殺殺人鬼鬼リサ兵器 (外清内ダク)
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“自殺旅行のおわり”Side:G
01.わたしたちの“はじめて”


 

 

"Lisa:The Serial Serial killer killer"

 

 

「こんちわ偽物。殺しに来たよ」

 わたしの挨拶は気さくだけれど、それを聴くものは誰もない。

 更地ばかりが広がる深夜のニュータウンには、家もなく、人もなく、光さえもが遥かに遠い。伸ばした指先すら見えない暗闇の中に、立つのはたったふたりきり。わたしと、やつと。見えなくたって判ってる。やつがどんな顔をしているか。どんな目でわたしを見ているか。腕も、脚も、腰も、胸も、緩んだ首元もにやついた童顔も、嫌というほど味わい、見つめ、向き合い続けてきた。

 わたしと同じ顔した女。

 生き写しだ。吐き気がするほどに。

「本物きどり?」

 と、やつがわたしを嘲笑う。

「笑わせるね」

 殺意が湧いた。

 叫んだ。跳んだ。やつの懐に飛び込んだ。グッデイで買った大型レンチを力任せに振り回す。向こうだって負けちゃいない。棒が咬み合う。鉄火散る。鈍い衝撃がわたしの柔肌を打ちのめし、皮膚が裂け、骨が軋み、呻き、転げ、泥に塗れて、苦し紛れの反撃がやつの頭蓋を捉える。掌が痺れるようなこの感触。大切な何かを粉砕した手応え。耐え難く不愉快でありながら、どこか暗い快感さえも孕んでいて。

 好機だ。

 わたしは喚いた。中身はない。言葉と呼ぶには稚拙すぎる。それは獣の雄叫びだ。何度も、何度も、飽くまで何度も、凶器を脳に叩き込む。

 何かが飛び散り頬を汚した。血か何か。素晴らしく愉快なものが。

 気がつけば、手は体液に塗れてぬるぬると不快。同じくらいに胸も粘つく。やつの死体が泡立つ。溶けて、蒸発して、風に流れる。やつらを殺したときはいつもこうだ。微かな痕跡さえ残さずやつらは完全に消滅する。

 それでわたしの目的は満足されたはずなのに、なぜか心の靄が晴れてくれない。

 荒い息を抑えようと、わたしは大口あけてぱくぱくやった。でも足りない。全然足りない。酸素が、生きるために必要なものが、決定的に足りない。わたしはこんなに飢えているのに、わたしはこんなに渇いているのに、わたしの肺は満杯で、1ccの余地もない。

 仕方なく吐き出した息は、つまらない愚痴になる。聞かせる相手もない愚痴に。

「あと、どれだけ……」

 たまらなくなって、わたしは丘の下を眺め見た。

 あったかそうな色とりどりの光が、街中の、窓という窓から漏れ出していて――そのなかのどれひとつわたしのものではないのだと気づいて、泣いた。

 でも涙だって、どこかで切り上げるしかなかった。

 

 

 

『殺殺人鬼鬼リサ兵器』

“自殺旅行のおわり”Side:G

 

 

 

 ゆうべは情けないところを見せちゃったし、引かれてしまったかもしれないけれど、もう少しお付き合いいただけるなら自己紹介しておこう。わたしはわたし。名前はひみつ。好きなマンガは『今日から俺は!!』、好きなぶどうパンはフジパンのぶどうぱん、職業は旅人。あと、殺人鬼だ。

 正式名称を“重度殺人障がい者”というのだけれど、一般にはあまり知られていない。誰だって「あいつを殺してやりたい」って思うことはあるだろう。とはいえ、ふつうは歯止めが利く。衝動を抑制できない人は稀だし、そのうえ殺人に役立つ特殊能力を持っているやつはもっと稀だ。そういうのが、第1級ないし第2級の重度殺人障がいに認定される。つまり、殺人鬼ってことになる。

 全国で3000人くらいいる殺人鬼。そのなかのひとりがわたし。と、いうわけ。

 ところがわたしは、他の殺人鬼とはちょっとばかり違っていた。わたしの“特殊能力”が、ふつうじゃなかったのだ。

 そのことに気付いた――というより、能力が“発現した”のは、ほんの数年前。高校のツレに告白されて、まあいいかなと思って付き合いだした。“マトリックス”見に行って、映画館でキスをして、3回目のデートでそれなりのことをした。その翌朝のことだった。

 彼のわたしを見る目つきが変わっていた。探るような、期待を孕んだような、そんな目だった。そのときは別段気にも留めなかったのだ。昨日の今日で、もうやりたいのかなって、思っただけだった。若いもんね、と、他人事みたいに。

 しばらくして気づいた。どうも話が噛み合わない。彼はわたしとの、主として卑猥な思い出を語るのだけど、わたしにはそんなことをした覚えがまるでない。すわ浮気、誰かとわたしを間違えとるな、と怒り心頭に発したものの、よくよく問い詰めてみるとやっぱりおかしい。彼は確かにわたしとやったというのだ。わたしが想像したこともない、淫靡で神聖な種々の行為を。

 ふたを開けてみるとタネは簡単。わたしは、ふたりいたのだ。

 ふたりめのわたしは、ある夜、悪びれもせずわたしの前に現れた。

 そして、ビックリして口ぱくぱくさせるばかりのわたしに、こう言った。

「わたしは彼の心に棲むわたし。わたしの力が産んだ、もうひとつのわたし」

 こうも言った。

「わたしは彼のわたしになる。これからは、わたしが本当のわたし」

 冗談じゃない。

 その後いろいろ議論した気がする。議論になってたかどうかは怪しい。何を話したかもよく覚えてない。記憶にあるのは奇妙な情熱と興奮のみ。話しているうちにいつのまにか熱くなり、お互いがどうしようもなく憎くなり、睨み合いが取っ組み合いに、取っ組み合いが殺し合いに発展した。もみくちゃになり、泥まみれになり、傷だらけになり、気がついたときには、もうひとりのわたしは血赤色に事切れて、わたしだけが立っていた。

 自分が殺人鬼だったのだと、わたしはそのとき、初めて知った。

 殺したい相手は“自分自身”。能力は、他人の脳内にある“わたし”のイメージを具現化させ、わたしの“分身”を作ってしまうこと。ひたすらはた迷惑なこれを“能力”なんて前向きに呼んでしまってよいものかどうかは、分からないけれど。

 とまれ、そこからが大変だった。一度発現してしまったわたしの“能力”は、わたしを知る人々の脳内イメージを、無差別に、徹底的に、とめどなく具現化させていったのだ。それで気づいたのだが、わたしにはもうひとつ、分身のことがなんとなく分かるという能力も備わっているようだった。目を閉じると、どっちの方向に距離どのくらい、というのが瞼の裏にチカチカ浮かんでくるのだ。その力によると、産まれ出たわたしの分身たちは、実に総勢144人。日本全国津々浦々、南は鹿児島、北は東北岩手まで、嫌がらせのようにバラバラと点在していた。

 本体たるわたしは感じ取っていた。渦巻く悪意、というか野望、みたいなものを。全ての分身たちが、あわよくばわたしを殺そうと、本当のわたしに取って代わろうと、虎視眈々狙っていることを。困ったもんだね、我ながら。

 こうなりゃやられる前にやるしかない。わたしは、決断した。

 そんなわけで旅に出た。お金はなかったから、自転車で、ひとり、ぶらりとだ。それから数年。来る日も来る日も、旅して、殺して、また旅立って、その繰り返し。やっとのことで50人ばかりを片付けたが、まだまだ旅路の果ては遠い。

 わたしは“自分殺し”の殺人鬼。

 さしずめこれは――ちょっとした“自殺旅行”ってわけだ。

 

 ひとり、気ままな貧乏旅。これはこれで楽しいもんだ。時に孤独に苛まれることもあるけれど、そんなの一時の気の迷い。一晩ぐっすりと眠って、気持ちのいい朝日に晒されて、朝ごはんのぶどうぱんのぶどうをほじくって前歯にコリコリ遊んでいれば、正体不明の気鬱なんかはどこかに行ってしまう。

 道連れなんか作らなかったし、これからも作るつもりはない。

 でも“つもり”どおりに行かないのが人生ってもの。新しいしがらみは、どうしたってついてくる。

 たとえば――目の前にいるこの子とかだ。

 その子は血溜まりの中から現れた。わたしが殺したわたしの腸(はらわた)から、嬰児の子宮を這い出すが如く、だ。

 53番目のわたしは全くもって許せんやつだった。無差別殺人鬼だったのだ。ひとを攫ってきて、人気のないところに連れ込んで、弄りながら撲殺するのに喜びを感じるようなやつだったのだ。一体誰のどんなイメージからこんな分身が生まれたものやら。

 とにかくわたしは怒りを込めて53番目を片付けたのだが、やつはその日の獲物を既に攫ってきていたのだ。それが、彼女だった。

 9歳? 10歳? そのくらいの女の子。無差別殺人鬼に攫われて、危ういところを別の殺人鬼に救われて、ランドセルとスカートをべっとりと血に染めて、こんな異常事態にも関わらず、その子の目は風ひとつない湖面のように静か。ものも言わず、じっとわたしを値踏みしている。

