上様が如く~八代目・将軍吉宗評判記~ (鳩胸ぽっぽ助)
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第一話 大江戸の暴れ馬

 歳の瀬も近づいた頃、珍しく江戸に雪が降った。いつもはこの時期、土埃が舞う程に地面は乾燥しているが、江戸の町は屋根も道も一面すっかり真っ白になってしまった。

 そんな様子を江戸城から眺める姿があった。

 

 ──八代将軍徳川吉宗である。

 

 この男は、ひょんなことから将軍に上りつめた男である。

 

 そもそも徳川幕府を開いた家康を曾祖父に持ってはいるが、その息子である秀忠の男系の子孫である徳川宗家ではなく、親藩である徳川御三家の一つ、紀州徳川家の生まれである。

 

 取り決めでは、宗家の血が途絶えた場合、この御三家から将軍を輩出することになっており、順番として

 一、尾張徳川家

 二、水戸徳川家

 三、紀州徳川家

 となっていた。

 

 そんな紀州徳川家に生まれた吉宗は四男である。よって本来は紀州藩の藩主になることもなく、ましてや征夷大将軍になることすら有り得なかった。だが、第二位の水戸徳川家を抑え、吉宗は将軍となってしまったのである。

 

 どのような経緯で将軍になったのかはまた別の機会に記すとして話を進めるが、この吉宗は大変好奇心が旺盛で、こっそりと城を抜け、お忍びで町を闊歩するのを趣味としていた。

 

 自らを「徳田新之助」として偽名を名乗り、庶民と酒を飲み交わし、世間話に華を咲かせる。そのようにして江戸の町や民には何が必要かを知り、人口百万人を超える江戸の地で、数々の改革を行っていったのである。

 

 

 はぁと白い息を吐く。

「新之助、風邪をひくぞ」

 足が悪く、杖を突きながらも頑として傍に侍っている老翁・風間新右衛門が、連子窓から一緒になって江戸城の外を覗く。

 

「そう言う親父様こそ、お体大切に」

 この二人の関係は、ただの殿と爺の関係ではない。まるで立場が逆なのは、この二人の類稀なる関係のせいである。

 

()()()、もっと温かい格好をしてください。もう歳なのですから」

「ハッハッハ! まだまだわしは元気じゃわい」

 つられて吉宗も笑ったが、新右衛門の毛髪は日に日に白くなり、髷の量も減ってきている。昔は黒々としてハツラツに見えた口ひげも、白髪交じりではもう老いを隠せない。

 

「紀州でも雪が降る事はめったにありませんでしたね」

「そうじゃ」

「幼き頃、珍しく雪が積もった時に、余は彰之助と由美と三人で雪遊びをした事を覚えています。あの時、爺にたまたま雪玉が当たってしまい、叱られて三人で大泣きしました」

 吉宗は懐かしそうに笑った。

「そんな事もあったのう……」

 と、新右衛門は目を細めた。

 

「新之助、雪が降ると静かじゃな。こう静かじゃと、あの頃のお前たち三人の笑い声が聞こえてくるようじゃ」

 新之助とは、吉宗の通称である。新右衛門は吉宗と二人きりの時だけ、吉宗をこう呼ぶ。

 

「お前たち三人は本当に仲が良かった。お前は産まれてすぐに母親とは別れ、紀州の風間家で育ち、遊び相手として、捨て子じゃった彰之助と由美を同じ屋敷に住まわせた。お前も彰之助も、よく屋敷の物を壊したのう。特にお前は気も短く、紀州の暴れ馬じゃと言われておったな」

 

 今は上様と爺の関係であるが、実は親子のような間柄である。吉宗の母・お由利の方は、和歌山城の大奥の湯殿番であった為、身分不相応として出産後に吉宗とは別離させられた。以来、人里で隠れ住んだが、吉宗はこの事実を知らず、出産時に死んだと聞かされている。

 

 吉宗が預けられた風間家とは、紀州藩の家老の大きな邸宅であった。当時、新右衛門は家老の職に就いており、吉宗の父・光貞の信頼も厚かった。風間家では昔から孤児を引き取り、成長し、祝言を挙げるに至るまでしっかりと面倒を見ていた。中には恩義に報い、使用人として風間家に仕える者もおり、全員が親しみを込めて新右衛門の事を「親父様」と呼び、評判も良かった。新右衛門も息子同然に吉宗を育てた。そういうわけで吉宗にとっては、新右衛門は育ての親なのである。

 

 そんな「親」から昔話をされると、いつも吉宗はむずがゆくなる。

 

「親父様、その話はよしてください」

「ハッハッハ! なぁに、本当の事じゃないか」

 と笑っていると、小姓が廊下から声をかけた。

 

「炭をお持ちいたしました!」

「入れ」

 小姓はまだ若い。名を田中進次郎と言って、つい最近仕えるようになった。歳の頃は十五、六。

 

「はっ!」

 すーっと障子が開き、進次郎は頭を垂れて部屋に入る。すぐに火鉢に炭を足し、部屋の隅に控えた。

 

「上様、さあ火にあたられよ。体を冷やしては毒ですぞ」

「……うむ」

 そう言ったが、吉宗は窓の傍から動かずに、ずっと外の様子を見ていた。

 

「……ひどい感冒が流行っていると聞く。江戸の民にはちゃんと炭が行き渡っておるかのう」

 この寒空の下、江戸の民はしっかりと暖を取れているのだろうか。吉宗は気がかりになる。

 

「冬はどうしても需要が多く、炭の値段が上がっているようですぞ。さらには今年の夏の大雨で、山から町へ下る途中の橋が崩れてしまいました。炭を売りに山を下りるには、遠回りを強いられているようですので、一度で運べる量も少なく……」 

「まだ橋は直しておらんのか」

「はっ。歳の暮れまでには直せる見込みでしたが、この流行り病で人足たちも伏せてしまい、途中になったままになっているそうです」

 新右衛門は先程とは違う口調で吉宗に説明をした。

 

「そうか。……難儀だな」

「はぁ。医者の数も足りておりませんゆえ。何やら怪しげな祈禱をする輩まで出る始末」

「何だ、それは」

「さぁ。ム……、ムナ何とかと申しておりましたが、何やら舶来のものでしょうか。聞いたこともない言葉でして。年寄りには覚えられませんわい、ハッハッハ」

 と、新右衛門は笑った。

「舶来の信仰か……。それはいかんのう」

 吉宗は顎をさする。

 

 ふと進次郎を見ると、寒そうに肩を震わせていた。

「進次郎、ここへ来て爺と一緒にあたれ」

 と、吉宗は閉じた扇子で火鉢を差した。

 

「いえっ! とんでもございません!」

 進次郎は顔を上げずに言い、むしろ畳に額が擦れるまで頭を下げた。

「お前が寝込んでしまうと余が困る」

「はっ! 申し訳ございません!」

 進次郎は一向に動かない。

「余の命だ。ここへ来て座れ」

 

 上様が火にあたっていないのに、小姓である自分が火にあたるわけにはいかないと、進次郎はずっと平伏したままでいる。

 

