下町の鶴 (瀧ヶ花真太郎)
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【第一篇】1章.居酒屋の一人娘
1.ムードメーカー副長.詩鶴


 

下町の鶴 1

1章 -居酒屋の一人娘-

☆Episode1「ムードメーカー副長 詩鶴」

 

東京葛飾区、柴又。小さな家々の隙間に陽の光が差しこんでいる。

この町の狭い空は今日も青い。

 

「名取屋」。それは母、小町が営んでいる猫の額ほどの小さな居酒屋で、元は父、陽一が小町のために建てた店。

赤字ではあるものの、父が働いた分からの投資でなんとか経営ができている。そんな名取屋の目の前には少し古びた電車が右へ左へ走っていき、少し歩けば相も変わらず帝釈天参道(たいしゃくてんさんどう)の賑わいが。

 

今日も帰れば店の手伝いが待っている。バイトを探してみるのも良いのかもしれないけど、私には生まれ育ったこの店での仕事が一番手に馴染む。やれ進学だ、就職だと面倒臭い進路指導さえ、私には関係のないことだから、今はゆっくり、青春だのなんだのに耳を傾けて過ごしている。

そう、青春といえば来週発売の新作プリンがーー

 

「名取、おい。」

少年の声とともに頭にポカッと痛みが走る。

それと同時に私の心地よい夢にも朝がやってきた。

「んぇ...、....あ。」

「ねぼすけ、おい。」

目を開けるとクラスメイトみんなが立っている。

「はっ、え?」

「詩 鶴 ち ゃ ん 、お は よ う 。」

担任の先生がわざと下の名で、しかも言葉が最後にいくにつれ、だんだんドスの効いた声に変わっていく。

慌てて立った私は勢いあまって、

「はッ...ハァぁありがとうございました!」

と言うと、それにノってクラス全員がありがとうございましたと礼をした。

さらに追い討ちをかけるかのように先ほど私を叩き起こした少年が口から垂れかかったよだれを指摘する。

 

 

...ねぼすけは、ひどく赤面した。

 

 

「あ~~~、もううう!」

「良く眠れたァ?オーはよう。」

「河島うるさい。あっち行って...。」

机にうずくまり、赤らめいた頬を隠す私をからかってくる。

少年の名は「河島栄汰(かわしま えいた)」。自称ムードメーカー長。私を副長呼ばわりしてくる。

中学からの友達で、仲はそこそこといったところ。人間関係においては幅広く関わりを持っているように見えて、実は自身が本当に信頼している友達以外はクラスメイトを笑わせるための仕事仲間という風な認識をしている。...じゃあアイツにとって私は仕事仲間なのかな?知らんけど。

 

授業が終わり、教室が賑わい始める。外からは溢れんばかりの日差しと、熊蝉の恋歌が左半身に打ちつける。

まだ6月に入ったばかりだというのに、季節というのは気が早い。

 

「次の授業なんだっけー?」

と、眠気交じりの声に河島は

「昼休みのお勉強だよ。ボケぇっとしてたら購買のメロンパン、売り切れるぞ~。」

そうだった。今日はサクサクふんわり、1日50個限定のスペシャルメロンパンの日だ。急がなくては。

 

 

急ぎ足で購買に駆け込むと、もう人で溢れてる。遅かったか...。と諦める私に1人の少女が。

「あ、つるりん。やほー。」

私のことをそう呼ぶのは隣のクラスの「矢原瑞希(やはら みずき)」。第一印象のおっとりさとは裏腹に、好きなことに対しての行動力は凄まじい。

「みっちゃん、やほー...。メロンパン、もうダメよね。」

「んー、ダメかもねぇ。この時間じゃね~。」

「だよねー...。あ~もう!また逃したあ...!」

落ち込む私に瑞希がにんまり笑いながら

「これなあ~んだ。」

と、メロンパンを見せびらかす。

「良いなあ~!私も食べたかったぁ~。」

「実はねえ、」

というと、続けて

「つるりん用に買っておきました~。」

と言って私にメロンパンを手渡す。私は目を丸くする。

「えっ、え?いいの!?」

「この前ゲーセンに付き合ってくれたお礼。」

「えー、そんな対したことしてないのに(笑)」

「お陰さまで欲しかったの取れたから。」

この入手難易度の高いメロンパンと互角だったのか、あれは。

瑞希は続けて、

「それにさ、良かったら一緒にお昼食べない?」

と私を誘った。私は笑顔で快諾し、二人で教室へ向かった。

 

 

教室に戻ると河島が教卓を机代わりにし、ジト目で頬杖をつきながらバナナをモグモグと食べている。室内の生徒がまばらなせいか、河島の存在感がより目立っていた。さっき起こして貰ったとはいえ、無駄に辱しめを受けたんだ。仕返しにちょっとからかってやろう。

「ただいま、ボスゴリラ。」

「おう、帰ったか。よだれナイアガラ。」

即答の返しにクラスメイトが必死に笑いを堪えている。

私は頬を赤くして

「なんだ!やるかこの野郎!!」

「ボスゴリラに歯向かうのかお前。」

またしても返しがはやい。

あろうことか瑞希まで笑いを堪え出したので

「ちょっと、みっちゃん!」

と頬を膨らませ、軽く睨んでみるも、耐えきれず爆笑してしまう始末。

 

...今日のところは完敗だ。覚えていろ、ゴリラ。

 

「全く...、こういうのは頭の回転速いんだから。」 

私の言葉に瑞希がクスリと笑い、頷く。

「河島君とつるりん、仲良いよね~。」

「腐れ縁だよ。」

と、流れで吐き捨てる。河島と私が揃うと、それだけで面白いことが起こるのではないかという謎の期待を周りから感じるのだ。これは明らかにコンビと勘違いされている。あいつもあいつで、時々出てしまう私の天然なところをここぞとばかりに狙ってツッコミを入れてくる。ほんと、顔から性格まで蛙みたいな奴だ。...いや、蛙はバナナ食べないか。

 

「そういえばお前、何でバナナ食ってんの?」

私の問いに河島は

「ゴリラって呼んでおいてそれはないだろう。」 

と、ボケる。

「今月金ヤバいな?さては。」

そう私が痛いであろうところを突いてみたら

「それはお互い様だろうよ。お前らも一本食うか?」

と言って、河島はバナナの房をちぎろうとした。

「なんで房で買ってんだよ...。うちはいいよ。」

すると、横から瑞希が教卓まで歩いていき

「ありがと~♪」

と、河島から一本貰う。

いや、

マ ジ か 。

「う~ん、美味しいねこれ。」

横で瑞希が美味しそうに頬張る。

「だろ?コスタリカ産だからな。」

と、河島が自信満々に言う。

「コスタリカってどこ~?」

「知らん。」

堂々たる返しに私も吹き出す。

まるで吐血したかのように、手についたメロンパンの憐れなる残骸に息を飲み、その手を握り拳に変え、立ち上がる。

「こらゴリラぁ!メロンパン返せええ!!」

「お詫びのコスタリカバナナ。」

「要らねぇよバカ!」

熱の入った叫びにも冷静にボケをかましてくる河島。ふと横を見ると、瑞希が顔を真っ赤に火照らせてむせ返っている。

「みっちゃん大丈夫!?ねぇ、大丈夫!?」

瑞希の身体は小刻みにプルプルと震えている。ダメだ、完全にツボに入ってる。

「息してるかぁ!?おお!?」

「ちょっと黙ってろお前。」

「はい、すみません。ゴリラ黙ってます。」

 

その後、瑞希の笑いが収まるまで、結構な時間を要した。

消えかかった笑いの炎に定期的にガソリンを注ぐような河島。それを止めようとする度にあいつの波に乗せられ、結局笑いが起きる。

これがコンビとか言われてしまう原因だ。

 

やがてお昼が終わり、掃除の時間、5時間目、6時間目と、時間は過ぎていった。

 

 

放課後前のホームルームになると、河島と私は目を合わせ、頷く。

店の手伝いに追われて、課題がやりきれない私はいつも居残りを食らってしまう。だから、先生に呼び止められる前に息を合わせ、「ありがとうございました」のタイミングで群衆に紛れ、玄関へ猛ダッシュするのだ。

今日は全部活が休みの日。早く帰れるならそれに越したことはない。何といっても、課題より店、店より遊びたいが本望なんだ。ここはなんとか切り抜けなくては。

 

「課題やってない奴、当然だが残れよ。」

と、先生の圧のかかった警告。だが、それを遵守するほど私は良い子じゃない。

非公認帰宅部、反乱軍などと生徒会や、教職員らに言われながらも、居残りの教室で一年もの間、極秘裏に策を練り続けてきた。そんな我らが汗水垂らして作り出した''隠密帰宅陣形''、その全12ポジションのうち、成功率の高い第3陣形と第6陣形を編み出したのはこの私なのだよ。何度も失敗に終わり、酷い叱責を受け、涙堪えながらそれでも帰宅に命かけて頑張ってきた私たちなんだ。

居残り軍なめんなよ。

 

今日は先生の警戒レベルが高い。号令のタイミングで髪を下ろそう。

そう考えていると、河島からフェイスサインが送られる。

両眉を2回上下、ウィンク左右1回ずつ、口角を1回上げる。これは第6陣形だ。私は唇を噛みしめ、真剣な表情で親指を立てた。今日はだらだらと部活に向かって行く人たちのざわめきはない。今回に至っては教室が静まるのが早い。

第6陣形とはスピード重視の連携技。周りに溶け込み、教室の出入口前で体勢をかがめ、外へ滑り込む。

 

今回も成功するとは限らない。号令とともに礼をすると私は、居残りを認め、椅子に座るフリをして、ヘアゴムに手を伸ばした。

 

 

つづく。




2022.6.7
サブタイトルに話数を表記
2022.8.6
あとがきの一部を編集
2022.12.19
改行の位置を改正


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2.三人ぼっち

ープロローグー

席に座り、タイミングを待つ。
目の前に複数の男子が横切り、先生の目から私が隠れた。
次の瞬間、結んでいた髪をおろし、即座に教室後方のスペースに紛れ込む。
あとは出口へ向かうだけ。ここが成功すれば第一関門突破。
ただ、出口までの一直線で真ん中以外ががやけに空いている。下手にかがめば、先生の目からは死角になるが、この周辺のクラスメイトからは丸見えで、目撃者となってしまう。さあ、どうする。
河島の方は机から落ちた文具を拾う体で身体をかがめ込み、こちらからは姿が見えない。もう廊下に出ているとすればあまりモタモタしてはいられない。
ならば一か八かのスピード勝負だ。
紛れ込んだ群れの中から飛び出した瞬間、先生の顔がこちらの方向に向こうとした。
「ミスったか...!?」
と、思ったその時
「こっち向け。」
と、後方から河島の声が。振り向くと河島が群れの中から飛び出し、私を突き飛ばす。その反動でよろけ足になり、後退りする。
下ろした長髪が揺れ、横顔が隠れる。河島はそんな私を使って身を隠しながら出口へ向かう。
出口前のクラスの群れに紛れ込めた時、河島は私の手を強く引き、教室の外へと連れ出した。
「え...?助かった?え...?」
状況の整理に追い付かず、ぽかーんとしている私に
「第6陣形だぞ、校門前で落ち合う。遅れんなよ。」
と言い残し、走り去ってく。

高鳴る心臓の音を押し殺すように、私は作戦のルートである三階を目指した。


【本編】

下町の鶴

1章-居酒屋の一人娘-

☆Episode2「三人ぼっち」

 

 

「おい名取。」

「ふん。」

私は机に居眠りの姿勢で、ふてぶてしい顔をしながら受け答えをしている。

「お前の陣形、失敗したぞ。」

「知んないもん...。あたし、悪くない。」

口を膨らませ、不貞腐れる。

 

脱出作戦は失敗に終わり、夕焼けの教室で結局、居残りという名の懲役刑を食らった。

それで私たちは恒例の反省会を開いている、というわけだ。

「二人とも、何があった?」

同じく居残り軍の山岸が聞く。

「作戦通りにやったもん。」

「嘘つけい。」

河島が否定する。

「ホントだもん!アレに遭遇するまでは...。」

第6陣形の中で私は、自分の学年のエリアである二階からわざと三階を通って玄関へ大回りするルートなのだが、

山岸:「アレ...?」

河島:「三年にハメられた。」

というわけだ。

「ああ、さては藤島先輩だな?」

と、山岸。図星で河島と私は頭を抱える。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~

「「青春は努力で手に入れるべきじゃないか?」」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「イケメンまがい...男の敵...女が主食の変態野郎...。」

ボソボソと愚痴を垂れている。

「河島....お前。」

 

藤島先輩。高身長でバスケ部という、モテ男の肩書きにしては結構ベタなステータスの持ち主。

爽やかな第一印象とは裏腹に、自分より下と見なした人間の非行や、ルール違反に対しては教師側に付いて善人ぶるような男だ。

 

「名取もなんであんなのの言葉に足止めるんだよ。」

と、山岸が呆れた顔で聞いてくる。

あんな男に...してやられたとは口が裂けても言えない。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「「購買のスペシャルメロンパン、確実に買える必勝法があるんだけど、知ってる?」」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「嘘つき...女ったらし...使い捨て主義の最低野郎...。」

浮かぶ限りの暴言をボソボソと吐く。

「名取....お前...。」

そう。そうやってまんまと時間稼ぎをされ、先生に見つかり、教室へ連れ戻された。

その後の教室で酷く説教を受ける羽目になり...

 

「....お店の手伝いが...。」

「それは課題より大事なことか。」

「そうです。」

「馬鹿言え、優先順位を考えろ。」

「社会の潤滑を、社会人が止めるとはどういうつもりですか!」

「課題もしてこない奴に回せる社会なんてねえよ。」

 

今度から録音してやる...。

「嫌い...。嫌い...。」

呪いの言葉のようにマイナスのオーラを放つ。

河島:「今までは確実だったのに...。」

山岸:「先生らが職員会議だからって安心してたが、対策済みだったようだな。」

名取:「山岸はどこで捕まったの?」

山岸:「玄関。外靴に履き替えるとこまでは行けたんだが、出口で待ち伏せされてた。」

名取:「うわあ、お疲れ...。」

 

今回の警備態勢はあまりにも高すぎる。手伝い前にちょっと遊ぼうと思ってたのに...。

 

「なあ、これ終わったらどっかで飯食わね?」

河島が提案する。

「良いね~、賛成。」

「私、手伝いに間に合うかなあ...。」

「休んじゃえばいいじゃん。」

と、河島が気楽にいうけど、

「そういう訳にもいかないんだよ。」

うちの店は基本、お母さん一人で店を切り盛りしている。青春謳歌したい気持ちもあるけど、家計が大変な今、あまり負担はかけたくない。

それと、今月のお小遣い(給料)をあまり減らしたくない。

「ふたりは今日バイトないの?」

この質問に二人とも頷く。畜生、羨ましい。

「じゃあさ、今度振替でどっか行こうぜ。」

河島がちょっと優しい。頬杖をつき、目をキョロっとさせて聞き返す。

「どっか?」

「ジェットコースター乗りたい。」

「あー、遊園地?放課後に行くとこ...?」

「いや、流石にそれ行くなら土日だな。」

現実逃避に浸る会話を楽しむ。最近こういうことができてなかったんだよな。

今度は山岸が聞いてきた。

「逆に女子ってどういうのが良いんだ?ブクロでショップ巡り~とか?」

「ふっ(笑)」

そういうのは多分、みっちゃんの方が好きだろうな。

洋服とかみて回るんならせめて一人は女友達を連れていきたいところ。

「あたしは別にどこでも良いよー。」

「でた、''どこでも良いよー。''」

「ええ?あー、でもそうだなあ。アイス食べたい。」

と言うと山岸は目を光らせて

「あー、良いよな!アイス。グルメ旅してえ!」

... 旅 規 模 。

「グルメかあ。」

一斉に考え始める。突然静かになる教室。

「おい、何か喋れよ。」

河島がそうツッコむと、小さく吹き出した笑いが次第に大きくなっていった。

 

他愛もない話が、閉じ込められた空間で、暗く沈んだ心に明かりを灯すような気持ちにさせる。

お喋りしているうちに気づけば三人ともぐっすりと眠ってしまって、先生に叩き起こされる頃には、空もオレンジ色に焼けていた。

とっとと帰れと背中を押され、教室をあとにする。

夕陽が差し込み、静まりかえった廊下を三人ぽっちで歩くのも、これはこれで良いなと思えた。

 

「やっぱご飯、食べよっか。」

 

牛丼屋あたりをチョイスしておけば、早く帰れるだろう。

「やっぱそうこなくっちゃ!」

河島の声が廊下に響く。続けて、

「さあ、どこ行くか。」

と、言うと一斉に

「僕はゼリアかなー。」

「私、牛丼食べたーい。」

「やっぱラーメンだろ。」

三人が同時に出した提案は喋りながらの私にも理解できた。

「全員バラバラじゃん。」

思わずみんな吹き出した。

 

 

空が藍色に染まりだした頃。私は焦りに焦っていた。

「のんびりしすぎた....!!」

間を取ってファミレスに決まり、ゆっくり最近の愚痴話で盛り上がって、ついつい時間を忘れてしまっていた。

バスも、電車も、たった今出たばかり。どうしよう。走るか...?いや、走るには地味に距離が長い。

「待つしかないか...。」

そう思い、焦る気持ちを沈めようと自販機でサイダーを買った。

プシュッ...!

キャップを開け、一口飲もうとすると、気化した炭酸に肺をやられる。

「けほっ....けほっ...!.....はあ。」

ため息をつく。やけになってボトルの半分まで一気に飲んで酒飲みのような息を吐く。

今日は良いことと、嫌なことの波が激しい。心が対応しきれないレベルだよ、もう。

うつむいた顔を上げると、街明かりが星のようにキラキラして見える。

ぼーっと見とれていると横から聞き覚えのある低い声で私の名前を呼ぶ。

「おお、詩鶴ちゃんじゃないか?」

声の方に顔を向けると、黒いライダージャケットを着た大柄の紳士が、レトロな雰囲気の大型バイクに腰かけている。白い煙草の煙が風に乗って通りすぎると、綺麗に整えた髭と、太い眉、軽くパーマをあてた髪の渋い顔が現れる。

「オッチャン...!」

そう呼ぶと、その男は軽く口角をあげ、私に言った。

 

「どうした、困りごとかい。」

 

 

つづく。




ーオマケー
【居残り軍 データベース】
・河島栄汰
Lv.27  
はやさ30 まりょく23 かくれ96
隠密行動型。かくれんぼでは最強と謳われ、小学時代に一度、先生が警察に捜索届けを提出してしまうという事件があった。

・名取詩鶴
Lv.26
はやさ97 まりょく19 かくれ26
スピード型。中学時代、陸上部のキャプテンから逃げ切ったという功績を持つ。ナメるな危険。

・山岸勉
Lv.28
はやさ13 まりょく108 かくれ25
知能型。足こそ速くはないが、隠れずとも、意図的に影を薄くできる。秘技を聞いても理解力がなければ会得できない。

ーーーーーーーーーーー
2022.6.1
一部の差別的表現および、暴力的な表現を改正。
ストーリー進行の変更はしておりません。
2022.6.7
サブタイトルに話数を表記


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3.探偵入崎

【本編】

下町の鶴

1章-居酒屋の一人娘-

☆Episode3「探偵入崎」

 

 

「すみませーん、ビールおかわりで。」

「はいはい~。」

店の中には中年の常連がカウンターに、二十代くらいのサラリーマン二人組がテーブル席に座っている。

店内に響くフライパンの音。せっせと調理しながらも、カウンターのお客さんの話にちゃんと受け答えしている。

「小町ちゃん、聞いてくれや。おいらまた馬で負けてよォ...。」

「また~?前まで絶好調だったのにね。」

「そうなんだよォ、あともうッッ...ちょッとのとこで...!」

 

「名取小町」、これが母の名で、生まれ育ちはここから遥か東へ進んだところにある静かな海の町だったのだとか。父と結婚してのち、この町で店を立て、しばらくして私が生まれた。

 

「はい、ビールお待ち~。」

「お、すいません。」

受け取ったサラリーマンがゴクゴクと良い飲みっぷりをする。キッチンに戻ると端に座っている常連客がカウンター越しに聞いてきた。

「そういえば旦那さんが作ってるところ、見たことないなあ。」

「ああ、うちの旦那、実は料理得意じゃないのよ。」

と、母が笑う。

そう。元々は父が、栄養士である小町の夢を叶えるために建てたお店。

その後、母にとってはさほど苦労しなかった調理師免許も、父にとっては大苦戦。何度も落ちた結果、結局諦めて、手伝う時は皿洗いや、料理運びに専念している。

仕事帰りが遅くなる日もあるため、予めそれが分かっている日は詩鶴が非常勤として働くと決めている。

「娘の方がずっと上手よ。」

「たくましいな。きっと小町ちゃんに似たんだ。」

そうおじさんが誉めてやると、エヘヘと笑う。

「それにしたって遅いなあ。今日手伝いするって言ってたのに。」

娘の心配をする小町。

「詩鶴ちゃんも、もう高校生だろう。いっぱい遊びたい年頃なんだよ。」

と、常連のおじさんが言う。続けて

「俺も昔は遊び呆けて、帰りの電車賃もなくなっちまって、よく歩いて帰ったもんだ。」

そういうと、小町は苦笑いで頷く。おじさんはさらに続けて

「上野から歩いたときもあってな、そんときにゃあ空が明るくなってて、千鳥足で家に着けても扉が閉まってるもんだからさ。疲れちまって扉の前で寝てたら死体と間違われてよ。....おっと、すまねえ。」

調子に乗って盛り上がるも、小町の表情を見て、冷静になる。

「まあ、なんだ。年頃の女の子なんだ。堪忍してやりなって。」

「無事なら私はそれでいいんだけどねぇ。」

 

と、話していると、店の外からエンジンの音が低音を響かせ、近づいてくる。

 

ボンボロボロボロボロボロ....。

 

「おっと、こりゃあ探偵さんのお出ましだ。」

一筋のハロゲンライトの光と、単車の影が店の戸から見えた。

「詩鶴ちゃんの目撃情報でも持ってきたんじゃないか?」

おじさんがそういうと、すぐに店の外から声が聞こえた。

「オッチャン、ありがと!」

「あ、おい。ちょと待て。」

娘の声を聞いた小町はほっと一息ついて、言った。

「どうやらもう既に、白馬の王子のようね。」

次の瞬間、店の戸が勢いよく開き、少女が入ってくる。

「お母さんごめーーん!!遅れましたあ!」

大きな声で謝る。しかし、その声はモゴモゴとこもったような音で聞こえる。

ヘルメットを被ったままだ。

小町はそんな娘の頭をヘルメット越しにコツンと叩いて、両肩に手を起き、問う。

「そのヘルメットはなあに?」

「ひぃ...!」

次に、渋い風貌の紳士が入ってきて

「だーから慎重にやろうぜって言ったのに。」

と言うと、詩鶴の背後に立ち、ヘルメットを脱がせる。

「あっ...ちょ、痛い痛い痛い!」

髪型を心配をしている詩鶴。小町はその男に聞く。

「雅っち、どういう状況か説明して。」

「娘さんにお貸しされてました。」

「オッチャンをお借りしておりました...。」

小町はため息をつき、「まあ座りな」と、一声かけた。

「いやあ、すまんな。珈琲一杯ご馳走してくれるそうで。」

小町は詩鶴の顔を軽く睨む。

「運賃です...。」

詩鶴は人差し指同士の先端をくっつけ、目線を反らして言い訳をする。

「はあ、自分で淹れな。」

「はい....。」

詩鶴は服を着替えにキッチンの奥の居住部屋へ入っていった。

 

オッチャンの名は「入崎雅人(いりさき まさひと)」。

本職は謎だが、困ったときにふと現れ、助けてくれる。

そんな姿から、周りからは「探偵・入崎」と呼ばれ、慕われている。

小町の高校時代の同級生でもあり、昔から世話焼きな性格だったそう。母が言うには、''デザートはあとに取っておく派''という人間性が恋愛事情でも同じだったようで、女性に「あとまわしにされた」と勘違いさせてしまうことも多く、恋の後味はいつも苦かったらしい。

 

私は部屋に駆け込むと全速力で準備をする。

「さてさてさて、もう適当でいいや。」

スカートのホックを外し、床に落ちきる前に足で後ろに蹴りとばす。リボンを取っ払い、制服のボタンを外しながら足でタンスを開け、適当な服を探す。

「うーん、これかな。」

ボタンの外しきった制服を隅に放って、選んだ服を着る。小さな化粧机からヘアゴムを取り出し、口に咥える。スカートの下に履いていた体操ズボンに前掛けを巻いたら、最後に髪を後ろに縛って完了。オーケー!

ここまで二分は掛かってないはず...!多分。

 

「お待たせー!」

キッチンに駆け込むと母が私を見てクスリと笑う。

「変なの~。」

ちょっとちょっとと、私の背中を押しながら店から見えない位置に連れ戻す。

すると、私のヘアゴムを取って手ぐしをかける。

「え、なになに。」

「結び目、だいぶ手前になってる。下向きながらやったでしょ。」

そういって私の髪を結いなおしてくれた。

「うん、こっちの方が綺麗。ささ、仕事仕事~。」

と、母はさっきと同じように私を押してキッチンに戻った。

 

私は棚からコーヒーミルを取り出し、作業を始めた。

珈琲豆をミルに入れてクルクルと回し、挽く。

ゴリゴリと音を立てながら、豆のいい香りが私の鼻腔を通り抜ける。それにまどろんでいると、入崎のオッチャンが嬉しそうに

「どうだ、それの挽き心地は。」

と、尋ねる。

「ん?」

質問の意味が分からず、ぽかんとしていると

「それね、オッチャンがうちに持ってきたのよ。」

と、私に答える。

「え?」

「開店当時、珈琲をメニューに入れたらどうだって言ってきてねえ。わざわざ業者に特注で作ってもらって、豆も専門店で何種類も買ってきて...」

「ああ、懐かしいなあ。」

そう言われてみればこのコーヒーミル、やけにお洒落な気がする。なんというか、とてもアンティークな感じで。

「え、なんでそこまでして...?自分で淹れないの?」

「君に淹れて貰いたいだけさ。」

なんかキザだなこの人。

「あ...そう。」

挽いた豆をドリッパーに移して、お湯を入れる。ポタポタと落ちる雫に見とれていると

「詩鶴、冷蔵庫からお肉とって。」

「あ、はーい。」

「ビールおかわりー。」

「ごめん、行ける?」

「はいはい。」

店は結構忙しいようで、テキパキと働き始める。定期的にドリッパーに戻り、お湯を追加しては母の料理を手伝う。珈琲がちょうど良く溜まったところでコップに移した。

「オッチャン、ミルクとお砂糖は?」

「自分に取っておきな。」

「ねえ、どっち。」

「ブラックで頼むよ。」

ジョークの意味を理解する余裕がなかった。

「はいどうぞ。」

「どうも。」

入崎が珈琲を嗜む。

今度は電話の子機が鳴り出す。

「ごめん、出て。」

「あー、うん。」

子機を手に取る。

「もしもし、名取屋、名取です。」

仕入れの連絡らしい。適当な返答はできないよな。

「はい、はい。今変わりますね。」

保留ボタンを押し、母を呼ぶ。

「お母さーん、お酒屋の佐藤さんからー。」

「佐藤さんがなんて?」

「仕入れー。」

「あ、代わる代わる。ちょっとフライパンお願い。」

「ういー。」

子機を手渡し、ガス台に移る。

「はいー、今代わりました。」

声のキーが2つくらい上がり、奥の居住部屋に消えていった。私はフライパンの柄にかかったタオルを巻きなおし、箸でカッカと混ぜながら手際よくフライ返しをする。

「詩鶴ちゃん、お料理上手いねえ。」

常連のおじさんが誉める。

「ふふ、そう?」

その言葉に女らしく答えてみる。

おじさんはご満悦な様子で酒をすすっている。

炒めた料理を皿に移す。

「野菜炒め。これどなたー?」

サラリーマンが手を振る。

「はーい、持ってきまーす。」

 

持っていった先のテーブルに空いたお皿がたくさん並んでいる。

「お待ちどう。わあ、お兄さん達、一杯食べるね。」

「ありがとう。いやあ、こいつ会社クビになっちゃってね。飲み会ってとこだよ。」

「一体何したんです...?」

私が聞くと顔を真っ赤にして酔った、その人の友人が答えた。

「言っちゃいけないこと言いやがった...。」

「こいつのお袋がこの前亡くなってね、精神的に参っちゃってたんだ。」

酔いつぶれた友人の代わりに、青年が説明する。

「あら...。」

「それで会社に休養を求めたんだが、そんなことより現場が優先だって言わたんだよ。」

「何それ、最っ低...。」

「その時の言われように我慢できなかったってわけ。」

どうやら不幸に不幸が重なったらしい。

「私でも手が出るよ、そんなの。」

「これからまた就活しなきゃいけないんだけど、何て言ったってこんな状況だからさ。」

ここまで辛い状況に置かれた人に「大丈夫だよ」とは言いづらい。何と声をかけるべきか迷っていたとき、カウンターから入崎のオッチャンが手を上げる。

「詩鶴ちゃん、注文いいかい。」

「あ、ごめんなさい。今行きます。」

オッチャンは私にだけ聞こえる声で

「あの青年に一杯出してやってくれ。」

と、小銭をテーブルに置く。

私は静かに頷き、小さな笑みを浮かべた。注いだビールを二人のいるテーブルに置き、

「サービス。今日はじゃんじゃん飲んじゃって。」

と励ます。

「え、いいんすか?」

「うん、気にしないで。」

そのやり取りを見届けたオッチャンは、安心した様子で席を立った。オッチャンのいた席には珈琲とビール分のお金が置かれていた。

「ごめんごめん。あれ?雅っちは?」

母が戻ってきたタイミングと同時に、私は店の外に出たオッチャンを追いかけた。

 

「オッチャン!」

外に出ると、オッチャンはバイクに跨がっていた。

「今日は色々ありがとう。」

「おう、今度からヘルメットは二つ持ち歩かなきゃな。」

「あはは....その件はごめんなさい。助かりました。」

少し沈黙が流れたあと、オッチャンは遠くを見つめて話し始めた。

「あの青年の話を聞いていたら昔のことを思い出してな。」

「え...?」

「守ってやれなかったんだ。今でも後悔してる。」

オッチャンの目は真剣だった。

しばらくすると、いつもの穏やかな表情に戻り

「詩鶴ちゃんの珈琲、最高だったよ。」

と私に言葉をかけ、キックペダルを強く踏み込んでエンジンをかける。

ヘルメットをかぶり、私に手のひらを見せ

「じゃ、またな。おやすみ。」

と言い、走り去っていった。

 

つづく。




ーオマケー

「ヘルメット被りな。」
「え、オッチャンは良いの?」
「転けたときは同乗者の方が怪我しやすい。あと、グローブと、ジャケットも貸すから着な。」
オッチャンは次々と自分の装備を私に着けさせる。
「えー、暑くない?」
「プロテクターが入ってる。擦りむかないようになっているんだ。」 
「へえ...?」
「出来ればズボンもやっておきたいところだが...。」
「街中でスカート脱げと...。」
「だよなあ...。」
次にオッチャンはバイクの跨がりかたを教える。
「そこにステップがあるだろう。そこに足を乗せて、片足は柵を飛び越えるイメージで回して跨がる感じ。」
うんしょ...っと。やってみるも、低身長の私には位置が高い...。
「抵抗あるかもしれないが、しっかり掴まりなよ。」
「うん、平気。」

オッチャンはキックペダルを踏み込み、エンジンをかける。
「なんかレトロだね。」
エンジン音が大きいから、それにつれて声量も上がる。
「お、良いとこに気づいてくれるね。」
左右に突き出た二本のマフラー、一つ目のライト、メーターは二つ付いている。タンクは足で挟みやすいように、肉厚の黒いパッドのようなものが付いている。自分のスネあたりにコードのようなものが刻まれているのを見つけて一言。
(わら)ろっぴゃくごじゅう...。」
「ダブルだよ...。」

ーーーーーーーーーーーーーーー
2022.6.7
サブタイトルに話数を表記
2023.1.15
改行箇所の修正


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4.家族


ープロローグー
-会社にて-
「名取、お前またここ間違えてんぞ。」
「え。うわ、ほんまや...。すいません、すぐ直してきますんで。」
「そろそろいい加減にしてくれよ。ここ学校じゃないんだから。」
「すみません...。」

怒られてばっかりの悲惨な午前を思い出し、ため息をついた。今は昼休憩で、同僚と一緒に食べている。
「刈谷さん、仙台の部署に異動ですって。」
「家族どないするんでしょうねえ。お子さんも居てはるのに。」
「ですよねえ。友達ともお別れになっちゃうし。」
「そういうとこほんま、もっと家族をメインに考えてくれる社会になるべきやと思いますね。」
「僕はまあ、まだ独身なんでどの時代になってもコキ使わされそうですけどね(笑)」
「あはは、何言うてはるんすか。家族持ったら家族にコキ使わされるんですよ。」
「ああ、男の宿命ですな。」
二人一緒になってゲラゲラと笑う。
「そのお弁当、奥さんの料理ですか?」
「これねえ、昨日の余りもんなんすけど、娘が作ってくれたんですよ。」
「ええ~!羨ましいなあ。」
「当番制なんですよ。それで昨日は娘がその日で。」
「へえ。え、てことは名取さんも作られるんですか?」
「いやあ。俺、料理はめっちゃ下手で。「作るな」とか言われてますんで(笑)」
「あらら(笑)」
「仕方ないんで弁当買ってくるか、外食ですね。せめて作れない分、旨いもの食べさせたろって思って。それで毎日、課長に怒られに行ってる訳ですわ(笑)」
「なるほど。」

しばらくして同僚が聞く。
「やっぱり家族って良いもんですか?」



【本編】

下町の鶴

1章-居酒屋の一人娘-

☆Episode4「家族」

 

「今日は小銭いっぱいあってな。これで...丁度。」

「はい、確かに。」

「ご馳走さん。また来るよ。」

「毎度~、おやすみなさい。」

最後のお客さんが帰り、時間も丁度良いので店を閉めることにした。

母は皿洗いを、私は店の掃除をしている。

「詩鶴ー、今日また居残り食らったでしょ。」

「ギグっ....。」 

一瞬、手が止まった。

「やだなあ、友達と遊んでて遅くなっただけだよ~。」

良い言い訳が思い付かなくて、慣れない態度を取る。

「じーーー。」

「...床ピカピカにするんで許してください。」

母の凝視タイムが終わる。

「昨日、十分時間あったでしょ?」

「学校帰り、疲れてるから休息が欲しくて。」

お互いに自分の仕事をしながら会話をする。

「だからってテレビずっと観てちゃ課題できるわけないじゃない。」

「だって猫ちゃん特集なんて放送されたら観ちゃうじゃん。」

二人とも、作業していた手が止まる。いつのまにか、課題をやれたはずの時間についての議論から、私の猫好きを理解してもらおうと論ずる方に熱くなっていた。

「猫くらい野良でいつでも見れるでしょうよ。」

「猫はいくら見ても飽きないもんでしょ。」

「いや、3時間スペシャル全部観るほどかよ。」

「''可愛い''は私の心を救ってくれるのよ。」

「よく分からん。」

「何で分かんないの。」

猫についての激戦を繰り広げていると、父が帰ってきた。

「おかえ.....り...?」

私は早々、父にこの議論について意見を求めた。

「ねえ、お父さん。猫って可愛いよね。」

「何?何があってんな。」

「この子、課題やらなかったことを猫のせいにしてるのよ。」

父は状況の理解に追いつけず、かなり困惑している様子。

「何や良う分からんけど、二人が一番可愛ええで。」

「は?」

この状況で茶化すやつがいるかよ。

「だいたい学業に残業(居残り)まで入れられた上、プライベートにまで課題で追い詰めようとするこの社会構造がおかしいのよ!」

「(それ社会人の俺の前で言うか...。)」

「ああ、それならそう訴えれば良いじゃない。先生に。」

「あんなブラック企業に私達生徒の意見なんて通るもんか。」

「だったら真面目に課題やりなさいよ。言う度胸もないなら!」

「なんで....なんでそういうこと言うの...。」

「メソメソしない!」

普段は優しい母も、娘のことを思ってか、不真面目さや、非行に対しては厳しい。

だからこそ、こういうことで喧嘩したくないから、いつも居残りから抜け出すことに全力を尽くしているのだ。

「ちょっと二人とも、一旦落ち着け...。」

「落ち着けるもんですか。詩鶴がこんなままじゃ、いざという時困るのは詩鶴なのよ?」

「まあ課題くらい許したりいや。それでテストの点数が決まるわけでもないし。」

「そうよ、私そもそも点数悪くないし。」

「五教科四十点台で悪くないだ?」

「赤点じゃないだけマシでしょ!?」

「赤点ギリギリでしょうが。」

父がどんどん困り果てていく。

「お店いつも手伝ってあげてるのに。」

「そんな言い方するならやらなくていいよ。」

「小町...、それはいくらなんでも―――」

居たたまれなくなった。私は目のまわりを真っ赤にして母を睨みつけた。

「もう知らない。」

私は持っていた布巾を床に投げつけ、部屋へ走った。目の前が滲んでほとんど見えない。

家の柱に頭をぶつけた...。

「キィぃいいいい....!!」

腹が立ってその柱を三度、全力で殴った。

 

「たかが課題くらいであの言い方はないやろ...。」

「あの子が心配なのよ。大人になって、酷い目にあってほしくないだけ。」

キッチンから両親の話し声が聞こえてくる。

詩鶴は部屋の隅で体操座りになって、腕を涙で濡らしている。

せっかく手伝ってやってるのに、学校もちゃんといってるのに、何でそんなこと言われなきゃいけないの?

悔しさで涙がどんどん溢れてくる。

「何であんな言い方してしまったんだろう。」

母の声が聞こえる。

じゃあ最初からこんなことで怒らないでよ...。私だって喧嘩したくなかった。

次第に二人の会話はこちらから聞きとれないほどに小さくなっていき、しばらく時間が流れた。

 

「...詩鶴とちょっと話してくるよ。」

父の声が聞き取れたと思ったら、次は私を説得しに来ようとしている。

...やめて。来ないで。泣いてる顔なんて見られたくない。

父が私のもとにやってきた。近くに座り、私の横にコーラ缶を置く。

「ちょっとぬるなってるかも知れへんけど、良かったら飲み。」

「いらない。」

父は私の背中に言葉をかけている。

「宿題は俺も嫌や。なんでせなあかんねん、あんなもんなあ?」

父は私に寄り添おうとしている。私は黙っている。

「いっぱいお金貯めて、いーっぱい遊びたいし。」

「何が言いたい。」

威嚇するような声で答える。

「そんな怖い声出しなや(笑)」

ニコニコと返す父を、呪いをかけるかのような目で睨む。

「学校でムードメーカーの副長やってるって聞いたで。詩鶴が皆をゲラゲラ笑かしてるって思うと、なんかお父ちゃん元気出るわ。んで?ほんで帰ってきたら真っ先にお母ちゃんの手伝いやろ?ほんま詩鶴はよう頑張ってるで。」

我慢できなくて私は目の前で立ち上がり、父の方向に体を向ける。

「さっきから何なの。私からかいにきたの!?」

詩鶴は声を荒らげて激怒する。

「からかってへんよ。ただ―――」

「ただ何?変に干渉しないでよ。」

「何もな、お母ちゃんは悪気があってあんなこと言うたんや無いってのを言いたくて――」

「やっぱりそれ言いにきたんじゃん。何、お母さんと無理やり仲直りすれば気が済むわけ?」

「敵わんなあ...。そりゃあ家帰ってきて、次の出勤までピリピリされるなんてお父ちゃん辛いで...。」

「自己満じゃん、そんなの。」

「ま、確かに自己満やな。でもお母ちゃんと仲良うやってくれると、お父ちゃん、明日も仕事頑張れる気がするねん。」

「知るか、そんなの。」

「今日かて帰ってきたら詩鶴の顔が見れる~思て、それだけで一生懸命頑張れたんや。」

「きも。」

「''きも''とか言うなや。ああもう悲しいなあ!お父ちゃんこんなん言われて。」

「....。」

「今日は特別に焼肉連れてったろて思ってたのに。」

そんなので私を.......え。

「こんな空気やったら美味しく食べられへんわな。」

ちょっと待て、焼肉?

「あ....あの―――」

「お母ちゃんずっとしょんぼりしたままやし、詩鶴はずーっとプンスカプンスカしとるし。」

ちょっと待って....。食べたい。食べたいんだけど、こんな空気でいきなり「ごめーん、食べたいから仲直りする~。」なんて言い出せる訳ないんだが....。でも....

「ねえ....あの....」

「あかんな、今日は。うん、やんぴ、やんぴ。」

「ねえ....」

食べたい想いがこんなに強いのに、意地張ってとりつづけたあの態度を無かったことにできなくて、小さい声しかでない。

「ほなお父ちゃん、弁当買うてくるわ。」

「....ねえってば!!」

立ち上がり、歩き去っていこうとする父に、私は恥ずかしさを必死で押し殺して、その裾を掴んだ。

「ごめんなさいする....。」

「おう、分かった。のり弁でええか?」

さらに裾を引っ張った。下を向いて垂れ下がった前髪で赤い目元を隠す。顔が熱い。

父はこちらに顔だけ向けて微笑んでいる。

「どうして欲しいねん、自分の口で言うてみ。」

「やき.....く」

「なんてえ?聞こえへんなあ。」

「焼肉!.................タベタイ。」

父はにたぁと笑った。

「ほな初めっからそう言わんかい、意地っ張りやのう。」

そういって私の頭をわしゃわしゃと掻き乱す。

「ちょ、やめんかい。」

口調が少しうつる。

私は父の策略にまんまとハマったようで、この意地も食欲には敵わなかった。

 

このあと、私は母に謝ることができた。母も、私への言動を反省していて、お互いにぎこちなかったけど、何とか仲直りは成功したようだった。

 

今日は色んなことがありすぎて、その疲れからか、焼肉屋ではお店の在庫を空っぽにするくらいの量さえペロッと食べてみせた。

時間内食べ放題のプランは食を楽しむというより、いかに胃袋に詰め込めるかばかりを考えてて、家族一同、凄まじい貧乏くささを店内に放ち続けた。

 

帰りは三人とも、始発駅で発車待ちの電車のなかで寄り添うように熟睡してしまっていて、終点で車掌さんに起こされたときに、それと同時にその列車が終電だったことを知らされ、高砂からタクシーを使って帰った。

 

 

 

....結局この日も、課題をしないまま朝を迎えた。

 

1章、おわり。



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2章.地球照
5. ひだまり|-2章-



ープロローグー
-教室にて-
「進路希望調査、提出は明日だからな。忘れずに持ってくるように。」
雨の朝、ホームルーム。
まるで日没後のような暗い外の景色を私は見ていた。
換気で小さく開けられた窓からは、ぽつりぽつり、サアサアと、シャワーのような雨音が鼓膜に優しく触れる。
濡れたアスファルトの匂いは鼻腔を駆け抜け、柔らかい風は身体を擦る。雨たちはきっと、私の瞼を下ろしたくて仕方がないのだろう。
淡い眠気に微睡んでいると、私の視界に一瞬だけ河島が、暗く険しい表情を浮かべているのが目に映った。
「どおしたの?河島あ、具合悪いの~?」
眠気混じりのほわほわとした呂律で彼に尋ねる。すると彼は、目を丸くして驚いたあと
「なんでもねえよ。」
と、疲れから解き放たれたような声で答えた。

何か隠しているようにも見えた河島の態度。
私は不思議そうに彼を見ていたが、だんだんその姿はぼやけていき、やがてカタンと眠りに落ちた。


【本編】

下町の鶴

2章-地球照-

☆Episode5.「ひだまり」

 

6時間目。

少し前に雨があがり、雲もまばらに分かれていき、今は広く開いた雲間から太陽の光が教室に差し込んでいる。

理科の三田村先生の話し口調はおっとりしていて、溜まった疲れにはよく効く。

その効果に身を任せては叩き起こされるクラスメイトを見ながら、私はできる限りの集中を先生の言葉に向ける。

「月には光って見えるところと、真っ暗な部分がありますね。」

だめだ、子守唄を聴かされているみたいだ。

「その暗い部分も、うっすらと見えることがあります。このことを''地球照''と呼びます。では何故、暗い部分が目視できるのでしょうか。はい、名取さん。」

「え...?」

急に私に当てられて困惑する。

「え....、太陽の光じゃないですか?」

「惜しい。」

惜しいんかい。

「じゃあ加藤くん。」

「あー....、実は月も光る、とか?」

「いえ、全然違います。」

....全然違うんかい。

先生がこの問題の説明を始めようとすると、教室端から大きないびきが聞こえてくる。誰だ、誰だと皆が顔をキョロキョロとさせて、声のもとを探し始める。

「木田さん。」

先生が呼びかける。

...木田かあ。夜行性の廃人ゲーマーで、昼は完全にバッテリーが切れる。また、18禁ゲームの広辞苑という異名も持っていて、性癖に合わせた自分ぴったりのゲームをオススメしてくる天才なんだとか。私らまだ17ですけど。

「木田さん。」

今度は言葉の速度を落として、より聞き取りやすく警告する。木田はまだ気づかない。

周りも数名寝ているが、彼のいびきが一番目立ってしまっている。

やばい....このままでは―――

 

「いい加減にしろ!!」

 

先生が教卓をドンっと強く叩き、激怒する。教室の空気が一気に凍りつき、彼を含め、居眠りしていた生徒らが飛び起きる。

起きていた私たちも机の裏に膝をぶつけ、驚く。

「お前、真面目に授業受ける気あるのか。他の寝てる奴らもそうだぞ。」

まるで子守唄から突然、激しいロックに変わるみたいに、先生のおっとりした雰囲気は一瞬にして消え去った。

何をどうすれば良いか分からなくて、銃口を突きつけられているかのような緊張が教室全体に走る。

「お前ら、こんなので卒業できると思うなよ。」

今まで相当鬱憤が溜まっていたのだろう。いつもは滅多に怒らない先生がこんな状態になるくらいなんだから。

 

次のチャイムまであと30分もある中で起きた災難、助けてくれと心の中で誰もが叫んでいたことだろう。

そんな、収拾の付かない状況の最中で突然、三田村先生の広いおでこがピカッと光った。

 

自然発光しただと!怒りが限界値に達するとそうなるの?蓄光か?蓄光なのか?

いや、そんなわけあるか、アホか。その光が微かに揺れているのをみる限り...誰かが故意に光らせている。

私は更に心臓が締め付けられた。誰だ、突きつけられた銃口を自ら咥えに行こうとしている猛者は。

恐る恐るその光のもとを辿ってみると、河島が何食わぬ顔で下敷きで太陽光を反射させ、先生のおでこにその光を当てている。

 

血の気が引いた。

 

私は震えた声で、今にも消えそうな力を振り絞って語りかける。

「か....河島....!な、なな、何やってんの....!」

しかもそれ私の下敷き...!この前みっちゃんと一緒に文具屋さんに行ったとき買った水色の下敷き...!!

そして遂に、先生の怒りの焦点は河島に向けられる。

「おい、何やってんだお前。」

やめて、もう見てられない....。てかこんな状況でよくそんなこと出来るな!命知らずにも程があるよ...。

「先生、地球照です。」

「あ?」

は...?何言ってんのお前。何やってんのお前!!

この状況でまだからかうつもりなの!?

「この下敷きが地球で、先生の頭が月面だとしたら、ですよ。」

教室の中の音という音が消える。しばらく沈黙が続いたあと、先生の口が開いた。

 

終わった。短い人生だったけど、ありがとう。私の心臓は次の怒号で確実に止まります。

男に負けないくらいの、強靭なメンタルを持つ少女のつもりでいたけど、どうやらそれもただの強がりだったみたいだわ。

さよなら、私のメンタル。さよなら、私の青春の日々よ。

そしてさようなら、我が友よ。きっと忘れ―――

 

 

「.........。ああ、正解です。」

....え?

先生が少し冷静さを取り戻す。みんな、この状況に理解が追い付かずに一斉に河島の方を見る。

「先生、どうぞ解説を。」

河島が尋常じゃないくらいスムーズに、先生を激昂前のテンションに戻す。

「えー、月の暗い部分がうっすらと目視できるのは、太陽の光を地球が反射して、その光が太陽の影になっているはずの部分を照らしているからなんですね。」

クラスメイトの目線は先生の頭と、河島が持ってる下敷きを何度も行き来したあと、「すげえ...」と、周りから称賛の声が上がる。

「いつもぼーっと授業を聞いてるはずの君にしては、中々やるじゃないか。」

河島は一瞬ニヤっとするが、そのまま表情を変えずに下敷きを下ろさない。

「ですからつまりこれは....おい、いつまで光を当てているんだ。」

教室の空気は一転し、笑いが引き起こる。

河島が下敷きを素直に下ろすと、一人のクラスメイトから声が飛んでくる。

「何者なんだお前は。」

その問いに、河島は落ち着いた声を維持しながら答える。

「母なる星です、先生。」

「やかましいぞ。」

先生も思わずツッコミをする。

そういえばさっきまでずっと真面目に教科書に目を通していたな。まさかこのタイミングを計っていたのか...?

「すみませんでした。母の座、名取に譲ります。」

そういって下敷きを私に渡してきた。

私はその流れで、返ってきた下敷きを使って河島を一発シバく。

べごぉん....!

「うるせえわ、バカ。」

その掛け合いは先生の怒る気力さえも奪い、その後のムードは帰りのホームルームにまで影響した。

 

 

帰り道、オレンジ色の水溜まりを飛び避けながら歩く。

「つるりん、スタボの新作見たー?」

「うん!見た見た!ピーチのやつでしょ?」

「うん、それそれー!良かったらさー、飲みに行かない?」

「行く行く!」

みっちゃんと放課後、人気の喫茶店の新作ドリンクを飲みに、駅前へ向かった。

 

「甘あっ....!ははは。」

私は思わず、その味に言葉が出た。

「え、でも美味しくない?」

「うん、美味しい美味しい(笑)」

窓際のカウンターに二人で座って、駅前の人通りを眺めながら、このひとときを楽しむ。

歩いている人の服装を見て、今度の給料日に着てみたいファッションの話をしたり、時には同じ学校の生徒を見つけたりして、その噂話で盛り上がったりした。

 

「そういえば今日、進路希望の紙、渡されたよね。」

みっちゃんが将来の話を切り出す。

「あー、うん。渡された渡された。」

「みんな何目指してんだろうね。」

私は窓の外を見つめ、口に含んだドリンクを喉に流し込んでから喋り始める。

「あー、そうだね。卒業しても今度は大学でワイワイしたい~って人がやっぱ多いんじゃない?」

「そうかもね~。」

そういって瑞希は遠くを見つめて、ドリンクをすする。

「みっちゃんはさ、何か目指してんの?」

「んー?私はねえ、美容師の専門学校行こうかなって。」

「へえ~、いいね。」

みっちゃんの方を見て、微笑む。

「お姉ちゃんが私の髪、よく結ってくれてさ。」

「良いなあ~、めっちゃ良いお姉ちゃんじゃん。」

「そうなんだよー。昔は髪くしゃくしゃにされたけど。」

「あはは、何それ。でもそっか~、美容師さんかあ~。こんど髪、結って貰おっかな(笑)」

それを聞いて瑞希は背中を押されたみたいに、少し誇らしげな表情を見せた。

 

「あ、河島くんって何目指してるんだろうね。」

ふと思い出したように瑞希が聞く。

「あー、そういえば聞いたことなかったな。」

「芸人さん、向いてそうだけどね(笑)」

ふ、と笑って瑞希に答える。

「あ、でもあいつ、芸人じゃないって前に言ってたよ。」

「そうなの!?意外~。あんなに面白いのにね。」

河島の話題になり、あいつが何を考えてるのか、少し気にかかった。

「でも、気づいたらテレビとか出てそうだよね。」

「なんか分かる気がする。」

「何かな~、芸人さんじゃないなら...」

二人で彼の将来を予想した。アイドルだとか、モデルとか、時には絶対有り得ないであろうものを出したりして笑ったりもした。

しばらくその会話は続き、カップの表面の結露がすっかり消えてしまうくらいまで喋って、店を出た。

 

瑞希と別れて、家まであともう少しの帰り道で、私は鼠色の空を見上げて、今朝の河島の険しい表情を思い出した。そのときは確か、先生が進路希望の話をしていたっけ。

 

 

何か悩みを抱えてるのかな。

あの河島に限ってそんなこと、と思いもしたけど。

もし、あの笑顔の影で冷たい雨が、その心を打ちつけているのだとしたら...

 

つづく。



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6.月の出

 

【本編】

2章-地球照-

☆Episode.6「月の出」

 

雨の止んだ日の夜は、この初夏に春風のような涼風を街に泳がせる。

月明かりが街灯の少ない通りを照らし、この店の灯りが星を演じる夜。私はその星の中で、外の行き交う電車の光を目で追いかけたり、車の走り去る音に耳を澄ませたりして暇をもて余している。

母はというと

 

「小町ちゃん、風邪引いたのかい?」

私が学校のとき、母は雨の中、買い出しに行っていたそうで、身体が冷えたのが原因かな、と言う。

「あんまりしんどかったら私やるよ?」

と、言ってみるも、強がりを見せようとする。

「お客さんに移しちゃったらどうすんの。」

まるでどっちが娘か分からん会話だな、と思いつつも口には出さない。

「今日はお言葉に甘えて、ゆっくり休んだ方が良いんじゃないかい?」

と、常連さんが言うと、さすがの母も折れて

「うん...そうしようかな...。」

と言う。母はさらに続けて

「詩鶴、なんかあったら呼んでよ...?」

と、懸念した。

私はそんな母に'任せな'という意味を込めて言った。

「副店長、頑張りまっせ。」

 

と、まあこんな感じで奥で休んでいる。

来たお客さんも、今日ははや上がりで家へと帰っていき、今は静まり返った店内の静寂にあくびをぶつけている。

 

 

私はチャンネルを手に取り、お店のテレビをつけた。

ラブストーリーのドラマが映る。

「間違っていた。あんなこと言うんじゃなかった。

あの公園に戻ろう。今ならまだ間に合うはず。」

男の車が海の通りを走り抜ける。

「またあの寂しい日々が戻ってくる。恋の後味はいつも苦いって気づいていたのに。

...私は、またこの痛みと生きていかなきゃいけないんだ。」

海沿いの公園で女が一人、寂しい心の声を溢れさせている。

その時、降りだした雨に身体を濡らされ、俯く。

「一人にしないで。」

女がそう呟くと、顔をクシャクシャにして泣き出した。

その時、男が車の中から飛び出し、彼女を抱き締めた。

「ごめんよ。俺は何も分かっちゃいなかった。」

どしゃ降りの雨の中で恋人同士が強く抱き締め合う。

「もうどこにも行かないで。」

「ああ。ああ!もう二度と、片時だって離すものか。」

互いの温もりの中で、二人は大泣きしている。

その絶妙なタイミングでカメラが遠くへ離れていき、盛大にラブソングが流れる。

 

私はほんのり火照った頬に手を添えて見とれる。

雰囲気に酔った私は店のお酒の蓋を開けて、手のひらであおぎ、鼻の奥にその香りを舞わせる。

にひひ.....と、いたずらに微笑んで、カウンターで頬杖をつく。

ラブソングがこの店を、どしゃ降り雨の愛情物語の空気に染める。それを私は大人ぶった笑顔で聴いていた。

 

ドラマが終わると、ニュースが流れた。

「ニュースです。今日、午前二時頃、首都高速道路で、バイクの単独事故がありました。

乗っていたのは十九歳の少年でした。」

また暗いニュースか。

テレビにはペシャリと潰れたバイクが映される。

「当時、少年のバイクは150km以上の速度で暴走しており、複数台のパトカーに追跡されたのち、カーブを曲がりきれず、壁に激突したとみられています。

少年はその後、病院に運ばれましたが、死亡が確認されました。」

場面が変わると、友達や、家族の泣き崩れる姿が映し出される。

目も当てられなくなった私は、眉をひそめ、別のチャンネルに変えた。

 

今度は刑事ドラマが流れる。

「あんたにも家族がいるだろう。それなのに。」

だめだ、さっきのニュースのせいで全然違う意味に聞こえる。

犯人が首を吊る直前に、刑事に止められたって展開のようだ。

「何もかも変わっていくのが許せなかったんだ。」

犯人の自供が始まる。

「俺はどんなに頑張っても頑張っても、臭い飯のひとつにさえありつけなかった。

それなのにあいつは....、同じ夢を描いて、同じ教えの中で育ってきたあいつは、俺なんかよりもっともっと仕事に溢れていて、飯も掃いて捨てるくらいに食えた。

恋も、結婚も、笑っちまうくらい容易く叶って、流す汗の一粒一粒に虚しいものなどなかった。」

同じ夢路を走った友人の成功を妬む言葉が流れる。

「こんなこと聞いたらお袋さん、悲しむぞ。」

「....。許してくれ、許してくれ...!」

男は頭を抱えて悶絶する。

刑事は大きくため息をつくと、語り始めた。

「時はなんでも連れていってしまうもんだ。友達も、恋人も、時には家族だってな。」

家族の文字に反応して、男は俯く。

「俺にも昔、学生時代からずっと好きだった女の子がいた。笑顔の素敵な女性だ。

卒業から十年ほど経ったある日、同窓会が開かれて出席したんだ。そこにその子もいたんだが、お腹が大きくなっていてさ。最初は祝福しようと思った。

だがな、その子の夫は俺を子供の頃からずっと虐めてきた奴だった。」

男は刑事の顔を見た。

「そいつ、俺を見て何て言ったと思う?

「「お前は独身のままか?」」

ってよ。

殺してやりたいって本気で思ったさ。だが、それよりも悔しさが勝って、俺には何もできなかった。

だが、あれから五年経った今、俺には妻も、子供もいる。

妻はどん底の暮らしの中から俺を引きずり出してくれた。

だがな、俺もお前と同じ人生を送っていたら、同じ感情を抱いたと思う。同じ過ちを犯したかもしれない。

でも、暗い人生の先にある答えが、一つだけじゃないことを分かってほしかった。」

刑事はさらに続ける。

「連れていくのは幸せだけじゃない。時が経てば、いつかはこの辛さだって奪っていくだろう。

お前はそれに気づけなかっただけだ。」

男は泣き叫び、連行されていく。

刑事はその姿を背に、ぶら下がったロープを物憂げに見つめていた。

 

 

ドラマが終わり、テレビを消すと、そのシリアスな空気の中に取り残されたような気分になる。

それにしても退屈な夜だ。これならもう少しみっちゃんとお喋りしてても良かったんじゃないかとさえ思えてきた。

ぼーっとしていると、電話が鳴り響く。

ビクッと飛び上がって驚き、胸に手を当てて、ハアハアと荒れた呼吸を整える。

子機を手に取る。

「は、はい。名取です。」

「お、詩鶴か。お母ちゃんは?」

父の声だ。

「今風邪引いちゃってて。お店は私がやってる。」

「そうか。今日な、お父ちゃんフル残食らって...。終電に間に合いそうにないから会社で寝泊まりするってお母ちゃんに伝えといてくれへん?」

「ええ...!?んー...まあ、まだご飯とかこれからだから早めに連絡くれて助かった。」

「すまんなあ....。ほな、頼むわ...(^^;」

「はーい。」

ガチャ

 

まじかあ....。

母にこのことを伝えにいく。

「お母さーん?」

母はちゃぶ台で、家計などの書類に目を通している。

父の帰りのことを伝えると、母は小さくため息をこぼし、「そっか」と頷く。

「詩鶴、今日は銭湯行ってきたら?」

「えー、遠いよ。私、(お風呂は)今日はいい。」

「もう。ちょっとはそういうとこ気を遣いなよ?女の子なんだから。」

「面倒臭いなあ、じゃあシャワーで良い?」

お湯を張るのはちょっともったいない気もする。何せお母さん、今日入らなさそうだし。

お風呂のことを話し終える。

「とりあえずお店戻るわー。」

「はいはーい。」

「お母さん。」

「ん?」

「ちゃんと休んでよ?しんどいんなら。」

「ん。もうちょいで終わる。」

すべきことはちゃんとこなそうとする母。仕事熱心なのは良いけど、無理しすぎてないかな。

 

店に戻るも、静かな店内に退屈さを覚える。

「本当にやることないなあ...。」

布巾を手に取り、適当にそこら辺を拭きあげる。カウンター、テーブル、色々。

もういつでも店を閉められるようにピカピカに掃除をする。

「掃除終わっても誰も来なかったりして。」

 

...本当に誰も来なかった。

布巾をしまい、ただ閉店時間をぼーっと待っている。

大きなあくびをしたり、テーブルに指でリズムを刻んでみたり。

 

時計が二十時を回って少し経った。時計の秒針の音が聞こえている。

私はふと、教室に響き渡る笑い声を思い出す。それは時に授業中であったり、休み時間、昼休みだったり。

いつだってその笑顔は演じ笑いなんかじゃなく、純粋な笑顔だった。

心から可笑しくてお腹を抱えて笑ったり、本当に楽しいと思ってるからこそ、あの空気ができるのだろう。

そう感じる時間が私にとって、どれだけ大切なものかはまだ理解しきれていないのかも知れないけど

 

「時はなんでも連れていってしまう....か。」

 

ドラマの台詞を思い出し、心でそう呟くと狭い店内で、遠い空を見つめるような目をする。

みんなは何がしたいのだろう、私は何が欲しいのだろう。いつか消えてしまうものなら、何のためにあるのだろう。

 

そう思いにふけていると、次の瞬間、店の扉が開いた。

私はやっとこの静寂が終わると期待して元気よく接客した。

「いらっしゃー......」

聞き覚えのある声。私はその顔を見た。

「よう。」

そこに居たのはクラスの友人、河島だった。

 

つづく。



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7.青い星の光

 

【本編】

下町の鶴

2章-地球照-

☆Episode.7「青い星の光」

 

「いらっしゃー....」

「よう。」

店にやってきたのは、同級生の河島だった。

「河島....?どうしたの?こんな時間に。」

「どうしたって、飲みにきたんだよ。」

河島がここに来ること自体はそんなに珍しいことじゃないんだけど、こんな遅くに来たのは初で、状況の理解が追いつかない。夜遊びにふけて家を追い出されでもしたのか?

私は考えることをやめ、いつもの表情に戻して接した。

「あ....そう。...あはは、何飲む~?」

「バーボン....。あ....ロックで。」

「ねえよ。てか未成年だろ、お前。」

「あはは。....お前もな!」

「うるせえよ。今日お母さん、風邪気味だから私がやってんの。」

「そうか。偉いな。」

数瞬の沈黙が二人に流れる。

「....てか、本当にどうしたの?お家、心配してんじゃないの?」

「あー...。進路のことで親と揉めて、家を出てきた。」

「そう。まあ大学受験とか、就職とか、色々うるさい時期だもんね。」

そっか。もうそんな時期か。

「お前はここ継ぐんだっけ?」

と、河島が聞く。

「まあね、いつかは女将さんだね~。」

「いいよなあ....、お前は進路決まってて。」

「まあね。」

河島が少し悩んだ表情を浮かべる。

それを見て私は、今朝の険しい顔をした河島のことを思い出した。

誰にも応援されない辛さは、経験したことのない私には分からないけど、家を飛び出してきたっていうほど河島にとっては大切なことなのだろう。

ムードメーカー副長として、というのはなんだけど、ここは重たい空気にするべきじゃない。そんな気がする。

私は、肩に手をおいてやるような態度を示した。

「まあ...、そう落ち込むなって。お茶奢る。」

それを聞いた河島は私の方へ顔を上げて、軽く笑みを浮かべた。

「ロックで?」

「ロ ッ ク で 。 」

 

私はグラスを取り出し、カッ、カッ、と氷をかき出す。

カランコローンと、音を立て、グラスに入れ、冷蔵庫から家庭用の麦茶を取り出す。

注ぎながら私は、脳裏によぎった疑問を河島に聞く。

「そういえば聞いてなかったんだけどさ、」

「ん?」

麦茶の入ったグラスを河島に向けて滑らせる。

河島、ナイスキャッチ。

「今晩どうすんの?」

宿のことについて聞いた。

すると、河島は「あー....」と、少し考える。

私も少し考える。この近くに泊まれるとこなんてあったっけ...?

河島が口を開いた。

 

 

「泊めてくれないか。」

 

 

「.............は?」

この空間の音という音が消えた。とでも言うような沈黙が流れる。

「......ほら!野宿だと課題できないじゃん?」

「あー、まあね。それはキツいよな。」

この言い訳、今思いついて言ったろ、河島。

「だろ!?」

「うん。....いやいやいや、何考えてんの。うちにそんなスペースないよ?」

河島の口角が下がる。

「....だめ.....ですか。」

「ダメです。」

私は迷わずに即答する。

「まじか....。うわああああ!まじかああああ!!」

河島がこれ見よがしに嘆く。

「え、ちょっと....あの....」

困ったな...。いや、というか何、何なのこいつ!?

山岸ん家に泊まればいいじゃん。え、もしかしてもうお願いした感じ?お願いして断られた感じですかこのパターン。

いや、だからって異性の家に来て堂々とそんなことお願いするかよ、マジかよ。

ああ、もう。ワケわかんない。こうなったら

「ねえ、お母さーん?」

母のもとに逃げます。

「あ、おい!チョ待てよ。」

うるさいと言わんばかりに扉をバタンと閉めた。

「どうしたの?」

母は枕だけを頭において、畳に寝転がってる。

いや、布団で寝んかい。

「河島が家泊まりたいとか言ってんだけど。」

「あー、そう。」

「いや、''あーそう''じゃなくて」

風邪が治りかけのときのお母さんって、超絶おっとりになるんだよね...。いや、せめて私に同情くらいしてよ。

「今日、お父さん帰らないんでしょ?お父さんの布団貸してやったら?」

「え.....。いや、あり得ないでしょ。それはない。」

「あらそう...。」

「''あらそう''じゃなくてだな。」

「でも急に泊まりたいって、...何かあったの?」

「家出だって。喧嘩したんだってさ。」

「あら、それは大変だねえ。泊めてやりなよ。」

「だからなんでそうなるんだよ。お母さん風邪移しちゃうよ?」

「ああ、それなら私、ここで寝るから。二人で寝室使いな。」

「え、え!?絶対いや!!」

もう、なんで今日に限って風邪引いてるの。勘弁してよ。

 

 

一方、河島はカウンター席で気まずそうに麦茶を飲んでいた。

「(めっちゃ怒ってんじゃん...。)」

河島から、詩鶴と母親との会話は聞こえていたのである。

「だから!!それはおかしいって言ってんの!!」

ビクッ....

帰るべきだな、やっぱ帰るべきだな。

「なんで....少しくらい分かってくれてもいいじゃん...。」

え、泣いてる...?やばい、引くに引けないな...。

戻ってきたら謝ろう...。

「分かったよ!!やればいいんでしょ!?やれば!!」

ごめん、やっぱ俺怖いわ。逃げよう、今のうち逃げ――

 

ガラガラカラ

戻ってきたーーーー!!!!

 

 

キッチンに戻ると河島と目が合ったので、私はキツく睨み付けた。

「そこで寝て。」

「い....、いいのか?わ、悪いな。」

河島は緊張しきった目をしている。

「ご飯は。」

「え...?」

「食べたの?それとも?」

「あ....ああ!食べたよ。もう満腹満腹!」

「はあ...、今日はもう閉店だな。」

私はそうぼやいて、閉店の準備をする。

「......名取?」

「なに。」

河島が喉から心臓が出そうな様子で声を絞り出す。

「か、課題やってやるよ!お前の分も。」

「いい。それくらい自分でやる。」

私の機嫌を直したいの?結構結構。もういいよ、そんなの。でも...、宿泊代を払いたいって方なら...少しこき使ってやろう。

「それよりちょっと手伝ってくんない?」

「お、おう!なんなりと。」

 

私は店の片付けや、掃除を手伝わせた。

「あ、それそっち。」

「うい。」

河島は予想以上にテキパキと働いてくれた。分からないことも、教えてやれば飲み込みが速くて感心した。

本人曰く、普段バイトでしごかれてるから慣れてるらしい。

してやられたわけじゃないが、河島と仕事してるうちに機嫌も直っていった。だんだん空気は元に戻っていった。

 

「ふう、とりあえずこれでOK。ありがと。」

「おう、どうも?」

二人の額から汗が伝い、光る。

私はやるべきことがもうひとつあったことを思い出した。

「そういえば今日の課題、なんだっけ?」

「ああ....、国、数、英のプリント、一枚ずつ。」

「うわあ....めんど...。」

疲弊した表情を浮かべると、河島はそれを見て

「やろうか?マジで。プリントだけでも。」

''それくらい自分でやる''とか言っちゃったけど、正直、いまこの物量を明日までにこなせる気がしない。

ここは少し甘えよっかな。

「...英語だけお願いしていいすか?」

河島は快諾して私のプリントを受け取ってくれた。

さっきまでの私の言動が少し申し訳なく感じてきた気がした。まあ、泊めてやるのはまだ少し抵抗があるけど。

 

課題を始める河島の目の前で私はフライパンを火にかける。

ボウルに卵を溶き、味噌、砂糖、みりんなどが入った特性ダシを加える。フライパンの上に流し込むと、じゅわ~と良い音が鳴り響いた。塩コショウもかけちゃって濃いめの味にするのが私流。お母さんには「もっと減塩しなさい」と言われるけど、常連さん曰く、お酒に合うから濃いのも好き、と言ってくれる。

 

私がせっせと調理してると、河島がプリントとにらめっこして、ボソボソと一人言を呟く声が聞こえてくる。

「えー...アディクション...。....依存症っと。

うーんと....デッドエンド。デッドエンド...?あれ、なんだったっけ。」

「もうおしまいだー、とか?」

私も、調理をしながらプリントの回答を予想してみる。

「あ、行き止まりだ。思い出した。」

あれ?''死んでおわり''とか、そこらへんだと思ってた。

「......デットなのに?」

急に河島が吹き出す。

「何よ。」

「デッ 「ト」 は借金だよ?」

「え、嘘....。」

依存症....行き止まり....、....借金。

「っははは!お前天才じゃん。」

「うるさ!お前床で寝させんぞ。」

「ワー、モーオシマイダー ( ᐛ)」

こいつ。

「お前さ、今度のテストで赤点とったら―――」

「あー!!なんでそういうこと言うの!考えないようにしてたのに。また居残り食らったらどうすんの!?」

河島は笑いながら

「ええ~、いいじゃん。お前と居ると楽しいし。」

よく躊躇いもなくそんなこと言えるな、異性に向かって。

「んー、野宿プランに変更かな。」

そう言うと、河島は慌てて私のご機嫌を取ろうとする。

「もういいませんから。」

「分かればよろしい。」

 

卵が焼き上がる。それをお皿に移して、その横にほうれん草を添えて

「うし、出来た!名取屋名物、味噌卵焼き~。」

河島がそれに視線を向けると、予想通り驚いてくれた。

「旨そう~。」

「旨いよ~。お母さんに教えて貰ったんだもん。」

んで、父の弁当に仕込むと、帰宅後の機嫌が良いんだよね。両親が喧嘩にならないためのおまじないってやつだな。

 

茶碗にご飯を盛り、一式を河島の目の前に差し出す。

「はい、あげる。」

河島は目を丸くして驚く。

「え、え?いいのか?」

冷静さを保とうとしてるようで、尻尾を振りまくってるのが見え透いたように分かるから、見てて面白い。

「うん、食べな。」

さて、一段落落ち着いたことだし、シャワー浴びてくるか。

河島は大はしゃぎで私の作った卵焼きに飛びつく。

うまい、うまい、と笑顔になる河島に、私は少しちょっかいをかけてやった。

「ねえ、河島。さっき満腹とか言ってなかったっけ~?」

口の中のものを勢いよく飲み込むんだあと、少しむせた。目をそらして言い訳を探そうとする河島に私は、悪戯に微笑んで、からかってやる。

 

――うふふ、っはは。――

 

「ばーか。」

 

 

つづく。




Youtubeにて、今作7話のボイスドラマを公開。
https://youtu.be/-UvTbtPv0pw


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8.湯けむりラプソディ


ープロローグー

狭い廊下を通ってお風呂へ向かう。脱衣場の洗濯機の上に着替えを置き、脱いだ服を洗濯機の中へ放り込む。
「はあ、今日も疲れたな。」
ボソッとため息に乗せて呟き、蛇口を捻る。
ひぃっ!冷た...。
お湯に変わるまで、空っぽの風呂桶に置いたバケツに冷水を溜める。これは名取家の節水法。
お湯に変わったタイミングで一段目のシャワー掛けに掛けて、しばらく髪を濡らす。
身体を伝う温い雨が心の泥までも落とすようで、この気持ちよさに浸っていたい気もするが、無駄遣いで怒られたくないのでここら辺にしておく。
シャンプーを手に取り、髪全体に広げ、泡立たせる。
洗い流そうと蛇口を捻れば、再びあったか時間だ。
ふあああ~、温か........あれ?.....あれ!!??

「お母さあああああん!!!!」


 

【本編】

下町の鶴

2章-地球照-

☆Episode8.「湯けむりラプソディ」

 

ガタガタガタガタ

「名取....どうしたよ...?」

名取は洗面器を両手に持ちながら震えている。

「かか河島....せんととと....」

「え?何て?」

「せせ、銭湯行くよ。」

「え?さっき風呂入ってたんじゃ....」

よく見ると、おろした長い髪は少し湿っている。

「シャワー壊れた。」

「ああ.....そう。」

ガタガタガタガタ....

俺は小銭入れを開いて所持金を確かめる。

五百円玉が三枚。あれ?結構入ってるな。これなら行けるか。

「河島はどうすんの...?」

「ああ、俺も行くよ。着替え持ってきてるし。」

名取はジト目になって俺の方を見る。

「初めっから泊まる気満々かよ。」

「ごめんって。」

名取は母に行ってきますを告げて扉を出る。

彼女の姿が少し新鮮に見えて、ぼーっと目で追っていた。

名取が鍵を取り出すと、こちらを向いて

「行くんじゃないの?」

と聞いてきた。

その言葉に気づいて、玄関を出る。

彼女は錆色に染まりきった古い自転車に鍵を差し、跨がるとこちらを向いて

「ほら、乗って。早く行けば長く浸かれる。」

と急かした。

荷台に跨がる。

「ちゃんと掴まっててよ。」

「どこ掴まればいい?」

またジト目になって、俺の方へ振り向く。

何だよ、どうしたよ。

「ど こ で も い い よ 。変なこと考えてないなら。」

「ああ、そう。」

なんか恥ずかしいから肩でいいや。

「じゃ、いくよ!」

名取はそう言って、漕ごうとし始める。

ギィ.....コォ...............

「.....。」

名取が力一杯にペダルを踏み込んでいる。

「んぎぃいい........!!こぉんのおおお......!!」

名取は思いっきり力んでいるが、全然進まない。

「あの....名取さん...?」

わざと「さん」付けで尋ねる。

「うるさい....!んん黙ってて!!」

キィ.....キィ......

「....。」

普段、二人乗りなんてしないのだろう。それが痛いくらいに伝わってくる。

「ふあ!!」

とうとう自転車が倒れた。名取の足はよろけていて、俺も荷台から緊急脱出してふらつく。

流石にこれ以上、名取の強がりに乗っかっていたら色々と危ない気がしたので提案した。

「あの、俺が漕ごうか?」

「いや、い........。」

いい、と言いかけた口が途中で止まり、こちらをジト目で見つめだす。

だから何だその目は。

「ごめん.....お願い。」

「了解、了解。」

運転手を交代して、今度は俺がサドルに跨がる。

名取は自転車カゴにシャンプーなどの入った洗面器を置いて、荷台に軽く腰かける。

落ちるんじゃないかと心配したが、平然とした顔をしてたのでスルーした。

自転車がスムーズに進んでいることに関心でもしたのか、名取は

「上手いじゃん、河島。」

と、言葉でちょっかいをかけてくる。

「どーもー。」

 

夜風に当たりながら二人を乗せた自転車は、住宅街の路地を走り抜けていく。

夏の決して涼しいとは言えない風にさえ、俺はほんの少しの自由を感じていた。

両親と大喧嘩して、家を飛び出してから数時間、今頃家は騒然としている頃だろう。だが、お姉に

「明るくなったら帰る。」

と伝えているから、大丈夫であろうと信じる。

考えれば考えるほど、早く帰るというのが最善なんだろうって分かるけど、今はこのままで良い。

正論に諭されてやる気分じゃない。

 

二人は銭湯についた。

下足札をポケットに入れて引戸を開けると、小さなロビーが見え、そこにうっすらと煙草の残り香が漂う。

番台さんに料金を払い、名取は

「じゃあ、一時間後くらいに?」

と、言って赤い暖簾をくぐっていった。

俺も赤い暖簾....じゃなくて、青い方をくぐり、脱衣所へ。脱いだ服をロッカーに放り込んで、浴場へと向かう。

浴場にいた人はほとんど年配さんだったが、その中に小さな子供が浴槽で遊んでいた。

俺は緑色の小さな椅子に座り、名取から貸してもらったものをタオルから取り出した。

石鹸である。

 

【数分前】

「あー、そうそう。シャンプーとか持ってきた?」

名取が銭湯の前で立ち止まり、俺に聞く。

「え?中にあるんじゃないの...?」

「ああ....もしかして河島、スーパー銭湯しか行ったことない口かあ....。」

「え、それってもしかして....。」

「うん。」

名取が頷く。

「まじかあ....。」

「分かった。ちょっと持ってて。」

持参の洗面器を俺に持たせると、その中からタオルと石鹸を取り出した。

新品ではないが、まだちゃんと原型をとどめている。

その石鹸を名取はタオルにくるみ、そして

「おりゃあーー!」

とか何とか言って石鹸を2つに叩き割った。

はい。と、その片割れを渡すと

「シャンプーはごめん。自分でどうにかして。」

と、言い残した。

―――――――――――――――

その石鹸を見つめる。

頭は.....まあ、石鹸でやれないこともないか。

そういってなんとか泡立たせようとするものの、全然そうならない。

手をヌメらせることは出来るようなので、その状態で髪につけて洗ってしまう。

なんか、髪が滑り止めみたいにツヤツヤになった。

身体の方は洗いやすかった。タオルで擦れば良い感じに広がってくれる。そのタオルで全身をこすり、洗いながした。

最後に洗面器でタオルを洗って、よく絞る。顔を拭うと、うっすらだが、石鹸特有の香りがする。

何と言いますか....、異性の石鹸使うって....なんか良いよな。.....すまん、今のは忘れてくれ。

 

さて、身体も洗い終わったことだし、お風呂に浸かることにしよう。

と、浴槽に近づこうとしたが

!バシャバシャ!!

....子供が一匹泳いどる。

落ち着かないので、隣の浴槽に入った。

すると、子供は俺を見つけ次第、話しかけてきた。

「お兄ちゃんもバシャバシャする~?」

屈託のない笑みで聞いてくる。

「あんた、泳ぎ好きなの?」

「うん!大好き~!」

「そうか、川でやってきな。」

 

【一方、その頃。】

「ひぃ.....ひぃ.....」

私はサウナ室で修行していた。

「あっちい....。なんて暑さだ。感じる、赤道を感じる。」

脳内時計がチクタクと鳴り響く。頭に浮かぶ光景は、真夏のむし暑い体育館だったり、大型客船のボイラー室だったりと、マシなものがない。

頭がぼーっとしてきた気がする。呼吸もだんだん荒くなっていく。

でも、もう少し我慢すれば少し痩せられる気がするの!

この暑さで脂肪も少しは燃焼できると思うのよ!

そうすれば学校生活はきっと薔薇色に変わるわ。

汗も滴る良い女ってやつよ。ファイト、私ぃいい!!

*危険なので真似しないでください。

―――――――――――――――

「お兄ちゃん何年生~。」

「二年生。」

「えー、ほんと~?じゃあ同い年なんだ!」

「高 校 、 二 年 生 な 。」

「こーこー?何それ。」

「あったま良い~学校のことだよ。」

「えー、じゃあ超難しい問題だすよ~?」

「おう、かかってきな。」

「一億三千八百万+三千八百....

 

【一方、その頃。】

「ぐすん.....うぅ....」

おばちゃんに説得され、サウナを出た。

「あんまり無理すると危ないから...。」

「汗も滴る...良いオン....」

「分かったから早くお水飲む。」

―――――――――――――――

しばらく湯船に浸かったあと、俺は浴場を出て、脱衣所の扇風機の風に当たりながらぼーっとしていた。

あまり裸で当たっていると風邪を引きそうな気がしたので、とっとと着替えて、また扇風機のところへ行く。

ある程度涼んで、気が済んだので脱衣所を出て、ロビーへ戻る。

ロビーの椅子に名取が座っていた。

「おー、河島。お帰り。」

「おう。女子が早風呂とか、珍しいな。」 

「まあ、家でシャワー浴びたし。」

「あ、そう。」

早風呂のわりには全力でのぼせているような雰囲気だ。

悟りでも開いたのかっていう様な顔をしている。

「河島、牛乳飲んできなよ。こういうとこで飲む牛乳は格別だよ。」

「ああ、うん。そうだな。」

名取がオススメしてくれたので、ジュースの並んだ冷蔵庫から取り出し、番台さんに持っていく。

「100円ね。」

「あ、はい。」

安い。経営大丈夫かってくらい安い。

給食でよく見た牛乳瓶の蓋を開けて、一口飲んでみた。

この場に漂う空気のせいか、確かに一味違うように思える。

ぷは~っと一気に飲み干すと、名取が俺の方をみて

「な、良いだろ?」

と言わんばかりの笑みを浮かべた。まるでバスローブを着た金持ちみたいな佇まいで足を組み、コーヒー牛乳を片手に持ちながら。

 

しばらく経つと、二人は天井近くに設置されている小さなテレビを眺めながらぼーっとしていた。

牛乳を全部飲んでしまって、目以外は暇なので、お客さん用に備え付けられた団扇を手に取り、パタパタと扇ぐ。

一方、名取はテレビに集中しながら、コーヒー牛乳をちびちびと飲んでいる。居酒屋の娘だからか知らないが、飲み方がワインとか、焼酎のそれだ。

様になってるなあ。お酒とか強いんだろうな、家系的に。

 

....おい待て。普段から飲んでないよな? 

 

番組がCMに入ると、名取の集中が解ける。

団扇風を向けてやると、彼女は目を閉じ、口を開けて「あ~~わわわわ」とか言いながらおどけだす。

扇風機に当たるフリをして、わざわざセルフで風切り音まで再現しているのか。

気まぐれで、おどけるのを止めると、再びコーヒー牛乳瓶に口をつける。

少し口に含んでは、瓶をテーブルに置いてと、繰り返す彼女に俺は質問を投げ掛ける。

「名取ってさ、結構こういうの味わって飲むんだな。」

口の中にある分を飲み込むと、答えた。

「あー、なんかさ、舌で転がしてみたりとかさ、飲み方変えながらやると、色んな味が楽しめるというか。」

「いや、ワインか。」

「まあ、仕事柄の悪い癖だね。」

「ちょっと待て。お前普段から酒やってないだろうな。」

「それはないない(笑)」

「飲んだことは...?」

俺がそう聞くと、名取はニヒッと笑った。

「何だよ。」

「昔、ちょーーっとだけぇ。」

「ああ......そう。」

 

先ほどの小さな子供もお風呂から上がってきて、俺を見つける。

「あ、さっきのお兄ちゃんだー。」

「よう。」

俺は手のひらを見せた。その子は名取の方を見た。

「やあ、こんばんは~。」

名取は愛想よく答えた。

子供は首を横に傾けて聞いてきた。

「お姉ちゃんはお兄ちゃんのお友達ぃ?」

「うん、そうだよー。」

「ふ~ん。」

子供は立て続けに質問を投げ掛けてくる。

「お姉ちゃん、チューしたことあるー?」

「いや、ないよ。」

「ちぇ~、なんだあー。」

「ちぇ~って何だ、ちぇ~って。」

「あはははは!」

子供が無邪気に笑いだす。

その子がしばらくして、おしゃべりに飽きたのか、親がまだいるであろう脱衣所へと戻っていく。

暖簾をくぐりかかったところでヒョコっとこちらに振り向いて、言った。

「ふーふ仲良くね~。」

「あ?」

「落ち着いて、名取さん。」

立ち上がろうとする名取を俺は必死に押さえた。

 

つづく。



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9.六畳の空

 

【本編】

下町の鶴

2章-地球照-

☆Episode.9「六畳の空」

 

私たち家族の寝室は六畳の小さな部屋で、いつもならここに三つの布団がびっしりと並ぶ。

今日はお母さんが一階の居間で寝ていて、私の隣には河島がいる。

唐突に始まったお泊まり会、冷静に考えたらおかしすぎる状況だ。

お泊まり会って普通、何人かでやるものじゃないの?

ましてや男女二人だけなんてまるで豚と狼じゃないか。

...いや、誰が豚やねん。やかましいわ。

二人はずっと天井を見つめたまま、顔を横に向けることはなかった。

 

時計の針は1時を差している。

瞼を閉じれば、秒針の音が鼓膜に触れるのが分かるくらいに静かな部屋。隣の呼吸のリズムが両親のものじゃないことさえも、耳だけで伝わってくるほどだ。

 

常夜灯のオレンジに染まった天井をスクリーンにして、心の景色を映し浮かべる。

銭湯でのぼせかけたことや、今日突然、河島が家にやってきたことなど、出来事を遡りながら思い返していく。

そういえば、今朝は雨が降ってたんだっけ。それさえ昨日の出来事のように思える。

こんなにたくさんの事があって、ありえないほど疲れているはずなのに、まるで修学旅行の夜のように心が踊っていて眠れない。

....違う、元をたどれば朝の授業でほとんど居眠りをしていたせいだ。後悔先に立たず、それでいて成す術がない。

眠たくなるまで暇なので隣に声をかけてみる。

「河島?....寝た?」

「すぅ.....す、ぐがああああ。」

絶対起きてる。

「起きてるよね。」

「どうした?」

「.....暇。」

「ああそう、おやすみ~。」

「いや、待ってよ。」

河島は言葉を返さない。

「え、本当に寝ちゃうの...?」

「何それ、寝かせないよ的な意味?」

「いや、アホか。」

眉をひそめてツッコむと

「実のところお目目パッチリ。」

と、河島は打ち明ける。

いつも眠たそうな目をしてる彼のパッチリ目ってちょっと想像つかないけど。

「ああ、良かった。ちょっとおしゃべりしない?」

私はおしゃべりを持ちかけてみる。

「良いけど、何の?」

と、河島は聞き返す。

「何にしよっかな~。」

うーん、何から話そっかな。今日色んなことあったしなあ。

じっくり考えていると、部屋には少しの静寂が流れた。

しばらく言葉を発さないでいると、河島がからかうように言う。

「...おやすみ。」

「ねえ、待ってってば!!」

話題を絞り出そうとするも、焦ってしまって何も浮かばなくなってしまう。

「えと....えーと.......。」

たどたどしくしていると、河島にクスッと笑われた。

「何よ。」

「お前、ほんと面白いな。」

「なにが。」

「俺、お目目パッチリって言ったじゃん。」

こいつ本当に....。

「あーもう、知らない。」

「ははは。」

「夜中、催してもトイレ案内してやんないから。」

「俺は子供か。」

「可愛い可愛い弟ちゃんだよ、栄 汰 く ん 。」

私はできる限り盛大にからかってやった。

「お前さ、誕生日何月?」

「え?12月だけど。」

「俺、8月。」

「.....。」

河島が満面の笑みでこちらに顔を向ける。

「嗚呼、可愛い可愛い妹ちゃんだよ、詩 鶴 ち ゃ ん 。」

「ムキィィイイ!! 」

日本語覚えたての異国人でも聞き取れるレベルの遅さで馬鹿にしてくる河島。堪えかねた私は激昂状態の猫のような威嚇をした。

私は河島に嫌味をぶつける。

「お姉ちゃん、悲しいわあ。こんなに馬鹿にされて...。」

「お兄ちゃん、楽しいわあ。こんなにチョロくて。」

「シャアアアアアアアア!!(猫)」

言葉のボールを豪速球で投げ返す河島。喋れば喋るほどあいつの手のひらで転がされてしまう。

「もう知らない。ほんッとうに知らない...。」

私は完全に不貞腐れた。

「え。おしゃべり、もうおしまい?」

「うるさい。」

「悪かったって。」

「もう電気消すから。」

灯りの紐を引っ張って、部屋を真っ暗にした。

窓の外で、通りすぎてく車のハロゲンライトの明かりが部屋にこぼれ、天井を撫でるように光が通りすぎていく。

大きくため息をこぼしてみると、部屋中にその音が響き、こだまする。

「なあ、名取。」

河島が静寂の中に声を投げる。

私は何も答えずに聞く。

「寝れないんだったらワンワードゲームやろうや。」

中学の頃、よく遊んだゲームをやろうと私を誘う。

「ルール忘れた。」

「ほら、単語ひとこと言って、しりとり方式で交代しながらストーリー作っていくヤツだよ。」

河島にルールを思い出させてもらうと、私は頷くより先に先手をとって始める。

特に勝ち負けがあるゲームでもないのだが。

名取:「昔々」

まあ、ベタな始め方でいいや。あるところにおばあさんが~みたいな繋げかたでやれば....

河島:「井の頭公園に」

なんで場所特定したの。井の頭公園....いや、地味に遠いよ。葛飾から結構離れてるよ。せめて水元とかにしろよ。いや、モノローグでツッコミはしんどいって。(*モノローグ:心の声)

名取:「え...えっと....。おじいさんと」

河島:「蘇我入鹿が」

いや、イルカさん何してんだよ。江戸に奈良県民来ちゃったよ。てかおじいさんと蘇我入鹿ってなんだよ。あの人もうおじいさんとか言うレベルの年齢じゃねえよ。偉人だよ、歴史的人物だよ。

名取:「.....池で」

河島:「水泳教室を」

だから何やってんだよ、じいさんと入鹿。イルカと掛けてんの?いや、泳がせれるか。井の頭公園の池の水、100%の淡水だわ。

名取:「ひ、開いてました。」

もう分かった。ツッこんでばっかじゃ疲れるよね。

もう何も考えすに直感でやろ。さ、来いよ河島。

河島:「そこに」

名取:「現れた」

河島:「中大兄皇子が」

いや、待て待て待て待て。鉢合わせちゃいけない人に出くわしちゃったよ。入鹿さん逃げて。

名取:「参加を」

河島:「装って」

名取:「おじいさんを」

よし、軌道を変えてやらあ。

河島:「仲間に」

名取:「ね...寝返らせて」

っておいおいおい。じいさんとタッグ組んじゃったよ。

河島:「蘇我氏を」

名取:「は....はっ飛ばそうと」

河島:「したが」

名取:「蘇我氏も」

河島:「負けじと」

あれ?気づいたら主導権、私が握っちゃってんじゃん。

よし、今度は私が好き放題ストーリー作ってやろ。

名取:「変身して」

河島:「覚醒して」

名取:「中大兄皇子を」

河島:「はっ飛ばした」

名取:「めでたしめでたし。」

って、あれ?これ歴史変わっちゃってない?

「あのさ、河島。」

「ん?」

謎のストーリーが出来上がると、早速思っていたことを河島にぶつける。

「水泳教室ってなんだよ。」

「老後からのスポーツサークルみたいな。」

「いや井の頭公園で開くな。」

灯りを消した部屋の中は言葉がそのまま景色に変わっていくようで、目を閉じなくても情景が簡単に浮かぶ。

「でも」

私は、そう口を開いて、先ほどのゲームを思い出す。

「久しぶり過ぎて何か面白かった。」

少し表情が柔らかくなった。

 

「中2の居残りだよな、確か。」

彼は、このゲームを自分達で見つけ出した頃を思い出す。

「(教室を練習部屋に使っていた)一年の吹奏楽の子らサボらせて遊んだっけ。」

「そうそう、後でその部の先輩にこてんぱんにヤられててさ(笑)」

「うわあ、懐かしいなあ。」

思えばあまりに酷い話で、それでいてとても楽しい黄昏時だった。

河島は話を続ける。

「あの後輩共、先輩来たら一瞬で俺らを売るっていう。」

「あー、あったあった。」

―――――――――――――――

「おい、お前ら。楽器の音が全然聴こえて来ないんだが。」

「先輩、違うんです。この二人が練習の邪魔をしてくるんです。」

「言い訳すんなよ。」

その先輩は部の後輩を叱責したあと、こちらの方に目を向けた。

先輩が口を開く前に河島は後輩を裏切り返す。

「本当、言い訳なんて酷いっすよねセンパぁイ。」

足を組み、手首を身体の外側に倒して後輩との上下関係を見せつける。

彼は後輩の方に顔を向け

「ホント、あんたたち喋ってばっかで全然進んでないじゃない。アタシ達の宿題のジャマするなら楽器の音でジャマしなさいよ。っもう!」

オカマ口調で彼女らを挑発する河島。後輩たちは頬を名一杯に膨らませて私たちを睨んできた。

河島は先輩に近づき、彼女の口元でライターを点火させる動作をモノマネする。

「カチッカチッ。こいつらはアタイが焼き入れとくんで。」

先輩はそのボケに乗っかって二本指で煙草をふかす。

「フゥーーー。テメェにやれんのか?」

「任しておくんなまし。姉御ぉ。」

河島を鼻で笑う。

先輩は私に視線を送り、目が合うと、ジェスチャーで伝えた。

「お前・コイツら(河島含む)・シバき倒せ」

―――――――――――――――

「思えば名取、あの時なんで俺にまでチョップ入れたんだ?」

「教えてやんない。」

 

つづく。



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10.地球照


ープロローグー
☆Episode.9.5

-河島家-
「じゃあ何目指せばお母らは満足なんだよ。」
「満足って...。もっとまともな所に就けって言ってんの。」
母と進路の話でまた喧嘩になる。争い事は嫌いだが、毎度向こうからしつこく説教を始めるものなので、いつもこうなる。
「いい加減にしろよ。下らない、叶えられもしない夢ばっかり見てお母を困らせんなよ。」
妹が応戦して俺に突っかかる。
女兄弟ってのはなんでこうも、母方について俺を袋叩きにするのか。
「何をしようが俺の勝手だろ。」
「お前が好き勝手やるせいでうちらにも迷惑がかかんだよ。」
毎度恒例のお前呼ばわり。
結局、答えのでない、同じことの繰り返しの馬鹿げた論争を繰り広げる。
「あー、うち一人っ子が良かった。」
「ああ、お前なんか生まれてこなきゃ良かった。」
以下省略。また同じような大喧嘩。

俺は襖を壊れるくらいに大きな音を立てて閉めた。
この家に居場所がなくなったような気がして、今日はいつもより長く外を出歩いてやろうと思った。
小さな鞄に詰め込めるだけの荷物を積んで、玄関を出る。
すると、そこには軽装な部屋着で、缶ビールを片手に持った姉がボーッと立っていた。
「お姉、なにしてんの?」
「お前らうるせえから外で飲んでんの。」
「あー、もう終わったぞ。」
「ああそう。でも今戻ったらグチグチとうるさそうじゃん。」
「んー、まあ、だろうな。」
姉は俺の小さな鞄に目を向けて小馬鹿にして笑う。
「何。エイ、まさかそれで家出すんの?」
「放っておけよ。」
「イライラしすぎて頭沸いてんじゃねえの?これ飲んで落ち着けよ。飲みさしだけど。」
「汚いな、いらねえよ。」
「レディの口は気に入らない模様で。」
「お姉こそ酔いすぎ。」
家をあとにする俺に姉が行ってらっしゃい代わりの言葉を放つ。
「いつ帰んのー。」
「朝には帰る。」
「ういー。」

歩き出すと、ポケットからチャリンチャリンと小銭が鳴る。
柔らかい夜風にほんの少しの自由を感じた。
―――――――――――――――

「河島って兄弟いるんだっけ?」
名取が尋ねる。
「あー、姉と妹が。」
「へぇ~。なんて呼ばれてんの?」
「-お前-」
「え、嘘。」
「本当。」


 

【本編】

下町の鶴

2章-地球照-

☆Episode.10「地球照」

 

冷静に考えると平静を保てなくなる。

え、俺いま女の子の家で寝てるの?何考えてんの?

やるべきことの山で判断力が落ちていたことを、布団の中で回復していく疲労と共に、理解が追いついていく。

今更ながら謎の罪悪感が襲ってくる。この事実がクラスの誰かにでも知られたら学校生活が終わる。うん、確実に終わる。

「あいつ名取と寝たんだってさ。」

寝 て ね え え よ 馬 鹿!!いや、確かに名取んちでは寝たことになるんだけど...。

だが、だがしかし、まだ弁解の余地はあるだろう。だってそもそも事の発端は....。

―――――――――――――――

「泊めて......くれないか?」

―――――――――――――――

いや、俺じゃねえかよおおおお!!

何をどう考えても自分のせいだっていう答えに行き着く。この噂が広まれば名取にもその被害が及ぶではないか。自分が犯したミスで誰かを巻き込むなど絶対ダメだ。

何かあったら俺が守らなきゃ。

 

....いや、守らなきゃってなんだよおおおおおお!!

何それ、もうデキちゃってる奴のセリフじゃん。何様だよ俺。

俺が焦りに焦っていると、名取が俺に声をかけた。

「大丈夫?汗凄いけど。」

え、これ怪しまれてる?変なこと考えてるんじゃないかとか思われてる??

ヤバいぞ、ここは何とかして弁明しなければ。

「ああ....大丈夫。泊めてくれて、ありがとな。」

「?。あー、うん。もういいよ別に。」

おれ何余計なこと言ってんのおおおおお!!

これ何か裏ありますみたいな言い方じゃない?何かやましいこと考えてますみたいな言い方になってない?

余計気まずい状況作ってしまったじゃねえか。

名取は

「あ....。」

と、言って俺の顔を見た。状況が状況のせいで、目を合わせられない。顔を動かそうとすると

「ダメ、河島。動かないで。」

と、囁く。

え?どういう状況?何で俺にゆっくり近づいてきてんの?○這いですか。夜○い的なパターンですか。

「じっとしててよ?」

俺は時の流れに身を任せ、そっと目蓋を下ろした。

 

パァァァァァァァン

 

頬に鋭い痛みが走る。

「痛っ!!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」

「やった。蚊とれた。」

蚊だったようだ。突然の衝撃に、頭の中の邪念が綺麗サッパリ飛んでいく。

「ああ、そう。あはは。」

じんわりとした痛みが何故か、恥ずかしさを相殺してくれたかのような気分だ。

名取は、叩いた手に付いた血をティッシュで拭きながら俺に聞いてきた。

「ねえ、河島。何でごめんなさいって言ったの?(笑)」

 

言えるハズがない

しばらくの間、俺は沈黙を貫いた。

 

 

名取は再び布団に身体を潜らせると、天井を見つめて言った。

「今日は本当、色んなことあったなあ。」

その一言に、今日見た景色の一つ一つが浮かんでくる。

「ああ、卵焼き旨かったなあ。」

「えへ、そりゃあどうも。」

名取が少し照れ笑いをする。

「あと、銭湯も新鮮だった。」

「行ったことないんだっけ?」

「家、外で何かするなんてほとんどないからさ。外食もなければ、お風呂屋さんも全然で。」

「へぇ~、なら良かったじゃん。」

「お風呂屋さんは昔、まだ小さい時に一回だけ、スーパー銭湯行ったくらい。」

「私、スーパー銭湯の方が行ったことないから分かんないや。」

「ま、今度お前が家出してきたら連れてってやるか。」

「なんだそりゃ。」

「ははは。」

 

「そういえばさ。」

名取が聞いてきた。

「なんで家出したんだっけ?」

「ああ....親と喧嘩した勢いで飛び出してきたんだよ。」

「朝のホームルームでさ、険しい顔してたのも、もしかして関係ある?」

「.....え、俺そんな顔してたのか?」

「うん、ちょうど進路希望調査の話、先生がしてた時。」

「まじかあ、無意識だったわ。」

「え、嘘~(笑)」

「ホントだって。」

名取はひと呼吸置いて、俺に尋ねた。

「河島はさ、何か目指してんの?」

同じようにひと呼吸置いて答えた。

「うーん....、実はまだ何も決まってない。」

「....え?」

「やってみたいことは沢山あるけど、何を目指すって言っても、そんなんじゃなれないとか、社会がどうだとか言われるばっかでさ。」

「そっか。」

ここ最近、どいつも進路の話ばかりで疲れていた。

誰に打ち明けようにも皆忙しくて、甘えるなって言われるばかりで、心の帰る家がなかった。

「それに、みんなそれぞれ、もうちゃんと自分の夢を持っているじゃんか。でも、それでいて皆、心の余裕がこれっぽっちも無くて。

まだ1センチすら大人になれない俺にとってはそれがさみしくてさ。」

「ああ、でも分かる気がする。まだまだ青春全盛期だしね。何もかも変わってくことは私もあまり好きじゃない。」

「だよな。」

「うん。」

少し空気が重たくなったような気がした。

「お前は確かに変わってなさそうだな(笑)」

「煩いなあ。変わってて欲しかったのかよ。」

「いや、全然。寧ろ、そのままでいてくれてて嬉しかった。」

「野宿しなくて済んだから?(笑)」

「うーん、それもあるかな。」

「酷い話。」

「いやいや、単純に相談に乗ってくれて助かったって言いたいんだよ。」

「それはどうも。」

「それに他愛のないような話、したかったからさ。」

「何それ(笑)....まあ職業柄、相談乗ったりとか、愚痴聞くくらいは慣れてるから。」

「職業柄ねえ。」

「夢っていうよりは消極的に後継ぎって形で逃げ込んだだけ。私も家がこんな風に店じゃなかったら、河島と同じだったよ。」

「そっか。やっぱり分からないよな。何をして生きていきたいかなんて。」

「うん、そうだね。」

 

トラックの走り去る音が部屋に響く。小さく、聞こえなくなるまで二人は言葉を交わさなかった。

お互い、誓うほどの夢もなく、遠く輝く星を見ても、綺麗だと呟いて朝を待つだけだったから。

走り出す理由も、まだ分からないままで。

 

名取は呟くように言葉をこぼした。

「ずっと友達だなんて、明るい言葉で誤魔化した裏切りに過ぎないものだと思ってたよ。」

彼女は続ける。

「みんな夢だとか、生きていくためだとか、それで結局離れていってしまうじゃない。でも、私がここに残って、ここで働いてるってことが皆に知れたら、少なくとも同窓会みたいなことは続けられるんじゃないかなって。」

自分の言葉を振り返って纏めきれなくなったのか、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。

「あはは。私、何言ってるんだろうね。」

俺はその言葉にほっとした。

「また卵焼き食いにいかなきゃなあ。」

「どんだけ気に入ってんだよ。」

ツっこみながらも、喋り方からは嬉しさを隠しきれていない。

「夕飯、食べてなかったからさ。」

「え~?散々誉め散らかしといて理由それえ?」

「良いじゃん、実際旨かったし。」

「どうも。」

真っ暗な天井に今日の思い出を浮かばせる。

「それと」

「?」

「今日は楽しかった。」

そういうと、名取はこくりと頷いた。

「うん、私も。なんていうか、色々ありすぎて疲れちゃった。」

 

 

進路に追いたてられて、何が自分のやりたいことか分からなくなっていた、それが今朝の河島の、険しい表情を溢した理由だっただろう。

誰もが皆、自分の行くべき道を走っていて、悩みを打ち明ける相手が居ないと思っていた彼の心を安息に導いたのは間違いなく、彼女の存在であったに違いない。

月に太陽の光があたり、その裏には影ができる。その影の部分を照らせたのは、同じ太陽の光を受けて輝く、一つの星だった。

彼女は太陽ではなく、心に人と同じ夜を持つ一人の少女であったこと。

そんな一つの星だったからこそ、照らせた闇があったこと。

 

降りてきた眠気に、やがて二人の口数は少しづつ減っていき、意識が遠のく前に「おやすみ」と残し、目を閉じた。

 

―――――――――

二章・地球照

おわり



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3章.策略
11.利用



ープロローグー

眩しい朝日が目蓋の裏の暗転したスクリーンを赤く照らし、ぶち壊す。
ああ、朝か。
そう心でぼやいて、狭く細い階段を降りる。
母の風邪はすっかり治っているみたいで、元気よく私の目を覚まさせる。
「おはよう。昨日はお楽しみだったみたいで。」
なんだろう、嫌みに聞こえるのでやめてもらっていいすか。
今日の朝ごはんは目玉焼きと、パン。
ペロッと平らげて行ってきます。制服に着替えたら出発。

通学路で探偵のオッチャンとすれ違った。
「あ、オッチャーン!おはざーす。」
こんなところで会えるとは珍しい。思わずテンションが上がった。
「おう、珍しいな。おはよう。」
「ね~!何かの前兆だったりしてね。」
「まさかね。ところで....」
「?」
「昨晩はお楽しみだったみたいで。」
「え???」

おかしい、何かがおかしい。
なんで河島とのお泊まり会の噂が初日でもう知れ渡ってるの?監視社会過ぎない?今何年だと思ってるの。
あまりの異変さに違和感を覚えながら学校へ向かった。
そして、校門をくぐり抜けると、山岸に会った。
「おはー、山ちゃん。」
「おはよう、名取。あ、今はもう河島か。すまんすまん。」
頭が真っ白になった。
え、あの夜、私の知らないところで何があったの?
え、え、やめてよ。マジでやめて。
パニックになって私は教室へと全力疾走した。

ガラガラガラ バタン!
「はあ....はあ.....はあ......。.......え?」
パーン!パーン!!
教室に入ると大量のクラッカーが私に向けて放たれた。
頭に積もる色とりどりの装飾は、私を馬鹿にしてるとしか思えない。
呆然とした私にみんなが祝福を浴びせる。
「おめでとう」「おめでとう」「おめでとう」

「これ何なんだよおおおおおおおお!!!!」
窓をも割るような大声で叫ぶと、やがて視界が真っ暗になった。

「はっ.....!」
枕の上で目が飛び出るような勢いで起床する。
呼吸は乱れていて、胸に手を当てるとドクドクと高まった心拍が指に伝わってくる。
なんて酷い目覚めだ。
「んー .....。」
河島の寝ぼけた声に咄嗟に反応する。
「か、河島!?」
「んえ...、おはようございまふ。」
「あ、ああ。おはよう。」
私は動揺を隠せないまま河島に尋ねた。
「かか河島、私、なんかおかしなところない??」
「んー....さっきからずっとおかしい。」
「いや、そうじゃなくて!!」
河島は私をまじまじと見つめたあと、ボソっと言った。
「ちょっと見えてんぞ。」
その言葉に興ざめする。
多分彼も寝ぼけたままなのだろう。

枕を投げつけた。



河島とのお泊まり会を終えて、学校に向かう私たち。
学校の近くに着くまで、怪しまれないように別行動にしようと分かれた。
このまま誰にも見つからずに済めば、この先の学校生活はきっと平穏だったのだろう。

「見ぃ~ちゃった。」

しかし、平穏とは長くは続かぬもの。
そいつは走り去っていく二人を見ながら、遠くでほくそ笑んだ。


 

【本編】

下町の鶴

3章-策略-

☆Episode.11「利用」

 

 

「もーいーくつ寝ーるーとー、夏休みーー!」

 

相変わらずしょうもない替え歌なんかを口から垂らして、暑さでやられた頭の中を無意識に教室内に露呈している今日この頃。

足を大股で開き、下敷きでプァタプァタと音を立てて扇ぎながら、教室中の誰もがこの暑さに喘ぎ苦しんでいる。その光景はまさしくラ○ーンシティのそれだ。

周りの生徒がゾンビに見えてくるのは初期症状。限界値を越えると、純白の制服が冷奴に見えるという。

そんな、何もやりたくない倦怠感に襲われると、この屋根の下にも恒例のセリフを耳にするようになる。

「お前、なんか買ってこいよ。」

そう、''焼きそばパン買ってこいよ''的なノリのアレだ。

 

「え?」

「お前だよ。お前に言ってんだよ柏木。」

「こいつ、耳付いてんのかよ。」

五月蝿い。就寝前の蚊の羽音くらい鬱陶しい。

全く。流行りに対して、狂信的な信仰を抱く者の多い若者の中でも、相も変わらずイジメなんていう年代物で古風な文化を守り続けているのは動物的本能が故なのか。

抵抗しない一人によってたかって二人、三人と集まっていく光景に私は眉をひそめた。

「お前、購買行くんだろ?」

「う、うん...。そうだけど....。」

「じゃあ俺らの分もついでに行けるよなぁ?」

「...何買ってくればいいの?」

彼が緊張しきった声で尋ねると、奴らはツラツラと自分の要求を投げつける。

「何か旨そうなの買ってこいよ。」

「あ、じゃあ俺メロンパンで。」

「ジュースも買ってこいよー。」

一人で持ちきれる量じゃない。袋にいれても結構な重さだ。

「分かったよ。」

彼は仕方なく了承し、あいつらからその分のお金を貰おうとした。

だがしかし

「お前いつまで突っ立ってんだよ。早く行けよ。」

「え...いや、あの....その...お金。」

「あ?お前金取んのかよ。」

奴らはあり得ない反論をし始める。

「俺ら使って金儲けかよ。」

「お前結構金持ってんだろ?だったらこれくらい恵んでくれても良いよなぁ?」

奴らは手間賃を払うどころか、自分等の分の食費まで彼に払わせようとしているのだ。

そして彼への悪態は収まることなく、だんだんエスカレートしていく。

「そういえばお前今週の友達料、まだ未払いだったよなあ?」

「え....。」

信じられない言葉を耳にする。あいつら、あんな汚い手口で人から金を奪ってるのか。

「払うもの払わずして人様に金を要求するとはとんだ悪ガキだな。」

「滞納分は倍にして徴収しなきゃなあ。」

「こいつ抑えてろ。」

奴らの一人が彼を取り押さえ、もう一人が財布を取り上げ、他の奴らはケラケラと笑っている。

身動きの取れない無抵抗な人間に好き放題やり始める状況に、私は焦って周りを見渡した。

しかし周りのクラスメイトはみんな、自分に加えられる危害だけを恐れて、見てみぬフリをしている。

その光景に瞳の奥が冷めきった。

耐えられなかった。寧ろもう、耐えようとは思わなかった。

 

「お前ら何やってんの。」

彼に手を上げようとした男の手をわし掴んで問い詰めた。

「何だコラ。」

「お前には関係ねえよ。」

「俺らの遊び、邪魔すんなよ。」

古い。行動に相まって、言葉選びまでもが時代と逆行してる。

私はミイラとでも喋ってんのか。

「遊び?その子、嫌がってるようには見えないのか。」

「どう見たら嫌がってるように見えんの?お前脳ミソ付いてんの?」

「お前らこそ目ぇ付いてんのか。」

「ああ?」

態度がいつまでもデカい。死んでも治らないものを持ってるってことは良く分かった。

私が一言喋るごとに、三つも四つも罵声で返る。

「やるかコラ、てめえよぉ。」

「お前一人でこの人数に勝てるとでも思ってんのか。」

「あったま悪ぃなこいつ。」

威勢だけ張って忌々しい。良い歳こいて言葉選び小学生以下かよ。

私は相手の暴力を誘発する。

「うるせえな。カニ味噌程度で良いから、一人で立ち向かってる私を見習うだけの頭はくっ付けとけっての。」

頭が小学生のいじめっこから成長してないのであれば、相手を怒らせるなど歩くことより簡単だ。

私はさらに続ける。

「だいたい昼食も買えないくらい金欠なら校庭に落ちてるワカメでも食っとけよ。」

「金欠?昼飯に金使いたくないだけですけど?」

「そうか、なら貧困なのは頭の方みたいだな。」

ここまでツツくと流石にキレるみたいで、私の肩をはね飛ばし、声を上げ始める。

「てめえ、調子こいてると絞めるぞ。」

「絞めてみせろよ。揃いも揃って女一人も脅せねえチビ共が。あ、身長のことじゃないぞ?」

いよいよ相手の堪忍袋の尾が切れて、ストレートが飛んでくる。

それをフッと避け、その腕を掴み、この上なき悪い笑顔で私は言った。

「女を待たせる男はモテねえんだよ。」

「あ?」

 

「正当防衛、成立じゃああああああ!!!!」

そういって殴りかかった奴をぶっ飛ばす。

向こうも完全に戦闘態勢に入った。

相手の攻撃は容赦知らずで、勢い良く手も足も飛んでくる。

だが、考えもなしに当てようとするのは私にカウンターを許すようなもの。

蹴りを入れてきた奴には胸を突き飛ばし、殴りかかってきた奴には、その腕を強く引き、足を蹴って躓かせたりと、止まることなく戦った。

ほとんど自分から攻撃せずに、カウンターに特化させることで何かあって問い詰められても、自分を守ったといって言い訳が聞く。

「柏木!今のうちに逃げて!」

そう言ったが、彼はパニックになって呆然と立ち尽くしている。

「え....」

彼が動こうとしないのを疑問にずっと見ていると、その隙に奴らのうちの一人が私の髪を引っ張った。

「あぅっ.....痛!!」

「てめぇ、調子に乗りやがって。」

そのまま身体を引き寄せられて、羽交い締めにされる。

「抑えてっから、今のうちにやっちまえ。」

必死に抵抗するも、力が強い。

そうしている内に、いじめっこのリーダーらしき奴が私にゆっくりと詰め寄る。

やがて目の前に立ちはだかると、片手で頬を鷲掴みにする。

「中々やってくれるじゃねぇか、あん?」

「うぐぅ....あぐっ....!!」

「膝付いて謝れば許してやるよ。」

私はそいつの親指と人差し指の間の肉に全力で噛みついた。

痛みで咄嗟に離した手を拳に変えて、私のお腹めがけて殴った。

顔に向けて飛ばすはずの手を一瞬止めて、そこを殴ったのは完全に意図してのものだろう。屈辱も味わわせる主義らしい。

「何をしたか分かってんのか。」

私は荒い呼吸の中で不敵に笑い、言い返す。

「生憎、ここにはクズしかいなくてね。弱い奴にしか威張れないクズと、それを見てみぬフリが平気で出来てしまうクズと。そんなクズを潰すことに一ミリも罪悪感を感じないクズがな。」

「このクソアマがぁ!」

手を大きく上げて私に振りかざそうとしたその時

「どうしたの!?何やってるの君たち!?」

一人の見知らぬ女生徒が間に入ってきた。

「藤島さん!」

彼女が現れただけで、こいつらの手が一瞬でに止まった。

「駄目じゃない。女の子虐めるなんてサイテー。」 

「いや、違うんです。こいつが....」

「何が違うの?男三人も揃って、恥ずかしいとは思わないの?」

彼女がそう言うと、羽交い締めがやがてゆっくりと解け、解放された。私は力が抜けて、跪くように床に膝をついた。

「消えて、はやく。」

その言葉に呆然としたまま、奴らは去っていく。

それを見届けた彼女の背中は、私の目に異様だった

私が「ありがとう」と、礼を口にすると、彼女は

「大丈夫?」

と、私を抱き締め、そう言った。

「...うん、大じょ―――」

馴れ馴れしさに少し戸惑いを感じつつ、私がそれに答えようとした次の瞬間

「あなた、河島くんとお泊まりしたんだってね。」

彼女は私の耳元で河島との、ほんの数日前の出来事を口にした。

「......え。」

「知ってるのよ。私、何でもね。」

「...。」

「いい?次、私の友達に喧嘩売ったら―――」

 

 

 

「''寝た''ってばらまく。」

 

つづく。



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12.女王

 

下町の鶴

3章-策略-

☆Episode.12「女王」

 

風のように現れ、私の日常に雨雲をかけた藤島という女。

思えば、いじめ集団から柏木君を助け出して、あの状況に至るまで妙に流れが出来すぎている気がする。

―今度私の友達に喧嘩売ったら―

友達?友達ってそもそも誰を指していたんだろう。

 

何はともあれ、この状況から早く抜け出したい。

そのためには....

