アベンジャー・マギア (彼岸花ノ丘)
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始まりの竜

 パチパチと、軽快な弾ける音があちこちから聞こえてくる。

 もう月と星の明かりしかない夜遅くだというのに、その村は昼間のように明るかった。何故なら村にある全ての家々が、大きな炎を吹いているのだから。

 炎は木で出来た簡易な家を蝕むように焼き、焼けて炭となった建物は次々と轟音を鳴らして崩れ落ちていく。倒れた家から出る火花は、炎の花が咲くようにあちこちに飛び散り、広がっていった。

 炎は勢いを衰えさせるどころか、一層激しく燃えていく。強い風が村の中心に向けて、絶え間なく吹き付けているからだ。新鮮な空気を食べ、育ち盛りだと言わんばかりに炎は大きくなる。今や炎は村を飲み込むほど育っていた。それでも足りないと言わんばかりに、村の傍にある畑にも火は燃え移っていく。畑の作物はどれもたわわに実っており、間もなく収穫出来た筈のものばかり。村人達が丹精込めて育てたものが、枯れ草のように瞬く間に燃え尽きていく。

 悪夢のような光景だ。だが、その光景に悲鳴を上げる者は一人としていない。

 村人達は家々や畑と同じく、真っ黒になって地面の上に転がっているのだから。

 黒くなった村人達は燃えていた。小さな人型を抱え込んで燃えているもの、崩れた材木の下敷きになったもの、道端で倒れているもの……姿勢はどれも違えども、全てが炎から逃げたり防ごうとしたりしていて、けれども叶わず燃えている。大きな声で叫んだであろう口の奥まで、今では黒く染まっていた。

 全てが燃えていた。間もなく、村の全てが灰に変わるだろう。

 ――――村の外に広がる森からそれを見ている、村人だった一人の少女を除いて。

 

「……………なん、で」

 

 ぽつりと、少女の口からは呆けた声が漏れ出る。

 燃えていく村を眺める少女の齢は、もうすぐ十になる程度。麻で出来た単純な衣服は、この村の子供服としては一般的なものだ。土で汚れている以外は綺麗なもので、火災の傍でなければ可愛らしさを感じられただろう。

 少女が此処にいるのは、ただの偶然だ。なんとなく今夜は寝付けなくて、そういえば夜の森には光るキノコがあるという話を思い出して、こっそり家を抜け出しただけ。森の動物は危険だよ、夜は危ないよと親から言い聞かされていたのに、そんなのへっちゃらだいと考えなしに言ってしまえる悪ガキだったというだけ。

 それだけの理由で、少女だけが夜の森にいた。

 それだけの理由のお陰で、悪い子だった少女の命だけが助かった。

 

「なんで……なんで……」

 

 少女の口から出るのは疑問の言葉ばかり。

 歳も十近くになれば、少女だって自分の村がどんな場所なのかなんとなく知っている。

 『王国』の領内に属しつつ、その西端に位置するような辺境。土地は痩せ気味で、村人が食べていく分を作るだけで精いっぱい。鉱石も取れず、燃料は周りに広がる木々から得ているだけ。森には危険な獣もいて、何年かに一度少女のような無鉄砲な悪ガキが食い殺されている。安定的に得られる水は井戸しかなく、『おふろ』なんて贅沢は出来ない。端的に言って貧しく、王都などの都市部と比べて快適とは言えない日々だ。

 しかし、だからこそ平穏である。

 村を襲う野盗なんていない。生きるのに苦労している村人に、強奪に耐える余力などないため死物狂いで抵抗するからだ。兵士に見付かれば打首の罪を犯し、苛烈な抵抗を抑え付けて得られるものが、干からびた種籾では割に合うまい。徴税も王都から遠いため集めるには労力が掛かり、その割に得られるものが少ないからと、向けられる目は厳しくない。割と()()()()()と村長が語っていた。

 得られるものがないから奪わない。それが合理的な選択であり、理性ある人間ならば簡単に分かる事。言い方は悪いが、こんな村を襲ったところで疲れるだけだ。

 ならば。

 ()()()は、何かを得ようとしてこの村を襲った訳ではないのだろうか。

 

「……………ッ!」

 

 唖然としていた少女の顔が、恐怖で引き攣る。

 彼女は見てしまった。村の中心に居座るその姿を。

 身の丈は、果たしてどの程度あるのだろうか。村にあったどの建物よりも……いや、森に生える木々よりもずっと大きい。家一軒飲み込む炎が、ちんけな焚き火に見えてくるほどだ。

 炎に照らされたその身体は、小さくて青い鱗に覆われている。細長い首も、獰猛なトカゲのような頭も、身体と同じぐらい長く伸びた尾も、屈強な胴体も、身体に比べて細い腰や足も……全て鱗という鎧に包まれていた。鱗がないのは後ろ向きに生えている頭の四本の角と、鳥の翼のように変化した腕の皮膜ぐらいか。

 しかしどんなに強固な鱗の鎧を持とうと、炎の中に身を置くのは容易な事ではない。

 にも拘らずその巨大な存在は、悶え苦しむ姿を見せていなかった。だからといって堪えている様子もない。平然と、家々を灰に還す炎の中に居座り続けるのみ。

 

【キャーッ、キャッキャッキャッキャッ!】

 

 そして、笑っていた。

 口から漏れ出す心底楽しげな声、それと顔を歪ませて作る表情。更にキラキラと黄金色の瞳を煌めかせる。人間ではない存在が見せる姿が、人間と同じ意味とは限らないが……少なくともそいつは人間のように笑っているのだと、少女は感じた。さながら子供が巣から出てくる虫の行列を眺め、一匹一匹踏み潰すのを楽しむように。

 

【キャアアアァーッ!】

 

 更に楽しむように、そいつは笑い声と共に口を大きく開けて『息』を吐く。

 吐息は燃えていた。

 轟々と音を立てて、紅蓮の炎がそいつの口から吐き出される。村の半分を簡単に飲み込む大きな炎が、炭になっていた家々と人々を吹き飛ばす。火花が反乱した川のように押し流れ、村の周りにある森さえも焼いていく。

 派手に燃え広がる炎を見て、そいつはまた笑った。面白かったと言わんばかりに、また炎を吐いて村と大地を吹き飛ばす。燃える家を踏み付けて、飛び上がる火の粉に歓声を上げる。興奮したようにまた炎が口から吐かれた。

 吐息が全てを焼き尽くし、村と呼べるものがなくなったところでそいつは火を吐くのを止めた。満足したように翼をバサバサと動かし、また笑う。

 少女は理解した。そいつは何かを得ようとしたのではないのだと。ただ自分の楽しみのために、虫を踏み潰すように、この村を燃やしたのだと。

 自分の家族も、友達も、一時の楽しみのために消費されたのだ。

 

「こ、ろして、やる」

 

 やがて無意識に出てきた言葉は、殺意に塗れたもの。

 涙の溢れた目に宿るのは、炎よりも熱く、針よりも鋭い憎悪。噛み締めた唇、爪を立てて握り締めた腕から血が流れ出るも、痛みなど感じないほどの激情が胸で渦巻く。

 それでいてガタガタと足腰が震えている。腕も身体も震えている。今の自分が殺意を実現しようとしたところで虫と同じように潰されると、頭ではなく身体が理解していた。どれだけ心が憎しみに満ちても、身体はぴくりとも動かない。

 今はまだ足りない。力も知恵も勇気も。だから大人になって、その足りないものを得た時には……

 

「絶対に、殺してやる……!」

 

 憎しみに駆られた宣戦布告の言葉を、そいつにぶつけた。

 

【キャーッキャッキャッキャッキャッ!】

 

 されど少女の声は、そいつが上げた笑い声に飲まれて消える。虫の羽音などその程度だと、突き付けてくるように。

 ゲラゲラと楽しそうで、何処までもおぞましい鳴き声だけが業火の中で響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女とその仇が出会うのは、これより十二年後。

 大人になった少女と、長い付き合いとなる『相棒』の出会いから、彼女の復讐が始まるのだ――――



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君臨する軟体
君臨する軟体1


 王国。

 それはこの世界において、最大の国家である。数多の人口を有し、技術開発や生産能力も優れた、最も発展した国とも言われていた。

 ……そして此処帝国は、何時もその王国と比較される『二番手』である。

 王国に次ぐ領土面積。

 王国に次ぐ経済規模。

 王国に次ぐ科学力。

 説明する時、何時も頭に付く言葉は王国に次ぐ。帝国市民は闘争心が激しい訳ではないが、毎度王国と比較されては意識もするというものだ。尤も二番目だという自覚もあるので、隣国同士でありながら戦争をした事は(少なくとも直近百年ぐらいは)ないのだが。

 さて。そんな万年二番手の帝国の中で、唯一王国に並び立つ、或いは上回る豊かさと称されるのが首都の帝都である。

 人口は帝国の数ある都市の中でも最大の十五万人以上(と言われている。移住者・出生者・出国者が多過ぎて正確な人数は不明)。人が多い分経済も活発で、毎年大きな発展を遂げているという。暮らしている市民の生活水準は高く、彼等の住まいである帝都を形作る建物は煉瓦作りの小綺麗で丈夫なものが殆ど。中には貴族が住まう、普通なら何十人と暮らせそうな豪邸もちらほらと見られる。

 無論全ての家が豪勢ではなく、人通りの少ない場所の家々は比較的小さなもの。空き家などもちらほらと見受けられる。しかし何年も放置された、朽ちかけた家は見付けられない。精々窓枠が壊れている程度で、貧しい農村で見られるボロ小屋(一軒家)と比べれば遥かにマシだ。空き家になってもすぐに次の住民が決まるという事であり、ここでも帝都の豊かさが窺い知れた。

 表を見ても、影を見ても、辺境とは比べるまでもなく裕福な都市……それが此処帝都だ。

 そのような帝都の中で、『冒険家ギルド』と呼ばれる組合がある。

 冒険家ギルドは帝都のみならず、世界各国に存在する組合だ。主な業務内容は民間・政府問わずに出された依頼を受け、その問題を解決する事。とはいえなんでも屋という訳ではない。基本的には町の『外』と関わる仕事を受けている。例えば他の町へと行くので護衛を頼みたい、荷物を遠方に届けてほしい、薬の材料となる薬草を採取してくれ……等がよくある仕事だ。そしてこれらの需要は非常に多く、どの冒険家ギルドも常に数多くの依頼が張り出されている。

 その依頼を受ける事を生業としているのが、ギルドの名にもある冒険家と呼ばれる者達。

 帝都に存在するとある冒険家ギルドの中も、大勢の冒険家で賑わっていた。ギルド内には何十という数の椅子と机が用意されていたが、どれも埋まり、立っている者がその倍近い数いるほど。彼等の身形や背格好に共通点はない。性別も様々で、歳は若者が多いが少数の屈強な老人も見られる。指がない、隻眼など身体的欠損のある者も少なくなかった。

 そうした多種多様な人々の中では彼女――――スピカの容姿は、左程目立つものではない。

 

「……ふむ」

 

 建物の壁に張り出された依頼内容の書かれた紙(植物繊維を用いた安価なもの。貴族からの依頼など格式の高いものには羊皮紙を使うが、一般市民の依頼なら大抵植物質の紙を使う)。その中の一つを手に取ろうと、スピカは片手を伸ばす。

 スピカの身長は百六十八セメト。齢二十二の女性としては比較的高身長であり、一番高いところにある紙にも難なく手は届く。伸ばした腕は細いが、しかしそれは筋肉により引き締まったもの。身体の方も比較的筋肉質で締まった見た目をしている。例外的に柔らかそうなのは、一般よりもやや大きな胸ぐらいか。

 顔立ちは歳の割に童顔で、目付きも穏やか。人間としては珍しくもない黒い瞳も、澄んでいれば十分魅力の一つだ。柔らかで女性的な唇、艶のある肌は男達の気を惹くであろう。胸の辺りまで伸ばした黒髪は頭の後ろで結び、さながら『馬の尾』のように纏められている。束ねている紐は黒いもので、お洒落さには欠けていた。

 着ている服は一枚の大きな革で作られたもの。ある特殊な獣の皮から作り出されたこれは肌に吸い付くように締まり、スピカの肢体の輪郭を浮かび上がらせる。脱ぐには服の前面にある紐を解き、上半身をはだけさせた後に足を抜かねばならない構造だ。足には革製の靴を履き、腰には帯革がぐるりと巻かれ、その帯革に小さな合切袋が幾つもぶら下がっている。また彼女の背丈よりやや小さな弓と、その弓で用いる矢の入った筒が背負われていた。

 この服装はスピカにとっての『仕事着』。動きやすく、それでいてそこそこ丈夫な服だ。そんな彼女は今仕事探しの真っ最中。張り出された依頼書を吟味し、自分に合った仕事を探していた。

 

「(カルボン村へ手紙を送ってほしい、か)」

 

 今し方手にした依頼書に書かれていた依頼内容は『手紙の配送』。

 依頼書曰く「親戚のいる村が獣に襲われ、大きな被害が出たと聞いた。安否確認の手紙を届けてほしい」というものだ。村の位置から考えて、旅の行程は往復四日といったところ。

 手紙を送ってほしい、という依頼自体は珍しくない。だが一つ、特徴的なものがあった。

 報酬の高さだ。この依頼の報酬は往復四日分の『旅』をするのに必要な経費を十分賄えている。これはただ手紙を出すだけなら破格の値段設定だ。通常は、この十〜二十分の一程度の報酬である。

 おまけに料金は全額前払い。前払いの利点としては、信頼を保つためギルド側は優秀な冒険家に仕事を任せる事となり、依頼の成功率が格段に高くなる。少なくともそこらに手紙を捨てて「終わりましたー」等と報告する不埒者が担当する事はない。しかしどれだけ優秀でも失敗確率はゼロにはならない。故に大抵の依頼は後払いにするものだ。

 この依頼何か裏があるか? と勘繰りたくもなるが、安否確認の手紙、という性質を鑑みれば納得がいく。一般的にこうした「何かを運んで」系の依頼は、一人の冒険家が十〜二十件ほど纏めて受ける。依頼一件では赤字になる旅でも、十件分の報酬をもらえば利益が出るようになるからだ。依頼主も一人一人の負担が小さくなる。しかしこれは、同じ目的地の依頼が利益の出る数が集まるまで、誰も受けてくれない事を意味する。大きな都市への手紙なら一日待たずに済む事も多いが、小さな村となると何ヶ月待つか分かったものじゃない。

 安否確認というのは緊急のものだ。半年後に送った手紙が、一年後に返ってくるなんて我慢出来る訳がない。ましてや悪い知らせなら……大袈裟な話、心労で人死が出るだろう。よってすぐに手紙を届けてもらわねばならない。

 ならば十件分の依頼料が必要だ。赤字で手紙を届ける酔狂な輩は早々いないのだから。

 それがこの依頼の報酬の理由だろう。尤もいくら高額とはいえ実費が賄える程度なので、スピカが手にする今の今まで残っていたのだろうが。

 しかしスピカは他の冒険家とは違う。

 彼女はあまり金稼ぎに興味がない。四日分の『日銭』を得られると思えば、依頼の簡単さを思えば悪くない条件だと思うのだ。

 

「良し。これにしよう」

 

 手にした依頼書の内容を読んだスピカは、独りごちるやその紙を持って冒険家ギルドの奥にある『受付』へと向かう。

 冒険家ギルドには、一般的に一つの店内に二種の受付がある。一つは一般市民が依頼を行うための受付。もう一つは、掲示された受付を受けるべく、冒険家達が手続きを行うための受付だ。

 スピカが向かったのは、冒険家達が使う方の受付だった。受付には若い、スピカと同い年程度の女性が一人いて、スピカが来るとにこりと微笑む。

 スピカは依頼書を女性の前に出し、仕事の話を始めた。

 

「この依頼を受けたいんだけど、手続きしてもらえる?」

 

「承知しました。資格書の提示をお願い致します」

 

 スピカは腰にある合切袋の一つから、一枚の金属板を取り出して提示する。

 冒険家ギルドの依頼は誰でも受けられるものではない。資格を有した者だけが、認められた『階級』の依頼だけを受けられる。階級は五級から始まり、最上位は一級。冒険家は自身の階級と同じ階級までの依頼を受ける事が可能だ。冒険家及び依頼の階級付けはギルド、つまり人が行うため、必ずしも(特に依頼の方は)正しい階級とは限らないが……目安として使えはする。

 スピカの冒険家としての階級は三級、今回受ける依頼は五級。五級の仕事は正に初心者向けのものだ。対してスピカの三級は、多くの冒険家にとって『壁』に位置する。若くしてこの階級に辿り着くのは、かなり優秀な冒険家と言えよう。スピカからすれば此度の依頼、極めて簡単なものと言って良い。

 それでも、そのまま「はい良いですよ」とはならない。実際に仕事を任せるかどうかを、ここ最近の依頼内容や成功率からギルドの受付が判断するからだ。スピカに関して言えば、この点についても問題はない。彼女自身が思い返せる範囲の仕事は全て成功させていて、仕事内容も三〜四級が殆ど。五級を任せられない理由は、スピカが考える限りない。

 それにスピカと受付は顔馴染みだ。規則を破る事はなくとも、今更厳密な審査を必要とする関係でもない。

 

「……はい、審査が完了しました。問題ありません。依頼の受諾を許可します。こちら前払い金です」

 

「はい、ありがと」

 

 すんなりと発行された許可証を、腰の合切袋の一つに折り畳んでしまう。

 普通は依頼完了後にこの許可証と照合して、ギルド側から代金を受け取る。そのためこれをしっかり保管しておかないと、最悪依頼完了後に代金の受け取りが出来ない。ギルド側でも控えを作るのでそうなる可能性は低いが、色々手続きが面倒であるし、万一を考えると万全を期しておくに越した事はない。今回は前払いなので、大事にする必要はあまりないが。

 依頼を受けたら、次は準備だ。仕事内容にあった装備を整えなければならない。その買い出しをするため、スピカはギルドを出て商店が並ぶ大通りに行こうとする。

 

「よお、スピカ。久しぶりだな」

 

 その間際に、スピカは横から声を掛けられた。

 振り向けば、そこにいたのは金属製の鎧を纏う身長百八十セメトはありそうな大男。屈強な肉体と強面の顔の持ち主であるが、人当たりの良い朗らかな笑みを浮かべている。

 スピカとこの男は知り合いだ。二級冒険家で、スピカの先輩である。冒険家になったばかりの頃は色々教えてくれた、世話好きの男だ。出会った時は下心があるのではないかと疑っていたが、今では ― 冒険家としては珍しいぐらい ― お人好しだと知っている。

 今回の依頼は期日に余裕がある。しかし準備を行うための買い物は早く済ませた方が良い。冒険家が多い帝都では、冒険家が使う道具の売れ行きは好調。道具は割とよく売り切れていて、最悪準備不足での出発を余儀なくされてしまう。だから普通の冒険家は準備中の無駄話を好まない。

 とはいえ相手は先輩であり、世話になった人である。声を掛けられて無視するほど、スピカは彼の事を嫌ってはいない。

 

「あら、久しぶり。元気してた?」

 

「元気元気。何しろ最近結婚してなぁ」

 

「……え、嘘。結婚? 何時?」

 

「二年前。娘も産まれたぞ」

 

 全然最近じゃないじゃない、と頭の中で突っ込みを入れるスピカ。とはいえこれはスピカが悪い。

 多くの冒険家は、一つの町や村を拠点にして仕事を行う。家を持ち、仲間を作り、そこで一生を送る……極々普通の市民だ。

 ところがスピカは家を持たない。ぷらぷらと外を出歩き、野宿を基本にして日々を過ごす。しかも町から町へと気ままに移るため、一箇所に留まる事もない。

 そのため知り合いと顔を合わせる事が、年に一度あれば良い方という有り様なのだ。この先輩とはもう三年も会っておらず、結婚だの娘の誕生など、知る由もなかった。

 

「そんでまぁ、近々王都に引っ越す事にした。あっちの方が安全な依頼が多いからな」

 

「あらあら、いっちょ前に親になっちゃって……」

 

「はははっ。お前も程々にしとけよ。今日はなんの仕事を選んだんだ?」

 

「今日は手紙の配達。この前獣による大きな被害があった、カルボン村にね。親族が安否確認したいみたい」

 

「……ふぅん。あの村までなら、大した獣も出ないし、お前でも安全だな」

 

 考え込み、そして忠告するように先輩は語る。

 悪意がないのは分かっている。しかしスピカは僅かに唇を尖らせた。もう三級冒険家という『一人前』であり、初心者みたいに扱われれば気分も損ねるというものである。

 

「その言い方は癪に障ります。そりゃ、先輩ほど戦いは得意じゃないですけど、私だってもう三級ですよ? 外にいる期間なら私の方が長いかもですし」

 

「ははっ、違いない。お前に小言は必要ないと思うが、一応な。しかしお前は相変わらず一人で仕事しているんだな」

 

「群れるのは好きじゃありませんから。だって他の人と一緒だと、好きな時に好きな事も出来ないでしょう?」

 

「……ま、お前がそう言う事は分かっていたがな。俺と組まないかと言った時も断ったんだし。だがやっぱり一人だと色々な」

 

「心配してくれてありがとうございます……では、私はそろそろ行きますね」

 

 話を打ち切るように男の話を遮ると、スピカは再びギルドの外に出ようとする。

 

「ああ、そうだ。最後に一つだけ」

 

 そんなスピカをもう一度先輩は呼び止め、こう告げてきた。

 無視して行っても良かったが、しかし先輩の口調が少しばかり真剣味を帯びている。その事に気付いたスピカは足を止め、先輩の顔を見遣る。

 その判断は正しかった。

 

「近隣で()()()()の活動がまだ確認されているらしい。それだけ気を付けな」

 

 スピカの仕事にとって、極めて重要な情報を教えてくれたのだから。

 

「……まだそんな時期でしたか? 最近帝都から離れていたので、季節感がちょっとズレたかも」

 

「いいや、ズレてない。この前も大雨が降ったしな。普段なら奴等はとっくに眠ってる頃だ。ただ、何故か今年は今になっても目撃例があってな。襲われた奴もいるし、なんなら喰われた奴もいる。それに食べ残しをギルドが確認している」

 

「うへぇ。スライムの食べ残しって、喰われ方の中で一番エグいやつじゃないですか」

 

「だからこそ間違いはない。活動している奴がいるのは確実だ」

 

 先輩の言葉を、スピカはよく噛み締める。情報は重要だ。正しい行動の指針となる。

 勿論中には嘘や出処不明の噂もあるが、この先輩からの話であれば、スピカとしては全面的に信頼出来るものだと考えていた。

 

「分かりました。気を付けます……まぁ、アレ相手じゃ会わないようにするしかないですけど」

 

「まぁな。神頼みでもしとくか」

 

「それは性に合わないから止めときます。普段頼ってない奴がいきなり拝んでも、神様だって顔を顰めるでしょうし……では、いってきます」

 

「おう、いってらっしゃい」

 

 先輩との会話を終わらせ、スピカは今度こそギルドの外に出た。

 人通りの溢れる大通り。そこで一旦足を止めて、スピカは一度深呼吸をする。

 次いで、パチンッと頬を叩き、快活な笑みを浮かべる。

 

「良し。今日も頑張ろうっ」

 

 気合いの言葉を発したら、スピカは人混みに向けて歩み出す。

 自分の命を預けても大丈夫だと思える程度の、徹底的な準備をするために。



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君臨する軟体2

 帝都と外の世界を区切るもの。それは巨大な門扉である。

 高さ四メトル(一メトルは百セメトと同じ。四メトルは四百セメトなので、スピカの身長の約二・三八倍の高さになる)もある大きな門は、基本的には一日に三度開く。一度目は早朝、二度目は昼間、三度目は夕暮れだ。

 実際には外から『助け』を求められれば、規定の三回以外にも開ける事はある。門扉の前には帝国兵が門番として常に配置されており、門扉の開閉は彼等が行っているからだ。しかしそれは所謂緊急事態であり、人命を優先した結果。特別な事情がないのであれば、門は時間まで硬く閉じたままである。この国を収める帝王や貴族の命令なら無理も効くかも知れないが、高々成金程度では門番兵士にあしらわれるのがオチ。一般市民なら言うまでもない。

 そして冒険家もまた一般市民の一人だ。

 『手紙の配送』という依頼を受けた翌朝、スピカは門扉の前で大人しく朝の開門を待っていた。昨日と同じく肌にぴったりと張り付いた革製の服を着ていて、綺麗に磨かれた弓と矢も背負っている。十以上付けた腰の巾着袋の中身もパンパンだ。

 

「(そろそろかなぁ。こういうのって、あと一目盛りって時が一番長く感じるのよね)」

 

 ちらりとスピカが視線を向けたのは、門扉の上の方。

 門扉の上には巨大な時計が設置されており、これが時刻を示す。時計には二十四の目盛りが記され、中心から伸びる針の先が指している目盛りが現在時刻だ。頂上をゼロ番とした場合、目盛りが九番目のところを刺した時に門扉は開く。

 ちなみにこの時計の針は、内側で門番数名が動かしているらしい。時間そのものは内部に設置した日時計で測っているとかなんとか。あくまでも噂であり、実は裏側に巨大絡繰があるという話も聞く。どれが本当かは門番兵士しか知らない。逆に門番は知っている筈なので、訊けば分かるだろう。尤も、帝国兵士は堅物が多く、市民との無駄話には興じてくれないだろうが。

 特に、朝の忙しい時間帯となれば尚更だ。

 

「(いやー、久しぶりに帝都に戻ってきたけど、相変わらず此処は人気が多いなぁ)」

 

 門扉の前は大きな広間となっているが、大勢の人でごった返した状態だ。スピカの周りにも人がいて、その大半は革製の鎧や短剣を装備した冒険家達。彼等に護衛を頼んだ商人(及び荷引き用の馬)や市民もいるが、それらはごく少人数だ。

 そして冒険家達は比較的落ち着いている者が多いものの、市民や商人の多くは緊張した面持ちを浮かべている。

 

「開門!」

 

 しかし表情が違えども、門が開いた後の行動は誰もが同じだ。

 門扉を閉じていた巨大な『閂』を兵の一人が引き抜いた後、六人の門番が門扉を素手で押す。門扉はゆっくりと開き、完全に開いたところで門扉の前にいた兵士達が退いた。

 兵士がいなくなってからぞろぞろと、門扉前に集まっていた人々は外に向けて歩き出す。スピカも同じく前へと進む。綺麗に整列した、整然とした動きだ。

 ただしそれは門扉を潜るまでの話。門扉の外に出た後は、各々が目的地に向けて進むからだ。此処の門扉は王都南口。西へ東へ南へ、三方に人々は散っていく。

 スピカも同じだ。此度の依頼で手紙を届ける方角は南。他の人々が散り散りになる中、自分の道を行く。いや、行かねばならない。

 

「(さぁ、気合い入れてこ)」

 

 心の中で喝を入れ、しっかりと歩む。

 目の前に広がる鬱蒼とした森に、彼女は堂々と足を踏み入れるのだった。

 ……………

 ………

 …

 帝国首都である帝都の周りに広がるのは、鬱蒼とした森林。木々の高さは大きなものなら二十メトルはあるだろう。木は枝葉を広げて空を覆い尽くし、地上はかなり薄暗い。地面を覆うのは降り積もった落ち葉で、下草の姿は殆ど見られない状態だ。

 これだけ森が豊かなのだ。生命の数は豊富であり、さぞや賑やかに違いない――――と、初めてこの森を訪れる冒険家はよく思う。だが突き付けられた現実の光景に、得体の知れぬ不安を覚えるだろう。

 静かなのだ。

 音が殆ど聞こえてこない。鳥の鳴き声も、獣の雄叫びも、何一つ。聞こえてくるのは風で木々が揺れ動いて鳴らす葉擦れ、または落ち葉が落ち葉の上に落ちた時の音ぐらいなもの。気配も殆ど感じられず、もぬけの殻であるように思うかも知れない。

 しかしこの森に何度か訪れた事があるスピカは知っている。この森にはちゃんと生き物が、森の規模に見合う程度には存在しているのだと。

 だからこそ、静かな森に一層強い不気味さを覚えるのだが。

 

「(今日もこの森は静かだなぁ。嫌になるぐらい)」

 

 何も知らなければ安らぎすら覚える静寂に対し、スピカは心の中でぼやくように独りごちる。

 しかしどれだけぼやいても、周りの警戒は怠らない。

 歩みは一歩一歩着実に。もっと早く出せる歩みを、あえてゆっくりと行う。時折立ち止まって周りの様子を窺い、安全を確かめてからまた進む。少しでも違和感を覚えたら立ち止まり、違和感がなくなるまでは動かない。

 徹底的に慎重な歩みだ。もしもこの歩みを普段通りの、都市を歩く程度の速さで行えば、目当ての村に辿り着く時間を半分に出来るだろう。それでもスピカは決して歩みを早めようとはしない。

 何故ならどれだけ慎重でも、足りないぐらいだからだ。

 もしも警戒していなければ、スピカは背後から近付いてくる僅かな『気配』を感じ取れなかったに違いない。

 

「むっ……」

 

 気配――――風のない時に遠くから鳴った落ち葉の音を聞き取ったスピカは、素早く樹木の裏に身を隠す。息を潜め、身動ぎもしないよう樹木にぴたりと身体を付けた。

 そうしてしばし待っていると、やがて森の奥から巨大な生物が姿を表す。

 体長は凡そ五メトルぐらいだろうか。背丈は三メトル以上あり、がっちりとした体躯をしている。その身体は太く長い茶色の毛で覆われていて、触ればこちらの手が傷付きそうな剛毛だ。

 大地を踏み締める四足には硬い蹄があり、地面に落ちた枝や細い根を踏み潰す。あんなもので踏まれたら、人間の胴体など潰れて真っ二つにされてしまうだろう。

 そして大きな頭部。頭だけで小柄な人間の背丈ほどはありそうで、しかも口からは二本の牙まで生えている。豚鼻が少々間抜けにも見えるが、そこから吐き出される重苦しい鼻息を聞けば恐怖心が掻き立てられるもの。

 

「(カリュドーンか。これはまた面倒な奴に出会っちゃったわねー)」

 

 巨大猪カリュドーン。それを確認したスピカは顔を顰めた。

 

「フ、フゴ……フシュゥゥゥ……」

 

 カリュドーンは静かな鼻息を鳴らしながら、周囲の臭いを嗅いでいた。涎を口からだらりと流し、目は血走っている。鼻先で地面を掘り返している動きは、忙しないというより苛立っているようだ。

 そうして何ヶ所かの落ち葉をひっくり返した時、突然頭を激しく動かした。顎を開閉させ、明らかに何かを咥え直している。

 じっと観察してみれば、そこにいたのは人の手よりも大きなネズミだと分かった。

 カリュドーンはネズミの頭を噛み、その息の根を完全に止めた。大人しくなった獲物を咀嚼し、最後はごくりと飲み込む。しかしこれだけでは全く足りないようで、再び苛立った動きで地面を漁り出す。

 特徴的なのは、そうした一連の動きで殆ど音がしない事。

 鼻先で落ち葉をひっくり返した時などは流石に音が鳴っていたものの、歩みは極めて静かだ。ネズミを仕留めるため頭を振り回していた時も、体幹はしっかりと固定され、殆ど足音を鳴らしていない。精々ネズミの苦し紛れな呻きがあった程度である。

 巨大な獣として、異様な立ち振る舞いだ。

 果たしてこの異様な大型生物の前に姿を表す事は、賢い行動と言えるだろうか?

 無論、否である。

 

「(あれは腹ペコね。それも相当な)」

 

 カリュドーンは雑食性の動物だ。植物をよく食べているが、それは単純に植物の方が自然界でよく見られるというだけ。動物質の方が好みであり、今し方ネズミを食べたように、自分より小さな動物であれば好んで食べる。

 人間の大きさはネズミよりも遥かに巨大であるが、カリュドーンからすれば半分以下の『小動物』に過ぎない。満腹ならば兎も角、腹ぺこなら襲い掛かってきてもおかしくない。

 

「(このまま立ち去ってくれるとありがたいんだけど)」

 

 物音を立てればカリュドーンに気付かれる可能性が高い。スピカは息を潜め、木の陰でじっとする。

 カリュドーンは左右を見渡し、しばらくするとこの場を去っていった。カリュドーンの気配が遠退いてもしばらくスピカは動かずにいたが、やがてほっと息を吐く

 

「シュゥゥゥー……」

 

 直後、聞こえてきた甲高い鳴き声にビクリと身体を震わせた。

 スピカは再び木陰から身を乗り出す。するとそこにいたのは体長五メトルの『大蛇』が地面を這っている姿が見えた。紫色に輝く鱗を持ち、その鱗を逆立たせている姿は極めて攻撃的に見える。

 大蛇……ナーガという種だ……はスピカやカリュドーンの進路とは別方向に進んでいく。視線はスピカに向いていて、攻撃的であるが――――仕掛けてくる素振りはない。先の鳴き声は、『大型動物』であるスピカに対する威嚇のようだ。

 スピカが動かずにいたらあっという間に、ナーガは物音一つ出さずに横を通り過ぎていった。

 こちらは戦って勝てないような相手ではないが、ナーガは猛毒を持っている。万一噛まれれば解毒剤を使う暇もなく身体が動かなくなるような毒だ。その後何日も掛けて丸飲みにされ、更に何十日も掛けて消化されてしまう。大人の人間を丸飲みにする事は(大き過ぎてナーガ自身も身動きが出来なくなるので)まずないと言われているが、全く例がない訳でもない。

 そして仮に飲まれずとも、何日も自然界で横たわっていたら他の動物の餌食だ。噛まれれば『終わり』と考えて良い。

 

「ふぅ。一息吐く間もないわね」

 

 ぼやきながら木の陰より出てきたスピカ。言葉では悪態を吐きながら、軽い足取りでスピカは『旅』を再開する。

 立て続けに危険な生物と遭遇したが、こんな事で慌てるようなスピカではない。というよりこの程度で慌てる冒険家は三流か、なりたての新人ぐらいなもの。

 この世界における旅とは、このようなものなのだから。

 ――――帝国には、都市の外に出る事に許可や資格は必要ない。

 文字の読み書きが出来、手続きさえちゃんと行えるのなら子供でも単身外に出る事が可能だ。しかしそれは賢明な行動とは言えない。普通は冒険家と共に行動し、彼等を雇えない者は大人しく都市に引きこもる。冒険家でもない人間が外に出たなら、それを助けようと思う者は、そいつの親や恋人以外にはまずいないだろう。

 何故なら、都市の外は危険だからだ。人を突き殺すほどの牙を持った猛獣カリュドーン、人をも丸飲みにする大蛇ナーガ……人間など簡単に捻り殺す生物が、帝都のすぐ側であっても頻繁に見られるほどに。

 町や村は自然界の中で比較的人間の管理がしやすく、何百年と掛けて安定させてきた土地だ。その領域を出れば、自然は容赦なく牙を向いてくる。そしてこの世界の大部分、九割以上が人間の管理下にない『大自然』。町と町の間には常に自然が横たわり、人の行き来すらも阻む。

 人間とてこの状況を良しとはしていない。どの国も開拓を進め、人の版図を広げようとしている。特に世界一の勢力を持つ王国はその技術力と経済力を惜しみなく投じ、事に当たっている。しかし危険な生物達の(野生動物である彼等に『攻撃』の意思はないだろうが)襲撃により、大半が頓挫、時として苦労して確保した領地が奪われる始末。人間の領地拡大は遅々として進んでいない。

 人の手の及ばぬ大自然。何時、何処から降り掛かるか分からない危険。その道程はどれだけ短いものであろうとも『冒険』と呼ぶに相応しい。

 故に都市の外で活動する者達を、冒険家と呼ぶのだ。

 無論、冒険家だから外で活動出来る、等と因果の逆転した勘違いをしてはならない。冒険家か都市の外で動けるのは、自然に対する深い知識を持っているからだ。一攫千金を求めて冒険家になった者の八割は、一月以内に命を落とす。残り二割の大半は一年以内に死ぬ。自然を甘く見た者は残らず死ぬ。

 尤も、真面目に勉強し、自然を甘く見なければ生き残れる訳でもなく。

 

「(……あら。こんなところに人が)」

 

 歩いていたところ、仰向けに倒れている人間の姿を見た。

 キョロキョロと辺りを見回し、獣の気配がない事を確認。安全を確かめてからスピカは倒れている者の傍に歩み寄った。

 倒れている人間には、顔がなかった。

 顔面の肉が削がれていたのだ。他にも腹が食い破られ、内臓が外に出ている。カリュドーンなどの獣に襲われ、喰われたのだろうか。着ていた革製鎧の大きさなどから恐らく男の亡骸だと分かるが、数日もすれば判別不能になるだろう。剥き出しになった内臓や肉に虫がたかり、腐敗が始まっているからだ。やがてこの遺体は土に還る。或いはカリュドーンのような獣に見付かれば、一日で糞便にされてしまう。

 顔がないので正確な年齢は不明だが、年季の入った装備を見るに、それなりにベテランの冒険家だったに違いない。油断はしていなかっただろうが、しかし人間というのは常時完璧でいられる存在ではない。恐ろしい獣と死闘を繰り広げ、疲弊したところを後ろからぐさり……これを卑劣だ姑息だというのは人間の価値観だ。死んだらそれまでである。

 

「……この辺かな」

 

 そんなそれまでな亡骸を、スピカは漁る。腰回りを探ってみれば、一枚の金属板……冒険家の資格証が見付かった。

 資格証が金属で出来ている理由は、そうすれば獣に食べられ難い、または食べられてもそのまま排泄される可能性が高いため。

 冒険家は何時命を落とすか分からない。それ故に、冒険家は仲間の遺体を見付けたら、スピカのように資格証の回収を行う。資格証があれば、例えそこにあるのが顔のない遺体だとしても、ギルドで誰のものであるかが判別出来るからだ。遺体に遺族や友人などがいれば(故郷が遠ければ時間は掛かるが)連絡が行き、その死を悼んでもらえるだろう。

 この行為は冒険家としての規則などではなく、あくまでも善意の行動であるが……大抵の冒険家は積極的に行う。何故なら『徳』を積めば、自分の資格証も、誰かに拾ってもらえる気がするから。

 一種の(まじな)いだ。スピカとて呪いの効果を信じている訳ではない。しかし縋っておける何かを決めておかねば、何時か死が訪れた時、安心してあの世に行けないというもの。

 加えてスピカには目的がある。『アレ』と出会った時、死にたくないなどと惨めな姿を晒すなんてしたくない――――

 

「……ふぅ。こんなところで考え事なんてするもんじゃないわね」

 

 首を横に振り、考えを頭の中から追い出す。

 自然界は平等だ。どんな悪人も、どんな善人も、等しく全てを餌として喰らう。当然昔の事を思い出し、決意をしている人間だって構わず襲って美味しく食べる。

 考え事なんて『油断』をしていたら、食べてくださいと言っているようなものだ。考え事は安全な場所でするに限る。一旦思考を外に追い払い、改めて自然と向き合う。

 そう、自然界で油断などしてはならない。それは冒険家にとっての常識であるし、冒険初日の新人以外であれば誰であれ身を以て理解している事だ。

 故にスピカはこの後、大変な混乱に陥る。

 何処からか、()()()()()()()()()()が漂ってきたのだから……



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君臨する軟体3

「……………は?」

 

 思わず呆けた声が漏れ出てしまうほどに、その臭いはスピカの困惑を引き起こした。

 焼けた肉の香り。

 しかも、例えば()()()()()()()()()()()()()、吐き気を催す嫌な臭いではない。適度な焼き加減で調整された、香ばしいものだ。更に焼いているのは恐らく可食の獣肉。食欲をそそる香りにより、本能を刺激されたスピカの口の中に涎が溜まっていく。

 どう考えても、誰かが森の中で肉を焼いているのは明白だった。

 肉を焼く事自体は、やろうと思えば誰でも出来るだろう。冒険家の基本的な装備の一つに携帯用着火薬(特殊な鉱石から作り出したもの。ザラザラとした摩擦の大きなものに擦り付けると容易に発火する)というものがあり、これを使えば何時でも何処でも焚き火を起こせるからだ。夜間に暖を取るため、野山で得た水を煮沸するためなど、冒険家にとって火は欠かせないもの。勿論食べ物に火を通す事も少なくない。

 だが、此処で肉を焼くのはあまりにも軽率過ぎる。

 

「(ちょっとちょっと、肉を焼くなんてどんなド素人な訳!? 獣が集まるじゃない!?)」

 

 森の生物は貪欲で、常に腹を空かせている。森の中は生物()が豊富であるが、同種個体も豊富に生息しているため、結局餌は奪い合う状態になっているからだ。焼き肉の香りなんて漂わせれば、腹ペコの猛獣達は続々と集結するだろう。

 そして一部の生物の場合、火を恐れない。例えばカリュドーンは自身の毛皮が極めて燃え難い(生木のように水分を豊富に含んでいる事が理由)事を知っていて、おまけに足先は蹄になっていて熱が伝わり難い。燃え盛る焚き火を平気で踏み付け、目の前の人間と肉を丸ごと喰らってくるだろう。ナーガなどは熱いものに興奮する性質があり、木を一本燃やすほどの大火でもなければ意気揚々と襲ってくる始末。

 高々火を使ったぐらいで全ての獣を追い払えるなら、人間の版図は今頃世界の隅々まで行き渡っているという事だ。怯えて逃げる動物も少なくはないが、頼りになるとは言い難い。

 故に冒険家が火で調理を行う時は、細心の注意を払う。匂いが少ない携帯食料を用いる、或いは獣の嫌う臭いを出す山菜を使うなど……肉を美味しく調理し、食欲を唆る香りを撒き散らすなんて愚行以外の何物でもないのだ。

 こんな事をする輩はド素人、いや、それ以前の問題である。それに、今は時期が悪い。『アレ』がまだ活動しているらしいからだ。もしも『アレ』が肉の匂いを嗅ぎ付けたなら……忠告しなければ、そいつは間もなく無惨な亡骸と化すだろう。

 さて、そうなると問題は()()()()()()()()()、という点だ。

 

「(臭いの方角は、私の目的地への進路から外れてる)」

 

 目的地に向かう道中で出会うなら、スピカはそのド素人未満の輩に忠告しただろう。目の前で命に関わる事をやっている馬鹿を無視するほど、意地の悪い性格はしていない。

 だが、わざわざ忠告をしに行くのはまた別の話だ。

 そもそも道中にいたとして、そこを理由もなく通る時点で冒険家としてはお人好しの類である。肉の香りが獣を集めるのだから、その場所に近付く事自体が危険な行いだ。ただでさえ死の危険がある自然界で、より危険な行いをしては到底生き残れない。迂回してでも避けるのが正しい。

 それに、これが『罠』という可能性がある。

 護衛として冒険家を雇い、隣町などに向かう商人や市民。しかし彼等の身は絶対に安全とは言えない。時として猛獣の攻撃を受け、冒険家と逸れてしまう人々も少なくない。知識のない、だけど外の怖さを知る人々はさぞや不安になるだろう。そんな時、煙の臭いを嗅げばついつい駆け寄ってしまう筈だ。人がそこにいるのは間違いないのだから。

 つまり焚き火一つで、か弱くて無知な人間が集まる可能性が高い。野盗のような粗暴人にとって格好の獲物だ。男なら身包み剥いで捨てて、若い女なら人攫いに売る。これでがっぽりと遊ぶ金が稼げる。

 スピカはか弱い女ではない。背中には武器である弓矢があり、これを使えば自分より大柄な男でも殺せる。しかし相手の人数が多ければ、そう簡単には全滅させられない。ましてや相手が丈夫な鎧や兜を着込んでいたら、ちょっとばかり相手が悪い。

 自分が生き残る事を考えれば、無視するのが一番の得策だ。

 そう、得策である。それは間違いない。

 間違いないのだが……だからといってその通りに出来るかどうかは別問題。野生の獣達と違い、人間というのは感情でも生きている存在だ。

 そしてスピカは、こういう時に平然と無視出来る性格ではなかった。

 

「(落ち着け、私。冷静に、冷徹に。そうでないとこの世界じゃ生き残れない)」

 

 胸に渦巻く感情を抑え込もうと、胸に手を当てる。

 冒険家にとって大事なのは、まずは自分が生き延びる事。危険には可能な限り近寄らない。それが自分の命を守るし、また依頼達成という『社会的意義』にも繋がる。

 自分もそうあるべきだと、スピカは思っている。

 だが、それでも、胸のくすぶりは消えてくれない。むしろ抑え込もうとするほどに、どんどんどんどん強くなる。

 自分の悪癖に、ついにスピカは舌打ち一つ。

 

「……………ああもうっ! これで死んだら末代まで呪ってやる!」

 

 悪態を勢い良く吐き、スピカは走り出す。それは肉の匂いがする方角だった。

 勿論向かうにしても、警戒を怠る訳にはいかない。人助けに向かうからといって、大自然の愉快な動物達は見逃してくれないのだから。それでも普段よりは幾分早歩きでスピカは進んでいく。

 やがてパチパチと、火花の弾ける音が聞こえてきた。

 間違いなく誰かが焚き火をしている。そして肉の香りも強くなった。というより匂いが強過ぎる。これではまるで、帝都の街道で見られる露店のようではないか。一体どれだけの量の肉を焼いているというのか。

 やはり罠だろうか? 冷静さが戻ってきたスピカは、焚き火の煙が見えたところで一旦木陰に身を隠す事にした。此処まで近付いてから走って逃げるのは、却って相手に自分の存在を知らせるようなもの。それに人数などの情報を知らないままというのは、囲まれる可能性などを考えると得策とは言い難い。

 情報を一方的に握る事で、相手よりも優位に立つ。争い事の基本だ。

 

「誰だっ」

 

 だからこそ、こっそりしていたのに即座に見破られたという展開は、スピカの動揺を誘う。

 いや、単に作戦が失敗しただけなら心臓が波打つほどの動揺はなかっただろう。スピカが動揺した一番の理由は、隠れていたにも拘らず気付かれた事だ。

 

「(ちょっとちょっと。私の存在に気付くとか、これかなりヤバくない?)」

 

 足音を消し、息を潜め、身動ぎはしない。野生動物に気付かれないよう、気配を消す術は冒険家の基本的な技術だ。スピカにとっては、比較的得意な事でもある。

 完璧に消せるとは言わないが、普通ならばそう簡単に気付くものではない。それをこうも容易く見破られるとは、少しばかり相手を見くびっていたかも知れない。

 そして気付かれた以上、ここで脱兎の如く逃げ出すのも得策ではないだろう。逃げようにも『何』から逃げれば良いのか、スピカは未だ分かっていないのだ。がむしゃらに逃げたところで、逃げ切れたかどうかも判断出来ない。

 幸いにして、声の様子から相手は『女』のようだ。女だから人攫いでないとは限らないが、男よりは可能性が低い。

 意を決してスピカは木陰から身を出し、相手の姿を見る。

 そこにあったのはパチパチと燃え盛る焚き火と、その火で焼かれている焚き火をぐるりと囲うほど大量に置かれた肉。

 そして焼けた肉を食べる、一人の少女だった。

 

「お、んなの、こ?」

 

 野党以外の可能性は、考えてはいた。しかし少女が一人で焚き火をしているのは、スピカにとって全くの想定外。無意識にその姿を凝視してしまう。

 少女の背丈は百四十セメトあるかないか。顔立ちはあどけなく、くりっとした茶色の瞳が大変可愛らしい。肌は褐色をしていたが、日焼けした色合いとは少々雰囲気が異なる。生まれついての色黒な肌と思われる。

 身体付きは極めて細い。しかし『痩せた』身体ではない。逆に鍛え上げられた、それでいて猫のようなしなやかさを兼ね備えた肉体である。胸が平坦なのは少女だからか、はたまた栄養が全て筋肉に取られているのか。また短く切り揃えられた髪は艶のない、油分の足りない黒さをしている。

 しかしそうした特徴的な容姿より目を引くのが、彼女の服装だ。

 簡易な布を胸と股に巻いただけという簡易さ。風が吹けば簡単に中身が見えてしまいそうだ。手足どころか肌も大部分が露出していて、足には靴すら炊いていない。胡座を掻いているため見えた足裏は、遠目で見ただけで分かるぐらい皮膚が分厚い。どうやら森で靴を失った訳ではなく、かなり長い間裸足で過ごしていたらしい。そして見る限り、武器は短剣一つ持っていなかった。

 

「(まさかこの子、こんな格好で旅をしていたの? それも長い間?)」

 

 あり得ない、とスピカは思う。

 自然界を『冒険』するのに適した格好とはどんなものか?

 頑丈な金属製の鎧と、その鎧すらも両断出来そうな大剣……冒険家を志したばかりの若者はよくこうした装備を行う。国の兵士、その兵士の中でも優秀な者達である騎士の格好がこのようなものなので、安易にそれが一番良い装備と思うのだろう。しかしこれは誤った選択だ。

 まず冒険というのは何日も行うのが普通である。そのため体力の消耗は少なくしなければならず、また食べ物などの荷物は多く持たねばならない。しかし鎧や大剣など重たいものを持てばその分体力を消耗し、他の荷物は少なくならざるを得ない。これでは旅の半ばで飢え死にするのがオチである。

 また重たい金属製鎧は素早く脱げず、上から叩いても中のものを潰せない。野外を歩けば小さな虫が服の隙間から入り込むなんてのは珍しくなく、それが毒虫なら一刻も早く退治・治療する必要がある。脱げない・凹まない鎧では処置が手遅れになるかも知れない。

 そして重たい装備では動きが鈍くなり、()()()()()()()()()敵に対して逆効果である事。自然界では人間より格上の生物など、いくらでもいるのだ。その格上相手には逃げるのが最善手。重たい装備は足枷にしかならない。

 こうした諸々の理由から、冒険家は比較的軽装を好む。スピカが全身を革製の服で包んでいるのもそれが理由だ……とはいえ何事にも限度がある。最低限の防御力がないと、それこそ小さな蛇や虫、更には草すらも脅威だ。なので一般的には軽くて丈夫な革製の鎧や服を着る。目の前の少女のような、裸一歩手前の服装なんてあり得ない。

 

「……おー、ヒトだ。久しぶりだなー」

 

 スピカが呆けていると、少女は暢気な声で話し掛けてきた。ただし言葉遣いがやや辿々しい。

 帝国の言葉に慣れていないらしい。

 得られた様々な情報から、スピカは一つの結論に達する。

 

「(この子、もしかして亜人?)」

 

 亜人。

 それは帝国や王国の住人である人間とは、()()()()()()()()の呼び名だ。エルフやドワーフなどの何種類か存在している。大まかな見た目は人間と大差ないが、肌の色などには様々な特徴を持つ。

 そして目の前の少女の特長である、褐色の肌と小柄で細身な身体を持つ亜人は、スピカが知る限りではただ一つ。

 

「あなた、もしかしてゴブリン?」

 

 その名前を伝えたところ、少女はしばしキョトンとした顔を浮かべる。されどすぐに屈託のない笑みを浮かべると、こくこくと頷いた。それからすっと立ち上がり、力強く胸を張りながら名乗りを上げる。

 

「うむ! 我等の誇り高き名は、コバロス族! しかしお前達人間は、ゴブリンと言う! 遥か昔に訪れた旅人から聞いた!」

 

「あ、そうなんだ。ならコバロスって呼んだ方が良いのかな?」

 

「問題ないぞ! 我々の心は空よりも広いからな! 好きに呼ぶが良い! それと私は、ウラヌスだ!」

 

 ゴブリン少女ことウラヌスは堂々自らの名を明かす。

 予想が当たった形であるが、スピカは少なからず少女の言葉に『疑念』を抱く。

 亜人達の殆どは、未だ人間の版図の外に広がる未開の地に暮らしている。一部の勇猛果敢(何より優秀)な冒険家により存在こそ確認されているが、交流がある訳ではない。単純な知名度で言えば、亜人の存在を知っている人間は稀だ。

 スピカも冒険家となる際、勉強として読んでいた本に記載されていたから知っていただけ。特異な見た目を利用して亜人を騙られたら、スピカとしては判断が付かない。

 とはいえ、では彼女がゴブリンではないとして……そう騙る事に利点があるだろうか?

 スピカには思い付かない。精々「恵まれない私に金をくれ」とせびる時に使えるかどうか、だろうか。それにしたって成果は期待出来ない。亜人という()()()()()()()()に同情する人間は、ごく少数なのだから。

 そして語る言葉の節々、というより全体から伝わる実直さ。極めて真っ直ぐな性格が、言葉遣いだけで分かる。

 この少女は間違いなくゴブリンだ。一呼吸置いてから、スピカは少女の言い分を信じる事にした。

 ――――等と一通り話したところで、スピカはようやく本題を思い出す。

 

「あ、そ、そうだ。えっと、ウラヌス? あなたに一つ言いたい事があるのだけど」

 

「うむ、なんだ?」

 

「そこの焚き火なんだけど」

 

「おっ。お前も肉が食いたいか? いいぞ、肉はいくらでもあるからな!」

 

 本題こと焚き火の危険性について話そうとするスピカだったが、ウラヌスは最後まで話を聞かず、思い込みでスピカの忠告を遮る。

 ほっとけないと思って来てしまったスピカだったが、割と本気で「流石にコイツはほっといて良いかなー……」と思い出す。

 人の話を聞かない性格は、冒険家に向いていない。得られた情報や知識を正しく認識出来ないからだ。ここでスピカが頑張って忠告を聞かせたところで、この後に同じ間違いをするなら意味がない……失敗が死を意味する冒険家であれば尚更に。

 いや、そもそも亜人なら冒険家ですらないのではないか。ゴブリンの冒険家なんて聞いた事もない。恐らく何かしらの理由で旅をしているのだろう。こうなると最早同業者のよしみすらなくなり、スピカはすっかり呆れ果てていた。

 ――――呆れた心は隙間の空いた鎧のようなもの。容易に周りの動きに引っ張られる。

 スピカはウラヌスの言動に呆れていた。故に話の中でウラヌスが指差した方に、無意識に目を向けてしまう。

 そして驚愕する。

 ウラヌスが示した方角には、巨大な獣の亡骸があったのだから。

 

「……!?」

 

 スピカは大きく目を見開く。パクパクと口を開閉し、けれども言葉が出てこない。

 倒れている獣の体長は少女ウラヌスの倍近い、二・九メトルほどか。全身は鱗で覆われていて、頭部は獰猛なトカゲを彷彿とさせる見た目をしている。足と腕を持つが、どちらにも鋭い爪があった。人の頸動脈ぐらいであれば、一掻きで届きそうな大きさだ。身体は細長く、手足はあるものの、遠目から見ればヘビのような印象を受けるかも知れない。

 これだけなら珍妙な大トカゲと言いたいが、しかし『彼等』の特徴が背中にある。

 翼だ。長さ一メトル以上の巨大な翼が背中から生えている。翼は鳥のような羽毛に覆われており、更に三対六枚も生えていた。大きさからして、飛ぶのに使っていたのは間違いない。

 翼を生やした大トカゲ。その種族を示す名は、ただ一つ。

 

「ドラゴン……!?」

 

「え? おおっ。これがドラゴンなのか! 私は目標を一つ果たしていたのだな!」

 

 思わずスピカがその名を呟けば、ウラヌスも一緒に(そして喜々としながら)声を上げた。どうやら彼女は、これがドラゴンという認識がなかったらしい。

 されど無理もないかも知れないと、スピカは思う。

 ドラゴン。それはこの世界で最も繁栄した種族だ。

 個体数も種類も極めて多様。一つの環境に複数種存在している事も珍しくなく、例えば帝都の周りにあるこの森には六種のドラゴンが生息していると聞く。うち四種は人間よりも小さく、怪我でもしてない限りは無害だが……二種は極めて危険だ。普通の冒険家ならまず全力で逃げる事を選択し、伝説的な強さを持つ冒険家でも一旦逃げる事を選ぶ。ドラゴンとはそういう存在なのである。

 体長と見た目から判断するに、これはククルカンと呼ばれる種。人間にとって危険な二種のうちの一つだ。

 それが何故、こんな場所で死んでいるのか。

 

「ねぇ、この死体って……」

 

「うむ。私が討ち取った。中々の強敵だったぞ」

 

 スピカが尋ねると、ウラヌスは平然かつ堂々とそう答える。

 相変わらずウラヌスの言葉に嘘は感じられない。

 しかしスピカには信じられない。伝説的な強さを持つ冒険家……それこそ『勇者』に例えられるような……であっても、まずは有利な形勢を得るために逃げるような相手だ。生半可な冒険家では、数人掛かりでも返り討ちに遭うだろう。無論スピカとてまともに戦えば、一時間も経たずに夕飯にされてしまう。

 それをこのゴブリンは、自らが倒したと(のたま)う。常識的に考えれば嘘に決まっている。だが彼女の言葉に嘘は感じられない。

 論理的な考えと自分の印象が対立し、スピカは混乱してしまう。まさかこんな小さな子が途方もなく強いのか、いや、きっと毒餌を使ったりしたのだ。或いは怪我で弱りきっていた個体に止めを刺しただけ――――様々な合理的回答が脳裏を過る。

 あまりに衝撃的な事態に、スピカの意識は目の前の死骸に向いてしまった。周りの警戒が疎かになり、頭の中身が死骸で塗り潰されていく。

 危険は、生きているモノから加えられるというのに。

 

「っ!?」

 

「む?」

 

 それでもスピカは自分に向けられた『気配』を感じ取る。ウラヌスも何かを感じ取ったのか声を漏らす。

 二人は同時にその場を跳び退く。

 次の瞬間、ウラヌスが焚いていた火が爆ぜた。

 火を恐れず、それどころか火目掛けて、頭上から()()()()()()()()生物がいたのだから――――



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君臨する軟体4

 跳び退きながらも、スピカはその生物に素早く目を向けた。

 焚き火があった場所の中心部分。そこにいたのは体長三メートルはあろうかという、巨大な『ナメクジ』だった。

 何処をどう見てもナメクジだ。大きさと身体の側面に大きな『ヒダ』がある事、そして遠目からでも分かるぐらい分厚い粘膜を纏っている事以外、畑で農家達に踏み潰されている害虫と全く同じ。頭の先には二本の角のようなものが生え、その先端にある目玉がギョロギョロと周囲を見渡している。

 冒険家であるスピカはこの生物の名を知っている。それ故にコイツにだけは会いたくなかったと、今、心の底から思う。

 この生物の名はスライム。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ああもうっ! やっぱりこんな奴さっさと見捨てとけば良かったぁ!」

 

 離れた位置に着地した後、スピカは自分の選択を心から悔いる。

 匂いに釣られたのか、はたまた賑やかな会話を聞き付けたのか。いずれにせよウラヌスと暢気に話なんてしなければ、スピカがこの最悪と出会う事はきっとなかっただろう。

 或いは油断があったかも知れない。スライムは帝都をぐるりと囲う森に生息しているが、活動時期は一年の半分程度。今の時期は休眠期であり、ぐーすか寝ていて遭遇の恐れはない筈なのだ。だから気が緩んでいた……先輩冒険家から、今もスライムが活動していると聞いていたのに。

 このゴブリンの少女も、今はスライムが休眠中だと思っていたのかも知れない。故に平然と焚き火をし、何も気にせずお喋りをしていたのか――――

 

「おおっ、なんだコイツは!? 変な生き物だな!」

 

 否、単純に知らないだけのようだ。ウラヌスのあまりの無知ぶりに、気が抜けたスピカは思わず体勢を崩して転びそうになる。

 そして少女が拳を構えてスライムと向き合った時、またしても転びそうになった。今度はあまりにも馬鹿馬鹿しい行動に、意識を持っていかれたがために。

 

「ちょ……まさかスライムと戦うつもりなの!? あなたコイツがどれだけ強いか知らないでしょ!?」

 

「ああ、知らない! だが肌でひしひしと感じる! コイツは強い! 故に戦う!」

 

「はぁ!?」

 

 強いから戦う。全く筋の通らない回答に、スピカは声を荒らげた。

 果たしてウラヌスは困惑するスピカに気付いているのか。スピカに一切視線を向けず、されどスピカの疑問に答える。

 

「我らコバロスの戦士にとって、強者との戦いは誉れだ! それに、こんな強い奴と戦うなんてワクワクするだろう!?」

 

 尤も、その理屈に同意出来るかどうかは別問題だが。

 呆けるスピカを余所に、ウラヌスはスライム目掛けて駆け出す。スライムはパチパチと弾ける焚き火をじっと見ていて、動きが鈍い。ウラヌスが肉薄するのに苦労はない。

 接近したウラヌスは握り締めた拳を振り下ろす。

 そう、ただ振り下ろしただけ。特別な技量は特に感じられない雑な一撃だ。だがスピカはその攻撃を見た瞬間に寒気を覚える。

 速い。

 単純に、猛烈に速いのだ。その速さは果たして人間が出せるものかと思うほど。攻撃というのは速ければ速いほど、衝撃が大きくなるものだ。ウラヌスの放った強力な一撃は、恐らく猛獣の骨すらも砕くであろう。

 ただし強力さ故に野生の獣の警戒心を掻き立ててしまう。

 

「プジュバアァッ!」

 

 焚き火から一瞬でウラヌスに目標を変更したスライムは、その扁平な身体の下半身を振り上げた。

 巨大な軟体動物であるスライムだが、その身体は殆どが筋肉で出来ている。全身をしならせて生み出す力、その力によって振り回す下半身の速度は凄まじい。スライムの攻撃は鍛え上げた大男の骨すら粉々に砕くと言われており、初めて実物の攻撃を目にしたスピカは噂話が事実であると確信した。

 では、拳を打ち込むよりも前にその打撃を身体の側面で受けてしまった、見た目幼い少女であるウラヌスはどうなるのか?

 

「ぬ、うぅうんっ!」

 

 ウラヌスは()()()()()。少し唸るだけで、吹き飛ばされる事なく二本足で踏み止まる。それどころか受けた痛みに興奮するように、獰猛な笑みを浮かべた。

 まさか受け止められるとは思わなかったのか、スライムも困惑したように身体を強張らせる。生態系の頂点に立つスライムにとって、ウラヌスのような強敵は初めての経験だったのだろう。

 そこでがむしゃらな攻撃をせず、一旦後退するのは流石驕りのない獣と言うべきか。スライムは跳躍して距離を取ると、ウラヌスを睨むように見つめる。その態度が、ウラヌスが打撃に耐えた事が偶然の類ではないと物語っていた。

 

「プ、プジュゥアッ!」

 

 少し考えて、スライムはウラヌスを敵と認めたらしい。正面から向き合い、頭突きをするように突撃してくる。

 これは流石に受け止められないと判断したようで、ウラヌスは高く跳んで回避。突撃したスライムは太さ二メトルもある巨木に激突し、その幹を大きくしならせた。当たれば人間など粉々にしてしまいそうな威力だが、それ故に頭からこれを受けたスライムも少し目を回す。

 力と速さでスライムとまともにやり合う少女。

 それは出鱈目な光景だった。スピカにとっては常識を打ち破られた。だが、スピカはふと思い出す。

 ゴブリン。その亜人にはもう一つの呼び名がある。

 小鬼だ。誰が何時そう呼んだかは不明だが、小鬼という記述は様々な書物に存在している。その名前から「小さな鬼」という意味だとスピカはこれまで思っていたが……今、ようやく命名者の真意に気付く。

 小さな鬼ではない。()()()()()()なのだ。

 これが、ゴブリンの力だというのか。

 

「ふっ!」

 

 目を回しているスライムに、ウラヌスは素早く駆け寄る。力強く構えた拳を、脳天に叩き込もうとしていた。

 強力な打撃で脳を破壊する……単純だが動物相手には極めて有効な攻撃だ。恐らくククルカンも、そうして討ち取ったのだろう。ウラヌスの強さを見た今のスピカは、もうあの亡骸を作り上げたのがゴブリンの少女だという事は疑っていない。

 このままウラヌスはスライムの脳を打ち抜き、この森の生態系の頂点に君臨するだろう。

 ――――なんて事が可能なら、とうの昔にゴブリンは世界のあらゆる場所に版図を広げているだろうが。

 自然界は甘くない。単純な強さだけで頂点に立てるような世界ではないのだ。自然はもっと狡猾で、姑息で、巧妙なもの。

 例えばウラヌスがスライムの頭に打ち込んだ拳が、ずるりと滑ってしまうように。

 

「なっ、にぅっ!?」

 

 拳が滑った事にウラヌスが動揺した瞬間、スライムは身体を横に傾けながらウラヌスの方に跳ぶ。身体の側面にあるヒダを足のように使って大地を蹴ったのだ。攻撃が通じなかった事実に驚いていたウラヌスは、この体当たりを胴体でもろに受けてしまう。

 流石にこの攻撃は踏ん張る事が出来ず、ウラヌスは大きく飛ばされた。地面の上を転がり、木にその身を打ち付ける。転がりながら衝撃を逃していたのだろうが、激突の瞬間ウラヌスは小さく呻く。すぐに立ち上がろうとするも、膝を折ってその場に蹲ってしまった。

 ウラヌスの顔には苦悶と、それ以上の困惑が現れていた。何故拳が滑ったのか? その疑問の答えをスピカは知っている。

 スライムの体表面にある分厚い粘液には、二つの働きがあると言われている。一つは乾燥から身を守る事。畑に現れるナメクジ達と同じように、スライムも身体が乾くと死んでしまう。分厚い粘液は身体から水分の蒸発を防ぎ、乾いた森の大地での活動を可能とする。その乾燥への強さは、焚き火に頭から突っ込んでも平然としているほどだ。

 そしてもう一つの役割は鎧。

 詳しい原理はよく分かっていない。だがスライムの纏う粘液には、打撃だろうが刃物だろうが、容赦なく滑らせてしまう効果があるのだ。猛獣の爪なども滑らせてしまい、身体には一切傷を負わない。どうにか真っ直ぐ刃物を突き立てたとしても、柔らかな皮膚はぐにゃりと凹むだけ。また粘液がまるで掴んでくるかのように動きを阻み、刃物は奥まで進まない。

 身体能力でスライムを上回る生物は、実のところこの森には二種存在している。危険なドラゴン二種だ。だがそのいずれの攻撃も、スライムには殆ど通じない。爪も、牙も、全て滑らせて無力化してしまう。

 スライムは特別な能力により、自分よりも強大な生物を下した。彼らにとって自分より強い()()の生物は脅威たり得ない。例えそれが、小鬼であってもだ。

 

「(……どうする、この状況……!)」

 

 スライムとウラヌスの戦いを見ていたスピカは、ここで思考を巡らせる。

 自分に取れる選択肢は二つ。ウラヌスを助けるか、ウラヌスを見捨てて逃げるか、だ。

 合理的なのは勿論、ウラヌスを見捨てる事である。スライムの意識は強大な敵であるウラヌスの方を向いていて、スピカは完全に意識の対象外である。今此処で逃げ出せば、ほぼ確実にスライムから逃げ切れる。

 今なら奇襲攻撃も出来るだろうが、生憎スピカの武器は弓矢だ。刃物以上にスライムへの効果は薄い。自分の力ではスライムを倒せない以上、手を出しても死人が一人増えるだけ。無駄死にというものだ。

 

「ぐっ……ま、だ、だぁ……!」

 

 それにウラヌスの戦う意志はまだ消えていない。

 助けを求めているなら兎も角、一人で戦うつもりならわざわざ手出しする理由はあるまい。合理的に考えれば選ぶべき行動は明白。

 明白なのに、スピカの足は動かない。

 

「プジュゥウゥウゥゥ……」

 

 スライムは頭をもたげ、そこにある口をウラヌスに見せた。スライムの口は左右に開き、その中には棘だらけの『舌』がある。この舌で獲物の肉を削ぎ落とし、少しずつ食べていく。

 特にスライムの好物は皮下脂肪、つまり皮膚の下にある脂身だ。そのためスライムに喰われた獲物は、全身の生皮を剥ぐように、生きたまま食べられる。最後にその身は捨てられ、筋肉の露出した無惨な亡骸だけが残る。

 それを残酷だ、と言うつもりはスピカにはない。スライムからすれば美味しい部分を食べているだけであるし、脂肪という栄養満点の部位を選んで食べるのは合理的な行動だ。一度に食べられる分には限度があるのだから、非効率な赤身や筋肉などを食べては栄養が足りなくなってしまう。

 ウラヌスも、きっとそういう死体となって大地に転がり、そして最後は森に還る。

 ただそれだけの事。それだけの事が――――スピカの心を、ぐちゃぐちゃに掻き回す。

 

「(いいや、まだ私は死ねない! 死ねないんだから、選ぶしかない!)」

 

 己を律し、気持ちを引き締め、そしてスピカは走り出す。

 ()()()()()()()()

 

「ぬ、ぅ、うぅおおおおおおおっ!」

 

 出来るだけ大きな声で、わざとらしいほどに叫ぶスピカ。その声はスライムの意識を惹き、視線をスピカの方に向けさせた。

 その瞬間に、スピカはスライムの横を駆け抜ける。

 大声を出せば振り向く。今まで意識なんて向けていなかった方角からとなれば尚更だ。野生動物は油断などしないが故に、不測の事態には素早く対処するに決まっている。

 振り向く動きに合わせれば、スライムの反応よりも早く通り過ぎる事が可能……とスピカは予想。一か八かの大博打だったが、その賭けには勝利した。

 しかしスライムの背後を取ったスピカは、スライムに攻撃なんてしない。

 代わりにやったのは、未だ木の傍に蹲るウラヌスの下に駆け寄る事だった。

 

「大丈夫!? 立てる!?」

 

「う、うむ。立てるぞ、しかし」

 

「言いたい事は後で聞く! それより早く此処から逃げないと」

 

 ウラヌスを立たせながら、一刻も早く此処から逃げ出そうとするスピカ。だが、その動きは途中で止まった。

 既にスライムは、スピカ達の方に視線を戻していたのだから。口の中に存在する舌を、ぞりぞりと動かす様を見せ付けるように頭をもたげた状態で。

 どうやらスピカの事も獲物として認識したらしい。そして恐らく、スピカの力がウラヌスよりも劣る事も、スライムは本能的に察しただろう。二手に分かれて逃げたとしても、追ってくるのは恐らくスピカの方。

 つまり、このスライムをどうにか撒かねばならない……スピカが。

 

「……ああクソ。ほんと、なんでこう、考えと違う方に動いちゃうかなー……」

 

 スピカは悪態を吐いて、自分の間抜けぶりに呆れ返る。とはいえこれは悩みではなく気持ちの切り替え。

 後悔(過去)など役に立たない。自然界では常に()を見なければならない。

 今正に新たに現れた獲物であるスピカを喰らおうと、迷いなく動き出したスライムのように――――



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君臨する軟体5

 人間が大自然の中で生き抜くのに必要なものは何か?

 力だ、と答えるモノがいたとしよう。そいつはどうしようもなく()()()()()()()()()()。自然界の中で恐ろしいものは、人間を直接喰らう獣ばかりではない。一口齧るだけで身体が痺れて動けなくなる果実、鎧の隙間から忍び込む爪先ほどに小さな毒虫、足を入れるだけで不治の病を患う沼、食べると口の中が爛れるネズミ……

 ドラゴンすら討伐する屈強な冒険家は歴史上幾度も現れたが、いずれも最期は病や飢えで命を落としている。大体強くなければ生き残れないのなら、今頃虫も花も一匹残らず駆逐されているだろう。力だと答える連中はそうした生き物を無意識に見下しているのだ。巨大なドラゴンなんかより、虫や植物の方が圧倒的に繁栄しているのに。

 では何が必要か? そもそも複雑怪奇な自然界の『弱点』を一言で纏めようとする事自体が愚かさの極みであるが、人間が生き抜くために最も必要なものを挙げるとすれば――――知恵だとスピカは答える。

 例えば今、スピカ達に迫りくるスライム。猛然とした勢いで動くそいつと、真正面からぶつかり合うのは愚行を通り越して自殺願望だ。よって取るべき方針は逃走であるが、ただ追い駆けっこするだけでは勝機が薄い。

 

「ふんっ!」

 

 そこでスピカは腰にぶら下げた袋の一つから、掌ほどの大きさの玉を取り出す。その玉をスピカは大地に叩き付けた。

 瞬間、玉は勢いよく破裂。大量の粉塵を撒き散らす!

 これは煙玉と呼ばれる道具だ。煙の成分は人畜無害な、本当にただの煙幕。しかし半径二メトルほどに一瞬で広がり、相手の視界を塞いでくれる。

 

「プギ、ジュオッ!」

 

 スライムも『獲物』の姿が一瞬で消えた事に驚いたのか、僅かに身体を強張らせた――――が、そのまま突撃を続行。目眩ましだと理解したというより、まだそこにいるという本能的確信による行動だろう。

 実際、煙幕を展開しても何時までもそこに留まっていては意味がない。スピカはウラヌスを抱え、素早くこの場から跳んだ。スライムの突撃は空振りに終わり、一先ず最悪の事態は切り抜ける。

 尤も、スライムの猛烈な突進で生じた風により、煙幕は吹き飛ばされてしまったが。早いと思う反面、役割は果たしたとスピカは納得する。終わった事に固執するのもまた、自然界では死を招く危険な考え方。長年冒険家をしてきたスピカは思考の切り替えも心得ている。

 悪態を吐く暇があるのなら、突撃によりスライムの体勢が崩れている今、逃げ出す方が優先だ。

 

「逃げるよ!」

 

「何! 戦士が背を向けるなどと――――」

 

 逃げる事を提案すれば、ウラヌスは反対の意見を述べようとしてくる。

 しかしその回答は予測済み。何しろ殺されそうになっても、スピカに助けを求めなかったぐらいなのだ。死より名誉を重んじる考え方なのは簡単に想像が付く。

 故にスピカはウラヌスの話など聞かず、彼女を抱えるように持って有無を言わさず逃げ出した。少女的な見た目の割にずしりとした重さがあるが、持てないほどではない。すたこらさっさと走る事は難しくなかった。

 

「ぬぉ!? な、何故逃げる!? 戦いがそこにあるのだぞーっ!」

 

 抗議の声を上げるウラヌスを無視して、スピカは全力疾走。ひたすらスライムから逃げる。

 このまま振り切れれば一番良いのだが……そうもいかない。

 バキバキと落ち葉や枯れ枝を踏み潰し、猛然と追い駆けてくる気配がある。素早く後ろを振り返れば、滑るように大地を疾走するスライムの姿が見えた。

 音から判断するに、段々と距離が詰まってきているらしい。人間であるスピカは倒木や根があれば跳び越したり潜ったりしなければならないのに対し、巨大で力の強いスライムは直進して全てを吹き飛ばす。何より単純にスピカ達よりも足が速い。どう考えても振り切るのは無理だ。

 この状況で生き延びるには、二つの方法があるだろう。

 一つは帝都まで逃げ込む事。スライムは強大で恐ろしい生物であるが、決して無敵の生命体ではない。帝都の城壁に備え付けられた大砲で攻撃し、弱ったところを兵士百人で攻めれば……退却には追い込める筈だ。とんでもない怪物を連れてきたなと糾弾され、恐らくスピカ達は(処刑の通知が出されるという形で)帝都への立ち入りが禁止されるだろうが、自分の命が助かるのだから形振り構ってはいられない。

 しかしその作戦は無理だ。スピカが帝都から出立し、既に半日ほどの時間が流れている。いくら慎重な歩みで進んだ道のりとはいえ、そんな長距離を走り続ける体力はスピカにはない。何より、恐らく帝都に辿り着く遥か手前でスライムに捕まる。逃げ続けても未来はなさそうだ。

 だとすると二つ目の作戦――――どうにかしてスライムを撃退するしかない。撃退してしまえば追われる心配はない。なんと天才的で確実な作戦なのだろうか。

 一つこの作戦の欠点を挙げるなら、そんなものがあるなら最初からやっている事だけだ。

 

「(考えなさいスピカ! 自然界相手に人間が圧倒的優位を持っているのが知性! 頭を使って、奴を撃退する!)」

 

 自分に言い聞かせるように頭の中で叫びながら、思考を巡らせるスピカ。

 されどスライムはスピカを見逃してはくれず。

 

「プ、ゥウウウウウッ」

 

 スライムが()()()()()()()

 生物なのだからスライムだって呼吸ぐらいするだろう――――等とスピカは一瞬でも思う事はなかった。彼女はスライムがどんな生物であるかを知っている。その大きな息継ぎの意味するところも知っていた。

 だからこそスピカは真横に跳んだ。

 人間の身体は横への跳躍に向いた作りをしていない。勢いよく跳べば着地に失敗し、転倒してしまうのは道理。スピカの身体もその道理に従い転んでしまう。

 転べば当然前には進めない。ならば何故スピカは横に跳んだのか。その答えは、それが一番『マシ』な選択だったから。

 もしも避けなければ、スライムが『眉間』から射出した一撃を受けていたに違いない。

 

「プジャゥッ!」

 

 スライムの額に穴が開くのと同時に、スライムは頭突きでもするかのように頭を上下に激しく動かす。すると額の穴から塊が放たれる。

 額から出てきたものは粘液だった。

 それも巨大な、砲弾のような粘液である。吐き出されたものはスピカがいた場所を通り過ぎ、やがて地面に着弾する。

 途端、地面が爆発した。

 ちょっと地面が弾けた、なんて規模ではない。土が数メトルは浮かび上がり、衝撃波がスピカ達の身体を転がす。肺から空気が追い出され、息も満足に出来やしない。

 それほどの衝撃を生み出す力だ。見れば大地に大きな窪みが出来上がっており、さながら(スピカは噂でしかその威力は聞いた事がないが)大砲の如し。直撃したなら、今頃スピカもウラヌスも粉々の肉片と化していただろう。

 

「こ、これは……!」

 

 これには流石のウラヌスも驚いた様子だ。

 しかし恐慌状態に陥ってはいない。自称とはいえ流石は戦士と言うべきか。そしてその状況はスピカにとっても都合が良い。

 

「兎に角今は逃げるよ! あんな化け物とまともに戦っても勝ち目なんてないんだから!」

 

「う、うむ。流石にこれは、良くない。一度体勢を立て直そう!」

 

 改めて説得すれば、今度のウラヌスは素直に頷いた。自分の足で立ち上がり、くるりと背を向ける。

 スピカもさっさと走り出そうとする。このまま二手に分かれれば、ウラヌスとスピカのどちらかをスライムは追うだろう。恐らく追われるのはスピカ。そうなればウラヌスは安全を確保出来るだろう。

 それで良い。どうせ撃退するなら一人の方が気楽だ。今までスピカはそうやって生きてきたのだから。

 スピカがウラヌスの顔を見れば、ウラヌスはこくりと頷いた。どうやら彼女も同じ事を考えていたらしい。もしかするとスライムはウラヌスを追うかも知れないが、その時は恨みっこなしだ……言外にその気持ちを伝えようと、スピカはウラヌスの瞳をしばし見つめる。

 そしてスピカとウラヌスは同時に走り出す。

 ……ウラヌスはスピカの真横にぴたりと付いてきた。気付いたスピカが右へ左へ動いても、逃さないとばかりに。

 

「ちょ、ちょぉぉぉぉ!? なんでアンタ一緒に来てんの!?」

 

「うむ! 一人では奴を倒せない! だが二人ならきっと出来る! 確かにお前の気持ちは受け取った!」

 

「逆よ逆! 私の心を捏造すんなッ!」

 

 返ってきたのは、全く当たっていない答え。二人の気持ちは何一つ通じていなかった。というより、あれだけ力の差を見せ付けられたのに、未だウラヌスはスライムを倒す気満々な様子だ。それが出来ると信じてもいる。

 ここでようやくスピカは理解した。

 このウラヌスという少女、結構な自信家かつお馬鹿であると。

 

「プジュアアァアッ!」

 

 当然スライムは二人の背中を追ってくる。かの軟体動物は今頃ほくそ笑んでいるだろう。

 今からでも二手に分かれるべきかともスピカは思う。しかしこのウラヌス(お馬鹿)はどうにも納得してくれそうにない。無駄話で時間を潰すぐらいなら、諦めて次善策に取り掛かるべきか。

 つまりスライムを撃退する。

 

「ああクソッ! 直接対決なんてしても勝ち目はないし、作戦練らないと駄目か……!」

 

「作戦か! どうする!? 我ら二人の力を合わせ、奴の身体を拳で打ち抜くか!」

 

「だから直接戦闘したって勝ち目はないっつってんでしょうが! あのぬめりは格上の力すら逸らすんだから無理! そもそも二人になったからって何が出来ると――――」

 

 未だ好戦的意識を剥き出しにするウラヌスに、スピカは強い言葉で戒めようとする。だがその言葉は途切れた。

 二人になったからって何が出来る?

 いや、出来る事は山ほどある。正直分の悪い賭けだと思うし、そもそもウラヌスの実力という『不確定要素』に頼るのは、合理的な考えを優先したいスピカとしては癪だ。

 しかし癪だの不確定要素だの言うのが、既に合理的でない。

 現状思い付く中で、一番成功率の高い方法なのだ。それを迷いなく選ぶのが、一番合理的というもの。何より他の作戦があるなら兎も角、ろくな案もないのだから、それに反発するのはワガママ以下の行いである。

 強いて切り捨てる要素を挙げるとするなら、このウラヌスという少女が自分を見捨てて逃げ出す可能性がある点だが……その心配はまずいらないだろう。彼女の言動を鑑みるに、それこそ呆れるほどに性根が真っ直ぐなようなのだから。

 

「……一つ、一つだけ作戦を考え付いた」

 

「おっ。なんだ? どうするんだ?」

 

「やる事は簡単。私が誘導するから、アンタは隙を見てある場所でアイツをどつく。簡単でしょ?」

 

「おお、簡単だな! それで、何処でやるんだ?」

 

 倒す方法があると聞いたウラヌスは、目に見えて活力を取り戻す。期待に満ちた瞳がスピカをじっと見つめてきた。

 スピカはその期待に対し、にやりと不敵に笑ってみせる。

 

「水場だよ。自分が一番強いと思ってるアイツを、水の中に叩き落としてやる」

 

 そしてまるで子供のイタズラのような作戦を、臆面もなく語るのだった。



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君臨する軟体6

「水場か! 水場に行けば良いんだな!?」

 

 大声でウラヌスはスピカの言葉を繰り返す。

 人間が自然に対し、有利な点は何か?

 幾つか挙げられるが、会話による仲間との意思疎通もその一つだ。鳴き声で仲間と意思疎通を行う獣も少なくないが、人間ほど細かく、複雑かつ正確な情報を扱える生物はいないだろう。

 言葉により自分の考えを相手に伝え、これからどうするつもりなのかを正確に共有する。この利点は極めて大きい。無論仲間が意図を誤認する可能性もあるが、言葉なしで意思疎通出来る等という馬鹿げた考えに比べれば遥かにマシだ。今日出会ったばかりの相手ならば尚更に。

 加えて、敵が野生動物であれば情報漏洩の心配もない。

 その強みを理解しているスピカは、ハッキリとした言葉で伝えた。

 

「そう! 川でも池でも良いけどそこに落とせば、アイツは倒せる! まずは水場を探さないとだけど!」

 

「なら任せとけ!」

 

 スピカが断言すると、ウラヌスは走っていた最中にぐっと膝を曲げ――――

 次の瞬間、跳躍した。

 恐るべきはその高さ。二メトルは跳んだのではないかと、真横にいたスピカが思うほどだ。その高々とした垂直跳びで目指したのは、とある樹木から伸びていた枝の一本。

 人の体重をギリギリ支えられそうなその枝に捕まるやウラヌスは身体をしならせ、ぐるんと枝を一回転……しそうな勢いで、枝の上に乗る。枝はミシミシと音を鳴らしたが、ウラヌスは既に膝を曲げ、枝をへし折るほどの脚力でまたしても跳ぶ。

 跳んでは枝に、また次の枝に。それを繰り返してものの数十秒で高い場所まで行ってしまう。スライムとまともにやり合っていた時点で身体能力は高いと考えていたが、それを差し引いても出鱈目な肉体にスピカは目を見開く。

 

「水の臭いがする! 私の後に来い!」

 

 更にウラヌスは、スピカの作戦を実行する上で一番大事なものも押さえてくれた。

 スピカの作戦には水場が欠かせない。というよりなければ話にならない。その『臭い』を探知したとなれば、値千金の情報と言えるだろう。

 強いて懸念を言うなら二つ。一つはウラヌスが気付いた水の臭いとやらが、スピカには全く感じ取れない事。とはいえ今まで見てきたウラヌスの人間離れした身体能力の数々を思えば、嗅覚も人間離れしていたとしてもおかしくない。今更彼女がこちらを騙そうとしているとも思えず、そこは信頼する。

 しかしもう一つの問題は、流石に無視出来ない。

 ウラヌスが地上から離れた事で、スライムの狙いが完全に自分へと向いてしまったのは。

 

「さぁて、これからどうするかな……!」

 

 全速力で森を駆けるスピカ。しかし音から判断するに、やはりスライムの方が遥かに速い。急速にその距離は縮まってきている。

 水場が何処にあるのかは分からないが、恐らくこのままでは間に合わない。

 ならば、不本意ながらも戦うしかないだろう。しかし打倒する必要はない。重要なのは距離と時間を稼ぐ事だ。

 

「っ……!」

 

 スピカは駆けていた足をぴたりと止め、地面を滑りながら方向転換。スライムの方へと振り向く。

 同時に、背負っていた弓矢をいよいよ手に取った。

 人類が自然に対して有利な点の二つ目。

 それは『射程距離』だ。糞や石を投げてくる生き物もいるが、身体を動かして使うそれは正確に狙えるものではない。空気の流れや抵抗により、曲がったり、最悪崩れたりしてしまう。大砲染みた威力の射撃が出来るスライムでも、その射程距離は精々五メトルと然程長くない。放った粘液が途中で崩れてしまうからだ。

 しかし人間の武器である、弓は違う。細長く加工された矢は空気の抵抗を受け流し、遥か彼方まで真っ直ぐに飛んでいく。狙えるかどうかを別にすれば、射程は五十メトルを優に超え、しかも殆どブレない。何より特殊な能力を持たない人間でも、多少の訓練を積めば誰にでも使える。

 そしてスピカのような非力な女子でも、大人の男を射殺すほどの威力を持つ。

 

「ふっ!」

 

 スピカは構えて一秒と経たずに、一本の矢を放つ。頭に当たれば、鍛え上げた男だろうと即死させる一撃だ。

 尤も此度の相手はスライム。粘液の効果により、矢は滑ってしまい相手に刺さらない。

 無論スライムの粘液について知っているスピカは、この結果については予測済みだ。故に此度使ったのは、少々特別な加工を施した矢。

 矢の先端にあるのは、鋭い金属製の(やじり)ではない。粘土質の土を固めたものだ。勿論土塊で倒せるほどスライムは甘い敵ではない。本命は粘土に混ぜ込んだ赤黒い『薬』。

 その薬はとあるドラゴン種の体内に存在するもの。本当かどうかは不明だが、ドラゴンが火を吐く時に使う成分らしい。通称は火炎玉。屈強な冒険家が旅の道中で打ち倒した、或いは『害獣』として国に駆除された個体から取り出されたそれは、油の中で保管されて貴族や冒険家に売られていく。

 用途は主に燃料。この火炎玉は強い衝撃を受けると、それだけで『燃焼』を始める。そして少量で何十分と燃えるほど効率的だ。普通は油と混ぜて安定化させ、衝撃を加えても簡単には燃えないようにしているが……スピカの矢はこの火炎玉を丸ごと使ったもの。鏃を形作る粘土に、火炎玉を粉末にしたものを練り込んでいる。たっぷりと、燃料として使う分のざっと五十倍ぐらい。

 五十倍の燃料が、衝撃により一瞬で発火したらどうなるか?

 答えは爆発が起きる、だ。

 

「ブジャウウッ!?」

 

 滑った矢から放たれた爆発は、人間が至近距離で受ければ肉を抉るほどの威力。同時に放たれる熱は内臓を焼き、骨を焦がす。ついでに閃光も放って周りを怯ませる。スライムもこの爆発には驚いたようで、呻くような声を漏らした。

 これが『爆弾矢』。スピカお手製の、対大型生物用の切り札だ。例え身の丈五メトルはある巨獣でも、直撃すれば大きな怪我を負うであろう一撃である。

 とはいえスライムが纏う粘液の守りは強力なもの。爆発による衝撃すらも受け流し、焼けるような熱さえも防ぐ。閃光も、あまり目が良くないスライムには殆ど効果はない。動きが止まったのはほんの一瞬だけ。

 

「ああクソッ! これ一発いくらすると思ってんのよ! 保管も大変だし危ないし!」

 

 一発だけでは効果が薄い。最初からそう考えていたスピカは、悪態を吐きつつも更にもう一発の矢を放つ。

 ただし今度はスライムに当てず、スライムの一歩前ぐらいの地面に撃つ。粘土性の鏃は地面に当たった衝撃で発火・起爆する。

 当然爆発は地面で起きる。すると舞い上がった土と煙が、スライムの正面に広がった。

 人間からすれば、こんな煙幕など突っ切ってしまえば良いように感じる。だが、スライムはそう出来ないとスピカは読んでいた。

 何故ならスライムは、音と振動で獲物を探すからだ。

 嗅覚や視力が全くない訳ではないが、基本的には耳と触覚で獲物を探している。この森が『静か』だったのは、生き物達が音を出さないのは、最強の捕食者であるスライムに見付かるのを恐れての事。

 しかしあまりにも大きな音を響かせれば、それだけで『目眩まし』になる。視力に優れている人間が、眩い光で何も見えなくなるのと同じだ。地面で爆発を起こせばスピカの『足音』を掻き消せるため、逃げた方向を誤魔化す事も出来る。

 

「プジュ、ブジュウゥゥウゥ……!?」

 

 スライムは土煙の中で足を止めた。煙に包まれているため、中の様子を見る事は出来ない。

 しかしスライムに対する『知識』があれば、そこでどんな行動を取っているかは想像が付く。

 まず間違いなく、口許を地面に付けている。何故ならスライムの口許には、四本の触角があるから。この触角は地面から音や味も感じ取り、細かな情報を解析する。敏感な器官なので普段は身体の奥に引っ込んでいるが、獲物を探す時にはにょきっと生えてくる仕組みだ。

 スピカの履いている革靴の臭いから、逃げた方角はすぐに割り出されるだろう。だがこれは『好機』。スピカは腰の袋の一つから小瓶を取り出すと、煙幕目掛けて投げ付ける。

 小瓶の中身はとても苦い汁。

 とある植物から絞り出したもので、単に苦いだけで飲んでも人体に害はない。しかしもしも人間がこれを口にすれば……死ぬほど悶え苦しむ。美食家がうっかりその植物を噛んでしまい、今後二度と美味しいものを食べられなくても構わないと舌を切り落とした、なんて伝承が残るほどだ。

 スライムにとってどれだけ効き目があるかは分からない。だが、苦いものというのは、大抵の動物は嫌がる。

 

「プジャゥッ!?」

 

 煙幕の中で小瓶の割れる音がした途端、スライムが跳び跳ねた。

 上手く口許に小瓶が当たったらしい。これ幸いとばかりにスピカは再び走り出し、スライムとの距離を稼ぐ。また、更に小瓶を三つ取り出して適当に地面に叩き付ける。中の苦い汁が辺りに飛び散った。

 我に返ったスライムはまたもスピカを追おうとするが、地面に撒かれた汁に気付いて足踏み。そしてこれを回避するため大きく迂回した。いくら動きが速くとも、遠回りすればその分時間を食う。これでまた少しは距離を稼げた。

 このまま苦汁をばら撒き、時折爆弾矢で威嚇すればスピカは延々と逃げられるだろう。

 ……と言いたいところだが、生憎そうもいかない。

 

「(さぁ、さっきので苦汁は終わり! 爆弾矢も尽きた! 他になんか良いもん持っていたかしら!?)」

 

 道具というのは、限りがあるのだ。薬や爆弾のような消耗品なら尚更に。

 しかもスピカは多種多様な道具を持っている。それはあらゆる問題に、臨機応変に対処するためであるが……当然ながら種類を増やしたからといって一度に持てる荷物の総量が増える訳もない。つまり道具の種数を増やせば、その分一種当たりの量は減らさねばならないのだ。

 通る地域によって多少構成は変えるものの、基本的に爆弾矢は二本、苦水は四本まで。今回も同じで、もう備蓄は尽きた。残る道具でどうにかしなければならない。

 

「(つーかコイツほんっとしつこいな! スライムってみんなこんなにしつこいの!?)」

 

 一般的に、獣の狩りは意外と淡白だ。自分に危険や不快感が迫れば、諦める事も少なくない。というのも捕食者は万が一にも怪我をしたら、次の狩りが行えなくなってしまう。人間のように群れで暮らしていれば世話も受けられるだろうが、一匹で暮らしていたら、怪我の後に待つのは飢えと乾きだ。よって怪我だけは、なんとしても避けなければならない。

 しかも苦い汁という『不味さ』も味あわせている。苦味というのは毒を知らせる合図でもあり、不快であるのと同時に危険だ。これで食欲は相当失せている筈なのだが、スライムは諦める気配も見せない。

 余程腹ペコなのか、それとも他に理由があるのか。いずれにせよ諦めてくれない以上、やはり作戦は続行せざるを得ない。どうにかして水場まで連れて行く必要がある。

 

「(スライムの意識を逸らすなら、衝撃か音! 何か良いものは……!)」

 

 良い手はないものかと考えるスピカ。だが、考えが纏まらない。段々とスライムとの距離が狭まり、いよいよ捕まりそうになった

 

「ふんっ!」

 

 瞬間、頭上から勇ましい少女の声が聞こえてきた。

 反射的に上を見れば、そこにはウラヌスと――――彼女がぶん投げたであろう『巨木』があった。恐らく木の枝を折って手に入れたのだろうが、思いの外大きい。人に当たれば、それなりに大きな怪我となりそうなぐらいに。

 地面に落ちた時、枝はずしんっと音と振動を放つ。どうやらスライム目掛けて投げたようだが、スライムの方は素早く身を翻して直撃は避けている。それでも枝が地面を打った際の大きな音と振動は、スライムを怯ませるのに大いに役立っていた。

 

「このまま真っ直ぐ! 茂みを抜けた先に池だ!」

 

 更に目的地の場所まで教えてくれた。

 完璧な援護に感謝を、と言いたいところだが、生憎そこまでの余裕はない。そのままスピカは全力で駆け、目の前の茂みを目指す!

 

「プ、ブジュ、プジュゥイアアッ!」

 

 ウラヌスの妨害はスライムの怒りに火を付けたらしい。激しい叫びと共に、スライムは行く手を遮る大きな枝を殴り飛ばす。障害物を退かしたスライムは、これまで以上の速さで駆けてきた!

 もう今のスライムに通じる武器をスピカは持っていない。だからこそ、足止めするという選択肢はもう選ばない。全力疾走、兎にも角にも走るだけ。

 後ろも振り向かない。振り向かなくても分かる。スライムの軟体質の身体が大地を蹴り、猛然と走っている姿は。息遣いがなくとも伝わる。背中に突き刺さる食欲の意識は。

 茂みまでの道のりはあまり木々のない直線。それはスピカにとって不利だ。一気に加速したスライムは瞬く間にスピカとの距離を詰める。そして鋭い歯が何万と並んだ舌をぬらりと前に突き出した

 直後、スピカは茂みの中に突っ込んだ。

 そしてすぐに茂みを抜けた時、目の前に池が広がる。池の大きさはざっと十メトルほどあるだろうか。深さも見た目相応にありそうだ。何より茂みから池までの距離は一メトル程度しかない。

 理想的だった。

 

「っつあぁっ!」

 

 池を目にしたスピカは、真横に跳んだ。着地の事など考えない、ただ横に跳ぶため全力を尽くした動きで。

 そうでもしなければ、全力で走っている足を止める事は出来そうになかったから。

 否、これだけではきっと止まれなかった。茂みの先に池がある――――ウラヌスが教えてくれたこの情報のお陰で、池を目にしても思考が止まらなかったからだ。もしも何も知らなければ、驚きで足が止まり、最悪すっ転んでいたかも知れない。

 さて。では人間の言葉など分からない、そしてスピカ以上の速さで走っていたスライムはどうか?

 

「ブジュルィイイッ!?」

 

 驚愕に満ちた汚い叫びが、答えを如実に語っていた。

 スピカは止まれた。だがスライムは止まれない。スピカよりも大きな身体で、スピカよりも速く走っていたのだから。

 

「(良し! そのまま落ちろ!)」

 

 祈るように、命じるように、断言するように。スピカはスライムの行く末を心の中で叫び、

 スライムは池のすぐ手前で、辛うじて止まった。

 スピカは目を見開いた。そんな馬鹿な、と思わず叫びたくなる。しかし現実は、どれだけ見つめても変わらない。

 見ればスライムの身体の粘液が、心なしか厚みを増している。特に地面に接している腹側は、明らかに分厚くなっていた。どうやら粘液の粘り気で減速力を増やし、急停止を成し遂げたらしい。

 生態系の頂点というのは、小手先の策にまんまと掛かるほど甘くはないようだ。

 

「……やっぱ獣ってのは油断出来ないなぁ。あの速さで突っ込んできたのに、止まれるとかほんと」

 

 呆れるようにぼやけども、生憎皮肉はスライムには通じない。

 立ち止まったスライムは、今度は慎重な動きで躙り寄ってくる。スピカが後退りすれば、それ以上の距離を埋めてくるように。警戒こそしているが、逃がすつもりは毛頭ないようだ。

 スライムとの距離はざっと三メトル。ここまで接近されては、また逃げ出してもすぐに追い付かれ、捕まってしまう。スピカはこの後服を剥がされ、生皮の下にある脂身だけを生きたまま喰われるだろう。

 ――――あの傍迷惑な小娘がいなければ、であるが。

 

「ぬぅあああああっ!」

 

 場に轟く雄叫び。

 スピカですら怯むほどの声量で、ウラヌスが樹上から降りてきたのだ。スライムはすぐに上を見た、が、その行動は失策だった。身体をもたげた動きをしている間に、ウラヌスはスライムの真横に着地している。

 そしてウラヌスはなんの迷いもなく、スライムに体当たりを喰らわせた。

 人間ならば、スライムに体当たりしようなどという『間抜け』はいない。この怪物に人間が本気で挑んだところで、それはネズミが人間に挑むようなものなのだから。

 しかしウラヌスであれば話は違う。亜人である彼女の身体能力は、一度はあっさりやられたものの、スライムと殴り合える程度には強い。彼女の力であれば多少なりとスライムに通じる。

 それでも万全の体勢で踏ん張れば、スライムはビクともしなかっただろうが……スライムは上を見るために身体をもたげた。それは接地面積が少なからず減ってしまった状態。万全の体勢ではなく、本当の力を発揮する事が出来ない。

 

「ブ、ブジュィアッ……!」

 

 スライムも本能的に危険を察知したのか、身体に力を込める。メキメキと鳴り響く不気味な音が、その身から作り出される力の大きさを物語っていた。

 まともにぶつかれば到底勝てない力。しかしまともなぶつかり合いでない以上、虚仮威しですらもなく。

 ついにスライムの身体は、池の真上まで突き飛ばされた!

 

「ブ、ブジュゥウィイイアアアッ!?」

 

 池に落ちたスライムは、悲鳴染みた声で叫んだ。

 水飛沫が上がるほどの激しさで身体をくねらせ泳ごうとしているが、ナメクジ的体型は泳ぐのに向いていない。そもそも筋肉質な身体は重く、水に浮かぶのが困難だ。ハッキリ言って無駄な抵抗に過ぎない。

 しばらくすれば、スライムは水の底に沈んでいった。

 

「おお! やったぞ!」

 

「うん、やったね。いやー、さっきは本当に死ぬかと思ったわ……」

 

 はしゃぐウラヌスの横で、スピカは額の汗を拭う。走っていた距離は長くないが、しかし全速力を出し続けた。何時追い付かれるか分からない精神的圧力も感じ続けている。心身共にボロボロだ。

 だが、現実逃避はしない。

 

「これでアイツは溺れ死ぬんだな!」

 

「え? いや。そんな事ないけど」

 

 故にウラヌスの質問に、スピカは平然とそう答える。

 スピカからの予期せぬ答えに固まるウラヌス。そんな彼女をびくりと跳ねさせたのは、池からざぶんっと水音が鳴った時。

 音の方を見れば、そこには水から上半身を出しているスライムがいた。

 一度水底に沈んだ後、這って浅瀬まで戻ってきたのだ。それから上半身をもたげ、スピカ達を睨むように見ている。口を左右に開き、棘だらけの舌をぞりぞりと蠢かす。

 まだまだスライムの闘争心は消えておらず、スピカ達を襲う気満々だった。

 

「なっ、出てきたぞ!?」

 

「そりゃまぁ、出てくるでしょうね。この池そこまで深くなさそうだし」

 

「ならどうする?! これで倒せるんじゃなかったのか!?」

 

 問い詰めるように訊いてくるウラヌス。彼女の疑問は至極尤もだ。スピカは確かに、スライムを倒すために水場を探していた。

 その言葉に嘘はない。今も着実にその作戦は進行中だ。

 ただ、作戦の『要』をスピカはウラヌスに伝えていなかっただけである。

 

「ほら、よく見なさい。アイツの身体を」

 

「身体?」

 

 スピカに言われて、ウラヌスはスライムをじっと見つめる。

 池から出てきたスライムに、傷などは一つも付いていない。大きさは今までと変わりないし、色なども変わっていない。

 ただ、()()()()()()()()()()

 スライムの体表面を覆い、打撃や爆炎による攻撃を防いできた粘液の鎧。それが一切見当たらないのである。その事に気付いたのかウラヌスが目をパチクリさせたので、スピカは説明する事にした。

 

「実はね、スライムの粘液って水溶性なの」

 

「すいよーせー?」

 

「水に溶けるって事。本来なら雨季が近付いた今は、粘膜が溶けてなくなっちゃうから休眠を始める頃なのよね」

 

 圧倒的強者にして、頂点捕食者であるスライム。森の生物全てが逃れるために身を隠す力を持つほど危険な生物だが、ただ一つ、粘液が水に溶けるという弱点があった。

 このためスライム達は雨季になると姿を消す。地面に穴を掘り、水が入り込まないぐらい深くに身を隠すのだ。交易や政治的会合など日程を調整出来ない用事なら兎も角、手紙の配送や旅行であれば雨季に行うのが帝都住人の暗黙の規則。それだけスライムは恐れられている。

 それと同時に、スライム達も自分の粘液がどれだけ素晴らしい代物であるかを理解しているのだ。故に粘液が剥がれれば流石に逃げていく

 

「プジュ、ウゥウウウウゥッ……!」

 

 筈なのだが、どうにもこのスライム、やる気満々な様子。逃げるどころかどんどんスピカ達に接近してくる。

 一体どれだけ空腹なのか、それとも別の理由があるというのか。スピカとしてはここでもまた想定外の展開となった事に、少なからず動揺を覚える。

 そしてこれは非常に不味い。

 いくら粘液が剥がれたところで、スライムと戦うのはやはり自殺行為だからだ。スピカに向けて放った粘液射撃の威力からも分かるように、そもそもの身体能力がスライムと人間では違い過ぎる。鎧を脱いだからといって、人間が子犬に負ける事などあり得ないのと同じだ。

 また追い駆けっこになればいよいよ喰われかねない。こればかりは本当に不味い。

 ……ウラヌスがいなければ、という前置きは必要だが。

 

「さて、今のスライムは粘液が剥がれた。だからアンタの拳や私の弓も通じる」

 

「うむ。それは良い知らせだ」

 

「そしてもっと良い事を教えてあげると……スライム肉って珍味なのよね」

 

「ほほーぅ」

 

 スピカが情報を追加すると、ウラヌスの目の色が変わった。ギラギラと輝くそれは捕食者の瞳。

 スピカも弓を構える。爆弾は尽きて普通の矢しかなく、一人ではスライムに勝つ事は出来ないだろう。しかしウラヌスと二人ならばどうにかなりそうだ。この軟体動物は、粘液さえなければ身体は柔らかいのだから。

 二人からギラギラとした視線を向けられ、スライムもようやく自分の状況を理解したらしい。いそいそと後退りを始めた、が、もう遅い。

 力を失ったスライムに、二人の人間が襲い掛かるのだった。



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君臨する軟体7

「……美味しくない」

 

「でしょうね」

 

 顔を顰めているウラヌスに、スピカはくすくすと笑いながら同意した。

 ウラヌスが食べているのは、スライムの肉だ。生で食べるのは危険(寄生虫がいる可能性が高い)なため、焚き火で焼いたものを食べている。スピカも小さな肉片を一口だけ食べた。初めて味わうスライム肉は、激烈な甘ったるい臭いと噛み切れないほどの弾力、微妙に苦い汁が口の中を破壊していく。亜人と人間どころか、恐らく全生命体共通でそこそこ嫌いになる味だ。

 焚き火は猛獣を引き寄せるため危険だ、とスピカはウラヌスに言ったが、調理しているものがスライム肉なら話は別。この森の生物はスライムを恐れている。焼いて漂う極めて個性的 ― 食事の前には嗅ぎたくない類の ― な臭いが、猛獣達を寄せ付けないからだ。スライムの体液で作り出した粉は、帝都周辺の森限定ではあるが獣避けとして使われているほど効果覿面である。

 ウラヌスは文句を言いながらも、焼いた肉に齧り付く。戦って腹が減ったのだろうか。確かにスライム戦で見せた強さを思えば、体力の消耗も激しそうである。その分食べるというのは自然なように思えた。

 

「(ま、どれだけ食べても良いけどね。食べ切れる大きさでもなければ、持ち帰れる大きさでもないし)」

 

 ウラヌスの横に倒れるスライムの亡骸を横目に見ながら、スピカはスライム肉の『利用』について考える。

 スライム肉は珍味中の珍味。食べた通り美味い訳ではないが、こうした変なものは貴族が『見栄』を張るのに色々と便利なものだ。加えて嘘か真か、食べると精力増強だのなんだのの効果があるとも言われている。お陰で貴族などの金持ち連中に需要があるが、当然スライムを倒せる人間など早々いない。そして供給が少なければ値は釣り上がる。払い手に金銭的余裕があれば尚更に。

 スライム肉を売ればかなり良い値が付く筈だ。勿論全部持ち帰る事など出来ないが、一握り分もあれば、今請け負っている依頼である手紙の配達の依頼料と同じだけの金が得られるだろう。割に合うかどうかは別にして、予期せぬ臨時収入なのは確かだ。

 

「(大金が手に入ったら、しばらくは町に寄らなくても平気かな)」

 

 スピカはあまり町に立ち寄らない。基本的には町から離れた自然の中で過ごす。

 冒険家の仕事は町などの外、自然界に出て行うものばかり。それでも用もないのに危険な森の中に暮らす者はまずいない。人間が人間らしく生きていくには、町の中で暮らすのが一番良いのだから。

 スピカがそうしないのは、彼女が自然の中に身を置く事を望んでいるため。

 昔からそうだった。家族や村の住人に何度危険だと言われても、自然の中に身を置く事は止められなかった。確かに自然は厳しい、というよりも無慈悲だ。例え相手が無力な赤子や卵だとしても、腹が減っていれば食べてしまう。可愛い生き物の腸をぶち撒ける事も躊躇わないし、遊びで殺す事もしょっちゅう。それを咎める存在すらいない。

 だが、平等だ。

 そして独創的で自由である。見れば見るほどに新しい発見があり、何度同じ生き物を見ていても飽きない。何時までも一緒にいられるし、何時までも感動に浸れる。勿論危険はあるが、それ込みでスピカは自然が好きなのだ。

 スピカが冒険家という仕事を選んだ理由は一つではないが、自然と触れ合えるから、というのが特に大きな理由なのは間違いない。

 

「む。そうだ、言い忘れていた」

 

 さて、そのようなスピカに声を掛けてくる者がいる。

 ウラヌスだ。美味しくないと言っていたスライム肉をまだ食べながら語り掛けてきた彼女に、スピカは視線だけを向ける。

 

「この戦いで手助けをしてくれた事、深く感謝する」

 

 するとウラヌスは片膝と右手の拳を地面に付け、左手の拳を胸に当てた後、深々と頭を垂れた。

 その仕草がどのような意味合いのものか、スピカは知らない。

 だがゴブリン族にとって『敬意』や『感謝』を示すものである事は、なんとなくだが察せられた。確かに自分がウラヌスの命の恩人だというのはスピカも意識するところだが、しかしこうも仰々しい態度で言われると少し慌てる。最初は見捨てようとしていたとなれば尚更だ。

 

「ちょ、そんな畏まった事しなくても……」

 

「私は一族の掟により旅をしていた。もしもお前の助けがなければ、私は戦士となる前に死んでいただろう」

 

「一族の掟?」

 

「我らコロバスの中でも、戦士を目指す者は歳が八を迎えた日に三年の旅を行う。外の世界と強者(つわもの)を知る旅だ。多くの者が死ぬが、帰郷したものは戦士となり、コロバス全てに讃えられる名誉を授かる」

 

 ウラヌスから語られたゴブリンの風習に、スピカは少なからず驚いた。八歳などまだまだ未熟な子供だ。ましてや過酷な自然界に放り出して生きていける年齢ではない。

 スピカも()()()()で旅を始めた時にはもう少し歳を重ねていたし、途中で行き倒れたところをとある冒険家に助けてもらったから今も生きているのだ。ゴブリン達の身体能力の高さが子供時代から発揮されるにしても、ウラヌスが言うように大部分が死んでいくだろう。

 ……或いはそうやって生まれた子供を『間引く』のか、はたまた優秀な血を選別しているのか。恐らく後者だとスピカは思う。人間が家畜や野菜を改良してきたように、ゴブリン達は自分自身を改良してきたのだ。あまりにも命を粗末にしたやり方で。

 と、ここまで考えてふと疑問に思う。

 

「(なんでそんなヘンテコ民族が、人間社会じゃ全然知られてないんだろ?)」

 

 他国どころか他人種の文化にどうこう言うものではないとスピカは思うが、しかし一般的な人間であればこう考えるだろう――――おぞましい風習だ、と。

 それ故に誰もが興味を抱き、覚える筈だ。その事に対する善悪は置いておくとして、衝撃の大きさから有名になりそうなものである。

 いや、そうならない理由はスピカにも想像が付く。単純に交流がないからだ。ゴブリンの存在そのものが、とある冒険家の書物でなければ載っていないような代物。ゴブリンの住処は人間の版図から遠く離れた地なのだから、当然である。

 ならば何故、ウラヌスは帝都の傍までやってきたのか? それに、ウラヌスの見た目から考えるに……

 

「……一つ聞きたいけど、アンタ、今何歳なの?」

 

「うむ、十四だ」

 

 スピカが尋ねると、ウラヌスはあっさりと答える。

 しかしこの答えは、しきたり通りなら三年前には村総出で讃えられている筈の数字だ。何かがおかしい。

 

「それ、計算上六年も旅してる訳だけど」

 

「うむ……私はこう、どうにも道を覚えるのが苦手なんだ」

 

「ほうほう」

 

「気付いたら、自分が何処にいるか分からなくなって、帰ろうとしたんだが二年半ぐらい迷ってて」

 

「……………」

 

「で、半年ぐらい前に、此処に着いた」

 

 半年間も帝都近隣をうろうろしているんかい。思わずそんな言葉が喉元まできたが、とりあえず我慢するスピカ。故郷に帰りたくても帰れない状態なのだ。それを茶化す事は、スピカには出来ない。

 

「まぁ、帰れない事は別に良いが」

 

「って、良いんかい!?」

 

「うむ! 長老は十年ぐらい迷っていたからな!」

 

 尤も、どうやら気遣いは無用だったらしいが。帰還予定から三年もズレている事に無頓着なのはどうかと思うが、価値観の違いなのだろうか。それで済ませられる問題ではない気がしつつも、迷っている以上帰れと言っても出来るものではあるまい。

 それでもスピカが痛む頭を片手で押さえていると、ウラヌスは話の続きを行う。

 

「ともあれ私はお前に助けられた。受けた恩は返すのが我らの流儀。手助けをしたい」

 

「え。そんなの良いよ、気にしないで」

 

「いや、そうはいかない。助けられたままでは戦士として、一族に顔向け出来ない」

 

「……じゃあハッキリ言うけど、同行者お断りなの。私は一人で旅がしたいんだから」

 

 ウラヌスに向けて、スピカは強い口調で拒絶を告げた。

 冒険は複数人で行うのが一般的だ。何故なら一人の人間に出来る事は限りがあるから。一人だけでは背後や頭上の警戒なんて出来ないし、底なし沼に足を滑らせたらどうにもならない。交代で夜の見張りも出来ず、荷物を分担して持つ事も不可能。不利な点を挙げれば切りがない。

 合理的に考えれば一人旅などあり得ないが、しかしスピカはそれでも一人旅を望む。

 何故なら彼女は、自由に旅をしたいから。

 気の赴くままに自然を渡り歩き、時間が許す限り自然を眺めていたい。冒険家という仕事を選んだ理由の一つだ。されど冒険家の多くはそうした生活を好まない。人の助けになりたくて冒険家をしている人間は都市に居着き、金儲けを目的にした冒険家は自然を観察なんてしない。

 スピカと同じ考えで冒険をする者なんて、滅多にいない。探せば見付かるかも知れないが、探す度に喧嘩や言い争いなんてしたくない。そして考えが違う相手に自分が求める事を主張しても、諍いになるだけだ。だったら最初から一人でやる方が合理的というもの。それはこれからも変えるつもりがない。

 故にウラヌスとの旅も断った。

 

「そうはいかない! 我らの一族の名に泥を塗る訳にはいかないのだから!」

 

 ところがどっこい、ウラヌスは諦めない。

 これだけハッキリ告げてまだ諦めないのはスピカとしても想定外。呆気に取られていると、ウラヌスはスピカの身体にがっしりと組み付いてきたではないか。

 何故そんな行動に出たのか、スピカには分からない。だが何を思っているのかは大体察した。

 認めるまで離すつもりはない、という事だ。

 

「ちょ、離しなさい……というか諦めなさい!」

 

「諦めないぃぃ……! 我が一族の名誉と誇りにかけてぇ……!」

 

「アンタほんとは感謝の念とかないでしょ!?」

 

 しがみつくウラヌスを押し退けようとするスピカだが、ウラヌスの力の方が圧倒的に強い。剥がすどころか一層身体が締め付けられていく。

 肋骨がみしみしと鳴るのを感じ始めて、ようやくスピカは「あれ? これもしかしてヤバいのかしら?」と察する。どうやらこのウラヌス、必死なあまり力加減を忘れているらしい。

 このままでは、割と比喩でなく大変な事になりそうな気がする。

 スピカは何がなんでも一人旅をしたい。しかしそれは、()()()()()()()()()()()()としても貫くべき意思だろうか?

