緋色の空に鐘は鳴る (穢銀杏)
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序幕

 

「なあ、やっぱりやめておこうぜ。まずいよこれは、明らかに――」

 

 声をふるわせ袖を引く、幼馴染みの柔い手を、

 

「臆したか」

 

 せせら笑って千切るように振り捨てた。

 

 今ならわかる、あれが間違いの元だったのだ。

 私の人生はあの瞬間から、それまで夢寐にも描かなかった、奇妙奇天烈摩訶不思議な方向へ、どうしようもなく素っ飛んでいってしまったのである。

 

「臆したなら、帰れ」

 

 何故あんなことを言ったのだろう。

 両の脚から力が抜けて、膀胱の中身を今にもぶちまけそうになっていたのは私とて同様だったというのに。

 

「私は、行く。ひとりだろうと行ってやる」

「そんな」

 

 ああ、たぶん、あの顔が悪い。

 あと一突きで堤が破れて、中身が滂沱と溢れ出す。涙腺決壊を間近に控えた幼馴染みの情ない(つら)を見ていると、つい無用の勇をふるいたい気がむくむく湧いて、思いもかけず強いセリフを吐いたのだ。

 

 私が女で、幼馴染みが男であったということも、そういう気分を大いに後押ししただろう。

 

 ――男のくせに、なんだこれしきで、情ない。

 

 異なる性の持ち主を、爪先で責め、弄ぶ。

 その残忍な快感が、私の判断を狂わせた。もっと、もっとと。引き際を忘れて嗜虐の悦に浸り続けてしまったのである。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 山峡(やまあい)の村に、私は生まれた。

 

 紺碧が岩に砕けて流れるほとり、猫の額ほどの地面を掻いてどうにかこうにか生き永らえる農家の娘だ。

 

 この渓流に、伝説がある。

 

 百年余りも昔の話、田植えも近い新緑の候。日の出とともに寝床を払って這い出してきた村人たちの見たものは、上から下まで見渡す限り赤一色に染まりきった川だった。

 

 ――すわ、祟りかや。

 

 口々に言いさざめいてはみたものの、しかしながら心当たりがまるでない。

 祭礼をおろそかにした覚えはないし、余所者を泊めもしていないのだ。つい昨日まで、すべては正常そのものだった。罰を当てられる要因など、どこに潜在していたのだろう。

 

 が、現実にこうなってしまっている以上は仕方ない。近付けば、ほのかながらも流れの上には生臭さが漂っていた。あからさまに血臭である。こんな水で育てた米が、食い物になるわけがない。至急、対策が必要だった。

 

 村の九割方までが神社に押しかけ、祓いの祈祷を懇願する一方で、何人かの若者たちは別な行動に打って出ていた。

 

 ――たぶん、上流に何かある。

 

 直感といっていい。

 その「何か」を突きとめるため、腰兵糧を用意して澤を遡りだしたのだ。

 

 二刻(よじかん)も進み続けたろうか。

 

 彼らの前に、それが出た。

 

 枝を大きく天に広げたブナの古樹。その腹に空いたうろ(・・)の中からドバドバと、赤黒い液体がひっきりなしに噴き出している。噴き出しては地面を伝い、やがて澤へと落ち込んで、いっぺんに朱に染め上げている。

 途方もない濃度であった。

 

 ――こいつか、こいつが元凶か。

 

 異界の景色に慄きつつも、若者たちは適切な処置を施した。河原から適当な石を見繕い、うろ(・・)の底の窪みめがけて突っ込んだのだ。

 まるで始めからそう(・・)と決められていたかのように、互いのサイズはぴったり合った。血の噴出は停止した。(たに)はふたたび、瑠璃の名器も及びはしない清澄さに回帰した。

 

 ほどなく樹にはしめ縄がつき、毎年一度、村人総出でこれを拝む風習まで出来てしまった。私もこれに、物心つく以前から――そう、父の背中に負ぶわれて、参列したものである。

 

「迷信だ」

 

 そのとき胸に芽生えた畏れを、断固として切り捨てた。

 

「いやしくも明治の聖代に、ありがたき文明の世の中に、こんな迷信をいつまでもありがたがってるべきじゃない。ひとつ正体を暴いてやろう。そう言ったとき、お前だってはっきり頷いたじゃないか」

「そりゃ、頷いたよ。だけどさあ」

「だけど、は無しだ」

 

 私が迫力を以って臨むと、あいつはいっぺんに縮こまる。

 それがわけもなく面白かった。

 

 ああ、返す返すも度し難い。なんていやなクソガキだ。こんなやつはいつの日か、手痛いしっぺ返しにあって千辛万苦(せんしんばんく)のたうて(・・・・)ばいい。

 

 いや、いつの日か、などとあまりに悠長な物言いか。

 

 その瞬間はすぐに来た。

 

 藪漕ぎ、渡渉、岩登りを繰り返し、道なき道をゆくほかなかった嘗てと違い。

 例の祭事の都合もあって、安全な山道が出来ている。十二歳の小娘だろうと、そこまで往って還ってくるのにまず半日とかからない。

 ただ両脚を動かしただけ、それだけで。

 

 ――血潮のブナが、私の前に立っている。

 

 より多くの光を受けるため、一寸でも長く、高く。周囲の木々に遅れはとらじと枝を伸ばすその様は、不気味な伝承とも相俟って、地殻のいちばん奥深くから太陽めがけて突き出した、悪魔の巨腕のようにも見えた。

 

闇刈(くらがり)ィィ……」

 

 幼馴染みが、私の姓を呼ばわった。

 御一新の際、私の父祖はいったい何を考えて、個性的にも程があるこんな名字を態々冠したのだろう?

 奇矯を好む因業な血が、私の皮下にも脈々と息衝き続けているのだろうか――。

 

 愚にもつかない、そんな疑問が、瞬間脳裏をかすめていった。

 

「――っ」

 

 ものも言わずに、私はうろの中へと両手を突っ込み、問題の石を掴まえた。

 

雫歌(しずか)ァッ!」

 

 思えばこれが初めてだった。

 あの気弱な少年が、私の名を呼び捨てにしたのは――。

 驚きで身が浮き上がる。

 そのはずみで呆気なく、封印石も外へ出た。

 

(あっ)

 

 両の瞼を思いきり下ろす。

 反射的な行動だった。

 暗黒の中で、なにごとかに待機した。

 が、待てど暮らせど、どんな劫罰も訪れはしない。

 

 それみたことか、所詮これっぽっちのものよ――

 

 再び瞳に光を入れて、過呼吸一歩手前の少年を顧み、そう言ってやろうとした刹那。

 

 

 

 ごぽり――

 

 

 

 死にかけの老爺のおくび(・・・)のような音が響いた。

 

 ごぼり、ごぽり、ごぽごぽと。次第次第に断続的になってゆく。

 

 千曳の岩にも匹敵し得る抵抗力を感じつつ、私は正面に向き直る。

 

 赤かった。

 

 赤い、ねばねばした液体が、うろ(・・)の底から染み出して、ゆっくり嵩を増しつつあった。

 

「樹液さ」

 

 私は、笑おうと努力した。

 が、表情筋が裏切った。

 引き攣り、こわばり、名状し難い出来損ないの貌になる。

 そうと自覚した途端、逆上がきた。

 

