温水プールからトリップし老夫婦に拾われた中学生が、流されながら生きて失ったものを自覚する話 (熊々楠)
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01

 

初めてそう呼ばれたのはいつだったろう。

 他人をからかうような年になる頃には既に習い事を始めていたし、どちらかというと称賛のあだ名だから特に嫌ではなかった。

 魚みたいに泳ぐんだね。

 もしかしたら、講師がふざけ半分に呼んだのが始まりだったかもしれない。

 十年弱それが続いて、そう。ひとまず受験のために泳ぐのは控えていて、それでも息抜きのために市営の温水プールに向かったんだ、たしか。

 溺れた覚えなんてこれっぽっちもないが、僕を引き上げた老人の証言によれば、池に水着をきてゴーグルをはめたまま浮いていたのだそう。

 何がなんだかわからない内に丁度往診にきていたというイェーガー先生と話をした。

 話をしたといっても、あちらの質問にこちらが答えるというようなものなのだが、よくわからないことになっているようで。

「私はグリシャ・イェーガーといってね、医者なんだ。まずは君の名前をきいてもいいかな?」

「……酒納八尋です。あの、ここはどこですか?」

「シガンシナ最西だよ」

 気分はどうか、どうして溺れていたのか。あれこれ聞かれるが僕自身記憶があやふやで、その上聞きなれない単語が多すぎて何とも言えない。

 シガンシナ? シナ、とは中国の事だろうか。しかしこの家の内装も見慣れないものだし、目の前の医者も、少し離れた所でこちらを心配そうにみつめている老夫婦もとてもモンゴロイド系の顔立ちにはみえない。

 どこからきたのかと聞かれても、何区出身なんだと聞かれてもさっぱり解らない。

 他の土地の人がぱっときいてわかるような、東京23区に住んでいる訳でもなしに。

 結局、ほとんどの質問に解りません、すみませんと言う他なかったのだ。

 ふむ、と何やら考えこんでいる様子のイェーガー先生が息を吐いたのをきき、僕は寝かせられていたベッドの上でシーツを握った。

 今着ている服は老夫婦の息子がまだ子供だったときのものらしく、僕が眠っている間に着替えさせたらしい。

 ふと窓の外が視界に入った。空を割るようにそびえ立っている、それ。ビルとは違うものだ。窓がない。

 あれは何ですかときくと先生はわずかに驚いたようで、知らないのかい。聞き返された。

 壁。

 言ってしまえば、なんてことないものだった。ほら、壁の外には巨人がいるだろう? あれがなければ私たち人類は滅びてしまうからね。さて、巨人とは。

 曖昧にうなずく僕に先生は、東洋人だよね? と確認をとるような言い方をした。

 うなずいて、改めてここはどこですか、と尋ねる。

「ここはウォール・マリアの特区地、シガンシナ地区だよ」

 そう、先程と特に変わりのない返答をした。

 

 *

 

 結論から言うと、僕は記憶喪失らしい。

 単純なここはどこ、わたしはだれというものとはややずれて。言葉は通じるものの所々常識が欠落していたり、もしくはありえないことと刷り変わっていたり。

 そうじゃないことは僕が一番理解していたけれど、それを具体的に表現説明する言葉をもっていなかったので特に何も言わなかった。いや、言えなかったんだ。

 身寄りのない僕のことは老夫婦が引き取ってくれた。

 その時は考える余裕はとてももてなかったけれど、ここでは東洋人はめずらしいので、それを食い物にしている人売りの関係者に追われてきたのではないか、と思われているらしい。

 彼らが水着のことをどう理解したのかは解らないが、何もいわないなら、そういうことだろう。

 食文化も文明も何もかもが違う場所。

 壁の内側はかなり広いらしく、閉じ込められているという感覚はなかったけれど、ここにきたのは何故かということはどれだけ時間がたっても解らなかった。

 そもそものここへきたきっかけというものを何も覚えていないのだけれど、僕が浮かんでいたという森の中の湖。

 綺麗なそこをのぞいてみても、シガンシナ区中心部の市場にいっても、解ることなんて何もなかった。

 

 ざばぁ。僕が浮いていた湖の近くには、森の中ということもあり誰も住んではいないようで。

 最近の日課は専ら泳ぐことだ。

 家に帰れない寂しさだとか、受験勉強がすべて無駄になりそうなやるせなさとか。もしかしたらここから帰れるんじゃないかとかいう、現実逃避も入っているのかもしれない。

 せめて落ちかけた筋肉だけでも、以前と変わらずに、なんとか維持していたかった。

 朝起きて朝食後市場に出て買い出し。昼は前述したように湖で泳いだり養父と薪拾いをしたり山菜を取りに行ったりの家事手伝い。夕方は居間で養母の刺繍を眺めたりと好きに過ごして、夕食を摂り風呂につかり暗くなったら寝る。

 時計がないことに初めは不便を感じていたが、慣れればなんてことはない。日の高さや強さで大体予想がつくようになってきたし、定期的になる大鐘の音で十分。

 逆に分秒刻みで生活していた頃がひとく窮屈に思えてしまうほどで、そう僕自身が思っていることに気付いたときは驚いて、そして次に、少し悲しくなった。

 養父母は、僕にとてもよくしてくれている。

 僕の普段着は息子さんが小さかった頃のものだとは聞いていたが、どうやら彼は既に亡くなっていたらしい。

「ルベリオは優しい子だった」

「でも昔からにんじんだけはどうしても駄目で、食べさせるのが本当に大変だったの」

「結局、にんじん嫌いは最後まで直らなかったなぁ」

 懐かしそうに微笑みながら語る二人。

 僕は核家族世帯で祖父母はどちらも健在。

 身近な人の死は体験したことがないけれど、養父母の表情はとても柔らかなものだった。

「時期になったら、にんじんケーキを作ろうねぇ」

 乾いた指先が僕の頬を擦る。

 とてもあたたかいものだ。

 

 *

 

「……こんにちは……」

「あら、お客さん? こんにちは」

 こんこんこん、ノックをして挨拶は尻すぼみになっていく。

 しかしその声を拾い、女性が扉を内側から開けてくれた。

 何度も家を確認したが、出てきたのは予想と違う人物だったのでもしや間違っているのではという思いが過る。

「何かご用かしら?」

「あ、あの……ここはイェーガー先生のお宅でよろしいですか?」

「ええ、でもごめんなさい、今あの人急な患者さんがいて出掛けているの」

「え、あ、そうなんですか……」

 生活になれたらいらっしゃい。

 定期的な経過の報告にきなさいという意味だと思う。

 うっかりしていて今朝まで忘れていたのだが、ちょうどいいころだろうと養父にシガンシナの中心部にあるイェーガー先生の家の場所をきき訪ねてきたのだ。

 だがいらいのなら仕方がない。また出直そうと礼を言い立ち去ろうとすると呼び止められた。

「この辺の子じゃないわよね? また来てもらうのも悪いし、よかったら上がって待っていて」

 で、今。

 イェーガー先生の息子さんだと思われる男の子と向かい合って椅子に座っている。

 先生の奥さん―――カルラさんというらしい―――は今は洗濯物を干しに行っている。

 こちらをじっとみつめる金色の瞳に、僕は出されたお茶をすすりながらわずかに緊張していた。

 明らかに小学生くらいの子に緊張なんてする必要はないんだろうけど、猫っぽいその瞳に捕らえられたような錯覚に陥った。

「俺、エレンっていうんだ」

「エレン? ……あ、僕は八尋っていって」

「知ってる! 父さんから聞いた」

「……なんて?」

「ヤヒロって名前の、俺より年上の東洋人。町の皆もちょうと噂にしてんだ」

「……なんで?」

「なんでって……東洋人が珍しいからだろ」

「そうなのか? ……あ、でも全然日本人っぽい人見付からないしな……そうなのかも」

「ニホンジン?」

「あ、や、なんでもない」

 はきはきしゃべる少年だと思った。

 その鋭さには少し身を引こうかとも思ったけれど、同じくらいの友達どころか知り合いすら特にいない現在の交遊関係を思い出して、やはりもう少し僕からも歩み寄ろうと決意する。

 年下相手に何故こんなに身構えるのか本当いやになるが、エレンの雰囲気のせいだと言い訳をしてお茶を飲みほす。

 そういえば、とふと思い出した。これをきくならば大人相手じゃない方が訝しまれないだろう。

「エレンは巨人って見たことある?」

「は? 巨人? ねーよそんなん! だって壁の中からでたこともないのに」

「そっか」

「あっ、でも、調査兵団に入れば巨人と戦えるんだよな! 十二歳から訓練兵に志願できるけど、ヤヒロはしないのか?」

「……あー、いや、よくわからなくて……でも、多分しないと思う。巨人ってよくわかんないし怖いし……」

「ふーん?」

 エレンが僕の言葉に片眉を上げたとき、通りの方からいつものものとは違う鐘の音が聞こえてきた。

 それを聞くやいなや、エレンはぱっと立ち上がり「英雄の凱旋だ!!」と僕の手をとり引っ張った。

 カルラさんに「母さん、ヤヒロと凱旋見てくる!」とだけ言い人だかりへ走りよっていく。

「英雄の凱旋……?」

「さっき話したばっかだろ! 調査兵団が壁外調査から帰ってきたんだよ!」

 瞳を輝かせて語るエレン。引っ張られるままに僕は彼についていく。

 器用に人の間を縫い、最前列へ抜けていく。

 そこで見たものは、僕の想像する「英雄の凱旋」なんてものとは程遠いものだった。

「見ろよ、俺らの血税をドブに捨ててあのザマだぜ」

「百人以上で出発したはずなのに……半分も残ってないじゃないか……」

 蔑み笑う人の声。

 覇気のない、疲れきった顔の隊列。

 それらとはまるで対照的な、子供の輝いた瞳。

 あべこべさと耳障りな喧騒で、ぐらぐらと足元が揺れているようだった。

「な! ヤヒロ、すごいだろ……って、おい、どうしたんだよっ……!」

 吐き気とも焦燥感ともつかないそれにかられて、エレンの腕を引っ張り人だかりから抜け出す。

 不満そうなエレンだが、僕だっていっぱいいっぱいだ。

「エレン、あれ、何」

「だから、調査兵団が帰ってきたんだって」

「沢山、人が、死んでるって、巨人って、そんな危険なの」

 その時のエレンのきょとんとした表情が、常識の差を見せ付けられているようだった。

 僕は一瞬息を詰めて、それを整えて今度は優しくエレンの手を引く。

「……もう、戻ろう。先生も戻ってるかもしれないし」

 