 流石にそれは、釣り合いが取れていないというものだ。

 

「……ああもう! 分かったわよ!」

 

 ついにスピカが根負けした。それと同時にしがみつくウラヌスの腕の力が弛む。

 

「おお! そうか!」

 

「ただし! あくまでも護衛として雇うだけ! 期間は一年! それと私の指示には従う事! 分かった!?」

 

「うむ! 戦士としての力を期待されているのなら、私としては誉れだ! 存分に使うと良い!」

 

 妥協したスピカの答えにウラヌスは大喜び。満足気に頷く。

 一人旅を好むスピカとしては、ウラヌスの同行は本気で遠慮したい事だった。ウラヌスの力で生命の危機を感じなければ、期間限定という条件すら付けたくないのが本音である。

 ただウラヌスが嫌いという訳ではない。

 そもそもスピカが一人旅をする理由は、自分の旅を邪魔されたくないからだ。逆に言えば、邪魔されないなら二人旅は合理的な判断だと思う。

 ウラヌスは、そうした口出しをしてこない性格に見える。むしろ自分と近い性格のような印象をスピカは抱いていた。あくまでも勝手な印象であるが、第一印象が悪くない事は人付き合いの初期段階としては極めて大事なものである。

 それに、彼女の力は非常に頼もしい。

 ウラヌスの圧倒的な強さは、スライムとの戦いで見てきた。生物に対する知識が少ない所為で一方的にやられていたが、最終的に討伐出来たのはウラヌスの身体能力のお陰なのは間違いない。

 この力と一緒ならば、或いは『アイツ』も……

 

「……流石に、それは高望みかな」

 

「? なんだ?」

 

「こっちの話。兎に角、一年間って期間限定だけど、これからよろしくね」

 

「うむ!」

 

 元気の良い返事をするウラヌス。人間性はやはり好ましい。そこはスピカも認めるところだ。

 それに何時までもうじうじと愚痴るより、『労働力』は余さず使うのが合理的というもの。早速役立ってもらおうと、スピカはそのための作業を始める事にした。

 

「さてと、そろそろあの部位は切り分けておくかな」

 

「あの部位?」

 

「スライムの卵巣よ。此処が一番高く売れるのよね」

 

 スライムは基本的にどの部位も珍味として高値が付いている。しかしどの部位でも需要が変わらないなんて事はなく、一番人気があるのが卵巣だ。比較的食味が良いというのもあるが、卵巣=子沢山=精力増強という連想により、男性貴族に好まれている。本当に卵巣が精力に対して効果的なのかは不明だが、そもそもスライムが精力剤扱いなのは「なんか効きそう」だからである。誰も研究しておらず、端から理屈はどうでも良い。

 スライムの体内など本でしか見た事がないが、卵巣は動物の臓器の中では分かりやすい形の器官だ。それにスライムは雌雄同体、つまり雄と雌の区別がないので、必ず卵巣は付いている。ちなみに精巣は強烈な精子臭さがあるため、流石にこれはあまり人気がない……売れない事もないのが、男性貴族達の『精力』への渇望が垣間見えてスピカ的には気持ち悪く思うが。

 

「らんそう? ああ、卵のやつか。ほれ」

 

 そんな考えを巡らせていたら、ウラヌスが棒切れと()()()()()()()()()()()()を差し出してした。

 ……スピカはしばしそれを見た後、スライムの腹を見ようとする。スピカが手を出す前に切られていた腹の中は、随分と綺麗になっていた。お陰で腕を突っ込んで探さずとも、ハッキリと分かる。

 何処にも卵巣がないと。

 

「……ねぇ、アンタ。それ、どしたの?」

 

「うむ、何処なら食べられるか色々確かめたら、ここが一番美味かった! お前にも分けてやろう!」

 

 強張った声で尋ねると、ウラヌスはとても素直に答える。

 成程、確かに美味しかっただろう。何しろ一番食味が良くて、故に高価なのだから。

 ……別段卵巣が売れなかったからといって『損』する訳ではない。スライムを倒せたのはあくまでも偶然であり、そして幸運だったからだ。臨時収入が少なかった事にケチを付けるなど、それこそ『欲深』というもので、金の亡者となる考え方であろう。

 しかしそれはそれ。これはこれ。人間というのは例えまだ手に入っていないものでも、予定というだけで自分のものだと思ってしまう浅はかな生き物なのだから。

 

「こ、このお馬鹿ぁぁぁぁぁッ!」

 

 大声厳禁の森にスピカの怒号が響き渡る。

 やがて勇者として祀られる二人の旅の始まりは、なんとも間が抜けた形から始まるのだった。



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異郷の獣王達
異郷の獣王達1


 帝都の周りにある森を南に抜けると、その先には草原が現れる。

 じっとりとした森林と違い、草原の空気は爽やかなもの。流れる風があらゆる不快感を持ち去ってくれて、実に清々しい。空で輝く太陽の煌めきも、森の中で湿った身体を程良く温めてくれた。

 何より気を引くのが大地を覆う草の香り。五感に直接訴え掛けるそれは堪らなく魅力的だ。頭の中をスッキリと透き通ったものにさせてくれる。

 出来れば数日間ほどこの大自然を満喫したい。

 ……本心からそう思うスピカであったが、そうもいかない事情が二つある。

 

「(依頼の手紙は、まだちゃんと届けてないし)」

 

 一つは依頼こと、手紙の配送をまだ終えていないから。手紙はこの草原を抜けた先の村に届けなければならない。

 今回の依頼に納期などは記されていなかったが、親族の安否を確かめる手紙なのだ。届くのは早ければ早いほど良いというもの。またこう言うのも難だが、一分遅れた結果手紙が()()()()()()()()……なんて事も可能性の上ではあり得る。その事について配達人であるスピカが思い悩む必要はないが、流石にそれを目にしたら目覚めが悪いどころの話ではないだろう。

 勿論、自然界は人間の事情など汲んではくれない。油断や焦りは死を招く。よって急ごうとはしないが、寄り道や草花を愛でるのは後回しにすべきだとスピカは思う。

 これが村へ真っ直ぐ行かねばならない一つ目の理由だ。とはいえこれは倫理観だのなんだの話であり、人の心がないなら無視しても問題ない事である。それこそ野生生物なら平然と無視するだろう。しかし二つ目の理由は、どんなに人の心がなくても、例え昆虫でも決して無視は出来ない。

 

「おー、ついに森を抜けたなー。村では何が食べられるかなーもぐもぐ」

 

 二つ目の理由は超人的食いしん坊である旅の同行者・ウラヌスが、持ち込んだ食料を粗方食べ尽くしてしまった事だ。それでも足りないようで、今は食べられる野草の茎を齧る有り様。

 スピカとて考えなしに食べ物を渡した訳ではない。スライム討伐後に見た食欲を考え、道中で獣を仕留めるなどして『補給』を行っていた。野草なども積極的に採った。だというのに食料が枯渇(換金用に取り分けたスライム肉も食い尽くされた)するのだから、一体どうすれば良いのか。実際、スライムとの戦いで見せた身体能力を思えば、それだけ食べても不思議はないと思うのだが……

 ちなみにスピカと出会うまではどうしていたかと聞けば、曰く、獣を手当たり次第に襲って食べていたらしい。普通の冒険家なら「は?」という声が出てくるような無茶なやり方だ。しかし小型とはいえ森でドラゴンを食っていたぐらいなのだから、そのような無茶も通せる。尤も、スライムのような本当の『強者』と六年も出会わなかったのは、単なる幸運だろうが。

 

「……ところでその草、美味しいの?」

 

「まぁまぁ。意外と風味が良いぞー」

 

 スピカの質問に平然と答えるウラヌス。ウラヌスが今食べているのは、確かに食べられる野草なのだが……通常は一晩ぐつぐつ煮込んでから食べる代物。しかも煮込む理由は毒抜きなどではなく、硬くて食べられないからだ。ウラヌスの強靭さは顎でも発揮しているらしい。

 今度からコイツには携帯食料は渡さず、野草と獣で我慢させよう。そう『反省』しつつ、スピカは改めて草原に目を向ける。

 爽やかな風が流れる、爽やかな香りに満ちた草原。とても心安らぐ光景であるが、されど決して心を許してはならない。

 よく観察すれば見えてくる。

 草むらの中を動く、大柄な生き物の姿が。草に紛れていて全容は分からないが、人間程度の体重は恐らくあるだろう。ウラヌスなら返り討ちに出来るかも知れないが、スピカはそうもいかない。

 また草むらの中で特に注意すべきは、蛇の存在だ。森の中でも奴等は落ち葉などに紛れて姿を隠しているが、草原となるとその姿は全く見えない。蛇の存在を事前に発見するのはほぼ不可能であり、何かを踏ん付けたと思ったなら素早く退かねば危険だ。

 万一噛まれたら、逆に身を前に乗り出して蛇を捕まえる判断力も欠かせない。蛇毒の解毒薬をスピカは持ち合わせているが、蛇の種類によって毒が違うため薬も選ばねばならないからだ。噛んできた蛇の種類が分からなければ、どの薬を使えば良いかも分からない。全部服用した場合は副作用でのたうち回る(最悪なんやかんやで死ぬ)ので、適切な治療のためにも情報は必要不可欠である。

 他にも虫がうじゃうじゃと暮らしている。小さな虫達というのは、人間にとって驚異だ。確かに一匹一匹は指で潰せるほど弱々しいが、奴等は服の隙間から平然と入り込み、手の届かぬ位置で噛み付いてくる。痒くなる程度ならマシだが、中には身体を痺れさせるほど強力な毒虫もいる。最悪の場合、不治の病を媒介する種までいる始末。そして草むらの奥に隠れた奴等の姿は、人間には確認する事が出来ない。回避は不可能であり、虫除けなどの対策はあるにしても、最終的に無事で済むかどうかは神頼みだ。

 更には草原を形作る草さえも危険極まりない。細長い草は頑丈で、人の皮膚程度は簡単に切り裂く。切り傷が出来れば病気の下になり、また僅かでも血が流れれば獣を呼び寄せる印となるだろう。

 おまけにこの草原には棘付きの毒草が生息していた。棘に刺された場所は大きく腫れ上がって焼けるような痛みを発する。これ自体は人間を死に至らしめるようなものではないが、あまりの痛さにまともに歩けなくなる事は必須。もしも獣に襲われたなら逃げる事も出来ない。それでいてこの毒草、そこまで背丈が高くないので、周りの草に埋もれている事が多々ある。避けていこうにも何処もかしこも草だらけの草原では、草を回避するコースなどありはしない。スピカは分厚い皮の服で身を守っているが、何かの拍子に飛んできた針が顔に刺さろうものなら……

 そして、危険は空にもいる。

 

「キャーッ! キャッキャッ!」

 

 笑うような声が空から聞こえてきて、スピカはびくりと身体を震わせた。

 視線を上に向ければ、巨大な『鳥』のような生物が飛んでいる。

 いや、鳥ではない。皮膜で覆われた翼で羽ばたき、青い鱗に覆われた身体を進ませる。頭には角が生え、長く伸びた尾が左右に揺れて飛行時の体勢を保つ。

 ワイバーンだ。

 この世界で最も繫栄している動物、ドラゴン種の中でも特に成功した分類群で、様々な種が世界中に分布している。体長十五メトルにもなる大型種でもあり、性質も獰猛。今スピカ達の頭上を飛んでいる個体も、人間を食らう事もある巨大な猛禽・ロックを追い駆けていた。ロックは高速で飛べる鳥であり、ワイバーンから必死に逃げていたが……ワイバーンはぴたりとその後ろに付いている。

 

「キャーッ!」

 

 そして笑い声染みた叫びと共に口を開けるや、そこから赤い吐息が吐かれた。

 炎の吐息こと、ブレスだ。ロックは吐かれた火に包まれ、藻掻きながら墜落。ワイバーンはそれを追って降下していく。

 ワイバーンは身体が非常に大きく、故に人間のような『小動物』を襲う事はまずない。しかし腹が減っていたらその限りではない。そしてその強さは、今し方人食い怪鳥ロックを仕留めた事からも明らか。決して隙を見せてはならない相手だ。

 

「……あれは、違う」

 

 ただ、スピカはほっと息を吐いてしまうが。油断している自分に気付き、慌てて首を横に振る。

 ともあれ、草原にも危険な生物はいくらでもいるという事だ。確かに獣の襲撃など直接的な危険は森よりも少ないだろう。しかしワイバーンや怪鳥ロックのような危険種も一応は生息しており、何より人の意識の『隙間』を付いてくる狡猾さは草原の方が遥かに上だ。

 草原は爽やかな世界ではない。自然界でも有数の、狡猾で、陰湿で、姑息な環境である。

 

「ふふん、ここは私に任せろ。どんな獣が現れようとも、討ち取ってみせよう」

 

 そんな大自然に、真正面から挑もうとしている阿呆がスピカの傍にいた。

 

「アンタねぇ……獣は兎も角、蛇とか虫とかはどうすんの。戦う前に気付きもしないでしょ」

 

「うむ。それらは流石に無理だ! 我らの一族も血吸い蝿は竜より恐ろしいと言われている! だから……」

 

「だから?」

 

「気にしない!」

 

 あまりにも割り切った考え方に、スピカは口許を引き攣らせる。お前曲がりなりにも護衛でしょうが、という言葉が喉まで登ってきていた。

 とはいえウラヌスの言い分にも一理ある。どれだけ気にしたところで自然相手では完全には守れないのだから、ある程度は「気にしない」という形にならざるを得ない。むしろ気にし過ぎて精神を摩耗させては、訪れた危機への対応が鈍くなる恐れすらあるだろう。

 緊張感は程よく持つのが一番だ。ウラヌスの状態は、程よく、よりも数段緩んでいるように思えるが……しかし前向きな心持ちそのものは悪くない。

 そしてそんな彼女の傍にいると、つられてこちらも元気になってくる。

 

「……頼りになるんだかならないんだか」

 

「虫以外ならなんとかするぞ!」

 

 ぽそりと悪態を吐いてみたが、ウラヌスは全く堪えない。やれやれとばかりにスピカは肩も竦めたが、それでもウラヌスはへっちゃらだ。

 自信満々なウラヌスの横顔を見ていると、スピカも緊張した気持ちが薄れていく。

 どう言い繕ったところでこれは油断だ。そう言えば何かの書物で、人間というのは人数が増えると無意識に自分の責任を軽く見積もってしまう、という記載を見たなとスピカは思い出す。そのため同じ力量の人間が二人集まっても、労働力は二倍よりちょっと小さくなってしまうとか。

 だから二人は嫌なんだ。心の中で愚痴っても、弛む口角は変わらず。

 

「無駄口叩いてないで、そろそろ行くよ」

 

 誤魔化すように、スピカは草原に足を踏み入れるのだった。



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異郷の獣王達2

 自然は何時だって過酷なものだ。容赦や情けなど、一片たりとも持ち合わせていない。

 しかし自然は残虐でもなければ、悪趣味でもない。例えば『母親の安否を確かめたい息子からの手紙』の配達を、「くけけ。親子の情愛なんて虫酸が走るぜ」等といって妨害してくる事もない。そんな事は、自分達にはなんにも関係ないからだ。運び手が手紙を早く届けてあげようと警戒を怠れば、獣や虫は容赦なくその命を奪うが……本質は油断した獲物を狩っているだけに過ぎない。

 そうしたつまらない善意を抱かず、自分に出来る事を粛々と行えば、自然は何時も通りに振る舞うのみ。

 

「……そろそろ目的地の村に着くね」

 

 特段大きな問題もなくスピカが草原を渡り、怪我一つなく村へと辿り着けたのは、普段通りの行いをしていたからと言えるだろう。

 いや、この結果自体もそれなりに幸運なものだ。うっかり蛇を踏む、小さな虫に噛まれる、毒草の棘に引っ掛かる事もなかったのは十分に幸運だ。まかり間違っても自分の実力が優れているから全て上手くいったなんて、驕った考えを持ってはならない。

 

「おお、そうかー。もう村か! 私はもう腹ペコだぞ!」

 

 ちなみに頼れる護衛は道中で見付けた野草を頬張りながら、村への到着を素直に喜んでいた。

 相変わらず緊張感のない……とウラヌスの態度を窘めたくなるスピカだったが、開こうとした口を噤む。ウラヌスは言葉こそ緊張感に欠けているが、自然を見くびっている訳ではない。スライムと戦った時も、最初から全力で挑んでいる。そして自分の実力に自信はあっても、なんでも出来るとは言った事がない。

 恐らく彼女は自然と『対等』なのだ。決して下には見ていないが、自分の力が劣るとも思っていない。六年間も故郷に帰らず自然の中に身を置いていた事で備わった考えか、はたまたゴブリン族が持つ一般的な価値観か。いずれにせよその考え方自体はスピカとしても嫌いではない。

 だからそれとは別の部分に対し、スピカは窘める言葉を掛ける。

 

「アンタ、ほんと食べてばかりね……さっきも食べたじゃん」

 

「バッタの一匹二匹じゃ腹は膨れんぞ! それより肉だ! 野菜でもパンでも良いけど!」

 

「つまりなんでも良いんじゃん。この食いしん坊が」

 

「うむ! 昔からよく食べる子だと褒められた!」

 

 同じ言葉でも意味が違う。いや、それとも実は同じ意味なのか? 一瞬混乱してしまった事でスピカはツッコミする気も失せた。

 

「お腹が空き過ぎて、故郷では花の蜜もよく舐めたものだぞ。あそこにある白い花みたいなやつがいっぱい咲いててなー」

 

 そしてその意識は、ウラヌスの一言で強く引き締まる。

 ウラヌスが指差す先には、確かに白い花畑があった。草原の中でもハッキリと分かるぐらい、大きな花畑が出来ている。全て白い花を咲かせていて、遠目からでも一種類の植物で出来た花畑だと分かる。

 子供なら、嬉々としてあの花畑に跳び込むだろう。微笑ましい姿であるが、しかしそれが自殺行為である事をスピカは知っていた。

 

「念のため言っとくけど、あの花は間違いなくアンタの故郷の花とは別種よ。というか舐める前に死ぬから」

 

「む? 死ぬのか?」

 

「死ぬわね。足を踏み入れたら、どんな大男でも一瞬で。厳密には風下に立つだけで危険だし」

 

 首を傾げるウラヌスに、スピカは迷いない言葉で断じる。

 マンドラゴラ。

 ウラヌスが指差した白い花の名前だ。世界広しと言えども此処帝国、それもこの草原でしか見られない種である。群生して美しい花を咲かせるが、そこから漂う香りは猛毒を秘めている。息を止めていれば居続けられるが、一呼吸すればたちまち毒素は身体を巡っていく。故に花畑に足を踏み入れた生物は残らず死ぬ……というのは嘘だが、一部の虫を除けばバタリと死んでいく。

 一説には、その毒素で受粉相手である虫を守っているとか、迂闊な動物の死骸を養分にしているとか。詳しい事は分かっていないが、極めて危険な生物には違いない。

 幸いにして白い花を咲かせていない時は齧らない限り無害であり、また基本的に群生するため見付けやすい。また花は自然界ではよく映える純白をしており、視覚に障害でもない限り見付けるのは容易。普通に旅をする分には蛇や毒虫の方が余程危険だ。ただ、子供のように好奇心が強いとその危険性はぐっと高くなる。

 

「むぅ。毒なら仕方ない。どんな戦士も毒には敵わないからな!」

 

 ウラヌスは子供っぽいが、聞き分けは良かった。マンドラゴラの危険性を理解し、近付くのは止める。

 

「そうね。どんなに強くても、毒は全てを殺すわ。だからこそ便利なのよ」

 

「うむ。我々の村でも毒はよく使った。薬の材料でもあるからなー……昔の話をしたらまた腹が減った。早く目的地の村に着きたいものだ」

 

「本当に食いしん坊ねぇ。でも残念、多分アンタのお望みは叶わないわよ」

 

「んぁ? どーいう事だ?」

 

 首を傾げるウラヌス。どういう事か分かっていない彼女に対し、スピカは指先をある方に向けた。

 ウラヌスはスピカが示したものをよく見ようと、目を細めてじっと見つめる。スピカの指先は地平線の付近を示しており、スピカはそこに何があるか知っているから気付けたが、知らなければ余程目が良くなければろくに見えないだろう。

 しかし超人的身体能力を持つウラヌスは、視力も超人的だった。地平線にあるものはちゃんと、くっきり見えたに違いない。それは続いて彼女が浮かべた、絶望に染まった間抜け面からも明らかだ。

 ちなみにスピカは同じ光景を見ても絶望なんてしない。ウラヌスとは感性も違うし、何より最初から予想していた事。

 元よりスピカは、()()()()()()()()に手紙を届けに来たのだから。

 

「はい、ガッカリしてないで先に進むわよ。この手紙を届けるまでが依頼なんだから」

 

 懐から取り出した手紙を見せながら、項垂れるウラヌスを置いてスピカは自分が示した場所へと向かう。

 その手紙を掴む手に、力がこもらないよう指先に強く意識を向けながら――――

 ……………

 ………

 …

 本来そこには、寂れた小さな村があったのだろう。旅人や冒険家、それと徴税人でもない限りは立ち寄らない集落。建てられている家は雨漏りするようなボロばかりで、風が吹いている日にはしっかり布を身体に巻かねば寒くて眠れたものではない。主要都市の交易路から外れた村なんて、何処もそんなものである。

 とはいえそこに暮らす人々からすれば生活の場であり、そして故郷だ。住心地が良いとは言えずとも、ささやかな幸せを胸に暮らす人々が見られた、穏やかな地だったに違いない。

 だが、今やその面影は何処にも残っていない。

 建物はどれも潰れた状態になっていた。無事なものは、少なくともスピカの見える範囲には残っていない。崩れ方は建物によって違いがあるものの、いずれも人が住めるような状態ではなかった。酷いものでは「木材を積み上げている」と表現した方が良いのではないかと思うほど、ぺしゃんこになっているものまである始末。

 それでいて倒れた建物は、どれも焼けた痕跡が見られない。また、倒れる向きが()()()に偏っているのも特徴だろう。

 いずれにせよ酷い光景であるが、スピカは村の惨状に対しあまり強い感情は抱かなかった。何故ならばこのような村の惨事は、この世界ではまあまあ有り触れた出来事なのだから。

 

「んー、これぐらいの被害なら割と軽いもんかなー」

 

「だなー」

 

 スピカが感想を語れば、ウラヌスも同意の言葉を返す。

 『人の領域』というのは、全てが帝都のように兵士と防壁で守られている訳ではない。

 むしろこの村のように、掘っ立て小屋のような家と、村の範囲を示す木製の柵があるだけの場所が大半だ。ウラヌスのような亜人の集落も恐らく似たようなものだろう。

 そして生態系の頂点に君臨するような生物は、森で戦ったスライムのように絶大な力を持つ。仮にスライムがこのような村を襲えば、木の柵は勿論、木造(時には石造り)の家さえも跡形も残らないだろう。スライムほど強くなくとも、普通の人間では武装しても敵わないような生物などこの世界では珍しくもない。それらが一匹でも来れば、農民しかいない村など簡単に壊滅する。

 無論、人間とてなんの対策もしていない訳ではない。村などの小さな集落は、獣達があまり近付かない場所に作られるのが基本だ。例えば水がない、土に毒が染み込んでいる、何やら怪しげな岩がある……人間は知恵と理性で獣が嫌う場所を探し、先祖代々受け継ぐ事で生活してきた。

 しかし獣と一言でいっても、個体によって性格はバラバラ。中には同種が一歩と踏み込まない領域に、ズカズカと入り込む『馬鹿』もいるものだ。

 そういう個体はあっさり死ぬのが自然界のお約束。近付かないのには何かしらの理由があるのだから。されどそこが人間の村となれば、そいつが将来どうなるかは別にしても、人間に大きな被害が出てしまう。そしてこの手の馬鹿は、人間を見ても分かるように、ちょくちょく出てくるもの。

 結果、村が猛獣の襲撃で壊滅するという事態は、よくある出来事の一つになっていた。勿論よくあるというのは人類全体で見た時の話で、一つの群れが襲われる頻度は数十年に一度程度の出来事であるが……長生きしてれば人生で一〜二度は村の壊滅を経験する。

 人生で二度も家を失う。帝都のように安全な地に暮らす人々にとっては、とても耐えられない事態であるし、あまりの不幸さに同情も集まるかも知れない。しかし辺境の人々にとっては、世代が変わる前に体験する事。経験や伝承が途切れる事はなく、このような事態への対処法は徐々に培われてきた。

 逃げ方だって、ちゃんと受け継いでいる。

 

「んーっと……あ。あっちに煙が見えるね」

 

 村だった場所を見渡せば、白い煙が一つだけ上がっているのが見えた。綺麗に一本、細く真っ直ぐに伸びている姿から考えるに、焚き火によるものだと考えて良いだろう。

 焚き火という事は、そこに人がいる筈だ。一人か二人か、或いはもっとか、それは分からないが。

 スピカは煙の方に向けて歩き、ウラヌスもその後を追う。崩落した家々が更に崩れた時巻き込まれないよう、安全な道を通ったので少々遠回りになったが……すぐに焚き火の下に辿り着く。

 予想した通り、そこには人の姿があった。若い男が一人、老婆が二人。どちらも土埃で汚れた服を着ているが、見た限り身体は元気そうに見える。老婆達は焚き火の上に置かれた大きな鍋を見ており、どうやら食事を作っているようだった。

 

「こんにちは、帝都から来た冒険家です」

 

 まずは自分から挨拶。スピカが声を掛けると三人はすぐにこちらを振り向き、しばしスピカを見た後、若者が笑顔で歩み寄ってきた。

 

「おお、冒険家の方々でしたか。ようこそ……村はこんな状態で、申し訳ありませんが」

 

「いえ、お気になさらずに。こちらにデネブさんはいらっしゃいますか? 息子さんからお手紙を預かっています」

 

 懐から手紙を出すと、若者をすぐに受け取る。裏返し、宛名を確認しているようだ。

 ……対応こそ丁寧だが、男はスピカ達を明らかに警戒している。恐らく野盗の斥候ではないかと疑っているのだろう。

 しかしそれは当然の行いだ。村を襲う危険は野生動物だけでない。野盗などの武装した無法者も村を脅かす。帝都であれば兵士のように専門的に訓練を受けた者が護衛しているが、人口五十人にもならないような村でそんな『専門家』を雇う余裕なんてない。

 もしも野盗の斥候なら、戻る前に()()()おかねばならない。誤解でそうなると命の危険があるし、認められるにしても盥回しにされる場合もある。

 

「……デネブ婆さん! 息子さんから手紙だ!」

 

 今回は、すんなりと認めてもらえたようだ。若者は手紙を掲げると、焚き火で料理をしていた老婆の一人がバッと音が鳴りそうな勢いで顔を上げた。

 料理をもう一人の老婆に任せると、老婆デネブはスピカ達の下に駆け寄ってくる。健康で若いスピカ達ほどの速さはないが、腰の曲がった老人がここまで素早く動けるのかと思うほどの素早さだ。

 青年から手紙を受け取ったデネブは、その手紙を開いて早速読む。無言で、目の動きからその読む速さが窺い知れて……やがてデネブは鼻息を吐いた。

 

「……手紙はこの一枚だけかい? 他の連中宛てのものは?」

 

「ありません。これだけです」

 

「ああ、そうかい……全く、手紙一枚出すのに大金なんざ払って。すっかり成金になっちまってからに」

 

 デネブは読み終えた手紙を懐にしまうと、悪態を吐く。尤も、手紙を大事にしまう動きと、嬉しそうな笑みを見れば本心は明らかであるが。

 手紙を渡したのでこれで仕事は終わり、とはならない。これだけではインチキ(手紙を野原に捨てるなど)をする輩がいるからだ。手紙の配達などの仕事であれば、ちゃんと相手に手紙を届けた旨の記録をもらうのが普通である。今回の依頼料は前払いなのでそこまで熱心に証明せずとも良いが、今後仕事を受ける際の『信用』にはなる。

 スピカもデネブに依頼書を出し、名前を記してもらう。これでもやはり自分で名前を書くような姑息な詐欺は使えるが、配達であれば受取を示す証明書……返信の手紙の配達も頼むものだ。『往復料金』で依頼するのは、そうした事情もある。

 

「さて、手紙も受け取ったし、返信を書かないとね。ただ、少し待ってくれ。食事を作っている途中なんだ」

 

 老婆デネブはそう語ると、鍋の下に戻っていった。

 返信の手紙は簡素に書く。暗黙的なものだが、それが礼儀だ。今回の手紙も簡単なものになるだろう。

 とはいえ待つ事に違いはない。別段急ぎの用事などスピカにはないが、ただ待つだけなのも退屈だ。

 

「(今後の旅の計画でも練ろうかな。まずは依頼の報告で帝都に戻るとして、その後は……)」

 

「おーい、帰ったぞー」

 

 その暇な時間を潰そうと思考を巡らせていたところ、遠くから男の声が聞こえてきた。

 振り返ると、農具やら何やらを持った人々がスピカ達の方に歩いてきていた。老若男女様々な人がおり、いずれも服はボロボロかつ汚れている。どうやらこの村の生き残り達のようだ。

 彼等の手には植物や野ウサギが握られていた。植物は畑で育てていた作物で、野ウサギはそれを荒らす害獣といったところか。

 

「おかえり。畑はどうだった?」

 

「ああ、思ったより被害は小さいな。柵が壊れてて野ウサギが入り込んでいたが……そこの人達は?」

 

「冒険家。デネブ婆さんに手紙を届けに来たそうだ」

 

 帰ってきた人々の一人と、スピカ達の対応をしていた若い男が話を交わす。最初こそスピカ達に怪訝な顔を向けていたが、デネブに手紙を持ってきたと伝えるとすぐに笑顔を浮かべた。

 

「おお、そうか。どうだい? これからウサギ鍋をするつもりだが、一緒に食べていくか?」

 

 更には食事の誘いまでしてくれる。

 とても有難い申し出だ。ウラヌスに食料を食い尽くされたスピカとしては、此処で食べ物を得られるのは助かる。

 しかし支援物資を持ってきたなら兎も角、手紙しか持ってきてないのにそれを受けるのは、流石に気が引けるというもの。『合理的』に考えれば快諾一択とはいえ、人間なのだから社会常識も同じぐらい大事にせねばならない。

 

「おお! 良いのか!? 食べるぞ!」

 

 だが、小さな亜人には人間の常識などないようだったが。

 

「こら、勝手に決めないの!」

 

「ははっ! 元気な嬢ちゃんだ。ウサギは山ほど獲れたから、いくらでも食べていいぞ」

 

「やったー!」

 

 小さなウラヌスを見た目相応の子供と思っているのか、村人達は善意全開で提案してくる。そいつ人間の見た目をした怪物ですよと伝えたいスピカだったが、言ったところで目の当たりにするまで信じる訳もない。

 このままでは村人の食べ物まで食い尽くされてしまう。どうにか話を逸らせないものかと、キョロキョロと視線を動かし……そうしていたら、ふと目に入ったものがある。

 畑から帰ってきたであろう人々の中に一人、やたらガタガタと身体を震わせている者がいたのだ。それも幼い子供ではなく、中年の男である。痩せた身体を激しく震わせる様は、悲哀さよりも不気味さを纏っていた。

 

「……あの、あそこの男の人、大丈夫ですか? なんか随分と震えているのですが」

 

「ん? ああ、ベガさんですね」

 

 スピカが尋ねると、若い男はその男の名を教えてくれる。

 ただ、何故震えているのかについては、中々話し出さない。

 例えば風邪だとか持病だとかであれば、そう答えてしまえば良い。分からないなら分からないと言えば話は終わりで、隠したい事情があるのならさらっと嘘を吐くだけで済む。しかし押し黙るという事は、つまりこの若い男は事情を知っていて、けれどもどうすべきか悩んでいるのだろう。

 

「事情を訊いてもよろしいですか?」

 

 こういう時は話を促してしまえば良い。スピカが尋ねると、若い男は「ええ、まぁ」と答えてしばし考え込み、それからこう答える。

 

「あの人、見たらしいんですよ……村を襲った動物」

 

「はぁ。まぁ、これだけの被害ですから、相当大きな動物でしょうし、見ていてもおかしくないのでは?」

 

「ええ、確かに。夜だったので他の村人は見てないのですが、ベガさんは特別夜目が利くのでそこに疑いはないんです。あの人、普段は夜の見張りが仕事ですし」

 

 何時動物達や野盗の襲撃があるか分からない小さな村では、村人が夜の見回りをするというのは珍しい事ではない。恐らくベガがその動物を見て、村人に知らせたから、こうして村の人々は元気に生きているのだろう。

 だから彼の言い分を皆信じている筈だ。信じているのに、何故話そうとしないのか?

 疑問がどんどん大きくなる中、やがて若い男はこう答えた。どうせ信じてもらえないだろう、そんな気持ちがありありと伝わる言い方で。

 

「村を襲ったのは、身の丈三十メトルのドラゴンだったそうで……流石に大き過ぎていまいち現実味がないんですよね」

 

 さらりとそう語る。

 スピカが目を見開き、息を飲むとは、彼はきっと露ほどにも思わなかっただろう――――



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異郷の獣王達3

 曰く、村を襲撃したドラゴンは身の丈三十メトルもあったという。

 ドラゴンはこの世界で最も繁栄した動物だ。あらゆる環境に生息し、その種類も多様。そして優れた捕食者として、生態系の頂点及びその近くに位置する種が多数存在する。

 強大な捕食者は、巨大な身体を持つものだ。生態系の頂点に君臨するドラゴン種も巨大な、人間が小動物に思えるほどの巨躯を有す。

 が、それでも三十メトルはあまりにも巨大過ぎる。大型の種でも、その半分程度が普通だ。大抵のドラゴンは生きている限り成長するので、長生きするほど大きくなるが……大きくなれば食糧もたくさん必要になる。成体ドラゴンの死因はほぼ全てが『餓死』なのは、そうした事情からだ。最大級の倍の大きさを支える食べ物の量を考えれば、三十メトルのドラゴンなど与太話にしか思えない。

 だが、()()()()があれば話は変わってくる。

 

「……あの、そのドラゴンが何をしていったか、何処に行ったのか教えてくれますか?」

 

「ん? ああ、良いですよ。ただベガさんから聞くのは無理でしょうから、私が聞いた範囲で、ではありますけど」

 

 スピカが更に詳しい話を求めると、若い男はそう答えた。

 確かにベガと言われた中年男性の姿を見るに、今でも酷く怯えた様子だ。その怯えが、目にしたドラゴンの記憶がそうさせるのなら、話題に出して思い出させると更に怯えてしまうだろう。全部を聞き出すには長い時間が掛かると思われる。

 なら、きっと長い時間を掛けて聞き出した村人に尋ねる方が合理的だ。

 

「ええ、それで構いません」

 

「でしたら……えっと、そいつは北の空からやってきたようで……」

 

 若い男はつらつらと話してくれた。

 男としては、世間話のつもりで話していた事だろう。時折思い出すように考え込むだけで、何かを言い淀むような口振りもない。

 しかしその口は徐々に重くなり、そして表情は強張っていく。

 理由は男でなくとも分かる。話を聞いていたスピカの顔が、徐々に怒りの感情に満ちたものへと変わっていったからだ。スピカ自身、それを自覚していた。分かっているのに、表情が変わっていくのを抑えきれない。

 

「……それで、そいつはどっちに行ったの」

 

「え、えっと、どっちだったかな……み、南だった、ような……」

 

「南ね。分かった、ありがとう」

 

 しどろもどろになりながら答えた男に、悪鬼のような表情と感謝を返し、スピカはその場を離れる。

 そして向かうは、ウラヌスの方。

 ウラヌスは村人達と話をしながら、何かを食べていた。どうやらデネブ達が煮詰めていた鍋の中身らしい。口いっぱいに頬張る子供っぽいウラヌスの姿に、村人達はにこにこと笑い掛けている。

 そんなウラヌスの肩を、スピカはぐっと掴む。

 

「行くよ。急ぎの用事が出来た」

 

「む。そうなのか? みんな、ごはんありがとなー」

 

「おう! またこっちに来る事があったら、鍋ご馳走してやるからなー!」

 

 ウラヌスが感謝を告げれば、村の人間達は笑顔で送り返す。スピカが若い男から話を聞いている間に、ウラヌスは随分と打ち解けたようだ。これもまた彼女の才覚なのだろう……単純に村の人間が子供好きというだけかも知れないが。

 スピカはウラヌスを引きずりながら、村の外である南に向けて歩き続ける。村人の姿が見えなくなるとウラヌスは自分の足で歩き始め、スピカの横に並んだ。そして顔を覗き込みながら、眉を顰めてこう尋ねる。

 

「どうした? さっきから顔が怖いぞ?」

 

 ウラヌスに尋ねられたスピカは、更にその顔を顰める。

 しかしすぐに、ため息を一つ吐いた。彼女にこの顔を向けたところで意味がない。いや、『アイツ』に見せたとしても無意味だろう、と。

 人と馴れ合うつもりもないが、無闇に嫌われてもなんら益がない。眉間を指で解し、少しはマシな顔にしてから、スピカはウラヌスの問いに答える。

 ただし直接的な答えではなく、その理由を遠回りに、であるが。

 

「……さっき村の人に、村を襲った生き物の特徴について聞いた」

 

「おー、そうなのか。どんなのだ?」

 

「体長三十メトル。まぁ、この大きさは正直当てにならない。恐怖に染まった人間は、相手の大きさを何倍にも見誤るものだし」

 

 恐怖は心に強く残るもの。そして人間は、割と印象の大きさと実際の大きさを混合する生き物だ。虫嫌いの人が叫ぶ「手ぐらい大きい虫がいた!」と同じぐらいの信憑性と思えば良い。三十メトルなんて言っても、実際の大きさは十メトルぐらい、という可能性もあるだろう。

 しかし他の特徴、つまり身体の各部位に関するものについては、多少の誇張はあれども出鱈目とはなるまい。

 

「まず翼を持っている事。ただし羽毛じゃなくて腕に皮膜が生えている」

 

「ほうほう」

 

「それから身体。胸部が大きく発達していて、足は割と貧弱に見えたらしい」

 

「ほー」

 

「あと顔。暗くてよく見えなかったけど、爬虫類のような目をしていたとか。それと金色に光っていたらしいわね。あと細長い尻尾は、身体と同じぐらいの長さがあったとか」

 

「ふむふむ」

 

「最後に頭。角が四本生えていて、いずれも後ろ向きに伸びている」

 

「はー」

 

 村人から聞いた特徴を一つずつ挙げていくと、ウラヌスは納得したように頷く。尤も、呆けた顔を見るによく分かっていないようだが。

 無理もない。この言葉だけで想像を膨らませても、頭の中で描く姿は人によって様々だろう。これだけでなんという生物か当ててみろ、なんて言うつもりは毛頭ない。

 だからスピカは『答え』を告げる。

 

「ワイバーンだよ」

 

「ワイバーン? なんだそれは、強いのか?」

 

「まぁ、ドラゴンの中では強い方ね。生態系の頂点に立ってるところもあるし」

 

 この草原に来たばかりの時、頭上を飛んでいた生き物がそうなんだけど……そう言おうとしたスピカだったが、話が逸れそうなので止めておく。それよりも、今はワイバーンについて意識を巡らせた。

 ワイバーン自体は、珍しい存在ではない。世界の様々な地に生息している獰猛な捕食者だ。ドラゴンの中でも特に飛行能力に特化しており、その飛行能力で世界中に分布を広げる事が出来た。亜種や近縁種も多く、ドラゴンの中で最も繁栄した種族と言えよう。

 ウラヌスの反応を見るに、ゴブリンの生活圏にはいなかったようだが……もし生息していたなら、彼女の向こう見ずな考え方も少しは違ったのではないかと思うぐらいに大型種は強い。地域によっては生態系の頂点に君臨しているぐらいなのだから。この地域にもワイバーンが生息している事は、頭上を飛んでいる個体がいた事から間違いない。食性から考えても村を襲う事は十分あり得る。

 とはいえ違和感も残る。村人にとってワイバーンは見慣れた存在の筈だ。なら、例え襲撃された恐怖があったとしても、大きさを見間違えるとは考え難い。そもそもワイバーンは昼行性、つまり日が出ている時間帯に活動する生物である。夜間に村を襲撃するというのは普通ではない。

 言い換えれば、()()()()()()個体であればそれらの条件を満たしてもおかしくない。

 

「私は、襲撃してきた奴に一つ心当たりがある。あくまで心当たりで、そいつだって確信している訳じゃない。だから確かめたいの」

 

「確かめて、どうしたいんだ?」

 

「殺す」

 

 ハッキリと告げる、敵意の言葉。

 躊躇いのない物言いは、常人ならば息を飲ませるだろう。しかしウラヌスは、大した事ではないと言わんばかりの無反応だ。

 

「ふーん。そいつと何かあったのか?」

 

「……………」

 

「なぁなぁー」

 

 疑問に思ったウラヌスからの、無邪気な問い掛け。気遣う訳でもない物言いは、スピカをほんの少し苛立たせる。

 されど、その言動を戒めようという気にもならない。

 むしろ心の中に一つの想いが込み上がる。

 勇ましい性格の彼女であれば、()()()()()()()のではないか、と。

 

「(ああ、全く我ながらほんと女々しい……)」

 

 何故こんな願望が出てくるのか。同意されたからなんだというのか。そう合理的に振る舞おうとするも、胸の中がぐずぐずと渦巻き、感情が沸き立つ。冷静さが取り繕えない。

 

「……答える前に一つ、訊きたいんだけど」

 

「ん? なんだ?」

 

「家族の仇に復讐したいって言われたら、アンタはどう答える?」

 

 人並みに察しが良ければ、スピカの話したい事が全て伝わるであろう問い掛け。

 しかし人並みを遥かに超えて脳天気なウラヌスは、キョトンとした表情を浮かべた。次いで首を傾げ、そして考える事もなく答える。

 

「……? どうと言われても、止めた方が良いんじゃないか? 復讐は何も生まんぞ?」

 

 なんともあり触れた回答を。

 実につまらない答えだった。それ以上に聞き飽きた答えで、スピカは苦々しく思う。その苦々しさが一つの想いを形作っていく。

 ()()()()()()()()()()()()、と。

 

「……なら、良い。これ以上話す事はないから」

 

「んんんー? 全然分からんぞ? なぁ、何があったんだ? なぁー?」

 

 何も分かっていないウラヌスが執拗に尋ねてくる。だが、スピカは答えずに歩くばかり。

 もう、答えるつもりもない。

 ウラヌスの問い掛けが止まれば、二人の間に流れるのは沈黙だけとなるのだった。



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異郷の獣王達4

 村を破壊した獣……ワイバーンと思しき生物は、南に向かったと村人である若い男は言っていた。

 故にスピカは黙々と南に向かって歩を進める。何時もより数段早い歩みで。

 早い歩みは危険が大きい。生物の身体というのは、普通に動くのが一番楽に出来ているものだ。普通の速さで歩くのが一番消耗が少なく、疲れ難い。また早歩きだと周りを注意深く観察する暇がないため、危険を見落としやすくなる。

 

「むぅ。大丈夫なのか? こんな早歩きでちゃんと周り見えているのか?」

 

 ウラヌスからそんな懸念を出されてしまうのも、仕方ない事だろう。

 そう、仕方ない。理性では分かっている事であり、悪いのは無謀な自分の方であるとスピカも自覚している。

 だが止められない。

 胸の奥底から沸き立つ感情が、憎悪の念が、彼女の身体を突き動かすのだから。

 

「大して早くない。これぐらい普通よ」

 

「普通ではなかろう。明らかに速いぞ。私は動きを見極めるのは得意だからな!」

 

「だから何よ。文句があるなら一緒に来なくて良いのよ」

 

「それは出来ない! 恩義には報いねばならん! 我が一族の誇りに賭けて――――」 

 

「ああもう!」

 

 苛立ちを声に出し、不満を露わにする。

 突然のスピカの怒号にウラヌスは首を傾げる。あまりにも無邪気な反応は、スピカの感情を逆撫でした。

 そんなに気になるなら、教えてやろう。何故自分が『ワイバーン』を追うのかを。

 頭の中を過る考え。そしてその考えに大した嫌悪も浮かばない。最悪言い争いになる事を経験的にスピカは知っていたが……元よりウラヌスと一緒の二人旅は、スピカの望むものではない。喧嘩別れになったところで、スピカからすれば妥協で設けた期限がゼロになるだけだ。むしろ好ましいぐらいである。

 

「そんなに知りたいなら、教えてあげるよ……そいつはね、仇なんだ」

 

 迷いなく、スピカは自分の『目的』について語り出した。

 

「仇?」

 

「そ。私ね、王国の辺境にある村で生まれ育ったんだけど、今その村は何処にもないの。そいつが、全部焼き払ったから」

 

 目を閉じれば、スピカの瞼の裏にはあの時の光景が浮かび上がる。

 ざっと十二年前、自分が幼い子供だった頃の話。

 当時からスピカは、自然と生き物が好きな人間だった。村の近くに広がる森に棲む小さな虫や綺麗な花々、大きな熊やドラゴン、大蛇や大猿も好んでいた。勿論それらは危険な存在であり、迂闊に近付けば喰われる、或いは毒などにやられてしまう。あくまでも遠くから、そっと観察するだけ。村人達も獣達との付き合い方をよく理解していて、偶に間抜けが喰われる以外は、大した被害も出さずに『共存』していた。

 土地が痩せていたので畑作はあまり実らず、日々の暮らしは楽なものではなかった。しかしそれでも村人は誰もが前向きで、明るく、俯いてなんていない。スピカも両親と共に、辛くとも楽しい日々を過ごしていた。

 その幸せは、一夜にして終わった。

 村を『獣』が襲撃したのだ。それもただの獣ではなく、村の近隣には生息していない筈のワイバーン種。しかも記憶通りなら恐らく()()()()()はあるような巨大個体だ。

 スピカの暮らしていた村も、獣の襲撃に対する備えはしていた。財産を守ろうなんてせず、一目散に逃げる。これが一番確実な方法だ。大体にして獣が村を襲う理由なんてものは、空腹か好奇心によるもの。さっさと逃げてしまえば追ってくる事はしない。

 だが、そいつは違った。

 そのワイバーンは村人を誰も逃さなかった。吐き出した炎で逃げ道を塞ぎ、風で誘導し、巨体で踏み潰す。食べる訳でもなく、遊ぶように命を奪い取っていく。

 村は壊滅した。家も、畑も、人も、全てが灰となったがために。

 生き延びたのは、夜中にこっそり家から抜け出したスピカだけ。そのスピカも当時齢十に満たない歳。一人で生きる事など出来ず、数週間と彷徨った挙句に行き倒れ。通りすがりの冒険家に助けてもらえなければ、スピカもまた死人の仲間入りを果たしていただろう。

 

「アイツは、私の家族を、友達も、その親や知り合いも、みんな楽しんで焼いていた。アイツはもう、野生の獣じゃない。みんなをあんな風に殺した奴が野放しなんて、絶対に許せない。だから殺す」

 

「……………」

 

「勿論、王国が討伐隊を出してくれるならそれに任せたけどね。でも奴等、なんて言ったと思う? 体長三十メトルのワイバーンなんていない、そもそもこの地域にワイバーンはいない、他の竜種の見間違えじゃないか、ですって。あれ聞いてすぐに思ったわ。やっぱり復讐は、自分でやらなきゃ駄目だって」

 

 嬉々とした声色で語るスピカに、ウラヌスは言い返す事をしない。

 声色は、演技している訳ではない。本当の気持ちを表しているだけ。

 故郷を焼いたワイバーンを見付け出し、どうにかして殺す。これがスピカの旅の『目的』だ。自然の中で生き、生き物達の暮らしぶりを見るのは『趣味』ではあっても、人生の目的ではない。仇を殺すために、スピカは生き続けている。

 無論、簡単な話ではない。普通のワイバーンですら、並の冒険家が十人束になっても勝てるような相手ではない。かつての記憶通り三十メトルもあるワイバーンとなれば、果たして討ち取るにはどれだけの戦力が必要となるのか。ましてや一人で挑めば、自殺行為以外の何物でもない。

 故に(その大きさを信じるかどうかは別にして)ワイバーンへの復讐についてスピカが話せば、誰もがそれを止めようとしてきた。命を無駄にするんじゃない、復讐は何も生まない……何度この言葉を聞いただろうか。

 決して悪い答えではないとスピカも思う。けれども、他人事としか思っていない気持ちがひしひしと伝わってくる言い方だ。

 勝てるから復讐をするのではない。何かを得ようとして復讐するのではない。復讐というのは過去に囚われた心を前へと進めるために行うのだ。頓珍漢な理由で止められても、怒りを通り越して呆れ返るばかりというもの。

 どうせコイツも似たような言葉を返すに決まっている。そう思いながらスピカはウラヌスの顔を覗き込む。

 

「……んー?」

 

 ウラヌスは気の抜けた声を出しながら、首を傾げていた。

 想定外の反応に、スピカも少なからず戸惑う。反発するでも、その場限りの同情をするでもない。こうも毒気のない感情を向けられた事がないものだから、どう返したら良いのか分からなくなる。

 そして分からないのは、ウラヌスも同じようだ。

 

「なぁ、よく分からなかったのだが、お前は何故復讐するんだ?」

 

「……は? いや、だから家族や友達が殺されたんだって……」

 

「うーん、よく分からない」

 

 首を傾げてばかりのウラヌス。

 家族と友達が殺された。復讐を決意するのに、これ以上の説明が必要だろうか? 一体何が分からないのか? そもそも復讐する事について尋ねた時、彼女は何も生まないとお約束な答えを返したではないか。

 スピカが戸惑っていると、ウラヌスは平然と答えた。

 

「私も兄上と姉上が殺されたが、別に復讐しようなんて思わなかったぞ?」

 

 あまりにも、スピカと異なる考えを。

 スピカは言葉を失った。次に何を言おうとしていたのかも忘れてしまい、口を喘ぐ魚のように空回りさせる事しか出来ない。

 

「殺された、の?」

 

 ようやく絞り出した言葉は、あまりにも間の抜けたもの。しかもウラヌスの発言を繰り返しただけだ。

 しかしウラヌスはその返答を嘲笑うでもなく、胸を張りながら答える。

 

「うむ。カリストという、我が故郷の地に棲まう大熊との死闘でな。兄上は勇猛果敢に戦い、しかし惜しくも散ったと聞く。姉上は食べ物を探していた時にやられた。どちらも腕ぐらいしか拾えなかったが、かのカリストは我が故郷でも最大の大きさを誇る獣。むしろ腕を残してくれただけ有り難いと」

 

「ま、待って! 待って……その……えっと……」

 

 ウラヌスがあまりにもなんて事もないかのように答えるものだから、スピカは酷く困惑した。

 何かが、自分と違う。違和感を覚えたスピカであったが、それをどう言葉すれば良いのか分からない。

 

「……家族が殺されて、アンタは、その……その熊を恨んでないの?」

 

 ようやく出てきた言葉は、あまりにも間が抜けたもの。

 

「恨む? カリストは腹を満たすために兄上達を喰らっただけだ。我等がウサギを狩るのと何も違わない。ウサギが我等を恨まないように、我等もカリストを恨まない。ただそれだけだぞ」

 

 その間抜けを嘲笑うでもなく、ウラヌスは平然と答えた。

 獣に人間が殺される事と、人間が獣を殺す事の違いとは何か?

 今までそれを問われた事はない。人間というのは無意識に、自分達は特別だと思いたがる生き物だからだ。故にスピカはこれまで、自身の『憎悪』について幾人にも語ってきたが、ウラヌスのような指摘は一度もされなかった。

 しかしそれはただの『感情論』。合理的に考えれば自分達も自然に対して同じ事をしている。いや、お洒落だの美食だのなんて理由で虐殺する自分達の方が余程悪辣だ。

 スピカも分かっている。だからこそウラヌスの言葉は一番言われたくないもの。心の一番脆いところを突かれて、始めて奥底まで言葉が届く。

 尤も、それが温かい言葉から兎も角――――鉄のように冷たい正論ならば、生まれるのは反発だけだが。

 

「……なら、やっぱりアンタには分からないでしょうね」

 

「むう? なんだ? どういう事だ? よく分からないからちゃんと説明してほしいぞ」

 

「五月蝿い。もう話すつもりはない」

 

 ウラヌスからの問い掛けを無視して、スピカは先にどんどん進む。ウラヌスがその後を追ってくるが、後ろを振り向かないスピカは彼女の歩幅など気にしない大股開きで前に進んでいく。

 無論、これは危険な歩き方だ。普段らしからぬ歩みをすれば、足先の感覚を正しく把握出来ない可能性が高い。毒蛇を踏み付けても気付くのが遅れる恐れがある。

 しかし胸の奥の感情が、合理的行動を取らせてくれない。感情を抑えないといけないのに、それが出来ていない。この事実が新たな苛立ちとなり、精神的な悪循環を生んでいた。

 幸いにして、今は太陽がかなり西に傾いている。間もなく夕方を迎え、そして夜になるのだ。昼間に動く生き物達は寝床へと向かう時間であり、夜行性の生き物が動き出すには早い。この時間帯は一時的に生き物の密度が下がる時であり、危険性が大きく低下する。

 とはいえ西日が眩しくて、視界が悪いという欠点もあるが。眩しい西側の草原を細めた目で確認し、それから東側を見遣り――――

 

「む! これはいかん!」

 

 どちらの方角も安全だ、とスピカが思ったところでウラヌスが声を上げた。

 なんだ、と思った時には既に遅し。スピカは背後から、冗談でなく手痛い打撃を受けた。どうやらウラヌスが体当たりを喰らわせてきたらしい。

 スライムと殴り合えるような力の(流石に加減はしているようだが)直撃を受け、スピカの身体は顔面からぶっ倒れてしまう。草のお陰で大して痛くない……と言えば聞こえは良いが、下手をすれば毒草や毒蛇に顔面から突っ込んでいたかも知れない。極めて危険な行為だ。

 一体なんのつもりだ、答えなかった事への嫌がらせか。数々の怒りがスピカの頭の中を過ぎっていく。振り向く寸前にはその言葉が喉まで登ってきていた。

 しかし完全に振り向いた時、それらの言葉は跡形もなく消え去る。

 何故なら代わりに、目の前の光景がスピカの頭の中を塗り潰したから。

 巨大な『獣』が、スピカが歩いていた場所に立っていたのだ。



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異郷の獣王達5

 黄金に輝く、美しい毛並み。

 スピカのざっと五倍以上……十メトルはあるであろう巨躯は、屈強な筋肉により引き締まっている。しかし決して筋肉達磨とでも言うような、不格好な肉の付き方はしていない。細く、しなやかな、ある種女性的な柔らかさを感じる。背中からは二本の、恐らく肩甲骨が盛り上がって出来た『背ビレ』が生えている。或いはその幅広な形から、翼を想起する者もいるだろう。

 頭部の周りにあるのは、雄々しさを感じさせる(たてがみ)。幅広な頭は顎の強さを物語り、半開きの口から見える牙は獰猛な食性を示す。鋭い眼はスピカ達を見つめていたが、澄み切った瞳を見ると不思議と恐怖心が薄れていく。偉大なる存在が自分を見ているような、そのような錯覚を感じさせるのだ。

 四肢の先にある爪は鋭く、これもまた獰猛さを表す。だが瞳を見た後、かの生物が偉大だという感覚を抱いた後には、この爪にも恐怖は感じられない。それどころか研ぎ澄まされたそれは宝石が如く魅力を感じさせる。もしも振り下ろされたなら、大半の者が美しさに魅了され、顔面の肉に食い込むまで見惚れてしまうに違いない。

 身体のあらゆる部分が美しく、完璧な作りをしている。強いて不気味さを感じるとしたら、尻尾の先の『房』が、蛇の頭のように見える点か。その不気味な頭のお陰で、かの生物を見た者は正気を取り戻し、そして自分の置かれた状況に絶望する。

 

「キマイラ……なんで、コイツがこんなところに……!?」

 

 同じく絶望したスピカは、思わずその生物の名を呟いた。

 キマイラ。それはとある地で生態系の頂点に君臨する、恐るべき獅子の一種だ。

 性格は獰猛の一言に尽きる。自分と同じ大きさのドラゴンにも躊躇いなく襲い掛かり、食べてしまう事も珍しくないという。その強さはたった一体で村はおろか、武装した十数名の名高い騎士を一瞬で皆殺しにした記録もあるほどだ。人間がまともに戦って勝てる相手ではない。

 何より一番の問題は、スピカはこの生物について()()()()()()という事。

 名前や大凡の強さは書物に書かれていた。しかしそれ以上の情報はほぼなく、どのような狩りをするのか、という記述もない。というのもこのキマイラ、人間の勢力圏での目撃例が殆どない珍獣中の珍獣なのだから。騎士十数人を蹴散らす強さというのも、現地に暮らす亜人エルフからの伝聞を書物の筆者が翻訳したもの。実際の強さは未知数である。

 願望を語るならば、実物はそこまで強くないと期待したいのだが……実物を目にしたからスピカには分かる。コイツは噂以上の実力者だ。騎士十数人を皆殺しにするなど、恐らく朝飯前の所業だろう。

 そんな化け物が、ほんの五メトルほどの距離まで迫っている。恐らく、スピカ達が歩いていた場所目掛けて襲い掛かってきたのだ。

 ウラヌスが突き飛ばさなければ、今頃は……

 

「大丈夫か!?」

 

 そのウラヌスから声を掛けられ、再び唖然としていたスピカは我を取り戻す。そして気にしなければならない事も思い出す。

 自分は無事だ。では、自分を突き飛ばしたウラヌスは無事なのか? こうして話し掛けてくる以上、生きてはいる。だが……

 最悪を考えて、スピカは声がした方を見遣る。そこにいたウラヌスはしっかりと二本の足で立ち、堂々たる姿をスピカに見せた。

 ただし、二の腕全体に広がる大きな切り傷、そこから流す血を滴らせながら、右腕がだらんと垂れ下がっていたが。

 

「ウラヌス! アンタ、まさか……」

 

「うむ。先程の奇襲で腕をやられた。ちょっと脱臼した程度だから、大した問題じゃないぞ」

 

「大問題でしょ! それに血もそんな出て……!」

 

 つらつらと出てくる叱責。その度に、スピカは自分の胸がきゅうっと締め付けられる。

 何故ウラヌスは怪我をしたのか?

 考えるまでもない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、突き飛ばすなんて余計な行動を取ったから逃げ遅れたのだ。それをしなければ、恐らくウラヌスは怪我なんてしていない。

 全部、自分の所為なのだ。それを自覚して心が痛まないほど、スピカは無感情な人間ではない。

 

「そんな事より、これからどうする? 逃げるのか?」

 

 そしてウラヌスの言葉が、ますます自己嫌悪を強める。

 この状況に置かれても、ウラヌスは自分の考えを訊いてくる。

 普通、自分が怪我した要因に今後の方針を相談なんてしない。見捨てるか、無視するか。されどウラヌスは悪態一つ吐かず、今すべき最善の決断をしていた。

 対して自分は、うじうじと後悔するばかり。

 過去を引きずっている場合ではない。『今』、目の前にある危機をどうにかしなければ、後悔をどうにかする機会すら潰えてしまうのだ。気持ちを奮い立たせ、なんとかスピカは自分の意識を待ち直す。

 とはいえ、ではこの状況をどう打開すべきか?

 圧倒的な力を有す捕食者を前にして、何をすれば生き残れるのだろうか――――

 

「(落ち着け……まずは観察しないと……!)」

 

 興奮する自分の頭に言い聞かせるように心の中で呟きながら、スピカはキマイラを見据えた。

 キマイラの方もスピカ達を見つめている。今正に再び襲い掛かろうとしている、という訳ではなく、スピカと同じようにこちらを観察しているようだ。

 恐らく、キマイラはウラヌスを警戒している。奇襲攻撃が失敗に終わったのはウラヌスがいたからだ。スライムのようにろくな知性もない軟体動物ならば兎も角、キマイラは大きくて立派な頭を持った獣。その見た目に違わず、知能はかなり高いとスピカは書物で読んだ覚えがある。失敗の原因を理解したとしてもおかしくない。勿論それはそれで極めて厄介な性質だが、猶予があるという意味では有り難い。

 幸運にも得られた猶予を用いて思考すれば、一つ疑問が浮かんだ。

 

「(コイツ、どうやって私達を奇襲したの?)」

 

 確かにあの時のスピカは、お世辞にも周りの警戒が出来ていた訳ではない。しかしながらそれは足下など、見えない場所に関する話だ。視界内の景色ぐらいはちゃんと見ていたつもりである。

 そして此処は地平線まで続くだだっ広い草原地帯。草丈は腰の辺りまでしかなく、見晴らしは極めて良い。体長十メトルの猛獣がいれば、何百メトル離れていようと確認出来た筈だ。

 なのにどうしてコイツの姿は、今まで見えなかったのか?

 草むらに隠れていた? あり得ない。頭の大きさだけでスピカ達の背丈ほどはありそうなのだから、どれだけ頑張ってしゃがもうと丸見えだ。

 では遥か遠方から、猛烈な速さで駆けてきたのだろうか? これも考えられない。確かに猛獣達の駆ける速さは人間とは比べようもなく優れているが、だからといって物事には限度がある。ウラヌスが気付いてから突き飛ばすまでの時間から考えるに、ほんの一〜二秒で距離を詰めてきた筈。数百メトルの距離を二秒で駆け抜けるなんて、いくらなんでも速過ぎる。

 何か、こちらの目を欺く力を使った筈だ。一体どんな力を使ったのか――――

 考えようとするスピカだったが、流石にその答えが出てくるまでキマイラは待ってくれない。

 

「グゥウルルルル……!」

 

 喉の奥から響く重低音の鳴き声。本能的に畏怖の念を抱かせる声と共に、キマイラは前足を高く持ち上げた。

 どうするつもりなのかは明白である。今度はスピカも、ちゃんと動ける。

 キマイラが前足を振り下ろして攻撃してきた瞬間、スピカは横に跳んでこれを回避した。ウラヌスの方も受け止めようとはせず、怪我をしているとは思えない軽やかな跳躍で避ける。

 強いて問題を挙げるならスピカとウラヌスの距離が離れてしまった事。これではこっそり作戦会議も出来ないが、元より獣相手にこそこそと話す必要はない。大きな声で呼び掛ければ意思の疎通は十分可能だ。

 

「ウラヌス! 一旦逃げるよ!」

 

「分かった! 分が悪いようだから仕方ない!」

 

 スピカが逃走を指示すれば、ウラヌスはすんなり受け入れた。一緒に旅をすると決めた際、さらっと交わした「私の指示には従え」という約束は忘れていないようだ。

 行動方針を統一出来たなら、次は具体的にどうするか。つまり、何処に逃げるべきかを決めねばならない。

 例えば、つい先程までいた村の方。

 

「(あっちに戻るのは論外……!)」

 

 村人を囮にして自分達は逃げる、というのは『合理的』な作戦かも知れない。少なくとも、自分が助かるという意味では。キマイラの心など全く読めないが、獣が人間を襲う理由など喰うためぐらいなものである。自分達以外の人間を差し出せば、キマイラは極めて寛大に見逃してくれるだろう。

 しかしそれは人間として、超えてはならない一線だ。いくら合理的に振る舞うのが自然界で生き抜くコツであり、そうありたいとスピカも思っているとはいえ、ものには限度がある。

 仮に、スピカに人間の心がなかったとして……それでもやはり村に逃げるのは却下だ。ハッキリ言って、訓練を受けていない一般人など烏合の衆と変わらない。戦力としては全く期待出来ず、むしろ助けを求める人に捕まって身動きが取れなくなったり、厄介事を持ち込んだ輩として現状を無視して糾弾されたりする可能性もある。押し付けてしまえば無事逃亡成功、なんて考え自体が甘い目論見だ。

 加えてキマイラからひしひしと感じる力の大きさを思えば、村にある建物の残骸など簡単に蹴散らす。吹き飛ばされた瓦礫は矢の如く勢いで飛び、鋭い木片は容易く人体を貫くだろう。キマイラの攻撃は目の前の獲物に向かうと予想出来るが、蹴り飛ばされた破片の行く先など予測しようがない。そんな真っ只中に身を置くなど、他人を巻き込んだ自害というものである。

 合理的に考えても、感情的に考えても、村に戻るという選択肢はない。ならば向かうべきは、村とは真逆の方向だ。

 

「こっちよ!」

 

「おう!」

 

 スピカが走り出し、ウラヌスもその後を追う。

 無論、キマイラも。

 

「グゴアッ!」

 

 キマイラが咆哮と共に駆け出し、巨大な爪の備わった前足を振るってくる。

 今度もスピカは警戒していたため、なんとか攻撃を躱す。とはいえキマイラの腕力は凄まじく、前足を叩き付けた大地から、スピカの身体が浮かび上がるほどの衝撃が伝わってきた。

 まともに受けたなら、恐らく一撃で挽肉にされるだろう。

 スライムと生身でやり合ったウラヌスでも、この一撃は流石に耐えられまい。万全なら受け流す事は出来たかも知れないが、今の彼女はスピカの不注意により負傷中だ。ウラヌス自身それは分かっているようで、スライムの時に見せた勇猛さは少なからず鳴りを潜めている。常にスピカの傍にいて、回避に専念していた。

 余裕があるとは言い難いが、頭が真っ白になるほど必死でもない。

 

「(うん。避けられはする……ちゃんと見ていれば)」

 

 キマイラの攻撃を避けつつ、スピカは観察を続けていた。情報から突破口を得るために。

 そして早速、一つの希望を見付ける。

 それはキマイラの攻撃が『大振り』である点だ。一撃の力は人間を肉片に変えるほどの威力であるが、予備動作が大きく、攻撃が何処を狙っているのか分かりやすい。

 恐らく、これは大物を仕留めるための技だ。相手が巨大であれば俊敏な動きは難しくなり、大振りな攻撃でも当てやすい。反面皮膚や筋肉が分厚く、生半可な攻撃は通らない。故に大物相手には大きく、衝撃が奥まで届く攻撃が望ましいと言える。

 キマイラの身体の大きさから考えるに、普段の獲物は相当大きな生物の筈だ。詳細は不明だが、自分と同じぐらいの大きさの獣を好んで獲物としているのかも知れない。対してスピカ達はキマイラと比べ遥かに小さく、最高速度では劣るものの、機敏に動き回れる。これに大振りな攻撃をしてもまず当たらないのに、それでもやってしまうのは、キマイラに小物狩りの経験がないからだろう。

 回避を続けるだけなら、そう難しくはない。とはいえ問題は二つある。

 一つは相手が獣である事。つまり生物であり、上手くいかない出来事に試行錯誤を行うだけの頭がある。大振りな攻撃が当たらないとなれば、隙のない小さな攻撃への切り替えは試みる筈だ。当然慣れない攻撃方法なので動きはぎこちなく、これもまた回避しやすいだろうが……繰り返せば技は研ぎ澄まされ、鋭い一撃と化す。恐らく、そう何時までも避け続けられるものではない。

 そして二つ目の、一番の問題は。

 

「(なんでコイツの存在に、今の今まで気付かなかったのか……!)」

 

 攻撃は大振り。駆ける速さも、スピカ達より上とはいえ、ある意味身体の大きさ通り。少なくとも地平線の彼方から、ちょっと余所見した瞬間に肉薄してくるような速さではない。

 まだ隠している技がある筈。その技を見破らなければ、この猛獣から逃れる事は困難だ。果たして一体どんな技を使うのか……

 何か兆候があるのではないか。そう思い観察していたスピカだったが、答えに気付くよりも前にキマイラがそれを実践してみせた。

 ただし、見せられてもスピカにはまるで理解出来なかったが。

 何分キマイラの姿が()()()()なんて、予想もしていなかったのだから。

 

「――――え?」

 

 思わずスピカは瞬きをする。野生動物に襲われている最中なのに、あまりにも間抜けな行動だった。

 そうこうしているうちに、キマイラの放つ光は強くなる。あまりの眩しさに思わずスピカは目を細め、そして気付く。

 キマイラの体毛の光り方が、西日のような明るさであると。

 

「(クソッ! コイツ、西日を反射しているのか!)」

 

 光の源が分かるのと共に、スピカ達への奇襲攻撃が成功した理由も判明する。

 キマイラはその美しい体毛で太陽光を反射し、自分の身体を煌めかせられる。無論これだけではキラキラ光って目立つだけだ。しかし光の中であれば、逆に自分の影……輪郭を消し去る事が出来る。

 恐らくキマイラは西の方からスピカ達に迫っていた。目視でそれを確認していたスピカだったが、光り輝くキマイラの姿は西日に隠れてろくに見えない。結果その姿を見落とし、襲われたのだろう。

 今になって光り出したのは、動き回っているうちに西日を浴びやすい立ち位置になったからか。果たして意図していたかは不明だが、その効果は絶大で、スピカは驚きと困惑から足を止めてしまった。

 そしてキマイラは小さく構えた腕を、素早く前に出す。

 最悪の時に、最悪の攻撃だ。いや、だからこそ繰り出したのか。小さな構えから繰り出した速度重視の一撃とはいえ、例えるならば人間が羽虫を叩くように、当たれば人間にとっては致命的な打撃となるだろう。どうにか躱したいが、一度止まった足を動かすには少しばかり時間が必要だ。残念ながらその時間はなさそうである。

 

「(あー、クソっ。ほんの一瞬目眩ましを受けたばかりに……)」

 

 一瞬でも晒してしまった隙を突かれ、命を落とす。

 悔やんでも悔やみきれない死に方であるが、しかし自然界における『死』というのはこんなものだ。ほんの一瞬の失敗が命に関わる。

 人間からすればあまりにも理不尽な世界だが、むしろ人間が享受している安全な暮らしがおかしいのだ。生き物達にとって死とは身近なもの。迫りくる全ての死を跳ね除けたものだけが、生き延びて子孫を残す。大半はそのまま死ぬ。だから虫は何百も卵を生み、ネズミは年に何度も子を作るのだ。

 人間が特別に扱われる事はない。自然界に身を置いた時点で、人間もまた一つの生物でしかない。うっかりだろうがなんだろうが、死ぬ時は死ぬ。

 しかし諦めるのはまだ早い。

 まだ自分は死んでいない。キマイラの攻撃は恐らく凄まじい威力だろう。だが向こうにとってもこれは慣れない一撃だ。力加減を誤っている可能性は十分にある。

 避けられないなら防御を固める。腕の骨や肋が折れるかも知れないが、それで済めば御の字。生きていればまだなんとか出来るかも知れない――――

 瞬時に下した判断。だが、スピカのその決断が意味を成す事はない。

 スピカとキマイラの間に割り込む者が、一人だけいるからだ。

 

「う、ウラぅぐっ!?」

 

 その者の名前を呼ぼうとして、しかし最後まで言い切る前にスピカの胸に衝撃が走る。

 ウラヌスが自分を突き飛ばしたのだと、すぐに分かった。

 スピカが顔を上げれば、スピカのいた位置にウラヌスが立っていた。そこにキマイラの腕が迫るも、ウラヌスに退く素振りはない。全く臆する事なくキマイラと向き合い、それどころか無事な方の腕を構えているではないか。顔には獰猛な笑みまで浮かべている。

 どうやら彼女は、この猛獣と真っ向勝負をするつもりらしい。

 無謀を通り越した大勝負。逃げてと叫ぼうとするが、スピカの口よりもウラヌスとキマイラの方がずっと早い。二者は間もなく激突する。

 だが、一人と一体よりも、更に速いモノもいた。

 

「ピィァアアアアアアアアッ!」

 

 ()()()()()()()()()悲鳴染みた叫びに、誰もが視線を向けるのだった。



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異郷の獣王達6

 空を見上げれば、そこには漆黒の身体が空に浮かんでいた。

 体長は十五メトルほどあるだろうか。巨大なその姿にスピカのみならず、同じく天を仰いだウラヌスとキマイラも動きを止める。

 瞬間、空に浮かぶモノは急降下してきた。

 もしもその狙いがスピカかウラヌスだったなら、ここで二人の命はなかっただろう。しかしソイツの狙いは小さな人間達ではなく、同じぐらい巨大なキマイラ。

 

「グゴアッ!?」

 

 空からの攻撃を受けたキマイラは、その巨体を仰向けにするように倒れる。巨獣を一撃で打ち倒す威力は、つまり相手がキマイラと同格の力の持ち主である事を物語っていた。

 ここにきて二体目の巨大生物。一体何が現れたのか、スピカはそれを確認すべくキマイラの傍にいる姿を見遣る。

 それは、一言で言うならばコウモリだった。

 無論体躯は空にいた時と同じく、十五メトルの巨体だ。二本足で立っているものの、その脚は細く、蹴り技などが使えそうなものではない。腕は翼になっているが、鳥とは違い羽毛ではなく皮膜が展開されている。全身の毛は鋭く先が尖り、まるで鱗のようだ。

 顔付きは豚鼻でお世辞にも愛らしくはない。開いた口には巨大な二本の牙が生えており、立派な武器である事が窺えた。黄色い目がなんとも言えない不気味さを醸し出している。耳は巨大で、それだけで長さ二メトルはあるように見えた。臀部からは長く、鞭のように細い尾が一本生えている。尾の先には硬質化した部分があり、まるで鏃のようだった。

 その姿に見覚えがある訳ではない。しかし冒険家として駆け出しの頃、やたら滅多に叩き込んだ世界各地の危険生物の知識に、該当する存在が一種だけいる。

 

「(コイツは、まさかヴァンパイア……!?)」

 

 ヴァンパイア。

 この辺りには生息していない筈の、危険な生命体だ。帝国内に生息地はないため遠征した冒険家からの情報しかないが……曰く巨獣の血だけを飲み、生きているという。

 正直眉唾物の話であるが(身体が巨大なら大量の食糧が必要だ。血だけなんて『贅沢』が出来るとは思えない)、しかし牙の鋭さを見るに肉食性なのは間違いあるまい。そしてキマイラに襲い掛かるほど獰猛か、或いは空腹か、いずれにせよ興奮状態にあるようだ。

 問題は、そのぐらいしか情報がない事。

 キマイラも曖昧な話しか本に載っていなかったが、ヴァンパイアは更に情報が少ない。具体的には、陽の光を浴びると灰になる等の生物としてどう考えてもおかしな話ばかりが堂々と本に載るぐらいには。なおこうして西日の中で平然と活動している事からも明らかなように、真っ赤な嘘である。

 これは極めて不味い。人間が自然と対峙するためには、何はともあれ知識が必要だ。自然に対し人間が明確に勝っている点など、それこそ日頃万物の霊長だのと自慢している頭脳しかない。その頭脳を活かすための知識が、ヴァンパイアに対してはないのだ。これでは勝負にもならない。

 しかし撤退も難しい。相手は飛行生物。鳥や虫が人間の全力疾走を軽々と超える速さで飛んでいくように、飛行する生物というのは動きが速いものだ。ヴァンパイアが例外的に遅いと考えるのは、死に直結する楽観だろう。

 どうすべきか。何をすべきか。何が出来るのか。全くの未知を前にして、なんの手立ても思い付かない。

 

「ウラヌス! 何か……!」

 

 困り果てたスピカは、ウラヌスに意見を求める。現状の打開なんて求めない。ただ何か一つ、案はないものかと縋っただけ。

 

「うむ! 分かっている!」

 

 ところがどうした事か。ウラヌスから返ってきたのは、勇ましく、そして自信に満ちた言葉だ。

 分かっている? 分かっているとはなんの事か? まさかヴァンパイアについて何か知っているのか――――

 ウラヌスの言葉の意味が分からず、故に楽観的な考えが次々と過る。こんなの合理的ではないと頭では思うが、それでも胸の奥底で期待が湧き出す。

 そんなスピカに対し、ウラヌスは堂々と話を続けた。

 

「コイツが、スピカの家族を殺したというワイバーンなのだろう!? 仇を討つのならば私も協力しよう!」

 

 まるで頓珍漢な言葉を以てして。

 

「……は? いやいやいや!? コイツはヴァンパイア! ワイバーンじゃないから!」

 

「む? そうなのか? でも村人が言ってた奴とそっくりだぞ?」

 

「全然違うでしょ! 良い!? 村人が言っていたのはね……………」

 

 勘違いしているウラヌスを正そうと、スピカは村人が言っていたワイバーンの特徴を思い出しつつ、ちらりとヴァンパイアを横目に見る。

 まず、腕が翼になっている。そしてその腕は鳥とは違い、皮膜に覆われたもの。

 長い尻尾が一本生えている。身体の長さと同じぐらいあるだろうか。

 頭に角は生えていない。しかし二つの大きな耳は先が尖っていて、見ようによっては角っぽい。そして耳の後ろには毛の束のようなものが見られ、それもまた後ろ向きに生えていた。耳と合わせると、四本の角のように見えてくる。

 それと瞳が黄色だ。夜には金色に光って見えそうである。

 身体の大きさは目撃情報の半分しかないが、しかし人間の目視なんて殆ど当てにならない。大きさを倍も見誤る事すら、そう珍しくもないだろう。

 ヴァンパイアの姿はワイバーンと瓜二つという訳ではない。されど村人が話していた情報とは一致する。考えてみれば、村人はワイバーンが来たなんて一言も言っていない。あくまでドラゴンが来たと言っただけ。勿論コウモリとドラゴンも全然違う生物だが、しかしヴァンパイアはこの辺りに生息していない種であり、おまけに目撃されたのが真夜中。勘違いしてもおかしくない。大体村人にとってワイバーンは見慣れた動物なのだから、本当にワイバーンなら「でかいワイバーンが来た」で話は終わりである。

 ならば客観的に、一切の偏見なく考えてみれば、答えは明白。

 コイツが村を襲った件の怪物であると。

 

「って、お前かぁーいっ!?」

 

 仇と思っていた存在が全くの別物と分かり、思わずスピカは叫んでいた。

 突然叫んだからか、ヴァンパイアが「え? いきなり何?」と言いたげにスピカの方を見る。その隙を突いて、起き上がったキマイラは頭突きをヴァンパイアにお見舞いした。空を飛べる程度に身体が軽いからか、ヴァンパイアの方が大柄なのに、キマイラの一撃でその身体は大仰に吹っ飛ぶ。

 むくりと身体を起こしたヴァンパイアは、攻撃してきたキマイラと、攻撃を受ける要因になったスピカ達を交互に睨んだ。

 ……わざとじゃないんです、と言ったところでヴァンパイアには通じない。しかしそれでも、自然界で油断したアンタが悪いだろとスピカは言いたかった。言ったところで意味がないので、呆れるように天を仰ぐだけにしておく。

 どうにか気持ちを落ち着かせた後、スピカは再び前を向く。

 キマイラとヴァンパイアは互いに牽制しているようで、身動きが取れていない。それはスピカ達も同じであり、誰かが動けば均衡が崩れ、再び争いが起きるだろう。逆に動かなければ、誰かが痺れを切らすまで状況に変化は起きない筈だ。

 今ならば、ウラヌスと話が出来る。

 

「……こんな時に話す事じゃないとは思うけど、一つ、聞いて良い?」

 

「うむ、なんだ?」

 

「アンタ、ヴァンパイアをワイバーンって勘違いしていた時……仇を討つなら協力しようって言ったわよね?」

 

「む? そうだったか? まぁ、言ったかも知れんな! もしもコイツがそうだったなら、そう答えただろう!」

 

 尋ねれば、ウラヌスは堂々と肯定した。その言いぶりから察するに、彼女にとっては自然に出た言葉らしい。そしてそれを撤回する気もないのだと。

 本能のまま出た言葉なら、分からなくもない。ちょっとばかり好戦的なものの、ウラヌスはお人好しの類に見える。咄嗟に人を助けてしまう性格ならば、反射的にそう答えるのは頷けるというものだ。

 しかし改めて、考えながら答えたという事は、この言葉はウラヌスの信念から出たもの。

 復讐を理解出来ないと言っていた彼女が、何故他者の復讐に手を貸すのか。スピカにはまるで分からない。

 

「お前は恩人だからな! お前が正々堂々戦いたいならば兎も角、倒すだけならば協力しなければ戦士の名折れというものだ!」

 

 ましてや当然だと言わんばかりに、()()()()()で答えてくる始末。

 もう、スピカにはさっぱり理解出来ない。

 

「ちょ、ちょっと待って。え、なんで? 復讐なんて理解出来ないのよね?」

 

「うむ。復讐なんて理解出来ん。我等が獣を殺すのは良くて、獣が我等を殺すのは忌むべきなど、公平でない。戦士は公平でなければな」

 

「なんでよ! 復讐の意味が分かんないんでしょ!? だったらどうして私の復讐を止めるどころか、手伝いが出来る訳!?」

 

「ん? んんー? 分からん、混乱してきたぞ?」

 

「なんでアンタが混乱してんのよ!?」

 

 スピカとしてはただ問い詰めているだけなのに、何故かウラヌスが首を傾げる。一体彼女の頭の中はどうなっているのか、スピカには本当に訳が分からない。

 されどスピカが思っていたのと同じように、ウラヌスもスピカの頭の中がどうなっているか訳が分からなかったに違いない。

 

「何故、さっきから私の考えを聞くんだ? お前の復讐なんだから、お前が決める事だろう?」

 

 でなければ、この至極尤もな疑問が飛んでくる筈がないのだから。

 何故、と問われてスピカは息を飲んだ。論理的な答えがあればすぐに答えられた。それが出来なかったという事は、つまり図星だったのである。

 そうだ。理屈の上で考えれば、()()()()()()()()()()()

 意見を聞くな、という意味ではない。ある目標を達成出来るかどうか判断する上で、誰かの率直な意見というのは重要な情報だ。しかし、反対されたから目的を諦めるかどうかは別の話である。

 出来るからやるのではなく、やりたいからやるのであれば、人の意見など関係ない。自分の信念に従えば良いだけ。

 復讐だなんだと言いながら、自分には信念がないのだとスピカは気付かされる。

 

「私は復讐なんてくだらないと思うが、お前がやりたいなら、私はそれを手伝う。約束したからな、護衛をすると」

 

 その点ウラヌスは自分の考えがしっかりしている。例え気に入らない事があっても、信念があるから答えに迷わない。

 阿呆だお馬鹿だと思っていたが、実際はこちらの方が余程間抜けではないか――――自覚したスピカは、その口が弛むのを止められない。

 

「……ふ、ふふ、ふふふふ」

 

「ん? どうした?」

 

「ふは、ふははははは! あーっははははははははは!」

 

 突然笑い出したスピカに、ウラヌスは目を丸くする。キマイラとヴァンパイアも、『虫けら』同然の相手が見せた奇行に困惑した様子を見せた。

 人間というのは、本当に不合理な生き物だ。

 他の人達が復讐を支持しない。当然だ。なんの合理性もない行動を、何故全面的に肯定するというのか。彼等は至極真っ当な回答をしただけに過ぎない。

 なのに拒絶されたら分かり合えないと達観し、されなかった途端相手を問い詰めて、理由に納得出来なければ見下す?

 支離滅裂にも程がある。合理的に振る舞おうとしている癖に、一番要の部分がぐらぐらしているなんて……これが笑わずにいられるものか。

 

「ははははっ……あー、笑った。こんなに笑ったの、何時ぶりかなぁ」

 

「笑うのは良いが、これからどうするんだ?」

 

 ウラヌスはそう言いながら、前を指差す。

 彼女の言いたい事は、指の示す方を見ずともスピカには分かる。キマイラとヴァンパイアについてだ。

 精神的な改善を果たしたスピカであるが、現状目の前には物理的な問題がそびえている。それも圧倒的な物理が。目の前で堂々と隙を晒していたスピカがキマイラ達に襲われなかったのは、キマイラとヴァンパイアが互いに牽制している結果。もしもどちらか一方しかいなかったなら、今頃スピカ達は食物連鎖という大自然の循環に加わっていただろう。

 言い換えれば、この二体の猛獣は相手を強敵と認め合っている。同等の力だと考えて良い。

 一撃喰らえばお終いという関係ではない。しかし『一手』遅れれば致命的。()()()がわーわー騒ぐ事よりも、同格相手の行動を警戒しなければならない。

 これは利用出来る。否、利用しなければならない。スピカが考える限り、他の手はないのだから。

 

「どうやっても逃げ切れる相手じゃない。だから理想を言えば両方に死んでもらう、次点で両方瀕死になってもらうしかないわね」

 

「うーむ。しかしひしひしと感じる気配からして、私の攻撃が通じるかも怪しいなー」

 

「そうね。だからコイツらを倒すのは私達じゃない」

 

「むむ? じゃあ誰がやるんだ?」

 

「そんなの決まってるでしょ」

 

 ウラヌスの問いに、スピカは笑って見せる。

 それはきっと、ウラヌスの前では初めて見せた形の笑顔だったに違いない。ウラヌスは呆けたように固まったのだから。

 

「大自然の偉大さを、コイツらに教えてやるのよ」

 

 ましてやこの発言の意図を理解したとは、スピカには到底思えない。

 しかしウラヌスは一瞬の間を置くと、にやりと不敵な笑みを浮かべた。ならば大丈夫だと信じているように。そして力強くキマイラ達と向き合い、構えを取る。

 奇怪な行動を取る人間達をキマイラ達はこれまで警戒して見ていたが、ウラヌスが臨戦態勢を取った事で闘争心を露わにした。今までは戦う意識を見せなかったから相手にされなかっただけで、逃げようとしたり挑もうとしたりすれば見逃さないのは当然だ。二体は身体がびりびりと痺れるような、恐ろしい唸りを上げている。

 それで問題ない。闘争心を露わにしている方が、色々やりやすいのだ。

 こちらの思うように動かすつもりならば、尚更に。

 

「誘導するよ! 一度奴等の気を引いて!」

 

「うむ! 分かった!」

 

 スピカの声に応え、ウラヌスが前へと走り出す。

 膠着していた戦況が動き出すきっかけは、これだけで十分だった。



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異郷の獣王達7

 駆け出したウラヌスに反応し、キマイラとヴァンパイアも動き出す。

 二体の猛獣は横目に互いを牽制。しかしその攻撃が自分に向かわないと分かると、同時にウラヌスに向けて攻撃を繰り出す。キマイラは前足を真っ直ぐ伸ばし、ヴァンパイアは噛み付こうとしてか大口を開けた。

 

「ほっ!」

 

 ウラヌス、この二体の攻撃を前にして即座に逃げる……上に向かって。

 跳躍したのだ。桁外れの身体能力を生み出す脚力で大地を蹴れば、その小さな身体は鳥のように高く跳ぶ。

 ウラヌスはその場から消えたが、勢いよく攻撃した二体の獣達は止まれない。ヴァンパイアの頭を、キマイラの前足が殴り付けた。

 二体は仲間という訳ではない。しかしここで攻撃する事が『不味い』というのは本能的に分かるようで、キマイラの顔が僅かに歪む。尤も、その顔一つで許してもらうなんて考えは、あまりにも楽観的だ。高度な知能と社会性を持つ人間でも、これをやれば喧嘩となりかねないのだから。

 

「キャアアッ!」

 

 怒り狂ったヴァンパイアはキマイラの顔面を、翼を振るって殴り飛ばす!

 巨体を浮かべるほどの風を生み出す翼だ。まともに喰らえば人間の上半身ぐらいは吹き飛ばし、一撃で肉塊に変えるだろう。

 キマイラの頑強な肉体はこれに耐えたが、受けた衝撃はかなり大きい。少なくともキマイラが怒りに震える程度には。ヴァンパイアが仲間であれば我慢したかも知れないが、そんな事もなく。

 

「グゴァアッ!」

 

「キャアアッ!?」

 

 キマイラはヴァンパイアにもう一度拳を叩き付け、今度はヴァンパイアがふっ飛ばされた! もうこうなるとヴァンパイアもやられっぱなしではいられず、キマイラに飛び掛かる。

 二体の取っ組み合いの戦いは、地響きを伴うほどの大きさだ。互いに相手の事しか見ておらず、人間の事などすっかり忘れているのではないかと思えてくる。

 今ならこっそり移動すれば逃げられる――――そんな考えがスピカの脳裏を過ぎった。

 しかし此処はだだっ広い大平原。遠くまで逃げたところで、隠れる場所がなければ簡単に見付かる。追い駆けてくるかは分からないが、ヴァンパイアに恨まれている事を思えば覚悟はすべきだ。無闇に走っても体力を使うだけ。時を見極めなければ危険だ。

 加えてこの近くには、手紙を届けた村がある。暴れ回るうちにキマイラ達が村の方に向かわないとも限らない。村が再び襲われても、スピカ達に『被害』はないが……そんなのを目にしたら目覚めが悪くなるというもの。

 兎にも角にも、村から引き離すのが先決だ。

 

「(気を引くなら、こいつで十分!)」

 

 二体が取っ組み合いをしている間に離れていたスピカは、一本の矢をキマイラ達目掛けて放つ!

 今回放った矢は、見た目は普通の金属製の鏃だ。生身の人間ぐらいなら、胸や頭に当たれば一撃で致命傷を与えられるだろう。

 しかし言い換えればその程度の威力だ。スピカのような女性冒険家が好む皮装備でも、ちょっと貫通するのが限度。軽量でも金属製鎧なら簡単に弾かれる。それら装備を叩き潰すほどに屈強なキマイラ達相手では、例え腹に当たろうとろくな傷を与えられない筈だ。流石に目に当たれば失明させられるだろうが……組み合って激しく暴れる二体に対し、狙いが付けられる訳もない。

 ならばこの矢は無意味な、ちょっかいを掛けるだけの代物か?

 いいや、そうではない。何故なら鏃には、スピカがとある植物から得た『粉』をまぶしてあるのだから。

 粉は単独では無害なもので、人間が指で触れてもこれといって被害は受けない。だが、汗などで湿っていると話は違う。水に溶けた粉は金属を溶かす性質、『酸』を生じさせるのだ。この酸は極めて強力なもので、一滴もあれば、人間の皮膚に穴を開けてボロボロになった骨が丸見えになる。

 そしてこの性質は血でも生じさせる事が可能だ。鏃に粉をまぶしておけば、鏃で付いたちっぽけなキズから染み出した血で、強力な酸が生まれる。

 

「――――キ? キ、キギィイヤアアッ!?」

 

 鏃が太腿に当たったヴァンパイアが、一瞬の間を置いた後、悲鳴染みた声を上げたのはそういう理屈だ。

 酸による攻撃で怯んだヴァンパイアは、飛んできた矢が原因だと分かったようですぐにスピカを睨む。が、ここで押されていたキマイラが反撃。ヴァンパイアが吹き飛ばされた。

 その隙を狙ってスピカはもう一本の矢をキマイラの腰に撃ち込む。無論、強酸を生み出す粉を振り掛けた上で。

 

「グ、グガ……グギィイイッ!?」

 

 腰の痛さに驚いたのか飛び跳ねたキマイラ。その顔面にヴァンパイアが翼を叩き込んでふっ飛ばす。

 ごろごろと地面を転がったキマイラは、しかし瞬時に四つ足で大地を踏み、即座に体勢を立て直す。

 二体の戦いは距離が開いた事で一時中断。互いに睨み合って足を止めた……のはほんの僅かな時間だけ。

 二体揃って、くるりとスピカの方に振り向いた。

 

「(良し、狙いがこっちを向いた!)」

 

 大型の獣は賢い傾向がある。あくまでも傾向であり、絶対ではないが、しかしキマイラとヴァンパイアは戦い方を見るにそれなりには賢そうだ。

 故に弓矢を撃ち込めば、その原因らしきものに当たりを付けられるとスピカは読んでいた。思惑は的中。自分達の身体に痛々しい傷を与えた存在として、スピカをしっかりと認識している。

 さて、ではここでスピカが脱兎の如く逃げ出せばどうなるか?

 

「ウラヌス! 私を運んで!」

 

「うむ! しかし何処に?」

 

 キマイラ達を激突させた後、草むらに隠れながらスピカの近くに戻っていたウラヌスが返事と共に跳び上がる。当然の疑問を言葉にしながら。

 スピカは即座に返答。ただ一言『場所』を伝えたたけだが、ウラヌスはそれで理解してくれた。こくりと頷くや、スピカの身体をひょいっと抱き上げる。

 ウラヌスの手が支えているのはスピカの背中と、折り曲げた膝の裏側部分。確か王国や帝国のうら若き女子達の間で、格好いい男の子にされたい行為の一つとして有名な『お姫様抱っこ』という抱かれ方だったか。生憎スピカはその手のものに興味がなく、ましてや抱き上げているのが年下の女子となるとトキメキもない。

 ただしこの体勢でキマイラ達から逃げるとなれば、中々に心臓の鼓動は高鳴りそうだとは思ったが。

 

「距離を稼ぐのを最優先で逃げて! それとこの縄も持って、私が引けって言ったら引いて!」

 

「うむ! 全部なんとかしてみせよう!」

 

 スピカが出した指示を受け、ウラヌスは颯爽と走り出す。

 合わせて背後から、二体の猛獣の雄叫びと、大地を蹴る音と羽ばたく音が聞こえてきた。

 ウラヌスは猛烈な速さで大地を駆けていく。片腕が脱臼した状態でスピカを抱きかかえているため相当走り辛い筈なのだが、明らかにスピカが一人で走るよりも速い。顔を打つ風が痛いぐらいで、景色も目まぐるしく変わっていく。仮にこの速さを出せてもスピカでは心身が持たなそうだが、ウラヌスは実に涼し気な顔でこれを成す。人間離れとは正に、ウラヌスのような人物にこそ相応しい言葉だ。

 しかしどれだけ人間から逸脱していようと、人間以上が溢れている自然界から見れば驚愕するようなものではないだろうが。

 

「キャァァァァアアアアアアアッ!」

 

 走るウラヌスに真っ先に追い付いたのはヴァンパイア。空飛ぶ巨獣の速さは、ウラヌスの非常識な走力を大きく上回っていた。

 ヴァンパイアは足先にある鋭い爪をウラヌスに差し向ける。このまま降下して、踏み潰すつもりか。単純であるが巨体を活かしたこの一撃は、小さな生き物には比喩でなく必殺の攻撃である。恐らくウラヌス一人だったなら、虫けらのように殺されていただろう。

 だが、此処にはスピカがいる。

 スピカは素早く弓を構えた。弓に当てた矢の先にあるのは鋭い鏃、ではなく皮で出来た小袋。矢の先に紐で結び付けただけの単純な作りをしており、何かの衝撃を受ければ紐は簡単に解れて中身をぶち撒けるに違いない。

 そして矢が狙うのはヴァンパイアの顔面だ。

 

「ふん、所詮獣ね。狙いを定めて真っ直ぐ来る奴が、一番矢を当てやすいのよ」

 

 嘲笑うような台詞に続けて、スピカは矢で放つ。

 全力で弓を引いた状態で放った矢は、鳥よりも遥かに速い。ヴァンパイア相手でもその速さは有効で、何か行動を起こされる前に矢とその先に付いている袋はヴァンパイアの顔面に命中した。

 とはいえ所詮皮の袋。目に当たったなら兎も角、額に当たったところで傷一つ与えられやしない。ではその中身ならどうかと言えば……今回袋の中に詰まっているものは、例えば爆発物だとか、強酸をばら撒くような代物ではない。そんな危険物を相手が真上にいる時に使ったら、自分達にも降り掛かってくるのだから使える訳がない。

 代わりに、細かな粉が入っている。

 それも毒性なんてない、穀物を磨り潰して作ったただの粉だ。ただしとびきり乾燥させて、風が吹けば何処までも()()()()()ような代物。真っ白な色合いをしたそれは、少なくとも人間の視界を完全に塞ぐ程度には濃密である。

 つまり、粉で作った煙幕だ。

 

「キャアッ!?」

 

 紐が解れた袋から、大量の粉が撒き散らされた! ヴァンパイアの視界は完全に塞がれ、驚きの声だけが響く。粉煙幕はスピカ達にも降り掛かってくるが、ものが無害だと分かっていれば怖くもなんともない。

 

「右に直角で曲がって! 今なら視界の外に出られる!」

 

「分かった!」

 

 煙幕が残っているうちに、スピカとウラヌスは方向転換する。

 ヴァンパイアは煙幕を翼で振り払ったが、その時にはもうスピカ達は視界内にいない。困惑し、辺りをぐるりと見回して、ようやく東へと走るスピカ達を再発見。

 

「キ、キ、キィィイイヤアアアアアッ!」

 

 叫びと共に、ヴァンパイアは再びスピカ達を追い始めた。

 煙幕で翻弄されて怒り狂っている様子。先程の粉煙幕も見破っており、恐らく二度目は通じないだろう。しかし距離は取れたので、しばらくは安全な筈だ。

 それよりも問題は、次に迫ってきた猛獣キマイラの方だ。

 

「グルルゥウウウウッ!」

 

 唸りながら駆けてくるキマイラも、走る速さはウラヌスよりも上だ。ヴァンパイアほど圧倒的な速さではないが、着実にスピカ達との距離を詰めている。

 キマイラの方は頭上ではなく、後ろから追う形で迫っている。これでは粉煙幕を使っても、展開した次の瞬間には抜けているだろう。目隠し効果は瞬き一回分あるかどうか。いくら素早いウラヌスでも、この時間でどうこうするのは無理だ。

 別の作戦が必要である。そこでスピカは腰の袋から、小さな『袋』を取り出した。パンパンに張った袋であり、入口部分を硬く紐で結んでいる。

 

「ウラヌス、とりあえず鼻栓しといて。要らなくなったらその辺に鼻息で捨てて良いから」

 

「む? 鼻栓?」

 

 首を傾げるウラヌスの鼻に、スピカは勝手に鼻栓を嵌めた。自分の鼻にもしておく。

 そして手にした袋を構え、スピカは背後に迫るキマイラを睨む。しかしこの程度でキマイラは怯まない。大きな口を開け、今までその巨体を動かしていた前足でスピカに殴り掛かろうとした

 瞬間、スピカは袋を素手で叩き潰す。

 袋の中身は動物の死骸や糞、吐瀉物などを煮込んだ後に乾燥させて作り出した粉。

 不衛生の極み……と言いたいところだが、毒性は左程高くない。精々食べたら何時間か経った後に腹を激しく壊す程度だ。

 では何が優れているかといえば、臭いである。

 兎に角臭い。動物に比べて劣る事が多い人間の鼻でも、鼻栓なしには扱えないほど強烈な悪臭だ。まともに吸えば、数時間は臭いが鼻にこびり付いて取れない。

 ではこれを真正面から、鼻栓なしで嗅いだキマイラ(動物)はどう感じるか?

 

「グギアッ!? グゴォォオオッ!?」

 

 大悪臭に怯み、キマイラはその場にひっくり返った。悶え苦しんでいるようで、転がりながら四肢をバタつかせている。

 作戦大成功といったところだ。

 

「ふぅー! やったね! もう鼻栓捨てていいよ!」

 

「ふんっ! ふがっ!? くしゃい!?」

 

 ウラヌスは鼻栓を外すと、彼女の口からは困惑した声が発せられた。

 こちらにも効果抜群だったらしい。身体能力に優れているというのも、手放しに喜べる事ではないようだ。

 とはいえ撒き散らしたものは所詮ただの臭い。身体に害悪はない、筈である。時間が経てば慣れて、苦痛は薄れていくだろう。

 勿論ウラヌスだけでなく、キマイラにも同じ事が言える。

 

「グ、グゥ、グルガアアアッ!」

 

 自力で起き上がったキマイラは、雄叫びと共に再びスピカ達を追い始める。足取りは最初こそ鈍かったが、数秒もすれば今までと変わらない速さに戻った。

 キマイラの横を飛ぶように、ヴァンパイアもスピカ達を追う。既に二体は体勢を立て直し、スピカ達との距離を着実に詰めてきている。

 

「(時間は稼いだ。だけど、まだ足りない……!)」

 

 スピカはある場所を目指している。

 辿り着けば、キマイラ達を倒せる筈だ。絶対ではないが、ほぼ確実だとスピカは信じている。しかしそこまでの距離は遠く、このままでは二体に追い付かれる方が早い。

 せめてあと一回、どうにか時間を稼がねばならないが……もう手がない。ヴァンパイアにもう一度煙幕を使っても恐らくそのまま突っ込んでくるし、キマイラに悪臭粉を使っても気合いで突破してくる筈だ。ヴァンパイアなら悪臭粉は通じるだろうが、キマイラに煙幕は通用しないと思われる。

 せめて爆発矢が使えればキマイラを怯ませられたかも知れないが、森でスライム相手に使い尽くしてしまった。未だ補充も出来ていないため、今は使えない。

 スピカ最大の弱点がこれだ。物資が戦闘能力に直結しているため、『連戦』に凄まじく弱い。戦いが長引くほど使える手立てがどんどん減っていき、最後に残るのはちょっとばかり平均よりも逞しい女が一人だけになってしまう。

 

「(考えろ……考えろ……! 何か手立ては……!)」

 

 策を練ろうとするが、しかし案は浮かばない。

 そうこうしている間にも、キマイラ達との距離は縮む。

 悩んでいても打開策はなさそうだ。ならば出来る事をするしかない。残り少ない煙幕と悪臭粉を握り締め、せめて不意打ちになるようギリギリまで引き付けようとスピカは構えた

 

()()()()! 口をしっかり閉じておけっ!」

 

 刹那、ウラヌスが叫んだ。

 投げる? 一体何を投げるつもりなのか。困惑するスピカだったが、ウラヌスはスピカの返事を待たない。

 大きく腕を振りかぶり、ウラヌスはスピカを投げ飛ばした!

 

「……!?」

 

 口をしっかり閉じろ。その言葉の通りにしていなければ、スピカは舌を噛んでいただろう。投げられたと理解した後は叫びたかったが、それを堪えて口をぐっと閉じる。

 そして思考を巡らせた。

 ウラヌスは何故自分を投げ飛ばしたのか。働かせた頭が下した判断は、それを知るべくまずは自分が置かれている状況の確認する事。素早く目を動かし、周りの様子を観察していく。

 それだけで、ウラヌスの『考え』は理解出来た。

 視界内に『目的地』が見えたのだ。ウラヌスは最後まで運べない事を予期し、スピカを目的地の方へと投げたのである。後はこちらの足で目的地に迎え、と。

 

「ぐがッ!?」

 

 スピカが全てを察した頃、地上からウラヌスの呻きが響く。

 目を向ければ、ウラヌスの身体が空に浮かんでいた。まるで蹴られた石のように飛んでいる。どうやらスピカを投げた直後、キマイラの鉄拳を受けたらしい。

 呻いたからには相当手痛い一撃を受けたのだろう。空中でくるりと身体を回転させたので未だ死んではいないが……着地に失敗して彼女は地面を転がった。やはり無傷ではないらしい。

 ウラヌスは立ち上がったものの、今やキマイラとヴァンパイアの目線はウラヌスに釘付けだ。弱った獲物から確実に仕留めていく。熾烈な生存競争が繰り広げられる自然を生き抜くための、鉄則である。

 今のウラヌスがどの程度動けるかは分からない。しかし仮に走ったり跳べたりしても、今までほど力強くはない筈だ。キマイラやヴァンパイアの攻撃を躱せるものではない。

 渡された猶予は僅か。

 

「っ……!」

 

 だからスピカは地面に落ちた後、すぐに立ち上がって走り出した。

 背中から地面に落ちたため、身体中が痛い。それに猛獣との追い駆けっこ中とはいえ、草むらの毒蛇や毒草がいなくなる訳ではないのだ。がむしゃらに走ればそれらに襲われ、命を落とす可能性が高くなる。

 だが、それがどうした。

 ウラヌスは命懸けでスピカの作戦に協力したのだ。こちらもちょっとぐらい命を懸けなければ、釣り合いが取れないではないか。

 無論こんな考えは合理的ではないだろう。野生動物なら間違いなくウラヌスを囮にして逃げている。しかしこの考えを改めるつもりは、今のスピカには毛頭ない。それが今の自分の胸を占めている衝動なのだから。

 ウラヌスのお陰で、スピカは目的地の手前まで辿り着く。だがまだ足は踏み入れない。ここから先にはどうしても、もう一度ウラヌスの助けが必要だ。

 

「ウラヌス! 鼻を摘みながらこっちに来て!」

 

 スピカは大声でウラヌスに呼び掛け、そして弓を構える。

 矢の先にあるのは、残り一つの悪臭袋。

 スピカの掛け声を聞いたウラヌスは、顔を上げるやすぐさまスピカの方に走り出す。相変わらずの人間離れした走力だが、スピカを抱えていた時よりも少し遅い。身体に蓄積した傷が彼女の力を妨げている。

 無傷のウラヌスにも追い付いたキマイラ達の方が、今のウラヌスよりも圧倒的に速い。ウラヌスとの距離を二体の獣は瞬く間に詰めていく。

 ただし二体は鼻を摘んでいない――――ウラヌスと違って。

 

「正面からなら、狙いやすいわ!」

 

 スピカは矢をヴァンパイアの顔面目掛けて放った!

 真っ直ぐに飛んでいった矢は、狙い通りヴァンパイアの顔面に命中。悪臭をばら撒く!

 

「キ、ブギャアァッ!?」

 

 臭いに慣れていないヴァンパイアは悲鳴を上げた。更に体勢を崩して墜落。

 ついでとばかりに、走るキマイラも巻き込む。

 

「グゴェッ!?」

 

 自身に匹敵する体重が突然ぶつかってきて、これにはキマイラも呻きを漏らす。二体は仲良く地面を転がる。

 その隙にウラヌスはスピカの傍までやってくる。スピカはウラヌスに()を渡し、ウラヌスがそれを持って走り出したのを確認してから、大きく深呼吸してから背後にある目的地に足を踏み入れた。

 しばらく進んだ後、スピカはくるりと振り返り、キマイラ達を見遣る。

 キマイラはヴァンパイアを蹴り飛ばし、体勢を立て直す。ヴァンパイアも蹴られた反動で空に飛び上がる。二体はすぐに互いに睨み合ったが、賢い彼等は何に怒りをぶつけるべきかを即座に理解した。

 棒立ちするスピカだ。

 

「キャアアアアアアアアアッ!」

 

「グゴアアアアアアアアアッ!」

 

 ヴァンパイアが叫び、キマイラが吼える。一人のちっぽけな人間を殺すために。

 スピカは迫る二体を前にして、逃げもせずその場に立つ。彼女は待っていた。連中が此処に足を踏み入れる事を。或いは、期待していると言うのが正しいかも知れない。

 その期待を彼等は裏切らなかった。キマイラ達はスピカの思惑通り、『目的地』に足を踏み入れてくれた。

 この時点でスピカは自分の勝利を確信する。否、確定した、という方が正しい。

 

「アンタ達は知らないでしょうけど――――この世にはね、立入禁止の領域があんのよ」

 

 スピカは勝ち誇った台詞を二体の獣に向けて吐く。

 

「引けっ!」

 

 次の瞬間スピカがその言葉を告げると、彼女の身体が力強く後方に向かって引っ張られた!

