岸辺露伴は走らない (ボンゴレパスタ)
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岸辺露伴は走らない トレセン学園の謎

 

 

 

M県S市駅から東北新幹線・やまびこ〇〇号に乗車して、およそ2時間。アスファルトを踏みしめる雑踏や、絶え間なく何処からか聞こえるクラクション……久方振りの東京の喧騒は目や鼓膜をはじめとした感覚器官を不規則に刺激し、M県からやってきたその男は、顔をしかめた。

 

 

 

「……やはり自分は、都会で生きられる様な人間じゃあないな」

 

 

この不快感は20歳の時に下した、杜王町に居を構えるという自身の決断は決して間違ってはいなかったという証明を図らずもしたわけだが、現状自身はその逃れたかった窮屈さに閉じ込められ、立ち止まれば誰かと肩をぶつけてしまいそうなほど混雑した空間にいる。その事実に内心毒づきながら、一刻も早くここを立ち去ろうとその男は自身の取材先に向かう前に東京の出版社に顔を出そうと足を向けようとする。その時男は後ろから何者かによって呼び止められたことによってその足を止めるのだった。

 

 

 

「センセッ!センセイ!」

 

 

 

男はほんの一瞬だけ足を止めたが、再び何事もなかったかのように歩みを進め始めた……まるで初めから声など掛けられておらず、一人で目的地に向かうつもりであったかのように。自身の神経を逆なでする出来事が続き、その男の苛立ちは既に頂点に達していた。男は聞こえない振りを決め込むことにして数歩前に踏み出したが、声を掛けたその人物は上ずった、鼻から抜けるような声で再び男を呼びかけながら駆け足で男に近づき、隣までその位置をあっという間に詰めてしまうと、顔を覗きこみながら先ほどよりも大きな声で呼びかけるのだった。

 

 

 

 

「露伴先生!」

 

 

 

露伴と呼ばれたその人物……ペン先の形に施されたイヤリングをつけ、頭に特徴的なヘアバンドをつけ、「ピンクダークの少年」を執筆する大人気漫画家であるその男、岸辺露伴はその偏屈そうな性格をそのままに映しこんだかのような横柄な態度を、眉をひそめて声に少し歪みを加えることで表すと、口を開くのだった。

 

 

「あぁ…君だったか。いや本当に今気づいたよ。全く。」

 

 

 

露伴の口から発せられた嫌味をものともせず…尤もこの場合、嫌味に気づかないとでもいったところか。出版社からの命で今回の取材に同行することになった編集者である彼女…名前は確か、栗原恵美といったか。一度オンラインで顔合わせをしたのだが、どうも人間的に波長が合わないというか……彼女に「ヘブンズドアー」の能力で「岸辺露伴に聞かれたことしか口にすることができない」と書き込もうかとも思ったのだが、こうしてグッとこらえるのだった。

 

 

「さぁ行きましょ!13時から先方との取材です!出版社には寄らないでそのまま向かってくださいとのことです!」

 

 

 

栗原は空にかかる雲にかからんとするほど高く左手を挙げると、彼らの前に1台のタクシーが路肩に駐車し、後部座席の扉が開く。栗原はテキパキと露伴のスーツケースをトランクに入れると、露伴を先に座るように促して彼が運転席の後ろに着席したことを確認し、彼女は助手席に乗りこむのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タクシーの座席で揺られること1時間。目的地は府中駅からしばらくのところにあった。およそ一般的な教育機関と比較して何倍も広大な敷地を有する学園。人間と似て非なる容姿と身体能力を有し、人々の夢や想いを乗せて走るウマ娘たちを育成する機関、トレセン学園が露伴の眼前には広がっていた。

 

 

 

 

 

 

「さて、行きましょうか!って私は露伴先生の荷物をこのままホテルに預けてくるので、露伴先生はお先に取材なさっていてください!」

 

 

 

 

 

「あぁ、助かるよ」

 

 

 

 

露伴はトレセン学園に降り立つと、正面玄関から足を踏み入れる…すると向こうから一人の人物が歩み寄ってくるのが目に入るのだった。緑の帽子に制服…全身を緑に包んだ女性はあっという間に露伴との距離を詰めると、朗らかな様子で口を開くのだった。

 

 

「ようこそトレセン学園へ!私は当学園の理事長秘書を務めている駿川たづなと申します!本日取材の依頼でいらした岸辺露伴先生ですね?」

 

 

「あぁ。ありがとう。集英社でピンクダークの少年を連載している漫画家、岸辺露伴だ」

 

 

 

 

 

たづなの案内を受けながら露伴はトレセン学園の施設を見て回ることになった。本校舎や保険室、職員室やトレーニング室や屋内プール、そしてターフを見て回った露伴だったが、どの施設も彼にとって漫画家として食指が動くものではなく、彼の期待に沿うようなものではなかった。案内してもらった手前、彼女に失礼がないように言いつくろいながら戻ろうとした露伴であったが、その時何気なく視界に映ったものになぜか心惹かれることになった。

 

 

 

「……ちょいと待ってくれ。あれは何だい?」

 

 

 

露伴の視線は、一つの彫像に注がれていた。本校舎の前に鎮座し、噴水の中央にある3名の女性が円形に位置取りしていて、各々が水瓶をその噴水に水を注ぎこむようにその像の耳は、この学園で生活を送るウマ娘たちと同じものだった。

 

 

 

「あれは三女神像です。この学園、引いては世界中のウマ娘たちの源であるとされています…」

 

 

 

「どうして3体もいるんだい?祖先ってことは別に1体でもいいだろう?」

 

 

 

 

その答えにたづなは首を横に振りながら口を開くのだった。

 

 

 

「それが三女神様のことについては、詳しいことはわかっていないんです」

 

 

 

「なるほど。あくまで偶像崇拝的な類ということか?」

 

 

 

「そう呼ぶには、聊か三女神様 の存在はウマ娘にとって大きいものかもしれませんね……」

 

 

 

「というと、それはどういう…」

 

 

 

露伴はそこまで言いかけたが、その時突然後ろから何者かに声を掛けられるのだった。

 

 

 

「すみません、岸辺露伴先生ですよね!」

 

 

 

そのウマ娘は、黒髪のセミショートヘアに頭には注連縄のようなアクセサリーが付けられていた。彼女はルビーのように輝く赤い瞳を輝かせながらこちらに近づいてくるのだった。

 

 

 

「えーと、君は?」

 

 

 

「はい!キタサンブラックです!実は私、露伴先生のファンなんです!」

 

 

 

年相応のあどけなさを醸し出しながら、その快活な様子の少女に少々面喰った露伴だったが、ファンであると言われて悪い気はしないため、サインを色紙に書いてやると一言二言彼女との会話に応じてやるのだった。彼女と別れた後にたづなの案内が一通り終わると、露伴は待機していた栗原の下へと足を向けるのだった。

 

 

「露伴先生!遅いじゃあないですか!まさか書きたいことが決まらないっていう煮詰まりですか??」

 

 

「いや栗原君。取材の題材が決まった。これぞ僕の描きたいものってやつがね…待たせておいて悪いんだが、また何処かで時間をつぶしておいてくれないか?」

 

 

露伴はその顔に不敵な笑みを張り付けると、その視線を再び像へと向ける。女神像は太陽の陽に照らされ、露伴の挑戦を受けて立つかのように悠然と立っているのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聞き込みを開始して早数時間。頭に猫を乗せた見た目が幼女の理事長に、ボディラインが強調されるスーツを着こなした女トレーナー、この学園の生徒会長にウマ娘に詳しいと紹介されたオタクウマ娘(こいつにはサインを求められたので書いてやった)……この学園の主要人物から一介のトレーナーや用務員まで。草の根をかき分けるほど懸命に情報を求め一日調査をした露伴だったが、その日彼は興味深い話を聞くことはできたものの、目当ての情報を得ることは叶わなかった。今日学園に滞在できる時間を考えると、最早長居はできない。最後に情報を求めるために露伴が訪れたのは、学園に関しての歴史、情報が子細記録されている図書室へと足を運ぶのだった。他の学校と比べてもトレセン学園の図書室は一回りも二回りも広く、大学の図書館に負けず劣らずの規模を誇っていた。露伴は片っ端からトレセン学園に関する記述がされている本を引っ張り出していくと、机の上に重ねて、それらを読み漁っていく。

 

 

 

気が付くと既に太陽は西に沈みかけ、まだ手を付けていない本は残り数冊に差し掛かっているのだった。既に情報を得ることを諦めかけていた露伴だったが、その時突然後ろから声を掛けられるのだった。

 

 

 

「あの、露伴先生?」

 

 

 

「君は……」

 

 

 

 

露伴がうしろを振り向くとそこには一人のウマ娘……先ほど彼に声を掛けた人物、キタサンブラックであった。キタサンブラックは頭を下げながらこちらに向かって歩みを進めてくる。正直なところ、彼女の相手をしている余裕など持ちあわせてはいなかったが、(最も、いつもの彼であっても相手などするはずもないのだが)誰かと話せば少しは気が晴れるかと露伴は彼女の相手をすることを決めるのだった。

 

 

 

「確かキタサンブラック君、だったな?何か用かい?」

 

 

 

露伴が片腕を椅子の背に預けながら言葉を口にすると、キタサンはおずおずと……恐らく露伴の語気で彼がいら立っていることに勘付いたのだろう。まるで虫の居所の悪い猛獣が癇癪を起こすことを避けるように口を開くのだった。

 

 

 

 

「あの……お困りのようでしたら何かお手伝いできないかなって……露伴先生が学園内で聞きこみをしているって聞いたから……」

 

 

 

どうやら彼女、人助けのつもりでここまで自分を追いに来たようだ。そういえばあの秘書が、キタサンのことを困っている人を見かけたら見逃せない、そんな人物であると言っていた。露伴はキタサンのことを再び見つめると、右手を彼女の顔にかざす……するとキタサンの顔に亀裂が入り、そこから本がめくれるようにページがあふれてくるのだった。意識を失った彼女の身体を抱きかかえると、露伴はキタサンの顔につけられたページをめくるのだった。

 

 

 

「ふむ……キタサンブラック。誕生日は3月10日。身長162センチ、体重はもりもり増量中。性格は裏表なく正直、困っている人がいたら助けず、見て見ぬふりはできない……中々に好感のもてるやつじゃあないか。彼女を漫画のネタにするっていうのもありかもしれないな。スリーサイズは上から85、56、88……こいつ本当に中等部か?下手したら成人女性よりも……」

 

 

 

もしもこの場に康一君がいたとしたら、間違いなく僕のことを止めに入っていただろう。康一のことを頭に浮かべた露伴はそこでページをめくる手を止めると、彼女のことを元に戻すのだった。

 

 

 

「……あれ、私……なにを……?」

 

 

 

キタサンは意識を取り戻し、頭をおさえながらこちらを見つめる……露伴はそれに気づいていないように振舞いながら言葉を口にするのだった。

 

 

 

「実はちょいと困ったことがあってね……誰かの手を借りたいことなんだが…」

 

 

 

露伴のその言葉を聞いたキタサンの顔はみるみるうちに笑顔を取り戻し、その尻尾は良質なガソリンを注入した車のようにぶんぶんと振り回されている。やはり彼女は、「主人公」たるにふさわしい人物であると言えるだろう。キタサンはそのはちきれんばかりの笑顔を浮かべ、右手を握り胸に手をポンと置き、口を開くのだった。

 

 

 

「そんな時はお任せください!お助けキタちゃんの出番です!それで一体何をすればいいですか?」

 

 

 

キタサンの言葉を聞いた露伴は口元を緩めると、三女神像についての疑問について彼女に伝えるのだった。露伴の話を聞き終えたキタサンは首を傾げながら彼に質問を投げかけるのだった。

 

 

 

「確かに私も言われてみると気になります…それで何か分かったことはありましたか?」

 

 

 

「あぁ…一部のウマ娘、それこそ学園の生徒会長であるシンボリルドルフや、オタクウマ娘のアグネスデジタルといった一部のウマ娘たちは三女神像の前を通り過ぎた時、急激に力を得たような感覚があったらしい。そしてその時期は決まって2回あり、4月の頭ごろにその現象は起こるみたいだな」

 

 

 

一部のウマ娘にのみ起こる、三女神にまつわる摩訶不思議な出来事。4月頭に三女神像の前を通ったウマ娘に与えられる競技者として力を授かるという「ギフト」……そのギフトを得たウマ娘たちは、G1レースで勝利を収めるなど、その恩恵を受けることになる。思考の波に身を投じようとした露伴だったが、隣に座ったキタサンの言葉によってそれは中断されることになった

 

 

 

「実はそれ……私もあります。」

 

 

 

驚きのあまり露伴はぽかんと口を開きながら彼女の顔を見つめる。そういえばキタサンブラックという彼女の名前、聞いたことがある。キタサトコンビと銘打ちされ、今年のクラシック路線を賑わせることを期待されている内の一人がキタサンブラックという名前だったような…どうやらその人物目の前にいる彼女のようだ。

 

 

 

「それはマジかい?」

 

 

 

こくんと頭をたてに振るキタサンを見て「おいおい」と言いながら頭を抱え、露伴は彼女に言葉を投げかけるのだった。

 

 

 

「それで何かその時に変わったことはなかったかい?」

 

 

 

「そういえばあの時、何か聞こえたような…」

 

 

 

キタサンは顎に手をあてながらしばし考える素振りを見せたが、やがて「あ」と一言声を漏らすと言葉を続けるのだった。

 

 

 

「言葉が聞こえました!「右に七歩、後ろに九歩」って!」

 

 

 

 

なるほど…彼女はその不思議な現象を目の当たりにした時、その啓示に似たようなものを三女神から受けたというわけだ。この謎を解き明かすことは、ひいてはこの三女神の存在そのものの謎を解き明かすことに繋がるはずだ。好奇心に取りつかれた露伴は喜々として顔を上げると、キタサンに言葉を投げかけるのだった。

 

 

 

 

 

「よし!それじゃあもう一度君がその啓示を得たという噴水前に行ってみようじゃあないか」

 

 

 

 

「…君が三女神から啓示を受けた場所、噴水前に着いたわけだが。先ほどの言葉から察するに、君がそれを受けた正確な位置を把握する必要がある。その辺に関しては大丈夫なのかい?」

 

 

 

 

 

 

「はい!私は確かこの辺で……」

 

 

 

 

 

 

噴水前の広場に舞い戻った露伴とキタサンであったが二人は過去の記憶を頼りに、その細い糸を手繰り寄せるかのように、慎重にその正確な場所を探し求めていた。やがてキタサンが三女神像を左手に望むことができる位置に移動すると、呟くように口にするのだった。

 

 

 

「ここです…」

 

 

 

 

露伴はつかつかとその場所に歩み寄ると、彼女が聞いたという言葉の通りそこから右に七歩、後ろに九歩移動するとそこはちょうど舗装されたアスファルトから外れ、植え込みになっていた。周囲を見回すと、そこには植樹されたであろう一本の木が目に映り、露伴は徐にその木を調べるのだった。木の側でしゃがみ込み、根本を調べた露伴であったが、そこには何やら文字が彫りこまれているのだった。

 

 

 

「なにやら文字が書いてあるな…」

 

 

 

「本当ですか!?」

 

 

 

 

キタサンは小走りで露伴のもとへと駆け寄ると、隣にしゃがみ込んで彫られている文字を読み上げるのだった。

 

 

 

 

「純黒そして純白のステイヤーがその道を指し示す?」

 

 

 

「ステイヤーっていうのは長距離を走るウマ娘……2500以上の距離を走る奴のことを言うんだろう?心当たりはあるか?」

 

 

 

「一人心当たりがあります!純白はわかりませんが、高等部の先輩にマンハッタンカフェ先輩がいて、彼女は「漆黒のステイヤー」っていう異名が採られているほどのウマ娘です!」

 

 

 

「よし、それじゃあ彼女…マンハッタンカフェ君、だっけ?会いに行こうじゃあないか。キタサン君、案内してくれるかい?」

 

 

「お任せください!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キタサンブラックの案内のもと、会ったマンハッタンカフェの第一印象は「暗い」という他なかったのは言うまでもない。教室の隅で読書に明け暮れていた彼女がこちらを向いた時、その瞳に吸い込まれてしまいそうな、そんな魅力を兼ね備えていた彼女であったが、今はあまり時間がない。簡単な自己紹介を済ませると、露伴はカフェに向き直って単刀直入に質問を投げかけるのだった。

 

 

 

 

「ずばり君は、三女神像の前で力を授かったことはあるかい?」

 

 

 

 

その言葉に、カフェは小さく頷き同意の意を示す。その同意を確認した露伴は、彼女にキタサンが受けた啓示のこと、そしてそれをもとに手がかりを捜索したところ、彼女のことを指し示す手がかりを得たことを伝えるのだった。カフェはそのことを聞くとしばらく考え込むように顎に手をあてていたが、突然耳がぴょこんと起き上がり、宙に向けて耳を傾けるような素振りを見せる…しばらくそのまま時が流れたが、彼女は徐に口を開くのだった。

 

 

 

「私は覚えていませんが、あの子が……いやなんでもありません。とにかく、メッセージを受けたそうです。私が受けたメッセージは「り、に、こ、す、ち、す、ん」だそうです…」

 

 

 

 

 

あの子とは一体何者なのか?彼女に対して興味と疑問はつきないが、今はそれどころじゃあない。そのメッセージの真意は全く分からないが、とりあえず彼女からヒントの一つを得ることができたのは大きな進歩であることは間違いない。お礼を言ってキタサンとここから立ち去ろうとすると、カフェは徐に口を開くのだった。

 

 

 

 

「気を付けてください…何か嫌な予感がします」

 

 

 

「……ご忠告ありがとう。さぁ、キタサン行くぞ」

 

 

 

部屋を出る直前ちらりとカフェの表情をみたが、その表情は逆光で窺い知ることはできなかった。とにかくカフェから証言を取ることができたのは、一歩前進したと言って差し支えないだろう。残るは純白のステイヤーが何者であるのか、ということである。

 

 

 

「心当たりはないかい?」

 

 

 

 

「うーん…絶対そうだ!とは言えないんですけど、メジロマックイーンさんは葦毛のウマ娘で、ステイヤーとして活躍なさっていますよ?」

 

 

 

 

 

「それじゃあ次の向かう先は決まった、っていうわけだな」

 

 

 

 

「それで私にそのことについてお尋ねしたい、とのことですわね、露伴先生?」

 

 

 

メジロ家の令嬢、メジロマックイーンはその名家の看板を背負ってたつにふさわしいその佇まいに露伴も思わず面喰ったが、返ってきた返事は自身が待ち望んでいたものではなかった。確かに彼女は4月頭にその恩恵を受けたわけだが、メッセージを受け取った記憶はないとのことであった。マックイーンが覚えていないにしても、その啓示を受けたということは何処かに記載が残っているはずだ。しょんぼりと耳をすぼめるキタサンを尻目に、ヘブンズドアーで彼女の記憶をこじ開けようとしたその瞬間、突然背後から声を投げかけられるのだった。

 

 

 

「おいマックとサブロー!おもしろうなことやってんじゃあね~か!」

 

 

 

唐突な乱入者に露伴はその不快感を表情に出しながらその乱入者に非難の視線を向ける。そのウマ娘は葦毛のロングヘアーのウマ娘であり、その頭部にはヘッドギアのような形状の耳当てと、烏帽子のような帽子を付けていた、マックイーンとキタサンの彼女の見る目から察するに、これが彼女の平常運転なのだろう。露伴の視線をまるで気づかぬように振舞いながら彼女は辺りに響き渡る声で言葉を発するのだった。

 

 

「アタシの名前は「ゴールドシップ」!おっさん、こいつらに何かようか?」

 

 

 

ゴルシは晴天のように晴れ渡る笑顔をこちらに向けながら、なりふり構わずこちらに絡んでくる。この手の輩は無視したとしても自分の都合で絡んでくることはわかり切っているため、ある程度相手をしてやって追いやるのが吉であろう。露伴が頭を掻きながら言葉を発しようとすると、その状況を察したマックイーンが割り込むように言葉を発するのだった。

 

 

「こちら岸辺露伴先生…漫画家さんですわ。私にお尋ねしたいことがあるようで、今お話していました。」

 

 

 

「それならこのゴルシちゃんにお任せだぜ!この間の25日間無人島サバイバルの話してやるよ!」

 

 

 

一体彼女は何をのたまっているのだろうか?いや、理解しようとしてはいけない。このウマ娘、自分と同じ次元にはすでにいない。早いとこ話を切り上げようと決すると、露伴はゴルシに言葉を投げかけるのだった。

 

 

 

「いや、聞いていたのは三女神のことについてさ。この学園の一部のウマ娘が、特定の時期に三女神の恩恵を受けることについて聞いて回ってるわけさ」

 

 

 

「それなら尚更このゴルシに聞くべきだろ!?なんたってこのゴルシちゃんもその恩恵うけてんだからな!メッセージ付きで!」

 

 

 

「そうかいそうかい…じゃあ君にはそろそろ…っておい。今君メッセージもらったって言わなかったか?」

 

 

「あぁ。もらったぜ。「灰かぶり」を調べろってな。意味わかんねーだろ?」

 

 

メジロマックイーンだと思っていたが、純白のステイヤ―はこのゴールドシップだったか。確かに葦毛のウマ娘ではあるが……最早彼女について深く考えるのはよしておこう。露伴はすっと目を閉じると、「ありがとう」とだけ呟き、キタサンと共にその場を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「と、とにかく。これで手がかりは出そろったわけだが、灰かぶりはともかく、「り、に、こ、す、ち、す、ん」というのは全くもって意味を成していない。何か分かるかキタサン君?」

 

 

 

「いえ、私も何が何だかさっぱり…」

 

 

 

ここにきて手詰まりか。学園内のオリジナルの造語か何かの類かと薄い望みに賭けたが、それも泡と化したようだ。露伴が噴水前のベンチに座りこみため息を一つ漏らすと、自身の捜査がここまでであることを悟るのだった。

 

 

 

「あー!露伴先生、こんなところにいたんですか!探したんですよ!」

 

 

 

ここにきて彼女と出会うとは。露伴は鬱陶し気に栗原のことを見やると、再び地面に視線を落とすのだった。栗原は自身の投げかける言葉がなしのつぶてであることを悟ると、ため息を一つついて噴水の縁に腰掛けるのだった。

 

 

 

 

「いつまで子供みたいに愚図ってるんですか?もう…私ここで資料仕上げちゃうんで、立ち直ったら声かけてくださいね!」

 

 

 

栗原はショルダーバッグからノートPCを取りだすと、カタカタとキーボードになにやら文章を打ち込んでいく…打ち込む音だけ静寂の中で響き渡る中、その時は突然訪れた。露伴はパッと顔を上げると、栗原のもとに走り寄ってそのノートPCを手からひったくるのだった。

 

 

 

「ちょ、ちょっと何するんですか!?」

 

 

 

栗原の顔を左手で押し付けながら、露伴は手元のキーボードを凝視している。するとアルキメデスが湯舟に浸かった際に発明品をひらめいた時のように、大声で叫ぶのだった。

 

 

 

「わかったぞ!あのメッセージの意味が!」

 

 

 

その言葉にキタサンは顔をぱぁっと明るくさせて露伴の側によっていく。キタサンがそばに来たことを確認すると、露伴は饒舌に言葉を続けるのだった。

 

 

 

「これはキーボードに印字されている文字ってわけだ!メッセージはひらがなじゃあなくて、アルファベットに直すことで見えてくる!」

 

 

 

「つまり、その意味は…」

 

 

 

「り、に、こ、す、ち、す、ん…つまりLibrary…図書館になる」

 

 

 

「そうと決まれば急いで図書館に行きましょう!」

 

 

 

露伴とキタサンは弾かれたように目当ての図書館に向かって足を繰り出していく。向かう際に押しのけていた栗原がバランスを崩し短い悲鳴を上げながら噴水の水に背中からダイブすることになったが、遂に二人はそのことに気づくことはなかった。

 

 

 

図書館へとたどり着いた二人だったが、そこでキタサンはこめかみに手をぐりぐりとあてながら言葉を口にするのだった。

 

 

 

「一つ目の手がかりが図書館であることはわかったんですが…二つめの手がかりはなんでしょうか?」

 

 

 

「それなら簡単だ。灰かぶりは「シンデレラ」の和名だ。尤も某アニメ会社がこの題材を取り上げたことによってあまりこの通名は認知されてはいないけどな」

 

 

 

露伴は館内の絵本のコーナーに近寄ると、そこから目当ての本を探す。「シンデレラ」と題された絵本を探し出すと、露伴はその絵本をぺらぺらと開き手がかりを探すのだった。しばらく絵本に目を通していた露伴であったが、やがて一つの箇所に目が注がれるのだった。

 

 

 

「……あったぞ」

 

 

 

それはシンデレラがかぼちゃの馬車に乗りこむページであった。キタサンがそのページを覗き込み、言葉を口にした。

 

 

 

「これが手がかりなんですか?」

 

 

 

「あぁ、本来シンデレラの魔法が解ける12時でなければならないだろう?それなのにこのページは12時から既に30分すぎている…誤植にしてもこれはナンセンスだろう?これは何か意図があるとみていいだろう。そしてこの文章の頭文字を繋げて読むと…」

 

 

 

「き・ゆ・う・こ・う・し・や・2・か・い……?あ、旧校舎2階!」

 

 

 

「そうだ。12時半に旧校舎2階にいけばきっと答えがわかる」

 

 

 

 

「それじゃあ早速…って。露伴先生、もう帰らないといけませんよね…?それにそんな時間に学園に居たら……」

 

 

 

 

「そうだな…だがもうここで手がかりを知った以上、後戻りするつもりなんて毛頭ない…だが、助けがいる。」

 

 

 

我ながらズルい言い方であると思う。こう言ってしまえば、彼女は僕のことをチクったりはしないだろう。案の定キタサンは苦悶の表情を浮かべながらも、辛うじて首を縦に振るのだった。さて、これで協力者は得たわけだ。露伴は図書館の窓から見える三女神像をみやり、不敵な笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全く警備員という仕事は退屈なものだ。

 

 

 

 

定年退職後の再就職先として選んだ職場だったが、老体には深夜の巡回警備というものは中々に身体に堪えるというものだ。生あくびを一つした警備員は、自身が持つ懐中電灯を頼りに廊下を再び歩み出していくのだった。この本校舎ならともかく、すでに数週間後に取り壊しが決まった旧校舎を見回ったところで何の意味があるというのか。そう心の中でぼやいていた警備員だったが、その時突然背後に物音が聞こえたのだった。警備員はパッと後ろを振り向くと、そこには一人の男と、一人のウマ娘が立っているのだった。

 

 

 

 

「あ、あんたら何やってんだ!」

 

 

 

 

 

「や、やっぱりバレちゃいましたよ、露伴先生…」

 

 

 

 

 

 

「ま、これもまた想定の内さ…あー君、今何時だい?」

 

 

 

 

 

 

「今は12時15分…って不審者が!」

 

 

 

 

 

 

 

警備員は胸に取り付けられているインカムに手を伸ばそうとする……しかしその瞬間、彼の意識は急激に暗転していくのだった。露伴は意識を失った警備員のもとに近寄ると、側にしゃがみ込み何やら書き込むのだった。

 

 

 

 

 

 

「やれやれ…今見たことをきっぱり忘れる。これで良し」

 

 

 

 

 

 

 

「ろ、露伴先生…一体何を…?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まぁ、特別な「ギフト」みたいなものさ。僕はこれを「ヘブンズドアー」と呼んでいる」

 

 

 

 

露伴はすくっと立ち上がると、目的の場所へと歩みを進めていく。キタサンも釈然としないようではあったが、このままここにいても校則違反で大目玉を食らうことに間違いないので、いそいそと露伴へと付いていくのだった。

 

 

 

 

 

目的地に到着した露伴とキタサンは、辺りを見回した。時刻はちょうど12時半。絵本に書いてあった時刻きっかりだ。そこは教室の一角であり、月明かりだけが視界の頼りとなっていた。

 

 

 

 

 

 

「ここが……三女神様の…」

 

 

 

 

 

「さぁ。早くみせてくれないか?この追いかけっこもいい加減疲れたんだが」

 

 

 

 

 

 

すると突然カタカタと教卓机が揺れだし、そこから石板が出現するのだった。露伴はつかつかとそこへ近づくと、そこにある石板を掴み取るのだった。

 

 

 

 

 

「あの……露伴先生…?」

 

 

 

 

 

 

 

露伴は上から下へと目を通していたが、やがてその顔からは血の気が引き、口をパクパクと開け閉めさせる。そこには全てが記載されていた。ウマ娘の存在そのもの、そしてそのウマ娘が存在するこの世界そのものを揺るがしかねない、そんな情報が記載されており、露伴はそれを知る唯一の証人となったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「何がわかったんですか?」

 

 

 

 

 

 

「知らないほうがいい……」

 

 

 

 

 

 

その言葉に、露伴の心情の全てが詰まっていた。欲しかったものを手に入れた露伴の心を満たしたのは、達成感とは程遠い喪失感に他ならなかった。顔面を青白く染め上げながら石板を落とした露伴であったが、その時石板から声が聞こえるのだった。

 

 

 

 

 

 

「岸辺露伴……」

 

 

 

 

 

 

 

パッと石板に視線を落とすと、そこから自身のスタンドのようにヴィジョンがあふれ出してくるのだった…それはこの学園を見守っているはずの三女神像であった。露伴がそれに気を取られていると、なにやら息苦しさを感じるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「なにぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

露伴が正気を戻すと、自身の首に電気ケーブルが巻き付いていることに気が付くのだった。偶然と呼ぶにはあまりにも都合の悪い出来事に目を見開いていると、三女神像が徐に口を開くのだった。

 

 

 

 

 

 

「帰さない……知ったからには……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんということだ。この三女神像……

 

 

 

 

 

 

 

「露伴先生!」

 

 

 

 

 

 

 

「やめろ!くるんじゃあない!」

 

 

 

 

 

 

露伴を助けようとキタサンが彼の下に近づこうとしたが、それを彼は強い口調で制止するのだった。

 

 

 

 

 

 

「この女神像……!わかりかけてきた!こいつは自分の秘密に……ひいてはウマ娘の秘密に迫る者を追い詰めていく……!秘密は、この世界……ウマ娘たちが存在するためこの世界のタブー!そしてこの像はそれを守るための番人ってとこか……!!」

 

 

 

 

 

 

 

電気ケーブルはますます露伴の首をきつく締めあげ、露伴から意識を奪わんと猛威を振るう。額には脂汗と血管が浮かび上がり、最早肺にため込まれた酸素は殆ど排出されていた。露伴は最悪の偶然の連鎖……尤もこれは三女神像の能力であり、秘密に迫る者からウマ娘たちを守るための自動警備システムに顔をしかめながら、徐に口を開くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんなデカいネタを逃がすのは忍びないが、致し方ない……命あっての物種ってやつにしておこう。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すると露伴の身体に突然亀裂が入り、そこからページのようなものがペラペラとあふれ出していくのだった。自身の名前に、身長に体重。自身が生まれてきた経験した全ての情報が、そこにはあった。「ヘブンズドアー」はその情報を読み取り、そこに新たな情報……また命令を書き込むスタンド。自身にこの能力を使うことはあまりないのだが、今回のようなケースの場合、自分自身の能力でこの窮地を脱する他あるまい。露伴は瞬時にペンを走らせると、瞬く間にページに文字が刻み付けられるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな、そしたら露伴先生が調べたことは全部…!」

 

 

 

 

 

 

 

「君の言う通りだ。確かにこいつに僕のことを認識できなくさせる手もあることはある。だが、それを漫画に描いたところでそれをみたものがこいつの能力に掛かることになる…ファンにはそんなことはさせたくないし、それだと僕は助けることはできない。つまり、これが最適解なんだ」

 

 

 

 

 

 

露伴はそう呟くと、自身のページにこう書き終えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「岸辺露伴は三女神様のことについてすっかり忘れる」

 

 

 

 

 

 

 

これほどの取材のネタを取り逃がすのは気が引けるが、致し方あるまい。尤もその文を書き終えた瞬間、露伴の三女神に関する記憶は瞬く間に忘却され、彼は意識を失うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう、露伴先生!昨晩からどこに行っていたんですか!」

 

 

 

 

 

 

朝方ホテルに着いた露伴を待っていたのは、栗原からの叱責であった。一体何の用でどこにいたのかと尋ねられたが、それを答える術を彼は有していない。いや、正確には何も覚えていないのだ。昨日の夕方に何やら調べものをしていたが、それ以降の記憶がすっぽりと抜け出てしまっている。

 

 

 

 

 

「……いやすまなかったよ」

 

 

 

 

 

 

 

「もう!昨日から露伴先生変ですよ!私、昨日びしょびしょで帰ったんですよ!?おかげで編集部で笑いものです!」

 

 

 

 

 

 

「だからすまないって……そうだ。それじゃあ君が担当でいいから、ちょうど書きたい題材がきまったもんで、それを書くことにするよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「って本当ですか!いいですいいです!許します!それでどんなことを書くんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あぁ、一人のウマ娘について書くことにするよ。僕が出会った、誰よりも正直で、誰よりも強い心を持った少女……彼女がどんな道を進むのか、僕も楽しみにしているよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

露伴の頭の中には、一人のウマ娘が思い浮かんでいた。彼はその構想を取りこぼすことがないように、足早に自室に飛び込み、ペンを手に取るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「岸辺露伴は走らない「トレセン学園の謎」おわり」

 

 

 



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岸辺露伴は育てない 前編

 

 

 

 

 

「1着はーーーー。栄光あるURAファイナルズを制したのは、○○です!」

 

 

 

いまこの瞬間。歓声が鼓膜を振動させ、歓喜に満ちた観衆を見渡しながら、彼女は今この瞬間、3年もの間自身が文字通り死力を尽くして走り続けた努力が実ったことを、五感を通じて感じ取っていた。観衆たちは、たった今終えたレースで先頭で戻ってきた彼女を出迎えるように、彼女が顔をあげそのまま観客席の方へと向けると、そのボルテージは瞬く間に湧き上がるのだった。最も彼女は、観衆に応えるために顔を向けたわけではないーーーー何万も煌めく、まるで星屑のような観衆の中から、彼女は無意識にある人物を探し出そうと視線をせわしなく動かしていた。砂浜からコンタクトレンズを探すような途方もない作業であることに変わりはないのだが、彼がこの会場の何処かにいることはわかっている。この三年間、私は彼と共に走り続けた。今日この場も、きっと彼は私のことを、私の集大成を見届けているはずだ。

 

 

 

――――いた。

 

 

 

レースをもっとも近くで見届けることができる最前列。柵にもたれかかるようにいた彼だったが、その興奮が冷めやらないのか、その柵に片足をかけて乗り越えると、真っすぐこちらに向かってくるのだった。

 

 

 

「トレーナーさん!」

 

 

 

早く彼に駆け寄って、抱きしめたい。この胸に秘めた衝動を、彼に打ち明けたい。

 

 

 

そのために私は走りつづけてきたんだ。きっと彼も、きっと彼も…

 

 

 

あと数歩進めば、彼女の悲願は成就するはずだった。しかし次に一歩踏み出した時、彼女の視界に広がっていたのは、ありえない光景だった。

 

 

 

 

「ここは…」

 

 

 

 

そこはいつも自分が日常を送っているはずの、トレセン学園だった。たった今競技場にいたはずの自身が、一体どうしてトレセン学園にいるのだろうか?凡そ人智を超えた自身に訪れた現状に戸惑いながら、僅かに数歩、夢遊病者患者のようにふらふらと歩みを進めるが、その時自分はしかし自身が認知しているはずのトレセン学園とは、聊か違和感を抱かざるを得ない乖離が生じていることに気が付くだった。

 

 

 

 

どうして桜が……?

 

 

 

彼女の視界には、そこらかしこに植樹されているソメイヨシノがその腕を一杯に広げるかのように力強く枝を広げ、そして目覚めするようなピンクの花がそこらじゅうに咲き誇っていた。今は2月の後半、桜が満開となるには時期があまりにも尚早であり、今朝競技場に向かう前に寮で目覚めた時には、桜など咲いてはいなかったはずだ。

 

 

 

 

心に抱いた疑念は一切払拭されることがないまま、彼女はあてもなく校舎の中をさまよい歩いた。低解像度の世界の中でも、彼女は自身が今歩いているトレセン学園の様子が、いつもの様子と何処か乖離し、その度に彼女の疑念を増幅させていることに気が付いていた。

 

 

 

 

…どうして旧校舎が?

 

 

 

視界の端に映った凡そ前時代的な木造建築の校舎。3階建てのその建築物は、自身が入学して数か月で校舎建て替えのために取り壊され、その場所には新たなトレーニング施設が建設されていたはずだが…ちょうど校舎の前には首に来客用のカードをぶらさげた、見ない顔のスーツ姿の人たちが数人、機材を片手に話し合っているところを見ると、ちょうど校舎の建て替えについて業者の人たちが話し合っているようであった。

 

 

 

…なぜ校舎が今?

 

 

 

 

かつて戦国時代に武将の羽柴秀吉が、僅か一夜で敵に攻め入るための城を建築したという逸話があるが、それにしても自身が朝から出払っていた間にその場にあったトレーニング施設を取り払い、かつて存在していた旧校舎と寸分違わぬ建築物を建築したというのか?ますます目の前の光景が信じ難く首を傾げた彼女であったが、その時背後から声を掛けられるのだった。

 

 

 

 

「おや、○○。」

 

 

 

自身の名前を呼びかけられその方向へと首を向けると、そこには一人のウマ娘が立っているのだった。彼女は自身が慕っていた先輩で、在学中はよくかわいがってもらったものだ。先輩は去年トレセン学園を卒業したが、その先輩が、どうしてここにいるのだろうか?

 

 

 

「あれ、先輩!?お久しぶりです!今日はどうしたんですか?」

 

 

 

 

その言葉に、先輩はうん?と少し眉をひそめながら首を僅かに傾げた。どうやら私の言ったことに少し齟齬があったようだ。一体何が?内心彼女が焦っていると、先輩は子供の冗談を諫める母親のような口調で彼女に話しかけるのだった。

 

 

 

「久しぶりも何も、昨日食堂であっただろう?君も中々奇妙なジョークを言うね…」

 

 

 

その言葉に、彼女の脳内にはますます疑念が沸き上がることになった。先輩は一体何を言っているのだろう?昨日は日曜日で、食堂は休みじゃあないか。それにどうして先輩は制服を着ているのだろうか?彼女が思わず返事に窮していると、先輩は言葉を続けるのだった。

 

 

 

「そういえば今日は君に新しくついた担当トレーナーとの初めての顔合わせだろう?いかなくていいのかい?」

 

 

 

 

先輩の言葉に、益々彼女の首を疑念によって横に曲げられることになった。いよいよ先輩は頭がおかしくなってしまったのか?そんなわけがないと思いながら、ひとまず自身のトレーナーに相談しようと彼女がポケットに入っている携帯電話を取りだすと、彼女の背中に悪寒が走ることになった。

 

 

 

「20○○年、4月15日…?」

 

 

 

それは自身が先ほどまでいた競技場の日時から、およそ3年前。そしてトレーナーと初めて契約を結んでから顔合わせをした日であると記憶していた。脳裏をよぎる、およそフィクションの類と一蹴されてしまいそうな、そんな可能性がよぎった彼女は、何とか先輩に頭を下げ、冗談の礼を詫びると自身が3年間苦楽を共にしたトレーナーがいるトレーナー室へと駆け出していった。ペース配分も度外視した、ゴールを目指して懸命に繰り出した走り……しかし、その走りは先ほど競技場でレースを終えたとはいえ、満足できるようなキレやスピードのある走りではなかった。まるで、入学した時のころのような……

 

 

 

 

恐怖と焦りが胃を締め付け、胃液が口から出そうになるのを懸命に抑えながら彼女はその部屋の前へとたどり着いた。何とか呼吸を整えて扉を開く……そこには一人の人物、三年間二人三脚で走りつづけ、彼女を支え続けたトレーナーがいたのだった。彼は彼女を見据え、目の前まで近づくと徐に口を開くのだった。

 

 

 

 

 

「やぁ、僕は○○!今日からよろしくな!」

 

 

 

―――自身に降りかかった状況は、神様の気まぐれと宣うにはあまりにも絶望に包まれた代物であった。全てを悟った彼女にできることは、せめて目の前の彼に不信感を抱かれることがないように、絶望に押しつぶされた心から発せられた涙を必死に押し殺して、歪んだ笑顔でその問いかけに応えることだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「栗原恵美」

 

 

 

赤山大学経済学部を卒業し、集英社に就職。幼いころから漫画が好きだったようで、入社当時から編集部に配属されることを希望していたようだ。「恵美」という字は、両親から自身の優しさを人に分け与えて欲しいという願いを込めてつけられたと自分で語っていたが(もっとも僕から尋ねたわけじゃあなく、勝手にペラペラと話し始めたわけだが)、やはり親というものは、自分の子供には過度な期待をして、幾分かその性格や振る舞いなどに補正をかけて見てしまうものだという感想を抱かざるを得なかった。

 

 

 

 

彼女はたった今自身が告げた言葉を、期待を込めながら自身の向かいの席に座る男に投げかけ、そのやかましいほど光り輝く瞳でその男を見つめると、男は単純にいい迷惑だと言わんばかりに間延びした口調で、彼女がたった今口にしたセリフを反芻させるのだった。

 

 

 

 

「トレセン学園に取材ぃ~~~?」

 

 

 

 

その男…岸辺露伴は眉をひそめてしかめっ面をつくることで彼女への抗議の意を示しながら、テーブルの上に置かれているティーカップに手を伸ばし、彼女の依頼とそのついでと称して続いた取るに足らない世間話によってすっかりぬるくなってしまったカモミールティーをすするのだった。

 

 

 

 

「そうです!前回の短期連載が非常に好評でしたので!またウマ娘に関連する題材で一本描いていただけないでしょうか?」

 

 

 

 

「なんで僕が君らの指図をうけなくちゃあならないんだ?」

 

 

 

 

およそ職人気質の人間は、偏屈で頑固であるというイメージが定着されてはいるが、露伴はその最たるであった。自身の漫画家としての食指が動かされたものだけを描き、リアリティを追求する。そこには何者も介入を許さず、その高慢さ故に彼にしか描くことができない世界観があり、物語やキャラクターがあり、それゆえに多数の読者からの支持を獲得していることは事実であった。

 

 

 

 

「もう!そんなこと言っていると、友達いなくなっちゃいますよ!」

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 

 

口をへの字に尖らせた彼女が、当てつけのようにそんな陳腐な台詞を口にする。一体どの口が言っているんだろうか?漫画家という職業は、普通の職種の人間に比べればコミュニケーション能力や社会常識を求められる必要は格段に低いが、そんな僕から言わせてもらってもそ彼女の言動は一体なんだと言うのだろうか?相手への礼節を軽んじ、自身の言いたいことをズバズバと言い放つ。それを体よく言えば「正直」であると言えるが、彼女はデリカシーがなく、図々しい人間であると銘打ちざるを得ない。

 

 

 

 

それに僕にだって友達はいる。決して多くはないが。露伴はまじまじと彼女の顔を見つめる…なんというか彼女のふてぶてしさ、何処か覚えがある。あぁ、そういえばあの阿呆の億康に通ずるものがある。あの頭の悪そうなブルドックの顔と彼女の顔がイメージとして重なると彼はますます不快感を掻き立てられ、無言で彼女のことを睨みつけた。

 

 

 

 

一刻も早くこんな徒労と言わざるを得ないこの時間から解放されたい。彼女は予想がつかない。いつ、次はどんな台詞で彼女が自身の神経を逆なでするような不快な言動をするのか全く想像がつかない以上、彼女の側にはいたくないというのが正直なところであった。今度漫画を描く際、彼女をモデルにした人物を描くというのも悪くないかもしれない。これほど癖のある人物ならば、読者の喉にも釣り針として引っかかるかもしれない。そんなことを思いながら露伴がその席を立とうとすると、彼女はこちらを見据えながら徐に口を開くのだった。

 

 

 

 

「それに彼女……漫画の題材にした彼女にもお礼、言ってないんですよね?」

 

 

 

彼女……

 

 

 

 

その言葉に露伴はぴたりと席を立つためにテーブルに添えた右手を止めるのだった。彼女…キタサンブラックの動向は、あれからもしばらく追っていた。確か彼女は、先日のクラシック路線の最後の一冠、菊花賞で見事1着を収め、世間でも注目されていたはずだ。彼女には自身の漫画家としての食指を動かすような漫画を描かせてもらった原動力である以上、また顔を合わせてもいいかもしれない。

 

 

露伴の意図をくみ取ったのか、栗原はにやっと笑みを浮かべながら露伴の顔を見つめる。彼女の狙い通りに事が運ぶことは何とも癇に障る出来事であったが、露伴はせめてもの抵抗として取材には一人で向かうので付いてこなくていいことを伝えると、彼女から顔を背けながらティーカップの中の液体を口に呷るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後、露伴はさっそく約束を果たすためにトレセン学園へと向かった。久方ぶりのトレセン学園は何とも言えず、露伴の興味をそそるものであった。これも自身がウマ娘という題材で漫画を描き、その造形を深めるために様々なことを勉強したからであろう。物事に興味を抱くには、そのことについての解像度を上げることが肝要であることは漫画家として鉄則だ。露伴が校門をくぐり歩みを進めると、とある人物が待ち構えているのだった。

 

 

 

 

「トレセン学園へようこそ!お久しぶりです、露伴先生!」

 

 

 

 

「あぁ。駿川さんもお久しぶりです」

 

 

 

 

その人物は、初めてこのトレセン学園で出会った時と同じように朗らかな笑みを浮かべながら、15度こちらに向かって頭を下げるのだった。露伴は彼女…トレセン学園理事長秘書・駿川たづなに会釈で応えると、社会人としてあるべき社交辞令として挨拶を一言二言交わすと、たづなは案内する方角へと手をかざしながら自身の一歩半先を歩き始めるのだった。露伴は出遅れないように、彼女の案内に従ってその背中を追うように校舎内に歩みを進めるのだった。

 

 

 

 

「―――露伴先生が描かれた、新作のウマ娘を題材にした漫画、校内のウマ娘にもすごく人気なんですよ!」

 

 

 

 

「それは嬉しい限りです」

 

 

 

 

たづなと時折雑談を交えながら、露伴は歩みを進めていく。露伴は基本的に沈黙を嫌がるようなタチではなかったのだが、たづなはこちらが不快感を抱かないほどの、「ちょうどいい」という他ないほどのタイミングでこちらに話を振りながら、こちらの受け答えにさらに会話が自然に続く様に返答を返していく。どっかの編集者とは大違いだな、と心の内に沸き上がった感想を引っ込めると、露伴は先ほどたづなに言われた賛辞の言葉に口角を緩めながら答えた。本来ならばこういった類の言葉はおべっかを使っていると思う他ないのだが、実際彼女と歩いているさながら生徒たちに時折呼び止められ、サインや写真を求めれることがしばしばあったので、あながち誇張しているわけでもないのだろう。別にプロバガンダのつもりで描いているわけでは決してないが、より多くの人が自身の漫画を手にし、心を掴まれたという事実は聞いていて悪い気はしないというものだ。そのような生徒が来ると、たづなは「失礼ですよ」と彼女たちを追い払おうとしたが、その度に露伴は気にしなくていいことを伝え、ほんの数秒で彼女たちが持参した色紙にサインとちょいとしたイラストをしつらえてやるのだった。

 

 

 

「さぁ、こちらで彼女が待っています」

 

 

 

とある一室の前で立ち止まると、たづなはこちらを向いて露伴にそう告げた。この部屋の中で、彼女が待っている。柄になくはやる気持ちを抑えつつ、露伴はたづなに礼を言うとゆっくりと扉の前に立つのだった。

 

 

 

コンコン。

 

 

 

短く、一定のテンポを刻むように握りこんだ手を扉に軽くたたき発したノック音が辺りに響き渡ると、ワンテンポおいて室内から「どうぞ」という声が聞こえてきた。露伴は入室を許可されたことを確認すると、ゆっくりとドアノブを捻り室内へと足を踏み入れるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お久しぶりです!露伴先生!」

 

 

 

 

彼女はこちらの姿を認めると、椅子からガタっと立ち上がり、笑みを浮かべながらこちらに近づいてきた。露伴は久方ぶりの交流の喜びを分かち合うために彼女…自身の漫画のモデルとして採用したウマ娘、キタサンブラックにその手を差し出し、固い握手を交わすのだった。

 

 

 

久方ぶりに出会った彼女は僅か数か月の間というのに、身体が見違えるほどに筋肉が隆起し、競技者として仕上がっている身体に成長していた。ウマ娘という種族は、非常に人間と似ている容姿はしているが、いくつかの点において人間との相違が見受けられる。その一つとして挙げられるのが、「本格化」が挙げられ、彼女の身体的な変化の原因もそれであろう。本格化というものは、ウマ娘が幼少期に突然、人間とは比較できないほどのスピードで身体的に成長が促進されるというものである。これも彼女を題材にした漫画を執筆するにあたってウマ娘の生態に関する文献を読み漁った影響であり、露伴はその分野の知識に関しては一介のトレーナーに勝るとも劣らないほどになっていた。

 

 

 

常日頃、あまり人間に対して好意を抱くことがない露伴であったが、キタサンに関しては珍しく、好意的な印象を抱いていた。他者を思いやる気持ちがあり、困っている人がいたら助けずにはいられない。夢に向かってひたむきに努力する彼女は、何処か杜王町に住む親友、康一君と共通点を見出すことができた。だからこそ、日ごろミステリー・ホラー、アクションといった題材を取り上げる自身にとっては異色ともいえる「青春スポコン漫画」に手をつけようと思ったわけだが。

 

 

 

露伴はキタサンにお礼を言うつもりでここまで足を運んだわけだが、結果的にその話の殆どは、彼女の近況を尋ねる世間話と、自身の漫画家としての食指を動かした彼女について、トレーニングやそのマインド、そしてレースをする際のゲートに収まった時の緊張感。観客からの声援を受けた時にどう思ったのか。そして並み居るライバルに打ち勝って勝利を手にした時、どんな気持ちだったのか。漫画家としてより「リアリティ」を求め、より洗練された作品へと昇華させるために、彼女に対して少々しつこく、そして回りくどく、時には答えにくいような質問をいくつか投げかけてしまったが、その際にも彼女は真剣なまなざしで、露伴の質問に的確に受け答えするのだった。

 

 

 

 

――――やはり彼女をネタにしてよかった。

 

 

 

 

 

露伴にとって新たな扉が開かれるたび。彼女の口から発せられる言葉が、露伴の心を強く打ち付けるたびに。露伴はそれを一語一句取りこぼすことがないように時には文字で、時にはイラストとしてノートに漏れなく記録していく。やがて取材にある程度区切りをつけると、露伴はノートの切れ端を千切り、キタサンに手渡すのだった。

 

 

 

「本当にありがとう。これでますますいい作品を描くことができそうだ。それは僕の電話番号だ。漫画を描くときに聞きたいことがあったら電話をしたいから、よければ交換してくれないかい?」

 

 

 

 

「いいんですか!?」

 

 

 

 

そういえば彼女、僕の漫画の読者だと言っていたな。彼女からしてみれば、憧れの存在と連絡先の交換をすることはいくらか嬉しいものだろうが、彼女のことだ。無闇に僕に電話を掛けてくるような無粋な真似はしないだろう。露伴が切れ端に書いた番号を携帯に入力している彼女を尻目にしていると、キタサンは徐に口を開くのだった。

 

 

 

 

「露伴先生、一つ頼み事をしてもいいですか?」

 

 

 

 

彼女の真剣な面持ちに眉をひそめながら露伴は話を聞いてやるという意を示すために机に前のめりなる…彼の意をくみ取った彼女は携帯を机の上に置くと、言葉を続けるのだった。

 

 

 

 

「露伴先生は、URAファイナルズってご存知ですか?」

 

 

 

 

「あぁ、競技者として3年間の間、優秀な成績を収めることができたウマ娘たちがそのキャリアの集大成として出場するURA主催のオールスターレース、だったかな?」

 

 

 

 

「はい…そのレースに出場する私の先輩がいるんですけど、何だか最近元気がなくて…理由を聞いても誰にも解決できるわけないって言い張るばかりなんです。」

 

 

 

 

「…それを僕に何とかしろと?」

 

 

 

 

同意の意を示すため、キタサンはゆっくりと首を縦に振る。その様子を見つめた露伴は、かぶりを振りながら言葉を口にするのだった。

 

 

 

 

「キタサン君…僕は漫画家だ。僕は別に人助けが仕事ってわけじゃあない。君には光るものがあって、それに僕は漫画家として心動かされたまでだ」

 

 

 

 

そう露伴が告げると、キタサンの耳は折れ、見るからに落ち込んでいるのが分かった。彼女の様子をしばらく見つめていた露伴だったが、やがて短くため息を一つつくと言葉を続けるのだった。

 

 

 

 

「……話くらいは聞こうじゃあないか。もしもそれが僕の漫画家としての琴線に触れるようなら、取材ってことで調べてやってもいい。さぁ、その彼女を連れてきてくれ」

 

 

 

 

 

先ほど彼女には、くたびれるほどの質問を投げかけてしまった。これくらいの要望は聞いてやらなければ、対等ではないだろう。喜びながら渦中の人物を呼びに行った彼女を見据えながら、露伴は机に肘をつき、その手を頬にあてがうのだった。



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岸辺露伴は育てない 後編

 

 

 

「URAファイナルズ1着は○○!」

 

 

 

 

一語一句違わぬ、スピーカーから音割れしながら吐き出される実況のこのセリフをきいたのは、果たして何度目だろうか?場内を埋め尽くす、夥しいほどの観衆が、自身に向かって歓声をなげかけるのは、果たして何度目だろうか?一体いつから、頬を風が撫でつけていくあの瞬間が怖くなったのだろうか?一体何時から、走ることを楽しいと感じることがなくなってしまったのだろうか?一口食べればほっぺが落ちてしまうほど、高級な料理も毎日食べていれば飽きてしまうように、ウマ娘の頂点に君臨したとして認められたこの瞬間も幾度となく迎えれば、そして時が此処から進むことなく引き戻されることが分かっているというならば、その心持も当然の帰結であった。

 

 

 

額から頬を伝うこの汗の感触も、鼓膜を震わせるこの歓声も。ぜんぶぜんぶが質の悪い冗談…神様が仕組んだ、ペテンなのだとしたら。私は一体何に情熱を抱けばいいというのか?…15回目を超えたあたりから、私はこのループの回数を数えることすら諦めていた。この歓声も今の私には、無限という終わりの見えない地獄に閉じ込められた私をあざ笑う嘲笑にしか聞こえない。

 

 

 

本当はそんなはずはないことなど分かってはいるのだが、その理性を繋ぎとめる余裕さえも、彼女は既に持ち合わせていなかった。そのすり減った僅かに残る自身の心を守るために、そしてその歓声から逃れるようにターフの上から立ち去ろうとするが、競技場から一歩外に出た瞬間、彼女の身に再び異変が起こるのだった。

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

異変が訪れても尚、彼女の顔色が変わることはなかった。目の前には、いつも通りの景色。私が入学した時と全く同じ様相のトレセン学園。桜が咲き、セミが鳴き、木枯らしが吹き、雪が降る。そんな季節の移ろいと共に、私は何度目かの3年間をここで過ごしていくことになる。私は与えられた役割を、淡々とこなしていくだけだ。

 

 

彼女は前方を見据えると、粛々と絶望を受け入れ、その目には光りを僅かばかりさえも映しこむことなく、これからまた始まる、そして永遠に終わりのない3年間を過ごすために、重い足取りで歩いていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――トレセン学園の、とある一室。

 

 

 

 

室内で一人待たされた露伴は机に肘をつきながら、時折壁やカレンダー、壁に立てかけられた時計に目を向けたり、机の上に来客用にと置かれているトレセン学園に関するパンフレットを手に取り、パラパラとページを開いたりしながら、キタサンブラックが連れてくるであろう「彼女」のことを待っているのだった。

 

 

 

――――コンコン。

 

 

 

 

慣れない様子で、少々不規則なテンポで刻まれるノック音。露伴は視線を扉に移し、入室の許可を促すと、扉を開いたのは紛れもなくキタサンブラックその人であった。彼女は快活な笑顔をむけながら室内へと一歩踏み出すと、開いた扉を片手で押さえながら、おそらく扉の側に控えているであろう彼女が連れてきた人物に、早くこちらに来るように手招きすることで入室を促すのだった。

 

 

 

「露伴先生!連れてきました!」

 

 

 

 

キタサンによって入室を促され、一人のウマ娘がおずおずと入ってくる。初めて彼女を見た時に抱いた印象は、「とてもじゃあないが、年相応の少女には見えない」というものであった。その目には、今まで出会ってきたどの人物よりも深い絶望が刻み付けられており、その瞳がこちらに向けられた時、露伴は思わず身ぶるいしてしまうのだった。

 

 

 

 

「…えーと、君の名前は?」

 

 

 

何とか平静を装いながら、露伴はキタサンの隣にいるそのウマ娘…白の、冗談かと思えるほどのボリュームを有した葦毛のロングヘアーに、赤い縁の眼鏡をかけたそのウマ娘は、こちらをじっと見つめたまま徐に口を開くのだった。

 

 

 

「…ビワハヤヒデだ」

 

 

ビワハヤヒデと名乗ったそのウマ娘はつかつかとこちらへと歩み寄ってくると、先ほどキタサンが座っていた席の隣に腰かけるのだった。キタサンはこれから相談を聞いてくれると言っている露伴に対するあまりに不躾なハヤヒデの態度に驚き、あわあわと露伴に謝罪の意を込めて頭を下げると先ほど座っていた席へと腰かけるのであった。

 

 

 

「……それで君は、何を困っているんだ?」

 

 

面倒な手順を踏むことが嫌いな露伴は早速本題をきりだしたが、ハヤヒデはピクリとも表情を変化させることもなく、淡々とこちらが投げかけた問いに対して答えるのだった。

 

 

 

「困っていることなど何もない…岸辺露伴先生。私が困っているといったのは、彼女が…キタサン君が私をそう勝手に言ったにすぎず、無理に此処に連れてきたからだ」

 

 

 

「ハヤヒデさん…」

 

 

 

そう毅然と言い放ったハヤヒデであったが、その瞳が僅かに揺れ動いたのを露伴は見逃さなかった。まるで心の中の不安を押し殺し、それを悟られることがないように毅然と振舞うようなその態度に、露伴は彼女の中には何か深い闇が巣食っており、その闇によってもたらされる絶望は、最早彼女が人にその苦しみを打ち明けることさえも困難にさせている、そんなところだろうかと勘繰るのだった。それならば、彼女の口からその話題を聞き出すよりも、直接覗いてしまえば手っ取り早いだろう。露伴は立ち上がると、机を回り込みながら言葉を口にするのだった。

 

 

 

「…そうかい。じゃあ、君の口からきくことは諦めよう。見てしまった方が手っ取り早い。」

 

 

 

 

「…見る?」

 

 

 

 

 

 

その言葉の真意を尋ねる前に、ハヤヒデは突然眠ってしまったかのように机に突っ伏してしまう。露伴はその様子を確認すると、机にうつぶせになったハヤヒデの身体を肩を掴んで起こすと、背もたれに身体を預けさせるのだった。ハヤヒデの顔は、まるでノートを取り付けたかのようにページが出現し、その一枚一枚に、彼女が今まで生きてきた記録がこと細かに記載されているのだった。

 

 

 

 

 

 

「露伴先生…!」

 

 

 

 

 

 

 

心配そうに口を開くキタサンを、片手を彼女の顔の前にかざすことで制すると露伴は再び彼女に据え付けられたページに視線を戻すのだった。

 

 

 

 

 

 

人間の今まで生きてきた人生そのものが「本」となり、「資料」となり、それを読むことができる。果たしてそれが、漫画家としてどれほど興味が掻き立てられるか、果たして他の人物に伝わるだろうか。まぁ、その感動は私が資料として漫画に落とし込むことによって間接的に伝わっているわけだが。

 

 

 

 

彼女が…ビワハヤヒデがキタサンの言う通り、何か悩みを抱えていることは明白であろう。ひょっとして恋バナなんてつまらないものだっていう落ちもありえなくはないが、彼女のあの様子からしてその線は薄いだろう。とりあえず彼女がどんな悩みを抱いているのか分からない間は、解決しようにもどうにもできないため、露伴は慣れた手つきで彼女の顔に書き込まれた情報をめくり始めた。

 

 

 

「えーと、ビワハヤヒデ。誕生日は3月10日、身長は171㎝で、バナナが大好物…ほう、頭が大きいことを気にしているようだな。こいつ、自分の担当トレーナーに気があるらしいぞ。スリーサイズは上から…」

 

 

 

「ちょ、ちょっと露伴先生!それ以上乙女の秘密に踏み込まないでください!」

 

 

 

露伴が淡々とハヤヒデの情報を読み上げていたのを、キタサンは顔を真っ赤に染め上げながら止めにはいる。そういえば、過去に康一君にも似たようなことで止められたことがあったか。彼女の制止に応じ渋々該当ページを飛ばすと、露伴は本命の彼女の悩みについての記載箇所を探し始めるのだった。

 

 

 

「ヘブンズ・ドアー」の能力は、僕の漫画家としての知的好奇心を具現化した能力だ。その人物がどんな人生を送り、どんな出来事に直面し、どんな罪を犯し、そんな時にどんな気持ちになったのか。ヘブンズドアーはそれら全てを等しく暴き出し、僕はその情報を漏れなくのぞき見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

――――あった。

 

 

 

 

 

 

 

その文字は…探し求めていたハヤヒデの悩みは、ページの中央に書き殴るように記されていた…まるで彼女の荒んだ心の中で、彼女自身を縛り付けるかのように。露伴は信じられないといった表情でその文章を口にするのだった。

 

 

 

 

 

「私は、時を繰り返している…?」

 

 

 

 

 

 

およそ、稚拙なフィクションで盛り込まれそうなその珍妙な現象。しかし、ヘブンズドアーによってあぶりだされた事実は噓偽りなく、全てが真実であることは、能力者である露伴が誰よりも知っていた。露伴がその記載を目にしたその瞬間、ハヤヒデの胸元に亀裂が入り、そこから高等部の少女にしてはあまりにも膨大過ぎるほどの情報量があふれ出していくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「こ、これは…!!」

 

 

 

 

 

 

そのあふれ出すほどの情報が記載されたページは、瞬く間に室内に津波のように露伴やキタサンの身体を押し出していく。露伴はページの波にのまれながら、その内の1枚を掴みとり、目を通す。そこには彼女の深い絶望がありありと記載されていた。繰り返される、全く同じ日常。どんな風に過ごしたとしても、必ず3年間を過ごせば元の日常に引き戻されるということ、そしてそれを誰一人理解されず、打ち明けることができないという事実は、何の罪のない彼女が受けるいわれはないはずだ。およそ正義感というものを持ち合わせているわけではない露伴ではあったが、彼女の胸の内に占めている悩みを及び知った以上、何もしないで手放しで彼女のことを見捨てることは、露伴にはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここは…」

 

 

一体どうして自分は意識を失ってしまったのか。ハヤヒデは重い頭を押さえながら机から顔を上げると、そこにはキタサンと露伴がこちらをじっと見つめているのだった。露伴はハヤヒデが意識を取り戻したことを確認すると、徐に口を開くのだった。

 