「えーと」

 うっかりわたしは目をそらしてしまった。それで主導権を奪われたようなものだ。女の子がちっちゃな口を開く。まるで蕾がほころぶみたいに。

「助けてくれてありがとうございます」

「あ、はい」

 マヌケなヒーローもいたもんだ。女の子にも呆れられたかもしれない。ちょっとわたしは焦った。

「血を洗いたいんですけど」

「あ、うん、そだね。公園、あったから、水道、近く。大丈夫、わたし、おふろ、するし、いつも」

「お腹もすいています」

「ぐいぐい来るね」

「えんりょしたほうがいいですか?」

「いや……怖くない? 凶器、凶器」

 愛用の武器を指さしたところで気づいた。わたし、一体なにを自分からアピールしてるのだろうか。どうも平静でいられないらしい。そんなわたしの心中を、この子はすっかり見透かしている。わたしの手の中にあるバールのようなものを一瞥したのみで、興味ないですと言わんばかりに立ち上がる。わたしは慌ててしゃがんだ。ちょっとはヒーローらしいことをするべきだと思ったのだ。

「だいじょうぶ? おんぶ。ほら」

「ひとりで歩けます」

 うんこ座りのまま置いていかれたわたし、ばかみたい。

 濡れた靴をずるぺた引きずりながらも、確かに己ひとりの足で道路まで出たその子は、くるりとわたしを振り返った。

「公園、どっちですか」

「ん、ひだり……」

 運命の出会いにしては、どうにもしまらないやりとりだったが、現実なんてだいたいこんなものかもしれない。

 なんにせよ、これが、わたしと兵器(つわのき)リサとの“はじめて”だったのだ。

 

 タオルケットは旅人の必需品だ。地面に敷けば床になるし、上に張れば屋根になる。横に吊るせば壁になり、体に纏えば服になる。水に濡らせば雑巾代わり、物を包めば風呂敷で、寝袋、ミイラごっこもお手の物。折りたたんでくるくる巻けば収納もコンパクト。星空を愛するあなたのお供。一家に一枚、タオルケット。

 公園の水道で服と体を洗い、アスレチック遊具のロープに干してしまえば、わたしたちは裸になる。しょうがないので一枚のタオルケットにふたりでくるまり、身を寄せ合って服の渇きを待つ。会ったばかりの女の子と、こんな距離で肌を擦り合わせるなんて、どこか気味悪い。でもそう思ってるのはわたしだけで、リサは気にも留めていないようだった。少なくとも、そう見えはした。

「あなたも殺人鬼なんですね」

 ぽつり、とリサが呟いた。タオルケットの中では、むきだしの肩が触れ合っているから、その声は肉の振動となって直接わたしに伝わってくる。痺れるような、くすぐったいような、不快なような、心地よいような。

「殺人鬼、知ってるんだ?」

「私もですから」

 わたしは言葉に詰まった。言われてみれば、リサの横顔は研ぎ澄まされたナイフのようだ。

「キミも?」

「はい」

「そうなんだ。何殺し?」

 リサは何も言わない。

「えーと、わたし、“自分殺し”」

「自分殺し?」

「自分を殺すの」

「なんで生きてるんですか」

「自分、いっぱいいるんで……」

「よく分かりません」

「デスヨネー。えーとォー、ユング心理学によるとォー、シャドウとペルソナがァー……」

「無理しなくていいです」

「あ、はい」

「私、兵器(つわのき)最終(リサ)です」

「うん」

「あなたは」

「あー。わたしの名前は、いっぱいあってな」

「あいにく私、黒猫じゃないので」

「あーっ! 読んでるー? いいよねー、そっか今の子も読むんだぁー。あのラスト泣けるよね、ルドルフがイッパイアッテナって名乗るとこ……」

「それラストじゃないですよ」

「え?」

「こないだ3巻でました」

「ええっ!? まじー!? びっくりー、そりゃー読まないとなー」

「名前言いたくないんですか?」

「うーん……」

 するどくって、お姉さん困っちゃうね。

「じゃあ、ドゥ子。ジョン・ドゥ子」

「殺していいですか?」

「だめ」

「ならいいです」

 いいのか。ようわからん子だ。

 その場の思いつきで、わたしは身元不明死体(ジョン・ドゥ)子ということになってしまった。咄嗟に考えたわりにはいい名前である。いや、いいかな……うんまあよしとしよう。

 服はまだ乾かず、こんなすっぱだかで眠る気にもなれず、わたしたちはそれからしばらく、星空の下で語り合った。お互いの身の上話。わたしが自分の分身を殺して回っていること。そしてリサが、家出をしてきたということ。

 第1級殺人障がいと診断されて以来、彼女の両親には諍いが絶えなくなったそうだ。直接的にリサのことでケンカしているわけではない。ただ、我が娘が殺人鬼だったという事実が、重く両親の心に圧し掛かっていたのだろう。普段なら笑って流せるようなちょっとした不満でさえ、余裕を失った心には致命的な火種となるのだ……という分析はリサ自身が聞かせてくれたものだ。9歳とは思えないほどに、リサの視線は静かで、冷たい。

 彼女が下した決断もまた、氷のように冷徹だった。この家に自分はいないほうがいい、と。ぽつりもらしたリサの言葉は、嘘でも冗談でもなく、まごうかたなき本音と見えた。

「お互い面倒くさいだけなら、離れたほうがいいです」

 その思い切りのよさも驚きなら、一ヶ月なんやかやで食いつないできた生活力も驚きだ。ついでに言えば運もいい。ふらついているところを、殺人鬼(わたしの分身だ)に目を付けられ、拉致され、ちょうどそのときにたまたまわたしが現れたというのだから、偶然でないにしてはできすぎている。

 感心しきりのわたしに、リサは初めて目を向けてくれた。彼女の薄い肩の重みが、わたしの方に少しだけ傾いた気がした。

「ドゥ子さん」

「なに?」

「ありがとうございました」

「なにが?」

「助けてくれたこと。あと、パン」

「あ、あー。それか、うん、いや、どういたしまして」

「もうひとつお願いしてもいいですか」

「いいよォ。ドゥ子さんになんでも言いなさい」

「私も連れて行ってください」

 わたしは固まった。

 まさか、いきなりこんなことを頼まれるとは思ってもみなかったのだ。

「なんで……」

「私も旅がしたいです」

「いや、だってぇー、わたしィー」

「なんでも言いなさいって言ったじゃないですか」

 やべえこいつ。つええ。完全にハメられた。

 目を逸らしたわたしを、リサは許してくれない。大粒の、黒玉(ジェット)のような目が、わたしを捕らえて離さない。

 離さない。

 離さない……

 そういうわけで。

 わたしが折れたときには、もう空が白み始めていたし、洗濯物も、なんとか着られる程度には乾いていたのである。

 

 

(つづく)



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02.ふたりぐらし

 

 

 思えば、わたしとリサは似た者同士だったのかもしれない。ひとつところに留まることを良しとせず――これは格好つけすぎだね。留まることを面倒がって、旅空の下へ逃げ込んだ。絶えることなく流れ続ければ、心が淀むこともない。転がる石に苔は生さない。良くも悪くも。

 そんなだから、キャラクターは全然違うはずなのに、わたしとリサは妙に馬が合った。自転車の荷台にわずかな荷物を括り付け、さらにそのうえにリサは座った。細い手で後ろからしがみつかれるのは、悪い気分ではなかった。ふざけて坂道で自転車跳ね上げて、ふたりしてきゃあきゃあ言うのも良かったし。

 食べ物の調達と寝床づくりを手分けできるのだって、実際ありがたかった。どこに食べ物があるかとか、どんなひとが親切にしてくれるかとか、わたしが数年の旅人暮らしで身に着けた生きるコツを教えてあげると、リサはいつもじっとわたしの目を見て聞いた。そして次からは、わたし以上にうまくやってのけるのだ。

「ドゥ子さん、すごいですね」

 あるときリサがそう言うので、わたしはきょとんとしてしまった。

「なんでも知ってる」

 わたしは爆笑した。どう考えても、すごいのはわたしじゃなくてリサのほうだった。一回言っただけでなんでも覚えてしまうなんて、並大抵のことじゃない。賢い。それに真剣。ずっと不真面目に生きてきたわたしなんかとは大違い。

 笑われたリサは、たいそう不服そうだったけど。

 毎日いっしょにいるうちに、お互いの懐には踏み込まないという暗黙のルールもできた。わたしが現金収入のために時々こっそりやっていたバイトについて、リサは何も言わなかった。わたしも、リサがサンリオの手帳につけてる日記については、口出しも覗きもしなかった。ここには触れないでほしい、見て見ぬふりをしてほしい、お互いそういう空気をなんとなく察していた。

 一方で、過去のことはけっこう話した。バイトや日記なんかより、ふつうこっちのほうが重たいはずなのに、なぜか抵抗は全くなかった。旅に出る前の生活。悲しいこと。嫌なこと。家族のこと。恋愛のこと。学校のこと。好きなマンガのこと。谷川がどんなにユカイなやつかを分かってもらえなかったのは、返す返すも残念だ。マンガの面白さを口で説明するって難しい。はじめてしたセックスのことも、ちょっぴりは話したかもしれない。真っ赤になって向こうを向いてしまったから、ほんのさわりだけで終わりにしたけど。

 そしてもちろん、そんな旅暮らしの中で、わたしは自分を殺した。何人も殺した。リサと出会ってからだけで7人を片付けた。今までより断然いいペースだった。なんだか人生にやる気が湧いてきたみたいだった。

 夕暮れに険しい顔して出かけるわたしを、リサは、どれほど遅くなろうとも、じっと待っていてくれた。血塗れで戻ったわたしを見ると、リサは決まって顔をほころばせた。ほんの一瞬だけ。ともすれば見過ごしてしまいそうなほど僅かに――でもそれは、間違いなくリサの笑顔だったのだ。