 原因はウラヌス。実はスピカの身体には縄が巻かれており、ウラヌスはその縄を力強く引っ張ったのだ。猛獣とも殴り合えるウラヌスの身体能力により、スピカの身体はちょっとした吐き気を催すほどの強さで引かれる。

 スピカとしても苦しいところだが――――これで猛獣二体を翻弄出来るなら、安いものだろう。

 

「グ、グガアァアアッ!?」

 

「キィャアアアアアッ!?」

 

 キマイラとヴァンパイアはスピカを追おうとして、しかし双方同時に方向転換したものだから相手を躱しきれず。互いに激突して絡まってしまう。困惑しながら大地を転がり、余波でそこに咲き誇る白い花がバラバラになりながら舞い上がった。

 二体の身体には大きな衝撃が走っただろう。だがこれで死んだり気絶したりするなら、スピカ達の苦労はない。

 

「グゴァッ! グゥルルッ!」

 

「キャァアアアアアッ!」

 

 二体は威嚇しつつも、くるりとスピカ達の方を見遣る。

 激しい怒りの感情。今までなら、スピカは冷や汗の一つでも流していただろう。

 だが、もうその威嚇をスピカは脅威だと思わない。

 強いて言うなら、()()()()()()()のに気付いていない事に憐れみを覚える程度だ。

 

「あーあ、息しちゃったねぇ……私も、そこじゃずっと息を止めていたのに」

 

 スピカの嘲笑う言葉は、決してキマイラ達には届かない。

 されどまるでこの言葉を切っ掛けとするかのように、キマイラとヴァンパイアに変化が起きた。最初は身体をぴくりと強張らせた程度。しかしその強張りはやがて痙攣に変わる。

 震える足では体重を支えられず、キマイラは崩れ落ちるように膝を付く。ヴァンパイアも翼を地面に付け、倒れそうになる体重を支えた。だが身体の震えは収まるどころか強くなる一方。更に白目を向き、キマイラの口からは白い泡が、ヴァンパイアは強く食い縛っているのか血が流れ出す。

 劇的な異常が二体の獣を襲う。二体は自分の身に何が起きているのか、どうすれば良いのかも分からないだろう。

 そして獣である以上、スピカが『種明かし』をしても理解出来ない。

 

「アンタ達は知らないだろうね。その植物の存在なんてさ」

 

 もしもキマイラ達が草原に暮らしていたら、きっとこの場所には立ち入らなかっただろう。

 香りを吸い込むだけで死に至る、()()()()()()()()()に足を踏み入れるような間抜けは、この草原では生きていけないのだから。

 だが、キマイラ達の住処は此処ではない。彼等の生息地にどのような生物がいるのか、それはスピカにも分からないが……帝国内のこの草原でしか見られないマンドラゴラは生えていない可能性が高い。つまり彼等はマンドラゴラを知らない。

 人間は数多の屍を築き上げて、どの生物が安全か、どの生物が危険かを学んだ。生き物達もきっと、たくさんの祖先が死んでいって、人間とは違う方法で本能的に学んでいったのだろう。そうしなければ生き残れないのだから当然だ。

 何も知らないコイツらに、この地で生きる資格はない。

 

「グ……ギ……ギ……………!」

 

「キャ……ギャボッ」

 

 キマイラは泡を吹いて倒れ、ヴァンパイアは血反吐を吐きながら突っ伏す。

 傍若無人な来訪者の末路は、その土地の危険種による裁きであった。



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異郷の獣王達8

「ふぅー……なんとかなったな!」

 

「ええ、なんとかなったわね」

 

 倒れて動かなくなった二体の獣を前にして、スピカとウラヌスは同じ気持ちを言葉にし合った。

 正直、かなり危険な賭けではあった。

 論理的に考えて、キマイラ達がマンドラゴラを知らない可能性は極めて高い。とはいえ所詮は可能性の話。実は彼等の生息地にもマンドラゴラとよく似た植物が生えていて、本能的に嫌っているという可能性もゼロではなかった。もしそうだったら作戦はおじゃん。いよいよ打つ手がなかっただろう。

 それにうっかり息を吸い込めば、マンドラゴラの毒はスピカ達の身体も蝕んだ。スピカが煽る言葉を発したのも(内容は個人的なものだが)、息を吐いて少しでも吸い込まないようにするため。しかしそれでも危険な事に変わりはない。

 幸運に助けられた側面があるのは否めない。とはいえ自然界の勝者とは生き延びたモノであり、運を味方に付けるのも実力のうちだ。スピカ達はキマイラ達に勝ったのである。

 ……さて。勝利して終わり、となるのは野生の話。人間はその『先』を学ぶ事が出来る生き物だ。

 

「ねぇ、ウラヌス。あの死骸二つを、こっちに持ってこれる? 息を止めて花畑に行って、連中をずるずるーっと引っ張ってくるような感じで」

 

「うむ? それぐらいならお安い御用だぞ! さっき殴られた時に脱臼も治ったしな!」

 

「あ、治ったんだあれ……」

 

 雑な治し方に呆れるスピカを余所に、ウラヌスは快諾すると駆け足で花畑に踏み入りキマイラとヴァンパイアの亡骸の下に向かう。流石に二体同時に運ぶのは無理なようだが、一体ずつなら引きずるようにして運ぶ事が出来た。

 それでも一回で花畑の外まで運ぶ事は出来ず、息が苦しくなったら一旦亡骸を置いて駆け足でスピカのところに戻って深呼吸。再び亡骸の下に向かって引きずって、苦しくなったら息継ぎというのを繰り返す。ヴァンパイアは空を飛べるだけあって軽いようだが、キマイラは重たいようでかなり苦戦していた。

 しかし時間は掛かっても、ウラヌスは宣言通り二体の死骸を運んできてくれた。

 

「ふぃー。ようやく持ってこれたぞー」

 

「うん、ありがと。さてと……」

 

 仕事を終えたウラヌスに感謝の言葉を伝えた後、スピカは二体の亡骸に歩み寄った。

 キマイラとヴァンパイア。

 どちらもこの帝国では見られない生物だ。存在こそ知られているが、生息はしていない。

 そんな生物が、何故帝国中心の近くにいるのか?

 生物が生息圏から離れて行動する――――決してないとは言わないが、かなり珍しい事だ。どんな生物でも生まれ育った環境に一番適応しており、それ以外の環境では自身の力を十全に活かせない。食べ物が足りなかったり、毒への耐性がなくて食べられなかったりもする。身体能力の強さというのは実のところ重要ではなく、適応力がなければ他所の土地では生き残れない。繁殖力旺盛な一部の虫などを除き、生息地から離れた生物の大半は死ぬのが定めだ。それを本能的に知っているのか、住み慣れた土地から好んで離れる生物はいない。

 離れる事があるとすれば、餌不足に直面したか、危険に追われたか……いずれにせよ緊急時だけだろう。キマイラとヴァンパイアはその大きさから考えるに恐らく頂点捕食者。彼等を追い出すような生物がいるとは考え難いし、もし喰われる側なら個体数も多い筈なので、もっと頻繁に帝国へと流れ着いている筈だ。

 だとすると餌不足だろうか。その推測を確かめるため、スピカはキマイラの身体を調べる事にしたのだが……しかし一目見た瞬間に自分の考えを否定せざるを得なくなる。

 どう見てもキマイラの身体は、肉と脂肪がたっぷりと付いていたからだ。

 

「(直前に良い肉を食べた……ぐらいじゃここまで太らないか)」

 

 住処を離れるほどの飢餓となれば、それこそ命に関わる水準の筈だ。餓死寸前の身体ならば肋骨が浮かび、肌はカサカサで、毛に艶がなくなっているもの。

 ところがキマイラの身体に浮かび上がった骨は見られない。腹の皮膚はしっとりもしたもので、体毛は綺羅びやかな見た目通りすべすべの手触りだ。健康的なキマイラの姿を知らないので、他の生物の知識からの想像になるが、栄養状態は良好なように思える。

 直近に、大きな獲物を満腹になるまで食べたのだろうか? 確かにワイバーンや怪鳥ロックを仕留めれば、腹を満たせそうである。しかしそれなら小さな生き物であるスピカ達に襲い掛かるとは思えない。腹は空かせていた筈なのだ。

 他に何か情報はないだろうか? そう思いながら、スピカは次にキマイラの背中側を見る。

 

「……ん?」

 

 するとそこには、またしても奇妙な痕跡が残っていた。

 『火傷』の跡だ。

 毛の奥に隠れていたため今まで気付かなかったが、どうやらかなり大きな、部分的には腹まで達するような火傷を負っていたらしい。火事か何かから逃げてきたのだろうか? そう思って観察したが、しかし調べてみると違和感を覚える。何故なら火傷の跡が、まるで植物の枝葉のように枝分かれしながら広範囲に広がっていたからだ。

 火に炙られたとして、こんな複雑な紋様を描くものだろうか? いや、そもそも火傷というのは背中から負うものか? 火というのは普通下から上に昇っていくもの。だというのにこの火傷は、背中側が太く、腹側が細い。まるで炎が下に向かって走っていったかのような……

 一体これはなんの跡なのか。ヴァンパイアの方にも同じ傷跡があるのだろうか。それを確かめようとスピカはヴァンパイアの方を見て、

 

「ふんふんふふふーん♪ ふふふふーん♪」

 

 ぐっちゃぐっちゃと素手でヴァンパイアの解体をしている、小鬼の姿を目の当たりにした。

 ……目を擦ってみたが、何度見てもウラヌスの所業は変わらない。

 未だ未調査のヴァンパイアは、ウラヌスの手早い技によって美味しそうなお肉に変化しようとしていた。というよりほぼお肉になっていた。スピカがキマイラを調べていた時間が長かったのもあるだろうが、超人的な力を加工に用いればどんな巨獣もあっという間に食肉となるという事なのだろう。

 無論、貴重な情報は失われるが。

 

「ちょ、ちょおぉっ!? な、何解体してんのよアンタ!?」

 

「む? だってそのままでは食べられないだろう? 齧り付けば良いかも知れないが……それは少し、野蛮じゃないか?」

 

「アンタに野蛮云々は言われたくないわ! まだそいつを調べてないって言いたいの!」

 

 割合本気で怒ってみたが、ウラヌスはこてんと首を傾げるだけ。調査の重要性がよく分かっていないらしい。

 やっぱりアンタの方が野蛮人じゃない、と心の中で思えども、それが罵声として伝わらなければ言う意味がない。ガシガシと頭を掻き毟って苛立ちを抑え、それからスピカはため息を吐く。

 ウラヌスの所為で、ヴァンパイアは今や美味しそうな肉塊だ。

 正確には流石にそこまで原型は失っていないが、身体の皮は剥がされていて、胴体の筋肉が露わとなっている。食べられない皮は無造作に捨てられていて、おまけにボロボロの状態。これでは火傷の跡は見付けられまい。

 貴重な情報源の一つを失った形だ。惜しいという気持ちはどうしてもあるが、しかしそれに固執するのも良くない。一度気持ちと頭を切り替える。そしてキマイラについてだけ考えてみる事にした。

 まず、キマイラの背中にあった奇妙な火傷の跡。普通の火災で付いたものとは思えない。なんらかの異常な出来事があったと考えられる。恐らくその出来事が、キマイラが生息地から逃げ出した要因なのだ。

 しかし驚異的な肉体を持つキマイラが、それも遠く離れた帝国中心近くまで逃げてくるとは。それこそ大災害染みた出来事でなければ、あり得ないように思える。そのような災厄となれば、人間には無害だと考えるのは楽観が過ぎるというもの。

 

「(……少し、調べた方が良いか?)」

 

 別段、異常を突き止めて人々に警鐘を鳴らしたい、人助けをしたい等と考えている訳ではない。

 だが何も知らないままでいる事が好ましいとは全く思えない。人間は知能と技術で自然と戦っているが、知能を活かすには相手の事を知っているのが大前提だ。嵐から逃げるためには、嵐に直面する前に、嵐の存在を知らねばならないように。

 そのために危険な地に出向くというのは本末転倒にも思えるが、しかしこちらから出向くのならば引き際も分かりやすい。それに早めに出向けば『手遅れ』になる前に行動を起こせる可能性がある。

 勿論、例えば火山噴火や大地震のような近付く事そのものが『失敗』である場合もあるが……キマイラが逃げ出したという事は、既にその災厄は起きた後の筈。終わった出来事を今更心配する必要はない。

 総合的に考えて、調べておいた方が何かと得なように思える。元よりスピカには『仇討ち』以外の目的はなく、その仇も何処にいるのか分かっていない。唐突に新たな『目的地』を決めても、特段問題はなかった。

 

「……良し、次の目的地を決めた」

 

「お? そうか。ならまずは腹ごしらえをしないとな!」

 

 スピカが呟いた言葉に、ウラヌスは満面の笑みを浮かべた。同時にヴァンパイアの肉をずずいとスピカの眼前に出してくる。反省しているのか、していないのか。この言動一つで大体察しが付く。

 とはいえ彼女が一緒にいたから助かった、というのも事実だ。

 もしもウラヌスがいなければ、果たしてキマイラをどうやり過ごしただろうか? ヴァンパイアからどうやって逃げただろうか――――スピカは自分の脳裏を過った二つの疑問に、小さな笑みを返す。答えは考えるまでもない。何をしたところで喰い殺されて、冒険は此処で終わっていただろう。

 或いはウラヌスがスピカの事を見捨てたり、命じた指示が信じられなかったりしても、やはりスピカは喰い殺されていた筈だ。今自分が此処にいるのはウラヌスが、例え揉めた後でも迷わず一緒にいてくれたからと言っても過言ではない。

 出会いの印象は良くなかったが、今ではそれもすっかり薄れている。確かに阿呆ではあるのだが、それは人間的な常識のなさや価値観の違いから生じる『ズレ』だ。むしろその容赦ない合理性と、それでも揺るがない信念は……認めるのは癪だが(そう感じてしまう事自体が合理性からかけ離れているという自覚もあって)、スピカとしては尊敬しなくもない。

 期間限定ではあるが……その間ぐらいは頼れる『仲間』だと認めるとしよう。

 

「そうだね……これからしばらくよろしくね、相棒」

 

 スピカはぽつりとそう呟く。

 

「んぁ? 今なんかもぐもぐもぐ言ったかもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」

 

 なお、ウラヌスはその言葉を全く聞いていなかったが。それどころかヴァンパイアの肉を一人勝手に食べ始めている始末。

 ぴきりと、額に血管が浮き上がるのをスピカは自覚した。

 

「……こ、の……阿呆がぁ! アンタ鼻が良いなら耳も良いでしょうに! 都合良く聞き逃してんじゃないわよ!」

 

「もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」

 

「誤魔化すように肉を食うな! というか生の肉を食うな! せめて焼け! あとまた一番美味しそうなところ勝手に食べ、あーっ!? なんで食べる速さ上げんの!? 馬鹿なの!? この、野蛮人!」

 

 ギャーギャーワーワー叫ぶスピカに対し、ウラヌスは知らんぷり。

 認めたのに、やり取りは以前と全く変わらない。

 つまるところそれが二人にとって安定した関係なのだが、それを認めてしまうのもまた癪だと思ってしまう、感情的なスピカなのであった。



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白い軍勢
白い軍勢1


「さて、ここで一つ問題があります」

 

 神妙な顔をしたスピカは、重々しい口を開いてそう告げた。

 スピカが今いるのは、交易都市セレンと呼ばれる町にある冒険家ギルド。セレンは帝都から南に歩きで進む事二十日ほどの位置にある。

 この町は帝都ほどではないがそこそこ大きく、治安の維持も行き届いている発展した都市だ。しかし辺りに広がるのは、豊かさとは真逆の荒野。身を隠す場所のないこの大地に生息する獣は、いずれも獰猛かつ強靭だ。ドラゴン種も多いと聞く。

 この町を拠点にして活動すれば、それら猛獣とは頻繁に出会う。身を隠せない以上、それらの猛獣から逃げるには、一瞬でも怯ませるか、或いは強靭な逃げ足が必要だ。つまり優れた身体能力の持ち主こそが、この地域では生き残りやすい。

 だからなのだろう。町の外に出るのが仕事の冒険家は、男女共に屈強な、単刀直入に言うなら荒くれ者のような様相の者達が多い。スピカがいる冒険家ギルドも、筋肉をその身に纏う者ばかりだった。

 粗忽なのは見た目だけで中身は割と仲間意識の強い(過酷だからこそ人間の強みは活かさねばならない)ので、敬意を持って接すればむしろ頼れる人々ではある。とはいえ筋肉が増えれば力加減も難しくなるというもの。その所為か、はたまた単純に予算の問題か。ギルド内に置かれている椅子や机はやや老朽化した、傷があるものばかりだ。尤もその傷が、良い『味』を出しているとスピカは思う。

 さて。そんなギルド内にて始まったスピカの話を聞いた者――――ウラヌスは、こてんと首を傾げた。

 

「んー? 問題かー? もぐもぐ、一体何が、もぐもぐもぐもぐ。問題なんだ?」

 

「……まぁ、うん。現在進行系で問題は深刻化しているんだけどね」

 

「なんだともぐもぐそれはもぐもぐ、大変じゃないか。私に、もぐもぐ、出来る事ならなんでも言ってくれ。もぐもぐ、護衛として存分に力を発揮しようもぐもぐ」

 

 悩むスピカに対し、ウラヌスは胸を張りながら力強く答える。

 ……帝都から二十日の道のりを進んできた。帝都近くにある森で出会ったウラヌスと過ごした日々も、同じぐらい経っている。

 苦楽を共にした、というには少しばかり短い期間かも知れない。だがこれだけの間寝食を共にすれば、相手の性格というのはよく分かるものだ。ウラヌスが発した今し方の言葉に嘘偽りはなく、彼女は心から問題解決のために努力しようと決意している。

 実に頼もしい相棒だ。

 ならばこちらもハッキリと、正直と告げねばなるまい。そう思いスピカは口を開け、こう答える。

 

「……お金が、ありません」

 

 あまりにも単純かつ絶望的な言葉を以てして。

 その言葉を聞いたウラヌスは、目を大きく見開き、顎が外れそうなぐらい口を大きく開けた。

 

「なん、だと……!? ま、前の町で私達が倒した、畑を荒らしていたスレイプニルの金は!? それにこの町に来てから毎日仕事をしているじゃないか!」

 

「スレイプニル退治の報奨金はもう殆ど残っていないわ。仕事で稼いだ金より支出が多いから、残金切り崩している状況。お陰で旅支度は進むどころか、どんどん難しくなっているのよ」

 

「な、なんという事だ……」

 

 恐るべき事実を突き付けられ、ウラヌスは愕然とした表情を浮かべる。スライムにもキマイラにもヴァンパイアにも、一切恐れる事なく立ち向かったウラヌス。そんな彼女でも、お金がない事には絶望の感情を抱くらしい。

 いや、合理的だからこそ絶望するのだ。人間の社会で生きていくには金が必要なのだから。お金がなくとも生きていけると語る人はいるが、それは幸運にもなんとかなった人間、或いは本当に追い詰められた経験のない人間が語る内容である。()()()()()()()()()()人間は、その口を開く事は出来ない。

 

「い、一体、どうしてこんな事に……!」

 

 そしてウラヌスのこの言葉は至極正しい。現状を認識したなら、次は対処法を考えるべきだ。

 スピカとしてもそう思う。加えてスピカはその原因に既に気付いていた。故にゆっくりと片手を上げ……ウラヌスの顔を指差す。

 

「どうしても何も、アンタが毎日毎日馬鹿食いしているから食費がとんでもない事になってんのよ! アンタが原因だっつーの!」

 

 次いで臆面もなく、その事実を告げた。

 瞬間、ウラヌスの顔に衝撃が走る――――貪り食べている格安肉(正体不明)を口に含みながら。

 

「な、何ィ!? 私が何時食べ過ぎたと言うんだもぐもぐもぐもぐもぐもぐ!」

 

「今! この瞬間! 私の目の前で食べ過ぎてるのよ! その肉今の時点で何人前食ってるか分かってる!?」

 

「……三人前ぐらい?」

 

「十人前よ馬鹿たれ!」

 

 誤魔化した訳ではなく、ほぼ確実に本心から言っているであろうウラヌスの答えに、スピカは一瞬の躊躇いもなく事実を突き付けた。

 そう、スピカ達が金欠に陥っている原因はウラヌスの食欲だ。

 一緒に旅をするようになった時から分かっていたが、ウラヌスの食欲は凄まじい。恐らくは強力な身体能力を維持するためなのだろう。

 だが、それを考慮しても驚くべき食事量である。十人前の肉を平気で平らげ、それでも足りないと言わんばかりにパンも食べてしまう。これが『一食分』だ。比喩でなく、本当に一日に人の十倍は食べている。あの小さな身体の何処にそれだけの食べ物が収まるのか、全く分からない。

 ……とはいえその食欲そのものは、対価としては格安だとスピカは考えている。スライムやキマイラと多少なりと殴り合えるウラヌスの力は間違いなく十人力以上。十人以上の屈強な兵士を養うための食費だと思えば、これに文句を言うのは贅沢というものだ。

 ただ、それでもスピカには荷が重過ぎる。

 

「(普通の人間が生きていく分には、週に二回三級の仕事があれば十分なんだけど……流石に十人分の食費は普通に無理だし)」

 

 共に旅をしている間、食費は常にスピカの頭を悩ませた。ウラヌスの逞しさのお陰で受けられる仕事の幅は増えたが、仕事で得られた報酬は食費に消えていくのだから。

 それでも今日まで食べてこられたのは、ウラヌスが都市の外で野生の獣をどんどん仕留め、もりもり食べていたからに他ならない。これはスピカの旅のやり方……町にいるよりも野外にいる方が多いという方針によく合っていた。最初こそそれを知らず、持ってきた食糧を食い尽くされたが、今はもうその心配もない。一緒に旅をしていれば、どうすれば効率的に出来るかは分かるというものだ。

 だがこの町では、そしてこの先の旅ではそれも通じない。

 

「(乾燥した大地……生き物の数はお世辞にも多くない)」

 

 生物の数というのは、環境により大きく左右される。具体的には水と温度が重要だ。多ければ多いほど良い、という訳ではないが……なければどうにもならない。

 帝都周辺の森や草原は温度も水も十分にあり、数多くの生命が暮らしていた。それこそウラヌスという『大食漢』を養える程度には。

 しかしこの町の周囲は荒野。温度は高いものの、水が少ないため大きな樹木や瑞々しい草花は生えていない。干からびた草を食む、ごわごわとした毛の獣と虫ぐらいしかいないのだ。食べ応えのある大きな獣は数が少ない。虫は栄養豊富で数が多いものの、量を集めるとなると中々に大変である。

 荒れ地にも大型の捕食者はいるが、そうした生物は大抵飢えに強い。何日も食べなくても平気でいる。だから獲物が少ない荒野で生きていけるのであり、飢えに強くないウラヌスは荒野では生きていけない。なので足りない分は町で買うしかなく、その量が収入を上回っているのが現状だった。

 せめて南に行く商人の護衛などの任務が受けられれば、今頃その商人に『必要経費』としてウラヌスの食事を用意してもらう事も出来ただろうが……危険な生物が跋扈する環境だけに、護衛の任務は等級が高い。一級二級が殆どで、三級の仕事は安全な北に行くものばかり。スピカ達に受けられる依頼はなかった。

 

「(北に戻れば問題は解決するけど、それじゃあこっちに来た意味がないしなぁ)」

 

 そもそも何故スピカ達がこの町に来たのかといえば、キマイラ達の生息域がこの町の更に南側に存在しているからだ。

 キマイラとヴァンパイアを住処から追い出したのは『何』なのか。

 それを知るためにスピカ達は、ここ最近は南に向かって進んでいた。折角此処まで来たのだから退くなんて……等というのは非合理的な考えであるし、目的といっても何がなんでも成し遂げたいものではないので、諦めて帰るのに問題はない。

 しかしそれでも『惜しい』と思ってしまうのが人間だ。どうにか目的を達する方法はないものか、考えを巡らせるも答えは出ない。正確には考え自体は浮かぶが、欠点が大き過ぎて採用する訳にはいかないものばかり。

 

「むぅ……少し食べるのを我慢すべきだろうか?」

 

 例えばウラヌスのこの発言も、却下した案の一つである。

 

「それは駄目。腹ペコで力が出ませんでしたー、なんて最悪じゃない。それに空腹が続くと筋肉って衰えるらしいわよ」

 

 ウラヌスの戦力は絶大だ。今のスピカの冒険には、ウラヌスの単純ながら強大な力が欠かせない。

 空腹になったウラヌスは間違いなくその力を発揮する事など出来ない。自然相手に()()()()というのは、最もしてはならない愚行だ。比喩でなく、命に関わる。

 勿論駄目だ駄目だと言うだけではなんの方針も決まらない。しかし失敗すれば命を失うのが冒険家という家業であり、頑張れば困難は解決出来るというのはほぼ妄言である。実際には駄目な時は何をしても駄目なものだ。

 

「……今日、デカい仕事が見付からなかったら北に撤退しよう」

 

「むぅ、すまない。私が足を引っ張ってしまうとは……護衛として不覚……!」

 

「いやぁ、ウラヌスがいなかったら多分此処まで来れてないだろうし。隠れる場所のない荒野を進むには、私はちょっとばかり軟弱だもの」

 

 労うように言葉を掛けつつ、スピカは席から立ち上がる。

 半分諦めの心境であるが、まだ全てが終わった訳ではない。もしかしたら大金が手に入るような仕事があるかも知れないし、三級でも受けられる南へ向かう護衛の仕事があるかも知れない。可能性というのはどんなに低くなっても、中々ゼロにはならないものだ。

 

「(まぁ、そんな都合の良い仕事があったら逆に躊躇するけどね。大金が手に入る等級の低い仕事って、詐欺臭いのなんの……)」

 

 世の中に美味しい話なんてない。しかし美味しい話に乗らないと先に進めない。

 なんとも矛盾した状況だと思いながら、依頼書が掛けてある壁にスピカは歩み寄る。一つ一つ吟味し、報酬と依頼内容を見比べ、けれどもやはり『理想』の仕事はない。

 すっぱり諦めて北に向かう商人の仕事を請け負うべきかと、避けたい可能性が現実味を帯びてきた時だった。

 つんつんと、スピカのお尻を突く輩が現れたのは。

 

「うひゃぅっ!? なん……!」

 

 いきなり尻を触られるとは思わず、スピカは小娘のように跳ねてしまう。

 変態でも現れたか。思わず身構えながら後ろを振り向いたスピカだったが、その警戒心はすぐに薄れる事となる。

 何故ならそこにいたのは、小さな少女だったから。

 年齢は、十を超えたぐらいだろうか。背丈はウラヌスよりも更に低い。顔立ちは丹精で、そのやたら滅多に自慢げな笑みがなければ人形だと勘違いしてしまいそうだ。金色の髪と青い瞳は、この地方の人間としては珍しくないが、彼女は特に美しいものを持っている。

 着ている服は可愛らしいフリルが付き、ボタンやリボンなどの装飾も綺羅びやか。胸元には大きな宝石らしき石がある。この町は勿論、帝国内で最も豊かな都市である帝都でも、ここまで派手な身形をした少女を見掛ける事は稀だ。絢爛な身形は如何にも資金の豊かさを物語り……貧乏な村出身であるスピカからすると()()()()。尤も、それを指摘したところでこの自慢げな顔から察するに、貧乏人の戯言として聞き流しそうだが。

 どうやらどこぞの金持ちの娘のようである。正直第一印象は良くないが、曲がりなりにもスピカは大人だ。ムカつくからなんて理由で、初対面の小娘の額にデコピンを喰らわせるような真似はしない。

 

「えっと、何か用かな?」

 

 むしろ年上として余裕を見せつつ、少女に話し掛ける。

 すると少女は堂々と胸を張り、自らの顎に指を触れるという洗練された嫌らしい仕草を付け加え、相手の事などお構いなしな自信満々な表情を浮かべながらこう答えた。

 

「そこのアンタ、お金に困ってるわね! 私の依頼を受けてくれたら、言い値で報酬を出すわよ!」

 

 臆面もなく、スピカにとってあまりにも『美味しい話』を――――



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白い軍勢2

 冒険家の階級を気にせず、言い値の報酬を出してくれる。

 なんと美味しい話だろうか。正しく自分達はお金に困っている時だけに、救いの手となってくれるに違いない。これはきっと普段真面目に生きている自分に対し、神様が好機を与えてくれたのだろう。それに世の中にはきっと楽に儲かる話がゴロゴロ転がっていて、世の金持ち達はその方法を独占し、自分達はただ知らないだけ。ならば乗らねば損というものだ。

 ――――等という考えが一つでも浮かんだ輩は、もう少し世の中について学んだ方が良い。

 世の中に美味しい話なんてない。仮にあったところで見ず知らずの他人に教える訳がないし、一誰にでも教える底抜けのお人好しには美味しい話なんて舞い込まない。自分が真面目である事と儲け話がやってくる事にはなんの因果関係もないし、たくさんある筈の楽に儲かる話が一般に知られてない時点でお察しである。

 更に付け加えるなら。

 

「(なんでこんな小娘がそんな大金を持ってるんだっつーの)」

 

 話を持ってきた少女の年頃は、恐らく十歳かそこら。この歳で出来る仕事など、畑仕事か店番ぐらいだ。大金を手にする機会などあるまい。

 確かに身形からして金持ちの家の子のようであるが、その金はあくまで親のもの。いくら溺愛されていたとしても、使える金額には限度があるだろう。

 端から信じるに値しない話だ。故にスピカはこの小娘を、どうあしらおうかと考える。

 

「おお! そんな良い話があるのか!?」

 

 なお、阿呆(ウラヌス)はあっさり引っ掛かっていたが。

 

「あのねウラヌス……どう考えてもこれ詐欺」

 

「ふふん、あなたは少し見る目がありそうね! 他の冒険家ときたら、金もないのに話を聞きもしないんだから!」

 

「なんと! 人の話は最後まで聞かないといけないのにな!」

 

「だからこれ典型的な詐欺で」

 

「全くよ! パパに教わらなかったのかしらね。さ、他の連中に聞かれたら厄介だわ。人気のない場所に行きましょ」

 

「ねぇ! 流石にそろそろツッコミが追い付かないから私の話聞いてくれる!?」

 

「良し! 行くぞスピカ!」

 

 必死に詐欺を主張するスピカだったが、ウラヌス(と少女)は聞く耳を持たず。乗り気満々なウラヌスはスピカの手を掴むと、ずるずると引っ張り始める。

 ウラヌスの力がどれほど強いかは、言うまでもなし。無理矢理にでも振り解くなら、爆弾矢なり悪臭粉なりが必要だろう。流石にそれらを市街地で使うのは躊躇われる。

 

「(まぁ、うん……お金は私が持ってるし、悪漢に襲われてもウラヌスがいるし……話だけでも聞くか)」

 

 面倒臭くなってきたスピカは、ウラヌスに抗うのを止めて大人しく引きずられていくのだった。

 ……………

 ………

 …

 どんどん進む少女に連れられ、やってきたのは町の路地裏だった。

 路地裏と一言で言っても、都市によってその『様相』は千差万別だ。例えば帝国の中心である帝都ならば、意外と小洒落ていて、ゴミなども落ちていない。発展していれば人口が多いので路地裏を通る人も多く、治安は悪くなり難い。対して貧しい都市では、路地裏にはゴミなどが散乱している事が多い。清掃の手が行き届いていないからだ。そして人通りの少なさから治安が悪く、ならず者が居座っている事もしばしば。そこでなんらかの被害に遭っても、わざわざそんな道を通る方が悪いと言われてしまう。

 この町の路地裏の様相は、豊かさと貧しさの中間ぐらいだろうか。ゴミなどはなくて綺麗だが、人通りが少ない。ならず者の姿もなく静かだ。内緒話をするにはうってつけ、と言えなくもない。

 

「さぁ、依頼の話をしましょ!」

 

 この頭空っぽそうなちびっ子が、そこまで考えているとはスピカには思えなかったが。

 

「うむ! スピカ、良い話があって良かったな!」

 

 ウラヌスはウラヌスで上機嫌。詐欺の可能性など微塵も考えていないらしい。こちらの亜人も子供と同じぐらい頭空っぽのようだ。

 スピカだけが呆れたようにため息を吐く。

 

「(まぁ、話だけでも聞いてあげようかな。で、本当に詐欺なら頭にゲンコツを一発食らわせておこう)」

 

 半分の諦めと、半分の疑念を抱きながら、スピカは少女の『依頼』について話を聞く事にした。二人を嗜めるにしても、話も聞かずにやったところで聞き流されるだけになりそうなので。

 

「……良い話かどうかは、聞いてから判断するわ。で? 私達にしたい依頼って何かしら?」

 

「ふふん。依頼内容はね、私を南にある町クエンまで送り届けてほしいの」

 

「ふぅん、護送依頼って事ね」

 

 依頼の話を聞きながら、スピカは自分の頭の中にある知識を読み返す。

 宝石都市クエン。

 少女の言う『クエン』という都市は、ほぼ間違いなくそこを指しているのだろう。宝石都市というのは自ら名乗っている訳ではないが、一般的にはこの呼名の方が通りは良い。理由は付近に巨大かつ多種多様な宝石の鉱山があり、それを販売する事で莫大な利益を得ているからだ。

 宝石都市クエンから得られる宝石は品質も良く、帝国のみならず世界中で様々な用途に用いられている。例えば貴族など富裕層の人々が自らを飾るために使うもの……一般的にはこの需要が一番多い。しかし他にも使い道があり、ある種の宝石は研磨剤の材料になるという。

 研磨剤というのは、この世界において極めて重要な物資だ。

 それは高品質の武具が、いずれも『動物性』であるため。例えばドラゴンの骨を加工して作った剣は、金属の鎧を牛酪のように切り裂くという。ドラゴンの皮で作った鎧や甲は、鉄の剣を通さないと聞く。国防を担う騎士団や親衛隊などはその最上級装備で身を固めているらしい。

 スピカのような一般冒険家には高くて手が届かないが、それでも命を預ける武具は高価な動物性のものを使う事が多い。例えばスピカの使う弓は、とある地域で神獣と崇められているキムンカムイというクマの皮と、百年経とうと朽ちないというプルセルピナの蔓で作られたもの。毎日の手入れは必要だが、手入れをすれば何年でも変わらぬ性能を発揮してくれる。安物の弓ではこうはいかない。

 それら強大な獣の皮や骨は、金属を超える性能を持つ。当然、これらをただの金属では研磨など出来ない。それに金属の中には腐食性を持つものもあり、擦り付けると駄目にしてしまう物もある。しかし宝石都市で得られる一部の宝石は、獣達の身体を削るほどの硬さと、反応を起こさない安定性を持つ。この宝石で作った研磨剤であれば、獣達の身体を材料にした武具が作れるのだ。

 ちなみに、宝石そのものを武具に加工するのは好ましくない。鉄などと違い熱を加えても全く溶けないため成形出来ず、塊を削ろうにも産出するのは大抵小指の先程の大きさで、しかも大きいものは叩くと簡単に割れてしまうからだ。宝石剣を作ったとしても量産なんて出来ないし、出来上がったもので相手を切りつければすぐ折れる。

 ……話を武具の加工に戻そう。宝石の研磨剤はそれら獣製装備の加工に欠かせないのだ。もしも供給がなくなれば、人類の戦力は大きな後退を強いられるだろう。他にも、ある種の危険な薬品の保管に使う容器の原料や、特定の動物が嫌がる香料の材料などにも宝石は使われている。

 クエンで得られた宝石は、世界の国防や医療にも深く関わっている。その辺りを知らない多くの一般人(宝石を使ったものは高級品が多いので、用途を知らない人も多い)からは『成金都市』などと揶揄される事もあるが、宝石の価値を知る者達には大変有り難く思われている都市だ。

 そしてスピカが行きたかった、この町の南にある都市である。

 

「(確かに、願ったり叶ったりな依頼ね。事実であれば、だけど)」

 

 魅力的な条件。しかしそれに飛び付くような輩は、詐欺師からすれば魅力的な『カモ』である。

 そもそも何故彼女は宝石都市に行こうとしているのか。確かにクエンは大都市であり、人の出入りが多い。されどその目的は主に商売。他の都市や国に高く売り付けるための宝石の仕入れ、鉱山だらけで食糧生産に向かない宝石都市クエンに食べ物を輸出、クエンの高い購買力に目を付け貴重な書物を販売……基本的には商人が出向く都市だ。こんな小娘が商売をしているとは思えない。

 いや、商人云々以前に、この手の年頃の子は普通親と行動を共にするものだ。旅の護衛を冒険家に依頼するのも親の仕事。子供の出番など……精々部屋の隅で「私達を助けてください。出来れば格安で」と主張するよう涙目になるぐらいしか……ない。

 この少女の言葉は最初から最後まで疑問点ばかりだ。

 

「どうしてクエンに行きたい訳? 何か用でもあるの?」

 

「……い、良いじゃない、そんな事。護送してくれれば謝礼は出すわよ!」

 

 尋ねてみれば少女は露骨に目を逸らし、しかも話を誤魔化す。

 嘘の吐き方があからさま過ぎる。想定すべき質問への答えを用意してないなんて、稚拙にも程があるというものだ。

 子供か、と言いたくなったが、目の前にいるのは子供だ。それに恐らく真っ当な大人は彼女の依頼に耳も傾けていないだろう。スピカもウラヌスが話を進めなければ、適当にあしらった筈だ。今回が初の問答だとすれば、手際が悪いのも仕方ないかも知れない。

 そしてそれは、相手から情報を引き出したいスピカにとっては好都合。相手の不慣れなところを突き崩すのは『対決』の基本である。

 

「いやいや、依頼主の事はちゃんと知らないと。目的が分からないと不足の事態に対処出来ないかもよ?」

 

「な、な、なら……べ、別に断っても良いのよ! 冒険家なんていくらでもいるんだから!」

 

「いやぁ、この条件じゃ誰に頼んでも無理ねぇ。優秀な冒険家ほど警戒心が強いから、少しでも疑問点があれば断っちゃうわよ? 断らない冒険家は質が良くないから、命がいくらあっても足りないんじゃないかなー」

 

「うぐ、うぐぐぐぐ」

 

 反論を二度ほど行えば、少女は顔を赤くしながら悔しがる。

 意地悪をする気持ちはない、と言えば嘘になる。しかしスピカの告げた話に嘘はない。優秀な冒険家というのは常に最悪を想定し、それに対処するように行動するものだ。無論、対人関係であろうとも。

 話し手が少女だとしても、胡散臭い話には乗らない。背後に何がいるか分からないのだから。もしもこんな話を受ける輩がいたら、底なしに善良な阿呆か、或いは()()()()が目当てか。どちらにしても少女の命は保証出来ない。

 そういう意味でも諦めさせるのが、大人としての役割だろう。それに、明かした目的次第では助けてあげない事もない。それもまた大人の役割である。

 

「う、うぅ……その……」

 

 さて、そんなスピカの思いなど知る由もないであろう少女は、途端にもじもじし始めた。何かを言おうとしているが、躊躇っているようだとスピカは感じる。

 しばし何も言わずに待っていると、少女は気丈に振る舞いながら、けれども明らかに目を泳がせて話し出す。

 

「じ、実はクエンは私の生まれた町なの! だからそこに帰るのよ!」

 

「帰るなら家族と一緒じゃなきゃ駄目でしょ。ご家族は何処にいるの?」

 

「か、家族は、わ、私と一緒じゃないわ! 私は一人前だから、その、一人で町にいても良いの!」

 

「子供一人で他の町に行かせて、それで帰りも自分でやれ? 責任ある大人なら、そんな事はしないと思うわよ。大体、クエンからこの町に来たってんなら、行きで護衛してくれた人達がいるでしょ。その人達に帰りの護衛も頼めば良いじゃない」

 

「あ、あの、その人達は、べ、別の仕事が……」

 

「ふぅん。ま、片道だけの護送とか珍しくないけどね。滞在期間が未定なんて、商人ならよくあるし。でも、あなた商人じゃないわよね? この町で商売するなら、許可書ぐらい持ってるでしょ? ねぇ?」

 

「きょ、きょ、きょか、か」

 

 問い詰めれば問い詰めるほど、少女の口から出てくる言葉はあやふやになっていく。ちなみに許可書云々は事実だ。というより多少発展した町なら何処でもやっている。ある程度町が大きくなると徴税も大変なので、誰がどの程度稼いでいるか目を光らせる必要があるからだ。

 そうした基礎的な知識がない以上、彼女は商人ではない。無論、こんな無知な子供を一人前としてほっぽり出す親は(虐待や頭がイカれているなら兎も角、普通ならば)いないだろう。嘘で塗り固めた話が、ボロボロと壊れていく。

 

「ぅ、うぅ、ぅ……」

 

 ついに少女は大粒の涙を零し始めたが、スピカは追及を緩めるつもりなどない。

 

「ほれ、ほんとの事を話しな。相談に乗らない事もないからさ」

 

 『優しい言葉』で追い討ちを掛ければ、少女はついに白状した。

 曰く、少女はクエンでも特に大きな大富豪の家の娘らしい。

 家族は父と母の他に兄と姉が一人ずつ。皆優秀で優しい……のだがどうにも最近構ってくれず、おまけに子供扱いばかりしてくる。更に母親から許嫁を紹介され、将来まで決められてしまう。止めに父親が、大事に取っておいたお菓子を食べてしまった。

 なので家出を敢行した。

 家に来た商人の馬車にこっそり乗り込み、クエンから出立。積荷が腐ったり傷んだりしない宝石であったため商人達は馬車の中を逐一確認する事もなく、またお菓子を服の中にたっぷりしまっていたので少女がお腹を空かせる事もなく、小便などは商人達が休んでいる時にこっそり済ませていた(「誰も見てないなら平気」だそうで割と図太い性格らしい)ため、三日間の旅を誰にも見付からずに完了出来た。

 そして町に辿り着いた後、少女は馬車から脱出。『お小遣い』片手に町を観光した。宿代もお小遣いから捻出。家で出されるものより格式は遥かに下がる、大雑把で如何にも安っぽい味付けの、けれどもとても美味しい料理に舌鼓を打つ。そしてこれから一人で、力強く生きていくんだと決意した。

 ……というのが二日前の事。

 流石に二日間も町にいて、金持ち少女は気付いたのだ。お金というのは、子供が簡単に稼げるようなものではないのだと。貧民の子は薄汚れた服のまま、重たい荷物を一日中運んで、それでようやく一日分の食事を得られるのだという事実も目の当たりにした。

 

「で、そんな生活に耐えられないから家に帰りたいけど、クエンに行く馬車がどれか分からないし、しかも大抵食料品だから場所の中を定期的に確認して密行がバレて怒られそうだから、途方に暮れていた、と」

 

「……………はい」

 

 真実を解き明かされて、少女はすっかりしおらしくなっていた。スピカは大きなため息を吐く。

 如何にも子供っぽい、後先考えない行動だ。商人が動物に襲われた時の危険性を全く考慮していない点や、進退窮まってから対策を考えるところも含めて。

 一つ、気になる事があるとすれば。

 

「(なんで、娘が家出してるのに迎えの一つも出さないんだろう?)」

 

 話通りなら、少女はとある大富豪の娘である。少なくともそれは間違いない。そして『お小遣い』として二日分の宿代を余裕で賄える金額を、ポンッと渡すぐらいには溺愛していた。小遣い額の大きさが愛情の大きさとは言わないが、指標の一つにはなる。

 そんな愛娘が行方知れずになったなら、普通は全力で探す筈。資金力に物を言わせて目撃者を掻き集め、この少女の行方を探すだろう。

 恐らくこの少女は少女なりにこそこそと行動していただろうが、しかし所詮小娘の行い。少なからず目撃者がいると思われる。乗り込んだ馬車やその行く先を詳細に知る必要はない。馬車や商人の集まる場所に向かったと分かれば、家出先の候補に都市の外が出てくる。

 クエンは大都市であるが、同時に辺鄙な場所に存在する町でもある。クエンと直接交易を行っているのは、基本的にこの町しかない。都市の外に出たという考えが出たら、この町に『部下』を向かわせる筈。商人の馬車というのは基本的に荷物をたくさん積んでいるものなので、ハッキリ言って非常に遅い。しかも馬を休ませたり、食事させたりと休憩時間も多く必要だ。その馬車で三日の道のりなら、冒険家が単身かつ急ぎ足で向かえば二日ほどの行程で済む。

 少女が出た一日後に冒険家を送り出せば先回り出来ただろうし、二日目三日目に送り出しても今頃この町に辿り着いている。人探しとして多少少女の名前が出ていそうなものだ。ギルドにも依頼を出すだろう。

 なのに、どうして少女を探している人物や依頼書がまだないのか? 三日以上探し回って、家族は娘が町の外に出た可能性を寸分も考えていないのだろうか?

 

「(まぁ、単純に気付いてないだけ、という可能性もなくはないけど……)」

 

 少女の家出を誰かが目撃している、という話の前提は、あくまでも可能性の話だ。奇跡的に、偶々誰一人として少女の姿を見ていない事もないとは言い切れない。

 ……ひとまず、少女の事情は理解した。

 奇妙な点はあるが、恐らく少女の言葉そのものに嘘はあるまい。子供らしい思い切りの良さと、それを可能とする財力が招いた悲劇だ。金に物を言わせた結果と考えれば自業自得だと嘲笑いたいところだが、子供相手にそれをするのは人間的に情けない。

 一人の大人として言えば、小さな子供の悪意なき失敗は、ゲンコツ一発で許してやるべきだろうと思う。

 その上で、スピカは問う。

 

「……ちなみに、今手持ちはいくらあるの?」

 

「ぅ……お、お金は……あの……」

 

 スピカの質問に、おどおどしながら少女は懐から貨幣を取り出した。

 広げられた掌に乗せられた貨幣は、銀貨五枚。

 ……子供が持っていて良いような金額ではない。しかしこの町から宝石都市に向かうまでの道のり、その間の保存食などの購入費だけで全て使い果たす程度の金だ。獣に襲われる可能性を考えると武具の整備もしたいのに、修繕費すら捻出出来ない有り様。通常はここに人件費(利益)を上乗せするものだ。要するにこの金額では、まともな金銭感覚の冒険家は絶対に護衛の依頼を受けない。

 だとすれば、スピカも断るのが合理的だ。いや、合理的と言うより単純に『仕事』になっていないのだから、受ける受けない以前の話である。

 しかし――――

 

「お願いします……パパと、ママに、会いたいです……う、うぅぅ……」

 

 泣き出した小娘を突き放すほど、腐った人間という訳でもない。

 それに比喩でなく、父親達の使いがあと数日来なければ彼女は銀貨を使い果たして宿にも泊まれなくなる。この町は比較的治安が良いが、それは大人が宿にしっかり泊まり、夜間出歩かなければの話だ。子供が一人深夜の町を練り歩けば、何時攫われてもおかしくない。

 帝国内での人身売買は違法であるが、根絶されている訳でもない。子供を買うような輩の下に置かれたら、見た目可愛らしいこの少女は……

 

「……ああもう! 泣くんじゃない!」

 

「ひっ、ご、ごめんなさい……」

 

 怒鳴るようなスピカの窘め方に、少女は怯えた顔を見せる。

 

「アンタの事、私が家まで連れてってあげるから安心なさい!」

 

 しかし少女の顔は、スピカのこの一言で瞬く間に切り替わった。

 

「ほ、ほんと!?」

 

「こんなところで嘘なんか吐かないわよ。ほら、泣き止んで。あとその銀貨五枚はちゃんと依頼料としてもらうからね」

 

「うん! はい、これお代!」

 

 元気良く頷いた少女は、銀貨をスピカに渡してきた。契約書も何も交わしてないのに、もう金を支払っている。

 これはこれで詐欺に騙されそうだからちゃんと教えないとなぁと、大人であるスピカは漫然と思う。

 

「む、話は終わったか?」

 

 ちなみにウラヌスは、途中から話を聞いてなかったのか、なんとも暢気な事を言い出す始末。

 自分が呼び込んだ案件を他人に任せてほったらかし。これもまた子供のやる事だ。

 少女とウラヌス。『子守り』しなければならない対象が二倍に増えた事実を今更認識したスピカだったが、満面の笑みを浮かべる少女の前ではやっぱ止めるとは言えず。

 自分の『悪癖』に項垂れながら、少しでも安全な旅路の計画を頭の中で練り始めるのだった。



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白い軍勢3

「うーん! 今日も良い天気だ!」

 

 真正面から降り注ぐ朝日を浴びながら、ウラヌスが元気な声を出した。

 町の外に出て、地平線まで続く荒野を前にしたウラヌスの発言。荒れ果てた大地には草も木も疎らであり、視界は極めて良好だ。同じく町の外に出た冒険家達の姿も、地平線の向こうに行くまでよく見える。

 雲一つない空に浮かぶ、煌めく太陽の姿を遮るものもない。

 確かに良い天気だと、傍にいるスピカも思う。燦々と輝く朝の太陽の光は、浴びていて気持ちが良い。身体に活力を与え、今日も一日身体を力強く動かせるような気分にさせてくれる。

 ただ、一つ言うならば。

 

「朝日を浴びて元気なのは良いけど、そっちに向かって進むんじゃないよ。私らの行き先は太陽がある東じゃなくて南なんだから」

 

 ウラヌスの元気さを見ていると、そのまま衝動的に太陽へと突撃しそうな気がした。

 スピカが窘めるとウラヌスは「確かに!」と言いながらスピカの方へと振り返った。その返答は余程好意的に解釈しなければ行く気満々だった証。色んな意味で間一髪だったようで、スピカは口許を引き攣らせる。

 やはりコイツは色んな意味で信用ならない。かれこれ一月近く共に旅してきた『相棒』の言動に、スピカは項垂れて顔を横に振った。勿論この一面だけで全てにおいて頼りにならないと言う気は更々ない。むしろ何処からでも獣に見付かるこの環境下では、純粋に強いウラヌスの力は欠かせないものだ。

 が……平時に関しては、そこらの子供の方が頼れると思う。

 或いは、自分の傍にいる『依頼主』がとてもお行儀が良いだけなのか――――そう思いながらスピカは自分の隣に立つ、宝石都市クエンまでの護衛を頼んできた少女に視線を向けた。

 その少女の視線はウラヌスに釘付けだ。

 正確には、ウラヌスが背負っている荷物の方であるが。

 

「あ、あの、ウラヌスさん? 本当にそんなに荷物を持って、重くないの?」

 

「む? 全然平気だぞ! 難ならお前……えっと……………」

 

「フォーマルハウト。依頼主の名前ぐらい覚えなさいよ」

 

「そうそう! フォーマルハート! お前を抱えていく事も出来るぞ!」

 

「ふぇっ!? え、いえ、その……つ、疲れたら、頼むわ。うん」

 

 依頼主の少女ことフォーマルハウトは戸惑いながら、自分の足で歩く事を選んだ。

 恐らく、自らの身長の三倍近い高さの荷物を背負っているウラヌスを気遣ったのだろう。

 ウラヌスが背負う荷物の中身は、主に水と食糧だ。フォーマルハウトが持っていた全財産である銀貨五枚は、この水と食糧の購入費で殆どが消えている。

 特に水が高値だった。

 この辺りの地域は極めて乾燥している。動物達は乾燥に強い体質を持つ事で耐えているが、人間の身体はそうもいかない。というより人間は熱いと発汗という形で積極的に水分を出してしまうので、獣達と比べて水不足には弱い生き物だ。故に水は大量に持参する必要がある。

 しかしながら、水が必要なのは町で暮らす人々も同じ。井戸を掘る事である程度供給は確保しているが、決して潤沢なものではない。需要に対して供給が少なければ、価格が高騰するのは経済の基本原則。他の地域と比べ、水は極めて高価なのだ。

 だからといってケチる事は愚行である。これから向かう宝石都市クエンは、この町よりも更に乾燥した地域にある。道中で川や湖など自然の水場はまず見付からない。動物も少ないので血から水分を得る事も困難。それらを頼る前提だとまず破綻するので、必要な水は全て持参する計画を練らねばならない。

 宝石都市までの道のりは大人の足であれば二日程度。今回は幼いフォーマルハウトが一緒なので三日分に、少し予備を含めた分の水を持った。それなりの量になるのは当然である。

 ……ウラヌスが背負っている物資の半分以上が、ウラヌス用の食べ物であるが。ちなみに食べ物もそれなりに高価である。乾燥に強い品種とはいえ、安定して育てるため作物には貴重な水を与えないといけないので。

 

「そうか? もっと重みを掛けた方が鍛錬になりそうだから、疲れたら遠慮なく言ってほしいぞ!」

 

「……実際、疲れたり怪我したりしたらちゃんと言ってね? 旅の行程はあくまで全員健康な場合で組んでるから、不調があるのを隠されたら予定が乱れた理由が分からなくなる。あと獣とかから逃げる時、怪我してるって知らないと逃げる速さを見誤って助けられないかも知れない。これは気遣いじゃなくて、私らの命に関わるんだから言わないと駄目だからね?」

 

「う、うん。分かった……」

 

 スピカの説明に気圧されたのか。フォーマルハウトは後退りしながら、こくりと頷く。

 真面目に話を聞いてくれた、とはスピカも思う。だがハッキリ言って『信用』はしていない。

 正直、これだけ念入りに話しても初心者というのは無理をしがちだ。冒険家として様々な経験を積んだスピカはそれを知っている。だからその無理は旅の行程に織り込み済みである。本来二日で済む行程を、子供連れとはいえ一・五倍の三日という予定にしたのは、無理したフォーマルハウトが半日寝込んでも問題ないようにと考えた結果だ。

 長旅ならもう少し余裕や問題が起きた時の対策を考えるべきだが、今回の旅は普通なら二日程度の短いもの。この程度で大丈夫だとスピカは思う。仮に食糧や水が尽きても、一日ぐらいなら多少は無理も利く。

 完璧や万全なんてものは自然界ではあり得ない。だが可能な限り安全な行程にしたつもりである。これならばほぼ確実に、フォーマルハウトを故郷へと送れるだろう。

 

「それじゃ、そろそろ出発しよっか」

 

「おうともっ!」

 

「う、うん……行きましょう!」

 

 スピカの掛け声に合わせて、ウラヌスとフォーマルハウトも返事をする。

 三人の旅が始まった。

 ……………

 ………

 …

 尤も、その旅がすぐに一時中断する事になるとスピカは予想していたが。そしてその予想は的中する。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 歩き出して二時間ほどで、フォーマルハウトの息が切れたのだ。

 

「む? どうした?」

 

「はぁ……その……えっと……」

 

「正直に話して。最初にそう言ったでしょ?」

 

 申し訳なさそうな表情を浮かべるフォーマルハウトに、大凡の事情を察したスピカはそう伝える。フォーマルハウトは息を整えながら、意を決したように表情を引き締め……

 

「疲れた!」

 

 ハッキリと、正直に告げた。

 ――――彼女のこの言葉を微笑ましさ以外の理由で笑ったり、或いは体力の乏しさを見下したりする輩は、大人しく町に引き籠もっておくべきだ。そうした人間は自然界の厳しさをまるで理解していない。

 自然の道というのは基本的に舗装されていない。精々獣が踏み固めた、獣道がある程度だ。そうした道は人間が舗装したものと違い凹凸が多く、ただ歩くだけでも体力を使う。

 ましてや相手は十歳の少女。野外環境を歩き慣れていない筈だ。むしろ二時間もよく歩いたものだと褒めるべきだろう。

 スピカとしても、一旦休憩を挟みたいと考える。まだまだ歩けるが、それは体力に余裕があるという意味にはならない。獣に襲われた場合、多少なりと余裕がなければ逃げる事も戦う事も出来なくなる。へとへとになるまで歩くという行為は、獰猛な獣達から見れば自分から弱りにいくようなものだ。

 

「(此処が休める場所かどうかは、また別問題な訳だけど)」

 

 まずは周囲を確認。何処までも広がる荒野には、乾燥に強い多肉植物や背の低い草が疎らに生えているだけ。地平線が見えるほど見晴らしが良く、獣が来てもすぐに発見出来るだろう。

 見晴らしの良さは大事だ。恐ろしい獣も、遥か遠くでその姿を見付ければ逃げるのは難しくない。何より獣自身から『やる気』がなくなる。捕食者からしても、狩りというのは体力を使う行動だ。切羽詰まっているなら兎も角、確実に失敗する状況で全力は出したくない。次の獲物を見付けた時、前回の狩りでへとへとになっていてはどうしようもないのだから。

 捕まえ難い立ち回りをして、相手のやる気を削ぐ。これも自然界で生き抜く策の一つと言えよう。開けた環境は、この策を実施するのに都合が良かった。

 それに、()()()()も悪くない。

 スピカ達の周りは今、草すらろくに生えていない荒廃ぶりだ。厳密にはいくらか生えているが、人が指で摘むのも大変なぐらい小さなものばかり。つまり土壌が非常に痩せている。

 数百メトルほど離れた位置には青々とした葉が茂る『草原』のような場所があるが、あそこで休憩する事は出来ない。何故ならそこには地中を潜る獰猛な動物……ナーガが生息しているからだ。ナーガは手足を持たない、蛇のような体躯をしたドラゴン。排泄する糞が栄養満点なため、そこには無数の植物が生えるが、これは獲物を引き付ける罠である。草の上を大きな動物が通ると、振動などから位置を把握し、襲い掛かってくる。ナーガは人間ぐらいなら二口で食べてしまうほど巨大な生物であり、おまけに地中から現れるため回避も難しい。近寄らないのが一番の対策だ。

 ちなみに、ナーガの存在がクエンなどこの辺りに存在する都市の発展を妨げている一因だったりする。都市を大きくするには人口が必要で、人口を増やすには食べ物が必要だ。つまり農地開拓が欠かせない。ところが農作物が育つ豊かな場所は、ナーガの生息地。鍬を持った農民は、耕した瞬間にナーガのお昼ごはんとなってしまう。肥料などで痩せた土地を改善するという手もあるが、作物が育つぐらい改善したところで、縄張りを持たないナーガの若い個体が「お。良い場所じゃん」と言わんばかりに現れる。手間を掛けて作り出した農地は、ナーガが現れた瞬間に奪われるという訳だ。

 退治出来れば良いのだが、変わった姿とはいえドラゴンの仲間。口から吐き出す炎は人間を五〜六人丸焼きにする。魚のように小さな鱗は矢どころか剣も弾き、人間の力では傷を負わせるのも一苦労だ。なんでも食うからか毒にも強く、割と手の打ちようがない。

 色々と厄介な生物だ。とはいえそれは都市を大きくしたい為政者や、仕事を求める市民の悩みである。冒険家であるスピカとしては、草原に近寄らなければ問題ない。

 

「うん、ここで一旦休憩にしよう」

 

「うむ! 分かった!」

 

 スピカは休憩を指示。ウラヌスは衰え知らずの元気さで返事をして、どかっとその場に胡座を掻いて座り込む。フォーマルハウトは無言のまま、へたり込むように座った。

 スピカもその場に座りつつ、辺りを見回す。休憩中だからといって、野生動物が襲ってこない保証はない。確かに今いる場所は猛獣が諦めやすい状況であるが、絶対無敵の守りではないのだ。露骨に油断すれば獣達はひっそりと迫り、がら空きの喉笛を噛み砕くだろう。

 故に気を抜く事は出来ない。とはいえピリピリするほど気を張る必要もなく、会話するぐらいの余裕はあるのだが。

 

「……あの、一つ、聞いても良い?」

 

「ん? なぁに?」

 

 話し掛けてきたフォーマルハウトに、スピカは優しく訊き返す。ついでに、ウラヌスが背負っている水筒(カグヤと呼ばれる植物で作ったもの。人が握るのに丁度良い太さ、中身が空洞、節で内部が区切られているという極めて便利な形態を持つ)を一本拝借。それをフォーマルハウトに手渡す。

 水をもらったフォーマルハウトは一回息を飲み、次いでその水を飲む。喉の乾きを癒やしたところで、先程より少し饒舌になった口振りで本題を切り出した。

 

「思ったより、動物って少ないのね。パパとママは外に出たら食べられちゃうって言ってたけど、全然会わないし」

 

「会い難い道を通ってるからね。そういう道は交易路として王国に公表されているの。で、たくさん人間が通ると弱い獣なんかは寄り付かなくなる。旅の中では貴重な食糧だから、みんな狩られちゃうからね。そして弱い獣がいなくなると、それを獲物にしている大きな獣もいなくなり、大きな獣を食べるヤバい獣も出なくなる」

 

「へぇー……あれ? なら交易路に沿って、町を伸ばせば良いんじゃないの? パパは獣が出るから町を拡張出来ないって言ってたけど、交易路には獣が出ないならいけそうね!」

 

 名案を閃いたと言わんばかりに、フォーマルハウトは満面の笑みを浮かべながら思い付きを語る。

 流石は大富豪の娘。町の開発事情について知っているとは、高等な教育を受けているらしい。そして持っている知識から新たな考えを生み出すのは、上に立つ者としてとても大切な才能だ。

 ただ、その閃きを手放しに褒める事は出来ないが。何故ならそんな簡単な案は既に大昔の人間がやっていて、残念ながら大失敗しているのだから。

 

「それはねぇ、確か二百年ぐらい前の王国の王様がやってんだよねー……」

 

「……王様が?」

 

「そう。さっきヤバい獣も近付かないって言ったけど、なんでだか覚えてる?」

 

「え? えっと、餌がないからで……あ」

 

 自分で言葉にして、フォーマルハウトは気付いたらしい。この時点で彼女は、二百年前にやらかした王様の何倍も賢いと言えるだろう。

 ヤバい獣が近付かないのは、獲物となる動物がいないから。

 言い換えれば獲物がいれば、交易路だろうとなんだろうと獣はやってくる。そしてヤバい獣というのは、大概にしてスライムやキマイラのような、人間を何人も食べてしまうような大型獣。つまり、獲物は人間でも構わない。

 交易路沿いに都市開拓を進めれば、当然そこに人間が住まう。それは猛獣達からすれば、安定して獲物が存在するという意味だ。よって交易路は攻撃を受けて壊滅。計画は数年で頓挫、という流れになる。

 付け加えると、交易路はあくまで獣達が現れ難いだけで、絶対に会わないで済む奇跡の道などではない。若者が新たな縄張りを探したり、或いは獲物を探して移動中だったり、そうした個体が稀に横断する。

 

「交易とか旅なら、交易路上にいるのは精々二日。しかも獣は大抵道を沿って歩く事はなくて横断するから、出会うなんて滅多にない。だから安全と言える。でも、住宅地とかになれば話は違う。年に一回家が滅茶苦茶に壊される場所になんて住めないでしょ?」

 

「うぅ……そっか……良い考えだと思ったけど」

 

「そんな簡単な話はないって知るだけでも成長よ。結局、人間は小さな事をコツコツと積み上げるしかない……ま、その積み上げも、全部どかんと壊されるかもだけど」

 

「え?」

 

 スピカが漏らした言葉に、フォーマルハウトは首を傾げる。

 知らないのも無理はない。この話は御伽噺の類なのだから。

 

「むかーしむかし、帝国や王国が出来るよりも前、今から三百年も昔の事。人間の世界は今より少しだけ発展していて、世界中に大きな都市を築いた国があったそうな」

 

「……何その話し方」

 

「昔話の話し方。で、その国なんだけど三百年前に滅んでしまいました。なんと恐ろしい大魔王が、魔物の軍勢を率いて国を滅茶苦茶に荒らし回ったのです。魔王はやがて海の向こうに姿を消しましたが、国は滅び、後には様々な小国が出来ましたとさ」

 

「要するに御伽噺じゃない」

 

「御伽噺よ。でもね、こういう話は大概元となった話があるもの。帝国の前に、大きな国が存在していたのは確かだし」

 

 呆れた様子のフォーマルハウトに、スピカは淡々と説明する。

 興味がない人ならば知りもしない話だが、今の御伽噺は所謂建国神話だ。何処の国にもあるものだが、その原型は国が違ってもほぼ同じ。つまり魔王が現れ、大国を滅ぼし、そこに小さな国が生まれた。それが自分達の国である……というもの。

 全くの創作ならば、こうも話の流れが同じになるとは考え辛い。発掘資料などからもかつて帝国や王国を股に掛ける大国が存在し、そしてある時期から急速に衰退。滅びた事が知られている。

 恐らく『元』となった出来事があったのだろう。大型ドラゴンの大量発生だとか、前例がないほどの寒さだとか、それに伴う飢饉だとか。歴史学の定説では火山噴火が有力だとスピカは聞いた事がある。他には、ほうき星が落ちてきた、という奇抜な説もあるらしい。

 

「魔王の正体がどんな存在にしろ、言える事は一つ。どんなに発展した文明でも、呆気なく滅びる時もあるという事よ。真面目に積み重ねたものだからって、崩れ落ちないとは限らない訳ね」

 

「……私、そういうの嫌い。努力が報われない感じがして」

 

「私も嫌いだけど、でも努力はした事は報われる保障にはならない。そこ履き違えると色々面倒な大人になっちゃうから、ちゃんと覚えておくのよ」

 

 窘めるようにスピカが話すと、フォーマルハウトはぷくーっと頬を膨らませた。話に納得出来ないという気持ちをありありと表明していて、なんとも微笑ましい。

 子供相手に少し厳しい話をし過ぎたかなと、スピカも反省する。子供は純真無垢に育てるべきとまでは思わないが、夢も希望も与えないのは流石によろしくないと考えているからだ。

 

「ほへー、魔王なんているのか。どんなに強い奴なのか、ワクワクするな!」

 

 ちなみに話に混ざらず、自分用の食糧を食べていたウラヌスは、御伽噺の国を滅ぼした魔王相手に目を輝かせていたが。

 あまりにも空気を読まない(そもそも魔王の元があるという話を理解していない。恐らく途中から理解出来なくなって話半分で理解している)ウラヌスの発言で、フォーマルハウトは少し呆れながらも笑う。話を変えるなら、今だろう。

 

「ま、そういう事もあったかも、という話よ。あと、御伽噺の魔王より余程恐ろしい生物がこの世にはいるし。確か、宝石都市の近くが生息地じゃなかったかしら」

 

「えっ。そんなのいるの!?」

 

「いるんだなーこれが。その名前は……」

 

 怯えるフォーマルハウトに、意地の悪い笑みを浮かべながら、おどろおどろしくスピカは名前を告げようとした。

 

「待て」

 

 ところがそれを、ウラヌスに止められる。

 ちょっとふざけただけじゃん、と言おうとして、しかしスピカはその言葉を飲み込んだ。ウラヌスの表情が、警戒心を露わにしたものだと気付いたがために。

 どうやら、何かを察知したらしい。

 

「……何?」

 

「何かが近付いてくる。あまり大きな感じはしないが、隠れる様子もない。敵のいない、肉食獣かも知れない」

 

「ひぅっ!?」

 

 ウラヌスの言葉に驚き、怯えたフォーマルハウトはスピカに抱き着く。これだと身動きが取り辛い、と言いたいが、震える十歳の少女を突き放すのは流石に気が引ける。

 いざという時離れ離れよりはマシかと考えて、スピカは少女を抱え込む。ウラヌスはある方角をじっと見つめていたので、スピカも同じ方を見つめた。

 そうすると、やがてウラヌスが察知した気配の主であろう存在が姿を現す。正確には遮蔽物も何もないので最初から見えていたが、近付いてきた事で輪郭が分かるようになった。

 それは人間だった。おまけにたった一人の。

 

「な、なんだ。人間じゃない……」

 

 フォーマルハウトは安堵したように息を吐く。だが、スピカとウラヌスの警戒は緩まない。

 スピカの場合、理由は二つある。一つは野盗の類である可能性が残るため。尤も見晴らしの良いこの地で、野盗が活動しているとは考え難い。一人だけというのも不自然だ。だからこの可能性は、あくまで念のため程度のもの。

 しかしもう一つの……恐らくウラヌスも気にしている理由は、その人間に()()()()()()可能性が高いから。

 現れた人物の歩き方が妙なのだ。身体が左右に揺れていて、近付いてくる速さも遅いように感じる。健康的な人間の歩き方ではない。飢えや乾きで弱っている可能性もあるが、此処はたった二日で都市を行き来出来る交易路だ。実は荷物を一個も持っていなくとも、なんとかなってしまう事もなくはない。普通の旅支度をしていればそこまで疲弊するとは思えなかった。

 だとすると怪我をしている可能性が一番高い。

 スピカのその予想は、現れた人物の姿がハッキリと見えてきた時に確信へと変わった。

 

「ウラヌス! あの人を抱えてこっちに連れてきて!」

 

「うむ!」

 

 スピカの指示を受け、ウラヌスが颯爽と駆け出す。現れた人物は人間離れした速さで近付くウラヌスに驚いた様子を見せたが、ウラヌスはそんなのはお構いなし。ひょいっと抱えるや、行きと同じぐらい颯爽とスピカの下に戻ってきた。

 ウラヌスが連れ帰ってきたのは、一人の中年男性。小太りで、如何にも富豪らしい豪勢な服と宝石を身に着けている。

 しかしその姿はボロボロだ。服は至るところが土埃で汚れ、裾などは千切れている。頬や手の甲には傷が無数に出来ていて、かなり酷い目に遭ったのが窺い知れた。何より金持ちが単身危険な自然界を歩いているという状況がおかしい。行商に行くにしろ旅行するにしろ、冒険家の護衛を二〜三人は付けておくものだ。

 何かがあったらしい。幸いにしてこの富豪、怪我はしているが命に別状はなさそうだ。ふらふらしていたのは単純な疲労が原因だと思われる。故にスピカは遠慮なく問う。

 

「どうしたの? 何があったの?」

 

「う、うぅ……ま、町が……町が獣に襲われて……」

 

「町が獣に襲われた? 一体何に?」

 

 町というのは、この先にある宝石都市クエンの事か。そのクエンにどんな獣が現れたというのか。

 疑問が胸を渦巻く。それと同時に嫌な予感と心当たりがふつふつと湧き出していた。

 何故ならスピカは、その生物についてフォーマルハウトに話そうとしていたのだから。そんな馬鹿なと頭の中で否定しようとして、けれども宝石都市クエンを襲うような生物など他に考えられない。

 そんなスピカの心情を、傷付いた富豪の男が知る由もない。彼はただ、聞かれた事に答えるのみ。

 その口はハッキリと告げた。

 

「レギオン……レギオン、が、来た……!」

 

 御伽噺の魔王よりも、遥かに危険な生命体の名を――――



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白い軍勢4

 富豪を保護したスピカ達が向かったのは、直前までいた交易都市セレンだった。

 セレンから離れてまだ二時間。未だセレンが『最寄り』の町であり、富豪を送り届けるならばそこが一番合理的な場所だ。たった二時間の旅路なので護衛と呼べるほどの仕事もしていないが(野生動物との遭遇もなかったので)、富豪は猛烈に感謝。お礼として身に着けていた宝石を三つ渡してくれた。

 宝石は適当な店で売ったところ、銀貨三十枚に早変わり。適切な値段かどうかは、曲がりなりにも宝石都市の住人であるフォーマルハウトが見てくれたので、特に問題はないとする。勿論もっと高く売れるならそれに越した事はないが、銀貨三十枚なんて大金は交易都市でも簡単には稼げない。これだけあれば、仕事がなくともウラヌス(食いしん坊)を二十日は喰わせていける。

 勿論二時間の旅で消費した物資は完璧に補充出来、スピカの装備の手入れも行えた。元々万全な準備はしたつもりであるが、更により良い状態となっている。クエンには、より安全に辿り着けるだろう。

 そう、クエンに行くだけなら何も問題はない。

 しかし問題は、クエンそのものにある。

 

「なんでよ!? なんでクエンへの旅を中止するの!?」

 

 フォーマルハウトが大きな声で、目の前にいるスピカを批難する声を上げる。

 スピカ達は今、セレンにある宿屋に泊まっていた。宿泊費は銀貨一枚。銀貨一枚は銅貨百枚と等価であり、銅貨は十枚もあればそれなりに美味しくて豪勢な料理が食べられる。安い宿屋なら銅貨十五枚で泊まれる事を思えば、銀貨一枚の宿屋はかなりの高級宿だ。

 実際、個室にベッドが三つあるのは、正に豪華さの証。銅貨一枚で使える超簡易宿屋は『紐』が寝床(スピカは一度使った後、二度と使わないと決心した)である事を思えば、地上の楽園のようである。臨時収入があったのでパーッと使ったのもあるが……フォーマルハウトを安全な宿屋で寝かせるための措置でもあった。

 かくして同じ部屋にいるスピカとフォーマルハウト、それとウラヌスは今後について話をしている。そしてスピカが切り出した方針は、「目的地であったクエンへの旅は諦める」というものだった。

 

「さっきの金持ちおじさんが言ってたでしょ。クエンはもう壊滅したの。だから行くだけ無駄」

 

「そ、それは……で、でも、もしかしたら、まだ生きてる人がいるかも知れないし……」

 

「ま、それは否定出来ないわね。壊滅って言っても動物に襲われた結果だから、人間みたいな皆殺しとか考えてないだろうし」

 

「それなら!」

 

「でも相手がレギオンなら駄目。アイツだけは本当に相手しちゃいけない」

 

 スピカがハッキリと告げれば、フォーマルハウトは悔しそうに顔を歪めた。納得出来ない、したくない……そんな気持ちがひしひしと伝わってくる。

 しかしどんなに悲痛な顔をされたところで、スピカはこの考えを曲げるつもりは毛頭ない。変えるという事は、死地に赴くのと同義なのだから。

 なのにフォーマルハウトが納得していないのは、つまるところ彼女の無知が原因である。何を知らないのかと言えば、レギオンがどんな生物であるのか、という事だ。

 納得するには知識が必要だ。それを伝えず頭ごなしに「ワガママ言うな」と叱責するのは、知識ある大人として不誠実だろう。

 

「そんなに強いのか? レギオンというのは」

 

 都合の良い事に、ウラヌスもレギオンを知らない。フォーマルハウトを納得させるためにも、スピカはレギオンについて話す事にした。

 

「まず、レギオン単体はそこまで強くない。実際に戦った事はないけど、本とかの記述が正しいなら私一人でもどうにか倒せるぐらいかな。ウラヌスならそれこそ虫けらのように潰せるでしょうね」

 

「……どういう事? そんなのに襲われて、クエンは滅茶苦茶になったの?」

 

「あくまでも単体ならの話よ。レギオンの一番恐ろしいところは、数の多さなんだから」

 

 群れを作る生物というのは、珍しいものではない。オオカミや鹿などの獣は数体から十数体程度の群れをよく作るし、小魚は何百匹もの群れを作って天敵から身を守るという。とある地域では、何百万もの小さな甲殻類が現れるとか、何万もの獣が横断するとか、真偽不明な噂話を含めればいくらでも例は挙げられる。

 そんな群れを作る生物の中で、レギオンは特に巨大な群れを作る。群れと遭遇したらほぼ確実に殺されるので正確な情報は殆どないのだが、しかし数少ない伝聞曰く、大きな群れになればドラゴンすらも瞬く間に飲み込むほどの数で動くという。何百年も前には町一つ飲み込むような大群が出た、という伝説もあるとかないとか。圧倒的な大群団であらゆる強敵を打ち倒し、喰らい尽くすのが奴等の基本戦術だ。

 目撃例こそ殆どないが、生息地では生態系の上位に君臨しているのは間違いない。数次第ではあるがスライムやキマイラと同等、或いはそれ以上の存在だと言えよう。

 

「一般的なレギオンの群れは、数十から数百程度。これだけでも人間に換算すれば数百人分の戦力よ。で、今回のレギオンは町を占拠するほどだから、もしかすると数千人の軍隊規模の戦力、昔話で語られるような大群かも知れない。フォーマルハウト、あなたはそれを敵に回す覚悟はあるの?」

 

「そ、それ、は……」

 

「私にはあるぞ! 一騎当千の戦士は我等にとって誉れ! その誉れを得られるならば望むところだ!」

 

 スピカの言葉に言葉を詰まらせるフォーマルハウト。対してウラヌスはとても嬉しそうに、かつ迷いなく答えた。

 ウラヌスの心には芯がある。

 強い者と戦って、戦士としての己を鍛え上げる――――それが一番の目的だ。そのためには命の危険さえも厭わない。故に彼女は自分の目的を果たせるか否かという、極めて単純な考え方をする。町をも滅ぼす大群と聞いても、躊躇いなく戦いたいという気持ちを表明出来るのはそういう理由だ。

 だが、フォーマルハウトは違う。

 彼女はきっとそこまでの覚悟はしていない。ただ故郷に帰りたい、家族に会いたいという、その気持ちだけで語っていたのだろう。しかしその気持ちは何処まで本気なのか。()()()()()()()()ぐらい強いものなのか。そこを定めていないがために、レギオンが想像以上に恐ろしい存在と知って迷ってしまう。

 尤も、それを覚悟がない等と責めるのはあまりにも上から目線だが。人間というのは大概そんなもので、ウラヌスのような考え方の方が稀である。或いはウラヌスのそれは獣の考え方、と言うべきだろうか。

 そしてスピカも、ウラヌスほど割り切っては考えられない。

 

「(諦めさせた方がこの子のため、ではあるんだけどね……)」

 

 『合理的』に考えるなら、レギオンに襲われた宝石都市クエンに向かうのは悪手だ。レギオンの習性は未知数なところが多いものの、群れで訪れたからには『狩り』として襲撃したのだろう。ならば住人は餌。生き残りは殆どいないと考えるのが妥当だ。そんな場所に向かうなど無駄足でしかない。

 それに、わざわざ自分達が足を運んで調べる必要性がない。宝石都市クエンから此処交易都市セレンまで、人間の足で僅か二日の距離だ。これだけ近いとレギオンが次に来るのは此処かも知れない。スピカ達が救助した富豪の証言によりレギオンの襲撃が明らかとなった今、セレンの統治者達はその対策でてんやわんやしている頃だろう。そして対策を練るには情報が必要だ。遠からぬうちに調査隊が組織されるのが自然。彼等の調査結果を待てば、被害状況は手に取るように分かる。

 ……と言いたいところだが、問題があった。

 

「で、でもそんなんじゃ、何時になったらクエンの事が分かるの!? 私知ってるんだから! この町のお金持ち達が保身しか考えてない、成金集団だって! 仕事の事を考えて、秘密にするに決まってる!」

 

 フォーマルハウトが叫ぶように指摘した通り、此処の統治者である富豪達の人格だ。彼等がクエンに起きた事態を隠そうとする事は十分に有り得る。

 フォーマルハウトは批難したが、一概に問題のある態度とも言い難い。交易都市セレンはその名の通り、交易により富を得ている大都市。農業などの生産業もあるが、多くの人々が就いている仕事は商品を仲介する仲卸業、それら商品を運ぶ商人の護衛である冒険家、或いは彼等が泊まる宿……『市場』に関連する仕事ばかりだ。

 言い換えれば交易都市セレンは、商品の行き来が盛んであるほど儲かる。商品の行き来が盛んとは、景気が良いという事。

 景気が悪い、というのは大きな問題だ。人間の社会は金がなければ回らない。仕事のない人々は住むところを失い、食べ物が買えなくなり、死ぬか奪うかしかなくなる。人が死ねば働き手も買い手もいなくなるため経済は更に悪化し、奪えば治安の悪化によりやはり景気は悪くなってしまう。悪循環が起こり、最後は町自体が崩壊する。

 実際にはそこまで破綻する事は稀だ。しかしセレンに暮らす住人が景気の動向に敏感なのは間違いない。そして景気というのは、人の気分に大きく左右される。世界中で使われている宝石を生産していたクエンが壊滅したという話が広まれば、一体どれだけ景気が悪化するか分かったものでない。セレン経済を安定させるため、情報を伏せるというのは大いにあり得る事で、また『一時凌ぎ』としては悪くない策だろう。

 勿論町一つ壊滅したという話が、何時までも隠せる筈がない。それに帝都から『お叱り』も受けるだろう。だから秘密裏に情報を集めたり、帝都に報告したりはするだろうが……準備に時間が掛かりそうだ。調査に向かうのは何時になるのか。

 一日二日の遅れが、『命取り』になるかも知れないのに。

 

「……仮にその通りだとして、私らに何が出来る?」

 

「そ、それは、その……あの……………」

 

 スピカの問いにフォーマルハウトは答えられない。答えられる筈がない。彼女の心には芯がないのだから。

 ――――ただ、何時までもないとは限らない。

 人間というのは、変わるものなのだから。

 

「……パパとママ、お姉ちゃんとお兄ちゃんと会いたい……!」

 

 自分の『本音』を受け入れる事だって、出来るようになる。

 

「……………会いたいのは分かるけど、でも」

 

「分かってるけど! 分かってるけど……私、みんなに言わないで、家出して……う、うぅ……!」

 

 フォーマルハウトは泣き出し、その場に蹲る。

 本当なら、泣いても状況は変わらないとしっかり言うべきだろう。

 そしてハッキリと、危険だから町には行けないと言わねばならない。町一つを滅ぼす怪物レギオンを相手するなど、死に行くようなものなのだから。フォーマルハウトの身の安全を守るためにも、自分自身の命を守るためにも、それが最も合理的な判断なのは考えるまでもない。

 しかし、スピカの口は動かない。

 言うべき答えは決まっている。他の答えなどある訳がない。合理的に考えたなら。

 だが、感情は違う。

 胸の奥からふつふつと、合理的でない考えが浮かぶ。フォーマルハウトの願いを叶えてやれと、鬱陶しいぐらいに訴えてくる。死ぬつもりなのかと理性的に、心の中で指摘してみれば……感情はこう返す。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

「……はぁ」

 

 ため息を吐けば、フォーマルハウトはびくりと身体を震わせた。表情は怯えたもので、身体もすっかり縮こまっていた。

 

「分かった。行こう、クエンに」

 

 されど続いて語ったスピカの言葉で、フォーマルハウトの顔と姿勢は変わる。

 

「ほ、ほんと!?」

 

「こんな事で嘘吐いても仕方ないでしょ。良いって言わなきゃ一人で勝手に行きそうだし、あと……」

 

「あと?」

 

「銀貨五枚。依頼料をもらってるんだから、仕事は最後までやらなきゃね」

 

 淡々と、仕方ないかのように答えるスピカ。

 しかしどれだけ取り繕っても、非合理の極みなのは変わらない。一人で勝手に行きそうだから? 行かせてしまえば良いではないか。依頼料をもらっている? そのままもらえば良いだろう。

 結局、そうした人間的感性そのものが非合理なのだ。野生の獣のように、徹底的に自分の都合だけで考えれば、何一つ合理的な部分がないと分かる。

 分かった上で、スピカは引き受けてしまった。

 

「(ほんと、こんなんじゃ命がいくらあっても足りないのに……)」

 

 自分の甘さに呆れ返る。いや、或いは自分の『過去』に引きずられ過ぎなのか。

 そして言ってしまった手前、もう引っ込める事もしたくない――――これもまた、非合理的な考えであるのに。

 何よりスピカにとって困るのが。

 

「うむ! どんな敵かは知らんが、私に任せておけ! 戦士としての強さを見せてやろう!」

 

「頼もしい! よーし……パパとママとお兄ちゃんとお姉ちゃんに、絶対会うぞー!」

 

「「おーっ!」」

 

 挙句明らかにワクワクしているウラヌスと、期待で目を輝かせているフォーマルハウトを見ていると、自分の決断が間違っていたように思えない事だった。



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白い軍勢5

 翌朝、スピカ達は交易都市セレンから出立した。

 一度外の環境に出た事もあって、フォーマルハウトの足取りは一回目の旅立ちよりはマシになっていた……かも知れない。人間というのは、高々二時間の旅で劇的に生長する生物ではない。そもそも大富豪の娘っ子には基礎的な体力が皆無なのだから、小手先の技量を磨いたところで大して意味はないだろう。何事も基礎が大事なのである。

 今回もフォーマルハウトは二時間ほどでへばり、休憩を挟み、また進むという行程でいた。とはいえ旅を計画しているスピカにとって、それは想定内の出来事。一回目と同じく食糧と水は十分に用意し、旅の予定も余裕を見積もっている。頻繁に足を止めても問題はない。

 それに、フォーマルハウトの足は段々と力強く、早くなっていた。セレンから出て三日目の朝である今日の彼女は、最早一流の冒険家を思わせる気迫に満ちている。

 尤も、顔色から判断した体調は、三日間で最悪であるようにスピカには見えたが。見晴らしの良い荒野のど真ん中(勿論安全には配慮している)で立ち止まったスピカは、足取りの覚束ないフォーマルハウトの方へと振り返り問い掛ける。

 

「……体調、大丈夫? 悪いようなら休み入れるよ」

 

「だ、大丈夫……歩けるから……」

 

「歩けるだけじゃ駄目。最悪の時に走れるぐらいじゃないと」

 

「揚げ足取らないでよ! 走るぐらい、出来るから……!」

 

 スピカの気遣いに、フォーマルハウトは怒鳴るように反発する。

 一緒にいるウラヌスにはフォーマルハウトの憤りの理由が分からないようで、キョトンとしている。疲れたなら休むべき。大自然に生きる存在ならば当たり前の判断に何故フォーマルハウトが反発するのか、合理的に考えたところで答えは出てこない。

 しかし非合理的なスピカには分かる。

 フォーマルハウトは一刻も早く家族の下に駆け付けたいのだ。とはいえ肉親を奪った相手への復讐すら理解出来ないウラヌスには、フォーマルハウトの気持ちなど聞かされても首を傾げるだけだろう。

 だからここでフォーマルハウトを宥めるのは、自分の役目だとスピカは考える。

 

「落ち着いて。良い? そんなへろへろの足で一時間歩くのと、三十分休憩を挟んで普通に歩くの、どっちが早いと思う? それにさっきも言ったけど、動物に襲われて、走って逃げられないなら食べられてあの世行き。そもそも町に辿り着けない」

 

「で、でも……早くしないと……」

 

「焦ってやってもろくな結果にならないよ。繰り返すけど、死んだら元も子もない。だから休むべき。ね?」

 

 ゆっくりと、静かに、けれどもハッキリとスピカはすべき事を告げる。フォーマルハウトは納得出来ないと言いたげな表情を浮かべたが、しかし理性的な意見に反論が思い付かなかったのだろう。少しの間押し黙った後、こくりと、小さく頷いた。

 

「良し、じゃあ休憩ね」

 

「うむ。分かった!」

 

 スピカの言葉に、ウラヌスは返事をしながらどかんっと座る。そんだけ元気ならコイツはあと二時間以上余裕で歩けそうだなーと思いながら、スピカもゆっくり座り込む。

 そしてフォーマルハウトは、ぱたりと倒れた。

 やはり疲労が限界に達していたらしい。スピカが思った通り、このままでは猛獣に襲われてもろくに走れず、あえなく食べられていただろう。尤も、そうなったらウラヌスに抱えてもらうつもりだったが。本当に危険なら、もっと前に無理やり休ませている。

 なんにせよしばらくフォーマルハウトは動けないだろう。スピカも長めの休憩で、身体をしっかり休ませる。

 ただし旅の途中で冒険家が真に休む事は早々ない。身体を休めている間も、頭でやる事はいくらでもあるのだ。

 現在の旅の進捗を確認するのも、その一つ。

 

「うーん、そろそろ到着しても良い頃なんだけどな……」

 

 スピカは地図を広げ、自分達の場所と宝石都市の位置を確認。あとどれぐらいで辿り着くか計算しようとする。

 実際のところ、旅は順調だ。

 体力のないフォーマルハウトとの旅なので休憩を多めに挟んでいたため、最短の二日で宝石都市クエンに辿り着く事は出来なかったが……しかし想定よりも早く進んでいると思われる。フォーマルハウトが無理したのもそうだが、一番の要因は『邪魔』が入らなかった事だろう。

 邪魔とはつまるところ、野生動物の事だ。ここ最近のスピカ達のようにキマイラやスライムなど頂点捕食者に襲われる事は本来稀なのだが、人間程度の大きさの肉食動物に襲われる事はそれなりにある。

 冒険家はしっかりと武装していて、更に知識もあるので、自分と同じ体躯の獣に負ける事はあまりない。だが、時間はかなり奪われる。油断すれば殺される相手なのだからサクッと済ませるなんて嘗めた真似は出来ないし、それだけ緊張すれば体力と精神を消費するため休息が必要になるからだ。逃げるにしても方角によっては大きな迂回となる事もある。

 そうした邪魔がなかった事は喜ばしい話であるが、今回に関してスピカは素直に喜べない。単なる幸運ではなく、原因に心当たりがあるからだ。

 

「(多分、レギオンがこの辺りの動物達を喰い尽くしたんだ)」

 

 町一つ飲み込む規模の群れを維持するには、大量の獲物が必要だ。レギオンが動物達を喰い尽くしていても、なんら不思議はない。

 ただ、そうなると新たな疑問も浮かんでくるのだが。

 

「(道中、全然クエンからの脱出民に出会わなかったのはなんでだろ)」

 

 獣に襲われた時、取るべき選択肢は二つ。

 一つは戦う事。そしてもう一つは逃げる事だ。中には「話せば分かり合える!」等という論理性皆無な発想に辿り着く者もいるかも知れないが、そういう超少数派(阿呆)の意見はひとまず置いておく。

 さて、仮に逃げるという選択をする者が九割だと仮定しよう。実際はもっと多いだろうが、細かくなると計算が面倒なのでこの値で概算する。昔スピカが誰かから聞いた、宝石都市クエンの人口は約四万人。九割がレギオンから逃げたとすれば、三万六千人が町の外に脱出しようとした計算となる。

 勿論全員脱出は不可能だ。レギオンに捕まり、食べられてしまう人は間違いなくいる。しかし仮に九割が喰われたとしても、三千六百人がまだ生きている。その三千六百人が全方位(仮に十方向)均等に散り散りになったとしても、三百六十人は交易都市セレンまで行きそうなものだ。実際には隣の町の方角くらい知っているだろうから、そこまで散り散りにもなるまい。

 どうして此処までの道中で、あの大富豪以外の生存者に出会わなかったのか。付け加えると行き倒れも見ていない。徒歩二〜三日の距離なのだから行き倒れがいない事自体は自然だが、ならばやはりセレンに向かう人々と出会わないのはおかしい。レギオンに獣が食い尽くされたなら、獣に襲われる心配もないのに。

 

「(レギオンが生存者を執拗に追跡した? いや、それならこの辺りでレギオンの姿を見ている筈。だとすると考えられるのは……)」

 

 一人も逃さないような大群団が、人間の軍隊も顔負けの統率力で襲い掛かった。

 ……考えられない、とは言わない。自然は何時も人間の『常識』を超えてくる。ましてや生態がよく分かっていないレギオンの能力がどの程度のものであるかなど、推測のしようがない。人間の軍隊染みた統率力を持つ存在という可能性も考慮すべきだ。

 しかし自然は常識を超えても、条理は逸しない。

 四万人の人間を殆ど逃さない大群団となれば、大量の餌が必要な筈だ。それを維持するためには連日狩りを行わねばならない。そうなればやはり、この辺り一帯で狩りをしているレギオンと遭遇しそうなものだが……

 疑問が新たな疑問を呼び、考えが纏まらない。

 

「なーなー、ところでクエーとかいう町はまだ見えないのかー?」

 

 挙句、ウラヌスというお邪魔虫が無邪気な声で考えを邪魔してくる。

 適当にあしらいたいところだが、粘られても面倒だ。そう思いスピカは渋々ながら答える。

 

「……クエンはあっちよ。距離的にはそろそろ見えてくる頃だと思うけど」

 

「ふぅーむ。あっちか……」

 

 スピカが指差した方角を、ウラヌスはじっと見つめる。

 スピカは嘘を吐かず、ちゃんとクエンがあるであろう方を示した。そして本当に、そろそろ見える頃である。ましてや超人的身体能力の持ち主であるウラヌスの視力であれば、何かが見えたとしても不思議はない。

 そういう期待も少しはしていた。

 

「お。確かに見えるな! 何か、塔みたいなものがあるぞ! あんな大きな建物を作るとは、凄いものだなー」

 

 だが、まさか本当に見えるとは思わなかった事――――そして奇妙な一言に意識を奪われ、言葉が詰まる。

 塔みたいなものがあると、ウラヌスは言った。

 クエンにそのような建造物があるのだろうか? 宝石都市の名は世界中で有名であるが、遠くから見える巨塔があるという話をスピカは聞いた覚えがない。

 地元民であるフォーマルハウトは何か知っているのだろうか? それを尋ねようとスピカはフォーマルハウトの方へと振り向いた

 直後、スピカの顔の横を風が通っていく。

 

「――――ちょっ!?」

 

 横切ったものがフォーマルハウトだと気付き、スピカは慌てて立ち上がる。

 フォーマルハウトは全速力で駆けていた。クエンがある方へと、一直線に。

 どうやら倒れた彼女の意識は目覚めたままだったらしい。そしてクエンが見えると聞いて、居ても立ってもいられなくなったのだ。

 気持ちはスピカにも分かる。スピカもフォーマルハウトの立場なら、恐らく同じ行動を起こしているだろう。

 だが、その先にいるのは十中八九レギオンの大群。まだ距離があるとはいえ、迂闊に近付くのは自殺行為だ。

 

「ウラヌス! あの子を止めて!」

 

「む? 分かった」

 

 ウラヌスの方が速いと判断し、スピカは指示を出す。ウラヌスは荷物を置いた後、身軽になった身体ですっ飛んでいった。

 そうしてフォーマルハウトは呆気なくウラヌスに捕まる。フォーマルハウトは暴れていたが、ウラヌスの腕力を振り切れる訳もない。

 

「離して! 離してってば!」

 

「落ち着いて! 大丈夫、ちゃんと近付くから。ただしゆっくり。レギオンがいるかも知れない」

 

 叫ぶフォーマルハウトを宥めるように、スピカは理由を説明する。

 フォーマルハウトは何かを言おうとしたが、反論しようと考えた事で少しばかり冷静さを取り戻したのか、或いはウラヌスの拘束から逃れるのは無理だと思ったのか。口を噤むと暴れるのは止め、大人しくなった。

 スピカはフォーマルハウトの頭を撫で、ウラヌスに拘束を解くよう伝える。ぱっとウラヌスが手を離しても、フォーマルハウトはもう走り出さない。

 スピカはこくりと頷き、自分が先頭に立って、宝石都市がある方へと歩き出す。

 超人でないスピカの目は、ウラヌスほどには優れていない。

 しかしいくらウラヌスでも地平線の向こう側を透視出来る訳もなく、どれだけ遠くとも地平線から出ているものしか見えない。つまり決して普通の人間の何十倍も遠くまで見えている訳ではないのだ。

 歩いていれば、そのうちスピカにも同じものが見えてくる。着実に、段々と、ハッキリ。

 

「アレが、宝石都市か……」

 

 やがて都市らしきものがかなり大きく見えてきた。スピカは目を凝らし、その全容を探ろうとした

 その時である。

 フォーマルハウトの足が、突然止まった。

 駆け出したのではない。ぴたりと立ち止まって、そのまま前に進まなくなってしまったのだ。

 一度は止められたとはいえ、ハッキリと故郷が見えたならまた走り出すものではないか? そう思い警戒していたスピカだったが、フォーマルハウトは何時まで経っても走るどころか動きもしない。

 何故フォーマルハウトが止まったのか。その答えは間もなく明らかとなった。ただし教えてくれたのは、フォーマルハウトの言葉ではなく、スピカが見ていた景色。

 ()()()()()()()()()()()()()()が、宝石都市の代わりにそびえる姿だった――――

 



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白い軍勢6

 宝石都市、だった筈の場所に辿り着いたスピカ達が向かったのは、都市から少し離れた山だった。

 山と言っても木は一本も生えていない。岩と砂の塊のような場所だ。フォーマルハウト曰く、宝石都市が所有している鉱山の一つらしい。実際、道中には小屋が建っていたり、手押し車やツルハシなどの仕事道具が置かれていたりしていた。

 見た限り、今も採掘を続けている鉱山のように見える。ならば働いていた人間達もいた筈で、宝石都市クエンから離れていた事で難を逃れていそうなものだが……そんなスピカの疑問に答えたのはフォーマルハウト。曰く、安全性の観点から鉱山内での仕事は夕方までで、夜には全員町に帰っているという。仮にレギオンが真夜中に町を襲ったなら、鉱山労働者とて逃れる事は出来なかっただろう。

 そして襲われた町は――――もう、人間の町の姿をしていなかった。

 

「……あれがレギオン、の巣かな」

 

 山の上から見下ろしながら、スピカはぽつりと独りごちる。

 スピカ達が山頂付近に辿り着いた、今の時刻は昼間。大地は明るく、地上の様子はよく見えた。故に山の麓に広がる町こと宝石都市の様子を観察するのに支障はない。

 だから全てが真っ白に染まった宝石都市の姿がよく見えた。

 寒い地域に降る『雪』が積もっている、という訳ではない。白いものの正体は真っ白な糸だ。その糸は太さも長さも様々であるが、家と家の間を横断するほど立派なもの。それが町の端から端まで、全てを覆い尽くしていた。

 更に町の中心には、巨大な白い塔がそびえている。

 塔の高さは、ざっと()()()()()()はあるようだ。人間が建てたどんな建造物よりも巨大なそれは、石や木で出来ていない。遠目からなのでハッキリとは分からないが、柔らかで生物的な質感で出来ている。風が吹くと微かにしなるが、倒れる気配はなく、かなり丈夫なようだ。

 そんな糸と塔の町を闊歩している無数の生物……それがレギオンなのだろう。

 

「(私が読んだのは絵図も何もない本だったから、文章でしか知らなかったけど……確かに、これは今まで出会った生物の中で特にヤバい見た目だなぁ)」

 

 数多の生物を冒険の中で見てきたスピカすら、顔を顰めてしまう。

 レギオンの外見を一言で言うならば、蜘蛛である。

 ただし人間一人分ほどの大きさがある、巨大蜘蛛だ。身体は町を覆う糸と同じ真っ白なもので、頭にある赤い八つの目玉が鮮やかに浮かび上がる。口許に生えている大顎は人の手の倍以上の長さがあり、アレに首でも噛まれれば間違いなく失血死すると予感させる。胴体から生える八本の脚も人間の腕ほどに太く、巨体をしっかりと支えていた。

 レギオンは張り巡らされた糸の上を歩き、縦横無尽に町を行き来している。地面を歩いている個体もいるが、建物の上を歩いている個体もかなり多い。尤も、姿が見えてもその群団の規模を把握するのは困難だが。

 理由は簡単だ。数が多過ぎる。

 百や二百なんてものではない。見える範囲だけで、数千はいるように思えた。物陰に隠れている個体を含めたら恐らく数万体……宝石都市の人間以上の数がいそうだ。

 スピカが想定していた群れの規模は、ドラゴンすら喰らう数百体程度、或いはその十倍程度の軍勢だった。しかし宝石都市にいるのは推定でその十~百倍。ドラゴン百体分の戦力とは、あまりにもハチャメチャだ。この数が警備の手薄な深夜に都市を包囲し、一気に攻め込んだとすれば、成程確かに人一人逃さないだろう。先日助けた大富豪は余程幸運だったと思われる。

 

「おー、これは凄いなー」

 

 ちなみにスピカより目が良いウラヌスは、脳天気な感想を述べた。巨大蜘蛛への嫌悪は特にないらしい。ある意味とても頼もしい。

 しかしこの頼もしさを、十歳の少女に期待するのは酷というものだろう。

 

「……大丈夫?」

 

「う、うん……」

 

 スピカは隣にいるフォーマルハウトに声を掛ける。なんとか返事をするフォーマルハウトだったが、その声は震えていた。

 付け加えると、フォーマルハウトは身体も小刻みに震わせている。顔はすっかり青くなり、今にも嘔吐しそうだ。町のあまりの変わりように、そしてレギオンのおぞましい姿に、心が恐怖に支配されたのだろう。

 これ以上この光景を見せるのは、彼女の精神上良くない。とはいえ故郷の惨状を前にして、休めと言っても休んではくれまい。

 そういう時は、別の仕事を与えるのが一番だ。

 

「ちょっと頼みたいんだけど、背後の警戒をしといてくれない? 町を観察している間、背後がお留守になって危ないから」

 

「……分かった」

 

 スピカが頼むと、一瞬迷いながらもフォーマルハウトは町から顔を背け、自分達の背後を見る。

 町を目に入れなければ、少しはフォーマルハウトの気分もマシになるだろう。それに ― スピカとしては素人に命を預けるつもりなんてないが ― 背後の警戒が必要なのも間違いない。

 これで眼下の町の観察に集中出来る。それと、今後についての作戦会議も。

 

「……ウラヌス。念のため確認だけど、あの数は相手出来る?」

 

「無理だなー。アイツ等がネズミぐらい弱いなら別だが、見た目ぐらいに強ければ数で圧倒される」

 

「そう。ま、予想通りだけど」

 

「でも行けと言うならやってみるぞ!」

 

「なんでちょっとワクワクしてんのよ」

 

 これだけの大群を前にして楽しそうなウラヌスに、スピカも呆れてしまう。とはいえウラヌスの正直な意見は参考になった。やはり真っ向勝負は論外である。

 そしてそれ以外の案は、今のところ何一つ思い浮かんでいない。

 それは自分達がレギオンについて、何も知らないのが大きな要因だ。逆にこの巨大な群れの仕組みを理解し、弱点を叩けば、勝機が見えてくるかも知れない。

 ……逃げる事ではなく勝つ事を考えている自分に、スピカはほとほと呆れ返った。無謀にも程がある。しかし考えを改める事はせず、レギオンの観察に勤しむ。

 とはいえ山の麓から見て、詳細を把握するのは人間の視力だと些か厳しい。

 そこでスピカは懐から、道具を一つ取り出した。片手に収まるほど小さな筒状のそれは、単眼鏡という。造り手曰く、ガラスやらなんやらを使い、遠くの景色を拡大して見る事が出来る道具だ。

 遠くの景色がハッキリ見えてとても便利、と言いたいが……何処から敵が現れる自然界では視野を広く持つ事が重要である。単眼鏡は覗き込んで使い、また一ヵ所の景色を拡大しているため、視野が普段の何百分の一にも狭まる。これでは危険を通り越して自殺行為だ。そのため中々使う機会がなかったのだが、ついに活躍の時が訪れた。

 

「(さぁーて、まず知りたいのはこの大群をどうやって維持してるのか、といったところかしら。普通の百倍以上の数って事は、百倍以上の餌が必要な訳だし)」

 

 軍隊にしろ、大群にしろ、まず考慮しなければならないのは兵站……つまり物資である。大群団が消費する食べ物の量は莫大であり、それを確保しなければ群れは飢え、やがて死に絶えていく。

 レギオンは時にドラゴンすら襲うほど強い肉食性と言われているが、何分群れの詳しい生態は分かっていない。食糧の安定した供給源があるなら、それを叩けば群れを壊滅させられるだろう。

 そう思いながら単眼鏡越しに観察していたスピカは、やがて答えを見付けた。ただし、望んでいたものとは少し異なる形だったが。

 

「(あれは……人間……!?)」

 

 町の中心付近を見ていたところ、一匹のレギオンが人間を引きずっている光景を目の当たりにする。

 引きずられているのは、大人の女性だろうか。驚くべきは、その人間が()()()()()()()()()()()事。即ち、まだ生きているのだ。

 レギオンは生きた人間を引きずっていく。暴れているため少し手間取っている様子だ。だが、何故生きたまま運ぶのか? 食べるためなら今此処で殺してしまえば、運ぶのはかなり楽になるだろうに。

 観察を続けていると、レギオンはやがて高くそびえる『塔』に辿り着いた。レギオンは女を咥えながら持ち替え、その女を塔に押し当てる。

 するとどうした事か。塔から白い何かが、にょきにょきと伸びて女に絡み付いたではないか。

 女は激しく暴れた。いや、暴れたというよりも『痙攣』と言うべきだろうか。普通でない様相を見せた後……その身体から、白い何かが生える。

 まるで人の腕のように長く伸びた、白い棒のようなもの。

 恐らく『キノコ』だとスピカは思った。女を連れてきたレギオンはそのキノコを咥え、千切り、食べてしまう。一本食べたら満足なのか、レギオンはその場を後にした。

 しかし女からは次々とキノコが生えてくる。何本どころか何十本も。更にキノコは女の身体のみならず、塔の全体からぼこぼこと生えてくる。生えてきたキノコを全部合わせたら、女の身体よりも多くなるように見えた。周りから集まってきた何十もの数のレギオン達は白い巨塔 ― 実際にはキノコの本体だろう ― に登り、次々とキノコを食べていく。

 どうやらレギオンは直接獲物を喰らうのではなく、キノコを育てる肥料として使うらしい。本当の食性は肉ではなく、キノコ食という事だ。

 そのキノコは(もしかするとキノコではなく植物のようなものかも知れないが)獲物を養分にして大量に生え、よりたくさんの食糧を生み出す。そうしてレギオン達は、僅かな獲物で大きな群れを維持出来るのだろう。獲物の乏しい荒野で生き抜くためと思えば、成程、優れた生態だとスピカは思う。

 人間の感性で言えば、史上最悪な生き方だが。

 

「(遠目とはいえ、フォーマルハウトにあれを見せずに済んで良かったわね)」

 

 住民が生きたままキノコの苗床になる……常人なら気が狂いそうな光景だ。ましてやフォーマルハウトは小さな子供である。家族の安否もそうだが、家出していなかったら自分がああなっていたという予想も心を蝕む。あんなものを見たら、一生モノの傷を心に負うだろう。

 スピカも長く冒険家をしていて、顔面がぐずぐずに溶けた腐乱死体などを見ていなければ、吐き気の一つでも込み上がってきただろう。ウラヌスは見えているかどうか分からないが平然としていて、やはり彼女の『心理』は獣に近いとひっそり思う。

 さて。この惨たらしい光景を見た事で、一つ分かった事がある。それも人間にとって、極めて好都合な事実だ。

 

「(獲物は何処かに、生かして保存している訳ね)」

 

 キノコが生き餌以外好まないのか、単純に腐ったものを使いたくないだけなのか。理由は兎も角、キノコの肥料に使われた女は、まだ生きていた。暴れる程度には元気なほどに。

 恐らくそれは、レギオンが『世話』をしているからだ。人間が飲まず食わずで生きられる期間はざっと三日。乾燥した地域であるこの辺りなら、もっと短くなるだろう。先の女の元気さを思えば、肥料に使われる前でも水分ぐらいは与えていると思われる。

 この乾燥地で水分は貴重な筈。しかし塔のように巨大なキノコであれば、地下深くまで『根』を伸ばしていると思われる。その深さが十メトルを超えれば、地下水などに辿り着いてもおかしくない。そうした水を吸い上げていれば、肥料(人間)に分け与えるぐらいは出来そうだ。

 水さえ得られれば、健康的な人間なら二十日以上生きられる。フォーマルハウトが家出した時町はまだ無事だった事を思えば、どう長く見積もってもレギオンが襲来したのは十日以内の出来事。食べられてさえいなければ、相当数の住人がまだ生きている筈だ。

 フォーマルハウトの家族も、全員無事かも知れない。ただしその可能性は、時間が経つほど低くなる事を忘れてはならないが。

 

「(さて、どうしたものかな……)」

 

 助けるための作戦として、思い付くのは二つ。

 一つはレギオンの群れを壊滅させる事。住民を喰らう生物を倒せば、住民は自由を得られる。極々単純な理屈であり、やるべき事も明白。一番良い作戦だ……どう考えても勝ち目がない事に目を瞑れば。

 もう一つは住民達が『保管』されている場所を突き止め、安全な道を探して逃がす事。こちらは上手くやればレギオンと戦わずに済むかも知れない。しかしその安全な道を、どうやって探せば良いのか? 仮に住民がまだ何千人と生き延びていた場合、その大人数を動かしてレギオンが気付かないとは思えない。肥料を生きたまま保管しているなら、見張りがいる可能性もあるだろう。

 どちらの方針を選ぶにしても、レギオンの大群団との戦いは避けられそうにない。ならば一番安全なやり方は――――

 

「……ウラヌス。一つ頼みたい事があるんだけど」

 

「む、なんだ? あの大群に突っ込むのか? 良いぞ、望むところだ!」

 

 スピカの前置きに、ウラヌスは意気揚々としながら答える。

 ほぼ確実に負けると分かっていながら、衰える事のない闘争心。これが戦士なのかと、呆れを通り越して尊敬したくなってきた。

 それに、実際似たような事を頼むつもりなのだ。むしろこの心意気は買わねばならない。

 

「一応ね。ただ私も一緒に行くのと、狙う対象がある」

 

「狙う対象? 全員と戦うんじゃないのか?」

 

「私はアンタほど自分の命を軽く扱わないの。勝てない勝負をするつもりはないわ……勝負するなら、勝ち目のある方法を使う」

 

 数万体にもなる大群団。まともに挑んだなら、どうやっても人間の勝てる相手ではない。

 しかしその生態を少し理解していれば、その糸口は掴める。細く、不確かなものであったとしても。

 合理性はもう脇に置いた。やると決めたからには、突き進むのみ。故にスピカは閃いた作戦を言葉にする。

 

「作戦は簡単――――あの群れの何処かに、奴等を統率している女王がいる。ソイツを叩き潰せば、私らの勝ちよ」

 

 全く以て正気でない、一大作戦を……



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白い軍勢7

「むんっ!」

 

 山の麓から降りたウラヌスは、ばちんっと自分の頬を叩く。

 仲間が見せた気合いを入れるための動きにより、スピカの身体にも軽い衝撃が走る。軽く人間離れした力にちょっとした不気味さを感じなくもないが、しかし今のスピカにとっては丁度良い刺激だ。

 何しろこれから、目の前に広がるレギオンの巣に突入しようと言うのだから。

 

「(いやー、これは流石に比喩でなく人類初の行いなんじゃないかなぁ)」

 

 レギオンの巣に数人で突撃し、女王を打ち倒す。

 スピカは冒険家として必要な知識を身に着けるため、様々な書物を読んできた。それこそ数え切れないほどに。しかし今まで読んだ本の中に、レギオンの群れ……その中枢である『女王』を倒したという記述はない。

 そもそもレギオンに女王がいるという情報自体、人間の想像だ。アリやハチのような、優れた統率性と自分自身の命すら厭わぬ凶暴さから、母親である女王がいると考えられているだけ。もしかするとレギオンという種族自体が、奇怪な思想の持ち主という可能性もある。この場合女王なんておらず、作戦は前提からして破綻している事になる。

 そして何より、レギオンの女王を倒せば無力化出来る、という考え自体が憶測だ。少なくとも人間がレギオンの女王を、公式に倒した事はないのだから。

 

「(頼みの綱は何処かで聞いた御伽噺……勇者が白い虫の軍団に挑み、その軍団の王を征伐して追い返すって感じの)」

 

 嘘か真かもわからぬ御伽噺。レギオンについて紹介する記述の中に、それを見付けた事がある。

 あらすじは、今し方スピカが思っていた事そのまま。勇者が悪い軍団の指導者を倒して町を守りました、めでたしめでたし――――そんな話などいくらでもあるものだが、御伽噺というのは何かしらの『元』がある事も少なくない。

 白い虫の軍勢など、如何にもレギオンの特徴だ。それを勇者が、指導者を倒した事で追い返した。レギオンには女王がいると推測されている点も合わせて考えれば、レギオン退治を語り継いだものと言えよう。これがレギオンの『倒し方』だと、後世に伝えるために。

 ……尤も、勇者と元になった人物の偉業を伝えるため、あれこれ付け足した要素という可能性もあるのだが。というよりその可能性の方が高い。

 つまるところ確信がない。憶測だらけの穴だらけ作戦だ。

 それでも命を賭すのが自分だけなら、スピカとしてはまだ良い。ウラヌスのようにノリノリであるなら、他人が同行するのもご自由にと思う。頼れる戦力なら、自分達が生きるためという名目で無理やり引き込むのも仕方ないだろう。

 しかし、怯えている人間を連れ込むのは流石に気が引ける。戦う力がないなら尚更だ。

 

「あわ、わわ、わ。わわわわ……」

 

 具体的にはガタガタ震えている、フォーマルハウトのような少女を。

 

「……やっぱり、あなたは安全なところに隠れてて。山の鉱山内は人間の活動圏だから、比較的安全な筈。私達が戻らなかったら、交易都市まで逃げて。一人で行くのは大変だけど、方角さえ間違えなければ町に行ける。動物に襲われる心配も、今ならないと思うし」

 

「だ、大丈夫! 私を見くびらないで! それに私、絶対役に立つから!」

 

 スピカの気遣いを、フォーマルハウトは気丈な言葉で跳ね除ける。胸を張り、笑顔まで浮かべた……目がヒクヒクと痙攣し、涙も浮かんでいたが。

 しかし、怯える身体は後退りしない。

 フォーマルハウトは確かめたいのだ。家族が生きているのか、本当に町は助けられるのか。そしてそれをただ眺めているだけなのは嫌だ、と。

 合理的に考えれば、そんな感情的な意見を取り合う必要はない。拒否すればわーわー騒ぐだろうが、首に手刀でも叩き込んで気絶させてしまえば問題解決だ。

 だが、スピカは手どころか口も動かない。

 フォーマルハウトの眼差しの奥に、彼女の『家族』が見えた……気がしたがために。

 

「……ああもう! それなら私が背負うから、絶対、ぜぇーったいに、私から離れない事! 分かった!?」

 

「うん! 任せて!」

 

 フォーマルハウトの元気な返事を聞き、スピカは大きくため息を吐く。自分の押しの弱さに辟易する。

 それでも言った手前、今更撤回する気も起きない。ならばとフォーマルハウトを背負ったスピカは、ロープでぐるぐると自分とフォーマルハウトを巻き、解けないよう結ぶ。これで絶対に大丈夫、とは言えないが、少女の力だけでしがみつくよりはマシだろう。

 それにフォーマルハウトという『相方』を得た事は、不利益ばかりではない。

 人間の目は常に正面を見ている。スピカは普段から後方を気にしているが、それでも見えないのだから正面と比べて警戒が疎かになるのは仕方ない。前方の戦いに集中するとなれば尚更だ。フォーマルハウトが後ろを見てくれるだけで、目の前の戦いに集中出来る。小さなフォーマルハウトの体重は軽く、動きを妨げられるという不利益も小さい。総合的には、悪くない状態だ。

 なんにせよ準備を終えた。後は勢いよく町に突撃するのみ。

 

「……いくよ、ウラヌス!」

 

「おう!」

 

 掛け声を合図にスピカは走り出し、ウラヌスと共にレギオンの巣と化した宝石都市に向かう。

 スピカ達が走り出しても、巣を歩くレギオン達の反応は鈍い。町の住人という餌を大量に手に入れて、狩りの必要性を感じていないのか。

 しかしその緩い反応は、スピカ達と巣の距離が一定以上縮まると一変した。

 

「ピュゥゥイイイイイイイイイイイッ!」

 

 悲鳴と口笛を混ぜ合わせたような、甲高い声が鳴り響く。

 それは巣の上を歩いていたレギオンが上げた鳴き声だった。そして一体のレギオンが鳴くや、今まで暢気に歩いていたレギオン達の動きが変わる。あくまでも見える範囲での話であるが、一斉にレギオン達はスピカの方を振り向いた。

 なんという統率性なのか。

 恐らく今し方鳴いたのは、見張り役のレギオンなのだろう。駆け寄ってくるスピカ達を敵と見たのか獲物と見たのかは分からないが、いずれにせよ『迎撃』が必要だと判断したに違いない。

 そしてその迎撃は、巣の外ではなく内で行うつもりのようだ。何故ならレギオン達はスピカ達を見つつも、向かってくる事はしないのだから。

 

「(有利な場所が分かってんのか、それとも本能か。これじゃあ誰かが囮になって中の奴を外に誘き出し、巣の中を手薄にするって作戦は無理ね……!)」

 

 元より、何万体いるか分からないレギオンの一部を誘い出しても効果は薄いだろうが。もしもぞろぞろと何万も出てきたらやろうと思っていた作戦を、スピカはあっさり切り捨てた。

 それよりも次の作戦を考える。と言ってもここまで来たらやる事は単純だ。

 三人揃って中に突っ込むのみ。

 

「ウラヌス! 逸れないでよ!」

 

「努力しよう!」

 

 最後の確認と、最後の返事を聞いて、二人はレギオンの巣に足を踏み入れた。

 町を埋め尽くすように張り巡らされているのは蜘蛛の糸。スピカ達が走るのは町の道路であるが、上も左右も糸に覆われ、糸の洞窟に入ったような錯覚を覚える。勿論糸を踏まずに前には進めず、スピカは糸の道路を踏み締めていく。

 しかしレギオンの糸は、踏んでも粘り気はなかった。これについては想定内。何故ならレギオンが上を歩いていたのと、レギオンは待ち伏せではなく群れで狩りを行う動物だから。草木の間に巣を作る普通の蜘蛛でも、自分が歩く糸には粘り気がないという。ちゃんと歩くための『足場』を用意しているのだ。レギオン達も糸の上を歩いていたので足場にしているのは確かである。そして待ち伏せ型の狩りではないレギオンにとって、何処かに粘着いた部分があっても移動の邪魔なだけ。ねばねばした糸を出す筈がない。

 そうした情報は書物にはなかったが、スピカは生物の知識と観察から推察。確信はなかったが、確実に当たる予想だとは思っていた。まずは一安心だ。

 だが、ここからが本番である。

 

「ひっ!? 後ろに来てる!? う、後ろと、あと上にも!」

 

 早速フォーマルハウトが役立ってくれた。

 背後からやってくる一体のレギオン。そして見えないが、どうやら頭上の糸を走っている奴もいるらしい。

 しかし追われる事は良い。問題は、その速さだ。

 

「追い付かれそう!?」

 

「あ、当たり前……ん、あれ? そ、そうでもない?」

 

「そうでもないのね! 良し!」

 

 これもまた予想通り。スピカは拳を握り締めながら、笑みを浮かべた。

 レギオンは巨大な節足動物だ。されどその大きさは人間と大差ない程度。しかも八本脚で、脚の生え方は横から突き出したガニ股である。

 狼や鹿は人間よりも速く走る。だがそれは彼等が獣だから、ではない。人間よりも走るのに適した身体の作りをしているからだ。蜘蛛であるレギオンの身体は見たところ走るには不向き。それでも人間並の速さを出せるのは流石『野生動物』と言ったところだが、追い付かれないならどれだけ優秀さを見せても意味がない。

 それに、身体の横幅が人間より大きいのもスピカ達にとっては好都合。

 

「そ、そこの角を曲がってすぐの右側に、狭い路地があるよ! そこを通れば大通りを迂回しないで、町の真ん中に行ける!」

 

「良し!」

 

 フォーマルハウトの助言に従い、スピカ達は角を曲がる。

 言葉通り、曲がってすぐの右手に路地裏への入口が見えた。人一人が通るのがやっとの狭さの道は、()()()()()()()()()()()()

 スピカ達が突入すれば、レギオン達も突っ込んできた……が、その動きは止まった。身体の幅が広過ぎて、路地裏の左右に並ぶ建物と激突したのである。

 恰幅の良さが仇となり、狭い道には入れない。これも遠くから観察して予想していた事だが、実際に確認出来た事で確信に変わった。逃げ回るための手が一つ増えたのはとても有り難い。

 それと、フォーマルハウトのお役立ち具合も想像以上だ。

 

「アンタ、金持ちの娘なのに町の事よく知ってるね! てっきり箱入り娘かと思ってたんだけど!」

 

「ふふん! パパが出張中はよく外で遊んでいたのよ! あ、ここを出たらまた大通りだから気を付けてね!」

 

 宝石都市の詳細な地理を知らないスピカ達にとって、フォーマルハウトの頭の中にある地図は値千金の情報だ。逃げるための道順が分かるのは勿論、行き止まりに行ってしまう可能性をゼロに出来れば生存率は飛躍的に向上する。

 突撃は順調。このまま都市内を歩き回れば、目的の女王、或いは町の人が『保管』されている場所を見付け出すのは簡単に思えてくる。

 とはいえ全てが人間達の思惑通りに進むなら、人間は今頃世界の全てを支配しているだろう。だが現実はそうなっていない。

 野生の生物は、早々人間の思い通りになってくれないものだ。

 

「(上、通っているな……!)」

 

 路地裏を走りながら、スピカが意識を向けたのは頭上。

 路地裏に糸は張られていない。だが路地裏の上に広がる筈の空は、無数の糸に埋め尽くされていた。分厚く束ねられた糸はボコボコと凹み、上を何か――――レギオンが走り抜けているのが分かる。

 レギオンに威圧を掛けている認識はなく、ただ獲物の後を追っているだけだろう。

 だが人間からすれば、極めて強烈な精神的な圧迫だ。住人の中には路地裏に逃げ込んだ人も少なくなかった筈だが、上を走り回るレギオンに恐怖して跳び出した者も少なくなかっただろう。

 そして路地裏から出たところを、上から襲い掛かる。冷静さを失っていたら、まず逃げられない巧妙な作戦だ。

 だが、分かっていればやりようはある。

 

「ウラヌス!」

 

「任せろ!」

 

 路地裏を出た瞬間スピカがその名を呼ぶと、ウラヌスは即座に反応。立ち止まり、上を見据える。

 そこには路地裏の上に張り巡らされた糸から降りてきた、レギオンの姿があった。

 

「ふんっ!」

 

 そのレギオン目掛け、ウラヌスは拳を振り上げる!

