ウマ娘に責任を取らされる成人男性 (もちもち大根)
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サイレンススズカ編


注意: 文字数/独自解釈/PCでの閲覧推奨


 

 暦は2月の上旬。痩せ細った木々が桜の芽吹きを待ち、乾いた寒風が地を這う。今年の寒さは例年よりも強く、その期間も長引くらしい。日中の気温が高い時間帯であっても、外に出るなら厚手の上着を重ねることだってある。屋内であれば幾分か過ごしやすくても、暖房器具のスイッチが切れている朝などは屋内も野外と大差ない。それこそ現在の職場などは毎朝冷凍庫のような寒さで俺を出迎えるのだ。

 

 校舎二階の最奥、たった一人に与えられた狭い一室の職場は隣接した部屋が無い。そのため、常に強い寒気が各方面から壁を伝わり、暖房が止まればすぐさま極寒に様変わりだ。部屋を暖め、温かい飲み物を淹れる、それが仕事前ルーティンとして身に染みついてしまった。これまで年齢の若さで耐えていた寒さも、20代中盤に入ったことで難敵へと姿を変え始めている。半袖でグラウンドを走っている生徒たちを羨ましく感じ、自分の加齢と不健康さに嫌気が差す。

 

 そんな気持ちと仕事の疲れを切り替える為、新たなカフェインを求めて席を立つ。部屋の端のミニキッチンに足を運び、天井につけられた戸棚からインスタントの珈琲缶を取り出す。カフェインの過剰摂取を心配した上司から一日の制限は三杯までと言われている。その制限を超えようとすると、その上司がどこからともなく跳んできて怒られるので、残念ながら今日はこれが最後の一杯だ。お湯が沸くまでの間にデスクワークで固まった背筋を伸ばすと、骨の関節部から不健康が音を鳴らす。成人病と適度な運動の必要性を頭の片隅に追いやりながら先ほどまで珈琲缶と同じものが入っていたカップを水で漱ぎ、再び珈琲粉を分量より少し多めに投入。沸騰したお湯を注ぎ、眼鏡を曇らせながらカップをかき混ぜる。部屋に充満する渋い香りが疲労感を忘れさせてくれる。安物であっても十分なリフレッシュ効果だ。

 

 気温に左右される部屋などと悪態をついたが、それを補う利点はいくつもある。部屋に一人だけというのは仕事に集中できるし、邪魔なものが無いから珈琲の匂いは長時間保たれる。それに、通常ではレース場のみでしか見られない生徒の走る姿が拝める。慣れてしまえば校舎端の立地も楽しめるのだ。転職して二回目の冬を迎え、居心地の悪かった狭い部屋は今や自分の城のような気持ちだ。

 

 それに仕事にも似たような感触を得ている。学内のレース結果の管理、トレーニング施設使用の申請管理、行事の予算・運営、その他もろもろ。最初は業務の種類と多さに慣れず残業が当たり前だった日々。それも見違えるように頻度が減り、時間に余裕が生まれ始めた。天職とはいかずとも自分に合っていると言える。

 

 ただ、どうしてもこの春先は仕事量が多くなり、少々タイトスケジュールに追われている。日常の業務に加えて、来年度の新入生のために教科書や制服等の発注、寮の部屋管理、入学式の計画書のチェックなど。これまた種類は多く、量もそれなり、そして期限が短いものばかり。学園職員としては嬉しい悲鳴を体現しているだろう。……しかし、嬉しい悲鳴と呼ぶ仕事があるのなら、悲しい悲鳴と呼ぶ仕事もあるのが現実の難点だ。

 

 辛い気持ちを珈琲で流し込み、デスク上の棚から一つのファイルを手にする。その中には針具で留められた紙が一束。表紙の右上には今日の日付が書類の最終更新日として印字され、その下には重々しいフォントで取り扱い厳重注意との赤文字がある。

 

『退学者一覧』

 

 それがこの書類の名称。内容は今年度末で退学をする生徒情報をまとめたものだ。

 

 

 *

 

 

 日本ウマ娘トレーニングセンター学園・理事長秘書補佐。それが現在の職場と役職だ。

 

 ウマ娘、それはヒトに類似した見た目でありながら、ヒトより遥かに秀でた身体能力を持つ者たち。外見的な特徴は、頭部の大きな耳と腰に長い尻尾を持つこと。身体の形成期において凄まじい成長があり、それを補うために数人分の食事量を一人で平らげることもある。そして文字通りに、何故か生物学的にメスしかその特異性を持って生まれることが出来ず、オスでの例は観測されていない。そんな彼女たちの一番の特徴は時速60キロを超える速度で走ることが可能であること。そして、走ることでは何者にも負けたくないという、強烈な闘争本能を全員が等しく宿している。これにより、ウマ娘は走るための種族と呼ばれ、彼女たちのレースは全国人気を博したスポーツエンタメになった。

 

 この学園はそんなウマ娘たちの養成機関だ。生徒数は約二千人、この手の養成機関では国内最大規模である。グラウンドやトレーニング施設、寮制と無料のカフェテリアなど、レースで勝つための全てが揃っている。加えて、文武両道を掲げているため質の高い授業が行われており、学園としての偏差値は高い。ウマ娘にとってこれ以上は無い最高の環境だ。毎年全国から数多くの猛者が集まり、レースでの勝利を目指してしのぎを削っている。実際、全ウマ娘の憧れのレースである『トゥインクル・シリーズ』での学園別勝利数は、二位と桁違いの差をつけて我が校が一位だ。

 

 そして学園が強くなり、生徒が増えるほど挫折するウマ娘も増えるのが裏側にある事実だ。一年間で開かれる公式レースは、学園の二千人全員が勝者に成り得る数ではない。数少ないレースの中で一着になる持つ者は勝ち続け、負けるものは負け続ける世界。走るという単純な競技はウマ娘の持つ速さを鮮明に洗い出す。片方で足りていた才能と努力が同時に要求され、少しでも欠ければ簡単に淘汰される世界だ。

 

 そしてこの学園から去る理由は主に二つ。

 

 まずは怪我。彼女たちはヒトに等しい骨格で時速60キロを出す。それだけ体の負荷は大きい。壊れるときは一瞬で壊れるのだ。レース中に、練習中に、勝利後のライブ中に、いきなり壊れる。神様はそれまで楽しそうに走っていた彼女たちから一瞬でそれを奪っていく。そして、それまでの走りの代償と言わんばかりに重度の怪我を残す。たとえ、運良く怪我が治っても以前のような走りが出来ず、競技人生に終止符を打つウマ娘は珍しくない。

 

 二つ目は気持ちが負けること。全国から優秀だ、天才だと言われて集まったウマ娘たちが軒並み勝てないのが全国規模のレースの実態。本物の天才を相手にすると、自分の限界を否応なしに知らされる。勝てていたレースで勝てなくなり焦りが募る。そして焦りは不安に変わり、最後には絶望と嫌悪に変わる。走ることが大好きで入った学園が少しずつその走りを嫌いにさせる。ある者は削れるように、ある者は突然折れて心が終わる。退学者が多い学年では、卒業生が入学時の10%となっている記録すら残る程だ。

 

 これを象徴する話がある。以前、ある新入生のウマ娘がいたのだ。差しが強い優秀なウマ娘だ。地方レースでは二位と大きく差をつけて勝利する。何度もそんなレースをする子だ。きっと多くの人に期待されていたに違いない。しかし、そんな子だからだろうか、それが仇になった。入学した翌日に前年度の年間無敗の天才に挑んだのだ。ここまで前置きをすれば、この後の展開は誰でも分かる。その天才とのレースを終え、新入生はその週には地元へ帰って行った。学生証を返却しに来た時に、顔写真の希望に満ちた目とは真逆の顔だったのでよく覚えている。

 

 そして、そんな退学者が一気に増えるのが1~3月中旬。最もレベルの高いレースが軒並み終了し、自分の人生を見直すには丁度良い期間だ。走るのを諦めた生徒は別の生き方を探しだす。周りの生徒の説得も、自然と次のステージを選んだ者への応援に変わる。職員室には退学者が現れ、何度も書き直した書類と共に退学を願うのだ。このような経緯で、毎朝更新された退学者リストが俺の手元に届いている。

 

 この退学者についての作業は簡単だ。まずは更新されたリストに不備が無いかを確かめるだけ。機械的に作業を進められれば楽なのだが、退学理由も確かめなければならないのだから、共感とはいかずとも情は出る。

 

 そして、確認を終えればもう一つの作業に掛かる。教師でも、トレーナーでもない、学園秘書補佐の仕事の本命はこの書類の後半、別のリストを管理することにある。走ることが生きることであるウマ娘にとっては、この後半部分の作業は死刑宣告に近い。

 

 この書類の前半ページが退学の確定した生徒のリスト。真っ白な紙切れを一枚挟んで後半部分のリストの名前が現れる。

 

『退学勧告者一覧』

 

 書類後半リストの多くは、担当トレーナーから勝つ見込みが無いと判断されたウマ娘への退学勧告。走ることが生きることであるウマ娘にとって一番危険なのは、走ることが嫌いになることだ。それはレースで勝ちたいというウマ娘の持つ闘争心より守るべき優先度が高い。そのため、心が折れる前にレースから遠ざけることが重要視されている。他にも、怪我をしてもう走れないのに居座ってしまう者、心が壊れているのにそれを自身で理解していない者、こちらから退学を促さなければならないウマ娘が一定数在籍する。そんなウマ娘たちがここに並ぶのだ。

 

 この仕事も難しいことはない。リストを確認して、実際にその生徒の走りや生活を俺が直接確認する。そうして事実と勧告理由に齟齬が無ければ、形式に沿って勧告理由をまとめたプリントを一枚作る。そうしたら、この狭い部屋にウマ娘を呼び出して待つ。学園でこの部屋に呼び出される理由はこれだけ、それを知らない生徒などいない。彼女たちは今にも泣きそうな顔で、時には泣きながら俺の前に現れる。最後は、そんなレースで勝つためにこの学園に入学した生徒へ、紙切れ一枚渡して無慈悲に夢を奪うことで業務が完了。

 

 この学園ではチームに所属していないのであれば公式レースには出走できない。正式に、つまり俺から退学勧告された生徒はチームから契約を破棄される。すると再びトレーナー探しをしなければならない。トレーナーを探すだけなら簡単に見えるが、しかし、どんなに過去の功績があろうとも勧告されてしまえば最後だ。怪我、実績、どのような理由であっても、走りで勝てる見込みが無いとレッテルを貼られた生徒に救いの手を差し伸べるチームは余りにも少ない。さらには勧告を受けたチームへの復帰は禁止。情けも許されていない。つまり勧告とは名ばかり、学園からの強制排除宣告に等しい。

 

 結果、生徒は俺のことを死神だの殺し屋などと呼んでいるとか。……とりあえず廊下で会う生徒に怖がられることがあるので間違いないだろう。今となっては俺に積極的に喋りかける生徒など生徒会長と追い込み走法が得意な問題児などの極少数の生徒のみだ。奴らはここを喫茶店か何かと勘違いしている節がある。まあ、兎にも角にも数ある中の業務でも作業自体は楽な部類だが、最も精神がすり減る業務で生徒の評判は悪い。少なくとも、走ることが好きな上司にさせる訳にはいかない仕事だ。

 

「今日の更新は少ないといいが……」

 

 本日許された珈琲の最後の一口を胃に落とし、己の仕事と向き合う覚悟を決める。まずは書類を最後のページまで捲り、リストの一番下の枠内を見る。枠には+14と書かれているため、勧告の人数は前回更新よりも14人増えていることになる。週明けの今日は増加が強い。

 

 何処からか込み上げる気持ちを抑え、次は生徒のチェックに入る。更新が新しければリストの下に追加されるため、逆順に追えば新規の勧告者がすぐに確認できる。一人目は怪我での復帰不可と判断、二人目はストレス障害の診断、3~6人目はレースでの勝利の可能性見込めず……と、見慣れた内容が並びそろっていた。さて、どの生徒から状態の確認をしていこうか。明日もリストの人数は増える。更新の多い今日は効率よく見ていかなければならない。

 

 頭を悩ませながらリストを確認していると、ある生徒の写真で手が止まった。そこに載る顔が、この職場の窓から眺めていたウマ娘と同じだったからだ。広い学園の二千人、その中でも注目していた生徒の一人。走りに将来性を感じ、成長を楽しみにしていた。

 

 強く印象に残るウマ娘だ。平日は授業が終われば誰よりも早くにグラウンドに出ていて、夜は寮の門限ギリギリまで走ってから帰っていく。休日であっても朝から走っていて、平日同様に夜遅くまでグラウンドにいた。休日出勤した俺も真っ青なハードワークだ。最初に目にした時は重要な大会が迫り、焦って練習をしているのかと思っていた。しかし、数か月と彼女を見ているとそれが普通の練習量であり、その量を平然と走っていることに気が付いた。数少ない表情を変えるタイミングは、満足気な顔で目を瞑って風を感じている時だけだ。

 

 ウマ娘の名は、サイレンススズカ。

 

 綺麗で真っすぐなフォーム、風を切る栗色のロングヘアーが緑の芝に映えていた。体格はスレンダーで折れそうなのに、模擬レースをすれば先頭を奪われることは少ない。まさにウマ娘の神秘と言われる所以、ヒト型が風になる姿を体現していた。ウマ娘きっての走るのが好きな生徒、それが彼女に抱いた印象であった。

 

 ──ただ、勧告者リストに載る理由も予想が付く。

 

 最初は綺麗で真っすぐなフォームであった彼女も、どこかのチームに加入し、学内の模擬レースを重ねる度にその姿を失っていた。最初こそ一着だったものの、それからは不振で着順を落としている。こちらに届くレース報告書でも数字が語っている。それに連れ、この部屋から眺める練習中の彼女の表情も日に日に影を増す。悩んだように走って、俯いたまま休憩を取る。遠くの俺でも分かるくらいにはスランプに陥っていた。

 

 救いがあるのならば、その不調の原因は治せることだろう。彼女のチームトレーナーよりも長く彼女の走りを観察していたからだろうか、スランプの原因と改善策を思いつくのに時間はかからなかった。だから、彼女のトレーナーもすぐに策を思いつくだろうと考えていたのだが、どうやら予想は外れたらしい。それに、最近は忙しくて彼女の走りを見られなかったのもあって、既に回復していると勝手に決めつけていた所もある。

 

 ただ、俺はトレーナーではない。どんなに不調の原因が分かっていても、チームの部外者が口出しをすることは学園規則に違反することになる。つまり、サイレンススズカを救える立場にあるのは担当トレーナーのみだ。基本は部外者が関われば即刻通報、そして罰則までがセットだ。ごく稀に担当トレーナーでない者がアドバイスをして、その手腕からチームを移籍することはある。だがそれは例外中の例外。さらに俺などはトレーナーでもない職員だ。もし関われば罰則は更に重くなる。

 

 減給も嫌だし、職を失いたくもない。規則を破ってまで彼女にアドバイスする義理は無いのだ。そう、俺はただあの時の彼女の走りが好きなだけ。今までと同じく退学勧告書を作成し、同情を捨てて勧告を行う。それで給料を貰って平和に過ごす。彼女を忘れて次のウマ娘の育成のため学園の補佐に専念するのが正解だ。それが俺に許された唯一にして最善の手だ。残念だがしかたない──

 

 

 

 *

 

 

 

「──ということで、栗毛の生徒が夜遅くまで練習していますので、早めに帰るように注意してくれませんか?」

 

「分かった。私から言っておくよ」

 

 現在、俺がいるのは学園の生徒会室。夕陽が落ちる寸前、特注の窓から橙色の光が差し込み、壁に飾られた校訓の額縁がその色を反射する。窓の前にはその大きさに見合う立派な木製の机が設置され、明るい雰囲気の教室とは真逆の重々しい雰囲気を醸している。これなら職員室の方が入りやすいとも思えるだろう。

 

 そして、その学園としての強さを誇示する豪華な部屋の使用者こそが、この学園の生徒会長である。生徒の名はシンボリルドルフ。猛者が集う学園の代表に相応しく、無敗での三冠達成を始めに、最高峰のレースで計七冠を達成、運営委員会から優秀者へと送られる年間タイトルを数多く受賞した。気が付けば『皇帝』の異名は一般化し、その存在は生徒を超えた地位まで昇っている。生徒としては憧れであり、ウマ娘としては畏怖の存在。現在はレースからは退き、この部屋でウマ娘のために学園運営へと力を注いでいる。

 

 ここに訪れる理由も学園運営を行うためだ。まずは、会長に本日更新された13人分(・・・・)の退学勧告が確定し、後日勧告を実行することを記した書類を渡す。珍しく眼鏡をかけている彼女は少し寂しそうに机の上でそれを確認する。彼女が書類に目を通すと、今度は彼女からの伝達事項を書類として受け取り、それに沿って生徒の様子について意見を交わす。勿論、俺のような成人男性職員よりも忙しい彼女と毎度こんなことは出来ないが、彼女曰く、余裕があるときは少しでも情報を共有するのが長としての役目らしい。──なので今回はその立派な意思に付け込んでみる。

 

「あと、その生徒ですが、走法適性が『逃げ』のはずなのに、何故だか『先行』の練習をしているんです。不思議ですよね」

 

 などと、わざとらしく、含みを持たせて疑問を投げる。そう、ただの疑問だ。サイレンススズカに俺が直接何か吹き込んだとかではない。なので、ここでこれを言ったところで学園規則に引っかかることもない、……多分。加えて、この生徒会長はウマ娘に関してはとことんお節介焼きである。今の言葉と実際のサイレンススズカの様子を見れば、不調をどうにかしようと働くのは確定的。そして、当たり前だが生徒会長は学生だ。学生が学生の手助けをすることが違反などの規則は無い。事実、俺の言葉に喰いついた会長は既に何やら考えている様子だ。ならば彼女の思考の邪魔にならないように部屋を退出し、通常業務に戻るだけ。足音が鳴らないように注意して、部屋の影を歩いて扉へと向かう。

 

「──待ってくれ、トレーナー君」

 

 部屋を後にしようと会長に背を向け、ドアノブを傾けると同時に呼び止められる。目線を辿ることは出来ないが、あの強い目力で俺の背中を捉えているのだろう。まあ、俺はトレーナー君とやらではないので立ち止まる必要は無い。だが、彼女がそれで呼び止めるときは、彼女が切羽詰まって助けが必要な時、もしくは俺にとって面倒な頼み事をする時だ。前者であれば職員として聞かねばならない。

 

「来月の頭にトレーナー資格復帰試験がある。私は、また君と──」

 

 残念ながら後者のようなので、言葉を全て聞くことなく部屋を後にする。相も変わらず飽きないものだ。どんなアプローチだとしても俺が断ることを知っているだろうに。ウマ娘が走ることを嫌いにならないようにレースから身を引かせるのであるなら、俺は俺がウマ娘を嫌いにならないようにトレーナーから身を引くのだ。傷つくのも、傷つけるのも散々だ。元教え子の願いであっても、それを受け入れることは出来ない……。

 

 

 

 *

 

 

 

 あれから数日が経過した。平穏なストレス胸焼け生活に変化はない。毎日更新する退学勧告者リストを見極め、勧告者リストから退学者リストへと生徒を移動させている。現状、今年もこの書類に名前を載せ、その後起死回生した者はいない。

 

 数年に一度だけ、この終盤時期の学内模擬レースで蘇るウマ娘がいる。背水の陣で挑み、大差をつけて一着を勝ち取る。最後の最後に結果を残し、自分がまだ走れることを証明するのだ。すると、担当トレーナーが勧告を取り消すことや、新たな担当トレーナーが就くことで退学から免れることもある。

 

 しかし、早くも今年度の学内主催の短距離模擬レースは終了。復活と言える活躍をしたスプリンターは生まれなかった。それこそ、来週には最後の中距離模擬レースが行われる。現状打破を図るウマ娘が最も多く出走するレースになるはずだ。ただ、現状のリストでそれが叶う生徒は……。

 

 ……サイレンススズカは未だリストに残ったままだ。勧告処理された生徒の中、一人だけ未処理の生徒として浮くように名前を連ねている。ただこうやって引き延ばすのも限界がある。もしこのまま手続きを遅らせても、再来週にはリストに並び直すだろう。今度は彼女の得意な中距離の模擬レース結果を勧告理由に付け加え、担当トレーナーから勧告要請の催促付きでだ。そうしたら俺がどんなに才能があると主張しても、実績の悪さで勧告処理をするしかない。どんなに低い可能性でも、会長が助言し、彼女が今度の模擬レースで復活することを願うばかりだ。

 

 

 

 ──などと、頭を整理していたのが今朝。心配事を頭の片隅に置き、午前中は忙しさに時間を忘れてパソコンを睨みつけていた。昼休みは生徒を幾人か呼び出して勧告書を渡し、脳にこびりつく生徒の泣き顔にメンタルを削られながら昼食を取る。午後はカフェインに浸りながら再びパソコンを睨んで仕事をしていた。マグカップが空になるのと同時に、午後一つ目の授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り、廊下では生徒の出入りする声が響き始める。授業プログラムで差があるが、この時間帯から一気に生徒がグラウンドに流れ込む。……ならば少し休憩がてらに珈琲を飲みながら栗毛の彼女を探すのも一興。走りはどのようになっているのだろうと、グラウンドに窓から目線を配ろうとした。

 

 そのタイミングで俺の目線を遮るように、誰かが部屋の扉をノックした。さっきまで遠くから聞こえていた生徒の声や足音が嘘のように耳から離れ、やけにクリアに聞こえたノック音の余韻が部屋を支配する。突然の来客、急いで関係者のスケジュールを脳内で確認する。しかし、学園長と上司は学外の仕事中、生徒会長もそれに同行している。腹減りサイエンティストはノック無し、問題児は窓から入って来る。俺と関係が深いウマ娘の線は消えた。──ならばダレだと心がざわつく。この職に就く際に、勧告の恨みを買う可能性はあると上司に注意を受けていた。夢を奪われた生徒が半ば逆恨みで責任者を襲うことがあると。これまで私は大丈夫だったが、ヒトである貴方では勝てないことを忘れるなと。

 

 騒ぐ心臓を抑えて扉へ体を向ける。引き戸のガラス越しには寒色の制服が透けており、来客者が生徒であるのが分かった。最悪なケースが頭を過る。扉へ向かう足に重みが加わり、ドアノブに掛ける指の圧力で汗が滲んだ。板の向こうにいる生徒にバレないように、静かに空気を肺へと運び呼吸を整え、勢いをつけて指を横に移動させる。磨りガラスのぼやけた輪郭が鮮明な形を持ち、来客者が明らかになった。

 

 来客の生徒は二度目のノックのために手を伸ばしており、俺が勢いよく現れたことで目を丸くして驚いている。芝を映したような翠の瞳に、折れてしまいそうな細身の体付き。栗色の髪が腰まで真っすぐに伸びている。どこからどう見ても件の生徒だ。──ただ、以前よりも肌の血色が悪く、疲れが現れている。体調面への心配があるだろう。

 

「……──っと、ご用件は?」

 

 最悪の展開を免れたこと、そして意外な生徒の登場で呆けてしまっていた。不審に思われる前に頭のスイッチを入れ直す。準備せずに声をひねり出したからか、枯れた声が出たことに恥ずかしさを感じる。彼女はノックの為に上げた手を胸元に当て、その手を握り直すと、一歩前に出て俺との距離を詰める。そして綺麗な瞳を向けて真っすぐに言葉を放った。

 

「私のトレーナーになってください」

 

 ──さて、長くなりそうだが、来客用カップと珈琲シュガーの余りは有っただろうか。

 

 

 *

 

 

 サイレンススズカを部屋に入れる。端に片づけられたパイプ椅子をデスク前まで引っ張らせ、そこに座らせて待たせる。俺はその間にこれから起こることへの断り方を考えながら、時間をかけて二人分の珈琲を淹れる。遠慮する彼女に砂糖箱ごとカップを押し付け、デスクを挟んで向き合うような形を取って俺も着席。初対面の気まずさをカップの音で誤魔化しながら次の言葉を選ぶ。まずは何を問うべきだろうと。ここでの選択肢を間違えると彼女の競技人生がバッドエンドになりかねない。しかし、俺の人生もバッドエンドになりかねない。様子を伺うように彼女の顔色を覗くと、ゆっくりと口を開いてここに来た理由を話し始めた。

 

 その一。今週初めの夜練習に会長が訪れ、門限について注意を受けた。加えて、『逃げ』の走法の提案を受けた。

 その二。次の日にチーム練習で早速『逃げ』走法を実行。自分では最近になく速く走れた。しかし、担当トレーナーからは『先行』に戻すことを強要される。

 その三。さらに次の日、トレーナーの言葉を無視して練習を続行。その結果、命令無視と今までの成績を含めて契約破棄が告げられた。

 その四。どうしようかと困っていた所に会長が登場。アドバイスは俺の案だと言い、ついでに部屋まで教えてくれた、──ためにここに来たと。

 

 状況は予想外な方向に向かっていた。少なくとも好転と言えるものではない。なにせ来週の模擬レースまでは残り10日のみ。そのタイミングでトレーナーを失い、自分の走りは取り戻せていない。それにここでチームから抜けてしまうのは自殺行為と同義だ。チームという後ろ盾がない以上、実力がなければ退学真っ逆さまだ。ギリギリ助かっているのは模擬レースの出走条件だけだ。学内模擬ならば公式とは違ってチームへの所属が条件ではない。

 

 ホント、どこから突っ込めばいいのだろう。まずは会長がアドバイスしてくれたことには感謝を。しかし、俺のことを喋るとは予想していなかったし、一本取られたことに少しばかり青筋が立つ。口止めしなかったと返されたら何も言えないが、今度幼名で呼ぶことで不満は晴らす。それにこの娘もどうかしている。『逃げ』に光を見出したのなら、普通はそれが得意な指導者の下に駆け込むべきだ。何故わざわざ俺のような生徒の嫌われ者に頼るのか。

 

 あと一番問題なのが彼女の元トレーナーだ。この話が事実なら、元トレーナーは選手規定を無視して一方的にチーム契約を破棄した可能性がある。ウマ娘のために最後まで可能性を探って向き合うのがトレーナーの仕事だ。この頃増えつつあるブラックトレーナーなのだろうか。場合によってはトレーナー資格ごと絞り上げることも有り得る。あとで査定を見直し、勤務が正しいかを調査しなければ。

 

「悪いが無理だ。俺はトレーナー資格なぞ持ってない。それに誰かに教える程暇でもないんだ。生徒会長に良いトレーナーを探してもらってくれ」

 

 目を合わせないようにして、手であしらって退室を促す。シンプルな言葉で懐に潜り込ませる隙間は与えない。トレーナー業だけには何があっても戻る気はないのだ。それに、たった今トレーナーの素行と、チームに問題が無いかを確認する仕事も増えた。暇が無いのは事実だ。まして、この学園に彼女のためになるトレーナーがいないはずがない。今ならまだ手を差し伸べる優しいトレーナーもいるだろう。

 

「……私、このままじゃ退学ですよね」

 

 それは流石に察しているのか、それとも会長が余計なことまで吹き込んだのか。サイレンススズカは椅子に座ったまま、すっかり目線をパソコンに逃がした俺に向かって説得を続ける。それに対して俺は無言の抵抗を貫く。どうやらどちらか片方の気持ちが折れるまでは長期戦になりそうだ。ただ、こちらは一人の職場で何人もの生徒に勧告を出してきた身だ。この程度のことで折れるとは思わないで欲しい。

 

「──走ることが好きだったんです」

 

 無視。

 

「それなのに今は調子が悪くて。足に重りがついたみたいに走れなくなって」

 

 無視。

 

「あんなに好きだったのに、今は走ることが辛くて」

 

 無視。

 

「でも、『逃げ』の走りをして、もう一度先頭に立てるかもしれないと思ったんです」

 

 無視。

 

「それなのにチームも、トレーナーもいなくて」

 

 無視。

 

「時間も、あと10日しか」

 

 ………無視。

 

「──責任、取ってくれないんですか?」

 

 

 

 *

 

 

 

「まずはストレッチとアップ。それが終わったら2000Mを『逃げ』で一本。レース意識の走りな」

 

「はい、分かりました」

 

 今日もコースの芝状態は良好だ。俺はロングコートを羽織り、ストップウォッチとタブレットを持って計測の準備をする。サイレンススズカはジャージに着替え、指示に従って体を伸ばしている。俺が練習場に出ているせいで生徒たちの不安な視線が刺さるが、サイレンススズカはそれを気にも留めていない。俺を突然訪ねる度胸があるのだ、外部からのストレス耐性は強そうに思える。……だから根負けしたのが俺だったのだろう。

 

 結局彼女の説得に対して珈琲が冷める前には降参していた。取り敢えず、現在のところサイレンススズカには担当トレーナーがいない。だから俺が口出ししても規則には触れないはず。せいぜい怒られるくらいだろう、数日くらいなら大丈夫だろうと自己暗示をしてやっていくしかない。久しぶりの芝を踏むだけで昔の記憶が思い返されて吐きそうだが、決めた以上は最後まで手を貸すのが責任の取り方だ。

 

「準備出来ました。いつでも走れます」

 

 サイレンススズカの報告に頷いて返事をする。時間が惜しいため早速練習を開始。彼女の現状の走りを確認する。今日はコースにゲートが設置されていないのでスタートの状態の把握は難しいが、一歩目の踏み出しには問題さそうだ。ゲート難や出遅れについては深く考える必要が無いとして良いだろう。それに速度も一本目にしては上々、ムラは有るが中盤までは勧告リストに載るとは思えない速度を維持している。

 

 しかし、良い走りなのは中盤まで、後半に入るとブレーキを踏んだような失速が始まった。それからはスピードが上がる気配すらない。ほぼ同時に走り出した生徒に抜かされて、一気に引き離される。最後の直線でも彼女の末脚は発揮されず。上がり数ハロンの話をする以前の問題になっている。タイムは──、彼女のメンタルを考慮すれば教えられない。

 

「どうでしたか、私の走り。何か見つかりましたか」

 

 2000Mを走り終えた彼女が傍に駆け寄る。息を整えるのも最低限に、焦りを含んだ表情で助言を求めてくる。今の走りで言えるのは、やはり強制されていた『先行』でのレースが弊害になっていることだろう。『先行』で走るならば常に位置取り争いがあり、加えて抜け出しでは更に激しい削り合いが待っている。しかし、サイレンススズカは細身のウマ娘であり、さらにはそれまで『逃げ』で戦っていた。激しいぶつかり合いをしていたせいで重心にブレが出てしまっている。そこに骨格に合わない走り方が加わることで終盤まで体力を残せていない。ガス欠どころか、2000Mを走りきっていたことが異常だ。最後は根性で補っても難しかっただろう。

 

「まずは余計な力を抜いて、真っすぐな線を引くイメージで直線を走ってみよう」

 

 分かりましたと彼女は返事をしてコースの端へと小走りで向かう。放っておいたことで症状が悪化しているため、模擬レースまでに彼女の走りが元の状態に戻るとは断言できない。不安で染められたなかに僅かな復活の可能性を望む、それがサイレンススズカと俺の10日間の幕開けであった。

 

 

 

 *

 

 

 

 朝はどのチームよりも早い時間からコースで練習を開始した。元々朝から晩まで走っているウマ娘なだけあって、久しぶりの『逃げ』でも疲れを感じさせる走りはしていない。それこそ朝練が始まる僅かな時間だけは、眠さを引きずって瞼がしぱしぱと瞬きをする。残された日数が少ないとはいえ、集中力が切れて怪我をすることが最も避けねばならぬこと。練習中に彼女の集中力が切れるとは思えないが、一応練習量を減らすかを尋ねる。

 

「……えっと、それだと走る量も減っちゃいますよ?」

 

「──うん、そうだね。」

 

 以前この目で見ていた走りが言葉になったような返答だ。オーバーワークまでの限界許容量が多い彼女だから許されるのだろう。授業で寝落ちしたなどの問題はない。学生とアスリートの両立をしている。

 

 もし、生活面で問題を上げるなら食が細いことだろうか。数十キロの速度で走り続けるウマ娘はカロリー消費も破格だ。それなのにサイレンススズカというウマ娘は延々と走り続ける。リストアップさせた食事量ではエネルギーを補充出来ていたとは思えない。それこそ補給食だけを流し込んでやっとだろう。……現在の細すぎる体はカロリー不足、そしてそこを補うことをしなかった元トレーナーに問題がある。だが今の指導者は俺だ。食事だって指示を出すし、秘書補佐ともなればバランスの取れた献立の作成と調理も可能だ。

 

「よし、朝練はここまでだな。風邪ひかないように汗はしっかり拭くこと」

 

 始業時間を忘れて走る彼女を止める。ここから放課後までは学生と職員の関係に戻り、互いに仕事に掛かる。彼女は授業をこなして、細かい時間で『逃げ』のレース動画や教材で少しでも感覚を呼び戻す。そして俺は予測されるレース展開から、練習とレースプランを練り返すことだ。それに加えて、先の問題解決の用意をする。

 

「なあ、魚と肉ならどっちが好きだ?」

 

 謎の質問に首を傾げるサイレンススズカ。仕事は忙しいが、この顔の肉付きが良くなるように腕を振るってやろう……。

 

 

 *

 

 

 太陽が沈みグラウンドに残った僅かな生徒たちが寮へと帰っていく。今までのサイレンススズカであればその波に乗って練習から引き上げる、もしくは時間を忘れて練習を続けているのだろうが今日は違う。既に練習を終えてジャージ姿でアイシングをしている。

 

 カフェテリアは彼女と俺の貸し切り状態だ。夜の時間帯でも使用時間いっぱいまで勉強やお喋りをする場になっているが、今日は俺を怖がって寮の食堂に逃げてしまった。まあ、退学仕事をしている人間が、自分たちの憩いの場で調理器具を扱っているのは気持ちが悪いのだろう。昼間に冷ややかな目を浴びながら下処理をした自分を褒めたい。

 

「野菜から食っていけ」

 

 丸机にサラダが盛られた平皿を置く。彼女は氷嚢を空いている席に片付けると、丁寧に手を合わせて食事の挨拶をする。カトラリーボックスからフォークを取り出し、緑色のサラダソースを観察しながら恐る恐ると口に運ぶ。それを丁寧に咀嚼して飲み込むと、すぐさま二口目に手を伸ばす。すりおろし人参とアボカドをソースにした簡単なサラダだが気に入ったのなら有り難い。

 

 アスリート食は久しぶりに作るが、存外体が覚えているものだ。彼女が一皿を食べきるのと同時に次の料理を完成させ提供が出来ている。それに、学園の食材は一級品が揃っていて料理のやり甲斐があっていい。さっきのサラダに使ったレタスは収穫してから直接納品されたもの、今和えている魚も釣れてから24時間以内のものだけ。学生がこれを無料で食べていることが羨ましい。

 

「……ソースついてるぞ」

 

 デザートまで乗せたトレーを運び、練習に近い集中力で食事を進めるサイレンススズカの口元に注意を促す。彼女は俊敏な動きでティッシュを取り出して汚れを拭う。

 

「その、えっと、おいしいですよ……」

 

 後半はもう殆ど聞こえなかったが、恥ずかし紛れの真っ赤な顔は珍しいものが見れたようで面白い。……ただ、これでもう今回の食事の説明が難しくなった。数万キロカロリー、ヒトの10倍とは口が裂けても言えない。この楽しそうな顔を崩すのは忍びない。女子のデリケートな話題に触れて、食欲が落ちられても困る。しかし、何を中心にメニュー選びをするかを知ってもらわないと今後の食生活と身体の成長に関わる。

 

 ベストな説明はどれかと悩みながら口を動かす。その間にも彼女は綺麗に料理を平らげていく。そうして人参入り杏仁豆腐が盛られていた器を寂しそうに眺め、上目遣いで小さく願いを漏らす。

 

「あの……、おかわりってありますか」

 

 ……レースまでの数日、好きなのいっぱい作ってやるからな。

 

 

 *

 

 

 そこからの数日は寝る時間を削ってサポートに徹した。5時に起床し、その日のトレーニングの準備をする。6時から8時まで朝練の指導、午前中は片手でパソコンを操作して基本業務に従事し、もう一つの手は包丁を握ってアスリート食の下処理を行う。昼間に休憩を挟むのが唯一肩の荷が下りる時間だ。午後は退学・勧告者の手続きを進め、放課後は19時までトレーニング指導を行い、彼女と夕食を取りつつレースについて授業して帰宅。家では『逃げ』のレースプランを中心に今後の計画を見直し、日中消化出来なかった仕事を片付けていく。日を跨いでいるのに気が付いて、気絶するように眠って仕事が完了。

 

 疲労の隠蔽には自信があったのだが、どうやら顔に出ているらしい。上司には業務報告の度に仕事を減らすことを提案され、生徒会長には体調を心配される。ただ、自分が勝手に増やした仕事だ。今までの仕事量は関係ない。

 

 だが、疲れ以上に日常への満足が増えてしまっている。ウマ娘が走る姿を間近で見るのは面白いし、その彼女を更に速くする練習プランを考えるのは時間を忘れさせる。体力がすり減っているのにメンタルは普段と変わりない。──嫌な思い出を振るい千切ることだけが悩みだ。それに疲れているのは俺だけじゃない。むしろメンタルを含めれば、壊れそうなのはサイレンススズカの方だ。

 

 本来の走りのために毎日新しいトレーニングに挑戦している。慣れないことに体力の減りだって膨大だろう、一部の大食漢には遠く及ばずとも食事の量は増加傾向にある。加えて、どんなに練習をしたところで、残り日数から計算すれば『逃げ』の走りを取り戻せる確率に不安がある。模擬レースの日が迫って来るストレスと合わせると、並みの学生なら心が折れていても不思議はない。本人に不安要素になる情報は与えていないが、それでも細心の注意は払わなければならない。

 

 午後練習を始める前に顔を叩いて活を入れ直す。表情に疲れが出ていては彼女に余計な気を遣わせてしまう。顔色を少しでも隠すためにマフラーを巻き、仕事場からトレーニングコースへと移動する。タブレットで練習メニューを確認しつつ廊下を歩いていると、教室から出て来るサイレンススズカを目にする。声を掛けようかと迷うが、その考えは他の生徒たちが彼女を呼び止めることで遮られる。声を掛けた二名の生徒と仲がいいわけでは無いのだろう、余所余所しく彼女の名前を呼んでいた。良くないことだと分かっているが、気配を消して近づき会話に聞き耳を立てる。彼女の学生生活からも走りに生かせるヒントがあるかもしない……。

 

「その……サイレンススズカさん、最近あの職員と練習してるよね」

 

「あんなのと一緒にいると危ないわよ。それなら私のチームに入ればいいじゃない」

 

 心配そうな面持ちの生徒が切り出した話題は俺たちの関係についてだ。気味の悪い存在が、サイレンススズカに指導をするためグラウンドに現れる頻度が突然増えている。経緯を知らない者からしたら、その理由を尋ねるのは俺より彼女の方が気楽だ。チームに誘ったのも彼女を心配する半面、俺を排斥させようとしている部分もあるだろう。彼女がチームに入るのならその意思を尊重する。正式な環境が手に入るのならそれでいい。それに、俺と一緒にいて彼女が敬遠されるのは気が引ける。

 

「ありがとう──」

 

 サイレンススズカは差し伸ばされた手に感謝を述べる。生徒二人はその言葉に笑みを浮かべ、勧誘を次の段階へ進めようとする。しかし、この後の会話で彼女たちの口が動くことはなかった。

 

「──でも、ごめんなさい。私はあの人と頑張ってみたいから」

 

 強い意志が込められた一言。サイレンススズカはもう一度だけ感謝を伝えてトレーニングコースへと向かい、残された二人は唖然とした顔で立ち尽くす。そんな二人を横切るのも癪なので、俺は廊下を引き返してサイレンススズカとは別ルートを選ぶ。盗み聞きのアリバイ工作のため時間潰しを含めての選択だ。コースに出るとジャージ姿になった彼女がストレッチをしていた。いつもの俺を装って声を掛けて練習を開始する。

 

 彼女にとって何が俺を信用させる要因なのか、計算に基づく理論でレースプランを立てる俺にとっては解明したい謎だ。過去の無神経さが残っていれば、ずかずかとプライベートな所にも踏み込んでいただろう。ただ、今の俺は芝を駆ける彼女にそれを問いかけることは出来ない。もし、俺を選び続ける理由を聞いて再び保護欲でも抱いてしまえば、一時だけの協同関係が崩れてしまうかもしれない。

 