 *

 

 手を繋いで帰ったところをちょうど先生にみられて「エレンにもやっとアルミン以外の友達ができたのか」と大変喜ばれた。

 アルミンというのは近所にすんでいる子らしく、何なら明日会えばいい。とのエレンの提案に素直に頷いておく。

 それにしても、やっと、とは。

 意外だと口に出すとエレンは渋顔を作った。

「何だよ、馬鹿にしてんのか?」

「違うよ、そうじゃなくて、エレンって、友達多そうなイメージだから」

「……そうかぁ?」

「うん」

「ま、向こうに仲良くする気があれば話は別なんだけどな!」

「……」

「エレンはちょっと短気なとこがあるからなぁ」

「父さんうるさい!」

「はは、……それに、そういえばだけど、僕も馬鹿にできるほど、友達いるわけでもないし」

「ヤヒロも?」

「市場の売り子さんとかとはよく話するんだけど……先生、僕って無愛想ですかね」

 元気なさそうな顔してるね。そういわれたことを思い出し、自分の頬をむに、とつまんでみる。

 いたっていつも通りだったのだが、もしかしたら平時の顔がそういう表情なのかもしれない。

「そうだなぁ……ヤヒロは大人しい性格だが……。笑顔で挨拶! から始めてみたらどうだ?」

「笑顔で……あいさつ……」

 意識して笑うというのは案外難しい。

 それでも頑張って笑ってみる。と。

「……困ってるみたいに笑うなよなー」

「えぇー……」

 駄目だしをされてしまった。

 背伸びをしたエレンに眉間をぐいぐいと押される。

 先生に、友達なんて少しずつできていくものさ、とフォローされてしまう始末で。

 後日、めでたくアルミンとも話すことが出来たけれど。

 友達百人とは、まだ程遠いようだ。

 

 

 



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02

こちらにきてもうずいぶんと経ってしまった。

 シガンシナ内なら小さな路地でも迷うことはなくなったし 顔見知りと言わず仲のいい同年代も徐々に増えていった。

 そしてある日、いつもの様にエレンの家へ訪ねると見慣れない女の子がいた。

 その子はミカサというらしく、詳しいことは解らないがイェーガー家の一員になったそうだ。

 同じ東洋人だな。というエレンの言葉にそれまで特に興味なさげだった視線がはっとしたようにこちらを向き、やはり少数民族なのだなと改めて認識する。

 よろしく、と自分では普通に笑ったつもりなのだが。やはり困ってるみたいに笑うなよな、とエレンに眉間をぐいぐいされた。

 

 *

 

 彼女は日本人の様な名前だし。同じ東洋人ということで何かあるのではないか。

 ここにないようなものを。と逡巡し、あるものに辿り着く。

「……ミカサ」

「……何?」

「海って……見たことある?」

「? ……海が何か解らないから……見たことはないと思う」

「……そっか」

 別に期待していたわけではないのだけれど。

 でも海をしらないとはどういうことだろうか。首を傾げていると、先ほどまでいないと思っていたエレンとアルミンに凝視されているのに気が付いた。

 びくりと肩をふるわせた僕をにがさないように、二人は腕をがしりとつかんで放さない。

「ヤヒロ、海を知っているの! ?」

「どこで知ったんだ! ? 本当に商人がとりつくせないほど沢山塩水があるのか! ?」

「えっ、ちょっと、二人ともなに……っ」

 ミカサが二人を落ち着かせてくれたおかげで、やっと話を聞くことができた。

 壁の外に海があるんだということ。でも、それを書いてある書物は憲兵団によって焚書されてしまったということ。

「それにしても……ヤヒロって記憶ない割にはいろんなこと知ってるよな」

「もしかしたら、僕のおじいちゃんみたいにどこかの本で読んだのかも」

「記憶……? ヤヒロには記憶がないの?」

「……ここにきたのは……一年くらい前だっけ」

「もうそんなになるのか。こいつ、調査兵団のことも知らなかったんだぜ」

 東洋人が珍しいのは誰でも知っていることだ。

 もし親族や知人が東洋人の捜索願いを出せば、程なくして連絡が来るはずである。

 それがこないということは、やはりそれなりの事情がある訳で。

 エレンもアルミンもそれを承知しているのか、それについては特に言及することはなかった。

 ……その代わりなのかなんなのか、炎の水やら、氷の大地やら、砂の雪原やら、改めてそう考えてみるとファンタジーだと感じることについては色々と聞かれたが。

 

 *

 

 養父母との暮らしは相変わらずだった。

 現代日本の食生活に慣れきっていた僕の舌は、海がないため高級品の塩を欲しがり。

 しかしないものはどうしようもないのだからと。なんとかそれを補おうと以前はやろうとも思わなかった料理なんかにこったりして。

 養母から教わったにんじんケーキも今は得意料理の一つとして数えられるほどだ。

 僕のつかっている部屋はルベリオさんが使っていたもので。片付けられているとはいえ、当然彼のものだったものを僕が使っていたりもする。

 その際に、彼の話をすることがある。

 家を出ていったのはずいぶんと前の話で、聞くのは彼が二十になるよりも前の頃の話だが。

 前に一度だけ、声を震わせて「ヤヒロは兵士になんてなるんじゃないよ」と言われたことがある。

 僕は「ならないよ」と返した。

 ふとした折りに、養母は噛み締めるように言った。

「亡くなった人のことを話すことはね、その人に花をおくるのと同じことなの」

「花をおくる……?」

「その人が亡くなっても、心の中ではまだ生きていると言うでしょう? あなたもあの子に花をおくってくれるというのなら、わたしはいくらでもあの子のことを話すわ」

 写真やビデオテープというものがないここでは、容姿も声も仕草も想像するしかないのだけれど、思い出される話の中で、彼は確かに息づいていた。

 

 *

 

 前方から歩いてくる少年三人が、何やら毒づきながら傷のついた頬を擦っていた。

「くそっ、あいつらなんて……!」

「ミカサを相手にするのは分が悪すぎるだろ……!」

「仕方ねぇだろ! いつの間にかいるんだから! ……異端者を異端者っていって何が悪いんだ!」

 どうやらいつもの喧嘩の後らしい。

 彼らは「人類は外の世界に行くべきだ」と主張するアルミンが気に入らないらしく、こうやって頻繁に暴力を振るう。

 とはいってもいつも何処からか駆けつけたミカサによって返り討ちにされるのだが。

 大人はせいぜい子供の絵空事の衝突くらいにしか思っていないようだが、彼らは至って真面目だ。

 彼らは僕に気が付くときっと眉を吊り上げずかずかと向かってくる。

 僕に対してはいきなり暴力をふるってくることはないが、彼らの頭の中での派閥としてはアルミン側に位置しているのだから仕方ないだろう。

「おい、ヤヒロ! あの異端者どうにかしろよ!」

「どうにか……って言われても」

「あんなのがいるから俺んとこだって、……っ」

「……どうかしたの?」

 言葉を途中でとぎれさせて彼はうつむいてしまった。

 手はきつく握りしめられ、ぶるぶると震えている。

 いつものような剣呑さとはまた違った様子に腰を折り、背中をさすってやる。

 泣くかと思ったから。

 いつも睨まれているとはいえ、一応でも年上の僕に何か思うところがあったらしい。手が振り払われることはなかった。

 しかしそれでも彼のプライドや、外に行きたがっている、と思われている。所謂敵側に位置する僕に話すことはないらしい。

 それはそれでいいのだけれど。

 唇をきつく噛み締める彼の背中をそのままさすっていると。他の二人が顔を見合わせて口を開いた。

「……そいつの兄ちゃん、今度兵士になることにしたんだ」

「家族が多いから、兵士が一人でもいた方が待遇がよくなるからって」

「っ、言うなよ!」

 彼の兄のことは僕もそれなりに知っている。

 気さくで、程よく大人が許してくれる程度の羽目の外し方をしっている、とても賢い人。

 なるほど、兵士となるためにはまず訓練兵という段階があるのだが、その時点で既に死という危険がつきまとう。

 僕は勿論話でしか知らないけれど、やはりこの国の軍なのだから、中途半端にできるようなものではないのだろう。

 それなりに彼のことを知っているといっても、それはあくまでも知人としての付き合いのようなレベルだ。

 話したことがないわけではないが。かといって何か特筆すべき間柄にあるという訳でもない。

 そんな僕が何を言ってもおかしい気がして、「そっか、」と、また彼の背中をさすることしかできなかった。

 

 *

 

 その日、僕は養父母と共にシガンシナの中心部へきていた。

 夕暮れ時のごくありふれた日常のひとこま。

 しかし、それらはあまりにもあっさりと終焉を迎える。

 突如として鳴り響く轟音。

 誰もが状況を理解できずに唖然としていると、空から岩が降ってきた。

 岩。

 それは、いままでウォール・マリア突出部のシガンシナ地区と巨人とを隔てていた壁だった。

 飛んでくる小さな破片をうまく避けきれず、服を突き抜けて腕が少し切れる。

 じわじわと血が滲んでいくが、僕が感じたのは破片があたった衝撃のみで、痛みは全く感じない。

 しかしそれがきっかけとなり、意識が現実に引きもどされた。

 唖然としながらも近くにいるはずの養父母の存在を思いだし、口々に「なんてことだ」「巨人がくる」と一気に膨らんだ不安と恐怖の感情を吐き出す周りに呑まれそうになりながら周りを見渡す。