 レギオンに翼は生えていない。つまり連中は空を飛べず、空中での身動きは取れない。振り上げられたウラヌスの拳は、恐れなど抱いていないであろうレギオンの顔面に突き刺さった。

 ウラヌスの拳はレギオンの頭部甲殻を砕く。青白い体液が溢れ出し、脳らしき臓物が頭から吹き出した。それでもレギオンはまだ動き、鋭い爪を持った前脚でウラヌスを突き刺そうとする。

 だが、ウラヌスの拳はまだ止まらない。

 突き刺した拳は更に前へと突き出す。与えられた衝撃によりレギオンは空に吹っ飛び、身体を巡る打撃の所為か脚や身体がバラバラと千切れていった。

 そのままレギオンは何処かに消えて、ずどんっという物音が町に響く。墜落したのだろう。

 

「ふむ、こんなものか。これなら千匹来ようとどうにでも出来るな!」

 

「す、凄い……!」

 

 胸を張るウラヌスに、フォーマルハウトは素直に感嘆の言葉を送る。

 確かにウラヌスは凄い。レギオンを片手でぶっ飛ばすなど、比喩でなく人間業ではない。やはりコイツはほぼ猛獣だなと、スピカは思う。実際千匹来ても、ウラヌスならどうにかしてしまう気がした。

 だが、その千匹は一匹ずつ来た時の話。

 そしてレギオンがわざわざ正々堂々と挑んでくれる筈もない。

 

「ピィイイッ!」

 

「ピキィィイイイイイッ!」

 

 甲高い声が町の奥から聞こえてくる。

 振り向けば、遠くからこちらを見ているレギオンがざっと五体はいた。早速数で圧倒しようとしているようだ。そう考えて構えを取るスピカ

 

「だ、駄目!」

 

 だったが、突如フォーマルハウトがその行動を否定する。何故? 抱いた疑問の答えはすぐに分かった。

 背後から迫る、爆音と言うべき『足音』が教えてくれたがために。

 

「(しまった! 挟撃か!)」

 

 正面で鳴き声を上げている連中は囮だったらしい。小賢しい作戦を、とも思うが、自然界にそんな評価は意味を持たない。どんな手を使おうとも、生き延びたものが正しいのだ。

 それはスピカ達にも当て嵌まる。挟撃には驚いたが、気付いてしまえばどうという事もない。戻るのは癪だがもう一度路地裏に逃げ込めば――――

 

「違う! 上!」

 

 その思考を止めたのは、フォーマルハウトの叫び。

 ハッとして上を見た時、スピカの目には何体ものレギオンが路地裏の上に張り巡らせていた糸から跳び出す光景が映った。

 挟撃と思わせて、第三の方向からの攻撃。

 人間染みた高度な作戦に、スピカは驚きから思考が止まった。それはほんの僅かな時間だったが、目の前に危機が迫る状況では致命的。

 もしもフォーマルハウトの言葉がなければ、反応が間に合わずレギオンの群れに潰されていただろう。フォーマルハウトのお陰でそれは避けられたが……しかし咄嗟の指示は出せない。

 スピカとウラヌスは跳んでその場から退避したが、その方向は互いに離れるようだった。

 

「む! これはいかん!」

 

 路地裏側に跳んだスピカの存在に、道路の広い方に跳んだウラヌスが気付く。直ちに戻り合流しようとしてくる。

 

「ウラヌス! 来ないで良い!」

 

 それをスピカが止めた。

 理由は二つ。一つはウラヌスと自分達の間に、レギオンの大群が待ち構えているため。いくらウラヌスとはいえ、大群を叩き潰すには時間が掛かるし、無理をすれば怪我を負いかねない。それは後の事を考えると危険だ。

 もう一つは、これを作戦として活かすため。

 

「私達が囮になる! アンタは女王を探して! 私よりも、アンタがそれをする方が効率が良い!」

 

「いや、流石にそれは危険、おおっと!」

 

 スピカの作戦に意見しようとするウラヌスに、レギオン達が襲い掛かる。

 レギオン達の招集能力と戦略を、スピカは正直なところ侮っていた。まさかこうも早く、そして巧妙に包囲されるのは想定外。恐らく今回のような包囲は、この後何度もやられる。

 ウラヌス単身であれば、包囲網の突破は容易いだろう。しかしスピカの足はウラヌスほど速くない。スピカに合わせていては、ウラヌスは抜け出せる筈の包囲すら抜け出せなくなってしまう。スピカの方も強行突破するような『破壊力』のある道具はなく、それよりも煙幕や悪臭など、相手を翻弄する方が得意である。

 二人揃えば、出来ない事も出来るようになる。だが時には、互いの強みを活かせなくなる時もあるのだ。協力する目的はあくまでもその方が目標を達成しやすくなるから。協力に拘って目標が遠退くなど本末転倒。

 一回二回の包囲なら二人一緒に行動した方が良いと思ったが、それだけでは済みそうにない。ならば今回、最適なのは二手に分かれる事。ウラヌスが正面突破し、スピカが陽動を行う……互いの得意分野で勝負するべきだ。

 

「――――分かった! やり遂げてみせよう!」

 

 スピカの思惑を何処まで理解したかは分からない。しかしウラヌスは快活に返事をし、そして走り出す。スピカ達がいる方とは、逆向きに。

 ……このままウラヌスが逃げ出したら自分達はあの世行きだなと、スピカはふと思う。本来二手に分かれるよう伝える時に浮かぶべき考えなのだが、今までとんと思い付かなかった。我ながらウラヌスを信用し過ぎてないかと、思わなくもない。

 だが、ウラヌスが裏切る姿も想像出来ない。

 だから任せておいて大丈夫だろう。強いて心配すべきは果たしてアイツの頭で女王の居場所を見付けられるかという点だが、それについても問題はあるまい。スピカの論理的思考が導き出した女王の居場所は、子供並に単純な考えで閃いた場所と一致しているのだから。ウラヌスもきっと気付く。

 それよりも今大事なのは。

 

「さぁて、この状況……どうしようかな?」

 

 路地裏の入口と出口と頭上。その全てをレギオンに包囲されたスピカは、今になって打開策を考え始めるのだった。



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白い軍勢8

 女王を探せと、スピカは言っていた。

 その指示を受けて走り出したウラヌスであるが、彼女はこうも思った。「で? どいつが女王なんだ?」と。スピカも知らない(そもそも本当にいるのかも分からない)ため、教えてもらう事が出来なかったのだ。

 誰が女王なのか分からないので、出会うレギオンは全員ぶん殴れば良いのだろうか? なんとも単純な考えがウラヌスの脳裏を過ぎったが、流石にそれは無理だと思った。数が多過ぎる。多くなかったらやろうと思ったぐらいには、彼女は単純なのだ。

 とりあえず走りながらよく考えてみる。

 思考して僅か二秒。ウラヌスは閃いた。

 女王というぐらいだ。なんか派手な格好をしているんだろう、多分我らコロバス族の長みたいな感じに――――頭に浮かんだのは自分の故郷を納めていた長老の姿。人の身の丈ほどもある怪鳥の羽根を五枚背負い、頭にドラゴンの頭蓋骨を被り、手にはケルベロスの牙で作った槍を持つ。それと長老は村一番の戦士なので、凄く強い。

 そして長老の家は村の中心に置いている。全てを見渡し、全てを指示するために。

 じゃあレギオンの女王も、きっと巣の中心に行けば会えるな! そう考えたウラヌスは一直線に中心……巨大なキノコがそびえる場所に向かうべく、力強く跳躍。張り巡らされた屋根上の糸を走る。

 まさか『人間』が糸の上にやってくるとは思わなかったのか、そこにいたレギオン達の身体が強張る。それは一瞬の出来事であったが、ウラヌスの素早さ相手には致命的な隙だ。

 

「よっ!」

 

 ウラヌスは跳躍し、目の前のレギオンを蹴り飛ばす。蹴られたレギオンは為す術もなく吹っ飛び、奥のレギオンと激突。二体合わせてバラバラに砕け散る。

 その砕けた破片の内側をウラヌスは突っ切る。残骸に隠れたウラヌスをレギオンは見失い、追撃の手が止まった。ウラヌスはその間もどんどん進み、遥か奥へと突き進む。

 レギオン達はどうにか群れてウラヌスを止めようとするが、しかしウラヌスの素早さはレギオン達を圧倒していた。包囲する前に抜けられる、包囲してもふっ飛ばされて抜けられる。何をどうしても捕まらない。

 レギオン達には、ウラヌスの快進撃を阻む事すら出来ず。ついに宝石都市、そしてレギオンの巣の中心……キノコの塔の傍にウラヌスは辿り着いた。キノコの周りは特に念入りに糸が張られていて、ふかふかとした足場になっている。森を満たす落ち葉のような心地よい弾力だ。

 

「さぁーて、どいつが女王だー?」

 

 その足場に二本足で立ち、片手を額に当てながらウラヌスは周囲を見渡す。

 辺りにいるのは普通のレギオンばかり。しかし五感に優れるウラヌスは気付いている。レギオン達が激しく動揺している事に。

 その動揺を鎮めたのは、ずしん、という足音。

 次いでゆらりと、キノコの影から巨影が姿を現す。

 姿形は、これまで見てきたレギオンと大差ない。強いて言うなら腹が他よりも大きく、表皮が目に見えて分厚い事か。しかしその大きさは段違い。五メトルはあるようだ。

 派手さはない。だが圧倒的な巨体と、その身体からひしひしと伝わる『強さ』からウラヌスは確信に至る。

 コイツが、女王だと。

 

「……ふふふ。私の勘も捨てたもんじゃないな!」

 

 堂々と平らな胸を張りながら、ウラヌスは勝ち誇る。

 実際、ウラヌスの勘は正しかった。女王はレギオン達にとって最も大切な存在だ。その大切な存在を守り、維持するのであれば、それが容易な場所に配置すべきである。具体的には最も巣の奥深く、最も多数の子分に守られ、最も食べ物に溢れた場所。それは巣の中心に他ならない。

 スピカが思っていた通り、ウラヌスは単純な思考で目的地に辿り着いたのだ。ウラヌスには知る由もない事であるが。

 ――――さて。辿り着いて終わりになれば話は楽だが、残念ながらそうもいかない。

 

「……キキ、キィィイイイイイ……!」

 

 ウラヌスを目にした女王は、甲高さと重厚さを合わせた声を鳴らす。節足動物的なその身体に体毛などないが……雰囲気が()()()

 レギオンの女王様は、人間の指導者と違って血気盛んだった。闘争心と殺意を露わにし、巣の中を荒らして回るウラヌスにその感情をハッキリと向けてくる。

 自身の三倍以上ある巨躯に敵意を向けられれば、普通は恐ろしさを感じるところだろう。

 だが、ウラヌスは違う。

 彼女にとって闘争は楽しみだ。それもただ弱い輩を嬲るようなのではなく、対等以上の敵との戦いが好み。弱い者いじめは戦士のする事ではないのだから。無論どんな弱者でも襲い掛かってくるなら戦うが、それを楽しいとは思わない。

 強大な女王との戦いに挑める事。これは戦士として『誉れ』であり、そして胸が躍る楽しさだ。

 

「ふははははは! さぁ来るが良い!」

 

 身構え、吼えるウラヌス。

 彼女の闘争心に応えるように、女王は動き出した!

 

「キィイッ!」

 

 女王が繰り出してきたのは前脚一本。たかが脚一本、と言いたいところだが……その先は鋭く、人体を簡単に貫く事が容易に想像出来た。

 ウラヌスの身体は引き締まった筋肉により、生半可な人間と比べれば遥かに丈夫だ。とはいえ『槍』に耐えられるほど、非常識な硬さはしていない。直撃を受ければ危険だ。

 しかしウラヌスは動かず、迫る脚先をじっと見つめる。目的は『測る』ため。

 まず脚の速さ。この攻撃がどの程度速いのか、それを見極める。じっくり見ても避けられる攻撃なら、どれだけ脚先が鋭くとも驚異ではない。逆に極めて速いなら、少しの隙が命取りだ。堅実な立ち回りが必要になる。

 次いで正確さ。仮に避けなかった時、脚先は何処を貫くのか? 頭か腹なら兎も角、腕や足なら雑な攻撃だ。もしかすると避けなくても外れるかも知れない。

 諸々の情報は相手の『戦闘能力』を推定するのに欠かせない。最初の一撃でどれだけ相手の実力を正確に測れるかというのは、戦う上で重要な事である。

 

「ふっ!」

 

 ある程度観察したら、ウラヌスは跳ぶようにして攻撃を躱す。そしてこの時も女王の脚先から目を離さない。

 回避した事に反応したかどうかを確かめるためだ。即ち、相手の反応速度を調べている。

 ウラヌスが攻撃を躱すと、女王は追撃とばかりにもう一方の前脚を繰り出す。レギオンの脚は八本もあるのだ。多少無茶な体勢からでも次の攻撃を繰り出す事が出来、ウラヌスに休む暇を与えない。

 女王としてはこのままウラヌスが疲れるまで追い回し、動きが鈍ったところでぶすりと貫く……という作戦を本能的にやっているのだろう。ウラヌスは直感的に女王の思惑を理解していた。

 だが、問題はない。

 何故ならウラヌスの体力は、こんなものではまだまだ尽きないのだから。連続で何十と跳び続けても、むしろ身体が程よく火照ってきて丁度良い。

 加えて、相手の実力は見切った。

 

「よっと」

 

 ()()()、ウラヌスは体勢を崩したように、深くしゃがみ込む。

 これを好機と捉えたのか、女王は一際大きく前脚をもたげるや、勢いよく突き出す! 今までにない速さの一撃だ。今なら確実に仕留められる、と本能的に考えたのか。

 だが、これはウラヌスが誘ったもの。

 ウラヌスはしゃがんだ体勢から、僅かに身体を傾けて逸らす。もしも女王の反応速度が優れていれば攻撃の軌道を変え、動いたウラヌスの顔面を貫けただろうが……ウラヌスは攻撃を躱す中で女王の動きを観察していた。どのぐらいの速さと時間で反応するのか、全て感覚的に把握している。

 ウラヌスがした僅かな動きに、女王は付いていけない。女王の脚先はウラヌスの身体のすぐ横を掠めるように通り過ぎた

 瞬間、ウラヌスはその脚を脇で抱え込む!

 

「キッ!? キィ――――」

 

「ぬぅうああっ!」

 

 慌てて逃げようとする女王だが、ウラヌスが身体を翻す動きの方が早い。そして脇に挟んだ脚を離すつもりもない。

 女王の身体はウラヌスの動きに引っ張られ、巨体が一気に前のめりとなる。八本脚で体勢を保とうとするが、不意打ちというのもあってウラヌスの怪力の方が上だったようだ。脚が動くよりも先に、女王は頭から地面に突っ込む。

 状況的にはただ転んだだけのようなものだが、女王レギオンの身体は巨大だ。体重も相応に重く、転倒時の衝撃は決して馬鹿に出来るものではない。身体が虚弱であれば、十分骨折の可能性があるだろう。

 尤も、女王はこの程度の衝撃では怪我に至らなかったが。

 

「キィイィアアアッ!」

 

 それどころか怒り狂ったように、ウラヌス目掛けまた脚先を放つ。

 これも素早く躱したいところだが、今のウラヌスには出来ない。女王の脚を脇に抱えているからだ。勿論離せば良いのだが、その時間がない。

 ならばどうすべきか? 黙って突き刺さる? 無論否だ。まだやれる事はある。

 人間には腕だけでなく、足もあるのだから。

 

「甘いぞっ!」

 

 高速で迫る脚に対し、ウラヌスが繰り出したのは蹴り上げ。女王の脚は衝撃で高々と浮かび上がる。

 女王は即座に脚を下ろして叩き潰そうとしたが、上がったものを下ろすには時間が必要だ。ウラヌスは脇を広げ、今まで抱えていた脚を拳で殴り付ける。打撃を受けた脚は大きく飛んでいき、女王はまた体勢を崩す。

 この隙にウラヌスは女王の顔面に肉薄。女王もこれは不味いと思ったのか身体を強張らせたが、巨体に見合った長大な脚は肉薄した敵を阻むのに向いていない。

 

「がぁあっ!」

 

 ウラヌスが振り上げた拳は女王の顔面を打つ!

 キマイラやスライムとも、短時間ならやり合える筋力。それから繰り出された一撃は、女王の身体を大きく吹き飛ばした。キマイラほどの怪物なら兎も角、女王の強さはそこまでのものではない。

 まともに入ったなら、失神してもおかしくないだろう。

 そう、まともに入ったなら。

 

「(これは浅いか!)」

 

 拳で感じる手応え。数多の戦闘経験から、ウラヌスはそれが有効な一撃ではないと察する。

 予想通り、ふっ飛ばされた場所で女王は平然と立ち上がり、勇ましくウラヌスの方を見た。顔面の甲殻が多少歪んでいるようだが、それ以外の目立った傷はない。

 顔面を殴ったのに何故? 答えは、女王の口許でもごもごと動く『牙』だ。

 蜘蛛の顔には大きな牙のような部位があるが、これは厳密には牙ではない。鋏角と呼ばれる脚の一種だ。女王は顔面を殴られる刹那、鋏角で構えを取り、顔面に伝わる衝撃をいくらか緩和したのである。

 尤も、鋏角が脚である事など、人間でも専門的な学者でなければ知りもしない事。ウラヌスどころかスピカも知らない情報だ。ウラヌスにとって想定外でも仕方ない。そしてウラヌスにとって重大な問題は、折角の攻撃を耐えられた事ではない。

 相手に警戒心を与えてしまった事だ。

 

「キィイィィイイ……!」

 

 女王の闘志が高まっていく。

 肌で感じる力は、大きくなっていない。襲い掛かってきた時点で、実力を隠そうなんてしないのが獣だ。最初から全力は出している。ただ、その力が()()()()()()()()()

 加えて、こちらに対し不用意な攻撃はしてこない。

 女王は理解したのだ。ウラヌスの攻撃が致命傷になり得ると。今まで女王は身体の大きさの違いから、ウラヌスを子犬か野良猫程度の危険性と認識していただろう。故に手加減はしないが、反撃を恐れない攻撃をしてきた。だが、もうそんな『油断』はしない。大振りの攻撃は控え、何時でも守りに入れる体勢で攻めてくると思われる。

 ここからが本当の真剣勝負。そうなると勝敗を決めるのは総合力と戦術だ。

 

「(素早さは私が上、力と防御はあっちが上。体力は……多分向こうだなー)」

 

 戦った感覚から推察するに、総合力では女王に分があるとウラヌスは判断。ならば素早さで翻弄し、相手の隙を作り出して一撃を叩き込む……これまでウラヌスが旅の中で強敵と戦った時、好んで使っていた戦法で倒そうと考える。

 ――――もしもウラヌスが一対一で戦えていたなら、その方法で女王を倒せただろう。初めて戦う相手とはいえ、これまでウラヌスが戦った事のある生物達の中では、レギオンの女王は中の上程度の実力しかないのだから。

 だが、女王にも好んで使う戦術がある。

 ()()()()()()()だ。

 

「キキィアッ!」

 

 女王が鳴き声を上げる。今まで出していたのとは違う声にウラヌスは警戒心を強めた。

 それと同時に、意識を女王に集中させてしまう。

 故に、足下にべしゃりと粘着いたものが掛けられるまで、背後に迫る存在に気付かなかった。

 

「むっ!? 何が――――」

 

 足を見れば、白い液体が付着していた。

 液体は即座に固まり、粘着いた物体となって足の動きを阻む。どうやらこれは、町を覆い尽くしている糸のようだ。最初は液体の状態で出てくるらしい。

 つまり、この液体をぶつけてきたのはレギオンという事。

 振り返ったウラヌスの目に、離れて位置で佇む一体のレギオンがいた。アレが糸を吐き付けてきたのは明白である。

 そして足に張り付いた糸で身動きが取れないという事は、回避行動が取れないという事。

 

「キィイイイイイイイイイイイッ!」

 

 女王が咆哮と共に、猛然と駆け出してくる!

 警戒心を強めた女王は迂闊な攻撃はしてこないと、ウラヌスは考えていた。しかし相手の身動きを封じたならば話は別。確実に当てられる時を逃す方が不味いというのは、妥当な判断である。

 ウラヌスにとって最悪なのは、その妥当な判断が何一つ間違っていない事だ。

 

「ぐっ……!」

 

 力を込めれば糸は伸びる。だが伸びるだけだ。中々千切れず、ウラヌスの動きを阻み続けた。時間があれば脱出は簡単そうだが、生憎その時間がないから困っている。

 脱出は後だ。ウラヌスはどしんと構え、女王が繰り出した前脚に両手を伸ばす!

 がっしりと両手で掴み、握力で止めようとしたのだ。されど女王の方が力は上。突き出す脚の勢いにより掌の薄皮がガリガリと削れ、血が滲み出す。それでも構わずウラヌスは強く掴んだが、女王の脚は勢いを保つ。

 致死的な勢いを保ったまま、ウラヌスの顔面に迫る脚先。ウラヌスは歯を食い縛って手に力を込めるが、やはり止まらない。

 ならばと今度は食い縛っていた口を大きく開き、

 

「んがきっ!」

 

 迫ってきた脚先を、顎と首の力で受け止める!

 両手と顎と首の力により、ようやく女王の脚は止まった。もしもこの脚が腹を狙ったものなら、ウラヌスは今頃臓物をぶちまけていただろう。

 これは幸運の結果に過ぎない。しかし強者というのは、実力の高さだけで言うものでもない。幸運に気付き、活かすのもまた強さというものだ。強いウラヌスは運を味方に付け、一時の危機を乗り切った。

 

「つあっ! ぬんっ!」

 

 脚の一本を受け止めてすぐ、自らの足を蹴り上げるように動かし、絡み付いた糸を千切る。自由を取り戻したら口を開くのと同時に女王の脚を横向きに蹴り飛ばし、女王の体勢を崩した。

 この隙にまた肉薄しようとした、が、それは叶わず。

 

「キィィイイイイッ!」

 

「キキィィイィイイイイッ!」

 

 何故なら続々と、ウラヌスの下にレギオンが駆け寄ってきたからだ。その数、ざっと二十体ほど。

 いくらウラヌスにとって拳一発で倒せる相手とはいえ、こうも群れると厄介。一旦距離を取るべく、ウラヌスは後ろへと下がる。その間に女王は体勢を立て直す。

 そして女王の傍に、続々とレギオン達が集まってきた。こちらは二十どころの話ではなく、三十四十五十と、時間が経つほどにどんどん数を増やしている。まるで町中のレギオンが集まってきているような光景だった。

 どうやらレギオン達は女王を守ろうとしているようだ。

 一対一で勝負しないなんて卑怯な、等と言うつもりはない。ウラヌスとしては正々堂々とした戦いを好むが、それはこちらの事情である。相手は自身が確実に勝つ方法を選んだというだけ。そして真の戦士というのは、相手が繰り出したあらゆる策を打ち破ってこそ名乗れるというもの。

 相手が本気を出した結果が大群であるなら、それを拒否するつもりはない。むしろこれが女王の、レギオンの本気だというのであれば望むところだ。

 ただ、それでも思う事はある。

 

「……仲間と共に戦うのは良いが、流石にこれは多くないかー?」

 

 ぽつりと呟くウラヌスの視線の先にいるのは、佇む女王。

 そしてその女王の背後に集結した()()()もの、本当に町中からやってきたレギオン達の姿だった。



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白い軍勢9

「キィイイイッ!」

 

 女王の掛け声を合図に、背後に集結したレギオンが一斉に動き出した。

 ただし全部ではない。集結したもののごく一部だけが動いている。

 それでも、ざっと数百体がウラヌスに押し寄せてきたのだが。

 

「くっ……!」

 

 迫りくる大群に顔を一瞬顰め、されど即座に笑みを浮かべ直すウラヌス。一騎当千の戦いが、今こそ行える。それは戦士として最高の誉れだ。

 ウラヌスは後退せず、前に向かって踏み出した。

 

「っがああああああああッ!」

 

 迫るレギオンに対し、ウラヌスは拳を繰り出す。

 スピカのように『格上』の生物ばかり相手してきた者なら兎も角、恐らく普通の人間であれば視認も難しいような高速の鉄拳だ。それはレギオン達にも当て嵌まるようで、やってきたレギオンは拳を躱す動きすら取らない。

 ウラヌスの拳はレギオンを直撃。顔面の甲殻が潰れ、内臓まで一気に貫通する。これでこの個体は間違いなく死んだが、しかしやってきたレギオンは一体だけではない。後ろに何百と控えている。

 そこでウラヌスは突き刺したレギオンごと、腕を横に振るう。

 薙ぎ払う一撃により、肉薄してきたレギオン数体を纏めて殴り飛ばす。そうして開けた空間に、また次のレギオンが雪崩れ込む。倒しても倒しても切りがない。

 前に出たからには、今更退きたくない。だがこのままでは埒が明かない。戦闘においてウラヌスが最も重視するのは誇りであるが、次いで『勝利』が来る。逃げるつもりはないが、ここで距離を取らないのは勝利を掴む上で非合理であろう。

 

「むぅ……!」

 

 ウラヌスは跳んで後退。だがレギオン達は止まらず前進。簡単には距離を開けられない。

 ならばどうすべきか? 難しい判断をする必要はない。距離を詰められるというのなら、相手を止めてしまえば良いのだ。

 

「だあッ!」

 

 ウラヌスが繰り出した蹴りは、最も近付いてきたレギオンの身体を打つ。

 此度の蹴りは顔面でなく身体の方に当てた。巨体を支える甲殻は頭部よりも頑強で、ウラヌスの蹴りを受けても ― ヒビ割れて体液と内臓をぶち撒けたが ― 貫通はせず、後ろ向きに吹っ飛んでいく。

 その後方には仲間達が控えているにも拘らず、だ。

 吹き飛ばされたレギオンは仲間を巻き込んで転倒。巻き込まれた仲間も転び、その余波は石を投げ込まれた水面のように広がっていく。大群を止めるのに全てを相手取る必要はない。『間抜け』を一体作ればそれで十分なのである。

 更にウラヌスの方は蹴り飛ばした際の反動を利用し、遠くまで跳ぶ。足止めと後退を両立させた作戦で、無事安全圏まで退避出来た

 と、言いたいところだが、レギオンはもう一枚上手だった。

 後退したところの左右に、別の群れが既に待機していたのだから。

 

「くっ……これは……!」

 

 何をするつもりか。観察のため立ち止まっているウラヌスに、左右から迫るレギオンの一部が腹を高々と持ち上げてその先を見せてきた。次いで先がぷくりと膨らみ……放たれたのはどろりとした液体。

 先程足に巻き付いた糸だ。こちらの動きを止めるつもりらしい。

 この状況で身動きを封じられるのは極めて不味い。一旦此処からも逃げようと足に力を込める。常人であれば不味いと思った時にはもう糸が足に巻き付いているだろうが、ウラヌスにはまだ猶予が残っていた。再び跳んで糸を回避。身柄の拘束は辛うじて避ける。

 糸は喰らえば動きを止められる手痛い攻撃だが、躱せばウラヌスにとって好機となる。腹を持ち上げた不安定な体勢から走り出したところで、大した速さなど出せない。一旦下ろしてから、という動作を挟む以上、それは大きな隙だ。尤も挟み撃ちされた今回は、殴りに行くのは軽率というもの。ウラヌスは再び後ろに下がって体勢を立て直そうとした。

 しかしレギオンはそれを許さない。

 何故なら糸を出すため立ち止まったレギオンの後ろから、控えのレギオンが現れ、ウラヌスを追ってきたのだ。更にウラヌスが後退した先には、既に陣取っているレギオンまでいる始末。

 どれだけ逃げても立ち止まれる場所がない。

 

「(むぅ……これは、やはり数が多いぞ……!)」

 

 動きの速さではウラヌスがレギオンを圧倒している。だがレギオン達はそれを莫大な数で補う。予め分散しておき、ウラヌスが来るのを待ち構える。

 勿論ウラヌスが来なければ、分散している個体はただ棒立ちで待つだけ。実際ウラヌスが見る限り、攻撃や突撃をしてきているのは全体の一割にも満たない。あまりにも無駄が多いように思えるが、その無駄を許容出来るぐらいレギオンの数は多いと言える。

 果たして一体どれだけいるのか。気配を探ってみようとするウラヌスだが、すぐに諦めた。あまりにも数が多くて判然としない。個々の小さな力が集まり、巨大な一つの力となっているように感じてしまう。まるで女王が二十体三十体と増えたかのようだ。言い換えれば、この大群と真正面から戦うのは、女王二十〜三十体と戦うのに等しい。

 一対一なら倒せそうだが、女王数十体分の戦力となれば流石のウラヌスも手に負えない。これでも自分一人であれば誇りを胸に突撃するところだが、此度の戦いはスピカから頼まれたもの。掛けられた期待には応えねばならない。それは仲間への信頼云々だけでなく、戦士としての矜持もある。

 

「(とはいえ数を減らさなければ、勝てるものも勝てんな!)」

 

 危険はあるが、ここで挑まねばいずれジリ貧になる。自分の予感を信じてウラヌスは立ち止まり、くるりとその身を翻して群れに立ち向かおうとした

 が、その動きは止まらざるを得ない。

 背後に迫る女王の存在によって。

 

「なっ、に……!?」

 

 女王の存在を感じた時、ウラヌスは驚愕した。

 レギオン達の中で女王は最も危険な存在だ。故にウラヌスは逃げ回っている時も意識し、注意していた。なのにどうして背後に迫るまで気付かなかったのか? 疑問を抱くウラヌスだったが、答えはすぐに分かった。

 周りにひしめくレギオン……その気配の中に女王は隠れていたのだ。女王に匹敵する気配が幾つもあったため、本当の女王がどれかよく分からなくなったのは確かだが、それを『蜘蛛()』が戦術的に利用してくるのはウラヌスも予想出来ず。

 並の人間ならここで後悔でもするだろうが、ウラヌスが行うのは純粋な驚きのみ。即座に女王の方に意識を向け、その攻撃に備えようとする。

 だが、これもまた失策だった。

 左右に展開したレギオンが、糸を飛ばしてきたのだから。女王に気を取られたウラヌスは、これに反応するだけの猶予がない。

 びしゃりと音を立て、糸がウラヌスの足に付着する。

 

「っ! ぬぅ……!」

 

 しまった、と思う間もない。ウラヌスの目の前にいる女王は、高々と前脚を振り上げ――――ウラヌス目掛け突き出す!

 足が動かないウラヌスにこの攻撃は躱せない。おまけに今度の狙いは頭ではなく腹だ。両手と顎でようやく止めた攻撃を、両手だけで止めるのは困難。

 ならば押し退けるしかない!

 

「ふっ、ぬぅあああっ!」

 

 ウラヌスは一旦大きく身を右斜め前に傾ける。普段ならば体幹を崩して倒れるような体勢だが、足が糸で固められているため早々倒れる事はない。女王が繰り出した脚は直撃せず、ウラヌスの背中を削っていく。

 次いでその身を大きく、鞭のようにしならせて、女王が繰り出した脚を打つ!

 ウラヌスの全身を使った打撃に、女王の脚は弾かれた。女王は驚いたように身を強張らせ、弾かれた脚を見ている。どうにか難を逃れたが、しかし脚が擦れていったウラヌスの背中の皮は裂け、鮮血が流れ出す。

 いや、痛みはウラヌスにとって大した問題ではない。むしろ闘争心を掻き立てる、香辛料が如く存在だ。だが現状は良くない。

 突き出す攻撃が通じないとなれば、打撃に変わる事が予想出来るからだ。

 

「キィイィイィイイイイッ!」

 

 思った通り、女王は脚を薙ぎ払うように横向きに振るってきた。

 身体を傾け、ウラヌスは全身で脚にぶつける。女王の脚は打撃で大きく飛ぶように弾かれた……否、弾く事が出来たというのが正しい。受けた衝撃を、大きな動きによって流せる。

 対してウラヌスはろくな身動きが取れず、打撃の衝撃を流しきれない。筋肉と内臓が揺さぶられ、苦痛により体力と思考を奪われていく。

 女王は即座に二回目の打撃を放つ。ウラヌスは即座に迎え討つが、先の打撃の余韻がまだ残っている。力強い反撃にはならず、ウラヌスの身体に先程よりも大きな衝撃が走った。堪らえようとしたが抑えきれず、口から胃の中身を吐き出す。

 それを汚いと思って躊躇ってくれれば良かったのだが、残念ながら野生動物が気にする筈もない。女王の攻撃は留まらず、再びウラヌスの身体を打つ。

 

「ぐ、ぎ……おの、れ……!」

 

 ウラヌスの闘志は消えない。それどころか一層激しく燃え上がる。だがどれだけ燃えようとも、身体がボロボロになれば力が入らない。

 女王が繰り出した四度目、五度目の打撃を、ウラヌスは殆ど無抵抗で受けてしまう。これでもまだウラヌスの意識はハッキリしているが、身体に出来た打撲痕と血が受けた傷の深さを物語る。口から出てくるものも吐瀉物から血反吐に変わった。

 もしも対決相手が人間なら、そろそろ油断してくれるかも知れない。だが女王達レギオンは獣だ。獣は手を抜かない。

 

「キキィイー!」

 

「キィィ!」

 

 ウラヌスの背後からレギオン二体が近付き、ウラヌスの腕に鋏脚()で噛み付く。

 レギオンは毒などを持ち合わせていないようで、噛まれた部分が痺れるという事もない。しかし牙のように鋭い先端が刺さり、腕に大きな穴が二つ開いた。

 尤も、そんなのは自由だった上半身が拘束された事に比べれば、遥かにマシであろうが。

 

「ぐ、ぎ、ぎ、ぎ……!」

 

 どうにか振り解こうと、ウラヌスは身を捩ろうとした。その動きでレギオン達はずりずりと引きずられたが、離れる事はない。牙はウラヌスの肌に突き刺さったままだ。

 ウラヌスが本気の力を出せば、小さなレギオン達は粉々に砕け散っていた。

 それをやれない時は二つだけ。ウラヌスが手加減しているか、或いはウラヌスの身体にもう力が入らないか。此度は後者だ。女王の打撃を何度も受けた身体は傷だらけで、何時もの力を出す事が出来なくなっている。

 スピカ含めた普通の人間なら、女王が繰り出したただ一発の攻撃で命を落とすだろう。その意味では、ウラヌスは善戦した。だがどれだけ奮闘したところで、負けは負けである。

 ウラヌスは誇り高く、諦めも悪いが、現実を認められないほど非合理でもない。

 

「……私の負け、か……!」

 

 にやりと、ウラヌスは笑みを浮かべる。

 強い者との戦い。それこそがウラヌスの求めるもの。此度の戦いも己の未熟さを痛感し、実りあるものとなった。さぞや強くなったに違いない。

 惜しむらくは、女王達は決して再戦を許してくれない事だろう。

 

「キギィィィィィィ……」

 

 ゆっくりと女王は前脚の一本を掲げた。この一撃で終わらせるつもりなのだ。

 仮にこれをやり過ごしたとして、女王は終わるまで何度も攻撃してくる筈だ。疲労困憊のウラヌスに抵抗する力はないのだから。

 避けられない死がやってくる。

 後悔はない。ぬるい戦いを繰り返したところで、得られるのは傲りだけだ。成長するためには、死の危険があるのは致し方ない。そうして自分達の一族は強くなってきたのだ。自分もまた、礎の一つになる事をウラヌスは恐れない。

 そう、恐れはしない。

 恐れないから彼女は掴めるのだ――――ほんの僅かな幸運すらも。

 遥か遠くで炸裂した閃光。

 そして僅かに時間を置いてやってきた、()()を……

 

 

 

 

 

 時は少し遡り、場所は移る。

 

「レギオン達が、いない……?」

 

 町中を走り回っていたスピカが、異変を感じ取った。

 ウラヌスと別れた後、スピカはずっとレギオンの群れに追われていた。路地裏、煙幕、悪臭など、あらゆる手を使って翻弄してきたが……大群であるレギオンは止まらない。いくら逃げても増援が現れ、スピカ達を殺そうとしてくる。

 身体能力自慢のウラヌスと違い、スピカは道具がなければ戦えない。爆弾矢と薬が尽きてきて、いよいよどうしたものかと思った矢先、何故かレギオン達がいなくなったのだ。

 

「や、やった! 振り切ったのね!」

 

 フォーマルハウトは大いに喜んだ。命の危険がなくなったのだから、それは自然な反応と言えるだろう。

 しかしスピカは違う。これは非常に不味い。

 

「(侵入者を放ったらかし? つまり、もっとヤバい方に集結してるって事じゃない!)」

 

 レギオン達の最優先事項は、女王の存続であろう。子を産む女王がいなければ、巣そのものが存続出来なくなってしまう。巣の破壊や食糧の強奪などは、女王に比べればどうでも良い事だ。

 恐らくウラヌスは女王を見付け、戦っている。それは良いのだが、しかしウラヌスが優勢だったために、女王は配下を呼び戻したに違いない。

 ウラヌスは町を占拠するレギオンを見て、こう言っていた。この数を相手するのは無理だ、と。共に旅をしていたから分かる。彼女は謙遜も誇張もしない。やれるならばやれると言うし、無理だと思えば無理だと言う。配下のレギオンが集結すれば、ウラヌスに勝ち目はないのだろう。

 このままではウラヌスの命が危ない。しかしどうすべきか? 陽動のため動き回った結果、スピカ達は町の中心から大きく離れてしまった。ウラヌス並の身体能力があれば直ちに駆け付ける事も出来ただろうが、生身の人間では果たして何時間掛かるか分かったものじゃない。

 

「(何か、手を打たないと不味い……!)」

 

 やるとしたら陽動。ウラヌスの下に集まっているであろうレギオンを、より大きな脅威を示す事で動かす。

 しかしウラヌス以上の脅威など、どうすれば良い?

 ……一つ、答えは出た。確証はないが、此処は宝石都市。鉱山で使用するであろう『アレ』の保管場所が何処かにある筈だとスピカは考えた。それを纏めて使えば、恐らくレギオンの注意を引ける。

 問題は余所者であるスピカにその場所の心当たりすらない事だが……分からないなら訊くのが一番だ。此処には、この町に詳しい女の子がいるのだから。

 

「ねぇ! ()()の保管場所って知らない!?」

 

「えっ!? か、火薬?」

 

 スピカの問いに、フォーマルハウトはキョトンとしながら言葉を繰り返す。

 多くの国々で火薬は、兵器としての需要が一番多い。しかし他の用途がない事もない。

 その一つが鉱山での採掘。勿論宝石や鉱石の傍で火薬を使えば、それらも吹き飛ばしてしまう。だから大抵は粗方掘り尽くした後の鉱脈で、人力ではどうにもならないほど硬い岩盤を砕くために使われる。使った後は崩落の危険があり、管理が杜撰で大惨事という事も昔はあったらしいが……今では法整備や技術発展により安全性が高まった。今では世界中のどの鉱山でも、大なり小なり火薬は使われているという。

 宝石都市というぐらい宝石が有名な町であるクエンは、同時に鉱山採掘も盛んな都市だ。新たな鉱脈を探すべく、連日大量の火薬を使っている筈である。スピカは宝石都市の採掘業の実情を知らないため、これは完全な推測であるが……フォーマルハウトが目を泳がせた事で確信した。

 

「ぅ……」

 

 フォーマルハウトは口を噤み、迷っている様子。余所者には話すな、と教育されているのだろう。極めて正しい教えだ。狼藉者達に火薬庫を占拠されたら、どう考えてもろくな事にならない。

 

「……あっち!」

 

 それでもフォーマルハウトが力強く口を開いてくれたのは、スピカを信用しての事。

 信用には応えねばならない。

 なんとも()()()な考えだ。しかし都市一つ助け出そうという時点で、論理も何もあったもんじゃない。最早阿呆は確定なのだから、途中で正気に戻らず、最後まで阿呆で居続ける方が『合理的』というもの。

 我ながらとんでもない理屈だと思いながら、スピカはフォーマルハウトが指差した方へと向かう。

 道中にレギオン達の姿はない。安全に、一直線に進めるのは有り難いが、その分ウラヌスに戦力が集中している事になる。猶予はないと、足に力が籠もる。

 やがてスピカが辿り着いたのは、周りに家がない広間の中心に建つ、大きな倉庫だった。

 倉庫もレギオンの糸で覆われていたが、レギオン達は倉庫の中身がなんであるかは知らなかったのだろう。扉は糸で封印されておらず、開けるのに支障はない。流石に錠前での施錠はされていたが……壊してしまえば良いのだ。

 

「ちょっと、中のものを使わせてもらうよ!」

 

 フォーマルハウトに一言断ってから(答えは待たないが)、旅道具として持っていた小さな金槌を錠前に振り下ろす。

 手加減なしに金槌を当てた事で、錠前の一部にヒビが入る。これなら行けると数度叩き込み、予想通り錠前の一部が砕けて外れた。

 扉を開け、中に入れば……そこに保管されていたのは、火薬の山。

 無造作に山積みで置かれている訳ではない。しっかりと作られた箱に、厳重に保管されている。とはいえ木箱だから、此処に火を付ければ燃え上がり、中の火薬に引火するだろう。

 

「……良し」

 

 今日が雨でなくて良かった。そう思いながらスピカは、火薬庫の扉を開けたまま離れる。

 火薬庫の正面には大通りがあり、一直線に、それなりの距離を離れる事が出来た。火薬庫を開けたまま離れるスピカの行動に、フォーマルハウトは首を傾げていたが……スピカが手にした矢に火を付けた事で、何をするつもりか察したらしい。

 

「ちょ……あ、危ないわよそれ!?」

 

「危ないけど、これやらないともっと危なくなると思うからね……耳、塞いでおいて」

 

 スピカがそう言うと、フォーマルハウトは素早く自らの耳を両手で塞いだ。

 これだけ『対策』すれば十分。火の付いた矢を弓の弦に引っ掛け、弓に燃え移らないよう慎重に引き……放つ。

 燃えた矢は真っ直ぐに飛び、扉を通って火薬庫の内側に侵入。

 それを確認した瞬間、スピカはフォーマルハウトを抱えて全力で逃げ出した。ちゃんと火が火薬庫の木箱などに当たったのか、確認しようなんて思わない。

 もしも成功していたなら、近くにいたら巻き添えを喰らうのだ。出来るだけ離れつつ、物陰に隠れなければ命が危ない。

 その判断は正しい。

 スピカ達が近くの建物の裏に隠れた次の瞬間、鼓膜が破れそうなほどの爆音が響き渡ったのだから――――

 

 

 

 

 

 女王は見た。空高く立ち昇る紅蓮の炎を。

 距離は遥か彼方。音こそ聞こえてきたが、身体を震わせるような事もない。

 人間であれば、気にはなるが一旦落ち着いて考えるだろう。目の前に生命の危機があるなら尚更に。

 しかし女王は、レギオンは虫だった。

 巨大な爆炎と聞こえてくる爆音。二つから推定される『力』の大きさはかなりのものだ。

 目の前にいる『人間』と爆発……レギオンの単純な本能は、どちらがより危険であるかを単純に比較した。答えは明白だ。そして感情を持たない虫である彼女達は、出てきた答えの選択を迷う事などしない。

 より大きな『脅威』に戦力を割くという判断を、躊躇いなく行える。

 

「キィィイイイイィィッ!」

 

 女王の甲高い叫びに反応し、レギオン達も動く。レギオン達も女王を放置する事に躊躇いなどない。愛情や敬愛ではなく、本能で『産卵担当』を守っているだけなのだから。

 残ったのは、ウラヌスの身を拘束していた二匹だけ。

 そしてこれはウラヌスに、逆転の機会を与えた。

 

「(まだ、一発、出せる……!)」

 

 止めを刺そうとしていた女王は今、爆発の方を見ている。

 それはほんの数秒の、僅かな時間だったが……ウラヌスの体力をほんの僅かでも回復する事が出来た。両手の拳を握り締め、身体の筋肉を張らせる。

 これでも繰り出せる全力は、右と左で一発ずつ。

 しかし二発あれば十分。

 

「キギキ……」

 

 女王が振り返る。今度こそウラヌスに止めを刺すために。

 その目がウラヌスを再び見た、瞬間、ウラヌスは右腕を大きく振り上げる! ただしこれは殴るためではない。

 腕を拘束している、レギオンを投げ飛ばすためだ!

 

「キィイイッ!?」

 

「キギィイッ!?」

 

 投げ飛ばされたレギオンは女王の顔面に命中。ウラヌスの打撃を受けてヒビだらけの身体に衝撃が走り、余程痛かったのか女王は大きく仰け反った。

 この大きな隙にウラヌスは駆け出す。

 足を拘束する糸で動きが鈍る。もしも周りにレギオン達がいれば、簡単にまた糸で固められただろう。だが今、そのレギオン達はいない。もうみんな、爆発の方に行ってしまったのだから。

 ウラヌスが糸から抜け出すのを、阻むモノはいないのだ。

 

「ふっ、ぬぅうあああああっ!」

 

 雄叫びと共に、残る左腕を突き出すウラヌス。

 仰け反った女王にこの攻撃を躱す動きは出来ない。左腕を抑えるレギオンなど、全力を出したウラヌスの動きを止められるものではない。

 彼女が繰り出した拳は、レギオンの腹に打ち込まれた!

 

「ギブィッ!?」

 

 レギオンが呻く。それと同時に全身にヒビが入り、無数の体液が溢れ出す。

 ウラヌスの攻撃の威力が、全身に伝播したのだ。体液のみならず内臓も飛び出しながら、女王の身体は吹き飛ぶ。

 今度は防御も何もされていない、確かな手応えがある。その上で、ウラヌスは思う。

 

「(また、浅い……!)」

 

 これでは致命傷にならない、と。

 女王の甲殻は想像以上に分厚く、打撃が内臓を破壊するまで至らなかったのだ。或いは自身の受けた傷が深く、力を出し切れなかったのかも知れない。

 原因はなんにせよ、女王はまだ生きている。これからも生き続けるかは兎も角、しばらくは動き、数発の攻撃を繰り出す事は出来るだろう。

 対してウラヌスは、もう一歩も動けない。本当に、全ての力を振り絞ってしまった。今、大振りな一撃を放たれたら、何も出来ずにあの世行きだ。

 

「(役目を全う出来なかったのは悔しいが、うむ、仕方なし!)」

 

 敗北を忌む事はしない。戦士として戦った以上、どんな結果も受け入れる覚悟がウラヌスにはある。

 疲労からガクガクと震える足で立ち上がり、向き合った女王を見据えながら、誇り高い笑みをウラヌスは浮かべた

 

「キ、キキ、キィイイイイイィィィッ!」

 

 瞬間、女王が甲高い声で鳴いた。

 止めを刺してくるか――――と思いきや、女王は動かない。

 代わりに動いたのは、爆発から戻ってきた大勢のレギオン達。

 「ああ、止めは手下に任せるのか」とウラヌスは考えたが、しかしレギオン達はウラヌスの横を素通り。女王の下に集まると、傷付いた彼女を大勢で持ち上げた。更にその姿を隠すように、女王の周りにもレギオンが集まる。

 

「キッ、キッ、キィーッ!」

 

「「キキィーッ!」」

 

 そしてレギオン達はぞろぞろと移動を開始。女王を連れて、何処かに行ってしまう。

 残されたウラヌスは、ポカンと呆けた。何が起きたか分からず、棒立ちしながら考えて……気付く。

 女王は端から命なんて懸けていない。

 戦士の誇りを持つウラヌスは退却なんて頭にもないが、女王は違う。死にそうになったら逃げる事に躊躇いなんてない。良いとか悪いとかでなく、考え方が違うというだけの事。

 だから女王からすれば、逃げる事は勝利だ。自分を殺そうとする敵から、命を守りきったのだから。そして町からレギオンを()()()()()()スピカやフォーマルハウトにとっては、レギオン達が逃げ出せば勝利であろう。

 ならばスピカの指示を達成した自分もまた、勝者だ。

 

「……ふ、ふはははは! また戦おう! 今度も、私が勝つからな!」

 

 高笑いと自信満々な宣言を大声で叫ぶ。

 次の瞬間、ウラヌスは大きく両手と両足を広げながら、ばたりと仰向けに倒れるのだった。



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白い軍勢10

「パパ! ママ!」

 

 フォーマルハウトの喜びに溢れた声が、響き渡る。

 走り出した彼女の行く先にいたのは、四人の男女。父親と母親、そして兄と姉だろう。四人はフォーマルハウトの下に駆け寄ると、彼女の身体を強く抱き締めた。

 無事に家族と再会出来た。これにてスピカが受けた依頼は完了と言えるだろう……いや、そもそもの依頼は町に送り届けるところまでだったが。

 

「全く。依頼外の仕事の代金、今から取れないかなー」

 

 ボロボロになったスピカは乾いた笑みを浮かべつつ、肩を竦めた。そして横に倒れている(パチリと目は開いていて、ニコニコと上機嫌だ)ウラヌスに視線を向ける。

 女王を打ち倒すまでに、相当の攻撃を受けていたらしい。ウラヌスの小さな身体は傷だらけだ。中にはかなり深い、それこそ肉が裂けたような傷もある。それらは適切な治療を行ったとしても跡が残るだろう。

 そして適切な治療そのものが今は難しい。

 レギオン達が退却したとはいえ、宝石都市は糸に包まれて未だ壊滅状態であり――――生き延びた人間は、何万もいたうちの僅か五千人足らずだったのだから。

 

「う、うぅ……」

 

「ぐす……」

 

 スピカの周りには、フォーマルハウトの家族達と同じく助け出された ― 町の中心に設置されたキノコの塔の下に『保管』されていた ― 人々がいる。半分ほどは助かった事を喜んでいたが、半分は未だ悲しみに暮れていた。

 レギオンはキノコの肥料にする人間を、特に選り好みしなかったという。そのため近くにいた人間を片っ端から使っていったらしい。無論、その人間に家族や恋人がいようとお構いなしに。

 あともう少し救出が早ければ、果たしてどれだけの人が助かったのだろうか。

 ……もしもを語っても仕方ないだろうと、スピカは考えを切り替える。そうしなければ、周りの人間の暗い感情に巻き込まれそうだと思ったがために。自分としては最善を尽くしたのだから、これ以上を望むのは傲慢というものだ。

 しかし頭の中でどれだけ考えても、簡単には割り切れないのが人間というもので。

 

「……ウラヌス。怪我は大丈夫?」

 

 仲間の怪我を、意識を逸らす口実に使う自分がほとほと嫌になる。

 そんなスピカに対し、ウラヌスは何も気にしてないとばかりに元気な声で答えた。

 

「うむ! 何も問題はないぞー。一人で勝てなかったのは悔しいが、楽しい戦いだった!」

 

「楽しいかどうかじゃなくて、怪我について聞いてんの。多分だけど幾つか残るわよ」

 

「む? そうなのか? ならば誇らしいものだ。傷は我等にとって勲章だからな!」

 

「わーお、野蛮ねー」

 

 煽るような言葉を返しつつ、ウラヌスが特段傷跡を気にしていないと分かってスピカは胸を撫で下ろす。強い奴との戦い大好きなウラヌスが腕や胸の傷を気にするとは思わなかったが、その戦いを頼んだのは自分だという負い目がスピカにもあるのだ。

 

「むしろこれぐらいの戦いなら、毎日したいぐらいだぞ!」

 

 ただ、その負い目はこの言葉で跡形もなく吹っ飛んだが。

 

「ウラヌス……アンタ、ほんと命知らずね」

 

「ふふん、そうだろうそうだろう。我等一族は誇り高い戦士だからな! また何処かでレギオンの群れと戦いたいものだ……」

 

「褒めてないから。あとこんな大規模なレギオンの群れが幾つもある訳ないでしょーが」

 

 ウラヌスの言葉をきっちりと窘めるスピカ。

 その時ふと、疑問が湧き出してくる。

 此度宝石都市クエンを襲ったレギオンの大群は、どう考えても異常だ。文献ではドラゴンも狩ると書かれていたが、普通はそこまでの大群ではない。精々数十体程度であるとスピカが読んだ書物には記されていた。

 何百年も前の昔話には「町を飲み込む」というものがあるので、過去に現れた事はあるかも知れない。だがそれは数百年に一度の出来事だ。滅多に起こるものじゃない。

 だとすると此度の巨大な群れが出来上がった理由は、スピカが考える限り二つある。

 一つは此度宝石都市を襲ったレギオンの群れが、やたらと幸運だったから。自然界でも幸運というのは生き残る上で大事なものだ。空腹の時に偶々餌が目の前を横切ったり、鉢合わせた恐ろしい天敵が偶々満腹で無視してくれたり、大きな災害や異様な暑さ寒さに見舞われず穏やかに過ごせたり……そうした幸運に恵まれた個体は、通常ではあり得ない大きさに育ったりする。レギオンの群れも数百年に一度と呼べるほど特大の幸運に恵まれて、あそこまで群れを大きく出来たのかも知れない。

 もう一つは、数百年に一度の出来事に『便乗』して大繁殖した可能性だ。例えば数百年に一度の大雨で湿気に強い草ばかりが繁殖すれば、その草を餌にする虫が大量発生するだろう。この場合大雨は虫に直接利益をもたらす訳ではないが、間接的に増殖の要因となっている。この例と同じようにレギオンも、何らかの自然現象から巡り巡って利益を得た可能性はあるだろう。

 もしも前者が答えであれば、人間に対処する術はない。大仰な言い方だが所謂運命みたいなもので、幸運の化身に襲われるのはそれだけで不運としか言いようがない事だ。前向きに考えるなら、そんな伝説的な不運、普通なら生きている間に二度目と遭遇する事はない。対策せずともその後の暮らしは安泰だ……世の中には三度落雷に打たれた人間もいるというので、絶対とは言えないが。

 しかし後者であれば、必ずしも対処出来るとは限らないが、もしかすると対策があるかも知れない。そして連鎖的な出来事の結果だとすれば、その根源的な現象が起きればまた必ず同じ事が起きる。生きている間に二度目三度目が起きてもおかしくない。

 此度のレギオンの発生は、果たして偶然か必然か。こればかりは考えても答えは出てこない。地元民でないスピカには情報が圧倒的に足りないからだ。

 

「(つまり、今必要なのは生存者からの聞き込みね)」

 

 やるべき事を決めたスピカは、きょろきょろと辺りを見渡す。

 誰が何を知っているか分からない以上、出来れば片っ端から話を訊きたい。とはいえ時間は有限であるし、誰もがお喋りという訳でもない。家族を失って悲しみに暮れている人に不躾にも尋ねようものなら、極端な話逆上して襲い掛かってくる事もあるだろう。

 尋ねるなら、情報通らしさがあり、悲しみに暮れていない、それでいてこちらの話を聞いてくれそうな人が良い。しかしそんな好都合な人間が、果たして簡単に見付かるだろうか?

 

「……人間、何が巡ってくるか分からないもんねぇ」

 

 独りごちたスピカには、心当たりが一つだけあった。

 立ち上がり、ウラヌスを置いてゆったり歩いた彼女が見据えるのは……フォーマルハウトの家族。

 

「すみません。今、お話を窺ってもよろしいでしょうか?」

 

「うん? おお、あなたは……!」

 

 スピカが話し掛けると、フォーマルハウトの父親は大仰に両腕を広げながら笑顔を見せた。

 恩を売る訳ではないが、命を助けた者から話し掛けて、無下にするような人間は早々いまい。加えて大富豪であるからには、商売で財を築いた筈であり、商売に必要な対人能力に優れていると考えるのが妥当である。

 思った通り、フォーマルハウトの父親は人となりが(表向きは)良く、話しやすそうな人物だった。それに商売をしている身なら、地域や交易路の話はよく耳にしているに違いない。何か異変があれば、把握している可能性が高い。

 早速、スピカは本題を切り出す事にした。

 

「尋ねたい事があります。この町を襲ったレギオンに関して調べたいと思いまして。何か、この辺りでおかしな出来事は起きていないでしょうか?」

 

「おかしな出来事? ……いや、ないな。レギオンについては、この周辺に暮らす住人でも滅多に目撃例がない。基本的に奴等は、もっと南側の乾燥地に生息している動物なんだ。あのレギオン達が普段と様子が違っていても、我々にもよく分からない」

 

「レギオンに限った話でなくて良いんです。小さな虫が大量発生した、雨がやたらと多かった、地震があった……関係なさそうな事でも構いません」

 

 改めて尋ねてみるが、フォーマルハウトの父親は腕を組み、悩ましげに唸るばかり。彼が諸悪の根源でもない限り隠す理由もない筈なので、本当に心当たりがないのだろう。

 残念には思うが、情報というのはなんやかんや巡り合せが大事なものだ。努力をすれば触れられる数と質は格段に良くなるが、大事な情報を絶対に取り零さないという保証は決して得られない。仮に、零していなくても……人間なのだから忘れてしまう事だってある。

 だからこそ、色んな人の意見というのが必要なのだ。

 

「あら、あなた。南から来た生き物の群れについては話さないの?」

 

 もしも彼の妻が此処にいなければ、スピカはこの話を聞く事が出来なかっただろう。

 

「ん? ……おお、そういえばあったな。いや、しかしそれはもう二年も前の事で……」 

 

「いえ、むしろそのぐらい前の方が良いです。生き物が増えるのには、時間が掛かりますから」

 

「確かに、言われてみればその通りだ……分かりました、その時の事を話します。とはいえ私は取引先から噂で聞いただけですが……」

 

「構いません。是非、教えて下さい」

 

 スピカに後押しされ、フォーマルハウトの父は少し息を整えた後、こう話しを切り出した。

 曰く、二年前――――南から大量の生き物達がやってきた。

 生き物の種類は千差万別。ウサギも鹿も鳥も、虫も大蛇もドラゴンも、北を目指すように押し寄せてきたのだ。

 生き物達は宝石都市クエン(正確には都市を囲う防壁)を避けていったが、交易路にいた商人や冒険家に大きな被害が出たという。お陰で食料品不足による価格高騰や、社会不安が起きたらしい。

 大きな被害が出たので当時はそこそこ騒がれたが、その後はこれといって何も起こらず。徐々に人々も忘れていき……今に至るという。

 

「……成程」

 

「スピカ。何か分かったの?」

 

 話を聞いて頷くスピカに、フォーマルハウトが尋ねてくる。

 何か分かったかといえば、残念ながら確実な事は何も分からない。

 しかし仮説であれば、大きな収穫を得られた。生き物の大量移動。それも多種多様な生物種の混成となれば、かなり大きな異変が起きたと考えられる。恐らく火山の噴火や地震のような、天変地異に匹敵する出来事だ。

 その結果が、レギオンの大群を生み出したのだろう。

 

「(さぞや餌が豊富だったでしょうね。何しろ南から続々と生き物がやってきたんだから)」

 

 レギオンの生息地は、宝石都市よりもやや南の方だという。つまり二年前に宝石都市の近くまでやってきた動物達は、レギオンの住処を通過した筈だ。レギオン達からすれば餌が大量に押し寄せた状況。より良い餌を選ぶ余裕もあったに違いない。

 そして生き物の大移動は、恐らく何度か起きている。たった一度の大移動で、レギオンの群れが町一つに匹敵する大群団まで育つほど、大量の餌を確保出来るとは思えないからだ。それに先日出会ったキマイラとヴァンパイアの存在がある。南に生息地がある彼等も、恐らく何度目かの大移動の参加者なのだろう。

 ただ、二回目以降はレギオン達の群れが大きくなったため、やってきた動物達の大半は宝石都市に辿り着く事すら出来なかった。キマイラ達はウラヌスを凌駕する強さの持ち主だったので、一直線に突破するだけならなんとか出来たに違いない。そうした大移動という名の餌の供給が何度も何度も繰り返され、レギオンの群れはどんどん大きくなっていく。

 しかし何事にも終わりは来る。

 ついに南の地の生き物がいなくなって大移動が途切れたのか、最早大移動でも賄いきれないぐらい群れが大きくなったのか。確実な事は言えないが、なんにせよレギオンの群れは食糧不足に陥ったのだ。レギオンの群れは食べ物を探してあちこち歩き回り――――人間が大勢いる大都市クエンに辿り着いた。

 

「(正直、これは結構ヤバい事が起きてるかも)」

 

 スピカがこの宝石都市を訪れたのは、元を辿ればキマイラ達が何故帝国に現れたのか、という疑問だ。その時は火山などの自然災害が原因だと考えていた。宝石都市が遭遇した生き物の大移動も、それら自然災害の産物ならばあり得る。というよりそれぐらいしか起こせる『力』の候補がない。

 しかし火山にしろ地震にしろ、二年もだらだらと続くものだろうか?

 そういうものもあるかも知れない。だが早々あるものではない筈だ。勿論滅多にない事というのは、起こらないという意味ではないが……何かもっと、『恐ろしい事』が起きていると考える方が自然な気がする。

 天災に匹敵する、されど天災ではない何か。

 知らないというのは、それだけで我が身を危険に晒す事だ。知らないよりも知っている方が遥かに良い。だが、常軌を逸した何かを探りに行くのは、果たして賢明な判断なのだろうか……?

 

「スピカ!」

 

 考えていたところ、すぐ傍から声を掛けられる。

 思わず視線を向ければ、フォーマルハウトがスピカの足に抱き着いていた。真っ直ぐ、迷いなく、スピカの顔を見つめている。

 そしてにこりと、あどけなく微笑んだ。

 

「ありがとう! あなたのお陰で、みんな助かったわ!」

 

 止めに、屈託のない感謝の言葉。

 それを受けたスピカの心には、もう迷いなんてなくて。

 

「……アンタ、そのまま育てば大物になるわよ。或いは絶世の大悪女」

 

「そう? へへへー……悪女って何よ」

 

「人を誑かす才能があるって事よ。色々便利だから誇っておきなさい……それはそれとして、次の旅の支度をしないと。南に行くのに、一度食糧と水を補給しないとだし」

 

「また南に行くの? しばらく休んでいけばいいのに。そりゃ町は滅茶苦茶だけど、私が観光案内ぐらいしてあげても……」

 

「ん? ああ、そういう意味じゃないのよ。ただ少し、急いだ方が良いかもって思って」

 

「急ぐって、なんで?」

 

 フォーマルハウトから投げ掛けられた疑問の言葉に、スピカは口を閉ざす。しばらくそのまま押し黙っていたが、やがて口を開き、

 

「……苦労して助けたもんが無駄になるとか、ごめんでしょ?」

 

 あまりにも感情的な理由を言葉にする。

 普段なら自己嫌悪するような、合理性の欠片もないような意見。

 けれどもフォーマルハウトとその家族を視界に入れているスピカの胸に、後悔の念は、何時までも湧いてこないのだった。



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砂漠巨獣
砂漠巨獣1


「あづぃぃー……」

 

 だらだらと汗を流しながら、ウラヌスが珍しく弱音を吐いていた。背筋は曲がり、足取りはとぼとぼ。普段パチリと開いている目も半分閉じ気味で、すっかり参っている様子だ。

 ウラヌスの隣に歩くスピカはその様を眺めながら、こう思う。「成程。コイツは暑さに弱いんだな」と。恐らくは筋肉量が多く、身体の発熱量が多いのが原因だ。

 勿論、今までの旅では平然と暮らしていた訳だから、それだけが原因ではない。もうひとつの原因はスピカにも分かっている。

 それはこの地が他の地域と比べ特別気温が高いという事。

 何しろ此処は()()()()()()()小さな都市なのだから。

 

「(正直、私でも暑くてしんどいからなぁー)」

 

 空で輝く太陽はギラギラと輝き、地上を焼き尽くさんとしている。地面は乾ききっていて、風が吹けば埃のように簡単に舞い上がるほどだ。空気も乾燥しきっていて、吸い込むだけで喉がひりつく。

 ウラヌスほどではないが、スピカにとっても辛い気候だ。適度に休憩しなければ命が危ないだろう。そしてウラヌスは、そろそろ限界のように見える。

 幸いにして今は都市の中。あちこちに煉瓦造りの家が立ち並んでいて、休む場所には事欠かない。加えて都市自体が暑さを想定した作りをしている。例えば屋根付きの椅子や、店の前に張り出した屋根、平たい彫像(町の歴史が書かれた碑石のようだが読んでいる人はいない。皆日陰の下にいる)など……どれも涼しむのに役立っていた。

 

「うーん。ちょっと日陰で休む?」

 

「ぞうずるぅぅ……」

 

 スピカが提案すれば、ウラヌスは即座に同意した。余程辛かったらしい。

 ウラヌスの要望に応え、スピカ達は屋根が突き出した店の下に向かう。直射日光がなければカラッとした気候が暑さを和らげ、かなり過ごしやすくなった。ウラヌスも死にそうな顔が、ちょっとだけマシになる。

 

「お客さん、辛そうだね。冷たい水、買うかい? 銅貨一枚で一杯だよ」

 

 ……そうして涼みに来た客に、高価な水を買わせようというのが店側の魂胆か。中々に商売上手だ。日陰を使わせてもらう以上、断るのもちょっと退ける。

 幸い、今のスピカには金がある。それにこの砂漠都市で水は貴重だ。割高でも買える場所から買わねばならない。

 

「んじゃ、三杯ちょうだい」

 

「はいよ、三杯ね」

 

 銅貨三枚を渡し、コップ三杯の水を貰う。コップ一杯は片手で掴める大きさだ。

 

「ほい、ウラヌス。水だよ」

 

「だずがるぅ……んぐっ、ぷはぁ」

 

 余程喉が乾いていたようで、ウラヌスは一杯を一口で飲んでしまった。スピカはゆっくりちびちびと、自分の分の水を飲む。

 そして残るもう一杯は、ひっくり返してウラヌスの身体に浴びせた。贅沢な使い方をされ、ぶるぶると背筋を震わせたウラヌスは、ぱちりと目を開く。

 

「どう? 少しは冷えた?」

 

「……うむ。かなりスッキリしたぞ」

 

 水を浴びたウラヌスは、疲れから濁りきっていた声から一変、普段の澄んだ話し方に戻る。

 砂漠都市で売られている水は、ひんやりとして冷たい。

 その秘訣は保管方法にある。中に水が染み込むような土壺の中に入れているのだ。一見すると質の悪い容器に思えるが、実態は違う。水は蒸発する時に熱を持っていく性質があり、土壺に染み込んだ水は表面から蒸発していく。つまり蒸発させる事で、中の水を積極的に冷やすという訳だ。尤も、キンキンに冷えるものではなく、普通に置いておくよりは冷たいという程度だが。

 人間が汗を掻くのも同じ理屈だ。大事なのは纏った水が蒸発する事。汗の代わりに水浸しにしても、体温は下がる。気温で温くなった汗よりも、冷たくなった水の方が一気に体温を奪ってくれるため、水を掛けられたウラヌスに理性が戻ったのだ。

 

「助かったが、良かったのか? 銅貨一枚なら、普通の町なら何十杯も水が買えるぞ?」

 

「こんな砂漠じゃ水は貴重なんだから、高くもなるわ。それに……未だ路銀に余裕はあるし」

 

 周りに聞かれるとスリの対象となりかねない。故に小声で、スピカはそう語る。

 これは強がりでもなんでもなく、事実だ。今のスピカの懐はかなり温かい。

 理由は先日助けたフォーマルハウト……の両親から頂いた謝礼。彼等は命と娘と都市の恩人に報いたいと、どっさり金貨を渡してきたのだ。恐らくもう、比較的物価の安い地域に行けば、二年は遊んで暮らせるだろう額をポンッと。あまりの金額に流石のスピカもビビったが、合理的に考えて(全身ガクガクと震えながら)受け取った。

 結果的に砂漠都市では節制を考えず、水を買えている。もしもこの資金がなければウラヌスの水問題で、先には進めなかっただろう。宝石都市から此処までの道は、暑さが砂漠都市ほどではなく……何より二日で終わらせられる程度だったから踏破出来た。この先はそんなに優しいものではない。きっとこの都市の『先』には進めず、冒険は終わりを迎えていたに違いない。

 

「(それに結果的にだけど、あの依頼で宝石都市に立ち寄ったお陰で、面白いものも手に入ったし)」

 

 自分の腰にある小さな袋の一つに、スピカはちらりと目を向ける。

 袋の中には、とある液体が入った瓶がしまわれている。瓶は木箱の中に入っており、厳重に衝撃から守られていた。

 そうまでして大切に保管している液体の正体は、揮発油という特殊な油だ。

 曰く、鉱山の奥深くで産出する油を加工したもの、らしい。揮発油という名前からも分かる通り、極めて揮発性の高い油である。迂闊に火を付けると爆発するほどの勢いで燃焼するとかなんとか。そして火花一つで引火するぐらい、極めて燃えやすいという。

 ……特徴を並べてみると、危険な代物でしかない。実際あまりに不安定で危険なため、産業的に有用な使い道は見付かっていないそうだ。

 そんな代物を何処で手に入れたかといえば、宝石都市で開かれた『復興市』。復興のための資金調達という名目で開かれた市場では、売れそうな物はなんでも売っていた。揮発油もそこに並んでいた物の一つである。値段が安かった事、臨時収入があった事からスピカは購入していた。

 正直、スピカもこの揮発油を武器に使えるかといえば、そんな事もない。簡単に爆発する油なんて、危なっかしくて使えたものではないのだから。とはいえそうした代物が何かの役に立つ、かも知れない。

 この先に待っているものが『未知』である以上、色んな攻撃手段を確保しておくべきだろう。

 

「ところで、なんでこんな暑い町に来たんだ?」

 

「もっと南に行くためよ。どうやらレギオンの餌になった動物達は、この砂漠を越えた先からやってきたみたいだからね……ここを生身で突破するとか、ほんと野生の生き物は逞しいなぁ」

 

 染み染みと感じながら、スピカは頷くように頭を揺れ動かす。

 この砂漠都市でも、スピカは噂話という形で情報を集めた。

 曰く、レギオンの住処はこの砂漠地帯周辺との事。とはいえ人間が住んでいる領域とは異なり(レギオンが嫌う地域に人間が居を構えたというのが正確か)、普段両者に接点はない。

 またこの砂漠の遥か向こう側には、豊かな草原と森が広がっているという。というよりこの辺りが局所的に砂漠化しているだけだとか。どうやら近くにある山脈が雲を堰き止め、その結果この辺りだけ砂漠化しているらしい。草原は気候的に砂漠よりも住みやすいが……大きな動物が多く、極めて危険なため人の定住は出来ないとか。

 そして何年か前()()、動物達の大移動が目撃されているらしい。いずれもレギオンの住処を通ったため、都市に大きな被害は出ていない。だがレギオンの活動が活性化しているため不安が広まっているという。

 

「(十中八九、レギオンが喰ったと思われる動物の住処はこの先の草原ね。キマイラとかが棲んでるなら、そりゃ人間は住めないか)」

 

 納得する反面、奇妙な印象も受ける。噂話で聞いた通りならば、動物達が暮らしている草原は然程遠くない。無論人間的には何日もの旅を必要とするが、噴火や地震などの天災からすれば『お隣』と言える距離だろう。

 勿論天災が小規模なら、いくら近くとも誰も知らずに終わる。だがキマイラすら逃げ出す大災害となれば、地震なら都市でも揺れが感じ取れただろうし、火山なら噴煙が見えた筈だ。しかし動物達の大移動以外の、これといった予兆は噂話でも聞かない。

 やはり、災害以外の何かが起きているのではないか。

 ……それを知るためには、この砂漠を渡るしかないだろう。

 

「ううむ、だがこの暑さでは、長く外を歩けないぞ。夜のうちに移動するのか?」

 

 しかしウラヌスが言うように、砂漠の中を練り歩くのは危険だ。町の中でひーひー言っているウラヌスなんて、一時間もあれば干からびてしまうだろう。スピカも、数時間で生命の危機に瀕するに違いない。

 それを防ぐには大量の水が必要だが、水というのは極めて重い。いくらウラヌスでも、砂漠を渡るための水となれば持てるのは精々二日分だろう。

 なお、この砂漠を徒歩で横断するには、大体七日ほど必要と言われている。要するに生身の人間がどう足掻こうと越えられる場所ではない。動物にも同じ事が言えるのだが……宝石都市まで大移動してきた動物達は、恐らく一緒に逃げてきた獲物や『仲間』の血肉を喰らいながら生き延びたのだろう。人間には到底採用出来ないやり方だ。勿論、元々暑さや乾燥に強い、という性質も備えた上で。

 そう、普通なら砂漠はどうやっても超えられない。しかし人間には様々な道具を作り出すほどの知恵がある。生身ではどうやっても無理なら、道具を作れば良いのだ。

 

「この先にね、砂漠を渡るための乗り物があるの。それを使うわよ」

 

「乗り物? どんなものだ?」

 

「それは見てのお楽しみ。涼んだなら行くわよ。多分、もうすぐその場所に着くから頑張って」

 

 日向に出ると聞いて露骨に眉を顰めるウラヌス ― 思えば彼女がこうも『反抗的』なのは珍しい。余程暑さが堪えているようだ ― を宥めながら、スピカは屋根の下から出る。

 渋々といった様子で出てきたウラヌスと共に、目指すは町の南側。都市に入る際、門番から貰っていた地図が確かならそろそろ見えてくる頃である。

 そして地図は正しかった。目当ての『それ』は、スピカ達がとある大通りに出てすぐに見付かった。

 

「ん? ……んんんんん?」

 

 ウラヌスが首を傾げる。

 不思議そうにしていた時間はほんの数秒……いや、戦闘時は素早い判断を次々と行う彼女にしては、たっぷり考え込んだと言うべきか。

 恐らく考え込んでいたウラヌスは、やがてスピカを置いて駆け出す。その姿は子供が面白いものを見付けた時のようで、スピカは喉奥から笑い声が込み上がってくるのを感じた。

 疎らとはいえ、周りには人の姿がある。ここで笑い声を出すのは注目を集めてしまうためあまりしたくない。

 

「な、なんでこんなところにこんなものがぁ!?」

 

 ところがどっこい、ウラヌスの上げた叫びがあまりにも予想通りなもので。

 ついにスピカは我慢が出来ず、げらげらと笑ってしまった。とはいえスピカのウラヌスの気持ちは分からなくもない。

 ウラヌスとスピカの前に悠然と現れたのは、本来ならば水上にあるもの。それも小川などではなく、海や湖など広大な場所で使うべき代物。

 巨大な()()

 それが砂漠の大地に作られた『港』に、幾つも停留している光景だった――――



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砂漠巨獣2

 流れていく、砂の景色。

 スピカは今、一歩として動いていない。だがその目に見える景色はどんどん右から左へと流れていく。それも徒歩では到底出せない速さで。

 何故なら彼女は今、帆船の上にいるから。

 そして帆船は風を受けて、猛烈な速さで砂漠の大地を滑っていた。人間が走るよりもずっと速く、疲れる事を知らずに。

 

「いやー、話には聞いていたけど、こりゃ凄いわ。また乗りたくなっちゃうかも」

 

 想像よりも速く動く帆船に、スピカは感嘆する。

 この船の正式な名称は、砂上帆船という。

 言うまでもなく、普通の船では砂漠の上は進まない。いくら砂がさらさらしていると言っても、水ほど簡単に掻き分けられるものではないのだから。

 しかし砂上帆船は砂の上を滑るように進む事が可能だ。秘密は帆船の底に張られた革にある。これはバシリスクと呼ばれる、鱗のない蛇から取られたもの。バシリスクは砂の上を滑って移動するのだが、その秘密は滑らかな皮にあるという。詳細な原理は未だ不明だが、その皮は砂の上でなら浮力を増す作用もあり、砂上を移動するのに役立つ。

 バシリスクは体長一メトルにもならない小さな蛇だ。それに動きが素早く、しかもいざとなれば砂に潜ってしまい、簡単には捕まえられない。数は多いものの、それはあくまでも砂漠の生物としてはの話。この皮で帆船の底を敷き詰めるなどどう考えても無理だ。事実五十年前まで、砂漠を進む船は空想の産物でしかなかった。

 しかし五十年ぐらい前に養殖法が確立され、バシリスクは砂漠都市での主要な家畜となった。家畜化の本来の目的は肉を得る事。バシリスクの餌は虫であり、虫は農作物(主にスイカ)に付くのでいくらでも得られるという事で帝国主導による研究がされていたのだが……肉を得れば皮が余る。割と処理に困るぐらい。

 特別な皮を大量かつ定量的に得られるようになった事で、夢の砂上帆船は実用化したのだ。

 と、建造を実現した要素についてはスピカも知っている。夢もなく語れば産業廃棄物の処理。しかし砂漠の上を走るという、浪漫に訴えかける性能なのも事実だ。成果を目の当たりにすれば、いくらかワクワクもしてくるというもの。

 ましてや船が大きいとなれば、興奮も一入だ。

 

「(正直、こんな大型船が出ているのは予想外だったなぁ)」

 

 スピカ達が乗っている船は、全長三十メトルもある帝国最大級の代物。甲板には大砲が複数設置され、数メトル程度の生物なら追い払う能力を持つ。極めて高性能な船でもあり、同型船はこれ含めて二つしかないという。

 当然広げている帆も巨大で、仰け反るように見上げなければ先端が目に入らない。正に圧巻の光景だ。それに大型故に砂上を走る際の安定感も大きい。自分の乗る物の『強さ』が感じられて、これもまた好みだ……安定感の一番の利点は、揺れがないので船酔いがない事だが。

 

「おおおおおお! 凄いぞ! 凄い!」

 

 ちなみに傍にいるウラヌスは、小さな見た目に似合ったはしゃぎぶりをしていた。

 

「あんまりはしゃぐと船酔いするぞー」

 

「うむ!」

 

 嗜めるように声を掛けたが、ウラヌスは全く落ち着かない。

 まさかコイツ私の持ってる薬、勝手に飲んでないわよね……そんなあり得ない疑問まで抱いてしまったスピカは、腰にある袋の一つに手を突っ込む。掴んだ数粒の薬の存在を確かめて、やっぱりコイツはただ五月蝿いだけだと呆れた。

 ちなみにその薬は正確にはとある植物から抽出したもので、この砂漠に生息するサソリ・セルケトの毒の治療薬である。セルケトの毒は極めて強力かつ即効性で、その毒は冒険家の間で武器として人気なほど。人間がこの毒を受ければ、瞬く間に命を落とす。解毒薬なしで出歩くのは自殺行為なのだ。

 船上なら安全では? とも思えるが、セルケトは人差し指ほどの大きさもない小さな虫である。胸どころか道端や屋内にも現れるため、この地で生活するなら必須の薬品と言えよう。

 無論、必須の薬だから強くない、なんて事はない。セルケトの毒にやられていない人間に使うと、大抵暴れ回った挙句に死ぬ。ただ、ウラヌスならなんか普通に耐えそうな気がした。果たして彼女がそこまで人間離れしているかは、スピカには分からないが。

 

「ひょーっ!」

 

 それにしても砂漠の上だというのに元気いっぱいだ。町ではあんなに暑さに苦しんでいたというのに。

 しかし実のところ、砂漠都市より砂漠の方が涼しかったりする。レギオンなど猛獣が町に近寄らないのは、その暑さの影響も大きいと聞く。また帆船が受けている風により、船上にも爽やかな風が流れていた。風は体温を下げてくれる一要素。そして巨大な帆が作り出す大きな日陰……三つの要因により、ウラヌスは何時もの活力を取り戻したのだろう。

 ただし日陰の方は、時間が経って昼間になり、太陽が位置を変えれば消えてしまうが。その時は船室に逃げ込むのも一つの手か。

 ……とスピカは考えたものの、それは難しいかも知れないと思い直す。何故なら日向にいたくないのは()()()も同じであり、昼時に太陽から逃げ出すのは誰もが一緒の筈。ならば当然昼間は人が押し寄せ、船内は人の湿気で蒸し風呂のようになりかねない。

 その可能性は、乗船人数が多ければ多いほど、そして乗員がむさ苦しければむさ苦しいほど上がっていく。

 今回この船に乗っている面子は、見事その要件を満たしていた。

 

「(随分とガタイの良い連中だな……)」

 

 ちらりと、スピカが横目で見たのは、偶々そこにいた乗員の一部。

 女と男が話をしている。年頃は二人共三十代だろうか。人間として『陰り』が見えてくる歳であるが、されどこの二人の纏う雰囲気は実に力強い。今が全盛期だと言わんばかりだ。

 更に身に纏うのは金属製の鎧。冒険家が好むような革製の軽装ではない、剣も矢も全て弾く分厚い装甲のものだ。それも生命に関わる上半身だけでなく、足や腕も守る重武装ぶりである。

 そして奇妙なのは、そんな重武装な者達がこの船には何十人と乗っている事だ。

 確かに、この砂漠の先……そこにある都市の更にその先には、一つの大きな国がある。世界最大の国家・王国だ。王国に向かう数十人の旅客がいるのはまだ理解出来るが、通常その内訳は観光客や商人、または移住者、或いはそれらの人達の護衛をする冒険家である。いずれも重武装する面々ではない。武装した数十もの面子に違和感を持つなという方が無理というものだ。

 

「(装備からして、冒険家じゃなさそう。向かう人が多い事も考えると、多分、傭兵かな?)」

 

 冒険家が何故軽装を好むのか? それは相手にするのが大自然と、そこに棲まう野生動物だから。どちらも無理して戦う必要はなく(というより基本勝てない)、そもそも出会う生物と片っ端から戦っていては長旅だと体力が持たない。基本的には逃げるのが最善であり、それには軽い装備の方が向いている。また整っていない地形を重装備で歩くのは極めて危険だ。重たい鎧姿で底なし沼に足を踏み入れたら、もう目も当てられない。

 だが、ではこの世界に重装備が活躍する機会がないかと言えば、それも違う。要するに用途が違うだけなのだ。状況が異なれば、軽装よりも重装備の方が適している。

 例えば、人間と人間の戦い。

 具体的には戦争である。戦争は野生とは違う戦いを強いられるもの。基本的に敵が来たからといって逃げるなんて許されないし、時には矢が飛んでくる方に向けて前進しなければならない事もあるだろう。また相手の力量が人間百人分なんて事態はなく、人間離れした力を使ってくる状況はまずない。このような環境下では、多少動きが悪くなっても守りを重視した方が良い。

 傭兵もまた戦うのは基本人間が相手。故にスピカは重武装の同乗者達を傭兵だと考えた。近く、何処かの国が戦争を起こすのかも知れない。

 ただし、やはり違和感は付き纏う。

 戦争自体はこの世界のあちこちで起きている。でなければ傭兵なんて職種は大昔に絶滅しているだろう。だから『仕事場』はあるのだが……しかしその規模は合計百人未満の、地味な衝突だ。兵士達はやる気があるものの、どうにも『祭り』を楽しむ心境ぐらいだ。死者もほぼ出ないらしい。

 何故こんな戦争になるのかといえば、どの国も野生動物の脅威があまりに大きく、人間同士で争っている余裕などからだ。戦争する理由はどれも「ご先祖の因縁が〜」「あそこは我々の聖地が〜」程度なものばかり。そこに全戦力を投入するほど、指導者達も阿呆ではない。兵士も相手を殺そうとする訳もない。むしろ訓練の名目でやっているとかなんとか。終戦後は二つの国の兵士達が合同で宴会をする事もあるらしい。

 こんな戦争で傭兵達の活躍場所があるのか? 殆どない。あるにはあるが、それは兵士達が『観戦』している見世物だ。こちらも怪我人は兎も角、死人はほぼ出ず。なので参加人数は両陣営合わせて十数人程度が一般的である。

 数十人の傭兵が一つの船に乗るなんて、どうにも奇妙だ。知らないうちに戦争が加熱して、大勢が参加するようになったのだろうか。見世物として考えれば自然な流れではあるが……

 

「(ま、私達には関係ない話だけど)」

 

 スピカはそこで考えを打ち切る。戦争など今や一般人には縁遠い話だ。傭兵達が何処にどれだけ向かおうと、どうでも良いだろう。

 無論、船の上で一悶着起こそうというのなら、こちらにも『考え』はあるが……そんな無法者は早々いないので、心配するだけ杞憂というものだ。

 むしろ無法者はスピカの傍にいる。

 

「お前達、強そうだな! 名のある戦士か?」

 

 具体的には、スピカが見ている男女二人に話し掛けたウラヌスだ。

 顔見知りでもない人間にいきなり話し掛けるなんて阿呆なの? と叫びたくなる衝動を抑えつつ、スピカは一直線にウラヌスの下に向かう。そしてウラヌスの首根っこを掴んで、ずるずると引きずっていく。ウラヌスがちょっと本気で抵抗すれば逆に引っ張れるだろうが、此度のウラヌスは無抵抗。大人しく話し掛けた男女から離れていく。

 

「どうした? 何があった?」

 

 そしてスピカが立ち止まると、ウラヌスはキョトンとしながら尋ねてきた。

 

「何が、じゃないでしょうが! 知らない人に無闇に話し掛けないの! 変な子って思われるでしょ!」

 

「えー? 良いじゃないか思われても」

 

「私が良くないの!」

 

 何故赤の他人であるコイツに母親みたいな事を言わなきゃならんのだ……等と思いながら、スピカは大きく項垂れる。しかしウラヌスは何処吹く風。まるで堪えていない。

 

「だがなー。もう景色を見てるのも飽きたぞ。ずーっと同じものしかない。人と話せば、人それぞれの話も聞けて面白いだろう?」

 

 それどころか平然と、そんな意見を返してきた。

 スピカは言葉を詰まらせた。いきなり親しげに話し掛けるものだから引き留めたが……しかし用がなければ話し掛けないのでは、人の関係は中々広がらないものだ。積極的に人間関係を築く事は、悪いものではない。

 ただ、そういうのは何かあって相手を不快にしても、もう二度と会う事もない状況でなければ不都合が多い。閉鎖環境である船上ではやはり避けるのが無難だろう。何より「お前強そうだな」は第一声として、ない。

 

「……話し掛けるのは良いけど、もう少し考えなさいって事。いきなりお前強そうだな、なんて言葉は普通使わないの」

 

「む? そうなのか? だがアイツら本当に強そうだぞ?」

 

「事実かどうかの話じゃなくて、礼儀とか作法の話つってんの」

 

 何度言っても、ウラヌスはキョトンとするばかり。礼儀や作法というのはつまるところ価値観の話なので、納得出来ないなら分かりようもあるまい。説明や説教は無意味だろう。

 それに、ウラヌスはどうしても話したかった訳ではない。代わり映えしない景色に飽きて、暇を潰そうとしていただけだ。ならば新たな暇潰しを与えれば良い。

 加えて、スピカとしては聞き捨てならない。砂漠に何もいないと言うのは、自然に対する『見くびり』なのだから。

 

「それより、砂漠にだって見るもんとか、遊べるものはいっぱいあるよ。例えば釣りとか」

 

「……流石に釣りは出来ないと思うぞ」

 

 スピカの言葉に、訝しむような眼差しを向けてくるウラヌス。だがスピカはそんなものには怯まない。

 背負う荷物の中から携帯用釣り竿(非常食確保用に何時も持ち歩いている)を取り出したスピカは、釣り竿から垂れ下がる糸の先に針を括り付けた。針と言っても返しも何もない、極めて原始的で単純な一品。

 魚釣りをするなら、針の返し部分は必須だ。これがないと魚が暴れた際、抜けやすくなる。スピカの手持ちにはそういう針もあるが……今回これを使った理由は、狙う獲物が()()()()()()()()()()だ。

 針を付けたところで、スピカは釣り糸を垂らす。やがて釣り針は砂の上に到達。自身の重みで少しだけ砂に沈み、船の動きにより引っ張られる事で一筋の線を砂漠に残し――――

 唐突に、釣り竿の重みが増した。

 

「ほっ」

 

 その瞬間にスピカは釣り竿を上げる。

 それから糸を手で引き寄せると、針先に一匹の『芋虫』が突き刺さっていた。

 芋虫は白くてぶよぶよした身体と細長い足を持つ、地虫と呼ばれる類のもの。体長はざっと人差し指の長さぐらい。大きな頭には大きな顎があり、噛めば指の肉ぐらい平気で切り裂くだろう。しかし動きは緩慢で、掌の上を歩かせていない限り噛まれる心配はない。

 スピカは芋虫を背中側から、二本の指で掴んで押さえ付ける。じたばたと脚を動かす芋虫だったが、身体は大きい癖に力がない。スピカの手を振り解く事は出来ず、スピカはずいっとウラヌスに芋虫を突き出す。

 

「ほい、これはオルゴイホルホイ。この砂漠じゃ一番よく見付かる生き物ね」

 

「おお……これは中々の大物だな!」

 

 釣り上げたオルゴイホルコイを見て、ウラヌスは目を輝かせた。

 いや、よく見れば涎が出ている。

 どうやらウラヌスは、この芋虫を「美味しそうだ」と思ったらしい。野蛮人……と一般的な人間は思うだろうが、此度ばかりはスピカも賛同する。

 虫というのは栄養満点な生物だ。特に幼虫は、成虫になるための栄養を身体に溜め込んでいるため一匹でかなり飢えを満たせる。砂漠都市でも美味なバシリスクの養殖が実用化されるまで、作物に付く虫は人間が食べていたらしい。

 砂漠の生き物達も、肉食性のものはこのオルゴイホルコイを好んで食べる。ちなみにオルゴイコルコイの味は油漬けの肉といったところ。そのまま食べるのは中々辛いが、焼いて適度に脂肪を落とすと結構美味……という話だ。スピカとしてもこれは食べた事がないので、ちょっと楽しみである。

 

「船上じゃ焚き火は出来ないし、調理場で虫を焼くのも非常識だからまだ食べないけど……港に着いたら食べよっか」

 

「……なぁなぁ。私もやっても良いか?」

 

 スピカが説明を終えたところで、ウラヌスはキラキラと瞳を輝かせながらそう尋ねてくる。

 どうやら釣りをやってみたいらしい。

 スピカは思わず笑みを浮かべた。怪物並の力を持つウラヌスだが、見た目相応の好奇心も持ち合わせているようだ。今までの能天気ぶりを思えば予想は出来ていたが、目の当たりにするのは思えば初めてかも知れない。

 子供の好奇心を無下にするのは、大人としてやるべきではないだろう。大人ぶりたい年頃のスピカとしてはそう思う。

 

「ええ、勿論。砂に針が落ちた時と、芋虫が掛かった時に結構強めの重みが来るから釣り竿を手放さないように……まぁ、アンタの場合は壊さないようにって言う方が良いか」

 

「うぐ……こ、壊れたら、その分護衛として頑張るぞ」

 

「別に良いわよ。これ、私がてきとーな枝と蜘蛛の糸で作っただけの物だし。壊れたら新しく作り直すだけだから。そうね、その時作り方も教えてあげる」

 

 適度に脅しつつ、それでいて萎縮しないように。交互に言葉を掛ければ、ウラヌスの目は子供のように輝いた。

 早速とばかりにウラヌスは針を砂の上に投げ入れる。ウラヌスはワクワクしたように身体を揺れ動かし、釣れる時を待つ。

 オルゴイホルコイ釣りにコツはいらない。先程言ったように、落ちた時と掛かった時の衝撃で釣り竿を離さないように意識するぐらいだ。

 そして辛抱強く待つ事。基本的にこの釣りは、直線上にオルゴイホルコイがいない限り釣れない……完全なる運試しなのだから。

 

「(さぁーて、どれぐらいで飽きるかな?)」

 

 ウラヌスの反応を予想しながら、スピカは砂漠を眺める。

 ウラヌスは飽きたといった、大自然の風景。

 スピカはその楽しみ方を知っているのだから。



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砂漠巨獣3

 砂漠は確かに生き物が少ない、過酷な地だ。

 一番の理由は乾燥である。大地が干からび、砂となってしまうほど雨が振らない。この世に存在する(人間が知る限りの)全ての生物は、水を必要としている。勿論他にも空気の綺麗さや、栄養も必要だが、それらは水と比べれば然程重要ではない。

 水が少ないほど生命の姿は露骨に減る。では水が干からびた砂漠に、生物はいないのか? 答えは勿論、いいえ、だ。

 例えば多肉植物。分厚い身体の中にはたくさんの水を蓄えられている。砂漠にも年に一度ぐらいは大雨が降るもので、多肉植物はその際一年分の水を身体に蓄えているらしい。

 この多肉植物を、草食性のドラゴンが食べる。ドラゴンは基本的に乾燥に強い生物だ。程々に乾燥した……木が疎らに生えている草原のような……環境が特に好みであるが、草も生えていないような砂漠でもその姿はよく見られる。

 この砂漠で見られる草食性ドラゴンと言えば、ファフナーが有名だ。

 

「お、早速発見」

 

 ウラヌスに釣り竿を渡した後、砂漠に生きる生物を探していたスピカは、そのファフナーを見る事が出来た。

 遥か遠く、とはいえ地平線近くではない程度の位置にある砂丘。そこにファフナーの姿がある。

 体長二メトルほどのファフナーは砂地の上をずるずると、這うように進んでいた。白く細長い身体は一見して蛇のようにも見えるが、胴体の側面には小さな足が生えていて、背中には棘のような突起が二本生えている。突起は恐らく翼が変化したもので、足はなくなる過程と学者には考えられているらしい。頭はドラゴンにしては丸みがあり、どちらかと言えばトカゲに似ていた。

 翼が棘状なので空は飛べないし、足は小さいので素早く駆ける事も出来ない。だったらコイツは何が出来るんだと思えば、暑さと乾燥に極端に強い。昼間の砂漠は人間なら足の裏が火傷するぐらい熱くなるのだが、ファフナーはなんの苦もなく活動出来る。

 足が小さいのは、砂から伝わる熱の量を減らすため。腹這いの姿勢に見えるが、腹には逆立った鱗が無数に生えていて、身体を砂から浮かせているという。直に触れていないため、熱い場所でも難なく生きていける訳だ。また白い身体も、直射日光で身体が熱くならない仕組みと考えられている。

 耐熱性そのものも高い。寝ているファフナーの周りに薪を起き、一晩燃やしても、翌朝普通に目覚めて活動するという。火攻めは多くの猛獣退治に使われる策だが、ファフナーには通じないのだ。

 

「(餌を探してるのかなー。うろうろしていて可愛いかも)」

 

 ファフナーは身体に毒を持つ。食べ物である多肉植物由来のもので、そのため食用にはならないが……故に向こうも人間を恐れない。このため愛玩動物として飼われる個体もいるという。野生でもその可愛らしさを振りまくように、ちょこまかと動いていた。

 生き物大好きなスピカにとっては、何時までも見ていられる姿だ。しかし船は容赦なく前進しており、ファフナーの姿は遠く離れていく。

 もっと見ていたかったが、個人の所有物なら兎も角、公共の船で我儘を言う訳にはいかない。気持ちを切り替え、次の生き物を観察しようと視野を広く持つ。そうするとすぐに次の動物が現れた。

 今度もまたファフナーだった。

 

「……んぇ?」

 

 まさか二回もファフナーが見られるとは思わず、スピカは呆けてしまう。

 船の移動速度は速い。ぼんやりしていたらあっという間に彼方まで移動してしまう。今回のファフナーはろくに観察出来ないうちに、そのまま景色と共に流れてしまった。

 だが、すぐに三度目のファフナーが現れた。

 

「……!? 何、これ……」

 

 困惑しているうちに、三体目のファスナーの横を船は通り過ぎる。今度はしばし砂だけの大地が続いたが……数分もすれば四体目のファフナーが観察出来た。

 生き物がたくさんいる。生き物好きからすれば夢のような展開なのは否定しない。

 だが、生き物好きだからこそ違和感に気付く。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。というのもファフナーは毒を持つため、捕食者からはあまり狙われないが……同じく多肉植物を食べる他の草食動物からは普通に嫌われ、踏み潰されたりして殺されているからだ。ファフナーは毒以外の武器を持たないので逃げるしかないが、逆立った鱗で浮いた姿勢は素早く動くのに向いていない。ファフナーの全力疾走は、人間の小走り程度と言われている。

 多くの動物が天敵に殺されて数を減らすように、ファフナーも適度に殺されて個体数は一定で保たれている。また多肉植物を他の動物が食べるという事は、その分ファフナーが食べる分も少なくなるという事。そもそも餌である多肉植物の数自体が少ない。

 ファフナーは砂漠でも良く見られる動物だと、書物には書かれている。しかしこうも頻繁に見掛けるのはおかしくないだろうか? 考えられるとすれば餌である多肉植物がなんらかの要因で大量発生し、有り余る餌を糧に増殖したという流れだが……それなら他の草食動物も見られる筈。多肉植物を食べる動物は他にもジェニーハニヴァーや、フェニックスなどが挙げられる。

 しかし、探せど探せど他の動物の姿は見られない。

 それどころか捕食者(大型の獣であるマンティコアやヒュドラなど)もいない。獲物がいないから捕食者もいない、と考えれば不自然ではないかも知れないが……

 起きている異変はそれだけでない。スピカのすぐ横でも起きていた。

 

「おー、凄いぞスピカ! 大漁だ!」

 

「――――は? 大漁?」

 

 なんの事だと思い、ウラヌスの方に振り返る。

 それだけで答えはすぐに明らかとなったが、しかしスピカは呆けたように固まってしまう。

 ウラヌスの傍に十匹以上の巨大芋虫……オルゴイホルコイが転がっていたのだから。

 

「ちょ、何その数!?」

 

「んぁ? ふつーにしてたらこれだけ釣れただけだぞ?」

 

 驚くスピカにウラヌスはなんて事もないかのように首を傾げる。だが、これは異常事態だ。確かにオルゴイホルコイは砂漠の至るところに棲んでいる虫だが、しかしそれでも砂漠を埋め尽くすほどいる訳ではない。理由は単純に餌が少なく、また天敵に食べられているからだ。

 そのオルゴイホルコイが大発生しているという事は、何かしらの要因で天敵が減り、餌がたくさん供給されたという意味になる。天敵は砂漠にいる肉食獣ほぼ全てであり、一種二種の数が減ったところで大きな変化は起こるまい。大部分の肉食動物が、一斉に数を減らしたと考えるのが自然である。

 しかしそれはあまりに不自然だ。生物の関係は喰う喰われるだけではない。同じ食べ物を巡って争う事もある。そのためある種の肉食獣が減ると、同じ獲物を食べていた肉食獣が増えるというのはよくある出来事だ。草食動物でも同じ事は起きるので、大半の生物が同時に数を減らすというのは極めて稀だ。

 何かがおかしい。

 この砂漠の普段の姿を知らぬ以上、スピカには断言など出来ないが……これまでに積んできた経験から覚える違和感は無視出来ない。

 

「……ウラヌス。警戒してて」

 

「む? 警戒? 何か来るのか!?」

 

「来るかも知れないってだけ。変に騒がないでよ?」

 

 地平線の彼方をじっと見つめ、如何にも「警戒しています」という態度を取るウラヌスをスピカは窘める。

 警戒するよう促しておいて言うのも難だが、結局のところこれは余所者であるスピカが抱いた違和感に過ぎない。ただの勘違いという可能性は残っているし、仮に異変が事実だとして……それが自分達に危害を加える形で現れるとは限らないのだ。自然は人間に優しくないが、人間を積極的に殺そうともしない。見くびるのは論外であるが、無闇に恐れるのも正しい行いではないのだ。

 勿論、些末な変化も見逃さない、という事は忘れてはならないが。

 

「むむっ! 何か大きな生き物がいるぞ! こっちに向かってきている!」

 

「っ!」

 

 故にスピカはウラヌスの言葉にすぐに反応。ウラヌスが何を見ていたかすぐに確かめる。

 それは、ウラヌスの言葉通り巨大な生物だった。

 砂漠の砂が、まるで水飛沫のように跳ねている。いや、まるで、というのは正しくない。そいつは砂の中を()()()()()のだから。

 体長はざっと四十メトル以上あるだろうか。スピカ達が乗る船より遥かに巨大な存在だ。砂上に覗かせている身体は白く、鱗や毛に覆われていない肌を露わにしている。尤も砂に揉まれた身体は傷だらけで、巨山に転がる岩のように無骨な雰囲気を纏っていたが。

 体型は頭が極端に大きく、体長の四分の一を占めている。赤い目は小さく、頭部の異様さを強めていた。ぱくりと開いた口の中には、小さいながらも鋭い牙がずらりと並んでいる。身体の側面にあるのは巨大なヒレであり、横向きの平たい尾ビレを上下に動かす。

 多くの人間は、その生物を『怪魚』と呼ぶだろう。だがスピカはそれについて書かれた書物を読んだがために、正体を知っている。

 あれは魚ではなく獣の一種。仲間達が大海原を泳ぐ中、ただ一種陸地に暮らす巨大海獣。

 

「バハムート……!」

 

 ()()()とも呼ばれる、陸生の鯨がそこにはいた。

 バハムートはこの『世界』に生息する生物としては、最大の捕食者だ。巨体に見合った大食漢で、口に入る生物なら片っ端から襲って食べる。

 そしてその強さは巨体相応。いや、大陸最強と謳っても、そこに文句を付ける輩はそういまい。バハムートはこの大陸に存在するどんな生物よりも大きいのだから。分厚い表皮は剣どころか大砲も通じず、人間を押し潰すほどの大岩を小石のように跳ね飛ばす。人類の手に負えない生物は数多いるが、バハムートは特にどうしようもない存在だ。もしも襲われたなら、数千人規模の軍隊も瞬く間にやられるだろう。

 戦いになれば、の話だが。

 

「……ふぅ。バハムートなら安心ね」

 

「む? 安心なのか? あんなにデカいんだぞ? しかもこっちに来てるぞ?」

 

「デカいけど、あれで性格は大人しいからね」

 

 本に書かれていた内容曰く、バハムートは口に入る大きさの獲物しか襲わないらしい。気性も大人しく、満腹であれば人間が傍にいっても反応せず、触る事も出来るとか。桁違いに強いが故に、あらゆる存在に対して寛容なのだ。人間とは大違いである。

 そして人間が作り出した船は、バハムートほど巨大ではないが、その口に入る大きさではない。よって船が襲われる事はないのである。

 これらの知識は書物から得たものだ。書物に書かれている事の全てが真実とは思わないが、しかしその本は冒険家なら一度は読んでおけと言われるぐらい、信頼されているもの。全くの出鱈目はまず書かれていないだろう。

 無論、これだけで全面の信頼をするのは誤りだ。大人しいだのなんだの言われているが、実際のところバハムートの生態はよく分かっていない。繁殖期が何時なのか、その時の性格はどうなのか、雄雌で気性は異なるのか……それらが分からないのに『安全』というのは、バハムートを見くびるようなものだ。

 しかしそれでもスピカが安心しているのは、船も特段慌てた動きをしていないからである。

 船乗り達はこの砂漠を何度も往復している、所謂砂漠の専門家だ。砂漠の生き物に関する『実用的』な知識は、冒険家よりも上であろう。そして船に万一が起きないよう、常に周りを警戒している筈。スピカでも視認出来る位置に現れたバハムートなら船員は気付いているに違いなく、なのに特段船内が慌ただしくならないのだから、取り立てて対応する必要はないに違いない。

 異常事態と思われる状況でなければ、スピカとしてはのんびり観察していたいぐらいだ。強いて気になる点を挙げるなら、バハムートの生息地はこの辺りではないと本にはあった事か。だが遥か遠方なら兎も角、バハムートの住処はちょっと此処よりも砂漠の奥というだけ。偶には人が通る場所に姿を表す事もあるだろう。

 

「ふーむ。しかしアイツ、こっちに向かって突っ込んできてないか?」

 

 尤も、そんな暢気な考えは、ウラヌスの一言で吹っ飛んだが。

 一瞬の思考停止を挟んだ後、スピカは改めてバハムートを見る。

 バハムートは泳いでいる。力強く、かなりの速さで。何やら必死な様子で。

 猛然とこちらに向かいながら。

 

「……マジ?」

 

「私はさっきからそう言ってるぞ?」

 

 スピカの現実逃避の言葉を、ウラヌスはばっさりと切り捨てる。確かに言っていたなと納得しながら、スピカは思う。

 これは本当に、死んだかも知れない。

 地上最強の生物と戦って、そして生き延びた(勝った)人間なんて、御伽噺を含めても『一例』しか聞いた事がないのだから――――



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砂漠巨獣4

 現実を否定しても、何も状況は変わらない。

 その『事実』を頭の中で呟きながら、スピカは考えを巡らせた。バハムートがこちらに向けて突進してきている。このような状況下で、まずすべき事は何か?