 

「君の悩み…「時を繰り返している」というその悩み。この岸辺露伴が請け負った。解決のために何とかやってみようじゃあないか」

 

 

 

 

 

 

 

彼女は、何故目の前の男…岸辺露伴が自身の悩みを知っているのか、全く理解できなかった。ハヤヒデは動揺で眼鏡の縁を押さえながら、震えながら言葉を口にするのだった。

 

 

 

 

「き、君は私のその悩みを、信じるのか…?」

 

 

 

 

どうやってそのことを知ったのか。それよりもまず、この悩みを果たして信じてくれるのかを尋ねずにはいられなかった。露伴はじっとこちらを見据えていたが、さも当然かのようにこう言い放ったのだった。

 

 

 

 

「当たり前だ」

 

 

 

 

その瞬間、ハヤヒデの瞳から大粒の涙が…感情の発露があふれ出していく。もうとっくに涙など枯れてしまったと思っていた。とっくに、希望などないものだと思っていた。この悩みを荒唐無稽な与太話だと切り捨てず、信じてくれる者がいるとは…実際のところ、露伴からしてみれば能力で覗き見た記載である以上、疑いようがないためそう答えたに過ぎなかったわけだが、ハヤヒデにとってその言葉はなによりも代えがたい支えになるのだった。ハヤヒデはそのあふれ出る涙をぬぐうことすら忘れ、しばらく室内で赤子のように泣きじゃくるのだった。

 

 

 

 

 

 

「す、すまない…少々取り乱してしまった……」

 

 

 

 

しばらくして感情の波が落ち着き、冷静さをいくらか取り戻したハヤヒデと、露伴とキタサンは彼女の陥っている現状について話し合いを始めるのだった。

 

 

 

 

「君がその状態…つまり、時を繰り返すようになったのはいつからだ?」

 

 

 

その問いにハヤヒデは力なく首を横に振り、答えるのだった。

 

 

 

「もう15回目を過ぎた時点で数えるのは止めてしまった…」

 

 

 

15回、その数にキタサンの目は大きく見開かれた。3年間というスパンを繰り返し生きているというのならば、彼女は既に半世紀以上もの間を、代り映えすることのない、そして終わらないことが分かり切った世界にとらわれ続けている、ということになる。そして15回を超えた時点でその回数を数えることを諦めたということは、実際の数はそれよりも遥かに多く、長い期間を彼女はループしているということになるだろう。

 

 

 

「……それを誰かに相談したりしたことは?」

 

 

 

その言葉に、ハヤヒデは再び目に涙を溜め、耳を前に倒しながら言葉を返した。

 

 

 

「2回目のループの時点で、トレーナー君や理事長…友人たちに相談したこともあったが、私の気が触れたんじゃあないかってまるで取り合ってもらえなかったよ…理事長に相談した時は、危うく私は精神科に連れて行かれそうになった。」

 

 

 

 

相談しても取り合ってすらもらえない。この事実は、彼女がこの状況に絶望しか見出すほかなくなるには十分すぎる出来事だっただろう。露伴はつぶさにハヤヒデの証言をメモしながら、質問を投げかけるのだった。

 

 

 

 

「今まで…ループの間に何か普段と違う行動を取ったことはあるか?」

 

 

 

 

「あぁ…何度か走る自体を辞めて引退しようとしたり、レースで手を抜いて入着にも届かないほどの成績を取ったりしたこともあるが、その時は瞬時に入学時の時間に引き戻されてしまった」

 

 

 

 

その言葉にフムと顎を指で撫でながらメモを取っていたペンを机の上に置くと、露伴は徐に口を開くのだった。

 

 

 

 

「それは重要な手がかりかもしれないぞ。」

 

 

 

「……重要な手がかり?」

 

 

 

 

キタサンが訝し気に露伴の言葉を反芻すると、露伴はその言葉に頷きながら言葉を続けるのだった。

 

 

 

 

 

「つまりこのループには目的と法則性があるってことさ。恐らく目的は、ハヤヒデ君をトゥインクルシリーズで3年間走らせ続けること…君がトレセン学園で走りつづけることそのものに意味があるってことさ。そしてその目的にそぐわない行為…つまりレースで大ヘマしたり、そもそも走ることを諦めるなんてことをしたりすれば、その法則に従って強制的に時間を巻き戻すってわけだ」

 

 

 

 

「……それってつまり」

 

 

 

 

「あぁ」

 

 

 

 

ハヤヒデの震える声で放たれた問いに、露伴はその表情を崩すことなく、淡々と答えるのだった。

 

 

 

 

「つまりこの現象には、何かしら人為的なものが関わっている、と考えるのが妥当だろうな。」

 

 

 

 

 

 

バキッ!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

その瞬間、露伴の目の前に置かれていた机は瞬時に真っ二つになり、ただの木片と化してしまうのだった。露伴は自身の振り下ろした拳で机を真っ二つにへし折った目の前の少女…ビワハヤヒデに視線をむけながら、言葉を投げかけた。

 

 

 

 

 

 

 

「興奮したって何も始まらない…座り給え」

 

 

 

 

 

 

このへし折れた机、一体どうしたものか。ここにあのくそったれの仗助がいたならば、直すこともできただろうが、あいつに頼み事をするのは癪なので、ここはハヤヒデ君に自分で責任を取ってもらうとするか。

 

 

 

 

 

 

とどのつまり自身の不条理なこの状況に、それを仕組んだ何かが存在する。そしてそれが判明した以上、自身がこのループから抜け出ることができる可能性があるということだろう。憤怒、希望に焦燥…様々な感情が津波のように押し寄せてきている今、彼女は冷静でいることなど、土台無理な話であろう。

 

 

 

 

 

 

「まぁとにかく落ち着けよ…僕に考えがある。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日は既に日が傾いていたため、露伴を送るためにハヤヒデとキタサン、露伴は校門に向かって歩みを進めていた。永遠とも思えるほど長い廊下を3人で歩んでいると、反対側から一人のウマ娘…およそ他のウマ娘と比較するとその体躯は随分と小柄であり、そのウマ娘は校内にいる見覚えのない男性がいることを不審に思ったのか、一瞬視線をこちらにむけてきたが、それ以上特に追求をすることなくそのまま通りすぎていくのだった。

 

 

 

 

 

「タイシン…」

 

 

 

 

 

ハヤヒデはその瞳に幾分か無念さを宿しながら、今しがた通り過ぎたウマ娘の名前を小さく口にするのだった。

 

 

 

 

「あれ、ハヤヒデ先輩って、タイシン先輩と仲が良かったんですか?」

 

 

 

 

 

キタサンがそう尋ねると、ハヤヒデはその念を瞳に宿し続けたまま視線を僅かに下に落とすのだった。

 

 

 

 

 

「本来であれば、私は彼女とは親友になるはずだった。だが、それもこのループでいずれ元に戻ってしまうとかんがえたら、何だか空しくなってしまってね。今じゃあ、誰かと親しく過ごしたり、友人となることも怖くてね…」

 

 

 

 

 

どんなに深く友好関係を築けたとしても、それら全ては等しく引き戻され、塵と化してしまう。それならばいっそ、初めから何も起こらないように振舞っていた方が遥かに楽であろう。これはループされる時の中で生きる他ないハヤヒデが編み出した、彼女なりの精一杯の処世術であると言えるだろう。ハヤヒデがそう呟いているのを尻目に、露伴はその表情を崩すことなく歩いていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さぁ、やってまいりました!URAファイナルズ決勝戦、1番人気はビワハヤヒデです!」

 

 

 

 

場内のボルテージはすでに最高潮に達しており、ターフの上に姿を現したウマ娘たちもその興奮に後押しされ、そして自身の目標を叶えるために入念にストレッチに講じているのだった。その中でハヤヒデは無表情で足首の筋肉をほぐしながら、露伴に言われた作戦なるものを思い返すのだった。

 

 

 

 

 

…バカバカしい。

 

 

 

結局彼から進言された策というのは、「いつも通りURAファイナルズで勝利する」というものであった。

 

 

 

 

 

初めて彼から其の策をもたらされた時は怒りを抱かずにはいられなかったが、既に本番まで残り数日である以上、何か手の込んだ策を弄することも、それに向かって準備することは現実的に難しいことは明らかであり、結局は彼の策に乗る他なかった。

 

 

 

 

 

 

結局彼を信じた私が愚かだった、ということか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも、彼が言った作戦という、頼りないその蜘蛛の糸という、わずかな希望に縋るしか方法が残されてはいなかった。ゲートに其の身体を入れながら、ハヤヒデはモノクロと化した周囲の光景を無表情で見つめていく。やがてゲートが開いた瞬間にウマ娘たちは1コンマのずれもなく飛び出していき、ハヤヒデもそれに倣って前方へと飛び出していくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

何十回、何百回と体験してきたレース展開、競争相手、馬場。最早目をつぶっていたとしても走り切る自信があったが、露伴から伝えられた作戦がある手前、手を抜くことはできない。自身が得意とする脚質である先行策で前方集団に位置づけると、最終カーブで一気に先頭へと躍り出るのだった。

 

 

 

 

―――そのまま先頭でゴールへと向かっていくハヤヒデ。実況も既に位置取りが安定した最終直線残り200メートルにて、その先頭を走り抜ける彼女を称える祝福のアナウンスを彼女にとっては一語一句記憶しているその口上を述べようと口を開くのだった。

 

 

 

 

その時、ハヤヒデの視界の左端から何かが飛び出していく。ぶつかるといけないと急速に減速を図ったハヤヒデだったが、先頭でゴールに達したその瞬間、いくらか減速はしたものの激突してしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

ハヤヒデは自身にぶつかったものに視線をむけ、それを目にとめると驚愕のあまり声を張り上げるのだった。

 

 

 

 

 

「ろ、露伴先生!!」

 

 

 

 

二人はもつれあうようにターフの上を転がっていくが、露伴は極力ハヤヒデにケガが及ばぬように彼女の身体を抱きかかえ、追突の衝撃からかその顔には苦悶の表情が浮かび、口元から鮮血があふれ出している。場内は突然起こった出来事を理解することができず、ざわざわと動揺が波及的に広がっていくのだった。

 

 

 

 

「露伴先生!」

 

 

 

 

自身の目の前でぐったりとしている露伴に再び声を投げかけると、露伴は心配はいらないと片手を震えながら彼女の顔の前で制しながら言葉を口にするのだった。

 

 

 

 

「これで……これで作戦は成功だ…」

 

 

 

 

「……さ、作戦……?」

 

 

 

 

ハヤヒデの問いに、露伴は震えながら首を縦にふる。彼女はレースで1着を取る必要がある。そしてそぐわない事象が起こればそれは取り除かれる。そしてもしもその現象が同時に、二つ起きたら一体どうなるのか?これが露伴が導き出した彼女をこの永久という牢獄から助け出すための作戦だった。

 

 

 

レースを1着で収めた彼女はある意味そのループの意味を果たした。…しかし同時に岸辺露伴の乱入という、非常に望ましくない要素が注入された。

 

 

 

 

 

 

目的の達成はしているが、同時に排除せねばならない、好ましくない要素が引き起こされてしまったこの状況…つまりそれを仕組んだ者にとっては、岸辺露伴によって非常に都合の悪い「バグ」を引き起こされたことに他ならない。

 

 

 

 

 

 

「さぁ、そろそろそれが来るだろう」

 

 

 

 

 

 

露伴がハヤヒデの身体を掴んでいると、瞬く間に競技場の風景にノイズが走り始め、その風景がまるでパブロ・ピカソが描いた「ゲルニカ」にみられる「キュビズム」の特徴のように、視覚的に珍妙なものへと様変わりしていく。

 

 

 

 

 

 

…バグが起きたのであれば、それを直しにくるものもいるはずだ。

 

 

 

 

 

 

辺りはまるで明かり一つない暗闇に放り込まれたように黒で塗りつぶされ、やがて「それ」は彼女らの前に唐突に現れるのだった。

 

 

 

 

 

 

ギャー――ス!!!!

 

 

 

 

 

 

「それ」の容姿を言語化するとしたら、それはちょうど我々が連絡の際に用いるツール…スマートフォンから禍々しい腕が生えている、といった容姿をしていた。「それ」はハヤヒデの方へと一直線に向かっていくと、彼女に生じてしまった「バグ」を修正するために彼女に襲い掛かっていくのだった。

 

 

 

 

「ヘブンズ・ドアー!」

 

 

 

 

露伴は真っすぐと向かってきた「それ」にスタンド攻撃を行うと、「それ」は身体に亀裂を生じさせながらページを出現させるのだった。

 

 

 

 

「こうなった以上、お前にこれ以上彼女を好き勝手させるいわれはないな」

 

 

 

 

 

露伴は「ビワハヤヒデを認識することは、二度とできない」とそれに書き込むと、辺りは急激に光に包まれ始めた。その光は辺りを全て包み込み、やがてその場に居た二人も飲み込んでしまうのだった。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ここは」

 

 

 

 

 

 

まるで長い悪夢を見ていたかのように錯覚するほど、長いときを過ごした。ハヤヒデが目を覚ますと、そこはまたいつものループのように、桜が咲き誇るトレセン学園だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

…もしかして、また私は…

 

 

最悪の可能性が頭をよぎり顔が青ざめた彼女であったが、その直後に隣にいた人物が声をかけるのだった。

 

 

「その心配はない」

 

 

ハヤヒデが声のした方へと振り向くと、そこには一人の人物…植樹された桜の下に据え付けられたベンチに腰掛けたその人物は、顔が青ざめていたハヤヒデのことを興味深そうに見つめながら言葉を続けるのだった。

 

 

 

 

 

「既に君をループさせた要因は、僕が取り除いた。このループは「それ」が消滅する際に放った最後っ屁みたいなものだろう…もう心配いらない。君はこの3年間を過ごしたら、日常をそのまま過ごすことができるはずだ。現に「バグ」であるはずの僕もその巻き添えを食らっていること自体が、ループの影響から脱した証左に他ならない」

 

 

 

 

ハヤヒデはその言葉に、ぽろぽろと涙を流しながらお礼の意を込めてその人物…岸辺露伴へと頭を下げる。そしてしばらくたって頭を上げると、徐に口を開くのだった。

 

 

 

 

 

「……本当にありがとう。露伴先生。貴方は私の恩人だ…そしてすまない。貴方をこのループに巻き込んでしまった」

 

 

 

 

 

 

露伴はその言葉にひらひらと手を振りながら、全く気にしていないと言った様子で言葉を返すのだった。

 

 

 

 

 

 

「気にするな。この3年間で、前回よりももっと面白い漫画のネタを仕上げてやるよ。やり直しがきくっていうのも、1回なら案外悪くないものさ」

 

 

 

 

 

 

露伴はそう返すと、ベンチからスクッと立ち上がり、校門に向かって歩みを進めていくのだった。そして校門から外へ出る直前に立ち止まると、ハヤヒデの方を振り向きながら別れの言葉を手向けるのだった。

 

 

 

 

 

.

「…だから君も、友達付き合いとかそういう面倒なものも、ちゃんとやっておくことを勧めるよ。普通だったら、青春は1度しかないし、もうやり直しは利かないんだからな。」

 

 

 

 

 

 

 

露伴はそう告げると、通りがかったタクシーを止めて、あっという間にその場から立ち去っていくのだった。ハヤヒデは小さくなっていくタクシーをその姿が見えなくなるまで見送ると、反対方向…トレセン学園の方へと歩みを進めていくのだった。

 

 

 

 

 

桜の花びらが風と共に頬をすり抜けていく。ハヤヒデはその風に心地よさを感じながら、アスファルトを踏みしめる一歩に対してさえも、感謝と希望を抱かずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

一歩一歩、これからのたった一度きりの日々を噛みしめるように。

 

 



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岸辺露伴は調べない1

 

 

 

ただいま。

 

 

 

返事が返ってくるはずもないことはわかりきっていたのだが、それでもこの気怠さと疲労を何とか紛らわすには、扉を開いてそうつぶやかずにはいられなかった。革靴を無造作に脱ぎ捨て、先程コンビニエンスストアで買いあさった商品が詰め込まれたビニール袋を机の上に置くと、ジャケットをリビングの壁にかけてあったハンガーにかけると、外界に自身を縛り付けていた首元のネクタイを緩めてイスに座って袋の中の食べ物の梱包を開け、それに貪りつくのだった。

 

 

 

 

 

キッチンのシンクには、自身の怠惰の証左として、数日分の食器が水に浸けられた状態で放置されており、それが視界に映れば、彼から気力をたちどころに奪い取り、彼はビニール袋の中に入っていたビール缶のプルタブを立てて開けると、口を付けて中の液体を啜るのだった。

 

 

 

 

思い描いていた何もかもが違う

 

 

 

 

就職のために一人暮らしを始めて、はや数か月。6畳の部屋での新生活は、思い描いていたものと比べて遥かに窮屈で、冷たく息苦しいものだった。今日も定時の直前に突然仕事を振られてしまい、結局家に帰ることができたのは10時半ごろだった。

 

 

 

誰か、ここから僕の事を連れ出してくれないだろうか?

 

 

 

 

 

ビールを呷って浮かんだ僅かな願望は、缶の中の泡とともに、泡沫となって霧散していくのだった。やりたくもない仕事に、理不尽なことで頭ごなしに怒鳴りつけてくる上司。給料も満足に支払われず、大学に進学するさいに借りた奨学金をはじめとした、只々自身のもとから溢れ流れていくばかりのお金。そういった自身の心身共に縛り付ける事柄を思い起こすだけで、彼は現実という途方もない牢獄に囚われていることを否応なしに実感するのだった。

 

 

 

 

「寝る前に一回だけ育成するか」

 

 

 

 

誰に言うわけでもない、室内でそうつぶやくと、彼はポケットからスマートフォンを取り出して、アプリを起動させる。

 

 

 

 

 

「ウマ娘プリティーダービー!」

 

 

 

 

 

 

可愛らしい女の子の声でそうアプリのタイトルが呼ばれ、画面がとある学園のような背景に、一人の女の子が自身の正面に向き合うように立っているのだった。画面の向こうの少女…人間とうり二つの容姿をしたその姿であるが、人間との相違点として、少女の頭には特徴的な耳がついていて、背面には人間には生えるはずのない尻尾が生えていた。画面の向こうにいる少女は男を見据えると、彼の敬称を親しげに呼びかけるのだった。

 

 

 

 

「トレーナー!」

 

 

 

 

彼女の呼びかけに思わず顔をほころばせると、彼は疲れ切った身体をソファーに預けるのだった。友人に勧められて何気なく始めたこのアプリだったが、まさかここまでのめりこむことになるとは。最もブラック企業に勤めている以上、趣味と呼べるようなものも楽しむ余裕すらないため、これぐらいしか楽しむことしかできないわけだが。

 

 

 

 

「本当に君のトレーナーになれたらな」

 

 

 

「だったら、こっちにおいでよトレーナー!」

 

 

 

 

…は?

 

 

 

 

今この子、なんていったんだ?誰にも届くわけがない願望に対して、ありえないはずの返事が画面の内から聞こえたことにぎょっとしながら男がスマートフォンに視線を向けると、そこにはいつも通りの表情とポージングで、少女が立っているだけだった。

 

 

 

「…君が言ったのかい?」

 

 

 

そんなわけない、ただの疲労だと心の中で自分に言い聞かせながら恐る恐るそうつぶやいた。きっと会社で働き詰めの結果、そう幻聴が聞こえてしまったのだろう。明日はどやされるだろうが、午前中は体調が悪いといって午後からの出社にしようか。もっとも、そんなことを許してもらえるはずはないだろうが。そう心の中で結論付けた矢先、再び画面の中から声が飛び込んでくるのだった。

 

 

 

「当たり前じゃん!私以外に誰がいるっていうの!」

 

 

 

その言葉に再び緊張と動揺で胸を打ち付けながら、声にならない悲鳴を上げながらスマートフォンに目を向ける。なんの変化のない画面かと思われたが、やがてその中の少女は突然視線をこちらに向けて、言葉をつづけるのだった。

 

 

 

「びっくりしちゃった?ごめんごめん!」

 

 

 

画面の中の少女は、とても自然でなめらかな、そして不規則な動きや息遣いをしており、明らかにプログラミングされた動きとは思えなかった。まさか、こんなことが…目の前の出来事を信じることができず、口をパクパクさせている男を見て、画面の中の少女はますます笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

「そんなに驚くことないじゃん!…よし、じゃあ行こっか?」

 

 

 

「行く?」

 

 

 

 

彼女の口から発せられた不可思議な発言に首をかしげると、両者の間には不自然な間と緊張が流れる。目の前の状況そのものがおかしいことに間違いはないのだが、それとは別に彼女の態度が何かおかしいと男が思ったその瞬間、彼女が言葉を口にするのだった。

 

 

 

 

「……こっちに!」

 

 

 

 

……え?

 

 

 

 

その瞬間、彼女の腕がスマートフォンから飛び出し、自身の腕が悲鳴を上げるほどの力で抑え込まれる。そして人間を遥かに超える力で彼女がいる方角へと引っ張り込まれていくのだった。

 

 

 

 

……まずい!

 

 

 

 

男は自身のおかれた状況が窮状と化したことを悟ると、スマートフォンを持っている手で電源を消そうとしたが、ボタンを何度押してもその電源が落ちることはなかった。

 

 

 

男がなすすべもなく、あっという間にスマートフォンに引っ張りこまれると、その身体は吸い込まれてしまうのだった。そこにいたはずの男は瞬時に消え、ぽとりとスマートフォンが落ちると、室内を再び静寂が支配するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さぁ始まりました!本日の杜王町レディオ!本日お送りする曲はこちら…」

 

 

 

 

小鳥たちのさえずりとともに、室内に設置されたラジオから聞こえるDJの声が、杜王町の朝の到来を告げる。男はベッドから身体を起こすと、テキパキと身支度を整えて階段を降り立ち、自身の書斎へと降り立っていく。そして特徴的な指の運動を済ませると、男は書斎の机に向かって作業を開始するのだった。

 

 

 

 

机の上には真っ白なケント紙がおかれており、男はペン立てに差してあるペンを手に取ると、一心不乱にそこに絵を書き込み始めた。まるで時と止めているかのように錯覚してしまうほどの超スピードで、白紙のはずだった紙は瞬時に世界が彩られ、彼の指揮によって物語が織りなされていく。そして最後に男がペンを一振りすると、絵にあっという間にべた塗が行われ、1枚の原稿が完成してしまうのだった。

 

 

 

 

男の名前は岸辺露伴。「ピンクダークの少年」を連載する売れっ子漫画家であり、現在は自身が生まれた土地である杜王町に根をはり、執筆活動にいそしんでいた。

 

 

 

 

午前が終わるころには、露伴は既に1週分の連載を書き終えていた。今日はなんだかペンのノリが良い。このまま夕方までに次の週を書き上げて、週末は取材旅行にでもいこうか。そう思いながら最後のページにペンで書き入れた直後、心の中で密かに積み上げたその予定はドアに設置されたチャイムを鳴らした来訪者によって瓦解することになった

 

 

 

 

…一体全体、誰がこんな真似を

 

 

 

 

この岸辺露伴という男、世間一般的な芸術家に対するイメージに漏れず非常に偏屈な性格の男であり、寧ろその度合いを見れば、常人から見れば常軌を逸しているとも受け取れるほどの度合いを有していた。基本的に他人に心を許さず、自分と漫画、読者のことしか考えていないその男は、どうやって来訪者を追っ払うべきか考えながらドアを開けると、その思考は瞬時に吹っ飛ぶことになった。

 

 

 

 

目の前には二人の少年がたっていて、その内の小柄な少年とは知り合い…いや、親友だった。基本的に人付き合いというものを好まない露伴であったが、当然例外というものも存在しており、目の前にいる少年、広瀬康一に対しては並々ならぬ友愛の念を抱いており、彼も当然自身に対してその感情を抱いているものだと思っていた。

 

 

 

 

「やぁ康一君!どうしたんだい?」

 

 

 

 

来訪者が康一であると判明した以上、追い払う必要はどこにもない。茶の一つでも入れてもてなそうかと家に招き入れようとした露伴だったが、康一が発した発言によってそれは中断されることになった。

 

 

 

 

「実は露伴先生…相談というか、手を貸して欲しいんです」

 

 

 

そう彼が告げると、彼の横から先程から控えていた少年…康一君と同じ制服を着ているということは、彼と同じ高校に通う同級生といったところだろうか、彼はおずおずと露伴の前へと歩み寄ると、頭をぺこりと下げるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…兄の行方を捜してほしい?」

 

 

 

 

 

康一が連れてきた少年…安藤誠の口から語られた相談内容を反芻しながら、露伴は思わず眉をひそめた。

 

 

 

 

 

「それは僕の仕事じゃあない。人探しっていうのなら警察の仕事だろう?」

 

 

 

 

正直言って、がっかりもいいところだった。康一君を介しての相談という手前、一体どんな内容が語られるのかと漫画家としての好奇心がそそられていたというのに、すでにその膨らんだ好奇心は穴の開いた風船のようにみるみるうちに萎んでいっていた。

 

 

 

 

「そうなんですが、警察は成人男性の失踪はただの家出の可能性が高いって言って取り合ってくれなくて…」

 

 

 

 

今にも泣きだしそうな安藤に代わって康一が言葉を引き継ぐと、彼はその瞳をまっすぐ露伴へと向けて、言葉をつづけるのだった。

 

 

 

 

 

「お願いです、露伴先生!僕の知っている中で最も頭が良くて、頼りになるのが貴方なんです!」

 

 

 

 

 

 

 

正直親友である康一にここまで言われて、嫌な気分はしなかった。それにあのくそったれ仗助や阿保の億康、彼女のプッツン由花子ではなく、自身をまず最初に頼ってくれたことも彼の優越感を大いに刺激することになった。

 

 

 

 

それに彼には、取材のために山の別荘地帯を買い取って破産した際に、家に居候させてもらった恩もある。親友が助けを欲しいと、困っているというのならば手を差しのべてやるのが筋というものだろう。

 

 

 

「…わかった。それじゃあその兄貴の家に行ってみよう。何かわかることがあるかもしれない。それとある男の協力が必要だ。康一君にはそいつに連絡を取ってほしい。僕が頼むのは聊かむかっ腹が立つからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

都会と違って閑散とした杜王町だが、一般的な感覚を有するものにとって苦痛だと感じるのは、恐らくこの蝉の大合唱であろう。鼓膜を盛大に打ち震わす蝉たちの鳴き声は、30度を超える猛暑を聴覚の面から頻りに訴えかけてくる。杜王町の郊外の一角にあるアパート。そこに依頼者である安藤誠の兄、安藤基樹は住んでいた。露伴は康一に連絡を取ってもらった人物を待ちながら、誠に今しがた教えてもらった情報を今一度整理するために反芻するのだった。

 

 

 

 

 

「安藤基樹、22歳。杜王町で生まれ、M大学法学部を卒業後、M県S市内にある商社に勤務…ここの商社、ブラックな職場で有名なところらしいぞ。SNSで調べたら非難の嵐だ」

 

 

 

「兄はあまりインターネットをやる人ではなかったので…多分入ったあとに会社のことは知ったんだと思います。電話で話しても、僕たち家族のことを気遣って普段通りにふるまっていました…」

 

 

 

もしかすると、いや大方ブラックな職場に嫌気が差してとんずらしたってところだろうか。警察も失踪者である彼の身辺をざっと調べて早々に判断を下したのだろう。ともすれば、これからの作業はいかにこの泣きべそをかいているこの弟に、オブラートに真実を伝えるべきか、に尽きるであろう。露伴がそう思いなおし顔を上げると、突然背後から声を投げかけられるのだった。

 

 

 

「よぉー、露伴先生。久しぶりじゃあねぇーか」

 

 

 

どうやら呼んでいた人物がやってきたようだ。露伴が声のする方へと顔を向けると、そこには改造した学生服を身に着け、ツーブロックの髪型をした男が立っていた。男はつかつかとこちらに歩み寄ってくると、こちらに言葉を続けて投げかけるのだった。

 

 

 

 

 

「それで、露伴先生…俺に誰をかぎ分けてほしいんだ?」

 

 

 

 

 

 

その男の名前は噴上裕也。杜王町を根城にする暴走族のリーダーで、地元の不良の間では仗助や億康と並んで名の知れた人物らしいが、そんなことは露伴にとっては些末な、どうでもいいことであった。肝心なのは、こいつが持っている能力であり、そうでなければ過去に因縁があるこいつの顔なんて拝みたくない、というのが正直なところであった。

 

 

 

 

 

「全く夏っていうのはよ~、暑くて参るよな~。ま、汗が滴っても俺は美しいけどよ~~」

 

 

 

 

こいつが鼻につく理由の一つは、こいつの度を越した自己愛にある。何があっても自身の美貌について長々と言葉にし、周囲を呆れさせるのは日常茶飯事のことであるが、物好きもいるのかこいつの周りにはいつも取り巻きのレディースがいる。つまりこんなやつにも女をたらしこむ何か魅力っていうやつがあるということなのだろうか。

 

 

 

「お前のことはどうでもいい。痕跡を探してほしいやつがいるんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アパートの階段を上がり彼が住んでいた部屋の前につくと、誠が持っていた部屋の合いかぎを使って扉を開けると、そこには彼が生活していた痕跡がそのままの部屋の景色が広がっていた。キッチンのシンクに浸けられたままの皿やコップに、無造作に机に置かれたコンビニの袋や、おにぎりやパンの梱包。彼がどんな心境で会社に向かい、この部屋でぼんやりとした、将来の見えない絶望に苛まれていたのがよくわかる。本来ならば何かネタに使えるかもしれないとスケッチしておきたいところであったが、今それを行うことは、聊かデリカシーがない行為であると評せざるを得ないだろう。露伴は部屋の中を見渡すと、後ろに控えていた噴上に声をかけるのだった。

 

 

 

 

 

「おい、早いとここの部屋の家主の痕跡を探してくれ。」

 

 

 

露伴の指示を受けた噴上は部屋の中で鼻を2度スンスンと鳴らすと、部屋のあたりをぐるぐると回り始める。そして窓を開けてベランダに出たり、扉を開けたり不審な動作を繰り返していた。

 

 

 

 

「こ、この人は何をやっているの?」

 

 

 

 

噴上の様子に顔をしかめた誠に、心配しなくていいと康一は頭を振った。まるで犬のように部屋を歩き回る噴上の珍妙な姿に顔をしかめた露伴だったが、やがて噴上はその動きを止めると、顔を横に振るのだった。

 

 

 

 

「なにもない」

 

 

 

 

「…え?なにもない?」

 

 

 

その言葉に、康一は疑念の言葉を上げる。失踪なり事件に巻き込まれたというのなら、この部屋から外に出ていなければ説明がつかないはずだ。それなのに外にその残り香が一切ないということは一体どういう了見なのだろうか?

 

 

 

「そ、そんなわけがないよ!もう一度探してみて!」

 

 

 

「だから、この部屋で痕跡はここで終わってる!やつはこの部屋から動いていないと説明がつかねぇんだよ!俺の鼻には間違いない!」

 

 

 

噴上の剣幕に一歩引き下がった康一だったが、そのあてどころのない不安の出口を求めて露伴の方を見つめる。露伴はリビングの方で蹲りながら、ぽつりと言葉を発するのだった。

 

 

「…案外、そいつの言っていることは正しいかもしれないぞ、康一君」

 

 

 

 

 

 

「…露伴…先生?」

 

 

 

露伴の手には、ひび割れたスマートフォンが握られていた。どうやらソファの隙間に偶然入ってしまい、見つかっていないようだったその代物が発見されたことは、露伴たちに噴上の追跡能力の確かな裏付けと、新たな疑念を与えるのだった。

 

 

「つまり君の兄貴はこの部屋から出ていないってことさ。スマホも待たずに失踪や家出は考えにくい。とすれば何か事件に巻き込まれたという可能性もなきにしもあらずといったところだが、部屋が荒らされた形跡がまるでないことや、噴上がその痕跡を探し出せないことからもその線は薄いだろう」

 

 

露伴はそう言いながら、スマホへと視線を向ける。モノ言えぬ緊張感が室内を支配し、そこにいた者は何も言葉を口にすることができなかった。露伴はその緊張を打ち破るかのように、徐に言葉をつづけるのだった。

 

 

 

 

「つまり、ここで新しい疑問が出てくる。この部屋にいた君の兄貴は、一体どこに行ってしまったのか、ということだ。部屋から忽然と消えてしまったということはそれこそ人智を超える何かがあるってことに他ならない」

 

 

 

 

 

何か手がかりがあるかもしれない、と露伴が発見したスマホを開くと、ちょうどそこにはゲームアプリが立ち上げられていた。スマホの画面をしげしげと眺めながら、露伴は画面に表示された文字を徐に読み上げるのだった。

 

 

 

 

 

「…ウマ娘プリティーダービー?」

 

それはあまり世間に関して興味の薄い露伴でも名前ぐらいは聞いたことがある、巷で話題のアプリだった。確かこのアプリは若者に大人気のゲームであり、確かうちの編集者もこのアプリにハマっていたが…

 

 

「…それ、確か兄がよくやっていたアプリです…」

 

 

スクリーンタイムを確認すると、彼は夜の12時直前までこのアプリを使用していたようだ。その直後から全くスマホが開かれていなかったことを鑑みると、どうやら彼の身に何か起こるまで彼はこのアプリを触っていたようだ。

 

「とにもかくにも、もう少し調べてみよう。もしかしたらこの事件、案外根が深いかもしれないな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の晩、露伴は自宅ですっかりずれこんでしまった予定だった執筆作業の何とか数ページ分を終えたが、生憎その作業は事件によって思うように手がつかなかった。凝り固まった肩を回し、背中を伸ばすと、パキッと小気味良い音が鳴る。

 

 

 

ーーピロン

 

 

 

ポケットに入れていた自身の携帯電話にメールが届いたことを告げられ、それを開くとどうやらそれは自身が待ち望んでいた相手からのメールのようだった。露伴は右手に握っていたペンをペン立てに戻すと、メールに同封されていた資料に目を通すのだった。

 

 

漫画家というものには、およそ様々なネタを収集するために情報網を敷いている場合が多い。露伴もその例にもれず、自身のお抱えの情報屋を有していた。届いたメールは、まさにその情報屋からのメールであった。

 

 

この事件には、何か裏があるに違いない。漫画家としての勘がそう告げている。資料に目を通しながら、露伴は情報を精査するのだった。

 

 

 

 

 

 

この1,2か月の間でどうやら杜王町で安藤基樹と同じように失踪者が増えているようだ。その人数はおよそ5人以上にのぼり、それぞれ住んでいる地区や職業までも共通点はまるで見受けられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

そして最も気になっていたこと。失踪者のスマートフォンのデータを調べたところ、どうやら全員が失踪したと思われる時間帯の直前まで例のアプリをやっていたようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

杜王町に巣くっていた殺人鬼、吉良吉影が倒されてからこの杜王町には平和が戻ったと思われていた。しかし、現実にはこうして再び魔の手が忍び寄っているという事実が、なにより露伴にとって許せない事実としてのしかかっていた。

 

 

 

 

 

 

ーー年齢や性別、職業がまるで違う失踪者たちの唯一の共通点が、失踪する直前までそのアプリを触っていた

 

 

 

「とりあえずこのアプリ、この岸辺露伴もやってみようじゃあないか」

 

 

 

 

失踪者たちがやっていたこのアプリ。やっていれば何かわかることもあるかもしれないと露伴は自身のスマホにアプリをダウンロードするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事件から1か月。

その間にも機会を見て調査を行ってはいたが、満足のいくような成果を得ることはできずにいた。この間にもますます人たちがこの町から姿を消している。その事実は露伴にとって不快感を与えるには十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

「…さて」

 

 

 

 

 

 

今日の執筆を終えた露伴は自身のスマホを手に取ると、息抜きとしてアプリを起動させる。調査のためにと始めたアプリだったが、いざ始めてみたら思いのほか興味深いゲームシステムで、露伴も仕事や打合せの合間にいそしむようになっていた。

 

 

 

 

 

 

ゲームの内容は馬の耳と尻尾をもった人間とよく似た生物、ウマ娘を指導するトレーナーとなって彼女たちを育成するというものであるが、案外ゲームの内容も凝ったものとなっており、片手間でやる分には十分に楽しめるものとなっていた。

 

 

 

 

 

ホーム画面を開くと、自身がよく育成している少女が自身を出迎えるセリフを言いながらポージングしている。露伴はその様子を見つめながら、誰に届くわけでもないとわかりつつ、徐に口を開くのだった。

 

 

 

 

 

「…彼らは一体どこにいってしまったんだろうな」

 

 

 

 

 

「教えてあげようか?」

 

 

 

 

 

唐突に画面の中から聞こえた声。聞こえてくるはずもない返事に驚き目を見開くと、唐突にスマホから腕が伸び、自身の腕を万力のような力でつかむのだった。

 

 

 

 

「へ、ヘブンズ・ド…」

 

 

 

 

 

反撃をしようと、自身のスタンドを繰り出そうとした露伴だったが、強い力で腕を締め上げられるとそのままスマホの中へと引きずり込まれていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「うおぉぉぉぉぉぉぉ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

露伴の体が完全にスマホの中へと引きずり込まれると、室内は打って変わり静寂が訪れるのだった。

 

 

 

 

 

 

 



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岸辺露伴は調べない2

 

 

 

 

晴れ渡る空の下、男はストップウォッチを握ってターフのはるか向こう、向こう正面を走る彼女の姿を注意深く見つめていた。夕陽を横から受けて、彼女の見惚れするほど美しい黒髪が鈍く光り輝いていた。まるで映画のワンシーンを切り抜いたかのようなその光景に吸い込まれながらも、彼は抜かりなくストップウォッチと彼女の走りの細かいポイントに注視しており、その職務を遂行していた。

 

 

 

「お疲れ様」

 

 

 

今さっきまで向こう正面にいた彼女があっという間にこちらまで戻ってくる。彼女は自身がねぎらいの言葉を口にしながら手渡したタオルで額に浮かんだ汗をぬぐい取りながら、スポーツドリンクを呷るのだった。日常の動作ひとつを切り取っても美しいオーラをまとう彼女を見据えたのち、彼はストップウォッチに視線を落とす。本格化が過ぎたというのに彼女のラップタイムは絶好調そのものだった。

 

 

 

「良い走りだったよ、エアグルーヴ」

 

 

 

「当然だ」

 

 

 

彼女の名前はエアグルーヴ。トレセン学園の生徒会副会長として、そしてその功績と走り、そして自他問わず律するその振る舞いから「女帝」と呼ばれ恐れられていた。彼女はスポーツドリンクを飲み切ると、涼しい視線をこちらに向けながら口を開いた。

 

 

「最終カーブの踏み込み、どう感じた?」

 

 

 

その問いにトレーナーとして彼女に及第点を頂戴できる回答をするため、彼は顎に手を当てて少しの間沈黙を保ったが、やがてその手を放すと言葉を発するのだった。

 

 

 

「やや踏み込みが浅いように感じた。蹄鉄を少し重いものに変更してみるのはどうだろう?」

 

 

 

「…ふん」

 

 

 

口ではそう言った彼女だったが、耳や尻尾の動きからおよそ彼女が求めていた解を導き出すことに成功したようだ。彼女の…「女帝」の杖として担当についてから早3年近くが経過する。先の秋の天皇賞も見事1着で収め、自身と彼女のコンビも世間に注目されるようになったのは、数年彼女の担当を務めあげた甲斐があるというものだろう。

 

 

…数年?僕が担当についたのは、ついたのは…

 

 

 

突如心の中に湧きあがった、些細な違和感。それでもその代物は彼の心に拭い去るには少々歪な重しを彼の心に据え置くことになった。突然のことに立ち止まり、顔をしかめているとエアグルーヴはこちらを見据えて鋭い視線と言葉を投げかけるのだった。

 

 

「貴様…何を上の空になっているんだ」

 

 

 

「ご、ごめん…ちょっと考え事しちゃって…」

 

 

 

「全く…貴様は自分が「女帝の杖」であることを自覚しろ」

 

 

女帝の杖…メディアが献身的にエアグルーヴを支える自身の姿を揶揄するかのように付けたその名称だったが、彼女がその呼び名を頻りに引用しているのは不思議と嫌な気分はせず、寧ろ彼女の役に立てていると誇らしい気持ちになった。エアグルーヴの叱責に首を縦にふることで答えると、男は徐に口を開くのだった。

 

 

 

「それじゃあ明日は土曜日だし蹄鉄、探しに行こうか?」

 

 

 

その言葉にエアグルーヴはぴたりと動きを止めて、こちらの顔を覗く。その表情はみるからに不機嫌に様変わりしており、それは日頃鈍感と評される男でさせも察するほどの烈火であった。

 

 

 

「…エ、エアグルーヴ…?」

 

 

 

おずおずと口を開こうとする男だったが、エアグルーヴの顔に宿らせた激情は、ほんの一瞬でまたいつものようにその表情を元に戻ると言葉を口にするのだった。

 

 

 

 

「いや、その日は行く必要はない。蹄鉄は私の方で用意しておくから心配するな…それより貴様、来週の金曜日までの予定を共有しろ…何処かに出かけたりする予定はあるのか?」

 

 

 

「あー、そうだな…平日は何もないけど、日曜日に気分転換で外出でもいこうk…」

 

 

 

「却下だ。今週の休日は外には出るな」

 

 

 

どうやら彼女が憤っていた理由は、自身が外出したいと言ったことに由来するようだ。一体それの何が問題なのか理解することができない男が首を傾げると、エアグルーヴは視線に怒気を込めて言葉をつづけるのだった。

 

「休日返上で申し訳ないが、貴様には生徒会の運営について手伝ってほしいことがある…恐らく外でのんびり時間をつぶす、という時間を作ることは難しいだろう」

 

 

それにしては彼女が激情を内包させる理由として理には適っているというには少々、いやだいぶ無理があるが、彼女の様子から見てその理由を聞きだすことは難しいだろう。普段の賢しい彼女からは予想もできない事態ではあるが、彼女とのトレーナーとしての距離感を勘案すると、その問いに頷く以外の選択肢は残されてはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「結局、土日も仕事か…」

 

 

 

 

 

エアグルーヴと別れたのち、仕事を切り上げた男は自室のソファに身をゆだねながらそう一言つぶやいた。やはり常人である以上、休日を犠牲してまで働きたいかと問われればそれは嫌だと言わざるを得ないが、それが担当ウマ娘である彼女のためだというのならば、それも致し方ないだろう。女帝の杖ということは、それすなわち彼女のレースはもちろん、生徒会の役員としての実務のサポートをすることも含まれている。それが彼女の横でその景色をともに見る時に決した覚悟であり、そこに例外は存在しない。

 

 

 

「もう寝るか…」

 

 

 

彼女の仕事の手伝いをしなければならない以上、早々に寝て明日に備えた方が賢明だろう。男は身支度を整えると、ベッドに向かい床についた。

 

 

 

―――お前さぁ、注意するの何度目だよ?…今日も残業して終わらせろ。俺の分のももちろんやっておけよ?

 

 

 

…そうやって謝るのだけはいっちょ前だな。お前の代わりなんていくらでもいるからな?

 

 

 

兄貴、最近大丈夫?なんだか元気ないみたいだけど…

 

 

 

お前におすすめのアプリ教えてやるよ、最近流行ってるんだけどよ…

 

 

 

 

――――ようこそ、この世界へ

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 

 

 

悲鳴にも似た叫び声をあげながら、男はベッドから飛び起きる。自身の額や首筋、脇といったありとあらゆる体の箇所から滝のような汗が流れ落ちていた。男はおろおろとベッドから身体を引きずり起こすと、洗面台に置かれたタオルを取って浮き出た汗をぬぐい取るのだった。

 

 

 

今の夢は一体…

 

 

 

夢の中で見た深層体験。それでもそこで見た景色や感じたことは、とても夢の中だけで完結する出来事とは考えられなかった。確実に、自身がかつて体験したことを追体験したことを確信していた。

 

 

「だったら、今の俺は…」

 

 

 

そういえば、考えたらおかしなことがいくつもある。確かにトレセン学園に数年前に就職したことには間違いないのだが、どうやってその試験に向けて勉強し、受けたのか。そしてそれより以前にどうやって生活を送ってきたのか全く記憶にない。まるで初めから存在していなかったように、すっぽり自身の記憶から抜け落ちてしまっていた。

 

 

 

だとしたら、今俺は…トレーナーとして生きている俺は何者なんだ?

 

 

夢の中で起きたことを体験した自分が本来の自分であるとすると、今ここにいる自分は果たして何者なのか、そしてどういう経緯でここにいるというのか…

 

 

 

しばらくその答えをひねり出すために頭を悩ませた男だったが、いくら考えても埒が明かないと悟った男は少し頭を冷やそうとラフな格好ではあるが外出用の服装に着替えると深夜のトレセン学園へと足を向けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冬の到来が間近に迫った外の夜風は、容赦なく男の肌を突き刺していく。これならもう少し厚手なアウターを着込んでくればよかったと内心後悔しながら男は夜のトレセン学園を散策していた。昼の時とは打って変わって静まり返った学園を散策するのは、さながら肝試しに来ているみたいだと思いながら、男は学園の見取り図が張られたボードの前で立ちどまり、それを見つめるのだった。

 

 

 

やはり、ここの敷地を把握できていない。

 

 

どうして今の今まで気が付かなかったのだろうか。数年間ここで住み込みで働き続けたというのならば、ここの敷地の構造ぐらい把握できていなければおかしいはずだ。頭を冷やすために散策に来たというのに、結局その疑念をますます深めてしまっただけのようだ。

 

 

 

違和感が連鎖となって、次々に花を咲かせ始める。

 

 

 

今立っているこの場所も、エアグルーヴとともに苦楽を共にしたトレーナー室や、秋華賞や天皇賞で彼女が1着を取ったあの光景も、全部全部仮初の日常ということなのだろうか?頭の中に突如、急速に流れ込んでくる衝撃的な事実と疑念に眩暈を覚えた男は地面に膝をつくのを何とか抑えると、フラフラとそこから離れようとした。

 

 

 

「た、助けてくれ…!」

 

 

 

突如背後から聞こえる声。こんな時間に自分以外に人がいると思っていなかった男がその方向に顔を向けると、そこには一人の人物…服装からすると、どうやらこの学園に勤務するトレーナーの一人のようだ。助けてと言われ自分に声を掛けられたとばかり思っていたが、どうやらその男は自身の方向を見ておらず、こちらからは見えない横道の方へと顔を向けていた。

 

 

 

 

助けを求める人がいるならば、そこに向かって助けてやることが本来であれば正しい判断といえるのだろうが、男は反射的に植え込みに飛び込んで姿を隠すのだった。なぜそうしたのかは男自身もわからない。人間としての勘と本能がそうさせたとしか説明のしようがなかった。

 

 

 

「か、帰してくれ…!俺にだって元の世界の生活がある!」

 

 

 

地面に尻餅をついた男は、顔を恐怖で歪ませており、その目には涙をにじませていた。やがて男が見つめていた方向から一人の人物が男の方へと近づいてくる。その人物は頭に特徴的な耳、そして腰からは尻尾が生えていた…ブロンドの髪をなびかせながらそのウマ娘は男へと近づくと、まるで死刑執行人のように顔の表情筋をピクリとも動かさず、淡々と男に言い放つのだった。

 

 

 

「アタシにはアンタしかいないって言ったじゃん…」

 

 

 

彼女の顔は、まるで現代彫刻と比肩するような均整の取れた美しい顔立ちだったが、その顔も内包する激情があふれ出ている無表情では、その恐ろしさをより一層際立たせていた。

 

 

 

「人形みたいって人の気も知らないで言ってきた奴らと違って、アンタは本当のアタシを見てくれた…そんなアンタがこの世界に来てくれたっていうのに、帰すわけないでしょ?アンタは一生、アタシと一緒に暮らすの」

 

 

 

「い、嫌だ…この世界は元々アプリなんだよ!シチー、君はゲームのキャラクターに過ぎないんだ!」

 

 

激情を宿した相手にかけるべき言葉として、男はかけるべき言葉として最悪の悪手を選択した。シチーと呼ばれたウマ娘はつかつかと男のもとへと歩み寄ると、足を大きく引き上げる…そして尻餅をついている男の顔の横に向けて思い切り足を振り下ろし、地面に大きなクレーターを作るのだった。

 

 

「…口で言ってわかんないなら、ちゃんと教育してあげる」

 

そう言いながら粉塵と埃を伴わせた足を引き上げると、男は恐怖がとうとつピークを越えて、気を失ってしまっていた。シチーは先程の表情と打って変わり、恍惚とした表情を浮かべ軽々と男の身体を肩に乗せると、先程姿を現した方向へと姿を消すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女の姿が完全に見えなくなったことを確認すると、男は転がり出るように植え込みから姿を現した。恐怖が心臓を強く打ち出し、動悸が早くなったのを感じる。男は恐怖のあまりしゃがみこんでしまっていたが、やがてフラフラと立ち上がりある方向へと歩き始めた。

 

 

 

―――逃げないと

 

 

 

やはり自分は、この世界の人間ではなかった。今のやり取りを見た男は、完全に記憶を取り戻していた。自身の名前は安藤基樹、この世界に来る前は杜王町に住んでいた。自分も先程連れていかれてしまった男と同じように、この世界―――「ウマ娘プリティーダービー」というゲームの世界へと連れてこられた人間の1人だ。

 

 

 

状況から察するに、自分たちがこの世界に来たのはウマ娘たちが原因であることは間違いないようだ。一体何の目的で、どれほどの人数がこの世界へと連れ込まれたのだろうか?頭の中に湧き出る疑問は尽きないが、一番に解決するべき問題は既に提示されていた。

 

 

「元の世界にどうやって帰る?」

 

 

 

これが分からない以上、自分は一生この仮初の牢獄に囚われ続けることになるだろう。男は何とかここから脱出しようと頭をひねらせたが、やがて一つの答えにたどり着くのだった。

 

 

…ここから出てみよう。

 

 

そういえば日中、エアグルーヴが外出をしようとする自分を引き留めた。それがもし、自分を元の世界に帰らないようにしたというのならば、彼女が一瞬のぞかせた怒りにも説明がつく。目的地が決まった基樹は、学園の正門に向かって歩みを進めていくのだった。

 

 

 

 

ウマ娘プリティーダービー…

 

 

 

 

元の世界で所謂ブラック企業に勤めていた僕が、試しに始めてみたアプリ。その世界観や、ひたむきに夢に向かって突き進むウマ娘の姿に感動し、気づけばのめりこむようにはまっていたが、まさかその世界に引きずり込まれてしまうとは思ってもみなかった。

 

 

 

そしてエアグルーヴ。彼女は自身が一番育成し、時を過ごしたウマ娘だった。「女帝」として自他問わず厳しく接する彼女だが、それは偏に母の背中をひたむきに追っていたゆえであり、基樹も彼女を一番に育成したのは、その姿に強く惹かれたからだ。

 

 

 

彼女と会えなくなることは寂しいかと問われれば、決してそう思わないとは言えないが、それでも彼には元の世界で待つ家族がいる。聡明な彼女のことだ、話したらわかってくれるかもしれないが、目に焼き付いている先程の光景がそれを踏みとどまらせた。そうこうしているうちに、基樹は正門まであと100メートルのところまでたどり着くのだった。

 

 

 

あとはもう、正門に向かって真っすぐ進むだけだ。

 

 

 

落ち着いているつもりだったが、やはり気持ちは急いてしまっているのだろう。徐々にその足は駆け足になっていく。

 

 

 

―――元の世界に帰るんだ

 

 

 

正直あの門をくぐれば元の世界に戻れるという保証はどこにもない。それでも、一刻もはやく先程の惨劇が繰り広げられるここから離れたかった。もしこの世界から出ることが出来なくても、一度ここから出て状況を把握して対策を練ることもできるはずだ。

 

 

自分が果たして何者なのか。形容のしがたいこの気味が悪い感覚から解放されたい。元の世界に、杜王町のあの日常に戻るんだ。

 

 

80メートル、60メートル、40メートル。

 

 

荘厳な装飾が施された門が近づいてくる。心臓が強く脈打ち、男は力を引き絞ってそのスピードを速めた。

 

 

あと数メートル。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――おいたわけ。こんな時間に何をしている」

 

 

門まであと10メートルを切っていた。ゴールまであと一歩というところで、突然道端から姿を現し門の前に姿を現した愛バの姿は、さながら死刑執行人のように映った。壊れかけのおもちゃのように不自然に身体を止めた基樹は、乾ききった口をパクパクさせてエアグルーヴのことを見つめていた。

 

 

「もう一度聞く。この時間に何をしている」

 

 

門限を過ぎてこんなところで何をやっているんだと聞き返したいところだが、それは今この場面に限っては得策ではないだろう。

 

 

「ちょっと夢見が悪くてね…夜風にあたろうと思って」

 

 

基樹はわずかな可能性…すなわち彼女が自身がこの世界に引きずり込まれたことに気が付いた、ということに気づいていないという可能性にかけ、しらばっくれるという選択を取ったのだった。

 

 

それに夜風にあたりにきたという方便も、あながち嘘ではない。現に先程の光景を目撃するまでは本当に頭を冷やすつもりで外出をしていた。今の格好も、きっとその方便の裏付けをしてくれるだろう。

 

 

「明日も生徒会の仕事があるだろう?ほら、早く寮に戻りなよ」

 

 

念押しのために、彼女に寮に帰るように告げる。いずれにしても、彼女がそこから退いてくれなければ門を潜り抜けることはできない。

 

 

 

両者の間には寒風が吹き抜け、あたりは水を打ったように静まり返る。基樹の言葉を聞いたエアグルーヴは腕を組んだその姿勢を崩すことなく笑みを浮かべる。彼女の笑みなどほとんど見たことがなかった基樹が動揺すると、彼女は徐に口を開くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「…貴様は嘘をついたり後ろめたいことがあると、左肩をわずかに後ろに引く。心理学的に説明すると、相手にそのことが悟られないように自然と防御姿勢を取ってしまうといったところだろうな」

 

 

 

 

「照れた時は頬を右手の人差し指で掻く。機嫌がいいときにやる鼻歌はフランクシナトラの「That’s Life」……そして」

 

 

 

 

 

「会社の上司に怒られた時、涙をこらえて唇をかみしめる。自炊する暇もなくて最近はコンビニのご飯ばかりだったな…まだ言う必要があるか?…ずっと私は貴様のことを見てきた。画面越しの貴様をずっと見てきたんだ。私に隠し事が通用すると思うな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その言葉に、基樹は背中に悪寒が走るのを感じる。ばれていた。この目論見も、自身が記憶を取り戻したこともすべて。絶望した基樹はじりじりと後方へと引き下がりながら、かろうじて言葉を紡ぐのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「ど、どうして僕をこの世界に…?」

 

 

 

 

 

 

「簡単なことだ」

 

 

 

 

 

 

つかつかとエアグルーヴが基樹のもとへと歩み寄っていく。先程の光景がフラッシュバックした基樹は、恐怖のあまり両手で頭を抱え、防御姿勢を取るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その瞬間、自身の身体が暖かい感触に包まれるのを感じる。おそるおそる目を開けると、基樹は自身の愛バに抱きしめられていることに気が付くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「貴様を愛している。それだけだ」

 

 

 

 



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岸辺露伴は調べない3

 

 

 

 

 

 

 

理解が出来なかった。

 

 

 

 

自身の身体を包み込む感触と、今しがた彼女から発せられた好意を寄せる言葉。基樹は抱きしめられた身体をおずおずと引き離すと、口を開いた。

 

 

 

「え?え?」

 

 

 

聞き間違い、ということだろうか。彼女の発した言葉が先程まで自身の身体を縛り付けていた緊張もあいまって、自身の頭のキャパシティーを軽くオーバーするほどの情報を叩き込む。その様子を見たエアグルーヴは再びこちらに視線をやると、今迄見たことがないほどの恍惚とした表情…先程見たウマ娘のような表情を浮かべ、言葉を口にするのだった。

 

 

 

 

「もう一度言わなければわからんか?たわけが」

 

 

「貴様を愛しているからここに連れてきた、そう言ったんだ」

 

 

やはり聞き間違いではなかったようだ。ぽかんと口を開き、エアグルーヴのことを見つめる基樹の様子を見かねたエアグルーヴは、彼の思考がここに戻ってくるように言葉をつづけるのだった。

 

 

 

「とりあえず、夜の学園の散策と洒落こもうじゃあないか。貴様が疑念を抱いていること、知りたいことをできる限り答えてやろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エアグルーヴの半歩後ろをついていくように、基樹はおずおずと夜の学園の散歩へと繰り出していく。先程までの誰にも見つからないようにというある種の切迫感に包まれた窮状からは解放されたわけだが、彼は新たな問題に直面していた。すなわち、檻の中で腹をすかせた猛獣と一緒にいるような、そんな生命の危機である。エアグルーヴほど聡明なウマ娘であればそんなことはしないだろうと信じたいが、彼女は既に自身をこの世界に連れ込むという荒唐無稽な芸当をやってのけているし、自身の記憶にはまだ先程のウマ娘の暴挙が鮮明に残っていた。

 

 

 

 

 

学園内は2つの足音が鼓膜に届くほど静寂に包まれた校舎は、昼の喧騒ひしめく学園とはまるで様相が異なっていた。

 

 

 

 

斜め前を歩くエアグルーヴに視線を向けると、彼女の琴線を刺激しないように心掛けながらおずおずと口を開くのだった。

 

 

 

「ど、どうやって気づいたんだ?僕が…その」

 

 

 

「どうやって逃げようとしていると気が付いたのか、そう聞きたいんだな?」

 

 

 

その問いに基樹が視線を落とすと、エアグルーヴは言葉を続けるのだった。

 

 

 

 

「貴様のことは何でも知っていると言いたいところだが、連絡がきたんだ。今日一件貴様のような外の世界から来たトレーナーに対して感情が爆発してしまったウマ娘がいた。まぁ、そのようなことがあった対処のために現場の復旧作業、当ウマ娘に対する聞き取りや処遇に対して24時間体制で生徒会が対応しているわけだが、その時に貴様の匂いをかぎ取ったわけだ」

 

 

 

 

どうやら先程の惨状は日常茶飯事かどうかは定かではないが、初めて起こったケースというわけではないようだ。自分と同じように元の世界から連れてこられたトレーナーが存在し、その末にウマ娘の毒牙にかかってしまったものがいる。基樹は少しでも情報を得ようとエアグルーヴに続けて質問を投げかけるのだった。

 

 

 

「僕のほかにこの世界に連れてこられた人がいる、っていうことだよね?」

 

 

 

「その通りだ。貴様以外にもこの世界にきた人間は少なからずいる。日常に溶け込もうと懸命に努力するもの。帰ろうとして暴れたり、逃げ出そうとしたりとするもの、それぞれ多種多様だ。」

 

 

「…その中で、元の世界で帰れた人って…?」

 

 

 

「それを逃がさないようにするのも、我々生徒会の仕事だ」

 

 

 

当然と言えば当然だが、あくまで生徒会は「ウマ娘」のための機関であるようだ。ウマ娘たちの狂愛を手助けし、その獲物が逃げないように補佐する機関で、自身の担当ウマ娘はその機関のナンバー2。これでは自分がこの世界から脱出を図るのは無理だと宣告されているようなものではないか。

 

 

 

絶望に染まり切った表情を浮かべる基樹を一瞥すると、エアグルーヴは言葉をつづけるのだった。

 

 

 

「ちなみにさっきの学園の外に出ようとする選択…確かに悪くはない選択だった。実際敷地外に出ることができたのなら、貴様は元の世界に戻ることもできただろう。」

 

 

 

その言葉に、先程まであきらめかけていた脱出の可能性が開く。自分の読みは当たっていたのだ。何とか朝や深夜の機会を見計らって敷地外に出ることができたのなら、元の世界に戻ることができる。希望にわずかに目を見開いた基樹だったが、次にエアグルーヴが発した言葉に再び絶望に叩き落されることとなった。

 

 

 

「今日は門の前まで行かせるような不覚をとったが、今日はあくまでビギナーズラックだと言っておこう。次から怪しい行動をとれば直ちに捕まえに行くし、元の世界に戻れたとしても必ず連れ戻してやる」

 

 

 

 

その言葉はさながら死刑宣告のそれであった。彼女のその確かな確証を秘めたその瞳は、「何が何でもそうしてやる」という気概を感じた。その瞳に寒気を覚えた基樹だったが、エアグルーヴはそれを全く意にも介さぬように言葉をつづけるのだった。

 

 

 

「さぁ、寮についたぞ。今日はおとなしく寝るといい。明日も早いからな」

 

 

 

彼女のことをこれほどまでに恐ろしく感じたことはあるだろうか?

 

 

 

愛している、と口では言うものの自分の都合しか考えていないその歪んだ愛し方に、基樹は徐々に自身が怒りを孕んでいくのを感じるのだった。

 

 

 

「本当に愛しているって言うんなら、帰してくれ…!」

 

 

 

今の自分にできる、精一杯の抵抗。本当ならその肩を押して怒鳴りつけてやるくらいの芸当をしたかったが、このおりかごの中で女帝の奴隷と化した自分にできることは、彼女を刺激しないように懇願することだけだった。 

 

 

 

 

精一杯の勇気を振り絞ったその言葉に、エアグルーヴは笑みを深くするだけだった。

 

 

 

「今日は初犯だから見逃してやっているんだ。本当なら今すぐ貴様を力づくで私のものにしたいが、それをしないのは偏に愛しているからということを忘れんようにな」

 

 

 

そう告げると、エアグルーヴは静かに闇夜に消えていった。一人取り残されたその空間は、静寂が支配している。帰す気など毛頭ない。彼女の寵愛という名の歪んだ愛を一身に受ける以外の未来は残されていないというのか。

 

 

―――否。

 

 

 

必ずここから脱出して、家族に、そして弟と再会してみせる。基樹は決意の炎をその瞳に宿らせると、今日のところは寮の自室へと戻るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、夜が明けて朝を迎えても結局のところ一睡もできなかった。もはや自分の部屋とは呼べなくなった部屋のベッドの上で彼の意識は既に脱出への向けられていた。

 

 

 

 

――協力者が必要だ。

 

 

 

 

残念ながらあれからどうやってこの世界を出ようかと考えたが、これといったアイディアは思い浮かばなかった。しかし、僕と同じようにこの世界に囚われている人間がいるということは、同時にこの世界から脱出したいと願う僕と同じ境遇の人間がいるということだ。その人物を見つけ出して、協力者として共に策を練ろう。

 

 

 

基樹は身支度を整えると、玄関から外に出ようとする。学園に出向いてこの世界に連れてこられた人間を探すことにしよう。

 

 

 

「おはよう」

 

この声は。身体を昨晩同様、形容しがたい恐怖が縛り付けてくる。基樹が声のする方向へと首を向けると、そこには自身の愛バの姿があった。

 

 

 

「これからは学園まで一緒に行こうと思ってな。さぁ、一緒に行こう」

 

 

 

吐き出しそうになった悲鳴を寸前で抑え、彼女の姿に視線を送る。恐怖はいまだ身体を駆け巡ってはいたが、朝日に照らされる彼女の横顔を見るとドキっとしてしまった自分がいた。エアグルーヴはそんな自分の様子を見てクスっと笑うと階段を下りていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――今日の生徒会の業務は、来週行われる駿大祭についての打合せだ。当日は流鏑馬や奉納舞といった様々な催しが行われる。貴様には昨日言った通りその会議が終わったのちに業者との打ち合わせをオンラインで行う。貴様を外に出すわけにはいかないからな」

 

 

 

昨日までと何ら変わらぬ彼女の様子が、かえって基樹の恐怖心と疑念をあおっていく。それでも昨日のことを引きずるような態度を取られるよりも、昨日ウマ娘に襲われてしまったあの男と比べれば、幾分か状況はマシかもしれない。

 

 

 

「…ところで、駿大祭ってなんなの?」

 

 

 

「なんだ、そんなことも知らないのか。ウマ娘の、ウマ娘による、ウマ娘のための祭事…日頃ウマ娘を見守る三女神様に感謝の意を示し、その願いを捧げる重要なイベントだ…今年はゴールドシチーたちの奉納舞と、会長たちによる流鏑馬が執り行われる予定だ」

 

 

 

…ゴールドシチー。

 

 

 

そういえば昨日男を襲ったウマ娘はシチーと呼ばれていた。昨日のウマ娘の名前はそう呼ばれているのか。考えに耽る基樹をよそに、あっという間に学園が近くなってくる。エアグルーヴは基樹に顔を向けると、言葉を口にするのだった。

 

 

「では私は会議に行ってくる…会議は11時に終わる予定だ。集合はその15分後にトレーナー室にしよう」

 

 

エアグルーヴはそう言うと、踵を返して校舎の中へと姿を消していくのだった。基樹は彼女の姿が完全に見えなくなったことを確認すると、先程来た方向へと駆け出していくのだった。

 

 

この世界に連れてこられた人間が必ずこの学園の何処かにいる。その人物とコンタクトを取って、策を練ればきっと活路をみいだすことができるはずだ。基樹は走りながらすれ違う職員やトレーナーの顔を随時確認するが、ここで一つの問題が立ちはだかるのだった。

 

 

 

…どうやってその人が連れてこられた人間であると見分けることができるのだろうか?

