていうのは違うんじゃないかな。キミはただ、昔とは違う新しい強さに切り替わっただけだと俺は思うよ」

 

「……」

 

「大丈夫、キミが不安になったときはちゃんと俺が支えるから」

 

──それに、まだまだキミから離れるつもりなんて、俺はさらさらないぞ?

 

なんて言いながら彼が笑うと、またあの不思議な感覚が私を支配した。

でも今回は不安ばかりではなくその逆で、不思議と温かい感情で満たされている。

 

そのときなんとなくだけど、やっと理解できたような気がする。

私があのときどうして練習場から別れた彼に手を伸ばしたのか、そしてその行動の意味を。

 

私は彼に恋をしているんだ。

彼のことが好きだと今ようやく気づくことができたんだ。

その事実がストンと胸に落ちる。そして今まで感じたことのない感情に私は戸惑っていた。

 

けれど、それも当然かもしれない。

何故なら、今までに恋愛という経験を私はしたことがないのだから。

だからこそこの胸の高鳴りの正体がわからない、気づくこともなかったんだ。

今までずっと感じていたこの気持ちの正体がやっと理解できた。

 

――きっとこれは、私にとって初めての初恋なんだ。

 

「……ありがとう、トレーナー」

 

「ん?」

 

「おかげで少しスッキリしたわ」

 

「そっか、それは良かった」

 

「……ねぇ、もう少しこのままでいてもいいかしら」

 

「もちろん」

 

「ふふっありがとう」

 

私は彼の肩に頭を預けて寄り添うように体を密着させる。

彼の体温を感じる度に心が温かくなっていくのを感じた。

 

彼は優しい。そんな優しさに惹かれたから私はきっと、彼が練習終わりに傍から離れたときに、「いかないで」っていう思いと寂しさに包まれたから手を伸ばしたのだ。

 

ああ、そうか。これが恋なんだ。

好きな人と一緒にいたくて、でも一緒にいれないことに苦しんで、悲しくて辛くなる。こんなにも辛いものだったのね。知らなかったわ。

 

「……でも、今は幸せね」

 

私はポツリと呟く。

恋をするのは分からないと辛いけど、恋をしていると気が付くと不思議なもので今度は幸せが満ちてくる。

いつからかは分からないけどずっと前から彼を好きになっていたのだろう。

今まで気づかず抑えていた分を取り返さんとばかりに自然と心の内が安心感や愛おしさで溢れ出てくるのを感じる。

 

でも気分は凄く良くて、全然それが悪いことだとは思わず私は思うままに溢れ出てくるその感情を受け入れていく。

 

そのまま彼に寄り添っているとなんだか少し眠くなってきちゃったな。

まだ彼と話をしていたいけど、瞼が落ちてくるのを止められない。

ダメ、ここで寝たら迷惑をかけてしまう。

それだけは避けたいのに、体が言うことをきかない。

ごめんなさい、ちょっとだけ休ませて。そうしたらまた頑張れるから。

薄れゆく意識の中で最後に聞こえたのは彼の声。

 

「……おやすみ、アヤベ」

 

その声が聞こえると同時に彼の手が優しく私を撫でてくれたような、そんな気がした。

 

ああ、もっと早く気が付けば良かった。

誰かを好きになるっていうことがこんなに幸せなことだなんて。

 

ねえ、トレーナー。

あなたは私の事、どう思ってくれてる?

私のこと、好きでいてくれてるかしら?

なんて、思ってるだけじゃ答えは返ってこないわよね。

けどいつか聞かせて欲しいわ。あなたの口から、私の事をどう思ってるのかって。

 

それまでは、私の片想いでいい。

私の恋は、まだ始まったばかり。

これから先、どんな困難があっても私は彼と一緒に歩いていく。

それが私の夢であり、希望なのだから。

これからもずっと大好きよ、あなたのことが。

 



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恋をしているアドマイヤベガがトレーナーとデートに行く話

一度息を整えて、芝を蹴る。

その瞬間に脚が爆発的な推進力を生み出し、地面から離れた私の身体は一気に加速して慣れきった芝の道を爽快に駆け抜けて行く。

 

うん、今日もまた調子が良い。

そしてそのままゴールまで駆け抜けるといつもと同じように彼が笑顔を向けてタオルを私に手渡してくれる。

 

「お疲れ様アヤベ。今日も絶好調だね」

 

「えぇ……ありがとう」

 

私が彼への恋を自覚したあの日から少し経ったけれどこの光景は何も変わらない。

いつもと同じように私は彼の手からタオルを受け取り、汗を拭う。

 

「最近のアヤベの成長ぶりは本当に凄いな。俺も自分のことみたいに嬉しいよ」

 

「それはあなたのおかげもあるでしょう。それにまだ私は満足していないわ、まだまだ今よりも強くなれるはずだもの」

 

そう言いながら私は強く拳を握る。

確かに私は今とても充実していると自負している日々を送っているけれど、それで終わりではないのだ。

まだまだ私自身が理想とする走りには程遠い。

 

「ははっそのどこまでも上を目指し続けるのは流石アヤベだ。でも無理して体を痛めてもまずいからちゃんと休息も必要だぞ」

 

「休息ならしっかりとってるじゃない」

 

「それはもちろん分かってるけどさ。たまには気分転換とかしないと気が滅入るだろう?」

 

彼は笑いながらもどこか真剣な目で私を見つめてくる。

 

「うん、そうだ。たまには一日中外に出て好きな場所へ遊びに行ってリフレッシュしてくるなんてどうかな?」

 

「リフレッシュねえ……」

 

「一人で難しいなら俺も付き合うからさ。アヤベはどこか行ってみたい場所とかはあるかい?」

 

「……えっ一緒に?」

 

「うん、俺が提案したことだもの。もしもキミが良かったらだけどさ」

 

「なら、そうね……」

 

思わぬことに私はじっくりと思考を巡らせてしまう。

彼と一緒であればどこに行ってもいいという気持ちがある一方で、せっかくだから何か特別な場所にしたいという思いもある。

たっぷりと時間をかけて考えて私はふと思い浮かんだことを口に出した。

 

「プラネタリウム、初心者用のプログラムが増えていたわ。その、あなたに興味があればだけど……どうかしら」

 

「プラネタリウム、良いね! なら決まりだ。次の休日にでも一緒に行こう」

 

そう言って彼は嬉しそうな顔をしながら大きく頷いた。

私はその反応を見て思わず頬を緩ませてしまいそうになるのを少し照れくさそうにそっぽを向いてごまかす。

すると彼は不思議そうに首を傾げた後、微笑みながら口を開いた。

 

「それじゃあ今日の練習はこれくらいにしておこう。あとはストレッチをしてゆっくり休んでおいてね」

 

「分かったわ」

 

「それと、プラネタリウムに行くときのことはまた後で連絡するからそのときに色々と予定を決めようか」

 

「ええ」

 

私は彼に言われた通りにゆっくりとクールダウンを始めていく。

そして別れた彼の姿が視界からいなくなったことを何度か確認すると、私は自分の胸に手を当てて小さくホッと息をつく。

 

「……まだ、ドキドキしてる」

 

さっきのやりとりで私の心臓の動きはまだ早く、緊張がまだ抜けない。

それでもこれは決して嫌なものじゃない。むしろ心地良くてずっとこのまま続いて欲しいと思ってしまうような不思議な感覚だと改めて思う。

 

プラネタリウムに彼と行きたいというのは心からの本心だ。

私が彼と一緒に星空を見たいというのも本心。

別にロマンチックな気分に浸りたいわけでもない。

ただ単純に二人で夜空を見上げて同じ時間を共有できればいいと思っただけなのに、そんな小さな願いすらも口に出すときにこんなにも勇気が要るとは思わなかった。

でもそれはきっとなにもかもが私にとって初めての経験だからだろう。

 

「……何を着ていこうかな」

 

私は誰にも聞こえない声でポツリと呟く。

正直なところあまり服の種類を持っていないからどんな服装をするべきか分からない。けどそんなことを考えるのもちょっと楽しくて、いつのまにかたどり着いた自室で手持ちの服を見繕う。

 

「まあ、いまさら服でどうこう悩むほどの関係でもないし、いつも通りの私が一番か」

 

数ある服の中から選んだのはいつも出かけるときに着る私服。

一度手に取って鏡の前に立って出かける日のことを考えながら一度微笑むと、その服を大事にまたしまう。

 

そしてそれから少し経つとやがて彼から連絡がくればあとは当日の予定を一緒に話しながら、待ち時間の合間にここにも寄ってみたいの、俺はあっちのほうも見て見たいな、なんて会話がありながら進めていった。

こんなにも出かけるのが楽しみだなんて、本当に初めてかもしれない。

 

そうしてあっという間に約束の日になった。

天気は快晴で雲一つなく澄み渡った青空が広がっている。

風も穏やかで絶好のお出かけ日和だ。

そして私達は待ち合わせ場所である駅前の噴水広場にて落ち合って、そのとき私の姿を見つけた彼が笑顔を浮かべてこちらに向かってくるのがなんだか妙に嬉しかった。

 

「お待たせアヤベ」

 

「いえ、私も今来たばかりよ」

 

私は彼の言葉に対して軽く首を振って答える。

 

「そう? それなら良かった」

 

「ええ」

 

私は短く返事を返すと視線をそらして、ほんの少しだけ顔を俯かせる。

普段よりもさらに鼓動が激しくなっているのを感じるけれどそれを悟られないように必死に抑え込む。

 

「時間はまだ余裕があるから少しのんびりしながら行こうか」

 

そう言いながら彼はゆっくりと私に右手を差し伸べてくる。

その意図が分からず不思議そうに彼を見ると彼は照れくさそうに少し私から視線を外しながら口を開く。

 

「えっと、今日は人が多いから迷わないように……手を繋いでも良いかな?」

 

「……そういうことなら」

 

私は躊躇いがちに自分の左手を伸ばして若干の緊張を覚えながらもしっかりと彼の手を握ると彼は嬉しそうな表情で私の手を強く握り返してきた。

 

それから少しお互いに恥ずかしくなってしばらく顔が見れなかったけど、ようやく私たちは歩き始め電車に乗ってプラネタリウムのある施設へと向かう。

道中は特に多くの会話はなかったけど、でもどこか心地良い沈黙の中で目的地へと到着してチケットを購入する。

そしてそのまま入場案内に従ってホールの中に入ると既に多くの客達が楽しそうに話している姿が見えた。

 

「もう結構な人数が居るね」

 

「そうね」

 

「おっ見てよアヤベ。寝転んで見られる席なんてのもあるみたいだぞ」

 

「……興味あるならそこに座る?」

 

「うん、アヤベが良いなら」

 

「じゃあそうしましょうか」

 

私は彼を連れて指定された場所まで移動すると、そこは結構大きなシートのようで二人で並んで横になっても十分にスペースがあった。

そうして横並びの私たちの間に一人分のスペースの間隔を開けて横になる。

 

「思ったより広いね」

 

「そうね、これならあなたが隣にいても窮屈には感じなさそうだわ」

 

「そっか、なら安心した」

 

彼はそう言って微笑みながら天井を見上げる。

私はその姿を見て少しドキドキしながらも同じように上を見る。

 

そしてやがてプラネタリウムが始まった。

静かな雰囲気の中アナウンスだけが聞こえてきて、最初は簡単な星座の説明から始まってやがて流れていく星々の話へと移っていく。

 

そんな中で私はチラリと横目で彼を覗くとこちらに気づいてないのか、それともプラネタリウムを想像以上に楽しんでいるのか目を輝かせて熱心に眺めている姿が目に映る。

私はそれに思わずクスッと小さく笑みをこぼしてしまう。

 

「おっアヤベ、次は夏の大三角だってさ」

 

「あなたが何を言いたいのか、もうその表情を見たら全部分かるわよ」

 

「ははっバレたか。夏の大三角の一つのベガの星、つまりキミだな」

 

「ふーん、じゃあ私はあなたのことをデネブの白鳥だとでも言えばいいの?」

 

「それはそれでロマンチックだけど、俺的にはもっとカッコいい名前がいいなぁ。キミがベガならいっそ俺もアルタイルとかどうかな」

 

「……まあ、別にそれでも良いんじゃない」

 

そう言う彼は笑っているがベガとアルタイル、それが織姫星と彦星たちを指す意味だということを知っているのだろうか。

そんなことを考えつつも私は特に指摘はしない、だって私が指摘しなくてもこれからたっぷりとアナウンスで説明してくれるから。

少しだけこの後の彼の反応を楽しみにしているとちょうどタイミング良くベガとアルタイルの星の意味を放送で説明してくれている。

 

「……アヤベ」

 

「ふふっ何? それよりあなたの顔真っ赤よ?」

 

「……知ってたなら教えてくれても良くない? 俺ただただ恥ずかしい奴じゃん」

 

「あら、あなたにしては珍しく可愛いところを見せるじゃない」

 

「ははっどうせならカッコつけさせてほしかったな……」

 

「聞かれたのが私で良かったわね」

 

「まずアヤベにしか言わないよこんなこと……」

 

「……ッ!」

 

彼はそう言いながらもさっきの恥ずかしさが残っているのか照れくさそうに頬を撫でてまた星を見始めた。

 

そして同時に今の間だけプラネタリウム会場が薄暗いことに少し感謝する。

きっと今の私も彼と同じくらいに顔を赤く染めてしまっているはずだから、こんな今の私の顔を彼に見られなかったことに、ホッとした。

 

それからというもの続きのプログラムの話は残念ながら私の耳には届かず、ただ横目で彼の横顔をじっと見つめていた。

 

織姫と彦星のように私たちも恋人同士になんてなれたら良いのにと思わないことはない。だって今もこうして彼を眺めているだけでもドキドキして胸の中が温かくて、とても幸せな気分になっているから。

 

「……いっそ、口に出せたら良いのに」

 

私は誰にも聞こえないようにボソリと呟いた。

別に焦っているわけじゃないけど、ずっとこのままの距離感というのもそれはそれでなんだかモヤモヤとする。

 

だから、一気に恋人同士になんて行かないけど。

ちょっとだけ、勇気を出そうと思った。

チラリと彼を覗いてこちらに気づいてないことを確認すると、私は彼と一緒に寝ているこの席の真ん中に空いたちょうど人一人分のスペースを埋めるようにして彼の方へと体を寄せる。

 

「……ッ」

 

少し距離を詰めたたったそれだけなのにまるで体が熱くなるように心臓がバクバクとしてうるさいくらいに鼓動を刻む。

 

でも、その鼓動が大きく刻むたびに私は心地良さすら覚える。

以前は分からず不安しかなかったこの鼓動が、今では私はこの鼓動のおかげで安心している。

だって、この音が聞こえる限り彼が近くに居てくれるという証でもあり、私が彼を本当に好きになったのだという何よりの証明にもなるのだから。

 

そしてそれからしばらく私たちは終了のアナウンスが終わるまで、無言のまま視界に広がる星空を眺め続けていた。

膨大な空に広がる星々のプラネタリウムは終わり、私たちはホールの外へと移動すると彼はどこかスッキリしたような晴れやかな笑顔を浮かべながら口を開く。

 

「今日はありがとうアヤベ。あの綺麗な星空を見てたらいつの間にか俺の方が見惚れちゃったよ」

 

「そう、なら良かったわ」

 

「ふふっなんだかキミのリラックス目的だったのになんだか逆に俺が癒されちゃってる気がするな。正直まだまだあの星空を眺めていたかった」

 

「……まあ、あなたが楽しめたなら私としては満足よ」

 

「そっか」

 

彼はそう言って嬉しそうな笑みを見せてくる。

そこからはあの星が、あの星座が、なんて嬉しそうに感想を伝えてくるその様子がとても微笑ましくて、思わず私も釣られて笑みがこぼれてしまうほどだった。

こんなにも喜んでもらえたなら誘った甲斐があったと心から思える。

 

「ねえ、アヤベが好きな星はやっぱりベガの星か?」

 

「ええ、そうね」

 

「じゃあさ、キミさえ良ければ次は一緒に本物のベガの星を見に行かないか? 今度も二人で一緒にさ」

 

「……えっ?」

 

「俺ももっと星について知りたいから、そのときは隣りでアヤベに色々と教えて欲しいんだ。ダメかな?」

 

彼はこちらを見ながら首を傾げて問いかけてきた。

私はその言葉を聞いて思わずクスッと小さく笑みをこぼす。

 

「ふふっそれなら仕方ないわね」

 

「うん、そのときはキミを頼らせてほしい」

 

「分かったわ、その時はあなたの隣で星の見方を教えてあげる」

 

「ああ、楽しみにしているよ」

 

「ええ、私も」

 

そう言い終えて私たちはお互いの顔を見ると、次の瞬間には揃って静かに笑みを浮かべた。

また、次も一緒に彼と出かけられる約束ができたことがとても嬉しい。

私が好きなものを彼も一緒になって好きになってくれるのがとても幸せだ。

だから、また次に天体観測に行くそのときは、今日のお返しとして私が彼を案内しよう。

きっとあなたは私のそんな小さな気遣いですら気づくだろうけど、それでも私はあなたに少しでも多く私のことを知ってほしいから。

 

「もう少し浸っていたいんだけどそろそろ時間も時間だし。帰ろうかアヤベ」

 

「そうね、帰りましょうか」

 

私は彼の差し出した手をゆっくりと掴んで握り返して静かに帰路に着く。

その道中はいつも通りの他愛もない会話をしながら帰るはずだった。

 

でも、なぜか彼の手を握る私の手に少しだけ力が入ってしまう。

きっとこのままだと私の鼓動が彼にバレてしまいそうだったから思わず力が入りすぎてしまったのだと思う。

けどそれに気づいた彼は私の方へ顔を向けると何も言わずにただただ優しく笑いかけてくれた。

たったそれだけで私の胸の中は温かく満たされていく。

きっと、これから先もこの温かさが消えることはないのだろうと私は確信していた。

 

このときだけは普段歩き慣れたこのいつもの道のりが、プラネタリウムで見た星のように私にとって輝いて見えた。

 

 

 

そしてこれはその帰りの電車内でのこと。

もう日も暮れてきた私たち以外誰も乗客のいない車内で、急に彼が私にもたれかかるように体重をかけてくる。

 

「……ッ!」

 

それに驚いた私は慌てて彼の方を振り向くとそこにはスヤスヤと眠りこけているなんともだらしない姿の彼がいた。

 

「……はぁ、まったくこの人は」

 

私はそんな彼の姿を見てついため息を吐いてしまう。

でも、同時に心の中では安堵していた。

だって、こうやって油断しきってくれるほどに彼は私に気を許してくれているという証拠でもあるのだから。それが不思議と嬉しくてたまらない。

 

「……あのときと逆になっちゃったわね」

 

この状況に私はふと思い出す。

それは私が初めて恋に気がついたあの日。

あのときは私が最後に眠ってしまったけれど、今日は逆の立場になってしまったようだ。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

私は彼にも聞こえないように小さな声で囁きかける。

もちろん返事はない。

当たり前だ、彼は今眠っているのだから。

 

「……私、あなたのことが好きよ」

 

だからきっと今彼が眠っている今だけは、あのとき口に出せなかったこの想いを素直に口に出せた。

きっと、彼はこの言葉を聞いてはいないだろうしこの返事も返ってくることはないだろうけど……。

 

それでも。

もしかしたら実は彼が少しだけ起きていて聞いているかもしれないなんて、淡い期待を抱いている自分がいるのだ。

 

「……」

 

そしてそのまま私はそっと彼を少しだけ抱き寄せてみる。

すると彼から感じる体温と、トクントクンと心臓の鼓動が伝わってくるのがなんだか心地が良くて、私はこのまま目を閉じて少しだけこの心地良さに身を任せることにした。

 

織姫と彦星みたいに、私たちは年に一度しか会えない関係ではない。

だって、私は今こうしてあなたに寄り添って眠ることができるもの。

それはつまり、いつでもあなたに会いに行くことができて、いつでもあなたに触れられるということ。

 

――それが私にとってどれだけ幸せなのか、あなたは知っているかしら?

 

「ふふっ」

 

だからこの幸せな時間を噛み締めるように私はもう少しだけ彼の体に頭を預け、そのまま瞳を閉じ続ける。

今もずっと私の心臓はうるさいくらいに鼓動を刻んでいるけれど、それもいつの間にか慣れてしまった。

 

大丈夫、まだ私たちが降りる駅まで時間はあるから。

それまではこの心地良い時間を堪能しよう。

 

「……おやすみなさい、トレーナー」

 

私たち以外誰もいない静かな電車に揺られながら、私はそんな小さな幸せに浸る。

 

でも今だけ、あと五分ほどだけでも良いから……。

降りる駅までの距離が少しでも長くなれば良いのに、なんて私らしくもないことを願っていたことは彼が起きた後もずっと内緒にしておきたい。

だってこんな恥ずかしいことは絶対に本人には言えないもの。

 

だからどうか。

この幸せな時間がいつまでも続きますようにと。

私はそう、信じている。

 

 



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恋をしているアドマイヤベガがトレーナーへ想いを込めたお弁当を渡す話

気温が少し暖かくなってて、気持ち良い風に眠気に誘われそうな午後の時間。

教室の窓際に座る私は席からじっとグラウンドの景色を見つめている。

するとそこにはまだ担当のついていないウマ娘たちを指導している私のトレーナーの姿があった。

 

普通であればまだ担当のついていないウマ娘は教官さんから指導を受けることになるが、たまにこうして重賞を勝ち取ったり優秀な実績を残しているトレーナーの指導を受けることで普段のトレーニングのマンネリ防止、そしてレベルの高い指導を肌で感じることができるため向上心アップの目的のためでもある。

トレーナー側もチームをもし受け持った場合のために複数指導の経験はあって損はないためこうした光景はあまり珍しくない。

 

それが今日から私のトレーナーの番になったと言うだけ。

 

「……」

 

理屈では理解できる、彼にとってもそれは勉強になるし良いことだとも。

ただ、少しだけモヤッとする感情があるのもまた事実だった。

私以外の子の指導をする彼の姿を見るとどうしても胸の奥がチクチクするのだ。

 

「……さん、アドマイヤベガさん?」

 

「えっ? あっごめんなさい、なにかしら」

 

「いえ、そろそろ授業が始まりますよ?」

 

隣の席に座っているクラスメイトに声をかけられてハッとなる。

どうやら考え事をしていたせいか授業が始まる時間になっていたようだ。

慌てて教科書を取り出して先生の話を聞く準備を始めたけれどたまに外から聞こえる彼の声が気になって、結局その日の授業は集中できずにいた。

 

そしてまた数時間が経って放課後になり、トレーニングも終わってトレーナー室へやって来ている私はソファーに腰掛けながらぼーっと天井を見上げていた。

 

「お疲れアヤベ、コーヒーでも淹れたら飲むか?」

 

「ええ、お願い」

 

いつものように彼は優しく接してくれるけどどこか上の空なのはバレているようで少し心配そうにこちらを見る。

 

「ねえ、今日は随分と張り切ってた声が聞こえたけど、教官さんのお仕事の手伝いはどうだったの?」

 

「アヤベたちのところまで聞かれてたとは恥ずかしいな。でもやっぱり複数人を同時に見るのは想像以上にきつい。お前は一人の子に時間をかけて集中してあげたほうが良いかもな、なんて教官さんに言われたよ」

 

「あなた、それ大丈夫なの?」

 

「まあなんとかなるさ。それに俺だってもう新人じゃないんだ、いつまでも同じじゃいられないってことだよ。アヤベが今よりも上を目指すように、俺もトレーナーとしてもっと上を目指していかないといけないからな」

 

そう言って彼は楽しそうに笑ってコーヒーを飲む。

別に彼が他の子の面倒を見るのは仕方がない事だし、私が独占できる権利なんてない。彼もまた成長しようと努力しているのは知っている。

ただそれでもやはりこのモヤモヤとした感情を抑えきれない自分が少し嫌になってしまう。

 

「でも俺の都合でアヤベのトレーニングを見る時間が減ってしまっているのは本当にごめんな……」

 

「別に気にしないでいいわよ。あなたにもあなたの都合があることくらい分かってるもの」

 

分かってるからこそ、これは本心であり嘘偽りない言葉だ。

けれどだからといって寂しくないのかと聞かれたら素直に答えられないのも確かである。

 

「それよりトレーナー、少し疲れてるように見えるけど大丈夫なの?」

 

「ああ、流石に疲労感はあるかな。今日もずっと書類整理に追われたり指導する人数も多くいるからやること多くて、お昼ご飯あまり食べれてないんだよね実は……」

 

そう言いながら頬を撫でながら苦笑いを浮かべる彼を見て思わずため息が出てしまう。

彼もこれからのために色々まだ勉強しなければいけない身ではあるが、しかしだからと言って食事を抜くなんて事は良くない。

ましてやトレーナーという職業についている以上いつ何時トラブルに巻き込まれるかも分からないのだから尚更だ。

 

「ずっとこの調子だといつか倒れそうね。……ねえ、明日のお昼って時間あるかしら?」

 

「ん? まあ多分大丈夫だと思うけど、どうかしたのか?」

 

「お弁当、作ってきてあげるからそれをちゃんと食べること。良い?」

 

流石に心配なので彼に少しでも休息を与えるために提案してみる。

すると彼は驚いたような表情をして固まっていたが、すぐに満面の笑みを浮かべて何度も首を縦に振っていた。

その嬉しそうな顔がなんだか妙に照れくさくてつい顔を背けてしまったが内心では喜んでくれていることにホッとしていた。

 

「まさかアヤベのお弁当が食べれるなんて、楽しみだ!」

 

「そんなに期待されても困るんだけど。……とりあえず明日のお昼休み前にでも渡しに行くわね」

 

「あっそれならさアヤベ。一緒に外で昼食を食べないか? お弁当受け取るだけって言うのも寂しいし俺も味の感想とか言えるからさ」

 

「えっ……まあ、それは別に構わないけど。……なら中庭で待ち合わせにしてそこで食べましょうか」

 

「ああ、そうしよう!」

 

「私も、楽しみにしてるわ」

 

自分でも分かるほど顔が熱くなっているがそれでも彼の前では平静を装う。

ただそれでも私の口元はやはりというべきか、自然と緩んでしまう。

 

でも一つだけ彼に内緒にしているのは。

ご飯を食べてなくて心配なのもあるけど本当はトレーニングを見てくれる会える時間が減ったのが少し寂しいから、なんて理由もあったりする。

 

そしてそこで会話が終わって自室に戻った後、いつもより上機嫌の私は珍しくスマホで料理サイトを開きながら明日のお弁当のメニューをあれこれと少し考えていた。

 

「あれ、どうしたんですかアヤベさん。寝る前にスマホを弄ってるなんて珍しい~」

 

「ちょっとね、少し調べ物をしていただけよ。気にしないで頂戴」

 

「……あっ! もしかしてトレーナーさんにですか?」

 

「……違うわよ」

 

「えへへ、図星みたいですね」

 

そう言いながらニコニコしながら同室のカレンさんが私の隣に座ってこちらの画面を覗いてきた。

別に見られても問題はないのだが、なんとなく気恥ずかしくなってスマホを閉じようとするとゆっくり伸びてくる彼女の手に邪魔をされた。

突然の行動に驚きながらも、彼女を見るとまるでイタズラっ子のような笑みを浮かべていた。

 

「お弁当、作ってあげるんですか?」

 

「……ええ、まあ。そういう約束をしたの。それだけよ」

 

「ふふっ隠さなくても良いのに。でもでも、アヤベさんの手作りお弁当かぁ。良いな~、羨ましいです」

 

そう言って彼女はまたニマニマとこちらを見つめては私に抱きついてくる。

いつもの事だがスキンシップが激しいのはどうにかならないものだろうか、とはいえ本気で嫌というわけではないので私もあまり強く言えないのだけれど。

 

「それでそれで! 一体どんなお弁当にするつもりなんですか?」

 

「まだ考えてるところよ。そこまで凝ったものを作るつもりもないし。……あっそうだ、ねえカレンさん」

 

「はい、何ですか?」

 

「もし良かったらお弁当の中身のアドバイスくれないかしら。もちろん、無理のない範囲で良いから」

 

少し恥ずかしかったが、それでもせっかく作るのであれば少しでも美味しく食べてもらいたい。

その気持ちで聞いてみると彼女はしばらく固まった後すぐに目を輝かせながらうんうんと嬉しそうに大きく首を縦に振る。

 

「えへへ、アヤベさんに頼ってもらえてカレン嬉しい。任せてくださいね!」

 

「ありがとう。それじゃあお願いするわ」

 

こうして私は彼女と相談をしながら明日の朝に食べるためのお弁当の献立を考えていく。

正直こんな事をするのは初めてだしこういう時に何を作れば良いのかいまいち分からないけれど、誰かに相談するという行為は昔の自分だったらとてもじゃないけど考えられそうになくて少し新鮮で楽しくもあった。

 

今もこうして隣で一緒に悩んでくれるカレンさん本人には少し恥ずかしくて言えないけれど、こうして友人と一緒に何かをするのが楽しいと思うのはきっと、この学園に来てからのおかげだろう。

 

少し前までは想像すら出来なかった日常が今では当たり前に感じられて。

それを幸せだと感じることができる自分がいて。

それがなんだか不思議で、思わずまだ話の途中だというのに笑ってしまう。

 

「ふふっなんだかアヤベさん楽しそう。カレン、そういうアヤベさんの表情見るの大好きです」

 

「……もう、からかわないで」

 

「えへへ、ごめんなさい。……あっねえアヤベさん、明日のお昼ご飯ってトレーナーさんと二人きりなんですよね?」

 

「ええ」

 

「だったらカレンが良いことを教えてあげますね? 一つ目は一緒にお弁当を食べるときにトレーナーさんの好物を聞いてあげること。そして二つ目は、持っていくお弁当にこっそりアヤベさんの好物を入れてあげるんです」

 

「私の好きなものを?」

 

「はい。だってお弁当って作っている人の好みが出やすいんですよ。だからお弁当を作ってもらうなら、自分のことを考えて作ってくれているんだって思ってもらえた方が絶対に嬉しいと思います。それにそのとき、こっそりと自分の好きな食べ物を知ってもらえたら、それこそ一緒にいるときがもっと楽しみになると思いませんか?」

 

「……確かにそれは、そうかもしれないわね」

 

「はい! ということで、明日は頑張ってくださいねアヤベさん!」

 

「ええ、色々と参考になったわ。ありがとう」

 

そうして明日に向けての準備を終えた私たちは時間も遅くなってしまったのでドキドキしながらベッドに入り眠りについた。

 

 

次の日。

約束通り私はいつもより少し早く起きるとすぐに調理場を借りて料理を始めた。それから程なくして完成したお弁当を持って学園へ向かい約束のお昼を待ちながら授業を受けていく。

 

そしていつもより少し長く感じた授業を終えてお昼になって、少し早歩き気味で待ち合わせ場所に向かう。

すると彼は既に待ち合わせ場所で待っていてくれたようで、私が近づいていくと手を振って笑顔で迎えてくれて隣に座るともってきたお弁当を渡す。

 

「どう……かしら。味の方は」

 

「うん、凄く美味しいよアヤベ! 味付けもちょうど良くて、俺いくらでも食べれそうだ」

 

「そう、なら良かった」

 

彼の言葉にホッと胸を撫で下ろす。

ただそんな私のことなどお構いなしに彼の箸の動きは止まらずどんどんとおかずを口に運んで行っていた。

 

本当に美味しそうに食べてくれるものだから作った側としては嬉しい限りだが、流石にもう少しゆっくり食べた方が良いのではないだろうか。

私も彼に合わせてお弁当に手をつけつつ、カレンさんとの会話を思い出して一つ聞いてみることにする。

 

「その、あなたって好き嫌いとかある?」

 

「ん、そうだな。甘い卵焼きとかミートボールが好きかな。あのおかずたち見つけるとなんだか妙に嬉しくってさ」

 

「ふふっそれだけ聞くと子供みたいね」

 

「ちなみに食べれないものはトマトだな、どうもあれは苦手だ」

 

「あら意外、そういうの平気そうなイメージがあったのだけど」

 

「まあ昔に比べたら大分マシにはなったんだけどな。それでもやっぱりどうしてもダメなものはあるんだよ」

 

「やっぱり子供みたいね」

 

「ははっ確かにそうかもしれない」

 

二人で笑い合いながらお弁当をつつき合うこういう時間がとても心地よくて、自然と口元が緩んでしまう。

 

「ならアヤベは好きなものってどれだ?」

 

すると彼からタイミング良くそんな質問が来た。

二つ目のことを実践するには今が絶好の機会だろう。

 

「そうね、やっぱりサンドウィッチとかかしら。手軽に食べられるし種類もできて美味しいもの」

 

「うん、キミの得意なことの一つだな」

 

「あとは、そうね。お弁当にはないけど前にあなたとカレンさんと一緒に三人で行ったあのふわふわのパンケーキとか。そういうスイーツも好きになったわ」

 

「懐かしいな、最初はパンケーキなんてって顔したのにいざパンケーキが来たらそのふわふわ感に見惚れて結局ほぼ一人で食べちゃうんだもの」

 

「そんながっついて食べてたみたいに言わないで、ちゃんとカロリーも計算したし走りには何も影響なかったでしょう」

 

「ははっ冗談だよ。ただ、あのときはキミの意外な一面を見れて少し新鮮で嬉しかったよ」

 

「すぐそうやって調子の良いことを」

 

「でも楽しかったのは本当だろう?」

 

「……そうね、悪くなかったわ。……ふふっ」

 

思い出すと思わず笑みがこぼれてしまう。

カレンさんに誘われていったけどあのパンケーキはどれも美味しくて手が止まらず危うく少しカロリーオーバーで太り気味になりそうなほどだった。

その時のことを思い出していたらいつの間にか私のお弁当をつまむ手が止まって、口元に手を添えながら小さく笑ってしまっていた。

 

「……」

 

「……ちょっと、聞いてるの?」

 

「えっ? ああ、ごめん!」

 

何故か私を見つめて上の空の彼に話しかけてみると、彼は慌てて我に返って彼らしくもなく少し大げさに謝っていた。

一体何を考えているのか分からないが、少しだけ彼の頬が赤く染まっている気がしたように見えた。

 

「えっと……そう! 今日はお弁当ありがとうアヤベ。とても美味しかった、おかげでこの後の仕事の元気バッチリだ」

 

「それなら良かったわ」

 

「じゃあ俺はそろそろ戻るよ」

 

「……ちょっとまって」

 

そう言って彼が立ち上がろうとした瞬間に、私は無意識のうちに彼の袖を掴んで引き止めていた。

別に何か用事があって呼び止めたわけではない、ただこのまま彼と別れてしまうのが名残惜しい、もう少しだけという気持ちが湧いてくる。

 

「……ねえ、明日もまたここで一緒に食べない?」

 

だから、咄嵯に出たのはその一言だった。

 

「……ああ、もちろん良いよ」

 

しかし彼は特に考える素振りを見せることなく二つ返事で了承してくれた。

 

その後彼は時間のこともあってもう去ってしまったが、私はしばらくその場から動けずにいた。

また明日も会えるという喜びと、先ほどまでの自分の行動への恥ずかしさが同時に押し寄せてきて顔に熱が集まってくるのを感じる。

結局私が動けるようになったのはお昼休み終了のチャイムが鳴った後のことだった。

 

 

そしてその日の夕方。

私はまた調理場に立って二人分のお弁当を作り始めている。

昨日と同じように二人分、違うのはメニューと味付けくらいのもの。

今回は私だけでなく彼の好みに合わせたおかずと、味付けにしてある。

そのせいかいつもよりも味見をしていると手が止まらない。

 

「…………ふんふん……ふんふん……ふんふんふん……♪」

 

気がつくと鼻歌まで歌っている始末、我ながら本当に浮かれていると思う。

ただそれほどまでに今日のお弁当作りは楽しく感じられたのだ。

 

「……あれ、こんな時間に電気が……って、アヤベさん!?」

 

するとそこへ見回りでもしていたのか、同じ覇王世代と呼ばれる友人のナリタトップロードさんの姿が見えた。

彼女は私の姿を見つけると驚いた表情で近づいてきて、私の手元を見てさらに目を丸くする。

 

「ど、どうしたんですか? お弁当なんか作って……それも二人分」

 

「あー……えっと、これは」

 

「……もしかして、トレーナーさんのためですか?」

 

「……そうよ」

 

「へぇ~……なるほど、そういうことですか」

 

私の返答に何かを察したのか口元に手を添えてにやにやと楽しそうに笑みを浮かべた彼女に対して私は何も言えずにただ視線を逸らすことしかできなかった。

 

彼女にはとてもじゃないけど誤魔化すなんて通用しないだろう。

いつも本音でぶつかってくる相手なのだから誤魔化したところですぐに見抜かれるに決まっている。

 

「卵焼きにミートボール、それにサンドウィッチまで……。なんだかアヤベさんにしては珍しいチョイスですね」

 

「そうね、自分でもそう思うわ」

 

「自分でも……?」

 

「私じゃなくて、彼が。……私のトレーナーが好物って言ってたから……それだけよ」

 

すると彼女は一瞬キョトンとして、それからとても嬉しそうな、けれど私のその答えに満足したような、そんな色んな優しさの詰まった笑顔を向けてくれた

 

「……なんだか、最近すごく綺麗になりましたねアヤベさん」

 

「なっ急に何!?」

 

「いえ、なんだか今のアヤベさんは恋する乙女って感じだったので」

 

「……恋をしてるのは、否定しないわ」

 

そう答えると、今度は彼女の方がその返しに少し驚いたようだったが、すぐに優しいいつもの微笑みを返してくれた。

 

「素敵なことだと思います。私、今のアヤベさんのその顔の方が好きですよ」

 

「……ええ、ありがとう」

 

いつも真っ直ぐに伝えてくれる彼女の言葉は不思議と心の中にスッと入ってきて、胸の奥が温かくなっていく。

 

「ふふっ恋をすると女の子は綺麗になるって本当だったんですね」

 

「……あなただって、最近凄く可愛くなったように見えるわ」

 

「あら、それは嬉しいです」

 

お互いに笑い合いながらそう言い合うと、私は改めてお弁当箱の中を見る。

このお弁当を食べたら彼はどんな反応をするだろうか。

喜んでくれるかな、美味しいと言ってくれたら良いな。

そんなことを考えると、自然と口元が緩んでしまうのであった。

 

「……ふふっ」

 

「トップロードさん?」

 

「ああいえ、すみません。アヤベさんを見てたらなんだか自分のことみたいに嬉しくて思わず笑みが」

 

「ふふっなによそれ」

 

「アヤベさんの恋、私応援してます。頑張ってくださいね!」

 

「……ええ、ありがとう」

 

「それじゃあ、私はこれで失礼します」

 

そう言って立ち去っていく彼女の背中を見送りながら、私はもう一度お弁当の中身をその出来を確認するように一つ一つを眺めていく。

 

うん、大丈夫。

きっと美味しくできているはずだ。

 

 

そしてお弁当を作り終えたその翌日。

また私はお弁当を大事に鞄に詰めて彼の待っている中庭へ足を運んでいた。

 

今日も彼はちゃんと来てくれているだろうかと不安になったが、私が着く前に彼はもうベンチに座って待ってくれていた。

私が近づくのに気付いた彼はこちらに向かって手を振ってくれる。

昨日と同じ、穏やかな表情で。

 

「こんにちはトレーナー、少し待たせちゃったかしら」

 

「いや全然、むしろ楽しみで仕方なかったよ」

 

私は彼から一つ空けて隣に腰掛けて、そう問いかけてみる。

すると彼は首を横に振ってからそう返事をした。

 

楽しみで仕方なかった。

彼のその素直な言葉がとても嬉しくて私は早速お弁当の包みを広げていく。

 

「おぉ……今日も凄く美味しそうだね」

 

蓋を開けるとそこには昨日と同じように彩豊かなおかずたちが並んでいる。それを見た彼の目がキラキラと輝いているように見えるほどに喜んでくれるのはやはり嬉しい。

 

「それじゃ食べましょうか」

 

「ああ、いただきます」

 

私達は手を合わせてから食べ始める。

けれど私はまだ口につけず、彼の様子を窺う。

そして彼はまずお弁当に入っている卵焼きを一切れつまむと、そのまま口に入れた。

 

「……どう?」

 

そして一拍置いてから、彼に感想を聞いてみた。

すると彼は何度か咀噛してから飲み込んで、一言。

 

「ああ、凄く美味しいよアヤベ!」

 

ただそれだけで、たったそれだけで私の頬は緩んでしまう。

本当に、単純なものだ。

 

「良かった……」

 

「今日のお弁当、なんだか俺の好物ばかりだね」

 

「あなたが好きって言ったものは入れてあるわ。それに、ちゃんと私の好きなサンドウィッチも入ってるでしょう?」

 

「うん、確かにそうだな。このお弁当には俺とキミ、両方の好きな物が入っててなんだかそれが不思議と凄く嬉しいよ」

 

そうお弁当を見つめながら言うと彼はとても嬉しそうに笑みをこぼした。

それに私も釣られて同じく笑みを浮かべてしまう。

 

「……実は少しカレンさんにアドバイスを貰ったの」

 

「ん? カレンに?」

 

「ええ、相手も自分のことを思ってお弁当を作ってくれたら絶対に嬉しいからって。それと、お互いの好きなものを知っていたら一緒にいるときがもっと楽しくなりますよって……ふふっ本当に彼女の言う通りだったわ」

 

「へえ、そんな会話をしてたのか。まさに料理は愛情ってところかな」

 

「そうね。……その通りだと思うわ」

 

私はそう言って微笑みかけると、彼もまた微笑み返してくれる。

なんだかそれだけで心が温かくなって、幸せを感じて私の心は満たされていく。

 

「カレンさん以外にもトップロードさんにも会ったの。私のことを綺麗になりましたね。なんて言われたわ、いきなり過ぎて何も言い返せなかったけど」

 

あの時のことを思い出しながら私は苦笑い気味に、けれどどこか嬉しそうな声で話していく。

本当に、私にはできすぎたくらい良い友人に恵まれたと思う。

 

「……」

 

「また上の空になってる」

 

「えっあっ……ごめん! 聞いてなかったわけじゃないんだ!」

 

「なら、どうかしたの?」

 

「ああいや、その……聞いても引かない?」

 

「別にそんなことで引いたりしないわよ」

 

そう答えてから私は彼の言葉を待った。

そして彼はしばらく迷っていたようだが、やがて覚悟を決めたようで口を開いた。

 

「えっとな……」

 

ただ、そのときの彼の顔はなんだか少し赤く染まっていてどこか落ち着きがない。

一体何を言うつもりなのだろうかとドキドキしながら待っていると、彼がようやく口を開く。

 

「昨日もそうなんだけど、友人やキミ自身のことを嬉しそうに話すその姿になんというか見惚れちゃって。……俺も、いつも以上に綺麗になったと思うよ。アヤベ」

 

「……ッ!?」

 

そう言い合えると、彼は恥ずかしそうに顔を背けてしまった。

でもうっすらと見える彼の耳は、その彼の今の状態を表すかのように耳の先まで真っ赤に染まっていた。

 

それを見て私まで急激に体温が上昇していくのを感じる。

きっと今の私は彼と同じような状態になっていることだろう。

だって、まさかこんな不意打ちをしてくるなんて思わなかったから。

 

「……本当に、あなたってズルいわ」

 

互いに聞こえないようなか細い声で呟いた後、ドキドキと高鳴る鼓動を抑えるために私は小さく息を吐いて気持ちを落ち着かせる。

それからゆっくりと彼の方へ視線を向けると、まだこちらを向いてくれない彼の姿が目に入る。

 

「……食べる手が止まってるわよ、トレーナー」

 

「そういうアヤベだって止まってるじゃないか」

 

「いいから早く食べなさいよ。せっかく作ったお弁当なんだから」

 

「そっちこそ」

 

お互いに照れ隠しで、まるで子供のように意地を張ってしまう。

けれどそれがおかしくて、同時に愛おしくて、自然と笑みがこぼれてくる。

 

結局、お弁当を食べ終わるまではどちらも目を合わせることもできなくてそのまま黙々と食べ続けることになったけれど。

でも、それなのに不思議と嫌な気分ではなかった。

むしろ心地よい沈黙の時間だとさえ感じていた。

 

お弁当を食べている間、ずっと私の胸の中にあったのは幸せな感情だけだった。

けれどそれは私だけではないはずだ。

なぜなら私の隣に座る彼は終始笑顔で、時折私の方をチラリと見ては楽しげに微笑んでいるのだから。

そして、そのことに私が気付いていると悟ると彼はさらに表情を緩ませているように見えた。

 

それがなぜだかとても嬉しくて、私もつられて表情を緩めてしまう。

そうしているといつの間にか照れて無言になっていたこの空間の中に、私たちが静かに笑い合う声が少しづつ増えていく。

 

お弁当がなくなる頃には、そんな時間も終わってしまうのが名残惜しいと感じるほどに楽しいひと時となっていた。

もうすぐお昼休みも終わってしまうけれど。

いつまでもこんな穏やかな時間が、ずっとずっと続けば良いのにと願わずにはいられなかった。

 

 

そしてあの心地良い時間が過ぎて放課後。

グラウンドで私は今日は教官さんたちとグループで複数のウマ娘たちを見るからと、傍に居られない代わりに彼から伝えられたメニューをこなし続けていた。

 

けれど正直まだ私は、あの時間の余韻に浸りながらぼんやりと過ごしてしまっていた。

気を抜くとすぐに彼から言われた 『綺麗になった』って言葉を思い返してしまって、頬が熱くなるのを止められないのだ。

どうしようもないくらいに嬉しかったし、それに彼の反応から見ても少なくともちゃんと私のことを女性として意識してくれていることも嬉しかった。

 

「……ああ、ダメね。どうしても表情が……」

 

私はそう独り言を呟いてから一つ小さなため息をついてしまう。

 

「ふふっなんだかご機嫌なアヤベさん発見~♪」

 

突然後ろから聞き覚えのある明るい声が聞こえてきて、私は思わずビクッと肩を震わせてしまった。

 

「カレンさん、急に驚かさないでちょうだい……」

 

「えへへ、ごめんなさい。それよりお弁当上手くいったみたいですね」

 

「ええ、カレンさんのアドバイスのおかげよ。ありがとう」

 

「いえいえ、カレンはただトレーナーさんとの時間を楽しんでくださいねって言っただけです」

 

彼女は私の言葉にニッコリと笑って返してくれた。

けれどどうしてだろうか、なぜか嫌な予感がしてたまらないこの感じは。

 

「ん~、本当は戻ってから聞こうと思ってたんですけど今のアヤベさんの表情をみたら……カレン気になっちゃうな~?」

 

「……な、なにがかしら」

 

「何がってそんなの勿論、今のアヤベさんってば凄く幸せそうな顔してましたからそのとき一体何があったのかなって!」

 

「ッ!?」

 

やっぱり、と思った瞬間、私は反射的にその場から離れようとゆっくり距離を取ったが、距離を取ったその分と同じだけまた詰められていく。

今のカレンさんにはなぜか小悪魔的な耳や羽が生えているように見えて、このままだとまずいと思った私は颯爽とその場から逃げ出した。

 

「ああっ待ってくださーいっ!逃げないでくださいよアヤベさーん!」

 

しかしカレンさんもすぐに追いかけてきてそのまま謎の鬼ごっこがスタートしてしまった。

 

「えっアヤベさんにカレンさん!? 何してるんですか!?」

 

鬼ごっこが始まって数分ほど経つと少し離れた距離で私たちを見て驚くトップロードさんの姿を見つけた。

 

「トップロードさんお願い、ちょっとカレンさんを止めてほしいの」

 

すぐさまそれをチャンスとみた私は即座に彼女に助けを求めることにした。

するとトップロードさんは私の必死の形相に何かを察したようで、小さく息をつくとカレンさんに向かって走り出した。

 

けれどこれでやっと落ち着けるかとおもったがそう簡単にはいかなかった。

ニコニコとした笑顔から一転して不敵な笑みを浮かべるカレンさんの表情はむしろ己の勝ちを確信しているような気がする。

 

「トップロードさん、カレンと一緒にアヤベさんの恋バナトークしませんか?」

 

そして彼女が口にしたのはまさかの私の話題だった。

それを聞いたトップロードさんはその魅惑の囁きに一瞬動きを止めると、その瞬間色んな思考が巡ったのか今度は困った顔をしながら私の手を掴み、そのままなぜか私の動きが封じられた。

 

「えっトップロードさん。あなたまさか……」

 

「ごめんなさいアヤベさん! 正直私も気になって仕方ないんです!」

 

そしてその隙をついて一気に距離を詰めたカレンさんにもう片方の腕を取られてしまう。

その手は逃がさないと言わんばかりにしっかりと握られていた。

 

つまり、詰みだ。

今の状況で私にもう逃げ場はない。

 

「ふふふ、アヤベさん確保です。観念してくださいね?」

 

「カレンさん、あなたまさか最初からこれが狙いだったわけじゃないでしょうね……」

 

「いいえ、そんなことありませんよ。アドバイスについてカレンはただアヤベさんに喜んでほしかったからやったことですから」

 

そう言いながらカレンさんは本当に楽しげに笑っている。

そんな純真な彼女の笑顔を見せられてしまうと私は何も言い返せなくなってしまう。

こうして私はカレンさんとトップロードさんに捕まり、半ば強制的に恋の話を始めることになっていってしまったのだった。

 

「それで、その後どうなったんですかアヤベさん!」

 

「私も気になりますね。トレーナーさんとの進展具合とか」

 

私は現在、カレンさんとトップロードさんに挟まれる形でベンチに座っている。

けれど二人ともキラキラと目を輝かせながら興味津々といった様子でこちらを見つめている。

 

「だから、私たちはまだそういう関係じゃなくて……」

 

「まだってことはこれからあるかもしれないってことですよねアヤベさん」

 

とりあえず無難な言葉で乗り切ろうとしたが今の私に冷静な思考はできなかったようで、すぐさまカレンさんの指摘を受けて発言に失敗したと私は思わず自分の口元を手で覆ってしまう。

 

カレンさんはそんな私の反応をみて嬉しそうにニヤリと笑うと、そのまま言葉を続けていく。

ちなみにトップロードさんもその隣ではしゃぐカレンさんを見ながら微笑ましそうに見守っていた。

 

この二人、もう完全に私がどういう状態なのか理解した上で楽しんでいる。

 

「……こ、これ以上は無理よ。勘弁して……」

 

それからしばらくしてついに私は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしながら両手で隠すようにして俯いた。こんな状態で一体どうやって彼の話をしろと言うのだろうか。

 

けれどカレンさんとトップロードさんはそんな私の様子を見て、どこか満足げな表情をするとそれ以上追及してくることはしなかった。

 

「は〜い、分かりました。カレンもこれくらいにしておきます」

 

「あはは、ごめんなさいアヤベさん。つい楽しくなっちゃって」

 

「いえ、別に謝らなくても大丈夫よ。ただ一気に色々と聞かれたから少し驚いただけ」

 

二人に対して私は気にしていない旨を伝える。

それから話題は切り替わっていき雑談に花を咲かせていると、ふとここにいないはずの彼の声が遠くから聞こえた気がして視線を動かす。

すると、そこにはグラウンドのコース上で十人ほどのウマ娘たちを指導しているトレーナーの姿を見つけた。

 

「……」

 

その姿を私はただぼーっと見つめている。

私ではない誰かを指導して笑って褒めている彼の姿に少し、寂しさを覚えた。

 

「……会いにいかないんですか?」

 

「えっ?」

 

そんなときだ、トップロードさんが私に声をかけてくれたのは。

その声音は優しくて、いつもの彼女らしい穏やかなものだった。

 

「その顔見たら聞かなくても分かりますよ。寂しいなら我慢せず会いに行けば良いじゃないですか」

 

「……今彼に会いにいく理由が無いわ。もうお昼も終わって彼も仕事中なんだから」

 

私は視線を逸らすようにして答えを返す。

するとトップロードさんは逃がさないとばかりに私の方へ向き直ると真剣な表情をして私の目を見据えてくる。

 

「会いにいく理由なんて寂しいからっていう立派な答えがもうあるじゃ無いですか。それじゃあダメなんですか?」

 

「……それは」

 

「もしもカレンが今のアヤベさんと同じ立場だったら会いに行っちゃうな〜。だって好きな人にはやっぱり会えるときに会った方が良いと思いますし、カレンならずっとお兄ちゃんの傍に居たいもん」

 

言葉に詰まっていると今度はカレンさんが続くように優しい声で語りかけてきた。

 

「もう約束は終わったから、それがお仕事だからって。彼に会いに行かない理由を探すよりも、今の自分自身の気持ちに少しだけ素直になってあげる、そっちのほうがカレンずっと良いと思いますよ?」

 

そして続けざまに彼女はそう言って最後に可愛らしくウインクをすると、私の背中を押すかのようにそっと手を添えてくれた。

その温もりを感じながら私は小さく息を吐くと、決心したような瞳で彼女たちの方へと振り返る。

 

「……はぁ、あなたたちで勝手に決めないで。……でもありがとう二人とも。私、少し行ってくるわ」

 

「あは! 頑張ってくださいねアヤベさん!」

 

「私も応援しています!」

 

そして私はカレンさんとトップロードさんに見送られながらゆっくりと歩き出していく。

 

ドキドキと鼓動は早くなって、ある程度まで近づいたところで彼に気付かれないよう足を止めると一度深呼吸をする。

そして気持ちを整えたところで再び歩みを進めていった。

 

「ねぇ、ちょっといいかしら?」

 

「ん、アヤベじゃないか。どうした、トレーニングで分からないことでもあったか?」

 

彼は私に気づくとすぐにこちらを振り向いてくれる。

 

「えっと、そういうわけじゃないの」

 

私は頬を赤く染めながら彼との距離を詰めていく。

心臓の音がうるさいくらいに鳴り響いて、思考も上手くまとまらないし身体も思うように動いてくれない。

けれど私は意を決して一歩前に出て、そのまま勢いに任せて想いを告げる。

 

「……その、一人だと少し寂しくて。あなたさえ良かったら……傍に居ても良いかしら」

 

緊張のせいか、私は自分で思っていたよりも小さな声しか出せていなかった。

けれどそれでも、どうにか自分の思いを口にすることができた。

そんな私の言葉を聞いて、トレーナーはしばらく驚いた様子で固まっていたけど、やがて嬉しそうに微笑んでくれる。

 

「……ああ、もちろん良いぞ」

 

「本当?」

 

「うん、まだこっちの指導に集中しないといけないから会話は難しいけど。それでもアヤベが良いっていうなら俺は嬉しいよ」

 

「……そう、ありがと。じゃあ……隣、失礼するわね」

 

「おう、ゆっくりしてってくれ」

 

私はそうして彼の隣に立って、気づかれないように横目でちらりと彼を見る。

そしてそのまましばらくの間はお互いに何も喋らず静かに時を過ごしていく。

これが彼の仕事で、トレーナーとしてステップアップするために忙しいというのは分かっているけれど。

それでもやはり、彼女たちの言う通りもっと一緒にいたいと思ってしまう。

 

ほかの子も見なければいけないから当然私とのトレーニングを見る時間が減ってしまって、それを補うように一緒にお弁当をもってお昼を食べるようになったけれど。

それでもやっぱり私は寂しかったのだ。

一人で練習をしてもいつも隣に居てくれる彼がそこに居なかったから。

だから、こうして彼と一緒にいると心が満たされていく。

 

会話はない。

けれど、今も私の隣に彼が居てくれるというだけで先ほどまであった寂しさや不安はどこかに消えてしまっていた。

 

きっとこれはカレンさんやトップロードさんが私の背中を押してくれなかったら得られなかったことだろう。

本当に私は良い友人に恵まれたものだ。

彼女たちには感謝しなければいけない。

 

再び、彼の姿をじっと見つめる。

今は目の前のウマ娘たちに集中しているのか、真剣な眼差しをしているその顔に私は思わず笑みを浮かべてしまう。

私以外の子を指導している姿というのはやはり寂しさは隠せなかったけど。

それでも彼の隣にこうして立って彼の頑張る姿をすぐ傍で見届けられるというのなら、この距離感も少しだけ悪くないと思えた。

 

それにこうやって彼を見ているだけでも、私は幸せだった。

すると私の視線に気づいたのだろうか、ふと視線をこちらに向けた彼と目が合った。

その瞬間、私の胸は大きく跳ね上がり体温が急激に上がっていくのを感じる。

そんな私の様子を見て彼は優しく微笑むと、まるで子供のように無邪気に笑う。

それがとても愛おしくて、私はまた頬が熱くなっていくのを感じた。

 

そして同時に。

やっぱり、私はあなたのことが大好きなのだと。

もう数え切れないほどに感じてきたことを改めて実感してしまう。

結局のところ、どんなに言い訳をしてみても私が彼の傍にいたかったのは変わらない。

友人たちに背中を押されてようやく素直になれている弱い私。

でもだからこそ私は今、あなたの隣りに立つことができる。

そのあなたと一緒に居られるこの時間が何よりも幸せなんだ。

 

そうして、私は今日もまた。

あなたに恋をする。

 



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恋をしているアドマイヤベガは彼の隣にいられるのが幸せな話

トレーニングも終えて少しまったりとした時間を過ごす夕暮れのトレーナー室。

そこでは今もパソコンと睨めっこ状態で作業をしている彼を横目に、ソファーに座り本を読んでいた私は一度読むのをやめて彼へと視線を向けた。

 

「……ねえ」

 

「ん?」

 

彼はこちらを見ることなく生返事を返してくれる。

まあそれはそれで構わないけれど、どうやら予想以上に作業に集中しているようだ。

 

「少し休憩を入れたらどう? さっきからずっと画面と睨めっこしてるじゃない」

 

「大丈夫だよこれくらい。それにこの仕事が終わったらちゃんと休むさ」

 

そう言う彼はキーボードを叩く手を止め私の方へ振り向いてくれるが、その表情にはやっぱり疲労の色が隠しきれていないようだった。

 

「……本当に?」

 

私がジト目で見つめると彼は気まずそうな顔をして、少しだけ子供みたいにそっぽを向く。

 

「……ははっ流石にアヤベには誤魔化せないか」

 

「当たり前でしょう? 今までどれだけあなたの事を見て来たと思ってるの」

 

「それもそうだな」

 

「……コーヒー、淹れてあげるから待ってなさい」

 

「助かるよ、ありがとう」

 

私は彼の言葉を聞いて満足げに微笑みながら立ち上がり、キッチンの方へ向かうと戸棚の中から二人分のマグカップを取り出してもう慣れた手つきでコーヒーを入れていく。

 

「はい、お待たせ」

 

「ありがとう、アヤベ」

 

「どういたしまして、砂糖はちゃんと二つ入れてあるから」

 

「もうすっかり俺の好みを把握してるんだね」

 

「……それはお互い様でしょう? あなただって私の好きなもの把握してるじゃない」

 

「ああ、もちろんだ」

 

私達は互いに顔を合わせて小さく笑い合いながらそのままソファーに腰掛け、一口ずつゆっくりと味わうようにして飲んでいく。

 

「……なんか、またコーヒー作るの上手くなってないか?」

 

「ふふっそう思ってくれたなら悪くないわね。まあ、何回も作ってれば嫌でも上達するわよ」

 

「へえ、そういうものなのかな」

 

「……ええ」

 

素直に褒めてくれるのは私も悪い気分にはならないし、むしろ嬉しい。

自慢するほどではないがコーヒーを淹れるのは自分でも上達したと自信がある。

いつの間にか作業する彼のために淹れたコーヒーも、必要な砂糖の数を覚えてたり、彼が一番好む味がだんだんと私も分かってきた。

 

「……うん、やっぱりアヤベのコーヒーは一番美味しいよ」

 

「……そう、それは良かったわ」

 

照れ隠しにコーヒーを一口飲む。

彼の言葉一つ一つにいまだに私はこの胸の高鳴りを隠せない。

あなたのために淹れたはずのコーヒーを飲むうちに、いつの間にか彼好みの味が私も好きになっていたりするのだから不思議なものだ。

 

「……ねえ」

 

「ん? どうした?」

 

「その仕事って後どれくらいで終わるの?」

 

私は彼が作業しているパソコンを見ながら聞いてみる。

正直、こんな質問したところであまり意味はないと思うけれど。

それでも一応聞いておきたかった。

 

「今日中に仕上げないといけない書類とかもあるけど……まあ後1時間もあれば終わるかな。それがどうかした?」

 

「……そう、なら少しだけあなたの隣で待っていてもいいかしら?」

 

「勿論、全然構わないぞ」

 

私がそう聞くと彼は即答してくれる。

やっぱり優しい人だと思ったと同時にそんな彼の優しさに甘えるような自分がいることに気づくけれどそれも悪くない、なんて思う自分もいた。

 

「じゃあ、少し失礼するわね」

 

「ああ」

 

ソファーから立ち上がり、手頃な折りたたみ式のパイプ椅子を持って来て彼の隣に座る。

 

「俺の仕事なんて見てもあまり面白くはないだろうけど」

 

「別に気にしないで。ただ単に私が見ていたいだけだから」

 

「了解。それじゃあアヤベも見てくれてることだし、気合い入れて頑張るかな!」

 

「……そうやってすぐ調子に乗ったらミスがでるわよ」

 

「おっと、ごめんごめん」

 

「……まあいいわ。残りの作業も頑張って」

 

「ああ、ありがとうアヤベ」

 

その言葉を最後に彼はまた画面へと向かいカタカタと一定のタイピング音だけが響く静かな空間が生まれ、私はその邪魔をしないように静かに彼を見つめる。

 

「……」

 

トレーニングのときよりも少しだけ近い距離で、普段は見れない彼の横顔を眺めているだけでなんだか胸の奥がくすぐったくなる感覚を覚えるのは気のせいではない。

 

「……何か、気になることでもあるのか。アヤベ?」

 

「いえ、なんでもないわ。そのまま続けて」

 

私の視線に気づいたのか不思議そうな顔をしてこちらを見てくる彼に慌てて首を横に振って何でもないことを伝える。

 

「ならいいんだけど……。それにしてもアヤベ、なんだか今日は機嫌が良さそうだね」

 

「あら、どうしてそう思うの?」

 

「なんとなくだけど、いつもより声色が明るい気がするからさ」

 

「……そうね。まあ確かに、少しだけ気分が良いかもしれないわ」

 

「何か良いことがあったなら良かったよ」

 

その言葉を聞いて嬉しくなった私は思わず笑みを浮かべてしまう。

機嫌が良いなんて、それこそ私なんてあまり表に出すタイプではないから本当に些細な変化に気づいてくれることは少しばかり嬉しい。

 

「……まあ、機嫌が良いのはあなただからっていうのが一番大きいのだけれど」

 

ボソリと呟いた独り言は幸いにも彼の耳に届くことはなかった。

私の初恋は無事に実り、今も彼との関係は少しづつ縮まっていく。

こうしてあなたの隣にいるだけで、胸の鼓動はうるさいくらいに高鳴ってしまう。

 

「……仕事はまだかかりそうなの?」

 

「うーん、あともう少しって感じかな」

 

「……そう」

 

あなたは今何を考えているのだろう。

やっぱり仕事のこと? それとも頭の片隅では他のこと?

ひょっとしたら私のことを考えていたりするのだろうか。

隣にいるのにあなたのことが気になって仕方がない。

 

「ねえ、あなた……」

 

「うん、どうした?」

 

「……ううん、やっぱり何でもないわ」

 

私は言葉を途中で止めて、またコーヒーを口に含む。

また画面に向かう彼の横顔を見ていたらそんな疑問が頭の中で浮かんでくるけれど、流石に聞くのは野暮というものだ。

 

あなたが仕事を終えた後にでもタイミングがあれば聞くくらいで丁度良い。

あなたの努力は誰よりも知ってるからこそ、その邪魔だけはしたくない。

 

「……」

 

穏やかな時間が流れる中、コーヒーを飲みながら私達はお互いに何も喋らず心地の良い無言の時間が過ぎていく。

 

「……よし」

 

不意に隣から聞こえてきたそんな声に私は顔を上げて彼を見ると何度か確認をした後にようやく彼はキーボードから手を離していた。

 

「うん、これで大丈夫。確認もオッケー。……ふう、やっと終わった〜!」

 

そして彼はまるでやっと開放されたと言わんばかりに両手を上げ背伸びをするその姿を見て、私まで自然と笑顔になってしまう。

 

「お疲れ様」

 

「ありがとう、アヤベ。やっと片付いたからこれで明日は自由だ!」

 

そう言って笑う彼を見て私も釣られて笑ってしまった。

彼の喜びようがあまりにも大袈裟で、子供みたいで、何だか微笑ましい。

 

「……そんなに大騒ぎするなんて、そんなに大切な予定が明日にあるの?」

 

気になってそんなことを聞いてみれば、彼はやっと仕事が終わった喜びからかどこか楽しげな表情で、けれどまるで思わず口に出してしまったみたいに言うの。

 

「勿論! 前に商店街の方でアヤベが好きそうな物見つけてさ! これはさっさと仕事片付けて内緒でプレゼントしてやらなきゃって……おもって……たん、だけど……あっ」

 

その瞬間、彼はしまったというような顔をして凄い勢いで私から顔を手で隠しながらそっぽを向けた。

 

「……えっ?」

 

まさかとは思うけど、もしかして私の為にわざわざ仕事を早く終わらせてくれたの?

私の好きそうなものを見つけて、それをこっそり買おうとして?