「進次郎、上様がお呼びじゃ。……お前くらいじゃろう、上様にかわいがられておるのは」

 まだ小姓として侍って日が浅いが、吉宗は進次郎をかわいがっていた。頬や額にニキビがポツリポツリとあり、純朴そうな少年ではあるが、剣の腕が立つという。

「ははっ、ありがたき幸せでございまする!」

 と言いながら、進次郎はまだ平伏している。

 

「……まあよい。遠慮する気持ちもわかる。ならば温かい茶でも飲ませてやれ。そうじゃ爺、爺の点てた茶を飲ませてやれ。進次郎も爺から茶の湯を教わるのだ。爺はこの江戸城で一番の茶を点てる男だ。その爺が死んでしまっては、飲めなくなるからな。覚えるなら今のうちだぞ、ハハハハ」

「うっ、上様! なんてことをおっしゃるか!」

 新右衛門はわざとらしく驚いて見せた。

「進次郎、ちゃんと学んで来い」

「……はっ!」

 進次郎は吉宗と新右衛門の実のところの間柄をよく知らない。先の様子からも分かるように、二人きりで話す時、新右衛門はとても将軍と話すような口調ではないのだが、他の者がいる場合は吉宗を「上様」と呼び、吉宗は新右衛門を「爺」と呼ぶ。

 

 

 新右衛門と進次郎が退出し、吉宗は一人になった。

 誰も居なくなったところで、吉宗は着替えの間の扉を開けた。そこには待ち構えていたように、若い女性が衣装盆に着物を用意して座っていた。

 

「由美。どうだ、町の様子は」

「……病は七日ほどで完治する様子ですが、それは比較的裕福な者のみ。普段から食うに事欠く者たちは、高熱や肺炎を患い、死に至っております」

 

 吉宗は羽織を脱ぐ。それを由美は手伝い、衣紋掛けに掛けた。

 

「……亡骸もそのままになっております。何しろ家族も床に伏せっておりますので」

「それはいかんな」

「幸い、この寒さですので。……夏ならばひどいことでしたでしょう」

 吉宗は顔をしかめた。

 

 上衣の帯を外すと、筋肉質な上半身が露わになった。色は健康的に浅黒く、油を塗ったように艶がある。

 

「より温かい肌襦袢を用意いたしました」

「うむ」

 と、由美は、吉宗が羽織っている肌襦袢を背中側から脱がせた。

 

 すると、背中一面に彫られた応龍の入れ墨が露わになる。

 

 この入れ墨を見る度、由美の心は切なく痛む。これは「幼き日の絆に」と、吉宗、彰之助、そして由美の三人がそれぞれ体に彫った時のものだ。吉宗は応龍、彰之助は緋鯉、そして由美は胸に月下美人。吉宗は征夷大将軍として天下の頂点に立ち太平を守り、彰之助と由美はその補佐をする。その三人の志と決意が入れ墨に示されているが──。

 

 吉宗は金糸で織られた派手な袴を脱ぎ、いつもの質素な灰色の袴に足を通す。その上衣はえんじ色の無地の着物に、灰色の羽織を羽織る。それが町を歩く際の吉宗の格好だ。平凡な一張羅ではあるが、この格好がちょうど具合がいい。

 

「本当に行かれるのですか?」

「……ああ」

「せめて雪が解けてからではいけませんか? 明日は晴れそうですが」

「いや。事態は一刻を争う。医者がちゃんと患者を診ているか、薬を処方しているか気になっている。この目で確認したい」

 

 吉宗は言い出すと聞かない。その性格を由美は昔からよく知っている。

 

「では、彰之助に舟を出させましょう。感冒をもらわぬよう、くれぐれも病人と接触致しませんように」

「……ああ」

 着替えを終えた吉宗は、由美の後に次いで、隠し廊下から城の裏口へと向かった。

 

 

 城を抜け出すには正面はもちろんのこと、裏門も通ることはできない。よって、舟に乗って堀を行き、人気のない場所で舟を下りるのだが……。

 

 舟を漕ぐのは由美と同じ御庭番の彰之助である。ごまかしに舟の半分に乗せた俵や行李を覆ったむしろの下で、吉宗は荷物と一緒に隠れている。

 

「……着きました、()()()

 彰之助は低い声で言った。

 そこへ吉宗がひょっこりと顔を出す。

「いつも悪いな、錦」

「いえ」

 

 「錦」とは彰之助の忍びとしての名である。紀州から一緒に江戸へ上って来たこの幼馴染は、江戸へ入るなり無口になった。それは由美と共に忍びとして教育され、吉宗の身の周りの警護をするという大役を仰せつかった責任感から彼をそうさせている。

 

 先にあった新右衛門の話のように、幼少期は彰之助も由美も、どこにでもいる無邪気な子供であり、紀州の風間家では、吉宗と一緒にいたずらばかりする悪ガキであった。

 かつては新之助、彰之助と呼び合う仲であったが、今では一線を引き、「八代目」と呼ぶようになったことを、吉宗は心寂しく思っている。

 

 吉宗が先に舟を下りる。彰之介はどこにでもいる町人風に身を整え、付かず離れずの距離で歩き出した。吉宗がどこへ行こうと、彰之介は見失う事はない。

(……とりあえず、まずは医者を回るか)

 吉宗は、まるで踏みつぶしたぼたもちのように、土と雪がぐちゃぐちゃになった道を進んだ。

 

 この時代は主に漢方医と蘭方医がいる。漢方医が勧める東洋医学は、「健康とは五臓六腑の調和」とし、それを支えるのが「気」、その調和が乱れた状態を「病」とした。診察後は個人に合わせた薬を調合したが、中国伝来の漢方薬の他に、日本独自の薬草なども使用された。また、薬には特効性がないものが多く、滋養強壮の薬が多かった為、効き目が期待できるまでには長期間かかることもあった。また、鍼灸も盛んに行われた。

 

 一方蘭方医学は、長崎出島のオランダ人医師らを介して日本に伝えられた医学である。これは外科的治療を得意とし、化学的な薬品などを用いた治療を行っていた。現代の感覚に近い治療法と言えばわかり易いだろう。

 

 元々東洋医学を主としてきた日本の地において、この蘭方医学が行う外科治療は、目から鱗のものとして学ぼうとする者も多くいたが、「患者に刃物を使う」などと敬遠されることもあった。例外もあるが、残念ながらまだこの頃、日本各地ではこの二大医学は相容れないものであり、それは民も皆そうであった。

 

 吉宗に言わせれば、どちらも優れた点があり、どれが正しく、どれが間違いだという事はない。しかし、いがみ合っている現実に「何とかならないものか」と常々頭を悩ませていた。

 

 

 吉宗が歩いていると、何やら通りの家の前に人が群がり、ガヤガヤ騒がしい。

 

「おっ母がずっと咳込んでいて、あばらを痛めたみたいでさァ! ちょいと診とくれよォ」

「お願いします! 銭がないのでこの反物で何とか! 薬代として納めますから……!」

「赤ん坊が熱で泣きっぱなしなんです! 何か薬はありませんかっ?!」

 

