今日も君の死を想う。 (write0108)
しおりを挟む

1話

通学路、と言われて通常思い浮かぶままの光景、つまりは住宅や店舗やその他諸々の建物のど真ん中に横たわる道を、俺は走っていた。

部活動のトレーニングでも、趣味のランニングでもない、必要だからそうしているだけの行為。早く走るのをやめたいと思いながらも、俺は必死に走る。

 

ホームルームが始まるのが8時40分。それまでに着席していなければ、それは遅刻となる。そして今の時刻が…8時35分。どれだけ早く見積っても、現在地から教室までは5分では辿り着けない。それでも、俺は走っている。

 

次に遅刻をすれば進級が危うい、とか、お前のような真面目さのない奴には紹介する大学も就職先もない、とか、そんなことを言われたのがつい昨日だからだ。

 

昨日の今日で遅刻などすれば、昼休みや放課後なんかに呼び出され、なぜ関係のない他人のためにそこまで?と思えるほどに長い説教を食らわされることは確定している。俺はその未来を避けるべく、点滅し初めた信号を渡る。…まぁ、ギリギリセーフって、ほぼアウトだというような気もするけれど。

 

予想より早く学校について、上履きに履き替え、階段を上り、いくつかのドアを通過する。

目当てのドアを勢いよく引き、そのすぐ近くの席に座り、時計を見る。時刻は8時39分。ギリギリセーフ。胸を撫で下ろし、タオルで体を拭く。…明日は確実に筋肉痛だろうな。そう確信できるほどの運動不足を恨んではみるが、きっと明日になっても体なんか動かさないだろう。

 

そこまで考えたところで、何か違和感を覚える。…いつもは俺が遅れて来るのを茶化してくる奴がいたりするのに、今日は俺のことなんか誰も気に留めていないようだった。

 

「何かあったの?」

 

俺が隣の席の木下さんに話を聞くと、木下さんは黙って前の方の席を指さした。

 

「…あれ、珍しいな」

 

俺の反応を見て、木下さんはびっくりしたような顔をした。

 

「…ニュース見なかったの?」

 

俺が話を理解していないのを感じ取って、木下さんは小声で説明してくれた。

 

どうやら昨日の夜、川原は自殺をしたらしい。そういえば近くの駐車場に『KEEP OUT』と書かれたテープが張り巡らされていた。

 

「ていうか、同じマンションだよね?なんで知らないの?」

 

昨日の夜はヘッドホンを繋いでゲームをしていたし、そんなことを知らせてくれる家族もいないから。そう説明するか迷ったが、言わない方がいいかと思い、ただ俯くだけに留めておくことにした。木下さんはやがてため息をついて、啜り泣く女子生徒の元へ歩いていった。

 

自殺、と言われても、いまいちピンと来なかった。彼女…川原は元来明るい子で、マンションが同じだというだけの俺に対しても友達のように接してくる、所謂陽キャという奴だったように思う。

 

やがて担任の宮内先生が、随分と疲れた様子で入ってきた。先生は川原の席を一瞥して、少し申し訳なさそうに言う。

 

「全員席に着いてくれるか」

 

生徒達は大人しくそれに従う。教室をぐるりと見回して、俺がいることも確認したあと、先生の話が始まった。

 

「えー…知っている者も多いと思うが、昨日クラスの川原が亡くなった。その事について全校集会があるから、体育館に移動する」

 

言われて、俺達はぞろぞろと体育館に向かう。誰に言われるでもなく、誰一人として私語もしないまま、神妙な面持ちで歩いていく。

 

この学校の体育館は校舎から割と離れた位置にあるため、渡り廊下も他の学校より長い。そこを歩く間、俺は川原について考えてみた。

 

あいつは中学生の時にこっちに越してきた。慣れないことばかりだと思うから支えてあげるのよ、とまだ元気だった頃の母に言われたのを今でも覚えている。

 

初めて会った時から明るい奴で、これなら心配なさそうだな、と上から目線で思ったのを覚えている。中学の後半なんて、寧ろ俺の方が課題やらテスト勉強やらで助けてもらっていたのに。

 

同じ高校に進学することになった理由は、家が近いからというもの。俺も…おそらく川原も、特にやりたいことなんてなかったのだろう。卒業式の日、高校に行ってもよろしくね、と笑顔を向けられた。

 

…そして、俺達は高校3年生になった。お互い違うコミュニティで暮らしていたのに、3年生になってまた、同じ委員という接点ができた。昔のように…とまでは行かなくても、そこそこ話をするくらいの関係性ではあった。

 

だから、俺にとっては不思議だった。いつ見ても川原は川原で、自殺というワードからは遠く離れた存在だと思っていたから。

 

やっぱり色々あるんだろうなぁ、なんて浅い感想を抱いているうちに、体育館に到着した。

 

クラスの女子の一人は未だに泣き止まず、何人かの女子に付き添われながら、立つのがやっとという感じで列の真ん中にいた。…葛木、円歌、だったかな。苗字は覚えられても、名前までは覚えられない。正真正銘、ただクラスが同じだけの子だ。

 

俺が死ぬ時、これほどまでに悲しんでくれる人間はいるんだろうか。幸せじゃない人間の例に漏れず、そんなことを思う。

 

話自体は全校生徒を集めてまでするものか?という内容のもので、マスコミの取材には手を貸すな、誰にも余計なことを言うなという、極めて事務的なものだった。…人ひとりが命を落とすことの重さなんて、こんなものなのかもしれない。

 

先生達のほとんどがマスコミやらの対応に追われているのか、それとも生徒の心情を慮ってなのか、全校集会が終わると下校になってしまった。校内に残ることも寄り道も許さない、と釘を刺されたし、理由は前者が大きいんだろうな。

 

帰り道、川原が最後に見たはずの公園を眺める。いつもは子供やその親で賑わっている場所に誰もいないのは少し不気味に思えたが、それだけだった。

 

ドアを開ければいつもの部屋。何があるわけでもない、だけど何も不足はない、俺にとっては完璧な部屋。…ここに川原が来たのは、いつが最後なんだろう。もう覚えてもいないほど昔のことなんだろう。

 

トレンドワードに並ぶ『女子高生 自殺』の文字。やっぱりマスコミは取材に来たらしく、案の定生徒はその取材を受けたらしい。涙ながらに川原のことを話していたのは、葛木ではなかった。同じクラスでもなければ学年も違うような、学校内で見たこともない女子生徒。そんな人とまで関わりがあったんだなぁ。考えれば考えるほど、死ぬ必要に迫られていたとは思えない。

 

気付けば、俺は川原のことばかり考えていた。…こんなに考えることがあったのか、と驚いてしまうほどに。同じマンションに住み、同じ学校に通っていただけ…と言う割に。今更何かを考えたところで、意味なんかまるでないというのに。

 

原因の分からないやるせなさが、俺に川原のことを考えさせる。あの笑顔が、あの声色が、あの雰囲気が。全て過去のものになってしまったことが、何度川原についての報道を見ても、信じられない。

 

ただベッドに倒れ込んで考えていると、普段ほとんど鳴らないインターホンが鳴った。ドアを開けると、そこには泣き腫らした目の葛木がいた。

 

彼女はおそらく、川原のことを聞きに来たんだと思う。それか、やるせなさの行き場を探している。どちらにせよ彼女が求めるほどのものはない。

 

「…こんにちは」

 

俺が声をかけると、葛木は黙り込んだまま会釈をした。そしてするりと俺の横を抜けて、部屋の中に入ってきた。

 

止める気にもならず、かと言ってもてなす気にもならない。ダイニングチェアに座り込んで啜り泣く彼女の横で、俺もただ黙り込んでいた。

 

「…今から、理不尽なことを言うね」

 

やがてほとんど枯れてしまった声で、葛木はそう呟いた。

 

「同じマンションに住んでて、なんで春歌のこと気にかけてくれなかったの」

 

俺はただ黙って、その言葉に頷くつもりだった。…でも案外刺さってしまって、言い返す。

 

「葛木こそ、友達なんだろ。なんで気付けなかったんだよ」

 

…言葉には、不思議な力がある。思ってもいないことを口に出すだけでも、心は軽くなっていく。ただ、お互いにこれが意味のない言い合いだと気付いていた。

また静まり返った部屋の静寂を割くように、葛木は俺に言う。

 

「…本当は、お願いがあって来たの」

 

葛木はなにか決意をした目で続ける。

 

「一緒に、春歌のことを調べて欲しい。私も須貝も、そうしないと前に進めないと思う」

 

まさかそんなことを頼まれるとは思っていなかった。なぜ俺に?という顔でもしていたんだろう、聞くまでもなく答えが返ってくる。

 

「気付いてないかもしれないけど、春歌と関わりのある男子なんて、須貝くらいだから」

 

そう言われて思い返せば、確かに川原は男子と接触がなかった。意識的になのか結果的になのかは分からないが、女子と一緒にいるところは見かけても、男子といるところは見たことがなかった。

 

「…だから、協力して欲しい。お願い」

 

深々と頭を下げられる。…まぁ、俺だって知りたいことがないわけではないし。

 

「できることは少ないかもしれないけど…いいよ。一緒に川原のことを調べよう」

 

葛木は安堵した表情で、ありがとうと言った。それからメモ帳とペンを取り出して、俺に知っていることを聞いてきた。最近のことはよく知らないが、中学の頃のことは知っていたので、それなりに役には立てたと思う。だいぶ分かってきた、と嬉しそうにする葛木を見て胸を撫で下ろす。

 

「…もうだいぶ遅いけど、帰らないの?」

 

時計を見た葛木の顔が一瞬曇る。それから、今日はありがとう、と帰っていった。

もしかして、家が厳しいんだろうか。申し訳ないことをしたのかもしれないな。一人になった部屋は、いつもよりも静かだ。

 

…しかし、川原のことを調べよう、か。俺は人が死んだ時は、どうすることも出来ずにただ絶望して、時が解決することを待つものだと思っていた。実際母が死んだ日の幼い俺もそうしていたはずだ。別に辛くないみたいな顔をして、誰にも心配をかけまいとして、一人で泣いていた。

 

あんな風に、前の向き方なんて考えたことがなかった。…でも、今回は協力させてもらえるわけだし、俺も前を向けたらな、と思う。

 

川原がいないだけで、俺の周りはこんなにも悲しみが充満している。だけど、そんな人達に囲まれていても消えない悩みを抱えていたのなら、俺もその正体を知りたい。…もう解決することはできないけれど、同じ気持ちを共有した上で、納得したいのかもしれない。

 

これは誰かが飛んでしまった世界で、残された人々の物語。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2話

汗ばむ陽気の中を突き進む風は、初夏の匂いを纏っている。俺の頬を撫でた後も、どこまでも進んでいくのだろう。

 

見上げた空はいつもより少しだけ、高くて遠い。俺はどこかの河川敷で、ただぼーっと空を眺めていた。鳥の声と、風に草木が揺れる音以外、何の音もしない場所で。

 

懐かしい景色だ。確かこの道は、森の中まで続いている。一番奥に名前すら分からないほど古ぼけた神社があって、よくそこでくだらない話をした。…川原と、二人で。

 

そこまで考えてから、これが夢であることに気がついた。いつかの懐かしい夢、というやつだ。夢にまで影響を受けてしまうなんて、やはり自分が思っているよりも衝撃的で、自分が思っている以上に、俺の中で川原は大事な存在だったんだろう。…失ってから気が付いても、何の意味もないけれど。

 

風の流れる方に歩いていく。全く来なくなってしまったから、全てが懐かしくて、全てが新鮮だ。

 

森の奥の方へ進んでいく。蜘蛛の巣や虫なんかがわらわらと湧いている。よくこんな場所に入れていたな、と昔の自分に感心する。どうせ夢だから、このまま進むけれど。

 

舗装もされていない、背の高い草が生えていないというだけの直線を道と呼ぶ。中学生だった俺は、まだ技術の発展していない時代に戻ったようで、妙にワクワクしていた。自分達で踏み均して、同じ所を何度も進むことで、本当に道と呼べるようになっていく。

 

今はもう、奥に行けるようにはなっていないんだろうな。今度行ってみてもいいかもしれない。

 

冷たく柔らかな風と、心地の良い木漏れ日。整備されていない森には恐ろしさもあるが、自然由来の美しさもある。入ってみなければ、絶対に気付くことはないけれど。

 

奥へと進んで行けば行くほど、見慣れた景色が広がっている。何故かここのことだけは、しっかりと覚えている。

 

この先にはいつも川原がいて、どこか寂しげな目で、遠くを眺めていた。

それを見つけて声を掛けるのが俺の役目だなんて、勝手に思っていた。

 

やがて着いたその場所に、川原はいた。

俺に気付いて、何かを言いかけて、そして……。

 

目が覚める。

何か大事な夢を見たような、そうでもなかったような気がする。夢なんてそんなものだろう。

 

しかし、懐かしい気分になる夢だった。…そういえば、葛木は昔の川原のことは知っているんだろうか。知らないのなら、教えてもいいかもしれない。

 

ベッドに戻ると、携帯に通知が入っていた。まどか、という名前のアカウントからメッセージが来ていたのだが、それが葛木だと気付くのに時間がかかった。

 

『よろしく 昼空けといて』

 

簡素な文章だ。俺は了解とだけ返し、時間を見る。…9時半。今日が休日で本当に良かった。シャワーでも浴びようかと洗面所に移動すると、洗濯機から溢れかえってしまいそうになっている洗濯物が気になった。

 

食器が溜まったり、洗濯物が溜まったりするのは、一人暮らし特有なんじゃないだろうか。家族がいれば一日でこのくらいの量は出るから、毎日のように家事はするものの、一人でいると毎日洗濯をしたり食器を洗ったりするのが面倒になってしまう。

 

取り敢えずその面倒事は見なかったことにして、シャワーを浴びる。…こういうことをしているから、未来の自分がどんどん地獄を見るようになる。それでも目先の楽を選んでしまうのが人間だ。なんとなくそれっぽいことを考えて、今の行動を正当化していく。

 

…まぁ、面倒だとは思いながら、一回分は回すけれど。残りの洗濯物は、帰ってきてからやればいい。ゆっくりとシャワーを浴びて、残り15分という表示を見て、服を着替える。

 

洗濯物をしないことによるデメリットの一番大きな部分は、そもそも着れる服がなくなっていってしまうということだ。今日洗濯を回さなかったら、明日の服はない。そう考えると、やってよかったなぁという気持ちになる。

 

洗濯物を干して、冷蔵庫を確認する。…驚くほどに、何もなかった。調味料や飲み物以外、食材と呼べるものは何一つ入っていなかった。買い物に行かなくては。

 

こんな風に、生きている限り当たり前に、やらなきゃいけないことは増えていく。それが一度限りではなく何度も続くものだからこそ、人はそれに慣れていくし、適応していく。

 

…そう、生きていれば。

川原がいなくなっても、いつも通り生活は続いていく。もともと意識したこともなかったことだ。失ってから初めて気付く。

 

そんなに大きな存在ではないと高を括っていたのに、失って生を実感したり死に直面したりして、やっと気付く。…いや、気付いてしまう。当たり前を失うことの辛さや、そのありがたさに。

 

川原が生きている間に、これに気付いていたら。もう少し未来は変わったりしたのだろうか。…そうでもないのかもしれないけれど、そう考えることをやめられない。

 

もしかしたら、葛木も同じ気持ちなのかもしれない。自分が潰れてしまわないように、これからも生きていけるように、俺みたいな存在が必要なんだとしたら。俺は、できる限り付き合おうと思う。そうすることで、俺自身も生きていけるのかもしれないから。

 

昼になって、集合場所に指定された駅前に到着する。葛木は先に着いていた。

 

「…遅い」

 

開口一番、責められてしまった。そっちが早すぎるだけだろ、と言いたかったが、素直に謝っておくことにする。

 

葛木に連れられるがまま、駅近の喫茶店に入る。…初めて、というほどではないが、しばらくぶりに入った店だ。

 

「ここ、春歌が好きだったの。チーズケーキが美味しいとかいう理由で」

 

私は甘いもの、得意じゃなかったんだけど、と言って、葛木はアイスコーヒーを飲む。

俺はというと、キャラメルマキアートとかいうよく分からない飲み物を頼んで、何となくオシャレなその見た目に圧倒されていた。

 

「…そういえば、今日夢を見たよ」

 

見た夢をできる限り詳細に説明する。その森や神社のことは、やっぱり葛木は知らなかった。

 

「なるほどね。じゃあ取り敢えず、そこには今度行ってみよう」

 

俺の話を、葛木は詳細にノートに纏めていた。…川原とは正反対の性格だなぁと思う。川原は何となく、快活で大雑把。だけど葛木は、クールで几帳面だ。どうやって仲良くなったのかも、少し気になる所ではある。

 

「…何?」

 

少し眺めすぎてしまったのだろうか。葛木は怪訝な顔で俺を見る。

 

「あぁ、どうやって川原と仲良くなったのかなー、って少し気になって」

 

葛木は少し考え込むような顔をして、それからグラスを置いた。カランと氷が溶ける音がした。

 

「…どうやって、か。私もあんまり覚えてないんだけど」

 

葛木は遠くの方を眺めて、それからクスッと笑う。

 

「似てなさすぎたから、なのかもね」

 

その所作があまりにも様になっていたので、俺の返事はおぉ…という微妙なものになる。

 

「須貝みたいに家が近いとかでもない、中学校が同じ訳でもない、だけど何となく、一緒にいたいと思ってた…少なくとも、私は思ってた」

 

葛木の表情は、どんどん暗くなる。…こういう時にかけるべき言葉も、この長い人類史で育まれ続けてきた言語の中にはあるのだろうが、俺の中にはなかったから、黙って話を聞いた。

 

「…ゴメン、なんか、こういう雰囲気にするつもりじゃなかったんだけど」

 

気にしなくていいと告げると、葛木はもう一度ごめんと呟いた。…会話が止まってしまう。

 

川原春歌。それは俺の中で、単にすごい奴だという認識でしかなかった。だけど、こんなに人を巻き込んで、その心の中に居座り続けているのは、単に彼女が奔放で明るい性格だから、という言葉では表しきれないような気がする。

 

知らないことばかりだ。俺も、葛木も。これから分かってくるかどうかも分からないけれど、それでも。ただ先に進み続けるしかない。今は川原のことを、少しでも理解するべきなんだ。そう信じるしかないと思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3話

静寂と、ラジオ番組の音と、エアコンの柔らかな風が流れる。俺はただ黙って、メモを取る葛木を眺めていた。

 

それにしても綺麗な字だなぁ。俺は少し感心しながらメモを眺める。俺の言った夢のことや、その場所のことまで、事細かに書き記している。

 

「そういえばさ」

 

葛木は急に顔を上げ、俺に話し掛ける。

 

「須貝と春歌はどうやって仲良くなったの?」

 

俺は少し考えて、それから言う。

 

「仲良くなったというか、俺が一方的に絡んでたっていうのが正解なのかな」

 

葛木は意外そうな顔をした。

 

「中学生の時の俺の方が、もっと社交的だったんだよ」

 

今みたいに一人でいることを気楽だと開き直れなかったから、そうするしかなかったんだけど。中学生の頃のことを少しだけ思い返した。

 

思えば本当に、マンションが同じことだけが俺達の接点だった。

中学生の頃は、そんな事は考えもしなかった。ただ母の言いつけ通り、俺が支えてあげないと、と思っていた。

 

「…ふーん、なんか意外」

 

あまりにも淡々と会話は進む。意味も山も谷もない会話だけが重ねられて、時折沈黙がそこに佇むことに、特に違和感はなかった。

 

「…そろそろ、夏が来るね」

 

葛木は窓の外を眺めて言う。同じように窓の外に目をやると、入道雲が高く積み上がっていた。

 

「夏だなぁ」

 

何の中身もない返事をする。…それ以外に、特に言葉は思い浮かばなかった。

 

「…今年も、変わらずに夏が来るんだ」

 

葛木は視線をノートに戻す。俺はグラスに口をつけて、傾ける。喉を冷たいものが通り過ぎていくのを感じる。

 

「もう、春歌はいないんだ、本当に」

 

静寂も、中身のない会話も、それを殆ど話したことのない相手としていることも、ひとつも気まずくないのは。明確に、今の葛木の言葉が理由だった。

 

俺達は今もまだ何となく、この世界を夢だと思っている。いつもいて当たり前の存在がいなくなってしまったことを、どこかで受け入れられていない。

 

昨日も今日も、何となくで過ごしている。過ごすというよりは、やり過ごしているのに近いのかもしれない。それなのに、こんなに上の空でも回っている世界が、どうしようもなく現実に引き戻そうとする。

 

昨日から…厳密に言えば一昨日から、この世界に川原春歌はいない。

 

それはどうしようもなく、一分の疑う隙もなく、事実なのだ。

 

葛木は押し黙ってしまった。ペンを置いて、ただテーブルの上を眺めている。思い出だとか、感傷だとか、色んなものが頭の中を渦巻いているのだろう。

 

俺もそれに倣って、思い出を辿ってみたりする。…考えてみれば、5年にも満たない短い期間だった。

 

俺たちのこれからは、多分とてつもなく長いだろう。もしかしたら川原との関わりなんて、いつの間にか擦り切れてなくなってしまうようなものだったかもしれない。

 

卒業して、数年経って、アルバムを読み返して。写真なんかを見つけて、そういえばいたなぁこんな奴、なんて微笑むような、そんな程度の存在だったのかもしれない。

 

ただ、今の俺や葛木にとってはそうではない。川原春歌という、そこにいるのが当たり前の存在だったのだ。

 

「…なぁ、今日はもう」

 

帰ろう、と言い切る前に、葛木はペンを取った。

 

「他に何か、思い出とかはないの?」

 

…あぁ、一人で抱え込めないタイプなのか。俺はそう解釈して、中学生の時の記憶を辿る。

 

そうは言っても、その頃からまだ2年ほどしか経っていない。人が変わるには短すぎる時間じゃないだろうか。

 

「咄嗟には浮かばないな。葛木の方は?」

 

もしかしたら、俺の見た事がない川原のことも知っているんじゃないだろうか。そう思って聞いてみる。

 

「うーん……」

 

しかし、葛木の話の中にも、俺のイメージにない川原春歌はいないようだった。なんとなく違和感を覚えるくらい、ずっと川原春歌であり続けているような、そんな気がした。

 

「あの子の本音を聞いたことがある人なんて、実際いないのかもね」

 

葛木はノートを閉じる。ふと時計を見ると、ここに入ってから2時間が経過していた。

 

席を立って会計を済ませる。…2時間が経ったとはいえ、時刻はまだ昼下がり。別に遊びに来た訳ではないが、葛木は帰りたくないようだし、せっかくならと思い提案する。

 

「…よかったら、また家で話す?」

 

俺が言うと、葛木は驚いたような顔をした。

 

「…うん。ありがとう」

 

それから少しだけ笑って、歩き始める。…よくよく考えたら、親友が自殺した現場の近くの家に気軽に誘っていいものなのだろうか。言い切ってしまってから後悔するが、まぁ本人が良さそうだからいいか、と思考を放棄する。

 

「そういえば、春歌は須貝の家、よく来てたの?」

 

中学生の頃は頻繁に。そう答えると、葛木は不思議そうな顔をした。

 

「なんで来なくなったの?」

 

聞かれて、少し表情が固まってしまう。

 

「…母さんが死んでからは、なし崩し的にね」

 

気にしていないというように、淀みなく返事をする。上手く取り繕えているだろうか。

 

「…あ、そっか、ごめん変な事聞いて」

 

明確に、葛木の表情は暗くなってしまう。違う。踏み入られたくないわけでも、話したくないわけでもない。ただそれを気にしている自分が、それすら超えられる気配のない自分が、とても嫌なだけだ。

 

それを上手く説明することはできないまま、家の前に着いてしまった。

 

鍵を開けて、中に入る。

 

「川原はこのぬいぐるみが好きだったんだ」

 

わざとらしく明るく振る舞う。ぬいぐるみを手渡すと、葛木は両手で抱えたそれをまじまじと眺めていた。

 

その間に何か飲み物でも…と思い冷蔵庫を開けると、それらしきものは何もなかった。そういえばここ3日くらいは課題が忙しかったりして、買い物に行っていないんだった。

 

「…一人で住んでるの?ここ」

 

葛木は部屋を見渡して言う。…確かに一人で住むには広い部屋だ。

まぁね、と返し、部屋の窓を開ける。

 

「昔はそこが俺の部屋だったんだけど」

 

リビングから見える引き戸。その先は子供部屋なのだが、今は学習机と仏壇が並んだ、何ともアンバランスな部屋になっている。

 

「…今は、だいたいリビングにいる」

 

ソファで寝たり、ダイニングチェアでだらだらテレビを見たり。俺が一人で生活するのに、寝室らしき空間は必要なかった。

 

「ふーん…一人暮らしって大変じゃない?」

 

まぁ慣れだよ、と返す。今現在ですら、買い物を忘れているし、風呂のお湯も溜めっぱなしなのにも関わらず。生活できているというには程遠い。

 

「でも少し…憧れる部分もあるかなぁ」

 

誰だってそうなんじゃないかと思う。家族がいた頃は、小説の中で下宿をする主人公なんかを羨ましいと思ったものだ。別に、思っていたほどいいものでもなかったけれど。

 

…もしあの時、俺が塞ぎ込んで拒絶したりしなければ。川原は今でも、この部屋に来たりしていたんだろうか。考えたって仕方のないことが頭を埋め始める。

 

脳みそも換気できたりしたらいいのにな。吹き込んできた風に当たりながら、そんなことを思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4話

時は流れ、時刻は夕暮れ。やさりと言うべきか、俺達の中にはこれ以上、川原春歌はいなかった。ずっと見てきたはずの人物は、ノート1冊分にも満たない思い出で終わってしまう。それはやはりそれだけ、俺や葛木が川原を見ていなかったということなのだろう。…だから、と言うか、そうあるべくして、俺達は気付けなかったんだろう。

 