 

 

この学園にいるすべてのトレーナーが、この世界に連れ込まれたというわけでは決してない。もともとここに留まっている、つまりゲームの中の人物であるものも当然いる、いやむしろその人数の方が圧倒的に多いだろう。

 

 

 

つまりこの中からその人物を探し出すすべを、僕は有していなかった。僕のように記憶を失っている人間だってきっといる。しらみつぶしに一人ずつ声をかけるという方法もあるにはあるが、それはあまり現実的ではないし、目立った動きを取ればエアグルーヴに感づかれてしまうリスクだって十分にある。

 

 

 

…約束の集合時間までは1時間ほどしかない。それまでに協力者を見つけなければ、次動けるのはいつになるかわからない。急いで駆け出そうとした基樹だったが、その時一人の男が目に留まるのだった。

 

 

 

 

その男は、学園内にある三女神像が設置された噴水の淵に腰かけていた。男は特徴的なヘアバンドと耳にはペン先の形状のイヤリングを付けていた。基樹はその男を立ち止まって見つめると、徐に口を開くのだった。

 

 

 

「…岸辺、露伴先生…?」

 

 

 

通常であれば、売れっ子といえど漫画家の顔など認識している人物などほとんどいない。普通人が注目するのは、ストーリーやそこに登場するキャラクターであって、それを描いている本人を注目しているわけでは決してない。ミュージシャンやモデルとの明確な違いはここにある。

 

 

 

 

―――しかし基樹は超が付くほどの漫画好き…そしてなにより杜王町の住人だった。杜王町に住まう漫画好きにとって、ピンクダークの少年の作者である岸辺露伴が杜王町に住んでいるという話は有名なものであり、基樹もその例にもれず雑誌や漫画の表紙カバーにある一覧にある彼の顔写真で、彼の存在と容姿を認知していた。

 

 

結果的に基樹が漫画を愛していたことが、彼自身に幸運を舞いこませるきっかけとなった。露伴と呼ばれた男は呆けた目をこちらに上げると、じっと基樹の方を見つめていた。

 

 

 

――彼もまだ、記憶が戻っていないんだ。

 

 

 

それならば彼の記憶をここに引き戻してやる必要がある。それも早急に

 

 

基樹は急いで彼のもとへと駆け寄ると、彼の顔を覗き込むことができるように跪き、彼と目線を合わせる…そして逸る気持ちを抑えて言葉をつづけるのだった。

 

 

「岸辺露伴先生!ピンクダークの少年を連載中の天才漫画家の、岸辺露伴先生ですよね⁉」

 

 

――その瞬間、露伴の目は大きく見開き、その瞳の奥には先程と明らかに異なる力がみなぎるのを見て取ることができた。露伴は今初めてここにいたことに気が付いたかのようにあたりを見渡すと、徐に口を開くのだった。

 

 

「…ここは何処だ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――探していた安藤基樹はすぐに見つかったのはいいが、まさか自分が木乃伊取りが木乃伊になってしまうとは。彼の話によれば、どうやらここは「ウマ娘プリティーダービー」なるゲームアプリの世界の中のようだ。そしてこの世界から脱出するには敷地の外に出ればいいとのことだが、捕まってしまえば何をされるかわからない、そしてみなトレーナーである自分たちに対して鬱屈とした愛情の念を抱いているという。

 

 

 

 

 

…彼女は、自身の担当なるウマ娘もそうなのか?

 

 

 

 

 

いや、自身のことをこの世界に連れ込んだ時点で、それは論ずるに値しない疑問であることは間違いない。基樹君のいう通り、自分も含めこの世界に連れ込まれた者たちは皆例外なくその状況に置かれているというわけだ。

 

 

 

 

…あのストーカー女に付き纏われていた康一君の気持ちが、身に染みてわかったよ。

 

 

 

 

あの後あのストーカー女、山岸由花子と付き合ったことは康一君の心の広さゆえだろうが、生憎自分はそんな代物など持ち合わせてはいない。目的であるこの青年を元の世界にさっさと連れ帰ってしまおう。

 

 

 

 

 

「とりあえず日中は目立つし、何より考えなしに行動を実行することは危険だ。ここは一度作戦を立て直そう。」

 

 

 

 

 

 

基樹に連絡先を手渡し、再び落ち合う日時を決めた露伴は、11時過ぎに落ち合うと決めた自身の担当ウマ娘のもとへと足を繰り出していくのだった。

 

 

 

 

 

…彼女には、記憶が戻ったことは悟られないように心掛けよう。

 

 

 

 

 

 

基樹の言っていたことが本当ならば、彼女にはこのことをだまし通さなければ脱出など叶うはずがない。彼女はそれくらいの強敵であり、聡明な人物であることは短い期間ではあるが育成していた露伴がすでに及び知っていた。

 

 

 

 

時計の針は、既に11時を指している。露伴は足早に校舎に向かい、指定された部屋に向かって歩みを進めていく。ちょうど室内では用事が終わったようで、続々とウマ娘たちが室内から外へと出ていくのが遠くから見て取れた。

 

 

 

 

 

…あれが基樹の担当か。

 

 

 

 

 

確か名前はエアグルーヴと言ったか。なるほど如何にも気が強そうな女だが、ああいう手前は案外隙があるものだ。注意深く観察して行動すれば、大きな脅威にはなりえないだろう。寧ろ厄介な問題は、自分自身の担当にある。

 

 

 

 

 

 

「失礼するよ」

 

 

 

 

 

 

ドアをノックして露伴がそれを開けると、奥の荘厳な装飾が施された椅子に座って、机に肘を載せてその手の甲を顎に乗せた一人のウマ娘がいるのだった。

 

 

 

 

 

「やぁ。時間きっかりだね。トレーナー君」



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岸辺露伴は調べない4

 

 

 

 

 

 

 

 

「ったく、このアプリ。誰を育成するとかしないとか、中々面倒な仕様じゃあないか」

 

 

 

 

スマホを片手に露伴は恨めしそうにつぶやく。調査のためにと何気なく始めたこのアプリだが、始めるにあたってどのウマ娘を育成するか決めなければならないようだ。画面に表示されるウマ娘たちの顔をスクロールしていたが、やがて露伴の視線は一人のウマ娘に注がれるのだった。

 

……こいつにするか。

 

 

今となっては、どうしてその少女を選んだのかは分からない。なんとなくとしか形容がしがたいその直感はさりげなく。しかし確実に露伴の視線を注がせ、彼女を自身の担当として迎え入れることを促すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トレーナー君。時間ちょうどじゃあないか。私がいない間、変わりはなかったかい?」

 

 

 

「あぁ……何も問題はないさ」

 

 

 

 

露伴はそう言いながら自分が開けた生徒会室の扉を後ろ手で閉め、眼前の…机を隔ててこちらを静かに見つめる彼女を見つめ返す。身にまとったしわ一つない制服に、鹿毛のロングヘアに一房の白い前髪。温厚な表情の中に冷静さを孕ませた顔つき……その姿はまさに周囲から呼ばれる「皇帝」と呼ぶにふさわしい姿だった。

 

 

 

――シンボリルドルフ

 

 

 

トレセン学園の生徒会長を務め、レースの実力、カリスマ性。そしてその統治力から周囲から「皇帝」と呼ばれ畏怖される存在。そして彼女こそが、3年間以上もの間露伴の担当として彼の隣を走り続けたウマ娘その人だった。

 

 

 

「会議、お疲れ様。ルドルフは勤勉だな」

 

 

 

なるべく怪しまれることがないように、努めて記憶を取り戻す前の振る舞いを装いながらルドルフに話しかける。彼女はこちらに朗らかな笑みを向けたままこちらに向かって言葉を返した。

 

 

 

「志操堅固、私が目指すのはすべてのウマ娘の幸福…それを叶えるためだったら無茶の一つや二つをしなくちゃあならないさ」

 

 

 

公明正大。私益のために権力を振るうエゴイストではなく、滅私奉公で職務を全うする彼女は、学園中のウマ娘から慕われていた。

 

 

 

そう言いながら彼女は静かに目を細める。細めた瞼の隙間から覗く紅桔梗の色を宿した瞳は、手を伸ばしても到底届きそうにないほど深い底を有した湖のように、深淵を覗くことはかなわなかった。

 

 

そう言葉を発する皇帝に、露伴は理解あるトレーナーとして役目を振る舞うために、笑顔を取り繕うことでその返事として返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

……油断はできない。

 

 

 

 

 

基樹が言ったことが本当ならば、生徒会がこの世界に引きずり込まれた人々を留めおき、その狂愛という名の籠の中に閉じ込める機関で、彼女がその機関を束ねるナンバー1であるとするならば、まさに彼女は、我々からしてみれば悪の親玉と呼ぶにふさわしい存在である、といえるであろう。

 

 

 

…どうして彼女を担当にしてしまったのだろうか?

 

 

 

 

 

今さらながら露伴は1か月前にこの世界に通じるアプリをはじめ、あまつさえ数あるウマ娘からよりによって厄介な彼女を担当として据え置いてしまった自分の短慮ゆえの行動を悔いていた。

 

 

 

もっと頭の悪い、そしてトレーナーに対して執着を見せないような奴はたくさんいただろうに。こちらの世界に自身を引き込んだ時点で、多少なりとも自身に対して執着を見せているという何よりの証左だ。ここから脱出するためには、学園きっての切れ者である彼女を出し抜く必要がある。

 

 

自身の好奇心や思い付きで痛い目に遭ったことは、何も別にこれが初めての経験ではない。人の背中を見たいという風変わりな欲求から命の危険にさらされたこともあったし、殺人鬼を追っていく過程で栄養を全部抜かれてミイラになりかけたこともある。

 

 

 

今回だってきっと大丈夫だ。この岸辺露伴はきっとこのトラブルを切り抜いてみせる。

 

 

 

 

いっそのこと、《ヘブンズ・ドアー》を使ってしまおうか

 

 

 

 

自身がこうも豪語する何よりの証左…自身のスタンド能力で、彼女に「岸辺露伴に攻撃することはできない」と書き込んでしまうことは簡単だが、目の前に鎮座する彼女は人間と似てこそすれ、人間より筋力や走力が圧倒的に秀でた、完全に異なる猛獣であると認識した方が良さそうだろう。迂闊に能力を発して鎮圧に失敗すれば、自身の身の安全は保障されない。

 

 

 

彼女が自身の記憶が戻り、脱出を企てていることを及び知っていない現状では急いて能力に頼るのは得策ではない…あくまで「切り札」は取っておいたほうがいいわけだ。

 

 

露伴は自身の手に握られていたボードに挟まれた資料に視線を落とす…そういえば彼女が会議を終えたあとにトレーニングをしようと約束をしていたな。

 

 

 

3年間を乗り越えて既に第一線からは退いている彼女だが、こうして時折トレーニングをすることは欠かさない。冬服の制服からは着やせしていてわかりづらいが、しっかりと観察すると歳不相応な隆起した筋肉が各部の部位からもうかがい知ることができる。

 

 

 

「それじゃあ、今から坂路でトレーニングだ…今日は10×3を予定している。20分後にいつもの場所で落ち合おう」

 

 

 

この狭い室内で二人きりというのも、聊か不用心であろう。露伴は早々に会話を切り上げて部屋を後にしようとすると、背後からルドルフに声を投げかけられた。

 

 

 

「仔細承知したよ……あとトレーナー君」

 

 

「…?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――何かいいことでもあったのかな?」

 

 

 

 

その言葉に、背筋が途端に氷点下にまで凍り付くのを感じる。彼女は既に気が付いたのか?恐怖が身体を縛り付ける感覚に苛まれながらも、何とか平静な態度と表情を保って露伴は後ろを振り返るのだった。

 

 

「……どうしてそんなことをきくんだい?」

 

 

 

「特に他意はないよ。なんだかいつもよりも浮足立っているのかな、とそう感じたが気のせいだったみたいだ。君に質問するのに、意図がなくたって厭わないだろう? 」

 

 

 

「そ、それもそうだな…それじゃあ先に行ってるよ」

 

 

 

露伴はそう言葉を返すと、扉を開けて廊下へと繰り出し練習場へと向かっていく。一刻も早く、彼女の目の届かない場所へ。軽い空気を肺に取り入れることができる場所へ。露伴は自身が動揺で普段よりもかなり速足で目的地へと向かっていることに気が付かないまま、目的地に向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

露伴と別れたあと、直ぐに基樹は待ち合わせ場所に指定されたトレーナー室に向かった。彼女に油を売っていたことを悟られないように、急いでパソコンの電源をつけて如何にも今迄仕事をしていたかのように取り繕う。

 

 

トントン。

 

 

 

 

 

 

 

「どうぞ」

 

 

 

数度扉を叩く音が鳴り自身は努めて平静に入室の許可を出すと、室内にエアグルーヴが入ってくる。どうやら会議は時間通りに終わったようだ。まだ予定の時間より少し余裕がみられる。

 

 

 

「おとなしく待っていたようだな。いい子だ」

 

 

 

エアグルーヴは片手に抱えていた資料の山を机の上におろすと、自身の正面に座り、ノートPCを起動させた。キーボードをカタカタと叩きミーティング用のソフトを起動させる。基樹もそれにならってソフトを起動させた。やがて業者がミーティングルームに入室すると、そこから駿大祭に向けての準備に関する打合せがスタートするのだった。

 

 

 

 

当日の奉納舞が行われる舞台に用いる器具の配送や、その設置に関する段取り。出店される出店の種類やそこで販売される商品の確認や調理の際に用いられる器具は法律に遵守し、ウマ娘たちの安全に配慮されたものか等、打合せは滞りなく執り行われた。

 

 

 

多岐に、そして細かく確認しなければならない事項も、エアグルーヴの的確な采配によって瞬く間に解決の一途を辿っていき、その様を基樹はぼんやりとみていることしかできなかった。本来の予定よりもはるかに早い時刻にミーティングが終了し業者が退席すると、エアグルーヴはPCの画面を閉じてすぅー、と一つ溜息をつくのだった。

 

 

 

「お、お疲れ様、エアグルーヴ…やっぱり凄いな。あれほどの量の議題を的確にさばいていくなんて……」

 

 

 

「女帝たる者、これくらいできて当然だ。それに駿大祭となれば、抜かることはできない。準備にも漏れがないようにしてしかるべきだからな」

 

 

 

「駿大祭ってそんなに大事な催しなんだね……」

 

 

 

「当然だ…3女神様に感謝を捧げる祭りである以上、ウマ娘としてそれをないがしろにはできない……それに。」

 

 

 

「……それに?」

 

 

 

 

「それに、今年の駿大祭は特別だ」

 

 

…特別?それは一体どういう意味なのだろうか?

 

 

 

 

エアグルーヴの発した言葉の意図を図りかねて首をひねると、エアグルーヴは妖しい笑みを浮かべて言葉をつづけるのだった。

 

 

「然るべき時にそれは教えてやろう…だが、我々ウマ娘にとって、まさに悲願の成就となること間違いない日となるだろう」

 

 

 

そう口にする彼女の顔は、まるで餌を目の前にしてお預けを食らった猟犬のような圧を放っており、基樹はそれ以上その話題について彼女に尋ねることはついにできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……それでこれからどうします、露伴先生…?」

 

 

 

今日の予定を終え、自室へ戻った基樹は自身の携帯に着信がきたことに気が付き、その電話を取ると相手は先程番号を交換した露伴からだった。その日はお互いの情報交換をしつつ、策を練ろうとそう言葉をかけた基樹だったが、当の露伴から返ってきた提案は、彼の予想をはるかに上回るものだった。

 

 

「……昨日の今日で済まないが、もう一度ここから脱出してみようじゃあないか」

 

 

 

昨日失敗に終わった脱出を、懲りずにもう一度行う。その自殺行為としか考えれられない露伴の提案に驚きの声を上げた基樹だったが、そこに返ってきた露伴の言葉はひどく冷静なものであった。

 

 

「まさか君にご執心な担当も、懲りずにまた逃走を図るなんて露とも思わないだろう。それに僕にはウマ娘に対抗する力がある。さらに一度外の世界に返ってしまえば、僕のほかにも彼女たちを撃退する術をもつ奴らが、僕以外にもいる」

 

 

 

 

そう言う露伴の言葉には確かな力強さがあり、荒唐無稽な話だと切り捨てることは、基樹にはできなかった。それに一度元の世界に帰れば、彼女たちの追跡から逃れるすべは何かあるはずだ。露伴の提案に同意の意を示すと、集合場所と日時を短く伝えられ、電話はそこで切られるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時刻は夜の11時。

既に霜月の夜風は肌を刺激し、露伴は寒そうに身体を震わせた。部屋を出る前にルドルフにお休みとメッセージを送るという偽装工作も行い、抜かりはない。依頼通り安藤基樹を元の世界に連れ帰り、自分も元の日常に帰る。もしも彼女たちが自分らを連れ戻そうと来るものなら、康一君や不本意ではあるが仗助の力を借りて彼女たちをこの世界に叩き戻してやればいいだけの話だ。

 

 

「お待たせしました…」

 

 

闇夜から声が聞こえ、露伴はそちらに首を向ける。そこには待ち合わせをしていた人物、安藤基樹の姿があった。

 

 

 

 

「よし、君の担当には気付かれていないな?」

 

 

その問いに、基樹は静かに首を縦に振った。その様子を見た露伴は満足そうにうなずくと、言葉を続けた。

 

 

「それじゃあこのいかれたウマ娘たちが蔓延る世界からおさらばしようじゃあないか…まったくもうこりごりだよ」

 

 

そう言って校門のほうへと歩みを進める露伴だったが、自身の足音に続くはずの基樹の足音が一向に聞こえない。露伴はいぶかし気に後方を振り向いたが、そこにいる基樹の身体は一歩も動いていなかった。

 

 

「…おい、なにしてんだ君?」

 

 

「エアグルーヴ…僕の担当ウマ娘が今年の駿大祭は特別だって言ってたんです。それがなにか嫌な予感がして…」

 

 

 

…こいつは何を言っているんだ?自身の意図から外れた、的外れな発言をした基樹に呆れ気味に白目をぐるりと顔を向け、露伴は苛立たし気に言葉を発するのだった。

 

 

 

「おいおいおいおいおい…僕は君のためにこの世界に連れ込まれたんだぜ?君のその予感だのなんだのに付き合わされるこっちの身になってくれよ」

 

 

そう大人気もなく私怨のこもった言葉を投げかけた露伴だったが、ここで議論を展開しても時間の無駄だし、こうしている間にも誰かに姿を見られるかもしれない。露伴は殴ってでも基樹のことを連れて行こうと、彼のもとへと歩み寄ろうと一歩踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて…トレーナー君。いや、こう呼んだ方がいいだろうか…岸辺露伴先生?私に嘘までついてこんな時間に外出とはどんなつもりだい?」

 

 

 

そんなばかな。露伴は壊れたおもちゃのようにゆっくりと声のした方向へと顔を向ける。そこには月明りを背中にして、自身の担当ウマ娘、シンボリルドルフが両腕を腕組して仁王立ちしていた。

 

 

その表情は月明りの逆光によってうかがい知ることはできなかったが、荒々しく動く尻尾や、倒された耳がその激情を端的に表していた。露伴は静かに彼女に対して臨戦態勢をとるが、それに構わずルドルフは言葉を続けた。

 

 

 

「全く躾がなっていないね…君は素晴らしい漫画を描くそうだが、演技に関してはまるっきり三流と評せざるを得ないな」

 

 

 

「…どこで気づいた?」

 

 

露伴は自分の喉から発せられたその声が、ひどく震えていることに気が付いた。心の奥で彼女の圧に臆してしまっている。まさに怒気のいう言葉をそのまま孕んだ彼女の立ち姿に震える露伴だったが、ルドルフはそれを意に介せず徐に口を開いた。

 

 

「トレーナー君…いつもの君であれば、必ず私の洒落に気が付いてくれるんだよ。生徒会室に入ったときから、僅かな言葉のイントネーションや高低、間に変化があってまさかとは思ったが、その時に気が付いた、というのが先程の質問に対する答えだよ」

 

 

そういうと、露伴に向かってルドルフは一歩ずつ、しかし確実に獲物をしとめる捕食者のように彼に歩き詰めていく。自身の身を守るために露伴は身構えると、声を大きく張り上げた。

 

 

 

 

 

 

「 ヘブンズ・ドアー――――!」

 

 

 

 

 

 

しかし待てど暮らせど、自身が待ち望んだスタンドが出現することはなかった。自身の理解を超えたあまりの異常事態に露伴が動揺を隠せずにいると、その様子を満足そうに見つめたルドルフは口を開いた。

 

 

「君が何か不思議な術を使うことは知っている…ずっと画面の向こうから君の姿を見ていたからね…だけどこの世界では、それを使うことはできない。私たちウマ娘に対する、セイフティロックのようなものだよ」

 

 

 

…スタンドを使うことができない、だって?

 

 

 

あまりの動揺に露伴は口を開閉することしかできず、それはすなわち露伴に勝ち目がないこと、そしてこの逃走計画の失敗を意味していた。ルドルフは恍惚とした表情で自身の担当トレーナーの姿を見つめると、その表情とは裏腹な無機質な印象を孕んだ声で彼に声をかけた。

 

 

 

 

「…言っただろう?君を手放すつもりは毛頭ないと…さぁ、おとなしく寮に帰ろう。寮の前までは私が送っていくよ…」

 

 

 

 

その瞳を夜空に浮かぶ月と見まがうほど爛々と光らせて、ルドルフは露伴の肩に手をかけようとする。しかし露伴はせめてもの抵抗でその肩に手を乗せられる寸前に、自らその毒酒をあおるかのように自身の意思のもとで寮に向かって歩みを進めていった。ルドルフはその様子に肩をすくめたが、役目を終えて自身も彼に続いてその場を立ち去ろうとする…しかしその直前、思い返したかのようにその場に立ち止まると、ぽつんと蚊帳の外で取り残されていた基樹に声をかけた。

 

 

 

「さて、君はエアグルーヴのトレーナーだね?今回の不祥事に関しては不問にしようじゃあないか…彼女がそれを聞けばきっと悲しむだろうからね…もう2度とこんなバカな真似はしないように。彼女はとにかく、私の場合洒落は好きだが、二人とも笑いにさえならない質の悪い冗談は嫌いなんだ」

 

 

 

 

そうつぶやく彼女…正確には人間の姿に似た容姿を持った猛獣にその言葉をかけられ、基樹はそれに頷くことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

その反応を見たルドルフは満足そうに微笑むと、再び闇夜に消えていった。一人取り残された基樹が極度の緊張から解放されたはずみでその場にへたり込むと、あたりは再び静寂が支配するのだった。

 



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岸辺露伴は調べない5

最悪の気分だった。

 

 

 

かつてあのくそったれ仗助のせいで自身の家が半焼し、250万円の映画「プリティーウーマン」の中にでてきたものと同じドルクセル・ヘリテイジ社の家具をはじめとした家内のほとんどのものは焼失し、自身のこだわりでビクトリアンエドワード様式にイギリスで加工した建材を用いて建築した家は、元通りの状態に復元するのに結局2000万円以上もの費用がかかったが、その時の気分もこの時の比ではなかった。

 

 

 

自身のスタンドが発現しない。

 

 

この能力を身に着けてこの方、このような事態に陥ったことがない。自身に陥った事態はおよそ予想の範疇を優に超えていたわけだが、明確に一つの事柄だけが分かっている。

 

 

ヘブンズ・ドアーが再び発現できるようにならない限り、奴から…シンボリルドルフの元から逃げることは叶わない。

 

自身のスタンド能力が出現しなければ、人間よりもはるかに身体能力が優れたウマ娘に、ひいては恐らくこの学園に在籍するウマ娘の中でも屈指の周到さと頭脳を誇るシンボリルドルフの追跡を振り切ることは土台無理な話だ。

 

 

 

現に彼女はこの岸辺露伴に、会話の中に釣り餌を仕込むという芸当をやってのけ、ものの見事にその餌に引っかかってしまった自身から、記憶が戻ったことを把握したわけだ。

 

 

 

それでも露伴は、決してこの世界から逃げ出すことを諦めたわけではなかった。

 

 

彼女は僕のスタンドが出現しないのは、「ウマ娘に対するセイフティー・ロック」が作用したからだと言っていた。つまり、そのセイフティー・ロックを管理する何か「制御装置」が存在するはずだ。その制御装置を発見し、無力化することができればこの世界でもスタンド能力を使用することが叶うかもしれない。

 

 

さしあたり目下の行動目標を定めた露伴は、小さくため息をつくと重い扉を開き寮の自室から外へと足を向けた。

 

 

「やぁ、トレーナー君」

 

 

氷のように冷え切った、捕食者の放った一言。

露伴が声の方へと顔を向けると、そこには自身の担当、シンボリルドルフの姿があった。彼女は自身の部屋の扉の隣に腕を組み、寄りかかっていた。彼女はまるで馳走を目の前にしたかのように、およそ学園の長としてウマ娘を束ねる生徒会長とは思えないような恍惚とした表情を浮かべながらゆっくりとこちらに近づいてきた。

 

 

…こいつもやはり僕を。

 

 

「もちろん愛している」

 

 

こいつは読心術かなにかを身に着けているのか?心の中に思い浮かべた疑念の答え、まるで初めから何が質問されるのかわかっていたように口にした。まるで獲物を目の前にした蛇のようにルドルフは隙もなく露伴のもとへと近づくと、ゆっくりと彼の背中に腕を回そうとしたが、その直前に露伴は前に踏み出すことでその行為を拒否すると、彼女に対してらしからず荒々しく言葉を投げかけた。

 

 

 

「…僕をコケにするのもいい加減にするんだな。愛している、だ?そんな一方的な腐りきった感情を押し付けられて、はい受け入れますというわけがないだろう。僕は必ずこの世界から脱出して見せる。」

 

 

 

露伴の怒りを孕んだ決意の言葉にも、ルドルフの表情は露とも変化しなかった。彼女は露伴のセリフを一語一句聞き逃さずに耳を傾けると、徐に口を開くのだった。

 

 

 

「君は少々子供らしいところもあるが、それもまた私が君を好きになったところだ。それに君が元の世界に帰ったとしても、必ず連れ戻して見せるさ」

 

 

 

 

「連れ戻す…?君たちウマ娘はこっちの世界には来ることができないはずだ…できるんだったら、とっくにそうしている。そうだろう?君たちにできることは、精々体の一部をスマホから出すことぐらいだろ?」

 

 

 

それは露伴が立てていた仮設だった。自身はもちろんだが、基樹もこの世界に連れ込まれた時、腕をスマホから伸びてきた手に掴まれた。つまりこの世界と現実世界を自由に行き来できるのであれば、そんな釣りのような面倒な芸当をする必要などなく、寝ているときにでも気づかれないように無理やりこの世界に連れ込むこともできるはずだ。

 

 

露伴がそう指摘すると、ルドルフはわずかに口角を引き上げながら言葉を口にした。

 

 

 

「……確かにトレーナー君の言う通りだ。私たちはこの世界と君たちが元々いた世界の往来を自由に行うことはできない。今君に元の世界に逃げ込まれ、スマホを破壊でもされれば文字通り私たちは君を追跡することはできない……が」

 

 

 

「……それも今だけ、だ」

 

 

 

そうつぶやくと、ルドルフは階段を静かに下りて行った。一人自室の前に取り残された露伴は、先程のルドルフのセリフを思い返した。

 

 

 

「今だけ、だと…?つまり将来的に、この世界の往来は可能になるということか?」

 

 

 

だとすれば、基樹から聞いたエアグルーヴの余裕も頷ける。この世界から自由に現実世界へのアクセスが可能になれば、世界のどこに身を隠そうとも彼女たちは自身の愛する者の追跡をつづけ、その居場所を特定するだろう。

 

 

この世界から逃げるだけではだめだ。世界の往来を可能にするからくりを見つけ、それを阻止しなければ。

 

 

…この岸辺露伴をなめるなよ。

 

 

露伴は決意の炎をその瞳に宿らせると、ゆっくりと階段を下りていくのだった。

 

 

[

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日の出来事が、頭にこびりついて離れない。

 

 

 

露伴先生が目のまえでなすすべなく会長の術中に陥っていくさまを、自身は見ていることしかできなかった。彼女に睨まれた時、僕は文字通り蛇に睨まれた蛙のように身動き一つとる事ができなかった。

 

 

自責の念と恐怖でごちゃまぜとなった心と頭を何とか整理しようと、自分の脚はあてもなく学園内をさ迷い歩いていた。目的などない。少しでもこの鉛のようにのしかかる感情の行き場を探り当てることができれば、それで満足だった。

 

 

やがて気が付くと、基樹は普段出向くことがないような校舎の一角に自身がいることに気が付くのだった。

 

 

…ここは

 

 

そもそもここの世界に来たのは最近の出来事なので、当然ここに訪れたことはないわけだが、不思議とこの場所には見覚えがあった。

 

 

そこは学園の敷地内にある、花壇だった。11月だというのにそこには色とりどりの花が植えられており、そこから発せられる自然の香りが、そこに赴いた基樹の鼻腔を心地よく刺激していた。

 

 

 

そしてそこには、一人の人物が花壇の傍でしゃがみこんでいた。頭には耳の開いたハットをかぶり、首には汗をぬぐうタオル、手には軍手を身に着け、彼女は眼前の花たちの手入れを懸命に行っていた。

 

 

「エアグルーヴ…」

 

 

そこにいたのは、自身の担当ウマ娘だった。いつものように引き締まった顔つきではなく、甲斐甲斐しくわが子の世話をする母のように柔和な顔つきで、丁寧に花たちの手入れを行っていく。

 

 

 

 

――――そうだ。アプリで彼女の育成をするときに、この場面を見たんだ。

 

 

 

目の前の光景に目を奪われていた基樹だったが、やがてフラフラと一歩ずつ、しかし確実に作業を行う彼女のもとへと歩み寄っていく。なぜそうしたのか、その場を立ち去ることもできたというのに。それは基樹自身にもわからなかったが、基樹は自分の意思で彼女に近づき、今度は彼女の耳にも届く声の大きさで彼女に声をかけるのだった。

 

 

「エアグルーヴ」

 

 

その声に彼女は驚きの表情を浮かべこちらを見つめたが、相手が基樹だとわかるとその表情はすぐに緩み、言葉を口にした。

 

 

「…どうして貴様がここに?」

 

 

「ふらふら歩いていたら、いつのまにかここに、ね」

 

 

本当は脳内にこびりついた、昨日の悪夢にも似た夜の一幕から少しでも逃れようと足を繰り出していたわけだが、基樹はその事実には触れず、あえてその行動だけを端的に伝えるに徹した。

 

 

「…そうか」

 

 

 

エアグルーヴはそう返事をすると、再びその視線を花たちに向け、せっせとその世話を始める。しばらくその様子をじっと見ていた基樹だったが、やがて唾を一つ飲み込むと彼女の隣に同じようにしゃがみこむのだった。

 

 

「…?」

 

 

訝し気にエアグルーヴがこちらに視線を送る。まるでなんのつもりだ、といわんばかりに。基樹は自身の横顔に向けられる視線を感じながら、徐に口を開いた。

 

 

「手伝うよ」

 

 

 

そういうと、彼女の見よう見まねで花に手を伸ばそうとするが、その手が触れる瞬間、彼女の叱責が横から飛んでくるのだった。

 

 

「たわけ!何も知らんのに触ろうとするんじゃあない!花を傷つけたらどうする!」

 

 

言われてみれば彼女の言う通りだ。ガーデニングの「ガ」の字も知らない自分がなんとなくで花に手を加えようとすれば、それこそ彼女の脚を引っ張る事に他ならないだろう。

 

 

 

自身の気持ちがあるべき方向ではない方へと向かってしまったことに後悔しつつ、基樹は「ごめん」と一言つぶやき、その場を立ち去ろうとする。

 

 

グイッ

 

 

 

立ち去ろうとしたが、何かに腕を引っ張られる。基樹がその方向へと首を向けると、エアグルーヴが自身の袖を指でつまんでいるのだった。驚く基樹をよそに、エアグルーヴはうつむきながら言葉を口にした。

 

 

 

 

「…な、なにも手伝うな、と言っているわけじゃあないだろう。私が指示を出すから、手伝ってもらっても構わない」

 

 

その言葉に、基樹はまごついた様子で彼女の隣に再びしゃがみこむと、彼女の指示のもと、ガーデニングを微力ながら手伝いを始めるのだった。花たちの間に生えてしまった雑草を引き抜き、元気がなさそうな花のそばに栄養剤を差していく。

 

 

 

「…冬にも咲く花ってあるんだね」

 

 

 

「パンジーやシクラメンが冬に咲く花なら有名だな。だが秋の内に定植させておかないと、根が冬になる前に土に張りにくくなってしまうし、しっかり日光を当ててやらないと花が弱くなってしまうから注意しなければな」

 

 

 

 

彼女の方へと顔を向けると、彼女の顔には土がこびりついていた。熱心にその作業に打ち込んでいた証左に、思わず基樹が頬を緩ませると、エアグルーヴがなんだという視線をこちらに向けるが、基樹は慌てて彼女の顔に土がついてしまっていることを指摘する。彼女は顔を真っ赤に染め上げ、「たわけ…」とつぶやきながら首にかけていたタオルで顔についた土の汚れをぬぐい取るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すべての作業がおわったころには、すっかり日は傾いてしまっていた。

目のまえの色彩豊かな花々を見渡しながら、基樹は一日の仕事の疲れから凝り切った背中と腰を引き延ばしながら、隣のエアグルーヴの顔を見つめた。

 

 

 

夕陽を受けた彼女の横顔が、なんともいえぬ感情を基樹の心の中に引き起こさせる。

 

 

 

「……今日は手伝ってくれてありがとう」

 

 

 

突如、彼女の口から引き絞られる感謝の言葉。それに対して基樹が何も言えずにいると、エアグルーヴは静かに前方の花を見つめながら言葉を続けた。

 

 

 

 

「…ずっと耐えられなかった。うっすらと絶望を目に宿して会社に行き、理不尽な事で上司から叱責を受ける。バランスも全く考慮されていないコンビニの食事を食べ漁って、泥のように眠る生活…」

 

 

 

確かに彼女の言う通り、この世界に来る前の自分の生活は、まさに希望から遠く見捨てられた人生だった。生きるために働いているというのに、外に出るたびに命を少しずつ削っているかのようなあの漠然とした不安。

 

 

「…そしてなにより」

 

 

「…?」

 

 

 

「そんな貴様を画面越しから見ていることしかできない、そんな無力な自分が許せなかった…貴様にとっては私やこの世界はただのアプリかもしれないが、私だって生きている。この花々が生きているように、この世界にいる私も確かに生きているんだ」

 

 

 

彼女たちだって、生きている。

 

 

 

自分でも信じられないことではあるが、彼女に対する恐怖の念の中に、ほんのわずかではあるが信頼とも呼べるような感情が芽生えていることに気が付いた。彼女は純粋な気持ちで、僕に対して接しようとしている。様々な感情が、ないまぜとなった気持ちが彼女に対して向けられており、自分自身でも彼女に対してどのように接していいのかわからなかった。

 

 

 

 

それでもこの世界にずっといたいかと言われれば、決してそうではない。

ずっと僕のことを心配してくれる家族がいる。露伴先生にその身元の捜索を頼むほど心配してくれた弟がいる。

 

 

 

 

相反する感情や想いが混ざり合い、一つの型へと落とし込まれていく。彼女のことを受け入れることはできない。しかしそれでも、彼女のことを拒絶することも僕にはできない。

 

 

 

 

 

「僕には……僕にはわからないよ」

 

 

 

 

そう声を絞り出した基樹はひどく憔悴し、震え切っていた。彼女の言葉を耳に届けることを恐れた基樹は、ゆっくりとその場を立ち去るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜も近づき、夜は一気に冷え込んでくる。露伴は用事を終えて自身の部屋がある寮へと向かいながら、考えを巡らせていた。

 

 

 

―――この世界から脱出する。そして、現実世界へウマ娘たちが往来できるようになるという術を見つけ、それを阻止する。

 

 

 

目下やらなければならないことに頭を抱える露伴だったが、具体的にどのように行動を起こせばいいものか、皆目検討がつかない。完全に手詰まりの状態だった。

 

 

 

 

「……どうやらお困りかな?」

 

 

 

 

突然声をかけられたことに驚きつつ、露伴はその方向へと首を曲げる。そこには一人のウマ娘がたっていた。彼女は笑みを浮かべながらこちらを値踏みするかのようにこちらを見つめていた。

 

 

 

「一体何の用だ……今日の僕は聊か虫の居所が悪い」

 

 

 

「そう無理にことを構えなくてもいいじゃあないか。私はこう言っているんだよ」

 

 

 

 

 

「君を元の世界に戻してやると」

 

 



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岸辺露伴は調べない6

 

 

 

 

 

翌日露伴から呼び出された基樹は、指示を受けた待ち合わせ場所…現在はほとんど使われていないという倉庫へと足を向けた。

 

 

本校舎から離れたとある敷地の一角に、まるで忘れ去られてしまい、時がそこで止まってしまったかのように手つかずの状態でそれはそこにあった。壁は塗装が剥がれて錆が浮き出、屋根はところどころ穴が開き、雨が降ってしまえば室内に容易く降り注いでしまうだろう。恐る恐る扉を手にかけると、鈍い音がするだけでその扉はびくともしない。壁に足をかけることで支点にし、体重を後ろにかけて引っ張ることでようやくその扉は軋んだ音を鳴らしながら反応を見せるのだった。

 

 

 

「やぁ基樹君……彼も来たことだし、それじゃあ話し合いを始めようじゃあないか」

 

 

 

倉庫の中にいた露伴はそうつぶやくと、室内の奥の方へと視線を向ける。そこには二人のウマ娘……一人は鹿毛のセミショートヘアで、澱んだ緋色の瞳を有したウマ娘で、もう一人はエキセントリックな見た目をした、耳や眉の上にピアスを開けているウマ娘、その二人が倉庫の奥で今しがた室内に足を踏み入れた基樹に対して視線を送っていた。

 

 

 

「……露伴先生!?」

 

 

どうしてここにウマ娘が?驚愕の表情を浮かべる基樹を、露伴はその手を上に上げることで制する。あらかじめ彼にこのことを伝えていなかったので動揺するのは無理ないが、今欲しいのは基樹の見解、意見であって、感情をぶつけることではない。涼しい表情を浮かべる露伴だったが、その一方で視線は抜け目なく彼女たちのほうへと注がれていた。

 

 

「……やはり信頼はされていないようだねぇ」

 

 

二人いるうちの一人のウマ娘は仰々しく芝居ががった動作で残念そうに首を振ると、無造作に置かれていたイスに無造作に身を預ける。

 

 

「当たり前だ。お前らはウマ娘。協力してやると急に言われたとしても信用なんてできるはずがないじゃあないか。ここに基樹君を呼んだのはほかでもない、君にもこいつらが信頼に値するのか否か、見極めてほしいからだ」

 

 

 

 

 

……協力だって?

 

 

 

 

ウマ娘である彼女たちが、協力するって?意表をつかれた彼女と露伴の言動にぽかんと口を開いていると、そのウマ娘はニヤニヤと、まるで基樹の反応を面白がるように視線を送りながら口を開いた。

 

 

 

 

「確かに君の言う通りだ……っとその前に、そこの君……安藤基樹君に自己紹介をさせてもらおう。私の名前はアグネスタキオン。そして私の隣でパソコンをひたすらいじる彼女はエアシャカールだ」

 

 

エアシャカールと紹介されたウマ娘は、まるで猛禽類のような獰猛で冷ややかな視線を向けながら露伴に対して荒々しく言葉を言い放った。

 

 

「別にてめーらに協力する覚えはないが、仕方なく手を貸してやろうって話だ。思い上がるンじゃあねーよ」

 

 

どうやら見た目通り、かなり好戦的な人物のようだ。露伴が彼女に負けじと視線を送り返すと、タキオンは静かにシャカールの前に手を差し出して制止を図った。

 

 

 

「シャカール君、今必要なのは協力者だ……お互いにとって利害のあることだし、そう目くじらを立てる必要はないんじゃあないかい?」

 

 

その言葉に、エアシャカールは乗り出した自身の身体を椅子に預け、小さく舌打ちを一つすると再びパソコンへと視線を落とした。露伴と基樹は互いに顔を見合わせると、露伴は徐に口を開いた。

 

 

「君たちは、一体どうして僕たちと協力しようなんて言いだすんだい?その理由とやらを教えてもらおうじゃあないか」

 

 

「……いいだろう。時に君たちは、並行世界という代物についてどう思う?」

 

 

タキオンから発せられた、その一言。唐突に投げかられたその意図を掴みかねるタキオンの質問に基樹は思わず首を傾げたが、露伴は顔に硬い表情を浮かべたまま言葉を口にした。

 

 

「よくSF映画や小説、漫画なんかで取り上げられるあれのことかい?確かに僕も漫画でそのネタで一本描いたことはあるが」

 

 

タキオンはその言葉に口角を引き上げると、衝撃的な一言を口にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「この世界は……ゲームなんかじゃあない。あくまで並行世界の一つなんだ」

 

 

 

 

「……は?」

 

 

 

 

 

この目のまえのウマ娘は一体何を言っているんだ?あまりにも自身の想像を上回る衝撃的な発言に、思わず素っ頓狂な声を上げて口をぽかんと開けた。

 

 

 

 

 

「君たちの世界にもあるであろう学説だが、宇宙物理学の理論の中に「超弦理論」というものが存在している」

 

 

 

 

 

「……素粒子は点ではなく、ひも状であるというあの?」

 

 

 

 

 

「その通り。その学説によって、量子力学の多世界解釈や宇宙論におけるベビーユニバースによってその可能性が模索されていた並行世界の理論づけが行われた。だが、通常君たちのような並行世界の住人が私たちの世界に現れることはもちろんのこと、干渉することや認識することは万に一つない、というのが理だった」

 

 

 

そこで言葉を止めると、タキオンはわずかに視線を落とす。基樹の目には、それがまるで彼女がこれから先のことを話すことについて覚悟しているかのように映った。

 

 

 

 

「……だが、神のいたずらか。それとも三女神の思し召しというやつか。その万に一つない出来事が引き起ってしまったというわけだ。あるアプリ……君たちの世界で流行しているというそのアプリが、こちらの世界と君たちの世界を繋げる橋渡しのような役目をになうことになってしまったわけだ」

 

 

「それがウマ娘プリティーダービー……」

 

 

 

天文学的な、万に一つありえなかった可能性。ただのゲームのアプリだと思われていたそれは、実は並行世界を覗き込む役割を果たしていたというのだ。いかにもフィクション作品にありそうな設定ではあるが、自身の身に起こっていることが紛れもない証左であった。タキオンは衝撃を受けている二人の様子を見据えながら言葉を続けた。

 

 

 

「実を言うと、君たちの存在……並行世界に存在するトレーナーを認識しているのは、この世界の私たちだけで、他の並行世界の中の私たちが、君たちのことを認識しているかと言われれば、それは否であると言えるだろう……ある特筆すべき特徴を有した、ある一定の地域においてアプリをしているものに対してのみその存在を認識しているということが私とシャカールの調査によって分かった。」

 

 

 

「……それはつまり、どういう……?」

 

 

 

彼女の口にしたことを半分も理解することができなかった基樹は、咀嚼して話を聞かせてもらおうと言葉を口にするが、その言葉に横やりをいれたのは、意外にも露伴だった。

 

 

 

「……サーバーだよ、基樹君。ゲームというものにはそれぞれ地域によってサーバーというものが存在することがある。全国、いや世界のやつらが一斉に同じサーバーにアクセスしたんじゃあとんでもないことになるからな。つまり、僕らがやっていたアプリのサーバー…そしてこと杜王町でそのアプリをやっているものに対してのみ彼女らがその存在を認識しているってわけだよ、わかったか?」

 

 

 

 

その先程のタキオンの説明よりも幾分かわかりやすいその説明に基樹が頷いたことを確認すると、露伴はタキオンに視線を戻した。一体どうしてこの世界に自分たちが紛れ込んでしまったのか、という疑問は払拭されたわけだが、いまだに解明されていない疑問が存在することもまた事実だ。

 

 

 

「お前の説明で言いたいことは分かった……だが手を貸すかどうかまた別の問題だ。一体どうしてお前たちは僕たちに手を貸すんだい?」

 

 

 

「良い質問だ」

 

 

 

 

タキオンは目を細め、こちらに向き直り、シャカールはパソコンを閉じ、イスからすくっと立ち上がる。一体どうしたのかと勘繰る露伴だったが、その静寂は言葉を発したシャカールによって打ち破られることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前たちをこの世界に引きずりこんだ……その手法を考え出したきっかけになったのがオレたちだからだ」

 

 

 

 

 

 

「……なんだと?それは一体どういうことだ?」

 

 

 

 

 

「…おまえたちの世界を認識できるようになった矢先、私たちは依頼されたンだよ。オレたちにトレーニングの下知を飛ばす、眼前に浮かび上がるスクリーンは一体何なのか。そしてその向こう側にいる奴らは一体何者なのか……オレとタキオンにはまだ担当がついていないし、授業にも真面目に出席するタチじゃあねーから、これくらいの務めは果たせということだったンだろうがな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そしてその過程で画面の向こうに表示されるのが、「並行世界」のものだってわかったンだ。このとんでもねぇ事実をどうするべきか考えたが、オレたちはその膨大な情報量を処理するためにAIソフトを作成してその調査にあたらせたわけだ。そしたらそいつが見つけちまったんだよ……この世界と並行世界とを僅かではあるが干渉できる方法を…つまり手を伸ばしてお前らの身体を引っ張り込むくらいの僅かな方法を」

 

 

 

 

 

なんということだろうか。自身の窮状を作り出した元凶ともいえる人物が目のまえにいる。立て続けに発せられるあまりにも衝撃的な事実に言葉を失っている二人だったが、タキオンは徐に口を開いた。

 

 

 

「そしてそのことを私たちは依頼主に報告した……そしたらどうなったと思う?翌日私の研究室やシャカール君の部屋に奴らが来て、その事項に関するすべての事物を押収してしまったんだよ。「君たちは日頃危険な活動をしているから、その調査をさせてもらう」と言ってね。その時にAIをインストールしたPCも、AIによって見つけられた並行世界への干渉を可能にする術も、すべて持ち去られてしまったわけだ」

 

 

「ま、まさか……君たちに依頼して、そのすべてを横取りしたのって……」

 

 

「君の想像通りだよ」

 

 

 

タキオンはうつむきながら同意の意を示すと、徐に口を開いた。

 

 

 

 

「……君たちの担当ウマ娘。すなわち、生徒会の連中さ」

 

 

 

 

シンボリルドルフをはじめとした生徒会の面々。この世界ともう一つ別の世界が存在して、自分たちのトレーナーがその世界の住人だったと知った彼女たちは、恐らくタキオンとシャカールに調査を依頼した時点で、並行世界への行き来を可能にする手段が見つかった時点でそれを押収する算段だったのだろう。

 

 

 

 

「……あのAIは利口なやつだ。オレ達の手から離れた今も奴は並行世界のことを探求し続ける。いずれAIは完全に並行世界に行き来できる方法を探り当てる。それまでにAIをとめなければ、とんでもないことになっちまうだろう」

 

 

 

 

ルドルフが言っていた余裕はこれに由来している、といったところだろう。既に開発者であるタキオンたちの手を離れたはずのAIは、自律的に学習、発展しその術を今この時も探し続けている。

 

 

 

 

 

「も、もし元の世界への行き来が可能になったら、一体どうなるって言うんですか……?」

 

 

 

「……わからねぇのかよ?ウマ娘たちは本来、思いが強い生き物だ。そんなやつらが生身のトレーナーに会える方法があると知ったらどうなると思う?」

 

 

 

恐らく杜王町は……そしてアプリをやっている人々の安全を保障することはできないだろう。恐るべき事実に言葉を失ってしまっていた露伴たちだったが、やがて露伴は彼女たちを見据えると、言葉を口にした。

 

 

 

「……それで?君たちはどうしてそれを止めたいっていうんだい?まさか罪悪感でも覚えたクチか?原子爆弾を作ったオッペンハイマー博士のように」

 

 

 

「……これは私たちの思い描いた…「ウマ娘が走りたい衝動そのままに、その身を焦がす」という世界から逸脱してしまっているからだよ。私やシャカール君は、いわばその思いを胸に日夜研究なり分析を行っている……それを狂愛なんてもののために、貴重な実験材料であるウマ娘たちがそのことから目を背け、自身の欲望をぶつけるなんて、私たちには耐えられないんだよ」

 

 

 

 

それは、ウマ娘としての切なる願いだった。自身の愛に身を任せ、ウマ娘たちが並行世界へと足を繰り出せば、ウマ娘としての「走る」という、ある種生存意義そのものが薄まってしまう。それをタキオンたちには耐えられないということだろうか。

 

 

 

 

 

「……いいだろう。気に入った。協力してやるよ」

 

 

 

 

 

常人である基樹には聊か理解しがたい理由だったが、こと岸辺露伴にとっては、それは首を縦に振るには十分たる理由だった。同じく探求者として、彼女たちに対して理解ができる、または敬意を払ったということだろうか。露伴は両腕を組むと、言葉を続けた。

 

 

 

 

 

「それで?その完成はいつなんだ?」

 

 

 

 

 

「……数日後の駿大祭。その日にAIは並行世界へ行き来する術を完全に発見するはずだ。AIの入った機器に接触できるのは、後にも先にもその時だけだ。そこでAIを完全に破壊して、奴らの陰謀を阻止してやる」

 

 

 

 

 

「……いいだろう。乗ってやる。それじゃあ作戦を練ろうじゃあないか」

 

 



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岸辺露伴は調べない7

 

 

 

 

 

 

タキオンたちから衝撃的な話を聞かされた次の日。

 

 

 

 

 

 

基樹の学園へと向かう足取りはひどく重く、まるで足枷をつけられたかのようにその一歩一歩がひどく億劫に感じられた。

 

 

 

 

 

――ここはゲームの世界じゃあなく、並行世界の一つ。

そうだとしたらエアグルーヴの言う通り、彼女たちはまさしく「生きている」ということにほかならず、彼女たちは自分たちの意思に基づいて自分たちをこの世界に連れ込んだということに他ならない。

 

 

 

 

 

頭の中ではわかっているつもりだった。それでも何処かでこの世界は何処かフィクションか夢か……そんな世界で、いつかひと眠りしたら元の世界に戻っているような、そんな淡い期待を抱いてしまっている僕がいた。

 

 

 

 

 

「……貴様一体どうした?」

 

 

 

 

 

 

「なんでもないよ…ちょっと疲れているだけだよ」

 

 

隣からこちらの顔を覗き込むエアグルーヴに悟られないように、基樹は努めて笑顔を保つ。この脱出計画は、他言無用の秘密事項だ。あの場にいた僕と露伴先生、協力者のアグネスタキオンとエアシャカール以外に計画のことが漏れるわけにはいかない。

 

 

 

 

「そうか……今日は坂路トレーニングを見てほしい。構わないな?」

 

 

 

 

完全には基樹の言ったことに納得しているわけではないようだが、この場で問い詰めたとしても埒が明かないと判断したのだろう、エアグルーヴはいつものようにその日の予定を共有し、その仔細を基樹に伝えていく。

 

 

 

 

 

 

 

「……そしてトレーニングを終えたあとだが、いつものようにガーデニングを手伝ってほしい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの出来事から、エアグルーヴのガーデニング作業を手伝うようになった。彼女は学園の敷地内の花壇に植えられている花の管理を率先して一手に担っており、その人手が足りないこともしばしばある。そのためか、それから彼女の手伝いをするようになったという経緯がある。基樹が同意の意を示すために首を縦に振ると、エアグルーヴはその頬をわずかに緩め、言葉を続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そ、そうか…それじゃあ準備はこちらでするから、動きやすい服装で来い。場所はA棟付近だ」

 

 

 

 

 

 

少々険しい口調であることは間違いないのだが、彼女の顔を見れば僕のことを気遣ってくれていることは紛れもない事実である。それもこれも、彼女が自分で口にしたように「僕を愛しているから」、という理由に尽きるのだろう。

 

 

 

 

 

 

……こうしてみると、僕とエアグルーヴは普通のありふれたトレーナーとウマ娘の日常の一幕にしか見えないだろう。彼女との日常が、決して退屈だというわけではない。元の世界の、生きるために働いているというのに、何処か少しずつ歯車が狂っていくような…少しずつ命が削られていくあの心地はここでは感じない。「自分らしく」生きているのはどちらか、と問われれば、僕はその答えに窮してしまうことは間違いないと思う。

 

 

 

 

 

 

……それでも。

 

 

 

 

 

このままここに居続けていいのか、と問われれば。

それは否であると答えざるを得ない。僕の存在は、この世界の中では違和感そのものだ。目の前のことから逃げて、この世界に逃避し続けるわけにはいかない。

 

 

 

 

 

僕のことを待ってくれる家族がいる。僕の帰りを心配し、露伴先生にそのことを伝えてくれた大切な弟が待っているんだ。

 

 

 

 

なんとしてもこの世界から脱出して、家族の元へと帰る。決意の意思を宿らせた基樹の瞳は、力強く道の先へと注がれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坂路でのトレーニングを終え、その日のタイムやフォームといった主観的要素、客観的要素を問わずデータをPCに打ち込み、その分析を行ったのち、基樹は動きやすい服装で、とのことだったのでジャージに着替えると、エアグルーヴから指示を受けた場所へと足を運んだ。

 

 

 

 

「お待たせ、エアグルーヴ」

 

 

 

 

既に彼女は目的地に着いていて、こちらの掛け声に顔を向ける。頭にはいつもの様相からかけ離れた麦わら帽子をつけていたが、それがいつもとギャップを生じさせ、基樹の心臓を不規則に打ち付けた。エアグルーヴはこちらに顔を向けたまま言葉を口にするのだった。

 

 

 

 

「いや、私も今来たところだ。それじゃあ始めよう」

 

 

 

 

 

花壇の脇に立てかけられた麻袋からスコップと軍手を2組取り出すと、それを1組彼女に手渡す。エアグルーヴもそれを受けとり軍手を両手にはめ込むと、特に何か言うこともなく作業を開始した。それを見届けた基樹は花を踏まないように注意を払いながら花壇に足を踏み入れると、それに倣って作業を開始したのだった。

 

[

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生徒会室で、岸辺露伴は自身の命が皿の上に配膳されたステーキのごとく、他者にその与奪を握られていることを実感していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

…全く災難ばかりじゃあないか

 

 

 

 

 

 

 

 

露伴は目のまえの自身を食らわんとよだれをたらしそうなほど欲望を孕んだ瞳を向ける人物へと視線を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全く……君はいつになったら愛想よくなってくれるというんだい?」

 

 

 

 

 

 

檻の中で、牙を研ぐ猛獣は既に飢餓寸前だった。目の前には思い焦がれ、待ち続けた馳走。それなのにその馳走は一向にこちらを見ようとすらしない。彼女の忍耐は、既にねじれきれる寸前だった。理性も絶え絶えになりながら、まるで地底でマグマが蠢くように激情を孕んだその一言に、辺りは瞬く間に静まり返ることになった。

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 

目のまえでその目を爛々と光らせ、必死に大口を開けようとするのを、僅かに残留した理性で押しとどめる猛獣もとい自身の担当ウマ娘、シンボリルドルフに目をやりながら、自身の身に置かれた状況について考えを巡らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

どうやら臨界点が近づいているようだ。

そもそもこいつは、研究者だったタキオンたちからAIやそれに関する仔細を全て無理やり取り上げ、元の世界から自分たちを引っ張り込んでくるほどの衝動を持っている。そんなやつがご馳走にありつくこともできず、目のまえでずっと「お預け」を食らってしまっているわけだ。大人しくずっと我慢なんてできるはずもない。

 

 

 

 

 

「……心づもりが必要だったんだ」

 

 

 

 

 

これで彼女が退くか、それは大きな賭けだった。肉を切らせて、骨を断つ。最もこの場合、相手の骨を断たせるわけではなく、相手の食指が少しでも動きを止めてくれることを期待しての発言だった。

 

 

 

 

 

もう外に出てしまった発言は取り消せない。覚悟を決めた露伴は前方を見据えると、臆することなく言葉を口にした。

 

 

 

 

 

 

 

「君の愛を受け入れる、その心づもりが必要だったんだ。だが、それも大丈夫……あと数日で君の愛は必ず受け止めてみせる。そうだな、駿大祭の時に必ず」

 

 

 

 

 

 

その言葉に、ルドルフのにじり寄っていた足はぴたりと動きを停止させた。目の前の愛する馳走が放ったその香りをまるで咀嚼するように堪能すると、ルドルフは徐に口を開いた。

 

 

 

 

 

「……それは本当かい?」

 

 

 

 

 

 

「……この岸辺露伴に二言はない」

 

 

 

 

 

 

 

 

それはルドルフにとって、歓喜の瞬間だった。私の、私だけの愛する人がこちらに目を向けてくれるという。私の顔は今、はしたなく狂愛に歪んでしまっているだろう。だが、それももう構うまい。彼は私を受け入れるとその口で言った。これぐらいの粗相は大目に見てほしいというものだ。

 

 

 

 

 

「ふふ……楽しみにしているよ。承ったよトレーナー君。待とうじゃあないか。欲しいものは苦労した分だけ手に入れる甲斐があるというものだ。」

 

 

 

 

 

 

私は常日頃、すべてのウマ娘の幸せを切に願っている。駿大祭で、すべてのウマ娘が愛する者のそばで、自分の想いをもとに願いの丈をぶつけることができる。そしてなにより。

 

 

 

 

……私も幸せになってしかるべきだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕陽もおよそ沈みかけた時、ようやくその日の作業を終えた二人は、今日の作業の証である眼前に広がる花壇を見渡した。

 

 

 

 

 

 

色とりどりに彩られた花々が、その美しさを存分に発揮することができるように巧みに配列されている。これも偏に花に対するエアグルーヴの思いやりの賜物であろう。その花々を一瞥したあと、基樹は彼女へと顔を向けながら口を開いた。

 

 

 

「……お疲れ様、エアグルーヴ」

 

 

 

「あぁ……貴様もな」

 

 

 

そう口にすると、その場には再び静寂が流れ込んでいく。一日の終わりを示唆する夕陽を受けて、ものいえぬ達成感と寂寥感に浸っている二人だったが、その静寂を打ち破るかのようにエアグルーヴは口を開いた。

 

 

 

 

「貴様は……この世界に来てどうだ?やはり、やはりいたくないと感じるか?」

 

 

 

 

 

彼女も不安を抱いていたんだ。この生活に、僕をこの世界に留めおくことに罪悪感と疑念を抱き始めている。

 

 

 

 

 

「……確かに前の世界に比べたら、僕は僕らしく生きているって言えるのかもわからないよ、エアグルーヴ。もうあんな会社に勤める必要もないしね」

 

 

 

 

「だ、だったら……!」

 

 

 

 

「でもね」

 

 

 

 

その言葉を制止する。これは、僕の意思だ。彼女には、僕の思いを知って欲しい。

 

 

 

 

「今の状態は、やっぱりいいとは思えない。僕にも家族がいる。帰りを心配してくれる弟がいるんだ……それになにより」

 

 

 

 

「僕の知っているエアグルーヴは……僕が隣で見てきた女帝は、目標のために気高くターフを駆けるエアグルーヴなんだ」

 

 

 

 

目を覚ましてほしい。

僕が見てきたのは、僕が支えてきたのは決して、決して私利私欲のために他者を犠牲にして、ウマ娘としての誇りをないがしろにするような暴君じゃあない。

 

 

 

 

僕が支えられたのは、自分にも周りにも厳しくて、でもそれは自分が女帝であるためで……そんな誇り高く生きている女帝・エアグルーヴなんだ。

 

 

 

 

僕が、僕が……

 

 

 

 

「……どうか踏みとどまってほしい。だって君は僕の大切な……大切な愛バだから」

 

 

 

 

土がこびりついた軍手を取ると、用具の入った袋の中に静かにしまう。基樹はズボンの膝についた土埃を払いながら花壇を下りると、その場を立ち去る前に自身の担当ウマ娘の顔を一瞥する。

 

 

 

 

 

 

彼女の表情は、うつむき夕陽が彼女の顔に影を落としたせいで窺い知ることはできなかった。今彼女の顔を覗き込むことは、いささか野暮というものだろう。基樹は背中を向けて帰り支度を始めた。

 

 

 

 

……彼女の心次第だ。

 

 

 

 

 

脱出が成功するにせよ、しないにせよ。これだけは伝えておきたかった。駿大祭がひとたび始まり脱出のための作戦が始まってしまえば、彼女と落ち着いて話す機会など最早ないに等しいだろう。あるとすれば、作戦が失敗して僕が罪人として彼女の眼前に晒し上げられるその時だけだ。

 

 

 

 

 

言いたいことは…彼女の心に伝えたいことは全て伝えることができた。本懐を遂げた基樹は静かにその場を立ち去る。後には彼女だけが残り、僅かに冬の色を宿した悲風が吹くだけだった。

 

 

 

 

 

 



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岸辺露伴は調べない8

 

 

 

 

 

 

薄い皮の膜である瞼の裏から光を感じ、その目をゆっくりと開く。何度夢であってほしいと願った景色。何度夢か現か、その境界を見定めるのに時間を有した、そんな景色。基樹は芋虫のように鈍い動きで机が傍に据え付けられたベッドから這い出ると、その目覚め切っていない意識を少しでも早く覚醒させるためにいそいそと洗面台へと向かっていた。

 

 

 