 私はがばりと身を寄せて、いよいよ幹を伝いはじめたその粘液を舐め上げたのだ。

 

 そこから――ああ、そこから先は――舌がめらめらと燃え出して――私の血が、やにわに重く――喉の奥から、聞いたこともない獣の聲が――。

 

 裏返る視界。

 爆ぜる心臓。

 沸く脳漿に、爪が埋まって裂ける皮膚。

 組み変わってゆく、なにもかも。

 天地は融けて境を失い、その先に開いた深淵へ、恍惚と共に堕ちてゆき――。

 

「――はっ!」

 

 私は現在(いま)へと回帰した。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 肩口から、脇腹にかけ。ばっさり斬られたショックによって、走馬燈を見ていたらしい。

 ほんの束の間、遠い遠い故郷の夢を――。

 

「ん、しょっと」

 

 自分で作った血の海に、両手をついて立ち上がる。

 視線を上げれば、清らげなる道衣姿の女性がひとり、薙刀の切っ先をこちらに向けてたたずんでいた。

 

「いやあ、惚れ惚れする切れ味ですね。業物だ」

 

 その輝きをわずかに曇らすあぶら汚れの正体を、私はむろん知っている。

 私の脂肪だ。

 抵抗むなしくまんまと斬り下げられた際、べったり付着したものだ。

 

「肩甲骨から背骨まで。真っ直ぐ刃が通りましたよ、凄かったなあ」

「死ににくいのは、そなたも同じか」

「まあ、いろいろワケがありまして。主に若気の至りですがね。どうですここらで、お互い元人間の外れもの同士、武器を下ろして友誼を結んでみるというのは」

「断る。身の上話がしたいのならば、閻魔の前で存分にやれ」

「あらら、つれない。お堅い人だ。それは生来のご性情? それとも余程、旦那様が嫉妬深い方なので?」

「――」

 

 返答は、鋼の旋風だった。

 

「あっは!」

 

 両手の血を硬化させ、篭手を形成、迎え撃つ。

 切れ味は身を以って理解した。

 真正面からの「受け」は自殺だ。

 刃に対して、常に適切な角度を保っておく必要がある。

 難しいが、やってやれないことじゃない。

 私が普段、誰と稽古してると思う。

 隊長の剣舞に比較(くら)べれば、なんのこれしき――!

 

「おっとぉ!」

 

 刃がうねった。

 防御をするりと抜けてくる。

 なんたる操作の妙であろうか。

 左の耳が付け根から、斬り飛ばされて宙を舞う。

 瞬きひとつ、身を翻すのが遅れていたら、耳どころか頭部自体がスイカみたく両断されていただろう。

 膂力ばかりか、技術まで。

 

「流石は龍神の奥方だ――でも、だからこそッ!」

 

 左手側の硬化を解除。

 霧状に拡散、目晦ましにと派手にぶちまけ、側面へとまわりこみ、残った右を振り下ろす。

 柄で防がれた。

 構わない。

 鍔迫り合いに似た体勢へと無理矢理にでも縺れこむ。

 

「我々は、『暁鐘連盟』は決して貴女を諦めませんよ。私一人を撃退しても、事態はちっともマシにならない。もっと強くて怖い人が来るだけです。組織を相手に、どこまで息が続きますかね? 結局最後はジリ貧です、抵抗は損しか生みません」

「よく喋る。まるで商人(あきんど)の口調よな」

「大したものですよ、ここ最近の商人どもの羽振りときたら。――そのあたりのこと、時代の趨勢、ご存知です?」

「水底の岩が教えてくれる。徳川の世が、終わったらしいな」

「五十年も昔の話ですからね、それ! やっぱり外に出ましょうよ。お国の御用なんですよ。どうせ避けられないのなら、自発的に協力するのが吉ですよ。こっちが従順を証明すれば、向こうも結構、融通利かせてくれますよ」

「主人に尾を振る狗の姿だ。そなた、言ってて哀しくならんのか」

「うーん、ちっとも。よく躾けられていますゆえ」

左様(さよ)か」

 

 秀麗な眉が、嫌悪に歪んだ。

 これはいけない、売り言葉に買い言葉となったかな。

 鍔迫り合いを解除して、互いに大きく飛び退る。

 間合いが、空いた。

 

「駄目だな、私は。また隊長に怒られる」

 

 なるたけ生かして連れて帰りたかったけれど。

 先方はもう、すっかりつむじを曲げてる様子。私の言葉を聞く耳なんて、欠片も残ってないだろう。交渉術の改善は、追々図ってゆくとして。

 

「やんぬるかな、是非もなし。ここから先は殺し合いです。――抜かせていただきますよ、こちらもね」

 

 私の手が、虚空を掴んだ。

 

「……ッ! 貴様、きさま、なんという――!」

 

 流石である。

 これっぽっちの予備動作を目の当たりにしただけで、私の得物がどういうものか、ほぼほぼ看破したようだ。

 やはり、惜しい。こんな逸材、そうそう出逢えるもんじゃない。

 消してしまうには、あまりにも――。

 

「なんたる穢れ、呪詛に塗れた毒物を、我が聖域に持ち込むかァッ!」

「言ったはずだぞ、時代だとッ!」

 

 爆発する憤激に、こちらも烈昂の気迫で報いてやった。

 

「妖魔だろうが神仙だろうが独り高しとしてられる、そんなんじゃもうないんだよ。遅かれ早かれ、どうせこう(・・)なる、受け容れろ。慾の堤は破れてしまった。禁忌を禁忌のまま放置していてくれるほど、今の人間は優しくないんだ。だから、さあ、来い、私と共に、子安峡の乙姫よ。怒涛に砕かれたくないのなら、怒涛に魁るしかないのだと、貴女ならわかっているだろう!」

 

 届け、頼む届いてくれ、届いて心を動かせと、祈りを籠めつつ言葉を紡ぐ。

 が、いかんせん、あまりに必死であり過ぎた。

 

「馴れ馴れしく(わたし)を呼ぶな、虫唾が走るッ。愚にもつかぬその戯言を、今すぐにでも止めてくれよう!」

 

 勢いが盛んであればあるほど、理解は却って遠ざかる。どうもそういうものらしい。

 こちらの誠意は微塵たりとて伝わらず、ただ火に油を注いだだけの結果となった。

 人が人を言葉で以って鎮めるなどと、しょせん夢物語でないか。

 

「この、頑迷固陋の標本が!」

 

 私は(はし)った、諦観を置き去りにするように。

 

 景色が猛然と背後(うしろ)に流れる。

 

 間合いは刹那でゼロに戻った。

 

 影が交わり、破裂音が鳴り響き。

 

 そして漸く、本当の死闘が開始(はじ)まった。

 

 

 



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第一幕

 

 

雫歌(しずか)、秋田へ行け」

 

 上司の命はいつもながら唐突だった。

 

「湯澤の南東、六里の奥に、子安という山村がある。竜宮伝説の残る地だ。行って、真偽を確かめてこい」

「ははあ、またまた竜宮ですか」

「不服かね」

「竜宮、乙姫関連で、当たりを引けた前例が一度だってありませんもの。しかも今度は山の中。前みたく、アオダイショウの脱け殻がたった一つの収穫だろうと怨まないで下さいよ」