 ヤヒロ、悲痛な声が聞こえた。

 そちらにすぐさま視線をずらせば、養母が大きな岩の横で座り込んでいた。

 彼女の名を呼び駆け寄る。養父はどこに。そう問いかける必要もなかった。

 岩。

 僕の背丈よりもう少し小さいくらいのそれの下に、真っ赤になった、先程まで並んで歩いていた人物と同じ服を着たものがいた。

 理性では理解なんてできない。しかし、本能が理解した途端腹の底からとんでもなく重く黒いものがえぐるようにせり上がってくるのを感じた。

 思わずうずくまりそうになるが、ヤヒロ、先程よりも更に悲痛な声に、それは強制的に押し込められた。彼女の足に乗っていた瓦礫をどかし、思わずその赤さに目を背けたくなる。

「ヤヒロ、ヤヒロ、あぁ、どうしたら、あのひとが……」

「っ……」

 ここまでうろたえる養母の姿を見るのは初めてだった。

 伴侶を亡くした、それも予想だにしていなかった瞬間に。当然なのだろうが、上ずった声と赤らんだ目元と、震える肩は見ているのもつらい。

 僕は彼女の冷えきった手を握って、人の流れにしたがって走りだそうと力を込める。

「逃げよう、巨人がきちゃうって」

「でも、この人をこのままおいていくなんて…」

「っ……お、落ち着いてから、落ち着いたら、また戻ってこれるから! ね、行こう」

 うろたえる養母をなんとか立たせて、いつもよりずっと遅いスピードで走る。

 定期的に鳴り響く重い音は大きく、ここからどれぐらいの距離なのかはわからない。

 怖くて後ろも振り向けないのだ。

 追い越していく人の中には、先ほどの養母のように家族が岩に潰されてしまいただただ泣くことしかできない人もいる。

 視界の端、屋根の上を二つ薔薇の紋章の駐屯兵団の人たちが立体機動装置で飛んでいく。

 夕焼けに照らされたシガンシナの街が、やけに赤い。

 亡くなった人たちの血の色に見えて、肌が粟立った。

 

 *

 

 つないでいた手が、くん、と引っ張られる。

 振り返ると、瞳孔の開いた目で養母が小さく何事かをつぶやいていた。

 その方が荒く上下しているのは、走ってきた疲れだけでは無いだろう。

 地響きはあちこちから聞こえてくる。焦れた僕ははやく、と声を荒らげた。

 

「ねぇヤヒロ、あの人は、ルベリオに会えたのかしら、あの子がいなくなってから、ずっと部屋の中が暗かったの」

 

「でもあなたが現れて、わたしもあの人もとてもたすけられたわ。とてもうれしかった」

 

「ありがとう、ヤヒロ」

 

 いつの間にか彼女の目は、とても穏やかなものへと変わっていた。

「なんで、そんな、最期みたいなこと言うの」

 助けられたなんて、僕のほうがずっと助けられていて、救われていて、まだ何も返していないのに。

「わたしはもう走れないから、ヤヒロは早く逃げなさい」

「駄目だよ、一緒に逃げよう」

「腕も、ちゃんと治療してもらうのよ」

 やめて。

「あの人と、……あの子に、ルベリオに、やっと会えるわ」

 彼女がそういった瞬間、僕達に影がさして、彼女は地面から離れていった。

 彼女は、あの時もう既に壊れてしまっていたのかもしれない。

 うろたえる彼女の姿はとても普段どおりになんて見えやしなかったけれど、それでもまだ僕には人として普通の反応のように見えた。

 けれど、ルベリオさんと養父のことを口にする頃にはその瞳はいやに凪いでいて、かさかさの手のひらで僕の手を優しく撫でる彼女の肩の印象は薄くなっていて。

 僕を気にかける言葉を紡いでは居たけれど、それも後になって思い出して見れば本当に僕を見ていたのか判断もつかなくて。

 たおやかな雰囲気をまとっていた彼女はどこに言ってしまったのだろうといくら考えてもわからない。

 わからないんだ。

 僕が彼らの家にお世話になっていたのは、息子のルベリオさんの存在が大きかっただろう。

 息子や孫がまた出来たみたいだ、とは言われていた。彼の話もたくさん聞いた。

 僕が料理や、山菜について学んでいる時、いつもとは違う目で見られているのは知っていた。

 とても深い慈しみに満ちた、けれど僕を見ていないその瞳。

 ルベリオさんと僕とを重ねていたのは間違いない。

 あの家に住まわせてもらっている以上、そういうことも仕方ないだろうと、僕自身、彼らと家族になるには距離があった。

 勿論、だからといって養父母との暮らしが窮屈だったりなんてことはなかった。ただ、ルベリオさんと僕はそんなに重ねるほど似ているのか、

 それともただ一緒に住んでいる、そういう年頃の少年という条件ならだれでもいいのかが不思議だった。

「元気でね、ヤヒロ」

 彼女の胴体を容易に包むことのできる大きな手。

 気味の悪い笑みを浮かべるそれに抵抗することもなく。

 養母はその口の中に飲み込まれた。

 むしゃむしゃ、むしゃむしゃと。

 実際はそんなかわいらしい音ではなかったが。

 そうでもしないと、とても耐えられそうになかった。

 とても美味しそうに「家畜」を頬張って。

 彼女を飲み込んだそれはまたなんでもないように立ち上がり―――何かがあたったのか、不自然にその巨体を揺らした。

 ゆっくり倒れていく巨体の後頭部のあたりに足をかけている人物と目が合うと、その人は僕に駆け寄ってくる。

「人がいたのか……君! 怪我は無いかい?」

「……僕は大丈夫、です。……でも、食べられて」

「っ……ご家族かい? ここは危険だ。ウォール・シーナへの船が出るから、早く君もそちらに行かないと」

 その人の団服は二つ薔薇。駐屯兵団だ。

 心配そうに、いたましそうに僕に声をかける彼に僕は呆然と問いかけた。

「……何なんですか、これ」

 しゅうしゅうと蒸気をたて、早くも骨が見えている大きな身体を、僕は今までに見たことなんて無い。

 

 *

 

 ぎゅうぎゅうに人が押し込められた船の中、本当に運良くエレンとミカサに会うことができた。

 彼らと共に両親は居ない。先生は仕事で内地にいくとは聞いていたけれど、沈んだ表情と震えた声の二人から何があったのか察するには十分すぎた。

 僕は唇を噛み締めて、

「二人が無事でよかった」

 彼らをきつく抱きしめた。

 もう、人々が巨人が来ると恐慌状態に陥ったときや、養父が潰されているのを見た時に感じた重苦しさはなく、その代わりに喪失感が、そこかしこに転がっていた。

 今回の超大型巨人の出現で、家族や家、全てを失った人も多いだろう。

 僕は二回目。

 二年前に、それまでの人生を全て全否定されて、それでも何とか周囲の人に助けてもらい暮らしていた。

 確立されているように思っている平穏でも、知らない間にすべて壊れてしまうのを僕は知っていたはずだ。

 今回は運良く助けてもらえたけれど、次もそうである保証なんてどこにもない。

 これからこのまま変える気がないのなら、僕たちは開拓地へ移って作物を育てることになる。

 けれど、「一度きたのだから次は無いだろう」というあやふやな望みにすがりつくよりも、僕は少しでもできることを増やしたかった。

 そうなれば、することは決まっていた。

 

「訓練兵になる?」

「……兵士にはならないって言ってたじゃないか」

「うん……でも、そうも言ってられない状況だよね。もしまたああいうことがおこった時、何もできないっていうのは駄目だと思うから……手段を、増やしたいから」

「……俺はいいと思う。訓練兵になれば、開拓地行きなんて奴隷じみたことしないですむし」

「それは、……僕だって反対してる訳じゃないよ」

「ただ、怪我が心配」

「……怪我、かぁ、兵士には多分つきものなんだろうけど……うん、気をつけるよ」

「ヤヒロ、……あと二年したら、俺も訓練兵に志願する」

「……調査兵団、だっけ」

「ああ。……あいつらを……駆逐してやる……!」

 きつく手を握り空を睨むエレンは誓った。

 僕はそんなエレンに何か言葉をかけようとして。でもどうすればいいのか相変わらずわからなくって、「そっか」と言うだけだった。

 いつもなら僕の眉間をつんつんとつっつく小さな手は僕には触れず、へたくそな笑顔の僕の服の裾をアルミンが、エレンの手をミカサが握った。

 いつだかに、巨人が居て、それによって人が死ぬことは「当たり前」なんだと知った時があった。

 でも、それは違う。当たり前なんかじゃなかった。

 百年という時間に保障された鳥かごの中で、与えられた生暖かいものに浸りきっていたんだ。

 そう、例えば、平和ボケをしていると揶揄される日本人のように。

 大人は子供を安心させるためにぬるい笑顔であれこれいうが、少しでも難しそうな表情でひそひそと話していればそれは瞬く間に伝染していく。

 子供は難しい話なんてわからないだろうとばかりに、お構いなしに話すどこかの承認だという男が居たが、子供は彼らの本質をとうに見抜いている。

 大人が思う以上に子供は場の空気に敏感で、むしろそのあたりでげらげらと下品な笑い声を上げている者達よりも、よっぽど現状を理解していた。

 