途方のない旅かとも錯覚するほどの距離。洗面台にたどり着き、蛇口をひねると絞り出るように口から水が吐き出されていく。顔にその水を掛けようと両手で皿を作りその水の中に突っ込む。自分が予想したよりも遥かに低い水温に素っ頓狂な声を喉からひねり出しながら水で顔を拭うと、手探りで傍にかけてあったタオルを探り当てると、それで顔についた水滴を拭い取った。

 

 

……外から感受する情報や常識と、今まで生きてきた身体や頭の「慣れ」が引き起こす齟齬も、大分薄まってきた。人間とは慣れる生き物だ。今までの世界の常識から乖離した現状にも、少しずつではあるが生物として順応し、元の世界のように生活しようと感覚が徐々に擦りあわされているのを実感できる。

 

 

僕もこの世界の住人として、少しは板についてきたと言えるのではないだろうか。

 

 

 

そんなことを漠然と思いながら身支度を整え、玄関の扉に手をかけて外の世界へと足を繰り出す。扉を引き開けた瞬間に外気が室内に差し込まれ、頬を鋭く刺し、そして流れていく。

 

 

そしていつもの通りであるなら……

 

 

 

「……おはよう。今日は寝坊せずにしっかりと起きられたようだな」

 

 

 

 

健気に扉の前で待ち続ける自身の愛バ。

この姿にもこの世界にやってきた当初の僕であれば、素っ頓狂な悲鳴を上げていたことだろう。だがもう毎日彼女がやってくるということを脳が認識した以上、同様に慣れというものは訪れるというものだ。

 

 

 

 

「……あぁ、いこうか」

 

 

 

 

彼女を隣に連れ立って、寮から外へと足を繰り出していく。寮からトレセン学園に向かって続いている道を二人で並んで歩いていくと、やがて彼女以外のウマ娘たちの姿もちらほらと散見されるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

秋も深まり冬の訪れを感じる11月。

東京都の西側に位置する府中の一角にあるとされているここ「日本トレーニングセンター学園」の朝は、いつもの様子とは少々毛色が異なるように見受けられた。

 

 

 

何処か彼女たちと表情に、興奮と期待が見受けられる。まるで学園祭の当日で浮足立つ生徒たちのように……実際のところ、この表現はあながち間違いではないと言えるだろう。今日はこのトレセン学園の生徒たち、引いてはすべてのウマ娘たちにとって「大切」な一日であるということができるのだから。

 

 

 

 

だがそれは同時に、基樹や同じくこの世界に連れ込まれた岸辺露伴にとって最悪を意味することでもあった。今日というこの日……ウマ娘たちが心待ちにしていた今日この日は、自分たちにとってはこの世界と自分たちが元居た世界とがつながってしまうという最悪の一日だった。AIによってその手立てが見つかってしまうのも、もはや秒読みとなっている。そしてその事実は、自分を含めてまだ数人しか及び知ることのない事実だった。

 

 

 

まるでこれからクラス内の全員が揃って先生から大目玉を食うことを予め立ち聞きしたことで知ってしまったような気分だ。

 

 

 

トレセン学園にたどり着くまで、僕たちにはこれといって会話という会話はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

…あの日からずっとそうだ。

 

 

 

僕が彼女に対して思いのたけを吐き出したあの日から。彼女と僕との間には会話という会話が存在していなかった。気まずいとしか形容しがたい空気だけが、ひたすらに二人の間に満ち満ちている。彼女のもどかしそうな表情を見ることはどうにも居心地の悪い気持ちだったが、かといってこの空気を打ち破るすべも、そして勇気も度量も今の僕には持ち合わせていなかった。

 

 

 

ウマ娘には人間と比べると、非常に強い「想い」をもってこの世界に生まれ落ちてきた存在だとされている。その想いが慕情へと向けられ、一度タガが外れてしまえば、その際限は底なし沼のように果てしないものであると言わざるを得ない。

 

 

 

 

そしてそれは目のまえのウマ娘、エアグルーヴも例にもれずそんなウマ娘の一人であるといえる。彼女も生まれ落ちた性に身を任せて、この世界に愛する存在だという「僕」を引っ張り込んできたのは紛れもない事実だ。

 

…それでも。それでも彼女には迷いが生じている。これで本当にいいのか、本当にこのままのやり方が正しいのかという「女帝」として、そして「トレセン学園生徒会副会長」として…そして「愛する者を心の底から想う者」として。彼女は懸命に戦っている。心の中でうごめき、いつ心の中で爆発するかわからない「性」を抱えて、懸命に戦っているのだ。

 

 

 

やがて校舎の前に二人はたどり着く。基樹はゆっくりとエアグルーヴの方へと顔を向けると徐に口を開いた。

 

 

 

「……それじゃあエアグルーヴ。君は運営で忙しいんだろう?」

 

 

「……あ、あぁ」

 

 

 

 

エアグルーヴの顔を見れない自分が情けない。彼女の顔を見てしまえば、せっかく心の中で決した決意がハリボテの代物に早変わりしてしまいそうだ。基樹は校舎に彼女が姿を消したことを確認すると、ある方へと向かって歩みを進めていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やぁエアグルーヴ。息災かい?…と聞きたいところだが、君のその様子じゃあなかなか気持ちは晴れていないようだね」

 

 

 

皮張りの荘厳な装飾が施された一人掛けのイスにその身を預けながら、皇帝・シンボリルドルフは来室したエアグルーヴをもてなした。エアグルーヴは彼女の許可に促されるままに応接用のソファに身体を落とす。その様子に視線を送りながらも、ルドルフはその顔に笑みを深々と刻み付けて言葉を続けた。

 

 

 

「今日はウマ娘たちの、ウマ娘たちによる、ウマ娘たちのための祝祭…囃子の音に合わせて神輿が往来を行き、美しき舞は日頃私たちを見守る三女神様に捧げられ、流鏑馬の矢が厄を払う。そんな誉れ高い祭り、「駿大祭」をこのトレセン学園で開催することができる。…そしてなにより」

 

 

 

「私たちの悲願『平行世界への往来』が可能となる、そんな素晴らしい一日だ。この学園にいるすべてのウマ娘たちが自分の愛するものの元へ行ける…画面の向こうでただ見つめるだけではない、その手に、肌に触れることができる…そんな一日だ。有頂天外ここに極まる一日に、君は一体どうしてそんなに気を落としているというんだい?」

 

 

 

その言葉にエアグルーヴは顔を上げる。その顔は悲痛と苦悶に満ちた、そんな顔だった。彼女はまるで砂漠の中で一滴の水を求めるように口を開いた。

 

 

 

 

「……すみません。ただ、思わずにはいられないのです。私たちのやっていることは、果たして正しい行いと言えるのでしょうか?今さらになって後悔しているんです…私たちのやろうとしていることは、そしてやってしまったことはこの世界の理を度外視した、あまりにも独善的な行為なんじゃあないかと…」

 

 

 

「………」

 

 

 

その言葉を吐き出した後、エアグルーヴは言葉と共に吐き出された感情の行き場を求めて視線を下へと向ける。しばらくしても対話の相手であるシンボリルドルフからの返事が返ってこない。そのことに疑念を抱いたエアグルーヴは恐る恐る、まるで地雷が敷き詰められた野原を注意深く歩くかのように顔をルドルフの方へと向ける。

 

 

 

「……ヒッ」

 

 

 

 

その顔には満面の笑みが張り付けられていた。まるで停止画のように、希代の芸術家が私怨を込めて描き上げた1枚の絵画のように、その満面の笑みをぴくりとも、皺ひとつ動かすことなくエアグルーヴの方へと向けられていた。

 

 

「……ありがとう、エアグルーヴ。君の心の痛みはよくわかった。確かに私たちのやっていることは、倫理的に言えば間違っていることなのかもしれない」

 

 

 

「だがどうだろう?私はこの学園の生徒会の会長として、そして皇帝として「ウマ娘」の幸せについてこんな深く思っている。そんな私が、「ウマ娘」である私がはっきりと言えることが一つある…それはね」

 

 

 

「私は今、とても「幸せ」だということだよ。愛するものが手に届く距離にいる。これほど幸せなことってないだろう?ならば伝えたいんだ。この幸せをみんなに。みんなに分け与えたいんだよ」

 

 

 

「ですが…ですが会長…!もしもウマ娘たちがこの世界から遠ざかり、その性に身を任せてしまったら…!もう「走る」ということは……私たちのウマ娘たる意義が……!」

 

 

 

自分でも今さらこんなことをのたまっていることに可笑しさを覚える。女帝である本来のあるべき姿を放り出して、自分の欲望のままに行動をしておいて今さら何を言うのか。それでもエアグルーヴは尋ねずにはいられなかった。自分の心の中に生じた迷いを、そして後悔を吐露せずにはいられなかった。

 

 

 

エアグルーヴが食い下がっても尚、シンボリルドルフの表情には微塵の変化も訪れなかった。まるで風を受けたくらいではびくともしない大木のように、彼女はエアグルーヴに視線を向けたまま言葉を続けた。

 

 

 

「……確かにそうだな。だがねエアグルーヴ」

 

 

 

 

「これ以上に幸せなら、私はほかに何もいらない。それはきっと他のウマ娘たちにもいえることなんだよ」

 

 

 

彼女は分かっているようで、全く理解していない。否、すべて自分の都合の良い方向へと歪曲した解釈になってしまっている。そこには、目には見えない大きな壁が隔てていた。

 

 

 

…そこには、私が憧れた、私が隣で支え続けたいと願った「皇帝」シンボリルドルフの姿はなかった。そこにいるのはただ一人。自分の醜悪な欲望に身をゆだね、その業火が自分や周囲を燃やしつくすまで動きを止めない「暴君」だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……というわけでこれが作戦だ。合図があったら各々の持ち場で役割を果たしてほしい」

 

 

 

暗がりの中で先程まで机に広げられた大きな紙を、絵巻のように巻き取りながら彼女、アグネスは言葉を締めくくった。この説明は前回も行ったものとまるで同じものだったが、この作戦、「トレセン学園の未来を救う作戦」について、デモンストレーションは行うことはできない。すべてがぶっつけ本番だ。実際に作戦を実行すれば、計画にはなかったアクシデントが発生する可能性は極めて高い。

 

 

それでも私たちは、この作戦を成功させなければならない。作戦にはなかったことが起きれば臨機応変に対応して、お互いがお互いに協力し合ってこの作戦を成就させる必要がある。

 

 

「それじゃあ時間が近づいたら君たちは持ち場について、それぞれの役割を果たしてほしい」

 

 

 

そう言ってタキオンは部屋を後にしようとする。作戦の決行までに、まだやらなければならないこともある。その準備を早々に済ませてしまおうと席を立つタキオンに、シャカールは言葉を投げかけた。

 

 

「今さらながらに思うけどよぉ~、この作戦。随分と穴だらけなもンだなぁ~?成功の確率は、オレの計算だと10パーセントにも満たない。それでもやろうってンのかよ?」

 

 

 

「……確かにこの作戦には各々の行動が相互関係的に成り立っている。言い換えれば私たちの誰一人として欠けることは許されないわけだ。だが、それがどうしたと言うんだい?そんな奇跡、私たち「ウマ娘」は何度だって引き起こしてきた。今さら確率だのなんだのって口にするのは酔狂なものだよ。我々が今からやろうとしていることはもっと酔狂なことなのだから」

 

 

「…ハッ。ロジカルじゃあねーな。だが今回ばかりはタキオン、てめーの言う通りだ」

 

 

 

 

「……今さらながらだが、二人ともありがとう。君たちが協力してくれなければ、僕たちはこの世界から脱出の機会を得ることはなかった」

 

 

 

その言葉に、室内にいた3人…タキオンとシャカール、基樹は驚愕の表情を浮かべて声を発した人物、岸辺露伴へと顔を向けた。本来であれば彼はやすやすとお礼を口にするような人間ではない。傲岸不遜にわが道を歩み、自分の足元に転がり込んだ幸運はすべて自分の行動のおかげであると思うような、そんな人物だ。

 

 

まさかそんな彼がそんなことを口にするとは。あんぐりと口を開ける3人をよそに、露伴は徐に口を開いた。

 

 

 

「この作戦が成功したとしても、失敗したとしても君たちはルドルフからの誹りを免れることをできないだろう。君たちは僕たちがいた世界に来るわけじゃあないからな」

 

 

 

その言葉に、基樹はハッとする。彼女たちはいわば裏切り者。自分たちが元の世界に戻れたとしても、彼女たちはこの世界から脱出できるわけではない。鳥籠から大切な鳥を逃がし、あまつさせそれを取り戻す術を奪ったとなれば、彼女たちの処遇がどうなのかは想像に難くない。

 

 

 

「…御心配ありがとう。だが大丈夫さ。今皇帝殿はご乱心だ……その目を無理やりにでも覚ますのも目的の一つだ。ウマ娘の上に立つ彼女が色恋に感けていたとなれば、今はまだしもいつかは必ず齟齬が生じる。露伴先生たちが元の世界に戻れば、彼女も覚めない夢はないことを否が応でも理解するはずだ」

 

 

 

「オレ達は元々問題児……しょっ引かれることなンざ慣れっこなンだよ。余計な心配をスンじゃあねーよ」

 

 

 

眼前でそう軽口を叩く彼女たち。しかし、彼女たちの瞳の奥には確かな覚悟と、僅かではあるが、確かに存在する恐れが窺い知れた。彼女たちもこの作戦が終わったのちのことを覚悟している。それでもなお、必ず煮えたぎる大釜へと突っ込むことが分かっていたとしても、彼女たちは覚悟しているのだ。「走りたい」という、ただそれだけの、しかし誇り高いその夢に掛けているのだ。

 

 

 

「……ありがとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

囃子の音が遠くからこだまし、人々の喧騒が鼓膜を支配している。トレセン学園は、いつもとは様相が異なり、露店や出し物が並んでいてウマ娘たちはその顔に笑顔を浮かべてその光景に心奪われている。

 

 

駿大祭。これまでターフの上で走り続けられていることに感謝し、そしてこれからのレースでの勝利、そしてターフの上でこれからも変わらずに走り続けられることを三女神に願う、そんな想いが込められた祝祭らしい。

 

 

だがそんな類の願いが込められているはずの祭りも、時間がたてばそんな崇高な想いなど風に吹かれて錆が浮き、形骸化されてしまうものだ。

 

 

ましてやそんな願いがこめられていたはずの祭りが、熱狂的な、歪んだ愛の坩堝としてその姿を変容させようとしている。そんなことが許されるはずがない。外の浮足立つ様子を窓越しに静かに見つめながら露伴は時計へと視線を移した。

   

 

 

 

「時間だ」

 

 

 

既に時刻は17時を回っていた。予定されているタキオンの合図までもうすぐだ。露伴は身支度を整えようとすると、突然背後の扉が開かれる音が室内に響き渡った。

 

 

 

「トレーナー君。どこに行こうと言うんだい?今日は私たちの愛が成就する、そんな素晴らしい日だというのに」

 

 

……見誤った。彼女は今日という日を心待ちにしていた。自分の歪んで捻じれ、焦がれに焦がれて持て余した愛情を、受け入れると約束した期日。

 

 

 

「……せっかくの駿大祭だ。ちょいと様子を見ようと思ってね。ルドルフ、君も流鏑馬に出ると言っていたじゃあないか。それも見たい」

 

 

 

ルドルフはその言葉に返事をすることなくゆっくりと、しかし着実に露伴のもとへと近づいていく。そして彼の背中に近づくと、その腕を彼の身体に回すのだった。

 

 

 

端から見ればその行為は愛を確かめる恋人のようにも映る。しかし、その当事者である彼からすればこれは捕食行為のなにものでもなかった。返事を返すこともできず、息をひそめる露伴だったが、その瞬間自身がすでに身動きがとれないことに気が付いた。

 

 

 

 

カチャ

 

 

 

 

 

 

 

自身の腕に視線を落とすと、そこには手錠がつながれていた。自身の手に片方の輪がつながれ、もう片方の輪は机の脚に繋がれている。自身の身に起こった異常事態に絶句している露伴をよそに、ルドルフは恍惚とした表情を浮かべ言葉を口にした。

 

 

 

 

 

「駿大祭の開幕の挨拶と流鏑馬に出なくてはならない……それまでにお預けされるってだけでももう辛抱ならないというのに、校内をうろつく君を探すなんて煩わしい手間も、今はもはや惜しみたいんだよ。ここで大人しくしていてくれ。すぐに済む」

 

 

 

ルドルフはそう告げると、部屋を後にする。これは死刑執行がわずかに延期されたに過ぎない処置だ。そして何よりマズイのは、もうすぐタキオンの合図が始まるというのにその位置につくことができないことだ。

 

 

 

「少々……いや、かなりマズイことになった」

 

 

 

露伴は何度か机に繋がれた腕を引っ張り、脱出を図ろうと試みたが、それがうまくいかないことを悟ると、植物がしおれるようにその場に座り込んだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時刻は17時30分。

 

 

 

 

 

開幕の儀と銘打たれ中央の広場に集まったウマ娘たちは、その数千もの視線を壇上へと向ける。やがて壇上から姿を現したのは、一人のウマ娘。いつもの勝負服である軍服をモチーフとした礼服ではなく、豪華絢爛な和服に身を包み、上半身にサラシを巻き付けたシンボリルドルフだった。

 

 

 

「きれい……」

 

 

 

壇上に姿を現した彼女の新鮮な姿に、周囲からは感嘆の声が漏れ出る。周囲の反応を一瞥した彼女はその初期衝動が観衆から取り除かれることを根気よく待ち、ざわめきが完全に収束したことを確認すると言葉を口にした。

 

 

「やぁ諸君。生徒会長のシンボリルドルフだ。今日はこの晩秋を飾る祝祭、駿大祭に参加いただきありがとう。これから駿大祭の開幕の儀を……行う前に君たちに伝えておかなければならないことがある」

 

 

「……?」

 

 

「……数年前から私たちの目のまえに現れ、もはやそれは日常の一幕と化した。すなわちウマ娘たちの目のまえに表示される奇妙な掲示について、その正体がわかった」

 

 

身に覚えがあるのだろう、観衆の中にいるウマ娘たちのいくらかはその話題に興味深々に視線をルドルフの方へと向ける。いい兆候だ、ルドルフは仰々しく言葉を続けた

 

 

 

「画面の向こうで指示を出す君たちの大切な存在…すなわちトレーナーは、実在することが判明した」

 

 

 

その言葉にウマ娘たちの間に動揺が広がり、ざわざわとどよめきが波状に広がっていく。ルドルフはその動揺の渦中にいることを体感しながら、さらに衝撃的な事実を発した。

 

 

「そしてそのトレーナーに会うことができる。そう言ったらどうするか?その手に触れて、その想い…自身の胸に秘めたる大切なその想いを伝えることができるとしたらどうする?」

 

 

それはまさに、衝撃と呼べる事実だった。ルドルフはその観客の反応を、まるで特等席で喜劇を鑑賞するかのように楽しむと、言葉を続けた。

 

 

 

 

 

「その方法を私たち生徒会が発見した。あと数時間で、君たちはその愛するものたちのもとへと足を繰り出すことができる。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その瞬間、割れんばかりの歓声があたりを支配する。やはり思い人のそばにいられるということ以上の幸せは存在しないということだ。確かな歓喜に心を震わせながらその様子を見つめていたルドルフだったが、その観劇は一人の乱入者によって中断させられることになった。

 

 

 

 

 

 

「シンボリルドルフ会長殿!先日受けた不当な押収について抗議申し上げたい!」

 

 

 

 

 

……誰だ?こんな時に水を差すような愚か者は?ルドルフはその声の主を探して観客のほうへと視線を向ける。やがて観客の後方から大海を切り開いたモーゼのように人波を切り開いてウマ娘が姿を現した。

 

 

 

 

「……アグネスタキオン」

 

 

 

 

「聞こえなかったかい?君たちの問題行動に異議申し立てるって言っているのだよ。そして今の周囲を惑わせる言動…さながら私には衆愚と化した民衆を耳触りの良い言葉を並べ立てて扇動する独裁者のように見えるが?」

 

 

 

 

慇懃無礼。その一言に尽きる言動であることに間違いないが、ここで声を荒げるほど私も愚かではない。ルドルフは深呼吸を一つこぼすと徐に口を開いた。

 

 

 

 

 

 

「アグネスタキオン……この神聖なる駿大祭に、そんな讒言を持ち込むとは、とうとう気でも触れたのかい?」

 

 

 

「皇帝殿……君は忘れてしまっているようだねぇ。駿大祭とは本来、晩秋深まるこの季節、各々がその魂……「走りたい」「レースに勝ちたい」という想いを胸に秘めて、その煌々と輝く黄金の意思を成就することを願う、そんな祭りじゃあなかったのかい?それを君のくだらない、独善的な願望のために体よく利用するための飾り事なんかでは決してないのだよ!」

 

 

 

自分でも驚くほどの大声で声を荒げる…事実彼女の心の中には怒りが強く蠢いていた。

 

 

 

「…君には担当トレーナーがついていないからそんなことを言えるのさ。互いの意見やイズムというものはいくら話して煮詰めたとしても混じりあうとは限らない。チープに言えば、「人は人、自分は自分」というやつだよ。もとより話し合って人が完全に分かり合えるというのならばハナから戦争という代物は存在しないはずだ」

 

 

 

 

その言葉に、タキオンは苦虫をかみつぶしたように顔をゆがめる。確かに彼女の言うことにも一理ある。私には担当トレーナーという存在はいない。学園の問題児というこの私には、中々腰を据えて担当につこうなどという変わり者は存在していなかった。他の世界の私には、会長殿のように心を許すことができる存在がいるのかもしれない。もしそうだとすれば、もしも目の前に彼女のように愛してやまない存在が現れたとすれば、私もどうなるかは分からない。恐らく今私の血液となって強く打ち付けるこの決意も、瞬く間に役に立たない代物と化してしまうに違いない。

 

 

 

 

……だからこそだ。

 

 

 

考えの異なる私だからこそ。交わることのない私だからこそ、この蛮行を食い止めることができる。もはや漂流者である岸辺露伴たちに声をかけたあの時から、私は止まることの許されないレールの上に乗ってしまったのだ。今さらここから降りるわけにはいかない。すべての賽は既に投げられた。タキオンはポケットの中から計画を開始を告げる合図となる物を取り出すと、それを観衆たちの目のまえで高々と掲げた。

 

 

 

 

ざわざわ……

 

 

 

「なんだあれ?」

 

 

 

「よく見えないわ……」

 

 

 

「あれは……」

 

 

 

「…………スイッチ?」

 

 

 

 

タキオンの手に握られていたのは、1つのスイッチだった。ルドルフは表情を崩さず、抜け目なく彼女のことを観察する…ルドルフはスイッチを握るその手がわずかに震えているのを見逃さなかった。

 

 

 

 

「……アグネスタキオン」

 

 

 

 

「…私は元々問題児。もはや失うものなどないのだよ。あるのは、心の中にある確かな決意と大志だけだ」

 

 

 

 

嫌な予感がする。ここで彼女を止めなければ、絶対に後悔するはずだ。ルドルフは瞬時に事態が困窮を極めることを予期すると、傍に控えていた生徒会の役員に下知を下した。

 

 

 

「やつを止めろ」

 

 

 

「……はい?」

 

 

 

「やつを止めろ!!取り押さえろと言っているんだ!」

 

 

 

滅多なことでは感情を荒げることのないルドルフの怒声がこだまするが、タキオンの手のスイッチはすでに強く握りこまれていた。彼女は親指を高々と上げると、スイッチのボタンを強く押し込んだ。

 

 

 

 

 

 

カチッ

 

 

 

 

無機質な音が響き、その瞬間校舎の一角から爆風が噴き出し、轟音が辺りにこだまする。窓ガラスが瞬時にシャワーとなって地面に振り落ち、爆風によってもたらされた熱が頬を強く打ち付けた。

 

 

 

 

「さぁ、開戦といこうじゃあないか」

 

 

 

タキオンはそれを確認すると、自身がやってきた方角へと瞬時に足を繰り出していく。あとに取り残された生徒たちは、爆発という自身の常識から逸脱した景色に唖然とするもの。怒り心頭する生徒会長の様子に閉口するもの。先程から立て続けに発せられた衝撃的な事実に驚愕するものと様々であった。

 

 

 

 

「……捕まえろ」

 

 

 

 

煌々と火を放ちながら光り輝く校舎の一角…どうやらあそこはタキオンが占領していた教室のようだ。今までは温情でその占拠も黙認していたが、もはやその必要はなさそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「君たちも、愛する者と会いたいだろう?彼女にはそれを止める何か狙いがあるはずだ。捕まえて私の目のまえに連れてこい」

 

 

 

その瞬間、一人のウマ娘が恐る恐る足を踏み出していく。やがてその後に続くように一人、また一人とウマ娘たちが足を踏みだしていく。やがてその意思は大きな濁流となってすべてを飲み込むと、ウマ娘たちは自身の恋路を邪魔する障害物を取り除くため、走り出していった。

 

 

 

 



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岸辺露伴は調べない9

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やりすぎだ。

 

 

 

17時30分を少し上回った時刻。自身の左腕にぴったりと据え付けられた手錠を何とか外そうとあくせくしていた露伴が、外から漏れ聞こえた轟音に感じた第一印象だった。

 

 

 

 

最後の作戦の確認をタキオンから聞かされた際に、作戦の始まりを告げる合図とはいったいどんなものなのかと尋ねたさい、彼女は口角を引き上げたまま「赤ん坊にもわかるような合図だから心配いらない」と言ってはいたが、その代物は予想をはるかに上回るものだったようだ。

 

 

 

薄々勘づいていたことではあったが、彼女にはエンターテイナーとしての気質があるようだ。科学には遊び心が必要とは言われるが、それはあながち見当違いなものでもないらしい。外から漏れ聞こえる悲鳴とざわめきで思考の渦から引き揚げられた露伴は、再び自身を残酷な現実に縛り付けている手錠へと視線を落とした。

 

 

 

「……早いとこ、これを取り外さないとな」

 

 

 

自分の腕に据え付けられた手錠はそこらへんの100円ショップやディスカウントショップで売られているようなおもちゃとはわけが違う、警察が犯人を取り抑えた際に使用されるような、非常に本格的な代物だ。どうしてこんなものを生徒会長とはいえ一介のウマ娘がそんなものを持っているのか、なんてことに疑念を抱いたところでそれは徒労と化すだろう。今やらなければならないことは、如何にしてこの拘束から逃れるのか、ということだけだ。

 

 

 

……鍵はないだろうな

 

 

 

 

恐らく、いや十中八九鍵はルドルフが持っているはずだ。仮にこの部屋にあったとしても手錠で繋がれている現状では捜索できる範囲などたかが知れている。手錠を取り外すために何か役に立つようなものはないかとあたりを見渡した露伴だったが、ある一点で彼の視線は留まることになった。

 

 

 

「……あれは」

 

 

 

視線の先には机の隣につけられた棚があった。そして棚の中段には一つのガラスケース、その中には資料をまとめる際に用いるようなクリップがいくつか入っているのが目に入った。

 

 

 

 

あのクリップの形を加工して、手錠の鍵穴に差し込めるようにすればあるいは。

 

 

 

そうと決まればやることはたった一つだ。露伴はまるでベッドから離れることが面倒で、できる限りその行動範囲を手に届く範囲でとどめられるように…もっともこの場合は動きたくても動かないわけだが。露伴は自由にできる脚を力の限りピンと伸ばすと、力の限り棚に向かって足を向ける。

 

 

 

カタンッ

 

 

 

つま先がわずかに触れ、その瞬間棚に置かれたクリップの入ったケースは露伴の方へと静かに回転しながら落下し、地面に音を立ててぶつかった。ケースの蓋が落下の衝撃で外れると、中身のクリップは様々な方向へと散らばっていく。

 

 

 

……しめた。

 

 

 

部屋中へと散らばったクリップの内の一つが、露伴の脚にぶつかり動きを止める。露伴は貪るようにそのクリップに飛びつくと、それを一つのまっすぐな棒へと形状を加工し、自身の腕につけられた手錠の鍵穴に差し込んだ。

 

 

……かつて漫画の取材の一環で、ピッキングのことについて取材をしたことがある。取材とはいっても元泥棒だとかいうやつにヘブンズ・ドアーを使って、そいつの頭の中にあるテクニックや心得について多少のぞかせてもらっただけだが。

 

 

 

結局のところそのネタは漫画では使うことはなかったが、まさかその知識がこんな形で活かされることになるとは。露伴はカチャカチャと音を立てながら手錠の鍵穴に針金を差し込んで弄り回していたが、やがてその動きは携帯の着信で止まることになった。

 

 

 

こんな時に一体だれだ?

 

 

 

タキオンか?いや、今の段階では仲間たちと連絡を取り合う予定はないはずだ。それならば基樹君か?いや彼は今頃……

 

 

 

その答えは電話の着信の後の留守番電話によって明らかとなった。

 

 

 

「私だ……開幕の儀のあとに流鏑馬に参加するつもりだったが、少々邪魔が入ってね。早いが一度君のところに戻ろうと思う。事が落ち着いたらじっくり君を味わいたいと思っていたところだが、景気づけに味見くらいしても問題はないだろう?」

 

 

 

それは、露伴にとって死刑宣告だった。怪物がここに腹ごしらえに戻ってくる。生徒会長としての面目をタキオンという目の上のたん瘤に丸つぶれにさせられて多少なりともいらだっているだろう皇帝が、果たして馳走を前に容赦などしてくれるだろうか?そんな期待など初めからしない方が賢明だろう。

 

 

 

「うおおおおおおおおおおおお!」

 

 

 

情けない悲鳴を上げながら露伴は手錠の鍵穴に必至に針金を差し込む。もうこの場所へとルドルフがやってきているとするならば、もはや猶予など残されていない。一刻も早くこの手錠を外し、この場所から抜け出さなければ。

 

 

焦りのあまり悲鳴を上げる露伴を差し置いて、時間は残酷に経過していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……なかなかにハードな状況だねぇ。

 

 

 

 

 

タキオンは後方から雪崩のごとく押し寄せてくるウマ娘の人波に目を向けながら、その顔に苦笑を浮かべた。

 

 

 

どうやらあの独裁者に扇動されてしまったウマ娘は、少なからずあの場にいたようだ。暴君が振るう指揮棒一つで、観劇の邪魔に入った不届き者を排除しようと躍起になっている。

 

 

 

 

だが、捕まるわけにはいかないのだ。この計画はすでに始動している。今この場で私が捕まってしまえば、それは計画の破綻を意味することになる。

 

 

 

タキオンは少しでも波状的にウマ娘たちが迫ってくるのをふせぐために、校舎へと足を踏み入れようとする。しかし玄関口までおよそ数メートルとなった瞬間、その目のまえに一人のウマ娘が姿を現した。

 

 

 

 

「……君は」

 

 

 

そこにいたのは一人のウマ娘。鹿毛のロングヘアーに前髪に白いメッシュを一房たらし赤いリボンでその髪を後ろに一つでまとめられている。普段は快活なウマ娘として学園で知られているはずの彼女だが、小柄な体躯から発せられる禍々しいほどの怒気と、普段なその水平線まで覗くことができそうなほど澄み切っていたはずの青い瞳は、すっかりとくすみ、その激情に濁りきってしまっていた。

 

 

 

「君は……トウカイテイオー」

 

 

 

 

「タキオン!早速でごめんね!タキオンのことをカイチョーのところに連れて行かないと!あんな失礼なことカイチョーに言ったんじゃあ、怒られるのも無理ないよ!」

 

 

 

 

当然だが、やはり彼女も私のことを追いにやってきたというわけか。トウカイテイオーはルドルフに良い意味でも悪い意味でもゾッコンだ。そんな彼女が先程の大立ち回りを演じ、ルドルフに対して狼藉を働いた私に対していい感情を抱くはずがない。

 

 

 

「それじゃあなんだい?君と一緒に出頭したら、会長殿に許してもらえるように頼み込んでくれるっていうのかい?」

 

 

 

「そんなわけないでしょ?タキオンのやったこと、許せないよ!ボクはカイチョーのことも、画面の向こうでボクのことを待ってるトレーナーも大好きなんだから!」

 

 

 

 

どうやら交渉は決裂のようだ……最も彼女からも嘆願してやると言われたところで自首するつもりなど毛頭ないが。タキオンは口角を引き上げながら徐に口を開いた。

 

 

 

「ふん……聊か君は会長殿を妄信的に信じすぎている。まさに独裁者に必至こいて尻尾を振りまく側近のようだ。まぁ、君の場合はオツムが足りていない、本当にただただ尻尾を振りまく犬にすぎないみたいだがね」

 

 

 

「タキオンの言っていること、よくわからなかったけどバカにされてるってことだけはわかったよ」

 

 

 

彼女はまだルドルフのように聡明でも、そしてしたたかでもない。たった一言小突いただけでここまで怒りを露わにするとは。タキオンは苦笑を浮かべながら怒り心頭の彼女に向けて言葉を投げかけた。

 

 

 

「足を地面でひっかいて尻尾は荒々しく揺れ、耳は明らかに倒されている。怒り心頭な良い証左だが、そんな軽口一つで頭に来ているとは、まさしくオツムが足りていない証拠じゃあないかい?君の愛しの会長殿はもう少し大人な対応をみせていたが?」

 

 

 

「…もう黙ってよ」

 

 

 

前言撤回だ。彼女はまだ熟れていない……未熟なところがあるとはいえ、シンボリルドルフと、あの皇帝と全く同じ怒気を放っている。とどのつまり、彼女には「皇帝」の素質がある。こちらに向けて視線を槍のように投げつけ、般若のような表情を浮かべる彼女の姿は、先程壇上でこちらに殺意を向けたあの皇帝と、まさしく瓜二つだった。

 

 

 

 

その瞬間、テイオーがこちらに向けて走り出す。自身のあてのない怒りの衝動をぶつけるために。タキオンは彼女から距離を取ろうと後ろに向かって走りだそうとしたが、後方からは既に彼女同様、その狂愛にとりつかれたウマ娘が自分をとらえようとこちらにむかって一直線に向かってきていた。

 

 

 

「前門の虎、後門の狼か……もっともこの状況じゃあ、虎と狼の方が幾分かマシかもしれないけどねぇ」

 

 

 

その衝動を胸に秘めて、タキオンをひっ捕らえて会長の目のまえで晒し者にするためにこちらに向かってくる彼女に向かって、タキオンは言葉を続けた。

 

 

 

「……君たちに一つ、後学のために教えておこう。感情というものは時に助けになる……だが時にこの場合、いや普遍的に言えることができるが、怒りというやつは周りを見えなくする。さらに始末が悪いのは、恋だよ。恋は盲目、とはよく言ったものだね」

 

 

 

その瞬間、頭上から1本の缶…まるでヘアスプレーのような形状をした物体がカランと音を立てて落ち、そこから煙が噴出した。その様子を目に止めたタキオンは、自身の服の内に仕込んでいた簡易的なガスマスクをつける。その煙が一体どんなものかを警戒もせず、タキオンをとらえようと向かっていったウマ娘たちは、その煙に足を踏み込むと、糸を断ち切られたマリオネットのようにその場に倒れこんだ。

 

 

 

 

「いやはや即席の武器だったが、案外うまくいくものだね」

 

 

 

 

 

 

 

タキオンは自身の周りで倒れているウマ娘たちの顔を、しっかりと睡眠薬が効いているのかの確認で覗き込むと、先程催眠薬が投げ込まれた方角へと顔を向けた。

 

「……ナイスタイミングだったよ、君」

 

 

今しがた入ろうとしていた校舎の2階……そこの窓から顔を出していたのは自身の計画の協力者の基樹だった。

 

 

「なんとか間に合ってよかったよ……これで計画は1段階完了かい?」

 

 

 

「とりあえずね……私と君は追いかけっこに講じなければならない。今みたくとんでもない状況になったとなれば、私が渡した武器を使ってのりこえてくれ」

 

 

 

「分かった」

 

 

 

そう言い残して、基樹は校舎の中に姿を消した。その姿を見届けたタキオンは、再び視線を前方に戻すと校舎の中へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

[newpage]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご馳走とは時間をかけて熟成させれば、極上の代物と昇華する。だがその馳走も、テーブルの上に置いていては腹が満たされることは決してないのだ。ご馳走を一口だけ味わうための、そのテーブルに腰を下ろすためにルドルフはその激情を胸に秘めてルドルフは苛立たし気にとある場所へと向かっていた。

 

 

 

 

 

 

「まっていてくれよ……トレーナー君」

 

 

 

 

 

 

せっかくの駿大祭もあの邪魔者によって台無しだ。着付けに苦心したこの和服も、流鏑馬のために子供のころに少し齧った程度の弓を、再び練習したというのにそれもすべて徒労になってしまったわけだ。そして壇上でさらしてしまった自身の激情。あの姿はあの場に集ったウマ娘たちに目撃されている。これではもはや生徒会長としての体裁もあったものではないだろう。

 

 

 

……許さない

 

 

 

タキオンのことは必ず彼女には自分がしでかしたことについて後悔させてやる。狙いは未だ判明していないが、いずれ私が直々に彼女の口からはかせてやる。

 

 

 

それはそうと、今は腹ごしらえだ。

 

 

 

その目を爛々と光らせて、怪物はその欲望を満たすために餌場へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マズイマズイマズイマズイ!この状況は非常にマズイ!早く外れてくれ!」

 

 

 

必死の思いで手錠を外そうと苦心するが、一向に自身の身体を拘束する手錠は外れない。露伴はいらだちのあまりに壁に頭を打ち付けた。

 

 

 

「このままだと彼女が……!」

 

 

 

時は緊急を要する。怪物がその飢えを満たすためにあと数分でここにやってくる。それまでにこの手錠の拘束から抜け出さなければ、もはや脱出どころではなくなってしまう。

 

 

 

コッ、コッ、コッ……

 

 

遠くで聞こえる階段を上る音。作戦通りであれば、ここらあたりにウマ娘たちはいないはずだ。とあれば、ここに来るような手合いは一人しかいない。

 

 

右手で握る針金に全神経を集中し、額からは脂汗が零れ落ち、目は血走っていく。

 

 

死刑執行人が近づいてくる足音を聞きながら、露伴は手錠を取り外そうと懸命にもがいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あぁ、楽しみだ。

 

 

 

初めて皐月賞を勝利で収めた時も、クラシック3冠という名誉ある称号を得た時も、G1を7勝した時もこれほどの興奮はなかった。芳醇な香りはディナーをより引き立て、彩りは食事をより楽しくさせる。

 

 

 

廊下を歩く足取りは逸る気持ちと比例して早くなり、やがてその足は一つの部屋の前でとまる。私たちの愛の巣。そして私のディナーの会場だ。

 

 

 

コンコン。

 

 

 

「トレーナー君?」

 

 

 

部屋をノックし、声をかけたが室内から返事はなかった。案外彼は焦らすタイプかな?そんなことを思いながらドアノブをひねり、室内に目を向ける。

 

 

 

……そこには誰もいなかった。

 

 

 

ククッ。

 

 

 

口の中から空気が漏れ出るような笑いが出る。さながら今の私は誰もいない劇場で、それに気づかずに三文芝居を繰り広げた間抜けな道化師といったところだろうか。

 

 

 

 

室内に足を踏み入れ、机の脚に取り残された手錠を見つめる。だがこれでわかったことがある。彼の逃走も、タキオンの騒動もすべて一連の出来事としてつながっている。トレーナー君たちはグルといったところだろう。

 

 

 

「……私を無礼るなよ?」

 

 

 

 

漆黒の意思を従えて、ルドルフは踵を返して室内を後にする。

彼女が部屋からいなくなり、足音が遠くなりやがてその音は聞こえなくなる。すると室内に置かれていたロッカーの扉が開き、そこからゆっくりと、まるで嵐をやりすごした漂流者のようにふらふらと露伴が姿を現した。

 

 

 

……なんとか間に合った。

 

 

だがこれで、自身がタキオンの計画に少なからず一枚嚙んでいることを知られてしまったわけだ。それを気にしている時間はない。自身がやるべきことをなさなければ。

 

 

露伴は左腕の手首をさすりながら、その部屋をあとにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あぁ、喉が痛い。

走りすぎて肺はヒビが入って張り裂けそうだ。

 

 

 

 

だが今は走らなければ。タキオンの計画を成功させる確率を少しでもあげるには、今この場で捕まるわけにはいかないからだ。

 

 

基樹は校舎の中をあてどころなく走り回る。階段を駆け上って3階の廊下へと姿を現すと、10メートルほど前方に一人のウマ娘の姿があった。

 

 

「……君は」

 

 

彼女には見覚えがある。ウマ娘は基本的に容姿端麗な者が多いと言われているが、彼女は群を抜いて優れた容姿を有していて、学園内に置かれている雑誌で彼女の姿をみたことがある。だが、それは今大事なことではない。彼女をみたというのは雑誌でという意味では決してないからだ……すなわち彼女をみたのは学園で、そして今までのウマ娘同様、自身の愛するトレーナーに襲い掛かっていた。

 

 

 

「ゴールドシチー…」

 

 

 

 

 

「アンタさ……会長が追えって言ってたタキオンの……仲間だよね?さっき睡眠薬を投げ込んでたのが目に入ったから」

 

 

 

彼女は、見たものを振りむかせ魅了させるように振袖を美しく着込んでいた。駿大祭の衣装だろうかと勘繰っている基樹をよそに、シチーはその顔に、美しさとは対照的に底冷えするようななんの色を窺わせない無表情を張り付かせながら言葉を口にした。

 

 

 

「アタシは今幸せなの……トレーナーと四六時中一緒で、どんな時でも愛を確かめることができる。それを邪魔しようっていうなら、容赦しないから」

 

 

 

 

マズイ状況になってしまった。

 

 

 

 

……だが今逃げるわけにはいかない。この身体に流れる覚悟に後押しされている。今ここで誰かに捕まるわけにはいかない。

 

 

 

 

 

 

基樹はその瞬間、飛ぶように先程来た方角へと走っていく。シチーはその様子を見つめると、首をぽきっと鳴らすと、自分の愛を貫き通すため、そして自身の狂愛をぶつけるための、トレーナーとの愛の巣を守るために彼のことを追い始めた。



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岸辺露伴は調べない10

「はい、ゴールドシチーさん!撮影終了です!お疲れ様でした!」

カメラマンの調子の良い言葉と共に、撮影は終わりを告げる。

 

 

 

自身の顔に向かって当たられていたライトが遠ざけられ、スタイリストがこちらへと歩み寄ってくる。シチーは出口に歩きながらスタイリストに肩にかけていた上着を預けると、傍にいたマネージャーに声をかけた。

 

 

 

「今日はこれで撮影終わり?」

 

 

 

 

「えぇ。もう学園にもどっても構わないわ。」

 

 

 

今日の撮影はとあるファッションブランドの広告用の写真撮影だ。この写真が雑誌や街の街宣広告に掲載される。シチーが入口につけられている車に乗り込もうとすると、後方から先程自分にカメラを向けていたカメラマンが声をかけた。

 

 

 

 

「本当にいい被写体でしたよ、シチーさん!まるでお人形さんみたいにお綺麗でした!」

 

 

その言葉にマネージャーが顔を青ざめさせて、その発言をしたカメラマンの方へと振り向く。その表情からは彼に対する非難がありありと刻み付けられていた。

 

 

 

なんて余計なことをしてくれたんだ。モデルやらタレントというのは包括的にみると…いや、特にことシチーの場合においては、かなり彼女は気分屋だ。周囲の者たちは気付くことはないだろうが、彼女の機微が撮影に対する細かなクオリティに現れることは長年彼女の傍で支えてきたからこそ、わかるものがある。

 

 

 

彼にとって悪気はないだろうが、私は今日彼女の機嫌を損ねることがないように細心の注意を払ってきたというのに。それもすべて最後の最後の台無しにされてしまった。

 

 

 

彼女は類まれな美しい容姿をしている。トップモデルとして、今まさに注目のモデルとしてこの業界の最前線で活躍している。そんな彼女だが、少々困ったジンクスがある。つまりその業界で活躍する1番の武器であるはずの「美貌」を手放しで褒められることを極端に嫌っていることだ。

 

 

 

一体彼女がどんな反応を示すのか、はらはらしながら彼女のことを見つめていたが、シチーの反応はマネージャーにとっては意外なものだった。

 

 

 

「ありがとうございます」

 

 

 

まさにモデルとして、かくあるべき対応。笑顔をカメラマンに向けながら会釈をすると、車に乗り込んだ。

 

 

シチーはぼんやりと車窓の景色を見つめている。自分が一体何者で、何がしたいのか。たまらなく不安になることが多々あった。心と身体が無意識に乖離して、どこかに消えてしまいそうな……そんな感覚だ。

 

 

 

レースでありのままの選手のウマ娘として活躍したいと思っているのに、その一方では観客は自分のモデルとしての肩書しか見ていないというジレンマ。それが何よりも自分にとっては耐え難い屈辱であり、それは自分にとっては致し方ない、甘んじて受け入れざるを得ない事であることもわかっていた。

 

 

 

学園の前に車が着き、そこにシチーは降りる。彼女の虫の居所については、いまだ完全に収まったわけではなかったが、彼女の意識はすでに別のところへと移行されていた。

 

 

 

 

「……この画面」

 

 

 

自身の目のまえに表示される、奇妙な画面。まるでゲームの表示コマンドのように目のまえに掲げられる画面は、トレセン学園のウマ娘たちの前に唐突に現れ、彼女たちのトレーニングを指示するその存在。はじめはその存在が一体なんなのか噂がまことしやかにささやかれていたが、やがてその奇妙な存在も日常の一部として溶け込んでいった。

 

 

 

……アタシの

 

 

 

アタシの目のまえにもほかのウマ娘たちの例にもれず、画面がある。その画面の向こうにいる男……トレーナーはアタシのトレーニングの指示を出して、買い物に付き合ってくれて、それで、それで……

 

 

 

「やぁ、息災かな。ゴールドシチー」

 

 

 

「アンタは……」

 

 

 

彼女の目の前に突然現れた人物に、シチーは思わず動揺しながら立ち止まる。普段特に関わりを持つことがない彼女が、一体アタシに何の用だろうか?不審に思いながらシチーは声をかけた人物に向き直ると、声をかけた。

 

 

 

「……一体生徒会長さんが何の用?」

 

 

 

「なぁに、別に取って食おうというわけじゃあないさ。君に一つお願いをしたくてね」

 

 

 

「お願い?アタシなんかにするお願いって、一体全体何のお願い?」

 

 

 

「君にも悪い話じゃあないはずだ……すなわち君にはテスターになってほしいんだよ」

 

 

 

「テスター?」

 

 

 

首を傾けるシチーをよそに、ルドルフはその顔に笑みを張り付かせたまま言葉を続けた。

 

 

 

 

「君の目のまえに表示される、その画面の向こう側にいる人物…すなわち君のトレーナーに会えると言ったらどうする?」

 

 

 

それはあまりにも魅力的な、アダムとイヴが禁忌を破ってでも口にしてしまい、楽園を追われてしまった要因である果実のような、そんな提案だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

命短し恋せよ乙女

そんな慣用句がこの世には存在するが、今この時以上にそれを体現したケースは他にないだろう。あまりにも自身の衝動に忠実で、あまりにもその身を情念で焦がす姿は、基樹の目には恐怖以外の何物にも映らなかった。

 

 

 

 

 

肺が軋むような音を立てて、足はもつれないように細心の注意を払いながら回転させていくが、背中から感じる圧や足音は等加速度的に近づいてくる。

 

 

 

振りかえってはいけない。

 

 

 

心の中でアラートがそう力強く鳴り響く。振り返ることで少しでもフォームが乱れ、その速度が落ちようものなら、それはすなわち死を意味していた。

 

 

 

元の世界にいた時にタレントがミッションをこなしながら鬼から逃亡を図るというテレビ番組を見たことがあったが、内容は似ているこそすれ、その難易度は格段に跳ね上がっている。

 

 

 

 

基樹は階段を見つけると、少しでも身体に残るスタミナを温存しようと手すりに手を掴んで遠心力で向きを変えると、階段を駆け上がり、あてもなく上階を目指して駆け上がっていく。廊下を直進していては、ウマ娘であるシチーから逃げ切ることは絶対にできない。少しでも身体的に圧倒的な優位に立つウマ娘からの追跡の手を逃れるために階段を駆け上がる基樹だったが、踊り場に足を踏み込んださいにそこに立てかけられている姿鏡が目に留まった。

 

 

 

「ヒッ……」

 

 

 

鏡に映った自身の背中越しに見えるシチーの顔は、まさに冷血な処刑人のようにその表情筋を微塵も動かすことなくこちらに迫ってきていた。

 

 

 

 

2階から3階にあがり、4階の踊り場へとその身を進めようとしたその瞬間、彼の身体は床へと押し倒されることになった。受け身もまともにとる事ができず、また走っていた勢いも相まって床に倒れた拍子に強かに腹部をうちつけた基樹は、その苦しさと痛みのあまりはげしくせき込みながら背後を振り返った。

 

 

 

「追いかけっこはもうおしまい。アンタのことは会長のところに連れていくから」

 

 

 

無情にも絶望的な追いかけっこの終止符を打つ宣言が、廊下に静かにこだました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先程の立ち回りは、我ながらかなり不確定要素の多い脱出策であったことは認めざるをえない。本当はひとまず危機を乗り越え一休みしたい気持ちはあったが、今の自分にはそれは許されない。作戦のためには、少しでも多くの時間校舎内を駆けずりまわる必要がある。

 

 

 

 

教室の一角に身をひそめていたタキオンは、再び地獄と見紛う追いかけっこに興じるため、肺に空気を取り込み廊下へと一歩足を踏み出した。

 

 

 

ピンポンパンポーン。

 

 

 

その瞬間、校舎の各所に取り付けられたスピーカーからノイズまじりのチャイムが聞こえ、マイクで誰が話す際のスイッチの音を拾った。

 

 

「生徒会長のシンボリルドルフだ。先程学園内の一角で爆発事故が発生した。幸い負傷者はいなかったが、件の事件の関係者と思われるアグネスタキオン、エアグルーヴの担当トレーナーの安藤基樹、そして……」

 

 

 

「私の担当トレーナー、岸辺露伴を見つけ次第とらえ、私の前に連れてくるように。名前を挙げたものたちは、今すぐ私のもとへ出頭するというならばその処遇について善処しよう。それでは」

 

 

 

「……これは非常にまずいことになったねぇ」

 

 

 

この段階でそこまで事件の共犯者を特定するとは、やはりシンボリルドルフは一筋縄でいくような相手ではない。エアシャカールの名前がまだ挙がっていないことは不幸中の幸いではあるが、こちらの仲間の3人が割れてしまっている以上、こちらの動きはそれなりに制限されることになる。

 

 

 

善処するという言葉ほど信用できないものはない。どうせ我々が全員ひっ捕らえられたとして、せいぜい露伴君と基樹君はそれぞれの担当ウマ娘たちに手籠めにされ、私とシャカール君は学校を放逐されるのが関の山だろう。

 

 

 

 

 

いずれにしても、会長が差し向けた追手に追われる私の予定にはいずれ変わりない。タキオンは廊下を進み、突き当りの曲がり角を曲がったところ10メートルほど先に一人のウマ娘の姿があった。

 

 

 

「おやおや……君は」

 

 

 

 

 

そこにいたのは黒鹿毛のウマ娘。ストレートのロングヘアーに、もの静かな雰囲気をまとわせながらこちらを見つめる彼女を目に止め、タキオンは徐に口を開いた。

 

 

 

「カフェじゃあないか!よかったよかった!まさか君に会えるとは!」

 

 

 

彼女の名前はマンハッタンカフェ。コーヒーをこよなく愛するウマ娘で、いわゆるこの世ならざる者が見えたり、その声が聞こえたりと周囲からは不思議な印象を抱かれる彼女は、意外にもタキオンとは旧知の仲だった。

 

 

 

 

友人である彼女と会えたことにホッとしつつ、また緊張が多少解けたことによって饒舌な口調でタキオンはカフェに対して言葉をかけた。

 

 

 

「いやぁ君に会えたのは幸運だ。先程から様々な者から追われていてね」

 

 

 

笑みを浮かべて徐々に近づいて行ったタキオンだったが、その時はじめて彼女はカフェに取り巻く違和感に気が付き、その足を止めた。いつもの彼女の様子とは何処か違う。そう察知したタキオンは、恐る恐るカフェへと声をかけた。

 

 

 

 

「カフェ……?大丈夫かい?」

 

 

 

普段の彼女とはどこか、しかし確実に異なる違和感。疑念をいだくタキオンをよそに、カフェは無表情でこちらを見つめながら言葉を発した。

 

 

 

「タキオンさん……私は幼いころから「見えてはいけない」ものが見えます。それで周囲から奇異の目にさらされたり、遠ざけられたりしたことはご存じですね?」

 

 

 

「あ、あぁ……」

 

 

 

しばしの沈黙が場を支配する。一体どうしたというのか?困惑するタキオンをよそに、カフェは徐に口を開いた。

 

 

 

 

「初めてだったんです。それを受け入れたこと…そして私のコーヒーを淹れる姿を静かに、嬉しそうに見つめて、話に付き合ってくれたこと……」

 

 

 

「……」

 

 

 

「……私は彼に会いたい。トレーナーさんに会いたいんです。」

 

 

 

なるほど話が読めた。どうやら今のカフェの前に不用意に姿を現すは少々、いやだいぶ不用心だったと言わざるを得ないようだ。

 

 

「なるほど、なるほどね……その意思を貫きたまえよ。私はこれで失礼するよ」

 

 

 

 

そう言ってその場を立ち去ろうとしたが、その瞬間天井に据え付けらていたはずの蛍光灯が落下し目のまえの床にたたきつけられた。

 

 

 

「……逃がしませんよタキオンさん。今回は「お友達」も協力してくれるとのことです。彼女もトレーナーさんのこと、気に入ってますからね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

息ができない。

シチーに床にたたきつけられた基樹は何とかシチーの拘束から逃れようと四苦八苦もがいたが、その抑えられた身体はびくとも動かなかった。シチーは自身の身体の下で芋虫のようにもがいている基樹を無表情で見下ろしながら、口を開いた。

 

 

 

「アンタの鬼ごっこはこれでおしまい。まぁ、帰ってエアグルーヴに可愛がってもらいなよ」

 

 

 

 

「……それは君たちの勝手だろ」

 

 

 

「……」

 

 

 

 

その言葉に、シチーの身体はぴくっと動きを硬直させる。一体なにを言っているのか?と言わんばかりの怒りと困惑がない交ぜとなった表情を基樹に投げかけるが、それに構わず基樹は言葉を続けた。

 

 

 

 

「一度でも君は、君のトレーナーの言葉に耳を傾けたことはあるかいって聞いているんだ!君の願望のままにその人を扱うなんて、まるでおもちゃと同じじゃあないか!」

 

 

 

 

「……は?」

 

 

 

底冷えするような声が鼓膜を震わせるが、ぐっとこらえて基樹は彼女へ言葉を続けて投げかけた。

 

 

 

 

「君が君のトレーナーを拘束するところを見たよ!逃げようっていうことは、元の世界に帰りたいってことなんだ!それを相手の意思も尊重しないで、自分の都合だけで監禁まがいのことをするなんて、それを恋だの愛だなんて都合の良い言葉で片付けるな!」

 

 

 

 

「……うるさい」

 

 

 

 

「君のやってることは愛なんかじゃあない!恐怖で人を縛り付けようとして、力で言うことをきかせているにすぎないんだ!」

 

 

 

 

「うるさいうるさいうるさいうるさい!アンタに何がわか……」

 

 

 

 

怒りに我を忘れたその瞬間、拘束がわずかに緩んだその瞬間を狙ってむなポケットにしまっていた催涙スプレーに手を伸ばし、彼女の顔に吹きかける。目にたまねぎをすりつけられたような刺激が彼女を襲い、悶絶している隙をねらってその拘束から逃れると、急いで基樹は彼女から距離を取るために走り出した。

 

 

 

どうやらアイツはもういなくなったようだ。

 

 

 

……アイツが言っていたこと

 

 

 

私の部屋にいるトレーナーは、今幸せなのだろうか…?今や疲れて助けを呼ぶ気力すらも削がれ、こちらの動向を怯えながら窺うあの姿は、果たして幸せだと…愛だと言えるのだろうか?

