フローズン・ハードボイルド・エッグ (長串望)
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フローズン・ハードボイルド・エッグ

 階段を登り切った先は雪国だった。

 うんざりするほどに積もった雪は、昨晩からの新雪だけで膝上まで届いている。

 ヘッドフォンに垂れ流しのウェブ・ラジオは、今年の雪まつりも心配なさそうなんて嬉しそうだけど、ぼくの記憶にある限り雪が足りなかったことなんてなかった。

 雪が降ったって、今どきの子供は大して喜びもしない。こんな不便極まりない季節を喜ぶのは大人ばかりだ。

 

 大人たちの言うことには、ぼくたちが生まれる前、この星はゆだってしまいそうだったのだという。

 そう言われるとぼくは、宇宙空間に浮かんだ、つるんと白い肌をさらす固ゆで卵を想像してしまう。

 地球温暖化という言葉は、その頃なにかと折に触れては口にされていたらしい。

 一方では際限なく物を燃やしながら、一方では涙ぐましくもプラスチックを減らそうとしたとか、してないとか。地球がゆだることとコンビニのプラスチック・スプーンにどういう関係があるんだか、ぼくは知らないけど。

 

 若者のご多分にもれず歴史にうといぼくには、そのあたりのことはとんとわからない。正直あんまり興味もない。

 そういう足並みのそろわない対策に、実際どれほどの効果があったかというのも、もう誰にもわからない。

 まいた種が実を結ぶ前に、あっさりと地球は冷まされてしまったからだった。

 マフラーに鼻先をうずめて、肌寒さに縮こまりながら、ぼくはそのことに感謝すべきかどうかを、ちょっと迷う。

 

 大人たちが「冬らしい冬」と呼んで喜ぶこの季節は、ぼくら世代からすればわずらわしいだけでしかない。寒さを喜ぶなんて、意味が分からない。

 家から出たくないほどに冷えた地球というものは、おかげで何百年か人類の寿命を延ばしたらしいけど、それも一体どこまで正確な計算か知れたものじゃない。

 

 はあ、ともれかけた溜息を呑み下す。

 溜息をつくと幸せが逃げるらしいし、何より体温が逃げる。

 三十六度七分の体温を逃がさないように、ぼくはちょこちょこと氷の上を急いだ。

 

 駅から徒歩十二分、微妙な距離の安アパートの前で、先輩は一人ぽつねんとたたずんでいた。ぼくを見つけた瞬間に両手をあげてぶんぶんと振り回すので、大型犬を思い浮かべてしまう。

 

『やあやあやあ! 待ってたよ! 待ちわびてたよ!』

「お待たせしました」

『朝五時から待ってたよ!』

「待ちすぎです」

 

 時計を見れば午前十時十分。約束の時間の二十分前なんだけど。

 機械越しの少しかすれる声に肩をすくめて、ぼくは自販機で買ったホット・ココアを差し出す。

 

「小さいですけど、どうぞ」

『わあ! ありがとうね! すぐ食べちゃうからね!』

 

 先輩は缶を受け取ると、口元に運んだ。

 その食事に伴う音を、ぼくはいまだに表現しかねている。すぽんとなにかを吸い込んでしまうような、そんな軽い音。でもそれは耳に聞こえるわけもない。聞こえるような気がする。そんな何かだ。

 そんな軽い音で、一八五グラムのホット・ココアは何かを失ってしまった。

 

『ごちそうさま! おいしかったよ!』

「おそまつさまでした」

 

 未開封のまま帰ってきたココアは、ものの見事に冷え切って、手袋越しにも冷たい。

 かしゅっと開けて一口飲んでみると、小走りで火照った体に心地よい……よりもちょっとだけ身体に悪そうな冷たさが喉を流れ落ちていく。

 いや正直大分体に悪い冷たさだなこれ。先輩は結構お腹を空かせてたみたいだ。

 