その事実が分かった途端、体中の体温が一気に上がっていくのが分かる。

 

顔が熱い。

きっと今の私は誰が見てもわかるほどに真っ赤になっているに違いない。

 

「えっと、アヤベ? その、これは……だな」

 

彼が必死に言い訳を考えようとあたふたしている姿を見るだけで、なんだかもう嬉しくて嬉しくて、心の底から幸せでいっぱいになる。

 

「ふふっ」

 

さっきまで私の方があなたのことを気になっていたのに、あなたはずっと前から

『内緒でプレゼントを贈りたいから』

なんて理由で、私のことを考えていてくれたなんて。

こんなのズルい。

 

「……せめて何か言ってくれアヤベ」

 

「ごめんなさい。ただちょっと、おかしくって」

 

「おかしいって……まあ確かに盛大にやらかしたけどさ」

 

「そうね。いきなりすぎてびっくりしちゃったわ」

 

そう、本当に驚いた。

だって急にあんなこと言われたら驚くに決まっている。

 

「まさか目の前でサプライズの内容を言われるなんて初めての経験だったわ」

 

「仕事が終わった解放感とはいえ、俺もつい口に出すなんて思わなかったんだよ」

 

「……やっぱり、あなたに隠し事は向いてないわね」

 

「……まあ、確かにそうかも」

 

彼には悪いけれど、本当にサプライズには向かない人だと思う。

けれど、そんな不器用なところも含めて好きになったのは私なのだから文句を言うつもりはない。

それに、こういうのはお互い様な部分もあると思うもの。

 

「……でも」

 

「ん?」

 

「それでもあなたは、私の為に頑張ってくれるのよね」

 

今までの思い出を振り返るように呟いた私の一言に、彼は少しだけ照れくさそうな表情を浮かべてゆっくりとこちらを向いて優しく微笑んでくれる。

 

「それは当然、キミを支えるのは俺の役目だ。これだけは絶対誰にも譲ってやる気は無い」

 

「……またあなたはすぐそういうことを言うんだから」

 

「本音だからな」

 

「……本当にズルい人」

 

私の前だけで見せる優しい笑顔。

他の子達には決して見せない、あなただけの特別な顔。

その表情を見られる度に胸の奥が熱くなって仕方がない。

 

「……それで、結局何をプレゼントしてくれるのかしら?」

 

「はは、なあなあで誤魔化せると思ったんだけど。やっぱり無理か」

 

「別に、どうしても知りたいというわけでもないわ。……でも、あなたがそこまでしてくれたのならやっぱり気になってしまうのも自然なことでしょう?」

 

「ごめんごめん」

 

彼は謝るけれど、その声色からは申し訳なさを感じられない。

むしろどこか楽しんでいるような感じさえする。

 

「まあもうバレちゃったから言うけど。キミの好きそうなクッションを見つけてさ……」

 

「……」

 

「正直俺の一目惚れもあったけど、それ以上に……その、まああれだ」

 

そこで一度言葉を区切ると彼は自分の首元に手を当てながら恥ずかしげに視線を逸らし、小さな声でこう言った。

 

「キミに似合いそうだって、アヤベが喜んでくれるかもって思ったらさ。なんか無性に欲しくなっちゃって……つい、ね」

 

ああ、やっぱりこの人はズルい。

そう言って私を見つめてくる彼の瞳はとても真っ直ぐで、吸い込まれてしまいそうになる。

手に持つコーヒーカップをテーブルに置いて両手で顔を覆う。

 

顔が熱い。耳まで熱い。

心臓の鼓動は痛いくらいに強く鳴り響き、頭の中がぐしゃぐしゃになって何も考えられない。

 

ただのクッションなのに。

どこにでもあるありふれた物。

それどころか、どちらかと言えば値段としては安く見えるのに。

どうしてこんなにも嬉しくて堪らないのだろう。

 

「アヤベ?」

 

心配そうな声に私は慌てて手を離すと何事も無かったかのように振る舞おうとする。

 

「……ごめんなさい、ちょっとだけ待ってくれる? 今の私は、きっとあなたの顔が見れないから」

 

けれど、そんな簡単に落ち着けるほど私の体は都合よく出来ていないみたいで、未だに頬と心臓がバクバクとうなりを上げているのが分かる。

 

「……分かった。落ち着いたら教えてくれ」

 

「……ええ、ありがとう」

 

それから数分後、ようやく落ち着きを取り戻した私はゆっくりと顔を上げて彼と目を合わせ、彼も私が落ち着いたことに安心したのか小さく息をつく。

 

「大丈夫か?」

 

「ええ、もう平気よ」

 

「そっか、よかった」

 

まるで、さっきまでの私のように不安そうにしている彼がなんだか可笑しくてつい笑みを溢してしまう。

 

「……ねえ、話を聞く限り明日買いに行く予定よね?」

 

「そのつもりだけど、それがどうかした?」

 

「あなたさえ良ければ私も、そのお店について行ってもいいかしら」

 

突然の申し出に彼は驚いた様子を見せるけれど、すぐにいつも通りの優しい笑顔を浮かべて首を縦に振ってくれた。

 

「ああ、もちろん良いよ。一緒に行こうアヤベ」

 

「ふふっありがと」

 

そのときの彼の返事があまりにも嬉しそうなものだったから、その瞬間だけは先程の動揺を忘れてしまうほど幸せだった。

 

「それじゃあ仕事も片付いたことだし、明日のことを決めてしまおうか」

 

「……えっと、そうね」

 

トレーナー室の机から移動する彼に促されてわたしも一緒にソファーに腰を掛けて二人並んで座って向き合う。

 

「ちなみにアヤべは明日なら何時頃なら暇?」

 

「特にこれといった用事は無いわ。だから時間はいつでも構わないわよ」

 

「そっか、だったら10時に学園の前に集合にしようか。それならお互いに問題なく買い物できるはずだから」

 

時計を見ながら時間の確認をする彼は本当に楽しみなのだろう。

普段より口数が多くなって少しだけ声のトーンも高い。

そんな彼の様子を横から眺めていた私の視線に気づいたのか、それとも私も同じように笑っていたのか、お互いの視線が重なり合って思わず二人でまた笑ってしまった。

 

「明日を楽しみにしてるよ、アヤベ」

 

「……ええ、私もよ」

 

そして、待ち合わせの時間やこれからのことをまた少し話し終えた頃。

先ほどまでの頑張っていた疲れか、彼は一度大きく伸びをすると少しだけ眠そうに、珍しく普段はあまり見せないあくびを一度ついた。

 

「……いつもお疲れ様」

 

「あはは、ありがとうアヤベ。なんかやっと終わったと思ったら急に気が抜けちゃったみたいだ」

 

「なら少しだけ寝たらどう? 何かあったら起こしてあげるから」

 

「それも良いんだけど、流石にキミに悪くないか?」

 

「遠慮しないで、別にあなたに迷惑を掛けられても困らないもの」

 

「……そっか。それじゃあお言葉に甘えて少しだけ休ませてもらおうかな」

 

「ええ、ゆっくり休んでちょうだい」

 

それから彼はそのまま静かに瞼を閉じると、間もなく小さな呼吸音と共に眠りに落ちてしまった。

 

余程疲れが溜まっていたのだろうという心配と、いつになってもこうして無防備な姿を晒してくれるのが信頼されている証拠なのだと思うと、不思議な安心感に包まれて自然と頬が緩む。

 

「……何かかける物を取ってこようかしら」

 

いくらまだトレーナー室の中が暖かいとはいえ、このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。

私は一度立ち上がって部屋の中を見回すと、丁度いい大きさのブランケットを見つけると、それをそっと彼の肩にかけてあげた。

 

「……うん、これでよし」

 

穏やかな表情で眠る彼を見ているだけで、心の奥が温かくなっていくのが分かる。

 

ずっと見ていたい。

いつまでも隣にいたい。

 

本当に、恋というのは不思議なものだ。

自分の感情が自分で制御できないなんて、少し前の私には想像も出来なかったことだろう。

けれど、それも悪くないと思える自分がいるのもまた事実だ。

 

「……よく寝てる」

 

彼が起きないように注意しながら、無意識に彼の頭を撫でようと私の手が少しづつ持ち上がる。

ゆっくり、ゆっくりと手は伸びて行き、あと数センチという指先が彼の髪に触れる寸前のところ。

 

「……ん……アヤベ……」

 

「……っ!?」

 

彼が不意に漏らした一言で私の動きが止まる。

もしかして起こしてしまったのだろうかと慌てて顔色を確認するけれど、変わらず穏やかに眠っている。

 

「……ふぅ」

 

安堵の息をつくと私は止まってしまった伸ばしかけた手を、今度はさっきよりも優しく、まるで壊れ物を扱うように愛しい人の髪をゆっくりと丁寧に撫でる。

 

「……夢の中でも私を見つけてくれるのね、あなたは」

 

そう呟いた私の顔はきっと、誰にも見せたことがないくらいに幸せそうな顔をしているに違いない。

 

だって、こんなにも嬉しいんだもの。

だって、こんなにも幸せなんだもの。

 

「……大好きよ、あなたのことが。これから先もずっと」

 

あなたの隣にいられる。

たったそれだけのことが、私にとってはこんなにもかけがえのない宝物なのだから。

 

「……ふふっ」

 

また最後に一度彼の髪に優しく触れる。

 

そして満足して立ち上がると私は空っぽになった私と彼、二人分のコーヒーカップを手に取ると、鼻歌交じりにキッチンへと向かっていくのだった。

 

 

 

そしてそんな幸せな時間を過ごして自室に戻ったとき。

今日の約束のことをただ私が嬉しそうにしてたからっていう理由でカレンさんにバレてから

『デートに行くならオシャレは任せてください!』

って何故か張り切ったカレンさんに髪や服を見立てられてたりと色々とあったけれどついに待ちに待った約束の日。

 

「おお! その服似合ってるよアヤベ。今日のキミも凄く綺麗だ」

 

なんて、出会い頭に彼からそんな恥ずかしいことを言われながら約束した10時を迎えて一緒に出る。

 

そして少しだけのんびりしながら向かったのは商店街の近くの通りにある小売店舗。

 

「良かった、まだあった。これだよ、キミにプレゼントしたいと思ってたクッションは」

 

彼は目的の店に着くなり嬉しそうな声を上げて手に取ったのは淡い青の生地、端っこに小さな星々が刺繍された小さな枕サイズのわりとシンプルながらも可愛いらしいものだった。

 

「ええっと、正直センスとかに関しては全く自信は無いけど……。どうかな? キミの好みだと良いんだけど」

 

おずおずと、不安そうにこちらを覗き込んでくる彼に私は少しだけ笑って答えを返す。

 

「大丈夫よ、少なくとも私は気に入ったわ。ありがとう」

 

「良かった。あげることばかり考えてたから気に入って貰えるかどうか心配だったけどホッとした」

 

「……大げさね」

 

そんなに緊張するようなことでもないのに、なんて思いつつ口元が少し緩むのが分かった。

けれどその嬉しさにはやっぱり私は耐えきれなくて、会計前のクッションをぎゅっと抱きしめて嬉しさを隠す私を見てか彼は安心したようにクスッと笑う。

 

「じゃあ買ってくるから、外で少し待っていてくれ」

 

彼はそう言ってレジへ向かって行っていくのを見送ろうとまたクッションを見ていると、少しだけ思いついたことが浮かんできた。

 

「……ねえ、少しだけ待って」

 

「ん、どうした?」

 

「これ、もう一つ同じものを買っても良いかしら?」

 

「ああ、それは別に構わないよ。……あの子の分ってことかな?」

 

私は微笑みながらそう言うけれど、私は静かに首を横に振る。

 

「いいえ、あの子には今回我慢してもらうわ」

 

「へえ、珍しいね。それじゃあどうして?」

 

不思議そうに問いかけてくる彼の前で二つ目の同じクッションを商品棚から取ると、それを彼へ向けて差し出す。

 

「あなたが迷惑じゃないのなら、だけど。……これは、私からあなたへ」

 

すると彼は驚いたように目を見開いて固まって、次の瞬間には満面の笑みで笑い始めた。

 

「あなたも気に入ってるって言ってたし今回のお礼も兼ねて、どうかしら……」

 

「良いのか? もちろん喜んで受け取るよ、ありがとうアヤベ。凄い嬉しいよ!」

 

彼の笑顔を見た私は胸の奥が熱くなるような感覚を覚えつつも、彼の喜ぶ姿が見られたことが嬉しくて自然と頬がほころぶのを感じる。

 

今回のお礼も、彼が気に入ってるからっていうのも本当。

けれど、それ以上にこのクッションを選んだのは。

あなたと同じ物を共有したい。

私の好きなものを、あなたにも持っていて欲しいと思ったから。

 

「さて、どこに置こうかな。自室でも良いけどやっぱり普段使いしやすいトレーナー室に置いとくって方が良いかな……」

 

そして何より。

あなたが私が喜んでくれるかもって思ってくれたのと同じように。

私からも贈ってあげたら今みたいにとても素敵な顔をしてくれるんじゃないかなって思ったから。

 

「……ふふっ」

 

そんな気持ちをこっそり心の中で呟いて、今も笑って嬉しそうなあなたを見て私も一緒に笑う。

この想いまで気づいてるかどうかは分からないけれど、それでも上機嫌でレジへ向かって歩いて行く彼と、その一歩後ろを追いかけるように歩く私の間にはとても心地よい沈黙が流れる。

 

そして会計を済ませ、お互いがお互いへプレゼントを渡すなんていう不思議な体験をしながら私たちは学園への帰路につく。

 

「今日は楽しかったよ。アヤベも楽しんでもらえたなら良かったけど、どうだったかな」

 

「ええ、私も楽しめたわ。あなたと一緒に居られて良かった。凄く充実した休日だったわ」

 

そう言いながらお互いに顔を見合わせて、二人でクスリと笑い合う。

そんな他愛のない会話でも今の私にとってはこれ以上ないくらいに楽しいひと時になった。

 

きっとあなたもそう思ってくれていることなのだろう。

だって私の隣を歩くあなたがこんなにも嬉しそうに、幸せそうな顔を浮かべているんだもの。

 

そんな幸せそうなあなたの横顔を見ているだけで。

ただそれだけで、私も幸せな気分になれてしまうから。

いつだってあなたの隣に立つのは、私にとってそのどれもが特別で。

こうして隣に居る時間がたまらなく嬉しいの。

 

そんな風に思いながら、私はそっと彼の手を握る。

そして握り返してくれた手をぎゅっと握ると、私達はゆっくりと歩き続けるのだった。

 

この日から私たちのトレーナー室には、二つ並んだお揃いのクッションが置かれるようになった。

 

そしてその光景を見る度に私は。

心の底から温かい気持ちで満たされるのだった。

 



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恋をしているアドマイヤベガが彼と2人、迷子の子供と出会った話

ある休日のお昼のこと。

彼と一緒に外出をした帰り道、私たちはその日あったことの感想をお互いに笑い声混じりに語り合いながら帰路についていたとき、近くの公園からまだ小さな子供らしき泣き声が微かに耳に入ってきた。

 

「……ねえ」

 

「ああ、すぐ行ってあげようアヤベ」

 

その声がどうしても気にかかる私はチラリと彼を見ると、彼もすぐに意図を読み取ってくれて私の提案に賛成してくれて私たちはその声の元へと駆け寄っていく。

 

「ううっ……ひっく、ひっく……! おかあさ〜ん……どこぉ……」

 

その公園にいたのは、まだ小さくて幼いウマ娘の女の子。

その子の手には大事そうに抱いたクマのぬいぐるみがあった。

どうやら母親とはぐれてしまったらしくてその状況を理解した瞬間私はその子の下へと駆けつけるとこう話しかけていた。

 

「……お母さんとはぐれちゃったの?」

 

「ぐすっ……うん、おかあさん、どこにもいないの……」

 

「泣かなくても大丈夫、一緒に探してあげるから」

 

「……ありがとう、おねえちゃん」

 

「うん、大丈夫よ。だからまずはその涙を拭いてね」

 

「……えへへ、分かった」

 

私のハンカチを受け取ったその子はごしごしと自分の顔を拭き、涙を止めて笑みを浮かべてくれた。

そのことにホッとした私とその子が会話をしている間に、彼もその女の子の前に屈んで目線を合わせて優しい口調で語りかける。

 

「ねえ、まずはキミのお母さんがどこに行っちゃったのかとか聞きたいから、まずは座ってお話ししよっか……ええっと」

 

「あそこにベンチがあるから、そこにしましょうか」

 

「そうだな。じゃああのベンチまで一緒に歩けるかい?」

 

そう言って彼はその子に手を差し伸べるけど、まあ助けてくれる人とはいっても彼は彼女と比べたら大きな大人の男性。

どうしてもというべきか、やはり怖さが勝ったのかその子はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて少し震えてしまっていた。

 

「あ〜……うん、なあアヤベ。この子お願いできるか?」

 

「ええ、任せてちょうだい」

 

ちょっと怯えられてダメージを受けてる彼には申し訳ないけどここは私が行くしかないだろうと思って、私はその子に向かって両手を広げて呼びかける。

 

「ねえ、お兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんとなら平気?」

 

「……うん」

 

「そっか、じゃあお姉ちゃんと手を繋ごう?……ほら」

 

手を伸ばす私にその子はまだ少し不安げだったものの私の言う通りにしてくれたので、その子のペースに合わせてあげるようにゆっくりと手を繋ぎながら歩いていきベンチに腰掛けてひと段落つくことが出来た。

 

さて、これから色々と聞かなきゃいけないことがたくさんあるんだけどまずは何か飲み物でも買ってきてあげるべきよね。

 

「はい、アヤベ。とりあえずこれを飲ませてあげて」

 

「えっ? ……ありがとう」

 

「別に良いさ。それでひとまず落ち着くといい。それと、キミにはジュースね。別のが欲しかったら隣のお姉ちゃんに言ってくれたらいいからさ」

 

私が考えるよりも早く彼がいつの間にか自販機で購入していた缶ジュースをその子にも渡してみると、その子も少し緊張が解けてきたのかパァッと笑顔を向けてくれながら早速嬉しそうにフタを開けてごくりと飲み始めていた。

 

「……おいし〜」

 

「そう、良かったわね」

 

「うん!」

 

「それじゃあジュースを貰ったお兄ちゃんにお礼の言葉は言える?」

 

「う、うん。……えっと、ありがとう。おにいちゃん」

 

「……はは、うん! どういたしまして」

 

子供にお礼を言われて、照れくさそうに笑う彼の姿を見ているとつい微笑ましくなってクスリと笑ってしまう私。

そしてそんな私をチラリと見て彼は私にだけ聞こえるように小さな声で呟いた。

 

「ありがとうな、アヤベ」

 

「……なんのことかしら」

 

「とぼけなくても良いのに。わざわざ俺にお礼を言うようにしてあげてあの子の警戒心を和らげてあげようとしてくれたんだろ?」

 

「ふふっそれはどうかしら」

 

きっと誰かさんのお節介焼きが映っただけよ。

なんて付け足しながら素直じゃないその返答も気にせずに笑みを浮かべたまま私を見つめている彼と、そんな私たちの様子を首を傾げながら見上げてくるウマ娘の女の子を見て私はまた自然と口元が緩んでいくのを感じていた。

 

そしてしばらくした後、ようやく落ち着いてきたその子の事情を聞くことが出来ていた。

 

「……そう、お母さんと一緒に買い物に行ってたら急に居なくなっちゃったの」

 

「……うん」

 

少しだけ涙を流しそうになるのを精一杯に我慢しているその子の頭を撫でてあげて慰めつつ、話を聞き終えた私たちは二人で一緒に考えていく。

 

「ねえ、私はとりあえずこの辺りを探してみるのが1番だと思うんだけど、どう?」

 

「うん、ただきっとお母さんもこの子を探し回ってるはずだから。途中で入れ違いになるとまずいな」

 

「……そうね、確かに」

 

「アヤベはもう少しだけここに一緒に居てあげてくれるか? 俺は近くを探してくるから」

 

その言葉に一度頷いて、私は再び女の子に目線を下ろして話しかける。

すると彼女の方も涙目でじっと私たちのことを見ていたようですぐに目を合わせながら、そのまま優しく微笑んで問いかけてあげた。

 

「大丈夫、お母さんもあなたを探してくれてるから。それまではお姉ちゃんたちと一緒に待ちましょう?」

 

「……うん」

 

「良い子ね。でもすぐに見つけてあげられないのは本当にごめんね」

 

「……ううん、ありがとうおねえちゃん」

 

「そう、良い子ね」

 

今度は少しぎこちなかったけど笑顔でそう答えてくれたその子に思わず頬を緩めながらも、もう一度その子の髪を優しく撫でていた。

 

「それじゃあアヤベは少しの間その子とここに居てあげて。俺は少し行ってくるよ」

 

「あなた1人で平気?」

 

「大丈夫だって、それにその子も多分俺よりはキミと一緒にいた方が安心してくれると思うし」

 

「そっか、分かったわ。くれぐれも気をつけて」

 

「分かってるよ」

 

彼は苦笑いをしながら返事をしつつ立ち上がってその場から離れていった。

そしてその姿が見えなくなったところで私は不安にさせないようにする意味も含めて、静かにぬいぐるみを抱きしめながら待っていてくれた隣に座るこの子に向けて声をかけてあげる。

 

「ねえ、大事そうに抱えてるけどあなたはぬいぐるみが好きなの?」

 

「うん! 大好きだよ」

 

「へえ、そうなの。他にはどんな宝物があるの?」

 

「えっとね、いっぱいあるけどお家にはわたしのお気に入りのクッションがあるよ!」

 

「……クッション?」

 

「うん、お昼寝のときにね? ぎゅ〜って抱きしめたり枕にして眠ると、まるで芝の上に寝っ転がってみたいで気持ちいいんだ〜」

 

無邪気に楽しげにそう語る姿に思わずクスリと笑ってしまう私。

こんなに可愛いらしい一面を持っているのなら尚更、今は少しでも安心させてあげたいと思ってお返しにと私も話し始めていく。

 

「実はお姉ちゃんもね、クッションやふわふわしたものが好きなの」

 

「本当!?」

 

「ええ。その中でも1つだけ、私にとって大切な宝物のクッションがあって……」

 

良かった、もう不安げな雰囲気は感じられなくて、むしろ好奇心旺盛なキラキラした瞳を輝かせて私の話を興味津々に聞いているようだった。

それを見て、自然と笑みが溢れて優しい口調になってくるのを感じていればだんだんと時間は過ぎていく。

 

「お〜い、アヤベ……って、なんか随分と仲良くなっちゃって」

 

それからしばらくして彼が戻ってくる頃にはすっかり意気投合していたりした。

 

「あら、おかえりなさい。どうだったの? お母さん見つかった?」

 

「うん、バッチリ。交番に向かったら少し前にお母さんもそこに来てたらしくて、連絡とってもらったらすぐにこの公園に迎えに行きますってさ」

 

「そう、見つかって良かった。それじゃあ後はここで待ってたら良いのね」

 

「おかあさん! 迎えにきてくれるの!?」

 

「うん、そうだよ。もう少し待ってたら会えるから、後少しの辛抱だ」

 

「やったー!」

 

やはり寂しさを隠しきれなかったのかその喜びようは凄まじくて、彼の腕にしがみついて喜ぶ姿はとても可愛らしい。

 

「ちょっ! まって、子供とはいえウマ娘のパワーはちょっと……ッ!」

 

なんて、どこか必死な形相で抵抗しながらも無理に離そうとせずしっかりと受け止めてるのにその表情は声とは真逆に優しく微笑んでいるその姿に思わず笑みが溢れるのを私は抑えきれなかった。

 

「……ふふっ」

 

なんだかこんな光景が微笑ましくて仕方がないから。

だから、そんな風に笑う彼に気が付かれてないのを幸いとしてただ嬉しそうにする女の子と一緒に彼を眺めているの。

 

しばらくそのまま2人の様子に見惚れていること幾許か、そろそろ助けてあげようかなと思い声をかけてあげる。

 

「……ほら、あなたも嬉しいかもしれないけど落ち着いて。彼が困ってるでしょ?」

 

「あっ! ごめんねおにいちゃん。痛かったよね」

 

「あはは……大丈夫だよ、少し驚いただけだから」

 

申し訳なさそうな顔をして離れる女の子に彼は優しく微笑みかけつつ頭を撫でて落ち着かせていていると、優しい口調で彼は言う。

 

「まあそれよりも、お母さんが迎えに来てくれるんだ。なら、それまで俺たちと一緒に遊ぶか!」

 

「良いの? じゃあわたしかけっこしたい!」

 

「もちろん! かけっこでも、かくれんぼでも何だって良いさ」

 

「えへへ……ありがとう、じゃあ早く行こ〜!」

 

そう言って元気良く駆け出すその子の姿を見るとどちらかとでもなく私と彼の視線が合い、互いにクスリと小さく笑い合っていた。

 

「子供ってのはほんと元気に溢れてるよな」

 

「ええ、本当に」

 

「一緒に居てあげてくれてありがとうな。アヤベ」

 

「ううん、別に気にしないで。私もあの子と話すのは楽しかったから」

 

「……そっか」

 

小さく微笑みながらそう言う私に、彼はそれで察したのか満足そうにしながら呟いていた。

 

「おねえちゃん! おにいちゃん! 早く早く!」

 

遠くの方で手招きをして呼びかけてくる彼女を見て私たちはまた笑って、同時に歩き出して彼女の元へと向かっていく。

 

「わたしね! 友達の中でも1番速くて凄いんだよ!」

 

「おお、そりゃ楽しみだ。アヤベとどっちが速いんだろうな?」

 

「えへへ、わたしの方がおねえちゃんより速〜い♪」

 

「いいや、きっとアヤベの方が速い!」

 

「……ちょっと、なんであなたもむきになって来てるのよ」

 

しばらくそんな言い合いを続けていく2人に、私は自然と頬を緩めて笑いながらその様子を静かに見守っていたのだった。

 

今もこうして子供相手に私のことで張り合う彼には聞いていて多少の恥ずかしさもありつつ呆れちゃいそうになるけど、でも決して悪い気分ではなかったから。

 

「……そうね、ならいっそ3人でかけっこして競争しましょうか」

 

私もその2人に混ざるように提案すれば、彼らは一瞬だけポカンとした表情を見せたものの、すぐ満面の笑みを浮かべて楽しげに大きな返事をしていた。

 

そうしてそれからしばらく経って、あの子のお母さんが迎えに来てくれるころにはこの場にいる全員すっかり疲れ果ててベンチに座り込んで息を整えているのだった。

 

「もっかい! ねえ、もっかい走ろ!」

 

「……ちょっと待ってね? 流石に俺スタミナ切れてきたから」

 

「ええーっ!?」

 

「それにさ、もうお母さん来てるんだから走るのは流石にこれで……」

 

「やだ帰らない! まだまだ一緒に走ったり遊ぶの!」

 

「ええっと……。そうだ、アヤベ! ねえこういうときってどうしたら……」

 

そんな私たちとは裏腹にまだまだ遊び足りないとばかりに駄々を捏ねる女の子に困った様子の彼だったが、もうすっかりと懐かれてしまったようで嫌だとも言えずに苦笑している姿が見えた。

子供相手は流石に慣れてないのか少しあたふたしながらも私に助けを求めて視線を送ってくる彼の姿が少し可愛らしい。

 

「ほら、今日はこれでお終いにしましょう? お母さんに私たちの連絡先を教えておくから、また今度遊ぶときに会えるわよ」

 

「むぅっ……! 分かった」

 

まだ納得しきっていないながらも渋々と受け入れてくれた彼女に私はホッと安堵していれば、彼女はお母さんの元へと向かって行く。

 

「今日はありがとう! すっごく楽しかった! それとね? わたしがもっともっと大きくなって、いつかトレセン学園に行ったときはおにいちゃんとおねえちゃんがわたしを担当してね! 約束だよ!」

 

そして1度こちらを振り返ったと思うとそう言って、今度は笑顔で手を振りながら走り去って行ったのだった。

 

その姿を私たちは2人揃って呆気にとられたように眺めていて、お互いに見合ってクスクスと笑い出してしまう。

そんな風にひとしきり笑い終えた後に優しい口調で彼が言う。

 

「それじゃあ、俺たちも帰ろうか。アヤベ」

 

「……ええ、帰りましょうか」

 

彼の言葉に小さく返しながら、私も微笑み返して帰路について行く。

話題として出るのはやっぱりさっきの彼女の事ばかりだったけど、それでもその時間が楽しかったというのには変わりはなかった。

 

「それにしてもあの子は凄かったな、アヤベ。1番速いっていうだけある。あの逃げっぷりには驚かされた」

 

「ふふっ確かにそうね。彼女が成長してトレセン学園に来てくれるのが私も楽しみだわ」

 

「担当になってねって言われたのは驚いたけど、正直こっちの方がスカウトさせてほしいくらいにはあの走りには惹かれたよ」

 

「……へえ、そんなに気に入ったの? あの子の走り」

 

けれどまあ、私がいる目の前で他の子の走りを絶賛する彼の姿はちょっとだけ面白くなかったから。

私は冗談交じりに拗ねたフリをして少しだけ意地悪をしてみるの。

すると彼はそんな私を見てちょっとだけ本気にしたのか、1度驚いた声を上げてはそのまま呆気にとられながらこちらを眺めている。

 

「……なに?」

 

「いや、アヤベもそういうこと言うんだなぁって思って……」

 

「どういう意味よ、それ」

 

少し不満げにそう言うと彼は私から目を逸らして照れたように頭を掻いていた。

そのまま言葉にならない声をあげては数秒程間を置いた後に、やがて諦めたのかゆっくりと呟くようにしてこう言ったのだ。

 

「……その、変な話かもしれないけどキミにそう言われてちょっとだけ、ああいや……正直凄く嬉しくなっちゃってさ」

 

「……ッ」

 

「まあでも、アヤベのことほったらかしにしてあの子のこと褒めたのは俺だから怒られて当然なんだけどさ」

 

彼の言葉を聞いて私は思わず頬を赤らめながら俯いてしまう。

意地悪をしたつもりがとんだ大反撃を食らう形になってしまったみたいで、恥ずかしさが後から襲ってくる。

 

それからまた少しの間無言で歩いていると先に沈黙を破ったのは私の方だった。

やはりどこか緊張は隠せなくて、まるで時間がそこで止まってしまっているのではないかと思うほどにぎこちなく言葉を紡いでいく。

 

「……あなただけよ、こんなことを思うのなんて」

 

きっとこの距離であったとしてもしっかりと集中していなければ聞こえないほど細い声で、彼に告げる。

しかしこれを口にした後の恥ずかしさでいっぱいになってしまいそうで、すぐに足早に歩き始めれば彼の足音が付いてこない。

 

不思議に思って後ろを振り返ってみれば、そこには立ち止まったままの彼が居て。

そして私の瞳に写っていたのは、顔だけでなく耳まで真っ赤に染まった彼の姿だった。

 

その瞬間。

私がきっと聞こえていないだろうと思って呟いた言葉は、ちゃんと彼のもとに届いていたのだと理解できた。

 

そのことに気がついてしまったからだろうか、お互いの間に流れる時間はとてもゆっくりでそれでいて永遠のようにも感じられてしまう。

心臓は今にも張り裂けそうなほどに激しく高鳴っていて、全身の血流が早くなる。

 

どちらかが喋りかけるわけでもなく、ただただ黙りこくって顔を紅潮させているだけの時間が過ぎて行く。

お互いに顔は真っ赤でいつも通りの会話が難しかったけれど、それは決して不快な時間では無くて、むしろ心地良いとさえ感じられるものには違いなかった。

私はこのままずっとこのドキドキとした時間が続いて行くのも悪くないんじゃないか、なんてことを胸に秘めながらそっと微笑んでは彼を見つめていく。

 

そうして、お互いがいつものように会話できるように戻れるまで、少しだけぎこちないながらも再び一緒に並んで歩くのだった。

 

 

 

あれからトレセン学園に帰り自室に戻ってきた後も私は少しの間、最後に見た彼の表情が忘れられなくてベッドに座って悶えていた。

 

トクン、トクン、と少しずつ脈打つ心音がハッキリと分かるほどに胸がきゅっと締め付けられていくようで。

考えないようにしようと思ってもいつの間にか脳裏によぎっていて、思い返せば返すほど胸の奥から熱くなるような感覚に襲われる。

それでいて、私が嫉妬したという反応に嬉しいと返してくれた彼の言葉が、どうしようもなく愛おしいものに思えてしまって頭がパンクしてしまいそうだ。

 

「……ズルいわ、あんなの」

 

そんな文句を言うのは私自身に対してなのか、それとも彼に向けてのものなのか。

分からないけれど今はとにかくこの胸を支配する感情を抑え込むのに必死になっている。

 

「……何がズルいんですか、アヤベさん?」

 

そんな風に1で人ジッと想いに耽っていると同室のカレンさんの存在を完全に忘れてしまっていて、突然かけられた声にビクッと肩を大きく跳ねさせてしまいながら、私はゆっくりと振り向いた。

 

そこにはいつもの微笑みよりも少しだけ悪戯感が強めな子供のような表情で私を見ている彼女の姿がそこにあった。

 

「……カレンさん。なんでもないわ、気にしないで」

 

「ふふっ……またまた~、そんなに慌てて誤魔化そうとされると逆に気になるじゃないですかぁ」

 

そんな彼女はまるで全て分かっていますよと言わんばかりに楽しげにこちらに話しかけてくる。

別に隠すほどのことでも無いのだけれどそれでも自分の口からは言い出しづらい。

けれど、そんな私とは対照的にニコニコとした笑顔のままこちらに近づいてきた彼女が私の隣に腰を下ろす。

 

「わかりました! タダでとは言いません、カレンもとっておきのお兄ちゃんとのエピソードを話しますから!」

 

「……それ、あなたが楽しいだけなんじゃない?」

 

「あっバレちゃいました? ちょっとお兄ちゃん自慢したいな~なんて思ってたりして」

 

そう言って舌を出しながら笑う彼女の姿は本当に年相応の可愛らしい少女にしか見えなくて、なんだか見ているだけで頬が緩んでくるようだった。

 

それから私は結局根負けしてカレンさんの惚気に付き合いながら私も今日の出来事を話してあげるとだんだん話題がそれぞれのトレーナーたちへのことへ移り変わっていく。

 

「それで、あの人ったらその子にずっと振り回されてばっかりで。……ふふっ、流石に子供の面倒は慣れてなかったみたい」

 

思い出す度に自然と口角が上がっていって、私はその時の様子を語って行くたびに頬を弛ませていった。

すると私の話を聞いていた彼女もまた楽しそうに笑っていて、たまに相槌を打ちながらコロコロと表情が変化していく。

 

「あははっ……確かにアヤベさんのトレーナーさんはあんまり子供の面倒を見るのは得意そうじゃ無いかもですね」

 

「でも結局彼に助けられたけどね。……あなたのトレーナーさんはどうなの? 最近よく夜になると電話をしているみたいだけど」

 

「えへへ、そうですねぇ。最近はもうお決まりになってきてて、カレンいつもお兄ちゃんの声が聞けて嬉しいですよ♪」

 

「……そう、良かったじゃない」

 

「……えへへ、はい!」

 

満面の笑みを浮かべる彼女に釣られて小さく笑みがこぼれてしまう。

それからしばらく2人で他愛のない会話を続けていけばカレンさんの方の話もなんだかいつも以上にヒートアップしているようで。

 

私にその気持ちが移ったのかいつの間にかお互いのトレーナーについて話すのに夢中になっていた。

 

「けどあの人、今日出会った子に私の気も知らないで俺が彼女の担当になろうかとか言うのよ。まったく……」

 

「えへへ、でもそんなこと言うわりには表情が嬉しそうですよ。ねえアヤベさん?」

 

「……」

 

「あは! やっぱり図星でしたか。アヤベさんカワイイ~!」

 

からかいの言葉に対して私はただ黙り込んでそっぽを向いてやり過ごすけれど彼女は特にそれ以上何かを言うわけでもなく、むしろどこか満足そうな雰囲気さえ感じさせる。

 

「……まあ、でも」

 

不思議に思いつつもそのまま少しの間お互いに何も話さずに静かな時間が流れていくと、私は小声で独り言のように呟く。

 

「彼の好きな部分もそういう珍しい鈍い部分も含めてあの人の良さだもの。だから嫌いになれないし、そんなところも含めて惹かれて……きっと好きになったの」

 

私が口にした一言を聞いた瞬間、カレンさんは驚いたように目を丸くさせた後とても優しそうな表情をこちらに向けてくれた。

 

「ふふっ……あ~あ、今日はカレンとお兄ちゃんの幸せをおすそ分けをしてあげようと思ったのに、結局全部アヤベさんに持っていかれちゃいましたね」

 

そんなことを言う彼女の口調はとても残念そうなものだったけれど、瞳の奥にある優しい光を見る限りそんな様子は全く感じられなくて。

むしろ彼女の顔に浮かぶのは優しさや温かさが感じられる微笑みで、私はそれがなんだかくすぐったくて仕方がない。

 

「気づいてますか、アヤベさん」

 

「……えっと、何にかしら?」

 

「今のアヤベさん、カレンが今まで見た中でもとびっきりに! 凄くカワイくて素敵な笑顔をしていますよ!」

 

そう言ってニッコリと眩しい笑顔を見せながら、カレンさんは手鏡を取り出して私に渡してくる。

私はそれに素直に従って自分の顔を覗き込めば、そこに映っていたのは何とも言葉にしづらい表情で思わず固まってしまった。

 

だってこんな風に自分の心の内をそのまま表してしまったかのような緩みきった表情が、その手鏡いっぱいに映っている。

幸せで溢れて包まれているような、見ているだけで胸の中が満たされていくような、どこまでも優しくて温かい感情を自分の中から見つけ出したんだから。

 

「そっか、今の私は……こんなにも素敵な顔ができるのね」

 

そして気が付いた時には私の口から自然に、本当に無意識のうちにまるで自分に言い聞かせるようにぽつりと声が出てしまっていた。

 

「ええ、そうですよ! あのトレーナーさんに出会ってからのアヤベさん、カレンが思わず嫉妬しちゃいそうになるくらいカワイイですよ」

 

カレンさんの笑顔に私はつられて頬が緩んでしまう。それはさっきまでの笑顔とはまた違った意味で緩んでいて。

 

ああもう、どうしよう。

こんなの絶対に彼には見せられないわ。

なんてことを考えながら私の頭の中には自然といつも通りに笑って 「アヤベ」って私を呼んでくれる彼の姿が浮かんできてしまうのが止まらない。

 

「……そろそろ寝ましょうか、カレンさん」

 

けれどその前に今日という日を終わらせるためにカレンさんへとそう告げれば、彼女も同じように同意を示して「はい」と小さく返してくれて笑ってくれる。

 

「おやすみなさい、カレンさん」

 

「はい。おやすみなさい、アヤベさん。良い夢を見てくださいね?」

 

「……ええ」

 

互いに挨拶を交わしてから電気を消して、私は眠りの世界へと誘われ始めていく。

 

そして私が眠り落ちるまで頭の中で考えるのはやっぱり彼のことばかり。

横になってどれほど経つのかは分からないけれど、もう隣のベッドに眠るカレンさんからはスヤスヤと規則正しい寝息が聞こえてきていた。

 

「……ふふっ」

 

今頃彼は何をしているのかしら?

まだお仕事中か、それとも休憩中にコーヒーでも飲んでいる?

また私のことを考えてくれていたら、嬉しいな。

できることなら早くあなたに会いに行って、その声を聞きながら一緒に静かな時間を過ごして隣に居たいの。

なんて、そんな想いが強くなっていく。

 

「仕事中でも、休んでいたとしても、どっちでも良いか。また明日になれば会えるんだもの……おやすみなさい、あなた」

 

そして、この場にいない私の大好きな彼へと告げるように小さく呟いた後、私は夢の世界へ旅立っていった。

 

きっと夢の世界でも私は彼と一緒にいて。

楽しくて幸せな時間を過ごせるはずだから。

 

 

 

そしてまた時間は進み、次の日。

放課後のトレーナー室で彼と2人きりのミーティング中、私はいつも通り冷静に振る舞おうとしていたのだけど自分でも驚くほど気分が良くて表情が緩むのを抑えきれなかった。

 

「また今日も機嫌が良さそうだね。昨日こと、やっぱり嬉しかったか?」

 

「ええ。それもあるけど。自室に戻ってからも少し良いことがあって」

 

「ってことは同室のカレンと楽しく話してたのか? キミさえ良かったらその話、俺も聞いてみたいな」

 

「……話してあげたいけど駄目。あなたには秘密」

 

「ええっ!?」

 

そう言うと途端に彼は目を丸くさせて驚いてしまうけれど、それがまた可愛らしくて私の口元をまたさらに緩ませていく。

 

確かに私にとって嬉しいことは昨日たくさんあった。

けれどそれを彼に話してしまうのは正直いって私だってまだ思い出すだけで顔が赤くなるのだから、なんとも恥ずかしすぎてとてもできそうにない。

聞きたいと言われてすぐに答えられなかった理由は、そういうわけだった。

 

「駄目って言われるとちょっと気になってくるんだけど……」

 

「……そうね、だったら今すぐには無理だけど。いつか、その時が来たら教えてあげる」

 

「本当か?」

 

「ええ。嘘はつかないわよ」

 

「ならその話が聞けるときを楽しみしてるかな!」

 

そう言って笑う彼に、私もつられて笑顔を浮かべる。

今は流石に恥ずかしくて言えないけど、もっと落ち着いたときに話してあげるのは良いかもしれない。

 

それからまた話題は移り変わっていって、昨日のあの迷子の子の話へと戻っていく。

 

「……昨日は俺もああいったけどさ、正直言って楽しみで仕方ないんだ」

 

「楽しみ?」

 

「ああ、だってこれから先も俺たちの知らない可能性を持ったウマ娘たちがこのトレセン学園にやってくるんだなって考えちゃったらさ。想像しただけでもワクワクしてきちゃって仕方ないんだ」

 

キラキラした目をしながら彼が浮かべるのは、本当にそんな未来を想像している無邪気で子どものような満面の笑み。

それを見ただけで私は胸が高鳴ってきてしまうし、彼のそんな顔が見られることが私は何よりも嬉しい。

 

「もしあの子がトレセン学園にきたときは、俺たちもどんな未来を生きてるんだろうな」

 

そして、ふと彼が私に向けて言ってきた言葉。

それはきっとただの世間話で、特に意味のない問いかけだったんだと思う。

 

「アヤベはさ、何か将来について考えてたりするのか?」

 

「……そうね、今はまだ何も。正直あなたたちと出会ってようやく私らしい生き方が見つかって、やっと一歩踏み出せたところだし」

 

「……そっか。それなら良いんだ」

 

けれどその質問に対して私の返事を聞いて、何故か彼はどこか安堵するかのようにほっと小さく息を吐いていた。

ソファーに座る彼はそのまま笑顔を浮かべながら、想いに更けて空を見上げるように顔を天井に向ける。

 

「もしキミがトレセン学園を卒業してたときは、今みたいに走ることを選んでも良い。キミの好きな星や星座に関する道を進んでも良い。もちろん、全然違う職業について新しい道を切り開いていくって言うのも俺は良いと思う」

 

彼の声はどこまでも穏やかに響いて、優しくて。

天井を見上げてた彼はその視線を今度は私に映して、優しい声で語りかけてくれる。

 

「……急に言われても、今の私には答えは出せないわ」

 

「うん、それで良いんだよ。これからキミが考えていくことだからさ」

 

そう言った彼の微笑みはとても眩しくて綺麗に見えて、つい目を細めて彼の言う少しだけ未来のことを想像しながら、用意されてあるコーヒーを飲んでいく。

 

トレセン学園を卒業したなら当然私も何かしらの道を進んでいくのだろう。

走ることを続けるのかどうかは分からないけれど、私は私のやりたいことを探してみるのも良いかもしれない。

 

「これは俺の思うだけでもしも話だけど、昨日のあの子が俺たち2人ともをトレーナーって勘違いしてただろう?」

 

「ええ」

 

「アヤベが良いなら、だけど。……俺と一緒にトレーナーやるか?」

 

その突然の言葉に思わず持っていたマグカップを落としてしまいそうになる。

あまりにも衝撃的な発言だったから、一瞬で思考回路が停止してしまうくらい。

驚きで心臓が止まりそうになってしまうけど、でもすぐに我に返ってなんとか冷静に口を開く。

 

「……私が、あなたと同じトレーナー」

 

そんな彼の言われた未来の光景を頭に浮かべていく。

昨日出会ったあの子が大きくなって、私と彼が一緒になって指導をしながら今度は担当同士っていう目線ではなくて同じ立場になって意見を交換していく。

 

かつての私のように何か悩んで考え込んでいるのなら一緒に支えてあげて。

一緒にレースに出て勝ちたい気持ちを共有して頑張っていく。

そして勝利して見事に1着を取ったときは、みんなと一緒に喜びを分かち合って……。

 

「……」

 

そんな未来も、良いなぁ……。

未来のことを想像したら気づけば自然とまた口元が緩んできてしまって、そんな私の今浮かべている表情が目に入ったのか隣に座る彼も同じように嬉しそうに笑ってくれた。

 

それが嬉しいのと同じくらいに恥ずかしくて。

だからちょっと照れ隠しの意味も含めて、誤魔化すために咳払いを1度だけついた。

 

「私がトレセン学園を卒業したときは、まだ想像もつかないけれど」

 

そう前置きをして、一呼吸置いて言葉を紡いでいく。

 

「それでも1つ言えるのは、きっとどんな道を進んだとしても。……私はあなたの隣にいるわ」

 

「ああ、そうだな。……俺もきっと、そうしてると思うよ」

 

その言葉を聞いてまた彼の顔を見るとやっぱり彼は優しくて暖かくて綺麗な笑顔を見せてくれていて。

それだけで私の心は満たされて、嬉しさでいっぱいになる。

そして何度でも、私ってこの人のことが本当に大好きなんだなって実感する瞬間でもあるんだ。

 

これから先も私たちの進む道はどうなっていくのかは分からない。

だけど私たちは、きっといつまでも変わらずずっと寄り添って歩んでいけるのだと確信できるから。

 

私は安心して、隣に座る彼へと体を預けるように頭を肩に乗せるのだった……。

 



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無理をしないで、私なりの優しさをあなたに『アドマイヤベガ』

最近、仕事中の彼のことが気にかかる。

別に何かとやかく言うつもりはないけれど、それでも少し眠そうな姿を見せたり伸びをしては疲れた顔をしていたりする姿を見ていると、ちょっと心配になってくる。

いつもはこっちのことばかり気にかけてくれるけど彼はどうなのだろう?

ちゃんと休めてるのだろうか、今もこうしてトレーナー室で少し疲れた顔をして机に向かって作業をしている彼を横目に見てそう思わずにはいられなかった。

 

「……ねえ、その、大丈夫?」

 

だからついそんな言葉が口から飛び出して、私はそっと彼に近寄った。

するとその声に気づいたのか、彼は顔を上げてこちらを見るなり笑顔を浮かべると優しい声で話しかけてくる。

 

「えっと、何がだ?」

 

「あなたが少し疲れた顔をしているように見えたから。……それだけ」

 

私がそういうと彼も納得したような表情を浮かべながら苦笑を漏らすと、次は困ったように頬を掻く仕草をしながら口を開く。

 

「あと2つだけ資料を作ったら今日は終わりだからさ。大丈夫だよ」

 

「まだ仕事が?……そう、お疲れ様」

 

「うん、ありがとう」

 

「ねえ、まだ少しかかるみたいだし……お茶でも淹れたら、飲む?」

 

彼の様子を見ている限りだともうすぐで仕事が終わると言ってくれたのでそれならと思ってそう言ってみると、彼は目を丸くした後に嬉しそうに微笑みながらゆっくりと首肯してくれた。

 

「うん、じゃあお言葉に甘えて頼もうかな。お願いするよ」

 

「……なら少し待ってて」

 

それを聞くとすぐに立ち上がってお茶を用意してほんの少しだけ体を休めていく。

 

「はい、どうぞ」

 

「ああ、ありがとう」

 

彼は受け取った湯飲みを口に運んで1つ息をついたことを見届けると自分の分を口につける。

気休め程度にしかならないかもしれないけど、少しでもその疲れが安らいでくれたらいいと思う。

 

「……いつもそんなに忙しいものなの?」

 

「ん~、まぁそんなことはないけどここ最近はちょっと多いかな」

 

「……そう」

 

「こっちのことは気にしないで良いよ。これもアヤベが頑張ってくれたおかげでもあるんだし、むしろ嬉しいくらいだ」

 

「私のため、ね。……その割には最近随分と疲れ気味みたいだけど」

 

「このくらい大丈夫だよ。平気さ」

 

「……」

 

彼のことだから嘘ではないのだろうけど、それで私のせいじゃないと言われても釈然としないものがある。

ただそれを今追及したところで何か変わる訳でもないから、今はただ何かリラックスでもいいからさせてあげたい。

 

「……あっだったら」

 

少しだけ思考を巡らせるとあることを思いついた。

これなら少しは今の彼の気分転換にもなるかもしれない。

 

「……ねえ」

 

「何、アヤベ?」

 

「その、明日は私のトレーニングはなかったはずよね」

 

「そうだね。休日ってことになってるけどそれがどうかした?」

 

彼は不思議そうな顔を浮かべるが別にそこまで難しいことでもないことだから落ち着いて深呼吸をして口を開いていく。

これなら私のためでもあるし、それに彼にとってもきっと悪くないはずだと思うから。

 

「朝練……しようと思ってるの。もしあなたさえ良ければ付き合ってくれないかしら?」

 

そう言ってみると意外にも彼はきょとんとした表情をしてこちらを見たまま固まっていた。

 

「なによその顔は……」

 

予想外に驚かれて思わずジト目で見つめ返すと彼は慌てて手を振った。

なんだかその姿が少し面白く思えたけど表情に出してしまう前に取り繕うように咳払いをする。

 

「まあいいわ。それよりも答えてくれる?……もちろんあなたの負担になるようなら無理は言わないし、断ったって全然構わないわ」

 

「断るなんてそれこそまさか! 休みの日も練習っていうのがなんだかキミらしくて良いと思っただけだからさ」

 

「……ってことは、OKで良いのよね?」

 

「ああ、もちろん!」

 

そう言うと今度は彼も微笑んで了承してくれる。

いつも以上に上機嫌で、まるで子供みたいに嬉しそうにしている彼を見てこちらもつられて笑みがこぼれてしまった。

 

もちろん、この朝練は嘘ではないけれどそれがメインではなくてあくまで口実にすぎない。という事を彼が気付いているかどうかはわからないけど……。

 

「それなら、明日の朝はお願いね」

 

「ああ、楽しみにしてるよ」

 

それでもこうして喜んでくれるなら、悪い気はしなかった。

いつも担当の私のために尽力してくれている彼に、少しくらい返してあげるというのも別に何もおかしいところはないだろう。

 

「いつごろから始めるつもりでいるんだ?」

 

「そうね、少しだけ早めに起きて走りたいと思っているから。6時くらいには起きているつもり」

 

「わかった。なら俺はそれまでに色々と準備しておくとするよ」

 

「ええ、ありがとう」

 

それだけ伝えると私は笑って彼もそれに答えるかのように笑顔を向けてくれて、そんな些細なやりとりがなんだか楽しいと感じると同時に少しだけ照れくさい。

 

「明日を楽しみにしてるよ、アヤベ」

 

ただその気恥ずかしさを誤魔化すようにそっと視線を外した瞬間、不意打ちのような一言を言われてしまう。

 

「……そうね、私も……楽しみにしてる」

 

それは紛れもなく本心であり、同時にどこかで期待していた言葉でもあった。

それを素直に口に出してみるものの、なんだか彼の顔を見るのが照れくさくなってつい顔を逸らしてしまう。

だから私はその頬の熱が引くまで彼と顔を合わすことが出来ずにいて、そろそろ寮に戻らなければいけなくなった頃になってようやくその視線を合わせることが出来た。

 

「まあ、とにかくそういう事よ。明日は遅れたりしたら私も困るし、その……今日くらいはあなたも早く寝なさい」

 

「……ははっ! うん、わかったよアヤベ。俺も今日はもうこれで終わりにして休むことにするよ」

 

「ええ、それが良いわ。そろそろ時間も時間だし私も戻るわね」

 

その言葉に満足すると私はまだほんのりと温かいお茶を飲み干し、立ち上がって寮へと戻ろうとドアノブに手をかけたとき。

 

「……アヤベ」

 

「なに?」

 

「心配かけちゃってごめんな。それと、ありがとう」

 

振り返ると彼の穏やかな顔がそこにあった。

そしてまた少しだけ恥ずかしさがぶり返してきそうになるけど我慢する。

ただその代わりに、せめてこれだけは伝えたいと思って彼の方を向き直して口を開いた。

 

「お礼なんて、いい。私が勝手にしただけなんだから……」

 

少しだけ顔を見つめ合ったら、お互いに笑い合う。

やっぱり少し恥ずかしいとは思いながらも彼の前ではそれも自然に振る舞えてしまうのがなんだか少しだけ楽しい。

 

「それじゃあ、また明日」

 

「ああ、また明日。おやすみアヤベ」

 

扉を閉める間際に見たのは手を軽く振っている彼が居て、私も同じように小さく手を振り返すと少ししてから部屋に戻った。

 

自分の部屋のベッドに入るとそのまま横になって天井を見つつもさっきのやり取りを思い出しながら、少しだけ頬が緩んでしまうけど気にせずそのまま布団の中に潜って目を閉じた。

明日のことを考えてドキドキしながらもその胸の内が暖かいのはきっと間違いない。

それに彼もあの顔からして疲れは溜まってるだろうから、今日のことでそれが少しでも和らげばと願いつつゆっくりと意識を沈めていくのだった。

 

 

 

そしてそれから時間は経ち翌朝になり約束の時間通りに私は起きた。

6時には起きるつもりだったので目覚ましをかけていたものの、セットした時刻よりも余裕をもって早い時間に自然と目が覚めていた。

 

「んんっ……もう朝……」

 

まだぼんやりとする頭でスマホを見ると、デジタル時計は5時半過ぎを表示している。

いつもより早起きした気分になるけれど特に問題はないだろう。

それよりもさっさと支度をしてトレーニングをしなければいけないと気を取り直し、手早く着替えを済ませて外に出られる準備を整える。

昨晩はしっかりと寝られたのでコンディションは問題なく、体の方も絶好調に近い状態だった。

 

「……よし」

 

鏡の前で髪を纏めてから軽く身嗜みを整えてグラウンド場に向かうとまだ日も高く昇っていない早朝のため静かでひんやりとした空気が体を包む。

少しだけ肌寒さを感じながら先に準備運動を始めていけば次第に彼も寒い寒いなんてぼやきながらやって来た。

 

「おはよう、アヤベ。待たせちゃったか?」

 

「別に大丈夫よ。私だって少し前に起きてたからそんなには待ってないし、まだ準備運動終えたくらいだもの」

 

「なら良かった。準備はもう済んでるみたいだし、早速始めていくか!」

 

「ええ、よろしく頼むわ」

 

それから先はただいつも通り黙々とこなして、何か気づきがあればその度彼がアドバイスをくれたりもする時間だけが緩やかに過ぎていった。

 

「……疲れたか?」

 

「いいえ? この程度ならまだまだ平気よ。むしろもっと厳しめでも良いくらい」

 

「アヤベらしいね。うん、キミがそう言うのならそうしよう」

 

「ええ」

 

それからまた無言でトレーニングに励んでいる内に辺りが明るくなり始めて、空からは太陽が顔を出していた。

気付けば結構な時間が経過をしていたようだが、彼も何も言わずにずっと付き合ってくれるのは正直言ってありがたい。

 

「よし、もう時間も時間だしこれくらいにしておこうか。お疲れ様、アヤベ」

 

息を整えながらその言葉を聞けば、後はクールダウンをすればもう終わりとのこと。

 

「それじゃあ機材とかは俺が片付けておくからアヤベも……」

 

「……ねえ」

 

「んっ?」

 

私が声を掛けると彼は振り返ってこちらに視線をくれる。

その顔はまだこれから何かあるのかと疑問を浮かべており、そんな中でも私は彼にこう切り出した。

 

「朝練に付き合ってくれてありがとう。ただその……あなたって、まだこの後は時間あるかしら?」

 

彼の顔を見ながらも言葉を口にするのはやっぱり恥ずかしくてつい俯いてしまいそうになるが、それをぐっと堪えてその目を見つめ続ける。

そうすると私の言葉を察してくれたのかどうかはわからないが、彼の方は首を縦に振ると口を開いた。

 

「今日は特に予定もないし、時間なら大丈夫だよ」

 

「それならもう朝食の時間だし、私がよく行くパン屋へ行こうと思ってるのだけど、一緒にどうかしら?」

 

「それは良いな! 俺も小腹空いてきたところだしキミさえ良いなら喜んで」

 

「なら決まりね。少し着替えとか色々したいからここで待っててくれるかしら?」

 

「ああ、わかった」

 

私が提案すれば彼は嬉々として了承してくれたそのことに内心ホッとし、安堵しつつ私は寮に戻ってシャワーを浴びて汗を流したりした後また戻ってきたのだった。

 

「待たせてごめんなさい、それじゃあ行きましょうか」

 

「いや全然大丈夫、気にしないで」

 

2人で連れ立ってしばらく歩けば目的地であるその店が見えてきて私は足取り軽くそこへ向かう。

中に入るとお店の奥にある厨房の方からは食欲をそそる良い匂いが漂ってくるので否応なしにお腹がすいてくる。

 

「へぇ、こんなところにパン屋さんがあるなんて知らなかった」

 

「……キョロキョロしすぎ」

 

「おっと、ごめんごめん。なんかテンション上がっちゃってさ。つい」

 

「まあ気持ちは分からなくもないけど」

 

そんなやり取りをしながら2人して店内を見て回っていくとそこには色とりどりのパンが並んでおり、どれも美味しそうな香りを放っている。

その豊富な種類に目を輝かせながらどれを食べようかと悩み始める彼の姿はどこか微笑ましくて、自然と笑みがこぼれてしまった。

 

「……あのさ、アヤベのオススメってどれ?」

 

「私の? う~ん……そうね」

 

突然そう聞かれて思わず考え込んでしまう。

ここのお店の商品は基本的に全部好きだけれど、特に好きな物といえば……。

 

「……私ならこれ、かしら」

 

少し商品を眺めて考えた後、指差したのは小さなクロワッサンを指差した。

 

「それじゃあ俺もそれを貰おうかな」

 

「……私と同じもので良いの?」

 

「うん、これが良いんだ」

 

「……そう」

 

彼のその言葉になんだか妙に恥ずかしくなって顔を背けてしまうけれど、そんな私の様子を見てか彼も少し照れくさそうに頬を掻きながら視線を外す。

 

「ええっと、あの席はどうだアヤベ? 周りに人もいないし落ち着いて食べられると思うんだ」

 

そう言って彼が示した場所は窓際の少し静かな場所で、外の様子が見える。

私が騒がしいところがあまり好きじゃないのを気遣ってくれたのかも、なんて思ってしまうのは都合のいい解釈だろうか。

ただ、その優しさが嬉しいことには変わらないから、バレないようにこっそり笑みを浮かべて私は彼と共にその場所へ向かった。

 

「いただきます」

 

向かい合うように座ったあと、いただきますと手を合わせてから早速買ってきたパンに口をつける姿を眺めてしまう。

 

「……どう?」

 

「うん、美味いな! アヤベがオススメっていうのも分かるよ」

 

「そう、気に入ったなら良かったわ」

 

感想を聞きたくて尋ねれば笑顔で返してくれてそれがまたなんとも言えず嬉しくてつい表情が緩んでしまう。

 

「にしても、どこでここ知ったんだ? 俺全然知らなかったんだけど」

 

「大したことはないわよ。自主練で外を走ってるときに偶然見つけて、ちょっと立ち寄ってみたら美味しかったから。それ以来たまに来てるだけ」

 

「なら良い場所を教えてもらっちゃったな。俺も今度また食べに行きたくなったし」

 

「……別にそこまで気にしなくても、あなたも気に入るかもしれないって思っただけだもの」

 

そんなやりとりが何だかくすぐったくて、誤魔化すようにしてクロワッサンを口にする。

 

「朝食を一緒にって言われた時はちょっとだけ驚いたけどさ……」

 

ふとそこで彼は言葉を区切り私の方を見てくるので、私もそれに倣って彼と向き直る。

 

「良いもんだな、こういうのも」

 

「……そうね。騒がしいのは嫌いだけど、あなたとこうして静かに過ごせるなら、悪くないかも」

 

自然とそんな言葉が口をついて出てきて、そしてそれに彼は優しく微笑みかけてくれるから私もつられて微笑み返す。

 

「……」

 

それからは暫くの間お互いに無言のまま朝食を取り続けて、時折目が合えばどちらともなくまた笑みを交わし合ったりしながらゆったりとした時間を過ごす。

そのせいかいつもより食事の時間が長くなったような気がして、それでも嫌だとは欠片も感じないのだから不思議だった。

そうしているうちにいつの間にか最後の一切れを食べ終えたらしくて、空っぽになった皿だけが残っていた。

 

「ごちそうさまでした」

 

手を合わせながら呟いた彼の声が、何故だかやけに大きく響いて聞こえた気がした。

 

「ねえ、1つだけ良い?」

 

「ん、どうかしたアヤベ?」

 

「……少しはあなたの気分転換になれたかしら」

 

「……ああ、なるほど」

 

私の言葉の意味を理解してくれたようで、どこか納得がいったかのように何度か小さく首を縦に振ると今度はしっかりと私の目を見て言った。

 

「なんか、こっちが心配されちゃったか。そんなに昨日の俺は疲れて見えた?」

 

その問いに一瞬躊躇ってしまったのは何と答えるべきか迷っていたからだけれど、変に誤魔化しても意味はないと思ったから私は素直に話すことにした。

 

「そうね。少なくともいつもより元気はなかったように見えたわ」

 

「……えっと」

 

「俺なら大丈夫だから、なんて言うつもり?」

 

図星を突かれたみたいで目を泳がせてから言い淀んでいる様子を見て、私はついため息をついてしまう。

 

「あなたの考えそうなことくらい想像がつくの。……本当に、もう」

 

「そっか、じゃあ俺何も言えないな。……ありがとう、アヤベ」

 

「……どういたしまして」

 

結局彼らしいといえば彼らしいけれど、そんな答え方に少し呆れてしまいそうになる。

でももしも逆の立場なら私だって人のことはあまり言えなくて、きっとお互い様ということなのだろう。

それがなんだか可笑しくなって、思わずクスリと笑ってしまえばつられるように彼にも笑顔が戻る。

 

「やっぱり、キミには敵わないな」

 

「それはお互い様でしょう?」

 

「そうかもね」

 

そうして2人で笑い合っていればまるで私たちしかいないんじゃないかと勘違いしてしまうぐらいに周りの音は消えていて、とても心地の良い時間が流れていく。

静かだけれど決して不快ではなく、むしろ店内へ届く暖かな日差しと相まって気持ち良さを感じるほどだった。

 

こんな時間をもっと過ごしていたかったけれど残念ながらそんな時間は終わりを迎える。

 

「流石に食べ終わったのにずっといるのはお店にも悪いし、そろそろ帰ろうかアヤベ」

 

「……ええ、そうしましょう」

 

名残惜しくはあるけれど仕方がない。

それにまだ学園に行くまで少し余裕があるのだし、それまではゆっくり出来るのだから今はそれで満足することにしよう。

席を立ってトレーを返却口に持っていき、私たちは会計を済ませてから店を後にすると、そのまま特に会話を交わすこともなく2人分の足音だけが響いていく。

 

いつも通り2人揃って歩いていく小さな歩幅。

けれど今の私にはなぜだかとても、いつもより小さく感じる一歩だったような気がした。

 

「あのさアヤベ、今日のお礼っていう訳じゃないけど。今度は俺おすすめの場所とか教えたいんだけど、どうかな」

 

「それなら別に、今日のことなら私が勝手にやってるだけよ。あなたからわざわざお返しされるほどのことはしていないわ」

 

「それでも俺の自己満ってことで。だからさ……」

 

そこで言葉を切ってこちらを見つめてくるので何かと思い彼の顔を見上げれば目が合ってしまい、途端に頬が熱を帯び始める。

そのせいできっと、私の顔色は耳や尻尾だけでなく表情からも明らかに真っ赤になってしまっているんだろうと思うと余計に恥ずかしくなってきてどうしようもないのに、なぜだか顔を背けることができないでいた。

 

その状態がどのくらい続いたのか分からないけれど私の心臓の鼓動がだんだんと強く、速くなってきているのが自分で分かるほどになってからようやく彼がその優しい微笑みを崩さないままゆっくりと言葉を続けていく。

 

「良かったら今度また、今日みたいに付き合ってくれないか? 俺と一緒に」

 

……何よそれ。ずるい言い方。

そんなふうに言われたら、断れるわけないじゃない。

それに本当は、心の奥底ではこの誘いが嬉しくて堪らない自分が確かにいることも自覚している。

それは私もきっと彼と、この2人の時間を同じように気に入っているからなんだろうと今の私にははっきりと分かるから。

 

「……そう、ね。そのときはまた……よろしく」

 

そうして精一杯素っ気ない態度で返せば彼は少しだけ驚いた顔をした後で、けれどすぐに嬉しさを隠しきれないといった様子で笑う。

そして私はその表情を見てまた心臓が高鳴っていくのを感じながら、それを必死に抑えて冷静さを装うのだった。

 

するとそんな私の様子がおかしかったのか彼の方からクスクスと笑い出す声を聞いてしまったので、どうせ私のことなんて全てバレているのだろうと半ば諦めつつチラリと横目で見てみれば、やはり彼は楽しげなままどこか愛おしそうに視線をくれた。

 

「……また次出かける時は、あなたもちゃんと疲れを取っておきなさい。今度はあなたの行きたいところに連れて行ってくれるんでしょう?」

 

「ああ、もちろん! もう大丈夫だよ!」

 

「……どうだか、また無理をしないとも限らないでしょう? あなたのことだもの」

 

「ははっ、そうかもね。でもそれはお互い様だろ?」

 

「……そうね」

 

「それにさ、お互いまた無理をしそうになってもちゃんとどっちかが気づくから大丈夫だよ。……今日のアヤベみたいにさ」

 

そんな自信たっぷりに笑いながら言うものだから、私は何も言い返すことができなくなってしまう。

実際彼の言う通りになってしまう予感がするからこそ尚更。

 

だってこんなにも私は、彼のことばかり気にしてしまっているから。

なんて思うほどにはお互いにきっと、この距離感が一番心地良いと感じてしまっているのだろうし、これからもそれを変えることはないのだろう。

それが心地良くて、楽しくて、いつまでも続いて欲しいから。

 

「……なら、約束よ」

 

「ああ、約束だ」

 

差しだした小指に、そっと彼の小指が絡められた。

ただそれだけなのに不思議とそれだけで満たされた気持ちになってしまう。

彼の優しさが、彼の温もりが伝わって来るようで。

きっと彼も同じように思っていてくれたらいいなと思いながら私はまたゆっくりと歩き続ける。

 

さっきまではもうこの時間が終わってしまうのが名残惜しくて小さくなっていったこの歩幅も、今ではむしろ早く進んでしまいたいという想いの方が強くなってしまっていて。

 

そんな幸せを胸に抱えながら。

私は、今日も彼の隣を歩いていく。

 

 



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ナイスネイチャ
いつもより綺麗にできたメイクをトレーナーさんに見て褒めて欲しいナイスネイチャ


ポカポカと温かい日差しが自室を照らす朝のこと。

もはや慣れきった隣のベッドから聞こえるマーベラスという大音量の目覚ましにまだ寝ていたいと無駄に抵抗しながら、あくびをしつつ体を起こす。

その後はゆったりと移動して目を覚ますため洗顔と歯磨き、勿論スキンケアも済ましある程度の身支度が済むと今度は化粧台の前へと座り込む。

 

毎日のことだけどちょっとめんどくさいな〜なんてぼんやりと考えながら、鏡に向かってメイクを始める。

今日はどんな風にしようかな、まあでもいつも通りにナチュラルメイクでいいか。どうせ誰もネイチャさんのことみんなそこまで気にしないでしょ。

そんなことを思いながら下地を手に取り肌に乗せ、薄く伸ばしていく。そしてあとはもうファンデーションを付けたらお終いかなと鏡に目を移したときだった。

 

「……あれっ」

 

メイクをしていた手が、つい止まって鏡に映る自分の姿に釘付けになった。

別になにか変わったことをしたわけじゃないけど、それなのになぜだか鏡に映る自分がいつもより可愛く思えた。気のせいかもしれないけれどなんだか気分が良くなって思わず口角が上がる。

 

「よし、せっかくだしもう少しだけ頑張っちゃいますか!」

 

そう意気込んでナチュラルメイクに済ますつもりだったがちょっとだけ、ほんとちょっとだけ気合を入れて普段なら使わないちょっとお高い物も使って再びメイクを再開していく。

するとどうだろう、まるで自分がスタイリストにでもなったのかと勘違いするほどに先程までよりもグッと上手くいった気がする。

うん、悪くない感じ。これならちょっぴり大人っぽく見えるかも?

 

「へへっ……」

 

さっきまでとは打って変わってテンションが上がったアタシは何度も鏡を見てはその出来に頷いて満足感に浸り続ける。そしてメイク道具を片付けていく最中、ふと頭の中である思いがよぎる。

 

ひょっとして今日のアタシならトレーナーさんも綺麗って思ってくれたりなんかして………。いや、いやいや! 流石にそれはないか!

 

頭によぎる褒めてくれるトレーナーさんの姿を無理やりかき消して、大きなため息を吐きながら苦笑いを浮かべて頭をぶんぶんと左右に振る。

朝から何を考えてるんだアタシは……。

 

「……でも、どうせなら……今のアタシを見てほしいな」

 

誰にも聞こえないようにボソッと呟いたその言葉が自分の耳に入った途端、急に恥ずかしさが込み上げてきてそれを忘れるように慌てて部屋を出ていく。

 

廊下に出てもモヤモヤとした気持ちは消えず目的もなくただ歩くこと数分弱、なぜか無意識に歩き続けたアタシの足はトレーナー室の前で止まっていた。

 

「……」

 

今、彼は居るだろうか……。

自分でも言い難い期待感に胸を膨らませてそのまま立ち尽くすこと少し、意を決してドキドキとうるさい心臓の音を聞かないふりをしつつトレーナー室のドアノブに手を掛ける。

 

けれどそのドアが開くことはなく、中に誰かがいる気配もない。

こんなときに不在なんてタイミングが悪すぎでしょ。せっかく振り絞った勇気を無駄にされたような気がしてもやもやしながら仕方なく来た道を戻ることにした。

 

「あはは、何やってんだろアタシ……」

 

結局そのまま学園内をフラつき、ベンチに座ってボーッとしている時間だけが増えていく。

そして始まる自己嫌悪の時間。せっかく綺麗にできても見せたい相手がいないんじゃどうしようもない。今となってはなんであんなこと考えたのか分からないけど、今更後悔したところでもう遅い。

 

それにもし本当にあの人が見てくれていたとしても多分迷惑になるだけだよね……。

 

「はぁ……」

 

また何度目かのため息が漏れる。

この調子だときっと今日一日中はずっとこのままだろうな〜。

そんなことを考えながら視線を上げると、遠くの方で会話に花を咲かせている二人組の男女のトレーナーさんたちの姿が見えた。

 

目を凝らしてよく見ればスーツ姿の女性がもう片方の男性に教えを説いてもらっているらしい。まだ新人さんなのか聞いてはメモを取ってる姿がどうも初々しい。

そしてニコニコと女性に質問される男性トレーナーさんも中々隅に置けない人ですなぁ、とそちらに注目する。

 

「ん? あの人なんだか見たことあるような……」

 

男性トレーナーさんのほうを注目して見ていけば整えられた黒髪。ちょっとだけよれよれのスーツを着た、何より幾度となく見たことのある優しく笑顔を向けてる人。

 

「……アタシのトレーナーさんじゃん!」

 

思わず声が出てしまい慌てて口を塞ぐ。

そして恐る恐るもう一度2人の様子を窺うと、アタシのトレーナーさんは声が聞こえたのか何度かキョロキョロと周りを見渡すが見つけられなかったようで次第に諦めたのか楽しげに会話を再開し始めた。

 

そのことにほっと胸を撫で下ろしてから再びじっくり観察するとやっぱり間違いない。アタシの担当トレーナーさんだ。

まさかの事態に頭が混乱して思わず隠れてしまう。まさかこんなところで出会うなんて予想外にもほどがある。けれど好奇心は抑えられず余計に2人から目が離せない。……あっトレーナーさん笑ってる。

 

「なんか……仲良さそうだなぁ」

 

2人の様子を見ていると自然とそんな感想が出てきた。

そりゃあ担当ウマ娘がいるからトレーナーさんはみんな女性と接する機会は多い。けれどだからといってあんなに親密そうな雰囲気でトレーナーさん同士も交流するものなのだろうか。

 

まあ、アタシから見てもお相手さんは綺麗な人だと思うけど。

ひょっとして、トレーナーさんはああいう子がタイプだったりするんだろうか。

 

「てか盗み見って気まず……邪魔しちゃ悪いし、今日はもう諦めよっかな……」

 

なんだか余計にもやもやした気持ちのまま立ち上がるとそそくさとその場を離れたくて仕方なかった。楽しそうに話すあの人の姿を今だけは見たくなかった。

 

一人で盛り上がってなんかバカみたい。せっかく綺麗にできたメイクも見せることもできないなんて、それどころか勝手に落ち込んでる自分が嫌になる。

ただ綺麗だねって褒めてほしかっただけなのに。トレーナーさんの阿呆。

 

そんなことを考えると涙が零れてきそうになる、でも泣いてる場合じゃない。

早くここから離れないと。これ以上ここにいたらもっと辛くなる気がするから。

後ろ髪を引かれながらも足早に立ち去ろうとすると、突然目の前に自分じゃない誰かの腕が伸びてきた。

 

「えっ?」

 

思わず立ち止まる。そしてゆっくり顔を上げて前を見るとそこには少し急いできたのか肩で息をするアタシのトレーナーさんがいた。

 

どうして、と問いかけようと口を開くが言葉にならない。

だってアタシが聞きたいことはいっぱいあったから。

 

どうしてこんなところにいるんですか。

いつから見てたんですか。

アタシのこと気づいてましたか。

なんでさっき話していた女の人とじゃなくてアタシの方へ来たんですか。

なんでさっきあんな笑顔を見せていたんですか。

アタシよりあの人の方がいいんじゃないですか。

言いたいことが山ほどあって、だけどそれを口にする勇気がない。

 

「……ト、トレーナーさん? どうしてここに」

 

「どうしてって、ネイチャの声が聞こえた気がしたから」

 

「……」

 

「一回気のせいとも思ったんだけど嫌な予感がしてさ。それでもう一度探したら、泣きそうなネイチャを見つけて、俺もう大慌てで心配になって追いかけて来たんだよ」

 

「……アタシの声、気づいてたんだ」

 

思わずそんな小さな独り言が漏れた。

きっと彼には聞こえていない、いや耳に入ってすらいないのか。先ほどからずっとアタシを心配する目で見つめてくる。

 

「何か悩み事でもあるのか? あるなら言ってほしい、俺ができることなら力になりたいんだ」

 

「別に何もありませんよ。ちょっとメイクが上手くいかなかっただけです」

 

「……嘘つけ」

 

その一言でアタシはビクッと体を震わせる。トレーナーさんはアタシの顔を見るなり、はぁ〜と大きなため息を吐いた。

あぁ、バレてる。アタシが無理していること。いつもは鈍感なくせにこういう時に限って鋭いんだから。

 

「ネイチャ、とりあえず座って話そうか」

 

そう言われて再びベンチに座り込むアタシだけど、もう誤魔化せないと思ったアタシは何も言わずにずっと下を向く。するとトレーナーさんもアタシの隣に座って頭を撫でてくる。

優しい手つきで頭を撫でられると不思議と心が落ち着く。こんなことで安心してしまうアタシは単純だなと思うけど、それだけトレーナーさんのことを信頼しているんだろう。暫くの間頭を撫でられた後で、ふいにトレーナーさんの手が頭から離れる。

 

「なぁ、ネイチャ。俺はさ、確かに女性と話したりすることは多いけどそれは仕事上の付き合いっていうか、そういうのでしかないから。だからネイチャが気にするようなことは一切ないよ」

 

「……」

 

「都合の良いことを言ってるのは分かってる。でもネイチャを不安にさせたくないんだ。……その、どうしたらキミは信じてくれる?」

 

トレーナーさんは真剣な表情を浮かべながらそう言った。

気づいてくれた嬉しさと心配させてしまった申し訳なさに心がいっぱいになりながらゆっくりと彼を見て、絞り出すように言葉を口にする。

 

「……それじゃあ、その……1回だけチャンスをあげますね」

 

「うん」

 

一度深呼吸をして大丈夫大丈夫と自分の心に言い聞かせて気持ちを落ち着かせる。今から言うのはきっとずるいことだけど、アタシにはこれくらいしか思いつかないから。

 

「えっとですね、今日のアタシはいつもと違う場所があります。それはどこでしょうか?」

 

アタシの言葉に首を傾げるトレーナーさん。

アタシはその答えを知っている。だからこそ、トレーナーさんの反応を楽しみにしている自分がいて、求めている言葉を言ってくれることを期待している。

無理に貴方に言わせてしまうようで少し胸が苦しいけど、それでも言ってほしい。

はっきりと言葉に出す勇気なんてないからこんなずるい手段でごめんね。アタシが欲しい言葉、それを聞かせてほしい。

 

ドキドキしながら待っていると、トレーナーさんは少し考える素振りを見せた後に口を開いた。

 

「……メイクかな。今日のキミはいつも以上に綺麗だと思うよ」

 

「……正解です……でも、なんでわかったの?」

 

「ずっとキミを見てきたから」

 

「そっか」

 

「うん」

 

……思った通り、彼はアタシの欲しい言葉をかけてくれた。

たまたまうまくいっただけかもしれないメイク、でも自信があった。

綺麗だと褒めてもらえたら素直に受け止められる気がするほどに。

 

そしてトレーナーさんはアタシのメイクが変わったことにすぐ気づいた。それがこの人は思っている以上にアタシのことを見てくれていて、アタシのことを大切に想ってくれていることがよくわかる。

 

うん。それがわかってしまうと、もうダメだった。

ずっとずっと、彼のその一言を待ち望んでいたから。

嬉しい。悔しい。恥ずかしい。愛しい。そんな色々な感情が混ざったような気持ちが溢れてきて、抑えきれない。

我慢できなくなって、気づけばアタシはトレーナーさんの胸に顔をうずめていた。突然の行動にトレーナーさんは驚いている様子だけど構わず抱きしめ続ける。

 

「ごめん。今だけで良いからもうちょっとこのままでいさせて」

 

「……ああ」

 

トレーナーさんの体温を感じながら、自分の鼓動が速くなっていくのを感じる。

あぁ、どうしよう。このままじゃアタシ、心臓がもたないよ。

 

暫くの間、お互い何も言わずにただ抱き合っていた。

どれくらい時間が経っただろうか、アタシはゆっくりと顔を上げる。

トレーナーさんの顔を見ると何とも言えない顔をしながらアタシを見つめてきた。

 

「トレーナーさんの顔、真っ赤だね」

 

「そりゃそうだろ……急にあんなことして……」

 

「嫌……だった?」

 

「嫌じゃない、嫌なわけがない。むしろすごく嬉しかったし、安心したよ」

 

「良かった……」

 

「なあ、ネイチャ」

 

「何、トレーナーさん?」

 

「改めてそのメイク、キミに似合ってるよ。凄く可愛いと思う」

 

「っ!……うん、ありがと」

 

そんな風に言われるとやっぱり照れ臭くて、アタシはまたトレーナーさんの胸に顔を埋めた。

ああ、やっぱり彼の言葉は安心する。心の底から嬉しくて幸せになれる。

きっとアタシはこの先もこの人に恋をするのだと、そう思えるくらいに。

 

今なら、素直に言えるかな。捻くれた言葉じゃない、アタシの素直な気持ち。

 

「ねえトレーナーさん、大好きだよ」

 

返事は返ってこなかったけど、トレーナーさんはアタシの背中に手を回して優しく抱きしめてくれた。今はそれだけで十分。アタシは彼に身を委ねるように体を寄せると、そのまま目を閉じた。

 

今だけは、この幸せな時間を堪能したい。

 



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帰り道に偶然トレーナーさんと出会って手料理を振舞うナイスネイチャの話

キラキラ輝いてる周りのみんなを、アタシはただ見つめてるそんな毎日。

追いつこう追いつこうと思ってもどうしても後一歩が届かないのに、それでもアンタはアタシの側に居てくれていつも勝手にこう言うの。

「大丈夫、キミは負けない」ってね。

 

その言葉を聞く度に思うんだ。

ああ、この人はきっと本当にアタシのことを信じているんだなってさ。

だから、アタシもやる気が出たしその想いに応えたいと思って走り抜けたらいつの間にか三年間なんてあっという間に過ぎ去ってアタシには上出来すぎるくらいの結果も着いた。

 

でも、アンタはきっと知らない。

アンタの何気ない言葉一つ一つで感じるこの胸のドキドキを。

隠しても隠しても出てきちゃうこの気持ちの正体を。

誤魔化せば誤魔化そうとするほど、その想いに改めて気付かされるどころか日に日に溢れていく。

姿が見えたら気になるし、無意識に視線でアンタを追いかけてる自分がいる。

 

例えば、そう。

帰り道に偶然アンタと出会ったとしたら。

そのときのアタシはきっと表に出さずに平静を装っているけど内心は心臓バクバクだったりするわけで、言葉では伝えられないかもしれないけれどきっと幸せを感じているのだろう。

 

だって仕方ないじゃない、好きになっちゃったんだから。

 

 

 

少し夕方に差し掛かって来て気温も丁度良くなってきたころ。

アタシはエコバッグを片手にいつもの商店街へ買い物に来ていた。

 

「おっちゃ〜ん! その美味しそうなところ、一つくださいな」

 

「あいよっネイちゃん今日も目の付け所が良いね!」

 

「へへ、そりゃあね~♪」

 

商店街のおっちゃんやおばちゃん達とはもう顔馴染みで気軽に声をかけてくれるから嬉しい限りだね。

購入したお肉をエコバッグに入れて、親切におまけして貰った肉屋のおっちゃん特製のコロッケを一口つまみながら歩きだしていく。

 

うん、相変わらず絶品ですわぁ……。

 

「さーて、後は八百屋のおじさんのところで野菜を買ってっと……」

 

頭の中でこれからの行動を思い浮かべながら歩いていた時だったかな?