 

 

……うっさ

 

 

 

そんなことは考えるだけ無駄だ。アタシにはアイツしか…トレーナーしかいない。アタシの隣で「美しい」と言っても不愉快に感じない、居場所を感じるのはもうアイツしかいないんだ。

 

 

 

アタシから、アイツを奪わないで

 

 

シチーは確固たる意志をその目に宿らせると、逃亡者をとらえるために廊下を再び走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

視界がぼやけ、頭はまるで鉛をとりつけられたかのように重い。

まるで長い眠りから目覚めたようにその意識を懸命に引き戻し、身体を起き上がらせる。自身が眠りから目覚めた時、わかったことはただ一つだけだった。

 

 

 

…タキオンに出し抜かれちゃった。

 

 

 

「……許さない」

 

 

 

タキオンは自身の敬愛する会長をバカにした。そのことだけは必ず彼女に償わせなければならない。確かな怒りと意思を従えて、彼女は校舎内へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……時間だ」

 

 

 

 

さっきの放送を聞くにあまり計画は良い展開であるとは言えないようだが、自身に疑いの目が降りかかっていないことは不幸中の幸いとみていいだろう。時間となった以上自分も動き出さなければならないようだ。

 

 

 

 

 

作戦の自身の役目は要。まさに自分がその成否を握っていた。

 

 

 

AIがインストールされているPCは、恐らく敵の中枢、生徒会室にあるとみていいだろう。会長たちからその目をそらすために、タキオンたちが懸命にその囮を買って出ている。作業のために用いるPCや器具をバッグに詰め込むと、シャカールは足を繰り出した。

 

 

 

 

必ずこの悲劇の連鎖をたちきらなければならない。

 

 

 

別に正義を振りかざすわけではないが、今の状況はウマ娘にとっては不健全なものであると評せざるを得ない。「走りたい」という意思をないがしろにして、欲望にその身をゆだねて誰かを傷つけるなんて、あってはならないはずだ。



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岸辺露伴は調べない11

 

 

 

 

自身の背後からけたたましい音が鳴り響く。

その音は、まさしく自身の首を吹き飛ばさんと落下していくギロチンそのものだった。もつれそうな足を堪え、何とか繰り出しながらタキオンは廊下を文字通り「死力を尽くして」疾走していた。

 

 

 

 

唐突に自身の背後から風圧を感じ、頭をかがめる。すると自身の頭上を大きなガラスの破片がまるで射出されたように勢いをつけて通り抜けていった。

 

 

 

「……穏やかじゃあないねぇ」

 

 

 

非難がましく背後の友人……自身に向けて負けじと殺気を帯びた視線を投げかけるマンハッタンカフェに視線を向けた。

 

 

 

 

「大人しく捕まってください」

 

 

 

その一言はまるで、凍てついたフィヨルドのごとく周囲を凍り付かせる、有無を言わさぬ迫力を孕んでいた。

 

 

 

「捕まれと言われて捕まるバカはいないだろう」

 

 

 

自身の目の前に、その進路を妨げるかのように倒れこんでくる棚や、背後から飛び出すガラスの破片や瓦礫を間一髪のところでかわしながら廊下を駆ける。今や自身の友人はポルターガイストを自由自在に使いこなす超能力者と化している。その現象について興味深いものはあるが、今はそんな悠長に事を構える余裕など何処にもなかった。

 

 

 

 

 

「君のような恋煩いなウマ娘に好かれるトレーナーとやらも大変だねぇ!他人事ながら同情するよ!」

 

 

 

 

「……」

 

 

 

どうやら自身の軽口に応酬する気は毛頭ないようだ…私は科学者だが、決して非科学的な現象、不確定要素について度外視するようなウマ娘ではない。そこがシャカール君との違いなわけだが。

 

 

 

このまま廊下をただ走っていたとしても、埒が明かない。

 

 

 

廊下を我武者羅に走りながら即席の最善策を脳内で構築していく。やがて廊下の左手に見えた教室が視界に映ると、タキオンはその身体を滑り込ませる。カフェがこちらにやってくる足音を聞きながら、彼女が教室に侵入しないようにと壁に立てかけてあったモップを手に取ると、それを突っ張り棒のように引き戸にかけ、容易に扉が開かないように細工をしたが、ウマ娘相手ではこれでは心もとない。教室に据え付けられたロッカーを扉の前に配置すると、扉の向こうから荒々しく扉を叩く音が聞こえた。

 

 

 

どうやら我を失ったカフェが教室の前に到着したようだ。

 

 

 

「……さながら映画「シャイニング」に出演している気分だ。カフェも今度見てみるといいよ」

 

 

 

そう言葉を発しながらタキオンは机や棚といった教室内に置かれた備品を扉の前にぞんざいにしかしながらまるでスクラムを組むように互いが互いを支えあうように設置し、即席のバリケードをこしらえていく。しばらく乱暴に扉を叩く音が教室内に響き渡っていたが、やがてその音はぴたりと鳴りやみ、その瞬間にフロア中に響き渡るほどのカフェの大声がタキオンの耳に届いた。

 

 

 

『ここに裏切り者が!アグネスタキオンがいます!!』

 

 

 

「……君そんな大声出せたのかい」

 

 

 

やはり物事は計画に行かない場合がほとんどだ。

上階や階下からこちらに近づいてくる足音に耳を澄ませながら、タキオンは懸命に打ち破られんと大きな音を立てる扉を押さえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タキオンたちは捕まっていないだろうか。

 

 

 

タキオンが自身や露伴たちに伝えた、AIを取り戻し、そしてこの世界に連れ込まれた露伴たちを元の世界に送り返す作戦。それは至ってシンプルな代物だった。タキオンをはじめとした3人のメンバーが学園を走り回り、囮を務める。そしてその間に自身が生徒会室に侵入し、AIソフトがインストールされたPCを取り戻し、校舎内を脱出したのちにそれを解除する。

 

 

 

この作戦の肝はいくつかあるが、最も大切な事項の一つは自身が仲間であると悟られないことだった。

 

 

 

 

元の世界の住人だった彼らの担当ウマ娘、特に岸辺露伴の担当ウマ娘であるシンボリルドルフは、露伴に対して異常なほどまでの執着をみせている。彼女がおいそれと露伴たちを逃がすわけがないだろうが、少しでも彼らには時間を稼いでもらわなければならない。

 

 

 

敵の居城といっても過言ではない生徒会室に向けてその足を慎重に繰り出しながら、校舎内をつき進む。やがて廊下のつきあたりで一人のウマ娘と鉢合わせするのだった。

 

 

 

「あっ!シャカール!」

 

 

 

「……よぉ、ファイン」

 

 

 

彼女はファインモーション。アイルランドから期限付きで留学生としてやってきたウマ娘。日頃自身にしつこく絡んでくる彼女ではあるが、不本意ながら付き合いのある彼女だからこそその僅かな機微の変化をシャカールは感じ取っていた。

 

 

 

 

…いつものファインじゃあねぇ

 

 

 

いつもの彼女とはほとんど変わらないように思えるが、その挙動は何処かおかしい。その理由はもはや明確なものであると言わざるを得ないが、その理由を問いただす前にファインはその朗らかな口調のまま口を開いた。

   

 

 

 

「ねぇシャカール!タキオンとその仲間の二人を何処か見てないかな!?彼女たちを捕まえて会長の前に突き出さないと!」

 

 

 

やはりか。

 

 

 

彼女も他のウマ娘たちにもれず、自身の仲間たちを捕まえようと校舎内を駆けずり回っているわけだ。となれば彼女にも自身が仲間の一人であることは決して悟られてはいけない。

 

 

 

「……いや、見てねぇな。俺も今探してンだ。見つけたら教えてくれ」

 

 

 

そう言ってその場を早々に立ち去ろうとするが、その瞬間自身の右腕を背後から力強くつかみこまれた。自身の口から悲鳴が絞り出されそうになるのを懸命にこらえながらシャカールはいつもの調子を保ちつつ口を開いた。

 

 

 

「……まだ何か用か?」

 

 

 

「シャカール、絶対に向こうの世界に行こうね!」

 

 

 

なるほど、彼女たちはある種純粋な念を抱いて向こうの世界に赴いて、トレーナーたる人間たちと結ばれたいようだ。その混じり気のない、ある種純粋なる狂気が放つ饐えた匂いに顔をしかめそうになるのを懸命に抑え、言葉を返した。

 

 

 

「あぁ……そうしよう」

 

 

 

その手をゆっくりと振りほどき、シャカールは不審に思われないように生徒会室に向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうやら作戦は順調なようだ。

上手いことタキオンたちが校舎内を駆け巡り、追手を拡散させてくれているようだ。露伴は他のウマ娘たちに見つからないように身を隠しながら、一つの部屋の前にたどり着く。そこは敵の総本部である生徒会室だった。

 

 

 

 

 

ルドルフは今しがた放送で自身の捕縛について呼びかけていた。つまり今は放送室を離れたかそこらで、この部屋にはいないはずだ。

 

 

 

 

―――室内が無人であることを確認し、シャカールが安全にPCを取り戻すことができるように手引きをする。

 

 

自身に与えられた任務はまさしくそれだった。しかしこの役目は危険そのものであることは言うまでもない。室内が無人であればそれに越したことはないが、誰かいた場合は、部屋からその人物を出すことが自身の任務のタスクに追加されるからである。

 

 

PCがここにあることは、数日前にルドルフから法外な約束を取り付けられた際に確認している。

 

 

本来であれば、生徒会長であるシンボリルドルフが呼んでいるからという方便を用いて、部屋から離れた場所へと室内のウマ娘を手引きするつもりだった。しかし現時点で自分がタキオンの一味であることは、既にばれてしまっている。即ちこの部屋に誰かいた場合、それは勝算が限りなくゼロに近い鬼ごっこに興じなければならない、ということを意味していた。

 

 

「――――よし」

 

 

覚悟を決めると、露伴は生徒会室の扉の横の壁に、自身のポケットからテープを取り出すと、その切れ端を壁に貼り付ける。それはシャカールに自身がすでに部屋を確認したことを示す合図だった。

 

 

カチャ

 

 

ドアノブをひねり室内に足を踏む入れ、中を見渡す。その様子を確認した露伴は、そっと胸をなでおろした。

 

 

……どうやら中には誰もいな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まさかお尋ね者が自らここにやってくるとはな」

 

 

 

露伴は自身が扉の後ろまで隅々まで確認しなかったことを心から後悔した。壊れかけの人形のようにゆっくりと声を投げかけられた方向へと首を向けると、そこには一人のウマ娘……黒鹿毛のポニーテールに、鼻にテーピングを施した彼女は、まるで猛禽類のように鋭く、抜け目ない視線を露伴に対して投げつけながら言葉を発した。

 

 

 

「……貴様、岸辺露伴だな?今探しに行こうと思っていたがちょうどいい」

 

 

 

 

こいつには見覚えがある。確かルドルフの後ろでいつもぼんやりとしていた……確かな名前はナリタブライアン、といったか。室内から逃げ出そうにも、扉の後ろに潜んでいた彼女がいるようでは、室内からは逃げ出すことはできない。瞬く間に露伴はブライアンにひっ捕らえられると、地面にそのまま押し倒されてしまった。

 

 

「き、君も向こうの世界に行きたいクチかい?」

 

 

「……当然だ。あの渇きを……どんなに水を注ぎこんでも潤うことのない、あの筆舌尽くし難い苦しみとの向き合い方を教えてくれたのは、紛れもない彼なんだ。私を選んだ以上、もはや逃げ出そうなんてバカな真似はさせてなるものか。責任は取ってもらう」

 

 

「……なるほど、よくわかった」

 

 

こうなっては仕方がない。こちらも一つカードを切るとしよう。

露伴は胸ポケットから缶を取り出すと、スイッチを押して宙に放り投げる。そして取り押さえられていない方の腕で自身の顔を覆った。

 

 

空中に放り投げられた缶は、突然強烈な光とけたたましい音を張り上げ、ウマ乗りになっていたブライアンの視界を光で覆いつくし、その感覚を奪い去るのだった。その隙をついて露伴はブライアンの身体を突き飛ばし、生徒会室を後にする。ブライアンはうなり声をあげながら感覚を取り戻すと、扉に向かって視線を投げかけた。

 

 

 

「……許さん」

 

 

 

 

充血した、怒りに満ち満ちたその瞳で前方をにらみつけると、ブライアンは今しがた部屋を後にした不届き者を追う為に、まるで興奮した闘牛のようにけたたましい声を上げ彼を追いに部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……よくやった。岸辺露伴」

 

 

どうやら彼は首尾良く室内に誰も残らないように手引きしたようだ。

誰もいなくなった室内に、一人の人物が足を踏み入れる。その人物は注意深く室内を見渡すと、部屋の奥に設置された机の上に置かれた、毒毒しいステッカーが無数に貼られたPCを手に取ると、部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………どうやら外に何かあったようだ。

 

 

 

窓の外からは、ウマ娘たちの怒号をはじめとしたさまざま声や音が漏れ聞こえる。先程の会長の放送から察するに、タキオンをはじめとした私たちのトレーナーは離反行為に動き始めたようだ。

 

 

 

エアグルーヴは晴れない気持ちを抱えたまま、ベッドに蹲りその気持ちを抱きかかえた。

 

 

 

会長は、自身の檻に閉じ込めていた宝物が零れ落ちることがないように躍起になっているようだ。彼女の気持ちは痛いほどわかる。私もできることなら、今学園に弓を引いている自身のトレーナーを捕まえ、力尽くでも彼をわが手にしたい。

 

 

 

だが、彼が逃げ出したのは…

 

 

 

言わなくてもわかっている。すべては…すべては私たちの醜いエゴのせいだ。彼から生活を奪い取り、まるで物のようにこのトレセン学園という籠の中に閉じ込めなければこんなことにはならなかった。

 

 

 

……だがそれは、紛れもなく彼を愛していたからだ。日々生きる活力がしぼんでいく彼を見ていることは耐え難いほど辛かった。元の世界に戻れば、彼はきっと……

 

 

 

相反する想いが心の内を激しく入り乱れ、エアグルーヴはベッドから突然起き上がると、せわしなく動き回る。やがて彼女は室内に取り付けられている姿鏡を見た。

 

 

 

………そうだ、私は……

 

 

 

結論が出た。私がやるべきこと、なすべきことは分かった。エアグルーヴは鏡に映った自身の姿を見据えると、静かに自室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自身の胸ポケットに入った携帯に着信が入る。それを取り出し内容を確認すると、メールが届いていて、本文は短く一言綴られていた。

 

 

 

「回収完了」

 

 

 

よし。作戦は第一段階完了だ。

タキオンは再び携帯をポケットに戻すと、扉の前に設置した扉をゆっくりと離れる。

 

 

 

当たり前ではあるが、このような状態では扉から外に出ることは叶わない。ドアはけたたましい音を数度上げると、途端にドアはこちらに向かって吹っ飛んできた。

 

 

「…………おやおや」

 

 

 

室内にカフェをはじめとしたウマ娘たちがなだれ込んでくる。タキオンはゆっくりと後退しながら余裕を保ちつつ口を開いた。

 

 

 

「随分とお熱い歓迎だねぇ。人気者は辛いよ」

 

 

 

 

 

基樹は懸命に足を繰り出していく。後方から般若のような表情を浮かべたシチーが迫ってきている。絶対に追いつかれたくないという意思と、絶対に捕まえてやるという意思。その相反する二つの想いがぶつかり合いつつ繰り広げられる追いかけっこに講じつつ、基樹は廊下を曲がる……すると出会い頭に一人の人物と鉢合わせするのだった。

 

 

「ろ、露伴先生!?」

 

 

 

「基樹君かい!?」

 

 

 

二人は驚きのあまり声をあげたが、それぞれ背後に追手が迫っているためそれ以上会話を繰り広げようとはせずに、まるで示し合わせたかのように一方に向かって並んで走り出していく。肺が悲鳴を上げるのを懸命にこらえながら、基樹は隣にいる露伴と背後に迫るシチーと、露伴が引き連れてきたであろうブライアンを交互に見やり声を発した。

 

 

 

「先程着信がありました!回収に成功したそうです!」

 

 

 

「よし、それじゃあここから退散しようじゃあないか」

 

 

 

二人は並んで階段を駆け下りると、作戦に従ってある一方に向かって足を繰り出していった。

 

 

 

「そんな怒るなんてカフェらしくないじゃあないか……おっと、それに君はテイオー君。気分はどうだい?あの睡眠ガスは試作品だったから、ちゃんと効くか不安だったんだ」

 

 

 

「……もちろん。気分はむかむかしてるよ……タキオンのせいでね」

 

 

 

「年貢の納め時です………タキオンさん、大人しく捕まってください。もうあなたに逃げ場はありません」

 

 

 

じりじりと、その距離を半円状に取り囲んだウマ娘たちが詰め、にじり寄ってくる。その円が一歩狭まる度に一歩後退しながら、タキオンは徐に口を開いた。

 

 

 

「……確かに君の言う通りだよ、カフェ。もうこの場から立ち去ることはできない。言うなれば打つ手なし、ってやつだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……扉からはね!」

 

 

 

 

その瞬間、まるで跳ねるように後方を振り向き窓に向かって走り出す。そして窓枠に足を掛けると、その身を窓から乗り出した。

 

 

 

 

「……!」

 

 

 

 

突然窓から身を投げたタキオン。今目のまえで彼女が姿を消したその場所へとカフェたちは駆け寄ると、窓からその下を見下ろした。

 

 

 

……タキオンの身体は空中でとどまっていた。いや、正しくはその身体は空中にぶら下がっていたと言う表現が良いだろう。よく見ると窓枠には何やら黒いベルトのような代物がつけられ、それがタキオンの身体に繋がっていた。

 

 

 

「特性の伸縮サスペンダーさ。荷重は150キロまで耐えることができる……さながら即席のエレベーターっていったとこらだねぇ」

 

 

 

自身の腰に付けられたスイッチを押すと、スルスルと身体は地面に向かって下がっていく。やがて地面に足が付いたタキオンは、腰に付けられたその代物を取り外し、ちょうど自身が降り立った場所……校舎の玄関の目のまえに目を向けた。

 

 

 

「今から階段降りて追いかけようよ!」

 

 

 

テイオーの声を聞き届けたタキオンは、まるで希代の魔術師のように仰々しい手振りをつけながら言葉を発した。

 

 

 

 

「それは正しい判断だよテイオー君……」

 

 

 

玄関に向かって二人の人物……自身の計画の片棒を担いでいる露伴と基樹が必死の形相でこちらに走ってくる。その数メートル後方を今度は恐ろしい表情を浮かべたシチーとブライアンが迫ってきていた。

 

 

 

 

いやはや、これは面白いものを見れたねぇ。

 

 

 

その真剣な、まさしく生き死にをかけた場面とは裏腹なその表情が醸し出すコミカルさに笑いそうになるのを懸命に抑えると、頭上で彼らを追う二人で同様、鬼のような表情を浮かべるテイオーに向かって言葉を投げかけた。

 

 

 

 

「……そしてそれを私が予見していなかったと思うかい?」

 

 

 

 

「さて二人とも、飛びたまえ‼」

 

 

 

その言葉を受けた露伴と基樹は玄関に向かって飛び込んでくる。その身体が玄関を抜けた瞬間、タキオンはポケットからスイッチを取り出しそのボタンを押しこんだ。

 

 

 

 

 

その瞬間、玄関がけたたましい音を立てて爆風を上げ、瓦礫が飛び交いその玄関の上に障壁となって降り注いでいった。

 

 

 

 

「……もう少しマシなやり方はなかったのかい?」

 

 

 

爆風でふっとばされた露伴が非難めいた視線を投げかけてくるが、タキオンはどこ吹く風といった様相で言葉を口にした。

 

 

 

 

「追手を撒いてやったんだ。感謝してほしいね……よし、それじゃあ次の段階だ。行こうか」

 

 

 

 

そう口にすると、露伴と基樹を連れ立ってタキオンはその場を後にした。



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岸辺露伴は調べない12

一体どれほど、俺はここに閉じ込められているのだろうか。

 

 

手首に縛られた粗雑な紐は、それでも確かに解けぬようにきつく縛られたその紐は、部屋の一角の柱に繋がれていて、それは否が応でもここから抜け出すことはできない、あきらめろと宣告されているような感覚に陥った。

 

 

俺は元々、フリーのルポライターをしていた。最もこの場合、元の世界でやっていたというべきだろうか。

 

 

俺が住んでいた町、杜王町は数年前までその喧騒とはかけ離れた、静かな様相とは裏腹に奇妙な事件が立て続けに起こっていた。他の地域と比較しても跳ね上がった行方不明者の人数。地方の一都市とは思えないほど残虐で奇妙な、殺人事件や未解決事件。東京で無名のルポライターとして燻っていた自分は、そこで一旗揚げるためにボストンバッグを片手に杜王町へと飛び出していった。

 

 

そこから俺は、自分の商売道具を片手に杜王町を駆け巡り、数々のスクープ写真を挙げて、事件を新聞やテレビといったメディアに流していた。それなりの収入はあったし、その金で何とか飯も食えていたというものだ。

 

 

だがそんな日々というものも、突然終わるというものだ。

 

 

あれは確か、1999年の夏だったか。杜王町の一角で亀友デパートに勤務する男が救急車に轢かれたあの事件…確かあのころを皮切りに、杜王町から事件が途端に減少した。

 

 

一時はその男が一連の事件の首謀者なのではないかと疑念を抱き、その男の近辺を調べてみたりもしてみたが、その結果は白。1か月ほどその男は行方不明だったそうだが、前科もなし、妻帯者もいない。勾当台のはずれの一軒家に一人暮らしで、会社の人間や近所の人間にその男のことを尋ねても、特に怪しいようなそぶりは見せなかったそうだ。

 

 

とどのつまり、彼も一連の行方不明事件の被害者だったということだろうか。それともこの町、杜王町という存在自体が何かそのような怪異の類を引き寄せている、というところだろうか。

 

 

……いや、ただ俺は、自分の仕事の旗色が悪くなったことに、何かしらの因果関係を見出したかっただけなのだろう。

 

 

杜王町から事件という事件がなくなり、他の町と同じように退屈な、穏やかな町と化した結果、俺のルポライターとしての仕事は激減した。

 

 

 

 

 

 

 

 

手元のベルトの冷たい革の質感が、両手に伝わっていく。

やりたいことはすべてやった。東京にいる両親より先にこの世界から消え失せてしまうことは残念だが、この世界に留まることはそんなことをはるかに上回る絶望感が胸にひしめいていた。

 

 

「……ありがとう」

 

 

足元にあるイスを蹴ろうとしたその瞬間、ポケットに入れていた携帯がバイブレーション機能を発する。

 

一体何事だろうか。

 

 

携帯を取り出し画面を確認すると、そこにはゲームのアプリのコマンドの表示があった。特に何の気があったわけではない。死ぬ前の行動のすべてに意味を求めるというのも、あまりセンスのあることでもないだろう。

 

 

「ウマ娘プリティーダービー!」

 

 

可愛らしい声と共に、アプリの起動する音が聞こえる。そのままホーム画面が表示されると、そこには美しいプラチナブロンドの髪色を有したウマ娘がそこにいた。

 

 

……シチー。

 

 

「最後に話す相手がアプリのお前とはな……俺の人生って一体何だったんだろうな」

 

 

まさか人生最期に話す相手が、ゲームのキャラクターとは……三文芝居の脚本にも見劣りするようなその滑稽な人生。自嘲気味に声が唇から漏れ出す。その瞬間、画面にいるはずのシチーの腕がこちらにのびてきて、携帯を握る自身の腕を力強くつかみ取った。

 

 

 

「……それならアンタの人生、アタシにちょうだい」

 

 

 

それから俺は、この世界にずっととめ置かれている。一体何が正しかったのか、俺が死のうとしたことが間違いだったというのか。それともこんなゲームをやろうとしなければよかったというのだろうか。

 

 

 

「……」

 

 

 

 

シチーが俺を愛してくれているっていうのは分かる。しがないルポライター……いや、バイトでやっとその日を暮すルポライターくずれの俺が、あんなに美しい彼女に一途に好意を向けてもらうことは決して悪い気分はしない。

 

 

 

……それでもこの方法は。こんな扱いは……

 

 

 

仮に元の世界に戻ったとして、俺は果たして変わることができるというのだろうか。また元の生活の如く、その日暮らしに逆戻りしてしまうのではないだろうか?

 

 

 

その瞬間、自身の部屋の扉が勢いをつけて開かれる。

 

 

 

……一体誰だというのだろうか?

 

 

 

彼女は……シチーは今奉納祭の準備をしているはずだ。長い間暗闇に包まれていたせいでドアから差し込む光に目をすぼめながら、彼はそこへ視線を送った。

 

 

 

 

 

 

「私たちがやれることは一つ完了したねぇ」

 

 

シャカールが生徒会室にあるPCを回収し、それまでの時間を自分たちが囮となって稼ぐ。そしてその他に自分たちに課せられていた使命、それはできる限り学園内にいるウマ娘を校舎内に誘導し、中に閉じ込めて追跡されないようにするというものだった。

 

 

「概ねうまくいったというところだな……概ね」

 

 

「やや険のある言い方だが、確かに君の言う通りだよ露伴君」

 

 

後方で未だ煙を巻き上げる校舎の方を見つめながら、露伴は徐に口を開いた。校舎の中に多くのウマ娘たちを閉じ込めることに成功はしたが、校舎外にも未だ自分たちのことを探しにウマ娘たちが多く徘徊しているし、何より閉じ込めたウマ娘たちもいつ校舎から脱出するかもわかったものではない。

 

 

「はやいところまた囮役をやろう。シャカールがAIソフトを止めるまでの時間稼ぎだ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

「クソッ……なんだこいつ……ッ!!」

 

 

 

わが子の成長は嬉しいものだというのが親の常だとは言うが、事この場合…自身が作り出したAIソフトが自分の手から離れ、自身が組んだ式から最早別物と化して成長を遂げ、そして未だその目的に従って成長を続けている。この場合はもはや嬉しいものであるとは言い難い感情が心を占めていた。

 

 

最早自分が作っていたあのソフトとは別物。どれだけその構成を分解しようと試みても、瞬く間にブロックを敷かれ、その道はふさがれてしまう。

 

 

「こんな……ところで!」

 

 

諦めてなるものか。タキオンたちが文字通り命懸けで稼いでいる時間。一分一秒たりとて無駄にするわけにはいかない。

 

 

シャカールは再びスクリーンに向き直ると、超人的な速度でキーボードに数列を打ち込み始めた。

 

 

カチャッ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここから出られない……っ!」

 

 

荒々しく玄関をふさいだ瓦礫の山を蹴り上げるが、それはピクリとも動こうとしない。それは明確に、自分たちがここから閉じ込められ、出るすべがないことを示していた。

 

 

「裏口もダメです……!」

 

 

「勝手口もだめだった……全部塞がれてる」

 

 

様子を見に行っていたシチーとカフェがそれぞれ戻ってくる。報告によれば、この正面玄関はもちろんのこと、校舎のいたるところにある出入口はすべてあの爆発によってその出入りを封じられているようだ。

 

 

あのタキオンのことだ……予想はしていたことだが、やはり私たちをこの校舎からみすみす取り逃がすような真似はしないだろう。

 

 

「……」

 

 

「ねぇブライアン!どうするんだよぉ!ここから出ないと、タキオンたちが逃げちゃうよ!」

 

 

 

苛立たし気に声を荒げるテイオーをよそに、ブライアンの思考は至って冷静そのものであった。

 

 

……なんでたってあいつらは、こんな真似をしでかしたんだろうか?

 

 

岸辺露伴や安藤基樹たちの狙いはわかる。この世界から脱出し、元の世界に戻ることだろう。それならば一体どうして彼らはまっすぐこの学園から立ち去ろうとせず、この学園をあちこち駆けずり回っているというのだろうか。

 

 

それにどうしてタキオンと彼らは組んでいたというのだろうか?

 

 

タキオンは当初、この世界と並行世界であるトレーナーたちのいる世界への調査を一任されていたチームの一員だったが、そのチームの一人であるエアシャカールが開発したAIソフトを開発したその時点で、私生徒会がかなり横柄な理由を用いてその研究にかかわる一切を押収した。

 

 

………………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……まさか

 

 

 

その瞬間、ブライアンは弾かれたように急いでとある場所……生徒会室に向かっていく。彼らとタキオンの利益は合致している。それならば、やつらの本当の狙いは……

 

 

 

生徒会室の扉を開け、室内を見渡したブライアンだったが、そこにはあるべきはずのもの…AIソフトがインストールされているはずのシャカールのPCはすでになかった。

 

 

……してやられた。

 

 

 

すべてはあのねじの外れたマッドサイエンティストの手のひらで踊らされていたというわけか。あの仰々しい爆発ショーも、大胆不敵に学園中のウマ娘たちの眼前にその姿をさらしたことも、全部タキオンの布石に過ぎなかった。全てのあの行動も、その狙いは生徒会室にあったあのPC。逃亡犯である露伴がこの部屋に来た時点で、その狙いに気が付くべきだった。

 

 

……ということは、間違いなく最後の共犯者はエアシャカールだろう。

 

 

タキオンたちが時間を稼ぎ、その間にシャカールがPCを回収し、AIソフトを無力化して並行世界への行き来ができないようにする。

 

 

至ってシンプルなそれだが、事実というものは案外こういう代物なのかもしれない。

 

 

自分たちはまんまと彼女たちの策に溺れ、こうして巨大な監獄と化したこの学園にとめ置かれている。怒りのあまりにブライアンは拳を壁に叩きつけると、その場にへたり込んだ。

 

 

……その時、自身のポケットから振動を感じる。恐る恐るポケットから携帯を取り出し、その宛先を確認すると、ブライアンは耳にその携帯を静かにあてた。

 

 

「……私だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タキオンと基樹、露伴は学園内にそれぞれ散会し、時間を稼ごうとする…しかしその瞬間、3人の携帯が着信によってバイブレーションを発したのだった。

 

 

…?

 

 

 

ポケットの携帯を取り出し、宛先を確認するとそこには自分たちの同胞であるエアシャカールだった。

 

 

「解除完了」

 

 

「……やけに早くないかい?」

 

 

 

露伴はいぶかし気に二人の顔を見つめるが、タキオンはさも当然であるかのように口を開いた。

 

 

 

「それくらいシャカール君が優秀だってことだろう。何はともあれ、ミッションは終了だ。早いところ君たちはこの世界から出ないと、もう帰れなくなってしまうぞ?」

 

 

その言葉に慌てた様子で露伴と基樹はうなずくと、急いでこの世界と、自分たちが本来いた元の世界をとどめ置いていた出入口である正面玄関へと向かっていった。

 

 

「……さみしくなるな、タキオン」

 

 

「……本当にありがとう。君がいなかったら、僕たちは」

 

 

「そういう辛気臭いのはナシにしておくれよ。私たちは私たちで、自分たちに必要なことだからやったことさ。それに露伴君……君にお礼を言われるのは、何だかむず痒い」

 

 

正面玄関がその姿を現す。これでようやく、元の世界に帰ることができる。終わることがないと思っていた長い悪夢から、ようやく目を覚ますことができるのだ。

 

 

自然と入口に向かう3人の足取りは早くなっていく。

 

 

入口まであと数メートル。

 

 

「帰ろう、元の世界に」

 

 

 

エアグルーヴに最後に別れを言うことができなかったのが心残りだ。基樹は名残惜しそうに学園の方へと視線を送ったが、やがて正面に視線を戻すと再び駆け出して行った。

 

 

もう少しで、もう少しで元の世界に…

 

 

 

 

 

 

 

「そんなに急いでどこへ行こうというんだい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その言葉に、恐る恐る露伴たち3人は声の下方向へと視線を送る。そこには意気揚々と両手を組み、得意げな笑みを浮かべたシンボリルドルフの姿があった。

 

 

 

「どうして…」

 

 

 

「どうして私がここにいるのか、そう聞きたいのかい?私が君たちの狙いに気が付かないとでも?君は連れ戻されるとわかっていてむやみに暴れ出すような真似はしないだろう。なにかしらの希望的観測を抱いて今回の計画に乗ったはずだろう」

 

 

 

そう言うと、ルドルフはその手に一つの物体を持ち、露伴たちの眼前にさらす。それは露伴たちが今回の計画の要として奪取していたはずのシャカールのPCだった。

 

 

 

 

「シャカール君の作ったAIソフトは未だ独自の進化を遂げ続けている。こんな短時間で解除できるはずがないだろう?彼女の携帯を拝借して、ここに来てもらったわけさ」

 

 

 

 

 

「……シャカールはどうしたんだい?」

 

 

 

その問いにルドルフは後方へと視線を送る…するとそこから縄で捕縛されたシャカールと、その隣に縄を持ったブライアンの姿があった。そしてさらにブライアンの後ろから続々と校舎の中へと閉じ込めたはずの、テイオーやシチー、カフェをはじめとしたウマが姿を現した。

 

 

 

……彼女たちは校舎の中へと閉じ込めたはずだ。出入口はすべて封じたというのに、一体どうして?

 

 

 

その問いに答えるかのように、ルドルフはその口元に笑みを浮かべると徐に口を開いた。

 

 

 

「確かに出入口はすべて爆破されていた。だが、私は生徒会室の棚に一つ。避難訓練で用いる非常用の脱出用のシューターを隠しておいた。君たちの目に触れないようにね…電話でブライアンにその存在と保管場所を伝えて、それを使って校舎から出てもらったわけさ」

 

 

 

まるで100点をもらった優等生のように歓喜に満ちた表情でその答え合わせを行うルドルフを悔し気に見ながら、露伴は徐に口を開いた。

 

 

 

 

「そこまでわかっていたなら…はじめから僕たちの計画は分かっていたはずだ。それなのにどうしてわざわざこんな煩わしい真似を……」

 

 

 

 

 

「言っただろう…?ご馳走は寝かせるほど芳醇な香りを放つ。君が希望に縋りついて、そこから絶望に叩き落とされる表情を見たかったのさ」

 

 

 

とどのつまり、僕たちは初めから目のまえの猛獣…シンボリルドルフの手の上で踊らされていただけということだったというわけか。

 

 

 

だとすれば今までの脱出という希望を頼りに進めてきたこの計画も、そして払ってきた努力もすべて、初めから徒労と化すことが決していたということになる。目の前を覆った絶望に、露伴は地面に膝をつく。その様子をしげしげと見つめていたルドルフはその俯いた顔を覗き込むと、恍惚とした表情を浮かべた。

 

 

 

「…君のその表情。なかなか刺激が強いスパイスだな。今すぐ君を閉じ込めて、その表情さえも独り占めしたいところだよ」

 

 

 

普段であれば言い返したくなるような、そんなたわけた言動にも今の露伴はとてもではないが言い返す気など露とも起きなかった。

 

 

 

今さら彼女に言い返したところで、未来は変わらない。せいぜい自身が待ちわびた食材として食卓に並んださいに、多少乱暴に食らいつかれるか否かくらいの違いだろう。

 

 

その様子に満足したルドルフは、もはやショーは終わりだというように片手を振ると、取り囲んでいたウマ娘たちを退かし、彼の手を取ってその場を立ち去ろうとするが、露伴はへたり込んだまま、いつまでたってもその重い腰を上げようとはしなかった。全て勝敗は決し、抜け殻のようになってしまった露伴をしばらく見つめていたルドルフだったが、

 

 

 

「さぁ、これ以上私の手を煩わせないでくれ。今ここで大人しく、そして君がこれから私のもとから離れないと約束をしてくれるというのなら、今回の事件で粗相をおかしたタキオンやシャカールについてだが、卒業までの奉仕活動という形の減刑を考えてやってもいい。それに君の同胞、基樹君についても丁重に扱うようにエアグルーヴに掛け合おう」

 

 

 

その言葉に、露伴は顔を上げる。

 

 

 

 

「それは……それは本当か?」

 

 

 

 

獲物を身体で締め付け、もはやその首にかみつくだけと言わんばかりにその口角を引き上げながら、ルドルフは言葉を続けた。

 

 

 

「あぁ本当だ。元より私の願いは君一人だ。君が大人しく私のものになってくれるというのなら、それ以外のことなんて些末なことだ。私や学園に弓を引いたことは腹立たしいが、もしも要求を呑んでくれるというのならば彼女たちに対して温情をかけてやる」

 

 

 

「ふざけンな!そんな要求呑むンじゃあねーぞ!」

 

 

 

「私たちのことなど気にするな!彼女の言葉に耳を傾けるな!」

 

 

 

既に捕縛され、身動きを取ることができなくなったタキオンとシャカールの必死の嘆願に、ルドルフはまるで道端に投げ捨てられたゴミを見るような顔つきで彼女たちを一瞥すると、徐に口を開いた。

 

 

「……既に君たちはチェックメイトにハマっている。もはや君たちの処遇はトレーナー君の考え一つだということをゆめゆめ忘れるな……それでトレーナー君、返事はどうだい?」

 

 

 

「……本当に助けてくれるのかい?彼女たちを……そして基樹君を。」

 

 

その言葉に、ルドルフはさらにその口角を上へと引き上げる。もはやその質問は、これから発せられる答えへの明確な伏線そのものだった。彼が自らの脚で、私のもとへとやってくる。その事実に歓喜で打ち震えながら言葉を発した。

 

 

 

「……もちろんだとも。私は約束を守るよ。さぁ、返事は?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だが断る」

 

 

 

 

「……は?」

 

 

 

彼は今なんと言った?断ると言ったのか、私の提案に?彼が発した言葉に混乱を露わにするルドルフをよそに、いつものようなふてぶてしい態度を元に戻した露伴は、言葉を続けた。

 

 

 

「この岸辺露伴の最も好きなことの一つは、自分が優位に立ったり、強いと思っていたりする連中にNoを突き付けてやることさ。悪いなタキオン、シャカール。そして基樹君。みんな仲良く地獄へ行こうじゃあないか」

 

 

 

 

 

「プッ……アハハ!君はなかなか愉快な性格をしているな、露伴君!」

 

 

 

 

 

 

「ざまぁねーな、皇帝さンよぉー-!フラれてやがる!」

 

 

 

 

 

タキオンとシャカールの笑い声が響き渡り、取り囲んでいたウマ娘の間には動揺が広がっていく。混乱のあまりその目をしばたたかせたルドルフだったが、やがてその表情には「暴君」というべき、憤怒の色が塗りつけられた表情へと様変わりしていく。

 

 

 

 

 

「……交渉は決裂だな」

 

 

 

 

 

フラフラと、しかし確実に。その足に怒りの意思を従えて露伴へと歩み寄っていく。それはただ一つの敢然たる事実だけが横たわっていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……少し躾が必要みたいだね」

 

 

 

 

ルドルフの腕が、空に向かって引き上げられ、露伴に向かって真っすぐと引き下ろされる。露伴は覚悟を決めると、目をゆっくりと瞑るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつまでたっても、その拳は振り下ろされない。

 

 

 

状況を図りかねた露伴が、恐る恐るその閉じられていた目を開けると、そこには驚くべき光景が露伴の視界に映った。

 

 

 

「一体……一体君は何をしている」

 

 

 

「エアグルーヴ」

 

 

 

エアグルーヴがルドルフの腕をつかみ、その怒りの発露の攻撃を寸前のところでとどめ置いていた。エアグルーヴは静かに暴君と化した自身の同志を見つめると、悲し気な表情を浮かべながら口を開いた。

 

 

 

 

「なすべきことが見つかっただけです。ウマ娘としての、なすべきことです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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岸辺露伴は調べない13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ウマ娘として、なすべきこと…?」

 

 

怒っているのか、それとも呆れているのか。何の感情の色もうかがい知ることができない、ただエアグルーヴが発したその一言を反芻させるかのように、ルドルフの一言が室内にこだまする。

 

 

「その通りです。私もはじめ、この世界に彼を…トレーナーを連れてくることができた時、私は舞い上がりそうな心地でした。愛する人が目の前にいる、そしてその肌に触れることができる。これがどれほど幸せなことか……」

 

 

「であれば、君のなすべきことは一つだろう…ッ。今すぐその手を放して、君は自分の大切なトレーナーを持って帰り、愛を確かめることだ!」

 

 

今まで色を窺い知れなかった彼女の顔から、突然感情が噴出する。それは即ち、隠し切れない動揺と混乱、そして焦り…様々な感情が綯交ぜとなったその声色を震わせながら、エアグルーヴの顔をにらみつける。

 

 

「…だからこそ。手に入る距離になってしまったからこそ、私は周りが…そして彼のこと自身を考えることさえもできなかった。本来愛しあうことは、二人の感情をもって初めて成立するというのに」

 

 

「そして私たちは、あろうことかウマ娘としての本分である「走る」ことすらも蔑ろにしてしまった。これは私たちウマ娘にとって怠惰であり、大きな罪です。そしてそれは…私たちを傍で見続けてくれていたトレーナーたちの想いさえも蔑ろにすることに他ならない」

 

 

「……」

 

 

エアグルーヴは静かに、そしてまるで許しを請うように基樹の方へと視線を向ける。その視線は、地面に屈し贖罪を願う罪人のそれであった。基樹はその言葉に唾を飲み込むと、それを見たエアグルーヴは再び言葉を続けた。

 

 

 

「……ごめんなさい。君のことを度外視して、気持ちを図れていなかった。許してくれとは言えない。基樹、君を元の世界に戻すことでその贖罪とさせてくれ」

 

 

そう言う彼女の脚は、目に分かるほど震えていた。言葉ではそれを明確に示し、態度で現したとしても、基樹から拒絶されることを明確に恐れている。

 

 

この学園に来てからの、彼女との日々を振り返る。果たして、僕は何をしていたのだろうか?彼女は変わろうと努力していた。必死に思い悩み、葛藤し、そして一つの答え…愛する者の想いを尊重するという選択をした。

 

 

……それなら僕は?

 

 

僕にできることは、一体なんだろうか?彼女が歩み寄ろうとしている中、僕はただそれに向き合おうとも逃げてばかりだった。

 

 

向き合わなければ。

 

 

彼女に、彼女に伝えなければ。

 

 

その瞬間、基樹が意を決し口を開こうとしたその瞬間。鋭い一言が飛び込んだ。

 

 

 

「……ふざけるな」

 

 

 

それは紛れもなく、皇帝・シンボリルドルフから発せられた言葉だった。その言葉に静かに彼女の方へと視線を向ける周囲をよそに、ルドルフはその抑えの利かなくなった想いを噴出させた。

 

 

「今さら善人ぶるつもりか!君だってシャカールたちからPCを取り上げるのに、加担しただろう!それを今さら……なにを都合よく!……それに「走る」ことがなんだって!?知ったことか、そんなことは!やっと会えたんだ…!ずっと画面の向こうで、私のことにすら気づいてもらえない……!そんな生活に戻るのはまっぴらだ!それにエアグルーヴ。もしも、もしも……君の言っていることを認めてしまったら……!」

 

 

 

それはもはや皇帝としての秩序も、暴君としての破滅さえもかなぐり捨てた、ただ一つ。愛する者に恋焦がれる年相応な少女の姿があった。

 

 

「カイチョー……」

 

 

「会長……」

 

 

周囲のウマ娘たちは、その様子に言葉を失っていた。もはや目のまえのウマ娘には、かつてその知性と大志、統率力を以てして学園を導いていた皇帝としての面影は完全に消失していた。

 

 

最早、振り下ろさんとしていた拳の力も、完全に逸していた。エアグルーヴはその手を離すと彼らを連れだって、そこをあとにしようとした。

 

 

「……まて。誰が逃がすと言ったんだ?捕まえろ!一人のこらず、捕まえろ!」

 

 

 

その言葉に、もはや動き出そうとするウマ娘はいない。彼女たちは心の中で、エアグルーヴの言葉に納得してしまっていた。自分たちの走りを、そして成長を間近で見守っていたはずのトレーナーの心を裏切ってしまうことになる。その敢然たる事実の前に、ウマ娘たちの意思も完全に竜頭蛇尾となってしまっていた。

 

 

「今のあなたは、会長としての姿を見失ってしまっている……残念です。」

 

 

その視線には、明らかな悲しみが刻み付けられていた。エアグルーヴは最後にそうつぶやくと、露伴たちを連れ立ってそこを後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後に取り残されたのは、シンボリルドルフとその彼女の私欲によって言葉巧みに焚きつけられ、梯子を外されてしまったウマ娘たち。エアグルーヴが去り際に放った一言は、ルドルフの頭を擡げさせるには十分な威力だった。頭を下げるルドルフに、ブライアンは彼女らしからずおずおずと声をかけた。

 

 

 

「会長……」

 

 

「連れ戻せ」

 

 

「…もうそれくらいに…」

 

 

既にウマ娘たちの間には彼女たちを駆り立てていた衝動は完全に失速し、その間には疑念と困惑が広がっていた。本当にルドルフの言ったことは正しかったのか?自分たちがやろうとしていたことは正しかったのか?その疑念は波及的にひろがっていき、ウマ娘たちはその足を踏みとどまらせる。もはや冷静さを逸し、ひたすら意地と執念のみでつき進むことしかできなくなったルドルフの指示に付いていこうとするものはいなかった。

 

 

 

……これはまずい。

 

 

この状況になっても、こと彼女…ルドルフは未だ諦めていなかった。会長としての威厳、そしてウマ娘としてのあるべき姿を否定してしまった自分にはこれしかない。これを失ってしまえば、今の、今の私にはもう……

 

 

彼女たちを追跡するには、一人では足りない。

その執念を突き動かすためにも、ルドルフは彼女たちを追跡しなければならない。そしてそれには人手がいる。

 

 

「君たちは本当にそれでいいのか…?ここを逃せば、君たちは一生後悔の念を抱きながら生きていくことになる」

 

 

「……どういうこと、カイチョー?」

 

 

……食いついた。

 

 

ここまでくればこっちのものだ。会長という肩書を破り捨てた彼女ではあるが、そのカリスマ性が消失したわけではない。ルドルフはいつもの如く人々を勢い付かせ、その心を掌握さするために言葉を織りなしていく。

 

 

 

「もう一度言う。これは私たちの人生を賭けた局面だ。君たちの思い焦がれる人は、私たちが実在し、想っていることさえも知らない。私たちの存在を知りもせず、私たち以外の伴侶を見つけ、幸せな家庭を築き上げる!そんなこと、許していいのか!チャンスさえないんだぞ!私たちにははじめから!」

 

 

 

 

その言葉に、辺りには目に見えて動揺が広がっていく。彼女、唯一の正気に戻ったエアグルーヴとは異なり、彼女たちはそもそも意中の人間とは会ったことさえない。いくら彼女が苦悩し、苦渋の決断をしたところでその言葉は甘言一つであっという間に塗り替えられてしまう。

 

 

 

 

 

「君たちは、唯のゲームのキャラクターとしてしか認識されない!愛されることはおろか、愛していることを知られることもない!もしかしたら、君はトレーナーたちが愛する伴侶が慈しみながら日々を織りなしていくその様を、何もすることができずただ画面の向こうで指をくわえてみることしかできないんだぞ!」

 

 

 

 

とどのつまり、環境が異なる人間の言葉とは中々芯に届かないというのが現実なところである。エアグルーヴがどれほど思い悩み、苦渋の決断を下した身だったとしても、大多数のウマ娘たちはそもそも担当トレーナーに実際に会えたことすらない。ルドルフの言葉は、その境遇の彼女たちの心を的確に突き、そして刺激していく。

 

 

「一目会うだけでいい、それでいいじゃあないか!それだけでも!一言話すだけでも!その肌に触れるだけでいい!想いを伝えるだけで!」

 

 

興奮と共に、その要求も拡大していく。その拡大する想いは、醜悪な願望を覆い隠すその言葉は、既に尻すぼみと化していたウマ娘たちの想いを、そして執念を再燃させるにはあまりにも十分すぎる燃料だった。

 

 

「……」

 

 

「さぁ行くんだ!私たちの希望を!そして裏切り者を捕まえにいくんだ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで……君は誰なんだい?」

 

 

文字通り救世主であるエアグルーヴの登場によってひとまず窮地を脱した一行は、あてもなく……先程の饐えた匂いを放つ一帯から少しでも遠ざかろうと足を繰り出していた。

 

 

露伴の視線はエアグルーヴのそばにいる男に注がれていた。その頬には手入れのされていないまばらな髭が浮いていて、手首には痛々しいあざが浮き上がっていた。男は申し訳なさそうにポリポリとその髭の浮いた頬を指でかきながら、徐に口を開いた。

 

 

「俺は穂積元博っていうんだ……元々杜王町でルポライターやってたんだけど、この世界につれてこられちまって。一応ゴールドシチーが担当だ」

 

 

「……君も相当苦労したんだな」

 

 

元博の様子を見つめたタキオンの言葉に、元博は静かに苦笑を浮かべる。基樹はその時、あの光景……初めてこの世界に連れてこられたことに気が付いた時に、シチーによって連行されていく彼の姿を思い出していた。あれから彼はずっと監禁状態にあったということだろう。

 

 

「……まぁ、なんていうか。もう君たちの計画?ってやつも終わりに近づいているんだろうが、ただ乗りしようかな、なんて」

 

 

「この時点で逃げようたって、一人も二人も変わらない。一緒に行こうじゃあないか。」

 

 

そう露伴が言葉を返すと、一同はそれぞれ走り始める。基樹の目に映った元博の表情には、何処か迷いがあるようにも見えた……それは自分と同じ悩み。この世界に連れてこられて、同じように悩んでいる僕にだからこそわかるこの痛みを、この人も抱えているんだ。

 

 

「あの……元博さん」

 

 

「んん?なんだ?アンタはそこのエアグルーヴさんのところの……」

 

 

その言葉に頷くと、基樹は徐に核心をつくように話題を切り出した。

 

 

「多分ですけど、元博さんも悩んでいると思うんです。僕は元の世界だとうだつの上がらない会社員で…この世界に来て大変なこともあったけど、同時に彼女に…エアグルーヴが本当に存在していることを知りました。そして彼女が僕を愛してくれているってことも」

 

 

「……」

 

 

 

 

 

 

 

「暴走してしまうことはありましたけど、それは僕たちが向き合ってこなかったことにも一因はあると思うんです。彼女たちに歩み寄ってもらうなら、僕たちも歩みよらなきゃって……ようやく気が付いたんです」

 

 

 

やはり元博自身にも、思うところはあったのだろう。やりばのなさそうに視線を下げる元博を見つめると、自身に言い聞かせるように基樹は言葉を続けた。

 

 

 

「……僕自身、まだ答えを出せていません。それでも、僕ももう逃げたくない……必ず結論を出します。元博さんも……どうか後悔がないように」

 

 

「あぁ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

その瞬間、後方から凄まじい勢いでウマ娘たちがこちらに向かってくる。

 

 

「どうやら皇帝殿は威厳を取り戻したようだねぇ」

 

 

再びその情念の炎に身を焦がす彼女たちは、その障壁となりうるエアグルーヴたちを捕まえようと躍起になって向かってくる。エアグルーヴはシャカールに振り向きつつ大きな声で尋ねた。

 

 

「AIソフトは解除できるのか!」

 

 

「やらなくちゃあならねーだろ!少し時間をくれ!」

 

 

「彼女が作戦の要だ!分かれて追手を拡散しよう!彼女を追手に捕まらないようにするんだ!」

 

 

エアグルーヴの提案に、一同は同意の意を示す。

やがて分かれ道がやってくると、それぞれが一人、また一人と脇道に移動してウマ娘たちをひきつけていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やがて一つの道にそれた時、露伴は自身が作戦の最重要人物と言えるエアシャカールと一緒であることに気が付いた。

 

 

「さながら僕が君のSPってわけかい。ホイットニーヒューストンを警護するケビンコスナーって気分だね」

 

 

「……ンだそれ」

 

 

「……今度観てみるといいよ」

 

 

いずれにしても、彼女を敵の手に渡すわけにはいかない。幸い敵は後方にいないようだ…他の仲間たちがうまく誘導してくれていたらしい。

 

 

「シャカール!一番作業に適していて、敵からの追跡をかわせて落ち着いて作業できるところはどこだ!」

 

 

「なンちゅう無茶ぶりだ!そんなところあるわけねぇだろ…っていや」

 

 

「あるのか!?」

 

 

「一つだけある!旧校舎の屋上にいくぜ!あそこなら屋上への入口さえ塞げば、外部からの侵入を防げる!」

 

 

……そこを突破されれば、逃げ場がなくなってしまう。まさに背水の陣ともいえる場所となることに変わりはないが、もはやそこしか居場所がないとすれば、そこに向かうしかないだろう。

 

 

「行くぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……やれやれ、一人になってしまったねぇ」

 

 

アグネスタキオンはそうぼやきながら足を繰り出す。固まっているより人を分散させることができ、また露伴たち人間と行動を共にして足を引っ張られるよりはマシと考えた方がいいだろう。

 

 

「さてさて、追手は……」

 

 

タキオンが後方を振り向くと、背後にはおびただしい数のウマ娘たちが自身をめがけて追いかけてきていた。

 

 

 

「……なるほど。ジャックポットは私ということかい」

 

 

 

「タキオン~~~~!」

 

 

「逃がしません……」

 

 

先頭には見慣れた姿…先程タキオンとひと悶着あったテイオーとカフェの姿があった。ここまで執念深いとはいやはや恐れ入った。この執念深さがレースで勝利する所以なのかねぇ、などと心の内に思いながら、タキオンは前方へと視線を戻し、足に力を送り込むとその速度を上昇させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……畜生」

 

 

 

監禁から解放されたというのに、今度は追いかけっこか。

元博は懸命に足を繰り出すが、およそ1週間もの間ほとんど足を繰り出すことができなかったため、その衰えを痛感していた。もつれそうな足を懸命に繰り出しながら、元博は校舎裏へと足を繰り出していく。

 

 

「……さっきそこに誰か入ったわ!」

 

 

後ろの方から、複数のウマ娘たちの声と足音が近づいてくる。その声色や荒々しい足音を聞けば、彼女たちの心理状態がどのようになっているかは想像に難くないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウマ娘たちが校舎裏へとなだれこんでくる。彼女たちはしきりに足を掻き、耳をハタハタと動かしながら周囲を隈なく見渡しながら前進していく。

 

 

「だれもいないわ!」

 

 

「あっちの方に逃げたんじゃあないの!」

 

 

ウマ娘たちは猛々しく声を張り上げながらその場を走り去っていく。やがてその場から足音が完全に消失すると、小山となっていた落ち葉の山から元博が姿を現した。

 

 

「……危なかった」

 

 

寸でのところでこの策を思いついたのは良かったが、もしもあのまま手放しに彼女たちに捕まってしまえば、どのような目に遭うかは想像に難くないだろう。疲労が蓄積された身体に、真綿に染みた水のように恐怖が浸透していく。

 

 

「……トレーナー?」

 

 

 

 

 

 

最悪だ。よりによって、今彼女に出会うことになるとは

 

 

「シチー……」

 

 

声のした方向を振り向くと、そこには今一番会いたくない人物…自身の担当ウマ娘であるゴールドシチーの姿があった。彼女の顔には、なぜここに元博がいるのかという動揺、そして彼が既に逃げようとしていたという絶望、そして焦りや怒り……様々な表情が綯交ぜとなってありありと刻み付けられていた。

 

 

「……アンタも、いなくなるの…?」

 

 

シチーの口から発せられた、その一言。その一言は、反対方向へと反射的に逃げ出そうと覚悟した元博をとどまらせるには十分だった。

 

 

どうやら基樹が言っていた決断の時とは、今この時を指すようだ。自身が無意識の内に目を逸らし続けてきたことへの清算が、その逃れられない運命が自身の足元に忍び寄っていくのを感じる。それでも今この場が審判の時であるというのならば、立ち向かうしかないということだろう。

 

 

「シチー……話がある」

 

 

もう逃げたくない。自身の運命から、そして彼女から。

 

 

元博は意を決すると、静かに彼女の方へと歩み寄っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

神の悪戯か、それとも運命か。

基樹が無我夢中に校舎内を駆け巡っていた時、囮として自身の隣にいたのは自身の担当ウマ娘、エアグルーヴだった。

 

 

…僕もそうだ。

 

 

元博に講釈を垂れた自身だが、彼に掛けた言葉をなさなければならないのは紛れもなく自身の方だ。彼女は苦難を、その身を焦がしつくすほどの情念と、ウマ娘としての本懐……愛する者の想いを尊重するという信念の間で揺れ動き、こちらに歩み寄ってきてくれた。彼女は一度手にした宝物を、その檻籠の鍵を放ち大空に放つことを選択したのだ。

 

 

そんな彼女に、僕はなにもしてあげられていない。

 

 

そんなことを考えていると、後ろから追手が凄まじい勢いで走り寄ってくる。するとエアグルーヴと基樹は校庭の隅に付設された用具入れとなっている倉庫へと駆け込んでいく。

 

 

エアグルーヴは一足先にスピードを上げて倉庫へと駆け込むと、基樹の方へと手を伸ばした。

 

 

「捕まれ!」

 

 

その言葉に基樹はまっすぐ頷くと、倉庫から手を差し伸ばす彼女の手を取り、その中に飛び込む。そして倉庫の中にあったロッカーやボール籠、モップといった様々な用具を扉の前に積み上げて即席のバリケードとして設置していった。

 

 

 

扉の外から、無数の扉を叩く音が響き渡る。エアグルーヴと基樹は室内の中央へと引き下がると、ひとまず一息つこうと腰を下ろした。

 

 

「……」

 

 

室外の騒々しく行動を起こすウマ娘たちとは対照的に、室内には不自然な静寂が支配していた。しばらくそのような空気が流れたあと、その静寂を打ち破ったのは意外にもエアグルーヴからだった。

 

 

 

「……すまない」

 

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 

「さきほどは勢いで言ってしまったかのように思えるからもしれないが、あれは本心だ。貴様を…いや、基樹をこの世界に連れ込んでしまったのは私のただのエゴに他ならない。こんなことになってしまって本当にすまない。」

 

 

その語気は明らかに不安で震えている。エアグルーヴは決断した。一つのことを捨て、ここに自身の信念に殉ずることを選択した。今度は自分の番だ。ここがまさに決断の時であるなら、僕も一歩前に踏み出さなければならない。

 

 

「エアグルーヴ」

 

 

 

 

「……?」

 

 

 

 

「……話があるんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧校舎の屋上へとたどり着いた露伴たちは、鎖やイスで屋上の扉を外部から侵入されないようにつなぎ止め、積み上げるとシャカールはPCを開き再びAIソフトを解除するために奮闘を始めた。

 

 

「……どうなんだ?」

 

 

露伴の問いかけに、シャカールは荒々しく髪を手で掻くと苛立たし気に声を発した。

 

 

「……クソッ!やっぱこいつは自分自身で進化し続けているッ!俺が当初開発したものとはもはや別物で、その知能も遥かに凌駕してる……!」

 

 

「…ダメなのか…?」

 

 

「諦めてどうすンだ漫画家先生よぉ!ギリギリまでやってみなきゃわからねぇじゃあねーか!」

 

 

その瞬間、旧校舎の上の空が不自然に歪みが生じると、そこからブラックホールのように黒い渦が徐々に広がっていく。

 

 

「……あ、あれは!」

 

 

 

「……多分こいつが並行世界への移動方法の糸口を掴み始めたンだ……まじでやべぇぞ、急がねぇと間に合わねぇ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれは……」

 

 

 

 

 

ルドルフは旧校舎の頭上に突如発生した黒い渦を見上げていた。あれはおそらく、AIソフトがこの世界から向こうの世界への完全なアクセスを可能にする方法を見つけ始めたと言ったところだろう。もう少しで願いは成就する。もう少しで……

 

 

 

 

 

 

「……今行くよ、トレーナー君」

 

 

 

ルドルフは加虐的な笑みをその顔に張りつけると、旧校舎の方へと駆け出して行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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岸辺露伴は調べない14 Fin

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

懸命に足を繰り出していく。

1分1秒でも、ほんの少しでも、想いを繋ぎとめるために。

 

 

 

肺が焼き付きそうだ。苦しさで口から血が噴き出しそうになる。アグネスタキオンは廊下を、文字通り死力を尽くして失踪する。その後方からは、夥しい数のウマ娘たちが迫っていた。

 

 

「あぁぁぁぁぁ!!」

 

 

萎みそうな自身の決心を奮い起こすために、雄たけびを上げて走り続ける。学園内を縦横無尽に駆け巡っていたタキオンだったが、角を一つ曲がるたびに追手がネズミ算式に集まってくる。

 

 

 

やがて足に乳酸がたまり、限界が近づいてくるのを感じる。自身に降り積もった疲労のため思考力を逸していたタキオンが、その瞬間曲がり角を左に曲がる。瞬時に思考力を取り戻したタキオンだったが、その時には既に手遅れだった。

 

 

 

「……クッ。行き止まりか」

 

 

一瞬の気の抜けが命取りになってしまった。目の前には最早逃走経路など存在しない。あるのは自身の追いかけっこが無情にも終了したことを告げる障壁のみだった。

 

 

 

絶望したタキオンは、空へと視線をやると、そこには禍々しい暗い歪みが発生して、その空を一面覆いつくしていた。どうやら向こうも最終局面のようだ。

 

 

認めたくはないが、私とあの会長殿とは本質的には似通っている。どちらも本能というものに殉じ、そのためにだったらすべてを投げ出しても構わないという覚悟と醜悪性を秘めていた。

 

 

だからこそ、私は彼女を止めたかったんだ。

 

 

徐々に追手のウマ娘たちが、ネズミの首にかみつく猫のようにその目を蘭々と輝かせて近づいてく。これでも十分に時間を稼いだ方だと入れるのではないだろうか。

 

 

「……あとは任せたよ」

 

 

タキオンは彼らに…この世界にやってきた奇妙な漂流者たちに想いを託すと、静かに目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺が元々、ルポライターだったのは知ってるな?」

 

 

その言葉にゴールドシチーが静かに頷き返す。元博はそれから、杜王町で自身がルポライターとして活躍し、そして仕事を失い自らその生の幕を引こうとするまでの経緯を端的に彼女に伝えた。

 

 

どうしても、彼女には知ってほしかった。これからの覚悟のためにも。そしてこれからのオレ自身のためにも。

 

 

 

「俺はこの世界の人間じゃあない。つまり身体に入ってしまった黴菌のようなものだ。いずれはここから出ていかなければと思っていた。」

 

 

 

「でも……アンタがいなくなったら、アタシ……!」

 

 

 

「シチー……でも」

 

 

 

「いなくならないで!アタシの前から!いい女になるから!束縛もしない!アンタのしてほしいことならなんだってする!だから……だから!」

 

 

 

「いなくならないで……」

 

 

 

目のまえの少女は、恥も外聞もなく涙でその顔をぐしゃぐしゃにしながらその場に蹲った。その様子を静かに見つめていた元博は、彼女の傍に近寄ると頭に静かに手を置いた。

 

 

 

「せっかくの美人が台無しだぞ……シチー」

 

 

 

さて、彼女は今本心をさらけ出した。それこそが、今言ったことこそが彼女の本心。とどのつまり解消のしようがない「不安」が心の内を支配し、その抜け出し方さえも分からない、少女の沈痛な叫びだった。

 

 

 

「怖かった。アンタがここからいなくなったとわかった時。いや、本当はアンタを部屋に閉じ込めてたあの時から。きっとアタシはアンタに愛されていないってわかってた。それでも……」

 

 

 

 

「失いたくなかったのか?」

 

 

 

その言葉に、シチーはその身体を震わせながら静かにうなずく。彼女はずっと戦っていた。そして悩み抜いた。それならば、俺にできることは……できることは。先程みたいな詭弁じゃあない。彼女が踏み出したのだ。話し合わなければ、恐れずに彼女に歩み寄らなければ。

 

 

……基樹君、そういうことだったのか

 

 

最早すべきことはきまった。意を決した元博は、静かにシチーに言葉を掛けた。

 

 

「きっと俺たちは二人とも不安だったんだ。不安っていうのはな……「知らない」ってことから生まれるって俺は思う。お互いにお互いを知って、歩み寄る。そうすればきっと、分かり合えるものもあるし、シチーのその不安も取り除くことができるはずだ」

 

 

一度捨てた命だ。これからの人生、誰かのために捧げたとしてもいいじゃあないか。

 

 

その言葉に、シチーは静かに顔を上げて元博の方を見つめる。そのアイラインは既に涙によって少し崩れていたが、間近で見つめる彼女の顔は、今迄のどの表情よりも美しかった。

 

 

 

「許して……くれるの?」

 

 

「あぁ……俺は君を許すよ。シチー。だから俺のことも許してくれないか?」

 

 

 

不器用な2人でも、少しずつ、一歩ずつなら共に寄り添いあって歩くこともできるはず。

 

 

 

 

お互いがお互いを思いやれば、きっと見えてくる景色がある。二人の間に流れていた確かな掛け違いは消失し、二人の心は確かに一つになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

荒々しく風が屋上を駆け巡り、ブラックホールのような渦は徐々にこちらへと近づいてくる。露伴は頭上の渦に視線を送ると、懸命にキーボードをたたくシャカールに声を掛けた。

 

 

 

「まだなのか!」

 

 

 

「だめだ……!こいつ、やはり想像以上に賢くなってやがる…!もしかしたらもう…!」

 

 

 

その瞬間、ドアがけたたましい音を上げると、それがまるで紙切れのように折れ曲がり、吹っ飛んでいく。一体何事かとその方角に視線を向けた露伴は驚愕と絶望が綯交ぜとなった表情を浮かべ、静かに通用口を見つめた。

 

 

…どうやらタイムオーバーのようだ。

 

 

白煙を上げる通用口から姿を現したのは、わかり切っていたがシンボリルドルフと、そしてその後方には数人のウマ娘たちが控えていた。

 

 

「さぁ、くだらない追いかけっこはもう終わりだ。じきに並行世界へのアクセスも可能になる」

 

 

まるで愚図る子供をあやす母親のような口調で、しかしその語気には決して有無を言わさぬ怒気も同時に含んでいた。両手を広げてこちらに一歩ずつ近づく彼女から距離を取ろうと逃げようとしたが、あっという間にウマ娘たちに取り囲まれてしまった。

 

 

「しっかりと押さえておくんだ…さて、私は君に最後に話しておきたい。」

 

 

ルドルフは露伴が取り押さえられたことを確認すると、シャカールの方へと向き合った。

 

 

 

「実際のところ、君には感謝しているんだ。君やタキオンがAIソフトを開発しなければ、私は彼に会うことすらできなかった」

 

 

 

「くだらねぇ」

 

 

 

「……くだらない?」

 

 

 

「結局のところ、てめーは「全てのウマ娘の幸せ」なンてハナから考えてねーンだよ。あるのは醜悪な欲望だけだ。こンな結末になるンだったら、はじめからあンなもの作らなかった」

 

 

「そうかい。だが子供の責任は親がとるものだろう?君の子供がはしゃいだ結果、ここまでの景色を作り出したんだ。みたまえ、まるで空がこの世界が終わるのではないかと錯覚するほど荒れている…これから起こるのは終わりではなく、始まりだ。この学園の生徒たちは自身の幸せを胸に秘めて向こうの世界に旅立っていく」

 

 

ルドルフはそう言うと、シャカールに歩み寄り手元のPCを取り上げた。どうせ並行世界へのアクセスを止めることなどできないだろうが、これ以上火遊びをされたとしても虫の居所が悪い。シャカールは彼女の方を睨みつけると、忌々し気に言葉を続けた。

 

 

「……本当に哀れだな。エアグルーヴも言っていたが、てめーは最早唯の怪物だ。皆のあこがれの生徒会長様は最早いないってところだな」

 

 

「……」

 

 

「二度とそこの漫画家先生はてめーを愛さない。それなのに必死こいて、詭弁で人を操ったのに、全て投げうったっていうのに、自分はそのザマなンて、滑稽以外の何物でもねーぜ」

 

 

顔を歪めたルドルフは、腕を伸ばすとシャカールの首を掴む。彼女はその掴む腕を強めると、淡々と言葉を放った。

 

 

「これ以上口を開かれても苛立たしい。もう話すな」

 

 

「…グッ……カッ」

 

 

加虐的に笑みを浮かべるルドルフだったが、やがてその違和感に気が付いた。何かが可笑しい。どうして彼女は絶望していないんだ?もう彼女に切れるカードはないはずだ。あとはこの世界と並行世界が行き来できるようになるのを手放しで見ることしかできないと言うのに、彼女の瞳から希望の光が潰えてはいなかった。

 

 

「……どうして君は笑っているんだ?」

 

 

苛立たし気に、既に生殺与奪をこちらが握っているというのに余裕を見せる彼女にそう尋ねると、シャカールは苦し気に言葉を口にした。

 

 

「ど……どうやら、間に合ったみてぇだな…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どういう意味だ?シャカールの言葉の真意を図りかねていると、突然後方から大きな物音が立て続けにした。一体何が起こったのか、ルドルフがその方向へ振り向くと、そこには驚きの光景が広がっていた。

 

 

露伴を拘束していたはずのウマ娘たちが漏れなく全員気を失っていた。

 

 

…一体どういうことだ?