 渋い顔のぼくを、先輩は子犬でも愛でるかのようにわしゃわしゃと撫でまわす。ひんやりした不思議な質感が、ぼくの髪をぼさぼさにしていく。

 

『んふふー。後輩ちゃんはちびっちゃくてかわいいね。あったかいあったかい』

「先輩がでかいんですよ。あとひゃっこいんで止めてください」

 

 先輩は、大きい。先輩からしたら小柄なぼくは確かに子犬みたいなもんだろう。

 古い映画で見た宇宙服みたいな断熱スーツは、もこもこと着ぶくれたようだ。ギリギリ人間サイズだけど、これでもちょっときゅうくつらしい。

 金魚鉢みたいなヘルメットは、中身を見通せない不思議な銀色。手袋はちゃんと五本指だけど、関節はちょっと怪しい。

 一応人間の形をして、人間みたいに振舞うけど、その中身がどんな形で、どんな生き物なのかを、ぼくは、ぼくたちは知らない。人間の目では見ることができないとか、見てしまうと失明するとか、そんな話が、ネットにもたまに流れる。

 

 先輩たちは、ぼくたちの知らないどこか遠い星から来た人たちだった。

 

 地球を侵略しに来たわけでもなく、まして観光に来たわけでもない宇宙人たちの目的はただ一つ、「暖かさ」を食べに来た。らしい。

 熱食人とか、ヒーティヴォアとか、いろんな呼び方をされているこの隣人は、ゆだった地球にやってきて、「ちょっと食べさせて」ってお願いしに来た。らしい。

 この人たちは砂漠とか火山とか、あったかそうなところに散り散りに飛んで、それで「暖かさ」をもしゃもしゃした。らしい。

 

 ちょっと間抜けな表現だけど、当事者によればそういうこと、らしい。

 

 ぱくぱくして、もぐもぐして、それでごくんと飲み込んで、長旅ですっかり空腹だったのが収まった頃には、地球の平均気温は一度ほど下がった。らしい。

 それから彼らは人類の排出する熱をぱくぱくして共生することになった。らしい。

 

 それがぼくたちの生まれる前の話。

 

 いまじゃあ大きめの町には、たいてい何人かは熱食人が住んでいるらしいし、熱帯では環境改善を目的に組織的に活動している。らしい。

 

 なんだかアニメのような話だけれど、それもやっぱり物心ついた時から当たり前のぼくらには、あんまり興味もないことだ。

 精々がちょっと物珍しがる程度のことで、さわぐようなことでもない。

 

 先輩で言えば、普通にアパート借りて住んでて、出歩く範囲だってわかってるんだから、珍しさという点だけで言えば熊の方が珍しい。そして危ない。

 言葉も通じて、その辺を普通に散歩してて、気軽に写真も撮らせてくれて、なんならSNSのアカウントも持ってるからそれにアップしたり。不愛想なぼくよりよほど世間様に馴染んでるんじゃなかろうか。

 

 今日だって、この映画好きの宇宙人は、サービスデーを狙って映画を観に行こうとしている。それもいまだに地下街で迷うので後輩に道案内をさせて。それに乗っかるぼくがどうこう言う話でもないけど。

 

『いやー、木曜日っていいよね! ワタシは一週間のうちで一番好きかも!』

「前は金曜日って言ってませんでしたか」

『ガッコーあるときはね! 冬休みは毎日お休みだからまた別だよね!』

「また普通の高校生みたいなことを……」

 

 まあ、みたいなもなにも、先輩はこんななりをしていながら、現役の高校生なのだった。同じく現役の高校生であるぼくの、本当に文字通りの先輩なのだった。

 宇宙人なんて言っちゃったけど、先輩は実は地球生まれ地球育ちの、本籍地も住民票に載ってる地元民なのだ。いわゆる二世だ。今年で十七歳。誕生日はお祝いもした。

 

 なにしろ最初の隣人たちがやってきたのは僕たちの生まれる前の話だ。ご飯食べて寝どこも整えば、殖える生き物ならそりゃ殖えもするだろう。だからこそ、いまじゃそんなに珍しくないわけで。