 冷静に考えれば、答えは決まっている。

 

「(まず、()()()()()()()()()()()()()()、という確認が必要ね)」

 

 血気盛んな者なら、先制攻撃だ! と叫ぶかも知れない。

 だが相手は地上最強の生物。迂闊に攻撃して、怒りを買ったら絶対に助からない。それに書物の通りなら気性は穏やかな筈なのだ。もしかするとあのバハムートは、悠々と砂漠を泳いでいるだけで、偶々その進路上に自分達の船があるというだけかも知れない。そこを攻撃するというのは、こちらが喧嘩を売ったのと同義。恐怖心から攻撃しても、ろくな事にならないのは明白である。

 故に、そもそも自分の感じた印象が正しいかどうかを確かめねばならない。幸いにしてその方法は簡単だ。もしも相手がこの船を狙っているなら、急な方向転換をしても追ってくるに違いない。

 尤も、こんなのはバハムートについて本でしか知らないスピカでも閃いた事だ。熟練の船乗り達が思い付かない訳もなし。

 

「急げ急げ! 帆の向きを変えろ!」

 

 バタバタと甲板上を、屈強な船乗り達が走っていく。

 彼等が向かう先は船上ではためく帆。その帆にはロープが繋がっていて、これを引いたり伸ばしたりする事で帆の角度や開き方を調整する。

 普段から帆の傍には、これを調整する船員がいる。帆船は風向き通りにしか進まない、というのは大きな誤解だ。実際は帆の角度を調整する事で、横風どころか風上に向かって(流石に斜め方向にはなるが)進む事が出来る。これにより風向きが変わったから後退、なんて間抜けな事態は起こらない。

 帆の向きを変えるのは普段一人でやる作業と思われる。船乗り達が集まったのは、帆の角度を素早く変えるためだろう。その予想通り、帆の向きが急に変わるのと共に、慣性を感じるほどの勢いで船の軌道も曲がった。

 船は大きく旋回。これならバハムートの進路とは重ならない。さて、ではバハムートは何処を見ているのか?

 ――――船からその様子を見ていたスピカは、舌打ちをした。

 

「やっぱり、アイツこの船を狙ってる……!」

 

 バハムートは、進路を変えた船を正面に見据えている。

 勿論突然動きを変えた船に興味を持った、という藪蛇な状況もあり得るだろう。しかしそれは問題の本質ではない。バハムートが迫っている、という確信が得られた事こそが重要なのだ。

 どうにかしてバハムートから逃げねばならない。そしてそれを船員に全て任せるのは、自分の命を天に任せるようなもの。

 どうせ死ぬなら、やるだけやって、後悔はない方が良い。

 

「(といっても、何が出来るか分からない。なら、まずは観察だ……!)」

 

 スピカは情報を得るべく、迫りくるバハムートを凝視。その行動と姿を分析する。

 近付いてきたバハムートは、最初に感じたように体長四十メトル以上はあるようだ。スピカ達が乗る船よりも巨大で、その力は間違いなく船の馬力よりも上だろう。

 昔読んだ書物通りならその表皮は大砲すら通じないほど頑丈なので、仮に船の方から体当たりを仕掛けたとしても、果たして怯むかどうかも怪しい。また船上には大砲が置かれているが、あれはあくまでも数メトルぐらいの獣を追い払うためのもの。バハムートに撃ち込んでも怒りを買うだけである。

 まともに相手出来るような存在ではない。取れる手立ては逃げる事だけ。しかし段々と近付いてきた事で、ハッキリと分かる。

 どう見ても、バハムートの方が船よりも速い。

 

「(そりゃ風の気紛れに左右される帆船と比べたら、自力で泳ぎ回るバハムートの方が安定しているわよね……!)」

 

 立っていられないほどの強風が絶え間なく吹いていれば、振り切る事も出来たかも知れない。しかし今日の風は(動く船上だと分かりにくいが砂漠の様子から察するに)然程強くない。船が止まる事はなかったが、快速と言えるほどではないだろう。

 このままでは逃げ切れない。ならば取るべき策は二つのうちどちらか。

 一つは船を加速する事。風の強い地域などに移動し、船の最高速度を引き上げる。風の強さ次第ではバハムートをあっさりと引き離し、めでたしめでたし……となるだろう。恐らく船員達は今、その方向で対策を練っている筈だ。

 しかしこの方法は、運試しに等しい。風の強い地域が此処から近いとは限らず、またそもそも『今』風が吹いているとは限らないからだ。奇跡を願うのが悪いとは言わないが、奇跡に縋るのは最後の手段にすべきである。

 ならばスピカが取るべきは、もう一つ策。

 どうにかして、バハムートの『足止め』を行うのだ。幸いにしてスピカの装備は、そうした足止め・嫌がらせに特化したものが多い。最強種バハムート相手に何処まで通じるかは分からないが、多少の効果は見込めるだろう。

 欠点を挙げるなら、嫌がらせによりバハムートが怒り狂い、ますます激しく船を追ってくる可能性だが……これについては心配いらないとスピカは思う。

 何故ならバハムートの目が、笑っていないからだ。

 

「(人間があの顔してたら、近付くのも駄目な感じだなー)」

 

 動物というのは表情豊かなものではない。虫やトカゲは何があっても口許一つ歪まず、獅子や犬でも人間のようなハッキリとした喜怒哀楽は中々見せてくれない。同じ種類同士なら一目で分かるかも知れないが、少なくとも一般的な人間には、獣の感情を顔から読み取るのは無理だろう。

 しかし数多の生物を見てきたスピカは、動物の大体の感情が読める。虫やトカゲは難しいが、獣ならばかなり的確に。そしてその経験曰く、今のバハムートはかなり……怒りなどに近い感情に支配された興奮状態にある。鬼気迫る、というのが一番的確な例えだろうか。

 あのバハムート相手にちょっかいを出したとして、今更どうなるものではない。ブチ切れて殺す気満々の人間に小馬鹿にしたイタズラを仕掛けても、怒りが長続きするだけで、怒りの上限は突破しないのと同じだ。

 よって足止めを試みる事に、実質欠点はないと言えるだろう。ただ、現時点に限れば一つだけ問題があるのだが。

 バハムートがかなり間近まで迫っていて、策を展開する時間がないという事だ。

 

「(クソッ! これじゃあ一発は避けられないか!?)」

 

 例え一発でもバハムートの体当たりを受ければ、船体には大きな損害が発生するだろう。

 大きな船というのは壁面に穴が空いたとしても、簡単に沈むものではない。しかし万一帆が折れたりすれば、速度は大きく落ち、操舵の自由度も大きく下がる。そうなればバハムートの二回目の突撃を避けるのは不可能。一回目以上の大打撃を受け、恐らく『沈没』してしまう筈だ。

 此処は海ではなく砂漠なので、跳び下りて脱出する事は出来る。バハムートの気分次第だが、乗組員全員が四方八方に散らばれば恐らく何割かは逃げ切れる。

 だが、その後は?

 船で移動するから、誰も水や食糧はあまり持って来ていない。砂漠では地形なんて風一つですぐに変わるから地図もなく、航海士による案内がなければ進むべき方角も分からない。幸運な人間は通りすがりの船に見付けてもらえるかも知れないが、つまり奇跡以外に助かる術はない状況に追い込まれる。

 船の沈没は、そのまま死を意味すると言っても過言ではない。一発目の体当たりを避けねば、この時点で敗北がほぼ確定する。

 判断が遅かった――――スピカがそう思った時だった。

 

「そいやーっ!」

 

 『少女』の大きな声が、船上に響き渡る。

 振り向けば、そこにいたのはウラヌス。彼女は今、何かを投げたような体勢でいた。一体何を投げたのか? ウラヌスの体勢から放物線を脳内で予想し、その線を辿るようにスピカは視線を移動させる。

 そうして見えたのは、(いかり)だった。

 ウラヌスは錨をぶん投げたのだ。大きさざっと三メトル、金属で出来たそれは屈強な船乗り達にとっても重たい(何しろ船の動きを制限するためのものだ。物にもよるが、ある程度重くなければ意味がない)が……ウラヌスの化け物染みた筋力は、まるで大きめの石程度かのように投げてみせた。

 投げられた錨は、船から少し離れた砂漠の大地に着地。しっかりと砂に埋もれたそれは、船の引っ張る力にも抵抗する。むしろ船の方が引っ張られ――――船の進路が()()()()()()()

 それは風頼りでは不可能な急旋回。距離が離れていればバハムートも追えただろうが、かなり間近まで迫っていた事でそれも出来ず。

 バハムートは血走った眼で睨みながら、スピカ達が乗る船の横を通り過ぎていった。

 

「た、助かった……」

 

「ほっ」

 

 スピカが安堵している中、ウラヌスは錨と船をつなぐ鎖も投げ捨てる。自由になった船は再び前進。砂漠の海を駆けていく。

 体当たりを外したバハムートは大きく旋回する。まだ船を追う気持ちは萎えていないらしい。

 絶望的な状況であるが、しかし先程よりは少し好転している。後ろから追う形となった事で、今までよりは接近に時間が掛かるようになっていた。それに前進する力があまりにも大きく、旋回にも時間を費やしている。今は船とかなり距離が開いている状態だ。

 また、風向きという『幸運』も味方したらしい。船の速さが今までより少し上がっていると、移り変わる景色の速さからスピカは予測する。運はこちらに味方しているようだ。

 バハムートはまだ追ってきているので、安堵するのは早計であろう。しかし時間が稼げた事で、精神的な余裕は回復した。的確な判断には、落ち着いた思考が欠かせない。

 そして気持ちが落ち着けば、人を労う余裕も戻る。これはスピカだけに言える話ではない。

 

「すげぇぜ嬢ちゃん!」

 

「まさか錨を投げるなんてな!」

 

 正真正銘船の救世主となったウラヌスに、船員達がどっと集まった。筋肉隆々な男達はウラヌスを囲み、人間離れした技に対して惜しみない喝采を浴びせてくる。

 

「うむ! みんなも凄かったぞ! あんな作戦を思い付くなんて、船乗りは凄いんだな!」

 

 ウラヌスも、船員達を惜しみなく褒め称えた。素直だからこそ、なんの迷いもなく言える言葉だ。

 どんな捻くれ者だろうと、邪気のなさを察するであろう真っ直ぐな気持ち。それに対する人の反応は、普通ならば照れたり喜んだりであろう。

 ところがどうした事か、船乗り達の反応は何処か他人事。

 

「いいや、作戦を考えたのは俺達じゃない。あそこにいる、厳つい姉ちゃんさ」

 

 その理由は、船員の一人が指差しながら答えた。

 指が示す先には、女が一人いる。

 歳は三十代前半だろうか。整った顔立ちをしており、鋭い眼差しと引き締まった頬は、演劇の主演男優にも負けない凛々しさを持つ。背丈もスピカより高く、鍛え上げた肉体を持つ男達の中でもよく目立つ。肩幅も広く、背負う鎧も重くて頑強な鉄製のもの。普通の女性ならば、冗談でなく重さで倒れていてもおかしくないそれを、麻の服のように着こなしている。

 なんと凛々しく雄々しい姿なのか。髪を長く伸ばし、高価な口紅を付けていなければ、男と見間違えたかも知れない。

 乗船していた傭兵の一人か、とまで考えて、スピカはふと思い出す。この女性は確か、ウラヌスが話し掛けた人物ではないかと。

 ウラヌスは彼女を「強い」と評していたが、肉体的なものだけでなく、知略でも優れているらしい。

 

「(……いや、ちょっと変ね)」

 

 一瞬納得しかけたが、されどスピカは奇妙な点に気付く。

 何故この女傭兵は()()()()()()()()()()()()()と思ったのか? 錨を投げ入れろという作戦は、それが可能だと知らなければ思い付きもしないものだ。屈強な大男に頼むならばまだしも、見た目だけなら健康的な小娘でしかないウラヌスに何故頼ったのか。

 それに船員達も、どうして女傭兵の指示に従ったのか。船というのは何十人もの船乗りにより操られ、一人一人が力を合わせて動かすもの。それぞれが勝手に動けば、致命的な問題を起こしかねない。故に普通は船長だけが指示を出し、その通りの行動をする。

 船長が余程の無能(と船員が判断した)なら、指示を待たずに行動も起こすだろうが……だからといって見ず知らずの傭兵の指示を聞く理由にはならないだろう。しかも少女に錨を投げさせろという、あまりにも非常識な命令だ。

 あの傭兵、或いは船員達には『何か』あるのだろうか?

 ……疑問はあるが、それを追求するのは後回しだ。そんな事をするぐらいなら、今後について誰かと相談した方が遥かに建設的である。

 

「野郎共、船に傷はないか!」

 

 例えば船内から出てきた、白髭を生やした恰幅の良い男――――船長など打って付けの相手だ。

 

「船に損傷なし! 風向きも良好で、今までより速度は出せます!」

 

「分かった。このまま全速前進。バハムートの奴が飽きるまで逃げるぞ」

 

 船乗り達に船長は指示と共に、行動指針を示す。バハムートが飽きるまで、というのは先の見えない話であるが……他に手もないとスピカも思う。

 精々、自分に出来る手伝いを探すぐらいだ。スピカはそう考え、船長に話し掛けようとする。

 危機的状況だが、場の空気は悪くない。緊張感というのは必要だが、それが過ぎて険悪になれば能力も半減というものだ。今の船乗り達の様子は、命を預ける側であるスピカとしては非常に心強い。

 しかし理想的な場の空気は、あまりにも呆気なく崩壊する。

 

「いや、ここで奴を倒す」

 

 女傭兵が、あまりにも無謀な作戦を口に出した事を発端にして……



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砂漠巨獣5

「……すまねぇな、年を食うと耳が遠くなる。今、なんつった?」

 

 船長は自分の耳を指先で掻きながら、女傭兵に改めて問う。

 言い回しこそ自分に非があるというものだが……その意味合いは「何寝惚けた事言ってんだこの間抜け。聞かなかった事にしてやるからとっととそのくだらない案を下げろ」だろう。

 スピカは口にこそ出さないが、しかし船長と同じ気持ちだ。女傭兵の意見など考慮に値しない。

 大陸最強種であるバハムートを倒すなんて、自殺行為と呼ぶのもおこがましい発想なのだから。

 

「何度でも言ってやろう。バハムートは此処で倒す」

 

 だが、女傭兵は船長やスピカの発する雰囲気など気にもせず、またも『世迷言』を発する。堂々と、まるで間違っているのはスピカ達の側だと言わんばかりだ。

 スピカは元々人付き合いそのものをあまり好まない。他人との距離を保ち、だからこそ他者から何か言われてもあまり気にならない性格だ。しかしそれでもこんな言い方をされたら少なからず苛立つ。言い争う方が面倒だから何も言わないだけ。

 見た目からして血気盛んな船長においては、口論上等だったらしい。女傭兵の顔に肉薄し、鋭い眼光で睨み付ける。

 

「……さっきは的確な指示を出したみたいだが、あれはまぐれか。バハムートに喧嘩を売るなんて、どんな国でもやらねぇぞ」

 

「奴を野放しには出来ない。見立てが正しければ、極めて危険な存在と化している。それに、うちの国が喧嘩を売ろうとしている『アレ』よりはマシだろう?」

 

「闇雲に刺激すんじゃねぇ。テメェらがアレに喧嘩を売るのは勝手だが、俺等を巻き込むんじゃない。この船に乗った奴等を無事に届ける、それが俺の仕事なんだからな」

 

 船長のキツい物言いの意見に対し、女傭兵は一歩も退かない。

 そんな二人の会話を聞きながら、スピカは思考を巡らせる。ただの傭兵と思っていたが、もしかするとこの女性は……

 

「カペラ、いい加減にしろ! 勝てない勝負をするのはただの間抜けだと――――」

 

「そうだな、確かに勝てない勝負かも知れない。だから見方を変えよう」

 

 船長からの叱責を尻目に、女傭兵……カペラという名前のようだ……は船の後方を指差す。

 

「アイツから本当に逃げ切れると思うのか?」

 

 そして『根本的な疑問』を口にした。

 船長は言葉を失った。ちらりと視線を向けた先に、こちらを追ってくるバハムートの姿があるがために。

 バハムートは一直線にこの船を追ってきている。まだ距離はあるが、着実に詰めてきていた。口論ばかりに時間を費やしていたら、何も出来ないうちに船のケツは大陸最強の突き上げを喰らうだろう。

 逃げ切れるのであれば、戦うなんて選択肢は選ぶ必要がない。カペラが何を言おうと戯言だと聞き流すか、そんなに戦いたいならお前一人でやれと船から捨ててしまえば良い。だが現状、逃げ切れる可能性はあまり高くないだろう。何もしなければ間違いなくやられる。

 殺す(倒す)にしろ距離を稼ぐにしろ、攻撃する必要はあるのだ。カペラの意見に賛同するかどうかというのは、実のところ関係ない。彼女に反発する事自体が、緩慢な自殺行為と言えよう。

 

「……ちっ。必要なものは?」

 

 船長も今の状況は理解している。だからこそ舌打ちの後、すぐに協力の意思を示した。

 カペラからすれば、予想通りの展開なのだろう。彼女は船長の質問に、ほぼ間を置かずに答える。

 

「何はともあれ戦力が必要だ。バハムート相手に人手はいくらあっても足りない。私の『部下』には私から声を掛けるとして……船員以外の、他の乗員も集めてほしい。無理強いはしないが、緊急事態である事を伝えて協力を―――――」

 

「なら、既に集まってる。この二人の娘っ子たけだ」

 

 不意に、船長はスピカの方を指差す。

 二人の娘っ子という、なんとも分かりやすい表現を使われたのに、スピカは一瞬なんの事か分からずに停止。傍にいるウラヌスが首を傾げてから、ハッとして我に返る。

 その時にはもう、カペラはスピカのすぐ傍までやってきていた。

 

「すまない、出来ればあなた達も手を貸してくれないか? あのバハムートから生き残るため、手を打ちたい」

 

「……え、ええ。それなら大丈夫。何もしないでやられるつもりは、私としてもないし」

 

「私はスピカがその気ならなんでも良いぞー。あとアイツは強そうだからな! 戦うならどんとこいだ!」

 

 スピカは平静を装いながら、ウラヌスは喜々としながらカペラの要請を受ける。誰も直接対決なんてしないわよ、と思いスピカが口許を引き攣らせる中、カペラはくすりと笑った。

 尤も、カペラはすぐに強張った表情に戻すのだが。

 

「私は部下に声を掛けてくる。その間、何か作戦を考えてくれ」

 

 カペラはそう言い残すと、この場を後にした。船内にいる『部下』達を呼びに行くのだろう。

 残されたスピカは、ちらりと船長の方を見る。船長もスピカの方を見ていた。

 

「で? 嬢ちゃん、何か良い案はあるか?」

 

 目が合った船長はそう尋ねてくる。

 スピカの答えは、首を横に振る事だった。

 

「作戦って言われてもねぇ。私、バハムートの事なんて本でしか知らないわよ。船長は何か知らないの? 船で行き来してるなら、何回か見た事あるんじゃない?」

 

「見た事はあるが、普通のバハムートは船に近付かん。むしろ逃げるぐらいだ。好奇心旺盛な子供がたまーに並走するぐらいだぞ。そもそも俺は冒険家や漁師じゃねぇんだ。生き物の事なぞ大して知らん」

 

 スピカの問いに、ぶっきらぼうな答えを返す船長。毎日砂漠の生き物を見ていてそれか、とも言いたくなるが、バハムートは大陸最強の生物だ。余程の生き物好きでなければ観察しようなんて思わず、向こうも近付かないなら知りようもない。そして船長は船乗りであり、彼が必要としている知識は『バハムートとの安全な付き合い方』だ。生態や倒し方ではない。

 野生動物と戦った事がなければ、何が危険で何が弱点かなど、答えようもないだろう。危険な生物だらけの世界を練り歩く冒険家と一緒にしてはいけない。だから情報は、スピカの力で引き出さねばならないのだ。

 

「じゃあ、普段の様子が知りたいわ。バハムートって、何時もあんなに目が血走ってるの?」

 

「……いや、あんな目は初めて見た。普段のアイツらはもっとこう……鼻水垂れの子供みたいな、能天気な目をしている」

 

「つまり正気じゃないと」

 

 船長は無言で頷く。スピカは早速その『言葉』から思考を巡らせた。

 獣に理性を求めても無駄である。

 しかしそれは、彼等に理性がないという意味ではない。むしろ人間より余程理性的だとスピカは思う。過剰な自信は持たず、余計な情けも掛けず、そして自分の命を大切にして……復讐なんて微塵も考えない。自称理性的な生物である人間の方が余程『感情的』というものだ。

 そして理性的であるからこそ、不利を悟ればすたこらさっさと逃げていく。

 死なない事こそが大事なのだ。言い換えればどんなに獰猛な獣でも、危険だと思えば人間から全力で逃げていく。「たかが人間如きにぃー」等という台詞は、御伽噺の悪魔ぐらいしか言わないのである。そのため強大な生物に襲われた時、兎に角一発デカいものを喰らわせて驚かせると、案外助かる事も多い。

 ……普通であれば、の話だが。

 

「(正気じゃない、って事は恐らく冷静な判断はしてくれない)」

 

 獣も人間と同じだ。冷静であれば力の差や危険を感じて、(余計な矜持や自尊心を持たない人間よりも遥かに)合理的な判断が行える。

 しかし怒り狂ったり、或いは薬物で狂わされたりした存在は、その冷静な判断を行えない。極度の興奮状態にある人間が矢で目玉を射抜かれても突撃し続けるように、恐慌状態に陥ったネズミが泳げないのに川へと跳び込むようになってしまう。

 あのバハムートが正気でないとすれば、大きな音や光などで脅かす作戦は無駄に終わる可能性が高い。確実に奴の動きを止める方法はただ一つ。

 

「(殺すしかない、という訳か)」

 

 出来るとは到底思えない作戦以外に手がないとは。絶望的状況にスピカは乾いた笑いを漏らす。

 それでも他に手がないのならやるしかない。長めのため息と共に躊躇いの気持ちを吐き出し、スピカは覚悟を決めた。

 

「待たせたな」

 

 まるでその時を見計らったかのように、カペラが甲板へと戻ってきた。

 カペラの後ろにはぞろぞろと、傭兵らしき男達が並ぶ。いずれも屈強な大男ばかり。女はカペラ一人だ。基本力と力のぶつけ合い、そして(昨今ではほぼ見世物であるが)殺し合いを生業とする傭兵は殆どが男なので、男女比に疑問はないが……それがカペラの『部下』となると少々印象が異なる。

 尤も、詮索は後回しの方が良いだろう。スピカは気持ちを切り替え、カペラの部下達を見遣る。人数はざっと三十人。中々の大所帯だ。これだけ人数がいれば色々な事が出来るだろう。

 問題は、何をすべきか、であるが。

 人生の殆どを一人旅に費やし、ここ二〜三ヶ月ようやく二人旅になったばかりのスピカには、大所帯で行う策は中々閃かない。それでもやらねばならない以上、ああだこうだと文句を言っても無意味。

 

「(ま、偶にはみんなで頑張るのも、ありっちゃありよね)」

 

 それより前向きに考えて不適に笑う方が生き残れる事を、スピカは経験的に知っているのだった。



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砂漠巨獣6

「ふむ。笑っているからには、何か妙案が閃いたのか? 冒険家」

 

 スピカの笑みを見たカペラが、そのように尋ねてくる。

 対人の心理戦なら、ここはハッタリをかますべきだろう。しかし此度の相手はバハムート。人間相手(仲間)に嘘を吐いても仕方ない。

 

「いいや、なーんにも。バハムートの強さを考えたら、通じる策なんてろくにないし。何より……」

 

「何より?」

 

「場所が悪過ぎる。砂漠じゃ罠一つ張れないわよ」

 

 そう言いながら、スピカは船から見える景色に目を向ける。

 視界に入るのは、見渡す限り砂ばかり。

 砂漠なのだから当然である。だが、その当然が厄介だ。これまでスピカが戦ってきた存在……スライムやキマイラ、ヴァンパイアは、その土地の環境を活かして撃退している。レギオンも宝石都市にあった火薬で意識を逸らす事が出来たのが勝因だ。まともに戦っても勝てない相手だからこそ、自分達以外の力に頼るしかない。

 だが、この砂漠にあるのは砂ばかり。池も毒草も火薬庫もないのだ。これで策を練ろと言われても、一体何をどうすれば良いのか。

 

「まぁ、何もないってのは人間目線の物言いで、実際には色々あるにはあるけど……でも探すにしろ考えるにしろ、時間が掛かる」

 

「成程。なら他の者にも聞こう。誰かあの化け物を倒す秘策は思い付いたか?」

 

「はいはーい! 私が殴りに行くぞー!」

 

「やりたい事じゃないっつーの」

 

 元気に手を上げ、空気を読まない発言をするウラヌスを窘める。

 しかしカペラとその部下達から、ウラヌスの『秘策』を超える素晴らしい案は出てこない。船長や船乗り達も同じだ。

 

「ふむ。つまり我々が最初にすべき事は、誰かが作戦を思い付くまでの時間稼ぎという事だ」

 

「簡単に言ってくれるな。あの化け物をどうやって足止めするつもりだ?」

 

「そうだな。船長、大砲を使わせてもらえるか? うちの部下に、例え一千メトル離れた相手にも当てられる奴がいる」

 

「……構わねぇが、直撃させても傷一つ与えられねぇぞ」

 

「しかし顔に当てれば、目眩ましぐらいにはなるだろう。運が良ければ体勢を崩して転ぶかも知れん」

 

 あまりにも願望混じりの作戦、或いはその場凌ぎと言うべきか。

 だがこの場を凌がなければ未来はない。カペラの要望に、船長は肩を竦めながら同意する。カペラは視線を部下の方に向けると、男の一人が前に出た。彼が大砲の名手らしい。

 大砲の弾となれば相当に高価な筈。それを目眩ましに使うのは、些か豪華過ぎるかも知れない。だが使わなければ砲弾諸共砂漠のゴミとなるだけ。使えるものを躊躇いなく使う、船長とカペラの決断は正しい。スピカとしても口出しなんて出来ない。

 

「良し、やるぞ」

 

「了解」

 

 男はカペラの『指示』を受け、船の後方に設置された大砲へと向かう。大砲の周りには船乗り達がいて、既に砲弾を装填済みのようだ。

 砲身を触り、注意深く観察した後、男は大砲の角度を調整。迫りくるバハムート……話し込んでいるうちにかなり距離を詰めてきた。もう二百メトルも離れていない……を前にしても、指一つ震える事もない。

 それは大砲の後ろに火を入れて、着火する時でも変わらず。

 やがて遠く離れたスピカ達の身体が震えるほどの爆音を鳴らし、大砲が火を噴いた!

 今の人類が誇る最強の兵器。直撃すれば人間など跡形も残らないという噂話こそ聞いたことがあるが、実物が使われる瞬間を見たのはスピカも初めて。しかし身体で感じた余波だけで、その噂が本当だとスピカは確信した。

 

「みゃっ!? な、なんだ? なんだ?」

 

 スピカですら驚いた出来事だ。『野蛮人』であるウラヌスなど驚きのあまりひっくり返っている。

 どんな猛獣にも怯まず挑んできたウラヌスの、ちょっと間の抜けた姿。出来ればじっくり見ておきたいところだが、それよりもスピカは観察を優先する。

 大砲から放たれた黒い鉄球……砲弾が空を飛ぶ。

 放物線を描きながら向かうは、猛進するバハムート。放たれた大砲は弓矢よりも遥かに高速で飛翔しており、バハムートも避ける様子も見せない。吸い込まれるように鉄球はバハムートの頭部に直撃。その衝撃は鉄球を粉々に砕き、灰色の粉塵として撒き散らす。人間が受ければ跡形もなくふっ飛ばされる死の煙だ。

 だが、バハムートは止まらない。

 

「バオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 

 びりびりと大気を震わせる、バハムートの大咆哮が砂漠に響き渡った。

 その鳴き声は遠く離れたスピカ達の身体を痺れさせ、屈強な船乗りや傭兵を何人か腰抜けにしてしまう。更に大砲の粉塵を吹き飛ばし、無傷の身体を露わにする。

 最初から分かっていた事だ。バハムートに大砲が通じないなんて本にも書かれており、大体大砲が効かない生物など珍しくもない。かつて遭遇したスライムの放つ攻撃が、大砲と同じぐらいの強さだと言われるぐらいなのだから。

 しかし直撃して怯みもしない姿は、流石に少なからずスピカの心を揺さぶる。数多の恐ろしい生き物を見てきたスピカですらそうなのだから、傭兵や船乗り達の動きが止まってしまうのは仕方ない事だろう。

 だが、呆気に取られている暇はない。

 

「っ……次弾装填!」

 

 大砲を操っていた男が大きな声を張り上げる。一発で駄目なら二発、それが駄目なら三発撃ち込む……単純を通り越して愚直だが、しかし最も効果的な『力押し』だ。船乗り達も声で我に返り、言われた通り次の砲弾を大砲に詰めていく。

 再び放たれた大砲は、これまたバハムートの頭に直撃した。

 だが、やはりバハムートの動きは止まらない。止まる気配すらない。いや、それどころか加速していくようにも見える。

 

「バオオオオオオオンッ! ォオオオオオオオオオオオンッ!」

 

 怒り狂うような雄叫びを上げ、更に巨大な口も開く。内側に並ぶ小さく、しかし鋭い歯が、人間達の恐怖を煽る。

 目眩ましどころか足止めにもなっていない。それどころかその怒りをより激しく燃え上がらせてしまったようだ。これは不味い、と今更思ったところで、怒らせてしまった事実は変わらない。

 とはいえ大砲を当てる以外の手がないのも事実。何か他に策はないものかと、スピカはバハムートを観察する。

 バハムートは怒り狂いながら直進し続けており、未だ正確に船を追っている。船は風を最も強く受けられるよう時折蛇行していたが、バハムートはその動きを完璧に追尾していた。逃がすつもりは毛頭ないと、異種族である人間にもひしひしと伝わってくる。

 だが、観察していてスピカは違和感を覚える。

 

「(アイツ、本当にこっちが見えてんの?)」

 

 バハムートの頭には、確かに目が二つある。

 しかし頭の大きさに対し、あまりにも小さな目だ。それに大きな頭の両側に付いている。

 目の機能がどれだけ優れているかは、生き物の種によって違うと言われている。どんな風に見えているかは、生き物自身にしか分からない事だ。だが人間の知能であれば、姿形や行動、そして理屈からある程度予測する事が出来る。

 相手の視力を窺い知るための要素は二つ。

 一つは目の大きさ。目が大きな生き物は、印象通り視力に優れている事が多い。逆もまた然り。以前帝都周辺の森で出会ったスライムが良い例だろう。目玉が小さな彼等は、視力はあまり良くない。

 二つ目に、目の付き方が重要である。人間のように目が顔の前に付いている生物は、生き物の動きや距離感を捉えるのが上手だ。逆に顔の側面に付いている動物は、視野がとても広く、種によってはほぼ真後ろまで見えている。前者は肉食動物でよく見られ、後者は草食動物に多い特徴だ。肉食動物は獲物を捕まえるのに距離感が分からないと不味く、草食動物はより素早く天敵の存在に気付くのが重要という事だ。

 バハムートの目は小さく、そして身体の側面に付いている。あれでは身体の正面の獲物は、殆ど見えない筈だ。距離感を掴むのも恐らく苦手である。

 それによく見ると追跡の方法も奇妙だ。バハムートは確かに船を完璧に追跡しているが、その動きは一秒近く遅れてから起きている。もしも目で直接見ていたなら、そこまで反応の遅れが出るとは思えない。

 恐らく、バハムートは目で世界を見ていない。

 ならば何を頼りにしているのか? 気付いてしまえば、答えはそう難しいものではない。今まで見てきた生き物達の知識が答えを教えてくれる。

 そして相手の事を知れば、正しい『目潰し』の方法も分かるというものだ。

 

「ねぇ。一つ考えがあるんたけど、試させてくれない?」

 

「聞こう。何をしたい」

 

「大砲をアイツ自身じゃなくて、そのちょっと傍に撃ち込んでほしいの」

 

 スピカが意見を述べると、カペラは最初渋い顔をした。どうやら納得がいかないらしい。

 無理もないだろう。普通に考えれば、直撃しない攻撃をしても意味などないのだから。直撃させても効果があるか怪しいとはいえ、無駄玉を使うのは流石に看過出来ないのは当然である。

 しかしスピカの予想通りにバハムートが世界を見ているなら、直撃よりも外した方が効果的に時間を稼げる。

 真剣な眼差しでスピカが見つめれば、カペラは少し考えた後、指を一本立てた。

 

「次の一発だけ使わせてやる。それで良いな?」

 

「十分」

 

 スピカが同意したところで、カペラは大砲を操る部下の男に視線を向ける。

 スピカも男の傍へと向かい、戸惑う男に砲撃を撃ち込んでもほしい場所……バハムートのヒレの傍を伝える。直撃させない位置への攻撃指示に、男はやや怪訝な顔を浮かべたが、上司(カペラ)の指示もあって反対はせず。

 狙いを調整するため大砲の向きを変えた後、すぐに次の砲撃は行われた。

 間近で聞く大砲の音は、スピカの内臓を震わせるほどの衝撃を伴う。その場で蹲りたくなる気持ち悪さだが、堪えてスピカはバハムートの姿を見遣る。

 砲弾はスピカが示した通り、バハムートではなく、そのヒレのある方に飛んでいく。船の方向転換はなく、故にバハムートも動かない。狙い通りに砲弾はバハムートのヒレの傍に着弾した

 

「ブボオォッ!?」

 

 瞬間、バハムートが声を上げた。驚きと困惑に満ちた、ちょっと間の抜けた叫びだ。

 そして声を上げた拍子にバハムートは跳び上がる。転んだり立ち止まったりはしなかったが、しかし浮かび上がれば砂は掻けない。着地の衝撃で体勢を崩した事もあって、バハムートは大きく減速する。

 最高速度では船よりもバハムートの方が上だったが、それでも逃走劇が行えるぐらいには速度は拮抗していた。バハムートが大幅に減速すれば、船の方がずっと速くなる。一気に距離と時間を稼ぐ。

 

「良し!」

 

 思惑通りに事が運び、スピカは拳を握り締めながら喜ぶ。

 とはいえこうなると考えていたのはスピカだけ。他の傭兵達や船乗りは、喜びながらもポカンと呆けた顔をしていた。ウラヌスだけはこくこくと頷いていたが、どうせ何も分かっちゃいないとスピカは思う。

 

「詳しい説明を求める」

 

 分かっていない代表として、カペラがそう尋ねてきた。理屈を知るスピカはその問いに少しばかり自慢げに答える。

 

「予想が当たっただけよ。バハムートが目じゃなくて、音や振動で獲物を探しているって」

 

「音や振動?」

 

 視力に劣る生物は、世界が何も見えていないのか?

 そのような事はない。彼等は彼等なりの方法で世界を見通している。例えばスライムは、視力ではなく音や振動を頼りにして獲物を追っていた。犬や狼、虫は主に臭いで獲物を探す。人間は目に頼る生き物なので、視力のない生物を『下等』と見做しがちだが……数多の生物を見てきたスピカは知っている。五感に優劣はない。

 バハムートは正にその典型だ。視力に頼らないからこそ、頭部に砲撃が直撃し、視界を塞ぐ煙幕が展開されようとも怯みもしない。恐らく彼等は砂から伝わる振動を頼りにして、獲物や敵の位置を測定している。船の動きに遅れて反応するのは、その動きの振動が伝わるまで時間差があるからだ。

 では、真剣に振動を検知しようとしている最中、真横からズドンッと大きな振動が現れたらどう思うか? 恐らく、相当びっくりする筈だ。

 

「成程、音が弱点か。大手柄だな」

 

「いやー、はっはっはっ」

 

 カペラに褒められたスピカは高笑い。ちょっと子供っぽいか? とも思わなくもない二十二歳だが、嬉しいものは仕方ない。

 そして、だからこそ言わねばならないとも思う。

 作戦は成功したが、一つ、大きな問題が生じた事を。

 

「……ただまぁ、一つ欠点があるんだけどね」

 

「欠点?」

 

「いや、これってぶっちゃけ目眩ましというより、耳許で大声出すようなもんだから……今まで以上にブチ切れる可能性が高い」

 

 スピカはそう言いながら、バハムートを指差す。カペラはバハムートの方を見て、しばし眺めた後、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 真っ白だった体色がほんのり赤らむほどに興奮し、砂煙を巻き上げながら、今まで以上の速さで爆進してくるバハムートを――――



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砂漠巨獣7

 怒り狂ったバハムートは、一気に加速してきた。減速していた間に開いた距離は瞬く間に詰められ、そして残りの距離も同じ速さで減っていく。

 感覚的に、あと十秒ほどで追い付かれる。今まで作戦会議が出来るぐらいの猶予はあったのに、その猶予を一気に溶かす速さにまでバハムートは達していた。

 これまで出していた速さは、手加減していたのだろうか? 恐らく、そうではないとスピカは思う。攻撃前からバハムートは(船長曰く、という前置きはあるが)正気を失っていた。野生動物における手加減というのは、相手を見下した結果ではなく、自分が疲れないよう体力消費を考えて行うもの。正気を失ったバハムートが手を抜くとは思えない。

 今までも全力を出していた。だが『目眩まし』が奴の逆鱗に触れ、激しい怒りが込み上がったのだろう。その怒りが限界を超える力となった……という訳だ。

 時間を稼ぐつもりの目眩ましで、却って時間を縮めるとは。正直なところ、これはスピカにとって想定外だった。

 

「(そりゃ、多少は怒ると思っていたけど、ここまで加速する!?)」

 

 確かに怒りは、手っ取り早く身体の力を引き出す方法だ。しかし怒りには上限がある。興奮状態にあるバハムートが怒ったところで、対して身体能力は上がるまい。

 だとすると考えられるのは、今までバハムートは正気を失いながらも、これといって怒りは感じていなかったという事。

 空腹に陥っているのだろうか? 確かに砂漠では獲物が豊かとは言い難く、砂漠にいたのは毒持ちのドラゴンと小さな虫ばかり。腹を空かせていてもおかしくはない。だが、バハムートの身体は遠目から見る限り痩せている様子はない。食糧が足りていないとはどうにも思えなかった。

 他に考えられるとすれば――――

 

「総員! 何かに掴まれ!」

 

 考え込んでいたスピカの耳に、船長の声が流し込まれる。

 我に返れば、もうバハムートは間近にまで迫っていた。これはヤバいと、船長の指示通り傍にあったロープを掴む。

 次の瞬間、船が浮かび上がるほどの衝撃がスピカ達に襲い掛かった。

 バハムートの頭が船の後方にぶつかったのだ。噛み付きではなく、頭からの体当たり。やはり空腹が興奮状態の原因ではないらしい。

 尤も、そこから更に考えを巡らせる余裕は今のスピカにはない。今にも身体が空を飛びそうで、ロープを掴まなければ船の外に放り出されてしまう。

 

「う、うわああああっ!?」

 

 一人の傭兵が、そうなったように。

 

「アンタレス! くっ……」

 

「任せろー!」

 

 カペラにアンタレスと呼ばれた傭兵は宙に浮かんだが、それをウラヌスが跳んで捕まえた。大男一人を片手に持ちつつ、ウラヌスは片手で船の手すりを掴む。

 常人の筋肉では数秒と耐えられないだろうが、ウラヌスからすれば余裕の状況。船の揺れが収まったところで片手の力だけで手すりを乗り越え、甲板に戻ってくる。

 

「すまない、助かった!」

 

「うむ! 次は気を付けるんだぞ」

 

 小さな身体で胸を張るウラヌス。実に誇らしげだ。

 事実彼女の働きがなければ、アンタレスは砂漠の海に一人残され、転落をどうにか生き延びても、乾きの中で命を落としたに違いない。そして飛ばされたのがアンタレス一人でなかったら……

 最悪の展開でなかったからこそ、犠牲者数は未だゼロのまま。だが、恐らく一度きりの幸運だ。

 体当たりを喰らった事で、船の一部が瓦解している。船というのは、その形により浮力や速度を生み出す。部分的にでも壊れたこの船は、航行にこそ支障はなさそうだが、速度や操舵性は大きく低下したに違いない。

 体当たりの衝撃でバハムートは一旦大きく離れた。しかしその距離を詰めるのは、今までより遥かに容易い。二回目の体当たりは間もなく、そして一回目よりも大きな威力の一撃となる筈だ。

 もう一度受けたら、恐らく今度は大勢の乗組員が船から落とされる。三度目には、きっと誰も助からない。

 

「(これは、本気でそろそろなんとかしないと不味い……!)」

 

 だが、どうすれば良い?

 思考を巡らせるスピカだったが、近くにいたカペラは次の決断を下す。

 

「やむを得ん。我々で奴の足止めを試みる」

 

 腰に備えていた剣を抜き、戦いの意思を見せるという形で。

 

「……は? いや、いやいや。何言ってんの!? アンタ、王国や帝国でバハムートがなんと呼ばれているか知ってて言ってるの!?」

 

「災害級危険生物、だろう? 国家が指定した、一体で国家一つを壊滅に追い込む、文字通り災害染みた存在……しかし相手は生物だ。生きているなら、殺せるのが道理というもの」

 

「羽虫に人間は殺せないのが道理でしょ! バハムートと人間の関係も同じよ!」

 

「それを言われるとぐうの音も出ないな。足止めと言ったが、気付いてもらえるかも分からん」

 

 ははは、と笑い声を出すカペラ。だが前言を翻す気配は一向にない。無謀な作戦を止めるつもりは毛頭ない様子だ。

 ハッキリ言って大馬鹿だ。命を無駄に散らしてなんになるのか。そんな死を前提にした捨て身の攻撃をするぐらいなら、ギリギリまで考え続ける方が良いに決まっている。

 ところが馬鹿者はカペラだけではなかった。

 

「隊長がそうまで言うなら、こっちも乗らない訳にはいかねぇな」

 

「全く。こうも勇ましいとこちらも当てられてしまうな」

 

 カペラの部下である傭兵達も、次々と剣を抜き始めたのだ。

 逃げ出す奴が一人ぐらいいても良さそうなものだが、そんな『まとも』な人物の姿は何処にもない。

 

「ふん……盛り上がるのは良いが、船乗りを差置いて良い格好すんじゃねぇ」

 

「俺達もやれる事はやってやるさ!」

 

 おまけに船乗りまで勇ましさが伝染しているではないか。

 誰もが闘志を燃やしている。自分の命を賭けてでも、誰かを守ろうとしていた。このままでは決死の戦いが始まってしまう。

 これだからスピカは人間が嫌なのだ。誰かのために身体を張ったり、命を投げ捨てたり、そんな『無謀』を平気でしてしまう。自分の事を、残される人の事を考えるべきだというのに。

 挙句怖くないと言わんばかりに涼し気な顔。それがスピカにとって無性にムカつく。命を捨てるのに怖くない訳がない。野生の動物のように、もっと素直に怖がれば良いのに――――

 

「(……怖がる?)」

 

 強い苛立ちと憤りを覚えていたスピカだったが、ふと、違和感が脳裏を過る。

 人間というのは、どうにも『野性的』な性質を良くないものと思う風潮がある。恐怖など正にその典型で、乗り越える事こそが素晴らしいという文学や劇は事欠かない……が、野生の世界で恐怖心は極めて重要なものだ。何しろ怖いとは、つまり危険だという事。危険から逃げるのは生き残る上で欠かせない。恐怖心を失えば、カペラ率いる傭兵集団のようなどうしようもない『愚か者』が出来上がる。

 しかし、では恐怖心が強ければ強いほど良いかと言えば、それもまた否というものだ。強過ぎる恐怖に飲まれたものは、身体の制御すら儘ならない。例えば動く生き物を襲う獣の前で、その生態を分かっていながら全力疾走で走り出してしまう事もある。猫に追い詰められたネズミが、猫の鼻先に噛み付くという意味では効果的かも知れないが。

 バハムートは本来大人しい性格だと言われている。

 だが、もしも恐怖心に飲まれていたなら? それこそ錯乱するほどの恐怖を感じていて、がむしゃらに逃げて……その時()()()()()()()()()()()()()()に出会ったら、どう考えるだろうか。

 恐怖心に耐えかねて、攻撃的になってもおかしくない。

 

「(まさかあのバハムート、ビビってるだけ!?)」

 

 そんな馬鹿な、と頭の中で叫んでしまう。

 バハムートは身体の大きさからして、砂漠の生態系の頂点に君臨していると思われる。そのバハムートを脅かす何かが、砂漠の奥地には潜んでいるのか? 確かに、人間が自然界の全てを知っているとは到底思えない。それに以前出会ったレギオンの大群ならばバハムートも脅かすだろう。しかしだとしても……

 自分の考えに、自分が納得出来ない。しかしこれまでの行動から考えて、それが一番説明が付く。恐怖で錯乱しているからこそ、滅茶苦茶な攻撃性が出ていて、ヒレの傍に喰らわせた砲撃に一層恐怖したのかも知れない。

 それに、もしも本当に怖がっているのだとすれば、上手くいけばバハムートとの戦いを終わらせる事が出来る。

 

「(どれだけの間興奮してるかは分からないけど、かなり長い間続いているのは間違いない。あの身体は、多分中身はボロボロの筈)」

 

 恐怖は大きな力を生むが、決して健康的な状態ではない。例えば小動物などは、捕まえた際、痛め付けてもいないのに死んでしまう事がある。諸説ある(そして原因も様々だろう)が、強過ぎる恐怖により死んでしまう時もあるという。人間も恐怖のあまり死んでしまう事が極稀にだが起きる。

 普段と異なる精神状態というのは、それだけ身体に大きな負荷を掛けるのだ。バハムートの身体も、強過ぎる恐怖で内側はボロボロになっていると思われる。ここに一撃喰らわせれば、致命的な損傷になる可能性が高い。

 そしてそれにうってつけのものが、このスピカの持ち物にはあった。

 

「待って! みんな、破れかぶれになる前に、一つ手伝って!」

 

 大声でスピカが叫ぶと、カペラ達は一斉にスピカの方を振り向く。

 闘志に満ちた視線を向けられ、スピカは一瞬たじろいだ。だが、足に力を込めて踏ん張り、正面から向き合う。

 

「……作戦があるのか?」

 

「ある!」

 

 カペラからの問いに堂々と答えるスピカ。そして懐から、一本の薬瓶を取り出す。

 皆の視線が瓶に集まったところで、スピカは作戦の『前提』を話し始めた。

 

「これは、この地域に暮らしている毒蠍セルケトの治療薬。これ一本あれば、十人分ぐらいの治療が出来る」

 

「……それをどうするつりだ? 薬で何が出来る?」

 

「アイツの弱り目の心臓に、止めの一撃が刺せる、かも知れない」

 

 スピカの言葉に、カペラはぴくりと眉を動かす。分からない、と言いたげな彼女に、スピカは話を続けた。

 毒蠍セルケトの毒の効果は、脈拍を低下させ、呼吸も遅くするというもの。

 他にも色々な作用を引き起こすが、致命的なのはこの二つの性質。放置すると心停止と窒息死の危険がある。ではこれを治療するにはどんな薬が効果的か? 勿論、これらの症状を中和するものが好ましい。つまり脈拍を増加させ、呼吸を早くする薬を使えば、とりあえず死なずに済む。スピカが持つ治療薬も、飲めばそのような効果を生じる。

 そんな素晴らしい薬であるが、予防的に飲むというのはすべきでない。

 何故なら薬というのは、本質的に毒であるから。例えば死の危険があるセルケトの毒も、言い換えれば過呼吸や過剰な心拍などの症状に対してであれば薬という事になる。実際そうした病や毒の薬として、セルケトは重宝されている。そしてセルケトの毒に対する薬は、健康な人間に使えば呼吸と心拍の増大を引き起こす。過度の呼吸は却って息苦しさを生み、長時間の脈拍増加は心臓に負担を掛けて最後は止めてしまう。飲めばあの世行きの恐ろしい効能なのだ。

 さて。恐怖した生物というのは、身体に変化が起きる。

 難しい事ではない。人間が体感しているものとほぼ同じものだ。()()()()()()()()()()()()()()。これは運動した後の身体の状態と同じであり、恐怖から素早く逃げる(或いは戦う)ため身体が準備を整えているための反応と考えられている。生きるために必要な活動なのだが……これはセルケトの毒に対する薬が引き起こす作用と同じもの。ここに薬を使えば、症状は更に強まる。

 錯乱状態にあるバハムートは今、限界まで呼吸・心臓が早まっている筈だ。そこに薬を投じれば、限界をほんのちょっと超えてしまうだろう。強過ぎる心拍は心臓を痛め、早過ぎる呼吸は肺を損耗させる。どちらも生きていくのに欠かせない臓器であり、どちらかが駄目になれば、生物は死ぬ。

 

「最後の駄目押し、という訳だな」

 

 スピカの作戦を理解したカペラは、不敵に笑った。これならいけると考えたのかも知れない。

 とはいえ、確実にやれる、とは言えない。

 まず生物によって毒の効き方には違いがある。人間が一口食べたら死ぬような草を、バリバリと食べて成虫にまで育つ虫がいるように。バハムートにも、人間にとっての毒が通じるとは限らない。

 それに人間とバハムートは身体の大きさがあまりに違う。子供より大人の方が毒の効きが悪いように、身体が大きい生物の方が毒には強い。スピカが持つ治療薬は人間十人に使える量があるものの、体長四十メトルにもなるバハムートの体重は明らかに人間十人よりも大きい。健康な状態なら、全部を投じても精々体調を崩すだけだろう。

 極度の興奮状態だからこそ、もしかしたらやれるかも知れない……その程度の作戦だ。

 そしてスピカは、この問題点もカペラに伝えた。正確な判断をしてもらうために。

 カペラの答えは、不敵に笑う事。

 

「元より、足止めすら出来るか分からない相手だ。お前の作戦に乗ろう!」

 

 彼女は力強い言葉で、スピカの作戦に同意してくれた。

 カペラの部下達から異論は出てこない。カペラの指示に従うという事だ。船長や船乗り達も何も言わず、スピカを真剣な眼差しで見つめるのみ。

 つまりそれは、スピカがこの船に乗る人間全ての命を預かるというのに等しい。

 

「っ……」

 

 ごくりと、スピカは息を飲む。

 一回目の『目眩まし』は成功ではあるものの、結果的に事態を悪化させてしまった。

 二回目の作戦は、果たして成功するだろうか? また最悪の状況を招くだけではないか?

 

「成功、させてやる……!」

 

 胸に湧いた疑問(不安)には答えず、スピカは願望を言葉に発して、迫り来るバハムートを睨む。

 そう、考えたところで仕方ない。命を預けてきたのはアイツら自身の選択で、こっちがそれに責任を持ってやる必要なんてない。仮に、それが嫌で逃げたとして……じゃあ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 端から迷う理由なんてないのだ。合理的に考えれば、答えは一つしかないのだから。

 

「やるよ! 兎に角今は……ひたすら逃げて!」

 

 作戦と呼ぶには、あまりに情けない指示。

 けれどもその言葉を合図にして、カペラと船乗り達は一斉に動き出すのだった。



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砂漠巨獣8

「バオオオオオオオオオオンッ!」

 

 作戦会議を終えたスピカ達の意識を塗り潰すように、バハムートの雄叫びを上げた。

 もうバハムートは船に間近まで接近している。バハムートにスピカ達の作戦を止めよう等と考える頭はないだろうが、人間達にとっては短期決戦に持ち込まれるのが一番好ましくない。

 まずは一旦距離を取らなければ。しかしどうすれば良いのか? 大砲も通じない相手に、スピカのみならずカペラや船員達も作戦など思い付かない。

 

「があああああああああああっ!」

 

 ただ一人、ウラヌスだけは行動を起こした――――船にいる人間達がひっくり返るほどの大声で。

 圧倒的な身体能力の持ち主であるウラヌスは、肺活量も人間を超えていた。その肺活量を活かして発せられた声も人間離れしたもの。

 ただの大声と言えばそれまで。しかし突然の大声に驚くのは人間だけではない。

 バハムートも同じだ。

 

「バォウッ!?」

 

 恐怖で錯乱しているバハムートにとって、その大声は身体を強張らせる理由足り得る。転倒こそしなかったが、強張らせた身体では前に進めない。

 その間に船は大きく前進。バハムートとの距離を再び稼ぐ。

 

「おお、意外となんとかなったな!」

 

 ちなみにこの結果はウラヌスにとっても予想外だったようで、彼女自身驚いていたが。

 「な、なんて声だ……」という声があちこちから上がるも、ウラヌスのお陰で助かったのは間違いない。賞賛の眼差しがウラヌスに集まる。

 とはいえバハムートはすぐに船を追い始めたため、暢気に話し合っている暇はない。

 

「(これで我に返ってくれれば最高だったけど、そうはならないか……!)」

 

 錯乱したバハムートに、この船がどう見えているのか。それは分からないが、この様子だと『脅威』の全てを破壊するまで止まりそうにない。

 甘い期待は全て捨てる。確実に、絶対に、バハムートは倒さねばならない。

 では、どうするのが最適か? スピカが考えるに、まずは傷口を作り出すべきだと思う。

 この薬は基本、体内に直接打ち込んで使うものだ。獣の骨を削って作り出した容器の先は尖っており、これを(可能なら太い血管に直接)突き刺して体内に薬液を送り込む。効果が出るまでの時間はほんの数十秒程度。極めて急速な反応故に負担は大きいが、セルケトの毒自体が即効性なためこうして使わなければ間に合わない。経口でも効果は出なくもないが、弱い上に効き目が出るのは数十分後。これでは役に立たない。

 バハムート相手にも同じだ。数十分後に効いたところで、その頃にはスピカ達全員が砂漠の上を歩いているだろう。傷口に薬を叩き込む以外にない。無論、錯乱している野生のバハムートが大人しく傷口に薬を塗らせてくれる筈もなく、そもそも傷口を作らせてくれるとは思えないが。

 しかし希望がない訳ではない。

 

「(多分傷口は何処かにある筈……!)」

 

 バハムートの恐慌状態を考えるに、生命の危機を感じた筈だ。

 どんな存在と出会ったかは分からないが、仮にそれが生物なら、単に鉢合わせただけではここまで恐怖はするまい。襲われ、例えば爪で引っ掻かれたりして、初めて恐怖になる筈。ならば何処かに生傷があると考えるのが自然である。

 その傷口に薬液を流し込めば、こちらの勝ちという訳だ。

 とはいえ野生動物であるバハムートにとっても、傷口を晒す行為は生命に関わるもの。恐怖で錯乱しているとはいえ、迂闊に見せてくれるものではない。そもそも何処に傷があるか分からないという問題もある。

 一人では見付けられるか分からない。なら、数の力に頼るのが一番良いだろう。

 

「カペラ! みんな! バハムートの何処かに傷がないか探して! 特に普通なら見えない位置を注意!」

 

「分かった! 皆も頼むぞ!」

 

「「了解!」」

 

 スピカの要望に、カペラと傭兵達が答える。誰もが船から身を乗り出し、迫りくるバハムートの姿を観察する。

 ……スピカは大きく目を見開き、注意深くバハムートを見た。

 全身くまなく見た、とは言えない。しかしそれでも、出来る限りバハムートの身体を観察した。カペラや船員達も同じ筈だ。何十という目が、命懸けで観察している。

 しかし誰も、傷の存在を語らない。

 誰一人として怠けていた訳ではあるまい。ただ、バハムートの傷跡が自分達ではどうやっても見えない位置にあるのだろう。いや、もしかするとそもそも傷がないのかも知れない。傷がある、というのはあくまでもスピカの予想なのだから。

 ないものはない。人間がどれだけ祈ろうと、どれだけ頭を働かせようと、現実はひっくり返らない。

 

「(考えろ考えろ考えろ! どうやれば傷口に薬を練り込める!? それさえ出来れば、それさえ……!)」

 

 バハムートを睨み、考えを巡らせるも、答えは出てこない。逆にバハムートの血走った瞳を見てしまい、怯むように後退りしてしまう。

 そしてバハムートは止まらない。猛然と、こちらを見ているかすら分からない虚ろで狂った眼のまま、一直線に船へと突撃してくる。

 

「も、もう駄目だぁ!」

 

「ここまでか……!」

 

 若い船員が悲鳴を上げ、傭兵の一部が達観した声を漏らす。迫りくる死を前に、ついに誰もが諦めを抱く。

 だが、スピカは知っている。ただ一人、自分と同じく最後まで諦める気など毛頭ない奴がいる事を。

 

「ウラヌス!」

 

「おうともっ!」

 

 『相棒』の名をスピカが叫べば、ウラヌスは期待通りの力強い返事をしてくれた。

 

「今から作戦を伝える! 失敗した時だけじゃなく、成功しても死ぬかも知れないけど……やってくれる?」

 

「ふふん、任せろ! 命を賭した戦いは、戦士にとって誉れだ!」

 

 死を匂わせても、ウラヌスに迷いはない。

 彼女ならばそう答えると、スピカは分かっていた。見方次第ではウラヌスの気持ちを利用しているようにも思える自分の言動に、スピカは僅かに胸が痛む。

 だが、他の手は思い付かない。

 ならば皆が生き残るために、最善を尽くすのみ!

 

「良し! 頼んだ!」

 

「頼まれた!」

 

 スピカの言葉に応えるべく、ウラヌスはその場から――――跳躍。

 突撃してくるバハムートに向かって、船から飛び降りた!

 常軌を逸した行動に、船に乗る誰もが目を丸くする。自殺行為だと言わんばかりに口を開ける者、見ていられないと目を覆う者。反応は様々だが、いずれも悲観的な反応だ。

 だが、スピカだけは違う。

 スピカは知っている。ウラヌスの拳は、例え巨獣相手も負けるものではないと。

 鼻っ柱に打ち込まれた鉄拳により、バハムートが僅かでも()()()としても、スピカにとっては想定通りだ。

 

「バウゥンッ!? ウ……バアァッ!」

 

 巨獣バハムートが人間一人の拳で怯む。その異様な光景は、しかし一秒と続かない。

 目が悪くとも殴られれば『相手』の位置は分かる。バハムートは大きく頭を下げ、突き上げるように身体を跳ねてウラヌスに攻撃を行う!

 仮に直撃を受けたなら、如何に猛獣染みた力を持つウラヌスでもただでは済まない。ウラヌスは殴った着後、バハムートに敢えて掴み掛かり密着する事で、『殴られる』という事態は避けるが……しかしバハムートの力をもろに受ける体勢で長く保てる筈もない。

 

「ぬ、お、おぉぉおおおっ!?」

 

 ウラヌスは野太い声を発しながら、バハムートの後ろへ放り投げられてしまった。

 

「おい! お前の仲間が……!」

 

 ウラヌスの身に起きた事はスピカ以外も目撃している。カペラもその一人で、スピカに詰め寄ってきた。

 しかしスピカの返答は、カペラに対し腕を突き出して止める事。

 同時に、真剣な眼差しで一点を見つめる。

 カペラはスピカの見ている先に『答え』があると気付いたのだろう。それ以上の追求はせず、スピカと同じ方をカペラは見つめた。とはいえ一見してそこに広がるのは砂の大地。迫りくるバハムートより重視すべきものがあるようには見えまい。

 実際のところ、スピカにも見えてはいない。ただ、彼女は知っているだけ。

 そこをウラヌスが全力で走っている事を。

 

「ぬおおおおおあああああああああああっ! 待て待て待て待てぇええええっ!」

 

 空気を震わせるほど激しい雄叫びが、砂漠の大地に響き渡る。

 スピカにウラヌスの姿は見えていない。だが、彼女が大仰に走っている事は分かる。バハムートを追い駆けるように。

 何故ならスピカがそう()()()()()()のだから。

 暑さに弱いウラヌスにとって、灼熱の砂漠を全力疾走するのは極めて危険な行いだ。いくら砂漠都市より涼しいとはいえ、比較の問題でしかない。比喩でなく、命を剤っているだろう。

 それでもウラヌスは最後まで走ってくれている筈。戦士の誇りが、彼女を突き動かしているに違いない。

 スピカに出来るのは、彼女の行動により起きる『展開』を見逃さない事。

 

「(さぁ、どう出る……!)」

 

 スピカはバハムートを睨む。どんな小さな動きも見逃さないために。

 最初、バハムートに変化はない。確実に、着実に、船との距離を詰めてくる。

 されどその動きが、鈍り始めた。

 小さな目が、頻繁に後ろを向こうとしている。

 身体がそわそわと動き、落ち着きがない。

 血走る目は一層色合いを刻する。身体がぶるぶる震えている。気になって気になって仕方ないと言わんばかりに。

 

「バオオォォウンッ!」

 

 ついにバハムートは()()()()()

 走るウラヌスに顔を向けたのだ。錯乱により狂気に染まった形相で、ただ背後を走る小さな『人間』を見るために。

 尤も、狂気に染まった瞳はバハムートの頭部の側面にある。故に振り向いた頭に嵌るその目が見るのは、自分の身体の横にあるもの――――今まで自分が追っていた、人間達の船。加えて視力も大して良くないため、ろくに物が判別出来ない。

 もしも見えていたなら、驚愕によりその目を大きく見開いたかも知れない。

 

「思った通り……やっぱり、振り返ったわね」

 

 弓矢を構える、スピカの姿が映るのだから。

 バハムートの表皮は頑強だ。大砲の直撃を受けても、剣を突き立てようとも、ウラヌスがぶん殴ろうと、掠り傷すら負わない。新しく傷口を作りそこから薬を送り込む、という作戦は不可能だ。

 そんな無敵の身体の中で、唯一柔らかいのが目玉である。

 獣の目は柔らかい。全身を鱗に覆われたドラゴンだろうと、屈強な筋肉を持つクマだろうと、目だけは人の指で貫けるぐらい軟弱なものだ。バハムートの目も、恐らくそこまで頑丈ではない。弓矢でも貫ける筈だとスピカは考えていた。

 しかしバハムートの目は、顔の左右に離れて付いている。これでは正面からだと非常に狙い辛い。おまけに(人間と比べれば遥かに巨大なものの)目が小さく、当てる事そのものが難しい。

 弓矢で目玉を射るのに最適な状態は、至近距離で、バハムートが真横を向いている事。

 つまり攻撃の直前で、不意に横を向いた状態が好ましい。普通ならばあり得ない事だ。されどこのバハムートならば、それが起こり得る。

 何故なら、怖がっているから。

 

「(背後から気配がして、無視なんて出来る訳がない)」

 

 バハムートは相当怖かったに違いない。後ろから、なんだか分からないが猛烈な勢いで迫る何かがいるのだから。

 普段のバハムートなら、ウラヌス程度の出す足音など気にもしないだろう。気にしたとしても『用』を済ませてから振り返る筈だ。しかし今のバハムートは錯乱状態。怯えた人間が草の揺れる音に慄くように、小さな足音だって過剰に気になってしまう。それは生物としては当然の性。確認せずにはいられない。錯乱状態で合理的な動きも出来る訳がなく、反射的に動いてしまう。

 全て、スピカの思惑通りだ。

 

「これなら、狙える!」

 

 求めていた『立ち位置』から、スピカは渾身の力で矢を放った!

 放たれた矢を、バハムートは視認出来ない。彼の小さな目は弓矢を捉えていないのだから。

 たっぷりの薬液を塗り込んだ矢が、バハムートの目を貫く!

 

「バギィイイィアアアアッ!?」

 

 目を射抜かれたバハムートは悲鳴と共に大きく仰け反る。苦しみから体勢を崩し、その場で転倒。

 その際、振り回した尾が船を打つ。

 バハムートの尾は帆柱に激突。帆を支えていた柱が一本、めきめきと音を鳴らして倒れた。更に柱は船の甲板を砕き、深くめり込む。

 船舶の一部が砕けた事で、船体が大きく傾いた。スピカは素早くその場に座り込むが、船体の急激な傾きに伴う衝撃で身体が浮かび上がった。こうなっては座ったところで安定なんて得られない。

 

「くっ……!」

 

 スピカは咄嗟に、垂れ下がったロープを掴む。しかしスピカの力では体重を支えられず、衝撃でその手を離してしまう。

 スピカは船から放り出され、砂漠の海に墜落。乾ききったふかふかな砂は墜落の衝撃を和らげてくれたため、数メトルの高さから落ちても怪我をせずに済んだ。スピカ以外にも何人か落ちてきたが、誰もがすぐに立ち上がる。人間の方はなんとか無事だ。

 されど船が受けた損傷は大きい。

 船は大きく傾き、段々と減速。零れ落ちた錨により、動きを止めた。錨が落ちるまでは進んでいたので、引き上げたらまた砂漠を進めるかも知れないが、帆の一部が折れたとあっては大した速度は出せまい。バハムートの追撃を躱せるのはここまでか。

 そのバハムートは、激しく暴れ回っている。

 目を射抜かれたのだ。悶え苦しむ事自体は当然だろう。だが、口から泡を吹き、胸ビレをビクビクと震わせるのは明らかに異様。痛み以外の理由で苦しんでいた。

 薬の効果だ。スピカはそう確信した。

 とはいえ効果があるのは作戦の前提に過ぎない。問題は、これで死ぬのかどうか。

 頼むから死んでくれ。スピカは必死に祈りながら、バハムートを見つめる。すると、その祈りが通じたのだろうか。

 バハムートはスピカの方を見た。

 そして身体を左右に揺らしながら、スピカ目指して突進してくる!

 

「ちょ、嘘でしょ!?」

 

 現実逃避など滅多にしないスピカが、否定の言葉を叫ぶ。だがバハムートは構わず、猛然と突進し続ける。

 自分が攻撃したと何故気付いたのか? どうやって自分の位置を割り出した? 次々と浮かぶ疑問がスピカの足を鈍らせる。一緒に落ちた船員や傭兵も、砂に足を取られて立ち上がれず。そうこうしているうちにバハムートはスピカ達の眼前まで迫り――――

 ずどんっ、と音を立てる激しさで、その場に崩れ落ちた。スピカの真正面、ほんの数メトルの位置で。

 

「…………………………えっと」

 

 動けなかったスピカの口から漏れる、困惑の声。

 バハムートは『敵』を前にしても、もう動かない。頑強な身体は急に萎み、くたくたと液状化したように潰れる。半開きの口からは泡と共に舌が出ているが、一番大事であろう呼気は一向に出てこない。

 そしてスピカが射抜かなかった方の目が、段々と白く濁り始めた。

 見た目だけで生物の生死を判断するのは、極めて危険な行いだ。それで『痛い目』に遭った冒険家の話は、文字通り飽きるほど聞いている。しかしそれでも、これまで様々な生物の死に様を見てきたスピカは直感的に理解した。

 このバハムートはもう、動かない。

 砂漠の王者は、今、亡骸と化したのだ。

 

「……ふ、ふへ、は、は」

 

 その事実を前にして、スピカはその場にへたり込む。勝利の余韻に浸る事も、作戦通りにいったと勝ち誇る事もしない。ただ乾いた笑いが口から漏れ出て、目をぴくぴくと痙攣させるばかり。

 更に呼吸が乱れ、心臓がバクバクと音が聞こえるほど波打っていた。このままでは死んでしまうのではないかと思うほどに。

 今になって実感する、自分の身体を満たしていた恐怖の反応。自覚していなかっただけで、自分の身体もかなり恐怖に取り憑かれていたらしい。

 やはり勝つのは冷静な方だなと、自分の気持ちに気付かないぐらい焦っていた事実に言い訳をしながら、間抜けにもこのまま死なないようにスピカは少しずつ息を整えるのだった。



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砂漠巨獣9

「どうやら、落ち着いたようだな」

 

 呼吸と鼓動が落ち着いた頃、その事を見抜いたようにスピカに声を掛けてくる者がいた。

 落ち着いた心臓が一瞬跳ねた後、スピカはくるりと振り返る。とはいえ声を聞いた時点で、誰なのかは大凡の見当が付いていたが。

 その見当通り、そこにはカペラがいた。

 

「ええ。危うくまた錯乱するところだったけどね」

 

「それはすまないな。今後の予定について、ちょっと話そうと思ったんだ」

 

 スピカの軽口に、カペラはちらりと視線をある方に向ける。

 カペラが見たのは、傾いた状態で止まっている船。

 そこでスピカはようやく思い出す。最後の最後でバハムートの一撃が当たり、船に大きな損傷が発生した事を。バハムートは倒れたが、船が無事とは限らない。船が航行不能になっていてはこれ以上進めず、バハムートとの対決は勝利ではなく『相打ち』になってしまう。

 とはいえスピカはその点について、あまり心配していない。何故ならカペラの表情は明るく、そして船の周りを動き回る船乗り達も絶望に浸っている様子がないからだ。

 

「船は損傷が大きく、修理が必要だ。だが船に積んだ備品で対応可能らしい。まぁ、船室の日当たりは良くなるみたいだがな」

 

「そりゃ何より。おっ、ウラヌスも働いてるね」

 

 倒れた帆柱を軽々と持ち上げ、運んでいるウラヌスの姿が見えた。彼女の力を活用すれば、重たい物もすいすいと運べる。時間や労力を大幅に削減出来るだろう。

 これなら船が再び動き出すのに、あまり時間は掛からなそうだ。灼熱の砂漠に数時間といなくて済むだけで、朗報と言える。

 

「ちなみに、今は人手が足りている。お陰で邪魔だと追い出されてしまったよ」

 

 そしてこれ以上の手伝いはいらないらしい。

 なら、存分に身体を休めておこう。そう考えてスピカは砂漠の大地に座り込む。熱せられた砂は熱くなるものだが……今は目の前にいるバハムートの亡骸が影を作っている。日差しを遮られた砂は、冷たくはないが、人が座れる程度の温度にはなっていた。

 倒したバハムートをスピカが眺めていると、カペラがまた話し掛けてくる。

 

「しかし驚いた。災害級危険生物であるバハムートを倒すなんてな」

 

「私も驚いてる。ま、本当に私が倒したかは分からないけどね。相当長い間錯乱していた訳だし、ほっといても死んだかもだけど」

 

 バハムートの錯乱状態は酷いものだった。恐怖に取り憑かれ、猛然と逃げる船を攻撃してくるほどに。

 人間も長時間恐怖や怒りに囚われると、稀にだが死ぬ事がある。スピカ達を襲ったバハムートも、偶々その時がついさっき訪れただけで、スピカが薬を撃ち込まずとも倒れたかも知れない。

 自分の作戦が成功したかどうかなんて、分かりようがないのだ。これで褒められてもくすぐったいたけである。

 

「あまり謙遜しなくて良い。実際にどうであるかより、我々がどう感じているかが大事だ。少なくとも私は、お前のお陰で誰も死なずに済んだと思っている」

 

「ふぅん。なら、お礼でも要求しちゃおうかな。私の質問に答えてくれる?」

 

「答えられる事なら」

 

 迷いなく答えるカペラ。ならこちらも遠慮はするまいと、スピカは質問してみる。

 

「アンタ達、傭兵じゃないよね。もしかしてなんだけど、王国騎士団だったりする?」

 

 今まで薄々感じ取っていた、疑問について。

 カペラの口許が一瞬強張る。ほんの一瞬、けれども確かに見せた反応。

 それだけでほぼ答えのようなものであり、見られた以上隠すつもりもないのか。カペラは淡々と答えた。

 

「……ううむ、バレてしまったか。それも所属する国まで当ててくるとは。後学のためにも何故そう思ったのか、理由を聞かせてほしい」

 

「女の傭兵が珍しい、ウラヌスが認めるぐらい強い、装備が地味に高級品、帝国の騎士団ならわざわざ身分を隠さない。色々あるけど、一番気になったのは貴方の言い方」

 

「言い方?」

 

「ふつー、傭兵は自分の部下を部下なんて呼ばないわよ。アイツらもっと下品だもん」

 

「あー……」

 

 指摘されたカペラは、空を仰ぎながらなんとも間の抜けた声を漏らす。

 傭兵という仕事をする人間は、大抵粗暴で無教養なものだ。昨今は見世物化しているとはいえ、一応は(言い方は悪いが)人殺しをして金を得る仕事である。ハッキリ言ってまともな者が就く仕事ではない。勿論事情は人それぞれなので、そこについてあれこれ言うのも下世話であるが……配慮したところで彼等の言動が変わる訳もなく。

 傭兵が部下を呼ぶ時は、大抵子分だの手下だのというものだ。そして人格的にアレな彼等は、自分がそう呼ぶのは良くて、他人に呼ばれるのを酷く嫌う。部下と呼ばれたら顰め面を浮かべるか、或いは怒られるのを嫌がってへこへこするか。爽やかに反応するのだけは、滅多にない。

 カペラ(とその部下)は、どうにも言動が『上品』だった。その最大の違和感に加え、女傭兵の存在や強さ、装備の高級志向等を総合的に勘案。王国の騎士団が正体を隠して帝国内に来たのではないか、という考えに至ったのだ。

 

「(まぁ、それでもほぼカマを掛けただけなんだけどね)」

 

 騎士団というのは、王国でも『最強』の軍事組織だ。一般兵の中から優秀な者を選抜し、その中でも特に戦闘能力に優れる面子で構成されている。個々人の実力が平均的に高いのは勿論、知能や技術にも優れると聞く。

 その活躍は最早御伽噺染みたもの。百人の山賊をたった三人で討ち倒した、五百人の暴徒を十人で鎮圧した、二千人の敵国兵士を二十人で返り討ちにした……最後のものは多少の誇張は含まれているだろうが、大凡事実なのだからその強さも窺えるというもの。

 勿論人間なので、その実力はあくまでも人間の範疇。割と人外染みているウラヌスのような力を出せる者は、多分いないだろう。だが鍛え上げた技術と卓越した才能を用いれば、恐らくウラヌス相手に戦えるほどの強さを持つ。王国最強の戦力なのは間違いない。

 そんな実力者が他国を訪れる。帝国と王国は(何時も二番手に甘んじている帝国が心理的に目の敵にしているものの)比較的良好な関係を築いているが、発覚すれば国際問題となりかねない。これだけで()()()()()にはならないだろうが……もう二〜三回何かが起きれば、現実味を帯びてくる。

 故にまさかと思っていたのだが……そのまさかだったとは。

 これでカペラ一人の行動だったなら、休暇中の旅行か何かだと思えた。しかしカペラは大勢の部下、即ち騎士団を引き連れている。これで「騎士団の慰安旅行です」等と言われても信じられない。騎士団は王国最強の戦力であり、それ故に王国の守りの要。それをつまらない理由で動かす筈がないのだから。

 

「で? 騎士団様はなんで帝国にいた訳? 砂漠の向こうには王国があるから帰りだと思うけど、任務を終わらせたとか?」

 

 その事情を教えてくれるかは、分からないが。

 しかし尋ねる分にはタダだと思い、スピカはそれとなく訊いてみる。するとカペラはしばし黙りこくり、考え込む。

 

「……君の才能を見込み、頼みたい事がある」

 

 やがて話し出した言葉は、スピカの問いとは一見繋がらないもの。

 されどあからさまな話の反らし方に、何かの『意味』を感じる。スピカはひとまず「話を聞いてから判断する」と答え、カペラに話の主導権を渡した。

 

「今回襲ってきたバハムート。君は恐怖で錯乱していると判断したが、奇妙だと思わないか?」

 

「思わない訳ないでしょ。バハムートは人間が知る限り、この砂漠で一番強い生き物。それが恐怖で錯乱するとか、普通は考えられない」

 

「そうだな。普通ならばあり得ない出来事だ。そして我々は、このあり得ない出来事に対し、一つ、心当たりがある。それを調べるのが我々の任務であり、帝国及び公国と共同で行ってきた調査だ」

 

「……心当たり?」

 

 カペラの告げた言葉に、スピカは首を傾げる。確かに王国騎士団であれば、一般に知られていない情報を把握していても不思議はない。だが、それを何故スピカに話そうというのか。

 いや、それよりも気になるのは、帝国や公国と共同という言葉だ。つまり帝国は、王国騎士団の入国を許可している。身分を隠しているのは混乱を避けるためだろうが、しかしどうして王国と共に調べているのか。帝国騎士団だって、世界で『二番目』に優秀なのに。しかも三番手である公国まで加わるなんて。

 数々の疑問が脳裏を過っていく。しかし巡らせた考えの大半は、呆気なく吹き飛ぶ。

 

「魔王だ」

 

 御伽噺の存在。カペラがその呼び名を口にしただけで。

 

「……何、言ってんの」

 

「便宜上そう呼んでいるだけだ。御伽噺の魔王と同一の存在ではない。だが、その力は御伽噺と同格だと思われる」

 

「ま、待って。そんな出鱈目な生き物がいるなら、噂話ぐらい聞いても……」

 

「王国と帝国、そして公国が隠蔽した。国民が不安を抱き、国が荒れるのを避けるために。ずっと前からな」

 

「……ずっと前って、何時から」

 

 スピカは問う。

 何故なら、ふと頭に一つの『可能性』が過ぎったから。理由は分からない。ただの本能と言うべきだろうか。

 もしもそれがごく最近現れた存在なら、自分の頭に浮かんだ可能性はただの妄想だと分かる。気に留める必要なんてなく、スピカは冷静な判断を行えるだろう。

 だけど。

 

「公式の記録があるのは九年前。非公式な事例から推察すると、恐らく十年以上前から活動している。聞いた事はあるか? 王国の村メバロンが消滅した噂を。あれも奴の仕業だとされているな」

 

 ()()()()()()()()()()()()が話に出てくれば、スピカには無視する事など出来なかった。

 

「我々の最終目的は、魔王の征伐だ。帝国もその目的に賛同し、協力している。一般人に魔王の存在を隠すため、また余計な不安を与えないため、傭兵という体でいるがな」

 

「……………」

 

「君に頼みたいのは、魔王の倒し方についての助言だ。バハムートを倒した時のように、弱点や気付きを教えてほしい」

 

「……………」

 

「いきなり魔王だのなんだの言われても、困惑するだろう。砂漠を越えた先の町に、我々の施設がある。そこで魔王について説明しよう。そして可能なら、我々に手を貸してほしい」

 

 どうだろうか? そう尋ねてくるカペラだったが、顔を見れば考えている事は窺い知れた。断られる、と思っているらしい。

 いくら騎士団からの誘いとはいえ、魔王だのなんだの言われ、分かりましたと即答する奴は間抜けだろう。付いていくにしても、詳細を色々と聞かねばなるまい。

 スピカとしても、即答はしない。だが尋ねたい事は一つだけ。

 

「ねぇ、その魔王は、なんて種類の動物なの? 新種? 何か特徴はあるの?」

 

 その問いの『理由』が分からなかったのか、カペラは一瞬キョトンとした。されどすぐに質問に答えてくれる。

 

「ワイバーン。竜種だ。特徴的なのは……三十メトルを超える、圧倒的な巨体だろう」

 

 その答えが聞ければ、もう、スピカに迷いはない。

 村の名前、生き物の種類、身体の特徴――――全てが一致するのだから。

 

「良いよ」

 

「……良いのか?」

 

 これにはカペラの方が驚いたようで、目をパチクリさせながら確認してくる。アンタが頼んできた事じゃない、と思ってスピカはカペラを見遣る。

 するとカペラが顔を顰めた。まるで気持ち悪がるように、後退りまでして。

 人の顔を見てなんとも失礼な、とも思ったが、手で自分の顔を触ってみて納得がいった。

 笑っていた。自然に、心から楽しむように。

 何故自分は笑っているのか? スピカには心当たりがあり、それを説明するのはやぶさかでない。不気味がるカペラに説明ぐらいはしてやろうと、口角が下がらない口で事情を語る。

 

「そいつを探していたのよ。子供の頃から、ずっと、ずぅーっと」

 

 自分の胸のうちにある、ドス黒い感情を。

 ()()()()がいると聞いて我慢出来るほど、スピカは『合理的』な人間ではないのだから――――



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狂いし魔物
狂いし魔物1


「おおー! 凄いな此処は! いや、此処もか!?」

 

 ウラヌスが元気さいっぱいの、大きな感嘆の声を上げた。

 大勢の人間達が、広々とした道を行き交っている。道の左右には大きな煉瓦造り建物が並び、出店の姿も多く見られた。

 そんな町の賑やかさを見せ付けられれば、『子供』がわいわい騒ぐのは仕方ない。そして今にも走り出しそうなぐらいはしゃぐウラヌスを、普段のスピカであればじっと見つめていただろう。目を離した瞬間、その姿が消えてなくなる事は容易に想像出来たのだから。

 だが、今日のスピカは違う。

 ウラヌスには目もくれず、辺りを見渡すばかり。その眼差しも鋭く、スピカの事をよく知らない人間でも、殺気立っている事が察せられるほどだ。まるで敵地にでもいるかのようだった。

 その態度のお陰、というには些細なものだが、スピカはこの都市の『おかしさ』に気付く。

 

「(性比も、身体付きも、他の町とは全然違う)」

 

 一見して此処は、ただの賑やかな大都市だ。しかし人々の姿をよく観察してみれば、多くの違和感を覚えるだろう。

 まず、男女比がおかしい。宗教的理由で女の外出を禁じていない限り、どんな都市でも男だけでなく女も多く出歩いているものだ。男女比は半々が普通だろう。しかしこの都市では、通行人の殆どが男だ。女もいるにはいるが、ざっと百人に一人ぐらいだろうか。ここまで極端な性比は、これだけで『異常』と言える。

 もう一つおかしな点として、大半の人々が屈強な肉体の持ち主である事。帝都のように発展した都市では、中肉中背または痩せ型の人間が多い。農村や鉱山などでは肉体労働者が多いのに対し、大都市では商人や金貸し、事務などの職が多いからである。ところがこの都市では、目に付く誰もが筋肉隆々の肉体を持っていた。数少ない女の通行人も、殆どが鍛え上げられた肉体の持ち主なのも異様さに拍車を掛けている。

 そして行き交う人々の顔付き。

 笑顔がないとは言わない。だがその表情を浮かべているのは、出店などで客の呼び込みをしている者ばかり。道行く人々は誰もが強張った、緊張感を滲ませた顔付きをしていた。

 他の都市でも、通行人が常にニコニコ笑っているものではない。しかし大抵は普通の顔であるし、親子連れや逢引中の男女などは笑顔だ。友人と話している者、儲け話に鼻下を伸ばす者、怪しい宗教団体……事の善悪は兎も角として、笑顔が見られない事はない。

 なのにこの都市では、その笑顔がとんと見られない。そして笑顔の数がゼロではない事から、それが法などで禁じられたものではなく、人々が『自主的』に笑顔を抑えているのだと分かる。

 数々の違和感。尤も、笑顔の数が少ない事だけは取り立てて気にする事ではないのだが。

 何故なら此処は他国との境界線……砂漠を渡ったスピカ達が訪れたのは、帝国領内最南端の国境都市シアンだからである。

 シアンは国外(王国)との境界線に位置し、普段から外国人の入出国が多い場所だ。野生動物や自然環境の方が遥かに脅威とはいえ、人間に対する警戒を怠って良い理由ではない。食べ物や技術、人材(奴隷)を求めた他国の人間が襲撃してくる事は、歴史上何度も起きている。ここ何十年かは平和なものの、それは今日も平和である証拠とはならない。

 そのためシアンは国境都市であるのと同時に、要塞都市でもある。多数の兵士が常駐し、物々しい雰囲気の漂う都市なのだ。だから人々が緊張した面持ちなのも、幾分かは仕方ないと言えよう。

 ……とはいえ、数年前にスピカが訪れた時は、ここまで緊迫した雰囲気ではなかったと記憶しているのだが。

 

「随分と表情が強張っているな。何か、違和感でも覚えたか?」

 

 そのような印象を抱くスピカに声を掛けてきたのは、共に砂漠を渡った騎士ことカペラ。

 スピカは少し沈黙を挟んだ後、カペラに疑問をぶつけてみる事にした。

 

「うん。昔この町には来た事があるんだけど、あの時より随分……物々しくなったと思って」

 

「成程。この都市はここ二年ほど、帝国が積極的に関わっている。常駐する兵士の数は二倍に増え、彼等の装備を取り扱う店も多く増えた。鉱物や食糧品の搬送も増え、それを狙う野生動物や野盗も多くなっている。それに我々王国騎士団も、傭兵という体ではあるがほぼ常駐しているからな。皆、殺気立つのも仕方あるまい」

 

「……一番の理由は、別にあるでしょ?」

 

 その説明じゃ納得出来ない。遠回しにそう伝えると、カペラは一瞬口を噤む。しかしそのまま黙る事はなく、こくりと頷いてから話し出す。

 

「魔王の活動が、このところ活性化している。その結果として、公国が壊滅した」

 

 語られた理由に、スピカは身体を震わせた。鋭くしていた目付きを、更に細めながら。

 魔王。船の中でカペラから聞いた、恐るべき生物の呼び名だ。そして公国……帝国に次ぐ世界三位の大国の名である。

 

「……壊滅?」

 

「隣国でもある公国の首都、及び匹敵する大都市三つが魔王の攻撃で壊滅的打撃を受けたとの連絡があった。公国に派遣された騎士からの報告だ。現在も抵抗は続いているから、魔王もすぐにはこちらに来ないだろうが……そう長くは持たないだろう」

 

「……あの国も、別に弱くはなかったと思うんだけど」

 

「ああ。高品質の大砲もあるし、兵士の数と練度も悪くない。荒れた土地が多いから、その荒野に揉まれて逞しい身体の持ち主が多いからな……その公国が敗北したんだ。公表はしてなくとも、兵の緊張を民も感じ取っているのだろう」

 

「成程ねぇ」

 

 納得したように、スピカは相槌を打つ。

 その顔に浮かぶのは、笑み。

 待ち望むように、ワクワクするように――――スピカは笑っていた。スピカ自身、自覚すら出来ないうちに。

 スピカの顔を見ながら、カペラは何を思うのか。彼女は言葉に出す事はなく、淡々と、自分の話を続ける。

 

「……我々が魔王と呼ぶ生物が、君の考えている存在と同一かは分からない。だが倒したいという思惑では一致している。協力、してくれるな?」

 

「改めて確認しなくてもいいわよ。その気がなくなったらさっさと言ってるから」

 

「その点には、感謝しよう……さて、そうは言っても、君は魔王について何も知らないだろう」

 

「何もって事は――――」

 

 カペラの物言いに、スピカは反射的に反論しようとした。

 スピカは『仇』である生物をしかと目の当たりにしている。そして話を聞く限り、それが王国騎士団では魔王と呼ばれている存在と同一である可能性が高い。

 だが、本当に同一の存在なのかどうかは、直に対面しなければ分からない事だ。仮に同一だとして……生物学的な情報は何も知らない。確かなのは大きさや見た目ぐらいなものだ。

 何をするつもりでも、知らなければ何も出来やしない。

 カペラの申し出は、実にありがたいものだ。これを感情的に断るのは、後々の自分にとって不利益にしかならないだろう。

 

「……分かった。何処で話してくれるの?」

 

「町の南に、帝国軍の施設がある。そこで魔王について調べている者がいるから、彼等から話を聞こう。ただ……」

 

「ただ?」

 

「効率を考えると君の連れも一緒の方が良いのだが、何処にいるか分かるかね?」

 

 カペラからの問いに、スピカはキョトンとして細めていた目を丸くする。

 直後、その意図に気付き、慌てて辺りを見渡した。

 しかし件の連れ――――ウラヌスの姿は何処にもない。いや、もしかすると近くにいるかも知れないが、行き交う人々が多過ぎて、パッと見ただけではいるのかどうかも判別が出来ない状態だ。

 つまり、逸れた。よりにもよって人が大勢いる大都市で。

 

「あ、あんの馬鹿……!」

 

「いや、すまない。気付いた時にはもう姿が見えなくなっていた。幸い此処は横道もない一本道だ。早々変なところには行くまい」

 

「アンタはアイツの馬鹿さ加減を知らないからそう言えんのよ!」

 

 能天気なカペラの意見を、強い口調でスピカは否定した。実際ウラヌスは無駄に高い身体能力と、無駄に自由な思考の所為で、普通じゃない事を平気でする。一体それらの行動で、どれだけ困らされてきた事か。

 ましてや、魔王について教えてもらえる時だと言うのに。

 ざわざわと胸の中が湧き立つ。頭に熱いものが昇ってくる。眉間がぴくぴくと痙攣するように力が入り、奥歯を噛み締めてしまう。

 

「……ちっ」

 

 言葉に出来ない感情が混ざり合い、出来上がった気持ちが舌打ちという形で出てきた。それからスピカは渋々ウラヌスを探し始める。肩を怒らせ、苛立ちを顔に出しながら。

 ウラヌスがどんな問題行動をしてきても、今までそんな反応などした事がないと、スピカ自身気付かぬままに――――



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狂いし魔物2

 要塞都市シアンの南方に位置する、軍施設。カペラが言っていたそれは、帝国軍が管理している『防壁』の事だった。

 もう何百年も前に起きた戦争を教訓として建てられたそれは、隣国である公国や王国の軍に備えるためのもの。幅数万メトルもあり、高さは十八メトルほどと簡単には登れない。守りについている何千という兵士も熟練した強者であり、新兵が数人束になろうと返り討ちにするだろう。突破するには何万という兵力が必要で、突破した頃には敵勢力は壊滅状態だ。

 勿論数万メトル東西に移動すれば防壁はなく、横を素通りして帝国領内に侵入出来るが……そこは猛獣と剥き出しの岩場が行く手を阻む危険地帯。抜けた時には兵力が一万分の一になっているだろう。これなら()()()()()()()()()()()である。

 守りは完璧。とはいえいざ戦争になれば、真っ先に攻撃を受ける場所でもある。

 そうした施設の、地下とはいえ傍に研究施設を作るのは、ある意味では『平和ボケ』の象徴だろうとスピカは思った。

 

「……何処まで続くの、この階段」

 

「もうすぐさ」

 

 防壁内にある倉庫。そこに隠されていた階段を使い、スピカは地下へと向かって進んでいた。カペラが先導する形であるが、螺旋状に続く階段は一本道。迷いようがない。

 町で迷子になったウラヌスもこれなら逸れる事はない。彼女は今スピカの後ろをぴたりと付いてきて、一緒に降りてきていた。

 そんなウラヌスの顔は、妙に不安げである。

 

「うー……なんか落ち着かないぞ」

 

「何? アンタ狭いところ苦手なの?」

 

「そーいう訳じゃないが、なんか、此処は嫌な感じがする」

 

 漫然とした、不安の言葉。

 これが子供の言う事なら、そっと手を握るなり、無理やり引っ張るなりして話は終わりだろう。だがウラヌスの言葉となれば、無視するのも気が引ける。彼女の五感には、スピカはこれまでの旅で幾度となく助けられたのだから。

 この先に、何かがあるのだろうか。

 

「さぁ、着いたぞ。この先に、魔王について話してくれる者がいる」

 

 スピカの考えは、しかし纏まるよりも前にカペラが目的地の到着を告げた。

 一旦思考は後回し。スピカは前を向き、カペラが開けようとしている扉を見遣る。カペラはゆっくりと扉を開け、その中に入っていく。

 スピカもその後を追って中に入ると、そこは開けた一室となっていた。

 中にいたのは、鎧ではなく黒いクロークで身体を包んでいる者達。兵士や騎士と違い、身体付きは細くて華奢だ。年配の男性が多いものの、老婆などの姿も見られる。共通して言えるのは、戦うよりも研究する方が如何にも得意そうな事だろう。

 彼等が、魔王を研究している学者達か。

 

「アルファルド。久しぶりだな」

 

 スピカが学者達を見渡している間に、カペラは部屋の一番奥に置かれた机、その傍に立つ男に話し掛けた。

 アルファルドと呼ばれた男は、顔から判断するに四十代ほどの中年に見える。如何にも学者らしい細身な身体付きをしていたが、顔立ちは爽やかで、陰気さは感じられない。若い頃はさぞや女性にモテただろうし、今でも年上を好む女性には好まれそうな出で立ちだ。

 ……よく見ると、薄汚い染みやらなんやらがクロークに付いている事に気付くまでは。容姿は兎も角、身形を気にしない如何にも学者的な人物らしい。

 

「レグルス! 何ヶ月ぶりかな!」

 

「あー……これまでにも何度も言ってきたが、今は偽名で呼んでほしいな。一応隠密任務の最中な訳で」

 

「ん? ああ、そうだっけ。すまないな、えーっと、カスピ?」

 

「カペラだ」

 

 また、研究以外の事にも興味がなさそうだ。薄々スピカも勘付いていたが(女騎士となればそれなりに有名であろう。迂闊に出歩けばあらぬ噂が立ちかねない)、カペラの名は偽名だったらしい。

 レグルスと言えばスピカも聞いた事がある。王国第三騎士団の団長であり、現在唯一の王国女性騎士団長だ。騎士団の番号は団長の『階級』で決められており、その階級は年に一度の騎士団試合で上下する。第三騎士団とはつまり王国で三番目に強い騎士が率いる部隊という訳だ。ただでさえ優秀な兵士である騎士で作られた部隊・王国騎士団は、全部で(あくまで一般に発表されている分だが)十六ある。そのうちの三番目なのだから、相当の強さと言えよう。

 第六以上の階級の騎士団が動く時というのは、それこそ戦争ぐらいなもの。つまり王国は、魔王という存在を戦争と同等の危険性と見做しているらしい。隣国である公国が壊滅したという一報が確かなら、その評価は妥当、或いはこれでも過小評価と言えるだろう。帝国が高位の王国騎士団を受け入れている点からも、両国の上層は事態を相当重く見ているようだ。

 智識ある者が聞けば、名前一つでこれだけの情報が得られる。尤も、他国の間者ならば兎も角、一冒険家に過ぎないスピカにとっては(情報を売り買いしないという意味では)どうでも良い事だ。

 それよりも重要なのは、これから始まる話の方。魔王に関する知識だ。

 

「君達が協力者だね。君達については、カペラ、の伝書鳩から受け取った手紙で知ってるよ。ここらは飛行生物が少ないから、伝書鳩で連絡出来るのが良いね。ま、三羽に一羽は行方不明になるけど」

 

「……はじめまして、スピカよ。こっちがウラヌス」

 

「よろしくなー」

 

「うんうん、よろしく。さて、早速本題に入るとしようか」

 

 座って座ってと言いながら、アルファルドは机の横に置かれた椅子を手で示す。お言葉に甘えて、スピカとウラヌスはその椅子に座る。

 カペラとアルファルドも椅子に座り、一息吐く。しばしアルファルドは考えるように天井を仰ぎ、やがて日常会話のようにこう話を切り出した。

 

「まず、君達は魔王という言葉を知っているかい?」

 

 アルファルドからの問い。その意図をスピカは考え、『一般論』として答える。

 

「御伽噺の怪物、よね。民話とかにもよく出てくる」

 

「私はなんも知らんぞー。美味いのか?」

 

「食べるのはお勧めしないね、色んな意味で。一般的にはスピカくんの言う通り、御伽噺の怪物だ。しかし御伽噺というのは、古くから脈々と受け継がれてきた『教訓』でもある」

 

 アルファルドはそう言うと、机の下から一枚の紙を出した。幅一メトルはありそうな紙に描かれていたのは、お世辞にも上手ではない絵。大きな獣に、無数の人が立ち向かうような構図のものだ。

 キョトンとした目で見ているウラヌスは、ただの絵としか思っていないだろう。だが冒険家として様々な地を渡り歩き、多くの知識を得てきたスピカはふと気付く。

 恐らくこれは、古代の『壁画』を模写したものだと。

 

「……何処かの壁画?」

 

「正解。何時頃のものかは分からないけど、帝国の前身である国が出来た六百年前よりずっと古いものだ。現在知られている中では、一番古い魔王の記録とされている」

 

「一番古い? それって……」

 

「古来、魔王という存在は幾度となく現れてきたという事さ」

 

 アルファルドは机の下から次々とその『証拠』を出してくる。書類には様々な絵が描かれていて、どれも描き方が大きく異なっていた。

 絵の描き方にも技術があり、時代と共に進歩している。また画材を作り出すのにも技術が必要なため、これまた時代が進むと高度になるものだ。最初にアルファルドが出した壁画の模写……あれは遠近法の技術すらない、更に石で岩壁を削って描いたものだから下手に見えたのである。時代が進むと絵は立体的になり、色彩は豊かに、線は細くしなやかに変わっていく。

 

「そしてこれが最新の記録。三百年前、帝国建国時に書かれた書物に載っていた絵の模写だ。同時に、帝国の前身である国を滅亡させたものでもある」

 

 最後に見せられた絵は、キマイラによく似た獣が、現代的な絵よりも少々太い線で描かれているもの。

 アルファルドが示した数々の『魔王』の姿。ウラヌスは「魔王っていっぱいいるんだなー」と納得していたが、スピカはそこまで単純ではない。

 パッと思い付くだけで、二つの疑問がある。

 

「……二つ、質問がある。一つ、何枚も魔王の絵を見せられたけど、こんなにたくさん現れたのにどうして私達一般人は魔王の実在を知らなかったの?」

 

「簡単な話さ。調査した限り、魔王は凡そ三百年周期で現れている。おまけに現れる場所は、毎度帝国や王国の近くとは限らない。だから伝承で伝えられても、次の魔王が現れる頃にはみーんな忘れている訳だ」

 

 アルファルドの答えに、確かに、とスピカは思う。その時代の事実すら、三日も経てば『噂話』として変性させてしまうのが人間だ。三百年もそれを続けて、しかも三百年間類似の事例がないとなれば、昔話として忘れてしまうのも無理ない。

 これについては、スピカとしては事前に予想していた通りなので疑問や違和感は覚えない。されどもう一つの疑問は、そう簡単に納得する訳にはいかない。

 

「……じゃあ、二つ目の質問。なんで、()()()()()()()()()姿()()()()()()()()? 私、魔王の正体はワイバーンって聞いてたんだけど、どの絵にもワイバーンは描かれてないわよね?」

 

 アルファルドが出した絵には、いずれも何かしらの生物が描かれている。

 だが、その種類は様々だ。時代の古い絵はあまり上手とは言えないだけに、具体的な種を特定するのは困難だが……しかし大雑把にクマっぽい、鹿っぽいぐらいには分かる。

 時代が新しいものなら、もっと分かりやすい。巨大な鳥や蛇、蜘蛛のようなもの。そして三百年前の記録ではキマイラらしい。

 どれ一つとして同じ姿がない。魔王というのは、単一の種類ではないのか?

 その疑問にも、アルファルドは答える。

 

「実のところ、僕達にも詳細は分かっていない。魔王というのは生物種というより、『現象』と考える方が良いだろう」

 

「……そこらの生き物が魔王になる現象、って事? いくらなんでもそれは」

 

「都合の良い解釈、と言いたいんだろう? だけどね、僕達は『証拠』を見付けた。理屈も何も分からないけど、それがあり得るというね」

 

「証拠?」

 

 生物が魔王になる証拠とは一体なんだ? スピカの疑問はますます深まるが、それを脇に置くようにアルファルドは話を進める。

 

「魔王について、歴史を通じて共通する点は一つ。常軌を逸した強さぐらいなものだ。言い換えれば文献記録は多々あり、魔王の姿形は変われども、その点だけは変わらない」

 

「具体的には?」

 

「『悪魔の如き力』。お決まりの台詞のように、どの文献にもそう書かれている」

 

 悪魔。魔王以上に御伽噺の、言い換えれば架空の存在だ。

 誰もがそう例えてしまうほど、魔王の力は圧倒的なのか――――そう考えて、しかし違和感も覚える。

 ただ出鱈目に強いだけなら、悪魔なんて例え方をするだろうか? 他に良い書き方(それこそ具体的に拳で地震を起こしただのなんだの)があるとスピカは思う。悪魔、という表現は、書き手の『意図』が含まれているように感じられた。

 そう、ただ強いだけではない。言うならば『非現実的』な強さがあるのではないか……

 考えてみたが、答えは出てこない。いや、それ以前に何故自分は、カペラやアルファルドの言葉を真に受けているのかと新たな疑問を持つ。

 

「……魔王の強さは分かった。姿が時代ごとで違うのも分かった。で? 違う姿で現れる『証拠』とやらは? そもそもあなた達が魔王と呼んでいる存在は、本当に魔王なの?」

 

 魔王だの悪魔だの、先程から非現実的な話ばかり。

 歴史的な資料を積み上げられたが、これで分かるのは()()()()()()()()()だけだ。今カペラ達が魔王と呼んでいる存在が、御伽噺の中で語られている存在と同一かは分からない。

 スピカは魔王がワイバーンだと、十年近く前から活動している個体だと聞いたから、カペラに同行した。だが、スピカはただのワイバーンを求めている訳ではない。

 特別なワイバーンが知りたいのだ。王国騎士団ともあろう者達がまさかとは思うが、ただの大柄なワイバーンにビビって魔王だ魔王だと喚いているだけかも知れない。

 その可能性は否定してほしい。でなければこんな無駄話に付き合うつもりはない。

 

「そうだね、そろそろ僕達の確認している存在が魔王……御伽噺で語られてきた生物と同一のものである証拠を見せよう」

 

 その考えを見抜いたように、アルファルドはスピカが求めていたものを示すという。

 証拠がある、とはアルファルドも言っていた。だから今更驚くような事ではない。しかしスピカはいざその時が来ると、急に胸の鼓動が早くなったのを感じる。

 何故? 理由はいくらでも考え付く。それはきっと、ずっと探していた存在と出会えるから。

 出会って、そして自分は――――

 

「……っ」

 

 首を横に振るスピカ。今のは違うと、否定するように。

 それでも、胸の奥底で感じた『それ』は中々消えず。

 

「うん、分かった」

 

 感じたものを無視するように、スピカは力強く答えた。

 

「了解。ところで……君の相方、さっきから縮こまってるけど、体調でも悪いのかい?」

 

 尤も、もっと簡単に忘れさせてくれたのは、アルファルドのこの一言。

 視線をちらりと向けてみれば、確かにウラヌスは縮こまるように椅子に座っていた。見た目可愛らしくて小さな女の子だけに、その姿は大変絵になる……が、普段のウラヌスがこんなに大人しい訳もない。

 一体どうしたのだろうか?

 気にはなる。しかしスピカは、尋ねようとする口を噤んだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「さぁ? 本当に体調が悪いなら、自分から言ってくるわよきっと。それより、証拠の方見せてくれる?」

 

「……ま、君がそう言うなら」

 

 アルファルドは席から立ち上がり、部屋の奥にある扉の下へと向かう。スピカとカペラも同じく立ち上がり、彼の後を追う。

 そしてウラヌスも静かに立ち、スピカの後をひっそりと追ってくるのだった。



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狂いし魔物3

 部屋の奥にある扉には、鍵が掛かっていた。

 アルファルドは懐から出した鍵で、その扉を開ける。何気ない行いであるが、それはつまり、仮に不法な侵入者が防壁の地下にあるこの一室に来たとして……それでも簡単には入れさせないという強い『意思』の現れだ。

 余程のものがこの先にはあるらしい。魔王の実在を示す証拠らしいが、厳重に保管しなければならないものなのだろうか? 扉を潜りながらスピカは疑問を抱くも、答えはすぐに分かった。

 扉の先にある廊下の奥から聞こえてくる、唸るような声によって。

 

「……へぇ」

 

 どうやら自分は鍵の意味を履き違えていたと、スピカは察する。あれは外から入るのを防ぐためのものではない。中のものが、外に逃げないようにするためのものだ。

 アルファルドが、スピカ達が通った後の扉に鍵を掛けたのも、緊急時に中の存在が逃げ出さないための措置。ただものではない何かが、そこにいると分かる。

 

「む! 何やら凄い気配がするぞ!」

 

 止めに、ウラヌスが興奮気味に叫んで走り出す。

 あのウラヌスが『凄い』と呼ぶ存在。それがただの獣である筈がない。

 一体何がいるのか? スピカもウラヌスの後を追いたかったが、そこは一人の成人として我慢。アルファルドに視線を送り、案内してもらう。

 アルファルドはスピカの意図を汲んだように、少しばかり早歩きで廊下を進む。

 廊下は短く、一分と経たずに奥に辿り着く。そこには大きな、人間なら三十人は入りそうな鉄格子があった。先に走り出したウラヌスはその鉄格子の前に立っていて、不気味な唸り声も同じ場所から聞こえてくる。

 分かりやすい目的地だ。アルファルドがその前で立ち止まったのを見てから、スピカも立ち止まり、そして鉄格子の方を見る。

 スピカは眉を顰めた。

 

「……ミノタウロス?」

 

 厳重な鉄格子の中に閉じ込められていた動物が、あまりにもありふれていたがために。

 ミノタウロス。世界的に有名な()()……牛の一種である。

 体長は三メトルとそこそこ大柄。水をあまり飲まず、僅かな草でもよく肥え、乳の量も多いなど非常に優秀な品種だ。反面湿気と寒さには弱く、帝国では此処要塞都市シアン周辺でだけ飼育・流通している。肉は美味ながら高級な感じではない、大衆的な親しみ(大雑把さ)のある味だ。

 品種にもよるが、家畜の性格というのは基本的に大人しいものである。人が育てるのだから、気性が穏やかになるよう改良するのが一般的だ。ミノタウロスも例に漏れず大抵は穏やかな性格で、子供が世話をしても大丈夫だと言われるほど。こんな鉄格子内に閉じ込めておくような動物ではない。

 ただ、どうにもこのミノタウロスには妙な点もある。

 まず身体付きがやけに筋肉質だ。肩幅が広く、ガッチリとしている。通常食肉として生産する場合、筋肉は『硬さ』を生んでしまう。誰しも好みは違うので良し悪しは兎も角、多くの人は柔らかな肉質を好む。商品というのは売れなければ意味がないのだから、普通はこんな筋肉質になる育て方はしない。

 また全身に大きな傷が無数にあり、特に腰……或いは臀部と言うべきか……には一際深い、獰猛な何かに噛まれたような傷跡があった。

 このミノタウロスは大きな角を生やした雄牛なので、母乳を生産し、肉質が柔らかな雌牛よりも市場価値は低い。それでも畜産家からすれば『商品』なのだから、基本的には大事な存在だ。こんな傷だらけになるような扱いをされるとは、普通ならば考えられない。それに家畜というのは人に守られているもので、野生動物に襲われる事も滅多にない。何故こんなにも傷だらけなのか……

 いや、そんな事よりも、とスピカは考え込もうとする思考を止める。アルファルドは魔王が実在する証拠を見せてくれると言っていた。そして案内された場所が此処。

 

「……これが証拠?」

 

「その通り」

 

 まさかと思いながら尋ねると、アルファルドは平然とそう答える。

 家畜であるミノタウロスがどうして魔王の実在を示す証拠となるのか。訳が分からず、スピカは眉を顰めてしまう。

 しかしアルファルドは顔色一つ変えず、廊下の突き当りに向かった。そこでガチャガチャと何かを弄る。

 すると、ガタガタと機械的な音が聞こえてきた。どうやら絡繰を作動させたらしい。

 絡繰は鉄格子の中に、大人と同じ大きさの人形が降りてくるというもの。人形は顔が少々不細工である以外、これといって特徴は見られない。

 だが、檻の中のミノタウロス的には癪に障るらしい。

 

「ブゥウモオオオオオオッ!」

 

 猛々しく、獰猛な叫びを上げてミノタウロスは威嚇を始めた。

 大人しい筈のミノタウロスが猛り狂う。これだけでも異様と言えば異様だが、しかしそれは個々の性格の話である。これだけでは、まだただのミノタウロスだ。

 スピカがこの認識を改めたのは、この後の事。

 

「ブ、モゥ!」

 

 ミノタウロスは降りてきた人形に、突進攻撃を仕掛ける。

 温和なミノタウロスが攻撃しただけでも驚きだ。しかしそれ以上の、不可解と言うしかない事態が起きる。

 それは風。

 ミノタウロスが走り出したのと共に、びゅうっと痛いほどに強い風が、スピカ達の方に流れたのだ。無論それは突進で生じた空気の流れなどではない。

 もしも走った事で生じた風なら、未だミノタウロスの頭上にいる人形がふわりと浮かび上がり……()()()()()()()()()()()、なんて出来事が起きる訳もないのだから。

 

「なっ……!?」

 

「驚いたかい?」

 

 驚愕するスピカに対し、アルファルドは好奇心を露わにしながら尋ねてくる。

 風で対象を切り裂くなんて真似、人間の技術はおろか野生の獣でも聞いた事もない所業だ。それも羽ばたきで何もかも吹き飛ばす暴風を起こせる巨鳥の類ではなく、牛がこの現象を引き起こしている。驚かずにいられる訳がない。

 しかし一番の驚きは、何一つとして理屈が分からないという事。

 例えばドラゴンは炎を吐く。されどそれは不思議な現象ではない。体内に可燃性のガスを溜め込む器官があり、火打ち石的な働きを持つ前歯で火花を起こして、出来上がった炎を力強い吐息で吐き出しているだけ。そこには明確な理屈があり、よって理屈に応じた対処法 ― 前歯を折る、ガスを全部出させる ― が存在する。

 だが、ミノタウロスが見せた風は理屈が全く分からない。どんな大仰な仕組みを考え(想像し)ても、ただ走るだけで何かを切り裂く風など起きる筈がないのだ。それも遠距離に届くほど鋭利な、ある程度『集束』した状態で撃ち出すなど、どうすれば良いのか。空気というのは捕まえようとしても逃げていくものなのに。

 理屈に合わない。理屈が付かない。非合理で不条理なのに、何故かこの世に顕在する力。

 これではまるで――――

 

「魔法」

 

 心の中の呟きを代弁され、スピカはどきりと胸が跳ねた。

 アルファルドの言葉だった。彼はスピカの方を見ると、興味深そうに笑いながら、更に話を続ける。

 

「このミノタウロスに外見的な他個体との差異はあまりない。筋肉質なのは元々だし、身体の傷は後天的なものだ。まぁ、解剖とかはしてないから内部については保証しないけど……」

 

「で、でも、それならこんな力……」

 

「そう、使える訳がない。どう観察してもただのミノタウロス。そもそもどんな方法なら、物を切り裂く風なんて起こせるのか。理解不可能、再現不可能なこの力を」

 

 僕達は魔法と呼んでいる。

 アルファルドのその言葉に、スピカはしばし言葉を失う。何かを言おうと口を開くが、返す言葉が思い付かない。

 魔法。

 それもまた、魔王と同じく御伽噺の存在だ。少なくとも良識ある王国一般市民はそう思っているし、子供でもそこそこ大きな子は魔法なんて実在しない事を理解している。中には魔法があると訴える大人もいるが、それは石ころを金に変える錬金術師のように、詐欺師とその被害者ぐらいなものだ。

 その魔法を、よりにもよって家畜の牛が使うという状況。これが混乱に拍車を掛ける。何処かに、何かに、嘘があるのではないかとスピカは考えてしまう。

 しかし言い換えればそれは、帝国や王国騎士団が総出で自分を騙そうとしている、或いは彼等自身も騙されている事になる。最早陰謀論であり、それはそれで非現実的だ。いや、それとも彼等は本当の騎士団ではないのか? 船を何十人と集まって貸し切ったのも、防壁内にこんな部屋を作ったのも、全て盛大な芝居を打つため……?