そっか、そうだ。普通に過ごしてりゃ良いんだ。

あの時だって穏便に済まそうと思ったら出来たはずだし。出来たは...いや、出来たか?まあいいけど。

少し考えて行動すりゃあいいんだ。暴力にはリスクが伴うものね。(とはいえ私、カウンターしか使ってないんですけど。)

 

気がつくと私の横に柏木君が立っていた。

「あの....な、名取さん...。」

その声に気がつくと、私は椅子に座りながらくるりと体を横に向け、聞く体勢をとる。

「おー、柏木君。どうしたのー?」

彼はおどおどとした様子で私に何か訴えようとしている。

「あの...さっきは...その...。」

「落ち着いて落ち着いて(笑)。ちゃんと聞いてるから。」

「ご、ごめんなさい。僕のせいで...その...、迷惑かけちゃって...。」

彼はこの前のいじめのことについて話しているようだ。

「ご、ごめん?...え、私は大丈夫だよ。それよりあんたの方こそ大丈夫なの?」

そう聞くと、声を発さずに顔を大きく振って頷く。

「ねえ、柏木君。」

「....!うん。」

彼はビックリして私の方を向く。しかし、目を合わせられなくて斜め下に視線を落としている。

「嫌なことはちゃんと嫌って言った方が良いよ。」

「あぁ.....うん。」

彼の反応を見る限り、彼にとってそれがとても難しいことだというのが全身から伝わってくる。

「まあ....、でもそうだよね。あんなに強引に迫られたら抵抗しようがないもんね。」

彼は何も言葉を発せなくなった。ただ、申し訳なさそうに視線を落としたままだ。

「じゃあさ、あいつらが来たと思ったら私のとこに逃げなよ。」

そういうと怯えた様子で私を見る。鼻らへんを。

私がまた暴力沙汰で解決しようとしてると思われてるのかな。

「あんなに思いきったことはもう流石にできないけどね。でも方法なんていくらでもある。」

そういうと少し信頼してくれたのか、ほんのりと表情が穏やかになったような気がした。

「ありが.....とう。」

「いいよ気にしないで。一緒に頑張ろ。」

彼は落ち着かない様子で去っていった。何かの使命感に背中を押されたような感じで、きっと異性と話した経験もほとんど無いのだろうなっていう雰囲気だった。

でも、その勇気を振り絞って私に話しかけてくれたのはあの子にとって、大きな前進だと思う。

 

あの散々な出来事を思い返せば、なんでこんな目にとも思ったけど、それと同時に後悔が消えた。

これで良かったんだって。

 

 

放課後の居残り時間。

また河島、山岸、私の居残りトリオが集まる。

課題を鉛筆でつついては、主食であるお喋りを時間一杯に頬張るのが私たちの日課のようなもの。

 

山岸:「石岡がさ、五組の友部と付き合ったらしいぜ。」

河島:「ほーん、どいつもリア充しやがって。」

名取:「石岡、イケメンだもんね~。」

 

今回は恋バナのよう。

項垂れながら羨ましがる男子たちに、私はだらーんと会話に交じる。

山岸:「バスケ部で高身長っていつの時代もモテるのな。」 

名取:「そう?私はそんな刺さらないけど。」

山岸:「じゃあどういうのが理想なんだよ。」

名取:「う~ん、夜景の綺麗なレストラン連れてってくれる人かな~。」

河島:「維持費大変だな。」

名取:「あ?」

教室に小さな笑いが起こる。私は窓の外をぼーっと見つめた。青い空の下で運動部の部活の掛け声が聞こえつづけている。

その間にまた山岸が話し始める。

「やっぱショートヘアって最強だよな。」

今度は好みの髪型だそう。

河島:「うーん。いや、オレ黒髪ロング派だわ。」

山岸:「え、マジで?」

河島:「うん。あのさ、ポニーテールがさ、結び目ほどいて''ファサー''ってなるとことかめっちゃ好きで。」

山岸:「あ、待って。それは分かるわ」

河島:「だろ!?」

男子二人が盛り上がる。ちょっと私にはよく分からない。

すると二人は急に私の方を見た。

あ、そういえば結んでるやつ、ここにいるじゃーん的な感じで。

名取:「え、何。」

二人:「じーーー。」

名取:「...え、やだよ。結びなおすの面倒臭い。」

二人:「ちぇーー。」

私は残念がる二人を目を細めて見てる。

河島:「お前おろしてる方が可愛いじゃん。」

名取:「うるさい。あと、結んでる=ポニーテールじゃないからね。」

二人:「え、そうなの?」

 

話は盛り上がり続ける。今度は

河島:「なーなー、この学校で超絶美人って誰だと思う?」

とかいう話題になる。

山岸:「あー、誰だろ。」

河島:「お前、誰だと思う?」

急に私にふる。

名取:「いや知らねえよ。男子の好みとか分かんないから。」

山岸:「あ、でも豊四季さんの顔とかタイプだなあ。」

名取:「2組の?」

山岸:「うん。あの清楚ぉーな感じがさあ。」

名取:「へぇ~、山ちゃん清楚系が良いんだあ~。」

山岸:「何だよ、悪いかよ。」

名取:「別に~。」

にまあっと笑ってやる。

河島:「あとあれだな、藤島さんとか超人気だわな。」

笑ってる最中に来た心臓を止めるような一言に殺されかける。私は机にぶつけた膝に手をそっとあてがった。

山岸:「あー、最高だけど高嶺の花だよ。僕らには届かないって。」

そうなんだ。あの人、男子にはそんなに人気なんだ...。

でも確かに綺麗な顔立ちだとは思った。中身は置いといて。

河島:「確かに。なんか男子を寄せ付けないオーラが凄いんだよなあ、あの人。」

山岸:「分かるわあ。」

河島:「テストも毎回、学年トップクラスらしいぜ。」

山岸:「うわあ、美人で頭良いとか...。」

二人の会話を聞いてるうちに顔がだんだん青くなっていく。あの人はその美貌と頭の良さを完全に悪行に使っている...。

口数が減っていることに気づいた山岸が私を言葉でつついてきた。

「名取、汗凄いぞ。」

「え...!?あ、いや....。」

「もしかして妬いてんのか~。」

その言葉にムキになって反論する。

「はあ!?誰があんな....。そ、そういう山ちゃんこそ、ああいうのがタイプなの?」

「タイプとかそういうのじゃないけど誰だって憧れはするよ。」

「ふーん...、そ。」

「お前絶対嫉妬してんだろ。」

不機嫌な顔をしてると、河島がにこやかに言う。

「大~丈夫だって、お前はお前で可愛いとこあっから。ははは。」

河島の笑みが、私に冷めた表情を作らせる。

「河島、女の子に誰ふり構わず可愛いとか言うの辞めな?」

「え、マジで?俺、基本お前にしか言わないぞ?」

胸の奥に違和感を感じた。なんだろう、この感覚は...。

そして私は違和感の根源である彼を見つめた。

...苦虫を噛み潰したような顔で。

 

地獄のような静寂が三人の中に流れる。

河島はチラチラと山岸に視線を送っている。

それを察した山岸が一言。

山岸:「フラれちゃったな。」

河島:「ああ、フラれちゃった。」

二人:「うィーー。」

お互いの拳を合わせて何か盛り上がり始める。

私は大きな大きなため息を彼らに浴びせて席を立つ。

河島:「私を置いて行っちゃうノ?」

山岸:「貴女となら何処までもついて行くノニ。」

悪ノリを始めるふたりに言い放つ。

「そう?私、お花摘みに行くんだけど。」

二人:「あ、行ってらっしゃいませー。」

一気に素に戻り、課題に向き合い始める二人。

私が教室を出たタイミングで後ろから笑い声が聞こえ始めた。

 

 

御手洗いの窓からも聞こえてくる、色んな部活の音。

吹奏楽部の音楽だったり、野球部の球を打つ音など、色々。

トイレの個室越しに嗜むなど、と自分に問いたいところだが、如何せんこの時間といえばやることがない。

用を済ませ、手洗い場の鏡の前に立つ。

色んなことがありすぎてきっと疲れたのだろう。表情が固い。

「頑張れ私。まだまだやることだらけだ。」

そうボソッと呟いて鏡に映る自分に笑って見せる。

空元気でも笑えるほどには疲弊してない、と自分を勇気づけて蛇口をひねる。

夏の暑さで最初だけ水道水が温かった。やがて少しずつ冷たくなっていく水を肌で感じながら手を洗う。

水を止め、手の水滴を払い、ハンカチで手を拭きながらもう一度鏡を見ると、背後に誰かがいるのに気付き、咄嗟に振り向く。

「っ....!!」

驚いて飛び上がった身体が手洗い場にぶつかり、音を立てる。

 

そこにいたのは、あの藤島だった。

 

恐怖のあまり声すら出せなかったが、大きく息を引いた衝撃とともに乱れた呼吸は、それをしているに等しいほどのものだった。

「な、何...!」

「そうね、''まだまだやることだらけ''ね。」

「え、ちょっと何。私あれから何もしてないじゃん!」

彼女は蛇のように私の周りをそろりと歩き、マゼンタに染めた声に乗せて私に擦り寄る。

「いいえ、したの。私が喋ればどんなことだってね。」

 

つづく。




2022.8.27...友部のクラス変更


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13.タンジー

 

下町の鶴

3章-策略-

☆Episode.13「タンジー」

 

「....は?」

「平穏な学校生活を送りたいなら言うことを聞くことね。」

「あんたに従うのが平穏....?」

「嫌なら好きにすれば良いけど?」

口角だけ上がっただけの表情で私を追い詰めてくる。

なんでこうなっているのかが全く分からない。

「ねえ、私いったい何をしたのかしら?」

「何をさせたことにしようかな?」

質問に答えようとしない。ずっと空気に喋ってるみたいでだんだん腹が立ってきた。

「....つまりは無実の人間に銃を突きつけて好き放題やるってわけ?」

「無実なんかじゃないよ。もし私に従えないというなら――」

「質問に答えろよ、この馬鹿。」

「ば....」

声を荒らげた。こうでもしなければいつまでも不毛な会話がつづくだけだ。

「さっきから何なの!?無抵抗の人間の弱み握ってあれこれ命令して...、「私が何したか」って聞いてんだよ、さっきからずっと!!

それなのに何?「悪いことしました~」、「そういうことにできます~」って、あんた日本語不自由か。この学校で女王様ごっこやりたいならまず、治める場所の言語くらい覚えてから出直せ、この馬鹿が。」

私が勢いに乗せて言いたいことを全部吐き出すと、彼女は目を細くして嫌悪感を出す。

「邪魔。出口塞がないで。」

そういって私がトイレから出ようとした瞬間、彼女は私の足を引っかけた。

 

勢いよく地面に叩きつけられた私を薄ら笑いで馬鹿にする藤島。

ふりかえり、その表情が目に映った瞬間、私は彼女に手を上げようと起き上がった。

しかしその途端、今度は横から何者かに蹴飛ばされる。

周りを見渡すと、複数人の女生徒達に囲まれていた。

 

藤島の命令によって、私はその女手下達に引きずられ、トイレ奥へと追いやられた。

「名取さん、ごめんなさいは?」

藤島は、奥の壁に押さえつけられた私の顔に詰め寄り、謝罪を要求する。

「何のごめんなさいか、日本語で説明して貰えるかしら。」

彼女は、私に聞こえるように舌打ちし、手下達に手を出させる。

私に平手打ちしたり、髪の毛を引っ張ったり、散々他人の手を代わりに汚させた後、最後の警告をした。

「もう一度聞くわ。私に従う気はないのか。」

口調が一気に荒くなったことに少し背筋が冷たくなったが、その顔めがけて唾を吐き、最大限の抵抗を見せつけた。

すると藤島は、頬についた唾をゆっくり拭き取り、立ち上がってこう言った。

「こいつを地獄に落とせ。」

その言葉のタイミングで手下の一人が掃除用のブラシを顔めがけて大きく振り下ろし、私は大きく目を瞑った。

 

「すいやせーん、綺麗な綺麗なお花畑があると聞いて。」

 

男性の声がトイレ内に響く。藤島と手下達は一斉にその声の方を振り向く。

私からは、こいつらが邪魔で顔が見えなかったが、それが河島の声であることが分かった。

「お前、ここを何処だと思ってんの。」

「出て行けこの野郎!!」

罵声を浴びせる手下達にも動じず、それどころか小馬鹿にしたような笑顔を振り撒きながら彼は言う。

「バラ園かあ、良いねえ。肝心の花が咲いてないけど。」

鬼のような形相で威嚇する彼女らに構わず、ずかずかと奥に向かって歩く河島。名取を囲む手下を掻き分けようとしたところで取り押さえられた。

しかし

「よお、美人。あんたのお仲間ら、マジでサービス良いな!ははは。」

藤島にキャバクラの客みたいなノリでニコニコしながら、いかにも余裕そうな態度をとった。

「何の用かしら。」

と、藤島も大人びた笑みで言葉を返す。それに対し

「ただのお花摘みだよ。」

と、そうおどけてすぐに挑戦的な表情に変え、彼女に問うた。

「そういう君こそ、俺の友達に何の用かな。」

それを聞いた藤島がクスッと笑いだす。それにつづいて手下達もケラケラと河島を笑った。

「何それ~、格好つけてんの~?ははは。」

「ねえ、貴方もしかして名取さんの彼氏志望ぉ?」

「俺、ちゃんと友達って言ったんだが...。」

彼女らは河島の反論に聞く耳を持たずに、あたかもそれに肯定したかのように押し通す。

河島は失笑しながら名取の方に首を向け、ジェスチャーで

「こいつら・頭・くるくるパーか。」

と、小馬鹿にする。

それに私がふッと笑いを溢すと、それを見た藤島が一瞬、不機嫌な表情を見せた。

ジェスチャーを見ていた手下の一人が河島の頭部を平手で強く叩いて

「馬鹿にしてんのかオラ。」

と威勢を張るが、全く動じずに

「お前ら名取に日本語指摘されなかったか?」

と、笑いながら言った。

「いいえ?仮に居残り組に指摘されても何とも思わないわ。」

「いや、思えよ少しは...。」

彼女らに困惑する。藤島は豪語するような口振りで警告した。

「居残り組程度の頭じゃ分からないだろうけど、このトイレは放課後、誰も近付かない偏狭な場所にあるの。

一時期、馬鹿なカップルがホテル代わりに使ってたことを懸念して、「お化けが出る」って噂を広めて撲滅させたのもこの場所。

そして今は私らにとって"制裁"を与えるのに一番適した場所。」

手を口元にかざし笑う藤島。あっという間に河島も名取と同じように壁に追い込まれた。

「相手が女でも、男一人にこの人数はキツいでしょ?」

と、降伏を催促する。胸ぐらを手下に掴まれた河島は

「辞めとけよ。あんたらが馬鹿にする居残り組はみんなカウンター技のプロフェッショナルだぜ?

...っていうお前が何でこんなされるがまま何だ...?」

と、ノリノリで言ったすぐに名取を残念そうな目で見る。

「プロって言う割には大したことなさそうね。」

「まあ何だ。俺らの居場所に帰してくれたら文句は言わない。」

「ええ、勿論帰してあげるわ。お土産付きでね。」

藤島は手下に臨戦態勢を取らせた。

 

「名取、お前いい加減立てよ...。いつまで体操座りしてんだよ。」

河島はそういって私に手を伸ばした。

「え....あ...。」

困惑しながらも、その手を掴んで立ち上がる。

彼は私に頷き、脱出を決意させる。それに頷き返す。

河島は最後の質問を藤島にぶつけた。

「本当にただで帰すつもりはないんだな?」

「ええ。」

それを聞いて河島は行動に移す。

立ちふさがった手下達にぶつかる前提で歩きだした。

それを手下が突き飛ばそうとした瞬間、その手を掴んで強く引き、その勢いで前に突き出る。

私は、河島が通って開いた隙間から脱出を試みた。同じように飛んできた手下の一人の腕を引っ張り、河島の元にたどり着く。

掃除用のブラシを振り上げた奴の上腕を奥に押してバランスを崩させ、ブラシを持った手が緩んだ隙に取り上げ、槍のような持ち方で出口めがけて突くように走った。

そうして先に脱出した私は河島の方を振り返る。私が脱出したことに気づいていた河島は

「行け!行け!」

と、私を逃がした。

河島にブラシを投げ渡すと、それを受け取って応戦した。

 

私は教室へ向かって全力で走った。もし角や、教室から人が出てきても、決して止まることの出来ない速さで走った。

高まった心拍のせいで息が切れそうになるのを必死に抑えながら来た道を戻り、教室へ駆け込むと...

教室は無人で、山岸の姿はなかった。

 

 

一方河島は、一番奥の個室で袋叩きにあっていた。

「男のクセして全然大したことねえな。」

「手ぇ出しても良いんだよ?ま、そうしたら学校中に噂ばらまいて退学にしてもらうけどね。」

「きゃははははは!」

服は便器の水に濡れ、身体には擦り傷や、殴打による腫れが複数できていた。

藤島がその姿を見下ろしながら言う。

「女の子を助けにきたヒーロー気取り?悪いけど私に歯向かうような奴は皆こうなるのよ。」

河島はイテテと身体を起こして、彼女らに囲まれてる中、王座に座るごとく便器に腰を下ろして言った。

「お前、学校中の憧れの的なんだってな。その容姿、テストの順位、何もかもが完璧だと。」

「フッ、今さら誉めても遅いんだよ。」

「違う。誉めてるんじゃねえよ。」

「じゃあ、何よ。」

 

「耳に化粧がついてないことにいい加減気づきな。」

 

つづく。




・花言葉...宣戦布告


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14.三つ巴

 

下町の鶴

3章-策略-

☆Episode.14「三つ巴」

 

「お前、学校中の憧れの的なんだってな。その容姿、テストの順位、何もかもが完璧だと。」

「フッ、今さら誉めても遅いんだよ。」

「違う。誉めてるんじゃねえよ。」

「じゃあ、何よ。」

「耳に化粧がついてないことにいい加減気づきな。」

河島がそういって不適な笑みを浮かべた次の瞬間

 

「四季乃、先生が職員室に来いってさ。」

と藤島を呼ぶ、彼女の友人がそう教えると

「何の用って?」

藤島の声色が変わる。河島を個室に閉じ込めて、手下らも隠れたため、彼女の友人からはこの惨状は見えてなかった。

あたかも今、御手洗いを済ませたかの様に友人と化粧室をあとにする藤島。その冷静さと、切り替えの早さは、それを見ていたものであれば誰でも背筋が凍るほどのものであっただろう。

 

 

名取は教室の中で混乱しつつも、状況を整理しながら冷静な判断を試みていた。

河島のところに何もなしに戻ったら状況は更に悪化するだろう。だったら仲間を連れてくるなり、誰かを呼ぶのが先決なはず。その中で、先生達に知らせるのが一番ことを大きくできる。

そう思った名取は教室を飛び出し、階段をかけ下り、職員室へ向かった。

 

近くまでやってきて、その廊下への角を曲がると、扉の前に立つ藤島の姿が目に映った。

私は驚きのあまり息を飲み込んだ。

「先回りされた!?私達がされたことを嘘にされる...!」

あたふたしていると突然、真横にあった図書倉庫に引き込まれた。

「やめて!やめて!」

パニックになって声を上げ、じたばた暴れようとする私を必死になだめようとする声が聞こえる。

その声に聞き覚えがあり、目蓋を恐る恐る開けると、そこに居たのは山岸だった。

 

「しー!しー!そこに居たらバレる...!。」

「え...?何がどうなってるの...?」

「作戦だよ。藤島らの独裁を壊すための。河島は...まだトイレにいるんじゃないか?」

「作戦...?何で...?何で藤島らの苛めのこと知ってるの?」

「ごめん、あとで説明するよ。」

そういって山岸は外の様子を見る。

ただでさえパニック状態の名取に、新しい情報が積み重なっていく。そんな状況の整理が追いつかないままで、彼女は頭を抱えざるを得なかった。

「ねえ、ちょっと...。」

不安を帯びた声で聞く名取に、振り向いた山岸は困ってしまい、状況を説明した。

「藤島は気に食わない奴らの弱みを握ってここを統治してるんだよ。それにあの容姿だから男子達は簡単に手のひらに乗せられる。女子は誰も逆らえない。」

「え...。」

「彼女にとっては朝飯前なんだよ。印象操作も、事実改変とかさえもね。」

「そんなにヤバい奴だったんだ...。」

「僕らも脅されてたのさ、彼女に。それと名取の分の復讐も兼ねて...だね。」

「私の分の復讐って....。」

山岸がこれまでの出来事を全て把握していることに驚きを隠せなかった。河島が助けに来たのも全部そうだったのかと思うと、名取の表情が変わった。

「ねえ、二人は一体どこまで知ってるの?...私がされたこととか、何で知ってる前提で話してるの...?」

「...僕らが恋話で藤島の名前を挙げたとき、名取一瞬ビクッてなったでしょ。」

それを聞いて名取は裏切られたような気持ちになった。彼女抜きで作戦を練っていたこと、初めから知っていて藤島に彼女を苛めさせ、動かぬ証拠を作らせたことに。

「てことはさ...、利用したの?私を。藤島への復讐のために。」

「え?」

「この作戦を実行させるために私をオトリに使ったってことでしょ。違うの?」

山岸は険しい表情になり、名取に目を合わせられなくなった。

「ごめん...。」

山岸の謝罪に食い入るように名取が質問する。

「何で話してくれなかったの。」

「え...。」

「何で話してくれなかったの!?」

「それは...。」

「初めっから知ってたら私も協力できたじゃん。その方がもっと上手くやれたハズじゃないの?何で私を仲間外れにしたの!」

「それは...!名取を巻き込みたくなかったからだよ!」

「何それ、巻き込んだって良いじゃん!今まで何があっても三人で一緒に怒られてきたじゃない。今回だって...」

「名取。」

「何よ!」

山岸は落としていた顔を上げ、名取と目を合わせ、真剣な表情で訴えかけた。

「僕らは彼女に重たい処分を受けさせるつもりでいる。」

「何。停学とか、退学でもさせる気?」

「ああ、そこまでいけたら良いな。」

「いいじゃん...!だったら三人でそうしてやれば!」

「ちゃんと聞けよ。」

彼の目に、名取は冷静さを取り戻す。吐息は震えたままだった。

「藤島は先生の弱みも握っている。そりゃあ、全員ではないだろうけどね。だからこれが失敗すれば全部僕らの非として処理され、そうなれば最悪、僕らがここを出なきゃいけなくなるかもしれない。」

「え...。」

「だから隠蔽しきれないレベルの証拠を見せつけなきゃならないんだよ。分かるかい。」

「...。」

「もし協力して、それが失敗すれば名取もその処分を受けることになるんだよ?」

「じゃ、じゃあ...それでもし二人が退学とかになっちゃったとしたら私はどうすれば良いの...。」

「大丈夫だよ。何も学校だけの関わりじゃないだろ?僕らは。それに名取は店を継ぐって夢があるんだし、こんなところで経歴に泥はつけられないよ。」

気づけば名取の目に、山岸は滲んで映った。

「ねえ、そこまでして実行する意味って何なの...?」

「ごめん、それは...今は言えない。」

名取は崩れるように床に膝をつき、ぼやいた。

「二人のいない学校なんて私の居場所じゃない。」

山岸は外を見たあと、名取に

「大丈夫だよ。必ず良い結果にしてくるから。」

と言い残し、倉庫を出ていってしまった。

「待って...ねえ待ってよ...。」

そうして、弱い陽の光の差し込んだその薄暗い部屋に一人、名取は取り残された。

 

彼女の中に重たい空気と時間が流れた。

本の匂いや、遠くの誰かの掛け声まで、何もかもが鮮明に感じるほどにその心は空っぽで、散らかっていた。

名取には藤島だけじゃなく、私を利用してまで"地獄に落とそう"としてる彼らさえも悪人に見えた。その戸惑いが彼女にとっては大きかった。

何かが大きく変わろうとしている気がする。それは名取にとって、何よりも辛いことだった。

 

「笑って生きていれば何とかなるんじゃないの?今までそうやってきたんじゃなかったの?」

 

そう心に問いかけたとき、彼女のなかで何かが壊れた。

「そっか....笑って生きてりゃ何とかなるね。」

心の中の音という音が一瞬にして無くなり、モノローグ(心の声)だけが胸の奥に響く。

「愚直で生真面目な奴らの前でも笑い続けて、全部冗談だったかのようにしてしまえば良い。変わろうとする人間をこの日常に引きずり戻してやれば良いんだ。」

その立ち直り方が良いものであるかの判断など、もう彼女にはできなかった。

そして、膝をついたまま、どこかねじ曲がったまま、その胸を撫で下ろした。

 

 

一方その頃、河島の方には一教師の怒号が鳴り響いた。

「お前ら何してるんだ。」

「先生ぇ、男子がここに入り込んで来て~。」

クサい言い訳が始まる。それに先生は

「いいから全員トイレから出ろ。」

と命令し、それに手下達は従った。

手下達が前に出てくる。先生は河島の姿を見るなり、問い詰めた。

「どういう状況だ。まず何でお前がこんな所に入り込んでいる。」

「同じクラスの名取がこいつらに虐められ―――」

「はァー!?意味分かんない。お前が勝手に入ってきたんだろうが!」

食い入るように河島の言い分を遮ろうとする。

「それで、ちょっとヤバいと思って独断ではありますが、女性用の方に―――」

「きっしょ。苛めて乱暴しようとしたのはお前の――」

「お前ら煩い、黙れ。」

先生が彼女らを叱責する。

「河島、続けろ。」

「大体のことはもう言いましたよ。」

先生は困り顔でしばらく考えると

「...で、まず名取がここに居たのは事実か。」

と質問した。

「居なきゃ無意味に入りませんよ...。」

「居るわけないじゃん!!」

と、同時に答える。

判断しかねた先生は頭を悩ませた。それを見た河島は提案する。

「先生、証拠があります。」

「本当か。」

「ええ、一人の教員による不正行為のお陰でね。」

 

 

【職員室にて】

「失礼します。二年二組の藤島四季乃です。お呼び出しがあったと聞き、参りました。」

「藤島、ちょっとこっち。」

そう呼んだのは教頭先生だった。

「教頭先生、如何しましたか?」

「今この校内で苛めの問題が多く上がっている。」

「左様ですか。」

「その主犯格について君が疑われているようだが、心当たりはあるかね。」

「いいえ、検討もつきません。」

「...まあ、仮にもし君がそうだったとしても言うはずがあるまいな。」

「どういうことです?証拠もなしに疑うというのは幾らなんでも失礼ではないでしょうか。」

教頭は小さくため息を吐き、こういった。

「証人がいるんだ。少し時間を頂戴するよ。」

そういって職員室に隣接する応接間に彼女を迎え入れた。

彼女が断りを入れてその部屋の椅子に座ると、すぐに

「教頭先生、証人というのは...。」

「ああ。」

「山岸君、入りなさい。」

 

 

名取は図書倉庫の中で、頬を伝う涙の最後の一粒を拭うと、立ち上がる。

彼女は瞳の光を失くしたまま、壊れた微笑みで呟いた。

「まずは邪魔者を消さなきゃ。」

 

つづく。



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15.道連れ

 

下町の鶴

3章-策略-

☆Episode.15「道連れ」

 

「失礼します。」

そういって入ってきた山岸に教頭は、藤島と対面の椅子に座るよう案内した。

山岸が椅子に腰掛けると、部屋の中にはピリッとした緊張が流れる。

どんな小さなミスも、もうここでは許されないのだという緊迫感が山岸を追い詰めた。

一呼吸分の時間が流れると、藤島は山岸を問い始める。

「それで、私が何をしたっていうのかしら?」

「わざわざ聞かなきゃ分からないかな?――

「質問を質問で返さないでくれる?私、暇で付き合ってるんじゃないの。」

藤島は山岸の言葉に被せるように圧をかけた。            

「二人とも、挑発をするんじゃない。」

教頭が注意をすると、二人は一瞬静かになる。

暫くたって、山岸は教頭に証言を始めた。

「結論から申し上げますと、彼女自身がやっているのは脅迫だけです。暴力の方はその仲間によるものですから。」

「脅迫というのは...?」

「まあ、主に弱味を握って支配下に置くといったものでしょうか。」

藤島は目を閉じ、眉を上げて、綺麗な姿勢のまま山岸に証言を喋らせている。

教頭が話す。

「なるほど。で、それを藤島さんがやっているというのはどうやって証明するんだ?誰かからその相談を受けているのか。」

「相手は口封じをさせられているんです。苛められた子の名前を言ってここに出させても多分喋りませんよ。」

「そうか。藤島さんの方は何か言いたいことはあるかね。」

そういうとパッと目を開き、呆れた表情で

「仮にそうでも証拠不十分じゃないですか?」

と、ため息混じりに言った。

「そうだな。山岸君、他に証明できるものは無いのかな。」

山岸は答える。

「さっきまで行われてたんですよ、ソレが。今回はキッチリと証拠も残ってます。」

「さっきまで?」

「ええ。二階の、あの離れ小島のトレイで。」

「今も続いているのか。」

そう聞くと、先に藤島が答える。

「今行って見てくれば良いんじゃないですか?」

それに頷いて、動こうとした教頭に山岸が発言した。

「その必要はありません。」

二人は驚きと疑問に満ちた顔で山岸の方へ顔を向ける。

「どういうことかな?」

そう教頭が聞くと、落ち着いた表情で答える。

「教頭先生、梅山先生が今、盗撮の件で処分中なのをご存じですか?」

「梅山がどうかしたのかね。」

「もう一つ、まだバレていないカメラがあるらしくてですね、そこに映っちゃってるみたいなんですよ、今回の苛めの現場が。」

藤島と教頭の瞳孔が開く。

「見つかったのって遠隔操作可能で、かなり高性能なヤツらしいじゃないですか。そのデータは梅山先生が持っているはずですよ。」

「それは本当か。」

「ええ、ご連絡してみては如何です?」

教頭先生が早急に携帯電話を取り出し、梅山先生に連絡を入れる。

その光景に茫然としている藤島に、哀れみのような目を向ける山岸。

それにどういう意図なのか藤島は冷静さを取り繕い、口角だけを上げた。

「やってくれたわね」と言いたいのか、それとも新しい策を見つけたのか、何にせよその表情はこの空間の中で不気味でしかなかった。

「どういうことだね。」「何をしてるか分かってるのか。」

といった怒号が応接室に響く。

その間、山岸と藤島の間に流れる空気は酷いものだった。

やがて教頭先生が通話を終えると、荒れた呼吸をしながら藤島に問う。

「梅山先生の盗撮を黙っていたらしいじゃないか。」

「....。」

「それを弱味に今までの不正行為を黙認させたと。」

藤島はカメラの存在にいち早く気付き、それを敢えて他の先生に報告すること無く、彼を操作する題材に利用していたのだ。

「どうなんだ。」

教頭が藤島を問い詰めると、彼女はゆっくりと顔を上げてのち、言い放った。

「それはそのデータが送られて来ればハッキリするんじゃないですか?」

「やったかどうかを聞いているんだ。」

「私は否定するまでです。...それと――」

ピリッとした空気になる。

 

「山岸さんが盗撮犯と共謀したっていう事実も、今ここでハッキリしましたよね。」

 

 

一方、名取はこの混乱の隙に校舎を抜け出し、帰路についていた。

彼女の手には、廊下に貼られた広報から破り取った藤島の顔写真が。それを見つめながら、やがてその表情は暗く沈んでいった。

名取がそれをポケットに入れ、顔を上げると、家々に囲まれた狭き空は雲に覆われていた。

湿った空気をその口に含ませては、胸の奥、不純物が混ざった重たい息を外に吐き出す。涙の枯れたその瞳は、雲間から差す太陽の日差しをどこか求めているようで。

 

いつもより遅めの足取りで家に向かって歩いていると

「つるりーん。」

と、私を呼ぶ声が聞こえた。私のことを"つるりん"と呼ぶのはあの娘しかいない、と振り返ると、やっぱり瑞希だった。

彼女の隣には明希(あき)っていう女の子もいた。瑞希と同じ、私の友達だ。

「やほー、つるりーん。」

「ああ、うん。」

「どしたの?なんか顔暗いよ?」

「ああ、ごめん。何でもない。」

私は二人に笑ってみせたが

「鶴ちゃん、絶対その顔無理して作ってるよ(笑)」

人のことを放っておけないお人好し軍団といいますか、そんな彼女らに少々困ってしまう。

そうそう、言い忘れてたが、明希は私のことを"鶴ちゃん"って呼ぶ。いや、いつもみっちゃんと一緒に居るのに言い方統一せんのかい。って時々思うけど...(笑)

「相談のるよ~?」

と、のほほーんとした口調で宥めてくるみっちゃんと

「本当に大丈夫...?」

と、少し弱々しい口調で心配する明希にやられて私は

「あーもう!分かったよ。家でお茶だすから!」

と、言葉を投げつける。

「やたー。」

と、気の抜けた声で喜ぶみっちゃんと、

「あは、ご馳走さまで~す。」

と、照れ笑う明希。

何なんだもう...。

 

私は二人を店に招いた。

「久しぶりに来たな~」とか何とか言いながら、カウンターに腰かける二人を前にせっせとキッチンでお茶を用意する。

その姿に何を感じたのか、明希はキラキラした目で私を見ている。みっちゃんが

「マスター、今日は...キツいのを頼む。」

などと戯けるので私は思わず乗り気になって、麦茶を注いだグラスを彼女に向けて滑らせた。

びっくりした彼女を前に、エヘヘとイタズラに笑う。

 

ゆったりとした時間が私たちの元に流れた。それが私にとっては優しいひとときだった。

「ねえ、そういえばさっき暗い顔してたのって何でだっけ。」

「それ聞く...?」

みっちゃんの興味っぷりに困ってしまう。私はとりあえず適当な言葉を並べた。

「まあ、色々ね。」

「色々かあ。」

「うん、色々。」

しーーん。

「ねえ、つるりん恋した?」

がくっと腰が抜ける。

「いやいや、何でそうなるんだよ!?」

「だってぼんやりあまーい顔してんじゃん、さっきから。」

「だからって無理やり恋に結びつけないでよ...!」

「あはは。ごめんごめん、冗談だって。」

店中に二人の笑いが共鳴する。私も少し苦笑いを。

瑞希:「そういえば友部さん、付き合ったって知ってる?」

明希:「え、誰と?」

二人が恋話にふける。

詩鶴:「石岡でしょ?あのイケメンの。」

私もそこに顔を突っ込んだ。

瑞希:「良いよね~、石岡君ってつるりんと同じ七組だよね。」

詩鶴:「そうだよー。もう周りの女子大騒ぎ。」

明希:「え~、羨ましいなあ~。」

みっちゃんは私にニヤリと笑う。

瑞希:「へへ、取られちゃったね、つるりん。」

詩鶴:「なんだよ、取られたって。」

明希:「あははぁ。」

詩鶴:「いいよ別に。イケメンなだけなんて興味ない。」

瑞希:「おー、言うね~。」

わざと意地を張ってみる。和やかな空気に、少し楽しくなってきたところだった。

しかし、次に瑞希が放った言葉に私の体が固まった。

 

「つるりんは河島君一筋だもんね~。」

 

その名前を耳にした途端、さっきまでの惨劇がよみがえった。

藤島の支配、仕組まれた作戦、心がまた複雑な感情に追いたてられる。

やるべきことへのプレッシャー、虐げられた怒り、三人とも倒さなきゃいけないものと向き合っているはずなのに、私にだけ孤独が押し寄せていること。

誰かに打ち明けてしまえば楽になれるのに、そうすれば何もかもが台無しになってしまうこと。

今はただ、胸の奥の痛みに耐え続けることしか出来ない。

「え、いや、あの...冗談で言ったつもりだったんだけど...。」

「え...?」

ハッと気がつく。どれだけボーッとしていたのか自分でも気がつかない状態になっていた。

明希は心配そうに

「だ、大丈夫だよ。鶴ちゃん、きっとまた良い人見つかるって。」

と私を気遣う。知らぬまに私が河島にフラれたみたいな認識になってしまっている。

「え、ちょっと...違うって...!!そんなんじゃ!」

「悪かった...私が悪かった...。」

半分悪ノリ混じりなみっちゃんと、本当にそう信じきってる明希。おまけにさっきのフラッシュバックで頭が痛くなった私は

「ああもう!!」

と大声を上げてご飯をカッカと装い、卵を取り出し、超高速で卵かけご飯を作る。そして二人が座ってる横の空いたテーブルにドンっとそれを置くと、すぐさま彼女らの隣でそれを飲むように食べた。

カッカッカッ...ズズー...ゴクッ...はあ...カッカッカッカッカッ!!

「こんのっ....どいつもこいつも...!!」

 

二人は困惑していた。

―つづく―




2022.8.27...日本語的におかしい部分を修正


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16.抑止力


【二週間前】
梅山先生の不祥事が藤島に見つかってから一週間と数日が経った頃、先生はまた彼女による苛めの現場を目撃する。
「ほら、ちゃんと謝りなさいよ。」
他の先生に言いつけないというのを条件に藤島の支配下に置かれていた彼は、今回の現場も見なかったことにするしかなかった。
しかし、苛められている生徒の助けを求める眼差しを受ける度に強い罪悪感と、自分の犯した過ちによる後悔が先生を苦しめた。
許されざる犯罪に手を染めた彼もまた人間で、良心の呵責や、正義感が欠如した訳ではない。バレたくないという思いと共に、藤島の苛めを止めなければいけないという思いを、まるで使命感の様に強く抱いていた。
彼の心は限界に達していた。そしてとうとう彼は決心した。

手下らがその子の服を脱がそうとした時、先生は声を上げる。
「やめろ。」
周りがみんな先生の方に振り向く。
「みんなこんなことをして恥ずかしくないのか。」
咄嗟に出た言葉に先生は、自分が冷静さを失くしたことに気づく。
そんな彼に藤島はほくそ笑み、声を大にして反論する。
「先生こそ、女の子を隠し撮りなんかして恥ずかしくないのかしら。」
それを聞いた全員が驚愕した。
「え、今何て?」「え、こいつそんなことしてたの?」
狭い倉庫の中に響いた言葉に混乱する中、先生はもう負けを分かりきった上で、ただひたすら苛めを咎めることに尽くした。

しかし、あっけなくこてんぱんにされ、やがて倉庫には苛められた子と、先生とで二人っきりになった。
「友達が苛められてたんです。隠し事みんな吐いてやるって脅されてて、後で「やめてあげて」って言ったらこんなことに。」
「そうだったのか。」
「それより....本当何ですか...?」
「え?」
「その、と...盗撮のこと。」
「....あ、ああ。愚かなことにね。」
しばらく沈黙の時が流れた。
そのあと、その子は先生に
「誰にでも間違いはありますよ。」
と、声をかけたが、先生は直ぐに反論する。
「いや、僕のした行為は間違いでは済まされない。」
その子は口を噤いだ。先生は続けて
「僕はもうすぐここを出ることになるだろうな。」
と、弱音を溢す。苛められっこは言った。
「....悔しくないんですか?」
「そりゃあ勿論悔しいよ。でも見てみぬふりをしてしまうよりは、自分のやりたいことができて良かったと思っているよ。」
「そうですか。」
彼はしばらく思い悩んで、先生に提案した。
「先生は...録画の知識と技量をお持ちなんですよね。」
「そんな堂々と聞かないでくれ...。」
「....先生。彼女らの苛めを止められそうです。」
「本当か。でもどうやって....?」
「カメラを使うんですよ。苛めの現場をそれに収めて職員に報告するんです。」
「そんなこと....。」
「協力しませんか。」
先生は困った顔になったが、それで解決に繋がるならばと、それに了承した。
バレるのも時間の問題と分かった二人は、それを前提とした作戦を話し合った。
そして、お互いのアドレスを交換し合い、連絡手段を得た。
最後に二人が倉庫を出るとき、先生が彼に声をかけた。
「本当にこれでいいんだな?―――


―山岸君―」


 

下町の鶴

3章-策略-

☆Episode.16「抑止力」

 

梅山先生から映像データが送られてきた頃に、応接室には河島と、藤島の手下らも来て騒然としていた。

「四季乃、何がどうなってんだよ!?」

手下らが真っ先に藤島に状況の説明を求めたせいで、彼女との繋がりがあることが教頭に伝わる。

藤島は鋭い目線で彼女らを睨み付けた。

「恐れるべきは脳ある敵じゃなかったみたいだな。」

と、河島が小声で馬鹿にする。

 

そしてようやくこの部屋で、隠し撮りされた映像が流された。

そこにははじめに名取が暴行を受けている所が映され、その加害者がここにいる手下らの犯行であることが確定した。

その命令を下していた藤島は肝心の顔が映らなかったが、そこに入っていた声と、彼女らとの関わりにより犯行を否定することはできなかった。

ここに映されていた関係者に処分を下すには保護者への情報開示や、議論を必要としたため、即決はできなかった。

加害者等には、この件についての処分が決定するまでの間、生活指導担当の教員による監視の対象になり、この間での脅迫、暴行の阻止を強化した。

又、盗撮の共謀が疑われた山岸と、河島には今回の件の証人となったため、処分についての議論は簡単に終わるものではなかった。

結果、今日はここに関わった人達への厳重注意によって解散となった。

 

「言い返したい気持ちは良く分かるが、ここは厳重注意という意味で素直に叱られてくれ。」

と言わんばかりの態度で説教をする生活指導の先生に、山岸と河島の二人は快くそれを受け入れた。

 

一番の被害者として証拠に上がった名取は既に下校していたことが分かり、翌日には証言と、居残り脱走についての叱責が待ち構えている。

 

 

一方、名取は友達の帰りを見送ったあと、自分の仕事を進めていた。

彼女らとお茶をしている間に開店時間は過ぎていたが、たまたま他のお客さんが来なかったため、ゆっくりと支度ができた。

 

ドタドタ!ドタドタ!

 

お母さんが階段をかけ降りてきた。

キッチンに飛び出して私を見つけると

「ああ....良かった。詩鶴、ありがとう。」

と、ひと安心した様子。

「何してたの。」

と聞き返すと

「いや、ごめん...。お昼寝してたら時間過ぎてて...。」

と、一言。

「お母さん...もしかして洗濯物干してた...?」

「あ...!!」

「....ここやっとくから。」

「直ぐ戻ります...。」

そう言ってまたかけ上っていった。

小さくため息を吐き出し、しばらくぼーっとしていると、店の扉が開く。

「いらっしゃー...。」

「よーう、詩鶴ちゃん。」

入崎のオッチャンだった。

「お、どーもー。」

オッチャンはカウンター席に腰かけるなり、早速

「珈琲おくれ。ブラックで良いよ。」

と、一言。

「あいよ。」

いつもの定番を注文する彼に、特に表情を変えることもなく承諾し、作業を始める。

私が生まれる前にこの店に寄付してくれたらしいやたらアンティークなミルに豆を入れ、挽き始める。

ゴリゴリと音を立てながら奥に消えていく珈琲豆を見つめながら、私はふとオッチャンに声をかける。

「ねえ、オッチャン。」

「お、どうした。」

「オッチャンって本当に探偵やってるの?」

「おう、そういう設定だ。」

半分戯けながら私にそう答える。私は今日のことを思いだし、それを持ちかけてみた。

「じゃあさ、調べてほしい人がいるって言ったらやってくれる...?」

「なんだ、恋愛相談か?」

「苛め集団への抑止力が欲しい。」

オッチャンは少々驚いた様子で言葉を探した。

「それは...つまり。」

「大丈夫だよ、校外で何をしてるのかを収めてくれれば良いから。」

「.....。」

「こいつなんだけど。」

私はさっきまでポケットに入れていた藤島の顔が載った新聞の切れ端を彼の前に差し出す。

「おいおい、マジかよ。」

「女子高生 尾行(つけ)るのはお嫌い?」

「んー....まあ、経験はないな。いや、そういう意味じゃなくて。」

「今まで酷い事いっぱいしてきたの。私も、私の友達も、抵抗できないままでね。殴り返して事が済むならもう解決してるから。」

「もうこの他に方法は思いつかないか?」

「私の頭じゃそうだね。」

お湯を注いだビーカーからポタポタと珈琲の雫が落ちていく。その音が鼓膜に触れたその時、オッチャンは答えた。

「分かった。やれることはやろう。」

「ありがとう。」

「ただし、学割はあまり期待するなよ?」

「大丈夫。貯金はしてる。」

それを聞いてオッチャンは苦笑いを浮かべる。私は彼に珈琲を渡した。

 

オッチャンが一口飲むと、呟くように言った。

「いつの時代も無くならないもんだなぁ。こういうのって。」

「おっちゃんも"された"事あったの?」

「ああ、もちろん。"した"ことだってね。」

「ああ.....そう。」

「それは誰にだってあることだよ。」

私は少し考えたあと、オッチャンに尋ねた。

「...ねえ、オッチャンは私が悪者に見える?」

「いや?人間らしいことをしてるって思うよ。」

「そうなのかな。」

「苛めたい気持ちも、やられて復讐してやりたいって気持ちも、どっちも人間らしいよ。」

「苛めたい気持ち....?」

「ああ、例えば心に穴が開くと、それを埋める何かが欲しくなるんだよ。人によってそれが「誰かを傷つけること」だったりするわけさ。」

その言葉に困惑する。見方が変わることへの戸惑いというよりは、自分の辛さを分かってくれていないのかという感情に近かったけど。

オッチャンは顔を上げ、私を見て言った。

「今回の件で分かることは、少し君には刺激が強いかもしれないよ。それでも良いかい?」

言葉の意味が分からなかった。私はすぐに頷く。

「良い。何を見ようと、私の気持ちは変わらない。」

それを聞いて彼は笑みを浮かべる。しかし、目は笑ってなかった。

「そうか、分かった。」

 

決心したような目と、何かを見据えたような目をした二人の間に流れる空気は如何なるものであっただろうか。   

まるで冷たい風と、暖かい風の間に真っ暗な雲が立ち込めているようで。

 

お母さんが洗濯物を干し終わったのか、下にかけ降りてくる。

「ごめんごめん。」

私を見つけるなり、謝ってくる。母がオッチャンを見つけて

「あ、雅っち。いらっしゃーい。」

と、声かけた。

「おう、お邪魔してます。」

「いえいえ。ゆっくりしてって。」

オッチャンは珈琲を嗜む。母も、私も特にやることがなくて、この場に流れる空気に心を泳がせてみたりしている。

「最近どう?探偵さんのお仕事は。」

母が聞く。

「おう、順調だよ。まあ、ほとんど浮気調査だけどね。」

「へぇ~。事件調べたりとか、そういうのは来たことないの?」

「ドラマの見すぎだよ。そういうのは大抵警察が解決してしまう。あ、でもそういう機関が隠蔽してるようなパターンの依頼は来たことがあるな。」

母は小さくため息をつく。私は興味津々に耳を傾けた。

「署内で上司の行き過ぎた嫌がらせによって自殺まで発展したってのがあってね、その親御さんからの依頼だったんだ。」

 

【当時】

「黒塗りの報告書が送られてきたんです。何度も署にその説明を求めて電話したんですが、ちゃんと答えてくれなくて、最近では名乗ると切られるんです。」

「なるほど、無かったことにしようって魂胆ですか...。」

「そうなんです...。何を聞いても「話せない」とか「答えてはいけないことになっている」って。」

 

「「とにかく情報を提示していただきたいんですよ。」」

「「我々としても組織で動いているんですよ。決まりとかで動いている訳ですよね。

決まりをないがしろにしたいということですか?

貴方の言う通りにしたら規則を破る、要は犯罪を犯すしか無いんです。」」

 

「規則ですか、腐ってますね。」

「....私は、やったことを素直に認めて、償って欲しいだけなんです。」

「分かりました。是が非でも彼らの秘め事、明るみに引きずり出します。」

―――――――――――――――

「どうなったの?それから。」

私は聞いた。

「ああ、俺からも聞いたが意地でも口を開かなかった。だから――」

「だから....?」

「証拠を集め、週刊紙や新聞社に情報を売った。」

「お....おお....。」

「それでも足りなかったんだ。否定し続けた。」

「そうなんだ...。」

「仕方ない。街を歩けないようにしてやったよ。」

「何をしたの....?」

「今度は嘘も混ぜてやった。ヒーロー気取りな奴らに話を盛りに盛ってさ。夜道を一歩あるけばそいつらの餌食になるように。」

「ちょっとやりすぎなんじゃ...。」

「人助けも好きだが、人を地獄に落とすのも趣味なんでね。」

「...それで、そいつらはその後どうなったの...?」

「詳しくは言えないが、"生きてる"当事者は全員精神病棟に居るよ。」

「え....待って、殺したの?」

「いや?勝手に死んだのさ。」

「.....。」

 

母が苦笑いで聞いた。

「雅っち、初めて会った頃はそんな人じゃなかったよね...?」

「はは、俺は今も昔も変わらないよ。いや...気を悪くしたならすまない。」

と、軽いノリで笑ったあと

「色んな人間ドラマを見すぎちまったんだな、きっと。」

と、両手でコーヒーカップを包みながら意味深な言葉を放った。

「オッチャンって何か復讐ものの主人公みたいだね。」

「主人公?はは、よせよせ。俺は脇役の方が好きだよ。中立の立場が一番楽しいんだ。」

「その台詞は昔のままだね...。」

母は苦笑いのまま答える。

 

「オッチャン...これ作り話じゃないよね?」

「本当だよ。」

母から即答が出る。

「え....?」

「当時、ニュースになった。」

「え、オッチャン、テレビに出たの!?」

「ばーか、黒子が顔出しちゃマズいだろ。」

「あぁ....そう。」

母は答える。

「本当雅っちってホワホワしててね。当時、飲みに無理やり連れてったんだけど「あー、最近ちょっと大変でなあ。」くらいしか話してくれなかったしね。」

「え、そんなことあったっけ。」

「はあ....。」

オッチャンが珈琲を飲み干し、微笑むと

「あの時飲まされたブラッディーメアリーは強烈な味だった...。」

「そう?あの時の貴方には一番合っているお酒だったわよ?」

「ありゃあ野菜ジュースだよ、なんで酒にセロリが刺さってるんだ...。」

 

―つづく―




2022.9.9 大袈裟になってしまった言葉の表現の訂正。
2022.11.23 一部、過去の時代設定の訂正前。


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17.誤解

 

下町の鶴

3章-策略-

☆Episode.17「誤解」

 

オッチャンが帰ったあと、店はまた静かになった。

「ねえ、詩鶴?」

「何?」

母は急に私の両頬をぎゅーっとつねり出した。

「いででで!なに、おかあはぅ!いだぃ!!」

「何か隠してるでしょ。」

ぽんっと放され、揺れた頬に手をあてがう。

「隠してるって何を...!」

「学校で何かあったんじゃないの?」

「....ちょっと嫌なことあっただけだよ。」

母に物凄い短時間で見抜かれる。正直、こういう時の親って超能力者なんじゃないかって思う。実に怖い。

「また先生にこっぴどく怒られたんじゃないの?」

いや、言うほど超能力でもなかった。

「学校のいじめっ子にちょっとヤられたの。それだけ。」

「へぇ、詩鶴がボコボコにし返せないなんて、よっぽどの強敵なのね。」

「女同士の争いはそんな単純じゃないんだよ。」

「男じゃないんかい。珍しいな。」

「ほんっっと、思い出すだけでムカつく...。」

ボソッと不平不満を垂らしながら、汲んだ水を何度にも分けて飲み込む。

三口目を口に含んだとき、母は呟く。

「なーるほど、それで雅のオッチャン味方につけたって訳ね。」

ブーーーーーーーーー!!

「けほっ...!けほっ...!何で聞こえてるの、二階から!!」

「やっぱそうだったか。」

「やっぱって何!?」

「降りてきたら二人とも物耽った顔してるし、何か企んでるなって事くらい寝起きでも分かるよ。」

ごめん、やっぱ前言撤回。この人怖い、エスパーだ。

困惑した表情で母を見ると、両手を腰に当てて言う。

「詩鶴、目には"目まで"だよ。それ以上はやっちゃダメだからね。」

「分かってるよ。向こうが握ったのと同じ分の弱みを手に入れるだけ。」

「そ。なら良いけど。」

何故かあまり強く叱ってこないから、少し気になって私は聞いてみた。

「お母さんは学校で苛められたとき、どうしてた?」

「ん?ぶっ飛ばしてた。」

「Oh.....。」

「いや、ね?別に私は良いんだけど、気弱な友達にまで嫌がってるのに悪ノリ辞めない奴とか居たからさ。」

何か少し状況が似てる気がする....。

「面倒臭いやつだ....。」

「本当にね。ノリだけで生きてる奴って何でああも空気読めないのばっかりなのか...。」

「分かるー。寧ろ嫌がってるのを楽しんでるよね。」

「ほんっっと、詩鶴もそんな奴いたらぶっ飛ばしちまいな。」

「.....今やってる。」

 

ガラガラガラ

 

話の終わり目で丁度扉が開いた。お客さんが来た、と思い、挨拶する。

「いらっしゃー.......いー....。」

扉が開き、顔が見える。私は眉をひそめた。

 

河島と、山岸の二人だった。

 

「....よう。」

「二人分もお布団ないから!お泊まり禁止!!」

二人が私の怒号に飛び上がる。山岸は慌てて

「ちょっと待って!僕らはそういうので来たんじゃ...。」

「うるさいっ!!いっつもズカズカと上がり込んで、好き放題やって....。もうお前ら出入り禁止ぃっっ!!」

ゴツんっっ....!!!

「いだっっっ!!」

上から母の拳が降ってくる。

「お友達に怒鳴り散らすんじゃないの。」

私は手のひらで頭を覆った。

「だって...!!」

「だってじゃない!」

二人がやり取りを茫然と見ている。私は羞恥に堪えられなくなって、酷く赤面した。

 

「もう二人とも嫌い...。大っっ嫌い....。」

二人と同じカウンターで隣に座り、テーブルに置いた腕のなかにその真っ赤な顔をうずめて泣き言を垂らす。

「ごめん...急に来て。」

山岸が二つ隣から申し訳なさそうに謝る。

「まあ、いつも通りで良かったよ。」

隣から河島が、ニコニコと私にそういうので

「(ギロッ).....チッ。」

睨んでやった。

河島は、山岸とのやり取りを知らない。私を騙してたことへの自覚がないから、きっとヒーロー気取りでいるんだ....。

「女将さーん、味噌卵焼きおひとつ~。」

それどころか河島は呑気に注文し始める。

「詩鶴、ほら注文入ったよ。」

「え、何で。お母さんやってよ、そこ(キッチン)居るんだから。」

「何言ってるの、味噌玉はあんたの方が作るの上手いでしょうが。」

このやり取りを聞いた山岸は不思議そうに河島と話す。

「卵焼きに味噌って合うの?」

「それが合うんだよー、ふわふわの卵に味噌の味が良いアクセントになってて。」

「うわあ、ちょっと待ってよ。お腹空いて来たじゃん...!」

二人:「じーーーー...。」

「ぷい。」

河島はさらに続ける。

「それでさ、ご飯と相性が良いんだよ。」

「え、卵焼きと?」

「そう、味がしっかりと濃くて、それでいてしつこくない。あれは最高の卵焼きだよ。」

「へえ~、名取が作ったの?」

「そうそう。料理の腕はシェフ並みだよ、マジで。」

母がニヒヒと笑う。

ただただ私は、恥ずかしさに苦しめられる他、術がない。

「へぇ~、さぞ美味しいんだろうなあ~。」

「本当に。なと....あ、"詩鶴ちゃん"の卵焼き、お前も一回食ってみろよ。」

「まじ?な....、"詩鶴ちゃん"の卵焼き。」

「そう、" 詩 鶴 ち ゃ ん "の 卵やk―――」

 

「もう!!うるせえよさっきから!聞こえてるっての。

下の名前で呼ぶな!下の名前でぇえ!!」

「あ、元気になった。」

 

「ったく、作りゃ良いんでしょ、作りゃあ!」

「おう。二人前、宜しく!」

「....チップ要求してやる。」

もう意味分かんない。何で人が悩んだり、ちょっと辛いときにまで極端に介入してくんの?人の心の部屋に、皆して土足で入りやがって。

詩鶴がキッチンに大股で入り込むと、どたばたと調理を始める。

「あーもう、全然休めない。全っっ然休ませてくんない...。」

「あー....何か手伝えることがあったら――」

ボソボソと文句を垂れながら仕事に追われる詩鶴に、山岸が少し心配したが

「ないっ!素人は座っとけ。」

「こーら、詩鶴。」

「やかましい!!お母さんこそボケェっと話聞いてないで仕事してよ、仕事をぉ!!」

「.....すいやせん。」

恐らく、今の詩鶴を止められる存在はこの屋根の下には居ないだろう。ここに居る誰もがそう頷いた。

 

チチチチ...ボゥッ、ツーーー。

フライパンに油をひいて、その間に出汁と卵をかき混ぜる。

しかし、その中の味噌が中々上手く混ざってくれなくてイライラする。

カッカッカッ.....カカカカカカカ!!

そうしてるうちにフライパンの上の油が蒸発し始めた。

「詩鶴?フライパ―――」

「分かってるって。お皿用意しといて。」

ここからはスピード勝負。モタモタすると直ぐ焦げてしまう。

混ぜた卵を注ぐと、手際よく焼いていった。

酷い疲れの中、料理の匂いが少し私の気を楽にさせた。

 

出来上がった卵焼きをお皿に乗せ、切り込みをいれる。

二人分を一皿に乗せて、はみ出そうな分をもうひとつのお皿にわけ、二人に差し出した。

「はい。」

「おーー。」

二人は美味しそうにそれを見ると、早速

「いただきまーす。」

といって一口食べる。

「名取すごいな、こんな旨いの作れるなんて。」

山岸が絶賛する。

「ああそう、どうもー。」

疲れてて正直、言葉を考えて出せない。

「やっぱこれだわ。お前のが一番旨い。」

河島の一言で数日前、彼がここに来たことを思い出した。

あれからたった数日で何があったのか、ただ楽しいだけの思い出として残ってくれなかったのか、その疑問が胸の奥を拗らせる。

「ねえお母さん....、大事な話するから一旦向こう行ってて。」

そう重たい声と表情で伝えると、察してくれたのか、すぐに頷いてくれた。

 

「ねえ、二人とも。」

私が話を切り出そうとすると、河島がすぐに

「ごめん、今日は本当に。」

と謝る。間にピリッとした静寂が流れた。

「ねえ河島、山岸、私らって友達だよね。そう思ってくれているんだよね。」

「ああ。」

「私ね、二人に捨てられたかと思った。もう二度と、三人ではいられなくなるんじゃないかって。」

「.....。」

「難しい作戦だったんだよね。馬鹿な私じゃ足引っ張っちゃうから....。」

「そういうつもりじゃないんだ。」

今度は山岸が答える。

「この作戦はもっと時間をかけるつもりだった。その中で、名取も誘うつもりでいた。」

「いいよもう。そんな嘘つかなくたって。」

ため息混じりの笑いを溢す私に、河島が話す。

「俺らあの時の会話で、お前もアイツの被害者だったことを知ったんだ。それから作戦に誘う予定だった。お前が藤島から何もされていないとしたら俺らだけの問題だし、それこそ巻き込むべきじゃないって思ってた。」

「....。」

「予想外だったんだよ、それを知ってからあんな短時間でアイツの"制裁"が始まるなんて。」

「トイレでのアレ...?」

「ああ。まさかと思って見に行ったら藤島と、お前の声が聞こえた。それから山岸に作戦の実行を伝えて、お前のところに行った。」

次に山岸が話す。

「作戦もまだ準備段階だったからさ。でも、君がやられてるのを知ってて放って置くなんて出来なかった。」

「じゃ...じゃあ、あの後でも私を作戦に入れてくれなかったのは何で...?」

「だってそれは、あの状況で作戦全部を理解して今すぐ実行しろだなんて、幾らなんでも無茶だろ...?」

「そ....そっか。」

「でもとにかく、今日は大変な思いをさせたと思う。本当に悪かった。」

山岸から頭を下げ出す、続けて河島も

「ごめんな。俺も、何もしてやれなくて。」

二人が神妙な様子で謝るもんだから、心が落ち着かなくなる。

「さ、冷めちゃうよ、卵焼き。残したら私、許さないから...!」

目を丸くした二人は、やがていつもの笑顔に戻って食べ始めた。

河島はふっと私に呟く。

「俺も変化は怖いよ。だから、ずっとこのままでいたい。」

ありきたりな恋歌にも聞こえそうな台詞をふと口にする河島に

「へぇ~~~?」

と、からかってみると、ハテナ状態の河島に山岸が更に追い討ちをかける。

「抜け駆けとかズルいぞー。」

「は!?馬鹿、三人のままでって意味だよ。」

やっと気づいた河島が焦りに焦る姿を二人で笑った。

 

「あーあ。取って置きのチップ用意したのに。やっぱ辞ぁーめよ。」

「え!なになに!?」

顔を近づけると、河島はビックリ仰天で椅子から転げた。

ヒョコっと顔を出すと

「顔近いわ馬鹿!!」

と、一喝。

「で、なになに?チップって何?」

期待度MAXの私に困惑しながら、鞄からそれを取り出す。

「ほら、今日発売の新作プリン。お前欲しがってたろ―――」

「わああ!!まじで!?これ私に!?」

「落ち着け....。」

「結構長い時間並ばされたんだよ(笑)河島がどうしてもって言うから。」

「お前、何言って....」

「わあ....、わああ....!もう河島大好きー!」

「おいコラ山岸、どうすんだこの空気。」

「エヒヒ。」

「山岸が提案したんだから、こいつにも礼言えよ?」

「まじでー?山岸も大好きー!」

河島からの仕返しに、二人は小声で話しだす。

「....言われてみると案外キツいなこれ。」

「だろ、もう辞めろよ。」

 

私は再び、さっき座っていたカウンター席に戻り、落ち着かないくらいの勢いで蓋を開け、スプーンを通す。

口に入れると、舌で転がしてる内にとろけて消え、フワッと甘く、こんがりとした風味が。そして、じんわりとカラメルの甘味が口一杯に広がり、頬がこぼれ落ちそうになる。

「んー....、ん~.....!んふふぅ旨ぃぃ...しあわせ~...♡」

この美味を嗜む私の隣で二人がコソコソと何かを話しているが、聞き耳を立てるほど他のことに集中できない。

「心なしか何かエロく聞こえるんだが気のせいか...?」

「うーん、分からなくもない。」

「だよな...。」

「河島ぁ、元取れたなっ!」

「...お前いい加減黙れよ。」

 

「あ....もう無くなっちゃった....。ねえ早い~!無くなるのは~や~いー!!」

気づいたらカップが空っぽになっている。それにギャーギャーと騒ぐ。

「子供かあいつ...。」

「よっぽど疲れてたんだろうな...。」

「そっとしておいてやる?」

「ああ、そうしておこう。」

 

「でも美味しかった。エヘヘ~、ありがとね~。」

二人にそう言うと、癒された疲れとともにドッと眠気が襲ってきた。

「今日は疲れた....ほんっと疲れた....。」

フラフラとしながらそう言う私に

「本当、ゆっくり休んでな。」

と声をかけてくれた。

「うん....ありが....とう.....。」

コクッ....

意識が遠退く前に

「あ、ちょ...休むってその....お、女将さーん!!」

と、慌てる二人の声が聞こえた気がした。

 

もう、ゆっくり休ませておくれ。おやすみ。

 

―3章終わり―





ーオマケー(その後)

「ただいまー。あれ、今日詩鶴、お手伝いの日とちゃうん?」
「ああ、今日いろいろ大変だったみたいでね。向こうでスヤスヤ寝てる。」
「ああ、そうなんや。」

【数時間前】
「河島!足の方持って!」
「ここ!?」
「そこで大丈夫!持ち上げるよ!せーのっ!」
「よいしょー!!」
詩鶴を二人がかりで持ち上げて奥へ運ぶ。
「ごめんね、二人とも。こっちまでお願い。うん、そっちそっち。あ、そこ物、気をつけてね。」
―――――――――――――――
「おー...後でお礼せなあかんなあ。」
ちょうど店も閉め作業の最中。母はせっせと皿洗いを、父はネクタイをほどきながら口を動かす。
「小町、何か手伝うもんある?」
「今はもう大丈夫。ありがとう。」
「りょーかーい。」

「そういえばねえ、詩鶴が雅っちに探偵の依頼だって。」
「へー。アイツまだ探偵しとったん?」
「そうみたいよ。」
「まあ、腕は確かやけどな。雅に頼むとか詩鶴、何かあったんか(笑)」
「頭の良いーワルに苛められたみたいで―――」
「何?詩鶴が苛められた!?」
「...落ち着いて。それでもう悪さできないようにその子の取って置きの秘密を握りたいんだってさ。」
「おお...そうか。それはええ判断やわ。洗いざらい弱み握ってボコボコにしたれ。」
「ただ、雅っちは気合い入るとやり過ぎちゃうのが心配なんだよね。ほら、あの時みたいに。」
「あの時...?何かしてたっけアイツ。」
「ほら、警察同士の苛め問題の...。」
「あー、あれか。でもやり過ぎてたか...?」
「してたじゃない。加害者を逆に追い込ませて――」
「あーあれか、はいはい。あれ嘘やで。」
「....は?」
「正確には"盛ってる"って言うた方が正しいけど。」
「え....だってあれ...。」
「あの事件に関わったのは本当やけど、報道に言いふらしたとこまでで終わってる。あいつ、熱入るとすーぐ話盛るから。」
「....。」
「"理想ではそうしたかった"ってヤツとちゃう?」
「........。」
「まあ、あのあと裁判は勝ったみたいやし。それで――」
「 .....してやる。」
「え?」

「今度あったらボコボコにしてやる。」
「おう...、半殺しで止めときや。」
ーおわりー


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4章.詩鶴のボコボコ戦記
18.眠れない朝



ープロローグー

あの散々な出来事から二日が経った。
あれは何だったのか、嵐の後の静けさのように、いつも通りの日常が訪れた。

青い空を見上げると、遠くに黒い雲たちが見える。
どうせ止んでもまた降るなら、頼る名言も無いだろう、と胸を撫で下ろした。


 

【本編】

下町の鶴

4章-詩鶴のボコボコ戦記-

☆Episode.18「眠れない朝」

 

朝。スッキリと晴れた青い空の下、学校までの道のりを歩く。

「ふぁぁあああ.....。ねむ...。」

ここ最近、疲れが溜まってるせいか、全然寝足りない。ずっと眠たい。

七時半に母に叩き起こされ、何度も椅子から転げ落ちそうになりながら朝食を食べ、眩しい朝日のシャワーに打たれる。日焼け止め塗ったよね?記憶がない。

みんな青春がどうたらこうたらと謳ってますけれども、朝早くに制服に着替えて、やってない課題の事でわざわざ怒られに学校に向かう私の気持ちが分かりますか。他人事に言うほど青春は、優しい人好しじゃありません。

 

そんなこんなで校門に着くと、先生の挨拶検問に引っ掛かった。

「おはようござぁあーす。」

「おはよう、名取。何その髪型。」

「ぽにーてーるって言いまーす。」

「いや、うん知ってる。そうじゃなくて、とんでもないことになってるぞ。」

「うへへー、ありがとうござあーす。」

「誉めてない誉めてない。鏡見ろ。」

そういって先生が大きめの手鏡を私に向けた。

そこには酷く窶れた顔の私が映る。

「うーあー、これは酷いですねえ。」

そういってニッコリ笑顔を作って、先生に見せつけた。

「これでいいすかー。」

「寝癖だよ、寝癖!確かに顔も凄いことになってるけど...。」

寝ぼけながらフワフワとした手付きで、ほどいた髪に手ぐしをかける。先生はそんな私に呆れた様子で質問を投げ掛けた。

「昨日遅くまでバイトでもしてたの...?」

「いいえぇー、最近疲れ溜まっちゃってて...。なので先生、遠足って名目で慰安旅行、連れてって下さい。」

「はいはい。秋まで待った待った。」

その後、その先生に「後で話がある」と言われた。どうせまた、居残りから逃げ出したこととか、そういうのだろう。

 

教室に入ると、なんだか少し騒がしい。

「お!ナットリーーー!!おはよーう。」

朝から鬱陶しい空気に巻き込まれる。騒いどるこのアホは村草、この学年の情報屋たる人物。面白いと思った情報を手に入れると口々にその噂を振り撒くマジで鬱陶しい奴。何でこんな奴がよりにもよってうちのクラスにいるのか。

「何だよ朝から、うるさい...。」

机に鞄を置いて、椅子に腰かける。村草は教卓から有名人気取りな姿勢で私に向かって問いかけてきた。

「聞いたぜぇ~?二組の女子から。」

「何をだよ...。」

 

「お前、河島と"寝た"んだってぇ?」

 

一気に目が覚めた。まて...二組っていったら藤島がいるクラスじゃなかったっけ?....あのド畜生、何しやがった。

「......は?」

このアホが余計なことを言ったせいで余計に教室は騒がしくなる。

「え、マジで!?名取、話せよ!」

「え~、友達の域、越えちゃったってやつ~?」

皆が私を囲んで騒ぎ出した。こういうときのクラスの反応は尋常じゃない。本気で止められる気がしない熱量だ。

「いや、誤解だよ...!」

「またまたー、勿体振っちゃって~。」

誰一人として私の言い分を聞こうとしない。

「ちょっと...!みんな落ち着けって!落ち着けよ!!」

みんな全員、パニック状態の大騒ぎ。私はやけになって机から飛び出し、村草の胸ぐらを掴んだ。

「ぉぉお前この野郎ァー!!どうしてくれんだよこれ、無傷で帰れると思うなよコラァァ!!!」

村草はヘラヘラと笑ったままだ。

「大体、私と河島が"寝た"なんて、本当かどうかちゃんと調べたのかよお前。」

「本当だよぅ。噂好きな女子が言うんだからそうに決まってるー。」

何だこいつ.....、色仕掛けでもされたのか。まあ、口の軽い男が、尻の軽い女に騙されるなんてこの世の摂理みたいなものなんでしょうから?いつかそのお花畑な頭で可愛い女の子にホイホイついていって搾り取られるが良いさ。でも

「それは大きな誤解だよ。当の本人がちゃ~んと説明してあげる。」 

なんとか冷静さを取り繕って弁解の余地を試みる。

「え、いいよもう。今の話の方が絶対面白い。」

...無駄だったようだ。うん、私も無理。もう限界です。堪忍袋の緒が切れた。

「おのれぇぇ、そんなに殴られたいかああああ!!」

握った拳をおもいっきり振りとばそうとしたその時

 

ガラガラガラガラ

 

と扉が開き、河島がやってきた。

「おはざまーす。」

「どうすか河島君、今のお気持ちは!」

村草が余計な口を開いたので、一時停止した私の右手は青信号に変わった。

「ぐへぇあっ!」

汗が頬を伝う。心臓が大太鼓のように波打つ。今すぐこいつの口を封じなければと、私は焦りに焦っている。

「今黙れば原型は留めておいてやる。分かったら返事し―――」

「何だ村草、「眠い」以外の感想があるかよ?」

河島が教室の奥から声を飛ばした。村草がそれに返事をする。

「名取と仲が良いんだってなー?」

こめかみを両拳でグリグリしてやった。結構力強めで。

「ねえ、聞こえなかったぁ?この馬鹿。」

「いだだだ!!あはははァー!痛だァー!!」

河島は村草の問いかけに

「ああ、それがどうしたー?」

と、聞いた。村草がまた余計なことを言う前に先手をとる。そうして私は声を張って河島に叫んだ。

「河島ぁー!!こいつがあることないこと、朝から言いふらしてんだよ!!」

「本当かー雑草野郎ぉー。あることだけ言え~。」

と河島が、のほほーんとしたテンションで言う。

私はこいつを上から目線で睨み付けて警告した

「ないこと、言ったら、潰す。」

....のに。

「付き合ってるんだってなー!お前ら~。」

一瞬、五感全てが無くなったかのように、真っ白な空間に放り込まれたような気分になる。

もう私、我慢できない。覚悟しろ。

大きく宙に上げたこの足は、奴の砲台に備わった弾丸目掛けて急降下する。

 

「あ、待って名取さん。冗談だって、じょ―――」

ズンッ...!!

「ぎぃぃいやああああああああああああ!!!!」

 

悶絶する彼を背に、私はパッパと手を払う。

河島は自分の席にドカーンと座ると、何食わぬ顔で答えた。

「そんな風に思われてんの?俺ら。」

「全くよ、ふざけやあって。失礼しちゃうわ!!」

そう言って私も自分の席に座り、両肘で頬杖をついた。

しかし、まだ収まりきらないクラスメイトの熱が私たち二人に襲いかかる。

「ねえ、名取ちゃん本当?」

「何が。」

「河島と付き合ってるって。」

「誤解だって。いい加減にしてよ。」

「え、え、詳しく聞かせて!」

興奮するクラスメイトの対応に困っていると、山岸が教室に入ってきた。そのタイミングで私は

「時々うちの店に遊びに来るんだよ、二人で。ね?山岸?」

と、証人を増やした。

山岸は唐突に話を振られてビックリする。

「え、あー、うん。どしたの。」

「村草が私と河島、付き合ってるってデマ言いふらしたんだよ。」

「あー、それで悶えてるわけ、あいつあそこで。」

「そ。」

山岸は

「たまたま河島一人で店来たとこを見られた、とかじゃない?」

と、話す。まあ、あのお泊まりのこと、少しバレ始めてるし、山岸の解釈でも強ち間違ってないから良っか。しかし

「でも一人で来るのって好きだからじゃないの~?」

何を言っても「好き」の方向に持っていこうとしてくる。

こういう連中は意地でもクロにしたがる。私はもうやけになって

「ああそうかもね!!」

と、声を張った。

 

一段落熱が収まり、山岸、河島との三人で会話が始まる。

山岸の席は前の方にあるから、私と河島の席の間辺りで立っている。

名取:「ねえ、これも藤島の仕業?」

河島:「だろうな。あれから俺らの前には出てこなくなったけど。」

山岸:「残党に働かせてるんだろう。あれだけ騒ぎになったんだから、自分で泥を塗るほど馬鹿ではないはず。」

河島:「あの時の奴らはみんな生活指導から監視対象になってるんだろ?」

名取:「え、そうなの?」

山岸:「ああ。あの日、名取が脱走したあと先生がそう言ってたよ。」

名取:「あれは....!....ごめんって。」

河島:「前の奴らが監視対象なら、きっとメンバーを変えて仕返しに来るはず。」

名取:「そっか....気を付けなきゃね。」

 

河島はふとため息を吐いて、この重たい空気から解放される。

山岸が

「今度はもっと上手くやらなきゃな。」

と呟くと、河島が私の方をみてニコッと笑い、親指を立てて戯けた。

「今度はちゃんと守るからな!」

「そういうこと言うから勘違いされるんでしょ、ばか。」

 

-つづく-







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19.直射日光

 

下町の鶴

4章-詩鶴のボコボコ戦記-

☆Episode.19「直射日光」

 

「....クスクス」「....クスクス」

何だか最近、妙な視線を感じる。私のことをコソコソと噂してるのか、目の前を通れば急に黙り、通りすぎると再び小さな笑い声が後ろから聞こえてくる。

トイレに行く時や、その帰り、休み時間など、隙あらば陰口のようなものが聞こえてくる。

「名取って奴さぁ....。」

今のは確実に聞こえた!と思い、振り返るも、またそいつらはお馴染みのシカトを繰り返してくる。

「気味悪いなあ...。」

そう、小声で声を漏らすと

「お前がな、ヒャヒャヒャヒャ。」

と、悪口がハッキリと聞き取れた。また面倒臭い状況になろうとしている気がする。

 

教室に戻り、自分の席に座る。次の授業に向けての教科書を取り出そうと、引き出しに手を入れた。すると、生々しい感触が手に伝わる。

「ひいぃぃ!」

思わず机から飛び上がり、声が出た。

河島が「どしたの」と言わんばかりに笑うので、パニックになった私は

「河島河島河島河島!!」

「何だよ、聞こえてるって。」

「引き出しに何か居る....。」

「居るって何が...?」

「分からない....!な、なな何か...ニュルニュルしてる変なヤツ....。」

「え、何それ...虫か何かじゃね?」

「ひいぃぃ!!やめてよ、怖がらせないでよ、そこは普通...なんか優しい嘘とかつくもんでしょ男なら!!」

物凄いスピードで喋り倒し、平静を保てずにいる。自分でも正直、何言ってるか分からない。

「おーい、山岸ー。」

河島が山岸を呼ぶ。

「何かー?」

「お前、虫とかそういうの得意だろー?ちょっと来てくれー。」

そういうと、山岸がこっちへやってくる。

「名取、さっきから何でそんな震えてるの?」

「こここ、こん中に、なな何か虫みたいなのが居るの!!」

「ふーん。」

「ふーん、じゃないよ!取ってよ!!」

「ここに居るの?」

と、山岸が引き出しを指差す。

「そうそうそうそうそうそうそうそう!!」

頭に?マークをつけながら彼が引き出しを探ると

「うわっ、これミミズじゃない?」

山岸の周りにいる人達が一斉に数歩下がりだした。そうして取り出し、手にあったのは

「あ、やっぱりミミズだ。てか何でこんなとこに?」

私は腰を抜かした。

「いやああああああああ!!」

思わず声を上げてしまった。恐怖のあまり視界が滲んで見える。今にもこぼれ落ちそうなそれを手で拭おうとしたその時

「おい馬鹿馬鹿馬鹿、やめろ!!」

と、河島が大声で止める。私はビックリして固まった。山岸が私を見ると

「それ触った手で目擦ったら失明するよ。」

「ひっ.....。」

そう忠告した。

「早く手、洗ってきな。」

河島の提案に乗り、私は手洗い場に直行した。

 

河島が走り去る名取を見ていると、教室の窓の外、廊下で彼女をチラ見しては、クスクスと笑っている三人の女生徒を目にする。そいつらの一人がすれ違った男と小さくハイタッチをしているのを見て、そいつらの犯行であることに気づいた。

河島はボソッと呟いた。

「なあ、山岸。」

「どうした?」

「例えばだけどさ、仲間を殺した魔王が超絶美女だったり、ガキだったとして、倒さないって選択肢があったらそれ選ぶ?」

「急にどうしたよ。仲間殺されてるなら仇を打つのが当たり前じゃない?」

「そうだよな?」

「うん。....え、これ何。」

河島は小声で

「妹蹴り返す感じでやればいけるな。」

と一人言を言うと、

「山岸、ミミズ、パス。」

「え、何で?」

「手ぇ滑っちゃった~、って態で。」

山岸は状況が掴めないまま、それでいて出来る限り最大の演技で河島に投げた。

「ああっ、やっべ、手ぇ滑った!!」

「おおおお前何やってんだよぉぉおお!!」

そういって手にしたミミズを廊下側の開いた窓に向けて投げつけた。

廊下から大きな悲鳴が聞こえてきた。

「いやああああああ!!ミミズがぁぁ、顔にぃぃいいい!!」

窓の外で悶える三人を知らぬふりで見届ける河島。向こう側で三人仲良く爆弾をパスし合うかのように回す姿を背に、ほくそ笑んで言葉を吐いた。

「計 画 通 り 。」

山岸は困惑した。

「ミミズ可哀想。」

 

そうこうしている内にミミズが教室内に舞い戻ってきた。

飛んできたミミズは奇跡的なタイミングで、黒板の下でボーッと座っていた村草の首もとに着地する。

「ぎぃやあああああああああ!!!!」

大絶叫の村草に、山岸が詰め寄った。

「あー、今取るから。投げないで。可哀想だから。」

「ボクの心配はぁぁああ!!??」

 

教室内に失笑の嵐が舞い起こった。

 

 

ー手洗い場にてー

蛇口を回し、手のネバネバを洗い取ろうと頑張る。ある程度水洗いで取れたと思うが、何だかそれだけでは安心出来ないので網袋に入ったレモン石鹸も使って泡立たせる。

ただ無心に手の石鹸を擦り続けていると、隣に村草がやってきた。

村草が蛇口の水をハンカチに含ませ、それで必死に首もとを拭きだすので、不思議に思った私は

「.....何やってんの?」

と、怪訝そうな顔になって聞いた。

「誰かさんのミミズ様が飛んできたんだよ...!」

「何であたしのせいみたいな言い方してんの。」

「だって....そっちが――」

「私、被害者なんですけど....。あんたとお互い様...じゃないの?」

ため息と共に出た言葉に、村草も渋々納得する。

私はこの前のことの話を持ち出して、責めた。

「ねえ村草さ、あんた人の悪い噂ばら蒔く趣味、やめなよ。苛めの標的にされるよ?私みたいに。」

「注目されるのが生き甲斐だから、無理かな。」

「だったらもっとやり方あるじゃん。河島みたいに皆笑わせたりとかさ。」

「...お前、本当河島のこと好きな。笑いで注目されるのはもうアイツの役割だから。二番煎じはやらない流儀なの。」

なんか最初の一言がひっかかるな。異性の友達で仲良いってだけのことを勘違いしすぎだろ。

「っていうかさ。」

村草が話を切り出そうとする。

「.....?」

「さっき、苛められてるって言った?」

「さっきまで何見てたんだよ。」

「あれは単なるイタズラじゃ....?」

「イタズラで本物のミミズ入れる奴がいるかよ....。」

大きく息を吐いた。

「....誰にやられてるんだ?」

「この前、あんたを買った奴らだよ。加担した奴の顔が知りたいなら鏡見てくれば。」

「.......。」

私は先に手を洗い終えて

「授業遅れんなよー。」

と言って、教室に戻った。

 

一方、河島達は....

「ここら辺で良いんじゃない?土あるし。」

「うん、そうだな。」

ミミズ様を自然にお返しているところだった。

「全く、一体どっからこんなもん二階の教室まで持ってきたんだよ....。」

山岸が困惑する。

「さあ....手の込んだことやる奴もいるんだな。」

河島がそう言い、続けて

「さ、とっとと手洗って教室戻ろ。」

「そうだな。」

そんなやり取りをし、中庭を後にした。

 

二人が一階の手洗い場で手を洗っていると突然、声を掛けられた。

「河島さんですか?」

振り返ると、一年生と思われる男子生徒が居た。

「名前よく知ってるな。もしかして俺、有名人?」

その子は会うなり、いきなり

「第一ボタンが外れてます。あと、髪は耳に掛からないようにしてください。」

「何だ何だ?」

「すみません、名乗り遅れました。一年一組、風紀委員の小岩晴臣と申します。」

「はあ。」

「本題に入らせて頂きます。噂に聞いたまでに確かではないので、間違っていたら大変恐縮なのですが、以前、異性不純行為があったと耳にしました。本当でしょうか。」

「え、何だそれ。例えばどんなこと?」

「....ご学友とまぐわわれた、とか。」

「滅茶苦茶だなあ。寧ろそんなの、"経験してみたい"に尽き.....ごほん、失礼。」

「左様でしたか、大変失礼なことをお聞きしました。」

「い、いえいえ....。」

「貴重なお時間を頂戴してしまい、申し訳ございません。では、これにて失礼致します。」

そういって、小岩という少年はスタスタと歩き去っていった。

「山岸、あの子、知ってる?」

「いや。....それにしても物凄いピシッとしてたね。」

「あ、うん。何か....銀行員みたいで怖い。」

「ごめん、その例えは分からないわ。」

のんびりと話していると、チャイムが鳴り響いた。

「やっべ!山岸、走るぞ!」

「おー!!」

 

 

「授業始めるぞ。あれ、河島と山岸は?」

「ミミズ様を自然界まで護送してます。」

「そうか。え?」

 

ーつづくー




【雑学トリビア( ᐛ)/】

ミミズは動物
―――――――――――――――
2022.9.29
風紀委員の子、名字を石岡→小岩に変更。
2023.6.10
上記の変更で、表記が石岡のままだった箇所を今更ながら発見。確認後、修正。


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20.学校さんぽ

ープロローグー

放課後、人気の少なくなった玄関に数名の女生徒の笑い声が小さく響く。
「これベッタベタになるよ。」
「マジ想像しただけで無理~。」
「キャハハハハハ!!」
そこには一人の靴箱に三人群がっていて、何やら仕掛けを施しているように見える。
「これもつけちゃえば?」
「いや、それはマズいって流石に~。」
「この前、あいつのせいで怒られたんだし、もっとやっちゃえば良いって。」



 

下町の鶴

4章-詩鶴のボコボコ戦記-

☆Episode.20「学校さんぽ」

 

居残り組はいつもいるわけじゃない。今日は山岸は風邪で休んでいて、河島は珍しく課題をこなして来てたから教室には私ひとりぼっち。

仲間を探して他の教室に顔を出してみたけど、空っぽか、居ても私の様な奴の遊び防止で先生が居た。

「ちぇ、つまーんないの。」

空き缶を蹴るふりをして歩く。一日最後に鳴るチャイムは部活終わりの時。それと共に居残り組も解放されるのだが、私は待ちわびて、夕暮れの学校を散歩してみることにした。

 

オレンジ色に染まった廊下、薄暗い理科室。この下辺りに職員室があるのだろう、一階には怖くて降りられない。

中庭を見下ろすと像が立っているのが見える。そういえばあれ、何の像だろう。初代校長~みたいな奴かな。頭ハゲてるし。

その隣には小さな庭があって、良く晴れた夏の日だからか、カラカラに土が乾いている。

「水やりしてやろーっと。」

ちょっとした気遣いと、悪戯心を兼ねて私は、蛇口の水を口に含ませる。勢いよくその庭目掛けてピューーっと吹き出してみるも全然届かず、縁に積まれた石にかけるのがやっとこそ。

まあ良いや、と思って最後の水を吐ききろうとすると、真下に鬼教師の塚本先生が様子を見に来たので、私は大焦りで身を引いて、廊下の壁に身を隠した。

「オォルラァ、誰だこんなふざけた事してんのはァ!ただじゃ置かねえぞ。」

ひっ!!

犯人をあぶり出そうと、物凄いドスの効かせた怒鳴り声を二階の窓に叩きつけてくる。私は口をグッと押さえて息を飲んだ。それと同時に口の中の水も飲んじゃった....。

「今そこに行くからじっとしておけよ!!」

ヤバい、逃げなきゃ。そうだ、とりあえず三階に逃げてしまえば撒けるかもしれない。

そう思って、私はここから遠い方の階段に向けて走った。

教室のない長い廊下の窓から、中庭を挟んで向こう側の校舎が見渡せる。電車の車窓のようにスパスパと流れる窓枠に時々見とれたりもしながら、誰もいない廊下を駆け抜けていった。

廊下の突き当たりから少し横の薄暗い階段を駆け上り、踊り場を過ぎたところからは、その先に見える窓明かりに向かって二段飛ばししていった。

 

三階に着くと、同じ間取りな筈なのにどこか違って見える景色に心動かされた。

窓の下を覗くと、地面まで怪我じゃ済まない高さにスリルに似た快感を感じる。景色も、校舎の広い範囲まで見渡せて心地良い。

 

さて、私の教室に一番近い階段まで歩こう。そこから戻って、ぼーっとしていれば直ぐにチャイムが鳴ってくれるはずだ。

そう思って歩き始めた途端、嫌ぁーな人物に出くわした。

「また脱走かい?」

藤島先輩だ...。私は頭を抱え、ため息をつく。

「鞄持ってないのに気づきません?それに"誰か先輩"のせいで逃げれる確率下がりました。」

そう言って諦めたように、開いた窓に腕を置いた。

「ははは、それは良かった。風紀委員として活動できた気になれる。」

「バスケ部に風紀委員って....。貴方モテたいんですか、嫌われたいんですか。」

「バスケはもうやってないよ。受験があるからね。」

「そのテイでヒーローごっこと。」

「人聞きの悪いこと言うなあ。僕はわざわざ勉強に時間を取らなくたって点が取れるから、こうして君のような生徒を捕まえる余裕があるんだよ。」

「なるほど、じゃあ居られるはずの部に残らなかったのは、モテるのは諦めたって認識で良いんですよね?」

「はは、あそこにこれ以上居なくたってもうモテてるから。」

「聞かなきゃよかった。退学してください。」

さっきまで見ていた窓の外の景色が違って見える。自由を感じていたはずの景色は、檻の外を見ている感覚に陥って、オレンジ色の空にしかそれを感じられなくなっていた。

「そうだ、君に話さなきゃいけなかったことがある。」

「何ですか。告白ならお断りします。」

「いや、違う。そうじゃない。」

「じゃあ何ですか。」

「僕の妹のことだ。」

 

 

 

放課後のチャイムが鳴り響き、居残りの時間の終わりを知らせる。

正面玄関に着き、靴を取り出そうとしたとき、急に指先が濡れたので酷く驚いた。中に何か入れられている。

やたら重く、ちゃぷちゃぷと水の音がするので靴の中を見てみると、甘い臭いを放つ黒い液体が。

靴の中にコーラを入れられていた。

直ぐに近くの排水溝に捨てたが、中はベタベタしていて履けたもんじゃない。どうしたものかと困っていると

「つるりーん、どしたーん。」

と、瑞希の声が。事情を話すと

「うわ、何それ最低じゃん。あ、そうだ。つるりん、良かったら自転車の後ろ乗りなよ。」

と提案してくれたので

「本当ありがとう....。」

といってハグした。

 

手洗い場で靴の片方を洗ってくれる瑞希。

「いいよ....別に私やるから。」

「良いって良いって。困った時はお互い様~ってやつ?あはは。」

「本当ごめんね....。」

「だからなんでつるりんが謝んの。悪いのはこれやった奴らでしょ?」

「まあ....。」

「本当、最っっ低だよね。悪ふざけで済む話じゃないよ。」

瑞希があまりにも熱心に同情してくれるので、嬉しさと、手伝って貰ってる申し訳なさから頷くことしか出来なくなる。

しばらくして靴を洗い終えると、それを持って玄関まで歩いた。

外靴を履き終えた瑞希が私を待っている。上靴を下駄箱に入れた後、外まで靴下のまま、爪先であるこうとする私を見かねた瑞希が、私をぎゅっと抱き締めて持ち上げた。

「きゃっ....ちょっとみっちゃん!?あはは、やめて、離してって!はは。」

「ええーい、駐輪場まで急行だあ~。」

「きゃははは!やーめて!やめてったら!!」

そういって私を持ち上げたまま歩き出すもので、私も大はしゃぎした。

靴下のまま、みっちゃんにおぶられ、普通に歩いたら真っ黒になるであろう地面を見ていると、何だか船に乗っているみたいでとっても楽しい。

駐輪場まですれ違う奴らに凄い目で見られつつも、私達はそんなことを気にするはずもないくらいに笑いあった。

 

駐輪場に着くと、瑞希は私をちょこんとサドルに乗せ、籠に鞄と靴を置いていく。

「これで走れば少しは乾くと思うから。」

「自然乾燥機ってやつ~?」

「住宅街で夕飯の匂いが付いちゃうかも~?」

「あははー!きもーい!」

自転車が走り出しても、私達はずっと小さな子供のようにはしゃいでいた。

 

「みっちゃん、案外力持ちだよね。」

「え?」

「だって私この前、二人乗りしようとやってみたけど全然進まなくってさ。」

「あ~、なるほどね。慣れだよ、慣れ。」

「慣れで出来るもんなの?」

「うーん、まあ私、昔よく弟乗せて走ってたし。」

「へえ~、良いなあ、兄弟。」

「ふふ、実際いたら居たで結構大変だよ~?」

「うわ、でた。兄弟持ちお決まりの定型文。」

「だって本当だもん。」

「ふふ、そっか。」

「逆に一人っ子の大変なとこ、聞かせてよ。」

「うーん、さびしいっ!」

瑞希の背中にぎゅっと飛びついた。すると自転車の起動がぐらぐらと揺れて蛇行する。

「わあーー!!ちょっと辞めてよ、危ないって(笑)」

「にひひ。」

 

ーつづくー







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21.新しい戦い方

 

下町の鶴

4章-詩鶴のボコボコ戦記-

☆Episode.21「新しい戦い方」

 

すっかり空は真っ暗になって、町の灯りが夜道を照らす午後九時頃、家族三人で食卓を囲んで夕飯を食べる。

「ほんっと!酷くない!?コーラだよ!?コーラ!!」

「ほんま、この世のカスやな!」

「ええい、もっと言ったれーい!」

「詩鶴、座って食べなさい。」

少し冷静になって座布団に座る。お惣菜を自分のお皿によそって、何口か口に放り込むと、父が喋りだす。

「あんなあ、詩鶴もやられてばっかやアカンで?もっとバシーッって決めたらな。」

「やってうよ!やってもやっても影でこほこほとやらえ――」

「詩鶴、口の物ちゃんと飲み込んでから喋りなさい。」

「.....。」

言いたいことが言えない代わりに箸を動かすスピードが上がり、これでもかと言わんばかりに口に入れては飲み込んだ。

「詩鶴なあ―――」

「あなたも!喋ってないで。」

「なぬぃ言おうほひはほ(何言おうとしたの)。」

「詩鶴!」

「(ごくっ)...るっさいなあ、喋ってなきゃやってらんないんだよ。」

「じゃあ食べてから喋りなさいよ。」

「.....なさいなさいって。何、占いに「親らしく」とでも書いてたの?」

私が口をモゴモゴさせながら反論すると、母は冷静な態度で言い返した。

「あなた、食べるときに「作った人の気持ち」とか考えたことある?」

「今そんな話して――」

「してる。あのねえ、二人ともテーブルに食べかす飛び散ってるんだけど、いい加減にしてくれない?」

父は小さく「ごめん」と、謝った。しかし私は、どうも心のわだかまりが消えず、口を噤いだまま、少し目を逸らして母を睨んだ。

 

食事が終わって、そそくさと寝室に逃げ込む。

猫の額ほどの家とはいえ、オマケ程度に二階がある。梯子のような急な階段の先にそのまま扉が付いていて、河島が来たときは転げ落ちるんじゃないかと恐る恐る上ってたのを思い出す。

灯りのひもを引っ張り、部屋を明るくする。窓を開け、小さな六畳間の部屋の、片付けられていない三つの布団の上に寝転んで一息ついた。

照明が小さく揺れる。それをボーッと見つめていると、窓から電車の音が聞こえる。

ガガン、ゴゴン、キィーーー、ホゥーーーー。

車輪や、車体の軋む音に耳を済ませ、駅に到着しようとする列車の光景を頭に浮かべてみる。

どんな人が降りてくるだろう。スーツを着た上司と後輩、学生の友達同士、同棲中のカップルもいたりして。

そうして一度鳴り止んだ電車の音は、再び唸りだして遠くへ走り去っていく。どのみち始発駅から来て、次は終点なのだけれど。

 

引き続きぼーっとしていると、父が部屋にやってきた。

「おはよう。」

「おやすみなさい。」

「おい、待て待て。遠足前みたいな就寝時間やないかい。」

「遠足前ならワクワクで寝られなくてもっと起きてる。」

「それもそうやな。」

「....で、何かご用で。」

父は壁にもたれて、あぐらをかき、ビールの缶を開けると、一口飲んで喋りだした。

「あんな、ひとつアドバイスしときたかってん。」

私は聞く体勢を取る前に一言もの申す。

「ねえ、それ絶対に布団に溢さないでよ?」

「おう、大丈夫大丈夫。」

「あ、うん。それで?」

「詩鶴、ムードメーカー副長やってるって言うてたやろ。」

「え、あー.....そうっすね。」

別に好きでやってるわけじゃないけど。

「いっぺんな、敵も味方も関係なしに笑わしてみ。」

「どういうこと?」

「人を苛めるような奴には2パターンおんねん。一つはただ楽しみたいだけのやつ、もう一つは....まあ、言わずと知れてるわな。」

「傷つける方が目的の奴?」

「おーう!よう分かっとるやんけ。さすが家の娘や。」

「鬱陶しいテンションだなあ。」

「...お?」

「...え?」

小声で言ったのが丸聞こえだったようで地味にショックを受ける父。

「まあ、なんや。楽しみたいだけの奴には全力でその期待に応えてやったらええ。」

「もう片方の奴らには?」

「同じことをやれば良い。」

「....え?」

 

 

学校についてからというもの、私は前より爽やかな表情で登校した。

コソコソと陰口を叩いてる奴に満面の笑みを遠くから見せつけてやると、分かりやすいくらいに青ざめた顔をするもんだから、私は可笑しくって、余計に笑いが溢れた。

サンタさんが来たあとの子供のような振る舞いで毎日を生きるだなんて、端から見ると絶対に可笑しいんだろうけど、そんなことを考えるとまた可笑しくなって笑えてくる。

「つるりーん、おは....どしたの、何か嬉そうだね。」

「えーへへぇ?いつも通りだよー?っははは。」

「え、何。ちょっと大丈夫....?」

「いやはは、大丈夫大丈夫。何かさ、最近何してても可笑しく感じちゃうようになっちゃって。」

「あの、お医者さん診て貰った方がいいんじゃ...。」

「ちょっと、みっちゃん引かないでよ!」

「え....で、さっきは何で笑ってたの?」

「何か、私から見える位置で陰口叩いてる奴居たんだよね。もう馬鹿すぎて。陰口なら陰でやれっての、あははは。」

「人生、楽しそうっすね。」

「そう、楽しいの!あははー!」

「ちょっと辞めて、笑い移って来そうなんだけど。」

そういって瑞希も失笑し始めた。

 

人生、面白くなるような考え方を掴んでしまえば辛いことは吹き飛んでしまう。その考え方というものを見つけたのか知らないけど、一周回ってか、回りすぎてしまったのか、何もかもが面白可笑しく感じてしまう頭を手に入れてしまったようだ。

 

教室に入るとき、瑞希が声を上げる。

「河島くーーん!!助けてええ!!」

「え、どしたん...。」

「詩鶴が壊れたああ!どうにかしてえ!」

「あはは!壊れたって、あはは!」

河島、大困惑。

「え、壊れたって....あの...。」

「とにかく後は頼んだよ、じゃ!」

「あ、おい....。」

燃え尽きた焚き火の後のように、笑い転げた後の熱が残ったまま、河島の方に向かってくる。風を吹けばまた燃え上がりそうな様子で。

私は目元の涙を手で拭いながら自分の机に鞄を置いた。

「あー、可笑しかった。あ、河島おはよー。」

「お、おはよう。」

河島がずっと怪訝そうな顔で見つめるので、また頬と肩が上がりだす。

「あの...名取、一つ聞いていいか?」

「なはっ、何ぃ?」

「薬やった?」

「なははははは!やめてやめて、笑わせないで!」

「落ち着け、落ち着け。何があったか話せ。」

そう言われ、一瞬口をぎゅっとすぼめるも、そんな程度じゃ収まるはずもなく。

「何もっ?うははははは!」

「山岸いいい!!ちょっと来ぉぉぉい!!」

過呼吸になる私をどうにかしようと河島が焦りだす。

その声に振り向いた山岸がこちらにやって来る....が、

「どうしたの。」

山岸は爆発頭とでも言えそうなボサボサの寝癖で、何食わぬ顔で喋りだした。

そのせいで私はお腹が劇的に痛くなる。河島は「絶対に笑うまい」と笑いを堪えつつ、私をもう止められないであろうことを悟って、頭を抱えた。

 

二時限目が終わり、次の授業は体育。体操服に着替えて、体育館に向かうとき、廊下の向こう側から藤島が歩いて来るのが見えた。やがて、互いの距離が縮まっていき、こちらに気づいた時、私にほくそ笑んだ。

しかし、それに対して屈託のない笑顔で

「おはよ、藤島さん。」

と返してみた。

あまりにも予想外な行動だったのか、藤島は驚いた様子ですれ違った後こちらに振り返った。

私からは顔をハッキリと伺えなかったが、きっと腰抜かしてるんだろうと想像すると楽しかった。

 

盾も武器も捨ててやった。でもこれが私の新しい戦い方なのよ。




「もう片方の奴らには?」
「同じことをやれば良い。」
「....え?意味分かんないんだけど。」
「まあ詳しく言うとな?楽しそうに笑う姿を、楽しみたい奴らに見せたら、そいつらは多分、気分が良いやろ?」
「う、うん。」
「じゃあ逆に、泣かせてやろうと思う相手が、ずっと自分の目の前でニコニコ笑ってたらどう思う?」
「腹立つ。....あ。」
「そういうことや。」

ーつづくー


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22.副長、復帰します。

ープロローグー

誰も信じないだろうけど、「毎日笑って生きる」ということには強い効力がある。
それはあまりにも簡単なことで、それ一つで環境を変えられるなんて信じがたいことだから。

でも、私はそこから変えてみようと思ったんだ。
辛いことがあっても、周りに与えつづけて、それを見て笑ってくれる人がいるなら、それを自分の光にすれば良いって。


 

下町の鶴

4章-詩鶴のボコボコ戦記-

☆Episode.22「副長、復帰します。」

 

昼休み、私がトイレから教室へ帰ると、この前、柏木君を苛めていた体格のごっつい男子たちが私を見つけ、ニタニタと笑ってきた。

「よお、女ァ。久しぶりだな。」

「あー、うん。そうっすね。」

「お前何ていうんだ。」

「何が?」

「名前だよ、名前。」

私は腰に手を当て、堂々とした態度で答えた。

「名札見ろよ、名札。」

「あん?めんどくせえな。」

そういって男子たちが目線を下におろすと

「な....と―――」

「どこ見てんだよバーカ。」

と、リーダー格の男の頭に平手を落としてやった。

こいつらは自分等の楽しみのために人を傷つけるタイプの人間だ。だとすれば、奴らの歩調に合わせてやったらきっと...。

「こいつッッ、喧嘩売ってんのかコラ。」

「いいや?あんたらと一緒。暇してる高校生の一人だよ。」

それを聞いたリーダー格の男は、その威勢の良さに立ち尽くし、ため息を吐いた。

「お前....前から思ってたが、とんだ度胸の持ち主だな。」

私はニタァっと笑って言い返した。

「誉めても何も出ないぞー。」

「誉めてねえぞ。」

私から敵意を感じなくなったのか、仲間たちは私を視界に入れたまま、仲間同士で雑談を始め出した。

「私は言ったぞ。そっちも名乗れ。」

「いや、お前さっき名札見れば分かるって言っただろうが。見ろよ。」

「あー、はいはい。言いましたね。じゃあ見まー....って叩かれに行ってどうすんじゃい。」

そういって咄嗟にもう一度頭をペチーンと叩いた。

「お前ぇ、さっきから!!」

「ごめんごめん(笑)んで、何て言うのー?」

「勝田だよ。二組の勝田!以後覚えとけこの野郎。」

二組......藤島のクラスね。

「あたし、野郎じゃないけど。」

「うっせえ、素人は黙ってろ。」

「はいはい、勝田"くん"ね。」

手下の一人が微笑みながら言った。

「勝さん、何か仲良いっすね。」

「るせえ、ぶっとばすぞ。」

「すいやせん。」

 

河島が教室へ戻ってくると、彼は扉の前で立ち止まり、困惑した。

ガキ大将という言い方は年齢的におかしいが、そんな学年の不良ボスと、名取が仲良く遊んでいるではないか。

「お前、本当面白い奴だな。」

「面白くなきゃやっていけないよ、本当。」

何が起きてる、一体何が起きてるというんだ。

そう、心の中で繰り返しながら、扉の影で名取たちを見ていた。

「まあ、それで......あ!河島ぁー!こっち来なよ~。」

そうこうしている内に気づかれてしまった。何とか、人違いでした、という(てい)を装って逃げようとしたが

「何逃げようとしてんだよ。」

といって、気づけば河島の肩には、彼女の手のひらがずっしりと乗っかっていた。

「人違いだっっ、手を離せっっ。」

「なあに男のくせしてビビっちゃってんの~。ほら、来なって。」

河島は、名取の手によって教室へ引きずり込まれた。

 

「え、ちょっ.....あの....。」

連れてこられた場所に立ち聳<そび>えていた大男は、河島を目にすると、不敵な笑みを浮かべて言った。

「お前が河島かあ!副長から聞いたぞ、めっちゃ面白いんだってな!」

「......は、は?」

河島は名取に表情で説明を求めた。

「(お前、何の、つもりだ)」

しかし、彼女は何も言わず、ただ彼を宥めるように片目を閉じた。

「ああ、そうだともー!副長の私が言うんだから間違いないっ!」

「ちょっ待て待て待て待て待て。」

河島は名取を引っ張り、数歩ほど彼らから距離をとって問い詰めた。

「お前ーーっ、俺が何かしたか!?副長って呼ばれるのが嫌だったんなら言ってくれよ!!」

「あはは、大丈夫だよ。嫌じゃない。」

「じゃあ何だよ!?」

彼女は一瞬、目を丸くして驚いたが、すぐに胸を撫で下ろすようにして微笑んだ。

「河島、みんなを笑わせて変えてやるの。」

「....は?変えるって、何をだよ?」

「環境をだよ。苛めっ子は苛めでは倒せない。」

「ごめん、何を言ってるんだお前は。」

「聞いて分からないなら見てみてよ。現に、人を苛めて楽しんでいるようなこいつらは、もう私を敵視していない。」

河島は一旦冷静になって名取と彼らの目を見た。

彼女は、まっすぐな目をしていた。ひとつの嘘さえ持ち合わせていない裸の視線を、河島に向けていた。

そして、悪名高き彼らの方を恐る恐る見てみると、彼らはまるで、今か今かとご飯を待つ雛たちのような、無垢の期待を帯びた目を、二人に向けていたのである。

再び名取の方を向くと、彼女が少しばかり勇敢に見えた。そして、彼女は言った。

 

「与え続けるんだ。相手が誰であっても。」

 

河島は、彼女のしていることが藤島からの苛め対策だということを薄々悟った。

「そういうことなら早く言えよ。」

と、小さく呆れ顔を見せる。そして

「俺がリードするから自然体でいろ。」

と名取に言うと、彼女は安心したように笑った。

「ありがとう、河島。」

 

河島はその表情を受け取って、快く彼らの方を向き、心の中で言葉が溢れた。

「(いやいやいやいや、馬鹿じゃねえの。行けるわけねえだろ、こんなにハードル上げておいて。

大体なんだよ「副長が言うんだから間違いない」って。

そもそも論、自然体でいろとか言ってしまったけど、お前いつも自然体じゃねえかコノ野郎。

とにかく、まずこの状況をどうにかしなきゃ。どうにかしなきゃ学校生活終わる。割と深刻な顔して毎日登校しなきゃいけなくなる!!)」

両者は河島のネタ披露を楽しみに待っている。

「(いやいや、だから!何言えば良いの。何言えば正解なのこれ!とりあえずこいつら笑わせれば正解なんだよな?でも俺、今からこいつ面白いこと言いまーす、って振られて笑わせられてるやつ、芸人でも見たことねえぞ!?待ってこれ、じゃあこれ寒いこと言えってフリじゃねえか。名取、何してくれとんじゃお前。これで面白いこと言えってったって無理難題過ぎるだろ。()()()()無理。生理的にもこのプレッシャー、受け付けないって。)」

河島は焦りの中、何とか平静を保ちつつ、言葉を絞り出した。

「名取副長よりご紹介に(あずか)りましたぁ!わたくし、非公認でムードメーカーやっております、ムードメーカー長の河島栄汰と申しまあああす!

まず、お会いできた記念にカロリーメイド、コーヒー味をどうぞ。」

と、制服のポケットから取り出した個包装のバーを跪いて渡した。

「おほっ(笑)、あざーす。」

名取の方を見ると苦笑いで小さく拍手していた。

「あは~、パチパチぃ。」

「お前、何とかせいコラぁぁあああ!!」

河島は混乱して名取に詰め寄った。彼女は胸に手を当て、驚いて目が丸くなった。

「え、なに?」

「「え、なに?」じゃねえよ!お前も副長なら何か言ええええ!」

「副長って(笑)やだなー、私は河島に言われてやって――」

「だーかーら、それで自分で副長名乗るなら全うしろよ!見てるだけじゃなくて!!」

言われに言われた名取は、少し不機嫌になって逆ギレした。

「見てるだけじゃないじゃん!ちゃんと河島が来るまでは頑張ったし!」

「だったら無理やり参加させんなよ俺を!!」

「河島の方が実際、面白いんだから参加した方が絶対良いじゃん!」

河島は一旦、一呼吸置いた。

「分かった。俺が出たら良くなると思って、この状況を作ってくれたんだな?」

「そうだよ。やーっと分かってくれた。」

そしてこの一言で、再び河島の平静が崩れた。

「いや、だったら最初からハードル上げんなよ!!」

「ハードルって何が!?」

「めっちゃ面白いとか言われて、ちゃんと笑わせられる奴がどこに居るんだよって話!!」

「それは.....ごめんって!!」

「謝ってくれてありがとう!!」

二人とも、発言を勢いに任せた結果、訳の分からない展開になった。

 

勝田達は、この二人の口論を楽しそうに笑いながら見ていた。

「お前ら、仲良いな。」

と、勝田が言う。それを聞いた河島は「もう、この状況を使ってしまえ」と考えたので、肩を組むようにして名取の首もとに腕を回し、清々しい顔をして言った。

「新密度パワー言うて。」

勝田達がそれに笑い転げる中で名取は、河島が不意にチョイスした言葉で顔が赤くなり

「離せバカ!!」

といって河島を投げ飛ばした。

「あは、あははー....え"え"ぇぇぇ!?」

河島の目には逆さまの空と天井が映っていたという。

 

―――――――――――――――

【回想】

ー父のアドバイス(1)ー

 

「中学んとき詩鶴、河島君のことずっと嫌いやって言うてたやん。」

「初めて会ったときはね。だってあの頃の河島、今よりもずっとモラル無かったんだよ!?今だってちょっとそういうとこあるけど。」

「でも、そんなあの子と今は仲のええ友達やんか。」

「まあ....仲良いっていうか....、何て言うか。」

「それは何でなんや?」

「うーん、面白いとこあるから....?」

「僕はそこやと思うな。相手が誰にせよ、それは同じ人間やから、面白いものには惹かれると思うんや。」

「で、何が言いたいの。」

「せっかちな奴やなあ、詩鶴は。まあ、要は詩鶴も面白い奴になったれってことや。」

「ほー。」

「仲間ができれば詩鶴を苛めたいって奴も苛めにくくなるねん。」

「あー、なるほど。でも面白くなれって急に言われても。」

「そこは面白いって思う奴を見習って勉強することやな。ってことで河島君の弟子入りでもしてらっしゃい。」

―――――――――――――――

ーつづくー




ーオマケー
珍しく人の多い居残りの教室。ぼーっと時間を無駄にしていると、廊下側に座っている奴が私たちに質問を投げかけた。
「お前らさ、実際のとこどうなんだ?」
「えっ?」
「名取と河島だよ。マジで付き合ってんの?」
私は即答で返した。
「んなわけないじゃん。付き合ってたらもっとイチャイチャしてるでしょ。」
「いや、しねえだろ。そんな露骨に。」
「え?そうなの?」
「え、寧ろすると思ってたの?」
「え、あー、うん。」
河島も、特に焦って弁明しようとする様子はなく、呑気に呟く。
「イチャイチャ希望らしいっすよ。」
「おい馬鹿、もっと言い方ないのか。」
廊下側のそいつは、河島にも聞いた。
「お前はどうなんだ?河島。」
「へ?あー、イチャイチャしてるように見えたらそうなんじゃない?」
「ごめん、とってもじゃないけど、そうは見えないわ。」
「らしいぞ、名取。」
「なんで私に振んの。」
河島はそいつの方に顔を向けて
「残念だとさ。」
と言い放つ。
「言 っ て な い 。」
私は、二人に圧をかけるように言い返した。

―――――――――――――――
11.20...話数の誤字を修正


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23.片翼

ー回想ー
居残り教室を後に、校舎をあちこちに散歩していた時、私は藤島の兄に会った。
「また脱走かい?」
余裕の面構えでからかってくる先輩に、私のさっきまでのご機嫌を奪われる。
しかし、その日の先輩は私を教室に連れ戻すのが目的では無かった。
「君に話さなきゃいけないことがある。」
「何ですか。」
「僕の妹のことだ。」
何を言い出すのかと思えば家庭相談かよ、と呆れた。しかも、その妹とはここ最近、私らを苛めの標的に好き放題やっていた悪党なのだから。
その関係性もその先輩の口から聞いた。
「君には色々と酷いことをしたと聞いている。すまなかった。」
「それは本人から聞けなきゃ意味ないです。」
代表して謝ろうとするのを断った。それからも、その被害について私は洗いざらい文句を言ってやった。
スッキリするまで言葉も選ばずに喋り続けた。向こうからの慈悲すら受け取らない勢いで。
しかし、話の最後に先輩の口から発した言葉が、脳裏に焼き付くように残ったのだ。

「妹を助けてほしい。」

話を聞いていたのか、と声を荒らげる私の前で急いで訂正をし、
「あいつの苛めを終わらせてくれ。」
と言い換えた。
「やってますよ。あんなにやっておいて、何も無かったように頷くなんて出来ません。」
そう言うと、先輩は落ち着いているようで、どこか寂しさを感じるような表情をし
「ありがとう。」
とだけ残した。
その時の私には、彼の言葉の意味が分からなかった。


 

下町の鶴

4章-詩鶴のボコボコ戦記-

☆Episode.23「片翼」

 

昼休み。教卓をステージ代わりにして河島たちと遊んでいた。その遊びに、暇をもて余していた何人かのクラスメイトも傍観していた。

河島が野党になって教卓に立ち、質問を投げる。

「名取議員、今日、授業中にこっそり早弁したとの情報が上がってきておりますが、これについてはどうなのでしょうか。」

そう言って自分の机に戻っていく。私は引きつった苦笑いで山岸に挙手する。

「名取クン。」

山岸が先生の椅子に座り、議長の役を務めている。

名を呼ばれた私は立ち上がり、教卓に立つ。とっても偉い人!って感じを出しながら言う。

「記憶にございません。」

発言の後、片手に持ったソーセージパンにかぶりつく。

「えー河島クン。」

「記録に残っております。」

「名取クン。」

「それってあなたの憶測ですよね。」

すると、クラスメイトの一人が半笑いで山岸に声をあげた。

「議長。オレ、食ってるとこ見ましたー。」

それを聞いた河島は調子に乗ってニタニタと笑い、今度は記者になって私を煽った。

「パシャ!パシャ!名取議員っ、だそうですがっ。パシャ!」

急な設定変更をする河島に、私はクサいレベルの泣きの演技で返す。

「貴方に何が分かるって言うんですかっ!」

「皆さんに何か一言!」

「うるせえ!パン旨えええ!!」

周りのみんなはテレビ代わりに、何だか楽しそうに見ているので、私も嬉しくなった。

そうやって呑気に遊んでいると、藤島の手下だろうか、こそこそと廊下からこちらを視察しているのが見えた。

そこで私はふと、彼女らも巻き込んでやろうという悪戯心が働いた。

「記者席、まだ空いてるんで廊下の方もどうぞ。」

そういうと教室のみんなが廊下側を向いた。しかし、彼女らは咄嗟に身を隠したため、みんなの目には何も映らなかった。

「誰も居ねえじゃねえかよ。」

と、河島のツッコミで周りの空気が元に戻る。

まだ足りないと思った私は、せめてもの小さな仕返しをしてやろうと思った。

「現代社会というのは資源が不足してましてねえ、私のところにもファンレターがよく来るんですが、如何せん紙がないようで。

 

.....私物に直接書いてくれるんですよねぇー!」

と、隠れている彼女らに聞こえる声で大袈裟に、教科書や、ノートを皆の前で掲げた。

そこには油性マジックで乱雑に書かれた

「死ね」「キモい」「学校来んな」

などの文字が。

笑わせるつもりが、場は一瞬にして凍りついた。笑いは起こったには起こったのだが、苦笑いの嵐。

「お前、それ何て書いてるか見えてんのか...?」

河島の心配そうな声をも払いのけて、私は全力で周囲の笑いと、彼女らへの警告を比例させて、大きくしようと試みた。

「ペンネーム、匿名2.7組さんから頂きましたー。

-ブスが調子乗ーんーな-

って、誰がブスじゃコン畜生おおおお!!」

「......。」

「ええ私、顔も性格も、残念ながら雷落ちても変わらないもので。

このまま調子に乗らせて頂きまーーーす!!」

「元気だね。」

「ありがとう。」

大きな笑いこそ起きなかったけど、代わりに廊下から大焦りで走り去っていく音が、この耳にうっすらと聞こえた。

 

 

そして時は流れ、放課後。私は何かされるかもしれないことを覚悟していた。

居残りの教室はいつもの三人ぼっちで、いつものようにおしゃべりメインで課題を進めた。

「名取、あんまり自虐ネタは使うなよ。」

河島が心配して言う。

「え、マズかった?」

「ああいうのは最終手段で取っておくもんだ。まだお前が面白いって思われてる内に多用すると、卒業まで馬鹿にされて終わるぞ。」

「えー、それはやだ。」

「だろ?」

「うん。」

山岸が私に言った。

「あれ、藤島の手下らに向けてやってたでしょ。」

河島が驚く。

「え、マジで?」

私はニヤリと笑って答えた。

「うん。アイツら、めちゃめちゃビックリしてたよ。」

河島は頭を抱えて項垂れた。

「あんま刺激すんなよ...。面倒臭い連中なんだから....。」

「ごめんごめん。ちょっと確かめたかっただけだよ、アイツらの目的をさ。」

「目的?」

「うん。楽しみたいだけの奴と、傷つけるのが目的の奴は反応から違う。」

河島はそれを聞いて呆れ顔で答える。

「確かめなくたって分かるだろうよ、そんなの。」

「でも、楽しみたいだけの奴だって居た。そうでしょ?」 

河島は私をじっと見ると、こう答えた。

「あまり無茶な行動に出るなよ。」

「大丈夫。心配してくれてありがとう。」

河島の心配を受け取る。

「お花積んできまーす。」

そして、私は教室を後にした。

 

ずっと心配そうな顔をしたままの河島に、山岸は笑顔で言った。

「河島。名取んとこ行かなくていいのかい?」

「バカ。もう女子トイレは懲り懲りだ。」

それを聞いて軽く笑う山岸。その笑い声がゆっくりと収まると、静寂の中に一言放った。

「今度は名取に一票入れることにするよ。」

河島は表情を変えることなく、答えをゆっくりと押し出した。

「....ああ。」

 

 

用を済ませると、私はトイレの窓からの景色を眺めた。

どこまでも続くごちゃごちゃとした町並み、学校の柵に囲まれた小さな世界。この先、自分がどこへ向かっていくのかを決めていくには、地図があまりに大きすぎる。

私は手を入念に洗った。指の間や、爪の先の汚れまで全部、全部。

きっと、その場その時で向き合うべきものは変わるのだろう。大人になれば今よりも、もっと汚いものを見なきゃいけないのかもしれない。

でも、先ばかりを見ることも、昔ばかりを想うことも、それは今と向き合っていくことと比べればどうでもいいこと。

だから―――

 

「お久しぶり、名取さん。」

 

鏡に映る一人の女性。蛇口を止め、手の水滴を払い、ハンカチを揉みながら声のする方へ振り向く。

「久しぶり。二週間ぶりくらい?」

「一週間と数日、だね。」

「へ~、まだそんなにしか経ってないんだあ。なんか懐かしいね。」

「そうね。」

笑顔で言葉を交わし合う二人の目の奥には、氷のような冷たさと、稲妻のような、指一本触れるだけで取り返しが付かなくなりそうな狂気を帯びている。

「そういえばねえ?私最近、ムードメーカー副長、復帰したんだー。」

「ムードメーカー?」

「そう、周りを盛り上げたり、笑顔にさせたりして周りを楽しい空気に変えるの。」

「面白そうね。」

「ええ、とっても!」

二人の目は、一切笑っていない。

「ところで........今日は何しに来たの。」

「何って。」

「何かあるから姿見せたんじゃないの。」

「ええ、そうよ。」

「なに、また私を苛めたくなった?」

「よく分かってるじゃない。」

名取は静かに笑って言った。

「じゃ、お好きにどうぞ?抵抗はしないよ。」

「へえ、前より往生際が良くなったのね。」

そう言うと藤島は、手下を呼び寄せ、名取を囲んだ。

「最近、随分と調子に乗ってるみたいじゃない。」

「ええ、最近学校生活が楽しくてね。」

「へえ?どんなことをしたらそうなれるのかな!」

藤島は名取の左頬を強く引っ張った。周りの手下たちも痛がる彼女の姿をニタニタと笑って見ている。

しばらくして引っ張るのを止め、発言権を渡された名取は

「さあね。ただ毎日を面白くしてやろうって考えになっただけだよ。あんたみたいに、人を傷つけてそうなろうとするのとは真逆でね。」

と言い放つ。それにカッとなったのか藤島は名取の頬に勢いよく平手打ちした。

「少しは真面目に答えたら?ヘラヘラ笑ってないで。」

藤島の後に続き、手下らも名取に暴言を浴びせたり、髪を引っ張るなどして乱暴し出した。

「キモいんだよ、毎日学校来やがって。」

「楽しそうにしてんじゃねえよ。」

「泣けよ、ほら泣けよ。」

やりたい放題に乱暴に明け暮れる藤島たち。そんな中、藤島に向かって名取は声を大にして言い放った。

「あんたの時代は終わるんだよ。」

「は?」

「表面だけの美しさで何でも支配できる時代は終わるって言ってんだよ。」

この一言が藤島の逆鱗(げきりん)に触れた。

「こいつ、(ひざまず)かせて。」

そう手下に命令し、名取は押さえつけられた。

「終わるのはそっちだよ。」

そう言って名取の腹めがけて足を振り下ろそうとしたその時

 

「やめろコラァああああ!」

 

地響きが起こるのではないかという程、ドスの効いた怒号と共に、藤島がトイレの外に引っ張り出された。

藤島が強く閉じた目を恐る恐る開ける。そこに居たのは不良のボス、勝田だった。

「は?」

藤島は驚きと、戸惑いに呆然と立ち尽くしてしまった。

「四季乃に何すんだよ!!」

「女子にこんなことして許されると思ってんの!?」

手下らは勝田に抵抗しようと試みたが

「るせええ!!ぶっ殺すぞてめえらあああ!」

「ひぃ....!!」

圧のレベルがあまりにも違っていて、彼女らは身の危険を感じ、その場から逃げた。

「先生呼んでくる!」

と、言い訳を残して。

「勝田。貴方、どういうつもり!?」

「名取苛めんのは辞めろ。」

「な、なに。貴方、こいつのこと好きなの?」

「あ?まあそうだな。こいつ、超面白ぇからな。」

名取は二人の様子を呆然と眺めていた。

「おい、今のうちに帰れ。」

勝田はそう言って名取を逃がした。

「あ、ちょっと!逃げるんじゃないわよ!」

名取は

「どこへも行かないよ。」

とだけ残し、去っていった。

 

藤島の目が変わる。

「裏切ったね。」

「裏切ったあ?何の話だよ。」

「この学校の女子を何人も抱いて回ってヤり捨てたこと、言いふらしても良いんだよ?」

「おう、言いたきゃ言え。」

「なっ...!?」

「あの名取ってやつはそれすらも笑い話に変えやがるだろうからさ。」

「ふ、ふーん。でもそれもどこまで出来るかな?私は嘘も事実のようにばら蒔けるのよ?」

勝田は呆れたようにため息を吐き、残念そうな顔をして言った。

「お前さあ、もうその弱味握って奴隷契約結ばせんの、辞めなよ。クソつまんねえぞ?」

「ふん、辞めてほしかったら―――」

「だから言いふらしたかったら好きにしろって。俺はもうお前みたいな奴の足舐めて学校生活送んのウンザリなんだよ。」

「......え。」

「そんな恐怖政治みてえなことして、面白えのはお前だけじゃねえか。」

「でも、私の元に居ればどんなことをしても無かったことに出来るのよ?」

「もういいって。」

「え?」

「もうお前とは切る。俺はもっと、人生面白くしてくれる奴と(つる)むことにすっから。」

そう言って、勝田は藤島に背を向けて歩き去って行った。

彼女は膝から崩れ落ちると、勝田の背中に手を伸ばしながら呟いた。

 

 

「やめて、行かないで....。」

ー続くー



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24.闇に触れるとき

ー回想ー
父のアドバイス(2)

「あと、これだけは覚えておいてほしい。」
「なに?」
「どれだけ人気者になっても、誰かを支配してやろうとは絶対に思わないこと。」
「どういうこと?」
「人に好かれてる間は「自分ってもしかして何だって出来るんとちゃう?」って思ってしまうねん。せやから例えば嫌いな奴に会うても、そいつを苛め返してやろうとしても簡単にできてしまうわけや。」
「うん。」
「でも、折角何でも出来てしまうんやったら、そんなしょうもない苛めっ子に成り下がってやるのもアホらしい。そう思わへんか?」
「そうなのかな。」
「ああ。苛めっ子と同じレベルになってしもたらまた同じこと繰り返してしまうやろうからな。」
「でも、あんな奴と私、友達になんてなりたくない。」
「あはは、無理に友達になろうとせんでええ。詩鶴が純粋に人を楽しませたいって気持ちでやり続けてたら、自然に居なくなるか、向こうから友達になりたいって言うてくるわ。ま、そうなったらそこからは、そっちのキャパシティ(許容力)の問題やな。」


 

下町の鶴

4章-詩鶴のボコボコ戦記-

☆Episode.24「闇に触れるとき」

 

次の日、私は先生に呼び出された。

人気の少ない廊下に面した仮教室。先生にとって人目を気にせずに叱責できる場所だからか、私たち生徒の間では取調室という意味合いを込めて、「カツ丼部屋」と呼ばれている。

「名取、ちょっと聞きたいことがある。」

「何ですか....?」

急に呼び出され、あまりに鋭い目付きで問いかけるものだから、緊張して少し声が小さくなった。

「藤島と、その友達が名取(おまえ)()()()()()と聞いたぞ。」

「え....?私が何をしたんですか。」

「男子を使って、密室に追い込んで暴力を振るったって。」

耳を疑った。私はすぐさま反論しようとした....が、

「いえ、それは誤解です―――」

「そこにいた全員が証言してるんだぞ。」

その一言で、今置かれてる状況が少し分かった。なるほど、藤島は自分がしたことを、まるで()()()()()のように捏造して先生に訴えたのか。それを理解する頃には私はあっけらかんとした顔になっていて、心底呆れた。

「その人達が全員、口裏合わせて嘘ついてるっては思いませんか?」

「お前、よくそんなこと言えるな。」

「だって―――」

「何が"だって"だ、オラァ!!」

「っぐ....!」

突然、物凄い声量で怒鳴り出すので、私は怖くなって咄嗟に顔を両手で守った。

「自分が苛められてたからって調子乗ってんじゃねえぞ!ああ?」

「....。」

「悲劇のヒロインだったら何しても良いのか。」

「え....。」

「何しても良いのかって聞いてんだよ。」

「....何て答えれば良いんですか。」

「おお、何て答えれば良いか分からねえのか。」

「....そう言ってるじゃないですか。」

震えた声で返事をする。

「すみませんでしたって謝ればいいんだよ。」

「......。」

やってもいないことをですか、と反論したい気で胸が一杯になったが、あまりに強い圧で私はただ黙るしか出来なかった。

散々、説教を言わせてやったあと、先生は大きくため息を吐き出して言った。

「そんなんだから苛められるんだよ。」

私はその一言で確信した。"先生は味方なんかじゃない"って。そして怒鳴り声に怯えていた目は、一瞬にして氷のように冷たくなった。

話にならない。そんなことを説教して何になる。

そんな言葉で頭が埋め尽くされた。

 

「最高の分からず屋だよ。」

帰り道、河島たちと一緒にそれぞれの別れ道まで話した。

「先生も僕らのこと、ポイしたか。」

山岸が鼻で笑う。

「あーあ。これじゃあ事をどれだけ大きくしたところで「この件はなかったことで」って言われるオチだな。」

河島は空を見上げてぼやいた。

「最低。」

「まあ、気に病むことはないよ。」

「大人はそういう生き物だから。」

二人が私に同情をくれる。

「本当に...。それに藤島(あいつ)、自分のしたことを私のせいにしたんだよ!?信じられない。」

私がそう愚痴を溢すと、山岸は私に答えた。

「情報操作が得意な藤島にとっては、朝飯前なんだろうな。」

「ふん、先生に媚びまくったんだろうねえ、しっぽフリフリして。」

「だろうね。悪女になりたきゃ、アイツから学ぶことは多そうだ。」

と、山岸が藤島を皮肉って笑う。

「あー、そりゃあもう最高の先生になれるよ、あいつなら。」

握り拳の手を振りながら歩く。

「でも藤島はもう、そう長くは持たないよ。」

「どうしてそう思うの?」

「名取が副長に戻ってきたからだよ。な、ムードメーカー長?」

山岸にからかわれ、河島は

「ほっとけ。」

と吐いて、虚空を見つめた。

「まあ、あの勝田が味方に付いたなら少なくとも、もう僕らには手を出せなくなったはずだよ。」

と、山岸は清々しい顔で言う。

「まあ、藤島側について怒鳴り散らかしてるようなアホの話なんか、鼻くそほじりながら聞いときゃ良いんだよ。」

河島はそう言って私の頭にポンっと手を置いた。

「...だね、ありがとう。」

少し気が楽になった。

しばらくして、河島は私に聞いてきた。

「でも名取。何でこのやり方を選んだんだ?」

「このやり方って?」

「ムードメーカー?そういうやつだよ。」

「それは....なんでだろうね?」

「お前、前までイジられるの嫌そうだったじゃん。」

「え?別にそんな嫌じゃなかったよ?....でも、なんだろなあ、自分がきっかけで人が笑顔になるのって、案外楽しいもんなんだなって思ってさ。」

「ふーん。」

山岸が聞いてきた。

「これも藤島の苛めを終わらせる為だったんでしょ?」

「うーん、最初はそうだったんだけど、周りを盛り上げたりしてるうちに、どうでも良く感じてきてさ。」

「へえ?」

「二人は、藤島に復讐してやりたいって思う?」

「やられた分は少なくともな。逆にお前は平和的に解決させたいのか?」

河島は即答で答えたあと、私に聞いた。

「んーん。でも、折角なら一番面白い方法で終止符を打たせてやりたい。」

「面白い方法?」

「うん。笑いって暗い空気を明るく出来るでしょ?でも、悪い風に考えるなら"真面目(シリアス)な空気をあやふやにだって出来る"じゃない。」

「あ、ああ。まあ、そうだな。」

「苛めるんじゃなくて、違う視点から変えてみたいんだよね。悪意のない、何か狂気に近いもので。」

二人がその言葉の意味を理解できずにぽかーんとしている中、私だけが笑っていた。

 

 

それから四時間ほど過ぎた夜、私はお店の手伝いをしながらお客さんとお喋りしていた。

「そっかあ、そんなワルがいるんだなあ。」

「本当に。最近は学校面白くなってきたから良いけど、思い出すとイライラが戻ってきちゃう。」

カッカッカッカッ!!