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03

 訓練兵になるということは、途中で挫折でもして開拓地に戻りでもしない限り、少なくとも数年間は他と分離された生活を送るということだ。

 片や兵士、片や開拓地。子供だてらに、お互いを心配する気持ちはある。

 このあたりの地域の訓練所へ向かう馬車がきており、僕たちは別れを惜しんでいた。

 アルミンと彼の両親には、下手にここに残るよりもずっといい、と手を握られたあと抱きしめられた。

 ミカサにも「元気で」「怪我には気をつけて」といつも以上に心配された。

 エレンには、強い瞳ですぐに追いつくからな、と言われた。

 僕はこれから、102期生訓練兵として生活することになる。

 なんでも、今期からは志願兵が増えたらしく、訓練所を急遽増やすことになったそうだ。

 そこで僕は「巨人が壁の中に侵入してきても、兵に志願しない奴は腰抜け」という風潮ができつつあることを知った。

 騒がしい食堂の中、パンとスープという質素な食事をとっていると、ひときわ大声で話しているグループが近くに居た。

「やっぱ入るなら憲兵団だよな」

「そりゃあそうだろ! 内地での快適な暮らしが待ってるんだからよ」

「給料だっていいしな」

 特に大声と言っても、周りも好き勝手に談笑を楽しんでいるので不快に感じる者はいなさそうだ。

 一緒に話を交えるだけの知り合いもおらず一人パンをちぎると、突然肩を組まれた。

 今しがた大声で会話していた者の一人だ。

「お前はどこ希望なんだ? 東洋人!」

 初対面でのこういうテンションはあまり好ましくないのだけれど、からまれたのは十中八九、彼の言葉にもある通り僕が東洋人だからだろう。

 やはり東洋人は珍しいのか、これまでにも周囲の人間の視線を感じてはいた。

 目立つのは、苦手なのだけど。

 パンを飲み込んでから、僕はゆっくりと口を開いた。

「……僕は駐屯兵団かな」

 そういうと、一瞬の間をおいてどっと笑いが湧いた。

「何で駐屯兵団なんだよ、普通そこは憲兵団目指すだろ」

「しかも飲んだくればっか! ……ま、今回は特に競争率高いらしいし、調査兵団なんて巨人の餌になりにいくような奴ら以外はほとんどがそうだしな。よろしく頼むわ」

 多少気になる言葉はあったものの、それを言及してわざわざ空気を悪くするのも憚られるので頷こうとしたとき。

 がたんっ、彼らの笑い声を遮るようにけたたましい音が鳴り響いた。

 和やかな雰囲気に戻りつつあった食堂は再び静まり返る。

「っ……ちょ、調査兵団を馬鹿にするなよ! お前らなんて、巨人を見たことも無いくせに……!」

「……、おいおいおい、別に俺らは馬鹿にしてたわけじゃ……」

「……つうか、ってことは、お前……アルト、だっけ。お前は調査兵団志望なのかよ?」

「そうだ……。ボクは、巨人を一刻もはやく殲滅……シガンシナを奪還しないと……ボクの帰る場所はあそこしかないんだ……! !ヤヒロだって、昼間は教官に何も言われてなかったけどシガンシナ出身なんだろう……? 悔しく無いのか!?」

 ぎらぎらと輝く瞳に見つめられる。

 その光が、なんとなくエレンと似ているような気がした。

「……僕は、巨人が怖い。もちろんシガンシナの家には残してきたものも沢山ある。それでも、調査兵団に志願しないのは巨人に食べられるのがこわいから」

 外壁調査にいって帰ってこられる保障なんてどこにもない。

 むしろ帰って来られない可能性の方が高いくらいだ。

「……それに、憲兵団行きを望まないのは、……あそこはもう、後がないから」

「……後が、ない?」

「憲兵団が巨人と戦うことになったら、それはどういうことか、わかるだろ」

 いつの間にか食堂の中は僕達の話に集中していたらしく、しんとした暗い空気がここを支配した。

 はやくもムードメーカーとして機能し始めていたお調子者の数人は早速なにかをやらかして教官にこってり絞られている途中で、すばやくフォローに回ってくれる人は居ない。

 同じシガンシナ出身だというアルトに、真摯に応えたいと想ったからの言葉だったけれど。

 流石に、まずいことを言ったかもしれない。

「……まぁ、あくまでも僕がそう思ってるだけだから」

 彼も君を馬鹿にしたわけではないから、そんなに怒るなよ。

 そうアルトにフォローを入れておいたけれど。

 それでも、次の朝日を迎えるまでは、彼らにはどこかよそよそしい態度を取られてしまった。

 

 *

 

 それから始まった訓練兵としての日々は、想像していた以上に辛いものだった。

 朝早く、日の出前に起床してから一日中座学や体作りをして、夜遅くに八人部屋で泥のように眠る。

 厳しい訓練についていけない者が出始め、早くも部屋が一部屋分とちょっと空いたしたらしい。

 騒がしい風呂場。湯船の蛇口近く、それなりに温度の高い場所で、僕は息を深く吸ってから、ぶくぶくと沈んでいった。

 人数が減って、もしかすると部屋がもう少し広くなるんじゃないかと期待する者。素直に残念がったり心配したりする者。様々だった。

 脱落者は開拓地いき。その馬車を見る度、僕が思い出すのはエレン達のことで。

 彼らのことだからきっと元気にやっているのだろうけど、気になるというか、心配というか、形状しがたい気持ちにとらわれる。

 もしかすると、ただ単に気持ちが弱くなっていて、彼らに会いたくなっているだけなのかもしれないけれど。

 ぶくぶくぶく。細長く息を吐き出すと、反響しすぎて何の音かわからなくなっている雑音の中にも、低く濁った音が聞こえてくる。

 そういえば最近泳いでないな、と思う。

 農業や狩猟をしていた人達でそれぞれ筋肉のつき方が違うのは知っていたけれど、水泳もまた使う筋肉が違うらしく、首をかしげられ尋ねられたことを思い出す。

 狩猟民族だという彼らの、いかにもな男らしい体格を少しばかり羨ましいと思いながら、しかしここでの戦闘の要である立体起動装置は背丈体重が低く軽いほうが有利だと聞き、少し複雑な心境になる。

 真っ先に始まった立体機動の訓練に関して教官から少しばかり認められたものだから、余計に。

 ぶくぶくぶく、そろそろ息も苦しくなってきたので水面に上がろうと最後に空気を吐き出していると、いきなり首根っこを掴まれものすごい力で湯から引き上げられた。

 驚いた拍子に息を吸うと、顔を伝った湯が鼻に侵入してしまった。痛い。

「っず、い……え、なに、誰だよ」

「……おー、生きてた」

「風呂ン中で寝てるのかと思った」

 目を覆う長めの前髪を後ろになでつけると、見えたのは先ほど筋肉を羨ましく思っていた内の一人、リンガーと、初日に僕の肩を組んできたディトだった。

「……寝てないけど」

「おー、そうみたいだな、しっかし潜って何してんだ?」

「水中訓練とか? お前にゃそんなん必要ねぇだろ」

「あ……うん、ちょっと考え事してて……泳ぎたいなぁって」

「及ぶ? 魚でもとんのか」

「いや……趣味っていうか……」

 しどろもどろにもそう告げるとますます首をかしげられた。海もない、大きな川も生活用水として使っているし、湖もあるところは限られている。したがって、特に目的もなく泳ぐというのはあまりない。

 夏になっても蒸し暑いことがないのも理由だろうけど。

 

 ぶえっくし。

 

 くしゃみをした僕に、二人がもう少し浸かってから出るか、と提案した。

 

 *

 

 教官に座学で使うための教材を運んでおけと頼まれ、ただそこを通りかかっただけなのにもかかわらず雑用を生徒に押し付けるのはどの時代でも変わらないんだなぁと思いながら、さりとてそれを顔に出すこともなくわかりました、と頷いた。

 そんなこんなで準備室。困ったことが起きた。

 教材自体はさほど重くはないのだが、いかんせん量が量のためかさばって一人で運ぶには中々きつそうである。

 しかたがないので二回に分けて持って行こうとがたがた音をたてていると、後ろから涼やかな声がした。

「ヤヒロ、私も手伝うわ」

「……ありがとう」

 そうてきぱきと教材を持ち上げる彼女は僕と目が合うとにこり微笑んだ。

 金髪を短く切りそろえた彼女は大抵の科目で成績が優秀なため、よく教壇に呼ばれているのをみる。

「……教官に頼まれたの?」

「ええ、ヤヒロが先に行ってるけど、一人だと時間がかかるだろうからって」

「そう。……えっと、」

「……? ……ああ、ペトラでいいわ、改めて自己紹介するわね、私はペトラ・ラル」

「……ペトラ、うん、ありがとう。僕はヤヒロ・ラシャシティ」

 名前を知らないわけではないのだけれど、未だに女子を下の名前で呼ぶのは慣れない。そこでまごついていると、彼女はどう受け取ったのか微笑と共に自己紹介をした。

 ラシャシティは養父母の名字だ。自分の「ナマエ」しか覚えてない僕には当然名字などなく、ルベリオさんと、同じ名字を僕は名乗っている。

「ごめん、名前覚えてないわけじゃないんだけど」

「いいのよ、私もヤヒロだったから知ってたんだし」

「……僕、だから?」

「あれ? 自分で気付いてないの? ほら、あなた東洋人だし、来てそうそうに憲兵団は終わってるとか言うし、かなり有名よ? 