「私が、いつ、そんな理由でお前を責めた。――まあいい、私は新潟、磯明神の人魚塚の方へ行く」

 

 言って、隊長は腰を上げ、壁の外套に手を掛ける。

 

 切れ長の目に薄い唇、造化の神が態々定規を用いたように一本真っ直ぐ通った鼻梁。

 スラっとした体形は顔立ちとも相俟って、中性的な印象をますます強める。否、性別を超越した美しさというべきか。

 

 そんな彼女に、一切の飾り気を排除したその黒染めの外套は、おそろしいほど合っていた。

 

「事によってはそのまま佐渡に渡るやもしれん。あるいは此処へ戻るのは、お前の方が先かもな。そうなっても、動揺するなよ。いつもの通り、頼んだぞ」

「了解、隊長。ご武運を」

 

 ちょっとおどけて、敬礼の真似事なんてしたりして。

 角度が違う、姿勢も甘い、なっちゃいないぞ未熟者、と。

 小突かれた額に生じた痛み、甘い疼きを、今でもはっきり覚えてる。

 

 

 

「どうせ、どのみち、今回も。肩透かしに終るだろうと思っていたのに、想定外もいいとこですよ、緋柳(ひやなぎ)千継(ちつぐ)隊長閣下――」

 

 

 

 子安峡の秘匿された地下世界。不動ノ滝の壺の奥、幻の壁で隠蔽された裂け目を越えて、曲がりくねった回廊を、ずっとずっと進んだ向こう。

 銀座三越の建物がすっぽり収納(はい)ってしまいかねない、広い広いその空間で、私はそっと、遠くの上司に呼びかけた。

 

 声の慄えをどうしようもない。

 だって、向こうに龍がいる。

 ()なをびっしり覆う鱗に、鯨も両断しそうな五爪。

 二本の角は樫の木並みの逞しさ、(あぎと)はあくまで強靭に、天岩戸もばりばり砕いて喰えそうだ。

 

「屏風や襖のご常連、見飽きるほどに見てきたつもりだったけど」

 

 だがしかし、現にこうして、わが網膜に直接的に映してみると。――この圧倒的な迫力はどうだ。古今東西、如何なる画家の筆であろうと、龍の真価の百分の一も描けてないと強制的に理解した。

 

「くわばら、くわばら。とうに死骸に成り果ててさえこれ(・・)とはね。生きていたなら、いったいどれほど――」

「夫は死んでなどいない」

 

 反駁された。

 とぐろを巻いた龍体のふもと、真っ赤に染まった腹部を抑え、こちらを睨む乙姫がいる。

 

 私が抉ってやったのだ。

 

 つい先刻、この空間に至る寸前、回廊深部を舞台として展開された、私と彼女の果たし合い。その渦中にて、あのへんの肉を、ごっそりと。

 結局それが決定打となり、彼女は撤退を余儀なくされた。この領域――本来ならば誰であろうと立ち入らせたくはなかっただろう、夫婦だけの褥の間へ、だ。

 

 文字通りの不覚傷。そして未だに、その傷口は塞がっていない。

 苦しげに、肩で息をしているあたり、いい証拠であるだろう。再生は遅れているようだ。

 

 それでもなお、瞳は憎悪に燃えている。

 

 薙刀を手放しもしていない。強く、強く、関節が白く浮き出るほどに、握り締めたままである。

 姫というより、もはや夜叉。気の弱いやつなら、この視線に浴しただけで息を詰まらせ死ぬだろう。

 感服すべき気力であった。

 

「彼は(わたし)に告げたのだ。少し眠りに就くだけと。やがて再び目覚めた(とき)には、共に空を駈けようと。あのお言葉が、偽りであるはずがない」

「そうは申されますけれど。しかし奥様、ご主人は瞼を開けている」

 

 開けて、意思の宿らぬ白濁しきった眼球を、外気に嬲らせ放題にしてる。

 

「とてものこと、眠っているとは思えませんが」

「貴様には聴こえぬのかえ、この音が――」

「音?」

 

 耳を澄ませばなるほど確かに、微かながらもフシューフシューと、蒸気によく似た音がする。

 出所は、ふむ、龍の鼻腔の奥からか。

 

 ……だが、これは。この不吉さは、響の底にあるものは。

 

「どうだ、夫は生きているのだ。きっともうすぐ目覚めてくださる。妾はそれまで、一途にお守りするのみよ。貴様の如き下郎の手など、寸毫たりとて触れさせまいぞ」

「痛ましい限りだ。それほどの天眼通ですら、愛の前には冬の北陸の空より曇る」

「っ、なんだと?」

「ただ待ち、守るだけでなく、起こす努力をするべきでしたね。彼の身に何があったのか、確かめなくてどうするんです。寄生されたから死んだのか、死んでから寄生されたのか、これだけ時間が経ってしまえばそれすらもう判らんでしょう」

「黙れ」

「お断りです、この腑抜け。物理的に、のみならず、精神的にも引き籠って、それでなんです、迂遠な殉死でも望んでましたか? 湿度の高い、こんな洞穴に棲んでいるから、性根までドロドロに腐ったのかな? いやはやご主人も罪作りな方だ。どうして余計な希望なんかを与えちゃったりしますかね。それは優しさなんかじゃあない、ただの単なる――」

「口を閉じんか、下衆下根――!」

 

 猛然と突きを入れてきた。

 が、既に深手を負っている。

 稲妻と錯覚した最初の動きが見る影もない。

 容易く手元につけいれた。

 

「よい、しょっとお!」

 

 衿を掴まえ脚を刈り、浮かせた身体を強引ながら、思い切り後方(うしろ)に投げ飛ばす。

 落着を見届けることもせず、私は前進、龍体へ。

 

「待て、よせ、下郎――!」

 

 どんなに巧く受け身をとっても、もう間に合わない。

 せいぜいああして、声を張り上げるのが関の山。彼女にできる精一杯の抵抗だ。

 もちろんそれで私の速度が鈍ることなど、金輪際ありえない。

 

 さあ、いよいよだ。

 化けの皮をひっぺがして、現実をまざまざと突き付けてやる。

 勢いよく腕を伸ばして――

 

「うごぉ!」

 

 衝撃が私の身体を襲った。

 

 龍の眼球、たわわに実った黒部西瓜ほどもある、その器官を内側からぶち抜いて、奇怪な触手が一本ぴんと生えている。

 あれに撥ねつけられたのだ。

 凄い飛び出し方だった。

 龍の死骸を隠れ蓑とし、また養分としていた「何か」。比類なき悪意の産物が、迫る敵意を、身の危険を察知して、潜伏をやめ、反撃へと移行したに違いない。

 

 宙を舞った私の身体は、さながら一個のゴム鞠が如し。

 地を跳ねるのを二度三度と繰り返したあと、漸く停止(とま)る。

 

 改めてまじまじと下手人(・・・)を見た。

 寒天に似ていた。

 光沢があって半透明、米研ぎ水にそっくりな色、特徴という特徴が、あのテングサ由来の信濃国(しなののくに)の名産にいちいち酷似しているのである。

 

 だが、威力のほどはどうだろう。

 