 戸籍もあれば、義務教育も受けるし、親御さんは税金だって納めてる。選挙権は、どうだったかな。あるのかもしれない。

 

 先輩も、だから地下鉄に乗る時は通学定期やICカードでちゃんと料金を払うし、たまにより割と高頻度で残高不足で改札に引っかかる。自転車の二人乗りをしておまわりさんに叱られたりもする。普通だ。

 学校でも、遅刻して叱られたり、授業中に居眠りして叱られたり、プリント忘れて叱られたり、試験勉強が絶望的で後輩のぼくに泣きついたりする。普通と言えば普通。

 

 普通ではないのに、普通ではないけど、なんだか気の抜けるほどに普通な先輩の隣は、まあまあに居心地がいい。

 

 ぼくは関節の怪しい先輩の手を取って、来た道を取って返す。

 ほぼ一本道の道のりだけど、先輩はこの時期、道がわからなくなる。

 冬限定の方向音痴は、先輩だけでなく、熱食人の人たちに共通のことらしかった。

 

『だって、雪積もったらわかんなくない?』

「まあ真っ白にはなりますけど……」

『ワタシたちには一大事なんだよなー』

 

 先輩たちは、熱を食べる生き物なので、熱が見えるらしい。

 なのでその熱が雪ですっかり覆われてしまうと、ぼくたち人間以上に世界が様変わりして見えるらしい。

 

「まあ、雪って断熱性高いらしいですしね」

『それに暖房つけるべ? したらそっちが目立っちゃってさー』

「まあ、わかるような、わかんないような」

 

 でも先輩が焼き芋屋さんに吸い寄せられるのは、そういう理由なのかもしれない。先輩は食いしん坊なのだ。

 

 半端な時間だからか半端な込み具合の地下鉄は、うまいこと並んで席に座れた。

 お馴染みの路線だから、そんなに目立たない。たまに物珍し気な人もいるけど、それはちょっと派手な格好をしたり、変わった服装をしていても同じこと。

 

 すごくたまにプライバシーなんて気にせずスマホのカメラを向けてくる人もいるけど、先輩はすぐに振り向いてピースサインでアピールする。ぼくの顔がうまいこと隠れるようにして。本人はあくまでもはしゃいでる感じに振舞っているので、ぼくはいまもそれにお礼を言えていない。

 

「先輩、よく気付きますよね」

『カメラ? そりゃね。眩しいもん』

「フラッシュ焚いてました?」

『ううん?』

 

 ぼくは知らなかったけど、スマホのカメラは赤外線を出しているらしい。ぼくたち人間には見えないけど、先輩には見えるので、カメラにすぐに気づくんだそうだ。

 

『猫も見えるらしいよ』

「ああ、だから撮らせてくれないんですね」

『それは普通に挙動不審だからだと思う』

「えっ」

「えっ」

 

 ぼくが猫を前に挙動不審かどうかはともかく、にゃあと猫の真似をする先輩も大概だ。名状しがたい奇行だ。ぼくは赤外線に反応する先輩を何枚か記録しておいた。

 

 地下鉄を降り、残高不足だった先輩を蹴りつけ、駅ビルに向かう頃には人も多くなっていた。

 

 映画の時間まではまだあったので、ぼくたちは地下街をちょっとぶらっとした。

 地元民なのに、先輩は土産屋が好きだ。いやまあ土産屋に売ってるものって、地元民ほど見たことがないものも多いけど。

 

 ぼくも「クマ出没」みたいなのは好きだ。かわいい。しかし理解はされない。なぜだ。

 

 先輩はお菓子なんかは食べないので、パッケージを見て面白がるだけ。変なTシャツも着れないけど、気に入ったやつは買って、ぼくに着せようとする。先輩のセンスは独特なので、ぼくはたまにしか着ない。

 