「……そこまで言ってないけど……っていうかその話もう忘れて欲しいんだけど……」

「あはは、どこでも語りぐさよ?」

「……最悪だ……」

「ふふっ」

「……なんで笑うかな」

「ヤヒロって大胆に見えて結構小心者なのね」

 彼女はくすくす笑いながらそう言うが、僕としてはたまらない。

 ペトラは人の前に立つ機会が多いから、そういうのは気にならない質なんだろう。

「……ヤヒロだって、水泳も立体機動も得意じゃない。もっと胸を張っていればいいのよ」

「……」

「人種がどうとか、……まぁ、さっき私も言ってたんだけど。そういうことを気にしすぎるのは勿体無いわ」

「……そう、だね? ……わざわざ、ありがとう?」

「あはは、どういたしまして。次の授業も頑張ろうね」

 ちょうど教室について、彼女は教材を置くとそれじゃあ、と友人のところへ向かって行った。

 僕はペトラと歩いているところを見ていた同室の人達にどういうことか問い詰められることになるのだが、それはもう少し後の話である。

 

 



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04

「おい、逃げるのか腰抜け野郎!」

「……」

 おかしいな、今は立体機動の訓練中のはずなんだけれど。

 何で僕は罵られているんだろう。

 この発端は何だったのか思い出せやしない。

 僕の立体機動の成績は、102期生全体で見ても結構いいほうだとこっそり誇れるくらいには良かった。

 はじめはおっかなびっくりだったが、なれてこれば立体的な動きが出来るという点からも水中と似ているような感覚すらあったのだ。

 もちろん浮力の変わりに重力は感じるし、全身の筋肉を使うといったところも似てはいるが、負荷のかかり方が違う。

 というか、ベルトに集中して力が入るので服の下はその跡だらけである。きっともうずっと残るものなんだろう。

 それでもいいと、空を自由に泳げることを無心で楽しむくらいには「泳ぎ」というものに飢えていたんだと思う。

 そして今日は五人一班でのタイムトライアル式の試験がある日だった。

 偶然僕はペトラと同じ班になり、女子三人、男子三人の計六人班となった。

 滑り出しは順調。そのまま何事もなくすむのだろうと次の木にアンカーを飛ばす。

 その矢先。

「っ、きゃあ!」

「マリー!」

 マリーがアンカーを出した先は丁度もろい場所だったらしく、彼女の身体は重力に逆らうことなく落ちていく。

 一番近くにいたペトラが真っ先に反応し、彼女が地面に衝突するぎりぎりのところで身体を受け止めた。

「ペトラ、マリー!」

「大丈夫!?」

 僕たちも直ぐ下に降り二人の安否を確認する。

 すると、マリーはペトラがかばったおかげで無傷だったが、ペトラは足首を押さえ苦しげな表情を浮かべている。

 なるべく刺激しないようにブーツを脱がせ見ると、彼女の足首は紫に変色していた。

「あはは……やっちゃった」

「ご……ごめんなさい、ペトラ! わたしのせいで……っ」

「私が勝手に失敗しただけだから、マリーのせいじゃないわ」

 気にしないで、と力なく笑うペトラの頬にはうっすらと汗がにじんでいる。

 ここでも、前いたところでも。捻挫は少しでもはやく冷やさないといけないという常識は変わらない。

「どうしよう……今日の訓練は近くに教官もいないのに……」

「……ペトラ、立体起動装置外して」

「え……?」

「僕が先に連れて行くから、皆は後で来て」

「! それならオレがペトラを連れて行く! お前が後から来い!」

「……どうして?」

「チビのお前より、オレが運んだ方が安定感もあるだろ」

「……僕はお前より立体起動得意だけど」

「それでも! オレが……」

「悪いけど、お前と言い合ってる暇ないんだ。ぺトラのことを考えるならどうするべきかはわかるだろ」

 僕はそういってぺトラの立体起動装置を涙ぐんでいるマリーに渡す。

「マリー、これ、運んでくれる?」

「……! う、うんっ! まかせて!」

 彼女は力強く頷いた。

 ぺトラには立体起動の邪魔にならないように掴まってもらって、ほかの女子とも一言二言だけかわしてそこから飛んでいく。

 人を抱えての飛行は確かにバランスがとりにくいけれど、ぺトラもちゃんと僕にしがみついてくれているおかげでだいぶ安定している。

 しかしやはり慣れないのだろう。彼女は居心地悪そうにわずかに身じろぎした。

「ごめんね、ヤヒロ……」

「大丈夫だよ、ぺトラは? 不安定なとことかない?」

「う、ん。……や、やっぱり私重い?」

「……何のために鍛えてると思ってるの。女の子一人くらいなんてことない」

「……そっか」

 それからすぐに基地に戻って、僕たちの班は失格。ぺトラは最低一週間安静。

 それだけなら何の問題も……いや、ぺトラが負傷したということはあるけれど、それでも問題は最小限に抑えられているはずだったんだけど。

 何故かその日から、余計にユハニからまれるようになった。

 余計に、というのも、ちょくちょくこれまでにも視線を感じたり、すれ違うたびに舌打ちされたり、微妙にいらっとさせられることはあった。

 めんどくさいなとは思いつつも無視していた僕だったが、ついにいちゃもんをつけられた。というわけだ。

 そして、今日。同じ班になったリンガーとアルトが心配そうにこちらをうかがっている。

 正直言えば助けてほしい。僕とユハニの身長差は約二十センチもあるのだ。

 こう至近距離に迫られると余計迫力がある。普通にびびる。

「いや……逃げるもなにも、これから演習だし」

 馬鹿じゃないのかこの人。

 僕はそれだけ言うとそそくさとそこを去り、二人のほうへ向かった。

 ユハニという男について、説明したくもないけれど一応のこと説明しよう。

 彼はウォール・ローゼに住んでいた、そこそこの家に生まれたボンボンらしい。

 成績は至って優秀、複数の科目でトップらしく、このままいけば主席卒団も夢ではないとのこと。

 それ故自尊心が高く周囲の人間といさかいを起こすこともままあるが、やはりどこか一目おかれている様子。

 そんな彼が本来ならば歯牙にもかけないはずの存在である僕になぜつっかかるのかというと、入団早々の僕の「憲兵団は終わってる」発言(僕は断じてそんなことは言ってない)と、立体起動の成績にあるらしい。そして彼は憲兵団志望。

 と、ディトとその愉快な仲間たちに聞いた。

 つまり、対して成績もよくないチビがでかい口たたいて、尚且つ自分が立体起動の一点のみにおいて負けている、というのが心底気に入らないらしい。

 ちなみにいうと水泳の成績もなのだが、対人格闘と同じく成績全体で見られる点数はほぼゼロに近くまったくと言っていいほど重要視されていないためこれはノーカウントとなっているらしい。

 とても面倒なことになった。口は災いの元とはよく言ったもので、こんなことになるならアルトとはまた別口でこっそり話せばよかったとも思う。

 しかしすぎたことを戻すことができないのもまた事実であり、ひっそりと嘆息。

 ベルトがきちんと留まっているのを確認し、カッターナイフのような刃を握りガスも問題なく噴射させる。

 ずっと何かに似ていると思っていた立体起動、その正体がスパイダーマンだったと気が付いたのは極最近のことである。

 いろいろと不安なところはあるけれどせめて何も起こらなければ、と、教官の声を聴き、アンカーを放った。

 

 *

 

「……なぁ、聞いたか? ウォール・マリア奪還の話……」

「ウォール・マリア奪還? 何の話だ?」

 ウォール・マリア奪還作戦。

 それは、王政府が打ち出した、状況脱却のための案だった。

 ウォール・マリアが巨人に侵攻され、それにともない内地に避難してきた難民を「故郷を取り戻せ」という名目のもとに送り出すというもの。

 歯に物着せずに言うならば、つまり、口減らし。

 その話は、既に僕の耳にも届いていた。

 内地に避難していたエレンやミカサ、アルミン、そしてアルミンの両親とは時折手紙のやり取りをしている。

 アルミンの両親はエレンたちの様子や僕を気遣うような内容を毎回送ってっくれるのだけれど、今度に来た手紙の内容は少し違っていた。

 ウォール・マリア奪還作戦に招集されたのだと。

 書かれている内容を理解した途端、頭が真っ白になった。

 戦いの術を持たない一般人が、壁の中から追い出される? 

 いつだかにエレンが目を輝かせてみていた光景が思い出される。

 壁外調査から帰ってきた兵士たちの数は少なく、ほぼ全員がどこかしらに包帯を巻いている。

 訓練された兵士でもああなのに、一般人が無事でいられるはずがない。

 まだ超大型巨人が表れていなかった頃、アルミンを訪ねればいつでもあたたかい笑顔で迎えてくれた彼らが。

 養父のように、養母のように、あっさりと死んでしまう? 

 重苦しい空気に沈みかけていた意識が、腕をつんつんとつつかれることで浮上する。

「……ぺトラ」

「……大丈夫? ……じゃ、なさそうね。……話は聞いたわ」

「……そっか。……ぺトラはローゼに住んでるんだっけ、……マリアの、知り合いとかは?」

「いいえ、私の知り合いはみんなローゼ出身だから……。せっかく……せっかくみんな、生き延びたのに……」

「……」

 ウォール・マリア奪還作戦が決まってからその決行の日まで、それほどの間がない。

 おそらく王政府が市民の暴動を恐れているのと、一刻も早く食糧問題を解決しようと思ってのことだろうが、これでは今から手紙を返しても間に合うかどうかもわからない。

 開拓地は地方のために、当然一日ばかりの休みで行くことも不可能だ。

 会ったとしてもきっと何を言えばいいのかわからなくなってしまうだろうけど。

 それでも、脳裏にちらつく養父母や同じシガンシナ地区の人々の見るも無残な死にざまを思い出し。

 僕は「どうか無事で帰ってきて」と、万が一の確立もないようなことを書き願うしかなかった。

「……僕が訓練兵に志願したのはさ」

「……?」

「もし次にまた、巨人が壁内に入ってきたときに何もできずに食べられないようにするためだったんだ」

「……」

「だから開拓地からここにきたんだけど……きっとあのままあそこにいたら、僕も今回の作戦に駆り出されていたんだろうね」

「……ヤヒロ」

「はは……、僕の判断は間違ってなかったわけだ。でも、これじゃあ、何のために……っ」

「ヤヒロ」

 僕の声は震えていたが、僕の名前を呼ぶぺトラの声のほうが悲痛な色をしていて。

 冷え切った僕の指先を彼女の温かい手が握る。

「ヤヒロ、落ち着いて……今は心が少し弱ってるだけよ。大丈夫だから……ね?」

「……」

 ぺトラに触れて初めて自分の体温が下がっていたことに気づき、じんわりと温かい手のひらにそっと目を閉じる。

「……ごめん、ぺトラも、つらいはずなのに……」

 彼女の、首を振る気配がした。

「今は……ごめん、もう少しだけ、許して……」

 彼女の手を握り返すと、震えているのは僕だけじゃないことにやっと気が付いた。

 

 