俺は俺で、ノートに川原のことを纏めてみたりした。たったの3ページ。俺が川原春歌という人物を描き上げるには、それだけで充分なようだ。…これが絵画なら、輪郭さえもぼやけていることだろう。当たり前とは得てしてそういうものなのかもしれない。

 

俺が得ているのは川原の情報ではなく、当たり前を失ってしまうということの結果だけに思える。明日なくなってしまうものに気付くのは何週間経ってからなのか、そんなことを考える。

 

自分の無力さに爪を噛んだり、頭を掻き毟ったりする。意味のない行動を、意味もなく繰り返してしまう。…とても現金だと思う。いざいなくなってしまってから、その有り難さに気付くというのは。

 

こうしていてもしょうがない、という苛立ちと、こうする以外に何がある、という苛立ち。2つの同じ感情に苛まれながら、この夜が過ぎるのを待つ。

 

ただ何となく、何となくでいい、光明が欲しくて仕方なかった。…きっと俺は、こんな辛い思いをするくらいなら、と思っているんだろう。そんな自分も嫌だった。

 

代わりに消えるのが自分だったらどれほど楽だっただろう。そんなことも、考えるだけ無駄だ。感情と呼べるもの、情緒と呼べるもの、それが全て掻き出されているような気分だ。

 

…気が付けば朝になっていた。眠ったのか、考えているうちに日が昇ってしまったのか、全く見当もつかない。何か用事でもあればいいのに、生憎と今日も休日だった。ぼんやりとベッドの上で物思いに耽る。もしかしたらここで始めた今日を、ここで終わらせてしまうかもしれない。それくらいに、起き上がる気力がなかった。

 

目を瞑っても眠れる気はしない。何か音が欲しくなって、聞きなれた音楽をかける。

あんなに好きで、ずっと聞いてきた曲なのに、心を動かされることはない。

 

…こうしていても仕方ない。ベッドから立ち上がって、カーテンを開ける。眩しくて、俺は目を細めてしまう。窓いっぱいに、日常が広がっている。

何とも平穏無事な景色だ。数日前、この真下で散った命があるとは思えない。

 

携帯の通知が鳴る。珍しい、父からの連絡だった。要件は川原のこと。随分と取り乱している様子で、所々誤字が混じっている。俺は久しぶりに、父に電話をかけてみることにした。

 

数回のコールの後、電話口で久々に響いた声は、やはり懐かしいと思った。

 

「…久しぶり」

 

どう声をかけたらいいかわからなくて、弱々しくそう言う。同じように久しぶり、と返ってきて、そこから会話は止まってしまう。どうにも意味のある言葉は出てきそうになかった。

 

「…自殺、だったんだって?」

 

以外にも父はそこに踏み込んできた。うん、と一言返す。きっとこれから先紡がれる言葉は、今の今まで生きている人間らしい言葉で、俺には共感できそうにないな、という予感がした。

 

「生きていれば、きっといい事があっただろうに」

 

終わってみれば8分程度の通話。その中の、ほんの一言が頭にこびりついている。生きていれば。そう思うのも仕方ない気がするが、そうではなかったから…というより、そう思えなかったから、川原は死んでしまったんだろう。

 

でも、父の言いたいこともわかる。最愛の人を病気で亡くしてしまった父にとって、死とは不条理にその先の人生を奪う物だろうから。

 

与えられた命を途中で投げ出さないことも、人生に区切りをつけるためにその先を捨てることも、俺にはどちらも正しいように見える。恐らく、正解は一つじゃないんだろうと思う。…どちらにせよ、途中で死んでしまったという事実が残るだけだ。

 

どれだけ考えても、川原にしてやれることはもう何一つない。その遣る瀬無さが、俺の思考の終わりを早くさせる。泣いても喚いても、もう川原は戻ってこない。それなのに、今更川原のことを考えて、何か意味はあるのだろうか。ずっとこびり付いているそんな思考が、どんどん大きくなるのを感じる。

 

もしかしたら、葛木も同じことを考えているかもしれない。そう思って、葛木に電話をかける。なぜか、そうすべきだと思った。

 

『…もしもし』

 

電話越しの声は低かった。

 

「ごめん、寝てた?」

 

俺が聞くと、葛木は否定した。寝られなかったらしい。

 

「俺も寝られたのかどうか、微妙なところ」

 

そう言うと、電話の向こうからはくすくすと笑い声がした。

 

『なにそれ。変なの』

 

笑ってくれたことに安堵する。そのまま、くだらない話をしたい気分だ。話題はなんだっていい。だけどただ、覚えておくのも億劫なくらいの、くだらない話をして。大きくなりすぎてしまった思考に答えを出すのを、遅れさせたいと思っている。

 

『…ねぇ、なんで急に電話してきたの?』

 

その意図が伝わってしまったようで、葛木はそう突っ込んできた。俺は正直に、今思っていることを吐き出した。

 

『…そう、だね。私もそう思う』

 

葛木はぽつぽつと語り始めた。

 

『私にとって、春歌は一番の友達だった。だけど、本当に話したかったことは言えなかった。そうしたら…春歌は心配すると思ったから』

 

俺は相槌を打ちながら、ぼんやりと考える。俺は何か、川原に言えなかったことがあっただろうか。言いたいことも言えないこともないくらいに、疎遠になってしまったような気がする。

 

『…春歌にとっても、きっとそうだったんだろうと思う。私や周りの子達に心配をかけたくなかったんだ』

 

幸せになって欲しい人間にほど、自分のマイナスな部分やネガティブな部分を見せたくない。…人間とは、つくづく面倒な生き物だと思う。

 

『でも、私はやっぱり、納得できないから。だから、納得したいだけなのかもしれない。それがあの子の為だとか、もう二度とあんな思いをしたくないからとか、そんな理由をつけて。私はただ、自分の納得の為に動いているのかもしれない』

 

葛木の声のトーンはどんどん落ちる。何か口を挟むこともできないまま、俺は話の続きを促す機械のようになってしまう。

 

『…だけど、それでいいんだと思う。少なくとも、私は』

 

葛木の言葉は、何となく不安定だ。言いたいことがまとまっていないような、結論だけが先に出ているような、そんな状態。だからこそ、本心なのだろう。

 

『私は私の幸せの為に、あの子の不幸の理由を知りたい。ちゃんとあの子を悼むことが、今の私にとっては幸せなんだと思うから』

 

俺は、頬を叩かれたような気分になった。…正直、そこまで考えたことなんてなかった。

 

何を話したかも覚えていない。何か適当なことを言って、通話を切った。高校の面接だとか、先生と一対一で話している時のような、早く逃げ出したい感覚に襲われてしまって。

 

もっと深く考えるべきなんだ。人の死や、その人自身について。常々感じ続けている人への興味関心の薄さが恨めしくて、下唇を噛む。

 

軽い気持ちで取り扱うべき事件ではないのは、分かっていたはずだった。…いや、分かっていたつもりになっていただけだった。そして何よりも、俺の川原に対する感情の薄さが暴かれた気分だった。

 

俺は、このまま川原のことを考えていてもいいんだろうか。…答えを与えてくれる人は、もはや誰もいなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5話

森の奥の、寂れた神社。気が付けば俺はそこに訪れていた。俺が思い出せる限りで、川原との思い出が詰まった場所といえばここしかなかったから。

 

日差しの下にいるより数度低く感じる気温は、涼しいと言えるほど快適だ。

 

階段に座り込んで、木漏れ日を浴びる。いつ来ても変わらず、少しだけ薄暗い。枝が風に吹かれて、ざわざわと音を立てている。…昔はもっと蝉が鳴いていて、鳥が鳴いていて、賑やかな場所だったはずなのに。

 

…ここで何をしていたのか。どんな会話をしたのか。どんなことを言って、どんな顔をされたのか。その記憶は正直に言って、靄がかかったように曖昧で、雑踏の中のように紡がれた言葉を聞き取れない。ため息をついて、辺りを見回す。

 

俺達が来なくなってから、ここは随分と荒れ果てたように見える。案の定ここに来るまでに道のようなものは存在しなかったし、石製の鳥居は苔むして、もはや暗い緑色と呼べるくらいの風合いになっていた。

 

ここで過ごした日々の全てに意味はなくても、ここにいた間の安息感や非日常感が与えてくれたものは、存外なくはなかったような気がしている。

 

活かせるものがあったはず、くらいの意味で、活きているわけではないから、俺はまだこんな人間なのかもしれないけれど。

 

兎も角もここが川原と一番長い時間過ごした場所だし、ここに来ている頃は親密と言って差し支えないくらいの関係性だった。だから、ここに来たらなにか掴めるものがあるかもしれないなんて期待をしてしまっていた。…やはり記憶というのは変わっていってしまうし、終わっていってしまうものだ、と、それっぽいことを頭の中で呟いてみる。気分は一向に晴れなくて、何でこんな所に来てしまったんだろうと後悔し始めてしまう。

 

都市開発の影響でこの森自体も狭くなってしまったし、この森から一歩踏み出してしまえば自然というには程遠い街並みがある。俺達にとって逃避先だったここも、俺が生きている間にはなくなってしまうものなんだろうと思う。…長く生きれば生きるだけ、こういったものとも別れていくものなんだろう。

 

誰もが真剣に生きている。さも当然のように、それが普通であるかのように。今日しなければならないこと、いつまでに終わらせなければならない課題、いつか達成したい目標を抱えて。理想と現実のギャップに心を病んだり、思ったよりいい人生を送れていることに安堵したりしながら。

 

一過性ではない、どこかまでは続いていく複雑な感情と折り合いをつけながら、遥かな未来を見据えて生きている。…じゃあ、俺はどうだっただろう。生きられるから生きて、死ねる時に死ぬのか?

いつか死ぬことだけが一番の恐怖で、その日が来ないことを望みながら今日を凌ぐのか?

 

頭を埋めるのは死だとか生だとか、そんな根本的でない根幹の話ばかり。それが嫌だから、俺は何も考えずに生きていようと思っていた。…精算するなら、今のうちしかないのかもしれない。

 

何も学ばないままだった。上手な生き方も、過去の精算の仕方も、そういう生きる術みたいなものを、ひとつも身につけないままだった。

 

聞こえるはずもないのに、川原に話し掛けたりしてみるほど、自分に酔ってはいなかった。ただ黙って、自分の無力さと向き合う。

後悔とか苦悩とか、人に隠さなきゃいけない感情をあと幾つ積み重ねたら、崩れて元に戻らなくなってしまうんだろう。

 

川原が座っていたはずの、参道の階段に座ってみる。何かが違って見えるわけではない。同じ視点で同じものを見ても、たどり着く結論は変わってしまう。俺と川原では、根本的に何かが違ったんだろうと思う。

 

なんで死んでしまったんだろう。ここ数日で幾度となく浮かんでくる疑問が、今日も頭から離れない。もし答えが出たとして、どうなる訳でもないというのに。

どうしたらいいんだ。そんな懊悩だけを抱えたまま、思い出の場所を後にした。

 

川原が飛び込んだ公園は未だに黄色と黒のテープで仕切られていて、日常に戻り始めた風景の中では、そこだけが明らかに異質だった。…まるで、この世界ではないみたいだ。どうにも受け入れ難い景色だ。公園の入口に手向けられた花は、誰からのものなんだろう。もしかしたら、葛木からだったりするのかもしれない。

 

マンションの屋上を見上げてみる。話によると、あそこに靴が揃えられていたらしい。…どんな覚悟があったら、あんな場所から飛べるんだろう。そこまでして死にたい理由とは、何だったんだろう。全く想像もつかない。

 

部屋に戻る。いつも以上に無機質で、無愛想だと感じた。何も詰まっていない部屋が俺の人生そのもののようで、嫌気がさしてくる。

 

ベランダに出て、下を眺める。これよりもう少し高い場所で、川原も同じことをしたはずだ。夏めいた風に吹かれて、薄暗くなり始めた街に見送られながら、文字通りの最後の勇気を振り絞って。

 

…結局、考えないことなんてできなかった。俺はずっと川原のことを考えてしまうんだろう。いつか忘れてしまうまでの間、漫然と物思いに耽るように。

 

それを肯定できるようにはならないが、せめて否定はしないくらいに真剣に考えなきゃいけないと思った。それが俺の人生を変える鍵になるはずだ。炎天下を感じさせるぬるい空気の中、一人そんな決意を固めてみることにした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6話

不思議と眠くなってしまって、少しだけ眠ることにした。アラームもかけずにベッドに寝転ぶと、押し寄せる波のような眠気にあっという間に攫われてしまった。

 

…目が覚めると、時計は2時過ぎを指していた。今日は学校があるから、もう一度寝て丁度いいくらいだと思うが、なぜか目は冴えてしまっていた。

 

ベッドから体を起こし、襖を開ける。窓いっぱいに広がる街並みを、静かに闇が包んでいた。

街灯の弱々しい光が差し込んではくるものの、それは太陽には遠く及ばない。人間の英智だって、自然の偉大さには敵わないのかもしれない。

 

部屋の電気をつける。そんなちっぽけな光だって、この空間を照らすには充分だ。朝まで何をしていようかと考える。…まぁ多分、何も思いつきやしない。ただぼーっと、日の出という刻限を待つのだろう。

 

ここ数日間、俺の生活習慣は乱れに乱れている。元々ロングスリーパーなのに、決まった時間に睡眠を取らなかったり取れなかったりと、おそらくメンタルに起因する軽い睡眠障害みたいなものがあるのが大きな理由だと思う。いつかはこれだって、直していかなきゃいけない。

 

川原とは違って、俺は生きているから。生きている限り、子供でいられなくなる時が来るから。…そう思う度、何かをするのが億劫になっていく。夏休みの最終日、溜めに溜めた課題を消化しなきゃいけない時間。それがずっと続いていくような。そんな誇大妄想に囚われる。

 

未来というのは、未だ来ていないからこそ怖いものだ。今のまま生きていたってどうしようもないと思うのに、現状を打破する方法が転がっているわけじゃないから。手を伸ばしたものだけがそれを掴めると知っていながら掴みに行く勇気がない自分自身を責め続ける生活に孤独が積み重なって、俺はどこにも行けないままでいる。

 

闇の中を歩いている。この先に出口があるなんて信じてもいないまま、ただ一人歩いている。たまに立ち止まったり、小石に躓いたりすることだけを楽しみや苦難としながら。…あるかも分からないゴールを信じるしかないと思いながら、からからの喉とぼろぼろの足で、歩いている。

 

光を灯すことは自分自身にしかできないと知りながら、それでもその方法が分からないのを自分以外の何かのせいにしながら、助けを求めることも仲間を作ることもしないまま。

 

こんなことを考えている時だけ、頭は活発になる。俺自身がというよりも、俺に染み付いた経験がネガティブを選びとっているように思う。それは俺がそれだけろくでもない経験しかしてこなかったということで、元を辿れば全部自分のせいだからこそ、終わることのない地獄のように思えてしまう。

 

このままでは部屋にネガティブが充満してしまうので、俺は窓を開けた。…そして何故か、長らくやってこなかった課題を開いてみた。やはり最初の数問しか分からなかったが、何となく教科書を開いて、何となくやり方をわかった気になって、何となく解いて…。

 

そうしている内に、朝になっていた。顔を上げたら太陽と目が合って、俺は驚いて時計を見る。…8時ちょうど。

 

ドタバタと課題をカバンに仕舞いこみ、制服を着て、外に出る。今からならまだギリギリ間に合うはずだ。駅に向かうために公園を抜け…ようとして、ふと思い出す。

 

そうだ。この公園は通れない。俺は大回りして公園を通り過ぎて、最寄り駅に辿り着く。定期券を取り出したくらいで、突然話しかけられる。

 

「どうせ遅刻なんだし、もっとゆっくりしたらいいじゃん」

 

声の主は葛木だった。俺は驚いて定期券を取り落としてしまう。

 

「…葛木、学校は?」

 

拾いながら話しかける。サボり、と一言だけ返事があって、それからどこかに歩いていってしまった。

 

俺は慌てて追いかける。

 

「行かないとやばいだろ、さすがに」

 

葛木はそれでも駅とは真逆の方向に歩いていく。

 

「焦りすぎでしょ。ていうか、どうせ遅刻が1個増えるだけの須貝と違って、私は皆勤じゃなくなったんだけど」

 

それなら尚更行かなきゃだろ。そう説き伏せる俺を意にも介さないまま、辿り着いたのは先程の公園だった。

 

「…もう、現場検証も終わったのかな」

 

葛木がぽつりと呟く。

 

「まぁ一応、終わったんじゃないか?昨日も警察官なんていなかったし」

 

俺の話を聞いているのかいないのか、葛木はカバンを開けて、中に入っていた花束を公園の入口に供えた。

 

「…これでよし。じゃ、行こっか」

 

ようやく駅の方向へ歩き始めた葛木を見て、俺は心底ほっとして後に続く。

 

電車に乗って、学校の最寄り駅に着いた。…しかし、それでも葛木は降りようとしない。

 

「…降りないの?」

 

嫌な予感がして、俺は話しかける。葛木はケータイを弄りながら、ん〜、と言うだけだった。

 

無情にも閉まっていくドアを眺めながら、今日も俺の遅刻は確定した。せっかく課題も終わらせたのに…。そう思いながらも、ただ何となく。誰かとこうやって学校をサボったりすることに、少しだけ憧れはあった。

 

罪悪感とか義務感とか色々なものを感じながら、それを紛らわせてくれる人としちゃいけない事をする。そんなことが何となく、楽しそうだと思った。

 

「どこ行くの?」

 

…まぁ元々、罪悪感や義務感があるタイプではない。すっかり頭を切り替えて、どうせ怒られるんだし今は楽しもう、と思うことにした。

 

「…まぁ、ちょっとね」

 

結局場所までは教えてもらえないまま、学校の最寄り駅から5駅先の、降りたことのない駅で降りることになった。

 

まるでこの場所に慣れ親しんでいるかのように歩いていく葛木について歩きながら、街並みを眺める。まだ早朝ということもあって、シャッターの閉まったお店が多い商店街が印象的な、寂れた街だった。

 

しばらく歩いていると、着いたのは霊園だった。

 

「こんな所に、何の用があるの?」

 

俺の言葉は、葛木のいいから、という4文字に一蹴される。特に何の道具も持たずに、霊園を進んでいく。

お墓ってこんなにデザイン性が高いものなんだなぁ、と思いながらただ着いていった先には、見慣れた名前が彫られた墓石があった。

 

「…お墓ってこんなに早く建つものなのか?」

 

俺が聞くと、葛木はやっとこっちを向いて話し始めた。

 

「違うよ。これはあの子が生きてる時から建ってるの」

 

俺は言っている意味がわからなくて、ただ葛木の話の続きを待った。

 

「だからここにはあの子の遺骨は入ってないし…今の所、ただの石」

 

なんでそんな物が?と聞く前に、葛木がその答えをくれる。

 

「春歌ね、病気してたんだって。余命宣告もされてるくらいの大病」

 

…俺はそんなこと、聞いたこともなかった。

なんで?あんなに元気そうだったじゃないか。病気を患ってるなんて気配は全くなかったはずだ。

 

「…私にも、須貝にすら言わずに、あの子は苦しんでたんだ」

 

俺はそのお墓をじっと見つめる。清掃が行き届いていて、綺麗な花が咲いている。…ただ悠然と、そこにあるのが当然みたいに。

 

他のお墓のように、何かが供えられているなんてことはない。しかし、それが建てられた理由は同じだ。

 

あいつは何年間、命の終わり方を探していたんだろう。考えれば考えるだけ、言葉は出なくなっていく。

 

夏らしい熱風だけが騒がしく、俺たちの耳元で唸っていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7話

通り過ぎていく昔の記憶は、走馬灯のようで朧げだ。…この中のどの瞬間も、あいつは無理をして笑っていたんだ。

 

そう考えるだけで、胸が締め付けられる。ただでさえも遠く及ばないと思っていた背中が、もっと小さくなっていくのを感じる。

 

葛木は耐えられなかったのだろう、膝から崩れ落ちて泣き始めてしまう。俺は立ち尽くしたまま、動く元気すらなかった。俺に見えていたものなんて、ほんのひと握りですらなかったのだ。

 

もっと大きくて大事なものを、俺達は見落としていた。…いや、最初から、見る資格すらなかったのだ。

 

やるせなくて、気が重くて、理解するには全体像を掴めていなさすぎて、同意できないような時。人から出る言葉は、全く同じものなのかもしれない。

 

「なんで…」

 

葛木がそう呟いた時、俺も同じことを思っていた。ただ、言葉には出せなかった。俺はそう言うには、関係性が薄すぎるから。俺達の間には、きっと友情なんてものすらなかったはずだ。

 

俺はずっと、川原に憧れていただけ。あんな風に生きられたら幸せだろうなんて、勝手に思っていただけ。…それが、あいつの最後の輝きとも知らずに。

 

居心地が悪くて、俺は周りを見渡してみる。流石に平日のこんな時間では、俺達の他に人はいなかった。

 

空を見上げてみる。夏らしい晴れ模様だ。陽の光を沢山浴びながら、俺は必死に唱える。

 

泣くな。

 

俺にその権利はないんだ。

川原を想って涙を流せるほど、川原と歩いた時間は長くないんだ。俺は同じマンションに住んでいただけの、ただの他人だ。

 

意思に反して、感情は昂り続けている。視界はどんどん滲んでいくし、口からは言いたくなかった言葉しか出ない。

 

「なんで…」

 

俺は顔を覆って声を殺す。せめて、誰にも聞こえないように泣こうと思ったから。それが何の意味もないとしても、そうするしかないと思えたから。

 

なんで言ってくれなかったんだなんて、口が裂けても言えない。そんなことを言って貰えるほど、俺は川原を見てはいなかった。

 

むしろ死後も俺に意識されていることを、気持ち悪いと思っているくらいだと思う。昔少し遊んで、ただ同じ高校に入っただけ。そんな俺が涙を流すのなんて、どうかしていると。

 

…俺はこの間、無意識に見下したあの子と同じだ。

テレビ越しに見た、見覚えのない同級生とやらと。

 

その涙の薄っぺらさが、より感情の引き金を引いた。

 

耐え切れるほどの忍耐力も、逃げ出せるほどの勇気も。俺は一つだって持ち合わせずに、軽い気持ちでここに来た。

 

葛木がここに来るまでどんな気持ちで、どれだけの我慢を重ねたのか。自分で自分に腹が立つ。

 

どの面下げて泣いているんだ。そう叱責するものの、俺の涙は止まりそうにない。

声も嗚咽に変わって、俺はとうとう、葛木と同じ姿勢を取る。

 

どこにそんな資格があるんだ。冷めた目で俯瞰的に見る自分と、ただ涙に明け暮れる自分。そのギャップのせいで、俺は自分自身を見失っていく。

 

あぁ、どうして俺はこんな風に、取り返しがつかなくなってから気付くんだろうか。

 

やれる事があったなんて結果論だが、だからこそ胸に深く突き刺さる。そうだ。やれる事はあったはずなんだ。

 

「…ごめんね」

 

葛木の一言で、俺は我に返る。

 

謝らなきゃいけないのは俺の方だろ。こんな所まで来てしまったことも、俺が泣いてしまっていることも。

 

…いつから俺達は疎遠になったんだろう。

ずっと何となくだと評してきたが、何が原因があるんじゃないか。

 

少しでも早く涙を止めるために、取り留めもないことを考える。

 

『高校に行ってもよろしくね』

 

そう言って、あいつは笑っていた。俺は確か、あぁ、とか、うん、とか、適当なことを言ったはずだ。

 

散り行く桜の中で、卒業証書が入った筒を握り締めながら振り向いた川原が、なんだか一枚の絵のように様になっていて。何を言っていたかようやく理解した時には、もうとっくに家に着いていたからだ。

 

俺にとって忘れられない、川原とのワンシーン。

 

あの時の返事は、あれで合っていたんだろうか。考えても仕方のないことを考える。

俺がそう返した時、川原がどんな表情をしていたのか、俺は見てすらいなかった。

 

そんな小さな所にきっかけがあるなんて信じているわけじゃないが、そうじゃないと言い切れるわけでもない。

 

事実、高校に入った途端に川原は俺を探さなくなった。同じクラスだったのにも関わらず、一言も交してはくれなかった。

 

俺はそんなもんなんだろうなぁと思い、中学の時とは違い離れてしまった席に着いて、同じ中学出身の男子と話し始めた。

 

…もしかしたら中学までは、余命宣告なんてされていなかったんじゃないか。

 

春休みのタイミング。もちろん俺から遊びに誘うことはなかったが、中学の時と同じ距離感なら、川原の方からどこかに誘ってくれていたはずだ。

 

高校に入っても。

 

そのセリフが、儚げに散る桜とマッチして見えたのは。

それが川原にとって、俺と話す最後になるはずだったからじゃないのか。

 

あの時どんな気持ちで、川原はああやって笑ったんだろう。

そして俺はなんでそれを受け止められなかったんだろう。

 

涙は止まることなく流れ続けている。これは罪だ。…他の誰にも裁かれることのない、俺の確かな罪だ。

 

「…ごめん」

 

一言ようやく絞り出して、俺は久しぶりに号泣した。

 

「須貝の方が泣いてたんじゃない?」

 

葛木は帰り際、無理をして笑っていた。それがわかっていても尚、俺はちゃんと返事できなかった。

 

だんだんと口数も減って、最後は無言で駅にたどり着く。これから学校に行こうという気にはなれないほど、二人とも泣き腫らしていた。

 

「……じゃあ、また」

 

俺の家の最寄り駅の1駅前で、葛木は降りようとした。

…俺は、その手を掴んでしまった。

 

「もう少し…もう少しだけ、話さない?」

 

無理矢理笑うと、葛木は心配そうに隣に座ってくれた。

 

葛木が家に来ることにも慣れた…というには回数が少なすぎるが、初めて来た時のような緊張感も特になく、二人で部屋に上がった。

 

「…で、話って?」

 

葛木は本題を迫った。俺は考えながら少しづつ、さっき考えていた仮定の話をする。

 