 急いで医者の家の前まで来ると、一人の若い娘が囲まれていた。

 

「先生もこのところの診察続きでお疲れですので、もう小一時間だけお休みさせてくださいませ」

 と、医者の娘なのか何なのか、申し訳なさそうに頭を下げていた。

 

「何だよそれ! こっちだってなぁ、看病続きでろくに寝てないんだぞ!」

「こんなに頼んでいるのに、休んでいるだって!? どういう神経してるんだい!」

「先生もお疲れですので……」

 と、その娘も目の下に隈を作って顔色が悪い。飲まず食わず、そしてろくに眠らずに過ごしているのだろう。

 

(……なんと)

 その姿を見て、吉宗は胸が痛んだ。

 

「てやんでぇ! べらぼうめ!」

 男が激しく罵り、娘の肩を突いた。

「キャッ」

 娘は積もった雪の上に倒れ込んだ。

「この野郎! おっ母が死んだらテメェらのせいだからな!」

 男は娘に向かって雪を蹴り上げた。

 

「やめろ!」

 吉宗は見ていられなくなり、娘の前に立ちはだかった。

 

「ああん? 何だテメェは」

「通りすがりの者だ。おぬし、か弱い娘に手を出すとは見上げた根性だな」

「へっ! 侍が何を言っている! こんな戦のない世ではなぁ、刀差して踏ん反り返った侍なんぞ要らねぇんだよ! テメェらに病気が治せるのか、アアッ?」

 

 そう言われると、吉宗も耳が痛い。

 

「こっちはなぁ、明日の身も分からないんだ! 隣の家もよぉ、向かいの家もよぉ、みーんな家族が死んでるんだ! 医者がちゃんと診てくれりゃ、死ななくてもよかったのによぉ!」

「そのようなことで、八つ当たりか」

「けっ! 小綺麗な格好してよぉ! どうせ侍なんか底辺の貧乏人の俺たちを見て、ほくそ笑んでんだろっ。医者もなぁ、どうせ銭持ってる奴しか見てくれねぇんだよ! だからこうやって断ってやがるんだ」

「違います! 父はそんな医者ではありません! ただ、ここずっと寝ておらず、夜中も町中を駆け回って診察をしていました。食事も取らず、薬を調合して……。立ち上がるのもやっとなほどで……、それで少しだけ睡眠をとってから診療を再開しようと……!」

「……そういうことだ。診ないとは言っておらん。出直して来いと言っておるのだ」

 

 吉宗が眉間にしわを寄せギロリと睨むと、娘を取り囲んでいた輪はスーッと離れていった。

 

「わ……、わかったよ! くそっ、後でまた来るからな! 診てくんねぇと、ヒ、ヒヒヒ……火ィつけるぞォ!」

 と、ひるんで走り去った。集まっていた者たちも、ブツブツ言いながら散って行った。

 

「……大丈夫か?」

 吉宗は娘に手を差し伸べた。

 

 娘は吉宗の手を掴んで立ち上がると、雪と泥で濡れた着物の裾を払った。

 

「お侍様、ありがとうございました」

「いや……。それよりお父上は大丈夫か?」 

「一刻程寝させてくれと言ったっきり、すぐに眠ってしまいました」

「……十分休憩を取って、飯も食わせてやるのだぞ。医者がくたばってはいかん。そしておぬしも同じだ。ほら、せっかくの顔が台無しだぞ」

 と、吉宗は懐から手ぬぐいを出し、娘の雪で濡れた頬を拭いてやった。

 

「あっ……」

 娘は顔を真っ赤にし、うつむいた。

(……きっと高貴なお方なんだわ)

 吉宗の手ぬぐいには香が焚きつけてあり、いい香りがした。伽羅か白檀か。娘にはそれがどの香木の香りかわからなかったが、胸のつかえがスッと消えるような気がした。

 

「薬は足りているのか?」

「……いえ、それが。父は河川敷で薬草を育てていましたが、この雪で採りに行けずじまいで。例年ならこの時期は乾燥しているので、収穫した薬草を干すのにちょうどいい時期だったのですが」

 

 娘の顔は未だ火照っているようだが、吉宗はそういうことに気が付かない。目を合わせず、顔を背けるように話す娘の様子を、ただ落ち込んでいるだけだと思ったようだ。

 

「そうか」

 吉宗はそう言ったっきり、無言になった。

 

「娘。俺は手伝ってやることは出来ないが、今の話、しかと聞いたぞ。また様子を見に来る。俺にできる事があれば何でも言ってくれ。あと……」

 と、懐に手を入れる。

「これで父上と一緒に、何か体が温まるものでも食ってくれ」

 と、小判を握らせた。

 

「いえっ、そんな!」

「……この様子では、患者から金を貰っとらんのだろう。医者も稼ぎがなければ食うに事欠く。どうやらここは漢方医のようだな。漢方は医食同源。食事は大事だぞ」

 吉宗は微笑んで、その場を離れた。

 

「お侍様! お名前は? お名前を伺っても……」

「俺か? 名乗るほどの者ではないが……、ゴホン」

 と、吉宗はもったいぶって咳払いをした。

 

 

「俺は徳田新之助、貧乏旗本の三男坊だ」

 

 

 吉宗はそう言うと娘に背を向け、歩き出した。

 

「徳田……新之助様」

 娘はもらった小判を両手でぎゅっと握りしめた。

 

 

 

 

 しばらく往来を行くと、また雪が降って来た。

「……また雪、か」

 ひらひらと舞い下りてくる雪を手で受け止める。だが、それは手の平ですぐに溶けてなくなってしまう。吉宗は近くの軒下で雪が止むのを待たせてもらおうと、立ち止まった。

 

「八代目、娘に小判はいけませんな」

 どこからともなく、彰之助の声が聞こえる。

「ん? なぜだ」

「大きすぎます。あれでは何か買おうとも、医者の娘と知れていれば、店の者が何と言うか」

 吉宗はその意味が分からない。

 

「もっと細かな銀か銭で渡すべきでした。このご時世、医者は民の救いでもあり、敵でもあります。尊敬される者は、常に紙一重なのです。いくら地位があっても、民の中の一人でなければならないのです」

「どういうことだ」

「能や力がある者は、与えるだけではだめなのです。ある者がない者に分け与えるのは道理でありますが、ない者の痛みを分けてもらってこそ、平等というもの」

 

 吉宗は首を傾げた。

 

「八代目の精神そのものではありませんか」

 吉宗は江戸に上り、将軍職に就いてから、あれもこれもとこれまでの慣例を捨てさせてきた。生活は質素に、食事を一日三食から二食へと減らし、一汁一菜にした。贅沢を好まず、また、城の者にもそのように通達した。

 

「こうして城の外を出歩くのも、民の生活を知りたいとの事からでしょう。志は立派ですが、まだ足りませんねぇ……」

「……何が足りない」

「…………」

 そこまで言って、彰之助は黙ってしまった。つい昔の癖で何でも遠慮なく言ってしまう。

 

「言え、錦」

 吉宗はムッとする。何が言いたいのか察してしまった。

 