 

 

理解をはるかに超えた目の前にルドルフが絶句していると、息も絶え絶えになりながらシャカールが口を開いた。

 

 

「オレはな……この世界と並行世界を行き来するという使命を持ったAIの本懐を阻止することはできなかった。だがな……」

 

 

エアシャカールはルドルフから露伴の方へと視線を移すと、言葉を続けた。

 

 

「だから途中から…こいつにかけられたセイフティーロックを解除することだけに注視していた。どうやら…ぎりぎり間に合ったみてぇだな」

 

 

倒れたウマ娘たちの中心に、岸辺露伴が立っている。その傍には…もっともこれはその場にいたウマ娘たちには見えないわけだが、白いタキシードのような出で立ちをした少年のようなヴィジョンが露伴の傍に控えていた。

 

 

「ヘブンズドアー。命令を書き込むことができる」

 

 

してやられた。どうやら、完全にトレーナー君に形勢逆転されてしまったようだ。トレーナー君の超能力は画面越しに見たことがある。瞬く間に対象を無力化し、相手に近づいてなにかすると、相手はトレーナー君が命令した通りのことをすることしかできなくなってしまう…そんなズルともいえるような能力が彼のもとに戻ってしまったとあれば、もはや自分に勝ち目はない。

 

 

力なくへたり込むルドルフに鋭い視線を向けると、露伴は淡々と告げた。

 

 

「観念しろ、死にはしない…だが君には「二度と岸辺露伴のことを愛することができない」、それか「岸辺露伴を認識することはできない」とでも書き込ませてもらおうか」

 

 

その瞳に確固たる意思を宿し、傍にヘブンズドアーを携えるとこれまでの奇妙な運命の連鎖に楔を打つためにルドルフのもとへと一歩ずつ歩み寄っていく。ルドルフは露伴に視線を見やると、徐に口を開いた。

 

 

「もしも……君の能力によってこの気持ちが否定されるなら…すべて失った私に唯一残った君への慕情さえも奪われてしまうというのなら……」

 

 

ルドルフはフラフラと屋上の淵へと足を掛けると、大空を静かに見せる。これから起こることを想像すると、恐怖でこの身が縛られそうになる。それでも私はこの一連の責任を果たさなければならない。自分の運命に、そして覚悟に殉じなければならない。

 

 

後悔がないかと言われれば嘘になる。私が間違っていた……心の中ではわかっていたんだ。エアグルーヴが正しいと。ウマ娘の本懐から目を背けて、醜悪な願望に全てを委ねてしまった。

 

 

手から零れ落ちた砂を必死に取りこぼさないように闇雲に、ただその情念のみを胸に秘めて行動を起こした結果、全て失ってしまった。

 

 

「………許してくれ」

 

 

両手を広げると、荒れ狂う嵐のような空とは裏腹に、その吹き込む風は何とも心地よいものだった。これはきっと哀れなウマ娘に三女神がせめてもと手向けたレクイエムといったところだろう。

 

 

さよならだ。

 

 

もう露伴に能力が戻った時点で、自身のもとに彼が戻ってくることはない。最も、はじめから彼の心は私のもとにはなかったわけだが。そんな私が、あまつさえ彼に許しを乞うてしまった。あまりにも惨めで、滑稽な身の振りに思わず苦笑がこぼれてしまいそうになるが、罪人の私がそれをすることさえ、許されてはいないというのに。できることは、この身にわずかに残留した信念と誇りを抱いて、その罰を甘んじて受け入れることだ。

 

 

ルドルフはまるで大空を舞う鳥のように両手を広げたまま、露伴の方を向くとそのまま仰向けに屋上から足場のない空中へとその身を倒した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

室内には異様な緊張感が流れている。

全てはここが終着点。室内の物静かな空気と裏腹に、室外からはそこに押し入らんと扉を荒々しく叩く音がひっきりなしに響き渡っていた。

 

 

 

……よし。

 

 

 

 

基樹は腹を決めると、自身の横で気まずそうに閉口するエアグルーヴに対して声を掛けた。

 

 

 

「エアグルーヴ。ちょっといいかな?」

 

 

 

「……?」

 

 

 

エアグルーヴはおそるおそる視線をこちらに向ける。その弱弱しい、いつもとは打って変わったその瞳を静かに見つめ返すと、基樹は徐に話題を切り出した。

 

 

 

「この世界に来る前、それこそうだつが上がらない人生で…正直なんのために生きているのか、わからないような人生だった。」

 

 

 

「……」

 

 

「僕はこの世界で、君に出会った。君と実際に会って、トレーニングをして……一緒に君とガーデニングもしたね。君のそばで、君のことを見てて。確かに君は少し強引なこともしてたけど……」

 

 

 

「……」

 

 

 

「でも……気づいたんだ。初めて君を見たあの時から。君の気持ちを受けてから……でもそれに向き合うのに怖かったんだ。直視できなかったんだ……でも、言うよ」

 

 

「エアグルーヴ、君のことが好きだ」

 

 

全ては流れゆく過去。とどめ置くことのできない時間の流れ。

今さらこんなことを口にしたところで、僕たちはもう手遅れであることには変わりない。

 

 

 

それでも僕は、この想いを胸にとどめ置くことなんてできなかった。虫のいい話だと分かっている。それでも、この想いを何か形にしたかったんだ。

 

 

 

「……たわけ。今さら遅いんだ」

 

 

エアグルーヴの瞳からは、溢れんばかりの涙が零れ落ちていく。ずっと聞きたかった言葉。罪を犯してしまい、その贖罪のために打ち捨てた、元来の願い。それがこのタイミングで叶うとは露にも思わなかった。

 

 

「ご……ごめんねぇ。僕が……僕が情けないばっがりに……」

 

 

 

言葉が声にならない。気が付くと、どうやら僕も知らず知らずのうちに泣いてしまっていたようだ。

 

 

 

情けないなぁ。

良い大人が、しっかりしているとはいえ、高校生の女の子の前でべそをかくなんて。これじゃあ告白もくそもないじゃあないか。

 

 

それでも、基樹は涙をこぼさずにはいられなかった。例えこの世界から脱出できたとしても、そうでなくても。お互いの心が通い合っているとわかったとしても、彼女のそばに居続けることはもはや叶わないんだ。

 

 

あるのは僅かな歓喜と、大きな後悔だけ。

もっとこうしていれば。もっと早く、あの時決心できていれば。

 

 

 

それはきっと、彼女も同じ気持ちだったんだろう。

 

 

エアグルーヴは、今度はその目じりから感情の発露を流しながらも、確かな決意をそれに込めると、基樹に向き直った。

 

 

[

 

 

 

 

 

 

 

 

背中が重力によって引き寄せられ、その身体が落下しているのを感じる。ようやく終わるんだ。この苦しみから。ルドルフは自身の身体を襲う衝撃と痛みに備えて静かに目を閉じた。

 

 

緩やかに。そして確かな敢然たる事実が自身のもとに近づいてくる。彼との日々が、そして私がしでかしてしまった罪が思考となって放出され、走馬灯という代物となって脳内を駆け巡っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時だった。

 

 

「いいねぇ!君のその根性ッ!そして信念……まさに劇画みたいな代物を持っている奴にグッとくるんだ!」

 

 

「……え?」

 

 

目を開けたルドルフの前には信じられない光景が広がっていた。露伴が自身と同じように屋上から身を投げ、こちらによって来ていた。彼はそのままこちらに近づくと、衝撃から自身を守るように自身を抱きかかえた。

 

 

「と、トレーナー君……」

 

 

 

ルドルフはその瞬間、露伴の瞳に誇り高き黄金の意思と、純粋に自身が見つけた意思ややりたいことは何が何でもやり遂げるという狂気を内包していることに気が付いた。

 

 

 

……やはり初めから、彼には敵わなかったのだ。彼はその信念も、そして執念もこのシンボリルドルフを上回っていた。いつものように余裕をもっている状況ならいざ知らず、恋にうつつを抜かし周りが見えていない状態の今の私では、初めから勝負は見えていた。

 

 

 

今はそんなことを考えている暇はない。ルドルフは露伴に向かって必死の形相で声をかけた。

 

 

 

「トレーナー君!どうして…君も死ぬんだぞ…!」

 

 

 

「言ったろう?君のその精神にグッと来たんだ。そういえば君のことを初めて見た時、君のトレーナーになろうと思ったのも……まぁそれはいい。」

 

 

 

 

 

「一体何を言っているんだ!なんて、なんてバカなことを!?」

 

 

その瞬間、地面に落下していく二人のスピードが徐々に緩やかになっていくと、地面に叩きつけられるその寸前で、重力を度外視してその身体は空中で停止した。突然の出来事に、あまりにも常識から逸した目のまえの光景に困惑しているルドルフをよそに、露伴は徐に口を開いた。

 

 

「AIっていうものには知能がある……つまり知能があるということはヘブンズドアーの命令を書き込むことができるってわけだ」

 

 

屋上の上のPCに亀裂が入る……するとその亀裂から紙のような物体があふれ出していくと、そこから本のようにページが出現した。

 

 

「AIを止めることもできた。その動きを完全に停止し、開発された元の状態へと戻るとね。だがそれは止めた」

 

 

「……それはどういう?」

 

 

 

「基樹君とエアグルーヴ君の姿を見て、思いとどまったんだ。人には人の、ウマ娘にはウマ娘の気高さがあり、賛歌があり、美しさがある。それを分断することは果たして正解なのかと……彼女たちが歩み寄ることも、僕たちが歩み寄ることもできるんじゃあないかと……それを信じてもいいんじゃあないかってね」

 

 

 

「だからこう書きこんだんだ……「その処理速度を100倍にして、世界の探求、調査を続行させる」とね。並行世界へのアクセスを見つけるくらいの代物だ。そいつがそんなことを命令されたらどうなるか……恐らく人智を遥かに超えた、そんな代物へと変貌する。こいつが一体この世界と、向こうの世界をどうするのか。それは誰にもわからない。だが、僕はこれに賭けたんだ。これが僕にできる最大限の「歩み寄り」だ」

 

 

「……トレーナー君」

 

 

「全く自分でもこんなバカげたことを言うなんて驚きだ…」

 

 

「……」

 

 

「……だから君も歩み寄ってくれ。この世界がもしも無事で済んだのであれば、君を選んだ理由でも話して聞かせよう。こんなことを言うことは以前の僕であれば考えられないが、普通の友達から始めよう。話はそこからだ」

 

 

「……うん。うん……」

 

 

その翡翠の瞳からは大粒のダイヤのような涙があふれ出る。そのダイヤが周囲の煌々たる光を反射すると、その光はすべてを飲み込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

辺りには神々しい光が、まるで審判を下すようにこの世界を瞬く間に包み込んでいく。どうやらあまり時間はないようだ。エアグルーヴは感情が高ぶり震えている基樹をなだめるように、彼の身体をゆっくりと摩ると、徐に口を開いた。

 

 

「いいか、たわけ。一度だけだ……最もこれが最初で最後だろうが」

 

 

ゆっくりと彼の身体をこちらへと引き寄せていく。基樹はこれから起こることを予期すると、静かに瞳を閉じた。

 

 

……あぁ、幸せだ。

 

 

二つの影が、一つに重なる。その瞬間、光がそこに到達すると、たった今一つになった彼らを影ごと飲み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ウマ娘プリティーダービー、か」

 

 

 

「あれ、露伴先生。そのアプリやってるんですか?」

 

 

訝し気にこちらのスマホの覗き込む数少ない友人…広瀬康一がそう呟くと、露伴は何気なく康一の方へと顔を向けた。

 

 

「………失踪者の唯一の共通点がこのアプリをやっていたということくらいしか現状わかっていないんだ。このアプリをやれば何かわかることもあるんじゃあないかと思ってね」

 

 

「……それにしては随分やりこんでみたいですね。このウマ娘なんてS+じゃあないですか」

 

 

康一の指摘にバツが悪そうに顔をそむけた露伴だったが、やがてまたスマホの方へと視線を戻すのだった。

 

 

「一番育成してるのはこの子……シンボリルドルフですか」

 

 

「まぁな。僕はあんまり子供っぽい奴が好きじゃあなくてね……」

 

 

 

(それは露伴先生も……)

 

 

 

内心でツッコミを入れる康一をよそに、露伴は言葉を続けた。

 

 

「あと彼女には大きな夢がある。『全てのウマ娘の幸福のために』まるで夢想家のような発言のそれだが、彼女にはそれを実行する黄金の意思がある。そして生命力と強さを兼ねそろえている。その大志の裏には、確かな努力が裏付けされているってわけさ。」

 

 

「そうなんですか……」

 

 

「もしも彼女と話せるというのなら、ぜひ彼女の物語を聞きたいものだね。いい漫画のネタになりそうだ。」

 

 

「漫画のネタになる」端からみればそれは失礼な言動であるともとれるが、康一はその言葉は、骨の髄まで漫画家としての血が流れる露伴にとってそれはこれ以上にないほど賛辞の言葉であることを知っていた。何より他の趣味ができたこともいい傾向と捉えていいのではないだろうか。いつもよりも幾分か柔らかい表情を浮かべて育成に勤しむ露伴を見つめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピピッ

 

 

目覚ましの音が眠っている頭の中を縦横無尽に駆け巡り、自身を急激に現実へと引き戻していく。ベッドから起き上がり凝り固まった背中を引き延ばすと、窓の外の景色に目をやった。

 

 

……朝の杜王町。

 

 

サラリーマンや学生、主婦といった様々な人々が往来する丁度出勤時間。自分がこの世界に戻ってから早1週間が経過しようとしている。何一つ変わらない景色。多くの人はきっとそう思っているだろう。

 

 

ピンポーン。

 

 

玄関からチャイムの音が鳴り響く。寝起きの格好からひとまず人前に出ることができる格好へ取り急ぎ着替えると、玄関の扉を引き開けた。

 

 

「栗東宅急でーす!」

 

 

入口に立っていたのは宅急の配達員だった。彼女はその特徴的な耳と尻尾をはためかしながら自身に荷物を手渡すと、朗らかな笑みを浮かべてそこを後にした。

 

 

 

「……誰だったんだ?基樹」

 

 

自身が眠っていたベッドから声がかかってくる。基樹はベッドの傍まで寄ると、彼女の顔にかかった黒髪をそっと揃えながら言葉を掛けた

 

 

「宅急便だったよ。エアグルーヴ、今の生活には慣れた?」

 

 

「あぁ。もうすっかり慣れたよ。さぁ朝食を作るぞ、早く身支度をしておけ」

 

 

エアグルーヴは目覚めの悪さなど微塵も感じないほどパッと起き上がると、テキパキと朝食の準備を始めた。基樹は彼女のそんな様子を見守りながら、彼女とこの世界に戻ってきた時のことを思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの包まれた光。あの閃光から意識を取り戻した時には、自分は杜王町にいた。いつも通りの日常に戻ったことは嬉しいことだったが、エアグルーヴと離れ離れになってしまったことは非常に心苦しいものだった。

 

 

「基樹……?」

 

 

自身の隣にはこの世界では違和感でしかない存在……いるはずがないエアグルーヴの姿があった。どうして彼女がここに?そんな些末な疑念はもう2度と会うことができないと思っていた彼女と再会することができたという喜びで瞬時に塗り替えられてしまった。

 

 

「よかった……本当によかった……」

 

 

基樹は涙を流しながらエアグルーヴに抱き着く。最初は戸惑っていた彼女だったが、やがて彼と同じように基樹の身体を強く、しかし優しく抱きしめた。

 

 

「私はここにいる……どこにもいかないさ」

 

 

感情がひとしきり発散し、周囲を見渡すほどの余裕を取り戻した二人は、自身の目のまえに広がる光景がいくらか違和感を有していることに気が付いた。

 

 

「……ここは基樹の住んでいた町、杜王町なんだな?」

 

 

「うん……」

 

 

「それなのにどうして…どうしてウマ娘がいるんだ?」

 

 

 

目のまえに広がる町は、確かに自身が生まれ育ったはずの町、杜王町だった。しかしその町を行く往来の中には、先程までいた世界のように特徴的なウマ耳を有したウマ娘たちの姿があった。

 

 

……一体何があったというのか。

 

 

 

そして人たちもその存在に特に疑念を抱いている、という様子はない。まるで初めからその存在が当たり前に存在していたかのように、生活を送っていた。

 

 

「……どうして?」

 

 

「それは恐らく、僕の能力を受けたAIのせいだろうな」

 

 

その言葉が発せられた方向を振り向くと、そこには岸辺露伴の姿があった。驚く二人をよそに、露伴は言葉を続けた。

 

 

「AIソフトが限界値までその解析速度を引き上げて、開発を続けていた。つまりあのAIは世界の往来の発見はおろか、元の世界と僕たちが先程までいた、ウマ娘たちがいる世界の統合を行う方法までも見つけてしまったみたいだな」

 

 

なるほど。既にこの世界は元の世界と極めて似た、しかし決定的にそれとは異なる世界へと変貌したということか。あまりにも衝撃的な事実に驚きの表情を浮かべる基樹とエアグルーヴをよそに、露伴は言葉を続けた。

 

 

「その光景を目に焼き付けていた僕たちはどうやら記憶は失っていないようだが、この世界のほとんどの連中は、初めからこの世界にはウマ娘が共存している世界として認識しているようだな。全く……この生活に慣れるのも苦労しそうだな」

 

 

露伴は頭をポリポリと数度掻くと、その場を後にする…そして去り際に基樹に対して声を掛けた。それは数奇な世界を共に戦い抜いた同志に対する手向けの言葉だった。

 

 

「……依頼は完了だ。あとは君自身が弟君にでも無事を報告してやるんだな。」

 

 

 

露伴はそうつぶやくと、前方へと視線を戻し、その足を繰り出していく。やがてその身体は雑踏に紛れると、完全に見えなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これからどうするんだ、基樹」

 

 

この世界に戻ってきた基樹はエアグルーヴの勧めもあり、家族に無事に戻ったことを報告すると、勤めていたブラック企業を退職した。自由になれたのはいいが、いずれにしても次の働き口を探さなければならないこともまた事実である。

 

 

基樹は少し考え込むように俯くと、徐に口を開いた。

 

 

「やりたいことがあるんだ…君とガーデニングをした時、凄く楽しかった。花の気持ちを考えて、花の香りや色を楽しむ。だから、僕はそれを仕事として君とやりたいって思ってる」

 

 

「花屋ということか?」

 

 

基樹は静かにうなずく。自分にもやりたいことができた。それは紛れもなく、彼女のおかげだ。あの世界に連れていかれて、彼女に出会わなければ決して見つからなかった僕の道。

 

 

エアグルーヴは静かに微笑むと、一言ぽつりとつぶやいた。

 

 

「それは……それはとても楽しそうだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

待ち合わせというものは、その人の人となりを現すものだ。露伴は本来の待ち合わせよりも30分近くも早くついてしまった自分自身に疑念を抱きながら、カフェの一角にあるイスで先程暇つぶしにと駅前で買った雑誌に目を通していた。

 

 

「ロジカルウマ娘:菊花賞を制覇」

 

 

「天才ウマ娘、名誉賞を受賞」

 

 

「新進気鋭のスーパーウマ娘モデル・ゴールドシチー特集:撮影穂積元博」

 

 

 

どうやら彼女たちも、自分自身の答えと居場所を見つけられたようだ。短い付き合いだったが、その前途ぐらいは祈ってやるとするか。露伴がその雑誌に目を通していると、頭上から声がかけられた。

 

 

 

「随分と早く来たんだね、トレーナー君……いや、露伴先生」

 

 

 

 

 

「……君も人のこと言えないんじゃあないか?」

 

 

 

そこには自身の担当ウマ娘だったシンボリルドルフの姿があった。そこにはかつてのような狂気、毒気は微塵も感じられない。有体の、そのままの彼女の姿があった。ルドルフは露伴の真正面へと腰を下ろすと、近くを通りかかったウエイトレスにオーダーすると、微笑みながら露伴へ声を掛けた。

 

 

 

「今日はカフェでデートかい?それもまた嬉しいよ」

 

 

 

 

「カフェ・ド・マゴのコーヒーは格別さ。……そういや君の手にあるその花は何だ?」

 

 

ルドルフの手には美しい色とりどりの花のブーケが握られていた。ルドルフは嬉しそうに口角を上げながら口を開いた。

 

 

「私たちの友人が花屋を始めたと聞いてね……顔を見がてら買いに行ったんだよ」

 

 

「そうかいそうかい……まぁ、今度僕も顔を出しに行くとするかな」

 

 

そう言いながら露伴が自身のスケッチブックに漫画のネタとしてのデッサンを描き始める。およそこのようなケースの場合においては彼の行動はナンセンスと言えるだろうが、ことルドルフにとってはその光景さえも微笑ましいものとして映っていた。しかしルドルフはいじらしそうに身体を背もたれに預けると、声を掛けた。

 

 

「…もう少し私を見てくれたっていいんじゃあないか?」

 

 

 

「……週に2回は会ってるんだぞ?頻度でいえば康一君以上だ……文句を言うもんじゃあないぜ」

 

 

露伴はそうつぶやくと、スケッチブックにコーヒーを嗜むルドルフの横顔を描くとそれを冊子から引きはがすとルドルフに手渡した。ルドルフはその紙を後生大事そうに見つめながら顔をほころばせた。

 

 

「さて……今日はどんな話をしようか?」

 

 

「そうだね……じゃあ君がどうして私を選んだのか、それを聞かせておくれよ。話すって言っていただろう?」

 

 

 

千里の道も一歩から。友人たちは今日も町の一角で、その心の距離を縮めるようにともに時間を過ごしていく。

 

 

 

テラスで話す二人の席を、暖かく日の光が包み込んでいた。

 

 

 

 

「岸辺露伴は調べない」完

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









どうもボンゴレです!
これにて「岸辺露伴は調べない」は完結となります!元々「岸辺露伴は走らない」の短編集の一巻で書いたつもりが、気付けばここまで風呂敷を広げてしまいました!ちなみに調べないという一つのシリーズが終わっただけで、「岸辺露伴は走らない」はまたネタが浮かんだら書きます!







何はともあれ、お付き合い頂きありがとうございました!引き続きよろしくお願いします!


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岸辺露伴は歩まない1

 

 

人は生まれてから、どれほど苦しいという想いを抱くのだろうか。

 

 

人は生まれてから、どれほど夜が明けてほしくないと願うのだろうか。

 

 

人は生まれてから、どれほどこのまま眠ったまま目覚めなければいいのにと願うのだろうか。

 

その一つ一つの苦しみが。その痛みが私の毎日を織りなしているのだとしたら、私は一体どこに力をいれて立ち上がれば良いというのだろうが。

 

 

 

 

「まだまだだ!もう一本!」

 

 

突如自身を貫いた、その怒声によって彼女の意識は現実へと引き戻された。どれほどの痛みに顔をしかめようが、関係ない。私はここにいることを選択したのだ。即ち痛みに耐える他ないというその選択を、自らの手でしたのだから。

 

 

アスリートという職業は、並大抵の努力では続けることはできないものだ。ましてやここは天下のトレセン学園。入学し、トレーナーが見つかりトレーニングを重ねて重賞で勝利を収めることができるウマ娘などほんの一握り。そんな夢と絶望が渦巻いているのがこの場所であり、そこで私は…私たちは戦うことを選択したのだ。

 

 

…ッ!

 

 

この1か月、ほとんど休まなかったせいだろうか。ターフを駆ける自身の右足に違和感を抱く。嫌な予感がした。自身の身体の、そして体力の限界を感じた私が立ち止まるとターフの向こうでストップウォッチを握っていたトレーナーがこちらに走り寄ってきた。

 

 

「……トレーナーさん」

 

 

「おい…!どうした!」

 

 

「足が……足が」

 

 

彼女の声にならない声を片手で制すると、トレーナーは彼女の前で跪き触診でその脚の具合を確認する。

  

 

 

最早自身の脚はどうにもならない。競技者としてターフの上に立つのは、もう…

 

 

それは極めて残酷な、しかし自身に横たわるどうしようもない事実だった。そんな張り詰めた絶望とは裏腹に、悲鳴を上げた足を見て安心している自分もいることに驚いた。

 

 

………これでようやく自由になれる。

 

 

途方もない苦痛からの解放。もうこれ以上、苦しむ必要なんてどこにもない。ようやく安心した気持ちで、明日を怖がることなく夜を迎え、そして朝を迎えることができる。その事実は絶望に打ちひしがれた彼女にとっては、心に僅かな安堵を植え付ける出来事に他ならなかった。

 

 

しかしトレーナーが次に発した言葉によって、その想いは容易く打ち砕かれることになった。

 

 

「よし。大したことないから、これを飲めば大丈夫だ」

 

 

そう言うと、トレーナーは彼女になにやら栄養ドリンクのような代物を手渡す。そのラベルに目を通すと、そこには「ナンデモナオール」と表記されていた。

 

 

「……これは、一体……?」

 

 

「良いから良いから。とりあえず飲んでくれ」

 

 

そう言われるがまま、そのドリンクのキャップをひねりその中身を喉に流し込む。途端に咥内に人工的な酸味と苦み。そしてそれを塗りつぶすために加えたであろう甘味料がミックスされた不快な味が広がるが、それを何とか吐き出すまいと飲み込むと、彼女の身体に変化が訪れた。

 

 

「足が……」

 

 

自身の右足に籠っていた熱が途端に引いていく。やがてその僅かな痛みが完全に引いたことを確認すると、トレーナーは大きな声を上げて言葉を発した。

 

 

「さぁ!今のでトレーニングのスケジュールに遅れが出た!仕方がないが、練習時間を引き延ばして練習しなくちゃあなぁ!」

 

 

一体どうしてケガが治ったのだろうか。このドリンクが一役買っていることには変わりないだろうが、一体何の効能をもってしてその痛みが引いたのかは理解できない。

 

 

「ト、トレーナーさん。もうここ1か月、ほとんどお休みを頂けていません。もうこれ以上は、体力が……」

 

 

その懇願に、トレーナーはぴたりと動きを止めてしばらく考えるような素振りを見せる……やがてトレーナーは顔に笑みを浮かべると、言葉を彼女に向けて発した。

 

 

「よし!それじゃあこのジュースを飲むんだ!なぁに、ちょっと見た目と味は悪いけど、これを飲んだ後にカップケーキを食べれば問題ないだろう!」

 

 

 

そう言ってトレーナーがずいずいと彼女の手に押し付けたのは、先程の奇妙な栄養ドリンクよりもさらに食欲を削がれる蛍光の緑色を有した粘り気のある液体と、見るだけで胃もたれを起こしてしまいそうなカップケーキだった。

 

 

「あの……これを……」

 

 

「早く食べるんだ!」

 

 

最早拒絶する気力さえも残されていない。その二つを喉に流し込むと、瞬く間に体力が回復し、悲しいことに何だか体の内側からやる気があふれてくるのを実感する。

 

 

「さぁ!これで大丈夫だ!練習に戻るぞ!」

 

 

……トレーナーさんは私を見ているようで、私を見ていてくれない。

 

 

認知と常識が根本的にすれ違っている。その違和感に気が付いているのは、きっと私だけなのだろう。張り裂けそうな気持ちを押し殺したまま、彼女はトレーナーの呼びかけに無理に顔に笑顔を作り、再びターフを駆けだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

杜王町の昼下がり。とあるウマ娘と男が一つのテーブルを囲んで談笑に講じている。やがてウエイターがティーカップを二つそのテーブルに置くと、ウマ娘はそのカップを手に取り、その中の紅茶を啜りながら男が今しがたキャンバスに描いた生物をまじまじと見つめていた。

 

 

 

「……認識のずれというものは時に驚きを与えるものだ、トレーナー君。つまりこの4本足の生き物が私たちの本来の姿だったというわけかい?この『馬』という生き物が?」

 

 

「その通りだ。古くからこの生き物は人間たちの生活とは切っては切り離せない関係として私たちの生活を支え続けたんだ。農耕や狩猟、食糧や戦争……その様々な場面でこの生物は僕たち人間を支えた……っておい。僕はもう君のトレーナーじゃあないぞ。」

 

 

「フフッ……これはすまない。やはり呼び慣れている呼び方から急に変わるのは違和感を抱くものでね。しかしこの馬なる生物、やはりデジャヴというか、なんというか……これが元々の私たちだと言われても、受け入れてしまう。運命とはやはり奇妙なものだ。この世界は驚きに満ち満ちているね、露伴先生」

 

 

「……僕としては、君と週に1度こうして話していることの方がよっぽど奇妙な体験だと思っているけどね。」

 

 

そのテーブルに着くのは大人気の漫画家・岸辺露伴とトレセン学園の生徒会長としてウマ娘たちの中では英雄ともてはやされるウマ娘・シンボリルドルフ。そんな一通りの応酬を終えた後、二人は互いに肩をすくめるとテーブルに置かれた紅茶に再び口を付けた。

 

 

「……さて。時にルドルフ。今日は一つ君に相談があるんだ。」

 

 

「……なんだい?まさかエアグルーヴたち、結婚でもするのかい?」

 

 

「……そんなわけ……いや、もうあそこは秒読みか。二人がやっている花屋の前を通るたびに花の他にも彼らの愛情の匂いで咽せそうに……ってそんな話はどうでもいいんだ。言いたいことはそういうことじゃあない。」

 

 

「……?それじゃあなんだっていうんだい?」

 

 

「簡単な話さ。トレセン学園に赴いて、取材をする許可が欲しいんだ。「ウマ娘」のことについて、その存在を途中から知った者として新鮮な視線で描くことができそうだしね」

 

 

「そんなことならお安い御用だ。直ぐに学園に許可を取れるように掛け合っておくよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やれやれ、この世界でも学園の姿は変わっていないのか」

 

 

 

 

 

一週間後、露伴は懐かしきトレセン学園に赴いていた。あの決死の逃亡劇を繰り広げたのが、遠い昔の出来事のようだ。露伴が理事長の秘書であり、取材にやってきた露伴の案内である駿川たづなと合流すると、応接室まで彼を案内した。

 

 

「……ところで、今日取材を受けてくれるウマ娘とトレーナーはどんなウマ娘なんですか?」

 

 

「それについては、これ以上にないほどぴったりな人物を選ばせていただきました。先の菊花賞を制した、非常に優秀なウマ娘です!」

 

 

 

「なるほどね、それを聞いて安心したよ。そのウマ娘から訊ける話、楽しみにしているよ」

 

 

 

やがて二人は応接室の前にたどり着く。たづなが部屋をノックして扉を開けると、そこには葦毛のウマ娘…ショートカットにタンポポの髪飾りを付けたウマ娘に、その隣には細縁の眼鏡をかけた男の姿があった。露伴の姿を目に止めた男はすくっと立ち上がると、目のまえの露伴に対して言葉を掛けた。

 

 

 

「今日はお話を聞いていただくということで、本当にありがとうございます…私は戸瀬恭也と申します。そして隣にいるのは担当の…ってほら!スカイ!立って立って!」

 

 

恭也の声掛けにフラフラと隣のウマ娘は立ち上がると、背伸びをしながら言葉を続けた。

 

 

「はーい、どもども~初めまして、セイウンスカイで~す」

 

 

「こ、こらっ…!スカイ……!」

 

 

彼女の口調は、妙に間延びしており何処となく引っかかるものがあった。しかし、大の大人がそれを年端も行かぬ少女に、ましてや初対面の相手に対して指摘することは、聊か大人気ないと言えるだろう。それこそルドルフがここにいたらきっと同じ考えを……

 

 

ってなぜ今ルドルフのことを考えたのだろうか。とにかく、隣で青ざめた表情を浮かべている彼の顔を見れば、その注意は取材が終わった後に彼がきっとしてくれるだろう。心の中で解決を一人で図った露伴は彼らに向き直ると、バッグの中からメモに使っている用紙とデッサン、そして鉛筆を取り出した。

 

 

「それじゃあ早速で悪いが、取材を始めようじゃあないか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はぁ、はぁ、はぁ……

 

 

 

いくら何でもこれ以上のトレーニングやレースの出走は心身ともに限界を迎えてしまう。そうトレーナーさんに伝えたのは、果たして何度目のことだろうか。

 

 

 

こうしてトレーニングの最中にドリンクが無くなったとトレーナーに言って、そのついでに休んだとしても、これもきっと焼石に水程度の措置にしかならないだろう。

 

 

 

学園の一角にある切り株……レースで負けたウマ娘が、次こそは負けないと意思をそこで叫ぶというその大きな空洞が空いた切り株の背中を預けながら、セイウンスカイはつかの間の休息をとっていた。

 

 

 

……走ることを心の底から楽しめなくなったのは、一体いつからだろう。

 

 

 

……トレーナーさんに会うたびに、震えが止まらなくなってしまったのはいつからだろう。

 

 

 

今も休息をとっているはずなのに、心の中は様々な感情が渦巻いていて、全く休まる様子はない。身体を無理にでも動かしていなければ、暗い思考にどんどん囚われて行ってしまうのを実感していた。

 

 

 

「早く……早く戻らなくちゃあ……」

 

 

スカイはトレーナーの元に戻るため、フラフラと立ち上がる。しかし立ち上がった時、蓄積されていた疲労のせいか、血流が頭に上り、視界が一瞬暗闇が立ち込めた。

 

 

……あっ。立ち眩み

 

 

 

足元のバランスが崩れ、後ろに数歩下がる。すると背後にあった切り株につまずき、後ろにそのまま倒れ込んでしまった。

 

 

 

……しまっー-!

 

 

気付いた時には、仰け反った身体はそのまま切り株に空いた穴に向かっていた。その態勢を整えることができないまま、スカイの身体はそのまま穴の中に吸い込まれていき、あたりは再び静寂が支配した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……とりあえず話の方はこれくらいで」

 

 

 

 

 

一通り話を聞くことができた露伴は、恭也とスカイを連れ立って実際のトレーニング風景を観察するためにターフに向かっていた。

 

 

 

聞きたいことは聞くことができた。第一印象ではいい加減なウマ娘という印象だった彼女だが、その実は巧みにレース展開を練り、また相手の作戦や癖を見抜いて巧妙に勝利をもぎ取る非常に優秀な戦略家のようだ。最もただ何も考えずに走っていたというならばきっと皐月賞や菊花賞を征することは叶わなかっただろう。

 

 

 

 

そしてそのモチベーションを維持し、またその戦略を練る上でのブレインとして、恭也はスカイによってこの上なく相性の良いコンビのようだ…少なくとも今の2人の姿は露伴の目にはそう映った。

 

 

 

 

なかなか良いコンビじゃあないか…ってどうしてもトレーナー目線で物を考えてしまうな。

 

 

そんなことを内心思いつつ、3人はターフへと足を運ぶ……しかしその途中で看過することができない光景が目に留まった。

 

 

「……あれ。だれか倒れているんじゃあないか?」

 

 

「ほ、本当だ……大変だ!」

 

 

校舎の近くにある切り株。そこの近くに一人の少女がぐったりと倒れていた。急いで3人が駆け寄りその少女の様子を確認する…その少女はうつ伏せに倒れていて、髪が顔に掛かっておりその顔を窺うことはできなかった。恭也が倒れている少女の肩を掴み、仰向けにしようとその身体を捻る……そして彼女の身体が仰向けになった時、その髪がハラリと落ちてその顔が露わになった。

 

 

「なっ……」

 

 

「こ、この子は……」

 

 

「……!」

 

 

葦毛のショートヘアにタンポポの髪留め。いくらかやつれているものの、その顔には3人は見覚えがあった……その少女は、今そこにいる3人の内の1人、セイウンスカイにそっくり。いや瓜二つの顔をしていた。



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岸辺露伴は歩まない2

 

 

辺りを包んでいた暗闇から目を覚ました時、彼女は自身の目に飛び込んできたはじめの景色は何度か見たことのあるものだった。

 

 

……ここは

 

 

天井を向いていた身体を起こし、自身の足元に目を向ける……自身の身体には皺ひとつない、白いブランケットがかけられており、そこで彼女の頭は自身が今まで保健室のベッドで眠らされていたことに気が付いた。

 

 

「私……」

 

 

 

自身は確か、学園の庭の一角でトレーニングの合間を練って休息を取っていたはずだ。これ以上はトレーナーにサボりがバレてしまうと思い、急いでトレーニング場へ戻ろうとした時に、立ち眩みで……

 

 

……戻らなきゃ!

 

 

こんなところで油を売っている場合ではない。あの後に気を失い、誰かに発見されてここに運び込まれたということは、少なくとも数時間は時間をここで過ごしていたはずだ。そんなことを、彼が許すはずがない。とっくに自身の担当トレーナーだったら、自身が保健室に運び込まれたことなど知っていたとしてもおかしくないはずだ。

 

 

 

急いでベッドから足を踏み出し、起き上がろうとする……しかしその時、横から伸びてきた手によってそれは中断されることになった。

 

 

「君はまだ目覚めたばかりだ…まだ安静にしていた方がいい。」

 

 

 

自身の二の腕を掴むその人物に視線を送ると、そこには緑色のヘアバンドを巻き、ペン先の形が施されたイヤリングを付けた男がベッドの傍に座っていた。スカイは男に掴まれたまま、恐る恐るベッドで姿勢を元の状態へと戻すとおずおずと口を開いた。

 

 

「……あ、あの。アナタは…?」

 

 

「僕の名前は岸辺露伴。しがない漫画家だ。」

 

 

岸辺露伴。その名前に彼女は聞き覚えがあった。彼女自身あまり漫画やアニメといった類に明るくない…いやそもそもあまりにもレースやトレーニングの連続でそれらを嗜む暇さえなかったわけだが、そんな彼女でさえその名前を聞いたことあるほどの売れっ子漫画家が、ここに一体何の用だろうか?

 

 

勘繰っている彼女を余所に、露伴は腕をそっと放してその腕を組むと徐に口を開いた。

 

 

「学園内で気を失っている君を、ここまで連れてきたんだ………さて、僕は自分の名前を名乗ったわけだが、君の名前を聞かせてくれないか?」

 

 

「……えと、セイウンスカイっていいます。この学園の中等部です」

 

 

「………そうか」

 

 

 

 

その名前を聞いた露伴の反応に、スカイは違和感を抱いた。まるで自身の名前を知っていたかのように。その名前が自身の口から発せられることを、確認するために自身の名前を聞いたかのように。

 

 

 

「……」

 

 

 

「あの…私のこと、知っているんですか」

 

 

「……君は…いや、この世界は…」

 

 

露伴がそこまで言いかけた時、彼の背後に控えるスライド式の扉がガラガラと音を立てながら開く。露伴はその方向へと振り向くと、つぶやくように言葉を口にした。

 

 

「マズイ…今彼らを彼女に会わせるのは……」

 

 

露伴はそう言うや否や、声を張り上げて扉を開けた人物に声を掛けた。

 

 

「今入ってくるんじゃあない!君たちを見てしまうと、彼女は…」

 

 

そう言ってその人物…人物たちが室内へと足を踏み入れようとするのを阻止しようとした露伴だったが、ベッドで既に腰を掛けていた彼女からは、露伴の身体越しに部屋の扉の前にいる人々の姿を目に留めてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれは…

 

 

「……私?」

 

 

日頃自身の顔や身体をつぶさに見ているわけではないが、その人物を見た時に直感が身体を走り抜けた。そこにいたのは間違いなく、紛れもなく自分自身…セイウンスカイだった。

 

どうして私が二人いるんだ?世界には3人、自分とそっくりな人間が存在していると言われているが、そうと片付けるにはあまりにも似ている…いや自分と寸分違わぬ容姿を有したウマ娘が、このトレセン学園にいるのはあまりにもおかしい話だ。

 

 

自身と瓜二つの人物が視界に飛び込んできたことによって、既にスカイのキャパシティーは限界寸前だった。しかしそれはスカイの意識がその隣にいる人物に不意に向けられたことによって固定されることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学園の一角で意識を失っていた正体不明の少女。露伴と恭也によって保健室に抱え込まれた彼女だったが、彼女の具合は自身が見ておくからこの人物たちへ、岸辺露伴が用があるから会いに来てほしいと対象の人物が走り書きされたメモを渡され、そのメモに書かれているウマ娘たちへ各所連絡を取った後、スカイと恭也は保健室に運び込まれたウマ娘の容態を確認しようと保健室に赴いていた。

 

 

恭也は保健室へと続いている廊下を、スカイと並んで歩きながら恭也は物思いに耽っていた。並んで歩く二人に、いつものような軽い言葉の応酬も、普通の会話のキャッチボールさえなかった。あるのは不自然で、耐えるには少々根性が要るような、居心地の悪い静寂。

 

 

しかし、恭也とスカイの二人の頭には、共通の事項が渦巻いていた。長く続く廊下を歩く二人。そしてその空気に耐え切れず、口を割ったのはスカイの方だった。

 

 

「……倒れていたあの子。私にそっくりでした」

 

 

「……そうだな。本当にそっくりだった」

 

 

「そっくり…ですか」

 

 

恭也の発したその一言を、スカイが聞き漏らすはずがなかった。最もその「そっくり」という一言を用いた恭也自身も、その言葉を恣意的に用いたわけだが。恭也もスカイも、その人智を超えた事態が発生したという可能性に驚愕し無意識に目を背けていた。

 

 

しかし、その万に一つありえない可能性が起こってしまったことを、当時者であるセイウンスカイ自身が、そしてその彼女と共に日々を過ごしその傍で彼女を支え続けた恭也だからこそ理解していた。つまり彼女は…今ごろ保健室で眠っているであろう彼女は、間違いなくセイウンスカイそのものだ。決して他人の空似などではないということを。

 

 

 

いずれにしても、今眠っている彼女の意識が戻れば話を聞かなければならない。二人の足は、保健室の前にたどり着いていた。恭也は肺に通常より多く空気をため込むと、その扉を引き開けた。

 

 

扉を開けると、そこには露伴の姿があった。恐らくその彼の向こうに彼女は眠っているのだろう。扉が開いた音に反応したであろう露伴の顔がこちらに向く…しかし恭也とスカイは、こちらを向く彼の表情に違和感を抱いた…すなわち彼の表情には、明らかに焦りと動揺が刻み付けられていた。

 

 

「今入ってくるんじゃあない!君たちを見てしまうと、彼女は…」

 

 

露伴の鋭い声が、室内に響き渡る。しかし、ベッドに腰かけていた彼女…すなわちもう一人のセイウンスカイが露伴の身体の横から顔を覗かせると、ぽつりとつぶやいた。

 

 

「……私?」

 

 

やはり、彼女もその違和感に気が付いたようだ。一体この事態はどうやって引き起こされたというのだろうか。しかしながら、それを考える暇は二人には与えられなかった。扉の前にいたスカイからその隣にいる恭也にベッドにいたスカイが視線を移したその瞬間、異変は起こった。

 

 

「……トレーナーさん」

 

 

彼の姿を目に留めたスカイの顔からは、みるみる血の気が失せていき脂汗が額にはにじんでいく。その呼吸は見るからに乱れながら彼女はベッドから崩れ落ちるように降りると、その短い距離を何度も足をとられそうになりながら走って彼のもとに駆け寄ると、彼に向かって言葉を紡いだ。

 

 

「……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!ドリンクを取りに行こうとしたら気を失ってしまって…すぐに練習に戻ります!絶対に残りの時間で遅れは取り戻します…!ごめんなさい…!」

 

 

その様子は、直視するにはあまりにも痛々しいものだった。彼女はまるで必死に命乞いをするように彼の膝に縋りつきながら許しを乞う言葉を矢継ぎ早に並べ立てている。その様子は、日頃見慣れた自身に対して軽口を叩くスカイとはかけ離れたものだった…そしてそれは隣にいたスカイもそうだったのだろう、二人は目のまえにいる少女の様子に言葉を失ってしまった。

 

 

その時だった。

 

 

 

 

「……クソッ」

 

 

 

 

露伴はそう短く毒づくと、つかつかと彼女たちの元へと歩み寄り恭也の前で跪いているスカイの肩を掴んで引きはがすように起き上がらせ、自身の方向へと向き直させた。

 

 

「……?」

 

 

…まずいな。

 

 

今の彼女は、明らかに通常の精神状態からは逸してしまっている。そしてそのトリガーは、彼女の今の態度から察するに、自身と同じ存在であろうセイウンスカイではなく、その隣にいたトレーナー、戸瀬恭也に起因していると推測された。

 

 

…大体の予想は付く。

 

 

岸辺露伴は知っていた、彼女の身が置かれている状況を。そしてその予想が正しければ、少々…いや、かなり面倒な事態になったと考えていいだろう。

 

 

先ずは彼女を落ち着かせることが先決だ。露伴は彼女の目がこちらの世界に…つまりパニックの潮が引き、正気の世界へと戻ってくることができたその一瞬を狙うと、空に瞬時に…それこそ人間離れしたスピードでイラストを、自身が執筆している漫画のキャラクターの主人公の顔を描き上げると、その空中に描かれたイラストを視界に留めたスカイは瞬時に意識を手放した。

 

 

崩れ落ちる彼女の背中を地面に叩きつけられる寸前に支えてやると、露伴はゆっくりとその身体が傷つかぬように慎重に下ろし、その顔をじっと見つめた。そして露伴は倒れているスカイの身体を回り込み…すなわち恭也たちから背を向けると、何やらぶつぶつとつぶやきながら何やらページを捲るような動作を始めた。

 

 

 

「……あ、あの?彼女は…?」

 

 

質問を投げかけた恭也を、露伴は空いている手を挙げることで制する。ことこの場に限って、これ以上邪魔は入ってほしくない。今日は聊かイレギュラーな出来事続きだ、そしてその奇妙で厄介な出来事はこれからしばらく続くことになるだろう。先のことを考えておけば、少しでもストレスになるような出来事は避け、そして無駄は省いておいた方が吉だ。

 

 

 

「……やっぱりな」

 

 

 

露伴の前に眠っている彼女の顔には奇妙な、しかしまるで初めから自然と取り付けられていたようなノートのページのような代物が張り付けられていた。露伴はそのページに目を通しながらとある記述にたどり着くと、小さくため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信じられない出来事が起こった次の日。恭也とスカイの気持ちは晴れぬまま、二人はいつものように練習のために、学園内に付設されている練習用のターフが敷かれたトラックに赴いていた。

 

 

…昨日の出来事。

 

 

全くもって理解の範疇を超えた出来事。そうとしか形容できないものだった。しかし、あの場に居合わせた岸辺露伴と、彼が呼んだ数人のウマ娘たちがその事態を何とか抑えると、露伴の口から衝撃的な事実を告げられた。

 

 

「彼女は…」

 

 

 

そんな事実を知らされ、一体自分にどうしろというのだろうか?それは分からない…恭也の胸には、ある種の疑念が強く渦巻いていた。

 

 

 

「トレーナーさん」

 

 

 

呼びかけられた声の方へと首を向けると、そこにいたのは自身の担当ウマ娘、セイウンスカイだった。

 

 

彼女に不安な顔を見せてどうするんだ。僕は彼女のトレーナーなんだぞ。

 

 

誰よりも戸惑い、そして不安を抱いているのは間違いなく彼女のはずだ。そんな彼女の傍にいる自分も不安を抱いているという事実を、彼女に気取られるわけにはいかない。恭也は努めていつものようにふるまおうと決心すると、彼女に声を掛けた。

 

 

「よし!今日はトラックを取れたし、2000メートルを走ろう!」

 

 

恭也の指示に従い、スカイは黙々とトラックを走るための柔軟、アップを行い始める。すると、突然恭也の背後から声がかけられた。

 

 

「……あの…トレーナーさん?」

 

 

「……!」

 

 

そこにいたのは、渦中の人物であるスカイその人だった。まだその顔にはいくらか暗さが残っているようだが、昨日ほどの焦燥感や疲れは見られない。やはり昨日の保健室での休養が多少体力、そして気力の回復につながったとみていいだろう。

 

 

「た、体調は大丈夫なのかい…?えーと…」

 

 

「……スカイで大丈夫です。トレーナーさん」

 

 

彼女の反応に、昨日ほどの自身に対する拒絶感や、そして色濃く醸し出していた恐怖の色は随分和らげられているようだった。その様子に、恭也は昨日露伴が言っていたことを思い出した。

 

 

 

「……彼女の君へのトラウマはある程度和らげてやるように書き込んでおいた。だが、彼女の奥底から消してやったわけじゃあない。あくまでそれが表面化することがないように抑え込んだだけ、と表現する方が正しいか…そうするには彼女の記憶を消してやるしかないが、それをやってしまってはここで生活を送ったり、急に元の生活に戻ったりしたときに難儀するだろうからな」

 

 

そして併せて、彼にはこう付け加えられた。

 

 

「だからこそ、君には彼女のトラウマを、心の痛みを君が和らげてやってほしい…最も、彼女があぁなってしまったのは、決して君のせいではないがある意味では君のせいとも言える…言語として大いに矛盾している表現だということは重々承知しているが、生憎そう表現するほかなくてね」

 

 

…彼の言っていた通り、今目のまえにいる彼女には昨日ほどの恐れは見受けられなかったが、だが確実に、そこにはその感情は存在し続けていた。恭也はそんな彼女を見据えると、徐に口を開いた。

 

 

「えっと…どうしたんだい、スカイ?昨日の今日だしまだ寝ていても良かったのに」

 

 

「……私、走りたいんです…そこにいるスカイさんと」

 

 

彼女の言葉に、トラック内でストレッチを行っていたスカイは顔を上げて彼女の顔を静かに見つめる。其の表情を図り切ることはできなかったが、ただ一つ。そこに戸惑いは一切なく、僅かな覚悟が宿っているように恭也には見えた…まるで初めからそうなることが分かっていたように。

 

 

「……いいですよ。私も確かめたいことがありますし」

 

 

ターフにいたスカイがそう言うと、彼女はトラックに据え付けられている柵をひょいと飛び越えて彼女のもとへと歩み寄る…そして二人は一緒にアップを済ませると、並んでターフの上に立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

辺りは静寂が支配している。誰かが物音一つ立ててしまえば壊れてしまうような、そんな静寂が…やがてスカイがチラリと恭也に視線を向けると、言葉をかけた。

 

 

 

「合図をお願いします」

 

 

「…わ、分かった…」

 

 

 

 

いつものスカイとは別人ではないかと錯覚するほどの声色に戸惑いを覚えつつ、恭也は右手を空高く上げ、大きく声を張り上げた。

 

 

 

 

「位置について…よーい……ドン!」

 

 

その瞬間、二人はまるで弾かれたように前方へと走り出していく。やがて数十秒が経過してその走る位置がある程度定まると、恭也は驚愕の表情を浮かべた。

 

 

……いくら何でも速すぎる。

 

 

自身が担当しているスカイの脚質は逃げ……つまり序盤から他のウマ娘たちと距離を離し、その順位を保ったまま勝利をもぎ取る戦法だ。彼女はクラシック三冠の内の2冠、皐月賞と菊花賞を制したウマ娘だ…決して弱いわけじゃあない。寧ろクラシック期のウマ娘の中では強く、同期で彼女といい勝負ができるウマ娘など片手で数えるほどだし、シニア期を迎えた先達ともいい勝負ができるはずだ、そう信じていた。だからこそ、恭也は目のまえに広がっている景色を、現実を受けとめることができなかった。

 

 

スカイの遥か前方を、彼女が独走している。二人の間の距離は、まるで逃げウマ娘と差しウマ娘ほどの歴然たる差が存在していたが、差しの脚質を持つウマ娘と違い、今のスカイにはその差を巻き返すほどのスタミナや、末脚を持ち合わせていなかった…いや恐らくスカイだけではないだろう。この学園にいるウマ娘を寄せ付けない、そんな圧倒的な速さを彼女は見せつけていた。

 

 

「ここまでって……………ッ!」

 

 

 

「そんな……」

 

 

 

スカイは懸命に手を振り、足を繰り出す……しかしその差は縮まることを知らず、只々広がる一方だった、その圧倒的な差を覆すことができないままスカイは彼女が先頭でゴールを潜り抜けてしまうことを許してしまった。

 

 

 



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岸辺露伴は歩まない3

 

 

 

 

 

「よく来たね」

 

 

トレセン学園の一角にあるとある部屋に、数人の人物が会している。その内の一人、岸辺露伴が彼女たちに足労してもらったことを労うと、そこにいたウマ娘の内の一人、シンボリルドルフは頭を振りながらその言葉に応えた。

 

 

「気にしないでくれ。今回の事態は私にとっても軽視できる問題じゃあない……そうだろう?アグネスタキオン、エアシャカール?」

 

 

エアシャカールと呼ばれたウマ娘は、その表情にありありと拒絶の表情を示しながらルドルフのことを一瞥したが、その非難そうな目を露伴へと向けた。

 

 

 

「……ったく。もうテメーらとは会わねーもンだと思ってたのによぉ。話を聞くところじゃあ、また厄介事じゃあねーか」

 

 

 

彼女の言う通り、既に彼女たちが元々住んでいた世界と自身が住んでいた世界の融合が図られてから既に1年が経過しようとしており、それまでシャカールやタキオンとは一度も連絡を取っていなかった。各々の人生を、不用意に干渉することなくあるべき形として歩んでいたわけだ。つまり彼女たちに連絡を取ったその時点で、シャカールたちからしてみれば厄介な事態に巻き込まれることになることを示すこと以外の何物でもない。

 

 

 

それでもなんだかんだ顔を出してくれる辺り、彼女たちも可愛げのある部分があるといったところではないだろうか。額に青筋を立て、まるで空腹な肉食獣のように不快感をあらわにするシャカールをよそに、その横に座っているマッドサイエンティストのウマ娘…アグネスタキオンはいつものようにニヒルな表情を浮かべながら露伴に言葉を掛けた。

 

 

「やめたまえ、シャカール。今回の露伴君の相談内容は中々興味深い。それに元々世界を異にしていた私たちにとって、今回の現象は聊か無関係と片付けるわけにいくまい…露伴君もそう思ったからこそ、私たちに力を借りたいと思ったわけだろう?」

 

 

 

タキオンの言葉に露伴が同意の意を示すと、タキオンは満足そうに微笑みながら言葉を続けた。

 

 

「まず第一だが、露伴君はその少女について何かわかったことはあるかい?」

 

 

「……あぁ。名前はセイウンスカイ。こっちのスカイ君と同じトレセン学園中等部3年で、身長155センチ。スリーサイズは上から……」

 

 

コホン。

 

 

一つの咳払いが部屋に響き、露伴は自身の発言を中断するとその咳の主に視線を向けると、かつての自身の担当ウマ娘、シンボリルドルフが耳を後ろに倒し、明らかに不機嫌な様子でこちらを睨みつけていた。

 

 

しまった。康一君にも人のことを覗き見るとき……ましてや女性のことを詮索する時にはデリカシーについて気を払えと言われていたというのに。

 

 

後悔の念を内心滲ませつつ、露伴は気を取り戻すと再び言葉を続けた。

 

 

「……そんなことはどうでもいい。肝心なものはここにいるスカイ君と彼女は同一人物だということだ。ヘブンズドアーで見る記述は決して嘘をつかない。人が生きてきて見聞きしたそのすべてを、人がたとえ忘れても深層では記述として須らく残されている。つまり彼女は正真正銘、セイウンスカイそのものということだ」

 

 

「……ふむ。つまり彼女は一体何者なんだ?」

 

 

 

「簡単だよ会長殿。つまり彼女はセイウンスカイ……正確に言えば、彼女は平行世界からやってきたセイウンスカイ君ということさ」

 

 

 

「……というと?」

 

 

 

ルドルフの問いに、タキオンは彼女の方へと向き直ると、ニヤニヤと口角を引き上げ、恭しい態度をとりながら説明を始めた。

 

 

「前にも説明したが……って会長殿には話していなかったか。あの時君は正気を逸しておられたからねぇ。ともかくこの世界の他にも平行世界という、この世界によく似てはいるが、全く別物。そんな世界が多く存在している。」

 

 

「……平行世界の住人であるスカイはどうやってこの世界に?」

 

 

「さあねぇ。皆目見当もつかない。本来この分野は私やシャカール君は門外漢なんだよ。それこそ何処かの誰かに仕事を押し付けられでもしなければ興味もなかった分野だ。」

 

 

「……さっきからやけに棘のある物言いだな。」

 

 

「シャカール君はともかく、私は君の指図を受けに来たわけじゃあない。あの狂った世界で共に戦った露伴君が助けを求めているというからここにいるだけだということを忘れないでほしいねぇ」

 

 

「……ッ」

 

 

 

ルドルフの顔にはまるます皺が刻まれ、目からは怒りから発せられるドーパミンがあふれ出ている。これはマズイと露伴は険悪な空気を変えるために言葉を口にした。

 

 

 

「と、とにかく。タキオン。彼女がこの世界に何らかの不具合があってやってきてしまったとして、彼女が帰る方法はないのか?」

 

 

 

「……うーん。さっきも言ったが、行きの方法について手がかりがないと帰りの方法の糸口を掴むのは難しいのだよ。もしかしたら露伴君が引っ張り込まれた時のように何処かに世界を繋ぐ穴のようなものがあるのかもしれないが……いずれにしても調べてみないとどうしようもない」

 

 

 

どうやら彼女には…平行世界からやってきたスカイにはしばらくこっちの世界に留まってもらう他ないようだ。露伴は気になっていたこと……つまりスカイの記述に目を通した時に気になった憂慮すべき点を口にした。

 

 

 

 

「もしかしたら、彼女は元の世界には帰りたがらないかもしれない」

 

 

「……それはどういうことだい、露伴先生?」

 

 

「彼女の記述を見た時に書いてあったんだ…彼女は元々の世界について少々……いやかなりトラウマを抱いている。正直に白状すれば、あれはマトモな状態じゃあない。」

 

 

「なるほどねぇ。それは確かに憂慮すべきことだ。それで原因は分かったのかい?」

 

 

 

露伴はその問いに口を開きかけるが、すぐに口を噤んでしまう。その様子を見たルドルフをはじめとした面々はいぶかし気に彼に視線を送った。この言葉を口にするのは…そしてウマ娘である彼女らにこれを話すには少々覚悟を要した。それでも、自分自身が彼女らの助けが要ると判断し、呼びつけたのだ。これで沈黙を貫くというのは聊かフェアではない。

 

 

「………それは彼女を担当していたトレーナー。引いては彼女がいた世界のURAの仕組みそのものに問題があると言う他ないんだ」

 

 

そう言うと、露伴は1枚のカレンダー……ここ夏が終わった後から数か月の予定を振り返ることができる白紙のそれを取り出すと、瞬く間にびっしりとその一日一日の予定を埋め尽くしていく。そのあまりにも膨大な情報量と、それが一体何なのか気が付いたルドルフは驚きのあまり絶句していた。

 

 

「これは……?」

 

 

「……これは平行スカイが行っていたトレーニングと、出走していたレースの日程の詳細だ。彼女の記録を見させてもらった時に、見たものだが……」

 

 

「こンなの、ありえねぇだろ……明らかにやりすぎだ。10月~11月にかけてなんて、2週間に1回はG1に出走してるぞ、こいつ」

 

 

 

デビューを果たし、トゥインクルシリーズを駆け抜けることを本分とするウマ娘の彼女たちだが、当然のことながら休息も必要である。ましてや練習とは比較にならないほどの精神的なストレス、そして肉体的負荷がかかるレースに、ましてやその中でも最高峰のG1に連続で出走することなど、ウマ娘のことを考えれば決してしてはならない采配だと言えるだろう。

 

 

それにトレセン学園にいるウマ娘は一般的に3年のキャリアの間に研鑽を積み、3年目であるシニア期に競技者としての仕上がりをピークに持っていくことができるようにトレーナーの指導を受けるものであるとされている。無論トレーナーが付くことなくそもそもデビューすることが叶わない者や才能が開くことなく年内にオープン戦で勝利することができず、強制的にそのキャリアの道を断たれるものがいることも事実だが、そういった厳しい競争を乗り越えたウマ娘たちは、そういったセオリーに沿って日々精進することで高みを目指すことになる。

 

 

つまり練習時間をウマ娘たちが身体を壊さず、その体調やコンディションが崩れることがないように綿密に組み、その計画をもとにトレーニングを行い、レースに出走しようとすれば、必然的にデビュー、クラシック期のウマ娘たちはまだ競技者としては準備段階、その成長の途中ということになる。2年目の秋であるこの段階でシニア期を迎えたウマ娘たちと互角以上のレースを展開するためには、よほどの才能が眠っていない限りはウマ娘のそういった事情を度外視してトレーニングに臨まなければならないということになる。

 

 

さらに露伴は、その場にいたウマ娘たちを更に絶句させる事実を続けて口にした。

 

 

「……更にこれが、彼女のレース成績だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セイウンスカイ

 

デビュー 戦1着

朝日杯フューチュリティステークス1着

ホープフルステークス1着

皐月賞1着

NHKマイルカップ1着

日本ダービー1着

安田記念1着

菊花賞1着

エリザベス女王杯1着

ジャパンカップ1着

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……は?」

 

 

まだ何も知らないウマ娘が取って付けた目標のような、そんなレースと成績……しかしながら現に彼女はこの全てのレースに出走し、勝利を手にしてきた。シニア期を未だ控えている状態でG1を既に9勝しているというその冗談のような事実は、正しく青天の霹靂のとなって彼女たちの間を駆け巡っていた。

 

 

「これは……その……本当なのかい?」

 

 

「ヘブンズドアーは決して嘘をつかない。全てが真実だ。そしてこんなローテーションを組み、過酷なトレーニングを延々とさせたのが彼女のトレーナーというわけだ…道理で彼女がこの世界のトレーナー…恭也君を見た時に取り乱していたわけだ。彼女にとって、彼は…最もこの世界にいる彼のことではないが、トラウマそのものと言っても過言じゃあないだろう」

 

 

「……」

 

 

「幸い、直ぐにヘブンズドアーで彼女にセイフティーロックを掛けた…最初の時のように恭也君を見ても取り乱すことはもうないだろうが、彼女の底にあるトラウマや拒絶が消え去ったわけじゃあない。あくまで応急手当といったところだ。今そんな状態で彼女を元の世界に戻してしまったとしても、根本的な解決にはつながらない」

 

 

「……まさか君がそんなことを言うなんてねぇ。一体どういう風の吹き回しだい?」

 

 

「……自分でも驚いているさ。だがなぁ…漫画家としての建前を言うなら「こんなオイシイネタを今放っておくのは気が引ける」という表現。それにとどめておこう」

 

 

タキオンとシャカールに彼女が元の世界に戻る方法を模索してもらうように依頼し、その日は一旦解散の運びとなった。二人きりになった部屋で、ルドルフは露伴に気になっていたことを問いかけた。

 

 

「その………露伴先生。タキオンも聞いていたことだが、建前があるということは本音もあるということだろう?それは一体何なんだい?」

 

 

「………一回だけしか言わないぞ。「全てのウマ娘の幸福を」そう考えたら、動かずにはいられなかった。それだけだ」

 

 

…それって

 

 

ルドルフはその感情の行き場所を求めて視線を下へと下げた。そんなルドルフを一瞥すると、露伴はいつもの様子に戻り言葉を続けた。

 

 

「さてルドルフ…君に一つ頼みがある。恐らく君にしか頼めないことだ」

 

 

「………?」

 

 

首を傾げたルドルフを余所に、露伴はいつになく真剣な面持ちで言葉を口にした。

 

 

「久しぶりにトレーニングをしようじゃあないか。トレーナーとウマ娘らしく」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ターフの上に立つ彼女。

 

 

 

ひょんなことから行われた模擬レースだったが、その結果は平行世界からやってきたスカイの圧勝という結果になってしまった。

 

 

…あまりにも強い。

 

 

それは恭也にとって、また一緒に走ったスカイにとっても想像を遥かにうわ回る、そんな走りだった。彼女がゴールしてしばらく後に到着した自身の担当ウマ娘の顔には、いつものようなひょうひょうとした様子はなく、ありありと悔しさが刻み付けられていた。

 

 

だが、こんな時のメンタルケアもトレーナーとしての役目の内だ。努めて明るい表情を作りながら、恭也は二人の元へ駆け寄っていった。

 

 

「お疲れ様!二人とも…」

 

 

しかし敗北を喫したスカイは、恭也の方を一瞥すると走り去ってしまう。恭也は彼女に立ち止まってもらうために彼女に走り寄りながら口に手を充てた。

 

 

「スカ…「来ないで!」

 

 

彼女がこちらを振り向き、激情を露わにする。その表情を見た恭也は、それ以上言葉を掛けることも、そして彼女を追いかけることさえもできなかった。

 

 

「……それじゃあ、私も失礼します」

 

 

背後にいたスカイはそうつぶやくと、さっさと帰り支度を始めてしまう。彼女の顔には、レースに勝利した満足感は微塵も感じられない。あるのは、少しの悲哀と諦念だけだった。

 

 

「……彼女を救ってあげてやってほしい」

 

 

露伴の言っていた言葉が思い出される。ここで彼女が去るのを見送ってしまったら、ここで何もしなかったら、僕はきっと後悔する。どんなスカイだって、僕の担当ウマ娘だ。

 

 

恭也は走って去り始めていたスカイの前に回り込むと、彼女をできる限り怖がらせないように膝をつき、そして彼女に優しく言葉を掛けた。

 

 