 とても寒天どころではない。鋼鉄の鞭でぶっ叩かれたようである。背骨の関節が何個かズラされたのを感じる。

 髄液が、漏れた。

 こみ上げる吐き気に、身も世もなく従いたくなる。

 

「おまえ、さま?」

 

 いまや眼球のみならず。

 全身各所、皮に鱗に、到る処を突き破り、ツルツルした触手を狂い咲かせる龍の姿に、構えも忘れてただ呆然と突っ立つ乙姫。

 

 無理もない。暁鐘連盟(ぎょうしょうれんめい)の尖兵として神秘探索任務に従事し、けっこう経つが。その私を以ってすら、これほど凄惨な光景に出くわしたのは初めてのこと。

 ましてやツガイがこう(・・)ともなれば、彼女の心中、嵐であろう。

 

 説得には最良の機会とわかっているが。この状態で口を開けば、間違いなく黄水が溢れる。それはもう、ポンプみたいな勢いで。

 切歯して見送るより他になかった。

 

「嘘、嘘、嘘、嘘、夢でございましょう、こんなこと。ああ、いけません、御身の眠りを守ると決めた妾自身が眠りこけ、あまつこんな冒涜的な夢を見るなど。早く、早く、目覚めなくては」

「……!?」

 

 が、流石にこれは傍観できない。

 幽鬼のような足どりで旦那の下に向かおうとする乙姫を、横合いから跳び込み、抱きつき、かっさらう。

 

 その一秒後、彼女のいた空間に、触手が激しく打ち下ろされた。

 

「あ――」

 

 私が割って入らねば、間違いなく彼女の身体は煎餅みたくぺしゃんこに潰されていたことだろう。

 乙姫自身、それを理解したらしい。両の(まなこ)をこぼれんばかりに見開いて、地面に残る真新しい傷痕を凝視している。

 

「おまえさまが」

 

 その呟きは、石筍を伝う雫のように(かそ)やかに。

 

「おまえさまが、妾を傷つけるはずがない。妾に殺意を向けることなどありえない。おまえさまであったなら、おまえさまでありさえしたなら」

 

 だが段々と、地響きのような確かさで。

 噴火の予兆を感じ取り、私はそっと身を離す。

 

 どうやら彼女も悟ったようだ。この空間のもはや何処にも、彼女の夫の意思などは片鱗たりとて残っていないと。ずっと直視を避け続けてきた、その冷厳なる真実を、ついに受け容れたようである。

 

「あ、あ、あ、あ、おまえ、おまえ、おま、おま、ままま、――おのれがァァァァァッッ!!」

 

 狂乱したかの如く――いや、実際に狂ったのだろう――彼女は吼えた。

 

 再度迫った触手をかわし、剪除せんと打ち返す。

 いい動きだった。

 傷のことなど忘れているに違いない。痛みも何も、完全に思慮の外へと弾き出されて消え去った。

 

 ――素晴らしい。

 

 私は内心、ひそかに舌を巻いていた。

 

 冷灰ではない、枯木ではない。悲劇を前にたださめざめと、泣き濡れるだけが能でない。彼女にはまだ熱がある。狂を発せる精神上の弾力がある。

 連盟に参画する上で、もっとも大事なその資質。十二分に確かめた。

 ならば私も今、ここで、命を張る意味がある。

 

 

 

 ――ぎしり、と。

 

 

 

 私の手が虚空を掴む。

 

 よもや一日に二度もコレを抜かされるとは。

 来いと念ずればいつの間にやら手の中にある(・・)、この便利さを、隊長はどう説明していただろう?

 

常世(とこよ)現世(うつしよ)、あちらとこちら、双界に同時存在している、要は比率の問題だ」――と。

 

 確かこんな調子だったか。

 

「ははあ、そういうものですか」

 

 まるで禅坊主の説法みたく抽象的な文言に、当時の私は愛想笑いを浮かべるより術がなかった。

 

「まあ、細かい理屈など、研究班のインテリどもに任せたまえよ。第一線で切った張ったに従事するお前にとって重要なのは、こうすれば(・・・・・)こうなる(・・・・)という単純な因果、それだけだ。それさえ踏まえておけばいい」

「えっへへへへへ」

 

 もっともすぐに偽りのない、照れ笑いに変えることができたけど。

 

 その忠告に、私はずっと従っている。

 

 ――来い。

 

 余計な事象に気を揉まず、一念、ただそれのみを研ぎ澄ます。

 形状をはっきり思い描いて――。

 

 掌中に重みが加わった。

 成功である。

 私の得物、切り札たる宝剣は、今回も無事出現(あらわ)れた。

 

 といっても、見かけはひどい。

 

 脇差の条件を辛うじて満たす程度の長さに、鍔もなく、そもそもからして金属質の輝きもない。

 尖端に向け、尖らせてはいるものの。凹凸の激しく残る表面、干しすぎた干し柿さながらにくすみきった色彩は、剣というより明らかに、古びた木杭こそ近い。

 

 しかしもちろん、この物体の正体は、そんな可愛らしい代物にあらず。

 

 ……人間の大腿骨を削って作った、骨の刃なのである。

 

 滑り止めに巻かれているのはこれまた人皮、それもほどよく(なめ)された。

 皮の持ち主は、どうやら生前、入墨(いれずみ)を嗜んでいたらしい。唐草模様を思わせる曲がりくねった線の羅列がところ狭しと彫りつけられて、全体の雰囲気の毒々しさを更に倍加させている。

 

 ――悪趣味だろう?

 ――ええ、まあ、正直、辟易しますね。縫い目もそれ、ひょっとしなくても髪の毛ですか? 根元から先っちょまで全部人体由来とは、とんでもないあく(・・)の強さだ。

 ――だが、なればこそ、これはお前に相応しい。お前の業に、その血に巣食うあの有害な深淵に、釣り合いが取れているはずだ。試してみたまえ、きっと()う。

 

 そんな会話を経たあとに、隊長はこれを手交した。してくれた(・・・・・)。長く続いた監視が解かれ、歴とした連盟の一員として、単独任務に従事するのを許可された日のことだった。

 

 ならば私は、その期待に応えたい。あの秀麗な横顔を、失望で穢すのだけはごめんだ。

 

 剣を、逆手に持ち替えた。

 

 

 



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第二幕


千古の謎も恐ろしくない。
神話への反逆も、否定も恐ろしくない。
真理をわれ等の手に握りたいのだ。長い間の科学者の徒労は、決して徒労ではなかった。
(昭和十二年、式場隆三郎)



 

 さる医学者の説くところでは、武器の扱いになんの心得もない素人が、それでもナイフや懐剣などの日常的な刃物によって誰か他人を殺めたいと思った場合、一番いい「やり方」は凶器を逆手に持つことである。

 逆手に持って標的に抱きつき――これは前からでも後ろからでも構わない――、自分ごと串刺しにする勢いで刺す。胸なり腹なり背中なり、刺して刺して刺しまくる。

 

 ()から()へ引き込む向きの、その運動こそ。

 

 ずぶの素人をしてさえも、容易にしかも確実に、命に届く傷を与える道である、と。

 白昼堂々、大衆向けの通俗本で発表してのけていた。

 

 納得のいく論だった。

 であるがゆえに、その納得と同じだけ、

 

 ――おいおい、無検閲で通していい情報か?