言葉と共に、フライパンの中の料理を混ぜる力が少し強くなる。

「殴り返しちゃえば良いんだよ。」

「そうしちゃえたら楽だけど、それで解決するほど女の世界は甘くないのよ~。」

「どうして?」

「女の人間関係は血管みたいなものでね。腫瘍(しゅよう)が出来ても簡単には切れないの。」

「ほーう?面白いこと言うねえ。」

「おじさんはそういう経験、あるの?」

そう聞くと、常連さんはフッと笑って話した。

「そりゃあ、誰だってあるだろうよ。」

「へえ?」

「俺が覚えてるのは....そうだ、中学んときだ。」

「何されたの?」

「なんだっけな、態度がいけ好かねえとか何とか、そんな理由で無視されたりとか、人気(ひとけ)のないところで囲まれてボコボコにされたりとか。」

「滅茶苦茶だね。」

「そう。で、そいつらのボスみたいな奴に「偉そうに生きてんじゃねえよ」とか言われたっけなあ。それで「痛い目にあいたくなかったら俺の命令に従え」って。」

「で、どうしたの?」

「ボコボコにしてやったよ!あはははは。」

おじさんの酔いの勢いで笑い声が大きい。

「いいね。」

「詩鶴ちゃんも自分の身を守るだけの技は覚えていたほうがいいよ?」

そう言われたので、悪そうな顔で笑って返した。

「ふふ。私、カウンター技はプロ級だよ~?」

「お、さすが詩鶴ちゃん、やるね~。そういえばちっちゃい時、何か習ってたよな。」

「合気道?小学校のときやってたよ。」

「でもあれって殴ったりしないよね、確か。」

「まあ....護身術だしね。ズッコケ技ばっかりだよ。」

「ズッコケ?相手転ばせるとか?」

「そうそう。とりあえずコカしときゃあ何とかなるから。」

「それだけかあ。ぶん殴っちゃえば超スッキリするのに。」

....ぶん殴るの好きだなオイ。

「すてーんって転けるとこ見ると案外スッキリするもんだよ?だって私がやったのトイレだったから....ああ、ごめんなさい。」

口が滑った。飲み食いするとこであまり綺麗じゃないワード出しちゃった。

「おお?何だって~?聞かせてくれーい。」

酔ってて助かった。

「何でもなーい。ほら、もう一杯行っとくー?」

おじさんは喜んで引き受けた。

「うっしゃあ、注いでくれ。」

 

話が盛り上がっているうちに、外はすっかり暗くなった。時間は午後八時を回った位で、おじさんも家族の元に帰らなきゃ、といって財布からお金を数え始めた。

「七、八、九っ。」

「毎度、どうも~。」

「頑張れよ、詩鶴ちゃん。やられっぱなしじゃイカンぞ!」

「ありがとうね。頑張るから。」

おじさんが戸を開け、笑顔で帰っていく。貰った代金をしまうと、外からバイクの音が聞こえてきた。

 

ボンボロボロボロボロ....

 

エンジンの音が近くで止まると、しばらくして戸が開いた。

「こんばんは。」

「あ、オッチャン。あと一時間くらいで店閉めちゃうけど大丈夫?」

「ん?ああ、問題ないぞ。詩鶴ちゃんの方こそ大丈夫なのかい?」

「うん。だってオッチャン、珈琲しか頼まないでしょ?」

「まあ、そうだな。」

「うん、だからどうぞ。座って座って。」

オッチャンがカウンター席に腰かける。

「いつもので良いんだよね?」

「ああ、宜しく頼むよ。」

そして珈琲を淹れ始めると、オッチャンはこの場に漂い出した豆の香りを(たしな)みながら私に聞く。

「最近どうだい。」

「え?普通だけど。」

「それは良かった。」

「.....?」

オッチャンに珈琲を渡すと、彼は一口飲み

「さ、本題だ。君の依頼のものを持ってきた。」

と言って写真をテーブルの上に置いた。

「え、なに?」

「苛めっ子の調査を依頼したろ?」

私は藤島の一件でオッチャンに、探偵としての仕事を依頼していたのを思い出した。

「あ、そうだった...!」

そう言って写真を手に取ろうとすると、

バッ!

と、オッチャンは軽く、写真の入ったその封筒を抑えた。

「?」

「もしかしたら君には少し刺激が強いかもしれないよ。」

と、オッチャンは警告する。

私は怪訝そうな顔をして

「良いよ、別に。悪魔契約してましたーとか、そんなのでも。」

と、軽い気持ちで言い返したが

「もっと現実的なものだよ。」

と、真面目な顔をして言うので少し不安になった。

私はゆっくりと、その封筒の中を(ひら)けた。

 

.............、.......、.........................。

 

「な、言ったろ?」

私が目にしたものは、想像していたものと全然違っていた。例えるなら、造花の花畑が広がっているくらいだと思っていた。

しかしそれは、綺麗なものですらなかった。

「....何となく予想はしていたが。」

そう言うオッチャンに、私は問うた。

「ねえ、こういうのって普通なの...?」

「昔っからだよ。昭和だからとか、平成とかそう言うんじゃない。いつの時代もこういうのはあった。」

「私がおかしいだけ?」

眉を潜めて聞く私の目を、オッチャンは真っ直ぐ見て答えた。

「おかしい訳あるものか。これがあの子にとっての普通だったってだけだ。」

 

ーつづくー



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25.こわれもの-前編-


ープロローグー

.......やめて。

「いつもこれで稼ぎまくってんだろ?」
「じゃあ俺らともソレをする義理はあんだろうよ。」
「やめ.....て。」
「あ?なんだって?聞こえねえなあ。」
「さっきまで威勢張って抵抗してたくせに、今さら女の子ぶってんじゃねえよ。」
「おい、片方押さえてろ。」

―――やめて!!!!!!!

「っっはあ!」
ッケホっ....ケホっ....
飛び起きた衝撃で酷くむせた。呼吸が落ち着いてくると、(むご)たらしい悪夢に(うな)されていたことに気がつく。
毎日、目が覚めるたび私は朝日に怯えてる。何故、一日の始まりというのはこんなにも、全てが終わってしまったかのような暗さを孕んでいるのか、私には理解すらしたくない。
「きょ.....も、.....てない。」
そして御手洗いを出ると、さっきまでの夢が嘘だったかのような日常が流れる。そしてその日常も、私にとってはもうひとつの悪夢なのだ。
「おはよう。」
兄が私に一言、声をかけた。それに私はコクリと(うなづ)いて返し、椅子に座った。
食卓に並ぶ朝食。ひとつだけ空いた皿を見つめた。
チン!
オーブントースターが焼き終わりの合図を鳴らすと、兄がそれを開け、それぞれの皿に置いていく。
「はい、お前の分。」
「うん。」
夢と今が交互に流れゆく光景に、(うつ)ろな目でパンに口をつけた。
「お前....さ、」
兄は私を見て、何か話そうとした。
そのタイミングで母がゴミ出しから戻ってきて、兄は口を(つむ)いだ。母はすぐさま私を見つけて
「おはよう。」
と声をかけた。
「うん。」
黙々と朝食を食べていると、先に食べ終わった兄が皿を洗う。
「あ、お母さんやるから。」
「大丈夫、もう洗い終わるから。」
皿を洗い終わったのと入れ違いで、母が台所で手を洗う。手を洗いながら、私に聞いた。
「最近、学校上手くやれてる?」
「.......。」
「何か辛いことあったらお母さんに言いなさい。」
「お父さんはいつ帰ってくるの。」
「おい、やめろよ。」
兄は少し強い口調で私を止めた。
「いいのよ。」
母は兄を(なだ)めた。

しばらくこの部屋に、どんよりと重たい空気が漂った。
私はふと思い出したようにポケットの中を探った。
「お母さん、これ。」
そういって私は数枚の一万円札を母に向けた。
「...四季乃もいま大事な時なんだから、自分のために使いなさい。」
「いいって。今月、厳しいんでしょ。足しにして。」
母は悲しい顔をして、お金を受け取った。
「そんなお金、どこで稼いでるんだ?」
兄が怪訝そうな顔をして聞いてきた。
「関係ないでしょ。」
「いいや、関係あるだろ。家族の問題だぞ。」
「うるさい、黙れ。」
「お前―――」
「うるさいって言ってんだよ。人のことアレコレ言う暇あったらアンタも私くらいに稼いだら?」
「ねえ、やめてよ朝から。」
母が私たちを止めた。
「ごちそうさま。」
卓上の朝食を残して、椅子から飛ぶように立ち上がる。
「う"ぶっっ!!」
すると突然、急激な吐き気に襲われた。
「おい、大丈夫か。」
すぐ近くの台所で嘔吐した。呼吸ができないくらい辛かった。
「はあ...!!はあ.....!はあ....はぁ.....。」
「ちょっと。今日は休んだ方が良いよ。」
「知....らない....!っ行ってきます。」
「おい、無理するなよ。母さんの言うこと聞け。」
そう呼び止める兄を玄関から睨む。
「....兄弟が過干渉とかきっしょ。」
そう吐き捨てて、扉を蹴り閉めた。

夜が明けようが、雨が止もうが、私の心に晴れた始まりの空など、もう見られやしない。
暗い朝を呪い生きていくの。
「あ、四季乃おはよー。」
「....おはよー。」
そうして今日も扉の向こうで、心に服を着せて一日を過ごすのだ。
いつものように。


 

下町の鶴

4章-詩鶴のボコボコ戦記-

☆Episode.25「こわれもの-前編-」

 

「ご利用、ありがとうございました。」

駅のATMから、気のない機械音声が流れる。

明細書を見つめる。

「十万稼ぐのに一ヶ月もかかるのか。あの日なら頑張れば三日で稼げたのに。」

そう心でぼやくと、頭の中に光景が浮かんだ。

 

-可愛いよ-

 

-愛してるよ-

 

「ふん、何が愛だ。」

鼻息を吐き、手のひらを閉じる。明細書を紙くずへと変えた。

朝焼けの駅前はこんな夏でもどこか涼しげ。これだけの金があれば、いくらでも遊んで暮らせる。金の無いクラスメイトを好き放題遊ばせて飼い慣らすのも良い。

金があればなんだって出来る。それに私には誰もが憧れるような容姿さえ持っている。愛さえ信じなければ人は何だって手にできるのだ。

 

-お前とはもう切る-

-待って....行かないで-

 

しかし、私のような人間の中にも"心"という邪魔な機関がある。そのせいで恋や、愛なんていうありもしない幻さえ、時に欲しがろうとしてしまう。

目に見えないものなど初めから存在すらしないのだ。

しかし何度自分に言い聞かせても、それを完全に信じ込ませることが出来ない。目に映る恋人同士や、お似合いの男女を見ると、それを嘘と言い聞かせることが出来ない。

だから悔しいのだ。「そんなものは存在しない」と言い聞かせるために、目に映る全てを壊してやるんだ。

「四季乃ー、カラオケ行こー。」

「いいねー、行こ行こー。」

私は信頼されている。だからどんな作り話だって簡単に広まって、その話題で学校内は持ちきりになる。

「名取と河島、この前ラブホから出てきたの見ちゃったんだー。」

「え、それマジ?」

「マジマジ。なのにあの二人、まだ学校で付き合ってない設定にしたいみたいだよ?」

「はー?気取っててウザっ。明日学校でばら蒔いちゃお。」

「良いんじゃない。」

もう取り返しはつかないだろうが、前にやられた分は仕返さないと気が済まない。

そしてあいつらを潰したら、次は友部と石岡の二人か。どういう風に仕掛けてやろう。名取と河島のときは私としても強行し過ぎたから、もっと隠密に作り話を流してやろう。

「あたしらより良い学校生活送るやつなんてみんな地獄に落ちちゃえば良いのよ。」

友達のひとりが不機嫌を表に出す。

「ええ、とことんやっちゃいましょ。」

そう返して笑う私に友達は

「それにしても四季乃、何か変わったよね~。」

と言った。

「え、どうして?」

「昔は私らのこと、不良みたいな目で見て関わろうとしなかったじゃん。」

その言葉に私は真実を話せなかった。ただ、虚空を見つめるようにして、呟いた。

「....どうしてなんだろうね。」

 

 

五ヶ月前、私は友人達と遊び終わった帰り道、ひとりになったタイミングを狙われ、他校の不良グループに絡まれた。私の仕事のことを嗅ぎ付けて、遊び道具にするための交渉をしに。

でもそれは交渉というより、脅迫に近い雰囲気だった。

「お前、パパ活して稼いでるんだって?」

「誰、貴方達。何のつもり?」

人影もない23時の町外れ。助けを呼ぼうにもどうしようもなく、男達に囲まれたまま、私は路地裏へと追いやられた。

「何するのよ!やめて。」

私は必死に抵抗した。だけど、あんなにたくさんの男の力にはどうすることもできなかった。

「大人しく言うこときけよ。」

「言うことって何よ!」

その集団のリーダー格と思われる奴が私の肩を押さえて言った。

「脱げよ、ここで脱いだら許してやる。」

瞳孔が開ききった。自分の身の危険を最大限に実感した。何故なら奴らには性にルールがない。安全など考えるような生き物ではないのだ。それに気づいた頃には恐怖が一気に押し寄せた。私は暴れに暴れ、大声で叫んだ。

「やめて!!助けてええええ!!!」

声が狭い路地に響き渡ると、奴は私の髪を引っ張り上げ、口を強く押さえてきた。

「てめえ、ふざけてんじゃねえぞ。殺されてえのか。」

助かる確率なんて考えもせず、ただ全力で暴れ続けた。羽織っていた服を無理やりに脱がされると、私は恐怖で景色が滲み、何も見えなくなった。

しかし、そんな真っ暗闇から一筋の光が差した。

「おい、お前ら。俺の友達に何しやがる。」

その声は勝田のものだった。

さっき別れたばかりで、私の叫び声が届いたのかと考えると、私の心に希望が満ちた。

「勝田?勝田なの?」

「藤島!お前、大丈夫か。」

涙で何も見えないまま、その声のもとに向かって叫び続けた。

「助けて!!お願い、助けて!!」

「何だ、この男。この女の知り合いか。」

不良の問いかけに勝田は答えた。

「そうだ。そいつを放してやれ。」

男らは獣のようにケラケラと笑いながら勝田を馬鹿にする。

「ハハハァ!こいつ、ヒーローぶってやがるぜ。」

「この人数に勝てるとでも思ってんのかぁ?ガハハ。」

それに彼は動じること無く、奴らに要求した。

「そいつを、放せ。」

すると、リーダー格の男は言った。

「いいぜえ?」

「本当か。」

「ただ、条件がある。」

「?」

「俺ら全員に一万円ずつ寄越せ。そしたらこいつは諦めてやる。」

パッと見ても五万は下らない人数。勝田の財布にそんな金は無かった。

「分かった、おろしてくる。」

「駄目だ、今ここで出せ。」

「は?無いからおろしてくるって言ってんだろ。」

「聞こえなかったか。無いならこの女は放してやらねえ。それとも?力ずくでやれるならやってみろよ。」

そういわれ、勝田に残された選択は一つしかなかった。どう足掻いたって勝てるはずのない人数だ。しかし、彼は食い下がらなかった。

「分かった、やってやるよ。」

そうして、私の目の前で彼は戦った。一人や二人、ボコボコに出来たところでどうしようもない人数でも、彼は諦めなかった。

「オラァ!!テメぇらなんかに負けて溜まるかってんだ!!」

殴られたら、殴り返し、蹴られたら、蹴り返しと、目の前では大喧嘩が繰り広げられた。

数人の不良を戦闘不能にさせることが出来て、勝田にも勝機が見えたと思われた。

 

しかし、現実というのはあまりに残酷なものだった。

おとぎ話のように正義が勝つ展開を、神様は見せてはくれなかった。

彼は男達に押さえつけられ、私が好き放題にされる姿を目の前で見せつけられた。

私は、今までに味わったことのない屈辱と、不快感に(さいな)まれた。

辛くて(たま)らなかった。恥ずかしくてならなかった。彼の絶望に満ちているであろう目など、誰が見られるだろうか。私は強く目を(つぶ)り、自分に言い聞かせた。

これは夢だ、夢なんだ。早く覚めろ。早く覚めろ。

覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ。

 

はやく覚めろよ!!!!!!

 

そのあとは、灰になった脳みそのせいで何も考えられないまま、勝田の背中におぶられて帰ったのを覚えてる。

何故だろう、どうしてなんだろうね。悪魔が乗り移った人間の肌と、私を必死に助けようと戦ってくれた彼の肌の温度が一緒なのは。

彼はずっと、同じ言葉を繰り返していた。

「ごめん、助けてやれなくて。ごめん、何もできなくて。」

勝田だって、世間から見れば聖人君主なんかじゃない。楽しみのために人を傷つけることだってあるし、なんと言っても彼の女好きといったら誰もが呆れるものだろう。

しかしどうしてか、私に対しては駆け引きなどなかった。まっすぐな目をしていた。それは気まぐれの正義感なのか、友人を重んじる性格なのかはよく分からない。

私は複雑な感情に翻弄された。助けきれなかった彼に対する恨みと、最後まで男らしかった彼へ、心のどこかで感じた「好き」という想いに。

その二つの感情は比例するように大きくなっていった。 

 

この惨劇から時間が経つにつれて、その時の恐怖がフラッシュバックされるせいで、身体を売れなくなってしまった。それからは次のアルバイトを始めてからの給料日まで、バレないように貯金を崩して母に仕送りしていた。でも、身体を売るよりも遥かに大変だったアルバイトは、私の身体に影響しないはずがなかった。正直、最初は「こんな仕事、身体が持たない。」と思っていた。

薬を売るのも考えはしたが、風俗より素性がバレやすい薬の売人は、逮捕歴の付けられない私にとってはリスクが大きかった。

 

そんな私に更なる追い討ちを掛けたのが、生理だった。

その月に来なかった分はまだ、そんな訳がないといい聞かせられた。だが、その翌月になっても訪れない状況には、だんだん恐怖を覚えていった。

そんな訳がないと言い聞かせても、目の前にある、ぼやけていたはずの現実が段々ハッキリと見えてくるのに絶望を感じた。

そして、私の体調にも異変があった。毎日、強い倦怠感と、吐き気に襲われるのだ。元々、生理による体調悪化が人より強かったため初めは信じなかったが、いつもの体調悪化とはレベルが桁違いだった。

ただの病気だと周りに誤魔化せるのも時間の問題だった。私は相談できる相手も居なく、途方にくれるしかなかった。身体で金を稼いでいた娼婦が、知らない不良の子を孕んだなんて誰に、一体誰に話せるというんだ。

いっそ、この事が知られる前に首を吊ろう、そう考えるのが一番楽な答えだった。

 

神様というのは残忍なものだ。だが、私は居ると信じてやる。居ると信じて、最後まで(うら)んでやる。

そしていつか私が死んで地獄に行く前に問い詰めてやる。

「楽しかったか。」

って。

そうやって、神様という存在を呪うと

「じゃあ早く言いに来てみろ。」

と言わんばかりの出来事が起こった。

 

お腹が膨らんできたのだ。

ー後半へ続くー



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26.こわれもの-後編-

 

下町の鶴

4章-詩鶴のボコボコ戦記-

☆Episode.26「こわれもの-後編-」

 

あの惨劇から三ヶ月が経った

太ってきたと誤魔化すにはあまりにも無理がある。無理な運動をすれば直ぐに身体に影響したし、冗談でも誰かにお腹を触られるわけにはいかなかった。

 

ある日、私は酷い腹痛に倒れ、学校を休んだ。

食欲不振の中、母の作ってくれたお(かゆ)を食べては吐いて、食べては吐いてを繰り返した。

明らかに様子が変だと心配した母は、私を病院に連れていこうとしたが、「安静にしていれば治るから」と、必死に説得した。

もう、そう遠くはない未来にこの事実は公になってしまう。そう思った私は決死の思いで勝田に連絡し、お見舞いに来てもらった。

「お前、大丈夫か...?」

そう心配する彼の服の裾を掴んで、私は震えた声で言った。

「ねえ勝田...、助けて...。」

その雰囲気からか、演技ではないことを彼は直ぐに悟り、聞いた。

「どうしたんだ。」

「今までずっと、嘘だと思っていた。そう信じたかった。」

「え、何だ?何のことだよ。」

気づけば涙が一つ、二つと流れていた。

「どうしたんだ、話してくれよ。」

「驚かないって約束してくれる...?」

「ああ。」

勝田は私の目をまっすぐと見ていた。私はこみ上げる気持ちを押し殺して服を(まく)り上げた。

彼も初めは何かの冗談だという顔をしていたが、やがてその状況を理解していった。

そのあと、彼は私の手を引いて病院まで歩いた。

「どうしてもっと早く言わなかったんだよ。」

そう叱る彼に、「怖かった」と言えないままで。

病院の受付に行くと、言いづらいであろうことを気遣って、勝田が代わりに説明をしてくれた。

やがて待合室から自分の番号が呼ばれると、診察室では分かりきった答えを聞かされた。

「三ヶ月ですね。順調に進んでいます。」

私は医者に話した。

「堕ろすのに、いくらかかるんですか。」

え?と一言、医者は私の目を見た。そこで私は今までのことを話した。少し包み隠して言ったものの、彼は私が一通り説明すると、心配そうな顔で聞いた。

「警察には話されたんですか?」

しかし、犯行に及んだ彼らはそれをさせないように、「話したら仕事のことをバラす」と脅していて、思うようには出来なかった。自分の学校の人間の誰かと繋がりがあるのだろう。

 

待合室に戻り、勝田に会ったとき、「酷い顔をしている」と言われた。そう言われるまでは気づかないほど、私の脳内は不安の種でいっぱいだったから。

「...十万かかるって。」

(やつ)れた顔で話すと、勝田は直ぐに始めようと言う。しかし、水商売を降りてからというもの、貯金が底を尽き始めていた。それを言うと

「それなら俺が出す。」

「そんな大金をどうして。」

「俺だって貯金はしている。」

「いや、自分が何言ってるかわかってるの...?」

そう心配すると

「じゃあ、高校生で産むってのか。それも、知らないクソ野郎の子供を。」

と直球で説得してきた。私はそれに答えられなかった。

それから一週間、答えが出せなかった。そのうちの半分は学校を休んだ。これ以上は嘘がつけなくなると思い、学校を辞めるか、手術するかの二択を迫られるようになっていたのだ。

これまでの職業柄、今まではそうなっても直ぐに手術にかけてやろうと思っていたが、そんな人間ですら母性本能というものなのか、そこに居るのが命を持つ者であることに戸惑いを感じてしまう。実際に当事者になってみると、それだけでこんなにも考えは変えられてしまうのか、と。

 

そしてその一週間が経つと、とうとう決断を下した。

決めるべきことは、最初からこれしかなかったのだ。そんなことは分かりきっていた。でも、自分に起こる物事の中でその日は、今までのどんな物事の中にもない、人生で一番辛い日だった。

 

私は、命を奪ったのだ。その決断を私が下したのだ。

 

その判断は一生自分を苦しめるだろう。もしいつか私が幸せになっても、その場面場面で情景が浮かんでは、私を(とが)めに来るだろう。

私は呪われたのだ。命を(もてあそ)んで稼ぐ仕事に手を染めたことへの罰を死ぬまで、この身体が冷たくなる時まで背負わせるつもりなのだろう。

 

それからは(うつ)との戦いだった。身体が元通りになっても、とても学校に行ける精神状態ではなかった。

学校に復帰できるまでの間、ずっと自分に問い続けた。

「自分が何をしたというのか。」

と。

しかしその問い方は、やがて自分をねじ曲げる理由となった。なぜ自分が、と考えていく内にこう考えるようになったのだ。

「私のせいじゃない。」

「全部全部、誰かのせいだ。」

と。それから、幸せ者が憎く感じるようになった。私より楽しい人生を送っている人間を許せなくなっていった。

特に、恋というものに関わる人間は。

 

勝田はあの時の惨劇から、何もかもに手を伸ばしてくれた恩人のはずなのに、それさえ

「あの時、不良から私を助け出せていたらこんなことにはならなかった。」

という思いから、彼に対しても心の中に半分、憎さが現れるようになった。

彼に対する想いと、恨みたい気持ちに翻弄されていく内にこの心はさらに歪んでいった。暴れたい、人を傷つけたいという感情が日に日に増していき、時に勝田が起こした苛めの中には、「私を助けたい」という彼の気遣いを利用したものもあった。

 

そしてある日、私の気に触る出来事が耳に入った。

「河島が名取ん家でお泊まりしたんだって。」

それで私は、彼女らを攻撃対象にした。まずは河島に対し、間接的に嫌がらせをしたが、それを知った山岸が対策を施そうとしてきたので直接、密室で警告した。

今度はその情報を握ってることを名取に耳打ちで脅し、追い込み、化粧室で彼女を襲った。だが、更にその間に河島らが作戦を練っていて、先生に報告される事態になった。そう、奴らは思った以上にしぶとかったのだ。

でも、一度潰すと決めた人間は簡単には諦めない。私は彼女らを何度も攻撃した。何度も攻撃することで、私と同じくらいの絶望を味わわせてやろうと考えた。

しかし、そうやろうとすればする程、私の方が追い込まれた。そして彼女らの団結力を見せつけられる度、私は(みじ)めな気持ちにさせられていった。

それからある日、すれ違いざまに名取にほくそ笑んでやると、彼女は屈託のない笑みで「おはよう。」と返したのだ。

訳が分からなかった。敵である私に攻撃され続けている身で笑顔を見せるなど、どういうつもりだ、と。それからというもの、彼女が怖かった。

その後、私は再び彼女の一人の時を狙って襲撃をかけた。だがその時、私に更なる不幸が降りかかった。

勝田が彼女を(かば)い、私との縁を切ると言い出したのだ。

私は酷く絶望した。行かないでと手を伸ばしたが、今までの彼への悪態を思うと、そうされて当然だというのは直ぐに気づける。だからその裾を掴もうとは出来なかった。それがとても辛かった。

心にさえ好きと言うのを躊躇(ためら)うほど、彼への気持ちは分からないものだったけど、捨てられることにこんなにも胸が痛くなるのは初めてだ。もし、これを失恋と呼ぶなら二度と味わいたくない痛みと言えるだろう。

 

 

そして今、私は通称"カツ丼部屋"と呼ばれる空き教室の方向へと彼女が向かっているのを見つけ、あとをつけている。こうなった原因も、きっと名取が勝田を(そそのか)したからに違いない。だから、私から彼を奪った報いを受けさせてやるんだ。

そして彼女が部屋の前を通りかかり、その腕を掴もうとした。...その時だった。

急に後ろから腕を引っ張られ、その仮教室へと引き込まれた。やがてその教室の端へと追い込まれると、男子生徒に囲まれていた。よく見るとそれは、勝田の手下達だった。

「まさか、貴方達まで私を裏切ったの!?」

そういうと

「すいやせんね、藤島さん。命令なもので。」

と返された。

命令?まさか、勝田からの命令だっていうの?冗談じゃない、何かの嘘だ。そう思った私は彼らに言い返した。

「何を言っているの、勝田のボスは私なのよ?」

すると

「もうそれは昔の話っすよ。」

と言う。

「どういうこと...?」

「今の女王(ボス)はもう貴女じゃないんです。」

耳を疑った。私の命令でなんだって動いた彼らが、今となって私に歯向かうなんて。

「馬鹿おっしゃい。今まで散々、私に良くしてもらってたというのに、それを仇で返すつもり!?」

私は声を荒らげた。

「勝田さんが味方してくれたのに、それを仇で返していたのは誰ですか。」

「...っ!!」

「理由こそ聞いてませんけど、貴女の一番大変な時に、ずっと寄り添って力になって貰ってたそうじゃないっすか。」

「違う、それには訳があるの!」

「感謝のひとつもしないで、犬みたいに扱って良い理由があるんすね。」

「そんなつもりでしてたんじゃない。聞いて。」

「嫌です。聞く価値がない。」

「...え?」

「今日は貴女に散々こき使われた分の()()()()来たんです。」

それに私が反論しようとすると

ガシャン!!

と、彼らの一人が椅子を蹴って音を立てる。

「相手が女だからって手加減すると思ったら大間違いっすよ。」

そういって敵意を見せつけて来た。

「やめて....お願い....こんなの間違ってる。」

()()()()()のはそっちだ。おい、片方押さえろ。」

彼らの一人が命令して、その一人が私を押さえようと近づいてきた。

「っ....!」

 

-おい、片方押さえてろ。-

-ガハハ!!-

 

「やめて!!!!助けて!!!!」

あの日のトラウマが頭をよぎり、私は完全にパニック状態に陥った。無我夢中で声を上げ、必死になって暴れる。私の中には、あの日の恐怖を二度も味わいたくない思いでいっぱいだった。

こんなの違う、おかしい。何故、人生で酷い目に遭い続けても、人を傷ついていい理由にならないの。どんな目に遭っても、泣き叫ぶ心を痛め付けてまで、優しい人間になるしか道がないというの。

私は最期まで、誰かの玩具(おもちゃ)でしかないと言うのか。

あの時みたいに私は口を押さえられ、そしてこの身体に怪我を負わせようと、埃まみれの(ホウキ)を振り上げた。しかし、それが振り下ろされる直前でそれは阻止された。

「あんたら、なにやってんの。」

「あ、名取。」

「私には"さん"付け無しかよ。まあ良いけど。で、なにやってんの。」

「この女、今までずっと偉そうにしてたから反乱起こしに来たってところっすよ。」

状況が全く呑めない。何もかもの意味が分からない。

取り敢えず私は助かったということ...?それとも。

「反乱ねえ。だからって女の子一人に男複数人でかかるとか卑怯じゃないかな。」

「でもよぉ?」

「でもじゃないよ。本当にさ、()()()にしたってそうだよ。弱いもの苛めでしか攻撃できないわけ?」

「それは....その....。」

「最低、はやく出ていって。」

「だけどよ。」

「出てけって!」

彼女が声を荒らげると、彼らはトボトボと出ていった。勝田に従順な彼らが、勝田以外の命令に従うなんて一体何が起こっているんだ。そう思った私は、より彼女が怖くなって、二人きりになることに身の危険に近しき緊張が走った。それでなのか、さっきまで私を痛め付けようとしていた彼らが去っていくのに、「待って」と言わんばかりの手を伸ばしてしまった。

やがて彼らが見えなくなると、彼女は私の方へと顔を向けた。私は驚きのあまり、思わず声が漏れた。

「ひっ....!」

すると、彼女は私の身体を包み込むようにして抱きしめた。全く理解が出来ない、予測のつけようがない行動に、自分の呼吸が、カタカタと音を立てて震えだした。

「な、なな、何....。貴女、一体なんなの....?」

「辛かったね。今まで散々大変な思いをして。」

「....、。、、、は....?」

「私、何で貴女がそんなに人を傷つけたいのかをずっと知りたくて、今日まで一生懸命調べてきたんだあ。」

「あ、あんた....何言って―――」

 

「で、どう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お腹の子供を殺した感想は。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何が起きたのか、それを理解できるほどの心の余裕は無かった。水中で(もが)き苦しむように息は乱れ、全身には雷が流れたかのように身体中の毛が逆立つ。恐怖というにはそれを遥かに通り越し、寧ろ快感とさえ思える程の絶望だった。

人生が一瞬にして粉々に砕け散った衝撃に私は、その化け物の腕の中で、まるで命丸ごと抜き取られたかのようにスッと気を失った。





ーエピローグー

目が覚めると、目の前には白い空が広がっていた。意識がだんだんと戻ってくると、それが天井であることに気がつく。ここは、きっと保健室のベッドの上だ。学校のチャイムがこの部屋の向こう側から小さく聞こえる。
「なんだ、あの世じゃなかったのか。」
そう心の中でぼやく。ゆっくりと記憶を辿ると、私は、あの化け物の腕の中にいたことを思いだし、呼吸が荒くなった。
ガラガラガラ!と、扉の開く音と共に私は悲鳴を上げた。
「あの女がやってくる。私を殺しにくる。」
そんな言葉で頭が埋め尽くされ、夢の外側で酷く(うな)された。
「藤島さん、大丈夫!?」
バッと声の方を振り向くと、そこには保健の先生が居た。
「え′′....私....私.......。」
「落ち着いて。もう悪い夢は覚めたよ。」
「え.....。いや、覚めてない.....まだ覚めてない....。助けて。あの女に殺される。」
錯乱していた。正気で居られる訳がない。私が事実と作り話を混ぜて、噂をばら蒔いていたのに対して、彼女は私の秘め事を的確に手にして、一番狂気じみたシチュエーションと、台詞で地獄まで追い詰めた。それも、一瞬にして。
彼女を化け物と言わずして、何に例えよう。
そうだ。あの女は私を迎えに来た悪魔なんだ。私を地獄まで引きずって、この叫びが誰にも届かない場所で、同じ痛みを繰り返し味わわせて楽しむ気なんだわ。

そして、再び扉が開いた。ビクっと顔を向けると、そこには勝田が居た。
「勝田....。」
「藤島、この前は――」
「近づかないで!!今はもう、あの女の手先なんでしょ。」
「藤島、話を聞いてくれ。」
「嫌っ、嫌っ!!もう誰も信じられない。みんな私を裏切って去っていくんだわ!!」
「だから――」
「嫌っ、嫌だ...、触らないで。お願いだから....許して....許して....。」
手を差しのべる彼から必死に身を守るように、体操座りで(うずくま)りながら、壁へと背中を押し付けて後退りをしている。
「勝田君、今はそっとしてやって。彼女、相当精神的にダメージを受けてる。これ以上刺激したら、もう元には戻れなくなってしまう。」
保健の先生は勝田を止めた。
「藤島....、ごめんよ。」
勝田は、悲しげな顔でそう言い残した。


藤島はきっともう、知ろうとさえしないだろう。
彼女の周りの不器用な人間が、その闇の中から引きずり出そうとしていたことなど。
人を傷つけることでしか自分を救えない彼女を、何とかして楽しい日常に戻してやりたかった友人の想いも、家族のために身を滅ぼしてまで働いてきた妹に、何かしてやりたかった兄弟の気持ちもただ、ただ失敗に終わった。
ひとつだけ成功したのは、名取の仕返しが想像よりもはるかに、彼女の精神を壊したことだろうか。

ー4章.おわりー

―――――――――――――――
2023.1.21
・言葉のおかしい部分を訂正


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5章.ユウレイ蜘蛛
27.下町の夏


 

下町の鶴

5章-ユウレイ蜘蛛-

Episode.27「下町の夏」

 

夏休みがやってきた。しかし、こんな大休みの初日っていうのは、何をすれば良いか分からないものだ。

「お母さーーん。」

「何。小学生みたいな喋り方して。」

「ひーまーー。」

「課 題 は ど う し た の 。」

「良いもん。夜ちゃんとやるし。」

「勉強は朝やらなきゃ身に付かないのよ。」

「やーだー。年頃の女の子は勉強より、青春が不足してるの。」

母は腰に手を当て、小さくため息を吐いた。

「お手伝い終わっても、疲れたとか駄々()ねないでちゃんと(課題を)やるって約束して。」

「ういーーーっす~。」

私の目をじーっと見つめると、冷蔵庫をバッと開けたり、キッチン周りを見回って、ササッとメモを取った。

それをホイッと私に向けると

「これ、お使い行ってきて。」

「お。お散歩だ~。」

「報酬として二百円まで好きなの買ってよし。レシートは絶対貰って帰ること。」

そういって母は私にお金とトートバッグを渡した。

戸を開けて家を出ようとすると

「詩鶴。」

「えっ、何?」

「喉渇いたら無理だけは絶対にしないこと。しんどいと思ったら日陰なり、どこかお店入るなりして休憩して。今日、暑いから。」

いつもの母のお約束だ。

「はーい。」

「気をつけてよね。」

「分かってるって。行ってきまーす。」

「いってらっしゃい。」

私は戸を閉め、夏の日差しが降り注ぐ町を歩いた。

 

出て早々、蝉がやかましい。買い物袋をぶら下げて散歩をするのも何なので、先にぶらぶらと歩くことにした。

私の家から駅まではすぐそこ。三分か、五分ほど歩けば着く位置にある。何せ、家の窓から電車が見えるくらいだ。

そんな我が町の電車はどこか古さを感じる銀色の電車が行き交っている。元々、白い電車が走ってたんだけど、最近見なくなった。

そしてこの町には駄菓子屋がある。昔はどこにでもあったと聞くが、今の世代っ子からしたら新鮮に映るから貴重な存在になっている。そんな貴重なお店に立ち寄って、いつものように欲しい駄菓子を探した。

「二百円って言ってたよね。それなら駄菓子を沢山買っちゃおう。あ、でもアイス食べたいな。」

下顎に人差し指を当てて、うんと悩む。高校生になってもこういうのは童心に帰ってしまうものだ。

数十円のお菓子を両手一杯に持ってお会計にいく。バッとそれを置くと

「ちょっと待ってね~。」

と店番に一言かけて、アイスの冷凍ショーケースへ走る。バニラバーを一本取ってレジに戻ると

「かご使わないんかい。」

とツッコまれた。斜め後ろを振り返ると、意外と分かりやすい位置に小さなカゴが置いてあった。

「えへへ~、つい。」

頭を掻いて笑う。夢中になると周りが見えなくなるのは、まだきっと私が子供のままという証拠なのだろう。

お会計を済ますと、ビニール袋をぶら下げて、片手でアイスクリームを頬張る。こんな素晴らしい夏の朝は、そうそう手に入れられはしない。

 

駅前に行くと、こんな平日の朝でもちらほらと観光客を見かける。といっても、ここの観光客は基本、年配さんが多い。というのも、ここを舞台にした映画が大ヒットして、その映画の一部作はまだ両親が幼稚園児くらいの年齢だった頃だという。その頃の道は、どこも公園の地面みたいな砂の道だったと聞くが、想像がつかない。

駅前広場は、屋台みたいな雰囲気のお店が立ち並んでいる。焼きそばが売られていたり、立ち食いの食堂があったり。年中、シャッターが閉まってるお店もちらほら。

と、まあ、色々あるが、私にとってこの駅前広場は煙草屋の印象が強い。

そんな駅前を通りすぎて、目的の買い出しに向かう。右へ左へと歩き回り、メモに書いてあるものを一つ一つ買っていくと、トートバッグがとんでもない重さになった。

母上様、これ二百円は割に合わねえ...。

私は重たい荷物を片手に、額に汗をかきながら家を目指した。

 

駅前を通りすぎ、しばらく歩くと

「お嬢ちゃん、ちょっと良いかい。」

と、お婆さんに声をかけられた。

「え...な、何すか。」

「ここら辺で、お舟の乗り場って何処かしら?」

「お....舟?」

「川をわたる、渡し舟がこの辺にあると聞いてね。」

あ、何だっけ。矢切の何とかみたいな名前のあれか?でもここから江戸川の堤防までって...徒歩じゃ結構あるよな。特にご年配さんの労力じゃ辛いのでは。

「ああ、ここからだとちょっと歩くよ...?」

「バスは出てるのかい?」

「いや、バスはその方向には向かわないかな...。」

「あら、じゃあ歩いて行くしかないわね。」

「帝釈天の方角に歩いていくと堤防があるんで。」

「ありがとね。」

そういうと、ゆっくりと、トコトコ歩いていった。今日はかなり暑い日。その背中を見ていると、少し心配になった。私はお婆さんの元まで走って

「ちょっと案内しますよ。」

と、言い寄った。

「ありがとね。」

 

「お婆ちゃん、観光?」

「あ、いや、矢切の方に孫がいてね。お昼に向こう岸で待ち合わせしてるのよ。」

「なるほど。」

「ひい孫が産まれたってんで、一目拝みにいこうってわけさ。」

「おー、おめでたい。」

「私ゃの若い頃は、子供育てるってのは命懸けだったものさ。旦那を戦争で亡くしてから、女手一つで育てて来たからね。」

「大変だったんだね。」

「そりゃ大変だったさ。空襲のサイレンが鳴る度に、娘抱えてよく走ったものだよ。今じゃ、ちょっとそこまで歩くのが精一杯なんだけどね。」

そう言ってアハハと笑いだした。私は、どういう反応をすれば良いか分からなくて、そのとなりで苦笑いしていた。

「その時お婆ちゃん、どこに住んでたの?」

「うん?ああ、もっと街の方だよ。都電の終着駅で、すぐ目の前に荒川の土手があって...もうかなり昔のことだからうまく思い出せないんだけどね。」

「え、都電ってあの路面電車だよね?」

「ええ、そうよ。昔はあちこちに走ってたのよ。いくつかは空襲で無くなったとこもあったけどね。それに乗って、亀戸の方へ働きに行ったりもしたわ。」

「ふーん、ちなみにここにも走ってたの?」

「柴又はあまり行ったことがなかったから分からないねえ。でも、そこの電車は昔からあったと思うわ。」

「そっか。」

「あの頃と比べりゃ、良い時代になったものさ。死ぬことの心配なんてすっかり無くなった。生きていくことだけの心配だけで良いんだから。」

お婆さんとお喋りしながら、堤防の上まで歩いて行った。

 

「はあ、はあ、だいぶ歩いたねえ。」

「お疲れ様。あともうちょっと、そこを降りて向こうに見える林みたいなところ、あそこに停まってると思うから。」

「わざわざこんな遠くまでありがとね。これお礼に。」

そういって飴玉を三つほど貰った。

「これ私に?」

「おん、食べて。」

「ありがとう。」

夏の日差しが照りつける中、どこからか吹く涼風に当たりながら、お婆さんは言った。

「人生、辛いこと沢山あったけど、子供の顔見る為だったら大したこと無いって思えるね。」

私は遠い景色を見つめる彼女の顔を見た。その表情はとても穏やかだった。

「お嬢ちゃん、家族は大切にするんだよ。」

そう言い残し、お婆さんは乗り場の岸へとゆっくり歩いていった。

 

私にとって人生ってなんだろうな、そう少しばかり考えさせられた。

私が苛めっ子と喧嘩してた日々は、これからのことと比べれば大したことの無い痛みなのかな、そう思うと、少しこれからのことが怖くも感じる。

けど、あのお婆ちゃんが言ってたように、いつか私が子供を産んで、その子を守る日々が訪れたら、どんな痛みにも堪えられるようになるのかな。

今はまだ、何も分からないままだけど。

私は、貰った飴玉を口に放り込んだ。甘い、甘い金柑の喉飴だった。堤防からの涼風と、その風味が鼻腔に行き交う。そして、余った飴玉をトートバッグに放り込んだ時...

 

あっ........

 

買い出しの野菜や、お肉の入ったトートバッグの存在に気づき、大慌てで土手をかけ降りた。

「うわああ!!野菜傷んじゃうううううう!!!!」

 

つづく。




11.23...1960年代の柴又の情景の書き間違いを訂正
12.19...町の建物の解説を一部変更


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28.少年タッタ

 

下町の鶴

5章-ユウレイ蜘蛛-

☆Episode.28「少年タッタ」

 

助けてくれ。

みっちゃん、明希、私の三人で恋愛映画を観に行ってからというもの、私の日常の景色がまるで変わってしまった。どうして、どうしてこういうロマンチックなストーリーの映画は乙女の心をいとも容易く奪うのだ。お陰で胸が苦しいぞ、ばか野郎。

か弱い少女が、失恋を経て大人になっていく。そんな主人公が何十年と経ってから、昔の自分と同じ境遇にある少女に出会い、アドバイスをしていく。

「恋は夢と同じ、いつかは覚めるわ。しかも、そんな過去の幻に何時までも向き合わされてしまう。でもね、どれだけ年老いても悪夢と呼べずにいるのが恋なのよ。」

だなんて、こんなベタな台詞なのに女優さんの演技がこれまた私を全力で泣かせに来るんじゃあ。

 

それからというもの、私は完全にその主人公の女性の虜となったのだ。

何でも知っていて、ロマンチックを(にじ)ませた格言みたいな言葉をことあるごとに喋りたくなる症候群に陥ってしまった。俗にいう中二病ってヤツでしょうか。いいえ、私はロマンチストなだけよ。なーんて。

 

最近は何処にいても、片手で頬杖をついて、虚空を見つめて微笑んでいる。

お店のお手伝いの時も

「詩鶴ちゃん、どうしたんだい?ぽかーんとして。」

「え?ああ、今はこうしていたいの。」

「もしかして、好きな人でも出来たのかい。」

「乙女の心は()()()()()()なの。恋なんてしたら指先一つ触れられるだけで胸が張り裂けてしまうわ。」

「詩鶴ちゃん、そんな喋り方だっけ。」

友達にも

「はあー。夏休みの課題って何でこんなに多いんだよ。こんなの、この世界から消えちゃえば良いのに。」

「まあね。でも、そうなっても不思議と、居残りは消えないで欲しいって思うなあ。」

「ふっ、それはちょっと分かる気がする。」

「夏が終わったら、今度の居残りの教室で見られる夕焼けは、もっと寂しく見えるかもね。だから、暑いって感じる間は青春を大事にしなくっちゃ。」

「あーそーだな。」

「ええ。」

「なあ、名取。」

「どうしたの、河島。」

「熱中症になったか。」

そして今日、日曜の朝。家族との朝食で...。

「おはよう。詩鶴、パン焼いたからバター自分で塗って。」

「んー...、お早う。素敵な朝ね。」

「はいはい、素敵素敵。先に顔洗って来なさい。」

洗面台に行くと、ちょうど起きたばかりの父に会った。

「お、詩鶴。おはよう。」

「お早う、父さん。」

「...と、父さん?」

「母さんがパンを焼いてくれたって。焼きたてできっと美味しいわよ。」

困惑したまま、父は母の元へ行った。

「小町、詩鶴に何かあったんか?」

「映画。ロマンス映画に影響されるのはあの子、昔っからじゃない。」

「ほえ....お陰で目ぇ覚めたわ。」

「小学生の頃だって、ジュースを酒飲みみたいな飲み方したり、宝石店のショーウィンドウに顔をはりつけたりしてさ。」

「あー。将来が怖いって話してたわ、そういえば。」

思い出話を話していると、詩鶴が奥から戻ってきた。二人は更に困惑した。

「詩鶴...お前...。」

「っふふ。さあ、朝ごはん食べよ~。」

母は腰に手を当てて言った。

「詩鶴、朝からそんな厚化粧してどこ行くの。」

「え~?どこも行かないよ。化粧は女の何とかとか言うじゃない?いつも綺麗でなきゃいけないの。」

詩鶴はコツンと頭に拳を落とされ

「あのねえ、せめて口紅は食後につけなさいよ。おめかしには順序ってのがあるの。」

と言って、ティッシュで口紅を拭き取られた。

「あー!!もう、せっかく上手に塗れたのにぃっ!」

「はいはい、後でちゃんと教えたげるから早く食べる!」

「んぬー....。」

父はパンを片手に、口をぽかーんと開けている。

「今の子らって、こういう格好流行ってんの...?」

「え?分かんないけど、女の子はみんなこういうお化粧しない?え、見たことない?」

「ああ...うん。八十年代のミュージックビデオでよく見たわ...。」

「でしょ?」

「おん、もう三十年近く経つけどな。」

「ねえねえ。正直なとこ、どう見える?」

「え、何が?」

「今日のお化粧。」

「.........詩鶴がええと思ってんねやったら....それでええんとちゃう...。」

父は私を庇いきれずに、唖然としていた。

やがて、食事につくと母は

「一体どんな映画を観たらそうなるの?」

と聞いた。私は嬉しくなって、口数が更に増えた。

「主人公の台詞が一つ一つ、まるで名言の様なの。いつも水平線の向こう側を見つめるような瞳で、恋の悩みに苦しむ女の子にアドバイスをしていくの。」

「だそうよ、お父さん?」

「そ、そやな。とりあえず、お化粧はお母ちゃんにアドバイスして貰い。」

そうして、私が映画のことを話していると

 

ガラガラ!

 

と音を立て、扉が開いた。

三人ともビックリして扉の方を見ると

「詩鶴姉ちゃん、お久しぶりー!」

と、元気の良いガキんちょが入ってきた。

「....その声は。」

私は怪訝な顔でそいつらを見た。

「うわ、何その顔。ケバあ....。」

「誰がケバいじゃあ、このガキぃ...。」

父も頭を抱えて

「言わずにいようと思ってたことをハッキリと...。」

と呟く。

「お父さん!?」

私がバッと父の方を向くと、別の方向に顔を逸らして口笛を吹き始めた。しかも、ちょっと上手いのが異様に腹立つ。

こいつの名は名取竜太(りゅうた)。私の父方の叔父さんの子。つまりは従兄弟だ。毎年、大休みが来ると神出鬼没で現れる。何でもハッキリとモノを言う性格で、清々しいと言えば良い言い方だが、悪く言うなら小学生の分際であれこれと、包み隠さず楯突くクソ餓鬼だ。いつもタカタカと走り回るところから"タッタ"と呼んでいる。

「ああ...、タッタが居るってことは...。」

「ども~。お、詩鶴ちゃーん。元気してるー?」

「やっぱり...。」

「何や、えらい派手なメイクしとるやんけ。何、バンドでも始めたん?まあ、ええけどやな。女は顔ばっかりに気ぃ使ってないで、もっと中身意識せなあかんで、しかし。」

出た、叔父(おやだま)。出現早々、超早口。しかも台詞が一つ一つ私の心に綺麗にぶっ刺さる。例えるなら洗ってない包丁みたいなのが何本も、私に向かって。

それにしても最悪のタイミングで出くわした。私が映画にハマってロマンチックに浸っている真っ最中に。

「お、小町さんもお久しぶりです!相変わらず、いつ見てもベッピンさんですな!兄ちゃんも良うこんなエエ人捕まえたわ。あ、捕まえたって...すみません...失礼なことを。」

「いえいえ、言葉負けしないように頑張りま~す(笑)」

叔父ちゃんが母に挨拶をする。濁流のような彼の会話のスピードに、普通に言葉を返せているのがもう何か凄い。

父は腕を組んで、

「勇治...せめて前もって連絡せえよ。三人とも出掛けてたらどないすんねや。」

と弟を叱った。

「悪い悪い。まあ、居てへんかったらそこら辺ブラブラするわいな。折角の休みやし、顔見に行ったらなと思て。」

「せやからって。」

「おかん心配してんねんで?仕事忙しいか知らんけど、連絡の一つも入れて来うへんって言うてるから、俺が代わりに見に来たんや。」

終わりの見えなさそうな会話に呆然と立ち尽くしていると、母が私に

「外でタッちゃんと遊んであげて。」

と言って微笑んだ。

「ええー...。」

と不満を垂れ、ふと顔をあげると、タッタが外へ飛び出て行ったので、驚いた。

「ほら、お願い。」

「ああもう!!」

私はタッタを追いかけに、外へ走った。

 

タッタを捕まえると、しばらく辺りを散歩した。

「もう、自転車にぶつかったらどうすんの。」

「何処に目ぇつけて走っとんねん、コラァ!って言ってどつく。」

「どの口が言ってんだ、本当に...。」

タッタはウキウキとした足取りで私の手を握る。遊び盛りの少年の歩くスピードが速くて、まるで私の方が従兄弟に案内されているかのように手を引っ張られる。観光でやってきた従兄弟にとっては、いつもの通りを歩くだけでも新鮮に感じるのだろう。

「お姉ちゃん。」

「何?」

あんなー(あのね)、オレなー、体育の百メートル走で二位やってん。」

「へえ、やるねえ。」

「凄いやろー。でもな?一位のやつ、走ってるとき、オレを抜いた後にチラチラ後ろ見てくんねん。前だけ向いて走っとけばええのに、いちいちこっち向いては「ヘッ」って笑うねん。」

「うわ、クソ餓鬼じゃん。」

「やろ!?そんでな、せやからな、オレめっちゃ腹立って。」

「うん。」

「そいつに後で言うたってん。「陰気臭いねん、男の癖に。一位取る人間は前だけ向いて走れこのカス!」って。」

あまりの口の悪さに失笑した。

それから暫く歩いて、タッタが「小腹が空いた」といったので、今川焼を買ってあげた。

「お姉ちゃんは食べへんの?」

「私、朝食べたばっかりだから。」

「一口食べぇや。デザートデザート。」

と言って、口をつけてない部分を私に向けた。なんか、あーんってしてるみたいで変な気分だけど、せっかくなので一口貰った。だが...

しまった。全然中身が入ってないとこをかじっちまったじゃねえか、チキショー。

 

お互い、口をモグモグと動かしながら行き交う人達を見ていると、妙にさっきから視線を浴びていることに気がついた。

「"あーん"したの、そんなに気になるのかな。」

すると、タッタは言った。

「いや、そのお化けみたいなメイクとちゃうん。」

その一言で、私が派手にやりすぎた化粧を落とさずに外に出ていたことを思い出したのだった。

 

私は酷く赤面した。

 

ーつづくー



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29.元相棒

 

下町の鶴

5章-ユウレイ蜘蛛-

☆Episode.29「元相棒」

 

私は安直に、子供が喜びそうという理由で、公園に向けて歩いていた。

「タッタ、そういえばお母さんと、(フー)ちゃんはどうしたの?」

「どうしても寄りたいとこがあるって言うて一旦別行動してる。お姉ちゃんとこ集合って言うてるからもうすぐ来ると思う。」

「ああそう。」

「うん。」

叔父の家族である"向こうの名取家"には明るすぎる叔父と、静かながら威厳ある叔母、そしてこのタッタと、その妹に風歌(ふうか)ちゃんがいる。私も周りからはハキハキしてると言われるが、この家族とでは比べ物にならない。ある時、父に

「大阪人ってこういうものなのか?」

と聞いたとき、

「アホ言え、あの家族が(やかま)しすぎるだけや。」

と呆れながら言われたのを今でも思い出す。

「タッタ、風ちゃんとは仲良くしてる?」

「あいつ、オレの分のおかずにまで手ぇだすから嫌いや。」

「相変わらずだな(笑)」

「今日かって新幹線でオレのお菓子勝手につまんで来よったし。」

「あらら。」

「そんで、アイツの方は何も分けてくれへんねん。んで、こっちがアカン言うたらお母ちゃんキレるし。意味分からへん。"お兄ちゃん"なんやから~って、何がお兄ちゃんやから~、や。それだけのことで何で全部こっちの責任になるねん。」

「よう喋るなあ...。」

言葉がうつった。

「そんなんおかしい。何でも分け分けなんて。」

「じゃあさ、何で私には今川焼はんぶんこしてくれたの?」

タッタをちょっとからかってやると、少し目線を反らして言った。

「...好きやから。」

私はニマァっとにやけて更にからかった。

「このマセガキめ~、私を好きになるなんて百年早いんじゃあ~。」

頭をワシャワシャと掻き乱してやると、少年は顔を真っ赤にしてキレた。

「何でやねん!何でそうなるねん!!」

「っはははははは!」

私は腹を抱えて大笑いした。

 

しばらく路地を歩いていくと、公園が見えてきた。

「ほら、タッタ。公園。」

私が指を指すと、タッタは不思議そうな顔で私の指す方向を見つめていた。

「タッタ?」

「なんか、警察の人と喧嘩してるのおる...。」

「え....。」

よく見ると、革ジャンのオジサンと、年の近そうなお巡りさんが言い合いをしている。

「もう勘弁してくれ。これ以上見逃すと上が黙っちゃいないんだよ。」

「そこんとこ何とかしてくれないか...。こっちも事情があったんだよ。」

「一時停止はね、ちょっと出ただけでもダメなの。」

「ちゃんと止まったじゃないか。」

「だーかーらー。」

私達は口をポカーンと開けたまま立ち尽くした。何を言おう、探偵のオッチャンが、驚くほど下らないことで言い合いをしているではないか。

「お姉ちゃん、まさか知り合い?」

私は大きく首を降った。

「知らない知らない。あんな人、私知らない。」

公園に入ると、草藪の影からこっそり二人の会話を盗み聞きした。

「知らん人なんちゃうん?」

「シー!うるさい!私から離れないで。」

タッタは私の裾を掴んで、そばに寄った。

「あんたとも長い付き合いだから、多少は見逃してやったこともあった。」

「だろ?」

「だろ?じゃねえよ。お前、見逃して何点だ、その免許証。」

「5点 ...です。」

「あと1点で免停じゃねえか馬鹿野郎。お前それでも元警官か。」

え、オッチャンそうなの!?

私が、二人の話に夢中になっていると

「お姉ちゃん、暇ぁー。一緒に遊んでぇやー。」

と、文句を言われた。私はそんなタッタを叱りつけるように

「ちょっと待って!今大事な話の真っ最中なの!」

と言って黙らせた。

「元警官っつっても、俺が居たのは捜査課だよ。交通課じゃない。」

「知ってるよ、てか知らないわけねえだろ、同じとこ居たんだから。ったく、あれから地域課に異動させられて十年は経ったかな。もう捜査課に戻れる可能性はゼロだよ。」

「おう、あれから待望の白バイには乗れたのかい。」

「地域課って言ってんだろ、交通課じゃない。...こちとら毎日、白い自転車(バイク)だよチキショー...。」

オッチャンはフッと笑った。しばらく町の空気を身体全体で嗜むと、お巡りさんに言った。

「この5点の内、3点は四倉(よつくら)にヤられた。」

「ああ、アイツは望み通り交通課に異動になったらしいな。ケッ、俺たち三人、捜査から外されてから完全にバラバラになっちまった。で、元気にやってんのか、四倉の奴は。」

「ああ、相変わらず無口で、お前より頭が固い。」

「そうか、元気なら良かった。」

「固すぎて、見逃してくれない。」

「普通は見逃さねえよ。それにアイツは公妨(公務執行妨害)ですらキッチリ取り締まるくらいだ。あんな面倒臭い書類を平気で書き上げてしまうんだから、勤勉そのものよ。」

「勤勉なのは良いんだが、650cc(ロクハン)を1300ccで追っかける奴があるか、普通...。」

「ふっ、アイツは()()()んだな。」

オッチャンが煙草を取り出し、火をつける。

「お前も一本どうだ?」

「馬鹿、勤務中だコノヤロウ。」

ため息混じりの白煙を口から吐き出すと、オッチャンは呟いた。

「ふ、自由の効かねえ所だなあ、相変わらず」

「当たり前だ。町の警察が外でプカプカしてたら周りの信用を失う。」

「ま、その勤勉さから、お互い一番合う場所に分かれたんだろうな。」

「一番合う場所、ねえ...。」

オッチャンがまた一つ、煙草の煙を吐き出す。その表情は少し笑っているように見えた。

煙がお巡りさんの顔より上に飛んでいくと、オッチャンに聞いた。

「そういうお前はまだあの事件追ってるのか?」

「まあな。」

ジーっと話を聞いていると、とうとうタッタの我慢も限界が来たようで

「ああもう!!はよ遊ぼうや!いつまで待てばええねん!」

と騒ぎだした。

「あっ、ちょっとタッタ!」

 

お陰で二人に気づかれた。

 

「ほら、競争だ。行くぞ!」

「わーーい!」

二人の話に興味を寄せていた私は、タッタをオッチャンと遊ばせ、お巡りさんと二人で見守りながら話した。

「昔、アイツとは同じ部署で勤めてて、その時の相棒だったんだ。」

「そうだったんですね。何かさっき聞いた話ではもう一人いるような感じだったんですけど――」

「ああ、四倉か?彼もそう。三人でタッグを組んでいた。バカ真面目な奴でね。ジョークなんてこれっぽっちも通じやしない。奥さんを亡くしてから娘を男手一つで育ててるらしいが、あんな無口の石頭と二人っきりなんて思春期の女の子からしたら大変だろうよ。」

「無口かあ...。でも、娘さんの前では意外とお喋りだったりして。」

「まあ、だと良いんだがな。むしろ高校生くらいの年齢ならそっとしておいてやるくらいがちょうど良かったりするのかな?」

「うーん、それは人それぞれかと。」

気軽にお喋りしつつ、お巡りさんの目は周りをずっと見渡していた。パトロール精神が根付いているんだな、きっと。

「そういえば、何で三人はバラバラになっちゃったんですか?」

そういうと、彼は少し笑って答えた。

「ある捜査を任されていたんだが、この三人があまりにも自由に動くものだから、捜査から外されたんだよ。三人ともね。」

「自由に?」

「まあ、良い言い方をするなら刑事ドラマのメイン人物みたいな感じ?あはは。みんな腕利きだが、熱心になると度が過ぎてしまうメンバーだったんだよ。」

「な、なるほど。」

「それでオレは交番のお巡りさんへ、四倉ってのは交通課で取り締まりの警察官へ。で、あのオッサンは...。」

「探偵?」

「ああ。一度任されたら誰の命令でも降りないって言って独立しやがった。退職金持って、江戸川の向こう側で事務所まで建てちまったのさ。」

「あ、へえー。オッチャン、千葉に住んでるんだ...。」

「松戸のどこかって聞いたが、詳しくは知らないな。ここの管轄だと探偵の申請が通らないだろうからって言ってわざわざ。」

松戸から何度もうちの店通ってるのか。地味に大変だな。

「ところでお巡りさん、その事件って?」

そう聞いてみると、彼は虚空を見つめて言った。

「いつか、あのオッチャンに聞いてみると良いさ。」

「え...?」

「だが、今は辞めておきな。なんせ、上から捜査課を解任されるほどバカ熱心な三人の中で、アイツだけは未だに諦めていないんだ。きっと面倒事を引き起こして、取り返しが付かなくなる。」

「あんな穏やかそうなオッチャンが?」

「奴は愛憎でしか動けないんだよ。臭い言い方に聞こえるだろうが、言葉通りの男だ。」

そう言っている彼の瞳があまりにも真っ直ぐだったので、その表情を見つめていると、その目線に気づいたのか直ぐに笑いだし

「だーから何時まで経っても結婚できないんだアイツは!」

と言った。

「おい土浦、聞こえてるぞ。」

オッチャンがその声に気付き、戻ってくる。

「ふっ、まずお前は結婚より先に免許をゴールドにするんだな。」

「仕方ないだろ、目標が全速力で逃げたらこっちもエンジンを回さなきゃいかん。」

オッチャンがアクセルを回す動作を見せると

「オッチャン、バイク乗ってんのー?」

タッタが好奇心満々で聞いてきた。

「おう、跨がってみるか?」

「やるー!」

オッチャンは嬉しそうに

「よしきた!」

と乗り気になった。そんな彼の肩に、お巡りさんはそっと手を乗せ

「今回はチャラにしといてやる。せいぜい四倉に見つからないようにするんだな。」

と警告した。

 

全員でバイクの方へ向かうと

ブオンボロボロボロボロ!!

と大きな音を立てて、魔改造された族車が走ってきた。それが私達の目の前の道へとやってくる。

「なんだありゃ...。」

「魔改造車か。最近のヤンキー共は変な趣味してるな、本当。」

私は、タッタを自分の後ろに隠れさせた。

「タッタ、目合わせちゃダメだよ。」

少年はコクりと頷いた。

「全く、こんな住宅街で爆音ならされちゃあ溜まったもんじゃないな。ちょいとドヤしてくるぁ。」

お巡りさんは、その車の運転手に注意を促そうと向かった。すると....

 

ゴツン、ガガガガ

 

「あ....。」

 

キィイイイ、ガガゴゴゴ...

車がバイクにぶつかる。そこにいた全員、身体が固まった。確実にぶつけてしまったことに気がついたのか、その車はオッチャンのバイクの目の前で止まる。

そのバイクが、やがて音を立て、ゆっくりと倒れた。

グ...ググ.......ガッシャーーーン!!

オッチャンとお巡りさんは、目を丸くしたまま、お互いを見つめた。私は、何かとても嫌な予感がした。タッタの手を握り、一歩、二歩と後退りする。

車の中の、いかにもヤンキーみたいな風格の男が、倒れたバイクに目をやる。男が辺りを見回すと、なんとそこに明らかに持ち主と思われる男と、警察官が二人並んでこちらを見ているではないか。

「あ、やっべ。」

男は思わず声を漏らし、額の汗を一滴「ポタリ」と落とすと、アクセルを蹴り潰すように吹かし、車が爆音を奏でながら走り出した。すると...

「待てゴルァアアアアアアア!!!!」

オッチャンと、お巡りさんが鬼の形相で大声を上げた。タッタと私は背筋が凍り、咄嗟に二人、身を寄せ合った。

オッチャン達は全速力でバイクに走っていき、二人でそれを起こそうと奮闘する。年齢が身体に応えてしまってか、両者とも息切れ状態だ。

「おら、こん畜生!大型ってこんな重いのかよ!」

「おう、こんなので重いって言ってたら白バイはこの比じゃないぞ!」

「辞めろ、二度と白バイの話するんじゃねえ。良いからとっとと起こせ!」

そして、バイクを立て直すと、オッチャンはキックペダルを目一杯に蹴ってエンジンをかけた。そして二人は同時に

「よし、乗れ!」

「よし、乗せろ!」

と、声が被って、互いにヘヘッと笑ったあと、

「待ちやがれぇええ!!」

「地域課ナメんじゃねえええ!!」

などと叫びながら、仲良く二人で走り去っていった。

 

...公園には、感情を言葉にできないままの少女と少年の二つの影が、物言わぬ木陰のように立っていた。

 

ーつづくー




11.27...誤字修正


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30.江戸っ子の東京観光

 

下町の鶴

5章-ユウレイ蜘蛛-

Episode.30「江戸っ子の東京観光」

 

空の青を裂く眩しい夏の日差しは、住宅街の窓ガラスをいくつも屈折して路地に降りしきる。

いつもより騒がしかった家の中にも、そろそろ静寂が訪れようとしていた。

「忙しい奴やな。もうちょっとゆっくりしていっても良いのに。」

そう言う父に、叔父は「色々遊んで回りたいから」と答える。

タッタは遊びに行きたい思いでいっぱいなのか、落ち着きがない。一方、風ちゃんの方はといえば、お母さんの腕にしがみついてピッタリだ。私が

「またね。」

と言うと、

「お姉ちゃんは来へんの?」

とタッタが頭をかしげた。叔父は

「おう、ついてくるか?」

と、ニコニコ笑う。それに対して母も

「せっかくなら遊んでもらったら?」

と微笑み出す。いきなり過ぎて戸惑った。

「いやいや、待って。私だってやることが....」

 

そして気づいたら

 

ガタンゴトン....

なんか連れていかれた。何故だ。私、断ったじゃないか。いや、別にこの家族が嫌いな訳じゃないんだよ?でもね、私もう高校生なんだよ?女子高生ってやつなんだよ?名取家から貸し出すならせめて私の意見くらい聞いてくれよ、もう...。

私は、受け答えも少し疲れ気味だった。特に昼食は母との共同作業で、まるで営業時間レベルの忙しさだったから。もちろん、お小遣いをくれたのは少しテンション上がりましたけれども。

金町から常磐線に乗り換え、再び電車に揺られ、私たちはずっと窓の外を見ていた。住宅街ばかりを走る光景に飽きもせず。

電車が亀有に着くと、ここで映画を観た日のことを思い出した。ほんの三日ほど前だというのに、みっちゃんと明希とで行ったのが随分昔に感じる。あの映画、意外にも明希が観に行きたいって言ったんだよなあ。観賞後、私がずっとロマンスに浸っているのを二人に笑われたのは、今となれば顔を真っ赤にさせる思い出だ。

電車が駅から発車すると、叔母さんが私に尋ねた。

「詩鶴ちゃんは、どこか行きたいってとこある?」

「んー...。」

正直、いきなり連れてこられたもんだから、パッと思い付かない。石のように固まって考え込んでいると

「なーんでも言ってな。半ば無理やり連れてきてしまったんやから。」

「うーん、何か美味しいもの食べれたら良いな。」

「美味しいものかあ、例えば?」

「夏だからアイスクリームも良いし、冷たいわらび餅とかも食べたいな~...なんて。」

「あ、良いなあ。美味しそう!」

叔母も私の提案に賛成して、どこか探そうよと叔父に催促した。

タッタは「東京に居る」ということ自体に興奮を覚えているようで、どこにいてもワクワクしている様子。風ちゃんはこちらをジーッと見つめ、まるで

「さっき食べたばっか。」

と言わんばかりの表情をしていた。私は少し気まずくなり、タッタの方に

「ねえ、スイーツ何食べたい?」

と聞くと、ゆっくり振り返り、不敵な笑みを浮かべて言い放った。

「ふーとーるーぞー。」

「おのれ、コラ。あまり女敵に回すなよ。」

「アハハハハハハ!!」

人の気にしていることを平気で口にする餓鬼。もう怒った。後で一生モテない呪いでもかけてやろう。

 

途中、北千住から乗り換えて、上野駅のプラットホームに着いた。正直、柴又から上野までなら京成の方が楽に行けるから、ここで改札を出てしまうのはどうも勿体ない感じがした。

ひとつひとつ、色も形も違う電車が走る光景にタッタがはしゃぐのを叔母と私で必死に叱りつけていると、叔父は突然

「あ!野球観に行くの忘れてた!」

と大声を上げる。次の瞬間

「なあなあなあ、東京ドームってどう行けば良い?」

と、おお焦りで聞いて来たので、私はびっくりして

「え、えあ、その...とりあえず黄色い電車にのりかえて...」

「どこどこ、どこで乗れるん、それは。」

「あの、数駅先....ちょちょ、ちょっと落ち着いてくれるかな...。」

叔母も少し呆れた顔で

「野球くらいテレビでいつもやってるやん。」

と言うが、叔父の熱量が正気の沙汰じゃない。妻の言うことがまるで聞こえていないかのような勢いで

「とりあえず、その黄色い電車に乗ろ!」

と言い、駆け出した。

 

それからというもの、本当にドタバタの移動をした。野球なんて部活動や、テレビでチラッと見かけるくらいで、本物は初めて見たからか熱気が物凄かった。なんといっても、耳がやられる。花より団子の私は、タッタ兄妹とのお菓子の取り合いに熱中していて、観戦どころの騒ぎではなかった。

それから後は隣の遊園地で遊んだ。ジェットコースターは兄妹が身長制限で乗れなかったので、叔父と一緒に乗った。叔父は、応援していたチームが負けた悔しさから憂さ晴らしだとか何とか言いながら隣に座った。

やがてコースターが動き出すと、心臓のリズムがバクバクと速くなった。それと同時にだんだんと見晴らしが良くなっていく景色に圧巻した。

「ああ...これくらい景色の良いレストランでお腹いっぱい食べてみたいな。」

しかし、そう考えている最中に急降下して落ちたのは、神様からの皮肉としか思えなかった。

「えへへ....ステーキにガーリックバターのソース...、ああ、一生に一度で良いか...らあああああああああああああああああ!!!!」

上がっては降下を繰り返す、まるで人生の荒波のような乗り物に大はしゃぎする搭乗者達の中で、異様に隣が静かだったが、そんなことに気にかける余裕もなく、ただひたすらにスリルを楽しんだ。

「あー、楽しかった!」

そう口に出し、ふぅーっとため息を吐く。ふと横を見てみると、叔父は白目を向いていた。

「....あ....うぼぁ.......うう....。」

「.....。」

憂さ晴らしとか言って飛び乗ってたけど、多分乗ってすぐに後悔したのだろう。絶対乗れないタイプだよこれ。戻って叔母たちと合流したあとも、十分くらい叔父の介抱に追われた。

 

それから空がオレンジ色になるまで遊んだあと、近くのデパートみたいなところでお買い物をした。ここでは女性陣と、男性陣で見たいものが異なるだろうということで、一時間後に集合する形で分かれた。

叔母は私達を雑貨のコーナー連れていくと

「詩鶴ちゃんはちゃんとオシャレしてる?」

と私に聞いてきた。

「うーん、まあそれなりには....?」

曖昧な返事で返した。

店内に置いていたアクセサリー類は、デザインが心に刺さるような可愛いものから、言葉通りのお洒落さを秘めたもので溢れていた。

私がキラキラ目を光らせていると

「これとか似合うんじゃない?」

といって私に手のひらを見せた。それは木製の髪留めで、小さな水色の石のようなものが装飾がされている。それは森林の川のように透き通っていて、それを再現しているようでとても美しかった。

「綺麗...。」

思わず声を漏らすと、叔母はニコッと笑って私のために買ってくれた。風ちゃんの方を見ると、淡いピンクのブレスレットを身につけて嬉しそうにしていた。

 

連れてこられた、だなんて最初は愚痴を溢しそうになったけど、ついていってみると案外楽しかった。窓に映る自分を見ながら、買ってもらった髪飾りを見る度、私も何だか心躍るような気分で、自然と笑顔になっていた。

それから夕食はコッテリなラーメンを平らげた。空きっ腹にこの背脂と豚骨醤油のスープはあまりにも罪過ぎる。チャーシューも、薄いのに言うことなしの味の濃さ。(すす)っても、啜っても飽きない麺の食べごたえに涙が溢れそうになった。

やっぱ、夜食べるラーメン最高っす...。

 

東京駅に着くと良い時間になっていた。外も真っ暗で、家に着いたら即効お風呂に入って寝てしまおうと思った。

私たちは改札の手前の柱で、お別れの挨拶をした。

「詩鶴ちゃん、ありがとうな。色々付き合わせてしまって。」

そういう叔父に

「ううん、こちらこそ。最近、都心の方ぜんぜん行ってなかったから楽しかった。」

と笑顔を見せた。

「叔母ちゃんもありがとね。髪留め、大事にするよ。」

「いえいえ。高い洋服買わなくても、こういうとこから簡単にお洒落出来るから、頑張って。」

タッタの方を見てみると....相変わらず落ち着きがない。先に風ちゃんにお別れの挨拶をした。

「またおいでね。次会う時には私も、風ちゃんに負けないくらいお洒落してみせるから。」

といって頭を撫でた。

しばらく時計の針を遊ばせて、人の流れを目で追った。スーツ姿のビジネスマンと、この家族と同じような雰囲気の旅行者で溢れているこの駅は、私の住んでる町と比べたら煩すぎるくらいに賑やかだ。

目に映る景色を嗜むことに飽きた私は、叔父に聞いた。

「そういえば、ねえ。」

「おう、どうした?」

「そっちの街で"笑い"ってどういうものなの?」

急な質問に戸惑った叔父は、しばらく考えたあと、私に答えた。

「うーん、何やろ。コミュニケーションの一部?」

「へえ?」

「まあ、そんな"笑いとは!"みたいに深く考えなくても良いと思うよ。」

「なるほどね。」

「何かあったん?」

「まあ、ちょっとね。」

あまり参考にはならなかったような気がするが、人生少しでも面白くしてやろうって心がけが必要だとか、そういう風に解釈すれば良いのかな?そう思った。後で父にも聞いてみよう。

 

「おっと、そろそろ時間や。ほんじゃあな。」

家族は新幹線の発車時刻が近づいたことに気がつき、再び互いに手を振った。

とっとと改札をくぐろうとするタッタに

「タッタ、またね!」

と叫ぶと、クルリと振り返り

「化粧もほどほどにな~~。」

と、抜かした。

「あー、はいはい。行った行った!」

そう笑って返し、ポケットに手を突っ込む。

 

あのガキ、その歳で私に生き方を説く気か。一瞬そんな考えが頭をよぎると、まあ参考にしてやるか、と言わんばかりに鼻で笑った。

 

つづく。



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31.ゲーセン ラプソディ

 

下町の鶴

5章-ユウレイ蜘蛛-

Episode.31「ゲーセン ラプソディ」

 

雲ひとつない青空の下、誰かが撒いた打ち水が小さな路地に涼風を吹かせる。そして、十字路を曲がれば再び熱のこもった暑い空気に包まれてしまう。こんな炎天下の中で自転車を漕ぐのは、髪を縛る手間さえ忘れさせてくれるものだ。長い下り坂を走り抜けでもしない限りは、この長い髪は邪魔で仕方がない。

汗をポタポタとアスファルトに溢しながら走る町は、心にちっとも余裕というものが表れない。それなのに夏をテーマにしたラブソングというのはどれも爽やかな曲調だ。そのせいで夏以外の季節に聴くと、つい夏が恋しいだなんて感じて騙されてしまう。実際問題、暑くてそれどころじゃない。

 

友達との集合時間に十分ほど遅れてしまって到着したゲームセンター。自転車を駐輪して中に入ると、薄暗い館内にガチャガチャと音楽が飛び交う。少し歩くと、クレーンゲームには好みの可愛らしいぬいぐるみが置かれていて、つぶらな瞳が私を見つめてくる。この愛らしさで人を見つめるとは罪な奴だと微笑みを溢しつつ、まずは河島たちと合流しなきゃと思い、ぬいぐるみを後にした。

古びた建物の中は(ほの)かに煙草の匂いが立ち込めていて、それは場所によって臭いものもあれば、甘い香りのものもあり、ここが子供の来る場所ではないということを微かに感じさせる。格闘ゲームからテーブルゲーム、ものによっては何のゲームなのか分からないものまで沢山置いてある。人はまばらにしか居ないものの、その一人一人が物凄い剣幕でにらめっこしているから少し怖い。

奥に進んでいくと、見慣れた背中が目に映る。いくつものゲーム機の十字路をくぐり抜けていくと、山岸が音楽ゲームを熱心にプレイしているのが目に映った。

クリアー!と音がして、呼吸を整える山岸の隣にふと顔を出す。

「山ちゃんお待たせ~。」

「わっ!ああ、名取か。おはー。」

「ごめんね、遅くなって。」

「まあ大丈夫だよ。僕ら適当にゲームやってるだけだし。」

山岸は何とも思っていなさそうな表情をしていた。画面が選曲に移ると

「何かリクエストある?」

と、私に聞いてきたが、正直このゲームのことはよく分からない。うーん...と考えていると、その横で山岸がいかにも余裕そうな、軽やかな手捌きで面を空打ちしていたので

「あー、じゃあ一番難しいのやってみて。」

と、冗談半分に言ってみた。すると

「一番難しいの....あれかな。」

そう言って曲を探す。手慣れた雰囲気でその曲を見つけると

 

デデデデーーーン!!

 

と、あからさまに主張の激しい曲がスピーカーから鳴り響く。

「多分これが一番難しい。」

「そ、そう....。死なないでね。」

苦笑いで彼を心配すると

「大丈夫。このあとお昼食べに行くでしょ?僕、これクリアしたらステーキ頼むんだあ。」

あ、これ絶対詰むやつだ....。

「検討を...祈るよ。」

私の心ばかりの応援に

「よろしく...頼むよ!」

と応えた。

そして、最難関と思われし曲が始まってしまった。プレイ画面を見ていると、物凄い物量の音符を備え付けのバチで捌いている。

 

ドゥルルルルルカカカカドドカカドカドカ.....

 

目で終えないほどのスピードで、金太郎飴みたいにギッシリ詰まった譜面が右から左へ流れていく様に、頭がクラクラしてしまう。何なんだこれは。これはゲームなのか。いや、きっとゲームの皮を被った別のものだ。

画面酔いしそうになった私は、ふと山岸の方を見た。彼の目は一見、穏やかそうな顔をしているように見えて、額にはキラキラと光る汗が顎の先に向けて流れ落ちている。息は水泳選手のように、一切の無駄を省いた呼吸をしているように見えた。しかし、どれほど平静を装っても人間には限界があるというもの。彼は激しい腕の動きとは裏腹に、とても穏やかな表情を浮かべたあと

「ごめん名取、僕はもうここまでみたいだ。」

そう言い残し、燃え尽きた。

「山岸ぃいいいいいい!!!!」

クリア失敗の文字が画面に映し出されると、彼はゆっくりと立ち上がり、私に顔向け出来ないとでも言うように、ゆっくりと立ち上がり、その顔を背けた。

「だ、大丈夫だよ...!こんなの出来る方が可笑しいって!」

そう励ますも虚しく、彼の全身は真っ白になっていた。

軽はずみな気持ちで醜態を晒させてしまった私は、罪悪感で居たたまれなくなり、然り気無く後退りをしながらその場を去った。

辺りを散策していると、何だか明らかに雰囲気の違う男性を見かける。バンド系のゲームなのか、ギターを首から掛けて演奏しているのだが、様子がおかしい。よく見るとあの人、画面から背を向けてやってるじゃあないか。凄えな!あんな人居るんだ...。

その男は革ジャンに、オールドジーンズを身に纏い、あり得ないくらい様になっている。軽快な様子で一寸の迷いもなく曲を選び、こんな暗い館内でサングラスまで掛け始めた。そうか、あれがロマンチストの極みってやつか。そう思っている内に曲が始まった。

その男は、まるで本当にギターを弾いているかのような指捌きと、かき鳴らす手先がギタリストそのもののように思える。しかし、ふと画面を見てみると

MISS OK OK GOOD MISS MISS

...スコアがまるで凡人レベルだ。あり得ない。あんなに楽しそうに演奏しているのに、ゲーム判定が鬼すぎる。

クリアゲージがゼロになるギリギリの位置を保ちながら、奏者はそれに何一つ気づかずにパフォーマンスを続けている。そして、あろうことか....

「With you.....」

歌い出した!!!!

クリア失敗の瀬戸際にいることも知らずに高らかに歌い出したよ、この人。しかし、そんなムードもずっとは続かず、その人がチラッと画面を見たそのとき

「....MY GOD!!」

と叫びだし、突然慎重にプレイし始めた。私は見ていられなくなって、その人に気づかれないようにその場を去った。数秒後に背後から断末魔が聞こえたのは、目で見なくてもどんな状況かは分かりきっていただろう。

私はただ、心の中で

「可哀想に....可哀想に...。」

と、呟いていた。

 

先程のクレーンゲームのコーナーに行くと、河島の姿が見えた。彼は何やら熱心にショーケースを見つめている。私は近づき、肩に触れた。

「かーわしま、ごめんお待た―――」

「うわああああああ!!何すんだよ!!」

「ええええ!?なになに!?ごめん....。」

ビックリした反動か、クレーンが景品とは全然違うところに降りていく。

「あーあ....。」

「ごご...、ごめん...そんなつもりじゃ...。」

何も無いところで何かを掴めるはずもなく、クレーンは元の位置に戻った。

「百円弁償します...。」

河島はしばらくヘコんだかと思えば、すぐに吹っ切れたようにため息を吐き、呟いた。

「いや、別に良いよ。これ確率機だし。」

「...確率機?」

「そ。向こうが設定した額までお金を入れないと最後まで掴んでくれないってやつ。」

「え、そんなのあるの....。」

「うん。アームが三本のやつはだいたいこれだな。二本アームだと、ものによる。」

「へ、へえ...。」

「ちょっと来て。...ほら、これとか。これは代表的な確率機だな。」

そういって歩いていき、私に例を見せてくれた。...のは良いんだが、これさっき私をつぶらな目で見てきたやつじゃねえか。

「名取、絶対こういうの好きだろ。」

「うん。こいつ、甘え方のノウハウを熟知してやがる...。」

「ふっ、欲しけりゃ札束置いてけって訳だな。」

「札束!?そんなにかかるの!?」

「こういう大型機はだいたい三千円前後、ちっちゃいのは千円くらいが相場。」

「ひええ....。」

「買った方がはやいってのは正にこういうことだな。」

河島はポッケに手を突っ込んで笑い、私は苦笑いを溢した。

クレーンゲームのコーナーには、ぬいぐるみ以外にも日用品や、何でそれをモデルにしたのかと問いたくなるフィギュアなど色々置いてある。

「名取、小腹空いたか?」

「え、なに突然。」

河島が指を差す。その方向に顔を向けると、クレーンゲームの駄菓子コーナーがあった。

「箱じゃないのは技術機。ゲーセンで時間を潰すには、如何にこいつを低コストで取れるかに掛かってるんだ。」

「はあ....。」

「まあ、見てなって。」

そう口にして、パッとアームを動かすと、ポトッと三つほどヤミー棒を落とした。

「えっ、凄い。」

「あー...なんだ。三十円分か。」

「取れるだけでも良いほうじゃん。」

「ま、それもそっか。」

そう言って河島は景品を取った。

「のり塩と、牛タン味。どっちが良―――」

「牛タン!!え、良いの?」

「お、おう...。」

「ありがと~。」

「肉食怪獣...。」

「何か言ったか。」

「いいえ何も。」

袋を開けて一口(かじ)ると、想像以上にお肉っぽい味で頬が落ちそうになった。

「どう?」

「うまい!」

「それは良かった。」

人のプレイを邪魔してしまった上に、お菓子までご馳走してくれた河島に、私は少し申し訳なさを覚えた。

「ねえ、河島。これ取るコツ教えて!」

「え?ああ。こういう山積みになってるパターンのヤツは、アームの片方だけに注力させると良い。欲張って二つ使いこなそうとか、掴もうとすると大抵一つも取れずに終わる。」

「へえ~。」

「まあ、頑張れ。山岸は?」

「あっちの音ゲーのとこいるよ。」

「うい、呼んでくるわ。」

「はーい。」

さてと...、アームを片方だけ使うんだな?見てろよ。

百円玉を入れ、アームを動かす。グラグラしているヤツを見つけると、言われた通りに片方のアームを突っ込ませた。すると、アームが景品の山を掘り起こすように動いた。ギリギリのところで一つも取れなかったものの、河島の言ってることに何となく気づいた。

「掘り起こすのか!掴むんじゃなくて。」

 

一方、河島たちは...

「幽霊の舞、ムズすぎだろ。」

「山岸、お前またカッコつけて爆死したな?」

「音ゲーマーなんだから、観客の前だとハリきっちゃうもんだろ。」

「それでクリア失敗したら元も子もないだろ...。」

百円分の曲数が終わり、名取のところへ合流しようと、山岸は自家製のバチをカバンにしまった。

「名取今何してるの?」

山岸が聞く。

「ああ、クレーンゲームんとこ居る。駄菓子のヤツ。」

「あ~。ゲーセンのフードコートってやつだな。まさかあれでお腹膨らませる気?」

「いや、始めたてでそんなに取れないだろ。山崩しはレベル高いって。それにお昼食べるって言ってあるんだから、そっちの方楽しみにしてるよ。」

「ま、それもそうだな。」

二人がクレーンゲームのコーナーへ来ると

「わあああああああ!!」

と、大きな声が聞こえた。二人は一旦立ち止まると、お互いの顔を見て

「あれ、名取の声じゃね?」

「....だよな?」

と、確認をとった。そして二人が歩きだそうとしたとき、向こうから全力疾走で走ってくる名取を目にした。

「二人ともおおおおおお!!!」

恐怖を感じた二人は、もう一度顔を見合った。

「あれ知り合い?名取っぽいけど。」

「違うと思う。」

「よし、逃げよう。」

ダダダダダダダダ...

「いや...待てコラああああああああ!!」

「何でついてくるんだよ!!」

河島が叫んで返す。

「二人こそ、何で止まってくれないんだよ!!」

「そっちこそ、何で追いかけてくるんだよ!!」

山岸も叫んで返す。

「取れたんだって、大漁に!」

「何が!?」

「ヤミー棒が!!」

それを聞いた二人が急停止する。名取は二人の背中に激突した。

「河島、もしかして山崩し成功したんじゃないか?」

「マジで?コツ教えて十分も経ってないんだぞ?」

二人はまた顔を見合って確認した。

「もしかしてだけどさ、河島。」

「おん。」

「これ、昼食代浮くパターンじゃないか?」

「だよな。」

「ああ、金欠には有難い話だぞ。」

「名取もやる時はやるんだな。」

そういって二人は満面の笑みで彼女を祝福しようと振り返った。

「やってくれたな!名と....―――」

名取は両目が渦巻き状態で、大の字になって倒れていた。

 

ーつづくー




12.11.改行ミスを修正


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32.ユウレイグモ


次の日も、次の日も休みはつづく。学校でしか会わない人達とは、今すれ違うことが無い限り他人同士のような時間。私は誰もいない寝室に寝転がり、過ぎ去れば戻ることのない、今日という日の朝を見殺しにしている。畳んだ布団に腰掛けて扇風機の風に当たる。眠いと言えば眠いし、そうでないといえばそうでないこの状況は、言うなれば暇をもて余しているってヤツだろうか。
二階にはクーラーなど付いてないから、ここで居座るには多少の工夫が必要なのだ。網戸からはやかましい蝉の声、家の前を歩く人の話し声。話の内容を聞こうとしてみる度、走ってくる電車の音に掻き消されてしまう。

退屈な時間。窓に背を向けるように寝転がってみると、一匹の蜘蛛が歩いているのを見つけた。それは蜘蛛というにはあまりにもか細い足で、この小さな六畳間をまるで広い世界のように、ゆっくりとした足取りで部屋を彷徨っていた。少しつついてみようと人差し指を近づけると、おどおどとした様子で嫌がって逃げていく。それでも逃げ足は赤ん坊の這いずりより遅く、いじめてやるのも可哀想だと思えてきた。命と思えばあまりに切なく、虫と呼ぶにはどうにも憎めない生きざまだった。
蜘蛛は布団の山に上ろうとしては、登れなくて落っこちてしまう。それでも負けじと何度か登ろうとするが、結局諦めたのか、別の道を探してトボトボと歩いていく。何を探しているのか、何のために生きているのか、そんなことは私にはちっとも分からないが、蜘蛛はただひたむきに、諦めずに生きようとする。気づけばその姿に見とれていた。
時に越えられない壁にぶつかった時は、私が手のひらに乗せて手伝ってあげもした。その蜘蛛の旅路が気になってずっと見つめていたが、やがて押し入れの襖にぶつかると、ひとまず休憩と言わんばかりに動きを止めた。それを見て私も、安心して元居た位置に寝転がった。


 

下町の鶴

5章-ユウレイ蜘蛛-

Episode.32「ユウレイグモ」

 

鼻歌をいくつか歌っては止め、流れる雲を見つめてはまた歌いだし、そうやって繰り返しても中々流れない時間に欠伸する。息をふわあっと吐いて目を閉じると、何となくトイレに行きたくなった。階段を降りて一階に来ると早速

「詩鶴、何か飲みな。」

母に心配される。生憎、この家にあるエアコンは店の中に一台だけ。夏に涼もうにも、冬に暖まろうにも、お店の方に行かないとそれが出来ない。お昼は家の中の気分で居られても、夕方には居酒屋に変わるため一人になりたい時は特にしんどい。まあ、自由と便利を両方とも得られると思うなよ、という神様からの思し召しみたいなものかと、いつも脳内で皮肉るくらいには。

お花を摘み終わったあと、さっそく冷蔵庫の麦茶を取り出す。夏の身体は忙しいものだ。飲んでも飲んでも何処かから水分が出ていってしまう。いざ涼もうと、コップにカランコロンと音を立てて麦茶を注ぐのも、落ち着いて耳をすませば夏の風物詩と言えるのだろうけど、心落ち着かない暑さは感受性と風情を遠ざけてしまうものだ。

カウンターテーブルに肘を付き、コクコクと飲んでいると

「すーみませーん。」

と、店の扉越しに声が聞こえた。私は

「はーい、どちらさまで?」

と尋ねる。

「お隣の机の者です。」

声と話口調で何となく分かってはいたが、これは間違いなく河島だ。

「戸、開いてるからどうぞー。」

ガラガラガラと音を立てて扉が開く。そこには無地の半袖Tシャツに、ジーンズだけの超シンプルな格好の河島が。

「おじゃまーす。」

「どうしたの?」

「どうしたと思う?」

「え、なに。」

「そっか...。」

「え、"そっか"って何!?」

「じゃあいいや。お邪魔しました~。」

「いや、待て待て待て待ってよ。説明してよ。」

河島の服の裾を掴んで引き留める。何のことだかさっぱり分からなくて戸惑った。

「とりあえずお茶出すから話してよ。何か悪いことしちゃったなら謝るから...。」

そういうと、河島は目を丸くして言った。

「え?あ、いやいやごめん。そういうのじゃないから。」

「じゃあ何...?何か悩みでもあったの...?」

「えっと...その...。」

またあの日のように家で喧嘩でもしたのか、はたまたもっと深刻な何かを抱えているのか。私は心配になって河島を席に座らせた。グラスに氷もたっぷり入れて、麦茶を注いで渡した。

「ほら、キンキンに冷えてるから。何かお菓子とか食べよっか。あ、そうだ。この前のヤミー棒、まだ残ってるから取って来るね。お母ぁーさ―――」

「いや、ちょっと待てって。」

「...?」

「ちゃんと話すから。」

私は河島が心を開いてくれることに嬉しさを感じて、その顔にそっと微笑んだ。

「...うん、話して。私の大事な友達なんだから、辛いこと全部打ち明けてよ。ね?」

 

~☆~~~☆~~~☆~~~☆~~~☆~~~

 

両手で真っ赤になった顔を隠す。後方から、盗み聞きしていた母の失笑が聞こえてくる。

「うっくく....っふふ...っははは。」

今日は河島の誕生日だったみたいで、みんな知らずに誰からもお祝いされなかったことに拗ねて、ダメ元でここにやってきたのだとか。てっきり私は深刻な悩みがあるものだと思っていたから、変に(しお)らしい態度で優しい言葉をかけたのが馬鹿みたいに思えて恥ずかしくてならない。

「名取、今日は随分と優しいな。いやぁ~、誰も今日オレが誕生日なの知らないもんだからさあ。」

「うるさい...!初めっから言ってくれればちゃんとお祝いしてあげたのに...。」

「いや、十分嬉しいよ。だってあの名取が「お菓子食べよっか」なんて、五年も付き合ってて初めて聞いたわ。」

「それは河島が何か悩みでも抱えてるのかと思ったから。てか、付き合ってるって何だよ!?」

「友達関係だよ。え?」

なんかさっきから騙されまくってる気がする。どんだけ人をからかえば気が済むんだよ、この男は。

「名取、さっきから顔赤いぞ、大丈夫か。」

「お 前 の せ い だ よ バ カ ! !」

頭から煙を噴いているのは怒りと、恥ずかしさの両方。大声で怒鳴ると、河島もさすがに申し訳なく思えてきたのか

「ごめんごめん。でも、気を使ってくれたのは本当に嬉しかったから。」

と、軽く謝罪を入れた。私は怒鳴り散らすのを諦めた。大きくため息をつき、腰に手を当てて言った。

「で、私に何してほしいわけ。」

「うーん、そうだな。卵焼き食べたい。」

「またかよ!!お前何かとそればっかりだな。え、そんなんでいいの?せっかくの誕生日なのに?」

「んー、まあ特別贅沢したいわけじゃないし。お誕生会なんてやったことないから豪華すぎるとなんか恥ずかしいじゃん。」

「へえ?家族でとかもないの?」

「あー、それはあるけど、要は「友達いっぱい集まって~」みたいなのは全くないってこと。」

「あ~、なるほどね。でも、ああいうのって小学生まででしょ。」

「小学生まででも有るだけ十分だろ。」

「まあね。」

「うん。」

頬杖をついてボーッとしている河島。私は少しからかってやろうと、にやけ顔で聞いてみた。

「で、何。一人で来たってことは"私だけに"祝われたいってコト?」

「そうだけど?」

即答の返しに心臓を止められる。

「ちょっ....河...」

「いやまあ、"だけ"にって言うか...お前しかいないんだよ。」

「....っっはぁ!?」

「山岸今日バイトだし。」

「あ.....あ~...そゆコト....。」

こいつっっ、言葉選び何とかしろ!!めちゃめちゃドキッとしたんですけど。心臓止まったらどうするつもりだこの野郎。

「あ、そうそう。この際、誕生日とかどうでも良いからさ、なんか外で食べ歩きでもしようや。」

どうでも良いんかい。でも、ちょっと良いな。

「あ、うん。分かった。」

「めっちゃ旨いアイスクリーム屋みつけたのと、一口唐揚げに、あと駄菓子屋とか寄るのもアリだし。」

河島の提案を聞いている内に我慢できなくなり、私は即答した。

「行きます。」

「よし、決まりだな。」

「なんか奢るよ。せっかく誕生日なんだから。」

「お、サンキュー。」

「ちょっと準備してくるから待ってて。」

私は部屋へ荷物を取りに行った。軽くシャツを羽織り、日焼け止めを塗る。タンスから取り出した手提げのポーチに小さめのお財布を詰め、ヨッ、と肩に掛けて母に外出のことを伝えた。

「お母さん、ちょっと外出てくる。」

「デート?」

「違う。大いに違う。」

「ふふ、楽しんでおいで。」

「なんっか腑に落ちないなあ...。」

母のいる部屋を後に、部屋用のサンダルから、いつものスニーカーに履き替える。コンコンと爪先を蹴って足に馴染ませ、河島のところへ戻った。

「お待たせ。」

「ううん、全然待ってないよ。」

「何も言っとらんのだが。」

相変わらず隙あらば余計な一言をいってボケる河島に、思わず呆れ顔になる。

「まあ、とりあえず行こうぜ。」

そういう彼に

「ん。」

と軽く返し、家を出た。

 

夏の日差しを受けながら歩く町。ご近所さんとすれ違う度

「暑いねえ。」

「ええ、本当に。」

「どこかお出掛け?」

「ええ、まあそんなとこ。」

と言葉を交わし合う。この町のみんながみんな知り合いではないが、こういった交流は防犯にも繋がる。何かあればすぐ情報が行き届くから下手に悪いことは出来ないのだ。噂話が血流のように流れているのは下町特有とも言えるだろう。まあ、遠回しに表現したが、私の言いたいことはひとつ。頼むから私達二人がデートしてたと誤解されて広がらないでほしい。この町の住人全員を藤島みたいにするのは幾らなんでも無理がありすぎる。...いや、さすがにこの例え方は良くないか。

「まずはアイスから行こうぜ。暑くてしょうがない。」

「だね。案内して?」

河島の提案で行くことになったアイス屋。住宅街の路地にひっそり現れたソレは、ここら辺の住人でも知る人ぞ知る感じの見た目をしてて、よっぽどの情報通か、まぐれでもない限り発見出来ない。だって端からただの一軒家じゃん、これ。

そんな一軒家の窓を、河島はコンコンとノックして

「すみませーん、アイスくーださーいな。」

と呼ぶ。

「え、本当にここアイス屋さんなの?」

「まあ、見てなって。名取はバニラ?チョコ?」

「あ、...っと、バニラ。」

河島はコクリと頷いた。その直後、窓がガラガラと開いて

「はい、らっしゃい。」

と言いながらオバチャンが顔を出す。

「チョコひとつ、この()にはバニラで。」

この娘って...。

「あいよ、三百円ね。」

河島は先にお会計を済ませてしまった。オバチャンが奥に消えている内に、私は河島に百五十円を渡した。

オバチャンがヒョコっと窓から再び顔を出す。

「はい、チョコね。そこのお嬢ちゃん、バニラ。」

「あ、はい。どうも。」

そういってアイスを渡すと、「毎度~」と言ってまた奥に消えていった。

「河島、よくこんなとこ知ってんだね。」

「まあ、隠れスポットってやつだな。」

「いや、本当に隠れてるパターンなんてあるんだ。何かの取引してるみたいだったよ?私ら。」

「大丈夫だよ、何も変なの入ってないから。」

「いや、うん。入ってたら問題だよ。」

アイスは独特な雰囲気で、少したい焼きみたいな形をしていて、真ん中にドスンと割りばしを刺している。いかにも自家製な雰囲気だけど、クリーミーな味わいを残しつつシャーベットのような食感で、爽やかさもある不思議な食べ心地だった。

 

それから暫く歩いて、唐揚げを食べに行った。河島に幾つか奢ってやって、私も食べ歩き出来るくらいのサイズを買った。

「なんか女子に出してもらうと気まずいな。」

「そう?じゃ、あたし全部食べるわ。」

「待て待て待て。」

「っはは、冗談だって。気にせず食べな。」

小さな紙袋に詰められた大きな唐揚げにかぶり付くと、こちらを向いて礼を言ってきた。

「サンキューな。」

「いえいえ。ハッピバースデイ。」

何となくで祝い言葉をかけてやると、少し照れくさそうに笑っていた。

「ん~、やっぱここの唐揚げ旨いね~。」

思わず言葉が漏れてしまう。間食に唐揚げなんて罪なやつだよ、全く。えへへ。

「それにしても暑いな。」

「ね。」

「どっか公園とかで木陰探そうぜー。」

「ういっさー。」

 

というわけで、公園の木陰にあるベンチに到着した。途中寄った自販機で買ってきた飲み物を横に置いて、残りの唐揚げを頬張った。

木陰と言えど、吹く風は熱風ばかり。何とか冷たいジュースで涼もうとするけど、結局対して変わるわけでもない。二人だらーんと空蝉(うつぜみ)のように魂が抜けていた。

「名取、お前夏休み何かしたー?」

「うーん、特にこれといって....。あ、従兄弟きてた。」 

「従兄弟かあ。」

「セミみたいに煩い家族でさ、私もうヘットヘト。」 

「お前も大変だな。」

「まあねー。あ、でも叔母さんに髪留め買ってもらったの。」

「へえ?」

「ほら、コレコレ。めっちゃお洒落じゃない?」

「おん、綺麗だな。」

「でしょ~!っへへ、ありがと。」

嬉しくなった反動でもう一口食べる。気分の良い時にものを食べると格段に美味しさが変わるから。子供たちの遊ぶ声、相変わらずの蝉の鳴き声とともに私達も駄弁り合う。空には飛行機雲が真っ直ぐ一筋に伸びていた。

「オレも従兄弟居るけど―――」

「え、マジ?年下?上?」

「上だよ。お兄さんみたいな。」

「へえ~良いなあ。私、下しか居なくてさ。"お兄ちゃ~ん"って一回で良いから言ってみたいな。」

「ああ、俺もそんなに言ったことないな。あまり接点が無かったからさ。」

「あ、そうなんだ。」

「江戸川越えた先だから近いんだけど、そんなに遊んだ記憶がなくて。」

「意外と近いね。私、大阪だよ?」

「うわあ、遠いな...。」

「でしょ。まあ、仲はそこそこだけど。」

「仲良いのは羨ましいな。」

「まあね。」

仲が良くなかったらきっと顔すら思い出せないくらいになっているだろうな。

「家系図にしないと分かりにくいくらい遠い親戚でさ。従兄弟はよく分かんないけど、ひい婆ちゃんに良くして貰った記憶はあるな。」

「へえ、ひいお婆ちゃん居たんだ。凄い長寿だよね、きっと。」

「九十はいってるんじゃないかな。詳しくは知らないけど。」

「だよね。」

「今どうしてるんだろうな。超が付くほどの子供好きで、世話焼きで。多分親戚に子供ができたら体力なんて気にせずに行くんだろうな。俺の時、そうだったから。」

「優しいんだね。とっても良い人なんだろうな。」

「まあ、...な。従兄弟も何か、結婚したとか前に聞いたし。まだ生きてたらあの小っちゃい渡し船にでも乗って会いに行くんじゃないか?」

河島は唐揚げを頬張りながら軽く微笑んだ。なんだかその人にどこかで会ったことのあるような、そんな不思議な気持ちに包まれたが、思い出せなくて諦めた。

「名取、駄菓子屋行こうぜ。」

「あ、うん。暑いしね。涼むのも兼ねて。」

 

ー5章・おしまいー



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6章.初秋
33.作詩旅行へ



【プロローグ】

「お母さん」

そう夜空に呼んだら、貴女は応えてくれますか?

その温かい腕の中にもう一度とび込めたなら、私は壊れてしまえるのでしょうか。

夢の中に現れては、朝日が連れ去って行きます。
明けない夜がないせいで、いつも一人になってしまいます。

神様、私の家路はどこですか。
どこに帰れば良いのですか。

胸の奥に消えない、あの懐かしい風景に、ずっと戸惑い生きてゆく。


 

下町の鶴

6章-初秋-

Episode.33「作詩旅行へ」

 

蝉の命のように、夏というものは気づけば終わってしまうもの。私の身体に七日ほどしか流れていないと思っていた季節は、気づけばパタリと地面に落ち、静かに空の青さを悟ることしか出来なくなってしまっていた。

 

「いでっ...!!」

 

夏の終わりを気づかせるのは夕立でも、沈みゆく赤き太陽でもなく、先生の拳骨なのです。こんな哀しいことがあって溜まりますか。風情もない....。

そして、九月初めに聞く先生の言葉といえば決まって

「課題はどうした。」

だ。二学期の初日登校日というのは月曜日の朝より強烈な倦怠感を感じる。それをほぼ白紙の課題を片手に乗り越えて来てるんだから少しくらい誉めてくれたって良いじゃないって思うね。

「夏休み、何してたんだ。」

「先生、そんな皆の前でお叱りにならなくても~....。」

「何をしてたんだって聞いてるんだ。」

「従兄弟の...面倒見てました....。」

「それだけか。」

「青春を....追いかけてました。」

「そうか。それは良かったな。」

「ええ。」

しばらく二人の間に静寂と、物々しい緊張が走った。すると次の瞬間、先生が高らかに怒り出した。

「そうか!皆が頑張って勉強をやってる時に青春してたか!そりゃあ良いご身分だなあ!」

始まった。夏の終わりの風物詩、公開処刑だ。男女に関わらず、課題を完全に終わらせずに学校に来たものを見せしめにして、こうなりたくなければ課題をやれというムチ打ちをかけてくる。私も入学してからこれで四回目になるが未だに慣れないね。

「みんなよく聞けよ、名取のように提出期限を守れない人間は、大人になったら社会から孤立するんだ。」

凍りつく教室、先生の大きな怒号、お陰様で半泣き状態になる始末。夏休みの経過時間と、今の経過時間が天と地の差のように感じるのは相対性って言うんですよね。アインシュタインから知りました。

 

恐ろしく長く感じた午前中が過ぎると、その反動で購買の備蓄を全滅させに行く。

「あれ?今日品揃え少なくね?どこ行っちゃったの?」

「ああ、名取の腹ん中だよ。」

って噂話が立ったこともあるくらいに、ストレスが溜まりに溜まった日には何かしら口を動かしていないと気が済まないのだ。

胃袋をパンパンに膨らまして少し気も楽になった後で、私は教室内をプラプラと散歩した。放課後とは違って、ちゃんと賑やかだから雰囲気の違いも楽しめて良い。この歳になっても相変わらず廊下で鬼ごっこを楽しむヤンチャ男子達や、教室内で絵描きをしてる女子など、その風景は様々。ハーモニカが響くバラードのような放課後に対し、こっちは色んな楽器で溢れたオーケストラみたいな感じだ。ねえ、私なんか凄いロマンチックな例えしてない?