 何を考えても理屈に合わない。現実に可能な方法が、合理性のなさから破綻する。考えが、何一つとして纏まらない。

 

「むぅ。この牛は凄いぞ。私一人では勝てないかも知れないな」

 

 混沌の中、光明となったのはウラヌスの一言。

 此処にいる面子で、スピカの視点で確実に詐欺師ではないと言えるのはウラヌスだけ。そのウラヌスがただの牛の強さを認めたのだ。彼女の単純な頭は、だからこそ余計な事は考えず、自分の感じたものだけを信じる。なら、少なくともミノタウロスの強さだけは『本物』だろう。

 それに、ここで魔法の真偽について話しても、停滞にしかならない。

 

「……魔法については、とりあえず分かった。それで? これがなんの証拠になる訳?」

 

 話を進めるべく、スピカは新たな疑問を投げ掛ける。

 とはいえこの質問の答えは、粗方想像が付く。

 魔法の持ち主である生物が、魔王という存在を示す証拠なのだ。なら、考えられる答えは一つだろう。

 

「魔王も、魔法が使えるらしい。数少ない目撃者からそれは分かっている」

 

 その予感は正しく、アルファルドの答えはスピカの思った通りのものだった。

 ――――前半までは。

 この後に及んで、まだスピカは理解していなかった。魔法という超常の力が、人間の想像の及ぶものであると。

 

「そして、魔王が()()()()()()()()

 

 故にアルファルドが続けて語った答えに、前半分の答えを予想していたにも拘らず、スピカはまたしても呆けてしまう。

 

「魔法を広めている……?」

 

「そう。魔王が意図してやっているのか、それとも偶然なのかは分からない。ただ、魔王に噛まれるなどして体液に触れた生物……その半分が、魔法の力を発現させている」

 

 アルファルド曰く、このミノタウロスは魔王が食事のため襲撃した牧場にいた個体で、尻を噛まれたらしい。満腹になったので殺すのを止めたのか、筋肉質で美味しくなくて離したのか、単に痛め付けて遊んでいたのかは不明だが……ともあれ噛まれた後、魔法が使えるようになったそうだ。

 

「そんな、まるでそれじゃあ……」

 

「呪いのよう、だろう? それもまた大概御伽噺の存在だけど、今のところそう表現するしかない。伝染病に似た性質とも受け取れるけど、病気なら流行はせずとも患者自体は継続的に出ないとおかしい。魔王の出現は三百年周期な訳だけど三百年間魔法を持っていたのはどいつなんだって話な訳だ。三百年周期という事である種の彗星と絡める考えもあるけど、ただの偶然だと個人的には思うね。彗星なんてそれこそ何十と種類がある訳だから、偶々周期の重なる奴もあるだろうさ」

 

 科学者としての性なのか、現在の説についてつらつらと語るアルファルド。とはいえすぐに本題から逸れたと自覚したようで、「なんにせよ」と一言置いてから話を戻す。

 

「文献記録には、魔王は『魔物』を生み出すという記載が多く見られる。魔物というのは、このミノタウロスのように魔法を使えるようになった生物の事だろう。僕達も便宜上、魔物と呼んでいる。そして僕達が魔王と呼んでいる存在も、こうして魔物を生み出している訳だ」

 

「……でも、おかしいじゃない。私が聞いた話だと、魔王はもう十年も活動している。昔から魔物を生み出していたなら、もっと世間に知られている筈だと思う。魔法なんて使えるなら、自然界でも簡単には死なないだろうし」

 

「そうだね。でもねぇ、魔法の使い手には一つ、明確な欠点がある」

 

「欠点?」

 

「寿命。魔法を使えるようになると、七日ぐらいで死に至る」

 

 あっさりと語るアルファルド。だが、スピカをどきりとさせるには十分な一言だった。

 

「このミノタウロスは魔法が使えるようになって五日目。そろそろ死ぬと思われる。他にも魔法を使えるようになった生物は、どれも七日以内に死んだ」

 

「……解剖は?」

 

「勿論した。剥製にして、今も研究は進めている。だけどさっぱりだね。脳に腫瘍が見られたけど、だからなんだって話だし。ただ、一つだけ分かった事もある」

 

「分かった事? 死因とか?」

 

「その通り。少なくとも、どの個体も魔法が直接的な理由で死んだ訳じゃない」

 

 今までに解剖した生物の死因は、どれも内臓破裂や既知の感染症によるもの。魔法自体が悪影響を与えた形跡はないとアルファルドは語る。

 

「どうにも魔法が使えるようになるのと同時に、凶暴性が増し、力が強くなっているんだ」

 

「強くなるのは、体力とか餌を考えなければ良い事だと思うんだけど」

 

「普通ならね。でも、限度がある」

 

 アルファルドの話でスピカが思い出したのは、生物の『限界』に関するもの。

 曰く、生物というのは危険な状況に陥ると、普段では考えられない力を出すという。人間でも火事から逃げ出す時に、華奢な女が大きな木の柱を退かすほどの力を発揮したという話は稀に聞く。生物というのは普段、真の実力を発揮していないのだ。

 だが、普段から発揮しないのには理由がある。

 大きな力を出すと、その分身体に大きな負担が掛かるのだ。例として挙げた華奢な女の話も、後に骨折などをしていたと分かる事が多い。自分の身体が傷付いても、死ぬよりはマシだという状況だからこそ効果的という事。言い換えればこの状態がずっと続くという事は、四六時中骨折のような重篤な怪我をし続ける事に他ならない。いずれ身体はボロボロになり、命を維持出来なくなるだろう。

 実際ミノタウロスの身体は傷だらけだ。外見だけでも好ましい状態ではなく、中身がどうなっているかは想像も付かない。

 

「魔王が特別なのは、十年という長い間生き続けている点だ。恐らく奴は、魔法の力を完璧に制御し、自制心も持ち合わせている。魔法に対し、完璧な適応をしたんだ」

 

「……………」

 

「魔物は三百年周期で現れる。大半は数日以内に死ぬけど、中には適応して生き残り……圧倒的な力を持つ。これが魔王出現の仕組みであり、このミノタウロスが魔王の存在を示す証拠であり、そして僕達の追っている存在が御伽噺に語られてきた魔王だとする理由だよ」

 

 納得したかい? そう尋ねてくるアルファルドに、スピカは答えを返さずに押し黙る。

 未だに、『魔王』を信じるかどうかで言えば微妙なところだ。

 実際に魔王を目にしていないというのが、一番の理由だとスピカは思っている。あれこれ証拠や魔物について教わったが、実物を知らなければ空想と変わらない。人間の想像力なんてものは、その程度のものである。

 だが、現実問題として魔王が本物かどうかというのは、些末な問題であろう。強大な生物がいるという事実こそが重要だ。

 そしてスピカにとって大事なのは、その魔王が自分の『仇』であるかどうかだけ。

 

「……魔王って言うのは、今までに何をしてきたの?」

 

「色々。直接的な行動は少ないけど、生み出した魔物が周辺の環境を荒らすとか、或いは自分自身が気紛れに暴れるとかで、自然界への影響は計り知れない。この前はキマイラの群れが公国側から逃げてきて、大変だったよ」

 

 ここ最近スピカが出会って動物達……キマイラやバハムートの異様な行動は、魔王に住処を追われての事らしい。レギオンの大発生も魔王や魔物により大移動した動物達が引き起こしたものとすれば、間接的にだが魔王は都市を一つ壊滅させたと言えよう。

 スピカが出会っただけでも大きな被害が幾つも起きている。知らない分を含めれば、一体どれだけの被害が出ているのか? 範囲も恐らく王国や帝国の近隣だけでは留まらない。大陸中、或いは世界中に及んでいるのではないか。

 魔王の存在は、確実に世界を狂わせている。このまま放置すれば、人類に多大な被害を及ぼすだろう。

 

「それと直接的な被害としては、幾つかの村が焼かれた点だね。非公式なものではあるけど、王国の村メバロンが最初だと思われている」

 

 スピカが暮らしていた、今はもう何処にもない村のように。

 

「魔王が伝承通りの力を持つなら、このままでは王国も帝国も、前身である大国の二の舞いとなりかねない。そこで私達王国騎士団は魔王討伐の任を受け、帝国や公国と協力している訳だ……残念ながら公国は、真っ先に魔王の襲撃を受けて壊滅してしまったが」

 

 カペラが言うように、騎士団が出てくるのも頷ける話だ。

 

「僕達も魔王について研究を進めているけど、何分野外活動はあまりしてなくてね。冒険家の助言がほしいところだったんだ」

 

「で、バハムートを倒した私が目に付いたと」

 

「出会いは偶々だったが、私は君の事を評価しているつもりだ。国を守る者がこんな体たらくで情けないと思うかも知れないが、協力を頼めないだろうか」

 

 カペラはそう言うと、スピカに向けて手を伸ばしてきた。

 協力するつもりがあるなら、握り返せという事か。

 スピカはその手をじっと見つめる。もしもこの手を掴めば、魔王を倒すための協力とやらをさせられる訳だが……バハムートにしたのと同じ働きを求められるとすれば、恐らく魔王との直接対面をさせられるだろう。カペラが評価したのは、スピカの観察力と機転の効かせ方だからだ。それを発揮するには直接相手を見るしかない。

 魔王。恐らくは故郷を焼いた、あの化け物に違いない。

 ようやく会える。ようやく恨みをぶつけられる――――そう思いながら、スピカはぎゅっと拳を握り締めた。ぷるぷると小刻みに震えるほどに。仮に、魔王と仇が同一でなかったとしても、世のため人のためになるのだから断る必要もない。

 

「……分かった。魔王退治に協力する」

 

 スピカは笑顔と共に、カペラの手を握った。

 カペラも笑みを浮かべ、その手を握り返す。ついでとばかりにアルファルドも手を掴んできたが、カペラと比べてあまりに弱々しい。流石学者だな、と思うと妙におかしくて、くすくすとスピカの口から笑いが漏れ出てしまう。

 そんなスピカの姿を、ウラヌスは静かに見つめるばかり。何も言わず、普段ならわーわー五月蝿い口を閉ざしたまま。

 何かを言いたげな視線を感じながら、スピカはそれを無視するように背を向け続けるのだった。



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狂いし魔物4

 何かがおかしい。スピカがそう思い始めたのは、夜も更けてきた頃であった。

 スピカは今、要塞都市シアンを囲む防壁にある、『客間』にてベッドに寝そべっている。普段は同盟国の兵士などが寝泊まりするための場所で、要人用の部屋と比べると些か質素なもの。灯りも牛の脂(安物燃料)を使ったランタンしかない。

 とはいえスピカは自身の好みの都合、野営をよくする。彼女にとってベッドとは基本草や土。灯りは月と星しかなく、無論身を守る壁なんて大抵はない。部屋があるだけで上等な暮らしなのだ。

 それに食事も豪勢だった。この地で育てられたミノタウロスをふんだんに使った肉料理は、大衆的な(安っぽい)大味ではあるが、だからこそ親しみのある味覚を楽しめた。

 一つ欠点を挙げるなら風呂に入れなかった事だが、要塞都市シアンは水の乏しい乾燥地に位置する。いくら騎士団の客人といえども、水を存分には使えないのだから仕方ない。

 かくして、総合的にはまぁまぁ堪能して夜になった訳だが、そこでスピカはようやく違和感を覚え始めたのだ。

 ウラヌスが、妙に大人しいと。

 

「(なーんかずっと静かなのよねぇ)」

 

 ベッドの上に座っているスピカは、ちらりとウラヌスの方を見遣る。

 ウラヌスもベッドの上に座っていた。膝を縦に折り曲げたなんとも大人しげな(どこぞの地域では『タイイクズワリ』と呼ぶらしい)座り方だ。口に少し力を入れているようできゅっと閉じ、顔はやや伏せ気味。

 ウラヌスは普段から色々喧しい。迷惑な酔っ払いの如く夜中にぎゃーぎゃー騒ぐ訳ではないが、起きているなら元気な声でよく話し掛けてくる。

 こんな姿は、今まで見た事がない。

 

「(そりゃまぁ、夜なんだから五月蝿いよりはマシだけど……)」

 

 滅茶苦茶怒鳴り散らした後なら兎も角、叱ってもいないのにいきなり振る舞いが変わるとどうにも居心地が良くない。

 アルファルドも言っていたが、体調が悪いのだろうか? しかし普段のウラヌスなら、それならそうと言いそうなものだ。体調が悪くなったら休むという、旅の大原則を破るとは思えない。何か他の理由があるように思える。

 その理由を尋ねて良いものか。スピカはしばし考え込んで……訊く事にした。体調が悪い訳ではないかも知れないが、理由があるなら知っておくべきだろう。

 

「ねぇ、ウラヌス。なんか今日は妙に静かだけど、何かあった?」

 

「うむ。びっくりさせないようするためだぞー」

 

 なので尋ねてみると、ウラヌスは何時もより大人しい声で、あっさりと答える。

 しかし答えられてもスピカの疑問は残ったままだ。

 びっくりさせないため、とはなんの事だ? スピカはそんな指示を出した覚えはないし、そもそも誰を、何故びっくりさせてはいけないのか。

 一つだけだった疑問が、一気に三つも増えてしまった。数が増えてはますますそのままにはしておけない。一つ一つ、丁寧に解決させようとする。

 

「びっくりさせるなって、誰かに言われたの?」

 

「違うぞー」

 

「あら、自発的な行動なの。じゃ、誰をびっくりさせないようにしてるの?」

 

「スピカだ」

 

 質問していくと、ウラヌスはあっさりと答える。だから疑問の数は減ったが、しかし余計に訳が分からない。

 何故ウラヌスは、自分を驚かさないようにしているのか? 無論びっくりしたい訳もないが、気を遣われるほど弱々しいつもりもない。

 

「なんで私を驚かせないようにしてる訳?」

 

 あまりにも意味が分からず、スピカは考える前にウラヌスに問う。

 

「だってスピカ、ずっと怖がってるじゃないか」

 

 返ってきたその一言により、スピカの思考は少しの間止まった。

 怖がっている? 自分が?

 

「私も鬼じゃないからな! 怖がってる奴がいたら、ちゃんと静かにしているぞ! えっへん」

 

 困惑するスピカの前でウラヌスは胸を張る。自分の考えが間違っているとは露ほども思っていない、自信に満ち溢れた様子だ。

 だが、スピカからすれば認められない。

 だって自分は、ずっとどころか一度も、怖がってなんていない筈なのだから。

 

「……いやいや、何言ってんのさ。私が何時、怖がってるって?」

 

「そうだなぁ。今日は割とずっと怖がってるように見えたが、特に怖がっていたのは、話を聞いてる時だったな」

 

「話?」

 

「うん。まおーだかなんだかの話を聞いてる時、ずっと怖がってるように見えたぞ」

 

 ウラヌスは何一つ迷いなく、自身の感じた事を告げた。

 魔王の話で、自分が怖がっていた。

 他人から教えられた情報に、スピカの感情は真っ先に否定の念を抱く。自分が怖がっている筈がない。何故なら魔王は、魔王と呼ばれているワイバーンは、自分の故郷と家族を焼いた仇だからだ。

 その仇を討てる時が来て、どうして怖がるというのか。

 確かに魔王は恐るべき存在なのだろう。伝承に残るぐらいだ。しかしスピカはこの日に備え、様々な準備をしてきた。知識を積み上げ、技も磨いている。戦う術はちゃんと身に着けており、それを試す時が来るのを心待ちにしていたぐらいだ。

 もしも怖がっていたら、まるで自分があの時のまま、何も変わっていないと言われているのと同じ。そんな事は()()()()()()()()

 

「何言ってんの、魔王の話で怖がる訳ないでしょ。むしろワクワクしてるぐらいよ。この時のために、色んな道具や策を用意したんだから」

 

「そうかー? 汗の臭いとか、怖がってる人間のものだったぞ? 動物も人間も、怖がると汗が酸っぱくなるからな!」

 

 強気な言葉を返すも、ウラヌスはそれ以上の『証拠』を突き付けてくる。悪気のないその言葉が、スピカの意識を追い詰めているとも知らずに。

 ――――怖がった動物の汗の臭いなんて知らない。

 知らないから()()()()()()()()()とスピカは流す。しかしウラヌスを説得するための証拠なんて何もなくて、強気な笑みを、口許を強張らせながら浮かべる事しか出来ない。

 

「言い掛かりもそれぐらいにしなさいよ」

 

 せめてもの反撃にと窘めてみたが、これが悪手だった。

 自分の『肉体』に誇りを持つウラヌスにとって、この反論が逆鱗なのは容易に想像出来る事だったのに。

 

「む。それは聞き捨てならないぞ! スピカこそどうして怖いのを隠すんだ」

 

「隠してない。私は怖がってなんていない」

 

「私の鼻は誤魔化せないぞ! それに身体もよく震えていたし、顔色も良くないな。吐息が乱れていたし、声も微かに震えていた」

 

「五月蝿い五月蝿い五月蝿いっ!」

 

 目も鼻も耳も、全てに優れるウラヌスの指摘に容赦はない。スピカに出来るのは感情的な声で、黙らせようとする事だけ。

 しかしこんなので怯むのは、相手が大声に怖がってくれた時だけだ。勇ましい『戦士』の前に、そんなハッタリは通じない。

 

「あ、思い出したぞ。スピカは確か、ドラゴンに村を焼かれたんだったな。それを思い出して怖くなったのか?」

 

 ついにウラヌスは核心に触れてしまう。

 ぷつりと、スピカの中で糸が切れる音が聞こえた。

 

「……あんまり、人の事見くびらないでよ」

 

「見くびる? なんの話だ?」

 

「私が怖がってる訳ない! 良い? 私はアイツと再会出来ると分かって嬉しいの! この手で、みんなの仇を討てるから! アンタには分かんないでしょうけどね!」

 

「うむ、よく分からんぞ。だって――――」

 

 感情的な声を上げるスピカに対し、ウラヌスは何時までも冷静なまま。何かを告げようと口を開けた

 が、その小さな口が発した言葉をスピカは聞き取る事が出来なかった。

 何故ならその瞬間、身体が震えるほどの轟音が辺りに響き渡ったからである。

 

「きゃあっ!?」

 

「ぬぉ!」

 

 不意を突かれたスピカの口からは甲高い悲鳴が、ウラヌスの口からも驚きの声が溢れる。

 音に続き、激しい振動が二人を襲った。身体が浮かび上がるような、異様な揺れだ。地震のようにも思えたが、振動の響き方が違うとスピカは感じる。一瞬大きな揺れが起こり、急速に小さくなっていく……

 恐らくこれは、大きな建物が倒壊した事を起因にするもの。

 そして此処要塞都市で、地震と間違うほど大きな揺れを起こす建造物は、スピカが知る限り一つしかない。

 

「っ!」

 

 スピカはウラヌスを置いて、部屋の外に飛び出す。後からウラヌスも追ってきたが、振り返る事もなく無視した。

 部屋を出た廊下には、外を覗くための窓がずらりと並んでいた。夜ではあるが廊下の壁には蝋燭の明かりがあるため、足下を心配する必要はない。スピカは素早くその窓の一つに肉薄し、外の景色を見る。

 何もなければ、そこに広がるのは暗闇だ。灯りを付けるには燃料が必要で、燃料の価格は(畜産が盛んで大量の牛脂が手に入る場所でも)安くはない。夜なべしても費用対効果が悪いので、どんなに貧しい家庭でも夕飯が終わった頃には明かりを消し、さっさと寝床に入る。勿論商売の多くも夜には終わりだ。日が沈んでから店を開き、夜更けまで営業しているのは酒場と賭博場ぐらいだろう。このため夜の町は一部を除いて真っ暗なものである。

 だが、此度の町は違った。

 遠くで赤い輝きが見える。ゆらゆらと揺れるそれは、燃え盛る炎だ。

 燃えているのは防壁。防壁自体は煉瓦で組まれているが、室内や廊下にはベッドや絨毯など燃えるものが置かれている。なんらかの理由で火が付けば、防壁といえども火事は起きる。

 しかし大きな炎が外から見えるという事は、中身が露出しているという事に他ならない。つまり、防壁の一部が崩れているのだ。

 

「あそこは、確か……」

 

「スピカ!」

 

 炎が出ている場所は『何処』なのか。それを知ろうとしたスピカに、答えを知っていそうな者が声を掛けてくる。

 カペラだ。スピカは窓から一旦離れ、カペラに問い詰める。

 

「カペラ! 防壁が燃えてる! あそこって確か……」

 

「ああ、君が思っている通り――――魔物と化したミノタウロスが保管されていた区画だ」

 

 カペラは隠す事もなく、答えを教えてくれた。

 何があったのかは分からない。事故かも知れないし、或いは事件かも知れない。

 だが確実に言える事として、あそこに閉じ込められていたミノタウロスは脱走しただろう。

 魔法の影響で凶暴化しているという、ミノタウロス。果たして大人しく人気のない場所に逃げてくれるだろうか? 再び窓から外を見れば、答えは明白だ。

 町から炎が噴き上がる。

 明らかに、『何か』が町の中心目掛けて移動していた。

 

「……丁度良い。試験にぴったりの相手ね」

 

「何? それはどういう――――」

 

 スピカが独りごちた言葉の真意を、カペラが尋ねてくる。しかしスピカがそれに答える事はない。

 スピカは一人で走り出したからだ。

 

「カペラ! 町の人の避難は任せた! 私は確かめたい事がある!」

 

「む! それなら私も、うおっ!?」

 

 一方的にカペラを突き放すスピカ。その後をウラヌスが追ってこようとした

 が、唐突に防壁内が激しく揺れる。

 そしてウラヌスとスピカの間の壁と廊下が崩落を始めた! 一部が崩れた事で防壁全体が歪み、遠く離れたこの付近の安定も崩れたのだろう。スピカは走り出した事で難を逃れ、カペラはウラヌスと一緒なので無事だろうが……道が崩れた事で彼女達とスピカは分断された。合流するには時間が掛かるだろう。

 それを待つ気は、今のスピカにはない。

 

「(やってやる……私が魔物を倒してやる!)」

 

 スピカはほくそ笑む。

 ウラヌスに話したように、スピカは仇であるワイバーンを倒すための道具を色々と作り出してきた。どれも自信作であるが、しかし本当に通じるかどうかは使ってみるまで分からない。普通の動物と『魔王』では、効きが違う可能性があるからだ。

 しかし此度暴れているのは、魔物と化したミノタウロス。魔法の使い手であり、恐らく魔王と(同等ではないにしても)近い実力を持っている筈だ。魔物に対して効果的であれば、魔王にも効くと思って良いだろう。

 試すには打って付け。それに準備は万端なのだから負ける筈がない。いや、それどころか此処で逃げたら、それこそ魔王に怯えていると認めるようではないか。

 魔物を倒して、自分が魔王を倒せると証明する。

 震える拳を握り締めて、スピカはミノタウロスがいるであろう場所に向けて走り出すのだった。



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狂いし魔物5

 スピカが向かったのは、燃え盛る防壁、ではなかった。

 魔物と呼ばれているミノタウロスだが、正体はただの牛だ。炎が立ち昇れば怖がり、離れようとするだろう。興奮状態もあり、本能的に落ち着ける場所を探すに違いない。

 例えば、防壁の傍にある広間。

 火事のお陰で地上が明るく照らされ、防壁の窓から覗けば目当ての場所は見付けられた。加えて()()()()()()()がその行く先を示す。

 

「さぁ、どうなるかな……!」

 

 スピカは目星を付けていた広間に辿り着き、すぐに辺りを見渡す。

 広間の範囲はざっと五十メトルほど。中心には浅そうな池があり、周りには柵が設置されていた。

 乾燥地でありながら池があるのは、湧き水が此処から出ているのかも知れない。市民にとって憩いの場として使われていると思われる。

 今から此処で戦いをするのはスピカとしても申し訳ないが、流石に、被害の少ない場所まで誘導しようという嘗めた考えは持てなかった。

 

「……来る」

 

 スピカはある方角を見遣る。

 最初は、小さな揺れだった。しかし段々と、時間が経つほどに揺れが大きくなっていく。

 より正しく言うならば、揺れの源が近付いてきているのだ。猛烈な速さで。

 

「モゥオオオオオオオオッ!」

 

 雄叫びと共に広間の一角にある家の塀を砕き、巨大な牛――――ミノタウロスが姿を表した!

 ミノタウロスは大きな角を振り回し、周りにあるもの全てを攻撃している。相当強い力で暴れているのか、スピカが見ている前で身体の傷がどんどん増えていた。しかしその痛みで顔を顰めていたり、或いは呻きを上げたりもしない。

 極度の興奮状態は痛みを忘れさせる。人間でも死闘を繰り広げた直後は、内蔵が外に出ていても気付かない事があるという話だ。ミノタウロスの興奮も、その水準に達していると思われる。無論これは自分の怪我に全く気付かないという意味では、極めて好ましくない状態なのは言うまでもない。

 また身体は部分的に黒ずんでいて、火傷を負っているようだ。ミノタウロスは火災を広めた元凶であるが、自身もその火に焼かれたようである。

 決して万全の状態ではない。だが、試験相手としてはこれで丁度良いだろう。

 

「さぁ、魔物の強さとやら……見せてもらおうか!」

 

 スピカは弓を構えながら、ミノタウロスに宣戦布告を行った。

 ミノタウロスは大して頭の良い動物ではない。人間の言葉を理解する事は出来ない筈だが、単純に物音に反応したのか、ミノタウロスはスピカの方を見る。

 そして猛然と、スピカ目掛けて突撃してきた!

 牛の仲間自体は自然界でもよく見られる。食味の良さから歴史上頻繁に人間に狩られ、絶滅した種もいるからか、野生の牛はそこそこ攻撃的だ。スピカも幾度となく襲われたり、或いは食糧として襲ったりしてきたが……今まで見たどんな牛よりもこのミノタウロスの突撃は速い。身体能力が大きく増大している(或いはたがが外れている)ようだ。

 しかし直線的かつ等速の動きを読むのは、極めて容易い。

 

「ふっ!」

 

 衝突寸前のところでスピカは横に跳び、ミノタウロスの攻撃を躱す。避けられたとミノタウロスもすぐに気付いただろうが、大柄でガッチリとした体躯は小回りが利かない。ミノタウロスはしばし真っ直ぐ、スピカの真横を通り過ぎていく。

 そのまま逃げられる、というのがスピカにとって一番厄介な状況だ。突進時の速さからして、人間の足ではどうやっても追い付けない。

 だが、その心配はいらなかった。

 ミノタウロスは大きいながらも弧を描き、スピカの方に戻ってきたからだ。牛というのは草食動物であるから、どんなに攻撃的な性格でも基本の戦略は『逃げ』。肉を喰らう肉食獣と違い、敵を倒しても何も得をしないのだから逃げる方が合理的なのである。しかしこのミノタウロスはわざわざ戻ってきた。間違いなく、スピカを打ち倒すために。

 魔物と化した事で、性格が大きく変わったのがこうした行動からも窺える。そうした情報も『魔王』と戦う上で役立つ。

 そして真っ直ぐ向かってくる状況は、攻撃を加えるのに非常に良い。

 

「(何時もなら、危険過ぎて使わないけど……!)」

 

 スピカが取り出したのは、一本の薬瓶を先に付けた矢。落ち着いて、不用意に瓶を刺激しないよう弓に宛てがい……放つ。

 瓶の中に詰め込まれているのは、ドラゴンの『消化液』を材料にした溶液。

 頂点捕食者であるドラゴンは様々な動物を食べるが、動物の中には硬い殻や骨など、消化の難しい部位も多い。しかし巨大なドラゴンは餌も大量に必要であり、柔らかくて美味しい部分だけ食べるという贅沢は出来ない。仕留めた獲物は骨も皮も全て食べる。

 そうしたものを消化するためか、ドラゴンの消化液は強力だ。種によっては、消化液を吐き出して攻撃してくるものもいるほど。まともに浴びれば火傷のように皮膚が溶けてしまう。

 スピカは長年続けてきた旅の中で、ドラゴンの亡骸を度々目にしてきた。大抵は腐敗していたり、他の動物に食い荒らされて骨になったりしていたが、稀に新鮮な死骸もある。その新鮮な死骸から取り出した胃袋、更にその中にある胃液を取り出し、乾燥させたものをスピカは常に所持していた。

 乾燥させた粉は安全だが、これを一定量の水に溶かすと、元の酸性を取り戻す。硝子瓶なら保存可能だが、割れたり漏れたりすれば大怪我必須だ。飛沫を浴びるのも危ない。

 そもそも新鮮なドラゴンの死骸など、そう滅多に見付かるものではない。スピカが十年の旅で得た乾燥胃液の量は、硝子瓶にしてたったの二本分。そのうちの一本が、今スピカの放った矢の先にある。

 貴重なそれは、強敵相手に相応しい一撃だ。

 

「ブ、モギィイッ!?」

 

 割れた硝子瓶から溶液が飛び散ると、ミノタウロスは大きな悲鳴を上げた。じゅうじゅうと音を鳴らし、突撃していた足を止める。

 間違いなく効いている。

 何時もなら相手が怯んでいる隙に逃げ出すところだが、此度のスピカは違う。今回の目的は生き延びる事ではなく、敵を倒す事なのだから。

 

「(立て直す隙は与えない!)」

 

 立ち止まるミノタウロスの側面に回り込むや、スピカは新しい道具を取り出す。

 今度の道具は、またしても瓶に詰めた薬液。

 それを思い切ってミノタウロスに投げ付けながら、スピカは大きく後ろに跳んだ。強酸で怯んだミノタウロスは鋭い眼差しをこちらに向けてきたが、攻撃するほどの時間はない。

 スピカ渾身の投擲により、瓶はミノタウロスの身体に触れた衝撃で割れた

 瞬間、巨大な爆発がミノタウロスの側面で炸裂した! 爆発の衝撃で、大人であるスピカの身体さえも大きく飛ばされる。もしも受け身を取らなければ、下手な転び方をして首でも折っていたかも知れない。だが、スピカにとってこの爆発は想定内。体勢を維持し、なんとか足から着地する。

 とはいえ無傷、という訳ではない。

 爆発と共に飛んできた、硝子の破片が自分に襲い掛かってきたからだ。

 

「くっ……!」

 

 飛んできた破片に対し、スピカは両腕を顔の前で構える。彼女の着ている服は獣の皮で出来た頑丈なもの。飛んできた硝子片は服が受け止めた。

 しかし完璧に守れた訳ではなく、硝子の先は僅かに服を貫き、腕に掠り傷を作る。また構えた両腕の隙間を通った小さな硝子が、スピカの頬を切り裂く。

 痛みが至るところを走る。だが気にするほどの事ではない。

 それよりも重要なのは、先の爆発の効果だ。

 

「(普通の動物なら、粉々に吹き飛んでるところなんだけどね……!)」

 

 硝子を完全に受けきってから腕を退かし、スピカは正面を見据えた。

 今し方スピカが投げたのは、フェニックスと呼ばれる鳥の羽根を原料にした爆薬だ。

 フェニックスは天敵に襲われると、羽根の一部を飛ばす生態を持つ。この羽根は地面などに接触すると、『破裂』する性質があった。威力は小さなものだが音は大きく、天敵を怯ませる効果がある。

 この羽根をとある魚から取れる油に浸し、劣化により粉々になるまで太陽光に何百日と晒す。これで薬液の完成だ。ちなみに油は溢れるまで波々と注ぎ、その後加熱して油を沸騰させる事で瓶から完全に空気を抜く。何故なら薬液は空気と反応し、巨大な爆発を起こすからである。

 爆発するという意味では爆弾矢と似た道具だが、違いはその威力の大きさ。爆弾矢と比べてざっと数倍は強力な爆発を起こす。あまりの危険性に、普段は万一全体重を乗せても壊れない、頑丈な小箱に入れて封印しているぐらいだ。そして空気に触れるだけで爆発する性質上、布に染み込ませる、なんて真似は出来ない。

 よって使用方法は投擲のみ。射程距離は矢と比べて遥かに短く、また速度がないため遠くの的に当てるのは困難。そのため対象との距離がかなり近くなければ使えない。近ければ爆風が使用者にも襲い掛かり、怪我を負うだろう。

 強過ぎて使えない道具の典型だ。しかしいざ用いれば、危険に見合った威力はある。

 普通のミノタウロスなら、首から上がごっそり消えているだろうが……

 

「ブモオオオオオッ!」

 

 ところがこのミノタウロスは、まだ生きていた。身体は傷だらけで、所々焦げ付いているが、死ぬような気配はない。

 あの爆発からどうやって生存したのか。理屈は分からないが、しかしスピカは非常識な状況を前にしても狼狽えない。確かに非常識ではあるが、此度の相手は常軌を逸した魔物である。生きている事は想定内。

 故に、既に次の手は用意してある。

 

「なら、コイツはどう!?」

 

 爆煙の中から現れたミノタウロスに向けて、スピカが投げ付けたのは爪先よりも小さな丸い粒。

 これは『油玉』というもの。油玉の材料は海沿いに生息する大柄な海獣ポセイドンの皮脂だ。これを煮詰めた後薬草と混ぜ合わせ、天日干しして作り出される。

 油玉自体は強い刺激で破裂し、油を撒き散らすだけの代物である。スピカが投げ付けた油玉も、ミノタウロスの身体に触れた途端に弾けて、その身体を油塗れにするだけ。しかしこの油は、海沿いの都市では最高の燃料として使われるほど高品質。極めて長時間、安定して燃え続ける性質を有す。弱点は燃え方が緩やかで『火力』が乏しい事だが、それでも肉を焼く(料理)に使える程度の熱は出す。生き物を殺すならこれで十分。

 そしてほんのちょっとの火種で簡単に着火する。スピカが構えた火矢であろうとも、だ。

 

「ふっ!」

 

 素早くスピカはミノタウロス目掛け、火矢を放つ!

 矢はミノタウロスの胸の当たりに命中。分厚い筋肉に阻まれ、深くには刺さらなかったが、しかし火が燃え移るには十分。

 ミノタウロスの身体は、油を伝って大きな炎に飲み込まれた。

 

「ブモ!? ブモオオオオオオオオッ!」

 

 ミノタウロスの大きな悲鳴が、辺りに響き渡る。巨体を跳ね回るように暴れさせているのは炎から逃れるためだろうが、激しい動きにより空気が掻き回され、一層炎は激しさを増していく。

 自然界において油断は厳禁だ。どんなに追い詰めたように見えても、生きている以上はなんらかの反撃をしてくるかも知れないのだから。ましてやこのミノタウロスが『魔法』の使い手である事は、魔王について説明を受けた際に目の当たりにしている。その破壊力が、人形程度なら切り裂く事も。

 スピカもそれは分かっている。だから一歩二歩と後ろに下がり、スピカは少しずつ距離を取る。少しでも妙な動きを見せれば、すぐにでも次の対応出来るように。

 それでも、強張っていた表情が少しずつ弛んでいくのを感じた。

 

「(まだ手はある。妙な動きを見せたらすぐに喰らわせてやる……!)」

 

 先手を取れたお陰もあり、一方的に痛め付ける事が出来ている。炎の熱は今頃、確実にミノタウロスの肉を焼いている筈だ。

 油断しなければ魔物と化したミノタウロスには勝てる。

 流石にこんなにも簡単に魔王を倒せるとは思えない。だが大きな手掛かりになった。魔物といえども、火で殺せるという事が分かれば十分。

 このままミノタウロスを倒したら、更に発展させた作戦で魔王を――――そう考えていた時だった。

 スピカの身体に、()()()()()()()()()

 

「……ぅ、い……!?」

 

 走る痛みに顔を顰め、後退していたスピカの足が止まる。何が起きたのか? 困惑で頭の中が真っ白になってしまう。

 だからこそ本能的に、痛みの方に視線を向けた。

 そこは右腕だった。二の腕の辺りの服に親指ほどの大きさの穴が空き、そこから赤黒い血がどぼどぼと溢れている。穴は貫通こそしていないが、肉を大きく抉っていた。痛みの所為なのか、それとも傷の深さの所為か、弓を掴む手に力が入らない。このままではぽろりと落としてしまいそうなほどに。

 スピカが攻撃を行うには弓が欠かせない。それを掴む手に力が入らないのは致命的な問題だ。だが、それよりも今のスピカの頭を満たすのは怪我の『原因』。

 ミノタウロスは風の魔法を使える。

 ならば風により腕を切られたのか? 真っ先に思い浮かんだ可能性は、しかし傷口を見るに違うとスピカは判断した。ミノタウロスの吹かせた風は剣のように人形を切り裂いたが、それでも布切れを浅くボロボロにする程度。あのボロ人形より遥かに丈夫な革の服を貫くとは思えず、何よりこんな大穴を作り出せるとは考え難い。

 一体、何が起きたのか?

 

「ゥモオオウッ!」

 

 その答えはミノタウロスが次に起こした行動が示した。

 大きな咆哮を上げるや、ミノタウロスを包んでいた炎が急速に萎み始めたのである。

 油が燃え尽きたのだろうか? それはない。海獣の油は極めて燃焼効率がよく、一度燃えれば数分は火を灯す。いくら暴れた事で空気をたくさん送られたとはいえ、こんな簡単に消える筈がない。

 とはいえ、それは空気で消そうとした時の話だ。他のものを使えばもっと簡単に消せる。

 例えば水。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、大量の水があれば消火は簡単な事だ。

 

「な、にそれ」

 

 ただし、目にしたスピカがそれを受け入れられるかどうかは、全く別の話であるが。

 今やミノタウロスの身体は、まるで土砂降りにでも遭ったかのようにびしょ濡れだ。火だけでなく油も流され、もうその身体は燃えていない。

 雨が降っていない事は、同じ場所に立つスピカが証明する。一体何処から水が来たのか。確かに近くに池はあるが、ミノタウロスはそこに近付いてもいない。

 それでも池の方に無意識の視線を向ければ、水の出処は明らかとなった。

 確かに水は、広間の中心にある池から来ていた。さながら嵐の中のように、無数の水滴が空を飛んでいく。

 ミノタウロスは『風』で攻撃をする。スピカはそう考えていたが、しかし想像を膨らませてみれば、風というのはただ攻撃だけに使えるものではない。ものを運ぶのにも役立つものだ。それこそ、スピカ達が砂漠を帆船で渡ったように。

 しかしミノタウロスは家畜だ。人間ほどの賢さはない筈である。本能でそれを成し遂げたのか? それとも炎を消そうと試行錯誤する中でやり方を見付けたのか?

 だが一番の問題は、理由はどうあれ恐らくもう炎は通じない事だ。

 そして運んできた水は、攻撃にも使える事をスピカは思い知らされる。

 

「ブモオオオオッ!」

 

 ミノタウロスが吼えた瞬間、『何か』がスピカ目掛けて飛んできた!

 まるで矢のような速さで飛んできたそれは、スピカの足に命中。すると足の肉を抉り、大きな穴を開けたではないか。

 腕にされたのと同じ攻撃だろう。前と違うのは、今度のスピカはその目で攻撃の瞬間を見ており、またミノタウロスの『技』も目撃している事。それ故に、スピカは自分の身に何をされたのかを理解する。

 

「(み、水だ……! 水を風で飛ばしてきたんだ……!)」

 

 水と言えば、当たれば弾けて飛び散るもの。それをぶつけて攻撃する、と言ってもピンと来ないだろう。

 だが高い崖などから落ちた水滴は、当たると中々の衝撃をもたらす。ただ自由落下するだけで痛みを感じるほどの威力を持つのだ。魔法の風で水を飛ばせば、高速で投げ付けた石のように対象を傷付けられるという事か。

 

「くっ……この……」

 

 肉を抉られ、力を失った足が崩れ落ちる。

 すぐに立ち上がろうとしたが、それよりもミノタウロスが行動を起こす方が早い。

 突撃してくるミノタウロスに、スピカは咄嗟に立つのを止め、弓と腕を構えて守りの体勢を取る。

 もしもその体勢を取らなければ、ミノタウロスの突進の衝撃で、内臓が潰れていただろう。尤も両腕を構えたぐらいで、何倍もの体重差がある相手の一撃を耐えきれる訳もなく。

 

「ぐぁっ……!?」

 

 ミノタウロスの突進を正面から受けて、スピカは呻きを上げる。その身体は宙に浮かび上がり、そのまま後方にふっ飛ばされた。

 空中では体勢をどうこう出来ず、飛ばされたスピカは広間に立っていた木の一本にぶつかる。

 

「う、げほっ、げほっ……!」

 

 全身に走る衝撃のあまりの大きさに、思わず咳き込んでしまうスピカ。身体が痛みで末端まで痺れ、上手く動けない。

 その間にも、ミノタウロスはゆっくりと狙いを定め直していた。

 ミノタウロスが見逃してくれる事はないだろう。鼻息を荒くし、目を血走らせている姿を見れば、追い詰められたスピカでもそんな期待はしない。今の一撃は後ろに吹っ飛ぶ余地があったから、痛みだけで済んだが……ここでもう一発体当たりを受けたら、もう逃げ場はない。

 立たなければ今度こそ止めを刺される。

 

「こんな、こんな奴に……負ける、もんか……!」

 

 スピカは両手を地面に付け、立ち上がろうとする。顔に闘志を滾らせ、鋭い眼差しでミノタウロスを睨みながら。

 そして立ち上がろうとした時に気付く。気付いてしまう。

 自分の手足が、凍えるように震えている事に――――



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狂いし魔物6

「あ、れ?」

 

 四肢が震えて、力が入らない。

 立ち上がろうと奮起するスピカだったが、身体は言う事を聞いてくれない。ガタガタと震え、体重を支えるだけの力を出せないでいる。

 受けた傷が大きかったから、ではない。確かに脚も腕も、ミノタウロスの放った水で肉を抉られた。だが骨には達しておらず、痛いだけで力を発揮するのに支障はない筈だ。

 どうして立てない? どうして震えが止まらない? 困惑と焦りでスピカは身動きが鈍っていく。

 それでも少しずつ、身体を起こしていたのだが……

 ミノタウロスが一歩近付いた時、今まで込めていた力がすっと抜けてしまった。

 

「ひっ」

 

 そして自分の口から漏れ出た、あまりにも情けない声で気付く。

 怖がっている。

 自分は目の前のミノタウロスに、どうしようもないほど恐怖を抱いているのだと。

 

「あ、あ、ぃ……」

 

 後退りをしようとして、けれども背中側にある木が邪魔で一歩も動けない。勿論広間に生えている木の太さなど大したものではなく、少し横にズレれば簡単に避けられる。だが、今のスピカにはそれが思い付かない。恐怖に取り憑かれた頭は、思考が黒く塗り潰されていたのだから。

 何故こんなにも恐怖しているのか。冒険家になって幾年、命の危機を感じた事など一度や二度ではないというのに。

 しかしスピカはその理由に心当たりがある。それもこの戦いが始まる前から、ずっと。

 頭の中にこびり付く魔王――――故郷を焼き尽くしたワイバーンの姿が、目の前の雄牛と重なってしまうのだ。

 

「(怖い、怖い怖い怖い……!)」

 

 一度恐怖を自覚したら、もう抑える事も出来ない。全身がガタガタと震え、冷や汗が身体中から流れてくる。

 ただのミノタウロスなら、きっと怖くもなんともなかった。何も知らずに『魔法』だけを見ても、妙なミノタウロスとしか思わなかっただろう。

 しかしスピカは知ってしまった。このミノタウロスが魔物であり、魔王と似た存在であると。()()()()()()()()()()()()()()()()()のだという情報が、二つの存在を結び付ける。

 魔王と思しきワイバーン。それはスピカの家を焼き、知り合いを焼き、家族を焼いた。

 もう何年も前になる、幼少期の記憶だ。何度も何度も思い出し、脳裏に焼き付いた光景。あの記憶を思い出す度に、身も心もあの時のように戻ってしまうような感覚に見舞われた。

 そんな訳はない。自分は大人になり、冒険家としても成長した。確かに恐ろしい生物であろうが、知恵と技術を用いれば勝てない相手ではあるまい。大人になると父と母の背中が小さくなったように感じるのと同じで、今会えばワイバーン(魔王)もただのドラゴンとしか思えないと考えていた。

 考えようとしていただけだった。

 

「(ああ、駄目だ……やっぱり、身体が動かない……)」

 

 動かない身体が全てを証明している。自分は恐怖を克服なんてしていなかった。

 いや、どうして克服出来たと思ってしまったのか。今までただのデカいワイバーンだと思っていた存在が、実は御伽噺の存在である魔王だと伝えられたのに。相手の実力に関する情報があったのに、今までの思い込みのまま動いてしまった。

 今なら認められる。自分は受け入れられなかったのだ……ワイバーン(家族の仇)を倒せない可能性を。

 ただの強がりなのだから、本能がそれを受け入れる筈もない。だから身体と本心は怖がっていた。ウラヌスにはそれを見破られ、図星を突かれた事を否定したくてますます強がる。

 それが強がりでないと証明するには、魔王を倒せると証明しなくてはならない。人間社会であれば、手心や善意によりその強がりを現実に出来たかも知れない。されど獣にそんな理屈は通じない。一片の容赦もなく、『現実』を叩き付けてくる。

 だからこうして魔物(ミノタウロス)に負けてしまったのだ。

 

「(私じゃ、無理なのかな)」

 

 恐怖を誤魔化すために強行した戦いであるが、準備不足や情報不足だったつもりはない。対ワイバーンのための道具を使い、情報についても研究者から直に教えてもらった。万全だと思っていたのは間違いない。

 しかしそれでも足りないのだ。

 どうすれば良かったのか。後は何を用意すれば良かったのか。様々な考えが巡るが、スピカは意図的にそれを打ち切る。もう、考えたところで意味はない。ミノタウロスは止めを刺そうとしている。

 

「(爆弾がもう一個あったら、刺し違えるぐらいは出来たかも……いや、無理か。平然としているし)」

 

 今思うと、風の魔法で爆風を相殺していたのかも知れない。最大の一撃も致命傷にならないのなら、何をどうしたところで勝てる訳がない。

 勝ち目なんて、最初からなくて。

 それが今になって、出てくる筈もない。

 

「ブモオッ!」

 

 短い唸り声と共に走り出したミノタウロスに、スピカは腕一本動かせず――――

 

「だりゃああああああああっ!」

 

 精々辺りに轟く雄叫びに、驚いてその身体を強張らせるのみ。

 しかし雄叫びに驚いた理由は、ミノタウロスの声の大きさではない。

 ミノタウロスの声ではなかったからだ。

 

「あアッ!」

 

「ブッ!?」

 

 声が聞こえた次の瞬間、ミノタウロスに『何か』が激突する。大きさはミノタウロスより遥かに小さいが、その勢いは鳥のように素早い。

 そして力も大きいらしく、ミノタウロスの巨体が宙に浮かんだ。ミノタウロスの身体はこれまた魔法による力のお陰か、空中でふわりと浮かんで体勢を立て直し、転倒こそ防ぐ。

 しかし着地後すぐに反撃とはならず、ミノタウロスは攻撃者を睨む。対するその攻撃者は堂々たる仁王立ちで向き合う。

 逃げも隠れもしない『彼女』の姿は、スピカの目にもハッキリと映った。

 

「ウラヌス……! なんで、此処に!?」

 

 それが置いてきたウラヌスだと気付いて、スピカは驚きから思わず声を上げる。

 流石にミノタウロスから視線を逸らす事はしないが、スピカの声にウラヌスは快活な声で答えた。

 

「うむ! なんとなーくこっちが五月蝿いと思ったから駆け付けたが、予想通りで良かったな!」

 

「五月蝿かったって、獣並の聴力……ってのも今更か」

 

 彼女が色んな意味で人間離れしている事は、今までの旅で散々見てきた。今更驚いても仕方ない。

 それよりもスピカとして問いたいのは、何故此処まで駆け付けてきたのか、という点だ。

 

「なんで、私を――――」

 

「むっ、一度下がれ!」

 

 無意識に問おうとして、しかしウラヌスは大声でスピカの言葉を遮る。

 改めてスピカに突撃する、ミノタウロスを前にしたが故の発言。

 退避を指示されて、スピカは反射的に身体が動いた。へたり込んだ体勢だったため、お世辞にも素早い動きではなかったが、ミノタウロスはそれ以上に機動性がない。スピカの動きを追えず、頭から樹木に激突する。

 普通の牛ならこの自爆行為により、失神、或いは目を回している事だろう。だがこのミノタウロスは全く平然としていて、これといって動きに支障は出ていない。とはいえ風の魔法で頭を守った訳ではないらしい。頭からだらだらと流れる血が、それを物語っていた。

 魔物と化した動物は、怪我などで七日以内に死に至る。アルファルドが語っていたように、このミノタウロスも自分自身の攻撃により身体を傷付け、やがて死ぬだろう。

 されど今すぐ死ぬとは思えない。身体に刻まれた傷は少なくないが、致命的ないし重傷は見当たらないからだ。内臓の傷は外からだと見えないので絶対とは言えないが……それを期待するのは、奇跡を願うのと変わらない。

 今ここでミノタウロスを倒すには、直接止めとなる傷を与えねばなるまい。

 

「ほう! 血を出しても怯まないとは、中々気の強い牛だな! 戦い甲斐があるぞ!」

 

 ウラヌスはやる気満々といったところ。どうせ彼女の事だから、自然に死ぬのを待つ、なんてのは考えてもいないだろう。

 対してスピカは違う。

 ガチガチと顎を震わせながら、スピカはウラヌスの服の裾を掴む。そして首を横に振りながら、否定の言葉を綴った。

 

「だ、駄目……に、逃げ、ないと……」

 

「逃げる? 何故だ? 確かにこの牛は強そうだが、倒さねば町の人々を巻き込むぞ? この町には美味い飯を振る舞ってくれた恩があるからな! 町を荒らす獣は我々で倒すのが報いる術だろう!」

 

 ウラヌスはスピカの言葉を拒否。堂々たる姿で、自分の考えを述べる。

 その答えにスピカは、しばし何も言えなかった。

 強敵を前にしても、ウラヌスは何も迷わない。戦士としての強さを求め、戦士としての振る舞いを指針にしているから、どんな時でも自分を見失わない。

 対して、自分はどうだったか?

 復讐を求めてはいた。復讐のために様々な知識や技術を身に着け、復讐心で心を燃やしていた。

 だけど、やっぱり恐怖には勝てなくて。

 身体は大きくなっても、自分は未だ、あの小さな村に住む『小娘』のまま。ましてや相手は歴史を幾度となく揺るがしてきた魔王。復讐なんて、出来っこない。

 

「それに、コイツは確かスピカの仇の、なんかなのだろう? ならやはり倒さねばならんからな!」

 

 なのにウラヌスは、残酷な現実を心の傷に塗りたくってくる。

 胸の中で渦巻くスピカの感情が爆発するのに、その刺激は十分なものだった。

 

「……何よ、何よ何よなんなのよ! 出来っこないでしょ!」

 

「おおぅ? ど、どうし、むむっ」

 

 突然声を荒らげるスピカに戸惑うウラヌスだったが、素早くそのスピカを脇に抱えると、その場から飛び退く。

 ウラヌスとスピカのいた場所に、ミノタウロスが頭から突っ込んできたのだ。

 ウラヌスが跳んだ事で攻撃は空振りに終わったが、しかしその際突風が二人を襲う。ミノタウロスの『魔法』が発動したのか。お陰でウラヌスは空中で体勢を崩し、スピカ共々地面を転がっていく。

 素早く立ち上がれたのは、ウラヌスの身体能力があってこそ。されど回避してくれた事への感謝より前に、スピカの口からは感情に塗れた言葉が漏れ出る。そして感情が爆発した今の心に、口を止める力はない。

 

「そうよ! コイツは、コイツを生み出した魔王が、私の両親の仇! でも、こ、コイツを、前にしたら、怖くて……」

 

「あ、やっぱり怖がってたんだな」

 

 自分の考えていた通りだと分かり、満足したのか。ウラヌスはちょっと嬉しそうに指摘してくる。

 もう、スピカにはそれを否定しようという気持ちはない。正直に、自分が感じていた気持ちを認めてしまう。

 

「そう、よ……怖かった。でも、それを認めたら……仇なんて取れないと、思ったから」

 

「……ん?」

 

「だから怖くないって、気の所為だって、考えて。でも、私のやった攻撃が効かないアイツを、見たら、や、やっぱり、怖く、なって……」

 

 思い出せば、それだけで恐怖が心を締め付ける。

 こんな状態では戦えない。立ち向かうなんて出来ない。

 恐怖なんて覚えなければ、魔王だろうと魔物だろうと、冷静に立ち向かえた筈だ。だけど自分の心が弱いから、こんな事になってしまった。

 姉や兄を殺されても動じない、ウラヌスのような強い心があったなら……ないものねだりまで始めてしまう自身の軟弱な心に、嫌気が差してくる。

 俯き、目を伏すスピカ。そんな彼女にウラヌスは、首を傾げながら声を掛けた。

 

「なー、部屋で聞いた時も気になっていたんだが」

 

「……何?」

 

 部屋にいた時から気になっていた事。ウラヌスの問いたい事柄が分からず、スピカはじっとウラヌスを見る。

 無論、二人の問答など理性を失った獣にとっては聞く価値もない。ミノタウロスは再び突進を仕掛け、ウラヌスはこれを寸前で躱す。相手の動きを見切った、理想的な動き。恐怖を感じていては決して成し得ない。

 スピカがそう感じる中で、ウラヌスは問いを投げ掛ける。

 

「怖がる事の、何が悪いんだ?」

 

 スピカの身体を縛り付ける感情への、根本的な疑問を――――



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狂いし魔物7

 最初、スピカは口を開けて呆けてしまった。ウラヌスの伝えたい事が分からず、思考が空白になったがために。

 しかし頭の中でウラヌスの声が反響する。

 怖がる事の、何が悪いんだ?

 スピカが隠そうとしていた想いへの、根本的な疑問だった。

 

「な、何が悪いって……アンタには分かんないでしょうよ! 強い敵と戦うのに何時もワクワクしてるアンタには! 怖いなんて、感じた事もない癖に!」

 

 真意が分からず、スピカは感情的な反論を言葉にする。

 考えなしに出てきた言葉だったが、自分なりに的を射ているとスピカは思った。ミノタウロスの攻撃を軽やかに、焦りも迷いもなく躱す様に恐怖はまるで感じられない。

 強い相手と戦う事にワクワクしている彼女に、強大な存在と戦う事を恐れている自分の気持ちなど分かるものか。

 

「何を言う。私は故郷では村一番の怖がりだぞ?」

 

 そう思って発した言葉を、まるで恐怖などない、能天気な顔をしながらウラヌスは否定した。

 いよいよ訳が分からない。こんな奴の何処が怖がりなのか。戸惑うスピカにウラヌスは更に話を続ける。

 

「今も怖いぞ! あの牛の突進は脅威だ。あの角で胸を突かれたら、きっと一発で死んでしまうだろうなー」

 

「え、それは、そうだろうけど」

 

「それにアイツの周りを吹いている風! もしも足下に吹き付けられたら、転ばされてしまうかも知れない! 怖いな!」

 

「た、確かにそれも怖いかもけど」

 

「あとアイツの目が怖い! 血走っていて、何処を見てるかいまいち分からん! 怖いぞ!」

 

 つらつらと語られる、ウラヌスが感じているという恐怖心。他にも鼻息が荒くて怖い、蹄が硬そうで叩かれたらと思うと怖い、ぶんぶん振り回している尻尾が痛そうで怖い……色々な『怖さ』が次々と出てくる。

 不思議な力である魔法、それ故の強さにはスピカも恐怖したが……ウラヌスが感じている恐怖は、普通の牛でも見られるものが多い。確かにどれも怖いと言えば怖いが、わざわざ言葉にするほど自覚する事は少ないだろう。

 怖いものがたくさんある。その意味では、確かにウラヌスは怖がりと言えるかも知れない。

 しかしウラヌスは、怖がりでは終わらない。

 

「つまり! 角は最優先に避けるべきであり、風による遠距離攻撃がある以上距離を取っても構えを弛めてはならない! 通り過ぎる時にも尻尾には注意が必要だ! 視線で相手の行動を読むのは難しいから、全身の筋肉でそれらを判断すべきだろう!」

 

 ウラヌスが辿り着いた答えに、スピカは大きく目を見開く。

 もしも、恐怖を感じない存在だったなら。

 ミノタウロスを前にして、何も恐れず突撃するだろう。そして胸を角で突かれ、風により立つ事も儘ならず、躱したと思ったら尾で叩かれ、動きの予想が出来ず全ての攻撃を喰らう。

 そうだ。敵を前にして恐怖を感じないなど論外。人間が羽虫の体当たりに何も感じないように、恐怖がなければ危険を躱そうという判断も出来ないのだから。

 

「長は言った! 自分も村で一番の怖がりだったと! 故にあらゆる敵から生き延び、勝利したと!」

 

 ウラヌスの故郷である村の長老。その人物の言葉は本当の事だろう。恐怖を知らぬ者を倒す事は難しくない。油断している時に、一発大きな攻撃を打ち込めば済む。

 臆病者相手にそれは出来ない。常に警戒し、常に最悪を考える者に隙はないのだ。ましてや実力を兼ね備えた臆病者となると、敵対する側としてはやり難い事この上ない。勿論、ただの臆病者では逃げ回るだけで戦力にならず、不利な状況に追い込まれてしまうが。

 ウラヌス達戦士の長は、そんな戦いの『基本』を熟知していた。

 

「長はこうも言った。大事なのは恐怖を感じながら、如何に乗り越えるかであると!」

 

「恐怖を、乗り越える……」

 

 恐怖を忘れる事も、否定する事も、逃げ出す事も、強さには繋がらない。

 恐怖を感じたまま、それを受け入れた上で前に進む事が強さなのだ。

 スピカは恐怖を否定した。怖がっていては、仇なんて討てないと思っていたから。しかしそれは恐怖から目を逸らしていただけ。心の奥底で野放しの恐怖は成長し、制御不能に陥ってしまう。

 自分は怖がっている。それを認めなければ、本当の意味で恐怖を克服するなんて出来っこない。

 だが、それからどうしたら良いのか? スピカには今の自分が感じている恐怖を抑え込む方法なんて、とんと思い付かない。ウラヌスのお陰で少しはマシになったが、未だ足腰には上手く力が入らない有り様だ。

 

「長から助言をもらった私は、考えて、私なりの恐怖の乗り越え方に辿り着いた」

 

 そんなスピカにとって、ウラヌスの辿り着いた答えは一筋の光明である。同じ方法は使えないかも知れない。けれども自分なりのやり方に対する、何かしらの助けにはなるかも知れない。

 今の状況を打破するには、ウラヌスの言葉が必要だ。そう感じたスピカは真剣な眼差しを向けてウラヌスの言葉を待つ。

 そしてウラヌスは堂々と、自らが用いる恐怖の乗り越え方を教えてくれた。

 

「怖いなら殴って倒せば良いと!」

 

 ……予想以上にどーしようもない答えを。

 道理でアンタはよく真正面から突撃してる訳だ、つかそれじゃあ何も怖がってないのと同じじゃん、長の話が全部無駄になってるじゃん――――項垂れながら、スピカは大きなため息を吐く。

 しかし伏せた顔には、自然と笑みが浮かんでいた。やがて腹の底から、笑いが込み上がってくる。

 流石にこれは止めたいが、努力も虚しく口から噴き出した。一度出てしまった笑いは止める気にもならず、ゲラゲラとスピカは大笑い。

 

「あっはははははは! あははははは! 成程ねぇ、確かにそれが一番良い解決法かも知れないわね」

 

「だろう? そう話したら長老も言ってくれだぞ! まぁそれで良いやって!」

 

 胸を張りながら、ウラヌスは笑う。自分を()()()()()()長老の言葉をとても嬉しく思っているのだろう……スピカの脳裏に浮かんだ見知らぬ長老は、とても疲れた顔をしていたが。胸中はさぞや複雑だったに違いない。

 しかしこの阿呆をそのままにしてくれたから、スピカは新しい道を見付けられた。

 怖いから倒してしまえ。それは古くから人間が繰り返してきた、忌まわしき衝動だ。数多の民族を虐殺し、大きな猛獣を根絶やしにしようとしてきた。それは成功しても失敗しても色々な大問題を起こしてきたが、今でもそれを唱える人間というのは少なからずいる。

 何度痛い目を見ても繰り返してしまう。きっとこれは人間の本能なのだろう。どうしようもなく阿呆で、醜悪で、されど強固な心の持ちよう。

 恐怖を否定せず、それでいて自分の力に変えるのに、これ以上ないほど打って付けの考えではないか。

 理性ある人間としてそれはどうなんだ? という想いもスピカの中にはある。それに対する自問自答の結果は、クソ喰らえ、だ。命を賭けた闘争の前で綺麗事を語る余裕なんてないし、そもそも理性だのなんだのは人間が勝手に作り上げたもの。自分達を襲うミノタウロスに理性の輝きを説いたところで、角の一撃で大地の肥やしにされるだけ。

 だったらこっちも理性なんてかなぐり捨てて、想いに従ってぶち殺すのが礼儀というもの。

 そうすれば、恐怖は自分達の味方だ!

 

「ははははっ! よっしゃ、私もそれでいこう! あんな恐ろしい牛が野放しとか怖くて堪んないし!」

 

「うむ! 倒して焼肉にして食べてしまうか!」

 

「あー、焼肉かぁ。焼肉怖いなーほんとこわーい」

 

 意味が全く違う事をぼやき、スピカとウラヌスは笑い合う。

 もう、身体を支配しているのは子供染みた衝動ではない。異物を排除しようとする原始的な闘争心(恐怖)と、ほんのちょっぴりの食欲。

 ウラヌスに抱えられたまま、スピカは真っ直ぐに前を見据えて……そこにいるミノタウロスを指差す。

 

「今度こそ! アンタを倒す!」

 

 告げた言葉は、宣戦布告。

 

「ブゥウウモオオオオオオオオッ!」

 

 返ってきたミノタウロスの返事は、猛々しい雄叫び。

 ミノタウロスはスピカとウラヌス目掛け再び突撃する! 頭から流れる血を軌跡のように滴らせながら、人間を凌駕する速さで向かってくる。そこに恐れは一切感じられない。

 スピカとウラヌスは互いに目を合わせた。言葉は必要ない。スピカの伝えたい事は、ただ少し身体を動かせば一瞬で、正確に伝わるのだから。

 そう、自分の腰を優しく撫でるように触るだけで。

 ウラヌスは力強く頷くと、くるりとミノタウロスに背を向けた。その腕で抱えているスピカの望んでいた通りに。

 

「まずは一時退却! 足腰がガッタガタな私の体勢を立て直す!」

 

「あい分かったー!」

 

 恐怖をひしひしと感じる二人に、逃げる事への嫌悪など微塵もなかった。



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狂いし魔物8

「(さぁてこれからどうする……!?)」

 

 ウラヌスに抱えられたまま、スピカは思考を巡らせる。

 ウラヌスには体勢を立て直すための退却と説明した。実際そこに嘘はない。魔物相手に抜かした腰は未だ力が入らず、お世辞にも戦力になる状態ではないのだから。

 しかし、では体勢を立て直したら、今自分達を追ってきているミノタウロスを倒せるのだろうか?

 スピカにはそうとは思えない。

 

「(あの魔法の力、思ったより厄介かも知れない)」

 

 燃焼する油は、ミノタウロスに大きな火傷を負わせる事が出来なかった。

 水で洗い流されただけではない。恐らく魔法で作られた風が、その身体を保護しているのだろう。頭突きで血を流している事から考えるに、普段は展開していない筈だが……致命的な攻撃を前にした瞬間、咄嗟に纏っているのだ。ウラヌスに蹴られた後だというのに平然としているのも、風の守りがあると考えれば合点が行く。生半可な攻撃ではその身に届かない。

 スピカの武器である弓矢は、遠距離攻撃こそ出来るものの威力が足りない。目などを撃ち抜けば猛獣相手も怯ませられるが、動き回る小さな目を狙うのは至難の業であるし……頭から血を流しても平然としている奴の事だ。目玉を射抜いても構わず突っ込んでくる可能性がある。

 力不足のスピカでは、例え万全の状態になっても戦力にはなれそうになかった。

 されど、全く手がない訳ではない。

 

「(爆弾を使った時。あの時だけは、こちらの攻撃が通じた)」

 

 油で燃やしても耐え抜いたミノタウロス。その身体に唯一焦げ目を付けたのが、スピカ手製のフェニックス爆弾だ。

 爆弾により生じるものは、熱や光など色々ある。しかし一番に記すべきは『爆風』だろう。ミノタウロスは魔法で風を起こしているが、どんなに不思議な力でもその強さには限度がある筈だ。フェニックス爆弾はその限度以上の爆風を起こし、風の守りを吹き飛ばしてミノタウロスの身体を焼いた……と思われる。

 つまりあの風は、魔法の力以上の力をぶつければ剥がせるという事だ。例え原理不明のインチキ現象でも、絶対無敵の力という訳ではないのである。

 とはいえ最大火力であるフェニックス爆弾ですら、ちょっと火傷を与えただけ。致命傷に至らしめるには、これを大きく超える威力の爆発が必要だろう。そんなものが果たしてあるだろうか?

 

「……ウラヌス! 防壁に向かって!」

 

「む? 防壁の何処だ?」

 

「何処でも! とりあえず近い場所から探す!」

 

 ウラヌスは目をパチクリさせながらも、防壁目指して夜の町中を駆けていく。

 此処は要塞都市。軍が支配する大都市だ。

 流石に、一軒家が建ち並ぶ住宅地に大仰な武器はないだろう。だが防壁には隣国からの侵攻に備えるため、様々な武器や兵器が保管されている筈だ。その中には大砲の弾を飛ばすための、大量の火薬も備蓄されていると思われる。

 どの程度の火薬があればミノタウロスの風を破れるのか、それは分からない。しかしスピカのフェニックス爆弾でも、その威力は二十数倍の重さの火薬と同程度の威力だ。言い換えれば小瓶に入れた溶液の二十倍以上……両腕に抱え込む程度の火薬があれば十分。杜撰な管理をしていない限り、火薬庫にはそれ以上の火薬がある筈。

 問題は、その火薬が防壁の何処にしまわれているのか、という点だ。余所者であるスピカはそれを知らない。防壁に辿り着いても火薬がそこになければ、壁際に追い込まれたのと変わらないだろう。

 しかし仮に火薬がなくとも、悪い事ばかりではない。むしろ状況は好転する公算が高いとスピカは考えていた。

 

「(防壁には兵士がいる筈!)」

 

 軍の施設である防壁内には大勢の兵士がいる。彼等であれば火薬庫の場所を知っている筈だ。

 勿論火薬庫の位置は国防上大事な情報であり、いくらミノタウロスが現れたからといって簡単には教えてくれないだろう(むしろ混乱時に大事な情報を教える兵士など不安でしかない)。しかし兵士とは、言い換えれば戦うための訓練を受けてきた者達だ。どんな下っ端だろうと一人仲間に加わるだけで頼もしく、三人四人と集まれば怖いものなどない。

 スピカ達だけでは勝ち目のないミノタウロスも、兵士達と協力すればなんとかなるかも知れない。運が良ければ王国で三番目に強い騎士・カペラとの合流も期待出来る。

 壁際に追い込まれる事など、これらの利点に比べれば些末なものだ。

 

「ブゥウモオオオオオンッ!」

 

 まさか、それを理解した訳ではないだろうが……ミノタウロスの咆哮に、スピカは嫌な予感を覚える。

 素早く後ろを振り返り、スピカはミノタウロスを注視。何をするつもりか見極めようとする。

 とはいえミノタウロスが振るう魔法は風だ。空気の流れなど目に見えるものではない。ただの気休め、或いは自己満足のつもりだった。

 しかし結果的に、スピカはミノタウロスの『行動』を目の当たりにする。

 

「ブモオオオオオオオオッ!」

 

 咆哮を上げたミノタウロス。

 するとその左右にある家が、突如として()()()()()()ではないか!

 突然の出来事に、スピカは何が起きたか分からず硬直。ウラヌスが抱えていなければ、きっと棒立ちしていたところをミノタウロスに突き上げられていただろう。

 そして唖然としながら見つめていた事で、何が起きているのかを知る。

 捲れ上がったのは主に家の屋根だ。要塞都市の家は煉瓦で出来た頑丈なものだが、屋根は軽い木材で出来ていたらしい。強い風が吹けば、捲れ上がりもするというもの。捲れた屋根は風に乗って遠くに飛んでいき……何処かに墜落。

 そこで赤い閃光を迸らせた。

 何かが起きた。何があったのかを知ろうと考え、赤い光がゆらゆらと揺れている事にスピカは気付く。

 あれは炎の煌めきだ。

 ミノタウロスが吹き飛ばした屋根は、火事の現場を直撃したのだろう。とはいえミノタウロスは狙ってやった訳ではあるまい。恐らく高まる攻撃衝動を堪えきれず、がむしゃらに力を放ったのだ。

 

「(つー事は……)」

 

 嫌な予感が頂点に達した時、スピカ達が向かおうとしていた方角で爆音が轟く!

 

「くぁっ……!?」

 

「――――おおぅ!?」

 

 爆音の大きさは凄まじく、スピカは一瞬なんの音も聞こえなくなり、ウラヌスは驚きに染まった声を上げる。

 痛む耳を抑えながらスピカが前を見れば、巨大な爆炎が柱のように昇っていた。

 説明などいらない。この光景だけで、何が起きたのかは大体理解が出来た。

 スピカ達が向かおうとしていた火薬庫が、火災によって引火し、吹き飛んだのだと。

 

「どうするスピカ! あっちに行くのか!?」

 

 そしてウラヌスからの問い。

 スピカは、すぐには答えられなかった。

 まさかそこまで火の手が回っていたとは。爆発が起きたからには、火薬は『消費』されてしまったと考えるべきだろう。無論こうした事態を想定して火薬は分散して置いている筈だが……問題はそこではない。

 防壁と町を襲っている火災の出処は、確実にミノタウロスが『保管』されていた場所だ。今のスピカ達が向かっていた場所は、そこからかなり離れた位置にある。にも拘らず火薬庫が爆発を起こしている。つまり、相当火の手が回っているのだ。ミノタウロスが風で吹っ飛ばした屋根が、何処かの炎に偶々落ちたのもそれを証明している。

 恐らく、ミノタウロスが吹き荒らした風で火の粉が遠くまで飛び散り、町の至るところで火災が起きたのだろう。一箇所二箇所なら消火も出来るだろうが、これほどの大火災では人手など足りまい。ましてやミノタウロス(魔物)が暴れ回っているとなれば尚更だ。

 火災を放置すれば町の全てが燃え尽きてしまう。死傷者が多数出るだけでなく、町自体が滅び去る。

 かつてのスピカの故郷のように。

 

「(それだけは、させない!)」

 

 恐怖を原動力に、スピカは思考を加速させる!

 町にいる兵士達は今、住民の避難と消火を優先している筈だ。彼等が全力で任に当たれば、被害は最小限に抑えられる。

 だがミノタウロスが兵士達の前に現れれば、無視する事は出来ない。どう考えても魔物化したミノタウロスの方が火災よりも危険なのだから。兵士の人手はミノタウロスの方に割かれ、火災への対処は後手に回ってしまう。

 そうなれば火災は止め処なく拡大し、町を焼き尽くす。故にスピカ達は兵士達に頼る訳にはいかない。

 加えて、本当に兵士が総出で火災の対応をしているなら、防壁内の兵士は殆ど出払っているだろう。防壁の傍に行っても助けは現れず、ただ壁際に追い込まれるだけ。また火災が広がった今、迂闊に火薬庫に近付けば爆発に巻き込まれる恐れもある。

 最早防壁を目指す意味はない。

 

「……っ、町の中心に向かって!」

 

「分かった!」

 

 長考の末に方針を転換。スピカの指示に従い、ウラヌスはくるりと道を右に曲がる。

 後ろから付いてくる足音から、ミノタウロスはスピカ達を追跡している。攻撃的になった事で、『見逃す』という選択肢がすっぽり抜け落ちているようだ。

 それはそれで好都合。兵士達の手を煩わせないためにも、このまま誘導を続けたい。

 走るウラヌスに運ばれ、スピカがやってきたのはとある大通り。店らしき建物が多数並んでいるが、人の気配は殆どなかった。明るさから判断するに大分火事が近いようだが、避難誘導をする兵士の姿も見当たらない。どうやら早くも避難を終えた区画らしい。ミノタウロス出現から然程時間は経っていないのに、流石は何時戦争に巻き込まれるか分からない町に住む者達と言うべきか。

 巻き添えを心配しなくて良いのも、スピカ達にとっては都合が良い。好きなように逃げられる。

 勿論逃げるだけでは勝てない。いや、魔物であるこのミノタウロスの場合、何日も逃げ続ければ向こうが先に自滅するかも知れないが……向こうの興奮状態を考慮すれば、ミノタウロスは寝ずに何日も動けるだろう。冷静な人間達はそうもいかない。体力が先に尽きるのは、恐らくスピカ達の方だ。

 

「(どうにかして倒さないと……何か、何か手はないか……!?)」

 

 思考を巡らせるも、町中でこのミノタウロスに打撃を与える術は思い付かない。

 周りを見渡してみても、どうやら今のウラヌスが走っているのは町の大通り。商店は数多くあれども、大半はパン屋や肉屋のような食料品店、或いは調理器具などの日用品の販売店ばかり。武具販売店もあるが、剣や弓でどうにか出来る相手ではない。

 何か薬品があれば、上手く混ぜ合わせて爆弾や毒薬などを作れるかも知れないが……見える範囲に薬屋はなし。あったところで薬を選ぶ時間などないだろうが。

 本当に、使えそうなものが何もない。ただの商店街だ。

 スピカは表情を強張らせながら、それでも打開策を求めるが……残念ながらミノタウロスは待ってはくれない。

 

「モォオオオオオオオオオッ!」

 

 一際大きな声な雄叫びが、大通り全体を震わせる。

 今までとは何かが違う。悪寒を覚えるスピカだったが、腰が抜けたままの彼女は全てをウラヌスに任せるしかない。

 

「ぬぅ!?」

 

 ウラヌスもまた嫌な感覚に見舞われたのか、ぶるりと震えてから跳躍。判断は決して遅くなかったとスピカは思う。

 ただ、それ以上にミノタウロスが()()

 ウラヌスが跳躍した直後に、ミノタウロスがスピカ達の横を掠めていった!

 

「ぐっ……!?」

 

 角が掠めたようで、ウラヌスの足に一筋の赤い線が刻まれる。加えてその僅かな接触の勢いでウラヌスの身体は空中でぐるんと回り、体勢を崩す。

 どうにかウラヌスは両足で着地したものの、衝撃まではいなせなかったらしい。ざりざりと音を鳴らしてウラヌスは地上を横滑り。足に力を込めて踏ん張っても勢いを止めきれず、建物の壁に激突してしまう。

 その際ウラヌスは身体の向きを変え、スピカを庇うように自分の背からぶつかる。全ての物理的衝撃を、ウラヌスは自ら受け止めたのだ。

 

「ぐぅぅ……!」

 

「ウラヌス!?」

 

「問題ない! この程度掠り傷だ!」

 

 決してこれは強がりではない。そう言わんばかりにウラヌスはすぐに動き出す。だがやはり受けた衝撃は小さくないようで、動きが僅かに鈍くなった事をスピカは感じ取った。

 確かに致命的ではない。戦いを継続出来るという意味では、掠り傷のようなものだろう。

 されど、()()()()()()ミノタウロス相手にこれは良くない。

 

「ブモオオッ! モゥオオオオオッ!」

 

 攻撃を外したミノタウロスは、叫びながら暴れ回る。

 スピカ達を見失ったようで、叫びながらあちこちの建物に体当たりを喰らわせている。大型動物とはいえ家畜の体当たりであり、普通なら店先の棚が破壊される程度だろうが……今のミノタウロスの一撃は建物の壁を貫通し、振り上げた頭で半分を吹き飛ばす。

 まるで怪物染みた攻撃力だ。その秘密は、ミノタウロスの周囲を渦巻く粉塵が物語る。

 粉塵がぐるぐると、ミノタウロスの身体に巻き付くように流れている。異様な空気の流れ、即ち風が生じていた。

 ミノタウロスは鎧のように纏う風を、武器として使い始めたのだ。先の体当たりで高速を出せたのも、風の力で推進力を得たのだろう。

 ……精密な制御が出来るようになったのに、ミノタウロスはますます激しく暴れている。比喩でなく、暴走するように。

 力の操り方は上手くなったが、力の放出自体は全く制御出来ていないのか。風の隙間に入り込んだ木片などが突き刺さったのか、全身に守りがあるというのにミノタウロスは身体中から血を流している。それがますますミノタウロスを興奮させ、興奮が力を高めるのか、破壊が一層激しくなっていく。

 

「(このまま、何もかも破壊しながら死んでいくのか……)」

 

 スピカ達の存在が状態を悪化させたのか、はたまたこれが奴の寿命なのか。どうやら先の何日か生きるという予想は外れるらしい。放置しても、恐らく夜明け頃にはこのミノタウロスは死んでいるだろう。

 だが、死ぬまでは暴れ続ける。目に付くものを全て攻撃し、衝動に突き動かされ……最後には自分自身もぶち壊す。

 止めなければならない。

 不意に、スピカの胸に浮かんだ気持ち。黙っていれば勝てるというのに、首を突っ込もうというのだから全く以て非合理的だ。何時もなら唾棄すべき思考であるが、しかし此度のスピカは迷いもしない。

 

「ウラヌス……なんとかして、アイツを倒すよ」

 

「うむ! 燃えてきたぞ!」

 

 スピカの決意をウラヌスも躊躇いなく受けた。スピカとウラヌスは互いの顔を見合い、不敵に笑い合う。

 さて、そうと決めたものの、未だ策はない。店だらけの大通りに、魔物一匹吹き飛ばす危険物などないのだ。

 今スピカ達の周りにあるのは精々パン屋と武器屋と雑貨屋、そしてそれらの店に隣接しているそこそこ大きな倉庫ぐらいなもの――――

 

「おっ。何か閃いた?」

 

 観察していたところ、ウラヌスがそう尋ねてくる。

 顔に出ていたか。指で頬を揉んでみるが、上がる口角は止められない。

 家を一つ半壊させた拍子に、ぐるんと振り返ったミノタウロスと目が合っても、スピカは不敵な笑みを崩せなかった。

 

「ウラヌス! あの店の横にある、倉庫に向かって!」

 

「分かった!」

 

 スピカの指示を受け、ウラヌスは猛然と走り出す。

 その速さは獣染みたものであったが、ミノタウロスの方が速い。

 

「ブモオオオオオオオオオッ!」

 

 ミノタウロスが駆ける! ウラヌスはミノタウロスに対し直角に逃げたが、ミノタウロスは鋭い弧を描いて追ってくる。

 ほんのつい先程まで一直線な走り方だったのに、今ではかなり小回りが利くらしい。これもまた風の力を利用しているのだろう。

 ウラヌスは死力を尽くして走るが、ミノタウロスの方が速い。右に左に動いても、ミノタウロスはそれを完璧に追ってくる。最早、あらゆる面で負けており、振り切る事は不可能だ。

 もしもスピカの判断があと少し遅く、走り出すのが遅れていたら……ウラヌスはスピカが示した建物の傍まで来られなかっただろう。

 

「っ……!」

 

 言葉はなく、視線でウラヌスは次の指示を求めてくる。

 建物を前にした事で、前に向かって逃げる事はもう出来ない。

 右が左に逃げても、機動力を増した今のミノタウロスを翻弄出来るものではないだろう。そして建物の前まで来たが、扉には恐らく鍵が掛かっている。壊して中に入るにも時間が掛かり、ミノタウロスがウラヌスの背を角で突き刺す方が速い。

 万事休す、と傍から見える状況。だがスピカは不適に笑う。

 こうも思い通りだと、気分が良いのだから。

 

「――――上ッ!」

 

 スピカの掛け声(指示)に、ハッとしながらウラヌスは高く跳んだ!

 垂直方向への跳躍。いくら機動力が高くなろうと、牛の身体は空を跳ぶのには向いていない。そもそも考えもしないだろう。ミノタウロスは空中にいるスピカ達の下を通り過ぎ……彼女達が背にしていた建物に突っ込む。

 その建物から、ぼふんっという音を立てて大量の白煙が吹き出した!

 

「モッ!?」

 

 突然の白煙に、ミノタウロスは驚きの声を出す。逃げるように後退りするが、突っ込んだ勢いで小屋を作る板は内側に向かって破れ、今やミノタウロスの動きを妨げる。

 

「ブモオオッ!」

 

 我慢ならないと魔法の風を起こすミノタウロスだったが、その判断は失策だ。風により小屋が吹き飛ぶのと同時に、一層大量の白煙が辺りに舞ったのだから。

 最早ミノタウロスの姿は完全に白煙の中に閉じ込められた状態。分厚い白煙の所為で周りの景色は覆われ、外の様子は窺えない。ミノタウロスは混乱しているようで、白煙の中の右往左往している様子が外からは『影』の動きで見える。

 ミノタウロスは知らない。この舞い上がる粉がなんであるのか。

 その正体は『小麦粉』だ。スピカが向かっていたのは町に入った時、ウラヌスが寄り道していたパン屋だった。

 パン屋の傍には小麦粉の倉庫があり、ミノタウロスはそこに突っ込んだ。突撃時の衝撃と纏う風により袋はズタズタに切り裂かれ、中の小麦粉が風で舞い上がる。それが辺りを満たす白い煙の正体という訳だ。

 

「ブモゥ!? ブモオオオッ!」

 

 小麦粉を吹き飛ばそうとミノタウロスは風を起こす。確かにそれにより小麦粉は飛んでいくのだが……白煙は薄まらない。むしろどんどん範囲を広げていく。

 

「……思った通り」

 

 その様子を眺めながら、ウラヌスと共にとある民家の屋根から見ていたスピカは独りごちた。

 ミノタウロスは魔法の風を起こす。どうやって風を起こしているのかは、全く分からない。

 だがどんな理屈で風を起こすにしろ、風を起こせば周りの空気を吸い込む事は変わらない。風というのは空気の流れで、もしも流れ込まなければ、そこは空気のない『真空』になってしまうのだから。

 ミノタウロスは必死に前に風を吹かせているが、その結果ミノタウロスの後ろから新しい空気がどんどん流れ込む。後ろとはつまり、壊された倉庫のある側。まだ舞い上がっていない小麦粉がたくさんある場所であり、ミノタウロスがやっているのはただ小麦粉を舞い上がらせるたけの行いだった。おまけに守りとして展開している風の影響で、小麦粉が全身をぐるぐると包んでいる始末。

 今のミノタウロスは小麦粉塗れだ。小麦粉による煙は拡散しながらも、密度は殆ど下がっていない。

 

「んー。でも、これでどうなるんだ? ただの小麦粉だぞ?」

 

 その様子を同じく眺めていたウラヌスが、疑問を言葉にする。彼女の疑問は尤もだ。小麦粉をいくら吸い込んだところで、普通は死ぬものではない。体質によっては小麦粉が毒になる事もあるらしいが、今も『元気』なミノタウロスにそれは期待出来ない。

 しかしスピカは小麦粉の危険性を、もう一つ知っている。昔、とある冒険家から教わったがために。

 

「知ってる? 小麦粉って、燃えるのよ」

 

「む? そうなのか?」

 

「そう。とはいえボーボー燃えるもんじゃないけど……でも舞い上がった粉になると、よく燃える。しかも空気と程良く混ざり合っているとね、一気に燃え上がるの。まるで爆弾みたいに」

 

 だから密閉された室内で小麦粉や埃を舞い上がらせたら、どれだけ暗くてもランタンなどの火を付けてはいけないよ――――スピカにその知識を与えた冒険家は、最後にそう締め括った。

 スピカはその言葉を胸に、嬉々として火矢を用意する。

 矢の矛先が向くは、小麦粉の中大暴れしているミノタウロスの方。

 横目に見ていたウラヌスの目が、僅かに細くなる。

 

「で? どうなんだ?」

 

「どうって?」

 

「まだアイツは怖いか?」

 

 ウラヌスはミノタウロスの指さしながら尋ねてくる。

 けれどもスピカの目に映るのは、ミノタウロスではなく、もっと強大で、もっとおぞましいもの。

 

「ええ、まだ怖い」

 

 今度のスピカは正直に答える。

 故にウラヌスは笑ったのだろう。スピカの顔に浮かぶ笑みを見ながら。

 もう、スピカの手は震えていない。

 

「これで、少しはマシになるわね」

 

 そう言いながらスピカは手を離し、自由になった火矢が空を駆けていく。

 雄牛の猛り狂った悲鳴と爆音、そして夜明けを彷彿とする炎が噴き出したのは、それから間もなくの事であった。



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狂いし魔物9

「いやはや全く、派手にやってくれたものだ」

 

「あ、ははは……」

 

 カペラから厭味ったらしく指摘され、スピカは乾いた笑みを浮かべるしかなかった。

 燦々と太陽が輝く朝。日差しに照らされた要塞都市は、昨日とは様相を一変させていた。

 町の四分の一が火事により焼失。防壁も六分の一が火事ないし崩落の被害を受け、国境としての機能を失っている。王国や公国との関係が悪かったなら、明日にも大軍による侵攻が始まったかも知れない大惨事だ。

 そしてスピカ達の前には、大爆発の痕跡が残っている。

 半径数十メトルの範囲の大地に付いた焦げ跡。周囲の建物は爆風により、半壊や全壊の様相を呈していた。炸裂した『爆発』の規模が如何に大きかったか、周りの様子だけでひしひしと伝わる。

 爆発を起こした元凶こと、スピカにとってもこの威力は想定外だった。

 

「いやー、舞い上がった小麦粉に火を付けると爆発するって聞いたから、試しにやったんたけどねー……思ったよりヤバかった。こういうのは付け焼き刃の知識でやっちゃ駄目だね。危うく巻き込まれるところだったわ」

 

「出来ればやる前に気付いてほしかったな。とはいえ、『功績』がある以上咎めるのも酷であろうが」

 

 カペラはそう言いながら、スピカ達の起こした大爆発の中心部に目を向ける。

 そこには横たわる、一体の獣の姿があった。

 ミノタウロスだ。小麦粉による爆発の中心部にいながら、その身体は原型を留めている。同じく爆発の中心地にあった木製倉庫が跡形もなく消し飛んでいる状況を鑑みるに、ミノタウロスは風の守りで爆発に耐えようとしたのだろう。

 しかし爆発はその守りを貫通。襲い掛かる熱に身体を焼かれてミノタウロスは死亡した……と思われる。スピカの予想通り強烈な爆風の前では、空気の守りでは防ぎ切れなかったようだ。

 全く恐ろしい敵だった。それを倒すためなのだから、多少の被害は致し方ない。

 ……致し方ないという事にして、なんとか損害賠償などの責任は回避したいとスピカは願う。実際に爆発を起こし、町の一角を破壊したのはスピカ自身。おまけに軍の指示などではなく、自己判断で勝手にやった事だ。そこを法的に問われると正直勝算がないように思えるので。

 

「そうそう。私らがいなかったら、もっと被害が増えていたかも」

 

「別に、端から弁済を求めるつもりはないから、無理に手柄を主張しなくても良いぞ」

 

「あ、うん」

 

 そんなみみっちい考えはカペラに見抜かれ、スピカは強張っていた身体から力が抜けた。

 

「なーなー、あれ、本当に食べちゃ駄目なのか?」

 

 ちなみにウラヌスは法だのなんだのには無頓着。それよりも戦利品に舌鼓を打ちたいらしい。

 遠目で見ているだけなのでスピカにも確かな事は言えないが、ミノタウロスは焼けてはいるものの、丸焦げではない。表面は程良く焼け、中はまだ生の可能性がある。切り分け、丁寧に調理すれば、美味しく頂けると思われた。

 しかしスピカはそれを許可しなかった。

 あのミノタウロスは魔物であり、貴重な研究資料である。死んだとはいえ、調べれば様々な事が分かるだろう。知識は戦う上で重要なものだ。誤っていない限り、多くて困る事は早々ない。

 困った事に、ウラヌスはそういう事が分からぬ輩だ。キマイラ・ヴァンパイア戦の時に前科がある。なのでスピカはずっと目を光らせていた。そのお役目も、カペラに任せる事でようやくスピカは方から力が抜ける。

 対するカペラは、ちょっと苦笑いしていた。

 

「すまないが、それは勘弁してくれ。貴重な研究資料だからな。あまり傷を付けたり、失ったりしたくないんだ」

 

「むー……けんきゅーというのは、面倒なものだなー」

 

 渋々と言った様子ながら、ウラヌスは了承する。尤も、集まってきた兵士がミノタウロスの亡骸を運び出すと、物欲しそうに目で追っていたが。

 運ばれていくミノタウロスの傍には、研究者らしきクローク姿の者達が集まる。兵士達に死体の扱い方について指示しているのだろう。

 その様子を見ながら、スピカはふと思う。

 

「そういやアルファルドは?」

 

 研究主任である男の姿が何処にもないと。

 

「まだ見付かってない」

 

 それに対するカペラの答えは、若干頓珍漢に聞こえるもの。

 だが冷静に考えれば、その言葉の意味を理解するのは難しくない。

 アルファルドは魔物の研究者。きっとミノタウロスの傍で、夜遅くまで研究をしていたのだろう。だとすればミノタウロスによるものと思われる、防壁の崩落に巻き込まれたのは容易に想像が付く。

 死んだとは限らないが、その後起きた火災の事も考えれば……見付かっていないだけとは、思えなかった。

 

「……ごめんなさい」

 

「気にしてない、とは言わないが……慣れたものだよ。これでも十五年以上この手の仕事に関わっているからな」

 

 カペラは淡々と、今まで通りの話し方をする。

 きっと彼女は自分よりたくさんの人の死を見てきたのだと、スピカは思う。

 軍とは他国と戦争するだけではなく、冒険家一人では手に負えないような生物の討伐なども担う。おまけに国からの命令だから、危険だからといって逃げる事も出来ない。恐るべきドラゴン相手だと、数十人単位の犠牲者も出るという話だ。他にも被害者の救助や、遭難者の探索なども行うが、誰しも生きているとは限らない。騎士団長である彼女は、一体どれだけの人の死を見てきたのか。

 しかしそれでも慣れるものではないのだろう。握り締めた拳から感じ取れる力が、彼女の感情を物語る。

 此度犠牲になったのは研究者や兵士だけではない。多くの住民が火事により避難を余儀なくされ、煙を吸い込んだり火傷などを負ったりして重傷者が何百人と出た。逃げ遅れた者も少なくなく、犠牲者の数は未だ分かっていない。

 町中での『事故』故に被害が拡大した面は否めない。しかしそれを差し引いても、ここまで被害が大きくなったのは、魔物と化したミノタウロスの力が圧倒的だった事が一番の原因だろう。

 ただの魔物がこれなのだ。十年以上生き続けている、魔王は果たしてどれたけの強さを持っているというのか。

 ……悪い想像はいくらでも浮かんでくる。そしてそれを杞憂だと笑い飛ばすのは、恐らく自殺行為だ。未知の相手を見くびるのは、死にいくようなものなのだから。

 しかし悪い事ばかりではない。希望も少なからず見えている。

 

「(風の守りを吹き飛ばせば、ミノタウロスは殺せた。それも黒焦げにならない程度の火傷で)」

 

 魔物化したミノタウロスといえども恐らく肉体的には、家畜として飼われているミノタウロスと大して変わらない。つまり、心臓を矢で撃ち抜いても死なない、なんて御伽噺染みた事はあり得ない筈だ。

 適切な攻撃で殺せば、ちゃんと死ぬ。

 当たり前の事であるが、当たり前が通じる相手だと確信を持てるのは大きい。無用な不安で心身を崩す心配がなくなるのだから。そして魔王も、恐らく魔物と同じだ。魔物と違って攻撃的な衝動に見舞われていない存在と、何処まで共通点があるかは不明だが……全くの別物ではあるまい。

 ならば魔王も殺せる筈。ただ、圧倒的に強いだけで。

 

「(うん。何が『怖い』のか、具体的に分かれば大した事はない)」

 

 恐怖を感じながらも、スピカはそれに飲まれない。事実をありのまま受け入れ、何をすべきか考えられる。

 もしもミノタウロスとの戦いがないまま魔王と出会ったら、ミノタウロス戦で見せた時のような醜態を晒し、呆気なく負けただろう。その意味では、ミノタウロスの存在はある意味有り難いとすら思っている。勿論、犠牲の大きさを考えれば些末な有り難さだが。

 今度こそ、魔王と戦える。そしてきっと、その時はそう遠くない。町の被害がある程度回復し、戦力の再編が済んだ時……カペラはきっと出撃を決断する。

 魔物の脅威がどれほどのものか理解した今、それを生み出す魔王を何時までも野放しにするとは思えないからだ。

 

「……良し」

 

 覚悟を改めたスピカは、魔王討伐に向けて準備をするべく、必要なものを考え始めるのだった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……と、これで終われば良かったのだが。

 

「だ、団長!」

 

 慌ただしい声を上げながら、一人の男がスピカ、いや、カペラの下に駆け寄ってきた。

 カペラと共に振り向いたスピカが見たのは、血相を変えた若い男の兵士。その手にはくしゃくしゃに握り潰された手紙があり、恐らくは、伝書鳩から何かしらの連絡が来たのだと窺わせた。

 どうやら悪い知らせのようだが、一体何があったというのか。隣国である公国は魔王により壊滅状態。王国は此処に騎士団を一つ派遣中。故に両国による軍事侵攻はなさそうだが……疑問に思いながら、スピカは兵士の言葉に聞き耳を立てる。

 

「ま、魔王が、この町に向けて移動を開始したとの連絡が入りました!」

 

 お陰で、兵士の言葉はよく聞こえた。

 そう、聞こえはしたが……途端、頭の中が真っ白になる。

 何故? どうして? スピカは酷く混乱した。確かに魔王は公国を壊滅させたようだが、されどまだまだ遊んでいるとの話も聞いている。公国の抵抗も続いていて、当分此処には来ないという話だったのに。

 

「一体どういう事だ。前回の報告では、公国の反抗作戦はまだ続いているとの事だったが」

 

「それが、その……」

 

 カペラが尋ねると、兵士は言い淀んでしまう。どう答えるべきか、悩んでいるらしい。

 手紙に書かれている内容をそのまま報告すれば良いのではないか? 何故言葉を濁すのか? スピカには分からなかったが、彼の答えを聞けばすぐに得心が行く。

 

「……魔王だけでなく、他の動物達からの襲撃もあり、一夜にして公国軍は全滅したようです……」

 

 衝撃的な言葉というのは、言葉にするのも大変なものなのだから――――



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魔王顕在
魔王顕在1


 ぞろぞろと、人々が歩いていく。

 何千何万という数の人間が、一方向に進んでいく様は圧巻だ。それが町の外に、荒れ果てた荒野に向けての行進ならば、尚更壮大に見えるだろう。

 されど、これは楽しい行楽ではない。

 歩く人々の顔は暗く、悲壮感に満ちている。片手で歳を数えられそうな、寝ている時以外ずっと騒いでいる年頃の子供さえ、大人達の雰囲気を察して沈黙していた。誰一人としてこの移動を望んでいない事が分かる。

 スピカは要塞都市の内側から、その行列を眺める立場だった。

 

「……………」

 

「故郷を捨てる民草に、思うところがあるのか」

 

 じっと眺めていると、背後からカペラが声を掛けてくる。

 カペラは今、様々な装飾を施した分厚い鎧を着込んでいた。冒険家という仕事柄そこそこ筋肉のあるスピカでも、動くのが大変そうなほど胸部や腹部の装甲が厚い。しかしカペラはなんともなさそうに動き、疲れも見せていなかった。腰にある剣も立派なもので、普段弓を使っているスピカでは振り回すのも大変そうである。

 冒険家であるスピカは金属製鎧の良し悪しなどよく分からないが……見た目の綺羅びやかさなどから考えるに、高級品なのは理解出来る。これが『騎士』としてのカペラの正装なのだろう。雰囲気も今までより引き締まって見え、顔立ちなども変わったように感じられた。

 その空気に一瞬声を詰まらせながらも、スピカはカペラからの問いについて考える。

 ――――思うところ。

 勿論それは山のようにある。その想いこそが今日のスピカの多くを形作る、忌々しい記憶なのだから。ミノタウロスとの戦いを経て恐怖は制御出来たが、人間というのは怖がるだけの生き物ではない。怒りや憎しみも人を突き動かす感情だ。それらは今もひしひしと込み上がり、スピカの行動を狂わす。

 とはいえ大人になった彼女は、湧き立つ感情に流されず、合理的な考えも出来るようになっていた。魔王と直接対峙していなければ、という前置きを、一度失敗しているスピカは心の中でしておくが。

 

「そりゃあね。これでも故郷を焼かれている身ですし……でも、生きていればやり直せるでしょ」

 

「ああ、その通りだ。少なくともこの町に残るよりは、生存確率は高くなるだろう」

 

 スピカの意見にカペラも賛同する。頷く顔は真剣な面持ちを浮かべ、腰に携えた剣を力強く握っていた。

 間もなく、この要塞都市は戦場となる。伝書鳩が運んできた手紙曰く、魔王が向かってきているからだ。それも大勢の動物達を引き連れて。

 一体魔王はどうやって動物を操っているのか? 疑問はあるが、今考えても答えは出そうにない。原因が分かれば対策も立てられたかも知れないが、分からない以上動物の大群を止めたり、或いは進路を変更させたりする事は出来ないだろう。

 ならば必然、進路上にあるこの町を魔王及び動物達は通る。

 要塞都市が戦場となるのは必然。それこそ公国のように、瞬く間に滅ぶような大戦闘が繰り広げられる筈である。そのため非戦闘員である市民は、都市の外へ避難する事になったのだ。要塞都市から他の都市へと渡る場合、数十日掛けて旅する経路と、船を使う経路がある。数十日掛かる方はタダとはいえ、獣達の住む領域を通るため安全な道ではない。一般人は船を使うしかなかった。

 無論、都市に住む何万もの人間を運ぶにはたくさんの船が必要だ。それについては要塞都市と交易がある港町に向けて伝書鳩を飛ばし、要請済みだとカペラから聞いている。複数の港町からたくさんの船が来れば、現実的な時間で市民の輸送は終わるだろう。

 とはいえその港までの道のりが、安全だとは言い切れない。町の外は自然の領域であり、獣達が歩き回る危険地帯だ。

 

「なー、アイツらちゃんと港まで行けるのか? 動物に食べられちゃうんじゃないか?」

 

 スピカの隣で行列を眺めていたウラヌスから出てきた疑問は、至極尤もなものと言えよう。

 しかしながら、市民が作る行列は破れかぶれの逃避行などではない。むしろ合理的な『防御陣形』である。

 

「かも知れないが、あれだけ大勢ならあまり心配せずとも良いだろう。出来るかどうかは別にして、あの数で立ち向かえば、武器がなくともドラゴンすら倒せるだろうからな」

 

「あ、そっか。確かに私もあの数とは戦いたくないぞ」

 

 カペラが説明すると、ウラヌスは納得したように手を叩く。

 人間は自然界では貧弱だのなんだの言われるが、身体の大きさで見ればかなり巨大な部類の生物だ。生物の世界において、身体の大きさと強さはほぼ等しい。つまり人間は、実は自然界ではかなり強い生物である。おまけに仲間と協力して戦ったり、知恵を活かして立ち回ったりする事も可能である。

 それが万単位で群れているのだ。人間より小さな狼なんて近寄りもしないし、ドラゴンでも遠巻きに眺めるだけだろう。野生動物というのは聡明なもので、群れた相手が『強い』事をちゃんと理解しているのだ。群れを作る草食動物の多さからも、この方法の有効性が分かるというもの。

 尤も、中には群れを恐れず突っ込む種もいるので、絶対とは言い切れないが。草食動物達の対策も、絶対助かるというものではなく、生き延びる可能性を上げるだけだ。

 

「(まぁ、それは単純に人間が高望みし過ぎなだけだと思うけど)」

 

 自然界に絶対はない。草食動物だけでなく、ドラゴンすらも時には命を落とす。天寿を全うする事を当然と思う人間は、傲慢を通り越し、現実を分かっていない間抜けと言うべきだろう。

 しかしその間抜けも、町の中であればそこそこ叶えられた話だ。町から出ていかなければ、死の危険なんて恐れずに済んだ。

 『人間』として、恐怖に慄く生活を良しとするほどスピカの感性は歪んでいない。

 そして魔王を野放しにすれば、この町の人々と同じ目に遭う人間はどんどん増えていくだろう。家族を失う者だって、数え切れないほど増えていく。

 他人事だと言えばその通り。それにスピカも分類的には『一般人』であり、あの避難者達と共に町の外に逃げて良い身だ。ここで住民達のために戦う必要など微塵もない。

 だが、それでも見たくないものには違いない。何より目的を共にする協力者がいる今は、敵を討つ絶好の機会である。

 兵士達と協力して魔王の侵攻を阻止する理由なんて、そんなもので十分なのだ。

 

「彼等については心配しても仕方ない。それよりも、我々は我々自身の安否について気にした方が良いだろう」

 

 カペラはそう言うと、スピカ達に向けていた視線を動かす。スピカも追うように、カペラが見ているものを見遣る。

 カペラが見ていたのは、駆け足で行き交う大勢の兵士。

 カペル率いる王国の騎士団、そして帝国軍の兵士達だ。全員が鎧を着込み、剣や弓の手入れをしている。予備の鎧や剣を運ぶ姿もあり、数は少ないが大砲が運ばれていくところも見えた。天幕なども次々と張られていく。

 戦の準備が、刻々と進められていた。とはいえ此度戦う相手は、人間ではなく魔王であるが……油断は出来ない。相手は隣国である公国すら滅ぼした、御伽噺染みた存在なのだから。

 

「……防壁の修復って、どうなったの?」

 

「応急処置は済ませた。が、そもそも板材も煉瓦も足りない。ミノタウロスが脱走した研究区画には未だ大穴が空いている。今なら素通り出来るぞ」

 

「済んでないじゃん全然」

 

「出来る事がない、という意味では完了だ。打てない手に固執するぐらいなら、最初から諦めて、その前提で陣形と戦略を練る」

 

 スピカの指摘をカペラは迷いなく切り捨てる。そしてその意見への反論を、スピカは持ち合わせていない。

 魔物化したミノタウロスが防壁の一角を破壊して脱走してから、まだ一晩しか経っていない。

 万一に備えて修理のための材料は備蓄されているだろうが、被害が大きければ備蓄分だけでは足りなくなる。新たに生産するか何処かから輸送するしかないが、それには時間が必要だ。何より労働力が足りない。一晩でどうこう出来るものではないのである。

 どう足掻いても防壁の穴を塞ぐのは無理。ならばそこに未練たらしく労力を注ぐより、他の事に差し向けるのが合理的だ。例えば兵士の陣形を整えたり、装備品の整備を行ったり。戦を有利に進めるためやるべき事は山程ある。

 ……加えて、その兵士自体にもミノタウロスは被害を与えた。全体から見れば『許容範囲』とカペラは言うが、それでも陣形や配属の調整は必要だという。

 万全には程遠い状況。万全を期しても勝ち目があるか分からない魔王に、こんな体たらくで勝ち目などあるのだろうか……?

 

「(いや、勝ち目のあるなしは関係ない。やるしか、ない)」

 

 やらなければ要塞都市は破壊され、他の都市も次々と被害に遭うだろう。逃げ場なんてなくて、戦うしか道はないのだ。

 そもそも、万全じゃないなどと弱音を吐くのは弱者の戯言に過ぎない。不意打ち騙し討ちなんでも有りの自然界で、万全の体勢で物事に対応出来る時など稀だ。その時に使える全てを使うのが、自然界での生き方というもの。

 冒険家という仕事で育まれた感性故に、スピカは覚悟が出来ていた。それこそ此処にいる誰よりも早く。

 

「ほ、報告! 獣の大群が、目視可能な位置まで来ました!」

 

 だからこそ、伝令からの報告に兵士達が慄く中、スピカは冷静に思考を巡らせる事が出来た。

 目視した、という事は地平線から現れたばかりか。

 地平線というのは意外と近い。恐らく伝令……正確にはその伝令に情報を伝えた監視役は高い場所から眺めている筈なので、棒立ちするよりは地平線が遠くなる。しかしそれでも、獣の走力ならば一〜二時間で此処まで辿り着くだろう。

 間もなく戦いが始まる。

 

「……王国騎士団、総員戦闘配置に付け!」

 

 カペラの掛け声が辺りに響き渡る。伝令の言葉で強張り固まっていた兵士達は即座に動き出した。カペラの指示に従うのは王国騎士団だけであるが、合わせて帝国側も指示を出し、帝国兵も動き出す。

 自分達も行こう。そう思うスピカだったが、足が動かない。手も震える。

 魔王との直接対決に、恐怖が蘇ってきた――――

 

「どーんっ!」

 

「ぶげっ!?」

 

 直後、背後からウラヌスが突っ込んできた。ウラヌスにとっては軽めの体当たりだったかも知れないが、スピカにとっては大打撃。呻きを漏らしながら転びそうになる。

 目を細め、痛みに呻くスピカ。だがその顔にはすぐに笑みが浮かぶ事となった。

 今の一撃で、恐怖心なんて何処かに飛んでいってしまったのだから。

 

「良し! 行くぞ!」

 

 それをしたウラヌスは、きっと何かをしようと考えていた訳ではなさそうで。

 笑いながら、スピカはウラヌスと共に最前線へと向かうのだった。



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魔王顕在2

 カペラが言っていた通り、防壁には人が何人も通れる大穴が空いていた。

 応急処置はしたとも語っていたが、長板を釘も打たずに立て掛ける事は処置と呼ぶのだろうか? やるだけ無駄だと判断した結果だろうし、その労力で戦いの準備を調えた方が良いのは分かるが……気分的に、スピカは苦笑いを浮かべてしまう。

 そのオンボロ防壁を兵士達と共に潜り、スピカは町の外へと出る。

 町の外に広がるのは、荒れ果てた平野。砂漠ほど乾燥はしていないが、赤茶色の地面は風が吹くと土煙が舞う。樹木は細いものすら生えておらず、簡単に踏み潰せるぐらい小さな草が疎らに生えているだけ。

 降雨量の少なさ故の環境だ。このような土地で、草だけを食べてあれほど大きくなるミノタウロスはどんな身体の仕組みを持っているのか……生き物好きとしての疑問が、ふとスピカの脳裏を過る。

 だが、その疑問に考察を巡らせている暇はなさそうだ。

 

「……こりゃ、中々の大群だなぁ」

 

 ぼやくスピカの視線の先、地平線には濛々と立ち上る赤茶色の煙の『壁』がある。

 煙を立ち昇らせているのは、無数の獣達だった。

 まだ距離があるため正確な種類は分からない。だがこの先の国境線、更にその向こうにある公国は、どうやら自然豊かな土地らしい。ウサギのような小さな生き物だけでなく、大きな獣の姿も多数見られた。ネズミや羽虫も群れに混ざっているだろう。

 恐らく、このような大群が王国や帝国に訪れたのは初めてではない。

 ただ、その群れはレギオンの住処に入り込んでしまった。結果巨大なレギオンの群れを作り上げたと思われる。この群れも野放しにすれば、何が起きるか分かったものじゃない。

 そしてこの奥にいる、魔王も。

 

「ぅうぅうう、辛抱たまらん! 強者が私を呼んでいる! 突撃だーっ!」

 

 その事に気を引き締めるスピカだったが、相方は空気を読まず。

 兵士すら動いていない時に、ウラヌスは一人で猛獣達の群れに突っ込んでいった!

 自由気まま過ぎるウラヌスの行動。そしてスピカもその後を追いたかった。未だ姿は見えないが、この先に故郷と家族の仇と思われる相手がいるのだから。せめて本当に魔王の正体が仇なのか、その確信を得られなければ胸の奥底から湧き立つ衝動を抑えられそうにない。

 しかしスピカは、カペラから協力を求められている身でもある。勝手な行動をして、軍全体に迷惑を掛けるのは不味い。

 思わずスピカは後ろを振り返る。そこに並ぶ数多の兵士達と王国騎士団、そして騎士団を指揮するカペラの意見を訊くために。

 カペラは肩を竦めながら、スピカが問う前にこう答えた。

 

「ここから先は戦場であり、我々は君達の面倒までは見きれない。よって、管轄外だ。私としては、魔王の倒し方が分かればなんでも良い」

 

 つまり、好きにしろ、という事らしい。

 

「……なら、そうさせてもらうよ!」

 

 ウラヌスの後を追うようにスピカは駆け出す。

 

「総員、接敵する生物を全て駆除しろ! ただし逃げるものは追わなくて良い! 最優先目標は、魔王と思しきワイバーンだ!」

 

「帝国兵も負けるな! 我々の祖国は、我々の手で守るのだ!」

 

「「「おおおおおおおおおっ!」」」

 

 走り出したスピカに続き、カペラと帝国軍指揮官が号令を出す。雄叫びを上げ、鍛え上げられた何百もの兵士が走り出した!

 鎧と筋肉の重みで、大地が震える。これが戦場の空気なのかと、このような場に初めて身を置いたスピカは少なからず新鮮味を感じた。

 ただ、普通の戦場で戦う相手は人間であり、興奮した動物達ではないだろうが。

 

「(魔王を探すためにも、まずこの群れを掻き分けないと……!)」

 

 迫る動物達を前に、スピカは冷静に思考を巡らせる。同時に、動物達の様子もつぶさに観察した。

 公国にどのような生物が生息しているのか、スピカはあまり知らない。スピカの活動域が主に帝国と王国内であり、その帝国・王国内には多種多様な生物が暮らしている。冒険家という仕事をする以上、生物の知識は必須だが……日々最新の情報を取り入れようとすれば、関わりのない地域の生物まで学ぶ余裕はない。好き故にいくらでも勉強は出来るが、時間がそれを許してくれないのだ。

 しかし詳細な知識はなくとも、経験から分かる事も多い。特に生き物の感情については、知識と同じぐらい経験と感性も大事だ。

 

「(この生き物達、みんな怖がってる……!)」

 

 距離が縮まれば見えてくる、血走った眼や涎の溢れる口……いずれも恐怖の反応だ。細かな種は分からずとも、動物なのだから、基本的な反応は似ている筈。

 そうした感覚的なもの以外にも、恐怖していると思わせる特徴がある。迫りくる動物は鳥に獣にトカゲにと、種類を問わない。そして誰もが真っ直ぐ走る事に夢中で、隣り合う生き物に牙を向こうとしない。兎と狐が並んで走るなど、まるで御伽噺のようではないか。

 獲物を襲う、或いは天敵から離れないのは、他に優先すべき事柄があるから。例えば圧倒的強者からの逃避がそれに該当する。

 つまりこの獣達は、怖いものから全力で逃げているだけなのだ。人間を襲おうという意思は微塵もない。

 

「(っても、話し合いなんて通じないから……)」

 

 哀れみながらも、スピカは思う。必死に逃げている時、行く手を遮るように立つ輩はどうすべきか?