「……お出かけでもしないかい?」



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岸辺露伴は歩まない4

 

 

 

トゥインクルスター・クライマックス

 

 

自身が入学する数年前から始まった、トレセン学園で施行された…どうやらメディアが主催となって始まったレースのようだが、その仔細については及び知るところではない。そのレースを開催しようとする上で掲示された命題…即ち「最強」とは何か?…その問いに主催者が導いた答えは「もっとも安定して強い」ウマ娘だと結論付け、3回の内に最も成績が良い、ポイントを獲得した者が優勝する、という本レースは3年間のトゥインクルシリーズで成績を残した一流のウマ娘でなければ出走することも叶わない…つまりそれはその出場、勝利には多くのレースに必然的に出走しなければならないということを示していた。

 

 

数年前から始めったそのレースは、メディアがURAと共同で開催している節もあり、その興業は今までのレースと比較しても非常に大々的にプロモーションされ、またそれに呼応して世間の反応も未だかつてないほど熱狂の渦に包まれており、トレセン学園に入学したのもその熱に当てられた、というのもまた事情として存在していた…だからこそ、そのレースに自身が参加し、またその頂点を目指して行くというこれからの未来に心躍っていたのは紛れもない事実だった。

 

 

…はじめに違和感を抱いたのは、トレーナーが決まってトレーニングを始めて数か月が経過した時だった。

 

 

夏も終わりに差し掛かり、夜には蝉の鳴き声の代わりにコオロギや鈴虫の鳴き声がこだまする、そんな頃。私はトレーニングの連続で体力の限界に瀕していた。

 

 

ターフに自分の汗が滴りおち、脚は鉛のように重く、肺は酸素を求めて荒々しく胸の中で伸縮を繰り返していく。

 

 

そろそろ休憩を欲しい。そう言葉を掛けようと傍にいたトレーナーの方へと顔を向けると、彼はその笑顔を崩すことなく自身にあるものを差し出してきた。

 

 

「……あの、これは?」

 

 

それはコンビニエンスストアでも売っていそうな、栄養ドリンクのような見た目をしていたドリンクだった。こんなものよりも休憩を、そう言おうと彼の方へと視線を向けたが彼の表情には有無を言わさぬ迫力が孕んでいた。スカイはその迫力に押され、手渡されたドリンクをおずおずと受け取るとスカイはそのドリンクに口を付け、中の液体を喉に流し込んだ。

 

 

「うっ…」

 

 

強烈な酸味が喉の奥に広がっていく。吐きそうになったのを寸前で踏みとどまり、その中身を飲み干すと、自身の身体に変化が訪れた。

 

 

瞬く間に、自身の身体に蓄積されていた疲労が引いていくのを実感する。まるで12時間ぐっすりと眠りにつくことができたような、そんな自身の身体に違和感と気味の悪さを覚えていると、トレーナーから徐に一言、言葉が吐かれた。

 

 

「……これで練習ができるな!」

 

 

身体は癒えたとしても、心が癒えているわけではない。理を捻じ曲げて無理に身体を酷使しても、それには限界がある。それでもスカイは、彼の指示に従い続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この世界にやってきてから、早一週間が経った。

トレセン学園のとある一室で目覚めた彼女は、窓から差し込む朝日に引き寄せられ、彼女は窓に引き寄せられると、そこから望むことができる景色に目を向け、彼女はこの世界に迷い込んでしまった経緯を思い返していた。

 

 

この世界にやってきた次の日に、ベッドの傍に立っていた男…岸辺露伴に告げられたこと。それはこの世界は自身が住んでいた世界ではなく、いわゆる平行世界であり、自分は意図せずこの世界に漂着してしまったということだった。

 

 

この世界の住人たちの計らいにより、向こうの世界への戻り方がわかるまではここにいているべきだと学園内に宛がわれた部屋で生活を送ることになった。何はともあれ、彼らが元の世界への戻り方が見つかるまでは自身にできることは何もないのは自明の理だった。

 

 

 

時刻は朝の8時半。

こんな時間に起きたのは一体いつぶりだろうか。元居た世界ではこんな遅い時間に起きることなどトレセン学園に入学して以降は許されたことがなかった。この一週間で早朝に目を覚ます必要がなくなり、いくらか精神的に余裕を持って朝目覚めることができるようにはなっていたが、以前の生活とは一変してしまった日常に戸惑いを覚えている自分がいることをスカイは実感していた。

 

 

ましてや今日は日曜日。こんな時、普通のウマ娘だったら一体どのように過ごすのだろうか。自分の趣味のために時間を費やし、友達と街に繰り出し、その滋養を図り次のレースへの英気を養うのだろうか。そんなことを思いながら窓から視線を離すと、彼女はいそいそと外出の準備を始めた。

 

 

「……一緒にお出かけをしないかい?」

 

 

…この世界にいる、トレーナーさん。

 

 

この間行った模擬レースの直後に言われた一言。どういう意図でそんな一言を自身に掛けたのか、その真意は図りかねるがそれを差し置き最も驚くべきことは自身がそれを受け入れたという点だった。

 

 

この世界にいるトレーナーさんと自分のトレーナーさんは、顔は同じでも全くの別人である。そんなことは頭の中ではわかってはいるのだが、彼の顔を初めて見た時には思わず取り乱してしまったのを覚えている。

 

 

 

…我ながら申し訳ないことをしてしまった。

 

 

しかし、どうして?彼への拒絶心がお世辞にも払拭しきれたわけではない現状で、一体どうして彼の誘いを受けてしまったのだろうか?彼の事を目に見える形で拒絶してしまったことへの罪悪感からなのだろうか?いや、それとも…いずれにしても誘いを受けてしまった以上は、それを今さら断ってしまうのは聊か野暮というものだろう。スカイはこの世界の自身から差し入れられた私服に着替えると、部屋の扉を開け外の世界へ飛び出した。

 

 

待ち合わせの時間は9時だ。恭也は腕に巻いている時計で時刻を確認すると、溜息をつきながら壁に背中を預けた。

 

 

…あんな勢いで約束を取り付けてしまったが、果たして彼女は来てくれるだろうか。

 

 

時刻は既に8時55分。いつものスカイの時間のルーズさで待ちぼうけを食うことは慣れっこだったが、9時半になっても来なかったら連絡を入れ、今日の予定はキャンセルして一人で遊びにでも行こうかなどと考えていると、突然背後から声を掛けられた。

 

 

「……あの」

 

 

そこにいたのは、待ち合わせをしていた張本人…平行スカイだった。恭也は彼女が……最もそれは彼女本人に言えることではないが、彼女が時間通りに集合場所に訪れたことへの驚きを隠しながら徐に口を開いた。

 

 

「……よし!それじゃあいこうか!」

 

 

恭也が歩き出すと、その数歩後ろを彼女が付いていく。こうして奇妙な一日が……お出かけが幕を明けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恭也がスカイを連れ立って訪れたのは、市内から離れた遠く離れた都内東部のとある駅だった。電車で府中駅から2時間近く揺られ、たどり着いたその駅は都内と言っても自然あふれる外観を有しており、駅から降り立つと大きな噴水がスカイたちを出迎えた。

 

 

「ここは…」

 

 

「さぁ!こっちだ!」

 

恭也はスカイに笑顔を向ける…その笑顔はスカイが知っている高圧的な笑みではなく、優しさがにじみ出ている朗らかなものだった。そんな恭也の素振りにコクンと頷くと、スカイは彼の少しあとをついていった。

 

 

「……それで、今日は何処に行くんですか?その……」

 

 

視界の端には、見上げるほど大きな観覧車が見える。まさかここに乗るのだろうかと勘繰っていたスカイだが、彼はその横を素通りして、とある場所まで歩みを進める…そこには大きな滝のオブジェが続いている門だった。スカイはその門の横に書いてある看板に視線を向けると、徐に口を開いた。

 

 

 

「……水族館?」

 

 

「そうだ!スカイは釣りが好き…だよな?」

 

 

釣りが好き…そういえばそうだった。祖父の影響で幼いころはよく一緒に釣りをしたものだ…魚が餌に食いつくには、どのように針に餌を付けるのか、どのようにロッドを揺らすのかを思考錯誤する推理戦。これから糸を垂らす自身の挑戦を待ち受けるように、海面を宝石のように煌めきながら回遊する魚たち、そしてそんな魚が針に食いついた時に、ロッドが小刻みに震える、あの感覚…その全てがすきだった。もっともトレセン学園に入学してからは釣りをする機会はほとんど与えられなかったが。

 

 

二人が門を潜り、しばらく道なりに歩いていくと、やがて視界に白い、大きな円形状のドームが見えてくる。そのドームの中に入ると、目のまえにはエスカレーターが取り付けられており、そこを降りると目のまえには大きな水槽が…そしてその中には大きな、フリスビーのような頭が特徴的な鱶やエイが悠々と泳ぎ二人を出迎えた。

 

 

「すごいぞスカイ!えーとこの魚は…ハンマーヘッドシャークっていうのか!」

 

 

「……」

 

 

こうして二人の水族館デートは始まった。スカイの手を恭也が引っ張り、色とりどりな魚たちが泳ぐ水槽を見て回る。その魚たちの説明文に目を通して恭也がリアクションをして、スカイの反応を伺う。そんなリアクションを繰り返しながら水族館を進む二人だったが、スカイの反応は芳しくなかった。

 

 

「………」

 

 

水面に映る姿しか視認することができなかった魚たちが、こうして目のまえを自由に泳いでいる、もっとも実際のところ彼らは自由ではないのかもしれないが。それでも彼らはそれに気が付くことなく、何にも縛られることなく生を送っている。ウマ娘である私とは生物的には異なるが、それを差し引いても圧倒的な隔たりが存在していた。彼らの美しさは、今の自分にはあまりにもまぶしすぎた。

 

 

恭也の反応に、わずかに頷いたり、返事をしたりといった僅かな反応しかできない。そしてそのことは他ならぬ彼女自身が自覚していた。スカイはペンギンを見つめる恭也の顔を見つめると、その感情の行き場を求めて視線を地面に落とした。

 

 

……どうすればいいのかわからない。

 

 

こんなとき、どう振舞えば正解だったのだろうか。こうしている間にも、時は流れている。こうしている間に他のウマ娘たちがトレーニングをして、自分は勝てなくなってしまうかもしれない。ここにいる身体と、徒に急いている心が分離してしまっている。

 

 

そんなことがグルグルと堂々巡りして、素直に楽しむことができないのだ。今までの経験が、トラウマが。彼女から純粋に楽しむという心を縛り付けていた。そんな彼女の様子をジッと見つめた恭也は、徐に口を開いた。

 

 

「……ねぇスカイ?」

 

 

その言葉にスカイの身体はぴくっと震える。自身が思っていることを気づかれてしまったのだろうか?そんな不安を余所に、恭也は少し眉を八の字に曲げながら微笑むと、特にそれに反応するようなことはなくお出かけをつづけた。

 

 

……この人は悪い人じゃあない…寧ろ良い人なのは振る舞いを見ればわかる。私のトレーナーさんとは違う。だからこそ、自身の身体が未だ刻まれた恐怖で震えることに申し訳なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やがて二人は水族館から出る。まだ昼下がりだろうが、こんなに無愛想な反応を続けてしまったのだ、今に彼から「そろそろ帰ろうか」と言われるのが関の山だろうと思っていると、恭也はスカイに声を掛けた。

 

 

「……よし!それじゃあ行くか!」

 

 

「………?」

 

 

 

戸惑うスカイの手を引き、彼は水族館を出てしばらく歩く…するとそこには草原が広がっていた。どうやらこの水族館の周辺は広大な公園になっているようだ。草原には家族連れなどの人たちの姿が散見され、子供たちの笑い声が小さく聞こえてくる。

 

 

「さて!」

 

 

そう言うと、恭也は地面にゴロンと寝転んだ。彼の行動の意図を図りかね、その場に立ち尽くしているスカイだったが、やがて彼はそんな彼女の様子に視線を向けて言葉を口にした。

 

 

「ほら!スカイも!」

 

 

そんな彼の言葉を聞いて、スカイはおずおずと彼の傍に腰を下ろし、その背中を地面に着けた。

 

 

雲が視界の端に映り、穏やかな風が頬を撫でつけて歩いていく。ここには何の感情も寄せ付けない、そんな一瞬だった。

 

 

やがてスカイはそわそわと身体を動かし始める。こんなことをしていて大丈夫なのだろうか。練習をしないと、私は…そんな思いに取りつかれ、徐々に呼吸が荒くなってしまう。

 

 

私は…

 

 

いてもたってもいられなくなり、彼女はその不安のままに立ち上がろうとしたその時だった。

 

 

「……不安だったんだろう?」

 

 

「……!」

 

 

やっぱり見抜かれてたんだ。それは隣に寝ころんでいた、恭也から発せられた言葉だった。スカイはその罪悪感から逃れるために顔を彼から背けながら、かすかに唇を震わせた。

 

 

「………はい」

 

 

物言えぬ、静寂が二人の間に流れる。

 

 

「……君が模擬レースを終えて、ターフから去ろうとしている時。君の背負っているものが少し見えたような気がしたんだ。中等部の女の子が背負うにはあまりにも大きな、そんな……」

 

 

「……怖いんです。身体を止めることが。夜眠りにつくことが…走っている時はその不安は感じない………でももう走ることが、楽しくないんです…そんな矛盾が…怖くて…」

 

 

それは初めて明かした心の傷だった。醜く膿んで人に見せるのが怖かった、そんな痛み。そんな怖さがあったというのに、どうして目のまえにいる彼にそれを打ち明けてしまったのか。それはスカイ自身にもわからなかった。ひょっとしたら、自身の不安を感じ取ってくれた初めての人だったからかもしれない。

 

 

「……正確に言ってしまえば、僕は君のトレーナーじゃあない。だからこれは、無責任な発言だと思われるかもしれない…でも言わせてもらうよ……スカイ、時間は無駄にしていいんだよ」

 

 

 

「……え?」

 

 

 

それは今までの自身が縛り付けられた、自身のトレーナーから植え付けられた思想とは相反するものだった。言葉を失うスカイをよそに、彼は言葉を続けた。

 

 

「…確かにサボりすぎはよくない。でも、どんなに身体が無理して休まず動いても、心は休まらない。それは寧ろ、サボるってことより良くないと思うんだ」

 

 

「……」

 

 

「確かにスカイには勝ってほしい……レースを志してトレセン学園に入学したんだから……でもそれ以上に君には走ることを「楽しんで」欲しい。それを押し殺して、見失ってしまうくらいに自分を追い込むのはいけない」

 

 

「………それは」

 

 

彼の言う通りだ。自身は今、見失ってしまっている。子供のころ感じていた、風が肩をすり抜けるあの感覚を楽しむ余裕さえも逸していた。

 

 

「だからこそもう一度言う……時間は無駄に使っていいんだよ…スカイ」

 

 

「そんな……でも」

 

 

「君は君だ…たとえ違う世界のスカイだったとしても……僕にとってはセイウンスカイだ。大切なウマ娘だよ」

 

 

「……」

 

 

「君が怖がらないで夜を越せるようになるために…君が笑顔でいられるようにするのも、僕の役目だ」

 

 

彼が自身に何を伝えたいのか、それは何となくわかった。これから自分がどうすればいいのか、その答えはまだ出せない。それでも、僅かに生じた心の隙間に、風が差し込んでくる感覚は感じた。彼女はその余裕で生じた感情があふれ出ることがないように空を見上げた。



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岸辺露伴は歩まない5

 

 

 

初めて私とトレーナーさんが会ったのは、他のウマ娘みたいに劇的な、ドラマのようなものじゃあなかったと言わざるを得ない、そんな出会いだった。

 

 

元々行事やトレーニングといった様々な機会をついついサボってしまうという悪癖を持っている彼女だったが、その時はいつものように昼寝の絶好のスポットとして利用させてもらっていた空き部屋に足を運ぶと、誰もいるはずのない部屋に一人の見知らぬ男がいた。

 

 

「だ、誰!?なんでここに!?」

 

 

「………なんでここにって…君こそなんでここに!?」

 

 

そう言って動揺する男の胸元には、磨き上げられくすみ一つないトレーナーバッジが輝いていた。そこから彼は新人トレーナーで、空いていたこの部屋を割り当てられたのだろうと勘繰ったスカイは、一人でそう決断を下し納得すると驚いている男を余所にソファに寝転ぶと、目を点にしている男に言葉を掛けた。

 

 

「とりあえず、そこのソファ借りるね?今日はきつめの授業ばっかだったからさー、私もう眠くて眠くて」

 

 

「……え?」

 

 

「ということでおやすみなさーい」

 

 

 

相手の反応などたかが知れている。恐らく相手の顔は驚きと呆れが綯交ぜになった、そんな顔をしていることだろう。そんな彼を尻目に意識は急速に安眠へと吸い込まれていく。その日スカイは二つのことを…即ち、この部屋はこれからも昼寝のスポットとして使えるだろうということ。そしてこの男は押しに弱いということを学んだセイウンスカイは、いつもの日常とまるで違わず眠りに入ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…その数日後。スカイは廊下を駆け抜けていた。それすなわち、今自身に降りかかった災難に対処するため。そして話の途中に見つけたその活路を取りこぼさないために。廊下の向こうから見覚えのある男が歩いてくる。スカイはその男に声を掛けると、さっそく数日前に学んだことを活かすために、口を開いた。

 

 

「この前の新人トレーナーさんッ!私今大変なんだよ~~!」

 

 

「…あれ、君は…そんなに慌ててどうしたんだい?」

 

 

廊下を走ってきた彼女に、彼は訝しげに首を傾げた。

 

 

「ちょっともうとにかく大変なの!だから細かいことはさておいて、今すぐ答えて!…呼吸をするために使う、胸の両側にある器官、なんていうんだっけ!?」

 

 

質問の意図が全く見えない行為であることは自覚していた。中には「ふざけたことを聞くんじゃあない!」と一蹴する者だっているだろう。それでもことこの男であればこんな質問一つでさえ無碍にはしないことを、スカイは数日前の出来事で学んでいた。

 

 

「……肺?」

 

 

首を傾げながら彼女の問いに答える男。スカイはその勢いをそのままに彼に下知を飛ばした。

 

 

「声が小さー-い!クエスチョンじゃあなくって、もっとエクスクラメーションな感じで!」

 

 

「はい!」

 

 

「いいね!もういっちょ、はい!」

 

 

「はい!!」

 

 

「―――ということで先生、この人がさっき話した担当トレーナーさんです!」

 

 

「はい!!」

 

 

気が付くと、スカイの後ろには彼女を追ってやってきていた先生の姿があった。

 

 

「急に駆け出すから何かと思えば…そうなんですね、わかりました。ではトレーナーさん、スカイさんのこと、くれぐれもお願いします」

 

 

「………はい?」

 

 

話が見えていない男は間の抜けた返事をするが、一応肯定の意を示した返事に満足した先生はその場を立ち去った。未だに状況を呑みこむことができていない男に対して、自身と専属のトレーナー契約を運ぶことになったことを説明すると、彼は怒るようなことはせず、驚いたような素振りを見せる。これも数日前に学んだことだ。…かくして私と男の…いや、トレーナーさんである戸瀬恭也さんとの二人三脚の日々が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう少し膝を曲げて引っ張るんだ!その方が全身の筋力が鍛えられる!」

 

 

 

 

「わかりました……トレーナーさん」

 

 

……この間のお出かけから、平行スカイの態度が少々柔らかくなったような気がする。そんなことを思いながら恭也は二人のスカイにトレーニングの指示を出す、そんな日々が続いていた。恭也はその日も二人のスカイの様子を見ながら、的確にその都度アドバイスを繰り出していた。

 

 

「スカイ!走っている時にペースが速すぎるよ。気持ちが先行しすぎてるんじゃあないかな……それじゃあ…」

 

 

自身の担当であるスカイにそう注意を促すが、彼女の反応はいつにも増して非常に淡泊な、つかみどころのないような返事だった。

 

 

「はいはい~セイちゃんだって分かってますよ~……ってそれよりトレーナーさん」

 

 

「……?」

 

 

「私にもあそこのスカイさんみたいなトレーニング、させてくれたりしないですかね~?」

 

 

スカイの視線の先には平行スカイの姿が…彼女は見るからに重そうな、重機に用いるようなタイヤと自身の身体を括り付け、引っ張るというトレーニングに講じている。

 

 

「いや、あれは…スカイにはまだ早いんじゃあないかな…?」

 

 

 

そもそもあのトレーニングは、正規のトレーニングの指南書には記載されていない。平行スカイはクラシック期のウマ娘に課すようなトレーニングではとてもじゃあないが簡単にこなしてしまいトレーニングにならないため、生徒会会長であるシンボリルドルフに無理を言って特注で仕入れてもらったタイヤを引っ張るというトレーニングに講じているわけだ。スカイにはクラシック期のウマ娘に則したトレーニングを講じた方が効率は良いし、あれほどのことをしてしまえば身体を壊してしまう恐れも十分にある。そのことを説明しようと恭也が口を開いたが、スカイはその言葉を聞く前にそっぽを向いてしまった。

 

 

「じゃあいいで~す。セイちゃんはセイちゃんなりのトレーニングをこなしますから」

 

 

「スカイ……」

 

 

 

 

「…トレーナーさんは、私のトレーナーさん、ですよね…?」

 

 

「……?スカイ?」

 

 

最後に彼女が小声で言ったその言葉を、恭也は聞き取ることができなかった。そんな彼を一瞥すると、スカイはその場を立ち去ろうとする…するとその場を制するように言葉が投げかけられた。

 

 

「少しいいだろうか」

 

 

「あなたは…」

 

 

そこにいたのは皇帝として名高いシンボリルドルフと、岸辺露伴だった。彼らは3人に近寄ると、恭也はいぶかし気に彼らに質問を投げかけた。

 

 

「どうしたんですか?露伴先生、会長?」

 

 

「……実を言うと君に…平行世界からやってきたセイウンスカイ君。君に用があるんだ」

 

 

「……?」

 

 

周囲の空気が引き締まっていくのを感じる。瞬間、平行スカイはルドルフの言葉を聞かずとも彼女が何を言うつもりなのかを本能で理解した。そしてシンボリルドルフは、これから言う自身の言葉を…つまり自身の皇帝という立場を揺るがしかねない、そんな意味を持っている言葉を発することを覚悟した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……君と勝負がしたい」

 

 

「え?あのシンボリルドルフと…」

 

 

 

恭也の顔は、驚愕と少しの恐怖で塗り替えられていく。言わずもがな今やシンボリルドルフはこの世界に存在する現役のウマ娘の中でも最強格のウマ娘と言っていいだろう。幾千ものウマ娘たちがその勝利を夢見て、そしてその舞台で辛酸を舐めることになったG1レースを7回も勝利を収めており、他の重賞を加えれば10勝を上回る、まさに「皇帝」として申し分ないキャリアをものにしていた。そんな彼女が、クラシック期の中盤に差し掛かったばかりの新緑に勝負を申し込んだという事実。それが恭也に衝撃としてその身を震わせていた。

 

 

そんな恭也の驚く様子とは一方、平行スカイの胸に秘めたる静かなる闘志は彼女の一言によって燃え上がっていた。

 

 

「……皇帝さん。どうして私と勝負を…?」

 

 

「君には正直に理由を話しておきたい。私は常日頃『全てのウマ娘の幸福のために』行動したい、そう思っている。そしてそれは違う世界からやってきた君にも言えることだ」

 

 

「……それで、勝負することと私の幸福。なんのつながりが?」

 

 

「私の目には、君は檻の中に囚われ続けているように見える。君は今まで負けたことがない。それはつまり、孤高であり続けるということだ。君が元の世界で受けた重荷や束縛から、解放されるために私がしてあげられることは……」

 

 

そこまで言うとルドルフは瞳を閉じて、息を吸い込む。そして正面にいる平行スカイを見据えると言葉を続けた。

 

 

「君を自由にする。つまりセイウンスカイ君。君との勝負に勝って君の肩にのしかかるその重荷を解きたいというのが本音だよ」

 

 

「……」

 

 

「……そして付け加えるのであれば、君という存在と。他の世界からやってきた君と手合わせしたいというのがウマ娘の本能としての願いでもあるがね」

 

 

「……わかりました」

 

 

スカイは同意の意を示すために、大きくうなずく。二人は軽いアップを済ませるとターフの上に並び立つ。その日の風は何とも肌寒く、これから全身全霊でターフの上を駆ける彼女たちを手厳しく迎え撃つように肌を刺していった。彼女たちは前傾姿勢を取ると、恭也は右手を挙げてスタートの合図を行った。

 

 

 

「位置について…よーい……ドン!」

 

 

 

その途端、二人の身体がまるで弾丸のような速度で放出され前へ突き進んでいく。スカイがルドルフの数バ身先を行き、その後ろにルドルフがつく形となる。

 

 

当然ターフの上には、選手は二人しかいない。それでもその神聖なターフの上が放つ気迫は、G1にも負けずとも劣らない、そんな迫力を孕んでいた。それを演出するのは、たった二人のウマ娘。そこには寸分の隙や油断さえも許されない、そんな数分間のレースが学園の誰にも気づかれることなく静かに…ただ彼女たちの足音のみを響かせて繰り広げられていた。

 

 

やがて最終曲線に入りスカイは後続を突き放すために、そしてルドルフはスカイに追いつくために同時にギアを入れる。やがて最終直線に入ると、二人の身体は並んでゴールに向かってスピードを上げていった。

 

 

皇帝の威厳も、勝利への執念さえも置き去りにして。二人はそのウマ娘としての本能のままに足を繰り出し、風を肩で切り、前へ前へと突き進んでいく。

 

 

『はああああああああ!』

 

 

二人の感情の発露が、叫びとなって空に放たれる。そこには確かな想いがあった。譲れない信念があった。その二つの信念が迸りながらぶつかり、より純粋なものへと昇華していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

50メートル、40メートル、30メートル。

 

 

 

 

20メートル、10メートル……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人の身体はゴールに近づいていく。二人の身体は縺れるように…正確にはルドルフがハナ差で前に躍り出て勝利をもぎ取った。ルドルフはゴールを先頭で駆け抜けたことを確認すると、やがてゆっくりと減速し立ち止まり、柵越しにレースを見ていた露伴に声を掛けた。

 

 

「トレーナー君!」

 

 

トレーナー君じゃあない、露伴先生だ。そう言おうと口を開こうとした露伴は寸でのところでその口を噤んだ。彼女は本当によくやってくれた。ヘブンズドアーの記録で彼女にとって勝利そのものが心の枷と見抜き、ルドルフに彼女に打ち勝ってほしいと無茶なお願いをしてしまったが、その無理難題をよくぞ叶えてくれたものだ。そんな無粋な指摘をするのは、聊か野暮というものだろう。

 

 

露伴はルドルフに笑みを返しながら、たった一言ではあるが彼女を喜びで打ち震わせるには十分な言葉を掛けた。

 

 

「よくやったな。ルドルフ。」

 

 

「~~~~~!」

 

 

ルドルフはその身体を震わせて露伴のもとへと駆け寄っていく。そしてその横で今しがた接戦に敗れたスカイは、ゴールの少し先で動かないまま力なく膝から地面に崩れ落ちた。

 

 

………負けた。

 

 

何の意図も有さず、彼女は上を見上げる。そこには憎たらしいほどの青空が、先程のレースを称えるように二人を包んでいた。

 

 

信じられなかった。だが同時に覚悟もしていた。

 

 

……私、負けちゃったんだ。

 

 

なんて悔しいのだろう。なんて、なんて……それでも思うのは。

 

 

スカイの目からは涙があふれる。それは悲しみの涙ではない。確かな一歩…小さな壁を打ち破って大空へはばたくことができた、その感傷の涙だった。

 

 

なんて清々しいのだろうか。レースの後が怖いと思わないのは……辛いと思わないのは、一体いつぶりだろうか。

 

 

生まれて初めて膝を地面に着けた。だが彼女の心は、絶望という雲は微塵もかかっておらず、そこにあるのは曇天の隙間から顔を覗かせる青雲だけだった。

 

 

彼女は図らずも、敗北によって心の枷を外された…そして自由を手にした。

 

 

「シンボリルドルフさん…」

 

 

「……?」

 

 

平行スカイは露伴に抱き着いているルドルフに声を掛ける。その声に現実に引き戻されたルドルフが渋々と露伴から離れ、いつものような会長然とした様子に戻ると、スカイは彼女に対して深々と頭を下げた。

 

 

「…ありがとうございました。あなたに負けたおかげで……大切なものを、ウマ娘として見失なっちゃあだめなものを思い出すことができました」

 

 

「うん……やはり君は逸材だ。この私にクラシック期の君が喉元までその刃を近づけるとは……皇帝としてではなく、一人のウマ娘として。君とのレースは非常に心たぎるものだった。私からも礼を言わせてもらおう…本当にありがとう」

 

 

その二人の様子を…紛うことなく勝者の二人のレースをその目に否応にも刻み付けたスカイはその視界を下げた。

 

 

平行世界からやってきた自分は、少しずつではあるが前を向き、そして壁を打ち破ろうとしている。それに彼女はトラウマを負うほどのトレーニングの成果で図らずもこの世界のウマ娘では太刀打ちすることができないほどの強さを有している。

 

 

……それに比べて私は

 

 

これ以上ここにはいたくない。いたら惨めな自分がより鮮明に浮き彫りになるだけだから。彼女はいたたまれない様子でその場を立ち去ろうとする……しかしその瞬間、彼女の視界は暗闇に包まれた。

 

 

「スカイ!?」

 

 

彼女の身体が地面に触れる前に、恭也がその身体を抱きかかえる。倒れる彼女を、恭也以外の人物が気に掛けることはなかった…なぜなら。

 

 

「スカイ君!どうしたんだ!」

 

 

 

ターフの上でスカイと同時に平行スカイが倒れ込み、その身体をルドルフが支えている。二人が唐突に意識を失い、その看護に人々は追われる。ルドルフが平行スカイの身体を支えながらその身体を見やると、その異常事態に顔は驚愕の表情で染め上げられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…指が…透けている…?」

 

 

 

 



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岸辺露伴は歩まない6

 

 

 

 

保健室のベッドには二人のスカイが横に並んで寝かされている。そのベッドの周りを取り囲むように件の当事者たち…恭也、露伴、ルドルフ、タキオンとシャカールが神妙な顔つきで立っていた。タキオンは彼女たちの傍にしゃがみこみ、身体のあちこちを触診し、その具合をしばし確かめていたが、やがて自身の中で一つの結論に至ったのか溜息をつきながらベッドの傍から立ち上がり、恭也たちの方へと向き直った。

 

 

「スカイは……大丈夫なのか?」

 

 

恭也の心配そうな声が保健室の中にこだまする。不安でたまらなかった。彼女は無事なのか。目を覚ますのか。様々な不安が心の中で渦巻き、胃を締め付けていく。そんな恭也の顔を一瞥すると、タキオンは徐に口を開いた。

 

 

「……あぁ。彼女たちは無事だ。すぐに目を覚ますだろう……今のところは、ね」

 

 

今のところは。その言葉に恭也の顔はみるみる青ざめていく。脚は途端にふらつき、倒れ込みそうになったのをシャカールは一瞥すると、舌打ちしながら足で彼の背後に椅子を手繰り寄せてやると、彼はその椅子にどうと倒れ込んだ。

 

 

「含みのある言い方だな、タキオン。それはつまりどういうことなんだ?単刀直入に話せよ」

 

 

シャカールは恭也が椅子に着席できたことを確認すると、苛立たし気にタキオンに言葉を吐き捨てた。そんなシャカールの様子に我関せずといった様子のタキオンだったが、露伴は彼女の瞳の中に僅かな揺らぎが生じていることを見逃さなかった。

 

 

「私だってこの事態をどう表現すればいいのかわからないんだよ…まぁいい。つまり話はこうだ」

 

 

タキオンは壁に掛けてあるノートPCの液晶画面ほどのサイズのホワイトボードにペンで図を描いていく。そしてある程度その図の全体を描き終えると、タキオンはその図を都度指し示しながら説明を始めた。

 

 

「当たり前の話ではあるが、この世界に私……アグネスタキオンという個人は一人しかいない。そしてそれは露伴先生やシャカール君にも言えること。それが理なんだ。ドッペルゲンガー現象なんて言葉があるが、あれは医学的な見地に基づけば「autoscopy」、つまり自己幻視の一種だと言われている、つまりこの世界で、自分以外に自分はいない。それが当たり前の認識だ」

 

 

どこぞの大学の教授よろしく事象の説明を始めたタキオンだったが、そこで言葉を止めると少し覚悟を要するように顔をしかめると、少し声のトーンを落として話をつづけた。

 

 

「……だが何の因果か、この世界と平行世界がつながり、向こうの世界からスカイ君がやってきている。つまりこの世界には二人のスカイ君がいて、その二人が出会ってしまったということさ」

 

 

そのタキオンの言葉を聞いた露伴は途端に顔をしかめ、ぽつりとつぶやいた。

 

 

「波動関数の収束か…」

 

 

「そういうことさ露伴先生…これは量子力学の一種だが、いくつかの固有状態の重ね合わせだった波動関数が、「観測」されることによって一つの固有状態へと収束する現象は、量子力学の世界では「波動関数の収束」と言われている…こう言うと難しく感じるだろうが、とどのつまり波動関数を二人のスカイ君、そして観測を二人が出会ったことと置き換えればわかりやすくなるだろう」

 

 

「つまり……向こうの世界からやってきたスカイは……消えてしまうってこと?」

 

 

「あぁ……元の世界に強制的に戻される、この方がいくらかマシだろうがねぇ。恐らく彼女の身体は、観測が始まった以上消えて行ってしまうだろう。その消滅の度合いは、二人がどれほど接近していたかにも依拠するはずだ…二人が直接接触していなかったことは、不幸中の幸いだったねぇ」

 

 

「何か…何か手段はないのか!彼女が助かる方法は…!」

 

 

「なるほど…平行世界にかくも影響があるというのいうのに、露伴先生がいた世界とかつて私たちがいた世界の統合が行われた時に何もなかったのは、平行世界であってもお互いの世界には同位体がいなかった故か……私たちがトレーナーとして認識していたのは、あくまで元々世界の違う君たちだったし、世界の統合が行われた以上、自然とその存在は一つに収束されたわけか」

 

 

「そういうことさ…会長殿。今回のケースは私たちの時のケースとは全く似て非なるものだと認識してもらって構わない。さて話を戻すが、彼女たちを救う方法は一つだけある…それすなわち彼女に…平行世界からやってきたスカイ君に元の世界に帰ってもらうことだよ」

 

 

タキオンがそこまで話をすると、それまで沈黙を貫いていたシャカールは徐に口を開いた。

 

 

「それならちょうどよかった。さっきこの世界とこいつがいた世界が繋がっていると思われる場所を見つけたトコだ。こいつを元の世界に送り返して、それでミッション完了だ。こいつらが目覚めたら、そこに案内してやるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人のスカイが目覚め、シャカールは一同を学園のとある場所へと案内する…やがてとある場所にたどりつくと、露伴はあたりを見渡し徐に口を開いた。

 

 

 

「ここは…?」

 

 

 

 

「…ここは大樹の洞だよ、露伴先生。学園設立時に植樹された大樹が事情によって切られた際にその中央に洞を残した状態で切り株のまま残されたものさ…今はレースの敗北のくやしさをその洞の中に向かって叫ぶことによって、次のレースへの励みにするパワースポットになっているが……まさかここが?」

 

 

 

「あぁ。間違いねぇ。この洞の中が向こうの世界…つまりそこのスカイがいた世界につながっているはずだ…つーかそもそもこいつが倒れていたのはこの辺だったンだったわけだから、気が付かねぇオレが間抜けだったな」

 

 

 

 

ここの洞を抜ければ、元の世界に戻る。

 

 

そう聞いたスカイの胸は、決して喜びとは言い難い感情に支配されていた。この世界で、私はたくさんのことを教えてもらった。苦しみや痛みから救ってもらった…それでもこの世界に私はいることは…この世界に元々いた自分がいる以上はできないという。

 

 

「……それじゃあ皆さん…ありがとうございました」

 

 

仕方のないことだ。ここにも私の居場所はなかった、それだけの話だ。スカイは一同に深く頭を下げて感謝の意を示すと、急いで洞に向かう…しかしその時。彼女の腕を何者かが掴んだ。

 

 

「……!」

 

 

彼女の腕を掴んだのは恭也だった。彼女のことを止められるわけではない。それでも彼は、その手を伸ばさずにはいられなかった。

 

 

「その……あの…」

 

 

彼女に何か言葉を掛けなければ。今にも溢れそうなこの願いを届けなければ、そうしたくても感情だけが先行してしまい、言葉が出てこない。そんな彼の様子を見据えたスカイはその瞳から涙をこぼしながら、恭也に言葉を掛けた。

 

 

「貴方に出会えただけで、私の人生は……救われました。だから…だから泣かないでください」

 

 

そうして掴まれたその手を、少しずつ外していく。

 

 

これ以上、私に与えないで。

 

 

平行スカイははにかんだように微笑むと、そのまま踵を返して洞に向かっていきその中へと飛び込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どれくらい眠りについていたのだろうか。このまま目覚めなければ、そんな想いが心の内に僅かに芽吹いてしまうほど私にとって向こうの世界での出来事は幸せすぎる、その一言に尽きる日々だった。

 

 

だが夢というものはいつか覚める。それが世界の常というものだ。

 

 

「――――――!―――――!」

 

 

遠くから聞こえていたくぐもった声が徐々に鮮明に。そして近づいてくる。

 

 

「スカイ!スカイ!」

 

 

外の光が透ける重い瞼を開くと、ピンボケした視界が徐々に定まっていく。肌には冬を間近に控えているのを感じさせる肌寒さを感じる外気が頬を撫でつけていき、スカイはぶるっと一回身震いすると、自身が大樹の洞の傍に倒れていたことを認識した。

 

 

どうやら元の世界へと戻ってきたようだ。

 

 

「久しぶりだな」

 

 

目を覚ました彼女の目のまえには一人の男の姿があった。

 

 

「……トレーナーさん」

 

 

先程まで一緒にいた恭也と瓜二つな容姿をしているが、その機微からは明らか同一人物ではないと思わせる、そんな何かがあった。

 

 

「今まで何処をほっつき歩いていたんだ!学園中を皆で探したんだぞ!」

 

 

彼はスカイの肩を掴み何度か揺さぶるが、やがて深いため息を一つ付くと徐に口を開いた。

 

 

「……とにかくケガがないならちょうどいい。遅れていた分の練習量を取り戻さなくちゃあな。半年は休めはないと思え」

 

 

忘れかけていたはずの、しかし決して拭い去ることができない恐怖が身体を駆け抜けていく。明らかにウマ娘より力が劣るはずのトレーナーの腕を振り払うことができず、なすすべなくスカイは彼に引っ張られていく。その口や身体はわななき、フラフラと引っ張られていったが、やがて彼女はやっとの思いでその腕を振りほどいた。

 

 

「……ん?なんだスカイ?」

 

 

いぶかし気に首を傾けるトレーナーにスカイはその目を固く瞑っていたが、やがてたどたどしい口調で彼に言葉を掛けた。

 

 

 

「……も、もういやなんです」

 

 

「……は?」

 

 

「もう…もう走りたくないんです…!辛いんです!…今まで怖かったんです!走ることが!」

 

 

その言葉がウマ娘としては決して許されるものではないことは、彼女自身が一番理解していた。それでも尚、彼女は既に限界をとっくに迎えていた。限界を迎えてなお、自分をだまし続けていた。

 

 

身体の内に残った僅かな勇気を振り絞って、口を震わせて想いの丈をトレーナーに伝えたスカイは、その手を握りしめながら恐る恐る目のまえにいる彼に視線を送った。

 

 

「……そうか。お前の気持ちはよくわかった」

 

 

「……トレーナーさん」

 

 

「……まったく居なくなっている間にどこのウマの骨とも分からない奴に変なことを吹き込まれたんだな?安心しろ、少し「指導室」に入ってもらうが、またいつものように走りたいと思えるはずだ」

 

 

やはりわかりあうことなどできるはずがない。そもそも向こうの世界とこちらとでは、認識が180度異なっているのだ。いくら自身の胸の内を、彼をはじめとしたこの世界の住人に伝えたところで理解などされるはずがない。

 

 

スカイはトレーナーがいる方向とは逆の方角へと走りだしていく。彼女の背中を見やると、トレーナーは自身の胸ポケットに入っていたトランシーバーを取り出してボタンを入れると、連絡を取り始めた。

 

 

「スカイを発見しましたが、取り逃がしました…仕方がありません。何人か人手をこちらに回してください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この世界に戻ってきたばかりのスカイは、必死の思いでその脚を繰り出す。何処に逃げようなどといった宛てなど何処にもない。とにかくここから抜け出したかった。この不安から、この痛みから早く自由になりたかった。

 

 

肺が不規則に彼女の胸の内で伸縮を繰り返し、喉の奥からは血のような味が広がっていく。息を整えるためにスカイは一度立ち止まると、壁の傍に手をついて新鮮な空気を口から取り込んだ。

 

 

ハァ、ハァ…

 

 

これからどうしようか。そんなことを寒空の中で思いつめると、この世界には自分の居場所などないのではないか、そんな思いに駆られていく。

 

 

「……」

 

 

スカイはその空の圧迫感に打ちのめされると、その膝を折り曲げ、俯きながらそのやり場のない気持ちをいかにして奮い立たせようか苦心した。しかしその瞬間、蹲る彼女の後方から声が投げかけられた。

 

 

「いたぞ!」

 

 

スカイはその声に顔を上げる…するとそこには腕章を付けた数人のウマ娘たちがこちらを指差して向かってきていた。あの腕章には見覚えがある、顔を瞬く間に青ざめさせたスカイはよろめきながら立ち上がると、再び決死の想いで脚を繰り出し始めた。

 

 

どれほどの時間走り続けたのか。追手から必死の思いで逃げ続けたスカイだったが、やがて足を地面の僅かなくぼみに取られると、地面に倒れ込む。やがて遅れてやってきた追手たちはスカイの周囲を取り囲むと、彼女を無理やり立たせて連行していった。

 

 

「……離…して…」

 

 

一人の少女の悲痛な叫びは、無情にも届かない。やがて追手は彼女を学園の一角に連行すると、そこにはトレーナーの姿があった。彼は不気味な笑顔でスカイのことを見つめると、徐に口を開いた。

 

 

「…先程までの態度は水に流そう…君は僕の大切な…大切な担当ウマ娘だからねぇ。手荒な真似はしたくないんだ…さぁ、練習に戻ろう」

 

 

彼の手がスカイの目の前に差し出される。最早彼女に、その力に抗う術も、気力さえも残されてはいなかった。彼女は震えながらその手を差し伸ばそうとしたが、刹那彼女の頭にはとある言葉が思い浮かんだ。

 

 

「君は君だ…たとえ違う世界のスカイだったとしても………僕にとってはセイウンスカイだ。大切なウマ娘だよ」

 

 

……

 

 

 

スカイの震えが止まる。私のなすべきこと…そして覚悟が必要だ。私は助けてもらったんだ。変わらなくちゃあいけないんだ。スカイはきっと顔を引き締めると目のまえにいるトレーナーに向かって声を掛けた。

 

 

 

 

「……貴方はもう、トレーナーさんなんかじゃあありません」

 

 

 

………

 

 

 

 

氷点下とも思えるほど凍てついた空気がその場を支配する。そこにはもう、弱弱しいスカイの姿はなかった。彼女は確かに想いを伝えた。そして覚悟を見せたのだ。

 

 

 

 

「……残念だ。セイウンスカイ君」

 

 

 

 

トレーナー…もとい元トレーナーはその手をフラフラと挙げると、眼前にいるスカイに向かって振り下ろす。スカイはこれから自身を襲うであろう痛みを覚悟して、その目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…?

 

 

 

 

 

いつまでたっても痛みは訪れない。一体何事かとスカイが目を開けると、そこには一人の男の姿があった。その男は元トレーナーの振り下ろされていた腕を掴みながら、スカイに視線を送った。

 

 

 

 

「……全く穏やかじゃあないな。お前の醜悪さは漫画のネタにするには読者がよりつかなさそうだな」

 

 

 

 

 

「あ、貴方は…!どうして!」

 

 

 

 

 

その男…この世界にいるはずのない男、岸辺露伴はそうつぶやくとスカイに向けて言葉を掛けた

 

 

 

 

「君を助けに来た」

 



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岸辺露伴は歩まない7

 

 

 

 

 

 

 

「君を助けに来た」

 

 

その張り詰めた空間には希望など介在する隙など微塵も感じられない…絶望と憎悪だけが飽和したその場所に放たれた一言。

 

 

「誰だアンタは?こっちは指導中なんだ…邪魔しないでいただきたい」

 

 

「こっちの世界の恭也君は随分と乱暴なんだな…まぁスカイ君の様子を見たらわかり切ったことだったが…」

 

 

睨みつける平行世界の恭也に対して、露伴は涼し気な…しかしその瞳の中に確かな激情を宿しながら彼の視線に返した。

 

 

「……どうしてですか?」

 

 

一体どうして。どうして彼は私のことを追ってきたのか。追ってきてほしくなかったのに。追ってほしくないから、何も言わずこの世界に帰ったというのに。その目に溢れんばかりの涙をためるスカイを見つめると、露伴は恭也の手を振り落としてスカイを立たせると、その場から立ち去ろうと試みた。

 

 

「おい…どこへいく…捕まえろ!」

 

 

平行世界の恭也の指示に従って、その傍に呆けていたウマ娘たちが一斉に彼らをとらえるために身構え、一斉に飛び交っていく…やがてその身体が一箇所に収束する。その瞬間彼女たちはまるで糸の切れたマリオネットのように力なくその場に倒れ込んだ。

 

 

「……は?」

 

 

平行世界の恭也は自身の理解の範疇を逸脱したその光景に素っ頓狂な声を捻り上げた。人間が力でウマ娘に到底敵うはずはない。それなのになんだこの光景は……捕らえにかかった数人のウマ娘が一瞬で無力化されてしまった。口をパクパクさせて立ち尽くす恭也を余所に、二人はその場を立ち去ろうとする。そして露伴は恭也の方を見やると、徐に口を開いた。

 

 

「………もう少し彼女のこと、見てやるんだったな。僕が言うのもなんだが、お前が彼女に向き合おうとせず、歩み寄らなかった結果がこれだ……お前はトレーナー失格だ」

 

 

露伴がそうセリフを吐き捨てると、震えている彼女を連れ立ってその場を後にする。スカイは去り際に彼に何か声を掛けようと立ち止まったが、やがてそのまま露伴に遅れを取らないように歩いて行った。後に一人で残された恭也はがっくりと地面に崩れ落ちると、その拳を天に付き上げて勢いよく地面に叩きつけた。

 

 

「ふざけるな……」

 

 

平行恭也の口から漏れ出た一言がその場に霧散する。僕が、トレーナー失格……?あいつは僕の傍から離れる…?そんなこと許してなるものか。必ずあいつを連れ戻さなければならない。叩きつけた手から皮膚が裂け、そこから血が垂れ流れている。彼は震える手でトランシーバーをつかみ取った。

 

 

絶対に逃してなるものか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スカイは露伴の後を覚束ない足取りで付いていく。露伴はそんな彼女に視線を送ると一目の付かない場所へと移動すると彼女に休憩を取らせた。

 

 

「……それにしても物騒な連中だな。これが君たちの世界の常識なのかい?」

 

 

露伴の憎まれ口も、この場においてはその緊張を和らげる良い薬となる。スカイはようやく恐怖によって硬直していた自身の身体が解れてきたことを実感すると、露伴にお礼を言う為に彼の方へと向き直った。

 

 

「本当に……本当にありがとうございます。でもどうしてこの世界に……?」

 

 

「さっき奴にも言ったが、君が消えるのを防ぐためと言ってこの世界に戻ってきたといってもその環境自体が改善されているわけじゃあない。「人生も環境も自分次第」なんて無責任なことを言うやつもいるが、そこから抜け出すのには大きな苦労と犠牲が伴うってものさ。平行世界から戻ってきた君を、連中はおいそれと認めるわけがないだろうからな」

 

 

「……そうですよね。私に居場所なんて……この世界に私の居場所は」

 

 

 

あの場から逃げて自由になることができた気がしたからといって、状況が好転したわけではない。やはり私に居場所なんてあるわけないがないのだ。そう肩を落とすスカイに対して露伴は徐に口を開き言葉を掛けた。

 

 

「確かに……確かに今僕は一歩踏み出すには苦労と犠牲が伴う、そう言った。正直に言ってしまえば、この世界の君の身の振り方まで世話をしてやれるわけじゃあない…だがそれはこう言い換えることもできる。その覚悟さえあれば……荒野へとその一歩を踏み出す覚悟さえあれば……道は開けるのさ」

 

 

「……!」

 

 

露伴の一言にスカイはその顔を上げる…しかしその瞬間、学園中にノイズ混じりの放送が響き渡った。

 

 

中等部3年〇組、セイウンスカイが「指導中」に逃亡…繰り返します。セイウンスカイが「指導中」に逃亡。委員の方々は発見次第拘束、指導室まで彼女を連行してください。

 

 

「……まったく、指導だの委員会だの穏やかじゃあないな…ここら辺を闇雲に逃げても仕方がないだろう。こうなったら一度元の世界に戻って何か策を考えよう」

 

 

「……!でも…」

 

 

「あぁ、確かにこれは応急処置だ。君は僕たちの世界に留まれるわけじゃあないし、あくまで何か打開策が浮かぶまでの時間稼ぎだ…だがこのまま指をくわえて奴らに捕まるよりマシじゃあないか?」

 

 

露伴はそう言うと、スカイに手を差し伸ばす。確かに彼の言う通りだ。このままここにいても、なにもしないままでは状況はなにもよくならないし、闇雲に逃げたところで捕まってしまうのが関の山だろう。スカイは露伴の提案に頷くと、彼の手を取った。

 

 

…まったく、もう2度と追いかけっこは懲り懲りだと思っていたんだがな。

 

 

露伴はそう心の中でつぶやくと、大樹の洞に向かって走り出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いたぞ!」

 

 

迫ってくる追手をそのたびにヘブンズドアーの能力によって無力化しながら、二人は大樹の洞に向かって突き進んでいく。やがて目的地である大樹の洞まであと少しのところで二人の身体はぴたりと立ち止まった。

 

 

「……この数はさすがにヘブンズドアーじゃあ…」

 

 

目のまえには数十人の追手のウマ娘たちが立ちはだかっている。大樹の洞に向かうにはこの数の追手を搔い潜る必要があるが、目のまえにいるウマ娘たちの数を見れば、横にいる平行スカイのことを守りながら、そして自身の安全も確保しながら進むのには聊かその数は多すぎた。

 

 

 

「……まったく!」

 

 

考えても方法は他にない。露伴は平行スカイの手を引くと、一直線で追手に向かって突き進んでいく。標的がこちらに近づいてきたのをいいことに、追手は一斉に二人を取り押さえようと向かってくる…やがて露伴は自身に近づいてくるウマ娘たちに自身の能力であるヘブンズドアーを発動させて片っ端から無力化させていったが、それも多勢に無勢で追手に幾重もの列となって二人は取り囲まれてしまった。

 

 

「……なっ」

 

 

こうなってしまったらどうしようもないだろう。徐々に円を狭めていく追手を目のまえにして、二人はその逃亡劇の終わりを覚悟して瞳を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……どうやらお困りのようだねぇ…手を貸そうじゃあないか」

 

 

追手たちが作った円の向こう側からそう言葉が聞こえてくると、突如円の向こうから缶のような物体が投げ込まれた。

 

 

…これは

 

 

缶を見た露伴は瞬時にそれを投げ込んだ人物が誰であるか、そして投げ込まれた物体がどのような代物かを判断するとスカイに被さり保護し、自身はその目を固く閉じた。

 

 

辺りは鋭い閃光に包まれる。何の対策もせずにその光を見た追手たちは光が視界に触れた瞬間、刺激に耐え切れずにその場にしゃがみこんだ。

 

 

「……助かった」

 

 

露伴はスカイを起き上がらせると、円の外側からこちらを愉快そうに見つめる人物、アグネスタキオンに言葉を掛けると、タキオンはその視線に応えるように肩をすくめた。

 

「…さてさて、その様子じゃあ交渉は決裂したようだねぇ」

 

 

「……あぁ、仕方がない。一度戻って態勢を立て直そう」

 

 

蹲っているウマ娘たちを飛び越えて、二人はそのまま大樹の洞に向かおうとする。するとまた後方から新たな追手が迫ってきた。

 

 

「クッ…奴らに洞に入るのを見られるわけにはいかない」

 

 

洞に入っていくのを目撃されてしまうと、追手がこちらの世界にやってくる可能性が高い。それはなんとしても避けたい事態だ…タキオンはさきほどの閃光弾と似た形状をした缶を再び後方に投げると、今度はその缶から煙が射出すると辺りを途端に覆い始めた。

 

 

「さぁ!こっちだ!」

 

 

タキオンの声に従って、二人は急いでその声の方向へと向かっていく。あとは追手に追いつかれることなく洞にまでたどり着ければ、目下の目標は達成する。そのはずだった。

 

 

「あっ……!」

 

 

煙幕の海を抜ける直前、足元が良く見えないためスカイが足を躓き、地面に倒れ込んでしまう……急いで起き上がって走り出そうとしたその時、何者かが彼女に掴みかかってきた。

 

 

「逃亡者、確保しました!」

 

 

「……!」

 

 

恐らく追手と思われる自身を掴みかかった相手の声が辺りに響き渡る。

 

 

最早ここまでかと思った直後、突如誰かが前方から飛び出してきたかと思うとスカイの身体を拘束していた追手にぶつかり、スカイを掴めないように抑え込むと、その人物は彼女に向かって声を掛けた。

 

 

「逃げろ!」

 

 

その言葉に弾かれたように、スカイは現実へと引き戻されると急いで足を繰り出していく。そして煙を抜け、その先にある大樹の洞が視界に映ると彼女はその中に飛び込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3度目の経験からか、もともと耐性が低かった自身の身体が慣れてきたからか、今回の平行世界への移動は意識を失うことなく移動することができた。

 

 

 

 

洞から飛び出してきた一同は無事にこの世界に戻ってこれたというひと時の喜びを噛み締めていた。

 

 

「ふぅむ……もう少し平行世界が如何なるものか、観察したかったところだが……まぁあのような状態では致し方ないか」

 

 

そうぶつぶつと呟きながら自身の心拍数をはじめとした自身のデータを事細かくメモに記載するタキオンを余所に、露伴は先程平行世界から生還を果たしたスカイに声を掛けた。

 

 

「……大丈夫か?平行スカイ君」

 

 

その言葉にスカイは首を縦に振ることで返事をする。とりあえずの目的を果たしたことに露伴は安堵すると、洞の傍に控えていたルドルフに声を掛けた。

 

 

「とりあえず色々あってな……スカイ君は連れ戻した。彼女の今後については追々話し合って……」

 

 

「…………さんは?」

 

 

そこまで言いかけた露伴の言葉を何者かが遮る…一同が声のする方向へと振り向くと、彼の言葉を遮ったのはこの世界で待機していたはずのセイウンスカイだというこに気が付いた。

 

 

「……?スカイ君?」

 

 

彼女の顔は見るからに青ざめ、意識はここにはないと周囲が感じるほどの様子だった。露伴が彼女に本来なんと言おうとしていたのか尋ねると、彼女は震える声を何とか紡ぎながら言葉を発した。

 

 

「……トレーナーさんは……?一緒に向こうの世界に行ったトレーナーさんはどこに行ったんですか?」



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岸辺露伴は走らない8

 

 

 

 

平行世界のトレセン学園。その造りは露伴たちがいる世界のトレセン学園とうり二つのものだったが、その二つの大きな違いといえば、平行世界の方の学園にはまるで「活気」がないということだった。学園の荘厳の造りの建築が、却ってそのわきあがる不気味な雰囲気を増長させていた。

 

 

学園内の一角にある部屋……部屋にはペンチや注射器といった器具が壁やパッドに無造作に配置されていて、中にはどんな用途で使用されるのか想像もしたくないような器具も散見される……そんな物々しい部屋の中央で、恭也は椅子に縛り付けられていた。

 

 

「まさかお前が……俺自身とはな」

 

 

椅子に縛り付けられ、身動きが取れない彼の前には本来その世界に存在する恭也が腕を組みながら彼のことを値踏みするような視線を向けていた……やがて彼はその視線を隙なく突きつけながら、言葉を口にした。

 

 

「……信じられないか……僕が瓜二つの人物だって?」

 

 

「……いや。信じるさ。何となくだが、心の底では理解している自分がいるんだ……やはり私たちは同位体故、かな?……まぁだからこそ、貴様を触れることなく生かしておいてやっているんだ」

 

 

「……?どういう意味………だ……?」

 

 

「貴様の口からは俺のスカイがどこに消えたのか、その秘密を答えてもらわなくちゃあならない……スカイは一体どこに行った?」

 

 

「答えるわけないだろ……君のスカイに対する指導は異常だ。君の元に今彼女を返しても、絶対に彼女のためにはならない。」

 

 

「……なるほどね」

 

 

平行世界の恭也はつかつかと歩み寄ると、途端に観測が急速に早まり、椅子に縛られている恭也は途端に苦しみだす……その額からは夥しい量の汗が浮かび、断末魔に似た悲鳴が喉から搾られる。しばらく苦しんでいる恭也の様子を見つめていた平行世界の恭也は満足したのか距離を取ると、酸素を求めて喘ぐ彼を見つめた。

 

 

「……ハァハァ、ハァ。」

 

 

「まぁいい……貴様が消えるにはまだ時間がかかる。それまでに吐いてくれればいいさ。なんたって、その方法を口にしない限り貴様はこの世界から抜けることなど叶わないのだから」

 

 

苦しむ恭也を尻目にそうつぶやき、平行世界の恭也はその部屋からでると入口に控えていたウマ娘に声をかけた。

 

 

「……逃げないように見張っておけ。口を割らせることができるんだったら、死なない程度に痛めつけても構わない」

 

 

誰もいなくなった部屋で、自分の荒い呼吸だけが響き渡る。どうしてあの時身体が動いたのか。それは自分自身にもわからなかった。

 

 

あの場で動かず、そのまま洞に帰ることもできたはずだ。元々スカイは向こうの世界の住人。あの場で捕まってしまうのもまた彼女の宿命と割り切ることも、あの場の判断でしようと思えばできたことだ。

 

 

だがそれでも、動かずにはいられなかった。気が付けば捕まっていた平行世界のスカイを助けてしまった……助けずにはいられなかった。

 

 

何があっても、どんなに辛いことがあっても僕はトレーナーだ。元の世界のスカイも、この世界のスカイも。僕にとっては大切な担当ウマ娘だ。例えこの世界で僕が朽ち果ててしまおうとも、彼女を守ることができたのだからいいと思わなければ。

 

 

恭也はそっと目を閉じると、静かに頭を垂れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「恭也君が………向こうの世界に?」

 

 

今しがた生還を果たしたばかりのスカイの口から放たれた衝撃の一言に、一同の顔は青ざめていく。この場に彼がいないこと、それが指し示す意味は一つだけだった。

 

 

「……彼はまだ、向こうの世界に?」

 

 

その問いに答える者は、その場にはいなかった。そんな重苦しい雰囲気が支配する中、平行世界のスカイは震えながら言葉を口にした。

 

 

「洞に飛び込む直前、誰かに助けてもらったんです。煙で顔が見えなかったから誰か分からなかったんですが……あの時の人がまさか……」

 

 

「……」

 

 

「……のせいだ」

 

 

ぽつりと呟かれた一言。あまりにも小さく呟かれたせいでその言葉の全てを聞きとることができなかった一同が声のした方へと振り向くと、そこには今担当トレーナーが捕まってしまったことを告げられたセイウンスカイの姿があった。

 

 

「………?」

 

 

「……お前のせいだ!お前のせいでトレーナーさんは捕まったんだ!」

 

 

急にスカイは大声を上げると、平行世界のスカイに掴みかかろうとする…その手が彼女の襟に掛かる直前、ルドルフが彼女の身体を抑えて何とか大事は免れた。

 

 

「……セイウンスカイ君。気持ちは痛いほどわかるが、冷静さを欠いてはならない。露伴先生……少し彼女と二人で話す時間が欲しい」

 

 

「……!何も話すことなんて……!」

 

 

「話をさせて欲しい」

 

 

スカイの抵抗は、皇帝のその短くも強い意思を孕んだ一言によって瓦解する。スカイがかろうじて無言で頷いたことを確認すると、ルドルフは彼女の手を引いて一同に話が聞き及ばない位置まで歩いて行った。

 

 

「……彼女、どうなるかねぇ」

 

 

「……分からない。いずれにしても恭也君は向こうの世界に居続けることはできないし、奴らは平行世界のスカイ君を血眼になって探しているはずだ。恭也君を助け出して、スカイ君を元の世界に戻さなければならないだろう」

 

 

「……しょうがない。それじゃあその二つを成功させるための作戦を練るとするかねぇ」

 

 

「……あのっ!」

 

 

平行世界のスカイの呼びかけによって、一同の動きがぴたりと止まる。そんな一同の様子に一瞬怯えたような素振りを見せていたスカイだったが、やがて覚悟したように向き直ると一同の一人、露伴に向き直り声を掛けた。

 

 

「露伴先生……お願いがあります」

 

 

その瞳の中には、確固たる意思が宿る。その輝きを見た露伴は彼女の言葉を聞き届けるために彼女の方へと向き直った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルドルフは二人だけで話ができる場所へと移動すると、彼女の方へ視線を向ける。如何にして彼女の憤りをほぐすべきか。頭の中で考えを巡らせながら、ルドルフは徐に口を開いた。

 

 

「……君の気持ちは痛いほどわかる。私も……」

 

 

「……あなたに分かる訳がありません。私の気持ちなんて」

 

 

彼女の慰めに、スカイは短くそう切り返す。彼女の憤りの根底はより根深く複雑なものだ……ルドルフはそう勘繰ると、腕を組み静かに彼女のことを見つめ始めた。

 

 

「………?」

 

 

怒りは次第に鳴りを潜め、その心の中には疑念が立ち込めていく。ルドルフはしばらく彼女の感情の潮が引くまで沈黙を貫きとおすと、徐に口を開いた。

 

 

「………私はかつて、過ちを犯してしまった。露伴先生を、自分の欲望のもとで傷つけてしまった……反省しているし、二度とそんなバカげたことをするつもりはない……思い返せばそんな私の行動は、彼を想って起こしてしまった故だ。先程の君の怒りもきっと……恭也君を想ってのことなのだろう?」

 

 

「……」

 

 

「……確かに私は君の心の中まで覗き込むことはできない。その点で言えば、確かに君の言う通り、君の気持ちなど私にはわかるはずないという指摘は至極当然なものだろう。だが、ある点で言えば……そう、トレーナーという存在を思う身として、私たちは同志だ。君の気持ち、痛いほどわかるよ」

 

 

「……」

 

 

「そんな彼が今、囚われている。だとすれば、君のなすべきことはたった一つじゃあないか?」

 

 

「………わかりました」

 

 

スカイはその激情を一旦鞘に納めると、二人は一同のもとへと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……さてこうなった以上、もう一度あの世界に行くしかねぇなぁ。作戦はどうすンだよ?」

 

 

「ふぅむ。とりあえず作戦を練って彼を連れ戻す手段を考えなくちゃあねぇ……」

 

 

「その前に君に……スカイ君に聞きたいことがある。あの「委員会」とか言う連中は何者なんだ?それにあの「指導」ってやつは何なんだ?」

 

 

露伴の質問によって、一同の視線は一斉に平行世界のスカイに注がれていく。彼女はその身体を震わせながら、露伴の問いに答えるために口を開いた。

 

 

「………私たちの世界で行われている現行の制度……トゥインクルスタークライマックスはその制度上、出場するためには3年間の間に限りなく多くの重賞に出場することが求められます。その制度が発足した当初は、反対するウマ娘も学内に多くいて……その反対勢力を抑え込むために生まれた、いわば反逆因子の鎮圧のために学内で創設された武装組織、それが「委員会」なんです……そして委員会によって拘束されたウマ娘たちは、「指導」という名目でその思想の矯正が図られます……」

 

 

「……そんな……ひどいことが」

 

 

「聊か気分の悪くなる話だねぇ」

 

 

「……チッ」

 

 

スカイの口から発せられた衝撃的な事実に、一同は水を打ったように静まり返る。この世界の基準では、にわかには信じがたい話だった。その重々しい空気のなか、会話を切り出したのは意外にも平行世界のスカイだった。

 

 

「……多分あの人が捕まっているとしたら、その指導室に拘束されていると思います。」

 

 

「……彼に残された時間もあまりない。あと数時間で彼は「観測」によってその存在が消失してしまう。なんとしても助け出さなければ」

 

 

 

 

 

やがて一同が円になってテーブルを囲んだことを確認すると、タキオンはその上に巻物のように丸めていた大きな紙を拡げた。彼女は一同の顔を一瞥すると、徐に口を開いた。

 

 

「さて、それじゃあこれから向こうの世界に囚われた恭也君の奪還作戦、そしてスカイ君を無事に送り届けるための作戦を説明しよう……2回目の鬼ごっこと洒落こもうじゃあないか。」

 

 

意気揚々と説明を始めるタキオンをよそに、露伴は先程自身に頼み事をしてきた平行世界のスカイの方へと視線を向けた。彼女の顔には最早、恐怖や苦しみはない。そこにあるのは、覚悟だけだった。

 

 

……本当に君はいいのかい?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……夜のトレセン学園

喧騒からはかけ離れたその静かで広い空間は、普段の圧政も相まって非常に重々しい空気を醸し出していた。その学園の一角にある大樹の洞から、一目を避けるように続々と人たちが出てくると、周囲に目撃者がいないことを確認してから周囲に散会した。

 

 

作戦における第1の要。それは平行世界への行き来を可能にする大樹の洞の秘密が、この世界の住人たちに露呈しないこと。その関門は何とか突破したようだ。

 

 

夜とはいえど、自分たちが恭也を連れ戻そうとしていることは既に相手も予想していることだろう。昼に比べるといくらか人数は少ないが、ただの警備巡回と呼ぶには聊か多すぎる人数が校内をうろついていた。露伴は校内を必死に駆け巡り、そして周囲の人々の目に触れることがないように細心の注意を払いながら、彼は校舎の一角にある茂みの中にその身を潜めた。

 

 

……本当に、これをやらなくちゃあいけないなんて

 

 

数時間前にタキオンから聞かされた計画はまさに突拍子もない代物と呼ばざるを得なかった。それでも、こうなってしまった以上……この世界に囚われてしまった彼を助け出すにはこうするしかないというのならば、やるしかないだろう。

 

 

正直なところ、タキオンから聞かされた計画は露伴にとって気が進むものではなかった。露伴はタキオンから手渡された薬物を取り出すと、そのガラス瓶の中に閉じ込められた液体を静かに見つめる。その色は胸やけするような蛍光色を放っていて、とてもじゃあないがこれから口を付けようという気にはならなかった。

 

 

「……やるしかないか」

 

 

露伴は口からそう覚悟たる言葉を漏れ出すと、そのガラス瓶の蓋を開け、ティーンエージャーがコーラを飲み干すときのように、中身を一気に喉の奥の奥に流し込んだ。

 

 

……!