「……なるほどね。私と会った時は、もう既に余命宣告をされた後だったんだ」

 

葛木はシャーペンを走らせながら、俺の話を纏めた。俺が確証はないけど、と付け足すと、顔を上げて一言放つ。

 

「須貝が言うんだから、間違いないでしょ」

 

…金属バットで頭を殴られたような衝撃が走る。

俺はそんなことを言われるほど、川原を見てはこなかった。

 

そう言えば楽になれる。きっと喧嘩になったり幻滅されたりして、1人になれる。もう二度と川原のことは聞かれないし、こんな風に根拠のない信用をされることもない。

 

そのはずなのに、俺は言えなかった。言って楽になることを、自分自身で許せなかったからだ。

 

もっと考えて、もっと思い出して、もっと川原のことを知ること。それが少なくとも俺にとっての贖罪だと思った。

 

…いつの間にか日は暮れて、この間語り尽くしたと思ったはずの川原春歌の新しい一面がいくつか垣間見れた。俺達はこれを収穫だと思い、笑顔で別れる。

 

「…じゃあ、またね」

 

色々なことが落ち着いたら、今度は葛木とも仲良くなれるかもしれない。去り際寂しそうな顔をした葛木を見て、そう思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8話

時計の秒針が忙しなく今を過去にしていく音だけが響く部屋の中で、俺は一人椅子に座らされていた。

 

…なんだか釈然としない。連絡をせずに休んだのは葛木も同じなのに、俺だけが呼び出されて、俺だけが放課後の時間を浪費させられている。

 

控えめに言ったって贔屓だろう。というか、こんなに長く席を外す用事があるなら呼び出すなよ。愚痴が頭の中に充満していく。いつか部屋を埋めんばかりのネガティブに心を支配されてしまう前に、早くこの場から解放されたいと願っている。

 

それにしても、どの学校にもある指導室とかいう部屋は、本当にこんなことに使うためだけに設置されているものなんだろうか。俺はよく呼び出されるが、俺以外の生徒がここに来ているのを見たことがない。

 

「悪い、待たせた」

 

考え事をしているうちに、宮内先生が入室してきた。…おいおい、40分待たせてその一言かよ、さすが社会人。そんな皮肉が浮かんで、それを咄嗟にかき消した。

 

「お前は、なんというかこう、時間にだらしない部分があるというのは分かっていたんだが…無断で欠席をするようなタイプだとは思っていなかったから、一応な」

 

宮内先生は言葉を絞り出すようにしながら、話を進めていく。

 

「ほら、お前と川原は同じマンションに住んでたんだろ?そういうのも関係あるのかと思ってな」

 

俺はただ頷くだけで会話を終わらせようとする。関係があると言ってしまうわけにいかないというのもその理由の一つだが、関係ない、と言い切ってしまうのが怖かった。

 

「…まぁ、その辺は別に深入りしようとかじゃないんだが」

 

俺の態度に思うところがあったのだろう、宮内先生はそこでその話を切った。

 

「今までのお前の出席状況で、昨日欠席がついたのはだいぶマズい。その辺はわかるな?」

 

申し訳なさそうな表情だけを浮かべて頷く。…あぁ、そういえば俺って、進級危ないんだっけ。そんなことも忘れてしまっているくらいに、最近の日常は目まぐるしかった。

 

「…お前だって大事な生徒の一人なんだし、これ以上欠けることなく進級したいと思ってるんだ。少なくとも、俺はな」

 

俺だって、進級できることならしたいし、昨日は別に間に合いそうだったし…色々な想いが頭の中を巡っていく。

 

「何か、将来の目標とかないのか?何になりたい、とか、何をやってみたい、とか」

 

少し考えてみる。将来の目標。…思えば中学生の頃から、この手の質問が苦手だった。やりたいことなんて特にないと思うのは子供らしくないし、そんな返答を求められているわけじゃないと分かっていながら、それでも自分には何もなかったから。

 

そんな経験があってから、俺は死んだ目で俯くことしかできなくなった。

 

「…まぁ、今すぐ見つけろみたいな話じゃない。ただ何かやりたいことができても、それが自分の選択範囲外になってしまう可能性だってある」

 

…多かれ少なかれ、夢や目標なんてそんなもんなんじゃないのかな。叶う場所にある夢だけが褒められて、自分の格に合わない夢は笑われて、劣等感や敗北感の中で自分自身を知る。それが正しい形なんだろうか。

 

「とにかく、来週の中間テスト、相当いい点を取らないと厳しいぞ。他のことに気を取られる前に、まず自分のことをやれ」

 

はい。頑張ります。そう言うと、宮内先生は指導室のドアを開けてくれた。

 

やっと解放されて、帰路に着く。

…他のことに気を取られる前に、か。俺にとって進級より大事なことでも、大人から見たらそうでもなかったりするんだろうな。そういう意味で、俺はどうしようもなく子供だ。

 

校門を出ると、葛木が待っていた。

 

「…呼び出し、私のせいだよね。ごめん」

 

しゅんとした様子で、あんなに強引に俺を連れて行ったのと同じ人物だとは思いづらい。おかしくて、俺は少し笑ってしまった。

 

「気にしないで。もともと遅刻が嵩んでたのは俺のせいだし」

 

言いながら、二人で歩く。…まぁ、誰かに見られたりするような時間でもないだろう。もうすぐ沈むというのにまだやかましい太陽を手で隠しながら、駅に向かう。

 

「…そういえば、他の友達は?」

 

話の流れで、気になっていたことを聞いてみる。

最近、葛木は一人でいることが多い。何をしていても一人なので、今日は俺から声を掛けてお昼を一緒に食べた。

 

「喧嘩した…というか、お互いにね、八つ当たりをしちゃった部分があって」

 

…あぁ、川原のことで。俺は納得して、それ以上何も聞かなかった。

 

多くの生徒との帰宅時間帯がズレていることで、電車の中は静かだった。車輪がレールの継ぎ目を通過する時の音が、いつもより心地よく感じる。

 

幾度か人を降ろしたり乗せたりして、ようやく俺の最寄り駅に着いた。

二人で降りて、改札を通る。

 

「…全然聞いたことなかったけど、最寄り駅一緒なんだっけ?」

 

俺が聞くと、葛木は首を振った。

 

「私はもう少し先」

 

当然、と言うように降りたので聞きはしなかった質問をする。

 

「じゃあ、なんで降りたの?」

 

きょとんとした顔をして、葛木は答える。

 

「なんでって…用事がなきゃ行っちゃいけないの?」

 

そうでもないけど、と曖昧な返事をして、駅から数分しか歩かない家に帰る。

部屋は熱気が籠っていて、本格的に暑くなってきたことを知らせている。

 

「…付けよっか、エアコン」

 

今年初めて浴びるエアコンの風。昔はこれがすごく苦手で、一日中付けておくことはできなかった。だけど今ではすっかり慣れてしまって、これがないと生きられないと思う時すらある。

 

「そういえば、須貝はテストどうなの?」

 

聞かれて即答する。

 

「ヤバい。相当頑張らなきゃ進級も危ないってさ」

 

葛木は何故か嬉しそうに笑う。

 

「そうだと思って、テスト対策考えてきた」

 

それはすごく助かるが、何故そこまで?そんなことを考える俺を他所に、葛木はノートを数冊取り出した。

 

「これだけ覚えとけば、今回のテストは大丈夫だから」

 

俺はそれをぱらぱらとめくる。

 

「…これだけって、だけっていう量じゃないんだけど…」

 

俺が言うと、葛木は不思議そうな顔をした。

 

「要点だけ纏めたつもりなんだけど」

 

…知らなかったが、もしかして葛木って成績がいいのか?皆勤がどうとか言ってたし、勉強ができるタイプなのかもしれない。

 

「…まぁ、頑張るよ。ありがとう」

 

そう言って席を立とうとすると、葛木に止められる。

 

「頑張るよ、じゃなくて、今から頑張るの」

 

…まぁ、なんとなくそんな予感はしていた。俺は諦めて机に向かい、筆記用具を取り出す。

 

「須貝には、進級してもらわないと困るんだよ」

 

その言葉通り、葛木は真剣に勉強を教えてくれた。俺の基礎学力が低いせいで想定ほど進まなかったのを気にして、ここから一週間毎日勉強を見ると言われた。俺はありがたくその提案を受けて、勉強に専念してみることにした。

 

「…じゃあ、今日の夜もサボらないように」

 

葛木はそう言い残して、8時前に帰っていった。俺は残されたテスト対策のノートを眺めながら、何となく嬉しくなっていた。

 

一緒に進級したいと言われることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。

 

「…頑張るぞ」

 

一人呟いて、またペンを取った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9話

努力をしたことがない人生だった。意味がないと決め付けて、そういうものを避けてきた。

 

努力をせずにできないことよりも、努力してできないことの方が怖かったからだ。努力した結果叶わずに、あぁやっぱりな、と自分を嘲笑する自分がいる想像をするだけで怖くて仕方がない。

 

それでも、やらなきゃいけない時はある。今まで逃げ続けてきたツケを払わされる時がある。そうなってしまったら、腹を括るしかないのだ。

 

俺はペンを取り、ただ必死に問題を解いていく。分かるもの、分からないもの、見たこともないもの、見たことがあるけれど思い出せないものと、頭が痛くなるような文字列が並ぶ。

 

あぁ、なんで真面目にやってこなかったんだろう。そんな言葉が頭に浮かぶ度に、どうせ反省しないのに、と冷めた自分に言い聞かせられる。

 

やるしかない、やらなきゃ終わりだ。そう考えながら、ひたすらノートと向き合う。

葛木が貸してくれたこのノートは、きっと要点がまとまっていて、分かりやすいものなんだろう。俺にはそんなことも分からない。それくらい、何もやってこなかったのだ。

 

過去の自分にイライラしても、いくら昔を悔いても仕方ない。大事なのは今だ。今を逃してしまえば次はない。そう思いながら、人生で初めてちゃんと勉強をした。

 

頑張るというのは、思ったより簡単ではなかった。どこまでも言い訳ができるのと同じように、どこまでも努力はできるから。

 

当たり前の話、到底間に合わないと思って勉強をしている。ずっと頑張ってきた奴に、今だけ頑張った奴が勝てる世界では不平等だから。

だけど、それを掴まなきゃいけない。周りがずっとしてきた努力を、今だけの努力で越えなければいけない。

 

寝食も忘れて勉強に励んだ。貧血で倒れそうになる日もあった。その度に、満たされる自分がいた。

 

あぁ、俺は努力ができる人間だったんだ。

 

そう思えば思うほど、休むことができなくなっていく。多分、本当はそれじゃいけないんだろうけど。

非効率でも、非合理でも、泥臭くてもいい。

 

ただ、自分が自分を肯定できる何かを、掴み取りたかった。

 

自分のこともできない人間が、他人のことなんて考えられるはずがないから。

俺はここで、そんな自分と別れなければいけない。

 

…また、いつの間にか夜が明けた。そんなことを思うのは、これで何日目だろう。眠ったのか気絶したのか、はたまた無意識にペンを取り続けたのか、俺には判断もつかなかった。

 

ただ、どこか胸がすくような思いがあって、朝日を見るのが好きになった。

夜を越えて朝を迎えることが、嫌でなくなってきた。

それを成長だと捉えて、また遅刻ギリギリまでペンを取った。

 

そんな日々を繰り返して、テストを迎える。

全て終わった時、人生で初めて手応えというものを感じた。

 

やった。俺はやったんだ。

どこか人のいない場所でガッツポーズでもして、無意味に叫びたい気分だ。

 

自己採点もせず、来週以降の返却日を楽しみに待つ。…というほどの自信はなかったのでさすがにやってみた所、どうやら大丈夫そうだった。

 

初めてなんの後悔もなく返却の日を迎える。各教科担当の先生の驚く顔が面白くて、勉強も悪くないと思う。…というか、俺が平然と悪い点を取って、当たり前のように進級しないと思っていたんだろうか。

 

まぁ、そう思われていてもいい。結果が全てだ。

 

返却された答案は、全てギリギリだったものの合格点だった。これで俺は、赤点がないまま二学期を迎えられることになった。…自己採点よりいくらか低くて、びくびくしながら答案を眺めたりもしたのだけれど。

 

放課後、葛木に最大限の感謝を伝える。答案を見せながら、それはもう必死に。

 

「いや、別に…須貝の頑張りでしょ」

 

そう言いながら、心底ほっとしたような表情を浮かべてくれた。

 

「本当に助かった!ありがとう!」

 

もう一度念を押すように感謝をして、その場を去る。また宮内先生に呼び出されているのだ。

 

「失礼します」

 

部屋に入ると、宮内先生は笑顔で迎えてくれた。

 

「とりあえず、一学期はセーフだな」

 

握手を求められ、素直に答える。

 

「ありがとうございます。先生が釘を刺してくれたおかげです」

 

半分泣きそうになりながら伝える。俺の心中はまるで今から卒業する生徒のようで、自分でおかしな感覚に陥ってしまう。

 

「二学期は釘を刺さなくてもいいように頑張ってくれよ」

 

二人で笑い合い、指導室を後にする。明日が終業式なので、荷物を半分持って帰ることにした。…一日では持って帰れないほど、荷物をロッカーに溜め込んでしまっているからだ。

 

今日はテストの返却があっただけなので、補習のない俺はもう下校だ。教室に入ると、もう誰もいなかった。

 

いつもの騒がしさのないこの部屋は、何だか別の空間みたいだ。…ただ一つ、瓶が置かれた机の周りを除いては。

 

二学期には、この机は撤去されるらしい。だから今日と明日で、この光景を見るのも終わりだ。

寂しいような、すっきりするような、そんな気持ちだ。

 

川原が飛んだ日は、普通の平日だった。

俺も、恐らくはその周りも、こんなことになるだなんて誰も思っていなかったはずだ。

 

案外、この世界で生きているのも悪くはなかったと思うのに。そう無責任に思ってしまう自分がいる。

俺が楽しいこと、俺が美しいと思うもの、俺がやりたいと思うこと、それらは川原にとってもそうとは言いきれないものばかりだし、川原の辛かったことや苦しかったことは、俺には全く分からない。

 

今生きている人間と、死んでしまった人間。その隔たりは俺が考えているより大きくて根深いんだと思う。

俺は崖際にいたつもりだったが、実際飛んでしまった人の気持ちなんて理解できない。下を向く勇気もないまま縋り付いて、いざその勇気を出した人に対して勿体ないなんて思っている。

 

…俺はもしかしたら、この人生の諦め方を学ぼうとしたのかもしれない。どう考えて、何を覚悟したら命を終わらせられるのか。それを知りたくて、川原の死の理由を探していたのかもしれない。

 

そんな素っ頓狂な思考にすら納得できてしまうほど、俺の川原に対する感情は歪んでいて複雑だ。きっとこれから先も、俺が川原の死を紐解きたい理由は二転三転するだろう。それでも、俺が川原の死の理由を知りたいと思うことに変わりはないと思う。

 

「何してんの、早く帰るよ」

 

教室の扉を少しだけ開けて、葛木が言う。

 

「ごめんごめん」

 

そう返して、教室を後にする。…さようなら、川原がいた証。それ以上でもないが以下でもない、大切な場所。ここが残された理由は多分、俺を満足させてくれるようなものではないけれど。ここが残っていたおかげで、学校でも勉強に励むことができたのは間違いない。

 

川原には助けられてばかりだ。昔も今も。何だかおかしな気分だ。もういない人間に励まされているというのは。

 

川原がいなかったら、俺はこんなにすっきりした気持ちで一学期を終えられなかったと思う。…こんな風に、ずっと助けられていくのかもしれない。川原との思い出とか、幻影に励まされるように。

 

一学期を助けてくれた川原の足跡は、もう消えてしまうから。これからは俺の力で頑張らなきゃいけない。というか本来、それが当たり前なんだ。

 

俺は過去に縋り付きたいと思って、川原が死んだ理由を探しているわけではない。だから、一つ一つに別れを告げていかなければならない。そして今日がその第一歩になるんだ。

 

一学期、頑張らなかった自分と、川原が一学期を過ごした空間に、さようなら。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10話

夏休みが始まる。茹だるような熱気が空間をいっぱいに埋めていて、一歩たりとも外に出られない…というか、出たくない気になる。あいにく部活動などには入っていないので、別に家で寝ていたっていいのだが、それではせっかくの夏がもったいない。

 

特に夏が好きなわけではないが、世間やSNSの浮かれようを見ていると、なんとなく焦燥感に駆られる。

 

何かしなくてはいけない、という使命感と、何もしなくていいや、という怠惰がちょうど半分ずつ、頭の中に存在している。

 

一人でいるとどうしても、余計なことを考えてしまう。気分転換に外出でもできるような性格であれば困らないのだが、一人で外に出ることを虚しいと感じてしまうタイプの人間なので、それも難しい。

 

ままならないものだ。自分の性格すら自分で選びとることはできないのだから、他人をどうしようとしたって上手くいかないのも仕方がないことなんだと思う。

 

救うとか救わないとか、そんなことは最初から選択肢の外にある。自分の人生すら運に任せてしまう部分があるんだから、それはそうなんだけど。

俺にとって人助けなんて例えるなら、この間の授業のサッカーみたいなものなんだと思う。

 

何の準備もしていないのにたまたまいい場所にいて、たまたま回ってきたボールを蹴ったらゴールに入ってしまう。…まさに青天の霹靂、寝耳に水というやつだ。授業のサッカーごときで大袈裟なと思うかもしれないが、俺にとってはそのくらい突然回ってきたボールだったのだ。

 

サッカー部に所属しているやつは事もなさげにボールを運んで、他の部活でも運動神経のいいやつは当たり前にその争いに参加する。俺はそれを見ているだけのつもりだったのだから、そのときの俺の焦りようは説明するまでもないと思う。

 

…でも、そんなことも毎日やっていれば落ち着いてこなせるのかもしれない。もっとも人助けの機会なんて毎日回ってくるわけでもないし、もし毎日回ってきてしまう地域だったら早く引っ越したいと思うだろうけど。

 

最近、人を助けるということについて考えてしまうことがある。自分にはどうせ無理だと思っていたら一生できないが、自己判断なんかで手を下してうまくいくような自信もない。どちらかを解消できない限り、俺の足はすくみ続けるんだと思う。

 

もし俺がぼーっと生きていなかったら。もし俺がもっと人に興味があったら。もし俺がもう少し察しが良かったら。もし…中学生の時のような関係が、今だって続いていたら。

 

そんなことを考える度に、大げさではなく過去の自分を殺してしまいたくなる。過去に戻ってやり直せるとしたら、それは間違いなく高校進学のタイミングになるだろう。

 

…だけど、そんな都合のいいことは起こらない。この熱気とか、SNSを眺めるだけの時間みたいに、どうにもならない苦痛だ。

 

外の世界とは切り離されてしまっているみたいに、この部屋は静かだ。つい1ヶ月も前の世界が今も続いていたら、そんなことはなかっただろうと思う。すぐ下の公園では子供が駆け回って、それを見守る保護者の談笑がここまで届いたりしたのだろう。

 

変わらないものなんて何一つないとしても、俺の身の回りは、突然変わってしまった。この日常だっていつまで続くかは分からない。部屋に憂鬱が充満していく。

 

考えても仕方のないことなんだ、俺の考えていることなんて。今考えなければならないのは夏休みの課題のことや、何も埋まっていないカレンダーのことや、お盆休みの親戚付き合いのことや、過ぎ去っていない、未だ来ないことのはずなんだ。

 

それでも、俺は考えることをやめられない。仕方のないことでも、意味のないことではない。そんな風に自分を正当化して、どうにもならない過去を責め続けている、つまらなくも面白くもない毎日。

 

俺の人生は、いつからこうなってしまったんだろう。川原が死んでしまうよりずっと前から、こんな日々を消化している気がする。

 

来るものを拒んで去るものを追うのは、大切な人を失った人間の運命なんだろうか。

母を亡くした時点で気付くべきだった。何もしてあげられないことのつらさや、何もしてあげられなかったことが今後の人生に落とす影のことを。

 

それに気付いただけでも成長だと割り切ることは、今の俺にはできそうになかった。人は嘘をつけるし、それが悪だというわけでもない。悪意のある嘘よりも、善意から来る嘘の方が、この世にはありふれている。

 

…あぁ、また後悔をしている。昔から、夏休みという時期が好きではなかった。俺のような人間にとって、自分を見つめ直す機会というのは断頭台のようなものだ。あるいは最後の審判のような。生き死にを決めるほどの重要事項ではないにしろ、今後も生きたまま死に続けることを選ぶのに充分なほどの後悔を俺にくれる。

 

熱気も浮かれ具合も行事も、その全てが好きなのに。俺は夏という季節自体を好きにはなれないし、今後も好きにはならない気がする。

 

初夏の抜けるような空に川原を重ねて、晩夏の寂しげな蜩の声に母を重ねるんだろう。…そうやって、生きるのを諦めることを選ぶんだろう。

 

それが誰のためにもならないと知っていながら。それが自分を傷付けると知っていながら。何よりそれが…自分を楽にする言い訳だと知っていながら。

 

部屋でこうしていることに耐えられなくなって、俺は外に出る。何の予定もないのに熱気にまみれて、虚しい想いをしようとしている。何もない部屋にいるより、何かある場所を選びたいと思っている。

 

俺がどうしたいのかは、誰よりも俺がわかっていない。このままじゃ駄目なのに、何かしても駄目。一つ難関を越えるくらいでは埋められないほどに、怠惰と後悔が掘り進めた絶望の谷は深い。

 

これからもこれを登らなければいけない。いつか見える太陽を目指して。抜けるような青空と蜩の声の、その先を目指して。

 

考えるだけでやめてしまいたくなる。俺は俺の人生には底があると知っている。大それたことさえしなければ、助かる方法はいくらでもあると知っている。雨の日の燕のように、低空飛行を続けられることも知っている。…でも、自分がそこに満足できないことを知っている。

 

公園には黄色いテープが張り巡らされている。このテープもいつか役目を終えていく。もう既にいくつかは切れてしまっていて、役目を果たせていない。それでも張り直されることはないまま、悲しげに横たわっている。

 

供えられた花も缶コーヒーも、いつも新しくなっている。抱えきれない哀しみをいくつも背負わされて、役目を終えて捨てられていく。…それもいつまで続くのだろうか。

 

残された川原の家族は、いつまでここに残るんだろう。それとも俺のようにいつまでも、この風景を眺めることを選んだのだろうか。

 

葛木はいつまで、川原のことを調べ続けるんだろうか。

 

川原を救えなかった今、救わなきゃいけない人は別にいる。川原の家族や、葛木や、名前も知らないクラスメイト。そんな人々の顔が浮かぶ。

 

川原春歌は、確かに太陽だった。俺のような脆弱な星を照らし、その心にあたたかな温度をくれる太陽だった。

 

…俺に、その素質はない。きっと真似ようとしても破綻してしまうだろうと思う。もしかしたら川原にとってこの世界は、暗すぎたのかもしれない。街明かりも月も、足りなかったのだろうと思う。

 

誰も本当の川原を知らなかったのは、眩しすぎたからなのかもしれない。街明かりや月を充分だと思えてしまうから。

 

帰ってはこない人のことを想う。現実離れした思考で、この現実を受け止めようとしている。太陽がひとつ堕ちてしまっても、この世界は回り続けるのに。

 

…眩しすぎたとか暗すぎたとか、そういう話ではない。おそらく俺が小さすぎたのだ。

線香花火が落ちただけ。それだけのことなんだと思う。俺にとってそれが、太陽に見えてしまっただけのことだ。

 

きっとこの思考も、やるせない熱気のせい。早く夏が終わってしまうことを、心の底から願ってみる。

熱気は水気を増して、俺の体にまとわりつく。今年の夏もきっと、もっと暑くなるだろうと思う。

 

…俺は、この夏を越えなければ。夏を越えて、冬を耐えなければ。その為に、早く大人にならなければいけない。

 

厚い入道雲を切り裂いて、過干渉な太陽が俺を真っ直ぐに照らしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11話

呆然と立ち尽くしていると、後ろから声を掛けられる。

 

「須貝くん。奇遇だね」

 

その声に聞き覚えがなくて振り向くと、誰だかは思い出せないが何故か見覚えのある顔があった。しばらく考え込んで、ようやくその理由に思い至った。

 

川原が死んだ次の日、インタビューを受けていたうちの生徒だ。…でもなぜ、俺の名前を知っているんだろう。

 

「…もしかして、私のこと覚えてないとかじゃないよね?委員会の時、何回か話しかけたはずなんだけど」

 

覚えていないというわけではないが、同じ委員会だったのは初めて知った。そういえば、とすら思わないほど、彼女の印象はない。

 

「まぁ仕方ないか。私も須貝くんと話してたわけじゃなくて、春歌と話していたんだし」

 

まぁそれはそうだろう。でなければ覚えていないはずはない。

 

「…で、須貝くんも手を合わせに来たの?」

 

俺はただ外に出てここに立っていただけだが、そう言うのも変な気がして肯定する。彼女は花束を供えて、手を合わせる。…彼女は今、何を思っているのだろう。やっぱり冥福なんかを祈っているのかな。

 

「私、桐野まつりって言うんだ。ちゃんと覚えてね、須貝薊くん」

 

俺が頷くと、彼女はにっこり笑った。…何か違和感がある。

 

「須貝くんは春歌の幼馴染なんだっけ」

 

毎度思うことだが、中学から一緒というのは幼馴染と言えるのかどうか微妙なラインじゃないだろうか。しかも、中学が同じという奴ならうちの高校にもたくさんいるわけだし。

 

「そう言えるほど長い付き合いじゃないけどね」

 

そう答えると、彼女は驚いたような顔をした。

 

「春歌は幼馴染って言ってたけど」

 

…あぁ、俺が一方的に彼女に名前を知られていた理由はそれか。川原も俺の話をすることがあったんだな。

 

俺は誰かに川原の話をしたことがあっただろうか。思い至るのは、葛木くらいだ。お互い川原しか共通点がないのだから、むしろ川原の話しかしていないくらいだけど。

 