 会長から伝えられた俺のアドバイスの責任を取る、それが俺たちの関係だ。あくまで職員が許される範囲での指導を偽装しなければならず、その偽装もいつまで効果があるかなど分からない。そして、サイレンススズカがどんな結果でも日曜日には契約が切れる。それなのに自分の立場を忘れてはならないのに彼女を鍛える日々に充実感を得ている。

 

 絶佳の走りへの情熱、それでもなお拭えない過去の悲傷。トレーナー復帰は最も忌避しているのに、彼女を助ける最適解はトレーナー業しかない。数日前にこの関係を生み出す原因を作った自分自身に怒りが湧く。こんなに惑乱するならば手を出すべきではなかった。

 

 連日の疲労と苦悩で熱くなる脳を霜風が冷やす。いつの間にか太陽の半分が地に沈み、走っていた生徒たちも殆ど帰ってしまった。……ああ、しまった、夕食までの時間がない。先にカフェテリアに行って調理を進めなければ。

 

 ここを離れるとジェスチャーを送る。走っている彼女は横目でそれに反応すると、ペースを上げてこちらに向かってくる。練習メニューは事前に伝えた、何か質問でもあるのだろうか。わざわざ練習を止めたのであれば意味があるはずだ。

 

「その、お願いしたいことがあって」

 

 肩で息をしながら躊躇いがちに前置きをする。これは何度か見た恥ずかしいことをお願いする態度だ。基本的は食事に関しての要望だ。食事量の増加に戸惑いつつ、それでも身体が要求する摂取カロリーは止められない。それでもまだ体は細いが、食欲が出てきただけで今は十分だ。あとは、練習メニューに疑問や不安があるときにも似た態度で発言を求めるが、練習が終わりかけているタイミングではそちらの可能性は低い。現在の状況から推測すると、やはり夕食のデザートのリクエストだろうか。

 

 ただ、俺の予想は外れる。目の前の彼女は、仕事場で初めて会った時同様の面持ちで自分の気持ちを晒す。

 

「模擬レースで勝てたら、一度だけトレーナーさんって呼んでいいですか……?」

 

 コーチングをすると決めた時に徹底させた唯一の約束、それは俺をトレーナーとは呼ばないこと。これまでそれを破る素振りはなかった。だとすれば発言のトリガーは生徒二人の勧誘を断ったことだろう。あれで全てを俺に懸ける覚悟が完了した。

 

 ……だとしたら彼女の願いは断れない。どんなウマ娘でもレース直前はどこかで緊張している。それも今回彼女が出走するのは在学を左右するものだ。チームに所属していない彼女が、俺との関係の明確化で安心するのならば望みを聞き入れよう。

 

「──分かった、一度だけならな」

 

 許可だけを出してその場を後にする。俺の一言で彼女がどのような表情をしたのかは確認していない、──確認する勇気がない。見てしまえば俺の信念が傾くような気がした。

 

 

 *

 

 

 幾つものジレンマを抱えてレースまでの数日を過ごした。自分で認めるのは悔しいが、数年ぶりのコーチングでは至らぬ点が多かった。指導者としては二流だっただろう。

 

 ただ、彼女は俺を信じて付いてきてくれた。難易度の高いトレーニングにも音を上げず、土と芝に汚れながらコースを何周もする。ミーティングではアドバイス一つ一つ耳を傾け、自分の認識に違いが無いかを確かめた。授業の休み時間もレース資料に目を通して知識を蓄え、食事もウマ娘として並みの量を取れるようになり肌の血色も改善した。短い期間でも着実に成果が出ており、今までの彼女から生まれ変わっているのは明らかだった。

 

 こうして練習に励んだ結果、サイレンススズカは『逃げ』の基礎を習得することが出来た。以前の走りが完全回復したとは言えずとも、最後の練習では育成目標に掲げていたタイムを記録している。これで自分の持つ能力をしっかりと発揮出来たのなら一着の可能性はある。レースに出走するのは同じような境遇の生徒だ。スペックで劣っている問題が解決されたのなら、元から特異な才能を持つ彼女に分がある。

 

 天気予報では日曜日は晴れ、風もレースに支障のない程度とのことだ。全力を尽くしたサイレンススズカへのご褒美だろう。

 

 俺が出来ることも、彼女が出来ることも全てやった。数年に一度だけある例のリストから復活するウマ娘、それがサイレンススズカなら誰も文句を付けない。彼女の指導者として胸を張って言えた。

 

 これで長年抱えていた葛藤に決着を付けられる。トレーナーという過去に別れを告げるなら、その最後は彼女の走りが望ましい。彼女が勝利し、その声でトレーナーと呼ぶのなら俺は満足して終われる。彼女が恵んでくれたトレーナーとしての最後の機会。サイレンススズカに勝って欲しい。笑顔でゴールして欲しい。彼女の勝利を望むことだけが、迷い続ける俺が今言える噓偽りのない本心だ。

 

 

 ──本当に勝って欲しかったんだ。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 4枠7番サイレンススズカ

 

 1/2差 四着

 

 

 

 *

 

 

 

 

 レース会場で歓声は上がらない。今年も目を見張る走りをする者は誕生しなかった。生徒たちは電光掲示板で自分のタイムを一瞥すると、空っぽの瞳でチームの下へ帰ってゆく。走者に送られる疎らな拍手が収まり静寂を保つこと数秒、誰かの嗚咽を皮切りに会場が悲しみの感情で支配される。ある生徒はトレーナーの胸で涙を流し、ある生徒は友人に抱きしめられながら蹲る。これまでの努力が実力の壁に跳ね返され、それまで他人事であった現実が突如牙を剥き出して襲い掛かる。夢を絶たれた彼女たちに今残るのは過去への後悔、もしくは未来への不安だけ。快晴で遮るものが無い空の下、冷たい風がそれを引き立たせる。

 

 そんな涙の集団を避けるように、サイレンススズカがゆっくりと帰って来た。他の生徒同様に顔は俯いたまま、今にでも倒れそうな足取で歩いている。芝と土が体育着に付着し、いつもの綺麗な髪は乱れたまま。しかし、それを整える気配もなければ、俯いた顔をこちらに向けることもない。

 

「ごめんなさい。私……」

 

 彼女が静かに言葉を発した。胸の前で両手を握りしめて、溢れる感情をどうにか抑えている。消えそうな声が涙で途切れないように懸命に気持ちを辿り、そうして並べるのは結果を出せなかったことへの謝罪。俺よりも何倍も辛いはずの彼女が、まるで逆の立場で、まるで俺を慰めるように繰り返す。最初から何度も何度も、最後まで言い切ろうとする。

 

「ごめんなさい。貴方に……手伝って貰ったのに……っ──」

 

 どうにか繋げ通した一言、その後の言葉を発することはない。口にしてしまえば周りの生徒のように崩れ落ちてしまう。代弁者は俯いた彼女の足元に落ちた一粒の涙。あまりにも重い一滴に奥歯に力が入る。順風満帆などではない学園生活、それを変えるための最後のレースに賭けた。その気持ちの結果が(コレ)なのか。今まで多くの生徒に引導を渡してきた。それと変わらない状況なのに喉を掴まれたように言葉が出ない。あれだけ暗記していた生徒を送り出す台本が真っ白になっている。彼女にたった一つでも、何か、何かを──!!

 

 

 「──ありがとうございました、トレーナーさん(・・・・・・・)

 

 

 精一杯の笑顔。彼女が俺に送ってくれた感謝。目は涙を溜めて真っ赤に染まり、無理やり上げた口角が震えている。誰が見たってそれが作られただと分かり、表情を保てたのも一瞬だけ。すぐに笑顔は崩れ、それを丁寧なお辞儀をして誤魔化す。もう彼女が顔をこちらに向けることは無い。顔を伏せたまま俺の横を通って更衣室に向かう。彼女からした芝の匂いが離れていくことが別れを告げていた。

 

 共に練習したのは10日間、レース本番を入れても二週間に満たない関係。トレーナーとウマ娘の関係ではない。職員と生徒の一時的な協力関係。確かに彼女の走りを知っていた期間はもっと長いけれど、それでも他の生徒の情報だって知っている。接点が出来ようが今まで通りの仕事に戻り、生徒の一人として退学処理をするだけ。それに彼女は優秀だ。成績は上位だし、生活態度に曇りもなかった。この学園にいることが全てじゃない。きっと他の道でも生きていける。彼女が退学になって罪悪感が残っても、きっと数か月後には傷も塞がるはずだ。今までだってそうだったのだから。むしろここで彼女を追いかけでもして、特定の生徒に踏み込んでしまえば理事長秘書補佐として罰則を受けるだろう。そちらの方が後の仕事に悪響がある。

 

「……解雇なら次は飲食店でもやってみるかな」

 

 だから俺の行動は愚かだ。ここまで頭で理屈を並べておいて逆を突いている。更衣室に向かう生徒の間を走っている。こんなの職員でなければ変質者だ。それに後ろからいきなり手を掴まれたから彼女も驚いているし、周りの視線も集まっている。立場を無視して昔の真似事をして、残されたもう一つ(・・・・)の可能性に賭けてしまっている。勝ち目も不確かな提案をして負けようものならここでの職は確実に終わるというのに。まさに今リターン度外視のリスクを背負うとしている。きっと君は焦りながら構わないでくれと言うのだろう。

 

 でもさ、ほら、やっぱり君が泣いているから。

 たった一度でも俺をトレーナーだと言うから。

 

 

 

 ──それならこんな所で君を諦めない。

 

 

 

 

 *

 

 

 火曜日、午前6時、栗東寮前。学園から借りた自動車の中でサイレンススズカを待つ。昨日練り直した練習メニューを確認していると、早朝トレーニングに向かうジャージ姿の生徒の中から同じ服装の彼女がやってきた。窓から手を振って存在をアピールすると小走りでこちらにやって来る。練習に必要なものが入ったスポーツバッグを後部座席に置かせ、彼女自身は助手席に腰を据える。軽く挨拶を済ませ、エンジンでタイヤを転がしながら今週の目的について発表する。

 

 まず、今年度の中距離模擬レースは終了した。そしてその結果では現状打破は不可能である。相も変わらず退学コースに乗ったままだ。だが今週末にはマイル距離での模擬レースが催される。こちらの距離も今年度の最終模擬レースだ。これならサイレンススズカの適性距離、正真正銘のラストチャンスになる。そのために月曜日はレースの疲れを取るために休み。水曜日から金曜日までをレースの為の練習に当て、土曜はとある走りの技法についての調整を予定している。

 

 では、今日は何をするのか。高速に入ったことで目的地に若干の不安を覚えたサイレンススズカが質問をする。今日行うトレーニングはリハビリに近い。そのウマ娘が持つ能力を存分に発揮できるように走りを見直すこと。そして一部の才あるウマ娘だけが持つ必勝術を手に入れること。それは、固有スキル、あるいは領域(ゾーン)と呼ばれる。才ある極少数のウマ娘だけが使用できるオリジナルの走法である。深層意識や信念が形となり、ウマ娘の走りを限界の先へと引き上げる。計算が間違っていなければサイレンススズカにもその素質がある。この数日でそれを引き出せるかが勝負だ。

 

「なるほど……。本来の走りを思い出し、私だけの走りを目指す、ということですね」

 

 その後は俺の回答に満足した彼女とドライブが始まった。お互いに次のレースについてはあまり触れず、日常生活の他愛ない話に花を咲かせた。途中で今日の学校の欠席について聞かれたので、職員パワーで彼女は公欠に、俺は有休という形を取っていると話す。彼女はウソでしょ、と初めて敬語を砕いたセリフを漏らした。それを弄ると顔を真っ赤にして口癖だと慌てて説明してくれる。運転中でその様子を横目でしか見られなかったのが残念だ。

 

 

 *

 

 

 車で走ること約2時間。高速を降りて田舎町を真っすぐ進む。枝木が散らばり幅の狭まった山道を入り、山の裏側に回る。町の風景が視界から消えると、山をくり抜いたようにぽっかりと空いた高原が姿を現す。高原は淡い緑色の絨毯で覆われ、周りを囲む深い緑と太陽の光が自然の美しさを体現している。

 

 そんな高原にある施設が今回の目的地だ。建物入口の看板に書かれた『シバサキ練習場』が施設の名前だ。ここはウマ娘専用の練習施設、特に怪我のリハビリや、レースにPTSDを持つ者を積極的に招き入れている。施設内はレース場そっくりの造りになっており、スタンドを思わせる建造物と芝コースを外周に設置した野外運動場が目玉の二つだ。

 

 正門を潜り、駐車場に車を停める。ドアを開けると深緑の匂いが肺を満たし、山の肌寒さを服越に感じる。聞こえる音もクーラーボックスの氷と鳥の鳴き声、あとは葉の擦れる音などの自然由来のものばかり。人の活動する音は一切聞こえない。立地の悪さで基本的に使用者が少ない施設であるが、現在時期は閑散期であるため休業中だ。先週こそ使用許可を取れなかったものの、今日は少し無茶をして許可を取った。

 

 当然だが建物内に足を踏み入れてもウマ娘はおろか人の気配もない。受付にはこの建物にいるのであろう管理者を呼び出す用のベルが置かれているだけ。一般常識ならばベルを鳴らして入館を伝えるべきだろう。だが、俺としては勝手知ったる建物に迷うことも、連絡する必要もない。その辺の手順は省略してエントランスを横切る。後ろで不法侵入かと心配そうにする彼女に付いて来るように声を掛ける。しかし、そんな彼女の心配も廊下一本を歩き、大きなガラス戸を開くまでの一分に満たない時間で吹き飛ばされる。

 

 ガラス戸を開けるとそこは一面の芝原。山風で波打ち、太陽光で輝く葉がそれぞれ自由に空へと伸びている。学園の管理された均等な長さを保つものとは違う。踏み折れた芝も無ければ、掘り返った土もない。加えて邪魔な人工物も廃されている。練習レース用に内外周の白い柵が設置されているだけ。それを超えてしまえば、遠くに見える山まで全てが手付かずの大地で広がっている。肉眼で捉えた翠色は車から見た景色の何倍も美しい。きっと何処までも走っていけるのだろう──と、隣で呆気に取られている彼女の背中を軽く叩く。

 

「ほら、トレーニングするぞ」

 

「──はい!」

 

 建物の影に簡易椅子を広げ、クーラーボックスを隣に置く。サイレンススズカに蹄鉄靴を履かせながら中距離模擬レースの反省を行う。主題は敗因の解明、本来の実力が発揮出来なかった理由についてだ。レース映像を見返していて明らかになったのはシンプルな原因。それは俺の彼女への理解力が低かったことで生まれた指示ミスだ。

 

 具体的には『逃げ』で走れと指示したこと。彼女が不調になる以前、チーム加入以前はその走りで模擬レースを勝てていた。彼女自身も先週の練習では久しぶりの『逃げ』に満足していて、その走りが好きだと言っていた。だから、それ彼女を一番活かす走りだと安直に考えて誤解していた。

 

 しかし、彼女の入学時のレースを見直して分かったのは『逃げ』が彼女の走りなのではなく、彼女の走りが『逃げ』であったこと。『逃げ』で走るのと、走った結果が『逃げ』だったのでは過程と結果が真逆になる。つまり俺が目にしていたあの走りは、決して『逃げ』を目指していたものではない。好きに走っていたらそれが『逃げ』に近い何かであったということだ。さらに、これまで強要されていた『先行』で隠れていた才能は俺の想像よりも成長していた。成長した現在の彼女にとっては最早『逃げ』であっても自由な走りを縛る枷でしかない。日曜日の走りもサイレンススズカにとってスローペースであり、それが調子を崩させた原因であり敗因だ。

 

 だからここで行うのは好きな走りを取り戻す練習。俺が用意可能な彼女の目標に最も類似した場所。この大草原を貸切って自由に走るだけの練習だ。それが彼女の本当の走りを蘇らせ、さらなる高みを目指す武器が生まれる。寮の門限を考えれば、ここを使えるのは17時まで。飲み物はクーラーボックスに入っているから、昼食は取りたいときに声を──

 

「……分かったよ。行ってきな」

 

「──あ、ありがとうございます。えっと……、行ってきます!」

 

 走りたい本能でそわそわしている彼女に許可を与える。気持ちが態度に出ていたことに恥ずかしがりながら、それでも嬉しそうに足元の芝を巻き上げてコースに跳び出す。柵を潜り、靴を慣らすような足踏みから緩いペースでのランニングが始まった。空の雲の動きを追い、芝の音を聞きながら環境を楽しんでいる。その表情は好調時の走りを想起させ、これからの数日を奮起させるものだ。

 

 そのためにも今後のトレーニングプランを細部まで詰め直そうと、バッグからタブレットを取り出そうとすると、彼女がペースを緩めて止まるのが見えた。彼女は何かを思い出したように急いでこちらまで駆け寄ってくる。走る前の給水を忘れたのだろうと予想したが、足はクーラーボックスではなく俺の方へ。そして感動的になった時の癖なのだろう、胸に手を当てて笑顔を向けた。

 

「トレーナーさん、私、凄く楽しいです──!」

 

 では、走って来ますね、と残して再び芝の海へ飛びこむ。……今度は敗北で作ったものではない、本心から生まれた完全純度の笑顔だ。美人しかいないウマ娘の中でも、サイレンススズカは佳人薄命な淑やかさと危うさがある。そんな彼女の年相応な満面の笑みは成人男性にはちょっと眩すぎるかな。

 

 

 *

 

 

 その日、サイレンススズカは本当に一日中走り続けた。柵にそってレースのような走りをすれば、姿が点になるまで柵外の芝を掻き分けて走る。椅子に腰を据えたのは一度の食事休憩と、給水を挟む時だけ。速度を緩めても芝の上を離れることはなかった。少なくとも俺がタブレットを叩いている時間よりは長く足を動かしていた。

 

 太陽の光が橙色に変わり、帰寮を促してもその足の動きは途切れない。あと一本を片手が埋まる数くり返してようやく芝を離れる。ただ、それでも満足しないのが彼女の特徴。ここまで走っておいて残念そうな顔をするので、またここに連れて来ることを約束する。

 

 帰りの車では興奮気味に今日の景色や風の感触を語ってくれた。ただ、疲労は本人が捉えている以上に蓄積されていたのだろう。言葉が段々と途切れ途切れになり、気付くとすやすやと眠りに落ちていた。栗東寮の寮長に案内されて寝落ちした彼女を背負って運び入れる。寮は相部屋が基本であるが、彼女の同室者は既に今年度の夏に退学済み。今日を楽しんでくれていた彼女を一人にするのは若干の罪悪感は、起こさないようにベッドに寝かせることで補う。彼女から離れようとすると一瞬袖を引かれる感覚がしたので、就寝の言葉で区切りをつける。あとは階段で彼女の寝顔を見て「尊い……!!」と失神したウマ娘をついでに運んで寮を離れた。

 

 

 *

 

 

「さて、シバサキ練習場の芝はどうだった?」

 

 日が変わり、昨日同様に朝も早くからジャージ姿のサイレンススズカと顔を合わせる。よほど心地よく寝られたのか足取りに疲労はない。顔つきは以前より余裕がある優しいものになったが、瞳に強い信念を感じる。練習場選びが正解だったことに安堵し、帰りの車で話しそびれたシバサキ練習場と今後の練習の紐づけを行う。そのためにまず確かめたいのは、あの練習の芝をどのように感じたのかを言語化することからだ。

 

「とても気持ちよく走れました」

 

 あ、うん。そうではなく。

 

「走っている時、足の感触はどうだった?」

 

「柔らかくて、つるつるしていて、学園のより長くて、……あれ、これって走るのには──」

 

 流石、走りに関しての感性は抜群だ。──そう、彼女の考えは正しい。あの練習場の芝はレース競技としては欠点が多い。学園の芝は短く揃えられたものが踏まれ、土は毎日埋め直されている。ヒトの陸上競技で良いタイムが生まれるように細工されたトラックフィールドのウマ娘版だと思えばいい。しかし、先の練習場はその逆。芝は殆ど放置され、土の隆起も走ることに問題がなければ触ることは無い。

 

 では、何故そのような芝が練習場にあるのか。先に結論を示せば、それはフォームのリセットにある。骨格、適性、性格、一つ一つが誰かに似た要素が有れども、ウマ娘を構成した時に他の誰かと全く等しいことなど有り得ない。ウマ娘の数だけ自分にだけの正しい走りがあり、それを追い続けて練習を行うのだ。つまり、全員に共通した走り方の模範解答なんて存在しないのだ。

 

 しかし、全員に共通する間違えた走り方はある。膝を捻っていたり、利き足に体重が乗りすぎていたり、それらは怪我の原因と速度の低下を招く。だから、正しい走りは作れなくても、間違った走りは脱却しなければならない。そしてそれを行わせるのがシバサキの芝だ。

 

 芝が長いのならば、引っ掛からないように腿から足を上げる。

 芝が滑るのならば、地面に対し真上から力を加えて蹴り出す。

 土が隆起するなら、体幹でバランスを取って地形に対応する。

 

 癖のない綺麗な走りを作り、そこからまた自分の走りを探す。それがあの芝の役目だった。そして、ここからの学園練習はその経験をベースに自分だけの新たなフォームを作ること。答えの無い暗闇を行く根気勝負が始まるのだ。

 

 

 *

 

 

「楽をするな!! 次の勝負はマイルだぞ、周りと合わせる必要は無い!!」

「自由に走るのと何も考えずに走るのは別物だ。シバサキでの走りを忘れるな!!」

「そんな腕の振りで前に進めるのか……? 楽をするなと言ったぞ」

 

 久しぶりにシバサキに行ったせいか、それまで封じられていた記憶が甦る。先週まで微かに残っていた第三者の立場は消失した。一層指導者の色が強まり、それにつられて次第と口調までもが昔に戻った。決して無駄な距離を走らせたりはしないが、トレーニングも先週より峻厳になっている。走るときは冷徹な指摘が跳び、休憩中も粛々と改善作業を行う。体力よりも精神を擦り減らすトレーニングだ。俺の周りで怖がって萎縮している生徒たちでは耐えられないだろう。

 

「──もう一本、お願いします!」

 

 だが彼女だけは違う。俺の指導で周りが静かになるにつれ、サイレンススズカだけはその逆を行くのだ。走りは熱を持ち、指摘への返事は心が折れるどころか声量は上がっていく。少しずつ彼女の速度に体幹が順応し、全身から足裏に伝達する力からムラだけが減っていく。地面と直角だった上体は角度を減らすことでトップスピードの更新をくり返す。

 

 俺のトレーニングに付いて行く精神力、そして急激に成長する走り。それは他の生徒には畏怖するべき才能。午前練習と午後練習の三時間、それを証明した彼女はこの練習場で頂点に君臨する存在になった。汗を拭い、息を整えて給水にベンチに戻る彼女に生徒たちが道を開ける。トレーニング開始時に彼女を凡愚に見るような態度だった生徒など、今や逃げるように距離を取っていた。本人は意図していないだろうが独りでにオーラが溢れている。引退を勧告される生徒の宿す迫力ではない。何が暗闇を行く根気勝負だ。彼女は暗闇を独走して、自分のテリトリーに変えてしまった。

 

 

 *

 

 

 模擬レース前日、土曜日、曇り、降水確率20%

 

 暫定的だがサイレンススズカのフォームは完成した。『逃げ』を進化させた『大逃げ』もG2で戦えるタイムを記録している。領域や固有などの必殺技は生まれず、将来性を含めると6割程の走りではあるが、それでも十分な結果だ。シミュレーションでも、明日の模擬レースなら5バ身差つけて勝てる計算になっている。ドラマみたいに靴が脱げるような超イレギュラー(・・・・・・・)さえなければ今度こそ勝てるだろう。それに、今日の練習で必殺技を補うための代用技を覚えれば、さらに後続とのタイムを離せる。

 

「二次加速、ですか?」

 

 サイレンススズカが代替必殺技の名前を唱える。二次加速、意味はそのまま二段階目の加速だ。大雑把ならイメージは簡単、100M走を思い浮かべればいい。クラウチングスタートで踏み出し、体勢が斜めのままの数秒間、0から10にスピードを上げるのが一次加速だ。そこから体勢が整いトップスピードへと至る、10から100を上げる加速が二次加速になる。あとは100のスピードを出来るだけ保つのがヒトの短距離走だ。

 

 だが、ウマ娘が走る距離は1000M以上だ。それにゲートスタートでは一次二次の加速概念は余りない。使いどころが無さそうだから彼女も首を傾げた。しかし、ウマ娘には一つの単語で示せばこれまた簡単に捉えられる。二次加速は末脚加速の効率化であると。

 

 スタミナが減るにつれて落ちていくスピード、それを最後の直線で再び加速させる。並大抵の事じゃない。だからこそ末脚が強いウマ娘は才能有りと持て囃されるのだから。しかし、サイレンススズカなら可能だ。限界を感じないスタミナとトップレベルの速度は、末脚の加速手順を最短で踏んで一着を奪える。それに、末脚がゴールまで伸びずともそれでいい。相手の心を圧し折るための加速になれば儲けものだ。『大逃げ』で何バ身も離れている後方は、サイレンススズカが加速するだけで衝撃を受ける。もうゴールに着くのか、まだスピードが上がるのかと。追いつけないと思わせるだけで勝手に降参してくれる。

 

 では、ここからは二次加速の具体的な使用法について。ここ数日で調子を取り戻しているサイレンススズカには難しいプロセスはない。ウマ娘特有の前傾姿勢の走りのまま、一歩目でバランスを取って、二歩目の歩幅を体を沈ませるようにして大きく踏み込む。時速数十キロで走るウマ娘に速度を加えることは危険を伴うが、それを起こさないためバランス感覚と対応力を鍛えてきた。──こう思うと、あの黒い怪物三冠ウマ娘は最後の直線でこの危険を伴う二次加速を発揮し、そのままゴールまでそれを持続させるのだから恐ろしい。ただ、今回そんな無茶はしなくて良い。何度も言うが今は失敗しても相手の心が折れれば効果は有る。残すは二次加速を使用するタイミングだが、これの説明が難しい。一言ならばどうしても表現が雑になる。

 

「何となくここだなってタイミングで踏み込む」

 

「……な、何となくここだなってタイミングで踏み込む?」

 

 ウソでしょ、と喉まで出かかっただろう彼女を宥めて説明を進める。ヒトの短距離走では何歩で加速し、何歩でゴールに到着するなどと、レースに細かい歩数設定がされている。しかし、ウマ娘のレースは数千Mが当たり前、選手間の接触だってある。計画を完璧に遂行できることは偶然に近い。だからこそ、二次加速の使用タイミングはレースの流れを読んで選手が臨機応変に決定するしかない。少なくとも領域・固有を開拓したウマ娘は衝動が体を動かしたと言っている。必殺技など不確かな要素が多いのだ。だが、もし、使用を後押しする理由があるのとすれば──

 

「勝ちたい、前に出たい。その意思が一番の使い時だよ」

 

 恥ずかしい台詞で体温が上昇する。これまでの理論から一転して感情論だ。彼女も鳩が豆鉄砲を食っている。その顔を見ると更に背中が痒くなって、時間が固まったような感覚になる。苦笑いで滑ったことをごまかすと、彼女もこの空気に耐えられなくなって、ふふっ──、と優しく笑う。

 

「ええ、私もそんな気がします」

 

 

 

 *

 

 

 

 再び迎えた日曜日は、先週以上の快晴だった。風が強く吹き学園のチラシを飛ばしている。追い風、向かい風は有ってもレース開催に影響を及ぼすレベルではない。芝面も確認したが小石や土荒れも見当たらない。レース場は言い訳を許さない構えだ。

 

 マイル模擬レース、1600M・右周り・芝・16人出走

 

 模擬レースなのでスタートは1・2コースの外を代用して行われる。カーブ気味のスタートなので内不利だ。スタートの位置争いの後は直線が伸びる。ここが今回の癖が少ない場面。速度を出しやすく、それだけペースに遅れて脱落する生徒も出る。3・4コーナーの角度が急で減速を強いられ、ラストの直線は緩い上り坂になっている。最後を勢いで押し切るウマ娘には苦手にしている者も多いコースだ。

 

 サイレンススズカのは6枠12番。くじ運が光って不利は避けられた。スタート直後、内枠が寄ってくる前に『大逃げ』に入れるだろう。

 

 だが、どんなに状況が良い方向に傾いても緊張をする。メンタルが強い彼女でも朝食の量は少なかった。深呼吸をして心を落ち着かせる回数が多く、ストレッチ中も集中力が欠けている。これがダメなら今度こそ退学確定なのだ。緊張しない方が難しい。……そして、これで学園をクビになるだろう俺も胃が痛い。成功しようが失敗しようが彼女の練習に付き合ったのは学園に広まった。特定の一人に深入りして、尚且つ練習風景が鬼のようなのだから悪い噂も山のように増えている。

 

「緊張するよな、……その、大丈夫か?」

 

 体育座りでコースを眺めるサイレンススズカに掛けた言葉は、俺自身に投げかけた質問でもある。

 

「……そうですね。まだ少し、ほんの少し怖いです」

 

 膝を抱えている手が僅かに震えている。少しと言いながら余裕など全くないのだ。アスリートでも良いイメージを浮かべるより、悪いイメージの排除に集中してしまう人がいる。今の彼女はそちら側、このままだと折角アップで温めた筋肉が緊張で固まってしまう。着ていたコートを雑に被せ、そのまま俺も隣に座る。

 

「だよな、俺も吐きそう。それに指も緊張で冷えてる」

 

 彼女の視界に入るように指を振る。すると彼女は手を膝から離して、俺の人差し指の先をゆっくりと抓む。そのまま俺の指先を揉むと、──本当ですね、と言って僅かに口角を上げる。彼女の指から伝わる体温も低い。

 

「だからこそ、ここで勝てたら楽しいだろうし、それにもっと走るのが好きになる」

 

 彼女の資料の一つ、入学理由に記された彼女の強い思い。子どもの頃に経験したレース、そこで得た景色。誰もいない空間を独走していくことが彼女の原点。風を感じ、芝を感じ、何者にも汚されていない景色に到る。それを重ねて、それを追いかけて、また走ることが好きになる。走ることだけはプライドを持っていた。

 

「不安があって、後悔があって、それでも君は譲れない一つのために走ってきた」

 

 だから、ここの生活は辛い経験ばかりだ。誰かから求められた走りでは、追いかけてきた景色に届くことはない。期待は重圧に、走ることが義務に変わってしまった。それでも諦めなかった。残った希望を信じて学生の嫌われ者にも臆せず向かってきた。

 

『10分前になりました。移動を開始してください』

 

 スピーカーから選手の集合を呼びかける放送が流れた。サイレンススズカはゲートへ、俺は見物席へ移動だ。張り付いた葉を落としながら腰を上げる。そして、横で立ち上がろうとしている彼女へ手を差し伸べる。彼女の目線が手から腕を巡って俺の目と交差する。伸びる細い手を掴んで引き上げる。

 

「ゴールで待ってる」

 

 手を握ったまま伝える。君を信じている、君は勝てる、全部を含めた一言。もしかするとプレッシャーになるのかもしれない。ただ、だとしても──

 

「──はい、先頭で帰ってきます」

 

 握られた手から震えは無くなっていた。

 

 

 *

 

 

 今回のレースで授けた戦術は二つ。『大逃げ』で走る。そして二次加速で後続を突き放してゴールする。他は本人の判断に任せている。……まあ、『大逃げ』は本人のペースで走ることなので、本質的には戦術は一つだけ。それで勝てると計算して作ったプランなのに、ゲートインする姿を見ていると何度も間違いがないが確かめてしまう。

 

 模擬レースに公式のような管楽器のファンファーレはない。静寂の空間でゲートシリンダーの軋む金属音がするだけ。生唾を飲むことさえ憚られる緊張感は、出走者がゲートインする時間を何倍も長く感じさせる。

 

 その空気を破るのは音を出していたゲートだ。全出走者がゲートに入ったことを確認し、係員が仮設テントへとサインを出す。それを受け取った本部が手元のスイッチを傾ける。鉄を叩いた音と共にゲートからウマ娘が跳び出した。

 

 よしッ、スタートは成功した。

 

 やはりサイレンススズカは別格だ。内側が膨らむ前に集団から抜け出すどころか、最初の加速だけでバ身差を離した。緩やかとはいえカーブだ。スピードに乗ることは容易ではないが、それでも彼女は先に抜け出したことで余裕を持って場所を使えている。邪魔が無ければ腕を斜めに振ってバランスを取っても失格を受けない。上手くスピードに乗った。そして予想通り『差し』位置では激しい位置取りが発生している。『追込』まで後ろに下がれば体力も削られないだろうが、あれでは後半の伸びに悪影響が出る。

 

 向直線に入る。サイレンススズカは暴走に思われているだろう速度を維持し、彼女と二番手の距離は更に引き離される。強い追い風と共に走る彼女に追い付けるウマ娘はいない。観戦席のあちこちでその速さに驚きの声が上がり、出走者名簿を捲って詳細を探っている。ここにいる出走者の担当トレーナー、チームメイトのウマ娘、学園関係者、その視線を一気に奪って勝利に突き進んでいる。不安は一気に反転し、興奮が心臓のリズムを速める。許されるなら立ち上がって大手を振って高笑いし、あれが復活したサイレンススズカだと自慢したい。

 

 向直線を終え、3コーナー突入時で5バ身差だ。ここからは更に『二次加速』がある。大差も射程圏内に入った。勝利を確信した……。

 

「後続で転倒だ!!」観戦席から声が上がった。見ると無理に抜け出そうとしたウマ娘が転倒し、その場で膝をついていた。だが、問題なしと考えた。サイレンススズカは二番手を引き離して先頭だ。走りの邪魔にもならなければ、審議対象者にもならない。このまま3・4コーナーを駆けてゴールと考えるのが当然。しかし、勝利の女神は彼女に絶望的な試練を与える。

 

 

 ──何故、ゼッケンがあんな所にあるんだッ!? 

 

 

 3から4コーナーに移り変わった地点、芝の上に白色のゼッケンが横たわっていた。急いで倒れたウマ娘に視線を寄越す。──やはりだ、彼女の体操服からゼッケンが消えている。他のウマ娘との接触で布が切れたのか。だがどうしてそれが4コーナーまで……、クソッ、今日の強風があそこまで飛ばしたというのか!? 転倒者に係員が集中して、観客席しかゼッケンに気が付いておらずレース停止の呼びかけがない。彼女は既に3コーナーに入っている、猶予は無い!! 

 

「速度を落とせ!! スリップするぞ!!」

 

 声を荒げても距離が遠くて届いておらず、彼女もゼッケンに気が付いていない。まさか、カーブのせいで彼女とゼッケンの間に柵が挟まって見えていないのか? 

 

 そう推理した瞬間には間に合わない。3コーナーを終えた彼女が姿を現した。そしてすぐ彼女の足が白い布を踏みつける。スロー映像のように膝から力が抜け、上半身が沈んでいく。周りの生徒が悲鳴をあげて手で目を隠す。転倒すればレースに戻ることは出来ない。それどころか彼女の速度での転倒は重大な怪我を負ってしまうに違いない。嘘だろ。ここまでやって、こんな幕切れなんて……。

 

 

「───スズカ!!」

 

 

 

 *

 

 

 

 第3コーナーを曲がってすぐに視界がガクッと落ちた。遠くから悲鳴が聞こえ、落ちていく視界の端に白い布が見えて事態を理解した。私は転倒しているのだと。でも、もう遅い。バランスを持ち直す前に右頬に柵が擦れる感触がして、擦れた熱さが事態を夢ではないと語っている。地面に視界面積をどんどん奪われ、それまで感じていた風が止まってしまう。

 

 ここまで完璧に走れていたのに。もう少しでゴールなのに。トレーナーさんといっぱい練習したのに。また、あの景色が見られるかもしれないのに。流れるように悔しさが滲む。それなのに体は動かなくて、地面の衝撃に耐えようと脳が意識を切ろうとしている。

 

 そんな、また、私──……

 

 

 

 

 

 

 

 ───スズカ!! 

 

 

 トレーナーさんの声が聞こえた。初めて私の名前を呼ぶ声が聞こえた。閉じかけた目が開いて、諦めるなと視界がクリアになっていく。蘇った脳が見せるのはトレーナーさんが必殺技の代わりに提案してくれた技術。

 

『二次加速のタイミングは勝ちたい、前に出たい。その意思が一番の使い時だよ』

 

 ──それなら今だ。転倒は免れないが速度は落ちていない。滑って足が使えなくても、まだ手はいつものように動く。諦めることなんて何もない。受け身を取って回転で衝撃をいなし、その回転を利用して立ち上がることが出来れば。無謀でも、無茶でも、トレーナーさんが私をゴールで待っているなら──、やってみせる……!! 