別に八月が終わったからといって、九月からいきなり秋が始まるわけでもない。まだ残っている夏の雰囲気と、胸の高鳴りが少し落ち着いたような、小さな哀愁を感じて廊下を歩くのだ。しかし、面倒臭いことに先生とすれ違えば

「残った課題もせずに何を遊んでいるんだ。」

(やかま)しい。なので先生が視界に入った瞬間は私も潜入ミッションごっこを楽しませて貰っている。こちら名取、三階B階段に敵兵を確認。なーんてね。

そうやってお散歩していると、音楽室の前からギターの音色が聴こえてきた。耳を澄ましてみると、とても優しく穏やかなメロディが鼓膜に触れてくる。それは聴けば聴くほど私の心を虜にし、気づけば扉の前まで来ていた。こんな上手なひと、一体誰が弾いているんだろうと気になった私は、こっそりその姿を覗き見しようとした。足音を消して、そーっと、そーっと歩き、角からその奏者の顔を見つけた。なんとそこにいたのは

「え、みっちゃん!?」

驚くことに私の友達だった。瑞希の傍には明希がちょこんと座っていて、横で(くつろ)いでいた。

驚きのあまり飛び出た声に、二人もビックリした様子。瑞希は私を見ると

「つるりん!どしたの?」

と咄嗟に聞いてきた。

「いやあ...、凄い良い音きこえてたから、つい聴きに来ちゃって。まさかみっちゃんだったとは。」

「あ、あ~...。あはは、別にそんな大したことはしてないよ。ちょっと練習してるだけ。」

「そうなんだ。」

明希が少し、おどおどした様子で落ち着かなくなったので、少し宥めた。

「あ、ごめんね。邪魔しちゃって。」

「あ...ううん。綺麗な音だよね。」

「ね~。私、みっちゃんにそんな才能があるなんて知らなかったよ。」

そう言うとこと、瑞希はギターを弾いたまま照れ笑いをした。

「もう、辞めてってぇ。恥ずかしいから。」

「そんなことないって~。もっと弾いてよ。」

瑞希の頬は、少し赤みを帯びてきていた。さすがにこれ以上褒めるとマズそうな気がしたので、明希と一緒に聴くことにした。

夏の残り香と、季節が変わっていく切なさ、そんなことを三人だけの音楽室で私達だけのものにする。優しい音色を、開いた窓からやってきたそよ風に乗せて飛んでいかせる。もう少し涼しければ簡単にお昼寝出来そうなくらいに心地良かった。

「部活だとみんな音が大きいからさ、こういう楽器の練習が中々捗らないんだよね。」

と瑞希は笑う。

「軽音だっけ?」

「そ。吹奏楽だとギターじゃなくなっちゃうからこっち入ったんだけど、ロック好きがやっぱ多くてね~。こういう時間とか、開いてる教室探して弾いてるから半分、幽霊部員みたいな感じなんだよね、私。」

「そっか。そうなっちゃうよね、確かに。」

そうして再び、ギターの音色に耳を傾ける。一言二言喋ってはこれを繰り返し、何だかとっても贅沢なお喋りをしているような気分になった。

「何か曲作りたいよね~、私達で。」

私はふと、そう呟いた。

「良いね。つるりん歌ってよ。」

「えー...、私そんな上手くないよ。」

「褒め倒した仕返しだよ。」

「瑞希いじわるー。」

「あはは。」

歌といってもカラオケはそんなにしょっちゅうは行かないし、鼻歌で口ずさむことが殆どだ。...期待されるって案外プレッシャーなんだなあ。

「あ、そうそう。歌わせるんなら歌詞がなくちゃねー。私さすがに歌詞までは書けないし、みっちゃんも難しいでしょ~。」

「それなら詩人が横に居るよ。」

そういうと明希が額に汗をかきながら瑞希の服を引っ張った。

「ねえ、辞めてっててば....!」

それを見た私は目がキラキラと輝いた。

「え!明希、詩書けるの?」

「え、え....あぁ....、うん。趣味なだけ。」

「凄いじゃん!曲作れちゃうじゃん!」

「いや、そんな....そこまで...」

「二人とも芸術家だねー!あ、そしたら文化祭とかに出せるんじゃない!?みんな絶対びっくりするよ、拍手喝采ものだよー!」

興奮状態の私に押されるがままの明希、我慢の限界が来てしまったのか、声をあげて嘆いた。

「もぉーーー!鶴ちゃん止まんなくなっちゃったじゃない!!」

滅多に大きな声を出さない明希が、顔を真っ赤にして叫ぶ様子に腰を抜かしてしまって、反射的に「ごめん...」と声が漏れた。

瑞希はただ苦笑いを溢していた。

 

「ごめん、ちょっと興奮しちゃって...。」

明希は照れ隠しに目線を反らしながら首を振った。

「う...ううん、大丈夫。」

「二人の才能に驚いちゃって。今日はじめて知ったからつい...。」

「私、最近全然書いてなくて。」

「あ、そうだったんだ。」

「うん。良いのが思いつかなくて。詩書くの好きだから、いっぱい書きたいんだけど、ちょっと何て言うか...。」

明希は窓の外を見つめる。書き留めるものの内容を見つけられなくて困っている彼女に、私は何か力になれないかと考えた。

「それで私が横で弾いたげてるってワケ。」

「ちょっと、みっちゃん...!」

また汗をかいて焦り出す明希。私はそんな賑やかで微笑ましい空気のなか、何一つ屈託のない真顔で尋ねた。

「....ねえ、明希。」

「.....?」

「今度の土日、作詩旅行いこうよ。」

 

 

 

「え....、ええええええええええーーーー!?」

 

 

ーつづくー




【作者こめんと】
投稿が一日遅れてすみませんでした。

ps.
皆様、メリークリスマスです。


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34.四倉家


堤防を越えると瑞希のギターが聴こえた。今日も相変わらず練習しているのだろう。彼女のもとへ駆けおりて行く。
「みっちゃーん。」
瑞希は私の声に気付き、振り向いた。
「お、明希。どしたのー。」
「暇だから会いに来た。ここに居るだろうと思って。」
「あれ?つるりんと一緒に居たんじゃないの?」
「いや、それが....。」
―――――――――――――――
「昨日は良いの聴けたよ~。みっちゃんっていつもあそこで練習してるの?」
「いや、放課後に堤防で練習してたりとか、色々だよ。」
「堤防で練習してるの!?良いね青春だね~。」
「今日はそこで練習するって言ってたよ。」
「ホント!?案内してよ!」
「ま、まあ良いけど。」
「やった~。私もお裾分けしてもらお~っと。」
ウキウキな詩鶴と一緒に正面玄関まで歩いていると、先生と会った。
「さようなら。」
「おう、さようなら。ちょっと待った。名取は止まれ。」
「ギクッ....。」
「お前、昨日の課題と夏休みのはやったのか。」
「も、もちろんですとも....。」
「そうか。じゃあ何故呼び止められてるのか、説明してみろ。」
「そ、それは........何ででしょう。」
「課題が手元に来てないからだ。ほら、さっさと教室に戻れ。」
「ヤです!」
「何がヤだよ、ほらとっとと戻れや。」
「ヤァったらヤァ―――」
「ふざけてないで戻れってんだ!!」
そう言って先生は詩鶴の腕を強く引いて教室に連れ戻していった。
「やだーーーーーっ!!」
「あの、先生....私は....。」
「何だ四倉、お前も課題やってないのか。」
「い、いえ...やってきてはいるんですが...。」
「そうか。なら帰れ。」
詩鶴は先生の手に引かれ、片方の手を私に伸ばして叫んだ。
「明希、私に青春は叶わなかったよ。」
「鶴ちゃん...。」
「私の居場所はどうやら、柔らかい風の吹く丘じゃなく、薄暗い教室の中だったみたいだわ。」
「....。」
「みっちゃんに伝えて...!私は、囚われの身でも元気でやっている、と。」
「う、うん...。分かった...。」
先生が詩鶴を見て問う。
「言いたいことは言い切れたか。」
詩鶴は片腕で涙を拭う素振りを見せる。
「ええ...、もう何も言い残すことはないわ。」
「そうか、なら行くぞ。」
腕を引かれた土壇、詩鶴は最後の力を振り絞って叫んだ。
「最後にっ...!明希、元気でね。」
「うん。...げ、元気で。」
その言葉を最後に、詩鶴の姿は廊下の奥の暗闇へと消えていった。最初は切なさのようにも見えたが、だんだん、どうみても悪あがきでふざけているようにしか見えなくなって、二人の姿が少し微笑ましくも思えた。
「おい名取、あれで最後って言ったろ、なに嘘ついてんだ。」
「嘘ついてません。最期の言葉は何回"お手付き"しても良いんですー。これ常識ですよ。」
「そんな常識知らんな。」
「ハァー、非常識。」
「おい、いい加減にしないと反省文――」
「すみませんでした。」
「分かれば良いんだ、分かれば。」
―――――――――――――――
瑞希は苦笑いした。
「それで、今日鶴ちゃん来れないって...。」
「そ、そう。(一から十まで話すんだなあ...)」


 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.34「四倉家」

 

柔らかい風の吹く堤防に詩鶴を連れてこなかったのが気にかかる。今頃、彼女はどうしているのだろうか。河島君たちと楽しくふざけあってたら良いんだけど。

「明希、詩はどんな調子?」

瑞希が聞く。

「んー....まだ全然書けてない。」

「やっぱり難しいんだね、作詞って。」

「というより、自分の伝えたい世界を明確にしないと中途半端になるの。それは多分、作曲にしたってそうだと思うけど。」

「なるほど。でもまあ、曲は言葉にしなくて良いからね。」 

「そう言えちゃうのが凄いよ。」

瑞希のギターの音を聴きながら、私は彼女の隣に座り、対岸の町の風景を見つめた。幾千もの家々をオレンジに染めて沈む夕日が、友達との時間が減っていくことを気づかせる。まだまだ沢山お話していたいのに、あともう少しすれば"また明日"だ。

「鶴ちゃんの"作詞旅行"とかいうの、あれって本気なのかな。」

「つるりんならやりかねないね。嫌なら今のうちに言っとかないと話進んじゃうよ~。」

「ええ...。行くって言ってもどこに...。」

「さあね。きっと見つけてあげたいんだよ、明希が探してるものを、一緒にね。」

瑞希は微笑んだ。

 

 

家の鍵を開ける。瑞希と分かれてから数十分、太陽は沈んだが、まだ空は明るい。

「ただいまー。」

夕焼け色に染まったリビングに着くも、人の気配は全くない。父はまだ帰っていないようだ。鞄を自分の部屋に置き、部屋着に着替えて戻ってくると、夕飯のことが頭を過った。

「帰ってくる前になんか作らなきゃな。」

そう独り言を呟き、ため息を吐く。冷蔵庫を開けてみても、大した材料が入っていなく、炊飯ジャーの中にもご飯は茶碗一杯程度。帰ってきたばかりの疲れも押し寄せてどうしようもない状況になった。

「とりあえず...、少し休もっかな。」

無駄に大きいソファーに腰かけ、小さくため息を吐いた。横を向くとソファーには、あと三人は座れそうなスペースが。そこを見つめていると、ここが賑やかだった頃の思い出がよみがえった。

「懐かしいな。もう何年経つんだっけ。」

そう呟くと、瞳の光が微かに暗くなった。バタン、とソファーに身体を預け、横たわってみると、より寂しさが溢れてしまった。それはまるで、子供の頃にしてもらった膝枕のような感覚で、自分の肌の温度でそれは、徐々に人の温度になっていく。

「ずっとこのままで居られたらな。」

そう呟くと、心はじんわりと、温かくなっていった。

 

「明希。」

「うーん...。」

「明希、明希ったら!」

「え...?」

「やっと起きた。ちょっとご飯、味見してくんない?」

「え、ああ。お母さん、今日ご飯なあに?」

「へへ~、明希の好きなシチュー。味もしかしたら濃いめかもしれないけど。」

小皿に少量よそわれたシチューを一口舐めてみる。すると、とても優しい味わいが口一杯に広がった。

「んー!美味しい。」

「そう、それは良かった。」

「早くご飯の時間にならないかな~。」

「落ち着きなさい。お父さん帰ってくる頃には出来てるよ。」

「やった。お父さん早く帰ってこないかな~。」

私は子供のように大はしゃぎしていた。母の裾を掴んで、グツグツと踊る鍋から香る匂いをずっと嗅いでいた。

「明希、お料理はちゃんと作ってる?」

「あー、いや。お父さんもたまに作ってるよ。」

「そ。お父さん、お仕事大変なんだから、明希もしっかりしなきゃダメよ。」

「そんなこと言ったって、私だって学校大変だし、宿題やらなきゃだし...。あーあ、お母さんが居てくれたらどん....なに....良い............のに....。」

私はそれが夢の中であることに気づかされた。

「お母......さん。」

「もう、相っ変わらず甘えたさんなんだから。」

母の姿を見つめた。その懐かしい光景に、私は立ち尽くすしか出来なかった。

「お母さん....。」

「ん?なあに?」

「会いたかった。」

「突然なに言い出すかと思ったら。なに、熱でも出たの?」

「え?」

その夢の中では、今までのことが嘘だったかのように、あの日の日常が流れていた。でも、なにかがおかしかった。ほんの少しだけ、夢の外側が交じっているようで。

「私はずっとここにいるよ。」

「...嘘つかないで。」

二人の間に一時の静寂が流れる。その間、グツグツと鳴る鍋の音だけが鼓膜に触れた。その大好きな顔を見つめていると、母はポツリと呟いた。

「大丈夫、サヨナラに永遠なんてないよ。」

「え?」

「また必ず会えるから。」

「...夢の中にも会いに来てくれる?」

「うーん、毎日は無理かもしれないなあ。」

母はそういって笑った。

「ずっとそばに居てほしいのに。」

「泣かないの。強く生きなきゃダメだよ、私も――」

その声はだんだんとぼやけるように聞こえなくなっていく。

「もうお別れなの...?」

そう聞いた時には、母の声は何も聞きとれなくなっていた。やがて白い光の中に何もかもが滲んで消えた。

 

 

目が覚めると、私はソファーの上で寝てしまっていた。母の夢の余韻に、心がふわふわと漂っている。夢と認めたくない思いで、今は胸が一杯だった。

時々私は母の夢を見る。それは現実と交ざっていたり、時には最初から死んだ事実が消えている夢だったりもする。そんな夢から覚めた後に起きるのは、とてつもなく億劫だ。なぜなら、夢にも"終わり"があるから。

ふと気づくと、私の身体に毛布がかけられていることに気づいた。目を擦り、まばたきを何度かして身体を目覚めさせると、調理の音が夢の外側でも聞こえている。上体を起こしてみると、父が黙々と夕食を作っていた。

「お父さん...帰ってたの。」

そう聞くと、パッと振り向いて

「おお、起きたか。もうすぐで出来上がるからな。」

と言った。

私は、寝落ちしてしまう前に夕食を作らなきゃと考えていたことを思いだし、立ち上がった。

「ごめん、私なんか手伝う。」

「あー...、大丈夫だよ。もう出来るから。」

そういって父は、私にテーブルで待ってるように伝えた。

しばらくすると、テーブルに夕飯が並べられた。少しベタついたチャーハンに、オマケ程度のパセリがかかっている。

「いただきます。」

と二人で食卓を囲んで、手を合わせる。

母が天国に行ってから、父が色々家事をするようになった。お母さんっ子だった私は、無口な父と二人きりになってからというもの、会話が弾むなんてことは滅多に起こらず少し寂しいものがあった。何とか話題を持ち出して喋るも、気づけばいつも独り言を言ってるみたいな雰囲気になる。それでも負けじと話題を見つけては、父の口数を増やそうと奮闘した。

「ねえ、リモコンどこだっけ。あ、ここか。」

そういって手に取って、私はテレビをつけた。静かな部屋の中には、煩いくらいに賑やかなバラエティ番組の音が流れる。それをラジオ代わりに流しながら、食べ物を口に運んでいく。昔なら"食事に集中しろ"と怒り出した父も、二人暮らしになってからは何だかとても丸くなった。

「仕事は順調?」

そう父に聞いてみると

「ああ。今日は三人捕まえた。」

と、二言返ってきた。

「スピード違反?」

「ああ、殆どそうだな。一人はスポーツカーで、逃げようとした。」

「追いつけたの?」

そう聞いてみると

「白バイは速いんだぞ。」

と、少し笑顔を見せた。

 

つづく




今年は大変お世話になりました。
来年もどうぞ、宜しくお願い申し上げます!


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35.最高のカウンセラー


退屈な授業が終わったあとの休み時間というのは、学生にとっては短いながら至福のひととき。ボーッとするだけでこの時間を潰すのも勿体無いと、席を立ってみたものの、することがない。まあいっか、と窓の外でも眺めようとすると
「河島ー。」
と、名取の声が。暇を潰せそうな奴が現れてくれたと思い
「どしたー。」
と首をそのままに背後の名取に返答すると
「いやあ、おつかい頼みたいんだけど~。」
申し訳なさそうな口調の依頼。まあ、やることもないし、このままボーッとして次の授業に入ってしまうよりかはマシか、と思い、内容を聞く。
「なに。」
「いやー、ちょっとみっちゃんにこれ渡してほしくて。」
名取が出してきたビニール袋の中にはゼリーや、カット林檎などの食べ物が入っていた。袋の中身の理由を考察しようと眺めていると
「お願い出来ないかなぁー。」
と、一声。顔を上げると、名取が手を後ろに組み、上目遣いを駆使している。
「何してんの。」
「いや~、受けてくれたら嬉しいなーって。」
「別に良いけど、何で?」
「あの...先生(追っ手)に目付けられて動けないんです。」
「あ...そう。」
「で、お休み中の彼女にお見舞いの品をって訳で...。」
「なるほど。」
「受けてくんないっ?」
「うん、だから良いって。」
「ホント!?」
「うん。」
「さっすが河島、男前ぇ~。」
「(なんだこいつ...)」


そんなこんなで保健室の前までやってきたんだが、なんか扉の向こうから有り得ないくらい重たい空気を感じる...。流れ落ちる滝の轟音に似た近づきがたい迫力のような、それでいてベートーベンの月光のような暗く悲しい調(しらべ)が常闇の向こうで響き続けているような。何だろう、出来ることならこの先に入りたくない。いや、今なら名取に一生のお願いを使っても良い気がしてきた。


 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.35「最高のカウンセラー」

 

「明希、ありがとね。何から何まで。」

「良いよ良いよ。他に何か要るものがあったら言って。」

「ありがとう。」

瑞希の風邪が予想以上に悪化してしまい、保健室で休養するように言われた彼女を看病する。休み時間は短いものの、その短い時間の中で少しでも力になれたらと思った。

「具合はどう?」

「まだちょっとしんどいかな...?」

「そっか...。午後には授業戻れそう?」

「分かんない。いや、ちょっと無理かも。」

のぼせたような表情でベッドに横たわる瑞希、おでこを触ると結構熱い。

回復しそうにない彼女に困っていると、保健の先生がやってきて

「今日は早退した方が良いかもしれないね。」

と言った。

「ええ...、そうさせて頂きます...。」

弱々しい呼吸で返事をする瑞希。私は冷や汗をかき、先生に聞いた。

「み、みっちゃんは大丈夫なんですか!?何か重たい病気にかかってたりしませんよね!!」

「大丈夫よ。安静にすれば直ぐ元通りになるものだから。」

「でも、でももし凄いお医者さんでも見つけられないウイルスだったとして、そしたら私...。」

「四倉さん、落ち着いて。死んじゃったりはしないから。信じてあげて。」

「みっちゃん、私、離れ離れとか嫌だからね。そんなことになったら私、生きていけない...。」

瑞希は、残り少ない体力を振り絞ったような小さな笑顔を見せて言う。

「あの...明希、そこまで心配してくれなくても大丈夫だから。ただの風邪だよ。」

私は不安な気持ちが限界に達し、パニックになって声を荒らげた。

「風邪でそんなに辛そうな身体になるわけないじゃん!」

「いや、だから...―――」

「だいたい、みっちゃんは優しすぎるんだよ。なんでそんな身体の大変な時まで私に優しい嘘なんかつくの。」

「だから嘘じゃ――」

「もっと自分に正直になって!!」

「あ、はい...。」

「いっっつも他人優先で自分のことは後回しだし、困ってることがあっても自分からは言わないし!

もっと我が儘に生きたって良いじゃない。世の中酷い人なんて山のように居るんだよ!?そんな無理してばっかな生き方してたら、そういう人達に使い捨てされちゃうよ。そうなっちゃっても良いの!?」

我を忘れてしまうほど感情的になってしまい、呼吸もゼェゼェハァハァと荒くなった。呼吸を整え、瑞希の方を見ると、気づけば彼女は真剣な表情をしていた。

「じゃあ、本当に治らない病気になってましたって言ったら納得してくれる?」

「え....。」

「私、実はもう長くないんだよね。」

私は息を飲んだ。状況が理解できなくて、言葉を失いかけた。保健の先生は一瞬、目を丸くして驚いたが、瑞希と顔を合わせると安心したような表情になったのを見て恐怖した。

「やめてよ....嘘だよね?」

「嘘つかないでって言ったのは誰だよ...。」

「そんな...。私の数少ない、大切な友達なのに。」

私は彼女の手を握り、白いシーツへと崩れ落ちた。

「ごめんね、隠してて。私、今から大きな手術してくるの。成功したらきっと元通りになるから。そしたらさ、つるりんと三人で作詩旅行いこうよ。」

「バカ...みっちゃんのバカ...。」

降りだした夕立のようにシーツを、そして彼女の服の裾を濡らしていく。

「明希、私からのお願い。」

「なに、なんでも言って。」

「つるりんの常連さんになってあげて。」

「え?...鶴ちゃんの?」

「そ。あの子、最高のカウンセラーだから。なんでも悩み事聞いてくれるからさ、たくさん頼ってあげて。」

「うん...、分かった。頼る。」

「ありがと....ね。」

「よく分かんないけど、もっと仲良くするから。」

「ありがとう。ほら明希、授業遅れちゃうよ。」

最後に瑞希は私の背中を押すように、包み込むような優しい声でそう言った。私は、ぐしゃぐしゃになった顔の涙を手のひらで拭って、彼女に笑ってみせた。そうして私は彼女のいる部屋をあとにした。

部屋を出ると、詩鶴の友達の河島君とバッタリ会い、彼は戸惑った表情をしていた。いつもなら挨拶くらいするものだが、心の整理がしきれていなかったので、何も言葉を交わすことなく私は歩き去った。

詩鶴に会えたのはその次の休み時間。彼女を尋ねると、ニコッと笑って言葉をかけてくれた。

「おー明希、お疲れ~。元気~?」

「うん。あの、ちょっと良いかな...?」

「ん?なに、どしたの?」

「えっと....あの、迷惑じゃなかったら鶴ちゃんのお家、遊びにいっても良い?。」

「え?うん。大丈夫だよ、いつでも。」

「ありがとう。」

「あまり暗くなっちゃうとお客でガヤガヤしちゃうから早めの方が良いかも。明希、煩いの苦手でしょ。」

詩鶴は私の願いに多くは問わず、サラっと快諾してくれた。何かを察したのか、さっきまでキョトンとしていた彼女の表情が明るい笑顔に変わる。突然の我が儘に嫌な顔一つ見せない彼女のことが、少し羨ましく思えた。

 

それから時間は流れ、下校時間を迎えた。瑞希は言葉の通り早退したのだろう。最後まで教室に帰らなかった。それが気に病んでか、心配と寂しさで虚ろな目になっていた。

玄関で外靴に履き替え、校門に向かって歩いていると、後ろの方が何やら騒がしくなりだした。

「どいてーーー!!!!」

「誰かそいつを捕まえろぉおお!!」

先生と女生徒の大声、ダッダッダッ!と地面を駆ける音がだんだん大きくなっていく。そして何よりも、女生徒の方の声に聞き覚えがある。何なら今日話した気がする。いや、絶対話した。

バッ、と後ろを振り返ってみると、やっぱり詩鶴だった。彼女は、まるで獅子に追われた鹿のように猛ダッシュしている。そして私を見つけると、素早く肩をポンポンと叩いてきて

「また後でね!」

と残し、私がそれに返答する前に走り去っていった。その直後に先生が特急電車のような勢いで通過していき、後から来た凄まじい風圧で髪がグシャグシャに乱れた。

「名取ぃぃ!お前っ、止まれコラぁああああああ!!」

「やめられなああい、止まらなぁあああああい!!」

苦笑いが漏れた。

 

かく言う私も、あまり遅くなりすぎると詩鶴とゆっくり話せないので、まあ準急くらいの足取りでテキパキと歩くことにした。彼女とは運動神経が正反対で、少し走っただけで呼吸が乱れてしまう。そのせいで成績表は体育だけ低い。座学に特化した身体に馬力を求めるべきではない、と言い張りたいものだが、それに困ることが多々あるのも事実。ここは詩鶴に見習って疲れない走り方を教えてもらうとしますか。

住宅街を歩いていると、十字路で下校中の小学生とすれ違った。その内の二人が私の進む方向と同じになって、しばらく平行して歩いていた。歩くこと以外考えることも無いので、子供らの会話に聞き耳を立ててみる。子供らは他愛もない話をしていた。

「きょうヨルゴハンなにー。」

「きょうねー、ハンバーグ。」

「えー、いいなあー。あたし、きょうもサカナだよ。」

「サカナいいじゃん。オイシイの、みんなユリがとってくからヤダ。」

「ユリってだれ?」

「いもーとー。」

「いもーといるんだ。いいなー。」

「ぜんぜんよくない。ぜんぶボクがガマンしなきゃいけないんだもん。」

子供の会話というのは難しすぎないから良い。将来の不安を口にすることもなければ、過去を懐かしむこともないから。

 

詩鶴の家の前に到着すると、何だかいつも以上に緊張した。いつもなら瑞希と一緒にいるから、一人だと異様に心臓がバクバクして暖簾(のれん)をくぐれない。どうしてだろう、知り合い以上で、ちゃんと友達の関係なのに単独だと対人恐怖が出てしまう。扉の先にご両親が居たらどうしよう、みたいなものだろうか。いや、居たとしても普通に挨拶すれば良いだけの話なのに何故か足が動かない。

あたふたしていると、バッ!と扉が開いた。思わずその場で飛び上がってしまい、

「ひゃあっ!!」

変な声まで出た。

「明希ー!え、もしかしてずっとそこ居たの?」

「あ、え....あ、、うん。ごめん。」

「あー、いや、何かずっと人影見えてたからもしかしてーって思って。驚かせてごめん。」

詩鶴はニコニコと笑いながら軽めのテンションで私を迎えた。

「ささ、入って入って。無礼講無礼講~。」

「あはは...お邪魔します。」

初めて一人でやってきた詩鶴のお家。いつもと違って見える景色は新鮮そのものだった。

彼女はキッチンの周りを行ったり来たりしながら、お茶菓子の準備をしていた。

「いや~、先生から逃げ切るのは苦労したよ。」

「あ....。あれってなんだったの...?」

「あはは。居残りから逃げようとしたら先生、玄関で見張っててさ。店の手伝いもあるし、ヤケクソで全力疾走しました。」

「ああ....そうだったの...。」

「そうそう。全く、逃げ足速いからって陸上部の顧問を配置するなんてやり過ぎだよ。」

「陸上部の先生から逃げ切ったの!?」

 

それから、しばらくしてお茶菓子が卓上に用意された。 「おまたせー。」

「ありがとう。頂きます。」

「どうぞどうぞ~。」

九月に入ったとはいえ、まだまだ暑く、詩鶴の出してくれた麦茶がとても美味しい。二人でお菓子を摘まみながらしばらく談笑した。

「そういえばさ、明希。」

「うん?」

「相談って言ってたけど、どうしたの?」

「ああ、実は...。」

折角の明るい空気を壊してしまうことに後ろめたさを感じながら、私は瑞希の病気のことを話した。

「それで...手術が失敗したら、みっちゃんは...。」

「あ、あ~....。」

彼女は何故か苦笑いを浮かべていた。

「明希、あの...さ、その事なんだけど...。」

「...?」

 

ーつづくー





名取の頼みごとを受け、保健室前にやってきた河島。扉の向こうの明希と、瑞希のやり取りが重たすぎて、お見舞い品を渡すに渡せない。


どうしよう、このまま引き返すにしても名取になんて言い訳をすれば良いんだ。もう早退しちゃってました~って誤魔化すか?いや、そんなことしたらあいつ、めっちゃ悲しい顔するだろうな...。いや、流石に心が痛すぎる。そこまでしてまで自分を優先するほど鬼畜じゃない。にしてもなあ...、このままだと休み時間終わっちゃうし、かといって扉を堂々と開けるのも空気壊しちゃうし...、でもなんか早退するとか何とか言ってたよな?この扉の向こうで。だとしたら今を逃したらもう渡すタイミングが無くなるんだよな。ああ、そしたら名取が....
ああもう、どうすれば良いんだよ!!
心の中で悲鳴を上げたその時、扉がガラガラと開いた。ビックリした衝撃で身体が一瞬、金縛りのように固まった。
中からは四倉さんが泣き腫らした目をして出てきて、俺の存在に気がつくと、顔を見せまいと言わんばかりに走り去っていった。

中に入ると直ぐに矢原さんを見つけた。
「あーあ、後でどう説明しよっかなあ...。」
天井を見つめてぼやく彼女。声をかけると、気のせいだろうか、少し彼女の表情が明るくなったように思えた。
「あ、河島君。どーも。」
「おはよう。これ、名取からお見舞い品だって。」
「え、ホントに?ありがとう。」
「いえいえ。名取に伝えとくよ。」
そう言うと、彼女は申し訳なさそうな顔をして言った。
「あの...、ついでにあの子にもう一つ伝えて欲しいことがあるんだけど...。」
「え、ああ、うん。」
「「ごめん。」って伝えて貰えると...。」
「え、どういう意味どういう意味。」
矢原さんは更に申し訳なさそうな態度になって事情を説明した。
「あのね、明希が私の熱を心配しすぎて落ち着いてくれないから、今から大手術を受けてくるって嘘ついちゃって...。」
「凄い....、嘘だな...。」
「それで何かあったらつるりんを頼ってって勝手に押し付けちゃったもんで...。」
「なるほど...。」
「"ごめんなさい"って伝えて貰えると...。」
「りょ、了解しました...。言っときますんで、お大事になさって(もろ)て。」

―――――――――――――――
2023.1.7...九時に投稿された時点で未完成だったため、誤字修正含め、書き足し。
2023.1.8...誤字修正


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36.小さな駅

 

下町の鶴

6章-初秋-

Episode.36「小さな駅」

 

「え、嘘...。」

「嘘じゃなかったら私、気がおかしくなってるよ。」

詩鶴から真実を聞いて茫然とした。瑞希の手術の話が冗談だったということが半分嬉しくて、半分は嘘を付かれたという感情で気持ちの整理が追い付かない。

「明希、説教するわけじゃないんだけどさ...、心配しすぎだよ...。」

「だって...。」

「そりゃあ、本当に死んじゃうなんて話になったら私だってまともじゃいられなくなっちゃう。大事な友達だもん。」

「うん、そうだけど...。」

「でも、自分で何ともないって思ってるのに過保護にされ過ぎたらちょっとしつこいってなるでしょ?」

しつこいって思われてたのか、そう思うと、その言葉が胸に深く突き刺さった。誰かの為にと思ってやったことが、度を越してしまったせいで悪役になってしまったことに気づかされ、罪悪感に押し潰される。

「ごめん...なさい....。」

「私に謝ってどうすんのさ。」

詩鶴はそう言って笑った。

「...友達辞めたいって思われたかな。」

「そ~んな大袈裟な。仮にそう思うほど酷いことだったとしても、みっちゃんは根に持つようなタイプじゃないよ。」

「そうかな。」

「そうだよ。...ま、元気になったら一緒に謝りに行こ。」

彼女の優しさに目頭が熱くなる。

「一緒にってそんな...。」

「え、明希一人でごめんなさい出来るの?」

詩鶴はジト目で私をからかった。

「いや、子供じゃないんだし!馬鹿にしないでよ。」

「ふふ、でももしみっちゃんが「許さない!」って怒り出したら?」

「え、ちょっ...、やめてよ。」

「あはは、冗談だって。明希、私よりずっと大人だし大丈夫だよ。」

「もう、何それ。」

「っははは。」

からかわれてるのか良く分からない気分。詩鶴はただ、眩しいくらいの笑顔を見せて私を元気付けさせてくれていた。

「でも、その日は付いててあげる。一人でパニックになっちゃわないようにね。」

「....ありがとう。」

私は麦茶に浮かぶ氷に視線を落とした。なんだか今日は人の迷惑になるようなことしかしてないなと思い、明るい空気と一つになれずにいた。そんなウジウジしたままの私を心配してか、詩鶴はぎゅっとハグした。

「もう、いつまでグジグジしてるの。ほら、元気だしなよ。」

私は一瞬ビックリして抵抗しようとしたが、詩鶴の腕の中が温かく、その心地良さに感情全てが奪われていった。

「だいじょ~ぶ。明希に出来ないことはないっ。」

詩鶴は腕の中の私におまじないをかけた。そして離そうとした彼女を抱きしめ返し、私は引き留めた。

「詩鶴、もう少しこのままでいて。」

「え?え?」

「お願い。」

戸惑った彼女はたどたどしい口調で焦りを見せる。

「甘えん坊かーっ。ったく明希ったら、子供かよ。」

「詩鶴こそ、お母さんみたい。」

しかしその言葉を聞いた途端詩鶴は、まるで海鳴りの止んだ夕凪の様に落ち着いた。そして、さっきよりも優しい声で私の"お願い"に

「分かった。」

と応え、再びその腕を私の背中に回してくれた。

人肌の温もりは誰にでも持っている。どんな人間にでも同じように。その懐かしくも優しい温かさに、私は気づけば飛び込んでしまうのだ。軽い女と言われるかもしれない。幼子のままだと笑い者にされるかもしれない。でも、それは見せかけの愛を振り撒いているのではなくて、ただ戻れない過去にすがりたいだけなのだ。

「いつも誰かのせいにして生きていたいって、心のどこかで思ってるの。」

「うん。」

「お母さんが死んじゃったのも、私がこんな性格なのも、きっと誰かのせいなんだって。そんな訳あるわけ無いのにね。」

「うん。」

「私、何であんなこと言っちゃったんだろうね。世の中酷い人だらけだって。私もその一人なクセに。」

「大丈夫、明希は良くやってるよ。」

私の弱音を親身になって聞いてくれる詩鶴。友達同士のハグにしては長すぎるこの時間にも、彼女は呆れることさえしなかった。

「私、ずっとこんな優しさを求めてばかりいたんだ。いい加減、大人にならなくちゃね。」

「ゆっくりで良いよ、無理しないで。」

「ありがとう....。」

 

詩鶴をぎゅっと抱きしめていると、ガラガラっと扉が開いた。私は飛び上がって、咄嗟に彼女の陰に隠れた。

「こんばんは。おや、お友達かい?」

「いらっしゃーい。」

目の前にはガタイの良いオジサンがいた。俗にいうイケオジってやつだろうか、純粋に怖い。

「彼女かい?」

「いや友達だよ。女の子にはコレがないとバッテリー切れちゃうの。」

私は大焦りで

「鶴ちゃんヤメテ、誤解されちゃうから!」

と止める。

「え、あー、大丈夫だよ。オッチャン、全体的にキャパ(許容)広いから。」

「そう....なの...?」

詩鶴は私とオジサンの中間に立ち、オジサンの方に注目させた。

「紹介するね。このオッチャンは入崎さん。探偵やってて、うちの常連さんでもあるの。」

「本来なら「西崎」と書くんだが、俺の場合は普通に入口の「入」なんだな。ま、よろしく。」

「オッチャン。」

「何だ。」

「割りとどうでも良い。」

「冷たいなオイ。」

苦笑いが溢れた。二人は案外、楽しそうに喋っている。

「で、こっちが明希。私のお友達。繊細な子だから言葉気をつけてね。」

「鶴ちゃんヤメテ...!恥ずかしいから。」

オジサンは私を見てニッコリと笑った。初対面で戸惑う私は、怖くて目を合わせられずに、視線が定まらないままでいた。

「宜しくな、明希ちゃん。」

「よよ、宜しく...お願いします...。」

その入崎という名の探偵さんは、椅子に座るなり

「あー、詩鶴ちゃん、いつもの頼むよ。」

と注文をした。

「あー、はいはい。いつものね~。」

そう言うと詩鶴は棚からせっせとお洒落な珈琲ミルを取り出した。そのまま慣れた手つきで棚から珈琲豆を取り出し、その中にパラパラと音を立てながら注ぎ込むと、ゴリゴリと挽き始めた。

「私、珈琲は詳しくないけど、悪くない匂いなのは確かだね。」

詩鶴は豆を見つめながらそう呟いた。

「お、分かるかい?亀有に行きつけの珈琲の店があってね、苦味の強さから、香り、舌触りまで色々選べて良いんだよ。本当はブルマンくらいドカンと持ってきたいところだが、物凄い値段でね。そこに置いてあるのはマンデリンっていう苦味とコクが中心の豆で、ブルマンが出るまでは世界一の味だと評されて――」

探偵さんはブレーキをかけずにマシンガントークで珈琲を語りだした。詩鶴は聞いているようで何も耳に入ってこないかのように作業に集中している。私の方に少し視線をやると、軽く鼻で笑った。この人、話長いでしょとでも言わんばかりに。

一通り話が終わると、詩鶴はその数分をたった一言でまとめた。

「――という訳だ。」

「ま、つまりは自分の好みの珈琲を女子高生に淹れて貰いたいってワケ。」

「オイ、なんかヤな言い方だなあ。」

「ふふっ。」

私も思わず笑いが溢れた。

「はい、お待たせ。」

「お、どうもー。」

お店の中には、確かにとても良い香りが広がっている。探偵さんがあまりにも美味しそうに飲むので、私も少し飲んでみたくなった。

「お、君も飲んでみたくなったかい?奢るから一杯試してみな。」

「え、いや...奢るだなんてそんな...。自分で出しますよ。」

すると詩鶴は

「良いよ、お代なんて別に。」

探偵さんは

「まあまあまあ、気にするな。何なら三人でお茶会と行こうじゃないか。」

「いや、私は良いよ。オッチャンが無償で持ってきてくれてるんだし。そもそもこのパック、いくらするのさ。」

「絶対言~わない。言うと気ぃ使うだろうから。」

「何だそれ。」

気ぃ使うほど高いのね...。

「お茶菓子にとスイーツも買ってきたんだ。ほら、どうだ。」

探偵さんの準備の良さに開いた口が閉まらない。彼はどうしても私達と飲みたいみたい。

詩鶴は苦笑いで了承し、豆を挽き始めた。

 

それからは三人でテーブル席に座り、お茶会の"二次会"をした。知らない人というプレッシャーが重くて、ずっと詩鶴のそばにいたが、人前ということもあってくっ付けなかったのがより緊張感を高めた。

黙々と居るのも大変なので、探偵さんオススメの珈琲を一口含んでみた。強い苦味に一瞬ビックリしたが、そのあとに来た深い香りに珈琲のイメージがガラッと変わった。

「あ、美味しい....。」

思わず漏れた一言に探偵さんは

「だろ。」

と短く返して微笑んだ。

「ええ。何て言うか、味もそうですけど香りを楽しむってこういうことなんだなって。」

「そうかそうか!分かってるじゃないか。そうなんだよ。」

少し二人で盛り上がっていると

「何か二人とも楽しそうだね。そんなに美味しいの?これ。どれどれ ......苦っっっ!!!」

詩鶴が悶絶しだした。

「スイーツスイーツ!はむっ....ん~、こっちの方が好き~。」

皆で大笑いした。

 

そうしている内に陽は落ちて、辺りが暗くなってきたので帰ることにした。店の外まで出て見送る詩鶴と、別れ際に少しお喋りした。

「夕食っていうにも生憎ここ、居酒屋だからねえ。」

と詩鶴は少し困った顔をする。私はそんな彼女の横で夜空に微かに光る小さな星を見つめて言った。

「色んな人が来るんだなあって思った。居酒屋ってほら、サラリーマンのオジサン達で溢れてるイメージだったからさ。」

「えへへ、大丈夫。もうすぐそうなる。」

「あ、そうなんだね。あはは。」

「あのオッチャンだけちょっと珍しいお客さんなんだよ。」

「だろうね。」

「酒場で珈琲しか頼まないってさあ。」

二人、笑いが溢れた。

「ま、何かあったらまたおいで。」

そう言った詩鶴に

「うん、ありがとう。......鶴ちゃん、」

さっきのお茶会で出来なかった分のハグを名一杯にした。

「あはは!明希、苦しいって。」

気づけば昨日よりも彼女と仲良くなれたことに、私は瑞希への感謝の思いで溢れた。そして、きっと詩鶴の存在はこの場所で、心の停まる駅なんだろうと感じた。それを彼女に話すと

「そ、そうなのかな。まあ、特急は停まってくれないだろうけどね。」

と言って、再び笑いあった。





明希が帰ったあと、店に戻ると、オッチャンが謎めいた一言を発した。
「大きくなったな、あの()。」
「え、何。明希のこと知ってるの?」
「ああ、警察官時代の同僚の娘さんだ。名前や顔でもしかしてって思ったが、名札を見て確信した。」
「はぁー...探偵の目は伊達じゃないね。でも向こうはオッチャンのこと、覚えてないみたいだったよ?」
「はは、そりゃあそうだ。前に会ったのはもう十何年も前の話だから。彼女はまだ小学校に入る前だった。」
「そんな昔なんだ。」
「ああ。いつもお母さんの背中に隠れてて人見知りな女の子だった。あの性格は昔のまんまだな。」
そう言って彼は小さく微笑む。昔を懐かしむような温かい表情で。しかし次の一言でその表情は、錆びて剥がれる鉄のようにゆっくりと消え落ちていった。
「幸せそうな家族だった。無口な男に不似合いの綺麗なお相手さんに、更には子宝にも恵まれて。あの頃は四倉のヤツ、ほんと幸せそうな顔してたよ。...嫁さん亡くすまではな。」
いつも穏やかなオッチャンの目は、真っ直ぐ真剣な眼差しになっていて、その目で虚空を見つめていた。
「......オッチャン。その話、詳しく聞かせて。」

つづく。


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37.サフラン


【十二年前】
「よ!お出かけかい。」
街でたまたま見かけた四倉に、俺は声をかけた。
「入崎、こんなとこで会うとは。」
彼は奥さんと、娘さんを連れて休日を楽しんでいた。空も綺麗に晴れていて、こんな日に出掛けないのは勿体無いくらいの天気だった。
「どうも、いつも旦那がお世話になってます。」
「いえいえ~、どちらかと言えば私の方が世話かけてばかりですよ。」
そういうと、彼の奥さんは申し訳なさそうに笑う。すると彼は
「入崎、お前バイクじゃないのか。」
と尋ねた。普段はこんなに良い天気なら単車で出掛けたいところだが
「いやぁ、カノジョにお使い頼まれててね。バイクじゃここら辺、(駐輪代が)べらぼうに高いんだよ。」
「なるほどな。」
というわけで珍しく電車に乗って都心に来たという訳だ。都心といっても駅前の駐輪場といえば大体は安いんだが、三十分で二百円だとか馬鹿げた値段の駐輪場で密集している所もある。
「お前の方こそ、ツーリング断ったと思ったら何だ?随分と微笑ましいじゃないか。」
ハハハ、と笑いを溢しながら四倉の肩を軽く突く。彼は不器用な笑顔を見せながら、家族との休日プランを言い訳のように話していた。

「あのオジサンだあれ?」
会話に夢中になっていると、母親の背中に隠れ、服の裾にしがみついている幼い女の子が見えた。四倉家の一人娘だ。
「お父さんのお仕事仲間さんだよ。」
「おしごとなかま?」
話しかけようとその子の顔の位置までしゃがんで声をかけると
「やあ、こんにちは。」
「きゃっ...。」
「あれぇ....。」
「お母さん怖いぃ、怖いぃ...。」
ビックリして母親の背中に顔を(うず)め、泣き出してしまった。四倉は呆れ笑いで
「自分より遥かに大きくてガタイの良いオッサンに詰め寄られたら、誰だって怖いだろうよ。」
と、俺の背中に向かって声をかけた。
「オッサンって何だよ、まだ二十代だぞー?」
「今年で三十だろうが。結婚適齢期だぞ。」
「うるさいな、幸せ者のお前に言われると刺さるんだよ。」
普段、仕事以外ではあまり会うことがないから娘さんとは殆ど面識がない。だから仕方ないというとそこまでなんだが、こうも全力で怖がられると結構ショックだ...。

―――――――――――――――

「まあ、そんな感じで明希ちゃんとは何度か会ってたよ。」
「ははは、私も子供の頃にいきなり話しかけられたら泣いてたかも。」
二十六歳離れた幼なじみの詩鶴ちゃんにも馬鹿にされ、今日も珈琲の苦味に酒の如く飲まれております。


 

下町の鶴

6章-初秋-

Episode.37「サフラン」

 

瑞希と会えない日が続く。心許せるような相手がこの教室に居ないから詩鶴の居る教室へ、彼女が暇かどうか確かめにいく。これだけが心の支えとなっていた。しかし、休み時間ごとに彼女を訪ねるのも何だかしつこいような気がして、ざわつく教室の中で雨の雫を数えていた。

水玉模様の入った窓の外の風景、寂しさを誘う柔らかい雨音が子守唄のように鼓膜を撫でる。こんな日はどうしてか、懐かしい記憶が頬に触れてくる。

 

 

「ただいま。」

「明希、お帰り。学校どうだった?」

幼い頃の記憶だ。小学校に上がってからも友達は全然出来ず、時計の針が下校時間を差すのをいつも待ち遠しにしていた。

私は母の胸に飛び込んで

「会いたかった。」

と一言。それにいつも母は困った笑顔を見せていた。

「あれから友達はできた?」

「お母さんだけでいい。」

「明希、心許せる人がお母さんだけじゃ大人になれないよ。」

「じゃあ子供のままでいい。」

「我が儘言わないの。お母さんだって、いつまでも側には居られないんだよ?」

「だって知らない子と話すの、怖いもん。」

駄々をこねてばかりの私に、母はそっと頭を撫でる。

「最初はそうかもしれない。でも友達が出来るって、本当はとっても楽しいことなんだよ?」

「楽しくないもん。」

「何で分かるの?」

「.....。」

「明希、分からないことを"どうせ"って決めつけちゃ駄目だよ。」

殻に閉じ籠ったままの私の心に、新しい景色を見せようとしていた母の想いを少しばかり感じていた私は、努力しようとしては諦めてを繰り返していた。初めから嘘をつく気で「わかった」と言った私に

「偉い子。」

と言って頬に口づけした。私はそれが嬉しくて、母につくつもりでいた嘘は脆く崩れていった。

無理をしてお昼休みの時間に、一人ぼっちで机に座っていた女の子に近づいた。まだ食べきれない給食をゆっくりと食べていたその子は、私に気づくとニッコリ笑った。

「あ...えと、その...。」

「はじめまして。なんていうの?」

「え、あ。...よつくら....あき。」

「アキってよんで()?」

「うん。あの、君は...?」

「みずき。やはらみずき。」

 

 

空いた瑞希の机を見つめ、初めて会った日のことを想う。いつも話の聞き役になってくれて、自分のことは滅多に話さない心優しき親友のことを。その空いた席の空白に彼女の影を浮かべ、何を話してくれるのかを想像してみても、浮かんでくるのは優しい笑顔ばかりなのが辛い。出来ることなら私は、自分の愚痴ばかりを聞いて貰っていた彼女に少しでも恩返しがしたいのだ。早く瑞希に会いたい、会って今度は彼女の悩みを受け止める側になりたい。そんな気持ちで溢れた。

 

時は流れ、五時間目の終わり。今日一日の最後の休み時間を迎えると、詩鶴が教室にやってきた。

「明希ー、お疲れ~。」

「あ、お疲れ様。」

「今日の放課後さ、みっちゃんのお見舞いに行かない?」

詩鶴の誘いは、瑞希のお見舞いだった。会える期待に高揚した私は、目を輝かせて承諾した。

「おっけー!じゃあ放課後、みっちゃん()集合で良い?」

「え、現地集合するの?」

聞き返すと、詩鶴は私の耳元で

「今日も先生から逃げ切らなきゃいけないから。」

と、悪そ~うな笑みを声に乗せ、囁いた。

「ああ、そう...。勉強もちゃんとね...。」

「大丈夫大丈夫!テストは一応、四十点台で下回らないようにはしてるし。」

いや、赤点ギリギリ...!鶴ちゃん、将来がちょっと心配だよ...。

「じゃっ、そうゆーことでっ!」

そう言って詩鶴はチャイムの音とともに走り去っていった。

 

 

「はあ....、はあ.....。」

"矢原"と書かれた表札の前、瑞希の家の前につく。詩鶴は集合時間を三分遅れて、猛ダッシュで到着したばかりで、滅茶苦茶に呼吸が荒れていた。

「鶴ちゃん...、真面目に課題やっていれば息切れせずに来れたんだよ...?」

「へへ...、なんのなんの....っはあっ、頭使う方がぁっ、よっぽどしんどい....。」

「そ、そう...。」

変に思われるから息切れを直してから呼び鈴を鳴らそうと言ったら、元通りになるまで二分かかった。

詩鶴の呼吸が元に戻ってから、呼び鈴を鳴らすと瑞希のお母さんが出てきた。

「あ、瑞希ちゃんの友達です。お見舞いに来たんですけど、大丈夫ですか?」

そう聞くと

「そうなの!あ、どうぞどうぞ。」

と言って、すんなりと入れてくれた。

階段を上り、瑞希の部屋へ。扉を開け、三日ぶりに彼女と再会すると二人揃って大喜びした。

「明希、つるりん、ありがとね。わざわざ来てくれて。」

「ううん、明希も、私も"みっちゃん不足"で倒れそうになってたからさ、あはは!」

「なにそれ、ははは。」

楽しそうにはしゃぐ詩鶴。

「鶴ちゃん...!みっちゃんまだ病床なんだよ?」

「あー...ごめん、つい。」

詩鶴を注意すると、直ぐに瑞希が空気を戻そうとした。

「いや、大丈夫だよ。もう殆ど治ったようなもんだから。明日からは学校行くよ。」

そういう瑞希に

「本当!?ほんとの本当!?」

と、彼女の腕を掴んで、目をキラキラと光らせる。

「良かった...私とっても会いたかった...!」

すると

「あーーきぃ~~?みっちゃん、病人なんだよ~...?」

と、詩鶴に仕返しされた。

それからというもの、病気の彼女のお見舞いとは思えないほど三人で遊んだ。トランプをしたり、ジュースを囲んで世間話。ベタな娯楽でさえ、ひとときたりとも飽きることがなかった。そして、制服姿の私達に一人だけ寝間着姿で浮いている瑞希。いつもと違うその姿はとても可憐だった。

「ああ全く。私達、お見舞いに来たんだよね?」

「ふふ、遊びに来てるよ。迷惑なはなし。」

そう言って笑いあう三人。気づけば二時間も過ぎていた。

 

空もそろそろ青くなってきた頃、詩鶴が言った

「あ、ごめん。ちょっとトイレ借りて良いかな?」

その一言と共に瑞希と二人きりになった。居るだけで明るくなる詩鶴が一時的にいなくなったのが原因なのか、二人の間に十秒ほどの沈黙があった。半身を毛布に入れた状態の瑞希。そのベッドの横に座り、彼女を見上げる。居たたまれなくなった瑞希が恥ずかしそうに笑った。 

「あはは、やっぱつるりんは元気だね。部屋出ただけで温度変わっちゃったよ。」

「だね。」

また部屋が静かになる前に、お互い気を遣いあうように無理やり話題を絞り出そうとしたが、中身のない話では中々会話は続かなかった。また十秒ほど沈黙したあと、私は言おうとしてたこの前の失敗を口にした。

「あの、この前の保健室でのこと....ごめんなさい。」

「え?....?......あ~!あれね。あはは、あんなの気にしなくて良いよ。私もつるりんに投げちゃったし、ややこしくしちゃってごめん。」

「え、いや...おかげで鶴ちゃんともっと仲良くなれたから、感謝してるよ。」

「感謝なんてそんな。」

「身体、辛かったんだもんね。」

瑞希は、目線を下に外して打ち明けた。

「ただの風邪のはずだったんだけど、ちょうどアレと重なっちゃってね。」

「そっか...、それは辛いね。」

「あはは...、私としたことが。貧血起こすわ、吐き気に襲われるわで。」

「本当にごめん。」

「あ、いやいや!だから気にしないで....って気ぃ遣わせるようなこと言ったの私だよね、ごめん。」

「いや、そんな――」

「なんか私達、さっきからごめんしか言ってないね。」

瑞希の苦笑いに、私も少し口角を上げた。

「明希、目笑ってなーい。」

「あ....。」

「あはは。」

瑞希がさっきの明るい笑顔に戻り、私の作り笑いも偽物ではなくなった。

 

彼女は優しい声で

「寂しかった?」

と、私に言った。

「うん。」

「そっか。でも、一人でもちゃんと頑張れたんだもんね。」

彼女の言葉が母と重なる。懐かしい気持ちと相まってか、心はだんだん複雑になっていった。

「偉い偉い。」

包み込むような優しい声が鼓膜に触れた。彼女の熱い手のひらが、私の頭を夕暮れに打ち寄せる波のように撫でてくれている。私は...

「瑞希...」

横から彼女を抱きしめ、その頬に口づけた。

「えへ!?明希ったら、もう何してんの~?」

心が壊れた、というのはこういうことをいうのだろうか。優しさは、弱い炎がゆっくりと肌の奥を焼いていくように、温もりのなかで知らぬ間に深い傷を負う。彼女の母性的な友愛に、私は堪えられなかったのかもしれない。一度失った心のすみかを二度と離すまいと言わんばかりに、同じ友愛であったはずの想いは歪み、拗れておかしくなっていく。

私は両手で頬を包んで深く、深くその唇を奪った。瑞希から感じるその熱に、心臓の拍は急激に上がった。互い別々の理由で荒くなる呼吸、じたばたと抵抗する彼女へそっと目蓋を開くと

 

「な...、なに............して..る...の.....?」

 

彼女の瞳は点のように小さくなっていた。

言葉を失い、震えた声で動転する瑞希の表情で、私は我に返った。

「ごめーん、ただいま~。」

「........。」

「..............。」

「あれ...?二人とも、どうしたの?」

詩鶴に見せまいと互いに背中を向けあって、火照りきったその頬と涙を隠した。

 

つづく。





四年前

九月頃、明希のお母さんにお見舞いに行ったとき、あのときはまだ会話が成り立つほどには元気だった。明希がトイレで席を外している時に、お母さんに言われたことがあった。
「瑞希ちゃん、ごめんね。もう中学生だっていうのにあの子、子供みたいに甘えん坊で。」
「いえ、良いんです。それがあの子の可愛いところですから。」
「そうね、...そうかもしれない。」
彼女は病室の窓の景色に目を向けて言った。
「あの子ね、心の病気を幾つも抱えてるの。」
「え....?」
「瑞希ちゃん、明希にやたらベタベタされるでしょ?」
「まあ、あんなもんじゃないですか...?」
「そう思ってくれているなら良いんだけどね。あの子、瑞希ちゃんに会う前はよく苛められてたのよ。」
「今以上にですか...?」
「ええ。周りから無視されたり、時には暴力も振るわれたって。」
「はい?それ一体誰ですか―――」
「落ち着いて。それは明希が周りとは違うからよ。」
「だからって....。」
明希のお母さんは、私の目を申し訳なさそうな目で見て言った。
「あのね、私が死んだら瑞希ちゃんには本当に苦労を掛けさせてしまうと思う。それを今生きている内に謝っておきたかった。本当にごめんなさい。」
「え、どうしたんですか急に。」
私は彼女の言ってる意味が分からず、突然発された重たい言葉に苦笑いした。
「あの子ね、きっと私が居なくなったら貴女を母親代わりにすると思う。そしたら今以上にベタベタが増えるだろうし、我が儘言って何度も迷惑掛けてしまうかもしれない。」
「良いですよ、それで明希が幸せだって言うなら。」
「違うの。」
「え?」
「どうか、どうかあの子を大人にさせてほしい。こんなこと中学の女の子に押し付けるなんて情けないってことは分かってる...。でも、あの子がしてくることで嫌なことは、ちゃんと嫌だって伝えて欲しい。」


明希のお母さんが他界してから、私は今まで以上に彼女を親兄弟のように接した。嫌々で母親代わりのような存在になっていたんじゃない。元々、人のために何かをするのは好きだった。
でも、怒るべきとこで怒らずに、彼女を否定することから避け続けてきた私に返ってきたのは、その報いだった。


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38.友愛の迷路 -瑞希編-


明希を突き飛ばしたとき、彼女は酷く怯えた顔をしていた。私は明希に、夢の中から無理やり引きずり出すようなことをしてしまったのだろう。彼女が唯一信頼していた存在が、彼女を拒絶したのだから。
でも、あのままキスの続きを許していたらどうなっていただろう。詩鶴にもこの秘密を背負わせてしまうし、それを見られた明希がどんなに辛い思いをするだろうかを考えると、こうせざるを得なかったんだ。
でも、じゃあ私は?あそこにいたのが明希だけだったら、私は彼女に抱かれるのを許した?だって...だって明希は女の子なんだよ...?私、初めてのキスを女の子としちゃったんだよ...?それでさえまだ心の整理がついていないのに。明希は私をお母さん以上の存在で見ていたのか、その現実と明希からの愛情を受け止めきれずに、あの日は涙が溢れて止まらなかった。


「みっちゃん、泣いてるの!?どうしたの、何があったの?」
「......。」
「え、明希もどうしたの...。ねえ、二人とも何で泣いてるの、何があったの!!」
「ぐすっ..........ごめんなさい.....ごめんなさい....。」


ねえ明希、私どうすればいいの。貴女の何になればいいの。


 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.38「友愛の迷路 -瑞希編-」

 

―――――――――――――――

「みっちゃん、話してくれないと分からないよ。」

―――――――――――――――

 

朝のホームルーム。いつもなら通路を挟んだ向こうの席の明希に話しかけているんだが、彼女はまだ学校に来ていない。モヤモヤした気持ちが晴れないまま、先生が出席を取りだした。

「村下。」

「はーい。」

「山井。」

「はいはーい。」

「おい、ちゃんと返事しろ。」

「はい、すいませんでした。」

順に呼ばれていき、私の名前が呼ばれた。

「えーっと....次、矢原。」

「...はい。」

「四日ぶりだな、元気か。」

「はい、大丈夫です。」

「はい次......えー四倉は今朝、欠席の連絡があった。体調不良だそうだ。」

彼女の席を見つめる。空いた席からはどこか悲しげな空気が漂っているようにも見える。私が休んでる間は、私がいま座っているこの席を同じように見ていたんだろう。

分かってる。彼女は体調不良なんかじゃない。私があのキスを嫌がったから、合わせる顔が見つからないんだろう。

「じゃあ、先生来るまで静かに待ってろよ。」

そういって担任の先生は教室を去っていった。一時間目が始まるまでの時間、先生の言うことなどお構い無しに教室は騒がしくなる。

「ねえねえ。」

「なになに?」

「四倉ってあの矢原さんにいつもくっついてる子だよね?」

その中で、何人かが明希に関することでコソコソ話をしているのが聞こえてくる。小さな声で喋っているはずの声が何故か今だけハッキリと聞き取れてしまう。なんて皮肉な話だろうか。

「そうそう、なんかベタベタしすぎだよね。」

「わかるー。」

「私らだってハグくらいするけどさー、あれはもう愛し合ってるよね。なんつーか、ちょっとキモい。」

「あはっ....確かに。裏で実は付き合ってたりして。」

「うっそー、マジありえない。」

聞こえてきた明希の陰口に苛立ちを顔に出すまいと思いつつ、鉛筆が震えてまともに持てない。今すぐにでも誰かにこの愚痴を聞いて貰いたいのに、あんなことがあった後では何を話せば良いのかも分からない。他人からも、近い存在からも重圧がのし掛かってくる。背負ったものをどこにも下ろせない。辛い、ただ辛い。それなのに、誰にも助けを呼べない。

「なあなあ、あの四倉って女、」

「え、四倉?あの根暗?」

「そうそう。あいつ、暗いけど顔は良いんだよなあ。」

「え、マジ?狙ってんの?」

「ああ。だって、いつも付き添いの女にベッタリだし、意外と裏はビッチなんじゃねえかと思ってさ。」

「お前マジかよ、やべえな!」

「もしかしたら案外すんなりヤれちゃったりしてな!」

「あははははははははははははは!!」

 

やめて......あの子に酷いこと言わないで

明希を傷つけないで....

 

「嫌なことはちゃんと嫌って言ってあげてね。」

「ごめんなさい....私、瑞希に酷いことした。」

「みっちゃん、本当のこと話して。」

 

やめてよ、もうやめて.....私に構わないで

 

「キモいよね.....。」「尻軽いんだろうな!」

「絶対処女じゃねえよ。」「横にいる女も同じくらい...」

「どうかあの子のこと、お願い。」「みっちゃん、ごめん。私のせいで...。」「あはは、みっちゃんは優しいもんね。」

やめて...やめて....私知らない.....、何も悪くない....。

やめ.....やめろ、やめろやめろやめろヤメロ..........

 

 

 

 

―ねえ、みっちゃん...!―

 

「..........っっ、うるさい黙れ!!!!」

 

 

 

 

 

息を大きく飲み込み、気がつくと私は詩鶴のお店にいた。目の前には詩鶴が目を丸くして驚いている。我に返った私は、鉛のような重い頭をなんとか真っ直ぐにして作り笑いを見せたが、目が動転したままで口角が上がってるせいで、詩鶴がかなり引いている。

「......ごめんなさい...私.......。」

「え....、ああ...私こそごめん。問い詰めすぎちゃったよね。無理なら話さなくて良いんだけど、....ちょっと知りたかったから。ごめん。」

そういえば、私から詩鶴に相談を持ちかけてお店に来ていたんだった。昨日、あの部屋で泣いたまま何も話さずにいたことを改めて詩鶴が聞こうとしてきて、私は何を血迷ったのか、問い詰める詩鶴に怒鳴り返していたのだ。

「どうして怒鳴っちゃったんだろ。疲れてるのかな私....。あはは....私、ちょっとおかしいみたい。」

「...うん、おかしいよ...。さっきから声震えてるし、みっちゃんがこんなに荒れてるの、私初めて見たよ。」

「ごめんね.....本当にごめん....。」

相談役になってくれていた詩鶴に大声を浴びせるなんて私は何をしているんだろう。このままでは明希どころか、詩鶴や、他の関係ない人にまで暴れ散らして迷惑をかけてしまう。

「ほら、髪ぐしゃぐしゃだよ。これじゃ可愛い顔が台無し。」

そういって詩鶴は、逆立った髪を解かし、整えてくれた。

「今までみっちゃんに沢山手助けして貰ったから、今度は私がみっちゃんの力になりたいな。」

「(コクっ)」

「それに私、無理して辛い思いしてまで優しい顔してるとこなんか見たくない。」

「.........。」

「鞄の中に自分以外のものを入れすぎだよ、瑞希は。私にも背負わせて。それがどんなに重くたって構わないから。」

詩鶴が私の肩に手のひらを置いて微笑むので、私は彼女の胸の中に飛び込んで子供みたいに泣いた。

恥ずかしかった。こんな歳になって声を上げて泣くというのは。でも、それ以上に胸の奥が痛くて、苦しくて、死んでしまいたいくらい辛かった。

「私どうしたら良いの.....どうしたら........!」

「大丈夫。みぃーんなうまくいく。大丈夫だよ、心配しなくても。」

春の陽だまりのように温かい詩鶴の腕に包まれながら、その優しい声は木枯らしを春風へと変えていく。心の隅に閉じ込め、凍りついた厚い壁がその温もりに溶け、この目を濡らしつづけた。

「つらいの、つらいの飛んでいけーっ。」

そう言って彼女は笑った。

 

 

それから私は、詩鶴に今までのことを打ち明けた。あまり上手くは話せなかったけど、一つ一つを頑張って言葉にして。明希のことを話して詩鶴が驚く度に

「明希を責めないであげて...。」

と、その肩を掴んで嘆願した。彼女は笑顔で

「分かった。」

と答えるも、その目はどこか寂しそうだった。詩鶴からしても、きっとその胸の内は複雑なんだろう。彼女を突き離すことも、自分の心に嘘をついて彼女の愛を受け入れるのも、どっちも悪い方向にしか進まない。

「みっちゃんは.....どうしたいの?」

詩鶴が尋ねる。

「私は.........私は..........、。.....。、、。

...分かんない。出来るなら明希の気持ちに応えたい。」

「そっか。」

「でも、私怖い。明希をそういう目で見てあげられるかどうか....。好きになる努力っていうのかな、でも努力して好きになるのって、なんなのかな。」

「んー...。」

「あはは.....、ごめん。重たいよね。」

「いや、そんなことないよ。」

「私ってダメダメだよね。何やっても愛想笑いしてるみたいだし、実際に愛を受けるとどうして良いか分かんない。あはは、何言ってんだろ私...。」

「相当お疲れだね。」

「あはは。ねえ、つるりん、私の悪いとこ言ってってよ。直球で良いからさ。」

「急にどうしたのさ。」

「何か優しい優しいって言われても私分かんないからさ、もう滅茶苦茶に貶してくれた方が嬉しい。」

少し病みかけの私に、詩鶴は苦笑いで、少し申し訳なさそうに言った。

「.....みっちゃん、Mなの?」

「そういう貶しじゃない....。」

「いや、貶してるわけじゃ...。」

「むーっ....。」

「(なに今の。)」

詩鶴は急に目を丸くして私を見た。その表情の意味を掴めずに同じように目を丸くすると、彼女は答えた。

「とりあえず、もっと自我出していいんじゃないかな...?爆発しちゃう前にさ。」

「あ....うん、そうだよね。」

「もっと怒っていいんだよ。素直なみっちゃん、もっと見たいな。」

「うん、分かった。頑張る...。ありがとう。」

「あと、」

「うん...?」

 

詩鶴の目が突然キラキラし、顔をグーっと近づけてきた。

 

「さっきの"むーっ"ての、もっかいやってくんない!?ちょっとキュンって来ちゃった!」

「えっ、え....!?え、いや....そんな、狙ってやったわけじゃ....!!」

「狙ってないから可愛いんだよ!!」

「え、えぇ......?む、むぅ.....?」

「違う!もっと上目遣いで若干不貞腐れたみたいに!」

「んー......。むぅーー....ごめん恥ずかしい無理。」

「それそれそれそれ!!キャー~、めっちゃ可愛いんだけど!?もう一回やって、もう一回!!」

「無理無理無理無理無理無理!!駄目!絶対ヤぁ!」

「え~~、良いじゃ~ん♪ね、一回だけ!ねぇ~お願~い♡」

「ちょっ、あの....だから、その

って、コラァあああああああーーーーーーーー!!」

「あ、怒った。」 

 

つづく。



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39.心の麻酔-瑞希編2-


登校中、詩鶴は瑞希に会った。
「あ、みっちゃん。おはよー。」
「つるりん....おはよう。」
彼女はいつもより落ち着いた雰囲気で詩鶴に挨拶を返した。
「どこ行くの?学校あっちだよ??」
学校の方向から歩いてきた瑞希に一声かけると、ただ一言
「忘れ物しちゃって。」
と言う。よほど忘れてはならない重要なものなのだろう、そう思い、私は深くは突き詰めずに手を振った。
「あ、そう。よく分かんないけど、気をつけてね。」
「うん。」
そして短い会話を交えたあと、彼女は去っていった。
瑞希とはこの前のお悩み相談会みたいな時間で沢山おしゃべりした。滅多に見ない彼女の落ち込んだ姿、打ち明けてくれた心の闇の部分に何かしてあげられた訳じゃないけど、安心したような顔を見せてくれたことが嬉しかった。
詩鶴がホッとしたような顔で後ろを振り返ると、ちょうど瑞希が曲がり角を曲がっていったのを見れた。
学校の近くまで来たとき、彼女は異変を覚えた。立ち止まって考える。やはりそうだ、瑞希の家とは逆方向の道へ進んでいった。そのとき詩鶴は考えた。
「あの道の方向に何があったっけ。」
じっと止まって考える。上った時計の秒針が詩鶴のいる地面を差そうとしたくらいの時、彼女は気づいた。
「....明希だ、明希の家だ。」
だとすれば、なぜ今あの子に会いに行く?何であんなに暗い顔をしている?
詩鶴の熱い頬に伝う、冷たい汗の一滴(ひとしずく)が朝陽の降りつもるアスファルトへと落ちる瞬間、彼女は見失った瑞希の背中へと駆け戻っていった。


 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.39「心の麻酔-瑞希編2-」

 

朝、通学途中に寄ったコンビニ風の薬局で昼食のパンを選んでいた。甘いもの、塩気の効いたもの、必要な分をかごに入れていきながら、今日もきっと来ないであろう明希のことを想い、その度に浮かぶ彼女の怯えた表情が私を責めた。

「あの子を拒みさえしなければ。」

「あの日、もっとああしていれば。」

幾千の後悔が頭のなかを駆け巡る中、商品棚に置いてあった小瓶に目をやる。

「ありがとうございました。」

買い物を終えると、私は学校とは反対の道を歩いた。

 

 

ピンポーン

呼び鈴を押し、しばらくすると明希が出てきた。

「えっ.....。」

「おはよ。明希、その....この前のことで私、その....、謝りたくて。」

明希は驚いた顔をすると、両手をバタバタと振って、焦ったような声で言った。

「あ...いや、ごめん。あれは....違うの。わ、わた...、私がおかしかったの。だから―――」

「いいの。」

「え....?」

顔の赤らめた明希を宥めて、そっと微笑んだ。

「今日は学校行かないから、明希、遊ぼ。」

そういうと、少し困った顔をしながらも明希は家に上がらせてくれた。久しぶりに入った明希の家、三人家族だった面影がまだ残る静かなリビングを見つめていると

「みっちゃん、私の部屋。」

と短く告げ、私は彼女についていった。どうやらお父さんはもうお仕事に行かれたみたいだ。

綺麗に片付けられた部屋。机には作詞帳が開かれ、書きかけの文字が。棚にはビッシリと詰まった本、タンスの上に山積みのぬいぐるみ、そのぬいぐるみのひとつがベッドで寝転がっている。明希はそれを押し退けて腰かけ

「隣、来て。座って良いよ。」

と言った。

「心配して来てくれたんだよね、ごめんね。」

「あはは。ホント、私心臓がはち切れるかと思ったよ。会いたかった。」

「私も。でも私、意気地無しだからさ、ずっと会うのが怖くて。」

「そんなことないよ。私もどうして良いか、何を言って良いか分かんなかったし。」

「でも来てくれた。....みっちゃんには本当に感謝してる。」

制服姿の私と、部屋着の明希、この前とは逆の姿のお互いに不思議な気持ちを覚えた。空いた窓から吹く初秋の涼風に二人の髪が揺れる。しばらく黙って雰囲気を味わっていると、明希は落ち着いた声で話した。

「あれからね、ずっと考えていたの。」

「うん?」

「私にとってのみっちゃんが、どういう存在なのかって。」

「.......。」

「お母さんが死んでから私、みっちゃんに何度も我が儘言って迷惑かけたじゃない。」

「そんな、迷惑なんかじゃ...。」

「私ね、無意識のうちにずっと探してたんだと思う。甘える宛っていうのかな、寂しいときにいつでも腕のなかに飛び込めるような誰かをさ。」

「そっか。」

「だから、みっちゃんには正直な話、何をしても許されるって思ってた。」

「.....。」

一呼吸の間を置いて、明希は言う。

「この前のキスのこと、本当にごめんなさい。酷いことしてしまった。それでみっちゃんがどれだけ辛い思いをするかとか、何もかんがえてなかった。」

「明希....。」

「本当は私からみっちゃんに言いに行かなきゃいけないのに、そんなことすら出来ないで、一人家に閉じ籠って、自分だけ悲劇のヒロインぶって...、私ってどこまで最低なんだろうね。もういい加減、大人にならなきゃいけないっていうのに。」

「明希、大丈夫だから。もう自分を責めないで。」

私は明希にそう言って抱きしめた。すると彼女は少し涙ぐんで、ぼやいた。

「ああ、あったかいな...。どうして人の腕の中ってこんなに心地良いんだろ。」

明希は続ける。

「今この状況で、"子供じゃないんだから"って怒れるほど強かったらどんなに良いのになぁ。何度やろうとしても出来ないままでさ。」

「良いんだよ、私がついてるから。」

「っへへ。駄目だ、やっぱり私、優しさが怖い。」

明希を抱きしめる腕をほどくと、彼女は溢れかけた涙を手で拭い、弱い笑みを浮かべた。

 

「みっちゃん、やっぱ私っておかしかったんだよね。あはは。」

「.....。」

私は自分の鞄に視線を落とした。明希は空気を切り替えようと立ち上がる。

「ごめん、お茶も出さずに。待ってて、今なにか食べるもの取ってくるから。」

そんな明希を引き留めるように、私は明希の腕を掴んだ。

「え?」

「待って。」

「....え、どうしたの?」

「...正直に答えて。」

頭に「?」を浮かべる明希に、私は諭すように問うた。

「本当の気持ちはどうなの。」

「......?」

「私のこと、どう思っているの。好き?」

「....あはは、そりゃあ友達として―――」

「恋愛感情として。」

居たたまれないような沈黙が二人の間に流れた。再び互いを引き裂くかもしれない問題に、明希は戸惑ったんだろう。俯いて、視線を反らし、しばらくすると彼女は今にも消えそうな小さな声で答えた。

「........き。」

「....うん?」

「.....好き。でも、それは私が異常者だから。みっちゃんにこの想いは背負わせられない。」

「そっか。告白してくれてありがとう。」

「.......私、お茶菓子とってくるね。」

部屋を出ていく明希、彼女の部屋で一人きりになった私は、胸に手を当てて大きく息を吸った。

思い違いじゃなかったこと、確かに明希の唇から"好き"の文字を聞き取れたこと、それは私の中ではまだ戸惑うものではあるけど、もしも私が躊躇うことなく彼女の心を受け止めることができるなら。そう思うと、それは確信へと変わった。

私は鞄から"それ"を取り出して見つめた。片方の手を胸に当てると、心臓がこの行動を思い止まらせようとするかのようにバクバクと肌の内側を叩く。そんな緊張を圧し殺し、蓋を開けた。手のひらにそれを開けると、戸惑いをぐっと抑えて口に放り込み、飲み込んだ。

「(んくっ......)っっ、はあ.....はあ.....。」

喉の奥へと流れていく感覚は後悔を通り越し、寧ろスッキリするほどだった。これから何が起ころうともこの身体は、心は、決して嫌がることはない。その安心感が私の気を楽にした。そして、ぼんやりしていく意識の中で、階段を上り、こちらへ向かってくる明希の足音が聞こえた。それに気づいた私は"それ"を咄嗟にポケットにしまった。

 

つづく。




【修正箇所】
2023.12.23
一部の擬音を変更


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40.我慢の限界-瑞希編3-

【本編には過激な表現があります】


 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.40「我慢の限界-瑞希編3-」

 

「お待たせ。」

明希が小さなテーブルにお茶菓子を置く。

「さ、食べよ。」

彼女がそう言うと、それに誘われた私は静かに彼女の隣に座った。

「いただきます。」

そう言ってお茶を手に取り、置かれたお菓子をひとつ、ふたつと摘まみ、微笑んだ。

不思議な気持ちだった。明希が口に入れるもの、それが喉に流れていく音でさえ、妙な色気に感じて複雑だった。私は取ったお菓子を明希の口元に近づけてみた。

「.....?」

「あーんして。」

「え、どしたの?」

「いいから。」

「.....?あーー...」

私の指が明希の柔らかい唇に当たると、この心臓は更に鼓動を速くした。恥ずかし笑いをする彼女に、私はだんだん気持ちを抑えられなくなっていく。手渡ししたお菓子は彼女の口のなかで咀嚼され、飲み込む音がまたこの鼓膜に触れる。私はとうとう我慢できなくなって、彼女の両肩を掴んだ。

「明希。」

「......!なに....なに、どうしたの?」

「....もう一度言って。」

「な、なにを?」

「"好き"って。明希の口から、もう一度。」 

「........。」

「ねぇ、はやく。」

「.....私、どうしたら。」

「ねえったら。」

明希は少し戸惑った表情を見せていた。だが、私にはもうそれに気をやるほどの意識はなかった。

「.....すき......好きだよ。瑞希の、...こと。」

「..........。」

「み........ずき?」

「......うふふ。」

私は明希を押し倒した。倒れた彼女に折り重なって顔を近づけ、今にも焼けそうな熱い息に言葉を乗せ、それを彼女に向けて吐いた。

「ねえ、この前のキスの続き。....してあげる。」

そう言って明希と唇を合わせた。

身体が溶けそうな気がした。全身に走る電気のような緊張、肌に纏う熱帯夜は、正しいとか、間違いを全てぼやけさせ、心は完全に麻酔の中で溺れていた。熱を帯びた柔肌の刺激は、人を狂わせてしまう程の快楽だということに、それに気づくのに時間など必要なかった。

暑さに耐え兼ねて制服を脱ぎ捨てると、そのポケットに入っていた小瓶が落ちて転がる。明希がそれを見つけると、彼女は驚くようにして固まった。

「瑞希...、あれ....なに。」

「どうでもいい。」

明希の質問に口づけで黙らせようとした私を、彼女は両手で止めた。

「何するの。」

「何するのじゃない...。....瑞希、あれはなに....。」

「........。」

「何の薬....、何飲んだの....?」

明希は目を合わせることが出来ずに、声が震え始めた。

「ねえ.....今の瑞希は、瑞希なの....?」

「....え。」

「みっちゃんの、.....本心なの...?」

「そんなこと、どうで―――」

「どうでも良くない...!!」

明希は、その綺麗な瞳からキラキラと涙を浮かべて嘆いた。

「こうなりたいって...夢にみてたよ、こうなりたいって...。でも、それは瑞希が...薬で無理やり心を黙らせてまで、そんなことをしてまで思い通りになって欲しかった訳じゃない...!」

明希の言葉がこの胸に届けば、私は彼女の涙を拭いて、ごめんと謝ったのかもしれない。しかし、私の心はもう麻痺している。その言葉は例え胸に突き刺さろうとも、今は痛みにさえならない。

「....うるさい。どれもこれも全部、明希が始めたんだ。分かったら黙って私とするの。」

「やだ!やめて...やめて!!そんなの瑞希じゃない!!」

明希は必死に抵抗するも、その弱い力では何も止められない。無理やりに服を脱がし、その肌を隠す最後の生地を取り払おうとした時、扉が勢いよく開いた。振り向くと何故かそこには、息の切らした詩鶴がいた。

「明希!!みっちゃん!!」

私と明希は、詩鶴の手によって引き離される。

「このっ...、明希からっ...離れろ!」

私は壁に押さえつけれれ、強い口調で問い詰められた。

「みっちゃん!!何やってんだよ!!」

「あははぁ....つるりん~、へへっ、詩鶴も交ざって三人でシようよ~。」

「.....っっ!」

 

....ピシッッ!!!!!

 

目の死んだ私に、詩鶴は目一杯の力を込めて頬を平手で打った。

「目を覚ませこのアホ!!明希が嫌がってんのが見えないの!!?」

明希の服は乱れ、顔はぐしゃぐしゃになり、声を上げて大泣きしていた。頬に走る痛みと、鬼のような詩鶴の形相。私は我に帰って途方に暮れた。

「わたし......わたし.............。」

「いい加減にしろよ...、あんなに一杯悩んで、落ち込んで、出した結論がこれかよ。ふざけんのも大概にしろ。」

怒りに震える詩鶴の声とともに肩を強く揺さぶられ、私は怖くなって泣いた。

「もう...何なんだよ二人とも...、正気に戻れ....。」

大きくため息を吐いた詩鶴は、崩れるように座り込み、涙声でそう言った。そして、転がり散らばった小瓶を見つけると、明希と同じ言葉でまた私を責め出した。

「これ....何...。」

「......。」

「媚薬....?」

「................。」

「はあ.....、もう本当何やってんだよみっちゃんは!」

強い効力のある、一種の合法的な麻薬みたいなものだ。本来なら三つも飲めば十分効果を発揮するものらしいが、それを私は五錠も飲み込んだ。正気が保てなくなるほど....いや、正気なんか一瞬で壊れた。

「馬鹿じゃないの.....?だって、だって誰一人として望んでないんじゃん。こんなことしてまで、これが明希の為だって本気で思って――」

「.....るさい。」

「え.....?」

私はもう、どうしていいか分からなかった。感情がぐちゃぐちゃになっておかしくなりそうだった。私は諭す詩鶴を突飛ばし、大声で怒鳴り付けた。

「うるさいんだよ!!みんなみんな、私を分かったような口聞きやがって!!」

「みっ....ちゃん...?」

突き飛ばされた詩鶴が、驚き屈した目で見つめる。明希はそんな詩鶴の背中に隠れて、言葉にならないような怯えかたで私を怖がった。

「優しい優しいって、そういう役を無理やり着せて、断れない私に何でもかんでも押し付けて!!それで力になろうって頭悩ませてやったらいっつもこうだ!気がおかしくなったみたいな言い方して、それにどれだけ体調崩して吐き気我慢して顔に出さないようにって、それでも一生懸命休まず学校来てんのに、そしたら今度はなんだ、"無理しなくていいんだよ"だぁ!?ふざけんの大概にして欲しいのはこっちなんだけど!!

明希だっていつまで経ってもハッキリしないし!なに、私と恋人になれたらそれでいいんじゃないの!?私こんなに頑張ってんのに何でまだ我が儘言われなきゃいけないの!?」

「そ....それは...、みっちゃんのた―――」

「私のため!?私のためならあのまま黙ってされとけば良かったじゃない!」

「....みっちゃん....怖いよ....。」

明希がボソッと呟く。詩鶴は体操座りで眉をひそめ、私に言った。

「あのさ....こうなる前に、何で全部話してくれなかったの。」

私はその言葉に、顔がぐしゃぐしゃになるまで目を濡らし、反論した。

「言ったら詩鶴はどうにかできた?何も間違わずに解決できた?」

「それは.....分かんないけど...。」

「ほら、分かんないんじゃん!!だったらもう勝手なこと言わないで...。」

「..........。みっちゃんは、本当に"これ"しかなかったの...?」

「.......分かんない。そんなこと考える余裕なんか無かった。」

私のがっしりと閉じた両拳に、明希は恐怖を圧し殺し、勇気を目一杯に振り絞って言った。

「みっちゃんは、私にどうして欲しいの...?」

「は?」

「ごめん...!悪気があって言ったんじゃなくて....。」

「....もうここまで来ちゃったんだ。明希がそれで喜ぶなら良いよ、彼女になったって。」 

「......ありが.....とう。」

「続き、しないの?」

「え......?」

「さっきのだよ。まだ嫌なの?」

「う、うん....。」

「分かった。...トイレ借りていい?」

「え.....?」

「まだ薬切れてないの。....ほら、その....。言わせないでよ...。」

「ああ、....うん。」

扉が閉まり、部屋に取り残された詩鶴と明希は交わす言葉のひとつも思い付かないまま、惨い静寂に包まれた。

 

つづく。



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41.雛-詩鶴編-


「ねえ、みっちゃん。」
「なに。」
「私ともう...、友達でいたくなくなった...?」
瑞希はしばらく口を紡いだ。
「...明希は友達だよ、これからもずっと。でも、」
「でも.....?」
「今はちょっと....お願い。少しだけ距離を置かせて。」
「....そっか。」
俯いて涙ぐむ明希、瞳の光の無い瑞希。
詩鶴は彼女の背中に弱い声で言った。
「....ごめん、さっきはキツいこと言って。」
「良いの。私が全部悪いんだから。」
瑞希は冷静さを取り戻してからというもの、ずっと自分を責めるような言葉を吐いている。詩鶴も、明希も、かける言葉を失くした。
「学校、もう遅刻だね。」
そう瑞希は言う。
「...そうだね。」
と、詩鶴は返した。
「明希は、行くの?学校。」
「..........。」
「...そう。」
「....待って。」
「....?」
「もう逃げたくない。だから、.......いく。」
「......分かった。」
そして、明希は瑞希の裾を掴んで言った。
「....みっちゃん。」
「......?」
「悪いのは....私もだから。」
「........。」


 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.41「雛-詩鶴編-」

 

あの日から私は奮闘した。瑞希が一人で俯いている時は話しかけてあげたり、保健室で仮登校している明希に会いに行ったり。それはあまり大忙しで、汗ばむほどに大変だった。だけど、あのままでは本当に二人が離れ離れになってしまうと思ったから。

 

「みっちゃーーん♪元気してる?一緒にお昼食べよ。」

一人ぼっちでいる彼女の肩に、ポンと両手を置く。

「あ....うん。おはよう。」

「みっちゃん、もう昼だよー?」

「え....?」

「あはは。ま、それは良いんだけどさ、今日お弁当にタコさんウインナー入れすぎちゃったから少し食べてよ、美味しいよ~。」

瑞希は箸も、弁当も机の上に置いていない。俯いたままの瑞希の心の扉を何度も叩くように、私は彼女の前に笑顔でいた。

「ほらほら、あーんして、あーん。」

何一つ表情を変えない瑞希だが、口元に近づけると彼女は困りながらも食べてくれた。ゆっくりと噛みながら喉を通るまでの遅さからも、その落ち込み具合は伝わる。

「ど?」

「....美味しい。」

「でしょでしょ!えっへへ~。」

「うん。つるりんは本当、お料理上手だね。」

「まあね、いつも何かしら作らされてるし。ところでみっちゃん、お弁当は?」

「ごめん...私、食欲無くて...。」

「そう.....でも何か口には入れとかなきゃ。食べれる分だけでいいから、良かったら私のから取って食べてよ。」

「ありがとう。でも一応、少しパンは買って来てるから。」

「そっか。」

私はあの日のことを少し話すことにした。

「....あのさ、みっちゃん。」

「.....?」

「みっちゃんは良く頑張ったよ。だからさ、あとは私に任せて。まあ...バーッて怒って滅茶苦茶にした私が言っていい台詞じゃないけどさ。」

「その話は...。」

「私がもっと早くに気づいて、普段からもっと悩みを聞いてあげられてたら、こんなことにはならなかったんだ。」

「つるりんのせいじゃない。」

「かもね。」

「....?」

「でも、みっちゃんだけのせいだって言うなら、それは違う。」

「.....え。」

「みんな間違えたんだよ、正しいことをしようとして。」

瑞希は下へ視線を反らした。

「みっちゃんは明希の"好きに"応えてあげたかったんだよね。」

「.......いや、騙せなかっただけだよ。」

瑞希はあの日のことで未だ気に病んでいる。知らずに加害者になっていたことに対する罪悪感や、自分を見失いそうになる不安、沢山の悩みを前以上に抱え込んでいるんだろう。彼女の心の傷を癒すにはきっと、今までよりもずっと側で寄り添っている必要がある。私は、二人の為にどうにかしてやらなきゃと、叫びたい程に思っていた。

 

明希に会いに行ったとき、彼女は机の上で勉強をしていた。私が声をかけると、優しい笑みをこちらに向けた。

「明希、元気?」

「鶴ちゃん。うん、私は大丈夫。気にかけてくれてありがとね。」

私は、明希の机上のノートに目を向けた。

「勉強?」

「あ、ううん。ちょっと真面目に詩を再開しようかなって。」

「へえ~、良いね。ちょっとみても良い?」

「完成したらね。」

「えー。」

「書きかけの詩なんて痛いことしか書いてないよ。」

「別にいいよー。明希がどんなの書いてるのか、見てみたい。」

「....じゃあ、完成したのなら。」

「やった。」

「それ以外のページは見ないでね。」

「おっけ~。」

明希が指定して開いたノートのページには、綺麗な文字で彼女の世界が描かれていた。その表現は私には分からないものも多かったが、並べられた言葉の一つ一つに人間味が出ていた。

「明希、よくこんなの書けるね。」

私が誉めると、彼女は照れくさそうに微笑んだ。

「だいぶ昔に書いたやつなんだけどね。何気に気に入ってる。」

「ええ...、昔にこんなのが思い付くのか。」

「えへへ。」

「今書いてる新作は完成しそう?」

「うーん、分かんないけど、今書かないともう二度とこの気持ちを詩に出来ない気がしてさ。」

「わあ、プロだ。」

「ちょっとやめてよ....、恥ずかしいから。」

「あはは、ごめんごめん。」

明希は鉛筆を机に置くと、窓の外を見つめて言う。

「鶴ちゃん、親離れってどういうものを言うんだろうね。」

「え?うーん....お金稼いで、一人で生活出来るようになる~みたいな?」

「いや、心の方だよ。」

「心....かあ。」

「例えばの話だよ。鳥の雛が一匹だけでどうやって飛べるまでの心を持てるのかな。」

「......難しいなあ。それ答えあるの?」

「きっとね。」

明希の哲学的な問いに、私は想像以上に考えさせられた。明希が今向きあっている課題はきっと、とても大きいものなんだろう。

「私は、飛ぼうとしていた小鳥を引き留めてしまったんだ。これから冒険に出掛けようとしている同じ鳥をね。」

明希は詩的な言葉を呟くと、こちらに顔を向けて尋ねた。

「ねえ、鶴ちゃん、みっちゃんは今元気?」

と、明希は私に顔を向けて尋ねる。

「え?あー....うん、まあね。」

目線をそらして答えてしまった。

「ああ....。」

しょんぼりしたような声になる明希。もうちょっと嘘つくの上手くなりたいって、今ので割と本気で思った。

「いや....、あの、その....。はい、相当参っております...。」

「....だよね。」

「はい.......。」

明希は少し黙って、指を遊ばせた。私は正直に全部話すことにした。

「お昼一緒に食べたんだけど、なんか食欲ないみたいで。」

「え?」

「少しお弁当分けたら食べてくれたんだけど、前みたいに暗い顔のままでさ。」

「そう....なんだ。」

「まあでも....すぐ元通りになるよ、みっちゃんなら。」

明希を励まそうと笑顔を見せたら、彼女は机に視線を落とした。

「....私が悪いの。」

「......。」

私がそれに言葉を探せずにいると、明希はその顔色を(うかが)ってか一生懸命に元気な顔に戻し、結論を目の前に並び替えた。

「...だからさ!一緒に協力させて欲しいんだ。」

「え、何を?」

「元気なみっちゃんに戻すのをさ。」

多分、明希は沢山の自責を聞いてほしかったんだろうけど、でも嬉しい言葉だった。

「明希...、ありがとね。」

「ううん、本当は私一人でやらなきゃいけないことなの。ああさせた責任は私にあるから。」

彼女の放った勇気に水を差すわけにもいかない。まだ"誰かのせい"という考え方をしていることに反論したい気ではいたが、ここはようやく歩きだそうと決意した彼女の背中を押すことが一番だと思った。

「分かった。一緒に頑張ろ。」

「ありがとう。悩みが出来たら迷わず言ってね。私、鶴ちゃんに思いっきり怒鳴られたら多分立ち直れない。」

明希は、からかいを交えて微笑む。

「ちょっと何それー、ひどーい。」

「ふふ。暫くの間みっちゃんのこと、宜しくね。」

「あ、うん。任せて!」

そうして明希は、会えない瑞希のことを気にかけた。私は別れ際に一言、彼女に伝えたいことを見つけてふり返る。

 

「明希。」

「?」

「空は一人じゃ飛べないと思うよ。」

「え....?」

 

つづく。





【明希の作詩帳...その1】

「雛鳥」
春風へ 恋歌を乗せる小鳥たち
私は今も雛鳥の 懐かしい歌を歌ってる

空を飛べてもいつまでも 空は高いまま
誰を待って鳴いてても  声は儚いだけなのに

風に壊れた古巣に ただいまを言いたくて
白い雲のどこかに 会える昨日を信じて

今も飛べない日の胸で
絵空事を夢見ては


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42.心の跡地


「先生、心の病気って一体何を定義するんでしょうね。」
保健室の椅子に座り、柔らかい秋風に頬擦りされると、心は自然と寂しくなる。
「え?」
と、先生は返した。弱い日差しが彼女の表情を縁取っている。
「人それぞれって言葉があるのに、なぜ自分と違う人間はおかしい人になるんでしょうか。」
先生は少し黙ったあと、私に言った。
「それは、みんなが"知らない"だけなんじゃないかな。」
「知らない.....ですか。」
「ええ。自分に持っていないものは、どんなものも不思議に見えるものよ。」
私は空を見上げ、しばらく風を口に含んだ。
「みんながそれを知っていたら、きっと誰も悩まずに生きていけるのでしょうね。」
そう言うと、先生は微笑んで言葉を返した。
「どんな生き方をしても悩みは必ずあるわ。周りが知ることよりも先に、まず自分がそれと向き合っていくことからだと思うな、私は。」


 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.42「心の跡地」

 

校門が閉まる前になると、生徒もまばら。そのタイミングで登校し、保健室に入室する。先生と話し合って、しばらくはここへ通うことになっていた。

瑞希と会ってから数日が経った頃、あれから私はずっと作詩帳とにらめっこをしていた。あの日、三人で曲を作ろうと誓い合った約束を何とかして叶える、それが今の私に出来る精一杯だと思っていたから。

「うーーん.....。」

それにしても心が重たい。このままでは駄目だと自分自身で背中を押しても、ふと気が抜けると「自分は駄目な人間なんだ」と簡単に気分が転がり落ちてしまう。その度に私は大きく深呼吸をして詩鶴や、瑞希の笑顔を浮かべるようにした。あの子ならこんな私に何て言うだろう、そう考えることで大きくは変えられなくても、少し元気を貰えた。

「ふああああ.....。」

疲れが溜まり、大きな欠伸が出てしまう。どれだけこんな日を過ごしただろう。ノートを見つめ、少し書いては欠伸を、何か違うと詩を消ゴムで擦ってはため息を、そんなことをここ何日も繰り返していた。

休憩時間の終わりを知らせるチャイムが鳴り響く。慌てふためく生徒たちの声がやがて静まると、窓の外を見つめ、ノートを鉛筆で何度か小突いた。それでも言葉が思い付かないことにやるせなさを感じ、私は後ろを振り向いた。

保健室を見渡すと、並んだベッドの奥にひとつだけ閉じきったカーテンがある。ここ最近、ずっとそれは閉じていて不自然に感じていた。何か医療品でも置かれているのだろうか。頭もかなり疲れてきたことだし、先生が不在の間にこっそり覗いてみよう、そう思った私はカーテンへと足を運んだ。

目の前まで来ると、一体この奥に何が隠されているのだろう、という好奇心が強く背中を押した。そして胸のドキドキを左手で抑えながらカーテンをゆっくり開いた。すると、

 

「すぅ.......すぅ.......。」

 

そこには制服姿の女の子がスヤスヤと眠っていて、私は驚きのあまり反射的に

「きゃっ、ごめんなさい!!」

と、声を出してしまった。普通人が寝ていることくらい分かるはずなのに、それにさえ気づけない自分が情けなくなった。心臓の鼓動が激しくなって、罪悪感が一気に押し寄せる。ビックリした衝撃で後退りし後方のベッドに足をひっかけ、腰をすくい取られるように座りこんだ。急いでカーテンを元の位置に戻さなきゃと思い、立ち上がると

「んん......んんーむ....。」

少女の目が覚めそうだったので、私は頭の中が真っ白になってしまい、その場で立ち尽くしてしまった。カーテンを閉めればバレる、そのままにして歩き去ってもバレそうな気がして、何も出来なかった。

やがて少女が目を覚ますと、動揺した私を見つけ、突然ひどく怯えはじめた。

「あ......ああ....、はあ、はあ、はあ!!」

動転し、呼吸が荒くなり、明らかに誰が見ても平静ではない様子。私はパニックになって

「ああ....ごめんなさい、ごめんなさい...。」

と繰り返し、何も考えられなくなった。

「|助.....け.....て..........助け......て。」

「......え?」

明らかにまともじゃない状況に、混乱して立ちすくんだ。彼女は私に背中を向け、痙攣するかのように身体を震わせ

「はあ...、あああ....!赦して....赦してぇああ!!」

と、意味の分からない言葉を叫びだすので、私は怖くなった。

先生が戻ってくると、大急ぎで彼女の元に駆け寄り、その肩を揺さぶる。

「大丈夫だよ、大丈夫だよ。」

そう必死に宥める先生を前に、私は

「ごめんなさい.....ごめんなさい....。」

と繰り返す。先生が私の動揺を目にいれると

「四倉さん、何かしたの...?」

「い、いや...、勝手にカーテン開いて起こしちゃって、私...その.....、ごめんなさい。」

慌てて、言葉も纏まらない状態の説明に先生は

「大丈夫、心配しないで。」

と私に声をかけてくれたが、理解が追いつかない状況に恐怖して、今にも飛び出しそうな心臓を両手で必死に押さえるばかりだった。

パニックを引き起こして暴れだす少女、それに怖くなって必死に息をする自分と、その二人を落ち着かせようと焦る先生。最悪の空気と、状況だった。

 

あれから彼女が再び眠りに落ち、保健室に先生と二人きりの空間になった時、私は先生と、あの少女のことについて話していた。

「あの子はね、精神的に大きなショックを受けてああなっちゃってるの。」

「そうだったんですか...。それは何が原因なんですか...?」

「家庭から...、学校の人間関係から....、色々。今まで散々辛い思いをしてきて。」

「はあ。」

「一番必要な時期に両親が離れ離れになっちゃったし、それからお金の問題で色んな仕事に手を染めて、心身共に相当ダメージを受けてたらしいの。」

「そうだったんですか。」

先生は静かに空を見上げ、呟いた。

「そばに話を聞いてくれる人がいたら変わってたのかもね。」

「......。」

先生は空を見上げ、呟くようにして言った。

「ただ...あの子は、何もかもを間違えてしまったんだよ。」

「何もかも....を。」

「そう。人間って間違えちゃう生き物なのにね、その間違いを間違いだと叱ってくれる人がいないだけで、簡単にどこまでも暴走するんだよ。」

その言葉は私にも共感できるものがあった。例えば、今まで自分のした過ちに誰かがおかしいと言ってくれたなら、いま瑞希とこんなに距離を置くこともなかったろうに、と。...しかしそう思ったら、ふと、それは今の今まで私に優しくしてくれた瑞希や、詩鶴のせいにしてるように思えて、自分がよく分からなくなった。

でも、もし逆に瑞希の優しすぎる性格に私が、もっと素直になってと怒り続けていたら、彼女は今頃こんなに苦しまずに済んでいたのだろうか。

私は先生に聞いた。

「先生、もし私が母と死に別れてから自暴自棄になって大暴れしてたら、彼女みたいになったでしょうか。」

「ええ、きっとね。どんな人にも、人間に生まれたからには心が付いてるから。」

「そうですか。」

「でも、四倉さんは良い友達を持っているじゃない。そうさせないように一生懸命になってくれる友達がさ。」

私は詩鶴や、瑞希の笑顔を頭に浮かべた。私が困っている時、すかさず話しかけて来てくれて、辛い気持ちを風のように拐ってくれる友達のことを。

壊してしまった瑞希の心を元に戻したい、私が受けた優しさを、困っている誰かにも与えられる人間になりたい、そう思った私は先生に尋ねた。

「先生。」

「うん?」

「私、あの子と友達になりたい。」

「....え?」

「私もずっと心を閉ざして生きてきたから。未だに人と話すのは怖いですし、今だって何を信じれば良いのか分からない。でもだからこそ、同じ仲間と沢山お喋りしたい。」

それを聞いた先生は、少し俯いた。

「...ありがとうね。」

 

日が変わり、私がいつものように作詩帳とにらめっこしていると、先生が私に話しかけてきた。

「四倉さん、もうそろそろお昼だよ。」

「あ、はい。チャイム鳴るまではもう少し書かせて下さい。」

「そう。」

先生はあの閉じたカーテンの方へ向かい、中の少女とお話をし始める。途中、

「嫌......やだ.....。」

と悲しそうな声が聞こえたりもして気になった。

やがてチャイムが鳴り響くと、昼休みの始まりに背中を伸ばしてはしゃぐ生徒たちのざわめきが、辺りに聞こえるようになってきた。何を食べるか、何をして遊ぶか、そんな話題に溢れている。

ふと見ると先生がカーテンを開き始めたので驚いた。コの字型のカーテンを私と反対側の方から開き、先生が

「おいで、怖くないから。」

といって優しく腕を引き、こちらにやってくる。少女の前髪は目を覆い隠すように伸び、その奥から暗い瞳が見え隠れしている。怯えた様子で背中に隠れて呼吸を乱すその姿は、幼い頃の自分にどこか似ていた。

「こ、こんにちは。二年の四倉です。」

「あ.....ああ....、うう....。」

言葉の吃りが酷く、うめき声をあげながら身体を震わせている。そんな彼女に先生が代わりの挨拶をした。

「まだ人と会うには早いんだけど、四倉さんならきっと大丈夫だよ。紹介するね、この子は

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

藤島さんっていうの。」

つづく。





【明希の作詩帳...2】

「瓦礫町の夕闇」
焼きたてのパンに 灰を塗って食べました
燃え尽きた後の心に 輝く景色はもうない
あの子はそれを口に入れ 美味しそうな顔をして
むせ返ってしまう苦しさに 人は誰も気づかない

甘いジャムを教えたら おとぎ話と言いました
春風に身を任せて 風邪を引いたからだそうです
舌に乗せてあげたら ポロポロ泣いてしまいました
嘘と信じた優しさは 氷を砕くからだそうです

瓦礫町の夕闇に 降りしきる星をもう一度
壊れた扉を こじ開けることはできないから
瓦礫町の暗がりに 降り止まぬ星をもう一度
あの子の明けない夜町に せめて光が溢れるように


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43.閉じた扉へ


お母さんが死んでから、私はいつ死ねるのかばかりを考えてた。何をしても、何を食べても、何一つ心が動かない。もう同じ空の下にはいない、そう思うだけで目に映るもの全ては輝かなかった。
そう、あの頃と同じ目をしていたんだ。私の目の前にいるその少女は。


 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.43「閉じた扉へ」

 

明けない夜があっても、心許せる誰かといるだけでそれは夜じゃなくなるだろう。止まない雨が降ったって、もう傘なんていらないと言えるだろう。でも、それを知らずに夜が明けたら、雨が止んだなら?

「藤島さん?」

「そう、藤島四季乃さん。同じ二年生で二組の子なんだけど、教室に戻るにはまだまだ時間が必要なの。」

「ああ......うう..、ううぅう....。」

「まだ私か、ご家族の方としか会話できなくてね。でもきっと四倉さんとならお友達になってくれるよ。ね?藤島さん。」

そう言って、先生は彼女の背中をさする。

「ううっ、あああ、......とも.......だ....?」

藤島さんは、片手で先生の裾を掴みながら視線を下に落としている。

「そうだよ。だから「もう味方なんて居ない」なんて悲観しないで。この子なら大丈夫だから。」

「あ、ああ、こここ、こ....怖、い。」

「大丈夫、裏切るような子じゃない。」

裏切る....?この子は過去に何があったんだろう。

私は慎重に、彼女に声をかけた。

「え、えっと――」

「ひッ!!」

「っ!......あの私、四倉...明希。よ、宜しく。」

藤島さんは目をキョロキョロとさせて怯えながら、一生懸命に精神を振り絞って声を出した。

「....じしま....。」

「え?」

「ふじしま...!.....です。」

「あ...、あの、握手して....大丈夫?」

「うう、ううう....。」

藤島さんは言葉を上手く喋れないまま、小刻みにコク、コクっと頷いた。私が恐る恐る手を伸ばすと、彼女の手が痙攣するかのようにカタカタと大きく震えだし、強く唇を噛んで怖がった。そっとその手を握ると、手のひらで空洞を作ったのか、触れ合う面積が小さい。まだ人と関わることに強い抵抗があるのだろう。その手はとても冷たく、そして柔らかかった。

肩をグッと上げて、荒い呼吸をする彼女。手を離すと私は

「ご、ごめんね、怖がらせて。」

と声をかけた。

「うう.......うう.....。」

身体を丸めてうめき声を上げる藤島さんに先生は

「よく頑張ったね。偉い偉い。」

と言って優しく宥める。

「せ、先生....。ちょっと休ませてあげた方が....。」

私がそう言うと先生は

「うん、そうね。そのつもり。」

と言って彼女をカーテンの中に戻した。

「ほら、戻ろうね。よく頑張ったよ、よく頑張った。」

「ああ....うう.......ああ.....。」

短かったけど、凄く濃い時間を過ごした気がする。人も心が壊れるとああなってしまうんだ、と。

先生が藤島さんの心のケアをし、戻ってくると、私の前に座って

「ありがとうね。」

と一言残した。

 

藤島さんと知り合ってから、私はまた一つ新しい視点を得た。今まで、何となく暗い、何となく生きづらいと感じていたのとは比べ物にならない程の極地を見た。それからまた私は机に座り、得意な暗い詩を書き、前よりも多い表現の中から言葉を使った。

あれ程の精神状態までに追い込まれたら、その人は何を救いとして見るのだろう。きっと「死んで解決」で終わるような単純明快なものではなくなっているのかもしれない。どこに行っても、どこかに敵がいるかもしれない、また独りぼっちになるかもしれないという不安をずっと背負っていくのだろう。

人間という不安定で、不完全なものを信じてでしか生きられないのが人生だ。でも、"一人じゃ生きられない"というプレッシャーに押しやられてああなってしまうのか。生きるのは本当に迷路の連続だと感じる。

 

 

「私ね。」

ベッドで毛布を膝に掛け、私はカーテン越しに話しかける。藤島さんと知り合ってから私は胸の中で、彼女と仲良くなりたいと思っていたから。それは思い付きの、歪んだ正義感から来ているのかもしれない。でも私に出来ることの中で、小さくても手を伸ばすことが必要な気がしていた。

「友達と喧嘩しちゃったの。幼い頃からの大親友で、とっても好きだったんだけどね。」

カーテンの奥から返答はない。でも構わなかった。ひとりごとのつもりで、向こうからも聞き流す程度で、それでも私のことを知ってくれるなら嬉しいと思った。

次の授業が始まるごとに話題を変えてみる。私にとってもただのひとりごとだから緊張することもない。ただ、心に浮かんだ言葉を口にする時間を増やしていった。

「今日、雨ひどいね。」

「.....。」

「こんな日はお母さんが慌てて傘持ってきてさ、もう帰ろうって腕の中に飛び込んでた頃を思い出すんだ。私、昔っから弱っちくてさ、学校に来てもお家帰ることばっかり考えてた。」

雨音だけが部屋に響く静かな部屋の中で、私は自分と向き合うかのように、自分の内面の話をしていた。

「雨の日は窓の外を見るのが好きなの。もしかしたら今でも迎えに来てくれるんじゃないかって、そう思えるんだ。それで、子供の頃に住んでた古いアパートで温かいココアを飲むの。」

湿った空気と、だんだん冷たくなっていく気温。夏が終わったことにだんだん気づかされるような日々だ。

「えへへ、こんな寒い日はついつい寂しくなるんだ。色んなこと思い出すっていうかさ。」

―――――――――――――――

【7年前】

「四倉さん、なにしてるの?」

「外見てる。」

お昼休み、先生が話しかける。あれは瑞希と友達になってから数ヵ月後、小学三年生の頃だった。

「お友達と遊ばないの?」

「居ない。今日みっちゃん、熱で休んでるから。」

「そう。じゃあ良かったら先生と遊ぼ。」

「何を。」

「何したい?」

「お家帰りたい。」

「それはちょっと......。」

「.....。」

話が盛り上がらなくて試行錯誤する先生。私はずっと外を見ていた。

「お家、楽しい?」

「楽しいとかいうより、落ち着く。」

「そうなんだ。普段はお家で何してるの?」

「お母さんとテレビ見てる。」

「へえー、良いなあ。家族と見ると別格で面白いよね。」

「うん、そうだね。」

「昔は私も弟とよく見てたよ。コマーシャルの間、ずっとお喋りが止まんなくてね、気づいたら時間経ってて、よくお母さんに怒られてた。」

「先生、弟いるの?」

「あ、うん。四つ離れのね。四倉さんは兄弟いる?」

「居ない。」

「一人っ子かあ、良いな~。お菓子とかで喧嘩することないもんね。」

「先生。」

「うん?どうしたの。」

「兄弟いたら、友達いなくても平気になれる?」

「....うーん、どうだろう。分かり合えないことがあったら、その時は一人ぼっちになっちゃうし。」

「そう。お母さん、一人占めできない?」

「ふふ、兄弟持ちはみんな、最初そこで挫けるんだよ。」

「そっか、なら良い。いらない。」

―――――――――――――――

もしあの日に戻って、兄弟が欲しいって言ってたら、今こんな寂しい思いをすることもなかったのかな。なんて、時々思う。でも、私に似た妹や弟なら、居たって言葉の一つも交わさなかっただろうけど。

だけど、ふと思う。居なくなってしまえと面と向かって言えるような存在がいるなんて、そんな人はよっぽどの幸せ者だろう、と私は皮肉めいた笑みを溢してみる。

 

つづく。




【放課後ナトリ】

居残りの教室。河島と名取が課題を机に置いたままお喋りしている。
「ねえ、河島。」
「ん。」
「お腹空いた。」
「いや、知らねえよ。何も持ってないの?」
「持ってたら食べてるよ。」
「....あっそ。」

「ところでさ河島。」
「何だよ。」
「男の子ってさ、仲良い友達と喧嘩したらどうやって仲直りするの?」
「何だ急に。」
「いや、どうなんかなーって。」
「...さあ。次の日すれ違って、話しかけてもそっぽ向かれたら絶縁されたって割り切るかな。」
「いや、仲直りしろよ。割り切んなよ。」
「.....いや、でも普通に話しかけたら元通りになってるってもんじゃない?そんな畏まってごめんなさいとか、身内殺した訳じゃあるまいし。」
「極端だな。...えー、そんなもんなの?」
「まあ、俺だったらの話だけど。」
「そっか。」
「え、どしたん。何かあったん。」
名取は思った。やっぱ男子と女子じゃ価値観が全然違うなあ...、と。
「まあ、なに。厳しい厳しい女の世界の悩みってえヤツよ。」
「なんだそりゃ。」
「何でも良いの。」


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44.鍵をひとつずつ


「ねえ、お父さん。」
「?」
「私がもし人を傷つけても平気な人間だったとしたら、天国に行けないのかな。」
二つのカップに珈琲を注ぎながら父に聞いた。
「うーん...。」
「どうだと思う?」
父は窓の外に目を向け、しばらく黙ったあとに答えた。
「もし、悪いことをしてない人間しか天国に行けないのなら、そこに人なんか居ないはずだよ。」
「それじゃあ、もし誰も行ったことがないとして、そしたら私はどこへ行くの?お母さんにもう会えない?」
「明希、それを証明する方法なんてないんだよ。」
「違う、そうじゃなくて。私は確証が欲しいだけなの。」
「証明が出来ないからこそ、思ったようになるって考えれば良いんじゃないかな。きっと天国はある、またお母さんに会える。それは正しいとか、間違いかどうかの問題じゃないよ。」

そんな父との話を彼女にした時、カーテンの奥から声が返ってきた。
「私は天国になんか行けない。」
初めて私に話しかけてくれたことにビックリしたが、その悲しい言葉に、胸が締め付けられた。
「それは...、どうして?」
そう聞くと、彼女は再び口を閉ざした。


 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.44「鍵をひとつずつ」

【詩鶴編】

 

帰りのホームルームが終わり、廊下がざわつき始めた頃、私は瑞希の元へ駆け寄った。

「みっちゃーん。」

「つるりん、お疲れ。」

まだうっすらと暗さの残る、落ち着いた彼女の声。私は今日、彼女を街に連れ出す気でいた。

「みっちゃん、このあと暇?」

「あ、うん。一応。」

「ちょっと付き合ってくんない?」

「え、良いけど、どこ行くの?」

「良いから良いから。」

そう言って私は彼女の腕を引いた。どんな馬鹿げたことでも瑞希の心を軽くさせられるなら平気でやれる、そう思って行動に出た。

駅に着くと、二人分の切符を買って瑞希に渡した。もうそろそろ始まるであろうラッシュアワーの予感、ざわつく改札を通り抜けて、ホームへの階段を軽快に駆けのぼると、既に到着していた電車に瑞希の腕を引いて飛び乗った。

ハアハア、と息を切らす瑞希に

「あはは、みっちゃん大丈夫?」

と聞くと

「ねえ、本当に....、どこ行くのか教えて。」

と、過呼吸で問う。電車のドアが閉まると、私はこの瞬間までシラを切っていたことを全部嘘にするかのように呆気ない顔で答えた。

「渋谷だよ?」

「待って待て待て待て待て!遠い!!」

いつまでも暗い顔してるなら明るいところへ引きずり出してやる、というくらいの思いで咄嗟に都心へと向かった。慌てふためく瑞希に頬擦りして、大丈夫だと言い聞かせる。時々窓の外を見ては、これから先の不安を圧し殺していた。

 

ー押上、押上です。ー

 

電車が地下に入り込んですぐ、車内アナウンスが聞こえ、しばらくして開く扉。瑞希の柔らかい手のひらを握り飛び出した駅のホームには、始まりだした帰宅ラッシュでだんだんと人が増え始めていた。

次の電車に飛び込むと、予想以上のぎゅうぎゅう詰め。車窓というにも地下鉄で何も見えず、渋谷まではまだまだ長い。二人会話しようと思ったら、お互いの顔が近すぎて、話そうとする度に笑いがこみ上げる。

「みっ....みっちゃん。」

「な に 。」

「ぐぷぷぷ......。」

「うぷっ...........(プルプルプルプルプルプル)」

必死にそれを堪えながら酸素不足になって、停まる駅毎に深呼吸した。身体的にはとても辛かったけど、こんなに楽しいと思えたのは久しぶりだった。

やっと渋谷に着くと、駅の柱にもたれ掛かり

「はあああああああ、疲れたあああああ。」

お互いの顔が合うと、ふたたびこみ上げてきて大笑いした。

「っはははははははははは!!何さっきのみっちゃんの顔!?」

「ふふふ、あはははは!!つるりんだって、何なのさっきの言い方!!」

行き交う電車の轟音や、サラリーマンの足音にさえかき消されない二人の笑い声は、電車が走り去った後のトンネルに反響して恥ずかしくなり、外まで走って出た。

キラキラとした街の灯りの下で私たちは再び深呼吸をした。

「はあああ、笑ったあ。」

「もう、お腹めちゃめちゃ痛いんだけど...!」

そんな言葉を交わしながら、なかなか治まらない笑いに明るいため息を吐いた。

 

それから私は彼女を引き連れて、夏に叔母と行った雑貨屋のことを思いだし、近くのお店を探し歩いた。

「ところでつるりん、渋谷来て何するの?」

「え、近くに雑貨屋さん無いかなーって。」

「あー、デパートとか回ってみる?いくつか。」

「うん、そうだね。そうしよう。」

「....ていうか、これわざわざ渋谷じゃなきゃ駄目なやつだったの?」

「なーに言ってんの、渋谷ブランドってやつだよ。」

瑞希に、今思い付いて喋ったな?、と言わんばかりの顔をされた。

瑞希を連れて歩き回り、小一時間探し回ってお店を見つけると、二人すっかり落ち着いたように商品に目を落とした。店に入って早速

「へぇ、お洒落だね。」

と、呟く瑞希。私は

「ねえねえ、これとか似合うんじゃない?」

などと話しかけて会話を弾ませた。

髪飾り、ブレスレット、ミサンガ。どれもシックで目立ちすぎないデザイン。それが大人びていて、とても可愛い。

「ねえ、つるりん。これつるりんが着けてるのと似てない?」

瑞希が指差す方向に目を向けると、確かに私のものと似ている木製の髪留め(ヘアクリップ)が。埋め込まれた石の色は違っていたけど、何度見てもそれは綺麗だった。

「あー、それそれ!へぇ~、ここにも置いてるんだ~。」 

「つるりんのは綺麗な水色だね。あれ?もしかして緑なのかな?」

「えへへ、どうだろ。でもそのピンクのも可愛くない?」

「うん、可愛い。へぇ~、でもこれ校則違反とかになったりしないかな...。」

「大丈夫でしょ。いつも私、着けてきてるし。」

「そっか、なら大丈夫か。私も何か買おうかなー....。」

「お、みっちゃん良いね~。大人買い?」

「えへへ、そんなお金無いって。」

「まあ確かに、どれも結構良い値段してるもんねえ。」

「....渋谷プライスってやつ?」

「....ってやつ?」

二人、顔を見合わせて笑った。

「ねえ、みっちゃん、これ絶対似合うでしょ。」

そう言って瑞希の前に持ってきた、ボタンの付いた髪飾り。彼女の横髪にあてがって

「わー、良い!可愛い!」

と、はしゃいだ。

「え、なになに。」

そういう瑞希を鏡の前にもっていくと、わあ...と胸に手を置いて感動していた。

「ね、これ買おうよ。」

催促すると

「え、でも...。」

と、少し視線を落とす。値札を見ると確かに高い。千円超えの値段に迷ってる瑞希に

「あー、じゃあ私ちょっと出すよ。」

と言った。

「ええ...!いやいや、申し訳ないよ。そんな、私のためだけにそんな。」

「良いって良いって。こういう小さなお洒落が幸せの秘訣なんだよ。」

マセた口調で瑞希の背中を押す。

「うーん、じゃあ...買おっかな。」

「よぉーし!そうこなくっちゃ!」

そうして彼女はヘアアクセを買った。早速、彼女の横髪につけてあげると

「うん、やっぱ似合うよ。みっちゃん可愛いー。」

と誉める。彼女は小さく頬を赤らめた。

 

それから空はすっかり暗くなった。折角なので夕食も食べようということになって、近くのファミレスに立ち寄った。

「夜景の綺麗な....うん、まあレストランちゃあレストランか。」

そういう私に、瑞希は

「見上げる夜景も悪くないよ。」

と、笑い話に変えた。

ここ最近、ずっと暗い顔をしていた瑞希には、こういう突拍子な小旅行に連れ出してやるのが一番だと思っていた。久しぶりに見られた彼女の眩しい笑顔、それだけが私にとって十分すぎる答えだった。

「ごめんね、急にこんなとこまで連れてきて。」

「あはは、もう最悪!....でも、楽しかった。久しぶりにあんなに笑ったんだもん。」

「なら良かった。みっちゃん、ここ最近ずっと暗い顔してたからさ。」

瑞希は窓の外の人混みに目を向けて、小さく黄昏るようにして話した。

「私ってつくづく"助けて"が言えない性格なんだなあって。」

「え?」

「明希の側に居てあげなきゃって思うほど、あの子の恋愛感情に首を振りきれなくなって。我慢できなくなって爆発して、みんなに迷惑かけて。だから、こうやって連れ出してくれなかったら私、本当に戻ってこれなくなってたと思う。」

「みっちゃん....。」

「死んじゃいたいって何度も思ったけど、明希にこれ以上、死に別れの辛さを味わわせたくないからさ。」

「........。」

喉の奥が苦しくなって顔をあげると、瑞希の驚いた顔が少し滲んでいた。

「だから、もっと自分を大事にしなきゃダメだよね!明希のためにも。」

「....ほんと、みっちゃんはその優しすぎる性格、なんとかしなよ。」

「どうゆーとこ。私、そんなに綺麗な性格じゃないよ。」

「嘘つけぇっ...。」

「嘘じゃないもん!一回見てるでしょ?私の荒れてるとこ。」

「うわ、自分でネタにするかよ。」

私は鼻をすすって笑った。

「ふふ。今日はありがとね、つるりん。」

 

つづく。




【オマケ】
ー矢原家ー

弟の部屋のドアを開ける。
直哉(なおや)、お風呂。」
「えー、ちょっと待って。」
「次つっかえてるから早くしてよ。」
「えー、じゃあ瑞姉(ミズねえ)さき入れば良いじゃん。」
「いいから、とっとと終われよ。」
「ああもう、分かったよ。じゃあ風呂行ってる間ちょっとレベル上げやっといてくんない?」
「私いまからご飯なんだけど....。」
「食いながらでも行けるっしょ?」
「....対価。」
「今日おかず何?」
「エビフライ。」
「じゃあ、俺の分一本食って良いよ。」
「...よし、貸せ。」
「ういー。あ、死んだらアイテムで復活させてな。あと魔法は極力使わないで。あと―――」
「ああ!分かったから早く入ってきて。」
「頼んだかんな?」
そう言って弟はキッチンへ向かった。
夕食を囲んで、いただきますを言う。
「エビフライ~。」
「瑞希、なんで三本も取ってんの。」
姉がすぐさま察知して指摘した。
「え、あー。あの....」
「あ、直哉のゲーム機。さてはオノレ。」
「...賄賂です。いや、違う。正式なお仕事の対価――」
「はーい没収~。レベ上げは私がやるから食べんのに集中しとけー。」
「お姉ちゃん!!サイテー!!返して!!」
そうやってエビフライを取り合っていると、母からのイカヅチが落ちてきた。
「コラ!!直哉の分は直哉の分!皿に戻して!!」
「......はーい。」
姉を睨みつけた。
―――――――――――――――
【編集履歴 内容開示】
2023.3.6
誤字修正


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45.贖罪の日々

 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.45「贖罪の日々」

 

窓の外に見える景色。曇り空の雲間から、太陽が木漏れ日のように差し込んでいる。風はすっかり冷たくなって、やがて来る冬の気配に切なさを覚えた。

私はまた保健室の閉じたカーテンに来て、その隣のベッドに腰掛ける。

「おはよう、藤島さん。」

「......おは....よう。」

最近では彼女も挨拶を返してくれるようになった。あんなに心を閉ざしていた彼女が私に心を開いてくれた、そんな気がして嬉しかった。もっと彼女のことを知りたい、分かりたい、そんな気持ちで溢れていたから。

「パン買ってきたの。朝あまりやってないとこでさ。焼きたて買ってきたから良かったら食べて。」

カーテンの隙間にそっと手を入れて、パンの入ったビニール袋を置く。彼女は小さく

「...ありがとう。」

と返した。

「食欲ある?大丈夫?」

「...うん、ちょっとだけ。」

「そう、よかった。無理しないでね。」

カーテンの向こう、袋を漁る音が聞こえる。しばらくして彼女は一口それにかぶり付き、穏やかな声で言った。 

「美味しい。ありがと。」

「いえいえ、お腹空いてた?」

「うん。朝、ちょっと吐いたから。」

「....え、それは大丈夫なの?」

「まあ、...ね。身体落ち着くまで何も食べれてなくて。」

「....。生理?」

「違う、そういう病気なの。」

「そっか...ごめん。」

「もう慣れた。」

カーテンの奥でまた一口、パンを食べる。その音が静かに止むと、彼女が私に尋ねた。

「ねえ...四倉さん、だっけ?」

「あ、うん。良かったら、明希で良いよ。」

「そう。じゃあ明希、聞きたいんだけどさ。」

「うん、どうしたの?」

 

「どうして私に、ここまでしてくれるの?」

 

小さな花に尋ねられたような気分だった。誰も歩かない森の隅で咲く花、誰も足を止めない都会のアスファルトの隅で咲く花のように、儚く、とても切なく、落ち着いた声で私に問いかける。どうせ雨が水をやるだろう、枯れようが誰も気にするまい、そんな花の前になぜ私はじょうろを持ってしゃがんでいるのか。

それは....