 いつものように公園の水道で血を洗い、服を干す。その間にリサは、集めてきた晩ご飯を広げてくれていて、その中にはぶどうぱんだってある。わたしはおっきなぶどうぱんを半分に千切って、リサと分けた。リサはレーズンが嫌いだったので、いちいちほじくってわたしにくれた。それは少し寂しい気もするけど、まあ、おおむね歓迎だった。

 眠る前には、リサはもちろん、いつものように手帳に何か書きつけていた。わたしのことも、あの中に書いてあるのだろうか。リサはどんな風にわたしを書くのだろうか。そう思うと、あのプリン犬の柄した表紙の奥を、ちょっとだけ、覗いてみたいという気もしてくるのだった。

 

「おまえは何も解ってないね」

 肋骨をずたずたにしてやったというのに、61番目のわたしは、いやらしい笑みをまだ消さない。

 61番目が苦し紛れに吐き出したたわごとが、胸の奥にちくりと突き立った。とたん、何かたとえようもなく不快な感触が肺の奥から湧いてきて、わたしはレンチを振り上げた。一刻も早くこいつを殺したかった。簡単だ。このまま脳天めがけて振り下ろせばそれでいい。

「あの子のことだよ」

 わたしの手が止まった。

「……なんで知ってる?」

「わたしたちはわたしなんだ。自分だけが特別と思ってた? おまえがわたしたちを感じるように、わたしもわたしたちを感じている。(すべ)てのわたしが。(すべ)てのわたしを」

 思いもよらなかった。分身たちを感じ取る能力は、本体であるわたしだけの特権と思い込んでいた。そういえば、と記憶が蘇る。最初に出会った分身は、お出かけ中のわたしの前に、当たり前のような顔して現れた。あれは、わたしの居場所が分かるってことだったのだ。

 61番目は肺から血を吐いたが、それでもお喋りは止まらなかった。

「かわいくなったんだろ。懐いてくれてると思ってるんだろ。こういう暮らしも悪くないってね。

 本当にそう? あの子はお前を慕ってる? 生きるために利用しているだけじゃない? だいいち、好かれるほどの何をお前がしたというの?

 ――あの子はわたしを、本当はどう思っているのかな?」

 殺す!

 脳漿を頬に浴び、わたしはそのまま凍り付いた。

 振り下ろした凶器の先が、61番目に食い込み、止まる。割れた頭蓋の奥は、暗くて何も見えやしない。脈がおかしい。呼吸のリズムも。足りない。幾度となくわたしを悩ませてきた飢餓感が、またしてもわたしの喉を締め上げた。

 足りない。まるで足りない。

 何が足りないのかってことさえも――

 

 わたしは演技とかが苦手だ。

 顔に出るタイプってよく言われる。まして相手は勘働きの鋭いリサなのだ。この不安を隠しおおせたとは思えない。何か察していただろう。それが良くないものだということも分かっていただろう。それでもリサは何も問わない。これ以上踏み込まない、その一線は今なお守られていたのだった。

 あるときわたしたちは、下校する小学生の列とすれ違った。小学校の1年生か2年生くらい。今どきの小学生は不自由だ。前後を旗持った近所のおじいさんに挟まれて、あいまいながらも1列並んで、お行儀よく歩かされている。

 わたしは思わず自転車を停めた。登下校。そういえば、頬に当たる風もいつのまにか冷たくなっていた。もう秋なのだ。夏休みは終わり、子供たちはすでに日常に戻っているのだ。わたしはふと後ろを見た。荷台のリサと目が合った。リサは怪訝に眉をひそめて、わたしを見つめている。

 これ、いいんだろうか。

 リサは小学3年生。わたしはそれを連れまわして、旅人なんかをさせている。でも彼女には学校で学ぶ権利と義務があって、すばらしい先生たちに人生とか算数とかいうものを教わる必要があって、時にはイケてる小学生男子との幼稚ながらも甘々しい恋物語だってあるはずだ。それを全部、わたしの勝手で奪ってるんじゃないのか。リサにとって、わたしは略奪者に等しいんじゃないのか。

「なんですか」

 問われて、わたしは慌てて自転車を漕ぎ出した。前を向かなきゃ、っていうのを言い訳に、リサから目をそらして、答えを秋風の中に誤魔化した。

「なんでもないです」

 ないわけなかった。

 なかったが、それを口にする勇気もまた、わたしにはなかった。

 

 それからしばらく経ってのことだ。わたしはそのとき、坂道の歩道を必死に自転車で上っていた。丘の斜面に作られた県道からは、本来なら街の中心部が一望できたはずだ。だが手入れもなく生い茂った雑木林が視界を塞いでしまって、景色も楽しめない。残るのは痛む足と、冷たい向かい風。そして、自転車に載せた大きな重荷。

 と、突然、後ろでリサが叫んだ。

「ふせてっ」

 警告を理解するより体の動くほうが早かったのだから驚きだ。わたしは咄嗟に、ハンドルにあごを埋めた。その頭上をかすめて、後ろから来た金属棒が髪の数本を持っていく。風の唸りがぞっとわたしの背筋を凍らせる。頭を上げてみれば、わたしたちを追い抜いて行った車の助手席に、鉄材を握った女がひとり。

 わたしの分身だ。

 珍しいことに、向こうからわたしの命を狙ってきたらしい。胸のむかつきがポップコーンみたいに膨らみ弾ける。わたしを殺すのはいい。だが今のは、一歩間違えばリサまで巻き込んでいたじゃないか。

「降りて!」

 わたしに気圧され、リサが降りる。身軽になってわたしは漕いだ。坂をものともせず駆け上り、あの車の後を追う。坂の上にある古臭い道の駅に、車が入っていくのが見える。分身が駐車場で車を降りて、横手の階段を昇っていく。わたしは自転車蹴り捨てて、レンチを片手に追いかける。

 たどり着いた先は展望台だ。ほとんど注目する者もないだろう観光地図の前に、やつは鉄棒ぶら下げて立っていた。

「気づいた?」

 やつが言う。わたしは眉をひそめただけだ。

「そっか。残念」

 それ以上の言葉は、どちらにもなかった。

 いつものように殺し合いが始まった。こいつは強敵だった。いや、強いというより、殺せない。殴っても、殴っても、うまく避けたり受け止めたり、しぶとく耐え凌ぐ。そのぶんあまり攻撃してこないのだが、それがかえってわたしを苛つかせる。まるで決着を引き延ばそうとしているみたいに――

 そう感じた途端、わたしの脳裏に閃くものがあった。

「――気づいた」

 凶器が噛み合い、凍りつく。

「助手席だったもんね。居るはずだよね。もうひとり」

「リサ!」

 わたしは分身を蹴っ飛ばした。身をひるがえして逃げ出した。こんなのと戦ってる場合じゃない。リサが危ない。だが焦りに蝕まれる無防備なわたしの背を、狡猾な分身が見逃すはずもない。

 鋼鉄が来る。

 

 

(つづく)



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03.旅立ち

 

 

 わたしがたどり着いたとき、そこはもう血の海で。

 見慣れた光景、いつもの匂い。なのにその中央で、倒れているのはわたしのリサで。

 そばには分身がひとり、呆然と立ち尽くしている。

 わたしは叫んだ。

 自分の弱さをかなぐり捨てて、わたしはふたたび獣になった。掴みかかる。引きずり倒す。喉を牙で食い千切り、手足を爪で圧し折って、わたしは、わたしを、やつを、この、忌々しいわたしならざるわたしを、殺して、殺して、そして、殺した。

 頭蓋の形状さえ分からなくなったわたしを見下ろし、わたしはようやく我に返る。

 リサに駆け寄り、跪き、助け起こす。

 呻きが聞こえた。まだ生きてる! 抱いて走った。さっき背中からやられた傷も、そのあと食らった腕の傷も、ものすごく痛いような気がしたけど、不思議と気にはならなかった。どうでもよかった、今は。

 わたしの胸の中にはただひとり、リサが、リサだけが――

 

 駆けずり回ってようやく見つけた病院で、わたしは膝を抱えている。医者が親切で本当に良かった。保険もない、金もない、でも頼むと無茶を言ってすがり付くわたしの願いを、快く引き受けてくれた。こんないいひとに出会えたのは幸運だった。それとも世間はみんないいひとなのか。悪いやつはわたしだけ。わたしが全部……わたしのせい。

 守れなかったってだけじゃない。

 わたしがリサを殺そうとしたんだ。

 わたしは、わたしが許せない。あんなものはわたしじゃない。あんなものが居ちゃいけない。ずっとそう思い続けてきた。そのためにやつらを殺し続けてきた。それが終わるまで、わたしはひとりのわたしでいよう、どこにも留まらず流れていよう、そう心に決めていた。

 そのはずなのに。寂しさに耐えきれず、うっかり温もりを求めてしまった。それがリサを傷つけた。

 もしリサが死んでしまったら、リサを殺してしまったら、わたしは――

 神様に祈った。教会なんか行ったこともないくせに。仏様にも。七福神にも。サンタクロースにも。なんなら悪魔にでも。リサを助けてくれるならなんでもいい。誰にだって祈る。なんだって捧げる。代わりにわたしが死んでもいい、殺してくれていい、命でも魂でもくれてやる、だから、だから……!