 

 衝撃を左腕で構えて待ち受ける。手の平が土の柔らかさを感じたタイミングを逃さず、一気に体を丸めて限界まで地面を蹴り上げる。打ち付ける感触が腕から肩、背中から腰と巡っていく。衝撃が腰から抜けていくのと同時に体幹に力を入れる。右手の肘から甲を芝に擦って回転を止め、左足の裏で土を掴む。上半身は再び空に伸び、視界はゴールを捉えた。シバサキの芝で必要だと分かったバランス感覚を鍛え直した成果が発揮された。

 

 走っていた力は、回転で流した慣性をそのままゴールに向けている。この勢いを逃してはいけない。右手で芝を掴んで、左足で地面を蹴り込む。奥歯を噛みしめて、立ち上がる。まだ私は走れているのだ。転倒開始時のようなスローな感覚は、足に伝わる全身の熱はそれを鮮明にする。

 

 体が痛いことも、頬から血も出ていることも関係ない。トレーナーさんと手に入れた『大逃げ』と、この『二次加速』で最後の直線を全力で走り切る。

 

 

「───先頭の景色は譲らない……!!」

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 3月に入り暖房の温度を徐々に下げる日々になった。先月の寒さは姿を消し、木々が春の温かさを示す。窓から見える桜のつぼみが緑色に変わり始め、そのサイズがまた一つ大きくなってきた。来月の入学式には満開の花を咲かせるだろう。

 

 だが、この学園端の狭い部屋で珈琲を啜り、液晶画面を睨む作業に変化はない。画面に映るのは学園のチーム状況や備品の管理などなど。詰まるところ面白くない業務を作業的に処理する日々は継続状態だ。しかし、春先の急ぎの仕事は殆ど片付いて、時間的な余裕が帰って来たのは大きい。久々に実家に電話が出来て、練習場のお礼が言えた。それに個人的な勉強に使える時間が増えたことは嬉しい。

 

 そして特段嬉しいのが、悩みの種であった退学者リストの更新が終了したことだ。先週の週末に最後の退学勧告が終わり、その生徒から泣きながら退学届けを受け取った。それで勧告リストは空になり、正式に全退学者が決定。週明け、つまり今日、最終版とされた退学者だけのリストが上がって、内容を確認することなくデスクに置かれている。規則で保管しなければならないが、今後開くこともないだろう。読んで嬉しい書類でもない。

 

 もし、俺が今後読み返すことがあるのならば、それは最終版の一つ前の勧告者リストだろう。勧告者リストの最後に載ったマイナス1の数字は、彼女の成功を称えるものだ。

 

「あの、……トレーナーさん? どうかしましたか?」

 

 先月の学内MVPらしい彼女は、人参ティーなる茶を飲みながら宿題を解いている。なんでもない、と返して目線を液晶に戻す。仕事部屋に彼女がいるのは未だに違和感がある。それに、彼女を見ると模擬レースの活躍が甦って、仕事中だというのにレースの録画に手が伸びてしまう。それほどに凄いことをしたのだ。

 

 

 マイル模擬レース、サイレンススズカは大差で一着を取った。

 

 

 転倒を回転受身でカバーし、最小限のタイムロスでレースに戻った。そこから二次加速に入ると『固有』を発動し、後続を更に引き離しての勝利だ。本人は無我夢中で、『固有』を発動したことはレースを終えて話をするまで気が付いていなかった。恐らく例外的な事態に集中力が限界に到達して、二次加速が身体と走りに直結化したのが理由だ。練習が生んだ必然であり偶然の賜物だ。その後、意識的な『固有』の使用は出来ていないが、それが出来たという事実は今後の成長材料になる。

 

 それに、その事実が学園に広まったことも良い影響になった。模擬レースの結果は一着。そしてそれは学内同一距離レースの直近三か月レコードでもある。学内レースの数、そしてそれに出走する生徒の人数が少ない時期ではあるがレコードだ。退学間際の生徒がレースで転倒し、『固有』を発動、そしてレコードを記録。学内が盛り上がる要素だらけだ。

 

 結果、サイレンススズカは学園の時の人になった。急増したファンが写真やサインをお願いするため教室が集まり、ライバル視した生徒からはレースの誘いがある。つまり、勧告を打ち消したのは模擬レースの結果であるが、同様に生徒からの存続の要望が大きかったのだ。順番的には努力、勝利、友情、である。感動的なフィナーレだ。

 

 ──で、俺はクビですよ。正式に決まりました。

 

 理由は今回の件で職務範囲外の行動を取ったこと、サイレンススズカに関わりすぎたことだ。いきなりクビはどうなのかと思うかもしれない、でも今回の処分に言い返せない理由がある。──理科室で発光してみたり、委員長とバクシンしてみたり、名家のお嬢様とラーメン屋に行ってみたり。今回の件が引き金であっても蓄積していた罪が多いのだ。……素直に受けるしかあるまい。

 

 それこそ今日の午前中に判も押して、今年度、つまり残り数日で辞することを選んだ。学園長と上司も俺が全く抵抗しないことに驚いて、「あの、本当に良いのですか?」とまで言い出した。次の仕事でも紹介してくれる用意があったのだろう。学園長の扇子に紙が挟まっているのが見えた。

 

 だが、サイレンススズカが自分の手で未来を掴んだなら、俺もそうする必要がある。そのために既に手は打ってあるのだから。

 

「──よし、これで条件はクリアだ」

 

 15時と同時にとあるサイトに入る。空欄に数字を打ち込み、マウスを数回クリックして目標のページに到着。カーソルで数字をなぞって手元の紙と照合する。間違いがないか3回見直した後、タブレットとキーボードを解除、タブレットとデスク上の書類を持って席を立つ。すぐ戻る、とサイレンススズカに伝え部屋を離れた。さあ、目的地は生徒会室だ。

 

 

 

 *

 

 

 

「ああ、君か。……理事長から聞いたよ、学園から離れると」

 

 生徒会室ではルドルフ生徒会長が机で仕事をしていた。部屋に入ったのが俺だと分かると、辛気臭い顔で俺の退職トークを始めようとする。ただ俺はそんな話をするために来たのではない。手に持った書類を机に叩きつけて会長の話を中断させる。

 

「サイレンススズカが所属していたチームトレーナーの報告書です。理事長にも渡しましたが会長も確認してください」

 

 サイレンススズカがチームから契約を破棄されて俺の下へ来た時に違和感は有った。そのままなら数日で退学になる生徒を何故捨てたのだろうと。チームメンバーが一人でも多い方が次年度支給される部費は多くなる。自分の指示を聞かなかったからだとしても、放っておいて残す方が利益になるのだ。

 

 だから模擬レースが終わり、余った時間で違和感を叩いた。そして叩けば埃が出た。交通費の虚偽報告、名前が消された領収書、パワハラのもみ消し。これまでチーム外に漏らさず俺や上司の目を誤魔化していた手腕は見事だが、サイレンススズカのおかげで捕まえられた。そう遠くないうちに学園から姿を消す、……消されるだろう。

 

「そうか、やはりか。──残念だよ」

 

 やはりか、と言うなら会長も薄々察していたのだろう。ただ、生徒会長では素行調査できるのは生徒に関してまで、職員レベル以上に捜査の手を入れることは許されていない。俺の退職とトレーナーの不正、生徒会長はダブルショックを受けてさらに気分を落とす。……ああ、偶にしかお目にかかれない『しょんぼりルドルフ会長』だ。

 

「ふッ──、では次はこれをご覧ください」

 

 笑うのを堪えて今度はタブレットを渡す。会長は落ち込み顔に疑問符を浮かべ画面をのぞき込む。画面には小さなサイズで6桁の数字が一つだけ映っている。会長は俺の意図が分からず疑問符を増やして首を傾げる。いつもあれだけ察しが良いのに、しょんぼりすると頭まで止まってしまう。仕方がないのでハガキサイズの紙を一枚渡し、そこに書かれた文字を読ませる。

 

「……トレーナー資格再取得試験、──ほ、本当かい!?」

 

 寝ていた生徒が怒られるように席から立ち上がる会長。急いでタブレットに映る合格者ページと手に持った受験票の番号を比べる。何度比べたって同じ数字が並んでいるだけだ。落ちていれば見せないだろうに。あと、喜んでくれるのは嬉しいけど受験票がぐちゃっとなってる。それにあまりの喜び様に、別の机で仕事している副会長が見て見ぬふりしてるから。

 

「今丁度、学園のトレーナー枠が一つ空いたので応募しようかと」

 

「そ、そうか。そうだな、それが良い!! 応援するとも」

 

 サイレンススズカの元トレーナーがどうせ居なくなるのだ。マッチポンプ感は否めないが、チャンスがあるなら縋るしかない。

 

 会長からタブレットと、折れた受験票を返してもらって生徒会室を後にしようとする。すると、いつかのように背中に会長が呼び止める声が届く。足を止めて振り返ると、責任を感じた顔の会長が見つめていた。

 

「本当に良いのか。だって君は──!!」

 

 君はウマ娘が嫌いだ、だろうか。ウマ娘が好きな生徒会長が言いよどむなら大体予想がつく。それに自分がしつこく迫ったせいで俺が無理をしている可能性を考えたのだろう。だが別にそんなことはない。トレーナーを辞めたのも、また始めるのも自分で決めたことだ。

 

「しつこいぞ、ルドルフ(・・・・)。今度はお前との約束も叶えてやるから、信じて待ってろ」

 

 ルドルフに背中を向けて手を振る。少し冷たい対応になったが、悠長に話せる時間は取れない。これから理事長にも同じ話をしなければならないし、それに学園トレーナーに戻ったわけでもない。履歴書に埋めなければいけない欄が残っている。正式にトレーナー業に就くまでは忙しい。

 

 だが、一番大事なことは伝えたつもりだ。トレーナーに戻る意思、そして途中だった約束を叶える決意があると。……だから、もう少し待っていてくれ。

 

 

 

 *

 

 

 

 平静を取り戻した生徒会室では、二人のウマ娘が今起こった出来事について顔を見合わせていた。一人は金魚のように口を開閉し、もう一人はそれを呆れと好事を織り交ぜた顔をする。

 

「聞いたか、エアグルーヴ。私の名前を……」

 

「ええ、言いましたね。久しぶりに聞きました」

 

 空耳でないことを確かめると、ふむふむと満足げに頷く。再びトレーナーとして帰ってきたことは喜ばしく、生徒の長として振舞ってきた彼女には珍しく乙女のように心躍る気分だろう。本人はその感情を隠しているつもりだが、同室者が指摘していないだけで満面の笑みである。

 

「おっと、こうしてはいられないね」

 

 ふと我に返ると、慌ててパソコンに何かを書き込む。画面の文書アプリから新規の紙を用意し、ぐるぐると指を回して次に叩くキーを選ぶ。悩むこと数十秒、書き込むことが決まりキーボードを叩き始める。白紙に並べた言葉に再び満足気な表情を見せると、席を離れて上機嫌で副会長を連れてカフェテリアへと向かうのだった。

 

『現役復帰計画』

 

 皇帝が帰る日は遠くない。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 学園の至る所で新入生をチームに勧誘する活発な声がする。その生徒の声を聞きながら段ボール開けて引っ越し作業を進めるのが俺の最初の業務だ。新しく与えられた部屋は以前の3倍あり、これで気温に困らないであろう巨大なエアコンが設置されている。染みついた珈琲の匂いはせず、今鼻を通るのは段ボールと窓から風に流される桜の香りだ。

 

 今朝、元上司、たづなさんから受け取った小包から学園のIDカードを取り出す。硬いカードには俺の名前と真顔の写真が確かにある。同封されていた紐付きの透明なホルダーにカードを入れる。スーツ姿に首から下げられたIDと胸元のトレーナーバッジ、似合わないのでカードは胸ポケットに突っ込むことにしよう。堅苦しいのは苦手だ。

 

「トレーナーさん、お待たせしました」

 

 現在、我がチームのたった一人のメンバーであるサイレンススズカがやって来た。二人で試行錯誤して作ったチラシをコピーして抱えている。

 

 早速だが俺たちの立場は再び危ない。チーム人数が圧倒的に足りていないのだ。チームの最低人数は生徒五人。数年前に導入されたチーム競技のせいで、短距離、マイル、中距離、長距離、ダートの五つの全てにチームとして出走しないといけない。それも同一選手は一つの距離までの制限もある。一つをサイレンススズカが走るとしても、残り四つはがら空き状態だ。新規チームなので少し猶予が長いが、稼いだ時間は入学日から一か月だけ。つまり、今日から一か月だ。

 

 彼女が印刷してきたチラシにエラーが無いかを確かめる。引っ越し作業は中途半端だが善は急げ。早速ビラ配りに出向こうとサイレンススズカを誘おうとする。だが、肝心の彼女は恥ずかしそうに耳を伏せている。チラシのデザインに自信が無くなったのだろうか。俺はこの人参君も蹄鉄ちゃんも個性があって好き「あの──!!」……なんでしょうか。

 

「まだちゃんとした自己紹介をしていないなって……」

 

 思い返せば最初に俺に訪ねてきた時は現状の問題を聞くことに集中していた。その後も模擬レースが終わるまではトレーニングで忙しく、模擬レースが終わっても俺はトレーナー資格の再取得のための試験勉強に追われていた。一方的に知っているから忘れていたが、彼女は俺のことなど殆ど知らなかったはずだ。……門出には丁度いい、しっかりと挨拶をしてこのチームを開始しよう。

 

 

「芝崎走一、トレーナーと呼んでくれ」

 

「サイレンススズカです。よろしくお願いします」

 

 

 風の中で握手が交わされる。ヒト一人とウマ娘一人。この一室から『トゥインクル・シリーズ』を引っくり返すチームが現れる。

 

 レグルス、それは最も小さく、最も強かったチーム。皇帝と共に消えた星が再び煌めき始めた。

 

 

 

 北海道からの転入生

 地方ダートのエース

 怪我に苦しむ怪物

 お祭りと演歌の新入生

 

 

 

 ──星は輝いている。

 

 

 

 

 

 完

 




完走した感想(今回の読み切りについての活動報告)
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=280844&uid=15254


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キタサンブラック編


※文字数・独自解釈注意


 

 子どもの頃から桜が好きだった。そこに一本通る軸のような理由は無く、意識がはっきりした年齢から何となく好きになっていた。理論と情報を用いて物事を解決してきた俺にしては、ただ訳もなく花を愛でることは珍しい。まあ、春を体現した淡紅色が視界を覆うように咲き乱れるのは綺麗であり、見ていて飽きることは無い。それに、花見などは参加者が日常を忘れて飲み食いするのだから、そういう意味でも気持ちが良いものである。他には桜という字のバランスが好きだとか、なんとなく音の響きが可愛らしいとか。結局のところ細かい理由は有れども、やはり桜を好きになる根本的な理由は見つからずにいた。

 

 そしてそれはトレセン学園でトレーナー業に就いた後も迷宮入りのままだ。いつしか自分の心に問いかけるような子どもの俺は姿を消し、その当時はウマ娘を育成することだけに全力を注いでいた。学生時代に新しい出会いを感じていた桜もその楽しみ方を変え、父のように桜を酒のつまみに仕事の疲れを癒すための対象になる。特に好んでいたのは満開の夜桜が持つ哀愁と美しさであり、思い出されるのはトレセン学園に春が訪れると秘密裏に楽しんでいた季節行事のことだ。

 

 こっそりと夜の学園に酒とつまみを持ち込み、トレーナーの権力で手に入れた鍵を使って屋上へ忍び込む。そして学園を染める夜桜と遠くで輝く都会のネオンの景色を眺めて、桜の乗った春先の冷たい風に煽られながら食事を取る。少し焦げのある焼き鳥に、触感の強いタコと胡瓜の酢の物、そんな簡単な料理が外ご飯効果と景観の良さで何倍も美味く感じるのだ。

 

 そうして少し酔いが回ってきた時に担当ウマ娘が現れる。その日の練習を終えて、しっかり汗を流した後に学園の見回りと称して花見に参加する。しかし、その手にはしっかりとここで飲むためのソフトドリンクが握られ、遠慮がちに俺の隣に腰掛けるのだから可愛い奴である。話し相手が登場したことで俺は調子に乗り、酔った勢いで本人を横にそのウマ娘の武勇伝を語って、彼女は照れながらドリンクを飲む。数分経つと気分が良くなった彼女もダジャレを連発していて、俺も馬鹿みたいに笑い声をあげるのだ。

 

 そうすると副会長が怒り心頭でやって来る。貴方たちはトレーナーと生徒会長の自覚があるのかと、お決まりの台詞を添えて。どうせ反省しない俺たちは形だけの謝罪を入れ、宥めるように紙カップを渡して飲み物を注ぐ。小言を吐く彼女が腰を下ろせばお決まりの形の完成だ。俺が笑って、ルドルフも笑って、エアグルーヴは溜め息交じりに笑う。夜桜の中で立場を忘れて好き勝手に言葉を発し、ただ純粋にその空間を楽しんでいた。

 

 そして、最後に屋上に来ていたウマ娘も笑顔でその輪に混ざるのだ。先輩たちの話に耳を傾け、誰よりも楽しそうに反応を示す。それがレースの話でも、学校の出来事でも、遊園地に来た子供のように身を乗り出すのだ。彼女にとっては学園全てが新鮮で、全てがレースの糧、バカに真面目で明るかったのはハッキリと記憶にある。そして、いつか皆さんみたいになりますと、彼女が桜に誓って花見が締まるのだ。その瞳を輝かせながら、心の底から自分の未来に希望を抱いていた。──そんなウマ娘がいたのだ。

 

 

 

 *

 

 

 

 今年もトレセン学園に春が訪れた。全国から猛者と称えられたウマ娘たちが何百人も入学し、自分たちが目指す理想に向かって走り出している。とはいえ、入学から一週間が過ぎて今年も既に自主退学者が出たとか出ないとか。秘書補佐で無くなった俺に届く情報は不確かなものだが、火のない所に煙は立たぬと言うものだ。グラウンドから聞こえる生徒の活気が来年の春まで少しでも多く残ってくれることを祈るばかりである。

 

 しかし、今は他人のことより自分の心配だ。春だからとタンポポのように浮かれていて良い立場ではない。数か月前にサイレンススズカを救い、チームとして動き始めた矢先に早速問題が発生している。しかも、その問題は今後のトレーナー業に関わることであり、厄介なことに現状では解決策を導き出せていない。この数日間で色々と模索しているが、サイレンススズカの一件以上に手札が少ない状態で戦っていると言ってもいい。

 

「……チーム過疎!!」

 

 椅子に座ったまま上半身を投げ出す。ぶつけ所の無いストレスが疲労になり、相変わらずの肩こりの音が新品のトレーナー室に響き渡る。新年度が始まったばかりなのに、お先が真っ暗と来た。

 

 我がチームレグルスが抱えている問題は【人数不足】である。有望な新入生が続々と所属先を決める中で、未だに我がチームへの新規加入者は現れない。チームの加入ならまだしも、体験入部どころか見学を申し込む生徒すら訪れないのだ。

 

 勿論、行動は起こしている。校内の掲示板は余すところなくポスターを張って、毎朝チラシ配りを行う。それもチラシ配りに関してはスズカ一人に任せているのだ。俺が配っても生徒が怖がって受け取らないのは初日で判明済み。日々日々チラシの枚数は減っているので、生徒が受け取っているのも確かだ。それならば、宣伝自体が基本的な手法でも認知されていないとは考え難く、生徒が来ないならば認知度以外の原因が考えられる。

 

 ──それならサイレンススズカさん、もしくは芝崎走一(あなた)の評判が悪いのでは? 

 

 たづなさんに人数不足の相談をした際に言われた言葉が頭を過る。ただ、言わずもがな問題の原因は後者だ。絶対にサイレンススズカでは無い。マイル模擬レースでの復活から約一か月半、彼女は期待以上の成績を出し続けている。例えば、先週末に東京レース場で行われた特別競走などは素晴らしい走りであった。スタート直後から二位との距離を一気に引き離し、歓声を独り占めにする完璧な『大逃げ』を披露した。それはもう貫禄のある走りであり、一般観客の入ったレースが2度目だと言って誰が信じようか。

 

 さらに、これらのレースの結果に伴って名前が売れ始めている。模擬レースに尾ひれが付いて噂として広まり、それが下地となって彼女のレースがSNSで拡散されている。『大逃げ』の走りは特徴的で覚えやすく、実力も備わっているので着実にファンが増加している。加えて容姿端麗なことでレース以外の需要も生まれ、今週も取材の予定が二件あり、他にも依頼のメールが複数件届いているのだ。この少ない人数と短い期間でここまでの外部の評価を得られるのは嬉しい誤算と言うしかない。

 

 学内生活でもイメージを損なう行動はしていない。練習は朝から晩まで取り組み、それでもって勉学も問題なし。コミュニケーションも以前より円滑になり、ファンの生徒にだって丁寧に対応出来るようになった。

 

 ……つまり、彼女の成績と人気以上に俺の悪評の方が強いのだ。それを事実として突きつけられるのは流石に堪えるものがある。サイレンススズカのように良い評判であれば、相手も素直に心の内を話してくれるから何を考えているのかが分かる。しかし、悪評であれば発信者の名前は伏せられて、こちらが弁解したところで相手に届くかさえ微妙だ。過去の仕事に不満は無いが、マイナスの好感度を盛り返すことの大変さが今まで以上に身に染みている。

 

「──っと時間だ」

 

 午後の授業が終了したことを伝えるチャイムで意識が現実に引き戻される。急いでジャケットを羽織って、普段はポケットに入れているIDカードを首から下げる。姿見で問題が無いことを確かめてトレーナー室から廊下へ。グラウンドに向かう生徒の流れに逆らい、チラチラと冷ややかな視線を浴びながら目的地である中等部の教室へ向かう。こうして正装にしたのも一応のマナーというより、こういった生徒に怖がられないための偽装工作に近い。一部の生徒以外には、正規職員としての色を強めて会わなければ余計な噂を流されてしまうこともあるのだ。……つらい。

 

「あー……、転入生いる?」

 

 放課後の教室を覗きこむと十数名の生徒が残っており、一人の生徒を囲むように談笑していた。談笑するには人数が多すぎるが、それは転校生を囲んで質問するためであって、実際は喋らず見物人として参加している人数の方が多い。同学年のクラス数が多いトレセン学園では珍しい転入生だ、彼女が戸惑いながらも質問に答えるだけで教室内は随分盛り上がっていた。

 

 しかし、その楽しい学生イベントに俺が介入したことで教室内が静まり返り、廊下で受けたものを上回る冷遇な視線が集中する。若干名の顔見知りである生徒が手を振ってくれているが、それでも教室の空気は極寒状態だ。転入生が最後に俺を視認すると、スクールバッグを抱え、半分逃げるようにクラスメイトに挨拶を済ませる。彼女が廊下に出た瞬間に扉を閉めて冷たい視線を遮断、約一分間繰り広げられた無言の攻防に終止符を打つ。──さて、ここからは気持ちを入れ替えて仕事をしよう。

 

「今回学園案内を担当する芝崎です。よろしくね」

 

「はい、スペシャルウィークです!! よろしくお願いします!!」

 

 元気よく頭を下げるのが今年度の中等部3年で数少ない転入生である。髪型は黒のボブカットをベースに、白い前髪と三つ編みのハーフアップ。身長はスズカより数センチ低いが、ウマ娘としては年齢以上に体が出来上がっている。実際その体の強さは編入試験の実技科目で発揮されており、全体タイムこそ抜きん出た結果では無いものの、彼女の太いトモから生まれる末脚は目を見張るものがあった。しかし、年齢以上に成長した体とは裏腹に思考は素直で幼く、思ったことを素直に喋ってしまう。面接でも理事長を見て「小学生の子がいる」と口を滑らせていたのは実に面白かった。──総評、才能の原石で田舎出身の人懐っこいウマ娘というところである。

 

「んじゃ、まずは体育館からな」

 

 そんな彼女を連れて学園案内を開始、まず見て回るのは競技者向け施設である。体育館からグラウンドまでを巡って、各トレーニング施設の効果的な用途と予約などの使用方法を教える。故郷の田舎町で唯一のウマ娘であった彼女にとっては多くのウマ娘が走っているのは新鮮なのだろう、一つ一つの練習風景に声を上げては紫の瞳を輝かせている。

 

 その次は学習のために利用する施設の案内だ。音楽室や家庭科室などの専門教室、理科室は面倒なヤツがいるから地図で位置だけ教える。これらの教室はトレセン学園であっても普通の学校と特段の違いはない。まあ、各専門教室が第三室まではあって、大学レベルの機材が揃っているくらいだ。少なくともカフェテリアと食堂が無料なことに今日一番のはしゃぎようを見せている彼女には無関係なのだろう。

 

「やっぱりトレセン学園って凄いです!! こんな所に転入出来ただなんて、芝崎さんになんてお礼をしたらいいのか……!!」

 

 スペシャルウィークは学内地図を握りしめて感動を噛みしめる。彼女が言ったお礼というのは編入試験の面接官兼、諸々の手続きの担当が俺だったからだろう。去年秋に彼女の母親からの転入について質問されたことで始まった関係だったが、気が付けば正式に転入するまで手続きを担当していた。

 

 それに彼女は知らないが、実技試験のレースが及第点、筆記がボロボロの落第点数であった彼女を転入最後の一枠に押し込んだのは俺だ。彼女というウマ娘が掲げる目標は他の受験生よりも意志が固く、この学園で戦い抜ける強さがあると評価した。しかし、俺は戦うために必要な要素を評価しただけであり、与えたのは機会だけだ。今後レースで勝てるかは分からないし、学園に残れるかも彼女次第である。──まあ、それは理事長秘書補佐としての考えであり、それを辞めた今は一人のトレーナーとして喉から手が出る程スカウトしたいわけだ。

 

「礼なら要らないよ。学園を楽しんでくれたらそれで十分」

 

 嘘で固められた職員用の台本を読む。普段の俺ならこんなことは言わず、学園の厳しい現実について意識付けるだろう。しかし、新しい生活に心を躍らせる生徒の前では流石に優しさが勝る。それにこの学校案内はクラスメイトとの顔合わせが上手くいっているのか、新しい生活に馴染むことが出来るかの再確認が含まれている。コミュニケーション力とメンタルの強さは面接試験で測っているが、それとは別に新しい環境に馴染めないなどの問題は現実に起こる。

 

 ただ彼女の話を聞いていると、既にエルコンドルパサーとグラスワンダーを中心として関係が作られているらしい。新生活に戸惑うことはあるが、これなら順調に学園生活に馴染めるとのことだ。この様子なら親しい友人になれる日も近いだろうし、あの辺りの生徒なら互いに刺激し合えるだろう。転入に関わった人間としては喜ばしいことだ。

 

 そして、喜ばしいことがもう一つ。どうやら人生で初めて憧れのウマ娘ができたらしく、学園生活に俄然やる気が出ているらしい。しかも、そのウマ娘は入寮日に見たレースで一目惚れしたウマ娘であり、なんと我が校の生徒だと言う。

 

「サイレンススズカさんが綺麗でカッコよくて!! 私の憧れなんです!!」

 

 その一言を皮切りに、強い圧で我がチーム唯一の選手について語り始めた。レースとウイニングライブは夢見る少女のような詩的な表現で纏められ、容姿の美しさは前提条件として、性格までもが完璧だと褒めたたえる。さらには運命的にも寮が同室であり、転入後の短い期間で色々とお世話してもらっているらしい。彼女曰く、自分がイメージしていた完璧な都会のウマ娘さんらしい。

 

 担当トレーナーの俺が嬉しさよりも、若干引いてしまう熱量である。面白いからと彼女たちを相部屋にしなければ良かったのではと、過去の自分の仕事に不安が芽生えた。……ちょっとだけ、ほんの少し、数ミクロンだけサイレンススズカが襲われないか心配になる。

 

「だから、私もサイレンススズカさんがいるチームに入りたいんですけど……」

 

 しかし、彼女の所属チームの話になると笑顔が一転する。しょぼしょぼと落ち込んだ生徒会長のような表情で口から漏らすのはレグルスのトレーナーの噂、──俺の噂についてだ。余計なことを吹き込んだのはクラスメイトや体験入部先の生徒たちで、冷徹無慈悲な悪魔のトレーナーに死ぬほど走らされるだの、囚人のような管理をされるだの言われたらしい。それが母親から言われていた『都会の人間に気を付けろ』という注意と被り、踏み出せないとのことだ。おいおい、死なせる訳がないだろう。……命を懸ける覚悟が必要なくらいである。

 

「……なら、俺のチームに少し寄っていかないか? チーム探しのヒントが有るかもしれない」

 

「ほ、ホントですか!! 何から何まで、本当にありがとうございます!!」

 

 この反応、噂のトレーナーが俺とは知らずに喋っている。元々体験入部の誘いをするつもりで案内係を申し出たが、それなら正体は秘密にしたままトレーナー室まで連れて行こう。放課後になってサイレンススズカも部屋に居るはずだ、彼女も自分の状況に気が付くに違いない。──リアクションが楽しみだなあ!! 

 

 

 *

 

 

 トレーナー室の扉を開く、部屋の中ではサイレンススズカがいつも通り(・・・・・)に自分の疲労回復ドリンクと俺の珈琲を淹れていた。それまで笑顔であったスペシャルウィークは固まるように廊下で立ち止まり、その表情のままで部屋の中を見つめる。数秒して状況を理解し、何度も瞬きをした後に、カタカタと錆びたロボットのように俺の方に顔を向ける。それに対して俺は悪役のように口角を上げ、歓迎の意味を込めて肩を掴んで逃げ場を塞ぐ。後悔の絶叫が学園に響いたのは数秒後のことであった。

 

「す、すみませんでした!! 私、とんでもなく失礼なことを……!!」

 

 期待通りの反応を笑い飛ばして、廊下で頭を下げ続ける彼女を部屋に押し込む。反応で遊んではいるが我がチーム初の来客者である、勧誘と活動内容は丁寧にしなければならない。サイレンススズカに飲み物を一つ追加で注文し、それを飲ませて落ち着かせる。

 

 彼女が冷静になったところで勧誘を開始、チームの今後の目標と現段階でのスペシャルウィークの育成プランを提示する。しかし、最近までレース経験すら無かった彼女は説明の多くに疑問符を浮かべ、最後には分かってますと見栄を張る。……まあ、この辺は追々知識が付けば良い。それに授業のような堅苦しい話よりも、目の前の憧れのウマ娘と話す方がチームに興味を持ってもらえるだろう。

 

「じゃあ、サイレンススズカに質問とかあるか? 選手目線での意見が聞けるはずだ」

 

「いいんですか!! えっと、その、ならサイレンススズカさんは何でこのチームに入ったんですか……?」

 

 真っすぐ飛んできた質問にサイレンススズカは口に手を当てて沈黙を生む。初っ端からチームが抱えている問題の核心を突いてきた。この質問は他のチームでなら至極当然的であり、質問の意味も発言そのままの内容になる。しかし、我がチームの場合ではこの質問に二つの意味を持つのだ。まずは何故俺と関わろうと思ったのか、そして現在進行形で関わっていて大丈夫なのかについてだ。スペシャルウィークは大分不安ながらに質問したのだろう、表情に出やすい性格、むしろ今は目線が俺に僅かながら向いているので分かる。ただ、この程度で怒ることなど無い、それよりもサイレンススズカがどのように答えるのかが気になる。回答によってはスペシャルウィークの勧誘に失敗するし、勧誘とは無関係で彼女が持つ俺への評価は聞いてみたい。

 

 ──そうね、とサイレンススズカが沈黙を破る。一体どんなことを語るのだろうと二人して生唾を飲む。しかし、最初に発せられたのは俺たちの気持ちをヒラリと躱すような一言であった。

 

「……トレーナーさん、少し廊下で待っていてくれませんか?」

 

 突然の依頼に驚きで目が開く。その問いの真意を聞き出したいところだが、彼女の瞳が覚悟の決まっている時と同じなので諦めるしかない。こうなると説得しても時間の無駄だ、はぐらかされて結局廊下に出されるのであろう。仕方が無いので、話が終わったら声を掛けるように残して離席するしかない。

 

 廊下に出て扉を閉める、残念ながら二人の声は漏れ聞こえてこない。時折スペシャルウィークの悲鳴なのか歓声なのか分からない叫びだけが届くだけ。サイレンススズカは何を語っているのだろうか。チームに所属する理由を語って映画を見ているような声が出るとは思えない。……俺、無意識でセクハラとかしてないよね、それでスペシャルウィークが悲鳴を上げているとかじゃないよね。サイレンススズカからの好感度が低いとは考えたことは無かったが、それでも感情は理論のように固定化しきれるものではない。悪いイメージはしたくないが、もしかしたらは有り得るのだ。不安で部屋を覗きたい気持ちに駆られるが、それこそ行動一つで好感度など一気に右肩下がりになる。……うん、これからの身の振り方にもう少し注意しよう。

 

 己の行動が不快にならないよう肝に銘じていると、話を終えたサイレンススズカが扉を開いて俺を部屋に戻してくれる。──サイレンススズカの態度に変化は無いが、スペシャルウィークは背中を反らしながら手で顔を覆っていた。手の隙間から覗く肌と耳が紅く染まり、謎の身悶えまで起こしている。

 

「お母ちゃん、やっぱり都会は進んでるよぉ……」

 

「……なあ、何喋ったんだ? 部活トークでこんなに真っ赤になることある?」

 

「ふふっ、内緒です」

 

 不思議な行動を起こすスペシャルウィークを置き去りに、上機嫌なサイレンススズカは何事も無かったように自分の席に戻る。ぱたぱたと熱を仰ぐスペシャルウィークの回復を待ち、体験入部でもしてみないかと誘うタイミングを計るのだが、彼女は飲み物を一気に流し込んで喉を潤すと俺の予想を超えた提案を口にした。

 

「芝崎さん、私感動しました!! このチームに入ります、入らせて下さい!!」

 

「……じゃあ、明日入部テストするから。ジャージ持って来て」

 

 そんな突然入部を決めるなど、サイレンススズカが語った内容が一層気になってきた。俺も交渉術には自信が有る、だからって数分でここまで他人を熱くさせる話は持っていない。なんとも年下に話術で負けた感覚が否めないが、トレーナーとしては先にチームメンバーが増えることを祝わなければ。入部テストなどと言ったが現時点でのタイム計測をするだけだ、そこで彼女を落とす気はない。編入試験で実力は確かめているし、レグルスで戦い抜ける才能もある。

 

「これでボーダーまで残り三人か……、今のペースだと期限ギリギリだな」

 

「そうですね、チラシ増やしますか?」

 

 緊張が緩まり俺とサイレンススズカの意識は次なる勧誘に流れる。今回はスペシャルウィークの学園案内をした延長でスカウトに成功したものの、その機会が無ければ彼女が加入することは無かっただろう。この加入から再び学園の噂になることを利用したいが、どうせ誘拐されたとかの方で盛り上がるだけだ。申し訳ないがスペシャルウィークにもチラシ配りに参加してもらうのが良いだろう。加入早々に地味な作業になるが現状は他に手がない。

 

「あの、それなら一つ思いついたのがあるんですけど」

 

 おずおずとスペシャルウィークが挙手する。加入(仮)して直ぐに意見が言えるのは偉いな。どうだ、チラシの人参君と蹄鉄ちゃんは可愛いだろう、原案は俺なんだ「いえ、そこまで可愛くは無いかなと」……嘘だろ、あんなにサイレンススズカも理事長も褒めてくれたのに。たづなさんに至っては時代を超えた芸術作品だって言っていたんだ、確かに聞いた。……え、目逸らした? サイレンススズカが申し訳なさそうに目を逸らした!? ──まさか、俺って絵が下手だったのか? 

 

「えっと、話を進めて良いですか?」

 

 ……はい。

 

「その、私みたいに一人に対して話をするのはどうですか? きっと同じように感動してくれますよ!!」

 

 スペシャルウィークはキラキラした瞳で新たなスカウト方法を提案してくれる。なるほど、大勢に対して広告を出すのではなく、サイレンススズカの話術を利用して集中的に説得を行う作戦だ。彼女の言葉に動かされたスペシャルウィークならではの発想で、現状打破の可能性もある。しかし、それは過去に俺も考えている。一対一で話すことは効果的な交渉方法にはなるが、それは話の席に着く人がいることが大前提だ。レグルスに生徒が来ないのだからその条件が揃わない。まさか頭陀袋と荒縄で縛り付けろと? どっかの問題児みたいな作戦はダメだぞ。

 

「……えっと、そこは一年生を。何と言うかアレ(・・)が無い人たちをこう何とか連れてきて……、どうにか!!」

 

 なんとも根性的な作戦ではあるが、先入観があまりない新入生にターゲットを絞ると言うことだろう。去年から居る在校生よりは、新入生の方が勧誘の席に座らせられるかもしれない。少なくとも説得時間は稼げるだろうし、それを二人に任せれば可能性は更に高くなる。どうせ打つ手はない、彼女を信じて一対一での勧誘を考え直してみよう。

 

 唯一の壁は入部前に一度は俺に会う必要があること。契約するのであればトレーナーによる育成プランの説明が条件であるし、怪我の保険や勝負服などの手続きもある。加入してくれれば実績を上げさせて信頼を勝ち取ることも出来るが、やはりファーストコンタクトは課題のままだ。

 

 ──学園の新入生の情報を脳内で検索する。条件としてはスペシャルウィークのように感情の変化が大きいこと。サイレンススズカの話で俺への先入観が変わらなくてはならない。次に誰にでも優しく、寛容さのあること。噂は噂であり、その噂が全てでは無いと割り切れる生徒の方が説得も容易になる。そして最後、言い方は悪いが入学前の実績が無い生徒が良い。過去それなりに勝っているウマ娘なら既に他チームからスカウトを受けているだろう。そんな生徒が時間を割いて悪評チームに付き合う必要は無い。しかも、実績の無い生徒でも現在体験入部などをしていれば似たような理由で拒否される。だが、この学園に入る生徒であれば直ぐにでもチームに所属して公式レースに出たいのが普通だ、これらの条件全てをクリアする新入生が運よく転がっていることなど……。

 

「──……あ、居た」

 

 一人だけではあるが、確かに脳内検索にヒットした。条件を全てクリアし、尚且つ俺との面識さえ有る生徒。俺への先入観だけなら好意的な方であるかもしれない。サイレンススズカに出会う前には彼女の入学を楽しみにしていたのだった。忙しかったとしても何故今まで忘れていたのだろう、自分の記憶力が情けない。

 

「すまん、スペシャルウィーク。明日の入部テストに参加者が増えるかもしれない」

 

 スペシャルウィークから笑顔の承諾と頑張って下さいとの応援を受ける。サイレンススズカに残りのチーム説明を任せて俺は行動を開始、トレーナー室を出て廊下を走る。彼女の居場所が分からないので今回目指すのは放送室だ。スペシャルウィークをトレーナー室に連れてきた時以上に強引な手段だが、トレーナーとして合法の範囲での行いであるから許して欲しい。

 

「中等部のキタサンブラック、今すぐ教室に戻って下さい。繰り返します──」

 

 ──いや、本当にごめんね!! 