「昔の私とね、おんなじ目をしてたんだ。」

「....え?」

「その頃、本当に大切だった人を亡くしちゃったからさ、生きる気力がこれっぽっちも湧かなかったんだ。」

「......。」

「何をしていても心が動かなくて、寂しさがずっと消えなくて。でもね、それが本当に辛かったから私、貴女を見たとき友達になりたいってふと思ったの。」

「.....そう。」

「うん。」

「いつも側にいて、離れずにいる存在が欲しかったから。私もそれを与えられる人間にならなくちゃって、ふと....ね。」

「....明希は優しいんだね。私にはとっても真似できないや。」

「えへ。....良かったら貴女の話も聞かせてよ。えっと....」

「藤島。」

「あ、迷惑じゃなかったら下の名前で呼んでも良い?」

「...駄目っていったら?」

「え.......。」

「ふふ、嘘。四季乃って言います。」

「っはあああ...!びっくりしたぁ....。」

「うふふ、変な子。」

「四季乃ちゃん、笑ってるとこ初めて見たよ。」

「カーテン越しに見えるの?」

「あ、いや...。」

私が言葉を詰まらせると、小さくカーテンに隙間が出来た。

「最低な話で良ければ、おいで。」

初めて会った時はあんなに怖がっていた彼女が、今度は自分から私に顔を見せてくれると知って、私は嬉しかった。本当に入って良いのだろうか、という緊張と、彼女の心の部屋に足を踏み入れることへの期待が入り交じる。

「え...良いの?」

「うん。」

「あ、ありがとう。お邪魔します。」

そこは薄桃色のカーテンに囲まれた小さな空間だった。狭いけど、心がとても落ち着く。

私は彼女の隣に座り、天井を見上げた。

「一度入ると出たくなくなるの。守らなきゃいけないもの、失くしたもの、傷つけてしまったもの全部が私を指差してくるような気がして。本当はいい加減、向き合わなきゃいけないのにさ。」

「忙しいんだね、四季乃ちゃんは。」

「うーん...忙しいというよりも、今まで散々悪いことしてきたから。それに責められることにビクビクしてるだけだよ。」

「悪いこと...?」

「....私は、明希が思ってるよりも綺麗な人間じゃない。貧乏な家庭を支えるために色んなことに手を染めたし、それにストレスが溜まったら平気で人を傷つけたりもした。」

「色んなこと?盗んだり、騙したりとかじゃないよね...?」

「あはは、そんなハイリスクで見返りも少ないようなことはしないよ。強いていうなら、女にしかできないこと、かな。」

「ああ....。」

「高校入学間近で親が離婚してさ、母は身体が弱くて長時間働けないから、兄妹で頑張るしかなくて。でも、お兄ちゃんは進学して就職して、それからちゃんと働くなんて馬鹿なこと言うから。そうするまでのお金を誰が払うのよって。」

「.........。」

「挙げ句の果てに学校じゃ遊び女って陰口叩かれるし、男子からは変な目で見られるし。」

「酷い......。」

「でも、どんな酷い目に合ったって家族だけは守るって決めてたから。それまでは平気だった。」

「それまで?」

「うん.....。ちょうど去年の今頃くらいかな。私がそういうとこで働いてるのを聞き付けた他校の奴らに.....ウブッ....!ケホ...ケホッ.....!」

暗い過去を思い出した四季乃が嘔吐しかけてむせ返った。

「四季乃ちゃん、大丈夫!?もう良いから...!言わなくて良いから。」

咳き込むのを必死に抑えながら、彼女は私に言った。

「....殺したの.....、お腹の赤ちゃんを.....。」

「え...?」

私は彼女の話を聞いていく程、怖くなった。この世の中に、ましてやこの校舎の中にこれ程の人生を歩んできた少女が居るということに。彼女の言葉がだんだんと震えていくのを私はじっと聞いていた。

「お腹が膨らんでいくのが怖かった。でもどうして良いか分からなかった。」

「.........。」

「でも堕ろすしかなかった。知らない男の子供を孕んだなんて隠し通せる訳ないし、それに育てていくお金なんて私には無かった。」

「...........。」

「手術が終わった時、医者に何て言われたと思う?"女の子だった"って。」

泣き崩れる彼女を前に、私も耐えられなくなった。私は彼女を強く抱き寄せて一緒に泣いた。

どうして奪われるだけで、何も与えられないのだろう。どうしてそれでも、人は外側の悪ばかりを責めるのだろう。私にはそれが全部愚かさに思えた。

時を忘れて泣き続けたあと、彼女は小さく「ごめん」と溢した。まだお昼が遠い、朝の真ん中くらいの頃だった。

「ごめんね、暗い話聞かせて。」

「ううん。私、四季乃ちゃんがこんなに壮絶な人生送ってたなんて知らなかったから。聞けて良かったよ。」

そう言った私の目を、四季乃は見つめて言った。

「ありがとね。一緒に泣いてくれて。」

 

それから二人はまた話の続きをした。

「ねえ、四季乃ちゃんはどうして自分のことを"酷い人"だと?」

「え?」

「さっき言ったじゃない。綺麗な人間じゃないって、悪いこと散々したって。私にはそういう風には全然見えない。」

四季乃は一旦静かになって黙り込み、一呼吸置くと私に言った。

「明希は知らないんだね、私が苛めっ子のリーダーやってたこと。」

「え!?」

「中絶後のストレスで、楽しそうに青春送ってる人が全員憎く見えて、陰で散々人を傷つけていたこと。」

「.....苛めは酷いけど、でも誰だってそうなっちゃうよ。」

「ありがとう。でもね、正当化して欲しいわけじゃないんだ。」

「え?」

「言ったじゃない。私のしたこと全部に、いい加減向き合わなきゃいけないって。」

彼女はつづけて言った。

「人を傷つけるのが楽しかった。人を支配して、それでも女王のように慕われる日々が気持ち良かった。でもね、それは私がこんな目に合ってきたから、何をしたって許されるっていう神様のプレゼントではなかったんだ。」

「....プレゼントじゃ、なかった...?」

「ええ。その報いは何倍にもなって返ってきた。....最後に苛めたのはいつもニコニコ笑ってて、元気そうな女子だった。でも、その子は私の思う以上に強かった。何度苛めても今まで通りの笑顔を見せて、私に屈するところなんて一度も見せなかった。

ある時、その子は今までの過去全てを暴いて私にこう言ったの。

 

 

 

"どう?お腹の子供を殺した感想は。"って」

 

つづく。



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46.1ヶ月間の不登校 -前編-


「え....。」
「あれからバイトも続かなくて、夏休みはずっと布団の中。でも、このままじゃ家族がって思う度に気がおかしくなりそうだった。結局、家族に全部話さなきゃいけなくなって、それからはお兄ちゃんがバイトづくめで、お母さんは私と話すたび、「ごめんなさい」って泣き崩れるばっかり。」
四季乃は目の前のカーテンの壁を真っ直ぐ見つめていた。
「間違い続けたのね。何をやっても、何を願っても、不幸の道を歩いてしまう。」
「四季乃ちゃん....。」
彼女は前を向いたまま、ふと笑みを浮かべて言った。
「ね、最低な話でしょ。」
「そんなことないよ。一日でも早く元通りになって、幸せな生活に戻って欲しいって思った。」
四季乃はフッ、と皮肉めいた笑いを溢す。私は続けて彼女に言った。
「そうなる権利がある。...なきゃおかしいよ。」
「明希、嬉しいけど、私がそうなるには悪事に手を染めすぎた。」
私たちは一度静かになった。物思いに耽るように膝に視線を落とす四季乃の、暗い瞳を見つめる。
「ねえ、四季乃ちゃん。」
「...?」
「なら、せめて謝りに行こうよ、四季乃ちゃんが傷つけてしまった人たちにさ。」
「え...?」
「今すぐじゃなくたって良いけど、前に進まなきゃって思うなら、「どうせ」って思うことから変えなくちゃ。」
「.....どうせ、か。」
「大丈夫だよ、なんかあったら私がついてるから。」
「ああ......。」
「どうしたの?」
「そんなこと人生で初めて言われた。」


 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.46「1ヶ月間の不登校 -前編-」

 

時は六時限目の終わり頃。私はまた四季乃の()()に入り、彼女と言葉を交わし合っていた。

「そういえば、明希はどうしてここに来たんだっけ?」

四季乃が問う。

「え?」

「保健室にだよ。何かあったの?」

私は瑞希の暗い表情を思い浮かべた。

「ああ、友達と喧嘩しちゃって。」

「喧嘩...?」

―――――――――――――――

「優しい優しいって、そういう役を無理やり着せて、断れない私に何でもかんでも押し付けて!!」

 

「明希はいつまで経ってもハッキリしないし。」

 

 

「私と...もう友達でいたくなくなった...?」

「少しだけ距離を置かせて。」

―――――――――――――――

私の目を真っくずに見て話を聞く四季乃。

「少し、複雑なんだ。」

と私は返す。彼女は

「...私もあんな滅茶苦茶な話を聞かせちゃったんだし、どんな話が来たって驚かないよ。」

と、言って口元が微笑む。

私は瑞希との間に起きたことを言葉にして話した。今思うと恥ずかしくて言えないようなことは少し遠回しな比喩表現を使ったりしながら話した。だが、悔しいほどに四季乃の直感力は大きかった。

「そう...。」

「うん。何ていうか、母親と重ねちゃって。でも、血の繋がりがないってだけで、あんなにも気持ちがねじれるもんなんだなあって。」

「確かに、複雑だね。」

「でしょ。」

私は、カーテンの壁に浮かべた遠くの景色を見つめる。そして深いため息に乗せて呟いた。

「好きだったんだ、心の底から。本当に、今思えばおかしな話なんだけどさ。」

そんな私の微かに光る目を見て、四季乃は言った。

「失恋ってどうしてあんなに胸が痛くなるんだろうね。」

「四季乃ちゃんも、したことあるの?」

「ええ。でも終わり方は明希と少し似てるかも。私に沢山尽くしてくれた人だったのに、最後まで我が儘ばっかり押し付けてさ。向こうが怒っちゃって。」

「おんなじだね。」

「ふふ、かもね。でも一つだけ違うよ。」

「....?」

「明希はすぐに前を向いて、強くなろうと頑張った。いつまでも自分に起きたことを誇り続けてた私と違ってね。」

「四季乃ちゃん...。」

彼女はニコッと笑顔を見せた。

「もう、私また泣いちゃうぞー?服びしょびしょにしても知らないから!」

私はそう言って彼女を揺さぶった。初めてあった日のことを思えば、こんなことが起こるなど誰が予想できただろう。そう思えるほど二人は笑いあった。

 

「それでずっと保健室にいたの?」

「え?」

「ほら、さっき言ったじゃない。その子と距離を置いてるって。」

「ああ...、そのことね。」

「まだ、その友達は怒ってるの?」

「分からない。でも、まだその子に会いに行く勇気が持てなくてさ。」

そう言うと、四季乃はあっさりした表情で私に言った。

「どうして?」

「....え?」

「どうして、勇気が持てないの?」

「.....だって、まだ怒ってるかもしれないから。あんなことをした後だから、怖いんだ。」

すると、四季乃は優しく微笑んだ。

「でも、明希はちゃんと考えて、恋心に見切りをつけたんでしょ?」

「........。」

「もう十分待ったと思うな、私は。一度、声だけでもかけてみたら?」

彼女の言葉に私は心が揺さぶられた。しなきゃいけないと思いながら、やろうとしなかったこと、失いたくないと思いながらも、動き出せなかったことに四季乃は火をつけてくれた。

「許してくれるかな...。」

「ええ。」

「仲直りしてくれるかな。」

「ええ。明希のこと、ずっと親兄弟のように大切にしてくれた親友なんでしょ?そう簡単に縁を切ったりはしないよ、絶対。」

「....ありがとう。」

 

キーンコーンカーンコーン

 

私が腰かけていたベッドから立ち上がると、今日の最後の授業の終わりを伝えるチャイムが鳴り響く。

「四季乃ちゃん。」

「うん?」 

「間に合うかな、今からでも。」

「ええ。明希なら、きっと。」

「....私、ちょっと行ってくるね...!」

そして保健室の扉へ向かって走り出したとき、この背中に四季乃がエールを送った。

「一度壊れたら戻せなくなるものは沢山あるの。どうか私のようにはならないでね。」

去り際に私は、振り返ってコクリと頷き、彼女に微笑んだ。

 

―――――――――――――――

【4年前】

母の葬式後、瑞希が海に行こうと言って連れてきてくれた。そこは、まだ三人家族だった頃の思い出の中で最後に行った砂浜だった。

「はあああ、やっと着いた...!」

「ここは....。」

「覚えてる?明希が昔、「家族と行った」って楽しそうに話してくれたとこだよ。」

まだ私が十歳になったばかりの頃、緑色の電車に揺られて行ったのがこの砂浜だった。元々は江ノ島に行くはずだったのが、道草が多すぎてすっかり暗くなったのが理由で、その随分と手前にある稲村ヶ崎という海岸で夜の海を眺めていた。

「みっちゃん、どうしてここに?」

「えへへ、「お泊まり会って聞かされてたのに、こんなとこまで連れてかれるなんて思ってなかった」とか思ったでしょ、今。」

「........。」

「忘れちゃいけないと思うんだ、お母さんのこと。」

「え...?」

「楽しかった思い出も、喧嘩したりしたことも、二度と戻らないなら生きてる意味なんて無いじゃない。」

「.....うん。」

「二度と会えないとか、永遠の別れだとか、そんなものはないって私は思う。だから何度でも思い出して、その(おもかげ)を明希の中で育てていかなくちゃ。」

「みっちゃん...。」

「どうするにしても、いつかは前を向かなくちゃいけないよ?でも忘れることで前を向くのは、それは違うと思った。」

「だから....ここへ?」

「うん。」

「.....みっちゃん。ありがとう。」

「えへ。明希、一緒に大人になっていこ。」

「..........、....わかった。」

私は彼女の目を見た。これから何が起ころうとも、瑞希が側に居てくれる、そう思うと心強かった。

「よーし!せっかく海来たんだし、夏っぽいことしよーぜー!何つって。」

と、突然瑞希は私の背中を叩いて、海に向かって走りだした。

「ちょっと...!そんな季節じゃないし、もう真っ暗だし危ないよ!」

「えへーっ、うるせー!これでも食らえーっ!」

波打ち際から瑞希が海水を投げつけてきた。飛び散った水滴は私の服に何滴もついて、それを予想してなかった瑞希が一瞬固まった。

「あ、...ごめん。」

不自然な元気さを見せつける瑞希を見てると、暗い気持ちでいるのが馬鹿らしくなって、吹っ切れたように私もおどけて見せた。

「このーっ、よくも!」

「ごめーーん!!そんなつもりじゃー!」

「みっちゃんもベタベタになれーー!」

「やだーー!!」

月の光に照らされた青い海の前を、二つの影が楽しそうに横切る。悲しいだけに思える波の音さえも私たちは絵にした。

波打ち際スレスレの場所で瑞希を追いかけつづけて、やっと追い付いたと思うと二人の足が絡まって、一緒になって砂浜に倒れこんだ。

「あはは....!明希、泥だらけだね~。」

「みっちゃんだって、家帰って怒られても知ぃらない。」 

「あー、それ言うー?」

「ふふふ。」

「えっへへ。」

首を上に戻すと、目の前には満点の星の海が広がっていた。私は思わず

「綺麗...。」

と溢す。瑞希も

「わあ、本当だあ...。」

と、感動しているよう。二人でそれを見つめていると、彼女が言った。

「お母さんも見てるかな。」

「さあ、どうだろ。」

「見れてないならさ、会えたときに飽き足りないくらい話そうよ。今二人で見てる景色も、これから見られる景色も、みんなみぃーんな....!」

「うん。その幾つかは、みっちゃんと見たいな。」

―――――――――――――――

 

沢山の生徒の笑い声が聞こえてきそうな、そんな面影を残した放課後の校舎。一ヶ月前までは当たり前のように通っていた自分の教室へ向かう。

瑞希と一緒に笑いあった砂浜での出来事をふと思い出し、私は廊下の窓から空を見上げてみた。カラスの鳴き声と、グラウンドから微かに聞こえてくる運動部たちの掛け声がその空模様を彩っていた。

もし、この人生で瑞希に出会えてなかったら、あの日の私はどうなっていただろう。さんざん迷惑をかけてしまってあんなことになってしまったけど、そんな日々がなければ私の心は、母を呼ぶ鳥の雛のような心から成長出来ただろうか。そう自分に問いかけながら歩いた。

どの教室も人が一人として居なかったので、私はもう瑞希は帰ったものだろうと思っていた。それならばせめて、彼女の机の前で黄昏に思い(ふけ)たいと思った。

 

自分の教室の目の前に来ると、そこには杏色に染まる教室にぽつり、一人の少女が窓の外を見ていた。差し込む夕日が彼女の髪飾りを照らし、太陽のように輝いている。その姿はまるで天の使いのようだった。

揺れる綺麗な黒髪に向けて、私は声を投げ掛ける。その少女の名を私は知っていたから。

「みっちゃん。」

彼女はゆっくりと、その声の元へと振り向いた。

 

つづく。



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47.1ヶ月間の不登校 -後編-

 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.47「1ヶ月間の不登校 -後編-」

 

「みっちゃん。」

「......あ。」

瑞希が振り向き、こちらに気づく。彼女は一瞬驚いた目をしたが、しばらくしてすぐに落ち着いた雰囲気で微笑みを浮かべた。

「えと...あの、...その。」

「....おいで。」

瑞希は優しい声で言う。私は何も言わずに彼女の元へと歩いた。瑞希の側に来ると、彼女は再び窓の外を見つめだした。

「綺麗だねえ。」

瑞希の黒い瞳に、私たちの町を染める夕焼けが映っている。私も同じように窓の外に顔を向けると、夕日は遠くの都心のビル群へと沈み始めていた。

「あの太陽も明日にはまた昇るのにどうしてだろうね、沈んでいくのがあんなに悲しいのは。」

瑞希の言葉が、今見ているこの何気ない景色を彩っている。彼女は続ける。

「真っ暗な夜の中にいるとね、朝なんてもう来ないんじゃないかって思えてくるの。明けない夜ってやつ?」

「...夜は誰だって怖いよ。」

「それに寂しい。」

「うん。」

しばらく二人は景色を見つめた。キラキラと光る川や、大通りの忙しなく行き交う車たち。耳を澄ませば鳥の鳴き声や、子供たちのはしゃぐ声。みんな帰るべき場所を持っていて、それを夕日はじっと見守っているかのよう。

「ごめんね、ひとりぼっちにさせて。」

瑞希は優しい声でそう言った。

「ううん。私ね、この一ヶ月で色んなものを見つけられたんだ。」

「色んなもの?」

「うん。一人じゃないと見つけられない景色や、言葉。保健室で心閉ざしてた子とも話せるようになったんだよ。」

「大冒険だね。」

「その子、昔の私と同じ目をしてたんだ。」

「へえ?」

「本当に真っ暗な過去を持ってる子でさ、でもその子に背中押してもらったお陰で会いに来れたんだ。」

「良い友達に出会えたんだね、良かった。私も今日までの間、つるりんに何度も助けられたよ。」

「鶴ちゃん、何よりも私らのこと心配してたもんね。」

「本当にね。私、つるりんが居なかったら元に戻ってこれなかったと思う。」

瑞希は遠くを見つめ、微笑んだ。思えば詩鶴の頑張りは、どれだけ二人を引き止める綱となってくれただろう。私はなんて良い人たちに巡り会ってこれたんだ、そう思うと、杏色に染まる町の風景が微かににじんだ。

「明希、私ね、」

「....?」

「ずっと自分が分からなかったの。明希の母親でいればいいのか、恋人でいれば良いのか、そう考えてく内に自分がどう思うのかを見失って....。」

「それは....。」

「どっちを取っても自分か、明希かのどっちかを傷つけなきゃいけない。その選択がずっと出来ずにいた。とても怖かったんだ。」

「ごめんなさい...。それは私がおかしいせいだから。」

「...いいや、おかしくなんかないよ。」

「....え?」

「明希は女の子を好きになっちゃうんでしょ?」

「.....。」

私は瑞希への視線を反らし、一点を見つめて固まった。言葉が何も浮かんでくれなかったから。

「だったらそれで良いんじゃないかな。明希には明希のベストな答えがあるはずだから、みんなの言う当たり前の形に囚われるべきじゃないと思う。」

「みっちゃん....、ありがとう。」

「ごめんね、私に出来ることには限界がある。でも、それを責める材料にして欲しくないの。」

「私こそごめん。もっと普通な心に生まれたかった。」

「.....また「私が悪い」の言い合い合戦になっちゃうね。」

「....うん、だね。」

「きっとお互い様なんだと思う。私が言っちゃうのもなんだけど、その結論に気づいても言い出せなかったと思うから。」

「みっちゃん。」

「うん?なに?」

「あやふやにしたくないから、ちゃんと仲直りしたい。」

「そう.....だね。」

身体ごと瑞希に向けて、私は彼女の目を見た。

「いっぱい迷惑かけてごめんなさい。それに...あの、...キスのこと...。」

「ううん、大丈夫。初めはビックリしたけどね。」

「ごめん。あの時は何て言うか、...気持ちが我慢出来なくなって....。」

「私もあの後、明希に酷いことした。乱暴して、怒鳴って、ひとりぼっちにさせて...。本当にごめんなさい。」

瑞希は深々と頭を下げる。そんな彼女に私は、少し悪戯に胸の内を明かしてみる。

「みっちゃん。」

「うん...?」

「みっちゃんがキスを返してくれたの、本心なら私、泣いて喜んでたかも。」

「ごめんね、....騙したりして。」

「ううん、良いの。」

決して叶うことのない恋だというのを確かめたくて、分かりきった答えをもう一度鼓膜に触れさせる。でも、こうして二人の関係が引き裂かれずに済んだのだから、今は何だかあの日の出来事は良い思い出だったと思えてくる。そう考えると、肺に触れる涼しい空気が気持ちよく感じて、私はうんと背伸びをした。

「ふあああ、なんかスッキリしたっ。みっちゃんと友達に戻れて。」

「えへへ、ありがと。」

「あ~あ、こんなことならキスの続き、黙ってしてもらっとけば良かったなあ~...!」

「ちょっと、このタイミングでそんなこと言うとか酷ぉ!?」

やっと仲直りが出来た、そんな日が訪れてくれた、そのことで私は胸が一杯になった。瑞希と友達に戻れる日など、もしや来ないんじゃないかとまで思っていたから。 

「これからも宜しくね、みっちゃん。」

「こちらこそ、明希。」

そう言葉を交わして、二人は笑顔を見せあった。

「そうそう、明希このあと暇?」

「え?うん、まあ。」

「あのね、良かったら―――」

 

 

ガラガラガラ.....

午後、五時半頃。夕空もそろそろ青くなり始めたくらいに、私たちは古い引き戸を開けた。

「いらっしゃ.....あ。」

「お疲れ~、今やってる?」

「みっちゃん!明希!」

そう。二人を繋ぎ止めてくれた恩人である詩鶴にお礼を言いに行かなきゃ、ということになって、彼女のお店にやってきた。詩鶴は私たちの顔を見るなり、急いで駆け寄り、ぎゅっと抱きしめ、

「もう....、一時はどうなるかって心配してたんだよ!?」

二人よりも先に顔をぐしゃぐしゃにして大泣きした。

「つるりんが居なかったら私―――」

「うああああああん、良かった....良かったあああはあああん....!!」

「鶴ちゃん、鶴ちゃんが頑張ってくれたお陰で――」

「あはははあああん、二人とも仲直り....ぐずん.....しでぐれだんだねぇっへぇっ、へえええん。」

「.......。」

「.......。」

「つるりん、分かったから...、もう泣かないで。」

「無理ぃいいいいい、そんなの無理ぃいいいい。」

「........。」

「........。」

瑞希と私のを合わせても足りないくらい貰い泣きしていた。

 

しばらくして詩鶴が落ち着くと、彼女はお茶を出してくれた。

「つるりん、私らより泣くじゃん。」

瑞希がそう言って笑う。

「だって...、だって本当に二人絶縁してしまうって思ったんだから...。」

「それは...、心配かけてごめんなさい。」

「ごめんなさい...。」

瑞希に続き、私も頭を下げた。

「良いよ良いよ、そんな畏まんないで。」

「ありがと。あ、つるりん、折角だから正式に何か注文しちゃって良い?」

「正式??」

「いつもタダでお茶してたからさ。」

「あーいやいや!良いの良いの。友達からお金貰うなんて。」

「でもそれじゃあ商売になんないでしょ。義理立てさせてよ、助けて貰ったんだから。」

「えー...、何か申し訳ないな...。」

詩鶴は少々困った様子。私は彼女に軽いノリで話しかけてみた。

「へい大将ぉ!オススメは?」

「?」

普段、詩鶴にあまりやらないテンションで話しかけたせいか、詩鶴の頭に?マークが浮かぶ。私は脳天から煙が上がるほど赤面した。

「チョウシノッテゴメンナサイ....。」

「え!?あー!ごめんごめん!!元気な明希見るの久しぶりだったからつい!」

詩鶴の慰めが異様に刺さる。

「明希ぃ、つるりんはどっちかっていうと女将さんだぞー。」

「モウヤメテ....ワタシガ...ワルカッタカラ......。」

収拾がつかなくなった。

「あーっと、えーっとね、得意料理で言えば卵焼きとかね、あと...たこ焼きとか。」

「なんか(作るのが)難しそうなのばっかだね。」

瑞希は目を丸くする。私は

「たこ焼き??」

と、疑問を投げた。

「あー、あのね。お父さんにさ、「たこ焼き作れるのは義務教育の一環やー。」とか言われて、作り方叩き込まされた。」

「大阪の人...?」

「そ。料理全然出来ないクセにあれだけ出来るんだよ。」

と、詩鶴は失笑した。瑞希は、皆で食べられるようにと、たこ焼きを注文する。私が卵焼きを食べてみたいというと詩鶴がニコニコと笑い出した。

「お、出たー。河島の定番メニュー。」

「河島君の??」

「そー、あいつ店に来るたび毎回、味噌卵焼き(みそたま)ひとつ~って頼んでくるの。いや、お好み焼きかってw」

詩鶴は私たちと漫談を交えながらテキパキと料理を始める。いつもバイトで怒られてばっかりの私と比べたら、仕事も会話も余裕でこなせている彼女はとても格好良く思えた。

「じゃあそれ、お願いしよっかな。」

「みそたま?あいよーっ。」

たこ焼き機の電源を入れ、ボウルから、たこ焼き機のくぼみへ混ぜ合わせた材料を注ぎ込む。焼き上がるまでに詩鶴は卵焼きの調理に取り掛かりだした。

「ねえ、明希。」

詩鶴が聞く。

「....?」

「なんか明るくなったね。」

「え、そう?」

「うん。なんていうんだろうね、雰囲気変わったなあって。」

「えへへ、なにそれ。」

「ほら、何か変わったんだよ。え、変わったくない?ねえ、みっちゃん。」

話を振られた瑞希が、ニコニコとした表情で答える。

「沢山冒険したもんね~。」

「えへへ....まあ....。」

「冒険?なにそれ、聞かせて聞かせて!」

詩鶴の声色が更に明るくなった。盛り上がった空気の中で話すのは中々に抵抗があったが、私は詩鶴たちの前で保健室での出来事を話した。

「私が保健室に通ってた時ね、そこにいた子と色々話してたの。」

「へえ?」

「今まで辛い目に沢山あったそうで、最初会ったときは会話も出来ないくらい怯えてた。」

私は続けた。

「でも、何度か話しかけてく内にだんだん話せるようになっていって。私、それがとても嬉しくてさ。」

「へえ、心開いてくれたんだ。やるね。」

「うん、最後にはその子に背中を押して貰ったんだ。"もう十分待ったんじゃないかな"って。」

「良い子なんだね。」

「うん、とっても。でも、昔は散々酷いことしてたんだって。だからその報いを受けてるって言ってた。」

「へえ....。でも、今こうやって明希とみっちゃんを元通りにするきっかけを作ってくれたんだから、私にとっても恩人だね。」

「ふふ、ありがと。あの子が酷いことしてしまった人達に、いつか謝りに行こうって約束したんだ。元気になったら、ね。」

詩鶴は感心したようにして、言った。

「へぇ~。私も会ってみたいな、その子に。」

そう言って詩鶴は、私たちの前に完成した料理を並べた。

 

つづく。

 




2024.3.15
感情部分を一行ほど追加


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48.終戦


ホームルーム前の登校時間。少し早く着いたからか、教室はまだ賑やかになるほどの人は居ない。久しぶりの教室で、クラスメイトが入室する度にこちらに視線を向けてくる。居づらさを感じ始めていた頃、詩鶴が廊下から走ってきた。
「明希ぃーー、いるー?」
周りの視線が気になって、私は小さく手を上げる。
「は、はい...。」
「あ、いたいた。明希ー、放課後ひまー?」
「え、あ...うん。どこか行くの?」
「駅前にちょっと気になってるラーメン屋さんがあるんだけど、もし良かったら~って思って。」
詩鶴が楽しそうに話してると、別のクラスメイトが彼女に野次を飛ばした。
「名取ー、お前また居残り脱走か~?」
「あー?るせえなぁ、ぶっとばすぞ。」
「ぶっとばす前に宿()()やれよー。」
言い返せない詩鶴は、彼らに思いっきり舌打ちを飛ばした。
「はあ....、アイツ嫌い。」
「まあまあ....。」
私が苦笑いで宥めると、詩鶴はパッと気持ちを切り替えて元気良く去っていった。
「じゃ、また呼ぶね!」
「うん。」
そして去り際の詩鶴にまた野次が飛ぶ。
「やーい、脱走犯~。」
詩鶴は中指を突き立てた。


「えー、それじゃあ出席取るぞ。」
ホームルームになると、先生の眠たそうな声が聞こえる。私は机の上で指を遊ばせながら、皆の返事を聞き流していく。こんな当たり前の日常も、一ヶ月会わずにいるだけで新鮮に感じるものだ。ふと横を向いてみると、瑞希がボーッと前を見つめて何か考え事をしている。私の視線に気づくと、彼女はニコッと笑って
「なに?」
と、小声で聞く。私は小さく首を振り、何でもない素振りを見せた。
「四倉。」
先生が私の名を呼ぶ。
「あぅっ、はい...!」
「久しぶりだな、元気してたか。」
「あ、えと....はい!それなりには...!」
「それなりか...。」
周りからクスクスと笑い声が聞こえ、顔が熱くなった。



 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.48「終戦」

 

「四季乃ちゃーん。」

保健室の扉を開け、小さな声で彼女の名を呼ぶ。最初に先生が反応して

「四倉さん、授業終わったの?お疲れ様。」

と、労いの言葉をかけてくれた。

「はい、先生。ありがとうございます。」

先生の机まで歩いて、私も笑顔で返す。

「どうだった?久しぶりの教室は。」

「ええ、とても新鮮でした。ちょっと皆の視線は怖かったけど...。」

「ふふ、じきに慣れるわ。描いてた詩は完成した?」

「あともうちょっとで出来そうです。」

「良いね。その新鮮な視点を忘れちゃダメだよ。」

「ありがとうございます。」

先生と話していると、後ろから私を呼ぶ声がした。

「明希。」

振り返ると四季乃がベッドに座っている。入った時は出入口側にかかっていたカーテンで気づかなかった。四季乃と目が合うと、彼女の口元がそっと微笑みに変わる。私は四季乃に駆け寄り、胸の中へ飛び込んだ。

「わ!?どうしたの。」

「四季乃ちゃん、私やれたよ。仲直りできたよ!!」

ビックリした四季乃が仲直りの言葉を聞くと、安心したように背中に手を回し

「良かったね、明希。」

と言って(さす)ってくれた。彼女の腕の中で、私は幼い子供のように頬を擦った。

「四季乃ちゃんのお陰だよ。」

「明希、子供みたい。」

「良いの!今だけは。」

四季乃はじっと私を見つめていた。自分と重ね、夢を見るような眼差しで。

「明希は、まだお母さんを探してるの?」

「え?」

「明希のハグって、いつも友達のハグじゃないからさ。」

「友達のハグ...?」

「何て言うか、家族や恋人にしてるような感じ。」

「え、これが普通じゃないの...?」

「普通はもうちょっと軽めだよ。そこまでギュッとはしないかな。」

「そ、そっか。そうだったんだ...。ごめんね、ベタベタして。」

「ううん、それは良いの。気にしない。でも明希ってギュッてすると本当に落ち着いた顔するし、もしかしたらお母さんと重ねてるのかなって。ごめんね、直球な言い方になっちゃうけど。」

四季乃の疑問に、私は言い回しの一つも見つけられなかった。だって何一つ間違ってないから。腕の中の温もりに触れると、あの頃に戻ったような気持ちになれる。それが何より心地よかったんだ。だから一度ハグしあうと離れられない。ずっとこうしていたいと思えてしまう。周りはきっとそんな私を気持ち悪がってたのかもしれない。

「引き離された親子は親離れ出来ないんだよ。心が、いつまで経っても。」

四季乃にそう言うと、彼女はそっと呟いた。

「親離れ....か。」

過去を思い出したのか、想いに耽っている。そんな彼女の隣で、部屋の空気と一つになって過ごした。

暫くして私は、保健室での思い出を胸に、四季乃に少し甘えてみた。

「私ここを離れるの、寂しいな。」

そう言うと、四季乃はほんのりと笑顔を見せる。

「私も。でも、私も頑張るから。今度は学校のどこかで会いましょう。」

「わあ...!私応援してるからね、何か力になれることあったら言ってね。」

四季乃の両手を揺らして大喜びした。とうとう二人の心に夜明けがやってきたように思えて、それがとても嬉しくて。二人はお互いに祝福しあった。

 

それから暫く彼女と会話を楽しんだ。過去の暗い話から、面白く馬鹿げた話まで。私たちは時間を忘れてお喋りに夢中になっていた。

その後、保健の先生が用事で暫く部屋の留守を頼まれ、保健室で二人きりになる。放課後に入り、周りの部活動もそろそろ終わりそうなくらいの時間だった。

私は母の死のことを四季乃に話した。

「もうそろそろ、お母さんの命日なんだ。」

「へえ...?」

「四年も経つと、だんだん母親の感覚が分からなくなってくるけどね。」

小さく微笑みながら話すのを、四季乃はじっと見ながら言葉を返していく。

「お墓参りはしていくの?」

「うん。」

「そっか。じゃあお母さんに伝えてあげないとね、元気にしてるってこと。」

「ありがと。四季乃ちゃんのことも話すよ。」

「悪友が出来たって?」

「それは昔の話でしょ。」

すっかり元気な心を取り戻した四季乃。とうとう自虐ネタまで使うようになってきた。

「ちょっと遠いけど、四季乃ちゃんも良かったらおいで。」

「...私なんかがご挨拶しても良いのかしら。」

「別に良いよ、親友なんだし。」

「....親友。」

「...?重たすぎたかな。」

「ううん。そう言ってくれて嬉しい。」

四季乃は子供のような純粋な笑顔を見せた。それは、お互いに心を許し合えるようになった証拠と言えるだろう。

「明希、私さ――」

四季乃が明るい表情で何か言おうとしたその時だった。

「ここにいるのー?」

扉が開くとともに詩鶴の声が聞こえた。私がそれに答えようとすると、四季乃は咄嗟に私の前に腕を出し、息を殺すようにして言った。

「駄目...!今出たら、絶対。」

何の冗談なのかと思ったが、四季乃の表情はまるで恐怖に立ち向かおうとしてるかのようで真剣だった。

「四季乃ちゃん...、どうしたの?」

「しーっ!!」

「...なんでそんなに怖がってるの??」

四季乃は冷静さを保つのに精一杯な雰囲気だったが、私には状況が一つも掴めなかった。

「あ.....ああ......。」

不思議に思いながら見つめていると、四季乃の表情が絶望に変わっていく。まるで初めて出会った頃のように荒くなる呼吸、身体が小刻みに震えながらも、彼女は必死に私を守ろうとしている。気づけば視線の先には、詩鶴が怪訝そうな顔で立っていた。

「藤島?...あんた何やってんの...??」

「やめて...!!貴女達を苛めた仕返しなら、この子は関係ない。お願いだから私だけにして。いくらでも受けるわ。」

「ごめん、何言ってんの??」

「明希は私の苛めには荷担してない、無関係よ。」

「うん、知ってる。」

「は.....??」

三人とも、この状況が理解できていない。

「明希...、ちょっと聞きたいんだけど。」

「う、うん。」

「休んでたときにさ、色々話したり、背中押して貰ったって言ってたの、もしかして藤島のこと?」

「うん、そうだよ。」

「ああ....そう。」

二人の間に、妙に重たい空気が流れている。四季乃は私の目をじっと見つめた。まるで今まで信じていたものが、何もかも嘘だったと知らされたような瞳をしていた。

「藤島、明希のこと、ありがとう。」

「え....。」

そして詩鶴は顔色を変えないまま、淡々と礼の言葉を告げる。四季乃は詩鶴の言葉に強い戸惑いを覚えると、身体全体から力が抜けきるように崩れ落ちた。

「四季乃ちゃん、大丈夫?」

私がそう言って彼女を心配すると

「明希.....。」

何かを訴えかけるように、どこか寂しげな声で私の名前を吐いた。

ひとつだけ私の中で明確になっているのは、四季乃がかつて苛めていた人の中に詩鶴も含まれていた、ということだ。そして、どうして四季乃がこんなにも怯えているのかを一つずつ紐解いていくと、その中で一つだけ信じたくないことに気づいた。

ー「お腹の子供、殺した感想は?」ー

四季乃の精神を完全に壊した言葉。その言葉を詩鶴が浴びせたという結論に、どうやっても辿り着いてしまうのだ。

一気に押し寄せる圧倒的な情報量に、気が狂いそうなくらいの混乱が襲う。

「待って待って....二人とも、ちょっと待ってよ....。」

詩鶴と四季乃は、戸惑い喘ぐ私に困り顔を見せた。

「どういうこと...。私、二人を騙してたの...?」

そう嘆く私に、詩鶴は

「明希が頭抱えることじゃないよ。」

と、言ってくれるが...

「十分抱えることだよ...!」

「だから、明希のせいじゃないって。」

「じゃあ誰のせいなの。鶴ちゃんが被害者なのは間違いないよ。でも四季乃ちゃんにだって、こうなってしまった環境が―――」

何のためかも分からないような言い争いに発展しかけてしまった。四季乃は、庇おうとした私に

「もうやめて、いいから。」

と言って遮る。

「明希、人を苛めて良い理由に環境なんかないんだよ。」

そう四季乃は、優しい目で私を諭した。そして彼女は詩鶴の目を見て、ずっしりと重たい声色で言った。

「名取さん。」

「....?」

「今までのこと、本当にごめんなさい。貴女にも、貴女の友達にも、散々酷いことをした。」

「......。」

「今更になって謝って、許して欲しい訳じゃない。もし明希と私が友達でいるのが不愉快なら、私は離れる。」

四季乃の言葉に、私は息を大きく飲んだ。溢れかけた涙のせいで喉が苦しくて、名前を呼ぶことさえ出来なかった。詩鶴に助けの目を向けると、彼女は呆れ半分な様子で言葉を投げた。

「好きにすれば....。」

「.......。」

詩鶴の言葉が、四季乃にとっては良いものだったか私には分からなかった。四季乃の方を見ると、彼女の目が涙でキラキラと光っている。やがてそれが溢れかけると、四季乃は二人に見せまいと立ち上がり

「わかった。」

と、小さく残し、保健室から出ていった。

「四季乃ちゃん....!!」

一度は彼女の名前を叫んだが、自分の無力さに対する失望感で、その離れていく裾を掴めなかった。

 

詩鶴と二人きりになった部屋で、重たい空気に包まれる。追いかけるにはもう遅く、詩鶴を部屋に置き去りにすることにも躊躇いがあった。結局どっちを選べば良かったのか、そう自分に問いかけたら感情がぐちゃぐちゃになった。

「ねえ鶴ちゃん、ひとつ聞いて良い?」

「なに....?」

「鶴ちゃんの知ってる四季乃ちゃんは、どういう人だったの...。」

「それは....。」

 

つづく。







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49.秋風


あれから日が変わって次の朝、保健室に顔を出すとそこに四季乃の姿はなかった。四季乃のいたベッドには綺麗さっぱりとカーテンが開かれていて、もうここには戻らなくなったことを物語っている。
彼女との思い出が影となってそこに映っている。目を閉じればあの子の声が聞こえてきそうで。

「明希、おはよう。何してるの?」
「ねえ明希、こっち来て。一緒に話そ。」

四季乃の落ち着いた声が、胸の中から私を呼んでいる。私の声だけ届かないのは、もうそれが思い出になってしまったからなのだろう。誰もいない部屋に一人佇んだ。
「四倉さん、おはよう。」
「え?」
後ろから保健の先生の声が聞こえ、振り返ると先生は珈琲の入ったコップを片手に微笑みかけ、スタスタと机に歩いていく。
「先生、四季乃ちゃんは...。」
そう聞くと、先生は椅子の頭に指先をちょこんと乗せて言った。
「藤島さんね、もう元気になったって昨日の夜に電話してくれて。教室、探してみたら?二組だよ。」
私は彼女の教室へと急いだ。小鳥のさえずりと朝陽の差し込む廊下を。胸の中で、夜行列車の発車ベルが鳴り響くような心模様。彼女がどこか遠い町に旅立ってしまうかのような焦りが駆け巡っていた。
「四季乃ちゃん....、四季乃ちゃん...!!」
心で何度もその名前を叫びながら、教室にたどり着くとドアの影から彼女を探した。しかし、机に座って頬杖をつく少年も、友達と談笑している少女たちも、どれも四季乃の雰囲気とは違っていた。
「どうしたの?誰か探してる?」
「.....!」
生徒のひとりが私に気づき、声をかけた。飛び出しそうな心臓を押さえて、恐る恐る答える。
「あ、あの....四季乃ちゃん、藤島さん居ますか。」
「藤島?夏休み前からずっと来てないよ。」
「そ、そうですか。ありがとう。」
まだ学校に来ていないのかも、そう思って自分の教室に戻ろうとしたとき
「え、何あの子、藤島の友達?あんな大人しそうな子が?」
「え、どういう意味どういう意味。」
背後から噂話が聞こえてくる。ふと私は、そんなものに足を止めてしまった。
「だって藤島、表じゃ八方美人だけど、裏じゃ援交とかしてるらしいよ。」
「え、マジ?尻軽じゃん。」
「マジマジ。それどころかヒョロっちいやつ苛めて言うこと聞かせてたとか。」
「うわ、ヤバ。そんなのと友達とか、今の子何者?」
足を止めてまで聞いたのを後悔した。私は手のひらを強く握りしめ、そこから走り去った。
それから私は、またすぐに会えると信じて待ち続けた。しかし、いつまで時が流れても彼女の姿を目にすることはなかった。いつか胸の奥底で呼吸をしていた期待は、そっと息絶えるように消えていった。


 

下町の鶴

6章-初秋-

☆Episode.49「秋風」

 

目が覚めると、自分の部屋の天井を見ていた。

欠伸が出てしまう前に、今までの辛いことが全部夢の中の出来事だったなら、と想像してみる。しかし、浅い眠りの中に描いたものは、耐えきれず出た欠伸にみんな連れ去られてしまう。霞む目を擦り、窓の外を見つめる。今日は、お母さんの命日だ。

 

リビングに出ると、父がスーツ姿でパンを焼いていた。

「お父さん、おはよう。」

「おう、おはよう。」

何か手伝えることはあるか聞いてみると、「パンで良ければもう出来る」と父は言う。ありがとう、と返すと、座って待っててと言った。

「お父さん。」

「うん?どうした。」

「今日、何の日か覚えてる?」

「....ああ、覚えてるよ。」

「教えて。」

「お母さんと、お別れした日。」

「...そうだね。」

父は焼き上がったパンをお皿に移し、私の元に差し出すと

「ごめんな、今年も仕事で一緒には行けそうにない。」

と、暗い声で言う。

「大丈夫、お父さんのことも伝えてくるよ。」

「ありがとう。仕事が終わったら寄るよ。」

「うん。」

 

朝食を食べ終わる頃に父が仕事へ出掛けていき、食後のお皿を水洗いする。

キュッ...

水を止め、食器を片付け、灰色の窓ガラスを背に部屋を見渡す。静かな部屋に少し心を落ち着かせ、深く呼吸をしてみた。こうまでしないと思い出せないくらい時が経ったのか、そう思うと何だか悲しい。

「今日は少しお洒落してこうかな。」

そう心に呟いて、母のタンスから紺色のカーディガンを取り出した。それを羽織り、匂いを嗅ぐと、何だか懐かしい匂いがする。過去ばかりに目を向けてしまう私だから、少し優しい気持ちになれた。

 

念のためにと思い、傘を持って外に出る。空は曇っていた。駅まで歩いていき、松飛台までの切符を買う。千葉方面への電車は殆ど乗らないから少し新鮮な気持ちになった。ホームで暫くボーッと待っていると電車がやってきたので、それに乗り込んだ。車内は座る場所を選べる程に人がまばらで、私は車窓の良く見える真ん中あたりの席に座った。そうか、休校日とはいえ今日は平日なんだ。スーツ姿のサラリーマンの中にはキャリーバッグを持ってる人もいた。どこかへ出張するのだろうか?そういえば少し前に線路が空港まで直通するようになったんだっけ。きっと彼らはこれから飛行機に乗るのだろう。少し羨ましい気持ちになった。

次に私は、電車の中で親子が楽しそうに会話しているのを見つけた。まだ未来には不安よりも、期待の方で満ち溢れている幼い女の子と、その子の頭を優しく手のひらで撫でる母親の姿が。そんな光景を見つめていると、何だか懐かしい気持ちになった。

 

電車に揺られながら当時の記憶を浮かべた。四年前、あれはまだ私が十三になったばかりの頃。

「..........。」

さっきまで温かかった母の手は、ゆっくりと温度を失くしていく。命の終わりに直面した瞬間というのは、心に悲しい音楽さえ流れない。ただ無音の空間だった。

「不思議だね。」

「......?」

「私、なんで泣いてないんだろう。心なくしたのかな。」

「.....。」

「真っ白なの。何も鮮やかに見えないし、何も綺麗なものに聞こえない。」

父がずっと黙って私の話を聞いている。それがまるで独り言を喋ってるみたいな気分になって、余計に寂しかった。でも、ずっと泣かずにいれたはずなのに、火葬の前には壊れるくらいに涙が出た。魂がそこにないとしても、形が残ってるだけでどこか安心していたのかな。本当の別れが訪れたように思えて。

それからはいつも寂しさが人生に纏わりついていた。何をするにも心が全然動かない。この気持ちを打ち明けたいのに、空気が壊れることを恐れてか誰も話を聞いてくれない。ただ一方的に、「大変だったね」と言われ、片付けられてしまう。それが本当に寂しかった。そして三日も経てばみんなその事を忘れて、やれ宿題だ、やれ進路だって言葉に呑まれていくのだ。不良になる生徒の気持ちが何となく理解できたのはここからだったかな。

大人になりたくない、そうなる前に死んでしまえたらいい。何度もそう思えたけど、結局、これからも死に損ないの女でいることは目に見えている。死ぬ勇気も、私の側に居てくれる人を裏切る決断も、私には一生出来っこないから。

母の死から、詩を今までより沢山書くようになった。打ち明けられない想いや、初めから聞かれることのない願いまで。それらはみんな暗いテーマばかりだったが、自分を救う方法があるとしたら、私にはそれだけだった。

 

色々と思い出しているうちに電車は、目的の駅に到着した。ここから霊園まではそう遠くない。むしろ霊園に着いてからが長いのだ。辺りは一面のお墓、ぼーっと歩いていると最初は誰もが迷ってしまう程に広い。

不思議なものだ。死を直接的に経験していない者にとってお墓は、"怖い場所"ってイメージのはずなのに、亡くした人がいる人間にとってはそんな恐怖はどうでも良くなる。むしろ、霊でも会えるなら幸せじゃないか、とまで。優しい笑みでお墓を洗う人、墓前で泣き崩れる人、この場所には幾千もの感情が行き交っている。それを恐れずに受け止められる日が、どんな人にもいつか必ず訪れるのだろう。その頃にはきっと、命というものへの見方が少しは変わっているはずだから。

 

母の墓の前に着くと、そこには小さな花束が供えられていた。誰が置いていったのだろう。母の友人だろうか、それとも先に身内が供えていったのだろうか。誰にしたってその花は、とても綺麗に咲いていた。

私は手を組んで、お母さんに心の内を伝えた。

「お久しぶり。このお花、誰が届けてくれたんだろうね、とても綺麗です。

もう今日で四年も経つんだね。だんだん声も思い出せなくなってきて、だからたまにで良いので夢に出てきて下さい。娘は、寂しいです。あれから全然喋ってくれなかったお父さんも、私が頑張って喋り続けて、最近は会話量も少し増えたんだ。でも、少しだけね。お母さんからもちょっと何とか言って欲しい。仕事終わりに来てくれるそうだからさ。"もう少し親子とコミュニケーションをとってくれ"って。」

それから何分喋っただろうか。友達のこと、これからのこと、そして、三人家族だった頃の思い出話をした。瞼を開けると、雲間に小さな青空が見えた。差し込んだ太陽がだんだん雲を切り開き、晴れ空に変えていく。きっとこの声が届いたのだろう、そう思えて笑顔になれた。

私は一度、母の墓に振り返り、心の中で言った。

「またね。」

って。

その夜、父と小さく思い出話をした。晩御飯は、母が作ってくれたシチューを二人で作ってみようという話になったものの、手軽な料理ばかりでやりくりしてきた私たちには、お母さんほど上手くは作れなかった。互いに文句をぶつけながら、でも口にしてみると案外美味しくて、最後は笑い話に変わった。

「何この人参、形おかしすぎでしょ。」

「仕方ないだろ、包丁なんてそんなにしょっちゅう使わないんだから。」

「んー....。」

「でもまあ、味は悪くないんじゃないか?」

「うん、美味し。」

お互い、もう少し料理のスキルを上げねば、と感じさせられる一日になった。お母さん、そんなこんなで相変わらずに不器用な毎日を過ごせています。天国でもし、寂しさを感じることがあったなら、どうぞこんな私達を見ながら笑ってやって下さい。

 

 

そんな母の命日が過ぎた翌朝、私はいつもより、どこか元気に登校出来た気がした。きっとこれもお母さんのお陰なのかもしれない、そう思って校舎へと足を運んだ。

玄関をくぐり抜け、保健室の前を通ってみる。ついつい彼女がまだここに居るものだと思って、スッキリと空いたベッドに毎回ドキッとさせられる。だけど、今日こそはこの校舎のどこかで会えるはず、そう胸に希望を溢れさせていた。

さあ教室に戻ろう、そう思って保健室から出ようとしたその時だった。

「四倉さん、おはよう。」

「あ、先生。おはようございます。」

「また藤島さん、ここに居ると思ったの?」

「えへへ。ええ、まあ。」

「そうそう、そんな四倉さんに、はい。」

先生はポケットの中から白い封筒のようなものを取り出し、私に手渡した。

「え?」

「これ、藤島さんからお手紙。四倉さんにだって。」

「四季乃ちゃんから、手紙...?」

「大丈夫。私、中身読んでないから。」

「開けて良いですか?」

「ええ、勿論。貴女への手紙なんだから。」

私はそっと封筒を開けた。今時、手紙だなんて随分粋なことするんだなあ、と冗談交じりに思っていた。しかし、そんな私に待ち受けていた手紙の内容に、私は心臓を止められそうになった。

 

―――――――――――――――

親友、明希へ。

 

元気ですか。目を閉じれば明希の話しかけてくる声が聞こえそうで、不思議と温かい気持ちになります。

そして、お母様のご命日にあたり、心よりご冥福をお祈りします。細やかですが、花束をお供えしました。お墓の邪魔になっていたらごめんなさい。

早朝に来たので会えなかったのが残念です。だからどうしても手紙を残したいと思って書きました。

本題です。とても伝えづらいことなのですが、私、藤島四季乃は学校を中退することとなりました。理由は心配させたくないのであまり詳しくは言いませんが、お金の問題です。お友達の名取さんとの事じゃないので誤解しないでね。

明希には沢山助けて貰ったのに、恩を仇で返す形になってしまって本当にごめんなさい。

 

この学校の中にもう居場所は無いと思っていた。救われることもないし、そうなっていい人間じゃないのに、こんな自分には勿体ないくらいに私の心の光となってくれた。心の底から感謝してます。ありがとう。

町のどこかでまた会えること、心から祈ってます。

 

四季乃より。

―――――――――――――――

手紙にポタポタと涙が落ちる。先生が

「大丈夫?」

と声をかけると、私は膝から崩れ落ちて泣いた。子供のように声を上げ、顔をぐしゃぐしゃに乱した。こんなに泣いたのは母の火葬の日以来だ。本当に失くしたくないものを、別れも言えずに失ったことに耐えきれない程の胸の痛みが押し寄せ、喘ぎ苦しむ。

「嫌だ、嫌だ嫌だ...、行かないで...。」

「どうしたの四倉さん、しっかり。」

先生が背中を擦るのが余計辛くなって、涙が止まらない。

「ねえ、お手紙、私も読んで良いかしら。」

そう言って、先生は四季乃の手紙を手に取る。しばらく黙って手紙を読み進めると、先生は

「ああ....。」

と小さく声を漏らし、俯くように表情が暗くなる。

「先生、先生は知っていたの...?」

「え...。」

「四季乃ちゃんが学校辞めるってこと。」

「そうならないようにケアしてきた。でも...」

「でも....?」

「出来なかった。」

私が泣き止まずにいるのを、先生は何も言わずにそっと、頭を撫でた。

 

四季乃は、私と少し出会う前から学校を中退すべきかを話し合っていたらしい。彼女の精神状態、学費のこと、そして今までに犯してきた不正行為から、学校生活を送り続けるのは限界だった。

このことが周りに知れ渡る頃にはきっと誰もが平穏な学校生活を送れるって、さぞ安心した顔を浮かべるのだろう。誰も彼女の苦しみなど知ることはなく、ただの通りすがりの第三者に、偉そうに正しさや常識を語られるのだろう。それでも痛みや、失望を、もう彼女と分け合うことは出来ない。悔しかった。同じ傷を抱えるもの同士、これからどんな辛いことも乗り越えてゆけると信じていたのに。

それから私は三日、学校を休んだ。保健室でも、教室でも、四季乃の影を探してしまいそうだったから。長い時間をかけて書いた詩も、明るい言葉を書き変えたり、暗い言葉で埋め尽くしては消してを繰り返した。

心に長い雨が降った。その雨の中を傘も差さずに濡れてはくしゃみをし、雲間に陽が差し込めば、それを全部食べてやろうと追いかけた。死んでしまっても、彼女がそこに居ないことが頷けるから、それが余計に辛いのだ。こんなものは希望とは呼ばない。

 

「お母さん、四季乃ちゃんに会いたい。」

 

 

三日後の朝、私は教室の窓から、追いたてられるようなラッシュアワーの喧騒が響き渡る街並みを見ていた。きっと今、四季乃はこの目に映る街のどこかで必死に働いているのだろう。胸の奥には、嵐のあとの静けさが。そこに冷たい風が穏やかに彷徨う。

「お互い、頑張っていこう。四季乃ちゃん。」

心の声を灰色の街に呟いた。

「明希...!」

友達の声がして振り替えると、瑞希と詩鶴が心配そうな顔で私のもとに駆け寄った。

「大丈夫?私心配したんだから...!」

「明希、何かあったら相談してって言ったじゃない!」

二人とも私を揺さぶって叱った。

「ごめん、でももう平気。」

「本当に?何だか元気ないよ?」

「病み上がりなだけだよ。」

「そう、無理しないでよね。」

「うん、ありがとう。あ、そうそう、みっちゃん。」

私は瑞希に声をかけた。

「ん....?」

「二人が言ってた詩、作ってきたよ。」

私は鞄の中のファイルから作詩帳を取り出し、その一枚を瑞希に渡す。二人は思い出したように驚き、ありがとうと言葉をかける。

「ふふ、忘れてやーんの。」

私は普段使わないような、少し荒れた口調で二人をからかった。

「本当ごめん....!読んで良い?」

「勿論。」

あとはきっと瑞希がギターで作曲してくれれば歌が出来るだろう。そう思って二人に笑顔を見せた。

「そういえば明希。」

瑞希が話しかけた。

「作詩旅行、行けなかったね。」

私は瑞希に顔を向けた。

「あ、そういえばそうだね。」

と、言い出しっぺの詩鶴は申し訳なさそうに頭を掻き、「ごめん」と苦笑い。でも、私はそんな二人に微笑んで

「いや、」

と言いかける。きょとんとする二人、私は窓の外の遠い景色を見つめて続けた。今の私なら、胸を張って言えるだろう。

 

 

「もう十分したよ。」

6章-初秋- おしまい。





【明希の作詩帳】

「望郷」
1.
地下鉄は朝を探して  希望の汽笛を歌う
果ての見えない闇路に 何度もすくみながら
それでも君は信じて  走り続けるのだろう  
ありふれた幸せに   たどり着けないとしても

雲を夢見る心は
ビル風に浮かぶ木葉のようで

約束しよう  春まで咲きつづけると
木枯らしの中 粉雪の中 どんな悲しみの中も
笑顔でいよう 僕らありのままだと
暖かい風の中で いつか、いつか、いつか...

2.
憧れはシャボン玉のよう 遠くの街に焦がれて
届かず割れてしまうのに 最後まで空の色
直せないぬいぐるみを  強く抱きしめてるの
片付けの出来ない    散らかった胸の部屋で

夢の中で目覚めた
古巣で愛しい声が聞こえる

笑顔でいよう ただいまを言える日までは
喜びだとか 失望さえも 君に話し尽くすまでは
アスファルトの 隅の花になって
分かられない二人のままで いつか いつか


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【第二篇】7章.ノ木の火
50.詩鶴の受難


ー今章から第二編、シーズン2になります。ー
―――――――――――――――

秋はノ木編に火と書く。収穫した穀物を天日干しで乾かすから「火」なんだとか。
よく、秋といえば「○○の秋!」という風に、人によって意識するものが違う。私にとっては何の秋なんだろう。

私にとっての「火」はなんだろう。


 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.50「詩鶴の受難」

 

「名取。」

「はい、なんすかー。」

「何すかじゃねえよ、出席だ。元気か。」

「ういー。」

「廊下立つか?」

「ごめんなさい、元気です。」

私は今、すこぶる機嫌が悪い。秋はビッグイベントのオンパレードな季節だというのに、そのどれもを楽しみに楽しみにしてたのに、先生と来たらとんでもないことを言いやがる。それは出席のほんの数分前、ホームルームが始まって早々、先生との今日最初の会話が

「名取、溜まった課題やらなかったらどれも出させないからな。」

「え?」

「体育祭も、文化祭も、あと遠足もぜーーんぶだ。」

「は、はァーー!?」

これだからだ。

ああもう、いい加減にしろっての。だいたい、一日に出される課題の数が多すぎるんだよ。何だよ、全教科プリント一枚ずつにプラス、レポートにアンケートに進路の設計図って。過労ですよ、給料下さいよ本当に。オマケに毎月のスーパー体調不良イベントがこのタイミングで来るし。何なの、私何したの?

そんなイライラを表に出していると、河島が特に心配してる訳でもなさそうな口調で尋ねてきた。

「名取、お前どうした。今日はやけに機嫌悪いな。」

「うるさいな、河島もこのままじゃ遠足行けないんだよ?わかってる?」

「大丈夫大丈夫、体育祭の出番を売れば何とかなる。」

「なってたら苦労しないよ、まったく...。」

河島は相変わらず気楽だ。それでいて本気だせばちゃんと勉強できるんだもの。そんな覚醒機能がついてりゃあそりゃあ無気力星人でいても何とかなるでしょうよ。それに比べ私ったら...。ああもう!イライラが収まんなあああい!!

「ああ...いたたた...。」

ああもう、感情的になったせいでお腹が...。

「花摘んで来ーい、授業もうそろ始まんぞー。」

「うぅ...、そうします...。」

まったく、今日は厄日だ。全てにおいてついていない。朝は起きて早々、タンスの角に指ぶつけてお目目パッチリになるし、私が食べるはずだったパンはお父さんに勝手に食べられるし、登校中は犬のフン踏んじゃうし、信号には全部引っかかるし、挙句の果てに学校着いたタイミングでお腹痛くなるとか何なの本当に!?

 

授業が終わると先ほどよりも痛みがエスカレートし、机上で寝込むしか何も出来なくなった。そんな最中、情報屋の村草が絡んできた。

「名取さぁーん、今日はやけに不機嫌ですねぇ~。なんか嫌なことでもあったのかぁ~い?」

訂正します。情報屋兼、クソ野郎の村草に絡まれました。

「ごめん村草、今は絡んでこないで...。」

「あ、さては遠足お預けで凹んでるんだな~?」

「それだけじゃないよ、今日は不幸続きなの。」

「え、体調悪いの?大丈夫?」

村草は心配そうな表情に変わった。机でうつ伏せ状態の私が、コイツなんかに心配されるなんて。全然嬉しくないけど、紳士らしく関わらないでくれるなら少し見方が変わるかもしれない。

「うん、大丈夫だから。今は話しかけないで。」

「なるほど。」

「....??」

「腸内環境が土砂崩れってか?アハハ!」

...コイツには心底失望した。女子がお腹抱えて苦しんでんのにマジで有り得ない。しょうもないギャグで茶化しやがって。

「ふざけんな...。」

「アハハ!アハハ!あひゃー!」

いつもなら掴みかかってボコボコにしてやるところだが、体力的にそれどころじゃない。こいつ、あとで絶対半殺しにしてやる。そう胸に誓い、村草に殺意の目を向けていたその時。

「おいハエトリ草ぁ。」

「おい誰がハエトリ草だよ。」

河島が村草をからかう。それに噛みついてくれたお陰で、こちらへのちょっかいが治まった。

「いや、まあ聞けよ。お前さ、色恋沙汰のスクープ好きだろ。」

「お、何か良いネタがあるのかい?」

「数学の坂上と一組の田島、お前の読み通りどうも脈ありみたいなんだよ。」

「おう、それでそれで?」

「さっき一目を気にしながら空き教室(カツ丼部屋)の方に向かう田島を見かけたんだよ。」

「マジで!?」

「ああ、これは重要イベント間違いなしだ。」

「おお!!」

「張り込みするなら今しかない。バレずに情報入手できるプロはお前だけだ!」

「よっしゃあああ!行ってくるぜぇえええ!」

そういって村草は全力疾走で教室を出ていった。痛みに悶えながらふと目線を上げると、前の机から河島がこちらに目を向けていた。

「なによ。」

「除草完了。」

「ああ、うん。ありがとう...。」

「あんまり辛いなら保健室行ってこいよ。」

「大丈夫だよ、変に心配されたくないから...。」

「そう言ったってお前、次の次、体育だぞ?」

「無理....、多分見学。」

「珍しいな、お前が体育休むとか。」

陽気に話してくる河島に対し、笑顔を作るのですら限界レベルな現状。私は渋々、河島との会話を拒否した。

「河島、お願いだから、今あまり話しかけないで...。」

「ああ、悪い。」

ズキズキと鈍い痛みと、頭が重くてイライラする。軽い吐き気もあって本当にしんどい。ああ、起きた時に症状が出てれば今日休めたのに...。河島が心配してくれるのは嬉しいけど、今は強く当たってしまいそうで怖い。

「名取。」

「なに...?」

「先生にはうまく言っといてやるから、保健室行ってこい。」

「気持ちだけ受けとっとくよ、ありがとう。」

「いや、ありがとうじゃなくて。」

「良いから。」

「本当か...?」

「いいって言ってんじゃん...!いい加減にしてよ!!」

「.....。」

「あ....ごめん...。」

やってしまった。怒鳴るつもりじゃなかったのに。

ビックリした河島に私は、目線を反らして黙り込んだ。申し訳ない気持ちを言葉に出来なくて、でも冷静に話し合えるような体力も無くて。ああ、今日はマジの厄日だ。

「なんかあったら言いなよ?まじで。」

河島の気遣いに私は、コクッ、と小さく頷いた。

 

 

「名取、どうした見学かあ!」

体育の先生のアツい心配が飛ぶ。来たる体育の授業は結局見学で、クラス合同の授業では何人ものクラスメイトが私のことを珍しがって見てきた。「いつも元気なアイツが珍しい」とでも言いたいのか、やたらと向けられる視線が痛い。

ピーーーッ!!

「オラぁーー、パス!」

「お前そっち回れ!」

ああ、楽しそう...。折角のサッカーの授業を木陰で見てるだけなんて。ほんと私ったら災難。さっきよりは少し症状が治まったとはいえ、激しい運動ができるほどじゃない。どうせまた暫くしたらぶり返してくるだろうし。

「ゴーール!」

「うっしゃああああ!!」

「河島あああ、さっきのお返しじゃあああ。」

あーあ、河島んチーム、また点入れられた。見学じゃなかったら絶対あそこでボール奪えるのに。てか村草、お返しって何があったんだよ。

暑い日差しと、少し冷たい風が吹き付ける秋の朝。一つ大きなため息をついて「暇だなあ」と呟く。やることがない、と空を見上げたら、ポツリと飛行機が飛んでいた。あれは今から成田に降りていくやつだろう。それともどこか遠い国まで飛んでいくのかな。そんなどうでもいいことを頭の中で落書きしていると、先ほどした深呼吸が今度は大きな欠伸になって出てきた。

「ふあああ......、ねむ。しんど...。」

ボーッとしてると、私のもとに誰かやってきた。

「つるりーーん。」

瑞希だ。

「おーつかれ~。」

「おつかれー。」

「良いの?みっちゃん、こっち来て。」

「うん、大丈夫。つるりん今日は見学?」

「うん、まあ。」

「どうしたの?珍しいね。」

そういう瑞希に私は、お(へそ)の辺りをフンフンと指差して言う。

「今月号。」

「あ~....。」

言葉の意味を理解した瑞希は、私の横にポン、と腰をおろした。

「お腹大丈夫?」

「うん、今は。さっきまで死にかけてたけど。」

「何か手伝えることあったら言ってね。」

「ありがと、ほんと助かる。」

瑞希が何気ない表情で私を気遣ってくれる。大袈裟にでもなく、からかったりする訳でもなく。でも私にとってはこれが一番有難い。心配してくれた河島には申し訳ないけど、こういう事情で周りの目を引くのは精神的にもエネルギーが要るから。

「先生にさ、」

「うん?」

「課題やらなきゃ遠足も、文化祭も出させないとか言われてさ。」

瑞希に愚痴を溢す。

「え...、さすがに冗談なんじゃない?」

「だと良いんだけどね...。今日は本当に厄日でさ。」

「まあ、そんな日もあるよ。頑張ろ。」

「...うわー。みっちゃん、そんなことゆー?」 

「え、なになに??」

「頑張ってる人に頑張ってるとかー。」

「あー....あはは、ごめんね。つるりん色々と大変だもんね。」

瑞希は苦笑いで、それでも諦めずに元気付けようとしてくれている。それなのに....。ああ....私、今すっっごく面倒臭い女になってる...。

「いやごめん...、そんなつもりじゃ....。はあああ、私って最低....。」

「気にしない気にしない。来たら誰でもそうなっちゃうから。」

彼女はそういって微笑む。天使だ。何でこの状況でそんな温かい言葉をかけられるんだ。瑞希は背中を優しくさすりながら続けた。

「私もそれでよく弟と喧嘩になったよ。」

「そっか、弟いるんだ。」

「うん。学校休めるとかズルーい、なんて言われたりしてさ。その日は口聞いてやんないの。」

「うわ、好きで休んでんじゃないっつーの。」

「ほんとだよ。」

瑞希は、フッと笑みを浮かべ、指で銃を作ると、決め台詞のように格好をつけて言った。

「仕返しに冷蔵庫にあった弟のプリン、食べてやった。」

それを聞いた私も、同じポーズで返す。

「最高。」

 

つづく。




【オマケ】

空き教室に全力で駆けつけた村草は、先生と田島さんが一対一で話をしているのを目撃した。
「河島の話、本当だったんだ。よし、良いぞう。」
二人は話す。
「それで?そいつがコソコソと後をつけてくるんだな?」
「はい。名前は知らないんですが、その人に付きまとわれた後には何時も変な噂が立つんです。」
「変な噂?」
「はい。最近だと、先生と私が付き合ってる、みたいな噂が...。」
「何だって....?」
村草は思った。これは三角関係の匂いがするぞ、と。
「どんな奴なんだ、そいつは。」
「少し髪は長めで、いつもヘラヘラと変な笑みを浮かべていて、見つかると異様に逃げ足が速いんです。」
「なんだそいつは。なんか全体的に最悪だな。」
「ええ。ですから早く捕まえて欲しいんです。」
「分かった、協力しよう。」
「ありがとうございます。」
村草は、良い情報を手に入れたと思い、その場から立ち去ろうとした。しかし
ガタン.....!
「誰だ。」
バランスを崩し、ふらついたせいで、その音が二人の耳に入った。
「っべ....。」
村草は額に汗を垂らして焦った。しかしそれと同時に、この機会はチャンスなんじゃないか?とも思ったらしい。あえてここで事情を聞くことでもっと深い情報を得られるかもしれない、と。村草は潔く彼らの前に姿を現し、高らかに名乗り出た。
「か弱き乙女がお困りの様子とお見受けしまして。この村草、お力になりたく、その話をもっと深ぁくお聞かせ....――」
「先生!あいつです!!」
「へ??」
「あの男が私にストーカーしてくるんです!」
「すと....???」
先生が鬼の形相で立ち上がる。
「村草、お前ちょっと来い。」
「え、ええええええええええ!?」
「待てこらああああ!!」
「何でぇええーー!?誤解だああああああ!!」
ドスン!ドスン!と物凄い勢いで先生に追われる村草。その後の体育で河島に対する執念が驚くほどに彼の戦力を上げ、"蹴りの村草"とクラスから評されたことを、名取は知らない。


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51.姉弟

 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.51「姉弟」

 

時は夕方五時頃、家の戸が小風に揺れてカタカタと音を立てる。音が鳴るたび私は、頬杖のまま戸の方に顔を向ける。

ああ、あれから三日も課題を進めてない。二日目は痛み止めとかそういう次元じゃなくなって家で寝たきりになり、そして三日目は何とかお薬を鞄に詰めて登校。「ただの風邪だよ」で済ますにはそう何日も休んでられないから。ああ本当、こればっかりは男の子に憧れる。

「詩鶴、ピークしんどかったら休んで良いからね。」

母が私に気を遣う。そんな母は裏で経理のお仕事を。体調面でも軽い腹痛程度に治まってきた私は椅子に腰掛けながら、溜まった課題の山を見つめていた。

これ全部終わらせないと遠足に行けないとか...、先生は教育委員会より先に労基に怒られてください。ああ全く...労働者のための慰安旅行が、貸し付けられた提出課題(しゃっきん)のせいで地下労働生活を強いられるなんて。十代の少女から青春を取り上げるなんて犯罪ですよ、いやらしい。...何言ってんだ私。

なんか虚しいっていうか、ちっとも心が晴れてくれない。やることがありすぎて、優先順位が分からなくなって、頭が爆発しそうになる。だからといって休めば何も動かないし始まらない。それが虚しいのだ。あ、思ってること言葉にできた。あたしえらーい。

「...はあ、憂鬱だ。」

コンコン、と鉛筆でプリントを小突いていると、お店の戸が開いた。私は驚いて反射的に挨拶をする。

「い...らっしゃいませ!」

いらっしゃい"ませ"なんて私、いつぶりに使っただろう。しかし、そんな脳内の自虐をパッと忘れさせるように、目の前には大学生くらいの綺麗な女性が立っていた。彼女は紙袋を片手に眠たそうな表情と、サイズの合っていないダブダブの服を着ていて、どこにでもいるような雰囲気なのにどこか惹きつけられるような魅力を感じた。

「どうも。開いてます?」

「ええ、どうぞ。」

「ありがとう。」

彼女が私の目の前のカウンター席に座ると、しばらくメニュー表を眺めてから注文した。

「とりあえず...、お芋の水割り一つ下さい。」

「あ、はい。少々お待ちを。」

いや、渋いな。とりあえずで芋頼む二十代、初めて見た。え、二十代だよね?

「貴女が名取さん?」

「え?ええ、そうですけど。」

「そうなんだ~。」

「??」

彼女は、私がお酒を作るのをキラキラとした目で見つめてきた。

「あ、あの...お客さん。」

「うん?」

「あんまり見られると...恥ずかしいかな...。」

「あ、ごめんね。」

しかしこの人の雰囲気、誰かに似てるんだよな。誰か分からなければ、確証もあやふやなんだけれども。

完成した焼酎を彼女の前に出すと、ありがとうと礼を言い、美味しそうに一口飲んだ。

「ふう、美味しいね。」

「ど、どうも。」

「やっぱお店で飲むとひと味違うね。」

「あはは、よく聞きます。」

「あ、さては飲んだことない口だなー?」

「ええ。まあ、まだ未成年ですし。」

「え?うん。知ってるけど、そうなんだ。」

知ってる?どういう意味??

「てっきり飲んだことあると思ってた、ごめんね。」

「まあ仕事柄、味くらいは知っておかなきゃな、とは時々思うんですがね。」

「そっかそっか。まあそれなら飲まないに越したことはないよ。聞き上手だけど、捨てるのも上手いからね、お酒は。」

「え??」

「酔ってる間は何でも共感して寄り添ってくれるけど、朝になれば醒めてどこかに消えていく。一夜限りの色恋みたいにね。」

「深いですね。」

「へへ、知れば案外そうでもないよ?綺麗な星も、手が届く位置までくればただの石ころ。」

彼女は頬杖をつき、夜空を見上げるようなウットリした目つきで語っている。なんかいちいちロマンチストだな、この人。

そして「あ!」と、途端に思い出したように手提げの紙袋を私の前に出して

「初めましてでいきなりかもしれないけど、これ!」

と言い、ニッコリと笑った。

「え?」

「お菓子とか色々。あまり高価なものじゃないけど、そこは愛嬌ってこで...。」

中を覗くと、ロールケーキやモンブランなど、明らかにささやかじゃない洋菓子の詰め合わせが入っていた。

「そんな...!え、申し訳ないですよ。本当に良いんですか?」

「前々からここ来たいって思ってたから、出会えた記念に。」

「あ、ありがとうございます。美味しそう...。」

「うん、味は保証するよ~。美味しいのと引き換えに、量が少ないのが惜しいとこだけど。」

「まあそれは仕方ないですよ。え、でも嬉しい...。じゃあ頂いちゃいますね!」

「どうぞどうぞ~。冷蔵庫入れといてね。」

初対面で色々良くして貰って、申し訳ない気持ちと警戒心が心に乱れるように交じりあう。冷蔵庫に紙袋を入れて戻ってくると、彼女は両頬に手のひらをあて、頬杖をついてほろ酔っていた。

「あ、もう一杯注文良い?」

「あ、はい。どうぞ~。」

「ワインの白、あったらお願い~。」

うっとりと何かに憧れる少女のような雰囲気で、彼女は二杯目を頼んだ。

芋焼酎からのワイン...!和からの洋!チョイス凄いな...。

「ええ、少々お待ちを。」

酒棚からワインの瓶を探す。普段ワインはそんなにしょっちゅうは頼まれないから、場所を思い出すのに一瞬身体が固まった。「あー、ここか。」と独り言を呟き、瓶を手に取る。今度はグラスを探しながら、私は彼女に尋ねた。

「そういえばお姉さん、なんてお呼びすれば良いですか?」

「私?千春でいいよー。」

い き な り 下 の 名 前 。

「ち、千春さんね。」

「君のことは"名取ちゃん"って呼んでもいい?」

「ええ、まあ。」

なんか地味に馴れ馴れしいな、この人。

注ぎ終えたワインを千春の前に差し出すと、今度はさっきよりも大人びた手付きでグラスを手にし、その一口を舌の上で転がした。その光景は女である詩鶴にさえ伝わる程の色気だった。千春が口の中を空にすると、蒸かすように息を吐き、二つ目の吐息に合わせて私に尋ねた。

「ねえ、名取ちゃん。」

「?」

「名取ちゃんは今、悩みとかあるの?」

「え?悩み?」

「うん。十代ってやることだらけでしょ?私も名取ちゃんくらいの頃は先生に怒られまくってたからさ。」

千春は学生時代のことを打ち明けて微笑む。自分と共通している部分に少しばかりの親近感を感じた。

「まあ、課題の多さにはいつもヘトヘトになっちゃいますね。」

「もしかして名取ちゃん、青高?」

「え、はい。」

「わあ、母校同じだあ。あっそこは課題、馬鹿みたいに多いよね。」

「あ、同じなんですねー!わっかります。本当に多い...。」

「ね~、進学校でもない癖にさ。」

千春が同じ学校の先輩だったことに驚く。数年前に彼女が同じ校舎で学生服を着ていたのを想像すると、ふわあっとテンションが上がった。

「名取ちゃんの担任って誰?もしかしたら知ってるかも。」

「目黒先生っていうんですけど、」

「え、まじ!?あの性悪!頭もじゃのだよね。」

「知ってるんですか!」

「あ~、何度アレに居残り言い渡されたことか...。」

「わっかります...!お陰で私、居残り常連ですよ。」

「うわ~、まだいたのかアイツ。...私の頃はなんて言われてたか知ってる?」

「何ですか何ですか?」

無賃残業魔人(サビ残まじん)、メグロ。」

「わははははは!何そのあだ名、最高ー!」

同じ母校だからこそ話せる話題に二人で笑いあった。千春の通ってた頃の思い出や、今の私の学校生活を共有してお喋りを楽しんだ。お互いに、...というより私の方も彼女と同じくらいに心を許せるようになってきて、年の離れた友達が出来たことに喜びを覚えた。

「千春さんは今、就職してるんですか?」

「ううん、大学。」

「へえ、すごい!」

「いやいや、別に大したことないよ。就職への不安が四年も延長されるんだから。」

「あはは...、進路の話題がアレルギーなのは同じなんですね。」

「誰だって学生から卒業するのは怖いもんだよ。自分一人で生きていかなきゃいけないんだからね。」

「うーん、私もヤだなあ。あんま考えたくないや。」

「だね。金持ちの彼氏、やってこ~い!なんてね。」

「あはは。」

「あ、ちなみに名取ちゃんは今、彼氏いるの?」

「へ?...いや。」

「え~、勿体ない。高校が一番恋愛楽しい時期なのに。」

「そうなんですか?」

「まあね。さっきあんな事言っといて何だけど、私くらいになったら何でもお金が付きまとうから。」

「高校の恋愛も同じなんじゃないんですか?」

「ううん、似てるけど違う。高校はそんなに生活には追われないから。お給料は貯金か、遊びだけに使える。気が合う合わないだけで出来る幸せは、学生のうちだよ。」

「....。」

「まあ、とはいえそんな焦ってするものでもないけどね。」

「そんな良いものなんですかね、恋って。」

「終わりはみんな暗いけど、後悔ばかりじゃないよ。」

「ふーん。」

「ま、気が向いたらしてみなよ。案外、身近なとこから始まったりするから。」

「身近ねえ...。」

「居残り仲間の誰かとか。」

「ブーーーーーーーーーーーーーー!!!!」

飲もうとしていたペットボトルのジュースが勢い良く噴き出た。その数滴が気管に入って思い切りむせ返る。本気で今、死ぬかと思いました。

「ウゲッホっっ!!ゲェッフオッ!!」

「大丈夫!?ごめんね、なんとなく事情は分かったから。」

千春は、私がむせ返ってることには心配しているが、自分の聞きたいことを聴取出来たことが嬉しいのかニコニコしている。おのれ、やりおったな。

「事情って...、何が!?」

「好きな子いるんだ~っていう。」

「からかわないで下さい!ただの友達です!!」

「ふ~ん。ま、いいけどさ。」

「何がいいんですか。」

千春は一息つくと、再び頬杖でにんまりと笑い、横目で囁くようにして言った。

「"ただの友達"ならまだしも、心のどこかで"好き"って思ってんなら...今のままじゃ後悔するよ。」

「は...。」

私は一瞬、言い返す力が抜けて情けない声が出た。私のことを手のひらで踊らせるように試してくる千春に、ほんの小さな恐怖を感じた。

「どうなの?」

「ちょっと、何言って...」

「好きなの?その子のこと。」

「...分からない。分からないよ、そんなこと...。」

泳ぐ目とともに俯く私に、千春はとどめを刺してきた。

「いっそ付き合っちゃいなよ、曖昧な気持ちでいるなら。」

私は気持ちがぐちゃぐちゃになって、もどかしさを千春にぶつけようとした。

「ちょ、ちょっと...いい加減に――」

言いかけたその時

 

「いい加減にしろ。」

バシッ...

 

「いったああ!!」

背後から私くらいの年の少年が現れ、千春に一撃を振りかざした。

「全く...。」

河島だった。彼は手をパッパと払い、鼻息をふかす。私は心臓が張り裂けそうなくらいに驚き、両手で自分の口をふさいだ。

「ったく、何すんだよエイ。」

「何すんだじゃねえよ。」

エ...イ?

千春が河島の下の名を慣れた口ぶりで言ってることに、私は状況が何一つ読めなくなった。

「名取、コレに何かされたか。」

河島が問う。

「い、いや、ななな何も。てか何でここ...、え、いつからいたの!?」

「今来たとこ。」

「ああ、そう...。」

河島は千春と知り合いみたいで、彼女の扱い方を知っているようだった。

「そーそー、私も思った!エイ、なんでいるのー?」

「今日晩飯どうするか何にも連絡しなかったろ。そのせいでお母がカンカンになって。で、俺が探しに行く羽目になったの。」

「えーいいじゃん別に。あんたらと違って未成年じゃないんだし、外で飲むことくらい許せよ大袈裟だなあ。」

「それがしたいなら一人暮らししろよ...。」

「ま、そのうちね。」

「で、どうすんの?」

「何が?」

「晩飯だよ。ここで食べてくんならそう言っとくけど。」

私は河島に尋ねた。

「あのさ河島....。」

「...?」

「一応聞きたいんだけど、...どういうご関係?」

河島はあっさりとし表情で答える。

「姉だけど。」

「じゃ、じゃあ河島とは...」

千春に視線を送ると、彼女は悪戯に笑って言った。

「姉弟だよ。」

「...。」

確かに誰かに似てるとは思ってた。まさかあの河島のお姉ちゃんだったとは...。

「あれ?千春姉ぇ、名取と会うの初めてだっけ?」

「初めてだよ。」

千春とわたしの声が重なる。

「エイの話聞いてたらちょっと行ってみたくなっちゃってさ。」

「なんだそれ。」

「玉子焼きが超旨いって?」

「おい、恥ずかしいからやめろよ。本人の前で。」

 

二人と目を合わせられなくなった。

 

 

つづく。



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52.居残り部員の刑務作業

 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.52「居残り部員の刑務作業」

 

「つんつん。」

河島を鉛筆の反対側でつつく。河島からの反応はない。

「つんつん。」

「...。」

「つんつん、つんつん。」

「なんだよ、しつこいな。」

「ぶー。」

「なに。」

「河島ぁー。」

「だからなんだよ。」

「ひま。」

「知らねえよ。働け。」

居残りの教室。遠足が天秤にかけられているせいか、河島が構ってくれない。

「は~あ、つまんない。」

「名取、お前さ。」

「なに。」

「遠足行きたくないのか?」

「それは行きたいけど、ちょっとくらいノッてくれたっていいじゃん。」

「それでちょっとだけだったことあったかー?」

「ちぇっ、けちー。」

机の上に乗っているのは課題ではなく、真っ白なノート。課題を全部終わらせることが不可能だと見越した先生は、課題ができないなら代わりに体育祭の準備に貢献しろ、という代案を出してきた。それで悩んでいる訳だが...。

「大体さ、河島。雑用任されるのならまだしも、「面白い種目の案を考えろ」だよ?普通のよくあるヤツじゃダメとか...。」

「ま、そこが居残り部の力の見せ所って思われてんでしょ。見込まれているって思って気分上げようや。」

「そんな天才的なポジティブシンキング、どうやったらできるんだか。」

「簡単だよ。」

「...?」

「真面目に考えなきゃ良い。」

「あのなー...。」

ふうううっと鼻から溜息を吐くと、教室の扉が開いた。誰かと思い、音のほうへ視線を向けると

「山ちゃん!」

「...久しぶり。」

居残り部の一員、山岸だった。

「どした、お前、勤勉社畜野郎に戻ったんじゃなかったのか。」

河島が小突く。

「バイトから帰って、即寝落ちしたの。」

「それは、ご愁傷様だな...。」

「どうも。ついでにお線香も焚いて下さい。」

「姉ちゃんの煙草で良ければ取りに帰るぞ。」

「おいおい、冗談だってば。」

千春お姉ちゃん、煙草やってるんだ。意外だなあ...。

「ところで二人とも、何の課題やってるの?」

山岸の問いに私は答えた。

「課題は全部じゃなくて良いから、代わりに体育祭の実行委員に貢献しろ、と。」

続けて河島も説明する。

「そんでこのノートに種目の案とかビッシリ詰めてこい、と。」

「刑務所みたいだな...。囚われの身で雑務とか。」

皮肉にしか聞こえない山岸の一言に私は文句をぶつける。

「うるせえよ。山ちゃんも元々ここの常連だった癖に。」

そして私たちは、悪ノリで山岸をからかった。

「そうだぞー裏切り者~。名取の言う通りだー。」

「そうだそうだー。成金~、商業アーティスト~。」

「やーい貴族もどき~、マリーアントワネットにしてやる~。」

ぼろくそに言われて折れたのか、山岸は焦り気味で私たちを止める。

「分かったって!僕もやるから許してくれ。」

「へへ、そう来なくっちゃ。」

そうして山岸が着席して集まると

「で、何をすれば良いの?」

と尋ねる。河島は頭の後ろで手を組み

「それを考えるんだよ。」

と、溜息に乗せて言った。

「なんか、ビデオゲームみたいな感じのものとか出来たら面白そうだよね。」

「ビデオゲームっつったって色々あるだろうよ。」

「例えば?」

「アクションとか、シミュレーションとか。」

「あ~。」

「こういうのは山岸が一番詳しいんじゃねえの?」

山岸は答える。

「まあ、物理的に可能な範疇で、団体戦としても出来るものが良いよね。そりゃあ空飛んだり、魔法使ったりとかできるなら面白いだろうけどさ?」

「私MP持ってないです。」

「スポーツカー体質だもんな、名取は。」

「どういう意味だよ、河島。」

「足は速いが燃費も悪い。」

「はああああ!?お前、女子に向かって―――」

「あ!パン食い競争をアレンジしてみるのとかどうだ?」

食い気味に河島が案をだす。

「もうそれビデオゲーム関係ないじゃん。」

「お役目終了みたいっすね、僕。」

話があっちこっちに飛び回って、頭がヘトヘトになってはあくびをする。私は机に倒れこんで文句をぶつくさとぼやいた。

「もーやだああ!疲れた、私疲れたああ!」

「俺もちょっと一眠り。」

「二人とも、まだ二十分くらいしか経ってないよ。」

「山ちゃんが来てから、ね。」

「いや、そうだとしても放課後から三十分も経ってないって。」

山岸の説得も届かないほどの疲労に、私は背中を伸ばして

「あーもう、休憩休憩!ねえ、河島か山ちゃん、なんか食べるの持ってない?」

と尋ねる。すると河島がカバンから何かを取り出し、見せびらかした。

「カロリーメイド、チーズ味。」

「わあ、チーズかあ。まあいいや、一本ちょーだい。」

河島はフッと上に持ち上げ

「だーめ、非常食だ。」

と言って悪戯に笑う。

「...じゃあ、100円で買う。」

「売らな~い。」

「サイっテー!!」

山岸は「あはは」と笑い

「働かざる者食うべからず、だな。」

と、私をからかった。

「お腹空いてちゃ働けるわけないでしょ。」

そう言い返すと、

「分かったよ、パシられてやるから食べたいもの言いな。」

と微笑む。嬉しくなって飛び跳ねていると

「あ、じゃあカロリーメイド頼むわ。」

と、食い気味に河島が先陣を切る。

「はああああ!?私が先に...ん、むむぐぐ...!」

反抗しようと開いた口に、河島がカロリーメイドを突っ込んだ。私はそれをひと噛みして切り離し、モゴモゴと口を動かしながら睨んだ。

「わたひにもちゅうもんするへんりあるんああらね(私にも注文する権利あるんだからね)。」

「カフェオレ?レモンティー?」

山岸が二択出して私に問う。口がパサパサするからという気遣いなのか、これだけで我慢しとけという皮肉なのか。中のブロックを飲み込んで五百円を手渡す。

「レモンティー。あとサンドイッチと、お釣りはあげる。」

「手間賃二百円くらいか。結構くれるんだな。」

「それで好きなの買いなよ。」

「ありがとう。河島はカロリーメイドだけでいいのか?」

「おう、その間寝てる。」

そう言って河島は硬貨を手渡し、机にうつ伏せになった。

「そっか。じゃ、ちょっと行ってくるわ。」

「いってらっしゃーい。」「いってらー。」

 

山岸が買い物に出かけ、教室は再び二人の静寂が訪れる。気持ちよさそうに休憩する河島に私は一言声を掛けた。

「サンドイッチ、あげないからね。」

「おう、構わんよ。」

すると河島のお腹からぐうううぅ、と音が鳴る。教室が静かなせいで誤魔化しようのない響き方になっている。

「....。」

ところが河島は端から誤魔化す気もなく、スヤスヤとうつ伏せ状態。いたたまれなくなって私は、河島に怒鳴るような口調で

「ああもう、分かったよ!あげるから。サンドイッチ分けてあげるから!それでいいでしょ!?カロリーメイドのお返し!」

と言って折れた。

「ふああああ....。え...?おれ何も言ってないぞ。」

「うるさい。黙って貰うの!私がいたたまれないから!!」

眠たそうな河島にギャアギャアと言葉をぶつけると、彼はこちらに振り向て小さく微笑んだ。

「...ふ、ありがとな。」

睨む以外、何もできなくなった。

 

 

山岸が帰ってきてからは小さなお茶会が始まった。彼は手間賃分のお金で、皆で食べられるようなプチクッキーの袋を買ってきてくれたので私は大はしゃぎした。

「ほんと山ちゃん、気が利くなあ~!ありがとうね。」

「いいよいいよ、このほうが楽しめるって思って。」

仮眠を終えて体力を取り戻した河島も、お茶会にテンションが上がっているご様子。

「よーし、気楽に議論じゃーい。」

そう言って結局、世間話に恋バナ、他愛のない話ばかりをしてサボっていた。

山岸:「実のところ寂しかったんだよね。放課後って言ったって淡々と部活で練習するか、帰ったところで遊び相手がいなかったからさ。」

名取:「うはは、山ちゃんもここが居場所になってやがんの~。」

河島:「寂しくなったらまた戻って来いよ。課題ほっぽらかすだけでショーシャンク入りだぜ。」

山岸:「そうさせてもらうよ。そういえば二人とも、何部に入ってるんだっけ?」

名取:「陸上部。」

河島:「顧問に認められるほどの人材でありながら、釈放が認められないっていう。」

山岸:「名取、走ると圧倒的だもんな。」

名取:「大会がある日は顧問、先生に頭下げてまで参加の許可貰いに行くんだよ?」

河島:「まるで闘技場の隠し玉だな。」

名取:「へへ~。」

河島:「やーい、ベヒーモス。」

名取:「やかましい。そういう河島は何部なんだよ。」

山岸:「あ、僕も知りたい。聞いたことないから。」

河島:「...ぶん....部。」

山岸:「え...?何て?」

河島:「文芸学部。」

私は腹を抱えて笑ってやった。

「ぷっ、あははははは!!河島が、文芸部!?似合わなあああああ!!あはははは!!」

河島:「悪かったな。」

山岸:「え、マジで?何やるの?あの部活。」

河島:「ほとんど顔出せてないから知らねえよ。」

名取:「ポエム書くんじゃないの?ふふ、河島のポエム見てみた~い。」

河島:「今度四倉さんに言ってやろ。名取が文芸馬鹿にしてたって。」

...そういえば明希、作詩してたんだよね。そっか、そりゃああの部にいて当然だ。しまった、口がスベった。

名取:「え、あ...ごめん撤回撤回...!何でもするから許して。」

河島:「なーんーでーもー?」

わざとらしい反応の彼にジト目で答える。

名取:「現ナマとエロいこと以外な。」

河島:「分かってるよ。何妄想してんだお前は。」

名取:「...あとでぶっ叩く。」

馬鹿馬鹿しくて楽しいお喋りの中で一瞬静かになると、私は呟くようにして言った。

「案、浮かばないね。」

「だな。」

と、河島も一言。山岸も

「何か面白そうなもの、落ちてないかなあ。」

と、ぼやく。

三人揃って考えていると、廊下の方から何やら聞き覚えのある忌まわしき声が鼓膜にべたっと付いた。

「おやおや~?居残り組が課題もせずにティータイムをしている?」

人間性を中川の川底に置いてきた男、村草だ。三人はこの雄ウジ虫に視線をむける。

「スキャンダルですねぇ~、これは職員室に持っていけば高く売れるぞ~。」

どこまでも嫌味で腹の立つ男だ。私が奴を睨みつけていると、河島が

「これだ!」

と声を上げる。河島以外、皆きょとんとした。

「これ、って何が?」

「マスコミゲームだ。」

「ますこみ...げーむ?」

河島が考え付いたのはマスメディアゲームという、噓つきを交えた伝言ゲームだそう。役柄は「メディア」と、「噂人」。憶測や、適当なことばかりを喋る噂人から情報をまとめ、タイムリミット後、設定されたキーワードを適切に伝えられると勝ち、失敗すると炎上して負けるというルール。なんかそんなゲーム、どっかになかったっけ?まあいいや、正式名称思い出せないし。

「それ校庭でやるとしたら観客席側の人ら、全然面白くなくない?」

「まあ、それでも提出してみる価値はあるだろ。」

「そっか、それもそうだな。」

三人で、仕事が終わったような溜息を吐くと、村草が言ってきた。

「なんかよく分からないけど、ボクのお陰で思い付いた案ならタダでやるわけにはいかないな~。」

「はあ!?」

私が声を上げると、河島が前に出て村草に言い寄った。

「お前天才かよ!さすが村草、お前は何でもできるんだな。」

「へっ、褒めたくらいで―――」

「お前はいつか世界的に有名なキャスターになれるよ。」

「せ、世界的?」

「そうさ。もうこれからお前のこと、"デュシェーヌ親父”って呼ぶわ。」

「デュ...しぇ?誰だそれ。」

「マスコミの教祖様だよ。歴史的人物だぞ?」

「え、マジで?」

「そうだ。お前はこの青校の体育祭に新たな歴史を刻むんだ。」

「おお!!」

「期待しているぞ、親父。いや、わざわざ俺がしなくても時期に世界がお前に振り向いてくれる。」

「河島ああ!お前、ボクのことをそんな風に...!」

「良いから、分かったら早く帰ってお母さんに報告してこい。世界への第一歩を踏み出したってよ。」

「っしゃあああ、行ってくるぜ河島!また明日な!!」

村草は大はしゃぎで校門へと走り去っていった。河島はフッと笑ってこちらに顔を向けると

「名取、山岸、先生に提出しに行くぞ。上手くいけば帰れる。」

「おお...!」

私たちは目をキラキラと輝かせた。

 

 

つづく。

 

 




【オマケ】

「河島、さっきのデュ..何とかってだれ?」
「デュシェーヌ親父のこと?」
「あー、うん。それそれ。」
「マリーアントワネットをデマで死刑に追いやった新聞屋のあだ名だよ。」
「え...。」
「確かエベールって名前でやってたはず。最後は死に追いやった彼女と同じ死に方をした。」
「うわ、酷いジョーク。」
「村草にピッタリの呼び名だろ?」
「ふふ、笑っていいのやら。」




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53.勝負事はつまらない?


「ねえ、聞いてよ明希...。」
体育祭準備のため各委員に区分けされ、私は二年青組の教室にて小道具制作に勤しんでいる。本来、参加したい委員というのは希望制で出せるのだが、課題未提出者という理由で不足のところに強制配属という形になった。何だか腑に落ちない感じもするが...
「そ、そっか。それは残念だね。」
「そうなの。酷くない?ま、でも二人と一緒な場所で良かった。」
青組には私のクラスと、明希、瑞希のクラスも一緒になっていて、友達と張り合わなくて済んだことが唯一の救いだった。
「そういえば、みっちゃんも明希も小道具部なんだね。」
そう聞いてみると
「あー、まあね。応援団と実行委員以外ならどこでもって言ったらここになってさ。」
と、瑞希は気楽そうに笑う。明希も
「わ、私もみっちゃんと一緒ならどこでも良いかなあって...。」
そう自信なさげに話した。
「そっかそっか。ま、気楽にやってこ。」
私もそう笑って作業に取り掛かる。何事も楽しくやって、楽しく幕を閉じられるならそれでいい、そんな風に考えていた。大好きな友達とこうして何となくやっていけたらそれで。



 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.53「勝負事はつまらない?」

 

「オラぁあああ!!もっと気合い入れろやあああ!!」

「こんなんじゃ負けちまうぞおおおお!!!」

体育祭が近づくと、学校の授業が一日一回は体育になる。体育会系な奴らが燃え盛る中では、文化系な人にとっては純粋に熱すぎて辛いはず。軍隊のようなノリで統制しにかかる者共の熱は、誰もが運動を嫌いにさせる一番の原因なのだ。動くことの好きな私にとってはどうってことのない空気だが、如何せん私の友達は"そちら側"じゃない人達が多い。河島は

「演技力が重要だ。」

と語る。

「演技力?」

「頑張ってるように見せて、いかに手を抜くかにかかってる。だって汗かきたくねーじゃん。」

「はあ...。」

「勝ち負けなんか本気になるから馬鹿みるんだよ、ははは。」

気楽を超えて完全に開き直ってる河島に、私は苦笑いを見せた。一方の瑞希たちに声をかけると

「どうしよっかなあ...、体力持つかな...。」

と、不安げに語る。河島の助言を受け売りで伝えてみると瑞希は

「ははは、何それ傑作~。」

と、とりあえず肯定。明希は

「それじゃあ頑張ってる人達に失礼だよ...。」

と、相変わらず律儀なところを見せる。

「ま、そうだけど無茶しないでね?それで倒れちゃったら身も蓋もないから。」

「うん、そこは...身体と相談してみる。」

「そうね、ちゃんとお水飲みなよ?」

「うん、ありがとう。」

風が吹けば涼しいものの、太陽の日差しはまだ暑い。全力疾走しようものなら思いっきり汗をかいてしまう程だ。そんな中、男女混合リレーの練習が始まる。さも当然のごとく私がアンカーを務めることとなり、この組の命運が打ち合わせもなく私にかけられた。まあ、それだけ期待されているのなら良い方にとってやるか。そう思い、軽く鼻で呆れ笑いをした。

バン!!と銃声が鳴り響くと、やかましい声援に包まれながらランナーが疾走しだした。そして走者が一周するたび、二つ後の走者が毎回私に期待の目を向けるか、不安の内を明かしてくる。

「名取ちゃん、最後頼むよ!」

「あいよー、はいはーい。」

とか、

「足遅いから迷惑かけたらごめんね。」

「気にしないでー。自分の出せる全力でいいから。」

とか。なんかカウンセラーみたいなことも任されてるみたい。でも中には意地悪なことを放ってくるやつもいて

「女アンカーとか大丈夫かよ...。」

「悪かったな女で。」

「ふん、足引っ張んなよ?」

「うるせえな、さっさと行けよ。口ばっか動かしてないで。」

好き放題に文句を言ってくる。しかも、よりにもよってそんな奴が同じ組だから無性に腹が立つ。敵ならコテンパンにしてやるのに。

で、そんな嫌味バカが一周し終えると、今度は明希が走る番。速い人、遅い人という組み合わせで構成された順番だが、その中でも明希は特に運動に弱い。バトンの受け取りすら覚束ない彼女に、周りの奴らはコソコソと陰口を叩く。

「ちっ、あいつ遅すぎだろ。負けるじゃねえかよ。」

「いらねえんだよなあ、ああいうのはリレーにはさ。」

さて、私の出番がくればゴール目掛けて走るだけ。運動にしろ勉強にしろ、デキるとかデキないとか人に優劣つけてコメンテーターぶらなくたって、どうせ私がアンカーやるんだから結果は見えている。そうやって人の価値を推し量ってるような人間はそこで指咥えてよぉーく見てろ。

「明希...!あともうちょっと。頑張れ!」

「つるちゃん...、ごめんなさい。」

「いいからいいから。最後まで走る!」

ヘトヘトになった明希が私にバトンを渡す。それを受け取ると

「お疲れ、よく頑張った。」

明希の背中をポンポン、と軽く叩き、私は地面を力いっぱいに蹴り飛ばした。前の走者とはグラウンドの四分の一ほど差があるが、こんなくらいで焦ったりはしない。足を前に前にと踏み出して、相手の背中に向かって着実に突き進む。後ろとの差に安堵して手を抜いていた奴も、突然の急接近に冷や汗を流し始めて急に足を速く動かすが、事態に気付く頃には既に遅い。相手を思いっ切りぶち抜き、ゴールした。勿論、さすがに一位の座は奪えなかったが、それでも六チームの中の最下位から三位まで追い上げた。私はちょっと悪戯がしたくなって、さっき嫌味を投げつけてきた奴に半笑いで皮肉ってやった。

「女アンカーで悪かったなあ。」

「調子のんなよ。」

「そういうあんたこそ、足引っ張んなよ?」

「...クソが。」

「ふっ。」

言い返せないことに悔しがる姿に、小さいながら良い仕返しが出来たことを喜んだ。青組のみんなも、このリレーの勝敗について大きく心配する必要がないと見たのか、安堵している様子。しかし、一位じゃなかったことに不満を溢す人らもいて

「あの四倉って奴がいなかったらもっといい順位勝ち取れたのに。」

などとネチネチ言っているのが聞こえた。

 

放課後がやってくると私たちは制作の活動へ。部活動も一時的に休止し、体育祭に向けての準備に全員の時間が注がれている。それでもどこかから喧しい声が聞こえてくるのは、きっと応援団のスパルタ訓練によるものだろう。

明希は瑞希のそばに、河島はドテーンと壁にもたれかかり、山岸は、そんな河島の隣で黙々と作業している。そして私は瑞希たちと小さな円になって地べたに座り、みんな互いに言われたことをやりながら駄弁っていた。

「あたし勉強苦手だからさ、体育多いと助かるんだよねー。」

そういうと、瑞希は

「座学ほどは頭使わなくていいしね。」

と、ノってくれる。すると河島がこちらに視線を向けて言った。

「おれ、団体戦のヤツだと嫌い。」

「団体戦?」

「サッカーとか、バスケとか。」

「えー、楽しいじゃん。」

「普通にやればな。負ければどいつも揃って「あいつのせい」とか言って袋叩きにするじゃん。」

「ああ...まあ確かに。」

「勝つ勝つってうるせえ奴がいると面倒くさいんだよ、楽しむことを本質に置いてないから。」

「楽しむ、ねえ...。」

瑞希はちょっぴり苦笑いで河島に

「まあ、難しいとこだよね。勝つことが楽しいって思う人も多いと思うし。」

と言った。そんな彼女に続けて私は聞いてみる。

「河島は何を楽しいことって見てるの?」

「チーム戦ならやっぱり、チームワークじゃないかな。ほら、こういうのって授業でやると上手いやつらだけが先行して、そいつらだけでやってるじゃん。」

「ああ、確かに。」

瑞希も横から

「あはは、戦力外は隅でお喋りするくらいしかやることないもんね。」

と言って笑う。

「だろ?それで勝っても何も面白くないんだよ。」

河島の発言に、山岸もひとこと言う。

「今日のリレーだって、みんな目ぇ血走ってたしね。」

「同じ仲間の組同士なのに、遅かったら好き勝手罵声浴びせたりとかな。競馬やりに来てるんじゃないんだから。」

「ま、名取なら賭けても安心だろうけど。」

私は山岸にジト目でツッコんだ。

「褒めてんのか馬鹿にしてんのか。」

私が山岸と変な言い合いをしている中、瑞希と明希が話していた。

「明希はどう思う?」

「え?何が...?」

「競技でさ、勝ち負けかとか、楽しくやろう~みたいな考え方について。」

「うーん...、みんなに迷惑かけなかったら取り敢えず良いんじゃないかなって。」

「確かに。それも大事だよね。」

「...うん。私、運動音痴だし、ただでさえ戦力外って思われてるだろうから。」

それを聞いていた河島が、明希にそっと質問を投げかける。

「四倉さん自身はどうなの?」

「え?」

 

つづく。







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54.勝ち負けの価値観


「四倉さん自身はどうなの?」
「え?」
明希は突然話しかけられたことにビクッとなって驚き、目を丸くした。河島は続ける。
「迷惑かどうかを一旦置いてさ、こうしてみたいとか、こうなれば面白いのにって思うことない?」
その発言に明希は、言葉をどもらせながら戸惑った。
「えっと、その...、わ、私なんかが意見していいのかな。ただでさえ役に立ててないのに...。」
「意見に"して良い権利"とかは関係ないと思うよ?」
「....。」
「今から望んだことは全部叶えられる!そうだとしたらさ、どうしたい?」
「...分かんないよ、そんなの。」
明希は眉をひそめ、俯いてそう言った。今まで自分の主張を表に出してこなかった明希にとってはきっと、とても重くて大きな問題なのだろう。私はそんな明希を見て、河島をからかった。
「あー、河島が明希苛めたぁ~。」
「ちょっ、苛めてねえよ。そういうお前はどうなんだよ。」
「え、何が?」
「体育祭、どうしたいって思ってるんだ?」
「え、私?別に楽しくやれれば何でもいい。」
「ああそう...。」
二人でわちゃわちゃと言い合っている中でただ一人、明希はじっと考え込んでいた。




 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.54「勝ち負けの価値観」

 

「ただいまー」

家に帰ると、見慣れた風格の激渋おじさんがカウンターに座り、母と話していた。扉の音に気づいた母は、私を見て

「お帰り。」

と言う。続けて探偵のおっちゃんも

「お邪魔してます。」

と、小さく笑った。

「いらっしゃーい。何の話してたの?」

二人に尋ねると、母は

「昔の話。」

コップを片手にそう言う。おっちゃんも続けて

「歳取ると、懐かしいものばかり喋りたくなるものでね。」

と、感傷に浸ったようなことを言い出した。

「懐かしいもの、ねえ。」

「十六年も生きたら、詩鶴ちゃんもそろそろそういうの、出てくるんじゃないか?」

そう投げかける彼に

「"昔は良かった"しか言えなくなったら人生終わりだと思う。」

と放つ。すると彼は「ハハハ」と笑い

「その通りだとも。三十半ばまでは、今と未来だけ見ておいた方が良い。」

意外と現実的なことを言い出す。いつもロマンの中にしか生きていない人なのに。

「そういう詩鶴は、今学校どうなの?」

母が聞いた。

「体育祭の準備期間。」

「体育祭ねえ。詩鶴の得意分野じゃない?体育は。」

「まあ、そうなんだけど、相変わらずみんな「勝つ!勝つ!」って必死でさ。私ん友達、そのせいで結構バテかけてて。」

「運動苦手な子にも、ちゃんと配慮してやらないとね。」

「そう。それで足遅い子に裏でコソコソ陰口叩く奴とかいてさ。」

「あー、いたいた。私の頃にもそういう奴。ねえ?雅っち。」

「うーん、覚えてないな。」

「ええ...。」

「あまりそういうの、興味なかったから。」

そういって珈琲を飲むおっちゃん。母は腰に手を当てながら私に言った。

「まあなに、大事なのは結果じゃなくて、「どう頑張ったか」よ。」

「ふむむ...。」

「勝つ為に手段を選ばないのは違うけど、初めから努力をしないってのも良いとは言えない。」

「...私、どうしたら良いのかねぇ。」

そう呟くと、母はニッコリと笑った。

「まあ、詩鶴は言われなくたって良い方向に持っていけるよ。」

「そう?」

「うん、自分が良いと思ったものを選んでいきな。同じ目標を持った者同士が集まると、自分の意思や考えって案外見失いやすいものだから。」

「良いものって、例えば?」

「そうね、じゃあ...」

と、母は言いかける。そして少し考えたあと、私に話した。

「ギリギリに家を出て、今日遅刻したらもう先生は許してくれない。大説教に、居残りで反省文、おまけに詩鶴の好きな購買のメロンパンも売ってくれない。ヤバいと思って通学路を猛ダッシュしていたら、道にランドセルをしょった男の子が転んで泣いているのを見つけた。さ、詩鶴ならどうする?」

「助ける時間くらいはあるでしょ。」

「はーい、遅刻ー。」

「えー...。」

「後悔した?」

「いや、そりゃあ...。」

「しかも仮にその男の子が礼も言わず、舌を出して「べーっ」てしてきたら?」

「はぁ!?何それ、助けてやっといて?」

「うん。」

「思いっきし悪口言ってやる!」

「あはは。言うだろうね、詩鶴なら。」

「当ったり前でしょ。」

「でも、その子を助ける方を詩鶴は咄嗟に選んだ。それは何で?」

「...困ってたからに決まってるでしょ。」

眉をひそめる私に、母は笑いながら言った。

「それができるなら気にすることじゃないよ。」

私はその言葉がどうもしっくり来なくて、おっちゃんにも少し尋ねてみた。

「ねえ、おっちゃん。」

「ん?」

「勝つって何だろうね。」

すると、おっちゃんはコップを片手にこちらを向いて答えた。

「自分にとって()()()()のが大事かを、まずは見つけることじゃないかな。」

「何に...?」

「ああ。何と戦ってるのかも分からずに武器を握るのは、自分を切りつけること同じだよ。」

彼の意味深な発言に私は、少し黙って考え込んだ。

 

翌日、私は青組の上層部の会議に呼び出され、その議席に出席する羽目になった。指定された三階の仮教室に近づくと、空気が驚くほどに急変したことに気がつく。そう、それはどちらかというと悪い意味でだ。まず最初に視界に入ったのは入口前に立つ、衛兵役の生徒。彼の制服はシワ一つなく、ボタンも上までしっかりと止めている。私はキョトンとしていた。ここ、本当に私の知ってる高校なのかって。

「あのぅ...。」

私は目の前の衛兵っぽい生徒に尋ねた。

「会議中だ。用のないものは近づくな。」

「はい...?」

予想以上に厳しい空気だ。これ、本当に体育祭に向けての組会議なのか?

「いや、あの...呼ばれて...。」

「誰に呼ばれた。名を申せ。」

「三年の―――」

私が言いかけると、足音が聞こえ、その方向から私の名が呼ばれた。

「名取君かね。」

「え??」

その声に、衛兵は

「ハッ!お疲れ様です。」

と言って敬礼しだす始末。

「そうですが。あの、今回は何の御用で...?」

と、私が聞くと

「体育祭、青組作戦会議本部の緊急会議だよ。」

まるで何言ってるか分からん。その男は衛兵に

「時間になったら扉を開けろ。」

と、命令する。

「あの..私、いつ返して貰えるんですかね。」

「会議が終わるまでだ。」

「はあ。」

なんだコレ、演劇部雇ってんのか?それともただの痛いやつらか。そんな変な人達の間で地獄の待ち時間を食らっている。私、今から何されるんだろう、なんて思えてしまう程の不安が襲った。

「あの、三年生さん?」

あまりに気まずい空気なので話しかけてみる。すると、その男は

「上崎だ。それに私は二年。」

と、申す。いや二年生かよ。同じじゃねえか、態度でかいな。

「そうなんだ~、同じだね。」

「無駄口を挟むな。会議中だぞ。」

「あそ...。」

先ほどの不安や、緊張などがまとまり、この男のでかい態度に対する苛立ちへと変わってきた。何も話すことなく、同じところに五分以上立たされ、そろそろ私は暇さが限界に達してくる。耐えられなくなり、私は男に話しかけた。

「上崎君だっけ?あと何分待てばいいのかな、私。」

すると男は、あろうことか私に見下したような目線で口を開いた。

「気安く話しかけるな。私のことは上崎様と呼べ。」

堪忍袋の緒が切れた。

 

会議室では、神聖な雰囲気で会議が行なわれていた。

「我々、青校の青組はここ二年間、一度も優勝を他の組に譲ったことはなかった。」

団長が言う。続けて、

「しかし、我ら三年生にとって最後の体育祭で、それが覆されるかもしれない危機に迫っている。」

と、真剣な眼差しで問題を提示した。すると、副長が前に出て言った。

「今回の青組には体育会系が少なく、競技において戦力外な人員が多すぎる!なのでここにて対策会議を緊急で行い、この青組に所属する優秀な人材を見つけ出し、前線に立たせる必要があるのだ。」

血走った目で語る副長。そして彼は言う。

「それでだ。私は、この青組の二年生で最も運動に適していると思われる人材をここに呼んだ。上崎、入れ!」

副長は上崎を呼んだ。しかし、反応がない。

「どうした上崎、入れと言っている!」

二度も彼の名を呼んだが、反応はまだ返らず。副長がもどかしさに耐えきれず、近くの机を叩こうとした瞬間、教室の扉がバタンと倒れ、取っ組み合いの状態の男女二人が部屋に転がり込む。

「中二病ならよそでやれ、このボケカス!!」

「貴様、態度を改めろ!」

「それはこっちの台詞じゃ、ばああああか!同じ二年のくせにイキがってんじゃねえよ!!!」

廊下から薄っすらと、倒れた衛兵の足が見える。そして、百七十はあるだろう高身長の上崎を床に倒し、馬乗りになるわ、胸ぐらを掴んで暴言を吐きまくるわと、滅茶苦茶な少女の姿が彼らの目に留まる。その少女がこの会議で言われていた"優秀な人材"だと周りが気づいた瞬間、この宗教じみた議会の空気が一気に「普通の教室」の空気へと変化した。

 

 



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55.嫌な予感

 

下町の鶴

7賞-ノ木の火-

☆Episode.55「嫌な予感」

 

「何をしてる。」

青組の議長こと、団長が取っ組み合い中の私たちに向けて尋問した。しかしそんな言葉が微塵にすら聞こえないほど、私はこの上崎という男に腹を立てていた。

「このっ!このっ!聞いてんのか、んにゃろおおお!!」

「こら、やめろ!神聖な会議室で―――」

「神聖だあ!?ええ?コラ、まだ言うかこのボケぇ!神聖とは真逆なんじゃ、お前なんか!!」

馬乗りで胸ぐらを掴み、グラグラと巨体を揺さぶる。そんな私に我慢ならなくなったのか、議長が声を上げた。

「うるせぇぇぇええええ!!!!!!」

私は咄嗟に

「うるっさ...。」

と声が漏れ、耳を塞ごうとして離した手で上崎が頭を打った。

「お前が名取か。」

低くずっしりとした議長の声が響く。

「ああそうだよ、あんた誰だ。」

と言おうとして振り向くと、その議長の姿に腰を抜かした。

「ああそ...ってうわあああ!!なになになになになになに!!」

真っ青な法被に、ふんどし姿の男が大股を広げて豪快に座っている。何が神聖だ、こんなの山賊のアジトじゃないか。しかも入口前の英国風な見張り人からは想像できないくらいに、中にいる人間の服装がみんな半裸に近いのだ。議長は言う。

「お前の技量を見越して用がある。」

私は咄嗟に返した。

「食べても美味しくないです私。」

「何言ってんだお前。」

「はい??」

議長は私に、私が青組を勝利に導くことの出来る優秀な人材だということを告げてきた。

「それはどうも...?」

いまいち状況がつかめずにポカーンとなる。議長はそんな私を置いてきぼりにしながら話す。

「それでだ。今回はお前により多くの種目を担ってもらおうと思っている。」

「はあ...。」

「走りを活かせる競技には全部だ。青組代表として。」

「全部って...。そもそも、私一人を前に立たせたところでそんなに効果あるんですかね。」

「青組代表と言ったろ。戦力のあるもので固めて、あとは外れてもらう。」

ペラペラと何を喋ってるのかと思ったら何なんだ、この男。私は彼の豪語を軽く笑うようにあしらった。

「いや、そんなこと先生たちが許すわけないでしょ。」

「許す許さないの問題じゃない。これで通させる。」

この男が言うには、戦力外は全て切り離し、使えるやつだけを土俵に立たせると言うのだ。滅茶苦茶な彼の意見に私は盾を突いた。

「勝ちたいって気持ちは重々分かるけど、そんなのフェアじゃないと思うなあ。」

「俺らは青組三年連続優勝の名誉をこの高校の歴史に刻む使命を背負っている。フェアとか、そういう次元の話ではない。」

「そういう話だよ。自分らだけでやりあって優勝したところで何が面白いのさ。」

「だから、面白いかどうかの話じゃないと言ってるだろう。」

「だったら辞めちまえよ。だいたい体育祭はあんたらだけのもんじゃないし、それをしたところで私が面白くない。」

ハッキリと言ってやると、周りが一斉に私に向けて野次を飛ばし始める。副長も怒りを込めて

「お前、自分が何言ってるのか分かってんのか!」

と声を上げた。私はそんな奴らの声を押しのけ、議長に意見を投げつけた。

「そんなのに付き合わすつもりなら私は却下、さようなら。」

議長は警告する。

「名取と言ったな。お前、覚えておけよ。」

私はフンっと首を振り、教室を後にした。

 

―――――――――――――――――――――

 

昼休みに廊下でで瑞希に会うと、彼女は妙に不安な面持ちで私に話しかけてきた。

「みっちゃん。」

「あ、つるりん。お疲れ...。」

「どうしたの?」

「明希がさ、体育祭を欠席するって言い出して。」

「あはは、休みたい気持ちも分かるよ。」

「そうじゃなくて。」

「???」

「私が出たらみんなに迷惑かけちゃうからって言うんだよ。」

「ばーか、迷惑は"かけるもの"だよ。ちょっと律儀になりすぎじゃないの?」

「私もそう言ったんだけどさ、」

「迷惑かけちゃえって?」

「違う。真面目に聞いて。」

「ごめんごめん。それで?」

「それで、誰に迷惑かけるっていうの?って聞いてみたら、「言えない」って。」

「それって...。」

「うん。もしかしたら明希を邪魔者扱いしてる連中がいるのかもしれない。」

にわかには信じたくない情報だった。でも、自分の組を優勝させたいがためにどんな手段も厭わないって考えの人間がいるのも確かだ。だとすると、明希をそう扱っているのがそういう奴だってことも可能性が高いだろう。私は瑞希に頼んだ。

「ねえ、みっちゃん。明希に「今日一緒に帰ろう」って言っといてくんない?」

「分かった。」

迷うことなく了承する瑞希。体育祭を前に、何か不穏な空気が流れているような気がした。

私は落ち込む瑞希の肩をそっと叩く。

「大丈夫だって。私がいるじゃんか、なぁにまた一人で抱え込んでんの。」

「...うん、そうだね。ごめん心配かけて。」

瑞希は小さく微笑んだ。

「で、明希は今どこ?」

「トイレ行くって言ってたけど...。」

「みっちゃん、一緒に行かなかったの?」

「一人で良いって言うし、私も別に平気だったから。無理は言えないかなって。」

「そっか。ならさ、一緒にお昼食べない?明希も誘ってさ。」

瑞希はコクリと頷いた。まだ不安そうにモジモジしている彼女に私は

「ほら、明希探そ。」

と言って、背中をポンポンと叩く。消えかけの火に薪を焼べるように、少し笑っては消えてしまう彼女の明るさに元気を分け与えた。

 

廊下を瑞希と話しながら歩く。彼女の不安を煽るのも悪い気がして、それとは全く関係のない話を振った。

「みっちゃんってさ、家族仲良いの?」

「え?どうして?」

「何となく。」

「うーん、普通だよ?」

「普通...?うーん、普通かあ。」

「え?うん?え??」

聞き方が抽象的過ぎたのか、瑞希は困った顔を浮かべた。そしてその顔には分かりやすく「もうちょっと具体的に欲しい」と書いてある。

「あ、ごめんごめん。私さ、一人っ子だから分かんないんだけど、兄弟ってよく喧嘩するもんなの?」

「え?うーん...どうだろ、喧嘩するときはするし、でも特段仲が悪いわけでもないし。」

「ふーん、そうなんだ。え、どんなことで喧嘩するの?」

「どんなこと??」

瑞希はうーん...と考える。暫くすると、彼女は頭上に電球が光ったかのように思い出し、「あ!」と声を出した。

「あのさ、この前お姉ちゃんのせいでエビフライ一本食べ損ねたんだよ。」

「食べ損ねた?」

「そう。弟がね、お風呂入る番来てもずっとゲームやっててさ。」

「うんうん。」

「急かしたら、エビフライ一本やるから代わりにレベル上げしといてーってゲーム機渡されて。」

「お、ラッキーじゃん。」

「そこまでは良かったの。でもね、ご飯の時にお姉ちゃんがそれをズルいズルいって大声出したせいでお母さんにバレて。」

「うわぁ...。え、それでどうなったの?」

「返しなさいって。もう私それでムカムカしちゃって。」

「えー...酷っ。でもさすがに弟くん、お風呂上がってきてからはくれたよね。」

「くれたよ。でもその時には冷めてた。」

「...災難だね。」

「しかもお姉ちゃん、私が残念そうに食べてるの見て笑うんだよ!?さすがに私、カチンときて。」

「そりゃあ喧嘩になるわな。」

「喧嘩になんない方がおかしいよ!ああいうとこ私、大っ嫌い。」

「...お姉ちゃんとは仲悪そうだね。」

「別にいつも悪いわけじゃない。だけど...ふんっ、どうせ私のこと、いいオモチャだって思ってるのよ。」

「今日はみっちゃん、大荒れだね。」

自分から話を振っておいてなんだが、家族が多いのも大変なんだな、と薄々理解した。

 

暫く歩いていると、明希に会った。

「あ、明希!探したよ。」

「鶴ちゃん、みっちゃん、どうしたの?」

「お昼一緒に食べよー。」

「あ、うん。わかった。」

相変わらず人に話しかけられると、目をまん丸にキョトンとした顔をする明希。仲のいい三人でならきっと彼女の緊張もほぐれるはず。さて、明希の不安の元を突き止められるかやってみよう。探偵さんごっこの始まりだ。

 

つづく。



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56.吞気な掃除現場

 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.56「吞気な掃除現場」

 

明希と瑞希との三人で屋上にやって来ると、うんと背伸びして風を浴びた。

「うーーん、っはああ!やっぱここ最高!」

昼休みの時間しか解放されない屋上は、昼食に持って来いのスポット。本来ならもっと人で賑わっているはずなのだが、珍しく私たちだけみたいで爽快感が凄い。お喋りも捗ることだろう。

「明希、何見てるの?」

瑞希が尋ねる。明希はフェンス越しの町の風景をじっと眺めていた。

「ううん、何でも。」

そう言いながら明希は遠くを見つめる。私は空気を楽しいものに変えようと二人に話しかけた。

「ねえみっちゃん、プチエビフライ食べる?ちょっと多めに入れてきたんだけどさ。」

持ってきたお弁当の中身を瑞希に見せる。

「わあ、本当!?良いの?もらっちゃって。」

「エビフライの話聞いて、そういえば!って思ってさ。奇遇じゃん?」

「凄い...。つるりん、さてはエスパーだなー?」

「えへへ~。明希明希、明希もおひとついかが?」

明希はこちらにキョロっと振り向いて、少し戸惑ってから答えた。

「...良いの?」

「良いよ良いよ、遠慮しないで。」

そうして自分のおかずを分けてあげると瑞希は嬉しそうに、明希は申し訳なさそうにして食べた。

「美味しい。」

その言葉が二人とも同じタイミングで被ると、明希が脳天から煙が出るくらいに顔を真っ赤にするもんで、私と瑞希は大笑いした。

 

さて、ちょうどいい雰囲気になってきたところ。私は体育祭の話題を切り出した。

「体育祭、楽しみだね。」

驚いてこちらに目を向ける瑞希。明希は空の曇を数えはじめた。

「...そうだね。」

と、慎重に返す瑞希。私は続けた。

「でも私さ、青組の組長みたいな奴に会議に呼びだされてさ。」

「組長??」

「応援団ってやつ?それか役員なのか知らんけど。」

「へえ、つるりん、そんな人達に呼ばれたんだ。」

「そう。でさ、散々私を褒め倒した挙句、何言い出すかと思ったら"優勝のために動ける奴以外は排除"みたいなこと言い出すんだよ?」

「へえ...、熱血な人達なんだね。」

「熱血っていうより独裁だよ。自分らさえ良ければそれで良いみたいな。」

「それはちょっと極端かもね。」

「でしょ?それで私だけ前線に立たせて、あとは要らないみたいなさぁ。滅茶苦茶だよ。」

「サイテーだね。それじゃあみんな置いてきぼりだよ。」

彼女に大きく頷き、次に私は明希に尋ねた。

「ねえ明希、そいつらからもし酷いことされたら直ぐ言うんだよ?」

すると明希はその声に反応してこちらを向き、ポカーンとした顔でこう言う。

「...え?あ、ごめん。聞いてなかった。」

...思わず私はベンチから転げ落ちた。明希ってば、なんでこのタイミングで聞いてないのさ...。

明希に先ほどの話をもう一度伝える。そして、ここで彼女が反応すれば犯人は確実にあいつらだ。そう思っていたのだが、彼女の反応は意外なものだった。

「...そんな人達もいるんだね。」

まるで奴らのことを今知ったかのような言い方だ。でも、もしかしたら私たちに気を遣っての演技なのかもしれない。私はこの話を続けた。

「そうなんだよ、酷くない?」

「うん、酷いと思う。みんなを引っ張るリーダーが、引っ張りたい人だけを引っ張るなんて間違ってるよ。」

明希の反応がさっきから新鮮すぎる。もし遠回しに愚痴を吐きたくて言ってるなら、もっとこう...、嫌みな言い方になるはず。それが今の明希には一切ないのだ。

私は瑞希と顔を合わせ、首も一緒に傾げた。暫く、気まずい沈黙の時間が流れる。このままの空気を維持してしまうと取り返しのつかないところまで踏み込んでしまう気がして、私は咄嗟に話題を変えた。

「まあいいや。明希のお弁当見ぃーせて。」

そう言うと、明希はまたキョトンとした表情を浮かべる。何にせよ、これ以上干渉するのはやめにした。あの青組過激派の奴らが関与していないなら無理に問い詰めるのも違うだろうし、緊急性も低い気がした。

 

 

昼休みが終わり、掃除の時間になるとそれぞれの決められた掃除場所へみんな移動し始める。休みが終わり、労働を課せられる生徒らの絶望を嘲笑うかのような明るいクラシック音楽が、この校舎全体に降り注がれるのである。大人の皆さん、お分かりだろうか。この時、この屋根の下の十代の目から晴天が消えていることに。もういっその事、ショパンの「別れの曲」でもかけてほしい。四時間目の終わりに産声を上げ、たった一時間ほどで消えてしまう自由への"追悼の意"を込めて。

さて、私の担当する場所は視聴覚室、いわゆるパソコン室ってやつだ。ここだけ学校感が全然ないというか、カーペット材の床による静粛さと、薄暗さが異世界のような雰囲気を醸し出している。そんな部屋にトボトボと歩きながら到着すると、三年生のお掃除班長が待ち構えていた。

「遅いぞー、名取。」

班長は四角顔でエネルギッシュな雰囲気。胸が張っててゴツく見えるものの、身長はさほど高くない。そんな彼が片腕で掃除機掛けをしながら、もう片方の空いた手は説教に合わせて流暢に動いてる。なんだろう、圧倒的に喧しい。

「雑巾がけじゃないから楽だけどさ?でも早く来ないと一番楽な掃除機を取られてしまうんだぜ?そうするとお前は埃まみれのデスク周りをピカピカにしなきゃいけない。ヤだろ?お前も一応は女なんだし、そういう―――」

う...うるせぇええ...!!口より手を動かせって言ってやりたいのに、右半身がちゃんと勤勉に仕事をしてるっていうのが余計に腹立つ。しかもこんな長文な説教を息継ぎさえ感じないスピードで発するから、脳により大きな負荷がかかる。根本的に悪い人じゃないのは分かるんだけど、溢れ出る"ビジネスくそ野郎"のオーラがそのイメージを塗りつぶしている。

「だからつまりだな?こっちも両手で掃除したいから名取も今後はそういう――」

「ああもう、ごめんなさいって!!ちゃんとやるから黙ってて!」

「...黙っててはないだろう、そもそもお前が遅れなければ――」

「わぁかったからもう、雑巾とってきます!」

「あ、ちょっと待った。」

「何ですか。」

「こっち使いな、今度からは早く来いよ。」

と班長は、「はい、レディーに優しくしてやりました。」とでも言うかのような恩着せがましい笑みで掃除機を渡した。ご丁寧に親指まで立てて。じゃあ最初からそうしろよ、面倒くさいなあ!