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05

「これより訓練兵団102期生、卒団式を始める!」

 訓練兵としてここに入団して三年。僕たちは、ついにこの日を迎えた。

 上位十名の名前が呼ばれ、一位は当然のようにユハニが。彼は自信満々な笑みを浮かべていた。あ、目があった。なんだあの渾身のドヤ顔。うざい。

 そして憲兵団の入団権を持った者の中にはぺトラと、乗馬の話だけを聴くなら以外や以外。オルオの姿も認められた。

 真ん中あたりでリンガーも呼ばれ、周りは納得半分、もうちょっと上だと思ってたってのが半分。

 アルトは十位以内には残念ながら入れなかったもののあともう一歩だったといったところか。

 ディトは実技はそこそこなものの、座学がからっきしで割とひどい成績になっており。

 僕は何よりも重要な立体起動がトップだったのでそこそこ高い順位だが、乗馬が言うほどうまくない。

 いや、下手というわけでもないのだが、可もなく不可もなく。つまり普通。

 ついでに尻が痛い。

 これでもまだ座学の方は、ユハニにさんざん馬鹿にされ体育会系特有の負けん気が働き頑張った方なのだが。

 あれ、そう考えると僕のこの順位って……。

 と、ちらりユハニをみて、すぐさま視線をそらす。そうだ、これは僕の頑張りだ。

 殴りたい、あの笑顔。

 気を取り直して。割と、というか前の世界の女子でもなかったくらいには仲の良かったぺトラを見て、おや、と思う。

 心なしか彼女の表情は浮かない様だった。

 彼女は調査兵団志望のはずだし、それに対する不安もあるのだろう。

 と、そんなこんなで食事会。

 立食形式なので皿にに適当に盛り付けつまみながら徘徊していると、ぺトラが一人でとぼとぼ歩いているのを見かけたので話かける。

「や、どうしたの」

「あ、ヤヒロ……うん、ちょっとね」

「僕でよければ聞くけど」

「……聞いてくれる?」

「どうぞ」

 ぺトラの分も好物と言っていたものをとってやりながら歩く。今日の食事はいつもより豪華だ。

 きくところによると、友人と喧嘩をしたらしい。

 理由をきくと、調査兵団に入ると言ったらその友人に怒られたらしく、そこからは言い合いになってしまったそうだ。

 ぺトラはその決意をもう揺らがせるつもりはないし、友人が心配してくれていることも十分わかっている。

 しかしそれぞれ別の団体に配属される前に、めったに会えなくなってしまう前に、なんとか和解したいという。

「……話合うしか、ないんじゃない」

「……うん」

「その子も、多分、ぺトラの気持ちはちゃんとわかってると思うんだ」

「……うん」

 お祝いムードな中心部よりはずれて、静かにちまちまと箸―――フォークだが―――を進める。

 ぺトラといえば、少しは食事に手を付けてはいるものの、ほとんど食べられていないようだ。

「お互いヒートアップしちゃったんでしょ? もう頭も冷えてるだろうし、今日、明日くらいしか時間がないんだし、いってこれば?」

「ん……」

 と、いうところで、ぺトラ、と控えめに呼ぶ声が聞こえ、そろって顔を上げると目じりをわずかに赤らめた、今まさに話題に上っていた同期の姿。

「アリア……」

 かたく肩を震わせたぺトラの背中を軽く叩き、行ってきなと促す。

 う、うん。と小さくうなずき、彼女はアリアの元へ歩を進める。

 結局僕は何の解決もできてないよなぁ。

 と、じゃが芋にフォークを突き刺し思った。

 あぁ、お米が食べたい。

 

 *

 

 憲兵団行き。

 首席のユハニはもちろん、その後もぞろぞろと人員がきまる。

 駐屯兵団行き。

 僕はもちろん、入団当初ふざけまくって僕を一時的孤立に陥れる要因となったディト、そしてマリーやアリア、その他大多数がわらわらと。

 調査兵団行き。

 アリアと無事仲直りできたらしいぺトラとオルオ、リンガーにアルト。

 続いて名乗り出た人物に、話を聞いていたとはいえ僕たちは驚く。

「グレッグ……本気だったんだな」

「……とても冗談でなんていえねぇだろ」

 グレッグ。ディトと同じく初めに食堂で騒ぎを起こし、アルトに怒鳴られたうちの一人。

 グレッグはあの日のアルトの言葉と、今日に至るまでの日々アルトの発言の端々に込められた想いに影響され感化され、調査兵団入りを決意したらしい。

 他にもちらほらと、もともと調査兵団入りを決めていた者の志に賛同して当初と希望を変えた者もいるそうだが、それは僕らが応否を話すことではないだろう。

 アルトと目があった。にこり微笑まれる。

 第一印象からずいぶんと変わったものだな、と思う。

 そんな彼の表情に、いつだかのことを思い出した。

「ヤヒロは、自信を持っているのかいないのか、よくわからないな」

「……自分としてはどっちでもないと思ってるけど」

「そう?」

「自信過剰でも恥をかくし、たりなくても自分の行動を制限するし。……まぁ、前はもう少し自信を持った方がいいって言われてたんだけど」

「はは」

「……ああ、でも、実技のときは多少自信過剰なくらいがいいってリンガーが言ってたな。僕もそう思う」

「ちなみにどうやって自信をつけてるんだ?」

「……あー、できるできるできる、どうしてそこであきらめるんだ。ドントウォーリービーハッピー。ネバーギブアップ。みんなお前のこと応援してるんだよ、もっと熱くなれよ」

「ぶ、はっ……!!」

「作物だってみんな必死で生きてんだ、お前はそれを食べて生きている。そう考えると、エネルギー無駄にできないだろ?」

「ちょ、まっ……ぶふっ……ヤヒロ、やめっ……っひ」

「……そんなに笑えた?」

「っふ、ははっ……! 君はいつもそんなことを考えていたのかい!?」

「いやこれはさすがに盛った」

「嘘かよっ……!」

 ……うん、本当にどうでもいいことを思い出してしまった。

 ついでにお米食べろの名言……、迷言? も思い出してしまう。

 リンガー達にはそれぞれ暇乞いをして、ディトが感極まったらしく泣き出してしまい。

「僕もそうだし、大半とは同じ駐屯兵団だろ」

「そうだぜディト、どっちかっつーと、泣くのはアルトの方だな」

「!? ど、どうしてボクに振るんだい」

「べっつにぃ?」

 心の友よー! と泣きながらリンガー、アルト、グレッグの三人に抱き着くディト。

 僕は涙はともかく鼻水の被害に合わなくてよかった。と胸をなでおろしていると、むこうから何故かユハニが僕に向かって歩いてきた。

 周りが完全にしんみりムードなのに水をさすような言葉を伝えるのもどうかと思ったので、彼が何か言葉を発するより先に僕が口を開く。

「ユハニ、首席おめでとう。これで念願の憲兵団に入れるんだね」

「お……お? あ、ああ! こんぐらい当たり前だな!」

 面白いぐらいに鼻高々とするユハニに、僕は何とも言えない気持ちになった。

「僕も当初の希望通りだけど、もうほぼ会うこともないんだろうね」

「そうだな、まったくせいせいするぜ」

「あはは」

 こちらは穏やかに話しかけているというのに、予想できたとはいえあんまりな反応だ。

 もう二言三言言葉を交えてからユハニとは別れた。

 ため息をついたところでディト達と目があった。

 ぎょっとしている様子だったので、肩をすくめて彼らの方へ歩みを進める。

 ここで友と呼んだ彼らとも、次に会えるのはいつになるのだろうか。

 

 *

 

 その知らせは、僕たちがそれぞれの兵団、班に配属されてから三ヶ月とたたない内にきた。

「おい、ヤヒロいるか!?」

 立体起動装置をガチャガチャと音立てながら、ディトが僕の所属する班が管理する駐屯所にやってきた。

 同じ班の先輩もなんだなんだと顔を出すが、ただならぬ気配を感じ取ったようで、特に口を挟んでくることはない。

「どうしたの?」

「……三日前の、壁外調査……」

 どくりと心臓が嫌な音をたてた。

 ディトが息を震わせていう。

 嫌だ、ききたくない。

 聞きたくないが、僕は聞かなければならない。

「―――アルトとグレッグが死んだって」

「……、……リンガーは?」

「それをアイツが伝えに来た! あいつらのいる班だけ奇行種に遭遇したらしくて」

「……ほかの人には?」

「今から、すまんもう行く……!」

「まって僕もいく」

 すぐに踵を返そうとしてディトの腕をつかみ先輩に目配せすると彼女は頷いてくれた。

 彼女は規律には厳しい人だが、終業の鐘がタイミングよく鳴ったのもあるだろう。

 雑用の片づけを同期のパーシーに任せるのは少々気が引けたが、彼女も力強く頷いてくれた。

 駐屯所を出て、気持ち足早になっているディトの隣を歩く。

 うかがうと顔色は真っ青だ。

 僕はそれをちらりと横目で見ると、また前を向いて目的地へと向かった。

 同期の元へ回って説明をしていく度に初めはほとんど感じられなかった「あるととグレッグが死んだ」という現実がじわじわとしみていくような気がして。

 また出来てしまった僕の中の空洞が暗く双眸を開いていた。

 

 一通り同期に話終わった後、僕はディトにこう持ちかけた。

「……アルトとグレッグに、花を送ろう」

「……花?」

「そう、花」

「ああ……そういえば訓練兵の時も、カメリアとかヨキが死ん時に何か言ってたっけ」

「もう少し時間が空いたほうがいいかな」

「……いや、うん。……そうだな、そうしよう。花、送ろう」

 酒。

 日本では成人、つまり二十歳未満の飲酒は禁止されていたけれど、ここは日本でなければましてや現代でもない。

 郷に入っては郷に従えということわざが日本にもあるように、僕は多少の抵抗はあったものの成人前にすでに自らの意思で酒を口にしていた。

 同期とだったり、既にへべれけ状態のハンネスさんにもらったり、まぁ、いろいろ。

 今は二十歳になっているので精神的な抵抗もないけれど、ここにきて、もうそろそろ片手では足りなくなる年数がたとうとしている。

「そんときグレッグのやつ、俺置いて逃げやがったんだぜ? 俺らの間の友情はどうなっちまったんだぁーって……教官には殴られてでっけータンコブできるしよぉ……」

「あぁ……そういえばそんなこともあったね……」

 ぐずぐずと花をすすり目元を真っ赤に染め上げるディト。

 酒は呑んでも呑まれるな。とはよく聞く言葉ではあるが、たまには酒に呑まれたい時だってあるものだ。

 ……かげんをしている僕とは違い、そこそこ急ピッチで杯(これは言葉のあやというものだけど)をあおっていたディトの明日の勤務状態が心配だ。

 おいおい泣いた後、結局ディトは寝てしまって。

 二人で悲しさと懐かしさの水に浸りながら、花を添えた。

 