「本人がそう思うなら、そうなんじゃない?」

 

俺の言葉に、彼女は興味なさげにふーん、と呟いた。そして公園の中を眺めながら、一番したかったであろう話を切り出した。

 

「…私さ、春歌のこと考えるのやめようと思ってて」

 

なんで?と聞く前にするすると、話の続きは語られていく。

 

「過去を過去にしたくない、っていくら思っても、時間は進んでいってしまうものだし。だから、別れるべくして別れたんだろうなって、そう思うようになってきて。…悲しくないわけじゃないけど、お別れするのが春歌のためでもあるし、何より私のためなんだろうなって思ったの」

 

俺は先ほどから感じていた違和感の正体に気付いた。

 

彼女はもう、吹っ切れているんだ。過去を過去として見ていて、それ以上でも以下でもないと思っている。

 

俺達とは、根本的な考え方が違う。

 

「…須貝くんもさ、多分、辛いだけだと思うよ」

 

心が折れてしまいそうになる言葉だ。意味がない。苦しくて辛いだけ。その言葉に正当性があると感じてしまうからこそ、必死に否定したくなる。

 

「まぁ、私は別に止めたりしないけど。須貝くんがしたいようにしたらいいし、私は私のしたいことをするだけだから」

 

じゃあね、と彼女は去っていった。公園の中を眺める。あの辺りに、川原は落ちたはずだ。大きな音がして、ゴム鞠みたいにバウンドして…という話を、誰かから聞いた。

 

ただの肉の塊になってしまった川原を、俺は見たわけではない。…見てしまっていた方が、楽だったのかもしれない。きっと後を追おうとはしないと思うが、それでも忘れたいものになってくれた方が、ちゃんと忘れられた気がするから。

 

俺だって本当は吹っ切れてしまいたい。寧ろ、そうするべきだとも思っている。高校生になってからろくに仲良くもしていなかったクラスメイトの死を、気にする権利すらないと思っているから。

 

救えたのに救わなかった。そう思われて責められる方が、今の状態よりはマシな気がした。

 

だけど、忘れることはできないし、考えないこともできない。おそらく川原だって考えて欲しくはないと思うが、それでも。

 

「…何してるんだろうな、本当に」

 

そう空に向けて呟いて、部屋に戻った。

 

閑散とした部屋に、いつもよりも冷たい空気感が立ち込める。傷付いた心に塩を塗るように、自分自身を責め立てる。理性的に考えれば、川原の死についてきっと俺に責任はないし、特に関係もない。…そんなに俺のことを意に介さなかった人間の死に、こんなに囚われているとは思いたくないから、必要以上に自分のことを責める。

 

実際問題、今川原が生きていたとしても、俺は多分関わってはいないだろう。失うまでずっと川原は川原だという印象を持ち続けていただろうと思う。失ってみてようやく、川原もただの人間だったと気付いただけの話だ。

 

だからこそ、俺には過去にすらifはない。もしもあの時声を掛けていたら、のあの時、すら存在しないのだ。

 

川原が死んだ当日、どうして俺は外に出なかったんだろう。そんな理不尽な理由で自分を責めている。…心の底から、馬鹿馬鹿しいと思う。

 

そうしていると、チャイムが鳴った。俺にとっては祝福の鐘のような音だった。誰かと話している間だけは、自分由来の後悔や自己嫌悪に陥らなくて済むから。

 

ドアを開けると葛木がいた。部屋に上がってもらい、お茶を持っていく。

 

「さっきそこで桐野って子に会ったんだけど、知ってる?」

 

俺が言うと、葛木は頷いてから答えた。

 

「私も春歌も同じ部活だから。…あ、だったから」

 

部活って、何部なんだろう。中学生の時はお互いに帰宅部だったから、部活動をしている川原が想像できない。

 

「まつりはなんて言ってたの?」

 

聞かれて、先ほど言われたことを答える。

 

「…もう川原のことを考えないようにするって」

 

葛木は面食らったような顔をした。…気持ちも分からなくはない。俺達にとってはかけがえのないもので、追うべくして追っていた背中なのだから。その姿に背を向けられる人間がいることなど、全く想定していなかったのだろう。

 

「ねぇ、本当はさ、須貝も私達のしてること、おかしいと思ってたりする?」

 

葛木は俯いたまま、震える声で俺にそう聞いた。俺が答える前に、葛木は続きの話をし始める。

 

「言われたんだ、この間、クラスで。もう忘れようって。気にしないようにしようって」

 

今にも泣き出してしまいそうだ。…皆が川原のことを忘れていってしまう恐怖や、人の死を乗り越えていける人間に対する劣等感や、色んなものがごちゃ混ぜになってしまっているのだろう。

 

「…私はただ、春歌がなんで死んじゃったのか、私達のいるこの世界を捨てたのかが知りたいだけ。別に後ろを向いてるわけじゃないのに、なんでそれが自分でも言い訳にしか聞こえないんだろう」

 

葛木の気持ちは痛いほど分かる。…やっぱり葛木も、同じ事で悩んでいたんだ。俺はただ静かに話の続きを待った。

 

「私はきっと、やめようと思ってもやめられない。納得できるまで、春歌が死んだ理由を探し続けると思う。…でも、一人にはなりたくない」

 

葛木の天秤の上には、今までの暮らしとこれからの暮らしが載っているのだろう。積み重ねてしまったこれまでと、積み上げていくこれからが。

 

どちらを取るかなんて、どうせ選べるわけでもない。だけど、納得した方を選びたいと思うのは自然なことだ。

 

「だから、須貝だけはついてきて欲しい。勝手かもしれないけど、私一人では背負えないから」

 

俺は頷いて返事をする。誰が何を言おうと、俺達にはそれしかない。…そう言えるほど、お互い強い意志でもない。風が吹けば揺れ動いてしまうし、時間の流れでアップデートされていくから。

 

それでも、選び取れなかった過去が、どうしてそれを選んでしまったのか知りたいから。それを知らない限り、同じ過ちを繰り返してしまうだろうから。

 

いつまで続くか分からないそんな約束を、数年ぶりの指切りで取り交わした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12話

もうじき夏も終わる。珍しく課題を早めに終わらせてしまったので、俺はこの時期になっても暇を持て余していた。課題を早めにやらないことは、夏休み後半の空虚さを打ち消してくれる方法だったのだなと心の底から思う。

 

夏休み中も特に進展はなく、やはり川原春歌という人間は俺達にとってそれ以上でも以下でもないのだという結論に行き着いてしまっていた。…だからこそ、川原春歌という人間がなぜそこで人生を終えたのか、それがずっと分からないままなのだけれど。

 

…暇を持て余していたので、何故かちゃんとした服を着て、何故か花束を持って、何故か母の墓前に立っている。何故か葛木と一緒に。

 

俺は幼くもなかったのに、未だにちゃんと母の死因を知らない。何かの病気だということは分かっているが、それ以上のことは分からない。川原の死の理由を考えている際に漏らしてしまったこのセリフが、異様な今日を生み出している。

 

葛木は俺の母親のことを知らなかった。今までちゃんとコミュニケーションを取ったこともないただのクラスメイトなのだから、それはそうだと思う。この話をしたら驚いたような表情を浮かべ、だから一人暮らしなんだ、と納得していた。

 

何故今日ここに来たかというと、今日が母の命日だからだ。夏の終わりと共に、母の人生も終わってしまった。覚悟ができていたかどうかで言えば、できていると口では言ってみるものの、いざその時が来て気付いた。母とはたまにしか会えないが、こんな日々が続くものだと思い込んでいた自分自身に。

 

俺はずっと昔から、そう思い込んでいる節がある。人間誰しもがそうだと思うが、明日は絶対じゃない。今日という日の、今この瞬間ですらも。いつ終わるか分からない恐怖を誤魔化すように、先の予定を立てたりする。…そんな日々を積み重ねて、いつか終わりが来る。俺もそうなんだろうと思う。

 

「本当に長いこと来てなかったんだね」

 

枯れてしまった花や墓石の周りの雑草は、放置されて時間が経っていることを示している。…それくらい、受け止めきれていないのだ。未だに。

 

「…ここに来ると、来る度に複雑な気持ちになるから」

 

母の儚かった人生のことや、それでも健気に笑っていたこと。そんな美しくも物悲しい思慮や記憶もそうだが、何よりここに来る度に、どうして死んでしまったんだという気持ちになるのが、俺はたまらなく嫌だった。母は死にたくて死んだ訳じゃないんだ。そう頭では分かっていても、心は納得してくれない。

 

葛木にはそんな俺の心情は伝わっただろうか。…まぁ、どちらでもいい。とにかく、俺は今日この場所から過去の精算をしようと思う。雑草を抜いて、墓石を拭いて、花を替えて。そんなことで今までの行いがなかったことになるわけではないとは思うが、そんなことをしてみるだけでも見えてくるものがある。

 

結局墓という場所は、ただ母の遺骨が埋まっているだけの、形式上の終点でしかないということ。一生懸命に墓石を磨いてみたところで、何か返事があるわけではない。形がなければ悼んでいることを表現できない人間のための儀式だ。

 

この場で何かを思うことに意味があると信じ込んでみても、そんなものあるわけがないのに。形がなければ思い出すこともない出来事なんかに価値があるとは、俺には到底思えなかった。

 

だから、俺には部屋の仏壇で充分だ。せめてあちらでは健やかに過ごせるようにと祈り続けることは、別に部屋でもできる。

 

それならば何故、人間はこんな回りくどい方法を選ぶのだろうか。時間を取って、維持費を払って、わざわざ足を運ぶほどの理由はあるのだろうか。部屋とこの場所を比べてみる。

 

ここは小高い丘にあって、周りには大きな道路もなければ、家も多くはない。吹き抜ける風は夏だというのに涼しくて、少しだけ物悲しい。

 

老後の理想の暮らし、と言われて、一番に思い浮かぶような場所だ。…死後もそんなものなのかもしれないな、と思う。

 

お墓というのは、一般的に『終の住処』だと言われている。魂はここにはないが、せめて朽ちていく体だけでも健やかな場所にいて欲しいという願い、なのかもしれない。

 

受け継がれていくしきたりには意味があって、それに足る理由があるものだ。俺にはまだ分からないだけで、もっと大人になる頃には理解できるようになっているかもしれない。…大人ではない自分にそう言い聞かせてみる。

 

俺にとってこの場所は、きっとずっと不幸の象徴なんだと思う。俺自身の、そして母の。

 

だからこの場所を好きにはなれないだろうし、足繁く通うこともないだろう。

 

「…また来年、かな」

 

俺がそう言うと、葛木は不服そうな顔をした。

 

「何かある度に来ればいいじゃん。報告とか、相談事とかさ」

 

俺はそれに笑って返す。…上手く笑えていただろうか。

 

「…まぁ別に、好きにすればいいけどさ。須貝自身の気持ちでしかないわけだし」

 

いつか、ここに来る心構えが決まる頃が来るなら。気軽に足を運べるようになるなら、それでもいいと思う。だけど、今の俺にはできそうにもない。…今だって、この世を全て恨んでいるみたいな表情を抑えるのに必死だ。

 

「雨が降って、風が吹いて、命が芽吹いて、そして終わって…それでもここには、大切な誰かがいる。それだけで、通うには充分な理由だと思うよ、私は」

 

葛木は遠い目をして語る。…その視線の先には、きっと川原がいるんだろうと思う。

 

不幸というのは、認識した瞬間に不幸になってしまう。だから今の自分を幸せだと思う。そうすれば、何があっても幸せなままでいられる。

 

中学生の頃、難しすぎて分からなかった厭世観というやつが、少しだけ分かった気がする。身の丈を知ることや、自分が自分でしかないことは、マイナスなことばかりではない。むしろそうやって、自分が上手に生きる術を学ぶべきなのだ。

 

俺は母や、その周りの人間が語るこれらの言葉が嫌いだった。努力でどうにもできないことがあるなら、生まれてきた瞬間に人生が決定してしまうから。…でも今は、この考え方に深く共感している。

 

俺は俺でしかないし、母は母でしかなかったし、川原だって川原でしかなかった。勝手に期待をかけて、勝手に裏切られた気になっていたのは、むしろ俺達の方だった。

 

自分が思う以上の期待をかけられたり、身の丈に合わない人物像を押し付けられたりする苦しみを、理解しようとはしてあげられなかった。

 

俺は事あるごとに母に病状を聞いたし、それが治るという言質を得ることに必死だった。…今思えばそれは、母にとっては辛すぎるものだっただろうと思う。

 

一番治したいのは自分自身だっただろうし、一番呪いたいのも自分自身だっただろう。それなのに、勝手に期待した俺によって、無理やり笑わなければいけなかった。…人生最後の時くらい、なんの気兼ねもなく生きさせてあげたかった。

 

きっとそんな自分自身に対する嫌気が、この場所を忌避させてきたのだろうと思う。俺にとっても母にとっても良くない行いをしたという自覚が。

 

だから…だから俺には、泣く資格なんかないんだろう。今までも、これからも。

 

無理矢理前を向かせてきたのだ。今度は俺が、無理矢理にでも前を向く番だ。

 

「…そうだね、近い内にまた来るよ」

 

その時は。そう言いかけてやめた。俺は一人でこの場所に来て、一人で全ての過去を清算する必要があると思ったから。

 

嗅ぎ慣れた線香の匂いが、その煙が、空高く昇っていく。…これは、部屋ではできないことかもしれない。

 

この煙はどこまで昇るのだろうか。もしかしたら、母まで届くのかもしれない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13話

新学期が始まる。心機一転を誓う度、自分の継続能力のなさを思い出したりするものだが、それでも今学期こそはと思うことをやめられない。…俺は俺なりに、過去を悔いていたりするのだ。

 

珍しく、一番乗りに学校に来てみたりする。もしかしたら、そう思うことをやめられなくて。でもやっぱり、川原の席はない。これが本来、当たり前の形なんだろうと思う。

 

頭の中で思い描き続けているもしかしたらを期待しなくなるのは、いつになるんだろう。規則的に並ぶ机の、一つだけ空いたスペースを眺めながら、やるせない気分になる。

 

「あれ、早いじゃん」

 

聞き慣れた声がして、俺は顔を上げる。夏休み中は私服だったから、制服を着た葛木を見るのはなんとなく新鮮な気持ちだ。

 

「おはよ。早く起きたから」

 

手短に返して、俺は自分の席に着く。葛木もそれ以上は何も言わず、自分の机に鞄を置いた。

 

無音の時間が流れていく。気まずくもないが、心地いいわけでもない。俺は少しだけ寝ようと思って、机に突っ伏してみる。…こうしていても怒られないというのは、なんだか変な感じだ。

 

一人、また一人と誰かが登校してくる物音が聞こえる。挨拶をしたりしなかったりしながら、当たり前の一日を過ごす準備をしているようだ。

 

やがてこの教室内も、声で満たされていく。笑い声だったり、相槌だったり、軽い顰蹙だったりと、その内容は様々だ。…夏休みを挟んだことで、このクラスは当たり前を取り戻したらしい。

 

「おはよ」

 

また誰かの声が聞こえる。…多分、隣の席の木下さんだと思う。久しぶりに声を聞いた。

 

「おはようってば」

 

繰り返されて、俺は顔を上げる。…挨拶を交わすような間柄だとは思っていなかったので、誰か他の人にしたのだと思っていた。

 

「おはよ。まさか俺にしてるとは思わなかった」

 

おどけたように返すと、木下さんはなにそれ、と笑ってくれた。

 

「…本当に、なくなっちゃったんだ。春歌の席」

 

木下さんの声には、寂寥感みたいなものが滲んでいた。適切な相槌を持ち合わせていないので、ただ黙ってやり過ごす。

 

「なんか、大人になった?」

 

それからすぐ、木下さんは俺に向けて微笑んだ。…まぁ、身長くらいは伸びたかも。そう返すと、そういうことじゃなくて、と呆れたような顔をされた。

 

「なんていうか、雰囲気?がちょっとだけ違うなって」

 

…どうやら割と、俺のことも見てくれる人がいるらしい。俺はなんだか照れ臭くなって、返事を濁した。

 

「やっぱり子供かも」

 

くすくすと笑う声。…この人、人生二週目だったりするんだろうか。元々大人びている人ではあるのだが、大人びているでは説明がつかないくらいの落ち着きがある。

 

「そういえばさ、夏休み前のテスト頑張ったでしょ」

 

まぁ、そこそこは。そう返しながら、夏休み前の努力を思い出す。間違いなく俺の人生では一番頑張ったし、後にも先にもこれっきりにしたいほど苦痛ではあった。

 

「…あれってやっぱり、彼女の為だったりするのかな?」

 

木下さんが眺めるのは、空っぽになってしまったスペース。てっきり葛木のことを言われると思っていたので、俺はわかりやすく動揺してしまった。

 

「やっぱり。好きだったんでしょ」

 

…俺はもしかしたら、分かりやすいヤツなのかもしれない。まぁ、それなりに。そう返すと、木下さんは満足げな表情を浮かべる。

 

「伝えればよかったとか、そう思ってたりする?」

 

俺は首を横に振って否定する。そもそも相手が死んでしまってから気付く思いなんか、そんなに強いものじゃなかったということなのだろう。今は喪失感が邪魔をしているだけで、きっと憧れだとか、そういうものでしかなかったんだと思う。

 

「…やっぱり。本当に似た者同士で、お似合いだったのに」

 

どういう意味?と聞こうとした時、予鈴が鳴った。いつもより早く宮内先生が教室に入ってきて、全員出席しているかどうかを確認した。…まぁ、俺がいる時点で、全員出席が確定していると言っても過言ではないと思うのだが。すき

 

全員、か。俺も俺で、もうこの状況に慣れてしまっている。川原をクラスメイトにカウントしないことに、違和感を覚えなくなってしまった。

 

「じゃあ、SHRを始めるぞ〜」

 

一日目はきっと、課題の提出くらいで終わってしまうだろう。ぼんやりと話を聞きながら、珍しくやってきた課題のことを思い出したりした。…なんでこんなことを、面倒事だと思っていたんだろう。自分に対して不思議な気持ちになる。

今だって望んでやりたいほど好きなわけでもないが、絶対にやりたくないと思うほど嫌いでもない。

 

それよりも、木下さんの話の意味を考えることにした。隣を見てみると、木下さんは真面目に話を聞いているようだった。

 

お似合いだったのに。その言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。なんで木下さんは、俺にそんな話をしたんだろう。発言の意味というよりも、その発言をした理由の方が気になっている。

 

今更そんなことを言われても、俺にも木下さんにもどうすることもできない。きっとそれは抱えていちゃいけない気持ちで、捨てていかなきゃいけない未練で、思い出してはいけない過去だ。

 

「…さっきから、どうしたの?」

 

いつの間にかHRは終わっていた。木下さんとはずっと目が合っていて、俺は視線を逸らす。

 

「さっきの話のこと?」

 

俺が視線を逸らしたにも関わらず、木下さんは積極的に話しかけてくる。なぜだかは分からないが、今日はそういう日らしい。

 

「別に大した意味なんかないよ、ただお似合いだと思ってただけ」

 

それはきっとそうなんだろう。ただお似合いだと思った。俺と川原がそんな風に見えていた人も、世界中に何人かはいるかもしれない。目の前の彼女のように。

 

俺が聞きたいのはそんなことじゃなくて、なんでそれを今俺に言ったのかということだ。

 

「…たださ、何となく、その気持ちは忘れなきゃとか思ってそうだなって」

 

まるで、心を見透かされているかのようだ。そんな話をしたこともないのに、木下さんには分かってしまうらしい。俺は否定も肯定もせず、ただ黙っている。

 

「別に、忘れたかったら忘れるでもいいとは思うんだけど。でも、無理やり忘れようとしても、いいことって何もないから」

 

…じゃあ、どうしろって言うんだ。やるせない怒りが頭の中を埋めていく。

俺だって分かっている。無理に忘れようとすればするほど、鮮明に思い出してしまう出来事があること。

 

「こんなことを解決してくれるのは、時間だけだと思うんだ」

 

その言葉で、俺の怒りはすっとどこかへ消え去ってしまう。空虚な感情だ。それがいいと思うことも、それを嫌だと思うこともできないまま、ただ時間だけが経っている。こんな地獄を、俺はあとどれだけ続けていったらいいんだ。

 

それを木下さんに言っても仕方がないと分かっている。分かっているからこそ、俺は何も言えずにいた。

 

「ねぇ、やめたら?円歌と過去を引き摺ったりするの」

 

そう言われて、木下さんの方を見る。木下さんは確かに微笑んでいて、そんな言葉を吐いたあとだとは思えなかった。

 

「円歌に聞いたよ。春歌の死因を探ってるって」

 

木下さんは授業の準備をしながら、淡々と話し始める。

 

「2人ともつらいのに、なんでそんなことしてるの?忘れることでも飲み込むことでもなく、なんでそれを選んじゃうの?」

 

俺はただ黙って、話の続きを待った。

 

「春歌が死んだ理由なんて知った所で、春歌が戻ってくるわけじゃない。じゃあ、どうしてその理由が知りたいの?」

 

木下さんは俺の答えを待っている。夏休み中何度も疑問に思ったことだ。…もしかしたら、俺はまだ課題を終わらせていないのかもしれない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14話

「…ねぇ、その話長引きそう?」

 

割り込んできた声は、間違いなく葛木のものだった。

 

「長引かないなら、須貝に用事があるんだけど」

 

木下さんは葛木にそう、と一言だけ返し、黒板の方へ向き直る。俺は葛木に連れられて廊下へと向かった。

 

「…そろそろ授業始まるけど」

 

俺が声をかけるも、葛木はそれを無視して進んでいく。どこに行くんだろうと思いながらも、俺は着いていくことにした。

 

「何話してたの」

 

葛木は廊下の角で立ち止まり、振り返って聞いてきた。俺が事細かに説明すると、葛木はうんざりしたような顔をする。

 

「…ほんと悪趣味。好きにさせてくれればいいのに」

 

別に無視していいから。ていうか無視して。そう言い残して、葛木は去っていった。…あの二人、仲が悪いのかもしれない。

 

まぁ、死生観だって人それぞれの価値観なわけで、それがすれ違ってしまうこともあるだろうと思う。俺が川原の死を忘却によって乗り越えようとしている人達に不快感を示しているように、川原の死に積極的に触れに行くことを良しとしない人間もいるだろう。

 

どれもこれも、死んだ人間に対する勝手な妄想であることは間違いないわけだけど。結局のところ、死人に口はないから。だからこそ俺達はその原因を探っているし、木下さんはもう触れないであげて欲しいと思っているのだろう。

 

そんなことを考えていて、一限目に遅刻した。俺の頭の中からは、授業のことなんて飛んでしまっていたのだ。

 

「…円歌、怒ってたでしょ」

 

教室に入って一通り怒られ着席すると、すぐさま木下さんが話しかけてきた。

葛木のことを下の名前で呼ぶあたり、別に仲が悪いというわけではなさそうだ。…共通の知人、みたいな感じなのかもしれないな。一緒にいるところはあまり見たことがないから。

 

「まぁ、多分ね。勝手にさせてくれってさ」

 

木下さんはくすくすと笑う。

 

「別に勝手にすればいいと思うんだけど、須貝くんを巻き込むのは違うなーと思って」

 

葛木の方をちらりと見ると、真剣にノートを取っているようだった。

 

「二人はどういう関係なの?」

 

俺の問いに、木下さんは少し考える。

 

「部活が同じなの。私と、円歌と、春歌は」

 

そういう繋がりか。俺は納得して、そろそろ消されてしまうだろうなぁという板書を書き留め始める。

 

「まぁ、もう出てないんだけどね」

 

ノートを取りながら、木下さんはそう言った。…まぁ、そうだろうなと思った。部活の仲間が自殺してしまって、それでも出続けるというのはなかなか厳しいものがあるだろう。

 

「先生も無理して来なくてもいいって言ってくれたし…受験もあるし」

 

ため息をひとつついて、木下さんは続ける。

 

「…進んでいくんだよ。あの子以外、全部の時間がさ」

 

今日という日も、明日も、明後日も。俺達の時間は止まらずに進み続ける。いくら戻ろうと足掻いてみても意味がないと分かっているから、その流れを受け入れている。…そう、川原の死も、もう戻れない過去で、残ってしまった結果だ。

 

「だから、前を向いて生きるべきだと思うの。…忘れるとか、忘れないじゃなくて」

 

今は自分のやるべきことを。ね?そう言って、木下さんは寂しそうに微笑んだ。何か声をかけるべきなんだろうか。そんなことを考えているうちに、あっという間に授業は終わってしまった。

 

休み時間になり、いつも通り自販機にジュースを買いに行く。何となく同じジュースを買って、何となく席に着いて、何となく誰かが話しかけてきたり来なかったりして、何となく次の授業の時間になって…という日々の繰り返しが、今学期も始まるのだろうと思う。

 

その何となくの時間でできることは、もしかしたら俺が考えている以上に沢山あるのかもしれない。将来の為になったり、そう遠くない未来の為になることが。

 

それでも俺は、この習慣を変える気はなかった。当たり前に存在してくれるいつも通りが、俺にとっては大切だと分かっているから。環境が変わったり、状況が変わったりする度に、こういうルーティーンを大切に思うようになっていく気がする。

 

「お前、いつもそれ飲んでるよな」

 

同じクラスの有島に話しかけられる。あまり評判が良くないジュースを、俺は気に入ってよく飲んでいる。…そんなことを、他の誰かも知っている。別になんてことない日常のワンシーンだ。

 

「好きなんだよ、これが」

 

入っていてもいなくても変わらないような気の抜けた炭酸に、いくつかのフレーバーが織り成すただひたすらに甘味にステータスを振ったみたいな味。その出来損ない加減が、俺は好きだった。

 

「それ飲むと、歯溶けそうになるんだよな〜」

 