 逆によく買うのは、ぬいぐるみの類だ。キーホルダーになるような小さい奴は、多分このあたりのはほぼほぼコンプリートしてるし、抱きかかえるような大きなものもたまに買う。邪魔なだけだろうに、本人はちゃんと考えているらしい。

 

 その考えた結果、先輩の部屋は平面上だけでなく三次元的にも埋もれかけている。

 先輩の家に遊びに行くと、これらのぬいぐるみの間にうまいこと腰を下ろさなければならない。

 

 特にお気に入りは白黒が逆になったパンダみたいなやつだ。一番でかいのは、ぼくが脚の間に座って背もたれにできるくらいだった。ぼくが小さいわけではない。

 

 そうこうしているうちに時間もいい感じに潰せた。

 

 エレベーターは窮屈なので、駅ビルを一階一階エスカレーターでのぼっていく。少し時間はかかるけど、ぼくはひとつ階をのぼる度に、全然違った景色が見えるのは嫌いじゃない。

 いやまあ、先輩とちょこちょこ来るたびに冷やかしてるから、見慣れてるんだけど。

 

 最上階の映画館はほとんど顔パスだけど、学生証はちゃんと提示する。証明写真に写る金魚鉢ヘッドは、アルバイトのお姉さんの笑いのツボによくはまるのだ。

 前に親御さんの運転免許証を見せてもらったこともあるけど、まるで見分けはつかなかった。何の意味があるんだろう。

 

 先輩が観たいって言う映画は、ジャンルとしてはSFものらしい。ぼくは先輩を大雑把に「宇宙人」とくくってしまう程度にはSFに興味がないのだけど、主演俳優が有名だったので了承した。有名どころが演じていれば、内容がわからなくても、話の筋に興味がなくても、ぼちぼち楽しめる。

 

 そもそもぼくは、先輩についてきているだけで、映画自体そこまで興味はないのだ。

 

『これはねー、二十年代のSF小説が原作でね、金星の町でお医者さんに余命を宣告されたおじいさんが、テラフォーミングして開拓していた若い頃のことを思い出していくっていう構成でね、思い出のお店とか、町の名所とか、若者の愚痴なんかを目にしては、そこから引き出されていくみたいに開拓時代のことを思い出していくって言う感じでね、結構昔の小説なのに金星についてほんと詳しく描写しててね、』

 

 でね、でね、でね、てね、ぼくはよくわかんない用語を交えて熱く語る先輩の、その語尾だけをぼんやり聞き流した。SFは難しいのでよくわかんないのだ。

 

 前にタイムスリップものだかタイムトラベルものだかを見た時も、どういう筋なのかよくわからなかったと素直に言ったら、信じられないものを見るような目で見られた。いや、目なんか見えないけど、あの気まずい沈黙はそう言うことだろう。

 

 先輩がいそいそと買ったパンフレットも、ぼくには理解できない文化だ。先輩の部屋にはぬいぐるみの山に埋もれるようにして、映画のパンフレット専用の本棚がある。映画原作本とかの本棚もあるから、先輩の部屋は本当に圧迫されている。

 

 そろそろその本棚もパンクしそうで、いよいよ先輩の部屋は抜本的な改革を迫られている。というか、服とか化粧品とか持ってないのに何で部屋が埋もれるのか。

 

 電子版にすればいいのに、と本棚なんて持ってないぼくなんかは思うのだけど、なぜか映画のパンフレットは電子化してないのが多いらしい。何時代だ。

 

 映画自体も、よくわかんなかった。

 

 渋い演技で有名な老俳優が、モノローグで淡々と物語る。声が渋くて格好いい。少し聞き取りにくいなまりのある英語も雰囲気がある。字幕は原語の雰囲気を残しながら、あくまでスマートに、簡潔に。内容にあんまり興味のないぼくは、そう言う細かい所を楽しむ術を身に着けてしまった。

 