「俺は雑巾の方が好きなんだっ。」

「左様ですか。」

「おうっ☆」

私の前で盛大に格好をつける先輩。ジト目で固まっていると、横から一年生の男の子がテキパキと掃除をしながら横切る。

「班長、ナンパしてないで仕事してください。」

と、捨て台詞も付けて。私もそれに合わせ、にやけ顔で

「言われてますよ。」

と言って掃除機を手に、その場を去る。

「ちぇ、冷てえなあ...。」

班長は首をかしげたあと、何とも言えない切なさを放ちながら掃除を再開した。

「なあ、お前ら体育祭、何出んのー?」

班長が話しかける。

「両手で掃除したいんじゃなかったんですかー?」

私は皮肉を込めてからかった。

「口が暇なんだよぉ。」

「暇が理由であんな長く説教したんですか。うわあー、さいてー。」

「いや、だってそれは遅れてくんのが悪いんじゃん。みんな名取が来るのを待ってたんだぞー?」

そういうと一年生の子が無感情な声色で言う。

「僕は待ってないですよ。」

一瞬部屋が静かになる。わー、凄いなー、音という音が消えたー、はははー。...「待ってない」はちょっと傷ついた。

 

「なあ、足速いやつってモテんのかな。」

班長が呟く。

「どうしたんですか急に。」

「いや、モテんのかなーって。どう思う?名取。」

「知りませんよ。まあ、動ける男子が好きって人も多少はいるんじゃないすかー?」

「適当だなあ、おい。」

「もしかして班長、今好きな人いるんですか?」

班長を半笑いで小突く。

「いや、単純にモテたい。」

「誰でもいいのかよ、最低ですね。あんたも何か言ってやれー。」

一年生君に振ると、彼は氷のように冷たい表情で言った。

「喋ってないで掃除してください、班長。」

「掃除してんじゃん!!口も動かしてはいるけど!」

一年生君は今度は私の方に顔を向けた。え、なになに、その表情のままこっち見ないで。怖いんだけど!?

「名取先輩、貴女がノるから班長が喜んじゃうんですよ?」

「...辛辣だなあ。」

 

掃除する箇所が予定より早く終わり、掃除終了のチャイムがなるまで暇を持て余した。班長は窓際に、私は回転椅子に腰掛け、一年生君は律儀に磨き残しがないかと辺りを入念にチェックしている。ボーっとしていると、班長が言った。

「一年生、お前、休みの日なにしてんの?」

「僕ですか?」

「あ、私も気になるー。」

「うーん、そうですね。本屋さんに行ったりとかですかね。」

すると班長は半笑いで言った。

「インドアなんだかアウトドアなんだか分かんねえな。もうちょっと冒険しようぜ。」

「冒険...ですか??」

「ああ、サイクリングだとか、山登ったりとか。」

「僕にそんな体力ないですよ。」

「なかったら付けりゃあいいんだよ。運動ができたら楽しいぞ?」

うーん、と考え込む一年生君。私は班長に聞いた。

「先輩はガッツリアウトドア派なんですね。」

「ああ、もちろん!彼女出来たら色んな景色、見せてやるんだ。」

「...未来の彼女さん、大変そうだなあ。」

「大変の先に絶景は待ってるんだ。そういうもんだろ?」

「そういう女の子に出会えるといいですね。」

私は他人事のように素っ気なく答えた。そしてそのタイミングでチャイムが鳴り響く。

「ま、お前らといると楽しいから、今は無理して恋する必要もないわな、ははは。」

そう言うと班長は、慣れた手つきで雑巾を竿にかけ、ノシノシと歩き去っていった。

「班長、何も言わずに帰りおった...。」

「名取先輩、僕も教室戻っていいですか?」

「あーはいはい。お疲れ。」

一年生君は出口の前でクルリと振り返ると、お辞儀をして丁寧に言う。

「お疲れ様でした。」

そうして、今日ものんびりとした掃除の時間が終わった。

 





放課後の小道具制作の時間が始まる頃、私は不運にも職員室に呼び出され、課題提出のことで説教を受けた。強めの圧で問い詰める先生に
「体育祭で忙しいですし...。」
と言ってみたものの、
「だからって何で家でやって来ないんだ。みんなはちゃんと提出してるんだぞ。」
「おっしゃる通りでございます...。」
袋叩きに合う始末。
そんな披露とストレスの詰め合わせセットを先生から頂き、重たくなった心を引き連れて教室に戻る。しかしあまりにも疲れたので、私は少し遠回りをして戻ってやろうと考えた。
廊下から見える景色に溜息を吐き捨てながら心を入れ替えていく。だんだんと日没だ早くなっているせいか、少し空は青い。
暫く道草していると、人とすれ違うことのないヒッソリとした場所で妙な音が耳に入った。それは複数の男の声が誰かを問い詰めているようにも聞こえる。変に思い、私はその現場にゆっくりと近づいた。
「おい、聞いてんのか。」
「ごめんなさい...、ごめんなさい。」
そこに震えた少女の声が。恐る恐るそこを覗いてみると
「え...?」
そこには何故か明希がいた。

つづく。


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57.開戦前夜


「え...?」
思わず声が漏れた。苛めの現場にしか思えない光景が、しかもその被害を受けているのが私の友達だということに衝撃を隠せない。気づけば私の足は男らの元へと動いていて、それに気づいた奴らが口を開いた。
「...?あ、お前!!」
名前を言わせる前に私は一人の胸ぐらを掴んだ。
「うぐっ。」
「お前ら何してんの。」
「てめぇ、いきなり来て何だ!?」
「何 し た っ て 聞 い て ん だ よ 。日本語分かんねえのか。」
男らに問い詰めると、教室の外壁に背中をくっつけた明希が声を震わせて言った。
「鶴ちゃん...やめて。」
「やめない!明希が苛められてるのに黙って見てられるか。」
「お願いだから。私が悪いの。」
「仮にそうでも、女子一人に男が四人も五人も集って責めたてるなんて頭おかしいわ!」
激昂する私に男たちも黙ったままでいるはずもなく、すぐに私を取り囲んできた。
「お前、何のつもりだよ。あん?」
私はすぐさま反論する。
「お前らこそ何のつもりだよ、私の友達にこんなことして。」
「お前には関係ねえよ。」
「関係大有りだよ。何でこんなことしたか説明しろ。」
そして暫く言い争っていると、この集団のリーダーと思われる奴が私の前に立ちはばかって言った。
「この女はな、俺らの体育祭をぶち壊しにしようとしたんだよ。」
私は一瞬、身体が固まった。耳を疑うような話を聞かされていきなり「ああそうでしたか、すみませんでした。」となるはずもなく、私の怒りはさっきよりも拍車がかかった。
「でたらめ言うな!明希がそんなことするもんか!!」
「やったからこういう目に合ってるんだよ。」
「こういう目に...?お前っ!!」
もう我慢の限界だった。どんな理屈でねじ伏せようと、今起きてることが正当化されるなんておかしいに決まってる。そう思った私は奴らに手を上げようとした。しかし
「聞き分けの悪い女だな。」
そう言われ、後ろの壁へと突き飛ばされた。
「うがっ、痛っ....。 」
すぐに起き上がろうとしたが、そのリーダー格の男に足で肩を押さえられ、身動きが出来なくなる。そいつは私の胸元の名札に目線を通すと
「お前、あの名取か。」
と問う。私は抵抗しつつも、その男の質問に答えた。
「どの名取か知らないけど、だったら何だよ。」
「お前は十分使える人間だ。怪我はさせたくねえ。」
「....は?」
「これ以上、変な気は起こすんじゃねえぞ。」
男はそういうと、集団を引き連れてその場を去っていった。
「鶴ちゃん、大丈夫!?」
明希が急いで私に駆け寄る。
「痛たたた...。あいつら、ふざけんなよ。」
「ごめんね、私のためにこんな...。」
「明希が何したって言うんだよ、あのキチガイ共...。」
「怪我はない?大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとう。」
「先生に言いに行こ。立てる?」
「うん。ねえ、あいつらって...。」
「同じ青組の人らしいけど、勝つことに執着してるみたい。」
それを聞いた私は、立ち上がりながら声を唸らせて言った。
「あいつらか...。」


 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.57「開戦前夜」

 

教室に戻ると、私たち二人の暗い表情を見て河島がツッコむ。

「どした。先生にボロクソ説教されたのか。」

私は河島達に事情を説明した。

 

「まーた面倒くせー事になったな。」

河島が呆れ顔で言う。瑞希は眉をひそめて

「...酷い。先生には言ったの?」

と同情し、尋ねた。

「言ったよ。でもあいつら逃げたみたいで。もう帰ってた。」

そう答えると

「さっきの呼び出しの放送はじゃあ、名取のやつだったってことか。」

と河島。

「うん。だから明日取り合うって。」

「言いつけたのを逆恨みして、よりエスカレートしなきゃいいけど。」

「やめてよ、縁起でもない。」

頭を抱えていると、山岸が言った。

「ねえ四倉さん。」

「え?は...はい。」

「奴らは何て言ってきてたの?」

「...何て??」

「うん。例えば何か奴らに反論したり、間違いを指摘した、とかさ。」

山岸の質問に、答えようか戸惑う明希、山岸は続けて言う。

「どんな小さなことでも、きっかけがなきゃ人って行動しないだろうからさ。」

明希は暫くじっと考えた。それは少し思い詰めている様子にもうかがえる。何にせよ、平常な精神状態とは言い難いものだった。

「つるりんは大丈夫だったの?」

「それがあいつらさ、こーーーんなことしてきて。本当ムカつく!!」

そんな風に瑞希と話していると、明希は言った。

「体育祭当日は欠席しろって言われて。」

「え...?」

「一人ずつに言ってまわってるらしくて。今度はみっちゃん達が標的になるかもしれなくて...、だから、その...。」

明希は自分の発言が、して良いものだったのかと戸惑う。私は尋ねた。

「ねえ、それ本当?」

明希は声には出さず、小さくコクリと頷いた。

「じゃあ、あいつらが言ってた「体育祭を壊そうとした」ってのは...?」

「多分、あの人たちの要求に反論したから。」

「は!?思い通りにならなかったら反逆者扱い?」

これにはさすがの瑞希も黙ってなく

「自分らが偉いって思い込んでるんだよ。」

と嫌味を溢す。山岸も

「苛めで追い込んで来させなくするつもりか。だったら辞めてやる!って言いたいとこだけど、そいつらに従って休むって思うと腑に落ちないな。」

と呆れ顔。私も同じ表情でぼやいた。

「休んだら今度は先生が黙ってないよ...。」

逃げ場のない路地に追い詰められたような気分だ。青組過激派からの集中砲火を受けてでも体育祭に出るか、先生に叱られ、みんなにサボりだとレッテルを貼られて学校生活を送るか、どのみち課せられている状況は理不尽そのものだった。

そんな中、河島はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。私は眉をひそめて言った。

「何よ、人が困ってるって時に笑う奴がいるかよ。」

河島は答えた。

「いや、冷静に考えてそんなの守る必要がないじゃんか。」

「でも、そしたら―――」

「苛められる?そもそも当日に来てしまえば責められないし、先生とそいつらがグルじゃない限りは体育祭の後も大したことがない。」

「なんでそう言い切れるのさ。」

「先生の監視がある中で堂々と苛めなんか出来ないし、体育祭が終わればそのあとの脅迫はただの苛めでしかないからだよ。」

河島はそう言うと、ペットボトルのジュースに口をつける。そして一口飲んでキャップを閉めると、私たちを見て再びニヤリと笑った。

「でもさ、当日までアイツら、きっと精神的に追い詰めようとしてくるはずだよ。」

山岸が心配そうに言うが、それでも河島は余裕そうな表情をしている。私は奴らの傲慢さに腹が立って、思わず感情が喉から飛び出た。

「ああもう何なの!?どいつもこいつも、どうしてそんなに独裁したがるわけ?」

愚痴を溢す私に、瑞希も

「そういう人たちなんだよ。」

と言いながら、呆れ笑いを浮かべた。

「河島も笑ってないで何か言ってやれよ!」

と、私は言った。それに河島が答える。

「聞こえないところで悪口言ってどうするんだよ...。」

「良いもん!私が聞きたい!」

「ふ、それならもっと面白いことしようぜ。」

「面白いこと??」

「ああ。これはみんなの体育祭だ。そうだろ?」

「え?うん。」

「アイツらがシナリオ通りに置いたはずの捨て駒が、一瞬にしてバラバラに散らばる様を見せつけてやろうじゃないか。」

河島は悪そうな笑みを見せる。あまりにも堂々とした態度に私たちは、構えるかのような緊張が背中に走った。そして河島はその表情のまま、私たちに向かって言った。

()()()()()体育祭、ぶっ壊してやろうぜ。」

 

つづく。





【オマケ】
ある夜、探偵入崎が町のとある喫煙所にやってきた。煙草の箱を取り出し、その一本を咥えると、マッチでそれに火をつけた。
「ふう...。」
と吐き、燻らせた煙と、吐いた煙が空に消えていくのを見つめる。そうしていると、横から男の声が一筋に、その耳に向かって飛んできた。
「今時マッチ棒か?いつの時代生きてんだよお前は。」
交番勤務の土浦だ。彼は入崎の横にやって来ると、そんな風に挨拶した。
「何でも便利に染めりゃあ良いって風潮は嫌いでね。それに、マッチだとたばこ葉本来の味を邪魔しない。」
と入崎は言う。
「ほーん、なるほどね。そりゃあ一本味見してみたいものだ。」
「...こいつは葉巻(リトルシガー)だ。あんたの口には合わんと思うぞ。」
「構わんさ。最近ご無沙汰でね、百円でどうだ。」
ポケットに手を入れようとする土浦に、彼は箱を突き出した。
「金は取らんよ。」
「お、すまんな。」
土浦にマッチの火を近づける。煙草の先が赤く燃えだすと、暫くして彼はむせ返った。
「ウエッホっ!!お前、こんなキツいの吸ってんのか!」
「葉巻だって言ったろ。肺に入れるな。」
「やっぱ変わってんなあ、お前...。」

暫くふかしていると、入崎が言った。
「そういやお前、今日非番なのか?」
「非番じゃなきゃここに居ねえよ。」
「そっか。」
「おん。」
二人の間に小さな沈黙の時間が流れる。
「...。」
「....。」
今度は土浦から話し始めた。
「お前、最近どうしてるんだ?」
「ん?ああ、名取家の娘さんが今度体育祭なんだってよ。」
「お前の話を聞いてんだよ。まあいいけど。」
「まあ順調だよ。最近は素行調査とか増えたかな。」
「素行調査?」
「ああ。子供が外で何してるかとか調査するんだよ。」
「へえ。監視の厳しい親もいるんだな。」
「いや、あまり悪くも言えないよ。中には内緒で学校辞めてたりとか、その交通費でパチンコだとか、そういう奴も居たからな。」
「...なるほど。」
「どっちが悪かなんて分からなくなる。これは職業柄仕方のないことなんだなって、つくづく思うよ。」
「ああ、言えてるな。」
煙草に火を付けはじめて3分が過ぎたくらいの頃、お巡りさんの土浦が達成感に満ちた態度で言う。
「ちょっと慣れてきたかな。へへ、葉巻デビューだ。」
「ふっ。」
土浦は煙を吐くと、話題をヒョイっと切り替えた。
「で、どっかの娘さんが体育祭なんだって?」
「お前も一度会ってるはずだぞ。」
「え?そうだっけか?」
「あの時は小学生の従兄弟を連れてきてた。」
「...?あー!あの女の子か。」
「そ。しかも四倉の娘さんとは同級生&友達。」
「まじかよ。なんて偶然だよ。なんつーか。」
土浦はにんまりと微笑んだ。 
「ま、体育祭当日は休ませてやれって上官に伝えといてやれよ。」
「俺、四倉と管轄違うんだが...。」

―――――――――――――――
【修正報告】
2023.6.18
つづく。を入れ忘れました。


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58.欠けたピース

 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

Episode.58「欠けたピース」

 

河島たちとの会話から抜け出して、私はトイレに向かった。放課後の静かな廊下を歩いていく。

用を済まして手を洗うと、ハンカチで手を拭い、鏡に映る自分を見た。ふと、おどけるように笑顔を浮かべて、自分の精神状態を確かめる。ここで笑えるうちはまだ元気な証拠だ、そう心に呟いて気を楽にした。

辺りには特にこれといった気配は感じないのだが、鏡で自分の後方を恐る恐る見てみる。そこには誰もいなく、振り返っても結果は同じだった。思えば、数ヶ月前に戦っていた相手が今では懐かしい。一難去ってまた一難とはよく言ったものだ。人生、どの環境に置かれても敵はいるものなんだとつくづく思う。今度は熱血な奴らに支配されそうになっているのだから、そう考えるとなんだか体育祭が始まるのが怖くなってきた。こんな空気で果たして本当に上手くいくんだろうか、その実感がこれっぽっちも得られない。

「あー、ダメだダメだ。笑顔笑顔...!」

暗い気持ちに引きずられそうになるのをグッと抑え、鏡の前の自分にもう一度笑って見せた。

 

トイレを出て暫く歩くと、廊下の窓際で黄昏ている男が目に映った。誰だろうと思いつつ通りすぎようとすると、何だか見覚えのある顔だと思い、目線が上へと上がる。

「あれ?勝田じゃん。」

「...?おう、お前か。」

その男の正体は勝田だった。いつも活発な奴で、時には苛めっ子のリーダーだったりする程の荒くれものなのだが、あまりにもしっとりとした雰囲気で佇んでいたから気付かなかった。

「どしたの、そんな暗い顔して。」

「いや、体育祭が近ぇなあって。面倒くせえんだよな、ああいうの。」

「はは、噓だー。そういうの一番好きなんじゃないの?」

「ほっとけよ。」

明らかに別のことで悩んでいるように思える。まあ、あまり介入しないでおこうと思ったが、このまま溜めこんで爆発して、その飛び火がこちらに当たるのも何なので、少しだけ背中を小突いてやった。

「ま、いいけど。あんま溜め込むなよー。」

そういって彼の横を通りすぎようとした。が、五歩ほど歩いた所でこの背中に呼び声が届く。

「なあ名取。」

え、呼び止めるのかよ、なんてことを思いつつ振り返った。

「ほっといて欲しいんじゃないのかよ。」

「少し聞きたいんだが。」

「なに?」

「心にガッポリ穴が空いちまった時って、お前ならどうしてる?」

「え、なに急に。ポエミーなこと言い出して。」

「どうしてるかって聞いてんだ。」

「...ええ?美味しいのをお腹いっぱい食べる。」

「はあ、お前は単純で良いな。」

「なんだよその言い草。」

「...。」

勝田は溜息を吐き、窓の外を見つめた。

「ふっ、ぜんぜん体育祭関係ないじゃん。」

「へ?」

「悩みの種がだよ。さっきから恋煩いみたいな顔して。似合わんぞー、そういうの。」

「うるせえよ。」

「仲間沢山いるんだから、聞いてもらいなよ。」

「ああ、そうだな。」

ぼーっと外を見つめてばかりの勝田は暫く黙ると、少し言葉を詰まらせるような感じで私に尋ねた。

「...なあ名取。」

「ん?」

「少し聞きにくいんだが...。」

「...?」

「その...。」

「何さ。」

「藤島のこと、今でも恨んでるか?」

「へ?」

「今もお前の中では"敵"か?」

「なんでそんなこと...。」

「聞きたいんだ。」

勝田は虚ろな目をして尋ねる。その表情を目にすると答えてやらないのも可哀想な気がして、仕方なく話した。

「敵でも何でもないけど、嫌いなのは変わんない。」

「そうか。」

「でもこの前、ボロボロにやつれた姿で謝られた時は少し複雑な気持ちになった。」

そういうと、勝田はほんの少し目を丸くした。

「あいつが...、謝った?」

「うん。許さなくても構わないって。」

「そうか...、そんなことを。」

「うん。」

「それで、お前はどうしたんだ。」

「良いとも良くないとも。」

「そうか。」

私は一つ小さなため息を空に捨てると、半ば呆れ顔で勝田に聞いた。

「悩みの種はそれ?」

勝田は何も答えずにじっと固まる。私は軽く肩をすくめた。すると勝田は、ずっしりと重たい声色で私に言う。

「あいつ、学校辞めたの知ってるか?」

「え?」

唐突に聞かされた情報に小さく衝撃を受けた。彼の重たい表情の訳はそれだったのか、そう思うと、私は彼にかける言葉を失った。

「自主退学だってよ。」

「そう。」

「...俺はどうすれば良かったんだ?」

「さあね。」

「もっと傍にいてやるべきだったのか。」

しかし、あまりにも勝田らしくない態度でモジモジしていることに、私は何だかもどかしさを覚えた。

「勝田、そんな気持ちのまま体育祭出たって楽しくないでしょ。」

「ああ、だから面倒くせえって言ってんだよ。」

「藤島が居たら今の気持ち、変わってた?」

「さあな。....。」

勝田がまた黄昏れに耽る。

「はーあ、呆れた。あの勝田がそんなことで萎えてるとか。」

「うるせえ、お前に何が分かんだよ。」

「だったら言えばいいじゃんか、来てくれって。」

「出来るんだったらやってるよ。」

私はこの状況にじれったくなった。いつまで経っても元通りにならない勝田に、私は彼の背中を思いっ切り叩くかのように助言してやった。

「違うね。あんたは出来るのにやってない。」

「は?」

「藤島は一人っ子だったかあー?」

「お前、何言って...。」

「一人っ子だったかって。」

「兄貴が一人いるな。それがどうしたんだよ。」

ポカンとしている勝田。そんな彼へ「あとは分かるだろ」と言わんばかりに私は、首の動きでゴーサインを示す。意味を察した勝田は困惑の表情を浮かべた。

「...いや待て、そんなこと俺には。」

「やってみないと分かんないじゃない、そんなこと。ほかに方法あんの?」

「...。」

「そうやってウジウジして、目の前のチャンス見過ごしていつまでも悲劇の主人公ぶってたいなら話は別だけど。」

そう言われて考え込む勝田に、私は続けて言った。

「好きなんでしょ、藤島のこと。」

「....え?」

勝田はまるで、その言葉で初めて自分の気持ちに気がついたような驚きの表情になる。まあきっと事実なんだろうよ。だって、その姿を見れば誰だって分かるレベルなんだもの、それが図星だってことくらい。

私は目の前の女々しい大男を小突いたあと、去り際にこう言ってやった。

 

「だったらそれなりの態度を示しなよ、男なら。」

 

 

つづく。

 



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59.雨模様


体育祭当日、開会式は曇り空に覆われた。予報では雨の可能性が報じられていたが、本降りではないという情報の下、大会は決行されることとなった。宣誓ではそれぞれの組が熱意を掲げる。私たち青組の代表にはあの過激派グループの人間がいた。

「私たちは正々堂々と戦い...」

所々に聞こえる言葉には「どの口が言う」と、嫌味が喉まで出かかった。
こんな天気のせいか、心は明るい方になかなか動かない。今日はいい日になると信じていたのに。

信じていたのに。


 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

Episode.59「雨模様」

 

ああ、とうとう体育祭が始まってしまった。せっかく楽しいはずの体育祭が、変な圧力をかけられているせいで気が気じゃない。じめっとした天気と同じ心模様は、誰かに助けを呼びたい思いに溢れる。普通に競技を楽しむつもりでいるのはそうなのだが、ここはあまり奴らを刺激させないようにしておこう。何だか面倒臭そうなことが起こりそうだし。

大丈夫、上手くいくさ、と言い聞かせ胸を撫で下ろす。すると私の視界の端で、気だるげにしている河島の姿が見えた。

「ぐえええ、だるぅううう。もうだめーー。」 

まだ始まったばかりでしょうが、と言ってやろうと彼の方に目を向けると、河島は並んだ椅子の上で大胆に寝転がっていた。

「.....何してんの。」

「仮眠中。」

「おいおい、体育祭ぶっ壊すって言ってた活気はどこ行ったよ。」

「めんどぃー、寝る。」

「怒られても知らないよ?」

そういうと、河島は唐突にキリッとした表情になり

「任せろ、ヤバくなったら全力で応援モードに切り替える!」

と自信満々にほざいた。

ああ...、こいつを見てたら私にまで五月病が移りそうだ。秋だけど。

 

開会式が終わって数分、瑞希と明希の二人はトイレからの帰りで、グラウンドを見ながらほんの小さくお喋りをしていた。

「二年生の種目まで時間結構あるね。」

瑞希が言う。明希は不安そうに

「うん。」

と言った。彼女の元気のない声に、瑞希はニコッと笑いながら励ます。しかし、いくら明るい態度で接しても明希の表情は変わらない。瑞希がその訳を尋ねると、彼女はこう答えた。

「私、ロクな順位取れないと思うし、みんなに迷惑かけてしまう。だから休もうって決めてたのに、なのに...。」

それを聞いた瑞希は目を丸くしたあと、すぐに穏やかな顔に切り替えて彼女に言った。

「逃げずに来れたじゃん。勝とうとなんてしなくて良いから、一緒に頑張ろうよ。」

「怖い。...私、怖い。」

「我が儘言わないの。」

瑞希はそう言って明希の背中を優しく叩いた。

 

私は呑気な河島を後にして瑞希たちを探しに行った。次に出る種目までかなり時間の余裕があるので、少し暇を持て余そうと考えていた。辺りを散策しつつ、過激派の野郎どもに見つからないようにコソコソと探し回る。そしてしばらく歩き続けたら、校庭から少し離れたトイレの前に立っている二人を見つけたので私は声をかけに行った。

「みっちゃん、やほー。」

「あ、やっほー。」

「明希もやほ...明希?」

相変わらず明希が不安そうにしていたので、どっとそれを吹き飛ばしてやろうって思った。

「明希ー、なーに暗い顔してんの?」

「...。」

何も言わずに俯く明希。瑞希がその表情の訳を話すと、私は

「なーんだ、そんなことか。」

と言って笑った。

「そんなことって...。」

と、明希は眉をひそめる。彼女の悩みを軽く受け取ったことに、明希は不満を溢すように小さく睨んだ。

「あのバカ上層部の言いつけじゃないよね。」

「それだけじゃないよ。でも、私のような運動音痴が優勝の可能性を遠ざけてしまうのも確かだから。」

「そんなの関係ないよ。河島だって言ってたじゃん、自分のしたいことをすればいいって。」

「だから休みたいって言ったの。私がいなけりゃいい勝負ができて、楽しかったねって終わって、それでいいじゃない。」

私は駄目だと分かっていながらも、楽しい空気になろうとしない周りや、明希に対してだんだんとイライラが溜まっていた。そんな二人の間であたふたと戸惑う瑞希を差し置いて、私たちの熱は加速した。

「そんな卑屈になっていちゃ楽しめるものも楽しめないよ。」

「身体動かすのを楽しいって思えるほど運動得意じゃないから。」

「だからって逃げるのは違うんじゃないかな。」

その言葉は明希の小さな火に油を注いだ。そうしてみるみると火力を増していく彼女に私も引けなくなって、少しずつ言葉遣いが荒くなっていく。

「鶴ちゃんは動ける側の人だからそんなこと言えるんだよ。」

「動ける動けないとか関係ないよ。みんなでやるから楽しいのに、なんでそう周りのことばっかり気にするの?」

「違う。動ける人が私のせいで優勝逃すなんてことになったら最低でしょって話!」

「だからそんなのどうでもいいじゃん!なに、あのバカ集団に何言われたらそんな考え方になるの!?」

「あの人達にとってはやり直しの利かない大事なものなんだよ?私じゃその戦力にならないから、動ける誰かに出番を譲るべきだって――」

「ほら!やっぱあの馬鹿の言いつけじゃない。そんなしょうもない駆け引きに乗っかってどうすんのさ!」

「駆け引きじゃない!正しい方を選んだだけ!!」

「ちょっと、やめてよ二人とも...。」

だんだんヒートアップしていく私と明希に、瑞希は困惑しながらも落ち着かせようとした。しかし...

「明希、そうやっていっつも暗い方向にばっか持っていくけど、ひねくれんのもいい加減にしたら?」

「いつもって何!?そういう鶴ちゃんだって、馬鹿の一つ覚えみたいにポジティブになって――」

「はあ!?じゃあウジウジ否定的になったら解決すんの?ああそう、じゃあ私もやってみようかな?」

「さっきから何なの!?自分のしたいことをすればいいんでしょ?だったら好きにさせてよ!!」

気づけば明希との喧嘩は止まる場所を完全に失い、暴走状態になっていた。

「もう、やめてったら...。」

瑞希はその腕で食い止めることをやめて立ち尽くした。二人に届かないと分かり切ったような「やめて」が、弱々しく彼女の口からこぼれ落ちる。

「そうやって自分差し置いて、良い人気取りするのが明希のしたいこと?それで正しいことしてるつもり?」

「鶴ちゃんに私の何がわかるの?」

「何も分かんないよ、そんなお人好し精神なんか。格好つけてないで前向けって言ってんの!」

「何様のつもりよ。さっきから私の気持ち、これっぽっちも分かろうともしてないくせに。」

「分かるかよ。そんな面倒臭い思考回路してるから藤島(あんなの)と仲良くなってしまうんだよ。」

ほろっと出た言葉が明希に届くと、身体が一瞬にしてピタッと固まった。その一言は彼女の逆鱗に触れたようで、明希は口をぐっと窄める。そして身体全体が震え始めると、潤んだ目で咄嗟に私に掴みかかり、唸った。

「あんたなんかに...あんたなんかに...!!!」

今にも涙がこぼれ落ちそうな彼女の目を見た途端、私は正気に戻された。とはいえ、いきなり「言い過ぎた」と言うのも明希の怒りを増幅させてしまいそうで、ひそめた眉が元に戻らないままでその表情を見つめるしかなかった。

しかしその時、同時に瑞希の我慢も爆発し、怒鳴り声を私たちにぶつけ始める。

「やめてって言ってるでしょ!!聞こえないの!?私の言葉!!」

あまりの大声に私と明希は驚いて瑞希を見た。

「どっちもおかしいよ!!喧嘩しに来たの!?だったらもういい、私もういい!!!!」

そう叫ぶと、瑞希は青組の待合スペースへと走り去っていった。二人でその背中を見つめる。互いの目線の先が共通していることに二人が気付いた時、私は取り返しのつかない状況になろうとしていることに焦りを覚えた。しかし、

「ごめん明希、さすがに言い過ぎたよ。」

と唇が動くより先に、明希は私を強く睨んでこう言った。

「もう鶴ちゃんなんか知らない。」

そして彼女は、瑞希とは違う方向へと走り去っていく。大切にしていたはずの存在に強く当たったことへの後悔と、まだ引き留められるという確証無き期待に揺さぶられながらフラフラと歩きだす。私は胸に突き刺さった言葉の痛みで声が出ないまま

「待って...、ねえ待ってよ...。」

と、カタカタと震えた唇だけがその言葉を書きなぐった。やがてそれが二人に届くはずがないことを知ると、諦めたように立ち止まり、たった今降り出した雨と一緒になって泣いた。

 

つづく。



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60.一方その頃

 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.60「一方その頃」

 

瑞希が青組のスペースに戻ってくると、先ほど起きたのだろうか、ボケーっと試合を見ている河島が彼女に気付いて声を掛けた。

「お疲れー。...どしたの、暗い顔して。」

「何でもない。大丈夫。」

「あそ。風邪ひくなよ、雨降ってきたし。」

「...うん、ありがと。」

「んで、四倉さんと一緒じゃないの?あと名取がそっち探しに行ってたみたいだけど。」

「さあ...、どこかで雨宿りでもしてるんじゃないかしら。」

グッと何かを我慢しているような表情で、さっきからずっと俯いたままでいる。そんな瑞希に違和感を覚えてか、河島は暫く灰色の空を見つめてからこう言った。

「やな天気だよな、折角の体育祭が。」

河島の言い放った言葉は、彼女にとって違う意味に聞こえた。余計に戸惑った瑞希は河島に対し、

「ごめん、ちょっとだけそっとしておいて欲しいかな。」

と、無理に優しい声を作って要求する。その声にはちっとも隠せていない彼女の我慢が混じっていて、ひそめた眉や、下唇を嚙む様子からもにじみ出ていた。

「ああ、悪い。」

河島は退屈そうに欠伸をした。

 

その頃、詩鶴たちを背にして歩いていた明希は、雨の匂いに包まれていた。降り出したばかりで、その一粒一粒が彼女の肩を濡らしていく。暫く歩き続け、正面玄関前で雨を凌ぐ明希。小さな階段に座り込むと、じわじわと滲み出てきた後悔が彼女の胸を締め付けた。

「こんなはずじゃなかった。」

と心に呟いては、詩鶴の失言に未だ怒りが立ち込める。二つの重たい感情はいつまでも抱えられるものでもない。重たすぎて、心が今にも壊れてしまいそうで。私が駄目だったのかな、正しい方を選ぶなんて言って、結局こんな結果を招いてしまうような自分のどこに正しさがあるのか、そんな風に自責を繰り返し、どんどん駄目になっていく。そう自分を問い詰めながら、彼女はだんだんと自信を失くしていった。

「私、どうしたらいいの。助けて。」

膝の中に顔を埋めて明希は呟く。その時、彼女の前に先生とは違う雰囲気の男の人が現れた。

「あの、すみません。」

明希が膝から顔を離してから視界に彼のズボンが映った時、知らない人だという緊張から顔を上げられずに、その場で身体が固まった。

「...は、はい。」

目を激しく泳がせ混乱する彼女に、その男はおかしな質問を投げかける。

「煙草吸える場所、知らないかな。」

彼女は思った。明らかにヤバい人だ、と。ここが未成年の通う学校であることを知ってて聞いているのか、だとしたらとんでもない人に絡まれてしまった。ひどい目に遭わされるかもしれない、と。そう思うと先ほどよりも強く、その胸に「助けて」と繰り返した。

あまりの怯え具合に折れたのか、彼は失笑して言った。

「はは、冗談だって。顔上げなよ、知らないオジサンじゃない。」

そう言われて恐る恐る顔を上げると、渋い風格のおじさんが立っていた。明希は、見覚えのあるその顔を思い出そうと一瞬だけ固まり、そのあと名前を言った。

「あの時の...探偵さん?」

「あはは、君にとっては"お父さんの友達"と言った方がしっくりくるんじゃないか?」

「そう...なんですか??」

ポカンとしている明希。彼が前回、詩鶴の店で会った時にその話をしていなかったばっかりに、彼女は余計に混乱した。

「あれ...、まあいいや。」

次に明希は、彼が何故ここにいるのかを疑問に思って尋ねた。すると入崎は、その質問を待っていたかのような言い方で答える。

「君の失くし物を探しにね。」

 

一方その頃、河島は退屈さに耐えかねて、一人言を聞かせるかの如く、近くにいた瑞希に話しかけていた。

「矢原さんってさ、兄弟いたっけ?」

「....。」

そっとしておいてって言ったのに、と言わんばかりに、彼女は河島の回答に対して直ぐには答えなかった。しばらくして、会話を広げないように一言だけ返した。

「二人。」

「え、まじー?俺も上と下にいてさー。姉ちゃんにはパシられるわ、妹には小言ばっか言われるわで大変なんだよねー。」

不運にもその一言が河島と共通していたせいで、彼はペラペラと話し始める。瑞希は「やってしまった」と心底思った。

「そうなんだ。」

素っ気ない返事で返すも、彼はブレーキをかけずに喋り続ける。

「あ、昨日のロカ電見た?普通電車だけで乗り継いで目的地目指すヤツ。」

「...見てない。」

「えー、まじ?めっちゃ面白かったのに。秘境駅で四時間待ちってハプニングが起きたんだけどさ、ゲストの女子アナが耐え切れなくなって「帰る!!」とか言い出したんだけど、そこ山に囲まれてて、まともな道路すら周りにないとこでさ。メンバーも「帰れるもんなら帰ってみやがれ!」ってブチ切れ出して。あー、あのシーンまじで面白かったわー。」

楽しそうに昨日の番組のことを話す河島。詩鶴たちと喧嘩してきたばかりの瑞希にとっては最悪の話題だった。忘れようとしていた感情がぶり返してしまい、彼女は「ひぃぃ...」と小声で呻きながら、二つの手のひらで頭を抱えた。

 

明希は、入崎に悩みの種を突き止められて困惑していた。

「どうして喧嘩のこと、知ってるんですか。」

「職業柄だよ。何となくこういうことになるんじゃないかとは予測していた。」

「...後をつけてたとかじゃないですよね。」

「おいおい、人聞きの悪いこと言うなあ。これでも一応、君の父さんと同じ課にいたんだぞー?」

「交通課ですか。」

「いや、捜査課時代のだよ。君がまだ小さかった時の話だ。」

「そう...でしたか。」

「ああ、とある未解決事件の捜査打ち切りに反対してね。署長と大喧嘩して出ていった。」

「それで今、探偵さんに?」

「そーゆーこと。」

明希は彼に尋ねた。

「で、なんで居るのかって理由、詳しく聞けてないんですけど...。」

尋ねられた入崎は、ジト目になって答えた。

「探偵ってのは色んな仕事が舞い込んでくるもんでね。」

「ってことはこれも依頼...?全然読めないんですが...。」

「ああ、同感だよ。今日、学校でパパには会ったかい。」

「いえ、"仕事で来れない"って。」

「だよな。じゃあこれなーんだ。」

入崎はそう言って、首からぶら下げた一眼レフを指差して彼女に示した。

「はあ。」

ポカーンとしている明希に、入崎は目線を前にしたままカメラだけを彼女に向け

「はい、チーズ。」

と言って、シャッターを切る。

「あわわわ...!?え?え?」

赤面して慌てる明希に、入崎は表情一つ変えずに言う。

「これが今日のお仕事。ったく、親バカが過ぎるぜ。」

「え、親バカ?まさかお父さんが!?」

「愛娘の有志をカメラに収めてきて、とのご依頼だ。まあーったく、入校許可証取るのには苦労したんだぞー?もう女子高生の写真撮影はこれっきりにさせてくれ...。」

「以前にも...ご依頼が...?」

「ああ...、まあな。」

「探偵さんって大変なんですね。」

「...まあな。」

 

そのころ瑞希はというと...

「そのあとの映画も結構面白くってさ。」

河島のマシンガントークによって精神を蜂の巣にされている真っ最中だった。

「地球に侵略してきた火星人との戦争映画なんだけど、心優しきヒロインが主人公に対して言うんだ。「宇宙人とは言っても、彼らにも家族がいるのよ?」って。でも、奴らに家を壊された主人公は殲滅したい一心。ヒロインと大喧嘩してしまって、それに耐えかねた彼の幼馴染が激怒して出て行ってしまう。そこの迫真の演技と言ったらもう~...」

「ヒィ...!ヒィィ...!!」

彼女は半泣き状態で悶えながら、心の中で家族の名前を一人ずつ叫んだ。





二人が去っていった喧嘩の跡地には、詩鶴一人だけがポツリと佇んでいた。
「どうして。」
と自分に言い聞かせながら、明希と言い争ったことを悔やむ。雨の中、濡れる身体に慌てることもせずに、ただ深い失意に身を包みながら俯く。
やがて泣き疲れると、詩鶴は「くしゅん!」と小さなくしゃみをし、トボトボとした足取りでグラウンドへと歩き出した。しばらく歩いていると、グラウンドの砂地に足を踏み入れる前に青組の過激派の一人に見つかり、
「おいお前、サボってんじゃねぞ。早く戻れ。」
と詩鶴に言い放った。彼らのせいで明希があんな考えになってしまった、彼らのせいで明希と仲違いになった、ふとそんな考えが頭を過ってしまった詩鶴は、爪が食い込む程に手のひらを握りしめる。
「はああ....はああ...!!」
詩鶴の息は怒りで震え、自身を制御する冷静さはすっかり消し飛んでいた。そして鬼のような顔でゆっくりと、強い言葉を放ったその男へ向けて首が動いた。

つづく。


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61.誰かの傘

 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.61「誰かの傘」

 

入崎は、彼女の不満の一つ一つに耳を傾けた。言葉の節々に小さな後悔が交じっているのを見つけるたび、彼女を放っておけないという気持ちにさせていく。入崎は少しばかり考え込んで遠くに目をやった。

暫くして彼は言う。

「それで、喧嘩のきっかけは何だったっけ?」

入崎がそう尋ねると、数舜ほど明希の身体が固まった。

「それは、三年生たちが...。」

「三年連続優勝の名誉を勝ち取るために、適性のないものは出番を譲るべき、そう考えたんだね?」

「...ええ。」

「で、詩鶴ちゃんは「自分が楽しいと感じなきゃ意味がない」、と。」

「はい。でも、本当に大事な場面では感情論を出すべきじゃないんですよ。」

入崎は微笑んで彼女の意見に同意した。

「ああ、そうだね。君は組織が利益を得るために適正な方を選べる判断力がある。それは社会に出たらとても重要なスキルだよ。」

突然に難しい言葉で話し始めた入崎を、明希は不思議そうな目で見つめた。彼女は何も言わずに彼の言葉に耳を傾ける。

「でもね、大切なものは利益だけじゃない。どんなに売れている企業も、職場の環境が悪ければ内部から崩れていく。それは分かるかい?」

「...ええ。でも、あの人たちにとっては一度きりの大勝負だそうですし。」

明希がそう言って俯くと、入崎は彼女に語りかけるように問うた。

「君は、あの組は勝てると思うかい?」

明希は体操座りの膝に顔を埋めた。そして、その口からは涙交じりの声で嘆きの言葉が溢れる。

「...分かってますよ、あのままじゃ無理だって。でも、私に出来ることなんてそれくらいしかないじゃないですか。」

 

一方、河島は瑞希からの相槌がずっと薄いことからようやく事の大きさに気づいたのか、

「ごめん。」

と短く返す。こくりと頷く瑞希。彼女の下瞼が赤く腫れていた。

それから十数分ほどだろうか、河島と二人、同じテントの下で雑踏を聞き続けた。河島は定期的に彼女の様子を見ては、状況を聞きたいような雰囲気で頭を悩ませる。瑞希もそれに気づいてはいたのだろう。彼の視線に気がつく度、遠くに目をやり深い呼吸をした。何度か河島も

「大丈夫?話聞こうか?」

と尋ねたが、

「平気だから気にしないで。」

と返すばかり。ずっと暗い顔のままの彼女を元気にさせようと考えあぐねる河島は、放っておいても解決しない、という答えだけを見ていた。

「矢原さん矢原さん。」

河島が陽気な声色で彼女に話しかける。瑞希が半ば呆れ顔で振り向くと、河島が強烈な変顔をして見せつけていた。しかも瞼にマジックで目を書き、そこら辺の木の枝を二本、鼻の穴に引っかけて苦しそうに。多分、鬼瓦をやりたいんだろう、その雰囲気だけは瑞希にも伝わっていた。

瑞希は非常に困惑した表情で固まる。それは半開きのままになっている口に自身が気づけない程に、彼女は状況の理解に苦しんだ。

「ぶひー。」

「....。」

「妖怪、子供騙しぃ。おはやうございま(そうろう)。」

「.....何してるの?」

「あれ...、おかしいな。中学はこれで売れてたんだけどなあ...。」

「...はあ。」

「Not funny?」

Yea()

「そうかあ...。」

河島は次へ次へとネタを展開していったが、瑞希の目には見え透いたウケ狙いに冷めてしまってちっとも笑えない。ただ、そんな彼を見ているうちに心に湧いた呆れは、落ち込んでいることすらも馬鹿馬鹿しく感じさせていくようで彼女の気を楽にしていった。

瑞希の中の重たいモヤモヤが少しずつマシになっていく。だがしかし、あまりにも笑いを取れずにいた河島は疲れてしまい、元気な顔を見せない瑞希に言った。

「お手上げだ、一体何があんたをそんなにさせてるんだよ...。」

瑞希はとても小さな呆れ笑いを浮かべた。河島のしつこさにとうとう折れてしまったようで。

「ふふ、そっとしてって言ってるのに何なの?さっきから。」

そう優しい声で河島に言う。彼女の疲れた瞼には、小さないくつもの文句をしみ込ませたあとが浮かんでいた。

「俺どうしたら良いのかねえ...。みんな重たい空気だし、もっと気軽に楽しくってテンションになんでなってくれないんだろう。」

河島は真剣な表情でそう呟いた。しかし、顔に書いた雑なメイクが残ったままで真面目なことを言う彼を可笑しく思った瑞希は、思わずその口から笑いが溢れた。

「....っふふふ。」

「なに。」

「馬鹿みたい。」

「馬鹿ってなんだよぉ!?」

「違う違う、河島君のことじゃない。いや、河島君のことなんだけど。」

「俺のことじゃねえか。」

「違う、顔!その顔で真面目なこと言わないで。」

失笑の中で少しずつ元気を取り戻す瑞希。いつの間にか空気がさっきよりも、ほんのりと明るくなっていた。

「元気戻ったみたいで良かったー。」

「そのやり方、他の子にやったら嫌われるからね。」

「あはは、気を付けまーす。」

 

一方、入崎と明希の二人は喧嘩のことについて話していた。

「どっちも正しいけど、どっちかが正しいかを議論したら結論は出ないと思うな。」

入崎がそう言うと、明希は反論の言葉が見つからずに黙りこくった。

「明希ちゃんの言うことも、詩鶴ちゃんの言うことも同じくらいにメリットとデメリットがある。」

明希はしばらく考えた後に、入崎に尋ねた。

「おじさん、私どうしたら良かったでしょうか。」

「お互いの意見を認めあって、両極端にならないように出来ればベストだね。でも明希ちゃん、それは大人にだって簡単に出来ることじゃないんだよ。」

「...ええ。」

「だから今は、その議題の解決より先にすべきことがあると思うな。」

「先に...すべきこと?」

「詩鶴ちゃんのことは、まだ恨んでるかい?」

それを聞かれた途端、明希は眉をひそめた。その表情を見て察した入崎が彼女に笑顔で言う。

「あはは、まあそうだよな。そんなにすぐに仲直り出来ていたら俺もビックリだよ。」

「別に恨んでるとかそんなんじゃ...。」

「ああ、分かってるとも。俺だって親友を悪く言われたら黙っちゃあいられない。それはどんなに仲の良い友人から言われたとしても同じだ。」

明希は入崎の言葉で再び詩鶴の発言を思い出し、不満を口にした。

「今仲直りして何か変わるんですか。」

「大きくは変わらないだろうけど、今のままよりかはきっと良くなるはずじゃないかな。」

「そんな急に言われても無理ですよ。」

「ああ、焦る必要はない。ゆっくりで良い。」

「ゆっくりでも完全には許しきれません。あの子と私は性格も、何もかもが対極なんですよ。」

「それで良い。人間関係ってのはむしろそうあるべきだ。」

「....?」

「自分と違う生き物と共存するのに、全部を認めるなんて出来る訳がないからね。」

「......。」

「それは詩鶴ちゃんにとってだって同じことなんだよ。」

「.........。」

「分かり合えない者を敵と見なすか、共存する努力をするかは自由だ。でも明希ちゃんにとってあの子は、一つの言い争いで切ってしまう程の仲なのかい?」

「....どう答えれば良いんですか。」

「今、一瞬で首を縦に振らなかった。それが答えだよ。」 

何でも良い方向に持っていこうとする入崎に、明希は少し怒りの混じった声で反論した。

「あのですね、今だけは分かりたくないんですよ!あんなこと言われて、友達のことも馬鹿にされて...。」

入崎は相槌を入れながら頷いた。

「大体、体育祭なんて私にとってはやりたくないの一心なんですよ!運動できる人だけしか良い思いをしない、そんなもののどこが面白いんですか。」

「そうだな。」

「私だって喧嘩したくてした訳じゃない。でも、あんまりにも好き放題言われたら私だって我慢しきれないですよ。」

「ああ。」

「言いたいことは分かりますよ。ただ、自分らさえ良ければ良いだなんて、そんな考え方する人だとは思ってなかったってだけです。」

「....。」

「私のことなんてどうでも良いって思ってるからあんな言い草が出来たんだ。」

明希の心のモヤモヤを吐き出したあと、入崎はひとつだけ彼女に反論した。

「明希ちゃん。」

「....?」

「君にひとつだけ覚えておいて欲しいことがある。説教じゃない。」

「何ですか。」

「今日、君のことで依頼をしたのはお父さんだけじゃない。」

「え?」

「明希ちゃんのことを心配して、何かあったら相談役になって欲しいと頼んできた。2、3日ほど前のことかな。」

「誰ですか...??」

 

 

「詩鶴ちゃんだよ。」

つづく。




―――――――――――――――
お待たせしました!
投稿、遅くなりました....。


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62.雨宿り


「ごめん。」
河島が畏まった態度で瑞希に謝る。きょとんとした顔で不思議そうにする彼女に河島は答えた。
「暗い気持ちとか飛ばそうとしたつもりだったんだけど。」
すると瑞希は小さく微笑んで
「もう良いって。そうしたいって気持ちは伝わったから。」
と言った。河島は少しの間、言おうか迷って静かになる。そのあと瑞希へ慎重に尋ねた。
「名取と何かあったんだろ?」
瑞希はピタリと動きを止めて戸惑った。
「え。」
「あいつ全然戻ってこないしさ。そっちは四倉さんと一緒じゃない上、落ち込んだ様子だし。何もない方がおかしいよ。」
「.....。」
瑞希を励まそうと彼なりの努力を見せたものの、かえってその不器用さが彼女を追い詰めたことを河島は反省した。
「悪いことしたな。だる絡みして申し訳ない。」
申し訳なさそうにする河島を横に、瑞希は大きく息を吸った。そしてその空気を溜息には変えずに、ゆっくりと吐き出していく。
「気にかけてくれたんだよね、そこは責めないよ。ありがとう。」
瑞希は柔らかい表情で言葉を返す。あまりの優しさに心打たれた河島は、一瞬言葉を失くした。しばらくしてそれを笑いに変えてしまおうとしたのか、ポカーンとした顔をして瑞希に言う。
「前世で天使とかやってました?」
「ふふふ、褒めんの下手くそー。」
瑞希は胸をなで下ろすように一息つく。それは、河島がこれ以上自分のことを詮索してこないだろうと思ったからなのだろうか。こうすべきなのだろうと感じるものに追い立てられることに、彼女はきっと疲れ果てていたのかもしれない。
「なんかあったら皆がついてるから、元気だしな。」
河島はニコッと笑って言った。
「そうだね。」
瑞希も同じ顔で返す。しかし、元気を取り戻そうとしていた彼女の心は次の瞬間、逆戻りの道を辿ることとなってしまう。
二人の鼓膜にも触れただろう、詩鶴の叫び声が。



 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.62「雨宿り」

 

「サボってんじゃねえ、早く戻れ。」

青組過激派の三年生が詩鶴を一喝する。しかし彼女はこれっぽっちも反応しない。

「おい、聞いてんのかコラ。」

もう一度詩鶴に呼び掛ける。また反応がない。

「ちっ、面倒くせえな。お前ぇがそうやってモタモタしてると周りにも迷惑かかんだよ!いい加減にしろ。」

イライラが蓄積して、男は文句を垂れながらドスドスと近づいてきた。やがて詩鶴の腕を掴もうとすると、彼女はパシッと勢いよく払いのける。詩鶴の反抗的な態度に腹を立てたのか、男は

「てめぇ...!」

と、荒い口調で食って掛かる。そして今度は彼女に手を上げて服従させようと試みた。しかし男の手が詩鶴の肩に触れようとした次の瞬間、詩鶴は男の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶった。

「"いい加減にしろ"はこっちの台詞なんだよ!!」

「何すんだてめぇ!」

「うるさい、誰のせいでこうなったと思ってんだ!!」

とうとう詩鶴の我慢が壊れ、激昂状態になってしまった。だが、男は怒りの理由を知っているはずもなく、ただ彼女の反抗を押さえつけようとするばかりだった。

「お前らさえいなければまともな体育祭だったのに!!」

「は!?」

「お前らのせいで明希は...!みっちゃんは...!!」

「なに訳の分からんこと抜かしてんだ、この馬鹿女!」

「馬鹿はそっちだ!勝つ勝つって馬鹿みたいに。お前らのせいで滅茶苦茶なんだよ!!」

二人とも互いに殴る蹴るの大暴れで、詩鶴は喉が枯れるくらいに声を荒げて正気を失っていた。それに、大きな声で取っ組み合いの喧嘩をする二人に周りが気づかないはずはなく、あたりは少しずつざわつきはじめる。

「何してるんだ?あいつら。」

「なんかちょっとヤバくない?」

などと言いながら、騒ぐ声が応援の雄叫びの中でも聞こえるようになってきた。さすがにここまで事が大きくなってくると先生たちも気付く。詩鶴たちのことを止めようと、彼らは野次馬どもをかき分けながら飛んできた。そして

「何やってんだお前ら!!」

と、先生は大声で二人のもとに駆けつけた。他の生徒も何人か止めに入り、二人に割って入る。それでも暴れられる限り殴りかかろうとする詩鶴は、いよいよ後ろから羽交い絞めにされてようやく引き離された。彼女はずっと錯乱状態で

「離せ、離せ!ぶっ殺してやる!!」

と大声で叫んでいる。先生が何度か声をかけたものの、

「なんで喧嘩している。」

「このくそ野郎!死ね、死んじまえ!!」

「聞いてるのか、おい!」

「とっとと離せ!!もう一発殴らせろ!!」

このように聞く耳も立てず、詩鶴は身動きが取れないままでも必死に抵抗して暴れながら、頭に湧き出た暴言を一つずつ乱暴に浴びせた。とうとう説得のしようがないと思った先生は、詩鶴の頬を両手で挟むと、少しばかり手荒に叱責した。

「おい、こっち見ろ。こっちを見ろおお!!」

強く揺さぶられながら、詩鶴の視界には先生の鬼のような形相が映る。そうして彼女の怒りはやがて恐怖と悔しさに変わった。

「うぐっ、うああああ....。」

詩鶴はまるで幼い女の子に戻ったみたいに、鼻水を垂らし、顔をぐしゃぐしゃにして大泣きした。彼女の胸の中には、どうして誰も私の気持ちを分かってくれないの?という気持ちで溢れていた。楽しいはずのものが暗い空気のまま、モヤモヤを爆発させては叱られてしまう。詩鶴にとっては「理不尽だ」と声を上げて言ってやりたかったに違いない。

一方の先生も、激昂状態から突然大号泣し始めるので尋問する言葉選びに迷った。何を聞いても泣きっぱなしなのだから、それのしようが無かったはずだ。

「どうしてこんなことしたんだ。」

と、どんなに言い方を変えて聞いても

「うぅ...。」

と呻きながら両手で涙を拭おうとするばかり。先生は半ば呆れ気味に

「教室で頭冷やしてこい。」

と言って詩鶴を一人にさせる。三年生の男は、ただ自分の潔白を周りに主張していた。

 

「ここに居とけ。頭冷えたら戻ってこい。」

そう言って誰もいない教室に連れてこられた詩鶴。連れてきた見知らぬクラスメイトは、用が済んだと言わんばかりにそそくさとグラウンドへ消えていった。ひとりぼっちの詩鶴、体育座りで(うずくま)る。頭のなかに繰り返される台詞と、場面が浮かんでは、その瞳から枯れることなく涙が溢れた。

ごめん、と謝って全てが収まるならどんなに嬉しいことだろう。明希に見放されたこと、瑞希を怒らせたこと、折角の体育祭がこんなことになったのは全部自分のせいなのか、そう自分に尋ねてみる。

「これじゃ私が体育祭壊したようなもんじゃない。」

ふと呟いた言葉にまた涙が溢れてきた。詩鶴が鼻をすすり、瞼の雫を手で拭おうとすると

「あー、やっと見つけた。探したんだぞー。」

と、河島の声が。ビックリして詩鶴は

「来ないで...!」

と言って泣き腫らした目を見せまいと強がるが、涙交じりの声がそれを一瞬で悟らせてしまう。

「泣いてんのか?」

「うるさい...!うるさい....。」

「はいはい、分かったよ。」

河島は教室の壁越しに詩鶴と話すことにした。瑞希にしてしまったことを反省してか、河島は暫く黙って、詩鶴に一人の時間を与えた。鼻をすする音が何度も聞こえては、どうしてあげるべきかをゆっくり考えていた。そうして河島は詩鶴にひと声かける。

「お前はよくやったよ。俺らの分まで喧嘩してくれたんだよな?」

青組の過激派の一員と衝突したことを話題に上げ、彼女に味方した。詩鶴は不貞腐れたように反論する。

「好きでしたんじゃない。...あとアンタのためじゃない。」

「良いさ、みんなアイツらにムカついてたんだ。お前の行動にスカッとした奴は沢山いる。」

「......。」

「だからあんま自分を責めんな。言うほど悪いことはしてない。」

詩鶴に励ましの言葉をかけ続ける河島。詩鶴は、まだ微かに残る余力で文句を垂らした。

「じゃあ、なんでこう悪い方向にばっかり進むの。楽しくやりたかっただけなのに。」

「ああ、本当にな。みんな死んだような目か、血眼バカの二択しかない。...両極端だ。」

「うん。」

「俺も楽しい一日になると信じてたんだが。」

「...寝てたやつがよく言うよ。」

「あはは、昨日色々あってな。」

「ふーん。」

「テレビが面白くて。」

「くたばれ。」

「後でくたばっときます。」

詩鶴は泣き疲れたのか、さっきよりも静かになって部屋の空気と一つになった。そういえばここは詩鶴が一年生だった時の教室で、一昔前の記憶が薄っすらと影になって浮かんでいる。あの時は河島は隣のクラスで、瑞希や、明希が同じクラスだった。そんなことをふと思い出していると、あまりの静かさに詩鶴は少しばかりの寂しさを覚えた。

「河島、まだいる?」

と聞こうとした瞬間、それより先に河島が

「名取、いるかー?」

と尋ねる。

「いや、いるよ。逆にどうやって立ち去るんだよ。」

「良かった良かった。」

「...こっちが聞こうと思ってたんですけど、それ。」

「さすがにこの状態でどっか消えたりはしないって。」

「そ。」

「ん。」

「...ありがと。」

二人とも、ひと呼吸ほど静かになって、しばらくしたらまた喋り始めた。

「名取。」

「なに?」

「そういえばここ、元お前の教室だっけ。」

「あー、うん。よく覚えてるね。」

「まあな。」

「暇があるといっつもちょっかいかけに来たよね、河島。」

「ま、お前反応良いし。」

「意味わかんない。あんたのクラスにもいたでしょ、そういう奴くらい。」

「いや、お前ほどイジり甲斐があるヤツなんてそうそう居ねえよ。」

「馬鹿にしてる?」

「驚くほど褒めてる。」

「あっそ。」

「いやあ、お前とクラス一緒になったときは正直感動したわ。」

「私は心底ガッカリしたよ。」

思い出話と共に、少しづつ明るさを取り戻していく詩鶴。彼女の表情はほんのりと穏やかになっていった。そして次に詩鶴は、河島に呟く。

「河島は離れないでいてくれたよね。」

「離れる?どゆこと?」

「ううん、何でもない。」

詩鶴は遠まわしに感謝の意を伝える。それは河島には読み取れなかったみたいだったが、彼女は気に留めることなく静かに微笑んだ。

「よくわからんけど、人間関係そんな簡単に切る奴はいないだろ。」

「うん、そうかもね。ありがと。」

しおらしい態度の詩鶴にフッと笑うと、河島はこんな提案をした。

「ちょっとそこら辺でも歩こうや、気晴らしがてらにさ。」

すると詩鶴はグッと気持ちを切り替え、立ち上がった。

「うんしょっ、と。しゃあーねえなー、言うこと聞いてやるかー。」

「なんだそれ。」

河島の前に姿を見せると、まだ少し目の周りが赤いままの顔で笑う。

「さ、どこ行くの?」

 

つづく。



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63.してやられた

 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.63「してやられた」

 

「ふあああぁ...。」

河島が大きなあくびをする。それが私には可笑しく思えて、つい茶々を入れたくなった。

「ふふ。」

「何。」

「河島っていつも眠たそうだよね。」

「悪かったなー。」

外にはぽつりぽつりと、窓からいくつかの点線が落ちてゆく。ふたつの足音が廊下に響きながら、この時間では味わえない放課後のような空気が流れている。泣きはらした目を見られたことを思うと、あんなに泣いたのが恥ずかしく思えて不意に頬が赤くなった。

誰もいない私たちの教室に戻ってくると、二人は雨雲で薄暗くなった部屋の雨の匂いを嗅いだ。居残りのような雰囲気で、でも外にはクラスの皆が体育祭に勤しんでいる。そんな背徳感と、いたずらにも感じてしまう愉悦のようなものが胸に駆け巡った。私は近くにあった席にポンっと座ると、河島に呟く。

「なんか悪いことしてるみたい。」

「ああ、悪くないだろ?」

彼は冗談を交えて笑う。私も、胸の奥がようやく落ち着いてきたので

「ええ。」

と、言って返してやった。河島は、教卓の上で指を遊ばせながら、何を考えているのか読めないような無表情で立っている。

「なあ、名取。」

彼が素朴に話しかける。

「ん?」

私は同じように態度を飾らずに返した。河島は続ける。

「体育祭、壊れたな。」

「...うん、文字通りね。」

「どうしたら良かったかな。」

「...さあ。私どうしたら良かったかな。」

互いに自分のことを振り返る。でも、まるで答えのない問題を解こうとしてるみたいに、私たちは次の言葉に詰まる。居たたまれなくなったみたいに二人は黙り込んだ。どちらかが喋りだすのを待つように耳を研ぎ澄ます中、鼓膜に雨音だけが触れる。

ぽつりぽつり、ポツポツ、ぽつりぽつり....

心がだんだん諦めに変わっていくようで、少しずつ胸に寂しさや、後悔が湧き出してくる。怖くなって河島に甘えてみたくなった。でも、それが出来ずにいる自分が其処(そこ)()となく悔しい。そんな気持ちに苛まれていると、とうとう彼が口を開いた。

「ま、とりあえず楽しいことだけ考えようぜ。落ち込んでばかりいるのは愚策だよ。」

「楽しいこと、か。」

「ああ。俺、大玉転がしは地味に好きだよ。触れたらラッキーじゃん、あれ。」

「うん。」

「それでいて滅茶苦茶速いじゃん。なんか笑える。」

「そうだね。」

全然楽しそうに返してこない私に、河島は困り顔を見せる。何とかしようと、彼は体育祭以外の話を切り出した。

「ま、これ終わったら文化祭に遠足だ。気楽に行こうぜ。」

しかし、そんな河島の明るさに合わせられずに、私はどんどん内側の暗さだけを見ようとしてしまう。

「なんだろうな、今はそんなのどうでもいいって思えるの。」

「え?」

「何が何でも楽しくやりたいって、人の気持ちなんて考えないで。思い通りにならないって暴れてさ。なんか馬鹿みたい。」

「.....。」

「我儘なんて言わなけりゃきっと平凡で、面白かったんだ。それで失ったものが大きすぎてさ、もうどうでもいい。」

そんなボヤキを聞いた河島は

「そっか。」

と静かに返した。

もう何もかも終わったと、私はそう思っていた。かけがえのないものを失くした後では、希望だとか願望だとかが心底どうでもいいと感じるから。そうして私は、机と顔を合わせるように俯いた。

 

暫くすると、河島は窓の外を見つめながら、ダメになった私に言葉をかける。

「なあ。」

「...?」

「俺ら、アイツらの体育祭壊すって言ったけど、壊さなくて良いもんまで壊したよな。」

「......。」

「分かった。じゃあ今は、それを直すのに専念しようか。」

「...え?」

「当ててやろっか。」

「当てるって、何を。」

すると彼は教卓に左手を置き、まるで先生になったかのようななりきり具合で私に言った。

「名取、まずお前の思い込みは一つ外してる。」

「え??」

「直せないくらいにまでは壊れてない、そのことすら勝手に否定している。」

「待って河島。」

「なに。」

「...何が言いたい。」

「まあそう焦るなって。」

「焦るとかそういう――――」

「そもそもお前、失ったって決めつけはどっから来てるのさ。」

「え...?」

「今日が不幸つづきだからか?それとも裏切られたって信じていたいのか。」

「河島。」

「そういう―――」

「待って待って。」

「だから――」

「待ってってば!」

「なんだよ。」

気づけば私は机から立ち上がっていて、河島を一点に見ていた。私は続ける。

「さっきから主語抜けてる。あんた一体どこまで知ってるの。」

「どこまでって何が。」

「それは、その...。」

言葉が詰まった私に、河島は答える。

「さあな。俺の読みが当たってるかは知らんが、見た方が早いんじゃないか?多分。」

「見るって...?」

そう聞くと彼は教室の外へ歩きだし、捨て台詞の如く言い放った。

「これはお前の物語だ。....なーんてな。じゃ、あとは任せた。」

そう言って格好をつけたあと、それを笑い飛ばすかのようにニコッと笑い、私の前から走り去る。

「え?え!?ちょっと待って!」

私はそう叫び、彼の後を追いかけようと教室を飛び出した。しかし、そこには既に河島の姿はなく、代わりに一人の女生徒が驚いて慌てふためいている。私はその子の顔を見て突如、身動き一つ出来なくなるくらいに身体が固まり、言葉という言葉を完全に失った。それは彼女が確実に

 

瑞希だということに気づいたから。

 

お互いに慌てふためき出し、二人共とりとめのない状態に陥ってしまう。

「え、あ...その。」

「いや、えっと...あの...。」

そんな言葉を互いに発しながら、収拾がつかなくなったことを悟ったのか、瑞希は私の両肩に手を置き

「一旦落ち着こ...。二人とも落ち着こ。スーーー、ハァーーー。」

と深呼吸をし始める。

「ほら、つるりんも。」

「え、なにこれ??」

「良いから。」

「スーーーー、ハァーーーー。.....なにこれ???」

「落ち着いた?」

「ちょっと待って、何でみっちゃんがここに?」

私がそう聞くと、瑞希は強い戸惑いを浮かべ、胸一杯の緊張を堪えながら話した。

「あのね。」

「......?」

「盗み聞きしようと思ってしたんじゃなくて、でもね...何て言うか、つるりんのこと心配で。」

「え?」

「お、おかしいよね!あんなに怒鳴り散らかしたクセして、今になってこんな....。」

「みっちゃん、怒ってるんじゃないの?まだ私の事....。」

「いや.....そのことで、その...、謝りたくて。」

私はその場で数瞬のあいだ立ち尽くした。瑞希が一体何を言ってるのかサッパリ分からなかったからだ。どうして怒らせた原因の私が彼女に謝られているのか。私は言った。

「なんで。意味分かんないよ。」

「ごめんね...。」

「いや、違う違う。何でみっちゃんが謝ろうとしてるのさ。私の方だよ、謝んなきゃいけないのは。」

「......。」

「みっちゃん、本当にごめん。私のせいで滅茶苦茶にしてしまった。」

「私こそ、あそこで逃げたりしなきゃ大喧嘩(あんなこと)にはならなかったから。」

「そんなの気にしなくて良いよ。」

「....ありがとう。」

なぜ瑞希から謝りに来たのか、私はそれを不思議に思いつつも、彼女と仲直り出来たことが本当に嬉しかった。

「私さ、どうして良いか全然分かんなくて。このままみっちゃんと離れ離れになったらどうしようって...。」

そう溢すと、瑞希は潤んだ目で私を包んだ。

「そんなことする訳ないじゃん。」

彼女がそう言うと、その優しさが胸に染みて、私も目頭が熱くなった。

 

お互いに強くハグしあっていると、隣の教室から河島が抜き足差し足で出てきて、コソコソと二人の前から消えようとしているのが見えた。

「さ、一件落着~っと。」

「おい、河島。」

私は、瑞希の頭の横から顔を出して河島に尋ねた。

「はい、なんでしょう。」

「これも含めてあんたの仕業か。」

「あはは....、はははは...。」

河島は誤魔化すようにおどけて笑う。呆れと、胸を撫で下ろすような気持ちがドッと押し寄せ、私は思わず大きなため息を吐いた。

 

つづく。







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64.明希への試練


「君にひとつだけ覚えておいて欲しいことがある。説教じゃない。」
「何ですか。」
「明希ちゃんのことを心配して、何かあったら相談役になって欲しいと頼んできた。2、3日ほど前のことかな。」
「誰ですか...??」
「詩鶴ちゃんだよ。」
探偵さんにそう言われた時、私はとても複雑な気持ちになった。詩鶴が吐いた言葉に傷つけられ、あんなにも離れてやろうと心に決めたのに、許せないという感情で埋め尽くせないことを知った途端に何故か悔しい気持ちでいっぱいになってしまったのだ。
「どうして。そんなに心配なら全部おじさんに任せっきりにしておけば良かったじゃない。」
そう乱暴に吐き捨ててみると、彼はまたもや柔らかい笑みを浮かべながら私に答える。
「そうかもね。でも詩鶴ちゃんってそんな冷静に物事を俯瞰出来るような子かな。」
少し毒の入った言葉に思わず「え...」と溢してしまった。
「寧ろ、熱くなったらブレーキの存在を忘れちゃうような子ってイメージだけどなあ。」
「それは...、そうでしょうけど。」
「何せ聞く限りだと、君も熱くなって最終的に大喧嘩に発展したんだろ?君が冷静じゃなくなるレベルだったら、詩鶴ちゃんは尚更だよ。」
探偵さんにそう言われると、たちまち私は言い返す言葉を失くした。
「私、どうすれば良かったんですか。」
膝に顔を埋めて泣き言を漏らした。会話をしていく内に、だんだん自分の嫌いな部分が滲み出てくるようで、中途半端になった怒りに自分を貫けなくなってしまったことに強烈な不甲斐なさを感じる。その時、遠くから誰かの喧嘩の声が耳に入った。誰かと取っ組み合いをしているような激しい言い合いが。そしてその声が詩鶴のものだと気づいたとき、彼は立ち上がった。
「昔、ギャンブル好きの馬鹿野郎が居てね、そいつが言うんだ。勝とうが負けようが文句は言わねえ、最後の最期までそいつを信じるって決めたから賭けるんだ、ってよ。はは、ほんと馬鹿な奴だぜ。」
「探偵さん...!まだ相談したいことが!」
待って、の想いを込めて私は声を上げた。今が一番彼の言葉にすがりたいタイミングだというのに、探偵さんは思い出話をポツリと呟き、私のそばから歩き去ろうとするのだ。そうして四、五歩ほど歩くと、彼はこちらに振り向いて言う。
「君はどうしたい?」
「え...?」
言葉に詰まった私に探偵さんはニッコリと笑い、こう残した。
「辿り着きたいゴールへ思い切って走ってごらん。俺は君に賭けるとするよ。」


 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.64「明希への試練」

 

どうすれば良いか分からないまま、私はグラウンドに向かって歩いた。冷たい雨がだんだんと髪を濡らしていき、身体もみるみるうちに冷えていく。胸の奥からは二人と再開することへの怖さと、戸惑いが湧き上がってきた。それはグラウンドに近づけば近づくほどに強くなっていく。

 

コツ、コツ....コツ、コツ....

 

だんだんと重くなる足取り。校舎に沿って歩きながら、その途切れ目の角を曲がれば声のもとに到達できるはず。そう思ってゆっくりと歩く。周りの音が何も聞こえなくなるような緊張の中で、不思議と自分の足音だけは鮮明に聞えてくる。まるでこの身体の内側から「出せ!」と叩く心音を映し出しているようだ。段々と呼吸も荒くなり、冷静さがポロポロと崩れ落ちていく。やがてその曲がり角に着くと、吐き気を伴う気分の悪さに抗いながら、恐る恐るその先を覗き込んだ。

しかし、そこには既に詩鶴の姿はなかった。

「え。」

と、息に乗って零れる声。次に私は瑞希を探そうとしたが、グラウンドの沢山の人だかりから探すのは簡単ではなかった。

「ふうーー、疲れたあ。」「次の種目なに?」

「あともうちょっとで三位入れたのに!」「あー、水飲みに行こ。」

ごった返すのを校庭端から立ち尽くすように見ていると、まるで母とはぐれた子のような情けのない不安が私を飲み込み、泣きたい気持ちがこみ上げた。

「ああ...、あぁ....。」

きょろきょろと首を振り、誰か一人でも話せるような知り合いがいてくれないか、と辺りを見回す。それでも誰も見当たらない。私はどんどんパニックに陥りそうになり、気が気じゃなくなっていった。

「おい君、どうした。大丈夫か?」

そんな中、誰か男の人の声がかかる。冷静さを殆ど残してなかったからか、声が聞こえたのも、それが私に向けられたものだというのも、その人が何度も呼びかけていく内にゆっくりと気づいた。そして目を上げると、そこには私の知らない大柄な三年生が。心の底から怖気づいてしまって、私は言葉という言葉が頭の中から消し飛んだ。

「あ...、嫌...イヤ...。」

「どうしたんだ、一旦落ち着いて。」

「やだ.....、やだ....。」

「出番来るのが怖いのか?」

後ずさりをすると、ものの数歩で腰を抜かしてしまい、濡れたアスファルトに尻餅をついた。

「いっ...!!」

男の人は直ぐに私のことを心配した。彼が悪い人ではないことは分かったが、友達に会いたい気持ちに溢れていたせいで不安を捨てきれなかった。

「大丈夫か!?ああどうしよう、立てるか?ほら。」

彼は私へ手を伸ばした。数瞬の不安に身体が固まりつつ、その手を掴むことに決めて何とか起き上がる。

「ケツ汚れてないか?ああ悪い、そこは自分で払ってくれ。」

そう言って彼は咳払いをする。言葉を詰まらせる姿をぼんやり見ていると、その風格からは想像の出来ないようなピュアな一面を持っていることに気付いた。ほんのりと緊張も解けてきて、少しだけ彼の顔を見れるようになる。目までは見れないけど、四角顔でゴツゴツとした体つきをしている人だった。

「あ、あの....ありがとう...ございます。」

「え?おう、気にすんな。」

そうこうしていると、グラウンドから放送が流れる。

「次は三年生による騎馬戦です。選手は移動してください。」

それが私たちにも聞こえると、彼は

「おっと、出番来ちまった。もうちょっとじっくり相談に乗ってやりたかったんだが...。」

と言いながら頭を掻いた。

「あ、いえ。お気になさらず。」

「ま、なんだ。逃げたい時にゃあ逃げれば良いけど、立ち向かうのも悪いことばっかじゃないからさ、楽しんで行こうぜ。」

「ありがとう...ございます。」

自身の腰に手を当て、困り顔でも懸命に励まそうとする三年生の先輩。私に笑顔で親指を立てると、遠くから彼に向けた怒号が飛んできた。

「おい箱マッチョ!お前ぇも出るやつだろ、ナンパしてねえで早く来い!!」

それを聞いた彼は、

「じゃあな、元気出せよ!」

と私に言うと、呆れ顔になってその人の元へ走り去った。

「誰が箱マッチョだよ、こんにゃろー。」

「うるせえよ。そんなにモテたきゃ競技でカッコつけろっての。」

「今のは違えよ!困ってる女の子がいたから!!」

「だからうるせえって!お前これ以上言うと掃除の愚痴聞かねえぞ。」

人混みに向かい、やがてこの視界から目で追えなくなってしまう瞬間までも聞えてくる彼らの声。私はその姿に、友達という存在の大切さを見せられたような気がした。

 

テントの中、自分の椅子に座って、途方に暮れるように俯く。屋根を打つ雨音が鼓膜の前で踊り出すのにさえ、何も感じることが出来ないくらいの虚無感があった。

ゆっくりと近づいてくる自分の種目。関わりのないクラスメイトたちの中にいる凄まじい孤独が、胸をズキズキと痛ませる。こんな中、背中を押してくれる誰かが居てくれたらどんなに良いだろう、と心の底から感じた。

「怖くない。大丈夫、明希ならできるよ。」

ふと胸の奥から少女が私に話しかける。それが妄想だということくらい分かっていた。でも、それが現実であって欲しいという思いが、幻想になって語りかける。私の中で、四季乃という私の親友の声で。

私は何を焦ったのだろう。何をあんなに怒っていたのだろう。もしそれを四季乃に話せたら、彼女は何と答えるだろうか。

「仕方ないよ。」

って自分を責めるのかな。いや、どうせなら

「また喧嘩しちゃったの?馬鹿だなあ。」

と小突いてくれる方が嬉しいかも。そうやって会話を想像していく内に、だんだん彼女の顔が鮮やかによみがえってくる。すると目がじーん、と熱くなって、勝手に浮かべた彼女の言葉を繰り返し自分に言い聞かせ、

「ああ、ほんと馬鹿だなあ、私って。」

そう心に呟いては、自虐さえも気持ち良く感じるほどに内面の不甲斐なさを嘆いた。

 

時間というのは冷酷にも正確に流れていくもので、誰を待つこともなく、気づけば自分の出番を知らせる放送が鳴り響く。

「次は二年生による学年リレーです。選手は移動してください。」

穴の開いた心を抱えたまま、リレーの待機位置に来た。やるしかないと分かっていながらも、内心は逃げたい気持ちでいっぱいだ。迷惑をかけたくないと言いながらも、結局ここまで来てしまったのだから。逃げても、逃げなくても誰かにとっては裏切りになってしまうことに、もう私はどうしていいか分からなくなっていた。そして気がつけば、時の流れるままにリレーの待機位置に集まっている。自分の意思など何一つ言葉に出来ないけど、私は青組の先輩たちを裏切る方を選んだらしい。もう自分の何から責めるべきかさえ分からなくなった。

そしてもう一つ気掛かりなことがあって、それはまだ詩鶴や、瑞希が見当たらないことだ。あの言い合いによって壊れたものがどれ程大きかったのかを思い返すと、だんだんと悪い方にしか考えられなくなってしまう。焦りの中、キョロキョロと彼女らを探していると、集団の中から河島君を見かける。私はそれを唯一の希望だと思い、がむしゃらに人をかき分けて向かった。

「河島くん!河島くん!」

普段から大きな声を出していない私にとって、この人混みの中で誰かを呼ぶのは至難の業だった。結局、目の前まで行って、そこでやっと彼は私の存在に気づいた。

「ふああああ...あ。え?」

彼は大きな欠伸をしている真っ最中だった。

「河島くん!」

「え、ああ、四倉さん?どったの、そんな焦って。」

「みっちゃんと、鶴ちゃん知らない!?どこ探しても居ないの!」

「ああ、さっき会ったよ。」

「え、ほんと!?」

「ああ。なんか教室に忘れもんしたとか。ま、すぐ来るんじゃない?」

「そんな...、もうレース始まっちゃうよ。」

「まあ心配すんなって。名取だったら、あいつは仮眠とってもカメを抜く。エリマキトカゲみたいに爆走してくんじゃね?ははは。」

「ああ....あぁぁ....。」

彼の冗談に笑う余裕が持てないまま、焦りだけが募っていく。「神様お願い!」と、藁にも縋る思いで脳を埋め尽くす言葉。そして今にも飛び出しそうな心臓に追い打ちをかけるように、このグラウンド全体に(むご)たらしい銃声が鳴り響いた。

 

つづく。



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65.迷い道

 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.65「迷い道」

 

瑞希たちがいないことに誰も気づかないまま、とうとうレースは始まってしまった。銃声とともに走り出す選手、耳を覆いたくなる程に熱の入った声援がグラウンド全体に響きわたっている。皆、二人の出番が来るギリギリまで気がつかないのだろう。それくらいの熱狂さだった。

きっと混乱が引き起こる。もしそうなれば、もっと事態は複雑化してしまう。そうなる前に二人が戻ってきてくれなければ。私の中には焦りで埋め尽くされていた。

順番は瑞希が真ん中あたり、そのあと五、六人ほど走り、私の出番が来る。そしてそのままバトンを詩鶴に手渡し、最後にアンカーとして彼女が一周するとレースは終了する。つまり私がもたつけば、今までの走者の成果を全て無下にしてしまうのだ。見て分かるだろう、逃げ出したくなる気持ちが。先輩たちからは戦力外として欠席を促され、友達からは逃げるなと言われる。どこへ行けば良いか分からないんだよ。一歩歩き出す度、その先々で災難にぶつかる。立ち止まれば指を指され、心に決めて動いたことは全否定される始末だ。じゃあ一体何が正解なんだ。何を本音と称すれば良しとされるんだ。

 

半分は諦めに近い感情に埋まり、胸が痛くなって俯く。深く息を吸い、それを吐ききるまでの刹那に、どこかで瑞希と、詩鶴の二人の声が聞こえた気がした。ふと瞼を開ききり、辺りを見渡すと、遠くの方に確かな二人の姿が。私は彼女らに駆け寄ろうとした。しかし、先ほど自分の放った言葉がこの身に跳ね返り、私を責めだす。どうしようかと狼狽えていると、彼女らと目が合ってしまった。私の身体はピクリとも動けない。そうしているうちに瑞希の出番が近づいたみたいで、向こうも戸惑いつつ私を後にした。そうして残った詩鶴と二人きりで見つめ合う。人混みの中、互いにかける言葉を見つけられない状態で立ち尽くしている。ごめんなさいを言う勇気も、何であんなことを言ったの?と責める程の怒りも私にはなかった。やがて諦めたように詩鶴が歩き去って、とうとう残されてしまった。こうして苦い後悔は、みるみるうちに胸を埋め尽くした。

自分を何とか前に進ませようと、まるで本棚を荒らすように貰った言葉を漁りはじめる。

「これじゃない、これでもない、こんなものじゃ満たされない。」

なんて愚かしいんだろう。こんな私のために与えてくれた言葉の一つ一つを投げ捨てながら、今の自分を満たそうと暴れるなんて。もう今は誰も叱ってくれない、誰も笑ってくれない。気づけば希望を探すことを諦めていた。

私にとって、もうどうでも良くなった声援が鼓膜に触れる。その感覚が心底気持ち悪い。決して口に出来ない反面、暗く汚れた心が希望や、その類いの明るい空気を(そね)み続けている。綺麗なものが分からないのだ。ロクな別れを一つも経験できなかった私にとっては。

 

何一つ明るい気持ちになれないまま、とうとう私の出番はやってきた。濡れたスタートラインに立つと、心拍数が一気に上がり、並ならぬ緊張が込み上げてくる。走者はまるで時計の長針のようで、やがて自分の元へ走ってくることを思うと、時限爆弾のように思えて平静を保てない。心はこんなにも逃げ出したい気持ちで一杯なのに、そうするにはもう遅すぎる。

選手の待機場所では、クラスメイトたちが走る選手らを目で追いながら、喉を潰す程の声援を飛ばしている。心許なく視線を向き合うべき所から反らしてみると、声援を飛ばす人混みの中で一人、瑞希がこちらに向けて手を振っていた。

彼女はどこか悔恨の表情を浮かべながら、私に精一杯の声援を送っている。私はそれを真っ直ぐに見つめていた。例えば今、全てを投げ出して瑞希の元へ駆け寄れるとしたら、二人は何を話すのだろう、そんなことを考えていた。

後ろを振り向くと、もうすでに選手が近くにいた。瞬く間に私に追いつくと、バトンを私に向けて突き出した。慌てて受け取ろうとすると、バトンが地面に落ちてしまい、それを拾うまでの間も他の走者が私を追い抜いていく。

「落ち着け、焦んな!」

と、バトンを手渡したクラスメイトが声を掛ける。何とか拾い上げて走り出すと

「何やってんだよアイツ!」

と、そこかしこに怒声が飛んだ。その言葉が胸に刺さったのか、一気に呼吸が乱れる。息が苦しくて、速く走ろうにも足が前に出なかった。雨に濡れて重たくなった体操着が、一歩進むごとに肩にのしかかり、べちゃべちゃの地面は真っ直ぐに走ることすらままならない。最悪の状況だ。

前を見ると、直線上にはもう誰も選手は走っていなかった。私と前を走る選手との距離が遥かに離れてしまっていて、追いつくにはあまりに遠すぎる。どれだけの力を振り絞れば前に追いつけるだろうか、少しでも近づいて完走しなければ、そう考えるほど身体は苦しくて、心は絶望だらけになった。

グラウンドの半分を走り、最後のコーナーに差し掛かると、地面のコンディションは先ほどよりも酷くなっていた。水溜まりだらけのグラウンドは、所々にぬかるんでいて非常に走りづらい。それに一歩足をつく度に泥が飛び散る。このコーナーさえ終わればゴールは目前。走りきればやっと一つ課題が減る、そう思い走っていたその時だった。

「はっっ!!」

ぬかるみに足を取られ、瞬く間に全身に泥水の感触が走る。自分の身に起きたことへの理解がゆっくりと追いつくと、初めて自分が滑り転んだことに気づいた。私は強烈な劣等感を覚えた。

「何してんだよ!」「ああ、俺らもう負けたわ。」

周りからは罵声が飛び交い、無様だと笑うかのように雨が強まる。私に味方などいないのか、と、なんだか本気でそう思えてきてしまった。そっか、きっとみんな嫌いなんだ。何もかもを暗い方向に持っていって、いじけて、文句ばかり垂らしているようなこの女が。なんだ、詩鶴の言ってること、何一つ間違ってないじゃないか。意地なんか張っても結局正しい方など分からなかったし、それを選んだつもりで自分が正しいと言い聞かせたかっただけだ。それなら初めから言われたことだけを守っていればよかった。どうせどちらかを失う結末だったのなら、どうして友達の方を切り捨てたりしたんだ。こんな愚か者は、きっとこの世で私だけだ。

手をついて立ち上がろうとしても、まるで力が出なくて。もう子供じゃない癖して、まるで生まれたてのロバみたいでさ。ああ、何だか涙が込み上げてきた。散々友達に牙を剥いておいて、追い込まれたら泣くことしか出来ないのか。ああ、もう全部が愚かしいって思える。死んでしまいたいほど恥ずかしくて、やるせない。

「助けて...誰か。」

こんな状況で、そんなことを垂らして泣いてるなんて見るに堪えない。ここまで苛まれたならいっその事、悪に振り切って暴れてしまえばいいものを。私は本当に、これっぽっちも大人になれない。体だけが大人に近づいて、それでも飛ぼうとせずに巣で帰らない親鳥を待っているかのようだ。

「さっさと立てよ!!」「いい加減にしろ!!」

そんな言葉が飛び続ける中、どこか私に向かってドンドン、と足音が聞こえてきた。きっと蹴り飛ばしにでも来たんだろう。もうどうにでもなれ、などと思いつつ、怖くて頭を屈める。今更責められるのが怖いのか?それともガキみたいに「痛いのが怖い」とでも言うのか。その足音は私の前で止まると、何故か何もしてこなかった。恐る恐る目を開けると、そこには私に向けて差し伸べられた手が。そっと見上げてみると、そこには詩鶴がいた。

「ほら明希、最後まで走る。泣かない。」

酷い雨が降っていた。

 

つづく。



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66.失望と戦う

 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.66「失望と戦う」

 

「最後まで走る。泣かない。」

そんな彼女の声を聞いたとき、私の中には強い疑いと、眩しいくらいの希望があった。やっと助けが来た、今すぐにでもそれにすがりたいという気持ちと、信じた先に訪れるかもしれない裏切りに怯える。

「鶴ちゃん...なの?どうして...?」

私は聞いた。しかし彼女はそれには答えず

「どうしてだって良い。ほら掴んで、走るよ。」

と言って、差し出した手を小刻みに振って急かした。笑っても、怒ってもいない詩鶴の表情が何だか怖い。私をどういう目で見ているんだろう。憐れんでいるのか、惨めだと思われているのだろうか。何にせよ、すぐその手を取って「ありがとう」と言えば良かった。だけど不安な気持ちを抑えきれず、私は彼女を試した。

「答えてよ。どうして私なんか助けにきたの。」

そう言うと、詩鶴は伸ばしていた手を下ろして聞き返す。

「どういう意味。」

私は正気を失っているのだろう。周りからの冷たい言葉の雨に打たれ、答えのない問題の解答に迫られているうちに、「ただ走ればいい」という目の前の、至極当然の行動さえ分からなくなっていた。

「みんな私のこと、根暗で文句ばっかりの泣き虫って思ってるんだ!だから鶴ちゃんだって、最後には私を見放す。走り終えたら他人に戻ってしまう...。」

「そんなことしないよ。」

「...噓だ。」

「ウソじゃない。」

「じゃあ証明してよ!まだ仲直りも出来てないのに、どうやって信じればいいの。」

「....。」

「分かってるよ、私が一番体育祭を壊してるって。だからもういい、正論なんか聞かない。」

不貞腐れる私を詩鶴はじっと見つめる。彼女も今更勝ち負けのことを気にしてはいないだろう。言葉にしなくたって、その立ち姿から優に伝わった。

「証明したら一緒に走ってくれる?」

詩鶴は言った。それに私は

「え?」

と、思わず聞き返した。ふと顔を上げ、彼女の目を見る。そこに映る詩鶴の表情を読み取るまでの刹那に、彼女は私の腕を強く引いた。起き上がる体は直ぐにバランスを崩し、倒れた先でタオルで包まれたような感触が頬に伝う。気づけば私は詩鶴の腕の中にいた。

「なに...してるの?」

何が起きているのか、一つも理解できなかった。そして両肩を掴まれてゆっくり離されると、膝をついて座り込んだ詩鶴の姿が見えた。さっきまで白かった彼女の体操着が泥だらけになっている。

きょとんとした私を差し置いて、次に詩鶴は両手を掴んだ。泥まみれの私の手のひらを自分の両頬にあてがわせた。するとたちまち彼女の綺麗な顔が汚れる。私と同じように全身泥だらけになった詩鶴に、私は言葉を失った。

「これで良い?さ、はやく。行くよ。」

言われるがままに立ち上がり、詩鶴の腕に引かれながら走った。そこからゴールに着くまでは鮮明に覚えていない。真っ白な光の中にいた、そんな気がする。あんなに大きな声で飛び続けている罵声すら、そこからは一切聞えなくなった。言葉のない心の中というのは、こんなにも不思議な心地なのか。どんな感情も、何一つとして文字にはならない。

そこには足音と、雨音と、そして詩鶴の背中だけだった。

 

ゴールに着くと、持っていたバトンを詩鶴が取って勢いよく走り出す。スタート地点でぼんやり立っていると、瑞希が私の手を引いて待機席に連れ込んだ。彼女は酷く心配して

「大丈夫!?」

と尋ねる。私はまだ白昼夢の中にいた。

詩鶴の走る姿を無心で見ていた。ぬかるみに足を取られ、転びそうになっても負けじと体制を立て直す。希望など持てるはずもない程の選手との差にも、彼女の走りからは一切の諦めを感じ取れない。ただ真っ直ぐに、一生懸命に走っていた。最後まで走るのをやめずに詩鶴は今、目の前のことと戦っている。一歩ごとに泥交じりの水しぶきが飛び散り、みるみるうちに足が汚れていく。一つハッキリしていたことは、詩鶴は私とは完全に真逆の人間だった。

やがて詩鶴は前の選手に追い付こうとしていた。この絶望的な状況が打開されようとしている、そのことに私は感動を覚えた。走る彼女の姿に、絶望的な状況を作った張本人は、他力本願の果てに口を開いた。本当の卑怯者だと思う。何も考えず、ただ声に出た言葉は

「頑張れ。」

の一言だった。

罪悪感もなしに私は彼女の名を呼んだ。夢中になって目で追いながら、ただひたすらに応援した。呟くようにホロリと漏れる言葉じゃ、詩鶴には届かないだろうけど。

着々と距離を詰めていく詩鶴。前の選手もそれに気づいたのか、走るペースを上げた。ゴールまでは残り百メートルと少し、詩鶴も全力で前の選手を追いかける。私は詩鶴にめがけて声を張った。

「あともうちょっと!頑張れ。頑張れ!」

相手と、詩鶴が最後の直線に入る。彼女の後ろには波のような泥飛沫が散りながら、一歩一歩と地面を蹴る音が聞こえるくらいに勢いが伝わってくる。相手までの距離が縮まる一方、ゴールも近づいていた。縮まる時間と、ゴールまでの距離は相手を抜くのに少し足りない。私は焦りを感じた。ドキドキ、と速くなる鼓動に気持ちが抑えきれず、後ろめたさを振り切って出せる最大の声で叫んだ。

「鶴ちゃああん、行けぇえええええ!!」

血管が顔中で沸騰するようにジュワ、と肌が熱くなる。そこで私はやっと白昼夢から覚めた。その言葉が届いたかは分からない。だが、詩鶴は余力を使い果たすようにペースを上げたのだ。呼吸すら整えず、体力の切れ目を計ることさえ捨てて走った。抜けるか、抜けないままかの本当の瀬戸際で、思わず私も息が荒くなる。今のペースでさえ間に合わないかもしれない窮地に、周りの人も焦りだす。ゴールまであと数メートル、本当のクライマックスに差し掛かると、詩鶴は大声を上げた。

「うおおおおお!!!負けるかああああああ!!!!」

この空の下、誰もが息を止めて彼女を見た。その瞬間、レースの終了を知らせる銃声が一面に響く。

この事実をどう受け止めようか。

 

 

彼女は勝ったのだ。

 

 

一気に歓声が響く。誰もが不可能だと諦めた状況を打破し、青組は最下位を免れたのだ。

「ああ、良かった。」

と、胸をなで下ろすような言葉が辺りに聞こえる。思えば、この組が一位以外の数字で初めて歓声を上げた瞬間だった。悔しさを口にする者は、私の知る限りではいなかったと記憶している。

「明希、つるりんやったよ。」

と、嬉しそうに瑞希が声をかける。私は膝から崩れ落ちて

「うん...、うん....。」

と頷くだけだった。

負けると分かっていても、立ち止まらない理由って何なのだろうか。彼女はそれを動力に走っていた。どうせ、と決めつけることなく、ただ真っ直ぐに進み続ける。そんな彼女の姿を思うと、自分に対する失望があふれ出てきた。

「あ、つるりん、お疲れ!」

瑞希が言う。詩鶴が返ってきたのだ。私はあまりの自分の恥ずかしさに顔が上がらなかった。息が上がり、ヘトヘトになった詩鶴の声が聞こえる。そして私を見つけると、

「明希。」

と声を掛ける。

「鶴ちゃん...、私...。」

不甲斐なさを胸に俯く私に詩鶴は、私と同じように膝をつくと瞬く間に優しくハグをした。

「応援してくれて、ありがとね。」

耳元で詩鶴の声が揺らぐ。はあはあ、と乱れた呼吸の間で、そっと。

泥だらけの二人をそのままにする気なのか、雨雲は私たちを置いて飛び去って行った。柔らかい秋の風に吹かれながら、頬の泥は乾こうとしている。しかし、それに気に留める必要はもうないだろう。雲間に差し込んだ光は、この目には揺蕩うように映っている。幾筋もの太陽の破片がそれを洗い流していたから。

 

つづく。








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67.残り火

 

下町の鶴

7章-ノ木の火-

☆Episode.67「残り火」

 

乱れた呼吸を整えたあと、私は明希と瑞希に声を掛けた。

「ま、イイ感じに終わったし、結果オーライだよね!」

瑞希は関心した表情で

「つるりん、やっぱ流石だあ。走ると一流だね。」

と私を褒めた。

()()()って何さ、走るとって。」

「え??」

「えへへ、冗談冗談。ありがと。」

「わー、言うねえ。」

つっついてみると、予想通りの反応を見せる瑞希。こんな下らない戯れさえ、疲れには不思議と効く。いっぱい怒って、泣いて、とフルコースな一日だったから、こういうハッチャケが今は欲しい。明希の方に目をやると、彼女は未だ目元を赤くしたままでいるので、私はその背中をポンっと叩いてやった。

「しゃぁらくせぇー!いつまでそうしてるつもりー?」

笑いながらそう言ったが、何故か逆効果だったみたい。彼女は顔を覆った手の内側で、頬をまたベタベタに濡らそうとしだす。私たちは笑顔で困惑した。

しばらくすると瑞希が、明希と私の服を見て言う。

「二人とも服、泥だらけ。」

頭をかきながら、私はそれに答えた。

「みっちゃんが白すぎなんだよ。」

「あはは...、帰ったら洗濯しなきゃだね。」

「...だね。」

体育祭だから分かってはくれるだろうけど多分お母さん、物凄い頭抱えるだろうな...。

 

二人を後にし、辺りを歩いていると勝田の姿があった。彼は前に見た時と同じで、暗い雰囲気を分かりやすい程に漂わせ、排水溝の前のアスファルトに腰を下ろしていた。気分が高揚していた私は、すぐにでも彼の気を晴らせると思っていたので、軽い足取りで近づいて行った。

「おいどうしたー、元気出そうや。」

そう声を掛けると、勝田はそれに気づいて振り向いた。

「おう、名取か。お前、アンカー凄かったな。」

「えっへへ、ありがと。でもアンタんとこも結構順位高かったじゃん?」

「そうだっけか?まあ、どうも。」

空返事を返す勝田。この話が乗り気じゃないのか、詰まらなさそうな様子だった。私から声をかけなければ、向こうからは一切の話題を切り出すことはなさそうだ。こちらも少し黙って、顔を覗き込んでみる。

「勝田。」

「....おん?」

「どうしたの?体調悪いの?」

「ああ...いや、別に何ともない。」

「あそ。」

また会話が詰まる。そこで私は、ふと頭をよぎったことを口にして、彼に尋ねてみた。

「藤島、来てた?」

「.....。」

やはり、反応を見せた。勝田の遠くを見つめる目が微かに下へと落ちる。

「やっぱり、そのことで落ち込んでたのね。」

そう言うと、勝田がゆっくりと溜息を吐いた。

「...ああ。」

「きっと藤島も忙しいんだよ。分かってやりなって。」

「お前が言うかよ、それ。」

「ははは。まあ、卒業すればみんな言えるようになるよ。」

「....卒業すれば、かあ。」

勝田は考え込んだ。これからどんな道に進むべきなのか迷ったのだろう。

「勝田はさ、会えたらどうしたいの?」

「え?」

「ま、好きって伝えるのは前提として、そっからどうするのさ。」

勝田は頬を赤らめ、分かりやすく慌てだす。

「ぜ、前提って....!」

「ったりめぇだろ。次言わずしていつ言うんだよ。」

「いや、だ...段取りってのがあるだろ!」

「ロマンチストかお前。」

「あいつだって、急にそんなこと言われたらビックリするって。」

「あのさ、そんな悠長なこと言ってる暇あんの?」

「え....?」

ポカーンとしたままの勝田。私は言った。

「向こうはさ、もう青春とか言ってる余裕なんてないんだよ。ま、私が言えた口じゃないけどさ。でもさ?あんたがもし、そんな藤島を守ってやりたいって思ってるなら、会えたその日の内にでもそう伝えてやるべきなんじゃないかな。」

「.......。」

「違う?」

「....いや、その通りだ。」

「じゃあどうすんの?」

「お、俺は....その、守――」

「ああ!いい、それ以上言わんで結構。てか私のほう向いて言うな、キモい。」

「お前なあ....。」

「ま、今のうちに考えときな。会うまでにそのウジウジ、治しとけよー。」

藤島が高校を去ったときは「清々した」とでも言ってやりたい気分だったけど、あいつのことを大切に思ってる人たちも案外身近にいて、少し複雑な気持ちだった。彼女にはもう攻撃意識はなく、あんなに反省していたからこそ恨みつらみとかはもうどうでも良くなっていたんだけど、別にバトル漫画みたいにそこから友達になろうなんて考えもさらさらなくて、敵から他人に戻った、というのが私の答えだ。

でも一つ気掛かりなのは、藤島の存在が欠けたことで友達がいつまでも前を向けない、ということだろうか。勝田は別にいいとして、明希は未だに彼女の退学のショックを抱えているみたいだし。何かベストな解決策を見つけられると良いんだけど...。

そこで私は喧騒の中に戻り、明希を探した。こんな大勢の人ごみから見つけ出すのは少し時間がかかると予想していたのだが、皮肉にも服が人一倍泥だらけだったせいで見つけるのは簡単だった。

「明希。」

「.....。」

「ねえ。」

「え?」

あとは閉会式を待つだけの長い待機時間に、彼女は黄昏に耽るように秋空を見ていた。

「何見てるのー?」

「え、あ...ごめん。ボーってしてた。」

「あはは、もうやることないもんね~。」

「うん、まあ。そうだね。」

泥交じりの、もつれた明希の髪に手ぐしを入れて、そっと撫でるように解かす。すると彼女は、落ち着いた声で「ありがとう」と返した。

「明希。」

「うん?」

「今日は頑張ったね。」

「うん、お陰様で。」

「えへへ、私なにもしてないって。」

「そんなことないよ。鶴ちゃんが居なかったら私、あの場で立ち直れなかった。」

「明希もそれで最後まで走ったじゃんか。偉いよ。」

「えへ、なんか恥ずかしい。」

お互いを褒めちぎったあと、明希は小さく微笑んで言った。

「こんなに早く仲直りできるなんて思わなかった。」

「ね。私、明希とあんなに大喧嘩したの初めてかも。」

そういうと、明希は赤面を隠すように俯き、恐る恐るこちらに目を向けて言う。

「ごめんね、あの時はムキになって...。」

「私こそ。酷いこと沢山言った。」

そんな彼女に私は、ほいッと手を差し出した。

「改めて、仲直り。」

「ほんとに...ありがと。」

明希が弱々しく手を握る。あの喧嘩から、もしかしたら二度と戻らなかったかもしれない縁だから、まるで夢でも見ているような気持ちだった。私はそっと彼女にハグをして、ありがとうの言葉を返した。

夕焼けだった。青と茜の交じりあう空を見て、二人は静かにまどろむ。そのひとときに言葉はなかった。

 

しばらくすると、私は明希に尋ねた。

「明希はさ、」

と声を掛けると、彼女はこちらに目を向けた。

「明希はさ、今も藤島に会いたいって思う?」

「え?」

「大事な友達なんでしょ?」

「そうだけど、どうして?」

「私も探してみるよ、藤島のこと。どこにいるのかサッパリ検討つかないけど。」

「え、本当に言ってるの?」

「うん。ホントに、あの人なしじゃどうしようもなくなっちゃう人は案外多いみたいでさ。」

「....。」

「とりあえずは、あの探偵さんに聞いてみなよ。あの人、仕事モードになると凄いから。」

「...ありがとね。」

「ううん、私に出来ること、これくらいだから。常連さんにも聞いてみるね。」

明希は目を潤ませて言った。

「鶴ちゃんが友達で良かった。本当に良かった。」

少し大袈裟にも思えた彼女の感謝に、私はニッコリと笑って返した。見つかるまで、果たしてどれだけの時間が掛かるかは検討もつかないけど。遠い目で交わした約束を嘘に出来なくなって、何だか異様なプレッシャーがのしかかる。ああ...オッチャン、この件、丸投げしてもいいですか...。

 

 

体育祭を終えた帰り道、河島と二人で歩いていた。

「お前、真っ茶色だな...。」

河島が泥だらけの服を見て戸惑う。

「うるさいな。吞気に他組とお喋りしかしてなかった奴に言われたかねえよ。」

「まあ、それは否めない。」

こいつ、開き直りやがった。更に河島は

「まあ、なんだ。終わり良かったので総べて良し、と。まあそうゆーことよ。」

と、得意げな表情でほざく。

「その終わりまでにどれだけボロボロになったことか...。」

私は呆れ顔で言った。

しばらく言葉を交わさずに歩いていると、河島は変なことを口にした。

「あ、そうだ。一つ言い忘れてたことが。」

「言い忘れてたこと?なに?」

「体育祭、壊して悪かった。」

「え?どういうこと??」

「あー、分からないなら良いや。」

「え、なになに。言ってよ、じれったいな。」

河島は一旦、言おうか迷うような素振りを見せる。そんな彼に

「はやく、はやく。」

と急かすと、彼は困惑した様子で答えた。

「四倉さんが一回、体育祭を休むって言い出したことがあったろ?」

「あれ、言ってたっけ。」

「もういいよ...。」

分かりやすく呆れる河島、私はこの話が中断されるのを阻止しようと、明確に思い出せていないまま噓をついた。

「ああ...!言った、言いました!それで??」

「.....。」

「ねえ~、お願ぁーい。続き話して~。」

「...分かったからその喋り方やめろ。」

「やったあ。」





【55.5話】
体育祭の数日前、教室にて。
「四倉さん。」
「え?」
「体育祭、どう?楽しみ?」
「え...。いや、まあ...普通かな。」
「そっか。」
「えっと、どうして聞いたの?」
「いや、なんていうか...。」
「...??」
「今回の体育祭、たぶん物凄く荒れると思う。」
「どうして?」
「この青組の一部が、やたら優勝に固執しているみたいで。」
「そうなんだ...。」
「四倉さんは勝ちたい?」
「え...どうなんだろ...。」
「俺は自由に楽しむ方でやりたい。」
「そ、そうなんだ。」
「多分ね、この意見は向こうと衝突する。追い詰めるつもりはないんだけど、"どうしたいか"が明確になっていない状態なら今回、四倉さんにとってはかなりキツい体育祭になると思う。」
「....そっか。」
少し顔を俯かせ、考え込む明希。そんな彼女に河島は、ひとつの質問を投げ掛けた。そしてその言葉は後に、明希を酷く悩ませる種となった。

「ねえ、四倉さんはどうしたい?」

7章-ノ木の火-
おしまい。


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8章.眠らない下町
68.父と歯ブラシ



【メタ茶番】

「やっと体育祭終わったあああ!!」
詩鶴が気だるげに言う。それを見た河島がボケーっと返すところから会話は始まった。
「清々したみたいな言い方だな。」
「え、いや、そういうんじゃないけど...。でも何て言うか、物凄く長く感じた。」
「そりゃあな。体育祭の部分だけでも二ヶ月連載してるからな。」
「うわあ...、どうりで長く感じた訳だ。これ絶対途中で読み辞めた人いるでしょ。」
「まあ、章の真ん中辺りから鬱展開になるの、お決まりみたいになってきてるし。」
「なんか、全然コメディじゃないよね。」
「まあ、な。」
詩鶴は頬杖をつき、乙女な溜息を吐いた。
「はぁ~あー...。私、ラブコメの主人公が良かったあ~。」
「それは...ちょっとキツくね?」
「なんでよ。」
作者(あのひと)、恋とか云々にマジで縁がない。」
「ああ....。」
「まあ、そう落ち込むなって。いつか誰かが恋愛ものの二次創作でも書いてくれる。」
「そんな日、いつまで待てば来るのさ。」
「うーん、永遠の愛くらい?芸能人基準とかで。」
「一、二年じゃあさすがにないでしょ。」
「おい、それ以上言うな。」
五秒程の沈黙が流れた。
「ま、あれよね。要はもっとテンポよく話が進めば良いってことよ。」
「だな。」
「それに題名、「下町の鶴」だよ?名前のくせして殆ど学園モノじゃない。」
「下町要素は確かに、今のところかなり薄いよな。」
「でしょ!?だったらもっと下町人情とか描かないでどうすんのよ。」
「....俺に言われても。」
詩鶴はワシャワシャと頭を搔きむしり、もどかしさの念を表に出した。
「あーもう!ギャアギャア言いまくったせいでお腹減った!河島、居残り終わったら何か食べに行こ。」
「おん。山岸も誘うか?」
「ったり前!見つけ次第、連行じゃああ!!」


 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.68「父と歯ブラシ」

 

私は歯ブラシを見つめ、強い戸惑いを覚えた。口に入れた瞬間に、鼻腔を貫いた強烈な酒臭さに吐きかける。

「お父さん...、ちょっと....。」

そこで私は、青ざめた顔で父に詰めよった。ちょうど食卓にいた。

「どうした詩鶴、おはよう。」

「ちょっと聞きたいんだが...、昨日どこにいた...。」

「なんや怖い顔して。え、もしかして顔に口紅ついてる?」

あっけらかんとした態度で冗談をかます父。私は続けて尋問した。

「どこに、居たかって、聞いてるんだが...。」

「どこにって...、普通に会社の同僚と呑みに行って――」

「そんで?」

「電車で帰って、風呂はさすがにフラフラやったから入らんかったけど。」

「うんうん、それから?」

「それからって...、歯ぁ磨いて、寝てって、それだけやん。」

「待って。歯ぁ磨いてっつったか。」

「そりゃあ酔うてたかって歯ぁくらい磨くわ。だって虫歯んなんの嫌やもん。」

何かに魘されたような顔で私は問い続けた。しかし、父は何を聞かれてもポカーンとしたまま。私はいよいよ核となる部分の質問を切り出した。

「お父さん、私の歯ブラシ、酒臭いんだけど。」

これで父も気づいてくれるだろうと思ってた。だが...

「詩鶴...お前、」

「分かった?」

「酒飲むほどの悩みがあるなら何で言わへんねん!!」

ズゴーーーーーーーーーーーン!!!

「違う!!お父さん、私の歯ブラシ使ったでしょって話!!」

「え、噓ぉ。ちゃんと自分の使たで。」

駄目だ、完全に酒で忘れてる。

私はぷんすかと大股で洗面所から歯ブラシを二本取ってきて、父に見せつけた。

「これ、赤いの。見覚えないかな。」

「おん、詩鶴のやろ?」

「うん。で、この青いのは?」

「それこっちのや。」

「うん。じゃあ何で赤い方から変な臭いがするのかなあ!」

「え....。え、噓や。ちょっと嗅がせて。」

そう言って、父は私の歯ブラシをスンスン、と嗅いだ。すると父は数秒ほど固まったあと、分かりやすく青ざめた。

「うわ、ほんまや。.......ごめん。」

私はというと、

「気づくの遅いんじゃあああああああ!!」

キレた。

「ごめんって!え?だってほんまに...え?スンスン...うわ、ニンニク臭っ!」

「私、口ん中入れちゃったんだけど!?どうしてくれんの!!」

「え、間接キスにしてはディープ過ぎるでコレ。」

「は?」

「いや、その...」

「あのなァ!!」

「ですから、心より、その...おあ――」

「ふざけんなああああ!!!」

 

--会社にて----------------------------

 

そんなこんなで娘に、新品の歯ブラシを買う予定が出来たのである。

「なるほど、それはやらかしましたね...。」

パソコンをカタカタと打って仕事に勤しむ最中、同僚が憐れみの言葉をくれた。

「ああ、あともうちょっとで病院に転勤するとこでしたよ。」

「ご愁傷様です。」

本当、家の中なのに課長に怒鳴られるくらい怖かった。あともうひと冗談を入れてたら恐らく、二針は縫っていたであろう。

「あんなに怒るもんかねえ...。」

「まあ、娘さんも年頃でしょうし。てか、歯ブラシ間違われるなんて誰だって嫌ですよ。」

「ま、それもそうか。」

「ええ。」

数秒ほど編集作業に戻り、パソコンを打ち始めた。しかし単純作業の繰り返しで、脳は別のことを考える余裕が定期的にくる。ので、会社が終わってからの買い物のことが気にかかってしまう。

そうやってしているうちに、今度は同僚の方から話しかけてきた。

「電動歯ブラシでも買ってあげたらどうです?」

「いや、いくら何でも高いですって...。」

「うーん、まあ二千円はしますよね。」

「ははあぁ~....、歯ブラシで二千円....。」

「娘さんの許しが二千円なら安い方じゃないですか?」

「大罪すぎる...。」

「はは、可愛い娘のためだと思って。」

「それやったら普通のでちょっと高いの買いますよ。」

「あ、ケチった。」

「やかましいわい。」

詩鶴の喜ぶような案が旨い飯以外に思いつかない。俺は「うーん」と、溜息交じりに背伸びをした。

「名取さん、こういう時は女子の意見を参考にしましょ。」

同僚はそう言って、近くにいた後輩の女性を捕まえた。

「どうしたんですか?」

「いや、名取さんがね?」

そして彼はこちらの事情を説明する。そしたらその後輩の第一声が

「うわあ、終わってますね(笑)」

...誰か俺を殺してくれ。

その後輩は苦笑いを浮かべたあと、気前よく案を出してくれた。

「最近はホワイトニングのとかも出てますよ。」

「ホワイト...ニング??」

「ええ、歯が真っ白になるんですよ。表面の黄ばみとか落ちるんで、煙草吸われる方も時々買われるんだとか。」

「はあ、なるほどねえ。」

「娘さん、今おいくつでしたっけ。」

「あともう少しで十七。ピチピチのJKってやつですわ。」

「へえ~、それでしたら多分喜んで貰えますよ。」

後輩にそんなことを言われるもんで、俺はついつい、そんな娘の姿を想像してしまう。

「え、お父さん、女子力たっか!天才!?」

なんて。あかん、顔がにやけてきた。

「えへ、うへへ...、喜ぶかあ、そうかあ。」

引きあがった頬が戻らないまま、気づけば二人は冷めた苦笑いを浮かべていた。

 

 

そんなこんなで、そのホワイト()()()とやらの歯ブラシを買ってきた。二本で五百円を超えるという何ともお高い歯ブラシではあったが、歯の黄ばみが取れるというのは少し気になる。煙草こそ今はもう吸わないのだが、酒は飲むし、それなりに味の濃いものも好んで食べるので。こんなに高かったんだから、もしかして口臭消しの効果もついていたりするかな。今日の歯磨きが何だか楽しみになってきた。

「ただいまー。」

夜の九時半頃に家に着き、帰宅の一報。残業の疲れがこびりついたスーツをとっとと脱ぎたいと思っていた時、開けようと思っていた襖が勝手に開き、その隙間から詩鶴がひょこッと顔を出した。

「お か え り 。」

「お、おう、ただいま。」

「...お父さん、お土産は。」

詩鶴はそう言って新品を差し出すよう要求した。俺はサプライズ精神に心を躍らせ、特に意味もなくネクタイをキュッと締めて格好をつける。そんな態度で娘にプレゼントした。

「詩鶴、今朝はほんまに悪いことした。これ受け取ってくれるか?」

詩鶴はそれを手に取って、しばらく眺めた。

「なにこれ。」

「ホワイト()()()とか言ってな、歯がツヤツヤの真っ白になるねん。」

「ほへー。」

「高かってんでー?まあ詩鶴も美容に気ィ遣う時期やろうから、ジャンジャン使てな。」

「よく分かんないけど、ありがと。」

「へへへ。ええねん、ええねん。気にせんで。」

予想よりかは反応が薄かったが、喜んで貰えたようで何より。礼を言われて思わずにやけ顔になった。

ニタニタしていると、妻がこちらを見て笑顔で言う。

「へえ~凄いねえ。で、私の分は?」

俺は一瞬、身体が固まった。そうか、こんな良品を買ったんだから妻も欲しがるのは至極当然。しかし、いま手持ちにはあと一本しか残っていない。これだと妻だけ仲間はずれみたいになってしまうではないか。親子の関係修復に目を向けすぎて、肝心の家族円満を作り続けることを見落としていた。これは大誤算だ。こうなったら...