溶けねーよ。そう返して、二人で笑う。いつも通りだ。俺に友人と呼べる人間はあまりいないが、有島はそんな数少ない一人だ。夏休み中も何度か遊んだし、これから先も多分そうだろうと思う。…何かが起きなければ。

 

「どした?」

 

変な顔でもしてしまっていたのか、有島は俺の顔を覗き込んでいる。何が?と問い返すと、何でもない、とまた前を向いた。

 

「…なんか、悩み事でもあんのか?」

 

聞かれて、言葉に詰まる。ないといえばないんだろうし、あるといえばあるのだ。人の考え事なんて大体がそんなもので、自分の中では立派な悩みでも、人に話してしまった瞬間にお粗末なものに思えて仕方なくなる。

 

「ほら、夏休み中も何度か誘っても断ったりしただろ?ずっと心配だったんだよ」

 

あれはただ、葛木との用事があって…と言いかけてやめる。何だか面倒な噂とかになったりしてしまいそうだと思ったからだ。課題が終わらなかったんだよ、と言うと、なるほど、と納得される。…何となく罪悪感を感じる。

 

「まぁ、なんかあったら言えよ。友達なんだし」

 

おう、と返し、自分の席に戻る。…あいつはあいつで、怯えているのかもしれない。人の命は突然無くなってしまうものだし、明日なんか保証されてはいないということに。

 

クラスメイトの死というのは、近しい関係だったであろう木下さんや葛木だけでなく、特に関わりがなかったはずの有島にまで影響しているようだ。それくらいに人間は、当たり前を失うことに弱い生き物なんだろう。俺だって、ずっと怯えている。怯えているからこそ、習慣をなぞったりしている。

 

川原が残していったもの。それは喪失感や絶望感だけでなく、この変な焦燥感だってそうだ。何かしなきゃと思うから、意識的に何もしないを選んでいく。どこかぎこちなく、今日という日を演じている。須貝薊という人間を、このクラスでの立ち位置を、明日を信じている人間を。

 

本当に乗り越えなきゃいけないのは、こういう違和感なのかもしれないな。おそらくこのクラスの当たり前の活気も、空元気みたいなものなんだろうと思う。心の底から笑えるような出来事があっても、帰る頃には思い出していく。あの空っぽのスペースを、あそこにいた人間のことを。

 

こんなことも、繰り返せば慣れるものなんだろうか。慣れてしまえば楽なんだろうな。時というのは残酷なほどに早く、過去を過去にしてしまう。この感情から逃げ出す唯一の方法がここに居続けることだというのは、なんというか、ものすごく皮肉だ。

 

考えないようにすることだけが立ち直る方法じゃない。俺や葛木はそう考えて、できる限り時間を尽くして考えている。…じゃあ、木下さんはどうなんだろう。

 

ここでじっと耐え続けて、いつか心の底から気にしなくなる時が来るのを待っているのだろうか。…いや、そうじゃないから、俺に話しかけてきたりしたんだろう。本当は辛くて仕方ないはずだ。

 

同じように川原の死に囚われている人間でも、考え方が違えばアプローチの方法も違う。俺が彼女を慰めるためには何ができるか。そんなことを考えてみるのもいいかもしれない。

 

「木下さん、放課後時間ある?」

 

俺がそう聞くと、木下さんはびっくりしたような顔をした。…まぁ、それはそうだよな。

 

「ちょっと話がしたいんだ。葛木と三人で」

 

木下さんは戸惑いながらも了承してくれた。…あとは葛木を説得するだけか。葛木円歌という人間からは、何となく首を突っ込んで欲しくなさそうな雰囲気を感じるんだよな。最低限必要な人間以外とは関わりたくない、みたいな。俺もそのタイプだとは思うが、葛木はもっとその性質が強い。

 

普通に誘ったら、奇跡的に了承してくれたりしないかなぁ。

 

葛木に了承してもらうための誘い文句を考えているうちに、二時限目も終わってしまっていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15話

「なんで?」

 

俺が放課後の予定について話をすると、葛木は予想通りの反応をした。どう説明したら納得してもらえるのかは、あの後どれだけ考えても分からなかった。

 

俺の口から出る言葉に意味や影響力を持たせないように生きてきた弊害だろうか、人にお願いをするということが昔からずっと苦手だ。

 

だけど、これがもしかしたら大きな選択になってくれるかもしれない。今は気付かなくても、思い返してみればこの日から、なんてことがあるかもしれない。きっと考えすぎなのに、俺はその可能性を捨て切ることができない。…これもきっと、川原が遺してくれたものだと思うから。

 

…まぁ、俺が縛られ続けているだけだ。勝手に。

 

「いつまで友達でいられるかなんて、分からないものだから」

 

俺が絞り出した言葉で影響力があったのは、多分これだけだったと思う。俺はそれ以外にも色々な言葉を使ったが、やっぱりこれ以外はどうしても薄っぺらい音と響きになってしまう。

 

「…友達、ね」

 

含みのある言い方をした後、葛木は少し考える仕草をした。

 

「今回だけだから。これで分かり合えなかったら終わりだからね」

 

俺は一頻り感謝の言葉を述べて、放課後を待った。

 

…人間関係というのは、どうにも不思議なものだ。好きや嫌いといった一言だけでは片付かない何かがある。好きな人間にも嫌いな一面はあるし、更に言えばそれを上回る好きという気持ちの理由を説明できなかったりする。後に考えてみれば取るに足らなかった諍いひとつで、今まで積み上げてきたものが崩れてしまったりもする。

 

俺は正直に言って、恐れていた。自分自身の判断の責任を負うことを。ずれた歯車を直そうとして、よりどうにもならない状態にしてしまうことを。

 

だけどそれよりも、期待していた。この判断がいい方向へと向かってくれることを。

 

「…で、何の話するの」

 

ぶっきらぼうに、葛木はそう聞いてきた。木下さんもこちらを見つめ、俺の言葉を待っている。

 

「俺はこの間、川原が死んだ公園に花を供える女の子と会った」

 

二人は面食らったような顔をする。反論が来る前に、俺は続きを話してしまう。

 

「その子は『これで終わりにする』って言ってたんだ。辛いだけだから、って」

 

二人の表情は対照的になる。葛木は苛立った表情をしているし、木下さんは平然としている。

 

「俺は正直、なんとも思わなかった」

 

葛木は驚いたような顔をして、何かを言おうとする。俺はそれを制して、また話し始める。

 

「そういう人がいるのも仕方ないんだと思う。人によって、川原の死に対する見方は様々だろうと思うから」

 

…きっと、色々考えている。納得してしまう自分を否定したいから、納得してしまった誰かを否定しようとする。俺には、葛木の悶々とした表情はそう取れた。

 

「…でも俺達はそうじゃなかった」

 

木下さんの表情が少し曇る。葛木も、納得はしていなさそうだ。

 

「俺達は川原を、死んでしまった誰かにしたくない。木下さんは、早くそうなって欲しいと願っている。この考え方が変わらない以上、俺達が川原の話をするのは無理なんだと思う」

 

二人はお互いに目を配る。

 

「そしてその判断に、お互いが納得していない。それはきっと、どっちの考え方にも一定の理解ができるからなんだと思う」

 

すっかり静かになってしまったこの場に緊張しながらも、俺は話を続けていく。

 

「…だから、意地を張ることはないんだ。俺は俺、葛木は葛木、木下さんは木下さんで、川原のことを処理していけばいいと思う」

 

合わない考え方を否定する、その感覚こそが焦りなんだと思う。自分の判断が間違っていないことを証明したい、誰かにも認めてもらいたい、そう思うから、わざわざ口に出す。…二人とも、きっと自信がないだけなんだ。

 

「わざわざ嗅ぎ回ったりするのが無粋なのも分かる。忘れてしまうことが不誠実なのも分かる。そのうちどっちの比重が重いかなんて、人それぞれでいいと思うんだ」

 

…こんなことで言い争っても、川原が帰ってくるわけじゃないんだから。そう言いかけてやめた。今は、そんな話がしたいわけじゃないから。

 

「…でも、私は」

 

葛木が今にも泣き出してしまいそうな表情で話し始める。

 

「私は、春歌のことを忘れるなんてできない。きっと何かあったんだって思わないと、春歌が死んだなんて納得できない」

 

木下さんは聞いたこともないような、叫びにも近いような声で返す。

 

「納得なんて出来るわけない!」

 

俯いて涙を見せないようにしていても、その声には色んな感情が滲んでいた。

 

「どうやったって、春歌はもういない。その事に納得もできないし、この悲しみが消えてしまうこともない。できてしまった傷をずっと触り続けるような真似は、私にはできない」

 

葛木は対照的に、涙を隠そうとはしない。いつもとは違い弱気な表情になり、反論とも呼べないような言葉を紡いでいく。

 

「私だって、きっと同じくらい辛い。だけど、春歌が私達を捨ててまで死んだ理由を知らない限り、私は前を向くことなんてできない」

 

…きっと俺も、そうなんだと思う。川原は死んだ。俺達に何も告げなかった。その事実を受け止めきるには、死んでしまった理由が、何も言わなかった理由が、その何もかもが分からなすぎて。

 

「そんなの、知れるなら私だって知りたい!」

 

木下さんは顔を上げて言い放つ。

 

「でも…!私には、そんな勇気は出ない!」

 

俺も怯えている。川原が死んだ理由に俺達が含まれていたらとか、俺達に話していない重要な事柄があったらとか、それともそのどれでもなく、本当は誰にも興味がなかったのだとしたらとか。

 

「私だって怖いよ!」

 

葛木のこんな声や態度を見るのも初めてだ。…友達同士って、こういうものなのかもしれない。有島の顔が思い浮かぶ。

 

「それでも、それでも私にとっては皆大切なものだから…!それを捨てられるほどの何かなら、私達に言えないほどの何かなら、手遅れでも分かってあげたいの!私は…私は、ちゃんと後悔したい!」

 

二人はその後泣き通しで、話し合いになんてならなかった。だけど、蟠りがひとつ解けたようで、この二人に話をさせてよかったと心の底から思う。

 

葛木と木下さんは、言いたいことが言える関係性ではなかったのかもしれない。…いや、そうなってしまったのだろう。

 

それでも、お互い根の部分は同じだ。…川原の死を、受け止めきれないでいる。

 

もしかしたら、この間会った子もそうなのかもしれない。桐谷、なんとかさん。あの子だって本当は受け止められないから、わざわざ最後を誓いに来たり、俺に話しかけたりしたんだろう。

 

死んでから知る、川原の交友関係。俺はずっと驚かされっぱなしだ。あいつの人脈の広さとか、人望の厚さとか。…そんな人間でも、死のうと思って実行してしまうこととか。

 

それでも残された世界で、俺達は生きることを選んでいる。誰一人欠けることなく、進んでいくことを誓っている。そこに必要だと思う要素が、一人一人違うだけだ。

 

…帰り道、俺は久しぶりに一人になっていた。放課後の集まりを企画したから、有島は先に帰ってしまったし。久しぶりに一緒に帰るからと、葛木も木下さんと帰ってしまった。

 

最寄り駅について、改札を抜ける。東口から歩いて帰るこの道も、今日は何となく明るく見える。

 

こうして一つずつ、階段でも登るみたいに、川原の死を乗り越えられたらいい。あと何段あるかは分からなくても、生きている限り終わりはあるはずだ。

 

そう。生きている限りは。

 

思えば帰り際、俺の住むマンションの屋上を見るのも癖になってしまった。あそこから川原が飛んだ。その事実はいつでも俺の気持ちを重くさせるが、決意を新たにすることもできるから。

 

…え、あれって。

 

川原の死以降、閉鎖されてしまったはずの屋上には、誰かの人影があった。遠目からでよく分からないが、俺にはうちの学校の女子の制服に見えた。

 

俺は急いで駆け出す。頭の中は真っ白だった。ただ、ひたすらに屋上を目指して。

 

久しぶりに、自分の住んでいる階より上に繋がる階段を登った。…閉鎖といっても、ドアに鍵がかかっていたわけじゃなかった。それを知ったのも、今が初めてだ。

 

ドアを開ける。その音に驚いて、屋上にいた女の子は振り返った。

 

「須貝、くん?」

 

それは、あの時下の公園で話しかけてきた子だった。…しようとしていたことは、俺にだってすぐ分かった。

 

何で死のうとするんだ、生きて越えなきゃ意味がないじゃないか。

 

「…あぁ、やっぱり、止めに来るんだね」

 

彼女は上を見上げる。…その先の誰かに話しかけるように。

 

「私のことも、死なせてくれないんだ」

 

俺は今日、何人の泣き顔を見るんだろう。皆、一人の人間のことを想って泣いている。

 

「私はあなたのようにはできないし、なろうとすることも許さないんだ」

 

彼女は蹲って、一言放った。

 

「ずっと、大嫌い。死んだって許してやるもんか」

 

…俺はただ立ち尽くして、理解の及ばない彼女の言動を聞くことしかできなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16話

彼女は、それきり蹲ってしまった。…川原と同じ場所で、川原と同じように死のうとしたのに、川原のことが嫌いだというのは、どういうことなんだろう。質問しようにも、今はそんな空気感ではない。彼女が落ち着くのを待ってから、話を聞いてみることにしよう。

 

啜り泣く声を聞きながら、久しぶりに来たこのマンションの屋上を見回してみる。時代遅れにも開放されているこの場所が好きで、昔はよく遊んでいたのを思い出した。

 

ここに来なくなったのは、ここ以上に魅力的な場所を見つけたからなんだと思う。あの森の奥や河川敷といった場所に赴くようになったからだ。行動範囲が広がる度に、ここの重要度は下がっていった。

 

あの時よりも、空が近く感じる。その分、狭いとも思ってしまう。それは俺が大きくなったのか、それとも世界の見方が変わってしまったのか。俺にはよく分からないが、とにかくあの頃から変化した部分であることは確かだ。

 

彼女の横に座り込む。まだ泣いているようで、顔を上げることはない。…屋上を見回すことはできても、この下だけは覗き込むことができなかった。俺にとってその行為は、まだ生々しすぎるから。例えるなら、膿んでいる傷跡を弄り回すようなものだ。

 

彼女の啜り泣く声も、やがて止まる。それでも顔を上げることはなかった。

 

「…なんでここにしようと思ったの?」

 

俺が聞くと、彼女はぽつりと答える。

 

「あの子の関係者にとって、ここは特別だと思ったから」

 

まぁ確かに、少なくとも俺にとっては特別…というか、特殊な場所だ。来たいようで来たくなかった。彼女を見つけない限り、ここに来ることはなかっただろうと思うほどに。

 

「川原を恨んでる?」

 

その問いに、彼女は答えなかった。…やっぱり俺には、何も分からない。川原のことが嫌いだった。それなら、川原のいないこの世界を捨ててしまう理由なんかないはずだ。だったらその怒りは、他の何かに向いているんだと思う。川原本人というよりも、川原の死そのものとか。

 

「大切すぎたんだろうな、川原のことが」

 

俺がそう呟くと、彼女は顔を上げた。

 

「違う、そんなわけない、だって、だって私は…!」

 

そこまで言って、彼女はその先を言い淀んでしまう。俺はただ黙って、その言葉の続きを待った。

 

「私は…あんな嘘、つかれたくなかったのに…!」

 

彼女はそれだけ言い残して走り去ってしまった。俺はこれ以上追い詰めてしまいたくなくて、後は追わなかった。

 

嘘、という言葉が妙に引っ掛かった。それは彼女にとっての個人的な話なのか、それとも川原が死んだ理由に関係があるのか。それがどちらであっても、彼女には話を聞いてくれる人が必要なんだろう。…もし話を聞いてくれる人がいなくてこんな事をしたのなら、俺が聞いてあげたいと思う。なぜか、彼女のことは放っておけない。

 

それは恐らく、同情みたいなものなんだろうと思う。きっと彼女も傷付いて、訳が分からなくなってしまったんだろう。それを川原のせいだと言い切ってしまうつもりはないが、あいつが好かれすぎていたというのも理由の一つだろう。…本当に、死ぬべきではない人間だったんだな。

 

川原が最後に見たであろう空も、こんなに狭かったんだろうか。どこまでも広がっているように見えても、その全てを巡ることができるわけではない。いつの間にか手の届くものしか見えなくなってしまったということなんだろう。…きっと本当は、昔よりも広く見えるべきなんだ。手の届かないものへの憧れを捨ててしまうべきではない。

 

屋上を後にする。…日が落ちると、冷たい風が肌に染みる季節になった。夏が終わって、秋になる。好きな季節のはずなのに、どうにも今日はその風を心地いいとは思えなかった。

 

心も、気温も、天気まで下り坂だ。俺の心を写し取ったような雨粒が、外付けの階段を隙間なく濡らしていく。

 

やっぱり、気分は晴れない。今日解決したはずの悩みとは違う悩み事で、頭を埋められていく。…死んでしまったことを、恨めしいとすら思うほどに。

川原春歌という人間の人生は、俺のそれよりどのくらい濃いのだろう。知れば知るほど、存在自体が大きくなっていく。

 

部屋の鍵を開ける。少し雨に降られてしまったし、早めに風呂を沸かしてしまおう。…風呂に入ったら、何もせず寝てしまおう。済ませていない買い物も、終わりがないように思える悩み事も、全て忘れて。

 

…目が覚める。一晩寝たら気分も晴れるかと思ったが、晴れ渡ったのは外の天気だけだった。朝日って、どうしてこんなにも眩しいと思うのだろう。カーテンを開けながら、そんなどうでもいい事を考える。

 

昨日買い物をしなかったので、今日は朝ご飯がない。行きがけに何か買おうと決めて、それならばと早めに家を出る。…現場検証も、そろそろ終わりなんだろう。河原の死に場所の黄色いテープは撤去されて、見た目には普段通りの公園に戻った。

 

ここに活気が戻るのも、時間の問題だと思う。人の心の傷や悪い印象というのは、だんだんと洗い流されていく。波に打たれて削り取られていく岩のように。

 

俺自身の意識だって、きっとそうなっていく。屋上から下の公園を覗き込めるようになって、公園にも立ち入れるようになって、心の底から笑えるようになって…いつか他の人を、好きになるんだと思う。

 

そうなる前に、早く解決してしまいたい。川原春歌という人間の一生について。場所をここにした理由も、その若い命を散らしてしまった理由も、未だ何一つ分かってはいない。…この熱量が続くうちに、俺は川原春歌を理解することができるだろうか。しなければならないんだ。そう決意を新たにして、いつもよりも早い電車に乗り込む。

 

「…あれ、早いね」

 

同じ車両には偶然にも木下さんがいた。挨拶を返して、手すりを掴む。

木下さんは読んでいた文庫本を閉じた。

 

「いつもこの時間なの?」

 

俺が聞くと、木下さんは頷いて答えた。

 

「早起きな割に、上手な朝の時間の使い方は分からなくて」

 

確かに俺も、朝は苦手だ。低血圧で頭は回らないし、それでも時間は待ってはくれないし。

 

「…まぁでも、今日は須貝くんに会えたからいいか」

 

木下さんはそう呟いて、目線をこちらに向ける。

 

「昨日はありがとう、須貝くん。おかげで仲直りできたよ」

 

俺はどう返したらいいか分からなくて、目線を逸らすようにしながら、どういたしまして、と一言だけ言った。そんな様子を見て、木下さんはくすくすと笑った。

 

「昨日はあんなに真っ直ぐな目をしてたのに。変な人だね」

 

その言葉をどう解釈したらいいかは分からないが、とにかく昨日は必死だったのだ。二人の関係が崩れてしまわないように、これ以上悪い思い出になってしまわないように、俺達は俺達なりに、前を向いて生きられるように。…そうでもない限り、素の俺なんてこんなものだ。

 

「まぁ、俺なりに頑張ったんだよ」

 

俺がそう返すと、木下さんは少しだけ俯いて、本当にありがとう、ともう一度お礼を言った。なんだか照れ臭くて、返事はできなかった。

 

最寄り駅について、コンビニに寄る俺と学校へ向かう木下さんで進路が別れる。木下さんのまた後でね〜という声に、手を振って返す。

 

コンビニって本当に、選択肢が多すぎる気がする。パン売り場の前で、俺はずっと悩んでいる。ジャム&マーガリンか、つぶあん&マーガリン。双方にそれぞれの良さがあるが、こういう甘いパンを2つも食べると、どっちの味もぼやけてしまう気がする。…悩みながら、俺は木下さんと会えてよかったと思っていた。電車に乗り込むまで重苦しかった気分が、少しだけ晴れやかになったから。

 

今日も一日、後悔のないように生きよう。そう考えて、俺はメロンパンを手に取った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17話

陽の光が世界を照らし、まだ暑さの残る風が枝を揺らす。青々しかった木々も、これから紅く色付いていくのだろう。世界は少しずつ、秋へと歩み始めていた。

 

俺はあと何度、時間の経過を肌で感じるのだろう。そんな気もないのに進み続けるのは、やはり辛いものだ。

 

校門まであと数分の道を歩きながら、俺は昨日のことを考えていた。

やはり最後に聞いた、嘘という言葉がどうにも引っ掛かる。あんな嘘をつかれたくなかった、という悲痛な叫びの意味が、俺には分からないから。

 

もしかしたら、俺達の知らない川原のことを、あの子は知っているのかもしれない。…だからといって、わざわざこちらから話を聞きに行こうとは思わないけれど。

 

俺達は残された者として、前を向かなければならない。それは、生きていくなら嫌でもそうしなければならないということだ。

つまり、死のうとしていた彼女にすぐに話を聞きに行くというのは、得策ではないということだ。

 

彼女には、希望が足りなすぎる。話を聞く限り裏切られたと思っているのだろうし、それなりに生きる理由も失くしてしまったように思う。だから、本当は休む時間が必要なんだろう。

 

人が死にたいと思う時、それは別に、望みが絶たれてしまったとか、そういった事態に直面した時だけではない。そもそもが望みを持っていなかったり、先天的に近い優劣によるものも大きいのだと思う。

 

そんな時は、自分と向き合うことだけが答えではないと思う。休んだり、先のことを考えないようにしながら、とりあえず今日を生きてみる。そんな時間が、必要なんだと思う。それが根本的な解決に繋がらないとしても、死んでしまえば解決どころではないのだから。

 

逃げるな、投げ出すな、という言葉を真に受けた先の、とにかくただしがみつくだけの生活の先に待ち受けるのは、きっと劣等感だけなんだと思う。

 

彼女は、川原と自分を比べすぎている。だからこそ、わざわざ同じ場所で、同じ死に方をしようとしたんだ。

きっと彼女にとって、川原はよくできた人間だったんだと思う。そんな人間でも生きていけないこの世界に絶望するのは仕方のないことだ。

 

俺だって、本当は生きているのが怖い。川原がどんな壁にぶつかってしまったのかは分からないが、川原でも乗り越えられなかったその壁を目の前にした時、俺は生きていられるだろうか。そんなことを考えるのが、怖くて仕方ない。

 

…葛木も、もしかしたら木下さんも、そんな不安に襲われているかもしれない。その予感が的中した時、俺は何かの足しになれるだろうか。いや、ならなければいけない。

 

もうこれ以上、誰かを死なせたりはしない。…何だか現実的ではないセリフのような気がするが、それでも死というものは、いつでも生と隣り合わせだから。

 

学校に着いて、自分の席に座る。今日は比較的、人が多いように思えた。…というよりも、それだけ活気を取り戻し始めたのだろうと思う。

 

「おはよ。今時間ある?」

 

葛木に話しかけられ、俺は頷く。基本的に、時間がない時なんてない。そう生きてきたから。

 

「…あのさ、桐野まつりって知ってる?」

 

桐野、まつり。一瞬その文字列に疑問符がついたが、すぐに思い出した。昨日死のうとしていた子だ。危うくそう口走りそうになって、俺は声を出さずに頷いて答える。

 

「昨日連絡が来たんだけど、須貝と話がしたいみたい。時間があったら3組に来てってさ」

 

…そんだけ。じゃあね、と去っていく葛木を見ながら、俺の昨日と今日の悩み事を返して欲しいとすら思った。いや、葛木が悪いわけではないのだが、しばらく時間を置いて話しかけようと思っていた俺としては、これが降って湧いた好機だという認識よりも、呆気ないという感想が先に来てしまう。

 

まぁ、向こうから話してくれるのならばそれでいいか。別に追求しようというわけでもないんだし、こちらから何か言わずとも話したいことがあるのなら、それはそれでいいことなんだろう。…葛木の連絡先を知っているのに、なんで俺に話を聞いてもらおうとするのかはいまいち分からないが。

 

とにかく始業時間まで余裕があるので、一度3組に行ってみることにした。よく知らない教室というのは謎の緊張感があるもので、俺はそれが嫌で嫌で仕方がない。知っている顔を探してみるも、部活にも所属していない俺に自分のクラスの人間以外の関わりはない。…これじゃただの不審者だ。

 

「…あ、おはよ」

 

後ろから話しかけられて、飛び上がりそうになるほど驚く。その声の主は、桐野まつりだった。

 

「おはよう。話って?」

 

こういう風に言葉数を少なくして話しかける時、冷たい印象を与えなかったかどうかを心配してしまう。自分でも嫌な癖だと思うのだが、持って生まれた性質というやつなので仕方がない。

 

「ここじゃあれだから、中庭行こっか。ちょっと待ってて」

 

それだけ言って、彼女は教室に入っていった。どう待っているのが正解なのかな…と若干手持ち無沙汰になる。

 

「お待たせ」

 

彼女の後について、中庭へと向かっていく。

…中庭といっても、この学校のそれは広いとは言えない。ベンチが置いてあって、自販機が設置してあるだけの、旧校舎と新校舎の狭間とでも言うべき場所だ。

 

ただ、わざわざそこに行こうと誘ってくるということは、この話は内密にして欲しいということだろうと思う。

 

「…春歌のこと、どう思ってた?」

 

突然聞かれて、俺は動揺する。

 

「いや、変な意味じゃなくてさ。好意的だったかどうかとか、そのくらいでいいんだけど」

 