 どれほど時間が経ったかわからない。ひょっとしたら、ほんの数分だったかも。

 医者が処置室から出てきて、大丈夫ですよとわたしに言った。泣いてしまった。めちゃくちゃな声でお礼を繰り返した。医者は何度もわたしの肩を叩いたけど、その顔が強張っていたのは分かった。彼からわたしはどう見えているだろうか。考えるまでもなかった。不審者だ。幼い子供を連れまわし、あんな大怪我をさせて、進退窮まって駆け込んできた誘拐犯。

 覚悟はもう決めていた。

 処置室に入ると、リサは頭に包帯を巻いて、おとなしくベッドに横たわっていた。ちょっと顔色は悪いけど、意識はある。いつもの冷たい目をわたしに向ける。わたしはがんばって笑ったけど、目を真っ赤にはらしてちゃ格好はつかないね。

 医者の話だと、案外傷は浅かったらしい。頭部は血管が集中しているから、少しの怪我でも派手に出血するんだと。でも頭部に打撲を受けたのだから、脳にいろいろあるかもしれないから、とにかく安静にしておいて、あとで検査しなきゃいけないそうだ。リサがそんなことを話してくれた。

 難しい話は全然頭に入らなかったが、リサが元気そうだということだけは分かった。そしてわたしには、それだけで充分だ。

「ゆっくり寝てな。ベッドで休むなんてできなかったもんね」

「いいえ。早くここを出ましょう」

 リサが小声でそう言うので、わたしは首をかしげる。

「たぶん警察呼ばれてます。ややこしいことになります」

「だろうね」

「分かってたんですか?」

「そりゃあ、何度か、あったもん」

「早く」

 起き上がろうとするリサを、わたしは止めた。

 沈黙があって、ほんの数秒で、リサはまるまると目を見開いた。わたしの考えていることを察したらしかった。リサはわたしの手を力任せに振り払い、起き上がり、わたしの襟首に掴みかかった。

「ふざけないでください」

「リサ――」

「なんで勝手に決めるんですかっ!」

 病院中を震わせるその声は、初めて聴いた彼女の慟哭。

「声が大きいよ」

「私が足手まといですか?」

「ううん……」

「役には立ててたつもりです」

「そうじゃない」

「一生懸命やりました。足りなければもっとやります。少しでも、なりたくて、私、あなたに――!」

「違う!」

 思わず漏れたわたしの悲鳴を、ただ、リサだけが聴いていた。

 わかった。ようやくわかった。わたしが、リサのあの視線の中に何を求め、何を喜び、何を恐れていたのか。見つめ合う。彼女の黒玉(ジェット)色した瞳の中に、情けない顔したわたしが映る。それは確かにひとつのわたし。腕も、脚も、腰も、胸も、緩んだ首元も崩れた童顔も、嫌というほど味わい、見つめ、向き合い続けてきた。

 瞳が描く、わたしの分身。

「わたしは、そんなんじゃない。

 リサが思ってるようなやつじゃないんだ」

「助けてくれたじゃないですか。

 パンをくれたじゃないですか。

 暖めてくれたじゃないですか」

「そんなの誰でもできることだよ」

「でもドゥ子さんがやったんでしょ!?」

「リサ」

「私は子供です。

 弱いです。

 バカです。

 かっこつけて家出して、でもパパとママに会いたいです。

 ひとりは暗くて、寒くて、情けなくて――だからあのとき、もう殺されてもいいと思った。なのにドゥ子さんは強かったでしょう!? ひとりで旅して! 戦って! 殺して! 私まで救ってくれた、それが私のドゥ子さんです!」

「違う」

 わたしは、立った。

 小さな手が、わたしの胸から零れ落ちていく。

「わたしは強くなんかない。

 だってわたしは、―――――」

 無理して作った微笑みが、涙に溶けて流れてく。わたしの口をついて出た、忘れかけてた名前とともに。

「それが本当のわたしなんだ」

 わたしは部屋を飛び出した。

 寒々しい外の暗闇へ――ひとりだけで。

 

 これで、お話はだいたい終わり。でもわたしの能力について、ひとつだけ話してなかったことがある。今きみが見ているこの夢、その正体にまつわる秘密だ。

 他人がわたしに対して抱いたイメージが、実体化して、分身となる。そのことは確か話したね。でも無制限に分身ができるわけじゃないんだ。条件がある。

 それは、わたしの本名を知ること。

 誰かがわたしの名前を知ったとき、わたしのイメージは形となる。わたしではない別のわたしがこの世に生まれる。そしてわたしはそいつを憎む。そいつもまたわたしを憎む。わたしたちは殺し合い、生き残った一方だけが、本当のわたしになる。

 殺されたほうは、消滅する。

 分身を生み出した、誰かのイメージもろともに。

 そして雲散霧消するイメージの残りかすが、生みの親に夢を見せる。そう、それがこの夢。きみの中にあるわたしの最後のかけら。わたしが託す無意味なメッセージ。

 わたしはもう、きみから生まれた分身を殺した。きみの記憶はもうすぐ消える。わたしに対して抱いた怒りも、憎しみも、ひょっとしたら愛着とか優しさとかも、きみの思い描くわたしの虚像とともに流れて消える。

 これでいいんだと思う。きっとそう。覚えていたって辛いだけ、そんなことは、いっぱいあるもの。

 だいじょうぶ、きみはひとりじゃないよ。お父さんもお母さんもいる。友達だって、恋人だって、たくさんできる。きみは、わたしと違って強いもん。

 もうすぐ目覚めの時間だね。

 ありがとう。短い間だったけど、ホント楽しかった。

 

 ばいばい、リサ。大好きだよ。

 

   *

 

 長い眠りから醒めた時、私は見知らぬベッドの上で、視界には両親の顔があった。

 何か早口でまくしたてる父。涙を零す母。私はそれを無感動に眺めながら、複雑に縺れ合う脳内の糸を解きほぐそうとする。だが手を触れるや記憶の繭糸は溶け流れ、私の胸には耐えがたい喪失感だけが残される。

 今、私は何を夢見た?

 今、私は何を失った?

 横手を見れば、籠の中に私の荷物が詰め込まれている。ずっと愛用していたポムポムプリンの日記帳が、ブラインド越しの朝日を浴びてやけに白く浮かび上がる。

 途端、私の目から涙が零れた。なぜだか分からない。正体不明の動揺が私の中から湧き上がってきた。私は呟いた。小さな小さな声で。涙は見せてもいい。だが言葉は聞かせたくない。他人には。両親にも。他の誰にも。

「ずるいよ」

 握り締めた手のひらに、爪が固く食い込んでいく。

「別れ際に大好きなんて、そんなのずるい――」

 

Continued on Side:L



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“自殺旅行のおわり”Side:L
04.145の悪意


 

 

 あれから何年過ぎただろうか。

「こんちわ偽物。殺しに来たよ」

 ドゥ子が挙げた悲痛な声を、しかし聴くものは誰もいない。

 更地ばかりが広がる深夜のニュータウンには、家もなく、人もなく、光さえもが遥かに遠い。伸ばした指先すら見えない暗闇の中に、立つのはたったふたりきり。ドゥ子と、ドゥ子。引き締まった魅力的な体も、磨けばいくらでも輝きそうな顔も、そっくり同じ。傍目には、その姿が漆黒の夜空に煌めく明星のようにさえ見えただろうに。

 たとえ当人たちが、互いの姿に吐き気を催す不快を覚えていたとしても。

「本物きどり?」

 と、ドゥ子がドゥ子を嘲笑う。

「ここまでくると笑えないよ」

 殺意はもう、習い性のひとつに成り下がっていた。

 叫んだ。跳んだ。相手の懐に飛び込んだ。使い込んだ大型レンチを振り回す。棒が咬み合う。鉄火散る。鈍い衝撃がドゥ子の腕を打ちのめし、皮膚が裂け、骨が軋み、呻き、転げ、泥に塗れて、苦し紛れの反撃がドゥ子の頭蓋を捉える。掌が痺れるような感触。大切な何かを粉砕した手応え。耐え難く不愉快。暗い快感。そして何より、果てしない虚しさと徒労感。

 ドゥ子は喚いた。中身はない。言葉と呼ぶには稚拙すぎる。それは獣の雄叫びだ。何度も、何度も、飽くまで何度も、凶器を脳に叩き込む。

 何かが飛び散り頬を汚した。血か何かが。

 気がつけば、片方のドゥ子は完全に息を止めていた。

 荒い息を抑えようと、ドゥ子は大口開けた。だが足りない。全く足りない。酸素が、生きるために必要なものが、決定的に足りない。満杯の肺に無理に息を吸い込もうとして、そんなことは不可能だと気づき、ドゥ子はやむなく声を吐き出す。

「あと……3人……」

 ドゥ子は丘の下を眺め見た。

 暖かな色とりどりの光が、街中の、窓という窓から漏れ出している。それはいつか彼女のそばにあった光。その手に掴めるかもしれなかった光。自ら投げ出してしまった、何物にも代えがたい輝きの残滓。

 ドゥ子は泣いた。

 だが涙も、あと少しで涸れるはず。

 あとほんの一息で、きっと――

 

 自慢だった体はどこを見ても生傷にまみれ、手入れの行き届かない髪は金だわしのよう。やせ細った体に異様な眼光ばかりが宿る。時に打ちのめされ、時に死にかけ、身も心も切り売りしながら、それでも彼女は歩み続けた。いつ果てるとも知れない血塗られた道行き。

 その果てに、とうとうここまでやってきたのだ。

 殺した分身は142人。残すはところ、あと3人。

 ゆえに彼女は帰ってきた。

 終のところ。最後の分身が集まるところ。かつて生まれ、かつて育ち、そして投げ棄てた、彼女の故郷。

 終田町へと。

 苦しい喘ぎは止まらない。足は重く、血は流れ続ける。しかしそれでも峠は越えた。崖沿いの街灯すらまばらな坂道を、ドゥ子はふらつきながら下っていく。

 満身創痍に暗い足元、これほどの悪条件でもなんとか進んでいけたのは、ここが懐かしい道路だからだ。寸善市と終田町を繋ぐ一番の近道。中学のころは休みのたびにこの地獄坂を登ったものだ。あれから長い時間が過ぎてしまった。とはいえ、面影は確かに残っている。目を瞑ったって迷いはしない。