 

 当局に対する不信感すら芽生えたものだ。

 

 

 

 そして、今。呼び出した呪物、骨の刃を握るわが手も、また逆手。

 

 

 

 必要だからだ。

 必要だからこうしている。

 すっと自分の身体を見下ろす。

 この剣の本当の力を発揮するには、何よりもまず、どうしても。ここ(・・)を流るる私自身の紅血で刀身を濡らしてやらねばならない。

 

「……わかってるだろ、出し惜しみは無しでいこうや」

 

 呟いて、私は私に覚悟の臍を決めさせる。

 

 狙うは一点、心ノ臓。人を失くしたあの日から、単なる循環器を超えて、最も濃い血が溜まるようになった場所。私と深淵を結ぶきざはし(・・・・)。それを使わない限り、この薄気味悪い触手野郎はとてものこと滅しきれまい。逆にこちらが滅ぼされると、本能部分で理解した。

 だが、しかし。

 

「お――ぉお、うぅおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」

 

 流石にこれはシラフのままで、涼しい顔してぬけぬけと実行できる行為ではない。

 咆哮が要る。

 獣性そのままな雄叫びで、あらゆる恐怖を体外へ叩き出してしまわぬことには――。

 

 出しきった。

 振り下ろす。

 刺した。

 

 ずぶり――。

 

 肋骨の合間を押し広げつつ、拳大のその筋肉の塊へ。

 深く、深く刃を埋めた。

 

「ぬ――ぐ、はぁ、あ。――」

 

 不快感に総毛立つ。

 痛みの中から、何かが溢れた、何なのだこの感覚は。

 熱さでも、痒みでも、渇きでもなく、そのいずれでもあるような。

 形容不能な気味の悪さが卍巴(まんじともえ)と入り乱れ、自我を、正気を、浸蝕してくる。

 

 こらえきれない。

 

 堪えるよりも、卒倒を恋うた。

 もうこのまま、すべて投げ出し、倒れたい。

 駄目だ、仕事が残ってるだろ。

 やり遂げるまで、眠れない。

 せっかく緋柳隊長に色よい報告ができそうなんだ。

 だったら気張れよ闇刈(くらがり)雫歌(しずか)、お前がこの世に存在している意味なんて、もうそれ以外になにひとつ、何も、何も、塵芥(ちりあくた)の一片ほども残っちゃないんだからさあ――!

 

「でぇ、りゃぁあああああああああああああああァァッ!!」

 

 再度、絶叫。

 他人のものを無理矢理継ぎ合わせでもしたかのように意の通らない利き腕を、あらん限りの力を籠めて引き戻す。

 

 ずるん――

 

 粘着質な音を立て、刃が肉からこぼれ出た。

 

 そう、刃。

 

 もはやこれを、この物体を、木杭と見紛う素っ頓狂は世界の何処にも居はすまい。

 宝剣の名に相応しく。こんなに立派な、三尺に迫る刀身が、冴え冴えと伸びているのであるから。紅玉を打ち延ばしたとしか思えない、片刃仕立ての、まばゆい真紅が。

 

 

 

 ――と、見惚れている暇もなく、三方向から触手が殺到。

 

 乙姫様は、よく引きつけていてくれたけど。流石にそろそろ限界か。

 構わない。仕上げは良好、否、それ以上、この純度ならいけるはず。

 

「――ふっ!」

 

 斬った。

 三本ぜんぶ、一呼吸(ひといき)で。

 ほとんど抵抗を感じなかった。

 正宗の名刀を豆腐めがけて振り下ろしても、まだ手応えがあったろう。

 

 逸脱の切れ味としかいいようがない。それあって、初めて可能な業だった。

 

 しかし本命はむしろこれから、切断面の変化にこそある。

 さあどうだ、どうなる、見せてみろ。

 

「おお――」

 

 果たして反応は激甚だった。

 白から黒へ。米研ぎ水の色彩が、瞬きする間に染まりゆく。

 美濃紙に墨汁をこぼしたように――と表現できればいいのだが、生憎とこの黒の中には墨の気品など厘毫たりとて見出せぬ。

 

 何年も掃除されてない、(ドブ)川の底に溜まった汚泥――。

 

 それ以外のどんな喩えも不適当であったろう。

 実際、起きている現象はそれに近しい。

 

「まこと、おぞましや」

 

 苦っぽいこと胆汁みたいな声がした。

 

「この猛悪さ、もはや現世にあっていいものではないぞ」

「それは姫様、失礼ながら料簡が狭い」

 

 すぐ後ろから、乙姫様の声である。言葉が通じる程度には、落ち着きを取り戻したらしい。

 結構至極なことだった。

 

 

 

「この骨刀との組み合わせにより、私の血は酸によく似た性質を帯びます」

 

 手首を軽く揺らしつつ、背中越しにぽつぽつ語る。

 

「切創から浸透し、あらゆる組織を腐爛させ、瘍壊(ちょうかい)して形もなくす。そういう効果を持っている」

「知っているとも、身を以って味わわされたゆえ」

「貴女に叩き込んだのは、手首由来の血ですから。毒性はまだ弱い方です」

 

 指先、掌、手首、肘窩(ひじうら)――末端から中枢へ近くなればなるほどに、有害性と刃長とが増してゆく。そういう仕組みになっている。

 

 …さりながら、弱いというのはあくまで相対。彼女に打ち込んだ分量とても、平均的な体格の成人男性程度なら、二十秒足らずで地面の染みに変えてしまえる威力を有す。

 にも拘らず、再生阻害で済んでいる点、子安峡の乙姫様の身体にはよほど高度な対毒機能が備わっているに違いない。

 

 そのあたりもまた実に魅力的だった。好奇に脳を灼き尽くされた研究班の狂人どもが知ったなら、涎を垂らして大喜びする逸材だろう。奇蹟のたね(・・)を抽出して解析して再現して量産したいと(こいねが)う、あの連中の目論見が今度こそ(・・・・)もし成就したなら、既存の医学薬学をどれほど前に進ませる? いったい幾つの「不治の病」を、ちょっとした風邪と同程度の地平にまで引き下げることができるのだ?