 

 

 *

 

 

「もう、先生に怒られると思ったんですよ!!」

 

「ごめんね、カフェテリアで奢るから許して」

 

「え、ホントですか!! ……って、それ無料じゃないですか!!」

 

 そう言って俺が呼び出した少女、キタサンブラックは収まりかけた怒りを再加熱させて頬を膨らませる。放送を聞いて教師に怒られると勘違いした彼女は、緊張で耳を垂らして教室に戻ってきたのだが、俺を見た途端に顎が外れんばかりに口を広げて罠に掛かったことを理解した。その後はこの通りに御立腹であり、誰もいない教室で怒りをぶつけている。数年ぶりの会話はもっと窮屈になると思っていたのだが、以前のように近い距離で接してくれるのは有難い。このまま昔のように気兼ねなく話していたいが、怒らせたままでも勧誘に悪影響を及ぼしてしまう。

 

「でも、成長したね。美人さんになったから最初は気が付かなかったよ」

 

「──あ、え、そうですか。えへへ……」

 

 露骨な持ち上げだが彼女には効いたようだ。艶のある黒髪を指で梳かし、恥ずかしがって頬を染める。はい、可愛い、……間違えた、軌道修正完了である。

 

 だが、言ったことは事実だ。本当に成長していて一瞬だけキタちゃん本人か疑ってしまった。喋っている感覚では子どもの頃と同じく周りを盛り上げる活発さと、騙されても頬を膨らますくらいで終わらせてくれる寛大な性格のままである。髪型も長めのショートヘアのままで、右耳に着けている桜の飾りも変わらずと、以前の面影は残ったままだ。しかし、体の成長はウマ娘の特異性が色濃く表れており、中等部三年のスペシャルウィークと身長は同程度、加えて下半身はかなり大きい。……セクハラではないぞ、走る競技者として重要な才能が有ることが明らかになっているのだ。これに期待しないならばトレーナー失格だろう。

 

「キタちゃん、突然だけど聞いてほしい話があるんだ」

 

 照れているキタちゃんに勧誘を試みる。勧誘と言っても話のほとんどが人手不足によるチームの危機であり、急な勧誘のために彼女専用の育成プランも提示出来ていない。今提示できる競技者にとってのメリットは、人数の少なさによってチーム競技に出場しやすいことだ。しかしそこは俺とキタちゃんの仲であり、放課後に困っている人を助け続けて体験入部が出来ていない彼女の立場と嚙み合った。

 

「だから明日にでも入部テストを受けて欲しいんだ。我が儘だけど頼めないかな」

 

「何を言ってるんですか!! 私、走一さんのチームなら喜んでチャレンジします!!」

 

 ガッツポーズを作って意気込むキタちゃんを見て安堵する、どうやら狙い通りに彼女のスカウトには成功したようだ。スペシャルウィークだけの加入にキタちゃんも加わるのなら棚から牡丹餅である。今晩は彼女の育成プランを制作し、それを明日の入部テストの結果に合わせて改変する。忙しくはあるが辛い事ではない。後は彼女のお父様に連絡を入れるべきか、あの人は俺の過去を知りつつも、それでもトレーナー復帰を望んでくれていた人だった。感謝と報告を含めて久しぶりに食事にでも誘おう。

 

「じゃあ、明日は教室で待ってて、迎えに行くから」

 

 トレーナー室に戻って作業に取り掛かろうとキタちゃんに別れを告げるが、その彼女にスーツの端を握られて俺の足は止められる。振り返ると先程までのやる気満々の様子が無くなっていて、何かを噛みしめるような表情のキタちゃんが立っていた。

 

「私をスカウトしてくれた理由って、……何ですか」

 

 夕焼けに照らされた彼女の声はウマ娘がトレーナーに対して質問すると言うより、まるで告白をするかのような緊張に近い。きっと彼女が突然しおらしくなって、逆光のせいで顔色が分からないからそう見えてしまったのだろう。──ただ情けないのは、今まで聞いたことのない彼女の真剣な声色に俺の思考が完全停止したことだ。彼女の質問から逃げようにも桜を模した髪飾りへと視線が移り、回答が上の空で考えたような当たり障りのないものになってしまう。

 

「……ああ、才能があると思ったからね。期待してるよ」

 

「──はい。ありがとうございます」

 

 感謝を述べる彼女がやけに小さく見え、自分の選択肢の成否に疑問を持ったまま教室を後にした。

 

 

 *

 

 

 翌日の放課後、予定通りにジャージ姿の二人がグラウンドの一画で準備体操を始めた。かなり気合の入った表情であり、周りで練習をしている新入生歓迎ムードのチームとは空気感が異なっている。正直そこまで緊張しなくてもとトレーナーである俺自身が思う。我がチームの入部テストに基準タイムは無い。酷すぎれば断りもするが、基本的に求められるのは自分の走りが出来るのか、群雄割拠のレースで輝けるだけの何かを有しているかだ。簡単に言えば信念と個性が有れば万々歳、喜んで歓迎するということ。人数不足であることから贅沢など言えないが、スペシャルウィークがそれを両方備えたウマ娘であることは理解している。それにキタちゃんも走る才能が有ったはずだ、こちらとしては多くを心配していない。

 

 では、ここで入部テストの流れについて説明をしよう。レースは芝の中距離設定、ざっくりと2000M。今回のコースは入部テスト用の簡易コースなので正確さに欠けている、そのためタイム誤差を0.5秒で計測して考えることにしている。コースの問題点は、他に練習している生徒がいるために集中が難しいことだ。特にスタートの出遅れが注意点であり、レース全体を通しても周りの景色に左右されないコンセントレーション状態の維持が必須だ。因みにスタートの合図はサイレンススズカが握っている旗で代用する。俺はゴール地点のライン上、遠く離れた席でタイムを計測し、その後に彼女たちへテスト結果を発表する予定だ。

 

 そうこうしているうちにスタート姿勢を取り始めたので、電子時計を片手に双眼鏡を覗いて姿を拡大する。体が静止すると直ぐに赤い旗が上がり、二人が芝を巻き上げて飛び出した。──出遅れてはいないのだろうが、やはりサイレンススズカに比べると加速力に欠ける。お世辞にもスタートの技術に褒められる点は無く、良くも悪くも真っ白な新人の走り出しでレースが始まった。キタちゃんが逃げ、スペシャルウィークは先行と情報通りの脚質による展開だ。

 

 最初の1・2コーナーを無難に終えると、向直線に入って二人が再び加速を試みる。技術が劣ってカーブでの失速を免れぬなら、その分は直線で取り戻すという作戦なのだろう。短い猶予で作戦を練ってくれたのはトレーナーなら評価を高くするポイントだ。それにキタちゃんの走法が誰を手本にしているのかは分からないが、スペシャルウィークはサイレンススズカに助言を求めたのだろう、直線のアプローチ方法が彼女のそれに近い。ただ、約一日だけでその技術を模倣して、尚且つ実践可能なレベルに仕上げる才能は恐ろしくある。きっとこの広いグラウンドでそれを感じ取っているのは俺とサイレンススズカ、そして逃げているのにバ身差が離れないことに驚くキタちゃんだけだ。

 

 キタちゃんにとっては予定していたレース展開がいきなり崩れて、レースの三分の二以上の距離を残して先行同士の対決のようになっている。加えて、序盤に逃げる為に使ったスタミナの分だけ残りのスタミナに差があり、スペシャルウィークはキタちゃんの背後に張り付いているために空気抵抗で余裕を保てる。キタちゃんがこのまま引き離せなければ最後の直線まで二人の消費スタミナには大きな違いが生まれ続け、最終直線でガス欠になったところを抜かされて決着だ。だからキタちゃんは焦る、焦って計算していないレース展開に切り替える。

 

 しかし、焦りは雑念だ、そこで舵を切ったとしても良い影響はない。事前に幾つもの計画を練り、それを取捨選択して戦うのであれば理解しよう。しかし、急場で選んだ作戦に体は追いつかない。彼女に心技体が備わっていたなら、サイレンススズカが模擬レースで披露した回転受けのような咄嗟の閃きにも対応できるが、残念ながら現段階で技術面が圧倒的に不足しているキタちゃんでは届かないレベルの話だ。実際、引き離そうとペースを上げたのに、スペシャルウィークに対応されて一定の距離は保たれたままである。更には無理な加速を試みたことでフォームも崩れ、徐々に減速が始まっている。至極シンプルなガス欠だ。

 

 その後は想像に沿うようにレースが展開した。最終コーナーで余裕を持ったスペシャルウィークが外に膨らみ、大きく踏み出してキタちゃんを追い越す。そして勢いそのまま、直線でも自慢の末脚を披露してゴールラインを通過した。その後約1.5バ身差を離されてキタちゃんがゴール、ヨレヨレの走りでどうにか完走と言ったところだ。

 

「……よし、じゃあスペシャルウィークからな」

 

 額の汗をタオルで拭う彼女を呼ぶ。講評の時間に表情が強張っているが彼女を悪く言うつもりはない。今回のタイムは学年平均程度、転入して早々にトレセン学園の基準に達しているなら完璧だ。それに転入前に練習を積んだのか末脚やコース取りの技術が向上している。不安点は勉強面だけであり、レースに支障が出ないように赤点は回避してくれれば良い。文句なしに正式加入のオファーをしよう。

 

 しかし、その前に一つだけ答えて欲しい質問がある。この質問で確かめたいのは実力とは別の側面、ウマ娘として最も必要な要素である本能、そしてレグルスのメンバーとして戦える精神を持つのかだ。

 

「スペシャルウィーク、君の目標は?」

 

 俺の質問に彼女の表情が変わる。評価を聞いていた時の不安さは一瞬で消え、少女には似合わない剛毅な顔つきになる。これは最初に彼女と会った時、そして編入試験の面接時、彼女の覚悟が問われる時に何度か見てきた。今日は芝と土に汚れた体操服が風になびく姿が相まって、その姿は少年漫画の主人公な凛々しさがある。

 

「日本一のウマ娘になって、お母ちゃんたちに喜んで貰うことです」

 

 ──そして即答、一秒にも満たない時間で回答を弾き出す。これは簡単なようで難易度が最も高い質問、アスリートとして自分が目指すものがどれだけ具体的に見えているのかを明らかにする。そして答えを出すのが早ければ早いほど、それを常に心に秘め、揺るがない目標として掲げられている証拠にもなるのだ。そこに関して彼女は一流、この手の質問にだけは誰よりも早く答えていた。それが非現実的だと笑われていても賛同はせず、転入に関わる面接官相手でも折れなかった。だから彼女の気高い精神に惚れて、周りの意見を押しのけて推薦した。コイツは折れない、折れても絶対に帰って来る、だから強くなる。

 

「よし、じゃあ明日から朝練あるから、説明はサイレンススズカに聞いてくれ」

 

 ジャケットから二つ折りの紙を取り出して渡す。彼女はプレゼントを扱うように丁寧に紙を開き、ページ最上部に記された入部届の字を読んで喜びの声を上げる。何度も本物であることを確認してから大切そうに胸に抱え、深くお辞儀をして頑張りますと宣言する。そして意気揚々とスキップをしながらサイレンススズカに正式加入の報告をして、今後の練習について聞き始めた。

 

 さて、次はキタサンブラックの番だ。彼女は悔しさを全身に滲ませて自分が走ってきたコースを見つめていた。名前を呼んでも反応が無いので、俺から彼女へと向かって肩を叩く。すみませんと色々な意味が込められた言葉が小さく零れた。しかし、俺が頼んで走って貰ったのだから謝る必要は無いし、それに彼女にも酷評などしない。途中までは年上のウマ娘に喰らいついたのだから褒めなければいけないだろう。それに最後まで諦めない意思や、負けて悔しがれることは成長に不可欠な要素だ。

 

「じゃあ、キタちゃんの目標を聞かせて欲しいな」

 

 先天的な要因のある体も年齢的には完璧だし、今後の発達も見込める。技術は追い追いで身に付けていくもので今は足りなくとも良い。スペシャルウィークが迫った時も、もう無理だと飲まれずに抗う姿勢も良かった。結果的には技術不足で自滅したことになったが、それ自体はアスリートとしては間違っていない。一年生でこれだけの実力なら、トレセン学園現最強チームであるリギル以外は何処にだって加入の許可が下りるだろう。──だからこそ、高評価を受けて喜ぶキタちゃんにもスペシャルウィークと同じ質問を尋ねる。彼女もレグルスで戦える精神を有しているのかと、それを彼女の目標に問う。

 

「私は、父さんみたいに誰かに勇気や元気を与えて、憧れのテイオーさんみたいな強くて速いウマ娘に──!!」

 

 ……やはり彼女も成功するだろう。スペシャルウィークのような回答速度と強度とは言わないが、確かな思いが込められた言葉が返ってきた。彼女が幼い頃に何度も語ってくれた夢は変わらず、その過去を思い出して頬が緩む。それでいて意志が固くなっているのだから、真っすぐ成長してくれたことに嬉しさも感じる。彼女も同じように過去を思い出したのか、それとも俺の表情を読んだのか、笑みを浮かべて恥ずかしそうにする。

 

 だから本当に残念に思うし、こちらから誘ったことに罪悪感が芽生える。彼女の掲げた目標は俺が求めたレグルスで戦える精神を内包していない。ここに入っても活躍は出来ずに終わってしまうだろう。──だから、俺は君を合格にはさせられない。

 

「すまない、不合格だ。必要であれば他のチームに推薦を書こう」

 

 

 *

 

 

 夜のカフェテリア、そこに漂うのは食事処に似つかわしくない陰々とした雰囲気であった。広いスペースの静寂を誤魔化すように料理音が響き、トレーナーとウマ娘が各々の作業を無言で進める。週に数度行われるチーム全員での食事はレグルスにとっての基本習慣だ。過去にもチームメンバーがコミュニケーションを取り、各員の身体作りに必要とされる食事への理解を深めることを目的に行われていた。現在こそメンバー不足で、トレーナーである芝崎走一が唯一のメンバーであるサイレンススズカ専用に料理を振舞うだけになっているが、それでも昔から目的は変わらずにいる。

 

 ただこの食事も今回は特別、新加入ウマ娘であるスペシャルウィークの歓迎を含めた食事会になる。しかし、席に座って料理の完成を待つ彼女は、憧れのウマ娘が所属するチームに加入出来た喜びに浸っているとは言えず、むしろ窮屈そうに体を縮めている。

 

「……良かったんですか?」

 

 サイレンススズカはサラダ用のレタスを千切りながら、キタサンブラックへの不合格について再確認を取る。単にトレーナーが求めていた要素が欠けていた、だから不合格と括ってしまえば終わる話ではある。しかし、芝崎走一とキタサンブラックが旧知の仲だと知ってしまえば、後に引くものが無いのかを確認するのは相方の彼女なら当然のことだ。それに、不合格を言い渡されたキタサンブラックの様子は今後の選手生命を危惧するほどに愁然としていた。彼女は息を飲み事実を受け止めると、強く拳を握り締め、溢れんばかりの涙を堪えながらグラウンドを後にした。

 

 それは芝崎走一に救われたサイレンススズカにとっても衝撃的な結果だ。指導は冷徹であっても根本がウマ娘に対して優しく、終止符を打つ一歩手前まであった自分を救ってくれた彼ならば、最後には何らかの理由を付けて加入をさせると思い込んでいた。しかし、彼はキタサンブラックの態度を見ても顔色一つ変えず、数秒後には何事もなかったように歓迎会へと話題を変えていた。だから時間を掛けて、タイミングを計って、一番近い距離で彼の心を確かめた。

 

「……あれだと強くなっても、最強にはなれないからな」

 

 男は調理の手は止めず、レグルスのトレーナーとしての合否の基準を説明し始めた。

 

 前提として、レグルスというチームはトレセン学園最強であった過去、つまりは全国で最も勝ちを重ねていたチームであった過去を持つ。特に、芝崎走一がトレーナーを務め、シンボリルドルフが現役であった時代は非常に高い勝率を誇っている。当時のレグルスは個人・チームのレースを問わず勝利を掴み、模擬レースや特別競走などの祭り競技でも連勝を記録していた。シンボリルドルフに関しては強すぎる余りにレースが詰まらないと批判を浴び、ドーピングと買収を何度も疑われている。勿論それは目に見える形で払拭したのだが、彼女の強さを語る上で欠かせないエピソードとして有名だ。それこそレグルスに加入して入賞出来なかったウマ娘がいれば、世紀の一大事件のように学園中に記事が張られることもあったのだ。

 

 そして、数年ぶりに復活したところでレグルスが最強を目指すチームであることに変わりなく、以前と同じところに辿り着くにはレースに全てを捧げる覚悟が必要になる。練習は数センチ単位での調整が入り、睡眠や食事でさえも体作りの一環として意識づけされる。生活が常時トレーニングとなり、結果を出し続けていかなければならない立場に置かれる。どのスポーツ世界でもトップに立つなら必要なことばかりだ。しかし、アスリートとして極限まで突き詰めていくと、生半可な心が折れるのも時間の問題である。

 

 それにウマ娘というのはヒトのアスリート以上に『心』の重要度が高い。固有・領域(ゾーン)は自身の信念や夢が反映される能力であり、長く研究しても発動方法は不確かなままで。日々の練習でも習得は不可能とされているものだ。加えて、ウマ娘というのは、運命的な相手とは自然と熱戦を繰り広げるようになっている。まるで神様が事前に決めていた(・・・・・・・・・・・)、そう思わせるレースが大一番で生まれるのだ。だからその運命的なレースでコンマ一秒を勝ち切り、ウマ娘の頂に上るには強靭な精神力が求められる。つまり、アスリートに必要な心技体で最も解明されていない『心』が、ウマ娘にとっては最も勝負を左右するのだ。

 

「──最強を目指す覚悟が見えないなら、レグルスには入れられない」

 

 サイレンススズカは記憶を読み返す。スペシャルウィークは母の為に日本一のウマ娘になると宣言した。言わずもがなウマ娘にとっての日本一は『トゥインクル・シリーズ』で勝つことであり、それはレグルスの目指す場所とも同じだ。キタサンブラックは父のように、トウカイテイオーのようにと言った、確かにこれは最強でなくとも叶えることが出来る目標だ。レースに負けても人々に勇気や元気を与え、強く生き抜くウマ娘はいる。ならばキタサンブラックは最強を目指すレグルスで戦う必要が無く、覚悟としても弱いのだろう。

 

「分かりました、ありがとうございます」

 

 トレーナー自身が選択に迷っていなければ、サイレンススズカもそれを受け入れるだけだ。第三者の自分が考え込む必要は無く、普段通りに接するのが吉であろう。彼女はその場の雰囲気を和らげるように微笑んで、出来上がった料理を並べ始める。その様子を見ていたスペシャルウィークも大丈夫そうだと少しずつ不安の色が薄れて、腹の虫を抑えながら並べられた料理に気持ちを向けた。こうして気分を切り替えて歓迎会を楽しもうと三人が席に着くのだが、緊張が解けて余計なことを口にしたスペシャルウィークによって雰囲気は再び変化することになる。

 

「そういえばトレーナーさんって、キタサンブラックちゃんはキタちゃんって呼ぶのに、サイレンススズカさんは縮めて呼びませんよね?」

 

 理由はあるんですか? と他意なく無邪気に疑問をぶつけて、彼女自身の集中と目線は皿の方へと戻っていく。これは本当に意味の無い質問で、スペシャルウィークにとっては答えが返ってこなくとも次の話題の種になれば満足であった。初対面の人たちが趣味は何ですか、出身地はどこですかと、他愛もない質問で互いを知り合うことが往々にしてある。彼女はそれと同じことをしたのだ。

 

 まず、この男がキタちゃんをニックネームで呼ぶのは昔のなごりであり、他に理由は無い。次にサイレンススズカをそのまま呼ぶ理由であるが、実はこちらも特筆するものは無いのだ。初めて会ったあの日から何となくの流れで継続していただけである。しかし、忘れてはならない。彼はシンボリルドルフのことをルドルフと呼び、たづなさんに至っては名前で呼び合っている。基本的にこの男は年齢性別を問わずに気軽に接するのがデフォルトなのだ。──つまり本人が自覚していないだけであり、彼がサイレンススズカを気軽に呼ばない理由は明確にある。

 

 サイレンススズカは嫁ムーブが強いのだ。

 

 最初は慣れない成人男性相手におどおどしていたものの、今となっては彼の隣に居ることが当たり前になっている。スペシャルウィークがトレーナー室に訪れた際も彼女は慣れた手つきで二人分の飲み物を淹れていたし、今回の調理も言葉を交わさずに役割を分担して、その工程を滞りなく進めていた。今もそうだ、四人席であるのに何故この二人は横並びで座っているのか。サイレンススズカとスペシャルウィークが生徒として横並びで座るのなら分かるが、これでは夫婦とその友達のような構図である。

 

「それじゃあ……、トレーナーさん、試しにスズカって呼んでくれませんか」

 

「え、恥ずかしくない?」

 

 更に怖いのは二人とも自覚が無いと言うことだ。周りの生徒は数か月だけで熟年夫婦に近い連携を取っている彼らを不思議に思っているのだが、当の本人たちはそれが変だとは微塵も思っていない。トレーナー側は時たま距離が近いなと違和感が有るが、それは彼女が誰にでも優しく、唯一のチームメンバーとして甲斐甲斐しく世話をしてくれるからだと勝手に解決した。ウマ娘側も自分の行動が普通だと思っており、なんならトレーナーよりも今の生活に慣れてしまっている。──それもそのはず、それまで異性関係に乏しい生活を送った彼女がトレーナーとの関係を築くためにと、無意識に選んだ手本は自身の両親であった。だから自然と言動が母親に似てきて、トレーナーにも似た何かを重ねている。しかし、そうなるともう色々と近い、匂いや呼吸を感じるのは日常茶飯事になり、広いトレーナー室が無駄になっている。健全な男子高校生ならば、この子は俺のこと好きなんじゃないかと勘違いするだろう。まあ、ほとんどが思わせぶりな態度とか、別にその気は無いとか、友達だからとか言われて終わることになる。

 

「ならトレーナーさん!! 私はスぺって呼んでください、お母ちゃんはそう呼んでましたから!!」

 

「うん、スぺちゃんは呼びやすいな」

 

「ウソでしょ……」

 

 ──ただ、サイレンススズカは普通にトレーナーのことが好きである。先頭どころかトレーナーの隣すら渡す気が無い。本人は自分の心に気が付いていないが、それが無意識のうちに今までの行動のトリガーを握っている。しかし、これも仕方ない。人生を救われるだけでも好感度が高いのに、なし崩しとはいえ担当トレーナーにもなって、彼女と共に最速の景色に必要な速さを求めてくれている。意中の相手が平均点の顔でも乙女フィルターなどは女子高生なら基本装備だ、走り出したら止まらない。

 

「じゃあ、私のこともスズカって……」

 

「サイレンススズカね」

 

 では結論である。芝崎走一の学生時代はトレーナーになるため勉強に浸かっていて、そのせいでクソ雑魚恋愛経験ゼロのまま成人になった残念な男である。そのためピュア色の強いキタサンブラックやスペシャルウィークには妹感覚で接することが出来るのだが、逆に年頃の女性が向こうからグイグイ来ると対応の仕方が分からなくなる。シンボリルドルフは自分の気持ちを理解していて、感情コントロールが上手いので恋愛雑魚トレーナーも気兼ねなく接していられるに過ぎない。つまり、この独身ヘタレ野郎は無意識に猛アタックしてくるサイレンススズカのようなタイプに一番戸惑いを覚えるのだ。

 

「……ん、トレーナーさん」

 

 サイレンススズカが席から腰を浮かしてトレーナーの耳元に顔を近づける。そしてスペシャルウィークの活気のある声とは真逆、静かな淡雪のような声で囁いて勝負を決めに入るのだ。

 

「──スズカ、って呼んで?」

 

 結果は不明であるが、スペシャルウィークが色々な意味でサイレンススズカを尊敬する出来事の一つになったことは確かである。

 

 

 

 *

 *

 

 

 

 学園の近くには長い河川敷がある。都内周辺にしては珍しい直線的で大きな川であり、洪水防止の斜面を挟んで長い砂利の道が川に沿うように続いている。休日の外出時などには街に出かけるため多くの生徒が利用し、平日でも斜面を使ったアップダウントレーニングや、広さを利用したハンマートレーニングなどを行っている。

 

 そんな河川敷も春になって桜が川路を色づけており、心地の良い風が吹き抜けている。運動に適した気温に今日も生徒が集まってトレーニングをしている。しかし、その生徒の中にトレーニングを早々に切り上げて、川原の端で蹲るように顔を膝に当てて黙り込むウマ娘がいた。目線だけ動かして川を眺め、たまに体を動かしても溜め息を吐いて再度小さくなってしまう。練習メニューを終えて学園に戻る生徒も大丈夫なのかと横目で覗いて行く。熾烈極まる学園で一々誰かを心配していてはキリがないが、それでも少女の落ち込み方は特に暗いものに見えた。

 

「今日も失敗しちゃったなぁ……」

 

 あの入部テストから数日、キタサンブラックの調子は最悪であった。更新を続けていたレースタイムが軒並み落ち込んでいて、これまでのトレーニングと変わらないはずなのに予定より早い段階でスタミナが切れる。元々不得意であった座学は更に集中が出来ず、一回の授業だけで何度も名前を呼ばれて教師に叱られる。今日に至っては怒っていた教師もその怒りが心配に変わっていた。休み時間や寮のプライベートな時間でも気分は晴れることはない。友達と喋っていても、好きな曲を聴いていても、いつの間にかスペシャルウィークとのレースが頭で再生されて気分が落ちるのだ。今日のトレーニングも気分を変えるために一人で河川敷を走ってみたのだが、残念ながら作戦は失敗。キタサンブラックを元気づけるために集まってくれていた友人がいないことで孤独感は増幅し、どうしてもレースで犯したミスへと意識が向かう。こうしてただ眺めている川も、太陽が落ちるにつれて水面に反射する自分が光を失っていく、それが入学時から今までを表しているようで後悔は止まらない。

 

「走一さん、約束忘れちゃったのかな……」

 

 右耳に着けられている紅と淡紅の桜を模した髪留めに手を当てる。彼女が最も大切にしている記憶は彼女がまだ小学校低学年の頃、小規模ながら初めてレースで勝った年のことである。ただひたすらに走るのが楽しくて、もっと走りたくて出場したミニレース。初めてのレースで奇跡的にも一着でゴールし、それまで感じたことのない満足感が得られた。それに、勝った時の両親の喜ぶ顔で勝利の嬉しさが増して、その年の彼女の誕生日にも父親の仕事仲間の人が将来有望だと褒めてくれた。

 

 そして、その誕生日に彼もいたのだ。父親と彼が仕事関係であり、父親が彼に歌の練習方法を教えていたのを知っていた。時々家に来ていたし、父親の関係者では一番若くて優しく、歌手の娘ではなく彼女自身を見てくれていたから少し憧れもあった。しかし、その彼の仕事がトレーナーだと知るのは、彼がプレゼントしてくれた髪飾りと共に一つの約束をしてくれた時だった。

 

 いつか俺が担当トレーナーになって、キタちゃんを一番のウマ娘にするよ!! 

 

 それがキタサンブラックにとって初めてのスカウトであり、その髪飾りが宝物になった瞬間だった。幼いながらに憧れていた男性がトレーナーで、自分がウマ娘として走る。シンデレラストーリーにだって負けないくらいの夢を見た。その夢を追っていたから辛い事があっても耐えられ、トレセン学園の受験も乗り越えられた。途中でトレーナーを辞めたと聞いたときは動揺もしたが、それでも憧れた人には自分の頑張る姿を見せたかった。それに入学してみれば彼はトレーナーに復職しており、加えて自分をチームへ勧誘してくれている。ついに夢の第一歩だと心が躍って、それまでのことが報われたように感じたのだ。

 

 しかし、憧れの彼は約束を忘れたのか、自分を担当ウマ娘として認めてくれなかった。でも、自分の実力不足が原因なのだとは分かっている、でも何が足りなかったのか分からない。父のように歌を、トウカイテイオーのように走りを、あの日から練習は一生懸命に取り組んできたつもりだ。──だからこれ以上は何をすれば良いのか想像もつかない。

 

 ならば自分は彼の担当ウマ娘には成れず、ここで夢も終わるのか。

 

 片隅に追いやった事実が心臓を握るようで吐き気がする。レグルスは最強のチーム、彼と共に理想のウマ娘になるはずだったのに。彼の隣には既に自分の知らないウマ娘がいて、更には自分を追い抜いて新しいウマ娘がチームに加入した。それを思い出すだけで体が熱くなって、ぶつけようのない苦しさが暴れる。──嫉妬という感情、それはキタサンブラックにとって初めての経験。

 

 ──焦る。

 

 置いて行かれる、貴方が遠くに行ってしまう。

 

 ──足掻く。

 

 でも、泥沼に足を取られて貴方を見ることしか出来ない。

 それなのに貴方は手を伸ばしてくれない。

 

 ──なら、最後は? 

 

 そんなの分からない。

 だって私が走る意味はずっと──!! 

 

 

 

 

 

 ……私が走る意味ってあるんだっけ。

 

 

 

 

 

「──ッ!!」

 

 涙が零れるのと同時に耳飾りに当てていた手が動いた。大切にしていた宝物を強く握り、手の中から割れる音と痛みが走る。それでも構わず腕を大きく振るう。ウマ娘の力で握られた髪飾りがどうなるのか、その力で振るわれた髪飾りはどこまで飛んでいくのか。きっと宝物は割れて折られて、目の前に広がる川に届いて沈んでいく、そんなことはキタサンブラックだって考えずとも分かる。しかし、それでも止められない。

 

 だって諦めてしまえば楽だから。

 

 頑張って、否定されて、足掻いて、それでも答えは出ない。それなら思い出ごと捨ててしまってスッキリしよう。それが自暴自棄であって、全部ドブに捨てても楽な人生を歩もう。

 

 だって辛いのは誰だって嫌なのだから。

 

 独りで河川敷に来た時点で死神が勝ったのだ。広い自然と静けさが心を衰弱させ、一瞬で才能あるウマ娘の選手生命を刈り取る。たまたまそれが怪我や病気ではなく、一つの夢が潰えることで起こった。長年の思いは届かず、父にも、憧れのウマ娘にもなれない。どこにでも蔓延る挫折という終幕が今日はこのウマ娘に降りかかっただけなのだ。

 

 

「──あれ、キタちゃん?」

 

 

 でも、それを防ぐのがヒーローの役目だ。背後からキタサンブラックの名前を呼び、彼女の動きを止めて死の淵から引き寄せる。突然のことにキタサンブラックは驚いて力が抜け、投げようとしていた髪飾りが重力に従って地面に落ちる。土に倒れた約束は割れてしまったけれど、それでもまだ失われていない。彼女の夢は首の皮一枚で繋がった。

 

「テイオーさん……?」

 

 ヒーローの名はトウカイテイオー、元レグルスのメンバーであり、トレセン学園の現最強チームに所属するキタサンブラックの憧れのウマ娘であった。

 

 

 *

 

 

 トウカイテイオーはキタサンブラックと並ぶように座り、落ちた髪飾りを拾って渡す。彼女は制服で肩にスクールバックを掛け、片手にはプラスチックのカップを持っていていた。飲んでいるのは彼女の好物である蜂蜜ドリンクのハチミーだ、街で購入した帰りなのだろう。腰を下ろした彼女は何も言わず、ハチミーを飲みながらキタサンブラックが自分に話してくれるのを待つ。自分を憧れのウマ娘と慕ってくれているのはトウカイテイオーも理解している、だから荒れている理由を話すのは躊躇うだろう。しかし、キタサンブラックは自分を怪我から復活に導いてくれたヒーローだ、辛いなら傍にいてあげたかった。

 

「テイオーさん──」

 

 キタサンブラックからポロポロと涙が零れ、荒い呼吸が徐々に嗚咽になる。それでもトウカイテイオーは傍に居るだけ、でもそれが最善手である。キタサンブラックは最初から泣くべきだったのだ。頑張ったことが報われなかったのなら泣いても良いのだ。人前だからとか、実力不足だとか、涙を我慢していた理由は幾つも有った。でも、それ以上に彼女は今年から中等部に入ったばかり、精神的にも未発達な部分が多い子どもなのだ。涙を流して、辛いと口にして、感情をぶつけなければ心が耐えられる訳がない。

 

 ──たった数分、されど数分、久しぶりに気持ちが落ち着くには十分だ。泣き終えて目を赤く腫らしたキタサンブラックはその涙の意味を独り言のように語り始めた。自分の夢と努力の日々、遂に訪れたチャンスを超えられなかった実力不足、そして自分の力では変えられそうにない現状。見栄も恥ずかしさも無く、包み隠さずに思っていることを吐き出した。トウカイテイオーは口を挟まず全てを聞き、たまに頷いて彼女の頭を撫でた。そうしてキタサンブラックが話を終えると時間を掛けて自分の感想を述べる。

 

「キタちゃん、芝崎トレーナーが好きなんだね」

 

「ひぁ……!?」

 

 目元以外の肌も赤く染まる。自分で晒しておけば誰もが分かる事実でも、相手から指摘されてしまえば照れてしまうのが年頃の女子だ。恥ずかしそうに手で顔を隠すキタサンブラックを微笑し、トウカイテイオーは続きを語る。

 

「でも、ボクは誰かを思って走ることが一番だと思うよ」

 

 トウカイテイオーは夕焼けの空を見上げ、自分が最も強かったレースについて語った。──知っている、キタサンブラックはそれを知っている。トウカイテイオーの最も強かったレース、それは彼女が怪我をした後、それも何度も怪我を繰り返して復活不可能だと言われた中で臨んだ復帰レースだ。当時最強であったビワハヤヒデから勝利を掴み、多くの人が感動し、そこに希望を見た。

 

 そして、それは復帰困難な怪我をしていたメジロマックイーンの為にトウカイテイオーが走ったレースである。怪我を負った自分が最強に勝って奇跡を見せる、だから君にも奇跡が起きるのだと証明する。それがトウカイテイオーの走る原動力になった。

 

 それまでは憧れのシンボリルドルフの後を追っていた。それで勝てていたし、満足もしていた。だから怪我をして復帰が出来ないと診断されても諦めもついた。でも、多くの人たちが諦めるなと支えて応援してくれて、自分は一人で走っているのではないと知った。そしてメジロマックイーンが怪我を負い、今度は自分が誰かを支える番なのだと決心したのだ。

 

「……ねえ、キタちゃんは誰かの為に走ろうと思ったことある?」

 

 それは学校の先生や、習い事の指導者に感じた受動的で義務的な思いとは違う。きっとそれは無償になっても自分から誰かの為にと、走りたいと、そう思うことなのだ。

 

 キタサンブラックは夕陽と夜の境目を指で撫でて、これまでの人生を振り返る。スペシャルウィークとのレース、学園入学試験のレース、記憶が鮮やかなものは全て自分の為のレースだ。ならば過去の強く記憶に残るレースはどうか。初めて幼馴染と走ったレース、人生で初めて勝ったレース、結果的に誰かの笑顔に変わったけれど誰かの為と走ってはいない。目標もそうだ。父も、トウカイテイオーも、あの人も、全て自分が中心の夢だ。

 

 長く振り返った到着点は人生で初めてレースを見に行った時のこと。もうここまで来れば自分のレースですらないが、それでも自分の原点になったレースだ。三歳であった彼女にとって別世界であったレースの世界、それが生まれ変わったように彼女の夢になった。レースは激しく、ライブは美しい。強い熱気に圧倒されて、呆然と口を開いて衝撃を受けるしかなかった。それでも自分の走りたい本能と、父のように歌も歌える夢が両方叶えられると信じられただけで良かった。それから公園でトレーニングを始め、家では平仮名で書かれたウマ娘についての本を読んだ。

 

 ──思い出す。

 

 父は忙しかった。レースがある休日なんて休めなかったし、そもそも一日休めることなど殆ど無かった。それなら誰がレース場に連れて行ってくれたのだろう。

 

 母も家事に追われていた。優しかったけど、幼い私にトレーニングを教えてくれる程の余裕は無かったはずだ。ならば公園で私に走りを教えてくれたのは誰だったのだろう。誰が手書きで本を作って私にくれたのだろう。

 

 ──もう一度、思い出す。

 

 あの人が家に来なくなっていた時期があった。これから大変だけど父に教わった歌の技術を活かすためにも絶対合格するって言っていた。会えなくなることを私にも謝っていて、誕生日には全部終わらせて来てくれるって約束してくれた。……そうだ、その時期くらいに私は子供用のトレーニングコースに通い始めたんだ。でも、教えてくれるのが知らない人(・・・・・)だったからそれが嫌で──。

 

 ──こうして、私は思い出す。

 

 欠けた髪飾りをこれ以上は割れないように握り、私は原点を思い出す。白く輝く記憶に消されていた全てのことが、混ざって、繋がって、私の色になる。

 

「テイオーさん!! 私、行ってきます!!」

 

 キタサンブラックが涙を拭って勢いよく立ち上がる。トウカイテイオーは一瞬驚くものの、直ぐに微笑んで妹分の出発を後押しする。相談に乗ってくれた先輩へ深くお辞儀をした後、レース本番に近い速さで学園へと駆け出した。

 

 

 *

 

 

 苦しい──、全身に響く心臓の鼓動が五月蠅くて、意識しないと呼吸でさえ止まってしまいそうだ。これほど走ることは難しかっただろうかと記憶を疑い、同時に自分の調子が悪かったことを再確認する。きっと今も醜い走り方になっていて、タイムを計測したら酷い結果になるんだろう。そんな状態で暗い道を全力疾走するのは危険だし、準備運動もせずに走り出したから怪我をするかもしれない。いつもなら先生に怒られる要素ばかりだ。

 

 それでも、数日振りに『走る』感覚が戻ってきたのだ、嬉しさが込み上げて頬を緩ませる。地面を母指球で捉えて蹴り、腕を大きく振って、一秒でも速く進めと顎を引いて前を睨む。視界を滲ませる汗を拭い、街灯が照らす道を突き進む。寮の門限とトレーナーさんの就業時間を考えれば猶予は残されていない。間に合え、間に合わせろ──!! 

 

 校舎が見えると一段と気持ちが前向きになって、末脚みたいに速度が上がった。失礼しますと限界の肺から無理やり声を出し、寮に戻る先輩に道を譲ってもらう。校舎には点々と明かりがついている、それならトレーナー室にあの人も居るはずだ、そう信じて進むしかない。投げ捨てるみたいに上履きに履き替えて、『廊下は静かに走る』なんて校則を無視して階段を駆ける。暗い廊下で目を凝らし、見落とさないように、間違えないように部屋を確認して、ゴールに飛び込む。

 

「走一さん!! もう一度、私の目標を聞いて下さい!!」

 

 いきなり扉を開けて大声を出したから彼は凄く驚いた顔で私を見返している。膝に手を付いて息を整えて、どうにか話を続けようとするのだけど、ノックとか、挨拶とか、礼儀作法を忘れていたことを思い出す。彼がそこに厳しいのも知っていたのに勢いだけで押し入ってしまった。また間違えてしまったと頭が白くなるが、彼は何も言わずに作業の手を止めて体をこちらに向けると、私に話の続きをするように手で促してくれる。

 

「あれから何で不合格になったのか考えました。……でも、いっぱい考えたのに答えは分からないままです」

 

 あの入部テストで私が犯したミスは幾つもある。自分で長所を無くすようなレース展開をして、普段のレースと同じ距離なのにスタミナ切れで終わってしまった。その後も負けたことを引きずって中途半端な頭で質問に答えた。講評の時は褒められて浮かれたけど、冷静に考えれば減点対象の方が多いはずだ。それなら今の実力はそうなのだと受け入れて、地道に改善していくしかない。少なくとも今もう一度チャンスを貰っても、全てを改善して走ることは不可能だ。

 

「ただ、色々考えて一つだけ思い出して、それが私の目標だって思ったんです──」

 

 それでも、この思いは伝えるのは今じゃないと駄目だ。入部の合否とか、お父さんとか、テイオーさんとかは関係ない。これは私が彼に言わなければならない目標で、きっと何年も前に伝えるべきだったこと。私に初めてレースとライブを教えてくれて、公園で一緒に走ってくれた貴方に。私をずっと支えてくれていたトレーナーさん(・・・・・・・)に宣言すべき目標だ。

 

「──いつか私が担当ウマ娘になって、貴方を一番のトレーナーにします!!」

 

 レグルスでもない生徒がこんな目標を掲げるなど可笑しいことは理解している。他の人からしたら何を言ってるんだってなるし、逆の立場でもそう思うかもしれない。……でも、この気持ちだけは譲れない。テイオーさんがマックイーンさんの為に走ったのなら、私は貴方の為に走ろう。私に輝く世界を教えてくれたことへの感謝は私自身が輝くことで伝えたい。それはどれだけ時間が掛かっても、私というウマ娘が達成しなければならない使命だ。

 

 たった一言、時間にして10秒にも満たない時間、たったそれだけの時間が緊張のせいで途轍もなく長く感じられた。私の目標を聞いた彼が何も言わないから、無言の余韻がどんどん積み重なってその時間が更に伸びていく。

 

「……っはは!! やっぱり、キタちゃんは凄いよ」

 

 彼の堅い表情が崩れて私を褒めながら笑い始めた。何が彼のツボに入ったのかは不明だが、その笑顔が私の知っている昔のままであったことが嬉しい。彼は楽しそうにデスクから紙束を取り出すと、それを手渡しで持って来てくれる。汗の匂いとかが少しだけ気になったけど、紙に書かれた『入部届』の文字を見て乙女心は全部吹き飛んで行った。

 

「──じゃあ、お互いに一番になろう」

 

 癖で抱き着きそうになった衝動を抑えて、精一杯の気持ちで感謝を伝える。門限のせいでチーム説明は明日になって、私が思っていたことも全部は伝えられなかった。それでも別の日に時間を取ってくれるって約束してくれて、壊してしまった髪飾りも今度一緒に直しに行こうって──、デートかな? デートってことで良いよね!! それに、寮に帰って渡された書類を読んだら、後半のページが私の育成計画書になっていた。レグルスに入れたことでさえ踊っちゃうくらい嬉しいのに、あの人が私のことを考えてくれていた事実に感情が爆発する。……でもちょっとだけ騒ぎすぎた。濃厚な一日の締めは寮長さんに怒られて、元気が有り余っていると廊下掃除をさせられることになる。──ごめんなさい、走一さんには言わないで下さい!! 