「……ゴッ、ゴホッ」

 その圧に、彰之助は顔を逸らして咳込んだ。ややおつむが足りないなどとは死んでも言えない。

 

「と、とにかく、あの娘が小判を出せば、あの者の父親が診療費や薬代で大儲けしていると噂が立つでしょう。ですから細かい銭で渡せば良かったのだと申し上げたわけです」

 吉宗は「しまった」という顔をして、娘の家の方向を振り返った。

「……ありがた迷惑だったというわけか」

 彰之助は返事をせず、逃げるようにすっとその場を離れた。

 

 

 雪はだんだんひどくなってきた。どうにもこうにも、寒くて仕方がない。もう二、三軒医者の様子を見に行くつもりであったが、足元が悪く、歩こうにも歩けない。足袋も解けた雪や泥でべちゃべちゃだ。

(くそ。散々だな)

 やはり由美の言う通り、明日にすれば良かったと後悔する。

 

 ブルっと身を震わせ、吉宗はちょうどこの近くにある行きつけの居酒屋「晴々屋」の暖簾をくぐった。

「おかみ、いつもの熱燗を頼む」

「あら新さん、いらっしゃい。やっぱりまた降ってきたのね」

 ここの店のおかみ・お麗が店先に駆け寄り、吉宗の肩に積もった雪を払い落した。

 

「……客は?」

「それが、流行り病にこの寒さでしょ? 今日は暖簾下げようかって思ってたのよ。誰も来なくて。新さんが今日初めてのお客さんだわ」

「……そうか」

 まだ宵まで時がある。いつもは昼間に店を開け、すぐに客が出入りするような繁盛店なのだが。吉宗はいつもの奥の席に座り、冷えた手をこすり合わせて熱燗を待った。

 

「新さん、大丈夫なの?」

「ん?」

「流行り病よ。この辺でも、寝込んでしまって店を休んでるって人が増えてきてね。暖を取りたくても炭の値段は上がってるし、お医者にかかりたくても銭がなくて薬も買えないし、結局家族全員がかかってしまってどうしようもないんだって聞いたの。……でも新さんは元気そうね。こんな寒いのに、いつもと変わらず顔色はいいし、いつもと変わらずお酒を頼むなんて」

 お麗は呆れたように笑った。

 

 確かに元気なのは取り柄と言っても差し支えないだろう。たまたま近くまで来たから寄っただけだったが、何やら嫌味のように聞こえてしまい、吉宗は咳払いをした。

 

「はいどうぞ」

 徳利が二本、猪口が二つ、卓に置かれた。

 

「ん?」

「私も飲ませてもらおうと思って」

 と、小皿に乗ったかば焼きを置く。

「ったく調子がいいな。ん? ……鰻か?」

 これは豪華な、と、吉宗は嬉しくなった。

「鰻なわけないでしょ? これはね、(ニシン)よ。鰊をかば焼きにしたの」

 この時代、鰊は下魚である。

「鰊だとっ!?」

 吉宗は生まれてこのかた食べたことがない。

「あら、お嫌い?」

「いや……」

 

 お麗は吉宗の猪口に酒を注いだ。

 

「まさか食べたことないって言わないわよね?」

「…………」

 吉宗はグイっと猪口を傾け、酒を飲み干した。

「ま、いいわ。足が早いのよ、鰊は。新鮮なら、酢で〆るか、そうでなければ焼きにするか。私が手に入れたのはそうでなかった鰊よ。悪かったわね」

 お麗は不機嫌そうに鰊をパクリと食べた。

 

 

 ようやく体が温まってきた頃、何やら表が騒がしい。

「てーへんだ! 新さーん! 新さんはいねぇかっ?」

 ガラッと店の戸が開く。

「今日はもう暖簾よ!」

 お麗が声を上げた。

 

「ちげぇよ! 俺ァ新さんに用事があるんだ!」

「俺だと?」

 吉宗は猪口を置き、緩んだ襟元を正し、席を立った。

 

「あっ、新さんやっぱりここにいたか! め組に行ったんだけどよォ、今日は新さん来てねェって言うから」

 

 め組の詰所の傍で表具屋をしている顔馴染みの男だ。

 

「で、どうしたんだ」

「悪いがちょっと来てくんねぇか。そこの長屋の通りで喧嘩してるんだ!」

「喧嘩?」

 吉宗は懐に手を入れ小判を取り出すと、一枚卓に置き、店を出た。

 

「あっ、新さん!」

 お麗はその代金を見て驚いた。

「ちょっと……、払い過ぎよ」

 こんなに出すなら、もっと他にも肴を出せば良かったとお麗は思った。

 

 

 男に導かれて駆けつけてみると、若い男2人が取っ組み合いの喧嘩をしていた。

 

「いってぇどういう神経してるんだ! おめぇにはお天道様が見えねぇのか!?」

 馬乗りにされて、下になっている男が叫んだ。

「おう、お天道様だぁ? どこにそんなもんがいるんだよ! ああぁ?」

 あいにく、分厚い雪雲に隠れて太陽は見えない。

「そういう意味じゃねぇよ! 俺はな、悪い事をすれば神様が必ず見ているんだぞということを言ってるんだ!」

「はぁぁぁん? だったら何だよ」

「かわいそうに、この寒いのに自分の丹前*1を質に入れて、薬を買ったんだぞ! それを奪うとは」

「はんっ、知るかよ」

 

 どうやら薬を奪ったらしい男は、下にいた男の腰を蹴った。

 

「おい、ガキ。そんなに金が必要ならいい店紹介してやるぜ?」

 男は傷のある顔でニタニタと笑いながら、自分の長いもみあげとそこから繋がる無精ひげを撫でながら、小さくなって震えている少女に近づいた。

 

「おい、ツラ見せろォ」

 男は少女の顎に手をやり、グイっと顔を上げさせた。

「ほう……、よく見りゃ上等な顔じゃねぇか。……こりゃ年頃になれば化けるな」

「やっ、やめてください!」

 少女は目にいっぱい涙を溜めて男を睨んだ。

 

「何だぁ、その目つき。大人しそうだと思ったら、なかなか気が強そうじゃねぇか。ハハハ! こりゃいい! お前なら禿(かむろ)から花魁になるまでそう時間はかからねぇだろうなぁ!」

 男は下劣にも高笑いをした。

 

「手を離せぃ!」

 低い声が響いた。

 

 するとどこからともなく扇子が飛んで来て、少女の顎を掴んでいた男の手に鈍い音を立てて当たった。

 

()てっ! 何だ?」

 飛んできた扇子には、「成敗」の文字が書かれている。

 

「聞いていたぞ。その少女から薬を奪った上に、遊郭に売り飛ばそうとは、下劣千万。即刻薬を返せ」

「はぁん? 何だテメェ。関係ないだろうが」

「ふっ、確かに関係はないが、このような狼藉を見聞きした以上、貴様を放ってはおけん。今すぐ返さねば、二度とお天道様を拝めぬようにしてやるが、いいのか?」

 吉宗は拳を握り、構えた。

 

「……何だァ? やんのかァ?」

 男は拳を構えた吉宗に対抗し、懐に隠していたドスの柄を掴んだ。

 