 ようやくドゥ子は目的の児童公園にたどり着き、遊具のそばにへたり込んだ。いつものように水道で血を洗う余裕さえなかった。ケバの立ったアスレチック遊具に背を預け、辺りを見回す。この公園も、昔のままだ。不気味にそびえる街灯も。3本目の支柱が曲がった金属の手すりも。

 変わってしまったのは、ドゥ子自身だけだ。

 一抹の寂しさを抱きながら、ドゥ子は未来に思いを馳せた。順調にいけば、あと半月もしないうちに全ての分身が片付くだろう。そのとき彼女は、晴れてこの世にたったひとりの彼女となる。目的を果たしたら、どうしようか? 故郷で仕事を見つけてあたりまえの生活を始めようか。諦めた大学進学にもう一度挑戦してみようか。

 あるいは、このまま――

 心地よい妄想のさなか、疲労が彼女を眠りに誘う。そっと目を閉じて体を休める。旅の夜の、僅かな憩いのひととき。

 だが、世界はそれすら許さなかった。

 灯、またたき。

 影、音もなく。

 時、凍り付き――

 上!

 ドゥ子は跳ね退いた。頭上から一直線に振り下ろされた凶器が地面を抉る。初撃を躱し、転がり起きて、レンチを拾い膝立ちになる。突然の奇襲。無論相手は分身。まどろみから引きずり出された恨みを込めて敵を睨む、が、突如背後に湧き上がる気配。半ば反射的に振り返りざま、後ろからの一撃を受け止める。

 ――2人目!

 と、別方向からもうひとり。

 ――3人!?

 横手から来たさらなる打撃、まともに受ける暇は――ない! 咄嗟にドゥ子は2人目に体当たり、押し倒しながら向こう側へ転げ出る。3人目の振り下ろしたバールが髪の数本を持っていくのを後ろに聞いて、ぞっと肌を粟立たせつつもその場を逃げる。崖際のフェンスに背を預け、ゆらりと迫る3人の分身たちと対峙する。

「こりゃあ手厚い歓迎だあ」

 呟くドゥ子の額を、不快な汗が流れ落ちた。鉄パイプ、バール、角材。それぞれの得物をぶら下げた殺人鬼が3人。遠巻きにこちらを囲み、街灯の光を背負って立ち止まる。まさか、残りが全員まとめて襲ってくるとは。

「3人がかりってズルくない?」

「3人?」

 ひとりが、応えた。

「……に、見える?」

 その瞬間。

 絶望が彼女を圧し折った。

 遊具の上。街灯の後ろ。ごみ箱の向こう。街路樹のそば。道から1人、2人、3人。遊歩道の階段。民家の屋根。マンションの階段。斜面。手すり。右も。左も。前も。後ろも。およそ考えうるあらゆる場所を。すべて同じ顔が埋め尽くす。

 ドゥ子の分身。

 総勢145人。

「うそ……」

 膝が震える。

 舌が回らない。

 頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 今まで殺してきたはずの、ありとあらゆる自分たちが、殺したときと変わらぬ姿を、あれほど消したかった、認めたくなかった、無数の自分の側面たちを、今、目の前に晒している。

「なんでお前らが生きてるんだ!!」

「殺したくらいで“わたし”が死ぬと思ってたのか?

 わたしたちはわたしの切子面(ファセット)。塗りつぶしても、削りとっても、新たな面が現れるだけ。この世がこの世である限り、存在を消し去ることはできない」

「なんだよ、それ……」

 涙が、零れた。

「それじゃあ、わたしは、なんのために……」

「意味など」

 恐怖。

「そこに意味などあるものか」

 暴力が殺到する。145の殺意が145の凶器を帯びて。前から、横から、頭上から、後ろから、とめどなく死の一撃が降り注ぐ。避けた。受けた。そして食らった。脇腹にめり込む金属棒。よろめくドゥ子、それでも逃げ延びようとする彼女の髪を、誰かの指が引き摺り寄せる。別の手が腕を、肩を、首を掴んで捻じ伏せる。地を舐め、雁字搦めに拘束された彼女の前に、最後の分身が嗤い立つ。

 純然たる憎悪の塊を、自らの前にそそり立たせて。

 分身は叫んだ。

 ドゥ子がしてきたのと同様に。

「みんな消えてしまえ!」

 憎悪が、頭蓋に振り下ろされた。

 

 死んだ。

 死ぬってどういう感じだろうか。

 無数の死をもたらしてなお、ドゥ子は一向に死を解さない。死は恐れ。死は秘匿。分厚いヴェイルの向こう側に隠され、風と光の悪戯に時折輪郭を見せるもの。殺して、殺して、殺し続けて、それでも死から目をそらしていた。殺されたものがどうなるのかなんて、考えたこともなかった。殺すことのみが頭にあって、殺されることなど想像もしなかった。

 そんな半端な覚悟で他人に――否、自分自身に与えた死が、本当の死であると言えただろうか。言えなかったのだ。だからこそドゥ子の“わたし”たちは死んでいなかった。あれほど執拗に殺したはずだったのに、命は脈々と活き続けていた。

 思い上がりだったのだろうか。

 自分には、自分を殺す権利と力があるなどということは。

 自分だけは、他の分身たちと違う。自分だけは特別だ、などということは。

 なら、この死は報いだ。

 殺し続けてきた自分自身に殺される。

 ――わたしには、お似合いの死に場所だ。

 ドゥ子はそっと、目を閉じた。

 奇妙に安らいだ心のまま。心地よい諦観に身を委ねて。

 

 だが。

 次に目を開いたとき、血の雨は確かに降っていて。

 それでもドゥ子は生きている。

 体が動く。起きる。見回す。転がる死体。いくつものドゥ子の分身たちが、頭蓋を動脈をかち割られ累々そばに積み重なる。その中にただ一人立つ少女。ざわつく分身たちをひと睨みに抑え付け、ドゥ子を背中に庇うもの。中学女子。ピンクのカーディガン。プリン犬の缶バッジ。口元のマフラー。カーキ革のおしゃれなランドセル。そこからはみ出す無数の刃物。手にぶら下げた、血塗れの大鉈。

「立ってください」

 少女は言った。氷の如く。冬の空の如く。忘れかけていた暖かな気持ちが、涙とともに湧いてくる。どうしてここに? 疑問は砕けた。守ってくれた? 懐疑は解けた。ドゥ子の裡の全てを薙ぎ払い、黒玉の眼差しが彼女に絡む。

 あれから5年。5年も過ぎたが。

 その声を聞き間違えるはずがあろうか。

「――リサ!」

 

 

(つづく)



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05.日記

 

 *

 

5/19(日)

 もうここには居られない。私は家を出る。

 

5/20(月)

 自由。至極快適。

 

5/22(火)

 食べ物がない。

 

(空欄)

(空欄)

(血)

(空欄)

 

6/15(土)

 変な女に殺されそうになった。

 別の女に助けられた。

 女はホームレスらしい。名前はジョン・ドゥ子(仮)。なぜか名前を教えてくれない。“自分殺し”の殺人鬼と言っていた。軽薄な人。子供相手なら都合の悪いことを隠しておけると思っている典型的な大人だが、それをやりとげるだけの意地悪さもないらしい。

 ひとりで何年も旅していると言っていた。

 ひとり旅は限界。この人についていくことにする。

 

6/16(日)

 ドゥ子(仮)に、廃棄食品あさりのコツを教わった。満腹。良。

 ドゥ子(仮)の能力について聞いた。他人が彼女に対して抱いたイメージが実体化して、分身が生まれる。分身を殺したい。それが彼女の殺人能力と殺人衝動。また、分身の居場所や感情がなんとなく伝わってくる能力もあるらしい。

 

6/17(月)

 ドゥ子に「好きなぶどうパンは何?」と聞かれた。意味不明。

 

6/18(火)

 夜中にドゥ子が血まみれで帰ってきた。また分身を殺したと言っていた。何かとても楽しそう。なぜそんなに分身を殺したいのか、わからない。

 

6/19(水)

 自転車の後輪がパンクした。ドゥ子が自分で修理した。すごい。

 

6/20(木)

 ドゥ子の高校生のころの話を聞いた。内緒でバイト始めたけど、その場所が学校の目の前のマックだったので速攻で先生にバレて停学になった話。バカだ。あと、マックのことをマクドと言うのはやめるべき。

 高校のとき彼氏がいたらしい。テニス部。身長179cm。顔はコイケテッペイに似ている。と言われても誰だか分からない。ジュノンボーイとは?→要調査。シャーベット系のアイスが好きで、バニラは食べない。歌はヘタ。指の付け根にラケットタコがあって、ドゥ子さんはそこを爪でカリカリするのが好き。初めてのデートは「マトリックス」見に行った。初キスは映画中。どんな味でしたか、と聞いたら、よだれ味、と言われた。

 セックスの話も聞いたが、よくわからない。何をするのか?→要調査。

 

6/21(金)

 またドゥ子さんが分身を殺した。晩ごはんにフジパンのぶどうぱん。

 

6/22(土)

 ドゥ子さんがひたすらマンガの話をするが、よくわからない。とにかく三橋は腹の立つやつで、伊藤ちゃんはいいやつだと分かった。マンガの面白さを口で説明されても困る……

 

(中略。この間、記述は1日も欠けていない)

 

9/15(日)

 今日はドゥ子さんと会って丸3か月の記念日。ぶどうぱんを2人分用意した。食べてみた。思ったよりおいしかった。

 

9/16(月)

 下校する小学生とすれ違ったとき、ドゥ子さんの様子がおかしかった。なんだろうか?