それなら、俺は川原春歌という人間を好意的に捉えていた。輝かしい、欠点らしい欠点のない人間だと思っているし、それは今も変わらない。

そう答えると、彼女は満足そうな表情をする。

 

「私もそう思ってた。なんていい人間なんだろうって」

 

でも…そう呟いて、彼女は俺から視線を外す。どこを見ているかは、俺には分からない。

 

「…でも、そうじゃなかった。空っぽだったんだよ、あの子」

 

言葉の意味を理解できないでいる俺に、彼女は事実を突きつけるような話し方をする。

 

「あの子には、目標も夢も…そういうものが、何にもなかった」

 

俺の知らない川原の一面。それは俺の持つ川原像とはかけ離れすぎていて、誰か別の人の話を聞いているかのような錯覚に陥る。

 

「あの子ね、私には夢があるって言ってたの。だから頑張れるし、だから生きていられるって」

 

かと言って、川原の目標や夢を知っていたわけではない。

 

「だから私も、夢や目標を作ろうって頑張ってた。あの子になりたかった」

 

俺は頷いて答える。川原のようになりたいと思うこと、それ自体は間違っていないと思う。目標や夢を、川原に据えたということなのだろう。

 

「でも、それが上手く回り始めて、あの子は私に言った」

 

その先の言葉を、俺は一生忘れることがないと思う。

分かったつもりになっていた。川原春歌という人間の、何割かは理解できたと思っていた。

 

でも、そうじゃなかった。…俺達は、川原という人間を見誤っていた。というより、川原は上手に自分のことを隠していた。

 

「…私は何の夢も目標も持てないんだって」

 

俺は何も知らなかった。…おそらく、葛木も木下さんも。それは川原がそう振舞っていたというのが大きいのだろう。それでも、俺達にとって、それは裏切られたと思ってしまうに足る理由だった。

 

川原春歌という人間について、知っていることが増えた。それがプラスかマイスかは分からないが、とにかく。

 

川原の死因について、大きな部分が解明されつつあることだけは確かだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18話

生きている心地がしなかった。重大な秘密を分け合って、それがどこかの誰かに触れられてしまうことを恐れている。

大事に、それでいてきつく、その秘め事を抱きしめている。

 

通過する快速電車を眺めながら、ただひたすらに各駅停車を待つ。…いつまで、俺はここにいればいいのだろう。

 

未だ服は夏服のままで、涼しくなる予報もなくて、この温度感も陽射しも、そしてこの事実を抱え続ける時間も、永遠に続くような気がしてしまう。

 

前にも、後ろにも、進める場所はなくなってしまった。…共犯、その言葉が似合うような、そんな非日常。

目の前を通り過ぎる人の波を、ただ無感情に視界に写し続けていた。

 

結局、誰にもこの話をすることはできなかった。俺は桐野まつりと一緒に、川原の抱えていたものを黙っていることになってしまった。

 

なぜ川原は、彼女にだけ秘密を打ち明けたのだろう。あれだけ仲の良かった葛木や木下さんでなく。

 

自分への憧れの強さとか、なんだろうか。憧れられるほどの人間じゃないということを強調したかったのかもしれない。…でもそれなら、伝える必要はないんじゃないかとも思う。黙って死んでしまってもよかったのではないか。

 

そこが、俺が引っかかっている点だった。きっと何か思い残していることがあって、それが溢れてしまったタイミングに、たまたま彼女が存在していた。そういう説明が、一番しっくりくると感じた。

 

その思い残していることというのが一体なんなのか、それが今後の争点になりそうだ。…こんな風に少しでも前向きに考えていないと、感情の波に押し潰されてしまいそうだった。

 

俺はこれからどうして行くんだろう。一歩進んだはずなのに、目の前はより見えなくなってしまった。どこまでも歩いた先にすら、ゴールはないように思えてしまうほど。

 

…目の前でドアが閉まった。待ち続けていた各駅停車を見送る。何とも言えない行き場のなさは、今の心境とぴったり一緒だ。

 

「まだ帰ってなかったの?」

 

声に驚いて、俺はぱっと振り向く。そこには、葛木と木下さんがいた。

 

「ギリギリ間に合わなくてさ」

 

へらへらと笑って返す。…何も隠していなくても、俺は常にこんな態度を取るだろう。期待通り俺の態度に特に疑問を抱かなかったようで、葛木はベンチに座った。

 

逃げ出したい気持ちだ。後ろめたさを抱えたままいつも通り接しなければいけないのも、それを嫌って自分から秘密を打ち明けてしまうのも、どちらも選べないままでいる。俺の頭では、最善策は逃げること、それしか思い付かない。

 

葛木はともかく、俺は木下さんに隠し通せる気がしない。一日中隣の席にいて、気が気でなかった。賢さというより鋭さというべきか、そういう部分が他の人間より優れている気がする。…まぁそれだって、俺と関わりのある人間、という少なすぎるグループの中では、の話だけれど。

 

この場から逃げ出す方法を必死に考えていると、突然誰かに肩を叩かれる。

 

「ねぇ、今日の放課後って暇?」

 

そこにいたのは、桐野まつりだった。助かった。そう思って、逆方面の電車に乗り込む。

 

「…はぁ」

 

安堵のため息をつく。俺のそんな様子を見て、桐野は少し申し訳なさそうな顔をした。

 

「やっぱり、聞かない方が良かったと思ってる?」

 

不安げに聞かれる。…実際、どうなんだろう。これを知らないでいたら、俺は川原の死の真相に辿り着けただろうか。川原がこの世界を見限ったことの理由を説明するには、必要不可欠な情報だったことは確かだと思う。

 

だからいつかは、この話を葛木や木下さんにもしなきゃいけない。その時が来るまで黙っていなきゃいけないこと、俺にとって辛いのはそれだけだった。

 

「でも、抱えたままの方が辛かったでしょ」

 

俺がそう言うと、桐野は驚いたような顔をした。…俺にはその理由は分からなかったけれど、その後は会話らしい会話はなかった。もしかしたら、選択肢を間違ってしまったのかもしれない。

 

それはそれで、と思う。

きっと全部上手くいくことなんてないし、何より人生に取り返しのつかないことはそう多くない。明日でも明後日でも、そのうち忘れてしまえるほど、感情というのは一過性のものだ。明日が保証されていない、ということが、唯一のネックではあるけれど。

 

自分の家とは逆方面の電車には、久しぶりに乗った。知らない景色が広がっていることに、何となくワクワクしたりする。…そんないいものではないかもしれないが、とにかく見慣れない景色というのは、何となく気分を浮つかせるものだ。それがこんな状況であっても。

 

…だから、死んでしまう前に旅をしたり、そういうことに一定の共感ができる。何を見て、何を学んで人生を終えるのか。それを選ぼうとするのはきっと生きる意志であり、その人が生きた意味であり、そして人生を終える価値だから。

 

こんな近場の風景すら見たことがない俺がそう思うのは、何となくズレている気がするけれど。

 

「…私、次の駅で降りるんだけど、どうする?」

 

どうする?と聞かれても、俺にはそこで降りるしか選択肢はない。この先に目的地は存在しないし、何より連れて来られたから電車に乗っているだけなんだから。

桐野まつりという人間は、変な所で遠慮がちで、変な所で大胆だ。それが何日か関わってみた感想だった。

 

別に悪口ではないのだが、突発的に動いては動いてしまってから物事を考える、活動的な人間だという気がする。…動き始めたら成り行き任せになりがちな俺とは真逆のタイプだ。

 

この間屋上で会った時も思ったが、彼女の場合衝動性というか、今自分の中で一番強い感情に対して真っ直ぐなんだと思う。…その場所に来てみて、後悔なんかをしたんだろう。きっと俺が止めなくても、桐野は死んでいなかった。今になって思えば、という話だけれど。

 

降りた駅は、当たり前だが全く見覚えのない街だった。俺の家の最寄り駅より、だいぶ発展して見える。商業施設が立ち並んで、駅ビルすら存在している。

 

「須貝くんは一人暮らしなんだっけ?」

 

そう聞かれて頷く。

 

「…やっぱり、寂しかったりする?」

 

随分と意外な返事だ。いいなぁ、と言われることはあっても、寂しいかどうかを心配されたことはなかった。まぁ少しは、と返すと、たまに遊びに行くね、と言われる。…別に面白いものがある訳でもないんだけど。

 

「須貝くんにとって、春歌ってどんな人だったの?」

 

この手の質問は、川原が死んでから割と聞かれるようになった。意外に俺と川原がそこそこ関係値があるということを知っている人は多くて、心配なのか同情なのかよく分からない目を向けられることも多くなった。…気分が悪い、というわけではないと思うのだが、何だか複雑な気分になる。

 

「…まぁ、大事な人だったよ」

 

こう答えることにも、ようやく慣れ始めた。その人にとって川原がどういう人物だったのかとか、俺は川原に対してそんなことを言えるほど大事にしてきたのかとか、そういうことに気を使わずに答えられるようになった。

 

それを成長と呼べるかどうかはまた別の話だと思うが、俺としてはそれでよかった。自分がどう思っていたか、結局はそれが一番大事なのだから。

 

「そっか」

 

そう言って、桐野は少し笑う。…自分と川原を比べて、あぁやっぱりあいつは凄い奴だったんだと思う、そんなことにも俺は慣れてしまったが、桐野はそうでもないようだ。

 

きっと川原が死んでから、桐野は桐野で苦悩を重ねてきたんだろう。重ねに重ねた結果、同じように死にたいという願望を抱くようになってしまったんだ。

 

それが現実になる前に秘密を打ち明けてくれたことも、それを止める役目が俺だったことも、俺は有難いと思っている。…きっと、後処理は俺の役目だったんだよな。

 

空を見上げる。どれだけ暑くても、もう太陽は沈みかけている。…夏も、必死にもがく日々も、全て過去になってしまえばいい。やがて忘れることはプラスじゃないとしても、それは避けられない運命というやつだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19話

燃えるような夕焼けの色が、地面を塗りつぶしていく。チャイムが鳴れば子供たちは焦り始めて、ここはやがて誰もいない真っ赤な空間になっていってしまう。

 

懐かしい光景だ。記憶の奥底を刺激される…とまでは行かなくても、こんなことをして遊んでいた頃もあったなぁと、楽しかった思い出と寂しさが同時に押し寄せてくるような複雑な気持ちに襲われる。きっとこれが、感傷というやつなのだろう。

 

今の俺は、どうしてこの頃みたいに笑っていられなくなってしまったのだろう。明日が楽しみで仕方がなかった頃に戻りたい。そんな風に思う。

 

今が幸せじゃないから、過去が愛おしくなるんだろうな。きっとあの頃に戻れたとしても、今の俺になっていくのは変わらないだろうと思う。どこかで道を間違えたというよりは、緩やかにここに落ちてきたんだ。

 

「何やってんの〜!一緒に遊ぼうよ〜!」

 

桐野は小学生のようにブランコを漕いでいる。あまり関係者と思われたくないな、と思うが、制服を着ている時点でそう見えるのは避けられないだろう。仕方なく隣のブランコに腰掛ける。

 

「…これって何の時間なの」

 

遠慮がちにブランコを漕ぐ俺とは対照的に、桐野は昔見たアニメのオープニング映像のような勢いで漕ぎ続けている。そして勢いをつけて飛び上がり、遠くの方に着地した。…小学生でも怒られる遊び方だ。

 

「別に、ただ遊びたかっただけだよ。郷愁、ってやつ?」

 

それは俺も感じたが、聞いているのはなぜブランコを漕いだのか、ではない。なぜこの公園に来たのか、という話がしたいのだ。

 

「ここ好きだったんだよ。春歌が」

 

なんで好きかなんて聞かなかったけど。そう言いながら、桐野はブランコの脇に置いた鞄を取る。…最初からベンチに置いておけば、底に着いた砂を気にしなくてもいいはずなのになぁ。

 

「思い出の場所とかでもなかったみたいだけど、たまに遊んだらいつもここに連れてこられてた」

 

見渡す限り、普通の公園だ。思い出になるような何かがあるとすれば、その普遍性くらいのものに見える。錆びついた金属製の遊具と、朽ちている部分のある木製の遊具と、雨の染みが一点だけ消えないで残っているベンチ。

 

何の整備もされていないことは、一見悪いことに見える。しかし実は、そういう地域こそが子供の遊びに文句を付けない地域なのだろうなと思う。子供がゲームばかりして、と言う割にボール遊びを禁止するような地域の公園は、もっと遊具が少なくて芝生が整備されているような気がする。

 

「…まぁ、私も何となくわかるよ。この公園の良さというか、ここに来たくなる意味が」

 

想像もつかない側と、何か思う所がある側。葛木や木下さんは、どちら側に立つことになるのだろう。…俺は、ここが特別な場所には見えなかった。その違いが桐野と俺の違いで、生前秘密を打ち明けられた人間とそうでなかった人間の差なのかもしれない。

 

…でもこういうものって、説明されなくても理解できるから価値があるし、逆に言えば説明できるようなものじゃないんだろうなぁ。寂しさというか、疎外感というか、そんなものを感じる。

 

「暗くなるの、早くなったね」

 

どうでもいい話を振ってみる。…少しでも近くに感じたかったのかもしれない。葛木が世界を分け合おうと思えた相手を。

 

「別に活動時間が変わるわけじゃないのに、なんか寂しいよね」

 

何となくの当たり前を分け合いたいと思う。価値観の擦り合わせでもなければ、理解を深めるためでもない言葉を交わす。これを繰り返したところで何か変わるわけでもない。

 

つまるところ、自分と相手の感覚が同じ言葉で表せるということ、そこには意味があるんだろうと思う。理解が及ぶ人間であるということ、同じ価値観を持っている人間であるということは、交流をする上で非常に大事なのだ。

 

ブランコから立ち上がる。俺が降りてからも少しの間揺れていたそれも、しばらくして止まった。

 

「…もう少しだけ、お話しない?」

 

完全に帰る気でバッグを手に取った俺に、ベンチに腰かけた桐野は言った。

俺は頷いて、ベンチの端に座る。

 

カラスが鳴いている。あんなに赤かった世界は、だんだんと闇に包まれ始める。建物も、自然も、輪郭が分からなくなり始める。あの頃感じていた焦燥感みたいなものは、今はもう感じなくなった。そんなことすらも、寂しいような気がしてしまう。

 

「そろそろ、今日も終わるね」

 

…まぁ、まだ時間はあるけど。そう思いながらも、俺は頷いて話の続きを待った。

 

「春歌だけが、取り残されていく」

 

桐野は遠くの方を眺めて、何かに思いを馳せている。…やっぱり、まだ乗り越えられるようなものではない。当たり前だけれど。

 

「…桐野は、どうしたいんだ?」

 

俺は色々な意味を込めて聞いた。俺に秘密を打ち明けたことも、今日こうしてこの場所にいることも、不思議なことだらけだ。

 

「分からないよ。まだ、何にも」

 

でも…。桐野はそう言って、こちらを向いた。

 

「今までだって、ずっと何も分からなかったわけだし。頑張ってみようって気になった」

 

…確かに。川原がいたとしても、俺達の人生はまだ分からないことだらけだ。暗闇の中を歩いていくしかないし、そこに光を灯すしかない。俺達は俺達の人生のことを、誰かや何かのせいにしてしまうわけにはいかない。

 

「その為には、抱えられないものは誰かと分け合わなきゃなって思ったの」

 

あの日死のうとした彼女と、今ここで話している桐野は、同一人物のようには見えない。先のことを考えるようになってくれて、本当に良かったと思う。

 

どうしてか、悲しみは連鎖するものだ。どこかで誰かが止めるまでは。…俺がそのどこかを見つけられたことも、誰かになれたことも、全くの偶然だったけれど。

 

「…須貝くんには、迷惑だったかもしれないけどね」

 

桐野は苦笑いをしてそう言った。

 

「別に、迷惑なんかじゃないよ」

 

俺は心からそう返す。川原を失った悲しみは、痛いほどよく分かる。よく分かるからこそ、分かち合いたいと思う。抱えきれないと言うのなら、一緒に抱えてあげたいと思う。

それは善意とか優しさというよりは、きっと我儘なんだと思う。

 

桐野や葛木や木下さんが幸せになった時、俺はそこにはいないだろう。幸せに寄り添えるほど、それを理解していないから。でも、不幸だけはずっと隣に居座り続けていた。だから、俺が分け合えるとすればそれは、そんなマイナスな感情だ。

 

…俺なんかが人にとって役に立つことができるとすれば、それは今しかない。同じ悲しみを抱えている、この瞬間しか。

 

「…辛いことがあったり、話を聞いてほしかったら、いつでも呼んでよ」

 

そう言って笑ってみる。…上手く笑えていると思う。桐野も笑ってくれた。

 

ベンチから立ち上がる。まだ6時を過ぎた所だと言うのに、辺りはもう真っ暗だった。街灯がわずかばかりの範囲を照らして、帰り道を指し示していた。

 

「ね、明日も来ようよ、ここ」

 

桐野は楽しそうにそう言う。

 

「いいよ」

 

俺がそう言うと、桐野は笑った。…こんな日々を繰り返していれば、いつか俺達は救われるだろうか。救われる、というのが何を指す言葉かも分からないが、少なくとも自分自身の死を身近に感じてしまわないようになれているだろうか。

 

そんなことを考えているうちに、駅にたどり着いてしまった。まだまだ電車は混んでいて、部活帰りらしき高校生が楽しそうに会話をしていたり、サラリーマンが携帯を取り落とすほど深い眠りについたりしている。

 

皆生きているんだ。そんなことが、何となく嬉しく思える夜だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20話

人々が生を実感する瞬間というのは、案外活動をしていない瞬間だったりすると思う。お風呂に入ったり、ご飯を食べたり、ベッドに横になったり。言い換えればオフである時間に、生きているんだとぼんやり思うもので。逆に言えば、活動をしている時間はそんなことも考えないほど、当たり前に生を享受している。そんなことを、布団の中でぼんやりと考えている。

 

いくつになっても、朝は頭が働かない。起き上がるでもなく、かと言って二度寝をするでもなく、ただじっと横になっている。時々襲い来る眠気の波と戦うことだけが自分の使命だとでも言うように。

 

起きているだけでは意味がない。刻一刻と時間は進んでいくし、そうなれば遅刻の可能性も高まっていく。それは分かっているのだが、いかんせんゆとりのある生活とは無縁なようで、朝日が射し込む天井を眺めたりしている。

 

…こんなことをしていても仕方ない。そのくらいの判断ができるくらいは頭が回るようになったので、俺はゆっくりと布団から出る。

 

立ち上がっても伸びをしても、眠気は覚めない。何時間寝てもその感覚が変わらないことに不満を抱く。

 

洗面台の鏡で見る寝起きの自分は、いつものことだが不機嫌そうで、何にも興味がなさそうで、世の中がどうでもよさそうな顔をしている。所々跳ねた寝癖を手で抑えたりしながら、そんな不機嫌顔と向き合ってみる。

 

何を考えて、何を気にして、何を大切にして生活しているのか、自分自身のことなのに分からなくなることがある。脳を言語化したり、分泌している物質を解析したりして、客観的に自分を理解したいと思う時が。…そんなことはできやしないから、この先も俺は苦悩を続けるんだろうけど。

 

そんなどうでもいい物思いに耽っている間に、制服のボタンは一番上まで留まっていた。こうなってしまえば後はもう、外に出るだけだ。その外に出るだけ、が一番難関なんだけど。

 

できたら、こうやって無意識のうちに終わってしまうことだけをやって生きていたい。考えて考えて、それでも失敗して、また失敗しない方法を考える…というのは、終わりのない迷路を歩き続けるようなものだと思うから。それでも、そうはいかないのが人生というものだということを、まだ十数年しか生きていない俺でも身に染みて分かっているから、今日も考えるために外に出るのだ。

 

気温もだいぶ落ち着いてきて、ついこの間までまだ夏なのか、と嘆いていたのが嘘みたいに快適な日差しの下を歩いていく。まだ回らない頭では、景色なんかに感慨はない。…いつも前を通る、あの公園を除いては。

 

段々と子供達も遊ぶようになったあの公園に、俺は未だに立ち入ることができていない。川原のことを知りたいと言いながら、川原が人生を終えた場所に踏み込もうと思えない。何かあるわけじゃないし。そんな言葉を言い訳にして、今日も公園を避けた。

 

それでも、ずっと入れないわけではないと思う。川原の死がある程度消化できるようになって、傷を触っても痛みを伴わなくなって、思い出が美しいものになった時、俺はここに入ることができるだろう。まずはそこを目指すべきだと思う。決意というほど重々しくはないが、今の自分を変えようとする意識。それを持つことはきっと、この先の人生にいい影響を及ぼすと思う。

 

駅に着く。サラリーマンと学生で溢れ返るこの箱の中は、何度味わっても苦痛でしかない。一つとして同じもののない話し声も、混ざりに混ざって鼻に届く匂いも、湿度の高いこの空気も、全てが好きになれないままでいる。…昼間はそんなことは思わないのに、なぜか朝だけはこんな文句が出てくる。眠気とか憂鬱さとか、そんなものが生み出す苛立ちが、矛先を向ける先を探しているのかもしれない。

 

かと言って、学校の最寄り駅に着くまではここから逃げ出すことはできない。吊り広告を眺めたりスマホを弄ったりしながら、少しでも意識を他のものに向けようとする。

 

いつになったら、俺はこういったものに慣れていくんだろう。受け入れて、許容して、それでも笑っていられるような人間になりたい。…そう願うだけで、それが叶うなら苦労はしない。受け入れたフリも許容したフリも、作り物の笑顔も耳障りのいい言葉も、変われない自分からの逃避だ。

 

電車を降りる。いつも通り、近くの私立高校の生徒とうちの学校の生徒がわらわらと階段を登っていく。学校までの道で、知り合いに会うことはなかった。そういえば久しぶりに、早くない時間に登校している。…ここ最近の自分がおかしかっただけで、これがいつも通りなんだけど。

 

教室にはもう木下さんがいた。なんだか久しぶりに、木下さんの隣に座った気がする。最近は俺の方が早かったから、木下さんが俺の隣に座っていたから。…まぁ、そんなに大幅な違いがあるわけではない。

 

「おはよ」

 

たまには俺から挨拶をしてみる。木下さんは笑顔で挨拶を返してくれた。

 

「いつの間にまつりちゃんと仲良くなったの?」

 

…やっぱり。聞かれると思った。俺は夏休みに公園の前で会った時のことを話す。これが話すようになった理由というわけではないが、別に嘘は言っていない。

木下さんも納得してくれたようで、人と話すのはいいことだよ、と年長者のようなことを言って会話を終えた。

 

やはり、抱えたものがあると日常生活は上手くいかなくなるものなのかもしれない。今日も、葛木とはまだ話していない。元々話していたわけではないので、少し前の関係性に戻っただけとも言えるが。

 

それでも、やっぱり声を掛けないのもおかしいなと思い、葛木に声を掛けてみる。…なんとなく人を寄せつけない雰囲気があって、用事もなく俺から話し掛けるのは気が引ける。

 

「今週の土日、どっちか空いてる?」

 

意外にも会話は弾み、休日の予定まで聞かれてしまった。…なんだか墓穴を掘っていっている気分だ。

 

「どっちも空いてるから、好きな方でいいよ」

 

こうして久々に葛木と休日を過ごすことが決まった。日曜日に会うことになったので、課題や買い物は土曜日のうちに済ませた方がいいだろう。

 

…呆気なく、一日は終わっていく。心配事というのは殆どが杞憂に終わるというが、まさにそれを実感した一日だった。そうして今俺は昨日と同じ公園にいて、まだ川原が人生を終えた現場に立ち入れないという話を、桐野に聞いてもらった。

 

「私も、まだ入れないかもなぁ」

 

平均台のような遊具を器用に歩きながら、桐野はこともなげに答える。それが当たり前のことであるように。

 

「でも、いつか入ろうね。私一人じゃできないかもだけど」

 

桐野は俺の顔を見て笑う。…そうか。一人で乗り越えようとする必要はない。桐野だっているし、葛木も木下さんもいる。あそこにたった一人で行く必要はないんだ。

 

なんでそんなことに気付かなかったんだろう。辛い時は頼ればいいんだ。お互いにそう考えているべきだし、一人で抱え込もうとすることが第二の川原を生んでしまうかもしれないと分かっているはずなのに、なぜか俺はそれを選ぼうとしていた。

 

「…確かにいつか乗り越えられるかもね、一緒なら」

 

一人でやらなければならないことなんて、この世にはそんなに多くない。分け合って、負担し合って、ようやく生きていられるのが人間なんだ。

 

遊具を渡り切ってこちらに向き直る桐野に、そう声を掛けてみる。

 

「うん、一緒なら、きっと」

 

桐野の一点の迷いもない目が羨ましい。俺もいつかこうなれる日が来るといいと思う。…ただ、今は。もう少しだけ、弱い自分でいるのも悪くない。そう素直に思えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21話

街風に揺らぐ木々が付ける葉も、赤く染まり始めている。今までの日々が嘘であったかのように、寒さで目が覚めた。おかげで準備が早く済んだので、冬服を出して見繕う余裕があったのだが。…とにかく、季節は着々と、冬に向けて歩み始めていた。

 

本日は生憎の曇り空だが、雨は降らないらしい。ただでさえも寒いのに雨まで降られたら外に出る気が失せるので、まぁまぁラッキー、くらいの感覚だ。曇りの時点で外に出たいわけではないが。

 

しかし一人でいると、今日のこの集まりには意味があるんだろうかなんてことを考えてしまう。葛木と過ごすことが嫌というわけではないが、葛木が知り得ない川原の秘密を知ってしまっている俺にとって、刑罰に近い時間になってしまうことは火を見るより明らかだ。

 

でも、来ないという選択肢は選べなかった。何か誘われて、大した理由もなく断るということがいつまで経ってもできない。ついでに言えば、改善すべきなのか、それとも今のままでいた方がいいのかの判断もつかない。だからこの問題は宙ぶらりんのまま、俺は俺の気が向くままに誘いを受けているわけだ。

 