「おう、そう言うと思って、そっちの分も買うてきたで。」

妻に自分の分の歯ブラシを取り出し、渡した。すると妻は目を丸くして驚く。

「え、ウソ...。冗談のつもりだったのに。」

ん、ん??いま何て?え、冗談??

「えー、ありがとう。たまには気が利くね。」

「お、おう。」

「え、ちなみに自分の分は買ってあるの?」

「え??あー!あはは、こんなん、歯ァの美白なんて男にはええねん。」

「ああそう。」

「そうやそうや!大体、アラフィフのオッサンが歯ァだけ白いとか変やろ。」

というと、娘がたった一言

「うん、変。」

詩鶴....、お前覚えとけよ。

「まあ、大事に使ってくれ!こっちもそれ、どれくらい綺麗になるんか気になるわ。」

俺はそうして、何とか家族の円満を守ったのだ。手違いで渡してしまったのは置いといて...。でも、今回はちゃんと"お父ちゃんしてる"やろ、今日の自分は偉い。まあ、元は自分でやらかしたことやから、別に自分の分のことをそこまで惜しんだりはしないけど。そんなことよりもずっと、家族の笑顔の方が俺は嬉しいから。

ああ、良いことしたって思うとビールが飲みたくなってきた。

「お母ちゃん?ビール頼むわー!」

「冷蔵庫にあるよー。」

「なんとまあ...よくお冷えになられて...。」





少し飲みすぎたようで、気づけば寝落ちしていた。付けていたはずのテレビも消えていて、辺りには妻も、娘の姿もない。多分、もう先に寝ているんだろう。いつものことだろうからきっと
「先に上あがってるよー。」
とか、
「風邪ひくよー。」
とか、寝てる間に言われてたんだろう。覚えてないけど。
立ち上がると、まだ軽く酔いが残ってるようでフラフラする。このまま二階に上がって寝てしまおうかと思ったが、子供の頃の歯医者でのトラウマがあって、正直もう行きたくない。仕方あるまい、と洗面所まで歩き、歯ブラシ入れを開ける。そこには自分が買ってきた歯ブラシが二本。
「ちゃんと使ってくれてるみたいやな。」
寝ぼけまなこで心に呟く。
「ふああああああ。」
と、欠伸をし、俺は会社での会話を半醒半睡で思い出した。
~「煙草吸われる方も時々買われるんだとか。」~
なんかそんなこと言ってたっけ。ああ、そうそう。そう言えば歯の黄ばみが落ちる効果が気になるからってもう一本買ったんやっけ。思い出した思い出した。えっと、こっちが詩鶴のやから...

つづく。


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69.明希の自爆

 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.69「明希の自爆」

 

珍しく早起きした朝、トイレを済ませたあと、部屋に戻ると時計の針は六時前を差していた。二度寝をすれば学校を遅刻しそうな気がするが、このまま朝にするにも少し早い。仕方なくキッチンへ出ると、父が新聞を広げて座っていた。父は一旦読むのを止めて、コーヒーを一口飲むと

「ふう。」

と、一息。公務員って朝早いんだなって思いました。

「おはよ。」

そう声を掛けると、父はこちらに気付き、同じように返した。

「明希、今日は早いんだな。」

「お父さんこそ。何時ん起きたの?」

「さっき。」

「ふーん。」

まだ少し眠たいせいか、会話に中身がない。かと言って、黙ってるとそのまま眠りに落ちそうな気もするので、話したってどうしようもないようなことを聞いてみる。

「ねえお父さーん。」

「ん?」

「眠い。」

「ああ...、そう。少し寝てきたら?」

「そうすると私、絶対起きれない自信ある。」

父、困る。そうしてしばらく考え込むと、私に答えた。

「とりあえず水一杯飲んで、着替えてきたら?そしたら多分、布団には潜りづらい。」

「分かった。」

寝ぼけまなこで、父に言われた通りに水を一気飲みし、制服に着替えた。窓を開けて見上げると、これはあけぼのってやつか、薄いピンクの朝焼け空が見える。時間も多分、六時を過ぎたあたりだろう。部屋に差し込む光が、いつも起きる時と同じ景色に染め上げていく。目覚まし時計はあと三十分後くらいに鳴る予定だが、今回は起こしてもらう必要もなさそう。

ところで先日、詩鶴にメイクのことについて言われたのを思い出した。校則のこともあるし、化粧水を付けたりするくらいで済ませていたのだが...

「休みの日くらいはオシャレしなきゃ。」

と詩鶴。それに対して

「あまり難しいのは分かんないよ。メイク道具とかそんなにないし。」

と返すと

「あー、それならみっちゃんに教えて貰いなよ。プロだから。」

と言われ、教えられることが一つ増えた。

そこで私は、ふと母が生前使っていた化粧棚の前に足を止めた。当たり前だが、父が代わりに使うなんてある訳ないので、一つ一つを開く度、その棚の中の時間は止まっている。流行り廃りの早い時代の中ではきっと、この化粧品たちも年季の入ったレア物になっているのだろう。しかし私にとってそんなことはどうだっていい。お母さんの形見なら、他のどんな高い代物も光らないから。

そんな形見を少し拝借して、鏡の前で身振り手振りで顔を彩ってみる。あまり濃い色だと先生に怒られるだろうから、なるべく優しい色を使って。さて、このくらいにしておかなきゃな、というところまでやってみた。鏡を見てみると、少しお母さんに近づけた気がして笑みが零れる。口紅をし忘れてていることに気が付いたが、今から朝ご飯を食べることを思うと、また後で良いと思った。私はその口紅を大事に手のひらに握り、スカートのポケットにしまった。

 

 

時は流れ、放課後。いつもの文芸部の部室で作詩帳を机に広げ、窓の外を見つめる。文芸部とは言っても大した活動はなく、個人が書きたいことを書いて、最後にそれを皆と見せ合うくらい。あるものはノートを片手に教室外に足を運んだり、あるものはこうして机でノートと睨めっこ。ただ、作品が出来上がらなかったとて、適当な理由を述べれば許されるせいでずっとお喋りしている生徒が居たり、それを理由に入部を希望する生徒もいる。たまに男女二人で教室を出て、何も書いてこないで戻る生徒もいるのだが...うん、あいつら絶対サボりだ。

いつも居残りで居ない河島君についてだが、あの子は発想力にとても長けていて、作品こそ全然作らないものの、良いアイデアの提供者として周りから重宝されているお陰で、先生に怒られることは少ない。の、だ、が、いつも居残りで幽霊部員になっているのが残念でならない。今日の私はかなりの絶不調で、良い案が思いつかない。だから彼の手を借りたいと思っているのだが、わざわざそれで彼の教室を訪ねられる程の陽キャでもないし、そんなメンタルもない。

「部長。」

「はいはい、どうした四倉。」

「お手洗いに。」

「はいはい、いってらっしゃー。」

仕方ないので気晴らしにお手洗いに行くことにした。外に出ることで多少はアイデアも浮かぶことだろうから。

何一つ変わったことの起こらない日常風景。むしろ変わって欲しいことなど何一つないからこそ、この心は焦り知らずで落ち着いていられるのかも。廊下の窓から中庭を見下ろしたり、誰もいない廊下に響く自分の足音に耳を傾けてみたり、本来詩というのはこういうところから生まれるのだろう。だからもっと色んなものに目を止めて、浮かんだ感情を文字に変えなきゃいけないって思うんだ。愛とか、人生とか、そんな大きすぎるテーマはまだ私には早い。けど、いつかは書けるようになりたいと思うから、今日もこうして言葉を探している。

花を摘み終えて鏡の前、そうだ!と思い出し、ポッケから口紅を取り出した。五年は使われていないであろう品に目を奪われ、しばらく見つめてしまう。思えば今日のメイクも母の化粧品で、今持っているのもその一つだ。校則違反の持ち物を取り出してることに緊張のドキドキが止まらない。でも、悪いことをしてるっていう背徳感に妙に心が踊っている。蓋を開けてリップを回していくと、やがてゆっくりと顔を出したその赤色に、強烈な色気を感じる。これを今からつけるのか、と感じつつ、私はそっと()()()を唇に当てがった。

「私、イケナイ女になっていくんだ。」

なんてマセた言葉さえ心に浮かび上がり、頭がクラクラしそうな程に興奮していた。だがしかし、

「あ....。」

思っていたより色が濃く、確実に口紅のことがバレてしまいそうで興奮は焦りへと急変した。

「はやく落とさなきゃ、落とさなきゃ...!」

これはさすがにオトナ過ぎるヤツだ。てかお母さん、こんなのどこで使ってたの!?全力で唇を擦り合わせ、色を薄めようとしたものの...

「ふふ、イイ感じに馴染んだわ。これで私もオトナなジョセ.....って違ああああああああう!!!!」

ちゃんと仕上がってしまった。真っ赤な唇のままだ。こんな状態じゃあ教室に戻れない。早くしなきゃ!と焦っていると、災難は立て続けに起こるもの。なんとこのタイミングで部の先輩がお手洗いにやって来たのだ。

「お、お疲れー。済んだら早く戻りなよー。」

「あわああっ!?はい!直ちにっっ!!」

「....??」

咄嗟に口紅を隠すも唇が残っていて、大慌てで片手で覆った。先輩はそんな私を見て怪訝そうな顔をしていたが、愛想笑いで何とかその場から脱出した。

 

そんなこんなで教室に戻っては来たものの、逃げ場がない。というか逃げようのない所へ戻ってきてしまった。髪を伸ばしていたお陰で、横からはバレにくい状態になっているものの前が恐ろしく無防備で、窓の外を見つめるか、ノートに首から思いっきり視線を下ろすしか隠す方法が見つからない。なんだこれ、首の自由が無さすぎる。

時計を見れば下校時間まではまだ一時間もある。正直、首が持つ気がしない。どうしよう、と頭を抱えていると、お喋り部員たちの会話が聞こえてきた。

「メイク駄目とか校則マジ厳しくない?」

「ねー。で、大人になったら化粧は大人の基本とか言い出すじゃん?」

「意味わかんないよねー。」

やめろ、その話題は刺さる。

「ま、みんなバレないようにコッソリ付けてるよ。だってそこでしか練習の仕様がないっていうか?」

「うんうん、わかるわー。」

「私だって今日付けてきてるし。」

「え、どこどこ?」

「わかんない?」

「え?もしかしてリップ?」

「正解。これめっちゃ自然じゃない?」

「え、やば!あたし全然気付かなかった!」

殺せ、もう殺してくれ...。あわよくば窓から飛んで下校したい。あ、ここ二階か。足の骨折れるだけか。それは嫌だな。あはは...、早く部活終わってくれ。

そんな風に嘆いていると、部室の入口から詩鶴が顔を出した。

「明希ぃー、ちょっと教えて欲しいとこあるんだけど...。」

申し訳なさそうに尋ねると、私は一気に緊張から解放された気がして、首を詩鶴の方へ向けた。

「鶴ちゃん...!!あ...。」

真っ白になった。心が、身体全身が、真っ白に...。

「おお、明希、中々に攻めたメイ――」

「わああ!だめだめだめだめ!!」

「え?」

声と、その言葉に反応した生徒たちが全員、私の方に目を向けた。その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちていった。

「え、四倉さんどんなメイクしてるの?」

「さっき攻めたって言ったよね、見せて見せて!」

終わった。群がる生徒たちを前に、明るみに出された唇がカタカタと震える。

「落とせなかったの...、許して...。」

死に際の一言みたいに、かすれた声で最期の言い訳を溢したものの

「えー!でもめっちゃ似合ってんじゃん!」

「可愛い~。それなんてやつ?」

「え、知りたい知りたい。」

褒め言葉の嵐が追い打ちをかけるように精神にのしかかる。

「普段大人しい四倉さんがこんなオトナなヤツ持ってるとか意外~。あ、悪口じゃないからね?」

「あたし、次の彼氏とのデートん時にこういうのつけよっかな、つぎ。」

朦朧とした意識の中で、遠くに申し訳なさそうな表情で立つ詩鶴が見える。頭から煙が出てるようで、きっと今、私の顔はこの口紅と同じくらい赤い。そうして私は遺言のように

「た...づ...け...て、...し、づ――」

と残しかけて、言い切る前に意識が身体を残して下校した。

 

つづく。

 

 




2023.9.17
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70.絶賛募集中

 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.70「絶賛募集中」

 

とある平日の夜、名取屋。お店のピークが過ぎ、お客さんも空っぽになった頃、私は客席にもたれかかって母と話していた。

「お母さーん、閉店まであと何時間ー?」

「二時間切った。」

「っても一時間以上はあんのね...。ひぇー、しんどー。」

「もうちょい頑張んな。それ普通のバイトでやったらボッコボコだからね。」

「いいのー。私、ここで終身雇用の身なんで関係なぁーい。」

そう言うと母は、呆れ顔で私に言った。

「それじゃあ少し厳しくしなきゃだね。」

「えー、やだー。」

「ヤダじゃないの。仮にもこの店なくなったら、否が応でも社会に出なきゃいけなくなるんだよ?」

しかし私はそんな母の言葉を重く受け止めることなく、カウンターの椅子で遊びながら適当に返した。

「ま、そうなったらそん時に考えまーす。」

「はぁー、知ぃーらない。詩鶴が大人になってウーンと困っても。」

そんな母の説教中に堂々と欠伸をすると、母はジト目で私を睨んだ。そこで更に悪態をついてみせる。

「お母さん。」

「うん。」

「その話、退屈。」

「こいつ....。」

足をプラプラさせて遊んでいると、店の扉がガラガラ、と音を立てて開いた。母が口を開こうとした刹那、

「いらっしゃいませー。」

と、愛想良く挨拶。母の額に光る冷や汗を見て、ニヤリと笑ってやった。

誰かと思い、改めてお客さんの顔を見てみると、河島の姉、千春だった。

「あ、どもども!久しぶり。」

「どもー、名取ちゃん久しぶりー。」

私の反応に母は

「お知り合いなの?」

と聞く。

「うん、河島のお姉ちゃん。」

母、納得したご様子。私は千春を席へと案内した。

「ま、とりあえずお好きなとこへ。」

そういうと彼女はカウンターの席へ座り、席についてすぐ水割りを頼んだ。相変わらずこの人、チョイスが渋い。そして私がお酒を作り始めると、何やら千春、ボソボソとひとり言を呟いている。

「うーん、一人酒でビールってのもアレだしなあ、ハイボールとかでも良いんだけど、うーん。やっぱ芋に限るな、芋に。」

それを放っておいていると、千春がこちらをチラチラと見てきた。

「な、何ですか...?」

「ね~、聞いてよ~。」

「何ですか。」

「元彼が冷たーい。」

「知らねえよ!え、てか彼氏いたんだ、千春さん。」

「失礼だな~、そりゃあ生きてりゃあ恋人の一人や二人できるさ。」

「ああ...、そう。」

「あ、でも今は居ないよー。横空いとるで。付き合う?」

「付き合わねえよ!!明日から学校行きづらくなるわ。」

今日の千春は、飲む前から何だか酔ってるような絡み方をしてくる。え、まさか素でこれなの?

出来たお酒を彼女の前に出すと、すぐさまそれを手に持って言った。

「ま、色々あってね。」

「...え?ああ、元彼の話ね。」

「そうそう。」

私は自分のコップに水を注ぎ、じっくり話を聞くことにした。千春が話し始める。

「大学の大事な試験があるんだけどさ、手伝ってくれないんだよねー。」

「手伝う?」

「一緒に勉強してくれない、みたいな?別れただけでそんな特典減りますー?みたいな!」

「うわあ...、どんな喧嘩別れしたらそうなるの...。」

「どうやって...?うーん、真面目過ぎたんだよね、あの人。」

「真面目かあ。」

「うん、ちゃんと貯金しろーとか、煙草吸うなーとか。いいじゃん、あたしの勝手じゃん!」

「うわあ、貯金は私も言えないや...。煙草は分かんないけど。」

「煙草良いよー、甘ぁーい香りにヤなことみんな吹っ飛んでいくから。」

「未成年に語らんで下さい。」

「あはは、大丈夫大丈夫。名取ちゃんは吸わないって信じてるよ。」

「なんだそりゃ。」

こうやって話していると本当に、河島と血がつながってるとは思えないくらいに明るい。唯一似ているとすればこの気楽な思考回路くらい。とろん、と眠たそうな目つきはアイツと似てると言えば似てるんだが、彼女の方はどちらかというと微睡んでいるみたいで綺麗だ。

ふと横を見ると母は椅子に座り、布巾などをたたんでいる。私に仕事丸投げモードのようです。といいつつ、今は千春と会話することがお仕事みたいになってますが。

「ま、そんなこんなで喧嘩ばっかりになって、別れようってなったワケ。」

と言って、千春は少し視線を落とした。

「恋も楽しいことばっかじゃないんですね。」

「ね。私も初めは、ずっとこのままだと思ってた。」

千春は少しだけお酒を喉に流し込んで、「ふぅー。」と溜息混じりの息を吐く。

「...まあ、またきっと良い人見つかりますよ。千春さん美人だし。」

そう励ますと、千春はニコッと笑みを浮かべた。そして人差し指を遊ばせながら彼女が言う。

「ふふ、名取ちゃん、なかなか口説き上手だねぇ...。付き合う?」

「だから付き合わねえよ。」

心なしか、彼女が少し元気を取り戻せたように見えた。

「てか、いつから吸ってたんですか?」

私は千春に尋ねた。

「んー?十八。」

「マジかよ。」

呆れ顔を浮かべると、千春は焼酎を一口飲んで言う。

「あの頃はさ、みんな「受験受験!」ってうるさくてさ、まだ私は青春し足りないって時に誰も構ってくれなくて。」

「あー...、辛いなあ。」

「でしょ、んでグレて吸った。」

「.....。」

「寂しかったんだろうな、あの時は。子供でいたい自分に誰も味方してくれないってのが。」

何だか未来の自分を映しているような気がして、少し胸が締め付けられた。

「いやあ、死ぬほどムセたよ~。声出なくなるんじゃないかってくらい喉痛くてさ。名取ちゃんは絶対やめときなよ?」

「そんなん聞かされて吸いたいってなりませんよ、普通。」

「ははは、それで良し。でもね、人間、追い詰められるとどこまでも変わっちゃう生き物だから、ふさぎ込むのだけは駄目だよ。」

「え?」

千春が意味深な言葉を吐く。その言葉の意味を探っている間に、今度は探偵のオッチャンが店にやって来た。

「どうも、まだやってるかい。」

「あ、ども、いらっしゃい。」

探偵入崎がノシノシと歩き出し、千春の前に来ると、彼は千春に

「お隣、いいかい?」

と、声を掛けた。

「え?ああ、どうぞどうぞ。」

と千春。私は彼女に説明した。

「オッチャン、いつもこの席でさ。気にしちゃうだろうけど、気にしないで。」

「お~、なんかドラマチックでいいねー。」

そういうと千春がワクワクしだしたので、私は調子に乗ってオッチャンの情報をもう一つ明かした。

「おまけに本物の探偵さん。」

「えー!?なにこれ撮影?ドラマの撮影か何か!?」

感動から興奮状態になる千春。そんな彼女に、母が後ろから補足を入れた。

「高校からの同級生でね。ちなみに探偵やる前は刑事さん。」

目がこの上ないくらいにキラキラしだす千春。そのやり取りを見ていたオッチャンは、冷や汗を垂らしながら言った。

「おい、頼むから会った人全員に職業公開するのは勘弁してくれ...。このエリアで仕事出来なくなる。」

困惑する彼を前に、千春が尋ねる。

「え、本当の本当に探偵さん!?」

「...どうだろうね。」

「えー!えー!じゃあ一つ依頼したいです!!」

「....。」

「あれ?もしかして常連さん以外お断りなやつ??」

「聞くだけ聞くよ、何かね。」

「探して欲しいものがありまして。」

「はい。」

「私の新たな恋...。」

「おい誰だー!コレ店に入れたヤツ!!」

母と私、ともに苦笑い。

それから後、しばらく四人でお喋りをしていた。私の学校生活の話や、仕事の愚痴話だったり。恋バナを話した時には、オッチャンが何か苦い過去を思い出したようで、ずっと悶えていた。

ある時、この輪の会話が将来の話になって、空気が少しだけ落ち着いた。少し真面目な話題だったからか、その時間だけやけに頭が重くなった。

「他のみんなはもう就職先とか決まってるみたいで。」

千春がほんのり困った顔で言って、それに

「何かやりたい仕事とかないの?」

と、母が聞き返す。

「うーん、やっぱりそれ、そろそろ答え出さなきゃですよね。」

「まあ、せっかく大学行ってるならね。選択肢、多いから迷うと思うけど。」

「そうなんですよ。多すぎて、逆にコレ!っていうのが見つからない感じで。」

悩む千春に、私も何かアドバイスを探してみる。

「うーん...、結婚して専業主婦とか?...あ、えっと。良い人見つけて。」

「名取ちゃん。」

「うん?」

「絶賛募集中!!」

「私に言ってどうするそれを!!」

 

つづく。



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71.スレンダーガール詩鶴

 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.71「スレンダーガール詩鶴」

 

「詩鶴、買い出し行ってきてくれる?」

「はいはーい。メモどこ?あ、これね。」

「...?」

いつもと比べ、異様に聞き分けの良い私を見て母がキョトンとする。

「ふんふん、おっけ了解。お母さん、お金。」

「...詩鶴、頭ぶつけた?」

「え?何さ、失礼な。」

状況が理解出来ないまま、母は買い出しの費用分を渡した。

「はい、ありがとう。行ってきまーす。」

「詩鶴、ちょっと待った!」

「え、なになに。どうしたの。」

「何か変なこと企んでないでしょうね?」

「え?何で??」

「逆に聞くけど、何でそんなに急いでんの。今日なんかあんの?」

「別に何もないよ。もうすぐお店始まるでしょ?急がなきゃ。」

「ああ、そう。」

そう言って私は家を飛び出た。母は最後まで怪しい目で私をじっと見つめていた。

今はこうして、なるべく運動不足を解消させることに意味があるのだ。別にこれといって健康に気を使っている訳じゃない。体育祭も終わったことだし、今更体力作りに勤しむ理由もない。ならどうしてこんなに焦っているかって?それは...

 

それは昨日の部活での出来事だった。久しぶりに参加出来た陸上部で、顧問の先生が少し変わったことをやろうと言い出したのだ。

「お前らァ!青春真っ盛りなお前らに特別ゲームを用意した!」

「特別ゲーム??」「何それ。」「えー、良く分からんけど楽しそう。」

「聞けェ!いざという時にカッコイイとこみせてこそ運動部というものだ。よって男女別でペアを組み、お姫様抱っこしながら走って貰う!!」

なにその地獄みたいな競技。周りからも部員の半分が文句を垂らしていた。

「先生ェ~。」

すると、その内の男子が先生に向かって声を上げた。

「何だ、文句なら受け付けんぞ。」

先生は鋭い目をし、反論すらも許さない姿勢を取っている。でもせめて苦言の一つくらいは呈して欲しいものだ。そう思いつつ、私はその男子に微かなる期待を寄せた。

「文句ではないんですけど、」

「じゃあ何だ、言ってみろ。」

「男女でやりたいです!!」

コイツくたばれば良いのに。

そんなこんなで男女ペアでやることは免れたものの、結局この罰ゲームみたいな種目は実行された。百メートル走の往復で、担いで走り終えた先で交代し、逆パターンで今度は担いだ人がその人に担がれて元の位置に戻ってくるというルールだ。

部活仲間の女の子と組み、先ずは私がその子を担いで走った。

「よいっしょ!!」

「大丈夫?私、重くない?」

「ヘーキヘーキ!ほら行くよー!」

なんて言いながら、汗水垂らして私は走った。途中、彼女が

「わあ、なんかこれドキドキするー。名取ちゃん、力持ち~。」

などと言ってくるので思わず楽しくなる。地獄だとか思ってたけど、やってみると案外面白いもんだなあ。そう思った。

しかし、問題は復路で起きた...。

「よし、じゃあ交代っ!よろしく頼んだ!」

「頑張る!」

そういって彼女に身体を預けたとき...

「ヴっ!重っ...。」

「エ?」

一向に身体が持ち上げられない。戸惑いつつも応援し、励ましてみたものの

「うおおおおおっ!!行けたあっ!行けた!けど...。」

今度は前に進まない。

「あの、大丈夫...?」

「気に...しな、い、で...!!」

怪獣のように一歩一歩を大きく踏みしめて、ゆっくりとゴールへと進んでいく。しかしあまりの遅さに先生からも怒号が飛んでくる。焦りを感じた彼女は唇を嚙みしめ、ゆるやかに吹く秋風の十割もの速さで走った。そして私のペアだけがレーンに残り、ようやく完走した頃には皆が私たちのことをジッと見ていて、二人は言葉を失った。私を担ぎ走り終えた彼女は息を切らし、膝をついて倒れる。この様子を見かねたのか、先生が

「名取、お前昼飯食い過ぎなんだよ。」

と一言。周りからクスクスと笑いが起こり、私も赤面で膝から崩れ落ちた。

 

あれから、私は瘦せると決心した。体力の消耗が激しいことを進んで行い、間食は避ける。そうして私はスレンダーで、水も滴るイイ女へと生まれ変わるのだ。ついでに月夜の晩、カッコイイ王子様に攫われて一晩中夜空をさすらうのだ!うへへ...、うへへへへ!!

...いかんいかん、妄想ばかりしていても瘦身には繋がらない。私は買い出しメモに書かれたものを順に買い集めていき、重くなっていく買い物袋を無駄に上下させて筋トレなんかもした。八百屋、魚屋と、町をぐるぐる駆け巡って、その移動の節々に無駄な運動を組み込ませた。そうやって買い出しに勤しんでいるうちに、少し疲れを感じたため近くにあったベンチに腰掛ける。すると何ということでしょう、信じられないくらいの疲労が押し寄せてきた。

「はあ...、はあ...。これでちょったァ瘦せただろ。」

と、心に呟く。体の疲れに意識を向けてみると、腕の筋肉はパンパンに張っていて、お腹にはジーンと脂肪の燃焼されていく様な感覚が伝う。これは確実に効果が表れている。やった、これで少しは体重が減るだろう、などと思いつつ、思った以上にヘトヘトになってしまって喜びどころの話じゃない。ボーっと空を見上げ、あかね色の空を映した目がもの思いに耽る。

「ああ、あとこれ何回繰り返せばいいんだろう。疲れたなあ。」

溜息を吐いてそのようなことを思っていると、何だか気が遠くなって虚しい気持ちにさせられた。

雲を数えながら、私は放課後の居残りでの会話を思い出す。

 

「河島。」

「おん?」

「私ってさ、....。」

「何。」

「...太ってると思う?」

「中肉中背。」

「言 い 方 。」

即答で返す河島。可もなく不可もなくって言いたいのか、地味に精神に被弾した。

「山岸はどう思う?」

と山岸にも尋ねてみたが、

「大丈夫、太ってはない。」

そんな大して励ましになってもないようなことを言われた。かといって何て言葉を貰えたら嬉しいのか、自分でも割と分からない。何か確証を得たいのだが、軽いと言われたいからといって

「お姫様抱っこしてみてよ。」

なんて口が裂けても言えない。第一、仲のいいって言ったって仮にも異性だし、ここでもし前みたいに

「うわ、重っ!!」

なんて言われたら今度こそ生きていけない。そうして心の中で葛藤していると、山岸が言った。

「まあ、気になるんだったら少し面倒臭いって思う事を率先してやってみたら?」

「面倒臭いこと、ねえ...。」

「普段避けてるような面倒事って、結構カロリー使うと思うからさ。」

「ほーう、良いこと聞いたかも。」

山岸のアドバイスに関心していると、河島が横から茶々を入れる。

「よし名取、ってことで明日から俺の分の焼きそばパンも買ってきなさい。」

「ふざけんな、それくらい自分でやれ。」

 

...思えば即行動で買い出しに出かけたのも、山岸の一言が頭の片隅に残ってたからなのかもしれない。瘦せることを天秤にかければ「このくらい何のこれしき」って程度に思っていたが、いざやってみると本当に面倒事だ。

乱れた呼吸も整ったことだし、そろそろ帰ろう。黄昏前の町角、私は重い袋を持ち上げ、脂汗を風に当てながら家路を辿った。

 

時は流れ、夜。お店を閉めたあと、今日の夕飯は母が作ることになっているのでその間、二階の寝室に寝転がって待っていた。窓からは大きな月が見える。夏が完全に遠ざかったことを教えるように、触れるもの一つ一つが秋へと変わっていった。扇風機がなければ居たたまれなかったこの部屋も、今となっては外の風だけで十分。運動するにも心地よく、人間が最も活発に動ける季節のように思える。

「疲れたけど、何とか明日も続けられそうかな。」

そう心に呟いて、私は小さく微笑んだ。

ふとお腹を指でつついてみると、硬いわけでもなく、どちらかというとプニプニしている。私、やっぱり太ったのかな。食べ過ぎなのかな。そう思うと、小さな溜息が口から零れた。

「詩鶴、ご飯できた。」

母の呼ぶ声がして、私はウンと力を入れて起き上がる。今日は少量にしよう、そう心に決め、私は食卓へ足を運んだ。

「はいはーい、お待た....せ。」

私は絶句した。階段を下りている時から、なんか凄くいい匂いがしてるなあ、とは思っていた。しかし...

「食欲の秋ってことで、月も綺麗に出てることだし、今日はすき焼き作ってみました。」

母はそう言って、家族の笑顔を誘った。父も期待に満ち溢れた表情で

「詩鶴、ボケーっとしてたら全部食うてまうで。」

と急かしてくる。

そうか、瘦せるとは戦いなのか。私はその過酷さを知った。目の前の誘惑に打ち勝つ心の強さ、まずはそこから鍛えていかなければならない。そのことを私は見落としていたのだ。理性が飛びそうな程の強烈な欲望、飲み込んでも飲み込んでも溢れる(よだれ)に抗いながら、手を合わせ、僧侶の如く

「いただきます。」

と、口にする。我は瘦身を心掛けし者、生きる上で必要な分だけ摂取すればいいのだ。箸を手に取り、私は心に言い聞かせた。祇園精舎の鐘の声....

「どうしたの?はやくしないと無くなっちゃうよ?」

と疑問を声にする母。私は仏の顔で答えようとした。

 

「うへへへ~、どれから食べよっかな~~♡まずはやっぱお肉かな~~♡♡」

 

仏の顔なんてできるはず無いじゃないか。理性など、端から飛んでいた。

そうだ、スポーツの秋じゃない、食欲の秋だ。何がスポーツの秋だ、何が瘦身だ。うるせえ、私はやりたいようにやる。ダイエット?明日からやる。気が向いたらやる!!

 

つづく。



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72.もう一つの生き方

(投稿遅れましてすみませんでした!!)


 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.72「もう一つの生き方」

 

「十四時頃、駅前のカフェに三十分滞在。その後、車で移動し、次はパチンコ店...。」

とある会社の一室で探偵入崎が調査依頼の結果を伝えている。明確に顔の映った写真や、その他諸々の証拠品を依頼者に提示し、顔を伺う。依頼主の男は腕を組み、深いため息をついた。

「うーむ...。」

「彼の素行についてですが、常に何かに警戒しているような雰囲気でした。恐らく、まだこういう事をし始めて長くはないでしょう。」

「.....。」

俗に言う”サボり営業マン”というヤツだ。上司の監視下にいないサラリーマンというのは気が抜けがちで、大体こういうのは営業ノルマが低いか、上司の指導不足が原因だったりする。かといって厳しくすれば明日から来なくなる社員が続出。部下を持つというのはさほど楽なものとは言い難い、と探偵業をしていてつくづくそう感じさせられる。

「仕事の飲み込みが早い人でね、見込みがあると思っていたのだが...。」

依頼主は俯きながらそう言った。そこで入崎はそれに対し、

「これはあくまでも私の意見ですが、」

と言いかけ、彼に助言する。

「出来る人材であるならば、それを活用するのも手かと。」

「活用...ですって?」

「ええ、使える人材なら切るのは勿体ない。かといって、このことを本人に突き詰めれば間違いなく仕事のモチベーションを下げてしまう。」

「はあ。」

「泳がせるんです。仕事量を適度に増やし、「頑張ればサボれる」という状況を保ち続けさせれば、会社にとっても良い利害関係になり得るのではないでしょうか。」

依頼主の目が少しだけ変わり、その状態で考え続けていた。

探偵というのは相手の情報だけを手に入れ、それを依頼主に開示することだけが仕事ではない。真実を知った者へのアフターケアが必要不可欠になってくる。真実を手にすれば、その先には大抵失望が後を付けてくるもの。これからどうしていくべきかを話し合わなければ本当の解決とは言えない。

 

ひと仕事を終えて、彼は煙草を取り出した。そして手にした一本を咥えると、車の行き交う喧騒の中に、彼は今回の依頼主に言われた言葉を浮かべた。

「彼にも家族がいるからね、そう簡単には切れないさ。」

その一言で思い出された過去が、入崎の胸の奥を痛める。そして彼はその喧騒へと呟いた。

「家族、ねえ。」

ため息の代わりに、と煙草に火をつけようとしたが、取り出したマッチ箱は気づけば空箱になっている。ため息の理由が煙草が吸えないことになろうとしていた時、左から誰かの手が伸びてきた。驚く間もやらずに、その手に持っていたライターが点火し、咥えていた煙草に火がつく。ひと吸いを終えて横に目をやると

「おひさ、探偵さん。」

若い女性の声、この前の河島とかいう女子大生だった。

「何してるんだ...?こんなところで。」

「バイト終わり。ったく、飲食店はキチぃキチぃー。」 

「ああ...、そうか。」

「おじさんも仕事終わり?」

「ま、そんなとこだ。」

「ふーん、お互いお疲れ様だねえ。」

慣れた手付きで火をつけ、煙草をふかす彼女。その姿を見ていると、千春は話しかけてきた。

「何吸ってんのー?」

「え?」

「銘柄だよ。何かタールめっちゃ高そう。」

「これか。アロマローストってヤツだ。」

「へぇ、何かすんごい甘い匂いするね。美味しそう。」

「ああ、甘い。だが、コイツは肺喫煙には向いてない。」

「何ミリ?」

「リトルシガーだ、記載はない。」

「うわ、でた。葉巻だ。」

「そういうこと。」

何かとつけて「これ何?これ何?」と聞いてくる少女。入崎は呆れ半分で答えつつ、ため息の代わりに口から何度も煙を吐いた。

「ところで君、こんな時代でどこで煙草なんて覚えた?誰かから勧められたのか?」

入崎は彼女に尋ねた。

「え?おじさん、もしかして女煙草とか差別する感じー?」

「違う。少し珍しいと思っただけだ。」

そういうと彼女はフフ、と笑い、煙草を咥えたまま深い呼吸をすると答えた。

「やってらんないって思って始めたの。やりたいことなんて見つからないのに、そんな私をしつこく追い立てようとする進路がさ。」

「進路ねえ。」

「やれ進学だ、やれ就職だ。嫌んなっちゃって。」

彼女の言葉に、彼は学生時代の頃を思い出した。就職先が決まったと、誰もが浮かれていた時期に訪れたバブル経済の崩壊。明るいと信じていたはずの未来が消えたことに皆が戸惑っていた。

「おじさんももしかして、同じ理由で吸い始めてたりして?」

「.....。」

「あれ、探偵さん?」

「え?ああ、すまない。俺はちょっと違う。」

「へえ、良かったら聞かせてよ。」

「...いつか、な。」

「えー。」

「えー、じゃない。」

文句を垂らす千春を横に、彼は何食わぬ顔で煙草をふかし続ける。

日常だったはずのものがいくつも壊れ、それに倒れていった人達のことを思い出す。あの時代は良かった、と呼べるものばかりではないから、懐かしく感じるものに何度も思いを馳せるのだ。そして二人の間に少しの沈黙が流れると、彼は一部を話した。

「まあ、コイツはその”進路に浮かれてた馬鹿”が愛用してたヤツだ。」

「へえー?」

「いっつも甘ったるい匂いをプカプカとまき散らして、就職したらやれ車だ、女だ~とか、ほざき倒してやがった。」

「よりにもよって何でそんな奴の煙草を?」

「懐かしいのさ。お互いにデカくなろうぜって抜かしてたのが。」

「.....?」

入崎は遠くを見る目で思い出に耽っていた。河島はその言葉の意味を見抜けず、ただポカンと首をかしげていた。入崎の黄昏気分が終わると、彼は夢から醒めたようにハッと我に返り、急に話題を閉じる。

「話はここまでだ。後は勝手に想像してな。」

「えー!?そんなイイとこで切る?フツー。」

不満げな彼女に、入崎は軽く微笑んで答える。

「まあ、今のうち何度でも計画を練って迷うと良い。」

「え、何の話?....ああ、進路ね。」

「自分で振っといて忘れるかよ。」

「あはは。まあ、良いとこ見つかるよう、模索してみるよ。」

「そうだな。言っておくが、未来に浮かれてると小さな失敗でとち狂う。君はそうなるなよ。」

「肝に命じておくよ、探偵さん。」

キリの良いところで煙草が切れ、入崎は吸い殻を灰皿に捨てた。

「俺はそろそろ行くが、何か話しておきたいことはあるか?」

「話したいことだらけだね、今は。」

「そうか。まあ、あの居酒屋に入り浸ればまた直ぐに会えるさ。」

「完全に名取ちゃんにホの字じゃん。」

「それはお互い様だろ?」

「えへ~?」

「冗談だ。ただの旧友だよ。」

目の前の大通りはすっかりラッシュアワーの渋滞が始まり、何台もの車の排気口がこの街を都会の香りに染めていく。ネオンライトの明かりが見え始めた黄昏時に、二人の姿が怪しく映る。そんな中、千春がぽつりと呟いた。

「あの子見てるとね、私みたいになっちゃわないかって心配なんだ。」

名取のことを口にして、ぼんやりと通りを眺めている。彼女は続けた。

「就きたいとこも決まらないで、ブラブラと街ほっつき歩いて。挙げ句、酒タバコにしか逃げ場がないなんてさ。」

入崎が彼女の方に目をやると、千春の目は微かに潤んでいた。入崎は通りに視線を戻し、

「まあ、あの子に西口(ネオン街)で声掛けられた時には、即座に札束置いて持ち帰りだな。」

と、冗談交じりに呟いた。

「え....?」

「知り合い全員集めて、袋叩きで説教だ。」

「待って待って、私がそういうとこで働いてるみたいな言い草。」

「ははは、君もそうはなるなよって暗喩だ。」

「分かりにくい格好の付け方するなあ...。」

入崎はポケットに手を突っ込んだ。人通りに目をやると、何人かの夜売りが行き交っている。

「食える仕事さ、皮肉にもね。金も憐れみも、必要以上に手に入る。借金のツケなら話は変わるがね。」

「.....。」

「見合った以上の報酬は、自分の環境への疑問もなくさせる。」

「金に狂うってヤツね。」

「君は、そうなりたいかい。」

千春は静かに首を振ったあと、落ち着いた声で打ち明けた。

「でも分かんない。このまま路頭に迷って、それしかなかったらあり得るのかも。」

「まだ卒業まで時間はあるだろう。卑屈になるな。」

「へへ、そうだね。妹が真似する。」

ほんのりと微笑みを取り戻した千春を前に、入崎は煙草を取り出した。

「ほら、ライターのお返しだ。」

彼はその一本を取り出し、千春に渡した。彼女はキョトンとした顔をする。

「え...?」

「俺はそろそろお暇させてもらうよ。」

「また話聞いてくれるかな。」

去り際の入崎が振り返る。

「死にたくなったら吸いな、火が消えるまでに会いに行く。」

フッと笑顔を見せて格好をつけると、夜の街の中に消えていった。

 

つづく。

 



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73.思い出の親子丼

 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.73「思い出の親子丼」

 

とある祝日の夕方、瑞希と二人で街へ遊びに出掛けて、その帰りだった。

「あの服、やっぱ買えばよかったなあー。」

「つるりん、めっちゃ似合ってたもんね。また行こうよ。」

「だね!今度こそは...!」

色んなものを見て回って、食べ歩きしたりして、都会らしい週末を過ごせた気がする。特に服屋を回った時は楽しかった。お互いの似合いそうな服を探してみたり、クラスの友達が着そうなものを噂してみたり。しかし、明希が用事で来れなかったのは残念だったな。でも今度予定が合えばきっと連れまわすから。待ってろよ、明希。

駅に着くと、二人でご飯を食べようという話になった。いつもは滅多に降りない駅で下車し、食事処を探し歩く。互いに指を指しながら「あれも良い、これも良いな。」と、靴をすり減らした。町を見渡すと、辺りにはタイル壁に、木造引き戸、瓦屋根の老舗が立ち並んでいる。これが本来の下町の景色なのだろう。ぼんやり光る街灯が月のように、自転車のライトが星のように灯る街並みに心を寄せながら、二つの足音を路地に響かせた。

しばらくそうやって周辺を散策し、立ち込める夕飯の匂いに鼻をくすぐられていると、

「あっ!」

と一言、瑞希が声を上げた。その声にびっくりして彼女の方を見ると、何やら感動したような面持ちで目を丸くしている。

「どうしたの?」

と尋ねると、

「あそこ行っていい?」

そう落ち着きのない雰囲気で言ってきた。何だろうと思い、瑞希の目線を辿る。目の先にあったのは、電車の高架下にさり気なく佇む、一軒の古めかしい定食屋だった。

「うん、いいけど。定食屋?」

私がそう聞いたのを受け止める間もなく

「ね、ね、早く!」

と急かした。珍しい、瑞希がこんなに率先して動き出すなんて。きっと、前々からずっと行きたかった場所なのかも。

店の引き戸を開けると、店主と思わしきオジサンが大きいとは言えないくらいの声で

「いらっしゃい。」

と一言、こちらに目をやって挨拶をした。私たちも軽く会釈で返し、カウンターだけの狭い店内の客席に腰かけた。瑞希は

「はわあ~。」

と、心を掴まれたような幸せのため息をついている。...のだが、私にはその感動の理由が察せない。辺りを見回せば、恐らく調理場と同じであろうコンクリートの床、壁には一品ずつ貼られたメニュー。テーブルにはひっくり返ったUFOみたいな鉄製の灰皿。何一つ変わったことのない昭和な雰囲気のお店だ。それとあと換気扇がバカうるさい。

ブラウン管のテレビから野球中継の喧しい歓声が響き、それに目をやった。点数のところに注目すると、どうやら父の応援してるチームが現在勝ってる状況らしい。何となく、それでいてまじまじと画面を見つめていると、

「つるりんは決めた?」

と、瑞希から一声。

「あ、ごめんごめん。」

そういってメニューの方に視線を戻した。

「みっちゃん何にしたの?」

「私ねえ、親子丼。」

ありきたりなんだけど、やはり定食屋はそそられるメニューが多いな。こういうお店は雰囲気だけでも自然と食欲が湧いてくる。実家のような安心感ってやつ?どこか温かみのある空気だ。

「親子丼かあ、いいね。じゃあ私、カツ丼にしよっかな。」

そういうと瑞希はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「お、丼で揃えてくる感じ?」

「蕎麦とか、うどんも美味しそうなんだけどさ。今はなんかご飯ものの気分かな~って。」

私たちは目の前の店主さんに声をかける。

「すみませーん!親子丼と、カツ丼お願いします。」

すると店主さんは、あまり愛想のない声で

「はいよ。」

と短く返した。

瑞希がずっとホワホワしたままなので、私の中の疑問が膨れに膨れ、いよいよその訳を尋ねた。

「みっちゃん。」

「うん?」

瑞希がこちらを向く。それはそれは幸せそうな笑みで。

「さすがに気になるんだけど。」

「え、何が?」

「前から気になってたの?ココ。」

私の問いに対して、ポカーンとする瑞希。その言葉の意味を理解すると

「あー、あー!そゆことね。」

いや、どゆことだよ。瑞希はパズルを解いたような顔一つ、納得のご様子。

「あのね、」

と言いかけ、彼女は話した。

「ここ、小さいとき来たことあったの。」

「へえ?」

「ほんと、小学生に上がったか、上がってないかくらいの頃だよ?叔父さんに連れてきて貰ってさ。」

瑞希は遠くを見るような眼差しで、過去の思い出を語った。

―――――――――――――――――――

【回想】

 

まだあの頃は弟が幼かったから、お母さんは付きっきりで面倒見ててさ。お父さんも仕事だから夜まで構って貰えなかったし、唯一歳の近かったお姉ちゃんも

「今日友達と約束あるから。」

って言ってすぐ何処かへ行っちゃう。退屈だったんだ。学校外でも遊んでくれる友達も、当時は居なかったからさ。

「明希は?その頃はまだ会ってなかったの?」

明希とは小三からだよ。あの時はまだ知らない者同士だった。

 

-幼少期.瑞希の家-

「ねえ瑞希、直哉の着替え取ってきてくれる?そこの棚に入ってるから。」

テレビに映るアニメ番組に夢中になっていると、母から頼まれごとをお願いされた。

「えー。」

「お母さん今手が離せないの。我儘言わないで、お姉ちゃんでしょ。」

ため息をつくと私は嫌々立ち上がり、タンスの中から適当な服を掴んだ。

「お母さーん、取ってきたけど。」

と声を掛けると、今度は

「それ着替えさせといて。」

と、知らぬ間にやることを増やされている。仕方なく弟の元へ行き、洋服を持っていくと、弟は玩具で遊んでいて着替えさせられそうな雰囲気じゃない。私の存在に気づくと

「ア、ア、ぶーぶ、ぶーぶ!」

とか言いながらミニカーを振り回し始めた。当たったら絶対痛い。そう思い警戒しつつ

「なおや、お着替え。」

弟の服を半分盾にしながら指示した。すると、まだ遊んでいたいのか

「やあー!やあーー!ぶーぶー!」

と、さっきよりも強烈に玩具を振り回し出す。

「やめて、やめてよ!危ない。」

そうやって人が嫌がってるというのに全然言うことを聞かない。段々とイライラが溜まっていく。

「ねえってば!」

持っていた服を下ろし、声を上げたその瞬間、弟のミニカーが私のおでこにぶつかった。

「いっっ...!!」

おでこに強い痛みが走った。とうとう我慢できなくなって

「もう自分でやって、全部自分でやってよ。嫌い!」

私はそう大声で怒鳴りつけ、弟に手を上げた。すると、私の怒声と弟の泣きわめく声に気づいた母が、私を同じように叱りつける。どう考えても向こうが悪いのに、六歳と三歳じゃあ、六歳の私にはちっとも味方してくれない。あまりの理不尽に悔しくなって、私も大泣きしたっけ。

誰かが楽しくしてるのを見ると自分も楽しいし、お喋りだって聞き手の方が慣れていた。でも、誰からも相手にされなかったり、愛情を注いでもらえないなら話は変わる。寂しかったんだ、そんな毎日が。人に囲まれた暮らしの中で、私だけずっと孤独でいることが。

でも、そんな退屈な日々の中、ひとつだけ楽しみがあった。不定期で叔父さんが家に遊びに来てくれたことだ。叔父さんは三兄弟の中で、特に真ん中の私のことを気にかけてくれていた。

「俺も子供の頃は居場所がなかったからさ。」

と、よく私に言っていたのを覚えてる。あの日、弟と喧嘩し、お母さんから大激怒を食らって大泣きしていた私を叔父さんは連れ出してくれた。

「羊華堂でも行くか。」

ショッピングセンターだったり、時にはただ意味もなく電車やバスで町中乗り回すだけの時もあった。でも、いつも心がワクワクしていたから、ほとんど退屈などとは思わなかった。この日は文房具屋さんで色ペンを買って貰ったんだっけ。...私の記憶では一瞬で姉に取られてしまった気がするのだが。

「叔父ちゃん....、眠い。」

遊びつかれて、気づけばバスの中でスヤスヤと眠ってしまい、降りる頃には空も暗くなり始めていた。

「何か食べてくか。」

そういって、腕を引かれながらフラフラと歩いて数分ほど、電車の高架沿いを歩いて行った先の小さな定食屋に足を止める。ガラガラ、と音を立て、引戸を引いた先に、とても美味しそうな匂いが立ち込めていた。

「ここなぁ、仕事帰りによく寄るんだよ。」

と、叔父さんは言った。

「へえー。」

眠気から素っ気ない返事で返してしまうも、叔父さんはそんなことには構わず、陽気に話し続けていた。

「瑞希は親子丼、食べたことあるか。」

「おやこどん?なにそれ。」

「卵の上に鶏肉が乗ってるやつだよ。」

「じゃあそれ食べたい。」

生返事で返すと、叔父さんは

「おう、そうかそうか。」

と言って、店主さんに頼んだ。

「この子に親子丼一つ。」

「はいよ。」

目の前を風に乗った葉っぱ一枚が飛んでいくように、一瞬で注文のやりとりを終えると、

「特にな、ここの親子丼は旨いんだぞ~。」

と嬉しそうに語っていた。

やがて目の前に出来上がった品が届けられると、出汁の良い香りが鼻の奥をくすぐってきて、ほんの少しだけ眠たさのことを忘れられた。

「熱いからフーフーして食べなよ。」

という助言を受け、私は軽く息で冷ましたあと、それを口へと運ぶ。私が始めて親子丼を食べた日だった。口の中に広がる出汁の旨味と、ふわふわでトロトロな卵の優しい味わいに思わず心打たれる。鶏肉の食感は食べる者を飽きさせず、柔らかな歯ごたえと、程よく染み出す肉汁が更なる食欲を搔き立てた。こんなに美味しいもの食べたという感動は、あの日の自分の中ではとても大きな出来事だったんだ。ひと口、またひと口と、舌の上に乗せる度に落ちそうになる頬。眠りに落ちかけると、上を通過する電車の足音にビックリして飛び起き、食べては睡魔が襲い、と、それの繰り返しだった。

 

と、私の記憶はここで終わっている。というのも、あの後すっかり爆睡してしまい、叔父さんが私を背中に負ぶって家まで送ってくれたらしい。

――――――――――――――――――――――――――

そして私は、今こうして十年の歳月を経て思い出の地にいる。

「はい、親子丼ね。」

私の前に出された一品は、記憶の片隅に眠っていたものを揺り起こすように、鮮明には覚えていないはずの見た目に、懐かしい気持ちでいっぱいにさせた。何だか涙ぐんでしまいそうな気分だ。ほんのりと甘い香りと、白い湯気が丼ぶり茶碗から立ち上っている。

最近は仕事が忙しいのか、たまにしか遊びに来ない叔父さんのことを湯気に浮かべる。私もここに通い続けたなら、ある時バッタリ仕事着姿の叔父さんに会えたりして。そんなことを思いながら、変わらずにいてくれた思い出の景色に手を合わせた。

「いただきます。」

 

つづく。



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74.下町少年のラプソディ-前編-

 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.74「下町少年のラプソディ-前編-」

 

「お母さん。」

キッチンにて店番をするも、あまりの暇さに退屈して母に話しかけた。うん?と、奥から声が返ってくる。母の声を受け取ると

「お母さんってさ、初恋の人どんなだった?」

と、私は他愛もない話題を振った。が、しかし。

「詩鶴、やること残したまま話しかけてないでしょうね。」

母は相変わらず、決まって初めは看守みたいな一言でチェックを入れてくる。私はため息一つ、母に文句を垂らした。

「あのさ、入りたてのバイトじゃないんだから。仕事残ってるなら話しかけないって。」

「そう、なら良かった。で、何て?」

「ぷー、話す気失くしたよ...。」

何を話しかけるにも、初めにこんな尋問があっては弾む話も弾まないし、そもそも話題が発展しない。せっかく用意したムードをお座なりにされ機嫌を損ねた私は、暇を潰そうと店内のテレビのチャンネルを探した。

「もういいよ、一人でも暇つぶしてやる。」

棚に放置されたリモコンを手に取り、電源を押すと、この時間帯に珍しくバラエティー番組が映った。手伝いの日だからと居残り教室を抜け出し、急いで帰宅したのに、暇なだけの時間を店で過ごすだなんてあまりに勿体なさすぎる。そう強く思うから、わちゃわちゃした番組からの音に内心でガッツポーズした。

 

コマーシャルが二回ほど流れた頃だろうか、店の扉が開き、誰かがやってきた。お客だろうか?なんにせよ、心地いい忙しさになりそうな気がして安心した。暇を潰せる、という開放感の溜息に乗せて

「いらっしゃい。」

と、私は言う。すると自分の目線よりもずっと下の方から、焦りに焦った少年の声が聞こえた。

「すみません!ととととトイレ貸してください!」

「え、え??」

視線を下すと、小学生くらいの男の子が股間に手を当て、ジタバタしている。それを見た私は大慌てになり、

「あわわわわ...!こっちこっち!」

と、奥へ案内した。

少年が無事にトイレに到達すると、私は冷や汗を額に浮かべ、大きく息を吐いた。きっと下校の時から我慢していたんだろう。とにかく、間に合ったようで良かった。

暫くして少年が出てくると、

「ありがとうございました。」

と、丁寧にお辞儀をした。

「いえいえ。間に合った?」

「うん。」

「そう。良かった良かった。」

ちょうどコマーシャルも終わり、番組が再会したのでテレビに視線を戻した。何と言ってもこの番組、司会者の饒舌さが面白くてつい見入ってしまう。賑やかな笑い声、タレントのボケ、完璧な言い回しでツッコまれた時には、思わずこちらもクスリと笑いがこぼれる。そういえば、と私は思う。夢中になっていたが、あれから扉の音が一回も聞こえていない気がする。ふと視線を客間に向けると、先ほどの男の子が私と同じようにテレビに釘付けになっていた。少年が私の視線に気づくと、あたふたと申し訳なさそうに焦り、出口へ向けて歩き出す。私はその子に言った。

「この番組好き?良かったら見ていきなよ。」

すると

「あの...、ぼくお金持ってない。」

少年はそんなことを大真面目にいうもんで、私はおかしくなって吹き出した。

「あはは、そんなことでお金取るほど鬼畜じゃないよ。」

「え...。」

「それに、テレビで金取るような連中だったらトイレ代も取ってこようとするはずだよ?高級トイレー、とか言って。ははは。」

余計な弁明を入れたせいで、少年が疑心暗鬼の表情を帯びる。

「....。」

「ま、好きにしな。」

ただ、余程見たかった番組なのか

「じゃ、じゃあちょっとだけ...。」

と、少年は恐る恐る呟いた。

「どうぞどうぞ。ランドセル重いでしょ、適当なとこ降ろしといて良いからね。」

そういうとテーブル席にちょこんと腰かけ、画面を見つめだす。私はコップにお茶を注ぎ

「はい、無料のやつ。」

といって出した。多分普通に出せば「金銭を要求される」と怯えそうなので。少年は相変わらず申し訳なさそうにしていた。

暫くテレビを見つめ、番組がコマーシャルに入った時、

「小学生もバラエティー見るんだね。」

と私は声を掛けた。するとその子は

「たまに友達が出てるんだ。今日はいるかなーって思って。」

と衝撃発言をする。

「え、芸能人と友達なの!?え、どの子役?どの子役?」

私は思わずハイテンションになって、少年の前で大はしゃぎした。困惑する少年、キラキラと目を輝かせて回答を待つ私に答えようとした時

「おい小金、こんな所で何してんだよ。」

ガラガラ、と扉が開き、この子の同級生と思わしき少年達が顔をのぞかせた。

「あ、いや、その...。」

「あ!こいつ人んちでテレビ見てやがるぜ。わーるいんだー。」

「明日先生に言いつけてやろー。」

同級生らは彼の寄り道を非難し、それを囃し立ててきた。

「違う!トイレ我慢出来なくて。」

そう理由を説明するも、彼らのバッシングはエスカレートしていき

「噓つけよ。」

「人のお店でトイレ借りたの?お前、気ぃ遣うってこと知らねえのかよ。」

などと酷い言葉を浴びせ続ける。私は見るに堪えなくなって、この子を擁護した。

「トイレくらい別に良いって。ここら辺、公衆トイレ少ないんだし仕方ないよ。」

彼らは私の言葉に一瞬口を噤むも、すぐに少年の方に視線を戻し

「だいたい知らない人と話しちゃあいけないって先生言ってたし。」

「普通こういうお店で借りるかよ。」

そう非難を続ける。どうやら注意というよりは、苛めたくて仕方ないらしい。私はキッチンから客席に移動し、彼らの目線に立って論を講じた。

「あのさ、逆の立場ならどうしてたかな。どうしても我慢出来なかったら、お外でするか漏らすってのが正解?」

彼らにそう問いかけると、話に割って入られたのを不満に思ってか何も返さず、こちらを一瞬睨んだ。私は続けた。

「この子はトイレ借りに来た。で、アンタらは何しに来たの?この子を責めにきただけ?」

「.....。」

「ほら、店に用がないなら帰った帰った。」

にこやかに語彙の暴力でドツき回すと、いじめっ子らは唇を嚙みしめて出ていった。そのリーダーらしき奴から去り際に

「ババァ、覚えてろよ!」

と言われたので、満面の笑みで

「ぁんだコラ、やるかあ!」

と返してやる。

「ひえぇー!」

小学生相手に大人げないと、逃げゆく背中を見つめながら思いました。

まあ、なんにせよ面倒事は過ぎ去った。ふう、と溜息を吐き、先ほどの男の子に目を向け微笑んだ。目のやり場に困るように慌てふためきながら少年が

「あ、ありがとう。」

と小さくお礼をする。ずっとモジモジしたままだったので、私はその背中を押してやった。

「元気だしなよ、あんな奴らのために落ち込んでやるな。」

すると男の子は、ほんの少しの笑顔を取り戻した。

ホッとしてテレビに視線を戻すと、この子と同じくらいの女の子が画面に映っていた。最近はドラマや、あちこちで見かける人気絶頂の子役だ。

「あ、香里ちゃんだー。」

テレビにそう呟き、彼女の活躍に目をとめた。

「君と歳近いんじゃない?凄いよねえ、こんな小さい時からテレビに出るなんて。」

画面から目を離さずに尋ねてみると、彼から何の返答もなかった。何だろう、と思い横目で確かめると、彼はその子役の女の子の姿を夢中で見つめ、笑みを浮かべている。まさかと思いつつ、画面を見続けていると

「幼なじみなんだ、幼稚園から一緒で。」

少年は、ぽつりとそう言った。

「へぇ~そうなんだ。良いね、幼な.....え?」

「....?」

「ちょ、待って待って待って、香里ちゃんと幼なじみ!?」

「そうだけど。」

あっけらかんとした表情で答えてくるが、爆弾発言が過ぎて理解が追い付かない。ただ少年の前で、馬鹿みたいにはしゃいでる女子高生を客観視できるくらいに頭が真っ白になっている。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら、少年との会話が噛み合うくらいの冷静さを取り戻すと、

「へー、凄いんだねー。」

無感情に、馬鹿みたいな感想が口から溢れ落ちた。

 

少年は彼女の映るテレビを前に

「羨ましいな、みんなから凄いって言われてさ。僕とは大違いだ。」

ピクリとも動かずに、ほろりと呟く。そして、その表情がほんのりと暗くなった。「大違い」という言葉に

「どうして?」

と尋ねると、小さく俯いて私にこう話した。

「だってそうじゃん。あの子は何でも出来て、知らない子は居ない。僕なんて、同じ教室の中でも全員には覚えられてないし、さっきみたいに皆に責められたら言い返すのも出来ないから。」

私はこの子の言葉に戸惑った。

誰しも憧れは持っている。心から尊敬する存在を前にすれば、誰だって立ちすくんで、自分を卑下してしまいそうになるものだ。私だって、思えば瑞希の優しさや、明希の繊細さと比べると、どうしようもない人間に思えて仕方ない。他にも自分より凄いと思えるものなんて、私の周りには沢山溢れてるのだから。河島の気楽さ、山岸の気前の良さ、探偵のオッチャンなんて、何かを任せれば何だってこなせてしまう。みんな、みんな私よりずっと凄いんだ。...でも、

私は男の子に言った。

「素敵だよね、香里ちゃん。」

「うん。」

「みんなに愛されてて羨ましいよ。でも私にとっての"特別"は、あの場所では見いだせないかな。」

少年は、キョトンとした顔でこちらを向いた。

「あの子にしか出来ないことは、君や私じゃできっこないだろうけど。でも、私の料理のレベルは香里ちゃんがどんなに頑張ったって超えられやしないと思うね。」

「え?」

「有名になるから凄いんじゃない。この町にも、私の友達にも、あの子にないものを持ってる人が沢山いる。私だって、君のようにはなれないんだから。」

少年のそばに来て、私はその小さな肩をポン、と叩いた。

「自分にしか持ってないものって、人から言われなきゃ中々気づけないものだよ。」

「例えば?」

「ありがとうって、ちゃんと言えるところ。」

「それ、普通じゃない?」

二人で話していると、店の扉が再び開いた。誰かと思って目をやると、先ほどの餓鬼んちょ共のリーダーだった。

「おうおう何だい、用は済んだんじゃなかったの?」

私は腰に手を当てて、そいつにそう言った。しかし仲間等はもう居ないようで、たった一人だけでここに舞い戻ってきている。状況が理解できないまま待っていると、

「トイレ、貸して。」

と、ぶっきらぼうな態度で要求してきた。

「あら?こういう所で借りるのは何とかって言ったのはどこの誰だあー?」

「オレじゃねえし!アイツらが言ってただけだし!本当はあの時から行きたかったんだよ。」

「ふーん。」

「だから貸せ。」

「貸 ぁ せ ぇ ?」

「貸して。」

「貸して?」

「何だよ。」

私はちょっと、この子に悪戯してやりたくなった。

「貸して、「く」。」

「く?」

「だ。」

「....??」

「さ。」

「.....。」

「い。」

ようやく餓鬼の理解が追いついたようなので、復唱を誘導した。

「貸して、く・だ・さ・い。ほら。」

「何でそこまで言わなきゃいけないんだよ!」

「別ぃ~?漏らしても良いなら好きにすればあー?」

「分かったよ!トイレ貸してください!!」

「ヨシ、奥だ。とっとと行ってこい。」

許可してやると、そいつはそそくさとトイレに向かった。その姿を横目に、私は少年に不敵な笑みを浮かべた。

「お姉ちゃん、強いんだね。」

と言って少年が笑うので

「見てみぬフリも悪の内、なんてね。まあ、やり過ぎは良くないけど。」

そう言って、彼と同じように笑った。

 

暫くすると、餓鬼んちょリーダーが戻ってきた。そいつはテレビに映る香里ちゃんの姿を一瞬目にすると、少年の方に嫌味な笑みを見せつけていた。そして私に

「世話になった。」

と、淡々とそう言って帰ろうとしたので

「またいつでも来な。」

と、皮肉を込めて言ってやった。すると、

「あんた、名前は?」

振り返って更に生意気な態度をこいてきた。

「そういうのは普通、自分から先に名乗るんだよ。」

そう悪態をついてやると、餓鬼んちょは不貞腐れたような顔でこちらを睨み付けてくる。舌打ちをし、不満げに渋々

「村草ともき。」

と名乗ると、被せるように勢い任せで

「青砥高校二年、名取詩鶴、十六歳、夜露死苦ぅぅうう!!」

威勢よく返した。すると飛び上がるようにビビり散らかし

「覚えてろよ!!」

と捨て台詞を吐いて走り去って言った。私は少年の方へ振り返り

「はは、あのクソガキっぷりはアイツにしかできまい。でしょ?」

そう言って大笑いしてやった。

 

 

...少年が帰ったあと、母から

「小学生相手に馬鹿じゃないの!?」

と、滅茶苦茶に説教されたのは、あの子たちの前では内緒にして欲しい。

 

つづく。



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75.下町少年のラプソディ-中編-

 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.75「下町少年のラプソディ-中編-」

 

「あの、すみません。」 

少年の声が名取屋の店内にポツリと響いた。

「はいはーい。」

奥から声がし、母、小町がやってくる。母は少年に気づいて挨拶した。

「いらっしゃい。どうしたの?」

「あの、この前はありがとうございました。」

頭上に「?」を浮かべる小町。少年が

「お姉ちゃんが。」

と、続けると、小町はピンときた様子で

「あー!あー、あの時のね。ごめんねえ、気ぃ遣わせたね。」

「いえ。」

少年は小さなビニール袋を小町に手渡し、

「あの、これ。」

と恥ずかしそうに言う。

「え?」

「この前のお礼って、お母さんが。」

中を覗くと、びっしりと色とりどりの菓子パンが入っていた。

「え、こんなに沢山。貰って良いの?」

少年はコクコク、と頷いた。どうやら、この前トイレを借りにきた少年がわざわざお礼をしにやってきたらしい。

「美味しそうだね、どこのパン屋さん?」

そう聞くと

「家の。」

と返ってくる。

「ふーん、そう。....え?お家、パン屋さんなの!?」

「そうだよ。」

「ええ、凄いね。ありがとう。渡しておくね。」

小町は物凄いお客さんが来たことに驚き、ポカーンとした雰囲気でその袋を後ろへしまった。

「あの、お姉ちゃんは...?」

少年にそう聞かれると、

「せっかく来てくれたのにごめんね。今あの子、学校の遠足で筑波に行ってて。」

と、小町は残念そうな顔をして答える。

「ああ...。」

「まあ、良かったら座って。もう少し待ってたら帰ってくるかも。」

そう言って、少年にお茶を淹れた。

―――――――――――――――

一方、詩鶴たちの乗るバスの中では、相変わらず休めない程の賑やかさに包まれていた。

「やーい、名取。」

そしてどこで運を使い果たしたのか、前の席には村草が座っている。厄介なことに、いちいち私の方に顔を向けて、ニヤけ顔でちょっかいをかけてくる。

「何だよ。」

「あの山道の隅によお、お前そっくりの蛙が居たぞ。」

私の行ってきた筑波山には、ガマガエルの銅像が沢山飾られてある。この山に棲む蛙から取れた油が止血の塗り薬として使えたことから、古くより語り継がれているのだとか。

それで?私の顔が蛙に似てるって?お前、怒鳴り返しにくいネタをかますな。

そうこうしているうちに、斜め後ろから河島まで乗っかってきた。

「ゲコ。」

「うるせえな、河島まで乗ってくんな。」

「なに言ってんだよ、蛙も案外可愛いもんだぞ?褒めてんだよ、村草は。」

「ふーん、あらそ~う。村草、私のことそういう風に思ってんだあ。」

からかいで返してやると、村草からたった一言。

「ゲコゲコうるせえ、メス蛙。」

「雌は鳴かねえよ。」

即座にツッコむと、何も言い返せず黙り込む村草。勝利を確信した時、河島も一瞬だけこちら側に加勢した。

「言われてんぞ、村草。」

その一言に、膝をつくように悔しそうな顔をした村草が面白くて、思わず吹き出してしまう。

「あはは、私をからかうなんざ百年早いんだよ。」

「くっっっそ。」

しかし調子に乗っていると、河島はすぐに手の平を返した。

「飛び跳ねるように喜び耽るその姿は、まるで蛙そのものであった。」

「もっと言えもっと言えー!...え、今何て?」

「ガマ名取...。」

「蹴るぞお前。」

―――――――――――――――――――

少年は先日の出来事について、小町に詳しく話した。詩鶴に対して誤解していた面もあり、強く叱ったことを少しばかり反省はするものの、

「高校生からドヤされるなんて君くらいの子からしたら怖いでしょうに。相手が悪いにしても手加減ってものがあるでしょ。」

と、すぐに文句へと切り替わった。せっかく誤解を解けたと思った矢先に状況が逆戻りし、困惑する少年。その表情に気づいた小町は、深い呼吸の中で自分を咎める。すぐに、明るく接そうと気持ちを切り替えた。

「ところで君、お名前聞いてなかったね。何ていうの?」

少年に名前を尋ねる。すると彼は

「小金祐一。」

と名乗った。

「祐一君ね。祐一君はさ、学校うまくやってる?」

「うーん、普通かな。」

「そっかそっか、まだまだこれからだもんね。」

小町は、詩鶴が小学生だった頃を思い出した。この子とは正反対に活発で、人懐っこい性格をしていたから、きっとこの子ともしも同級生だったなら大変だっただろうな、と笑う。

「あの子、昔から後先考えずに動いちゃうところがあってね。強いて良く言うなら正義感が強いっていうか、いじめっ子ら相手に突っかかろうとして、いつも泣いて帰ってくるの。」

小町は小金少年に、詩鶴の子供の頃の話をする。少年は黙って聞いていた。

「大柄な男の子相手でも、すぐに文句を言いに行ったりしてさ。身を引くってのを知らないのよ。」

そういうと、少年は呟くように言った。

「良いな、僕もそんな風に強かったらなあ。」

彼はいじめっ子らに対して、簡単に屈してしまうことに恥ずかしさを感じていたのだろう。俯く少年に、小町は言った。

「何も喧嘩っ早いことだけが強さじゃないよ。ぐっと我慢することの方が大事なこともあるから。」

「でも、やられっぱなしじゃ格好悪いよ。」

「格好悪いかな。そもそも、祐一君はどうして強くなりたいって思うの?」

小町が尋ねると、小金少年は顔を上げ、真っ直ぐな目で答える。

「憧れてる子がいる。その子に負けたくない。」

「憧れてる子、ねえ。それってどんな子?」

「誰よりもキラキラしてて、何でも出来る格好いい子!」

少年の話し方はこの瞬間だけ、とても芯が通っているように思えた。先程までのモジモジしたような雰囲気が、見違えるように消えていたからだろう。小町は言った。

「良いね。じゃあ、その子に追いつくためにはどうしようか。」

「いっぱい勉強する。駆けっこ速くなる。」

「良いじゃん。それからそれから?」

「あのお姉ちゃんみたいに強くなる。」

―――――――――――――――――

「そういや名取、お前んちにこの前、小二くらいの男が来てなかったか?」

村草がまたこちらを向いて話しかけてくる。私が

「え、あー。なんか来てたなあ。何で知ってんの。」

と聞き返すと、

「いやあ、なんかそいつ、トイレ借りに来たらお前くらいの女にドヤされたって言うんだよ。」

何だか鼓膜に不快な文字の羅列がぶつかってきた。

「.....。」

「まあ、貸してくれたのは貸してくれたらしいんだが、他に借りに来てた同級生とは随分対応が違ってたようでさ。」

「ちょっと待て、そいつって。」

「昨日、家に従兄弟が来て、そいつから聞いたってだけよ。なーんか聞き覚えのある奴だなあって思って。」

「噓だろ...、あのガキ...。」

「おやあ~?名取さぁぁん、なんだか汗凄いっすよ~?」

「.....。」

状況の整理がつかずに固まっていると、村草は耳打ちするように小声で言う。

「ところでお前んち、未だに和式なんだって?」

私は心の底から誓った。一秒でも早くこいつを始末せねばならない、と。

―――――――――――――――

少年は、電源の切れたテレビの暗闇をじっと見つめた。

「あのお姉ちゃんみたいに堂々としてて、優しくて、強くなきゃ、あの子には勝てないんだ。」

口から溢れ落ちた少年の言葉に、小町は腰に手を当てて呟いた。

「優しくて、強い、ねえ...。あの子もそんな風に思われるようになったか。」

「だって凄いんだよ?相手が何人もいるのに、たった一人で僕を守ってくれたんだ。」

「ふふ、あの子らしいね。でも無謀さは見習っちゃあ駄目だよ。」

「むぼう?」

「何も考えないで強い相手に挑もうとすること。」

「お姉ちゃんからみたら、全然強い相手じゃないよ。」

「そうかもね。でも、その弱いいじめっ子たちにも味方はいる。その味方がウンと強かったら大変だよ?」

―――――――――――――――――――――

「やーい、お前んち、和式便所~。」

「悪いか!!別にどっちだって良いでしょ、そんなこと!!」

「え、そんな怒る?あ、もしかして気にしてた?ごっめーーーーん。」

「てめえ、窓の外が高速道路って分かってて喧嘩売ってんのかコラァ。」

今日の村草はいつもに増して鬱陶しい。別に特別変わったことでもないけど、そんなことを皆のいる前でデカデカと言いふらすなんてモラルが終わってるだろうが。車内で村草に掴みかかって暴れていると、先生が大声で怒鳴った。

「お前らいい加減にしろ。二人とも降ろすぞ。」

―――――――――――――――――――――

「多分、強くないよ。」

「ああそう...。」

少年にアドバイスをするつもりが、あまりにアッサリとこの言葉が返ってきて啞然とした。

 

つづく。



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76.下町少年のラプソディー -後編-


「やめてよ。」
廊下に響いた声に少年は驚いた。目の前に居たはずの苛めっ子達の姿が香里の背中で見えなくなったのは、登校を終えて朝礼前のこと。頭の中が真っ白になったような緊張がこの空間に流れ、彼の中では音という音が無くなったかのような感覚に陥っていた。
「そうやって大人数で責め立てて、恥ずかしくないの?」
香里が問いただすと、彼らは何も言い返すこと無く、最後にはほくそ笑んだ顔をして去っていった。少年は香里に
「ありがとう。」
と、弱々しく言った。すると香里は
「言われてばっかじゃ駄目だよ。」
と言って優しく叱る。そんな彼女を前に少年は、ただ頷くことしか出来なかった。


 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.76「下町少年のラプソディー-後編-」

 

「ふーん、それで何か恩返しがしたいってわけ。」

「うん。」

僕は居酒屋のお姉ちゃんに尋ねた。いつも香里に良いとこばかりを取っていかれるから、自分だって格好良いところを見せたいと思っていた。

「女の子って何あげたら良いの?」

僕は素朴な疑問を投げかけた。するとお姉ちゃんは首を傾げて考え始める。

「うーん、私なら純粋にお菓子だけど。人それぞれじゃない?」

「お菓子かあ。」

「あ、手作りだと惚れちゃうかも。」

「でも、お菓子なんてどうやって作るの。」

「クッキーとか、マフィンとか。小麦粉練って、砂糖入れて、あと何かブァーってやって焼くだけ。」

「え、そんな簡単なの?」

「はは、成功した試しないけど。」

「真面目に答えてよ...。」

僕が呆れ顔を見せると、お姉ちゃんは頬杖をついて反論した。

「だぁーってお菓子作りは専門外だもん。好きな子に魚の煮付けとか送れないでしょ?」

「手で食べられる方が良いね...。」

「でしょ。でもメニューにそういうの少ないんだよね~。腐っても居酒屋だし、ここ。」

しばらく考えあぐねて、いつか二人は腹の虫を鳴らした。お腹が減っては頭も回らない、とお姉ちゃんが弱音を吐くと、今日持ってきたパンのことを教えた。

「え、ほんと!?」

お姉ちゃんは目をキラキラと輝かせ、お母さんを大慌てで呼んだ。そしてその袋をテーブルに出すと、一緒に食べよう、と言い出す。お店のことは大丈夫なのかと聞いたが

「あーん、大丈夫大丈夫。ご馳走の方が大事。」

と、呑気なことを言う。お姉ちゃんのお母さんも、

「まだお客さん来る時間じゃないしね。ちょっとお茶にしましょっか。」

と言うので、多分大丈夫なのだろうと気休めに胸を撫で下ろした。

さて、ティータイムということで、二人の女性に事情聴取の如く普段の生活を根掘り葉掘り聞かれた。授業のことにしても、給食のことにしても、決まって彼女らは

「わあ、懐かしいな。」

と、語尾につけて談笑するので、定期的に会話についてこれない。中学とか、高校とか、まだまだ先の話で全く想像がつかない。でもどうやら聞く限り、このお姉ちゃんは昔からずっとこんな感じだということが分かった。それについて尋ねてみると

「あはは、私が変わったら地球無くなるよ。」

なんて、とんでもない言葉を返してくる。人間とはそう簡単には変われないらしい。

会話の中、お姉ちゃんがパンに何口かほどかぶりつくと僕の目を見て言った。

「祐くんさ、家がパン屋さんなんだって?」

「え、うん。それがどうしたの?」

「香里ちゃんへのプレゼント、それにしなよ。」

すぐに何か返答をしようと思ったけど、言葉に詰まった。お姉ちゃんは続ける。

「手作りで気持ちも伝わるだろうし、手軽に食べられて良いと思う。私ならキュンときちゃうなあ。」

「.....。」

「どうしたの?」

「お父さん、許してくれるかな。」

「厳しいの?」

「うん。」

俯く僕に、お姉ちゃんは言った。

「それを乗り越えられたら、きっと誰よりも心を込められると思うよ。」

 

それから僕はお父さんに言った。

「僕もパンを作りたい。」

分かっていたけど、そう簡単に頷きはしなかった。僕がどれだけ真っ直ぐな目で訴えかけても、それに動じることはなかった。

お母さんにその事を話すと、夕飯を一緒に作ろうと言われた。料理経験のない僕にとってはまずそこからだと。言われた通りに材料を運び、お皿を出して、僕は誰よりも速くこなすつもりで働いた。野菜を洗うのも、皮をむいたりするのも、何一つ無駄のない動きでやったはずなのに。

お父さんは褒めてくれた。でも、パンを作らせてと頼めば、また再び口を閉ざした。

そんなことを何日か繰り返していくうちに自分が分からなくなり、僕はまたお姉ちゃんのいる居酒屋を訪ねた。

「あ、いらっしゃーい。どうしたのー?」

気前良く挨拶をしてきたお姉ちゃんに、僕は言った。

「お姉ちゃん、どうしたらお料理上手くなる?」

「え?」

いきなりのことでキョトンとするお姉ちゃん。

「実は....(かくかくしかじか)」

事情を説明すると、お姉ちゃんは

「あはは、やっぱ一筋縄じゃいかないよね。」

と陽気に答える。

「笑わないで。真剣なんだよ?」

そう言い返すと、お姉ちゃんは一言

「分かった。じゃあ見せてみて、どんな風にやってるのか。」

と言って、キッチンから具材をいくつか取り出してきた。

「何作った?」

お姉ちゃんが聞く。

「シチューの下ごしらえとか。」

「おー、難しいのやるじゃん。」

「うん。でもね、お父さん全然認めてくれないの。」

「うーん、そっかあ。ま、それじゃあ取り敢えず簡単なのからやろっか。一緒にやったげるから作ってみて。」

お姉ちゃんはそう言って僕をキッチンへ誘った。目の前にはじゃがいもや、人参など、色々な食材が並んでいる。

「やって良いの?」

「うん、やってみて。」

僕は普段と同じように作業した。何一つ無駄のないように素早く、完璧に。目に見えている分のことは全て片付けて、僕はお姉ちゃんに誇らしげな顔を見せた。

するとお姉ちゃんは言った。

「速いね~、さすが。」

その言葉が褒め言葉に聞こえた僕は

「でしょ。なのに何が駄目って言われるのかな。」

と尋ねる。お姉ちゃんは答えた。

「確かに速い。とっても速くて、お客さんを待たせないだけの腕がある。」

「えへへ。」

「でもね、料理って待たせないことだけが重要なのかな。」

「え?」

全く予想もしてなかった問いかけが急に来て、僕はお姉ちゃんの目を真っ直ぐに見た。

「じゃあ問題ね。人にあげるプレゼントを作るとしよう。君は何を考えて作る?」

「うーん....、驚く顔?」

「惜しい。」

「相手の喜んでるところ。」

「そ、正解。それが今の君に足りないものだ。」

「どういう意味??」

僕は首を傾げた。お姉ちゃんはエプロンをササッと巻くと、こちらを向いて軽く微笑む。

「気持ちを込めて作るって言うじゃない。香里ちゃんにプレゼントしたいから作りたいって言ったんでしょ?」

「うん。」

「少なくとも私には、気持ちを込めて作ってるようには見えなかったな。速いけど、ただ速いだけ。」

「どうすれば良かったの...?」

「まずは余裕を持つこと。速さを競うようにやってたら他のことに意識がいかない。例えば、いかに美味しいって言って貰えるかなら、そのやり方じゃ絶対に出来ないよ。」

「丁寧にやれってこと?」

「まあ、まずはそこかなあ。でも一番大事なのは、貰う側のことを考えながら作ることだね。」

「そんなのどうやってやれば良いの...。」

「簡単だよ。「こういう味付けだったら喜ぶかなあ」とか、「これ加えたらあの子好みの味になるはず」とか、そんなことを考えるだけの遊び心を持つこと。」

お姉ちゃんは続ける。

「速ければ何でも良いんだったとしたら、それは料理じゃなくて餌だよ。少なくとも私は、大切だと思う人には、とっておきのものを食べさせてあげたいな。」

「とっておきの...。」

「さあて、君にその気持ちを持てるかな?香里ちゃんを振り向かせられるほどの男になってみせな。」 

お姉ちゃんからの言葉は僕の背中を押し、心に火をつける。何かメラメラと燃えるようなやる気が溢れてきた。





数日後

手作りのパンをプレゼントしたいと言っていた少年が、また店にやってきた。彼は私に会うなり
「お姉ちゃん!」
と嬉しそうにはしゃいでいた。これは吉報だな、と察し、敢えて
「久しぶり。どうだった?」
と結果を聞いてみる。
「僕やれたよ!上手く行ったよ!」
予想通りの答えを少年が口にしたので、私は笑顔で彼を祝福した。少年も満面の笑みをその顔に浮かべ、喜び勇んでいた。
私は彼にお茶を入れて、話を聞くことにした。あれから一週間と数日ほど経ち、パンの修行に勤しんでる中なのだろうと予想していたが
「貰ってくれた、貰ってくれた。」
もう既に渡せた後らしい。行動もさることながら、この子に流れる展開までも速い。状況を理解するのに数秒間の沈黙を有したが、この子の顔からしてハッピーエンドに終わったのだろうと察し、ホッと胸を撫で下ろす。
私はこの子から、渡せるまでの工程を色々聞かせて貰った。最初は何度も怒られ、心が折れかけたことや、それでも目標に辿り着きたい想いでここまでやってこれたこと、その一つ一つを彼の言葉で聞くことが出来た。
「よおし、頑張ったお祝いに好きなもん頼みな~。作ったげる。」
こうして少年の小さな夢がひとつ叶った。その力のひとつになれたと思うと、何だか心が温かくなったような気がする。問題も解決したことだし、次はいつ会えるか分からないだろうから、出来る限り盛大に祝ってやることにした。

――――――――――――――――――

「はい、シーン2の撮影終了です!次の現場へ移動しまーす!」
慌ただしい現場の一工程を終えると、次へ次へと積み重なる撮影プランを休むことなく、一つ一つ終わらせていく。次のロケ地へとバスで移動することになり、香里はその車両に乗り込んだ。
バスの移動中、マネージャーと思われる女性が香里に伝えた。
「次の現場、ちょっと時間かかるだろうから何か少し入れといた方が良いかも。」
窓の外を見つめる香里、その車窓に重たい疲れも流してしまおうと、小さなため息を吐いた。
「もうちょっとだよ。次の現場で今日の撮影は終わりだから。」
「はい、頑張ります。」
次の撮影は同級生の転校シーン。駅前で最後のお別れの会話を交わし、最後に小さくキスをし、走り去っていくという場面だ。台本に目を通しては車窓に目を向け、それを繰り返している香里。スタッフの一人が
「やっぱ学校でも人気者でしょ。妬けるだろうなあ。」
と気軽に声をかけたのに対し、
「あはは...。」
と失笑をする彼女。東京の街明かりを横目に香里は、祐一から貰ったパンを鞄から取り出した。すっかり冷めてしまっていたものの、手に取ると甘い匂いがふわっと香る。いつも不器用なあの子が作ったというのが分かるくらいに、形は雑で、見た目も酷い有り様だった。しかし香里がそれを口にすると、
「え、美味しい。」
そう言葉を溢した。
「誰から貰ったの?」
マネージャーが尋ねると
「幼なじみ。」
と答える。
「へえ~、素敵だね。」
とても美味しいのだが、喉を通る度に突き抜ける甘さは少しクドさを感じた。そんな、どこまでも完璧には出来ないところが彼に似ている。香里はその味を舌に感じる度に、祐一の姿を浮かべるのだった。

「次、香里ちゃんの撮影入るよ。」
控え室の香里に届いたスタッフの声に、ふと体が固まる。少し遅れて
「はい!」
と答えると、香里は貰ったパンの袋を捨てずに鞄にしまい、言い忘れていた「ありがとう」を小声で呟いた。目の前にスタッフがやってきて
「あ、いたいた。次、君のシーン。行ける?」
と言われると、そっと振り返り、どこか先ほどより大人びた表情で
「頑張ります。」
と答えるのだった。

-下町少年のラプソディー.おしまい-


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77.河島家の初冬

 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.77「河島家の初冬」

 

白い窓を片手で拭き、冬雲のかかる空を見た。この頃、肌寒さが気になってしょうがない。布団から出て間もないが、はやく戻りたくてしょうがない。

長い長い今週の学業を終えた後の休日。何も予定が入っていない土曜日というのは何とも暇なもので、かと言って特別仲が良い訳でもない家族と一緒に過ごすというのは休日が勿体なく感じる。電気ストーブの前で漫画でも読めたら最高なんだが...

「お姉ぇ、独り占めしないで!」

何だか居間がうるさい。一つ溜息をついて布団に戻ろうとすると、母がそれを畳んでいる最中で

「自分の分くらい自分でやりなさいよ、男なんだから。」

と、朝一から説教される。ああ、どっか遠くへ行きたい。遠くへ一人旅して、誰からも何も言われない時間が五分で良いから欲しい。

布団を畳むと、もう戻れない温もりが恋しくなって居間に向かった。が、しかし

「お兄、ちょっとお姉どかして。ずっとストーブ独り占めしてんの。」

妹から面倒臭い要求が飛んでくる。こういう時の姉はマジで言うことを聞かないから放っておきたいんだが、...寒いのはこちらも同じだ。俺は仕方なく説得を試みた。

「お姉、煙草でも吸って来いよ。」

お姉の三大欲求(四つ目)を突いてストーブから離れさせようとする。しかし、それを聞いた姉は何をとち狂ったのか

「あ~、それ良いねえ。へへへ。」

と言ってポケットの煙草を取り出し、それを電気ストーブの電熱に当てようとし始める。俺は咄嗟に取り上げて

「おいバカ、外で吸え。」

と低声を唸らせた。

「ちぇーっ、エイのケチぃー。」

「ったり前だろ。火事んなったらどうすんだ。」

「それはそれで温かい。」

「もう分かったからとっととキメて来い、外で。」

そう言って姉を追い出すと、妹と半分ずつストーブの灯に手をかざした。姉がベランダの戸の前で何かぶつくさと文句を言っている。

「はあ、か弱い女を寒空の下に放り出すとは。男ってぇ生き物はこれだから...―――」

「戸閉めろよ。」

「けぇーっ、この一生童貞ぇー!」

姉の一撃が刺さり、地味にイラッときた。しかし言い返すまいとグッと堪え、温もりの方を優先する。戸がガラガラと音を立てて閉まると、姉の後ろ姿の奥に煙がのぼった。何はともあれ、これで寒さは少し凌げる。

「はあ、せっかくの休みなのに全然落ち着けん。」

大きなあくびをし、文句を垂らすと、妹は首の一つも動かさないで言ってきた。

「どっか出掛ければ?」

「...女ってぇ生き物はこれだから。」

「狭いんだけど、もうちょっと向こう行ってよ。」

妹からは文句三昧。我儘ばっか、自分のことばっか。喉まで出かかってるけど、言い返したらどうせ手が出るまで止まらなくなるんだろう。もう何か、こんな休日にあまり無駄な労力を使いたくない。

「我慢しろ、ストーブこれしかないんだから。それか何か取ってきてやるからブツブツ言うな。」

互い、居心地悪そうに一つのストーブの温もりを分けながら、暫く黙り込んだ。

「今日から明日にかけて冷え込む寒さとなっています。お出かけの際は、服装に十分注意してください。」

チューナーを繋いだブラウン管のテレビからは天気予報が流れる。よりによって出掛けづらい気温になっているそうで、皮肉にも居場所を完全に失った。

ふと妹に話しかけてみる。

「小春。」

「うるさい。」

「あ?」

一言目からいきなり冷たい態度を取ってきたのに対し、何がそんなに気に障るのかと妹の方を向くと、俺が読もうとしていた漫画を勝手に読まれていた。一瞬、本当にぶん殴ってやろうかと思ったが、それを通り越して呆れが押し寄せる。思わず小さな溜息を吐く。もう何ならノリに乗ってやろうと思い、妹が一息つくのを待った。

「ふう。」

「ジェシー、時々良いとこ見せるんだよな。」

「まー、とんでもない悪女だけどねー。」

「まあな。でもソイツの能力めっちゃ使えるから、正直仲間にいると勝ち確で面白い。」

少しだけまともな会話が成立してホッとする。いつも一言二言喋るとすぐ空気が悪くなるから、お互い他人みたいに何も話さない日もあるくらい。歳の近い兄妹ってロクな事がないけど、近いなりに同じ世代の趣味を持ってるというのは唯一の救いなのかも。

妹は床に寝転がると、リラックスした様子で爆弾発言をした。

「まあジェシー死ぬんだけどね。」

「まージェシーだしなー。.....は?」

「え?」

「お前いま何つった。」

「ジェシー死ぬって。」

「.....。」

「あ、ごめん、読んでなかった?そこまで。」

「...おう。」

四秒前後の沈黙が流れる。多分それくらいだが、異様に長く感じられた。ピリピリした緊張感の中、妹は寝転んだまま、キリッと親指を立てて一言

「許せ。」

と真顔で抜かす。せっかくの楽しみがまた一つ奪われてしまい、我慢ももうそろそろ限界に達そうとしていた。

「お前くたばれ、マジで。」

握った拳に爪が食い込む。

「お兄が早く読まないのがいけないんじゃん。」

「お前が勝手に取ってんだから読みようが無いだろ。」

イライラが限界に達そうとしていた時、後ろから突然姉に飛びつかれた。

「ほげーー、寒い寒い寒い寒い。私も入れてー。」

二人の首筋に物凄い冷たさの腕がのしかかる。

「わああああああ!!」

互いに悲鳴を上げ、振りほどいて直ぐ、一緒になって姉に怒りをぶつけた。

「何やっとんじゃあワレぇえ!!」

「だあって寒すぎるんだもん外。よくもこの極寒のなか煙草を勧めてくれたなあエイ!ちょうど吸いたいっては思ってたけどー!!」

「お姉がストーブ独り占めしてどかないからだろ!!」

「それとこれとは別ですぅー。」

「別じゃありませんー。」

「お兄ももう少し良い案出しとけば―――」

「何だコラやるか!」

三人が一緒くたになって喧嘩していると、そのドタバタを聞きつけた母が大股でこちらに近づいてきて

「あんたらうるさい!近所迷惑で怒られたらどうするの。そうなったらアンタ達で謝りに行きなさいよ!!」

滅茶苦茶に怒られた。

 

それから三人でストーブの周りに泣く泣く身を寄せて固まり、暖をとった。出来ることなら三人とも離散して別々のことをやりたいと思っているだろうけど、寒すぎてそれどころじゃない。本当ならここで暖房を付けるという手段が取れるはずなんだが、数年前に壊れてから「直す金がない」となって今のままだ。

そんな風に俺らは、昔から貧乏暮らしだった。同じ屋根の下で誰かが笑えばみんな笑い出し、怒り出せば嫌でも巻き込まれる。楽しかろうと辛かろうと、何もかもを分け合わなきゃいけない窮屈さがいつも付き纏っていた。

「犯人だーれだ。」

姉は吞気な声色でふざけたことを言い出す。体操座りで籠ったその声が二人の耳に届くと、絡むのも面倒だと言わんばかりの態度で返した。

「お姉、ストーブ取り上げられる前に話題変えろよ。」

「ちぇー、今日暇なんだから少しは乗れよ。」

「俺も暇だよ。出来れば外出たいけど寒いんだよ。」

そう突っぱねると、今度は姉は妹に話しかける。

「コハー。」

「なに?」

「しりとりしよー、「暖房」。」

眠たそうな声で唐突にしりとりを始めだした。

「羽毛」

それに妹が乗っかる。この状況で乗られると、こっちの逃げ場が無くなるから辞めてほしいんだが、

「エイ、次。「う」。」

ほら来た。姉は俺が答えるのを催促して来た。

「勝手にやってろよ、巻き込むな。」

「う。ほら、はよ。」

「チっ、ああもう。「売り子」。」

「こ、「こたつ」。」

姉が「こたつ」と答えると、続けて自分で

「こたつかあ。」

と言って微睡んだ顔になる。妹はそれに対し、

「あ、確か押入れにしまってなかったっけ?」

と返した。妹は、俺が

「出すの面倒臭い。」

と言い切る前に

「お母、こたつどこ仕舞ってたっけ。」

と言って立ち上がり、母のもとに向かった。唐突に始まり、唐突に終わるゲームに、乗ってやった自分が馬鹿らしく思える。呆然と固まって何も言葉が出なかったが、せっかくなら妹が戻るまでの間、空いた一人分のスペースを存分に使って温まろうと思った。

 

「はあ、短い幸せ。」

と呟いた俺を、姉は鼻で笑うと

「自由ならお外にあんぞ。」

と、ニヤニヤした顔でからかった。

木枯らしが窓を叩く音が、まるで嫌味かのように鼓膜に触れる。頭の重さに悩みつつ、今日朝起きて何回目かも忘れた溜息を吐いた。

「お姉。」

「ん。」

「一人っ子時代の感想を聞かせても?四年分たっぷりと。」

「忘れた。」

 

つづく。

 




2023.12.5
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78.三馬鹿の同窓会

 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.78「三馬鹿の同窓会」

 

とある昼下がり。町の小さな交番に詩鶴がやってきた。

「あ、すみませーん。」

その声に気づいた土浦警官が顔を上げる。

「はい。あ、あの時のお嬢ちゃん。どうも。」

「....?」

ぽかーんとした顔を見せる詩鶴。

「どっかのカッコつけ探偵の元同僚だが...、覚えてる訳ないか。」

「あー、えっと....。ごめんなさい。」

あはは、と苦笑いする土浦だが、それもそうか、と納得する。前にあったのは詩鶴が夏休みの頃だ。一回顔を合わせただけの男を半年近く経って覚えていたら逆に凄い。

土浦は一呼吸で気持ちを切り替え、仕事モードに入った。

「で、どうしたんだい?」

「あ、そうそう。これ、公園に落ちてました。」

詩鶴はそう言って土浦に落とし物を渡す。

「え、こりゃあ随分と貴重品だな。」 

それはポケットに入りそうなサイズの財布だった。

「あ、一応。中身は手つけてないです。」

詩鶴は何気ない顔で言う。

「いや、うん。手つけるような子だとは思わないよ。」

そう言いながら土浦は、やたら入念に財布に目を通すので、変に思った詩鶴は首をかしげた。それに気づいた土浦警官は

「何かこれ、見覚えあるんだよなあ....。」

と呟く。

「知り合いの財布だったり...?」

「ああ、本当かは分からないんだが。」

スパイ映画に出てきそうな、やたらとポケットの多い黒の財布。折り畳みが出来て、そのほとんどの面に使いどころの分からないポケットがいくつも付いている。土浦がその財布から免許証を見つけると、それを取り出した途端に身体が固まった。

「...お嬢ちゃん。」

「?」

「ちょっと待ってて。」

「??....ええ。」

土浦警官がトボトボと裏へ入っていくと、すぐにペットボトルのお茶と、小袋を持って詩鶴の元に戻ってきて

「お詫びの粗品だ、受け取ってくれ。」

と言い、ガクンと椅子に座り込んだ。

「え、どうしたんです?」

「ああ、クッキーが入ってる。」

「いや、え?何で??」

「良いから良いから。コルディで買った上物だ。出来れば家に帰って、珈琲か紅茶で嗜むのをオススメするよ。」

「よ、良く分からないけどありがとう、お巡りさん。」

詩鶴は始終きょとんとしたまま交番をあとにした。その背中を見届け、視界から消えると大きな溜め息を吐いた土浦。

「ああ、嵐の前の何とかだ...。」

そうぼやくと、暫くして何やら聞き覚えのある声同士の言い争いが土浦の耳に届いた。そして先ほどよりも大きな溜め息を吐き、頭を抱えだす。瞬く間にその声が目の前までやって来た。

「聞けって四倉、さっきまでポケットに入ってたんだよ!」

「さっきあっても今ないんじゃ不保持だ。」

「だから今探しに戻ってる最中なんだって。心当たりあるとこまで押して歩けってか。」

「そうだ。」

「そうだじゃねえよ。お前も大型で見回ってんだから重さ分かってるだろ。」

ズカズカと元相棒達が交番にやってきて言い争いを続けるので、土浦は呆れ顔で手元の財布を机上に立てる。

「お探しのものはこれか、探偵。」

すると入崎は目をキラキラと輝かせ

「おー、土浦!さすがは地域課エリート、お前にかかれば捜査課いらずだな!」

どの口が言う。

「なあ土浦、お前もちょっと言ってやれよ。元同僚に対して冷たすぎるって。」

「四倉、書類はもう書いてるか?」

「その机、借りて良いか?」

「おい、ちょっと待てお前ら。」

入崎がごねるのを手慣れた様子で受け流し、違反の報告書類を書く四倉。その机の反対端に入崎が肘を付いて文句の続きを垂らしている。

「相変わらず生真面目な奴らだ、本当。公務員ってのはどうしてこう、融通の利かない頭でっかちがわんさかと...」

「入崎、」

土浦がそう言いかけ、続ける。

「現役の前だぞ。」

「けっ、なんだそりゃ。」

「知り合いの顔パスで違反を免除するのは汚職扱いなんだよ。なあ、四倉。」

「今書いてる。」

「だそうだ。」

入崎は詰まらなさそうな顔でため息をついた。

「ああ、結構点数来てるってのに。」

「相変わらず運転は荒いみたいだな。」

「仕事でやむを得ない場合だけだ。」

「本当か?前に停止線越えたあれは時間外だったんじゃないのか?」

「ほっとけ。」

土浦と嫌味をぶつけ合う二人。その合戦に疲れたみたいで、入崎はふと話題を変えた。

「公安の長谷川はまだいるのか?」

「さあな、部署が違う。長谷川がどうかしたのか?」

「免許、確かいま五点だったはず。免停は確定だ。あいつの教え方、高圧的な上に長いんだよ。」

「何言ってんだお前、不保持は加点対象外だぞ。」

「え?」

四倉が書類を書き終えると、土浦は

「お前、刑事やめて道交法も忘れちまったか。」

と言いながら四倉からの書類を受け取り、判子を探す。入崎は反論した。

「辞めて何年経つと思ってんだ。」

それに対して四倉が少し微笑みを見せる。

「その割には捜査協力にも励んでるらしいじゃないか。署でも時々、お前の名前を耳にするぞ。」

「ああそうかい。だがお前に切符切られた分の汚名でどっこいこっこいだ。」

「ふっ、そりゃあどうも。」

入崎は土浦の方を向き、高校生のようなノリで絡んだ。

「なあ、聞いてくれよ土浦。どっかの誰かさんから自分の娘の写真撮ってこいって依頼出されてよお。」

四倉が赤面する。

「ば、ばば、馬鹿、何を言い出す。」

土浦、無気力な目つきで

「本当かあ、四倉。」

と尋ねた。

「しししし、知らん、そんな男。それに、娘の体育祭に仕事と重なりでもしたら、そういう依頼する奴がいても不思議じゃないだろう...!」

土浦、ジト目になる。

「四倉。」

「な、何だ。」

「お前、本当に元一課か...。」

「.....。ここの三人、全員そうだろう。」

「...三馬鹿一課の一員だった俺が言うのもなんだが、降ろされたのも納得だよ。」

呆れ顔の反面、土浦は少しホッとしたようなため息を吐いた。入崎が笑みを浮かべる。

「写真の出来の感想を聞いても?」

四倉は真っ赤になった顔を隠しつつも、小声で

「良かった。」

と呟くように言った。

「そうか、苦労して入校許可証を取った甲斐があった。」

「良かったんだが...、」

「おん?」

「一枚だけ、どアップで酷く驚いた顔をしていたんだが。お前、明希に何した。」

「....。遠くからの写真だけじゃバリエーションが少ないだろうと思って。」

「理由になってない。当時の状況を聞いている。」

捜査課時代の口ぶりで問い詰める四倉。その静かかつ、強烈な緊張を与える尋問に入崎が容易く折れる。

「明希ちゃんの友達から相談役も任されてまして、相談のついでに撮ったら驚かれた。私からは以上です...。」

「そうか、それは世話になったなあ。」

「あの、マジで怖いんでそれ以上顔近づけんでください。」

 

尋問を話半分に聞いていた土浦は、二人の空気に割って入るように喋りだした。

「ほら入崎、指貸せ。」

「あー...?あー、はいはい。勝手に借りてけ。」

そう言って机にポン、と乗っけられた手の人差し指を引き、違反切符に指印を押させた。入崎は脱力した様子で四倉の小言を受け止めている。しかし、目線はすっかり土浦の手元の方に向いていて、まるで話を聞いていない。

「違反金はここから受け取っとくぞー。」

財布から抜き取られていく現金に、入崎は彼の説教を遮って話す。

「ああ、現ナマが....。」

「おい、まだ話がおわ―――」

「なあ土浦、今回は口座振替とかにしてくれないかなあ。珈琲買おうと思ってたんだよ。」

土浦は言い返した。

「珈琲に三千円も掛かるかよ。」

「ブルマンはそんくらいするんだよ。」

「贅沢もんが。小銭で買える範囲で我慢しとけ。」

「お前が買ってきたとかいう茶菓子のために張り切って買おうと思ってたのによ。みんな一緒くたになってカツアゲか?コノヤロー。」

「ああ、それのことだが。」

「何だよ、早く出して来いよ。ここに有るもんで淹れてやるから。」

「ああ、すまない。やったよ。」

土浦の一言で、ここに三人も人がいるとは思えないような静寂が訪れた。

「なんだって?」

「お前の財布を届けに来てくれた優良区民に。」

混乱と困惑の中で、何とか奮闘して言葉を絞り出そうとする入崎。

「いやお前...そんなのありかよ。」

などと纏まってないままの言葉を溢すも、最後には諦めたような溜息を吐いた。

「で、誰にやったんだ。」

「あんたが撮った女子高生のお友達だよ。」

「.....ああ。」

「分かったか。」

「ああ。俺を盗撮魔みたいに言うな。」

 

気づけば交番は、三人が同じ部署にいた頃のような空気に包まれていた。互いを馬鹿にし合ったり、下らない世間話を交わしていたあの頃に。今ではみんなバラバラになり、顔も当時からすればすっかり老けたようだが。

「そろそろ仕事に戻る。」

そう四倉は短く告げると、トコトコと歩き去っていった。

「さ、同窓会は終わりだ。お前もさっさと帰った。」

軽く笑みを浮かべ、シッシと手を縦に振る土浦。入崎が

「相変わらず仕事以外になるとどこまでもつれねえ奴らだ。」

とぼやくと、

「ははは、お前にだけは言われたくねえよ。」

と笑って返す。土浦は去り際の入崎へ続けて言った。

「お前もいい加減、思い出にしがみついてばかりいるなよ。」

足を止める入崎。一呼吸ほど黙ると、先ほどよりもずっと落ち着いた声色で言った。

「余計なお世話だ。」

 

つづく。



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79.長距離列車

 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.79「長距離列車」

 

晴れた放課後の帰り道、私は明希を連れて町の喫茶店へと入った。昔からやっていて、メニューも中々に良いと瑞希から教しえてもらいやってきたのだ。...その肝心の瑞希が今日は予定で来れないみたいなんだけれど。

扉を開けて数秒、私たちは入口で立ち止まってしまう。というのも、

「お洒落...。」

と、思わず声にしてしまうような素敵な内装で、店主の趣味なのか、古い駅看板の一部なども飾られていた。辺りには沢山の植物が植えられていて、なんだか少しジャングルみたい。席に座り次第、私ははしゃぎたい気持ちを抑えきれないまま明希に話しかける。

「ねえねえ、明希明希!!」

あちこちに指を差し、細かい装飾の一つ一つを明希に教えようとするが、興奮状態で迫る私に彼女は苦笑いで

「分かったから落ち着いて。」

と両手で宥め、幾粒もの冷や汗を浮かべていた。

やがてお店の人がメニューを持ってくると

「うちの詩鶴がすみません。」

と、明希が大真面目に頭を下げた。

店員さんは

「気にしないで。それにお客さんも君たちだけだし。」

と言って笑い、

「わあ、貸切だあ。」

私はそう言って目をキラキラさせた。

「うち宣伝とか一切しないから、本当に知る人ぞ知るって感じの場所でね。」

そう話を聞き、よりこの空間に特別感を覚える。新聞の片隅にでも載ろうものならきっと、今日来たこの日も確実に満席だったに違いない。そのオーラがメニューを開く前からでも伝わるほどだった。しかし、誰からもこの店の位置を教えられずして見つけるのは至難の業だろう。住宅街の一角にひっそりと佇み、外に何かお店だと分かるものも立てられていない。扉の周りには花壇が並べられ、緑色に塗装された扉があるだけ。一見じゃあお店だとは思わない。そんな場所をどこで知ったのかと尋ねられ、

「友達から。」

と答えると店員さんは、誰だろう、と考え始めたくらい。

メニューを開くと写真はなく、文字だけが並んでいて、私は真っ先にオムライスに目がいった。学校帰りでお腹が空いている私にとっては、文字だけでも凄まじい食欲にかられる。

「ごゆっくり。決まったら呼んでね。」

と言って店員さんがキッチンへ戻っていく。私は明希に話しかけた。

「ねえねえ、何頼む?喫茶店のオムライスって絶対美味しいよね、きっと。私こういう所でご飯とかあまり食べたことないからさ、なんかメニュー見てるだけでも涎が...。ねえねえ、明希はなんか良いの見つけた?見つけた?」

上記、ノンストップ語り。

「鶴ちゃん。」

「うんうん、なになに?」

「落 ち 着 い て 。」

「...ごめんなさい。」

 

それから私たちはそれぞれ注文をし、しばらくお喋りに耽っていた。すると気づけば料理は目の前にやってきた。話に夢中になっていたせいか、あっという間だった気がする。

明希は珈琲と軽いお茶菓子を、私は豪勢にオムライスとオレンジジュースを頼んだ。二人手を合わせ、いただきますを言う。それからというもの、料理を口に運ぶ手が一瞬たりとも止まらない。なんてったってお腹が空いていたんだ、仕方がないだろう。上品に茶菓子を嗜む横で、まるで野生児のようにオムライスを口に運んでいる。チラッと横目で明希の顔色を伺ってみると、手に取るように感情を読み取れる、分かりやすい表情をしていた。

「鶴ちゃん、いい加減にしないと私怒るよ。」

そんな心の声が痛いほどに伝わってくる。メラメラと燃え盛るようなオーラにビビり、冷や汗が雨粒のように浮かび上がる。思わず

「ごめんなさい。」

と言葉を漏らし、思いつく限りの淑女の所作を心掛けた。

 

時間が経つに連れて空腹を騒ぎ立てていた胃も大人しくなり、心も少しずつ落ち着きを取り戻してきた頃。明希が店の装飾の一つを指差し

「あれ、何の記号だろう。」

と呟く。彼女の指差す場所に目をやると、横長のプレートにはカタカナで「ナシ」の文字、その隣に数字がいくつか並んでいる。

「さあ。何か機械の部品みたいな?変わったのに興味持つね。」

「いや、ちょっと気になっただけ。」

明希がプレートを見つめていると、店員さんが彼女に話しかけた。

「それね、元々電車に付いていたものだよ。」

「え、も...もしかして本物...?」

突然話しかけられたことに驚き、明希は緊張の中で恐る恐る尋ねた。

「ええ。旦那がオークションで買ったって言ってきた時には腰を抜かしたわ。通帳のお金がすっからかんになっているんだもの。」

それを聞いた私は脳内が「?」で埋め尽くされ、思わず聞いてしまった。

「え、この記号にそんな価値が...??」

「あはは、本当よね。」

店員さんは私の質問に思わず笑いを溢す。首を傾げたままの私に店員さんは続けた。

「もう走ってない列車でね。ブルートレインって言う、遥か遠くの町まで走るやつに付いてたの。」

「へえ。」

「これはその食堂車の記号。昔の特急には中にレストランがあったのよ。」

電車にさほど興味はなかったけど、レストランの文字には動物的に反応した。

「レストラン!?」

手の平を返したように突如尻尾を振る私に、明希はまた私をジト目で見始める。

「そうよ。北は北海道、南は鹿児島とかまで一晩中、ものによっては一日中乗ってるから、そういう息抜き出来る場所が必要だったのよ。」

「うわあ、一日中は乗りたくないなあ。」

「まあ、特別美味しいわけじゃないし、高いからね。景色を見ながら食べられるのが唯一の救いかな。」

何だか聞けば聞くほど、上げて下げられてが連続している。素敵とはいえ長時間乗車という苦行、景色が綺麗とはいえ、高くて味も普通、おまけに揺れるだろうし。旅情というロマンには、それ相応の犠牲が伴うことが分かった。会話の中で、店員さんはさり気なく「若い頃はよく連れまわされた」と話していた。良くも悪くも大変だっただろうなあ、この奥さん。

「だからね、お金を浮かす為に停まった駅で駅弁を買いに行くの。ご当地弁当、なんて言ってさ。」

「え、買いに行く時間なんてあるの...?乗り遅れない??」

「場所によっては長いこと停まっているのよ。十分、長ければもっとかな。」

そんな思い出話を聞きながら、オレンジジュースを片手に会話を嗜んだ。明希は何も喋らなかったけど、じっと耳を傾け、その話を楽しんでいる様子だった。

「昔は、"男の子ならみんな一度は夢見る列車"なんて言われてたんだけどね。」

「へえ、でも蓋を開ければ監獄ベッドで苦行の旅、と。」

男の子の夢とやらを笑う。しかし、暫く皮肉るように笑い話にすると、その店員さんは私たちに話した。

「でも、確かに憧れる気持ちは分かる。」

「え?」

「会社勤めだった頃、仕事がキツくて、何度も逃げ出してやろうって思ってた時があってさ。駅で帰りの電車を待ってると、名前しか知らないような遠い町の行き先を掲げた列車が停まってるの。周りの電車とは全然雰囲気の違う客車がね。」

「ふーん。」

「もし何もかも投げ出すつもりで飛び乗ったら、もうきっと誰も追っては来れない。自由になれるんだ、って。」

夢見るようにウットリした表情で思い出を語る店員さん。私もいつかそんな風に悩む日が来るのだろうか、そう思って暫く黙って考える。ふと明希の方を見てみると、彼女は遠くを見るような目で考え事をしていた。

オレンジジュースをひと啜りして店内を見渡す。改めて思うけど、本当に落ち着く空間だ。室内なのに庭園みたいで、その中にテーブルがポツリポツリと佇む。一席二席だけじゃない。もっとたくさん席があるはずなのに仕切り方が上手で、まるでこの空間に私たちだけしか居ないかのような気分にさせられる。比喩でなく、本当に天国にでも来たのかと思えるのが不思議だ。仮にどこかで気を失って、ここで目覚めようものなら間違いなく私は身体が透けてるかを確かめるね。

 

店員さんが私たちの前を離れてから数十秒、ボーっと遠くを見つめたままの明希に声を掛けた。

「明希。」

しかし、呼びかけに反応しない。そこで少し悪戯心を躍らせ、彼女の頬っぺたをつついてみた。

「ん。」

それに対し、あまり表情を変えずに私の指先に目をやった明希。ふふ、と笑いかけた私は、彼女に尋ねる。

「なぁに考えてんの。」

すると明希は再び先ほどの視点へ首を動かし、穏やかな声で答えた。

「さっきの店員さんの話、聞いててね。」

「あー、何だっけ。電車の話?」

「うん。昔読んだ銀河鉄道の本を思い出したの。」

「わあ、小学校の頃授業で読まされたやつだ。」

「そう。でね、ただの私の妄想でしかないんだけど、もし死んでから人が電車で天国に行くんだったとしたら、そこからも長い長い旅になるんなんだろうなあって。」

彼女の話にたまに出てくる明希ワールドには、聞き手側には結構な想像力を要する。それほど感受性に溢れた女の子なんだということは、会って数年の付き合いで分かっていることだけれども。私は集中して、頭をフル回転モードに切り替えた。

「もし明希と同じ列車に乗ってたらラッキーだね。終着まで暇だろうし。」

「うん、真っ先に鶴ちゃんや、みっちゃんのこと探すかも。」

「私ならすぐ見つかるよ。」

「え?」

キョトンととした顔になる明希。そんな彼女に私はにやけ顔で言ってやった。

「食堂車を探してごらん。あたし、旅の半分以上はそこで過ごすつもりだから。」

ジョークの意味を理解した明希は、砂の城を崩すかのように表情が綻び

「ふふ、っはははは。」

と、手を口元で覆いながら笑った。

「「切符を拝見。あ、デラックスお食事シートですね。」とか言って。」

「やめて、お腹痛い。」

 

つづく。



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80.詩鶴の誕生日


2012年、12月10日。今日は私が生まれて17回目になる誕生日だ。人生を語るには若く、何もかもを背負って生きるにはまだ幼い。そんなハッキリとしないボーダーラインの上で、時には誰かにもたれかかって、時には誰かの腕を引きながら、大人と子供の両方を演じ生きている。
いわゆるティーンエイジャーというのも終盤に入ってきて、その境界線に迷い悩む日々が私を待っているのだろう。明日や過去より、今を楽しむことに重点を置きたい私にとっては
「待ってないでどっか行け。暇なのか。」
と言ってやりたいところだが、時間というのは待っていても向こうから勝手に歩いて来るものだ。ええ、幸せと違ってね。だからもしかすれば、今のままじゃいられなくなるのかもしれない。そんな風に考えると頭が痛くなった。
さて、今日は肝心の私の誕生日だというのに、家族はみんな大忙し。父は仕事が長引くそうで、遅くまで帰ってこない。母は、山積みの家事を片付けるとか何とかで話しかけられそうにない。出かけてこい、と追いたてられた末にあるところに来たんだが....
「おー!!名取ちゃん?奇遇だね~。」
今年の誕生日は落ち着かなさそうだ。


 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.80「詩鶴の誕生日」

 

洗濯用の風呂水がまだ残ってるとかいう理由で、私は銭湯に叩き飛ばされた。母なりの家事プランがあるというのは分かるが、昼過ぎから湯船に浸かるなんてさすがに早すぎる。そう心の中で文句を垂れつつ、こんな明るい内から洗面器を抱え、外を出歩くという少々新鮮な感覚を味わいながら向かったのだ。

「こんにちは、一人です。」

到着し次第、番台さんにそう言ってお金を渡す。

「寒いねえ、ゆっくり温まってって。」

「本当ですね、ありがとう。」

銭湯には、所によってはこういった小さな言葉の交わし合いがあったりする。そういった交流がお客ひとりひとりの心も温めているのだろう。...なんて、この町で生まれ育った私にとっては何ら変わり無い、いつもの日常なんだけれども。

服を脱ぎはじめてすぐ、私の名を呼ぶ声が聞こえた。

「お、名取ちゃん?」

その声に私は、捲り上げた服を咄嗟に下ろす。警戒を帯びた目で声の元を辿ると、

「千春....さん?」

河島のお姉ちゃんだった。脱衣場へはたった今来たようで、私を見つけ次第すぐに声をかけたようだ。私、この人に好かれてんのかなぁ。会った頃から会話の距離が近いっていうか、まあフレンドリーな人と呼べば良い言い方にはなるのだけれども。彼女は私に会うなり、陽気に話しかけてきた。

「奇遇だねえ、名取ちゃんも今からお風呂?」

「ええ。千春さんも?」

「うん、そうなの。ねえ聞いてよ、私、終電逃しちゃってさ、朝の電車で帰ったらお風呂キンキンに冷えてやがって。今日一日はもういいかなって思ってたんだけど、身体ベタベタするしさ。いやあ、今日寒いから決死の思いで来たんだけど、名取ちゃん居て良かった!」

流暢に話しつつ、ロッカーに荷物を放り込んで着替える所作はスムーズで、思わずボーっと見てしまった。すると千春はそんな私の目線に気づいて、茶化すように笑いだす。

「ん?やーだー、名取ちゃん見過ぎー。私今日そんな可愛いブラ付けてないから。」

知らんがな、友達の姉の下着事情なんか。

まあ、まじまじと観察して何かを得られるわけでもない。こちらもとっとと脱いで温まることにしよう。そう心に呟き、取っ払った服を一つずつロッカーへと放り込み、裸になってタオルを取る。さて、この格好じゃあ寒いので早く浴室に向かおう。そう思ったのだが、まだ横に千春の気配を感じる。横を向いてみると、私と一緒にお風呂に入れるのが余程嬉しいのか、千春が物凄くキラキラした目でこちらを見ていた。

「あの...千春さん。」

「うん?」

「謝るから、あんまマジマジと見ないで。」

いくら女同士と言えど、自分の裸体にガッツリ目線をやられると流石に恥ずかしい。じろじろ見てごめんね。気持ち分かったよ、千春さん。

「名取ちゃん、意外と綺麗なボディしてるんだね~。」

「悪かった、悪かったから。」

 

浴室に入ると、千春と隣同士に椅子に座って身体を洗った。途中、彼女から

「無いのあったら使って良いよー。」

と言って、アメニティ類を私の手の届く範囲に置いてくれた。洗顔とか、そういうのは持ってきていたのだが、せかせかと家を追い出されたせいで忘れたものがいくつかある。

「あ、ごめんなさい。化粧水とか持ってたら後で貸してくれませんか?」

そう聞いてみると、千春は気前よく

「え、化粧水?うん良いよ、使って使って。」

と言ってくれた。

キュッ、サァーーサァーー。

音を立てて降り注ぐ心地良い温かさの雨に、全身の泡ぶくが流れていく。目を横にやると、千春はちょうど髪を洗っている最中。きっと思いっきり見てやったところで、目をつぶっていて私の視線には気づかないだろう。そう思い、そんな彼女の身体に少し目が行ってしまったが、散々人のことを褒めちぎっておいて随分と綺麗な身体をしている。私より胸も大きいし、腰回りだってすらっとしているじゃないか。そんな千春と比べて私は...。お腹はぷにぷにだし、せめてもう少し胸も膨らんではくれないだろうか。そう思いながら自分の胸を触っていると...