「拳で勝負か? 腰のモノはお飾りかよ」

「俺は今日、大変な一日でな。すこぶる機嫌が悪いんだ」

「だからどうだってんだ!」

 

 男は鞘からドスを抜き、吉宗に斬りつけようと振りかざした。

 

「遅い!」

 吉宗は身をかわし、ドスを握る男の手首に手刀を落とした。

 

「ウガッ!」

 ビリビリと痛む手首に男が気を取られると、すかさず吉宗は男の後ろ襟を掴み、遠心力を使って放り投げた。

 

「ゥオラァァァァァァッ!」

 

 男は民家に立てかけてあったよしずに激しく背中を打ちつけ、弾みで積んであった樽が崩れ落ち、男の頭にかぶさった。

「こっ、コノヤロー!」

 男は頭にかぶった樽を外そうと、樽に手を掛け、目を出した瞬間──。

 

 既に目の前に吉宗の足が迫って来ていた。

 

 吉宗は樽をかぶったままの男の頭に回し蹴りをし、倒れた男はそのまま雪の上に突っ伏して伸びてしまった。

 

「しばらく寝てろ」

 吉宗は吐き捨てるように言うと、襟を正し、首をゴキゴキと鳴らした。この騒ぎを見ていた者たちは皆、あっけにとられ、言葉をなくしている。

 

「……大丈夫か?」

 吉宗は、座り込んでいる少女に近づき、声をかけた。

 

「お前、名前は何と言う?」

「お前じゃない……」

「ん?」

「私は“遥”……。お前じゃない」

 少女は座ったまま、じっと吉宗を見上げていた。

*1
厚く綿を入れた防寒用の上着




続く…かもしれない


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第二話 め組の狂犬

 その「遥」と名乗った少女の目はまっすぐ吉宗に向いていた。歳の頃は、十歳前後か。まだ幼さが隠せないが、その眼力の強さに、さすがの吉宗も一瞬たじろぐ。

 

「おじさんは?」

 聞き慣れない「おじさん」という言葉に、吉宗はドキリとした。

 

「ああ……。俺は徳が……、“徳田新之助”だ」

 思わず本名を言ってしまいそうになるほど、この遥と名乗る少女の目は澄んでいる。

 

「おま……、いや、遥。あやつに何を盗られた」

 と、伸びている男へ視線を移す。

「薬。おっ父の薬。……おっ父は元々体が悪くて、ずっと薬を飲んでた。でもここ最近、いつも飲んでる薬の値段が上がっちゃって……。でも、薬を止めるわけにはいかなくて……、それで最近はおっ母の着物とか、家具を質に入れて何とか薬を買ってたの。でも、とうとう売る物も底をついて、……それで」

 と、遥は涙を堪え、唇を噛んだ。

 

「それで自分の丹前を売ったのだな」

 遥はコクリと頷く。

「それで手に入れた銭で、薬を手に入れたは良いが、あの男が奪ったのだな?」

 吉宗はため息をつく。

「待ってろ」

 吉宗は、転がっている男を仰向けにした。頭を蹴られて、白目をむいている。

 

「……ったく」

 男の着物の襟を開き、懐に手を入れる。

「ん?」

 紙に包まれた薬の他、女もののかんざしや中身が入った巾着袋が何個も何個も出てきた。

(ったく、盗人が。……どれも女物ばかりではないか。どうしようもない輩だな)

 どうやらか弱い女ばかり狙って、ひったくりなどを繰り返していたようだ。

 

「遥、お前が盗られたのはこれか?」

 と、薬の紙包みを見せる。

「う、うん!」

 遥は立ち上がって、慌てて取りに行った。

「さあ、すぐに父上に届けなさい」

「あっ、ありがとう。……徳田のおじさんっ!」

 遥は嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、吉宗は胸がすっきりとした。

 

(この子も生活が苦しいのか……。しかし、あいにく……)

 先ほどの医者の娘同様、いくらか恵んでやろうと思ったが、彰之助の言葉がその衝動を抑えた。

(……銀は持っておらんゆえ)

 小判を渡すと、また何か言われるだろう。

 

「気を付けろよ」

「ありがとう!」

 手を振って去って行くかわいらしい少女・遥を、微笑んでずっと見守る吉宗であった。

 

 

 吉宗は両手に持ったかんざしやら巾着やらを見て、深くため息をついた。

「……八代目、いかがいたしましょうか」

 またどこからともなく、彰之助の声がする。

「……こいつはきっと懲りない奴だろう。ほら、入れ墨もある。おそらく過去に何回も縛に就いたことがあるのだろう」

「……では、奉行所に」

「うむ、それがいいだろう」

 ひそひそと話していると、

 

 

「新ちゃんやないか~ぃ」

 

 

 と聞き覚えのある声がした。

「……ん?」

 吉宗はキョロキョロと辺りを見渡した。

「こっちや、こっち。め組のカシラ、辰吾朗のお出ましやでぇ~?」

 と、番傘を担ぎ、手を大きく振ってフラフラと歩いてくる姿が見えた。後ろには3人、若衆がついて来ている。

「…………」

 吉宗は目を細めた。

 

 辰吾朗は、この寒さの中、裸の上半身に黒腹掛を纏い、め組の揃いの法被を羽織っている。腰には本物の蛇の皮で作ったという帯を締め、ドスを差し、左目には「め」と書かれた眼帯をしている。

「……何だ、め組の兄さんか」

「何だとはご挨拶やなぁ?」

 

 この男、め組の辰吾朗は、江戸生まれにありながら関西の言葉を話す。

 

「何や、喧嘩や言うて聞いたから来てみりゃあ、もう終わったんかいな」

「……ああ」

「つまらんのぅ。江戸の冬や言うたら、火事が多くて退屈せぇへんのに、何や最近はジメジメと雪なんか降りくさって、火事なんかひとーつも起きへん。あんまりに暇やから、火ぃでもつけたろうか思うとったところやで~?」

 と、辰吾朗はジロジロと吉宗を舐めるように見た。

 

「兄さん、そ、それは……、よしてください」

「火事と喧嘩は江戸の華やて、よう言うやろ~? 何でワシを呼ばんのや」

「…………」

 にやけ顔で迫る辰吾朗から、吉宗は思わず目を逸らした。

 

 突然、辰吾朗は番傘を振りかざし、傍に引き連れた若い男を思いきり引っ叩いた。

 

「せっかくの喧嘩にワシが呼ばれとらんのはどういうことやねん!? おおっ!?」

「ヒィッ!」

「いっつも言うとるやろ~!? 新ちゃんが大立ち回りしとったら、ワシを呼べって!!」

 と言いながら、バシバシと鈍い音を立てて傘で殴りつけている。

 

「かっ、カシラ! どうかご勘弁を!」

 若い男は頭を抱えてうずくまっている。

「このドアホっ!! おらっ! おらっ! おらーっ!」

 番傘はボロボロになり、軸がくの字に曲がってしまった。

 

「何や、傘が曲がってしもたやないか!」

 と、辰吾朗は若い男を蹴り転がす。

「あほんだらあぁぁぁぁっ!」

 辰吾朗は、転がって仰向けになった若い男の目に傘を突き立てようとした。

 