待ち合わせの時間までは一時間半ほどあって、なぜこの寒い中こんな時間に外に出てきてしまったのだろうという自分への怒りが湧き始めた。いつものことだが、遅れるにせよ早く来るにせよ、計画性のない動きが多すぎる。…こんな状況になるまで何の疑問も抱かなかった時点で、次回以降も何も考えず外に出てしまうのだろうと思うけど。

 

寒いとは思うのだが、建物に入る気にはあまりならなかった。駅前のショッピングモールも喫茶店も、何となく一人で入る気にはならない。…そういえば、川原ともどこかに行ったことはないような気がする。河川敷だとか神社だとか、人口と自然の狭間みたいな場所には積極的に行っていたのに。

 

今考えると、あの頃の川原は根の部分が暗かったというか、俺のような人間とも話が合うほどに擦れていた、という印象がある。…高校生になってから、そんなことはなくなったんだけど。だからこそ俺は川原と関わることを控えていた時期があったし、川原も俺に絡んでこなくなったんだろう。

 

だとすれば、中学三年生から高校入学にかけてのタイミングで、川原には何か変化があったことになる。その変化が何なのかは、細かい部分までは分からない。俺の頭では、おおよそ何か大きな転換期だった、という誰でも思いつくような予測しか導き出せないままだ。

 

「須貝、早過ぎない?」

 

考え事をしている間に少しずつ時間は進んだようで、時刻は待ち合わせの一時間前になっていた。

 

「寒くて早起きしちゃってさ」

 

そう言って笑うと、葛木も何それ、と笑ってくれた。最近、葛木との会話は緊張する瞬間でしかなかったので、笑顔を見たのは久しぶりな気がする。

 

「今日はどこに行くの?」

 

聞くと、答えは返ってこなかった。行けばわかるとだけ言われて、電車に乗せられる。

 

車窓から見える景色はいつもと変わらない。新しいものもないし、かと言って見飽きるほどではない、言ってしまえば意識するには足りない景色だ。企業のビルだとか、何かの店だとか、そんな興味も惹かれない人工物の集合体。

 

それでも、これが誰かの暮らしの証で、誰かが必要としているものだということを、最近は強く感じるようになった。

 

よくよく考えれば、それが当たり前なんだけど。必要のない建物は建たないし、必要のない仕事は淘汰されていく。必要のあるものだけが、存在を許されていく。

 

…じゃあ、今は存在しないものが、全く必要とされていないかといえば、別にそういう訳でもない。終わってしまうことは選びようがなくても、終わらせることはいくらでも選べるから。

 

「須貝って、趣味とかあるの?」

 

他愛のない会話の中で、そんなことを聞かれる。…少し考えてみる。

 

「うーん…ないかも」

 

趣味って、範囲が難しい。日常的にする必要のないことの中で優先度が高いものなのか、はたまた他の人に比べてしている頻度が高いものなのか。…そのどちらも、ピンとくるものは特にないんだけれど。

 

「趣味って、何を指してるのかよく分からないよね」

 

葛木もちょうど同じようなことを考えていたようで、どういう趣味があるか、ではなく、趣味という言葉そのものについて話が始まった。

 

…まぁ、お互いよく分からないという所から話し始めているので、結論が出ることはなかった。討論ではなくて雑談なわけだし、きっとそれでいいんだろうと思う。

 

「…じゃ、ここで降りるよ」

 

見覚えのある駅だ。つい最近も降りた気がする。ここに何かあるとすれば、俺の知る限り一つだけだ。…嫌な予感がしてきた。

 

俺は一歩遅れるような形で、葛木の後ろを歩く。葛木は何も言わず、俺が桐野と辿ったルートを歩いている。

 

「…さて、と」

 

つい最近二回も来た公園の、もう座り慣れてしまったベンチ。葛木はそこに腰を下ろして、俺にも座るように促した。

 

「ここ、なんかあるの?」

 

葛木はそう、笑顔で問い詰めてきた。俺は事情を説明する。…話しているうちに気づいたのだが、桐野と葛木には繋がりがあるのに、ここに三人で来たことがなかったという。ここを知っていたのは生前は川原と桐野だけで、つい最近桐野からこの場所を聞いた、とか。

 

「私、この場所には縁がないのかも」

 

葛木は冗談めかしてそう言うが、本気で落ち込んでいるんだろうなと思う。わざわざ桐野でなく俺に話を聞く辺りとか。

 

俺は桐野と川原の関係性を知っているから、葛木がここに連れて来られなかった理由もなんとなく見当がついている。二人の優しさと言えば優しさだが、葛木にそれを説明しても納得してはもらえないだろう。むしろ納得せず抱え込んでしまう辺りが、ここに連れて来られなかった理由と言ってもいい。

 

葛木より先にここに来たことのある俺は、きっと桐野の中で話をしても問題のない人物だったということなのだろう。…別に、葛木が問題のある人物だと言いたいわけではないが。

 

「…ここで、何を話してたんだろうね。二人で」

 

そこまでは流石に分からない、と返すと、そっか、と力ない返事が返ってきた。こんなに落ち込んだ葛木を見るのは、初めて家に来た時以来のような気がする。

 

友達だからこそ言いづらいこととか、友達だからこそ心配しないで欲しい時とか、そういうものが往々にして存在するということ。きっとそれは、葛木も理解している。だけど葛木にとっては、なんでも言い合えることが理想の友達だったんだろうと思う。

 

…葛木円歌という人間は、基本的に不器用だ。俺が言えたことじゃないけれど。空回りもするし、見当違いなこともする。だけど葛木円歌という人間は、基本的に一生懸命だ。だからこそ、報われて欲しいと皆に願われている。

 

きっと俺の知らない所でも、葛木は川原のことを調べていたりするんだろうと思う。言った覚えもないのに、今日ここに連れて来られたこともそうだが。

 

なにか声をかけるべきか、と迷っていると、葛木の方から話を振ってきた。

 

「…じゃあ、次は本題なんだけど」

 

俺は背筋が凍るような感覚を覚える。…今日の嫌な予感は、考えうる限り最悪の形で現実になりそうだ。

 

「中庭で、何を話してたの?」

 

葛木は真っ直ぐな目で俺を見据える。確信があるとでも言いたげな表情で。自分に告げられていない秘密を持っている。それに完全に気が付いている。

 

俺は過去の自分を責める。どうしてもっと上手く隠せなかったんだ。それと同時に、どうしてもっと早く話してしまわなかったんだという後悔に襲われる。…何はともあれ、俺は今、過去の精算を迫られていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22話

息が詰まりそうになる。固くて飲み込めない何かを、必死で飲み下そうとする。葛木がもう一度口を開くまでの沈黙は、きっと数秒間しかなかった。それなのに、永遠とも思える数秒間だった。

 

「…って聞いて、簡単に言えるようなら、もうとっくに話してくれてるよね」

 

葛木は俺から目線を外す。…強ばっていた五感が解れ始めて、俺はやっと、普通に息が吸えるようになった。

 

「でも、いつかは話してくれるよね?」

 

葛木の表情は、あまり見たことがない落ち着いたものだった。多分これが本来の葛木で、川原が死んでしまって以降は余裕がなかったんだろうと思う。

 

「…ごめん。絶対に、いつかちゃんと話すよ」

 

俺がそう言うと、葛木は笑ってくれた。…心が痛くなる。俺と桐野が抱えている秘密は、話してしまえばそれだけで全てが解決してしまうようなものだ。川原の死の理由も、それを葛木や木下さんに相談しなかった理由も、そして川原が川原でいられた理由も。

 

だけど、だからこそ二人には、まだ話せそうもない。今まで見てきた川原春歌、その根幹を全て揺るがすような事実だから。…俺だってまだ、ちゃんと受け止めきれているわけでもない。知り合ってからの年数だけで言えば、俺が一番長いのだから。

 

「まつりはさ、ちゃんとした子なんだよ、本当は」

 

葛木は突然、桐野の話を始めた。俺は意図が理解できなくて、話の続きを待った。

 

「…でも、春歌と出会ってから変わっちゃった。自分を守る盾を手に入れたみたいに、いつも余裕そうな態度を取るようになって。そのくせ、いつも何かを気に病んでるんだよ。それを相談してくれもしないまま」

 

葛木は俺の方を向き直す。

 

「だから、須貝には相談できてるみたいでよかった。これからも、話を聞いてあげてね」

 

桐野まつりという子は、俺には計り知れないような逡巡のもと出来上がっているような子なんだろうな、というのは、薄々気が付いていた。きっと何も考えずに川原と同じ末路を辿ろうとしたわけではないだろうし、そこにいたから俺に秘密を打ち明けたわけではないだろうということは。

 

俺は頷いて、今後も桐野には気を付けないといけないなと気を引き締め直す。…きっと葛木や木下さんも、同じような人種だろうとは思うけれど。

 

皆何かを抱えて生きている。表面上には窺い知ることのできない、根の深い何かを。

 

そして、それを自己解決する術を持っていない。誰かと分け合うか、時間が解決してくれるかのどちらかに期待をするしかない。…前者の場合、そんな勇気を獲得するしかない。

 

幸い、俺達にはまだ、まだ時間がある。そんなに長いものではなくても、少なくとも川原よりは。…川原だって、死を選んでいなければ解決できたのかもしれない。一人で無理をしないで済む方法だってあったのかもしれない。

 

だけど川原は、一人で抱え切ることを選んでしまった。誰にも気付かれないように、誰も後を追わないように、その事実とそれを乗り越える糸口だけを残して。…もっとも、そこまで狙っていたのかは、本人にしか分からないことだけど。

 

「…今日はさ、須貝の話が聞きたいな。春歌の話じゃなくてさ」

 

葛木の言葉に、俺は少し驚いてしまう。…考えてみれば当たり前の話だった。俺が葛木に対して川原の友達という以上の情報を持ち合わせていないのと同じように、葛木も俺のことを川原のご近所さんくらいしか知らないだろう。

 

「…あー、野菜だと茄子が一番好きだよ」

 

だけど、俺は自分の話をするのが苦手だった。自分の周りで起こった物事に対して自分なりの意見を言うのは得意な方だと思うが、それは俺という人間の情報ではない。俺が何に対してどう思ったかなんて一過性のもので、次に同じ状況に出くわしても同じことを思うという保証はない。その日の気分とかそれまでの経験によって、簡単に変わってしまうものだ。

 

「一番最初に紹介することがそれ?」

 

…俺の渾身の自己紹介が葛木にはウケたみたいで、それからは色々なことを質問された。日によって一番好きな食べ物が変わることとか、趣味と呼べるほど熱中していることがないこととか、計画を立ててものごとをこなすのが苦手なこととか、あまりプラスとは言えない情報まで、俺は全てさらけ出してみることにした。

 

「春歌が気にするのも分かるよ」

 

生きている感じがしないとか、あまりに不自然だとか言いたい放題言ったあと、葛木はそう言った。

 

「なんか不安定なんだよね、全部が」

 

不安定。初めてそう言われたが、なんとなくしっくり来てしまった。地に足が着いていない感じ。今死んでしまっても、別に悔いは残らない感じ。俺という人間を表すのに、こんなに適切な熟語があったとは。

 

「…でもさ、それって今からでも何にでもなれるってことだよ」

 

葛木は真剣な顔で言う。

 

「何か熱中できることを見つけて、心から好きだって言えるものに出会って、それと真摯に向き合ってさ。そうやって、幸せになっていこうよ」

 

その言葉はなんというか、すごく沁みた。同じようなことを言う人は大勢いると思うが、それでも葛木の言葉だからなのか、俺は心から頷くことができた。

 

「…葛木の話も聞きたいな」

 

俺がそう言うと、葛木は照れくさそうだった。俺の話を散々聞いたのだから、葛木の話も散々聞かせてもらおうじゃないか。俺がそう言うと、葛木が話し出したのは昔の話だった。

 

優秀な父と母。それを受け継いだ、優秀な兄。そして、自分には何もなかった。だから、自分が嫌いだった。…やがて両親は自分に期待をしなくなって、降って湧いたような自由がそこにはあった。好きなことをしようと思った。好きなことをして、自分は自分だと主張してやろうと。

 

だけど、そこに好きなものなんてなかった。両親や兄に認められたい、見返したいという気持ちだけで生きてきた自分にとって、その目標を持たない人生は経験不足すぎた。

 

非行に走ることも、かと言って活動的になって何かを始めてみることもできないまま、周りに合わせて生きてきた。…そんな時に出会ったのが、川原春歌だった。

 

「…で、その春歌も失ったってわけ。だからさっき須貝に言った言葉は、自分自身に対しての戒めでもあるんだよね」

 

なるほど、さっきの言葉が妙に沁みたのは、そういう理由もあるらしい。確かに葛木の言葉は、そう生きている人間だからこそ説得力があるものだと考えると合点が行く。

 

「じゃあ、お互い頑張らなきゃってことだ」

 

俺がそう言うと、葛木は嬉しそうに、そういうこと、と言った。

 

「…でもなんで突然、俺の事なんて知ろうと思ったの?」

 

葛木は少し考えてから言う。

 

「困難を一緒に乗り越えなきゃいけない人のことを知らないなんておかしいなと思って」

 

…俺がおかしいだけなのかもしれない。やっぱり、他人との接し方の正解は分からない。間違うことが怖くて、避けて通ってきた道だから。それでも今、それを面倒だとは思わない。むしろ積極的に関わって生きていくべきだと思う。

 

「…間違っちゃうかもしれないけど」

 

思わず漏れた不安に、葛木は当たり前のように答えた。

 

「間違うことは怖いけどさ、でも、間違いがあるから正解があるわけだし、間違った数だけそれを選ばなくなっていったら、最終的に間違わなくなると思わない?」

 

頭に浮かんだのはいつも通りのネガティブ思考だった。それは葛木が強い人間だからそう思えるだけなんじゃないのか、とか。…だけど、それを否定した先にしかポジティブはない。別に根明になりたいわけじゃない。だけど、根暗でいることが幸せへの道だとは思えない。だから俺は、自分を変えるしかない。何度誓い直しても不安だけど。

 

「…私達には、時間があるんだからさ」

 

空を見上げて、葛木はそう言う。…きっと葛木も焦っているんだ。焦るからこそ、残り時間のことなんかを考えてしまう。常に不安で、自分と周りの差なんかを気にしている。

 

置いていかれたような気持ちになる。そんな結末だけは選ばないように。二人公園のベンチで、未来の話なんかをした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23話

あいにくの雨模様。朝、ニュースキャスターがそう告げた通り、厚い雲が空を覆っているし、道は濡れていて、水溜まりがわずかな光を反射してきらきら輝いている。ぱらぱらと傘を叩く音のせいで人の声は聞こえない。それがより孤独を引き立てるようで、だからこそ俺にとって、雨は救いだった。

 

あの日川原が堕ちた公園の前で、俺はずっと立ち尽くしている。…どこかが、何かが一つ違えば、俺は君を救えたのだろうか。救う、とは烏滸がましいかもしれないが、少なくともまだ生きていてくれたのだろうか。

 

相手がどうしたいかよりも、自分がどうしたいか。それを優先してもいいタイミングが、もしかしたらあったかもしれない。最近の俺は、毎日そんなことを考えてしまっている。

 

未だに自分の我儘を押し通さないことを美徳だと思っているし、その価値基準は今後も変わらず、俺の人生の礎になり続けるだろうと思う。…それでも、二人目の川原を生んでしまいたくないと、心の底から思っている。

 

「おはよう!」

 

突然話しかけられて、俺は思考を中断する。変な声が出そうになるのを抑えながら、同じように返事をする。

 

「降り出しちゃったね〜」

 

傘をくるくると回しながら、桐野は天気の話を始めた。確かに昨日の夜は降っていなかったので、朝目が覚めて雨音が聞こえた時は少し面倒だなという気持ちになった。

 

「…で、なんでここにいるの?」

 

投稿前に、わざわざ逆方向の電車に乗って、俺の家の前まで来る意味がわからない。

 

「毎朝来ることにしたんだ。この公園に」

 

…俺の自意識過剰だったようだ。急に恥ずかしくなって、俺は駅へと歩き出す。

 

「あ、待ってよ、せっかくだし一緒に行こ」

 

俺の後を追うように、桐野も歩き出した。

 

「今日も寒いねぇ」

 

桐野が呟くように言った一言を反芻する。最近はめっきり寒くなって、上着が手放せない季節になってしまった。冬の乾燥した空気や朝の冷え込みが嫌いというわけではないが、やはり堪えるものがある。冬が来る度に、新鮮にそんなことを思う。

 

自然が眠ってしまう季節だからなのか、どこか寂しげで、どこか儚げな季節だという印象がある。ただじっと春を待つ時期。新しい何かを始めるための、過去の自分を振り返る季節。俺は勝手に、そんな風に思っている。

 

春からは新生活が始まる。その新生活のスタートダッシュを決める為に、今が頑張らなければいけない時期だ。そう頭では理解しているし、実際その為に行動しているつもりだが、どうしても不安になってしまう。

 

つい最近まで頑張ったことのない自分が、付け焼き刃の知識ややる気だけで、今まで頑張ってきた人間と並び立てるのかどうか、とか。大半は、今更考えても仕方のないことだ。…だけど、それを考えられるようになっただけでも、成長と呼べるかもしれない。

 

今まで最初から無理だと投げ出していた自分とは違う、少なくともそれに挑むつもりがある自分のこと。そんな自分を手放しに肯定できるようになるにはもう少し時間がかかるかもしれないが、それでもそんな日が来る予感を、その花が開く予感を、俺は確かに感じている。

 

電車に乗り込むと、車内は湿気が充満していた。これも雨の日特有の現象で、外が乾燥している分よりそう感じる。人が生きている証左といえば聞こえはいいが、じめじめとした空間は居心地が悪い。…それは多分、誰しもがそうだと思うけれど。

 

桐野とは電車の中でくだらない話を少しして、学校の最寄り駅で別れた。コンビニで飲み物と昼ご飯を買って学校に向かう。月曜日の朝というのは休日と落差がある分、いつも不愉快かつ憂鬱だ。まともなことを考えていない限り、だるいという言葉で頭が埋め尽くされてしまうほどに。

 

いつも通り校門を潜って、いつも通り教室に入る。珍しく有島に挨拶をされたので、おはよう、と返す。

 

「なぁ、今日暇?」

 

何となくそう来るだろうなと思っていたので、暇だよ、と言うと、放課後の遊びに誘われた。…脳天気なものだ。有島は就職組なので、俺達よりも時間的な余裕がある。俺は一瞬断ろうかとも思ったが、結局誘いを了承した。いつまでこいつと遊んでいられるかも分からないし、という言い訳が頭に浮かんで、それでもやっぱり自分自身は騙せないものだなぁと思う。

 

学校はもう試験勉強モードに移行していて、ほとんどが自習じみたものばかりだった。当たり前の話だが、ただでさえも試験対策に使っている頭に新しい知識を詰め込まれずに済むというのは、ありがたい話だった。

 

何も分からない問題というのが春先に比べて減ったなぁというのが俺の所感だが、それでも安心できるラインにはない。…だけど、俺は焦っていなかった。結果というのは思ったより急に出るもので、日々の積み重ねは確実に未来に影響する。だから、焦るよりも積み重ねること。それを意識して日々を過ごすことが大事なんだと思うから。

 

やり始めると止まらなくなる性分は、一度で結果が決まってしまう試験なんかにおいては寧ろプラス要素なのだ。俺は自分自身の性格に感謝しつつ、必死に机に向かった。人生は案外、頑張ろうと思えば頑張れるものだ。…常に結果が着いてくるとは限らなくても、やらなければその土俵にすら立てない。俺はまず土俵に立つつもりで頑張らないといけない。

 

こうやって勉強をしていると、中学生の頃を思い出す。まだ川原とは仲が良くて、よく家で勉強を教えてもらったりしていた。途中で切り上げようとする俺を窘めては、自分もゲームの誘惑に負けてしまったりする川原は、それにも関わらず学年上位をキープし続けていた。…才能とか地頭とか要領とか、そんなものの違いだと漠然と思っていたような気がする。

 

あの頃俺が川原に抱いていたのは尊敬だとか、同じ世界の住民ではないような違和感というか、そんなものだったような気がする。うまく説明はできないが、どちらもやったことがないことをやり始めても形になるのは川原の方が絶対に早い、というような、人間としての格の違いみたいなものだった。

 

だから中学三年生の頃には、劣等感とか嫉妬とかで、あまり話さなくなってしまったような気がする。中学生活最後に話しかけられたのを覚えているのは、それが久しぶりに交わしたやり取りだったからだ。

 

高校生になっても、その格差は埋まらないものだった。だから俺は、川原と話す機会を失っていった。…高校生活最後の年に同じ委員会になれたのは、今考えたら奇跡に近かったんだろうな。少なくとも、俺にとっては。

 

今となってはくだらない言い訳だ。やってもいない人間が、やっている人間に敵うわけがない。きっと真剣に勉強をしようという気持ちがあったら、劣等感を抱かないくらいには点数も取れていたんだろう。…それを避け続けていただけだ。

 

そんな状況で、なぜ俺と川原は同じ学校だったのか。家から近いというだけで、俺でも行けるレベルの学校に進学する必要はあったのか。…今の俺には分かるが、当時の俺には絶対に分からない疑問だ。きっと遅かれ早かれ、川原はこうなる予定だったのだろう。

 

…余計なことを考えてしまった。俺は頬を二度叩いて、もう一度机に向かい直す。進むにつれ分かるようになっていくのは、テストも人生も同じなのかもしれない。今の俺が分からないことも、未来の自分は分かるのかもしれない。

 

ならば少しでも分かることを増やしていけば、未来の俺はもっと賢い人間になれるのだろうか。もっと人のことを考えられるようになって、川原みたいな悩みを抱える人間を減らせるだろうか。…それも今の俺には分からないが、とにかく。

 

未来に投資することが許されている限りは、やれるだけやってみよう。そう思いながら、問題を解いていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24話

人生が終わる時、本当に走馬灯を見るのだとしたら。それはこんな瞬間を切り取るものであって欲しいなと、切実に思う。

 

何気ない会話、どこにでもある当たり前の風景が、一番の幸せなんだと考えるから。中身のない会話、心に波風を立てることのないコミュニケーションが沁みていく。

 

そういえば、長いことこんなに気を抜いている瞬間はなかったような気がする。問題を抱えていてもいなくても、心の中にあり続けるのは川原のことだったから。気を張っていると言いたいわけではないが、それでもリラックスしていると言うには程遠い状態だった。

 

それが、条件さえ揃ってしまえば心の底から笑える状態になったことは、俺の中でどう処理したらいいか分からなかった。そういう時間が増えるのは精神衛生上はいい事だと思うのだが、やはり川原のことが薄れていくというのには抵抗がある。

 

…俺はこの先も、こんな気持ちに悩まされることになるんだろうな。大人になるということや、歳をとるということが、どうにも嫌になってしまう。このまま時が止まってしまえばいいとか、そういうことではないけれど。

 

説明しがたい感情の流れ。これだって明日には忘れてしまうものなのに。やがて行き着く諦めや悟りに抗い続けるように、俺はこの感情をずっと抱いていたいと思っていた。

 

やがて辺りは暗くなって、俺たちは帰路に着いた。帰り道の電車も、ここ最近では一番笑ったかもしれない。俺にとってはそれが、暖かくて痛かった。低温火傷みたいに、確かな痛みだけが心を埋めていた。

 

帰宅してすぐ、俺は横になってしまった。制服のままで。明日のことなんて何も考えず、このまま寝てしまおうとすら思った。楽しいはずのできごとを楽しかったという言葉だけで終わらせられないのは、思ったよりもダメージが大きいものだった。

 

きっといい気持ちで眠れるはずだ。そう思っていたのに。俺は勝手に、裏切られたような気持ちになっていた。そんなわけはないのに。

 

…川原さえ生きていてくれたら、俺はこんな気持ちを味わうことはなかったかもしれないのに。ずっと考えたくなかったそんな言葉が頭をよぎって、それを必死に否定する。

 

よりにもよって、こんな自分の勝手な気持ちを川原のせいにしてしまうなんて。自己否定が止まらなくなる。桐野が後を追おうとした時も、こんな気持ちだったのだろうか。

 

天から伸びる鎖のような、そんな得体の知れないものに心を縛られている。どうしようもなく硬いのに、決して見えることはないもの。

 

…あぁ、もうこのまま死んでしまえたら、俺の気持ちは変わらないのに。もしかしたら向こうで川原に会えるかもしれないのに。それでも俺の体は、俺の心は、それを許してはくれない。勝手に生きようと足掻き続ける。生きる為に希望を探して、それに裏切られたら代替品を用意して、その繰り返しだ。

 

どこで間違えてしまったんだろう。俺も川原も。答えの出ない問いが頭を埋めていく。どうでもいい考え事は、考えても仕方がないから答えが出なくて、答えが出ないから考え続けてしまう。ループに嵌っているみたいに。

 

寝よう寝ようと考えるほどに、頭は冴え渡って悪いイメージが回り続ける。俺にとってそれは慣れた感覚だったが、今日は嫌に痛かった。

 

…こうなったら、外にでも出よう。明日のことは明日の自分に任せて、今はこの気持ちをどこかに捨ててしまおう。そう決めてからは早かった。俺は服を着替え、外に出る。思ったよりも寒かったが、どうしてか上着を着る気にはならなかった。

 

澄み切った空気が満ちている。今日はいつにも増して星が綺麗に見える夜だ。暗くて、静かで、冷たい空の下。俺は相変わらず、こんな夜が好きだった。

 

街灯が照らす道を、ただ気の向くままに歩いてみる。…初めてこんな風に夜を歩いたのは、いつのことだったっけ。

 

思い出せる限りでは、一人暮らしになってすぐのことだったと思う。あの時はちょうど今日みたいに、精神的に不安定で眠れなかったから。

 

夜に吸い込まれるように散歩をしたあの日が、俺にとっては生きる糧だったのだ。当たり前に生きて、当たり前をこなすための、ちょうどいい非日常として。

 