 答えは、スピカの眼前までやってきた牝鹿が教えてくれた。

 

「キュウゥーッ!」

 

 牝鹿はスピカ目掛け、頭突きを放ったのである!

 スピカはこれを横に飛んで回避。走り抜けた鹿は、そのまま真っ直ぐ、隊列を組んだ帝国軍の兵士達へと突っ込んでいく。

 兵士の大群など見たら流石に引き返しそうなものだが、鹿は構わず突撃。兵士達が前に突き出した剣をその身に受ける。

 しかしそれでも鹿は前に進もうとしていた。

 

「キュゥアアッ!」

 

「キィヤァァァァーッ!」

 

 仲間が血塗れになっても、鹿達は止まらない。続々と突撃を続け、兵士達に突っ込んでいく。

 『皆殺し』を目的にしていないので、スピカは当たるものだけを躱せば良い。故に今のところどうにか耐えているが……国民とその財産を守る兵士達はそうもいかない。鹿に対し次々と剣を振るい、串刺しにして仕留めているが、多勢に無勢だ。

 剣から引き抜く瞬間他個体の体当たりを喰らって吹き飛ぶ、死んだ後も勢いは止まらず突っ込む、二体同時に来て片方と激突する。鹿達の『攻勢』に人間は徐々に押されていく。

 そして鹿ばかりが突撃するのは、彼等の足が動物の中では一番速いからだ。頭上を飛んでいく鳥を除けば、鹿に追い付ける獣は此処にいない。

 鹿の大攻勢が落ち着いたのも束の間、続いて兎や狐、イノシシがスピカの横を通り、兵士達の陣形に突っ込む。持ち堪えられなかった場所からイノシシが入り、それを倒そうと兵士達が右往左往。足下を走る兎を踏んで転び、狐に噛まれて負傷し、整った隊列は瞬く間に乱れていく。

 隊列が崩壊し、混戦状態となるのに、五分も掛からなかった。

 

「(つってもこれは想定内。兵士達もそこまで戸惑っていないみたい)」

 

 並んだ歩兵だけで対処出来れば御の字であるが、そこまで甘い想定はしていない。混戦状態の中で兵士達は各々剣を抜き、それぞれが判断して戦う。

 最初から手練だけを集めていたのか、混戦になっても兵士達は悲鳴一つ上げず、突っ込んでくる獣達を着実に倒していく。怪我人がゼロとは言わないが、その怪我人にしても素早く下がり、無事な者が前に出てくる。鍛え上げられた連携は、早々崩れそうにない。

 何より、此処には帝国軍のみならず、王国の精鋭もいるのだ。

 

「怯むなぁ! 我ら王国騎士団の力、見せ付ける時だ!」

 

「「おおおおおおおおおおおっ!」」

 

 カペラの鼓舞に答える騎士団員達。勇猛果敢に戦い、次々と武功を上げていく。

 味方の活躍、そして他国の軍隊の大活躍は帝国軍兵士の心を震わせた。頼もしさと同時に、隊列を崩してしまった自分達が悔しくなったのだろう。帝国軍兵士は士気を高め、騎士団に負けないと言わんばかりの勇猛さを発揮し始める。

 士気は極めて高い。『暴走』は気を付けるべきだが、敵を迎え討つ分には極めて良い状態だろう。兵士達にそこまで意識は向けなくとも問題はあるまい。横を通る数多の獣に注意を払いつつ、スピカはここまでで分かった事を考える。

 まず、この大群の『作り方』。

 公国の軍隊を壊滅させた動物の群れ……魔王がどうやってそれを率いたのか謎だったが、なんて事はない。ただ生き物達を恐怖させ、走り回らせただけだ。後戻りするぐらいなら直進した方が良い、例えそこにいるのが武装した大勢の兵士であろうとも……そう感じてしまうほどに。

 されど直感的には理解したが、どうにも理性的には納得がいかない。人間は歴史の中で様々な拷問を考え付いており、それらを施せば、似たような意識の人間や動物は作れるだろう。だが、ワイバーンである魔王にそんな『知識』はない筈だ。あったとしても一匹一匹に施すのは手間と時間が掛かる。

 だとすると魔王はどうやって大量の生き物達に恐怖を与えたのか? まさかとは思うが――――

 

「ぬおおぉーっ!?」

 

 新たな疑問について考えていたところ、聞き慣れた声が獣の喧騒に混ざる。

 なんだ、と思った時、柔らかなものが勢いよくスピカの顔面を叩いた。片手で引っ張り退かしてみれば、それはウラヌスの尻だった。

 

「おっ。スピカじゃないか」

 

「アンタも元気そうで何より。で? 魔王は見付けた?」

 

「いいや。でも、別の強そうなのは見付けたぞ」

 

 アイツだ――――そう言ってウラヌスはある方角を指差す。

 どしんどしんと、大地を揺らす足音も同じ方から響いていた。

 嫌な予感に見舞われながらその方を見れば、黒く大きな獣が見える。人間のざっと二倍はあろうという巨躯であり、人間三人よりも太い肩幅から力の強さも窺い知れた。

 クマだ。なんという種のクマかは分からないが、恐らく生態系の上位に位置する存在だろう。基本的には圧倒的強者の筈だが、クマもまた引き攣った表情をしていて、恐怖に突き動かされているのが分かる。

 

「グ、グウゥルルルルル……!」

 

 クマは唸りながら、スピカ達を睨む。それでいて頻繁に後ろを気にしていて、その先に『魔王』がいるのだと教えてくれた。

 そして恐らく、スピカとウラヌスが前から退けば、このクマは全力で横を通り過ぎていく。

 しかし進んだ先にいるのは、鹿やイノシシと戦っている兵士達だ。どれだけ恐怖していてもクマはクマ。その身には人間の一人二人、簡単に殺せるだけの力を持つ。この大きさから考えるに、剣や弓はほぼ通じないだろう。何人かは犠牲になると考えるのが妥当だ。

 勿論大勢の兵士で挑めば、数の力で圧倒出来る筈だが……かつて戦ったスライムのような技を持っていたら、一体多数の状況はむしろ被害を増やす。それに兵士というのは、確かに戦いを仕事とするものであるが、その相手は主に人間だ。人間を殺すための訓練に励み、人間を殺すための技術を持つ。だから獣の動きには慣れていないし、獣の生命力の強さも実感がない。上手く戦えず、被害は間違いなく『計算上』よりも大きくなる。

 やはりこういうものには、『専門家』が対応すべきだ。

 

「……ウラヌス! コイツはここで倒すよ!」

 

「ぬぉ? 珍しいな! 何時もなら相手してられないと言いそうなものなのに」

 

「何時もならね。何事も状況次第よ。それに……」

 

「それに?」

 

 尋ねてくるウラヌスの前で、答えだとばかりにスピカは弓を構える。その瞳に闘争心を宿らせて。

 

「これから魔王と戦うんだから、準備体操ぐらいしとかないとね!」

 

 口から発する答えはウラヌスへのもの。

 撃ち出した矢は、クマへの答えだった。



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魔王顕在3

「ゴグワアアッ!」

 

 矢を放ったスピカに、クマは咆哮しながら突撃してくる。スピカの攻撃(返事)により、敵だと認めたようだ。

 スピカの放った矢はクマの腹に命中、したものの深く刺さるには至らず。当たった矢は弾かれてしまう。スピカはその結果に落胆はせず、飛び退いて突撃を躱す。

 再び弓を引きながら、考えを巡らせるスピカ。

 これまでスピカとウラヌスは、様々な猛獣と戦ってきた。スライム、キマイラ、ヴァンパイア、レギオン、バハムート、魔物ミノタウロス……いずれも強敵だ。恐らくこのクマは、それら猛獣と比べれば単純な『戦闘能力』では劣る存在であろう。

 しかしここで「私はあのバハムートを倒した」などと強がれば、野生の世界は容赦なく死を与えてくる。例え身体能力で劣ろうともクマにはクマなりの生き方があり、だからこそ今の自然界で生きているのだ。

 例えば矢を弾いた分厚い毛皮、その下にある脂肪の層も生き残る力の一つ。

 

「(クマの毛皮と脂肪は、炎も跳ね除ける。火矢は無駄になるだけか……!)」

 

 多くの動物は火を恐れるが、例外も存在する。火など全くへっちゃらなスライムやドラゴン……そしてクマもその例外の一つ。

 頑強な毛皮と皮下脂肪が熱を遮断するため、燃え盛る火の上を歩いても火傷すらしない。それどころか熱さもあまり感じないようで、好奇心から平気で焚き火を触るという。

 火矢や爆弾を使っても、クマに重篤な傷を与えるのは困難だ。強酸などの薬品も、毛皮により効果は薄くなるだろう。目などに当てれば流石に効くだろうが、人間以上の速さで動き回るクマの小さな目を狙い撃つのは中々難しい。

 それにクマはスピカ達を相手にしない。奴の目的は魔王から逃げる事なのだから。

 

「グルゥッ!」

 

 スピカに背を向けて走り出す事に、クマが躊躇する筈もない。 

 このまま逃せばクマと兵士達が激突してしまう。させる訳にはいかない。

 

「ウラヌス! アイツを止めて!」

 

「うむ! 任せろ!」

 

 スピカの指示により、ウラヌスはクマへと突撃。逃げる足を両手で掴んだ!

 普通の人間なら、例え大人の男でもクマの動きを阻むのは難しい。

 だがウラヌスの怪力は巨大なクマを大きく減速させる! これにはクマも驚いたようで、戸惑ったような声を漏らす。

 その原因であるウラヌスを排除しようと、即座に剛腕を振り下ろした! ウラヌスはクマから手を離して後退するが、クマの腕の方が速い。

 

「グゥッ!?」

 

 スピカの放った矢がクマの顔面に当たらなければ、その手はウラヌスを殴り飛ばしただろう。

 矢はまたしても毛皮により弾かれたが、クマの動きは止まった。ウラヌスはこの間にバク転をしながら後退。安全な位置であるスピカの下までやってくる。

 

「ふぅ! 危なかったな!」

 

「ええ、でも本当に危ないのはここからよ……アイツの目標が私達に移り変わったからね」

 

 スピカがその目で見据えるは、同じくこちらを見据えるクマ。

 クマはもう、逃げようとしない。しかしそれは魔王の恐怖を克服したからではない。

 スピカ達を倒さなければ、逃げる事も儘ならないと気付いたのだ。事実スピカはそうするつもりであり、クマの判断は至極正しい。

 ここからが本番だ。『準備運動』のお陰で身体も温まっており、戦いをするのに支障はない。

 

「ゴアアッ!」

 

「ウラヌス! 右に行って!」

 

「うむ!」

 

 スピカが指差した方に走るウラヌスを尻目に、クマはスピカ目指して突進してくる。司令塔がスピカだと理解したのか? いいや、単純に近い方から襲ったのだろう。

 そう、獣らしい単純な行動だ。だからこそ予想もしやすい。

 こうなる事を予測していたスピカは、既に小さな『玉』を掴んでいた。指と指で挟める大きさのそれは、少し力を込めれば簡単に潰れるほど柔らかい。

 

「ふっ!」

 

 後ろに下がりながら、スピカは掴んだ玉をクマの顔面に投げ付ける!

 玉はクマの顔に当たるや弾け飛ぶ。するとその中から、大量の煙を吹いたではないか。

 煙幕だ。灰などを混ぜ込んで作り出したそれは、あまり広範囲には散らばらない。反面濃度が非常に濃く、視界を完全に塞ぐ事が出来る代物だった。

 クマも視界がなくなった事に戸惑ったようで、暴れるように腕を振り回す。だがそこにはスピカもウラヌスもいない。どんな強力な打撃も、空振りに終われば痛くも痒くもない。

 その間にスピカはまた道具を取り出す。

 今度は火薬の一種だ。それをクマの周りに撒き散らす。時間は掛けられないので大雑把に。

 

「グ……グヌゥ……!」

 

 やがてクマが煙幕から顔を出した時、スピカは既に火薬を撒き終えていた。

 火や爆弾の効き目が悪いのは重々承知している。しかし悪いだけで、効かない訳ではない。

 撒き散らした火薬に向けて、スピカは火矢を撃ち込む。燃え移った火は即座に火薬と反応し、爆発を起こした!

 

「グゴアアッ!?」

 

「くっ……!」

 

 爆発はクマを囲うように炸裂。衝撃の大きさにクマは呻きを漏らす。スピカは爆風で吹っ飛ばされたが、クマと距離を取るならむしろ好都合。

 そして飛ばされながら、更に道具を投げ込む。

 此度撒いたのは金属で出来た棘状のもの。『マキビシ』と呼ばれるそれは、足裏に刺さる事で相手の足止めを行う道具だ。人間は靴を履いているので効果が薄く、馬やイノシシは蹄があるので全く効かないが……クマのように足裏が地面に付く生物には効果覿面である。

 このクマにも効果はあり、逃げるスピカをすぐには追えず。マキビシを踏んだ瞬間、怯んだように動きを止めた。

 その隙をスピカは見逃さない。

 

「ウラヌス! 動きを止めて!」

 

「っしゃあああっ!」

 

 スピカの求めに応じ、横に陣取っていたウラヌスがクマに組み付く!

 組み付かれた衝撃でクマは大きく身体を強張らせ、ウラヌスを払おうと腕を振り回す。それでもウラヌスは中々離れず、がっちりと掴んだまま。

 お陰でクマの意識は、完全にウラヌスの方を向いていた。

 この好機を逃すまいとスピカは駆け出し、クマの懐に跳び込む!

 

「グッ……!?」

 

 肉薄してきたスピカにクマは顔を顰めたが、しかし優先して攻撃しようとはしてこない。上回るものではないが、自身に匹敵する力を持つウラヌスの方が危険だと判断したのだろう。

 油断ではなく適切な判断の結果であるが、残念ながらそれは失敗だとスピカとしては言ってやりたい。確かにスピカの方が肉体的にはひ弱だが、その手にはウラヌスよりも遥かに強大な『武器』がある。

 

「爆発は耐えたみたいだけど……毒はどうかしら! ウラヌスも息を止めて離れて!」

 

 スピカが叫ぶと、ウラヌスは素早く跳んで離れる。更にスピカも離れた。

 突然『敵』が距離を取り、クマは困惑したように立ち止まる。その胸に、接着剤で貼り付けた液体入りの瓶が入っている事も気付かずに。

 その瓶の中には、ある植物から絞り出した『汁』が二種類混ぜられている。

 汁はどちらも単体では無害で、美味しくはないが非常食にもなる代物。しかし二種を混ぜると……ぶくぶくと泡立つ。さながら自ら燃えるように。

 そうして発生した泡は瞬く間に瓶を膨らませ、その圧力で破裂させる!

 クマの胸に付けた瓶が破裂。その中にある白煙を撒き散らした!

 

「ゴフッ!? グッ……」

 

 突然の白煙に驚くクマ。威嚇のためか、大きく口を開ける。

 ここで勝負が決した。

 白煙には猛毒が含まれているのだから。一吸いすれば人間など白目を向いて昏倒する。薬物耐性の強さは生き物によって大きく異なるが、クマは吼えるために大きく息を吸い込んだ。

 ぐりんとその目が白目を向き、倒れ伏すのに、然程時間は掛からなかった。

 

「……もう息して大丈夫。あの煙、空気に触れるとすぐに無害化するから」

 

「ぷはぁ! ちょっとしんどかったなー」

 

 大きく息をするウラヌス。激しい運動をすると息が激しくなるように、ウラヌスの呼吸は普段から激しい方なのかも知れない。彼女は窒息にも強くはないようだ。

 何度か深い呼吸をして体調を調えてから、スピカとウラヌスは互いに手を伸ばし、手のひらを軽く叩き合う。

 ウラヌスがいなければ、スピカはクマの懐になど入れなかった。先程述べたように毒の煙は空気に触れると急速に効果を失うので、狙って当てる事は難しい。胸に瓶を貼り付けて破裂させる以外のやり方は困難。スピカ一人ではどうにもならなかっただろう。ウラヌスも力の強さでは一応クマに分があった。素早さで翻弄するにしても、一対一の戦いで何処まで戦えたか分からない。

 二人で掴んだ勝利と言えるだろう。勝利の余韻は気持ちを昂らせ、新たな闘争心を生み出す。

 

「さぁ、このまま奥へと突っ込んで魔王を倒すぞ!」

 

 ウラヌスがそう言い出す気持ちはスピカにも分かる。この勢いのまま行ってしまいたいところだ。

 しかし、それをやる訳にはいかない。

 

「行くな馬鹿。もっと自分の状況をちゃんと見なさいっての」

 

 走り出そうとするウラヌスの服を掴み、その動きを止めるスピカ。ウラヌスはキョトンとしていて、何故止められたか分かっていない様子だった。

 しかしその身体は、小さな切り傷が幾つも出来ている。クマの爪が掠めたり、激しい動きで何処かを擦ったりしたのだろう。軽傷の類だが怪我は怪我。消毒などの治療は早めにした方が良い。何より肉体を酷使しているため、疲労が蓄積している筈だ。

 スピカも同じくかなり疲れが溜まっている。身体は十分温まったが、これでは万全とは言い難い。

 それとスピカの場合、クマ相手にかなり道具を使ってしまった。次の戦いが出来ないとは言わないが、強敵相手には足りない可能性がある。こちらもまた万全とは言い難い状態だ。

 何時も万全の状態で戦えるとは限らない自然界。だから万全でない事を言い訳にするなんて出来ないが、万全で挑む事を怠って良い理由にはならない。退くべき時は冷静に見極める必要がある。

 今がその時だとスピカは考えていた。

 

「前線は兵士の人に任せて、私らは一度下がるわよ。長丁場なんだし、あの人達にも活躍の場を与えないとね」

 

「む。確かにそうだな! 戦果の独り占めはいかん!」

 

 その長々とした説明はせず、ウラヌスでも納得出来る理由をスピカは語る。ウラヌスは疑いもせず同意した。

 二人揃って前線を下がる。

 スピカは最後にくるりと振り返って……くすりと自嘲した。

 ――――今ワイバーンの姿が見えたら、きっと自分の言った事を全部忘れて突っ込むんだろうな。

 脳裏を過った自分の姿が現実にならないよう、再び前を向き、天幕の設置された後方へとスピカは走るのだった。



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魔王顕在4

「ぶっはぁー……疲れたぁー」

 

 後方に張られた天幕に辿り着いたスピカは、そこで大きく息を吐いた。

 前線では未だ兵士達が戦いを繰り広げている。獣達の大群は未だ途切れず押し寄せてきているようで、人獣の雄叫びと悲鳴が途絶える事はない。

 そうなると後方である此処も、騒がしいものだった。

 後方には天幕が幾つも、スピカが見る限り十以上張られている。その中の一つにスピカはいる訳だが、中も外も動きが激しい。

 天幕内には怪我人が仲間に支えられ、次々と運ばれてくる。軍医が駆け寄り、連れてこられた怪我人を奥へと連れ込む。尤も治療は応急処置程度のもの。そして戦える者は、その処置が済み次第また前線に走り出す。怪我人全員は戻れないが、控えの兵士もいて、彼等が続々と前線に向かっていた。戦力は一定に保たれているだろう。

 ちらりと出入り口から外を見てみれば、物資の行き来も激しい。スピカのように弓を使って戦う兵もいるが、その兵が使うであろう弓や矢を抱えて運ぶ者達も見られる。剣や鎧なども運ばれていた。獣達との戦いで壊れた分を補充していると思われる。

 正に戦争といった様相だ。前線にいた時にも強く感じたが、後方でもその空気はひしひしと感じる。いや、むしろ直接戦っていない人々も『戦い』に関わっているこの光景は、戦争でなければ起こり得ない。ある意味これこそが戦争の風景と言うべきか。

 

「スピカ。疲れは取れたか」

 

 天幕内の方を眺めていたところ、カペラの声が背後から聞こえてきた。

 彼女も天幕の方に戻ってきたらしい。顔を合わせようとスピカはくるりと振り返り、

 頭も鎧も血塗れのカペラを見て、流石に仰天した。

 

「ぎゃあっ!? え、ち、血……?」

 

「ん? ああ、返り血だ。鹿とイノシシとクマを剣で倒したからな。流石に一人であれらを倒すのは消耗が激しく、一度休みに来たんだ」

 

「さらっととんでもない事言うね、アンタ」

 

 自分とウラヌスが協力して倒したクマを、一人で倒したらしい。騎士団長という立場を思えば、きっと周りの騎士達にテキパキと指示を出しながら。

 分かっていた事だが、王国で三番目に強いと公式に認められた人間だけの事はある。尊敬の念を抱くスピカ、だったが……やはり頭から血をだらだら流す姿は、ちょっとばかり不気味だ。苦笑いが浮かんでしまう。

 

「ウラヌスの姿が見えないが、どうした?」

 

 尤も、カペラの方はスピカの態度に気付いていないようで。

 余裕はあまりないのだろう。それだけ大変な戦なのだと感じ、表情を引き締めてから、スピカはカペラの問いに答える。

 

「今は水と食べ物もらいに行ってる。暴れたら喉が乾いたみたい」

 

「そうか……生きているなら良い。彼女の力は、これから不可欠になる」

 

 安堵したようにぼやくと、カペラはどさりと近くの椅子に座り込む。深々と吐かれたため息が、彼女の心身の疲労を物語る。

 

「……状況、悪いの?」

 

 スピカはその様子から、戦況が良くないのではないかと感じた。

 スピカは前線で戦い、そして勝利した。しかし所詮は局地戦での一勝。勿論こうした一勝を積み重ねていく事で、戦争における勝利は得られる訳だが……言い換えれば全体で負けが続けば、スピカの勝利は埋もれて無意味になる。

 何より前線に出ていたスピカに見えていたのは、自分の半径数メトルの範囲内だけ。何百何千メトルにも及ぶ、広大な戦場の全てを知るなど不可能というしかない。そしてこれをするのが指揮官の役割だ。

 前線で戦いつつ、全ての戦場の情報を得ていたであろう騎士団長(カペラ)。彼女が優れた指揮能力を持っていれば、戦局の良し悪しは把握している筈なのである。尤も、士気の悪化を懸念して、本当の事は言わない可能性も否定出来ないが……

 

「いや、悪くはない。むしろ快進撃だ」

 

 しかし当人すら少し困惑したようなカペラの物言いに、嘘はないとスピカは思う。

 戦局は有利。その言葉を信じて、スピカはカペラとの話を進める。

 

「快進撃なのになんでそんな疲れた顔してんのさ」

 

「解せない。確かに魔王による攻撃を一度は受けているが、公国は王国や帝国に匹敵する規模の国家だ。首都が壊滅したとしても、各地の兵力を集めればまだまだ戦える筈。公国は獣の大群に止めを刺されたようだが、この程度の戦力に潰されるとは思えない」

 

「……物資がなかったとか、士気が低かったとか、季節が悪かったとかあるんじゃない?」

 

 それとなく考えられる原因を口にするスピカ。カペラもそれを否定はしない。

 だが、スピカは薄々感じ取っていた。

 動物の大群。勿論これだけでも脅威であるし、キマイラやスライムのような『猛獣』が現れたら、大きな被害が出るだろう。

 しかし猛獣なら猛獣で、軍隊ならばやりようがある。確かに大砲すら効かない猛獣であるが、その猛獣から得た骨で作り出した矢や剣ならその皮膚を貫けるのだ。何人かを囮にし、側面から他の兵士が攻撃すれば、一体の猛獣を倒せる。

 犠牲が出かねないやり方であり、通常数名程度の少人数で行動し、更にその後も旅を続けなければならない冒険家では真似出来ない作戦だ。しかし大人数で行動し、都市から離れる事もない軍隊ならば、許容出来る犠牲である。数名の命でキマイラなどを倒せるのだから、作戦としてはありというもの。後は指揮官がそれを命じられるかどうかだが、カペラは無意味な犠牲は強いなくとも、国を守るために命を懸けるのは許容していた。この手の指示を出すのに、躊躇いはあっても止めはするまい。

 公国でも、指揮していた兵士や騎士が余程無能でなければ、似たような作戦で猛獣は倒した筈。壊滅状態の軍なのでジリ貧になるにしても、数日で崩壊するとは思えない。

 何か、大きな『問題』があった筈なのだ。

 そしてその問題に、スピカは心当たりがある。きっと、カペラにも。

 

「だ、団長! 緊急事態です!」

 

 だからこそスピカ、そしてカペラは、天幕内に飛び込んできた伝令の兵士に驚きはすれども――――緊急事態という言葉に、然程戸惑いは覚えなかった。

 

「……詳細を」

 

「魔物と思われる生物が現れました! 接敵まで、数分です!」

 

 魔物。要塞都市を壊滅させた元凶というべき存在。

 やはり獣達の中に紛れていたかと、スピカは思った。公国が短時間で壊滅した理由があるとすれば、これしかないとも。

 ただの家畜だったミノタウロスが、小麦粉を用いた大爆発でようやく息絶えるような存在となる魔物化。確かに牛は人間より遥かに巨大な家畜だが、同時に人間でも扱えるよう品種改良もされている。それが常軌を逸した力を得るのだ。ただでさえ危険な野生生物が魔物と化したら、果たしてどれだけの力を持つのか……

 様々な、それでいて抱いて当然の不安がスピカの脳裏を次々と過る。しかし不安のまま動くのは良くない。冷静に、人間の強みである連携を活かさねばと強く思う。

 

「魔物と思しき生物は、ドラゴンの一種……ワイバーンと思われます!」

 

 しかしそれらの想いは、兵士の一言であっさり吹っ飛んだ。

 魔物化したワイバーン。即ち、魔王ではないか。

 頭に昇ってきた血で、自分の顔が熱くなるのをスピカは感じる。無意識に歯を食い縛ってしまい、噛み砕かぬよう堪えるので精いっぱい。

 覚悟はしていた。冷静さを保つつもりでいた。だが実際には、『アイツ』の姿を想起しただけで我を失いかけている。

 辛うじて足を止めていられたのは、ミノタウロス(魔物)と出会ったから。自分の中に湧き立つ怖さを誤魔化さず、受け入れる事を学んだ結果だ。

 

「ウラヌス!」

 

 もしもミノタウロスと出会っていなければ、この言葉すらスピカの口から出る事はなかっただろう。

 

「呼んだかー? もぐもぐ」

 

 呼び声が聞こえたようで、ウラヌスはすぐ天幕内に顔を出す。軍の携帯食(乾燥させたクッキー。食べると口の中が干からびる)を食べていて、警戒心や危機感はこれっぽっちもない。

 

「魔物が出た! それもドラゴン、ワイバーンが!」

 

「お? おお! お前の仇がついに来たか! どんな奴か楽しみだな!」

 

 スピカが兵士からの情報を伝えると、ウラヌスは嬉々とした表情を見せる。

 楽しみ。成程、確かに楽しみだ。現れたドラゴンが魔王であるなら、その鼻っ柱をへし折った時、どんな反応をするのだろうか。

 自然とスピカの顔にも笑みが浮かぶ。

 復讐だろうが防衛だろうが仕事だろうが、楽しんでやれるならそれが一番というものだ。

 

「確かにね! 行くよ!」

 

「おう!」

 

 スピカが駆け出すと、ウラヌスは残っていた携帯食をぱくりと食べてから追い駆ける。

 残されたカペラと伝令は、その背中を見送るのみ。ただしカペラは、小さく、呆れたように息を吐いたが。

 

「……人の話は最後まで聞けと親から習わなかったのか、あの二人は」

 

「えっと、どうしましょう? 改めて正確に伝えますか?」

 

「いいや、放っておこう。スピカの奴は補給を済ませていたし、ウラヌスも空腹を満たしている。回復したなら前線に出てもらった方が良い……ドラゴン相手という強敵相手なら特に、な」

 

 全てを察したように語るカペラ。

 しかし彼女は自分で言ったように、伝令が伝える『詳細』な情報に、しかと耳を傾けるのだった。

 ……………

 ………

 …

 未だ獣達との『戦争』が続く前線に戻ってきたスピカは、大きくその目を見開いた。

 空高くを飛ぶ生物がいる。

 それ自体は、珍しいものではない。虫や鳥だって空を飛ぶし、噂によると海には海面スレスレを飛ぶ魚がいるという。

 ならばトカゲが空を飛んでいても、おかしくはない。それがドラゴンという種族ならば尚更に。

 

「ドラゴン、ドラゴンだ……!」

 

「退避! 退避ぃー!」

 

 兵士達からも退却の指示が飛び交い、前線が後ろに下がっていく。獣達も怯えたように立ち竦み、右往左往し始めた。

 空高く、距離があるため正確な姿はスピカにも見えていない。だが大きな身体と翼を広げる姿は、ほぼ確実にドラゴンと言えるものだった。加えて腕が見当たらないところから、種類の特定は難しくない。

 ワイバーンだ。

 

「大型種との直接対決は、流石に初めてね……!」

 

 ドラゴンを目にしたスピカが最初に独りごちたのは、弱音の言葉。

 十年近く続けてきた旅の中で、スピカは生きたドラゴンと幾度となく出会ってきた。ウラヌスと出会った時にも草食性のドラゴンと出会っているし、以降の旅でも様々なドラゴンと遭遇している。勿論ワイバーンも、以前ウラヌスと共に『見て』はいる。

 しかし直接対決はした事がない。それだけドラゴンが危険で強大な存在だからだ。そしてワイバーンは世界中に分布しているあり触れたドラゴンであり、それだけ環境適正や身体能力に優れた『優秀』な種である。

 そのワイバーンの魔物化個体――――魔王らしき存在の出現は、周りにいる兵士達のみならず獣達の士気さえも大いに低下させた。公国を滅ぼした化け物が登場したのだ。真っ当な精神状態ならば、どんなに訓練を積んだ者でも恐怖に慄くというもの。

 ただ二人、スピカとウラヌスは違う。

 

「ウラヌス! 積極的に前に出るよ! 私らで、魔王を討つ!」

 

「おうよ!」

 

 スピカの呼び掛けにウラヌスは迷わず答え、両腕を構える。スピカも背負っていた弓を持ち、照準を空飛ぶワイバーンに向けた。

 あたかもそんなスピカ達の気持ちを汲むように、ワイバーンが降下してくる。

 腕を持たないワイバーンは飛翔能力に優れている。それを知らしめるように、空を飛んでいたワイバーンはスピカ達の下に降り立つのに数秒と掛からない。

 ごくりと、スピカは息を飲む。

 細くしなやかな体躯は、細やかな青い鱗に覆われている。決して屈強ではない身体付きだが、そのしなやかさは女豹や蛇のような、攻撃的な柔らかさだ。尤もその表皮は所々黒ずんでいて、焦げているようだが。

 頭の側面からは左右に二対四本の角が、後ろ向きに生えている。その角は雄牛ほどの逞しさはないが、無骨な爬虫類の顔を更に厳つく飾り立てる。

 そして他を圧倒する巨躯。

 これまでキマイラやスライムなど、様々な猛獣とスピカ達は出会ってきた。いずれも人間よりも遥かに巨大だったが……このワイバーンはそれら猛獣よりも更に大きい。砂漠で戦ったバハムートほどではないが、二本足で立つ姿はバハムートに負けじ劣らずの強い威圧感を与えてくる。

 正直に言えば、怖いとスピカは思った。しかしスピカは一歩も退かない。ここで退いたらきっと逃げ出してしまうと、直感的に自分の気持ちを理解したがために。

 だから頭上にあるトカゲ頭を睨み返した。

 そう、体長()()()()()のてっぺんにある頭を。

 

「……ん、んん?」

 

 違和感を覚えるスピカ。仇のアイツは、こんなに小さくなかったような気がする。

 幼少期の記憶故に、大きさの感覚が現実とズレているのだろうか? その可能性は否定出来ないが、だとしてもやはり違い過ぎる気がした。

 加えて目は白濁して虚ろであるし、口から涎のみならず胃液も出ているのか、だらしなく開いた口から滴り落ちる液を受ける地面はじゅうじゅうと音を立てている。よく見れば鱗はボロボロで、激しい自傷行為の跡が見えるではないか。

 どうやら正気ではないらしい。つまり……

 

「(あ、コイツただの魔物じゃん)」

 

 人違いならぬ、ドラゴン違いのようだった。

 よくよく考えてみれば、魔王は魔物化したワイバーンであっても、魔物化したワイバーンが魔王なのではない。ただの『ワイバーンの魔物』がいても、なんらおかしな話ではなかった。

 

「スピカ! 仇との戦いだ! 心していかないとな!」

 

 なお、ウラヌスは仇と勘違いしたままである。スピカが魔王が現れたと言ったがために。

 激励されてしまい、スピカは内心酷く動揺する。どうしよう、これやっぱ私の勘違いでしたとか凄い恥ずかしいやつじゃん――――脳裏を過るしょうもない考え。一体どうしたものかと、魔王でない相手に物凄く頭を働かせる羽目になる。

 ただ、考えてみればこの戦い、悪いものではない。

 魔物と化したワイバーン。魔王と呼ばれている個体と、一体どれだけの違いがあるのだろうか? 少なくとも種族的な違いはない筈だ。記憶の中の話ではあるものの、魔王の方が大きいので力も強いだろうが……しかし違いらしい違いは、恐らくそれだけ。

 ならばこのワイバーンと戦う事は、ミノタウロス以上に予行練習として丁度良い。

 

「……おうとも! コイツは全力で、ぶっ潰す!」

 

 手頃な『言い訳』を見付けたスピカは、重要な情報は伝えぬままに戦いへの意欲を表明するのだった。

 



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魔王顕在5

「キャアアオオオオオオオオンッ!」

 

 開かれたワイバーンの口から発せられたのは、身体が震えるほどの大咆哮。

 ただ一鳴きだけで伝わる、圧倒的な強さ。魔物かどうかなど関係ない、純粋な生命としての強さが体に伝わってくる。相手は捕食者であり、自分は喰われる側なのだと、無意識に感じてしまう。

 スピカの本能が訴える。こんな奴に勝てる訳がない、早く逃げなければならない、と。

 五月蝿いそんな事は端から分かっている――――理性で本能を抑え込むが、そのために僅かながら時間が掛かった。

 

「があああああっ!」

 

 その僅かな時間があれば、ウラヌスにとっては駆け出すのに十分だったらしい。

 先陣を切ったウラヌスはワイバーンに肉薄。大きく拳を振り上げながら跳び上がり、下げていたその顔面に殴り掛かる!

 小さな生物が繰り出した物理攻撃を鼻先に受け、ワイバーンは顔を顰めながら仰け反った。ウラヌスの一撃は自身の十倍はあろうかという巨獣にも有効らしい。

 とはいえ有効なのと効果的なのは別問題。ワイバーンは頭を仰け反らせながら、すぐに下を向き、そして大きく口を開けた。

 パチパチと、火花を散らしながら。

 

「不味い! ウラヌス逃げて!」

 

 咄嗟にスピカが声を上げ、ウラヌスはそれに従い走り出す。

 もしも逃げなければ、ワイバーンの口から放たれた炎により、ウラヌスは一瞬で黒焦げになっていただろう。

 

「オオオオオオオオオオオッ!」

 

 口から炎を吐きながら、ワイバーンは頭を揺らす。鞭のようにしなった炎があちこちに飛び散り、獣の死骸などに引火。火の手を上げる。

 ドラゴン種の多くは、体内に『火炎袋』を持つ。この火炎袋には極めて発火点の低い油が溜め込まれており、ドラゴンは敵を攻撃しようという時、この袋の油を咽頭の辺りから噴霧。霧状になった油で満たされた口内で歯を擦り合わせ、火花を起こす事で火炎を吐き出す。

 火花を起こすのは奥歯。この歯はぐらぐらと揺れる構造になっており、力強く吐息を出すと自然に他の歯とぶつかり火花を散らす。

 これがドラゴン種特有の技『ブレス』だ。炎を吐くという他の生物では見られない特徴は、強敵揃いの自然界でも有効な力。この特技により彼等は世界の様々な場所で頂点に君臨したと言えよう。

 

「くっ……!」

 

 此度ワイバーンが吐いた炎のブレスも、周りにあるものを次々に焼き尽くしていく。獣の死骸、人間の亡骸、捨てられた装備……なんでもかんでもお構いなしだ。

 あちこちで燃え盛る炎により、スピカは身動きが取れない。スピカの武器は弓矢なので、炎越しに攻撃する事自体は可能だ。しかし巨大な獣相手に有効な武器となると、爆弾や油など、可燃物ばかり。炎の中で使う事は勿論、取り出すだけでも危険がある。

 

「ギキャアアオオッ!」

 

 更にワイバーンは尻尾を振り回し、逃げるウラヌスを叩き潰そうとする。

 ワイバーンの尾は長く、ざっと十メトル以上はあるだろうか。振り回す速さも凄まじく、スピカの目には殆ど動きが捉えられない。ウラヌスも寸でのところで躱しており、一瞬でも動きが鈍れば避けきれなくなるだろう。

 そして尻尾を叩き付けた後の地面には、まるで刃物で切ったかのような傷が刻まれている。直撃したら、きっと人間ぐらい簡単に真っ二つにしてしまう。ウラヌスは筋肉のお陰が身体は丈夫だが、しかし『人間離れ』した硬さでもない。当たれば、即死は免れない。

 炎と尻尾。どちらも人間など簡単に殺せる、恐ろしい技だ。しかも魔物化し、破壊衝動に飲まれたワイバーンはこれらを滅茶苦茶に繰り出す。自身の疲弊など眼中にない激しさは、それだけで見る者の足を止める。

 

「(これじゃ近付けもしない……!)」

 

 舞い上がる炎の熱さに、スピカも近付けない。尻尾の乱撃も脅威だ。

 なんとも恐ろしい技の数々。だが、知識と冷静さがあれば、弱点も見えてくる。

 一番の弱点は、炎の燃料である油は有限である事。種によって備蓄量は違うが、ワイバーンのような細身かつ飛行する種は少ない傾向がある。単純に格納場所が確保出来ず、また空を飛ぶため体重を軽くする必要があるからだ。一度吐き尽くせば、次の炎はすぐには吐けない。

 魔物化による破壊衝動に取り付かれたワイバーンは、延々と炎を吐いている。自分を殴ったウラヌスを焼き殺してやると、執念を剥き出しにしていた。ウラヌスはそれを知ってか知らずか、ぐるぐるとワイバーンの周囲を回るように走っている。

 

「ゴオオオオオオ、オ、オッブフッ」

 

 一分もそれを続けると、間の抜けた音を出してワイバーンの炎は止まった。ワイバーンはキョトンとしながら何度も炎を吐こうとするが、根性を絞ったところで油はもう出てこない。

 ならばとワイバーンは尻尾を振り回す。乾いた大地にまた幾つも傷跡が刻まれたが、それと同時に土埃が舞い上がる。

 周りで燃え盛る炎により、土が一層乾燥した結果だ。自分の手で昇らせた土煙に、ワイバーン自身が困惑したようにたじろく。破壊衝動により冷静さを失った結果、自ら混乱の原因を作り出していた。

 その間にウラヌスはスピカの下まで戻ってきた。

 

「いやー、危なかったなー」

 

「迂闊に跳び出すからそうなんのよ……怪我はない?」

 

「うむ!」

 

 元気よく返事をするウラヌス。元気なのは分かったが、反省しているとは思えない。本当に分かっているのかと、スピカは訝しむように見つめた。

 ――――さて、これからどうしたものかとスピカは思考を巡らせる。

 ワイバーンの炎は尽きた。ならば距離を取って攻撃し続ければ、この厄介な生物を倒せるだろうか?

 そこまで甘くないとスピカは思う。普通のワイバーン相手なら、多少甘く見ても良かっただろうが……コイツは魔物だと報告されている。

 何かしらの『魔法』を使うと見るべきだ。

 その予感が正しい事は、ウラヌスが離れた事を知ったワイバーンが怒りの形相を露わにした時、確信に至る。

 

「ギ、キィィュゥイイイイ……!」

 

 悔しげに歯噛みしたワイバーン。するとその身体を覆う青い鱗が、じわじわと赤味を帯びてくる。

 やがてその鱗から、赤い炎が昇った。最初は小さな炎だったが、徐々に大きくなり、やがてワイバーンの身を包み込む。

 気付けばワイバーンの身体は、全身に炎を纏っていた。パチパチと燃え盛る炎の熱さが、スピカにも伝わってくる。ハッタリや虚仮威しの類ではない、本物の炎だ。

 

「(これが、コイツの魔法か!)」

 

「キャィアアオオオオオオオッ!」

 

 スピカの考えが正解だと告げるように、ワイバーンが咆哮を上げる!

 瞬間、ワイバーンの身体の左右から突如炎が現れ、スピカ達目掛けて()()()()()

 

「ぬぉっ!?」

 

「っ……!」

 

 ウラヌスは驚きながら、スピカも唇を噛み締めつつその場から飛び退く。

 あと一瞬遅ければ、飛んできた炎はスピカ達を包み込んでいただろう。外れた炎は地面に当たり、爆発するように霧散する。

 驚嘆すべきは、その霧散した後の事。

 乾いた地面に落ちた炎は、中々消えなかったのである。それどころか炎は独りでに燃え上がり、更に大きさを増していく。ワイバーンがあちこちに火を吐き、可燃物を焼き尽くした事で炎が勝手に消えている今、燃えるものなど何処にもないというのに。

 そしてその勢いは、加速度的に増していく!

 

「不味……」

 

 嫌な予感がして逃げ出そうとしたスピカだが、一手遅かった。炎はまるで意思を持つように広がり始めたのである。

 通り道にいた兵も、動物も、炎は容赦なく飲み込む。生きたまま焼かれる獣と人の叫びが、四方八方から聞こえてきた。耳を塞ぎたくなるが、しかし炎は今も拡大している。余所見をすれば、今度は自分が悲鳴を上げる番になるとスピカは察した。

 全力で走り、どうにか炎に包まれるのは回避。ウラヌスもちゃんと避けたようで、ウラヌスは自身の背中を、叩くようにスピカの背にどしんとぶつけてくる。

 無事を確かめ合い、安堵の息……を吐きたいところだが、スピカは逆に息を飲む。

 二人は炎に囲まれてしまっていた。半径五十メトルほどの、趣味の悪い闘技場の中のようだった。

 

「凄い炎だったな! うねうねーっと動いたぞ!」

 

「凄いで済ませられるアンタも中々のもんだと思うわよ」

 

 スピカの言い分を褒め言葉と受け取ったのか、ウラヌスはにこっと笑う。その底抜けの明るさが、今のスピカには必要だ。

 何しろ同じく炎に囲まれたワイバーンと、スピカは向き合っているのだから。

 

「(こりゃまた厄介な魔法だ事……)」

 

 燃料も可燃物もないのに燃え続け、更に生きているように走る。これが魔法の炎でなければなんだというのか。

 どうやら魔法というのは、風を操るだけのものではないらしい。ワイバーンのように炎を操る存在もいる。種によって異なるのか、個体によって異なるのかは不明だが……炎の魔法は、ミノタウロスが繰り出した風の魔法より破壊力では上のようだ。掠めて燃え移るだけでも致命的になりかねない。

 しかしその破壊力には、大きな代償があるらしい。

 

「キ、キキャァアアッ!?」

 

 ジタバタと大地の上でのたうち回る、燃え盛るワイバーンを見れば明らかである。

 

「(コイツも、魔法の力が制御出来ていないのか……)」

 

 戦う前から、ワイバーンの身体には焦げ跡が出来ていた。恐らく自らの魔法により負った傷だと思われる。

 火傷というのは極めて痛い。一度でも火傷した者なら、誰もが知っている事だ。ワイバーンも相当な痛い目、下手をすれば死んだかも知れない火傷を負った筈である。

 なのに、いくら炎が吐けないからといって、自発的に魔法の炎を纏うなんて考えられない。

 ミノタウロスの振る舞いなどから考えるに、魔法というのは感情に呼応して勝手に出てしまうものかも知れない。ミノタウロスの場合、その魔法は身を守るのに役立ったが……ワイバーンの場合、発動するだけで自分の身体が傷付く種類のようだ。

 火傷を負いながらも生きているので、少なくとも『前回』の魔法は、ワイバーンを燃やし尽くす事はなかった。しかし此度もそうなるとは限らない。ワイバーンを焼き尽くすまで、あらゆるものを炎は燃やしていく可能性がある。

 勿論、スピカ達人間も焼き尽くすだろう。骨の髄まで、灰も残らずに。

 

「……上等。だったら素早く、倒してあげるから」

 

 強気な言葉を口に出す。それは決意であり、逃げ出したい気持ちを抑え込むための呪文。

 周りの炎が大きくなり、熱波を飛ばしてくる。炎天下の日差しよりも強烈な熱さを浴び、だらだらと汗が流れ出す。あまり長くは戦えそうにない。

 ならば短期決戦に持ち込むしかない。スピカは武器を構えながら戦いの基本方針を定めた。そしてどうやら短期決戦を求めているのはワイバーンも同じらしい。

 

「キィィアアアアアアアアアッ!」

 

 燃え盛るワイバーンの猛烈な突撃に合わせ、スピカとウラヌスも立ち向かうように走り出した。

 



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魔王顕在6

「っても、正面からぶつかる気は更々ないんだけどね!」

 

 走り出して即座に、スピカは横に跳ぶ。

 合わせるようにウラヌスは高々と、空に向かって跳んだ。獣染みた驚異的脚力は、自らの身体を数メトルもの高さに打ち上げる。

 猛然と地上を走っていたワイバーンの視線が向いたのは、空飛ぶウラヌスの方だった。

 優れた身体能力を警戒してか、或いは本能的に頭上を取られる事は不味いと思ったのだろうか。理由はどうあれ、それはスピカにとって思惑通りの行動だ。視線(意識)が逸れている間ならば、地上にいるスピカに魔法が飛んでくる可能性は低い。

 スピカはワイバーンの側面に回り込むと、即座に弓矢を構える。

 此度の矢は、一見して普通の矢だ。

 しかし実際には普通の矢ではない。鏃が『錫』で出来ているのだ。尤も錫で作り上げた鏃の強度など、鉄製の物より遥かに劣るのだが。鉄の鏃を持つ矢でもワイバーンの鱗には傷も付けられまい。ましてや錫など、逆にこちらが砕けるだけ。

 それはスピカも分かりきっている。分かった上で、これが効果的だと考えていた。

 

「ふっ!」

 

 スピカはこの矢を素早く二本、ワイバーンの首目掛けて撃ち込む。

 ワイバーンは首も鱗に覆われている。鏃は命中した瞬間に砕けたり、鱗の隙間に挟まったりしただけ。一瞬ワイバーンがスピカに視線を向けるも、脅威ではないと判断したのかすぐにまた無視される。

 だが、その判断は誤りだ。

 

「キ、ギャッ!?」

 

 突如ワイバーンは悲鳴を上げ、ひっくり返る。そして翼を腕のように使い、スピカの矢を受けた首を掻き毟り始めた。

 先程放った錫の矢の効果が出たらしい。

 錫というのは極めて加工が容易な金属である。鉄や銅と比べ、圧倒的に低い温度で溶け出すからだ。まだ製鉄技術を持たなかった古代人は、錫で道具を作っていたという。

 ワイバーンの燃え盛る身体であれば錫は融点に達して溶け出し、鱗の隙間に流れ込むとスピカは読んでいた。低温で溶けるといっても、それはあくまで他の金属と比べての話。触れば普通に火傷するぐらいには熱い。鱗の間に入り込み、その肉に辿り着けば、手痛い火傷を負わせられるという訳だ。

 

「(これ、駆け出し冒険家だった頃に騙されて買ったもんで、捨てるのも勿体なくて持ち続けていたんだけど……人生何が役に立つか分からないものね!)」

 

 自分の失敗が武器になり、スピカは不敵に笑ってしまう。

 その笑みの意味を、果たしてワイバーンはどれだけ理解したのだろうか。のたうち回りながらも首だけを捻じ曲げ、スピカの方を見遣る。

 視線を動かせば、合わせてワイバーンの周りにある炎も動き出す!

 

「っ!? これは……!」

 

 魔法の炎が迫り、スピカはすぐに逃げようとする。だが炎の動きはあまりにも速い。どうやっても追い付かれる。

 ならばとスピカは、懐から一本の硝子容器を取り出す。細長い形をしたその容器の中にあるのは、軍が用意していた火薬の一部。

 休憩中に少しちょろまかしていたのだ。スピカはこれを地面に、迫りくる炎に叩き付ける。

 割れた硝子片と共に撒き散らされた火薬は、迫る魔法の炎により着火。小さな爆発を起こした。

 爆発の衝撃は、傍にいるスピカを転ばせる事も出来ないほど弱い。しかし重さのないもの……炎に対しては効果的だった。ごく狭い範囲に吹き荒れた爆風は、魔法の炎すらも消し飛ばす。

 炎が消えた事に、ワイバーンは驚くように目を見開く。怯んでいた時間はほんの僅かなものだが、しかしそれだけあれば次の行動を起こすには十分。

 ただしスピカではなく、ウラヌスが、ではあるが。

 

「隙ありぃっ!」

 

 力強い叫びを上げ、ウラヌスはワイバーンの背後から迫る! 跳躍していた彼女は見事ワイバーンを跳び越し、その後ろに回っていたのだ。

 後ろから迫るウラヌスに、ワイバーンは慌てて振り返ろうとする。しかし既に肉薄しているウラヌスの方が早い。獣染みた怪力を持つ彼女の手が、ワイバーンの尾を掴む!

 されどその尾は燃え上がっている。ワイバーンの抑えきれない魔法が、全身を包み込んでいるのだ。勿論ウラヌスが掴んだ尾にも炎は薄っすらと燃えており、掴んだ手を焼く。

 

「あっちちち!? やっぱ無理!」

 

 何か策があるかと思いきや、ウラヌスは悲鳴と共に逃げ出した。どうやら深く考えず掴み掛かったらしい。

 魔法の炎は、やはり可燃物でなくとも燃え移るようで、ウラヌスの手はぼーぼーと燃え始める。慌ててウラヌスは手をぶん回し、爆風染みた風で消したが……迂闊が過ぎるというもの。

 なんとも間の抜けた襲撃者であるが、ワイバーンはそれを見逃さない。熱さで苦しみながら片翼を振り上げ、ウラヌスを叩き潰そうとする。

 ウラヌスがしたのはちょっかいを出しただけ、と言えばその通り。

 しかしこのちょっかいのお陰で、ワイバーンの意識はウラヌスに向いた。全速力で接近しているスピカから、その視線は完全に外れている。

 

「(相変わらず考えなしなんだから!)」

 

 ウラヌスへの悪態を頭の中で吐く。しかしその声色は、どうしても褒めるようになってしまう。

 スピカはウラヌスと違い、攻撃の直前で雄叫びを上げたりはしない。叫べば自分の存在に勘付かれてしまうから。そもそも叫びは身体の力を高めるための『動作』のようなもの。道具を使うスピカに雄叫びは必要ない。

 静かにワイバーンへと接近しながらスピカが取り出したのは、一本の硝子瓶。中に入っているのは白い粉だ。

 ただしこちらは爆薬ではない。極めて強力な毒薬だ。キマイラ達をも倒したマンドレイクから抽出したもので、人間なら香りを吸うだけで昏倒、処置をしなければ死亡する。ドラゴンだろうと迂闊に吸い込めばたちまち死ぬだろう。

 元々は対魔王のために用意していた危険物。備蓄は二本しかなく、そのうちの一本を此処で使う。勿論魔王(ワイバーン)に対する有効性を確認したいという思惑もあるが……現在手持ちにある道具の中で、これが一番殺傷力に優れる。燃え盛るワイバーンを倒せるとすれば、これしかない。

 

「キオッ……!」

 

 足音などで、スピカの接近に気付いたのか。ワイバーンは素早くくるりと振り返る。スピカの間近にワイバーンの顔が迫り、大きく口を開けて噛み付こうとしてきた。しかし毒瓶を構えた今のスピカからすれば、好都合でしかない。

 

「これでも、喰らってな!」

 

 捨て台詞と共に、毒瓶をワイバーンの口目掛け投げる!

 毒瓶はワイバーンの大きく開いた口内に飛び込む。投げる時蓋は開けており、中身が口内にぶち撒けられた。

 口に広がる粉っぽさに違和感を覚えたのか、ワイバーンはぱくりとその口を閉じる。そうなってしまえば、もう手遅れだ。香りを嗅ぐだけでも危険な毒が口いっぱい、喉にも鼻にも広がっていく。

 ぐるんと、ワイバーンは白目を剥く。びくびくと身体を痙攣させ、口から涎が零れ落ちる。

 どうやらワイバーン相手にも、マンドレイクの毒は有効なようだ。

 

「(良し! これなら……)」

 

 勝利を確信し、万が一にも粉を吸わないよう後退しながら強く拳を握り締めるスピカ。されどその目は、即座に大きく見開かれる。

 ワイバーンの身体を包む炎が、更に激しく燃え上がったからだ。ウラヌスがうっかり掴もうとした尾など、今では炎の方が大きいぐらいに。

 断末魔代わりに魔法が暴走したのか? そう願ったのも束の間、白目を剥いていたワイバーンの瞳が再びぐるんと回り、黒くなる。身体の痙攣は収まり、よろめいていた足はまた大地を踏み締める。

 涎だけは今でもだらだらと溢れていたが、最早そこに死の淵を彷徨う弱さは感じられない。半開きの口からはボフボフと音を立てて炎が吹き出し、息をする度に鼻から小さな炎が溢れ出す。肛門さえも、放屁ならぬ放火している有り様。全身から炎を噴き出す様相は一層力強く、意地でもこの世にしがみつくという『気概』が感じられた。

 きっとこのまま待っていても、ワイバーンはもう倒れない。

 奴はマンドレイクの猛毒を克服したのだと、スピカは理解させられた。

 

「う、嘘でしょ!? あの毒が効かないなんて……」

 

 想定外の事態に、スピカは思わず声を上げてしまう。

 ワイバーンはマンドレイク毒に耐性を持っていたのか? マンドレイクにも虫は付くので、そういう生物自体は確かに存在している。しかしこのワイバーンは毒を放り込まれた直後、明らかに中毒の様相を呈していた。毒に耐性があるとは思えない。

 なら、考えられる可能性はもう一つ。

 ()()()()()()のだ。恐らくその秘密は身体に纏う炎。毒というのは意外と繊細な物質で、ちょっと加熱したり、或いは空気に長時間触れさせたりすると、すぐに毒性を失う事が多い。ましてや炎で直に炙ろうものなら、大抵の毒物はすぐに変性・無害化してしまう。調理の時食材をよく加熱するのは、そうした天然の毒物を無害化するための行程という側面もある。

 マンドレイクの毒は比較的熱に強く、ちょっと焼いたり煮たりしたぐらいでは消えない。故にマンドレイクは非常食にもならないが、しかしマンドレイク自体が灰になるまで焼けば話は別だ。ワイバーンは魔法の炎で身体を焼き、マンドレイクの毒を無害化したのだろう。

 等と言葉にするのは簡単だが、いくらなんでも無茶が過ぎる。身体から毒素が消えるまで焼くなんて、火傷どころの話ではない。いや、よくよく思い返すとワイバーンは口や鼻から炎が吹き出していた。つまり奴は、自らの身体を内側から焼いている。喉や鼻奥を物理的に焼く苦しさなど、スピカには想像も付かない。

 それが無意識の行為なのか、意識しての事かは分からない。だがスピカが持つ中で最強の毒素が、今、無害化されてしまった。もうこの毒は通用しない。

 

「(どうする!? これは、一体どうしたら良い!?)」

 

 自分が持つ中で一番効果的だった筈の道具が無力化され、スピカは次の作戦を考え込んでしまう。

 諦めず常に模索し続ける事自体は、自然界で生き抜くには欠かせない行いだ。しかしワイバーンの前でやるのは愚策。

 再び口を開いたワイバーンと、スピカは向き合っているのだから。

 

「しまっ……!?」

 

「キィイオオオオオオオッ!」

 

 不味いと思った時、ワイバーンは既に動き出していた。

 迫りくる鋭い歯。人間など簡単に串刺しにするであろう、剣山が如く代物が迫ってくる。口内で燃え盛る炎のお陰で、喉の奥まで丸見えだ。

 明確な命の危機を前にして、スピカは自分の周りがゆっくり動いているように見えた。

 冒険家の先輩から聞いた事がある。人間というのは命の危機が迫ると、抑えていた能力が解放されるものだと。周りがゆっくりに見えるのも、そうした力の一つらしい。

 尤も、ここからどうすれば生き残れるのか見当も付かないが。

 だから考えるのは、ワイバーンの倒し方だった。

 

「(奴を倒すにはどうすれば良い?)」

 

 思考を巡らせる。

 自分の手持ちの道具では、ワイバーンに致命傷は与えられないだろう。毒は炎で無効化され、爆弾や弓矢は頑強な鱗に邪魔されて肉まで届かない。

 しかし言い換えれば、肉に届けば有効打を与えられる筈だ。溶けた錫が鱗の隙間に流れ込み、ワイバーンを苦しめたように。ならば手持ちの爆弾でも、鱗の下にある肉に直接打撃を与えれば、致命的なものになるのではなかろうか。

 そう、例えば()()()()()()()()()()()()ような方法で。

 

「――――」

 

 考え付くのと同時に、スピカの身体は無意識に動いていた。冒険家として日々過ごしていた経験が、思考を巡らせずとも必要なものの場所を思い出せるがために。

 腰の袋から取り出したのは、爆弾矢……の先に付けるための爆薬。保管のため袋に包んだ状態のものを無造作に、ワイバーンの口目掛けて放り投げる。

 安定性の高いそれは、普段ならちょっとやそっとの事では爆発などしない。特別性の鏃が、殻などの硬いものに接して火花を散らして初めて炸裂する。それだけの『熱さ』が必要なのだ。無害、とは言わないまでも、普通なら食べたところでどうなるものではない。

 だが、このワイバーンの身体の中はどうだろうか?

 身体中が燃えている奴の胃袋の中は、一体どれだけの熱さなのか。そして『肛門』からも炎が出ていた事から考えるに、消化器官すら炎に塗れていると思われる。

 火薬が炸裂するには十分な環境だ。

 ……それを確かめる前に、スピカの下に槍よりも鋭い歯が届くだろうが。無意識に爆薬を投げた身体は、そのための動きに注力していて、逃げ出す事が出来ない。

 

「ぬぉおおおおっ!」

 

 もしもウラヌスがいなければ、という前置きは必要であるが。

 ウラヌスは勢いよくスピカに蹴りを放つ! あまり手加減はしていなかったようで、スピカの身体は大きく真横に蹴り飛ばされた。骨が折れたかも知れない痛みに悶える暇もなく、スピカは地面に転がる。

 ウラヌスはウラヌスで、蹴った反動を利用して反対側に跳躍。ワイバーンの噛み付きは空振りに終わった。

 直後、くぐもった『爆音』がワイバーンの内側から響く。

 合わせてワイバーンの胸部が、一瞬大きく膨らんだようにスピカには見えた。爆弾矢で使う爆薬はそこまで高威力でもないので、単なる錯覚だろうか。

 しかしワイバーンが受けた打撃は、錯覚通りのものかも知れない。

 

「キ……カ……ガ……!」

 

 大きく口を開け、呻くワイバーン。口からは大きな黒煙が吐き出される。

 全身を包む魔法の炎が更に勢い良く立ち昇る。迫りくる死に生存本能が刺激された結果だろうか。しかし胃袋で炸裂したであろう爆弾は、もうそこには残っていない。いくら炎で熱したところで、ズタズタになった身体が一層傷付くだけ。

 ついにその目が白目に変わる。ただしひん剥いた結果ではなく、湯だったがために。

 やがてワイバーンは倒れ伏し、その身体から力が抜けた――――瞬間、スピカ達を囲っていた炎が消えた。まるで今まであったものが幻だったかのように。

 無論、散々こちらを焼こうとした炎が夢幻の筈もない。恐らくは『発動者』から力が失われた事で、炎を維持していたものが失われたのだ。

 そしてこの魔法の炎は、使用者であるワイバーン自身すら制御出来ていない。それが消えたという事は、

 

「……死んだ、の?」

 

 尋ねるように独りごちるスピカ。尤も、誰もその問いには答えてくれない。

 しかし倒れて動かず、香ばしい匂いを立ち昇らせるようになったワイバーンを見れば、答えは明らかというもので。

 

「いよっしゃああっ!」

 

 高々と拳を突き上げたスピカの雄叫びが、戦場に響き渡るのだった。



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魔王顕在7

「無事か二人共!」

 

 大きな声で、スピカとウラヌスに話し掛けてくる者がいた。

 殆ど反射的にスピカが振り返ると、そこには天幕で会った時と同じく血塗れになっているカペラがいた。剣を握り締めて駆け寄る姿はなんとも狂気的で、これにはスピカもギョッとしてしまう。

 しかしカペラの、こちらを心配する顔を見れば、そんな見た目の印象など彼方に吹き飛んだが。

 

「ええ、私は大した事な、いっ……!?」

 

「む! 脇腹が痛むのか!」

 

 返事をしようとして、脇腹に走る痛みに呻く。カペラが心配したように尋ねてくるが、痛みの原因はすぐに思い当たった。

 

「やったなスピカー。仇を倒せたぞー!」

 

 ぴょんぴょんと、暢気に跳ねながらやってきたウラヌス。

 こいつに蹴られたのが痛みの原因であろう。

 

「はいはい、良かったわね。あとコイツは仇じゃないよ」

 

「む? そうだったか? まぁ倒したなら良いな!」

 

「良いのかそれで……」

 

 ウラヌスの納得の仕方に、カペラは若干呆れ気味。スピカも痛みを忘れて乾いた笑みを浮かべる。

 なんにせよワイバーンは倒せた。魔物化した同種個体の撃破は、魔王討伐にとって大きな一歩と言えるだろう。

 とはいえこれもまた局所戦での勝利に過ぎない。

 

「ねぇ、カペラ。他の様子はどうなの?」

 

 長い間ワイバーンと戦っていたスピカは、戦場全体の事が分からない。状況を把握するべく、カペラに問う。

 尤も、答えは教わる前に察しが付いた。カペラの顔に、僅かだが力強い笑みが浮かんでいたからだ。

 

「全体的に勝利している。また多くの動物達が突進を止め、うろうろするだけになった。どうやら仲間の死骸を見て、突破する気力も失せたらしい」

 

 見てみろ、と言わんばかりにカペラはとある方に片手を広げる。

 示された方を見れば、確かに、もう戦いは起きていない。クマや鹿が、兵士達の前でうろうろするたけになっていた。時折突破しようとする個体もいたが、兵士達が武器を構えると、すごすごと引き下がっていく。

 やがて鹿の一頭が兵士達を見てからびくりと震えるや、全速力で要塞都市とは反対方向に逃げていく。

 一頭が逃げると、まるでその後を追うように他の動物達も同じ方に逃げ出した。今まで死を覚悟してでも戻らなかった道を、今度は全力で戻り始めたのだ。その変わり身にスピカも兵士も呆気に取られ、何人かの兵士が追おうとしたが、周りに静止されて立ち止まる。

 もう、これは戦いとは言えない。いや、本来は戦いではなかったのだ。獣達はただ逃げていただけ。その逃げ道が()()()()と分かったから退却しただけの事。

 魔物化したワイバーンが倒れた今、兵士達と真正面から戦える個体はいない。獣達の快進撃も、これで終わりなのだ。

 ……勿論、これで『戦争』そのものが終わるという事ではないが。

 

「……魔王は?」

 

 スピカや帝国兵達がこの前線を築き、動物達と戦っていたのは、魔王が来るという情報を信じたがため。

 しかし魔物化したワイバーンこそ倒したが、魔王らしい姿は何処にも見られなかった、とスピカは思う。もしかすると他の兵士達は見たのだろうか? そう思って尋ねるも、カペラからの答えは首を横に振る事だった。

 

「こちらが知る限り、確認されていない」

 

「そう……来てない、のかしら?」

 

「ないとは言い切れない。伝令からの報告も、魔王がこちらに向かっているというだけのものだったからな」

 

 伝書鳩を使った連絡には、どうしても時間差というものがある。魔王を監視していた斥候が新たな情報を得たとしても、伝書鳩が目的地へと届くには一〜二日は必要だ。

 勿論伝書鳩は人間が走るよりずっと速く、何より斥候が逐一目標と本部の間を行き来しなくて良い。時間差という欠点があると言ったが、見方を変えれば人間自身がやるよりもその短所を改良したものと言えよう。つまりこれはないものねだりであり、時代が進んで凄まじく便利な道具が出来ない限りは解決しない問題だ。

 なんにせよ、斥候が伝書鳩を放った後、魔王が行動を変えたという可能性は否定しきれない。軍隊など国家が関わるものなら政治的判断云々でそうもいかないだろうが、魔王()であればそいつ自身の気分一つでいくらでも行動は変えられる。何があってもおかしくない。

 油断はすべきではない。しかし『終わり』の可能性が現実味を帯びれば、人間の心は容易く気を抜いてしまうもので。

 

「……ふはあぁぁ」

 

 間の抜けた声を上げて、スピカはその場にへたり込んでしまった。

 どうやら思っていた以上に疲弊していたらしい。魔王が現れるという緊張感も(早とちりの可能性もあるが)解けて、腰に力が入らない。

 強がっていてもこんなものかと、自分の情けなさにスピカはついつい笑ってしまう。カペラも微笑ましさを感じたようで、血塗れなのも忘れるぐらい朗らかな笑みを浮かべた。

 

「あれだけ勇ましく前線に出た割に、ちゃんと怖がっていたんだな。そもそも君に頼んだものは助言なんだから、前線に出る必要もないんだが」

 

「うるへー……一応魔王打倒を考えるのに役立つ情報は得たわ。直にワイバーンとやり合えたのは間違いなく収穫よ」

 

「そうか。なら、一旦都市の方に戻るか……いや、その前にみんなでお祝いだな」

 

「お祝い?」

 

 何をするつもりなのか。訪ねようとするスピカだったが、その言葉はカペラに届かない。

 がしゃがしゃと鎧の擦れる音が、近付いてきていたからだ。鎧の音に声を遮られ、スピカは反射的にそちらを振り向く。

 するとそこには全身を鎧で包んだ帝国兵や騎士達が、猛然とこちらに駆け寄る姿があった。それもざっと数十人以上。

 まさかこんな大人数とは思わず、スピカはギョッとしてしまう。驚いて仰け反ったものの、力の抜けた腰では立ち上がれず。あっという間に兵士達に囲まれてしまう。

 

「お前達か! あのワイバーンを倒したのは!」

 

「たった二人でワイバーンを、それも魔物となった個体を倒すとは驚いたぞ」

 

「ははっ! どうした? 腰が抜けたのか? なら救護兵のところに運ばないとな!」

 

 やってきた兵士達はスピカの返事を待たず、次々と言葉を掛けてくる。スピカがおろおろしている間に動けない事を見抜かれ、ついには担ぎ上げられてしまった。

 そこまでしなくても自力で、と言おうとしても、運ばれる揺れで上手く話せない。いや、そもそも彼等は聞く耳を持つだろうか? どうにもこの救助活動を楽しんでいる素振りすらある。

 

「わっしょーい! わっしょーい!」

 

 それと何故かウラヌスも兵士達に混ざっている。お前も救助される側じゃん、と言ったところで楽しんでいる彼女は聞く耳も持たないだろうが。

 カペラもくすくす笑うだけで、助けてくれる気配は微塵もない。帝国兵は兎も角、騎士団員達は彼女の命令に絶対服従だと言うのに。

 どうしてこんな事になったのか。理由を考えてみれば、答えはすぐに浮かんだ。

 勝ったからだ。

 負ける可能性の方が高い『戦争』だった。しかし蓋を開けてみれば、苦戦はしたが勝利を掴んでいる。生き延びて今を迎えたがために、彼等は笑えるのだ。

 勿論この勝利の一番の要因は、敵方最大戦力であろう魔王が現れなかった事である。また勝ったとはいえ、兵士の犠牲がない訳ではない。黒焦げになったり、潰れていたり、様々な『鎧』があちこちに転がっている。それらの傍には膝を折り、祈るように頭を下げる者の姿が見られた。倒れる帝国兵に祈りを捧げる騎士団や、その逆の光景もある。

 そして兵士に倒された動物達の亡骸も、あちこちに転がっている。彼等とて魔王がいなければ、こんな形での死を迎える事はなかった筈だ。今でも故郷の地で、激しい生存競争はあれど、自由に過ごしていたに違いない。

 傷跡はあまりにも大きい。起きた悲劇は今更消えない。

 けれども生きている者がいる。逃げていった民の暮らしを、完璧ではないにしても、守れたのだ。

 喜びを顔に出す理由としては、十分だろう。

 

「は、はははは! ははははは!」

 

「勝った! 勝ったんだ!」

 

「勝った勝ったー! わははははー!」

 

 兵士が、ウラヌスが、笑い声を上げる。

 

「……ふ、ふふ。ぷ、あっははははは!」

 

 スピカも笑う。

 十人十色な笑い声。スピカ達から上がった笑い声は瞬く間に戦場だった場所を満たし、兵士達が喜ぶように拳を振り上げる。

 そして、

 

「キャーキャッキャッキャッキャッキャッ」

 

 なんとも癪に障る笑い声が、聞こえてきた。

 多くの兵士達が顔を顰めた。誰だこんな品のない笑い方をしている奴はと言わんばかりに。そして周りにいる全員が同じ反応をしている事に気付き、犯人が見付からなくて怪訝とした顔になる。

 ただ一人、スピカだけは青ざめていた。

 ――――覚えている。その笑い方を。

 忘れるものか、忘れられるものか。何度夢に見た事か、何度うなされ、何度起こされた事か。

 

「どうしたスピカ? 顔色が今にも死にそうなぐらい悪いぞ?」

 

 ウラヌスに声を掛けられたが、スピカは何も答えない。持ち上げられた状態のまま身体を起こし、辺りを見回す。

 右も左も背後も見た。けれども、『そいつ』の姿は何処にもない。

 

「キャッキャー。キャッキャキャキャキャ」

 

 なのに笑い声は聞こえてくる。すごく、近くで。

 兵士達も表情を強張らせていく。何かがおかしい。近くで笑い声がしているのに、何故笑い声を出している輩の姿が見えないのか?

 誰もが警戒心を強めていく。恐怖心や猜疑心が顔に現れる。

 

「キャーッ、キャッキャッキャッ。キャキャキャキャ」

 

 その様子すらおかしいかのように、笑い声は聞こえ続けた。

 スピカは、一点を見つめた。笑い声が聞こえてきた、そう思う場所を。兵士達が誰もいない、がらんとした空間だ。

 しかし何も見えない。誰もいない。あるのは、戦いで倒されたであろうイノシシの亡骸ぐらい。

 だというのに。

 その亡骸が()()()()()()()()()()()()()。あたかも、何かに踏み潰されたかの如く。

 笑い声以上にハッキリとした音。それは数多の兵士達の視線を集める。生きたモノなんて何もない荒野を大勢で眺める姿は、胡散臭い新興宗教を思わせるだろう。しかし此処にいる誰もが、そんな出鱈目な信仰ではなく、自身の感覚でそこを見つめている。

 無論、確信は誰も抱いていない。抱きようがない。何故なら見えないのだから。

 故に『そいつ』は最後まで誤魔化す事も出来た。出来たが、そうはしなかった。折角観客が気付いてくれたのだと言わんばかりに。

 ゆらゆらと、何もない空間が揺らめく。

 何が起きている? スピカと同じ事を、誰もが思っていただろう。呆けたように皆が立ち尽くしていて、精々揺らめきの近くにいた兵士が後退りするだけ。

 やがて揺らめきの『膜』から、そいつが顔を出す。

 この戦いの元凶たる、御伽噺の存在が――――



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魔王顕在8

 大きなトカゲ的な頭。裂けた口の中には細く鋭い歯が並び、後ろ向きに生える四本の角を持つ。

 次いで長い首が現れ、胴体も出てくる。小さく、蒼い色をした鱗が全身を覆っていた。両腕が翼に変化していて、翼を畳んだ際の、『肘』の辺りを地面に付ける。身体の割に細めの両足と共に自重を支え、四足歩行をしていた。

 臀部から伸びた尾は体長ほどの長さがあり、ぶらんぶらんと揺れ動かしている。武器として使ったり、体幹を維持したりするための動き……ではない。子供が手遊びするような、奔放な衝動で動かしているのが見て分かる。

 何もない空間から、まるで舞台裏から現れるかのようにスピカ達の前に姿を見せたのは()()()()()だった。容姿だけで言えば、特筆すべき点は特にない。極々一般的なワイバーンだ。されど違いも少なくない。

 誰にでも分かる違いは、大きさ。スピカが倒した一般的な個体の倍程度、三十メトルはあるだろうか。ドラゴン類の特徴として、生きている間はずっと生長する点が挙げられる。大きくなればなるほど大量の餌が必要になるので、天敵がいないドラゴンとしては、自分の身体を賄いきれなくなった時が『寿命』と言えよう。つまりこのワイバーンはかなり長い間生き、その間ずっと十分な餌を食べ続けてきた事になる。

 それだけでも奴の強さは十分窺い知れる。加えてもう一つ、このワイバーンの恐ろしさを物語るのが雰囲気。

 

「(油断、してる……!)」

 

 こちらに敵意を向けるでもなく笑い、全く集中していない姿は油断そのもの。

 野生の獣は油断などしない。一瞬でも気を抜けば、天敵などに襲われて喰い殺されるのだから。例え頂点捕食者であろうとも、生まれた時は普通に喰われる側であるため、成体になってもその警戒心は失われない。

 しかしこの警戒心は、必ずしも本能という訳ではない。例えば牛などの家畜や、犬猫などの愛玩動物の中には警戒心がとことん薄い個体もいる。彼等の大半は飼い主に(家畜などはその後肉にされるとしても)大事に育てられ、何一つ脅威を感じない生活を送るものだからだ。脅威がないのだから、警戒なんて疲れる真似はしない。腹を上にして寝て、物陰に隠れもせず、目の前の餌をのんびり楽しむ。危険がないのなら、それが『合理的』な行動なのだ。

 言うまでもなく、目の前のワイバーンが誰かに飼われている訳がない。ならばこの個体は自然界の中で生きていて、なのに脅威が何一つ存在しなかったという事になる。腹を見せて寝ても、何も恐れる必要がなかった経験があってこその油断。

 二つの特徴から考えるに、このワイバーンは、一般的なワイバーンを遥かに凌駕する強さを持つ。それも経験として蓄積し、ここまで大型化するまでの長い間力を維持してきた。更にこれまで姿を隠していた(恐らく蜃気楼のような現象だろう。空気の揺らめきにより光が屈折して見えなくなっていたのだ)点からして、条理を逸した力……『魔法』まで使える。

 そんな個体がいるとすれば、スピカが、そしてこの場にいる誰もが、知る限り一体のみ。

 魔王。

 ついにこの戦いを引き起こした元凶、魔王が現れたのだと、全員が理解した。それと同時にスピカは確信する。

 やはりコイツが、自分の故郷と家族を焼いた元凶だと。

 

「キャーッ、キャッ、キャッ、キャッ」

 

 魔王は姿を見せてからも笑う。楽しそうに、愉快そうに。

 獣達も人も殺され、同種であるワイバーンも倒れていた。しかし魔王は怯えもしないし怒りもしない。笑ってばかりで、心からこの惨状を楽しんでいる。

 まるで自分だけは関係ないと言わんばかりに。

 だが、関係ない訳がない。既に周りの兵士達はこの横柄な怪物を包囲し、戦う準備を整えている。『勝利』から得た喜びの感情を胸の奥にしまい込み、闘争心と怒りで立ち向かう。

 

「総員、気を引き締めろぉォ! この個体を魔王として、此処で討伐する!」

 

 更にカペラが雄叫びのような声で、兵全体に指示を飛ばす。

 敵意と恐怖を一身に受ける魔王。だが、当の魔王自身はなんとも暢気なものだった。

 

「キャキャー……キィィ」

 

 一通り笑った後、魔王は頭を左右に交互に傾ける。

 それから大きく口を開け、欠伸のような動作を取る。翼の先にある爪でちょいちょいと顔を掻き、未だ警戒心を抱いてすらいない。

 あまりの暢気さに、兵の一部が呆けたような、困惑したような反応を見せる。油断こそしていないが、思っていたのと違うと感じたのだろう。

 

「砲兵! 攻撃を開始しろ!」

 

「騎士団も援護を始めろ!」

 

 だがカペラ達指揮官は油断も手加減もしない。帝国軍は砲兵、つまり大砲の使用を命じたのだ。カペラもその援護を命じる。

 指揮官の声に応じ、後方に控えていた砲兵部隊と一部の騎士団員がついに動き出す。これまでは対魔王への温存と、前線が混戦状態だったため迂闊に使えなかった人類の最新兵器。しかし暢気にも人間達から少し離れた位置に、動きもしないという理想的な状態で魔王は現れた。正に活躍の時である。

 砲兵達は大砲の向きを微調整し、魔王に狙いを定めた。魔王はといえば、相変わらず能天気な様子。人間が何をしているかなど、興味もないと言わんばかり。

 ここまで余裕を見せ付けられると、不気味さも感じてくる。包囲する兵士達の顔に不安の色が出てきた。

 しかし恐怖に負けて攻撃を止めるような腰抜けは、此処には一人もおらず。

 

「撃てぇ!」

 

 カペラの号令に合わせ、爆音が轟いた!

 後方に並んだ大砲の数はざっと二十ほど。それが一斉に火を吹き、巨大な砲弾を飛ばす。魔王と大砲の間には距離があるため、砲弾が飛んでいく様は誰の目にも見える……勿論魔王にも、だ。

 しかし魔王は微動だにしない。

 やがて大砲は魔王の身体を直撃――――した筈だった。

 だが実際には、魔王の身体の()()()()で砲弾は爆発している。比較的魔王の近くにいたスピカの目には、そう映った。

 

「……え?」

 

 何かの見間違いだろうか。そう思ってスピカは目を擦り、再び魔王を見る。

 二発目の砲弾も魔王に直撃、しない。僅かに離れた空中で爆発を起こしていた。三発目も四発目も同じ。

 どの大砲も魔王に当たってすらいない。

 大砲が効かない生物なんて、この世界にはいくらでもいる。以前戦ったバハムートが正にそうであるし、大砲染みた攻撃をしてきたスライムやキマイラにも効かないだろう。ワイバーンに大砲を喰らわせたという話は聞いた事もないが、大型ドラゴンである事も思えば、華奢な身体とはいえ恐らく耐える。だから魔王に大砲が効かないだけなら、驚きなんてない。

 だが、当たらないとはどういう事なのか。

 その結果は他の兵士達にも見えていたようで、どよめきが周りで起きる。何が起きたのかと、疑問に思っている様子だ。

 スピカがその光景を理解出来たのは、先日のミノタウロスとの戦いがあったから。

 

「(あれは、風の守りを纏っているのか!)」

 

 ミノタウロスも魔法で引き起こした風を身体に纏い、鎧のように扱っていた。

 魔王の場合も恐らく空気を魔法で操っている。突風がものを破壊するように、強力な風を起こして砲弾を破壊したのだ。

 理屈は分かった。だがスピカは納得が行かない。大砲の直撃すらも防ぐ風を、なんの苦もなく生み出すなんて……あまりにも不条理が過ぎる。

 

「スピカ! 何か策はないか!? あれではこちらの攻撃が通らない!」

 

 唖然とするスピカに、カペラが強い口調で呼び掛けてきた。そこでスピカは我に返り、自分の役目を思い出す。

 そうだ。自分は魔王を打倒するための作戦を考える、冒険家(専門家)として此処にいるのだ。

 やるべき事を思い出せば、思考も多少なりと纏まる。何を考え、どのような結論を出すべきか。それだけあれば作戦は練れるのだ。

 正しいという保証はない。だが、前に進まねば……魔王は倒せない!

 

「……ミノタウロスもワイバーンも、魔法は使っていたけど身体そのものは普通の生物だった。炎で焼かれれば焦げるし、風で傷付きもする」

 

「ああ、確かにそうだな」

 

「なら、あの魔王も同じだと思う。大砲は風の守りで防いだけど、言い換えれば直撃したくなかったに違いない。ワイバーン自体が大砲で死ぬとは思えないけど、翼の皮膜ぐらいなら破れそうだし。風の守りさえ剥がせれば……」

 

「だが、どうやる? 爆発で吹き飛ばそうにも、大砲すら通じないぞ」

 

 カペラの指摘に、スピカは言葉を詰まらせる。

 ミノタウロス相手には小麦粉を用いた爆発で、どうにか対処出来た。しかし魔王が纏う風は、大砲すらも防いでいる。生半可な衝撃ではビクともしないだろう。

 あれをどうにかする方法なんて、全く思い付かない。

 

「……駄目、まだ思い付かない……!」

 

「分かった、無理しなくて良い」

 

 妙案が浮かばない旨を告げると、カペラは優しく制止した。役に立てなくて申し訳なく思うスピカに、カペラは微笑みすら返す。

 

「元より、奴の討伐は我々の仕事だ。お前としては仇討ちをしたいだろうが……我々が倒させてもらう」

 

 そして力強い言葉を、スピカに投げ掛けてきた。

 カペラは次いで傍にいた部下に視線を向け、小声かつ口早に何かを伝えた。スピカには聞き取れなかったが、部下はすぐに理解したようで、こくりと頷くや駆け足で何処かに走り出す。

 それを見送るや、カペラは剣を高々と掲げながら叫ぶ。

 

「騎士団総員に告ぐ! あの守りは恐らく魔法の風によるものだ! 何処かに隙間があれば剣は通る! 疲弊すれば魔法の力も弱まり、或いは暴走するかも知れない! そうすれば勝機はある!」

 

「「「おおおおおおーっ!」」」

 

 カペラの号令に、騎士団達は咆哮で答える。

 カペラが真っ先に駆け出し、騎士団員達も勇猛果敢に突撃する。帝国兵も向かい、何百もの大軍勢が一体のワイバーンに迫った。大砲を操っていた砲兵は、兵達の接近と共に攻撃を中断。しかし何時でも再開出来るよう、大砲の整備は怠らない。

 魔王との決戦が始まる。

 魔王はスピカにとって親と故郷の仇だ。あの見た目、笑い方……全てが記憶の通り。今度こそ間違いない。

 カペラ達に続いて、戦おう。スピカはそう思う。いや、思おうとしている。けれども足が震えて動かない。恐怖が、胸から吹き出した感情が、身体を縛り付けていた。

 しかし幼少期の恐怖が蘇った訳ではない。

 スピカは察してしまったのだ。魔王がどれほど恐ろしい存在なのかを、本能的に。そしてそれはスピカの傍にいたウラヌスも同じらしい。勇猛果敢を通り越した彼女ですら、一歩と動かずに魔王を眺めるばかり。

 二人はただ、魔王を遠目で見るだけ。それが良かった。

 そうでなければ、()()()()()から。

 

「キャキャキャキャ……キィィオオオオオ」

 

 笑っていた魔王は、唐突に深い息を吐く。

 その目が向くのは迫ってくる兵士達。

 数多の獣を屠った強豪な戦士が何百と押し寄せていく。この大軍ならば、ドラゴンの一頭二頭は軽く葬る筈だ。なのに魔王は怯みもせず、ただ翼の先を向けてくるだけ。

 それだけで何が出来るのかと、普通の生物相手ならば言えただろう。

 されど魔王にとっては、これだけで十分なのだ。

 

「キィアッ」

 

 軽く上げたであろう鳴き声と共に、魔法が発動するのだから。

 翼の先で、くるんと白い何かが渦を巻く。

 何が起きる? 遠目で見ていたスピカがそう思った次の瞬間、渦巻きは一気に膨れ上がった! 更に何百メトルと伸び、直線上の全てを巻き込む!

 風の魔法だ。ミノタウロスが使っていたのと同じ技だが、しかし規模があまりにも違う。風の流れは『色』が見えるほど激しい。そしてその回転に触れたものを次々と巻き込む。

 無論、人間だろうと結果は変わらない。回転する風によってその身体はぐるんと回り、地面に何度も叩き付けられて――――

 

「うっ」

 

 込み上がる吐き気。両手を口に当ててなんとか堪えるスピカだったが、無意識に後退りしてしまい、へたり込むように尻餅を撞く。

 人間の亡骸なんて、冒険をしていればいくらでも目にする。スピカだって昨日まで話していた人の、中身が露わになった遺体を目にした事ぐらいあるのだ。目の前でばっくりと人が喰われるところも、全身に出来た水膨れが割れてどろどろに溶けていく人も、見ている。

 しかしあんな、風で回され、生きたまま何度も叩き付けられる最期は想像した事もない。

 

「うおおおおおおおおッ!」

 

 それでも兵士達は雄叫びを上げ、魔王に肉薄する。恐怖を闘争心で誤魔化しているのか、仲間の仇討ちに燃えているのか。

 理由はなんにせよ、兵士達は魔王の傍まで辿り着いた。彼等が振るうのは獣達の身体から得た素材で作り出した、強靭な武器。生半可な鋼よりも鋭いそれは、ドラゴンの鱗さえも切り裂くだろう。

 それは魔王も察したようで、大人しく切られてはくれず。大きく広げた翼を羽ばたかせ、ふわりとその場から浮かび上がる。

 ワイバーン種なのだから空を飛べて当たり前――――しかしその当たり前は、人間にとって厄介極まりない。戦い慣れした帝国兵や王国騎士団ならばすぐに判断を切り替えられるが、それでもほんの一瞬思考が鈍るのは避けられず。

 そのほんの一瞬があれば、魔王が次の魔法を放つのに十分な時間がある。

 

「キャアアアアアアァッ!」

 

 楽しげに叫ぶのと同時に、()()()()()()()()()()()()

 炎の魔法だ。炎の魔法自体はワイバーンも使っていたが、魔王は先程風の魔法も使っていた。魔王は魔物と違い、二種の魔法を巧みに使い分けられるらしい。

 噴き上がった炎はまるで蛇のように大地を走り回り、兵士達を次々と飲み込む。熱さで藻掻き苦しむ彼等の姿を目にして、駆け寄れなかったスピカはますます動けなくなる。

 

「はあああああああっ!」

 

 だが、その中で勇猛果敢に跳び出す女がいた。

 カペラだ。仲間の協力を得たのか、彼女は人間離れした勢いで高々と空に跳び上がる。これには魔王も驚いたのか、空中での動きが一瞬止まり、カペラが肉薄。

 そこで彼女は剣を振るい、魔王の身体に傷を付けた。

 しかし魔王は切られる寸前、その身を軽く捻って回避している。付けた傷は鱗を一枚切っただけ。魔王の余裕は崩れない。

 

「くっ……!」

 

「キャアァアーッ! キャキャキャキャ!」

 

 重力に引かれて落ちていくカペラを尻目に、魔王はまたも楽しげに笑う。そして更に空高く上がるや、ぐるりと身体を一回転。

 合わせるように、地上でも風が起きる。

 しかしそれはただの風ではない。風は空高く上がり、巨大な『渦巻き』を形作っていた。地上にいる人間や動物の亡骸を吸い寄せ、吹き飛ばしていく。

 竜巻だ。

 ……一言で言ってしまえるものだが、そんな馬鹿なとスピカは頭の中で叫ぶ。魔物化したミノタウロスは風の魔法を使っていて、家々を破壊し、要塞を部分的にだが破壊した。それは凄まじい力であるが、しかし()()()()()()()()()程度のもの。大量の火薬と人員を用いれば、費用や労力を一切考えなければ、人間にも魔法と同じ事は出来なくもない、筈だった。

 なのに、魔王が引き起こしたのは竜巻。

 そんなのは人間の力の範疇を超えている。大自然が引き起こす現象であり、『世界』が持つ力だ。これを、魔王は大した労力も見せずに成し遂げたのである。

 

「ひ、ひぃいぃいいっ!?」

 

「わああああぁあぁああっ!」

 

 竜巻は縦横無尽に動き回り、次々に兵士達を飲み込む。まるで風に舞い上がる落ち葉のように人が空を飛び……しかし落ちる時は人間のまま。何十何百メトルもの高さから落とされた人間達は、鎧と共に中身を()()()()()

 竜巻は魔王を巻き込む事もなく、むしろその周りをぐるぐると旋回している。魔王が竜巻を操っている事は明白だ。自分の周りにいる人間を吸い込み、落とす光景に、魔王はまたゲラゲラと楽しげに笑う。

 その殺戮の光景の中、誰かの涙のように空からぽつんと水が落ちてきた。

 

「……雨?」

 

 スピカが独りごちつつ、空を見る。そのまま、呆けたように固まってしまった。

 空に暗雲が立ち込めていたのだ。魔王が巻き起こした竜巻、丁度その上に陣取るように。

 何故雲が? 混乱するスピカだったが、竜巻が巻き上げたものを雲が吸い込み、大きくなる様を見て確信する。魔王が引き起こした竜巻により、この暗雲を生み出されたのだ。

 大きく育った暗雲は、ぽつぽつと雨を降らし始める。

 びしょ濡れになって死ぬなんて、と嫌な考えがスピカの脳裏を過る。だが落ち着いて考えれば、これはむしろ幸運だ。魔法の炎が爆風などで消せる事は、魔物化したワイバーンとの戦いで明らかになっている。可燃物がなくとも燃え続ける以外は、魔法の炎の性質は、普通の炎とあまり大きな違いはないと考えて良いだろう。ならば雨が降れば、魔法の炎は無効化したと言える。

 竜巻の力は未だ猛威を振るっているが、結果的に魔法を一つ封じた。これを利用して何か策を練れば……そう考えるスピカだったが、その思考はぴたりと止まってしまう。

 バチバチと、空から弾ける音が聞こえてきたからだ。

 

「……………」

 

 無言のまま、スピカは空を見上げた。

 魔王が光っている。

 バチバチという音と共に、その身から細長い閃光が迸っているのだ。ジグザグに飛び交う光がなんなのか、スピカにはよく分からない。だが、よく似たものは知っている。

 雷だ。

 落雷の予兆などで雲に走る稲光に似たものを、魔王はその身から発していた。あれもまた魔法なのだとすれば、魔王は炎と風の他に、雷の魔法を操る事になる。

 三種も魔法を使うなんて。魔王の桁違いの『才能』を目にしたが、しかしそれよりもスピカを震え上がらせる事実があった。

 とある冒険家から聞いた話曰く、雷は水を伝って遠くまで伝わるものらしい。それも一般的に数メトル程度、時には何十メトルも遠くに届くとか。

 遠目で見ているスピカ達でさえ、魔王との距離はほんの五十メトルも離れていない。そしてこの場にいる誰もが、雨によってびしょ濡れになっている。

 もしも魔王の雷が、地上に向かって放たれたなら……

 

「は、離れてぇぇ!?」

 

「そ、総員退避しろぉ!」

 

 スピカが叫ぶ。次いでカペラの雄叫びが響き、慌てふためきながら兵士達が逃げ出していく。

 だが、誰も間に合わない。ただ一人、素早くスピカを抱え、なおも人間離れした跳躍を行えるウラヌスを除いて。

 

「キャッキャーッ!」

 

 無様な人間達を嘲笑う魔王は楽しげに鳴いて、

 その身から降り注ぐ雷撃が、全てを焼き尽くした。



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魔王顕在9

 雷撃が迸った時間は、ほんの僅かなものだった。

 雷の眩しさが辺りを包み、白く染め上げる。これは雷の魔法を使った魔王も例外ではなく、目を回したようにくるくると回転しながら降下……いや、墜落。頭から地面に落ちた。

 

「キュゥー……キィィ」

 

 そのまま墜落死すれば兵士達も報われただろうが、魔王は全くの健在。ぽりぽりと翼の先で頭を掻くだけで、堪えた様子はない。

 平然としたまま、魔王は辺りの様子を窺う。

 ……そこに生きるものの姿は見られない。

 仰向けやうつ伏せに倒れる人間達。魔王に歯向かっていた全ての者達が、息をしていなかった。焼き魚のように白濁した目で空を見つめ、口からぷすぷすと微かな煙を立ち昇らせる。

 全滅していた。帝国から集められた大勢の兵士達と、王国で三番目の実力を持つ生粋の戦闘集団が。連戦状態とはいえものの数分で、相手に大した傷も与えられずに。

 

「キャッキャッキャッ」

 

 倒れた兵士を見て、魔王は喜ぶように笑う。

 それから首を伸ばし、一人の兵士の身体を噛む。バリバリと鎧を砕き、中身である人間を引きずり出すと、優しく咥えた。そして頭を上向きにして、人間一人を口の中に放り込む。

 味わうように咀嚼し、堪能するように舌を口の中で動かす。じっくりと人間を味わったところで、魔王は眉間に皺を寄せた。

 

「ペッ」

 

 そして吐き出す。

 味が気に入らない。そう言わんげに、魔王は蔑むような眼差しを人間達に向けた。

 食べても美味しくないなら、もう人間に固執する理由はないらしい。魔王は最後にぐるりと辺りを見回し、生きた人間がいない事を確認。用は済んだとばかりに、翼を広げて空に浮かび上がる。

 その飛び方も、普通のものではない。羽ばたきもしていないのに、ふわふわと、まるで水中から浮かび上がるかのように等速で浮上しているのだ。

 恐らくは魔法の力で飛行しているのだろう。

 

「キャーッ!」

 

 そしてある程度の高度に達した瞬間、魔王はその口から炎を吐き出した。

 ブレスだ。吐き出された火炎が向かうのは、人のいなくなった要塞都市。空を飛びながら都市を満遍なく焼いていく。

 数分ほど火を吐き続け、町を粗方燃やすと満足したのか。魔王はブレスを止め、一直線に、白い『煙』を残すほどの速さで飛び去る。これもまた魔法の力なのか。瞬く間に彼方へと飛んでいき、魔王の姿はすぐに見えなくなってしまった。

 ……そうして何もいなくなったところで、もぞりと動く者がいる。

 スピカが倒したワイバーンの翼だ。

 

「ぷはぁ。ふぅ、危なかったなぁ」

 

 正確には、その下に隠れていたウラヌス、そして彼女に連れられたスピカであるが。

 魔王が雷撃を放つよりも前に離れたウラヌスは、稲光が辺りを包んだ間に魔物化したワイバーンの翼の下に潜り込んだ。

 ワイバーンの翼が屋根の役割を果たし、その下は雨水で濡れていなかった。お陰で魔王が放った雷が伝わる事もなく、スピカ達は難を逃れたのである。ワイバーンの翼が大きく、スピカ達の姿をすっぽりと覆い隠したのも良かった。

 

「……本当に、危なかったわ」

 

 ウラヌスに続いて出てきたスピカも、同意するように呟く。生きている事に安堵するウラヌスと違い、俯き、暗い表情を浮かべながらではあるが。

 何も、出来なかった。

 簡単に勝てる相手とは端から思っていない。二体の魔物と戦った事で、魔法の恐ろしさは嫌というほど分かったつもりだった。けれども実際には、その認識すら甘かったと言わざるを得ない。魔王は圧倒的な力の魔法を、なんの苦もなく繰り出している。

 正に御伽噺の存在だ。そして古来の人間と同じ言葉がスピカの脳裏を過る。

 

「(悪魔が如く力、か)」

 

 文献に度々出てきたという、魔王を例える言葉。

 今ならば分かる。あのような不条理に、現実的の言葉を当て嵌めたところで本質からズレるだけ。ありのままを伝えるには、非現実な言葉を用いるしかなかったのだ。

 

「なぁ、スピカ。これからどうするんだ?」

 

 唖然としながら空を眺めていたスピカに、ウラヌスが尋ねてくる。

 その問いの『意味』を考えてしまい、スピカは呆けたように固まった。そうしているとウラヌスは、とある方を指差す。

 魔王が飛んでいった方角だ。

 

「アイツを倒すつもりなら、追わないとな。何処に行くかは分からんが、多分アイツ、色んなところで暴れるぞ」

 

 ウラヌスが言うように、魔王は暴れ続けるだろう。魔物と違い、自分が享楽的に楽しむために。

 そして魔王が向かったのは、方角からして王国だ。王国の軍事力は帝国を上回るが、ここで見た魔王の強さを鑑みるに、まともに戦っても人類に勝ち目はあるまい。

 

「逃げるなら、あっちに行けば良いんじゃないか? この町にいた奴等も、あっちに逃げたからなー」

 

 次にウラヌスは、魔王が行ったのとは別方向……要塞都市の人々が避難した方角を示す。

 あちらに逃げれば、少なくともしばらくの間は魔王に襲われる事もないだろう。最後に見せた飛行速度からして、世界中を回るのに大した時間も掛からないだろうが、わざわざ一人の人間を追ってくる事もあるまい。王国の抵抗も、最終的に負けるとしても、それなりには粘る……筈だ。

 それに冒険家であるスピカなら、一般人と違い自然の中での過ごし方を身に着けている。魔王が現れそうにない、自然の中へと逃げるなら、今までの冒険家業と然程変わらない日々になるだろう。

 追うべきか、逃げるべきか。

 条件を並べれば、明らかに逃げる方が『得』だ。魔王の強さは圧倒的で、スピカとウラヌスがどう挑んでも勝てるものではない。逃げれば今後一生魔王に会わずに済むかも知れないし、不運にも出会ったところで強さを知った今なら逃げ方も分かる。生き残るだけなら、逃げ一択だ。それが合理的というもの。

 だが、スピカが見たのは魔王が向かった先。

 

「――――追う。アイツを野放しになんて、我慢ならない」

 

 スピカが下した決断は、仇討ちだった。

 正直に言えば、まだ怖い。あれほど出鱈目な力を発揮した存在に挑むなんて、考えるだけで足が竦みそうだ。ミノタウロス、ワイバーンと戦って、慣れた筈の心すらも震え上がっている。

 しかし、それでも心の奥底にぐつぐつと煮え滾る想いがあった。

 復讐心。どう足掻いても、スピカはこの感情から逃れる事は出来なかった。怖くても、絶望しても、魔王を見逃すなんて出来ない。

 

「分かった。私も負けっぱなしは性に合わないからな! 今度はギャフンと言わせるぞ!」

 

 ウラヌスもスピカの意見に賛同する。戦士として気高くあろうとする彼女にとって、戦わずに敗北を認めるなど我慢ならないのだ。

 相棒と意見が合ったなら、迷う事は何もない。スピカは魔王の追跡を改めて決意した。

 ――――とはいえ、だ。

 魔王を追うのは良いとしよう。しかし大きな問題がある。

 魔王の倒し方が、まるで分からない事だ。

 

「(竜巻並の威力の魔法に、雷を自在に操る魔法……炎の魔法についても、似たような規模で使えると考えるべきか)」

 

 恐るべき攻撃力。あの技を受けたら、人間など簡単に吹き飛ぶ。

 加えて身に纏う風の防御も圧倒的だ。大砲すらも防ぐ守りをどうにかしなければ、攻撃を届かせる事も出来まい。

 どれだけ都合良く考えても、スピカとウラヌスの二人だけで勝てる相手ではない。口惜しい事だが、まずは現実を認めなければどうにもならないだろう。

 つまり、今の自分達に必要なのは戦力だ。一人二人でどうにもならないなら、十人二十人の手練を用意する。それでどうにかなるとは思えないが、用意しなければ話は始まらない。

 しかし魔王を相手にして、それなりにでも戦える人間などごく僅かだ。ある程度優秀な人材を集められなければ、犠牲者が増えるばかりとなるだろう。

 では、そのために必要な事は何か? どうやればその人材を手に入れられる?

 

「……答えから逆算すれば、道のりは見えてくる。どれだけ困難でも、ね」

 

「スピカ?」

 

 ぽつりと呟いた言葉の意味を、尋ねるようにウラヌスはスピカの名を呼ぶ。

 その問いに関する答えとして、スピカが向かったのは、兵士達の屍が転がる場所。

 魔王による攻撃で、誰一人として動かなくなった場所に訪れたスピカは、ざっとその亡骸を見渡す。兵士達の倒れ方は仰向けだけでなくうつ伏せもいて、一目見ただけでは全ての顔は分からない。

 しかし鎧の『派手さ』はそれぞれ違う。

 帝国兵士にしても王国騎士団にしても、銀以外の色や突起などがある鎧は、基本的に地位の高い人間しか許されていない。それは見た目の派手さで、相手の地位を一目で理解するための工夫だ。これで誰が上官かすぐに分かり、指揮の混乱を減らせる。

 つまり派手であればあるほど、より地位の高い兵士だという事。ならば一番派手な鎧を着ている者が、一番地位の高い兵だ。

 例えば、王国騎士団団長、とかの。

 

「……呆気ないなぁ」

 

 うつ伏せに倒れる『彼女』を見下ろしながら、またスピカは呟く。

 そう、呆気ない。人間の死に様としてはあまりにも。

 けれども、野生の世界では死ぬ時なんてこんなものだ。どんな強大な生物でも、どれほど過酷な危機を生き延びた熟練冒険家でも、ふと気を抜いた瞬間に死ぬなど珍しくない。

 見慣れたものだ。だから心を平静に保つ方法は分かってくる。

 深呼吸一回で気持ちを整理したら、スピカはうつ伏せの鎧をひっくり返す。見慣れた顔を見てまた込み上がってきたものを飲み込んだら、その亡骸を弄るように触る。

 そして一つの、大きな装飾品を取り出した。

 お洒落、とは言い難い無骨な一品。ドラゴンを模した形のそれは、着飾るためのものではない。

 

「なんだー? 追い剥ぎかー?」

 

「流石に此処でそれをやるほど人間の心は捨てちゃいないわよ……これがないと、多分どうにもならない」

 

「んー? お金が必要なのか?」

 

「だから追い剥ぎじゃないって言ってるでしょうが」

 

 しつこいウラヌスの質問だが、実際傍目には追い剥ぎ以外の何物でもない。

 故にスピカは掴んだ装飾品をウラヌスに見せ付けながら、こう答えるのだった。

 

「王国騎士団階級章。これで、王国に示すのよ――――アンタの国で三番目に強い奴が負けたってね」



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勇者
勇者1


 大勢の人が行き交っている。

 そのような光景なら、どの国でも見られるものだ。しかしこの国で見られるものは、どんな国よりも賑やかである。

 果たして横に何人の人が並んでいるのだろうか。時折荷物を積んだ大きな馬車が通るが、人々が左右に少し避ければ、馬車は立ち止まる事もなく進んでいける。

 道の左右には店が立ち並び、どの店も大勢の人が覗き込んでいた。商売も活発なようだ。並ぶ商品も綺羅びやかな装飾品、美味な食材、一級冒険家でも簡単には仕留められない猛獣の牙など、多種多様かつ高品質。高級店だけでなく低所得者向けの店、例えば安くて美味くて量が多い飯屋も数多く並んでいる。選択肢の豊富さはそれだけ多くの産業を養う事が出来ているという意味であり、都市の経済的豊かさの指標と言えるだろう。

 また建物は煉瓦作りの豪勢なもので、非常に頑強な作りをしていた。道路も四角い煉瓦で舗装されていて、非常に歩きやすい。ただ煉瓦を焼くだけなら小さな部族にも出来るが、歩きやすい道や丈夫な建物を作るには、狂いない採寸で量産しなければならない。それには高い技術力が必要だ。

 何処を見ても、どの国よりも文明が発達している事が窺い知れる。しかしそれも当然であろう。

 此処こそが人類の誇る世界の中心にして、最も栄えている文明の本拠地――――王国の首都・王都なのだから。

 

「いやー、此処に来るのは久しぶりだけど、前より栄えてるんじゃないかしら」

 

 賑やかな都市の様相に、スピカはちょっとばかり興奮した口振りで語る。

 スピカは都市よりも自然が好きであるが、王都ほどの賑やかさには素直に感嘆する。人間が自然相手に戦い、勝利した結果がこの大都市だ。先人達の努力や苦労の結晶を、嘲笑ったり嫌ったりするような気持ちにはなれない。

 スピカですらこうなのだ。辺境出身のウラヌスは、さぞや大興奮……

 と思いきや、今日は妙に大人しい。

 不思議に思いながらちらりと横に目を向けると、ウラヌスはスピカの傍でおどおどしながら歩いていた。服の一部を指で摘み、見た目以上に幼い子供のような振る舞いをしている。

 可愛らしい姿であるが、どうにも様子がおかしい。『国境都市』では人の多さにはしゃぎ、単独行動を始めたぐらいなのに。

 

「どしたの? 体調でも悪い?」

 

 尋ねてみると、ウラヌスは目を伏した。しばし考え込み、それからぽつぽつと語る。

 

「……雰囲気が嫌だ。此処もピリピリしてる」

 

「成程ね」

 

 返ってきた理由に、スピカは納得した。

 王都は賑やかだ。人が大勢行き交っているのだから静かな筈もない。しかし人々の纏う雰囲気は、決して明るいものではなかった。

 あちこちで聞こえてくる噂をする声は、怯えたように潜めたもの。店からはあれが高いこれが高いと客が文句を言い、嫌なら買うなと罵声があちこちから聞こえてきた。並んでいる品は、確かに高級品が多いが、数が少ない。行き交う人々の顔は暗く、口論の声も絶えない有り様。

 それに――――

 

「がぅっ!」

 

「ひっ!?」

 

 不意にウラヌスが、獣のような声で吼える。

 吼えられたのは痩せ身で、ボロ服を着た、卑屈な笑みを浮かべている子供。スピカもそちらに視線を向け、子供と目が合う。すると子供は涙目になりながらバタバタと、大急ぎの足取りで離れていく。

 ウラヌスはなんとなく『嫌な感じ』を覚えて反射的に吼えたのだろうが、スピカは子供の目的を察した。恐らく、スリであろうと。

 王都は見た目同様に豊かな国だ。勿論だから貧困に喘ぐ子供がいない、とまでは言わないが……極めて少ないのは確か。しかも豊富な税収に物を言わせて、数少ない浮浪児を保護するための施設もあると聞く。

 そんな王国でスリの子供を見た。一人ぐらいなら、そういう子もいるだろうと流しても良いのだが……

 

「全く。変な気配で近付くから、また吼えてしまったぞ。これで三人目だなー」

 

 滞在初日で三人もやってきたなら、偶然で片付ける訳にはいかない。

 親に養ってもらえない、或いは親に盗みを命じられた子供が、かなり多い。保護する施設がある事を鑑みれば、国の対応が間に合わないほど急激に増えたのだろう。道中の店の様子も含めて考えると、経済情勢の急速な悪化が窺える。

 治安と雰囲気と経済、何もかもが極めて悪い。国境都市も雰囲気が良かったとは言えないが、王都の空気の悪さはそれ以上だ。鈍感で能天気なウラヌスも、流石にこの空気は読まずにいられなかったらしい。

 

「(まぁ、普段ならこんな殺伐とした空気じゃなかったんだろうけどね)」

 

 そして都市の空気が悪化した理由に、スピカは心当たりがある。

 『魔王』だ。

 ――――魔王が王国に侵入してから、かれこれ一月の時が流れた

 国境都市から進み、スピカ達が王都へと辿り着くまで一ヶ月。魔王との戦いで倒れた兵士達から金品を拝借(結局追い剥ぎをした)した事で、金稼ぎなどの無駄な時間は費やさなかったが……何分旅をしていれば猛獣に出会う事や、大雨に遭遇する事もある。全体的に旅路は順調だったが、それでも短くない時間が掛かってしまった。

 この一ヶ月の間に魔王は様々な行動を起こしていたらしい。

 曰く、なんとか村が焼き尽くされて滅びた。

 曰く、森の守り神だったドラゴンの群れが虐殺された。

 曰く、何百といた家畜が無惨に殺された。

 曰く、訓練中の部隊が幾つも行方知れず。

 旅の中でスピカ達はそんな噂を幾つも聞いた。噂というのはドラゴンよりも速いもので、瞬く間に彼方まで飛んでいく。これらの噂は王都にも届き、市民に不安を与えているのだ。不安は買い占めなどの行動を誘発し、品不足を引き起こしているのも空気をピリ付かせている要因だろう。

 そして王国騎士団第三部隊が、未だ帰還してない事が『噂』の信憑性を高めている。

 王国で三番目に強い騎士団が連絡出来ないほどの『何か』がある……国民がこの国に迫る危機を予感するには、十分過ぎる出来事だ。それでいてハッキリとした原因が分からなければ、不安を解消する事は勿論、不安を誤魔化す怒りのぶつけ先も分からない。そうなると手近なものに発散するしかなく、理不尽な怒りをぶつけられた相手は別の相手に……そんな負の連鎖が社会の雰囲気を悪化させていく。そして根も葉もない噂ではなく本当に被害が出ているため、王都に運ばれる品の不足や品質悪化が起き、国民生活が危機を迎えているのだろう。

 不安に負けず冷静な対応を、と言葉で言うのは簡単だ。いや、こんな事を言う輩は()()()()()()()()()()()と言うべきか。根拠があるなら兎も角、根本の問題に手を付けていない以上、落ち着けという言葉自体が言い逃れでしかない。

 

「(この状況の打開策は一つ。魔王を打ち倒す事)」

 

 そのために必要な道筋は、既にスピカの頭の中には描けている。残る問題はそれを実現する事だ。

 無意識に、スピカは腰の袋にしまっている『装飾品』に手を伸ばす。確かにそれが自分の手許にまだある事を確かめ、深く息を吐く。流石にこれを盗まれると、もう本当に打つ手がないのだ。

 そしてここからが本番。魔王を倒せるかどうか、その一番重要な命運が、ここで決まる。

 

「……良し。行くよ」

 

「うん」

 

 素直な返事をするウラヌスと共に、スピカは人混みを掻き分けて前へと進む。

 目指すは眼前にそびえる、この国で最も大きな建物。

 統治者である王の居城へと、二人は迷いない足取りで進むのだった。



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勇者2

「出来ません」

 

 きっぱりと、突き放すように掛けられた言葉。コイツら何言ってんだと言いたげな、非難の眼差しまで付け加えて。

 スピカ達がいるのは、とある建物の中。天井にはシャンデリアが聳え、赤い染料で染められた絨毯が引かれている。柱や壁は恐らく大理石で出来ているようだが、どれもひび割れなどがない高品質なもの。豪華絢爛という言葉は、この建物のためにあるのだと思わせる。

 そして何より、広い。この場にはスピカとウラヌスのみならず、何十もの人々が行き交い、それでも狭さを一切感じない。小さな村であれば、此処だけで村長の家が数件入ってしまいそうだ。

 人々が向かうのは、ずらりと並んだ受付。スピカ達はその受付の一つの前にいて、そこにいる眼鏡を掛けた若い女性(眼鏡という高級品を身に着けている時点で彼女の豊かさが伺い知れる)が先の言葉を投げ掛けてきた人物だ。

 女性の言葉にスピカはやっぱり駄目かと、諦めたように笑う。対してウラヌスは納得出来ないようで、首を傾げながら尋ねてくる。

 

「駄目なのかー?」

 

「駄目です。規則で定められています」

 

「うーむ。しかし会えないと困るぞ」

 

「あなた方が困ろうとも、私はあなたを通せません。規則ですから」

 

 ウラヌスが粘るように話し掛けるが、それでも受付女性は意思を曲げない。ぷくりとウラヌスが頬を膨らませても、女性は凛とした顔立ちのまま。儘ならない状況にウラヌスはすっかり不機嫌な様子だ。

 しかし受付女性は決して意地悪でこんな言葉を返しているのではない。むしろ無作法なのはスピカ達の方だ。

 何しろスピカが求めているのは、この国の統治者である王との謁見なのだから。

 

「(すんなり行けば良かったけど、そんな訳もないよね)」

 

 予想通りの展開。悩むように自身の顎を触りながら、自身の言い分の非常識さを思い返す。

 王との謁見。

 国によって、その言葉の重さはそれぞれだ。例えば昔スピカが訪れたとある国では、旅行者であるスピカでも簡単に謁見出来た。その国がとても小さく、王と臣民の距離が極めて近い(そして暗殺されるとは夢にも思わないぐらい治安が良い)から叶った事である。

 しかし王国では、こんな簡単にはいかない。王は国の統治者。万が一王の身に何かあれば、政治に大きな乱れが生じてしまう。そもそも国民の数が膨大で、陳情を一つ一つ聞いていたら王の身体が幾つあっても足りない。

 そのため通常、王と直接会話が出来るのは貴族のみと決められている。どんな立場であろうと、基本的に一般市民が直接王に会う事は出来ない。ましてや冒険家などという流れ者に出会ってくれる可能性は極めて低い。気紛れな暗愚ならば兎も角、賢王ならば尚更に。

 スピカとしても、暗愚より賢王を望む。ではどうすべきか?