ふと目の前に見知った背中を見つけて思わず足を止めてしまうアタシがいた。

 

「あれは……トレーナーさん?」

 

じっと見渡すように目を細めて見てみれば、服はいつものスーツではなくラフな私服姿だけど間違いなくトレーナーさんの背中があった。

少しだけ普段見れない姿に新鮮味を感じると共にこんな所で何をしているのか、どうせなら一緒に歩きたいかもなんて思いながらも声を掛けようとして近づこうとしたんだけど……

 

「……あはは、流石にこの格好じゃ無理だよねえ」

 

思わず今の自分の姿を確認して苦笑いを浮かべて彼から見えないよう道の隅に隠れてしまう。

だって今のアタシの服装ときたら、上はTシャツの上にパーカーを羽織り下はジャージ。靴に至ってはスニーカーという完全に近所まで遊びに行く時のスタイルなんだもん。

 

いやまぁ一応可愛いと思ってるんだけどね、でも流石にトレーナーさんの横に並んで歩くにはちょっと恥ずかしいっていうか……。

 

「うぅ、折角会えたのに……」

 

会えると分かっていたのなら、せめてもう少しマシなオシャレな服を着てきたのにと後悔してしまうアタシがいる。

そりゃあまあ、他のキラキラした子に比べたらアタシなんて見劣りするかもしれないけれど、それでももっと可愛く見られたかったなって思ってしまう訳ですよ。

アタシだって一応女の子ですから。

 

「……まっ今回は諦めますかぁ」

 

肩を落としつつも小さくため息を吐いて再び歩き出す。

まあ別に急いで会う必要も無いし、また今度でいいよねと思い直しながら歩こうとしたそのとき。

視線の先にいる彼が急に立ち止まったかと思うと、一直線にこちらへ振り返ってアタシとの視線が重なった。

えっなんで!? って慌てて物陰に身を隠そうとしたけれど時すでに遅し。

彼はそのままこちらに向かって歩み寄ってきたのだ。

 

「おっ! 良かった、やっぱりネイチャだったか」

 

「うぇっ!? ト、トレーナーさん……どうしてここに?」

 

「ん? ああ、それは……」

 

アタシの質問に彼は自分の右手でアタシの尻尾を指差して、こう一言告げる。

 

「ネイチャの尻尾、ずっと見えてた」

 

その言葉を聞いた瞬間、全身の血が沸騰するように熱くなった気がして咄嵯に両手で顔を隠してしまった。

そんな分かりやすい反応をする自分が情けなくて、そしてそれを全て見られていたという事実が更に羞恥心を煽ってきて。

 

「恥っず、嘘でしょアタシ……。うわぁ、穴があったら入りたい……」

 

「まあまあ、そう落ち込むなって。俺は別に気にしないぞ?」

 

「アンタが良くてもこっちは良くないんですけど……」

 

顔を覆う手をどけてチラリと視線を向ければ、彼はアタシの気持ちなど露知らずに笑顔で微笑んでいた。

 

「ごめんごめん、悪かったよ。……それにしてもネイチャは買い物帰りなのか? 随分大荷物だけど」

 

「あーうん、まあそんなとこ。色々買っておまけとかもらってたらついね。……ってかトレーナーさんこそこんな時間に何してんのさ?」

 

「俺も商店街の方に用事があってさ、丁度帰るところだったんだよ。そしたらネイチャを見つけたってわけ」

 

「ふ~ん、そうだったんだ」

 

偶然とはいえ会えて嬉しい反面、先程までの醜態を見られていた事実を思い出して素直になれない自分がいる。

ホントは嬉しい癖に、変な意地を張ってどうすんだよって話なんだけどね。

 

「あ、そうだ。もし良かったら家まで送っていくよ。この時間帯だとまだ人通りも少ないし危ないだろうから」

 

「……へっ?」

 

突然の言葉に思考停止してしまい、間抜けな声が出てしまう。

しかしそんなことはお構いなしに彼はアタシの手にあるエコバッグをひょいと奪い取って歩き出してしまった。

 

「ちょ、ちょっと待った! いやいやいや! アタシ一人で帰れるから大丈夫だって!」

 

「遠慮するなって、荷物持ちなら任せろ」

 

「いやだからそういうことじゃなく……!」

 

アタシの制止の声は虚しく彼の耳には届かないようでどんどんと進んでいき、お互いどっちも譲らないこの状況に彼は一度微笑んだ後にアタシの目を見て言う。

 

「俺がこうしたいんだ。ほらネイチャ、一緒に帰ろう」

 

さも当然の様に伝えられたその一言。

けれどその一言にアタシは何も言えなくなってしまい、暫く呆然とした後ただ俯いて無言のまま彼に付いていくしかできなくなったアタシは結局そのまま押し切られるようにトレーナーさんと一緒に帰路に着くことになった。

 

だってしょうがないじゃん。

あんな風に優しく言われたら何も言い返せないって。

 

「……」

 

隣同士を歩きながらアタシは横目で彼を見つめてみる。

普段着のせいか少しだけ雰囲気が違うように感じられて、いつも以上に目が惹かれてしまうのは気のせいではないはず。

でもやっぱり恥ずかしくて視線はすぐに逸れてしまい、そして再びチラッと視線を向けると今度は彼と視線が重なってしまい慌てて目を伏せた。

 

「……ネイチャ、どうかしたのか?」

 

「べ、別になんでもないです……」

 

「そうか? ならいいんだけど」

 

アタシはこんなにもドキドキしているのに彼は平然としてそんなことを言う。

不思議そうな表情を浮かべている彼だけどアタシからすればどうして分からないかなぁという気持ちしかない訳で、ため息が一つくらい出ても仕方ないよね。

 

「それで、あとは何を買いに行くんだ?」

 

「ええっと、後は八百屋で野菜をいくつか買ってお終い……かな」

 

「よし分かった。それじゃあ早く行こうか」

 

そうして偶然の出会いからアタシたちは少しだけ遅い歩幅で歩いて行く。

歩き慣れたはずの商店街の道のりが今日だけはなんだか特別で。

こんなことを思うガラじゃないけど、彼といると周りに映る光景全てが輝いて見えているようで思わず笑みがこぼれてしまった。

 

「良い表情だね、ネイチャ」

 

「……へっ?」

 

「ああいや、今笑ってただろ? それが凄く良い笑顔だと思ってさ」

 

「あ、あはは、そりゃどうも。……いやでもアタシの笑顔なんて大したことないでしょ……」

 

ああ、せっかく褒めてくれているのに。

どうしてこう素直に受け取れないんだろうと自分に呆れて、そんな自分を誤魔化すために乾いた笑いを漏らす。

するとそんな気持ちが伝わったのか、まるでアタシの心を見透かすかのようにいつもの優しい口調で彼は言う。

 

「そんなことは無い、キミの笑顔はいつ見ても素敵なものだ。それは俺が一番良く知っているつもりだよ」

 

「……ッ!?」

 

それは、反則だ。

そんなことを言われてしまったら、もう何も言えないじゃないですか。

 

不意打ちのようなその言葉にアタシは息を呑んでしまう。

胸の鼓動が速くなっていくのを感じてアタシは必死に気持ちを落ち着けようと深呼吸を繰り返すけれど、それでも収まる気配はなくむしろ加速していく一方であった。

 

「またアンタはそうやって……。ホントに大バカで、優しくて、ズルい……」

 

こんなにもアタシの心をかき乱してくるのに、当の本人は何食わぬ顔で歩いているのが何とも憎らしい。

でも彼の言葉が嘘じゃないってことはアタシ自身が一番分かっているからこそ、こうしてただただ小さく呟いて抵抗することしか出来なかった。

 

「……」

 

それから少しの間お互い無言の時間が続いていくと程なくしてやっと八百屋に辿り着いて買い物を終える。

店を出る頃には空は既に暗くなっており、街灯がぼんやりと光っていた。

 

「さて、これで全部揃ったしそろそろ帰るとするか」

 

「うん、そうだね」

 

そしてアタシたちは彼と二人きりだからか周りのみんなから冗談半分で揶揄われながらも商店街を抜けてのんびりとした時間を過ごしながら帰路につく。

 

けれど向かうのは今日はトレセン学園寮ではなく、久々に実家。

鍵を取り出して玄関を開けると家の中はしんとしており、まだ誰もいないことが伺えた。

アタシの家の前で立ち止まると、彼はアタシの手にあるエコバッグを持ち上げて 「はい、これ」と言って渡してきた。

 

「あ、ありがと……」

 

「どういたしまして。じゃあ俺はここで。またなネイチャ」

 

そう言って背を向けた彼にアタシは咄嵯に声をかけてしまう。

 

「ま、待って……!」

 

「ん? どうかしたか?」

 

しかし声をかけたはいいものの、何を言えばいいのか分からず口籠ってしまう。

このまま帰したくない。もっと一緒に居たい。

そう思うのに、いざ口にしようとすると恥ずかしさが勝って上手く言葉が出てこなかった。

 

「えっと、その……」

 

時間が経てば経つほど口は固く閉ざされていくようで、どうしようどうしようと迷っているときだ。

アタシの視線はキョロキョロと動き、先ほどまで買い物してたエコバッグが目に入る。

 

「あ、あのさ! 良かったら上がっていかない? 晩御飯まだ食べてないよね?」

 

気付いた時にはそう言い放っていて、自分でも正直驚いてしまった。

けれど一度口から出てしまったものは取り消せないわけで、アタシは内心ドキドキしながら彼の返事を待つ。

 

「いやでも流石にそこまでは……。ああいや、うん。そうだな……」

 

最初に少し断ろうとしていた彼だったが、その言葉の途中でアタシの顔を見て何かを察したらしく一人納得したように呟く。

 

そのとき一体アタシはどんな表情をしていたんだろう?

なんて思ったけどきっと聞かない方がいいやつかもしれない、なんて思いながらアタシは彼の答えを静かに待つことにした。

 

「……分かった、それじゃあお邪魔させてもらおうかな」

 

「ほ、ほんとに?」

 

「ああ。ネイチャが折角誘ってくれたことだしね」

 

そう言って彼は優しく微笑む。

それに釣られてアタシも平然を装って笑みを浮かべるけど、内心では喜びでいっぱいだった。

もし一人しかいなかったら思い切りガッツポーズを決めていたことだろう。

 

「じゃあ入って、トレーナーさん」

 

アタシは玄関の鍵を開けると彼を先に中へと誘導して扉を閉める。

そして振り返るとそこには彼がいて、アタシの顔を見て笑みを見せていた。

たったそれだけのことなのに、心臓がドクンと跳ね上がる。

まるで少女漫画の一コマのようにアタシはドキドキしながら彼と一緒に家の中に入っていき晩御飯を準備するのだった。

 

「それじゃあすぐ用意するから、席に座って待ってて」

 

「分かった」

 

アタシはキッチンに入ると買ってきた食材を取り出し、慣れた手つきでテキパキと調理を始めていく。

その間はずっと彼のことが気になってチラリと様子を伺うと、大人しく椅子に腰掛けていた。

 

「ふぅ……」

 

アタシは自分の気持ちを落ち着けるために一度大きく息を吐くと今度は自然と笑みがこぼれてしまった。

彼がテーブルについてアタシの料理を待つ。

ただただそれが嬉しいなんて思ってしまっている自分がいるなんてさ。

 

「よし、出来た……かな」

 

料理が完成してお皿に盛り付けているといつの間にか彼が近くに立っていてアタシの手元を見ると感嘆の声を漏らす姿があった。

 

「おお、美味しそうなハンバーグだな!」

 

「そりゃどーも」

 

本当は褒められる度に照れ隠しに素っ気なく答えちゃってるけどそれでも喜んでくれているのは確かで、それが嬉しかったアタシは思わずニヤけそうになるのを堪えながら彼に出来上がったものを渡す。

 

「はい、召し上がれ」

 

「ありがとう、それじゃいただきます」

 

わざわざ律儀に手を合わせてから箸で掴んで一口食べる。

対面に座るアタシは黙々と食べるその姿をテーブルに膝を立てて頬杖を突きながら見つめていた。

 

「……おいし?」

 

何となしに聞いてみたアタシのその言葉はとても幸せそうに食べてくれてる大好きな人を見て無意識のうちに漏れたもので、自分でも分かるくらいに甘い声色になっていた。

するとゆっくり味わっていた彼は顔を上げて、どこか安心したように穏やかな顔を見せて満足げに一言呟いた。

 

「うん、美味しいよネイチャ」

 

「へへ……そっか」

 

アタシはその言葉を聞くと、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えると共に顔が熱くなる。

 

もう、どうしてこの人はこうも簡単にアタシを喜ばせるようなことを言うのか。

あなたの一言一言にこんなにもアタシは翻弄されているというのに。

アタシは火照りが治まるまで少しだけ彼に今の自分の顔を見られないように顔を手で扇ぎつつ、自分の分を食べ始める。

 

会話の量はそれほど多かったわけではないけれど、それでも。

それでも彼と過ごせる時間がアタシにとっては大切なもので、その時間を共有できているということだけで幸せを感じることが出来るのであった。

 

「ごちそうさま。流石ネイチャ、凄く美味しかった」

 

「どういたしまして。まあネイチャさん特製のハンバーグでしたからな〜」

 

冗談っぽく言いつつも、実際彼が食べてくれた料理には結構気合を入れていたので内心かなり嬉しく思っているからか少しだけ上機嫌になりながらそう返すと彼も笑顔を浮かべて冗談っぽく返してくれる。

 

「ははっ! それ、自分で言うか?」

 

「あはは、確かにそうかもね」

 

アタシたちはお互いに笑い合い、食後のひと時を過ごしていくとどんどん時間は過ぎていってそろそろ彼も帰るというときになった頃。

ただこうして二人で居る時間が楽しいと思う反面、心のどこかではもう少し一緒に居たいと思っている自分が居た。

でも、だからと言って何かが出来るわけでもないアタシは何も言えずにただただ時間だけが過ぎていくのを感じていた。

 

「今日はありがとねトレーナーさん。買い物手伝ってくれただけじゃなくてアタシのわがままにも付き合ってくれてさ」

 

食事を終え食器類を流し台まで運ぶと、彼が帰り支度を始める前にアタシの方から先に話を切り出したのは、こうやって少しでもいいから話をすることで別れが少しだけでも遠のいてほしいと思ってしまったという理由もほんの少しだけある。

そんな小さな願いを叶えてくれたかのように彼は笑顔を浮かべて首を横に振ってくれた。

 

「いや全然気にしないでくれ。ネイチャとの買い出し楽しかったからな」

 

「またまた~、冗談ばっかり」

 

「本当だよ。ネイチャと一緒ならどこに行こうが何をするにしても楽しめる自信があるぞ」

 

「……」

 

本当にこの人は。なんでこういうことをサラッと言えるのかなぁ……。

しかもそれが決してお世辞とかそういうんじゃないっていうのが一番困るんだけど。

 

「じゃあさ、今度また……」

 

アタシはつい口から出かけてしまった言葉を慌てて飲み込む。

一緒に遊びに行きたいとか、次はどこに一緒に行ってくれるんだろうとか、そういった言葉を思わず言いかけたのだ。

でも、流石にそこまで甘えるわけにはいかないとアタシの理性がストップをかける。

 

「……ネイチャ」

 

しかし彼はアタシが途中で止めた言葉の続きを察してくれたようで優しい声でアタシの名前を呼ぶ姿にハッとして俯いていた顔を上げるとそこには穏やかな表情をした彼がいて、アタシは目が離せなくなっていた。

そして彼が次に発するであろう言葉に期待を寄せて待つと、やがてゆっくりと口を開く。

 

「俺で良ければいつでも誘ってくれて構わないからな」

 

「……ッ!」

 

もう一度だけ一緒に、ではなくまた何度でも一緒に誘ってくれていいというその発言はアタシが望んでいた言葉とは違ったけれど。

 

だけど、それでも。

それでもアタシが望んでいる答え以上のものを彼は口にしてくれて、アタシの心を満たしていく。

 

「……うん、ありがと」

 

「ああ。……それじゃあ、俺はそろそろ帰るよ」

 

アタシたちはそれだけを言うと玄関に向かい靴を履いている彼の背中を見つめドアノブに手をかけたところで、彼が不意に振り返ってアタシの顔を見た。

 

「今日はありがとう。じゃあ、また明日」

 

「こちらこそありがと。気をつけて帰ってね」

 

アタシのその一言に笑みで応えると、彼はそのまま帰っていった。

その背中をアタシはしばらく見送ると大きくため息をついてから部屋へと戻る。

 

それから少しすると先ほどの言葉を思い返して、思わずニヤけてしまう自分を抑えることが出来ずに声にならない声を発していた。

きっと彼からすれば何のことはない一言だったかもしれない。

それでも、それでもアタシにとっては特別であってほしいと思った一言。

 

彼の言った 「いつでも誘ってくれていい」という言葉。

その言葉をもらえたから次からは何も気にせず、いつも通りのアタシのままで遠慮せずに誘うことにするよ。

アタシはそう決意しながら、今だトクントクンと奏でる胸の鼓動に耳を傾けるのであった。

 

 

 

いつの間にかあなたに惹かれて、恋をした。

あなたの隣にいるだけで、胸が高鳴るようになって。

他のウマ娘と話しているのを見ると心の中にモヤがかかるようになったりもする。

あなたと話すたびにアタシの胸が高鳴って、今日みたいな何気ない時間も愛おしくなる。

 

少しだけ捻くれて、面倒くさいアタシ。

けれどそんなアタシを受け入れてくれて、ありのままのアタシでキラキラしていられるような場所へ導いてくれる。

 

そんなあなただからこそ。

アタシは好きになってしまったんだと思うんだ。

誰かのことが好きになって、こんなにも幸せで温かい気分になるのは。

平凡な日々も、こんな風に色鮮やかに変わるものなんだってことを教えてくれた。

アタシの世界を素敵な光景で彩らせてくれた人。

 

だからこれからもあなたの隣に居させてね。

そんな、アンタのことが大好きなアタシより。

 



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キタサンブラック
ホームシックを感じたキタサンブラックが一日だけトレーナーさんと一緒に過ごす話


それはトレーナーさんと一緒にお出かけをしていた帰り道のことだっただろうか。

いつも通りに彼と手を繋いで、少しだけ私が前を歩きながら笑って歩いていた時のことだと思う。

 

日も落ちかかった綺麗な夕暮れの空の下の河川敷を歩く中、通りすがりの家族連れの会話が耳に入ってきた。

それはまだ小さな子供と若い夫婦で、子供がまだ遊びたいのか駄々をこねている様子でそれを優しく宥める夫婦の姿。

 

「……キタサン?」

 

そんな光景を見て思わず立ち止まってしまった私を不思議そうに見つめる彼の視線を感じるけれど、なぜだかそのときの私はその家族から目が離せなかった。

きっと私が少しだけ寂しそうな顔をしていたせいだろうか、隣に立つ彼は一度優しく微笑んだ後ゆっくりと私の頭を優しく撫でてくれると、そのときやっと私は我に帰って彼を見上げることが出来た。

 

「……大丈夫か? 疲れたならどこか喫茶店でも寄って少し休んでから帰ろう」

 

心配そうな表情を浮かべながら言ってくれる優しい彼らしい言葉に私は少し笑いながら首を横に振った。

 

「いえ、そういうわけじゃないです。ちょっとぼーっとしちゃっただけで……」

 

「何か気になるものでもあったのか?」

 

「えっと、少し恥ずかしいんですけどあの親子を見てたらなんだか父さんたちのことを思い出しちゃって……」

 

照れくさく頬を撫でながら言うと彼は納得したように頷いた後にまた優しげな笑みを見せてくれる。

少しだけ心配させたことに申し訳なさを感じながらも、彼が笑うだけで嬉しくなって胸の奥が温かくなっていくような気がする。

 

「トレセン学園に来てずっと毎日が楽しいですけどやっぱりちょっと寂しくなっちゃって。……えへへ、少しホームシックかもです」

 

少しばかり寂しさを感じているからか、はたまた彼に甘えたくなったのか、或いはその両方ともかはわからないけれど気が付いたらそんなことを言っていた。

普段の自分ならきっと胸を張って自信満々に振舞えるはずなのに、今の私はなんだか弱々しい姿を見せてしまっているようでそれが少し恥ずかしく思ってしまう。

そんな姿を誤魔化すように冗談めかすように言ったつもりだったんだけど、なぜか彼は少し困った顔をしながら苦笑しているようだった。

 

そして次の瞬間には何故か私の頭の上に手を乗せていて、そのまま少し雑ながらも優しく撫でられていく。

 

「そっか、寂しくなっちゃったか。それじゃあ仕方ないよな、特にキタサンのところは人数も多いから余計にそう感じてしまうこともあるだろうし」

 

「別に今の寮生活に不満があるわけじゃないんです。ダイヤちゃんも一緒だしそれに皆あたしに優しく接してくれるから全然寂しいなんて思ってません。思ってはないんですけど……」

 

「友達といるのと家族といるのとでは感じるものが違うもんな。うん、わかるよ」

 

「周りに大人がたくさんいてくれるのが日常になってたからですかね。たまにちょっとだけ隣に誰もいないのが落ち着かないっていうか。……あはは、変なこと言ってすみません」

 

自分でも何を言っているんだろうと内心呆れる気持ちもあるけれど、一度本音が漏れたからかどうしても口にせずにはいられなかった。

 

気にしなくていいよ、なんて言いながら変わらず頭を撫でてくれている彼の優しさに嬉しさを覚えつつもやはり少しだけ物足りなく思う自分もいて、しばらくして撫でてくれる手が離れたとき思わず名残惜しさを感じたことはきっと彼にバレてしまったと思う。

だって、最後にもう一度ポンッと軽く叩いてくれたときに彼の方から悪戯っぽい笑顔が見えていたから。

 

「ま、ホームシックになるのは誰だって通る道だろ。もちろん俺だってなったことがあるしな」

 

「なら、そういうときトレーナーさんはどうしてたんですか? やっぱり我慢してました?」

 

「そうだな、最初は今のキミみたいに我慢してた。けど途中から色々と限界きて家族に電話したり実家に帰ったりもしたかな」

 

懐かしむような口調で言うトレーナーさんに私もつられて笑顔を浮かべることができてそんな彼の表情を見ていると、なんだか不思議と寂しさが薄れていくような気がした。

 

「あたしも早く父さんたちに会いたいなぁ……」

 

「今はまだ帰省の時期には早いからな。……俺もなんとかしてあげたいけど」

 

そう言って申し訳なさそうに目を伏せるトレーナーさんの表情を見て私は慌てて首を横に振る。

 

そんなつもりはなかったしむしろこうして私がわがままを言える相手がいるということがとても嬉しいのだ。

私のために悩んでくれていることが何よりも幸せなことなのだから。

だけどそんな思いを伝えるために言葉にしようとする前に、不意に彼が何かを思いついたような表情を浮かべて言った。

 

「家族の代わりって言うと言葉がおかしいけどさ。キミさえ良いなら今日一日だけ俺と一緒に過ごしてみるか?」

 

「……えっ!?」

 

けれど一瞬言われたことが理解できずに固まる私に彼は慌てる様子もなく続けた。

 

「急に言ったから確定はできないしトレセン学園に泊まり込みの許可が取れればの話にはなるけど、どうかな?」

 

「え、えっと、それはどういう……」

 

「要するに俺と一緒に学校に泊まって一日中遊ぼうぜって誘いかな」

 

その言葉の意味を理解した途端に、まるで心臓を直接鷲掴みされたかのような衝撃を受けた。

同時に顔に熱が集まっていく感覚を覚えてしばらく動けなくなっている中、動かなくなった私に何かを察したのか大慌てで訂正の言葉を早口気味に語っていく。

 

「あ、いや、そう言う意味じゃないからな!? キミに手を出そうなんて考えてるわけじゃないぞ!?」

 

わかってますよ、と小さく呟きながら私はゆっくりと深呼吸をする。

そして少し落ち着きを取り戻してから改めて彼を見つめる。

 

「でも本当に良いんですか?」

 

「もちろん。むしろこのくらいしか思いつかなくて申し訳ないくらいだ。他のトレーナーさんたちならきっともっと良い方があるんだろうけどさ」

 

なんてことを言うがそんなことはない。

あなただからこそ、こんなにも私の胸は高鳴っているのだから。

その言葉をぐっと飲み込んで私は静かに彼へと伝えていく。

 

「あの、じゃあ是非お願いします! その、えっと、楽しみにしておきますね!」

 

「おう、わかった。それじゃあ許可取るために連絡するからちょっとまってくれる?」

 

「はい、よろしくお願いします!」

 

「はは、良い返事だなキタサン」

 

そう言ってトレーナーさんは電話をかけ始めた。

その様子を眺めながら、私はそわそわしっぱなしだった。

途中でさっきの私たちみたいなやりとりでもしているのか、呆れ顔で 「キタサンが心配なだけです」なんて声が聞こえてくる。

 

「……えへへ」

 

けれど今の私にはそんな声を気にする余裕はなくただだらしなく表情を緩ませていた。

まさかこんな提案をしてくれるとは思わなかったし何より彼と一日中を共にできるなんて夢のような出来事だから。

そんなことを思っているうちに話がまとまったらしく電話を終えた彼がこちらに向き直る。

 

「一応理事長に確認取ったんだけど、ちゃんと理由があれば問題ないらしい。寮長にもちゃんと説明したら良いってさ」

 

「本当ですか!」

 

「今回はキミのホームシック解消のためだし。やっぱりまだ大人に甘えたいみたいですって伝えたら、なら俺も一緒に傍にいてあげてほしいってさ。そもそも普段からキタサンがしっかりしてるから信頼も厚いみたいだしすぐにOKが出たよ」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

「まあそういうわけで、今日は学園の休憩室借りて無事そこに泊まれることになりましたとさ」

 

そう言ってトレーナーさんはまた頭を撫でてくれた。

今度は先程よりも少しだけ長く、けれど心地よい感触は変わらず。

きっと私の顔は今凄く幸せそうな顔を浮かべてるだろう。

 

ああ、どうしよう。

嬉しくて嬉しくて堪らない。

彼の優しさに触れられる喜びに身体が震えてしまう。

彼には悪いけどホームシックになったことに感謝してしまいそうだ。

 

「それじゃ、早速準備してトレセン学園に戻ろっか」

 

「はい!」

 

そうして私たちは学園に戻ることにした。

帰りの道中、トレーナーさんが気遣ってくれたのかいつも以上にゆっくり歩いてくれたのはとてもありがたかった。

だって少しでも長く、二人で歩けるのだから。

 

 

そしてトレセン学園に戻った私たちは色々と準備を整えて休憩室に集合していた。

 

「おおー、結構広いですねここ」

 

「流石中央のトレセン学園だな、こういうときにも使えるように綺麗にしてるんだってさ。ほらこれ見てみ?」

 

そう言って彼が指差したのは部屋の隅にはテーブルが置いてあるのだがその上にはお茶やお菓子などが置かれており、他にも毛布や布団なども用意されていてまるで簡易ホテルの一室のようだ。

 

「今日はここで寝泊まりすればいいってさ。ちなみに夜ご飯は食堂で、お風呂も普通に寮に戻って使っても良いしなんならここにシャワーまであるんだってさ」

 

「わかりました! ふふっなんだか修学旅行気分になりますね」

 

「だな! うん、マジで理事長様様だなこれは……」

 

そんな会話をしながら私は持ってきた荷物を棚に置いていく。

といっても手荷物なんて一泊分の着替えなどの必要なものしか持っていないのでそれほど時間はかからずぱぱっと進んで二人ともすぐに終わっていった。

 

「よし、それじゃあ何をするか決めようか」

 

「そういえば、全然何も考えてなかったですね」

 

「俺もだ、ほぼ勢いだったし」

 

流石に無計画だったこともあり腕を組んで悩む私達だったが、やがて彼は何か思いついたのかぽんと手を叩いてから言葉を続けていく。

そのとき私を見ている彼の表情がどこか楽しげなように見えた。

それはまるでイタズラを思い付いた子供のようで少しドキッとしてしまう。

そんな気持ちを悟られないように必死に抑えながら、私は彼の言葉に耳を傾けていった。

 

「とりあえずキタサン、今日はキミのためでもあるから一旦担当とかそういう関係は無しにしよっか」

 

「え? あ、はい。それは全然あたしは構いませんけど……トレーナーさんは良いんですか?」

 

「良いの良いの。なんなら今日だけ俺のこと家族と思ってくれたら嬉しいかな」

 

流石にそれは踏み込みすぎかな?

なんて苦笑しながら話す彼だが、私はその提案を聞いて思わず固まってしまった。

 

つまり今日だけは彼と本当の意味で対等になれるということだ。

いやもちろん今までもずっとそうではあったのだけれど、それでも今日は違う。

私はトレーナーさんの担当ウマ娘ではなく、ただの一人の少女として彼と過ごせる。

それがとても嬉しくて仕方がないし、それに家族という素敵な言葉で紡がれた彼からの提案はとても魅力的だ。

 

「えへへ、それじゃあ遠慮なく甘えちゃいますね?」

 

「おう、どんとこい!」

 

そんな風に胸を張る彼の姿がおかしくてつい笑い声を上げてしまう。

本当にこの人は、私を笑顔にするのが上手い人だなぁ。

 

「それで、何しますかトレーナーさん」

 

「んー、そうだな……」

 

少し悩んだ様子を見せるトレーナーさん。

しかしそれもほんの数秒のことで、次の瞬間には彼はこちらを見てにっこり笑って私の鞄を指指して言った。

 

「とりあえず、今日出た分のキミの宿題終わらせちゃおうか」

 

「……えっ!?」

 

一瞬何を言われたのかわからなくて思考が停止してしまった。

そして私がたっぷりと時間を使って驚いている間にいつの間にか彼はもうテーブルに着いて勉強道具を広げ始めていくのを見つめること数秒間、動かない私に彼は手招きをして自分の隣の椅子を指し示す。

どうやら隣に座って欲しいらしい。

 

「うぅ……なんで、どうして宿題なんですか。もっとこう! 他にも色々あるじゃないですか!」

 

「なんでってお前、せっかくこうして色々融通利かせてくれたのに宿題忘れました~なんてことになったら申し訳ないじゃん」

 

「そ、それはそうですけどぉ……」

 

「そんなことなったら俺も怒られそうだし。どうか俺のためにもいつものお助けキタちゃんを一つお願いできないかな?」

 

「本日のお助けキタちゃんは終了しました。またのご利用をお待ちしております」

 

「はいはい逃げないの。大丈夫だってわからないところは教えるから、早く座った座った」

 

「……はい」

 

渋々と彼の指示に従って隣の席に着く私。

そしてその後はもう観念してカリカリとペンを走らせる音が響き始めた。

 

時折彼が間違えたところを教えてくれたりと、そんなやり取りを繰り返しながらも私達は順調に宿題をこなしていくけど正直やる気はそこまで出ず集中力もそこまで長くは続かなかった。

二人きりで過ごすからとドキドキしてたからこそ、余計に。

 

「……そんなに宿題やろうかって言ったの不満だったか?」

 

「いえ、そういうわけじゃないんです。むしろ一緒に居られて嬉しいですよ」

 

でも、と私は言葉を続けた後にペンを置いて彼に視線を向ける。

 

「せっかくこうして二人きりなんですよ? もう少しドキドキというか、ロマンチックなことしたいなって……」

 

言った後からその言葉の恥ずかしさがやってきてそれをごまかすために指で頬をなでているが、残念ながら私の様子を見ていた彼はピンと来ていないのか不思議そうな顔を浮かべて首を傾げている。

 

そんな彼の反応を見た私はやっぱり気付いていないのかと思いつつ少し残念な気持ちになりながら一つため息をつくと、彼は少し思案する姿を見せて言った。

 

「あのさキタサン、今キミは宿題のことばかり捉えて考えてるけどさ……」

 

そこで一度区切り、彼は真っ直ぐ私を見据えてから再び口を開く。

 

「今の状況って君の言う通り二人っきりで、距離も隣同士でこんなに近いんだ。それこそ振り向いたらキミしか見えないくらいにはね」

 

彼の言葉を聞いて、私は思わず心臓が跳ね上がったような感覚に襲われた。

確かに彼の言葉の通り今の私と彼は一つのテーブルで囲んでいるから凄く近い位置に居る。

少し肩が触れ合うどころか下手したら吐息が聞こえてしまいそうな程の距離だと、そう考えただけで私の鼓動はどんどん速くなっていくのを感じた。

 

「こうして傍にいるだけでも俺は十分ロマンチックだと思うんだけど、それでもまだ足りない?」

 

なんて、俺が言っても説得力ないか。

と苦笑しながら恥ずかしそうに頭を自分の手でわしゃわしゃとかき回しながら笑ってごまかす彼。

 

けれど、私にとってそれは逆効果でしかなかった。

胸が締め付けられるように苦しくて、ドキドキが溢れ出てきて思わず手で押さえてしまう。

彼は私があなたに対して恋心を抱いていることを知らない。

だからこそこの発言はきっとただ純粋に私が喜ぶことを言ってくれただけだということはわかっている。

それでも、そんな言葉を掛けられたら勘違いしてしまいそうになる。

あたしを、あたしだけを特別扱いしているんじゃないかって。

 

「……」

 

トクントクンと高鳴る心臓の鼓動がやけにはっきりと聞こえてくるような錯覚を覚えてしまうほどに静かな時間が過ぎていく。

けれどこのドキドキを誤魔化すように私は少し落ち着きのない手で再びペンをもって問題を解き始めていく。

既に思考は回らず何度も凡ミスをしてやり直して、それを少し楽しそうに隣に座る彼は微笑んでミスした箇所を教えてくれるが正直それどころではなかった。

 

結局宿題を終わらせるのにかなりの時間を要し終わったのはそろそろお風呂に入らないといけなくなる頃合いだった。

 

「そ、それじゃああたしはお風呂に入ってきますね!」

 

「うん、行ってらっしゃい。ゆっくり温まっておいで」

 

「はい!」

 

今だ緊張が解けないまま私は逃げるように脱衣所へと向かっていく。

扉を閉めてそのままずるずるとへたり込むと、バクバクと暴れまわるように脈打つ心臓の音が耳の奥まで響いている。

顔に手を添えると熱が集まっているのを感じて鏡で確認するまでもなく真っ赤になっているのだと理解できた。

 

「……本当に、ズルいなぁ」

 

湯船に浸かりながら小さく呟いた声が反響して消えていく。

そしてそれと同時に先ほどの出来事を頭の中で思い返してしまうのを止められず、やがて恥ずかしさに限界が来ては湯船の中に顔を突っ込んでブクブクと泡を立てていく私。

そしてしばらくしてから勢いよく水面から顔を出して深呼吸を繰り返す。

 

「……あたしだけなのかな、こういう風に意識しちゃうの」

 

もし彼が私の想いに気付いていたらどうなっていただろう。

今のように隣に座ってくれていただろうか?

それとも距離を置かれていた?

良いもの悪いもの、色んな想像が頭の中を過っていくがそれでも一つはっきりと言えるのは。

 

どんな関係になろうと彼ならきっと、変わらず私に接してくれて笑いかけてくれるということ。

 

「ふふっ♪」

 

そしてそんな彼に惚れてしまった私が一番悪いんだろうけど。

なんて、内心で満悦の表情を隠すことができない私。

 

たまに今日みたいな不意打ちを受けることはあるけど焦ることはないんだ。

一歩ずつ、一歩ずつ大人になって彼との距離を埋めていけばいい。

いつか必ず、振り向かせてみせるためにこれからも変わらず前を向いて彼と一緒に歩んでいけばいい。

 

そんな決意を新たにしていつの間にか笑みを浮かべて仕方ない私は浴室から出て彼の元へと戻るのだった。

 

「トレーナーさん、ただいま戻りました!」

 

「おお、おかえりキタサン。しっかり温まったか?」

 

「はいっ! おかげでポカポカです」

 

「そりゃよかった」

 

お風呂から上がるともうすでに彼は布団を敷いていていつでも寝れる準備を整えて待ってくれていた。

普段は見れない彼のラフな格好を見ることが出来てちょっと得をした気分になりながら笑みを浮かべる。

 

「さて、じゃあ後は明日に備えて寝るだけだな」

 

「この時間ももう終わっちゃうんですね。なんか凄くあっという間な気がします」

 

「俺もだ。……なあ、キタサン。今日一日俺と過ごしたわけだがどうだった?」

 

少し不安そうな様子で問いかけてくる彼に私は思わずきょとんとした表情で首を傾げる。

 

「本当はキミの家族と会わせてあげられたら一番いいんだけどさ。大人が近くにいるっていうだけだったけど、俺は少しでもキミのホームシック解消の助けになれたかな?」

 

なんて、自信なさげに苦笑しながら彼は言う。

 

そんなあなたが居てくれたから私は寂しいと思う暇もなかったのに、変なところで不安になってるんですから。

そう思うとなんだかくすぐったい気持ちが込み上げてきて思わずクスリと笑みを浮かべながら私はその質問に答える前にゆっくりと歩み寄って彼の胸にぽすっと頭を優しく当てた。

 

「……えっとキタサン? 一体何を……」

 

困惑したような声で彼は問いかけてくるけどその質問に答えずに黙ったまま額をぐりぐり押し付ける。

せっかく見せてくれた彼の隙、それとさっきの仕返しの意味も込めて。

 

「……なんとなくこうしたくなっただけです」

 

そう言って上目遣いで彼を見上げると一瞬目を丸くしてポカンとした表情で私を見つめてくる。

さっきまではこっちがドキドキさせられたんだからちょっとくらいやり返しても罰は当たらないよね。

それに何より、こうしているとあなたを感じられて凄く安心するから。

 

「それと助けになったかどうかなんて聞くまでもありませんよ。だってこうして過ごせるのが凄く幸せです。寂しいなんてもうとっくに吹き飛んじゃいました」

 

感謝の言葉を口にしながらもう一度彼に向かって笑顔を向ける。

すると彼は何故か視線を泳がせて頬を掻いた後に 「そうか、それは良かった……」と照れくさそうに呟いた。

それがなんだか可笑しくてクスリと小さく笑って、その後彼も満足してくれたのかそのまま私たちは用意してくれた布団に入って眠りについていった。

 

電気も消えて真っ暗な部屋の中で私は隣にいるトレーナーさんをじっと見据える。

暗闇に慣れてきた視界には彼がしっかりと映っていて私は少しだけ彼の傍に近づいて、眠る彼の手に自分の手を重ねるのだった。

 

そしてそのまま私は瞳を閉じて夢の世界へと落ちていく。

意識が完全に落ちる寸前、最後に聞こえたのは彼の穏やかな吐息と重ねている手が無意識に握り返される感触。

 

確かに父さんたちに会いたいとホームシックにはなったけれど、そのぽっかりと空いた心の隙間は大好きな人と一緒に過ごすことが出来たことで満たされていて。

今だけは、あなたの優しい温もりに包まれながらこの幸せな時間に浸れるのが何よりも嬉しくて仕方なかった。

 

おやすみなさい、あたしの愛しのトレーナーさん。

 

 

そして夢のような一日が過ぎ去った次の日のこと。

彼よりも少しだけ早く起きた私は、少しだけ彼の寝顔を覗いて満足した後に顔を洗ったり歯磨きをしたりと身支度を整えていく。

するとそう時間も経たないうちに彼も起きてきて、朝の準備を一緒に終えると今度は使わせてもらったこの部屋を綺麗に掃除したり片付けを行う。

 

「良し、片づけはこんなもんだろう。それじゃあ俺は理事長たちにお礼伝えてくるからキタサンは学校頑張っておいで」

 

「はい! 行ってきますトレーナーさん!」

 

「うん、行ってらっしゃい。また後でトレーニングの時間のときに会おう」

 

そしてそんなやり取りをしながらいつもより上機嫌に教室に向かって歩いていく私の姿があった。

教室につけばダイヤちゃんから昨日の事を根掘り葉掘り聞かれそうになるのをぬらりくらりとかわして逃げ回っていく。

 

そんな風に今日を過ごしているといつの間にか時間は過ぎ去って放課後のトレーニング時間へと移っていく。

 

「もう、そろそろ教えてよキタちゃん! 私ずっと気になってるんだからね!」

 

今日の授業中もずっとそのことをしつこく尋ねて来ようとするのは流石親友と言うべきか。

諦めの悪さは彼女の持ち味の一つなのでそこは素直に関心しつつ、今も私の肩を両手で掴んで揺らしてくるときにそれは起きてしまった。

 

ダイヤちゃんが少し強く揺らしたときに私のスマホがぽろっと落ちてしまったのだ。

すると真っ暗だったスマホの画面は電源が入ったことで明るくなり、そこに映し出されたロック画面をダイヤちゃんにしっかりと見られてしまった。

 

それは今日の朝、早起きしたことで撮れたトレーナーさんの普段なら絶対に見れない寝顔の写真。

 

しまったと思ったときには時すでに遅し、彼女は私と写真を見比べながらわなわなと体を震わせている。

 

「キタちゃんこれって……!?」

 

もう手遅れになってしまったが私はすぐさまスマホを回収してダイヤちゃんから目を逸らす。

 

「や、やっぱり教えてキタちゃん! どうしたらこういう状況になれるかを詳しくっ!」

 

「だ、ダメ! 絶対教えない!」

 

「なんで!」

 

「ダイヤちゃんだって、ダイヤちゃんのトレーナーさんと一緒にパーティーで踊ったことをあたしに自慢してきたじゃん! だからこれでお互い様だよ!」

 

「でも一日中ずっと一緒にはいられなかったもん。キタちゃんお願い! その方法教えて!」

 

「やだ!」

 

「教えて!」

 

「やだッ!」

 

「教えてッ!」

 

それからしばらくの間、私たちの押し問答が続いたのであった。

結局お互い譲らずいっそ模擬レースをして決めようという話になぜか進んでいってお互いに恨みっこなしの一発勝負に決定した。

 

そして準備を終えた私は一度深呼吸して精神を整えた後再びダイヤちゃんの前へと姿を見せる。

 

「お待たせダイヤちゃん、こっちはいつでも準備完了だよ」

 

「勝負服ッ!? そんなに言いたくないのキタちゃん!?」

 

そう、私が身に纏っているのは普段の制服ではなくウマ娘用の勝負服を着用している。

 

ダイヤちゃんが言うようにそこまでしてこのことを話したくないのかと聞かれると、正直あまり他の子にも言いたくない。

なぜなら、これが広まって同じようなことをするウマ娘が増えたらもう二度と昨日と同じことができなくなってしまう可能性があるから。

 

あんなチャンスが一度きりは惜しい。

できればまたホームシックを理由にしてあと二回、いや三回くらいは彼と過ごしたいと思っているのでこれは絶対に教えるわけにはいかない。

それに何より、この方法はトレーナーさんを独り占めできるという特権があるのも大きい。

 

だからこそ私は、どうしてもこの方法を誰かに伝えるつもりはない。

もし話してしまったらそのやり方を真似する子が絶対現れて、夢のようなあの時間が無くなるどころか彼に迷惑をかけてしまうかもしれないから。

 

「ごめんねダイヤちゃん。この勝負だけは負けられない!」

 

もはやただの我欲の塊だがそれでも私はこの想いを譲るつもりは微塵もなければ、私と彼だけの秘密にしておきたいという気持ちも確かに存在しているからだ。

 

だって、彼があたしのためにくれた特別な時間を過ごせたんだもの。

だって、偶然とはいえ大好きな人の寝顔を独り占めできたんだから。

だって、こんな幸せな気持ちになれたのが夢じゃないって証明してくれたのが他でもない彼の手なんだから。

 

なら私はその幸せをもっと噛みしめたい、味わっていたい。

彼への想いに真っ直ぐに向き合って、自分の力でこの恋を叶えるまでは誰にも邪魔されたくない。

それが私の本音であり、この恋心に対しての譲れない想い。

 

そうして私たちは同時にスタートを切り、駆け出していく。

結果としてはなんとか僅差で私が勝利し、思いっきり腕を上げながら勝利の喜びに浸ることができて大満足に終わったんだけど……。

 

その後勝手に勝負服を持ち出してダイヤちゃんとレースをしたことを私のトレーナーさんに呆れ顔でたっぷりと怒られたことは。

 

ちょっとだけやりすぎたと反省しました……。

 



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トレーナーさんの好きな髪型が気になるキタサンブラックの話

走る、走る、走る。

練習開始の時間まであと15分ほどしかない中、あたしは可能な限りの全力の速度で走っていた。

今日もいつも通りみんなにお助けキタちゃんをやってあげてたんだけど、今回は少しだけ手間取ったのと少し夢中になっちゃったのもあって気がついたらだいぶ時間が経過していたことに気づいたのがつい先ほどのこと。

 

「あっぶない! 危なかった!」

 

このまま行けば凄くギリギリだけどなんとか間に合いそうで良かったよ〜。

少し走っているせいかちょっとだけ髪が乱れて顔にかかるけど今はそんなこと気にしてる場合じゃないからね。

 

「ううっ……トレーナーさん怒ってるかなぁ……」

 

そんなことを呟きながら学園内を走り抜けていくとようやくグラウンドが見えてきた。

そしてそのグラウンド場には色々と準備を整えて待ってくれている見慣れたスーツ姿の男性の姿が見える。

 

ああ、良かったぁ……。

やっぱり間に合わなかったわけじゃ無かったみたいだね。

安心した私はそのまま速度を落としつつ彼に近づいていくと声をかけた。

 

「ごめんなさい! 遅れちゃいました!」

 

「ん、大丈夫だよ」

 

すると走ってきたあたしをみて思わず笑ってしまったのか、少しだけ嬉しそうな彼の表情からは特に怒っているわけではなさそうだった。

 

「随分と急いできたんだな。別にちょっとくらい遅れたって気にしないのに」

 

「でも、待たせちゃったのに変わりはないですから!」

 

「まあ、いつものお助けキタちゃんを張り切ってたら遅れちゃったってとこだろ?」

 

「はい!……けどこうしてズバっと言い当てられるとなんだか恥ずかしいなぁ」

 

「まあキタサンが練習サボるなんて方が俺には想像できないからな」

 

「……えへへ」

 

流石は私のトレーナーさんだよ。

私がどうして遅れて来てしまったのか一瞬にして理解してくれてるなんて本当にありがたい限りだ。

 

「少し慌てましたけどもう準備はバッチリですよ! 今日は何からしますか、トレーナーさん!」

 

私が出来る限り元気よく聞いてみると彼は何かを考えるような素振りを見せた後また笑いながら答えてくれた。

 

「練習熱心なのはこっちも嬉しいんだけど……。まずはキミの髪を例え直したほうがいいんじゃない?」

 

「えっ?」

 

「走ってきたせいだと思うけど結構髪の毛跳ねまくりだから」

 

言われてから自分の頭に触れてみると確かにそこかしこに変な感じになっている部分があるのを感じて、大慌てで手鏡をバッグの中から取り出して確認する。

 

「わわっ!? ほんとだ!!」

 

鏡を見てみると普段とは違う方向に毛先が曲がっていたりと散々なことになっていて思わず叫んでしまった。

隣にいる彼はそんなあたしを見て隠しきれないほどくすくすと楽しそうに笑っていて、それを見た瞬間急に恥ずかしさが込み上げてきて顔が真っ赤になってしまう。

 

「もう! 笑う事無いじゃないですかトレーナーさん!」

 

「ごめんごめん、珍しいキタサン見てたらついね」

 

「……むぅ」

 

全く悪びれた様子もなく謝ってくる彼を見ていると、これ以上文句を言う気も失せてしまって結局何も言えずじまいで終わってしまう。

そんなあたしの様子を見ると満足げに微笑んでくるものだから余計に顔を見れなくなってしまうじゃないか。

 

「とりあえずほら、早く直してきなよ」

 

「……はい、すぐ戻ってくるので待っててくださいね」

 

そう促されると仕方ないので渋々校舎の方に向かって歩き出すことにした。

それから数分後にグラウンドに戻ると既に準備万端といった感じで彼が待ち構えていてくれていた。

 

「お帰り。随分早かったね」

 

「そりゃもうバーッと整えてきましたからね!」

 

「ばーっとで良いのか……。まあいいか、それで? 一通りは組んであるけどキミがやりたいトレーニングとかあれば言ってくれたら無理ない範囲ならできるよ」

 

「いえ、あたしはいつも通りトレーナーさんのメニューが良いです!」

 

「了解。それじゃあまずはアップ、その後にしっかり基礎からやろっか」

 

「はい!」

 

こうして彼の指示に従って柔軟体操やランニングなどをこなしてトレーニングを進めていくと時間はあっという間に過ぎていきいつの間にかもうラストランに入る時間になっていた。

 

「……それじゃあ最後に中距離を想定したタイムを測って終わりにしよっか」

 

「わかりました!」

 

彼からの指示を受けて軽く屈伸運動などをした後、スタート位置に立つとゆっくりと深呼吸をする。

ふと横目で見てみると彼はストップウォッチを構えていつでも始められるように準備していてくれているようだった。

 

「よし、じゃあ行くぞ」

 

その言葉と同時に私は地面を蹴り上げ一気に走り出した。

脚が力強く踏み出される度にグンッと加速していき、風を切る音が耳に入ってくるのを感じながらも前だけをひたすらに真っ直ぐ見据えて走る。

 

1人しか走っていないから常に自分の思う最適で最短なコースを取るために体を動かし続けて風を感じるのが凄く楽しい。

走っていると目まぐるしく変化していく景色に思わず気分も高揚してくる。

 

もっと速く、もっと先へ。

そんなワクワクを隠さないまま最終直線を迎えれば、そんなあたしを見てかストップウォッチを持つ彼の表情もどこか嬉しそうなものになっているように見えた気がした。

 

「……うん、良いタイムだよキタサン!」

 

「はい! ありがとうございます、トレーナーさん!」

 

そうして最後の最後まで全力で駆け抜けた結果が出たのか、彼が笑顔を浮かべながらそう言ってくれたのに釣られて私もまた嬉しさから満面の笑みになるのを感じるのだった。

 

「キミが嬉しそうでなによりだ。……けど」

 

しかし、そこまで言うと少し困ったような表情になって私の方に視線を向ける。

どうしたんだろうと思い首を傾げると突然彼は自分の髪を指差して少しだけ可笑そうに話し始めた。

 

「また髪が跳ねてるよ。せっかくさっき直してきたばかりなのに、今度は髪留めまで外れかけてるし」

 

「うわわわっ!? 本当だ!?」

 

「はははっ! まあ、そういうところも含めてキタサンらしいな」

 

「もう! 笑わないでくださいよ!」

 

「ごめん無理、だってさっきまで走ってた時の表情とは随分違ってたからちょっと面白くてさ」

 

またもクスクスと楽しげに笑う彼を見ているうちにまたもや恥ずかしさが込み上げてきてしまい顔はみるみると赤くなっていくのを感じた。

慌てて髪を押さえて落ちないようにするけれどなかなか収まる様子が見られず結局あたふたしている内にまた少しずつ乱れ始めてきてしまう。

 

その様子を見ていた彼は笑いを堪えられないといった感じだったが暫くすると何とか笑いを収めてくれたらしく、いつも通りの表情に戻ると優しく微笑んでくれた。

 

「ほらほら、もうトレーニングもこれでお終いだからささっと整えておいで」

 

「……はぁい」

 

彼に言われてしまったから仕方なく諦めて髪を直そうと思い、特に気にする必要もないし彼の目の前で髪を直してしまう事にする。

 

そしていつものように髪留めを外し纏めていた髪を下ろすと、少し癖がついている所があったから手櫛を使って解すようにして元の状態に戻していく。

 

「……」

 

ある程度落ち着いたところでふと気付くと何故か彼がこちらをじっと見つめている事に気が付いた。

何か変な事でもあったかなと思って自分の姿を改めて確認してみると、そこには長い黒髪があるだけで特別おかしな点は見当たらない。

それどころか髪の手入れはしっかり行っているから艶もあるように見える筈だし、普段通りのはず。

 

そんな風に思っていると、こちらの視線に気付いたのか彼も口を開く。

 

「……なんか、髪を下ろしたキタサンってやっぱり印象変わるもんだな。少しだけキミが大人びて見えるよ」

 

「……ッ!?」

 

その一言を聞いた瞬間あたしは驚きからビクッと体を震わせて固まってしまった。

まさかそんな事を言われるなんて思ってなかったからどうしていいかわからず髪に伸ばした手も止まってしまう。

それからだんだんと熱を帯びてくる顔を自覚しながらどうしていいかすら分からなくなったあたしは両手で顔を覆ってその場に座り込んでしまった。

 

それを見た彼は何やら慌て始めるけど今はそれどころじゃない、何とかしてこの真っ赤になっているだろう自分の顔をどうにかする事の方が優先だ。

 

「……キタサン?」

 

「ちょ……ちょっとだけ待っててください。すぐ落ち着きますから」

 

そう言ってなんとか落ち着こうと何度も深呼吸を繰り返す。

しかし、一度火照ってしまった頬と胸の奥にあるドキドキとした気持ちは全然落ち着いてくれる様子がない。

 

突然の爆弾発言にすっかりペースを乱されてしまい、こんな状況では髪を纏め直すことなんてとてもできるはずもなく、ただただ顔を隠すことで精一杯だった。

 

「えっと……ごめんなキタサン。その、つい……」

 

「いえ、大丈夫です。別に嫌とかじゃなくてただびっくりしただけですから、むしろ嬉しすぎたというか。ええっと、その……」

 

「と、とりあえず落ち着こうかキタサン」

 

そう言う彼だけど、きっと彼も動揺しているのが伝わってきていてそれがまた更にあたしを混乱させてしまう原因になっていた。

落ち着くどころか余計に心臓はバクバクと鼓動を繰り返して体はまるで燃えるように熱いまま、このままじゃオーバーヒートしてしまいそうだ。

 

そこから先のことは正直何も覚えていない。

どうやって彼と別れたのか、いつの間に自室に戻ってきたのかもわからないくらいで気付けば自分のベッドで寝転んでいたんだから。

 

結局この後髪を束ね直し終えた後もずっと、落ち着かないモヤモヤを残したまま夜を過ごすことになったのだった。

 

 

 

そしてそんな胸の高鳴りがようやく落ち着いてきた次の日の朝。

 

しっかり目も覚まして化粧台に座ると昨日の事を思い出しながらいつも通りに髪の毛を整えようと櫛で丁寧に解かして後は髪留めを付けるだけになったその時。

髪を結ぼうとまとめた髪を手に持ったままの状態で私は不意に手を止めた。

 

「……髪、下ろした方がトレーナーさん喜んでくれるのかな」

 

ポツリと呟いた言葉。

それは本当に無意識だったけれど自然とその考えが頭に浮かんできて思わずハッと我に返った。

そして途端にまた頬を熱くしていくのを感じながらも、あたしは慌てて頭を振って変な思考を振り払おうと必死になる。

 

「……」

 

でも、どうしてもさっきの考えは頭の中から離れてくれなくて鏡の中の自分の顔を見つめたまま呆然としてしまう。

 

髪を結ぶのも忘れ、しばらくの間じっと鏡の向こうの自分と睨めっこをしているけれど結局はどうすれば良いのか結論を出す事ができずにそのまま固まってしまう。

 

「……髪、どうしようかな」

 

彼が好きな髪型ってなんだろう。

ロングヘア? ショートヘアかな?

それとも両方好きとか?

 

結んでるならどんな結び方が好きなんだろう。

ポニーテールとかツインテールみたいな感じ?

それともハーフアップにして纏めたりとかかな、それともここは編み込みとかにもチャレンジしてみようか……。

 

「……って! 違う違う!」

 

再び頭の中を埋め尽くし始めた考えを振り払うようにして首をブンブンと振る。

 

全くもう、今こんなこと考えちゃうのも絶対トレーナーさんが変なことを言うからいけないんだよ。

あたしの気持ちに気づいてるのか無意識なのかは分からないけれど、ただでさえあなたの言葉一つ一つで一喜一憂してしまっているっていうのに……。

 

そんなことを思いながら櫛を置き髪留めを手に持って、じっと手の中にあるそれを見てみるけどやっぱり答えは出なくて溜め息だけが漏れ出てくる。

 

「……ちゃん!……キタちゃん!」

 

「ふぇっ!? あ……あれ、ダイヤちゃん?」

 

「もう、やっと気づいてくれた。さっきから何回声掛けても全然反応してくれなかったから心配したよ」

 

「ご、ごめん。ちょっとぼーっとしちゃってた」

 

「大丈夫? でもそろそろ出ないと遅刻しちゃうから急ごう」

 

「あっ……うん」

 

言われて時計を見ると確かに少し時間が危ないかもしれない。

まだ髪が纏まってないし色々悩んじゃってたせいかいつもより時間は経っていたみたいだ。

流石にもう仕方ないと諦めて、髪留めだけ持って髪を下ろしたままであたしは部屋を出てその日は学園へと向かうがその日は一日中ずっと、珍しく髪を結んでないからか色んな子に声を掛けられて理由を聞かれるたびに変な誤魔化しを入れる、なんてことが何度か起きたりもした。

 

それからまた時は過ぎていき、放課後のトレーナー室。

正直、1番あたしの変化に気づいて反応がほしい人が目の前にいるというのに結局聞けずじまいでここまで来てしまった。

 

チラリと様子を探るように見ても彼はいつも通り仕事をしていて特に変わった様子は見られない。

 

「……」

 

いつもなら騒がしいトレーナー室が今日に限ってはとても静かで、あたしはソファーに座ったまま変な緊張感に包まれて落ち着かない。

 

座る背筋はピンっと伸びていて、両手もスカートの上でぎゅっと握りしめられていると言ったら今のあたしのガチガチの緊張具合がどれほどか分かりやすいだろうか。

 

「ええっと、キタサン?」

 

「ひゃ、はい!?」

 

不意に呼ばれて素っ頓狂な声で返事をしながら振り向くと、彼があたしの方を見ながら不思議そうな顔をしているのが見えた。

 

「えっと、どうかしましたか?」

 

「どうって、キミがさっきから上の空だからどうしたのかなって思っただけなんだけどさ……」

 

「うえっすみません! 別に何もないです、はい!」

 

「……絶対なんかあるやつと言ってる様なもんだぞ、それ」

 

苦笑いを浮かべている彼に慌てて取り繕おうとするけどなかなかうまくいかないものだ。

 

今日ずっと友達に伝えて誤魔化したみたいに。

普段通りに話せれば問題なんて何もないはずなのに、相手が彼というだけで変にソワソワしちゃってこうも動揺して上手く言葉が出てこなくなってしまうんだ。

 

「まあ別に無理には聞かないけどさ、大丈夫そうならとりあえずミーティングやろっか」

 

「あっ……そうですね、お願いします!」

 

そしてそのまま対面に座った彼はあたしの前にいくつか資料を並べてくれた後、早速本題である今日のトレーニングについて話し始めた。

 

「まず今日はスタミナ強化を中心にやりたいと思ってて……」

 

けれどどうしても彼の言葉が聞こえてはまたどこかへ消えていく様な気がした。

 

いつも通りの彼の姿。

いつも通りの仕事ぶり。

そのことに安心感を覚えると同時に少しだけ、気づいてくれないのかなっていう寂しさが心の中に芽生えてくる。

 

勿論今は練習のことに集中しなくちゃいけないのは分かってるし、この想いばかり囚われるのは彼に迷惑なのも理解しているつもりだけど。

それでもやっぱり心の奥底では気付いて欲しいって思ってしまっている自分がいるのもまた事実だった。

 

「……キタサン? またちょっとボーっとしてるみたいだけど、大丈夫か?」

 

「……あっ! す、すいません! 大丈夫です!」

 

慌てて顔を上げて首をブンブンと横に振るそんな姿を見てか、彼は 「そっか」と言いながら小さく笑ってからまた話が再開されていく。

 

「今回やってみて何も問題なさそうなら今月はこんな感じで行きたいってのが取り敢えず俺が思うプランなんだけど……」

 

「……」

 

「……ふむ」

 

渡されたメニュー表を一緒に確認しながら話す彼の声が一度止まる。

何かを考えてる様にじっと目線をこちらに向けてきたので思わずあたしも目を向けてしまう。

 

少しの間お互い見つめあった状態のまま彼は少しだけ照れくさそうに言う。

 

「えっと、あのさキタサン」

 

「はい?」

 

「俺の勘違いだったら笑い飛ばして欲しいんだけど……。その、今キミがちょっと集中できてないのってさ、今のキミの髪のことでだったりとかする?」

 

ドキリと胸が鳴る音が聞こえた気がして息が詰まる。

勿論その期待は心の中にあったけどいざこうして聞かれるとやっぱりどうしても恥ずかしくてあたしは俯いたまま一度頷くことが精一杯だった。

 

「そっか……。ごめんな、すぐ言ってあげられなくて」

 

「あ、謝らないでください! トレーナーさんは何も悪くないんですから!」

 

「そう言ってくれると助かる。正直俺もどう反応したら良いのか分からなくてさ、ついいつも通りにしちゃってたから……」

 

そんな風に言いながら安堵の吐息をついた後、申し訳無さそうな表情をして彼はまた続ける。

 

「俺はてっきりまたサトノダイヤモンドと一緒になって何かしてるのかなって思ってたんだけど、その様子だと全然違ったみたいだね……」

 

「いえ全然、今回はただあたしがちょっと勝手に悩んでただけなので」

 

「……察しの悪い奴で本当に申し訳ない」

 

「そ、そういうつもりじゃ! あたしもちゃんと伝えなかったのが悪いので気にしないでください!」

 

お互いにぺこりと頭を下げてから顔を見合わせてまた少し苦笑いをするけれど、どちらかと言えば嬉しくて浮かべてしまった表情に近い。

そして、それと同時にあたしの心の中のモヤモヤも綺麗に晴れてくれているような気がした。

 

ああ、良かった。

気づいてくれなかった訳じゃないんだ。

それなら、やっと自分の気持ちに素直になれそうだ。

 

「……その、変じゃないですか?」

 

「うん?」

 

「だから、えっと、今のあたしは変じゃないですか? 髪を結んでないのは、その……ど、どうかなぁ~……なんて」

 

恐る恐る聞いてみるとトレーナーさんは一瞬キョトンとした表情を浮かべるけれど、すぐにいつも通りの柔らかい笑みを見せてあたしが望んだ言葉をくれた。

 

「もちろん似合ってるよ、凄く可愛いと思う。そういう一面のキタサンも素敵だと思うし」

 

優しい口調の言葉を聞いて心臓がドクンと跳ねる感覚に襲われる。

たった一言褒めてもらっただけ、けれど欲しくて欲しくて仕方が無かった言葉だったからこそ余計に嬉しくて仕方ない。

 

あたしの鼓動は今まで経験したことないくらい早く脈打つのと同時に、幸せな感情が身体の中を満たしていく。

 

「あの、トレーナーさん、もう一つだけ聞きたいことがあるんですけど……良いですか?」

 

「うん? 別にそんな遠慮する関係でもないんだし気軽に質問してくれて構わないぞ、キタサン?」

 

「じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」

 

そこで一区切りしてから大きく深呼吸。

緊張で少し震えている手を強く握ってからゆっくりと口を開く。

 

「トレーナーさんはいつものあたしと、髪を下ろしたあたし、どっちの方が好きですか?」

 

いきなりそんな質問をされたせいか彼は面食らった様な顔をしている。

ぽか〜んって開けた口は少しの間そのままの状態で固まって、数秒後にまたゆっくりと閉じて考え始める。

 

「……」

 

少しだけ無言の時間に心臓の鼓動は相変わらず高鳴る一方で、彼がどんな答えを出すのか不安で仕方がないけど。

それでもやっぱり彼からの返答が欲しいからじっと黙って待つ。

 

今朝、化粧台の前で彼のことが脳裏によぎってからずっと。

彼の好きな自分が知りたい、彼と釣り合う自分に近づきたくて……。

彼に振り向いて貰う為の努力をして彼に少しでも可愛いね、綺麗だねって言って貰いたくて。

気が付いたら、ずっとあなたのことばかり考えてた。

 

そうしてたっぷり10秒は過ぎただろうところで、彼は少し恥ずかしげにしながら呟いた。

 

「……どっちか選べって言うのなら、俺はやっぱりいつものキタサンの方が好きかな」

 

――もちろん今のキミも大人びていて魅力的だけどね?

 

なんて付け加えながら言うその言葉が堪らなく嬉しい。

思わずニヤけそうになる頬を必死に抑えながら、それでもどうしても我慢できなくて緩んでしまう。

 

ああ、どうしよう。こんなのもう止められないや。

今すぐ走り出したいほどに嬉しくて仕方なくて、今この瞬間の幸せを心の底から感じている。

 

「……えへへ」

 

なんて単純で、馬鹿みたいだって思うかもしれないけど。

たった一言、『いつものあたしが好き』ってその言葉一つだけで。

ずっと今朝から気になってた彼の好きな髪型とかの悩みが一気にどうでも良くなってしまっている自分がいたんだ。

 

「……ありがとうございます、あたしもやっぱり、いつものトレーナーさんが好きです」

 

「……相変わらずストレートに恥ずかしいこと平然と言う子だね、キミは」

 

「それはお互い様ですよ」

 

心の底から溢れる想いを口にすると、彼もまた同じように照れくさそうにしながらも優しく微笑んでくれていた。

そうしてお互いに視線を交わしたままでいる時間が続いていくと、あたしは持ってきていた髪留めのことを思い出して鞄の中からそれを取り出す。

 

そしてそれをジッと見つめてしばらく経つと、それを彼へ向けて差し出した。

 

「あの、トレーナーさん」

 

「……うん?」

 

「その、この髪留めであたしの髪を結んでもらっても良いですか?」

 

あたしの提案に対して彼は一度きょとんとした顔を向けるけど、すぐにいつもの様に柔らかい表情を浮かべてから静かに言う。

 

「ああ、もちろん良いよ」

 

彼があたしの手にある髪飾りを手に取って、少し手間取りながら髪を結っていく。

その間すぐ近くに彼が居るからか、あたしはドキドキしっぱなしの胸の鼓動をどうにか落ち着かせながら、目を閉じてそのまま彼に身を委ねた。

 

少しくすぐったさを感じながら彼の指が頭に触れていく度にトクントクンと鳴る音が少し速くなっていっているような気がするのは間違いではない。

むしろ今はこのままで居たかったし、何よりこの音を止めたくなかった。

 

「……ふふっ♪」

 

だからだろうか、自然とあたしは小さく笑みを浮かべてしまう。

自分でもわかるくらいに幸せな気分に包まれているのを感じる。

 

少しだけ目を開けて横目でチラッと彼の様子を見てみると真剣な表情をしながら慣れない手つきながらもあたしの髪を結んでくれる彼の姿が映る。

普段あまり目にしない珍しい姿にまた心臓が大きく跳ね上がるのを感じたけど、不思議とその鼓動は心地の良いリズムを刻んでいた。

 

そしてその幸せな時間に浸っていると、ゆっくりと彼の手が離れていく。

名残惜しく思いつつもゆっくり瞼を開けると鏡の中には彼が好きだと言ってくれた、いつも通りのキタサンブラックの姿があった。

 

「……正直あまり自信はないけど大丈夫そうか?」

 

「はい、バッチリです! ありがとうございます!」

 

「なら良かった」

 

「あたし凄く気に入りました。今までで一番って言っても過言じゃないくらい」

 

「それは流石に言い過ぎじゃないか……?」

 

はにかみつつそんなことを言うけれど、実際にそうなのだから仕方がない。

彼が結んでくれた髪を手で触れてみて、嬉しさと幸せを実感する。

 

あなたが好きだと言ってくれたいつもと変わらないあたしの姿。

けれど今の自分が普段よりも少しだけ輝いて見えているのはきっと、あなたのおかげ。

 

他ならぬ大好きな人の手によって綺麗に整えられた自分。

たったそれだけのことでも今のあたしの心の中は、これ以上無いくらいに満たされているんだもの。

 

「トレーナーさん」

 

「ん?」

 

振り返って彼を見上げると、あたしは満面の笑顔と共に自分の願いを告げる。

 

「あたし、これからもこの髪型で頑張りますね!」

 

そう言ってからまた彼に向けて笑いかけると、今度は彼もまた照れくさそうにしながらもあたしと同じように笑って応えてくれる。

 

そんな彼と過ごす時間がやっぱりあたしは大好きで。

今日もまた一つ、あたしは彼のことが好きになっていく。

 



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あなたとの夢を見たキタサンブラックの話

あなたに会えたら嬉しくて。

一目見たらほんの少し足取りを止めてはにかんでいて。

でもあなたがあたしの視線に気づいたら恥ずかしくなってしまう。

あなたが微笑んでくれたり、手を振ってくれる度にまた嬉しくなって、思わず手を振ったりするときに幸せだなって心から思うほどには。

あなたと離れてしまうとまた会いたくなって、まるで寂しさに包まれながらまた明日に想いを馳せるのはあなたの笑顔、あなたの言葉1つ1つ、その全部があたしの中でキラキラと輝いていく。

そんなことを想って眠りについたからか、あたしの夢の中にあなたが出てきてくれた。

 

「ほら、こっちだ。キタサン」

 

「は、はい!」

 

夢の中であたしはただ必死に走ってあなたを追いかける。

その背中を追いかけ続ければあなたの隣に立ってその横を同じスピードで歩いていく。

 

「ははっ、そんな慌てなくても良いのに。まだ時間に余裕はたくさんあるよ」

 

「えへへ、なんだかこうして二人でいる時間が嬉しくてちょっとはしゃいじゃってるのかも」

 

「俺もキミと一緒にいると時間の流れを忘れるくらいに心地がいいんだ」

 

「ほんとですか? えへへ……あたしもあなたと一緒です。あなたに会えるこの一時が何よりも大切ですから」

 

「そっか、嬉しいよ。よしっ! そろそろ行こう!」

 

「はいっ! 行きましょう!」

 

そうしてあたしたちは手を繋いで歩き出して行き始めた。

今回はショッピングに行く夢だったようで、色んなお店を見て回ってはあなたとお揃いのマグカップを買ったりだとか、あなたに似合う服を一緒に選びに行ったりして。

 

「ねえ、どうでしょう……。その、似合ってますか?」

 

「……」

 

そんな一緒に服選びをしてあなたに感想を聞いている途中で、突然ピピピピという目覚まし時計の音が聞こえては幸せな夢が終わり現実に戻されたことに、思わず起きたベッドの上で見事にちょっと強く叩いてしまったせいかベッドの下へと落ちてしまった時計を思わず睨みつける。

 

「……もう、もう少しいい夢見せてくれたっていいじゃん!」

 

そんな愚痴をこぼさずにはいられない。

そうして何度目かの愚痴を言い終えた後、ふと上を見上げてさっきの夢を思い出すように目を閉じる。

もし、あの人のことを想って眠ったから夢に出てくれたというのなら。

 

「……夢だと知っていれば起きなかったのにな……」

 

そう思わずにはいられない。

だってもしそうならば夢の中ででもあの人に会えるなんて、とても嬉しくて仕方がないのだから。

幸いにも今日は休日、いつもならしないがあの夢が忘れられないからか二度寝をしてしまおうかなんて考えが浮かぶ。

 

「……よし」

 

そうして目を閉じ、夢の中へと落ちていくように再び眠りについた。

またあの夢の続きが見れますようにと、淡い期待を込めて。

 

「……ん」

 

再び目を覚ませば窓から差し込む日差しに思わず目を細めスマホを手に取って画面を確認すると、時間は朝の9時半を回っており普段起きる時間よりは少しだけ遅い。

 

「……はぁ」

 

スヤスヤと眠れたのは良いが結局あの夢の続きどころか、夢の中でまたあの人に出会うことすらなかったなという落胆と、あの幸せから完全に覚めてしまったことによるちょっとした喪失感を感じながらも、ベッドから立ち上がり洗面所へ行き顔洗って歯を磨いて、もう諦めて朝ご飯を食べようとした瞬間スマホの画面が光る。

 

「えっ!? あ、あぁ……!」

 

突然の出来事にびっくりしてスマホを落としそうになりながら画面に目を向けると、どうやら電話がかかってきたみたい。

そしてその相手は今あたしの思考の中にずっといるその人。

 

「と、トレーナーさん……?」

 

まさかこんな時間に彼からメッセージではなく直接電話が来たということに、あたしは少しだけ驚きながらも通話ボタンを押しスマホを近づけると聞こえてきたのがいつも聞いている彼の声だ。

 

「おはよう、キタサン」

 

「お、おはようございます……トレーナーさん……」

 

寝起きだったこともありまだ若干ぼーっとしている頭を覚ますために少しの沈黙を挟みながらも、電話から彼の優しい声が聞こえてきて自然と笑顔になる。

 

「朝からごめんな。えっと、ひょっとして寝てた?」

 

「いっ、いえ! 大丈夫です、もう起きていましたから!」

 

「そうか? それならいいんだけど」

 

「そっ、それよりもどうされたんですか? 急に電話なんて……」

 

まさか電話がかかってきたのもそうだがそれ以上に朝から彼からという時間帯にきてびっくりしたのか、若干言葉が詰まった感じになりながらも質問すると彼はこう答える。

 

「まあちょっとした連絡がいくつかあるからさ、今ちょっと時間大丈夫?」

 

「大丈夫ですっ!」

 

「なら良かった、それじゃあ連絡事項伝えるからよく聞いてね」

 

彼の言葉にあたしは即答しては少しの間話が続いていく。

ただ大丈夫とは言ったが今日は二度寝もしてまだ眠気も完全じゃないからか、話を聞いている最中。

 

「……ふわぁ」

 

ついあくびをしてしまった。

それがいけなかったのか、あくびをしてしまった瞬間にトレーナーは察したのか電話口の向こうで苦笑いする声が聞こえる。

あたしはすぐにしまったと思うが時すでに遅しとはこの事だろう。

 

「別に隠さなくても良いのに」

 

「うぅ……。あはは、すみません。ついあくびが……」

 

「良いさ、別に気にしないよ。休みの日はしっかりだらけたら良い」

 

「は、はい。……その、実は起きたばかりでまだ朝ごはんの途中だったので……つい」

 

「あ〜……朝ごはんの途中だったのか、それは悪かったな。でも珍しいね、キタサンも寝坊するんだ」

 

「今日はちょっと良い夢が見れたのでつい夢中になっちゃって」

 

「へえっ、もう一度見たいほどの夢だったんだね」

 

「はい、それはもうとびっきりの幸せな夢で! あなたと一緒の夢だったんです」

 

「……んんっ? えっ、俺?」

 

話しているうちについ口から漏れてしまっていた。

夢の中でも一緒にいてくれたあなたという言葉を。

 

「えっ!? あっいやその、これは違くてですね!?」

 

「あははは、さてはまだキタサン少し寝ぼけてるな? でも夢の中でも俺と会ってくれてるとは素直に嬉しいや」

 

「ううっ……」

 

そんなあなたに図星をつかれたあたしは顔を真っ赤にしながら悶えながら否定の声を上げるけれど、もうすでに彼にはバレてしまっており恥ずかしさと申し訳なさから謝罪の言葉を口にする。

 

「……あはは……はい。そのすみません」

 

「だから謝らなくても良いのに。それに俺だってキタサンの夢を見るときあるしな」

 

「……へっ?」

 

できることなら今すぐこの羞恥心をかき消すためにベッドに飛び込んで枕に顔を埋めて「うわああああ!」と暴れ回りたいところなのだが、突然彼もあたしの夢を見たことがあるという言葉に思考がそれに持っていかれていった。

 

「トレーナーさんもあたしの夢を見るときあるんですか?」

 

「そりゃ勿論。今までずっとキミと過ごしてきたんだ、何度か見ることくらいあるさ」

 

「そっ、そうなんですか……!」

 

あなたがあたしの夢を見たことがあると聞いては少しだけ嬉しくなってしまい思わずそう返してしまった。

そんなあたしの言葉にクスクスと楽しそうな声を響かせて続けて彼は言う。

 

「まあ夢だからそんな細かくは覚えていられないけどね、本当に何度かだよ」

 

「それでもやっぱり嬉しいです。……あなたの夢の中ではあたしたち、どんなことしてたんですかね? やっぱりレースとかですか?」

 

「ん〜? いや、どうだろうな。普通に一緒にいる夢をよく見るってだけだから」

 

少し悩んだ素振りを見せるあなたにあたしも少しだけ想像する。

あなたの夢の中であたしはあなたとお揃いの服やアクセサリーなどを身に着けたりしながら散歩したりお買い物行ったりデートをしたりとかかな?