 いつも騒がしい先輩は、上映中はみじろぎもしない。まるで人形のように座席に深く沈み込んでいる。老人の若かりし頃の横顔が、寂しそうな若者の横顔が、金魚鉢のようなヘルメットにぼんやりと映り込む。

 

《地球は俺には寒すぎる》

《あなたが行ったら、ここも寒くなるわ》

《すまん。だが俺は凍えている。俺の魂が》

《寒すぎるなんてことはないのよ》

《そうかもしれない》

 

 洋画でよく見る、全然そうだと思ってなさそうな「そうかもしれない」を言い残して、若者は金星に旅立つ。その思い出を引き出したのは、一通の封筒だった。昔の恋人の訃報。彼女の痛烈な皮肉交じりの。

 

 結局覚えているのはそのシーンくらいのものだった。

 SFとしてもよくわからないし、人間ドラマも、ぼくにはなおさらわからない。

 それでも先輩には大満足のできだったらしい。そうでなかったことがないけど。

 

 ファミレスでお昼ご飯を食べながら、先輩はひたすらに喋りまくった。

 

 ぼくは火傷するほどに熱いドリアを注文し、先輩はそのドリアの熱を食べた。猫舌のぼくは程よい温度でドリアを食べられ、先輩は程々にお腹が満ちる。ウィン・ウィンだ。

 もっとも、先輩は喋り過ぎたのかそれでは足りず、追加注文をしたけど。

 

「はい、お熱くしてますねー、お連れさんはお気をつけて」

『わーい!』

「ありがとうございます」

 

 最近は提供してくれるお店が増えた、アツアツの焼き石だ。

 分厚い鍋敷きに、鋳物の鍋、そしてその中でごろごろと転がる炭火と焼き石。突っ込まれた火箸がアウトドア感にあふれる。

 

 店員さんが額に汗をかきながら持ってきてくれるこのやばい代物は、別に加熱用でもないし拷問器具でもない。熱食人用の料理だ。なんでも食べると言われる日本人も、さすがにこれは食べない。

 

 先輩はうっとりとしたように両手を合わせて、火箸で石をつまんで一つずつゆっくりと味わう。

 あの形容しがたい吸引音が、ぼくの耳には何となく聞こえる。ような気がする。

 炭火が芯までじっくり温めた焼き石は、とても食べ応えがある。らしい。

 なにしろ向かいのぼくも熱く感じるほどだ。さぞかしボリューミーだろう。

 しかも鍋に戻せば、またじんわりと炭火が温める。長くお楽しみできるわけだ。

 

「おいしいですか、先輩」

『うん! とってもおいしいよぉ!』

「絵面は意味不明ですけど、よかったです」

 

 そこらにあるようなファミレスの一席で、金魚鉢頭の宇宙服が焼き石を火箸でつかんでて、その向かいには冷めたドリアつついてる高校生。現代アートかな。

 

『熱を食べるってねえ、やっぱり人間の人にはわかんない感覚だもんね』

「まあ、それを言ったら先輩も冷めてチーズが硬くなったドリアのおいしさはわからないでしょうけど」

『その説明があんまりおいしそうじゃないことくらいはわかるかな』

 

 ぼくは結構好きなんだけど、冷めドリア。

 

『熱を食べるとねえ、身体があったまっていって、全身が元気になっていくんだ。おいしくって、気持ちいんだよ』

「はあ、あんまりわかんないですね」

『熱源でも「味」っていうのかなあ、おいしい感じが違ってね。焼き石はほわわあんって感じで、夏場のアスファルト道路はじんわあって感じ。今朝のココアは、ぽぽんって感じ』

「聞けば聞くほどわかんないですね」

 

 そもそも味覚と言うか、食べるって概念からして違うんだから、仕方のない話だ。

 それでも、おいしいものを食べた時のしあわせな気持ちというものは、きっと共有できると思う。

 

 ぼくは冷めたドリアを、先輩は熱々の焼き石の熱を食べながら、映画の感想とか、次は何を観ようかとか、冬休み中にどこか行こうかとか、とりとめのない話をした。

 それは勘違いしたアートみたいな変な光景だけど、中身はそこら辺の高校生みたいな普通の会話だったと思う。

 