 

 

 *

 

 

 静けさを取り戻したトレーナー室には一人の生徒が訪れていた。キタサンブラックが寮に戻ったタイミングを見計らったように扉を開け、自分の存在を伝えるためだけの軽い挨拶をする。慣れた足取りでソファに腰を掛け、スクールバックを床に下ろしてからは雑誌を読んで寛いでいる。トレーナーもその生徒が部屋を使うことを気に留めず、仕事を進めながら対応をする。

 

「……色々と手間かけさせた、すまない」

 

「ん~、全然いいよ? 可愛い後輩だし、それにハチミー代も貰ってるからね」

 

 そう言ってウマ娘が右手に持ったカップを掲げる。今回彼女に与えられた報酬は期間限定の超高級ハチミー、売れっ子ウマ娘である彼女でさえも購入に躊躇っていた逸品だ。そして依頼内容はウマ娘一人の相談役になること。正確には悩むキタサンブラックの話し相手になって欲しいというものだ。

 

「それよりも、キタちゃんを助けたいだなんて、随分と気にしてるんだね」

 

 今回の一件、相談役の彼女にとって疑問点がある。まず、彼女にとってはキタサンブラックの相談に乗ることなど無償で引き受ける依頼であった。トレーナーだって自分を担当していたのだ、その辺の事情は重々承知のはず。それなのに今回、なんと態々本人が頭を下げに来て、あまつさえ報酬だって渡してきた。尊敬する会長ほど彼にどうこう気持ちを持ち合わせてはいないが、元担当ウマとしては彼がそこまでする理由を探っておきたいのだ。

 

「まあ、俺が誘った業界だし、昔は色々と教えてたんだ」

 

 キタサンブラックが小学生以前のことだから覚えてないだろうけど、などと自嘲して理由を語る。ただ、彼の性格ではキタサンブラックのことを捨ておけないし、そもそも彼女も過去を思い出している。全て知っているトウカイテイオーにとってなるべくしてなった展開であるのだが、大人になった彼女は茶々を挟まない。

 

 それに、キタサンブラックは彼が一度トレーナーを辞める前、旧レグルス最後のウマ娘に似ている。喋り方や性格、彼を尊敬する姿勢までもがそっくりで、キタサンブラックが成長した今では生き写しのように思える。

 

「だから、──俺が責任を取る」

 

「……そっか、そうだね」

 

 彼の責任、その相手がキタサンブラックなのか、それとも他のウマ娘なのか。全てを知る(・・・・・)トウカイテイオーは思う、もし芝崎走一がキタサンブラックと共に頂点に辿り着けたなら彼が過去に残した約束を果たすことになる。そうすれば彼は責任から解放されて自由になるのかもしれない。──ならば自分は最大の壁になる。

 

『チームリギル・キャプテン、芝中距離選手』

 

 リギルはレグルスと入れ替わるように学園最強チームに登り詰めたチーム。そこから現在まで全国最強チームで在り続け、ボクはそのキャプテンでエース。つまりは全国で最も強いウマ娘がボクだ。トレーナーの夢は応援するけれど、……帝王として負ける気はないよ。

 

 

 

 *

 

 

 

 数日後、レグルスのトレーナー室では三人のウマ娘が雑談をしていた。学年がバラバラで未だ互いに堅苦しさが残るものの、自分の趣味やその日の出来事などを話せるくらいには距離が近くなっている。今日もレグルスの今後の活動についてミーティングが予定されているのだが、トレーナーが来るまでの時間をこうして潰している。

 

「……じゃあ、私が合格したのって、走一さんを『一番にする』って言ったことがポイントなんですか?」

 

「そうだと思う、担当トレーナーを一番にするのなら、担当ウマ娘が一番になることになるから。一周してトレーナーさんが求めた『最強』になる覚悟の一種なんだと思う」

 

「……なるほど、流石スズカさん。──私は分かってませんけど!!」

 

 今回の雑談はキタサンブラック合格の要因についてらしい。結局、トレーナー本人から合格についての詳細は語られず、十分に気合が入っているからと一言だけで説明は終わってしまった。キタサンブラック本人もそれに疑問を持たずにいたのだが、たまたま今回雑談のネタとして落としたところ具体的な考察が出てきた。一人考察に追い付けていないウマ娘がいるが、今後も難しい話には太刀打ちできないので気にしなくて良いのだ。

 

「……お、全員集まってんな」

 

 スペシャルウィークがオチを付けていると用事を終えたトレーナーが帰還。三人の囲む長机にトレーナーが加わってミーティングが開始される。主題は残りの必要適性である『短距離』と『ダート』の選手勧誘についてだ。スペシャルウィークの案が採用され、今後は無所属生徒に対して各員が個別に勧誘を行う予定だ。そのために今回は誰がどの生徒に接触をするのかを決めるはずだったのだが──、強烈な勢いで開かれる扉の音と、部屋を壊さんばかりの怒号によって会議が中断される。

 

 

「お兄ちゃん!! カレンがいるのに浮気したでしょ!!」

 

 

 ──うん、学園中に響いていないことを願おう。

 

 

 




https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=282195&uid=15254
今回の完走した感想。


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10月14日生物課題 2年C組13番

 

 プルースト効果:嗅覚が記憶と情動に強い影響を与える現象

 

 

 大脳皮質は意識的行動や理論思考と関わり、その内部の大脳辺縁系では記憶に関わる海馬(傍回)や、本能的な感情に関わる扁桃体が機能している。通常、ヒトが視覚や聴覚などの五感で情報を得ると、それは視床などの幾つかの伝達回路を通って上記の領域に辿り着く。その後、情報が処理され、各機能と情報結合を行い、複合的な判断・認知感覚を有する眼窩前頭前野へと情報を伝達する。そして、持続的な閉鎖処理を行うことで記憶や感情が保存されている。

 

 しかし、五感の一つである嗅覚は受容細胞自体が神経細胞(ニューロン)であるため、嗅球から大脳皮質へと直接電気信号が送られる。加えて、嗅覚野から海馬、扁桃体にも直接的な伝達神経が存在するため、大脳皮質における認知行為を介さずに情報が送られる。これによって、嗅覚を介して伝達された記憶・感情情報は他の五感情報よりも正確に残り、その安定性が高い可能性が示されている。

 

 また、新しい情報が伝達される際は脳内の類似情報(記憶)との認知作業が行われる。そのため、匂いを嗅ぐことは類似した匂いを嗅いだ記憶を呼び覚ますことに繋がり、他の五感以上に正確に当時の記憶・感情を呼び覚ます要因となる。

 

 『匂い』は性別、年齢、気温、湿度などの多数の影響によって感じ方が異なるため、現在は『記憶に残りやすい匂い』を偏差値化することが難しい。しかし、におい物質が嗅覚を刺激するための条件がいくつか発見されている。基本的には高濃度の気体分子であり、電気信号に変換するために嗅皮粘液で溶解される物質となる。この条件を満たす物質として身近なものであり、自ら匂いを発生する例として用いられるのはヒト(動物)アミノ酸タンパク質である。特にアンモニア(NH₃)、脂肪酸の炭素(C)成分などは尿や汗として高い刺激臭とされる。

 

 つまり、ヒトは(一定の条件を満たす)刺激臭を嗅ぐことで同時に経験した記憶・感情を鮮明に、そして安定して長期記憶することが出来る。また、特定の匂いを嗅ぐことで、それと近しい匂いを嗅いだ記憶・感情を思い出すことも可能だ。加えて、ヒトから発生する匂いが刺激臭として有効なため、体液を排出する運動や泣く行為が強く記憶される。

 

 

 ※推測:動物性タンパク質が刺激臭の原因と考えるならば、最も強く記憶に残るのは出血を伴う損傷ではないか。事故や事件であれば心理的な衝撃も大きく、刺激臭も十分と考えられる。

 

 986/1000文字(本文)

 生物課題 2年C組13番 芝崎走一

 

 

 

 

担当講師 

 評価 B⁻

 コメント 神経伝達の処理機能が一部間違っています。修正後に再提出。来年は高校受験です、トレーナー職を目指すなら勉強量を増やしましょう。

 

 追記、臓器や血液は臭いが気体分子になるまで時間が掛かります、ある程度距離を保てば、直ぐに刺激臭を嗅ぐことは少ないでしょう。勿論、貴方が酷く損傷を受けた動物を抱えたり、その場に長く居座れば強く記憶に残ります。貴方自身の心の為にも、もし事故や事件を見て、その被害者が肉親であっても、なるべく近づかずに周りの人に助けてもらうことを勧めます。

 

 

 







今回の活動報告です。
何これって思った人用です。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=285437&uid=15254


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カレンチャン編

※文字数・独自解釈注意


 

 ──ふと、学生時代を思い返す。

 

 梅雨時の濁った水溜りが点々とする校庭。傘を畳む生徒で賑わう下駄箱。

 初夏の水泳授業の後に、白南風に乗って塩素の匂いが漂う教室。

 冬は窓側の席がいつも冷えていて、下校時には暗い道路に冷たさと寂しさが滲む。

 満開の桜は新しいクラスメイトと出会うことへの期待。綺麗に整った制服で教室に入るときには緊張と興奮が何度も交錯する。

 きっと、それは、誰もが経験した日常の断片。

 期間は短く、内容は濃い、人生の貴重な時間。

 

 そして特殊な部類だが、トレセン学園も歴とした学校施設だ。アスリート色が強くとも生活基盤は学生にある。

 授業を受けて、テストに臨み、成績に一喜一憂する。学園祭や校外学習もあり、普通の学生と変わらない日々を送っている。

 ウマ娘である彼女たちも『青春』を楽しんでいるのだ。

 

 ──しかし、そのキラキラした輝きは、俺にとって眩しすぎる。

 

 俺の学生時代はトレーナーになるため、中高6年間を勉学に捧げた。

 学習時間を最大限に確保するため、友人などと呼べる人物は作らず、クラスでのコミュニケーションも最低限しか行っていない。

 そんな協調性の劣った人間など日陰者になるのが当然。入学当初は話しかけてくれたクラスメイトも、次第に距離を取るようになる。

 最終的に彼らが俺に話しかけたとしても、その内容は教室変更などの事務的な連絡のみ。授業でグループを作るとなれば、俺は教室の端で単語帳を捲り、最後に調整として割り振られるのを待っていた。

 

 その結果が先ほど並べた記憶に辿り着く。

 浮かび上がる学生時代は誰もが知っているものだけ。友人との下校時の買い食いも、部活の合宿も、恋心だって抱かずに青春を終えた。

 今までも、そしてこれからも同窓会などには呼ばれないし、俺の顔など覚えている同級生はいないだろう。

 学生としては底辺の生活。後悔はしておらずとも、忘れられるのなら本望だ。

 

 そんな記憶の中で、唯一俺という学生を表現できるのは卓上の記憶だ。

 古本と型落ちのパソコンが並んだ学校の図書室。自習席の角を陣取り、デスクライトの位置を調節。分厚い参考書を開き、白いノートに求められた解答を埋めていく。

 時折聞こえる楽しそうな学生の声に大きく息を吐いて、できるだけ無心を保って問題に取り組み続ける。

 小指に沿って手の側面が黒鉛色に染まるのと、机の端に増えていく消しゴムのカスで、経過時間を予想した。

 下校時刻になったら塾に移動して、また同じことを繰り返す。

 そんな退屈で仕方ない日々が俺を作り上げた。

 

 ──正直、心はギリギリだった。

 

 しかし、自身の目標であるトレセン学園のトレーナーに求められるスキルは多い。主要科目の知識は勿論、運動を教えるのにスポーツ学、身体のケアのために医学は必須だ。必要であればウマ娘の前で走り方を実演するため、トレーナー自身にも運動能力が要求される。

 国立大学の卒業者たちが、僅かな枠に就職するために争うのが当たり前の世界だ。一つたりとも取りこぼすことが出来ない。

 

 それこそ目に見える欠点を抱え、それでもトレセン学園のトレーナーになった者など、長い学園の歴史を紐解いても一人しかいないだろう。彼女は運動音痴ながらも、それを補う知識と指導力を備えた超人であった。

 ……ちなみに、その人は高校時代の先輩だ。彼女が生徒会長で、俺が副会長。それでもって当時から同じ目標(トレーナー)を夢に掲げていたため、俺は彼女に追い付くために必死に勉強した。

 ただ彼女が卒業するまで、俺は模試で一教科も彼女を上回れていない。彼女のように秀でた人物でないとトレーナーになれないのではと、自信を失った回数は数えきれなかった。

 

 そうなれば、凡人の俺に休む暇は無い。

 劣る部分は時間を掛けて、学習を繰り返して積み重ねなければならない。一日でも休んでしまえば、きっと天才にはすぐに追い越されてしまう。

 

 高校受験で補欠合格した学校は偏差値が高かった。

 勿論、補欠合格した俺の入学時点での学内偏差は、学年の平均をしっかりと下回っていた。入学時はトレセン学園どころか、トレーナーになれる訳がないと陰口のネタにされた。

 翌年は生徒会に入れたのは、学校への賄賂だと噂されることもあった。

 最高学年では永遠に机に居座る俺を、周りは独りよがりの夢想家と貶していた。

 

 ──でも、それならと愚直に進み続けた。

 幸運にも生徒会長が難関大学に進学するのを間近で見られたのだ、示してくれた道を無駄にしてはならない。

 歯を食いしばって、周りに対して込み上げる感情に耐えた。

 

 

『いつか、私のトレーナーになってね』

 幼いころに結んだ一言の約束。それを実現させるために走り抜けたのだ。

 

 

 さて、そんな地味陰キャ学生生活で、心から楽しかったのは就寝前の数十分。内申点に要求される勉学ではなく、自分の好きなウマ娘について自主的に勉強する時間だ。

 ヒトとは違う筋繊維や骨格について教本を読んだり、録画していたレースから自己流の作戦を考えたり。時には、キタちゃんのお父様に教わった歌唱技術を書き記したノートを手元に、ウイニングライブの映像に没入していた。

 

 ……ああ、そうだ。ライブで思い出したことがある。

 

 世間ではウマ娘の肺活量について考えることが少ないらしい。気になるのは、彼女たちの突出した速さばかり。深めのファンでも、足の構造をネットで調べるレベルだ。最長3000Mをあの速度を維持している肺の構造や、血管強度・酸素供給などの人気は低い。

 どれだけの神秘が隠されているのか、ぜひ知って欲しいものだ。

 

 それに、トレーナーを経験して、今まさに肺活量の凄さを実感している。やはり、ウマ娘はヒトの数倍の声量があり、真っすぐで綺麗な声をしている。

 

「お兄ちゃん!! カレンがいるのに浮気したでしょ!!」

 

 まあ、だから大声で叫ばれるとピンチだ。トレセン学園のデカイ校舎でも、彼女たちなら余裕で建物中に響き渡らせられる。

 それにウマ娘は耳も良い。つまり、敷地面積が広くとも致命的な一撃になるわけで……。

 ──つまり、この後は社会的な死が待っているんですわ。

 

 

 

 *

 

 

 

 一人のウマ娘が乱入したことでミーティングは中断した。静まった部屋を支配しているのは、見知らぬ少女が放った爆弾発言の残響だけ。

 放課後の人通りの多い廊下も、数秒間だけの静粛を留めていたが、すぐさま驚きと困惑の混じった悲鳴が広がっていく。

 身に覚えのない浮気を咎められた男性は、急いで弁解文を脳内で検索する。

 しかし、残念なことに彼の辞書に恋愛の文字無し。修羅場の対処方法はマニュアル化されていない。非リア充とは哀れな生物なり。

 

 男は弁解文構成の時間稼ぎを頼もうと、教え子のウマ娘たちに目線を配る。

 ──ああ、残念。頼れる仲間はみんな目が死んでる。

 キタサンブラックは絶望した表情で、スぺは都会は進んでいると例の妄想状態。サイレンススズカは、……直視出来ない。笑顔なのに、鉛のようなオーラが滲み出ている。一部の生徒からレグルスの正妻と思われている彼女には、こんな事実は到底許されることではない。

 

「カレン聞いたんだよ!! 日曜日に学校の子とアクセサリーショップにいたんでしょ!!」

 

 自分をカレンと呼称するウマ娘は、片方の頬を膨らませ部屋に入り込む。その大足は、のしのしと漫画なら表現されるだろう。

 そして勢いのままに書類が並ぶ机に手を付き、のめり込む体勢で男性に詰め寄った。

 

 芝崎は眼前に迫る美少女に慌てつつ、直近の日曜日の記憶を引き出す。──ああ、それはキタサンブラックの髪飾りを修理した日だったと。

 

 以前、キタサンブラックは芝崎から貰った髪飾りを壊している。その原因が自らであり、大切にしていたモノを壊した罪悪感は強い。そのため、律儀にも芝崎へ謝罪を行っていた。

 それに対して、芝崎は破損の原因を経年劣化として、しかたがないと笑って済ませる。加えて、彼は長く愛用してくれたことに感謝し、新しいモノを買おうと提案した。

 ただ、キタサンブラックとしては直せるのであれば直したい。試せる手を探したいと願っており、彼もその意思を尊重する。

 こうして、日曜日に都心部のアクセサリーショップへと赴き、髪飾りの修理を依頼したのだ。

 

 そう、やましい気持ちは無い。完璧な師弟愛である。二人で一緒に事情を説明すれば誤解も解けるだろう。

 芝崎はこれで一安心だと視線をキタサンブラックに向ける。

 

「あわわわ……」

 

 ……残念。突然の事態に盛大にあわわっている。この具合だと彼女の助けは期待できない。

 むしろ修理を待っている間に映画を観たとか、一緒に喫茶店に行ったとか、余計な燃料を溢すだろう。

 

 これで怒っている少女の説得は芝崎自身に託された。仕方がないと腹をくくって、身を乗り出している少女と目を合わせる。

 ……しかし、弁解までに時間が掛かり過ぎた。

 芝崎の前で可愛く膨れていた頬がスッと引く。そして、彼女は冷たく細い瞳で、静かに口を開く。

 先の対に放たれたのは、又しても重い口撃。

 

「──お兄ちゃん? ウマ娘の方が強いんだよ?」

 

 あわわわ……。

 教え子に似た慌て方で、美人は怒ると怖いんだなと今さら再確認。

 

 このまま彼女に押されたままだと、怒りの増幅は免れない。それに、いつの間にかドア付近に集まって、こちらの様子を覗いている生徒たちに良からぬ噂を広げさせてしまう。

 そうなれば優先すべきはキタサンブラックの安全。彼女の名誉を死守することである。

 芝崎はようやく始めた弁解の最初に、最重要な関係性をはっきりと伝えた。

 

「ち、違うんだカレン。その子は姪っ子みたいな存在でさ……」

「──へぇ? カレン以外に……、そういう子いるんだ?」

 

 選択肢ミス。バッドエンドは不可避。芝崎走一は『カワイイ』の養分にされて消えていくだろう。

 少女の一層鋭くなった瞳に覚悟を決めて、身体に飛んでくるだろう衝撃を耐えようと身構える。

 

 ……しかし、待てども事は進まぬまま。彼は反射で閉じていた瞼を恐る恐る開く。

 すると、眼前にいた彼女が消えていた。その代わりに彼の足元から鼻をすする音がしている。

 釣られて視線を下げると、少女は顔を手で覆って蹲っていた。小さく肩を震わせて、まるで悲劇のヒロインのような雰囲気である。

 純粋なスペシャルウィークは驚愕の声を漏らしておろおろとしているが、いくらか面識のある芝崎には泣いたフリは効かない。むしろ、一連の流れで少女の魂胆は勘付かれ始めている。

 

 ただ、周りの見物している生徒は、スペシャルウィーク同様にカレンの演技が上手いことを知らない。

 このままだと成人男性が女生徒を泣かせたことが、明日には校内ニュースとして取り扱われる。芝崎は彼女の計画に乗るしか打開方法は無いのだ。

 

「……何が目的だ?」

 

 芝崎の溜め息が漏れるようなセリフ。それを待っていたと言わんばかりに、泣きマネしていた耳がピンと張った。

 すぐに座り込んでいた体が跳ねて、やはり泣いていなかった瞳を輝かせる。そして、彼女はポケットから取り出した紙を丁寧に開き、両手でそれを芝崎に渡した。

 

 彼の嫌な予感は的中。彼女の手に握られた紙は入部申請書であり、レグルスと彼女の名前が書かれている。

 お願いの部類としては一番面倒なものが飛び込んできた。

 

「カレンをレグルスに入れて下さい!!」

「断る!!」

 

 芝崎は間髪入れずに申し入れを拒否。

 現状の立場で断られると思っていなかったのか、少女が一瞬たじろいだ。──が、しかし、彼女はウマスタグラム(SNS)で、アンチコメントを完全無視できる精神の太さを持っている。却下されたことを何らかのギャグと捉えて、面接よろしく自分の持ち味のアピールを始める。

 だが、どのようなメリットがあっても、芝崎はカレンを加入させることは無い。無駄に続けても両者に利益は生まれない。

 

「……部外者なのに、他所様のミーティングを邪魔するような選手を歓迎できるか?」

 

 芝崎の強い語感に少女が口を閉ざした。

 スパイ活動がご法度のトレセン学園において、これまでの行動が重大なマナー違反であることは、彼女も十分に理解している。

 大人気SNSのウマスタグラム、そのインフルエンサーの彼女は、天真爛漫でカワイイ天使だ。そして多くの人気を集められるのは、他人や周りの状況を正確に捉える冷静な視点が必要不可欠。そんな彼女が一般常識を履き違えるなどありえない。

 たった一言で彼女の優位は崩れてしまった。

 

「……ごめんなさい」

 

 少女は耳をへにゃっと曲げる。今度こそは本当に泣き出しそうな悲壮感があった。

 もうそこからは何も喋らない。少女は扉付近で頭を丁寧に下げてから、部屋から退出した。一部始終を覗き込んでいた野次ウマも彼女を避けて、気まずそうな視線だけを向けて散っていく。

 

 台風が去ったトレーナー室は元の静けさを取り戻すが、やはり三人からも困惑した感情が見え隠れしている。

 その意を代表するのは年長者のサイレンススズカ。ミーティングらしく挙手をして芝崎に質問した。

 

「その、今のは……、中等部の?」

「ああ、ウマスタのカレンチャンだよ。俺は実の兄でも、親族関係でもない」

 

 彼女たちは優しい。もしくは空気が読める。

『お兄ちゃん』が愛称であり、血の繋がりがないことが分かれば、個々の理由に深入りはしない。男の端的な説明でも、流行に疎いスペシャルウィーク以外は大まかに納得を示した。

 

 ……しかし、どのような形であれ、カレンチャンがレグルスに興味を持っている。この事実が芝崎にはとっては非常に厄介な問題だった。

 それこそ彼にとっては、メンバー不足以上にこの問題は根深く、因縁的な危険性を孕んでいる。

 

 ──芝崎走一にとってカレンチャンの加入は、再びトレーナーを辞する結果と同等なのだから。

 

 

 

 *

 

 

 

 サイレンススズカは悩んでいた。

 彼女にしては珍しく、走っている最中も意識が悩みに向かうほどに。

 

 カレンチャンの突撃訪問から一週間が経過。メンバー不足の廃部危機は継続しており、そのタイムリミットも二週間を切っている。

 過去にキタサンブラックが発案した勧誘方法で、レグルスに興味を持つ生徒を少数ながら発見することは出来た。

 しかし、有効策を導き出した時期が遅すぎる。この時期では有望な生徒は既に他チームとの契約が済んでいるか、それが間近なことが多い。

 結局、リストアップした生徒を誰一人として体験入部まで運べず。一週間の短い期間で、メンバーの勧誘書類の名前欄はバツ印で埋め尽くされてしまった。

 これで残されたのは、トレーナーである芝崎走一の直接スカウトだけだ。

 

 ……と、ここまでが前振り。本題はここからで、サイレンススズカの悩みの種になる。

 

 勧誘最後の手段となったトレーナー。その彼に異変が起きている。

 しかも、それを感じ取っているのは、彼と最も距離が近いサイレンススズカのみ。彼女にとっても最初は微かな違和感に過ぎなかった塊が、今や大きな不安に膨れ上がっていた。

 

 異変の発端はレグルスでの夕食会でのこと。料理中に加熱していた鍋を触ってトレーナーが火傷を負った。

 火傷の箇所は指の先。すぐに冷やしたので翌日には痛みも治まり、火傷跡も残っていない。怪我そのものは何ともない普通なものだ。

 ……しかし、鍋を触った理由が『考え事をしていて集中力が無かった』と言うのが、サイレンススズカには腑に落ちなかった。

 

 完璧超人の揃うトレセン学園のトレーナーでも、人である以上はどこかでミスを起こす。もちろん、芝崎もミスはする。それも比較的にうっかりミスは多い方だ。

 例えば、パソコンを叩く動作で珈琲を書類に溢す。レース策を考えていて翌日の早朝まで経っている。書類に没頭して校内呼び出しが耳に入らない。

 サイレンススズカは、そんなミスに芝崎が慌てる姿を何度も見ていた。

 

 だからこそ、彼女の直感は疑問を立てた。

 芝崎は目の前の仕事に集中していて、そのせいで別の箇所でミスをすることはある。しかし、今回の火傷は別だ。料理というタスクを進めているのに、進行中のタスクに集中していないのは初めてのことだ。

 

 サイレンススズカはミスの原因が疲労だと推測した。

 少数ながらもレグルスのメンバーが増え、それに比例してトレーナーとしての仕事量も増えている。それに、チームにはマネージャー(・・・・・・)がいない。本来は自分たちがするべき洗濯や補給食の用意なども彼が担当していた。

 

 無論のこと彼女たちも、自らに雑用をさせてくれと説得は試みていた。

 ただ、そこはトレーナーが一枚上手。彼女たちが授業を受けている時間や、トレーニング前後のストレッチ中など、トレーナーが離れていても問題ない時間帯は把握されている。

 それはもう魔法のように身の回りが片付いているのだから、彼女たちも手の出しようもなかった。

 

 それならばと、練習後に嫌がるトレーナーを捕まえて疲労回復マッサージを施した。

 トレーナーから教わった施術、その効果は自分たちが一番理解しているのだ。これで状態が良化すると信じていた。

 頼りすぎていたことに反省して、今まで以上に彼の支えになろうと気を引き締めなおした。

 

 

 ──しかし、彼女の行動とは真逆に、男の状態は悪化を辿る。

 這って進む蔦のように、纏わりつくように。徐々にではあるが、確実に異変に犯されていく。

 

 

 トレーナーが作業中に集中を切らして、空を見上げる、溜め息をつく。些細だが珍しい行動が増えた。サイレンススズカが彼のためにと淹れていた珈琲を初めて残した。淹れ始めた当初は味が定まらず、美味しくないと彼女自身が分かるレベルでも、文句を付けずに飲み切っていた珈琲をだ。

 

 それなのに、その症状を隠すことが上手くなっている。腑に落ちる理由を付けて、今までなかった細かい休憩を取り始めている。

 もう火傷のような外傷を負うことはない。第三者から見れば、それはいつもの彼と同じだ。

 

 サイレンススズカ、彼女だけは異変を感じている。

 もし、その原因が精神的なものだったら……。そうやって心に淀みを抱えるのなら、その末に辿り着く結末は──。

 きっと、それは彼女が一度体験した絶望で、彼に救ってもらった奇跡。あの日、一歩でも間違えたら終わっていた状況に似ている。

 

 

 それなら、──今度は私の番だ。

 

 

 午後練習後のシャワーで火照った体を冷やす。散らばっていた思考を整えて、これからの行動に覚悟を決めた。

 両の手で頬を叩き、心が鈍らないように強く蛇口を締める。

 これがただの考えすぎならば、彼女が恥を掻いて終わるだけ。寧ろ、彼女にとっても歓迎される結果だ。

 

「あれ? スズカさん、どこか行くんですか?」

「……そうね、少しだけ」

 

 時間の無い朝の身支度のように手早く着替えていると、その様子をみたスペシャルウィークが近づいてくる。サイレンススズカより早くシャワーを終えた彼女は、既に制服姿に着替えを済ませタオルで髪を乾かしていた。その奥には疲労困憊のキタサンブラックが、冷房の風を受けて椅子に傾れ溶けている。

 

「それなら私も一緒に行きますよ、夜ご飯は一緒に食べたいです!!」

「わたしも──、お供します──……」

 

 練習後でも底抜けな明るさと、切れ切れながらも前向きな声が届く。

 ただ、サイレンススズカが取ろうとしている行動は、結果が出なければ余計なお節介だ。しかも、今から訪れる先のウマ娘には有らぬ容疑をかけることになる。

 そんなことに彼女たちを付き合わせてはならない。サイレンススズカは、先に寮に帰るように言葉を返す。

 ──しかし、これで引き下がる軟さならば、レグルスでは戦っていけない。

 

「でもでも、最近スズカさん元気無かったので」

「そうです──、お助けキタちゃん出動です──……」

 

 そう言って、二人の後輩がサイレンススズカの両隣に立つ。ほんのちょっと、いつもより互いの距離を近づけて、励ますような笑顔を覗かせる。

 

 二人とも選手としては赤ん坊。才能はあっても未熟な部分が多い。そのため一流選手であるサイレンススズカが身近な手本だ。二人は技術を吸収するために、日ごろから彼女のことを観察している。

 

 だからこそ彼女たちは、サイレンススズカが頭を悩ませていたことに気が付いていた。

 それはサイレンススズカが師を思っていたのと同じ。立場が少し違うだけで、彼女たちも大切な友人を心配していた。

 二人の同行にサイレンススズカ程の覚悟が無くとも、チームメイトとして、友達として一緒にいたい気持ちが軽いはずがない。

 

「──ありがとう、二人とも」

 

 その言葉に両隣の大切な後輩が笑顔で返す。

 未熟ながら、頼もしい二人の帯同。踏み出したサイレンススズカの足に不安は無かった。

 

 

 *

 

 

 寮に帰る生徒たちの波に加わり、三人が向かったのは栗東寮の一室。言わずもがな部屋の主は件のウマ娘だ。

 訪問の土産としてスペシャルウィークが人参を両手に握りしめ、緊張で目が覚めたキタサンブラックはぐるぐると尻尾を回す。

 道場破りにも思える気合の入り方に、廊下を通る他の生徒から不思議そうな視線が刺さっていた。

 先ほどに吹っ切れたサイレンススズカは、それを意に介さず扉をノックする。

 

「はーい、どうぞー!!」

 

 部屋の中から入室を促される。聞こえた声は籠っているが、甘く、少女らしく、探していたウマ娘の色合いをしている。

 サイレンススズカたちは彼女が部屋にいてくれたことに一安心して扉を開く。

 

 寮は基本的に二人一部屋である。扉の延長線で部屋面積が二等分され、ベッドや机が鏡映しで配置されている。そのどちらかの範囲で各生徒がプライベート空間を創り上げるのが鉄則だ。

 三人が今回訪れた部屋の左側は、住まう生徒がいるのかと疑うほどに殺風景だ。入寮初期に近い状態の家具。私物らしき物が少ないのに、整理が行き届いているから未使用さえも思える。……ただ、その何もない空間に、大型の布団乾燥機が稼働しているのが癖のある味を出していた。持ち主が不在で、その顔を確かめられないのが惜しい。

 そして対極に、右側の領域はファンシーな小物が多い。全てがピンク系統で統一され、化粧品やファッション雑誌が積まれている。ごった返すほどではないが、隣と比べると賑やかさに拍車がかかる。

 

「お邪魔します、チームレグルスです」

「……こんばんは。訪ねた理由は──。まあ……、カレンだよね」

 

 カレンチャンはベッドに腰掛けていた。部屋着姿で手元には読んでいただろう雑誌が置かれている。

 しかし、そのリラックスした見た目とは裏腹に、彼女の眼差しは力が入っている。

 ただ、それは敵意ではない。──むしろその逆。自身の行動を省みて、罪として受け入れるようにも思える。

 

 彼女が罪の意識を感じるのは先日の訪問──、以外にもいくつか心当たりがある。

 確かに、ここ一週間のカレンチャンの行動を称える者は少ないだろう。

 

 彼女はミーティングに突撃して以来も、ほぼ毎日レグルスに訪れている。その数は十回前後。それもサイレンススズカたちが目にしただけでの回数であり、実際はその倍の回数に近い。

 同一チームに何度も自分を売り込むことはエリート校では珍しい。ルールとして禁止されていなくとも、一部からすれば滑稽にも映る行為だろう。

 

 しかし、以前のような学内マナーに欠ける振る舞いはない。彼女が訪ねる時間は、練習の前後や下校時間のみ。毎度、丁寧に申請用紙を新品に書き換えている。

 それがサイレンススズカたちにも熱心に感じられていた。自分が主役であっても、丁寧に誠実に行動する。たまにブレーキが外れるけども、それは若さの特権だ。

 レグルスメンバーも、最初に受けたヤバい奴(・・・・)の判定が綺麗に流れ始めていた。

 

「ごめんなさい。……カレンのせいだよね」

 

 ──だから、なぜカレンチャンが覚悟を決めているのかが分からない。

 芝崎走一の異変と彼女が訪れた時期は同時でも、ルールに則って努力するウマ娘は彼の好みだ。彼女の行動に困っていたとしても、精神を懐すほどの原因になるとは考えにくい。

 以前から面識のある彼女ならば、異変の理由が分かるのではないかと、蜘蛛の糸を信じて来ただけだ。もしかしたら、彼女を加入させないことと、何かしら関係があるのではないかと思っていただけだ。

 誓って、彼女を責めに来たのではない。

 

「……でも、カレンはお兄ちゃんと約束(・・)してたのに」

 

 カレンチャンの顔が曇る。

 トレーナーの問題を解決したい、サイレンススズカはその気持ちで訪れている。だからと言って、好印象に変化しつつある彼女が原因ならば心は痛むのだ。可能ならば、問題を解決した後に、彼女が加入する手助けだって考慮していた。

 俯く彼女をみて次を躊躇う。

 

「約束って、どんな?」

 

 でも、彼女には思い当たる節がある。それらしき発言をしている。そうなれば、そこを掘り進むしかない。

 今のままで停滞してはトレーナーも、彼女も、辛いままなのだから。ここで踏み込むのが勇気だ。

 

「──お兄ちゃんとは契約しない、って約束」

 

 掠れながら呟かれた内容にサイレンススズカは困惑した。

 前例がないことに、意味が分からない──と、その言葉が喉元まで出た。

 

 真逆の契約なら何種類だって挙げられる。

 例えば、入学前の有望なウマ娘にチームに加入することを確約させて、入学資金の一部を援助する。その上には、入学直後からのレギュラー選出を約束することがある。

 良い意味なら手厚く、悪い意味なら囲い込み。ウマ娘にチーム契約を結ばせる手段は山ほどある。

 

 しかし、契約しないという約束は聞いたことがない。

 チームと生徒が契約しない関係性は、この学園で基本的には一つだけ。一度でもチームからクビになった生徒は、同チームに再加入するのが稀だということ。

 ただ、ウマ娘は後発的な才能の開花もある。実際にそれを規則にしているチームは少ない。それに、カレンチャンはレグルスの加入歴は無く、レグルスも再契約を禁止していない。

 

 ならば何故、カレンチャンは契約を出来ないのか。ここまで加入を望む生徒に、何故そんな約束をさせていたのか。

 いずれにせよ、理解は追い付かず。予測は導けず。次の質問へと言葉は紡げない。

 

「……えっと、ちょっとだけ長くなるけど。話していいかな?」

 

 ただ、そこは空気の読めるウマ娘のカレンチャン。三人を愛用のクッションに座らせて、彼女の過去について話し始めた。

 

 

 

 *

 

 

 

 カレンチャンは『カワイイ』を追い求めるウマ娘だ。美人が多いウマ娘の中でも、特にビジュアル面には優れている。発育も良好で健康的で、モデル雑誌の表紙も担当中。一部業界にとっては時代を象徴するウマ娘の一人であり。若者でも最大の人気を誇るウマスタグラマーだ。

 この自他ともに認める『カワイイ』が生まれたのは、彼女がまだ幼いころ。起源は彼女の『本当の兄』であった。

 

『カレンの可愛さは、みんなを幸せにするね』

 

 幼少期のカレンチャンの笑顔に対して、彼女の兄は嬉しそうに言った。

 自分が幸せを感じて笑顔になる。そしてその笑顔で誰かが幸せになる。幸福の連鎖を自分で呼び込めるなど、幼き少女には何とも神秘的だろうか。

 たった一つの偶然のような、魔法のような出会いが、今の彼女にとっては必然となる言葉。

 それが彼女にとって初めて訪れた人生の転機になったのだ。

 

 それからは、子供ながらに『カワイイ』の努力を積み重ねた。

 幼くて読めないながらも、覚えたての漢字と平仮名から雑誌の情報を得ていた。得た情報からは、どうすれば自分に似合う服を選べるのか考えた。本当は化粧がしたかったが、それは親が時期尚早というので断念。その分、笑顔や立ち居振る舞いなどの基盤作りに注力した。

 

 その努力の過程で、ウマ娘なのに外に出る頻度が低いと罵られても平気だった。可愛い子ぶっていると、小学校の女子グループに陰口を言われていても信念が勝った。

 それもこれも誰かを幸せにしたかったから。幸せを広めるためには必要な研鑽だと、小学生ながらに自分の道を決めていたから。特に自分の『カワイイ』を教えてくれた兄に、もっと褒めて欲しかったから。

 

 大丈夫、いつかカレンの魅力で、みんなをもっと笑顔に──!! 

 

 そう信じて疑わなかった。

 実際、絶え間ない努力の結果が今に繋がるのだ。彼女の映る画面や雑誌の前には笑顔がある。彼女を目標に努力を積み重ね始めている若者がいる。

 歩んできた道に間違いなどない。

 

 ──それなのに、彼女には笑顔を伝えられない人がいる。こんなにも活躍しているのに、直接幸せを届けられない人がいる。

 人数にしてたった一人だが、されども重要な一人。

 彼女が誰よりも笑顔を、幸せを繋げたい『兄』にはもう会えないのだから。

 

 

 

 *

 

 

 

 カレンチャンの小学校高学年への進級間近。春が訪れる直前のこと。

 いつも通りに日課のランニングを終えて、美容のためにもしっかりと夕食を取った。本日のノルマを終えて彼女が鼻歌交じりに雑誌を読んでいると、いつになく疲れている様子の父に呼ばれた。

 面倒ながらも自室から出てリビングに向かった。……すると両親が隣同士で座っていて、やけに重苦しい雰囲気を醸し出している。

 

「──カレン。兄さんのことで話があるんだ……」

 

 ──嫌な予感がした。

 ──愛している両親の前に座ることに躊躇った。

 

 ……でも、きっと大丈夫。

 だって、今まで自分は頑張ってきたから。これからも頑張っていくから。みんなに、両親に、兄さんに、幸せでいて欲しいから。──今、想像している悪いことなんて起こらない。

 そうやって、小さく震える手を隠して両親の前に座った。

 

 

 最愛の兄が亡くなったのは、それから3か月後のことだった。

 

 

 カレンチャンが覚えているのは、黒い恰好をした両親と、高く真っすぐに登る白い煙。大勢集まった兄の友人たちが皆一様に泣いていた。そして彼女を抱きしめて、撫でて、励ましの言葉を残した。

 彼らの行動で兄が慕われていたのが良く分かった。……でも、なんで泣いているのか、その理由が実感は出来ずにいた。

 

 何日か振りに家に帰ってくると、やけに家が広い。物音も少なくて、温かみも減ってしまった。

 お風呂の順番待ちも無くなっていた。アイスの奪い合いも、見たい番組の言い争いもない。自分の好きなのを食べられるし、ソファで寝っ転がっても文句を言われない。

 そんな自由な生活が一か月も続いた。

 自由で、退屈で、楽しくて、暇な日が続いた。

 

「──ああ、また四人分作っちゃった」

 

 母は同じミスを繰り返していた。この一か月ずっと。困ったように、仕方なさそうに。

 まあ、少し前までは泣き続けていたから、今の方がよっぽどマシだと、カレンチャンは苦笑いを浮かべて返した。

 

「カレン、事故には気をつけろよ」

 

 父は娘の心配をする回数が増えた。怪我とか、事故とか、──病気。

 彼女は大丈夫だと二度繰り返す。そうでないと、向こうがもう一度同じことを言ってくる。

 学校でも似たような状態だ。体調を質問されて、無理はするなと心配された。あの悪口を言っていた女子たちでさえ、なぜか一緒に遊ぼうと言い始めている。

 

 カレンチャンは対応に困った。みんなが自分に優しいのは嫌ではないが、最近は度が過ぎている。本来はカレンチャンが誰かに活力を与えたいのに、これでは彼女が貰っている側だ。

 立場が逆転している日々に困惑がある。どうすれば皆の心配を解消できるか。また自分が誰かを思える形になれるのか。その案は小学生の彼女には浮かばない。

 

「そうだ、兄さん(・・・)に相談しよう」

 

 ──彼女は自身が壊れていることに気が付いていない。何故周りの人たちが声を掛けていたのか理解していない。生活の端々から兄が生きているような言動があるのを、彼女自身は知らない。

 

 学校から帰宅して、急いで兄の部屋に向かった。階段を上って、ランドセルを廊下に投げる。いつも通りに兄を呼んで、彼の部屋の扉を開いた。

 

 ……でも、そこにあるのは空っぽの部屋だけ。

 初夏に近づいているのに空気が冷えていて、勉強机には兄の笑った写真が置いてある。使われずに畳まれたベッド。カーテンから射す夕日は溜まっていた埃を反射させている。

 部屋に充満するのは緑色の匂い。夏の虫よけと同じ、あの黒い服を着てみんなが集まった日に嗅いだ香り。

 

「──そっか、もう……」

 

 自らの手で開けてしまったパンドラの箱。逃げて来た事実に頭を叩かれた感覚だった。

 指先が冷たくなって、体が重い。それなのに心は静かに、ゆっくりと動いている。

 もう、兄の声は聞こえず、笑いかけてもくれない。抱きしめられることも、抱きしめることも叶わない。

 自分に『カワイイ』を教え、その『カワイイ』を見せたかった兄は──

 

「いないんだ──……」

 

 自分の口でソレ(・・)を形にした。次第に視界がぼやけて、温かいものが頬を伝って落ちる。

 喉が枯れるまで泣いた。

 帰宅した父と母に抱きしめられて涙を流した。

 ──涙と共に生き方さえも流していることを露知らず。

 

 

 

 *

 

 

 

「──んで、家庭訪問しろって言われて……。どう思います?」

 

 当時の芝崎走一は新米トレーナーだ。倍率の高いトレセン学園のトレーナー試験には合格したが、未だ自分のチームは持っていない。レグルスというチームで事務仕事に追われて不満を垂れている。

 このタイミングでは次期会長になるウマ娘とも、現最強ウマ娘とも出会っていない。

 

 そんな彼に一つの仕事が舞い込んだ。

 やっとトレーナーらしい仕事かと意気込んだが、残念ながら期待には沿えない案件だ。内容もシンプルながら、どこか奇妙な外仕事。

 書類に書かれていたのは、不登校のウマ娘のカウンセリングについて。それもトレセン学園の生徒ですらないウマ娘をだ。

 ウマ娘の専門的な機関に所属しているとはいえ、怪しさを感じずにはいられない。

 

「これ怪しい依頼なんですが……、どう思われます? ──あ、店員さん、つくねと皮ください!!」

「行ってください。貴方に与えられたのなら、貴方が適任です」

 

 不満を漏らす芝崎に、高校時代の先輩である女性が仕事を催促する。二人とも指揮するチームは違いながらも、こうして食事を共にするのが恒例だ。

 

「……それに、そのウマ娘は『妹』のようですし」

「え……? リコちゃん、そんなことまで知ってるんですか? 俺の周りのこと調べすぎでしょ。好きかよ」

「ちがっ──!? 貴方は後輩ですので、フォローが必要になった時にと──!!」

 

 慌てる先輩トレーナーを他所に、芝崎は再度資料に目を通す。

 確かに相手が『妹』となれば、トレセン学園内で最適なカウンセラーは芝崎だ。それに、メンタルケアも今後のトレーナー業で活かせる。彼にとっても良い実践練習だ。

 完全に切り替わったとはならないが、なあなあの気分は無くなった。

 

「リコちゃん、ありがとうございます」

「……なんで貴方は私の名前だけ敬語を使わないのですか?」

 

 ──ノリである。

 

 翌日、芝崎は早速仕事に取りかかった。

 まずは基本の情報の整理。

 送られていた診断書に記されたウマ娘の名前はカレンチャン。精神科での診断結果は重度の鬱状態。原因は数か月前に兄を亡くしたことで、その一ヶ月間はショックで現実を直視出来ずにいた。

 彼女は元の性格が明るく、社交的。そうなれば鬱になった際の人格的な振れ幅は大きい。別人に近い娘に両親も適切な接し方を選べず、現実逃避が後々に響いてくる結果になったのだ。

 

「……さて、ご両親に挨拶かな」

 

 カウンセリングを受諾したことを知らせるために受話器を手にする。依頼者宅の電話番号を押すと、3コールで父親らしき男性が応じた。

 電話に出た声だけで分かるのは男性の疲労具合について。電波状況を疑うほどに細く掠れている。

 

「私、日本ウマ娘トレーニングセンター学園の──」

「──ああ!! お電話お待ちしておりました」

 

 息を吹き返したように声のボリュームが上がった。

 ──ああ、これは危険だと、芝崎は想像していたトリアージを瞬時に変更する。この家族には緊急を要することに危機感を抱き、昨日仕事を急かしてくれた先輩に心で感謝を述べる。

 精神科医でもない人間に対して、ここまで期待と安堵を含めた喋りは異常だ。多くの医者に見放されて、ウマ娘に詳しいトレセン学園に最後の綱を託したことを想像させる。これでは彼らは現状を変えるどころか、耐えることさえもが限界だろう。

 

「突然になりますが、今からお伺いすること出来ますでしょうか」

 

 芝崎がその質問をした時には自家用車に乗っていた。了承の返事を得て、違反スレスレの速度でエンジンを動かす。

 一時間で到着したカレンチャンの自宅は、ごく普通の一軒家であった。戸建てで、二階建ての庭付き。周辺の土地価値を考えると、生活に不自由はなさそうである。

 

 芝崎がチャイムを押すと両親が揃って出迎えた。両者とも疲労が目の下に表れて、肌は年齢よりも老けて見える。

 詳しい話をするためにリビングに促されたが、そこで芝崎は顔を歪めた。

 先に見た立派な一軒家の外見とは異なり、家の中は掃除が行き届いていない。洗濯が畳まれず、ゴミも一か所に纏められているだけで捨てられていない。

 妹の鬱が両親へと精神的に伝播している。最低限度の生活もままならないことが、一家の瓦解を裏付けた。

 

「……では、詳しくお聞かせください」

 

 芝崎は席に座り、両親から彼女とその兄が生まれてからの話を聞く。

 カレンチャンの目標と、その起源。辛いことは兄がいたから乗り越えられて、二人の仲が非常に良かったこと。

 それが兄を亡くしてからは、持ち前の明るさが見る影もない。最初は不登校で済んでいたが、現在は自室から出るのも難しい状況。食事は取るが、三回に一回程度。平均して一日一食。

 

 そして、夜は静かに泣く声が聞こえる。カレンの寂しい心が伝わると両親は締める。

 最後に二人は頭を下げて、どうか救ってくれと願いのように言葉を繰り返した。

 

「──はい、引き受けました」

 

 芝崎は神ではない。ただの人で、それも青春を味わえていない陰キャ野郎だ。これまでの幸福度など一般人から見れば底辺に近い。

 ──ただ、その分だけウマ娘には本気(マジ)である。自分は幸せでなくとも、ウマ娘たちを幸せにする強い意志がある。

 それに、未来に起こる一人の少女の復活劇と同じく、頼られたら見過ごすことは出来ない性だ。何をもって断ろうか。

 

「……では、お二人にお願いがあるのですが」

 

 内容も聞かずに、娘のためだと両親は首を縦に振る。芝崎はそれを見ると、鞄から紙とペンを取り出してメモを書き始める。

 ……そして、数分して書く手を止めると、ビシッと二本指を立てた。

 

「では、二日後、新しい運動靴を用意してください」

 

 書かれた計画書は最短で行わるメンタルケアプラン。精神科が怒り狂うようなショック療法が48時間の時間軸に細かく書き記されている。

 

「それとリフォーム業者呼びたいんですけど、いかがですか?」

 

 その発言に不思議そうにする両親に対して、支払いは此方で負担するのでと男は笑った。

 

 

 

 *

 

 

 

 ──暗い部屋にいる。

 今が何月、何日、何時か。それさえも分からない。

 でも、もうそれで良い。そんなことを気にしても、意味がない。

 

 ──暗い部屋にいる。

 自分の呼吸の音だけが聞こえる。

 肌がカサついて、髪もぼさぼさ。でも、もう努力する必要はない。

 

 ──暗い部屋にいる。

 たまに親が声を掛けてくる。

 でも、私が応えないから、ご飯だけを置いて戻っていく。

 

「──カレン、父さんだ」

 

 ……ほら、また来た。もう来なくていいのに。

 

「今日は会ってほしい人がいるんだ。きっとカレンの力になってくれる」

 

 また同じことを言っている。どうせその人も力になってはくれないのに。

 誰もかれも時間が解決するとか、辛いのは君だけじゃないとか。そんなのばっかり。私のことを何も知らないのに……!! 兄さんのことを何も知らないくせに!! 