 

「……あたしが今日見た夢でもそんな感じで、あなたと一緒に歩いてましたよ」

 

「ははっ、俺もそんな感じだ。キタサンもか?」

 

「はい、今日はショッピングに行く夢でした」

 

さっきまではなんだか照れくさくて言えていなかったけど、あなたがあたしの夢を見たことがあると知ってからは驚くほどあっさりと言葉になって出てきた。

だってそれはあなたもあたしの夢を見てくれていると知った。

 

あなたと一緒。

たったそれだけのことであたしは嬉しくて嬉しくて満たされてもっともっとあなたへの想いが溢れてニコニコと笑顔が溢れ落ちて。

 

「ふふっ……あははっ!」

 

つい、我慢もできないほどに嬉しくて声に出して笑い始めてしまった。

 

「どうしたキタサン? 突然笑い出したりして?」

 

「いえっ、なんでもありません、ただなんとなく抑えきれなくなっちゃって」

 

「……そっか」

 

そんなあたしの言葉に優しく微笑んで返してくれるあなたにますます笑顔になって、今度は隠さず夢の中でのショッピング中ではお揃いのマグカップを買っていたことや、一緒に服を選んでたりと、夢でのやり取りをまるで思い出話をするように楽しそうにあなたに伝えていく。

 

「ああそうだ、うん。夢の話をしてたらなんか思い出してきた。俺の夢だと確かキタサンと一緒に旅行してるときがあってさ……」

 

「わぁ、旅行ですか! 良いですね、前に行った温泉旅館とかですか?」

 

「うーん、多分違うかな。どこって聞かれても上手く答えられそうにないけど……。ただ何となく、キミと一緒に初めて見る場所をのんびり笑って歩いてた」

 

「……」

 

「流石に曖昧すぎてあんまりピンと来ないか?……まあ、そんな感じの俺とっては良い夢を見てたなってことだけ覚えてたんだ」

 

だんだんと思い出してきたのか懐かしむように所々で楽しそうな声を響かせながら話す姿にあたしも嬉しさと、夢の中のあたしちょっとズルいよ羨ましいなという感情が混ざっていくのが分かる。

 

「……むぅ」

 

「キタサン?」

 

「ズルいです」

 

「えっ、何が?」

 

「夢の話してたらあたしだってトレーナーさんと旅行行ってみたいですし、お揃いのマグカップとか買いたいです!」

 

「温泉には行ったじゃんか」

 

「それとこれとは別な話ですよ。最近一緒に出かける機会もなかったですし、遠出とまでは言わないので近場の日帰りでもいいから、どこか行きません?」

 

「日帰りか、それならまあ……。ああいや、そうしようか。せっかくキミから言ってくれてるんだし」

 

「やった! そうと決まれば早速予定立てちゃいましょうか」

 

「早速だな、キタサンはどこか行きたい場所でも?」

 

「いえ全然、ただあなたと行けるならどこへ行ってもいいなぁ……って」

 

「悪い気はしないけど流石にこそばゆいな。……うん」

 

「えへへ、なんだったらまたあたしの実家でも良いですよ。父さんたちも喜びますし、また一緒に歌うのも楽しいですからね!」

 

あなたの照れる声が聞こえてはなんだかあたしまで嬉しくなってしまい、つい調子にのってそんなことを言えばあなたはまた困ったような声を出して、けれどどこか満更でも無さそうな感じの声が電話越しに聞こえてくる。

 

「キタサンの実家かぁ」

 

「ふふっ、まあ流石に冗談です。時期的にも難しいですし」

 

「まあそれはまた今度の機会にしようか、とりあえず今日は近場で適当にキミの好きなもの探しにいくって感じで」

 

「そうですね。ここから近場となると。う~ん……あっ! 確か新しいクレープのお店ができたって聞いたような。……でも確かそこ少し駅から歩きますけど大丈夫ですか?」

 

「平気平気、それくらい問題ないよ。あまりにも遠かったら俺の車でも良いし」

 

「やった♪ じゃあ決まりですね」

 

そんな風に朝の連絡が夢の話に、夢の話からお出かけの約束へと変わっていく。

それが嬉しくて楽しくてたまらないから、ついついあなたへの言葉の1つ1つが弾んでしまう。

 

「……っと、流石に話しすぎたか? そろそろいい時間帯になってきてるし」

 

「え、もうこんな時間なんですか!? まだちょっとお話ししてたかったです」

 

「でもキタサン、確かまだ朝ごはん中だろ? だったら……」

 

「あっ……」

 

あなたのその一言であたしは完全に今自分がどんな状況だったのかを思い出してしまい言葉を詰まらせる。

そしてそれと同時に思い出した途端に「ぐぅ」とあたしのお腹が大きく鳴ってしまったので、それが電話越しにも伝わってしまったらしくあなたは笑いだす。

 

「ははは、やっぱりな」

 

「うぅ……笑わないでくださいよ〜。もう、電話越しだから聞かれないと思ったのにー!」

 

恥ずかしさと怒り半分に、電話の向こう側にいるあなたへと抗議の声を上げる。

 

「……ふふっ」

 

「あっ!? また笑ったー! 」

 

だけどあなたは笑ってるばかりで反省するどころかむしろ笑いは増す一方だった。

そうしてしばらくの間あたし達は他愛ない話を続けていけばまた知らず知らずのうちに時計の針は進むもので。

 

「朝ごはんがいつの間にかお昼ご飯に……。あたしそんなに電話に夢中になっちゃってたんですね」

 

「お互い時間を忘れるくらいに楽しかった証拠だな」

 

「そうですね。……ふふっ」

 

「どうかしたか?」

 

「いえ、なんでもないです。ただなんか嬉しくて」

 

「そっか、俺も一緒だよ。さっき話したお出かけの予定、楽しみにしてるからな」

 

「はいっ! あたしもです!」

 

「何だったら今からでも行きたいくらいだ。……いっそ今日行くか?」

 

「あははっ、流石にそれは急すぎですよ〜。でも本当に今からでも、あたしはいいですよ」

 

冗談で言ってみた言葉にまさかあなたから乗ってくるとは思わなくてそれに釣られるように、あたしはあなたの冗談に笑ってそう返していく。

そんなあたしに、あなたも電話越しに笑ってくれて。

ただいつも通りに笑って言葉を返してくれる。

たったそれだけのことが、きっとあなたの想像以上にあたしにとって嬉しくて幸せだというのは、あなたは知る由もないのだろうけれど。

 

「……っと、そろそろ時間だ。それじゃ、またな」

 

「はいっ! また」

 

そんなあなたのこの楽しい時間の終わりを告げる言葉に少し寂しさを感じながらも、あたしは明るく返事を返しながら電話を切った。

 

そしてあたしは電話が終わって静かになった自分の部屋に自分の鼻歌が響くくらい、上機嫌に冷めてしまったご飯や食べかけのお味噌汁を平らげていくのだった。

 

「……♪」

 

そして、ご飯を食べ終えたら次はクローゼットから洋服と小物を取り出して、また約束の日に着ていく服のコーディネートを頭の中で始める。

あなたの好きな色やものを散りばめながら。

 

「ふふっ♪」

 

そして、またあなたへの想いに溢れていたあたしは自然と顔がニヤけていくと。

 

「あっ、いけないけない」

 

と両手で顔を挟む。

いやまあ、流石にこれは自分ではどうにもできませんから許してほしいというか、なんというか。

そんなあたしの頭の中はあなたが喜んでくれそうなものでいっぱいで。

 

「うーん……」

 

そんな幸せな気分と嬉しい気持ちに包まれているのを感じながらあたしは再びクローゼットの中の洋服たちとにらめっこを始め。

ただやっぱり、あたしの頭からあなたが離れることはなくて、あたしはまたあなたのことを考える。

あたしの頭の中はあなたの色で埋め尽くされた、そんな1日を過ごしていく。

 

 

 

そうしてあれからまた数日が過ぎていって、約束の日がやってきた。

朝起きてはいつもより入念に準備を済ませ、そしてまたいつものように待ち合わせ時間の少し前にはあなたの待つ駅前へと到着。

 

そんなあたしにあなたも気づいたらしく、いつもの優しい顔で微笑みをくれながら手を振ってくれる姿が見える

そしてあたしはそれに笑顔で応えて駆け寄っていったところであなたが口を開く。

 

「おはようキタサン。それじゃあ、行こうか」

 

「はいっ!」

 

あなたの言葉に笑顔で返すあたしはあなたと共にあなたと並んで歩いていく。

それだけであたしの胸は幸せでいっぱいだった。

まるであのとき見た夢と同じようにショッピングをしてまずはお互いの服を見て回っていったり。

 

「どうですかトレーナーさん、これあたしに似合いそうですか?」

 

「おおっ! 良いね! すごく似合うし、なによりキタサンらしい良いものだと思う」

 

「ほんとですかっ!じゃあこれにしようかな。……あっ、見てくださいトレーナーさん。あっちにはあなたに似合いそうなのがありますよ」

 

あなたの好きな服やものをあなたが着たら似合いそうなものを見つけたりと。

そんなやり取りをしながら次はあなたとお揃いのマグカップを買って、それを大事に抱えてまた歩いていって、次は少しお腹が空いてきたからとクレープ屋を見かけて思わず見てたら、それにクスリと笑って気づかれてはいつもより優しい声で言う。

 

「キタサンが良ければちょっと早いけどもう一緒に食べないか? ちょうど小腹も空いてきた頃だから甘いものも食べたいし」

 

「あはは、バレちゃいましたか。ええ、ぜひ食べましょう! あたしも甘いもの食べたくなってたところですから」

 

「決まりだな、じゃあ行こうか」

 

そんなあなたの優しい言葉に甘えてしまいあたしはあなたと相席をして2人仲良くお昼代わりのクレープを味わいながらおしゃべりに花を咲かせていく。

 

「……」

 

「……キタサン?」

 

「あっ、すみません。なんだかこうしてると前話した夢のこと思い出しちゃって」

 

「夢の話か。そう言えば前にも夢の中で俺と出かけてたみたいな話してたっけ」

 

「はい、こんな風に一緒に過ごす夢でしたよ」

 

「それで?」

 

「それでですね、夢の中のあたしもとっても楽しそうで。あなたとお揃いのものを買って……ふふっ」

 

「まるで今やってることそのままみたいな夢だな」

 

「そうかもしれませんね。……まあそれで、夢から覚めたとき思わずあたし思ったことがあるんですよ」

 

「へえ、どんな?」

 

「これが夢だと知っていたのなら、起きなかったのになぁ……って」

 

「それはまた、随分と欲張りな夢だな」

 

「ですよね。……ちょっと恥ずかしいですけどそれくらい、あなたとの夢は楽しかったんです」

 

「そっか、まあ……うん、喜んでくれたならなによりだよ」

 

「えへへ……」

 

あなたの優しい微笑みと言葉に思わず顔が熱くなってしまう。

けれど、それは夢で見たあなたの微笑みとは違って現実のあなただと分かるから。

だからあたしは嬉しくてたまらなくなってつい頬が緩んでしまう。

 

「ふふっ、でも今となって考えてみたら確かにあの夢の中でのことも良いなって思って仕方なかったんですけど……」

 

そしてそのままお互いにクレープを食べ進めていけば、そういえば夢の終わりではあたしが選んだ服の感想を聞くところで終わってしまってることを思い出した。

 

「でもやっぱり夢の中よりも、起きて良かったって今は思ってます」

 

「……へえ、それはまたどうして?」

 

「だって、こうしてあなたの隣にいられるのは夢じゃなく現実ですから。それに寝てるときに見てる夢の世界みたいに、起きたらそこでおしまいってわけでもないですし」

 

「まあ、そりゃそうだな。俺も今こうしてキタサンと一緒にいる時の方がいいや」

 

「本当ですか? そう言われるとなんだか照れちゃいますね」

 

「えっ、今さら? ……ははっ、まあいいや。今こんな風に話してるキタサンも、さっきからずっと頬にクレープのクリームがついてるキタサンも可愛いからさ」

 

「えっ、嘘っ!?」

 

「ほんとほんと」

 

「も〜! だったら早く言ってくださいよ〜!」

 

「悪い悪い、タイミングが見つからなくてさ。まあ良いじゃんか。でもそうやって慌ててるキタサンも新鮮で良いと思うよ」

 

「……むぅ」

 

そんなあなたの軽口にあたしは思わず恥ずかしくなってしまって顔を俯けてしまうそんなあたしの様子を見てあなたは楽しそうに笑いながら、またクレープを1口頬張る。

 

「……」

 

ただ、あたしはそんなあなたの横顔をじっと眺めてしまう。

夢で見たあなたとのあの時間とは違うけれど、現実のあなたとこうして過ごすこの時間もあたしにとって大切なもので。

そんなあなたには夢の中のような笑顔や優しさだけじゃないものも貰っていて。

だからきっと、あたしはあなたの隣にいられる今この瞬間がたまらなく幸せなんだと思う。

 

「さっきからこっち見てるのバレバレだぞ、キタサン……」

 

「えへへ、ごめんなさい。なんだか見入っちゃって」

 

「全然気にしてないから良いんだけどさ。流石にジッと見られっぱなしはちょっと恥ずかしいかな」

 

そんなあたしの視線に気づいたのかあなたはこちらを見て首を傾げる。

でもあたしはただ笑って首を横に振って答えると再びクレープを食べ進めていった。

 

「……うん、やっぱり夢より今の方が良いや」

 

「んっ?」

 

「なんでもありません、こっちの話ですよ。それよりもほら、早く食べちゃいましょう! まだまだ見たいものはいっぱいあるんですから!」

 

そうしてあたしはあなたと一緒にまた歩き出す。

そんな何気ない時間をあなたと過ごしながら。

もっともっと、きっと今日よりも幸せな日になるんだろうなって、そう信じて。

そんな風に、あたしの心は今ある幸せで満たされていくのを実感しながらまた楽しい時間からあなたへと笑いかける。

 

「ふふっ、あ~あ。今日がず~っと続けばいいのに」

 

思わずそんな想いを口にする。

普段だったら言うのに少し恥ずかしさを感じてしまうのに、今だけは舞い上がっているからかぽろっと出ちゃったあたしの素直な気持ちが、あなたへと届く。

始めに驚いたように目を大きく開いて、少し経つと嬉しいのか、はたまた照れているのかいつもの微笑みとは違うまた違う笑顔を浮かべていって。

たった数秒もない小さな時間の中でころころとあなたの表情が変わっていくのがなんとも愛おしい。

 

「……キタサンって時々、そういうことサラッと言うよなあ」

 

「……へっ?……あっ!?」

 

「何その顔、気づいてなかったのか……?」

 

「あはは……。もうっ、そういうときは気づかないフリしててくださいよ~」

 

「いや流石に今のは無理だって」

 

「も~っ!」

 

それからはまた、いつも通りのあたしたちのやりとりに戻っていく。

なんとも言えないムズ痒さと、どこかくすぐったい感覚を携えながら、けれどお互いそれを嫌には感じなくて。

話しているうちになぜだかこらえきれなくなって、どちらからともなく笑いだしてしまう姿がそこにあった。

 

 



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ファインモーション
叶わないはずだった素敵な恋をしているファインモーションの話


あなたの真剣な真面目な姿、不器用だけど優しい所。

何よりも私を見てくれる瞳が大好きだった。

いつからか、あなたのことを目で追っているの。

私の目に映るあなたの姿がいつだってキラキラと輝いて見えて、寝ても覚めてもあなたのことを考えてた。

そんなあなたのことを想う時間も大好きなの。

けれど私はずっとここに居られるわけではない。

この想いは結ばれないって分かっている。

私はこの恋を諦めるしかないのかしら?

 

「……ファイン」

 

目の前には愛しい人が立っていた。

少しぼーっとしていたのか心配そうに私の顔を覗き込んでくる。

 

「大丈夫か? 最近元気がないように見えるけど……」

 

「うん、大丈夫だよ。ちょっと考え事をしてただけだもん」

 

本当はあなたへの気持ちで悩んでいました。

でもそんなことは言えないよね。

 

「そうか、それならいいんだが」

 

そのときあなたは何も聞かずにいてくれたね。

でも、ごめんなさい。

この気持ちを伝えるつもりは無いの。

だって私は王族で国も違う、それにもうあなたからはたくさんのものを貰っている。

きっとこの想いを伝えてもいつかくるお別れが辛くなるだけ、ずっと一緒には居られない。

今でさえトレセン学園に戻って来てあなたとまた一緒に居られるようになったのに、今の関係以上を望むなんて贅沢だもの。

 

祖国に戻らないという選択肢は私にはない。

だから代わりにあなたとの思い出をたくさんもらうね。

いつかあなたとの思い出が大切な宝物になる時まで。

この素敵な時間をいつか思い出話にして満足できるように。

私、ファインモーションは日本で素敵な人に恋をしていたのだと割り切れるように。

 

「ねえトレーナー」

 

「ん? どうした」

 

「次のお休みの日、どこかに連れて行ってくれないかな?」

 

「ああ、構わないぞ。どこに行きたい?」

 

「うーんとね。……そうだ、遊園地に行こうよ!」

 

両手を合わせて満面の笑みを浮かべながら提案すれば彼は優しく微笑んで嬉しそうに頷いてくれた。

その笑顔を見るだけで私は心が温かくなって幸せな気分になれるんだよ。

いつかお別れが来るのなら今はこうして一緒にいる時間を楽しみましょう。

それがきっと、今の私が望むことだと思うから。

 

こうして私たちは遊園地に行くことになって胸を高鳴らせながら迎えた約束の当日。

待ち合わせ場所に着くと既に彼の姿があった。

普段スーツ姿しか見ていないせいか私服姿で立っている彼に思わずドキッと胸を高鳴らせながらその姿をじっと見つめていると彼の方もこちらに気付いたようで手を振ってくれた。

それだけのことなのにとても嬉しくなって駆け寄っていく。

 

「お待たせ、トレーナー! 待ったかな?」

 

「いや、俺も今来たところだから気にしなくていいよ」

 

デートみたいで嬉しいなんて言えないけど、その言葉だけで胸の奥がきゅっとなるくらい幸せを感じる。

 

「じゃあ行こうか」

 

手を差し出してくる彼を見て、一瞬固まってしまったけれどすぐにその意図を察してまた私は笑顔を浮かべる。

 

「ふふっエスコートはお願いね?」

 

「ああ、任せておいてくれ」

 

差し出された手に自分の手を重ねて歩き出す。

いつもより近い距離感にドキドキしながら歩く中、チラッと横顔を見ると彼が照れくさそうな表情をしていることに気付く。

私と同じで緊張しているのかなと思うと少し可笑しかった。

 

「そう言えば今日はファインのSPさんたちの姿が見えないけどどうしたんだ?」

 

「大丈夫、ちゃんといるよ。今日は折角だし二人だけで遊びに行く気分を味わいたくて少し離れた所で待機してもらうことにしたの」

 

「そっか、それなら安心だな」

 

「えへへ、心配してくれてありがとう。そういうわけだから今日だけは私もただの女の子として接してくれると嬉しいかも?」

 

悪戯っぽく笑ってそんな冗談を言ってみせると彼は困ったような顔をして頬を掻いた。

そんなやりとりにまるで本当のデートみたいだと内心舞い上がってしまう自分が居る。

 

遊園地なんて初めてなのでワクワクを抑えられずチケットを購入して中に入るとそこは別世界に見えて魅入ってしまう。

色とりどりのアトラクションに目を輝かせていると、隣で彼が私のことを優しい眼差しで見守っていることに気づく。

 

「もうすでに楽しそうだな、ファイン」

 

「うん、こんな風に遊ぶ機会って今までなかったからすごくワクワクしてる!」

 

「なら良かった。さて何に乗りたい? 遠慮なく言ってくれ」

 

「これだけ色々あるとどれから行くか迷っちゃうね」

 

「その迷いも含めて楽しんだらいいさ」

 

そんなことを話しつつ園内マップを広げて確認していく。

すると隣にいる彼も見たいのかこちらに近づいてくると自然と肩を寄せ合う形になり、お互いの顔が近くなる。

振り向けばお互いの顔同士が当たってしまいそうな、吐息すら感じられてしまいそうなほど近くにいる彼に私の鼓動は速くなっていく。

 

「それで、ファインはどれに乗りたいんだ?」

 

「あっ……うん、えっとね。これに乗ってみたいな」

 

平静を装って指差したのは遊園地一番の目玉ともいえるジェットコースターだった。

 

「良し、じゃあまずはこれに乗るか」

 

そう言うと彼は自然な動作で私の手を繋いで引っ張って行ってくれる。

そしてそのまま列に並ぶと他愛もない話をして乗り込み、席に座っていけば安全バーが降ろされていよいよ始まるという期待に胸が高鳴ってくる。

 

ゆっくりと上がっていくジェットコースターが頂上まで上がりきると、その後はもう目まぐるしく景色が一気に流れていった。

風を切る爽快感が堪らないと感じる中で隣の彼の声を聞く。

 

「ファイン、楽しんでるか?」

 

「もちろん! トレーナーこそどう?」

 

「俺は……そうだな、ごめん! 正直怖い!」

 

その意外な答えに思わずクスッと笑ってしまった。

速いスピードに慣れている私と彼の違いだろうか、いつもはかっこよく目に映る彼の姿が今はほんの少しだけ恥ずかしそうにしているのがなんだか可愛くて微笑ましい。

 

そんなことを思っているうちに急降下したりカーブがかかって身体が傾いたりして、私はそのスリルにすっかり虜になっていていつの間にか悲鳴を上げるくらい夢中になっていく。

そうして気が付けばあっという間に終わっていて降りると彼と笑い合っていた。

 

「あーあ、終わっちゃった。もっと乗っていたかったかも」

 

「ならまた今度来ればいいじゃないか。それに他にも乗れるものはたくさんあるし」

 

「……うん、それもそうだね。あっじゃあ次はあれに行ってみようよ」

 

「……まじかぁ」

 

そう言いながら次に向かったのは少し雰囲気を変えてお化け屋敷。

そのまま中へと入ってみれば暗い空間の中で突然現れる幽霊に驚いたり、仕掛けられたトラップに引っかかったりと、恐怖心を煽られる演出にドキドキさせられてジェットコースターとは違ったワクワクが溢れてくる。

 

「……だ、大丈夫かファイン」

 

「ふふっ大丈夫だよトレーナー。ほら、手を握って?」

 

こういうのには慣れていないのかな。

けれど少し震えた声でもちゃんと私を気遣って心配してくれる彼の優しさに私の心は温かくなっていく。

怖くないと言えば嘘になるけれど、それでも彼と一緒に居れば不思議と安心できるからか私は余裕のある笑みを浮かべられた。

 

「うん、ここは私がエスコートしてあげるね」

 

「……あはは、情けない限りだけど頼めるかな」

 

「任せておいて。じゃあ行こっか?」

 

こうして今度は私が手を引いて歩き出す。

暗くて足元が見えにくいので転んでしまわないように注意しながら進んでいきたまに来る演出に二人揃って驚いたりしながらも出口を目指して歩いていく。

 

そして歩きながらふと思ったことが一つ。

確かこういうときってお化けが出てきた時に、「きゃ〜」って言いながら彼に抱きついたりするのが良いのかな?

 

チラッと隣を振り向いてみると、彼もだんだんと慣れてきたのかもう自然体といった様子で特に怖がったような素振りも見せていなかった。

 

「……」

 

それなら、今の内に試してみてもいいんじゃないかな?

そう思考に気を取られた瞬間、ちょうど目の前には驚かすために出てきたらしいお化けの姿が私の目の前までやってきていたのに私は気がつかなかった。

 

「……ひゃっ!?」

 

咄嵯のことで驚いてしまった私は勢いのまま彼に思い切り抱きついてしまう。

 

「っ!」

 

すると彼が息を飲む音が聞こえた。

そして恐る恐る顔を上げてみるとそこには暗闇の中でも分かるほど顔を赤くした彼が私を見つめていた。

 

そしてそれから少しの間無言が続く中、それを打ち破ったのはSP隊長の声だった。

 

「殿下ッ! ご無事ですか!」

 

「えっ? う、うん。大丈夫だから落ち着いて?」

 

「殿下に手を上げたのは先程の白いやつですね、少々お待ちください。今から行ってきます」

 

少しだけ低いトーンで呟いたかと思うと次の瞬間、凄まじいスピードでSP隊長は今にも駆け出そうと私たちに背を向けていた。

そんな姿を見て彼が慌てて口にする。

 

「えっ!? ちょっ隊長さんまって! そいつはただのお化けですから!」

 

「殿下のことは任せましたよトレーナーさん!」

 

「お願い待って! このままだとやばい! ほんとに! そいつはただの作り物なんですよ!」

 

必死に説得しようとする彼の言葉も虚しく、その声は空へと響くだけ。

 

「追いかけようファイン!」

 

「……あっ」

 

本当に焦っているのか先程まで抱きしめあっていた状態など忘れて走り出した彼に手を引かれて一緒に走る。

けれどそのとき少しだけ、彼に包まれてた温もりが無くなってしまったことに名残惜しさを感じてしまった。

 

その後、結局はなんとかSP隊長の誤解を解くことができたものの私たちはもうお化け屋敷どころではなかった。

 

「申し訳ありません、取り乱してしまいました」

 

「いえ、こちらこそ紛らわしくてすみません」

 

お互いに謝りあう二人を見て思わず笑ってしまう。

その後は少し不服そうな表情を浮かべたSP隊長は護衛に戻り、私たちは一休みもかねて今度はゆっくりしたアトラクションを楽しむことにした。

 

「……さっきは本当に色んな意味で心臓が止まりかけた」

 

「ふふっ私だってびっくりしちゃったよ」

 

「でもファインが怪我とかなくて良かったよ」

 

「もう、大袈裟だよ……」

 

くるくると回るコーヒーカップに二人で乗りながらそんな会話を交わしながら笑っていく私たち。

 

でも、さっきの私の行動は少し軽率だったかもしれない。

普通の女の子みたいに可愛く甘えてみたかったなんていう私の乙女心は上手くいかず少し騒ぎを起こしてしまった。

 

結局のところこの身分の差という大きな壁を乗り越えることはできないんだろう。

私は王族で彼は担当とはいえ一般人。その差はあまりにも大きくてどうしようもない。

それは理解していると同時に仕方のないことだ。

普通の恋をしたいと思っても、そのみんなの普通が私にとっては難しい。

 

「……私も、普通の女の子みたいな恋をしてみたかったなぁ」

 

ぽろっとでてしまった口から漏れた私のそんな本音は、誰にも聞かれることなく消えていくはずだった。

 

けれど、そんな誰にも聞こえるはずのない私の小さな呟きをしっかりと聞いていた人がすぐ傍に居たことに私は気づかない。

そこにはまるで今だけは絶対に聞き逃さないと言わんばかりに真剣に耳を傾けて、強い眼差しで私を射抜く彼の姿があった。

 

「……ねえ、ファイン」

 

「うん? 何トレーナー?」

 

「コーヒーカップが終わったら、次のアトラクションは俺が選んでもいいかな?」

 

「いいけど、どうして?」

 

「どうしてもキミと一緒に乗りたいものがあるんだ」

 

そうしてコーヒーカップが終わり、彼に急かす用に手を引かれて次に選んだのは観覧車。

係員の案内で順番に乗り込むとすぐにゆっくりと動き出す。

窓の外にはもうすっかり夕日に染まる街並みが広がっていてとても綺麗で、そんな景色に思わず見惚れていると不意に正面に座る彼から声がかけられる。

 

「今日は楽しかったか、ファイン?」

 

「うん、もちろんだよ。とっても楽しかった」

 

「そっか、ならよかった」

 

どこか安心したように笑う彼を見ると不思議と私まで安心してしまう。

そしてそのまましばらく静かな時間が流れてそろそろ頂上に辿り着くという頃、突然彼が口を開いた。

 

「突然ごめん。ファインはさ、何か俺に隠し事をしてないか」

 

「……っ!」

 

唐突に投げかけられた瞬間、彼のその眼差しは真っ直ぐ私を捉えていて嘘や誤魔化しは通じないと目を見て分かってしまった。

それに対して私は一瞬だけ息を飲み込んでしまう。

 

「もう、いきなりどうしたの? 私がトレーナーに隠し事だなんてするわけ無いよ」

 

けれど私は動揺を隠すために意味もなく普段通りに演じる。

するとまた彼は私を見透かしてくるような視線を送ったかと思えば今度は一変して優しく微笑んで再び私に視線を送る。

 

その姿に私は目を離せない。

私を見るその彼の瞳があまりに真っ直ぐだったから、こんな時だというのに見惚れてしまったの。

 

「……俺はどうしても普通の人だからさ、王族としてのキミのことは正直ほとんど分からない」

 

「うん」

 

「でも、トレセン学園に来てからのファインのことなら俺は誰よりも理解してると思ってる。もしキミが悩んでるなら力になりたい」

 

「……」

 

「それに、この観覧車の中には俺たち以外誰もいないよ。少しくらい弱音を吐いても俺しか聞いちゃいないさ」

 

ああ、きっとこれは彼なりの優しさなんだろう。

この密室で二人きりという状況で、他の人に話を聞かれることが無い状況をわざわざ作るためにここを選んだに違いない。

ただ私が何か思うことがあるからという理由だけじゃなく、私が少しでも話しやすくするためにここまでしてくれた。

その事実に胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚を覚える。

 

「その、ずるい手を使ったことは悪いと思ってる。でもさっきキミが小さく呟いた言葉がどうしても気になってさ」

 

「そっか、聞こえちゃったんだ」

 

「ごめんね。でも俺は王族としてのファインモーションとしてでなく、一人の女の子としてのファインの言葉を聞きたいんだ」

 

「……っ」

 

彼の言葉が私の心を揺さぶる。

たった一つの私の本音を引き出すためだけにそこまでしてくれる彼。

王族としての言葉を許さずただの女の子として私の言葉を求める彼。

 

「今だけで良いからさ、立場とか難しいこと全部忘れてキミの素直な気持ちを知りたいって思うのはダメかな? ファイン」

 

ああ、そうだ。

彼はいつだって私に寄り添ってくれていた。

そこには打算的な考えも下心も何もなく、ただ純粋に私を心配して支えてくれようとしてくれたそんな彼だからこそ。

 

私は彼に恋をしたんだ。

 

「……なら聞いてくれる、トレーナー?」

 

私のそんな小さな呟きに、彼は力強く首を縦に振った。

 

もう、諦めよう。

これ以上自分の心に嘘をついて、そして彼の優しいその思いにも自分をごまかして嘘をつくのはきっと後悔しか残らないだろうから。

それにもうこの想いを胸に秘めたまま彼とずっと一緒にいるなんて無理だと思ってしまった自分の負けだ。

 

「私ね、好きな人がいるの……」

 

それは私が初めて抱いた本当の恋心。

そしてそれは私とっては決して叶わないはずの恋心。

 

「その人はいつも私を見守ってくれて、時には助けてくれたりもして本当に優しい人なんだ……」

 

でも、結局は私はその恋を諦めきれなかった。

だって、初めて好きになった人だったんだもん。

 

「でも、その人と私は身分が違いすぎる。私は王族で彼は一般人。その差はあまりにも大きくてどうしようもない」

 

今はまだトレセン学園に復学したが、それでも遠くない未来で私は祖国に帰らないといけない日は必ずやってくる。

そうなれば、きっと彼と会うことは難しくなる。

もう会えることもないかもしれない。

だから、せめて最後に思い出だけでも欲しくて、それで満足なのだと心に無理やり言い聞かせてきた。

 

「ファインはさ、その好きな人と一緒に居れて楽しい?」

 

「うん、とっても幸せだよ。ずっとその人のことを想っていると胸があったかくなって気がついたら笑顔になってた。その人を想うと楽しくて、嬉しくて仕方なくて毎日がすっごく幸せ!」

 

そうして私の口から溢れるのは紛れも無い私の本音。

その言葉は今まで我慢してきた分、一度溢れ出したら止まらない。

 

もう抑えきれない、抑えられるはずがない。

そんな風に楽しそうに話す私を見て、彼は一度クスッと笑みを浮かべてそれから私に向かってこんなことを言ってくれたの。

 

「なら、その想いは大切にするべきだと俺は思う。諦めるべきじゃない、王族とか未来がこうだからなんて遠慮なんかする必要はないじゃないか」

 

まるで私の悩みを吹き飛ばすように。

まるで私に勇気を与えるように。

彼の言葉一つ一つが今の私にとってはとても眩しくて暖かい。

 

「それにさファイン、俺とキミは本来ならあの三年間でもう会えないはずだったんだぞ? でもキミはこうして今俺の目の前にいる」

 

彼が私に手を差し伸べる。

その手はとても温かくて、優しくて、気がつけば私はその手を掴んでいた。

すると今度は彼がぎゅっと強く握り返すとそれがとても心地よく感じられて凄く安心する。

 

「キミが頑張ったから今こうして帰ってこられたんじゃないか。なら、今回だって大丈夫だ。ファインモーションとしてじゃなくていい、ただの女の子としてのファインが頑張ればいいんだよ。俺はいつだってキミの力になるからさ」

 

彼の言葉に涙が出そうになるのを必死に堪えるが耐えきれず、一雫の滴が頬を流れ落ちる。

 

「うん、ありがとう。……あのね、トレーナー。もう一言だけ伝えたいことがあるの。聞いてもらっても良い?」

 

「ああ、もちろん」

 

「私、私ね……」

 

私が王族だからとか関係ない。

だって諦めようとした私の恋は、他ならぬあなた自身が諦めるなと言ってくれているんだもの。

 

だったら、もう迷うことなんて何も無いよね。

色んな枷なんて全部取っぱらって、私はただのファインモーションという1人の女性としての恋を実らせたいと心の奥底で願ってしまったから。

 

「あなたのことが好きです」

 

観覧車の頂上で、夕陽に照らされながら告げられる愛の告白。

それは決して届くことのないと思っていた恋心。

けれど、それでも私の言葉は今このとき確かに愛しい人へと届いていた。

 

「ファイン、俺……」

 

「待って、トレーナー」

 

彼の言葉を遮るように、私は言葉を紡ぐ。

 

「わがまま言ってごめんね。返事はまだ言わないでほしいな」

 

「……良いのか?」

 

「うん、だってまだ伝えただけで何もなし得ていないもの。まだ問題は山積みだから、まずはそれらを乗り越えてからもう一度あなたに伝えさせてほしいの」

 

今のまま答えをもらっても、すぐにお別れになってしまいそうだから。

 

まずは日本親善大使の役目を終えてもここに残る方法を見つけて。

次に立場とか関係なく彼と付き合うことができるようになるにはどうすれば良いか考えて。

そして、いつか彼の隣に立つに相応しい女性になってから改めて彼にこの気持ちを改めて伝えたいんだ。

 

その時こそ、きっと私は本当の意味で彼の恋人になれると思うから。

 

「分かったよ、ファイン。ならその時まで待つことにする。それまでに俺ももっと精進しないとな」

 

「なら私もそれまでにもっと自分を磨いて、いつかあなたに振り向いてもらえるような素敵な女性になってみせるよ」

 

お互い顔を見合わせて笑いながら観覧車の中でそんな約束を交わす。

その時の私はきっとその日の中で一番の満面の笑みを浮かべていた。

 

 

その後、私たちは地上に降りて帰路に着き、学園へと戻る。

遊園地でのことを思い返しながらウキウキとした気分で学園寮までの道を歩いていくとそんな姿を見てなのか、後ろで警護してくれるSP隊長が柔らかい笑みを浮かべて声をかけてくれた。

 

「遊園地から帰って来てから随分と機嫌が良いですね、殿下。何か良いことでもありましたか?」

 

「うーん、内緒♪」

 

「なるほど、トレーナーさんとのデートが余程楽しかったんですね」

 

「あ、あれ!? どうしてバレてるの? もしかしてエスパー? 実は超能力者だったりするのかな?」

 

まさか自分の表情や態度に出てしまっていたとは思わずに慌てふためく私を見て、彼女はまたクスリと笑う。

 

「私も殿下と同じ女性ですから、殿方の話題になるとどうしても気になってしまうんですよ。特に最近はずっと上の空といった様子でしたし」

 

「あはは、そんなに分かりやすかったかなぁ……」

 

「ええ、それはもう」

 

彼女の言葉を聞いて少し恥ずかしくなって熱くなった頬に手を添える。

確かにここ最近私はずっと上の空状態だったかもしれない。

だけどそれは同時に、それだけ彼のことを考えていたということだ。

それを思うと何だかくすぐったいような、不思議と嫌な気分ではなくむしろ嬉しい気持ちになる。

 

「ですが本日は大変申し訳ございません、殿下」

 

「えっ?」

 

「今日のお化け屋敷での私の失態についてです。あのときの私の軽率な行動で危うく殿下を危険な目に遭わせるところでした」

 

「ううん、気にしないで。むしろ助けてくれようとしたんでしょ? なら謝る必要なんて全然ないよ」

 

確かにあのときは驚いたけど、結果的には怪我をすることもなくこうして無事に帰ることができたのだから問題はない。

ただ、彼女としてはそういう訳にもいかないのか、頭を下げたまま一向に上げる気配がなくそのまま言葉を続けていく。

 

「いえ、失態には変わりありません。そこで非礼をお詫びする意味も兼ねて一つ提案があるのですが……」

 

彼女はそう言ってようやく深く下げた顔を上げて私を見る。

その瞳は真剣そのもので、どこか決意を固めたように強い意志を感じると同時に彼女なりの優しさが感じられた。

 

「どうか私に、殿下とトレーナーさんの仲を取り持つ手伝いをさせていただけないでしょうか?」

 

まるで最初からそれを望んでいたかのように。

まるでそのために今まで動いてきたのだと言わんばかりに。

彼女は真っ直ぐな眼差しと共に、私にそんなことを申し出てきた。

 

「もしかして私がトレーナーのこと好きって知ってたの?」

 

「私は殿下と居た時間ならトレーナーさんよりも長いですから、ずっと前から気づいていましたよ」

 

「……それじゃあひょっとして、お化け屋敷のとき急に隊長が出てきたアレってわざと?」

 

「はい、いかに中では二人きりとは言えど私たちが傍にいることは殿下もご存じですから。私たちのことを少しでも忘れてくれたらと少しお化け役と協力してもらって芝居をさせてもらったのです」

 

私が問いかけると、彼女は悪びれもなく素直に答えていく。

 

「お化け役には通常通り怖がらせてもらい、私は護衛として怖がらせたお化けを追いかけてごく自然に殿下たちから離れ、僅かな時間だけでも本当の意味で二人きりになってもらう。それが私の狙いでした」

 

まあ、少々やりすぎてしまいましたけどね。

結果的には上手くいきましたがまさか追いかけてくるとは……。

 

なんて苦笑いしながら呟く彼女を前にして私はただただ呆然としていた。

つまり、彼女が私を助けようとしてくれたのはただ単に私とトレーナーさんの関係を進めるためだけにやったことだったということらしい。

私のためではなく、あくまで私とトレーナーさんのために。

 

「すみません。素直に手伝いたいと申しても殿下なら断ると思い、こんな手段をとってしまいました」

 

「……ふふっ」

 

「殿下?」

 

「あはは、おかしい。なんか急におかしくなっちゃった。ごめんね、笑ったりしちゃって」

 

でも不思議と嫌な気持ちにはならない。

むしろ嬉しくなってきて心がポカポカと温かい。

 

「ねえ、SP隊長。あなたにお願いしたいことがあるんだけど良いかな?」

 

「なんでしょう、私にできることならなんでもお聞きしますよ」

 

「ありがとう。それじゃあね、好きな人にもっと私を好きになってほしいから。自分磨きとか花嫁修業とか、協力してくれるかしら?」

 

「御意。殿下が幸せになれるよう全力でサポートさせていただきます」

 

SP隊長は力強く返事をして、そして優しく微笑む。

夕日も落ちた夜空には星々が煌めき始めていて、そんな綺麗な景色の中。

私たちはお互いに笑い合いながら寮へと歩いていく。

本当に今日だけでも夢だと疑ってしまうほど幸せな一日だった。

 

だけどこれは紛れもない現実なんだと。

この胸の温かさこそがその証拠なのだと。

私は改めてそう実感することができるのが何よりも嬉しくて仕方なかった。

 

 

 

そんな幸せなことが過ぎた次の日。

もうこの気持ちを隠さなくても良いと吹っ切れたからか。

はたまた昨日の遊園地デートで気分が高揚しているのか。

放課後のトレーナー室で絶賛彼に甘えている私の姿があった。

 

「大好きだよ、トレーナー♪」

 

「はいはいわかったわかった。もう何回も言わなくていいから、こっちが恥ずかしい!」

 

「だって何度言っても言い足りないんだもん。それに、今までずっと言えなかった分も合わせてたくさん伝えたいの」

 

そう伝えれば同じソファーの隣に座っている彼は頭を掻きながらも照れくさそうな表情でそっぽを向く。

その頬は微かに赤らんでいるように見えるけど、きっとそれは私も同じこと。

 

「それに、大好きって気持ちを伝えるのは悪いことじゃないでしょう?」

 

「まあ確かにそれはそうだけどさ」

 

「ふふ、なら問題ないよね」

 

この恋は結ばれないと思っていた。

結ばれるわけがないとも思っていた。

どうせ叶わない恋ならいっそ諦めてしまいたいのに、どうしてもできなくてもどかしい。

 

寝ても覚めてもキミのことが頭から離れないの。

いつも一緒にいたくて、少しでも近くに居たくて、私を見てほしくて。

諦めるどころか、そんな想いがどんどんと溢れてきたのを覚えている。

 

「ねえ、トレーナー。キミの瞳をよく見せてくれない?」

 

「えっ瞳?」

 

「うん、お願い」

 

「よく分からないけど、まあ別に良いよ」

 

突然そんなことを言われたことに戸惑いつつも了承してくれた彼の顔を両手で掴んで覗き込む。

その澄み切った優しい眼差しに、私は思わず見惚れてしまいそう。

けれどそれは後回しだ。

 

「……えいっ♪」

 

隙だらけの彼の頬へと私は触れるだけのキスをする。

するとその行動に驚いたように目を丸くするトレーナーの顔はみるみると赤く染まり始めて、やがて耐えきれなかったように口元を手で覆う。

 

「……これからもずっと、キミのことが大好きだよ。トレーナー」

 

そんな愛しい人に向けて私は満面の笑みを浮かべてそう告げる。

 

諦めようと、消すしかないと思っていたこの恋心の火は他ならぬキミが灯してくれた。

あの観覧車の中でキミは私に遠慮せずこの想いを大切にするべきだと否定をしなかった、受け入れてくれた。

王族としてのファインモーションではなく、一人の女の子としての私の心を大事にして良いと言ってくれた。

 

だから私はもう迷わない。

この気持ちを諦めることも、消してしまうことも絶対にしない。

祖国の使命や立場、これから先もきっと色々と障害はあるだろうし問題は山積みかもしれないけど私はこの恋を精一杯に貫いて大切にしていくと心に決めたのだ。

 

だって、ずっとずっと想い続けた私自身の大切な気持ちなんだもの。

それにこれからも先もずっとキミの隣に居るのは私でありたいと、心の底からそう思っているから。

私がトレセン学園を卒業しても、その後もずっと。

 

キミの傍にいたい。

 



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トレーナーに美味しいって言って貰えるように頑張るファインモーションの話

授業終了のチャイムがなったお昼休み。

ガヤガヤと周りは騒ぎだし各々好きな人と集まり弁当箱なり食堂のメニューを持って話し始める中、私は受け取ったメニューを持ったままどこで誰と食べようかと考えを巡らせていた。

 

「う〜ん。……あっ!」

 

そして食堂内をぐるりと見渡すと丁度席に座ってこれから食べようとしている彼の姿を見つけたの。

学生たちで賑わう中トレーナーさんも勿論ここを利用する人はいるけどこうして同じ時間帯で昼食の時間が合うことは中々に珍しい。

いやここは運が良いって言った方が良いかも?

 

私はもうニコニコと笑みを浮かべて彼の元へと駆け寄ったのだった。

 

「こんにちは、トレーナー!」

 

「ん? おお、ファイン! キミもお昼?」

 

「うん! 私も丁度これから食べようと思って。もし良ければご一緒しても?」

 

「もちろん、良いに決まってるじゃないか」

 

私の申し出を快く受け入れてくれた彼に心の中で小躍りしながら隣の席の椅子へ腰掛けさせて貰う。

そして私が座ったのを確認すれば二人一緒に手を合わせ「いただきます」と声を揃えて箸を動かしていく。

 

「それにしてもトレーナーがここでお昼を食べるなんて珍しいね?」

 

「まあ、今日はちょっと時間がなくてさ。昨日のうちに弁当だって用意する暇も、コンビニとかに買いに行く余裕もなかったからね」

 

苦笑い気味に話す彼を見て私は思わずクスッと笑ってしまった。

確かにこのトレセン学園は色々と忙しいだろうしいつも時間に余裕があるわけじゃないのはよく知っている。

 

「たまにはこういう日もあるよ。それよりファインの方こそ、いつも周りに誰かいるのに今日は1人なんて珍しいじゃないか?」

 

「あっ! そういうこと言っちゃうんだ!?」

 

「別に他意はないよ。単純に気になっただけ」

 

「本当? アイルランドのお姫様がもしかして独りぼっちなのかなって心配してたとかじゃないよね?」

 

「はは、そんなまさか。……ほら、食べる手が止まってるぞファイン? ちゃんと食べなきゃ」

 

「も~!」

 

はぐらかすように笑う彼の背中をペシペシと叩いて抗議の意を示す。

ただそんな私に対して彼はまるで気にした様子もなく、寧ろとても愉快そうに口角を上げて一緒になって楽しんでるこの時間が凄く心地良い。

 

「でも今日は逆に1人だったからキミを見つけられてラッキーかも」

 

「そう言ってくれるなら俺も嬉しいよ」

 

うん、やっぱり彼と話すのは心地が良い。

王族としてのファインモーションではなく、本当にただの一人の学生として変に偽ることなく対等の関係として扱ってくれるからこそ、キミとの時間は私にとって凄く安心できて何より嬉しく思えることだった。

 

「しかし、久しぶりに食堂使ったけどやっぱり美味いなここ。特にこの味噌汁飲むとほっとするというか何というか……」

 

「日本の料理って本当に何でも美味しいもんね! 私も好きだよ、お味噌汁」

 

「うん、それは良かった」

 

そう言った後にまた一口と彼は味噌汁を飲めば満足げな表情を見せた。

そのときの表情になせだか私には目が離せなくなってしまって、気がつけばその横顔に吸い込まれるように目を奪われてしまうのだ。

 

そして同時に、こんな言葉を彼に向けていたのである。

 

「ねぇ、トレーナーはお味噌汁の他には何が日本の料理で好きなの?」

 

「ん、そうだな。急に言われてパッとは出てこないけど、やっぱり肉じゃがとかじゃないか?」

 

「みんな日本の料理を聞くと肉じゃがとかお味噌汁が好きって言う人が多いけど、それはどうしてなのかな?」

 

「う〜ん、特に深い理由なんてないと思うぞ。俺なりの答えにはなるけどやっぱり、今までで一番食べ慣れた味っていうこともあるんじゃないかな?」

 

「一番食べ慣れてる……。そっかぁ……そうなんだ」

 

「答えとして合っているかは人それぞれだけどさ。少なくともそういう食べ慣れた味っていうのは俺は好きだよ」

 

口元に手を添えてふむふむと私は考え込むようにして納得の声を上げながら、その思考の中でちらりと一度横目で彼を見る。

 

食べ慣れた味が好きだとキミは言う。

美味しそうに今も食事を続けて笑う彼の姿、もしも私が同じように料理を振舞ったなら今と同じ顔を向けてくれるだろうかと。

 

「あのね、トレーナー。実はお願いがあるんだけど良いかな?」

 

そして私は思い切って彼にある提案をしてみたの。

ラーメン以外での料理はまだ不安はあるけれど、その不安以上に喜んでくれた彼を見てみたくて、その食べ慣れた味の中に少しでも入れてもらえるように私はもっと頑張ってみたいと思えたから。

 

「私がもし、お味噌汁と肉じゃがを作ったら……そのときキミは食べてくれる?」

 

彼の反応が楽しみでもあり、緊張もしている。

ただそれでも勇気を振り絞って聞いた私の言葉に対して返ってきた彼の返事は至ってシンプルだった。

 

「もちろん」

 

たった一言、それだけだったけど私にはそれが何よりも嬉しかった。

思わず顔を上げて彼を見ればそこには優しい笑みを見せてくれていて、胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚と共に私の胸は喜びに高鳴っていくのを感じたの。

 

そしてそれから、また今日一番の笑顔を向けて食事を共にしていたのだった。

 

 

その日の夕方。

いざ彼に料理を振舞うと決めた以上はしっかりと準備をしなければと意気込んだ私は今、SP隊長と一緒にスーパーへと買い出しに来ていた。

必要な材料のメモはもう既に作っているためそれを見ながら目的の物を探してカートに入れていく。

 

「う〜ん、色々あって困っちゃったけどとりあえず必要なものは買えたかな?」

 

「はい、これで後は調理するだけです」

 

「うん。ありがとう、手伝ってくれて」

 

「いえ、殿下のお役に立てることは私にとって何よりも喜ばしいことですから」

 

そんな会話をしながら買い忘れがないかをしっかりと確認しつつ私達はレジへと向かう。

 

「でも宜しいのですか殿下? 食材なら殿下自ら購入せずとも我々が手配した物を使って頂いても構わなかったのですが……」

 

「ううん、それじゃあ駄目なの。むしろここじゃないと駄目」

 

確かに普通に考えてみればわざわざ隊長に頼んでまで一緒に買い物をする必要はないしむしろ隊長の言う通りにした方が楽ではあるだろう。

そもそも普段であれば王族がこうして自ら買い出しに出ること自体、まずあり得ないことだ。

 

それでも今回ばかりはどうしても自分から動かないわけにはいかない。

 

「彼が好きなのは食べ慣れた味って言ったの。なら彼が普段使う材料で作らないと意味がないでしょう? 彼に食べてもらうなら尚更だよ」

 

「急に殿下が『スーパーに買い物に行くよ!』と言われた時は流石に驚きを隠せませんでしたが……。なるほど、その辺りは殿下らしいですね」

 

クスッと笑って見せる彼女の言葉に私も小さく微笑む。

自分でも突拍子のない行動を取っている自覚はあるからね。

 

「それにせっかく作るんだもの。……それなら食材が良い物を選んだからって理由じゃなくて、ちゃんと私の手料理を食べて美味しいって言ってもらいたいでしょ?」

 

「……ふふっそうですね」

 

私がそういえば隣を歩く彼女は少しだけ驚いた表情を見せた後、とても嬉しそうに笑いながらそう口にした。

 

「それにしても、1人の男性にここまで殿下が夢中になる日が来るとは思いもしていませんでしたよ」

 

「うん、それは私も同じで正直今でも信じられない」

 

何気なく、本当に世間話として彼女はそんなことを言ってくるその言葉に対して私は思わず笑みをこぼしてしまう。

だって本当にこんな経験は生まれて初めてのことだから。

 

「本来王族である私がわざわざ自分で買い物まで来て、どれが良いんだろって悩んで……まるで普通の女の子みたい」

 

そしてそこで言葉を一旦止めれば私はそっと自分の胸に手を添える。

 

「だけど不思議とそれが全然悪いとは思わなくて、寧ろどこか嬉しい気持ちの方が大きいくらいなんだから。恋ってやっぱり凄いね?」

 

「はい、とても素敵なことだと思いますよ」

 

それは、心の底から思う。

こうして彼のために動く自分がいて、彼のことを考えて何かをしてあげることに嫌な気分にならない自分自身がいること、それがどうしようもなく今の自分にはとても言葉だけでは表現できないほどに幸せなことだと改めて思うのだ。

 

「よ〜し、張り切って腕を振るうぞ〜!」

 

「ふふっ頑張ってください。殿下」

 

「うん、ありがと」

 

私はその言葉に元気づけられるようにして意気込みを見せる。

レジで会計を済ませてルンルン気分で歩く帰り道の中で考えるのは、もはや当たり前となった彼のことばかりだった。

 

今頃何をしているのだろうかとか、食べてくれたらどんな顔をしてくれるのだろうかとか、キミの喜ぶ姿を早く見てみたいなぁって……。

今も心の中で呟きながら私はそっと笑みをこぼしたのだった。

 

 

そして材料も買い終えた次の日のこと。

学園のキッチンを借りて、今日の主役である彼をお昼休み中に誘えば二つ返事で了承してくれた。

 

「……ええっと、ああは言ったけど大丈夫なのか、ファイン?」

 

「うん、大丈夫だよ。任せておいて」

 

「何かあったらと思うとやっぱり少しだけ心配というか……」

 

「もう……キミは私のことを信用してくれて無いの?」

 

ちょっと拗ねたように言えば、彼は少しだけ困った風に笑ってくれる。

別に意地悪で言っているわけじゃ無くて、彼なりに私を想ってくれての言葉だと分かっていると分かるから私も笑って返すの。

 

大丈夫、キミに食べてもらう為の料理なんだから失敗なんてしないよ。

 

「とにかく、キミはそこでどーんと構えていれば良いの。分かった?」

 

「……まあ、何かあれば私たちSPも側に居るのでトレーナーさんはご安心ください」

 

「ありがとうございます、隊長さん。それならひとまず安心かな」

 

SP隊長の一言を聞いてやっと彼も落ち着いてくれたようで、ほっと一息吐くのが見えてきた。

 

全く、私の大事な日にそんなに不安がらないで欲しいかな?

 

「それじゃあ作るから少しだけ待っててね?」

 

「うん、楽しみにしてるよ」

 

そして彼に見送られて、私達は早速調理を開始する。

今日の為に昨夜まで何度も何度も確認をした調理手順を脳内に浮かべながら手を動かしていく。

調理途中での多少のミスはあるかもしれないけどそれも想定内、大切なのはそこじゃなくて美味しいって言って貰うことだから。

 

「えっと、お味噌汁の具材はこれだったよね。後は……」

 

お味噌汁を作るのと並行して他の食材の下拵えを進めていく私。

側にいる隊長も今だけはこちらのことを気にかけてくれはするけど、何も手伝うようなことはなくただ見守ってくれている。

だから気にせずに集中して作業を進めることが出来た。

 

「……♪」

 

そうしているうちに次第に楽しくなってくるとつい無意識に鼻歌が漏れてしまって、調理の片手間にちらりと横目で彼の方を覗いてみれば彼と目が合って手を振りかえしてくれる。

 

きっと彼にとっては何の変哲もないやり取りだろうけど、それが今の私にとってはかけがえのない時間であることは間違いなかった。

 

「……ふふっ♪」

 

思わず頬が緩んでしまう。

胸の内に広がる温かな感情が抑えきれない。

 

お腹を空かせて待ってくれてるかな?

どんな感想を言ってくれるんだろう?

喜んでもらえるかな、美味しいって言って貰えるかなって想像するだけで幸せすぎて顔がにやけちゃいそうになる。

 

「よし……出来た!」

 

そうこう考えているうちに完成だ。

完成した料理をテーブルに並べていけば、自然と私の気分は最高潮に達していた。

 

「お待たせ、トレーナー!」

 

「おう、待ってました!」

 

出来上がった料理を運んできた私を見てさっきまで不安そうにしてたくせに、今の彼は少し興奮気味な様子で答えてくれる。

けれどまあ、それだけ楽しみにしてくれていたなら私も嬉しい限りだ。

 

「さあ、冷めないうちに召し上がってね? ほらほら、隊長もだよ!」

 

「……私も宜しいのですか?」

 

「もちろん! もし何か一緒に食べる理由が欲しいなら、私のために色々と手伝ってくれた感謝の気持ちって言ったら良いかな?」

 

「では、そのお言葉に甘えて頂きます」

 

そんな会話を挟みながら彼の対面に私が、その私の隣に隊長が腰掛けていく。

 

そしていよいよ彼の手には箸が握られ目の前に置かれた料理へと向けられた。

緊張で喉がごくりとなりそうなのを必死に耐えて、私はその様子をじっと見つめていた。

 

「凄いなファイン、どれも凄く綺麗で美味しそうだ!」

 

「ふふっそれは良かった。沢山作ったからいっぱい食べてね?」

 

「ああ、ありがと」

 

「うん、どういたしまして」

 

そんな軽口を叩きながらも、正直心臓がバクバクでいつ破裂してもおかしくないんじゃないかってくらい鼓動が激しく鳴っているのが自分でも分かる。

 

私の隣に座るSP隊長もまだ箸を持っていない。

恐らく彼が最初の一口を食べ終わるまでは手をつけるつもりはないのだろう。

それはきっと彼女も私が一番最初に食べてほしくて、一番最初に感想を伝えてほしい人が誰か理解しているからだと思う。

今はその優しさが何よりも有り難かった。

 

「それじゃあ、いただきます」

 

両手を合わせれば、そっと丁寧に彼は箸を使っておかずの一つを掴み取って、そのまま一切れ口に運べば言葉はまだないけれどみるみるとその表情が綻び始めていた。

 

「……どうかな?」

 

そして恐る恐る聞いてみれば、彼は一度視線を私に向けて優しく微笑み返してくれる。

 

「めっちゃ美味い。ありがとうファイン」

 

サムズアップしながらそう言う彼に私は心底ほっと安堵する。

そして同時に胸にこみ上げてくる喜びの感情は、とても言葉で言い表せるものではなかった。

 

ああ……良かったぁ……。

 

「やりましたね殿下」

 

「うん、本当に嬉しいよ……」

 

彼に聞こえない声音で言う隣の隊長の言葉に素直にそう返す。

だけどまだまだ安心するのは早いと気合を入れ直して。

 

「もっといっぱいあるからどんどん食べてね?」

 

「ちゃんと全部食べるから心配しなくて良いぞ、ファイン?」

 

「うん!」

 

それからの時間はあっという間だった。

私の自信作は彼の舌に合ったみたいで、次々にお皿に盛った料理を口に運んで行ってくれる。

 

「……」

 

私の料理を美味しそうに食べるその姿を眺めているだけで、私の頬は緩んでいく一方であった。

肉じゃがもお味噌汁も、一つ食べてはそのたびに美味しいと言ってくれる彼についつい私までお腹が膨れてしまうくらい夢中になって見続けていたと思う。

 

気がつけば彼から「食べないのか?」と言われてしまい、そこでようやく私は少しだけ慌てて自分の分の料理に手をつけたのだ。

 

「それにしても本当にわざわざ作ってくれるなんて思ってなかったよ」

 

「えー、ひどいよトレーナー。私がご飯を作ってあげるって約束したの忘れちゃったの?」

 

「覚えてるよ勿論。……まあ、少しだけ冗談だと思ってたんだけどさ」

 

「結構頑張ったんだよ、今日の為に」

 

「……うん、ありがとう。凄く嬉しい」

 

「ふふっ♪」

 

そんな他愛のない会話を交えながら、食事も進んでいく。

彼の分のご飯が少しづつ無くなっていく度に、なんだか私まで満たされていくような、そんな不思議な感覚が伝わってくる。

 

「……でも、こんなに美味しいのなら他の子たちにも振る舞ってあげたら喜ぶんじゃないか?」

 

そして不意に、彼はそんなことを言った。

 

「そうだね、みんなにもご馳走したいとは思うけど……」

 

一瞬だけ私は迷うように言葉を詰まらせて、少し彼の方を見つめてから答えを紡ぐ。

確かに彼の言うようにしたときの光景は幸せなものになるだろうし、きっとみんなが喜んでくれるその楽しい光景はすぐにでも想像がつく。

 

「でも、やっぱり私が一番最初に食べてほしいって思うのは。キミなんだ」

 

だから、私は迷わず彼を見据えて答える。

他の誰より一番初めに彼にこの料理を食べてもらいたい。

それが私の本心であり、譲れない想いであるのだから。

 

「……なんか、そう言われると照れるな。……ああもう、どうしたらいいか俺にも分からん」

 

すると彼は嬉しさと恥ずかしさが混ざった様ななんとも言えない表情をして顔を逸らしてしまった。

困り果てる様に呟く彼に思わずくすりと笑みを浮かべながら、今も照れ隠しにお茶を手に取って隠れるように飲み始める彼の姿はとても可愛らしい。

 

「……私のご飯、毎日食べたいって思ってくれたかな?」

 

だからだろうか。

つい調子に乗ってそんな言葉を言ってしまったのは。

 

平然と言ってるようだけど全然そんなことはなく。

きっと私の声は震えてて、耳まで真っ赤になっているんだろう。

さらっと言ったその一言が今まであったどんなことよりも緊張してて、今もこうして心臓ははちきれんばかりに高鳴り続けている。

 

……今更だけど、どうしよう。今すっごく顔が熱いや。

 

「……そうだな、うん。……毎日食べられたなら、きっとその人にとって幸せだろうな」

 

突然私が放ったそんな言葉に彼は少しだけ咳き込みながらも、こちらに視線を向けてゆっくりとそう返してくれた。

 

「そっか……うん、そっか。ふふっ♪」

 

彼が返してくれたのは固定とも否定とも取れない曖昧な言葉。

だからこそ、それは私にとってとても素敵な答えのように思えた。

 

だってキミがしっかりと否定しないということは、少なくとも嫌ではないということなわけでしょ?

今も顔を真っ赤にして「……ああもう、味がよく分かんなくなってきた」なんて言いながら料理を口に運ぶ彼はとても愛おしく見える。

 

「……また一歩前進ですね、殿下」

 

「……えへへ、うん。今ちょっとだけ見せられない顔してるかも」

 

横目に見える隊長も満足そうにそう言い私と目が合えば互いに笑いあって少し照れながらピースをして返す。

まだまだ私が彼と結ばれるには問題は多くあるけれど、それでもこうしてアピールできるチャンスがあるならば全力で挑むまでだ。

だって、私は諦めが悪いウマ娘なのだから。

 

そしてそれからまた少し時間が経って、ご飯を食べ終えてまた3人で食後のお茶を飲んでいるとき。

 

「でもやっぱり素敵だね。こうしてみんなで食卓を囲むのって」

 

自然と口からこぼれたその言葉に彼は同意するように深く首肯する。

隊長も同じような気持ちなのか、どこか優しげな瞳でこちらを見つめていた。

 

「私と隊長とキミ、3人でこうしてさ……」

 

そんなことを呟きながら目を閉じて想いに耽る。

瞼の裏に浮かぶのは王族とか関係なく、何の変哲もない普通の家でこうして食卓を囲む私たちの姿。

 

私がエプロンをつけてご飯を作りながら、時に隊長にサポートしてもらいつつお仕事から帰ってきたキミを出迎えて……。

そしてみんなでテーブルを囲んで楽しく話しながら、温かいご飯を食べる。

 

今のこの状況がどうしようもなく素敵に映るから、つい自分の立場なんて忘れてそんな普通の生活に思いを馳せてしまいそうになる。

 

「それじゃあ次は俺がいつも作ってる味をファインに食べさせてあげるよ」

 

すると不意に、彼はそう言ってくれた。

いつも通りの変わらない笑顔を向けながら、まるでなんでもないことのように自然に次を約束してくれたのだ。

 

「正直料理の腕にはあまり自信はないけど、きっと美味いぞ? 俺の母さん直伝の味付けだからな」

 

その瞬間、胸の中に溢れた想いに気づけば私の口元は笑みを浮かべていて、自分でもわかるくらい頬が熱を帯びていくのを感じた。

そんな風に笑ってくれるのも、次に約束してくれることも全部が嬉しい。

またこうして一緒に素敵な時間を過ごせることが堪らなく幸せを感じる。

 

「そしたらまたその次は、俺とファインの2人で一緒に作ろうか」

 

気づけばその先も同じような約束が増えていって、その事実が嬉しくて嬉しくて仕方ない私はきっと今日で1番良い笑みを浮かべているのだろう。

何でもないように彼は言うけれど、そんな言葉を当たり前の様に言えるのはきっとキミだけだと思う。

 

でもそんな些細なことに私の心は大きく揺さぶられて、この感情が止まらないくらい溢れ出しちゃいそうだ。

トクントクンと心臓の鼓動が高鳴っていくのを感じながら、今はただ目の前の彼だけを見つめていたくて仕方がなかった。

 

そして同時に。

この鼓動が私の体を駆け抜けていくたびに、私はキミにまた一つ恋をしていく。

 

「ふふっそれじゃあ、約束だね♪」

 

だからだろうか。

こんな風に無邪気に笑って答えられたのは。

 

「ああ、約束だ」

 

差し出した私の小指に彼も小指を絡めてくれる。

そして二人だけの内緒の話をするようにお互いに微笑み合って視線を交わす。

 

次は買い物に行く前に彼にも一緒に来てもらうのもいいかもしれない。

その時に料理を一緒に作るという名目で彼好みの味付けをこっそり覚えていくというのも、きっと楽しいと思う。

 

「今から楽しみで仕方ないや」

 

それは何度だって同じ。

ただただキミが好きだからという、単純かつ真っ直ぐなこの恋心の感情が私を突き動かす。

 

キミの好きなことも、嫌いなことも知りたい。

だから私はこれから先ずっと、キミの側にいたいんだ。

 

「ねえ、トレーナー」

 

「何、ファイン?」

 

そう問いかければ、彼は優しく答えてくれる。

彼の優しい眼差しが私に向けてもらえていると考えるだけで胸の奥がぽっと温かくなって。

そして気付いた時にはもう私の口は動いてしまっていて、心の底からの気持ちが溢れる様に言葉として紡がれていった。

 

「私ね、やっぱりキミのことが好きだよ」

 

もう何度も何度も口にした言葉。

たった一言、けれどそのたびに勇気が必要になるけどそれでも伝えたくなる大事な想いを伝える言葉。

 

するとキミは私と同じように真っ赤になって困ったように頭を掻いてからそっぽを向いちゃうけど、きっと私も同じ顔をしているんだって分かってる。

 

だから私はその反応がとても嬉しいんだよ。

私と同じ顔を見せてくれてるってことは、少なくともちゃんと私のことを意識してくれているという証なんだもん。

 

「……」

 

それから先はお互いに無言のまま、心地の良い沈黙の時間が流れる。

私も何を言えばいいのか分からなくて口を開けなかったけれど、それでも幸せな気分だった。

 

キミといる時間が何よりも幸せで、このまま時間が止まってくれればいいのにな。

なんてことを思うくらいにはキミのことを想っている。

 

きっと私は、これから先も何回でもキミにこの想いを伝えるのだろう。

キミの前では私はただの一人の女の子、他の誰でもない普通の恋をしているファインモーションになれるから。

 

そんなキミとの未来を夢見るように目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。

そうすればほら、瞼の向こう側には大好きな人がいる。

でもやっぱり想像のキミよりも、実際にこうして目の前にいるキミが1番好きだよ。

 

いつの日か必ずとキミの隣に立てる私になるために、目の前にある立場上の障害なんてキミと一緒に全て乗り越えてみせるから。

勿論キミにもっと好きになってもらえるようにアピールだって欠かさないし、どんな時だって隣にいられるように頑張るから。

 

キミが私に振り向いてくれるその時まで。

だからそれまで待っててね?

 

大好きだよ、私の愛しい人。

 



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マヤノトップガン
お昼休みをトレーナーと一緒に過ごすマヤノトップガン


キーンコーンカーンコーン、授業終了のチャイムがなった。

この後はみんな楽しみのお昼ご飯の時間、周りの子もやっとお昼だとそれぞれにざわつき始め各自それぞれに教室を出ていった。

 

軽い居眠りをしていたマヤはその音で目を覚ます。そして軽く背伸びをするとさっきまでの眠気はどこへやら、パパっと椅子を机に戻したら目的の場所へ向かって小走りで駆けていく。

道中周りの子たちから「ご飯一緒に食べよ」と誘われるが「今回はごめんね」と謝りつつ足を進める。目的の場所は食堂、ではなく自分の担当トレーナー室。ノックを三回、すると音に気付いてトレーナーが扉をあけてくれる。

 

「やあマヤ、早かったね。授業お疲れ様」

 

「お待たせトレーナーちゃん!」

 

今日のマヤのお昼はお弁当、そしてトレーナーちゃんとランチデートです!