 



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06

「ヤヒロ!」

「いたっ。……あ、エレン」

 僕の背中にタックルをかました相手を振り返ると、以前見たときよりもずっと成長した、しかし一目で本人とわかる昔馴染みに相好を崩した。

 そのすぐ後ろをミカサとアルミンも追ってきて、こうして四人で顔を合わせるのは本当に久しぶりだ。

 挨拶を交わして、ふとあることに気が付く。

「……ミカサ、背伸びた?」

「伸びた。今はエレンと同じ」

「……お前ら今何歳だっけ」

「十五だけど、忘れんなよ」

 あとちょっとでヤヒロに追いつくなー、と僕の背と同じくらいにエレンは手を持ち上げる。

 十五歳でこれだけ伸びていたらぬかされるのも秒読みだろうと、改めて年数の長さを感じた。

 となると、エレンとミカサよりも目線が下がるアルミン。

 彼と目が合うと、苦笑がひとつこぼれた。

「僕はあんまり変わってないかな……」

「これから伸びるよ」

 若干遠い目になったアルミンに自分から話題を振っておいて申し訳なくなる。ごめん。

「三人とも、もうすぐ卒団だね」

 おいしいと評判のパン屋へ向かう道すがらそう切り出す。

 話をきくと、三人とも調査兵団へ行くらしい。

「……アルミンも?」

「うん。正直、向いてないってのはわかってるけど……でも、僕にも壁の外に行くっていう夢があるんだ」

「私は、エレンを守るために」

「またそれかよ!」

 赤いマフラーに顔をうずめ言ったミカサに、エレンがうんざりした様子で返す。

 アルミンが苦笑しているところをみると、エレンの言葉通りいつものことらしい。

 パン屋の扉を引くと、鐘の軽やかな音が響く。

 昼時の時間からはずれているからか、以前きたときよりも人が少ない。

 屋内には香ばしいパンの匂いが充満しており、それだけでお腹が鳴りそうだった。

「……そういえばヤヒロ、今でも料理してる?」

「……微妙な聞き方だな。うーん、班で食事当番の時は勿論するけど、個人ではほとんど。……あ、でもこの前はお菓子作り会みたいなのはしたな」

「……それって女ばっかじゃないのか?」

「いや? 男もいたよ。大半は味見担当とかいって女性陣にぶっ叩かれてたけど……みんなで材料だし合わないとろくに食べられないしなぁ」

 トングをパチパチならして答えるとエレンはなんだそりゃ、と笑った。

 こっちにきてから、すっかり趣味や特技といっても差し支えないぐらいにはしてきた料理。

「……収穫の時期になったら、にんじんケーキ作ろう」

 うん。と一人頷いたつもりなのをミカサが聞いていたらしく、じっと僕と目を合わせたかと思うと、楽しみ。そう言って、わずかに表情を和らげた。

 温かくて、ふんわりとしたパンの味。

 イースト菌だとか酵母菌だとかにはあまり詳しくないけど、理論だけじゃあないよなぁ。おいしいのは。

 

  *

 

 そんな日からまた数ヶ月。エレンたちと久しぶりに休みが被ったので彼らと出かけることになった。

 恥ずかしながらも遠足前日の小学生のように楽しみにしており、相当浮足立っていたのか先輩には突っ込まれた。約束の時間まではまだしばらくあるけれど準備は万端で、はやくに行くのも悪くないと食堂を出かけたところを、知り合いに呼び止められた。

「おい、ヤヒロ、お前何したんだよ」

「は? ……何が?」

 肩を組まれ、ぼそぼそと会話する。

 僕用事があるんだけど、と言いかけたところで、彼の言葉に絶句する。

「エルヴィン団長、知ってるだろ。調査兵団の。その人が、お前のこと探しにきてたって」

「……は、……え、何で?」

「俺が知るわけないだろ? ……あんま変なウワサたつ前に、ホラいって来いよ」

「う、うん……ありがとう」

 背中を押され、その勢いのまま早歩きで外に向かう。

 きょろきょろとせわしなくその団長殿の姿を探すと背後から声がかかった。

「……君が、ヤヒロ・ラシャシティだね?」

「……は、はい」

 慌てて敬礼する。と、片手でそれを制され、今回のことは、ごく個人的なことだから楽にしてくれて構わない。と言われた。

「個人的な用事……ですか」

「ああ。……君は、ルベリオ・ラシャシティの義理の弟で間違いないね?」

「! ……はい、間違いありません」

 そうか。と呟くと、彼は懐を探り、あるものを僕に差し出した。

「……ループタイ……?」

「これは彼の、……ルベリオの、形見だ」

「……!」

「他に回収できた形見はご両親に……わずかではあったが渡した。が、これだけは私がずっと持っていた。本来ならばもっと早くに渡すべきだったのだろうが……すまない」

 彼の手の中にあるものをみて、僕は彼を見上げた。

「……彼とは、交流が深かったんですか?」

「……ああ。彼とは訓練兵時代から馬が合ったのか、よく行動を共にしていてね。成績も変わらなかったから、講義でもよく組んでいたんだ」

「……そして、卒団後も同じ調査兵団に入った」

「あぁ、訓練兵の時から噂されていたが、彼がいるだけで巨人の討伐数は明らかに増える。正に人類の希望だった」

 しかし、彼は亡くなった。

 彼が亡くなったのは調査兵団に入って数年後。当時分隊長だった彼は自身の部下を庇っての出来事だったという。

 最期の最後まで、戦い続けたルベリオさん。

 最期の最後まで、諦めるなと叱咤していたルベリオさん。

 最期の最後まで、仲間を想っていたルベリオさん。

「後は頼んだ」と、仲間を、信じていた。

「……」

 

 もう一度、ループタイに目を落とし、エルヴィン団長へ目を合わせる。

「……それは、あなたが持っていてください」

「……」

「あなたならご存知でしょうが、僕がラシャシティになったのはルベリオさんが家を出て行った後なんです。なので、僕は彼との面識がありません。養父母から聞いていたくらいで……。ですから、それはあなたが持っていてください」

「……、……そうか」

「……それとも、それは重い、ですか」

 僕がそう言うと、彼は少し目を見張ったように視線をループタイからこちらへ移す。

 見つめあっていたのは数秒間。彼は詰めていたらしい息をややゆるめて、口を開いた。

「あぁ、重いよ。……とても、ね」

 噛みしめるように言うと、元は僕に渡そうとしたそれを、存在を確かめるように握りしめる。

 その目が、とても切な気で、僕にはわからない色にも揺れていて。

「……。……あぁ、すまないね、その格好を見るに今日は非番だったのだろう。時間を取らせた」

 けれどその色は瞬きをする間に既に消えていて、話を転換させた。

 ……それは。

 いつだかに遠目で見た「エルヴィン団長」の顔をしていたから。

 きっと、今回を逃せば、少なくとも僕の前では「団長」でない彼を出すことは一度たりとも無くなるんだという確信にも似た予感を覚えたから。

 踵を返し戻ろうとする背中に、自分でもちょっと驚いてしまうような声量で引きとめた。

「まっ……待ってくださいっ!」

 背中は向けられていたけれど、彼との距離は数メートル程もない。

 驚いた様子で振り向け彼に、僕は羞恥心からやや頬を染めた。

「……や、あの、……すみません。……ええと、よかったら今度、一緒に食事でも、どうですか……こ、個人的に」

「……個人的に?」

 僕の言った意味を図りかねているのだろう。それとも驚いたせいなのか、幾分丸みのある視線を受け、僕は控えめに頷く。

「ええ。……ルベリオさんの話を、お聞きしたくて」

「……」

「先ほども言った通り、僕とルベリオさんに直接の面識はありません。養父母から話を聞いていただけで……。なので、彼が家を出てからのことは全くしらないんです。もしよければ、彼がどんな人だったのか知りたいのですが……、あ、でも、やはりお忙しい……です、よね」

 自分の都合でばかり話を進めていたことに気が付き、尻すぼみになりながらようやく口を閉ざす。

 彼はふむ、とあごに手を当てしばらく考えていたようだが、やがて顔を上げほんの少し微笑んだ。

「それはいい、いこうじゃないか」

「え、……いいん、ですか……?」

「……ルベリオが、訓練兵の頃からよく言っていたよ。死んだ仲間を弔うには語り合うのが一番だと。思い切り泣いて、花を送って、また歩き出すんだそうだ」

「花を送れば、同じ数だけ心の中にも花がある。それは、思い出と同じく褪せないもの」

「……! そうか、そうだね、君も、知っていたのだね」

「最後まで聞いたのは一度きりでしたけど、今、全部を思い出しました」

「はは、……聞いたときは、とんだロマンチストだと思ったよ」

 僕も彼に笑い返す。

 養父と養母からルベリオさんが聞いた話が彼へ、同じように、僕にも。

 どこか遠くを見つめて、彼は言った。

「もうルベリオが亡くなってから長いからね……そのときからの同期は、ほぼ全員散ってしまったよ」

 言ってから、彼は思わず、と言った風に手を口元に当てた。彼はなにかまずいことを言ったのだろうか。と思うが僕は咄嗟に気を利かせたフォローというものができず、加えて話の内容が内容なのでどんな顔をすればいいのかわからない。

 控えめに、はは、と笑うと(自分で想像していたよりずっと乾いていた)、彼はなにかに気が付いたようで僕の顔を見て懐かしげに目を細めた。

「……ああ、ルベリオも、ちょうど、そんな風に困った様に笑うのが癖だったよ」

 