「名取ちゃん、何してんの?」

洗髪が終わっていたようで、千春が気づいて声をかける。私は頭が真っ白になって硬直した。

 

全身を洗い終わって湯船に入る前、千春は私の髪を結ってくれた。彼女に背を向け、髪を纏めてもらってる間、私たちは散髪屋さんみたいに言葉を交わし合った。

「別にそんな気にする程じゃないよ。揉むなり何なりで大きくなるから。」

「そんなもんなんですかね。」

「うん。そういう名取ちゃんだって綺麗な色してるじゃん。さすがにそれは遺伝だから、努力じゃどうにもならないよ。」

「色ってそこまで気になります?」

「なるよ。茶色みがかってるよりは良いでしょ?」

「そんなもんなんですかね。」

「そんなもんだよ。揉むぞ。」

「勘弁してください。」

髪がまとまると、私は千春に礼を言い、湯船に浸かった。水温が家のお風呂よりも熱いから、足からゆっくりと入っていく。肩まで浸かると、熱さでチクチクとしたような感覚が肌を刺激し

「っつつつつ、ふうーーーー。」

と、思わず声が漏れた。

温度に慣れてきた頃、私は小さくこの一年を振り返っていた。二年生になるまでのこと、二年生になってからの人間関係、大変なことだらけだった記憶だけど、何だか冒険に近い経験をしたように思える。

瑞希や、明希と別々のクラスになり、二年からの知り合いが河島だった時は正直、頭を抱えて嘆いた。隙あらば私にちょっかいばかりかける奴だったから。でも、今じゃそんなアイツとも友達と呼べる仲になったし、何故かその姉にも懐かれた。人生、おかしなことだらけだ。

暫くすると千春も身体を洗い終えて湯船にやってくる。チャポン、と音を立てて隣に座ると、

「あ~、気持ちぃー。」

と言って、私と同じように深く息を吐いた。そうして身体を顎先まで沈めさせ、一息つくと千春はこちらに身を寄せて話してきた。

「ねえねえ名取ちゃん、名取ちゃん。」

「どーしました?」

「弟から聞いたんだけどさ、今日誕生日なんだって?」

「え、ああ。はい。」

覚えてたんだ、あいつ。

「あとで牛乳奢らせてくれー。」

「え、良いんですか?ありがとうございます。」

「ついでにアイスとか如何?」

「え...いや、嬉しいけど、良いんですか?」

「良いよ良いよ、ここで会えたのも何かの何とかってね。」

誕生日という情報一つで随分と気前の良い千春。そういえば河島...あー、えっと、弟の方の誕生日を祝ったときは蝉のうるさい夏日だった。今年の私の誕生日はその血縁の姉に祝われると思うと、ますます人生というものが不思議なものに思えた。

「なんか、悪くないなあ、こういうのも。」

私はそう呟いた。

「あ、もしかして栄汰(エイ)に祝われたかった?」

「いやいや。」

からかう千春に向けて、悪気のないつもりで大人の笑顔を見せる。私は続けて千春に言った。

「でも、覚えてたのが何か面白くて。そんでもって、まさかそのお姉ちゃんに偶然祝われるっていう。」

「えへへ、本当奇遇だよね。まあ何はともあれ、おめでと、名取ちゃん。」

「ありがとう。」

「裸で祝われる気分はどうだい?」

「ふっ、最低。」

どうせどれだけ体が温まっても、外に出れば冬の冷たい風に熱を奪われるだけ。結局そうなってしまうなら少し、まだもう少しと思い、浴槽から出られずにいた。そんな気持ちのまま五分くらいか、私は千春と二人でお喋りを続けた。

 

ビョイーーーン

脱衣所に戻り、体を拭き終え、体重計という悪魔の産物に身体を預ける。アナログの針はぶらぶらと揺れ、私を散々煽り散らかした挙句、最後には受け止めがたき重い現実をハッキリと示してくる始末。何度乗り直しても体重も現実も変わってくれないのはどういう訳だ。

「名取ちゃーん、私も乗るー。」

千春がこちらに向かってきたのに気づいた瞬間、私は反射的に飛び降り、体重計を彼女に譲った。

「うーん、特に変化無し。」

千春の一言で余計に頭が重くなる。そうだ、牛乳でも飲んで忘れよう。風呂上がりに飲んでおけば大概の美容効果は得られる。ああ、そうだ。これ一本できっと嫌なこと全部忘れられる。しかも千春の奢りだというんだから言うことなしだ。彼女は体重計から降りると、下着姿で小銭を握り、受付に繋がった小窓に牛乳を持っていった。

「ハッピーバースデー、名取ちゃん。カンパ~イ!」

二本の牛乳瓶をコツンと当てて乾杯した私達。半袖とズボン、首からバスタオルを掛けた格好の私に比べ、千春は最低限の格好で椅子にどっぷりと座り込んで飲んでいる。長いこと浸かっていて身体が火照っているのはお互い様だが、何ともボーイッシュというか...少しオッサンっぽい。水着じゃないんだぞ、とツッコんでやりたい。

そんな大胆にリラックスした様子でいる彼女に、私はふと思った疑問を投げかけた。

「そういや私が今日誕生日ってこと、河しm...栄汰から聞いたんでしたっけ。」

「え?あーうん、そうだよ。」

「ふーん...。」

「もしかして栄汰(エイ)とデートしたかったー?」

「...いや、そういうんじゃないですけど、覚えてた当の本人は何してるんだろーってふと思って。」

そういうと千春は「うーん」と声を漏らしながら記憶を辿り、一呼吸ほどして思い出したのか、私に答えた。

「何か出掛けるとか言ってたっけ。」

「へえ?」

「うん。」

牛乳を一口飲んで、少しのぼせた様子でボーッとする千春。私も同じように飲んでいると、彼女は唐突に大きめの声で喋りだす。その言葉は私を青ざめさせた。

「あ!思い出した!何か友達が誕生日だからとか言ってたんだ!祝いに行くって。」

牛乳が肺に入る。千春の言葉を聞き終わるより先に、私の思いっきり咽せた音がそれを遮った。

 

つづく。




【新年のご挨拶】
明けましておめでとうございます。
今年も「下町の鶴」をどうぞよろしくお願い申し上げます!


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81.ふたつの町灯り

 

下町の鶴

8章-眠らない下町-

☆Episode.81「ふたつの町灯り」

 

気を抜くといつも悲観的になってしまう。友達といると楽しいし、いつも笑って接しているけど、別れて家路につくと直ぐに寂しくなる。まるで「その中でしか息ができない」、とでも言うように。時にはその気持ちが爆発して、突然と涙が溢れたりする時もある。何で寂しいのか分からない。何でこんなに追い込まれたような気持ちになっているのかが。

言葉に出来ないから、助けてって言えない。でも、人と会っているときにはそんな気持ちがすっかりなくなるの。それはきっと、自分の気持ちの開示が原因で空気を壊すというのが怖くて、天秤がそっちに傾くからなんだと思う。そうやって分かってもらおうともしないまま自分と似た人を見つけては、自分が満たされたいが為にその人達に優しさを押し売っている。

 

「ど?一人暮らしは。」

仕事帰り、友達とお酒を飲みに行った時のこと。私は笑顔でそれに答える。

「最悪。」

「どうしたのさ。聞くよ?」

「静かすぎ。物音一つしないし...。早くテレビ買いたいよ。」

「テレビ高いもんね。」

「そうなんだよ。帰ったって話し相手も居ないしさ?もう本当、事故物件にでも住んでやれば良かったよ。」

「そんなとこ住んだら私、遊びに行ってやんないからね。」

「へへへ、良いのかなあ?そんなことしたら、いつか聞こえないはずの声と沢山お友達になっててぇ~。」

「ちょっ、千春...やめてよ、ははは。」

目の前の友達を揺さぶって子供みたいにおどける。彼女はそんな私の悪ノリにはしゃぐように笑っていた。

一人暮らしの寂しさを面白おかしくネタにして話し、二人で漫談を楽しむ。そんな会話の中ある時、二人暮らしをすれば孤独が解消されるはずだという話になって、そのプレゼンみたいなことを酔いながら彼女にした。

「まず、家事の大変さが半分になります。これは大きい。」

「うん。」

「悩み事があっても直ぐ相談できる。ひとりぼっちじゃないのは何よりの心の支えであります。」

「うんうん、それでおしまい?」

「大まかにはこの二点!掘り下げればもっとある。」

「そっか、じゃあ私のターンだ。まず一人のスペースがない。一人になりたいときに常に誰かがいるという状況はかえってストレスになる場合がある。その二、家事の負担が半減すると言ったけど、二人住めば食べる量も倍、出るゴミの量も倍、これは分担しても疲労度は実質同じだと思われる。その三、金銭や日用品、その他共用にするものの管理には一人暮らしでは本来いらないはずの話し合いが常に必要である。はい、どっかーん!千春、君のターンだよ。」

「この社畜め、この世のどこに同僚のお悩みを本気で論破しにかかる奴がいるんだよ。」

「あはは、ごめんごめん。」

「いい事だらけだよ?二人暮らし。まず私がいるでしょ?それに私もいる。帰ったら私がいるって言うこと無しでしょー?」

「はいはい、その一杯で最後にするんだよ?」

「やーだー、もっと飲むー!飲まなきゃやってらんないぃぃぃ!!」

「ったくもう、明日も仕事あるのによくそんな飲めるね~。」

「えー?だって今日は泊めてくれるんでしょー?起こしてくれるんでしょ~?」

「言ってない。」

「うわあ、ケチーー。入社以来の仲じゃん。今回は奢るからさ。」

「そうやっていつも金欠になるでしょ?今日ばかりはだーめ。」

「けーっ、妹の小言みたいなことを...。」

大学を出て最初は、知ってる人が誰も居なくて心細かった。家族に言われるがまま家を出て、一人暮らしを始めて。でも、ものの数日で「帰りたい」が口癖になり、初めはいつも部屋で泣いていた。仕事覚えも悪いまま、このままどこか消えたい気持ちでいた時に手を伸ばしてくれたのが彼女だった。仲が良いけど、電車は真逆。出張も多くて中々付き合ってくれないけれど、だからこそ帰りが一緒になる日は子供に戻ったような気持ちになれる。

 

散々酔っ払って店を出たあと、別れ際に思いっきりハグしたら引かれた。でも何だろうな、人の腕の中って究極的な心地良さを感じるんだよね。次にまた飲めるのがいつになるか分からないから、少しくらい甘えたっていいじゃない。そんな気持ちでいたら離れられなくなった。

頭に身に覚えのない鈍痛が走る中、友達は笑顔で手を振り返してくれた。

「また飲もうねえ、絶対だよ~。」

「分かったから、(ホームから)落ちるなよー。」

そこから三十分ほど電車に揺られ、寂しい寂しいマンションへ。寝過ごすまい、と意識を保ちつつ、定期的にやって来る睡魔に身体ごと持っていかれ、ふと気づけば車内放送から最寄り駅の名前が聞こえて大慌て。ふわふわとした気持ちを引き連れて家路を辿り、やっとこさで自宅前までやってくると、古いエレベーターに乗り込んで一息。急いでる時なら階段を駆けた方が速いレベルの鈍足昇降機だが、今は目的階まで少しでも長く乗っていたい。

やっと家に着いた、と溜息を吐き、自宅の扉に鍵を差し込んだ。扉を開けると何とも言えない生活臭と共に、目の前には朝方散らかした寝間着と、大胆にめくられた掛け布団が目に入る。そこに思いっきり寝転んでやりたい気分で一杯だが、そうしたらきっと朝まで目を覚まさないだろうことは分かりきっている。皮肉なものだ。自由と安らぎは完全に別物だということを目に沁みて実感させられるなんて。しかし、欲望なんてものに身を任せて良いことなどないはずだ。少しの我慢の先に小さな幸せがある、だからもうちょっと起きていよう。そう心に呟きながら、私は冷蔵庫からチューハイの缶を取り出した。

プシッ...パチパチパチパチ

音を立て、寝るより自由を選んだ私を褒めてやるつもりで柔らかな酔いに浸る。ふらつきながらベランダに出た。狭くて壁もそんなに厚くない。床は軋む上、夏は暑いし冬は激寒。そんな安くて最悪な物件だが、唯一の取柄がある。それはベランダからのこの景色。窓からの夜景は宝石のようにきらめき、遠くの方まで見渡せる。たかが六階だが、周りに大きな建物がないからこその良い眺めを味わえるのだ。比較的に度の薄い酒を口に含み、夜景を見渡す。高級レストランじゃなくたって、これも一つのロマンだと金持ちにも教えてやりたい。

つまみがもう家に無いことを思い出し、ほんのりモヤモヤした感情が胸に雲がかる。これじゃあ口が寂しいままだ。仕方がない、とポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。メインディッシュとメインディッシュがぶつかるような感覚に「何か違う」と違和感を覚えながら煙を舌で転がす。それを夜景に吹き付けてやると、瞬く間にそれは星の見えない空へと消えていった。

「いつもこうだと良いのにな。」

久しぶりの飲み会のことを思い出し、心に呟く。さっきまでの楽しい気分が早くももう寂しさに変わり、友達が恋しくなった。もう彼女は家に着いただろうか、そんなことを思いながら街の光を数えていると、鼓膜に触れる都会の音や、目に映る全部がどこか切なく感じた。そんな風に景色を楽しんでいると、その明かりがぼやけて見える場所に目が留まる。しばらく見つめていると、そこが自分の生まれ育った場所であることに気づいた。

ぼんやりと眺めていると、沢山の思い出が蘇ってくるもんだ。懐かしさに微睡みながら私は思う。あれからどれくらいの時が流れたんだろう。家族にも暫く会えていないし、あの頃の友達も今はどこで何をしているのやら。あ、そうだ。名取ちゃんは元気かな。大学を出る前後はよく話聞いてもらってたっけ。第二の家ってくらいのノリで何度も通って、時には一緒に遊んだこともあったな。弟の友達ってだけで何の気も使わずに仲良く接して、同級生くらいのつもりでちょっかいをかけたこともあったけど、今思えば悪いことしたなって思うことがいくつか...。

あのお店もまだやってたら今度は名取ちゃん、女将さんになってたりして。それとも未だお母さんの元で修行中かな。また会えたら、あの頃みたいに接してくれるのかな。今の暮らしの寂しさを口にしたら、困った顔して怒ってくれるかな。私はあれから環境以外はちっとも変わらず、どうしようもない私のままだけど、あの町は何も変わらないでいて欲しい。変わらずみんな、元気でいて欲しい。

私も故郷が恋しくなるくらいには、歳をとりました。

 

 

8章.眠らない下町、終わり。



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9章.奮闘記
82.頑張れ若女将 -前編-


 

下町の鶴

9章-奮闘記-

☆Episode.82「頑張れ若女将 -前編-」

 

ジュ――、カンカンカン!ジュ―――...

私は一流手伝い人、名取詩鶴。生まれながら居酒屋の一人娘として育ち、幼き頃から料理を習得している。何に対しても物怖じせず、友達が酷い目に遭わされていようものならすぐさま駆けつけ、こてんぱんにしてやる心優しき女だ。しかし親や友達はそれを「強がっているだけ」と心配し、言わずと知れた現実の厳しさとやらをこの私に説いてくるのだ。明日の不安を解消するためには、まず何よりも今日を懸命に生きることが重要ではないか。そう心得ているのに、それを理解できないとは何たる悲しきかな。

どんな理屈に自信を奪われようとも、私は自分の美しさを自覚している。教科書をめくる速さで風を感じ、友達との優雅な漫談に胸を躍らせる度、振り返れば課題が高層ビルのように積みあがっているが

「あの上から見下ろす景色はどんなに綺麗だろう。」

と想像するという楽しみ方を私は会得している。人は他の動物と違い、目に見えぬものに美しさを見出す能力を持っているのだ。だからこそ高望みせず、それぞれが持っているものを尊重して生きていこうではないか。私は一流の手伝い人、課題をやらない料理人。そして本来であれば憂鬱に思える居残りの時間さえ、私は楽しさに変えることが出来....

 

ゴツン....!!

 

「いぃぃぃぃたぁぁああああ!!!!」

頭に鈍痛が走る。何事かと振り返ると、母が呆れ顔で立っていた。

「何すんの!!」

「フライパン、ちゃんと見てる?焼き過ぎなんだけど。」

視線をフライパンへと下ろす。すると肉にも、野菜にも微量に焦げ目が目立ち始めている。そうして労働者の額に浮かぶ誇り高き水滴は、瞬く間に冷や汗へと早変わりした。

「あ....。」

「さっさとお皿に移して。そんなんじゃ二流の風上にも置けないよ。」

「むぅぅぅ....!!」

せっかく自分を褒めて疲労から逃れていたのに、母の余計な一言で一気に気持ちがマイナスに変わる。言うだけ言って自分の持ち場へ戻っていく母の背中を私は睨み付け、弾けんばかりに頬を膨らませた。

「大丈夫だよ、若いのによくやってる。俺なんか詩鶴ちゃんくらいの頃は家にも帰らずに友達と遊び呆けていたから。」

常連さんは私達のやり取りを見て、ケラケラと笑いながら擁護する。それに私は

「もういいよ、今更褒めなくったって...。」

しょぼくれて泣き言を垂れた。ええ、はいはい分かってますよ。どうせ私はお母さんから見たら二流以下ですよ。ふーんだ。

胸の内でぐずっていると、常連さんは言った。

「だいたい今時、ちゃんと料理出来る若者が減ってきてるんだ。最高のスキルじゃないか。」

「別に、仕事でやってるだけだし。」

「詩鶴ちゃんは間違いなく良いお嫁さんになれるよ。」

「別に結婚願望なんてそこまで...。」

「それもとびっきりのイケメンの。」

「...ふんふん、それは悪くないな。」

常連さんからのヨイショで少しずつ気分が良くなってきた。このままもう少し褒めてくれたらやる気を取り戻せるだろう、と、そう思っていた矢先、母が横から常連さんに言った。

「あんまり甘やかさないで。この子すぐ調子に乗っちゃうんだから。」

「お母さん煩い!!せっかく良いとこだったのに!!」

常連さんは、そんな私たち親子の言い合いをカウンター越しから微笑ましく見ていた。

 

そして今日は常連さんが奥さんから「早く帰れ」と言われているそうで、軽くお酒とつまみを平らげると暫くしておあいそし、帰っていった。それから店が静かになると、すぐさま先程の鬱憤をぶつけるように文句を言い、母と喧嘩になった。

「少しくらいは褒められたって良いでしょ!?いつも頑張って働いてるじゃん。」

「そんなんだからいつまで経っても成長しないのよ。」

「はーん、さては褒めて貰えたことないからって、いい歳して妬いてんだ~。」

「だったら自分で全部やってみたら?私何にも手ぇ貸してやんないから!」

という風に、互いに一歩も譲ろうともしないまま言いたい放題にぶつけあった。本当に喧嘩の多い親子だと呆れながらに思う。自由気ままに、自分のやり方でやりたい私に対して、母はいつも正しいと思う方向へ無理くり歩かせようとするんだ。計画性が高いのは良いことなんだろうけど、私が決められた立ち位置と台詞だけを喋るような人間じゃないことは、自分の娘のことなんだからよく分かってるはず。私は舞台女優じゃないんだよ。

閉店まで残り一時間半を切って、私はキッチンに一人きり。母は裏作業に専念して奥へと消えていった。余程私のことが嫌いになったのだろう。たかが思い通りにならないってくらいで。良いさ、だったら一人で全部こなしてやる。誰の手を借りなくたって一丁前に切り盛りしてやる。私はそう胸に誓い、腰エプロンの紐をきつく締め直した。

 

さあ、どんな珍客でもかかってきやがれ。大人数?学校の奴ら?誰にだって満足して帰ってもらう。

気合いを入れて十分少々、店の扉が開いた途端、ラーメン屋みたいな威勢で挨拶をする。

「あーい、らぁっしゃあっせえええ!何名様で?」

どうせいつも来る人の誰かだろうと思い、多少ふざけてても元気の良い小娘だと感じ取られるように精一杯声を出した。...が、よく見ると初見さんで、勢いよく息を呑んで窒息しかけた。死にたい。今死にかけたけど、ここから消えたい。

いやいや、こんな所で尾を引いたらまたお母さんに馬鹿にされる。どのみち半人前って言われるなら、半人と一人の間くらいには言われなければ。負けるな、詩鶴。

「空いてる席どーぞー。いち、にー、さん。三名様かn...」

「うぉへえ~、お姉ちゃん元気いいねえ~。じゃ、ここ座っちゃうよお。」

いや、めちゃめちゃ酔ってるーーーーーー!!!え、何なのこの人達。何杯飲んだらそうなんの。てか何軒目だよ、何次会だよこいつら!!?

会社帰りと見られる明らかに酔ったサラリーマン達がテーブル席に座ると、ゾンビみたいに上半身が傾き、しかもそれぞれが違う方向に倒れかかっている。誰だ、この町にTウ○ルスばら撒いたのは。

恐る恐る三人分のお水を彼らの前に出すと

「あぇあ!とりあえず生、みんぁは??」

「ぇあひっっく、おれもーー。」

「うぉひー、飲みまーす。」

「あ、じゃあ三つでー。」

ですよねー、酒来ますよねー。店の前にいかにも居酒屋ですよーって言ってるような暖簾掲げてますもんねー。...飲むんか!その状態でまだ!?

「は、はーイ。ヨロコンデー...。」

お客に背を向けキッチンに戻る際、背後にこの上ない警戒を帯びて歩く。今まで軽くどこかで飲んでやって来るお客さんもいたけど、顔見知りでもあったし、万が一暴れられたら強く言える相手でもあったから。しかし今回はなんだ。初見かつ、フルに酔っぱらっていて、しかもみんなそこそこガタイが良い。なんだろう、夜の店のレジ裏にスタンバイさせておくタイプの人感が凄い。悪い人じゃないとは思うけど、決めつけは良くないって分かってるけど、怖い。ものっっっ凄く怖い。

お酒を持っていくと、客の一人が話しかけてきた。

「ねえねえ、お姉ちゃんいくつ?随分と若い顔立ちしてんねえ。」

「おいおい、会社でモテねえからって店の姉ちゃん口説いてんじゃねえよ。」

周りもそれに準じて悪ノリが始まる。

「とは言いつつ、歳近かったら俺が先に狙っちゃおうかなあ。...なんつって!あははは!!」

「今夜空いてるぅ~?」

何だろう、何かしら答えないと

「んだコラ、ノリ悪いじゃねえかこの野郎!」

とかいってドヤされそうな気がする。でも下手に期待させるような発言は怖くてできない。落ち着け、落ち着け詩鶴。冗談でも良いから何か答えなきゃ。

「じゅ...十七です...。」

 

......。

 

なに実年齢で答えてんの私!?こここ、こういうのはもっと

「え~、何歳に見えます~?」

みたいなボケを挟むべきだろう!!

一瞬場が静かになる。私は焦りと緊張に背中を押され、勢いで彼らにこういった。

「あは、あはあ、非売品でーす。」

....馬鹿か!!!馬・鹿・な・の・か・私はああああ!!今ボケてどうする。絶対さっきの年齢のくだりでやらなきゃいけないやつだって。お陰で変な空気になっちゃったし、この落とし前どうつけてくれんだ詩鶴...。だぁああ、もう!誰か助けて!!

「くっ...、けはははははは!!!」

「非売品だってよ!!はははははは!!」

「こいつぁ傑作だ!!」

一瞬凍り付いたかと思われた空気は一瞬にして大衆酒場に戻り、三人そろって大笑い。この空気、結構キツいです。大人たちの輪に入れられながら、しばらくノリに乗ったり、愛想笑いを繰り返す。数分して漸くキッチンに戻れると、持久走の後かってくらいに乱れた呼吸を整えていた。

今日はいつもより人一倍大変だ。正直もう店を閉めたい。でも、一人で全部やるってこの胸に誓ったんだ。一度やると決めたからには最後までやる。なに、居酒屋なんて酔っ払いを相手に接客する家業みたいなものじゃないか。言い聞かせろ、私は強い。私はつよ..

「うぶっ、もう飲めねえ...。」

「お前マジかよ。もうキテんの?」

「吐きそ...、ヴっ....。」

待て待て待て待て!!!私は心に叫んだ。母の説教に反発して「一人で何でもやれる」と豪語した意地に向け、幾重もの問題がそれを試しにかかる。私の脳には、炭酸が流し込まれたかのような緊張と絶望がのしかかっていた。

 

つづく。




2024.1.29
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83.頑張れ若女将 -後編-

 

下町の鶴

9章-奮闘記-

☆Episode.83「頑張れ若女将 -後編-」

 

「ヴォォロロロロロロロぉぉぉ!!うぇっ、っげほっ。ヴ、うぉろろろろろろ!!!」

大慌てでお客さんにトイレの場所を教え、何とか間に合ったは良いものの、扉がフルオープンで開いてるせいで客の放流が丸聞こえしている。分かってるさ、嘔吐寸前の人間にドアを閉める余裕などない事くらい。ああ、気分が悪い。貰い吐きしそうだ...。

ビチャビチャと垂れる音に青ざめながら、気づいたら無意識に手を洗っていた。

「お前酒弱すぎだろおー。」

「きったねえなあ、おいー。」

男たちは酔ってるせいか、私とは真逆に先程の空気のままで賑わっている。私の今までが平和だっただけなのか、あまり経験してこなかったことに困惑の表情を隠せない。家だけど早く帰りたい、なんて感情がジワジワと沸き上がってくるが、厄介事はまだ始まったばかりのようだった。

「まあ良かったじゃねえか、出し切ってスッキリしたろ。回復したってことで飲み直しじゃあ。」

「え....、え....?」

噓だろおい、吐いてまだ飲ませる気か。

「姉ちゃん、適当に酒見繕ってくれ。」

「あ、あの...その辺にしてあげた方が。」

放流致されたお客を気遣い、これ以上トラブルに繋がらないようにしようと試みたものの

「良いの良いの、これくらいで弱ってちゃあ社会で生きていけないから。」

と言って聞かない。弱ってる当の本人は

「とりあえず水をくれ...。」

と弱々しい声で私に頼んできている。何だか妙に危機感を覚えて私は、コップに水を注ごうとした。

「水と見せかけて焼酎でも良いんだぜ?」

「ちょっといい加減にして。この人こんなに弱ってるんだから、少しは休憩させてあげてよ。」

誰がみてもフラフラになってると言うのに、それが分からないほど彼らは酔っている。酒の力は怖いな、と思うと共に、社会って変な場所だと感じさせられた。

私の注意によって、何だか少し空気が悪化してしまった気がする。でも、このままノリに合わせていたら死人が出たかもしれないんだ。まずは反省より、この判断が出来た自分を褒めてやらなきゃ。偉いぞ、詩鶴。

「すまねえ、ちょっと...ちょっとだけ。」

「お前そんなんだから出世できねえんだよ。」

ふらつく同僚をからかった後、男たちは会社の愚痴をこぼしたり、生活のことや趣味のことなど、色んな話に怒りや笑いを分け合っていた。時々彼らは予兆もなしに話を振ってきて私を困らせ、それに何となく答えてみるとその度に笑いの渦が引き起こる。一体何がそんなにおかしいのか尋ねてみると、彼らは

「若い女と話せるのがたまらねえのさ。」

なんて返してくるので、思わず呆れ笑いが漏れた。どうやらこの人達は悪ノリが大好きなようで、今までのからかいでは飽き足らず

「なあなあ、この三人の中で誰がタイプ?」

と、一人が調子に乗って聞いてくる。冗談も大概にしてくれと思いつつ、消去法で一人を指さすと、また喧しく盛り上がった。

「おいおい、どうして俺なんだい?」

「何となく。本気にしないで。」

「うっひょーーー、そりゃあ無理な相談だなあ!惚れちまったぜ!!」

まるで手の付けようがない。いつか私たちも大人になって、飲み会とか開いたらこんな風になるというのだろうか。そして酔いからさめて気がつけば知らない部屋にいるオチで...。ああ、くわばらくわばら。

嫌な未来図が見えてしまい、頬杖をついた私は疲れ気味の溜息を吐いた。

指を指されなかった内の一人は、それにヤキモチでも焼いたのか

「恋愛盛りな年頃だぞ、男の一人や二人いるって。なあ?」

などと私に話を振ってくる。しかし、ツッコむ気力があまりない。

「ふふふ。」

と、余力を振り絞って出た見え見えの愛想笑いが私に出来る精一杯だった。男たちは言葉を投げ合う。

「居ないって。」

「絶対いるよ!」

「居たら今頃デートの真っ最中だ。働く暇なんてないさ。」

「今日はたまたまバイトって可能性もあるだろう?」

「馬鹿、男が全部貢いでくれるだろ?わざわざ油売ってあぶく銭なんざ稼がねえよ。」

一言一言が私の胸に突き刺さる。黙って聞いていれば両者とも私のことディスってるだろ。

「なんだ、選ばれなかったからって妬いてんのかあ~?」

「十も二十も離れた女の子に本気になるかよ。」

「お?やるってのかオイ。」

「やんねえよ。わざわざリスク冒してナンパするくらいなら、俺は風俗行くね。」

「へっ、モテねえ男の終着駅だな。」

「お?やんのかテメェ。」

まるで収拾がつかねえ。言い争っているようで、見た感じの雰囲気はただの仲良しだし。注文さえ入れば話なんて聞かずに調理の方に集中できるのだが、今はオーダーが無い上、他のやるべきこともない。暇の潰し方が彼らの会話を聞くくらいしか無いのだ。ああ、今日は何だかやたらと溜息が出る。疲労による溜息だ。私はコップの水を一口飲んだ。

「お前は良いよな、学生の頃から女にモテまくりで。」

「ああ、初めては中二の頃だったっけな。」

「けぇーっ、けしからんわ。お前の分際で。」

さっきまで恋話してたんじゃないのかよ。結局落ち着くとこが肉欲じゃねえかこの野郎。

男たちはそれから暫く夜の話題で盛り上がる。途中私に振ろうとしてきたが、こちらに視線が向けられた途端、腰を抜かしたような表情で見ないふりをした。自分では見えてないから分からないけど、相当酷い表情だったんだろうな。

そんな酷い話題に盛り上がる中、お酒の注文が入った。おつまみの下ネタがあっても肝心の酒が切れたんじゃあしょうがない、そう思ったのだろう。注文されたお酒を自分のペースで作り、彼らの前に持って行った。

「お待たせ。」

「おほほ、酒だ酒だー。」

テーブルの上にひとつづつ置いていき、空いたグラスを片付ける。そしてお客さんに背を向けようとした時、内一人が話しかけてきた。

「今日は嬢ちゃん一人でやってるのかい?」

正直に答えようとしたが、私は先程の母との喧嘩を思い出した。ここで本当のことを言えば今までの努力が水の泡だ。そう思った私は

「え、あー。うん、まあね。」

と噓をつく。

「へえ~、頑張ってるね。俺にゃあ絶対出来ないや。」

「そう?慣れれば店の切り盛りなんて大したことないよ。」

「はあ~...、最近の若いのはたくましいねえ。」

「ふふ、どうも~。」

多少の背徳感はあったが、思ったように褒めてくれるので気分が良かった。その褒めてきた男は財布を取り出すと、そこから一枚の紙幣を摘まんで私の腰エプロンのポケットに入れてきた。何事かとビックリした私は

「お会計...?」

と尋ねるが、

「小遣いだよ、チップチップ。」

そう軽い口振りで笑う。

「あ、ありがとう。」

私は戸惑いつつも、彼にお礼を言った。

困惑気味だったが、キッチンに戻ると胸にじわじわと興奮が湧き上がってきた。誰の手も借りず、自分だけで頑張って勝ち得た報酬を手にしている感覚。薄くペラペラとしていて、これに物を買える効力が備わっていることをを再認識する。これが一人で頑張った対価なんだ、そう思うと誇らしくなった。

 

暫くして私はニコニコと喜びの表情を浮かべながら、花を摘みに店内を後にした。戻るまでの間に食い逃げされるのではないかとも思ったが、ここから話し声も薄っすらと聞こえてくるので心配する程でもないと思う。あれほど酔っているなら仮に逃げても追いつけるし、そんなことをするような人たちでもないだろうから。

さて、あのボーナスはいつどこで使おうか。明日の学校の帰りには少し良いレストランにでも行ってみるか、それともいつもよく行く店で気兼ねなくたっぷりと注文してやるか。胸を躍らせ、思わず顔がにやけてしまう。明日の学校のことを考えると、普段なら憂鬱な気持ちにさせられるはずなのに期待でそれが吹き飛ぶ。さっさと授業が過ぎ去って昼休みになれ、放課後になれ。そう心に呟いた。

 

用が済んでトイレを出ようとすると、先程のお客さんが目の前に立ちふさがっていた。我慢して待っていたのだろうか。私は

「あ、ごめんなさい。」

と一声かけ、隙間を通り抜けようとした。その時だった。

男は避けようとした私をトイレに引き戻し、迫って来たのだ。私は突然のことで頭が混乱し

「え、ちょっと何...?どきますから。」

と言って出ようと試みたが、思った以上に男の力が強い。何の冗談だろう、その言葉が頭に繰り返され

「え?え?」

と言葉がどもる。男は

「えへへ...。」

と不敵な笑みを浮かべながら、どんどん私との距離を縮めてくるので、私はだんだん怖くなった。

「え、これは何のつもりかな...。」

「えへへ、今日は嬢ちゃん一人しか居ないんだろ?」

「...は?」

「小遣い弾んでやったんだから、少しくらい良いじゃない。」

額から一筋の冷や汗が伝う。何が起きようとしてるかを悟った私は、出来る限りの力を振り絞って抵抗したが、二人との力の差があまりにも明確でそれが敵わない。ここで大声を出したなら全て解決したのだろう。しかし、それだとここまで一人でやってきた成果が無駄になってしまう。それだけはどうしても避けたかった。分かっている。そんな見栄やプライドを守っている場合じゃないことくらい。

 

「できたっ!お母さん、どう?」

「ここ、火が通ってないね。もう少しテキパキ混ぜないと、中途半端な炒め具合になるよ。」

「でもお肉じゃないんだし、食べられるよ...?」

「詩鶴、安全で食べられるのはね、最低限の基準なんだよ?お料理作るってのはいつも最高の物でないといけないの。ほら、もう一回やってみて。」

 

「もう少し早く計算出来るようにならなきゃ。」

「でも私、初めてお釣り間違わなかったんだよ?」

「そうね、でも本当なら一回も間違えちゃあいけない。ここで安心してちゃあ駄目よ。」

 

子供の頃からそうだ。一瞬で会得したことも、時間をかけて手にした技術さえも、ちっとも褒めてくれない。覚えたら次、覚えたら次と、機械のように物事を進めていく。母のそんな所が昔から嫌いだった。

でも、褒められたかったんだ。このお店のことになると厳しくて、料理も、接客も、何一つ良いと言ってくれないお母さんを、ぎゃふんと言わせてやりたかった。ただそれだけだったんだ。

「やめて、やめてって言ってるでしょ。」

男の胸部を力いっぱいに押し返そうとしながらも、肌と肌は触れる寸前まで近づいてくる。無駄だと分かっていても諦めずに続けた抵抗だったが、荒っぽい息が私の頬にかかった瞬間、私は酷く青ざめて何も出来なくなってしまった。そして抗わなくなったことを良いことに、男はその大きな手でベタベタとこの身体を触ってくる。他の二人は何をしているの?誰もこの状況に気づいて無いの...?

「やめて....。」

心もとなく、先程よりもうんと弱々しくなった声で訴えるも、何もかもが逆効果になっている。叫べ、叫ぶんだ詩鶴。そう自分に言い聞かせるのに、どうしてか身体は言うことを聞かない。それが悔しくて堪らない。

歯止めの効かなくなった男は、今度はズボンの中へ手を入れようとしてきた。密室の中で声も上げられず、怖くて抵抗する力さえもなくなってしまっている。いつになったら終わってくれるのか。もう限界だ、心が持たない。

「助...けて...。」

溢れた涙が頬を伝おうとしたその時、バリーーーン!!と酒瓶の割れる音が耳をつんざく。手がふさがっていて耳を抑えられず、瞼を強く閉ざすと、この目を覆っていた大きな一粒の涙がぴしゃりと弾けた。恐る恐る目を開けると、先ほどまで私を覆っていた男の姿が奥の方にあり、店内の灯りが眩しく感じる。何が起きたのかと状況を考察する余地もなく、私の耳にはもう一度、つんざくような大きな音が響く。

「何考えてんだコラああああああああ!!」

母の怒号だった。

それは私でさえ今までに見たことのない威勢で、思わず震え上がってしまった。男を強く問い詰め、揺さぶる母の姿。トイレに背を向ける形で座っていた残りの二人は酔っていて気付かなかったというが、それについても容赦はしなかった。

 

あまりにも気が動転していたせいか、それからあの三人が帰るまでのことは薄々としか覚えていない。ハッキリと記憶していたのは、警察沙汰にしようとした母にただひたすら涙で

「もうやめて、私が悪いの。」

と必死に訴えかけていたことくらいだ。

結局、私一人じゃ何も出来なかったんだ。こうならないように上手く接したり、酔い過ぎないように管理するだけの技術がまだ、私には足りてなかった。どこまでも無力に感じて、それがどうしようもなく悔しい。あれだけ散々教えられてきたことを一つも応用出来なかったような気がして。

ぼんやり畳の上、寝転んで無心になる。居間のテレビの音声を聞き流しながら、乾いた涙の跡を指で擦り、背中を丸めた。何でこんなことになったんだろう、どうして何も出来なかったんだろう。思い出したくない出来事が何度もフラッシュバックする。

「何で助けを呼ばなかったの。」

そう言って平手で打たれた頬の痛みと、母の腕の中の温もりだけが今でも鮮明に残っている。

 

つづく。

 



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84.元気を出して

 

下町の鶴

9章-奮闘記-

☆Episode.84「元気を出して」

 

「名取。」

俺はその背中に声をかけた。しかし反応がない。

昼休みが始まり、ざわめきだした教室にいつもなら彼女のはしゃぐ声が聞こえてくるはずなのだが、机にじっと蹲って動かない。俺は名取の頭をポン、と軽く叩いた。

「わ!?...な、なんだ、河島か。何?」

「何?じゃねえよ。昼だぞ、購買行かね?」

「ああ、そうだね。」

「なんだ?今日は弁当か?」

「そうじゃないけど。」

一度は目を丸くして驚いた顔を見せるが、すぐにその表情が曇ってしまう。

「だったら早く行こうぜ。」

「ああ、うん。」

「...??」

言葉ではすぐに肯定するのだが、体が一向に動かない。いつもなら俺が言い切る前に

「ああもう腹ペコ!死ぬ、飢え死ぬ!!」

なんて声を上げて勢いよく教室を飛び出してしまうのに、今日は明らかに元気がない。

不思議に思って困っていると横を通りかかった山岸に、どうした?と尋ねられた。

「これ。」

俺はそう言って名取を指差す。

「名取がどうしたの?」

「いや、見て分からんかよ。こいつ朝からずっとこうなんだよ。」

一呼吸ほど置いて考える山岸。

「...確かに。いつもならもう既に何か食べてるもんな。」

「だろ?」

「うーん、まあ...そういう日なんじゃないの?一応女子だし。」

「あ、あ~。」

「な、そっとしといてやりなって。」

「そうだな、山岸は行くか?購買。」

そう話していると、名取はむくっとこちらに首を向けた。

「あの、全部聞こえてるんですけど。」

「お、失礼。」

と、俺は咄嗟に返答する。名取は席から立ち上がると、スカートのポケットに手をつっこみ、俺ら二人に体を向けた。

「別にそういうんじゃねえっつーの。」

「じゃあ早く行こうや。」

「んー。」

今日の名取は元気がない。

 

別に放っておけばじきに元通りになるとは思うが、このままのテンションで居残りを過ごすというのもつまらない。理由を聞こうにも

「あはは、何でもないって。」

と笑ってごまかしてくるし、そのくせ気を抜くとああやって落ち込みが顔に出る。だったらせめて悩んでることそのものを馬鹿馬鹿しく思わせてやる。あいつのために何か施すというのも変な話だが、俺は陰ながらに名取を元気づけさせる作戦を考えた。

「え、つるりんが元気ない?」

購買から戻り、まずは名取と一番近いであろう同性の友達に尋ねてみる。名取の状態を知った矢原さんは目を丸くして驚いた。

「そうなんだよ、購買に誘っても反応薄いし。」

「うーん、あのつるりんがお昼ごはんにも動じないなんて...。それよっぽど嫌なことあったパターンだよ。」

「ああ、俺もそう思う。だから何か良い案ないかなーって思ってさ。」

困った顔になる矢原さん。友達のことになると真剣に悩んでくれるあたり、名取は良い友達に恵まれたなあ、と感じさせられる。

「とりあえず私からも話しかけてみるね。」

と言って矢原さんは、名取のいる俺らの教室へ颯爽と駆け込んでいった。少し経ったあと、四倉さんが隣の教室から出てきた。彼女は俺を見つけると、しばらく周りをウロチョロと歩き、

「み、みっちゃん見なかった?」

と尋ねてきた。話しかけにくいのは分かるが、それが顕著に現れているせいで挙動が面白い。人見知りの気持ちは痛いほど分かるから、あまり笑っちゃいけないのだが。

「あー、隣(の教室)に。名取のお悩み相談中。」

「鶴ちゃん、何かあったの?」

俺は矢原さんに話したことをそのまま四倉さんに話した。それに彼女はピタリと体が固まる。

「大丈夫なのかな...。」

「んー、まあ女子同士なら何か話すだろう。それで俺にも手伝えそうなことだったらやってみるし。」

「多分だけど、河島君はそっとしておいてあげた方がいいと思う。」

「俺も最初はそう思ったが、どうも違うっぽくてな。」

「...??」

どうやら微妙に話が嚙み合ってないようで、お互いに言葉の意味を考えて沈黙した。そうして黙っていると、矢原さんが苦笑いで帰ってきた。その表情から察するに何となく答えが見えてしまってるが....

「買おうとしてた限定のポテチ、売り切れちゃってて~。だってさ。」

「噓つくの下手か。」

名取がそんなことで一日中悩むかよ。

なーんだ、そんなことか。みたいな顔をする彼女に反論すると、コテっ、と首を傾げてこう言った。

「何で噓って分かるのさー。」

「何でも何も、それなら俺とか他の友達にでも「見かけたら買っといてくんないー?」って頼んでくるだろ、特にあいつなら。食のことになると底なしに諦めの悪い奴なんだから。」

「ほへ~。河島君、つるりんのこと物知りだね。」

「当たり前だろ。何年付き合ってると思ってんだ。」

突然と静寂が訪れる。え、俺なにか変なこと言ったか...?

四倉さんは両手で口を押さえ、キラキラと目が輝いている。矢原さんは、ほんのりと赤らめた顔でほろりと言葉を溢した。

「付き合っ...――」

「え、いや...友達付き合い、だぞ...?」

四倉さんが押さえていた両手をガッツポーズに変え、言った。

「わ、私おおお応援してるから...!」

「何をだよ...。」

はしゃぐ二人を元に戻すのにえらく時間を消費させられた。結局、相談になったのかすら怪しいし。ただ、無駄に駄弁って終わりにするのも勿体ないので、今回の作戦について良い案が出ないかと無理くりで話し合いの時間を作った。

 

そして来たる放課後、俺は名取に声をかける。予想通りに愛想のない声で

「うん。」

と返す彼女に、俺はその机の前に跪いた。

「え、何やってるの?」

「暇か。」

「残ってる課題、片付ける以外は。」

「あっそう。」

「何よ。」

首を傾げる名取。その怪訝そうな顔を前に向けて

「二人で教室、抜け出さないか。」

と、言いなれない少女漫画の台詞を吐いてみるも

「は...?」

当然の反応で返ってくる。自分で言っててなんだが、顔が赤くなってないかが心配でならない。ただ、ここで冗談だと思われたら計画が台無しだ。だから今は必死に我慢して、苦手な王子様を演じ切らなければ。

「まあ、ちょっとした散歩だ。いっつも放課後に居残り食らって、帰ったらバイトでじゃあ辛いだろ。」

「先生見つかったら怒られるよ?それに今日手伝いの日じゃないし。」

「ああ、かもな。だが、ちょっとは外出たいだろ。」

「別に?」

「...だったらちょっと付き合ってくれや。暇してるんだ。」

「えー、やだよ面倒くさい。」

予定が一ミリも調和しねえじゃねえか。少しは話に乗ってこいよ!

全く、フラットに話しかけても全然効果がない。矢原さん達から、少女漫画チックな語録を使えば反応すると聞いたが、正直あんな台詞、恥ずかしくて使える訳がない。でももし、もうそれしか使える手がないのだとしたら...?あの人達監修の展開が唯一心を開くルートだとしたら...?

...俺は心を鬼にした。今は自分の感情論で判断すべきではない、そう言い聞かせた。これはただの戯曲に過ぎない。演じきれたら後悔などきっとない、と。俺は名取の手を取り、真っ直ぐに彼女の目を見つめる。うわっ、こんな寒いのに手温かっ!それに何だ、このしっとりと柔らかい肌触りは。ずっと触ってられる気がす....違う違う、何を実況している。これじゃあただの"女子の手握りたいだけの奴"じゃねえか。名取もビクッと目を丸くしてるし、タイミングを見誤るな、河島。

「お前じゃなきゃダメなんだ。」

「は....は!?な、何言ってんの河島。」

「嫌か。」

「え、い、いや...嫌っていうか、あんたどうしたの??」

「目を逸らすな。答えるまでは俺を見ろ。」

逃げ出せない緊張が走る。それは、耳をすませばお互いの鼓動が聞こえそうなくらいのものだった。言いなれない台詞と動き、間違いなく黒歴史になってしまうであろうシチュエーションに、恥ずかしさで意識が飛びそうなのを必死で抑える。アドバイス通りのシチュエーションにしたが、これ本当に合ってるのか?遊ばれてる気がしてきたんだが。全く、お陰様で心臓が口から飛び出そうだ。あの二人、マジで覚えてろ。

名取はあたふたした様子で、何度も視線を逸らそうとしている。

「抜け出すってそもそもどこ行くの?」

「いいから、黙って俺についてこい。」

手を引くと、名取は何も言えなくなったまま立ち上がって歩き出す。右手で胸に手を当てて緊張しきった彼女に、俺はそこはかとない申し訳なさを噛みしめていた。

「あ、あの...河島さ。」

「.....ん。」

「変なこと、考えてないよね...?」

「断じてない。」

「そ、そう。分かった。」

廊下に響く二人の足音。別にやましい心持ちで手を引いているわけでもないのに、どうしてか胸いっぱいに罪悪感が溢れてくる。俺は何をしてるんだろう。ただ名取に元気を取り戻して欲しいってだけでここまでシチュエーションを作って。

「あの...河島。」

「んん。」

「いつまで手、握ってるつもりかな。」

恥ずかしそうな声で言われたその言葉に、俺は咄嗟に手を離した。

「あ、いや!悪い。」

「...別に、良いんだけど。」

二人はしばらく言葉を交わさなかった。

 

そろそろ沈黙のままでいるのも限界だと互いに感じ始めていた頃、ようやく河島は目的の場所に到達した。その部屋に着くと、河島は緊張から解放されたかのようにドテーン、と椅子に座る。状況の理解できない名取は、あっけらかんと立ち尽くしてしまった。

「あの、河島....くん?」

 

つづく。



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85.居残り組の板前

 

下町の鶴

9章-奮闘記-

☆Episode.85「居残り組の板前」

 

「あの、河島....くん?」

「何だー。」

「いや、何だじゃねえよ。なにこれ、何で家庭科室?」

河島の手に引かれて家庭科室にやって来た名取は、状況が読めずに固まっている。河島はテーブルの上に頭を乗せ、限りなくリラックスした状態で言う。

「も少し待ってなー。あとちょっとで山岸が来る。」

「山岸...?え、ちょっと待って、どういう状――」

名取が言いかけると、ドカーン!と大きな音を立ててドアが開いた。驚いて振り向いた先に、山岸がぜえぜえと息を切らして立っていた。片手にぷっくりと大きく膨れたレジ袋をぶら下げている。

「遅いぞー山岸。」

「はぁ、はぁ...、肉がセールのスーパー、ちょっと遠いんだよ!」

「なんだ、近場で良いのに。」

「肉高いんだぞ?」

二人のやり取りを呆然と見ている名取。

「あの、これは一体...?」

と、思わず疑問を投げかけた。すると河島は名取の方を向き、自信満々の笑みを浮かべて言う。

「居残り軍は馬鹿が取り柄!馬鹿やるだけの活気を欠いてはいけない。ほら、そこ座ってちょっと待っとけ。」

そう言って名取に缶コーラを投げた。

「あわわわ!え、え?」

慌ててそれをキャッチする名取。それを見届けた二人は服の袖を捲り上げ、

「よおおおし!!」

と張り切った様子で作業に取り掛かった。

「山岸はフライパンの準備を!俺は肉の方やる!」

「うぃっさー!」

「あと山岸、この野菜はなんだ!」

「ついでに買っといたやつ。あった方が彩り良いかなーって。」

「さすが山岸、女子力高ぇな!知らんけど。」

テキパキ動いているようで、慌ただしいだけの二人の動きを見ている名取。コーラを開封する余裕もない程、彼女はそれに気を取られていた。

「何やろうとしてんの?何か作るの?」

「それは出来てからのお楽しみ。ま、ゆっくりとコーラでも飲んどけ。」

まずは山岸がまな板を取り出し、そこに野菜を並べた。じゃがいも、人参、コーン、それらの材料を念入りに洗い始める。一つ一つを丁寧に、優しい言葉までかけながら汚れを落としていき、終わったものはキッチンペーパーの上において、と随分慎重にやっている。が、名取にとってはもどかしい光景。

全てをようやく洗い終えると、河島が取ってきた調理器具の中から包丁を手にした山岸。覚束ない切り方で、そもそも持ち方からだいぶ危なっかしい。見ていられなくなった名取は立ち上がり、、二人の間に割って入るとこう言った。

「山ちゃん、そのやり方じゃあ手ぇ切るよ。」

「え?あー、何だっけ。鷹の爪みたいな名前の――」

「猫の手ね...。鷹の爪は調味料。まあ猫の手じゃあ少し効率悪いけど、慣れないんだったらその方が良い。」

時々お手本を見せたりしながら、丁寧に山岸に教える名取。事細かに説明していると、今度は河島の方から空気が漂い始める。ふと彼の方を見ると肉を水洗いしようとしていて、名取は大慌てで止めた。

「バカバカバカ!!何やってんの!」

「え、見ての通りだが。」

「見ての通りだから止めてんの!肉は洗っちゃ駄目!!」

「えー...、細菌いっぱい付いてるんだから洗わなきゃマズいだろ。」

彼女は深呼吸に近しい程の大きな溜息を吐いた。そして洗い場から河島を半身でどかし、

「もういい。私やるから代わって!」

と声を上げた。河島は、彼女が何故イライラしているのか分からず、不思議そうな顔を浮かべている。

「細菌いっぱい付いてるのが水で飛び散ったらどうなる?」

名取は尋ねた。

「ああ、危な――」

「でしょ?どのみち焼くなら細菌死ぬからお肉はいいの。で、何作んの。」

「と、特大ハンバーグ...。」

「ハンバーグ!?どんだけ時間かかると思ってんのよ、今からじゃ下校時間過ぎるよ!?」

「え、そんな手間かかんの!?」

「当ったりま...ああもう!!」

名取は頭を搔きむしり、むしゃくしゃしだした。二人の知識不足に付き合っていられなくなったみたいだ。彼女は数歩後ずさりして椅子に腰を下ろすと、諦めたように顔が下に傾いた。

「もう知らない。先生に怒られても私、知らないから。」

彼女の一言に、作っていた二人も手を止め、困った表情になる。切っている途中の野菜、並べた調理器具、断念して片付けるにはあまりにも中途半端な状況だ。山岸は言った。

「喜んで貰えるって思ったんだけどなあ...。」

三人は言葉を失った。それは例えようのない壊滅的な空気で、居心地は最悪だった。

名取のために何かしてやろうと動いた二人の行動も、結果として彼女を落ち込ませてしまう。残った食材の処分方法も思いつかず、ただその場で固まることしか出来ない。河島は暗い声色で山岸に尋ねた。

「これ、どうする?」

作りかけの食材に目を向ける二人。

「うーん...。」

しかし何一つ会話は進展しない。ただ見つめながら、適当な相槌で返すだけの時間が続いていく。そしていよいよ言葉さえ失った時、静寂の中で名取が尋ねた。

「それ、捨てるの?」

彼女の声に振り向く二人。山岸が答える。

「捨てたらバレるよ。何とかして持って帰る。」

「持って帰ってどうするんだ。お前んとこも、もう夕食作り始めてるだろ。」

と、河島がそれに反論した。再び部屋が静かになる。

一呼吸、あるいはもう少し長いくらいの沈黙が起きたあと、名取は先ほどとは一変した声色で二人に尋ねた。

「あたしが指示したら、即座に動ける?」

殺気立ったような雰囲気を纏った彼女の声、それはたった一言でこの部屋を究極の緊張で満たした。まるで銃口を背中に突き立てられているような感覚に、山岸は冷や汗と共に口を噤む。しかし河島は違った。名取の質問に彼は全身ごとふりかえると、笑みを浮かべて言った。

「ああ、何だってやるさ。」

河島の言葉を聞き取った名取は勢いよく席を立ち、キッチンへ身体を滑り込ませる。そして近くの野菜を手にかけると、テキパキとした喋り口調で指示した。

「河島は扉の前、先生来ないか見張ってて。」

「おう。」

「そっから時計見えるでしょ、五分経ったら山岸と交代。山岸は私の側にいて。なるべく簡単なのを任せるから、言ったらちゃんと動くこと。良い?」

「は、ハイ!!」

喋りながらも、彼女の手は止まることなく作業していた。

二人にとっては普段見ることのない仕事モード。それはきっと彼らの目には、どこまでも新鮮に映ったことだろう。

名取は包丁を手に取った。次の瞬間、タンタン!と音を立て、物凄いスピードで玉葱が切られていく。

「山ちゃん、油ひいて。フライパンに円を書くイメージで。」

「了解です。」

「出来たら火付けちゃって良いよ。」

山岸は目を疑い、名取の手元を見た。すると、数秒前に切り始めたばかりの玉葱はもう既に殆どがみじん切りされている。驚いて目を止めていると、すぐに名取から注意を食らった。

「ボーッとしない、手元に集中する!」

「....!ごめんなさい。」

次々と指示を出していく名取。フライパンの油が熱されると、山岸と位置を交代した。

「次、ボウル取ってきて。んでお肉、そん中いれといて。」

ジューー、と音が部屋に響く。刻んだ玉ねぎをササっと炒めながら、二人との連携も忘れない仕事っぷり、その光景はまるでオペ室に居るかのような進み具合。それでいて彼女の調理には一寸の間違いも犯さない。

「ついでに材料あるか準備室見てきて。パン粉、牛乳、卵、あと調味料。」

「卵は見た感じ無い。てか生もの全般置いてない!」

「パン粉と、あと調味料は?」

「パン粉あった!あと調味料は塩、胡椒、パセリ、ガーリック...パウダー...?」

「今言ったやつ、パセリ以外持って来て。」

「らじゃ。」

「(卵、牛乳なしか...。あるもんだけで何とかするか。)」

「名取、小っちゃい牛乳なら買ってあるけど。」

「何それ、飲みさしじゃなかったら頂戴。」

てんやわんやで部屋を駆け回る山岸。言われたものを持ってくると、暫くして河島から報告が来る。

「名取、もうそろ五分経つ。」

「え、もう?分かった、じゃあ山ちゃん一旦お疲れ。河島と交代して。」

「了解。」

ボウルに移した挽き肉に調味料と、炒めた玉葱、パン粉と牛乳を入れ、手でこねていく。それが終わると、河島にはハンバーグの成形を手伝わせた。手にとって形にし、フライパンへ並べていく。これくらいなら初心者にだってできるはずだ。そう思っていたはずなのだが、いざ見てみると形が酷い。大きすぎると指摘をすれば、今度は小さすぎるのを作るし、そもそも楕円形に成形するのが下手過ぎる。仕方がないので他のことを担当させて、ハンバーグは私一人でやることにした。

フライパンの蓋を閉じて焼きに入ると、少しだけ余裕ができた。河島には食器を持ってこさせ、私は焼きあがるまでの間、横に添える用の野菜を作ることにした。河島はのんびりと皿を運んでくると、感心した様子で話しかけてくる。

「やっぱお前すげえわ。」

「何がー。」

「動きに無駄がないって言うかさ、それでいて生き生きしてるからさ。」

「そっかなー、別に普通じゃない?」

淡々と調理しながら生返事で返す。それはもう任せて心配な作業が残っていないからっていう、その安心感が恐らく理由。山岸も外を見張りながら私に言った。

「本当、格好良かったなあ。調理実習の時とは大違いだ。」

「調理実習はだってアレじゃん。テンポ遅くてイライラするって言うか、素人に合わせんの鬱陶しいから。」

急な毒舌に引き気味の二人。そんな彼らに構うことなく試作のソースの味見をし、

「うーん、こんなもんか。」

と呟く。個人的に味に納得がいくと、二人を呼び寄せて同じように味見させた。

「どうどう?悪くはないんじゃないかな。」

河島と山岸が小さなスプーンでソースの味を確かめると、二人は互いに顔を合わせて頷いた。そして名取の方を向く。

「最高かよ。」

と、二人の声が被った。

 

「何か俺らの方がもてなされてしまったな。」

料理が完成すると、河島は呆れ笑いを浮かべてそう言った。それには山岸も賛同して

「ああ、間違いない。」

と言って頭を掻いた。そんな彼らに名取は深く息を吐くと、解放されたような声色で言う。

「ほんっと冷や冷やしたわ。あのペースで手ぇ貸さなかったら校門しまってたかんな?」

「だろうな。やっぱお前には敵わん。」

河島はそう言って椅子に座る。続けてこう言った。

「さ、何はともあれ食べようぜ。あとのお二方も見てないでさ。」

「あとの二方...?」

名取が首を傾げると、出入口の扉が開いた。彼女はビクッとなって視線を向ける。

「あ、出来た~?」

「わあ...いい匂い。」

そこには瑞希と、明希の姿が。名取はキョロキョロと首を動かし

「え、どういう?なにこれ、なにこれ??」

などと言いながら混乱している。河島はざわめきの中、名取に言った。

「本当はお前をもてなすための会にしたかったんだが、俺らの負けだ。」

「え、どういうこと?」

「みんな、お前のこと心配してたんだよ。」

「え....それって、つま――」

言いかけた名取の言葉を遮って、河島はみんなを取り纏める。

「はーい、みんな席について。合掌、いただきます。」

「「いただきまーす!」」

茫然とする名取を前に、部屋には友人たちの「美味しい」の声が絶えず響いていた。

「つるりん、食べないの?これすっごく美味しいよ!!」

 

つづく。

 



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86.大脱出

 

下町の鶴

9章-奮闘記-

☆Episode.86「大脱出」

 

一筋の光だけが差し込む闇の中、私達は息を殺した。触れ合う肌さえ苦しいと感じるほどに身体は圧迫され、頭がクラクラしそうな程に空気が薄い。

「早く行って、お願い。」

心に繰り返す。隣の瑞希からの心音が微かに聞こえてきて、お互いの緊張の凄まじさを実感せざるを得ない。

今いるのは掃除用具などの入った大きな棚の中。ハンバーグをぺろりと平らげてから数分後、みんなとの談笑中に先生がこちらに向かってくる様子を山岸が確認し、それぞれ一斉にばらけて隠れたところから今に至る。家庭科室は他の教室とは場所が離れていて、ここから見える廊下から誰かが見えたならそれは確実にここへやって来るという証拠。ガラガラと音を立てて先生が入ってきた瞬間には、この上ない恐怖を感じた。

「誰かいるのか。」

あぶり出すように声を張る先生。思わずビクッと身体が動いてしまいそうな声量だ。視覚の情報がない分、鼓膜を刺激する音の一つ一つが猛烈に恐怖を煽る。いっそこの扉を開けて白状しようかとさえ思った。だが、そんなことをすれば私のみならず、周りにも同じ罰を背負わせることになってしまうだろう。そんなことは許されてはならない。何が何でもこの状況を切り抜けなくてはならない。私はこの胸に完全脱出を誓った。

しかし皮肉にもその誓いは、より自分を追い込むための理由へと変わってしまう。扉を開ける音、コツ、コツと鳴る足音、近くなったり遠くなったりする感覚に翻弄される緊迫感、それは私達の心臓に毒を注ぎ続けた。

「助けて。」

私は喉まで出かかった言葉をグッと堪え、瑞希の手を握った。指を絡めて握り返す彼女。するすると滑ってしまいそうな程に手汗が湿り、繋がれた手が小刻みに震えていた。

 

時間にして三十秒ほどで先生は教室を出て行ったが、私の中ではそれが何十分にも長く感じられた。まだ外に先生が待ち伏せているかもしれない、そんな不安が隠れ場所から出るのを躊躇い、もう三十秒ほど待機した。もう行っただろうか、そんな疑心がつのる中、山岸からの忍び声が耳に届く。

「みんな、ゆっくり出てこい。」

ようやく平安が訪れたのか、そう思って扉を開けた。まぶしさと、先ほどまでの家庭科室の空気が肺に流れ込む。長く続いた恐怖から解放され、思わず私は瑞希の胸の中に飛び込んだ。

「あはぁぁん、死ぬかと思ったあああ...!」

などと泣き言を垂れ、瑞希も

「吐き気が...吐き気凄い...。」

と言って抱き返し、精神的な苦痛を言葉にする。

「漏れてた、あれで見つかってたらマジ漏れてた...。」

「吐いてたかも。」

「漏らしてたかも。」

「おろろろろ...。」

「ぽたぽたぽた...。」

山岸、困惑の表情。

「きっったないな、上から下から...。」

そういえば出てきてから明希と河島の姿が見当たらない。山岸に聞いてみると

「同じところに隠れてたよ?」

というので、彼の隠れていたという机の下を一つずつ調べていくと...

「ア...アア....ア....。」

居た。丸椅子を抱きかかえ、顔を真っ赤にし蹲った状態で...居た。

「ど、どうしたの?もう大丈夫だよ?」

私は声をかける。瑞希も気になって顔を覗きに来たが、私が尋ねたことに反応したのか読み取れない雰囲気で、明希は顔も視線もこちらに向けないまま何か呟いている。

「お、おお、男の人の体が、、あ、あああんなに近くに...。」

「.....。」

頭から煙が上りそうな程の赤面で固まる彼女。その緊張から出ている声はまるでコウモリの耳にも届きそうなくらいに高く、目も渦巻くように泳いでいる。私はおもむろに山岸の方へ顔を向け、無言の圧をかけてみた。すると山岸、

「誓って言う。どこにも当たってない。」

もう少しそのままで見続けてみる。

「服の生地すら擦れてない。」

断固として主張を変えないので明希にも尋ねようと試みるが、

「おお、男の人が、あ、ああ。」

会話が成立しそうにないので放っておくことにした。

 

軽く溜息を吐いてしゃがみ状態から戻ると、山岸や瑞希の方を見て言う。

「とりあえずお皿片付けて早めに帰ろ。」

あまり長居するのも危険だと思い、元居たテーブルの方に歩いて行く。明希と山岸が隠れたテーブルの前寄り二つ隣、その場所へ着くと咄嗟に違和感を覚えた。

「そうだね、徹底的に痕跡を消さないと。」

山岸が返した直後、私は

「ちょっと待って――」

と言いかける。どうしたのかと足を止め、部屋は一瞬の静寂に包まれた。

「ねえ、お皿...何かおかしくないかな。」

山岸がこちらに向けて歩きながら

「置きっぱなしはマズいだろうから纏めたんだけど。」

と話す。家庭科室のテーブルは少し特殊で、机上の板の片方を折り畳むと洗い場が出てくるという仕様になっている。先生の襲来直前に食器など一通りを洗い場に纏め、その板で蓋をするように隠したはずなのだが、

「あのさ、蓋したよね...?」

「名取、さすがに僕もそんな野暮な失敗は...え?」

戻したはずのテーブルから、無造作に置かれた食器たちが顔を出す。洗い場の状態になっているのだ。

「山ちゃん、もっぺん聞くよ。テーブルはこの状態だった?」

山岸の額から脂汗が伝う。彼はテーブルに両手をつき、真剣な声色で言った。

「第二陣形だ。」

バレていることを察し、帰宅陣形のパターン2を提案する山岸。私は忍び声でそれに返答する。

「あれはうちらの教室起点でしょ、どうすんの。」

「スタート地点が違うだけ。それ以外は同じだよ。」

「待って待って。第二は難易度高すぎるよ。みっちゃんも居るんだよ?」

瑞希は二人の会話をポカーンとした表情で聞いている。

「時間が無い。矢原さんは僕の方へ。」

「え、何?なになになに??」

議論する間もなく、先生の気配が段々と強くなっていくのに焦りを感じ、私は無理くりにその案で実行に移すことを承諾した。

「ああもう...。みっちゃん、山岸から離れないでね。」

「え、ちょっと待って?どういうこと??」

いつも居残りから逃れるために使う私達専用の脱出戦法。十二ものパターンの中から山岸の出した第二陣形は、初っ端から先生にバレた状態から開始する高難易度な技で、それぞれが交互に囮になりながら相手を撒いた後、暫くの潜伏を経て校外へ脱出する流れとなっている。

瑞希の理解は追いつくはずもなく、心の準備すら待たずにその時は訪れた。ふと振り返り、扉の方を向くと、扉の隙間から先生の半身が巨人の如く覗き込んでいる。野球の話ではない。

「ここで何をしている。」

地をも揺らす先生の低い声が私達に襲い掛かる。その瞬間、私は声を上げて合図した。

「強行脱出、始めーーーっ!!」

声で揺動させ、私に集中が向けられたタイミングでブレザーを先生の顔目掛けて振りかざす。その一瞬で先生の真横をすり抜け、それと同時に反対の扉から山岸たちを脱出させた。かつてこの方法ですり抜ける際に、視界が奪われているはずの先生に感覚で服を掴まれて連れ戻された痛恨の失敗経験を活かし、今回はスライディングで通過し成功した。ブレザーの回収に手こずったが、この微妙なタイムロスで先生が捕獲成功を予測してくれたおかげで、標的が変わらず私に向いてくれたので良しとする。計画通りだ。このくらいの時間が稼げれば山岸は姿を完全に眩ます。ちょっとやそっとじゃ見つかりはしない。

「待てこらぁあああ!!のうのうと居残りサボりやがって。ただじゃおかねえぞぉぉ!!!」

大声を上げて追いかけてくる先生。だがしかし、本気で走れば逃げ切れるのは火を見るよりも明らか。そんなことをすれば先生がパワープレイから路線を変え、私の苦手な頭脳戦へと持っていくに違いない。だから丁度良い速度を保ちつつ、余った体力で冷静な判断力もついでに奪っておく。

「はははァ~、三十越えたら無理な運動は何とかってなァー!ハハハぁ~。」

「誰に口聞いとんじゃオラァァァ!!」

人呼んで、「くそ餓鬼ディフェンス」である。さて、この調子で相手の体力を落とし切ったら教室へ荷物を取りに行こう。撒く場所も三階の辺境地帯。間違えても一階で逃げ切ってしまうと職員室で応援を呼ばれるし、何と言っても脱出口を潰される危険性がある。ここからが本当の勝負だ。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

一方その頃、家庭科室では...

 

ガタッ....ガタガタガタガタ....

みかんの段ボール箱が揺れている。少し動くと止まり、また暫くすると羽化前の卵の如く揺れ始める。

「あの、...誰か助けて。抜けっ、抜け出せない...。」

素材の遮音性が活かされ、モゴモゴとした音が部屋の中で寂しく響いていた...

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「ここで暫く身を隠そう。」

家庭科室から離れ、別の準備室へ逃げ込んだ山岸たちは物影に隠れ、人の気配に感覚を研ぎ澄ませた。先ほどまで走って荒れた息を徐々に取り戻すと、瑞希は囁くくらいの小さな声で尋ねる。

「ねえ、山岸君。」

「どうしたの。」

「居残り組の子達、いつもこんなことやってるの...?」

「...企業秘密ってことでお願いします。」

「......。」

「まあ、外せない用事とか、今回みたいな特例のために用意している感じかな。」

「へえ...。」

「うん。」

「ほぼ全部言ったね。」

「....。」

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ガタガタ、ガタ....バタン!

ようやく倒れたみかんの箱。その中から河島が顔だけを出す形でお生まれになり、

「痛ぇっ!!」

と瑞々しい産声を上げた。生き物というのは、生まれて一番初めに目にしたものを親と思う習性があるという。それをどう捉えるかは個人の解釈次第だが、彼が箱から出てきて初めに見たものは

「わた、わたわた私...、あばばばば....。」

赤面で蹲る十七歳の乙女、四倉さんでした。

「あの、すみません。助けて。出れない。」

何度か呼びかけてみるも反応しない四倉。河島は仕方なくその身で這いつくばり、何とか側までやって来た。混乱しきった彼女にどうすれば気付いてもらえるかを考察する。そして彼は、言葉ではもう効果がないだろうと思い、不本意ながらもその頭を使った。彼女の足目掛けて弱々しい頭突きをする。すると

「ひゃあああああ!!」

四倉はそれに気付いた。と同時に、河島の頬には赤い手形がついた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

脱出作戦から数分経った頃、私は教室へ鞄を取りに来ていた。しかし、そこには私のはおろか、みんなの分の鞄もない。恐らく山岸が纏めて回収してくれたのか、そう思うことにして教室を出る。居残り脱出は簡単な作業ではない。判断が遅れるとすぐに追手に追いつかれてしまう。考察に時間を割くのをやめて、取り敢えず校外へ脱出することに路線変更した。私はくるりと体の向きを変え、教室を飛び出た。

すると驚いたことに、そこにはなんと先ほど撒いたばかりの先生がいるではないか。私が散々奪った先生の冷静さを今度は先生が奪うようにして、威圧的な姿で立ちふさがっている。私はその動物から逃げようと一歩、一歩と後ずさりをする。しかし、一定の距離を取ると先生は大股でその差を埋め、こちらに近づいてくる。

「せ、せんせ...?」

「おう名取、お前、言うことあんじゃねえのか。」

「な、なな何のことでしょう...。」

「とぼけんじゃねえ!」

「ひっ...!」

先生は勢い良く床に足を振りおろし、大きな音を立てた。思わず震え上がる。あともうちょっとだったのに、逃げても間に合わない距離まで追い詰められてしまった。

「お前よォ、あの部屋で何してた。」

「....えーっと。」

「何 、 し て い た。」

「...!す、少しばかりお料理を...。」

「へえ、料理ねえ。勝手にか。」

「あの...その....。」

「誰にも許可を取らず、ええ?勝手に使ったのか。」

「....。」

「お前いい加減にしろよ。他の奴らはオイ何してんだ。なァ、どこにいる。」

一番答えたくない質問をされる。被害は最小限にしないと、今回ばかりは全く悪くない瑞希たちまで酷い日勤教育が課せられてしまう。それだけは避けたかった。私は必死に口を閉ざした。

「おい、答えろよ。あん?」

「......。」

「黙ってたって何も変わらねえぞオイ。帰んのどんどん遅くなるぞ、ほら答えろよ!!」

強い言葉の圧にやられ、心にダメージが蓄積されていく。私は胸の奥で助けを叫び続けた。自分の保身のために仲間を売ることなど出来ず、ただそれでも黙秘して耐え続けるには持ちこたえられない程のものだったから。

「おい、言え。早く。」

「....。」

「言えって、黙って解決はしねえぞ。」

「.....!」

「口ついてんのかコラ!!女だからって甘くしてやると思ったら大間違いなんだよボケええ!!」

先生の口からショットガンの連射が始まる。一発一発の威力が凄まじく、止まらない強烈な言葉と声量の圧が精神を追い込んできた。

「助けて...。お願い、助けて!」

その言葉が喉まで出かかったその時、先生の後方から声が聞こえる。

 

「宅配便でえええすーーー!!」

 

何事かとびっくりし、体が固まる。ただ、まだ驚くにはまだ早く、その声の直後には先生の頭にみかんの段ボール箱がダンクシュートで勢い良く被せられた。

「うごっ!!誰だこらぁあああ!!」

目の前で火にガソリンが注がれる光景に直面し、私は足の力がなくなった。膝から崩れ落ちる刹那、燃え盛る炎の情景を最後に視界が揺れ動き、身体を動かしていないのに景色が流れていくという違和感に満ちた状況に面する。私は目を丸くした。何が起こったのか、と。視界に映らない所から空箱の落ちる音が聞こえ、その直後

「っざけんなよオラあぁぁぁ!!ちょと待てええええ!!!!」

と叫び声が轟いた。足音のリズムで左右に大きく揺れる感覚。しばらくその中で揺られていると

「すまん、待たせた。」

頭上からは聞き慣れた声が聞こえてくる。声の元へ視線を上げると、そこには河島の姿が。

「え...?」

状況が何一つ分からない。ただ一つハッキリしているのは、後ろからの魔獣に捕まれば確実に死ぬということのみ。

「いいよ、降りるって。」

力ない声で言うと、

「いい。お前いま走れんだろ。」

あっさりと論破されてしまった。部活が終わり、下校時間のチャイムが鳴り響く廊下を颯爽と駆け抜け、そこでもの言えぬ緊張感に打ちひしがれている。幾重もの戸惑いの中、何を思ってか私は、心を落ち着かせようと彼の胸の中に首をもたれさせた。そこで初めて気がついたんだ。いま私、河島に抱っこされてるんだ、と。

急にドキドキと胸が高鳴りだし、身体全体がじんわりと熱くなった。でもどうしてだろう、それと同時に不思議と落ち着いた気持ちになっていくのは。片耳からドク、ドクと彼の心臓の音が聞こえる。そこから頬に伝わる熱までもが何だか心地良いと思えるようになっていた。もう少しこのままでいたい、そんな願いとともに近づいていく玄関。夢が覚めるまでの時間が惜しく感じてならない。そう強く思った。

 

しかし哀しき哉、夢とは束の間の幻とは良く言ったものだ。まどろむ気持ちの中、ふと前に視線を向けると、そこには教室から出てくる沢山の生徒たちの姿が。今置かれている状況がじわじわと俯瞰で見られるようになってくる。これは何の特殊能力でしょうか。私は真っ赤な顔でパニックになり、その腕の中で暴れた。

「わあああああああ!!河島ァァァ!!!降ろせ降ろせ降ろせ降ろせ!!!!」

 

つづく。



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87.商法


やりたいこと一筋でやれるなら、夢はどんなに楽で良いものだと言えるだろうか。しかし、一人で何でもこなせる為には覚えなければならないことがとても多い。これだけやってればいい、なんてものだけで叶うとしたならば、きっと夢を手にできる人は今よりもずっと多いはずだ。母は時々私にこう聞く。
「本当にこれでやっていくのか。」
と。それに頷く度に母は私に色んな任務を課せてくる。料理のことのみならず、掃除や、お客さんとの接し方など、その内容は様々だ。
さて、そんな曲がりくねった道ばかりを歩かせる母から、今までで一番キツい任務を言い渡されたのは休日の朝。家でごろごろしていたい時間だからこそ、出来ればわくわくするような話が聞きたいのだが...。
初めは何かの冗談かと思っていた。しかし、それを受け止めなければならないと知ったとき、心がこう悲鳴を上げたんだ。

「お店なんて大嫌いだ!!」




 

下町の鶴

9章-奮闘記-

☆Episode.87「商法」

 

 

歯磨きや朝食を済ませ、時は大体九時か十時あたりの頃。ちゃぶ台の上のみかんを頬張りながらテレビを見ていると、母が洗濯物を畳みながら話しかけてきた。

「詩鶴、あんたもそろそろ稼ぎ方を覚えていかないとね。」

私はそれに返した。

「稼ぎ方?」

「そ。自分で切り盛りしていくなら、まずは店に来る人を増やさないといけないじゃない?」

「んー。」

「それをやって貰おうと思って。」

「何からやればいいのー。」

「お金の稼ぎ方を覚えること。」

「へー。」

もごもごと歯を動かし、生返事で返している。母はそんな私に言った。

「詩鶴、お肉は好き?」

「え、どうしたの急に。」

「好きかどうか聞いてんの。」

「好き。え、めちゃくちゃ好きだけど。」

「じゃあ、私の出す課題をこなせたら良いレストラン連れてってあげる。」

「うそ、まじで言ってる!?」

「ええ、ちょっと高いとこで考えておくわ。」

私は目を輝かせて喜んだ。母がそんな大胆にご馳走してくれるなんて珍しいから。物凄い勢いで起き上がった私は、慌てるようにその条件を聞く。しかし、そこで聞かされたものは衝撃の内容だった。

「最近ちょっと経営が傾いててね。今週の売上を十五万に出来たら合格よ。」

「え、じゅ...何て?」

「十五万。」

「ジンバブエドル?」

「円だよアホか。」

体がピタリと固まる。それは高校生にとって聞きなれない巨額で、私はてっきり何かの冗談だと思っていた。何度聞き返しても同じ答えが返ってくることに困惑してしまい、一旦テレビ画面に集中を分散させる。母は続けた。

「他で稼ぐのは基本なしってルールを追加しておくわ。」

「それは...どうして?」

「今の詩鶴じゃあ人と自分をボロボロにし兼ねないから。」

「どういうこと?」

「利益中心にものを考えるなってこと。」

「ちょっとよく分からないんですけど...。」

「まあそのうち分かるわ。さ、今からよーく策を練っておきな。」

「え、あー...はい。」

「お腹いっぱい食べさせてあげるから、そのつもりでね。」

そう言って母は私を社会という名の戦場に送り出したのだ。経済学なんて何一つ学んでいない自分にとっては未踏の領域、失敗すればご馳走が逃げてしまう。何から始めればいいのかを尋ねてみたが、母はヒントの一つも言わずに家事をするばかり。ただひとつ、

「自分なりに考えて、どうすれば商売を続けられるかやってみなさい。」

と、これだけを私に残した。それからというもの、ミッション開始の月曜へと時間はただ悪戯に過ぎていく。何も案の浮かばない脳みそに腹を立て、頭をかきむしっては苦悩する。

どうすればいいのさ、何も分かんないよ。そう心に何回も何回も繰り返し、考えるほどに腹の虫が鳴いた。こうして、今まで料理だけを頑張っていただけの少女に、絶望の試練が幕を開けたのだった。

 

突如言い渡された課題には戸惑いの連続で、あれから月曜が来るまでに

「本気で言ってるのか。」

と喧嘩になったりもした。ただ何となく、いつものように覚えた仕事をこなしてきたのに、今度は何もかも考えて行動しなきゃいけなくなるなんて。考えるのは苦手だ。ただ蛇足で物事が進めばいいと思う。でもどうせ母のことだから、一筋縄では達成できないようになっているに違いない。どうしようか、どうしようかと考えているうちにお手伝いの時間になった。

それからいつも来る常連さんが顔を見せ、いつもと同じように接客をした。しかし、どこか重たい雰囲気が漏れていたのだろう。それが常連さんにすぐに見抜かれてしまった。

「どうしたの。学校でなんかあったのかい?」

「え?あー。」

うーん、と頬杖をついて悩む。言われてみればお酒も料理も、じっと黙って作っていた気がする。私は母に言い渡された課題のことを軽く常連さんに話した。すると

「ひええ、大変だねえ。うちも会社であるよ、そういうの。」

と、笑顔でぼやく。

「へえ、そうなんだ。」

私は常連さんの話に関心を寄せた。同じ境遇にたったような気がして、どんなものなのかが気になったのだ。

「会社の売り上げをうん百万上げるって話になると、自分のチームで何社か契約してもらう、みたいなのを任されるんだよ。」

「うーん、よく分かんない...。」

「例えばさ、」

と言いかけ、常連さんはポケットからライターを取り出した。

「うちと契約してくれたら毎週、このライターを一箱届けます。これで相手が良いよと言ってくれたら一契約達成。」

「うん。」

「じゃあ各チームに分かれて最低でも五社と契約してもらおう。って感じでノルマを課せて、日々あちこちに売り込みに行くってわけさ。」

「うわあ、なんか聞いてるだけで頭痛くなりそう...。」

「だろ。毎日こんなことやってりゃ酒も切れるし、髪も減る。ははは!」

便乗して笑ったが、そのネタの面白さがよく分からなかった。

常連さんは熱燗を一口飲むと、徳利の首を掴んでもう一杯注ごうとしている。私はそんな常連さんに一つ尋ねた。

「どうすれば上手くいくかな。」

考えあぐねる私に、常連さんは注いだ酒をくいっと飲み干してこう言った。

「売ることを中心に考えない。俺はこれに尽きるよ。」

「どういうこと??売るのが仕事なのに?」

「それが最初から丸見えだったら買う気失せるだろう?」

一呼吸置いて考える。常連さんはそんな私に向け、手本を見せると言ってくれた。彼は鞄の中から未開封の缶コーヒーを取り出すと、それを私に勢い良く見せつけた。

「こうも寒いと一本飲みたくなりますよね!厳選された豆をふんだんに使っていて香り高く、そして飲みやすい。苦味が得意じゃないという方にもご安心ください。上質なミルクのまろやかさがコーヒー特有の苦みをバランス良く抑え、お子様にも飲みやすい一杯となっております!さあさ、如何ですか。こちらご契約頂けましたら定期便でお届けいたします。どうですかどうですか!」

「お、おう...。」

「どう思った?」

「凄い饒舌だね。さすが本職だなあって思った。」

「へへ、顔が困惑してるよ。」

あまりにも暑苦しい勢いで来られたから、びっくりして言葉を失いかけていた。反射的に浮かんだ誉め言葉を口にしては見たものの、営業部でやっているらしい彼にはその建前はバレバレだったみたいで。

「これがテレビとかラジオだったら別にこれでも良いんだけどね。大勢に向けているから。」

「ああ、確かに。」

「でもこれがピンポーンって鳴って、扉開けていきなりさっきの演説始まったとしたらどうする?」

「うわ、絶対くどい。」

「でしょ。あれは宣伝の、いわゆる広報の技術であって、直接の交渉では使いづらいんだよ。」

「なるほどなるほど。え、じゃあ――」

私が質問を投げかけようとすると、常連さんはそれを一旦遮って

「ちなみにそれ、結構美味しいんだよ。あげるから飲んでみなよ。」

と私に缶コーヒーを勧めた。

「え、いやあ、なんていうか。私あまりコーヒー得意じゃなくて。苦くない?」

「全然。詩鶴ちゃんは、カフェオレとか飲める?」

「あ、うん。そういうのなら良く飲む。」

「おっ、それならねえ、これ意外と気に入るかもよ。ミルク感が凄くてさ。」

「へえ、ちょっと飲んでみてもいい?」

「どうぞどうぞ。」

言われるがままに缶を開け、軽く匂いを嗅いでみる。コーヒー特有の香りがフワッと鼻腔を通り抜けたので、苦いかもしれないと警戒モードになり、私は恐る恐る舌の上へと缶を傾けた。すると、つい数秒前までの予想とは打って変わって、コーヒー牛乳のようなまろやかさが口に広がる。苦味は殆ど感じられず、ミルクの優しい甘さが舌をそっと包む。ここまで飲みやすいのにコーヒー感がしっかりと残っているのは、やはり先ほど缶を開けたときに感じた香りが理由なのだろう。

「あ、美味しい。普通に飲める。」

私は一口目で、思わずそう感想を口にした。

「だろ、お昼サンドイッチとかと一緒に買うことあるんだけど、めちゃめちゃ合う。」

「うん、分かるかも。いいね。」

「ちなみに公式サイトで買うと少し安いんだよ。」

「へえ。」

「まあ、宅配便になるから箱になっちゃうんだけど、三本分くらいお得になるっていうね。」

「うーん、まあ箱で買うかって言われると分かんないけど、コンビニで見かけたらまた買うかも。」

「あるんだなあ、これが。」

「おー、まじか。最高じゃん。」

「へへ、どう?」

「え?いや、だから――」

「売り方だよ。」

「あ....。」

気付かぬ間に缶コーヒーを宣伝されてしまっていた。茫然とする私を前に、やってやった、みたいな笑みを浮かべる常連さん。

「これでこの缶のユーザーを一人増やせた、という訳だ。」

何ていうか、やり口の巧妙さが詐欺師のそれだ。こんな風にいつも物を売っているのか、と少し嫌なイメージがついてしまったが、常連さん曰く

「まともな商売も、悪い商売も使う技術は同じなんだよ。提供するものが変わるだけ。」

とのこと。

「悪い商売の方はその経験を提供している、と?」

「ああ、授業料が高いってとこが難点だがね。」

そう皮肉り合って、二人ともクスッと笑いがこぼれる。常連さんは気分が良くなったのか、それからいつもより多くの品を注文して帰っていった。そのぶん私の仕事量は増えて大変だったが、面白い話が聞けて良かったと思う。

 

このあとも数人ほど来客があり、この日の売上は一万と五千円。先が思いやられる。

 

 

つづく。



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88.ひょんなことから

 

下町の鶴

9章-奮闘記-

☆Episode.88「ひょんなことから」

 

嫌な予感がしていた。それは、今までのペースじゃあ目標額に達せないということ。ただひたすら仕事を頑張ったところで、いつもの収益から大幅に差を付けられる気がしないのだ。これは何かしらの策を講じねばならない。

まずは何と言ってもお客さんを増やさないといけない。沢山来て、沢山飲んでもらえれば理想だ。そこで必要となってくるのは周りに認知してもらう事。ここから全てが始まるはず。より多くの人に知ってもらうためには宣伝しなきゃいけない。ええ、そんなことくらいは私にでも理解できる。違う、問題はここが学校という点だ。高校で居酒屋の宣伝などして誰が来る。先生?いや、そんなことをすれば我が家という安らぎの地が大人たちの監視下に置かれてしまう。じゃあ何だ、十代で酒タバコに明け暮れる不良組に教えるとか?...バカバカ、普通に犯罪だよ。それに下手したら先生に目を付けられるよりタチの悪いことが起こる。冷静になるんだ、詩鶴。お母さんもさすがに無理ゲーを仕込むほど鬼畜じゃない。はず。うん、そう信じてる。これには何かしらの答えがあるはずだ。

しかし、それは考えれば考えるほど浮かばないもので、いつしか頭痛の種も芽を生やすほどには疲労が溜まっていた。鏡を見なくとも分かる。いま私、絶対げっそりとした顔してるって。

「げはーー。」

机に突っ伏す。せっかくの昼休みなのに頭が重くてしょうがない。河島はそんな私を見つけると

「電池切れJK。」

などと早速からかってきた。首だけ河島の方へ傾けて真顔で睨む。暫くそのままでいて、大きな溜息をついたり。

「はあ、だめか。」

「何がだよ。」

「何でもない。河島には分からんよ。」

「そうっすか。」

あっさりと頷いて鞄を漁る河島。そんな彼はコンビニから買ってきたであろう菓子パンを取り出すと、黙々と袋を開けて食べ始める。分からないと突っぱねておきながら何だけど、ちょっとだけ話を聞いてくれたら気も少しは楽になるかな?なんて思いつつ、環境音になるように然り気無く呟いた。

「今週、手伝いがフル出勤でさー。」

「んー。」

「お母さんから収益ノルマとか課せられて。」

「おーん。」

「客足伸ばさなきゃいけないんだけど何にも案浮かばなくてさー?」

「へー。」

「今のままじゃヤバいなあって。...河島?」

「そうなんだー。」

食べることに集中してるのか、生返事でばっかり返される。何だよ、人が真面目に悩んでいるってのに。

「ちぇっ、聞けよ...。」

思わず本意気の溜息を吐いてしまった。もういい、購買で何か買ってこ。そんでもってみっちゃん達が居たら、今日はあの娘らとお昼食べよ。

椅子から立ち上がり教室を出ようとすると、「あ、」と河島が吞気に呼び止め、

「りんごジュース買ってきてくんね?」

顔も向けずに要求を投げてきた。私は思わずカチンときてしまって

「自分で行けよ。」

と突っぱねた。

 

購買に着いたが、瑞希たちの姿は見当たらない。二階から遠く足を運んできたというのに、待ち受けていた結果がこれだなんて。何だか最近不幸続きになってしまってるように感じる。少しの躓き如きで自分のことを不幸というのも変な話だが、どうして人間というのはこんなに早い周期で心が空くのか。まただ、また溜息がこぼれる。ダメだダメだ、何とかして切り替えないとこんな状態のままで一日が終わってしまう。少し焦りを感じた。

そうだ、せっかく今購買にいるんだから、思いっきりお腹を満たしてやろう。そうすれば少しは気分が楽になるはず。弁当が一瞬で無くなるのは仕方ないとして、今日はすぐ売り切れる揚げ物類がいくつか残っている。その隣には焼きそば...。よおし、焼きそば(コイツ)の上に唐揚げを乗せて食ってやろう。ギトギトこってりな組み合わせなんて、もうこんなのは快楽物質の供給過多じゃあ。おっと、もちろん白飯も忘れちゃあいねえぜ。本来、唐揚げと焼きそばはカロリーの塊。だが白米に油分が吸収されることによって実質カロリーはゼロ。味のくどさも丁度良いバランスになり、美味しくダイエットを保つことができる。私やっぱ天才だわ。毎日テレビ見てると頭良くなるワケっすわ!!

頭の中で完璧な構図を描いた私は、その惣菜たちに手を伸ばした。するとその時、同じく取ろうとしていた別の人の手とぶつかった。誰かと思い、私はふと顔を上げた。そこに居たのは

「あ?名取じゃねえか。何すんだよ。」

因縁の同級生、村草だった。とはいえ、今の村草はただ同じ総菜を取ろうとしているだけ。しかも、残り一つというわけでもない、三パックもある唐揚げを。なに、ここで下手に喧嘩になるのも馬鹿らしい。私は大人らしく、素直に先手を譲ってやった。

「先取りなよ。」

するとコイツは、私の善意を踏みにじり

「あっそう。じゃ、お先ー。」

と言って三パックとも全部手に取ろうとした。私は思わず咄嗟に腕を掴んだ。何してんだコイツは。先を譲って全部取る奴があるか。

「ちょちょちょ!!なに全部取ってんの。あたしもそれ取ろうとしてたんだけど?」

「え?いや、先譲ったのお前だろう。それにこれは頼まれた分も含んでるんで引けませーん。」

虫の羽音を耳元で聞くような不快感が身体中を走る。行動、言動、表情からその仕草まで、コイツは生まれながらにして人を怒らせる才能があるみたいだ。人の形したゴキカブリめ、生かしてはおけん。

脳天が沸騰するような怒りがこみ上げてくる。私は村草に圧強めで詰め寄った。

「あのなァ、お前なぁ!!少しは罪悪感とかねえのかよ、おい。」

勢いに押され、小刻みで五、六歩ほど後退りする村草を大股二歩で詰める。とはいっても、村草から見れば私はうんと背が低くて、悲しいことに平均的にも小さい方。そんな女に圧倒されてることに悔しさを覚えるのだろう。村草は負けじと嫌みをぶつけた。

「うるせえチビ!いくら食っても身長伸びないんだから諦めろー!」

「なんだと!このっ!」

「へへへ、どうせ言い返せないんだろう。ばーかばーか。」

言いたい放題浴びせられて、私もこんな奴に言い負かされるのは尺だと思わされた。こちらも同じように馬鹿にして返してやる。

「ふん、そうやって女にしかデカい口叩けないからパシられんだよ。」

「はああ!?生意気なんだよ、名取の癖に!」

「悔しかったら言い返してみ?ほら、おい。ほらぁ。」

「やるかこの野郎おお!!」

「ああ、やってやるよ捨て駒野郎おお!!」

 

 

一方その頃、名取の教室では...

「河島君、つるりん知らない?」

ボーっと考え事をしながらパンを食べる河島に瑞希たちが尋ねる。彼女らに対して河島は

「あー、購買行ったよー。」

と気のない返し方をした。瑞希はそれに

「まあ、待ってたら戻ってくるか。」

と明希に言って、二人はそれぞれ河島と名取の隣の空席に腰を下ろした。

「ねえねえ、あれから進展どう?」

「進展?なにそれ。」

「つるりんとだよ、何かあった?」

「何もないよ。妄想も大概にしてくれ...。」

瑞希がノリノリで詰め寄るのに、河島は少し面倒くさそうな表情を浮かべる。そんな誤解を寄せられるのも無理はない。この前の居残り大脱走の日、正面玄関での合流に遅れてやってやってきた河島が、名取を抱きかかえて走ってきたのだ。

「みんな、走れえええ!!」

そう叫ぶ彼を見て、みんなは茫然としていた。先ほどまで家庭科室で蹲っていた明希と同じ表情の名取が、そんな河島の腕の中で発狂していたのだから。やがて名取がみんなの存在に気づくと、目がぐるぐると渦巻いて失神してしまった。

そんな出来事があってからというもの、瑞希たちは妄想のラブストーリーに花を咲かせている。

「青春だね~!」

などと、何かとつけて盛り上がるので、軽はずみに口を開くのも危なっかしい。河島は、瑞希らが一日も早くこの話題に飽きて、いつも通りの生活に戻ってくれることを願っていたのだろう。その証拠に、先ほどよりもぎっしりとパンを口に詰め込んでいた。

口の中のものが全部なくなる頃には河島へのダル絡みも収まっていて、いつの間にか彼女たちの会話は他愛もない話題に変わっていた。やっと落ち着いて食べられると思っていた河島だが、パサパサになった口を潤せる飲み物がないことに今更気づく。

「ああ、自分で行かなきゃだめか...。」

などと思いながら、面倒に感じて身体が動かない。話を聞いてやれば買ってきてくれたのかもしれないと後悔する。そこで河島は、ラジオ代わりに聞き流していた名取の話を思い出してみる。

「収益ノルマとか課せられてさ。」

そういえば、何かそんなこと言ってたっけ。

特に申し訳ないという気持ちはないのだが、ここで少し名取に貢献してやれば多少はこちらの頼みも聞いてくれるだろう、という考えになった河島。こちらから名取の話をすると面倒くさくなることは分かっていたが、仕方ないという気持ちで彼女らに話しかけた。

「なあ、放課後暇だったら名取んちで何か食べない?」

すると案の定、目をキラキラと輝かせて

「おお...!私たちお邪魔しても良いの?」

と大はしゃぎ。河島は困惑しつつも、「まあいいか、名取には後でツケにしてやる。」と胸の内に呟いた。

 

つづく。




「えらい本格的な職業体験やな。」
父と母が晩酌を始めていた。安物のワインと、グラスがふたつ。軽くつまめるものがテーブルの上に置かれている。
「ええ、まあ。この店もいつまでもあるとは限らないだろうし。」
「どんな商売も十年続けば凄いって言われるやんか。この店開いた頃なんて詩鶴がまだこーんな小っちゃかってんで。」
「それも貴方の支援あってのものよ。そうでなきゃとっくに畳んでる。」
「まあ、俺も出来る限りのことはやったるから、詩鶴にもやりたいようにさせてやり。」
母はそんな父の言葉に暫く口を噤むと、頬杖をつき、呟くような口ぶりで話した。
「最近、あの子と喧嘩してばっかりなのよね...。」
自責の念を口にし、ため息を吐く母。伝えようとした言葉がどれも刺々しくなってしまい、穏便に教えてやろうとしても上手くいかないことを悔やむ。
「本当は私だって、うんと褒めてやりたいって思ってるのよ。実際仕事はちゃんとやれてるし。でもね、それで大人になって苦労しないかが心配なの。」
「お母ちゃんのことが好きやからぶつかれるねん。ほんまに興味がないんやったら喧嘩すら起こらへんで。」
「そうなのかねえ...。」
「その証拠に、ちゃんと逃げずに料理に向き合うて来たやんか。俺は一生かかったって詩鶴ほど美味しいもんは作られへん。」
そう言われると母は、その言葉の意味を確かめるように顔を上げた。父は続ける。
「あの子は何回でも起き上がる。小町の血を引いてんねん、負けることなんかあるもんか。」



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89.黒一点

 

下町の鶴

9章-奮闘記-

☆Episode.89「黒一点」

 

名取の店に行くと言ったはいいものの、何だか物凄く躊躇いが出てしまう。彼女の店が近くなってくるのと反比例して、歩く速度はみるみるうちに落ちていく。矢原さんからは

「歩くの遅ーい。」

などと煽られ、四倉さんからは何やら無言の圧のようなものを感じた。せめて言葉にしてくれ、とも思ったが

「もう少し速く歩いてくれない?」

などと冷たい声で言われたら多分一生立ち直れない気がする。そんな人じゃないとは思うけど。

俺がこんなにも緊張しているのは恐らく、周りに女子しかいないからだろう。女兄弟に囲まれてるから大丈夫だろうと思うかも知れないが、これだけは言える。血縁と同級生じゃ話が違う。こうなることを予想して山岸も誘ったのだが、バイトがあるといって断られた。この裏切り者め。

いつもの帰宅路には制服姿の三人。柴又とは逆方向の家路を持つ二人が前を歩き、心許なしにその後ろをトボトボとついていく自分がいる。傍から見たらなんて情けない姿なんだろう。穴があったら入りたい。

「このメンツで行くの初めてじゃない?」

「うん。」

「ねえねえ、河島君ってつるりん()はよく行くの?」

二人の会話から唐突に俺に質問が飛んできた。こちらに振り向いた彼女らに対して今現状、女子との、ましてや人間との喋り方すら思い出せない。

「え、ああ。たまに。」

「へえ、たまに行くんだ~。」

言葉通りなのに何か誤解されてる気がする。はいはい、お見通しですよ、とでも言うような彼女の笑み。恐らく何を言っても同じ反応になるのだろう。名取の家に着くまでは大人しくしていようと心に決めた。

 

あれから十分ほど経って名取屋の目の前に到着し、俺の気まずさは凄まじい程に膨れ上がっていた。今ならまだ引き返せるんじゃないか?などと、店の扉を目の前にしてまで可能性を探る。そうだ、二人の後ろに居ることをチャンスにコッソリ帰ろう。どうせ俺が居なくたって女子だけで雰囲気は盛り上がってくれるはずだ。物音を立てないようにそーーーっと向きを変えて...

「どこいくの?」

「....!!」

恐る恐る目を向けると、満面の笑みでこちらに警告を放つ矢原さんの姿が。その異様に落ち着いた声と、輝かんばかりの表情との差に絶句する。自分で誘ったのに、何故かこちらが誘拐されているような雰囲気だ。たった一言で身動きが取れなくなるような言霊を食らってしまった。

「え、え、あの...急用思い出して....。」

「今 更 何 言 っ て る の ?」

苦し紛れに出た言い訳に、今度は四倉さんから言葉のナイフで一突きされる。怒ってるようには見えないが、その代わりに凄まじい程の狂気がこちらに伝わってくる。表情は一グラムの笑みすらない完全体の真顔で、今使う言葉を一つでも間違えれば本当に刺されるんじゃないかと体が危険信号を出し始めるくらいの怖さだ。本当は三人くらい人殺してるんじゃないか?この人...。

「何でもないです。すみません。」

俺はもうそれしか言えなかった。

 

扉が開かれると名取の元気そうな声が聞こえてきて、二人の名前を呼ぶ。

「つるりん、いま忙しい?」

「全然全然!え、どうしたの?」

「良かった~。ちょっとお茶でも飲んでこうかなー、なんて。」

「え~、どうぞどうぞ。入って入って!」

陽気に彼女らを店に招き入れ、扉を閉めようとしたところで俺の存在に気付き、ピタリと動きが止まる。俺と名取の間に気まずい沈黙が流れ、お互いに瞼をパチパチさせていると

「言いだしっぺさーん。」

と矢原さんがこちらに振り向き声を掛けた。やめろ、ただでさえややこしい空気が流れてるってのに。

名取は更にキョトンとした表情になる。

「え、うん?どゆこと??」

ほーら収拾つかなくなっちゃったじゃないか。どうしてくれるんだオノレ...。

「あの...もう勘弁してください。」

情けない声が出てしまう。一つ文句を言ってやりたい気分だが、言える空気を完全に抹消されているのが末恐ろしい。黙って言うこと聞いとけってか、こいつら...。

 

店に入って数分、矢原さんが事細かに説明してくれたお陰で俺への疑問は解消された。...ら、良かったんだが...

「河島君がね?私らもまとめてみんなで行きたいって言ってさ。」

「河島が??」

もうだめだ、完全に誤解される。こんなことなら一人で行った方が良かったよ。

それからしばらくは俺を除いた三人でお喋りが盛り上がり、俺はその端で黙々と彼女の作ったつまみを食べていた。元々は名取の機嫌を少し直そうと考えて、収益がどうこう言ってたから周りの人間も呼んで、少しでもその足しにしてやるつもりだったのだが苦労が異常に多い。気を遣った方が良いのかとか色々気にしたけど、もういいや。堂々と接することにしよう。

「名取、キャベツの何とかってやつくれ。」

「キャベツ?はーい。」

「あと何か飲み物あるか?酒じゃないやつで。」

「珈琲、オレンジジュース、そんくらいかな。」

「じゃあオレンジで頼む。」

「へいへい。」

注文を受けた名取は、矢原さん達とスムーズに会話しながらもちゃんと手を動かしている。その姿を見ていると、本当にここが天職でやっているのだろうなあ、と感じた。どちらかに集中して投げやりにするわけでもなく、料理に対して手を抜いている様子は一切ない。家庭科室の時も思ったけど、仕事がプロだ。

彼女の手元をボーっと眺めていると、ふとこちらに話しかけてきた。

「今日は随分バクバク食べるね。お金大丈夫なの?」

俺はその問いにこう返した。

「こっちの台詞だよ。」

「え?ん??」

言葉の意味が理解できず、名取は右に左にと首を傾げる。

「収益がどうこうって話してなかったか?」

と、俺は名取に言った。すると一呼吸ほど考えたあと、

「あ~!」

と声を上げて驚く。しかしすぐに

「え、それ河島に話したっけ?」

などと疑問を投げてくる。少し呆れた表情で俺は答えた。

「お昼、それを聞いて貰えなくてご機嫌斜めだったのはどこのどいつだ...。」

「あー、そうだっけ。ごめんごめん。」

名取は申し訳なさそうに笑っている。

「はあ....。」

「え、てかまさか、それ心配して来てくれたワケ?」

「そうでなきゃ食費で三千も下さん。」

「ええ...、何か申し訳ないことしたね。ごめん。」

「気にすんな。」

名取が謝るのと同時に、店の中が一瞬だけ静かになった。一斉にピタリと会話をやめるので、包丁がまな板を打つ音もそれに続いて鳴り止んだ。そこで四倉が勇気を振り絞るような感じで尋ねる。

「経営、大変なの?」

「いやいや、大変とかそういうんじゃないよ!何ていうの、昇級試験?みたいな。」

慌てて返す名取に、二人の疑問はつのる。

「え、それ受かんなかったらどうなっちゃうの?」

「お店無くなるとかやだよ!?」

二人の心配フィーバーに押されて名取も困惑気味になった。面倒くさくなった俺は、名取からの助けの目線をただ茫然と見つめながら黙々と咀嚼を続ける。どうせ俺から何か言ってもこいつら、全部恋愛話に持ってこうとするんだもん。もう知らね、あとは任せた。

 

「ちょっ、二人とも一旦落ち着けええ...!!」

 

数分後、名取の目には若干の疲れが浮き出ていた。彼女が丁寧に丁寧に事情を説明するのを見届け、二人が俺の方に質問を投げようとした途端にジュースを口に含む、というのを繰り返してかれこれ五分経ったくらいか。異様に長い五分だった。

「はあ、はあ...。」

何食わぬ顔態度で飲み食いする俺に名取は不満げな眼差しを向ける。疲労と、溜まったモヤモヤを晴らそうと彼女は、コップに注いだ水を一気飲みし、ふう、と一息ついた。

「まあ、そういう訳でして。」

何かいい策はないかと黙り込み、店の中は再び静かになる。名取は皆に気を遣わせまいと

「まあまあ、そんな気にしなくていいよ。何とかなるから。」

などと言って笑ったが、俺はそれに反論した。

「無計画で何とかなるレベルじゃないだろ。」

「そうだけど、だったらどうすれば良いっていうのよ。」

「三人もいるんだから議論していこうや、それを。」

頬杖をついて、のんびりとした態度で提案する。すると今度は名取も真面目に考え出し、とうとうこの空間に物音一つも聞こえなくなった。...うち一名の咀嚼音を除いて。

傍から見れば俺だけ何も考えていないように映る。一人だけモゴモゴと口を動かし、食べては飲んで、飲んでは食べてを繰り返しているのだから。明らかに浮いた存在になってるが、それくらいいつまで経っても話し合いが始まろうとしなかったので、俺は名取に言った。

「ま、取り敢えずうちの姉は常駐させておく。それで少しは足しになるだろう。」

「千春さん?え、呼んでくれるの?」

「接客頑張れ。酔うと少々面倒くさいけど。」

「分かった。ありがとう。」

「まあ、こんな感じで知り合いの知り合いを当てにしていけば良いかと。矢原さんと四倉さんはどう?」

 

つづく。

 



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90.多忙

 

下町の鶴

9章-奮闘記-

☆Episode.90「多忙」

 

河島たちが身内を呼んでくれると言ってくれて翌日、私は少し申し訳ない気分でいた。母から渡された課題をこなすために周りを巻き込んでしまっている、という風に考えてしまって、今までと同じような仕事の仕方で良いのだろうかと背中を煽られたような感覚になる。

夕方、キッチンに立ってからすぐに店の扉は開いた。友達の宣伝効果は意味を成したようで、まず初めに河島のお姉ちゃん、千春がやって来た。

「名取ちゃーん!弟から聞いたよ。何か大変なんだって?お店。」

「い、いやあ...何て言うか。まあ、その。」

「もう、それならそうと言ってよね。」

「ありがとう。でもそんな重たいものでもないから。課題?みたいな。」

「そうなの?まあ任せて。足しになるか分かんないけど、今日大学の友達も呼んどいたから。」

「え、うそ。」

「本当本当。後で来ると思うから。」

「申し訳ないなあ、なんてお礼したらいいか...。」

「いいのいいの、いつも通りで。今日はパーーッと飲むから宜しくね!」

「う、うん!頑張る...!」

千春一人が来るかと思ってたので予想外の展開だった。千春は席に着くなり、その友達を待たずして焼酎を頼み

「来るまでの間、こっそり。」

などと言って悪戯な笑みを浮かべた。しばらく彼女と世間話なんかを嗜み、口も手も丁度良いくらいの忙しさでいた頃、千春の友達がやってくる。彼女は、千春のテーブルのグラスを見つけるなり指を差して

「あー、抜け駆けしたー。」

と呆れた様子。仕方あるまい、待つ間も我慢できない程の酒好きなんだものね。

「へえ、良いね。家の近くに居酒屋なんて。」

「でしょ?お気に入りの店でさ。で、この子が私の新しい彼女兼、マスターさん。」

「勝手に彼女にするなぃ。」

千春が不意にかましてきたボケに反射でツッコんでしまった。咄嗟の判断に動揺する私を見て楽しそうに笑う千春に「おのれ、やってくれたな。」と言わんばかりの苦笑いで返してやる。しかしそれは一ミリも彼女に伝わることなく、それどころか千春の友達から「可愛い」などと笑われた。

空がすっかり暗くなった午後六時。それまでは千春たちが大学の愚痴話などで大変盛り上がっていたのだが、だんだんと客足が増えてきてパニックになった。普段来るお客さんと、河島たちが呼んでくれたお客さんが同時にやってきて店の中はすし詰め状態。どうやら瑞希の親の同僚達が飲み会の場所を探していたみたいで、テーブル席が一気に消し飛んだ。椅子が足りない分はビールケースに座布団を敷いたりして、今まで経験したことのないレベルの混雑だった。

「通ります!通ります!」「注文?すいません、ちょっと待って!」

大衆の居酒屋というのはこんな感じなのだろうか。積まれていく注文の山と、捌き切れずに溜まっていく洗い物。しかし洗っている余裕なんてないし、放っておけば今度は食器が足りない。もう滅茶苦茶だ。

身体のサイズが小柄だとかいう理由で、注文の品のお届けが私に任され、キッチンとテーブルを行ったり来たり。キッチンに戻れば調理、酒づくり、洗い物をバランスよく回していく。外は真冬並みの寒さだというのに、大人数の熱気と、酒臭さでどんよりしていて気分が悪い。頭がくらくらするし、何か体に悪そうな冷や汗まで出てきた。こんな状況じゃポジティブになれる訳がない。

「閉店までに私、死ぬんじゃないか...?」

なんて思えてくる程に辛くて、気を抜けば確実に倒れてしまう。この状況には思わず千春も苦笑いで

「やべえなあ。名取ちゃん、何だったら手伝うよ?」

と心配をくれるほどだった。気持ちは凄く嬉しいのだが、千春はお客さんだし、酔った状態では無理があると感じたので

「ありがと。言葉だけでも助かる。」

申し訳ないがそう断ることにした。

 

ガタン、ゴトン...キィーー...

電車のドアが開くと、そこからヘトヘトのサラリーマンがゾロゾロと降りてくる。その内の一人が、同じスーツ姿の人波に流されるまま改札の外に漂着すると、彼は星の見えない夜空に溜息を吐いて疲れを放った。

今日の仕事はキツかった。無理難題に等しい量を任され、いつも以上に頑張ったのに上司からはこっ酷く叱られ。それでも会社では文句ひとつも言わずに働いて、帰りにはどこにも寄らずに家路についている。勿論やりたいことだって沢山ある。本当は同僚達とパー―ッと一杯やりたいし、終電間際まで遊び呆けたいものだ。しかし何よりも家族を優先し、全ての欲望を振り払う。我ながら良い大黒柱をやっていると思える。

男はそう胸の内で呟き、愛する家族の待つ家へと歩き出した。

「やっぱ家で飲む酒が一番やな。今夜はゆっくり家族と呑もう。」

家が居酒屋ということもあり、飲む酒にも困らないというのが彼の何よりもの楽しみだった。家内も娘も、料理の腕は一人前で、困ることなど何もない。明日の出勤までには疲れもすっかり癒えてしまうような場所だった。

そうして男が家の前に着くと、何やら扉の奥が賑やかなことに気が付いた。きっとまだ店を閉めていないのだろう。常連さんとも良く話す仲だし、空いてる席にでも座ってご一緒させてもらおうかな。そう思って扉を開けると、そこには朝の通勤電車のような光景が広がっていて、男は言葉を失った。

「お父さんごめん、ちょっと手伝って!」

彼の存在に気づいた娘は、おかえりの言葉よりも先に深刻な表情で助けを求める。男は焦りと戸惑いの中で返答した。

「なななな何や、どないしてんな。」

「良いから早く!洗い物が死にそう!!」

帰っていきなり娘に居酒屋の仕事をお願いされ、洗い場に立てばそこには信じられない程の皿とジョッキの山が。父は驚愕し、ここが現実なのかを疑った。いや、仮に現実でも、これを全部こなす頃にはきっと現実世界じゃなくなっているだろう。呆然と立ち尽くしていると、娘から

「何してるの、はやくはやく!!」

と叱責を食らった。

疲れた身体にとどめを刺すようなハプニングに巻き込まれてしまった。洗っては増え、洗っては増え、と、わんこそば形式で減らない洗い物に男は発狂寸前。いや、ストップといって止められる分、わんこそばの方がまだマシかもしれない。店の中は、帰り人でごった返す駅前のような騒めきと熱気に溢れ、意識を保つだけでも精一杯。傍から見れば妙な光景だ。狭いキッチンに家族全員が並び、それぞれがわっせわっせと山積みの仕事をこなしているなんて。三人とも額に汗を浮かべながら、閉店時間が来るのをまだかまだかと待っていた。

 

地獄のような忙しさは絶え間なく続き、店を閉めた頃には三人とも畳の上に川の字になって倒れ込んだ。

「はあ、はあ、はあ...。」

部屋の中には三人の呼吸が荒々しく響く。

「詩鶴、今度は予約制にした方が良い...。」

「何、お母さんが始めたんじゃん。ノルマとか、集客とか....。」

「これ一体どういうことやねん。仕事帰りに手伝うレベル超えてるって...。」

お互いに泣き言を垂れながら蹲り、この先の家事をする気力も失せてしまっている。

「今日は風呂無しでいい?各でシャワー浴びて。」

もうしばらくは経験したくない忙しさに倒れた三人だったが、黙り込んでこのまま寝落ちするであろう空気の中、私は思わずこんな言葉が出た。

「寒い。」

さっきまでの店内の熱気で気付かなかったが、そもそも今は十二月。半袖で過ごせる気温ではないのだ。ようやく仕事が終わってダラダラしたい気分なのに、寒さがそれを邪魔する。

「布団、敷かなあかんな...。」

「その前に歯磨かなきゃ...。」

色々とやることが残っている。そんな体力などもう無いというのに。

「あ、課題やってない...。」

「詩鶴、晩なに食べたい?」

「立つ気力ない。」

「私も作る体力ない。」

「もう出前でええやろ、出前で...。」

家族そろって本末転倒だ。明日も学校があるというのに、疲労困憊でもう何も考えられない。これが働くということなら私は永遠に子供でいたい、そう本気で思えた夜だった。

ただ、その努力に応じた収益はしっかりと得ていて、普段の何倍も高い売上げを叩き出せた。それは予想も出来なかったノルマの到達点に、淡い希望を見出せるくらいに。

 

つづく。



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91.こたつ猫

 

下町の鶴

9章-奮闘記-

☆Episode.91「こたつ猫」

 

「うぅ...。」

時計の針は九時を指している。平日の朝、本来ならば学校にいるはずなのだが、不運にも体調不良に見舞われた。どうしてだろう、いつもなら学校を休める、と大喜びできるはずなのだが、今は悔しさや罪悪感で一杯だ。これじゃあ集客を手伝ってくれた友達に申し訳なくてしょうがない。沢山お客さんを呼んでくれたのに、その忙しさに体が持ちこたえられなかったなんて思われたくないもの。母には学校に行くと何度も言った。しかし安静にしてろと言われ、登校を許してはくれなかった。こうして今、私は布団の上で秒針の音に耳を傾けている訳なのだが、笑っちまうくらい暇だ。やることと言えば天井のシミを数えるくらいだし、外出なんて母は絶対許さない。そもそもそんな体力もない。もうこうなれば寝てしまおうとも思った。そうすれば何も考えずに時間だけが過ぎてくれる、と。しかし、それが出来るなら花だ。最初から何も困らない。眠くねえんだわ、一ミリも。

ふとした瞬間にも声に出てしまいそうだ。こんなに目の冴えた朝などあってたまるか、と。なぜ起きなきゃいけない日には眠気MAXで、寝てなきゃいけない日に限ってこうなんだ。逆なんだよ普通。ふざけるなよ。ふざけるなよ....。

退屈に耐えられなくなって私は、布団を飛び出し、階下の居間へ下りることにした。ズキズキと痛む頭と、軽い眩暈(めまい)に堪えながら。

階段を下りると、母が早速私の存在に気づいて尋ねてきた。本音で話せばどうせ

「上で寝ていろ。」

と言われるだろうから、トイレに行くと言った。とはいえ別に催してる訳じゃないから、母の目が届かない場所に隠れ、ボーっと時間を無駄にする。誰もいない店内のカウンターに腰かけると、ひんやりとした感覚がお尻に伝ってきた。死にかけの脳が叩き起こされた気分になる。

「ああ、寒...。」

思えば、暖房もつけてない店内にパジャマ姿でいて寒くない訳がない。服を着替えようとすれば怪しまれるし、これじゃあ歩き回ることさえ叶わないじゃないか。せっかく暇を持て余しているのに、不自由で何も出来ないなんて...。

悲しくなって私は、諦めたように母のいる居間へと倒れ込んだ。早速母は

「寝てなきゃ駄目でしょ。」

と咎めてきたが、一度畳に寝転んでしまっては起きる力もなく、猫のように体を丸める。

「寝れないんだもん。なんか喋って。」

「じゃあせめて暖かい格好してなさいよ。熱上がるよ?」

「それ頂戴。」

母が畳んでいる洗濯物を指差して、それを掛けると言ってみる。...一瞬で断られた。母は溜息と共に立ち上がると、仕方ないと言わんばかりにタンスから毛布を取り出す。サッと掛けて貰うと、私は鼻先まで潜り込んで一息ついた。

「フフフ、アリガトー。」

棒読みのような言い方で礼を言う。それを見た母は、呆れた様子で先ほどの位置に座った。

「治ったらうんと厳しくしてやるんだから。」

「じゃあ一生治ってやんなーい。」

「馬鹿言うんじゃないの。」

「詩鶴、優しいお母さんスキー。怒りっぽい時キライー。」

「あんたねえ...。」

病のしんどさに乗じて、おどけた態度を取り続ける。母がその喋り方に疑問を呈すると

「そっちも風邪引きゃあこうなるじゃんか。遺伝だよ。」

と返してやった。そう、刺々しいことばっか言う母も、風邪とかで寝込むと今の私と似たような感じになる。丸くなって、おっとりした喋り方になって、いつもとは正反対の態度を見せるのだ。これには母も思わず言い返す言葉を無くす。

「フフフ、図星だネ。」

「うっさいな。」

「いつもゴメンねェー、ごめんネー。」

「いい加減にしないと看病してやんないよ。」

「ごめんなさい。優しいモードでお願いします。」

その時の真似をしたらさすがに怒られた。まあなんだ、いつも散々説教されてる分の仕返しってやつだよ。清々しい顔で毛布をどかし、立ち上がる。

「詩鶴、少しはじっとしてなさいよ。」

「トイレ。」

「さっき行ったんじゃないの?」

「さっきのは嘘。」

 

なかなか過ぎてくれない時間に飽き飽きしながらお昼時を向かえると、その頃には体調がうんと悪くなっていた。お腹が食べ物を求めて唸っているのに、肝心の胃がもたれて軽い吐き気を催す。朝には動き回れるほどに体力があったのにも関わらず、今はサウナのように身体が火照って辛い。

「はぁ....、はぁ....。お母さん...。」

一人じゃあ完全に何も出来なくなってしまって、母の助けを求めた。

「もう、ちゃんと休まないからでしょ...。」

「お母さん。」

「なに、どうしたの?」

「お腹空いた。」

「わかった、何か軽いもの作ったげる。」

「...それとお母さん。」

「なに?」

「ちょっと気持ち悪い...。」

「ええ...、困ったな。」

苦しむ私を前に母は、どうしようか、と困った顔をする。そして一呼吸ほど考えると、

「よし、分かった。」

と言ってキッチンへ向かった。

それから母は卵の入ったお粥を私に作ってくれた。

重たい体を起こし、ちゃぶ台に持たれかかり、そっと口に運んでは咀嚼する。食べられるものが限られているのを気遣ってか、お粥は鰹だしの効いた旨味のあるものだった。今はこうして食事をするのも辛い状態だから、出来る限りのことを尽くしてくれる母の優しさには本当に助けられていると実感する。ふと顔を上げると、テレビからお昼のバラエティーが流れていて、母はそれをぼんやりと眺めていた。

 

体が病むときっていうのは不思議なもので、このまま死んじゃうんじゃないか、なんて考えてしまう。天井を見つめながら、飢えた心は一つでも良いからと情報を欲しがる。テレビの音、小さな物音から、部屋に流れ込む微かな匂いにさえも意識が向く。淋しい、ただどうしようもなく淋しい。弱音を口にする度、母が身体を優しくさすってくれるので、私はそれにすがるように何度も言葉にした。

「お母さん、ノルマ上手くいくかな。」

「そんなこと今はいいから。しっかり休んで。」

「やだ、お肉食べたい。」

母を困らせて、少しでも長く構っていて欲しいって思ってる。からかっておいて何だけど、私も十分子供だ。これには母も折れてしまったようで、とうとう厳格な面を見せなくなり、話す時の声色が少し穏やかになったような気がした。

「分かったよ、なに食べたい?」

「治ったら?」

「うん、治ったら。」

「ステーキかな、うんと分厚いの。こーんな大っきいバターなんか乗っけたりして。」

「良いね。」

「あ、でも牛タンも食べてみたい。ヤミー棒でしか食べたことないんだよね。」

「ヤミー棒?へえ、そんな味あるんだ。」

「うん、河島がこの前ゲーセンで取ってくれてね?あれ凄く美味しかったんだ。」

畳の上で夢の話を交わしあう。これって不思議といつまでも話せそうなくらいに楽しいんだよね。儚いことさえ明るく話せて、それがとても切なく思えて。こんなに静かに私の話を聞いてくれるのも珍しいから、何だかとっても嬉しい気分になれるんだ。いつもこうなら良いのにな。

「今度取ってきてよ、私もそれ食べてみたい。」

「本物食べさせてくれたらね?」

言葉を失くした母を悪戯に笑ってみる。すると小さく溜め息をついてこう言われた。

「本当、その小賢しさはどこで学んだのやら。」

「何言ってるの、交換条件ってやつだよ。」

「はいはい、分かったよ。その代わり治ったらちゃんと働きなよ。」

「当然。次期女将をナメて貰っちゃあ困る。」

「それで燃え尽きてる奴に言われても説得力ないんだが。」

今度は私の方が返す言葉を失くした。ちきしょう、''親子似る''とは言うけど、論破力まで同等なんて聞いてないぞ。そう言えば昔、母と喧嘩したときに父から

「いたちごっこ。」

などと言われたが、何か薄々理解できるようになってきた気がするぞ。

 

体は口だけ残してしんどい状態が続く。どんなに辛くても、常に誰かとお喋りしてないと気が済まないのだ。でも、こうやって辛い内に何でも叶うなら友達にも会いたい。母と同じような甘え方はさすがにしなくとも、約束しておきたい''小さな夢''が沢山あるから。

 

つづく。




【修正箇所】
2024.4.21
「つづく。」入れ忘れ


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