 吉宗はすかさず傘を振りかざした辰吾朗の腕を掴み、動きを止めた。

 

「何や?」

「……その辺で」

 

 動きを止められた辰吾朗は、おもちゃを取り上げられた子供のように、つまらなさそうな顔をした。

 

「甘いなぁ、新ちゃんは。アマアマや~」

 辰吾朗はニヤリと笑った。

 

「お前の為に言っとるんやでぇ? 天下の()()ちゃんに何ぞあったらこの日本(ひのもと)は終わりや。そこんとこ、ちゃあんとわかっとるんか?」

 

「吉宗」と聞いて、辰吾朗と一緒にいた若い男たちは顔を見合わせた。

 

「か、カシラ。吉宗って……あの将ぐ……?」

 吉宗がギロリと睨むと、男たちはひるんで口を閉じた。

 

「め組の兄さん、……俺は一人で大丈夫ですから」

「ほぅ~」

 吉宗と辰吾朗は、鼻先が触れ合いそうな程の近距離でにらみ合った。

 

「ま、ええわ」

 辰吾朗はすっと離れた。

 

「……新ちゃんも下っ端にはこんくらい厳しくシツケせなあかんでぇ? ……でないと、いつ何どき寝首を掻かれるかわからん。せやろ?」 

「…………」

 吉宗は、雪の上で腰を抜かしている若い男に目をやった。

 

「今度はちゃんとワシを呼ぶんやで? ほな」

 壊れた傘を振り回しながら、辰吾朗は来た道を戻って行った。その後を、同じ揃いのめ組の法被を着た男たちが慌てて追いかけて行く。

 

(……相変わらずだな)

 吉宗は溜息をついた。

 

 江戸の火消しとして「め組」を率いる辰吾朗は、元々鳶職人であったらしい。詳しい素性はわからないが、今は所帯を持ち、自宅を詰所として多くの人足を抱えていた。

 

 

 吉宗とその辰吾朗との出会いは、まだ将軍になって日も浅い頃のことだった。

 

 ──初めて江戸城を抜け出し、夜の町を当てもなく歩き回り、見聞していた時のこと。

 

「ワシにも仕事させろっちゅうてんねん」

「だめだ」

「ワシは元々鳶やったんやでぇ?」

「知ったことか」

 目に眼帯を着けた男が、火消したちに詰め寄っていた。どうやら格好と風格からして、大名火消ではないか。そんな事も気にせず、男は話し続けた。

 

「なんや、江戸言うたら火事が多いそうやな? からっ風がそうさせるのかのう。すぐ燃え広がるらしいやないか、イーッヒヒヒッ」

 と、男は気味悪く笑った。

 

「だいたいお前は何だ。言葉も変だし、何を言っているのかよくわからない」

「ああん? ワシの言葉か? ワシはのぅ、生まれは江戸やけどなぁ、つい最近まで大坂*1におったんやでぇ? 大坂っちゅうたらな、天下の台所言うてなぁ……」

 と、酒に酔っているのかどうなのか、フラフラと足元はおぼつかず、上半身は大きく身振り手振りでクネクネと動きながら、延々と身の上話と愚痴を話している。

 

「ええい、うるさい! 去れ!」

「何でやぁ。……江戸の奴らは冷たいのぅ」

 

 そんな様子を吉宗は通りすがりに横目で見ていた。

 

「のう、お侍さん。ほれ、アンタや、その綺麗なべべ着とるアンタ。ちょっと助けてぇな」

「……なにっ」

 吉宗は突然話しかけられてドキリとした。見た感じからすると、あまり関わりたくない。着物も着ず、裸の上に直に羽織を一枚軽く羽織っており、とても普通の輩に見えない。

 

「ほぅ……、アンタ綺麗な顔しとるなぁ」

「…………」

 

 ジロジロと見る様子に、吉宗は思わず腰の物に手を掛けそうになった。

 

(あん)ちゃん、ワシは最近まで大坂におってな、こっちに来て日も浅いんや。でも何かせんと食うていけへんやろ? せやから火消しになりたい言うとるんに、このけったいな男があかん言うんや。それにワシの言葉もわからん言うて、あっち行け言うんや」

(火消し……か)

 

 吉宗が江戸に上るにあたり、この地のいくつかの課題点をあらかじめ聞いていた。その一つに、火事の多い江戸の町の消火作業の効率化を図るというものであった。

 

 江戸の町は、年々人口が増え続けていたため、住宅が密集し、ひとたび火事が起これば瞬く間に燃え広がっていた。また、冬の間は雨も少なく、空気が乾燥していたため、その被害は更に大きくなっていた。

 

 火事の対応というのは、ずっと江戸の課題であり、あれこれ対策をしてきたものの、どれもパッとせず、やはり兵農分離の政策があるせいか、立場が違えば我関せずなところもあり、うまく機能していなかったこともあった。よってこの事は、吉宗が将軍になってから真っ先に取り掛かりたいと思っていた問題であった。

 

 

「お主は一体……?」

「ワシか? ワシは真島組の辰吾朗や。真島組いうのはな、大坂でやっとった鳶の屋号やで。アンタは?」

「……俺は徳が……、徳田新之助と申す。旗本の三男坊だ」

「旗本ぉ!? 坊ちゃんやないかい! どうりでなんやええ格好しとるわけやな!」

 

 吉宗は自分の着物の袖に、袴に、草履に、すべて目をやった。確かにこんな格好で、こんな夜にうろつくなど、さも襲ってくれと言わんばかりの格好だ。

 

(どうも一般的ではなかったか)

 由美が咎めるのも気にせず、自分なりに町に馴染むような格好をしたつもりだが、どう見ても花街で遊ぶ裕福な男にしか見えないような格好をして来てしまった。

(やはり由美に用意させればよかった)

 今さら後悔してもどうしようもない。

 

「そこの旗本の三男坊とやら。こんな怪しげな男に関わっているとろくなことがないぞ。さっさと無視して立ち去った方が身のためだ」

 と言いながら、火消したちは逃げるように去って行った。

 

「ひどいのぉ。ホンマ、江戸の人間は冷たいわ」

「……俺の生まれは関西でな。5歳からはこっちで過ごしていたが、少しなら関西の言葉がわかる」

 見た目は怪しいが、そう悪い人間ではないように見え、吉宗はこの辰吾朗という男に少し興味を持った。

 

「そりゃホンマか? 嬉しいのう。ここに来て、みーんな変な顔するんや。ワシからすりゃ、江戸の言葉こそ、わけわからんっちゅうに。せっかちで早口で、怒っとるみたいやわ。“てやんでい”ばーっか言いくさって、のう?」

 吉宗は何も言えず、視線を落とした。

 

「新ちゃんゆうて呼んでええか?」

「しっ、新ちゃん……だと?」

「ええやん。なぁ、お近づきのしるしに飲みに行かへんか?」

「…………」

 吉宗は建物の陰に隠れていた彰之助に目配せをする。

 

