残雪に敬意を込めて
イチという雄は変わり者だった。山でもっとも速い雄の隼と、山でもっとも大きい雌の隼の間に産まれ、兄妹の中でもっとも早く孵り、イチと名付けられたその日から、イチはずっと変わり者だった。
ごうごうと海風の吹き荒ぶ崖の窪みにあって、イチの鳴き声は風の音を貫くように大きく、羽毛が生え揃うも異様に早く、そして兄妹でもっとも早く空を飛んだ。両親が、釣り人からくすねた小魚を啄む鳶が、波間に揺蕩う海鵜がひやひやと見守る中、初めてその翼に風を捉えたイチは、弾丸のように天道様に向かって飛んでいた。
イチは変わり者だった。雄の癖に雌より二回りも大きく、狩りをさせれば稲妻より速い。
イチは変わり者だった。崖に寄り付かず、いつも鳶や烏とつるみ、巣立って半月で故郷を発つ。
イチは変わり者だった。山から港、湊から山、山から川へと、その居場所を点々とした。
だから巣立って一年ほど経つある夏の朝、イチが寝床から飛び立ったのも、次の居場所を探す為だった。
「やい、イチやい」
冷たい風の中、朝日に向かって飛ぶイチの後ろから声が掛かる。
「緑か、どうした」
「どうしたもこうしたもねェや、んな朝っぱらから何処行くつもりサ」
寝起きらしくふらふらと真鴨の雄が叫んだ。その声に振り返りもせず、イチが返す。
「どこか別の場所に行く。行きたくなった」
「かァ、隼の癖に渡りみてェな真似しやがる」
「渡る隼も居る」
「お前さんみてェにコロコロする奴ぁいねェよ!」
呆れて笑う緑に、果たしてそれ以上の返答は無かった。ただ、鋭い軌道で上昇したイチは、真鴨が見上げる空に二、三度大きく旋回し、きいきいと澄んだ声で鳴いた。やがて翼を畳んだ緑は、「いつでも帰ってきやがれ!」と言って踵を返す。
「ううむ、約束は出来ん」
その捨て台詞を聞いて、イチはようやっと微笑んだ。微笑んだままきりりと鋭利な翼を撃って、無意識に行先を委ねていた。
天道様が真上に光る頃、捕まえた雀を引き裂いていたイチに、一匹の犬が声を掛けた。
「や、見ない顔だな、アンタ」
「イチだ」
「そうかイチ、儂はオスワリだ。アンタ、どっから来た?」
「この川を山の方にずっと登ったところから」
「なにしにさ」
「居場所を探しにだ」
「番を探してるんじゃないのか」
「ああ、住む場所を探している。この辺りはどんな場所だ?」
オスワリはやや考え込むと、こう答えた。
「この辺りは鳩とか犬とか猫とかオカーサンとかがいる、あとな、岩が多いぞ」
「オカーサンとは何だ」
「オカーサンはオトーサンの番だ」
「……その二つは何だ」
「わからん、だが乾いた肉と水と、あと色々くれる。その代わりに俺は撫でられたり、オカーサンとオトーサンとその子供に撫でられたりする」
イチにはオスワリの言うことが殆ど分からなかったが、初めて聞く名前の動物が、オスワリと奇妙な共生関係にあることだけは理解出来た。イチは、自らの無意識が少しだけここに惹かれていることを感じていた。
「アンタ、ここいらに住むつもりなのかい?」
「今日はここにいる。次に明るくなったら、辺りを見て回ろう」
「そうかぁ、それなら気をつけな。オカーサンとオトーサンには襲ってくる奴もいる」
「そうなったら飛んで逃げる」
「それなら安心……と言いたいが、烏の連中にも気を付けた方がいい、特にリョクチコーエンにいる奴らにはな」
「……よくわからんが、気を付けよう」
イチが頷くと、オスワリは突然背後を振り返る。驚いたイチが一つ上の枝に飛び移ると、やや遠くから甲高い鳴き声が聞こえた。声の主は奇妙な色の身体をして、小さい奴と大きい奴が二匹いる。なんだエダモチか、とイチは心中で呟いた、こいつらなら海でも山でも川でも見たことがある。話が出来ない奴らの中では、特に大きい種類だ。