 

 だからもう考えないし、頑張らない。

 こうして黙っていれば、その人も勝手にいなくなる。

 

「カレンさん、私はトレセン学園の芝崎走一です。顔を見せてくれませんか?」

 

 ノックの音が五月蠅い。

 トレセン学園とかどうでもいい。貴方なんて知らない。出ないし、会わない。さっさと帰って欲しい。

 

「……駄目ですね。残念ながら、これでは──」

 

 ……ほら、諦めた。やっぱり、いつもと同じだ。

 私はもう動かない。カワイイもどうでも良いし、誰かのためとか思ってもいない。静かにしていれば、もうそれで充分だから。

 

 

「──強行で行くので。カレンさん、ドアから離れてろよー!!」

 

 

 ──は? 

 

 

 扉に視線を向けたら、次の瞬間にはその扉が吹き飛んでいた。家中に響く木の破裂音が、白色電光を運んでくる。

 久しぶりに浴びた光に目を凝らすと、その先に芝崎であろう男が立っていた。天パで、眼鏡をかけた細身の男性。イケてない外見からは想像できない無茶苦茶な行動だ。

 

 その人はズカズカと部屋に入ってくると、そのまま目の前に来て仁王立ちをする。そして、大きく息を吸い込み、右手の親指で自分を指した。

 

「俺は──、カワイイ!!」

 

 何言ってんだコイツ。どう見ても『カワイイ』ではない。……いや、顔はカワイイ系だが、人の部屋を壊しておいて、そのセリフはおかしい。頭がおかしい。

 

「──だが!! お前はカワイイではない!!」

 

 そう男は付け加えると窓に小走りで向かった。そして、カーテンを掴むと、それを遠慮なしで横に滑らせる。そして日光を部屋に突き刺すと、今度は窓をも開け始めた。

 余りにも非現実的な発言で、なんとも非常識な行動の連続。唖然としていて反応に遅れた。

 

「──ッ!! やめて、勝手に開けないで!! ──って、それよりも、勝手に入らないでよ!! 非常識!!」

「確かに、それはごもっとも!! ごめんね!!」

 

 ウマ娘の力で飛び掛かるのは、普通の人間にとっては危険だ。しかし、男の言動すべてにイラついていたし、勝手にされるのは更に腹が立つ。体をぶつけ合いながら、必死になって男の行動を止めようとした。

 

 それなのに、男はトレセン学園の人間だからか、上手いこと体を抑えてくる。自室の二つある窓は完全に開けられて、肌寒い風が殴り込んできた。

 

「お前の兄さんの言った『カワイイ』ってのは有り方だ。君が本来持っている明るさと笑顔だ!!」

 

 今度は兄を引き合いに出してきた。

 大好きだった兄について、こんな頭のネジが外れた男に語られるのは腹が立つ。しかも、的外れなら無視できたが、──悔しいが男の発言は的を射ている。今の私を叱るなら、これ以上の台詞はない。

 こうなったら逆切れと言われても構わない。今にでも殴ってやると、歯を噛み締める、──が更に男は非現実的な行動を起こしてきた。

 

「そして安心しろ!! これが、お前がカワイイになる特効薬だぁああ!!」

 

 そう言って男が叫ぶと、窓の外から何かが溢れて来た。……いや、適切な表現をするのなら流れ込んできた、だろうか。

 流れて込んだのは目一杯の()。小さくて、やわらかくて、温かい緑の波。視界を覆うように体にぶつかって息も出来ない。

 ──でも、これはウマ娘(ワタシ)にとって、何よりも肌に合うものだ。

 

「これね、芝崎練習場の芝!! 今朝刈ってきたから新鮮!!」

 

 男の言葉に心拍数が上がった。兄さんの死を受けて入れて以来は、まったく感じていなかった心臓の高鳴り。本能として備わっていた心が跳ねている。どうにか抑え付けていた意識が芽生えてくる。

 

 流れが止むと、部屋中が芝だらけ。どこにもフローリングは見当たらない。手入れをしていないとはいえ、小物や服も芝まみれだ。

 この男は人の家で有り得ないことをしまくっている。怒りは最高潮を迎えている。

 ……はずなのに、変だ。芝の香りが胸に満ちて、風が肌にあたって、なぜか怒るなんて気持ちにはならない。

 

「──よし、走ろう!!」

 

 ボーッと芝を見ていると、男が私を覗き込んだ。そして無理やりに、真新しいシューズを履かせてくる。今度は抵抗する前に──、いや、抵抗する気は起きなかった。履かされていることを受け入れた。

 

 トレセン学園の関係者らしく、男は慣れた手つきで紐を縛ると、私の手を引っ張って駆けだした。廊下を踏んで、玄関を跳ねて、勢いよく道路に出た。

 私が部屋着なのもお構いなし。こちらを見ずにガンガンと手を引っ張っていく。

 

 ウマ娘の私には、この速度は遅い。遅いけど、このスピードの景色はいつも見ていたものとは違うものが輝いている。

 

「カレンちゃん!! また遊ぼうねぇー!!」

「カレン!! 先生は学校で待ってるぞぉ!!」

「カレンチャン、元気になったんかぁー!!」

 

 ──違う景色の中に、いっぱいの人がいた。私を心配してくれた人たちがいた。

 いつもの速さなら、みんなの笑顔をこんなには見られない。でも、今日は違う。

 私がしたかった笑顔が、見たかった笑顔がいっぱいある。

 

 ああ──、私は泣いているんだろう。

 枯れたと思っていた気持ちが流れている。

 

 ──悔しい。

 誰かのために笑顔でいたかったのに。両親に、友達に、町の人に沢山の心配をかけて、今度は泣いているのか。

 長期間放っておいたから、肌はボロボロで、髪もぼさぼさ。部屋着のまま外を走って、カワイイの欠片もない。こんなの私が目指していたものとは全然違う。

 もう感情がぐちゃぐちゃだ。笑っているのか、泣いているのか自分でも分からない。

 

 ……でも、みんなの笑顔に囲まれて走って確信が持てた。

 長らく閉ざしていた口が勝手に開いて、そんな自信を言葉にできた。

 

「……大丈夫。カレンは、もう、大丈夫だから──!!」

 

 もう、兄さんに届けられないと思っていた。

 でも、それは違う。こうして皆が私を見てくれていたなら、兄さんもどこからか私を見てくれている。私がもっと、更に、一番にカワイイなら、遠く離れた兄さんにだって届く。

 今度は曲げない。兄さんがくれた、皆がくれた『カワイイ』を放さない。

 

「そうだ!! 走れ、走れるんだ──、カレン!!」

 

 ずっと手を引っ張ってた男が、ぐっと私を前に押した。いつの間にか周りには誰もいなくなっている。

 視線の先には兄さんと走っていたランニングコースが伸びていた。もう会えない兄さんと、何度も走った場所に来ていた。今までだったら辛く思えていた道は、今日は私を望んでいるように思える。

 

 ──ありがとう、行ってきます。

 

 息が上がっている男性に言葉が届いているか分からない。

 ……ただ、今言わなければ、恥ずかしくて言えそうになかった。

 

 

 

 *

 

 

 

「それでね、カレンはお兄ちゃんって呼ぶようになったの」

 

 レグルスがカレンチャンを訪問して1時間近く。彼女の長い語りが終わり、芝崎走一を兄と呼ぶ理由が判明した。

 話を聞いた三人は思い思いに感想を口にする。

 

「そればぁ、もう、よんでいいでずよべぇぇえ!!」

「あい!! いいど思いますぅ!!」

「ちょっと、二人とも泣きすぎよ」

 

 感極まって涙する二人に、先輩がハンカチを渡す。……が、そうは言いつつも、その先輩の目元も赤くなっているのは隠せない。

 もう三人には、カレンチャンへの不信感や緊張は無い。努力を続けた懸命な少女が、今や大人気ウマなのだ。そんな感動秘話に心が奪われて、より一層彼女に肩入れしてしまう。

 

「……でも、それだと加入させない意味が」

「分からない、ですよね……」

 

 涙していた二人が、鼻をかみながら言葉を交わす。

 芝崎走一がレグルスにウマ娘を加入させるための条件は一つ。『最強を目指す覚悟があるか』だ。それは日本一を目指すためには必須。ハードな練習にも耐え、僅かな勝利をも奪い取る精神が結果に結びつくからだ。

 サイレンススズカが『先頭の景色』、スペシャルウィークは『日本一のウマ娘になること』、キタサンブラックは『芝崎走一を一番のトレーナーにすること』である。

 三者三様ながら、勝つことが前提の目標に芝崎は首を縦に振った。

 

 では、カレンチャンは何か。話を聞く限りイメージできるのは『カワイイで幸せを届ける』だ。日本一を目指すには、『レースでの勝利』の要素が足りない気もする。

 

「──でも、一番カワイイのは、先頭でゴールした子でしょ?」

 

 ……がしかし、口を開けばこれだ。

 幼いころから探求していた『カワイイ』は、ウマ娘の本能と共に貪欲な勝利へと繋がっている。そもそも、人気ウマスタグラマーな彼女のメンタルが軟なはずがない。練習に耐える面では問題がないと芝崎も理解しているはずだ。

 ならば何故と四人は更に頭を悩ませる。

 

「ちなみに、その契約をしない約束って……」

「それがカレンも全部覚えてはいなくって。……ごめんなさい」

「いやいや!! 謝らないでください!!」

 

 カレンチャンの保有する記憶は曖昧。

 記憶にあるのは、久しぶりの走りを終えて家に帰った後のこと。今後のことを話す際、この約束を言われたということ。男の諸事情でチーム契約は出来ないが、トレセン学園には紹介するとの約束事だけを覚えていた。

 約束をしたのは運命の出会いをした当日だ。激動の一日、その終盤の会話をハッキリと覚える方が難しい。

 

「だからね、レグルスが無くなるから契約できないんだって、今まで思ってたの」

 

 カレンチャンの推測も仕方がない。彼女が入学したタイミングのレグルスは廃部中。芝崎も学校の片隅でパソコンを叩いていた。そうなると契約不可の理由は、後にレグルスが廃部することが決定していたからにも思えてしまう。

 

 そのため、レグルスが再稼働して、カレンチャンは機会を窺っていた。加入不可を告げられながらも、状況が変わったから可能性があると信じた。……大好きな人の周りにウマ娘が増えることには少しだけイライラしつつ、彼に突っかかれる理由を探した。

 

 ──だが、良いネタを探し当てても彼女の状況は変わらず。約束の理由も分からず。

 それを知っている本人は不調で、サイレンススズカは彼の異変の原因を欠片も見つけられない。

 

「やっぱり、カレンが迷惑かけたから……、お兄ちゃんが……」

 

 そんなことは無い。そうであって欲しい。

 ……しかし、異変の原因が分からずに、彼女自身が原因と言われてしまえば、完全に否定も出来ない。

 完全に行き詰った状況。次第に四人の口数が減り、感動していた温かな雰囲気が窮屈なものになっていく。

 

 コンコンッ──

 

 その濁った空気を整えるように、木製の高い音が響いた。

 何者かが部屋をノックしている。思いもよらぬ訪問者に、驚きが四人の口を閉ざす。

 

「──おい、いないのか?」

 

 ぶっきらぼうな声が廊下から伝わる。

 部屋の主であるカレンチャンが焦りながら入室を許可。彼女の声は上擦っていたが、確かに訪問者には届いていたらしい。扉の向こうから聞こえた荒い喋りとは裏腹に、寮マナーを守って扉はゆっくりと開けられた。

 

「すまないな、邪魔をする」

 

 廊下に立っていたのは、凛々しい顔立ちをしたウマ娘であった。

 海外モデルのようなメリハリのあるスタイルに、和美な漆黒の長い髪。部屋に入る威風堂々とした姿が、それらを引き立てている。

 それなのに、鼻筋に貼られたテープと、野菜のような枝葉を咥えているのが視線を奪う。豆苗っぽいですねと、スペシャルウィークだけが楽しそうにしている。

 

 ……だが、他の三人は別。訪問者を見てからは体が固まっていた。

 それもそのはず。彼女の名はナリタブライアン、現役選手としては二人しかいない『クラシック三冠』の栄誉を持つ。

 その他にも多くの重賞を勝ち取り、今は生徒会の副会長も担っている。トウカイテイオーと共に生徒の憧れの的だ。

 

 ただ、その男前の性格と感情の起伏が乏しいことから、彼女への尊敬は半分が畏怖と混じっている。そのせいでトウカイテイオーに人気が一歩及ばず。

 今も田舎っ子で知識がないスペシャルウィーク以外は、マイナスな緊張で縮こまっている。

 

「カレンに何か──?」

「……そうだな、お前たち(・・・・)に用がある」

 

 部屋に入ってきたナリタブライアンは、カレンチャンの問いに含みを持たせて回答する。

 彼女は人数が揃っていることに頷くと、スカートポケットから一枚の紙をサイレンススズカへと手渡した。

 はがきサイズの紙は真っ白ながら、少し年季の入っていて端のほうが折れている。そして右下に書かれた数年前の日付が紙の年季を表していた。

 ただそれだけではこの紙に意味は無い。彼女たちが確かめるべきなのは、その反対側に写された過去についてだ。

 

「……これ、昔のレグルスですか?」

 

 これは一枚の写真。撮影場所は学園のグラウンド。写っているのはジャージ姿のウマ娘が六人と、写真を見ている彼女たちが知った男性が一人。

 ウマ娘たちは各々がトロフィーや優勝旗を掲げている。しかも、その年号はどれも同一で、この多くの栄光を一つのシーズンのみで勝ち取ったことを表していた。

 シンボリルドルフ、ナリタブライアン、トウカイテイオー。錚々たる顔ぶれは、まさしくレグルスにとって栄光の時代であろう。

 

「スズカさん、このウマ娘さんは知ってますか?」

「……ごめんなさい、私も分からないわ」

 

 しかし、そのメンバーの中に一人だけ無名のウマ娘がいる。男性トレーナーの隣に立ち、一番小さいトロフィーを大切そうに抱えている。

 

「ナリタブライアン……、さん。もしかして、この子って──」

 

 真っ先に勘付いたのは、インフルエンサーとして容姿を気にかけて来たカレンチャン。彼女は大きな衝撃を受けて、そうだったのかと言葉を繰り返している。

 信じられないものを見たような彼女の表情に他の面々は驚くが、次第にこれまで疑問だったパズルのピースが当てはまり、他の者も同じ表情へと移り変わっていく。

 

 男性と無名のウマ娘は、両者ともに黒髪の天然パーマで、優しい目元は僅かに垂れている。写真のトレーナーが眼鏡をしていないから、二人の瞳をハッキリと比べられた。写真でここまで分かるなら、学園で会えば一目で気が付けるだろう。

 ──なのに、トレセン学園では彼女のことを一度も見かけたことがない。

 

「そうだ……、アイツの妹だ」

 

 ナリタブライアンの答えは、全員が想像していたもの。予想が当たっているのに、その事実に困惑が増えていくだけ。

 芝崎走一はレグルスが解散した理由を語らない。それは、その過去については触らない方が良いと、現レグルスが思っていたからだ。加えて、トレーナーがその過去に触れられることに強い拒否を示すのではないかと、そんな雰囲気を感じ取っていた。

 

 多くのスター選手が生まれた前レグルスで、たった一人名も知らないウマ娘がいる。

 そのウマ娘は今やトレセン学園に在籍していない。

 考えられるのは実力不足でトレセン学園を退学したか、選手生命を絶たれる怪我か。

 ……だが、芝崎走一がチームに加入させる選手の力不足は考えにくい。そして、学園にはトレセン学園のスタッフ研修生枠や、選手のサポーターを育成する学科もある。怪我をしたことと退学は必ずしも一致しない。

 

 ──もう、結論は一つだった。

 

『妹』と『妹分』が同じチームで重なることは避けたい。優先するのは先に所属している妹で、彼の肉親である妹だ。彼なら無駄に不和を生む要素は避ける。カウンセラーとしても、カレンチャンが彼に依存する可能性を極限まで下げる。

 

 そして、今──。

 

 いない『妹』と、現れた『妹分』。

 そのタイミングで男は調子を狂わせ、『妹分』に対しての違和感のある拒絶を続ける。

 まるで『ソレ』から避けるように。まるで『ソレ』から逃げるように。

 現実を塞いだ過去を持つカレンチャンが最後の確認を取る。

 

「──私と同じ、なんですか」

 

 ナリタブライアンに四人の視線が集まる。

 その視線の先で黒い髪が静かに揺れたのは、彼女がゆっくりと頷いたから。彼女たちの疑問に、これまでの答えを照らし合わせる準備が出来たから。

 彼女は口を開き、ついに芝崎走一とレグルスの封を解き始めた。

 

 

 

「──事故、だったんだ」

 

 

 




次回 トレーナー編

リンク先、言い訳と次回予告です。
お手数おかけしますが誤字を見つけたら報告をお願いします。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=294161&uid=15254


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トレーナー編

※文字数・独自解釈注意


 レグルスメンバーがカレンチャンに接触したのと同日。

 時間は遡って、学園が空腹の生徒で賑わう昼時。

 

 授業で腹を空かせた生徒ほどではないが、芝崎走一にとっても昼時というのは気分が上がる。三大欲求を容易く満足させられて、詰まる仕事からは一時の解放となる。

 それに春が落ち着いた時期の昼食というのは、一つ手を加えるだけで簡易的なピクニック気分も得られる。例えば、外に出ずとも葉桜を部屋から見れば、新鮮な緑を味わうには十分だ。太陽が柔らかい温かさで、風も緩やかに肌を撫でるのは心地よい。

 

 昼食を楽しむ余裕──、それは数か月前の芝崎では考えられないことだ。

 

 二か月前は、食事はエネルギー補給の手段に過ぎないと、栄養だけ(・・・・)は完璧な補給食を貪っていた。

 学園の片隅にある味気ない部屋で、パソコンを叩きながら栄養素を摂取する。人としての最低を遥かに下回る姿は、おおよそ食事と表現できるものではない。

 

 そんな彼が近頃は時間をかけて食事を取っている。しかも、能動的に食事という行為を楽しんでいるのだ。誰もが認める社会復帰だろう。

 授業中で準備中のカフェテリアに潜り込んでは、昼食を適当に見繕う。それをわざわざ弁当箱に包み、トレーナー室にテイクアウト。一人自由に弁当で味覚を、学園の景色で視覚を堪能させる。

 

 余談だが、週に数度、昼休みには弁当を持ったチームメンバーがトレーナー室に集まっている。彼女たちとの生産性の欠片も無い、まさに学生らしい会話と共にする昼食。そんな効率から離れた行為も、楽しいものだと満足していた。

 ──なお、サイレンススズカに関しては、トレーナーが自身で昼食を用意できないタイミングを見計らい、トレーナー分の弁当を作ることでじわじわと胃袋を掴み始めている。このサイレンススズカでさえ無意識下で行っているアプローチが彼に届いているかはさておき、男の精神的に健康な食生活が送れているのは彼女の支えが大きい。

 

 ……しかし、そんな人間味を取り戻し始めた芝崎であるが、今日だけは楽しい昼食を遅らせている。

 

 芝崎はトレーナー室(テリトリー)から離れ、学園を歩き回っていた。さながら潜入作戦のように、生徒たちの視線を避けて、学園の敷地内にある施設に隈なく訪れている。

 それなりに人気が上向いてきたレグルスだが、芝崎の黒い噂は未だ絶えず。面倒ながら視線を避けるためには必要だ。

 

「あぁ……、もう帰りたい」

 

 芝崎が弱音を吐いてでもトレーナー室を出なければならない理由は一つ。目下の問題であるメンバー不足を補うためだ。

 彼も可能であれば、自分がスカウト役というのは極力避けたい。しかし、メンバーに割り振ったスカウトは全て失敗した。残すは自分に割り振った生徒だけなのだから、こればかりは仕方ない。

 

『Q:そんなに嫌なら、残ったウマ娘のスカウトもメンバーに任せれば良いのでは?』

 

 もしもそんな質問をされるならば、それを強く否定は出来ない。実際、メンバー三人に割り振った分だけで、スカウト対象にしたウマ娘の9割が占められている。

 ただ、そこに載ったのは芝崎走一を怖がるだろう生徒たち。逆に彼が直接スカウトするのであれば、そのウマ娘は向こうから男を訪問したサイレンススズカ同様に、男の悪評に屈することのない精神を持っている。

 ──もしくは、元々彼を知っており、その悪評が捏造ばかりだと理解しているウマ娘だ。

 

 この日、芝崎が探しているのは後者。これまでに芝崎と面識があるウマ娘だ。

 加えて、芝崎でなければスカウトが困難な相手でもある。むしろ、芝崎でないと真面目に会話ができない恐れさえ抱えていた。

 

 芝崎が敷地内を歩いて十数分が経過。そのウマ娘が居座る可能性が高い場所を順々に巡った。

 まずは教室を訪れて、次は食堂を覗いた。……しかし、目当てのウマ娘はいない。

 ならばと、人だかりを好まない彼女の性格を考慮して、校舎裏や倉庫なども確認する。──が、それでも彼女の痕跡さえ見つからない。

 そうして学園内の敷地で最後まで残ったのは、生徒が侵入禁止の場所だけ。当然、目的の彼女も生徒なのだから、そんな場所に許可なく居座ることは出来ない。

 

 ──ただ、生徒会だけは別だ。一般的な学校で考えられないほどに権力のある学生組織。そこに所属している彼女であれば、それっぽい理由を揃えることで鍵など容易く拝借できる。

 

「ここ上るのも久しぶりだな」

 

 芝崎が向かっているのは屋上。鍵はこの先いるウマ娘が持って行っているが問題ない。彼が以前レグルストレーナーだった際に、酒盛りのために勝手に屋上のスペアキーを作成している。彼女は一人になる為に屋上の鉄扉を選んだのだろうが、その程度の籠城策など芝崎には襖と同然。

 

 屋上へと続く階段は薄暗く、生徒が寄り付かないから脇には埃が溜まっている。学園七不思議などの怪奇が生まれそうな独立空間。そこに、唯一の光源となる太陽光を差し込ませる曇りガラス付の扉がある。

 

 芝崎が数年ぶりにその重い扉の鍵穴を回し開くと、強烈に注ぎ込む光と突風で目が塞がれた。一瞬たじろいでしまうが、これも屋上の醍醐味。芝崎は姿勢を戻して強く屋上に踏み込んだ。

 

 ──ああ、やはり、その先にはウマ娘がいた。

 美容広告でも通用する黒髪を風に流して、敷物も用意せずに屋上に座っている。相も変わらず茎を咥えた姿に芝崎は懐かしさを覚え、口角を上げて彼女の隣に腰を据える。

 

「久しぶりだな、ブライアン」

「──帰れ」

 

 芝崎の腰が据えられる前に退去が命じられる。

 その戦績と性格から二つ名は数あるが、一匹狼とも称されるナリタブライアン。自身のパーソナル領域に侵入されるならば、それが知り合いであっても一瞬で戦闘態勢である。

 ……とは言え、実はこれでも彼女にとっては心を許した相手への対応。もしこれが見知らぬ相手であれば彼女の方が無言で立ち去っていた。

 当然ながら、それは芝崎も感じ取っているので、冷たい言葉も無視して彼女の隣で胡坐をかく。

 

「あー……、ブライアン。今の君は無所属だったよな、次の予定はあるのか?」

「……回りくどい、ハッキリと言え」

 

 これもまたツンツンしている言い方だが、裏を返して芝崎が訳せば『ハッキリ話せば、聞いてやらんこともない』だ。彼女もレグルスが復活したと小耳に挟んでおり、ここで芝崎が訪れた意味は推測できる。それなのに、こうして逃げずにいるのだから会話の意思はある。

 

「ナリタブライアン、君にレグルスへの再加入を申し込みたい」

 

 チームの目標は数年前と変わらず最強を目指すこと。そのためには優秀な選手が必要不可欠である。

 しかし、現在のレグルスで純粋な戦力として数えられるのはサイレンススズカのみだ。他の二人とも潜在能力はあるが、まだまだ選手としては技術不足。調子の良し悪しで記録が大きく変わり、これまでのレース経験が少なすぎる。

 そのため5vs5のチーム戦では、マイル距離をサイレンススズカが勝つことを絶対にしても、その二人の適正である中・長距離の勝ち星は望みが薄い。三勝には不安要素が多いままだ。

 

 そのため、ナリタブライアンに加入してもらい、中・長距離戦を有利にしたい。

 ナリタブライアンには相手との相性から、中・長距離の好きな方に出場してもらう。そして、キタサンブラックとスペシャルウィークの調子が良い方を余った距離に出走させる。

 これならば中・長距離で一勝は固い。サイレンススズカを含めれば、三戦二勝でおつりがくる。

 それに、ナリタブライアンほどの選手なら、彼女たちへの手本としてもチームへの貢献度が高い。

 

「……分かった。それで、私には何があるんだ」

 

 求められる理由に納得したナリタブライアンは、急かすように自身の利益について尋ねた。

 芝崎がそれに対して用意していた回答は二つ。『優先的出走権と今年度の優勝』だ。

 再スタートで低予算なチームでは、重賞を制するウマ娘を迎えられる好待遇は整えられない。そんなチームには彼女のような有名選手は加入しないし、スカウトすることさえもが可笑しなことだ。

 

「──気に入った」

 

 しかし、そんな歴史に残る選手が望むのが『出走と勝利(こんなこと)』だ。

 

 ナリタブライアンの自分への厳しさは、チーム競技において不和を生じさせることもある。それは彼女が誰かに対して、練習の強要やフォームのダメ出しをせずとも自然発生する。

 あの(・・)ナリタブライアンが、チームの誰よりも必死に努力をしている姿は、ある一定以下のレベルであるウマ娘にとっては同調圧力に変わりない。

 

 僅かなミスに苛立つ天才が怖い。あの走りで満足できない天才が怖い。そして何より、そんな彼女と同じチームで戦うのが怖い。……だって、私たちには彼女ほどに上を見る覚悟が無いから。

 ──そうしてチーム内で不和が生じ、チームとしての勝利が遠退く。

 

 そうして、ナリタブライアンはどこかのチームに加入しては、他でもっと活躍できると形だけのトレードでタライ回しにされてきた。

 

 また彼女の負った怪我も、一つのチームに留まりきれない原因でもある。

 レグルス解散後、彼女が移籍した先の練習時に発覚した右股関節炎症。それは数か月の治療で完治するはずだった。

 しかし、彼女の深く踏み込む特徴的な走りは、医師の予想を超えて筋肉へ負荷をかけていた。完治予定を経過しても、関節の感覚は以前の感覚とは程遠いまま。数か月の休養とリハビリで筋力も落ちている。

 そして、治療の際に生じたミリ単位の骨格のズレが、彼女の強く蹴りだす足を狂わせていた。

 

 数々の栄光を勝ち取った走りをしても、過去のタイムを超えられない。様々な施術を試しても、足に力が入り切らない。

 ナリタブライアンという名前に惹かれたチームも、そんな彼女の現状を肌で感じてトレード要員にしている。

 治療方法、療養期間、リハビリ、──何をどうすれば良かったのか。もう、どうしようもない過去で、それは神のみぞ知ることだと誰もが諦めている。

 

 ──芝崎を除いて。

 

 もし、あの時にレグルスを解散しなければ、彼女は怪我をせずに済んだのではないか。移籍したチームで走り方を調整させられなければ、怪我をしなかったのではないか。そんな有りえない可能性を追ってしまう。

 

「……すまない、ブライアン。勝手なことして、君にも迷惑をかけた」

 

 全ての説明を終えた芝崎の口からは謝罪の言葉が零れた。

 これまでも謝罪の機会は何度もあった。芝崎がトレーナーを辞してからも廊下で擦れ違い、生徒会の彼女とは仕事上であっても言葉を交わしていた。それなのに、責められることを恐れて何も言えずにいた。

 

 しかし、立場が変わった。

 彼女たちと夢を叶えるためならば、これまでのプライドなどは捨てて然るべきなのだ。

 

「……分かった。加入してやるが、条件がある」

 

 ナリタブライアンは目線を合わせず、呟くように勧誘を承諾する。

 だが、勘違いしてはならない。これは芝崎の謝罪に対しての回答ではない。謝罪の言葉一つだけでは、前のチームを捨てた償いには及ばない。

 男に求められるのはケジメ。あの時とは違うと、ナリタブライアンを納得させることだ。

 

「試させてくれ。今のチームとアンタを──!!」

 

 だから、加入の条件として自身とのレースを望む。レグルスと芝崎走一の現在地を確かめ、頂に登り詰める実力を秘めているのかを確かめる。

 

 戦いは一週間後、舞台は芝の中距離。1対1のレースだ。現状のスペックならスペシャルウィークが選出となるだろう。

 芝崎にとっては想定内の展開だが、最も避けたかった展開だ。全盛期ではなくとも相手はナリタブライアン、勝てる可能性は限りなく低い。胸やけが全身に回ったような気怠さがある。……加えて、立ち上がった彼女が発した言葉は、更に芝崎をひっ迫させた。

 

「──なぜ、カレンチャン(短距離選手)を加入させなかった?」

 

 生徒会メンバーである以上、嫌でも校内の情報を耳にする。それがレグルス関連ならば、元所属選手としては詳しく調べて、騒動の内容や関係者を把握してしまうのが癖だ。

 

 芝崎が本当に過去を払拭したのなら、迷うことなく空席の短距離へカレンチャンを加入させる。しかし、それを選ばなかった芝崎の行動には疑問が残る。

 口を手で隠して理由を秘匿する芝崎に、彼女は付け加えて釘を刺した。

 

「それがアンタの弱さだ。その状態で本当に頂点に立てるのか?」

 

 過去の関係者だからこそ知っている芝崎の唯一最大の弱点。トレーナーを辞めて、チームを解散へ追いやり、カレンチャンを加入させられない原因。サイレンススズカたちに出会って変化している彼が未だに抱える問題点。

 

「まあいい……。一週間後にアンタが今のままなら加入は白紙だ」

 

 予鈴の音を耳にしてナリタブライアンが立ち去る。残されたのは苦い顔をした男だけだった。

 

 

 *

 

 

 いつかのレポート課題では『匂い』と『記憶』の結びつきを題材にした。振り返ってみると、課題の完成度としては稚拙ながらも、大きくは間違っていない内容だったと思う。

 現在の職場もそうだ。学校という施設のおかげで、ふとした匂いが懐かしい記憶を蘇らせる。

 忘れがたくも、薄れていく青春の残滓。教室の端で感じた孤独と、圧し掛かる将来への焦り。尊敬した先輩と過ごした余りにも僅かな時間。

 ……ああ、ほんとに。学校というのは思い出すだけで吐きそうだ。

 

 

 ──だけど、それ以上に雨の匂いが嫌いだ。

 濁って、透き通った、汚れて、美しい雨が嫌いだ。

 母なる水で生まれた命の雫が嫌いだ。

 

 雨は妹を思い出す。

 腕の中で冷たくなっていく妹を思い出す。

 

 拭えない記憶を思い出す──。

 

 

 *

 

 

 あの頃は無敵だった。喝采の中でトロフィーと盾を掲げ、胸元にメダルを輝かせる。レグルスの無敗神話は数多の栄誉を形にして貫かれていた。

 その分、練習は厳しくしていたけれど、誰一人として音を上げることは無かった。辛い練習は歯を食いしばって、終わったら皆で飯を食って、食後は自身の夢について語り合う。そんなアスリートとして健全すぎる生活。この好調が当たり前のように皆が笑顔で過ごしていた。

 

 ……しかし、妹だけはお世辞にも調子が良いとは言えない状態だった。今さら思い返せば、そうだったのだ。

 

 新人であった彼女には、元から戦力として期待はしていない。彼女に才能があるのは、兄バカを除いても絶対であった。レグルスのメンバーに揉まれて、努力を怠らなければ、数年後にはスター選手になる予定。──そうなるように俺が育てる予定だった。

 

 だから、彼女の調子について深く考えていなかった。慣れない生活に心身の疲労はあれども、そのうちに本来の調子が戻って来るだろうと、確証のない余裕を感じていた。

 ……加えて言い訳をするならば、チーム状態が良すぎて俺は人生最大に忙しかった。一人でチームを背負ったのは初のことで、それまで自分が担当していたサブトレーナーもいない。それなのに積みあがる勝利に比例して、仕事量は他チームの倍近くに増えていた。

 

 そうして俺は効率を求めてチームを管理し始めてしまった。そうなれば自然とレギュラーメンバーが優先されて、サポートメンバーである妹を構う時間が次第に減る。

 

「……ねぇ、お兄ちゃん。最近大丈夫? 目の下、真っ黒だよ」

 

 ──ん、ちょっと辛いけど、みんなの為だからな。しゃーねぇ。

 

「もー……。ちゃんと休憩取らないと、体に悪いよ?」

 

 ──ああ、分かってるよ。お前こそ学校はどうなんだ。悩みとか無いか? 

 

「……そうだね。──……そしたら今度、話聞いてよ。ちょっと相談あるんだ」

 

 ──今じゃなくて良いのか? 

