車輪と蛙 (堀木)
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車輪と蛙

 一週間ほど前、男は蛙を拾った。

 特に蛙が好きという訳ではないのだろうということはこの変哲なる男の普段を見れば分かるのであるが、この時ばかりはせざるを得ない理由があった。

 

 山の中の帰り道を男が歩いていた時、道に刻まれた轍に一種の威風堂々というような雰囲気を感じさせる佇まいで蛙がいた。

 男は少し、ほう。と思ったのだが、しかし何事もなく右を通り過ぎた。なれど、後ろから馬車のがたごとという音が耳を打ったのである。

 

 このままでは蛙が轢かれてしまうと直感した男はばっと蛙へと駆け出し、真白な装束が汚れることも厭わず飛び込むようにして右手で隠した。

 馬車は蛙を道路と同化させる事なく止められたのだが、男の右手の骨は砕けていた。

 

 馭者からさんざ怒鳴られたというのに、どこか男は満足げである。

 この男、生き物の死というものがとかく嫌いであった。

 

 自然に戻してやってもよかったのであろうが、右手を粉砕してまで助けた蛙だ。

 どうにも放すには愛着が湧いてしまったのだろうか。

 普段ならば林にでも放り込むであろうに、家まで持ち帰って世話を始めた。

 

 家に持ち帰り、一番最初に男が思ったのは目が潤んでいるという事であった。

 その瞳はやけに水気たっぷりであるが、拾った道は泥道であったとはいえ水溜まりは無かった。

 

 ならばはて、何故この蛙はこうまで目が潤んでいるのだろうか? 男は思案を巡らせた。

 

 思うに、やはり馬車に弾かれそうになったのが効いているのだろうか、男が手を伸ばさなければそれは大きな音で破裂したことだろう。

 それとも、元より居た場所から遠く離れたこの場所に連れてこられ、何とも知らぬ住居に連れてこられてしまったことが悔しいのだろうか。

 はたまた、何か思案すら及ばぬような蛙ならではの理由があるのであろうか。

 

 刻が二つほど進むまで、男は考えた。

 悩んだ末に辿り着いたのは、蛙の心持ちなどあるかどうかすら分からぬものを何故考えているのかとの、至極当然な結論であった。

 

 しかし、うむ。答えが出ないのは俺の頭が暗闇でぼうとしているからだと、結局明日に思案を回し、床についた。

 鶏の鳴き声が朝日の到来を告げ、起きた男が蛙を見ると、目はまだ潤んでいた。

 

 男は、元より眼とは潤んでいる物であったと思いだした。

 

 

 

 その日の内に、今度は蛙の飯の事を男は考え始めた。

 家にある米などを目の前に差し出してみたが、頑として食わぬ。

 

 一体蛙の食事とは何なのだろうか。

 自然の草などを蛙が食んでいるとは思えない。やはり昆虫を食するのだろうか。

 

 やはり分からぬのであるが、この男、右手がまるで使えない状態であるというのに山の草むらへと入り、こおろぎを捕まえて来た。

 思えばこの男は集落一の精明強幹である。いくら変人であったとしても、それは変わらぬ。

 

 こおろぎを蛙の前に差し出すと、器用に舌を伸ばして掬い食べた。

 成程。食う、跳ねるという二点においては蛙の方が優れているらしいと、男は感嘆した。

 

 

 

 蛙には水が必要だろうと、特製の竹筒までこしらえ、川の水を汲んで中に蛙を入れたりもした。

 しかし、蛙が綺麗になりすぎると言って、泥と一緒に田の水に入れ直したりする。

 周りの人間は終始男に呆れていたのだが、常に男は満足げに蛙と過ごした。

 

 それは蛙の方も同じだったのかも分からぬが、蛙が鳴くときは常に男と二人きりの時だけであった。

 

 片手のみとなれど、男は十二分に農作業なども行った。

 これまでと違う所は片手となったのみでなく、まるで付き従うかのように右肩に乗って動かぬ蛙も加わったことであった。

 

 しかし、いやに泥が滑りとしていて、これはいかんなと男は悩んだ。

 どうにも風が冷たく感じて、今年は酷い不作になるだろうと予感していた。

 

 

 

 それから一か月ほど経って、ある夜に男はどうしようもない不安に襲われた。

 

 このまま蛙を世話していてもいいのだろうか。

 元来こいつは野生で暮らしていただろうに、そもそも母父も、兄弟も、もしかしたら子供でさえいたかもしれぬ。

 

 俺はこの蛙を家族から誘拐してしまった、げに罪深き男であるのではないだろうか。

 そう思ったが最後、犯した罪がじくりと背筋を伝う。

 

 蛙を見ることが辛い。

 これまでの思い出が回り灯籠のように脳裏を駆ける。

 竹筒が、こおろぎの木牢が、蛙にかけた手間の全てが罪の重さのように自らを責め立ててくる。

 

 ある夜に抑えきれない情動をぶつけたことさえあった。

 蛙に夫か妻がいたならばあるいは不倫となり得たかもしれない。

 思えば、男はここまで蛙の事を想っているにもかかわらず、その性がいずれのものであるかさえ知りえていないのであった。

 

 様々なことを考えたのちに、男はある決断をした。

 離婚、親離れ、居候の追い出し……如何様にも形容できるのであるが、つまるところ蛙と別れることを決めたのであった。

 

 一つ思い立てば動き出しというものは酷く速い。

 灯と竹筒を持ち、見つけたところへとすぐさま返しに向かった。

 