『オカーサンとオトーサン』というのは、こいつらを指す言葉らしい。ならば、イチにとっては全く問題にはならない。寧ろ気になるのは、リョクチコーエンとやらにいる烏たちだ。
「もみくちゃにされるのはごめんだ、じゃあなイチ!」
「待て」
「何だ!」
「リョクチコーエンというのはどこにある?」
「お天道様が沈む方にある、木がたくさんあるからアンタならすぐわかる!」
早口にそう言って、オスワリは『オカーサンとオトーサン』の方へ走っていった。「ごめんだ」とは言っていたもののその脚は軽く速く、奴らとは良い共生関係を築けているのだろう。坂を駆け上がっていくオスワリの姿を一頻り見送ってから、イチは喰い終わった雀の残骸をうち捨てて羽を広げた。
オスワリの言っていたリョクチコーエンは、確かにすぐに見つかった。色とりどりの硬い岩と、エダモチが入り込む動く岩と、やたら長く高い岩ばかりがある中で、確かに木の葉の緑がよく目立つ。あの場所なら、少なくとも喰いものと寝床には困らない。
しめたと高度を下げ始めた隼は、しかし今まさに自らを取り囲まんとする影を見とめた。烏だ、光沢のある黒い翼で、三羽の烏が近寄ってくる。やがてイチと高度を揃えると、三羽は一斉に襲い掛かってきた。真正面から向かってきた一羽の爪を避けると、その軌道を先回りして二羽目が、更に避けると三羽目が、という具合に、イチはどんどんと望まぬ方向へ下降を強いられる。
(オスワリの言う通りだった、うかつだったな)
イチは早々にリョクチコーエンに降りるのを諦め、烏に応戦することを決めたようだった。隼の得意は狩り、最高速度での蹴りは自らよりも大きな獲物すら仕留める。その為には一度高度を稼ぐ必要があるが、イチは既にその算段を付けていた。
身体を捻って烏の一撃を避けると、大きくばしりと羽搏いて急降下を始める。翼を引き絞って鎌のように畳めば、落雷のようなスピードに烏が追いつける道理は無い。速度が十分に上がり地面が近付くと、今度は滑らかに翼を広げて頭を上向ける。落下の勢いを余すことなく乗せて太陽へと向かうこの瞬間が、初めて飛んだあの日から、イチはもっとも好きだった。
勿論、追いかける烏たちも黙って見ている訳ではない。がぁがぁと鳴きながら、同じく一直線にイチに追い縋る。だが奴らがイチに追いつくよりも、隼が高度を取り戻し、その身体を反転させる方が遥かに早い。今この瞬間だけは、この空を完全に隼の狩場であった。
「お前たち!」
その狩場に、一陣の黒い風が吹くまでは。
イチよりも更に上から響いた声に、三羽はびくりと身体を竦ませて散開する。蹴り殺す標的を失ったイチの眼前に、新手の烏が一羽躍り出ていた。その嘴に血が付かなかったのは、一重にイチが無意識に従い、急降下を中止したからであり、新手の攻撃の速度と精度は凄まじいものだった。
「くお……っ!?」
「ちッ、馬鹿共が……!」
新手が三羽に一瞥をくれると、奴らはすごすごと距離をとる。どうやら新手は、一羽でイチを殺すつもりらしかった。その身体は烏にしてはやや小さい、隼の中ではずば抜けて大きいイチと比べると、親鳥と巣立つ直前の雛にも見えるほど。
それを意識しながらもイチは再び降下の姿勢に入っていたが、蜻蛉返りをうった烏が爪の一撃で邪魔をする。何度でも、適格に、どこまでも烏は付いて来る、こうなっては隼は逃げ回るしかない。急降下できなければ、隼の速度は烏よりも遅いのだ。
「お前っ、賢いな……!」
「黙れ、早く死んで肉になれ」
ずるずると高度を下げるイチを烏はしつこく追撃する。が、イチもさるもの、交錯の一瞬に身を翻し、背中に回り込む形で降下を始めることに成功する。翼を引き絞って流線形へと整えたイチに、あろうことか烏は同じく翼を畳んで追随した。無論隼よりもいくらか加速度は劣るが、それでも一定の距離を維持しており、これには流石のイチも目を剝くほか無い。