 

「あのね、きいてきいて!今日ね!」

 

「はいはい、ゆっくり話を聞きたいからまずは席に着こうか」

 

「うん!」

 

マヤを笑顔で迎えてくれるとトレーナーは自分を席へと誘導し、その後温かいお茶を渡してから対面側に座った。

最近始まった2人きりでのランチの時間。このみんなに内緒のランチのルーティンがドラマでみるような大人の女性のようでいつもワクワクする。すでに緩み切った頬を整えてお弁当箱を二つ取り出した。

 

「じゃーん! 今日はね、マヤが作ってみたの!」

 

「おお! 凄いじゃないかマヤ! うん、どれも美味しそうだ」

 

「えへへ、たっくさん食べてね!」

 

「それなら遠慮なく、頂きます」

 

お弁当を広げると彼の視線がころころと動きどれも美味しそうだと唐揚げを一口、ちゃんと美味しくできたか不安はあれどそれも彼からの満面の笑みでこちらにグーサインをくれたので安心した。

 

「美味しいよ、マヤ」

 

「ほんとっ!?」

 

その言葉だけで胸がきゅ~っとなって大満足。あまりの嬉しさに身振り手振りしながら自分も食べ進めていく。が、彼の喜んで食べてくれる姿を見てはあれも食べてみて、こっちのも自信作なのとトレーナーにばかり食べさせてしまいあっという間にお弁当の中身が減っていくが気にしない。

 

「それにしてもまさかお手製のお弁当を食べれるなんて驚いたよ。今日は何かの記念日だったかな?」

 

「あのね、ネイチャちゃんがやっぱり大人の女性なら男性の胃袋を掴んでこそだよね~ってアドバイスをくれたからマヤも挑戦してみたの!」

 

「なるほどナイスネイチャがそんなことを」

 

「うん! それでどうトレーナーちゃん、マヤに胃袋掴まれちゃった?」

 

「あはは、それはどうだろう」

 

トレーナーの反応をみるにどうやらまだ駄目らしい。期待した答えをもらえなかったことに少しむくれながら自分のおかずを雑に一口入れていく。ネイチャちゃんはこれで一発だよって教えてくれたのにちょっと困った表情をトレーナーにもやもやする。

 

「もう、ごまかさないで教えてよ~」

 

「困ったな。そうむくれないで。マヤのお弁当は本当に嬉しいよ」

 

「むぅ……ほんと?」

 

「ああ勿論。俺だけ独り占めも嬉しいけどそれは少しもったいない。こんなに美味しいんだ、きっと友人たちに手料理を振舞ってあげたら喜んでくれると思うよ」

 

そう笑う彼はきっと本心で思ってくれてる。でもそうじゃない。今日頑張ってお弁当にしたのはちょっとでもマヤのことを意識してほしかったというあわよくばもあったけど、きっとこの人はそこまでわかってくれてない。

 

「ぶーぶー! やっぱりトレーナーちゃんガード固すぎるよ~」

 

「ガードが緩かったらそれは大問題なんだ。俺理事長やたづなさんから説教もらっちゃう」

 

「あー! 今マヤと2人きりなのにそうやって別の女の人のこと持ち出すの駄目なんだよ!」

 

「別の女の人って、てかなんでそんなに怒るのさ」

 

「とにかく嫌なの!」

 

「わかったわかった、もう名前を出さないから落ち着いて」

 

「マヤの乙女心を傷つけた悪いトレーナーちゃんは許してあげな~い。えいっ!」

 

その言葉とは裏腹に満面の笑みで彼の傍に近寄り思いっきり抱きついた。

 

「ちょっと、マヤ離れて!?」 

 

「や~♪」

 

大慌ての彼はマヤを離そうとするけど離れてあげるつもりはない。むしろもっともっと抱きしめる力が強くなる。目の前の視界には大好きなトレーナーのことしか見えない、彼の大きな心臓の鼓動が聞こえるのが凄く心地いい。自分の耳や尻尾がぴこぴこ動き、もっと彼を傍で感じたくって顔をうずめてみる。

 

「マヤ~? いい加減にしないと怒るぞ~?」

 

「じゃあさっきトレーナーちゃんはマヤを怒らせたからこれでお相子だも~ん」

 

「ぐっ何も言い返せない、けどそういう問題じゃないの!」

 

できるだけ長く、この幸せな時間を感じ続けるために彼が言えばこちらも言い返し、お互い屁理屈を並べていく。そうすればやがて諦めたのか、ため息を一つついて「もう仕方ないか」なんてと言いながらマヤの頭を優しく撫でてくれる。

 

「えへへ」

 

優しい彼の掌の温かさにこのまま時間が止まってくれたら良いのに、なんてことを考えているとその幸せな時間を壊すがごとくトレーナーのスマホから着信音がなった。

 

「っと、ごめんマヤ。電話かかってきちゃったから離れてくれる?」

 

「むぅ、は~い」

 

「ありがとう」

 

仕事の連絡とあっては仕方ない、名残惜しいけど彼から離れ席に戻る。

トレーナーは電話応対をしながら慌ただしく動いてる、完全にお仕事モードに切り替わったみたいだ。さっきまで凄く楽しかったのにつまらない。

 

「はい、はい。……ああいえ、すみませんありがとうございます。たづなさん」

 

待ち時間に暇を感じていると突然聞き逃せないワードが聞こえてきた。電話相手はたづなさんらしく、静かに聞き耳を立て終わるのを待つ。

 

「ふぅ、急に電話かかってきちゃってごめんなマヤ……ってそんなにご機嫌斜めでどうした?」

 

「トレーナーちゃんついさっきもう他の女性の名前出さないって言ったのに嘘ついた~」

 

「もしかして他の女性ってまさかさっきのたづなさんの名前のことか、えっいやこれは仕方ないか!?」

 

わざとらしくジト目で彼を見れば余計にあたふたしてる姿が可愛らしい。

その姿にもうイライラも吹き飛んでいるけどせっかく2人きりの昼休みを邪魔されたみたいでむずむずする。なんとかしてもっとマヤのことを意識させれないか思考を巡らせるとふと彼のスマホを見て一つ閃いた。

まず自分のスマホからウマインのアプリを出し、一番上にあるトレーナーの欄をタップ。一度ちらっと彼を見れば何が何だか分からないといった表情を浮かべてる。

 

「えいっ!」

 

そしてその言葉とともにトレーナーへ向けてスタンプを送り付ける。

すると彼のスマホからはウマ娘たちそれぞれをイメージされた自分自身である、マヤノトップガンの可愛らしいスタンプが送られ、静かに「えへへ」と自分のボイスが流れる。驚く彼を無視してそのままスタンプをひたすら連打していく。

 

「ストップストップ、やめてマヤ!」

 

突然のことにあっけらかんとした彼は慌てて駆け寄り止めようと手を伸ばすがひらひらと避けていく。そして楽しそうに笑顔を彼に向ければ意地になったのか伸びてくる手が加速する。

再び始めるそんな楽しいやりとりが続いていくとついにマヤの手を取られてそのままスマホを素早く取り上げて頭上に高く上げられた。

 

「はーい、やんちゃっ子にはお仕置きです」

 

「あー! 返してトレーナーちゃん!」

 

お互いの身長差のせいか取り返そうと手を伸ばしても届かない。けどこうして構ってくれるのが嬉しくていつの間にかさっきのこともこの楽しい時間の思い出に上書きされる。

 

でも楽しい時間もあっという間に過ぎてしまって、昼休み終了のチャイムが鳴ってしまった。

 

「「あっ……」」

 

お互い時間を忘れてたこともあって呆けた顔で見つめ合うこと数秒、次の授業まで後5分ほど。

2人ともお弁当やら散らかった物を大慌てで片付けた後、急いで自分もトレーナー室のドアに手を掛ける。

 

「まってマヤ、君のスマホ忘れてる!」

 

「ああっ!」

 

慌ててたせいで大事なものを忘れるところだった。危ない危ないなんて呟きながら早歩きでトレーナーの傍に移動して受け取ろうとしたその瞬間、また一つ思いついてしまって手が止まる。

 

「ん、どうしたマヤ。ほら早く、急がないと次の授業に遅れるぞ」

 

「あのね、マヤのスマホ。トレーナーちゃんが預かっててもらってもいーい?」

 

「それは構わないけど急な連絡とかきたら困るだろう」

 

「そしたらトレーナーちゃんが出てくれるから大丈夫!」

 

「大丈夫って、そんなことできるわけないでしょ!」

 

「良いからちゃんと持っててね!」

 

無理やり押し通すとそのまま唖然とする彼に背を向けてドアまで戻り、トレーナー室のドアを少しだけ開けて彼を見据える。最後にもう一つだけ。

 

「もし電話がかかってきたら、私はマヤノトップガンさんの特別な人ですって答えて良いからね♪」

 

「んなっ!?」

 

「ふふっじゃあまたトレーニングのときに会おうね、トレーナーちゃん!」

 

彼から何か言われる前に扉を閉めて気分良く教室へと走り出す。

 

作戦大成功、また一つ普段見れないキミが見れたことに大満足。

あんなに可愛くて間抜けなキミの表情はきっとマヤしか知らない、マヤだけが知ってるキミの姿。それだけで心が弾んでぽかぽかする。トレーニングまでの会えない時間、きっとさっきのたづなさんのときみたいに色んな人から連絡があるだろう。でもきっと、さっき預けたスマホを見てマヤのことを思い出してくれるはず。

それにもし、本当に自分のスマホに連絡が来てキミが出てくれたら。ほんの少しの可能性でも本当に特別な人です、なんて言ってくれていたならきっと自分があまりの嬉しさでどうにかなっちゃいそうだ。

 

顔は真っ赤、頬も緩みきり、けれど幸せな気持ちに満たされた軽い足取りで教室の扉を開ける。

ああ、授業なんて放っておいて今すぐにでもまたキミに会いたい。

早くトレーニングの時間にならないかな……。

 



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マヤノトップガンが本当の意味で恋に落ちていく日の話

トレーニングも終えて彼と2人きり。

今日あったことを振り返るように、そして2人きりという私の時間を堪能しながら練習の疲れなんて忘れて話し合っているときのこと。

 

「それでねトレーナーちゃん!そのときブライアンさんがね!」

 

まだ作業中の彼の机に自分の身を乗り出すように手をつきながら、今日のことを話していく。

彼ももう慣れきったことだからか、手を動かしながらもしっかりと話を聞いていたようで途中でこちらを見て笑いながら話を聞いてくれる。

 

「マヤがね? 今からビューン!って駆け抜けようとしたときブライアンさんがいきなり目の前に来てズバッ!って一気に加速したの!」

 

その時の光景が忘れられなくて、先ほどのトレーニングでの出来事を身振り手振りを交えて話し続ければ彼も嬉しそうに笑ってくれる。

 

「凄いんだよブライアンさんの走り!」

 

「ははっそれは今こうして話すキミを見てれば分かるよ」

 

その言葉を聞くと胸がぽわっと暖かくなって、嬉しくなってしまう気持ちを抑えられずつい笑みがこぼれていく。

 

「でも次は絶対マヤが勝つの!」

 

彼の目を見ながら言うと、「うん、一緒に頑張ろうな」と嬉しそうに笑顔で返してくれる彼にまた胸がキュンとする。

 

「まあでも、なんていうか最近のマヤノはブライアンのことばかりだね」

 

作業が終わったのかパソコンを閉じると、こちらに向き合うようにして彼が口を開く。

 

「最初はずっと、トレーナーちゃんトレーナーちゃん!って言ってたけど最近はブライアンさんって声の方が多いんじゃないかってくらい」

 

少し苦笑するようにして彼は言う。

マヤはというと彼の言ったことがよく理解できず首を傾げて疑問符を浮かべている。

 

「えー、そうかなぁ? マヤそんなことないと思うけど」

 

「いやいや、他の子の話題も出してたけど最近はずっとブライアンのことばっかだったぞ?」

 

「ん〜、そっかぁ」

 

あまりピンとは来ていないものの、彼の言葉を否定せずに素直に受け入れることにしておいた。

 

確かにちょっとは増えたかもしれないけど、いつも考えてるのはトレーナーちゃんのことばかりだし全然そんなことないと思うんだけどな〜。

 

「キミが楽しそうにしているのは俺としても嬉しいから良いんだけどね」

 

今までのことを少し振り返るように頭を悩ませてる間に何か考えていたらしい彼は一息ついてそう告げる。

すると、その言葉を聞いてそのときふと気になったことがあって、ピコーン♪ なんて音が聞こえそうなくらいには頭の上に電球がつくようにパッと気づいたことが1つ。

 

「もしかしてトレーナーちゃん。……マヤがブライアンさんのことばかり話すから嫉妬しちゃったの!?」

 

「……えっ?」

 

「だってそう思うってことは寂しいって思ってくれたってことでしょ!?」

 

ビシィッ! と彼を指さすようにして言い放つと一瞬ポカンとした表情を浮かべて固まる彼を少し置いてけぼりにしながら、その嬉しさからどんどんテンションが上がるままに彼に詰め寄るようにしながら喋り続けていく。

 

「もう! それならそうと早く言ってくれればいいのに!」

 

「うん落ち着いてマヤノ、めっちゃ近いから……」

 

けれどどうやらグイグイと近づきすぎたようで、思わず仰け反るようになってしまうほどに迫ってしまっていたようだ。

距離にしたらお互いの鼻先が触れるんじゃないかってぐらいには顔の距離も近くなっている。

 

それを自覚したら途端に熱くなってきた気がする顔を逸らすようにして離すと、一度咳払いした後そのままくるりと回って彼へと向き合うように座り直す。

 

「えへへっ! トレーナーちゃんに嫉妬させちゃうなんて、ひょっとしてマヤって罪なオンナ?」

 

頬に手を当てながら小首をかしげて冗談半分に言えば彼はクスリと笑ってこう告げる。

 

「まあ、確かにちょっぴりとだけ嫉妬したのは本当かも」

 

「……ほぇ?」

 

彼の口から出てきた言葉に思わずマヌケな声を出してしまう。

 

「……ごめん、やっぱ今のなし。言った瞬間恥ずかしくなってきた、忘れて」

 

自分の発言にハッとなった様子の彼は片手で顔を覆ってそっぽを向いてしまうけれど、ほんの少しだけ見えた彼の頬は僅かに赤くなってるような、そんな錯覚を覚えたような気がした。

 

「……もうっ」

 

なんだかさっきまでとは逆に今度はこっちが悶える番みたい。

不意打ちすぎる彼の言葉はマヤの心にクリティカルヒットしちゃったわけで、心臓のドキドキは鳴り止んでくれず彼の顔を見れそうにない。

 

「なんか変な空気にしちゃってごめんな。とりあえずこの話おしまいにしよっか」

 

彼が両手をパンと叩き合わせて切り替えるようにして話を切ろうとしてくる。

 

「……ねぇ、トレーナーちゃん」

 

彼の言葉に従っても良かったのだけど、マヤはどうしても聞いておきたいことがあったから、まだ話を終わらせる訳にはいかないの。

今も少し心配そうにマヤのことを呼ぶ声を聞きながら椅子に座る彼との距離を少し詰めてそのまま彼の瞳を見る。

 

「えっと、あのね?……これだけ教えて?」

 

そうして少し恥ずかしさから両指を合わせてもじもじとしながらも、意を決して聞くことにする。

 

「えっと、ええっと……その、本当にトレーナーちゃんは嫉妬してくれたの? ブライアンさんのことばかり話すマヤを見て、寂しいって思ってくれたの……かな?」

 

恐る恐るといった感じに彼の答えを待つと、ゆっくりと彼の腕が伸びてきてマヤの頭を優しく撫でていく。

少しその掌の暖かさに安心感を感じているとそのまま彼は優しい笑顔を向けて口を開く。

 

「うん、本当だよ」

 

そう告げたあと彼は再び口を開く。

 

「今までずっと俺と一緒に頑張ってくれたキミを知ってるからかな。トレーナーちゃんっていつも呼んでくれるマヤノの声が少し減って俺も寂しくなっちゃったのかもね」

 

彼は少し照れたように笑みを浮かべながらもマヤの目を見てそう言ってくれた。

 

「……えへへ」

 

嬉しくて嬉しくて、爆発しちゃいそう。

彼の視線、その言葉に釘付けになってしまって自然と頬が緩んでいくのを感じる。

胸がきゅ〜っと締め付けられる感覚とぽわぽわとした暖かな気持ちに心の中が満たされていくようで心地いい。

 

「あ、でも別に俺が言ったからって何か気にする必要はないからな? ナリタブライアンっていうライバルができたのはむしろ喜ぶべきことだし」

 

慌ててそうフォローするように言ってくる彼には悪いけど、正直さっきの言葉のせいで全然耳に入らなくて頭の中では先程の彼の言葉を何度も繰り返し再生しているのであった。

 

えへへっ嬉しい。すっごく嬉しい♪

そっか、マヤが他の子と話してるのが嫌だって、寂しいって、そう思ってくれてたんだ。

 

ポカポカって心があったかくなって、そのとき彼と別れるまでの時間が夢見心地のように感じられた。

 

 

そんな幸せ気分は彼と別れて、自室に戻っても収まることはなくて、むしろもっと膨れ上がっていくようだった。

 

「あー、どうしよう。こんなことじゃまた明日会えないかも……にへへ」

 

手頃な枕を抱きしめながらベッドの上に座った状態で、そんな風に独り言が漏れていく。

 

「ねえマヤノさぁ、帰ってくるなり機嫌良いのは良いんだけどちょっとニヤケすぎじゃない?」

 

呆れ半分な様子でそう指摘するのは同室のトウカイテイオー。

彼女はベッドの上で自分のスマホを弄りながらこちらの様子をジト目で見ていた。

 

「えっへへ〜、そんなことないもん!」

 

「はい嘘。だってさっきからずっと尻尾ブンブン振って耳までパタパタ動かして、全身から感情駄々洩れてるよ」

 

「えぇ!? 嘘ォ!?」

 

「逆に自覚なかったんだ!?」

 

思わず驚きに素っ頓狂な声を出してしまうとそれに驚くようにして返される。

大慌てで元に戻れ戻れ、なんて念じながら自分のほっぺを両手でむにむにとマッサージをしていくとその途中で隣の彼女からまたため息をつかれてしまう。

 

「それで、一体何があってそうなったわけ? まあ、マヤノのことだから大体予想はつくけどさ〜」

 

「ふふん! 実はマヤ、トレーナーちゃんにヤキモチ焼かせちゃったみたい!」

 

自信満々に自慢げにそう言えば、テイオーはやっぱりって思っていたのか少し呆れ気味だったけどその後は嬉しそうにまた笑って「良かったじゃん」と返してくれる。

 

それから話はまたさっきの彼の言葉の話へと戻っていき、そこからはお互いにその話題に花を咲かせていく。

マヤにとって、想い人からあんなことを言われたことは大きな進歩だと実感できた出来事となったからか話せば話していくほどテンションも上がっていくのが止められなかった。

 

「……マヤノってさ、本当に自分のトレーナーのこと好きなんだね」

 

「え〜、いつもそう言ってるのに。どうしたの急に」

 

「うん、ごめん。なんていうかマヤノはちょっとだけ恋に恋をしてるんじゃないかなって思ってたんだよね」

 

「恋に恋してる?」

 

「そう、憧れとか尊敬を恋心と勘違いしてるみたいな。……でも今日のマヤノ見てたら、その気持ちは本物なんだなって改めて思ったからさ」

 

その言葉が何故だか妙に心に引っかかって少しだけ思考に耽る。

 

改めてこの気持ちをなんと表現したらいいんだろう。

彼が側に居てくれるとワクワクするのも、ドキドキするのも、他の女の子と話してるだけでムカムカするのも、きっとこの想いがあるからこそだとは思うんだけど。

 

「……何でだろう、いつもならパパって何でも分かるのに」

 

どうしてか今日だけは答えが出なくて、もどかしい。

答えの出ない理由はマヤ自身が自分の気持ちを、大好きなトレーナーちゃんを疑ってしまってるような気がしてるからだろうか。

そんな思いがほんの少し頭によぎってしまいそうで、それが凄く嫌だった。

 

「えっと、そんなに考え込むなんて思わなかった。変なこと言ってゴメンね?」

 

申し訳なさそうにする彼女に「ううん」と首を振ることで答えると少し元気が戻ったのか話を切り替えるように明るい口調で言う。

 

「とにかくさ! 今日で一歩前進したんでしょ? 次はどんなアプローチをかけるつもりなのさ」

 

「う〜ん、実はまだ決めてないんだ〜」

 

「そうなの? ボクてっきりまた同じこと狙うのかと思ってたのに。ほら、押してダメなら引いてみろってやつ?」

 

「引いてみろ、かぁ……」

 

確かにそれも一理あるかもしれない。

今までマヤは彼に沢山の好きを伝え続けてきたから今度はそれを一旦止めるっていうのも一つかもしれない。

 

まあでもその前に1つだけ思うことがある。

ずっとマヤだけが想いを言い続けるっていうのは、フェアじゃないよね?

 

「ねえねえ、逆にテイオーちゃんはそっちのトレーナーさんにどんなアプローチしてるの?」

 

「うぇっ!? ボ、ボクッ!?」

 

「そだよ~。マヤはマヤで考えるけど参考までに聞かせてよ〜」

 

マヤが問いかけるとこの返しは予想外だったらしく目を泳がせたがお構いなしに視線を送ってあげれば、数秒ほど黙った後にやっと観念したのか恥ずかしそうに頬を染めながら口を開いた。

 

「……なにも進んでない、かなぁ」

 

「なーんだ、じゃあそっちはまだ何も進展なしなんだ?」

 

「うぐっ! ボクだって頑張ってるんだからね!」

 

「ふふん♪ 恋の進展具合ならテイオーちゃんよりマヤの勝ちだね!」

 

胸を張って自慢げにそう言うと、テイオーの顔には明らかな悔しさが浮かんでいく。

 

「な、なんだよぉ! ちょ、ちょっとだけ出遅れてるだけじゃんか!」

 

「ええ〜、負け惜しみは良くないよ〜」

 

「むきぃ〜っ! その勝ち誇った顔ムカつくなあっ!」

 

こちらを強く指差して怒ってくる彼女に思わず笑い声をあげてしまうと彼女は余計にヒートアップしてしまうが気にしない。

 

「別に良いもんね。ボクの方が絶対マヤノたちよりも先にゴールインしちゃうんだから!」

 

「マヤだって、絶対にトレーナーちゃんと幸せになるんだから!」

 

さっきまで怒り声が少し混じっていたのにいつの間にか二人で仲良く話すような空気感へと変わっていきながら、最後にはお互いに見つめあってクスリと笑い合う声が響いていた。

 

そうしてまた、1日が終わりを告げていく。

明日もまた彼に会って、いっぱい話しかけたいなって思いを募らせながらマヤはまた眠りにつき始めていく。

 

けれど、やっと睡魔に襲われたのはいつもよりもだいぶ遅い時間。

その間ずっとマヤの頭の中には

『恋に恋してる』って言葉と『距離を引いてみたら』って言葉の2つがどうしても頭から離れられなかった。

 

一応彼がまた意識してくれるならと思うとやはりそこに魅力はたくさんあって、やってみようかなって気持ちが少しだけ勝っていくのも本当。

だから、少しだけ気分は乗らなかったが明日少しだけチャレンジはしてみようと心の中で思っていた。

 

 

そしてまた次の日。

少し機嫌良く校舎の廊下を歩いていくと運が良いのかいつも見慣れた背中を見つけると、そのことに気づいた途端テンションは一気に上がり足取りは軽くなっていった。

 

「あっ! トレーナーちゃ……」

 

そしていつも通り声をかけようと近づいていき、彼の名前を呼びながら駆け出そうとしたが途中で止まってしまう。

その理由としては『押してダメなら引いてみたら?』という先日の会話を思い出してしまって、今すぐにでも声を掛けたいという衝動を思わず抑え込んでしまった。

 

「……あっ行っちゃった」

 

結局呼び止められなかったマヤは肩を落としてため息をつくが直ぐに気持ちを切り替えるように頭を振りかぶる。

 

声を掛けたいけど掛けれない。

どうして距離を離さなきゃいけないのか。

ヤキモチを焼いてくれたのは凄く嬉しかったけど、だからといっていつもより距離が遠く感じてしまうことが凄くモヤモヤする。

 

「うう~、胸がズキズキするぅ……」

 

胸元に手を当てて摩ってみるも、一向にこの痛みはなくならない。

こんなことは生まれて初めての体験で戸惑いを覚えるも、やっぱり早く彼に会いたくて仕方がない。

 

そんなことを考えていたらあっという間に時間は過ぎて予鈴が鳴ってしまう。

 

「うわわっ!? マヤのバカ! 授業サボったなんてトレーナーちゃんにバレたら嫌われちゃうっ!」

 

やっぱり慣れないことはするべきじゃないみたい。

急いで教室に向かうべく走り出すがその最中にも頭の中に浮かぶのは彼のことばかり。

 

昨日まで一緒に居たはずなのに今はそれがとても恋しくて、どうしようもなく会いたいって気持ちに溢れて仕方ない。

この胸のズキズキは未だ消えないままだけど、それでもまた今日ずっと会えないわけじゃないからと、彼の元に行けるのだと思うとそれだけで多少ではあるがマヤの心は温かさを取り戻していった。

 

「……マヤノ?」

 

ただそんな慌てた声だけは届いていたのか、マヤがその場からもう離れた後ではあったけれど彼は一度来た道をまた戻ってきてくれていた。

間に合いはしなかったけど、すでに小さくなった教室へ向けて走り去っていくマヤの後ろ姿の影を見送る姿を見つけてくれていた。

 

「俺の気のせい……じゃないよな。あの後ろ姿は」

 

とは言ってもタイミングが悪い、予鈴が鳴ってもう少し走りだすのが遅ければ、変な我慢をしなくても彼の方から会いに来てくれたというのに。

 

たらればの話をしてしまえばキリはないが、今のマヤがこのことを知ったならそう思わずにはいられなかっただろう。

後ろを一度でも振り返るものなら授業なんてそっちのけで彼の元へ向かう姿は容易に想像できたことだった。

 

「いつもだったらすぐに声を掛けてくれるのに、珍しい」

 

その場に残る彼は少しだけいつもと違う彼女に違和感を覚えたのか不思議そうな顔を浮かべていたが、首を傾げながら思考に耽る。

 

「なんか避けられるようなことしたかな俺。……まさか昨日のことで何かやらかしたか?」

 

ただまあ、怪我の功名というべきか偶然ではあるけれど、少しだけ距離を取ってこちらの気を引くというのは成功したらしい。

今は会えなかったけれど、次会ったときをお互いがちょっと意識するなんて。

少しだけロマンチックな光景がこうして偶然にも完成したのだから。

 

お互いどちらも次に会ったときのことを考えながら、その日の時間は感覚的にはゆっくりではあるものの、確かに過ぎていく。

 

 

そして放課後のトレーナー室。

いつもより少しだけソワソワしながらマヤが部屋の扉を開くといつものように出迎えの声と微笑みで迎えてくれてホッとする。

この声が聞けない方がよっぽど寂しいと改めて思いながらソファーへと腰を掛けて彼を待っていると、彼が少しだけ様子がおかしいことに気づいたのか隣に座ると同時に心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。

 

けれどやっと会えて嬉しい気持ちと普段慣れないことをしたからか恥ずかしさがごちゃ混ぜになってしまって、視線を合わせるのに少し時間がかかってしまった。

 

「なあ、マヤノ」

 

「あのね、トレーナーちゃん」

 

だがしかし、そこにさらに同時に声を掛け合ってしまったことに驚いてしまい互いに目を大きく見開いて見つめ合い数秒の間沈黙が流れる。

 

その後でまた同じくらいに目をパチクリさせながらもお互いにまた笑い合っていつもの雰囲気に戻っていきながら彼は「先にどうぞ」と優しくマヤに伝えてくれたから、お礼を伝えてからゆっくりと口を開いた。

 

「トレーナーちゃんはさ、恋ってしたことある?」

 

「えっ恋ッ!?」

 

「うん」

 

すると、また予想していなかったことを聞かれたのか彼はパチクリと瞬きをしつつ驚きの表情を見せた後に難しそうに頭を悩ませながら言葉を紡ぐ。

 

「う~ん、正直言って俺はまだ恋愛経験とかはないと思うよ」

 

「そっかぁ……じゃあさ、誰か好きになった人がいたこともない?」

 

「多分だけどね。それにしてもどうしていきなりそんなことを?」

 

彼の返答を聞いてほんの少しだけ安心しつつ、どうしてこんな質問をしたのか理由を説明する。

 

マヤは実際のところ恋に恋してるのか、それとも本当にキミを好きなのか、この気持ちの正体が分からなくなってきてしまっていて不安なんだということを。

でもまだそれをハッキリと自覚できるほど大人ではないから、とりあえず今は確かめるためにこうして聞いてみたのだとゆっくりと伝えていく。

 

「マヤね、今日ずっと胸がズキズキ~って痛くて仕方がなかったの。距離を置いてみるなんて言われても正直そっちの方が嫌だな~って気持ちの方が強くて……」

 

「……そっか、だからお昼のときもいつも通り声をかけてこようとしなかったのか」

 

「お昼のときって……嘘ッ!? あのときトレーナーちゃんはマヤに気づいてくれてたの!?」

 

「遠くから見た偶然だったけどね。でも、キミの声を間違えるはずもないし。……ただなんで急に距離を離そうとしたのかは分からなかったけど、今その理由を聞いて納得した」

 

「あはは……それはごめんなさい」

 

「全然構わないよ、なんでだろって理由が気になってただけだから」

 

マヤの話を聞いた彼は特に怒ることなく優しい笑顔を浮かべたまま彼女の話に耳を傾けてくれた。

彼の反応を見て少し安堵するも、まだマヤの中ではモヤモヤしている部分があるのかどこかスッキリとはしていない。

 

「まあそれよりも正直キミの質問の方に驚いてるよ。なんというか、いつの間にか大人になっていくね、マヤノは」

 

「そう、なのかなぁ?」

 

「少なくとも俺はそう思うよ。でもごめん、恋心については俺も正直分からないし大した力にはなれないかもしれない」

 

「えっ?」

 

「……でもね」

 

そこまで言うと、彼は一度言葉を止めて優しい笑みを浮かべながらマヤの手を取ってそのまま包み込むように握りしめる。

突然の行動とその感触にドキドキしながらも不思議そうな顔を浮かべると、いつの間にか彼の視線にマヤの方が釘付にされてしまっていた。

 

まるでその視線が吸い込まれてしまうのではないかと思うほどの強い眼差しに思わず息を飲みながら見つめ返すことしかできない中、彼はそんなマヤに向かってはっきりと告げる。

 

「その気持ちの正体はいずれキミ自身が気づくことだから俺からは何も言うことはできないけど。でも、そのドキドキやズキズキってキミが感じる感情は紛れもなく本物だよ」

 

「……」

 

「だって、キミは自分自身がその感情に襲われてどうしたらいいのか困っているんだろう? だったらそれは間違いなくマヤノだけの特別な想いなんだよ」

 

「……トレーナーちゃん」

 

その一言を聞いた瞬間にドクンと大きく心臓が鳴るのを感じた。

彼から目が離せなくなって、握られている手の温もりが心地よくて、心がポカポカとしてくるようで。

その言葉一つ一つの優しさに先程までの感じた嫌なことや不安を感じてた痛みがスーッと溶けるように消えていくのを感じる。

 

「大丈夫、今決めなきゃいけないわけじゃないんだ。ゆっくりで良いんだよ」

 

「……それじゃあ、そのときはトレーナーちゃんも一緒に考えてくれる?」

 

「ああ、もちろん」

 

そんな風に彼と会話をしているうちに段々と気分が良くなっていって、また普段通りの自分に戻ってくる。

やっぱり自分はこの人が大好きで大切な存在なんだと思いながらもまた嬉しくなってしまいながら自然と頬が緩んでいく。

 

「レースと一緒っていう訳じゃないけど、時間が経ってからやっと見えてくるものもあるんだ。キミがその結論を出すまで俺も付き合うよ」

 

「じゃあマヤ、またいつもみたいに何も気にせずトレーナーちゃんに好きなときに会いに行って、声を掛けても良いの?」

 

「ああ。なんならまたお出かけ。ああいや、マヤノ風に言うなら……うん、俺とデートに行こうよ。服を一緒に選んだり水族館に行ったり、ちゃんと全部付き合うからさ」

 

「ホントッ!?」

 

「ただし、ちゃんと学業やレースを疎かにしないことが条件を守れるなら良いよ。絶対の約束だ」

 

「やったぁ! 嘘ついちゃ駄目だよ、トレーナーちゃん! 絶対絶対の約束だからね!」

 

彼の出した提案にパァっと顔を輝かせながら満面の笑みを見せて喜んでみせる。

大喜びではしゃいでる姿を見られて少し笑われてしまったが、それももう今となってはどうでも良いことだった。

 

だってもう、これでマヤは何も気にしなくて良くなったのだから。

無理に距離を置く必要なんて最初からどこにもなかった。

ただマヤが自分の中で色々と考えていただけ、たったそれだけのことだった。

いつも通りのマヤで接して大丈夫なんだよって、他ならぬ彼自身に言って貰えたから。

 

「じゃあね、早速だけどマヤ服を見に行きたい!」

 

「おっいつもの調子が戻ってきたな」

 

「でもね、マヤじゃなくてトレーナーちゃんの服を選びたいの」

 

「ん、俺の服?」

 

「うん、自分のカワイイ服を選ぶのもいいけどそれと同じくらいトレーナーちゃんの服も一緒に選んで楽しんでほしいから。……マヤ、もっとトレーナーちゃんのことが知りたいの」

 

「……」

 

「カッコいいキミも、カッコ悪いところのあるキミも、色んな姿を知りたい」

 

両手を包むように自分の胸の前に持っていきながら真っ直ぐに見つめてそう告げる。

これは紛れもないマヤ自身の本心で嘘偽りない本当の想いだ。

今までずっと分からなかったけど、今ようやくその正体を掴むことができた気がする。

 

この気持ちが、この感情が、この体全体に伝わる温かさが。

今こうして自分の中にある全てが教えてくれているんだ。

 

――これがきっとマヤの『好き』という本当の意味での恋心の感情なんだって。

 

「……ほんと、いつの間にか大人になっていくなぁ。マヤノは」

 

「えへへ、でもまだまだマヤはオトナになりきれないけどね~」

 

照れ隠しをするかのようにわざとらしく笑顔を浮かべて誤魔化しながらそう返すと、彼は苦笑いをしながら優しく微笑みながらこちらを見る。

 

「そんなことはないよ、思わず見惚れて声が出なかったもの。……いつものキミも素敵だけど、今のマヤノは特に綺麗だ」

 

「……ッ!?」

 

彼のその言葉を聞いて思わず息を飲むと同時に一気に顔が熱くなる。

まるで全身の血流が沸騰してしまったのではないかと思うくらい体が火照っていきながら心臓の鼓動が早くなってドキドキしっぱなし。

 

でもそれは、先程の時のように痛いものではなく、とても温かくて幸せな気持ちで溢れていた。

その証拠に自分でも分かるほど口元も緩みきっていて両手で顔を隠していても、きっと今の自分の表情はとても見せられたものではない。

 

「……そっか、恋をするってこんな感覚なんだ。やっぱり凄いなぁ。この想いを知っただけで自分が世界で1番幸せだって思えちゃうんだもん」

 

でもこの胸の高鳴りがあるからこそ、マヤは恋に恋してる訳じゃないとハッキリと断言できるんだ。

だって、マヤがこんなにも夢中になって、嬉しくて、ドキドキするのは大好きなトレーナーちゃんだけだから。

 

他の誰に対してもここまで嬉しい気持ちにはならない。

きっとあなただから、こんなに素敵な気持ちが溢れて止まらない。

だからこそ、もうこの気持ちに戸惑いはない。

今はただひたすらに愛しい彼が好きで好きで仕方がない、そんな純粋な想いだけが心の中にあった。

 

今日初めて本当の意味で恋をして。

この素敵な想いに気が付くことができたのは。

 

キミのおかげなんだよ。

 



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メジロマックイーン
憂鬱な雨の日もトレーナーさんと一緒なら好きになれたメジロマックイーンの話


すこぶる機嫌の良いある日。

自室のベッドに仰向けで横になりながら一枚のチケットを空にかざす。

それは今度彼と一緒に行く予定の映画のペアチケット。

彼と映画に行くというだけで私の胸は高鳴って、その日が来るまであと一週間ほどあるけれど私はそわそわして落ち着かない日々を過ごしていた。

 

「……♪」

 

私はチケットを見つめて頬を緩ませていた。

早くその時を待ち遠しく思いながら抱きしめるようにそのチケットを両手で包み込みながら目を閉じて、彼とのその日のことを想像する。

 

映画館から出てからどこへ行こうか?

ご飯を食べようと言っても彼はきっと遠慮してしまうだろうから、私が行きたい場所を提案しなければ。

 

「まず最初に映画を見る前にカフェにでも行ってのんびりと……ああいや、それともあの人のことだから先に映画館に行きたがるかもしれませんわね……」

 

彼のことならなんでも知っているつもりでいる私だけど、やっぱり実際に会わないとわからないこともたくさんあって、そんな当たり前のことを実感しながら考えるだけでも楽しいお出かけプランがいくつも浮かんでは消えていく。

 

「ふふっどんな服を着ていきましょうか。いっそ新しい服でも買いに……」

 

ああ、ダメですわね。

メジロ家として常に気品を忘れることなどあってはいけないと言うのに、たった一度彼とのお出かけだと思うと私はどうしても心が躍ってしまう。

こんな姿、おばあさま達に見られたらなんて言われることやら。

はしたないと思われないようにしないといけませんわ。

 

私は自分の頬に手を当てて緩んでいるのを確認してから小さくため息をつく。

 

「まったくもう。こんな顔、誰にも見せられませんわ……」

 

そう言って再びベッドに寝転んだ私は枕を抱き寄せて足をパタパタさせながらチケットを再び手に取って微笑む。

 

「ふふっ……本当に楽しみですわ」

 

この気持ちは抑えきれないくらいに大きくなってそのときが来たときを想像するだけで自然と笑みが溢れていく。

そんな幸せに包まれながら大切にチケットをしまい込んだ私は部屋の電気を消してから眠りについた。

 

そうして迎えた次の休日。

新しい服も用意して、鏡の前で髪を整えて、身だしなみの最終チェックまで終わり準備は万端……だったのだが。

 

「雨……ですか……」

 

カーテンを開けると外には大粒の雫が地面を打ち付けていて、今日一日中ずっと降り続けるであろうことは簡単に予想できた。

天気予報によると夕方頃には止むらしいけれど、それもちゃんと止むかどうかすら怪しい。

 

「せっかくお誘いいただいたのにこれでは……」

 

私は窓から見える外の景色を見て肩を落とす。

しかし天気ばかりはどうしようもなく、仕方がないと思いつつも少し残念な気分になってしまう。

 

彼が誘ってくれたというのに……。

 

「……はぁ」

 

自然と口から漏れ出てしまった溜め息がまるで私の心情を表しているようで自分でもその事実に気がついてしまって少しだけ鬱になる。

 

「……早く晴れると良いんですけれど」

 

結局私はそんな願いを口にするしか出来なかった。

寮の部屋ごしに窓の外を見つめながら私はぼんやりと考える。

 

今頃彼はお仕事中だろうか?

今日の予定が潰れてしまって空いたこの時間をせめて彼の声だけでも聞いて寂しさを和らげたいと思うのはいけないことだろうか。

 

「……」

 

私は無意識のうちにスマホを手に取り画面を見つめていた。

連絡先を開いて電話帳を開き彼の名前を探してしまう自分に苦笑しつつ、私は指を動かして通話ボタンではなくメッセージアプリを開く。

 

『おはようございます』

 

たったその一言だけメッセージを送信すると私はまたベッドの上に仰向けに倒れ込む。

なんとなく電話をかけるのは躊躇われてしまい結局私はまだ返信の来ていない彼に朝の挨拶をしただけで、なるべく早く気が付いてほしいなんて心の中で思いながらまた外の景色を見つめる。

 

「まだ雨は止まなさそうですね……」

 

それからぼーっと外を眺めているとほんの少しだけ時間が経って先ほどのメッセージに気がついたのか、すぐに彼から返事が届いた。

 

『おはよう、マックイーン』

 

という文面に私の顔は再び笑顔を取り戻した。

ただの何の変哲もない、他愛のないやり取りでもそばに彼がいてくれるような気がして嬉しかった。

 

『はい。今日の映画はとても楽しみにしておりましたのに雨に邪魔されて少々憂鬱ですわね。あなたの方はいかがです?』

 

『こっちも似たような感じだよ』

 

彼もまた私と同じように彼も今日の予定を気にしてくれていたことに思わず頬が緩んでしまう。

 

『せっかく色々キミと行きたい場所とか考えておいたんだけどね』

 

なんて、続けて送られてきた言葉に昨日の自分と全く同じことを彼もしていたことが窺えて少しだけ笑みが生まれる。

 

『私もですわ。私も実は映画が終わった後のことを考えておりまして』

 

『そうなの?』

 

『はい。映画を見た後は一緒にお茶でもと思っていましたのに』

 

『ははっ凄いや。俺と同じだね』

 

彼と一緒、たったそれだけでさっきまでの気持ちが嘘のようにどこかへ行ってしまった自分がいて、単純だと思いながらも私は笑みを浮かべてしまう。

 

『では私達は似た者同士ということですね』

 

『確かにそうかもな。お互い楽しみにしてたことも、したいこともほとんど同じだなんてさ』

 

『ええ、本当に』

 

そんなやりとりを交わしているからか、文字を綴りながら想うのは彼のことばかり。

彼のことだ。おそらく私よりも行きたい場所はたくさんあるだろう。

きっと私よりずっと前から考えてくれていたはずだとも思う。

 

「……本当なら今頃、あなたと楽しい時間を過ごしていたはずだったのに」

 

それなのにどうして私はこんなにも寂しい気持ちになっているのか。

どうして私はこんなことをしているの?

本当は文字ではなく、あなたに直接会いに行きたくて仕方がないはずなのに。

きっと一番寂しいのは、色々と誤魔化してる私自身なのはもうすでにハッキリと分かっていることじゃないか。

 

「……」

 

まるで今の自分の想いがそのまま伝わっていくかのように無意識のうちに文字を打つ指が動いていく。

 

『会いたいですわ』

 

たったそれだけの短い文章。

だけど、その想いは抑えられなくて。

だけど、直接伝えるのは恥ずかしくて。

そんな感情の板挟みになった結果出てきた言葉がこれだった。

 

既読はすぐについたが先ほどまでのようにすぐに返信は来ない。

2分、3分と時間は過ぎて行って、それでも私は待った。

そしてついに5分ほど経ったところでスマホが小さく震えた。

 

『俺も』

 

そんな短くも素直な彼の返事を見て私の心は温かい気持ちで満たされていったのだが、また続きの言葉が送られてきた。

『すぐにそっちに行くよ』と。

 

「……ッ!?」

 

予想外の返答が送られてきてしまって私は一瞬固まってしまう。

まさかそこまで言ってくれるとは思っていなかったから。

そこから先はメッセージを送っても反応はなく、私はただただスマホを握りしめたまま呆然とすることしかできなかった。

 

そうしてどれくらい時間が過ぎただろうか。ようやく彼から返信が返ってきたと思ったらそこには

『着いたよ。流石にウマ娘寮には入れないから玄関まで来てもらってもいいかな?』

なんて書かれていて。

ウマ娘寮の前で待っていると伝えてくれたのだ。

 

「もう……急すぎるではありませんか」

 

私は慌てて窓から外を見ると言葉の通り彼がそこにいて、こちらに気づくと手を振ってくれるのを確認すると、それから身支度をして急いで寮を出た私は傘をさして彼の元へ駆け寄っていく。

 

「すみません。お待たせしました」

 

「ううん。全然大丈夫だよ」

 

彼は優しい笑顔で出迎えてくれて、その表情を見るだけで私の心は安らいでいった。

 

「じゃあ行こうか。雨の中ごめんな?」

 

「いえ、私は構いませんわ。むしろ嬉しいくらいですもの」

 

「そっか。ありがとう、マックイーン」

 

「どういたしまして。ふふっ」

 

こうして私たちはゆっくりと歩き出した。

目的地としては約束の映画館ではなく、いつものトレーナー室。

どうやら彼もこの雨で予定していた外出は流石に諦めてしまったらしい。

まあ雨の中で出かけるというのは難しい話であるし風邪を引いたりしても問題だ、今日がたまたまそういう日であったと諦めるしかない。

 

「何か飲むか、マックイーン?」

 

「ありがとうございます。でしたら……コーヒーをお願いします。あなたがいつも飲んでいるものと同じ物を」

 

「ん、コーヒー? 紅茶とかじゃなくて良いのか?」

 

「ええ、今日はそういう気分なんです」

 

「ふ〜ん、そういうもんか。了解」

 

不思議そうにしつつも私に言われた通りにコーヒーを淹れてきてくれて、私はそれを受け取ると窓際のソファーに腰掛けてから口をつける。

 

「……少しだけ私には苦いですが、美味しいですわね」

 

「そりゃ良かった。でも無理に俺と同じにしなくても砂糖とミルクを入れるっていう選択肢もあったんだぞ?」

 

「いいえ、これじゃないとダメなんです。あなたと同じ物が良いの」

 

本当はあのときメッセージのやり取りであなたも私と同じ考えだと言ってくれたから、今もあなたと少しでも同じものを味わっていたいという想いがあっただなんて、恥ずかしくて言えるわけがない。

 

「……そっか。マックイーンがそれで満足してくれるなら俺は構わないけどさ」

 

「ええ、今の私にはこれが一番ですわ」

 

いろんな言葉で取り繕おうと結局のところ、同じ物を共有したいという私の子供っぽいわがままに過ぎない。

口ではそう言えるけれどほんの少しの恥ずかしさを抱えながら、彼から視線を外して照れ隠しのようにまた一口、二口と飲み進めていく。

 

「……雨、止みそうにないな」

 

「ええ、そうですね」

 

「ごめんな、マックイーン。こんなことになっちゃってさ」

 

「気にしないでくださいまし。この雨も、今日の予定が流れてしまったことも、あなたが謝ることは何もありません」

 

一人だけならまだしも、私はあなたと一緒なら別に何も困らない。

むしろ私のためにあなたの時間を取ってもらえるだけで十分嬉しいの。

 

「ありがとう、マックイーン」

 

「……ええ」

 

そして訪れる静寂の中、聞こえるのは降り続ける小粒の雫の音と時計の針がゆっくりと進む音。

そんな中、私は隣に座っている彼のことをちらりと見て見ると、また同じことを考えていたのか彼と目が合った。

 

「ふふっ」

 

「ははっ」

 

「やっぱり私たちは同じことばかり考えていますわね」

 

「ああ、そうだな」

 

そんな言葉を交わすとお互いに笑い合う。

ただそれは決して馬鹿にしたようなものじゃなくて、心の底からの嬉しさから出たものだ。

 

「あのさ、マックイーン」

 

「なんですか?」

 

「その、今日行けなくなった埋め合わせにどこかに行かないか? 明日でも明後日でも、いつでも空いているときに。俺と一緒に」

 

その誘いがあまりにも魅力的すぎて思わず目を見開くけれど、それも束の間のこと。

 

「ふふっ何をそんなに遠慮しているんですか。もちろん喜んでお受けしますわ」

 

「本当か?」

 

「ええ、嘘は言いませんわ。あなたと一緒なら」

 

「そっか、良かった」

 

ホッとしたように胸を撫で下ろす彼を見て私も心が温かくなるのを感じる。

いつもはしっかりしているように見える彼だけど私だけにはこういう一面も見せてくれることがなんだか可愛らしくて私はつい笑ってしまった。

 

「それじゃあ決まりだな。いつにする? 俺は明日でも大丈夫だよ」

 

「あら、せっかちですわね。もう少しゆっくり決めてもよろしいのではなくて?」

 

「いやいや、だって早く行きたいじゃないか! 今日を楽しみにしてた分、余計に」

 

「ふふっそれは私もですわ」

 

それから私たちは一緒にどこに行くのか、どんなお店に行くのか、何を食べようかなどと話し合っていく。

 

雨の日の過ごし方としては些か変かもしれないけど私たちにとってはかけがえのない大切な時間へと変わっていく。

外に出られないので買い物に行くこともできないし、映画を見るにしても映画館まで行くことができない。

けれど私は今この時が一番楽しくて、憂鬱だった雨の日が一瞬で晴れやかなものになったような気がした。

 

「まずは……そうだなぁ」

 

彼はスマホを取り出すと画面を見ながら考える素振りを見せる。

きっと私の行きたいところを調べているのだろう。

彼が自分のために時間を割いて、自分との予定を考えてくれていることが本当に嬉しい。

 

「やっぱり元々行くつもりの映画は見たいだろ? あっそうだ、確かその近くで美味しいスイーツ店があるらしいけど行ってみないか?」

 

「まぁ! それは是非とも行ってみたいですわ!」

 

「なら決まりだな。色々ある中でも特にフルーツタルトが美味しいところなんだってさ」

 

「フルーツタルト! 想像するだけで幸せな気持ちになりますわね♪」

 

「ははっ知ってるよ。だから誘ったんだし」

 

「もう、意地悪言わないでくださいまし……」

 

「ごめんごめん。それじゃあ次は……」

 

そんな風に話しながら私たちは雨の日を過ごす。

今日を楽しみにしていた分、雨で流れてしまったことは残念だったけれど、それでもあなたと一緒なら良い思い出に変わっていく。

 

「……ふふっ♪」

 

私の隣に座って楽しそうに話すあなたの姿を眺めつつ窓の外から見える景色はどんよりと暗い雲に覆われていて、今だに雨が止む様子はない。

けれども私はついちょっと前までは憂鬱だったこの雨の時間が今では不思議ともう少しだけ続けばいい、なんて思ってしまうのはおかしいのでしょうか。

 

「……やっぱりあなたの隣が私にとって一番居心地が良い場所ですわね」

 

そんな小さな呟きが聞こえないようにそっと彼の肩に頭を乗せると、彼も気にせず優しく受け止めてくれる。

 

私が欲しい言葉をくれる人。

私が居たいと思える場所を私に教えてくれた大切な人。

これからもこの人の隣を歩き続けたいと心の底から思うほど大好きな人と過ごす、このゆったりとした雨の降る午後はとても素敵な時間となったのでした。

 

 

 

そしてそんな特別な出来事となった雨の日が終わって数日が経ったある日のこと。

 

「ほらほら早くトレーナーさん! こっちに来て下さいな!」

 

「ちょ、待ってくれマックイーン!」

 

「いいえ待ちません。今日は約束してた通り、ようやくあなたと二人で出掛けられるのですもの。少しくらいはしゃいだって罰は当たりませんわ!」

 

その日は待ちに待ったお出かけの日。

天気は快晴。まるで私たち二人の晴れ舞台を見届けてくれているような気持ちの良い青空が広がっている。

 

「慌てなくても大丈夫だって」

 

「いーえダメですわ。この日をどれだけ楽しみにしていたことか。一分一秒たりとも無駄にはできません」

 

そんなこんなでいつもは落ち着いている私もこの日は普段以上に浮足立っていたもので、それこそ朝起きた時も着替えをしている最中も朝食を食べている間も、こうして目的地に向かっている道中もずっと心が躍っている。

 

「そんなに急がれると俺が置いていかれちゃうだろうが」

 

「ふふっそうですわね。すみません」

 

そして何よりも彼と一緒というのが嬉しくて嬉しくて嬉しくてたまらない。

 

「ほら、マックイーン。……手」

 

「……ええ」

 

少しだけ呆れながらも笑みを浮かべて差し出されたあなたの手をそっと握る。

温かくて大きくて、いつも私のことを包み込んでくれるその手が私は好き。

 

「良し、それじゃあ行こうか。マックイーン」

 

……ああ。やっぱり好きだなぁ。

こうやって二人きりになると見せてくれる笑顔も、私の名前を呼んでくれる声も、こうして手を繋いでいるだけでも伝わる体温も全部、大好き。

 

「ではエスコートは任せましたわ」

 

「ん、了解」

 

私の言葉に応えるように彼は微笑みながら力強く私を引っ張っていく。

そんなあなたが隣にいるだけで幸せな気分になる。

今日も私だけの特別なお日柄になりそうだと予感しつつ、今日一日は私にとって忘れられない素晴らしい日となるだろうと確信を持って言えるでしょう。

 

愛しいあなたが側に居てくれる。

たったそれだけで、どんな豪華な食事や豪勢なホテルにも勝るような、そんな最高で最上な一時へと変わる。

私とあなたが一緒に居て過ごす時間。

私はそれが幸せで、どうしようもなく愛おしくて仕方がない。

そっと視線を上げるとそこにはあなたがいて、目が合うと優しく笑いかけてくれるのがなによりも愛おしい。

 

そんな当たり前のようなことが私の心を満たしていく。

この瞬間を、この幸福を噛み締めるようにそっと目を閉じてゆっくりと息を吐く。

この時間がいつまでも続けばいいのにと……。

そう思わずにはいられないほど、今の私は幸せな気持ちに包まれていた。

 



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あなたの好きな私が気になるメジロマックイーンの話

快晴の天気の中を二人で歩く私達、隣には愛しい彼の姿。

そして、優しく握られている手の温もりを感じながら私達は歩いていく。

見慣れた賑わいのある街並み、お店に並んでいる様々な商品や看板を見て少し目を輝かせて彼に声を掛ける私の姿はまるで子供のようだったかもしれない。

 

「マックイーン、そろそろ上映時間だから急ごうか」

 

彼はその姿を見てクスリと笑みを浮かべて私を見つめながら、空いた片方の手で指差して時間を確認するように告げてくると、手を引かれるようにして彼の案内するまま映画館の席へと座っていく。

本格的に始まる待ち時間の間も彼と他愛のない会話を楽しみながら時間を潰していけば次第に館内が暗くなり始め、私たちはその映画の物語の中へ入り込んでいった。

 

まあ、たまに映画に夢中なっている彼の横顔に見惚れてしまったりもしたのですが、そんなことは内緒ですわね。

 

「……どうだったマックイーン? 俺としては結構当たりだったな」

 

「ふふっそうですわね、確かに面白い内容でした。あのラストシーンはちょっと感動してしまいましたわ」

 

「だろう? 後は、俺は個人的にあの主人公とヒロインの関係性が好きだね。だんだんと距離を縮めながらお互いを理解していくって言えば良いのかな?」

 

そんな会話を挟みながら場所を少し映画館から移動してすぐ近くのスイーツ店。

そこでお互い頼んだメニューを口に運びながら感想を語り合う私達。

話題は勿論先程見た映画の話であり、私が面白かったと口にすれば彼は同意しながら好きな所を挙げていく。

 

お互いに気に入っている部分を言い合って笑い合っている中、彼がこの店では特に美味しいとおススメしたフルーツタルトを一口食べて微笑む私を彼は優しい目つきで見つめてきた。

 

「……何ですの? 私の顔に何か付いてますでしょうか?」

 

「ん、ああいや。まあついてるって言ったらついてるんだけどさ、口元に」

 

「……へっ? も、もう! ならどうしてもっと早く言ってくれないんです!?」

 

首を傾げている私の質問に対して曖昧な返答をした彼は、自分の右頬辺りを指し示してそこだと教えてくれる。

しかし、恥ずかしくなった私は慌てたように声を上げると慌ててハンカチを取り出して口を拭うと、それを見た彼は可笑しそうに笑っていてただただ優しい視線が向けられていた。

 

「ごめんごめん。キミが幸せそうな顔で食べているものだから、ついね」

 

「もう、だからからかわないで下さいまし!」

 

「……それでも食べる手が止まらないのは流石と言うか何というか、うん。流石だなマックイーン」

 

「……うるさいですわよ。それにあなただって甘いものはお好きでしょう?」

 

「うん、そりゃあもちろん」

 

はしゃいで興奮していたとはいえ彼に見られていたと思うと、やはり今になって羞恥心が込み上げてきて思わずぶっきらぼうな態度を取ってしまう。

それを分かっているのか分かっていないのか、相変わらず彼は優しく私に語りかけながら微笑んでくれると、再びケーキを食べ始めて私もそれに続いてフォークを動かしてスイーツの感想を伝えあっていく。

 

「まあ正直マックイーンの手が止まらないのも分かるけどね」

 

「ええ……仕方ないでしょう。本当にとても美味しかったのですから」

 

「ああいや、悪い意味では無いんだよ。単純にキミが楽しんでくれたようで良かったなって話だし。実際俺も夢中で食べた訳だからね?」

 

「別にそこまで気にしてはいませんが、一緒にスイーツを楽しめたのでしたら私としては何よりですわ」

 

「そうだね、またいつか機会があればここで食べるのも良いかもね。レースで勝った祝勝会みたいな」

 

「あら? 別にここに来るくらいいつでも付き添いますわよ?」

 

「……それ、ただマックイーンがここのスイーツを食べたくて来てるだけじゃない?」

 

「ふふっこれは残念ですわね。バレてしまいましたか」

 

「いやまあ良いんだけどね、キミらしいし」

 

他愛のない会話を交わしながら二人で笑い合いながら過ごす時間はとても楽しいもので、彼とこうして過ごせることが何よりも嬉しい。

一緒にスイーツを食べて感想を語らい合うという、ただそれだけなのにそんなやりとりも不思議と妙に嬉しく思えてしまう私がいるのもまた事実だったりした。

 

そんなこんなでスイーツを食べ始めて少し経ち外の景色に目を通していけば、彼の視線が1つの場所に止まっていたので追いかけるようにそちらに視線を移して見ると丁度ビルの大きなスクリーンに広告として映る私の姿が目に映っていた。

 

「見てみなよマックイーン、キミの広告だよ」

 

「ええ、この前受けたものですわね。月間トゥインクルの方でもまた特集を組んで貰えたりと最近は色々と順調ですから」

 

「……うん、キミのその頑張りの成果がこうして実っているわけだし、トレーナーとしても嬉しい気持ちはあるよ」

 

私達の視界に映る大画面のスクリーンには勝負服を着てインタビューを受けている私の姿があり、その映像を見てトレーナーさんはどこか感慨深い面持ちを浮かべていた。

 

「名優メジロマックイーンか……」

 

「いつの間にか呼ばれたその名も随分有名になりましたね。まあ、まだまだここで満足している訳ではありませんが」

 

「その名優が今まさにここで威厳関係なくスイーツ食べてる姿を見ると、なんかあのスクリーンに出てる決めポーズ姿のキミが信じられなくなるけどねぇ……」

 

「失礼ですわね! それとこれは別に関係はありませんでしょうに!」

 

スクリーンの中のクールな姿と現実の食いしん坊の姿を交互に見ては溜息混じりに告げられる彼の言葉に思わずムッとなる私。

すると彼は冗談だと苦笑しながら謝ると、私が怒ってないことを確認してから小さく笑ってこう口を開く。

 

「いやほんと、別に悪いって言ってる訳じゃないんだけどさ。ただギャップが凄いなと思ってさ」

 

「……もしや、あなたはスクリーンに映る私の方が今の私よりも好みと言いたいのですか?」

 

「ちょ、ちょっと待て、どうしてそうなる!?」

 

からかわれた意趣返しとばかりに悪戯っぽく微笑みながらそう口にすると彼は慌てて弁明をしてくるけれど、それでも私の方はニヤリと笑いながらジッと見つめ続ければ彼は諦めたように自分の頭をわしゃわしゃと掻き始めて少し困った表情をしていた。

 

「ちょっと言いすぎちゃったか、ごめんなマックイーン。からかいすぎたの謝るから許してくれないか」

 

「まさか信頼してるトレーナーさんにそんなことを言われるなんて……。よよよ、悲しい限りですわ〜」

 

「だからごめんってば!」

 

そんな彼の謝罪の言葉を聞きながらわざとらしい演技をしながら泣いているフリをすると、彼も私が本当にそんなつもりなんてないことに気付いてるくせに慌てている姿を見せてくれる。

 

「ふふっ冗談ですわ」

 

「いや分かってるけどさ、ちょっと本気にしちゃったじゃんか」

 

「あら? それはすみません。あまりにも真剣に見えてしまったものですから」

 

「メジロ家の令嬢が随分とお茶目なことするようになったもんだよ」

 

「ええ、お陰様で」

 

お互い冗談なんてお見通し、だからこそ気兼ねないやり取りができるのは本当に心地良いもので、そんな彼との会話に自然と口元を緩めながら私はそう返事を返して見せた。

 

「それで、結局どっちがあなたの好みなんですの? 今の私と、スクリーンの私」

 

「あっそれは聞くんだね」

 

「ええ勿論、私は負けず嫌いなので。たとえ私自身だろうとそこは譲りたくありませんもの」

 

「うーん、そうだなぁ。……どちらも俺の好きなマックイーンには違いないけれど、どちらかと言えば今のキミ方が良いかな」

 

「ふふっ……そう、そうですか。今の私が」

 

彼の言葉を耳にした瞬間、思わず心の中で小躍りするほど嬉しく思ってしまう自分がいた。

思わず心の中で先ほどの彼の言葉を思い返せばつい笑みを浮かべてしまい、それを誤魔化すように再びケーキを食べ進めていくけれど、少しだけ頬の赤くなった私には味がよく分からなくなってしまっていて、彼も彼で視線を合わせないようにそっぽを向きながら残りのケーキを口にしている。

 

「まあ、その、あれだ。……マックイーンが頑張ってきたのを1番見てきたのはやっぱりトレーナーの俺だからね。その努力の結果がこうして見える形として出ているのを見ると感慨深いものがあるっていうかさ……」

 

少しだけ沈黙が流れる中に限界が来たのか、ぽつりと呟かれたその一言がとても温かくて優しくて。

 

「ええっと、だからその……ごめん。自分でも何言ってるかよく分からないな、これ」

 

「大丈夫ですわよ。……ちゃんと、全部伝わっていますから」

 

そう言って彼に視線を向けることなく小さく笑みを見せつつ、今だけはもう少しこの幸せに浸っていたいとさえ思えて仕方ない。

 

それに元より今の私も、スクリーンに映る私も。

どちらの存在も他ならぬ彼が一緒にいてくれたからこそ生まれたものだ。

だからこそ今の自分がある訳であって、その事に関しては紛れもない真実であることは間違いはないから。

 

それにもしも、仮に先ほどの質問で彼がどう答えを選んだとしても私にとっては結局のところどちらも嬉しいものでしかない。

今の普段のファンには見せないような、彼にだけ見せるようなただスイーツが好きな私が好きと言われたとしても。

あるいは逆にスクリーンに映る、ファンの皆さんがイメージするような私の方が好きと言われたとしても。

 

どちらにせよ答えは同じことで。

どんな結果であろうとそれは彼と一緒に一心同体で歩んできた私自身に他ならない。

胸を張って誇れる私の姿の1つなのだから。

 

「……結構食べたし、そろそろ帰ろうか。マックイーン?」

 

「あっ……もうこんな時間でしたのね。気が付かなかったですわ」

 

「楽しい時間は本当にあっという間だな」

 

「ええ、本当に」

 

時計の針を見やればいつの間にやら時刻は夕方近くとなっていて。

まだ日は出ているけれど流石にこれ以上は遅くなる前に戻らないと寮の方々に心配をかけてしまうだろう。

 

彼の提案に素直に承諾し、彼が笑って頷きながら席を立ってレジに向かっていくのを確認して私は先に外へ出ることにした。

 

「……あ、あの! メジロマックイーンさんですよね!」

 

そして彼を待つためにお店の入り口近くで立っていると少し周りのことを忘れていたのか、私のファンであろう女性が数人ほど集まって話しかけてくれた。

その人たちは興奮冷めやまぬ様子ではち切れんばかりの笑顔を見せてくれる。

 

「ええ、確かに私がメジロマックイーンですわ」

 

私の姿を見つけるなり、まるでアイドルを見つけたかのようなテンションで近寄ってくる彼女達を前にして困惑していると。

ファンです、握手を、いやサインを等といった様々な声が飛んできて思わず苦笑してしまって、それも私を見つけてくれている人たちの声なのだろうと思えば嬉しさから自然と顔が綻ぶのを感じることが出来た。

 

「ふふっ応援ありがとうございます。これからも頑張っていきますのでどうかご期待くださいまし」

 

やって来てくれたファンの方たちと話し始めて数分ほど、ニコニコ手を差し出すようにすると彼女は目を輝かせながら握り返してきてくれて私はそれを微笑ましく見守りながらその場を後にすれば逆に待たせてしまったであろう彼の元へと向かっていく。

 

「お疲れ様、マックイーン」

 

「すみません。ちょっと色々とファンの方と話していたら待たせてしまって……」

 

「気にしない気にしない。別にそんなことを咎めるつもりなんて毛頭ないし、むしろこれもマックイーンの頑張りの成果なんだから」

 

お店の外に出た私を待っていてくださった彼はすぐに駆け寄って私に声をかけてくるのだけど、その言葉を聞いてまた思わず頬が緩んでしまう自分がいた。

 

「まあでも、急に来られたのに流石の対応っぷりだったじゃないか」

 

「ええ、まさかあんなに騒がれることになるとは思ってもいませんでしたわ」

 

「別に今はプライベートなのでとか、なんなら近くにいた俺に任せても良かったのに」

 

「いいえ、そういう訳にもいきませんわ。こういうものは自分で対処しなければ、あなたばかりに頼るのも申し訳ありませんし」

 

「俺的には別にキミに頼りにされるのなんて大歓迎だし嬉しいことなんだが」

 

「ふふっそう言って頂けると嬉しい限りですね」

 

「……」

 

「どうかしましたか? そんな驚いたような顔して」

 

「……いや、やっぱりマックイーンはほんと。成長したな〜って」

 

感心したようにうんうん、と首を縦に振っている彼のその姿が可笑しくてついクスッと微笑んでしまう。

 

「最初に出会った頃なんて無理なトレーニングと食事制限を繰り返してた子とは思えないや」

 

「むぅ、また昔のことを引きずるのは良くないですわよ?」

 

「分かってるよ。冗談だってば、ごめんごめん」

 

そう言ってからお互いに笑い合ってから私たちは帰り道を歩いて行く。

こうして彼と肩を並べて歩いている時間がたまらなく幸せを感じると共に、この時間もそろそろ終わりを告げることになるだろうと思うとどうしても名残惜しく思えて仕方がない。

 

「……マックイーン」

 

「はい?」

 

そんなとき、突然彼に呼ばれ振り返れば突然頭を撫でられて。

あまりに唐突な行動と少しだけ呆然としたが、次第にその心地良い温もりと手に私は目を細めて身を委ねていく。

 

「本当に、よく頑張ってくれた」

 

「……ッ」

 

優しく、愛おしそうに、それでいてしっかりと想いを乗せて言われた言葉。

それはあまりにも真っ直ぐで、私の胸に響くには充分すぎるほどに届いていた。

 

「……ええ、あなたのお陰ですわ」

 

彼が信じてくれていたからこそ今の私があるわけであって。

 

「あなたが傍に居てくれたら、私には何も怖いものなんてありませんもの」

 

さて、彼の言葉にこう返事を返した私の顔は果たしてどんな表情を浮かべていただろうか。

いつも彼に向ける優しい微笑み?

それともレース前のような覚悟を決めた凛々しい姿なのか?

あるいは大好きな人へと向けた、だらしのない緩みきった顔をしていたのかもしれない。

 

どれにせよきっとその全てが混ざったようなものになっていただろう。

それほどまでに今の私は満たされていたのだから。

 

「……さて、そろそろ帰ろう。もう暗くなってきてるし」

 

「ええ、そう致しましょう」

 

再び歩き出した私の隣に彼が並ぶ。

その横顔を盗み見てみればそこには私と同じでとても穏やかな笑みが浮かんでいて、それが何より嬉しかった。

 

 

 

そうして、楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていきながら帰り際の彼の車の中。

私たちの間に流れる雰囲気はとても柔らかくて穏やかで、ゆったりとした空間が流れていく。

 

助手席側に座りながら、ただひたすらに流れていく街並みやトンネルなどを通過して切り替わっていく外の景色を見つめていて1人楽しんでいると先ほどまでの光景を思い出しては自然と笑みがこぼれてしまう。

 

「……ふふっ」

 

「ん? どうしたのマックイーン。何か面白いものでも見つけたのか?」

 

思わず口から零れ落ちた笑い声に気付いてくれたのか彼はハンドルを回しながらチラッとこっちを見て尋ねてくる彼に、なんでもないと伝えるように私は軽く手を振るとそのまま話を続けた。

 

「いえ、今日のこと思い出したらなんだかおかしくて」

 

「まあ確かにあれだけの人数のファンに囲まれてたもんな。そりゃ疲れるか」

 

「それもありますけど、それだけじゃなくて……」

 

「……ん?」

 

不思議そうな様子でこちらを見る彼を横目に見ながら、私はまた窓の外の景色に視線を戻す。

 

「この今までの時間、ずっとあなたの隣に居られたことが凄く嬉しくて。……その、つい顔が緩んでしまいましたわ」

 

その言葉を最後に車内の中にはまた静寂が訪れる。

口にした後の羞恥心からか私は頬に熱が集まっていくのを感じながらも、せめてもの抵抗として彼から視線を外して外の景色を見ては黙り込んでしまう。

 

しかしいくら待っても一向に反応が返って来ないのが気になって恐る恐る運転席の方へ目を向けると、彼は片手で口元を抑えたまま固まってしまっていた。

その顔は今まで見たことがないくらいに真っ赤に染まっていて、思わず私も目を丸くしてしまう。

 

「あ、あの……トレーナーさん?」

 

「……」

 

「も、もしもし?」

 

「……」

 

「えっと、大丈夫ですか?」

 

「……ごめん、マックイーン。ちょっと今話しかけないでくれると助かる」

 

「えっそんな!? 話しかけ!?……ううっ」

 

「ああ違う! ごめん! そういう意味じゃなくて、えっと……。とにかく今キミが思ったようなことは断じて無いから!」

 

「ほ、本当ですの?」

 

「ほんとほんと、大丈夫だから!」

 

良かった、と胸を撫で下ろしてから私は小さく安堵する。

彼が嫌だと感じることをしてしまったのでは、と思ったものの特にそのようなことはなくて安心していると彼は未だに赤いままの顔で深呼吸をして心を落ち着かせようとしているようだった。

 

「えっと、今ちょっと俺動揺しちゃってるからさ。この続きは一旦運転を終わらせてからでもいいかな?」

 

「……は、はい」

 

まさかの反応に驚きながらも、ひとまず私も同じように深呼吸してから静かに返答をする。

私も今になってもう一度恥ずかしさがこみ上げてきたのだが、ここは彼の言う通り大人しく待つことにした。

 

それから先はお互いに無言の時間が続いて、なんだかむず痒い気持ちのまま車に揺られ続けていく。

妙に気まずくなって、会話をした方が良いんじゃないかと彼の方を見ればそのまま照れて何も喋れずまた顔を逸らしたり、赤信号で止まったときに今度こそチャンスと思えば、そのときはお互いに目線があったりして結局どちらも声を発することができなかったりと何とも歯がゆい空気が漂っていた。

 

そんなやり取りを続けていればいつの間にか寮の前へとたどり着き、駐車場へと車を止めるなりすぐに車を降りて2人でウマ娘寮までの道のりを歩いていった。

 

「……さっきの続きだけどさ」

 

「は、はい」

 

「その、俺も嬉しかったし楽しかった。マックイーンと一緒に居られて」

 

そう言って微笑みかけてくれる彼はきっと私と同じように緊張しながらも、それでもしっかりと伝えてくれた彼の想いに私の心臓は大きく跳ね上がる。

思わず立ち止まってしまいそうになるほど、私の身体はその一言だけで喜びに打ち震えていた。

 

「だから……またどこかに行こうよ、一緒に。今度はもっと遠くまで行ってみるのも楽しそうだ」

 

「……」

 

「まあでも、キミと一緒ならどこに行っても楽しいだろうけどね」

 

その言葉を聞いた瞬間、全身の血が沸騰したかのように体が熱くなるのを感じる。

嬉しい、なんて言葉じゃ足りないほどの感情が溢れ出して身体中が満たされていく。

 

「……ええ、是非」

 

そう返すのが精一杯なくらいに今の私はいっぱいいっぱいになっていた。

 

だって仕方がないじゃないですか。

こんなにも幸せで満たされているんですもの。

 

「あなたと一緒ならこのメジロマックイーン、どこまでもお供いたしますわ」

 

満面の笑みを浮かべながら私は彼に告げる。

その答えを聞いて満足げに笑う彼を見ていれば、もう数えるのもバカらしくなる程に浮かび上がってくる愛おしさを胸に抱きながら私はゆっくりと歩き出してその日の彼とのお出かけを終えたのだった……。

 

 

 

またそれから少し後の自室に戻った後。

彼女は今日のことを思い返すようにベッドに座っては枕をぎゅっと力強く抱きしめる。

 

「……ふふっ♪」

 

その表情はきっと。

大好きな人にも、ファンの人たちにも、彼女以外にはまだ見せたことのないもの。

今の彼女は、メジロ家の令嬢ではなくただ1人の恋する乙女として。

それはまるで夢見る少女のように、純粋で綺麗な笑顔を向ける。

 

「……」

 

無言で浸るように彼女が思い出すのは、車内での出来事。

 

彼女の言葉に動揺して、頬を赤く染めながら。

それから必死に誤魔化すようにして言葉を紡いだ彼の姿。

 

そして何よりも彼女にとっては。

その時において、彼がしっかりと自分のことを意識してくれていたことが嬉しくてたまらなくて、何度も何度もそのときの光景を思い返していく。

 

「……大好きですわ、あなた」

 

誰もいない部屋で呟かれたその小さな愛の告白は、誰にも聞かれることなく消えていく。

 

けれどその時浮かべた彼女の表情は。

他の誰にも負けないくらい。

 

とても可愛くて魅力的な笑顔だった。

 

 



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トウカイテイオー
トレーナーとお出かけ前のトウカイテイオー


心地の良い風がカーテンを揺らし外からは今も練習しているウマ娘たちの声が聞こえる。その声に釣られてボクも一緒に駆けだしたくなるけれど今日はお休みの日、その声を聞かない様に窓を閉めベッドへとダイブしてつまんない時間を誤魔化すためにスマホをいじる。

 

「……暇~」

 

でも気分が上がらなくてすぐにやめた、何もやる気が湧いてこない。

そんな中、真っ暗になったスマホを眺めながらふと考えるのは担当トレーナーのこと。

今キミは何をしているんだろう、ボクの練習メニューやレースのことでも考えて机に向かってるんだろうかと色んな彼への思考が頭をよぎっていく。

 

「……♪」

 

会えないキミを思うと寂しいけれどなんだか楽しくて不思議と気分が上がる。それがなんだかおかしくて笑ってしまう。会いたいな、声を聞きたいな、もう我慢せず連絡しちゃおうかな。そんな思いがふつふつと湧き上がる。

 

そんな時だった、真っ暗のスマホが振動し一本の電話が掛かってくる。

相手は今まさに会いたいトレーナーさんその人。嬉しさのあまり思わず手にもったスマホを落としそうになるのを耐えて、満面の笑みを浮かべながら応答ボタンをタッチする。

 

「お休みの日にごめんなテイオー、今大丈夫か?」

 

「うん! 全然平気だよトレーナー! どうしたの、ボクに何か用? あっもしかして一緒に出かけるお誘いとか!?」

 

「ははっ今日も元気だなテイオー。実はやってみたいトレーニング案があってさ、テイオーの意見が聞きたいんだ」

 

「新しいトレーニングかぁ……うむっ! ワガハイにどーんと任せると良いぞよ!」

 

予想外の電話にドキドキしたのに連絡理由がトレーニングメニューだったのは少し残念だがまあこの際なんでもいい、声が聞けるのが嬉しいのだ。ころころと表情を変えながら耳や尻尾はせわしなく動き続け彼との会話に集中する。

 

「それでね、ボクが生徒会の仕事手伝ったらカイチョーに褒められたんだよ!」

 

「相変わらず会長大好きなんだなキミは、でも立派だぞテイオー」

 

「えへへ、でしょ〜? この間もね……」

 

最初の話題が終わっても10分、20分と幸せな時間に時計のことなんて忘れて会話時間は伸びていく。さっきまでのつまらない時間が一瞬でキラキラした時間に変わる。

 

「……っと、ごめんなテイオー。そろそろ切らなきゃ」

 

「ええーっ!? まだまだたくさんあるのにもう終わるの!?」

 

「俺ももっと話をしたいんだけどちょっと出ないといけなくてさ……」

 

「ちぇっそういうことなら仕方ないかぁ」

 

「……」

 

もうすぐこの楽しい時間も終わってしまうと思うと残念だ。耳も垂れて少し弱弱しい声になってしまったかもしれない。名残惜しさからせめて彼から切るまでは切らないでおく。

 

「……えっと、あのさテイオー」

 

「なぁにトレーナー」

 

「キミさえ良かったら今度は一緒に出かけないか? 次のお休みの日でも俺はいつでも構わないからさ……駄目かな?」

 

「……ううん、駄目じゃない全然良いよトレーナー! ねえねえ何処に行くの!? 水族館? 遊園地? ああでもボクね、行ってみたい場所があるんだ!」

 

「うん、喜んでくれて俺も嬉しいけど落ち着こうかテイオー……やっばい、耳がキーンとする」

 

「あっごめんねトレーナー」

 

しかし通話は終わることはなく彼からそんな魅力的な提案がきた。

さっきまでの寂しさも何処へやら、再び笑顔を取り戻し声を高らかに返せば声が大きすぎたようだ。スピーカーで聞くウマ娘と違い耳に直接スマホを当てて聞く彼には爆音が伝わったに違いない。少し反省して今度は抑えてその日の予定を決めていく。

 

「それじゃ、そろそろ切るけど大丈夫かテイオー」

 

「うん。次のお休みは一日中ボクに付き合ってねトレーナー、約束だよ?」

 

「ふふっそうだな。うん、改めてその日は俺とデートに行こう」

 

「……ッ!」

 

「それじゃあ切るよ、またな」

 

ツー、ツー、と会話終了の音が何度も何度も部屋に響く。

けれど呆然としてボクはそのまま数秒ほど動けなかった。

 

「……はっ!? こうしちゃいられない、すぐに準備しなきゃ!」

 

再び機能を再開すれば今度はせわしなく動き出す。

まずは部屋のカレンダーへ向かいペンで約束の日付に大きなハートマークをつけ 「トレーナーとデートッ!」 とでかでかと書き出す。

 

次に向かうのはクローゼット。勢いよく棚を開ければハンガーに掛けてある服を持てるだけ持ってそれを衣装鏡の前へと持っていく。そして一つ一つを自分の前に出し、何度も衣装合わせを繰り返す。

 

「これ!……っは似合うけどボクのイメージじゃない。こっちは……ちょっと幼すぎるかな? ええっと、じゃあこっち!」

 

そんなことを繰り返す中、知らず知らずのうちに時計の針が2周する。

決まらない。ベッドに大の字で倒れながら結局できたことを振り返れば持っている服を全部引っ張りだして部屋を散らかしただけ、何も決まらないまま時間だけが過ぎていきただただ不安感だけが強くなっていく。

 

どうしようもなさから枕に顔をうずめて、ふともう一度カレンダーに視線を移す。

トレーナーと一緒にいられる日は何度もあったけれど今回は特別。今回は彼からデートと言われてのお出かけだ、たとえ彼がそういう意味で言ってなくとも形式上はデートという約束なんだ。

 

なら、一番可愛くて最高のボクをキミに見せたい。

少しでも意識してほしい。綺麗だと思ってもらいたい。忘れられない日になってほしい。

 

「あ〜あ、これもぜ~んぶキミが悪いんだからね。トレーナー」

 

胸がキュッと締め付けられるような感覚、心音はトクントクンと奏で頬は熱い。

一番のボクを見せたいのにどんなボクなら彼は気に入ってくれるか、彼はどんなイメージの女性が好みだったか、様々な思考が巡ればもう何が何だか分からなくなって胸の内がムズムズする。こんなに緊張するのは初めてだ。

 

「ボクだけじゃ駄目かぁ……」

 

気持ちのリセットのためもう一度枕に顔をうずめて深呼吸する。

良い感じに落ち着いたところでスマホを手に取って大量の登録数のある中今電話しても大丈夫な子を探し助け舟を求めるべく一人のウマ娘へと掛けた。

 

「あっもしもしマックイーン? 今時間大丈夫? ちょっと助けてほしいんだけどさ、ボク一人じゃどうしていいかわからなくて」

 

「……急に連絡が来たと思えば何やら深刻そうな話ですわね、私で良ければ力を貸しますわ」

 

「うん、でもちょっと電話じゃ言いにくくてさ。今こっちにこれる?」

 

「そちらに行けば良いんですね、すぐに向かいます」

 

「ありがとう」

 

それだけ伝え終わって待つこと少し、駆け足できてくれたのかマックイーンは思いのほか早く来てくれたようで部屋の扉がノックされ笑って扉を開ければ少し慌てた様子で入ってくる。

 

「テイオー! ……あら? 」

 

「いらっしゃいマックイーン、待ってたよ!」

 

「ええっと、随分と元気そうですわね。私あなたに何か起きたものと思っていたのですが」

 

「……えっ?」

 

お互い何か食い違いが起きていたらしい。数秒ぽかんと無言で見つめ合って、マックイーンを呼んだ趣旨を説明する。

 

「なるほど、つまり私はあなたがデート服を決められないから呼ばれたということですか。私の心配を返してほしいですわ……」

 

「えっとなんかごめんね? でもボクにとってこれは一大事なんだよマックイーン!」

 

「……複雑ですがこれもまた乗り掛かった舟。良いでしょう、あなたの思いも同じ女性として理解できます。テイオー、あなたをメジロの名にかけて誰もを魅了するウマ娘にしてさしあげますわ」

 

「うん、ありがとマックイーン! でも魅了するのはトレーナーだけで良いかな!」

 

お互い固く握手すれば心に火が灯る。

それから始まるデートへ向けての毎日、メジロ家のスタイリストさんが大勢きたのには驚いたがその分色々と為になる時間だった。あまり大きく自分らしさを変えずにしたいと提案すれば多様なアイディアが飛び出し、結果ポニーテールや元気満点なイメージを崩さず綺麗になっていくのは自分でもワクワクが止まらなかった。それに「あなた自身の素材が良いので色々試す自分たちも楽しくてもっと色々試したいですよ」と笑顔で褒められたのは少し照れ臭かったが改めて自信もついた。

 

 

 

そんなこんなで時間が過ぎてあっという間に約束の日がやってきた。

 

「テイオー、そろそろ出ないと約束の時間に間に合いませんわよ~?」

 

「ええっもうそんな時間なの!? ちょっとだけまって~」

 

気分はレース前と何ら変わらない、でもレースのときとは全然違うドキドキとワクワクが心に満ち溢れている。大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせて一度衣装鏡の前に立ち最後の確認。

 

「うん、バッチリ! 今日のボクは一段と可愛い!」

 

そう言い切れるくらいには自信もある。きっと驚いてくれるぞっと笑いながら準備を整えてウキウキしながら靴を履く。扉を開けて空を見渡せば気持ちの良い日差しを感じてまさに絶好のデート日和。

 

「それじゃ行ってくるね! 色々とありがとマックイーン!」

 

「ええ、良い報告をまってますわ」

 

「勿論、任せといてよ」

 

笑顔とピースサインをマックイーンに向けた後はトレーナーとの待ち合わせ場所へと駆けていく。キミと会って話すことや何処を巡るのかこれからの色んな楽しい時間を想像したらまた足取りは軽くなりスキップ気分で進んでいく。

 

「トレーナー! おっまたせ~!」

 

「おっ来たなテイオー!……!?」

 

そして今も時計を見ながらボクを待つキミが目に入るとキラキラと目を輝かせて、思いっきり飛びついた。

 

「もう今日がすっごく楽しみで待ちきれなかったよ。どうどう? 今日のボクいつもと違うでしょ!」

 

「待ちきれないのは俺もだテイオー。ふふっ今日はいつも以上に綺麗だな。声を聞くまで一瞬キミだと分からなかったよ、よく似合ってる」

 