 男は泥道を一所懸命に走った。

 そんなに急ぐ道理はない。しかし、恐らく男が早馬のように駆けたのは、蛙との別れを考えたくなかったのであろう。

 

 その証拠に、男は蛙を轍へと置いた後に、竹筒もそこに捨て置いて行ってしまった。

 けして後ろを振り向かないように首を抑えて、灯の火が消えるのも構わずに一心不乱に家まで走り抜けた。

 

 男は朝まで布団に突っ伏して泣いた。

 どうにも抑えきれず流した涙が、まるで寝小便のように布団を浸していた。

 

 

 

 とぼとぼと男は山を歩いた。

 茸や山菜を見る目があった男は、既に食料が不足し始めていた集落を支えるために毎日探しに出て行っていた。

 

 蛙の事を忘れようにも、肩に感じていた僅かな重みが消え失せてしまったことは如何に質実剛健な男と言えどはっきりと分かる。

 その16匁ほどの重さは、米俵よりも男にとっては重いものであった。

 

 そのうちに、二股の道に辿り着いた。

 本来ならば右に行く道を、今日ばかりは左に進んだ。左の道の先は、昨日蛙を放した場所である。

 

 進むにつれて足が重くなるような錯覚に男は襲われた。

 過去に類似するような重さの物など持ったことが無いほどの重量であった。

 足は泥に取られ、肩には餓鬼までがのしかかっているようで、蛙を逃がした罪と拉致した罪とを同時に受けているような心持ちであった。

 

 地獄の責め苦を受けているような心で、あの轍へと辿り着いた。

 男は、ここで蛙がいなくなっているのを見たならば満足して川にでも飛び込んで死ぬつもりであった。

 

 しかし、蛙はそこに座っていた。

 一月と少し前、男が初めて見た時と同じような威風堂々ぶりで、まるで男が馳せ参じるのを待つ王のようであった。

 

 男は感涙して、自分の罪を受け入れて過ごす腹積もりを決めた。

 この蛙と過ごすのだ。

 例えどんな責め苦を受けようとも、この蛙のためならば甘んじて受け入れられるだろうと、そういう思いであった。

 

 

 

 それから半月が経った。

 元より広い領地を持ち合わせていた訳でもない集落は、村長が食料を貯蓄して出さなかったがゆえに酷い飢餓に襲われていた。

 

 家畜は一昨日に食い尽くしたので、村長の家を襲撃して蔵を襲おうとした一派まで現れたのだが、相撲取りのような次男坊に皆殺されてしまった。

 村長は家族を養うために蔵を開放していないであろうということは皆知っていたし、次男坊を溺愛していることも知っていた。

 何しろ村長の家族で肉付きがいいのはこの次男坊のみであるのだ。

 

 そしてこの飢餓はかの蛙と共に過ごす男であっても同じように苦しかった。

 村の近辺の山菜は既に取り尽されていたし、何より男は体格がいい。人よりいくらか多い食事を必要とするのは当然ともいえた。

 

 余りの苦しみに、男は一時蛙さえ食べようとした。しかし直前になって自分の愚かさに気付き、こおろぎを胃に突っ込んで滋養を付けて、山から下りて街に行くことにした。

 定期的に村にやってくる街からの馬車が丁度3日ほど前に到着していたのだ。

 

 村に着くなり馭者は倉庫に運ばれた。

 馬車の荷には飯が少なく、二度と交易がやってこないことを考えて、村人は目先の飢餓と天秤にかけた。

 元より村人に学のある者は少なく、集落の者でなければここではそもそも同族とすら認められはしなかった。

 

 男にとっては馭者など元より眼中になく、肝心なのは馬車の方である。

 村長が馬車を大事にしたがったようで、村人に食われないようにしっかりと家族の者が警備をさせていた。

 

 如何に男と言えども、次男坊が警備をしていたならばしばらく食えていない男が逆に殺されてしまうだろう。

 恐る恐る馬車の近くへと行くと、馬に手を出そうとしていた村民が丁度次男坊に誅殺されていた。

 

 既に倒れていた者の腰に金属の光を見た男はこそりと近づいて、その鎌を抜き取って次男坊の首を稲穂のように刈り取った。

 あっさりと人を殺してしまった男は特に感傷などはなく、道中で空腹を満たすためにとむしろ死体を荷に積んだ。

 

 四人と一匹を載せて、馬車は山を下った。

 馭者として男は一杯に馬を走らせたが、疲労と空腹には耐えられなかった。

 刻が1つ過ぎる頃には、男は馬の上でこくりと眠り出した。

 

 その居眠りには馬も乗客も気づいておらず、あえて言うのならば蛙一匹のみが、主人の居眠りに気づいていたのだろう。

 

 馬は正直に道を走る。しかし、目隠しのような突然の曲がり角を曲がる時、馬は器用に曲がれどもその車体の幅とを考えることはできなかったのである。

 

 右後方、一つの車輪が道を外れた。

 荷と共に引きずられて馬車は崖を落ちる。

 

 咄嗟に気が付いた男は蛙を必死に守るように抱いた。

 崖の下に墜落した馬車は、荷として積まれていた村民たちだけではなく、男の頭蓋さえをも粉砕した。

 

 暫く経って、ぴょこりと馬車の下から潤んだ瞳の蛙が出て来た。

 周りを飛び回る蠅に目を付けた蛙は、なるべく高い所へ行こうと転げた馬車の上に乗った。

 舌を素早く伸ばして蠅を口の中に引きずり込む。

 

 くるくると回る車輪の軸。

 その上で蛙がゲコ、とないた。



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