 

 門外漢の私ですらも、口の中に唾が湧くのを抑えきれない想像だった。

 

「けれどもこれは心臓由来、いまの私に実現可能な最高濃度」

 

 捕らぬ狸の皮算用を覚られぬよう、用心しつつ語を継いだ。

 大丈夫、早口、裏声、吃音その他、みなことごとく避けている。不自然さはなかったはずだ。下心には蓋をして、隠しておくに如くはない。処世術と呼ぶにも足らぬ、ごく当然のたしなみ(・・・・)だろう。

 

「言外の苦痛、地獄めく倒錯した感覚を経て、漸くのこと成したもの。中途半端な性能じゃ、それこそ立つ瀬がないでしょう」

「ちっ」

 

 水面を手ぬぐいではたいた(・・・・)ような音がしたが、振り返らない。

 首はあくまで前方固定。

 視線の先では、黒の浸蝕、なお()まず。

 燎原の火の勢いで、細胞という細胞を次から次へと喰い荒らし。

 触手は今や切断面から遥か先、半ばまでもが溶けてグズグズになりつつあった。

 

「このまま根の根の根までイッてくれれば楽なのだけど――ああ、自切しましたね。流石にしぶとい、容易に死んではくれないようだ」

 

 厄介な、と、つられて舌打ちしたくなる。

 いや、当面の厄介要素――敵の脅威度、私がくたばる可能性は著しく減少したが。それが却って、別の厄介を生んだかもしれない。

 

 交戦相手の力量が、自己を遥かに上回り、その差くつがえし難く懸絶せりと認めた場合。生命は普通、逃走を選ぶ。

 

 自己保存は蓋し強烈な欲求だ。理性も本能も、こぞってその判断を後押ししよう。狂瀾を既倒に廻らすのだと、最後までシャカリキに頑張り通し、踏みとどまって闘えるのはめだって稀少な例に属する。

 

 三本纏めて斬られて以降、威嚇のように身をくねらせるばかりであって、次の攻撃をてんで繰り出さぬ点といい。あの寒天の化け物も、一般的な判断の方へ傾斜しつつあるらしい。

 

 ――となると、だ。

 

 思考停止で真正面から突撃するのは文明人のやることじゃない。

 いい気になって雑魚を蹴散らしてる内に、肝心要の大将首を取り逃がす、凡愚の典型みたようなのに嵌り込むのは避けたいところ。

 賢明ならば、少なくとも賢明であろうと心掛けているならば、布石を打っておくべきだろう。

 

「後詰めを頼んでよろしいか」

「退路を塞げと?」

「話が早くて助かります。ここまで骨を折ったぶん、どうしたってあの触手には死んでいただく。万に一つの生き残りの目も潰すため、お力添え願いたい」

「承知した。なに、案ずるな、奴の本体――核の在処はとうに突き止め済みである。忍びて逃げるが如き真似、もとより許す心算はないわ」

「……」

 

 聞き逃せない発言だった。

 ぎぎぎ、と首をねじ曲げる。

 

「あの。その在処とやら、教えてくれれば、事態はもっと楽に始末できるのですが」

「で、あろうな」

「私に語る気はないと?」

「なろうものなら、とどめはわが手で下したい」

 

 乙姫様は、凄い格好になっていた。

 道衣はもはや襤褸切れ同然、ところどころ素肌がのぞき、そこは例外なく鬱血して甘藷のようになっている。

 激しい打撲傷を受けた証拠だ。

 

 ――どこの暴行現場から逃げてきやった。

 

 一瞥するなり誰であろうと、そう叫ばずにはいられまい。

 そんな風体。

 が、ただ一点。

 目だけが違う。

 眼窩のくぼみに添うように、ある種の昏さ――妄執に取り憑かれた者特有の、青みがかった陰翳がある。

 その一点あるがため、全体の印象が根こそぎ反転してしまっている。

 

 ――女とは、おそろしい。

 

 自分を棚に上げておもった。

 

「とどめはわが手で、ね。そりゃ、物事の順序からいえばそうでしょうけど」

「けど、なんぞ」

「闘争にあわよくば(・・・・・)を持ち込むのは違和感が――ああ、いや、結構。やんぬるかな、是非もなし」

 

 彼女の前でこれを言うのは二度目であった。

 言って、前方に向き直る。

 触手の方も次の行動を決したらしい。威嚇は終わった。総身に緊張がみなぎっている。弓につがえられた矢のようだ。逃げるにしても、まずはこちらに打撃を与え、混乱させねば不可能なりと覚ったか。

 

「押し問答をしている余裕はなさそうだ。いまは小異を捨てて大同する時。ようがす、私が折れましょう」

「かたじけない。借りができたな、忘れぬぞ」

「――」

 

 ほう。

 借りといったか。

 認めたか。

 そんな言質を与えれば、清算として私が何を要求するか、ここまでの接触で重々承知の上であろうに。

 

「ふふ、ふふふふふふふ…」

 

 たまたま口がすべっただけか、それとも端からこれ(・・)を狙っての狂言だったか?

 

 まあいい、まあどちらでも構わない。どっちだろうと、()には期待が持てそうだ。戦いの後の展開が、俄然楽しみになってきた。

 

 もたもたしていられない。

 ここは腕によりをかけ。

 俎上の鯉を、ひとつ盛大に掻っ捌いてやるとしよう。

 

 



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第三幕

吾々が苦心して漸く超人を作り得たとしても、彼の超人は、吾々が猿を笑ふ如く人間を笑ふかも知れない。人間を迫害するかも知れない。けれども、吾々は迫害されても圧迫されても人間から超人を作る事が望ましい。

(国会主義団体「創生会」設立者・清水芳太郎)




 

 …んだんだ、そうよ。

 

 あの滝つぼよ。

 

 あっこんところで、(おい)()っちゃの爺っちゃの爺っちゃの代か、そのまたもいっご前ぐらいべか――キコリが山刀ば落っことしたのよ。

 

 昔っから底なしっつわれてるところでやー。

 

 泳ぐと脚さ引っ張られるとか、しばらぐ蛇の夢ばっか見るとか、いわくの絶えねえとごろでよ。

 

 よりにもよってそんたあ場所でしくじるたあ、ほんじねえキコリだべさ、まったくよ。

 

 普通ならそごさ諦める。

 

 諦めて、濁酒(どぶろく)でも呑んで忘れる。

 

 けれどもそごは貧乏人の悲しさでよう、キコリは未練ば断てなんだ。代えも、新しいのを買い直す銭もながっだんだな。で、後を追っての飛び込みだべさ。

 

 やっぱり水は深くてよ、おまけに()やっけえこと冷やっけえこと、骨まで刺さるみてえでよ。もう駄目か、ここでこのまま死んじまうだか、土左衛門になるだべか――ほんたら風に観念しかけた、そん時だ。

 

 ――見えたのよ、端っこの方の岩陰で、何かがきらっと光るのが。

 

 てっきり山刀だと思ったんだな。

 

 三秒前の恐怖も忘れて、キコリにはもう、そっちに向かうこと以外、なんの考えも浮がばながっだ。

 

 そっからはもう無我夢中よ。

 

 こう、ばたばた、ばたばた、必死に手足を回してよ。死に物狂いで岩に取り付く。けんども山刀は見当たらね。焦って裏側を覗き込んだら、なんじゃい、別の離れた岩陰に、さっきと同じ煌めきがある。

 

 俺が泳いでいるうちに、流されたんべなド畜生――。

 

 そう合点して、疑わねえからほんじねえだな、このキコリはよ。

 

 何度同じことを繰り返しただか。

 

 わっがんね。何回どころの騒ぎじゃあねえ。近づく度に遠ざかる、狐火みてえな光を追ううち、上と下との区別さえ、キコリは失くしちまっとった。

 

 だからまあ、奇蹟みたいなもんだっただな、も一度呼吸(いき)ができたのは。世界が縮んで、気をやっちまう半秒前だ、キコリの顔は水面(みなも)を破って、でんと外気に飛び出しとった。

 

 ぜひゅー、ぜひゅーってよ。

 

 肺ごと吐き出すぐれえ大きく、荒っぽい息遣いが、暫らく止められなんだとか。

 

 んで、周囲を見回す余裕ができて――やっと気付いた。ここ何処さ。少なくとも、初めに飛び込んだ滝つぼじゃねえ。しんと静まり返ってる。深い地の底、誰も知らん洞窟に、キコリは迷い込んどった。

 

 ――此処は黄泉比良坂か。

 

 そったら風にも思ったそうだぁ。

 

 無理もねえ。洞窟は(あが)るかっただよ。空はちっとも見えねえし、松明や燈火があるわけでもねえ。けんど見通しはよく利いた。

 

 光ってたからな。

 

 何がと思う?