 

9/17(火)

 ドゥ子さんが何か悩んでいるようだ。

 私に何ができるだろうか? リストアップ。

・お腹が空いている? →食料を多めに

・病気? →病院に行くのを勧める

・自分殺しが嫌になった? →嫌ならやめるように説得。私は殺さなくていいと思う

 どれも違う気がする。→要継続

 

9/18(水)

 今日は機嫌がいいようだった。よかった。楽。

 私もあんなに背が伸びるだろうか。伸びてほしい。

 

9/19(木)

 分身2人がドゥ子さんと私を襲った。私はドゥ子さんに助けられた。病院でドゥ子さんは本名を名乗った。■■■■■(黒のペンで塗りつぶされており、判読不能)

 あの人はどこかへ行ってしまった。

 嫌な予感がする。あの人が消えてしまうような。実際消えてしまったのだが、そうではなくて、もっと徹底的に、執拗に、何一つ残すことなく、水の中の泡のように弾けて溶けて二度と戻ってこないような、そんな気がする。だから今のうちに私の考えをすべて記す。

 私は多分あの人に憧れていた。あの人の強さ、明るさは、私にないものだった。たとえそれが見せかけでも、私にそう見えたなら、それがあの人の力でなくてなんだろう。それが真実でなくてなんだろう。

 だから私はドゥ子さんになりたい。

 なれないことはわかってる。私は私。

 それでも私はなりたい。あの人が「違う」と言った、「強くなんかない」と言った、そのドゥ子さんに。

 あの人は軽薄で、ばかで、性的で、いいかげんで、優しくて、いつも私を笑わせようとしてくれて、それがちょっとめんどくさくて、でも私をずっと見ててくれた。私のことを考えててくれた。私を好きでいてくれた。私が嫌いなこの私を、でもドゥ子さんが好きでいてくれるなら、私も好きになっていいかもしれないと思った。なのにあの人が消えていく。私の中から消えていく。

 だから、これを読んでる私でない私へ。

 これだけは忘れるな。

 私は好き。

 ドゥ子さんが好き。

 私は、ドゥ子さんが大(以下、ページが濡れて判読不能)

 

 *

 

 リサはそっと、手帳を閉じた。

 ちっぽけな手帳に刻まれた慟哭の記録。記憶が消し飛んだとて、誰にそれが消し去れようか。過去の真実。執念の足跡。微かな悲しみの残り滓。たとえそれが、自分のあずかり知らない別の自分の言葉であっても。

 リサが大人しく両親のもとに戻ったのは、生きる必要ができたからだ。もうどうでもよくなった。家庭の不和。仮初の思いやり。世間の白い眼と繰り返される転校。勝手な気遣いにも、何も知らぬものたちの偏見にも、もはや心動かされることはなかった。柳の枝に風の吹きつけるが如く、彼女は平然と受け流した。やってみれば案外容易いことだった。

 全ては手段。生きるための。

 全ては手段。目的を果たすための。

 そう思えば全てが赦せる。

 リサはランドセルを引っ担いだ。サイドポケットに手帳を差し込み、中には道具を万端詰め込んで。シャーペン、消しゴム、3色ボールペン、ハンカチ、チリ紙、カッターナイフ、肥後守、出刃、刺身包丁、医療メス、十徳、鋸、そして、しっとりと油に濡れた青鋼大鉈。

「ジョン・ドゥ子」

 リサが部屋の戸を跳ね開ける。

「――私が殺す!」

 

 それから5年、リサは休むことなく動き続けた。読んだ。走った。探り回った。まずは力をつけるしかなかったのだ。心理学。歴史。地理。映画史。解剖学。力学。材料工学。ドイツ騎士剣術。その他もろもろ。もともと本の虫だった彼女に、さらに小学生ばなれした知識が積み重なっていった。体だって鍛えた。殺し合いを想定すれば、必要なものはいくらでも考えられた。

 そして、手に入れた知見と手帳の記述を頼りに細い糸を辿っていく。あの女が凶器のレンチを買ったホームセンター“グッデイ”は九州北部にしかないチェーン。高3で見た映画“マトリックス”は99年9月11日公開。よって高校在学期間は97年4月~00年3月で確定。その地域、その時期に、高校の目の前に存在したマクドナルド――速攻でバイトバレしたという――は、たったの3件。

 ここまで絞り込めば、あとは聞き込みでなんとかなる。誰かが彼女の名前を覚えているに違いない。だがこれは浅はかな見積もりだった。奴は分身を殺すことで自分の記憶を消してしまえるのだ。故郷に、彼女を知る者が残っていようはずがなかった。

 しかし、まだ手はある。

 現地の図書館で地元地方新聞の縮刷版を読みあさる。99年9月から1年分程度をしらみつぶしにだ。予想通りなら――あった。奴が犯した殺人事件の新聞記事。“終田町の児童公園で死体発見。殺されたのは、高校3年生の―――――。”

「追いついた」

 リサは呟き、記事の拡大コピーを取って、図書館を後にした。暖かな知識の巣から、寒風吹きすさぶ真冬の荒野へ。

 ついに彼女に繋がる糸口を掴んだ。このとき、リサはもう小学6年生になっていた。

 いや。まだ6年生と言うべきか。

 子供だ。言い訳のしようもなく。力はなく、知識は乏しく、電車は子供料金で乗れる、目つきばかりが鋭い子供だ。このままでは奴を追うことはできない。まるで足りない。金、立場、情報。なにもかも。

 数日後、リサは小さな雑居ビルの一室を訪れた。“殺人鬼組合”だ。

 殺人鬼は全国に約3000人。その多くは適切な治療を受け、世間と折り合いをつけながら生きている。だが中には致命的にバランスを崩し、あるいは何らかの理由で支援の手が届かず、悲惨な事件を引き起こすものも少なくはない。それを放置すれば殺人鬼への風当たりは強くなり、さらなる混乱と不幸の土壌となるだろう。

 ゆえに、そうした“はぐれ殺人鬼”に対して、互助組織たる殺人鬼組合は適切な“予防措置”を行う。殺人鬼の力を以て、殺人鬼の怨念を御する。その汚れた役目を担い、夜に生きる狩人たち。

 人呼んで、

 

「“殺人鬼殺し”……」

 呟くドゥ子に、リサは氷の声で答えた。

「――殺殺人鬼鬼リサ兵器(つわのき)

 

 

(つづく)



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06.決戦

 

 

 十重二十重に立ちはだかるドゥ子の分身どもと睨み合う。たったひとり、小柄で細身の中学2年生女子たるリサのみで。

 吐息、静かに、闇夜に零れ。

 ――来る!

 三方から飛び掛かる敵。咄嗟に足元を潜り抜ける。背後に回り込むなり膝立ち反転、敵の足首をひと薙ぎする。発条(ばね)の弾ける痛々しい音。腱を断ち切り一人目を無力化するや、勢い載せて二人目の首へ。さらに刃は三人目の腋へ。滑らかなること流水の如く。鮮やかなること花火の如く。大鉈煌めく回転舞踏に、迸る血は散りゆく木花。まばたきするほどの時が過ぎれば、7つの分身が倒れ伏す。

 呆然と見とれるドゥ子の腕を、駆け寄ったリサが引っ張り上げた。公園の外へ駆け出すふたり。行く手を阻む分身たちを右へ左へ斬って捨て、辿り着いた歩道には自転車が一台。

「漕いで」

「あっ?」

「得意でしょ」

 チャリにまたがる。リサは荷台に。飛ぶように坂道を疾走する。追いすがる分身たちが見る見るうちに遠ざかり、ドゥ子はなんだか楽しくなって、

「キョッホー!」

「ご近所迷惑です」

「ごめんなちゃい」

「来ますよ」

 何が? 問うより早く、眩い光が背後からふたりを捉えた。轟くエンジン。軽トラとバイク。乗るのは無論分身たち。逃げられた時に備えて、分身どもはあんなものまで用意していたのだ。ドゥ子は必死に足を動かすが、内燃機関には敵わない。

 バイクが片手に鉄パイプを持ち、急加速して追い抜きをかけてくる。

 焦るドゥ子。だがリサは落ち着き払ってランドセルを開けた。中から取り出す医療メス3本。

 追い抜きざまの一撃を大鉈で難なく払いのけ、左手のメスを投げつける。研ぎ澄まされたその刃先が、針の穴を通す正確さで敵の頸動脈に突き刺さる。横転、火花を散らすバイクを踏み越え、今度はトラックが迫ってくる。

 と、リサは跳んだ。

 驚くべき跳躍力でトラックの荷台に着地するや、鉈を振り回しひとり殺害。もうひとりの凶器と鉈が噛み合い、僅かに動きが止まった一瞬を狙って左手の一撃。いつの間に取り出していたのか、刺身包丁が肋骨の隙間から心臓を貫く。物のついでに残る運転手を窓から出刃で突き殺し、再びジャンプして自転車に戻ってくる。

 制御を失った軽トラが、横滑りしながらガードレールに激突して止まる。凄まじい轟音と、吹き上がる黒煙。その有様を後ろに見ながら、ふたりの自転車は矢のように坂を下っていく。