 

「うん、お兄ちゃん忙しいし。また今度ね──」

 

 今にしてみれば、この会話が妹からのSOSだった。彼女が問題を抱えていたことを洩らしたのは後にも先にもこれだけ。

 それなのに忙しさを理由に、次の日には彼女の相談を忘れていた。いつも通りに見える彼女に、問題なしとラベリングしていた。

 ……が、ただそのままでは問題は解決しない。放っておいた事態が深淵に転がり始めたのは、それから数日後であった。

 

 

 ──妹が足首を捻った。

 

 

 連絡を受けて向かった先には、ベンチに座って該当部位を冷やす妹の姿。足首は内出血で肌が紫に腫れ、歩くことなど出来ない。

 チーム内の練習ではなく、学校のカリキュラムとして行われている体育でのこと。本人曰く、うっかりして転んだのが原因らしい。

 学園の保健室では診断も、治療にも限界がある。怪我をしたのが実の妹であることに緊張しつつ、その日の練習指導をシンボリルドルフに任せて二人で病院に向かった。

 

 ──しかし、気が動転していた阿呆は俺だけ。大人なのだから落ち着けと、医者に怒られるように言い渡された診断結果は、完治まで一ヶ月程度の後遺症も残らない捻挫。

 処置を終えた妹は松葉杖を脇にしていて仰々しく見えるが、それも念のためと一週間の使用が義務付けられただけ。

 控え選手であっても選手は選手だ。診断書に書かれた文字に安堵した。

 

 ……ただ、渡された診断書には奇妙なことが記されていたのだ。

 

 一つ前提として知っていて欲しいのは、ウマ娘の怪我処置が行える病院は数少ないということ。

 ウマ娘を診るには、病院側が彼女たちの生体としての特殊性を加味し、正確な診断と精密な処置技術が求められる。一つでも失敗しようものなら世間からは批判の業火、スポーツ業界からは経営を傾けるようなレッテルが張られる。

 そのためウマ娘の通院を許可するのは、そんなミスを起こさない一流の医者・機具・情報が揃った病院だけとなるのだ。

 

 言うまでもなく、この病院も最新機具が並んでいる。なんと今回レントゲンを撮影した台座は、身長、体重、重心、骨盤の歪みなど、同時に計10項目を測定可能な優れ物だ。

 ──だが、俺はそんな台座が測定した項目の一つに違和感を抱いたのだ。

 

 ……妹の身長に対して体重が軽すぎる。適正な体格指数を保つなどと言える段階でない。健康面に問題を及ぼす範囲ではないが、アスリートとしては細すぎる。

 自分が管理していながら、なんと不甲斐ないことだろうか。これでは満足な走りは難しいだろう。

 

 妹の体重に変化が無いことは分かっていた。健康管理として毎日の体重計測と報告を行わせている。最近の体重に変化が無いのは、身長にも変化が無いからだと思っていた。

 ……ならば、俺の想定以上に身長の伸びが著しいのか。──それは否、記された身長の変化は許容範囲。学園と病院の機具の差を考慮しても、見過ごせる差ではない。

 

「あぁー……、ほら!! 最近練習ハードだったし、私も成長期でしょ? ──てか、太ってるよりマシ!!」

 

 妹はそう言って笑い飛ばした。これもいつも通りの笑顔、──に見えていた。

 彼女のことは生まれた時から知っている。その笑顔が作り物だってことも感じ取れていた。

 ……ただ、やはり、その時の俺は怠けていたのだ。彼女のことを理解することに意識を割けなかった。

 この作り笑顔は、練習外の怪我でチームに参加できない心苦しさ。謝罪の念が彼女にそうさせているのだと思っていた。

 

「……じゃあ、この期間で飯を食え。怪我の治りにも関わるからな」

「らじゃー!! ──あ、ならさ!! 久しぶりにお兄ちゃんのオムライス食べたい!!」

「今日は白米です」

「む!? けちぃー!!」

 

 献立に不満げな頬の膨らみをしている妹と学園に戻る。

 その後、最初に手をつけたのは献立の見直し。太らせると言えば妹は嫌がるだろうけど、それを推し進めるように食事を変更した。もちろん、要望のあったオムライスやハンバーグをしっかり組み込んでだ。

 

 そうして妹が好んだ食事を作ること一週間。見ている限りでは朝食・夕食共に残すことなく食べきっている。当たり前だが運動もしていないため、しっかりと体重が付いているはず──。

 

「──はずなのに、目標の半分にも届いてない?」

 

 しかし、それでも妹の体重増加は予定の半分以下。何度計算を繰り返しても一致しない数字に頭を抱えるしかない。

 摂取カロリー以上の運動など出来るはずがない。摂取したカロリーはどこへ消えたのか。まさか俺の学生時代のように、ストレスで吐いている(・・・・・・・・・・)訳でもあるまいし。

 

「あれ? お兄ちゃん、行かないの?」

「──ああ、悪い。すぐ行くよ」

 

 妹に急かされて、彼女の記録を隠して外出の準備をする。怪我から一週間、今日は予約していた足首の再検査がある。

 妹の足には厚いサポーターが巻かれているが、歩くだけなら痛みは無いらしい。そんな状態を表すかのように、妹は病院に返却する松葉杖をクルクルと回している。きっと再検査でも順調に回復していると言われるだろう。

 それに、今日は朝から雨が降っている。バス停までは歩くのだから、歩けるまでに回復しているのは良かった。

 

 ──転んで怪我でもされたら元も子もない。

 

 

 

 *

 

 

 

 その日、空は厚い雲に覆われ、殴りつけるような大粒の雨が降っていた。ここから数日は天候の回復は見込めず。テレビでは雨季の先取りとの予報が繰り返されている。やまない雨は無いなどと言うが、しばらくはコレと付き合うしかない。

 

 雨雲で暗く、雨と傘で視認性が最悪な道を歩いてバス停に向かう。雨水を吸ったズボンの裾に明確な重みを感じる。平日の午後に、ここまでの悪天候となると自然と人通りが少なくなるものだ。

 

 しかし、そんな誰もが家で大人しくしていたい状況でも、やはり小学生という生き物は強い。

 走るのには不向きな長靴や、背中から動きを拘束するランドセルなど意にも介さず。笑顔で水溜りに飛び込み、ぐるぐると傘を回している。

 目線の高さにかかる子供傘を避けては、その活気溢れた姿に感心するものだ。

 

 ただ、その活気の良さを生み出すのは、あの年齢層特有の無知と無謀。理性は関与せず、己の欲求だけが一方的に体を動かすため、彼らは時として一般常識で予測できないような行動を起こしてしまう。

 

 

「……あの子供、どこ見てんだ?」

 

 俺と妹の数十メートル先、歩道の端を一人の小学生が歩いている。背丈は低く、真新しいランドセルは背中より大きい。風を受ける傘に負け、歩き方もフラフラとしている。いかにも一年生といった風貌だ。

 ……加えて、その子の視線は定まらず、何かを探すように泳いでいるのが不穏さを感じさせた。

 

 その子の視線が泳ぐ理由を読み解くのに、そこまでの時間は必要なかった。

 入学したてだと言うのに、土砂降りの雨の中を一人で下校しているのだ。至極単純に心細いのだろう。そうなれば、どこかに友人や家族がいないものかと無意識に探してしまうものだ。

 ──だからこそ、その拠り所となる存在を見つけたとき、孤独からの解放という喜びは子供に爆発的な行動を起こしてしまう。

 

「あ──、あれ、駄目──」

 

 妹がソレを察知して声を漏らした。

 車道を挟んだ向かいの歩道。大声で何かを叫ぶ小学生たち。見た目から考えるに、──恐らく一年生。彼らが何を叫んでいるのか、これは考えるまでもなかった。

 一人で不安そうにしていた小学生が、集団の声を聴いた途端に満面の笑みで手を振り返し始めた。

 

 ……話を戻そう。一般的な子供は無知で無謀なのだ。

 例えば、雨の道路では車の停止距離が延びることを知らない。

 例えば、人通りが少ないから、車も来ないだろうと決めつけてしまう。

 例えば、左右の確認も行わず、反対の歩道にいる愛おしい友人たちの元へと、信号外を横断してしまう。

 

「嘘だろ!?」

 

 子供が飛び出した歩道の反対車線からは、中型サイズのトラックが迫っている。突然トラックが現れた訳ではない。自分にはトラックが元から車線に沿って走行していたのが見えていた。

 しかし、飛び出した子供の意識は視線の先にいる友人に集中している。自分のように当たり前のことが出来ない。加えて、傘をさしてるから左右の視界は狭く、トラックが近づくのに気が付いていない。

 急いで声を張って静止を試みる、──が、その判断に体が追い付かない。叫ぶ、それだけの行為に数秒の時を要し、この一瞬が生死を分ける場面では余りにも長い数秒となった。

 ……衝突は免れない。手遅れだ。

 

 

 

「──ごめんね、お兄ちゃん」

 

 

 

 最後に聞いた妹の声は、慰めるように優しい謝罪であった。直後に俺の横を駆ける影があり、その速度から発生した風が服を揺らす。

 

 フィルム映画のように時が進んだ。自分の視点なのに、自分自身を後ろから観察しているような。作品を第三者として見ているかのような感覚。

 雨の一粒ずつが目視で観察できそうで、肌に当たる感触さえも細かく鮮明に感じられる。

 視界の端では、妹が投げ捨てられた傘が地面に落ちていく。疾風と化した妹とは真逆に、傘は綿毛のように地面を転がる。

 

 けたたましいブレーキ音が響くと同時に、妹が子供の手を掴んで自分と位置を入れ替える。子供は飛び出した場所へと倒れ、ランドセルが万が一の役割であるクッションとして機能する。

 

 確定してしまった未来に身動きは取れない。妹の速度には追い付けず、静止を促しても意味は無い。ゆっくりと動く時の中で縋り、祈る。

 ああ、神様。どうか妹を助けてください──。

 

 ……しかし、車のライトに照らされ始めた妹はその場から動かない。動けない。

 彼女の足が震え、口の端が痛みで歪んでいる。

 

 ──目が合った。振り落ちる雨が車のライトを乱反射させ、明輝とする妹がこちらを見ている。

 

 彼女は笑みを浮かべていた。足の痛みに耐えながら、仕方なさそうに。申し訳なさそうに。

 それは明るく、優しい、素直な性格のいつもの笑顔。彼女が生まれてから十数年の間、ずっと見守ってきた笑顔。そんな数え切れない瞬間が瞳の裏に流れ込んできた。

 

 ──分かってる。兄ちゃん、最後までお前のこと見てるからな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──壊れる音がした。

 ブレーキが道路を削る音の中で、叩かれ、折れる音がした。

 

 妹の身体が大きく吹き飛ばされて、無抵抗のままアスファルトに倒れる。しかし、それだけでは勢いは止まらない。彼女は何度も跳ね転がり、最後は地面に擦り付けられながら、ようやく落ち着いた。

 

 手から滑るように傘を落とし、彼女の傍へ向かう。

 

 彼女の身体は動かない。うつ伏せのまま雨に打たれて、重力に引かれるだけ。その空間で動くのは、側頭部から滲み出ている赤黒い液体。流れる雨を伝って、地面に広がっている。

 数十キロの速度で正面衝突したのだから、こうなって然るべきだ。

 

 膝を地面につけて、彼女を抱きかかえる。

 瞳に精気は宿っていない。瞳孔は虚ろに空を見上げて、体を支える筋肉の硬直が始まっている。

 

 

 ──それなのに、口元だけが笑顔を残していた。

 

 

 勇敢だったと、手で覆うようにして彼女の瞼を閉じる。

 ……ああ、そうだ。俺の妹は最高の妹だ。

 

 聴覚は人間が最後まで感覚を残す器官。冷たい彼女に届かずとも、出来ることはこれだけだ。

 

「──ずっと愛してる、********」

 

 力いっぱい彼女を抱きしめた。雨に奪われる彼女の体温を最後まで確かめた。

 

 雨と鉄の臭い。

 温かく、冷たく、硬く、やわらかい感触。

 無音を奏でる水とアスファルトのぶつかる音。

 命が輝き、消える感覚。

 

 ──ああ、こんな簡単に終わるのか。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 事故後、俺には一週間の休暇が与えられた。忌引きの三日に加えて、精神的な療養のために二日の特別休暇。週末の休みを挟めば合計七日の暇である。

 

 ただ、レグルスのトレーナーは俺のみだ。あまり長期間は離れられないし、離れたくもない。そのため葬式を行うための忌引だけで充分だと申し出たが、学園側に短いくらいだと断固拒否の姿勢を取られた。

 これには学園の判断は善意も含まれているが、恐らくはメディアが落ち着くまでの時間稼ぎの部分が大きい。

 

 華やかな学園で起きた悲劇に世間の注目が集まるのは当然だ。今まではレース直前にスポーツ班の記者たちが校門前で輪を作っていたが、今は他の取材班も張り込んで、血眼になって使えるネタを探している。

 

 不幸中の幸いは、学園側が根回しをしたことで、俺たちの兄妹関係は伏せられたことだ。ただ、それでもトレーナー()がいるなら彼らは一目散に群がってくるだろう。こちらも無駄な脚色をされて、お涙頂戴にされるのは遺憾だ。

 そのため学園に従って暫しの休養を受け入れることにした。

 

 ただその期間も休んだ気にはなれない。

 俺も大概だが、それ以上に両親の精神が枯れ細っている。どうしたって葬式の喪主ができる状態じゃない。

 感傷に浸る時間は無い。妹の人生を綺麗に畳むのは俺しかいないのだ。

 

 連絡しなければならない親戚は数多く、葬儀屋との段取りは勝手が分からず。葬式中も挨拶回りに、香典やらの確認作業が付きまとった。

 こうなると普段の仕事量と変わらず。むしろ慣れないことに肩が凝る。休みなんて形だけのものだ。

 

 ──ただ、やることが多い方が気持ちは紛れた。

 あの日に壊れた心は壊れたまま。葬式を無事に終わらせるという使命、その一本だけ残った細い柱が俺を支えている。乾き、欠け、罅割れた支柱。風が吹けば、誰かが指を這わせれば折れる支柱だ。その柱を仕事で塗装して、辛いことを考えないようにできた。理屈で無理やり柱を補強して心を支えた。

 

「皆さん、ありがとうございました。帰りもお気を付けください」

 

 全てを終えて列席いただいた方々を見送る時には、俺の見た目は古びた案山子のようになっていた。

 視界には冬の冷たさに似た灰色の靄がかかる。四肢が借り物みたいで、機械的に動かされている。妹を形成していたリン酸カルシウムと炭素。それを拾い上げる時であっても心が動かなかった。

 

 そう言えば、ここ数日の食事もほとんどが喉を通っていない。固形物なら粘土、飲み物は絵具に近い。臭いも嗅ぎ分けられないのに、線香だけが鼻の裏に延々と張り付いている。音も四角い情報体で、周りからの呼びかけも聞き逃してばかり。何とも情けないことだ。

 

「でも、これで終わりだよな……」

 

 滞りなく妹を送り出せた。葬式も問題なく終えられた。兄として妹の面目は守れたはずだ。

 深閑とした会場で一人安堵していると、張り詰めていた神経が緩む。喪服を椅子の背に掛けて、ネクタイを外す。──すると途端に連日の疲れが溢れ、椅子に座ったまま意識がぷっつりと切れた。

 ただ、意識の閉幕には満足していて、良く持ち切ったと自身を褒めて深い眠りにつけた。

 

 

 ──その後、目覚めた俺の身体が正常に動くことはなかった。限界を超えていた身心は、ベッドから動くことも許さない。

 結局、学園が当初提案した二週間の休暇を使うことになってしまった。

 

 

 *

 

 

 学園に戻った俺への態度は二極化されていた。それも比率が大きく偏った二極だ。

 大多数の者たちが選んだのは敬遠だ。約二週間で汚く痩せこけた俺に、関係の薄い者が話しかける勇気は湧かない。加えて、そんな身なりでも仕事は以前同様に行っている。壊れたロボットのようで、周りからしたら気味が悪かっただろう。

 ……ああ、そうだ。この辺りから何年後も響く悪評が始まったのだった。

 

 対にいるのが、以前から常に俺の傍にいた極少数の者たち。シンボリルドルフやトウカイテイオー、彼女たちは子供の世話を焼くように生活の手助けをしてくれた。ナリタブライアンは何か手助けをしてくることは無いが、俺の傍に誰もいなければ視界に入るようにいてくれた。俺を独りにしないように気を使ってくれていたのだろう。

 

 ──やはり、ウマ娘(彼女たち)の存在は大きい。

 亡くなった妹は戻らずとも、欠けてしまった心でも、耐えられたのは彼女たちがいたからだ。そう遠くない未来、俺は元には戻らないほどの崩壊を迎える。それを直感で理解していても、担当している彼女たちが立派に巣立つまでは耐えねばならない。

 

『──いつか、私のトレーナーになってね』

 

 幼い妹に言われた大切な言葉。あの言葉でトレーナーを目指し、トレーナーになった以上は、彼女がいなくとも最期までトレーナーを貫きたい。

 限界の身体を信念で維持すると、特攻に近い精神で戦うつもりであった。

 ……あの記事を読むまでは。

 

 

 

『事故死の影に隠れたトレセンの闇!? 事故少女にいじめ被害発覚!!』

 

 

 

 電車のつり革広告に大きく載せられた文字に意識を殺される。文字が認識できているのに、書いてある意味に理解が追い付かない。

 トレセン学園に在籍する千単位のウマ娘。そこにある文字が当て嵌まる生徒は一人だけだ。

 

 ……知らない。俺はそんなこと知らない、聞いてない。

 妹はそんなこと一言たりとも言って──、……いや、あった。知らせは有ったのか──? 

 

 次の駅、途中下車であっても足が動いた。書店に飛び込んで陳列された雑誌を手に取る。

 本文は読者を煽るため、これでもかと脚色が盛り込まれた悲劇的な文章が書かれていた。創作物でも通用する雑誌など、普段なら鼻で笑って閉じるところだ。

 ──しかし、その文章の中には学園関係者しか知り得ない、授業カリキュラムやチーム情報が載せられている。振るわれた暴力や浴びせられた罵倒も、どれもが詳細に記されていて、その虐めが行われていたとされる場所や日時に違和感がない。

 

 学園に勤めているから見抜ける。この雑誌にフィクションが足されていても、根本に虐めが起きていたことは確かだ。

 それに、複数出版社が同時に同内容を含んだ雑誌を発行しているのも、事実があるとの裏付けになっている。

 

 ──怒りで体が千切れそうだった。

 

 掲載された内容の後半、亡くなった生徒が受けた最後の虐めが暴力行為だと書かれている。それは体育の授業でのことで、加害者の生徒が故意に起こしたのは──、

 

『捻挫』だ。

 

 これからするのは勝手な想像だ。

 もし、彼女が捻挫をしていなかったら、そもそも治療のために病院に通う必要はない。そうすれば、あの雨の日に外出することもなく、事故に遭うこともなかった。

 もし、何かの用事で外出していても、彼女が持つ本来の身体能力であれば子供を助けて、自身も車と衝突する前に車道から逃げきれていた。

 ……そうだ、そうなのだ。最期に彼女が車に無抵抗で引かれたのは、足が痛みで動かなかったからだ。俺と目が合う一瞬前に、自分の足を見て逃げることを諦めていた。

 

 なら足が動けば彼女は生きていたのか。

 もし、虐めを知り得ていたなら今とは違ったのではないか。

 

 そう考えて行きついたのは黒く濁った感情。行き場もなく、抑えていた悲しみが憎悪になって吹き出す。

 

 

 ──イモウトハ、コロサレタノカ? 

 

 

 これは殺意だ。これまで愛してきた存在たちへ、自分を支えてくれていた存在たちへ。初めて抱いた黒色のナニかは、そんな存在へ向けられた。

 

 事実を確かめるために学園へと向かう足に今までにない力が入る。握った拳から体液が流れ、噛み締めた唇から鉄の味がする。

 殺気で周りの人間に道を開けさせ、走って荒れた呼吸を整えることをせず、重厚な木製の扉を叩き開ける。視線の先にいるのは学園の最高責任者。しまったと俺の訪問に顔を歪める彼女に詰め寄った。

 

「俺に隠したんですか」

「……否定。我々も記事発行と同時に得た事実だ」

 

 学園に非は無い、……らしい。

 嘘ではないだろう。在籍数が四桁にもなる学園の生徒すべてを、取りこぼすことなく管理しろと言う方が無茶だ。

 

 実際、数年に一度、学園側が監督しきれずに事件を起こす生徒がいる。

 勝ちたいがあまりに行われるドーピング。禁止されたシューズの着用、相手チーム情報の不正入手。悪意を持って行動してしまえば、それなりに抜け道は見つかる。

 

「今後、加害者(そいつら)に対してどのような処罰をお考えですか」

「……情報を記者に流した生徒については、厳重注意と数日の謹慎です」

 

 この事態に対応しているであろう、理事長の隣に立つ秘書が回答する。──だが、違う、そうじゃない。そっちじゃない。濁した答えで満足は出来ない。

 

 ……分かるさ。俺だって分かる。

 問題を起こしたとしても、加害者だとしても、理事長たちから見れば大切な生徒だ。彼女たちを守りたい気持ちは痛いほど理解できる。それなのに殺気立った俺に、その生徒たちの情報を与えることなんて出来ないだろう。

 

 だから、その意思を捻り壊す。

 

 親族として、トレーナーとして。それらしい御託を並べ立てて、理論武装を眼前に突き付ける。

 

「だとしても、俺に連絡一つ無いのは間違っているのでは? まさか俺が介入する前に、都合よく片付けるつもりだったのでは──!?」

「──い、いえ!! そんなことは!!」

 

 一度でも口にしてしまえば、もう止まれなかった。

 こんなことのために蓄えた知識でないと、十数年間の努力を否定することになっても止まれない。尊敬していた人たちに対して、ウマ娘の存在を否定する発言を暴力のようにふるった。

 暫くの間、二人は俺の言葉を一方的に受けるが、虐めに対して法的処置に出るとの脅しが理事長秘書の口を無理やり開かせた。

 

「──虐めの加害者となる生徒は、退学処分になります」

 

 手に入ったのは俺にとって極上の餌。

 彼女たち(ウマ娘)にとって最も辛い罰は、走ることを奪われることだ。

 

「その役目は……、退学を突き付ける役目は俺がやる」

 

 ならば俺にとっての復讐は、そいつらから生きる意味を奪ってやること。

 

「──ッ、否定!! トレーナーにはそこまでの権利は与えられていない!!」

「そ、そうです!! 生徒の在籍管理が行えるのは一部の職員だけです!! まさか貴方はトレーナーを辞めるとでも──……」

 

 必死に説得する女性から少しずつ声が失われる。交渉の余地はないと彼女たちも理解している。

 本来であれば、俺程度の脅しなどで役職を変えることなど有り得ない。だが、俺の要求を呑まなければ、その後にどんな行動をとるのかは定かでない。

 俺が学園を訴え、更に収拾のつかない事態にする可能性がある。もしくは、俺が独自に虐め犯を調べ上げ、復讐に走るかもしれない。どちらにせよ、学園としては不利を被るだけだ。

 

「ならトレーナーなんて辞めてやる。いいから、さっさとその権利を寄越せよ──!!」

 

 その俺が、退学を突き付けることで満足すると言ってしまえば、彼女たちはそれを飲み込むしかない。

 

 彼女たちは学園を守るために判断を下した。

 新しい役職を作り、俺に担わせ、学園の端に置く。そうして学園を守ったのだ。

 

 

 

 *

 

 

 

 あれから数日後、新たな役職を得た俺は薄暗い部屋にいた。学園の隅に位置する小さな部屋だ。光の入りは悪く、長らく未使用で埃が溜まり、カビが這っている。まるで廃墟のようだ。

 

 そんな部屋での最初の仕事は例の宣告。

 最低限の電気で室内を照らし、埃の被った机に書類を置く。掃除もせず、缶コーヒーを啜って時を待った。

 

 ……しかし、直ぐにその時が訪れるだろうと思っていたが、思いのほか時間が経つのが遅い。

 待ち始めた最初の方こそ、この退屈の理由はただ手持無沙汰だからだと思っていた。だが、時間が経つにつれて、徐々にその本当の理由に気が付いていく。

 それはアトラクションを待つのと同じ。人として終わっているがワクワクしていたのだ。年端もいかないウマ娘から、その夢を奪うという腐った行為に愉楽を求めていた。

 

 だから、ドアをノックする音に笑みを浮かべた。妹の残した気持ちを踏みにじるような、汚らしい感情で口が緩んだ。

 

「良く来てくれたね。こんにちは、──芝崎です」

 

 訪れたのは三人の生徒。愛すべきウマ娘で、憎き生徒たち。

 彼女たちは俺の顔を見るなりに表情が青ざめ、その手が震えだした。──ああ、何といい気味だろうか。このまま放っておいて、勝手に崩れる様を眺めるのも良いだろう。……だが、もう一段突き落とす楽しみには勝てない。

 

「突然ですが、貴方たちは退学となりました」

 

 あくまでも穏やかに、薄く笑みを浮かべて、嘲笑うかのように退学を突き付ける。

 数秒間の静寂の後、一人の生徒が膝をついて涙を流し始めた。それは伝播し、他の二人も感情が溢れ出す。

 これは望んでいた光景だ。望んでいた復讐だ。正統な復讐だ。……それなのに、期待していた悦楽を感じることはない。

 

 羨ましいことだ。お前らのせいで、もう妹は涙を流すこともできないというのに。

 

 唾を吐き捨てるように退学通知書を押し付けて、部屋から退出させる。書類に記された退学理由を口頭で述べて、その罪の重さを自覚させる予定だったが気分が乗らない。書類に目を通さなければ、退寮や転校手続きも出来ないのだ。勝手に読んで、勝手に落ち込んでくれ。

 

 ふぅ──、と大きく息をして扉の鍵を閉める。そのまま窓際に移り、カーテンをずらして窓を開け、枠に体重を預けて空を見上げる。復讐が終わった今、思うことは一つだ。

 

「……あんま変わんねぇな」

 

 気分は晴れない。むしろ一つの区切りがつき、理性的になったことで虚しさは膨れ上がった。しかも、収縮するはずの怒りと悲しみも変化する気配がない。

 求めていた満足感とは言い難い気持ちだ。

 

 ──分かっている。この気持ちの原因は、己の選んだ行動が間違いだと気が付いているからだ。怒りを上司にぶつけて、私怨でチームを解散させた。妹の願いでもあり、努力して手に入れたトレーナー職も捨てた。

 

 それでも、どうしようもなかったんだ。

 この行動の結果として何も得られず、行動の過程で抱えていたものを捨てても。

 

「糞野郎だな、俺は……」

 

 黒い液体を流し込んで、カーテンを閉めた。

 

 これで話は終わり。それからは誰もが知るままだ。シンボリルドルフは選手を引退。ナリタブライアン、トウカイテイオーたちは別のチームに移籍。

 腐った俺は自分で始めた仕事を惰性的に続ける。食事は適当に取り、半カフェイン中毒者状態。パソコンで目を悪くして眼鏡をかけて、運動の頻度も激減。生きても、死んでもいない日々を繰り返した。

 

 

「──責任、取ってくれないんですか?」

 

 

 数年後、一人のウマ娘が訪ねて来る、その時まで。

 

 

 

 *

 

 

 

 長らくナリタブライアンが芝崎に苛立つ理由、それは芝崎走一が『妹』の存在に未練を残していることにある。より正確に表すならば、未練に対して平常心を装い、そんな状態をダラダラと引き延ばしていたことに苛立っていた。

 未練そのものを責めることはしない。過去を想い大人気なく泣こうが、落ち込もうが、どうでもいいのだ。

 

 しかし、己の意志で再び立ち上がったのなら、チームを背負うものとして踏ん切りをつけるべきだ。

 

 それなのに、芝崎はカレンチャンに『兄』と呼ばれることが辛い。チームに『妹』と被る存在がいることなど考えられない。カレンチャンがチームに加わってしまえば、芝崎走一から『妹』の存在が消えそうでならない。

 そんな自分本位の理由で、レグルスを最強にすると宣いながら、優秀なウマ娘の加入を拒んでいる。自身で掲げた理念に背く行為をしている。

 

 厳しいようだが、今回はたまたまチーム内部で収まっている事態であるだけ。今後この歪みが他の問題を引き起こすかもしれない。

 例えば、妹そっくりのウマ娘が相手チームに所属していたとき、芝崎が無意識に手を抜くかもしれない。もしくは体調を崩して指揮が執れないなどの状況に陥ることも考えられる。

 彼のどっちつかずの覚悟と行動は、再びチームが崩壊するかもしれないのだ。芝崎走一の身勝手さに振り回されたナリタブライアンは、そんな危険性を孕んだチームへの所属など御免被る。

 

 勿論、芝崎走一もナリタブライアンの警告を受け止めてはいた。

 

 彼がこの数日感じるのは、日に日に浮かび上がる己の矛盾ばかりだ。レグルスで戦うための強い精神などと宣いながら、カレンチャン(妹の存在)と出会っただけで、日々の行動に歪が生まれる。

 そしてその問題へ意識が沈むたび、その体からは傀儡のように力が抜け、本来の働きを行うことが儘ならない。

 ナリタブライアンとの勝負も明日に控えているのに、未だ中距離適性の高いキタサンブラックとスペシャルウィーク、どちらを選出するのかも決まっていない。

 全くもってナリタブライアンの予想通り。精神的な弱点が敗北への道を歩ませている。

 

「……最後はメンタル勝負か」

 

 芝崎が口にしたそれは、選出に関する言葉でもあり、自己嫌悪を存分に内包していた。

 

 ──勝負も半ば諦めている。

 相手は怪我を負ってもなお一流の選手。鈍った芝崎の思考であっても、トレーナーとして判断するなら、現状では万が一の勝利も無いと断言できる。

 中距離・芝のレース、何度シミュレーションしても勝ち筋が思いつかない。

 

 ならば、負けが確定しているならコインを投げて運に賭ける。……というよりも、何とも情けないことに最後は他力本願。もうコインを投げることさえも他人に任せてしまう。

 

「……なあ、スズカ。キタちゃんとスぺなら、どっちが相手になると思う?」

「そうですね……。私は──」

 

 芝崎が頼る先は一つしかない。ヨタヨタとグランド脇のベンチに向かい、スポーツドリンクを飲んで練習の小休憩を取っているサイレンススズカへと問いかけた。

 

 ──だが芝崎走一という男は、運命に身を委ねて安寧に過ごせた試しがない。コインを弾こうものなら鳥が加えて去っていく。天命を求めれば神様がスカイダイブしてくる。

 サイレンススズカへの問いも同様。彼女が放つ答えは、良い意味で諦めのつく大胆なものであった。

 

「──私は、彼女を推薦します」

 

 サイレンスズカが勧めたのは、隣のレーンでトレーニングを行うウマ娘だ。ジャージの裾は土で真っ黒に染まり、顔には粒玉の汗を纏った白髪が張り付いている。これはレグルスの練習メニューを真似て自作したものを、今日も一人で黙々と完遂させた確固たる証拠だ。

 

 芝崎は言葉を飲んだ。ここまでぶっ飛んだ提案であると、否定の言葉も、肯定の言葉も適していない。

 その生徒の努力は認めるが、どんなに努力を重ねていても、事実としてその生徒はレグルスのメンバーではない。加えて、彼女が有するのは短距離適性のみ。今回のレースは適性外だ。

 前提を無視するなどサイレンススズカらしくもない。完全にロジックの破綻した提案である。

 

 ──だからって、スズカが可笑しなことを言ったとは思わない。

 

 そうなのだ。どんなに可笑しな提案だとしても、あのサイレンススズカが言い切ったのだ。

 メンバー不足の解決とチーム強化を狙ったレースだと分かっていて、相手とシチュエーションを理解していて、それでも硬骨な意思でサイレンススズカが言い切っている。

 

「私もスズカさんに同じです!!」

「同じく、です!!」

 

 いつの間にかスペシャルウィークとキタサンブラックまでもが揃って推薦を口にし始めた。口を挟む余地なしの満場一致。この狂気染みた案がチームメンバーの総意だ。

 

 ──が、だからこそ、ならばあと一歩。芝崎は背を押してくれる要素が欲しい。

 必勝法を示せなど無茶は言わない。芝崎が決断するために何でも良い。彼女たちの気持ちが決まったように、優柔不断な彼を動かす確定的な要素が必要なのだ。

 

「──なら、(カレン)が負けたら、もうレグルスに入れて欲しいって言わないよ」

 

 最後のピースは、芝崎の背を押したのは推薦を受けた張本人。拳を強く握り、まっすぐに芝崎の瞳を見つめる。

 念願であったレグルスへの加入を諦める。それを敬愛する芝崎に対して宣言した。勝てる自信か、それともチャンスを逃すまいとの決心か。

 どちらにせよ気骨のある心意気だが、それでは彼女の損得計算が成り立たない。

 

「……なら、勝ったら? それだけだと君に利が無いだろう」

 

 今までのことの運びから予想するならば、カレンチャンが提示するのは『勝ったら加入させてほしい』だと誰もが結論付けるだろう。

 

「無いよ、カレンは勝つだけ。走って勝つだけ」

 

 だがカレンチャンは違う。

 これまで打開策の無かった彼女へと垂らされた蜘蛛の糸。それを十分に理解していても、それには縋らない。

 だからこそ、その意思は芝崎の覚悟にも変わる。ウマ娘の本質を帯びたカレンチャンの意志は尊重するべきだ。

 

「……分かった。カレンチャン、君に賭けよう」

 

 その言葉に強く頷いたのはカレンチャンを含めたウマ娘四人全員であった。

 数日前、彼女たちはナリタブライアンから芝崎走一の過去を知らされた。自分たちの知らない彼を知ることで、芝崎走一がどのような存在なのかを見つめ直した。今、そんな彼女たちを動かすのは彼に対しての憧れではない。

 もし、その気持ちに名前を付けるなら──

 

 

 

 *

 

 

 

 翌日、午後18時、天候・芝ともに良。夕日が影を大きく映し出し、決戦の舞台を染める。

 

 すでに他のチームは練習を終えた。秘匿のために立入禁止の立札を設置せずとも、練習場にいるのはレグルスの関係者のみ。

 ジャージを着たレグルスメンバーと芝崎は、柵の外に設置されたベンチに腰を並べる。彼女たちの視線の先には、体育着で入念にストレッチをする走者が二人。どちらも一定の距離を取って集中力を高めている。

 

「……き、緊張しますね!! 私、1対1のレースって、ダイヤちゃんと練習で走るくらいしか経験ないです!!」

「私なんてウマ娘さんと走ったことすら数回しか……。もう緊張でお腹が……、減ってますよぉ」

「スぺちゃん……」

 

 私的なレースに大掛かりな設備の使用許可は下りない。スタートの合図を発する電子機具などもっての外。スタートとゴールラインは等間隔に置かれたポールが目印。応援の声掛けも、勝利予想の会話も波立たない。そんな記録に残らない簡素なレース。

 それなのにレグルスメンバーの言葉通り、レース場には異様な緊張感が張り詰めていた。重賞の緊迫感とも、チーム戦の最終レースとも異なる。動的なスポーツとは遠い、凍り付くような重みだ。

 

 その中心である走者たちは互いの様子を横目で捉え、合わせたようにスタートラインに足を運ぶ。

 スタートがあるのは向正面から手前、カーブを抜けてストレートに入った所だ。そこから一周走り、今度は向こう正面を抜けて、逆側のカーブ手前でゴールとなる。

 

 先に体勢を整えたのは漆黒のウマ娘。身体を深く沈み込みませて、夕日で伸びる影と一体化し、脱力したまま息をひそめた。この勝負への殺気と勝利への渇望を纏う姿は、正しく獅子搏兎。

 勝負前、芝崎からレグルスの代表者がカレンチャンで良いかと尋ねられた時に、彼女は少しばかり驚いた表情を覗かせて、直後に僅かながら口角を上げた。あの表情は心からの驚きなのか、それとも勝敗の決まったレースへの落胆した嘲笑なのかは分からない。

 いずれにせよ疾走に備えた彼女の姿からは、そんな子供だましの作戦で虚を衝くなど不可能だと言われているようであった。

 

 ──ふぅ。

 

 カレンチャンの溜息のような深呼吸。これから相手をするのは正真正銘の王者だと、畏怖する気持ちを吐き出した音だ。その音は離れた見届け人たちには聞こえないが、彼女の動作が彼らにも伝わっている。

 

 本番のレースならご法度であるが、集中を繋ぎ合わせるために整えかけた構えを解く。リラックスの為に軽く跳ねて身体の緊張を和らげ、もう一度大きく深呼吸を行った。

 

 ──あ、そうだ……。

 

 脳に酸素が送られたことで、少女は緊張のあまりに忘れていた一つのルーティンを思い出した。それはこのレース前に行うと決めた行動で、このレースに乗せる彼女の精一杯の想いの形だ。

 夕陽に照らされて赤色を帯びた白髪を揺らし、自分を見てくれる友人たちへ、そしてレグルスのトレーナーへと顔を向けた。自分が立っている位置は、橙色の夕日に黄金色が反射して逆光になっている。影になった自分の表情は薄ぼんやりとしか見えないと理解している。

 それでも彼女は微笑を浮かべて誓いを立てる。

 

「……待っててね、カレンが届けるから」

 

 その微笑みに気が付いたのは、少女が気持ちを伝えたい芝崎のみであった。

 瞬間に男の脳裏によぎるのは、雨に塗れた妹が浮かべた最期の笑顔。迫る人工のライトに照らされながら見せた、謝罪を込めた兄への感謝。色褪せることを許さない絶望の刹那。

『兄妹』の立場と、照らされたシチュエーションが同じだからか、またしても忘れたい記憶が蘇る。

 また心臓を掴まれるような、唇を噛み締めるような気分になる。──なるはずだった。

 

 ただ、今日だけは違った。『妹』の笑顔に目を奪われ、過去のことが消え去っていた。

 それだけではない。積み重なった後悔も、このレースへの緊張も、トレーナーとしての職務も忘れた。ただ無心で『カレンチャン』の笑顔という温かさを受け取っていた。

 

 そんな男の感情を読み取ったかのように、カレンチャンは眠るように目を閉じ、自然な脱力と共にスタート体勢を取る。

 ──これで二人の戦いへ挑む準備が整った。

 

 先にも説明したように、私的なレースに十分な用意はされていない。勿論、スタートを促す機械も設置されていない。

 

 そのため、このレースの始まりは誰もが知る国技、相撲と同様に行われる。

 相撲というスポーツにおける最大の特徴は、その始まりに信号による合図が無いこと。プロとされる彼らは、見合う両者が土俵に手をつき、互いの呼吸を合わせることでスタートの合図と成す。

 つまり、逆説的には呼吸を合わせるなど、そんな離れ業が出来るのはプロだけだ。アマチュアには合図が用意されている。

 

 しかし、体勢を整えている彼女たちもアスリートとしては既に一流。すでにそれ……が出来る領域にいる。

 

 共に体勢を整えて静止して数秒。息の止まる一時を永遠にまで伸ばし、息を飲み込んでスタートの合図を放つ。

 

 

 ──二人の足先が地面を擦り上げ、身体が前進した。

 

 

 スタートに成功したのはナリタブライアン。低めの姿勢で体を斜めに傾けて、妨害ギリギリとも思われる巧みな位置取りを行ってカレンチャンの前に入った。

 しかし、間違えてはならない。カレンチャンは『出遅れ』などは犯していない。先頭を取られたことで失敗したと思われる最初の攻防も計画通り。限界まで位置取りを争い、わざと先を譲っていた。

 

 最初の直線はそのまま。カーブに入った時点でナリタブライアンが先行、そのすぐ後ろにカレンチャンが位置。本来の多人数でのレースであれば、どちらも『先行』のペースで走っている。

 ……ただ、その本来の話をするのであれば、カレンチャンは『逃げ/先行』の走りでなければならない。

 

 勝率が高いと言われる先行は、その分だけ集団が生まれやすい。カレンチャンは『逃げ』の脚質を有するため、あくまで戦略として『先行』で走る際にも集団の先頭に位置する。

 

 そんな彼女がこのレースで行っている走りは、先行集団後方に位置する『先行/差し』展開だ。ナリタブライアンのペースが速い可能性もあるが、それでも最初の直線で得意位置を譲る程度の選手ではない。

 

「……隠し玉があるのか」

 

 ここで芝崎が確信をもって口を開いた。

 どうして、何があって、カレンチャンとメンバーが結託していたのか。それは芝崎には未だ不明で、親交を深めたから機会を与えたのかとも考えていた。しかし、この今までの彼女には有り得ないレース展開を目撃すれば、彼女たちがカレンチャンを推薦したのには明確な理由があると判断した。

 

 そうなれば、ここからの巻き返し方は、隣に並んでいるメンバーが知っているだろう。勿論、レースが進めば自ずと目の前で起こることだ。このまま待っていても確かめることは出来る。だが、自身では思いもつかなかったナリタブライアン対策には研究意欲が勝った。

 

「それで、どんな作戦なんだ? コンセプトはST‐C? それともSSA?」

 

 自分では練られなかった作戦への悔しさが半分。教え子たちが自分の思いつかなかったことをしてくれたことへの喜びが半分。カーブを終えて少し距離を離されたカレンチャンを見守りながら回答を待つ。

 ……しかし、その回答は満足どころか、受け入れがたい言葉で返ってきた。

 

「あー……、戦術は無いです」

「──はぁ?」

 

 テヘヘと笑うキタサンブラックに、芝崎自身も驚くような呆けた声が漏れた。

 まさかノープランなのかと頭を抱えたくなるが、回答したキタサンブラックがまだ何かを言いたげなので、芝崎はそれを話すように手で促す。

 

「対策とか、戦術とか、難しいのは思いつかなくて。結局、見よう見まねでやってみよう! ──ってなりまして」

 

 キタサンブラックの言う見様見真似。それはどこかの選手を参考にして、カレンチャンが走っていることを示している。

 参考となる候補は、ナリタブライアンに対して拮抗したウマ娘か、短距離適性のカレンチャンが中距離でスタミナを保たせられるような走りをしているウマ娘だ。

 そうなると浮かび上がる次なる問いは、誰のレースを見ていたのかということだ。

 

「昔のレグルスのレースを見ていたんです」

 

 サイレンススズカの補足するような答えに芝崎の心拍数が上がった。レグルスに在籍していたウマ娘で、『差し』のレースを行う者は数えられる程度だ。

 絞られた選択肢であれば推測は容易い。その参考とされたウマ娘の正体は、正面の直線から最後のカーブへ入ろうとして、内側を削るように走るカレンチャンの姿で分かった。

 

 ──あれは、妹の走りだ。

 