「な、ええやないか。一杯だけや」

 強引に手を引かれ、近くの店に押し込まれてしまった。

 

 それが辰吾朗との出会いだった。

 

 一杯だけ、という話だったが、辰吾朗は“ザル”だった。吉宗もなかなかに大酒飲みであったが、さすがに飲み続けていると瞼が閉じてくる。

 

「……何や新ちゃん。固い顔して強いかと思うたら、弱いんやのう」

 卓に伏せかかっている吉宗の背中に手をやる。

「ん?」

 酔って緩んだ着物の背中に、辰吾朗は何かを見つけた。

 

「おう?」

 辰吾朗は襟を掴み、中を見た。

「こっ、こりゃ何や!?」

 

 辰吾朗は、吉宗の背中に入った入れ墨を見つけた。

 

「新ちゃん、起きぃや」

 激しく揺さぶる。が、吉宗はむにゃむにゃ言って、固く瞼を閉じている。

 

「見してくれへんか? 背中のもん」

「んぁあ?」

 ようやく目を開けた吉宗は、寝ぼけているのか、言われるまま着物を脱いだ。

 

「オホホホーッ! すごいやないかい!」

 目を見張るほど色鮮やかに彫られた龍の絵を、辰吾朗は興奮気味に見た。

 

「何やワレ、ホンマに旗本の三男坊か? ワシ、噂で聞いたんやけど、今度の将軍様も背中に龍が入っとるっちゅう話やないか。ほら、あれやろ? “紀州の龍”っちゅーて言われた男らしいやないか」

 そう言われて、吉宗はハッと目を覚ました。

(……まずい)

 まさか、天下の将軍・吉宗の背中に“龍”が彫られているのを、このような男でも知っていたとは思いもしなかった。

 

「なぁ、姉ちゃん」

 と、辰吾朗は決して「姉ちゃん」と呼ばれるような年齢ではない、熟した女性を呼んだ。

「旗本で“徳田”っちゅー家はあるんかいの?」

 と、宙に指で字を書いてみた。

「徳田? ……さあねぇ。ねぇアンタ。“徳田”じゃなくて、“得田”ならあったかねぇ?」

「どうだったかな。俺らはお武家さんには用事がねぇからなぁ」

 と、おかみの夫は煙管を咥えて笑った。

 

「辰吾朗、出よう」

「んあっ?」

 吉宗は小判を置いて、辰吾朗の手を引いた。

 

「毎度っ!」

 暖簾をくぐって外へ出ると、おかみとその夫の元気な声が背中に響いた。すぐにその卓に乗せられた小判に、2人が驚いた事を吉宗も辰吾朗も知らない。

 

「アンタ、これ見なよ」

「おいおい、旗本ってのはあの男のことだったのかい? 何だかいい格好してたしねぇ。あの妙な眼帯の男なんかと釣り合わねぇなぁって思ったけどよ」

「釣はいらないのかね」

「……いいんじゃねぇの? 釣寄越せって言わずに出て行ったんだからよぉ、ハハハ」

 夫は上機嫌に笑った。

 

 

 吉宗が辰吾朗を引っ張って店を出ると、外に控えていた彰之介が、慌ててさも通行人のように店の前を横切った。

 

「新ちゃん、どうしたんや。怒っとるんか?」

 まだ吉宗は辰吾朗の手首を離さずに、人気のない暗がりを捜して歩く。

 

「酔うと気が短うなる質か? ハハハ、ならワシと同じやでぇ? 酔うとすぐ喧嘩しとうなるんや」

「いいから黙ってくれ」

 

 辰吾朗は、ちょっといたずらしてみようと思い、ニヤリと笑った。

 

「離せ……っちゅー」

 と、掴まれている手の指を広げ、くるりと手の平を上に向けた。

「に!」

 辰吾朗が吉宗の腕を押すようにはたくと、掴まれていた腕が自由になった。

 

「イーッヒヒヒ! どや、もういっぺん捕まえてみるか?」

 吉宗は驚いて、はたかれた右腕をさすった。

 

「ワシは勘がええんや。……アンタ、徳田新之助、っちゅーのはホンマの名前か?」

「…………」

 吉宗はキッと睨んだ。

 

「偽名とちゃうんか」

「…………違う」

「ほぉぉぉぉぉっ? ほな、その肌襦袢の背中の刺繍は何や」

「!?」

 

 吉宗はハッと目を開いた。

 

「……三つ葉葵。徳川の家紋やあらへんか?」

 ニヤリと笑う辰吾朗の白い歯が、月光に照らされてぬらりと光って見える。

 

「ぬっ!!」

 思わず声が出てしまったが、その声を聞くと、辰吾朗はよりニタニタと笑った。

 

「……“上様”を目の前にして、このまま帰すわけにはいかんのう」

 ザッと足音が二つ聞こえた。吉宗は左右を交互に見ると、すでに背後には彰之助と由美が控えている。

 

「ホホホホ~ぅ、やっぱりそういうことかいなぁ」

 と、辰吾朗は懐からドスを取り出した。

 

「ワシにはなぁ、兄弟分がおってな。その兄弟分が江戸で牢屋にぶち込まれてる言うて聞いたんや。大坂からここへ来たんも、その兄弟を開放してもらおう思うてのことや。そのうち“上様”に直々に文でも書こう思っとったんやでぇ? 無実の兄弟を長い間牢屋に入れっぱなしで何してくれとんねん! っちゅうてなぁっ!?」

 と、突然鞘からドスを抜き取ると、鞘をその辺に放り投げた。

 

 それに反応し、彰之助と由美が動く。

「錦、夏日(なつひ)、控えろ!」

 夏日とは、由美の忍び名である。

 

「はっ! ですが!」

「……辰吾朗、お前がしていることは、どういうことかわかっておるのか?」

「上様に刃を向けたっちゅうことか?」

「……そうだ」

「それが何やねん。上様や言うても、酒に酔うし、居眠りはするし、ワシらとなーんも変わらんやろがい!」

 

 辰吾朗は長く尖った舌で、ドスの刃をすーっと舐め上げた。

 

「上様も、ワシらと同じ赤い血を流すんかいのぅ? ヒーッヒヒヒ!」

 静かな裏通りに、辰吾朗の奇妙な笑い声がこだました。

 

「貴様!」

 思わず彰之助が刀に手を掛けた。

「錦! 控えぃっ!」

 吉宗の低く張りのある声は、いつでも忍びの二人の動きを制する。

 

「……辰吾朗、刃をしまえぃ」

「イヤじゃ。吉宗ちゃんも抜きぃ。そうすりゃおあいこやでぇ?」

「しまえば無礼を問わん」

「ハッ、こちとら生まれてこのかたずーっと無礼じゃい!」

 と、辰吾朗は吉宗めがけて突進してきた。

 

「ヒャ~ッハッハッハ!!」

 吉宗は咄嗟に避けたが、辰吾朗は腕が立つのか、右から左からドスを振り回して、避ける吉宗を追いかけてくる。

 

「抜けやぁぁぁよっちゃぁぁぁん! 潔くワシと勝負せぇっ」

「くそっ!」

 吉宗の袖が斬れた。

 