「あのさあ」

「何か?」

「ご近所迷惑」

 ドゥ子が苦言を呈すると、リサは後ろを振り返り、目をぱちくりとさせる。口元を覆い隠していたマフラーを降ろし、少々口など尖らせながら、

「ごめんなさい」

 

 しばらくは必死に漕ぎまくり、可能な限り距離を稼いだ。リサが殺した分身はほんの20人ばかり。少なくともあと120人以上が残っているし、“殺した程度では死なない”のが本当だとすれば、また145人全員で襲ってくる可能性すらある。いかにリサが強かろうと、逃げるよりほかなかったのだ。

「殺人鬼組合かあ。ほんとにあったんだ」

 漕ぎながら、ドゥ子が呑気に感心するものだから、荷台のリサはため息をつくしかない。

「知らないんですか。殺人鬼のくせに」

「いやァー。わたしはさァー。独学っつーかフリーランスっつーかァー」

「今更かっこつけなくていいです。殺人鬼組合は殺人鬼の組合。殺人鬼の人権を守ります。そのために凶行を予防するのが仕事です」

「勉強になるわー」

「真面目に聞いてください」

 ぴしゃりと叱られて、ドゥ子は思わず吹き出した。頭の悪い自分。賢くてかわいい声色。後ろから回された腕の感触。背中に預けられた小さな重み。何もかもが、あの頃と同じ。胸の躍るような優しい気持ちまで蘇ってくるかのようだ。

「あのね」

「はい」

「ほんとはずっと、会いたかったんだ。リサ」

「私はあなたなんか知りません」

 言葉に詰まった。

「私はあなたの知る私ではありません。だいいち、あなたが記憶を消したんじゃないですか」

 ぞっと胸がざわつき、後ろを振り返れば、リサは遠くを見つめている。遥か彼方、ドゥ子の知らないどこかを。丸く冷たい彼女の目には、5年分の黒が積もっている。胸を締め付けるのは寂しさか。それとも、過去の身勝手に対する後悔か。やむなく、ドゥ子はドゥ子の前を向く。それがどこかは、分からなかったが。

「じゃあ……なんでわたしを知ってるの。能力のこととか。この町のことも」

「日記を読みました。あなたから聞いたことは全て書いてありました。かつての私は、ずいぶんあなたが好きだったようです。でも、私の知ったことではありません」

「……そっか。そうだよね」

「組合の所属殺人鬼として、私はあなたを殺します。そのために来た。それだけです」

「わたし、殺されるんだ」

 穏やかにそう言って、そんなことを言った自分に驚いた。ドゥ子の中にあった漠たる死への恐れ。靄のようだったそれが渦巻き、集まり、凝結してみれば、意外やそれは取るに足らないちっぽけな結晶に過ぎなかったのだ。辺りから差し込むいくつもの光を照り返し、断面ごとに異なる色に煌めく多面体。

 ――いいかもね。それもいい。きみが殺してくれるなら。

 思いながら再び振り返れば、リサと視線が絡み合う。

「いいよ。殺して」

「いいんですか」

「もういいや。なんかもう、疲れちゃった」

「自殺志願の次は自暴自棄ですか。情けないですね」

 むかっ腹が立った。

「悪い?」

「見た目は最悪です」

「他人の目がなんだっていうの!?」

 思わずドゥ子は急ブレーキをかけ、地面めがけて怒鳴り散らした。

「そうだよ。やけっぱちだよ! いいじゃないの! あれから何年経ったと思う? 毎日毎日、来る日も来る日もお腹空かして足痛くして殺して殺して殺しまくって! その挙句がこれよ! 殺したやつらはなんか生き返るし友達なんかひとりもいないしおちおち寝てもいられない! そうだよね。自業自得だね。わたしのしたことははじめっから間違いだったってだけじゃない、なにもかにも全部まとめてとんでもなく途方もなく救いようもなくどうしようもなくいかれた能無しの虫けらみたいに無駄だったんだ!」

 後ろを見て言えなかったのは、分かっていたからだ。それがたわごとに過ぎないと。

 単なる泣き言に過ぎないと。

 でも、泣き言を言うことさえ、ドゥ子にとっては5年ぶりのことだったのだ。

「殺人鬼を殺す方法がひとつだけあります」

 弾かれたようにドゥ子は振り返った。

「どうすればいい」

「殺人鬼はみな秘密を持っています。秘密は私たちの力の源。それを見つめて解き明かした時、殺人鬼の命は絶える」

「秘密? わたしそんなの……」

「ご心配なく。あなたは私が殺します」

 彼女の手に、少しだけ力が籠ったように感じたのは、気のせいだったのか。

「行きましょう。

 始まりの処、あなたにふさわしい死に場所へ」

 

 

(つづく)



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07.自殺旅行のおわり

 

 

 冷たいやつ、という言葉がある。

 もちろんそれは、優しくないとか、思いやりがないとか、そんな意味で使われる負の言葉だ。誰だって冷たいなんて言われたくはない。いつだって温かみを求めている。冷たさは人を傷つけ、蝕むもの。それが常識。

 でもどこかの砂漠の国では違うのだそうだ。どこもかしこも地獄のように熱いその土地では“冷たさ”は心地よさそのもので、だから付き合っていて気持ちのいい人を指して冷たい人と呼ぶ。

 温度なんて、所詮は人の尺度に過ぎず、ましてそれを見つめるものは、常識に汚れた無数の主観。目の前にある冷たいものが、悪魔になるか天使になるか。それは見るものが決めること。生と死もそう。移ろいゆく二つの命。誰しもいつか死に絶えて、誰しも死ねば冷たくなる。身も心も冷え切って、力を失い、薄れて消える。

 それが忌むべきものと誰に言えよう。

 自ら死を目指して進むことを、人は愚かと笑うだろう。自殺のために費やしてきた壮絶なこの7年間。長い長い旅路の果てに、手に入れたものは何もない。殺した自分たちだって殺し切れていなかった。身を切り裂くような寒気。手足を痺れさせる徒労感。それでも、ままならぬ体に鞭打って、ドゥ子は漕いだ。必死に足を動かした。夜の街を。冷たい風と、ほんの少しの賑わいの中を。

 色とりどりの光が窓という窓から溢れ出て、今や、ふたりを包んでいる。ドゥ子とリサを、終の処へ導くように。

 人生は、思い通りにならなかったかもしれない。

 それでも今、彼女はこうして進んでいる。

「不思議だね」

「何がです?」

「わたし、またキミを乗せて走ってる」

「かつてのあなたが居ればこそです」

「あの頃のわたしも、あの頃のキミも、消えてしまったはずなのに」

「たとえ消えても」

 リサの声は風の音にすら負けそうなほど弱弱しく細り、それでもドゥ子の耳には届いた。

「私は私。今も、昔も。責任は、私が取ります」

 しばらく無言でペダルを漕いだ。リサは強い。惚れ惚れするほど。彼女はどれほどの目に晒されて来たろうか。幼くして殺人鬼になり、両親には腫物のように扱われ、今やこうして汚れ役を務めている。その道程に、ありのままの彼女を見ようとしない、歪んだ視線がいくつあったことだろう。それでもこんなことが言える。強靭でしなやかな魂。さながら入念に叩きのばした鋼鉄の刃のように。

「あっちです」

 と、リサが不意に指をさした。

 案内されるまま交差点を曲がったところで、ドゥ子はようやく気が付いた。自分たちが目指してる場所がどこなのか。知っているのだ。学校帰りに寄り道したあのコンビニも。赤に捕まったら二度と出られない地獄の信号も。バーチャ2で無敗伝説を創り上げた“終田にこにこロード”のアーケイドも。何もかもが胸に響く。捨て去った追憶を引きずり出す。

 リサの手がお腹に触れる。その手のひらは、冷たいけれど。

「もうすぐですね」

 目尻を拳でこすり、ドゥ子は頷く。

「もうすぐだ」

 駅前を過ぎ、住宅街を抜け、川沿いの土手を満月目指して走る。と、一本橋のたもとまで来たところで、リサが唐突に顔を上げた。自転車を停めろと背中を叩く。アスファルトにひらり舞い降りるや、大鉈をランドセルから引っこ抜く。

「なに?」

「分身たちが来ました」

「えっ……」

「何も感じませんか?」

 言われてみればそうだ。分身の位置が分からない。目を閉じても何も視界に浮かばない。彼女らの存在を感じ取る能力が消えてしまったのだろうか。慌てるドゥ子に、しかしリサは落ち着き、頷いて見せた。

「終の時が近づいています。

 あなたが凡てを許したとき、総てもまたあなたを赦す。

 それは長い旅路のおわり。そして新たな道のはじまり」

「何言ってるの?」

「先に行ってください。場所は分かりますよね」

 確かに分かる。分かりはするが。

 そのとき、ざわめきが耳に届いた。弾かれたように振り返る。道の遠くから、大勢が、ぞろぞろとこちらを目指してくるのが見える。ドゥ子の分身たち。ついに追いついてきたのだ。汗が額に滲む。反射的に手が愛用のレンチを探る。だが、ない。公園で戦ったとき、落としてきてしまったのだ。

「ここは私が食い止めます」

「勝てっこないって!」

「勝ちはしません。止めるだけです。

 あなたが終の処に辿り着けば、分身たちは消え去るでしょう。それまで時間を稼ぎます」

 リサは橋の中央に立つ。手に大鉈をぶら下げ、遠方より迫り来る狂獣どもの殺意を、小さな体ひとつで受け止めて。その薄く、儚く、しかし頼もしい背中を、ドゥ子の前に聳え立たせて。