「……えへへっ」

 

さっそく褒めて貰えると胸が高鳴って体が熱くなる。

そのまま会話をしつつ手をつないで、急かすように何処を巡るのかを聞くとキミはなんだかおかしそうに、でも楽しそうに笑って答えてくれる。これから巡る素敵な時間、キミと一緒ならそれはボクにとって掛け替えのない特別なモノなるだろう。

 

 

 

そしてその至福のデートが終わった次の日。

いつも通り賑やかなカフェテリアのスペースでマックイーンと席に着き、昨日の出来事を満足そうに話すボクの姿があった。

 

「それでね、その時トレーナーがボクのこと綺麗って言ってくれてさ。頑張ってるボクへってプレゼントまでもらっちゃったんだ~」

 

そう言いながらニコニコで首から下げてあるペンダントを見つめる。

少し呆れた顔のマックイーンの視線を感じるがこんなもんじゃない。まだまだ言いたいことはたくさんある、それほど思い出すだけでも言葉で足りないほど充実した良い日だった。

 

「あのさ、男性から女性へのプレゼント。それもペンダントってことはもうこれボクたち絶対両想いだよね! ね!」

 

「……全く、嬉しい気持ちは分かりますが少し落ち着きなさいテイオー。もうお昼休みの時間が終わりますわよ」

 

「えっもう一時間経つの。まだ一割も話したい事伝えきれてないよ!?」

 

「一時間で一割以下ですか、全部聞いてたら私おばあちゃんになってしまいそうですわね。羨ましい限りですわ」

 

「へへっ! ならマックイーンがデートに行くときは今度はボクが手伝ってあげるよ!」

 

「はぁ、あなたはまた調子の良いことを……」

 

程なくしてお昼休み終了のチャイムが鳴って、ここカフェテリアで誰よりも騒がしいボク達も別れていく。

 

その途中マックイーンが彼女の担当トレーナーさんへと電話している姿がちらっと見えた。語りすぎて羨ましくなってしまったのかな。綺麗な笑顔で楽しそうにお出かけの約束をしているマックイーンはボクから見ても素敵なもので、これはさっき言った手伝う約束を実行する日も近そうだ。まあ彼女の話を聞くときは負けないくらいボクの話も聞いてもらうけどね。

 

そんなことを考えて教室の席に着く。

早く放課後になってトレーナーに会えないだろうか、それとも我慢せずもう電話で声だけでも聞こうか。クスクス笑いながら貰ったペンダントを優しく握って彼を想う。

もどかしさもあるが、それもまた楽しくて仕方ない。



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ボクの特等席『トウカイテイオー』

夕暮れが近づいて、日がゆっくりと沈んでいく。

ボクはその沈みかけの太陽を眺めながらトレーナー室でパソコンに向かって作業をしている自分の担当トレーナーである彼の姿にチラリと視線を移す。

一定のキーボードの音が広がり、集中しているその姿を独占できるこの空間は好きだけど、同時にボクに構ってくれないことへの寂しさもあったりする。

 

「……ねぇ~」

 

だから無意識に声が出て、その声に気づいた彼は顔を上げてこっちを見た後で優しく笑った後には笑みを浮かべてくれる。

 

「もうちょっとで終わるから、そう膨れた顔しないでくれよテイオー」

 

「それもう3回目なんだけど?」

 

「そうだっけ? まあでもほんと後もうちょっとだからさ、頼むよ」

 

「んー、仕方ないなぁ……。早く終わらしてね?」

 

「ああ、もうちょっと頑張るよ」

 

再び作業に集中をする彼を頬杖をしながらその姿を見守ることにしたのは良いけれど、ずっと1人で過ごすのも暇だ。

 

「……ねえ、まだ〜?」

 

「いやさっき頑張るって言ったばっかじゃん……」

 

思わず出た言葉には少しだけ呆れの混じった笑い声と共に言葉を返されたけど、それもいつものこと。

その言葉にボクもまた小さく笑いつつ、「だって暇なんだもん〜」とわざとらしく拗ねるふりをしてみるんだ。

 

「……あっそうだ! ねえねえトレーナー!」

 

「ん? どうしたテイオー?」

 

「こうしたらさ、ボクの相手も一緒にできるじゃん!」

 

不思議そうな彼を横に閃いた名案を思いつきすぐに実践するべく、そそくさと近づいては椅子に座っている彼の手をどけてその膝の上に乗るように腰かける。

 

「えへへ♪ これなら2人でお話しながら待てるよね?」

 

なんて上機嫌になりながら振り向いてそう伝えれば、流石に何か言おうと口を開きかけていた彼だけど、ボクの今の表情を見たら結局は何も言わずに口を閉じてため息1つついて諦めたようだった。

 

「……随分とわがままだな、ほんと」

 

「えっへへ~♪ 存分に構うがいいぞよ〜♪」

 

「じゃあお望み通りに」

 

そう言い終えると彼はボクの頭に顎を乗せてそのままぐりぐり〜って押し付けてくる。

 

「いたたたた!? ちょっちょっと痛いよ!」

 

「ははっ! 悪い悪い」

 

「もぉー! 全然謝ってる顔じゃないじゃんか。なら今度はボクがやり返しちゃうからね!」

 

「ウマ娘パワーでやられるとシャレにならないんだよなぁ……」

 

「にしし、なんならもっと凄くしちゃおっか?」

 

冗談めかしていってみれば彼は苦笑しながらも頭を撫でてきて、「それは勘弁して欲しいな」と口にしてくる。

その仕草に思わず笑ってしまうと彼もまた笑っていて、それが心地よく感じてしまうから困ったものだ、えへへ。

 

「ところでいつまでこれやってたらいい? あの、流石に俺もずっとこのままは恥ずかしいんだけど……」

 

「え、勿論ボクが満足するまでだよ? こうやってたら凄く落ち着くんだ~」

 

「マジか、参ったなこりゃ」

 

「あっひょっとしてもうすでに照れちゃってるの、トレーナー? ねえねえそうなの?」

 

「……くらえ」

 

「痛いっ!?」

 

ニヤリとしながら言ってみると図星だったのか一瞬黙った後で誤魔化すかのようにさっきと同じく頭を強くグリグリされる。

けれどそんな中でも痛い痛いなんて冗談混じりのボクの声に対して彼も楽しげな声で返してくれるから、お互いにクスクスと笑うんだ。

 

「どうだテイオー、まいったか?」

 

「いてて、も〜! 軽いイタズラに大人気ないよトレーナー!」

 

「ふふっちょっと楽しくてな」

 

そして一頻りふざけあった後にお互い見つめ合っていれば、どちらからともなく吹き出して笑ってしまった。

それから少しして落ち着いてきた時また少し楽しい雑談の時間が続いていけば段々とその心地良さからか眠気を感じ始めてきた。

 

「……んぅ、なんか急に……ねむ……」

 

「寝るんだったら流石に降りてくれよ〜、テイオー。……テイオー?」

 

呼びかける彼の声が次第に遠くなり、やがて聞こえなくなる。

そして完全に意識が落ちていく中最後に思ったのは、彼が優しく笑っている顔と声音だった。

 

「ええ、もう寝ちゃったの。まだやること残ってるんだけど……。まあ仕方ないか」

 

その声がきっと最後に聞こえた彼の言葉。

そしてそのすぐ後にボクの頭をそっと撫でてくれた優しい手の温もりが、眠りに落ちていた筈なのにはっきりと感じた。

 

「……おやすみ、テイオー」

 

優しく囁かれるように発せられたその言葉を子守唄に、今度こそ深い夢の世界に旅立った。

 

 

 

「……ん」

 

あれからどれくらい経ったのだろうか、ボクはゆっくりと目を開ける。

まだぼやけている視界を何度か目を擦る事でクリアにして周りを見渡せばそこにあったのはいつも通りのトレーナー室の風景で、どうやらソファーに移動させられていて毛布を掛けられていたようだ。

 

「……んぅ、トレーナー?……どこ?」

 

そう言えば、トレーナー室で彼と過ごしていたのだと思い出しながら目元を手で軽く擦る。

 

「おっ、起きたかテイオー」

 

「……うん」

 

「なんだ、まだ少しぼんやりしてるか?」

 

「……ん」

 

「ならもうちょっと寝ても良いぞ? 寝てた時間もそんなに長くなかったからな」

 

「……ん〜、ならトレーナー。ちょっとこっち来て」

 

「えっ? まあ良いけど、どうした?」

 

「いいからいいから」

 

「……はいはい」

 

横になりながら手招きすればすぐに傍に来てくれた彼を座らせて、その膝を借りて膝枕の状態へと体勢を変えていく。

 

「お、おいテイオー?」

 

「ボクはまだ眠いの。だからさ、もうちょっとだけ膝貸しといてね」

 

「……ええ」

 

正直言えば頭はまだ上手く働いてないし体だってまだだるさが抜けず動きたくない。

でも何故かそんな状態だからこそといえば良いかは分からないけれど、今は彼にもう少し甘えたくなったんだ。

 

「全く、わがままだな」

 

「にしし♪ これもボクの特権だよ〜だ♪」

 

「男の膝で何が嬉しいんだか……」

 

呆れたような、でも優しい響きを含んだその言葉を耳にしつつボクは彼と視線を合わせてこう言ってあげるんだ。

 

「そんなの当然、キミだからだよ」

 

はっきりとそう伝えれば彼は照れ臭そうに頬を掻いて苦笑い。

 

「……あんまりそういう事を簡単に言うもんじゃないぞ」

 

「なんでさ、ボクは本気でそう思って言ってるのに」

 

ボクの言葉に彼は困った表情のままだけどそれ以上は何も言わず、ボクはそんな彼の反応に満足しながら言葉を続けていく。

 

「それにこうしてると落ち着いて好きなんだよね。キミの匂いとか温かさを感じるとさ。……うん、すっごく安心する」

 

近いからこそ感じるその匂いに。

伝わる体温に、心が落ち着くのを感じる。

その穏やかな笑みが、その瞳が、声が、ボクを包んでくれるその全てが。

 

ボクの心を掴んで離さない。

たったほんの少し視線を上に向ければ感じるその幸せに虜になってしまう。

 

「へへっ……。うん、これだけは他の誰にも譲れない。ボクだけの特等席だよ」

 

そう言って見上げながら笑顔を浮かべるボクに彼もまた優しく笑ってくれて、ボクはその笑顔を見て更に嬉しくなるんだ。

 

「……」

 

ボクがずっと眺めていても、彼が何かを口にしたり動く事はない。

ほんの少しだけの無言の静かな時間の中で、そっと彼の手がボクの頭に乗せられる。

そのままゆっくり優しく撫でられて思わずその心地良さにうっとりしてしまう。

 

「……♪」

 

ああ、ボクはこの時間が好きだ。

こうやって彼に触れられているこの時間が、彼と一緒にいられるこの時間が。

とても幸せだと感じられるんだ。

 

「……テイオー」

 

「もうちょっとだけ」

 

「はいよ、ならもうちょっとな」

 

ねえ、どうしてかな。

こんな気持ちになったのは初めてなんだ。

今もこうしているだけでボクは胸の奥から幸せな感情と温もりでいっぱいになる。

トクン、トクンって脈打つ音が少しずつ大きくなっていって、やがてドキドキと早鐘を打ち始めて。

 

もっとその音を感じたい、彼に触れていたい。そんな衝動に襲われる時がある。

ずっとこうしていたいと、離れたくないと、そんな想いがどんどん溢れて止まらない。

 

「……変な表情してるぞテイオー」

 

ふと、上から降ってきたその声にハッとする。

クスクスと笑いながら言うものだから一体どんな顔をしてたんだろう、自分じゃわからないや。

 

「別に、いつも通りだと思うけど?」

 

「いやいや、いつも以上に締りのない緩みきった顔だったよ。間違いないね」

 

「むぅ、なんだよそれ~」

 

彼の言葉に対して口を尖らせながら不満げに呟いて暴れるフリをしてみれば、「ごめんごめん」なんて言いながら笑う。

 

「まあでも別に良いもんね。ここにはボクとキミしか居ないんだしさ」

 

「確かにそうだけどさ。けどこんな近くでテイオーを独り占めできるってのも、ちょっとキミのファンには悪い気もするかな」

 

「そう? ボクはむしろ見せびらかしたくなっちゃうかも」

 

「おいおい、それは勘弁してくれ。俺はテイオーのファンを敵に回すのは絶対嫌だぞ。テイオーの今後に響いたらどうする」

 

「本気にしないでよ、冗談だってば〜!」

 

「分かってるけど怖いじゃんか」

 

「ていうか、自分の心配じゃなくて先に不安になるのボクの心配の方なんだ?」

 

「そりゃ当然だろ。大事な愛バの未来の方が大事に決まってる」

 

「……ふふっ、そっか」

 

からかってやろうと口にした言葉に彼は当たり前の様に即答したその答えが、何よりも嬉しいと思ってしまう。

それが少し照れ臭くて思わず誤魔化すように笑ってしまうけれど、きっと彼にはバレてしまっているかもしれない。

だってボクの顔、今多分赤くなってきてるから。

 

「……このまま、時間なんて止まっちゃえばいいのに」

 

不意にボクの口から漏れたそんな願望。

それはボク自身でも予想外だったもので。けれど同時にどこか当然だと納得できた。

 

だってこんなにもキミといると楽しい。

だってこんなにも心が温かい。

ボクの隣にただ居てくれるだけで、こんなにもボクは満ち足りた気分になる。

 

そしてそんな瞬間がずっと続けばいいだなんて、そう願ってしまう程に。

きっとこの今感じてるもの1つ1つの全部を含めたこの感情が恋なんだって、誰かに教えて貰わなくとも自分で確信を持って言えるくらいには、そう思えて仕方がない。

 

「テイオー、そろそろ寮に戻らないと。寮長に怒られるぞ」

 

「……」

 

「テイオー?」

 

けれど楽しい時間も終わってしまうときが来てしまう。

帰りたくないなって気持ちの方がずっと大きくて勝っちゃうから、彼の膝の上で小さく体を動かしてボクの顔が見えないようにするんだ。

 

「やだ、まだ満足してない。まだ……キミといたい」

 

「駄目だ、もうすぐ門限の時間だぞ」

 

せめてもの抵抗として彼の服を軽く握るけど、彼は困ったようにため息をついて苦笑するばかりだった。

 

「ほら、今日はもう帰りな。また明日も会えるんだからさ」

 

「……ん」

 

そう言われてしまうと言い返せるわけもなくて、渋々ボクは彼の膝から体を起こす。

けれどこのまま終わってしまうだけじゃやっぱり寂しいから、ボクはゆっくりと1つの提案を口にする。

 

「じゃあさトレーナー、今度ボクと一緒にどこか出かけようよ。そしたら今日の分も埋め合わせができると思うんだけどな〜」

 

「埋め合わせって後どれだけいるつもりだったのさ……」

 

「いいからいいから。ね、どうかな?」

 

「……うーん、まあ……それくらいなら全然構わないんだけどさ」

 

「ほんとっ!?」

 

「ああ、はちみーでも飲みながらどっか適当にぶらぶらと散歩するか」

 

「なら決まりね! やった~!」

 

ボクの提案に彼は少し悩んだ素振りを見せた後、首を縦に振ってくれた。

それだけでもボクにとっては嬉しくて仕方なくてつい舞い上がってしまいそうになっちゃう。

 

「約束だよ。絶対、絶対の絶対に忘れちゃダメなんだからね。破ったりしたらボク、拗ねるから」

 

「分かったって、分かったから」

 

念押しでボクがそう言えば彼は少しだけ面倒臭そうに、だけどちゃんとボクとの時間を取ってくれる事を約束してくれた。

 

「えへへ、ありがと♪」

 

その言葉が聞けただけでもボクの胸の中にあったさっきまでのお別れの寂しさから、その次の約束への嬉しさに笑みが溢れる。

 

「……全く、調子が良いんだから」

 

そのままニコニコ気分で彼の膝から部屋の扉前へと足を進めるボクの後ろからは、彼の小さなため息と呆れたような、でもちゃんと嬉しさも混じったような、声が聞こえてくるのを聞き逃さなかった。

 

「こりゃあ何をするかちゃんと後で考えとかないとな」

 

そしてまた続けて聞こえる声を耳にしつつ、最後に一度振り返ってからボクは扉に手をかけた。

 

「それじゃあ、トレーナー」

 

「おう、また明日な。テイオー」

 

「うん、またね♪」

 

笑顔で手を振りながら、部屋を出る前にもう一度彼に視線を向ける。

そこにはいつもと変わらないボクの大好きな穏やかな表情があって。

それがボクにはとても心地よくて。いつまでも眺めていたくなるんだ。

 

また彼と一緒に居られる次のお出かけの約束。

ふふっさてどこへ行こうかな?

2人きりのお出かけ。2人でどこに遊びにいこうか考えるだけで、心の奥底にあるワクワク感はどんどん膨れ上がっていくばかりだ。

 

ああ楽しみだ。すごく、とっても。

この時間がずっと続いて欲しいと、そう思えるほどに。

キミといる時間、キミと行く場所。

そのどれもが特別に変わっちゃうんだ。

 

「へへっ! 早くお出かけの日にならないかな〜♪」

 

そんな言葉を呟きながら、ボクはスキップ混じりに学園内を歩いていく。

そんなボクの姿を見た他のウマ娘達が驚いた様子で見つめてきてるけど気にしない。

だって今のボクは最高に幸せな気分なんだもん。

 

胸いっぱいの幸せを噛み締めるようにしながら、ボクは軽い足取りで自分の寮へと向かっていったのだった。

 



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サトノダイヤモンド
トレーナーさんとダンスを踊るサトノダイヤモンドの話


いつもより上機嫌で鼻歌を口ずさみながらトレーナー室の中へと入る。

そこにはいつもと変わらず真剣な眼差しで作業をしているトレーナーさんの姿が見えた。その光景を見て思わず笑みを浮かべてしまう。

 

「こんにちは、トレーナーさん!」

 

「ん? あぁダイヤか。今日は早いね」

 

私が挨拶すると彼は作業の手を止めてこちらへ振り返った。

そして私の姿を目にして微笑んでくれる。そんな彼の優しさに触れて嬉しくなりつつも私は笑顔のまま返事を返していく。

 

「はい! ちょっと早めに来てしまいました」

 

「なんだなんだ? いつもよりご機嫌じゃないか」

 

「ふふっわかりますか?」

 

私の表情から察したのか、彼が不思議そうに尋ねてくる。

そんな彼に得意げに笑いかけると、私は彼の元へ歩み寄っていった。

 

「実は私のこれまでの活躍を祝いたいと、両親がパーティーを開いてくれることになったんです」

 

「おぉ! それは凄いな!」

 

「それで今度の日曜日に開かれるんですけど是非トレーナーさんにも来てほしいなって思っていまして……どうでしょうか?」

 

「え、俺も?」

 

「はい、今の私があるのもトレーナーさんが居てこそですから」

 

私は満面の笑みでそう言うと、期待を込めた目でじっと見つめた。

すると彼は少し考えた後、なんだか照れくさそうに頬を撫でながら優しい口調で言葉を返してくれる。

 

「そこまで言われると流石に照れるけど……うん、でもせっかくだしお言葉に甘えて参加させて貰おうかな」

 

「本当ですか!?」

 

彼の言葉を聞いて私は飛び跳ねそうなほどの嬉しさで内心ではしゃぎつつ、心の中でずっと 「やったー!」と叫んでいる。彼もそんな私を見ては楽しそうに笑っている。

 

「それで、そのパーティーって具体的にはどんなことするんだ?」

 

「えぇっとですね……」

 

私はトレーナーさんの質問を受けてスマホを取り出しパーティーの詳細について調べ始めると数分と待たずにすぐにそのことが記載された画面が表示されたのでそれを彼に見せていく。

 

「ほらこれです、こんな感じみたいですよ」

 

「へえ、軽い食事会と……ダンスっ!?」

 

「あっそこは気にしないでください。あくまでも親睦を深めるための集まりみたいなものなので」

 

「あ、そうなのね。良かった……」

 

彼の反応を見る限り恐らくこういった場に慣れていないのだろう。

まあ無理もないと思う。今までずっと学園にいたわけだし、こういう社交的な催しに参加する機会もあまりなかったはずだ。

けど今こうしてホッとしてる彼の姿がつい可愛くてついニヤけそうになる。

 

「でもなんだかやっぱり緊張するな。こういう場は正直苦手だからさ」

 

「ふふっ大丈夫ですよ。トレーナーさんならすぐに馴染めると思いますし私もいますから」

 

「ありがとうダイヤ、頼りにしてるよ」

 

不安げな様子を見せる彼を安心させるように優しく声をかける。

すると彼はほっとしたような顔をして微笑んでくれた。でも、やっぱり緊張は隠しきれないみたいでさっきから何度も見せたスケジュールを見てはうんうんと唸っている。

 

「しかしダンス、ダンスかぁ……」

 

「何か気になることでもあるんですか?」

 

「いや、ダンスとかほぼ経験ないからちゃんと踊れるかどうか心配だなと思ってさ」

 

彼は恥ずかしそうに頭を掻きながら苦笑いを浮かべている。

確かに普段からデスクワークや私のトレーニングを見る彼はたくさん見るけどこうして踊る姿はあまり想像できないかもしれない。

そんな普段の彼とは全く違う一面が見られるかもしれないと思うとちょっと新鮮で楽しそうだなってワクワクする自分がいる。

 

「おっそうだ! いっそパーティーの途中で俺たち二人抜け出して誰も居ない場所で二人で踊ろうか、それなら誰にも見られないし!……ふふっなんてじょうだ……ダイヤ、近い近い」

 

「……いいかもしれませんねそれ」

 

私は真顔のまま彼に近づくと、そのままジリジリと詰め寄っていく。

そして至近距離まで近づくと目を輝かせながら彼に問いかけて彼の手を両手でしっかりと包み込むように握る。

 

「凄く素敵なアイデアだと思いますトレーナーさん! それ採用です!」

 

「ああ……ダイヤの変なスイッチが入っちゃった……」

 

「二人きりで踊るなんてロマンチックじゃないですか。是非やりましょう! ね? ね?」

 

「仮にもキミが主役のパーティーで俺たちが居なくなったらそれこそ問題だろう。それにまだやるとも言ってないし……」

 

「いえ、もう決定事項です! これは絶対に譲れません!」

 

「なんてワガママな……」

 

呆れた表情をする彼だが私はそんなのお構いなしにグイグイ迫っていった。

そんな私の様子に観念したのか彼はため息を吐きながらもどこか嬉しそうに微笑んでいる。

そしてそんなお互いの主張の攻防を繰り返しながら一気に賑やかになったトレーナー室で私たちの声が収まったのはそれからしばらく経ってからだった。

 

そしてやってきた待ちに待った日曜日、時刻は夕方前。

私は今日の日のために見繕ってもらったドレスに身を包んで準備を整えていた。

髪もセットしてもらっていて後は時間が来るのを待つだけだ。

今日は彼もいるからか気分が良く、私は鏡の前でクルッと回って自分の姿を眺める。

 

「うふふ、なんだかデートに行くみたいですね」

 

自分で口にした言葉に胸を躍らせてしまう。

もし本当に彼がパートナーになってくれるならどんなに幸せだろうか。

そんなことを考えれば自然と頬が緩み、一人幸せな気持ちになる。

 

でも今日のパーティーはあくまでお祝いの会。

せっかく私のためのお祝いならばその分私もしっかりしなければ、そう思いつつ時計を見ると約束の時間が迫っていたので慌てて部屋を出て会場へと向かう。

 

そして会場である大広間に入ると既に多くの招待客が集まっていた。

私の姿を見るなりみんな笑顔で歓迎してくれる。一人一人に私は挨拶を返しながら目的の彼を探すため辺りを見回しているとわりとすぐにその姿を見つけることが出来た。

 

「あっ……」

 

私が見つめる先にはタキシード姿の彼が立っていた。

まだこちらには気づいてないようで、壁際に立って他の参加者と話している。

普段とまた違うその姿を見ているだけで思わず立ち止まってしまいドキドキしてしまう。でも彼にいち早く会いたい欲求が勝ち、すぐさま私は早足で彼の元へと向かってその背中に声をかけた。

 

「トレーナーさん!」

 

「ん? おお、ダイヤ!」

 

私に気づいたトレーナーさんは振り向くなり嬉しそうな笑みを浮かべて私を迎えてくれる。その顔を見て私はますます頬が熱くなっていくのを感じた。

 

「えっと、どうでしょう。似合ってますか?」

 

「ああ、よく似合っているよ。とても綺麗だ」

 

「えへへ、ありがとうございます」

 

「てかやっぱり俺の方が場違いじゃないかこれ、正直不安だらけなんだけど」

 

「もう、そんなことありませんってば」

 

確かに普段タキシードなんて着慣れていないせいか少しだけ窮屈そうな様子を見せているけど、それはそれで新鮮な彼が見れたのはラッキーだったかもしれない。

 

「ほらほら、早く行きましょう」

 

「ちょっわかったから引っ張らないでくれ」

 

「ふふっごめんなさい」

 

「いや、キミが楽しいならそれが一番なんだけどさ」

 

その後私は彼の腕を取って私の方へと引き寄せる。

照れくさそうにするトレーナーさんの顔を見た後、私たちは揃って歩き出す。

 

隣りを歩くいつもより大人びた印象の彼についつい目を奪われそうになる。

今までにもう何度も経験したことのあるパーティーなのに、ただこうして彼がいてくれるだけでなんだか胸が高鳴っていくのが分かる。

自然と私はそわそわし始めていて、今にも走り出してしまいたいくらい心が弾んでいくのと同時に隠せない緊張感が体に伝わっていく。

 

「そうだトレーナーさん」

 

「ん?」

 

「もう少ししたらダンスの時間になりますけど、いつ抜け出しますか?」

 

「……まだ諦めてなかったのね」

 

「当然です。折角の機会なんですから」

 

「ははっでも駄目だよダイヤ。パーティーはまだ終わってないんだから最後までちゃんとやらなきゃ」

 

「むぅ……わかりました」

 

ちょっと不満げな様子を見せると彼は微笑を浮かべて一つ謝りを入れてくる。

そしてそのまま二人で話しながら歩いていくとやがて会場の中央付近へと辿り着く。

 

そこには大勢の人たちが集まっていてそれぞれ談笑したり料理を食べたりして時間を過ごしていくのを見ながら私たち二人は特に人が密集している私の両親の元へと歩み寄る。

するとまず最初にお母さまが私たちに気づいてくれて、少し遅れてお父さまもこちらへ笑顔を向けてくれた。私は彼にエスコートされながら一歩前に出て二人に向かってゆっくりと頭を下げてみせる。

 

「お父さま、お母さま。本日はお招きいただきましてありがとうございます。このような素敵なパーティーに参加させていただいたことに感謝しています」

 

「そう畏まらなくてもいいんだよダイヤ、今日はキミたちのためのお祝いなんだからね」

 

「はい! 精一杯楽しみます!」

 

私が元気に答えるとお父さまも嬉しそうに微笑み返してくれる。

そして次はトレーナーさんの番なのでそちらに視線を向けると彼は無言で軽く頷いた後、両親に向けて深く礼をしてから口を開く。

 

「ご無沙汰しております。今日は私たちのためにこんな素晴らしい場を開いてくださったことを感謝します」

 

「先ほどダイヤにも言いましたがそう畏まらないでくださいトレーナーさん。あなたにはいつも娘が世話になっているのですから、この程度はさせて頂かなければこちらも気が済みませんよ」

 

「いえ、そんなことは……」

 

「あなたが居なければサトノ家の悲願を達成できなかったかもしれません。本当にありがとうございます」

 

「それは、今までダイヤが俺を信じて頑張ってくれたおかげです。むしろ俺の方が彼女にお礼を言いたいくらいですよ」

 

「ははっそう言ってくれると私も助かりますよ。ご存じの通りうちの愛娘は少々頑固なところがありますから、何かご迷惑をかけていたらと思ってたのですが」

 

「迷惑だなんて全然、むしろもっとワガママを言ってほしいくらいです。彼女に頼られるのはダイヤのトレーナーとしても、俺個人としても一番嬉しいことですから」

 

そう言ってトレーナーさんは私に優しい眼差しを向けてくる。

 

「……トレーナーさん」

 

その瞳に見つめられるだけで私は幸せな気持ちでいっぱいになって、胸の奥が温かくなって自然と頬が緩んでしまう。

そしてそんな様子を見ていた両親もどこか満足気に微笑んでいた。

 

「うん、やはりあなたに任せたのは正解だったようだ。トレーナーさん、これからも私たちの愛娘をどうかよろしくお願いします」

 

「はい、必ずダイヤの期待に応えてみせます」

 

その言葉を聞いて両親は揃って嬉しそうな笑みを浮かべる。

その後しばらく三人で会話を続けていて両親と別れると、やがて会場の中心では楽団が演奏を始め、それに合わせるように参加者たちが手を取り合って踊り始めていく姿が見えてくる。

 

どうやら話しているうちにもうダンスの時間になっていたみたいだ。

その演奏を聞きながら私がちらっと彼の方を見ると彼は私の視線に気づき、優しく微笑んでくれた。

そのまま彼に手を差し出すと、彼も同じように握り返してきてお互いの指先を重ねて私たちは一緒に会場の中へと入っていきその輪に混ざっていく。

 

音楽に合わせて踊る人々の間を縫うようにして進みながら、時折周りから向けられる好奇の目線を感じつつも私たちは気にせずステップを踏み続ける。

苦手と言っていた通り彼も最初はぎこちなかった動きも次第に慣れていき、私たちはお互いの呼吸を合わせながらステージの中を舞っていくのだった。

 

 

そしてそんな素敵な時間はあっという間に終わりを告げ、先ほどまでパーティーにいた人たちもいなくなった夜も更けた頃。

空に浮かぶ満月と星の光に照らされた幻想的な空間の中で、私はトレーナーさんに呼ばれて会場外の噴水の綺麗な広場にやって来ていた

 

「改めてこんばんはダイヤ、急に呼び出してごめんね」

 

「いえ大丈夫です。でもこんな時間にどうしたんですか?」

 

「うん、キミとどうしてもやりたいことがあってさ」

 

お互いに向き合っている中、彼はそう言い終えると私の伸長に合わせるように少しかがんだ後、その右手を私に向けて差し伸べてこう言った。

 

「ダイヤ、どうか俺ともう一曲だけ踊ってくれないか?」

 

その一言を聞いた瞬間、思わず息をするのを忘れてしまうくらい心臓が大きく跳ね上がった。

そして私の答えを待つかのように黙ってこちらを見つめている彼を前にして私はどうにか言葉を絞り出そうとするけれど、なかなかうまく声が出てくれない。

するとトレーナーさんはその反応を見てか少し照れくさそうにクスッと笑い続けてこんなことを言ってくれた。

 

「えっとねダイヤ、キミがこのパーティーに俺を誘ってくれた時に言っただろう? パーティーを抜け出して二人きりで踊るなんてロマンチックですねって」

 

確かにあのとき私はそう言った。ちゃんと覚えてるし間違いない。

でも、今日一度 「いつ抜け出しますか」って聞いたけど彼は断ったはずだ。

私もそれが最後のお願いとしての発言だったから、断られて残念に思ったけどちゃんとその後のダンスだって踊ってくれたしそれで私自身もう十分に満足していた。

 

「流石にパーティーを抜け出すのは俺とキミ、二人の立場上できないけどさ。でもこうしてパーティーがもう終わった後なら、二人きりでロマンチックに踊るっていう部分の約束は果たせるだろう?」

 

そこで彼は一端言葉を切るともう一度私の方へ手をさし伸ばす。

ああ、今もずっと胸がドキドキして彼から視線が外せない。

このまま時間が止まってしまうんじゃないだろうかと思うぐらい今の状況はとても幸せすぎて、まるで夢の中にいるような気分だった。

 

そんなことを思いながらも私が返事を決めかねていると、不意にトレーナーさんが真剣な眼差しをしながらこちらを見据えてきた。

 

「なあダイヤ。もうあの場のパーティーの賑わいも、素敵な演奏の音楽もない。この場にいるのは俺たち二人だけ、雰囲気としては少し寂しすぎるくらいだけど……」

 

──どうか俺と一緒に踊っていただけませんか?

 

「……はい。喜んでお受けいたします」

 

その言葉で私は心が一気に高鳴るのを感じると次の瞬間には自然と口角が上がり、うっすらと嬉し涙を浮かべながら微笑んだ。

 

それはきっと彼のことが好きだから。

そして何より今の自分にとってはどんな誘いよりも魅力的な言葉だからなんだと思う。

私はその手を掴むべくそっと自分の左手を伸ばすと、彼もまたしっかりと私の手を取ってくれた。そしてそのまま引き寄せられるように私たちは近付いていき、まるで先ほどまでの音楽がまだここに残っているかのようにそのまま静かに踊り始めていく。

 

先ほどまでのパーティー会場で皆と楽しく踊ったのとは違う。

綺麗に洗練された美しい踊りではなく、途中途中でリズムやステップを間違えながらどこかぎこちない動きで互いにぶつかり合ってしまいそうになることも多々あったけれど、それでもそんなこと関係なしに彼と繋がっている手が温かくて、触れ合っている箇所からは鼓動が伝わってくる。

 

まるで世界には私とあなたしか存在しないみたいだと錯覚してしまいそうになるくらい、私たち以外の全ての音が遠ざかり聞こえなくなっていく。

ただひたすらお互いのことだけ見つめて私は手を引いてもらいリードされるようにして踊り続ける。

彼の瞳に見つめられている間、私は恥ずかしさと嬉しさが溢れかえったような、そんな幸せでたまらない不思議な感情を抱きつつずっと彼のことばかり考えていた。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

「何、ダイヤ」

 

「これからもどうかダイヤの手を、ずっと取っていてくださいね」

 

「当たり前だ。キミが俺のことを嫌だと言わない限り、俺はキミのことをずっと手放す気はないよ」

 

その言葉にまた私の心臓は大きく跳ね上がり、同時にとても幸せな気持ちに包まれていく。

思わずこのドキドキに意識を取られてステップを踏む足が乱れてしまいそうになったけど、それでも彼はそんな私をしっかりと手を取って支えてくれた。

どんなときでも、こうしていつだって支えてくれる彼の手が、私は大好きなんだなって改めて思う。

本当に素敵な人と巡り会えたと、彼との出会いに感謝して再び彼のリードに身を任せていく。

 

そうしてそんな自分が想像していた以上にロマンチックな素敵な時間はすぐに終わりを迎えてしまい、やがてダンスを終えた私たちは微笑み合いながらその場に佇んで、一息をついた次の瞬間にまたお互いほぼ同時に笑い合ってその日が過ぎていくのだった。

 

 

そんな夢のような時間を過ごした次の日のこと。

いつものトレーナー室で、一緒にソファーに座りながら私は昨夜の出来事をトレーナーさんと一緒に思い返していた。

 

「これ見てくださいトレーナーさん、お父さまがあの時の写真を撮ってくれてたんです!」

 

「ははっ凄いな。全然気が付かなかったよ」

 

「ふふっでもこうしてあのときの時間が形に残るなんて私嬉しいです」

 

「それは俺も同じだよ」

 

私はスマホのアルバムの中からその写真をタップして表示させると、トレーナーさんにも見えるようにその画面を差し出した。

 

そこにはパーティー会場の中で楽しそうに笑い合う私たちの姿や、少し緊張した面持ちでダンスを踊る彼の姿など、色んな思い出の写真が映し出されている。その一枚一枚に映っている私とトレーナーさんの姿を見ているとどれも素敵だった時間を思い出し自然と笑みがこぼれてしまう。

 

「どれも綺麗に撮れてて嬉しいけど、撮られてるなんて知らなかったから恥ずかしいなやっぱ」

 

「……ふふっ実はとっておきの写真がまだあるんですよ!」

 

「とっておき?」

 

私は照れくさそうな表情を浮かべる彼にクスッと笑うと、私は画面を操作してそのとっておきの写真を彼へと見せる。

 

するとそこに写っていたのはタキシード姿でカッコよく決めた彼と、そんな彼に手を引かれながら踊るドレスを着た私の姿。

けれどさっきまでの写真たちと違うのはその二人のいる場所だ。

この私たちが写っている場所はあのとき二人きりで踊った会場外の噴水前の広場で撮られたものだった。

 

「……まじか、あれ見られてたのか……うわぁ……」

 

彼はそれを目にするなり顔を真っ赤にして俯いてしまった。

どうやら相当恥ずかしかったらしく、そんな様子が可愛くて思わず私はくすっと笑ってしまう。でも彼には悪いけど、あのときの写真があるなんて思わなかった私にとってはもうこの写真はすでにお気に入りの一枚に加わっている。

 

「お母さまもお父さまもとても喜んでくれて、この時のダイヤが一番綺麗で素敵だったよって言ってくれたんです!」

 

「……そうだよな、うん。自分の愛娘が大好きなキミのご両親がダイヤをあの場で一人きりになんてするはずないよな。えっそれじゃあ、俺相当まずいことしたんじゃ……」

 

「えへへ……でもあの時本当に嬉しかったですよ? あんな素敵な場所であなたと二人っきりになれたこと」

 

「……そっか。なら俺も頑張って誘った甲斐があったってところかな」

 

そう言うと彼は苦笑交じりに私の頭を優しく撫でてくれる。

それが心地良くて私は目を細めながらその感触に身を委ねていく。

 

──ああ、やっぱり私はこの人が好きなんだな。

 

あのときのようにロマンチックに誘われるのも素敵だけど、けれどいつもと同じように変わらずこんな風に自然と心の底から幸せを感じさせてくれる。

 

そんな彼が、私は好き。

だから、これからもずっと一緒にいたいと何度も繰り返して思うの。

 

「ふふっではトレーナーさん、次はいつ一緒に踊りますか? あっまたパーティーがあるときもちゃんとお誘いしますから楽しみにしててくださいね!」

 

「えっあれ一回きりじゃないの!?」

 

「当然です。一回だけじゃ私満足できません! それにお父さまたちにもトレーナーさん言ったじゃないですか、もっとワガママを言ってほしいと。だからダイヤのワガママを聞いてください!」

 

「確かに言ったけど、それとこれとはちょっと違うんじゃないかな!?」

 

「お願いしますトレーナーさん、それにもうトレーナーさんの新しいタキシードだって用意済みですよ!」

 

「ええ……今日のダイヤはなんだかいつも以上にグイグイくるね」

 

困ったような笑顔を浮かべながらもどこか楽しそうにしている彼の様子に私はまた小さく笑ってしまう。こうしているだけで楽しい時間が過ぎることがたまらなく幸せなのだと、私は改めて思った。

 

グイグイくる? だってそんなの仕方がないじゃないですか。

私はあなたのことが大好きで、その気持ちは収まるどころか溢れてきちゃうんだもの。

これからもたくさん、いろんなことを二人で経験していきたい。

そうして今日も、明日も、明後日も、その先も。ずっとずっと一緒に。

いつまでも彼と一緒の時間を過ごしていきたいという願いを胸に抱きながら、私はまた彼の手をぎゅっと握ってお願いを繰り返すのだった。

 



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私にとって大好きな特別な名前『サトノダイヤモンド』

ある日のトレーニングの時間。

今日は私以外にもキタサンブラックも一緒にトレーニングをすることになっていた。

久しぶりの一緒での練習だから私は少し楽しみにしていて、練習中にもかかわらず会話に夢中になっていてトレーナーさんから「ははっ。嬉しいのは分かるけど集中しないと危ないぞ?」なんて注意を受けて少し恥ずかしい気分になったけれど、そんな時間も楽しくて。

そんな感じに楽しい時間を過ごしているとあっという間に時間は過ぎて行き、気づけばもう辺りは夕暮れになってきて、キタちゃんがお別れの言葉を口にしていく、

 

「もうこんな時間かぁ……そろそろ戻らないとね」

 

「それじゃあキタちゃん、また一緒に練習しようね!」

 

「もちろん! ダイヤちゃんもしっかり休んでね?」

 

「うん! お疲れ様!」

 

そう言って私達は別れを告げて私もシャワーや着替えを済ませて彼の待つトレーナー室へ。

扉を開ければ少し微笑んで私を出迎えて来てくれる彼に、私もつられて笑みを浮かべながらその隣に移動して言葉を返す。

 

「お待たせしました! 今日もありがとうございます、トレーナーさん」

 

「うん、おつかれ。どうだった? 今日の練習。久しぶりにキタサンブラックとの合同練習だったけどさ」

 

「はい! すっごく楽しかったです! 久々に一緒に走れたのもあってつい張り切っちゃいました♪」

 

「そりゃ良かったよ。俺としてもダイヤが頑張ってくれてるのを見ていて嬉しい限りだな」

 

「本当ですか!? ふふっ……それはとても嬉しいです!」

 

本当に嬉しかったけどそれを表情に出しすぎるわけにもいかないので何とか抑えてもやっぱり隠しきれる訳もなく、彼からもバレてしまったようで 「素直なのは良いことだけどな」って言われちゃったけど、その後私の頭の上にポンっと手を置いて撫でてきてくれてことには思わず頬が緩んじゃう。

 

「えへへ……」

 

そのまま撫で続けられること数分、彼は撫でる手をどけると同時に口を開く。

 

「うん、それじゃあ後は自由にしてて良いよ。寮に戻って休むも良し、明日の準備をしてもよし、自主トレもまあ……少しくらいなら良し」

 

「でしたらもう少しここにいます! もっと一緒に居たいので」

 

「そっか、分かったよ」

 

「はいっ!」

 

そこからは彼と色んなお話をする。

最近の学園生活の話、友達関係について。それからトレーニングメニューに関して、これから先のレースについての予定など色々な話題を出して話すけれどどれもこれも楽しいもので、この時間がずっと続けばいいなって思うほどに幸せを感じた時間を過ごした。

 

「それでキタちゃんったら……」

 

「ははっ、キタサンもだけどキミも相変わらずだなぁ」

 

「もう、笑わないでくださいよ~!」

 

「悪い悪い、ほら拗ねるなって」

 

楽しそうな声が部屋の中に響き渡り、彼が笑う度に私の顔には熱が集まっていくけれどそれが不思議と心地よく感じる。

だってこうして笑いかけてくれるだけで私はそれだけで心が暖かくなって満ち足りた気分になるから。

 

「あっそうだ。ダイヤちゃん」

 

「……へっ?」

 

けれど今日はちょっとだけ違っていて。

私との会話の中で自分も思わずつられてしまったのか分からないけど、普段なら呼び捨てで呼んでくるはずの彼が突然私のことを名前ではなくて、ちゃん付けで呼んできた。

 

「あっいやまってダイヤ。ごめん間違えた! 忘れてくれ」

 

「……ふふっ、嫌です♪」

 

慌てて取り消そうとする彼の姿が面白くてわざとらしく笑顔を浮かべて意地悪を、というよりは珍しいちゃん付けで名前を呼ばれたことが凄く嬉しいのと、なんだか気恥ずかしくてそれを誤魔化すようにして笑って見つめ返す。

 

「それよりトレーナーさん。もう1回! もう1回私のことダイヤちゃんって言ってくれませんか? お願いします!」

 

「ちょっ、顔近いから。それにさっきも言った通りもうしないからな?」

 

「ダメです〜! ねっ、1回だけですよ?」

 

「だ〜から、近いって!」

 

ぐいっと顔を近づけると困ったような笑みを浮かべて目を逸らすその仕草が何だか可愛らしい。

 

「むぅ、何でそんなに渋るんですか」

 

「いや別にそういうわけじゃないんだけど……」

 

「それじゃあなんでですか?」

 

「いや、単純になんか。……1回呼び間違えたのをまたやるっていうのがちょっと恥ずかしかっただけなんだけどさ」

 

「そんなに気にすることないと思うんですけどね?……私としてはむしろ嬉しいくらいなので」

 

最後の方は小声で彼に聞こえるかどうかの声量でつぶやくと彼の耳にもしっかりと届いたようで驚いた様子でこちらを見てきた。

 

「まあ、そんなにちゃん付け呼びにグイグイくるとは正直思わなかった。むしろなんで?」

 

「いつもとまた違う私の呼び方にちょっと嬉しくなっちゃって。これあれですよね、推しの激レアボイスきたー!ってやつですよね?」

 

「……なあ、それ誰からそんなこと教わった?」

 

「えっ? アグネスデジタルさんがよくこんなことを言ってたので私てっきり今使うべき言葉だと思って……」

 

「そっかあの子か~。うん、なら仕方ないな」

 

彼は何だか少し諦めたようにため息を吐きながら天井へと目を向けると何かを考え込み始めていく。

 

「……さっきのことそのままうやむやにしちゃ、嫌ですよ?」

 

「あっ、バレた?」

 

「ふふっ、バレバレです。ですから早く早く♪」

 

急かす様にそう言うと彼は再び苦笑しながらも小さく呟くように私の名前を呼ぶと、途端に私は嬉しさのあまりついつい彼の腕を手に取ってしまう。

 

「ダイヤ、痛い」

 

「ダイヤじゃなくて、ダイヤちゃんです!」

 

「……はいはい、わかった降参。もう変な意地張ってもしょうがないし、ダイヤも諦める気なさそうだしな」

 

「はい! 流石私のトレーナーさんですね。……あとそれと」

 

「ごめんて、分かってるよダイヤちゃん」

 

「ふふっ、はいっ♪」

 

「……地味に恥ずかしいな、これ」

 

彼は照れくさそうな表情を浮かべながらも優しく微笑んでくれて。その表情を見るだけで私は心がぽわっと暖かくなって幸せで満たされるのを感じた。

 

そしてその後は暫くの間お互いに何も言わずただ静かに時を過ごす。

静かな空間でお互いの呼吸の音だけが響く中、沈黙が続くけれど決してそれが不快だとかそういった感情は湧かずに、心地の良い時間が流れる。

 

「……ずっとこのまま時間が過ぎればいいのに」

 

ただ純粋にそう思った。

きっと彼といるときが一番私が私らしく過ごせるんだろうなって。彼と居ればどんなことでも頑張れる気がする。

今回の名前の呼び方もその中の1つ。彼との距離が縮まったみたいでとても嬉しかった。

 

「……さっきからずっと黙ってるけど、どうした?」

 

「いえ、なんでもありません。ただちょっとあなたを見ていたかっただけですから」

 

「はは、なんだそりゃ?」

 

「ふふっ、さあ? なんでしょうね」

 

……もっと距離を縮められたら良いのに。

なんて思ってしまっている自分に気づいてしまって頬が熱くなるのを感じる。

 

「それじゃあトレーナーさん。そろそろ帰りますね」

 

「ああ、気をつけてな」

 

「はい。また明日、よろしくお願いします」

 

 

 

軽く挨拶を交わした後、私はその場を後にして寮に戻ることにした。

部屋を出て、扉の鍵を締めてから廊下を歩く最中、私は先程まで一緒に過ごしていた彼の姿を思い浮かべながら自室に戻るとそのままベッドに倒れ込む。

 

「……はぁ」

 

さっきまでは全然気にしてなかったけど、冷静になってみると自分の行動に思わず赤面してしまいそうになる。

 

子供っぽいなんて思われただろうか?

それとも単に揶揄われただけだったりするんだろうか?

 

「……でもまだ、ドキドキしてる」

 

胸に手を当てればバクバクと心臓が強く鼓動を打っていて、彼の姿を想像すればさらに脈拍は上がっていく。

 

ああだこうだ我が儘みたいなこと言ってるけれど、結局のところは分からないのだ。

どうしたら良いのかなんて。

彼のことは勿論好き、当然異性として。

でも何をしたら意識してくれるのか、距離感って一体どういうものが適切なのか。

 

「そもそも私の気持ちが彼に伝わってるかどうか……」

 

もしかしたら彼にとって私のそれはあくまでも担当バという関係でしかなくて、それ以上には見られてない可能性だって……。

 

「あぁもう、だめ! 考えるの止め!」

 

考えたところで答えが出ないことに悩んでいても意味がない。

そう結論づけて無理やり思考を打ち切る。

 

「それにしても今日はいい日だったな〜。……えへへ、ダイヤちゃんって呼ばれちゃいました♪」

 

枕に顔を埋めてニヤけてしまう口元を隠しながらそんなことをつぶやく。

別にいつもみんなから呼ばれてるようなことだけど、彼からのいつもと違う呼ばれ方っていうだけでそれが何だか特別に感じた。

 

「いつものダイヤって呼ぶのも良いけど、ダイヤちゃんって呼ばれるのも良いなぁ~。……えへへ」

 

なんて、そんなことをぼやきながら私は眠りについた。

けれどちょっとワクワクの方が強かったからかなんだか上手く寝付けなくて、次の日の朝起きると何だか少しだけ寝不足なような、そんな感覚に囚われるのであった。

 

 

 

そして、まだまだ眠気の残る朝。

今日は少し朝練をやるために待ち合わせをしていたのでいつもよりも早めに起きてグラウンドに行き、先について準備をしてくれている彼の元へ向かう。

 

「おはよう、ダイヤ」

 

「ふぁ……おはようございます、とれーなーさん」

 

「おいおい、大丈夫か? なんか目がとろんとしてるぞ?」

 

「だい、じょーぶです。大丈夫ですよ、うん」

 

「……ははっ、今のキミのどこが大丈夫なんだか」

 

欠伸を堪えつつもなんとか返事を返せば彼は小さく笑みを浮かべる。

 

「今日はトレーニングやめとくか?」

 

「だっダメです! 絶対やります!」

 

「……分かった。まあ、そこまでやる気なら構わないけど。とりあえず柔軟体操から始めようか」

 

「はい! 分かりました」

 

彼の言葉に従ってまずは入念にストレッチを行ってだんだんとトレーニングを始めていくけれど、寝不足のせいなのか普段通りに体が動いてくれない。

 

「……あっあれ!?」

 

「ダイヤっ!?」

 

結果、走っている最中に盛大に転んでしまい慌てて彼が駆け寄ってくる。

 

「いたた……」

 

「怪我はないか、ダイヤ?」

 

「はい、平気です。すみません、心配かけてしまって」

 

「謝らなくて良いよ。でもまあ流石に今日はもう中止、保健室連れてくから怪我がないかちゃんと診てもらうこと。良いな?」

 

「……はい」

 

そうして開始早々トレーニングが中断することになって保健室へ行くと、ベッドで横になっている私を見て彼は苦笑いを浮かべる。

幸いにも打撲や捻挫などの外傷は特に無く、念の為ベッドを借りて休むことになった。

 

「ごめんなさい、私のせいで予定変更させてしまって……」

 

「だから、謝らないでってば。それを言ったら俺だって練習許可したんだから同罪だよ」

 

「ふふっ、ありがとうございます」

 

申し訳なさそうな顔をしていたからか、彼は優しい声音でそう言ってくれる。

その優しさが嬉しくもあり、そしてどこか心苦しくて複雑な気持ちになってしまう。

 

「……昨日は眠れなかったのか?」

 

「あはは、恥ずかしながら実はちょっとだけ……」

 

「そっか。……まあ、たまにはそういうこともあるさ」

 

そんな理由に少しだけホッとしたのかいつもより優しげな彼の視線に思わずしゅんとなる。

でもまさかあなたのことを想像してたらなかなか眠れませんでした。

なんて言えるわけもなくて、私はただ黙り込んでしまった。

 

「……」

 

「……ダイヤ?」

 

何も喋らずにいると彼が不思議に思ったのか声を掛けてくるけど今の私の耳には入らずそのまま黙ってしまっていて。

 

「ダイヤ……おーい、ダイヤ〜?」

 

「……ひゃうっ!? す、すみません! ちょっとボーッとしちゃって」

 

「……ははっ、なんだそりゃ」

 

何度か呼びかけられたことでやっと気づいた私の慌てぶりに彼はおかしそうに笑うそんな彼の様子に、ちょっと不満げに頬を膨らませながらジト目を向けるとさらに楽しそうに笑っていて。

 

「ま、この話はもうこれくらいにしてさ。時間も空いたことだしせっかくなら少し話そうよ」

 

「ふふっ……ええ、とっても良いですね。何を話しましょうか」

 

「そうだな〜。……あっ、そう言えばサラッと忘れてたけど俺キミのことダイヤちゃんって呼ばないといけないんだっけ」

 

思い出したように言う彼につい、ぽかんと固まってしまうが同時に昨日の夜を思い出して途端に顔が熱くなっていくのを感じる。

けれど単純に軽い話題を出したつもりなのに顔を赤らめている私の姿を不思議に思ったのか彼は首をかしげながら続けて言った。

 

「……どうした? なんか顔赤くなってるけど」

 

「……えっと、いえ。その……」

 

「なんだなんだ? そういつも俺にはグイグイくるキミが、そんなに隠すなんてちょっと気になるじゃんか」

 

「……な、内緒です」

 

けれど言えない。

あなたに呼ばれたダイヤちゃん呼びがすごく嬉しかったなんて子供っぽい理由なんて。

ベッドの毛布で顔を半分ほど隠しながら彼の様子を伺えば、クスクスと隠しきれない笑い声をあげながら楽しそうにこちらを見ながら言う。

 

「ごめんごめん。流石にからかい過ぎたかな」

 

「もう……意地悪です、トレーナーさんは」

 

ちょっとだけ拗ねたような態度をすれば、今度は彼の方が少し困ったような表情を浮かべて少しばかりの沈黙が訪れた。

その間私の思考の中にはこの時間が楽しくて仕方ないって気持ちと、やっぱり彼は私のことを担当バとしてしか見てくれないのかなっていう、ほんの少しの不安が渦巻いていた。

 

「……本当は、呼び方は何でも良いんです。ダイヤでも、ダイヤちゃんでも」

 

そんな不安が拭いきれなかったからか、ふと気がつけばポツリと言葉が漏れていた。

突然の言葉に驚いたのか彼は少し困惑しているようだったけれど私はもはや自分の意志とは関係なく口から言葉が漏れていく。

 

「別に私、呼び方で誰かを区別するつもりはないですし、勿論いつものダイヤって呼び方が嫌なわけじゃないんです」

 

「……」

 

「えっと、なんというか上手く言えませんが、他の人よりもあなたが私の名前をただ呼んでくれる。たったそれだけのことですが、でもそれが凄く特別な感じがして良いなって思っちゃって……」

 

そう、特別に思えたのだ。

いつもみんなからダイヤちゃんと呼ばれる時とは、どこか違う。

きっと大好きなあなたに呼ばれるから、その呼び方にどこか心地よい気分になった。

普段とはまた違う呼び方に、胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。

 

そんな思いを口にしていればいつの間にか毛布から出した自分の顔はさらに真っ赤になっていて、私を見つめる彼も同じように私の気のせいじゃなければ頬を赤らめてどこか照れくさそうに笑みを浮かべて頬を掻いているように見えた。

 

「……ダイヤは、さ」

 

しばらくお互い見つめ合ったままの状態でいるとやがて彼は小さな声で言葉を紡ぎ始めた。

 

「そんなに、その……何て言うの? 俺に名前を呼ばれて嬉しいって普段から思ってくれたのか?」

 

「……っ!……はい、とっても」

 

「……そっか」

 

小さく呟いたあと彼は恥ずかしそうにしながらもしっかりと私の瞳から視線を逸らすことなく真っ直ぐに見つめて離さない。

その様子にドキドキが止まらなくて。心臓の音だって今にも彼に聞こえるんじゃないかと思うくらいうるさく鳴っていた。

 

そんな風に私が緊張していることにもお構いなしなのか、それとも気づいていないのか分からないけれど、彼の言葉は続いていく。

 

「正直言うとね、俺はダイヤでもダイヤちゃん呼びでもどっちでも良いんだよ」

 

「……えっ?」

 

それは予想だにしていなかったことで、私は呆然としながら彼の話を聞いていった。

 

「なんていうかさ。別に呼び方が変わったところで俺とダイヤの関係が変わるわけじゃないんだし」

 

「……」

 

関係は変わらない。

それは彼にとって私はあくまでも担当ウマ娘であり、それ以上でも以下でもないと。

そういうことなんだろうか。

 

私はこんなにもあなたとどうしたらもっと親密になれるのか悩んでいるのに、当の本人は何も変わらず、私のことはただの担当バとしか思ってくれないのかもしれないなんて、そんな考えが頭を過ってしまって止まらない。

 

「トレーナーさんは……あなたは、私のことをただの担当としか見てくれないんですか?」

 

ズキリと痛む胸に私は顔を歪めそうになるのをグッと抑えてなんとか言葉を口にする。

 

「私は、私は……あなたと、もっと……」

 

すると、そんな姿を見た彼は苦笑いをこぼしたあと優しく微笑んで言う。

そのときの声音はまるで私のことを安心させるように、そして包み込むような優しい笑顔と一緒に。

 

「違うよダイヤ、そうじゃないんだ」

 

「っ!……じゃあ、どういう……ことですか……?」

 

震えるような声が喉から溢れた。

不安で押し潰されそうで、怖くて。

思わず彼に手を伸ばしてギュッと掴んだけれど彼の手は振り払われることは無くむしろその逆、代わりに力強く握り返されたと思えばさらにもう片方の手も重ねられる。

 

「ダイヤ」

 

その一言と共に私の顔を上げさせれば、彼は真剣な眼差しで言った。

 

「今のその顔を見ると多分誤解させたみたいだけど、これだけはハッキリ言うね?……俺にとって、キミはとても大切な存在だよ」

 

「……じゃあ、そのあなたの言う大切っていうのは……どう言った意味の……」

 

恐る恐る尋ねてみると、今度は少しばかり照れたような顔で小さく笑って彼は言う。

 

「うん、俺は担当とかそういうのを抜きにして。ダイヤのことは1人の女性として素敵な子だと思ってるし、なんならこうして一緒に居るのが楽しくて仕方がないんだ」

 

その言葉で私の胸にあった痛みがスゥっと消えていくような感覚を覚える。

彼の言葉が嬉しくて、幸せで堪らなかった。

 

「相手の呼び方って言うのは勿論その一つ一つに関係性を表したりもして大事だと思うんだけどさ。でも、少なくとも俺はダイヤとそのくらいで距離感が変わるような信頼関係を結んでいないって思ってる」

 

だから、さ。

と付け加えて彼はもう一度、ダイヤっていつもと変わらない優しい声で私の名前を呼んだ。

 

「仮にどちらかを選べっていうのなら俺は、ダイヤって今まで通りの名前で呼びたいかな。これからもずっとね」

 

それが彼なりの私との関係性への想いなんだと、伝わってくるようだった。

呼び方を変えたら彼との距離が縮まるんじゃないかって私は思ってたけど、彼からしたらそうじゃなくて。

そんなこと必要ないくらい、もうすでに私たちは確かな絆で結ばれているんだと。

それを分かってくれたことが嬉しかった。

 

「正直答えとして合ってるかは不安だけど……。まあ、今俺が言える言葉としてはそれくらいかな」

 

「えへへ、ありがとうございます」

 

お互いに目を見合わせて、笑い合う。

きっとこれが私の求めていた答えだったに違いない。

呼び名で私たちの関係性が変わることは無い。

例えどんな風に呼ばれようとも、私の大好きなあなたから向けられたその気持ちに嘘偽りなんてことは絶対に無い。

そう確信出来たから、私はこれ以上に幸せなことはない。

だからこそ、あなたがいつも呼んでくれる私の名前が特別なんだと改めて思わせてくれるから。

 

「……ねえ、トレーナーさん」

 

「なに、ダイヤ?」

 

「あなたはさっき、私のこと素敵な女性だと思ってくれてるって言いましたよね?」

 

そう言えば彼は照れくさそうに頬を掻きながら視線を逸らす。

そんな彼の姿が面白くて可愛くってついクスリと笑みをこぼして私は言う。

私だってあなたのことを心の底から素敵だと、そう思って仕方ないから。

 

「じゃあ……私がもっと努力して、自分を磨いて。今よりもずっと素敵な女性に近づけたときは……」

 

まるで時間が止まったかのように錯覚してしまうように感じる、

けれどちゃんと時間は進んでいっていることを教えてくれているのは、トクントクンと早鐘を打つ心臓の音だけ。

そんな静かな部屋の中で私は、世界で1番大好きで愛おしいあなたの名前を呼んで言葉を紡ぐ。

 

「そのときは、私と……」

 

今もずっと溢れ出てくるように止まらないこの胸に秘めたこの気持ちが、自然と言葉という1つの形を成して大好きなあなたへと伝わるように。

私からあなたへ、精一杯の想いを込めるように告げた。

 

そして、返ってくる返事は。

ただただ嬉しそうに優しく笑うあなたの笑顔と、繋いだ手を通して伝わる温もり。

たったそれだけで私は十分過ぎるほど満たされて、とびきり幸せな気持ちが溢れて包まれていく。

 

 



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グラスワンダー
トレーナーと一緒に花屋へお出かけするグラスワンダー


丁度いい日差しが当たりお出かけをするには絶好の日。

ここトレセン近くの商店街では周りにいる人たちは今日も賑やかに活気だっている。そんな光景を見て和みつつ慣れた足取りで人込みをスラスラと通り抜けて歩くと、そこでは自分を待ってくれているトレーナーの姿が見え彼もこちらに気づいたのか傍へと駆け寄ってくる。

 

「お待たせしましたトレーナーさん」

 

「全然待ってないよグラス。でも予定時間より少し早いね」

 

「はい、今日が楽しみで少し早く来すぎてしまいました」

 

「なら俺もそうだよ。早く来すぎたと思ったくらいなのになんか似た者同士だな俺たち」

 

「まあ!」

 

今日は待ちに待った彼とのお出かけの日、中々2人の時間が合わずやっとできた一緒の休日が楽しみで少し早く来てしまったが彼も同じ思いだということを知りゆらゆらと尻尾が揺れる。お互い考えてたことが同じなことに彼も私も少し照れくさそうに笑ってる。 だがいつまでもこうしているわけにもいかない。

 

「さて、今日は花屋に行く予定だけど時間に余裕もあることだし少し寄り道しながら行ってもいいかな?」

 

「分かりました。ではどちらへ向かいましょうか」

 

「とりあえず花屋の方面へ向かいつつ、気になった場所があれば立ち寄ってみようか」

 

彼の提案に頷くと差し伸べられた手を握り歩を進める。今だ手をつなぐという行為にドギマギするものの視線を上げて笑って引っ張ってくれる彼の横顔を見ればどんな時だろうと心は安らぎ、ほのぼのとした安心感に包まれる。

それから巡る道中も新しくできた場所に目を輝かせたり、景色を堪能したり、はてはちょっとふざけて彼をからかってみたり雑談に花を咲かせ道を行く。

 

「お? あそこ見てみなよグラス」

 

時間を忘れ歩きしばらくすれば彼は何か見つけたのか足取りが止まり、肩をトントンとつつかれてそちらを振り向けば目の前にアイスクリーム屋が目に入った。

 

「ずっと歩き続きだし休憩がてらアイス食べて行かない?」

 

「ふふっそうですね。ではお言葉に甘えて休憩にしましょうか」

 

「よし決まりだな、グラスはどの味にする?」

 

なんだか彼がアイスにはしゃぐ様子に思わず笑ってしまう。

いらっしゃいませと元気な店員さんの声を聞きながら豊富な種類のアイスを2人そろってあれも美味しそう、これも良いな、なんてたっぷり悩みながら結局無難にバニラとチョコを購入しテーブルをはさんで向かい合って食べ始めていく。

 

「美味しいですねトレーナーさん。甘すぎず重すぎず、程よいバランスですっと口の中でとろけて絶品です。もしここにスぺちゃんたちがいたらきっと目を輝かせていましたよ」

 

「そこですぐスペシャルウィークたちが浮かんでくるのはなんというか、グラスらしいね。いつも友人思いで感心するよ」

 

一瞬呆けた顔をした彼は、すぐに顔をほころばせて嬉しくも楽しそうに笑う。

 

「鯛も一人はうまからず。どんなご馳走も一人で食べたのでは味気なく、誰かと一緒に食べるからこそより美味しく感じるんですよ」

 

「なるほど、確かにみんなで食べたほうが美味いもんな」

 

楽しそうに微笑んでくれたのが嬉しくて、指を立て少々声色高くそう返せば彼も笑ってくれる。

 

「なら今度スペシャルウィークたちもここに連れてきたら良い。きっと大はしゃぎして喜んでくれるよ」

 

「では食べすぎちゃわない様に気にかけてあげないといけませんね。みんなたくさん食べますから」

 

「簡単にその光景が目に浮かぶよ。でもグラスが傍いてくれるなら安心だな。うん、アイスも美味しかった。ごちそうさま」

 

「はい、ごちそうさまでした」

 

そう言い終えると溶けかかったアイスを食べ終えて私はゴミの片づけを、彼は少し伸びをしてリラックスしている。本当に美味しかったのでまた来よう。次はスぺちゃんたちと、そしてまた彼と。ただ、また次一緒にお出かけを誘うのが一番難しかったりするのだが。

 

「……結構日差しが強くなってきたな」

 

そんなもう次の機会のことを想像していたら少し空を見て頭を悩めてる彼の姿につられて空を眺めてみると先程までの丁度いい温かさと比べ今は少し暑いくらいだ。さっきまでのやりとりに浮かれて忘れていた、あっという間にもう日が経ってしまったらしい。

 

「帽子の一つでももってくれば良かったか。ごめんなグラス、暑さ大丈夫か?」

 

「ええ、アイスも頂きましたしお気になさらずとも大丈夫ですよ。それにこれくらいの暑さならへっちゃらです!」

 

「レースと今じゃ状況が違うだろう。……うん、流石に今日は難しいけど次出かけるときは日差し防止にグラスの帽子を買いに行こうか」

 

そのとき良いことを閃いたと笑ってそんな提案をしてくるが、思わず彼から視線をそらして掌で顔を隠してしまう。

 

「グラス?」

 

別に嫌なわけではない、むしろ凄く嬉しいし魅力的だ。だって今さっき私が次はどうやって自然に誘おうかと悩んでいたのに、偶然にしても彼から次の機会を誘ってくれたのがあまりにも嬉しくて真っ赤になってる自分の顔を見せれないだけ。

こんなに取り乱した姿を見せるのは少し恥ずかしい。整えるためにあと3秒、いや5秒時間が欲しい。ただいつまで経っても頬のゆるみが直らないので軽くぺしぺしと叩いて活を入れる。

 

「すみませんトレーナーさん。少し取り乱してしまいました。勿論次回のお出かけも楽しみにしてますね」

 

「凄い良い笑顔だなグラス、こりゃあ頑張って良い場所ないか調べておかないと。まあでもそれは後に考えるとして、十分に休憩も取れたことだしこれ以上日が強くならないうちに花屋へ行こうか」

 

「はい、では参りましょうか」

 

次の楽しみが増えて気分は最高潮、ご機嫌なまま再び手を繋いで今日の目的地である花屋へと移動する。元々その方面へと歩いていたこともあり数分たらずでたどり着いた。

 

色とりどりに咲く花、またはこれから育つ苗、花々から漂う香り、あまりこういう場所には訪れないのか目をキョロキョロと動かし落ち着きのない彼の姿に笑みが零れる。

 

「トレーナーさん、そんなに慌てていると花も驚きますよ。落ち着いてゆっくり眺めましょう?」

 

「え、そういうものなのか!? ありがとう、気を付けるよ」

 

「いえいえ、私もトレーナーさんが花に興味を持っていただけて嬉しいです」

 

これを機に生け花のほうも知ってもらおうかなと少し欲張った考えをしながら目的の物を探す。

 

「ふふっありました~」

 

「ん? それはえっと……アメリカンブルー?」

 

「はい、この花をトレーナー室で育てたくて今日は足を運んだんです」

 

「トレーナー室は別に構わないけど花の世話は大丈夫なのか?」

 

「勿論できる限り私が世話をしますよ。ですがその、私がどうしても手が外せないときはトレーナーさんにも手伝ってほしいのですが駄目でしょうか」

 

「それは別に良いけど、俺花育てた経験あんまりないぞ?」

 

少し不安そうにしている彼にアメリカンブルーの苗を持ちながら言う。

 

「それには心配は及びません、初心者の方でも育てやすいですし私も教えますから。それにこのアメリカンブルーの花言葉には清潔やふたりの絆といったものがあって私好きなんです」

 

「清潔に絆か、良いじゃないか気に入ったよ。2人の絆ってのが特に!」

 

そう言い終えると余程気に入ってくれたのか彼はそのままレジへ向かい購入したものを私に渡す。奢ってもらうつもりはなかったので少し罪悪感を感じながらお礼を言えば笑って良いよと返してくれた。

 

「さて、目的の物も購入したことだしそろそろ帰ろうかグラス」

 

「はい、そうしましょうか。ふふっトレーナーさん、今日は付き合ってくれてありがとうございます」

 

「このくらいならむしろ喜んで。この花、綺麗に咲くと良いな」

 

「それは私とトレーナーさんの頑張り次第ですね。でも、花が開いたときはきっと綺麗ですよ」

 

「ああ、その日が楽しみだ」

 

笑顔で色んな反応を返してくれるがそれでもずっと先ほど購入した花を気にしてる姿が少し気になった。

 

「トレーナーさん、先ほどからずっとその調子ですが何かおかしなところありましたか?」

 

「ん? ああいや、単純に嬉しくってさ」

 

「嬉しい、とは?」

 

「グラスが2人の絆って花言葉を選んでくれたことにキミからの信頼を感じたって言えばいいのかな、まあとにかく嬉しくってこれはもう俺も今以上に頑張らないとなって」

 

「ふふっでは私も今以上に誠心誠意努力し続けないといけませんね」

 

「きっと今以上にこれからもスペシャルウィークたち黄金世代、勿論他のウマ娘たちもそれぞれが仕上げてくる。簡単にはいかないだろうが絶対勝つぞグラス。ターフでの主役はいつだってキミだ」

 

「勿論です。言われなくともあなたの愛バは誰にも負けるつもりなどありません」

 

「うん、その意気だ」

 

これからの日々に闘志を燃やし目線を合わせると、お互いすぐにふふっと笑い合って帰路につく。

けれど今日は充実した時間なだけにもうすぐ終わってしまうと思うとなんだか名残惜しくて無意識に歩くペースが遅くなる。でもその歩幅に合わせてくれる彼の優しさが心地良くてトクントクンと胸の高鳴りを感じる。

永遠にこの時間が続いたらいいのに、なんてことを考えてしまうが運の良いことに次のお出かけの約束もある。今は焦らずこのひと時の幸せを噛み締めながらいつもより彼の側へ寄る贅沢を堪能しよう。

そのまま彼に送ってもらい、その日を終えたが夜にはとても良い夢が見れて幸福感に包まれて目が覚めた。ただ、ついつい夢の続きが気になって危うく二度寝しそうになってしまったのは内緒だ。

 

そんな幸せなあの日から数日がたち、あれからアメリカンブルーは交代制で世話をしている。丁度今も水を上げている真っ最中、花が咲く日が待ち遠しい。今も気分が高揚して仕方ない。

 

「けれど今はまだ、レース以外に気を取られるわけにはいきません」

 

静かに闘志を燃やして思考を己のレースへと切り替えていく。これからまだまだ紆余曲折があるだろうが他ならぬ彼が私を信じ育ててくれたのだ。ならばまずその期待に恥じない走りをしなくては、たとえ誰が相手でも勝つ。

 

そしてこれはまだ彼には教えていないがアメリカンブルーの花には前の二つの花言葉以外にもう一つ「溢れる思い」という花言葉がある。

今はまだレースに集中しなければいけないが、それでもいつの日か、この花が咲いて、枯れたらまた同じ花を育てて、幾度と青い綺麗な花びらを咲かせたときは私からトレーナーさんへの親愛や敬愛、そして彼に対する恋心を。この内に秘めた溢れんばかりのこの想いを伝えようと決めている。

 

勇気がないから花を利用してると思われるかもしれないが、今はそれで構わない。

綺麗に咲いたときを口実にするのはすこしずるいかもしれないけれど、そうでもしないときっと自分は縮こまって何も伝えられないかもしれないから。

 



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あなたのその想いが私にはどれも特別な贈り物に感じるグラスワンダーの話

時計の針が午前6時を指し部屋の中に朝日が差し込む。

窓の向こうで小鳥がさえずり、その心地良い音が耳をくすぐって私は目を覚ましゆっくりと体を起こす。

 

「んっ……朝ですか……」

 

ベッドから降りて軽く伸びをして、それから洗面台へと向かう。

まだ残っている眠気も冷たい水を浴びると頭の中が冴え渡り意識もはっきりしてきたところで寝癖のついた髪にクシを入れながら今日やることを整理し身支度を整えていく。

 

「さあ、行きましょうか」

 

玄関に向かい靴を履いて外に出た瞬間に感じる眩しい陽光に思わず顔をしかめてしまうがそれも束の間のこと。

次にはそんな些細なことは忘れ髪が崩れていないか、今日選んだ服は似合っているのかなどと自分の姿を確認し始める私がいるのだ。

 

「よし、問題なしです♪ ふふっ♪」

 

そして何よりも大事なこととして、これから彼と一緒に出かけるということを改めて確認するだけで私の顔には自然と笑みが生まれているのです。

この時ばかりは、少し冷静さを忘れて浮かれているのかもしれませんね。

 

「おまたせしました〜」

 

集合場所に着いた時には彼は既に待っていてくれたようで、こちらに気付くと手を振り駆け寄ってきてくれるその様子は何とも愛らしく私の胸を高鳴らせてくれる。

 

「おはようございます。時間通りですね?」

 

「あはは、実は遅れたらまずいと思っていつもより30分くらい早く出てさ。まあそれでもギリギリだったけどね」

 

「そうなんですね〜。では、とりあえずどこかに入ります?それともこのまま向かいますか?」

 

そう言うと彼が少し考え込んでいる姿を見るには恐らくどちらでも構わないということなのでしょうから、ならばここは私が決めるべきでしょうね。

 

「じゃあせっかくですし歩きながらにしましょうか」

 

「そうだな。なら行こうか」

 

こうして私たちは並んで今日の目的地のゲームセンターに向かっているのだが……。

 

「あの、グラス?」

 

「はい?」

 

「いや、なんか近くない?」

 

「このくらい普通ですよ? それに、離れていたらトレーナーさんがまた道に迷ってしまわないか心配ですから」

 

「あ~……それは確かに否定できないかもなぁ」

 

くすくすと笑い声を上げながら彼の手をとって歩く私。

伝わって来る温もりはとても優しく、ずっと握っていたいと思わせるほど。

 

「まあ俺も嬉しいし、グラスが良いならいっか」

 

「はい♪ 大丈夫ですよ〜?」

 

こうして私たちは手を繋いだままゲームセンターへと向かう道中では様々な話を幾度か。

例えば最近あった出来事だとか、レースのこととか、そういったことを話している内にあっという間に着いて、私たちは早速クレーンゲームのコーナーへと足を運んだ。

そこには沢山のぬいぐるみが並びどれを取ろうか悩んでしまう程で、現に隣の彼は腕を組みうんうんと頭を捻っている。

 

「こういうの、どれも欲しいんだけど悩むんだよなぁ……」

 

「焦らずじっくり選びましょう。時間はまだまだありますよ」

 

「そうだな。……う〜ん、よし!これにしよう!」

 

「ぱかプチ、それもこれは私のやつですね」

 

彼が選んだのは私をモチーフにしたぬいぐるみ。

さっそくお金を入れてボタンを操作し始めては何度かプレイしては「おっもうあとちょっとかな?」などと言いながらニコニコと楽しそうに操作をしている。

 

「……」

 

そんな姿を私はただ黙って見つめていた。

遊びに出たりするときはいつもこんな風に無邪気に笑うんだなぁ、なんてことを考えながら。

 

「……あと、もうちょい」

 

そんな風に見つめていくといつもとは違う彼の少し違った一面が見えてくるもので、それがとても新鮮で思わず頬が緩むのを感じた。

 

「……グラス?」

 

「あ、いえ、何でもありません。それよりも取れましたか?」

 

「ん、全然ダメだ。あと少しって感じなんだけどそう上手くいかないもんだな」

 

「ふふっ、そうですか」

 

残念そうな表情を浮かべる彼だったが一度こちらに視線を移すと小さく笑って、まるで私に台を譲るようにその場から一歩下がった。

 

「ほら、グラスもやってみたらどうだ? 俺は見てるからさ」

 

「ありがとうございます。では、頑張ってみますね〜」

 

こうして今度は私が挑戦することになったわけだが、いざ始めてみるとこれがなかなか難しそうな感じがする。

今までこういったものを取る機会もなかったので余計に難しいのかもしれない。

しかし、それでも諦めたくはないと思い、何度もトライしてみるものの……。

 

「……やっぱり難しいみたいです」

 

そう簡単にはいかず、結局はあと少し押せたら落ちると言ったところで止まってしまう。

 

「まあでもここまでやったら取りたくなっちゃうな、俺は。……もうちょっとだけやってみない?」

 

「ふふっ、はい♪ ではもうちょっと頑張りますね」

 

その後、2人揃って100円ずつ入れてチャレンジしていくが結果は芳しくなく。

ああでもない、こーでもない何て言い続けながら楽しんでいれば何度目かのチャレンジで、遂に……。

 

「……やりました〜!」

 

「ははっ!凄いなグラス、よく落とさなかったもんだ!」

 

「本当にギリギリでしたけど、良かったです♪」

 

何とか落ちてくれたのを見て私たちは嬉しさのあまりその場でハイタッチ。

思わず大きな声が出てしまうくらいには嬉しかったようで、周りに迷惑にならないようにとすぐに口元を押さえたが、それでもやっぱり喜びは隠しきれずお互い共に顔を見合わせては笑いあっていた。

 

「これも全部トレーナーさんのおかげですね」

 

「いや、グラスの努力の賜物だと思うけどね」

 

「いいえ、トレーナーさんが最初に良い位置に誘導してくれたおかげでもあると思いますよ」

 

「そんな芸当できるほど器用じゃないと思うけどなぁ」

 

隣を見ると彼は微笑ましそうな笑みを浮かべていて、その姿に思わず目を奪われてしまう。

なんだかいつも見ているはずのその横顔がどこかくすぐったいというか、気恥ずかしい気分になる。

だけど不思議と目を逸らすことができなくて、むしろジッと見続けていたくなるような不思議な魅力があった。

 

「……あ〜あ、でもちょっと残念だ。本当は俺が取ってあげてグラスの喜んだ顔が見たかったのにさ」

 

そして何気なしに言われた一言はきっと無意識な言葉なのでしょうけど、そのせいか胸をドキリとさせるくらいには破壊力があって。

この人の言動一つでこんなにも動揺してしまうのだから私は相当彼にやられているのだろうな、なんてことをついつい思ってしまう。

 

「では、また一緒に来ましょう。今日だけでお終いだなんて私、きっと満足できませんよ?」

 

「ああ、そのときはまた一緒にやろうか。勿論これ以外のゲームだってやりたいしさ」

 

「では、約束ですよ?」

 

「もちろん」

 

「絶対ですよ?」

 

「わかってるって」

 

「絶対の絶対……」

 

「うん? そんなに言わなくて大丈夫だぞグラス? ちゃんと約束守るから」

 

「ふふっ、なら良かったです」

 

冗談混じりに会話をしつつその後も二人で色々なゲームをして遊んでいるうちにすっかり夕方へと時間は切り替わり始めていて、楽しい時間は本当に早く過ぎていく。

 

 

あれから今私たちはゲームセンターを出て少し外をぶらぶらと歩いている。

ただそれだけ、けれど日が沈みかけて辺りはオレンジ色に染まりつつある中、彼と肩を並べて歩いていると思うだけで私の胸は幸せな気持ちで満たされていた。

 

「……おっあれは」

 

歩くこと少し、そうこうしていると何かを見つけたのか突然立ち止まると彼は私の手を離してそちらへと駆け出していく。

私もそれに続いてついて行くとそこは小さなアクセサリーショップ。

彼が入った後に続くように中に入るとそこには色鮮やかな装飾品が並べられている。

 

「えっと、トレーナーさんってアクセサリーとかに興味があったんですか?」

 

「え? ああいや、別にそう言うわけではないけど」

 

「じゃあどうしてここに? それも見ればここにある品は女性用の物ばかりですが……」

 

店内に並んでいるものは女性用のものばかりなのだが、彼はそんな事お構い無しと言った様子で物珍しそうにしながらも楽しそうに見渡している。

 

「あ〜いや……ただグラスに似合いそうなやつがないかって思ってさ」

 

「……えっ?」

 

突然の不意打ちを貰いつつ、気にしていないのか彼はざっと商品を見渡しては気に入ったものがあったのか1度頷くと手に取ったネックレスを見せてきた。

 

「これとか、グラスにピッタリだと思うんだけど」

 

「あ、あの……」

 

「どうかな? グラス」

 

真剣な表情で聞いてくる彼に私は戸惑いを隠さずオロオロと。

それはそうだ、だっていきなりこんなことを言われても反応に困ってしまう。

 

「まあ、クレーンゲームのときはカッコいいところ見せたかったのに結局俺は取れなかったし」

 

「……けれどそれは」

 

「だからせめてって訳じゃないけど、ちゃんとしたプレゼントをあげたくなってさ」

 

そこまで言い終えると今度はなんだか照れくさそうに頬を指で掻きながら笑う。

そんな姿を見ていたらもう何も言えなくなってしまい、嬉しさと恥ずかしさがごちゃ混ぜになって声にもならない小さな声が漏れていく。

 

「……まあその、なんだ。カッコつけたいんだよ、キミに」

 

「っ!?」

 

瞬間、私は顔から火が出るほど熱くなるのを感じて慌てて顔を伏せた。

きっと耳まで真っ赤になっているに違いない、そう思いながらも顔を上げることもできないくらいには今の自分がどんな顔をしてるか分からなくなっていた。

 

「……ダメかな?」

 

しばらく無言でいたせいもあってか不安げな声で彼が問いかけてくる。

その答えを返すためにも私はほんの少しの勇気を出してゆっくりと顔を上げて彼に向き合うと小さく首を横に振った。

 

「……ダメじゃないです。嬉しいです、とっても」

 

「よかった。ならもうちょっとだけ待ってもらってもいいか? なるべく良いのを選んでみせるからさ」

 

そう言って彼は再びアクセサリーを見て回り始めていく。

けれど私はというとその背中を見つめながら頬に手を当てて先程のやり取りを思い返していた。

 

「……ずるいです」

 

彼の言動1つ1つが私にとっては嬉しくて、愛おしい。

平常心を保っているつもりでもやっぱりどこか落ち着かないと言うのだろうか。

こんなにも私の心を揺るがせる人なんて、この世にきっと彼以外居ないのだろう。

 

「……ほら、グラスはどんなやつが好みだ? キミの好きなものを言ってくれ」

 

「そうですね、それならば……」

 

そうして私たちはどれにしようか、あーでもない、こーでもないと話しながら時間を過ごしていく。

 

けれど時折、彼の視線はアクセサリーからどれにしようか迷っている私へと向けられていることに気が付いてしまっていて。

それが少し恥ずかしいけれど、口に出すことはしなかった。

だって口にしてしまうとせっかくのこの素敵な雰囲気が台無しになってしまう。

それにどれにしようか迷っている私をたまにチラッと見ては嬉しそうな表情を浮かべる彼を見るのも、実は嫌いではないのですから。

 

「グラスのお目にかなうものはあったかい?」

 

「もうっ、まだ選んでる最中です。あまり女性を急かす男性は嫌われてしまいますよ?」

 

「あ〜、悪い。つい」

 

「ふふっ、なんて冗談です。嫌ったりなんてそれこそしませんから気にしないでください」

 

そう伝えると彼が苦笑いしながら頭を掻いているのを見ると、少しばかりイタズラしすぎてしまっただろうか?