 リスクが大きいからと何度も注意していた体を寝かせたコーナリング。振っている腕は斜めに角度があり、蹴り足はホップ気味。リズムを作って、溜めて弾けさせる、自慢の末脚を活かした『差し』での走り。

 もう、一生見ることの叶わないと思っていた、明るく前向き、それでもって怖いもの知らずの性格が表れた走りだ。

 

「……な、んで妹のこと」

 

 あの走りを何故知っているのか、どうして真似しているのか。そもそも誰が妹の存在を教え、処分したはずの資料はどこから引っ張ってきたのか。引っ切り無しに流れる疑問が制御できず言葉が詰まる。

 サイレンススズカは、そんな困惑する芝崎を諭すように優しく口を開いた。

 

「見ていてください。(あの子)の走りを」

 

 コーナーを抜けて最後の直線。目測での差は4バ身。

 勝利確定とも頷ける一人旅であってもナリタブライアンは足を緩めない。ただでさえ低い姿勢を更に深め、天性のバランス感覚を存分に使ってラストスパートに入る。その末脚は全盛期でなくとも頂点に立つ者として申し分ない。

 

 カレンチャンも仕掛けられたことを認識すると、すぐにギアを上げて追走する。最終局面に出遅れた形になったが、有利点が多いのはカレンチャンの方だ。

 

 スランプのナリタブライアンは、最後の攻めでの空回りが大きい。無駄なスタミナ消費に加え、イメージしている過去の走りとの違いから精神へ強烈な負荷がかかる。

 その点、芝崎妹の走りは相手にレース展開・ペースコントロールを任せる分、目立たない立場で体力・精神的に余力を溜められる。

 ──そして、それが芝崎妹にとっては、領域(ゾーン)に入るための必要条件でもある。

 

 芝状態は良好。当然ながら1対1の状況では、道を塞ぐ集団も存在しない。霞む夕日が集中力を高め、熱い身体と思考が溶けていく。関節が液体的に稼働し、全身の筋肉が思うままに動かせる。

 次第に自分と世界が一体になった感覚を得る。曰く、領域(ゾーン)とは完全な主人公化であるのだ。

 

 ──だが、そんな奇跡の力だからこそ、それを起こせるのは稀有だと誰もが理解している。そのためには才能と研鑽が必要で。全てが噛み合う必要があるとも理解している。決して借り物の走りでは至ることの出来ない高みなのだ。

 

 

「……私の勝ちだな」

 

 

 足を止めたナリタブライアンは、後ろを振り返って対戦相手へと結果を確認する。丁度ゴールラインを切ったカレンチャンは、膝をつき肩で息をしながら頷いた。

 

 カレンチャンの走りは悪いものでは無かった。むしろ数日で仕上げた模倣としては高い完成度であった。臆せずにフォームを変えられることは、状況によっては今後の彼女にとって良い結果を生むだろう。

 だが、芝崎妹の走りとカレンチャンの身体が合致するかと言えば別。加えて、分かり切っているが、中距離適性の無い彼女に中距離を走らせることが前提的に間違っている。

 

「お疲れさん、頑張ったな」

「カレンさぁぁん!! かっこよかったですよぉ!!」

「ほんどに!! がっごよがっだです!!」

「二人ともまた泣いてる」

 

 結果としては6バ身の差。それでも、疲労困憊で倒れこみそうなカレンチャンの傍に芝崎たちが駆け寄ってきて、最後まで懸命であった彼女へと称賛を送る。

 

「……でも、負けちゃった」

 

 顔を上げることは出来ない。大見得を切って勝負に出て負けてしまった。情けなさと謝罪の念で揉みくちゃになる。

 

「いや、勝ちだよ。──君の勝ちだ」

 

 ──それでも届く。想いは届く。

 ただ思うのではない。どうするべきかを考え、実行し、そうして願うのだ。

 だから想いが届いた。カレンチャンの願いは叶った。

 

「ありがとう、カレンチャン。君のおかげでもう一度だけ(アイツ)に会えたよ」

 

 責任、約束、義務。今のレースを観戦していた芝崎は、その数分の間だけ背負っていたものを手放していた。トレーナーではない、ただの芝崎走一としてレースを観戦したのだ。

 それは四捨五入して約20年の間、妹との約束以後なかったこと。

 

「悪いな、今はこれしか無いんだ」

 

 渡されたのはガムテープが張られたプラスチック製の水筒。新規の貧乏チーム(廃部寸前)には、チームジャージなどの帰属意識を高められる統一デザインの品は無い。

 それらしいものと言えば、10本にも満たないスポーツ飲料のロゴが付いた水筒に、チーム名と選手名の書かれたガムテープが貼ってあるくらいだ。

 

 カレンチャンに渡されたのはソレだ。安っぽいが、チームに所属しなければ取ることは許されないものだ。

 芝崎はこれしか無いと言ったが、彼女にとってそれで充分。自分のトレーナー(・・・・・・・・)からこれを受け取れることを何度──、何年も夢見た。

 

「……ううん、カレンこれがいい。──これがいいの」

「そうか……、それなら俺もうれしいよ」

 

 ナリタブライアンとの試合には負けたが、カレンチャンは勝負に勝った。──などと思っている者はいない。

 栄えて4人となったレグルスメンバーにとっては、このレースは最初からナリタブライアンに勝つために走ってはいない。勝てれば万歳だが、最も成し遂げたかったのは別だ。

 

 ナリタブライアンに勝てず、彼女がチームへ加入しないとしても、彼にもう一度だけでも妹の走りを見せてあげたかった。

 貴方の妹は確かにいたのだと、私たちがそれを知っていると。妹の願いは芝崎走一が独りで背負うのではない、同じレグルスである私たちも共に背負うと伝えたかった。

 

 そのために彼女たちは協力したのだ。

 あの日、カレンチャンを訪ねて、芝崎の過去を知ったその時に誓い合い、過去の動画を参考にして、走者の役目を担ったカレンチャンの走りに手を加えた。芝崎のために彼に教わった技術を用いて、一週間の短い期間で『妹の走り』を仕上げた。その過程で何度倒れ、痛みを味わおうとも、1ミリもブレることなく特訓を行った。──だから、想いが届いたのだ。

 

「本当にありがとう、カレン」

 

 カレンチャンがゴールした時、芝崎の頬に一滴だけ雨が降った。オレンジ色の光が空を染める晴れの日だ。雨など降るはずがない。

 ただ、これまで随分と長い期間、妹と会えなくなってから雨が降り続けていた気がする。

 その最後の一滴が、頬を伝った不思議と塩気のある一滴が、この心を晴らすなら満足だ。

 

 

 この夕日が輝く日、芝崎走一は過去に()った。

 

 

 芝崎も完璧な人間ではない。それでも過去への後悔と憤怒は拭えず、これからの不安も尽きない。

 だがその気持ちと共に歩む覚悟を決めた。彼女たちと歩むと真の覚悟が決まった。ここからがチームレグルス、本当の再出発である。

 

 ──と、なれば芝崎には早速仕事があるわけで。

 

 

「……だからってな、カレン。自分に合わない走りしてんじゃないよ」

「──へ?」

 

 

 にこやかだった芝崎の額に徐々に怒りの青筋が浮かび上がる。

 自分の身体に合わない走りなど、タイムが落ちるどころか、本来なら怪我をしても文句は言えない。レース中こそ何事もなかったが、明日起きたら足が痛いなんてことも有り得る。

 

「え!? 走一さん、怒ってるんですか!? 雰囲気台無しですよ!?」

「はいー!? コイツはもうレグルスだからね!! もう俺の管理下だから関係ないです!!」

「いやいや!! いきなり強気ですって!!」

 

 この数日の体調不良が嘘のように芝崎の声量が上がり、それに連れて他のメンバーも賑やかさに拍車がかかる。

 以前──、数年前のレグルスと変わらない光景。笑って、泣いて、喧嘩もした最強のチーム。ナリタブライアンはそんな新しいレグルスに過去を重ねて満足そうにすると、その足を寮へと向けた。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 4月下旬。すっかりと春の色は消え去り、新緑が思うままに葉を伸ばしている。

 テレビやネット記事で取り扱われる情報は、大型連休にオススメの旅行先が多くなってきた。世間は次の週末を今か今かと待ち望んでいるようだ。

 

 ただ、残念なことにトレセン学園には大型連休は有って無いようなもの。授業は休みでも各チームで練習はある。生徒によっては帰省する者もいるが、周りに差をつけられたくないと、長くとも一泊二日で戻ってくるのだ。

 

 そんなトレセン学園では貴重な休みを先取りし、芝崎は実家近くの霊園に訪れていた。

 新品の雑巾がかかった手桶に水を汲み、仏花と供物、細い花束が入ったビニール袋を手にしている。

 苔で滑る石畳を歩いて着いた場所は2㎡未満・8寸角の墓石の前だ。地面はカビと雑草がまとわりつき、白桃色の残花と枝が張り付いている。

 

 芝崎はスマホで手順を確認しつつ掃除を始める。葉が揺れる音だけを聞きながら、無駄な傷はつけないように丁寧に進める。

 掃除の準備は完璧、その上で効率良く進めても、やはり葬式のように慣れないことには時間がかかる。加えて、ある程度サイズもあるのだから体力も奪われる作業だ。

 

 ただ、ここに来るのは数ヶ月──、なんなら一年振りのことだ。色々と報告したいことはあるが、それが直近の一ヶ月で山のように増えている。そのためには疲れはするが、掃除は必要なことだ。

 

 ……が、報告をしたいのは芝崎一人ではない。

 誰かの石畳を踏む音に芝崎が反応する。除くように顔を動かすと、視線の先には一人のウマ娘がいた。ウマ娘は芝崎と同じく掃除用具を手にしており、格好も汚れと動きやすさを重視している。

 芝崎は目の前の事実を疑うようにウマ娘の名前を呼んだ。

 

「ブライアン?」

「……手伝う」

 

 ナリタブライアンは呟くように返すと、袖を捲って芝崎の横で同じ墓石の掃除を始めた。

 鉢合わせたことに驚く芝崎だが、ナリタブライアンは妹を可愛がっていた一人だ。その対応にはクーデレのクールの比率が高かったが、それでも妹は非常に彼女を尊敬していた。

 お客様に掃除をさせるのは抵抗があるが、彼女がしたいと思うのであれば、それを止めるような関係ではない。無言が辛いという関係でもなく、むしろ二人でなら無言の方が多いくらいである。

 

 二人での掃除となったからか、それともウマ娘が手伝ってくれたおかげか。それまでのペースとは打って変わって、あっという間に掃除が完了した。

 

 その後、それぞれが持ってきた供え物と線香を立てる。ようやくここへ来た目的を果たせると芝崎が合掌をしようとしたが、その手はナリタブライアンに止められた。

 彼女は芝崎を遮るように前に出ると、目を閉じて手を合わせる。掃除中はいつも通りの硬い表情をしていたが、この一分ほどの時間だけは優しい顔を見せた。

 そうして合掌を終えて、再び硬い調子に戻ると芝崎の肩を突いて帰路に就いた。

 

 親族である芝崎走一の方が伝えたいことが多く、時間がかかるとナリタブライアンも理解している。そのため自分が先に報告を終わらせて、彼らの邪魔をしないように気を回した。

 

 再び一人になった芝崎。手を合わせて話すのは、妹の期待に背くような情けない行動を取っていたことへの謝罪。そして、この一ヶ月で得た新たな仲間と、ウマ娘が見せてくれた奇跡のような体験について。

 

 カレンチャンから『お兄ちゃん』と呼ばれると、まだほんの少しだけ索漠とする。ただそれでも、それで『妹』の存在が上書きされるなどとはもう思わない。別に、自分が二人の『お兄ちゃん』でも良いのだから。

 

「──また来るよ。次はこんなに期間は空けないからさ」

 

 灰になった線香を集めて、枝葉と一緒にゴミにまとめる。これで無事に久しぶりの墓参りを終えた。

 ようやく一つの節目となり、心機一転してトレーナー業に専念できる。

 

「……あれ? またブライアンがいる」

「──遅い」

 

 芝崎が気分よく来た道を戻ると、霊園の入り口にナリタブライアンが立っていた。

 霊園は学園とは車で1時間以上離れた位置にある。彼女がここまで来られる交通ルートは幾つかあるが、帰りはお前の車に乗せていけということだ。

 

 墓参りをしてくれたことに感謝しているし、久しぶりに前レグルスのメンバーとドライブと言うのは面白い。ナリタブライアンを助手席に乗せ、当たり障りのないラジオを車内に流しながら車を発進させた。

 ただ、密室空間で無言に耐えられる二人でも、今日は互いにノスタルジーになっている。同じ過去を読み返せるのだから、何か話さないといられない。

 

「……アイツ、許してくれるかな?」

 

 話題にしてしまうのは妹のことだ。

 メンバーのおかげで吹っ切れてはいるが、学園に着く前に最後に言葉として締めておきたいと思ってしまう。

 

 ──結局、全ての原因は芝崎走一である。

 彼の人生に道を示したのは妹だった。血の繋がった家族であり、誰よりも大切な存在であった。

 しかし、あの雨の日が来た時点で、既に彼が守るべき『妹』は一人ではなくなっている。それを冷静に捉えられず、妹との約束を呪縛に変えたのは芝崎本人だ。

 

 芝崎も自分が振り回してしまった者たちへの責任は取る。だが、どうしても妹との約束を捻じ曲げてしまったことを、その本人に償えないことが悔やまれるのだ。

 ──しかし、メンバーが芝崎を救ったように、そんな彼に最後に残った懺悔はナリタブライアンが吹き飛ばした。

 

 

「許す」

 

 

 芝崎が問うて一秒にも満たない間に回答は行われた。そしてそれは疑いようもないほどに、まるで本人に聞いてきたかのように断言する。

 これには芝崎も嬉しさ半分、驚き半分を滲ませて受け取る。

 

「……お、おう。……有難いけど、言い切ったな」

 

 それに対して、ナリタブライアンは何も言わない。それまで助手席で真っすぐ前方を見ていた視線を外に移し、いつもと同じように頬杖をついて黙ってしまった。

 これも彼女の気遣いの一つであり、彼女なりにフォローしてくれた。──ように見えたが、聞き間違いに思える小さな声で、ナリタブライアンが言葉を付け足した。

 

 

「私も『妹』だからな」

 

 

 彼女の許しは、同じ『妹』として代弁しただけ。気を使ったわけではない。

 正真正銘、芝崎走一を『妹』として許したのだ。

 

 結局、『妹』という存在の一人である彼女も、彼から謝罪が欲しいのではない。

 新人のころから優秀な成績を修めた彼女にとって、レグルスでいられた日々は楽しい思い出ばかりだ。その頃に無茶をしたせいで今の怪我を引き起こしたとしても、微塵の後悔もない。そう思える宝物のような日々だったのだ。

 

 ……だから、独りを感じていた。

 可愛がっていた友が亡くなり、超えたかった壁(シンボリルドルフ)は引退。同じチームのライバル(トウカイテイオー)たちも他所で活躍している。そして、トレーナーであり、兄のように思えた芝崎は壊れた。

 ナリタブライアンは一匹狼だが、生粋のお姉ちゃんっ子だ。誰よりもレグルスの解散が寂しかったのだ。

 

「──そうだな。そうだった」

 

 芝崎が大型犬を扱うように、ナリタブライアンの頭を撫でる。乱雑なようなそれは、ナリタブライアンがレースで勝つたびに行われたものだ。

 彼女も当初は撫でられるのを嫌がっていたが、それをメンバーで押さえつけて、それぞれが彼女を撫でた。そのため今でも彼女を撫でるのは癖で荒くなり、彼女がそれを許すのは一部の者だけとなっている。

 

「撫ですぎだ」

「お、悪い。久しぶりでテンション上がってさ」

「……良い。お前は私の──」

 

 

 

 

 

 ──トレーナーだからな。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

「よし、とりあえず5人だ」

 

 芝崎はトレーナー室で一枚の紙にハンコを押し、満足そうにそれを眺める。

 紙に書かれているのは、これまでにレグルスに加入した三人のウマ娘の名前。そしてこの度、新たに加わったカレンチャンとナリタブライアンの名だ。これでチームとして最低限の人数である5人を確保した証明となる。

 後は書類を駿川たづなに提出することで、正式にチームとして認められるのだ。

 

「──と、言っても人数が揃っただけなんだよなぁ……」

 

 そう人数の問題は解決したが。それでチーム戦に勝てるのかは別だ。

 短距離がカレンチャン。マイル距離がサイレンススズカ。中・長距離がナリタブライアン、スペシャルウィーク、キタサンブラック。

 つまり、新たな問題はダート選手が在籍していないこと。

 

 これに関しては人数の問題は解決したのだから、これから再度探せば良いのではと芝崎も考えてはみた。……だが、このトレセン学園で無所属の才あるウマ娘など5月には残っていない。

 ──そう、もういないのだ。

 

「……しゃーない。やってみるか、ウルトラCってやつ」

 

 芝崎は机に置かれていたスマホを取り、電話アプリの連絡帳を捲る。

 指が何度か画面を滑り、止まったのは『カ行』の欄。

 

「あ、もしもし、芝崎です。お久しぶりです。実は気になっているウマ娘がいまして、そのウマ娘が過去そちらでレースをしていて、可能であれば連絡先を……」

 

 電話の先にいるのは、とある地方レース場の管理者。そのレース場はローカルシリーズと呼ばれる、『トゥインクルシリーズ』を除いたレースが開かれている。

 

 会場の名前は『カサマツレース場』。

 

 誰もが知る最強のウマ娘である、あのオグリキャップが初の公式戦を行った場所としても有名だろう。今回、芝崎が興味を持ったウマ娘も、その会場で出走しているため、どうにか接触しようと連絡を取っている。

 

「あ、名前ですね。えっと……」

 

 5月の終わりには第一回目のチーム戦がある。

 ついに始まる一年に跨る長い戦い、そこに当てはまる最後のウマ娘の名は──。

 

 

 

 

 

 

 

 次回 フジマサマーチ編

 

 

 

 




Q&Aを含めた感想です。お時間のある時にお読みください。
感想、ご意見、お待ちしております。
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幕間 メイド編

※独自解釈注意


 

 

 今日も今日とて学園のトレーナー室に出勤した芝崎。いつもは食傷する始業時間だが、先日ウマ娘たちのおかげで煮凝りのような気持ちが清算され、この数日は非常に爽快な気分で仕事に取り組めている。

 

 そんな彼が一日の最初に行う業務はメールのチェックだ。

 メールアプリ内には芝崎宛に理事長秘書の駿川たづなや生徒会から、書類締め切りなどの伝達事項が毎日送られる。またチームのアドレスには、学外からのインタビューの依頼や、イベント出演の依頼など。たった一夜だけでも、目を通すのに苦労するような量が送られる。

 

 そして全てのメールを読み終え、必要に応じて返信をした後、今度は郵便物のチェックを行う。

 許諾された申請書類の写し、検閲済みのファンレター、解析用に頼んだレースデータが入っているUSB。どちらかと言えば、こちらの業務の方が多種多様な物があるため面白みがある。

 

「……ん、これ間違いだよな? いたずらか?」

 

 ただ、郵便物はメールよりも自由過ぎてしまうとも言える。費用さえ惜しまなければ、配達可能な大きさ無制限で、場合によっては受取人に払わせることも可能だ。また、送り元の記載が無くとも受け取りが可能なため、現代社会ではメールよりも宛先の特定が難しく、いたずらや脅迫などのハードルが下がる。

 そのため、ウマ娘とレースが人気商売なだけあって、トレーナー業をしていると時たまに業務と関係のない物も送られて来てしまうのだ。

 本来はミスとして管理部に報告なのだが、芝崎が怪訝そうに手に取っているのは『一枚のポスター』だ。A4サイズのそれには誰宛かの記載はなく、誹謗中傷らしき文章が載っているわけでもない。恐らく捨てるはずであったチラシが、何らかの手違いで迷い込んできたということだ。

 

「はい、ゴミ」

 

 そのため、芝崎はそのポスターをデスク横にあるゴミ箱へと乱雑に捨てた。

 ──しかし、捨て方が良くない。シュレッダーに入れるでもなく、デザイン面を内側に折ることもしていない。ただ投げるように突っ込んだだけだ。

 

 つまり、ゴミを回収する際にそのポスターが見えてしまう。

 

 さて、レグルスのゴミ出しであるが、基本的にはサイレンススズカが行っている。トレーナーの仕事を少しでも減らすため、秘匿性の高い文書を毎日きちんと処分している。

 そうなるとゴミを処分するまでの一連の流れとして、ゴミ箱の中身をまとめているのも彼女だ。

 

 そのため、見てしまった。

 その芝崎が捨てたポスターを見てしまったのだ。

 可愛らしい女性たちが載せられた、男のロマンが詰め込まれたポスターを──。

 

 

 

 

『幕間 メイド喫茶編』

 

 

 

 

「それを聞いたのか? スズカが? 本当に?」

 

 芝崎がクエスチョンマークを浮かべる場所は学園の廊下。トレーナー室に向かう最中に、珍しくウマ娘の方から芝崎に声をかけてきた。

 自分に声をかける生徒など知り合いしかいないと止まってみれば、そこには同好の士が立っていたではないか。

 

「そうなんですよ。不思議ですよねぇ?」

 

 ウマ娘の名は、アグネスデジタル。芝崎と同じ──、芝崎以上にウマ娘オタクのウマ娘だ。芝崎と彼女は月に一度、研究会と称してウマ娘に関したトークを繰り広げる。研究と呼ぶには些かファン目線の強いものだが、一度の研究会にかかる時間と熱量は愚論とは程遠い。

 本来なら芝崎と彼女の出会いも詳細に記すべきだが、幕間にはそこまでの余裕はない。ひとまずは諦めて欲しい。

 

 さて、そんなアグネスデジタルが芝崎を呼び止めたのは、彼女自身に起きた奇妙な出来事について伝えるためだ。

 数日前、彼女が寮の自室で『推活』をしていたところ何者かが訪問してきた。そして、それは今まで面識のないサイレンススズカであったという。加えて、いきなり大人気ウマ娘と対面して驚いているアグネスデジタルに対し、サイレンススズカは一つの質問を投げかけたと言う。

 

『メイド喫茶について教えていただけますか?』

 

 サイレンススズカの知り合いならば、彼女の正気を疑うような質問だ。仮に、芝崎が彼女からそんなことを質問されるならば、次の瞬間にはスマホで近くの精神科を探し始める。

 ……ただ、一概に可笑しくなったと言えないのは、質問をする相手をきちんと見極めている点だろう。その類の趣味嗜好に関して通じている、少なくとも学園内で最も通じているアグネスデジタルに質問している。質問者を適切に選ぶ判断力は残っているのだ。

 

「まあ私としては、あの絶世の美少女であるウマ娘さんに話しかけて頂いたので、もうそれで十分なですけどねぇ~」

 

 ドゥヘヘ、と笑うアグネスデジタル。まあ、その気持ちは分からんでもないと芝崎も同意。……ただ、その同意と頷く顔には脂汗が滲んでいる。

 

 

 ──……やっべ──!! 絶対アレじゃん、あのチラシ見られてるじゃん!! 

 終わり、終わりですわ。あんなの見られたら気持ち悪がられる──!! 

 

 

 芝崎は見線を腕時計に落とし、時刻を確認。時刻は14時58分と30秒である。15時からはチームミーティングを開く予定で、メンバー全員をトレーナー室に集めている。

 このまま誤解を解かなければ、今日のミーティング内容が5月末のチーム戦についてではなく、『芝崎走一メイド喫茶で鼻の下伸ばし罪』の裁判に変わってしまう。もしくは『学園にこんな不埒なもの持ってくるな罪』だ。

 ──どちらにせよ社会的な死刑は確定である。

 

「……お、俺、……ちょっとトレーナー室に行かないと──。マジで」

「おや、そうですか? それではまた今度、ウマ娘ちゃんについて語りあいましょう!!」

 

 アグネスデジタルに対して弱々しいサムズアップを作ると、芝崎は早歩きでトレーナー室に進行を始める。心臓の鼓動がテンポ・強さ共にMaxであるが、これは早歩きで起こっているものではない。焦りが純度100%で心臓を動かしている。

 

 滑るようにトレーナー室の前に着いた芝崎は、不安を募らせながら扉を滑らせた。

 さて、第一声はなんと弁解するべきなのか──? 

 

 

「何これぇ……?」

 

 

 しかし、そんな芝崎の目に映ったのは異世界であった。……転生はしていない。ただ、彼にとっては目の前にある光景、──メイド喫茶のような、ピンクのふわふわした空間は経験が無いのだ。

 

 トレーナー室であったはずの部屋。しかし、PCやファイルなどの仕事関係の物が一切見当たらない。その代わりに、壁には風船や横文字が書かれたボードがかけられ、部屋の中央には木の丸机と椅子がワンセット置かれている。そして微かに香る甘い匂いも、その雰囲気作りを十分に担っていた。

 

 謝罪文を作り上げていた芝崎の脳に、クリティカルなカウンターパンチが飛び込んできた。疑問を吐き出した芝崎は、そのままボーッと部屋を眺めている。

 ──すると、これまたトレーナー室には無かったカーテンの仕切りから、一人のウマ娘が姿を現して芝崎の意識を呼び戻した。

 

「遅かったな……。さっさと席に座れ」

 

 命令口調のイケ(ウー)メンボイス。間違いなくナリタブライアンだと、芝崎が声の方向に視線を動かす。

 今の彼が求めるのは安心感。こんなサプライズ展開からは最も掛け離れた性格をしている彼女に、一刻も早く目の前の景色について説明を求め、この事態への対応を手伝って欲しいと願う。

 ──が、そう効率よく話を畳める訳がない。

 

「──おまぇ……、執事じゃん」

「……見るな」

 

 そんな無茶な、と芝崎は思う。

 ナリタブライアンは革靴とテーパードパンツで下半身を固め、シャツとネクタイの上にジャケットを羽織っている。生地自体は安い物と見てわかるが、顔とスタイルの良さが帳消しにしている。また彼女の髪色が漆黒であることも、執事服の黒と合わさってスタイリッシュに決まっている。……相変わらず葉っぱは咥えているが。

 

 ──しかし、そのベストは危険すぎる。

 

 ナリタブライアンが身に着けているベスト。シャツとジャケットの間に位置する一般的な胴着である。

 ……さて、イメージして欲しい。男性がベストを着ると、第三者から視認可能なシャツの部分はどこだろうか。──そう、中央胸部と首回りだ。ネクタイ周りと言ってもいい。

 しかし、ナリタブライアンはスタイルが良い。等身があり、足が長く、顔が良く、胸がデカイ。

 ──デカいんだよ!! シャツ越しとは言えベストからアレがはみ出てるから、ベストに持ち上げられちゃってるからさぁ!! 

 

「──うん、見ないよ。とんでもねぇから」

 

 ナリタブライアンに言われた通りに芝崎は目を逸らす。

 

「……待て、どういう意味だ?」

 

 ──が、駄目。言葉の雰囲気で失礼なニュアンスと捉えられ、ナリタブライアンが突っかかって来た。

 

「あぁ!! 違うから、止まって、俺に近づかないでぇ!!」

「なんだと──!? もう一度言ってみろ!!」

 

 それ以上近づかれたら触れちゃうでしょうがぁ!! とは言えない。そんな勇気ないから。童貞だから。

 ……などと騒いでいると、ナリタブライアンが現れたカーテンから助け船がやって来る。

 

「あ、走一さん!! 待ってましたよ!!」

「キタちゃん!! 助けて、食われる!!」

「食わん!!」

 

 芝崎が手を伸ばした先からは、頼もしい教え子であるキタチャンが現れた。

 ──ミニスカメイドで。

 

「えぇ……?」

 

 男からは困惑よりも唖然が強く出た。

 メイド服なのは芝崎も分かる。この部屋のピンクの雰囲気と、ナリタブライアンの恰好を知れば感得は出来る。

 

 キタサンブラックが身に着けるは、ある意味で王道的なメイド服だ。

 メイドを象徴する純白のエプロンとホワイトブリム。かわいらしいリボンが服の至る所に飾られ、フリルが多層になったスカートからは、スラッと伸びた足が映えている。ナリタブライアンと同じだ。スタイルの良さと髪色が絶妙にマッチしている。

 

 ……ただ、ミニスカには納得できない。

 本来、王国の地で従事しているメイドはロングスカートである。ミニスカメイドの文化はこの国特有のものである。そのため()()()()で王道なメイド服なのだ。

 だから芝崎は親心に近いものとして、キタサンブラックが着るならせめて上品なメイド服であって欲しいと思ってしまう。

 

「キタちゃん、それは……?」

「はい!! ダイヤちゃんが貸してくれました!!」

 

 難しい返しをされたが、ここはあえて深堀をしてみる。

 

「そうか……。貸してもらっただけ?」

「へ……? うーん……、──あ!! 服を貸す代わりに、写真を撮らせて欲しいって言ってました!!」

 

 芝崎の中でキタサンブラックの親友たる『ダイヤちゃん』に抱いていた印象が更新された。キタサンブラックからは、お嬢様で、とても優しい、お母さんみたいな人だと聞いていた。だが、男の眼前にいるミニスカメイド姿の純粋な少女と『ダイヤちゃん』が行った交渉結果を聞く限りでは、その子は計算高く、狡猾さも秘めているウマ娘なのだと推理できる。

 ──『ダイヤちゃん』とやら、交渉が上手いな。

 

「そっか、気をつけてね。──ホント、マジで」

「……? はい、借り物なので汚れないようにはしますよ?」

 

 執事のナリタブライアンと、メイドのキタサンブラック。そして実はヤバい『ダイヤちゃん』の存在に疲れて、芝崎は用意されていた椅子へと自然に腰をかけた。

 こうなればもう彼女たちの計画からは逃げられない。一通り彼女たちを満足させてから諸々の話は聞けばよい。それにメイド喫茶がモデルなら、このあとの展開を想像することなど容易だ。

 恐らく残りの出てきていないメンバーが、この後飲み物やら食べ物を提供する。もしかしたら、チェキと呼ばれる撮影などの特殊なイベントも行うかもしれないが、予想していればティーンエイジャーの企み程度なら受け流せるものだ。

 

「あ、トレーナーさん!!」

 

 ……今度はスペシャルウィークだ。芝崎の好物のアイスコーヒーが置かれたトレーを持っている。まずはドリンクからなのだろう。

 彼女もキタサンブラックと同じでミニスカである。ただ、胸部装甲の発育がキタサンブラックより大きいため、揺れる山地が凄いことになっている。──隠せ。

 まあ、でも、全部受け流すと決めた芝崎に弱点は無い──。

 

 

 

 

 だが、(バニー)なら話は別だ!! 

 

 

 

 

「もぉおおお!! ヤダァあああ!!」

「トレーナーさんが壊れた!?」

「どどど、どうしたんですか走一さん!?」

 

 スペシャルウィークのメイド姿はバニーであった。基本の衣装はキタサンブラックと同じだが、頭部の耳に被り物を着けて見た目を拡大、長い尻尾はスカートに隠して代わりに丸い尻尾を付けている。その他にもサイズが限界なハリ具合と、デニールの薄いタイツが危険だ。

 ここで、「どうしてお前らそんなにエッチな恰好してんの?」と聞けたら、この気持ちがどれだけ発散できただろうか。──だがそんな男に勇気は無い。童貞だもの。

 だからと言って着替えろと訴えても、お前が変なチラシを生徒に見えるように捨てたことが事の原因だと跳ね返されれば反論は出来ない。

 

「あの、ほんと、僕たちは適度な距離感でいこうね」

「えっと、大丈夫ですか? 実は気分悪いですか?」

 

 大丈夫なわけがない。

 ノー青春、ノー彼女の人生だ。ただでさえ顔面・スタイル・性格が優のウマ娘たち。そんな彼女たちに可愛らしい恰好で囲まれて接客をされれば、もうどうしたら良いのか分からない。

 

「あ、アイスコーヒーです!! おいしいですよ!!」

「──はい、どうも……」

 

 味なんか分かるか、と心でツッコミを入れる。

 コーヒーを置く動作で揺れるソレから目を逸らして、ストローに口をつける。冷たい飲み物は、緊張で熱い身体と乾いた喉が欲していた。結果的には最高のバランスで需要と供給が成り立った。

 

 アイスコーヒーのお陰で少しばかり冷静を取り戻した芝崎は、心を落ち着けて次に来る衝撃に備える。

 残っているメンバーは、サイレンススズカ、カレンチャンだ。突拍子もないことをするならカレンチャンだが、これまでの展開的からすれば逆を突いてサイレンススズカが大きな攻撃を仕掛ける可能性も捨てられない。

 

 芝崎は大きく深呼吸をして、カーテンの仕切りを見つめる。

 ──さあ、次はなんだ!? 

 

 

「トレーナーさん、ケーキです。みんなで作ったんですよ」

 

 

 サイレンススズカだ。

 うん、サイレンススズカだね。

 めっちゃ普通のサイレンススズカだ。

 

 確かに恰好は他の三人同様にいつもと異なる。……ただ、違う方向が健全だ。彼女の恰好は和メイドと表現するのが最も近いのだろう。

 サイレンススズカが日常で着用する耳当てや、勝負服に用いられている翠。彼女はその色をベースにした着物に白いエプロンを着けている。

 いつものイメージに近くも、どこか非現実的。その美しい姿での丁寧な給仕は、芝崎の視線を完全に引き付けた。

 

「トレーナーさん? 食べないんですか?」

「──あ、ああ、悪い。……食べる、食べるよ」

 

 今までの全てがサイレンススズカのための前振り、そう思っても仕方がないほどに今の彼女は完璧なメイドである。着物であることも、奥ゆかしさや大和撫子といった要素を引き立てている。──そう、男なれば一度は憧れる『俺に尽くしてくれる超美人な奥さん』がそこにいる。

 芝崎もこれには耽るだけ。彼女からの呼びかけで、今日何度目かの飛んでいた意識が戻り、いつの間にか目の前に現れた食器に気が付いた。

 

 食器に置かれているのは美味しそうなチョコレートケーキだ。芝崎はスイーツには疎いが、これが手作りなのかと衝撃を受けた。表面が均一であり、スポンジが崩れていない。ココアパウダーなどで形が悪い部分を隠しているのかもしれないが、それでも素晴らしいできだと褒めねばならない。

 

「じゃあ、いただきます」

 

 ──が、ケーキの配膳だけで終わることはない。

 先に出て来た三人は強烈であった。だからこそ、サイレンススズカは出鼻から衝撃を与えるような戦いを仕掛けるよりも、荒ぶる芝崎を一度落ち着かせてから、自身の放つ最大の一発を仕掛ける。つまり、緩急で生まれた差の分だけ、その攻撃力が大きく感じられるということだ。

 

 サイレンススズカは芝崎が掴みかけたフォークを奪うと、それを持ったまま彼の膝上に座った。──そう、膝の上に座った。

 二人の位置関係はお姫様抱っこに近い。対面とまでいかないが、横向きのサイレンススズカが芝崎の顔を覗き込んでいる。

 

 軽い。柔らかい。良い匂いする。顔カワイイ。ヤバい、どうしよう──。

 

 フリーズした脳が緊急シャットダウンを始めた芝崎を他所に、サイレンススズカは楽しそうにケーキを切り分ける。そして、その一つをフォークで刺して、ゆっくりと芝崎の口へと運び──。

 

 

 

 

「あーん――♡」

 

 

 

 

 ──ああ、死ぬわこれ。

 俺の死因は女性耐性が無いことでの尊死だ。人類初じゃないかな。……あ、先駆者にデジタルがいたわ。

 

 ……などと現実から乖離するのも束の間。このフィニッシュブローは単発ではなく連撃である。それに戦いは芝崎とサイレンススズカだけのものでは無い。すでに戦いは芝崎対メンバーになっている。

 残念なことは、この勝負に残っている芝崎の手札が残り一枚であることだ。

 サイレンススズカの行動に対して彼が取れる行動など、膝の上に乗っている彼女を落とさないようにカタカタと震えるだけである。何とも哀れで些細な抵抗だろう。

 

「あ!! 駄目ですよ、スズカさんが落ちちゃいます!!」

「もー!! ほんと今日の走一さん変ですよ!?」

 

 その些細な抵抗も逆効果。上下に揺れる芝崎をスペシャルウィークとキタサンブラックが押さえつける。……そう、察しの通り。ミニスカメイドとバニーメイドが芝崎の腕にしがみついて体を押さえつけている。

 加えて、彼女たちが身に着けているのは、その辺の大型ディスカウントストアで購入した、うっすい生地で作られたメイド服。もう、当たるもんが当たるどころか、腕に絡みついている。

 

「くぁwせdrftgyふじこlp──!!」

 

 ──自分を囲む女性特有の柔らかさと甘い香り。芝崎の記憶はそこで途切れた。

 次に意識が現世に戻ったのは時間にして数分後。気が付くとケーキは無くなり、自分の口内にはチョコレートの通った甘ったるい重みを感じた。どうやら自分は意識の失っている間に困難を乗り越えたのだ。

 真似事であっても、喫茶店内では到底聞くことのない大きな溜息が芝崎から漏れた。

 

「トレーナーさん、次で最後です」

 

 サイレンススズカの一言は芝崎にとっては歓喜の脱出口だ。

 次の対戦相手、十中八九最も破天荒な行動をしてくるカレンチャンだが、そこを乗り越えれば試合は終わりだ。終わりが見えればメンタルも回復して、相手の攻撃にも耐えられる。

 ──よっしゃ、来いやぁあ!! 

 

 

「じゃーん!! カレンだよ!! ──どう? 似合ってるでしょ!!」

 

 

 あー……、ハイハイ。……なるほどね、確かにメイドっぽいわ。

 白黒の生地にフリルが付いている。頭にカチューシャで、エプロンもしている。それっぽい箇所を文字だけ抜き取ればメイドですよ。

 ……だが、まあ、ここまで来たなら声を大にして言おう。もう言ってしまって楽になろう。

 

 

「それ()()()だから!! ここ学校だから!! 俺、犯罪者になっちゃうからァ!!」

 

 

 カレンチャンに指を突き立てて叫ぶ。

 廊下にはビキニやら、犯罪者やら、危険な単語が飛んでいるのも構わない。ここで言わなければマジで死ぬ。

 

「──全員、今すぐ服を着替えてこい!!」

 

 

 

 *

 

 

 

「あー……、疲れた……」

 

 半ばグロッキー状態の芝崎。下校の流れに逆らって廊下を歩く姿は、メイドの奉仕を堪能したとは言い難い。

 結局、カレンチャンの登場に怒号を飛ばした後、メンバーの着替えが終わるまでトレーナー室の外で待ってから説教タイムがスタートした。ついでに説教に紛れて、オタク特有の早口でそもそもメイドに興味が無いことも説明して、最後には誤解も解けた。

 そのまま通常の制服姿のメンバーと、ファンシーなトレーナー室でミーティングを行って解散。現在の芝崎は提出書類を持って生徒会室に向かっていた。

 

 生徒会も本日の業務が終わる時間帯だ、折角だから今日の出来事について愚痴でも聞いてもう。

 

「お邪魔しますよ、っと。ルドルフいるか?」

 

 シンボリルドルフは生徒会長専用に用意されている重厚感のある木製の机でファイルの片付け中であった。

 ちなみに部屋では副会長のエアグルーヴも仕事をしており、別の机で書類を睨んで数字を書き殴っている。ただ、その鋭い目つきは書類が難しいことが原因ではなく、何かから目を逸らしたいが余りに目が細く睨んでいるように見える。

 

「やあ、トレーナー君。どうしたんだい?」

「……あー、書類の提出に来たんだけど……」

 

 それを聞くとシンボリルドルフが手を伸ばしたので、芝崎は近づいて書類を渡す。

 それを受け取った彼女は上からサッと記入内容を確かめると、確かにと頷いて紙束の中に入れ込んだ。すると彼女は、何か他に言うべきことがあるのではないかと目で訴えて来る。

 芝崎は分かっている。その言うべきことがトレーナー室の出来事ではなく、今まさに目の前で起こっていることについて言及して欲しいとの意味だと。

 だが、今日のところはメイドでお腹一杯である。

 

「お邪魔しましたぁ……」

 

 書類を受け取って貰えたなら芝崎は帰る。消えるように移動し、生徒会室の扉を閉めた。

 過去の相棒であるシンボリルドルフ。その彼女がまさかのフリフリ全開なメイド姿でも無視だ。突っ込んではいけない。深淵には触れず、さっさと帰って休むのが得策である。

 

「……ふむ。やはり、派手さが足りなかったかな?」

「いえ……、問題はそこでは無いかと……」

 

 頑張れ、エアグルーヴ。

 

 

 

 





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