切り立った岩と岩の間を縫うように、二羽は交錯を繰り返しながら飛ぶ。追う烏の爪がイチを捉えることは無いが、追われるイチは飛ぶ軌道を烏に制限され追い込まれる。根競べの様相を呈する戦いが終わったのは、イチが何度目かのカーブを鋭く描いた直後だった。突如前方から吹き付ける突風にあおられてイチが大きく減速する、烏が隼を追いこんだのは岩と岩の隙間、そして前方にはリョクチコーエン。一方が台地、両側を岩壁に囲まれたこの場所なら動きを封じることが出来ると踏んで、小柄な烏はイチを誘導していた。
「貰った!」
満足に動けないイチを横目に悠々と回り込み、追い風を受けた爪の一撃が首を圧し折る。烏も、偶然その場に居合わせたエダモチですら、その幻視を垣間見た。
幻視。
それは幻視でしかない。
驚愕に啞然とする烏の眼前でイチはその翼をまったく畳み、文字通りに
「……っ!?」
痛みと共に体制を崩した烏が、何とか持ち直してイチに背中を向ける。よたよたと力なく滑空するその背を見つめながらも、イチは追撃を加えることは無く、ただ静かについて飛ぶ。やがて木々の合間に降り立つと、振り返って烏は唸った。
「……何のつもりだ」
「殺すつもりで殴ったのに、もう鳴けるのか」
「何のつもりだと聞いている!」
「それはこちらが聞きたい、なぜ俺を襲った」
やや不機嫌そうにイチが言い返すと、烏はきっと睨みつけて言う。
「この公園は私の縄張りだ、余所者、それも隼が我が物顔で近付いておいて、何をぬけぬけと」
「ああ、なるほど。そういう事だったのか」
「馬鹿にしているのか……?」
「いいや全く」
「むしろ殺さなくて良かった」と頷いてイチは言う。
「俺は居場所を探して此処に来た。お前がここの頭だというなら、俺をよして欲しい」
烏は閉口した。自分を打ち負かしておいて、傘下に加えろとこの隼は言う。返答しない此方を差し置いて狩りは得意だの声も良く通るだの宣う。沸々と怒りが湧いてくるが、同時に烏は思考を回す。
勝敗が決まる瞬間を部下に見られてはいない、この隼が強いのは事実、これを承諾すれば、自らの敗北を隠匿すると同時により支配者としての自らの地位を固めることが出来る?隼を従えたとなれば……。
「…………ギン」
「ん?」
「ギン、私の名前だ……そう呼べ」
「ええと」
「配下に加えてやると言っているんだ!」
「ああ、ありがとう、助かる」
無邪気に喜ぶイチをギンは暫く睨みつけていたが、やがて追い付いた三羽を認めると、姿勢をきっと正して高く鳴く。すると、何処からともなく次々と多くの烏たちが集まってくる。
「招集?」
「招集だ」
「集まれ」
「急げ」
「招集だ」
「ギン様の」
「早く」
「集まれ」
ギンはどこまでも打算的で、利益の為ならプライドなど捨てることが出来た。捨てることが出来てしまった。
「集まったな。姿勢はそのままで構わん、黙って聞け。……この、私が打ち倒した隼が、新たに群れに加わった」
ギンの一声に、にわかに烏たちがざわめく。
「黙って聞けと言った筈だ」
それを一声圧して、烏の長はこう続けた。
「余所者で、烏ではない。驚くのは無論分かる。だが足りない頭で考えろ、私がこれまでお前たちの不利益になることをしたか? 違う筈だ、私はお前たちの居場所を広げ、餌場を確保し、戦いを教えた、どれも上手くいった」
「故にこれも、お前たちの不利益にはならない」
冷静に、威厳たっぷりに、ギンは滔々と嘯く。それに異論を唱える烏は存在せず、誰もかれもが自らの長をただ見つめている光景に、イチの無意識は釘付けであった。
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