 方法は二つ。一つは貴族を介して王に伝えてもらうというやり方。これが王にこちらの言葉を送る正式な方法であり、この受付でも普通は貴族との謁見を求めるやり取りが行われる。

 貴族は臣民の声を聞き、自分に出来る範囲の問題ならば私兵を動かすなりして対応する。それが無理な、国単位の話だけが王に伝えられるのだ。この方法であれば、臣民は一人しかいない王と謁見するべく行列を作らなくて良いし、王が過労で倒れる心配もない。また貴族で解決可能な簡単な問題を上まで送った結果、国家運営を煩雑化させるような事態を起こさずに済む。平時では極めて効率的なやり方と言えよう。

 しかしこの方法の欠点として、時間がとても掛かる事が挙げられる。貴族を間に介し、貴族の判断を待つのだから当然の問題だ。勿論個々の問題には優先順位が付けられ、例えば隣国が攻めてきた、等の話は直ちに王へと伝えられる。だがこれは話を聞いた貴族の匙加減で変わってしまうもの。最悪、伝え忘れがあるかも知れない。

 スピカ達にそんなのんびりとしている暇はない。魔王の存在と対応を、一刻早く、正確に伝える必要がある。

 だから二つ目の方法――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()しかない。王が謁見を許せば、流れ者でも謁見は可能だ。村を荒らす凶悪なドラゴンを倒した冒険家が、褒美を与えるという名目で謁見するというのは稀に聞く話である。

 スピカにそのような功績はない。だが必要なものは持っている。

 

「……受付さん。ならこれを、貴族の方に見せてください」

 

 スピカは今まで大事に持っていた、一つの装飾品を受付女性の前に出す。

 最初、受付女性は訝しげな眼差しで出された装飾品を見た。しかしすぐにその顔を青くし、スピカの顔を再び見る。

 スピカが真剣な面持ちで頷けば、受付女性は跳び上がるような勢いで立ち上がった。

 

「す、すぐに、上に掛け合ってきます!」

 

 そしてバタバタと、お世辞にも品のない走り方で去ってしまう。

 

「んー? どうしたんだ急に?」

 

「どうしたんでしょーね」

 

 分かっていないウラヌスは首を傾げ、分かっているスピカは誤魔化すようにオウム返しをする。

 これで、出てきた相手が王でなかったとしても、大した問題ではない。

 スピカが会いたいのは、厳密には王ではなく、魔王対策を行っている者なのだから。

 王国騎士団の階級章、カペラの『形見』を渡せば、きっとその人物が現れる筈だとスピカは確信しているのだった。

 ……………

 ………

 …

 受付にカペラの形見を渡してから、一時間ほど待たされただろうか。

 受付女性が戻ってきた時、ウラヌスはすっかり退屈していたが、スピカとしては思っていたよりも早いと思った。渡した階級章が本物であるか精査しなければならないし、本物だと分かっても誰が対応するかで揉めると予想していたからだ。

 正直、丸一日ぐらいなら待たされても仕方ないと考えていた。返事はまた明日、という返事が来るまで二時間は掛かるとも考えていた。

 故に一時間で受付女性が戻ってきた事に驚いたし、その女性から「一緒に来てほしい」と言われたのは少しばかり戸惑う。

 ましてや別室で、貴族やら騎士やらに囲まれている『現在』の状況は、スピカにとって完全に想定外だった。

 

「なーなー、スピカ。ここで王様と話が出来るのか?」

 

「そ、そうなんじゃ、ない、かな……?」

 

 椅子に座らされたスピカに、その隣に座るウラヌスが尋ねてくる。世間知らずなウラヌスは余裕があるようで、スピカの返事はぎこちない。

 勿論そんな自分の声はスピカの耳にも届いている。冷静さを失うのは良くない。冷静さを取り戻すためには、現状を正しく認識するのが重要だ。

 ちらりちらりと視線を左右に動かし、スピカは自分達の周りに座る者達を見遣る。

 絢爛豪華な衣服を着た者が五人、華美な装飾を付けた鎧を着込む者が八人。前者は恐らく貴族であり、後者は騎士団の団長だと思われる。貴族についても筋肉隆々な者、或いは鋭い目付きの者ばかりで、『武家』……戦で活躍した名門貴族だと思われる。つまり此処に集まっている面子は、いずれも優れた戦士という事だ。

 そんな戦闘集団の中で、特に目を引くのがスピカ達の真正面に座る者。

 身長二メトルを超えていそうな巨躯と、それに見合った横幅を持つ体格。腕の筋肉はクマのように太く、鎧を着込んだ胸板は獅子よりも逞しい。ヒゲを長く伸ばした顔立ちは、野獣染みた(それでいて丹精で割と美形に属する)ものをしている。

 彼との面識はない。だが、その名は恐らく聞いた事がある。

 

「(多分、あの人が王国第一騎士団団長……アルタイル、か)」

 

 若干十八で王国騎士団一番隊の隊長となり、以来三十年間一度もその地位を譲らなかった、名実共に最強と謳われる騎士。真偽不明の噂では、大陸最強と名高いバハムートを三日三晩の死闘の末に打ち倒したとかなんとか。

 よもやそんな大物が現れるとは思っておらず、スピカはますます身体が強張るのを感じた。傍にいるウラヌスがアルタイルに熱い視線を送っていたが、間違いなく強さにキュンキュンしているだけ。頭空っぽな彼女がいきなり彼に殴り掛からないか、不安になってくる。

 

「……さて、そろそろ話をしよう」

 

 その不安は、アルタイルらしき人物が発した一言で更に強まる。

 重々しい言葉遣い。どしんっと胸に何かが伸し掛かったような、そんな感覚を覚えた。どうにかスピカは背筋を伸ばし、「はい」と返事だけはする。

 

「まずは自己紹介をしよう。私は王国第一騎士団団長、アルタイルだ」

 

「おー。スピカ、確か第一騎士団は一番強いんだよな? コイツ、一番強いのか?」

 

 アルタイルが名乗ると、ウラヌスが空気を読まない発言をした。周りからの視線が一気に集まり、スピカは息が詰まる。

 それを弛めたのは、ある意味元凶の一人であるアルタイル自身だ。

 

「まぁ、そういう事になっているがね。しかし他の皆もそれぞれ強いし、速さや力では私以上の者も少なくない。あまり持ち上げられると、少し気後れしてしまうよ」

 

「そうなのか? でもお前、私が会った中じゃ二番目に強いぞ! 私の村の村長より、多分強い! 村長は村で一番強いのに、お前凄いなー!」

 

「ははは。それは光栄な事だ……ところで一番強いのは誰だったのかな?」

 

 強面の口から出てくるのは、割と砕けた話し言葉。意外と話しやすい人物なのだろうか? そう感じたスピカはまた少し、身体の強張りが解ける。

 

「魔王だぞ! アレはお前より何十倍も強いな!」

 

 尤も、ウラヌスの迂闊な発言を境に、また空気がピリピリとひりつき出したが。

 

「……魔王。そうか、魔王か」

 

「あれは凄かったぞ。何しろ」

 

「ウラヌス、ちょっと黙ってて」

 

 空気を読まず語り続けようとするウラヌスを制止。ウラヌスは目をパチクリさせながらも押し黙るが、空気のひりつきは収まらない。

 静かに、アルタイルが息を吐く。

 アルタイルの纏う雰囲気に、スピカは思わず息を飲んだ。襲われる、なんて感覚は抱かない。しかし明らかに行き場を見失っている力の昂ぶりに、緊張感を覚えてしまう。

 やがてアルタイルは首を横に振り、また息を吐く。今度は深々と、それでいて力を抜くように。

 

「我々も、勿論魔王について把握はしている。第三騎士団に調査を命じたからね。しかし彼女達だけで行かせたのは、彼女の能力ならばそれが十分可能だと判断したからだ。勿論彼女の部下達が一騎当千の働きをする強者なのも、その判断の材料になっている」

 

 絞り出した声は、微かに震えていた。悔やむような、堪らえようとして堪えきれなかったような、そんな声色。

 

「我々は知らねばならない。何故、彼女達が失敗したのか。知らなければ同じ過ちを繰り返し、また犠牲を出してしまう。彼女達の死が無意味になってしまう」

 

 続けた言葉は、力に満ちていた。決意するように、或いは自分を鼓舞するように。

 

「だから聞かせてほしい。第三騎士団に何があったのかを」

 

 そしてスピカ達に投げ掛けた言葉は、心から懇願するようなもの。

 人の心というのは、分からない。純粋な本能で行動する野生動物と違い、技術一つで何もかも偽る事が出来る。詐欺師は得意とする事だし、政治に関わる者なら必須の技能と言えよう。王国最強という『政治的肩書き』を持つアルタイルも、きっと身に着けている筈だ。

 ただ、此度のアルタイルの言葉に嘘はないと、スピカはなんとなくそう感じた。確証はなくとも、確信はしている。仮に演技の類だとしても、どの道全て話すつもりだったのだから問題はない。隠しておこうという気は一切湧かず。

 求められるがまま、スピカは語った。

 第三騎士団(カペラ)との出会い、関わり、そして終わりを――――



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勇者3

「……以上が、私達の見たものです」

 

 魔王とカペラの末路について話し終えた後、スピカは室内を一望する。

 貴族達も、騎士達も、口を開かない。

 誰もが何かを考えていた。何を考えているのかと、聞くのを憚られるぐらい真剣な顔をしている。スピカも自然と口が閉じ、何も言わないまま席に座り直す。

 しばしの沈黙が流れた後、最初に話し始めたのはアルタイルだった。

 

「まずは、感謝を述べよう。ありがとう。君達が教えてくれた事で、第三騎士団が人々のために最後まで戦ったと証明された。彼女達の名誉は守られた」

 

「いえ……私も力及ばず、誰も助けられずに申し訳ありません」

 

 アルタイルの言葉に、スピカは頭を下げながら謝罪する。

 社交辞令、のつもりはない。自分が万能の存在になれるとはこれっぽっちも思っていないが、あと少し、何かが出来れば、違う結果があったかも知れないとは思う。

 かも知れないを語る事自体が無意味な事だとも思うが。終わった事についてあれこれ考えても、もうどうしようもない。それを糧にして、『次』をどうするのかが正しい(合理的な)行いだ。

 

「……悔やんでいるところ申し訳ないが、率直に聞こう。王国騎士団の戦力を全て投じたとして、魔王を打開出来ると思うか?」

 

 アルタイルからの問いに、スピカは僅かに息を詰まらせた。

 周りの視線が、突き刺さる。

 敵意、ではない。それは真剣さを露わにした眼差しだった。国難だからこそ、世辞を抜きに教えろと目で命じている。

 元より、スピカはそのつもりだ。でなければ此処まで来た意味がない。

 

「私見ですが、王国騎士団だけでは足りないと思います。第三騎士団と魔王の戦いは一方的なものであり、騎士団が幾つ集まっても、一方的に蹂躙されたでしょう」

 

「ふむ。具体的にどのような戦いだったか、聞いても良いか?」

 

 真偽を確かめるためか、アルタイルは詳細を訊いてくる。スピカにとっては想定内の問いだ。既にどう答えるかは頭の中に描いている。

 語るは、自分が体験した戦い。魔王が見せた数々の魔法を、誇張なく、ありのまま伝える。

 そう、誇張はしていない。だがそれでも魔王の力はあまりにも非常識なもの。語っているスピカ自身そう思うのだ。話を聞いていた貴族や騎士の顔付きが、少しずつ訝しむようなものに変わるのも必然だろう。

 

「成程。それは圧倒的だな、想像以上に」

 

 スピカの話をそのまま受け入れたのは、アルタイルだけだった。

 

「アルタイル。騎士団どころか王国所属でもない、一般冒険者の話を鵜呑みにするのは如何なものかと」

 

「そうだ。確かに魔法の存在は第三騎士団からも報告されていて、それが条理を覆す力なのも聞いている。だがこの娘の語る魔王の力は、あまりにも非常識だ」

 

「人々を巻き上げるほどの竜巻に、雷を自在に落とすなど最早『悪魔』の所業ではないか。魔王と魔物が別格だとしても、限度があろう」

 

 頷くアルタイルに対し、貴族や騎士達が次々と忠言してくる。スピカに直接言ってはこないが、要するに「お前の話は胡散臭い」という感想だ。

 正直に語っているスピカからすれば、なんとも失礼な話である。

 されど貴族達の立場からすれば、至極尤もな反応だろう。冒険者という仕事はしているが、立場的にスピカは一般市民。どんな人間が知れたものではない。極論、他国の間者が王国の混乱を目論んでいる疑いもある。国を統治する者として、最悪は想定しなければならない。

 

「だが、レグルスは彼女を信用した。私は仲間である騎士の感覚は、基本的に信頼しているんだ」

 

 しかしその当然を、アルタイルはこの真っ直ぐな言葉で反論した。

 気障ったらしい台詞なのに、嫌味に感じられないのは人徳からか。強くて紳士的なんて、こうも完璧な人間がいるのかとスピカはやや唖然としてしまう。

 貴族や騎士達にとっては日常なのか、誰もがやれやれと言わんばかりの空気を醸すだけ。それでいて反論がないのだから、アルタイルという人間を、騎士はおろか貴族達さえも信用しているらしい。

 

「大体、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()とは思えないからな。彼女の実力は、皆知っているだろう?」

 

 そしてその信用は、単に人徳だけでなく、論理的な思考にも裏打ちされているのだろう。

 ……信用や戦闘能力がそのまま権力に繋がる訳ではない。

 だが貴族達や王を説得する上で、アルタイルほど適任の人間はいないだろう。きっとアルタイルならば周りに政治的判断を促し、大軍を動かせる筈だ。魔王討伐のためには多くの戦力が必要であり、それを可能とする人材との繋がりをスピカは求めていた。それがこうも容易く接触出来るとは、かなりの幸運であろう。

 カペラこと王国第三騎士団団長レグルスのお陰と言っても過言ではない。命を賭けた彼女の行いは、決して無駄になっていない。

 無駄にしないためにも、スピカは身体を前に乗り出す。

 

「ありがとうございます。もう一つ私の意見として、様々な冒険家を集めるのが良いと思います」

 

「ドラゴン退治の専門家だけで事足りるのではないか?」

 

「お言葉ながら、魔王はドラゴン……ましてやワイバーンと思わない方が良いです。あれは魔王という存在であり、何をしてくるか予想も出来ません。奴が本気を出した時、様々な視点から意見を出せるようにすべきかと」

 

「ふむ、成程な。確かに、君の話が確かなら我々は魔王に対し、あまりにも知らない。何分情報も殆ど入っていないしな」

 

「……接敵したと思われる部隊が行方不明なのも、これで説明が付くか。単純に、跡形もなく吹き飛ばされたのだろう」

 

「いや、しかしなんのために? 食べるだけなら『残り』も出るだろうし、怒りを買ったにしても逃げた兵士すら逃さないのは異様だぞ。これではまるで」

 

「自分の痕跡を残さないため。だとしたら、まるで人間のような賢さだな」

 

 アルタイルの言葉を境に、場が沈黙する。スピカは飲み込んだ自分の息が、随分五月蝿く感じられた。

 そう、それもまた認識しなければならない事。

 生物というのは時として人間でも驚くような『知的』な行動を、考えなしの本能で成し遂げてしまうものだが……それは基本的に、生きていくために必要な技である。それ以外に知的な本能を見せる事はない。

 魔王は帝国軍と第三騎士団を全滅させた際、雨を降らせた後に雷を落とし、全員を焼き殺した。しかし空飛ぶワイバーンにとって、雷とは自分に当たりやすい危険な自然現象。逃げ出すなら兎も角、それを利用するような生態は考え難い。

 だとするとあの技は、魔王が自分の頭で考え出した筈だ。加えて単に雷を落とすだけでなく、水を使って影響範囲を広げている。水に濡れると雷が通りやすくなる事を理解するというのは、人間並の知能が必要だろう。

 それに……

 

「(アイツ、遊んでいた……殺しも、何もかも)」

 

 脳裏に浮かぶ、下品な笑い声を出す魔王の姿。冷静に考えてみれば、あれもまた優れた知能を示す仕草だ。犬猫が本能的に小動物を追い駆けるのとは違う、高度な『遊び方』を理解している証。

 獣相手に人間が優位に立てる点は二つ。一つは射程距離であり、もう一つは知能だ。この二つを如何に活かすかが、人間が大自然で生き抜くコツなのは今更言うまでもない。

 だが、魔王は魔法と知性によりこの二つに並び立つ。

 優位性が失われ、力では劣る状態。これでも勇気やら友情やらで勝てると考えているうちは、決して勝利は得られない。

 重要なのは認め、受け入れる事。無駄に高慢ちきな種族である人間には、中々難しい事であるが……スピカのみならず、王国最強の騎士であるアルタイルもそれが出来る人物だった。

 

「話は分かった。君の意見は尤もなものであると私も思う。可能な限りその意見は取り入れよう」

 

「ありがとうございます」

 

「さて、こちらとしては訊きたい事は終わった。そしてこの事は、まだ国民には知らせられない。混乱を招く恐れがある」

 

「……ええ、分かります。誰に聞かれても公言するな、という事ですね?」

 

「話が早くて助かる。勿論タダとは言わない。第三騎士団について教えてくれた事への謝礼もしよう。金と貴金属、望む形で与える」

 

 アルタイルはそう言いながら、スピカの目を見つめてくる。どのような答えを返してくるか、興味があると言わんばかりに。

 金品云々は報酬というだけでなく、口止め料も兼ねているのだろう。事が事だけに、相当の金額をぼったくれる筈だ。しかしあまり図に乗ったり、或いは脅すような真似をしたりすれば……この場にいる貴族や騎士達を敵に回す恐れもある。だからといって相手に一任すれば、しょうもない金額しか渡されない可能性も否定出来ない。言質は必要だ。

 普通ならば、交渉能力の見せ所というべきか。されどスピカは端から金品をもらうつもりなどない。

 その金額と引き換えに、欲しいものがあるのだから。

 

「金品はいりません。ですが、代わりに頼み事があります」

 

「頼み?」

 

 貴族や騎士達の視線がスピカに集まる。

 その視線に含まれているのは、恐らく疑問の感情。金以外に何を欲するのか、分からない様子だ。彼等はスピカの事など何も知らないのだから、分からなくて当然である。

 ただ一人、アルタイルだけは全てを見透かしているようであるが。

 流石は最強の騎士と言うべきか。或いは単なる演技なのか。いずれにせよ、スピカが返す言葉は決まっている。

 そのために此処まで来たのだ。

 

「私も、魔王討伐作戦に参加させてください。アイツとの決着だけは、見届けたいのです」

 

 自分の復讐は、まだ終わっていないのだから――――



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勇者4

 時の流れは早いもので、スピカ達が王都に辿り着いてから早くも一月が流れた。

 いや、或いはあまりにも様々な事があったがために、スピカにとっては早いように感じた、と言うべきだろうか。

 まず王国は魔王の存在を公表。国民に冷静な対応を求め、また王国騎士団の総力で対処すると表明した。無論物資の高騰などが現実に起きている以上、不安になるなと言うのも無理な話。人々は困惑したが、されど王国は備蓄していた食糧などを惜しみなく放出。貧困に喘ぐ人々の救援を行い、治安の回復に努めた。

 同時に、魔王討伐のための人手を募集。戦闘に関わる人は勿論、荷運びや建設にも多額の報酬を渡し、職を失った人々に仕事を与えた。人間というのはなんやかんや生来真面目な(或いは刑罰が如何に損であるかを自覚出来る)生物で、仕事を与えられると大きな犯罪などは起こし難くなる。それに賃金があれば食糧や衣服を買い、経済効果が生まれる。これにより治安と経済、二つの回復効果を見込めた。

 高度な経済活動により富んでいた王国は、国民生活改善のための策を次々と繰り出す。効果は覿面で、ギスギスしていた王国の空気はこの一ヶ月で劇的に回復している。

 尤も、三日前にはそれも終わりを迎えたのだが。

 

「……いよいよ、か」

 

「いよいよだなー」

 

 立ちながらぽつりと独りごちたスピカの言葉に、ウラヌスが同意の言葉を返す。独り言が会話になった事に、スピカは少しだけ笑みを綻ばす。

 ただしその顔は、すぐに引き締まったものへと変わったが。

 スピカ達が立っているのは王都内にある大広場。市民の憩いの場として使われていたそこは今、何百という数の天幕が張られ、その間を数え切れないほどの人々が行き来していた。

 一番多く見られるのは、頭から爪先まで銀色の鎧に身を包んだ王国兵士。勲章も何も持たない一般兵士が、何千と歩いている。

 次いで多く見られるのは、一般的な王国市民。ただしその服は王国で一品的な絹(王国では割と安物らしいが、他国では絹というだけで高級品である)ではなく、丈夫な麻で出来たもの。彼等は荷車を手で押したり、或いは麻袋を抱えたり、肉体労働に励んでいる。

 そして三番目が、スピカ達のような冒険家だ。兵でも市民でもない、冒険に適した革製鎧を纏っているので一目で分かるというもの。こちらは何人かで集まって話し合ったり、自分の武器を手入れしたりしていた。

 三者三様、と言いたいが、彼等の顔には共通点がある。誰もが緊張した面持ちをしているのだ。かくいうスピカも表情筋が強張っていると、自覚出来ている。例外なのは隣にいるウラヌス……ニコニコと楽しそうに笑っている……ぐらいだとスピカは思っていた。

 

「よぉ、スピカじゃないか。元気していたか?」

 

 ただ、今この瞬間にもう一人増えたが。

 ハッとして振り返ると、そこには見知った顔がいた。身長百八十セメトはありそうな大男で、屈強な肉体と強面の持ち主の癖に、人当たりの良い朗らかな笑みを浮かべている……

 かつて帝国の首都で出会った、先輩冒険家だ。

 

「えっ。嘘、先輩!? なんでこんなところに!?」

 

「なんでも何も、結婚したから王国に居を移すって前に話したろ」

 

「え、えぇ……そうでしたっけ……?」

 

 あの時の話は適当に聞き流していた、なんて言えずスピカは目を逸らす。尤も、それこそ小さな頃から世話になっているこの大先輩にそれが通じる筈もない。じっとりとした非難の眼差しを向けられ、ますますスピカは顔を逸らすしか出来なくなる。

 大先輩はため息を吐きつつ、その眼差しを瞬きと共に止めた。

 

「……まぁ、良い。それより、お前も此処にいるという事は、あの仕事を受けたのか」

 

 次いで、スピカの仕事について尋ねてくる。

 あの仕事、とは勿論此処で大勢の冒険家達が協力して行う仕事――――魔王退治の事だろう。

 様々な冒険家を集めて、多様な意見を得られるようにした方が良い……スピカがアルタイルに行った助言。あれはちゃんと受け入れられていたらしく、後日、王国から正式に冒険家の募集が行われた。専門や階級は問わず、素行の良さも基本的には求めない。難なら途中で逃げても良い。要求するのはただ一つ。

 魔王と戦い、結果として命を落としても王国は見舞金しか出さないという誓約のみ。

 

「ええ、受けましたよ。前に話したでしょ、私の故郷を焼いたワイバーンの事。アイツがそれです」

 

「……成程。まぁ、気持ちは分かるが、しかしだな」

 

「これだけはいくら先輩の言葉でも受け入れませんよ。それより、先輩こそこんな危険な依頼をなんで受けたのですか。結婚したんでしょう?」

 

 窘めようとする先輩冒険家に対し、逆にスピカは問い詰める。

 こう言うのも難だが、スピカは身寄りのない人間だ。魔王にぐちゃぐちゃに潰されて死んだとしても、そこまで大仰に悲しむ者はいない。

 しかし先輩冒険家は違う。彼は結婚し、子供もいる身だ。今になって思い返せば、確か子供のために王都へ引っ越すと言っていた筈。彼には、彼の死を悲しむ者がいる。それに彼自身も出来れば家族の傍にいたいだろう。

 これから魔王が王都に来るのだから、尚更に。

 

「……魔王討伐作戦。聞いた時には驚いたもんだ」

 

「斥候からの連絡で、今まで王国各地を荒らし回っていた魔王が、突然王都目指して直進したそうですからね。その足止め作戦なんて、正に死にいくようなものです」

 

 魔王が何故当然王都目指して動き出したのか、理由はハッキリしていない。飛行速度自体はゆっくりであり、急いでいない事から、単なる気紛れというのが有力視されている。

 しかし気紛れだからこそ、対応は極めて難しいものとなった。斥候から報告ではゆっくりとした速さでの移動であるが、気紛れ故に突然加速するかも知れない。だからといって国民を避難させても、いきなり進路を変えて、避難先となった別の都市を襲うかも知れない。行動が読めず、判断が極めて難しい。

 それでも王国は、国民の避難を行う事に決めた。

 避難経路は魔王の予想進路と同じ向き。つまり魔王に追われる形での避難となる。無論このままでは、魔王の狙いが王都市民ならばいずれ襲われてしまう。

 そこで王都内に兵や冒険家を展開。魔王の足止め、そして討伐を行うという作戦を始めた。

 今、此処にいる作業員達や冒険家は自主的に残った者達だ。王国は一切強制していない。残る理由は様々で、スピカのような復讐目当ての者もいれば、支払われる報酬目当ての者もいる。

 

「嫁と子供のために命を懸ける。それが男ってもんだ」

 

 そして先輩冒険家のように、家族を守るために残る者もいるのだ。

 

「……今時これが男だーみたいに言われましてもねぇ」

 

「うるせぇ。これが俺の生き様なんだよ、文句あっか」

 

「勿論、ありませんよ」

 

 生き様云々で、スピカが人に言える事などない。普段は人の世から離れて暮らし、仇を見るや一直線。客観的に見れば、いや事情を鑑みても、割と直した方が良い悪癖のようにスピカ自身思う。

 そんなスピカと比べれば、家族のために戦おうという先輩は遥かにまともだ。

 

「それに、俺がいなかった所為で魔王に負けたなんてなったら、夢見が悪いだろう?」

 

 ……しかしこの冗談交じりの思い上がりは、ちゃんと正しておくべきだろうが。

 

「なーに思い上がった事言ってんですか。二級の癖に。そーいう自信満々な意見は一級になってから言ってください」

 

「三級冒険家のお前がそれを言うかね……」

 

「ふふーん。私、この前ワイバーン倒したんですからね!」

 

「は? 嘘だろ? 一級冒険家でも早々相手しないようなワイバーンを!?」

 

 嘘ではないスピカの発言(倒せたのは間違いなくウラヌスの助力のお陰である)に、先輩冒険家は驚きを露わにする。珍しい顔を見られたと、スピカはちょっと上機嫌に。

 

「……ま、まぁ、だからってお前が無理する事はないからな。怖かったら逃げて良いんだ。分かったな?」

 

 そして先輩冒険家の、本当に言いたかった事の説得力が半減してしまったものだから、ますます笑いが込み上がってくる。

 もう我慢も出来なくて、スピカはげらげらと笑ってしまった。先輩冒険家は笑われた事に不満を示すようにそっぽを向いたが、それがまた子供っぽくて、ますますスピカは笑いが抑えられない。

 ――――彼が意図した過程とは異なるだろうが、結果としてはきっと彼の思惑通り、スピカの緊張は解れた。

 だらけている事が良い訳ではないが、ガチガチに強張った身体では力も上手く出せない。何事も程々が一番というもので、今のスピカは正に『一番』良い状態になっている。

 これなら悔いのない戦いが出来る。

 

「(実際問題、此処で悔いが残る戦いをしたらそれこそ後味悪いだろうし)」

 

 王国は、現時点では最強の国家だ。圧倒的な兵力のみならず、装備の質でも世界一と言っても過言ではない。大砲などの兵器の質も、他の国々が使うものより威力・射程共に一味違うと聞く。

 そんな王国が魔王に敗北したなら、どうなるのか?

 もしかすると、世界には王国最強の騎士(アルタイル)よりも強い人間がいるかも知れない。王国軍以上の大部隊や、強い武器や秘密兵器もあるかも知れない。だが世界の覇権を握ってない以上、他の分野で王国に遅れを取っているのは確か。兵士が強くとも武器が貧相では実力を発揮出来ず、兵器があっても人がいなければ使える数に限度があり、人がいても騎士のように強くなければ烏合の衆。兵站や交代要員なども鑑みれば、やはり『最強』は王国という存在だ。王国敗北と共に、人類は魔王への勝機を失う。

 魔王といえども生物なのだから、寿命はあるだろう。特にワイバーンの場合、永遠に成長するからこそ、やがて身体の大きさに食料供給が追い付かなくなる。いくら不条理の塊である魔王でもそこは覆せない。だが、それは果たして何年後の話か? 十年二十年とこの世に留まり、国という国を破壊し尽くせば……

 ……きっと、三百年前の文明もそうして滅びた。今の人類の多くは畑や家畜から得た食糧により養われているが、それらを維持するにも文明の力が必要だ。文明が滅びれば、多くの人々が野山での生活を強いられ、絶滅まではしないにしても、野生動物と同じように大半が死んでいく。再びかつての文明を得る、百年二百年後まで。

 人類の命運を賭けた戦いといっても過言ではない。正直スピカはあまり興味もないし、万が一魔王に人間が滅ぼされたとしてもこれもまた自然の成り行きだと思うが……自分が力を発揮出来なかったのが遠因になって負けたら、流石に死んでも死にきれないだろう。

 

「(私に出来る事を、全力でやる。それしか出来る事はないし、それが出来れば良いんだ)」

 

 覚悟を胸に刻み込むように、スピカは大きく頷く。

 

「魔王の接近を確認! 戦闘員は前に! 非戦闘員は後ろに退避しろ!」

 

 まるでその時を見計らったように、辺りに力強い声が響き渡る。

 見張りをしていた兵士からの報告だ。周りの兵士や冒険家、一般人達がざわめき、動きが更に活発になる。スピカは一瞬身体が強張りそうになるが、息を吐いて余計な力を抜く。

 そしてパンッと音が鳴るぐらい強く自らの頬を叩き、不敵に笑ってみせる。

 傍に立つ先輩冒険家もにやりと笑みを浮かべていた。スピカの隣にいるウラヌスは、何時でも準備万端と言わんばかり。彼女は堂々と胸を張り、闘争心を剥き出しにした笑みを見せてくる。

 自分達の準備は既に出来ている。

 

「それじゃあ、程々に頑張るとするかね」

 

「あら、私達は凄い頑張りますよっ!」

 

「突撃だぁー!」

 

 先輩冒険家の意見を置いてきぼりにして、スピカとウラヌスは走り出した。力強い笑みと共に。

 いよいよ始まる、最後の決戦に向けて……



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勇者5

 天幕が張られた後方から出たスピカ達は、王都をぐるりと囲う防壁の傍までやってきた。

 近くには次々と冒険家達が集まり、そこで立ち止まる。同じく此処に留まる兵士達も大勢居たが、半分以上の兵士はそのまま前進。防壁の外へと出ていく。

 スピカ達はそのまま待機。しばらくすると、防壁に設置された大砲の発射音が場に響く。防壁に阻まれて外の様子は見えないが、戦いが始まったらしい。

 それでもスピカ達は動かない。まだその時ではない。

 王国側が立案した作戦はこうだ。まず一般兵及び第二〜第五騎士団が魔王との戦闘を行う。冒険家達は後方に控えておき、万一騎士団の攻撃を突破した魔王を叩く。

 このような作戦になった理由は、まず王国としての『威信』を見せるため。魔王により第三騎士団が全滅した事で、騎士団の威信に大きな傷が付いた。威信というのは何も矜持云々の話ではない。「あの国の騎士団ってもしかすると弱いのでは?」と思われた場合、侵略戦争を招く恐れもあるのだ。魔王にも勝てると証明する事は、国防上重要な事である。

 もう一つの理由は、市民を戦いの場に出したくないため。冒険家といえども立場上は一般市民だ。これを魔王の戦いに出すのは、市民を戦争に動員するのと変わらない。周辺国から非難されたり、国民から反発が出たりする可能性がある。相手が相手だけに仕方ないと思うが、声が大きい人間というのは大概相手の事情など気にしないものだ。よって反論出来る状況を作らねばならない。

 つまり騎士団が先に出て、どうにもならなくなってから冒険家(市民)も協力するという流れが必要なのだ。

 

「(要するに、政治的な理由な訳だ)」

 

 兵士達を見送ったスピカは、呆れてため息を吐く。

 政治自体をくだらないとは言わない。政治というのは本来、権力や支配に関わるもの。適切な政治は社会を安定させ、人々の安寧と繁栄をもたらす。実際此度の王国の考えも、国防や治安維持の観点から見れば正しい判断だ。

 されどこれは人間の都合である。人間社会だけで完結する話なら良くても、自然がそこに混ざると思うようにはいかない。自然は、政治という『理性的』なものの対極に位置するのだから。

 ましてや超常的な力を持つ魔王が相手では……

 

「俺達の出番、あると思うか?」

 

「どうだろうな。流石に三騎士団も行けば、十分じゃないか?」

 

 心配するスピカだったが、傍にいる冒険家達からは楽観的な言葉が聞こえてくる。甘く見るなと窘めたくなるが、彼等は魔王の実力を知らない。それに、彼等の考え自体はスピカも納得出来る。

 確かに第三騎士団は魔王により呆気なく壊滅した。しかし今回はそれを上回る実力の第二騎士団、そして僅かに劣るとはいえ匹敵する騎士団が二つ、合計三騎士団が応戦する。兵力というのは数が多いと、数以上の力を発揮するという。一人では抑えられない死角や攻撃間隔を、仲間が補ってくれるからだ。三騎士団で一斉に挑む事は、第三騎士団の三倍以上の力で魔王に立ち向かうのと同義。

 いくら生態系の頂点であるドラゴン相手とはいえ、騎士団一個ですら普通ならば過剰戦力。ましてやその三倍の戦力ならば、常識的に考えて勝負は見るまでもない。

 魔王の実力を考えると楽観は出来ないが、意外と拮抗した戦いになるかも知れない。

 

「……段々近付いてきているなー」

 

 一瞬そんな希望を抱いたスピカだったが、ウラヌスの言葉で『現実』に引き戻される。

 近付いてきている。

 何が、とは問わない。ただ耳を澄ますだけで、聞こえてくるのだから。

 憐れみすら覚える悲鳴が。

 無慈悲な破壊の音が。

 最初から覚悟していたスピカ達は、誰よりも早くその音を聞き付けた。だが周りに知らせる必要はない。音はどんどん大きくなり、スピカ以外の冒険家達も気付き始める。城壁の上で大砲を構えていた兵士の動きも慌ただしくなり、尋常でない事態が起きていると物語る。

 しばらくすれば悲鳴がハッキリと聞こえてくる。大地を抉るような音も、爆発するような音も、どんどん大きくなる。

 その音は、更に時間が経つと今度は一気に静まり返った。

 ごくりと、誰かの息を飲む音が聞こえてくる。それだけ一人として声を出しておらず、動けなくもなっていた。『最悪』がスピカの脳裏を過り、きっと他の冒険家の頭も満たしているだろう。

 そんな時である。

 防壁の扉が勢いよく開かれるや、雪崩込むように大勢の騎士団員や兵士達が入ってきたのは。生きている兵士の姿に、冒険家達は驚きと安堵の顔を浮かべる。

 

「に、逃げろ! あ、あれは悪魔――――」

 

 しかしそんな冒険家達に向けて、兵士の一人が泣きそうな声で何かを言おうとした

 この瞬間を狙っていたのだろうか。

 開かれた扉から、稲光が炸裂した。

 兵士達が稲光に飲み込まれ、一瞬で焼き焦げた姿に変わる。バタバタと倒れていき、一人として動かない。

 冒険家の多くは扉から離れていて無事だったが、それを喜ぶ声はない。そして再び沈黙が広がる。

 誰も何も話さない。だからこそスピカは直感的に理解した。

 先陣を切って魔王に挑んだ第二・第四・第五騎士団及び一般兵は、この短時間のうちに全滅したのだと。

 

「キャーッキャッキャッキャッ」

 

 楽しげな笑い声が、静寂を打ち破る。

 次いでぬるりと、開かれた防壁の門を潜るようにそいつは現れた。

 長い首をゆっくりと伸ばし、翼状に変化した腕を器用に使って四足歩行をしている。青い鱗に覆われた身体から、バチバチと稲光が走っているのは魔法の残渣か。その身体には小さな傷はおろか、土汚れすらろくに付いていない。

 騎士団や兵士に驕りがなかったとは言わない。だが世界最大の国が動員した大戦力を相手にして、それは殆ど傷付いてもいない。

 魔王ワイバーン。『準備運動』を終えた奴が、再びスピカの前に姿を現した。王都内部、煉瓦造りの大都市内に悠然と立つ姿を見せつけるようにしながら。

 

「魔王よ! みんな、作戦通りに!」

 

 誰もが唖然とする中、スピカが真っ先に声を上げた。立ち止まっていては魔法の的になるだけだ。

 スピカの掛け声もあって冒険家達も次々と我に返り、各々の武器を構える。しかし騎士団三つを易々と壊滅させた魔王を前にして、誰もが動きを鈍らせていた。闇雲に突撃すれば命を落とすのは明白なのだから。

 魔王はその隙を見逃さない。まるで見せ付けるように大きく翼を広げるや、バチバチと稲光を放ち――――

 

「はあああああっ!」

 

 されどその輝きが冒険家達を焼き尽くす前に、雄叫びが魔王に迫る。

 魔王はハッとしたように雄叫びの方を振り向く。そこは空中だったが、稲光の輝きで眩くなった夜空には人影が浮かび上がった。

 大剣を構え、空高くから下りてくる男。仰々しい鎧に身を包み、遠目からでもハッキリ分かるほど大柄で屈強な肉体を持つ。スピカが知る限り、そんな人物は一人しか知らない。

 第一騎士団団長にして王国最強の男、アルタイル。

 彼が何故空中にいるのか? 答えは単純なもので、傍にある防壁から跳び下りただけである。しかし誰にも、魔王にさえもその予兆を捉えさせなかったのは、優れた足運びの賜物だ。力を持てども驕らず、敵の一瞬の隙を突く様は正に達人。

 その達人の技を前にして、生きていられるものなどいやしない。

 ……これまでは。

 

「キャアッ!」

 

 楽しげにも聞こえる鳴き声と共に、魔王は広げていた翼を盾のように構える。その翼とアルタイルの振るう剣が激突した。

 通常ワイバーンの皮膜は、自らの巨体を浮かび上がらせるほどの強風を巻き起こす力を持つ。当然その力に耐える程度は丈夫だが、されど鱗に覆われている訳でもない。鋭い刃物であれば傷を付ける事は(あくまでも他の攻撃に比べればだが)容易い。

 にも拘らず、魔王の翼とアルタイルの剣がぶつかっても、切り裂くような音は聞こえてこない。

 それどころか激突したような音すらない。何があったのか、目の当たりにしていた冒険家達に困惑が広がっていく。

 事態を理解しているのは、剣を打ち込んだアルタイル自身と、魔王と対峙するのがこれで二度目のスピカだけだ。

 

「(風の魔法に切り替えたんだ!)」

 

 稲妻では翼を守れないと考え、風の魔法を起こす。空気の層が壁となり、アルタイルの剣を防いだのだろう。

 恐るべき防御力。これまで魔王の身体に傷も付けられなかったのは、この風魔法が圧倒的だったからだ。王国最強の剣すら防ぐ姿は絶望しかないようにも思える。

 だが、スピカは希望も見い出していた。

 魔王は今まで纏っていた稲光を、今はすっかり止めていたのだ。カペラとの戦いからそうではないかと疑っていたが、どうやら一度に使える魔法は一種だけらしい。そして雷の魔法は絶大な威力を持つが、身を守るのには向いていないのだろう。

 魔物達も魔法の力で身を守っていたが、身体そのものは強靭になっていた訳ではない。魔王も同じなのだ。それでも大砲や鉄剣程度なら難なく耐えるだろうが、獣から取り出した骨や特別な金属の武器なら傷を与えられる。そしてアルタイル達騎士団長が使う剣は、特に貴重な獣の素材で作られたもの。切れ味は折り紙付きだ。

 アルタイルの剣なら魔王を殺せる。故に魔王は必殺と言うべき雷魔法を使わない。いや、使えない。

 

「行くよウラヌス! アルタイルの援護をする!」

 

「おうともー!」

 

 ならば取るべき策は、攻撃を続ける事だ。魔王に雷魔法を使わせてはならない。攻撃を続けて疲弊させれば、きっと風魔法も何時か途切れる。

 スピカは走りながら、魔王に向けて弓を引く。その先にあるのは爆弾矢。物資豊かな王都で、大量に供与してもらえた。背負う矢筒の中には爆発する塊が山程ある。今までの戦いと違い、大盤振る舞いが可能だ。

 一発の矢が爆発するやすぐに次の矢を構え、放つ。狙いは魔王の胴体部分。細長い首を持つ頭はぐねぐねと動いて狙い辛いが、大きな胴体はそこまで機敏に動かない。狙いが外れる事はなく、矢は次々と命中して爆発を起こす。

 

「むん! むりゃあっ!」

 

 更にウラヌスは近くの民家に登ると、その屋根から剥がした瓦礫をぶん投げる!

 人間は投擲能力に優れる生物だ。人間一人簡単に捻り潰す力を持つ大猿でも、物を投げる力はそこまで強くない。野生動物相手に、人間が一方的に勝てる勝負の一つが投擲である。

 ウラヌスの投げ方は人間と同じもの。それでいて彼女の筋力は、並の人間を遥かに上回る。例えただの瓦礫だろうとも、矢のような速さで打ち込めるほどに。

 

「キャ……キャゥ……………!」

 

 スピカとウラヌスの猛攻に、魔王は少しばかり顔を顰めた。

 とはいえ魔王の身体に傷は出来ていない。本当に、ただ不快なだけ。しかし不快になれば集中力は途切れるというもの。

 

「はぁっ!」

 

 その隙を狙うように、アルタイルが魔王の足下に肉薄。剣を振るう。

 足まで魔法は及んでいるらしく、打ち付けた剣は風に阻まれて弾かれた。だがアルタイルの戦意を砕くには足りず、彼は何度も何度も剣を叩き込む。威力を重視してか、大振りで、しかし大地を叩き割りそうな印象を受ける切り方をしている。

 それでいて彼の身のこなしは素早い。魔王は足踏みでアルタイルを踏み潰そうとしているが、全て回避されていた。

 スピカとウラヌスの攻撃も続いている。身体に傷は付いていないが、やはり不快ではあるらしい。魔王から笑い声が消え、目に苛立ちが現れてくる。それで良いとスピカは思う。元より目的は最悪の魔法である雷魔法を使わせない事なのだから。

 そして魔王の攻撃を止めていれば、他の人間達も士気を回復してくる。

 

「お、俺達も行くぞっ!」

 

「手柄を渡すもんか!」

 

 スピカ達に当てられたように、冒険家達も次々と戦闘に参加してきた。

 ある者は小さな刃物を投げつける。獰猛な獣の骨から作り出したそれは、ドラゴンの鱗でも切り裂く。

 ある者は懐にしまった薬瓶を投げていた。強酸を含んだ液体が中から飛び出し、舗装された道をじゅうじゅうと焼いていく。

 ある者は長く伸びる鎖鎌で攻撃した。鎖を作るのはとある植物の蔓。長くて丈夫なそれは大男が振り回しても千切れず、先にある巨大な鎌を叩き付けるのに支障ない。

 ある者は大きな斧を投げ付けて叩き割ろうとする。斧はとある生物の背びれから作り出したもの。赤々としたそれは岩よりも硬く、生物の血肉を切り裂くのに向いている。

 

「キャ、キュゥ……!?」

 

 冒険家から繰り出される攻撃に、魔王が唸る。驚いたように目を見開き、明らかに動じていた。

 魔王がこれまで戦ってきた人間は、兵士。戦うための訓練を積んできた彼等は、勿論極めて強いが……その訓練は対人を想定したものだ。人間と動物では、何処への攻撃を躊躇うか、何を気にするかも違う。兵士達の戦闘技術は、ドラゴン相手に有効とは言い難い。数と身体能力で押そうとしたが、桁違いの力を持つ魔王には通じなかった。

 されど冒険家は違う。

 彼等が日夜相手するのは、自分より圧倒的に格上の生物。そしてあらゆる生物と生存競争を繰り広げ、日々を生きている。ドラゴンへの対処法も頭にしっかりと入っていた。

 そして彼等が使う装備。兵士達が使うような量産品ではない、獣達の身体を用いた専用装備は鉄の剣など比にならない切れ味を持つ。魔王相手にもこれは有効だ。人間の力は及ばずとも、()()()()()()()が合わされば、魔王の身体に大きな負荷を与えられる。

 魔王の身体には未だ傷も付いていない。だが魔王が雷の魔法を使う事もない。どれだけこちらを見下していても、自分の身体が『ただのワイバーン』である事を奴は理解しているのだ。人間が加工した自然の力相手に、迂闊に風の魔法を解く訳にはいかない。

 このまま集中攻撃を続ければ、疲弊させて討ち取る事も出来るのではないか?

 ……そんな甘い考えがスピカの脳裏を過る。他の冒険家達の頭にも、同じ考えが浮かんだ事だろう。しかし熟練の冒険家であるほど、その表情は弛むどころか強張っていく。

 集中攻撃によって疲弊させる――――そんなのは大軍で挑んだ騎士団と兵士と同じ作戦だ。即ち魔王は、これを打ち破る術を持っている。

 魔王の顔がにやりと歪んだ時、その術を使うつもりなのだとスピカは察した。

 

「っ! 不味い! みんな離れ」

 

 咄嗟にそう叫ぼうとしたが、魔王の方が早い。

 突如として吹き荒れた暴風。

 魔王が少しだけ『本気』を出したと分かった時、スピカは遠くに飛ばされた。華奢な身体は暴風を耐えるには少々力不足だったのだ。

 だからこそ、幸運だったと言える。

 これから始まる魔王の大蹂躙に、巻き込まれずに済んだのだから……



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勇者6

「キャアァーッ!」

 

 楽しげな笑い声。魔王がその声を上げるや、周囲に暴風が吹き荒れた。

 野宿中に嵐に見舞われる。長い事冒険家をしていれば、そんな目に遭う事も何度かある。だが、十年以上冒険家をしてきたスピカでも、魔王が引き起こした暴風は未経験の規模だった。

 周りの建物がガタガタと揺れるや、根本から吹き飛ばされる。重たい瓦礫が空高く舞い上がり、やがて雨のように落ちてくる。

 勿論冒険家達が投げた武器も、あっさりと吸い込まれ、空高く登る。巻き込まれて瓦礫共々空に飛んでいく人影もある始末だ。

 

「おおおおーっ!?」

 

 小さな身体のウラヌスもまた、瓦礫と共に飛ばされてしまう。

 

「う、ウラヌス!? ちょ、アンタが離れたら――――」

 

「大丈夫だぁ! 後は任せろぉぉ……」

 

 頼もしいのは言葉だけ。そのままウラヌスは何処かに飛ばされてしまった。何が大丈夫なんだと叫びたかったが、そうも言っていられない。

 吹き荒れた風魔法により、魔王を攻撃する手は止まってしまったのだから。

 

「っ……!」

 

 すかさずスピカは爆弾矢を放つ、が、その矢は魔王に命中しない。

 魔王の周りには見えないながらも、強烈な風が吹いていた。矢はその風に吸い込まれ、高々と舞い上がってしまう。空中で瓦礫にでもぶつかったのか、ボンッという音と共に爆発が起きるが……魔王から遠く離れた場所で炸裂しても意味がない。

 これでは弓矢による攻撃は当たらない。いや、大剣や斧を用いても、瓦礫すら巻き上げる暴風の前では無力。無駄な攻撃をしても武器を失うだけ。後の事を考えれば、闇雲な攻撃は出来ないのだ。

 一度に使える魔法は一つ。しかし魔王が用いる風は、自分の身体に纏わせた『後』のものだ。これならば守りを維持しつつ、攻撃にも転用出来る。

 今までそれを使わなかったのは、結局のところ魔王が本気を出していなかったからだ。

 

「キャアッ!」

 

 力強く鳴くのと共に、魔王の方から暴風が流れてくる!

 最初の風で吹き飛ばされていたスピカは、更に遠くへと飛ばされる。しかしそれは幸運だ。

 暴風と共に、巨大な瓦礫も飛んできたのだから。

 スピカはすぐに腕を体の前で構え、飛んでくる瓦礫を防ぐ。大きな瓦礫が当たると腕に痺れるような痛みが走ったが、これでもマシな方。離れていたお陰で、瓦礫が自分と激突するまでに時間があり、守りを固める事が出来たからである。

 近くで踏ん張っていた冒険家達に、そんな時間的余裕はない。

 

「ぐぅっ!?」

 

「がっ」

 

 飛んできた瓦礫が直撃し、冒険家達が次々と呻きを上げる。転ぶ程度ならまだ良い方で、中には気絶するように倒れる者までいた。

 傍に無事な仲間がいれば掴んでもらうなど助けてもらえるが、いなければそのまま風に運ばれていく。瓦礫と共に向かう場所が安息の地である筈もない。

 

「キャアァーッ!」

 

 更に魔王は激しく翼を羽ばたかせ、魔法の風を強めていく。

 魔王の周りに展開された巨大な風の流れはあらゆるものを破壊し、飲み込み、空へと打ち上げていく。最早風などという表現は生温い。

 竜巻だ。

 魔王が竜巻級の風を起こせる事は、初めて出会った時にも披露していたから分かっていた。だが魔王を囲うように展開された挙句、恐らく前回以上の威力で吹き荒れるところを目にしたら、覚悟も風と一緒に飛んでしまう。

 これが二度目の遭遇であるスピカすら、恐怖からまともに動けなくなるほどだ。初めて魔王を前にした冒険家達が固まってしまうのも仕方ない。

 その隙を魔王は見逃さない。笑うように口許を歪めるや魔王は翼を広げ――――力強く羽ばたく。

 そうすれば並のワイバーンを遥かに凌駕する巨体は、ふわりと大空に浮かび上がった。

 

「ああクソッ! 飛んだぞ!」

 

「これじゃあ届かない!」

 

 一瞬の隙を突かれた冒険家達の口から、次々と悪態が飛び出す。

 人間は空を飛べない。

 ごく当たり前の事であるが、だからこそ飛行するドラゴンは脅威だ。飛ばれてしまったら、もう大抵の攻撃は届かない。

 城壁に設置された大砲が魔王に向けて放たれるが、ワイバーンはそもそも大砲を喰らっても死なない程度には頑丈な生物だ。ましてや魔王は風の守りを纏っている。直撃を受けても魔王は蹌踉めきもせず、問題なく飛び続けている。

 魔王が纏う風の守りを揺らがせ、その奥にある頑強な表皮を貫けるのは、恐るべき獣達から得られた特別な武器だけ。しかし空を飛ばれた事で、それらはもう魔王には届かない。スピカが使う弓矢であれば辛うじて届くが、魔王の高さまでいく頃には減速し、硬い鱗に弾かれてしまうだろう。

 やがて魔王は城壁よりも高く飛び上がり、もうアルタイルの剣も掠める事すらない。万事休すという状況だ。

 危険な攻撃がなくなれば、風魔法に拘る理由はない。

 

「キャーキャー! キャキャキャキャ!」

 

 悔しげに立ち尽くす人間達を見下ろし、楽しげに笑う魔王の身体がバチバチと光り出す。暴風が止むのと共に稲光がその身体を迸り、力の高まりを見せ付けてくる。

 即座に雷魔法を打たないのは、地上から離れられない人間達に見せびらかすためか。はたまた力を溜め込むためか。

 いずれにせよ人間には打つ手がない。魔王は存分に力を溜め込み、望むがままの威力を出せる。

 十分力を高めたら後は自然の落雷のように、魔法の雷をあちこちに落とすだけ。それだけで、此処に集まった何十もの冒険家は全滅だ。

 防壁の外で立ち向かった騎士団や兵士も、魔王は同じ方法で打ち倒したのだろう。完璧な作戦である。今の人間達に、この無敵の戦法に打ち勝つ術はない。

 これで終いだ。

 ――――等と魔王は考えているかも知れない。そうでなければ悠々と空は飛ぶまいとスピカは思う。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――ウラヌス!」

 

「準備は出来てるぞ!」

 

 スピカの声を出せば、何処からかウラヌスが答える。

 魔法の暴風に飛ばされた彼女は今、辛うじて無事だった屋根の上にいた。そこは魔王の背後であり、魔王からは見えない場所。

 そして彼女はその手に、細長い棒を握っている。

 魔王が振り向く事もしなかったために、ウラヌスは掴んでいた棒を高々と持ち上げる事が出来た。

 棒の長さは約十五メトル。とある樹木を加工して作り上げたそれは、普通の人間ならば一人では到底持ち上げられない大きさだ。しかし常人離れしたウラヌスならば、その巨大な棒を少しの苦労はあれども持ち上げ、振り回せる。この長さがあれば、魔王まで棒は届く。

 ウラヌスは棒を片腕で抱きかかえ、もう片方の手で掴んで振り回し――――魔王目掛けて振った。

 

「キャ?」

 

 ここで魔王はウラヌスの振り回す棒に気付いたが、回避しようともしない。ただの棒に何が出来るのかと言わんばかりだ。

 実際、その棒では魔王を倒す事はおろか、傷付ける事も出来ないだろう。確かに雷魔法を使い始めた事で、風魔法の守りは消えただろうが……棒の先に刃となるようなものは付いていない。仮に付いていたとしても、不安定な持ち方の棒を振り回しても大した切れ味にはならないだろう。剣や槍で物を斬り付けるのにも、相応の技術が必要なのである。

 しかし今、その棒の先に付いているものを使うのに大した技術はいらない。棒が持てるのなら子供にだって扱える。

 だって、()()()()なのだから。

 

「キャ? ……キャ、キャーッ!?」

 

 ぺたりとお腹に張り付いたトリモチに、魔王は困惑した声を上げる。

 思っていたのと違う『攻撃』に大層驚いたらしい。慌てた様子で取ろうと藻掻くが、しかしトリモチが外れる気配はない。

 当然だ、とスピカはほくそ笑む。そのトリモチはとある植物の樹脂から生成したものだが、粘着力が強過ぎて事故が多発した結果、何十年も前に使()()()()となった違法物品だ。王国が回収後王城の倉庫にしまっていたものを今回引っ張り出し、王都の様々な物陰に隠しておいた。

 暴風により建物が壊れた時は万事休すかとスピカは焦ったが、ウラヌスは無事なものを探し出し、持ってきてくれたようだ。

 

「キ、キィ……!」

 

 暴れてもトリモチは取れないと考えたのだろう。魔王は身体に纏っていた稲光を消し、ごうごうと風の音を鳴らす。雷ではトリモチを剥がせないので、風で対抗しようというつもりか。

 小柄なウラヌスに風は危険だ。力はあっても、彼女の体重は見た目相応。暴風を受ければ先程のようにふっ飛ばされてしまうかも知れない。ましてや今は棒を両手で扱っている状態。いくらウラヌスが人間離れした怪力の持ち主でも、こんな体勢では魔王の力に抗える筈もない。

 ただし、一人だけなら、という前置きは必要だが。

 

「おっと、思惑通りになると思うなよ」

 

 ウラヌスの傍に現れたのはアルタイル。彼はウラヌスと共に棒を掴み、そして支えた。一人では簡単に飛ばされる風も、二人ならば絶えられる。

 勿論魔王が更に魔法の力を高めれば、人間の足掻きなど虫けらと大差あるまい。故に魔王もまだ冷静に、ウラヌス達に視線を向ける。大きく翼を羽ばたかせ、爆風を吹き荒れさせようとしていた。

 そうはさせまいと、スピカは駆ける。そして力強く弓を引く。

 普通の矢では、空高く飛ぶまでに勢いを失い、攻撃にもならないだろう。爆弾矢であれば爆発により打撃を与えられるだろうが、風魔法は守りの術でもある。今此処で喰らわせても、恐らく魔王は気にも留めない。

 だが、同じくトリモチのついた矢であれば、流石に不快に思うだろう。

 

「ふっ!」

 

「キャッ!?」

 

 スピカの放った矢ことトリモチが足に付着し、魔王は甲高い声を上げる。どうやら腹部のトリモチに夢中で、足の守りが疎かになっていたようだ。

 ただトリモチを付けただけでは終わらない。矢には細い縄を結び付けてあり、それはスピカの手許まで伸びていた。ぐるりと縄を手に巻き付けて、引っ張ればスピカの力も魔王に加わる。

 ウラヌスとアルタイルのみならず、スピカにも引っ張られる。魔王はまだ人間達の思惑に気付いていないのか、その場でバタバタと羽ばたくばかり。

 だが、瓦礫と化した周囲から次々とトリモチ付きの棒が上がれば、流石に状況を理解する。

 

「キャキャッ!? キッ……!」

 

 無数のトリモチを前に、魔王は睨み付けて風を纏う。再び竜巻が起こり、周囲の瓦礫を巻き込んでいく。

 危険を前にして守りの魔法を使う。それは魔王にとって必勝の手だったに違いない。事実どんな攻撃も風を纏う魔王には通じず、傷も付けられなかった。

 しかしトリモチ相手にそれは愚策だ。

 立ち上がった棒の下にいるのは冒険家や兵士。彼等は棒が飛ばされないよう力強く踏ん張った。ところが此処に一つ、踏ん張らない奴がいる。

 トリモチだ。

 暴風に吸い込まれ、棒先のトリモチはぐにょんと伸び始めた。魔王が自らの失策に気付いた時には既に手遅れ。伸びに伸びたトリモチが、魔王の周りをぐるぐると巻いて包囲する!

 空高く昇ったものはやがて落ち、全てではないが魔王にも少なからず当たった。魔王の全身が、粘着いたトリモチに包まれていく。

 

「キャ、キャァーッ!?」

 

 笑い染みた鳴き声は、今や完全に悲鳴と化していた。だがどれだけ悲鳴を上げても、トリモチの包囲は終わらない。

 そして恐らく予想外の状況に慌てたのだろう。魔王が風魔法をパッと消せば、今度は舞い上がったトリモチが纏めてどっと落ちてくる。

 

「キャ――――」

 

 ヤバい、と思ったところでもう遅い。

 落ちてきたトリモチが、魔王の上半身をどっぷりと包んだ!

 

「キャ。キャ、キャーッ!?」

 

 羽ばたこうにも翼はもうトリモチ塗れ。それでも空を飛んでいられるのは、魔法の風で身体を浮かせているのだろう。

 これでもまだ魔王は落ちない。だが、最早それは些末な問題だ。今の魔王は落ちないために魔法を使っている。攻撃する余裕は恐らくない。

 今なら、人間の力で引きずり落とせる。

 

「今よ! みんな、コイツを引っ張って!」

 

「「おおおおおおーっ!」」

 

 スピカの掛け声に応じ、生き延びた冒険家達が次々と押し寄せる!

 全員その手に持つのはトリモチ付きの棒。力強く振るったそれを、トリモチ塗れの魔王には躱す術がない。驚き、戸惑う顔を浮かべるのが精々。

 次々とトリモチ付きの棒が魔王を叩き、張り付く。魔王に出来るのは長い首を動かし、顔面にトリモチが付くのを避ける事だけ。全身の至るところにトリモチが張り付き、人間達は棒を握り締める。

 

「落とせぇぇぇえええっ!」

 

 スピカは渾身の力を込め、棒を引き寄せる。冒険家達も、ウラヌスとアルタイルも、その手に掴んだ棒を引く。

 魔王の身体が、がくんと下がった。

 

「キャ、キャ、キャブギッ!?」

 

 それが見えた次の瞬間、魔王の身体は大地に叩き付けられる!

 

「キャッ!? キャァッ!?」

 

 まさか自分が捕まるとは、夢にも思っていなかったに違いない。魔王は目を白黒させていた。しかしそれでもトリモチは剥がれない。

 空を自由に飛ぶ魔王を、ついに人間は大地に叩き落とした。

 ただトリモチを持って突撃しても、引っ掛かりはしなかっただろう。人間が本気で挑んで、それでも全く叶わなくて……積み重ねた魔王の『自信』が、大きな隙を生み出したお陰だ。いや、これまで魔王は人間のみならず、数多の獣達とも戦ってきた筈である。そしてその全てで勝利してきた。

 犠牲になった命の数は如何ほどか。兵士や騎士の数は数えられても、道中で襲われた市民、恐怖で追われた生き物達……彼等の命は数えられない。しかしその死は無駄ではない。全ての積み重ねが、此処で魔王が地に伏す結果の布石となったのだ。

 これで、ようやく悪魔の力は終わりとなる。

 ――――等と感傷に浸っている場合ではない。

 

「誰か! 早くコイツの頭をぶっ潰して!」

 

 相手は魔法を自在に扱う魔王。トリモチが全身に張り付いたところで、問題なく攻撃する事が出来てもおかしくない。未だ人間達は優勢などではないのだ。

 冒険家達はそれを理解していた。野生の獣は死ぬまで決して油断してはならない。むしろ手負いの獣の方が恐ろしいぐらいだ。故に誰もが武器を持ち、魔王に止めを刺そうと駆け寄った。

 最後まで誰も油断などしていない。止めを刺すまで安心なんて出来ないのだから。

 人間は全力を尽くした。それだけは間違いない。

 故に、どうしようもない。

 魔王の身体から噴き上がる炎が、集まった人々を薙ぎ払うように吹き飛ばしてしまったのは――――



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勇者7

「ぐぁっ!? かっ……!」

 

 魔王に張り付けたトリモチ、そこから伸びる縄を握り締めていたスピカだったが、襲い掛かる衝撃には耐えられず。突き飛ばされるように後ろに飛び、縄を手放してしまう。

 大地をごろごろと転がり、やがてスピカは瓦礫に身体を打つ。激しい痛みが背中から全身に広がり、それが身体の自由を奪った。

 けれどもどうにか頭だけは上げて、スピカは痛みで閉じそうになる瞼を開けて正面を見据える。

 そこには人間達の手により地上れと落とされた――――だが今や完全に自由を取り戻した魔王がいるのだから。

 

「……………」

 

 今まで喧しいほどに発していた笑い声を出さず、魔王は静かに首をもたげる。

 その動きを阻むものはない。何故なら全身に纏わり付いていたトリモチは、魔王の身体から吹き出した炎により溶けていたから。まるで氷が陽光で溶けるように液化し、粘着性は失われている。

 炎を纏う魔王はといえば、苦しんでいる様子はない。平然と、その場でじっとしている。魔物化したワイバーンは自らの身体が出す炎で藻掻き苦しんでいたのとは大違いだ。即ち、それは魔王が炎を完璧に制御している証と言えよう。

 一時は人知で魔王を大地に引きずり下ろした。だが、あくまでも一時に過ぎない。魔王が少し本気を出せば劣勢は覆り、人間達が、数多の命が積み重ねてきたものは無慈悲に崩れ去る。油断が消えた魔王は、人間や自然の力で抑えきれるものではないのだ。

 そして魔王は、もう油断するつもりはないらしい。

 

「……キャゥ」

 

 低い声で鳴きながら、魔王が視線を向けたのは冒険家達。武器こそ構えているが、身に纏った炎でトリモチを溶かした魔王の前で立ち尽くしている。

 魔王が冒険家達の方を見たのは、単純にそちらの方が人間の数が多かったからだろう。

 そこから『惨事』を連想するのは難しくない。

 

「に、逃げ」

 

 スピカは咄嗟に叫ぼうとした。だが、何もかもが手遅れだ。

 魔王が繰り出した()()()()()()は、直線上にいる全ての人間を巻き込んだ。

 悲鳴は上がらない。直撃を受けた人間達は、もう既に声を出せる状態ではないのだから。

 服などの装飾品や武器だけでなく、腕や足が飛び散る。これまで魔王は竜巻を幾度となく起こしてきたが、此度の竜巻の破壊力は段違いだ。人間が舞い上がるどころかバラバラになるなど、最早『風』の威力ではない。

 恐らく、これは魔王の本気。

 地上に引きずり下ろした事で、魔王もついに本気を出したのだ。これまでの遊びですら手が付けられなかったというのに、本気となった魔王の力は全くの未知数。このまま戦っても被害は大きくなるだけ。

 

「(不味い! 一旦体勢を)」

 

 整えなければ。迫る危険に対し即座に判断を下すスピカ。彼女の思考自体は決して遅いものではない。

 ただ、本気になった魔王の力が、素早い判断も無為にするほど桁違いなだけ。

 

「キャアアアアアアアアアアアアッ!」

 

 悲鳴染みた、されど激しい闘争心を聞く者に刻み込む雄叫びと共に、魔王は魔法の竜巻を()()()()

 魔王が首を動かすのに合わせ、横向きの竜巻もしなりながら動く。進路上には冒険家や兵士の姿があり、彼等は慌てて逃げるが……魔王の首の動きの方が速い。

 次々に竜巻は人間を飲み込み、赤黒い血飛沫に変えていく。途中家や瓦礫があったが、それらも竜巻は全て砕いた。何もかも破壊し、通り道の全てを更地に変えていく。

 魔王は魔法を放ったままぐるりと一周しようとしていると気付き、スピカは無我夢中で立ち上がるや走り出す。予想通り、魔王の繰り出す竜巻はスピカの方へと迫ってくる。

 横向きの竜巻は威力のみならず、長さも凄まじい。何十メトルと離れた位置も、比喩でなく殺人的な威力で何もかも破壊していく。このまま逃げても恐らく駄目だ。

 

「くっ……!」

 

 一か八か。スピカは家の瓦礫に身を隠し、竜巻を防ごうとした。

 結果は、半分成功しただけ。

 瓦礫は竜巻に接触した瞬間に砕け、守りとしての役割を失う。だがほんの一瞬でも竜巻を防ぎ、スピカに襲い掛かる風の勢いを弱めてくれた。また無駄だと思いながらも全力疾走し、少しでも距離を取っていたお陰で威力も多少なりと減衰していた。

 

「くぁっ……がふっ!?」

 

 しかしそれでもスピカの身体は竜巻に巻き込まれ、ぐるんと空中を一回転。これまで感じた事のない強さで地面に叩き付けられる。

 受け身も取れず、叩き付けられた腕から嫌な音が響く。間違いなく骨が折れた。全身を駆け回る激痛で声が出なくなり、頭の中も真っ白になる。

 幸運だったのは、それが一回で済んだ事。魔王が振り回した竜巻は、スピカの生死を確かめず通り過ぎていく。冒険家達を全て薙ぎ払うために。

 一通り周りの全てを破壊したが、未だ魔王は本気を出したまま。人間の生き残りがまだいる事を察している。

 

「キャアアアッ!」

 

 続けざまに放つは、身体からの雷撃だ。

 稲光を伴い、魔王の身体からのたうつように閃光が走る。雷と同じ力であろうそれは大地を満たすように、隙間なく飛んでいく。

 

「ひぎゃああっ!」

 

「ぎぁっ!?」

 

 魔王が思っていた通り、まだ生き残っている人間がいた。だが既に過去形だ。雷に打たれた不運な人間は、大概生きて帰る事は出来ない。

 

「キャアアッ!」

 

 雷を放っても魔王の攻撃は終わらない。再び横向きの竜巻が、魔王が翼を振るうのと共に放たれる。

 しかし今度の竜巻は、周囲を薙ぎ払う事はしない。全ての力を一直線に進む事に費やしているらしく、どんどん奥へ奥へと進んでいく。

 その竜巻の行く先にあったのは、城。

 王国の統治者である、王の居城だ。竜巻は何千メトルも離れた先にあったが、魔王が繰り出した極大の竜巻は遥か彼方まで伸びていき……頑丈な城壁を貫く。

 一ヶ所が貫かれたなら、それで全てが終わりだ。魔王が首を動かすのに合わせ、魔法の竜巻も動いて城に大きな傷跡を作る。まるで巨人が剣でも振るったような傷を城壁に掘られ、そこをきっかけに城は崩落を始めた。

 遠く離れたスピカの耳に届くほどの、大崩落。王は恐らくとうの昔に避難しているだろうが、されどだから壊れても安心などとはならない。王城は王国の象徴。王の存在を民衆に示す建造物の崩壊は、王国の『敗北』を示す。

 

「……キキ、キキャーッキャキャキャキャッ!」

 

 その光景の意味を、果たして理解しているのか。単に壊れる様子を楽しんでいるのか。魔王はここでようやく、心底嬉しそうに笑った。

 これで攻撃の手が弛めばまだ良かった。国が滅べども、合わせて人まで滅びる訳ではない。生きていれば反撃の機会もある。

 しかし魔王の攻撃は止まない。

 

「キャアッ!」

 

 咆哮と共に放たれる竜巻。

 

「キャキャキャキャキャッ!」

 

 笑い声と共に走る雷撃。

 

「キャーッキャッキャッキャッ!」

 

 楽しげな叫びに合わせ、全身から噴き出す紅蓮の炎。

 魔王は余裕を取り戻している。だが、それでいて油断はしていない。楽しんではいても弄びはせず、敵である人間を皆殺しにしようとしている。

 そしてそれを止める術は、今の人間にはない。

 

「く、ぅ、うぅ……!」

 

 腕を折ったスピカにも打てる手立てはない。

 ただただ瓦礫の影で、魔王の気が済むのを待つ事しか出来なかった……

 ……………

 ………

 …

 果たして、どれだけの時間があったのか。

 十分か。一時間か。或いは一晩か。時間の感覚が今のスピカにはなくて、全く分からない。

 現実には三分も経っていなかったが、長い時間のように思えていたスピカは無意識に閉じていた目を開けた。

 目に映ったのは、地平線まで開けた大地。

 竜巻に飛ばされて荒野にまで投げ飛ばされたのか? 一瞬脳裏を過った馬鹿げた考えを、思わず信じそうになる。それを信じなかったのは単にスピカが聡明だっただけでなく、過酷な自然界に身を置いてきた事で『辛い現実』にある程度慣れていたからだ。

 それでも逃避したい気持ちが、ひしひしと湧いてくる。

 

「嘘、でしょ……まさか、此処、王都……?」

 

 此処は平野などではない。かつて大勢の人々が暮らし、王城がそびえていた王都だ。

 しかし今、その原型は何処にもない。周りの家々は全て、瓦礫よりも細かな砂に変わった。王城は跡形もなく消えた。人の姿も残っていない。

 正直なところ、視覚的には今でも信じられない。

 しかし鼻に付く臭いで分かる。ぷんぷんと漂う煉瓦の臭い……作戦前に町中で感じたものと同じだ。此処が王都だったと、今でも訴えるように漂っている。

 間違いなく此処は王都。そして今では跡形もなく滅びた。それは王国の滅亡を意味している。

 人間達の繁栄を示す大都市も、魔王からすれば瞬く間に消してしまえる程度のものだったらしい。いくら獣達の力が凄まじいとはいえ、都市の一つをこうも破壊する事は出来ない。

 悪魔が如く力。

 古代人達が文献に残した言葉の意味を、ようやくスピカは理解する。こんなのは生き物が出来る事ではない。御伽噺で語られる、悪魔としか言いようがないではないか。

 これが魔王の実力。

 人間がどうこうという話ではない。『生物』に勝てる相手ではないのだ。

 

「っ、魔王は……!?」

 

 そう考えて、スピカはようやく魔王の存在を思い出す。我ながら間抜けと思いつつも、辺りを見渡した

 直後、スピカは背中を押された。

 いや、押し倒されたというのが正しい。凄まじい力であり、抵抗もままならない。地面に倒れた後も力は加わり、みしみしと背骨が音を鳴らす。

 骨折には至っていない。だがそれは『相手』が手加減をしているからだと、スピカは背中に加わる力が小刻みに、強まったり弱まったり変化している事から察した。

 余裕ぶっている。

 しかしそれも無理ないと、スピカは思う。王都を消し飛ばし、王国軍と冒険家を纏めて打ち倒した存在なのだ。たった一人の人間に対して余裕を見せたからといって、どうしてそれを驕りだの隙だのと言えるのか。

 背中に伸し掛かる足――――魔王であれば、それも許される。

 

「ぐ……ぅ……!」

 

 踏み付けによる拘束から逃れようと、スピカは藻掻く。されど魔王はその動きに対し、ゆっくり足に力を込めてきた。逃がすつもりはないらしい。余裕は見せても、隙は晒してくれなかった。

 それでもスピカは足掻きとして、腰に手を伸ばして一本の硝子瓶を取る。透明な液体が溜まったそれを魔王にぶつけようと振り上げ……ようとしたが、突如吹いた風が腕を()()()()()

 不自然に腕だけを襲う、不自然なまでに強い風。魔王の魔法によるものだ。

 尤も気付いたところで何が出来る訳もなく。風により振り下ろされた腕は、地面に叩き付けられた。同時に持っていた硝子瓶も叩き付けてしまい、瓶が割れて中身がぶち撒けられる。これではもう、魔王に液体を掛ける事は出来ない。

 

「キャーッキャッキャッキャッ!」

 

 スピカの気持ちを読んだかのように、魔王は楽しげに笑う。

 分かっていた事だが、魔王の知能はずば抜けて優れている。地べたを這いずるしかない相手を見下し、笑うなど人間でもなければしない事だ。相手を殺さずに痛め付けるだけなのも、知能が優れているからこそ楽しめるのだろう。

 そして人間並に賢いからこそ、人間のような考えも出来る。

 

「キャッキャッキャッ」

 

 笑いながらぐりぐりと、足でスピカを圧迫してくる。しかし止めを刺すような、強い力は使わない。あくまでも弄ぶだけ。

 どうにかこの油断に付け入り、一泡吹かせたい。だが魔王の足一本すら振り解けず、うつ伏せで藻掻くだけの存在に何が出来るというのか。

 それでもスピカは諦めず、どうにか拘束から逃れようと四肢を動かす。どうにもならない事に逆らう姿が面白いのか、単に無様な動きを楽しんでいるのか。なんにせよ魔王はしばしスピカの足掻きを許す。が、あくまでもしばしの間だけ。

 

「ぎぁっ!? が、ぁ……!」

 

 やがて飽きたのか、魔王は足先の爪をスピカの背筋に突き立てた。革の防具を突き破り、背中の肉に爪が突き刺さる。致命傷というほど深くはなく、脊椎なども傷付けられていないが……激痛でスピカは悶え苦しむ。

 こんな状態で脱出など出来る訳もなく、スピカは地面で苦痛に耐えるばかりになる。ろくに動かなくなれば、魔王としては満足したのかフンッと鼻息を鳴らした。

 

「……スゥゥゥー」

 

 そして深々と、大きく息を吸い込む。

 ただの深呼吸ではない、深く、溜め込むような呼吸。数多の生物の知識を持つスピカは、『ドラゴン』が行うその行動の意味も知っている。

 ブレスを吐くのだ。吸い込んだ息と共に体内に溜め込んだ可燃性ガスを放出。そのガスを歯で起こした火花により着火し、火炎として吐き出す……ドラゴンお決まりにして最大の技だ。

 魔王は焼き払うつもりらしい。この王都の残骸さえも。

 しかも息の吸い方は盛大に、長々としたもの。通常のワイバーンがブレスを吐く時、ここまで深く息を吸う事はない。恐らく魔王にとっても必要ない。きっと派手に、盛大に炎を吐くための準備なのだろう。

 ただ破壊するだけでは飽き足らず、豪快に燃やそうとまでしている。燃えているところが好きなのか、燃やしてしまうのが好きなのか。

 或いは、生きた人間に自分の力を見せ付けたいのか。

 

「(ほんと、趣味が、悪い……!)」

 

 スピカの村も、コイツは焼き尽くした。防壁都市も、魔王は炎により焼き払った。他にも数多の村や都市を焼いたと聞いている。勝利の印を刻み込むように、生き残った人間に自分の力を誇示するように。

 そして今度は、人間の繁栄の象徴を焼き払おうとしている。

 うつ伏せに倒されたスピカに魔王の顔は見えない。だが間違いなく、愉悦に染まった笑みを浮かべていると確信出来る。その顔に一発爆弾を投げ付けてやりたいが、うつ伏せではどうにもならない。今のスピカに出来るのは、ただ炎が吐かれるのを待つ事だけ。

 仮に何か出来たとしても、既に魔王は深々と息を吸い込んでいる。火花を起こすには歯と歯をぶつける必要があるが、ワイバーンの奥歯はぐらぐらと揺れ動くもので、強い『風』があれば簡単に隣の歯とぶつかる仕組みだ。要するにただ息を吐くだけで、火花は簡単に起きる。魔王を攻撃したところで、腹に溜め込んだ息が吐き出され、それは火炎となって一帯を焼き払う。

 もう、誰にも魔王は止められない。止める術などありはしない。

 スピカのそんな想いに応えるように、魔王は大きく首を振るい――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぴたりと、炎を吐き出す直前の姿勢で固まった。



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勇者8

 火を吐く直前の体勢で、魔王はぴたりと動きを止めた。

 

「……………!?」

 

 魔王は目を白黒させる。息を吸ったまま吐き出さない。そしてそれが苦しいようで、バタバタと翼を羽ばたかせる。

 勿論苦しみの原因は、息を吸ったままだからだ。吐いてしまえば楽になる。人間と同じ事。だが魔王は決して息を吐かない。歯をがっちりと食い縛り、絶対に出さないという強い意志を示す。

 魔王の行動は、傍から見れば意味不明だ。しかしスピカからすれば『想定』通りの反応である。いや、正確には想定とは少し異なるのだが……何故魔王が息を吐こうとしないのか、その根本原因は分かっていた。

 

「ちっ。余裕は見せても、やっぱり油断はしないか……もう少しだったのに」

 

 故に悪態を吐き、ちらりとその原因に目を向ける。

 魔王がブレスを止めた理由――――それはスピカが地面に叩き付けた硝子瓶、その中身である透明な液体だ。

 名を、揮発油という。

 以前宝石都市の復興市で買った代物。鉱山の地下深くで得られた油を加工したというそれは、一度火を付ければ爆発するように一気に燃え上がる。あまりにも燃えやすくて扱いが難しく、産業用どころか攻撃用としても使えない。

 何より、名前の通り極めて揮発しやすい。

 それをスピカは硝子瓶に詰めていた。勿論地面に叩き付けた際、辺りにばら撒かれている。

 撒き散らされた揮発油はさぞやたくさん蒸発し、空気中を漂っている事だろう。スピカの鼻を独特な悪臭が刺激している事から、それは間違いない。そしてブレスを吐くために、魔王は深々と息を吸い込んだ。大量の揮発油も一緒に吸い込んだ筈だ。

 ドラゴンの身体には、ブレスの逆流を防止する仕組みがある。まずガスの放出口が喉奥にあり、身体の奥深くではない事。口内でガスに火を付けたとして、逆流した炎が焼くのは精々喉奥まで。大抵のドラゴンは喉奥の皮膚と粘液が分厚く、火傷しないように出来ている。そもそも空気と一緒に外へと吐き出すので、炎が逆流してくる事自体が稀な展開だ。

 しかし魔王が吸い込んだ揮発油は、息と共に肺の奥まで入り込んだ。この息と炎が接すれば瞬く間に燃え広がり、肺の奥深くまで達するだろう。いや、それどころか急速な燃焼……空気の膨張により『爆発』が起きるかも知れない。

 魔王といえども肉体は普通のワイバーンと変わらない。身体の内側から爆発が起きれば間違いなく致命傷だ。

 

「キュ、キュ……キュゥゥ……!?」

 

 ジタバタと藻掻き、必死に息を止める魔王。本能で危険を察したのか、はたまた炎を吐く寸前に何かしらの違和感を覚えたのか。いずれにせよブレスを吐くのは不味いと思ったらしい。

 思い留まる事はスピカにとって想定外。

 しかし揮発油を吸い込むところまでは、スピカにとって想定通りの結果だった。

 

「だけど、予想通りね。やると思っていたのよ、勝ったら町を燃やすって」

 

 勝ち誇った台詞と共に脳裏を過る、魔王が繰り広げてきた破壊の数々。

 スピカの村を焼き払い、防壁都市も焼いた魔王。無惨で恐ろしい光景であるが、同時にそれは奴の嗜好を物語る。

 コイツは燃やすのが大好きなのだ。おまけに魔法ではなく、ブレスによってやるのが。

 或いは魔王なりの勝利宣言なのかも知れない。いずれにせよ魔王は敵を倒した後、周りを燃やす事を明らかに好んでいる。王国内で聞いた数々の噂……何処そこの村が跡形もなく焼かれたという話もそれを物語る。

 今回、王国は総力を集めて魔王に挑んだ。魔王にとっても、今までで一番手強い相手だったに違いない。その強敵を倒した後、果たして奴は()()()()()()()()()()

 いいや、間違いなく燃やす。それも魔法の炎ではなく、きっとブレスを吐くに違いない。無論、勝利宣言などされずに倒すのが理想的だが……魔王の強さの底が見えない以上、どれだけ戦力を投じたとしても必ず勝てる保証はない。故にスピカは最後の手段として、揮発油入りの硝子瓶を用意しておいた。

 最後の奥の手であるが、上手くいく保証はなかった。魔王がもしも合理的な『野生動物』だったなら、きっと失敗していた。

 スピカは賭けに勝ったのだ。

 ――――否、まだ勝ち誇るには早い。

 

「キュ、プ、プヒュ……!」

 

 魔王の口から少しずつ、少しずつ、空気が漏れ出ている。

 どうやら吸い込んだ空気を、少しずつ吐き出しているらしい。ワイバーンは息を吐けば奥歯が動いて火花を散らす。しかし見方を変えれば、力強く息を吐かなければ火花は起こらないのだろう。

 極めて慎重な吐き方をすれば、吸い込んだ息は出ていく。間抜けにも思える姿だが、空気を抜くという点では正しい行いだ。

 このままでは魔王は安全にこの危機を脱してしまう。そうなれば折角の奥の手も台なしだ。いや、魔王が『学習』してしまう事も考慮すれば、これが失敗したらいよいよ人類に打つ手がなくなる。

 ここで倒さなければ。しかしスピカは今、魔王に踏み付けられて身動きも取れない。

 誰か一人でも、動ける者はいないのか。

 

「誰か……誰か! 今魔王に息を強く吐かせれば、コイツを倒せる! 誰か!」

 

 スピカが渾身の力で叫ぶと、魔王はギョッと目を見開きながらスピカを見た。人間の言葉は分からずとも、雰囲気から察しただろう――――仲間を呼んでいると。

 そうはさせまいとばかりに、魔王の足先に力がこもる。元よりその気になれば体重だけでスピカの命を奪える巨躯。スピカを黙らせる事など造作もない。

 加わる圧力に意識が遠退くも、ならばと逆に力強くスピカは苦しみの声で叫び、

 

「任せろぉ!」

 

 聞き慣れた声が、応えた。

 どんっ! という爆発音と共に、スピカの近くで土煙が上がる。なんだ、と思うまでもない。

 ウラヌスが空を飛んでいる。

 否、跳んでいる! 瓦礫の下から力強く跳び出したのだ。恐らく魔王が繰り出した風魔法を避けるため、一時的に瓦礫の下に身を隠していたのだろう。獣染みた隠れ方だが、こうして無事だった以上効果は覿面だったらしい。

 まさか生きている人間が他にいるとは思わなかったのか、魔王はウラヌスを大きく見開いた目で見つめるばかり。冷静ならば翼で叩き落とすという手も使えただろうが、溜め込んだ息が漏れ出ないよう苦心している今、そこまで的確な判断は下せず。

 

「だぁりゃああっ!」

 

 叫びと共に繰り出したウラヌスの蹴りが、無防備な顎を打った!

 風魔法による守りもなかったようで、魔王は大きく仰け反る。致命的な打撃ではない。だが一息でも漏れれば命はない。魔王が翼はバタバタと振り回し、転ばないよう慌てふためくのは必然だ。

 その中で片足が上がり、スピカの身体を抑え込んでいた力も消える。とはいえ今まで踏まれ、背中に爪まで刺されたスピカにすぐさま動き出す余力はない。

 スピカが跳び出した瓦礫の隙間から現れた大男――――先輩冒険家がスピカを引っ張ってくれなければ、戻ってきた魔王の足に踏み潰されていただろう。

 

「大丈夫か!? 無理しやがってこの野郎!」

 

「せ、先輩……は、早くアイツを……!」

 

「分かってる! 俺達も、ただ瓦礫の下に隠れていた訳じゃねぇからな!」

 

 スピカの言葉を待たず、先輩は大きな声を張り上げる。

 

「うおおおおおおおお!」

 

「よくもやってくれたなこの化け物!」

 

 その声を合図とするように、次々と瓦礫の下から人間達が姿を表す! 冒険家のみならず鎧を着た兵士達の姿もある。

 数も一人二人なんてものではない。五人六人十人十五人……魔王との戦いが始まる前と比べれば殆ど残っていない、だが両手の指では足りない数の人間達がまだ生きていた。

 確かに全体から見ればほんの一部。しかし魔王の繰り出した竜巻の破壊力を考えると、一部でも生き延びている方がおかしい。

 疑問の答えは、ウラヌスが跳び出した瓦礫の下にある。

 

「(通路……? 違う、これは地下室か!)」

 

 瓦礫の下には小さな部屋があったのだ。王都には食料貯蔵庫として地下室のある民家が多い。その地下室に隠れる事で難を逃れたのだろう。

 地下室は全ての家にある訳でもなく、そもそも家に押し入る猶予もあったとは限らない。だが何百もの人がいれば、そのうちの二十人ぐらいは生き延びてもおかしくない。

 人間の生活の工夫が、人間の命を守ったのだ。

 

「キププププ……!?」

 

 まさかこんなにも人間が生き延びているとは魔王も思わなかったらしい。攻撃するでも笑うでもなく、慌てふためいた声を漏らす。

 その動揺した素振りは、人間達が突撃を始めた事で一層強まった。先輩冒険家もスピカを置いて駆け出し、それなりに大きな編隊を作れば、魔王は怯えたように後退りする。

 これまでの魔王なら、こんな無謀な突撃には風魔法の一つでも放てば終わらせる事が出来た。勿論ブレスでも良いし、雷魔法や炎魔法でも良いだろう。

 しかし今は違う。お得意の炎を吐く訳にはいかない。引火の可能性を考えれば炎魔法も使えない。風魔法で守りを固めても、松明などを投げ付けられたら吐息に燃え移る可能性もあるから迂闊に纏う訳にもいかない。落雷を受けた木は燃えるというから、雷魔法も厳禁だ。

 あらゆる攻撃・防御手段が無効化されたのだ。魔王からすれば対抗手段が何も思い付かないに違いない。百戦錬磨の手練であれば、今までの経験から新しい攻撃も考え出せただろうが……魔王は圧倒的な魔法の力で全てを片付けてきた存在。百戦錬磨ではあっても、手練ではないのだ。

 このまま右往左往している間に倒されてしまえ。スピカは心の中でそれを祈る。

 しかし、そうもいかない。

 魔王が人間だったなら、恐らくその願いは叶っただろう。されど魔王は獣だ。知能は人間並に優れていようとも、本質的なものの考え方はケダモノのそれである。

 獣には矜持も自尊心も屈辱もない。

 

「キュ、キュプゥゥーッ!?」

 

 恥ずかしげもなく背中を見せ、逃げ出す事に躊躇などしないのだ。

 

「ま、不味い……!」

 

 思わずスピカは悪態を吐く。

 逃げるというのは人間的には無様だが、合理的に考えれば至上の策だ。もしも魔王を逃せば、奴は安全な場所で悠々と体勢を立て直す。安全に万全の体制を取り戻し、苦戦という経験により成長した魔王を止める手立てはあるまい。

 そして魔王は巨大だ。大きな生物というのは、それだけで歩幅が広くなるため動きが速い。並のワイバーンの倍の大きさを誇る魔王の動きは、例え飛ばずとも人間より遥かに素早い筈だ。一直線に逃げられたら、追い付きようがないのである。

 どうすれば止められる? スピカは必死に考えを巡らせるも、間に合わない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

「やらせるかぁぁあっ!」

 

 雄叫びを上げ、魔王の正面から向かう者が一人。

 アルタイルだ。王国最強の騎士も風魔法の洗礼を生き延び、そして魔王が他の者達に意識を向けている間に、魔王の逃げ道を塞ぐように回り込んでいたのだ。

 叫びと共に迫るアルタイルは、大剣を構えていた。ワイバーンの鱗さえも切るであろうその一撃をまともに受ければ、痛みで息など止められまい。

 魔王もそれを認めるように、アルタイルを見るや即座に方向転換。とはいえ冒険家達の方にも戻れず、直角に曲がろうとする。

 

「おおっと! こっから先は通行止めだぁ!」

 

 しかしその先にはウラヌスがいた。

 ウラヌスの存在をしかと気に留めていれば、行く手を遮られる事はなかった。だが周りを気にする必要などこれまでなかった魔王に、いきなりそんな真似が出来る訳もない。

 残る道は後ろだけ。されど追い詰められてから、素早く後ろを向くのは難しい。魔王は足を止めてしまい、三方から迫られる。

 そして人間達の持つ武器や松明が、魔王目掛けて振られた

 

「キュプゥウゥッ!」

 

 瞬間、魔王の周りに風が吹き荒れる!

 風魔法を使ったのだ。ただし身に纏う形ではなく、外へと押し出すように。

 風で迫る人間達を押し退けようとしたらしい。とはいえ威力はウラヌスを怯ませ、冒険家の男達を転ばせる程度。魔法を使うのにも力がいるのか、息を止めるのに必死な今はあまり強い風を起こせなかったらしい。

 だが包囲網を崩すには十分。

 

「キゥ、ウゥ……!」

 

 人間達との距離を開けるや、魔王は翼を大きく広げた。力強く、けれども確かめるように、羽ばたく。

 その力により魔王の身体は宙に浮いた。

 動きは少々ぎこちない。風魔法で飛ぶのに慣れていて、翼を使うのは久しぶりなのだろう。羽ばたき方もかなり必死だ。それでも空に浮いている事に変わりはない。

 人間達は真下で後を追い、やけくそ気味に剣や松明を投げる。ウラヌスも大きな瓦礫を掴み、力いっぱい投げ付けた。

 だがそれらを魔王は振り回した尻尾で打ち払う。

 風魔法による守りがなくとも、高く飛ぶまでに減速した武器など魔王にとって脅威ではない。一時は追い込まれたものの、安全な空に辿り着いた魔王は、口を閉じたまま地上を見下ろした。とはいえ油断してまた捕まっては敵わないと、一直線に飛んでいこうとする。

 ――――その目が向いていない場所に、弓を構えるスピカがいるとも知らずに。

 

「(動きは遅い。何より直線的で速さの変化がない……やっぱり、逃げ方を知らないね)」

 

 矢を引き、飛んでいく軌跡を頭の中で思い描く。

 冒険家となってから十年以上の月日を掛け、スピカは技を磨いてきた。ジグザグに飛んでいるなら兎も角、同じ速さで一方向に進む的であれば簡単に当てられる。

 落ち着いて、確実に当てるため狙いを定める中で、スピカは思う。

 恐らく、魔王は自分が何故こんな目に遭っているのか分かっていない。

 何故なら奴は獣だから。力を持って暴れ回ったのも、それが出来たからだ。人慣れした動物は平気で人の領域に足を踏み入れ、納屋を荒らしていく。普通の獣ならそこで大勢の人間に襲われて退治されるが、魔王は返り討ちに出来る力があった。ただそれだけなのだろう。

 そしてその心は稚児のように無邪気だ。人間の子供がアリを踏み潰すように、魔王は人間と自然を踏み潰しただけ。それらとの力関係もまた子供とアリのように開いていたから、出来ただけ。

 魔王といえども悪ではない。いや、悪だなんだというのは人間の感性だ。自然の存在に対して当て嵌めるべき言葉ではない。親や仲間を殺されても、獣達は復讐などしない。野生の世界に正義も正当性もないのである。

 しかし同時に、復讐を止める事もない。

 野生が復讐をしないのは、したところで得るものがないため。何処までも自分本位で合理的なのが野生の生命。それでもするとしても、自然は拒まない。非合理的で損をするのはあくまで非合理な輩なのだから。

 元よりスピカは、自分の気持ちのために復讐を求めている。端から合理的な考えなんて持ち合わせていない。

 

「これで、終わりよ!」

 

 スピカが矢を放つのに、躊躇いはなかった。

 腕の痛みを無視して放った一撃は、正確に魔王の鼻先へと飛んでいく。例え金属の鏃が当たろうとも、魔王の鼻に傷は付かないだろう。

 されどスピカが放った矢の先には、小さな袋が付けられていた。

 矢と魔王の鼻先がぶつかった衝撃で、袋の中身が撒き散らされる。中に入っていたのは『粉』。それもただの粉ではなく香辛料の一種。

 ピリリとした辛味と香りが食材を美味しくする反面、鼻をむず痒くさせる代物であり……つまり()()()()を引き起こす。

 

「ヒ、ヒピ、キ」

 

 魔王が声を詰まらせる。バタバタと羽ばたいて香辛料を吹き飛ばそうとする。目に涙を浮かべ、必死になって大暴れ。

 しかし鼻の奥に入り込んだものは、もう出てくれず。

 

「ピキャッ」

 

 魔王は、くしゃみを一発。

 くしゃみというのは鼻奥などに入った異物を吐き出す行為。ゴミを出すため、空気を思いっきり外へと吐き出す。

 くしゃみだろうとブレスだろうと、揺れ動く奥歯には関係ない。口から出た空気に押し出された歯が、他の歯と接触して火花を起こす。火花は息に混ざる揮発油に火を付け、燃え盛る炎は更に吐息を燃やした。燃えた後には煙と炎を生み出し、それが大きな圧力となって周りを押し広げる。

 くしゃみをした直後、ぶくんと魔王の身体は触れ上がったのはその圧力が原因。

 尤も、身体が膨らんだ事に周りの人間達だけでなく、魔王自身も気付かない。

 何故なら空気の急速な圧力増加は留まる事を知らず――――ついに大爆発を起こし、魔王の肉体は粉微塵に吹き飛ぶ事となるのだから。



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勇者9

 朝日が、地平線から顔を出す。

 昨日までは家々と防壁により、早朝の朝日は遮られていた。しかし今は違う。魔王の風魔法により住宅も防壁も王城も破壊され、辺り一帯はすっかり更地と貸していた。朝日を遮るものはない。

 眩い光が、宵闇に隠されていたものを暴く。

 ……粉々になった瓦礫の平野に、赤黒いものがちらほらと見受けられる。身体を失った腕や足が転がり、跡形もなく消えた身体が見舞われた惨事を物語っていた。

 多くの人間がこの戦いで死んだ。

 多くの財産も失われた。

 王城の倒壊で、王国政府の機能も麻痺するだろう。

 被害は甚大を通り越したもの。時間を掛ければ取り戻せるものもあるが、二度と戻らないものも多い。無意味な犠牲とは言わないが、失われた命を「必要な事」だなんてとてもじゃないが思えない。

 しかしそれでも、数多の犠牲の果てに倒したのだ。

 魔王ワイバーンを。

 

「……ようやく、見下ろせたわ」

 

 ぽそりと、スピカは独りごちる。

 大地に転がる、ワイバーンの頭。

 揮発油による大爆発は魔王の体内で起きており、そこから遠く離れた頭や翼は(形を留めているという意味では)無事だった。頭部はごろんと大地に転がり、横たわっている。

 頭だけでも人間の身長よりも遥かに大きいが、あくまでもそれは奥行きの長さだ。横幅は流石に人間の身長ほどはない。横たわった状態であれば、辛うじてスピカでもその目を『見下ろす』事が出来た。

 頭だけになっても生きていけるような生物など、スピカが知る限り、脳みそもない単純な軟体生物のような『下等』生物でなければあり得ない。ワイバーン達ドラゴンは立派な肉体を持った高等な生物。頭だけで生きていくなど不可能だ。

 とはいえ魔王には魔法という超常の力がある。天変地異をも超える威力の魔法が使えるなら、常軌を逸した回復の魔法も使えるかも知れない。故にスピカは警戒していたのだが……

 横たわる目に生気はなく、焼け爛れた首の断面は香ばしい匂いを漂わせている。死んだフリだと考えるには、迫真の演技が過ぎるというもの。

 それでも念のため、持っていた矢の一本を目玉に突き刺す。ぶちゅりと眼球の中身が出てもぴくりともしない頭を見て、ようやくスピカは確信した。

 魔王は死んだ。

 ついに自分は家族と村の仇を討ったのだ。

 

「ふ、ふへ……」

 

 途端、スピカの足腰から力が抜ける。地面に座り込んでしまい、立とうとしても力が全く入らない。

 今になって疲れが出たのか。はたまた魔王の死に安堵したのか。きっと両方なのだろう――――自覚してみれば、今度は笑い声が腹の底から込み上がる。抑えようにも抑えられないほど強い衝動の。

 いや、どうして抑える必要があるのか。

 ついに長年の『夢』を叶えたのに、喜びを抑えてどうする。

 

「やった……やったぁーっ!」

 

 スピカは両手を上げ、子供のようにはしゃいだ。

 

「スピカぁーっ!」

 

「どぐぇっ!?」

 

 直後背中から強烈な一撃が。油断しきっていたスピカは受けた痛みに、乙女らしからぬ呻きを上げる。

 何が起きたと後ろを振り返れば、そこには見慣れた顔がこちらを見ている。

 ウラヌスだ。彼女の身体は土汚れに塗れていて、お世辞にも綺麗とは言い難い。しかしその身体を引き離そうという気持ちは、スピカの中には一寸たりとも湧かなかった。

 思い起こされる、数々の助力。魔王の気を幾度となく引き、最後は魔王の行く手も遮ってみせた。彼女がいなければ、きっと魔王は倒せなかっただろう。勿論自分の命も今頃天に昇っていた筈だ。

 どれだけ汚れていても大切な『仲間』だ。彼女を突き放すなんて真似、スピカには出来なかった。むしろ感極まって、巻き付く腕を掴んでしまう。

 

「ああ、ウラヌス! やったわ、やったの! 私、ようやく……!」

 

「うむ! 魔王を討ち倒したな! 戦士として名を上げたぞ!」

 

「いや名とかどうでも良いから!? 私の目的は復讐! 前に話したでしょ!?」

 

「む? そうだったか?」

 

 いや、やっぱりコイツは突き飛ばすべきか――――目的をすっかり勘違いしていたウラヌスにスピカは冷ややかな視線を向ける。とはいえ彼女がこれまでしてきた貢献が、綺麗サッパリ消えてなくなる訳でもない。

 ウラヌスに感謝を伝えようと、スピカはその顔を見つめる。

 

「いやはや、まさか本当に魔王の征伐に成功するとはな」

 

 尤も、その言葉を伝える前に横から声を掛けられたが。

 声の主はアルタイル。鎧どころか下着もボロボロで、鍛え上げられた上半身が露わになった姿だ。年齢的には中年のおじさんだと言うのに、その肉体は不老不死を彷彿とするほど若々しく、そして逞しい。

 王都の年頃な女子達が見れば、黄色い悲鳴を上げたたろう。尤もそうした事にあまり興味がないスピカは、話に横入りされて少し不機嫌だったが。しかし王国最強の騎士に話し掛けられて、それを無視するなんて無礼は出来ない。スピカは一旦言葉を飲み込んで、アルタイルの顔を見ながら返事をする。ちょっとばかり、嫌味な感じを込めて。

 

「あら、信じてなかったの?」

 

「可能性として高くないという話だ。現実にするため、全力は尽くした……だからこそ、我々は勝利している」

 

「そうね。私達は、勝ったのね」

 

 染み染みと、スピカはその言葉を声に出す。

 復讐は何も生まない。

 家族の仇討ちをしようとしていると明かした時に、数多の人達から掛けられた言葉だ。

 確かに、その通りだった。

 魔王を倒したところで、スピカは何も得ていない。むしろ何か、大事な気持ちが抜け出てしまったような気さえしてくる。だけど抜けた分だけ軽くなり、何処までも歩いていけそうな気分でもある。

 復讐は前に進むためにするもの。これでようやく、自分は自分の道を進んでいけるのだ。

 

「(とりあえず、みんなのお墓に報告でもしようかな)」

 

 今後(未来)の事を考えつつ、くすりと笑うスピカ。

 ともあれ今は疲れた。あれやこれやと難しい事は後回しにして、ぱたりとこの場で寝てしまいたい。

 それはあまり好ましくない衝動だ。魔王を倒したとはいえ、それで全部終わりではない。避難した人々に安全を伝え、瓦礫に埋もれているかも知れない仲間を助け、犠牲者を特定する……やるべき事は山積みだ。しかし自分は魔王に止めを刺したんだし、それぐらいのワガママは言ってもいいでしょと思ったスピカは、身体がぐらんぐらんと上下に揺れ始めた。寝る気満々だった。

 丁度、そんな時である。

 

「勇者だ……」

 

 誰かがぽつりと、言い出したのは。

 

「勇者?」

 

「ああ、みんなも見たよな? 最後の弓矢が、魔王に止めを刺したのを」

 

「勿論! あれがなければ魔王は逃げていただろうな」

 

「そもそも、揮発油を吸わせていなければ……」

 

 ざわざわと、周りから賑やかな声が次々と上がる。他人の話などスピカは大して興味もないのだが、何故かそれらの言葉は妙に気になった。

 理由を考えてみれば、答えはすぐに辿り着く。出てくる話題のどれもこれもが、スピカのしてきた事なのだから。

 

「(いや、そんな褒められても照れるんだけど)」

 

 実際、振り返れば魔王を追い詰めた作戦はどれもスピカが考案したものである。魔王討伐に大きく貢献したと言えよう。

 しかしどの作戦も、スピカ一人では出来ない事だ。トリモチで引きずり下ろす馬力なんてスピカにはないし、揮発油だって結局魔王には気付かれている。止めを刺せたのはウラヌスや大勢の兵士達が魔王の逃げ道を塞ぎ、スピカが弓を構えるまでの時間を稼いでくれたから出来たお陰。止めを刺した揮発油だって、交易都市で家出娘ことフォーマルハウトと出会わなければ縁がなかっただろう。

 それを如何にもスピカの手柄みたいに話されると、スピカとしてはちょっと褒め過ぎに思えてならない。

 

「あの作戦のどれか一つでもなかったら、魔王は倒せなかっただろう」

 

「それに、俺は見ていたぞ。魔王に踏み付けられても、最後まで諦めずに戦った姿を!」

 

「ああ! 魔王を地面に引きずり下ろした時も、勇ましい姿を見せたしな!」

 

 ところが冒険家や兵士達は、冷静になるどころかますます盛り上がっている。さながら興奮した酒場の酔っぱらい染みた勢いだ。

 何か、雰囲気がおかしくないだろうか? スピカは違和感を覚え始めたが、しかし勢いに乗った他人の会話に首を突っ込むのは中々勇気が必要な事。

 そうして迷っている間にも、あれよあれよと話は盛り上がり。

 

「勇者と呼ぶに、相応しい」

 

「ぶふうぅーっ!?」

 

 ついに出てきたその単語に、スピカは思いっきり吹き出した。

 勇者……勇ましい者を意味するその称号は、考えなしにドラゴンへ突撃すればもらえるものではない。勇ましさの先に成果があって、ようやく与えられる。

 それも野良ドラゴンを一体倒したようなヌルい成果ではない。一騎当千の働きをした騎士や、前人未到の大地を踏破したとか、生半可ではない偉業が必要だ。それこそ書物に名が残り、後世に語られるようなものではければならない。

 そんな称号が相応しいと言われたら、誰だって戸惑うというものだ。

 

「ふむ、そんなに驚くものか? 魔王討伐の立役者という功績を鑑みれば、むしろ妥当なものだと思うが」

 

「それは! そうかもだけど! でも私一人の力じゃないし!」

 

「作戦を考えついたというだけでも、十分称賛に値するだろう。君に勇者の称号を与える事に、王も賛同するに違いない。俺からも推薦しよう」

 

「ちょ、ちょ!? 勝手に決めないでよ!? いらないわよそんな七面倒な称号! つか完全に誤解を招くやつじゃない!」

 

 抗議の声を上げてみたが、アルタイルは目を逸らして無視する。スピカの不満をよく分かっているようだ。その上で、推薦を止めるつもりはないらしい。

 腹立たしいが、分かっている奴を罵っても意味がない。本当に止めるべきは、分かっていない奴等の方。しかしそういう人間に限って勢いがある。

 パチパチ、パチパチ、パチパチ。

 何時の間にか周りがしている拍手は途切れない。それどころかどんとん強く、早くなっている。冒険家も兵士も笑みを浮かべ、スピカに向け、惜しみなく称えてくる。

 どうやら『勇者』の称号は、すっかりスピカのもののようだ。

 

「(ほんと勘弁してよ!?)」

 

 それを察したスピカは、さぁっと青ざめた。

 別段、褒められるのが嫌なのではない。勇者が嫌いという事もない。

 だが勇者扱いとなれば、自分の名は世界中に轟くだろう。町を歩けば子供達から勇者様と呼ばれ、大人達から媚びるように勇者様と崇められる。これぐらいなら、鬱陶しいだけで実害はないのだが……人間というのは他力本願だ。「伝説の魔王を打ち倒した勇者様」なら、きっとなんでも解決してくれると期待するに違いない。例えば家畜を襲うワイバーンの退治とか。

 そんなの御免だ。スピカは自由気ままに自然を旅して、自由気ままに暮らしたいのである。冒険家としての仕事は必要最低限にしておきたい。復讐を果たして自由になった今ならば尚更に。大体魔王の討伐は皆で成し遂げた事だ。ドラゴン退治を期待されても、一対一なら普通に喰い殺されるに決まっている。

 しかし周りはスピカを勇者として讃える気満々。このままだと問答無用で勇者にされる……まるで勇者を悪名扱いだが、スピカからすれば似たようなものだ。

 ここは逃げるしかない。されど周りは完全に冒険家達(及び王国最強の騎士)に包囲されていて、脱出は極めて難しいと言わざるを得ない。

 ならば超人的な身体能力に頼るしかないだろう。

 

「う、ウラヌス! 私を抱えて! そんで此処から逃げるわよ!」

 

 スピカはウラヌスに対し、素早く指示を出す。

 ところがどうしたのか。ウラヌスはぴくりとも動かない。

 今まで指示を出せば颯爽と行動してくれたウラヌスが、何故今回に限って動いてくれないのか。困惑からスピカが固まっていると、ウラヌスは腕を組みながら、悩ましげに首を傾げる。

 

「なぁー、そういえば私とスピカが一緒に旅するの、そろそろ半年ぐらい経つか?」

 

「は? いや、今そんな事言ってる場合じゃ……」

 

「一緒に旅する期間は半年だし、そろそろお別れの時期なんじゃないか?」

 

 お別れの時期。

 確かにスピカはウラヌスに対し、半年間限定で旅の同行を許した。そしてその期限が間もなく来るのも間違いない。

 この問題にはスピカ自身、どうすべきか迷っている。

 一緒に旅する中で、言い争いは何度もしてきた。馬が合わない事も少なくないし、先の勘違い発言も度々ある。正直何度も呆れているが、だからといってウラヌスの事が嫌いかと言えば……そうではないと渋々ながらスピカも認めるところ。

 このまま、今しばらく旅を共にするのはやぶさかではない。

 しかしウラヌスも故郷に帰らねばならない身だ。これまではスピカに恩を返すという名目で旅を共にしてきたが、魔王との戦いだけでも十分返してもらっている。何時までも彼女を『束縛』するのは、彼女とその家族や民族にとって失礼かも知れない。

 だから、何時かは真剣に話し合わないといけない事だ。どんな結論に達しようとも。

 ――――が、今言う事じゃない。なんというかもっと空気を読むべきである。

 

「(いや、それとも空気を読んだ結果なのこれ!?)」

 

 ある方針を『目的』とするなら、ウラヌスの発言は極めて戦略的だ。選択肢をチラつかせながら対価を要求するのは、交渉の基本戦術である。時間的猶予がない、危機的状況下なら特に効果的だ。

 まさかウラヌスがこんな高度な交渉技能を……とも思ったが、本気で悩んでいる顔を見て察する。

 コイツは何も考えてない、今なんとなーくそう思ったから言っただけだと。

 

「(ただただ間が悪いだけだコイツぅーっ!?)」

 

 或いは野生の勘が成し遂げた奇跡か。しかし重要なのは相手の認識ではない。

 じりじりと躙り寄る感謝する人々と、勇者に仕立て上げようとする国家の犬。敵意はないのに恐ろしい連中が、どんどん距離を詰めてくる。ウラヌスに対し、丁寧に説明している暇はない。

 決断を迫られたスピカが出した答えは、自分の『願望』に従う事。

 

「……一年」

 

「む?」

 

「一年、契約を延期! あと一緒にアンタの故郷の帰り方を探してあげる! だからもうしばらく私の指示を聞け! 以上!」

 

 捲し立てるように声を荒らげるスピカ。力強く声を出したからか、身体が熱くなる。特に顔が赤くなっているのが、自分自身の感覚で分かった。

 それがなんとも恥ずかしい。しかし顔を背けると恥ずかしさを認めているような気がしたので、スピカはそのままウラヌスの顔をじっと見つめる。

 ウラヌスは最初、呆けたような間抜けな表情を浮かべていた。

 されどすぐに満面の、満開の花のように明るい笑みを浮かべる。キラキラと目を輝かせ、こくんこくんと大きく頷く。

 言葉以上にハッキリとした意思表示。これにて『再契約』完了だ。

 

「おっし! 後は任せろーっ! ……で、どうするんだー?」

 

「とりあえず……正面に向けて突撃ぃ!」

 

「おー! それは良い作戦だな!」

 

 スピカの大雑把な作戦に、ウラヌスは元気よく応える。スピカを抱えたウラヌスが、力強く走り出す。驚く冒険家達に臆する事もない。

 ――――復讐は終わった。

 しかしスピカの命はまだ続く。復讐は楽しかった訳もないが、目標のある人生はメリハリがあった。その目標を達成した今のスピカは、空っぽの状態である。勿論死ぬ気なんて微塵もないが……意地でも生きていこうという気力は、以前よりも乏しい。

 気力で生きていけるほど自然は甘くない。されど気力を出さねばならない時は山ほどある。何より人生を『明るく』彩るのに、どんなものであれ目指すものはあった方が良い。

 とりあえずの目標として、先程ウラヌスに伝えた故郷までの帰り方探しという『約束』を果たすのも悪くない。

 それが次の大冒険の始まりであり、後に勇者スピカの冒険譚第二章として語られる物語の始まりなのだが……未来の事など知る由もないスピカは、能天気かつ軽率に人生の新たな目標を定めて、勇者の称号から逃げ出すのだった。

 



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