「そう言えば先輩、進路どうするんですか」

 

 という話題に進んだのは、期末試験が散々だった先輩を心配してのことだった。

 

『進路かー、まだ一年あるしなー』

「もう一年しかないんですよ。早い人はもう準備してるんじゃないですか」

 

 うちの学校は一応進学校だけど、高卒で就職する生徒もある程度はいる。らしい。

 

「ぼくは市内の大学に行くつもりです。別に何かやりたいわけでもないですけど」

『ワタシも大学かなーとは思うんだけど……もしかしたら就職するかもなー』

「就職」

 

 思わず先輩を見つめてしまった。

 なんとなく先輩が進学する大学に、自分も進学していくんだろうなと、そういうつもりでいたから、なんだか急にはしごを外された気分だった。

 ふわっとした曖昧な進路計画が、就職とかいうソリッドな言葉に、突然にかき乱されてしまった。

 

 先輩はアンニュイに焼き石をもしゃもしゃしながら、金魚鉢頭を斜めにかしげる。

 

『うーん。うちのおやさんがね、仕事で引っ越すかもしれないんだよね。おやさんたちも乗り気でさー』

「先輩も、ついてくんですか?」

『うにゃにゃにゃにゃー、だよね』

 

 悩み中らしい。

 

 性別の概念が哺乳類とは違うので、お父さんでもお母さんでもないらしいんだけど、それでも親は親だ。血……が流れているのか知らないけど、まあそういう縁もあるし、育ててもらった恩もあるし、親御さんが引っ越すなら、先輩もついていくのは自然かもしれない。

 

『でもさー、おやさんはそりゃ気軽に引っ越せるだろうけどさ、ワタシ、生まれも育ちもこっちだべさ。友達だっているしさー』

 

 先輩は乗り気ではないみたいだった。

 ぬいぐるみもあるし、パンフレットもあるし、観たい映画もあるし、いろいろ積み上げていく。

 

『なんだけどー。にゃんだけどー。家賃もスマホもおこづかいもおやさんが出してくれてるからさー。ワタシだけこっち残るけど仕送りはお願いとは言えないしー』

「親御さんは、どう言ってるんですか?」

『好きにしていいよーって。宇宙育ちは感覚がドライすぎてさー、そりゃ好きにしたいけど、地球人の感覚だとそれってどうなのってなるしさー』

「じゃあ」

 

 思ってたより大きな「じゃあ」が出てしまって、自分でもちょっと驚いてしまった。

 先輩がきょとんとしたように、火箸を持つ手を止める。

 

 実際のところ先輩が本当にきょとんとしてるのかなんてわかんないし、なに考えてるのかもわかんないし、そもそも人間と同じように考えてるのかもわかんないけど、でもぼくだってぼくのもにゃもにゃがよくわかんないのだった。胸のあたりがとても寒くなって、ぼくはたまらなくなる。

 

「ルームシェア、しませんか。バイトして。ぼくは、趣味とかないし、荷物も少ないですし、小さいとこでも、先輩のぬいぐるみとか、入りきると思いますし」

『……えーっと』

「学費は、先輩、熱食人枠で入れば奨学金出ますし、仕事だって、多分あるし」

『あのね、後輩ちゃん。あのね』

「先輩だったら、変なこともないし、うちの親もきっといいって言うと思いますし、だから」

『あのね』

 

 にゅうっと関節の怪しい指先が伸びてきて、ぼくの頬を左右から包み込む。

 中身の見通せない金魚鉢頭が、ぼくの顔を覗き込む。わやんなって、ぶさいくなぼくの顔がぼんやり映り込んだ。

 すぽんとなにかを吸い込んでしまうような、そんな軽い音がする。でもそれは耳に聞こえるわけもない。聞こえるような気がする。そんななにか。

 