「ドゥ子さん。あなたは、あなたが好きですか?」

 考えた末に、ドゥ子は答えた。

「好きだよ。やっと」

 返ってきたのは微笑みだった。

「さあ行って。あなたは、あなたの道を!」

 

 自分の道。

 遥か最果て。行きつくところ。

 それがどこであったのか、ずっとドゥ子は忘れていた。あの日確かに何かを志し、一歩を踏み出したはずだったのに、気づけば辺りは一面の闇。進むべき道。目指すべき場所。そんなものはおろか、自分の立場さえ見えはしない。

 それでもどこかへ行きさえすれば、いつか何かを掴める気がして、ドゥ子はただただ走り続けた。時に目を瞑り。時に耳を塞ぎ。時に涙さえ夜のとばりに包み隠して。

 いつしか自分に言い聞かせていた。ヒーローなんかじゃない弱い自分は、こうして生きるしかないのだと。

 ――でも。

 今、ドゥ子は無心に走った。橋を渡った。土手を駆け下りた。暗い田んぼ道を突っ切って、その先に小さな家が建っていた。どうってことのない普通の家だ。屋根も普通だ。壁も普通だ。ドゥ子の“普通”の基準となったものばかりだ。

 帰ってきたのだ。生まれてから18年、ずっと住み続けてきた古い我が家に。

 ドゥ子は息をのんだ。門の表札は剥がされ、そこだけ白く浮かび上がっている。庭の中は草引きもされず、荒れ放題に捨てられている。窓には灯りの一つもなく、窓から中まで見通せる――というのはつまり、カーテンさえも取り払われていたのだ。

 吸い寄せられるように玄関へ近づき、意識すらしないままノブを捻ると、なぜかカギは開いていた。そっと戸を引く。恐る恐るのぞき込む。靴もなければスリッパもない、マットもなければすだれもない、およそ生命を感じさせない冷たいフローリングの廊下が、ただそこにじっと横たわっていた。

 ドゥ子は中に滑り込んだ。

 そして巡った。探し回った。ひとつふたつ部屋を覗けば、そこが空き家であることはもう明らかだった。それでも全てをつぶさに確かめずにはいられなかった。和室。居間。ダイニングでは水道が動かないことも確認した。トイレ。風呂。二階に上がって、小部屋が二つ。違和感があった。焦りがあった。目の奥から、火傷しそうなほど熱い涙が湧いてきた。

 おかしい。

 こんなはずはない。

 あるはずがない、こんなこと。

 無人だとか、荒れているとか、そんなのが問題なのではない。あれから何年も経ったのだ。引っ越しくらいするかもしれない。手入れだって行き届かないかもしれない。そんなことはどうでもいい。それよりも。

 何もかもを探りつくして、もう調べるところもなくなって、ドゥ子は呆然と、ベランダに滲み出た。

 こんなはずが、ないはずなのに。

「知らない……」

 膝をつき、彼女は泣いた。

「わたしはこの家を知らない――!」

 “彼女”ならざるジョン・ドゥ子は。

 

 彼女は“彼女”ではない。

 正確には、その本体ではなかった。

 それが、綿密な調査の末にリサが探り当てた事実であった。

 ドゥ子が殺した分身たちの死体は、その後、泡となって消えてしまう。殺人鬼の能力が生み出した超常の存在に過ぎないからだ。だが、手掛かりとなったあの新聞記事にはこうある。『女子高生の遺体発見』。死体が残っていた。つまり、それが、本物の“彼女”。

 ならば他は凡て、あとから創られた分身だ。

「そうだった……あのとき、わたしは……」

 記憶が、ドゥ子の意識に雪崩れ込む。

“彼女”は優秀な子だった。小学校。中学校。勉強で困ったことなどなかった。ほっといたって成績はついてきた。両親も賢い人だったし、祖父は大学教授までやったほどの家系だったから、その中に生まれた英才に寄せられる期待は並大抵のものではなかった。“彼女”だってその気になっていた。自分は賢いんだ、なんていい気になっていた。

 しかし大学受験は厳しくて。努力を知らずに育った“彼女”では、少々手に余る難題で。

 胃を壊し、円形脱毛症になり、唇がボロボロになったところで、高校の友人に告白されて。戦いから逃げ、恋に溺れた“彼女”に、周囲の目はあまりにも冷たかった。

“彼女”は叫んだ。わたしはそんなに賢くないと。

“彼女”は泣いた。勝手な期待を押し付けないでと。

 でも本当は捨てられなかった。惜しかったのだ。みんなに目をかけられる自分が。

 相反するふたつの思い。おそらくはそれが、“彼女”の力が目覚めた理由。

 だから、恋人のイメージから生まれた分身と出会ったとき、“彼女”は望んだ。

 わたしを殺して、と。

 全ては、辛い板挟みを解消するための、女子高生の短絡的な自殺願望が生み出した歪み。

 それはあまりにも悲しすぎたから。

 最初の分身は“彼女”を継いだ。“彼女”の知らないもうひとりの彼女。“彼女”の心を伝えるひと。この世のどこにも寄る辺を持たない、どこの誰とも知れない旅人。身元不明死体(ジョン・ドゥ)子。

「それが“わたし”だったんだ――」

 

 その瞬間、一本橋で異変が生じた。傷つき、血に塗れ、大きく肩で息をつくリサの前で、分身たちがびくりと震える。朝日が昇る。みな一様にそれを見つめる。彼女たちがそろって小さく微笑んだかと思うと、突如、その体が崩れ、桃色の泡となって消失した。

 悪意の、希望に絆されるが如く。

「そうか……」

 鉈を振るい、血を払い、ランドセルの鞘に音もなく納める。彼女の目にも、太陽は眩く温かい。

「殺人完了、です」

 

 結局、彼女が追い求めてきた本物の自分など、最初から、どこにもなかった。

 その意味で言えばドゥ子が嘆いた通り、彼女の旅路は無駄なことであっただろう。だがひとの道行きに、何の意義もないことなどあろうか。凡ての時、凡ての出会い、吸い込んだ呼気のひとつひとつが、彼女のからだを創るもの。

 今ここにある“わたし”も、過去どこかにあった“わたし”も、まだ見ぬ誰かの中の“わたし”も、総て合わせてひとつのわたし。

「ばかだよね」

 ドゥ子は立ち上がった。

「生きてさえいれば、こんなものも見れるんだ。そんな簡単なことだって、7年経たなきゃ分からなかった」

 東から来る光は驚くほど速い。みるみるうちに闇夜に溢れ出て、青に、白に、空一面に広がっていく。輝きの中に、浮かぶ雲。目覚め始めた小鳥と街。昨日と、去年と、7年前と、そっくり同じようでいて、何一つ同じところのない新しい朝。

「さようなら、昨日のわたし」

 もはやその目に、涙はない。

「わたしはもう少しだけ、旅を続けてみるよ」

 声は爽やかな涼風に溶け、消えた。

 それを咎めるものは、誰もなかった。

 

 

(つづく)



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08.エピローグ

 

 

「……で、それっきり?」

 学校へ行くにはこの坂道を上るのが一番早い。榊サトルがうっとうしい口のはさみ方をするので、リサは目を合わせてあげない。彼が自転車を押すのに合わせて、ランドセルを揺らしながらついていくだけだ。

 彼はリサの隣に住む一個上の先輩で、リサの“仕事”を知る数少ないひとり。何かにつけて危ないことに首を突っ込んでは、面倒くさい倫理観を振りかざしてお説教をしてくる、腹の立つ男。客観的な見方をすれば、暴走しがちなリサの外付け安全装置であり、胸に溜め込んだやるせない気持ちを吐き出すための愚痴聞き係というところだ。

「そのドゥ子さんは、また旅に出ちゃったと」

「そうです」

「挨拶とかも、ぜんぜんなし」

 そう、なのであった。

 リサが放置されてた自転車を押して(サドルを一番下まで下げても足が届かないのだ。そのことは、決して面と向かって指摘してはいけない。そこに触れるものは、彼女の大鉈の味を知ることになる)、やっとの思いで“彼女”の生家に辿り着いたとき、もうそこはもぬけのカラだったのだ。

 残されていたのは、庭の土をほじくって書かれたメッセージひとつ。

『ほんとにありがとう。またね!xxx』

 まったく。ほんとに勝手な女。

 そういうわけで、今朝、リサは寝不足やら腹が立つやらで、大変機嫌が悪かったのである。

「いけませんか」

「だってさあ。5年も会いたかったんでしょ?」

「別に会いたくないです」

「そのために組合にかけあって転校してきたくせに」

「なんで先輩が知っ……!」

 思わず食って掛かったが、それが意地の悪いひっかけだったと気が付いて、リサはにやにや顔のサトルを、とりあえず、蹴っ飛ばした。のへえ! とか言いながら、サトルは向う脛押さえてうずくまる。そのまま置いていく。

「待ってよお」

「旅人は、旅をするのが仕事です。それが命みたいなもんです。だから」

「離れたって、どこかで会える時も来る。ね」

 坂のてっぺんまでたどり着き、リサは先輩を睨み上げた。

「後ろ、乗せてください」

 先輩が微笑んで、自転車にまたがった。いつものようにその荷台に飛び乗って、運転手の腰に腕を回した。下り坂に飛び込めば、秋風さえ頬に心地よい。普段ならちょっと後ろめたい交通ルール違反が、今日だけは、どこか暖かくて強固な絆の証明に思えてくる。

 繋がっているのだ。過去と今。思い出と現実。

 この空が、遍く世界に繋がっているように。

 だから、そう。

 きっと、あの人の旅路にも。

 

 

THE END.



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