 

 当ててみさらせ。

 

 うんうん。

 

 ――ふ。

 

 わっははははは、惜しい惜しい。人魂じゃねえべよ、残念ながらな。

 

 答えは洞窟、そのもの(・・・・)だぁ。

 

 上下左右を囲む岩壁、それ自体がチカチカと、蛍火みてえに朧によ。

 

 そりゃあこの世の光景じゃねえ。どう見ても妖気満々で、恐ろしくてたまらねえのに、キコリの脚は奥へ奥へと進んじまう。糸に吊られる傀儡みてえに勝手が利かね。まんず憑かれでたんだなあ。

 

 行けども行けども、洞窟の終わりは見えてこね。

 

 ぐねぐね、うねうね、ひん曲がってよ、まるで話に聞く胎内巡りだ。

 

 ただ、音は。――墓穴みてえな静寂は、いつの間にか去っとった。代わりにどんどろ、不気味な音が。何十年も手入れされてねえ太鼓を蔵ん中から持ち出して、ホコリも払わずぶっ叩いているような、いやにくぐもった律動が。歩一歩ごとに足裏から這い上って来たんだな。

 

 足首、脛に、膝頭、股ぐら越えて腹の底さ揺すられだした頃合いだ。門が出ただな、唐様の。おおさ、門よ、扉は閉じて、閂まで下りててよ。目ン玉焦げちまうぐれえ思い切って鮮やかなベンガラ塗りの真ん前に、女がひとり、立っとったとよ。

 

 そのめんこいことめんこいこと――キコリは腰を抜かしかけたわ。

 

 おまけに声にな、張りがある。

 

「なんの用向きで参ったか」

 

 脳を串刺しにされたとよ。

 

 ――間違いねえ、天津乙女だ。高天原から降臨(おり)られたのだ。

 

 キコリは根っから信じたんだな。

 

 もちろん全部白状したべ。

 

 なしてこったらとごまで来たんか、ありのまんまを、素直にな。天女様に嘘を吐いたら、どんな罰が下されるかわがんねえ。地べたに額、擦りつけて、おそるおそる言ったんだ。

 

 したら乙女は、

 

「面を上げよ」

 

 従うと、その手にあるのはこりゃあたまげた、めあての山刀じゃあねえか。

 

 膝を浮かせたキコリの胸に、そいづをぐっと押しつけて、

 

「よいか、これを持ってすぐさま帰れ」

 

 耳元でそっと囁いたんだ。

 

「ここは竜宮、人の来るべき場所でない。そなたが太鼓と思った音はな、扉の向こう、奥座敷にて眠りし龍の鼾ぞよ。まどろみから覚めたが最後、そなたは五体を引き裂かれ、たちまち彼の贄となる。妾とて、もとは上方、やんごとなき家に生まれた娘であったが、なんの因果かあの龍神に見初められ、攫われたが運の尽き。来る日も来る日も生血を吸われ、その苦しみは、表わす言葉もないほどだ。さりとて契りを結んだ以上、もはや逃れる術はなし。そなただけ早く逃げ帰れ。来た道を、決してちら(・・)とも振り返らずに、ただただ無心で駈けるのだ」

 

 ありがてえ忠告じゃねえか、まったぐよ。

 

 聴いてるうちにキコリをここまで連れてきた、あの不思議な引力は、すっかり影を失せとった。

 

 乙女に厚く礼をして、キコリは逃げたよ、一目散に。

 

 障子紙みてえな顔色で、やっとこ滝つぼ這い出して――それで(しめ)えだ。あっこんところに近づくこたあ、生涯二度となかったわ。遠くに眺めて、ときどきそっと合掌するのが精々だったみてえだな。

 

 ――まあ、ざっとこんなもんだべさ。

 

「めでたしめでたし」で締まる話じゃねえけんど、満足したかい、お客人。

 

 おお、そんならええだ、よかったわ。

 

 それにしても「民俗学」ね。

 

 近頃はこげなこんまで学問になるだか。見当のつかん世の中じゃんなあ。俺達(おらぁど)の若え頃は、学問と言やあ、そりゃあよう…

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

「――と、おおよそこんな感じでしたね、近くの村に遺っていた伝承は」

「ふむ。――あったな、確かに、そういうことも。久方ぶりに思い出したぞ」

「すると、大略に間違いはない?」

「左様。あの杣人め、無骨に見えて存外舌が回ったか」

「わかりませんねえ」

「ああ、人は見かけで計れない」

「貴女のことです、乙姫様」

「妾の?」

 

 意外そうに小首を傾げた。

 きょとんとしたその仕草。シンから意外であるらしい。あどけないこと、まるで童女のようだった。

 

「妾のなにが不審とな?」

「いや、だって。ちょっと顧みてくださいよ、口碑の中のご自身を。美人薄命、囚われの姫君、悲劇の主役そのものじゃあないですか」

「……」

 

 沈黙が怖い。

 肩を並べて闘ったのをいいことに、馴れ馴れしくし過ぎたかと不安に思う。

 さりとていまさら追従笑いを薄っぺらく張り付けて、冗談冗談、ほんの座興のうわごと(・・・・)ですよ、どうかお気になさらずに――と、有耶無耶にするわけにもいくまい。道化の真似に逃げたが最後、彼女はたちまち私のすべてを軽蔑しよう。

 

 戻り道は刺される。踏み込んだからには、勇躍して更に更に踏み込むより他にない。

 

 結構じゃないか、逆上、衝突、破綻の危機と背中合わせでない限り、人間関係の深化なぞ、素より望めぬものだろう。唾をのみたい衝動を紙一重で抑え込み、私はゆったり語を継いだ。

 

「ところがいざ乗り込んでみたらどうです、貴女という存在の、どこを掘っても不満の『ふ』の字も出てこない、不満どころかベタ惚れだ。触ったこっちが火傷しそうな熱愛ぶりじゃあないですか。なんなんです、前評判との、この齟齬は」

「そなた、さては生娘か」

「なんとおっしゃいました今?」

 

 我ながら工夫のない反応だった。

 

 ついつい頭脳を介さずに、脊髄だけ、反射だけで答えてしまった格好である。

 

 だって、仕方ないだろう? この状況下で、こんなことを訊かれるなんて、いったい誰に想像がつく? 絶句して置物と化さなんだだけ、自分の対応能力を褒めてやりたい。

 

「男女の機微に少しでも通じた者ならば、左様な愚問は発さぬものよ。そなたの性根も、また歪よな。深く奇妙にねじくれて居る。そなたが人を失ったのは、あるいはよほど幼くしてか」

「ゆっくり聞かせて差し上げますよ、暁鐘連盟(わたしたち)の拠点でね」

「そうか、少しばかり楽しみだ」

 