ちょっとだけ申し訳なさそうに気を落としているその姿にクスリと笑みが溢して、もう一度「冗談ですから」なんて言えば、さっきの表情とは打って変わって楽しそうに笑みを浮かべてくれる彼の姿がなんとも愛おしい。

 

「それに実はもう決めてあるんですよ?」

 

「えっ? そうなのか?」

 

「はい。私はあなたが最初に選んでくれたこのネックレスが欲しいです」

 

私が選んだのは、彼が1番最初に見せてくれたネックレス。

それを手に取り彼に差し出すと彼は一瞬驚いたような表情を見せ、けれどすぐに嬉しそうな笑顔へと変わる。

 

「それ、俺が単純な直感で選んだやつだぞ? 本当にそれでいいのか?」

 

「ええ、直感で選んだなら尚更これにします」

 

「……」

 

「だってこれは、数多くある中であなたが真っ先に私に見せてくれたものですから」

 

例えただの直感で選んだ物だとしても。

そこにはちゃんと意味が込められていると、私は信じたい。

あなたが数多くある中で色んな思考の中で1番に目を止めて、手に取って、そして私に贈りたいと想ってくれたものだから。

だからこそ私はこれを、これだからこそ身に着けていたいと強く思うのだ。

 

「……あはは、参ったなぁ」

 

そしてそんな私の想いを知ってか知らずか彼はまた困ったように笑って見せる。

けれどその顔は夕陽のせいなのか赤くなりどこか恥ずかしそう。

 

「よし、じゃあ決まりだな」

 

そう言うと彼はアクセサリーを手に持ちそのままレジへと向かい支払いを終えて品を受け取るとそれを持ってこちらへ戻って来た。

 

「ありがとうございます。大切にさせていただきますね」

 

「うん、俺もグラスに喜んで貰えて良かったよ」

 

受け取ったアクセサリーの入ったケースを両手に大事そうに抱え込みながらお礼を伝える。

彼はそんな私の姿を見て安心したかのようにホッとしているのが印象的だった。

きっと自分の見立てに間違いはなかったと確信して安堵しているのだろう。

 

……まったく、そんな風に素直に顔を出されては余計に嬉しくなって仕方ないじゃないですか。

 

「さて、そろそろ帰るとするかな」

 

そう言って時計を見ると時間はもう18時前になっていた。

外のオレンジ色の景色はもうすでに暗くなり始め、辺りの街灯にも光が点され始めている。

 

「今日はとても楽しい1日になりました。ありがとうございます」

 

「ああ、俺も楽しかったよ」

 

私が最後にそう言って頭を下げると、彼もまたそう返してくれた。

けれどその次には困った様子を見せて呟くのだ。

 

「まあ、せっかく一緒なんだしカッコつけたかったけど今日はあんまりいいところがなかったのがちょっとだけ悔しいかな」

 

「ふふっ、ず〜っとそればかり気にしていたんですか?」

 

「ん、まあね。我ながら子供っぽいことしてるな~っていうのは自覚してるよ」

 

そうやって少し困った表情を見せる彼。

どうやら自分でも女々しいことを言っていると思っているらしいが、逆に言えばそれだけ今日の一緒のお出かけを彼もまた楽しみにしてくれていたことの証明でもあって。

その言葉1つ1つがまるで私に対してだけ見せてくれる彼の本心のように感じられて不思議と嬉しくて堪らない。

 

「カッコ悪いなんて思いませんよ。それにもしカッコ悪い部分があったとしても、私はそのカッコ悪いあなたのことも含めて好きですから」

 

「……そうか?」

 

「はい、そうです」

 

私は彼の問いかけに笑顔で答えた。

すると彼は照れくさそうにしながらも笑みを浮かべて「なら良かった」と返してくれる。

それが私にとって何よりも嬉しいことだ。

 

「さて、遅くなりすぎないうちに帰ろうか」

 

「はい、帰りましょう」

 

私はそんな彼の横に立って歩くが会話は先ほどまでと比べてそれほど多くはなかった。

けれど私達の間に流れる沈黙は苦痛ではなく、むしろ心地よくすらある。

 

上手く言葉では言い表せないけれど、でもこれはきっとお互いに何も話していないからではなくて、言葉に出さずとも伝わっているからこその空気感だと感じるからこそ、私はこの時間がとても好きだった。

 

「ふふっ、そうだトレーナーさん。1つお願いをしてもいいですか?」

 

「ん、良いよ。なに?」

 

「帰るまで手を繋ぎたいんです。……どうでしょうか?」

 

「ははっ、なんだそんなことで良いのか?」

 

「はい、あなたともう少しこうして過ごしていたいんです」

 

「むしろ喜んで、こっちからお願いしたいくらいだ」

 

彼はそう答えると私の手を握ってくれるその手はとても温かく、そして優しい想いが詰まっているようで。

その温もりを感じているだけで自然と口元が緩んでしまうのが分かった。

きっと、今の私は誰が見ても分かるくらい幸せな表情をしているのだろう。

この素敵な時間にもう少しだけ浸りながら、いつもよりゆっくりとした歩幅で私達は帰路につく。

 

今日の思い出やこれからの日々を2人で共有しながら。

 

 



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単発のウマ娘ちゃんたち
お互いの想いを伝えるトレーナーとセイウンスカイ


「あのさ……少しキミに大切な話があるんだ」

 

唐突なその言葉に思考が一瞬途絶えた。

その理由を聞こうと彼の顔を覗けば、いつも以上に真剣な顔で私をジッと見つめている。まるで今から告白されるみたいな雰囲気だ。

 

いや、いやいや! そんなことありえないって! だっていつも私が冗談を言ってもさらっと受け流すトレーナーがそんな少女漫画でありがちなことをするわけがない。

うん、セイちゃん騙されませんよ。

 

「えっと、どうしたんですトレーナーさん。ちょっとお顔がマジになってますよ? ほら、笑顔笑顔~」

 

「ごめんスカイ、今だけはそのからかいは無しだ」

 

「うっ……えっと、はい」

 

いつもみたいな調子に戻そうしても無駄だったようで、逃げられない。

えっこれ本当にマジな奴です? なんて思考の隅で思いつつ、それでもトクントクンと胸の高鳴りが大きくなりながら彼の次の言葉を待つ。

 

「俺は、キミのことが好きだ」

 

…………んん? 好き? スキ? 鋤? ……すき焼き!?︎ いや違うよねこれ絶対違う。多分あれだよ、なんかこう……ライクじゃなくてラブの方の意味だと思うけど、でもなんでいきなり?

 

「あぁー、うん。ありがとうございます……」

 

とりあえずお礼を言うと、彼は何故か困ったような表情を浮かべた。

でもそう返答するのが精一杯だった。しどろもどろになりながらまとまらない思考をそれでも必死に動かした。

 

まずどうしてトレーナーが私を好きになったのか分からない。今までそういう素振りを見せたことはなかったはずなのに。それにそもそも私は誰かに好かれるほどの魅力を持ってないと思うんだけど。

 

「えっとですねトレーナーさん。その私にはよく分からないんですよね。どうして急に私の事が好きになっちゃったんですか?」

 

このまま沈黙し続けるのは彼にも悪いだろう。だから率直に疑問をぶつけると、彼はまた何かを考え込んでしまった。そしてたっぷり5秒くらい経ってようやく口を開いた。

 

「ちょっと長くなるし俺にも上手く伝えられるか分からないけど聞いてくれるか?」

 

「はい」

 

「ありがと……まず好きな理由は正直俺もよく分からなかった。最初はただ担当ウマ娘とそのトレーナーって関係だったから……」

 

……まぁ、そりゃそうでしょうね。私自身だってこの感情がよく分かっていないんだもん。

 

「でもある時気づいたんだよ。俺はキミと一緒にいる時間が楽しくて仕方がなかったんだって」

 

それは初めて聞く彼の本音だった。

確かに私と一緒の時間を過ごすことで多少なりとも楽しさを感じてくれていた事は嬉しかった。だけどここまでストレートに言われたことは今まで無かった。

 

「自分の想いがはっきりしたら、後はもう止まらなかった。一緒にトレーニングしてる時はずっとキミの事を考えてたし、ご飯を食べてる時の楽しそうな顔とか寝顔を見てたら可愛くてしょうがなくなったり、色々とキミの事が気になるようになってさ……」

 

普段なら絶対に言わないようなことを次々と言われていくうちに段々恥ずかしくなってきた。でもそれと同時になんだか不思議な気分になっていた。

そして打ち明けてくれるその想いが冗談なんかじゃないんだって、聞くまでもなく分かった。

 

「だからえっと。俺はいつの間にかセイウンスカイ、キミに惹かれていってた。……こんな気持ちになったのは生まれて初めてだったよ」

 

まさか自分の想い人にここまで言われるとは思ってもなかった。

心臓がうるさいぐらい鳴っているのを感じる。体中が熱を帯びているのが分かる。そっか、つまりこの人は、私と過ごす時間が楽しくて仕方なくて私と一緒に居るだけで幸せになれちゃうわけですか。

 

そう想うとなんだか恥ずかしくなって自分の頬を撫でていた。

きっと今の私の顔は真っ赤になっているはずだ。

 

……えへへ、でもそれは嬉しいかも。

 

「それで……スカイはどう思ってる? 俺のこと」

 

彼が不安そうな顔をしながら聞いてくる。

 

「ふぅむ……正直まだよく分かりません。恋なんてその……よくわかりませんし」

 

「うん」

 

「ああでも嫌いではないですよ!? むしろ好きな方だと思います!」

 

「本当か!」

 

「はい。少なくとも今の時点ではの話ですけどね」

 

「それでも十分だよ。ありがとうスカイ」

 

心底嬉しそうに微笑みかけてくる彼に、思わずドキッとした。

いや待って。おかしいでしょこれ。なんでドキドキしてるの私!?︎ 落ち着け私。これはきっと吊り橋効果だ。恐怖で心臓がバクバクしている時に目の前に居る人が優しくしてくれると恋愛対象として意識してしまうアレと同じだ。そうに違いない。いつもみたいに軽く冗談でも言って一旦落ち着かないと色々とヤバい。

 

そう思いながら横目で彼をちらっと見ると自分でもわからないがすぐに目をそらしてしまう。

その理由なんて、わからないけど。

けど、ひょっとしたら、今まで自分が気づいていないだけで私は彼の事が好きになっていたんだろうか。今まで恋なんてしたことが無かったから、その気持ちに全く気がついていなかっただけなんだろうか。

 

もしそうなら、私はこれから彼とどんな風に接すればいいのだろう。

これまでと同じように接することは出来るだろうか。いや無理だ。絶対に出来ない。だって今の時点でこんなにも動揺してるんだもの。このまま付き合ってたらいつかボロが出てしまうかもしれない。そんなことになったら恥ずかしくて死んでしまう。

 

「ねぇトレーナーさん。一つお願いがあるんですけど」

 

「うん? なんだ?」

 

「セイちゃん今日ちょっと体調悪いんで早退します。という訳で今日のトレーニングは中止にしましょう」

 

「えぇ!? ︎大丈夫なのかそれ!?︎」

 

「えぇまぁなんとかなると思いますよ。ほら早く準備して下さい。帰る支度をしないといけませんから」

 

「あぁ分かった。……けど本当に一人で帰れるか?」

 

「平気ですよ。じゃあお先失礼しま〜す」

 

トレーナー室を出てそのまま学園の外に出る。

幸い誰にも見つからなかったようで、特に問題なく帰宅することができた。

自室に着くとまず真っ先にベッドに飛び込んだ。そして枕をギュッと抱きしめた。

 

「ああもうどうして急にあんなこと言いだすかな、あの人……」

 

枕を抱きしめる力は徐々に強まり、いつのまにか猫のように丸まっていた。

バクバクと心臓の鼓動は早くなり、先ほどの光景が頭から離れない。

 

「あぁぁぁぁ!︎」

 

耐えきれなくなって叫び声を上げながらベッドの中をゴロンゴロンと暴れ回る。どうしよう。どうしたらいいんだろう。まさかトレーナーさんも私の事を好きだとは思わなかった。

 

「あぁぁぁ……」

 

むしろ好きな方だと思います?

何言ってるの私、バカなんじゃないの?

さっきまでの会話で恥ずかしさからでた自分の言葉の数々に恥ずかしさともどかしさでどうにかなってしまいそうだ。

 

「……あーもう!」

 

布団を被って悶える。顔は火照り、頭がクラクラする。

胸の奥が熱くなり、息が苦しくなる。

 

「……私だって、あなたに好きって言えるなら……言いたいよ」

 

ボソッと誰に言うわけでもないが少しでも自分の気持ちを吐き出したかった。

枕にうずくまりながら今まで感じたことのない感情に戸惑いながらも時間が経つにつれて少しずつ私はその感情を受け入れ始めていた。

 

 

けれどそれからというものの、私はトレーナーを避け始めた。

もちろんトレーニングは真面目にやったけど、それ以外ではなるべく関わらないようにしていた。トレーナーと目が合う度に逸らすようにしたり、話しかけられても用事があると言ってその場を離れたりした。

彼は最初こそ戸惑っていたが、最近は諦めたのか何も言わなくなった。

 

本当は寂しいけどね。でも仕方がない。だって、これ以上一緒に居たらきっとおかしくなっちゃう。あんなに軽く言えた冗談も今では言えなくなって、遠めに彼に視線を送るのが精一杯。

 

「でも、ずっとこのままってわけにはいかないよねぇ。私どうしたら……」

 

ぼふん、と音を立ててベットに倒れ込む。

トレーナーを避けるようになってから数日経ったが、状況は好転していない。むしろ悪化していると言える。避けられているという事実に、彼はだんだんと元気をなくしていっているのだ。周りの他トレーナーさんたちも心配している。

ひょっとしたら今頃、やっぱり伝えなきゃ良かったなんて自己嫌悪に陥っているかもしれない。

 

「やっぱりちゃんと話した方がいいよね……」

 

この状態のままズルズルと引き伸ばしても意味が無い。

それに、いつまでも避け続けるのは不可能だ。

覚悟を決めよう。彼に私の気持ちを伝えて、その上で今後のことを相談してみよう。

 

「……よし」

 

意を決して、私は彼の部屋に向かった。

 

「……それで、話っていうのはなんだ?スカイ」

 

……ついにこの時が来た。緊張で手汗がすごいことになっている。

でも勇気を出すと決めてトレーナーさんを呼んだまでは良いが私自身が緊張で俯いたまま黙り込んでいて何も話せない。

 

「……スカイ? どうしたんだ、何かあったのか?」

 

心配そうに声をかけてくる彼に対して罪悪感が湧いてきた。

そうだ。私が彼を傷付けていい理由なんて無い。だって彼は私の為に頑張ってくれてるんだもん。そんな人に迷惑をかけるなんて最低だ。

 

「……ごめんなさい」

 

「えっ?」

 

「私、トレーナーさんの事が好きです」

 

「……えぇ!?︎」

 

「だから、私と付き合って下さい!」

 

勢いに任せて告白してしまった。

この日のために色々案は考えたけどもうどうにでもなれだ。

 

「…………」

 

「…………」

 

沈黙が流れる。

この間が凄く怖い、心臓が爆発しそうなくらいに激しく脈打っていて、全身から冷や汗が吹き出してくるのを感じる。その不安から色んな嫌な返答が返ってくるのを想像してしまってさらに怖くなる。正直逃げ出したい。

 

お互いに無言で見つめ合い、そのまま数秒が経過した。

 

「スカイ。改めて俺もキミのことが好きだ。こちらこそよろしく頼むよ」

 

彼が微笑みながら答えてくれる。

良かった。ちゃんと伝わったみたい。

 

「ほ、本当ですか! やったぁ~!」

 

「まさかキミも俺の事が好きだなんて思わなかった。正直トレーナーとして見るなら絶対伝えるべきじゃないと思っていたから……ああ、本当に。両想いだなんて夢にも思ってなかったよ」

 

そう言って彼は少しだけ涙を浮かべていた。きっと彼も私と同じで色々と考え込んでいたんだろう。泣きながら嬉しそうに笑うトレーナーの姿が凄く印象的だった。

 

「あ、ありゃりゃ?」

 

「ちょっスカイ!?」

 

ただそれに浸る余裕はなくて不安感から解放された私はそのまま力が抜けていく。そのまま崩れ落ちそうになったが間一髪のところで彼が手を握って支えてくれたので助かった。

けれどそれも相まって私はもう告白の嬉しさも一緒にその勢いのまま、彼を抱きしめた。驚く彼の珍しいあたふたとした姿が見えるが彼も少し経つと優しく抱きしめ返してくれる。

 

そのまま数分が立ち、落ち着いた私は彼の胸に頭を預けていた。

彼の温もりを肌で感じ、お互いの鼓動の音を聞きながら私は幸福に包まれていった。

 

「……ねえ、トレーナーさん」

 

「うん、なんだ?」

 

「これからもずっと、セイちゃんと一緒にいてくださいね? じゃないと私すねちゃいますから」

 

「ああ、勿論。一生かけて幸せにしてやるから安心してくれ」

 

「ふふ、それじゃあ楽しみにしてますね」

 

これから私たちの関係はどうなっていくんだろうか。

お互いの距離が近すぎてドキドキしっぱなしになるかもしれない。

喧嘩して別れるかもしれない。

でも、それでも私たちはきっと大丈夫だと信じられる。

だってこんなに幸せなんだもの。

これから始まるであろう未来に胸を躍らせながら、私はゆっくりと目を閉じた。

そのとき聞こえる彼の「おやすみ」って言う声に私の心は温かくなってさっきまでの不安が嘘みたいに安心する。

 

ずっとずっと、これから先もこんな幸せな時間が続いてほしいな……。

 



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補習をトレーナーに手伝ってもらうエルコンドルパサー

夕焼けに照らされたアタシ以外誰もいない教室で、一人ポツンと席に座って今だ真っ白から進まないプリントを眺める。別に何でもない、ただ補習を受けているだけ。

さっさと終わらせたいのだが分からないものはどうしようもない。もはややる気もなく、ちらっと外を見れば数多のウマ娘たちがトレーニングをしている姿が見えて良いなぁって眺めては集中力が消えていく。

 

「むぅ、分からない。も〜! エルも速く走りたいデース!」

 

駄々をこねる様に叫んでプリントと睨めっこをしていると、ふと教室のドアが開く。

 

「やっぱり、まだここにいたかエル」

 

「……トレーナーさん?」

 

「よっ。エルの様子を見に来たんだ。どうだ補習の調子は?」

 

「全然駄目デ〜ス。助けて下さい!」

 

「おお~……なんとまあ、見事に真っ白だな」

 

ちらっとドアの隙間から顔を見せたのはアタシの担当トレーナーさん。

彼はこちらに近づいて真っ白なプリントを見ると呆れ顔で笑っている。けれど既にギブアップ状態のアタシを見ると一度頭を撫でてくれて、その後アタシの前の席のイスを動かして対面して座る。

 

「来て正解だったなこれは。……それで、どこが分からないんだ? ちょっと見せてみろ」

 

「うぅ、ありがとうございます」

 

そう言ってアタシが彼に分からなかった箇所を教えると、彼は「あーこれかぁ……」と呟きながら教えてくれる。彼の教えは一つ一つ丁寧でアタシでもわかるようにとても分かりやすく、その雰囲気はまるで友達同士で教えあうような感覚に近い。いつもとはまた違うこの距離感が凄く新鮮だった。

 

「……で、ここではこの公式を使うんだよ。ほら、前に解いた問題の応用だ。どうだ? これで解けただろう?」

 

「おおっ流石トレーナーさんデス! 分かりました!」

 

「うん、その調子だエル」

 

それに、なんだかいつもより距離が近い気がする。

教えてもらいながらプリントに走らせるペンの手を止めて、目の前の彼に気づかれない様に視線を移す。少し癖のある黒髪、アタシを見る優しい目、そして時折見せる笑顔。こんなに近くで眺められる特等席も、まあないだろう。

 

「ん、どうかしたのかエル。手、止まってるぞ?」

 

「へっ!? あっいえなんでもありません!」

 

慌てて誤魔化す様にプリントに書き込む。

いけない、つい見惚れてしまった。最近はこうやって二人きりになる事も少なくなっていたし、こうして勉強を教えてもらう事も無かったから余計に意識してしまう。

 

トクン、トクン、と胸が高鳴っていくのを感じる。

ただのいつもの教室なのに、彼とこうして二人きりというそれだけで特別に感じてしまう。凄く心地の良い時間だった。

それから暫くの間、アタシは彼と一緒に補習を続けた。

分からないところがある度に質問をして、答えてくれて、時には冗談交じりに「エルは本当に問題児だなぁ」なんて言われて恥ずかしいけど嬉しくて、そんな時間が楽しくて仕方がない。

 

チクタク、チクタクと、時計の針が進むのが聞こえる。

補習のプリントも、もう随分と進み空欄のほうが少なくなっている。

あとちょっとでこの時間も終わってしまうと思うとそれがなんだか寂しくて、さっきとは全然違う意味で手が進まない。補習が終わった後もこのままお喋りしたい気持ちが強くなっていく。本当はもう少しだけ、一緒に居たい。

 

「あの、トレーナーさん」

 

「ん、どうした?」

 

「えっとデスね。もし宜しかったらこの後お茶でも行きませんか? 実は今日はオヤツを持ってきてなくて……それに補習が終わったらスイーツを食べようと思ってたんですよ!」

 

こんな2人きりになれるチャンスなんてこの先も中々起きないだろう。

だから少しばかりの勇気を出して言ってみる事にした。すると彼は一瞬キョトンとした表情を見せ、すぐに笑い出す。

 

「ははっなんだそんなことか。それなら遠慮なくご馳走になろうかな。俺もちょうど甘いものが食べたかったんだ」

 

「本当デスか!? それじゃあ決まりデスね!」

 

「……まっそれもいいけど。ちゃんとやること終わらせてからだぞ?」

 

「勿論デス、秒で終わらせて見せます!」

 

「それができるならさっさとやってくれ……」

 

はぁ、と溜息をつくトレーナーさんを見て思わず笑ってしまう。

何だか久しぶりだなこういうやり取り。やっぱりトレーナーさんとの会話は楽しい。自然と口元が緩んでしまう。おっといけない、早く終わらせないと時間がもったいない。

その後はまた続きを始めるが、一人だったときまでと違いお互いが隣にいる事が妙に心地よく感じる。普段一人でいる時よりもずっと集中して問題を解いていける。それはきっと彼が側に居るからだろう。こんなにも心が落ち着くのは今までに無い経験だった。

 

「……終わったデース!」

 

「お疲れ様、エル」

 

「はい! トレーナーさんのおかげですぐに終わりました。ありがとうございます!」

 

「そうか、でも次は補習ならないように気を付けような」

 

「はい!」

 

「返事は満点なんだけどなぁ……」

 

プリントを纏めて鞄に入れると、アタシは勢い良く立ち上がる。

 

「それでは早速行きましょう! レッツゴーデース!」

 

「おう、そうだな」

 

そうして補習を終えた後、アタシたちは近くのカフェテリアで一緒に約束のスイーツと、パフェを注文した。テーブルの上に並んだ二つの大きなグラスにはたっぷりと生クリームが乗っていて、その上からは色とりどりのフルーツが散りばめられていて見ているだけでワクワクしてくる。

頑張ったご褒美とも言える目の前のパフェにお互い一口手を付けると、その甘さと美味しさに頬が落ちそうで思わず顔を見合わせ笑って喜んでいた。

 

「美味しいですかトレーナーさん?」

 

「ああ美味いな。ここのは結構評判が良いらしいんだが、確かに当たりだ」

 

「でしょっ! アタシもこの店のはお気に入りなんデスよ〜♪」

 

「ははは、エルは本当に食べるのが好きだな」

 

「はい! だってエルは沢山走れますからね! エネルギーを補給しないと倒れちゃいますよ!」

 

「ならいっぱい食って頑張らないとな」

 

そんな会話を挟みながら二人で笑い合う。

なんだか凄く幸せな時間。学園ではいつも他の子達が周りにいて賑やかな分、こうしてトレーナーさんと二人っきりで話すのはやっぱり良いなと思う。そう思うと、あの補習の時間もつまらないわけではなくむしろ良いことばかりで自然と頬が緩む。

2人きりでトレーナーさんに勉強を教えてもらって、その後こうして一緒にスイーツを囲む。これってまるで……。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

「ん? どうした?」

 

「ふと思ったのですが、こうしてみるとなんだかアタシたち付き合ってるみたいですね」

 

「ぶふぅッ!?」

 

「ちょ、ちょっと大丈夫デスか!?」

 

突然吹き出したトレーナーさんの口からパフェが飛び出して机の上がベタベタになってしまった。幸い拭けば何とかなったので一安心だが、彼は顔を真っ赤にしてアタシを見つめている。

 

「……エル」

 

「はい?」

 

「お前なぁ……いきなり何を言ってんだ」

 

「思った事を言っただけデスよ?」

 

「……はぁ、まあいいか。ほら、そろそろ行くぞ」

 

「あっ待って下さい〜!」

 

トレーナさんが席を立って会計へと向かう。アタシもそれを追いかけると彼は少し早足でレジへと向かい店員さんと話をしている。

その姿を見ながら、アタシは一人落ち着くために深い深呼吸を数度行う。

 

まだ、ドキドキしてる。

心臓がバクバクと脈打つのを感じる。

顔が熱く、頬に手を当てるとその熱さが分かるほどに火照っていた。

多分、今のアタシは彼に負けないくらい赤い表情をしているだろう

 

……本当に、この人はずるい人だ。

今日だってそう、わざわざ様子まで見に来てこうして一緒にいてくれる。そんな彼の優しさを肌で感じるから勘違いしてしまいそう、きっとアタシがどれだけ貴方のことを想っているのか、まるで分かっていない。

だけどそれも仕方ない事なのかもしれない。アタシはまだまだ子供だし、それに彼に想いを伝える勇気も、まだない。

だからこうして彼の優しさに触れられるだけで満足なのだ。

いつかはアタシの気持ちに気がついて欲しいとは思うけれど、それでも今はまだこのままの関係でいたい。

 

「エル、お待たせ。それじゃあ、帰ろうか」

 

支払いを終えて戻ってきたトレーナーさんが声を掛けてくれる。

 

「はい! ねえトレーナーさん、また一緒にここに来ましょうね」

 

「そうだな、ここ以外にもエルの行きたいところにつれていってあげるよ」

 

「やった〜! 絶対絶対の約束デスよ!」

 

でもいつの日か、この想いを受け止めてくれますように。

そんな事を考えながらアタシは彼と共に笑って帰路につくのであった。

 



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トレーナーに自分の髪を褒めてもらったサイレンススズカ

あれは今日も一日ハードなトレーニングを終え満足に走り終えたときのこと。

シャワーも浴び終わってあとは今後の反省点などのミーティングを残すだけとなったある日、トレーナーさんと一緒に雑談に花を咲かせながらのんびりとリラックスをしているときだっただろうか。

 

「スズカの髪って綺麗だよな」

 

ふいにトレーナーさんからそんな言葉が漏れたのをバッチリと聞いてしまった。

 

「えっと……そ、そうですか?」

 

その言葉を聞かなかったフリすらできなかった私は突然の言葉に少し動揺して上手く言葉が出なかった。彼がどういう意図で言ったのかは分からない、けれどそれは私の心を嬉しいという感情で胸を高鳴らせるには十分すぎる一言だった。

私もウマ娘である前に一人の女の子だ。それも密かに想いを寄せる人に褒められるとどうしても嬉しくなってしまう。

 

褒められた髪を自分で撫でながらちらっと彼を見る。けれどドキドキしている自分をよそに彼は気にしていないのか今ではもうパソコンを見ながらコーヒーを飲んでいた。だからだろうか、なんだか私だけドキドキしてるのがちょっと悔しくなって私は彼の隣に座ってみた。

 

「ん、どうしたスズカ」

 

「あっいえその……なんでもありません……」

 

ただ、座ってみたのは良いが隣の彼の顔が目に入ると別にやましいことがあるわけじゃないのに何故か恥ずかしくなって下を向いてしまう。

それから何をするでもなく少し間が経つと、無言に限界が来たのか彼は困惑しながら 「ええっと……」 っと呟きながら私の頭に手を載せて、ゆっくりと撫で始めた。

 

「……トレーナーさん?」

 

「急にごめんよ。俺の勘違いだったら申し訳ないんだけどその……撫でてほしいのかなって思ってさ」

 

私は一瞬思考が停止した。

正直特にこれといった理由はなかったし、ただ私だけ変に意識してたのが悔しかっただけなのだが、それを知ってか知らずか撫で続ける彼に私ができたことと言えばただ無言でコクリと頷くのが精一杯だった。

 

「……やっぱり、スズカの髪はさらさらしてて気持ちいいな」

 

「あ、ありがとうございます」

 

もはや何も言えない私をそのまま優しい手つきで頭を撫でてくれる彼に目を閉じてリラックスしながら浸っていること数分弱、もう満足してしまったのか彼は頭から手を離してしまった。

 

「……あっ」

 

至福の時間に名残惜しさを感じつつ、まだ終わってほしくないというワガママな気持ちが心のどこからか溢れてくる。もうこんなチャンスはないかもしれない、そんなことを考えていると無意識に彼の離れてく手を掴んでしまった。

 

「スズカ?」

 

「その、撫でるだけじゃなくてせっかくなら私の髪……とかしてみませんか?」

 

掴んだのは良いがその後は何も考えていなかった。

どうしようと少しオロオロしつつ、とっさに脳裏に思いついた言葉をそのまま伝えることにした。

 

「……えっ?」

 

「髪が綺麗って褒めてくれましたよね。どうですか?」

 

「まぁ……うん。キミがやってもいいのなら……」

 

私がそうお願いすると、トレーナーさんは戸惑いながらも了承し、ブラシを持ってきたのを確認すると私は彼に背を向けて目を閉じた。

 

さっきはあんなに自然と撫でてくれていたのに流石に髪をとくのは慣れていないのかどこかぎこちない。度々 「こんな感じで大丈夫なのか」 って少し不安げに聞いてくる姿が何だか新鮮で、ふふっと笑っていると彼は 「む、難しいもんだな……」 なんて呟きながら手探りで続けていく。

 

それからしばらく時間が経ってある程度髪を整えることができると、今度は櫛を使って丁寧にとかしていく。最初は力加減が分からなかったのか少し痛かったけれど次第にコツを掴んだようで丁度良くなってきた。

 

呑み込みが早いのは流石私のトレーナーさんというべきだろうか、新たな発見ができて少し気分が上がり心地良い。

 

「何というか、女性って大変なんだな。言われた通りにしてるけどこれで本当に良いのか正直不安でいっぱいだ」

 

「ふふっトレーナーさんでも緊張するんですね」

 

「俺をなんだと思ってるんだ……。そりゃ初めてだし、なにより俺のミスでスズカの髪を傷つけたくはないよ」

 

「大丈夫です、とても上手ですよトレーナーさん」

 

彼のその言葉を聞いてまた嬉しくなって頬が緩む。

姿が見えなくても、ちゃんと私の髪を傷つけないように優しい手触りで丁寧に整えようとしてるのが伝わってくる。たったそれだけで私は幸せを感じる。

 

その後暫くの間、お互いに会話することなく沈黙の時間が続いた。

静かな空間の中、ただただ彼の手で髪をとかされているのが何とも心地よくて、ずっとこのままでいたいな。なんて思っていると突然トレーナーさんの手が止まる。何度か確認してる仕草にどうやら終わってしまったみたいだ。

 

「はい、できたよスズカ。こんなこと初めてだから流石にキミみたいに綺麗にはできなかったかもしれないけど」

 

「そんなことありませんよ。ありがとうございます、トレーナーさん」

 

そう伝えながら鏡を見てといてもらった自分を確認する。

ところどころ跳ねている場所もあったり、逆にまとまりがなかったりするところもあるけど、それでも今までで一番と言って良いほどに自分の髪が輝いて見えた。

思わず自分の髪を手に取って優しくなでると心がポカポカと温かくなって自然と笑みが零れ落ちる。

 

「気に入ってくれたみたいでホッとしたよ」

 

「……そんなに表情にでてましたか?」

 

「うん、逆に俺が照れくさいって思うほどには満面の笑みだったよ」

 

まさかそんなに顔に出てしまっていたとは思わなかった。

だけどまあ仕方ないよね、だってそれぐらい嬉しかった。好きな人に髪を整えてもらったうえに褒められたのだから感情を抑えるなんてできるわけないじゃないか。

 

「もう、そういうことは言わなくていいんですよトレーナーさん。それよりこれからはたまにでいいのでこうやって、また髪をとかしてもらっても良いですか?」

 

「もちろん、俺なんかで良いなら喜んでさせてもらうよ」

 

「約束ですよ?」

 

「ああ、約束だ」

 

「もし約束を破ったら、う~ん……そうだ、また前みたいに景色の綺麗な場所に連れていってください」

 

「前みたいに?」

 

「はい。また一緒に電車に乗って、学園から少し離れた場所で、何処へ続いているか分からない道を今度は一緒に走りましょう」

 

そう言いながら目を閉じて思い出すのは、まだ彼と出会ったばかりのころ。

慣れない走り方で走ることが嫌いになりかけた私を心配して一緒に連れ出してくれた、私にとって忘れることのない大切な思い出の日。

 

その日のことを彼も気づいてくれたのか表情がころころと変わっていきながら楽しそうにクスクスと笑っている。そしてそれに釣られて私も笑う。

 

「それ、仮に約束破っても俺に得しかないじゃないか」

 

「ふふっ確かにそうですね。でも約束は約束ですから破った場合はお願いしますね」

 

「こんなに怖くない約束も初めてだ。うん、良いよ! スズカをびっくりさせるくらい綺麗な景色の場所を調べておくよ」

 

「それじゃあ約束破っちゃうんですか?」

 

「まさか、キミの髪を整えさせてもらったその後に一緒に行こう」

 

「ふふっ期待してますね」

 

「任せとけ、次はもっと綺麗に整えて見せるさ」

 

そうして私達はお互いに笑い合う。

何だかこの時間が楽しくて仕方がない。次に髪をとかしてくれる日が、はたまた一緒にお出かけできる日が、彼と過ごす全部が楽しみで仕方ない。

 

ついつい、我慢できなくて少しだけその日を想像してみる。

朝起きて、2人で集まって準備をして、最後の仕上げに彼にまた今日みたいに髪を整えてもらう。そしてこれから行く場所について話したりしながら電車に乗る。ついたらのんびりとまずは一緒に歩いて……。

それから……それから……ふふっ♪

 

その日を思うだけで心が満たされていく。

1日だけじゃ足りないくらいにやりたいことがどんどん溢れてくる。

想像だけでこんなに幸せなのだからそれが現実になったときはもっともっと今以上の幸せを感じるだろう。だって大好きな人が隣にいるんだもの。

この瞬間だけは、きっと他の誰よりも負けないと自信を持って言える。だって、今この時だけは私が世界で一番幸せなウマ娘なんだから。

 

早くその時が来てほしいなと思いながら、私は彼に微笑むのだった……。

 

 



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トレーナーとの約束でそれはもう気分はご満悦なマチカネタンホイザの話

学園の授業が終わりやっとトレーニングの時間だと少しウキウキ気分で廊下を歩いて行くと程なくしてトレーナー室へと辿り着き、そのままドアノブに手をかけ元気よく開ける。

 

「お疲れ様ですトレーナーさん! 今日も頑張ろう~!」

 

そう言いながら入ったときに真っ先に私の目に入ったのは体をビクッとさせ驚いた表情をしたトレーナーさんだった。

 

「ん、んんん? トレーナーさんその美味しそうな物は一体……」

 

「や、やあタンホイザ……」

 

そう言って誤魔化すように頬を掻く彼に私は詰め寄る。

今も作業している彼の机の上には、それはもう美味しそうなカップケーキが一つだけ置いてあったのだ。

まだこれから食べようと思っていたのか一口分だけ齧った跡がある。

 

「えーっとですねタンホイザさん。これには深い訳がありまして……」

 

「ほほう、ではその訳を聞かせて貰いましょうか?」

 

「……実は一つ余っちゃったから良かったらどうぞってたづなさんから貰ったんですタンホイザ様」

 

「なるほどそういうことですか〜。それなら仕方ないですね」

 

「うんそうだよ仕方ないんだ。だから俺は悪く無いと思うんだけどどうかな?」

 

「でもトレーナーさん? 私が来る前に食べるのは良くないと思いますけど?」

 

ジト目をしながら言うと彼はただ黙って目を逸らす。

そして暫くすると観念した様に肩を落とした。

 

「……我慢できなくて一人で食べちゃおうとしたんですよね? こっそりと」

 

「あ、あはは……」

 

やっぱりかと思いため息をつく。

まったくこんな美味しい物を独り占めしようなんてこの人は本当に困ったものですねえ、なんて思いながらも私の表情はニコニコと晴れやかだった。

 

「でも私も鬼じゃありません。なのでこうしませんか?」

 

「……というと?」

 

「私たちいつも半分こしてきたじゃないですか。だからその、私もちょ〜っとそのカップケーキ食べたいな〜って。……ちらっ?」

 

そう言って私がわざとらしくチラ見する仕草で私も欲しいアピールをすると目の前の彼は呆れたような顔をしながらも笑みを浮かべていた。

 

「最近トレーニングも頑張ってるし私もご褒美がほしいな〜……えへへ、なんて」

 

「分かった分かった、参った。降参だよタンホイザ」

 

「やったぁ!」

 

私は嬉しさのあまりその場でぴょんぴょん跳ねると彼はその光景を見て微笑んでいた。

そして私は早速とばかりにトレーナーさんの隣の椅子に座り、その手にあるカップケーキをじっと見つめる。

 

「えへへ、あ~ん♪」

 

「はいはい」

 

口を開けて待つとトレーナーさんは恥ずかしげもなくそれを私の口に運んでくれた。

そして口の中に優しい甘さが広がると同時に幸せが広がっていく感覚を覚えて思わず顔が緩んでしまう程に美味しい。

 

「おいひぃ~!」

 

「それは何よりだ。はいもう一口」

 

再び運ばれてきたそれに今度は勢い良く食いつく。

やっぱりスイーツは格別だと感じると共に、こうして彼と一緒に食べる事で更に幸せな気持ちになれるのである。

 

それから二人で楽しく談笑しながらカップケーキを食べつつその様子に満足気に笑う彼を見ながら私はまた一口と頬張っていき、ついに最後の一欠片まで食べ終えると再び元気よく立ち上がった。

 

「幸せのお裾分けありがとうございます。これで今日のトレーニングも頑張れちゃいます!」

 

「うん、その意気だぞタンホイザ」

 

「もうトレーナーさんのおかげで調子は絶好調! むんっ!」

 

「それは流石に調子上がるの単純過ぎないか……?」

 

気合いを入れてガッツポーズをする私に彼は何とも言えない表情をしていたがそんなことは無い。確かに単純かもしれないが実際に今の私はやる気に満ち溢れていて凄く良い気分なのに違いはない。

 

それにきっと嬉しいのはスイーツだけじゃないから、こんなにも心が満たされているのはあなたがいるからなんですよ。なんて……流石に言えなかったけどね。

 

「でもトレーナーさんがスイーツが好きなんて知らなかったな~」

 

「そうか? まあ確かにあまりイメージ無いかもな」

 

「はい、ちょっと意外です。甘いもの苦手なのかと思ってました」

 

「むしろ甘い物は好物だよ。仕事終わりにコンビニとか寄って帰るときもあるぐらいだし」

 

「そうなんですか!?」

 

驚きの発言だった。

まさかあのトレーナーさんが甘い物が好きだとは……。

これは是非今度一緒にスイーツ巡りをしてみたいものだ。

 

「ちょっと恥ずかしいけど、スイーツが好きじゃなかったらタンホイザに隠れて食べようとしないって……」

 

「あっそれは確かにそうですね」

 

「そこ納得されると俺としては中々に複雑な気分なんだが、いや自業自得なんだけどさ……」

 

そう彼は苦笑いをしながら言っているがその反応も仕方ないと思う。

だって私がもし同じ立場なら絶対同じようにしていたはずだから。

だから別に変なことじゃないですよってフォローをしておくと安心したようにトレーナーさんは笑ってくれた。

 

「でもでも、スイーツが好きなら教えて下さいよ〜。私結構美味しいところ知ってますよ?」

 

「いやいや、でも考えてみてくれよ。男一人でスイーツ店って結構難易度高いんだぞ?」

 

「うっ確かにそれは……」

 

言われてみればそうかもしれない。

女性ならまだしも男性一人で行くとなると少しハードルが高い気がする。

そもそもそういうお店の人達にとっては男の人が一人で来るのは珍しいだろうし余計に目立ってしまいそうだ。周りからの視線も集めそうだし。

 

「むぅ……何か良いアイデア無いかなぁ」

 

「タンホイザ?」

 

考え込む私に彼が不思議そうな顔をしていると突然頭の中で閃いた。

そうだ、これなら大丈夫かもしれない。

 

「ねぇ、トレーナーさん。私良い案を思いつきましたよ!」

 

「ほう、それは?」

 

興味深そうに聞く彼に対して私は胸を張って答える。

 

「ふふん、それはですね……。私たち二人で行きましょう!」

 

「俺たちで?」

 

「はいっ二人で行けば周りの人もそこまで気にしませんしトレーナーさんも堂々と食べられますよ!」

 

どうですかこの名案は!

そう言わんばかりに自信満々に提案する私に彼は呆気に取られていたがやがて小さく笑みを浮かべた。

 

「なるほど、それなら確かに問題はないだろうけどさ」

 

「でしょう? だから一緒にお出かけしましょ!」

 

「……分かった分かった」

 

私の誘いをトレーナーさんは二つ返事で了承してくれた。

やった! と内心喜びながら早速スケジュール帳を開いて予定を確認して行く。

 

「えへへ、楽しみだなぁ〜」

 

ルンルン気分で鼻歌を歌いつつ手帳を眺めていると不意にトレーナーさんが呟く。

 

「でもタンホイザは良いのか? いくら相手が俺だとはいえ、一応異性と二人きりで行くわけだが……」

 

「……へっ?……はわわっ!」

 

「ああ、やっぱりそこ気づいてなかったのね」

 

彼のその言葉を聞いて私はようやく気付いた。

そういえば私ったら何て大胆な事を言ってるんだろう。

彼と一緒にスイーツを食べに行く約束をしただけでも嬉しいってことに気を取られてそれがいつも行く友達ではなく、彼と二人きりだと意識すると途端に恥ずかしさが込み上げてくる。

 

結果、私は思わず赤面して俯いてしまうのであった。

 

「えっと……大丈夫かタンホイザ?」

 

「ひゃい!?」

 

「俺としてはキミのその気持ちが嬉しいよ。駄目そうならそれでも構わないからさ」

 

「そ、そんな事無いです! 全然そんな事無いです!」

 

彼の言葉に慌てて否定する。

そんな事は無い。一緒にお出かけに行けるのは本当に嬉しくて幸せだと思っているしただそれを素直に伝えるのが恥ずかしかっただけ。

だけどここで引き下がる訳にはいかない。

折角のチャンスを棒に振るような真似だけは絶対に嫌なのだ。

 

「えっと、その……私だってトレーナーさんと一緒なら、嬉しい……ですよ?」

 

勇気を振り絞って途切れ途切れになりながらも何とか言葉を紡ぐ。

しかし、自分でも分かるぐらいに声が小さくて最後の方は消え入りそうな程だった。

 

「……タンホイザ」

 

「は、はい……」

 

「ありがとう。それと意地悪したみたいでごめん。その、俺もキミと一緒に行っても良いかな」

 

そう言うと彼は優しく微笑んでくれた。

そして私はというとその笑顔を見た瞬間顔から火が出るんじゃないかと思うくらいに真っ赤になり、まともに喋る事が出来なくなってしまうのだった。

 

「キミの言うおすすめの店は凄く気になるんだ、駄目か?」

 

「ううん、大丈夫」

 

心配そうに聞いてくる彼に辛うじて返事をするが、正直頭が回らず心臓がバクバク鳴っていて思考が定まらない、緊張し過ぎて倒れてしまいそうだ。

 

「なら決まりだな。いつ行こうか」

 

「じゃ、じゃあ次の休みのときが良いです!」

 

「了解。場所はタンホイザにお任せしても?」

 

「はいっバッチリ決めておきますね!」

 

「流石に頼もしいな」

 

こうして私たちはスイーツ店へのお出かけが決まった。

まだ始まってもいないのにこんなにもドキドキしてしまうなんて、今からとても楽しみなのと緊張が止まらなかった。

でも、そのワクワクや緊張以上に彼と一緒にいられる時間ができたのが嬉しくて夢のようだとさえ思っちゃう。

 

「まあでも、まずは今日のトレーニング頑張ろうなタンホイザ?」

 

「うん!」

 

元気よく返事をして、それから二人で練習場へと向かって行く。

浮かれたままじゃいけない、しっかりと気持ちを入れ替えて頑張らないと。

まずは練習練習。

そう思いながら着替えを済ませてアップも終わり、いざ準備万端となったときにタイミング良くバインダーを持ったトレーナーさんが姿を見せる。

 

「よし、今日は念入りにやっておくぞ」

 

「はい!」

 

私の返事に満足そうに彼は一度頷いて、そのまま指示に従いトレーニングを進めて行く。その間も彼は真剣に私を見てくれてて、その分私も頑張ろうって気持ちがどんどん溢れてきた。

伝えられたメニューをこなして行くうちにもまだまだ走れそうな気がして、体が凄く軽くなって行くような気分だった。

 

「……ん? おい、ちょっとまてタンホイザ! ペースが早すぎるぞ!?」

 

そんな中でふとトレーナーさんの声色が変わる。

普段の落ち着いた雰囲気とは違った焦りを含んだ声だ。

 

「えっ……あっ」

 

「タンホイザ、一旦落ち着け!」

 

言われて初めて気付く。

私は知らず知らずのうちにかなりのペースで走っていたようだ。

自分の中ではちゃんといつも通りのリズムで走っていたつもりだったのに、彼の言葉が耳に入ってから全然そんなことはないことにやっと気が付いた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

息切れを起こしながらゆっくりと減速して立ち止まると同時に体から力が抜けていくのを感じる。

ちらりと彼の方を見ると大慌てにこちらに向かってくてくれているのが見える。

持っていたバインダーやストップウォッチなどが乱雑に地面に放り投げられているのでその焦りようが見てすぐにわかった。

 

「大丈夫かタンホイザ、どこか具合が悪いとか痛い場所とかあるか?」

 

そしてそのまま駆け寄ってきたトレーナーさんが私の顔を覗き込むようにして尋ねてくる。

 

「いえ、そういう訳じゃないんですけど。ちょっと張り切りすぎちゃったと言いますか」

 

「取り敢えず一度トレーナー室に戻るぞ。ほら立って、ゆっくりと歩くんだ。良いな?」

 

そう言ってトレーナーさんは私の手を取り、軽く引っ張るようにして歩き出す。

 

「ほら、行くぞ」

 

「わわわ、待ってくださいよ」

 

「待たない。今はキミが第一だ」

 

そのままズルズルと彼に手を引かれながら私たちトレーナー室にまた帰ってきてしまった。やる気はあるのにこんなミスをしてモヤモヤが晴れない。

その後一度足を見てもらった後、特に問題はないのか安心した表情でホッと息をついた後に彼は言った。

 

「うん、取り敢えず何も問題はないな。……それで、どうしてあんな無茶をしたんだ?」

 

「そ、それは……その……」

 

まさかあなたと一緒にスイーツを食べに行く約束に気を取られてました、なんて言える訳もなく口籠ってしまう。

 

するとトレーナーさんは少しだけ困ったような笑みを浮かべた。

その様子はまるで私が何を考えているか察しているようで、思わずドキリとする。

 

「もしかして、さっきの俺と出かける約束と何か関係あるのか?」

 

「ち、違います! それは絶対にありえません、むしろ楽しみすぎてこうなったと言いますか!」

 

彼の言葉に思わず食い気味に否定する。

けどその後に自分の言ってしまった本音にハッとして慌てて口を塞いだ。

 

違うのに、こんな事を言えばトレーニングの言い訳にお出かけのことを出したと思われちゃう。

このままじゃ折角のお出かけが無しになってしまうかもしれない。

それだけは絶対に嫌だ。

なんとか、なんとかして誤魔化さないと。

 

でもそう思って私は必死に頭を働かせるけど考えれば考えるほど上手い言い訳なんか思いつくはずも無くて、ただただ黙って俯くことしかできなかった。

 

「……さっきまでの妙な張り切りすぎはそれか。全く、心配させないでくれよ」

 

けれど思ってた自分の帰ってくる反応と違って彼は怒っているようにはとても見えなかった。

むしろその逆で呆れたような、でも優しいいつもの彼の微笑みを向けてくれている。ため息をついているけどそれはとても嫌だから出たものではなくて、呆れもあるだろうけど同時に安堵したように彼は呟いていた。

 

「ご、ごめんなさい」

 

「うん、良いよ」

 

「ありがとうございます。でもその、怒ったりしないんですね?」

 

「ん? ああ、キミは俺に何か言われるかもって思っちゃったのね。……じゃあタンホイザ、ちょっとだけそのまま動かないでくれ」

 

「えっはい……」

 

言われた通りじっとしていると不意にトレーナーさんは私のおでこあたりにデコピンの構えをしてから指を弾く。

その後綺麗にバチンッという音が響くと共に結構な痛みが襲ってくる。

 

「いったぁ!?」

 

「ならこれで許すってことで」

 

「むぅ〜、酷いですよ〜」

 

抗議の声を上げるも彼はどこ吹く風といった感じに私を見ながら声を抑えてそれはもう楽しそうに笑っていた。

 

「全く、別にこのくらいでキミにどうこう言うつもりなんてなければその程度で崩れるような信頼関係を築いてるつもりもないぞ俺は」

 

「……」

 

「むしろ俺なんぞと一緒に出かけるのが嬉しいって思ってくれる方が正直嬉しいくらいだし……」

 

少し照れくさそうに頬を掻きながら彼は言う。

ただすぐその後一つ咳払いをして思案する姿を見せながら言葉を続けた。

 

「今日はこのままやるとまた同じことになりそうだな……。よし、ならもう先に出かける予定を今決めとくか」

 

「え~っと、どういうこと?」

 

「今から何をしようかってワクワクしてるんならさ、もう今のうちに全部決めちゃって後はその通りに行動すればいいんじゃないかなって。そうしたら少しは頭の中がスッキリするだろう?」

 

「あっなるほど……」

 

確かに今の私はこれからの事に頭がいっぱいになってしまっていて冷静な判断が出来なくなっているかもしれない。

それならばいっそ先んじて決めてしまうというのは悪く無いのではないだろうか。

 

「勿論今日の分のトレーニングはどこかで補うぞ。一日休んだ程度でタンホイザが負けるとは微塵も思わんが一応な」

 

「分かりました! なら早速私おすすめのお店を教えてあげますね!」

 

「ははっ急に元気取り戻したな。よし、じゃあまずは何処に行くかを決めようか」

 

「ふふん、美味しいスイーツが沢山ある所ですから期待しててくださいよ?」

 

「おっ! タンホイザおすすめのスイーツ店は気になるな。楽しみだ」

 

お出かけの約束が無くなってしまうかもしれないという不安が消えて、むしろ信頼関係とまで出されては嬉しくならないわけがない。

それからにっこりと満面の笑みを彼へと向けながら私たちはお互いに笑い合って高揚した気分を隠さずにお出かけの予定を決めていく。

 

こうして彼と話している内に段々とあんなに慌ててた心が落ち着いて来て、いつも通りの調子を取り戻して行くのを感じる。

やっぱりトレーナーさんは凄いなぁってそんな事を思いながら私は会話に耳を傾けて、彼の楽しそうな笑顔を見続けるのだった。

 

「……とりあえずは大体は決まったかな?」

 

「うん、これでバッチリ!」

 

あれから小一時間程話し合った結果、お店選びは無事終了となった。

彼に選んでもらったお店の候補を書き写したメモ帳を見ながら満足気に微笑むと、そんな私の姿を見た後に彼も同じように笑ってくれた。

なんだかそれだけでとても嬉しくなって、自然とえへへって笑みが溢れて止まらない。

 

「けど思ったよりは早く決まったな。時間も余ってるしどうする、もう今日は解散にするか?」

 

「あっ! だったら一つ良いですか」

 

「おう、良いぞ」

 

「えっとですね、その……残り時間だけでもいいので、やっぱりちょっとだけでもトレーニングしたいなって……」

 

私がそう言うと、彼は驚いたような顔をした後すぐに優しく笑い始める。

 

「ほら、やっぱりお出かけ決まって嬉しいですけど元々トレーニングだった日を何もせずに出かけるってのも、それはそれでなんだがモヤモヤするなーって」

 

「……そっか、そうだな! よし分かった任せとけ。じゃあまた軽く準備運動してから始めよう」

 

「はい!」

 

私は返事をするとその場で屈伸したり伸びをしたりして身体を動かし始める。

たださっきまでとは違っていつもよりも動きが軽い気がする。

頭も随分すっきりしている。

きっとこれはトレーナーさんの言う通りさっさと予定を決めておいたのが良かったからだろうか、とにかくトレーニングのことだけに集中できそうだ。

 

「もうやる気は絶好調です! どんなメニューでもどんとこいですよトレーナーさん!」

 

「おお、それは頼もしいな。なんなら俺も後ろでメガホン持って応援してやろうか?」

 

「ええっ!? いやいや流石に恥ずかしいよ〜」

 

「ははっ冗談だよ」

 

彼と二人、笑い合いながらトレーナー室を出て改めてグラウンドへと軽い足取りで向かって行く。

 

彼の声援を背中に受けながら、私はただひたすらに芝の道を走り続ける。

最初は少しだけあった息苦しさや疲れも今はもう全く感じない。

彼の言葉一つ一つが私の力になってくれて、走る度に私の気持ちを奮わせてくれるのがまるで彼が隣にいるだけでどこまでも強くなれるような、そんな錯覚さえ覚える。

今ならどんな距離を走ったところで最後まで駆け抜けられそうだ。

 

「良いぞタンホイザ! その調子でどんどん走っていけ!」

 

「はいっ!」

 

もう気分が高まってペースを間違えるなんてミスはしない。

だって私は今、最高のコンディションで、最高の状態で、彼に向き合えるのだから。

 

でも、でもね。

私が今このコンディションでいられるのは今もずっと私の隣で私を支えてくれているあなたがいるからなんだよ。

その事をちゃんと伝えられる時が来たらその時は是非とも聞いて欲しいな。

 

そんな事を考えながら私は今日一番のペースで芝を駆け抜けていく。

このまま駆け抜けて、そしてゴールした時に彼と一緒に笑えたなら。

私はもっと幸せになれると思うんだ。

 

 

 

そうしてまた時間が経過して、ついに迎えました一緒にスイーツを食べに行く日。

もうすでに私たちはお店の中に入っていて、頼んだスイーツたちがテーブルの上に広がっている。

席に座りながらチラッと横目で彼を見るとそこには私と同じようにテーブルの上に並べられたケーキの数々に目を輝かせて興奮を抑えきれない様子のトレーナーさんがいた。

 

「すげえ、全部美味しそうだなこれ……」

 

「ふふっ喜んで貰えて何よりですよ」

 

「ありがとうタンホイザ! こんなに沢山美味しいスイーツ食べれる機会なんて滅多に無いから本当に嬉しいよ」

 

「いえいえ〜。こちらこそ付き合ってもらってありがとです」

 

私たちはお互いに笑い合うと、早速目の前のスイーツに手をつけ始める。

どれもこれも見た目が綺麗で可愛くて、見ているだけでも楽しくなるような物ばかりで一口食べればもう止まらない。

私たちはお互いに食べるのに夢中になりながらも、時折視線を合わせてはクスッと笑う。

 

「うん、やっぱりここの店は当たりだな。タンホイザのオススメって言うのも納得できる」

 

「でしょ? ここの店は甘さ控えめのフルーツタルトが特に評判が良いんですよ」

 

「へぇ、そうなのか。でも俺はこっちのモンブランも好きだな、なにこれ、めっちゃ美味くて手が止まらないわ。ほら、タンホイザも一口」

 

そう言って彼はフォークに刺した一切れを差し出してくる。

 

「おいひぃ~!」

 

「だろっ!」

 

私はそれを躊躇うことなく自分の口に運べば、舌の上で栗の風味が広がっていく。思わず頬が落ちそうになるぐらいに幸せな味がしてつい顔が緩んじゃう。

だけどそれはトレーナーさんも同じみたいで、彼は満面の笑みを浮かべながら満足気に笑っていた。

 

そのまま二人ともスイーツの感想だったり、色々な話をしながら時間を過ごして行くと気付けばいつの間にか時間はあっという間に過ぎ去っていてお互いの手元には空になった皿だけが残り、後はもうルンルン気分でお互いにご馳走を言って席から離れていった。

 

そんな幸せな時間を十分に堪能した私は今、お店の外で会計をしてくれている彼を待っている。

 

「……えへへ」

 

ついさっきまでの楽しい時間が思い出されて、自然と表情が緩む。

なんだか彼とこうしてスイーツを食べた事が夢のように思えてしまう。

でもこれは紛れもない現実なんだって思えるのは、今の私の胸の中に温かな気持ちが溢れかえっているからだ。

 

そうして一人でニヤけていた私の耳に、不意に聞き慣れた声が飛び込んでくる。

声が聞こえてきた方に振り返るとそこには少し早歩きで近づいてくるトレーナーさんの姿。

 

「お待たせタンホイザ。ごめん、ちょっと遅くなった」

 

「いえいえ全然大丈夫ですよ〜」

 

「なら良かった。それじゃあ次の場所に行こうか」

 

「うんっ!」

 

そう言って私たちはゆっくりとお店を後にして、再び街中を歩いて行く。

今日の目的の第一はここのスイーツを食べることだったけど、それだけじゃ私たちのお出かけは終わらない。

 

あのときトレーナー室でお出かけの予定を決めたとき、どうせなら他の場所も見て回ろうか、という話になっていたのだ。

なのでこの後はショッピングモールに寄ったり、公園を散歩したりと色んな場所を彼と一緒に巡っていくつもりである。

だからまだまだこの楽しくて幸せ溢れる時間は続いていく。

隣りに歩く彼を意識するたびトクントクンと心臓が高鳴って私は嬉しくて仕方がない。

 

きっと今日一日、私はこのドキドキを忘れることは無いだろう。

そして私は、そんな幸せに満ちた時間を噛み締めるように一歩ずつ歩みを進めていく。

 

その足取りはとても軽かった。

 



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ロードワーク中に少しトレーナーと寄り道しちゃうマチカネフクキタルの話

外は雲一つない青空が広がり優しい風が吹き抜けて絶好のトレーニング日和な午後の時間。

今日の練習としてロードワークが入っているため後はもういつも通りストレッチをして、それから軽く走るルートを確認してから始めていけばいいのだが。

 

「……さ、寒いですトレーナーさん!」

 

「言うな、もっと寒く感じるだろうが」

 

今はちょうど昼過ぎくらいだがそれでもこの時間帯はまだ肌寒さを感じるものだ。

吐く息は白く染まり、耳や尻尾の先まで冷たくなってしまっている。

こんな中ジャージ一枚で走るなんて正直言ってやりたくない。

 

「というかどうして私はジャージでトレーナーさんはそんな暖かそうなんですか! ずるいですよ!」

 

「ずるいってお前……」

 

そう言いながら彼も寒いのか腕をさすっている姿が伺えるがそれでもジャージの私よりは暖かい格好だ。

私が文句を言うのをよそに彼は右手をチョップの形に変えて、優しく私の頭へ向けてゆっくりと振り落とす。

もちろん痛みはなく、ぽすっと言う音が小さく鳴るだけでむしろ心地よい感覚があった。

 

「ほら、とりあえず早くストレッチしないことには始まらないぞ」

 

「むぅ……分かりました」

 

少し不服ではあるが彼の言葉に従って柔軟を始めることにする。

ただ今回のロードワークには少しだけ不満点が一つあったりするのだ。

 

「……やっぱり一緒についてきてくれないんですかトレーナーさん?」

 

「ウマ娘相手に人間の俺がついていけるわけないだろう。それに俺はバイクとか乗れないんだし」

 

「それはまあ、そうかもしれませんけどぉ……」

 

そうなのだ。

今回ロードワークに出るにあたって彼が一緒に来てくれない。

確かにウマ娘の脚力に追いつける人間などいないと思うが一人で走るのも寂しいもので、せめて後ろからでも見守っていて欲しいものである。

 

「別に危ないことなんてしないんだし大丈夫だって、知ってる道を走ってトレセン学園戻ってくるだけなんだからさ」

 

確かに彼の言う通りこの辺りの道はほとんど覚えているし仮に迷ってもスマホがある。

仮にも自分もウマ娘、心配事が起きるなんてことはほぼほぼ無いと思う。

 

「……今日のフクキタルの運勢は確か悪くなかったんだろう?」

 

「ふっふっふ、聞いて驚け見て笑えですよ!今日は大吉、それも超特大の大吉なのです!」

 

「おお、それなら何も怖くないじゃないか。キミの運も味方してくれてるんだし」

 

「……確かに運勢は最高なんですけど、それだけでは解決しない私の複雑な心境と言いますか何と言いますか……一人ぼっちなのはちょっと嫌と言いますか……」

 

両指を合わせながらもじもじと、小さな声でそう呟いた。

まさにそれとこれとは話が別、少なからずあるこの乙女心としてはやはり寂しいものは寂しかったりもする。

 

とはいえこれ以上わがままを言うのも気が引けるため渋々納得し柔軟を進めていく。

けれど私の耳はぺたんと垂れ下がり尻尾は元気なくゆらりと揺れていた。

そんな様子を見かねた彼は腕を組みながら困ったように頭を掻いている。

そして一つ小さなため息をついた後、何かを思い立ったかのように口を開いた。

 

「……分かった、分かったよフクキタル。俺も一緒に走るから」

 

「えっ!? 本当ですかトレーナーさん!」

 

「……そんな顔されるよりは俺でも一緒に走ってついていく方が全然ましだ」

 

「こ、この後やっぱり無しとか絶対駄目ですからね?」

 

「そんな大人げないことするか!……ただし、速度出しすぎて俺を置いていくとかは無しだからな? それでいいなら一緒に行くよ」

 

「もちろんですとも! そうと決まれば早速行きましょう!」

 

「一気に元気になってまあ……」

 

呆れたような声を出しながらも彼が笑みを浮かべていることに気がつく。

きっと私のことを思っての言葉だったのだろう、その気持ちが嬉しくてつい頬が緩んでしまう。

そうして少し彼が準備のために着替えるのを待って、急遽決まった彼と二人でのロードワークという名の少し遅いペースでのランニングが始まったのでした。

 

「……ふう、なかなか良いペースで走れてるんじゃないか?」

 

「そうですね、天気もいいですし気分も良い感じですよ!」

 

二人並んでトレセン学園から近くの河川敷に渡って走ることおよそ一時間ほどだろうか、私達は予定通りにロードワークをこなしていた。

彼に合わせて走っているためいつもよりペースはやや遅めではあるものの、それでもいい汗を流すことができて満足している。

 

「どうですか、私の走りについて来れていますか?」

 

「ああ、大丈夫だよ」

 

「それは何よりです、このまま最後までついてきてくださいね!」

 

呼吸音が二つ分響く中いつもなら少し離れたところで見守ってくれている彼が、今は私の隣で一緒に走っていることが嬉しくて楽しくて仕方なかった。

そんな状態だからだろうか、ついつい何度も走る彼の顔を覗き見てしまう。

その顔は普段あまり見ることのない真剣なもので、普段は優しい瞳が鋭く光り、前を見据える様に私はいつの間にか目を奪われていた。

 

「おいフクキタル、前見ろ前を。転ぶぞ?」

 

「ふぇっ!? はっはい!」

 

言われて慌てて前を向く。

幸いにも足を踏み外したりするようなことはなかったが、それでも心臓がバクバクと鳴っていてうるさいくらいだ。

そんな様子を不思議に思ったのか彼は首を傾げながらこちらを見ている。

まさかあなたに見惚れていましたなんて言えるはずもなく、私は誤魔化すように咳払いをした。

そして再び前を向いて走り出し、彼もそれに倣って同じように路上の道を駆け抜けていく。。

 

その後も何度か同じようなやり取りをしながら順調に進んでいくが、流石にウマ娘の私と人間の彼の体力差が出てきたのか少しずつだが距離が出来始めてくる。

彼の顔は先ほどまでとは違い、もうすっかり余裕の無さそうな表情へと変わっている。それでもついて来ようとしてくれるのは彼の優しさだろうか。

 

「トレーナーさん、近くに公園があります。あそこで少し休憩にしませんか?」

 

「ん、おお。……そうだな、うん。流石に休ませてもらおうかな……」

 

疲れが滲む声でそう言った彼はゆっくりと減速していき、やがて止まると同時に膝に手を当て荒い息を整え始める。

ぜぇはぁと肩を上下させる彼をゆっくり歩かせながら公園のベンチまで連れていきそこに座らせた。

 

そして私は近くの自販機でスポーツドリンクを買い、それを彼に手渡すとまだ少し震える手でペットボトルを受け取ると彼はゆっくりと飲み始めていく。

そしてまたぐったりとした様子で座り込んでいた。

 

「すみません、無理させてしまいましたよね?」

 

「そんなこと気にしなくていいよ。元々俺が言い出したことなんだし」

 

そう言ってくれる彼の表情はまだ辛そうではあるが、どこか清々しいものを感じられた。

でも今の私はそれを素直に受け取れるような心境ではなく、申し訳なさから思わず俯いて黙ってしまう。

本当は無理に私の速度に合わせて彼の方が走ってくれていたのではないか、そんな考えばかりが頭に浮かび胸の奥がきゅっと締め付けられるようだった。

 

そんな時頭にぽんっと優しく何かが置かれる。

それが彼の掌だと気がついたのは、彼がそのまま私の頭を撫で始めたからだ。

驚いて反射的に彼の方を見るとその目は柔らかく細められていて、その視線は真っ直ぐに私に向けられていた。

 

「何らしくもなく落ち込んでるんだよ。まさか私が無理に一緒に走らせたせいでとか考えてないだろうな」

 

図星を言い当てられビクリと身体が小さく跳ね上がる。

けれどそんなことはお構いなしと言わんばかりに彼は言葉を続けていく。

 

「別に俺の指示を絶対守れってわけじゃないんだ。お前が一人が嫌だって言ってくれたから俺はその意志を汲んだだけだろ?」

 

「でも……」

 

「でもも何もない、フクキタルは指示を聞くロボットじゃないんだ。お前がこうしたいって言えば俺はキミの意思を尊重して調整するだけ。それがトレーナーって仕事なんだよ」

 

そう言う彼の声はとても力強くて頼もしくて、何よりも温かい。

きっと今の言葉は私を励ますために言ってくれている、その事実が嬉しくて私はついつい口元が緩んでしまう。

そうして笑みを浮かべたのがバレたのか彼も少し照れたように頬を掻いていた。

 

その後お互いに顔を見合わせて少しの間笑い合うと彼が立ち上がり大きく伸びをする。

 