「……ワシはなぁ、大坂では“狂犬”や言われとったんやでぇ~? その狂犬が江戸へ参上(つかまつ)ったんや! 兄弟の為になぁぁぁぁ!?」

 辰吾朗は目を見開き、吉宗の首元を狙ってドスを振りかざした。

 

 鋭い音が響く。

 

 辰吾朗の目の前で、月明かりが何かに反射してキラリと光った。

「……なっ!」

 握っていたはずのドスがない。見渡すと、民家の戸に突き刺さっている。どうやら、吉宗が抜いた刀で打ち払ったらしい。

 

「……ほぅ……、やるのぅ」

「俺も紀州では“暴れ馬”と言われた悪ガキでな」

 と、吉宗は抜いた刀をだらりと下げた。

 

「その構え、柳生新陰流やな」

「ふっ、よく知っておるな」

「さすがお坊ちゃんや。ワシのはなぁ、真島狂犬流っちゅうてな。ヒャハッ、嘘や嘘。んなもんあるかぁぁぁぁっ!」

 辰吾朗は素手で飛びかかって来た。

 

「甘い!」

 それを吉宗はかわしざまに、刃を返して腹を抜き打ちした。

「おごっ!」

 強かに腹を打たれた辰吾朗は崩れ落ちると、その場で仰向けに寝そべった。

 

「ごっ……ごっついのう」

 吉宗はその様子を見ながら、刀を納めた。

 

「上様のくせに、そんな強いなんて卑怯やで~?」

「ふっ」

「喧嘩で負けたんは初めてや。ワシの連勝記録を破った新ちゃんには、ワシ、従うわ」

 

 辰吾朗は飛び起きると土下座した。

 

「今までの無礼は謝る! どんな罰を受けてもかまへん! せやけど兄弟だけは助けたってくれ!」

「ん……?」

「何かの間違いなんや! 濡れ衣なんや! ホンマや! ちゃんと調べてくれればわかる!」

 その“兄弟”という人物の話になると、辰吾朗は取り乱すように懇願した。

 

「ワシは兄弟分の妹に約束して大坂を出てきたんや。お(やす)言うてな、えらい別嬪なんやけど、兄貴が牢に入っとる言うたら、どこも嫁に行けんようなってしもうて。ワシにとっても妹分やし、何とかしてやりたいんや!」

 吉宗は周りの目もあり、一旦辰吾朗を立ち上がらせ、場所を変えた。

 

 

 川のせせらぎが聞こえる橋の上で、闇夜を照らす月が映った川面に目をやりながら、この辰吾朗の話を一通り聞いてやった。先ほどの剣幕とは違い、辰吾朗はこのことを話すと、暗い雰囲気を漂わせていた。

 

「そうか。そのような罪で」

「兄弟は誰も殺しとらん。そんな男やない」

「しかし……、死罪を逃れたとは言え、無実なら気の毒なことだな」

 

 この事について、再度吟味する必要があると吉宗は思った。

 

「よし。辰吾朗の願い、この吉宗がしかと聞き届けた」

「ほっ、ホンマか? いやっ、ホンマでっか?」

「ああ。だからしばらく待っているが良い」

 

 そう吉宗が言うと、辰吾朗は小躍りして喜んだ。

 

「やった! やったでぇ兄弟!! お靖!!」

「おいおい、あまり騒ぐと川に落ちるぞ」

「かまへんわ! 大坂では嬉しいことがあったら、川に飛びこむんやでぇ!」

 子供のように無邪気な辰吾朗を見て、吉宗は笑った。

 

「せや! お礼っちゅうたら何やが、新ちゃんがお忍びで出歩く時、ワシみたいなアホに絡まれたらすぐ呼んでくれや!」

「なっ」

「ワシは喧嘩が好きなんや。買ってでもしたいくらいにのぉ。せやから新ちゃんがする喧嘩、ワシが代わりにしたる!」

 

 吉宗は苦笑いをした。

 

「ええか!?」

「……それは助かるが」

「ホンマやな!? 武士に二言はないでぇ~?」

 人なつっこく腕を引っ張って顔を摺り寄せている。

 

「……それより、辰吾朗は火消になりたいと先ほど言っておったようだが」

「せや。火事と喧嘩は江戸の華なんやろ?」

「……それはどうだか。だがちょっとお前に頼みがある」

「おおっ! なんでも言うてや!」

 辰吾朗は目を輝かせていた。 

 

 

 それから数年後、江戸の町は南町奉行の大岡越前守により、火消しの改革が行われた。

 

 江戸の消防組織は、万治年間に始まったと言われているが、それを整備したのはこの吉宗の享保年間である。

 それまでは幕府の「定火消」、大名の「大名火消」、町奉行の「町火消」の三種類があったが、十分に機能しているとは言えなかった。

 

 そこで、大岡越前守は吉宗と協議し、町人による町火消を結成させた。それが「いろは47組」であり、後に48組となり、本所・深川16組も加わり、のべ一万人以上の火消がいたとされている。

 

 この消防に当たる人間を「鳶」と呼んだ。それは鳶職の人間が消火にあたったことに由来している。当時の火消し作業と言えば、消すのではなく、火の延焼を抑えることが主流だった。これは破壊消火と言って、火が燃え移りそうな場所を破壊してあらかじめ取り払うことで、延焼を防ぐ方法である。その為、建物の構造をよく知っていて、壊すことに長け、高い場所も怖がることなく行き来できた鳶を火消しにすることは、非常に効率的であった。

 

 こうした火消しの改革は吉宗が進言したことであり、その甲斐があって、現在辰吾朗は「め組」の頭として火事場で活躍している。

 

 以来辰吾朗は多くの江戸の火事を収めてきた。そんな火消しの人間は、町の者からは「いなせ」と賞賛され、派手な揃いの衣装に、懐も暖かく、とにかく注目される存在であった。

 

 当時、火事場を収めた火消したちが、こぞって羽織を裏返しに着て、そこに描かれている絵を見せびらかして町を闊歩したという。だが、このめ組の頭である辰吾朗の場合は少し違った。

 彼の背中や胸に彫られた般若、白蛇、そして椿の入れ墨。辰吾朗は、法被ではなく、それを脱ぎ捨てて自分の背中を見せて歩いていた。それは江戸の町で知らぬ者がいないほど、有名になっていた。般若には「情熱」「激情」「人間らしさ」という意味がある。まさに粋な男・め組の辰吾朗を表しているようだ。

 

 

 吉宗と辰吾朗の友情は、この頃から生まれた。

 もちろんめ組の者たちは、辰吾朗以外、吉宗が“上様”であることを知らない。辰吾朗はそのことを決して言うことはなかった。また、他の者に変な印象を与えないよう、辰吾朗は失礼なほどに吉宗に対し傍若無人な振る舞いをした。そのことがかえってめ組の者には「普通」に映り、仲のいい兄弟のようにすら見えていたようである。

 

 こうして大坂の狂犬から江戸の狂犬となった辰吾朗は、江戸の主・吉宗のお抱えの番犬として(まつりごと)に協力していったのである。

*1
幕末まではこの表記だった



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