 狼藉者は斬り捨てた。

 彼女の夫、龍の遺骸を隠れ蓑に棲息していた寒天状の化け物は、肉の最後の一欠片に至るまで塵も残さず消し去った。

 さりながら、彼女の狂気はなおも健在、劣化・減衰ともになし。乙姫様は修羅のまま、この瞬間もほんの薄皮一枚下で、灼熱の憎悪を滾らせている。

 

 その熱に、ならば私は便乗しよう。

 

「先刻そなたがほざいた通りだ、妾は確かめねばならぬ、数多を知りにゆかねばならぬ。夫はいつ、何故、果てたのか、あの汚物は何処から湧いたか、なんだったのか。背後を、素性を暴きだし、もしも同種がいるのなら」

「一匹残らず殺し尽くす、と」

「わが夫を辱めた罪、下手人一個の命ごときで済ませるものか。九族連座ぞ。絶滅させねばおさまらぬ。どれほどの過ちを犯したか、思い知らさでおくべきか。――その為ならば、ああ、そなたらとも手を組もう」

「歓迎しますよ、心から。暁鐘連盟の大目的は、幻想・怪奇・神秘の類を蒐集して解析して再現するところにあります。その達成を期するべく、諜報網は日夜密にを心がけていますゆえ。おひとりにて、あてずっぽうに探し回るより遥かに効率的なこと、絶対に保証いたします」

「…神秘の、妖異の量産、か」

「胸が躍ると思いませんか? 私は凄く湧き立ちますよ。御一新前は藩侯でもなきゃ味わえなかった舌のとろける至福の甘味が、今日(こんにち)ではもうそこら下町の店先にさえ二束三文で山積みされているように。手織り木綿に編笠姿がせいぜいだった農村にまで、メリンス、人絹、()(くに)帽と、きらびやかなる装束が這入(はい)り込んでいるように。ごく一握りが独占していた品々を、彼らの手からもぎ取って、安価に、広く行き渡らせる。これこそ文明の慶沢であり、国家前進の証明でしょう。独り異能が、その埒外に留まっていていいわけがない。歯車として、規格化される(とき)が来た」

「ふん」

 

 鼻を鳴らして、

 

「古来より、その種の所業をたくらんで、幸福な結末を迎えられた例がない。左道はついに、左道のままだ」

「なら我々が第一号になりますね。いいじゃないですか未踏峰、穢れ知らずの処女雪を、思う存分蹂躙する悦楽は、きっと何にも代え難い。ああ、これはますます励まねば」

「減らず口を」

「沈黙はもう、金ではないので。雄弁に取って代わられました」

「それも時代の流れとやらか」

「ええ、貴女もすぐ実感しますよ。――どうです、そろそろ立てそうですか?」

「大事ない」

 

 いって、彼女は身を起こす。

 振り返り、今の今まで背中合わせになっていた龍の骸を、名残り惜しげに愛撫した。

 

「……頃合いです、おまえさま。名残り惜しゅうてたまりませぬが、妾は此処を離れます」

 

 頭部のおよそ左半分。

 闘いを経て、残ったのはそれだけだ。

 あの寄生体を除く過程で、それ以外はみな台無しにした。悔いはない。そうせぬ限り、殺しきれない相手であった。

 

「おまえさま、どうか妾を赦してたもれ。まだ御許へは逝けませぬ。不実と責めてくださいますな、為すべきがまだあるのです。彼の世にて、心安らかに再会するためにこそ、塗られた泥を雪がなければなりませぬ」

 

 掌だけでは飽き足らず、全身をひたと擦りつけて、睦言のように彼女は告げる。

 なんともはや、お熱いことだ。いったいどれほど惚れ込めば、枯れた頭蓋の中身さえ、抱きしめられるに至るのか。

 

 濡れた口づけひとつ落として、彼女はしずしず後ずさる。

 否、間合いを取ったと言うべきか。

 

 ――ひゅおっ、と。

 

 一迅、鋭い音がした。薙刀を構え直した音だった。裂いた大気に、ああいう断末魔を上げさせられるのであれば、なるほど確かに失くした血肉の再生は、ほぼほぼ完了したのであろう。

 …もっとも、彼女をへたり込ませた損耗、そのおおよそ七割方は、私の「腐れ」に由るのだが。ひとたび打ち込んだが最後、使い手でもどうにもならず、時間経過を待つ以外、その侵蝕を止める術がないあたり、ほとほと呪いの武具である。

 

 まあ、それはいい。

 

 乙姫様の翳す白刃、その切っ先は疑いもなく、龍の遺骸に向いていた。

 

「さあ、共に。――いずれ妾も、同じ刃に伏しましょう。ですから、どうか、その刹那まで、矮小(ちい)さな妾を、この愚かさを、導いて――!」

 

 流石に声が震えっぱなしだ。

 しかし狙いは過たず、ずぶりと遺骸を貫いて。

 続く反応は劇的だった。龍の頭部が爆ぜたのである。

 無数の泡となって飛び散り、色とりどりに煌めいて、地下空間を回遊しだす。

 規則正しい動きであった。一個一個に意志があると言われても、受け容れるしかないほどに。

 

 この眺めは、そう、魚群に似ていた。

 海の底に寝そべって、鰯かなんぞかの群れを見上げているようだった。

 

 泡はどんどん速度を増して、中心に立つ乙姫様の姿さえ、まったく覆い隠すに至り――。

 

高知也天之御蔭(たかしるやあめのみかげ) 天知也日御影乃(あめしるやひのみかげの) 水許曾波常爾有米(みずこそはつねにあらめ) 御井之清水(みいのましみず)

 

 ――そして、唐突に消え失せた。

 

 それこそ泡が弾けるように。なにもかも、束の間の白昼夢といわんが如く。

 

「おみごと」

 

 けれど私は知っている。

 断じて夢では有り得ない。これはある種の継承だ。その証拠に、見よ、あの刀身を。彼女の握る薙刀に、新たに浮いた紋様を。龍の鱗を思わせる、幾何学的な配列を。

 

 つくづく偉大な生物だ。とうに死し、内側から貪られてなおもまだ、ツガイに渡す何がしかを持っているとは――。

 

「まこと、()きふるまいでありました」

「世辞はよい。それより早く、参ろうか」

「本心ですが。まあ、水掛け論は慎みましょう。先導しますよ、乙姫様」

「…………」

 

 はて、追随する気配がない。

 肩越しにちら(・・)と窺うと、

 

(まゆずみ)だ」

「え?」

「乙姫、乙姫と、その呼び方は正味いささかこそばゆい。あまり若やぎ過ぎている。もはやそんな齢ではないわ。(まゆずみ)蓮華(れんげ)と、妾のことは以降そう呼べ」

「れんげさん。――本名ですか」

「どうでもよかろう」

「いえ、龍が娶るに、あんまりにも相応しすぎる名前ですから。本名ならば、凄い運命力だなと」

 

 黛色蓮華池(たいしょくれんげち)――。

 八大龍王が一角、優鉢羅王の身を潜める碧潭が、確かそんな名前であった。

 

「――」

 

 返答(こた)える心算(つも)はないらしい。乙姫あらため黛蓮華は、ただ柔らかに微笑んでいた。

 

 

 



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