「さて、結構休めたから動けるようにはなったけど。……少し小腹が空いたな」

 

彼がそう呟いたのを聞いて私も同じことを思ってしまったせいか、二人揃って同じタイミングでお腹が鳴るという奇跡が起きた。

恥ずかしそうに笑う私たちだけど、なんだかおかしくて次の瞬間には吹き出してしまう。

 

「ここから一番近いところとなると……商店街か」

 

彼は腰に手を添えて考える仕草をしながら辺りを見回す。

この公園からは歩いて十分ほどなので、行けない距離ではない。

 

「でもまだトレーニング中ですけど寄り道しても大丈夫なんですか?」

 

「まあたまには良いじゃないか、俺も一緒なんだし。少しくらいなら問題はないさ」

 

「ふふっそれもそうですね。では早速行きましょう!」

 

私は嬉しさを隠しきれずに彼の腕を取り、そのまま引っ張っていく。

彼は驚いた様子だったがすぐに笑顔になると私についてきてくれた。

 

こうして私達は商店街へと向かっていく。

商店街は相変わらず賑やかで活気があり、そこを歩く人達は皆楽しげだ。

そんな様子を見ながら彼の隣を歩いているとついつい自分も楽しくなって自然と足取りが軽くなる。

 

「なあフクキタル」

 

「はい、どうしました?」

 

「今俺ガッツリ食べる気分じゃないからさ、どっかでアイスとか買わない? 奢るからさ」

 

「本当ですか!? やったー!」

 

その提案に私は大喜びしていると彼は苦笑いしながらも嬉しそうな視線を送ってくれた。

 

そして少しルンルン気分で適当なスーパーの中へと入って行く私たちは、色々と見て回りながらお目当てのものを探し始める。

そんな中、不意に彼が足を止めたので一体何があったのかと振り返るとそこにはウインナー等の試食コーナーが置いてあった。

 

「ほお~、なんかこれ美味そうじゃない?」

 

「えっ?」

 

唐突のその言葉に思わず聞き返してしまったが、彼は特に気にした様子もなく手に持ったウィンナーを食べ始めた。

 

「うん、美味い!」

 

そう言って彼は満足げな表情を見せる。

その様子はまるで子供のようで、ついつい可愛いと思ってしまった。

 

「ほら、フクキタルも食ってみなよ。これ結構美味いわ」

 

彼は一口サイズになったそれを私の口に近づけてくる。

正直ちょっと恥ずかしいが勇気を出して小さく口を開くと、その中にそっと入れてくれる。

 

「ッ!?」

 

ただそのとき、距離感を見誤ったのか少しだけ彼の指に私の舌が触れてしまった。

慌てて口を離すと彼は首を傾げるようにして不思議そうにしている。

 

「どうだ?」

 

「す、すみません。その……あ、味が分かりまひぇん……」

 

動揺しているせいなのか呂律が回らずに上手く喋れない。

ただ彼の指に舌が少しだけ触れてしまっただけ、なのに顔は熱いし心臓もバクバク鳴っている。

 

そんな私の気持ちなど知らないのか、彼は特に気にすることなく再びウィンナーを口に運ぶとまた同じようにして差し出して来た。

今度は慎重に、ゆっくりと彼の手にあるそれを食べる。

 

先程と同じように彼の手に触れてしまわないように気を付けていくと、ふと 「もう一度あの感触を味わえるチャンスですよ」って伝えてくる心の中の悪の自分も現れてくるのを頭を大きく振って撃退する。

一度意識したせいか、悪の自分が出てきたせいか、余計に恥ずかしくなってしまってなんとか食べれたけどその味は結局のところよく分からなかった。

ただただ恥ずかしいという感想しか生まれない。

 

「なぁ次はどれにする?」

 

「うぅ……もう勘弁してください……」

 

その後も色々なものを勧められたが、恥ずかしくて全て断ってしまった。

色んな意味で限界を迎えた私にもはや余裕なんてなく、ただ俯いて黙り込むことしかできなかった。

 

そんな私の様子を察してくれたのか、くすくすと笑いながらようやく目的のアイスを二つ持ってレジへと向かう。

会計を済ませて外へ出ると、そのままアイスを手に持ちながら食べ歩くことにした。冷たい甘味が疲れた身体に染み渡るように広がっていき、次第に心が落ち着いてくるようだ。

 

隣りを歩く彼もまた私と同じ感想を抱いたらしく、幸せそうに頬を緩めていた。

その横顔を見ていると胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。

いつの間にか、幸せそうな彼の顔を私はじっと見つめては一人でに満足していた。

 

「ねえトレーナーさん。今度お休みの日にどこかへ遊びに行きませんか」

 

「今ほとんど遊んでるような状況なのに?」

 

「はい! 何となくですけど、たまには今日みたいに二人でお出かけしたいなと思ったんです」

 

「うん、そういうことなら別に構わないよ」

 

「ふふっ約束ですよ」

 

そう言うと私は小指を差し出す。

彼は不思議そうにしていたが、すぐに意図を理解して小指を出してくれた。

 

「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本の~ます♪」

 

「はは、フクキタルがそれ言うと本当にそうなりそうで少し怖いな」

 

「むっ失礼ですね。流石にそんなことはしませんよ」

 

「はいはい、分かったよ」

 

「分かってないじゃないですか! もう!」

 

「ごめんって、悪かったってば」

 

ぷいっとそっぽを向いた私の頭を撫でてくる彼。

しかしそんなことをされたら許してしまう自分が心のどこかにいるわけで、ついつい笑ってしまう。

 

「それじゃあそろそろトレセン学園に戻るか」

 

「はい!」

 

「……あ、ちゃんと今回遅れた分の練習は後々取り戻すからな」

 

「うっ!……は~い」

 

商店街を出る頃には日も沈みかけており、辺りは夕焼けに染まろうとしていた。

名残惜しいが今日はここまでということで来た道を戻っていく。

帰り道でも彼と一緒だととても楽しく感じられて私は終始笑顔だった。

そして気が付くとあっという間に校門の前へとたどり着いてしまい、なんだかこのまま別れるのが寂しくて、もう少し一緒に居たいなって思いが強くなる。

 

だから思わず彼の袖を握ってしまった。

 

「フクキタル?」

 

「あ、あの……その……」

 

どうしてか言葉が出てこない。言いたいことがたくさんある筈なのに、上手く声に出せない。

 

「きょ、今日はその、一緒に走ってくれてありがとうございますトレーナーさん。えっと……凄く嬉しかったです」

 

「そう言って貰えると嬉しいよ。俺も頑張って走った甲斐があるってもんだ」

 

「それでその、またこうして一緒に走ってくれるとその、もっと嬉しくなるといいますか。できれば明日も一緒に走りたいというか……ええっと」

 

自分でも何を言っているのか分からないし上手く言葉で表せない。

それでも彼は優しく微笑んでくれている。

その表情を見た瞬間、私の胸に温かい想いが溢れてきて止まらない。

 

「ごめんフクキタル。流石に明日は無理」

 

「うぅ……そうですよね」

 

けれど流石にもう一度はやっぱり駄目なのかと落ち込む私を見て彼は慌ててフォローしてくれる。

 

「あー違う違う、そうじゃないんだ。ごめん今のは俺が言葉を間違えた」

 

そうして彼は私に向かって手を伸ばす。

一体どういう意味だろうと首を傾げながら見つめると、彼の手が私の頭に乗せられてそのまま撫でられて行く。

 

「……恥ずかしい話、正直今日走っただけで俺もう足が限界なんだよね。多分明日俺動けなくなってるから連日は無理」

 

そう言った彼の顔はとても恥ずかしそうにしていて、頬を撫でている。

そんな彼の様子に、思わずクスリと笑ってしまって。

それが彼にも伝わってしまったのか、余計に恥ずかしくなったのか。

誤魔化すように私の髪をぐしゃぐしゃと乱暴に掻き回してきた。

 

「ちょ、ちょっと何するんですか!?」

 

「うるさい。さっきのお返しだ」

 

「もう酷いですよ! 乙女の髪は大事なんですからね!?」

 

「はいはい。悪かったって」

 

「反応薄っ!? 絶対反省してないでしょう!」

 

「ははは、いやいやそんなまさか」

 

「なんてわざとらしい……。全くもう、こんなの許すのトレーナーさんだけなんですからね!」

 

そんなやり取りが可笑しくて、ぽかぽかと全然強くない力で彼を叩く。

そして笑いながら謝ってくる彼とのやりとりが私には心地良くて、いつまでもこうしていたいと思えた。

結局その後は髪をいじった罰という建前を盾にその日は寮に着くまでずっと彼の手を握ったまま歩いていた。

彼の温もりを感じながら歩く帰り道は、いつもより少しだけ長く感じられてとても幸せな気分だった。

 

 

 

そして時間は進みその日の夜。

お風呂も終えて後は寝るだけの状態になって、お昼のことを思い出しては笑みを浮かべながらベッドの上でごろんと横になっている時だった。

 

突然私のスマホが鳴って着信を知らせてくる。

相手を確認するとそこにはトレーナーさんの名前が書かれており私は驚きながらも電話に出る。

 

「こんな夜遅くにごめんなフクキタル、今大丈夫か?」

 

「はい、問題ありませんよトレーナーさん」

 

「ありがと。実はフクキタルに頼みがあって連絡したんだ」

 

「頼みですか? それはいったいどんな?」

 

「いやその、すっごい情けない話で悪いんだけどさ。今日俺張り切り過ぎたせいか明日どころか既に今まともに動けなくてさ……」

 

彼は申し訳なさそうにしながら言葉を紡いでいく。

やはりゆっくりとは言えウマ娘相手に走りで着いてくるのは相当体に堪えたのだろう。

 

「それで、フクキタルには悪いんだけどメニューは伝えるから明日は一人でやってもらっても良い?」

 

「えっ一人ですか!?」

 

「うん、急な話で悪いんだけど頼めるか」

 

「むぅ……少し複雑ですがまあそういうことなら任せてください! このマチカネフクキタル、トレーナーさんの期待に応えて見せましょうとも!」

 

「助かる。本当にありがとう」

 

それから少し話した後私は通話を切る。

そしてスマホをぽいっと軽くベッドに投げた後、私は枕をぎゅっと抱きしめる。

折角今日一日一緒に居られたと思ったらこれである。

確かに無理をさせてしまったのは自分だけど、明日は一人きりというのはやはり寂しいものがある。

 

「仕方がないですけど、我慢しなくちゃですね。メニューが終わったらまた会いに行けば良いだけですし。……ん? 会いに行く?」

 

ふと出た自分の言葉に私は一つ閃いて、ガバッと勢いよく起き上がる。

 

「そうです! 会いに行けば良いじゃないですか。私のせいで動けないなら私が看病してあげるはまさしく道理というもの!」

 

その閃きにあっという間に元気になった私はもう一度スマホを手に取り彼へと電話をかけると、数回のコール音の後に彼は電話に出てくれた。

 

「どうしたフクキタル。何か伝え忘れたことでもあったか?」

 

「いえ、そうではなくて。トレーナーさんは明日は動けないんですよね?」

 

「うん。まあ、多分そうだね」

 

「でしたら明日はトレーナーさんの様子を見に伺っても良いですか?」

 

「えっと、つまり見舞いに来てくれるって事か? えったかだか筋肉痛程度で?」

 

そう言う彼の声色はどこか困惑しているようであった。

電話の向こう側で一つ大きなため息をする音が聞こえる。

 

「気持ちは嬉しいけど流石に良い大人が筋肉痛で動けないくらいで見舞いなんて大袈裟すぎるのと、後恥ずかしすぎるから遠慮したいんだけど」

 

「なっ!? 酷いですよトレーナーさん、私の厚意を無下にする気なんですか!?」

 

「いやだってさ、俺嫌だよ筋肉痛で担当に看病されたトレーナーって周りに呼ばれるの」

 

「大丈夫です、なんせ今日の私大吉ですから!」

 

「いやこれ明日の話だから」

 

「細かいことは気にしないでください」

 

「細かくねえ!」

 

「良いじゃないですかー! 一人は寂しいんですー!」

 

「周りの目を考えてくれよお願いだから……」

 

駄々っ子のように喚いても彼は折れてくれず、しばらくそんな楽しい言い合いが続いていく。

寂しいなんて建前を持ちながら、口では文句を言っているのにその表情は緩みきり、電話越しで聞こえる彼の声もだんだんとなんだか嬉しそうな気さえしてくる。

きっと今の私の顔も彼に負けない位だらしなくなっているんだろうなと、そんなことを考えていた。

 

結局、話は平行線のまま終わらなかったが静けさ漂う夜更けに二人分の笑い声が声高らかに響き渡っていく。

それが何だか可笑しくて、けれどこの何気ない時間が愛おしくて。

彼と過ごしていく日々の時間がこんなにも楽しくて、幸せなものだと改めて実感することが出来た。

 

彼といると感じる、この胸いっぱいに広がるこの暖かさが私は大好き。

占わなくてもきっと、私の恋路は間違いなく大吉。

大切なあなたと一緒ならこれからもずっと幸せに違いない。

そんな確信めいた予感が、私の心を満たしていった。

 

だからずっと、ずっと。

――こんな日が続きますように。

 



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黒猫さんとお友達になったライスシャワーの話

天気も快晴で過ごしやすい風に自分の髪をなびかせながら、こんな日は外で食べようかなって考えたライスは三女神像前のベンチまでやってきた。

 

ベンチには誰も座っていなくて少し一人なのはちょっと残念だなって思ったけど仕方ないよねって思いながら持ってきた弁当箱を開けてご飯を食べようとしたときだったかな。

足元から 「にゃ〜」というかわいらしい鳴き声が聞こえてきたので見てみると一匹の黒猫さんがやってきたの。

 

「あっ猫さんだ……可愛い〜。どうしたの? ライスに何か用かな?」

 

話しかけても答えてくれるわけじゃないんだけどね?

でも猫さんってじっと見つめると大体目を逸らさないからライスも見つめ返しちゃった。

凄く大人しそうな子でよく見ると首輪とかもしてないから野良猫さんかな?

 

「あっ! 猫さんも食べる?」

 

この子もご飯欲しいのかなって思って弁当箱を両手で持って差し出すように前に出すと、その黒猫は器用に前足を使って蓋を開けると中に入っている玉子焼きを口に入れてしまった。

 

「ふふっ美味しい? ライスはたくさん食べるからいっぱいあるの。遠慮しないでいいよ?」

 

人慣れしてるのかな、なんて思いながらそんな風に黒猫さんと過ごしてたら今度は膝の上に乗ってきてくれて、こちらを見る姿にひょっとして撫でて欲しいのかもって頭を優しく撫でると気持ちよさそうに鳴き声をくれる。

 

「わぁ、ライスのお膝が好きなの?……えへへ、嬉しいな……」

 

それから暫くすると眠くなったみたいで丸くなって寝始めちゃった。

それを見てるだけでライスもなんだか幸せな気分になって大満足だよ。

 

「ふふ、お兄さまにも見せてあげたいなぁ……」

 

黒猫を撫でながら空を見上げてポツリと呟いた一言。

だけどその時だったの、タイミングよくいきなり後ろの方から誰かの声が聞こえたんだ。

それは今日に至るまでずっと聞き覚えのある声で、すぐに誰なのか分かったよ。

だって毎日のように聞いている声だから間違えるはずがないもん。

振り返るとそこにはやっぱり思った通りの人物がいて思わずニコニコしちゃった。

 

「こんにちはライス。今日は猫と一緒にお昼食べてるなんて楽しそうだね」

 

「うん、そうなんだよお兄さま。今ね? 黒猫さんとお話ししてたの!」

 

嬉しくなってつい大きな声を出してしまうライスに対してお兄さまはいつも通りの優しい表情を浮かべてくれて、隣に座ってもいいか尋ねられたから勿論だと返事を返したら二人で並んでベンチに座り込む。

お兄さまと並んで座れるのはとても幸せで、胸の奥がぽかぽかしてきて思わず笑顔になってしまうの。

 

「猫と一緒にお昼なんて珍しいじゃないか。随分大人しくしてるけどライスの友達?」

 

「うん、ついさっき会ったばかりだけど仲良くなったんだよ。ほら見てお兄さま、抱っこしても全然嫌がらないの」

 

抱えている黒猫を見せるとまた小さく鳴いてみせてくれた。

それにつられてかお兄さまも興味深そうに覗き込んでくれるんだけど、そのせいかいつもよりお顔が近くて恥ずかしくて少しだけ頬が赤くなっちゃう。

今も膝の上に黒猫さんがいるから逃げるに逃げられなくてこのままじゃ緊張で心臓が壊れてしまいそうになるかも。

 

「おお、凄いな本当に大人しいや。でも出会ったばかりでこんなに懐かれるなんて一体どんな手を使ったんだ?」

 

「べっ別に何もしてないよ? ただお弁当を一緒に食べて撫でてあげてただけだから。……そしたら気に入ってくれたみたい」

 

「へえ、流石はライスだな。動物にまで好かれるなんて、やったな!」

 

ポンっと頭に手を乗せられるとそのまま優しく撫でてくれる。

それがとても心地よくて心が落ち着くんだけど、同時に胸もドキドキしてしまうのであまり変わらないかもしれない。

それでもこうやって触れ合える事が嬉しいからライスも自然と笑みが溢れてくる。

 

「でもごめんねお兄さま。せっかく会いに来てくれたのにまだご飯途中なの……」

 

「気にすることないよ、それに俺も急に来た訳だしお互い様ってことで」

 

「ううん、待たせるのも悪いから急いで食べるね」

 

「ゆっくりでいいぞ~?」

 

慌ててご飯を食べ始めると黒猫さんも真似するように口を動かし始める。

その姿が可愛らしくてちょっとだけ和んじゃったけど今は我慢して早く食べる事に専念することにした。

 

それから10分くらい経ってようやく食事も終わった頃かな。

ライスがごちそうさまでしたって手を合わせて言う頃には膝の上で丸まっていた黒猫さんはまだ眠かったのかライスの膝枕で気持ち良さそうにして寝息を立て始めたの。

 

「ど、どうしようお兄さま。もうそろそろお昼休み終わっちゃうのに……」

 

この子を置いていくわけにはいかないし、でも次の授業をサボるのも気が引ける。

するとお兄さまは慌てるライスとは反対に落ち着いた様子で話しかけてきた。

 

「大丈夫だよライス。もしこの子が起きなかったらその間は俺が面倒を見ててあげるから」

 

「で、でもそれだとお兄さまが怒られちゃうかも」

 

「それじゃあライスは授業を受けずにここに残るのかい?」

 

「それは……」

 

確かにそれは良くないことだと思う。

それにお兄さまだって本当はちゃんと授業を受けて欲しいのにライスのせいで迷惑をかけてしまうなんて絶対に駄目なことだ。

 

「ライスは授業に間に合って怒られない、心配な黒猫も俺が面倒を見ていたら安心できる。一石二鳥ってやつだよ」

 

その後ライスが何かを言う前にお兄さまは眠る黒猫を起こさないように優しく自分の膝の上へと移動させる。

するとお兄さまの温もりに包まれたからかその黒猫も起きて逃げるどころか凄く気持ちよさそうにすぐにまた寝息をたて始めちゃったんだ。

それを微笑ましく見ているお兄さまの横顔を見ていたらなんだか自分も幸せになれるような気がしたの。

 

「ほら、この子も俺の傍でも大丈夫だってさ。それなら暫くここに居させてあげるのも良いんじゃないかな?」

 

「……えへへ、ありがとうお兄さま。じゃあお言葉に甘えてもう少しお世話になるね」

 

「うん、構わないよ。だからライスも安心して教室に行っておいで」

 

「ありがとう。それじゃあ黒猫さんのことお願いねお兄さま!」

 

「ああ、任せておいて」

 

お兄さまに手を振って黒猫さんに一言お別れの言葉を告げるとライスは小走りで校舎の中へと向かうライスの足取りが不思議と軽いのは気のせいなんかじゃなくて、まるでスキップしているみたいに体が軽く感じたんだ。

 

一人で食べようと思っていたお昼だったけど。

いつの間にか黒猫さんが傍に居てくれて、そしてお兄さまと一緒に過ごせた。

たったそれだけの些細な事なのにライスの心はとても満たされていたの。

 

早く放課後にならないかなぁ……。

 

 

 

そして授業を終えた放課後に切り替わったチャイムの音が教室に響いたとき。

机にある勉強道具を全て鞄の中にしまい込み、少しだけ小走りにお兄さまと黒猫さんが待っているトレーナー室に向かう。

 

トレーナー室の扉を開けるとそこにはやっぱりいつも通りお兄さまの姿があるはずなんだけど今日は少し違ってて。

 

「ほーら、こっちだぞ〜。……ふふ、ほんと賢くて良い子だなお前」

 

「にゃぁ~」

 

扉を開けた先にあるその光景は、お兄さまが黒猫さんを抱き抱えながら遊んであげている最中で、その表情は凄く優しげで思わず見惚れてしまいそうになるほどだった。

それと、普段見たこと無いような無邪気な笑顔のお兄さまがちょっとだけ珍しいからか思わず声が漏れちゃったの。

 

「ふふっお兄さま楽しそうだね」

 

「ん?……えっライス!?」

 

「お待たせお兄さま。それとごめんね? 邪魔しちゃって」

 

「あ、あはは……見られてたか。いや、別に大丈夫だよ」

 

お兄さまは恥ずかしそうに頬を掻いて笑うと、「他の人にはナイショな?」って人差し指を口の前に立てながら言ってくれる。

それが何だかライスだけしか知らない秘密を教えてもらったようで嬉しくて、つい笑みが溢れてきてしまった。

 

「うん、分かったよお兄さま。ライスと黒猫さんだけの秘密にするね」

 

「そうしてくれると凄く助かるよ、ありがとう」

 

それから少しの間だけ黒猫さんを愛でるお兄さまを見つめてから、ライスもお兄さまの隣に座って黒猫さんに触れて遊んであげる。

黒猫さんは嫌がることなくライスの手を受け入れてくれるからちょっと嬉しい。

 

「いやぁ、本当は駄目なんだけどやっぱり猫がいるってのは良いな。触り心地もふわふわしてて気持ち良いし、何より見てて癒されるし……うん、最高」

 

「お兄さま、お顔が緩んでるよ?」

 

「ごめん許して、こればっかりはどうにもならないんだ……」

 

そんなやり取りをしながらお昼ときよりも仲が深まっている二人を見てるとなんだかライスも幸せな気分になれるんだけど、それとは別に新しいお兄さまの一面というか、ライスではなく黒猫さんにずっとデレデレしてる姿に少しだけモヤモヤする。

 

「……むぅ」

 

黒猫さんを抱きしめながらライスの視線に気付いたのかこちらを向いたお兄さまと目が合うとお兄さまは不思議そうに首を傾げていた。

 

「えっと、ライス?」

 

「ふぇっ!? な、なんでもないよ!」

 

「そうか? なら良いんだけどさ」

 

慌てて誤魔化すように首を振って、それにお兄さまも納得してくれたのかそれ以上は何も言わなかったんだけど、また黒猫さんの方に夢中になってしまった。

 

「……むぅ〜!」

 

その姿を見てだんだんとお兄さまに構って欲しいと強く思うようになってくる。

だけどそれを素直に伝えるのはなんだか恥ずかしいし勇気が出ないから、言葉を伝える代わりに黒猫さんをぎゅっと抱き締めているお兄さまの腕の裾をきゅっと掴んで無言のまま視線を送るの。

 

「……ん?」

 

すると今度はちゃんと気付いてくれたみたいでお兄さまは優しく微笑みかけてくれた。

 

「今日は甘えん坊だね、ライス」

 

「……お兄さまが悪いんだもん」

 

「ええ……俺何かしたかな?」

 

お兄さまは心当たりが無いとばかりに困った表情を浮かべてるけどライスにとってはそれはそれで少し寂しい。

 

「黒猫さんにばかり夢中になって、ライスのこと忘れてたでしょ?」

 

「……あー、そういうこと」

 

お兄さまはやっと理解出来たとばかりに大きくため息をつくと、黒猫さんの頭から手を離して改めてライスの頭を優しく撫で始めた。

その手つきが凄く優しくて気持ちの良いものだから思わず耳も垂れ下がって目を細めてしまう。

 

「そっか寂しかったか。ごめんなライス」

 

「……うん」

 

優しい声で謝られると胸の奥がぽわぽわとして、まるで温かいお湯の中に浸かっているかのような安心感に満ちていく。

 

お兄さまに撫でられてその優しい彼を独り占めする黒猫さんを見て、ライスももっとお兄さまに構って欲しくて黒猫さんに対抗意識からか嫉妬しちゃったんだ。

だってお兄さまが今までこんな風に撫でてくれるのはライスだけだったのに、その安心する時間が黒猫さんに取られちゃうなんて思わなかったから。

 

「……お兄さまは、ライスだけのお兄さまだもん」

 

そんな幸せに満たされたせいか思わず口から漏れた独り言はしっかりとお兄さまに聞かれていたようで、撫でてくれてた手がぴたりと止まったかと思うとそのままポカンとした表情のお兄さまがこちらを見つめている。

その反応に無意識に自分が何を言ったのかを理解して一気に顔が熱くなるのを感じた。

 

「……えっと、結構大胆なこと言うんだな。ライスは」

 

「あぅ……。あ、あの、これは違うんだよお兄さま! 今のはその、あれだから! えっと! とにかく違うの!」

 

「あはは、気にしないで良いよ分かってるから。……でも俺、思わずドキッとしちゃった」

 

「ふええぇ~っ!?」

 

お兄さまの言葉にますます頭が真っ白になりながら必死に言い訳しようとすると、突然そんなことを言われて恥ずかしくて変な声が出てしまった。

恥ずかしすぎて穴があったら入りたいくらいに爆発しそうなほど熱い顔の状態ではお兄さまを直視することができなくて思わず逃げ出しちゃったの。

 

「あっライス!?」

 

お兄さまが呼び止めるような声が聞こえてきたけれど、恥ずかし過ぎて余裕もないライスはトレーナー室のすみっこの方で小さくなって隠れるように縮こまることしか出来なかった。

 

「ええ……本物の猫より猫らしいことするじゃん」

 

そんなライスの様子を見かねたのか、ライスの行動に小さく微笑んだ後お兄さまは困惑しながら近づいてきて縮こまってるライスに合わせるようにしゃがみこんでくれる。

 

「ほら、ライス。そんな隅っこよりもこっちにおいで」

 

「……うぅ」

 

「急に言われてびっくりしただけで俺は気にしてないからさ。……ほら」

 

お兄さまは優しく声を掛けてくるけどやっぱり恥ずかしさが勝ってしまってなかなかお兄さまの顔を見ることが出来ない。

 

そんな時間が少しばかり経った頃、先ほどまでソファーですやすやと眠っていた黒猫さんが目を覚ましてお兄さまの隣にくると一度 「にゃ〜」と鳴いてからお兄さまを見つめていた。

 

「お、どうしたお前。……ひょっとして俺を手助けしてくれるのか?」

 

お兄さまは黒猫さんに向かって話しかけると黒猫さんはまた一鳴きしてから尻尾を楽し気にゆらゆらと揺らしていた。

それを了承の返事と受け取ったのかお兄さまは嬉しそうに笑みを浮かべてから黒猫さんを抱えてライスに話しかけてくれる。

 

「そうだ、ライス。せっかく黒猫と友達になれたんだ。仲を深める意味も込めて一緒にこの子を連れてお出かけでもするか?」

 

「……へっ?」

 

お兄さまからの突然の提案にライスは驚きの声を漏らしてしまう。

 

「やっぱり室内だけじゃなくて外も遊ばせたいしさ、その途中でペットショップにも寄ってみるってのも良いアイデアだと思うんだけどどうかな。好きなご飯や遊び道具も増えたらきっとこの子も喜ぶと思うんだけどな~?」

 

お兄さまは笑顔を浮かべたまま黒猫さんを抱えて立ち上がり、ちらっとだけ黒猫さんに視線を向けると黒猫さんはそれに合わせるように小さく首を傾げて鳴き声を上げた。

 

「ライスがそこから動かないとなるとお留守番になるぞ? それでもいいのか?」

 

「……あぅ、それは……」

 

「それに今日は良い天気だ。絶好のお散歩日和だし、俺もライスと一緒に出かけられたら嬉しいな」

 

「……」

 

お兄さまが言葉を重ねる度にどんどんと逃げ場が無くなっていくのを感じる。

だけどお兄さまと一緒に出かけたいし何より黒猫さんとも仲良くなりたい。

その気持ちが勝ってしまったライスには、もう断る理由は無くなっていた。

 

「……うん、分かった。ライスも行くよお兄さま」

 

「よっしゃ! なら決まりだ! そうと決まれば早速行こうか」

 

お兄さまはまるで子供のようにはしゃぎながらライスに手を差し出してくる。

その姿が何だか可愛らしくて思わずついさっきまでのことなんて忘れてしまうほどに微笑んでしまったライスはお兄さまの手を取って立ち上がった。

そのお兄さまの手は温かくて優しくて、握っているだけでも心がぽかぽかとする。

 

「じゃあ準備が出来次第すぐに出発しようか」

 

お兄さまの言葉にライスはこくりと小さくうなずいた。

お兄さまと黒猫さんと一緒のお出かけだなんて今から楽しみで仕方がない。

 

そして少しだけ時間が進んで一緒に出掛けている最中。

お兄さまと手を繋いで一緒にいられるせいか、それとも新しいお友達ができたせいか、なんだかさっきよりも足取りが軽い気がしたのはきっと気のせいじゃないと思う。

だってこんなにもドキドキと心臓が高鳴っていて、ライスの隣を歩くお兄さまの顔をチラリと見ているだけで幸せな気分になれるんだもん。

 

今日は本当に良い日だ。

ちょっと嫉妬しちゃって恥ずかしい出来事もあったけど、それでもそれ以上に楽しいことがいっぱいあったから。

 

「……ひょっとして、あなたがライスに幸せを運んできてくれたの?」

 

黒猫を抱っこしながら歩いているお兄さまの横顔を見ながらそんなことを呟く。

そんなライスの言葉が聞こえたのか、黒猫さんは一度だけ楽しそうに鳴き声を聞かせてくれると、また尻尾をゆらゆらと揺らしていた。

そんな黒猫さんの仕草を見て、ライスはふふっと小さな笑みを浮かべる。

 

「えへへ、ありがとうね」

 

今日の出会いは偶然だったかもしれない。

だけどそんな奇跡のような出来事に巡り合えたのはこの黒猫さんのおかげでもあるはずだ。

きっとこの子は、不幸ではなく幸運や幸せを呼び込むための案内人。

 

だからライスは、この子と巡り会えた縁を大切にしたいと思ったの。

だってその証拠に、ライスはまだ今日一度も悪いことが起きていないから。

それどころかお兄さまとの距離は少しずつ縮まっているように感じるし、何よりこれからもっと仲良くなれて、素敵なことばかり起きる予感がするの。

そんな未来を思い浮かべただけで、自然と口元が緩んじゃう。

 

「……ねぇ、黒猫さん。これからもライスとお友達でいてくれる?」

 

黒猫さんはそんなライスの質問に合わせるかのように 「にゃ〜」と一声鳴いてから、今度は嬉しそうに頭をすり寄せてきた。

 

「ふふ、ありがとう黒猫さん。それじゃあこれからもずっとずっと、ライスとお兄さまの二人をよろしくね?」

 

そんな、少しだけ特別な忘れられない一日の出来事。

勿論、今日のこの素敵な時間はまだまだ続いて嬉しいこと楽しいことはもっともっと増えていく。

 

でもその時間は今はまだライスたちだけの秘密。

今はただ、お兄さまと素敵な新しいお友達の黒猫さんと過ごす時間を楽しむことにしたのでした。

 



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仕事中に疲れて寝落ちしたトレーナーのことが放っておけないエアグルーヴの話

「……まさか私としたことがこんな簡単な作業に手間取るとは」

 

時計を1度ちらっと確認して、少し早足気味に廊下を歩いていく。

今日は生徒会での仕事がいつもより長引いたせい、というよりはただの私のらしくないイージーミスが原因なのだから余計に焦りを覚える。

ミーティングの時間まで後5分と少し、けれど女帝たるものギリギリの時間に着くのは好ましくはない。

 

「失礼する。遅れて申し訳な……」

 

ドアを開けると同時に謝罪の言葉を口にしてトレーナー室の中へと入ろうとしたのだがその瞬間、私は思わず固まってしまった。

 

「……はぁ、私も私だが、貴様も大概だな」

 

今私の視界にはいつも通りのトレーナー室の風景が広がっているけれど1つだけ違う点があって、いつもなら笑って待ってるはずのトレーナーの姿はそこにはなく。

 

「……」

 

自分の作業場で、パソコンの電源もつけっぱなしのまま椅子に座って眠りこけている彼の姿が広がっていた。

けれどその机の上には資料が散らばっていて、寝落ちするまでは彼が必死に仕事をしていたことを窺わせるには十分だった。

 

「……全く」

 

私は呆れたようにため息をついてしまうが内心ではそんな彼に怒りなんてものは湧いてくるなんてことはなく、あるのはただ単に心配になったというだけ。

 

「まあ、仕事熱心なのは確かに良いことではあるがな……」

 

私はそう言いながらも眠っている彼の元へ歩み寄りそっと彼の肩に手を置くとやはりというか、かなり体が冷えていて放っておけば風邪をひいてしまってもおかしくなさそうだった。

 

「おい……おい起きろ。こんなところで寝てたら体を冷やすし何よりも疲れが取れないだろう」

 

何度か私が軽く揺さぶり声をかけると次第に彼はうっすらと目を開け始めていく。

まだ完全に覚醒しきれていないようでぼーっとしているような感じではあるが、それでも何とか反応を示してくれてゆっくりと上体を起こし始めていけば、そのままの状態で何度か瞬きを繰り返してはようやく意識が完全に目覚めたのか彼はゆっくりと口を開く。

 

「あ、あれ?……俺、なんでここで寝て……?」

 

「全く、仕事に集中していたせいか知らんがこんな寒い中で居眠りなど……本当に仕方のない奴だな。貴様は」

 

「え、エアグルーヴ……? どうしてここに……」

 

「どうしても何も、もうミーティングが始まる時間だろう」

 

「ミーティング……あっ!?」

 

そこまで言った所で彼は何か思い出したかのような素振りを見せつつ慌ただしく周りを見回し始めて数秒ほどその時間が続くと、今度は冷静さを取り戻してきたのか散らばった資料を見ては呆れたように髪を掻き上げため息を吐いている。

 

どうやら自分が何をしていたかを改めて認識したのか、すぐに私の方へ向き直ると申し訳なさそうに言う。

 

「ごめん、エアグルーヴ。俺……」

 

「いや、構わん。それより貴様の方こそあんな体制で寝ていて体は大丈夫なのか?」

 

「うん、体はギクシャクするけどとりあえず今のところは特に不調とかはないよ」

 

「そうか、ならば良い。……眠気覚ましにコーヒーでも淹れよう、少し待っていろ」

 

「うん、それじゃあお言葉に甘えて」

 

「ああ、任せておけ」

 

私はキッチンへと向かうと2人分のインスタントコーヒーを用意してテーブルの上に置いた後に彼の隣へと腰掛けると、ふぅっと一息ついてお互い一口ずつほど飲んだ後彼は言った。

 

「ありがとうエアグルーヴ、おかげで助かったよ」

 

「別に気にすることはない。それよりも貴様はもう少し自分の体を労わるべきではないか? いくら仕事熱心だからといって無理をして体調を崩したりしたら元も子もないのだし」

 

「はは、耳が痛いなぁ」

 

苦笑いを浮かべる彼に私もつられて笑みをこぼすと彼は少し安心するように息をついたけれど、それは一瞬の出来事ですぐに表情を引き締めると私に視線を向けてくる。

 

「けど、俺のせいでミーティングの約束の時間からは大分過ぎちゃったことには怒らないんだね?」

 

「ん? ああ、そのことなら気にする必要はない。別にサボっていたというわけでもないからな」

 

「いや、だけど……」

 

「……それに、恥ずかしい話ではあるが実は今日私も時間ギリギリに来ていてな」

 

「エアグルーヴが? 珍しいね」

 

「ああ、まあ私も貴様に説教できる立場ではないということだ」

 

「ふふっそっか」

 

私が冗談めいたように笑って見せると彼もまた同じように微笑む。

ただその瞳の奥ではほんの僅かではあるが心配そうな感情が宿っているのは気のせいではないのだろう。

 

「とにかく今は早くミーティングを始めるぞ。遅れた分を取り返さなければならんからな」

 

「そうだね。今日もよろしく頼むよエアグルーヴ」

 

「当然だ。私を誰だと思っている」

 

「ははっいつもながら頼もしいなぁ」

 

こうして私たちがミーティングを始めていけば時間はあっと言う間に過ぎてやっとひと段落がついた頃に1つ、力の抜けるような欠伸が私の耳に届く。

するとその音に釣られるように私はそちらを向くと、案の定彼が疲れきったようにぐったりとしているのが目に入るとその視線を感じたのだろうか。

彼はこちらを向いて小さく手を挙げて申し訳なさそうに笑う。

 

「あはは……ごめんエアグルーヴ、なんか一気に力が抜けちゃって……」

 

「いや、いい。あんな体制で寝ていたんだ、無理もない」

 

「大丈夫、ちょっとだけ眠いだけだから」

 

「そうか、だが女帝のトレーナーたるもの体調管理はしっかりしてもらわないと困るからな」

 

「うん。エアグルーヴの方は平気? 生徒会業務だってあるのに」

 

「心配には及ばない。これくらいで弱音を吐くような鍛え方はしていないつもりだ」

 

「その割には今日イージーミスしちゃったって自分で言ってたけど?」

 

「……むっ」

 

悪戯っ子のような笑顔を浮かべて言う彼の指摘に対して私は何も言い返すことができなくて口を閉ざすしかなかった。

けれどそれを見ていた彼はクツクツと愉快そうに笑いながら楽しげな口調で言う。

 

「でもまあ、エアグルーヴが頑張ってるのはちゃんと知ってるから、キミもあまり無理だけはしないでくれよ?」

 

「……言われなくとも分かっている」

 

少し不貞腐れたように呟いたものの、そんな私の返事を聞いて満足したのかまた優しく微笑んで見せた後に彼は立ち上がって伸びをした。

 

「よし、それじゃあそろそろ帰ろうかエアグルーヴ。もう遅い時間だし寮まで送っていくよ」

 

「ああ、助かる」

 

私と彼はそう言うと荷物をまとめて帰り支度を済ませてから一緒に部屋を出て、薄暗い夜道を歩いていき、時折聞こえる鈴虫の声がとても心地よい。

 

けれどこの時間帯はさすがに冷える、早く暖かくして眠ってしまいたい。

そんなことを思いながら隣を歩く彼と他愛のない会話を交わしていると、あっという間に私の住むウマ娘寮に到着していることに少し遅れて気づいた。

門の前で足を止めた後、私は彼の方を見据えて口を開いた。

 

「それではここで良い。わざわざここまで付き合わせてすまなかった」

 

「全然大丈夫だから気にしないで。それじゃあお休み。エアグルーヴ」

 

「ああ」

 

そう言葉を交わすと彼は踵を返し、来た道を再び辿って行った。

その背が見えなくなるのを確認すると私もまた疲れを癒すために自室の方へと歩き出して行くのだった。

 

 

 

そうして、自室へと戻り着替えも終えてベッドの上に腰掛けると途端に疲労感が押し寄せてくる。

 

「……ふぅ」

 

無意識のうちに息が漏れ出てしまう。

先程までは気にならなかった寒さも今は少しだけ堪えるように感じる。

今日のことを1つ1つ思い出していくと思わず笑みがこぼれ落ちては楽しそうに笑う。

 

「……いくら担当ウマ娘の為とは言え、トレーナーも無理をするものだ」

 

全く、思いに耽るなど私らしくないな。

だがまあ結局のところ私が今こんなにも穏やかな気持ちになっているのも彼のおかげだということには変わりはない。

彼も彼で色々と大変なはずなのに、今日みたいに無茶をしすぎるのはどうかと思うがな。

 

「だが……そうだな」

 

私は目を閉じて今日見た彼の横顔を思い出す。

あのとき見た彼の寝顔はとても穏やかで、そして優しかった。

あんな表情を浮かべる彼を見られるのならばたまにはこうして遅くなるのも悪くはないかもしれないな。

 

「……ふっ何をバカなことを」

 

自分の考えを振り払うように頭を左右に振った後、ゆっくりと瞼を開ける。

窓から見える月明かりが私を照らす中、不意にスマホが震えて、誰から来たのか確認してみれば今しがた思い出していた男の名前が表示されていた。

 

その文面を見て私はクスリと小さく笑いながら文字を打ち込んで返信するとすぐに既読がついて、何度か文字での静かなやり取りが交わされていく。

 

『エアグルーヴ、今日はありがとう。おかげでよく眠れそうだよ』

『気にするな。この程度苦にもならん』

『それでも助かったのは本当だからさ。なんだかキミにはいつも助けられてばかりだね』

『私はただ当たり前のことをしているだけだ。貴様が礼を言う必要はないさ』

『……そんなものかな?』

『ああ、そういうものだとも。まあ1つだけ言うのなら、今日は特に貴様もゆっくり休んでおけ。また寝落ちなど次は許さんぞ』

『流石にもう大丈夫だよ。……多分』

 

「……おい」

 

多分とはなんだ、多分とは……。

そこは『任せろ』と言い切るくらいしてほしいものだな、全くこのたわけめ。

 

なんて呟きながら小さくため息を吐いてはいるがその表情は少しだけ嬉しそうに緩んでいることに果たして今の私は気がついていただろうか。

たった数回の文字でのやり取り。

けれどたったそれだけで、不思議と身体だけでなく心までも温かくなっていく。

そんな感じがして、それがまたなんとも言えないくらいに心地が良いのだ。

 

「確か、明日は生徒会業務もそこまで多くはなかったはず。……うん、これなら時間に余裕もあるし大丈夫そうか」

 

さらっと明日の予定を頭の中で思い返してみると問題ないことに少し安堵して小さく微笑みがこぼれていく。

 

そして今度はもうすっかりとやりとりを終えて、静かになってしまったスマホに目を向けるとほんの少しだけ寂しさを覚えてしまった。

普段はそんなことはないのだが、どうやら彼とこうしてやり取りをしたことによって随分と彼に毒されてしまっているらしい。

 

「まあ、たまには疲れたトレーナーを労ってやるというのも悪くはないか」

 

なんて独り言を漏らしながら再び布団の中に潜り込むといつもより早く睡魔が訪れてきたような感覚に陥る。

 

明日もまた頑張らなくてはな。

そんなことを考えつつ私は意識を落としていった。

 

 

 

「……失礼する」

 

そうしてまた次の日。

生徒会業務も終えてトレーナー室へと入った先には資料やファイルのデータに目を通しつつ、パソコンに向かっているいつも通りの彼の姿があった。

相変わらず忙しい奴だ、なんてことを思いながらも邪魔をしないように静かに彼の近くまで歩み寄っていく。

 

しかしまあ、昨日の今日でこれか。

少し遅れてこちらに気がついた彼は柔らかい笑顔を見せながら迎え入れてくれると、私は内心少し安堵しながら微笑み返す。

 

「ん? ああエアグルーヴか。いらっしゃい……もうこんな時間か」

 

「また随分と仕事熱心なようだな、感心なことではあるが無理だけはするなよ?」

 

「分かってるさ、ありがとう。けどまあ、もう少しだけ終わらせたいから少しだけ待っててくれる?」

 

そう言ってから彼は再びキーボードを叩きながら画面の方を向くとそのまま作業を続けていく。

その姿を少ししばらく眺めて1度だけ軽く息を吐き出しては、このままジッとしているのも性に合わないからと彼の隣に腰掛けて私は彼に問いかけた。

 

「何か手伝えることはないか?」

 

その一言に彼の手が止まり、キョトンとした表情のまま首を傾げながら見つめてくる彼の様子が少しだけ可笑しくて頬が少し緩んでいくのを実感しながら、私は言葉を続けて行った。

 

「別に何も無ければそれでもいい。だが貴様のことだ。また寝落ちでもして私の手を煩わせる前にと思ってな」

 

「ははっ! それを言われたら言い訳できないな。じゃあ、ありがたくそのお言葉に甘えても良いかな?」

 

「ああ、遠慮せずに言うといい。私にできることであれば力になろう」

 

「そういうところ、やっぱりエアグルーヴは流石だね。……えっと、そうだな。それならまずそこにある資料なんだけど……」

 

まあ流石に彼の仕事を手伝うとは言ったのは良いけど私に出来ることはほとんど限られていて、書類整理といった程度の手伝いくらいものが大半だろう。

けれどそれさえも今は嬉しいのか彼は嬉々として私がやっても問題ないところを任せてくれて、そこからしばらくの間彼と他愛もない会話を交えながら作業を進めていく。

 

『……これはどうすれば良い?』

『ん、ああそれはここをこうして……』

『ふむ、なるほど助かった。ならこっちの資料は?』

『ああ、それは……』

 

その手伝いながらの仕事中で時折そんな小さな会話を何回もかけ合い、教えてもらいながらのやり取りを交わして。

ただの手伝いだと理解していても軽く声を掛け合ってこうして一緒に過ごすそんな時間がいつもの生徒会業務とはまた違った意味でとても楽しくて、嬉しくなる。

 

「……ふぅ、これで終わりか?」

 

「うん、お疲れ様エアグルーヴ。手伝ってくれてありがとう」

 

「気にするな、それに元々私が言い出したことだ。この程度のことでいいのなら喜んで引き受けるさ」

 

「そっか。けどやっぱりキミは凄いよ。俺よりもよっぽど優秀でしっかりしている」

 

「大袈裟なことを言うな、たわけめ。私が手伝うことなどそれほど多くもなかっただろうに」

 

「そんなことないって、本当に助かったんだから。ああそうだ、ちょっと待っていてくれるかい? 何か飲み物でも入れてくるから」

 

「わかった。では、お願いしようか」

 

そうして彼は立ち上がって奥の部屋へと歩いて行くとマグカップを取り出していくその様子を見ながら私は先程まで自分が座っていたソファーに座り直し、一息つくために背もたれにもたれ掛かる。

 

それから少しの間、ぼんやりと部屋の中で響いている時計の音に耳を傾けながら待っていると、やがて彼が戻って来て私の前にコトリとマグカップを置いた。

 

「やっぱり生徒会業務と一緒にこっちの手伝いもして疲労も溜まってるだろうから糖分補給も兼ねて甘いカフェオレにしてみたんだけど、どうかな?」

 

「ほう、気が利くではないか。そういう所は相変わらずだな」

 

「まあこれくらいはね」

 

苦笑いしながら彼がそう呟いて私の隣に腰掛けると2人でゆっくりとした時間を過ごすようにまったりとしたペースでマグカップを口に運んでいく。

 

カフェオレの入ったマグカップを両手で包み込むように持ちながら、ふとカップの中へと視線を移すとそこに映っている自分の姿はどこか穏やかな表情をしていて思わず小さく笑ってしまう。

 

「……どうした?」

 

「なんでもない。……ただ」

 

そこで言葉を切って一度区切る。

手に包むマグカップから、不思議そうな顔でこちらを見つめている彼に視線を合わすように微笑みかける。

 

その時の彼の表情と言えば少し困惑した様子で首を傾げていて。

そんなこちらの力が抜けていくみたいに茫然とした表情を浮かべながらその瞳にはしっかりと私の姿を映していてくれてて。

まるで、その瞳の中に吸い込まれていくような不思議と温かい感覚に私は目を閉じてゆっくり口を開いた。

 

「……いや、なんと言うべきか。本当は今日は貴様を労うつもりだったのだが、いつの間にか貴様に癒されている自分に少し呆れていただけだよ」

 

「労うなんて別に良いのに。キミから見てそんなに俺は無茶をしているように見えたのかな?」

 

「そうだな。少なくとも昨日、私がここに来る前にスヤスヤと気持ちよさそうにしてたことは忘れてはいないぞ?」

 

「……はは、これは手厳しいや」

 

そう言いながら私は少しだけ彼に詰め寄るようにして顔を近づけると、彼は何も言い返せないからかただただ気まずそうにしながら頬を掻いていた。

その姿を見てまた私はクスリと笑ってしまい、こうして何度も昨日のことを言い続けるが実際のところはそれほど悪いこととも思ってはいない。

 

だってそれは、彼が私の為に頑張ってくれた証のようなものだから。

寝落ちしてしまうほど彼が努力をしていた証拠、それを咎めることなんて私にできるはずがない。

 

「全く貴様というやつは放っておけん。その気持ちは確かにありがたいがその結果、倒れてしまっては元も子もないだろうに……」

 

だが、それでも1つだけ言わせてもらうのであれば。

これが無理な話であることも無茶苦茶なことを思っていることくらい理解しているけれど、そんなことが続けば彼への負担が大きくなるばかり。

担当ウマ娘としても、私個人としても、あまり彼に無理をして欲しくないというのもまた本音なのだ。

 

私の我が儘であることなのはわかっている。

でも、それが私の素直な想いであることは変わらない。

 

「……変なことを言ったな、すまない。今のは気にしないで欲しい」

 

そう言って私がマグカップに口をつけると、彼も同じようにカフェオレを飲み始めお互いに言葉を発することはなく、静かな時間だけが過ぎて行く。

少しだけこの場の雰囲気に飲まれてセンチメンタルな気分になっているせいか、普段よりも沈黙の時間が長く感じる。

ふと横目で彼を見れば、どこか真剣な眼差しで何かを考え込んでいるようだった。

 

一体どうしたのだろうか? と思い、そのままジッと見続けているとその気配を感じたのかふと彼の視線と私の視線が交わって、そのことに少しだけ驚いて思わずビクッとなりながらもすぐに視線を逸らしてしまった。

 

「……」

 

結局そのままただ黙々とカフェオレを飲むだけの時間が続いていくそんな時間がどれくらい経っただろうか。

5分、10分、いやもっと長く感じたこの沈黙の時間は1度強く深呼吸をしてから聞こえてきた声によって破られた。

 

「……エアグルーヴはさ、凄いよ。自分のことだけじゃなくて俺のことも同じくらいに気にかけてくれるし」

 

「急にどうした、貴様らしくもない」

 

「ごめんね、ただちょっとだけ普段の俺だととてもじゃないけど恥ずかしくて言葉にできそうにないからさ。それなら丁度この雰囲気に勇気を貰おうと思って」

 

そう言うと彼は少し照れた様子で頭を掻きながらこちらへと視線を向けた。

そして彼はまた再び一度深呼吸してから口を開く。

 

「俺が無茶をしてるだなんてとんでもない。キミが人一倍頑張ってる姿をずっと知ってるからキミに負けてられないって思えるし、そのおかげで俺も頑張れるんだよ」

 

「たわけめ、私は私がやりたいからやっているだけだ」

 

「うん、それもちゃんとわかってる。キミはそういう性格だ」

 

そこで彼は言葉を区切ると、どこか穏やかな表情を浮かべて優しい口調で言う。

きっとそれは、彼の中で色んな感情が入り交じった結果なのだろう。

その瞳には確かな熱を帯びていて、だけどどこまでも優しく温かく私を見つめてくれていて。

私から決して逸らそうとしないその視線の強さに、思わずドキリと心臓が大きく跳ねてしまう。

 

「でも俺だって女帝のトレーナーとして、ううん違うな。……俺はエアグルーヴに恥じない姿を見せたいから、きっと頑張れるんだと思うよ」

 

「……そうか」

 

そこで私はそっと視線を逸らして俯く。

ああ、全くもう。なかなかどうして、本当にこうもこの男は……。

 

「……貴様の努力など、私が誰よりも知っているに決まっているだろうが」

 

彼に聞こえないように小さな声でそんな独り言を呟きながらマグカップをまた口に運んではまた沈黙の時間へと移り変わっていく。

だけど先程までの静けさとはまた違った、どこか心地の良いそんな時間が流れていく。

 

「……」

 

静かな時間の中で少しだけ感じる私の心臓の鼓動がやけにうるさくて、その音が隣の彼の耳にまで届いていないか心配になる。

こんなにも強く胸の奥底をざわつかせるような感覚は初めてで、どんな顔をすれば良いのかわからない。

けれどただただ無性に、もう少しだけ彼とこのまま時を共に過ごしていたいという想いだけははっきりとしていて。

 

いつもの私らしくもなく、口に出そうとする言葉のどれもが喉に詰まる。

何かを言わなければいけないはずなのに、言葉にならないのだ。

 

「……大丈夫か、エアグルーヴ?」

 

だけど彼はそんなこちらの様子を察してくれたようで、少し不安そうな表情を浮かべながら私を見つめていた。

 

「あ、ああ。すまない、少しぼーっとして……っ!」

 

その声に反応して慌てて顔を上げてみれば心配しつつも少しだけ、いや割と顔を真っ赤にした彼の姿が視界に入り込んできて。

 

「ふふっさっきまであんなに格好つけておいて、今になって何を照れているんだ貴様は」

 

彼のその様子を見てしまった瞬間に今まで胸に溜まっていた色々なものがまるで溢れて行くように一気にこみ上げてきては、クスクスと笑い声と共に漏れ出してしまっていた。

 

「あはは……うん、まあね? そりゃ俺だってこういうのは慣れてないから恥ずかしいし、何なら今凄いテンパってるよ……」

 

「ふっなんだそれは」

 

「なんていうのかな。こう、カッコつけたのは良いけど、いざ冷静になったら急に、みたいな?……うん、忘れてとは言わないけどあまり深く突っ込まないで欲しいかも」

 

照れた様子でポリポリと頬を掻いている彼がおかしくて、可愛くて。

私も自然と笑みがこぼれ落ちてくる。

 

「ふふ、では善処しよう」

 

「そこは『わかった』って言い切って欲しかったけどなぁ」

 

「私だって似たようなものだ、お互い様だろう」

 

「……まあ、それもそうだな」

 

お互いに見つめ合いながら、2人で小さく笑う声が静かな部屋に響き渡る。

普段からよく見ているはずの彼の笑顔が今日は妙に眩しく見えて、どこか愛おしく感じている。

昨日彼が寝落ちしたのを見て、その日の夜も疲れが溜まっているのかと心配して、少しでも楽になればと思い今こうしてここにいて、隣で笑みを浮かべている。

 

そしてそんな時間を過ごすたびに感じる心の中にじんわりと広がっていくこの感情はきっと……。

 

「なんだ、そっちのマグカップが空になっているぞ。少しお代わりを持って来てやるから待っていろ」

 

「えっいやそのくらい自分で……」

 

「私がする。貴様はそこでジッと待っていろ」

 

「……あっうん」

 

そんなときだ、丁度彼の分のマグカップが空になっていることに気がついたのは。

まるで奪い取るみたいに空のマグカップを受け取って、私は足早にキッチンへと早足で向かう。

 

「……ああ、全くもう」

 

そして彼の元から離れて1人きりとなった途端、私は思わずまるで全身の力が抜けたようにその場にへたり込んでいた。

バクバクと激しく脈打つ心臓の音は未だに鳴り止まず、全身に熱を帯びていく。

顔はきっと今の自分の表情を表すのであれば間違いなく真っ赤なのだろう。

それこそ、鏡を見なくてもわかるほどに。

 

その場にへたり込んで力もうまく入らない状態のまま、そっと胸に手を当ててみれば、体全体から伝わる熱がはっきりと伝わって来る。

たったそれだけで、私の胸の内を満たしているのは確かな幸福感。

こんな気持ちは初めてで、どうすれば良いのかわからない。

 

でも、それでも1つ分かることがあるとすれば。

私が彼に対して感じるこの感情の正体はきっと。

 

そういうことなのだろうと、そう思った。

 



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お正月でもいつも通りな時間が好きなナイスネイチャの話

寒さも未だ強くなり続けマフラーに手袋、そしてコートを着込んで防寒対策をしないと寒さを凌げない季節。

 

「うひゃ〜、さぶさぶ。こういうときはやっぱりあったかい物が食べたいねぇ……」

 

そう独り言を言いながら手袋越しの手を擦り合わせてトレーナー室の扉を開けるとその後に気づいた彼が視線をこちらに向けて微笑んでくれる。

 

「おはよ、トレーナーさん。そして、あけましておめでとう」

 

「うん、あけましておめでとう、ネイチャ。今年もよろしくな」

 

「いや〜、めでたく新年!って感じだけどやっぱり寒いね〜」

 

「そうだな。そのネイチャの服装を見るといつもよりも寒そうだ」

 

「うん、ちょっと厚めの防寒着にしちゃったよ」

 

「ははっ、ならあったか〜いココアでも飲むかい?」

 

「おっ、いいの? じゃあお願いしてもいい?」

 

「了解、少し待ってて」

 

早く帰って来てね~、なんておふざけを言ってソファーに腰掛ける。

先ほどまでずっと寒い中外にいたこともあり暖房の効いたこの部屋にいるとまるで天国にいるみたいだ。

ほっこりとしながら温まっていると次第に鼻をくすぐる良い香りが漂ってくる。

 

「はい、お待たせネイチャ」

 

そう言って彼は持ってきたマグカップをテーブルの上に置き対面側に腰掛けた。

「ん、ありがとう」と感謝を伝えて彼が作ってくれたホットココアを飲み始めれば程よい甘い口当たりと体を温めてくれる熱についつい頬が緩んでしまい、その温かさに自然とほっと一息が漏れてしまう。

 

「はぁ〜……あったまるぅ……」

 

「ははっ、寒いときはこれが1番ってね」

 

「だね~、いやほんとあったまるわ」

 

「新年早々ネイチャに喜んでもらえてよかったよ」

 

「それはまた大袈裟だって。でもありがとう、トレーナーさん」

 

感謝を口にしながらフワリと笑ってみせると彼も同じく微笑みを返してくれる中で、それからしばらくの間2人で一息つきながらまったりとココアを飲みつつ適当な会話が続いていく。

 

「まあでも、家族とか商店街の人たちは良いのか? いつもならこういう日はお呼ばれしてるだろう?」

 

「そりゃ勿論。アタシもすぐ顔出しに行くねって言ったんだけどさ。ゆっくりしてから来なってしっかり言い返されちゃって、だからその言葉に甘えてこうして一息つかせてもらってるってワケ」

 

「そっか、本当に良い人達に恵まれたな」

 

「ふふっ、そうだね。アタシもそう思うよ」

 

素直に同意を示せば彼もまた嬉しそうに笑ってくれる。

なんですかその視線は~って言いながらニヤケ顔でちょっとだけツンツンとちょっかいを出してみたらまた笑われちゃって。

 

「そういうアンタだって新年っていうのにトレーナー室にいたりして。正月らしいことなんか全然してないんじゃないの?」

 

「ん〜、確かにそうだな。俺も正月らしいことなんて何もやってないな」

 

「お祝いごとだったりしても、アタシらがいるのはなんだかんだでいつものトレーナー室じゃない、ここ」

 

「それは確かにそうかも。お正月らしさとか何もないしな、ここ」

 

「アンタも周りの人たちみたいにどっか行こうかな~とか遊びに出るとかなかったわけ?」

 

「まあ、俺もどっか出かけようかちょっとだけ迷ってたけど1人で行くのも気乗りしなかったし、だったらここにいたらネイチャが来てくれるかなって。結局その通りになったからさ」

 

「あはは、ま〜たそうやって調子いいことを言っちゃってさ。アタシが来なかったらずっと待ってるつもりだった?」

 

「えっ?……あ〜、それ考えてなかったな。思いついたらそのままここに来てたし。……そっか、確かにそうだな」

 

「うん? あはは、なになに? さっきまでの頼もしさがどっか行っちゃったけど」

 

「いやぁ、面目無い……」

 

いつもと違って締まらないなぁと思いながらクスクスと笑ってしまう。

すると釣られたように彼も笑ってくれて、そんな光景の中彼にバレないよう気をつけながら独り言をブツブツと。

 

「……アタシが来ると疑わないでいてくれたのは嬉しいんだけどさ。……うぐっ……ちょい恥ずかしいと言いますか、なんというか……ほんとコイツは……」

 

「……ネイチャ?」

 

「ストップ、今ちょっとこっち見ないで」

 

「あっ、はい」

 

「ふぅ〜……。でもそっか、アタシが来ると信じてここに来てくれたワケか……。くぅ〜、嬉しいやら恥ずかしいやらでどうしていいか分からん……」

 

でも、なんてつい口走りながらニヤける顔を隠すようにマフラーをキュッと顔の下半分に持ってきてはそのままチラッと視線をバレないように彼の方に向けた。

するとタイミングが良いのか悪いのか彼も自分のマグカップを置いてこちらを見ていて、まさかまさかのバッチリと目が合ってしまった。

 

「そうだネイチャ、キミは後で商店街の人たちにも顔を出しに行くんでしょ? それ俺も一緒について行っても良いかな」

 

「へっ? いや、それはまあみんな喜ぶだろうし別に構わないけど」

 

「なら決まり」

 

けれど彼はアタシに何か言うでもなければ何かするでもなく、ただそれだけ言って再びマグカップに口を付けてはまったりとココアを飲み始めていた。

 

これはひょっとして気づかないフリをさせてしまったのだろうか。

気を使ってそんなことを言って話題を変えてくれたのかもしれない。

頭の中でそんな風に思っても結局アタシは何かをすることも言えることも無く、ただ同じようにマグカップに口を付けるだけ。

 

「さっ、それを飲んでもう一休みしたら行こうか。ネイチャに皆も早く会いたいだろうから」

 

「うん……そだね、そうしようか」

 

何とも言えない微妙な雰囲気で思わず押し黙ってしまったが、その後は何か言うことはなくただ優しい掌が頭に乗せられては軽く撫でられて。

こういう気の使い方ができるのもズルいなぁ、なんてことを想ったりしたけれどそれは口には出さずに胸の中にだけ秘めておいた。

それがなんだか、こういうところにはやっぱりかなわないなぁって。

そうこっそり思いながら出かける準備をするべくまた立ち上がることにした。

 

 

 

そうして場所は変わって商店街のいつもの風景へと変わる。

お正月ということもあっていつもよりも賑やかになっているその空間に、アタシたちは連れ立って歩いてきていた。

 

「いやぁ〜、活気があっていいねぇ」

 

「あぁ、そうだな。正月飾りや売り物も年明けのものが増えてるから眺めてるだけでも楽しいよ」

 

「うんうん、これぞお正月っ! て感じだよねぇ」

 

人の流れの中を縫って行きながら会話をして、周りはお祭りムードで浮かれている人達ばかりなのに、アタシたち2人だけはいつも通りの空気感だ。

でもこの空気感が嫌いじゃないというか、むしろ心地良さを感じてしみじみ思いながら歩いていると、周りもアタシ達がやってきたことに気づく人たちが増えていく。

 

「あっ、おばちゃーん! あけましておめでとう!」

 

1人に挨拶すればその声に反応するようにみんなが集まって。

 

「あらネイチャちゃんじゃない、結構早くに来たんだね。あけましておめでとう〜。今年もよろしく頼むよ!」

 

「おおっ!ネイチャちゃんじゃないか! あけましておめでとう。今年も2人できたのか!」

 

「ないすねいちゃんだ〜!」

 

「ちょっ!? ちょいまってっ!? 多い多いっ!」

 

そんないつもながらの親しみのこもった声と笑顔に思わず嬉しくなりながらも、そんな風にわらわらと囲まれたことにあたふたしながら苦笑い。

 

「……ふふっ、やっぱりネイチャは大人気だな」

 

「ちょっとトレーナーさん!? そこ笑ってないで助けてよ」

 

「はっはっは、頑張れネイチャ~」

 

「あーもう! すっごい棒読み。このっ! 他人事だからってぇ〜!」

 

なんて文句を言いつつも、心の底ではやっぱり嬉しくて仕方なかったりする。

あれよあれよといううちに挨拶と一緒にこれも持っていきなと色んなものを手渡されては断る隙もなく、そんなやり取りをした後ようやく解放された時にはちょっとした疲れでヘトヘトになっていた。

 

「うぉぉぉ……思ったよりもネイチャさん大盛況でしたわ……」

 

「ははっ、お疲れ様」

 

そんな彼の言葉を聞きながら周りを見渡してみれば、まだまだ賑わいは収まりそうになさそうだ。

 

「……んっ? なんかそういうアンタの方も皆から色々と貰っちゃってる感じ? あはは、モテモテだね」

 

「ありがたいことにね。ネイチャの分と一緒に俺の分も用意してくれてたんだって。きっと2人で一緒に来るって分かってたって自信満々に言われちゃった。……ちょっと照れくさいな、うん」

 

「……うぐっ、おばちゃんたちがニヤけてた理由がそれかぁ。もぉ~……」

 

そう苦笑する彼の手元を見ると色々なものが入った袋があったり包装された箱のようなものがあったりと随分と歓迎されていたようだ。

 

「ん~、お互いにその荷物じゃ商店街ぐるっと回るのは無理そうだね」

 

「そこまで重たくないから大丈夫だよ。まだ一緒に回れるから気にしないで」

 

「ほんとに?」

 

「ほんとに。俺もまだネイチャと居たいしさ」

 

「ふっ、ふ〜ん。そっか……へえ、そっかそっか」

 

サラッとそういうことを言えるのはズルいなぁって思いながらもそれを悟られないようにそっぽを向くけれど、それもきっとバレてるんだろうなって段々と顔が熱くなっていくのが恥ずかしかった。

 

「まあ、でもさ……」

 

一呼吸置いて手に持った荷物に視線を動かしながらなんだか照れくさそうにして彼は口を開いた。

 

「ちょっとだけ照れくさいけどみんな俺の分まで用意してくれてたのはびっくりだ」

 

「ふふっ、そうなの?」

 

「あぁ。ネイチャちゃんが来るなら絶対トレーナーさんも一緒だろうから、これあなたの分ね〜って最初に言われた時は流石にちょっと驚いて声が出なかった」

 

そう言いながら彼がくすくすと笑ったのを見てこの人でもおばちゃんたちには適わないのかってぼんやりと感じながらお互い笑い合って歩いていく。

 

「なんかあれだな、いつのまにかここに俺とネイチャが一緒にいるのは当然のこととして受け入れられているね」

 

「いやぁ〜、それはアタシとしてはありがたいことではあるんだけどさ」

 

「けど?」

 

「こう、なんというか改めてそうやって直接言葉にされるとちょっぴりむず痒さが……」

 

嬉しいことは嬉しいけれど、こうも当然のように扱われるとなんだかこそばゆくなるというか、そんな感情が心の底にあるのは紛れもない事実だ。

 

「……まっ、アンタとならアタシは良いんだけどさ」

 

聞こえないようにそう呟いて、少しだけ彼の前を歩いては周りに表情を見られないようにした。

今は普通に喋れているけれど、こうして単純に言葉を返されるだけで心臓の鼓動が早くなって目を合わせたいのに合わせられなくなる。

 

「ほらトレーナーさん、早くいこっ?」

 

けれどそんな想いはひた隠していつも通りの調子で彼に声をかける。

 

「そうだな、行こうか」

 

そうやって言い合いながら再び行く宛もなく正月の賑わいの中を歩いていく。

ほんの少しだけ2人の間に空いた距離、手でも繋げたら良いのと思うのに肝心のその勇気はなくて手持ち無沙汰になってしまう。

けれど、たまにはこういう年明けもいいもんだな。

なんてことを思いながらこの一時がまたアタシにとって大切な時間の1つになっていく。

 

「……お〜、おみくじでもアタシは見事に3番目かぁ。……あはは、流石ネイチャさんパワー」

 

なんて軽口を叩きながら神社でおみくじを引けば見事に中吉で幸先がいいのか悪いのか、パッとしないとも言いきれない微妙な結果がそこには映っていて。

書かれていることも可もなく不可もなく、まあ、程々に頑張ればいいって解釈をすればいいってことかね。

 

「そっちは〜?」

 

「吉、だな」

 

「お〜、それは幸先が良い感じかな?」

 

「どうだろね。まあ悪いよりかは良いけど」

 

大吉やら凶がでたりなんてことはなく至って普通な結果で、やっぱり可もなく不可もなくって感じ。

まあおみくじの結果に一喜一憂する歳でもないし別に良いんだけどさ。

 

「……でもどうしてこういう欄だけはしっかり見ちゃうのかねえ、アタシは」

 

おみくじの中にある恋愛の欄には

『今あなたに意中の相手がいるのならば進展する可能性あり』

なんて書かれているのをついつい見てしまう。

 

「アタシの意中の相手がいたのならば、か……」

 

その言葉を呟くと無意識ながらアタシの視線が動いて、ふと隣で同じようにおみくじを眺めてる彼の姿を捉えていて、アタシの瞳に映る彼のその横顔はなんだか楽しそうに穏やかに笑っていた。

 

「……」

 

気づけばそんななんでもない姿に目を奪われていて、アタシの鼓動がゆっくりとスピードを上げていく。

テイオーのようにキラキラした子でもなければ、ちょっと捻くれて面倒くさいアタシの側にいて、そのままのアタシを受け入れながらずっと1番にアタシを信じてくれている人。

 

「……あのさ」

 

なんて思わず声が出てしまったのは、その横顔に見惚れていたからか。

そう聞かれたら多分そうなんだろうなって恥ずかしく思いながらも、彼がこちらに視線を向けた時には何事も無かったかのようにいつもの表情を作って言葉を続ける。

 

「……来年も一緒に来たいね」

 

そんな約束とも言えない言葉を彼に伝えれば、彼はただ笑って頷いた。

けれどたったそれだけ、そんな程度のことでアタシには充分で、確かな繫がりを感じて心が暖かくなった。

 

「来年もそのもっと先も、きっと言葉になんかなくたって一緒にいるんじゃないかな。俺はそんな気がする」

 

彼はいつもの声で、優しい微笑みと共にそう言うから。

その言葉はアタシの胸の中にスッと入ってきてじんわりと温もりを広げてから少しずつ身体中に広がっていくようだった。

そしてたった一言が今もずっとアタシの心を温かくしてくれて、もはや我慢などできないほどにその気持ちが笑顔となって現れる。

 

「……」

 

「……ふふっ、どうしたのトレーナーさん。固まってらしくないですよ?」

 

「ッ!……ああいや……なんでもないよ。うん、気にしないでくれて良いから」

 

「そっ? まあそこまで言うなら追及はしないけどさ」

 

そう言うアタシの言葉に彼は困ったようにしながら頭に手を当てていて、なんだか普段は見れない珍しい顔が見れたなってちょっとだけ得した気分。

 

「でも一緒に居るなんて相変わらず恥ずかしいことを言うねぇ、トレーナーさんは」

 

「はははっ、確かにまあその通りなんだけどさ」

 

少し空を見上げてはそう言った彼に疑問符を浮かべたまま今度はアタシがキョトンとしてしまう。

そんな顔を見て笑いながら彼が言葉を続けてきた。

 

「でもなんとなく、今日の朝みたいさ。ひょっとしたらトレーナー室にネイチャが来るかもって、俺はキミを勝手に待ってる気がするよ」

 

その言葉を聞いた瞬間、思わずポカンとしてしまったけれど。

それも束の間にはっと気づいては可笑しくなってつい笑みを零してしまった。

 

「それならきっと、アタシだって同じなんだろうなぁ……」

 

自然とそんな言葉が漏れた。

彼が今朝アタシが来てくれると思って待っていてくれたのと同じように。

アタシも朝1番にまず誰に会いに行こうかってなったとき。

いやきっと、どこに行くかなんて考えながらも無意識にアタシの脚は自然と一直線に彼のところに向かって動いてたのを知っている。

 

「なんだかんだでアタシも、アンタと一緒に居たりする日々がいつの間にか当たり前になってたんだね」

 

「そう思ってもらえるなら素直に嬉しいよ」

 

「そりゃあそうだよ。だってほら、アタシらってもう結構長い付き合いになるわけだし?」

 

そんな当たり前を呟いた言葉に彼が少しだけ目を見開いてはまた笑っていた。

 

「そっか……そうだったな。そう考えると不思議なもんだなぁ」

 

「いやいや、急にしみじみ言わないでよトレーナーさんや」

 

そんな言葉のやりとりも楽しくてつい調子に乗ってしまうのはよくないと分かっていても止められない時があるもので。

でも今だけはそのまま雰囲気に流されてもなんだか許されるような気もしていた。

 

「それじゃ、改めて今年もよろしく。アタシのトレーナーさん」

 

「ああ、こちらこそよろしく」

 

お互いに笑い合った後、どちらからともなく自然と手を握り合って歩き出していく。

先ほどまで一緒に歩いてた時にあった2人の間に空いた僅かの距離はいつの間にかお互いの手が触れるぐらいの近さまで縮まっていた。

そのまま手を繋いで歩いて何かいつもと変わったやり取りがあるかと聞かれたらそういうことは何もなく、話題は商店街の人たちのことや家族にレースのいつもと変わらないことばかり。

 

「そんでそのときおばちゃんたちに1人一個のタイムセール付き合ってさ〜」

 

「あははっ、それはまた今日みたいにもみくちゃにされそうだな」

 

「でしょ〜? 人が多いこと多いこと。ネイチャさん危うく潰されちゃいそうだったわ」

 

「なんかその場面簡単に想像できて笑っちゃいそうだ」

 

「ま、だからその分逆に今度そっち行ったときにアタシの働いた分くらいのサービスよろしくっ!って頼んどいたの」

 

「ちゃっかりしてるなぁ、流石ネイチャ」

 

「いやいや、これくらいはね」

 

そんなくだらない話をしながら歩き続けるこの時間が本当に心地良くてずっと続けばいいのになとか、柄でもなくそんなことを考えてしまうくらいには楽しんでいる。

お正月という特別なイベントがあってもアタシたちは変わらずいつも通りの日常を送っているわけで。

別に何か特別なことがほしいとは思っていないけれど、それ以上にやっぱりそんないつもと大して変わらないこの時間が改めて好きなんだと思うの。

 

「……ねえ、トレーナーさん?」

 

「んっ、どうした?」

 

「いや、このなんでもない時間ってさ」

 

「うん」

 

「……なんかいいよね?」

 

「ははっ、なんだそりゃ」

 

無意識ながら相手のことを考えてて、なんてことない話をしているだけで楽しくて幸せで。

ぼんやりと思ったことをただ口にする。

たったそれだけでも今は楽しいなと感じながら彼を見つめてみれば彼は可笑しそうに笑っていた。

 

「ふふっ、まあでも確かに。俺もこの時間が1番好きだな」

 

なんて言いながら笑うその顔がすごく綺麗だなって、そんなことを思っている自分が少しだけ恥ずかしかったしアタシらしくないこと言ってるかもなって思いはしたけど、今日くらいはそれでも全然良いかなって。

 

「うん、ほんと。これが俺とネイチャらしくて良いんじゃないか?」

 

「そうだね、アタシららしくて良いや」

 

そんな風にさらっとさっきアタシの思ってたことと同じようなことをアンタが言うから、それがなんだかおかしくて笑ってしまって。

きっと今この瞬間も、当たり前に彼といるこの時間がアタシは1番好き。

 

そんな風に思えたお正月。

まるでそれが当たり前みたいに手を繋いで歩いているアタシたちに、周りから視線が集まっていて少し恥ずかしいけれど。

そんな些細なことも今は気にならないくらいには彼が側にいるのならきっと楽しいんだろうなって、そんな想いが胸に広がっていくのを感じたのでした。

 

 



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