そういえばいつだったか、川原とも夜の散歩に出かけたことがあった。俺が夜に出かけていることを話した時に、どうしてもついて行くと言って聞かなかったから。くだらないことを話しながら、二人でブランコに乗った。

 

「このまま時間が止まっちゃえばいいのにね」

 

そう言って笑う川原と同じことを思っていた。今思っても、本当に止まってしまえばよかったのにと思う。…どれだけ願っても無駄だとわかっていても、そんなことを考えてしまう。

 

結局、川原と夜遊びをしたのはそれが最後だった。俺はその後も不定期に散歩をしていたが、まさかあれが人生で最初で最後の川原との夜の散歩だとは思っていなかったから、特に誘ったりすることもなかった。…そもそも、あの頃の俺や川原があの時間に外出しているのは、条例違反だし。

 

あの時漕いだブランコというのは、川原の事件があった公園のブランコだ。…だから俺は、懐かしむようにそこに行くことすらもできない。俺が公園に入らなくたって、川原がそこで死んだことはなくならないのに。見ないふりができるようなものでもないのに。ただ遠くから、川原はあそこに落ちたんだと思いながら眺め続けることに、意味なんてないと思うのに。

 

逃げるようにして早歩きをしていたら、いつの間にか駅前に着いていた。照明が消えて誰もいない駅は、他のどこよりも異様な空間に見える。ここは人がいることが当たり前の場所で、暮らしと営みの境目の場所で、一日の活動を始めては終える場所だから。

 

そうではなく、ただ暮らしの延長線上で、一日を始めるつもりもないままここにいる。そんな非日常感が、俺にとってはここに来てよかったと思う理由だった。多分誰からも理解はされないだろうが、普通はしないことというのは意外にも心を軽くしてくれるものだ。

 

自動販売機でカフェオレを買う。無遠慮な明かりは購買意欲を促しているようには見えないが、それでもそこに自動販売機が存在しているということを示すだけで、こうして俺のように商品を買っていく奴がいる。だから、これはこれでいいのかもしれない。

 

冬の時期の自動販売機のラインナップは、夏のそれよりもワクワクする。コーンポタージュだったり、おしるこだったり、夏の間は見ないものが並ぶから。特に買う訳でもないのだが、おしるこがあると嬉しくなる。

 

こんな無駄なことを、いくら考えていてもいい。なぜなら、俺は今時間に追われていないから。もしかしたら俺がこの時間が好きなのは、そういうことなのかもしれない。何かを気にしなくて済む解放感だとか、現実から逸脱しているような不思議な感覚が、きっと愛おしいものなんだと思う。

 

コンビニはまだ明かりがついていて、お客さんも二人か三人くらいいる。あそこだけ生活をしていて、あそこだけ時が進んでいる。それを眺めながら、立ち止まってしまった俺はカフェオレを飲む。…隔たりがあるように感じる。不愉快ではない疎外感。俺と彼らは近いけど同じではない別々の場所で、お互いの暮らしを進めている。そんな風に思うことが、何となく俺を現実に引き戻した。

 

…帰ろう。今日をこのまま寝ずに過ごしたら、どうせ明日の自分は今日の俺を責めるだろうから。きっと大丈夫だ。帰りさえすれば、眠ってしまえる。暖かくして、目を瞑って、なるべく何も考えないように。空き缶を捨てて帰路につきながら、そんなことを願った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25話

世間は本格的に冬めいてきたな、と、色々なものを見て思う。おせちのCMだとか、クリスマス戦線のポップだとか、エアコンの温風だとか。俺にとってはあまり関係がないが、冬は行事がたくさんあって、12月にもなれば世間は浮ついた雰囲気で溢れていく。きっと今年のクリスマスも悲恋に酔うような歌の中で、幸せそうな人々が街を闊歩していくんだろうな。…そんな、僻み根性丸出しの思想を持ってしまう自分が嫌になる。

 

今年ももうあと一ヶ月か。寝不足で痛む頭を誤魔化すべく、そんなことを考えてみる。

 

夏休みが終わってすぐに、俺や葛木にとっての天変地異が起きて。そこからもう既に、三ヶ月が経過しようとしている。あまりにも密度の濃い三ヶ月だ。それなのにそれをあっという間だと思ってしまうくらい、時間は有限だ。

 

そしてここからあと三ヶ月程度で、俺達は卒業してしまう。学校に来る日で考えれば、あと二ヶ月もないような気がする。

 

…その間に、俺達は川原の死の真相を解き明かさなければならない。それより前に、俺と桐野は秘密を打ち明けなければならない。そして何よりも、俺は進路を見出さなければならない。それら全てをクリアして初めて、俺は高校生活を終えられるだろう。

 

やることだけが積み重なっていて、気が滅入ってくる。どれか一つくらいは楽に解決できないものかと思うのだが、どれも俺が頑張らなければどうにもならない。だから、立ち止まっている暇はない。…それにしたって、暇がなさすぎるんじゃないだろうか。今のところ、先に挙げた三つとも全て、何の目処も経っていない。俺と桐野はその真相の一歩手前で立ち止まっているし、秘密を打ち明けるのに適切なタイミングは掴めないままだし、今までの怠惰のせいでテストを受けてみないと進路も分からない。…こんな調子で、俺は幸せな将来を迎えられるのだろうか。

 

考えれば考えるほどに、途方もないものだという気がしてくる。過ぎてしまえばあっという間に感じてしまうのは分かりきっている。だからこそ、それがすごく怖い。何も解決しないまま、時間だけは流れていってしまいそうで。

 

どこかで勇気を出さなければいけないことは分かっている。だけど、その勇気の出し方を、俺は知らない。

 

「…なんか、思い悩んだ顔してるよね、最近」

 

木下さんに突然話しかけられて、俺は明らかに動揺してしまう。…そんなこともないとは言い出せなくて、進路についての悩みを話した。少し自嘲気味に、それでも真剣に。

 

「うーん、須貝くんなら何とかなると思うけどな。もう少し自信を持ってもいいんじゃない?」

 

木下さんは笑顔でそう言ってくれた。…何となく、木下さんに言われると自分を信じられるような気がする。それくらいに、俺は木下さんの客観性に信頼を置いている。あまり話したこともないのに、なぜか自信を持ってそう言える。

 

いつも静かに周りを見ていて、いつも最適な答えを考えているような。イメージでしかないが、何となくそういう部分があると思っている。

 

葛木も、桐野も。川原の友達には、色んなタイプの人がいる。その中でも、木下さんはなんというか、物事を俯瞰できるタイプの人だと思う。…川原も、木下さんに相談してみるべきだったんじゃないかと思う。きっと真剣に思い悩んでくれるから、遠慮してしまったんだろうと思うけれど。

 

川原が木下さんに相談してさえいたら、今もこの教室には川原がいたかもしれない。…そうなっていたら、俺は間違いなく留年していたんだろうけど。それでも、川原がいてくれる事の方が、俺にとっては大事だ。

 

今更どうにかなることでもないのに、もしもを考えてしまう。

 

相談、か。俺はさっきまで思い悩んでいたことを思い出して、木下さんの横顔を眺めてみる。

 

…秘密を打ち明けるなら、まずは木下さんに話してみるべきなのかもしれない。木下さんなら、何らかの答えをくれるかもしれない。解決まではしないとしても、どちらにせよ俺は打ち明けなければいけない。俺は意を決して、木下さんの方を向く。

 

「…実は、他にも悩みがあって」

 

俺がそう言うと、木下さんは真剣な顔になる。まるで、俺が何かを隠しているのを知っていたみたいに。…全く気付かなかったが、俺はもしかしたらすごく分かりやすい人間なのかもしれない。

 

俺が川原の抱えていた秘密について話すと、木下さんは言葉を咀嚼するように目を瞑って、そして開いた。

 

「…話してくれてありがとう。なんとなく、そんな気はしてた」

 

やっぱり、木下さんには隠し事なんてできないのかもしれない。川原ですら。

聞くところによると、違和感を感じる点はいくつかあったらしい。それでもそれに触れないように生きてきたから、それが杞憂であって欲しかった。…自分が触れないでいたことが事実だったと知って、後悔が深まっている。そう言って、木下さんは話さなくなってしまった。

 

…俺が違和感を感じていたとして、それに触れることはできただろうか。触れないようにすることも優しさだとかそんなことを思って、触れていなかったんじゃないだろうか。

 

何が取り返しのつかないことになるかは分からない。だからなるべく、そういう違和感とは向き合った方がいい。…また、川原に大事なことを学んだ気分だ。こんなに俺に色々なことを教えてくれたのに、俺は何も返せなかった。

 

俺は人生であと何度、もう後悔なんてしたくないと思うのだろうか。後悔をするかもしれないと思うから、今まで立ち止まってきたのに。立ち止まってしまうことすら、後悔に繋がってしまう。照明が消えてしまったみたいに、目の前が真っ暗になる感覚を、俺はあと何度味わうのだろう。

 

「…これ、葛木にも話した方がいいのかな」

 

俺が聞くと、木下さんは悩んだような顔をする。それから初めて見るような、どうしたらいいか分からないと言った表情を浮かべた。答えは決まっているが、それを伝えた方がいいか悩んでいる。そんな表情だった。

 

それでもやがて、木下さんは返事をくれた。

 

「私じゃなくて、須貝くんが決めることだと思うよ。ずるい事を言うようだけど」

 

…どうすべきなんだろう。俺は、どうしたいんだろう。このままこの秘密を抱え続けていられるのだろうか。だからといって、楽になりたい一心で、無遠慮に葛木にこのことを話せるだろうか。

 

『でも、いつかは話してくれるよね?』

 

葛木に言われた言葉を思い出す。…俺の心は、きっとずっと前から決まっていた。

 

「…話すよ、俺」

 

独り言みたいに呟いた。木下さんは静かに頷いてくれた。

 

もしかしたら、この判断は葛木を傷つけてしまうかもしれない。…いや、間違いなく傷つけることになるだろう。それでも、葛木がこのことを知らないのは、絶対に間違っているという気がした。

 

俺達は、まだやり直せるんだ。葛木が傷付いてしまって、絶望の縁に立たされたとしたら、俺達が手を差し伸べてあげればいいだけだ。何度払い除けられても、何度だって手を伸ばせばいい。

 

俺が頑張らなきゃ、俺の人生はどうにもならない。俺の人生をどうにかする為には、葛木と一緒に川原のことを乗り越えるしかない。…そうやって、今の俺は出来上がってしまったのだから。

 

思えば、葛木が俺の部屋を訪ねてきた時から始まっていたのだ。川原の死の真相を一番知りたがっているのは、間違いなく葛木だ。

 

葛木は頬杖をついて、窓の外を眺めている。俺は席を立って、葛木に話しかける。

 

「今日の放課後、どこかで話せないかな」

 

葛木は何のことか思い当たったようで、二つ返事で了承してくれた。…俺の未来が動き出す音がしたような、そんな気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編:太陽を見てしまった

何事もない日々が辛くて仕方ない。言いようのない漠然とした不安に押し潰されそうだ。死にたくはないが、生きていたくない。…思春期特有の、どうでもいい物思い。大人になるにつれて忘れてしまう、振り返りたくはないハイライト。

 

…その中にいることに、俺は気付いていた。毎日が面白くなかった。何か起こりそうもない世界にも、何も起こせない自分にも、それを幸せだと思い込もうとする心理にも、もう飽き飽きだった。

 

濁った目で空を見上げる。眩しくて仕方がない。曇ったり、雨が降ったりすることをいつも望んでいた。今日は抜けるような青空で、それがただ憂鬱だった。

 

若さゆえ持て余したエネルギーは、真っ黒くてどろどろとしている。誰にも晒したくはない内心は、自分自身でも吐き気を催すほどに汚くて、ギラついていた。

 

河川敷に架かる橋の下で、俺はただ感傷に浸っていた。そんな自分に酔っては、不幸せを嘆いては、全部自分のせいだとわかっている心が俺を問い質す。

 

一体、ここで何をしているんだ?

 

そんな頭の中の虫を黙らせるためだけに、寝転んで目を瞑ろうとした。…川原が声を掛けてきたのは、そんな時だった。

 

どうやって見つけたのかは分からないが、河川敷の斜面を降りながら、元気一杯の声を浴びせてきた。

 

「何してるの?」

 

俺は無視して眠りにつこうとした。大概の人間は、それ以上干渉してこないから。取るに足らない存在だと伝えることは、最も有用な拒絶の方法だ。

 

「おーい。何してるのってば」

 

しかし川原は、俺の眼前まで来て声を掛け続けた。さすがに無視している訳にもいかずに、別に何もしてない、とぶっきらぼうに返す。

 

「わざわざこんな場所に来てる時点で、何もしてないことないでしょ」

 

…この河川敷までは、自転車でも15分は掛かる。ましてや徒歩で来ている俺は、わざわざこの場所を選んで佇んでいるということが丸分かりだった。

 

「…じゃあ、現実逃避」

 

そう返すと、川原は満足そうに笑う。

 

「うん。私と一緒」

 

そう言って、隣に寝転んだ。…反応したら思うつぼだと考えて、俺は目を瞑る。

頭の中の虫は暗闇が好きだ。真っ暗な部屋にいるときや目を瞑っているときに、盛んに俺を責め立てる。

 

将来のこと、過去のこと、現在のことを、全部分かった面をして笑ってくる。そんな自分自身に腹を立てる。馬鹿らしいと分かっていながらも、それをやめられないでいた。…それをやめてしまえるほど、人生に価値を感じていなかった。

 

「ねぇ、薊ってさ」

 

こいつはずっと、距離感が近い。物理的にも心理的にも。俺の事を下の名前で呼ぶのは、家族を除いてはこいつくらいだ。

 

「結構繊細だし、一人でいられないタイプなのに孤独になろうとするよね」

 

図星を指される。こいつにはデリカシーというものがないのだろうか。

 

「…別にさ、一人で解決しなきゃいけないことばっかりじゃないよ、多分」

 

そんなことは、とっくの昔に気付いている。世の中は助け合うようにできている。社会という制度も、何らかの集団も、利害が絡んだり絡まなかったりするだけで、根本は助け合いの輪だ。

 

だけど、そこにだって資質が必要だ。助ける人間に資質が必要なように、助けられる人間にはそれだけの理由や性質が必要なのだ。

 

俺にはそれがない。愛嬌や、コミュニケーション能力や、人に甘えられるだけの何かが。返せるものもないまま救いを享受できるほど、世の中は甘くできていない。

 

「…川原には関係ないだろ」

 

できる限りぶっきらぼうにそう返す。…そうしなければ、俺はきっとこいつに甘えてしまう。こいつは何だかんだ、俺のことをわかっているから。今俺が何に悩んでいて、何を必要としているのか。きっと、全部バレている。

 

「関係あるよ。友達なんだから」

 

俺はそれも受け入れた覚えがない。ただのクラスメイトで、ただ住んでいるマンションが近いだけ。腐れ縁、というのが適切だと、俺は思っている。

 

「友達じゃねぇよ」

 

俺がそう返すと、川原は大袈裟に落ち込んでみせる。

 

「仲良くしてね、って言ったら、頷いてくれたのに」

 

…あぁ、そんなこともあったかもしれない。でも、今の俺には関係ない。今の俺には人間関係なんかを思い悩んでいるような余裕はないし、ましてやこの何を考えているか分からない生物と築く関係があるようには思えない。

 

「…でも、そういう風に必死に否定するときってさ」

 

川原はわざわざ、俺から顔が見える位置に移動しながら言う。

 

「それだけ必要としてるってことだよ。嬉しいな」

 

…本当にこいつは、何を考えているか分からない。どれだけ邪険に扱っても、どれだけ興味がないと伝えても、それでも俺に関わろうとする。必死に築いてきた壁を壊そうとする。

 

純粋に、俺はそれが怖かった。こいつの言う通り、俺は本心ではこいつを必要としているんだと思う。何だかんだ気にかけてくれる奴。俺に手を差し伸べてくれる奴を。

 

だけど、本当に必要としてしまったとき、もしこいつの言うことが全て冗談だったとき、俺は立ち直ることができるだろうか。掴んだはずの手がすり抜ける感覚を、俺は耐えられるだろうか。

 

ネガティブなイメージばかりが頭を埋める。それを否定できないくらい、自分自身を嫌ってしまっている。

 

そう考えたら、関わってこないで欲しいと思うものじゃないだろうか。世の中に俺に興味があって、俺を救いたいと思うような奴がいるとは思えないから。何度払い除けても差し伸べられる手は、それだけ期待をさせるけど。

 

「ね、少しだけでいいからさ、私に話してみない?」

 

裏も表もなさそうな、人の良さそうな笑顔。俺はずっと、これに縋ってしまえたらどれだけ楽かと考えている。

 

母を失って、父もいなくなって、俺はひとりを強いられた。だから、ひとりに耐えなければいけなかった。ひとりに耐えられるようになったら、この辛さから解放されると思っていた。

 

…人といると、弱くなってしまうから。だから俺は、ひとりを選んでいるのに。

そんなこと、きっとこいつは分かっているはずなのに。

 

それでも手を差し伸べるのは、こいつが幸せで、俺が不幸だからなのだろうか。弱いものを助けるのが、強いものの運命なのだろうか。

 

「ほら、くよくよ迷わない!」

 

立ち上がった川原の姿は、太陽と重なってしまって、表情すら見えない。それでも差し伸べられた手は、確かに川原の手だ。…俺は無意識のうちに、その手を握っていた。

 

確かな人の温かみ。きっとそんなこともないのだろうが、俺にとってそれは初めての感覚で、心に残り続けるものだった。錆び付いてしまった心を解きほぐしていくような、そんな柔らかくて暖かい、俺が求めていた温もりだった。

 

その手に引かれて、俺は立ち上がる。いざ立ってみると、当たり前のことだが川原は俺より小さかった。それでも、その存在はきっと、俺のそれより遥かに大きい。

 

それは、俺みたいな奴も照らす光だ。…うざったくて、自分をちっぽけに感じさせて、価値のない人間だと思わせる。それなのに、心地よい暖かさをくれるもの。それが、俺にとっての川原だ。

 

ずっと気付いていたのに、ずっと見ないふりをしていた。川原春歌という存在が、俺にとってどれだけ必要不可欠か。

 

耐え忍ぶことだけが、この状況を打破する方法じゃない。それを示してくれる存在が、俺にとってどれだけ救いか。

 

川原は俺の手を取って笑っていた。直視できないほど眩しい表情で。

 

自然に存在する大きな光。計り知れない熱源を、太陽と呼ぶなら。

暖かくて、眩しくて、適わないと思うものを、太陽と呼ぶなら。

 

俺はとっくに、太陽を見てしまった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

26話

救世主妄想、という言葉を、俺はこの間初めて聞いた。

幸せな人間は不幸な人間を助けるべきだという考えが根底にある人間にとって、不幸な人間を助けられる人間こそが幸せである、という認知の歪みが生まれてしまうという心の動きらしい。

 

端的に言って川原は、その妄想に囚われていた。抱える必要のない問題を抱え込んで、それを解決できる人間であることこそが自分の存在意義であると信じ続けていた。

 

…一方で、それが間違いであることも知っていた。人を助けられるから幸せなのではなく、幸せな人間は人を助ける余裕があるだけだということを知っていた。

 

妄想と現実の狭間で、きっともがき苦しんだんだと思う。誰も、それに気がつけないままで。もしくは、気が付いても声を掛けられないままで。

 

今考えれば、その存在は完璧すぎた。弱ってしまった人の前に現れて、それを解決して見返りを求めない。そんなことは、俺達にはできないだろうから。

 

それでも、川原にはそれができてしまった。それを幸せだと信じていたから。人を救うことが、人の役に立つことが、人の心を癒すことが。

 

川原春歌は、俺たちが思うより特別な人間じゃなかった。…ただ、それだけのことだった。

 

それだけのことが、俺達には重くのしかかっていた。救われて、残された人間として。

 

普通に考えたら、負担にならないはずがないのだ。人の心の拠り所になるということは。それでも俺達は、勝手に川原を特別視して、勝手に川原を信仰して、勝手に川原を大きな存在にしてしまった。…それに応えようとすることを、分かっていたはずなのに。

 

葛木にそう打ち明けた。…長い沈黙の後、葛木から出た言葉はたった一言だった。

 

「…ごめんね」

 

俺達には、それしか言えることがなかった。罪を詫びること。もうそれすら叶わないのに、意味がないとわかっているのに、それでもやめられなかった。

 

申し訳ないという気持ちは、吐き出さない限り消化できない。募り続けていた想いが爆発して、葛木は泣き出してしまった。

 

遠い思い出が蘇る。きっと川原にとって俺は、都合良く救いを求める隣人だったのだろうと思う。あの時納得がいかなかった川原の行動が、今になってやっと理解できた。

 

なんとも言えない虚無感が、放課後の部屋に充満していく。射し込んでいた西日も沈みかけて、辺りは暗くなり始めている。

 

俺達にとって川原春歌が救いであったように、川原春歌にとっても俺達が救いだった。悩んで、足掻いて、救いを求めている人間が。

 

…それでも、それに応え続けるには、川原は小さすぎたんだ。俺達は背負わせすぎてしまった。実際、取り返しがつかなくなるくらいに。そしてその事実を乗り越えられるほど、俺達の傷は癒えていない。

 

だから、俺には待つことしかできない。葛木が泣き止んでくれるのを。桐野が立ち直れることを。俺自身が、前を向いて歩けることを。

 

目的はとうに、川原の死の理由を知ることではなくなっていた。…いつからかは分からないけれど。

 

川原がいないこの世界で、俺達がどう生きるのか。川原の死を乗り越えるということではなく、川原の死を受け入れること。それを考え始めなければならない時がきた。きっと、そういうことなんだと思う。

 

「…ごめんね、ごめん…」

 

葛木が泣き止むのを待つのは、これで何度目なんだろう。もう長い付き合いになってしまった。この感覚にも、この時間にも、もはや慣れてしまいそうだ。

 

いつかの自分はきっと、今のこの状況を裏切られたと思うんだろう。手を離されて、やっぱり掴まなければよかった、なんて思うんだろう。弱い自分を覆い隠すための強い言葉を、空っぽのどこかに宛てて投げたりするんだろう。

 

だけど、今の俺はそうじゃない。ちゃんと分かっている。ままならない世の中のことを、それを受容して生きることを、自分が恵まれていることを。それは川原がくれた、俺が俺として生きるために必要な考え方だ。

 

結局何も返せなかった。川原の思惑通りに。その事実は俺をやるせなくさせるし、過去を悔いる原因にもなる。

 

だけどあの過去がなかったら、今の俺はこうして葛木に話はできていないだろう。人知れず消えるようにいなくなって、先のことも全部どうでもいいという顔をして、また救いを待ってしまうだろう。

 

帰り道、やっと泣き止んだ葛木は、それでも言葉を発することはなかった。連れ添って歩く間、何の会話もなく時間だけが過ぎていく。

 

錆び付いたフェンスの脇を歩きながら、潰れてしまった店の看板を目印に駅の方向に曲がっていく。…まだ、俺達には救いが必要だったのかもしれない。川原が救いたいと思って、救い続けてくれたはずの俺達なのに。

 

「…寄り道していい?」

 

やっと口を開いた葛木から出たのは、そんな言葉だった。俺はもちろん了承する。

 

電車で向かった先は、葛木の家の最寄り駅…なんだろうか。よく分からない。とにかく、俺の知らない駅であることは確かだった。そういえば、俺は葛木のことをよく知らない。突然部屋に訪ねてきて、そこから関わるようになった人間だから。…今思い返してみれば、衝撃的な出会い、と言った感じだ。

 

連れて行かれた先は、遊具も少ししかないような、小さな公園だった。

 

「私が一人になりたい時によく来てた場所」

 

そう言って、葛木はベンチに座る。隣を指されたので、俺も座る。

 

「…私はずっとここで、日が昇るのを待ってた。誰よりも早く起きて、誰よりも早く着替えて、誰よりも早く家を出て。そしてここで、ちょうどいい時間になるのを待ってたの」

 

…何故、とは聞けなかった。きっと何かがあるのは分かっているが、そこに踏み込んでいいかの判断ができなかったから。

 

「時間って、思ったよりすぐ過ぎるから。家にいるよりも、ここにいる方が楽だった」

 

なんとなく、家庭内の不和、みたいな言葉が頭に浮かんだ。俺には想像もできないことだけど、そういうつらさがあることは理解できる。

 

「その日もいつも通りここで、朝日を眺めてた。…昇り始める日って、実際ちゃんと直視できる唯一の太陽なんだよ」

 

葛木はこちらを向いて、少し笑う。朝焼けのイメージ。俺は最近、いつそれを見ただろうか。

 

「…そしたらね、春歌が声をかけてきて。何してるのって」

 

俺と同じだ。…でも本当に、どこで俺や葛木の悩みに気がつくんだろうか。心の底から不思議で、今考えてみれば不気味。それでも俺や葛木にとって、それは必要な救いの手だった。

 

救いたい、という気持ちは、きっと川原の中では強迫観念みたいなもので、恐らくそういう人間のサインを絶対に見逃さない努力をしていたんだろうと思う。誰もが感じることのできる小さな違和感を、絶対に離さないみたいな。

 

そうして、そういう人に手を差し伸べる。

 

「まるで、太陽みたいだな、って思った」

 

俺は葛木と全く同じことを考えた。そうだ。川原は太陽だった。こちらからは何の表情も見えないし、その意図もよく分からない。ただそこに存在していることだけが確かな、眩しすぎる光。

 

「…だから、あの子の影には気付いてあげられなかった」

 

俺達はずっと照らされていたから、川原に落ちた影のことには気が付かなかった。きっと誰もが、それを抱えていたはずなのに。

 

俺達の会話は、また止まってしまう。辺りは真っ暗で、もう人の気配は感じなかった。街灯が無遠慮に照らすベンチの下で、ただ俯いて時が過ぎるのを待つ。

 

明日も日が昇るのを、当たり前のことだと思えないままで。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。