 僕がこういった風に笑うのは、エレンによればいわゆるヘタクソな愛想笑いをしているときだけだったが。

 

「……僕とルベリオさんは、似ているんですか?」

「? いいや、全く?」

「へ……」

 養母が僕を何かに通して見ていた---そしてそれは多分ルベリオさんであることを思い出し、少しばかりセンチメンタルな気分になっていた僕は、何故? と視線で聞いてくる彼に拍子抜けする。

「傍目から見て似ていると言えなくもないのは、髪の色くらいかな?」

「……そう、ですか」

 言いがかりレベルだった。

 僕が呆気にとられていると、どこからか鐘の音が鳴り響いてくる。

「へっ、え、もうそんな時間……!?」

「……思ったよりも話し込んでしまったみたいだね……それじゃあ、また」

「あ、はい。お引き止めしてしまいすみませんでした……!」

 頭を下げて彼を見送る。

「……ありがとう」

 風の音のせいで、ともすれば気のせいかとも思えてしまいそうな感謝の言葉。

 どういう意味で、何故言われたのかはわからなかった。

 

 



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07

「おっせーよヤヒロ! 探しただろ?」

「ごめん!」

「まあまあエレン。でも珍しいね、ヤヒロが遅れるなんて」

「何かあったの?」

「……うん、ちょっと来客がね」

「……?」

 茜色の空が建物を染め上げ、影が足を思い切り伸ばす頃、僕らは川の側を歩いていた。

 音も立てずに水中を悠々と泳ぐ姿を尻目に彼らの話に耳を傾ける。

 彼らから同級生のことはよく聞いていた。やれ誰の食い意地が張っているだとか、天使と言われているだとか、馬鹿だとか、リーダーシップがあるだとか、色々。

「泳ぎたい?」

「え?」

 話の途切れ目にアルミンがそう尋ねた。

 顔を覗き込まれ自然と足を止める。

「そういう顔、してたから」

「……どういう顔だよ」

 そう突っ込むも虚しく、アルミンの言葉に同意するようにエレンもミカサも頷いている。

 泳ぎたいのは、まあ……事実だけど、こうもわかりやすいのだろうか、僕という人間は。

「……訓練期間が終われば、お前たちの水中訓練もなくなるんだよな」

「そうだね、一応やってるってレベルで、とりあえず泳げれば問題ないみたいな扱いだし」

 夕日に輝く水面に目を細めら今でも向こうの世界で生きていたら一体何をしていたのだろうか、と今まで間考えなかった、否。考えないようにしていたことに思考を巡らせる。

「……泳ぎたい、なぁ」

 ぼつりともれた言葉は本当に無意識で、思わず、と言った風に口を押さえた。

 するとその呟きをしっかりと耳に入れていた三人は僕の方を振り返り、くすくすと笑い出す。

「……笑うなよ」

 気恥ずかしさからぶっきらぼうな言い方になってしまった。

 風が髪をゆらして抜けていく。まだ笑っている彼らをみて、ひどくなつかしさを覚えた。

「……あのさ」

 苦しさに耐えきれずに言葉を漏らした。

 彼らはまだ笑いが尾を引いているらしいが、僕の話を聞くぐらいの余裕は取り戻したらしく、僕を見つめる。

 

「──…変な話、してもいいかな」

 僕の大切な友人たちに、知っていてほしいと思った。

 

 *

 

  「僕の名前は酒納八尋。日本っていう国の、埼玉県に住んでた普通の中学生だった」

 落ちていた木の枝を拾い、漢字で自分の名前を書く。

 勿論三人は読めないはずだ。

「今はあれから七年経って、二十二歳。もうすぐ二十三。普通なら多分、今年社会人になってる。将来の夢は、小学生の頃はオリンピックとか言ってたけど、中学のときは学生の間は大会にでられればよくって、スポーツ関係の仕事に就きたいと思ってた」

「ヤヒロ……? 何の話……?」

「……エレン、ミカサ、アルミン。……僕は、壁も巨人もない世界から来たんだ」

 三人が、息を飲んだ。

「……ど、どういうこと?」

 アルミンが僕に尋ねる。

 その声は動揺か興奮からか、震えているようだった。

「そのまま。……超大型巨人が来る前、ミカサがエレンと暮らしはじめたばかりの頃、海の話をしたでしょ? 外は壁に囲まれてるし、泳ぐ機会がないのはわかったけど知らないなんて思わなくて」

「……そういや、ヤヒロがきたばっかの頃は、オレに色々聞いてきたよな。今思い出すと知らない方が不自然ってことも」

「うん。一応、記憶が溷濁してるっていう体にはなってたみたいだけど、流石に大人に聞くのがまずいっていうのはわかってたから……」

「ちょ、ちょっとまって! ヤヒロの言ってることが本当だったとして……あ、いや、疑ってる訳じゃないんだ! でも、にわかには信じ難くて……。そ、それで、ヤヒロのいたっていう世界では、巨人はどうなったの? みんな駆逐されたの!?」

「いや、巨人は元からいない。壁もない。……えっと、人同士の戦争が元で壁が築かれたこともあったけどここまで大きなものでもなかったと思うし、どうしてできたのかわからないわけでもない」

「!」

「……そんな、巨人がいない世界なんて……」

「……」

「質問があるならわかる範囲で答えるよ。僕も、話したい」

 そう僕が言うと、早速アルミンから質問が飛んでくる。

 知識としては中学生レベルで止まっているけど、それらに時にあやふやになりながらも大まかには問題なく答えることができた。

 途中から、真偽を確かめようというよりは一人の学者として僕に質問を浴びせていた気もする。

 ひとしきり質問責めが終わった後、ミカサが口を開いた。

 

「……家族は? ……ヤヒロの、家族」

「……両親と一緒に暮らしてた。兄弟はいなくて一人っ子だったけど、ばあちゃんとじいちゃんの家がすぐ近くだったからよく遊んでもらってた」

「会いたくはないの?」

「……そりゃ、会えるなら会いたいよ。でも、そもそもなんでこっちに来たのかわからないし、それにもう七年経ってるあら、今更変えれたとしても色々、おかしくなってるから、無理、だろうし」

 身を乗り出して珍しく興奮していた様子のミカサだったが、僕の口調が途切れていくのにはっとしたように口を噤んだ。

「……ごめんなさい、無神経、だった」

 帰りたくなくて帰らないわけじゃないのに。

 言外にこめられた言葉に僕は口元を緩めて「ううん」と首を振り、気にしないでとうつむいてしまった彼女の頭をぽん、と軽く叩く様に撫でた。

「……父さんが言ってたのは、こういうことだったんだな」

「エレン……?」

「グリシャ先生、何か言っていたの?」

「あんまり詳しくは言ってなかったけど、ヤヒロがきたばっかの頃診察の後に、あの子は何か特別な事情があるんだろう、って……そん時は、記憶ねぇんだからそりゃ何かあったんだろ、って返したけど……」

「……そっか、そうなんだ……」

 たしかにあの時は気が動転していたし、おかしなことは言わないようにしていたとはいえ迂闊なことを言った覚えもある。実際自分でも気付かずにこちらの常識とは違うことも言っていたんだろう。

「ヤヒロはさ、どうして僕たちに、そんな大事なこと話してくれたの?」

「……信じてもらえないとしても、聞いて欲しかったから、知っていて欲しかったから」

 弔いのつもりで、話した。

 自分一人だけの胸の内にとどめておくのは、僕の十五までの人生が、あまりにも可哀想に思えたから。

「お前らと待ち合わせする前にさ、ルベリオさんの……昔の友人に会ったんだ」

「ルベリオさん……って、ヤヒロのお兄さんの?」

「うん。その人と少し話をしてたら、なんかね……ちょっとなつかしくなっちゃって」

 三人に向かって笑ってみせる僕。エレンの眉がきゅ、と寄ったのを見るに、また僕はうまく笑えていないのだろう。

 

 カーン、カーン、と遠くで鐘の音が聞こえる。

 夕日も随分と傾き、壁の向こうに消えかけてしまっている。

 街には段々と灯りがともり、やがては隣に立つ人の影を明るくやわらかに照らす。

「……もう、時間だね」

「あぁ、門限厳しいしな……」

「……元気でね、ヤヒロ」

「お前らもな」

「……」

 ミカサが僕に近寄り、両手で僕の手をすくい上げて、握る。

「ミカサ?」

「……、」

 口を開けたが、言葉はでてこずにはく、と空気だけを押し出した。

「……あたたかい、から」

「?」

「ヤヒロの手は、温かいから、だから、……大丈夫」

「? うん、……ミカサの手も、あたたかいよ」

 おそらく僕を慰めてくれているようだということはわかった。言いながら口角が上がるのを感じた。この笑みは、きっとヘタクソなものではない。

 握られた指の間に僕の指を通して、子供の遊びのようにごつごつとした、けれど女性らしさがちゃんとある手を握る。

「……うん、うん、……大丈夫」

 うなずいて、ゆっくりと手を離す。そのままこちらを伺う三人に手を振って。また再会を約束した。

 宿舎へ戻る途中、家路へと急ぐ人々とすれ違った。

 もう暗い。隣に立つ人だとしても、その表情はうかがい知れないほどだ。

 夜は疲れを持ち越さないように早めに寝て、鶏声が聞こえる頃に起き、数年前とは随分変わったとはいえ、やはりだらけ気味な空気の中で仕事をこなす。

 これが、僕の普通。明後日も、一週間後もかわらない。

 昔の普通では考えられないような満天の星空を見上げ、目を閉じる。僕は呼吸をしている。

 先ほどミカサが触れた感触は、あたたかかった。生きている。だから、大丈夫。ぽっかり空いてしまったと感じていた胸の中の穴は、いつのまにか送ったものと同じだけの花束で、あふれていた。

 僕は、十五歳までの僕を抱えて、これからも生きていく。

 

 エレン達と会ったこの日は、104期生卒団式の、一ヶ月前の出来事だった。

 

 

 END.

 



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