 ぼくの頭は少し冷えて、それで頭に血がのぼってたんだなってわかった。

 

『大丈夫、まだ先の話だよ。ワタシもちゃんと、考えるからさ』

「先輩……」

『それに、君はとてもおいしいからね』

「割と最悪なんですけど」

『おや、また熱が出たね』

「ほんと最悪なんですけど!」

 

 テーブルの下で蹴りつけた脚は、やっぱり頼りなくて。でも一応は、床に足をつけていてはくれるらしかった。

 

「ところで、引越しって、どこに行くんですか?」

『金星だって』

「へえ……へえ?」

 

 それってどこだっけ、ととぼけるには、さっき映画で聞いたばかりの地名だった。

 地球のお隣にある、といっても、映画では四千万キロくらいは離れてるとか言ってた気がする。

 

『金星って平均五百度くらいあるらしくってさ。そりゃあおいしそうなわけ』

「おいしそう」

『それで、おやさんたち宇宙も慣れてるから、金星ももしゃもしゃしよっかって』

「もしゃもしゃ」

 

 先輩のいい加減すぎる説明を何とか噛み砕いてみれば、なんでも大人たちは金星を開拓しようとしているらしかった。映画で言ってた、テラフォーミングってやつだ。

 金星は地球人が住むには熱すぎるから、熱食人の人たちにむしゃむしゃ食べてもらって、うまいこと冷やしてからどうこうしようって言う話らしい。

 

『食べ放題でお賃金貰えるのはちょっと魅力的だよね! 映画も観放題!』

「先輩。金星はネットつながりません」

『えっ』

「そもそもスマホは多分壊れます」

『ぐへぇ、なにそれ人権ないじゃん』

 

 地球生まれ地球育ち、親の顔よりスマホ見てる現代っ子の先輩にはつらかろう。

 もっと親の顔見て、というには、先輩の親御さんも金魚鉢ヘッドだから顔なんか見えないんだけど。

 

 ともあれ、先輩は早々に金星への興味を失ってしまったらしかった。

 

 それでも金星の開拓を物語ったあの映画の面白さは色あせるものではないらしく、帰りの地下鉄の中でも先輩は楽しげに感想をまくしたてる。ぼくはあまりわからないながらも、適当に相槌を打った。

 

 込み合ってきた車内で、精一杯に縮こまった先輩の腕の中にもたれる。中身が定かではない頼りない断熱スーツは、少しひんやりしていた。

 

 先輩の親御さんは、多分喜んで金星に行くんだろう。この星は熱食人の人たちには、少し寒すぎる。

 ゆでたてのゆで卵みたいだった地球は、先輩の世代が増える頃には、もうすっかり冬を取り戻していた。ぼくたちはゆだるような暑さを知らない。大人たちさえももう忘れ始めている。

 

 先輩たちの次の世代が増えていけば、遠からずこの星は夏を失い始めるだろう。だから大人たちは熱食人の人たちを体よく追い出したがっている。熱食人の人たちも冷えた星にいつまでもいる理由もない。

 でも地球育ちで、地球の文化にどっぷりつかっている先輩たちの世代は、きっとそうもいかないだろう。

 

 ゆっくりとこの星は凍えていく。

 いつかこの星は、宇宙に浮かぶ凍り付いたゆで卵になってしまう。

 すぽんとなにかを吸い込んでしまうような、耳に聞こえるわけもない、でも聞こえるような気がする、そんな軽い音が、宇宙に響く日が来る。

 

 でもそれはいまじゃない。

 いまはまだ、寒すぎるなんてことはない。

 

 ぼくは、ぼくたちはきっと、大人たちがそうしてきたように、問題を先送りする。

 

「先輩。ぼくってどんな味なんですか?」

『そうだねえ……ぽわわってしてきゅうってするかな』

「わかるような、わかんないような」

 

 それはどうやら、おいしいらしかった。

 

 

 

『フローズン・ハードボイルド・エッグ』 了



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