 

 

咥内を不快と表現する他ない味が満たし、それを必死に呑みこんでからしばらくすると彼の身体に変化が訪れた。身体の胃の内に注ぎ込まれた液体が身体に染み込み、血流と混ざり全身にいきわたっていくのを感じる。すると薬品が達した身体の箇所から異常といえる熱を発し、煙が彼の身体から生じていた。

 

 

「~~~!」

 

 

強烈な痛みが身体を襲う。その場でしばらく痛みに耐えるために蹲っていた露伴だったが、やがてしばらくすると痛みの波は徐々に引いていく。彼は完全に自身に薬の変化が訪れたことを確認すると、ゆっくりと立ち上がって自身の手に視線を落とした。

 

 

……これは

 

 

わかってはいたことだったが、その変化は顕著だったようだ。自身の身体を確かめるため、露伴は月明りだけが頼りとなる学園を壁伝いに歩く。しばらくすると、校舎の廊下に据え付けられている窓が視界に入る。それを認めた露伴は急いでその前に躍り出ると、窓に映った自身の姿を確認した。

 

 

自身の目のまえに広がる景色に、露伴は驚きのあまり口を開ける。自分の身体と窓を交互に見比べたり、頭の上についたそれを引っ張ってみたり、自分の頬をつねってみたりする。しばらくその変化を確かめた後、露伴は自身が油を売っている場合ではないことを思い出すと、タキオンから手渡された紙袋の中身を確認した。

 

 

……これを着なくちゃあならないのか。

 

 

全く気が進まない。なんでこんなことを僕がやらなくちゃあならないのか。ともあれ、根底の理性の部分ではこの服に着替えることは至極全うな理屈な行動であることは理解していたが、沽券にかかわるとして男のプライドがそれを拒んでいた。

 

 

「……ちくしょう」

 

 

露伴は一言そう毒づくと、袋の中身を乱暴につかみ取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トレセン学園の一角にあるトレーナー室で、平行世界の恭也は真っ暗な室内で椅子に腰を掛けながら、その首をもたげて天井を仰いでいた。

 

 

……あいつはもう時間がない。

 

 

自身と同位体である奴の身体の消失は既に始まっている。見立てが正しければ、奴の消失のタイムリミットはあと2時間がいいところだろう。スカイをわざわざ連れ戻しに来るような連中だ。このまま指をくわえて何もしないとは思えない。

 

 

その時、机の上に置いていた携帯が着信し、小刻みに震える。

 

 

……来た!

 

 

携帯をつかみ取り、それを耳に押し当てる。それはまさに彼が待ち望んだ連絡そのものだった。

 

 

「……こちら4番隊!『セイウンスカイ』をポイントDで発見!追跡します!」

 

 

「……了解した。捕縛後、トレーナー室に連行するように」

 

 

彼は満足そうに微笑むと、その携帯電話を机の上に置いた。連中がどんな策を弄したとしても、このトレセン学園で捕まらず、指導室に囚われた自身を連れ戻すことなど不可能だ。連中の内の一人を捕まえて口を割らせようと思っていたが、彼女が自ら足を運んでくれたのであればその手間は省けそうだ。満足そうに机に脚を載せ、背もたれを前後揺らしていた恭也だったが、その意識は再び鳴った携帯電話によって削がれることになった。

 

 

「……おい。二度は連絡する必要は……」

 

 

「……こちら2番隊!『セイウンスカイ』を発見しました!ポイントはG2です!」

 

 

「……了解した。捕縛後、トレーナー室に……ってなんだって?誰を発見したって?」

 

 

「……ですから『セイウンスカイ』です!追跡します!」

 

 

混乱のまま恭也はその携帯電話を切る。その事態の分析もできないままに、彼は3度鳴った携帯電話を手に取った。

 

 

「『セイウンスカイ』を発見!こちら1番隊!繰り返す!『セイウンスカイ』をポイントFで発見!」

 

 

恭也は切れた携帯電話をぶらんとそのまま下げると、自身の脳内で常識を超え錯綜する事態の収拾に図った。

 

 

……スカイが3人?

 

 

この学園内で、同時に3人もの同一人物が発見され、逃走を続けている。この事態は一体どういうことなのか。この世界のスカイと、今捕らえている奴の世界にいるであろうセイウンスカイ。二人が同時に存在することはわかるにしても、3人ものスカイがこの学園にいるとは、全くどんな了見なのだろうか?

 

 

ブー。ブー。

 

 

「……」

 

 

自身の手に握られている携帯電話が鳴る。4度目の来電の内容を予見した恭也は、今度は電話に出る気にはなれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……この薬は正直なところ、本来別の目的で作られたものなんだ」

 

 

タキオンの口から発せられたその一言。一同に薬を手渡しながら放たれたその言葉にルドルフは首を傾げると、いぶかし気に口を開いた。

 

 

「……それはどういう意味だ、アグネスタキオン?」

 

 

ルドルフが口にしたその一言に、タキオンはその顔をしかめながら声を発した。

 

 

「……本来は特定の身体の部位を強化させるために作っていた薬だったんだがね。実験の段階で全くの別物になってしまったんだよ。研究者としては、それは「敗北」というべき事実ではあるが、まぁその薬がもたらす作用が非常に奇怪で興味深いものだったからこうして作り方等を記録しておいたわけさ。まさかこんなところで役に立つことになるなんてねぇ」

 

 

「……奇怪?この薬はどういう作用なんだ?」

 

 

質問を投げかけた露伴を一瞥すると、タキオンはさも愉快そうにその顔をニヤニヤと歪めながら平行世界のスカイにつかつかと歩み寄ると、動揺する彼女を余所にその髪の毛を何本か引き抜くと、その薬の入った瓶の中に入れてしまった。

 

 

「……!」

 

 

あまりのタキオンの起こした行動の不可解さに一同が茫然としていたが、タキオンは自身の手元にあるその髪の毛が入って泡が発生しているガラス瓶を自身の喉に流し込んだ。

 

 

「……さ、さすがに味はもう少し改良の余地があるねえ……」

 

 

口の端からその薬が垂れ、タキオンは苦悶の表情を浮かべていたが、やがてタキオンの身体に変化が訪れる。身体から煙が漏れ出、その煙に全身が包まれていく。やがてその煙が収まると、一同の前に広がるその奇怪な現象に、驚きに包まれた。

 

 

「こ、これは……!」

 

 

「……どういうことだ?」

 

 

葦毛の髪に、青い瞳。

 

 

煙の中から現れたウマ娘。そこから現れたのは紛うことなきセイウンスカイその人だった。

 

 

「……ごらんのとおり。これは人の姿形をそっくりそのまま変えてしまう、そんな薬さ。あまりにもピーキーすぎる作用だから面白半分で作り方だけ記録しておいたものだったが、まさかこんなところで役に立つとはねぇ」

 

 

このアグネスタキオンというウマ娘、わかっていたことではあったが狂人であることに変わりはないが、正真正銘の天才であることは疑いようのない事実のようだ。

 

 

その光景に舌を巻く他ない一同を余所に、すっかりとスカイへと変貌を遂げたタキオンは、その口角を引き上げながら言葉を放った。

 

 

「……さぁ。今回の作戦「セイウンスカイ鬼ごっこ作戦」を開始しようじゃあないか!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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岸辺露伴は歩まない9

 

 

 

 

 

 

 

 

ウー。ウー。

 

 

 

夜の学園内に響き渡るサイレン音。

その様子は、さながら脱獄した囚人を血眼になって探す収容所のような有様だ。夜の闇を貫く光が八方に空に向かって照らされ、逃亡者たちを探そうと躍起になっている。

 

 

「……こちら1番隊!その他の隊は現状を報告せよ!」

 

 

数人のウマ娘たちを背後に従えながら、先頭の、腕章と制服を身にまとったウマ娘はいらだし気にインカムに怒鳴りつけた。他の隊との連絡は、自身の胸に付けているインカムから取り合うことができる。しかし先程からひっきりなしに飛び交うその連絡こそが、隊を束ねる彼女の機嫌を最大限に苛立たせていた。

 

 

夜の静寂を貫く足音が響き渡る。自身の手に持った懐中電灯によって照らされた先には、小さな少女の背中が暗闇の中にぼんやりと映っていた。

 

 

葦毛のショートヘアに、先程こちらを振り返ったあの顔。

 

 

間違いない。彼女こそがセイウンスカイだ。

 

 

渡された写真とうり二つの顔だ。間違えようのない。そう自信をもっていえるはずなのに、彼女の心は先程から疑念と困惑によってかき乱されていた。

 

 

 

学園中の至るところで、同時に報告されているセイウンスカイ。

その現象の正体は、きっと何かの見間違いだ。そう片付けてしまえばきっと楽に違いないが、もしもそうでなかったとしたら?この現象はもっと複雑極まるものである可能性は十二分にある。いずれにしても、目のまえを走るセイウンスカイを捕まえ、その口を割ってしまえば問題ないだろう。

 

 

自身の部下に指示を出すと、訓練された隊列を展開しながら部下の一人は彼女の身体に掴みにかかるが、彼女はまるでチェシャ猫のようにするりとその手からすり抜けてしまった。

 

 

……セイウンスカイが相手であれば、一筋縄ではいかない。

 

 

クラシック期も終盤に差し掛かり、彼女は既に現役最強の一人としてその名を連ねている。自身やその部下たちは訓練を受けているとはいえ、闇雲に追いかけているだけではらちが明かないだろう。

 

 

 

隊長の指示によって、背後に控えていたウマ娘たちは息の合った動きで周囲に散会すると、対象のセイウンスカイをまるで鹿を追い立てる狼のように円になって取り囲んだ。

 

 

「……」

 

 

セイウンスカイの動きがぴたりと止まる。こちらの全員がウマ娘とはいっても、彼女もウマ娘だ。彼女が最後にどんな抵抗を見せるかによって手痛い目に遭うこともあるかもしれない。油断なく彼女に視線を送りながら、隊長は配下に声を掛けた。

 

 

「……拘束しろ」

 

 

その言葉を受け、配下のウマ娘たちはじりじりとスカイににじりよっていく。そして彼女たちがとある地点に達した時、隊長や配下の追手たちはスカイにとびかかった。

 

 

「……残念。はずれだよ」

 

 

そうスカイは口にすると、胸ポケットに入っていた瓶を開け、地面に叩きつける。瓶が割れ、中の液体が空気に触れると、途端に大量の煙が発生した。

 

 

「………!」

 

 

煙が肺に達した瞬間、視界が途端に狭まり暗闇に意識が吸い込まれていく。懸命に足に力を入れようとしたが、まるでうまくいかず隊長は地面にひっくり返り浅い呼吸で必死に息を保とうとしていた。

 

 

「……まったく。制服というものは聊か動き辛いものがあるねぇ」

 

 

セイウンスカイ、もといスカイの顔に変わったアグネスタキオンは煙が完全に霧散したことを確認すると、ハンカチを口元から外し、追手たちの意識が完全になくなったことを確認した。

 

 

……さて。

 

 

タキオンは転がっているうちの一人の追手の胸についているインカムを取り外すと、スイッチを入れて連絡を入れた。

 

 

「こちら1番隊!対象を追跡中!対象はポイントBを南下中!応援を頼む!」

 

 

不審に思われることがないように、できるだけ走りながら連絡を発しているようにふるまいながら、タキオンは相手の返答を待つ。

 

 

「……こちら4番隊!了解した!こちらもポイントの近くにいる!ポイント付近の体育館で挟み撃ちにしよう!」

 

 

「……3番隊!了解した!こちらもその作戦に参加する!」

 

 

「2番隊も合流する!」

 

 

どうやら作戦はうまくいったようだ。タキオンはその顔に笑みを浮かべると、ポケットからだした結束バンドで追手を拘束し、茂みの中にその身体を隠す。この結束バンドは強力な繊維によって作られた代物だ。ウマ娘といってその拘束から逃れることはできないだろう。

 

 

なあに、一晩ここにいたって死ぬわけじゃああるまい。精々風邪をひくくらいなものだ。

 

 

タキオンは一仕事を終えてふうっと一つ溜息をつくと、次なる作戦のために夜の闇の中へと足を繰り出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暗闇の中に浮かび上がるその小さな背中をめがけて、追手はその脚を繰り出していく。先程の1番隊の連絡を受け、自分たちはポイント付近にある体育館で挟み撃ちにする作戦を立脚した。これで同時に観測されたセイウンスカイたちを一網打尽にすることができるはずだ。

 

 

「逃げたぞ!」

 

 

そうこうしているうちに追っていたセイウンスカイが狙い通り体育館の中へと逃げ込んでいく。こちらも追い込む手間が省けたと、続々と体育館の中へと続いていった。

 

 

 

 

 

 

 

……これは貴重な体験だ。

 

 

露伴は必死に足を繰り出しながら、人間だったころとは比較にならないほど速く駆けることができる自身の身体に内心驚きを隠せずにいた。

 

 

どうやらただの見た目だけではなく、内部の身体構造までも変貌させてしまうのか。一体タキオンの薬は、人体にどんな作用を及ぼしているというのだろうか。

 

 

いけない、いけない。

 

 

漫画家として非常に知的好奇心をくすぐる経験を現在進行形でしているわけだが、今この場においてはあまり悠長なことは言っていられないだろう。何はともあれ、今は自身に課せられた役割を遂行しなくては。

 

 

露伴は急いで体育館に滑り込むと、後方を確認した。

 

 

……狙い通りだ

 

 

狭い出入口に殺到する追手を見やると、スカイ……もといスカイの姿へと変貌を遂げている岸辺露伴は正面を見据えると、丁度向こうからももう一人のスカイを追ってやってきた追手たちが殺到していた。

 

 

奴らは僕達が袋のネズミだと思っているんだろうな。

 

 

体育館は普段自分たちが朝礼の際に使っている様子とは打って変わって、夜の闇に塗りたくられ、その様相は「不気味」という一言に尽きるものとなっている。露伴は前方にいるもう一人のセイウンスカイ、もといシンボリルドルフと目を合わせた。

 

 

……頃合いだな

 

 

露伴は追手を程よく巻きながら、準備を全て整えると、体育館の中央に躍り出ると体育館の天蓋に向かって、身に着けていたサスペンダーを投げつけた。サスペンダーは天蓋の枠に引っかかり、ルドルフが自身の身体にしがみついたことを確認すると、露伴はサスペンダーに付けられているボタンを押した。

 

 

ボタンを押すとサスペンダーは縮み、二人の身体は瞬く間に天井へと引き上げられていく。

 

 

「な!」

 

 

突然の出来事に追手の一同が困惑しているのをよそに、二人は天枠に足を掛け体育館の外へと出ていく。あっけに取られていた一同も、自分たちが出し抜かれたことをようやく悟ると急いで二人の行方を追う為に体育館の外へと向かおうとするが、先頭の追手のウマ娘が声を張り上げた。

 

 

「……扉が開きません!」

 

 

……してやられた。

 

 

自分たちが追っているつもりが、実は追い詰められていた。追手の内のウマ娘の一人が自身の胸についているインカムを掴むと、体育館の外にいるはずの1番隊に向かって連絡を試みた。

 

 

「……こちら3番隊!その他の隊と共に体育館から身動きが取れない!1番隊!至急救援を求む!救援を求む!」

 

 

「……こちら1番隊」

 

 

「……聞こえたか!1番隊、至急救援に……」

 

 

「1番隊は今休憩で草むらで眠りこけているよ。連日の激務でお疲れのようだから、もうしばらく寝かせてやっておくれよ」

 

 

その言葉を最後に、インカムからはいくらボタンを押してもツーと音が流れるばかりで相手に繋がることはなかった。いくら待っても連絡が付かないことをようやく悟ると、追手のウマ娘は力なくインカムをおろした。

 

 

「……だまされた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……とりあえず計画の第2段階は完了といったところか。ルドルフ、大丈夫か?」

 

 

 

体育館の天井で、二人のウマ娘……もとい露伴とルドルフが姿を変えた二人のセイウンスカイは、お互いの無事を確認しあった。

 

 

「あぁ、露伴先生……タキオンやシャカールも準備についている……それにしても、スカイ君は残念だね」

 

 

ルドルフの口から漏れ出た最後の一言に、露伴は視線を落とす。彼女はこの世界に踏み出す、その一歩が足りなかった。その苦しみは、その弱さは彼女にしかわからない。彼女に来てもらえば作戦の成功率が上がることは間違いないが、それもまた致し方ないだろう。

 

 

「……」

 

 

すると突然ルドルフの身体から湯気が発生し、瞬く間にその煙に彼女の身体は包まれていく。やがてしばらく時が経つと、その煙が引き、その中から元の姿に戻ったルドルフが姿を現した。

 

 

「むっ……もう時間か。タキオンの言う通り、本当に効果は1時間のようだな。まぁさしあたりスカイ君の姿でやらねばならないことは完了したし、問題はないだろう」

 

 

「そうだな……ってもう1時間経ったのか!ま、まずい……君が元の姿に戻ったということは……」

 

 

露伴は慌てふためきながら天井から降りようとする……しかし例にもれず彼の身体からも瞬く間に煙が発生すると、その身体を覆いつくすほどの煙が立ち込めていった。

 

 

やがてしばらくして煙から現れた彼の身体を目に止めたルドルフは、目を丸くし、その顔を赤く染め上げながら彼の身体を凝視していた。

 

 

「露伴……先生……」

 

 

 

 

 

「み、見るな……!ルドルフ!」

 

 

追手の目を搔い潜るため、露伴一同は同じ服……つまりトレセン学園の制服にスカイの身体に変容した後に着替えるように指示されていた。

 

 

ルドルフはつかの間のご褒美を、思いがけずに堪能することになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一人の残された大樹の洞の傍に、彼女。セイウンスカイの姿があった。彼女は洞に背中を預けながら、一人寂しく思考の波に耽っていた。

 

 

……トリックスター・セイウンスカイ!クラシック3冠の最後、菊花賞をもぎ取りました!シニア期も彼女の活躍に期待です!

 

 

分かっていた。

 

 

スカイ……大丈夫だ。少しタイムは落ちているけど、問題ないよ。次のレースまでには……

 

 

分かっていたんだ。

 

 

徐々に身体から、力が抜けていくのがわかる。その現象の名前は分かっていた。他の人より少し早いだけ。他の人より少し……少しだけ

 

 

頭の中でその現象で言葉を紡ぐと、涙がこぼれそうになる。苦しみという海の中で呼吸さえできない。

 

 

誰もいない夜の帳に、少女の涙が寂しく染み渡っていく。この感情の行き場はどこにも行けない。私はどこにも行けないのだ。

 

 

「……カイ」

 

 

……!

 

 

何処からか聞こえた声に彼女は振り返る。どこを探しても、その声の主はいない。困惑する彼女を余所に、その脳内には再び声が響き渡った。

 

 

「……スカイ!」

 

 

……彼の声。

 

 

ずっと、ずっと私を支えてくれた人の声。

 

 

忘れちゃ、ダメな人。手を差し伸べてくれた人。

 

 

彼は今、苦しんでいる。一人とどめ置かれた彼のその姿が脳内に浮かび上がっていく。

 

 

……助けなくちゃ。

 

 

スカイはふらふらと立ち上がると、洞に向かって脚を伸ばした。

 

 

 

 



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岸辺露伴は歩まない10

 

 

 

ツー。ツー。

 

 

「おい……1番隊!状況はどうなっている!」

 

 

何度も乱暴にボタンを叩くように押すが、つい先ほどから全くインカムからは応答が返ってくることはなかった。

 

 

事態は一体どうなっているのか。苛立ちながら彼は自身のトレーナー室をうろついていた。インカムで状況を確認しようにも、どうやらその周波数を妨害するような装置が張り巡らされているようで、追跡隊と連絡を取ることができなくなってしまった。

 

 

「……くそッ!」

 

 

焦りと怒りにまかせてインカムを部屋の壁に向かって投げつけると、インカムは大きな音を立てて壊れてしまった。

 

 

追跡隊は既に機能しなくなってしまっていると考えた方がいいだろう。このまましらみつぶしに平行世界の彼の居場所を捜索されでもしたら、最早彼の発見は時間の問題と考えた方がいい。そうなってしまっては、事態は収拾のつかないものになってしまう。

 

 

連中の侵入に加えて、人質を取り逃がし、自身の担当ウマ娘の行方も分からないとなっては、自身もこの惨状の責任を取らされるに違いない。

 

 

「……くそ!」

 

 

指導室に送られて矯正を受けた方がマシな恐れもあるほどの処罰が下る場合も十分にある。トレセン学園始まって以来の大失態と考えていいだろう。既にその未来は自身の首元にまで迫っていた。

 

 

……それは俺だけじゃあない……せめて……

 

 

こうなったら連中より先に人質の元に向かってその身柄を確保し、連中との交渉で優位に立つほかない。恭也は頭を搔きむしりながら結論を出すと、居ても立っても居られない様子で部屋を出ようと試みた。

 

 

ガチャ……。

 

 

部屋を開けた先にいた人物に、恭也は思わず立ちどまった。

 

 

「……スカイ」

 

 

待ち望んだ彼女の姿がそこにあった。驚く恭也をよそに、スカイはきっと彼の目を見据えながら口を開いた。

 

 

「トレーナーさんと話をしに来ました。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薄暗い校舎の中を、少女は一人歩いていく。外からは敷地内で不測の事態が発生したことを告げるサイレンとなにやら叫び声がうっすらと聞こえていた。

 

 

「……急がなくちゃ」

 

 

こめかみの奥から湧きあがる鋭い痛みが、身体の異常事態を告げている。自分にとってこの世界は、まさに毒ガスの満たされた部屋といっていいだろう。自分は既にこの世界にいる自身と会い、「観測」が始まってしまっている。この世界にいればいるほど、自分の身体が消失を進めていくことに他ならないのだ。

 

 

……それでも。例えこの行為が自殺行為以外の何物でもないとしても、彼女は動かずにはいられなかった。内なる衝動と、使命が彼女のことをひたすらに駆り立てていた。

 

 

助けなければ。

 

 

その想いだけに突き動かされ、彼女は脚を繰り出していく。まるで足首に鉛の枷を付けられたかのようなその重い脚を一歩ずつ踏みしめて、彼女は前へと進む。この学園の中で、何処に自身のトレーナーが囚われているのさえ分からない。それに学園の中には追手もうろついているはずだ。

 

 

……?

 

 

その時だった。聴覚に優れたウマ娘だからこそ拾うことができた、その僅かな音に彼女は振り返った。

 

 

ウゥ…………。

 

 

やはり誰かいる。それもうめき声だ。彼女は急いでその音の方向へと向かっていくと、そこはとある部屋が発生源のようだった。

 

 

「……」

 

 

もしここにいるのが、トレーナーさんじゃあなかったら?そんな疑念が心の中に渦巻いていく。それでもここで躊躇い、迷う時間もないことは理解していた。やがて彼女は意を決すると、そっとその扉を開こうとした。

 

 

ガキッ!

 

 

開こうとした扉は、大きな音を立てるが開こうとしない。どうやらこの部屋には鍵がかかっているようだ。部屋の中にいる人物がその扉の音に気が付いたのか、一層大きなうめき声をあげた。

 

 

「ンー――!ンー―――!」

 

 

扉に視線を送ると、そこには如何にも誰かが扉を開けることがないように大きな南京錠が取り付けられていた。その扉に付けられている南京錠を引っ張ってみたが、ウマ娘の力を使ってもこれを破ることはできなさそうだ。

 

 

「……」

 

 

しばらく考えていた彼女だったが、やがて意を決すると数歩後ろに下がってその扉を蹴り飛ばした。木製の扉はその縁に南京錠を残して室内の方へと吹っ飛んでいった。

 

 

やはり物事は、時にはシンプルに対処した方が好転する場合もある。

 

 

彼女は室内へと恐る恐る足を踏み入れていく。室内に明かりは灯されておらず、その中を隈なく視認することはできなさそうだ。やがて彼女は部屋の奥に椅子に縛られた人物がいることに気が付いた。

 

 

彼女はその人物が何者であるのか確認するため、部屋の入口の横の壁に付けられているスイッチに手を伸ばした。カチッという音が鳴り響くと、そこには一人の女性が椅子に縛り付けられていた。

 

 

縛り上げられた手や足首は縄に擦れて赤く腫れあがっていて、髪は解け肩まで垂れ下がっている。目の下には隈が浮かび上がり、額からは乾いた血がこびりつき、その顔色は悪くなっていたが、彼女はその人物に見覚えがあった。

 

 

「……貴方は」

 

 

緑色の制服に、椅子の下に転がっている緑の帽子。この学園の理事長の右腕として、献身的にウマ娘たちを支え続けていた人物。

 

 

「……たづなさん」

 

 

駿川たづな。トレセン学園理事長秘書の変わり果てた姿がそこにはあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

対面になって座る二人の間には、本来のウマ娘とトレーナーとの関係のような、穏やかな空気は何もない。そこにあるのは殺伐とした、そしてふとしたきっかけで全てが壊れてしまうような、そんな歪な空気だった。

 

 

「……」

 

 

ここには喜びを想起させるような思い出は何もない。あるのは苦しみと悲しみだけ。陰惨たるその痛みが積み重なって、この部屋に匂いとなってこびり付いていた。

 

 

「……私もう、走るのは嫌なんです。」

 

 

長い静寂の後、自身の口から吐き出されてしまった言葉。もう後には引くことはできない。心の内から既に膿んだ傷が涙となって零れ落ちているというのに、彼女はそんな想いが表層化しないように懸命にこらえながら話を続けた。

 

 

「……2年前にトレーナーさんに担当についてもらって……レースも辛かったんですけど……何より期待が怖かったんです。勝ち続けなければならない、零れ落ちてはいけない、そんな視線が、ずっと怖かった。休まらない日々が怖かったんです」

 

 

ずっと伝えることができなかったその想い。もっと早く、彼に痛みを伝えていれば、もっと早く、自分の声に耳を傾けていれば。

 

 

そんな後悔が口から紡ぐ言葉が零れ落ちていく。全部全部、遅いことなどもう分かっていたんだ。それでも、今からでもやり直せるのではないかという淡い期待を抱かずにいられなかった。

 

 

………この作戦の一番の要。それはトレーナーさんと話をすること。彼と話して分かり合いたかった。きっと彼なら、彼ならわかってくれるはず。

 

 

その胸の内を明かしても尚、彼の元から離れる気には、やはりなれなかった。ずっと考えていた。彼のもとから遠く離れて、一目のつかない場所へと一人で生きることも、はたまた祖父の家で匿ってもらうことも、やろうと思えばできたことだ。

 

 

……それはできない。

 

 

どんなことがあっても、トレーナーさんは私のトレーナーさんだ。あの日、私をスカウトしてくれた彼が、目のまえの彼だ。それはゆるぎない事実。彼と共に歩いていくことを、既に私は決断したんだ。

名前のように人生の全てが全て、晴天とはいかないかもしれない。それでもトレーナーさんがいてくれれば……

 

 

「だから、一緒に逃げましょ……トレーナーさん?」

 

 

恭也に向かって、歪みながらも精一杯の笑顔を向け、そう語りかける。ここで彼が手を取ってくれれば、全ては滞りなく進むはずだ。

 

 

長い沈黙の末、トレーナーが彼女の提案に返答するために、口を開いた。

 

 

「逃げる、か……確かにトレセン学園がここまで滅茶苦茶になったとなれば、俺はもう終わりだ。URAの刺客がトレセン学園の連絡を受けてここまで向かっている。事態の鎮静化を図るためだ。もうあと15分も掛からずに、奴らはここまで向かってくるはずだ」

 

 

「だ、だったら……!」

 

 

スカイが口を開こうとするのを、恭也はその手で静止した。

 

 

「もう逃げられない。奴らの捜索能力は警察の非じゃあない。無理だ、逃げられない……この世界の何処へ逃げたって……同じ目に遭った奴を何度も見てきたからな……」

 

 

「……だからスカイ。一緒に死のう。もう無理だ……こんなことになる前に、お前をここに連れ戻せていたら……」

 

 

今まで厳しく私を指導していた理由も、そこにあった。もしも良い成績を残すことができなかったとしたら……そしてそれを苦に学園を逃げ出しでもしたら……

 

 

 

 

そうやって、忽然と消えてしまった友人たちや、そして職員たちを大勢見てきた。彼らの行方がどうなってしまったのか、全ての辻褄が合ってしまった今は考えたくもない。

 

 

……彼は彼なりに、私のことを守ってくれていたのだ。

 

 

それは決して正解ではないことは明白だった。愛であって、決して愛ではない。歪な関係がそこにはあった。純粋な色の愛ではなく、その愛は酷くくすんだ、濁り切った色をしていた。彼が私を手放すはずはない。

 

 

それに私もトレーナーさんと離れるつもりはなかった。

 

 

突然トレーナーは胸を掻きむしり、もだえ苦しみ始める。突然の出来事に困惑しながらもスカイが机の方へと視線を向けると、そこにトレーナーの異変の答えがあった。

 

 

「……これは」

 

 

 

それは、蓋が開いた状態で転がっている錠剤と、その瓶だった。瓶に書かれているラベルに仰々しい文字で書かれた薬品の名前に、スカイは見覚えがあった。

 

 

人間用の筋力増加剤。暴れたウマ娘に人間が対抗、拘束するために開発された薬品で、1錠でおよそ1分間、ウマ娘を凌駕する脚力と腕力等を得る効果が得られると言われているが、その副作用として身体にはダメージが残るとされている。瓶から転がる薬剤から察するに、恐らく服用した量はそれでは収まらないだろう。

 

 

 

 

……トレーナーさん、本当に。

 

 

 

彼は全てに絶望し、そして決断してしまった。私とその結末を迎えるという願いをかなえるために、彼はその苦しみを背負ってしまった。

 

 

なんだかんだ言っても、私にはトレーナーさんしかいない。トレーナーさんのことは、正直怖かったが、それでもその根底には確かな信頼があった。確かな想いがあった。トレーナーさんとならきっと乗り越えられる。そんな思いが濁り切った沼の底に希望となって眠っていたからだ。

 

 

……これじゃあ、どうやっても。

 

 

スカイはずっと堪えていた、ずっとずっと我慢してきた涙がその場に落ちる。最早手から零れ落ちる想いは留まることを知らない。

 

 

全て決した。

 

 

スカイは震える手でそのインカムを手に取ると、耳元に近づけて目当ての相手に連絡を取った。

 

 

「……こちらエアシャカール」

 

 

 

愛想のない彼女だが、その声はいつもより更にトーンダウンしていた。恐らく何となく、連絡の内容を察してしまったのだろう。

 

 

「……プランBで、お願いします」

 

 

「……本当にそれで、いいのかよ」

 

 

「……いいんです。全てもう、遅かったみたいです。それに……私も、トレーナーさんも疲れちゃいました」

 

 

 

「……分かった。他の奴らにはオレの方から伝えておく……こんなことになって、本当に残念だ」

 

 

 

インカムが切れた音を確認すると、スカイは丁寧にそれを仕舞う。そして既に心の中に秘めた本能と願いだけを基に行動する存在となった、目のまえの恭也に視線を向けると、涙ながらの笑顔を向けた。

 

 

 

「……さぁ。トレーナーさん。最後のレースです。これでもセイちゃん、結構早いんですよ?」

 

 

 

 

 



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岸辺露伴は歩まない11

 

 

 

外が少し騒がしくなってから、一体どれほど時間が経っただろうか。今にも頭が割れてしまいそうなほどの頭痛が絶え間なく襲いかかってくる。

 

 

椅子に縛り付けられた恭也は朦朧とした意識を失わぬようになんとかこらえながら自身の脚の方へと目を向けると、既に自身の脚はふくらはぎの中間ほどの位置まで薄くなっており、まさに幽霊のような出で立ちになってしまっていた。

 

 

「……もう……消失が……」

 

 

ドン!

 

 

すると突然、扉がドンと大きく音が鳴る。一体何事かと扉の方へと目を向けると、何度か大きな音を立てるとその扉は室内の方へと吹っ飛んでいった。

 

 

「……!」

 

 

室内の中に、二人の人物が入ってくる。扉が壊れたことにより生じた煙のせいか、はたまた失われてゆく意識のせいか、その人物の顔を見ることはできなかったが、その人物が近づいてきて発した声には聞き覚えがあった。

 

 

「トレーナーさん!トレーナーさん!」

 

 

やがて煙が晴れ、その顔が見えてくると、どうやら助けにきた人物が自身の担当ウマ娘であることがわかった。クリアにならない意識の中、自身の手に縛り付けられた縄が外される様子を見つめながら、彼は月明りに照らされた自身の担当ウマ娘はなんて綺麗なんだと的外れな想いを抱いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薄暗い校舎の中、ルドルフは渡り廊下で扉の向こうで着替えている露伴のことを静かに待っていた。

 

 

……

 

 

この状況においては依然、気の緩みは一切許されない。もしもこの場に体育館に閉じ込め損ねた追手がやってきたら、今無防備になっている彼を守りつつ、対処をする必要がある。それにまだ作戦は途中の段階だ。

 

 

それでも。

 

 

僥倖。その一言に尽きる至福の一時を先程味わった。両手を組み交わし、腕をくねらせながらルドルフは先程の出来事を思い起こした。彼女は努めて平静を保とうと試みたが、顔を赤らめ、その頬はすっかり緩み切っていた。

 

 

見てしまった。彼の、彼の……。

 

 

皆までは言うまい。彼は他人よりもおよそ自尊心がかなり高い。(もっとも、そこが彼の可愛らしいところの一つでもあるわけだが)そんな彼に今の自分の態度を気取られてしまっては、彼の自尊心は漏れなくズタズタになってしまうはずだ。

 

 

ガラガラ……

 

 

スライド式の扉がゆっくりと開くと、その中から露伴が姿を現す。黄色のシャツに黒のベスト、白の革ベルトに黒のズボンといういで立ちの彼に視線を向けた彼女は、その姿を目に留めると徐に口を開いた。

 

 

「その姿は……懐かしいな」

 

 

かつて露伴が身に着けていたトレーナー服を再び拝むことができた彼女が目を細めると、露伴はその視線の逃げ場所を求めて視線を彼女から逸らした。

 

 

その時、ちょうどいいタイミングでインカムから声が聞こえる。露伴はこれを良い機会にと焦り気味にインカムを口元に近づけた。

 

 

「……こちらエアシャカール。応答願う」

 

 

「……こちら岸辺露伴だ。傍にはルドルフもいる。どうしたんだ?」

 

 

露伴の質問に、エアシャカールの声は返ってこない。その不自然な間に再度露伴が同じ質問をしようとすると、相手からようやく声が返ってきた。

 

 

「……プランBに変更だそうだ。早いところスカイのトレーナーを見つけて、さっさと元の世界に戻れ。オレもアレを設置したらさっさとトンズラさせてもらうからな」

 

 

ぷつっと切れたインカムに視線を落とすと、露伴はそれに静かに視線を落とす。この世に神様がいるとすれば……いやそもそもこの世界にも元の世界のように神様がいるとすれば、こんな残酷な運命へと仕向けたのはどちらなのか。そんなことを考えながら露伴は悲し気にルドルフへ顔を向けると口を開いた。

 

 

「……プランBだ」

 

 

露伴の口から出たその一言に、ルドルフの顔にはじわじわと哀しみが広がっていく。最早どうにもならないことだ。この世界の行く末は……この狂い、悲しみにあふれたこの世界の行く末は、その中で必死に生き、そしてその中で微かな希望を抱き続けた少女の判断によって決せられた。

 

 

「……な、何か。何か別の方法があるはずだ。こんな結末って……」

 

 

「ルドルフ」

 

 

彼女の動揺を、露伴は短くも有無を言わさぬ迫力で制す。ウマ娘の幸せを願う彼女の切なる痛みはよくわかったが、それは元々この世界の住人ではない自分たちが最終的な判断を下すことは、あまりにも独善的なことだ。

 

 

「……さぁ。恭也君を探しにいくぞ」

 

 

これ以上この事を考えないように。露伴はルドルフの腕を取ると暗闇の中を歩み始める。廊下を歩き始めてからしばらくすると、廊下の先には数人の人影が見えた。

 

 

「……あれは。」

 

 

 

追手を警戒してその死角へと身を潜めていたが、やがてその姿が近づいてきて彼らの顔が見えると、露伴はその身を彼らの前にさらけ出した。

 

 

「スカイ君……君はこの世界の恭也と話をしに行ったはずじゃあなかったかい?」

 

 

それはスカイと恭也、そして自分たちがいる世界では見覚えのある女性の3人の姿だった。スカイは出会い頭に人と遭遇したことに驚きつつ、露伴から質問に罪悪感で顔を背けながら口を開いた。

 

 

「……私、元の世界のスカイです。」

 

 

その言葉に、露伴とルドルフは驚きの表情を浮かべる。どうやら、囚われたトレーナーを心配するあまり、この世界に一足遅れてやってきたようだ。予想外の出来事ではあったが、一刻を争う状況で彼女が恭也を救い出してくれたおかげで、その手間が省けたことは良い出来事だった。

 

 

「……とにかく無事でよかった」

 

 

露伴はスカイから目を離すと、その隣で居たたまれない姿となっているが、ひとまず無事であることを確認できた恭也を労わった。恭也は心痛そうなうめき声をあげたが、首をなんとか上げると露伴の問いに答えた。

 

 

「……何とか無事です。露伴先生……ありがとう……ございました」

 

 

「……それはそうと、そこにいる貴方は」

 

 

ルドルフは3人目の女性に声を掛ける。初めて知り合う人物のはずだったが、露伴とルドルフにとって彼女が既に誰であるかは知っていた出来事だった。2人が視線を彼女に向けると、彼女は徐に口を開いた。

 

 

「……既に詳しい自己紹介は不要なようですね。私、駿川たづなです。」

 

 

やはりそうだ。スカイや恭也と同じく、この世界に住んでいるたづなのあまりにも痛ましいその姿に一同が息を呑んでいると、彼らの目線の意図に答えるように口を開いた。

 

 

「……今の学園の体制に抗議をしたら、こうなってしまいました………」

 

 

どうやら彼女もこの学園、URAの方針に従わぬ「反乱分子」の一人として囚われていたようだ。彼女の今の身なりを見れば、その環境が如何に劣悪なものであるかは想像に難くない。

 

 

何はともあれ、時は急を要する。露伴はスカイに事態を伝えるために口を開いた。

 

 

「……スカイ君。君も聞いていただろうが……残念だが、プランBだ。早くこの場を立ち去らなくちゃあならない」

 

 

「………プランB?」

 

 

この世界にとどめ置かれていた恭也がいぶかし気に首を傾ける。彼のためにその概要を説明しようと口を開きかけた露伴だったが、たづながいることを思い出すと、それを思いとどまった。

 

 

彼女はこの世界の住人だ。もしこの計画を彼女が知れば、自分たちのことを止めようとする恐れは大いにあり得ることだ。そんな心配をよそにたづなは露伴の方へ首を向けると、徐に口を開いた。

 

 

「………状況は把握できませんが、皆まで言わなくても大丈夫です。何となく、貴方たちが何をしようとしているのかわかります。」

 

 

そう話すたづなの目には、恐怖は感じられない。この世界の住人である彼女の前に広がる道に、先などない。あるのは底の見えない暗闇だけ。そんな敢然たる、残酷な現実を前にしても彼女の目に迷いは微塵も感じられなかった。

 

 

「……どうしてだ?」

 

 

どうして彼女はかくも強くいられるのだろうか。この世界は既に終末へと近づいている。この学園の理事長秘書として、そしてこの世界に生きる者として、それを恐れて止めようとしても人として何ら可笑しいことではないはずだ。

 

 

たづなは露伴の口から漏れ出たその疑念を聞くと、精一杯の笑みを浮かべて言葉を紡いだ。

 

 

「……大好きだからですよ。この学園も、ウマ娘の皆さんも」

 

 

その言葉には、並々ならぬ覚悟があった。そこには、大きな愛があった。人間讃歌が、そこにはあった。

 

 

愛しているからこそ、全てを終わりにする。愛しているからこそ、その世界が狂っていく姿を止める。

 

 

その一言に込められた彼女の想いの全てを受け取ると、露伴は静かに頷いた。彼女には、どんな言葉掛けも薄っぺらいものと化してしまう。その覚悟に彼は、只々頷くことしかできなかった。

 

 

たづなは自身を取り巻く一同に顔を向けると、その頭を静かに下げた。

 

 

「……他の世界の貴方たちが、私たちのためにここまでやっていただき、本当にありがとうございました。」

 

 

「……」

 

 

「……たづなさん」

 

 

「……最後に。私には私なりに、できることをさせてください。もう私には、傷を心配する必要はありませんから」

 

 

たづなはそう小さく呟くと、その傷だらけの身体を前進させる。やがて彼女の姿が完全に暗闇に溶け込んで見えなくなると、露伴は一同に視線を向けた。

 

 

 

「さぁ、もう時間がない。早く元の世界に……」

 

 

ドォン!

 

 

その時だった。大きな物音が辺りに響き渡る。一体何事かと一同が音のする方向へと視線を向けると、そこには驚きの光景が広がっていた。

 

 

「……あれは」

 

 

「スカイ君と…………あれは恭也君か?」

 

 

スカイが必死に校舎の廊下へと足を繰り出し、その後ろを恭也が追いかける……しかしその光景の異様さに、一同は息を呑んだ。

 

 

恭也の様子が、明らかにおかしい。

 

 

その身体は先程見た時よりも1回り2回りも大きくなっており、筋肉は不自然に隆起していた。そして何より目を引いたのは、人間であるはずの彼が脚力で人間よりも遥かに優れているはずのウマ娘であるスカイを追いかけている、ということだった。

 

 

……いずれにしても、話し合いは決裂してしまったとみた方が自然だろう。

 

 

露伴はその状況で最適解を導きだそうと頭を悩ませたが、やがて結論を出すと口を開いた。

 

 

「……ルドルフは皆を連れて、先に洞に戻っていてくれ」

 

 

「……露伴先生?」

 

 

露伴の口ぶりに、ルドルフの口調からは明らかな不安が窺い知れる。もう直ぐに、世界の消失は始まってしまう。だとすれば、このまま二人を放っておくこともまた選択肢の一つとしては存在していたはずだが、露伴の身体は動かずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………こちらURA特別任務対策部隊。事態の鎮静化のため、トレセン学園に進行中。あと2分で到着予定」

 

 

「……目標は戸瀬恭也、セイウンスカイの捕縛。そして侵入者の始末だ」

 

 

深夜の道路を、急スピードで3台の黒塗りの人員輸送車が台走行している。やがて道路の先に目的地が近づいてくると、その前に乗り付けて停車すると、その扉が開き中から武装した隊員たちが続々と降り立っていた。

 

 

「………これより計画の実行に移る。各員持ち場に……いや待て!校門の前に誰かいる!総員停止!」

 

 

隊長の指示に従い、隊員はぴたりとその進めていた足を止める。一同の視線の先にいたのは、一人の人物だった。逆光でその人物の顔を窺い知ることはできなかったが、恐らく任務を遂行するためにこの学園にやってきた自分たちをもてなすためにそこにいるわけではないだろう。

 

 

「……URA特別任務対策部隊だ。我々はURAの令状に基づき、その任務を執行するためにここに来た。邪魔するのであればその排除に取り掛かる……そこを退いてもらおうか」

 

 

数秒猶予を与えたが、隊長の呼び掛けにその人物が応える様子はない。従う意思がないと判断した隊長は、速やかに任務を遂行するために傍に控えていた自身の部下に下知を下した。

 

 

「……奴を退かせ」

 

 

その命令に従い、傍に控えていた2名の部下がその人物に近づいていく。人物の肩に触れるその瞬間、2人の身体はまるでドッチボールのボールのように数メートル先へと吹っ飛んでいった。

 

 

「……貴様。何者だ」

 

 

部隊の間には、途端に動揺が広がっていく。訓練されている部隊の隊員が1人ならいざ知れず、2人がほぼ一瞬のうちに無力化されてしまった。部隊の動揺を余所に、その人物は歩みを進め一同の前にその姿を現した。

 

 

その人物……その傷だらけの彼女は凛とした表情を浮かべながら部隊を見るとファイティングポーズを取り、戦闘の意思を強く示した。

 

 

「……大好きな学園を守りたいだけの、しがない秘書です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

校舎の隅で、一目につかないように細心の注意を払いながら、シャカールは準備を進めていた。やがてその準備が整うと、自身の手元にある代物を何とも言えない表情で眺めていた。

  

 

 

「……またこいつに世話になるとはな」

 

 

目のまえにあるのは、自身が日頃愛用しているパソコン……その液晶画面には、なにやら数字やら素人では皆目見当もつかないような数式が羅列されていた。シャカールは最後の仕上げにキーボードで命令を打ち込むと、それを実行に移すために画面に浮かび上がったOKボタンをクリックした。

 

 

その途端パソコンから閃光が溢れ、空に向かって真っすぐと伸びていく。その光が空を切り開くと、その隙間からドンドンと光があふれ出していった。

 

 

……今度のAIは、予め露伴の命令が書き込まれている。つまりそのAIがもたらす結果は既に決まっているということだ。

 

「……この世界を消滅させる」と。

 

 

 



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岸辺露伴は歩まない12

 

 

 

 

底が見えぬほど真っ黒な闇が、此方に向かって急速に伸びてきている。それはこの世界そのもののタイムリミットを示していた。

 

 

「早く!急ぐんだ!」

 

 

ルドルフの指示に従って、急いで一同はこの崩れ行く世界と、自分たちが元居た世界を唯一繋いでいる大樹の洞に向かって走っていく。既に世界は崩壊を始め、教室の机や椅子は窓をけたたましい音を立て突き破ると、その暗闇に向かって吸い込まれていった。

 

 

「…………あれは!」

 

 

目のまえには、ゴールである大樹の洞が見えてくる。その傍には、先に到着していたタキオンとシャカールの姿もあった。

 

 

「……さぁ!あとは彼らに任せて、先にこの世界から抜け出そう!」

 

 

タキオンの誘導に従って、スカイと恭也、そしてシャカールは一足先に向こうの、自分たちが生きている世界へと戻っていく。彼らに続いてタキオンも続いて洞の中に飛び込もうとしたが、ふとした違和感に立ち止まり、後ろの方へと振り返った。

 

 

「…………会長殿、どうしたんだい?早く戻ろう」

 

 

自身の後ろにいるシンボリルドルフはその場で立ちどまり、呼びかけにも応じようとしない。タキオンがもう一度彼女に声を掛けようとしたが、その直前に彼女は口を開いた。

 

 

「…………断る」

 

 

それは彼のように自信に満ちたセリフではない。それでもここを動きたくないという確かな意思を孕んでいた。

 

 

「彼が……もしも元の世界に戻ってこられなかったら……私はそんな世界で生きていたくない!彼が戻ってくるまで私も残る!」

 

 

それは恥も外聞もない、少女の心の丈そのものだった。タキオンはしばらくその決心をした彼女のことを見つめていたが、やがてつかつかと彼女に歩み寄ると、手のひらで彼女の頬を打ち据えた。

 

 

「駄々っ子みたいなことを言うんじゃあない!」

 

 

叩かれたことに驚きつつ、その箇所を手で押さえながらルドルフは必死抗議をしようと試みた。

 

 

「で、でも…………」

 

 

「君のことを救ったのは、紛れもない彼じゃあないか!そんな君が彼のことを信じてやれないでどうするというんだい!」

 

 

彼女の叱責に、ルドルフの身体はぴくっと震える。確かに彼女の言う通りだ。誰よりも傲岸不遜で、そして誰よりも優しいあの岸辺露伴は、またこの消えゆく世界の住人にお節介を焼こうとしている。そんな彼が…私を救ってくれた彼がまた誰かを救おうとしているのだから、私がそれを信じて待たずして、何が愛バだというのか。

 

 

「…………分かった。アグネスタキオン、てこずらせてしまって済まなかった」

 

 

ルドルフはそう言うと、この世界から無事に自身の想い人が帰ってくることを信じて洞の淵へと足を掛けた。

 

 

 

 

 

崩れ行く校舎の中で、セイウンスカイは懸命に足を繰り出していく。背後から明確な殺気と足音を感じながら、彼女は必死にその脚を繰り出していた。

 

 

「…………トレーナーさん」

 

 

背後から追ってくる恭也は、既に正気を逸している様子だった。彼は人間とは思えないほどのスピードで、こちらに向かって迫ってきている。その目は血走り、筋肉は不自然な形で隆起し、血管が浮き上がっていた。

 

 

…彼は今、私と共にこの狂った世界から逃れようとしている。その悲しみの楔を断ち切るため。そしてその罪を償うために。

 

 

どうあがいても死にゆく未来しかないというのならば、このまま愛するトレーナーの手に掛けられても、いいのではないだろうか。

 

 

そう頭に過った考えを直ぐに振り払う。せっかく積もっていた誤解を解き、彼の本心、そして苦しみを理解することができたのだ。これ以上、彼に苦しみを背負ってほしくない。それにそんな別れ方は自身が嫌だった。

 

 

彼の動きを止めるためには、一体どうすればいいのか。そんな解決策が思いつくはずもなく彼女の脚は唯々駆り立てられる。無我夢中でその脚を繰り出していた彼女は、やがて屋上に辿り着いていた。

 

 

「……もう逃げられない」

 

 

急いで扉へと引き返そうとしたスカイだったが、既に扉の前には恭也の姿があった。彼はスカイの姿を認めると、ゆっくりと、しかし確かな足取りで彼女に近づいていった。

 

 

………ここで私は。

 

 

結局、さっき固めた決意を果たすことは叶わなかった。これから来るであろう痛みを覚悟したスカイは、ゆっくりとその目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう君はここで諦めるのかい?」

 

 

最悪のシナリオに待ったを掛ける、その一言。

 

 

その言葉にスカイはゆっくりと閉じていた目を開いたスカイが、その方向へと顔を向けると、そこには岸辺露伴の姿があった。恭也の背後から顔を覗かせているその彼の登場に、スカイが驚いていると、恭也はゆっくりと露伴の方へと向き直った。

 

 

「ダ……ダレ……」

 

 

繰り出された恭也の攻撃を寸でのところで躱した露伴は、スカイの元に寄ると彼女に徐に話かけた。

 

 

「……気休めにしかならないだろうが、本当に済まない。君を救ってやることができなかった。」

 

 

露伴のその言葉に、溢れる想いを留めて彼女は首を横に振る事しかできなかった。

 

 

「……いいんです。本当に露伴先生には、沢山助けていただきましたから。今だって、帰れたのにここに来て、私とトレーナーさんのことを助けてくれようとしている……」

 

 

「………せめてもの手向けだ。君たち二人がどんな結末を迎えるにしても、君は目のまえのあの男と手を取りあう道を選んだ。ならばこのまま彼に殺されることは、彼にとっても君にとっても最善策じゃあないだろう」

 

 

露伴はそう言って恭也の方へと向き直ると彼の攻撃を都度躱していく。そのたびに落下防止用の網が彼の力によって、まるで薄い飴細工のように容易く吹っ飛び、落下していった。

 

 

「………これは」

 

 

やがて屋上を囲んでいた全ての網がなくなり、屋上は野ざらしの状態となる。そんな屋上の隅へと追い詰められてしまった露伴とスカイは屋上の淵に乗りながら、前方で野獣のように自分たちを狙っている恭也のことを見据えた。

  

 

 

「………文字通り絶体絶命というやつか」

 

 

「露伴先生。私がトレーナーさんのもとに飛び込んで、時間を稼ぎます。その間に逃げてください」

 

 

元々彼らを巻き込む形で始まってしまった物語だ。この結末に、彼を巻き込むわけにはいかない。スカイはゆっくりと、殺意を携えた恭也の元に歩み寄ろうとしたが、彼女の腕を露伴が握って引き留めた。

 

 

「ちょ、何をして……」

 

 

「君が向かうのはそっちじゃあない。逆さ……」

 

 

「……?」

 

 

彼の言ったことの要領を得ることができず首を傾げたスカイだったが、露伴はそんな彼女を尻目に腕を引っ張ると、その身を屋上から投げ出した。

 

 

「……!露伴先生!」

 

 

悲鳴にならない悲鳴が口から漏れ出そうになるのを懸命にこらえたが、重力に逆らうことができずにスカイの身体は露伴と共に落下していく。

 

 

「……ス、スカ……!」

 

 

スカイのことを追って、恭也も本能のままに屋上から身を投げる。その様子を冷静に確認した露伴は、徐に口を開いた。

 

 

「……そもそも今から階段を使って戻ろうとしても間に合わないだろう。この状況を打開するには、これしかなかったんだ。」

 

 

 

その露伴の言葉にスカイが視線を地面の方へと移すと、そこには大樹の洞があった。この屋上にやってきた時点で、こうしてトレーナーさんを誘導してこの世界から連れ出す算段だったのだろう。

 

 

露伴とスカイ、恭也の身体は落下のままに大樹の洞に吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ウグ……」

 

 

 

自身の目のまえにいた最後の追手が、うめき声と共に地面に崩れ落ちる。学園に押し入ろうとしていた全ての追手を鎮圧したたづなは、肩を上下させその荒く乱れた呼吸を整えようと試みたが、既に彼女の心身共に限界を迎えていた。

 

 

「………グッ」

 

 

痛みと疲労に耐え切れず、たづなは地面に膝をつき、空を見上げた。空の向こうから広がる、底の見えない暗闇は既に目のまえにまで迫ってきていた。

 

 

…………

 

 

元はといえば、私自身も何もできなかった。苦しむウマ娘やトレーナーさんたちを傍に、何をできなかった。これはそんな私への償いであり、そして世界への償いだ。

 

 

……それでも、心に残留したあの美しい思い出を振り返れば。

 

 

彼女たちが何の恐怖に苛まれることなく、その夢と誇りを胸にターフを駆けていたあの頃の、あの美しい日々を思い出せば、少しも怖くない。少しも不安はないのだ。

 

 

……傷つけてしまったものたちへ、そして救えなかったものたちへ少しでも償いができれば。

 

 

「………ごめん……なさい」

 

 

遠い場所へと思いを馳せた、たづなはゆっくりとその目を閉じる……やがて広がる闇は全てを呑みこんでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ずっと続く暗闇の先に、僅かな光が灯る。その小さな光は徐々に視界に広がっていくと、やがてさっきとそっくりではあるが、決定的に何かが異なる。そんな世界が視界に飛び込んできた。

 

 

……元の世界に戻って来れた。

 

 

そのことを瞬時に確認した露伴は洞から飛び出すと、大きな声を上げた。

 

 

「……今だ!やってくれ!」

 

 

露伴の指示に従って、待機していたタキオンが大樹の洞に火をつける。既に魂の抜け殻となったその洞に火が移ると、あっという間にその洞は火に包まれた。

 

 

露伴の直後に洞から飛び出したスカイと恭也の身体は、重力から解放されてその傍の地面に投げ出される。スカイが何とかその頭を上げると、目の前の景色に目を見開いた。

 

 

「………!」

 

 

洞には火の手が上がり、既に灰になりかかっている。それは即ち、既に元の世界へと帰る手段は失われてしまったことを意味していた。最も、向こうの世界は既に消滅してしまっているとみていいだろうが。

 

 

……これで私たちは、消滅を待つのみとなった。

 

 

 

「…………アァ」

 

 

恭也のうめき声が聞こえその方向へと振り向くと、既に彼の身体の半分は見えなくなっていた。薬の効果が切れ、既に死を待つのみとなった彼の目には、罪悪感と恐怖がありありと刻まれていた。

 

 

………最後に。最後に、話をしなければ。

 

 

スカイはふらふらと、しかし確かな意思を持って彼に一歩ずつ近づいていく。きっとこれが彼と話すことができる、最後の機会になるはずだ。

 

 

「…………トレーナーさん」

 

 

彼にそう言葉を掛けると、彼の身体はぴくっと動く。そして震えながら彼は擡げていた頭を上げて、スカイのことをじっと見つめた。

 

 

「………すまなかった」

 

 

 

 

トレーナーの言葉に、スカイは静かに首を振る。彼を狂わせてしまったのは、負わせなくてもいい罪を背負わせてしまったのは、紛れもなくあの世界であり、そして私だ。スカイは地面に倒れている彼の身体にそっと寄り添うと、徐に口を開いた。

 

 

「…………トレーナーさんに辛いこと、沢山させちゃいました……私、私…………」

 

 

「ち、違うんだ…………君を助けたいがために、なりふり構わず…………結果的に君には心の傷を負わせてしまった。僕は…………トレーナー失格だ……」

 

 

二人で、ずっと言えなかった贖罪の言葉を口にする。全てはもう遅かった。それでも、この一瞬で、伝えなければならない言葉があった。伝えなければならない想いがあった。

 

 

「………私たち、沢山間違えちゃいましたね」

 

 

スカイのその一言と共に零れ落ちた涙が、彼の頬に落ちる。彼はせめてもの気持ちにて、スカイの溢れた涙を、その消えかかった手でぬぐい取った。

 

 

「トレーナーさん。私が担当ウマ娘でよかったでしたか………?」

 

 

ずっと聞きたかったこと。その質問に恭也は震えながらも、確かにこう答えた。

 

 

「…当たり前だよ。君は僕にとって、大切なウマ娘だ」

 

 

「…………良かった」

 

 

生まれ変わっても、彼の担当ウマ娘でありたい。

 

 

彼の身体の消失は緩やかに、しかし確かに進んでいく。やがて彼の身体は完全に「観測」を終了させ、その姿はこの世界から完全に収束し、消えてしまった。

 

 

全ては零れ落ちていく。この満天の星の中で、私が生きた軌跡さえも。見れば自身の左腕の肘から先は、すっかり見えなくなってしまっていた。

 

 

目のまえに迫る死の恐怖に、この身が包まれそうになる。それでも、このまま手放しに自分が消えるのを待っているなんて、そんなのは嫌だ。

 

 

………残された時間で、私にできること。

 

 

スカイは目を閉じ、その小さな身体にそぐわないほどの大きな覚悟を固めると、目のまえにいるもう一人の自分……セイウンスカイに声を掛けた。

 

 

「……ねぇ。最期にお願いがあるの」

 

 

「…………」

 

 

もう一人の私のことだ、きっと私がこれから何を言わんとしているかは、わかり切っていることだろう。スカイは真剣な眼差しで彼女のことを見つめると、徐に口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私と…最期にレースして」

 

 












次回最終回です


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岸辺露伴は歩まない13 Fin

 

 

 

 

沢山の哀しみが産まれた。沢山の痛みが零れた。そんな世界が消失し、残ったものも全てその火の手が移り、全て風の前に塵に化そうとしていた。

 

 

「最期にレースをしてほしい」

 

 

それが彼女にとって、どんな想いを基に発せられた発言なのか、そしてその想いにはどれほどの恐怖と、それを乗り越えた覚悟があったのか。明日を生きる自分たちが想像するにはあまりにも重い代物だった。

 

 

「どうか……お願いします」

 

 

その瞳に強い意思を従えて、彼女は文字通り命を削り言葉を紡ぐ。彼女のその最後の願いには、一体どんな想いがあるというのか。

 

 

死を目のまえにしても尚、彼女はその誇り高さを失っていなかった。中等部の彼女の肩には、あまりにも重すぎる現実であり、恐怖である。そんな障壁を前にしても尚、彼女は何かを成し遂げなければならないという強い意思を感じた。

 

 

そしてそんな死にゆく彼女に対して、自分たちは何もしてやれることはなかった。手放しで徐々に彼女の身体が薄れていく様子を、唯々見ていることしかできない。

 

 

「……何か……何か方法が……」

 

 

そう声を挙げる恭也だったが、彼自身にできることは何もない。今しがた姿を消した自分自身を見れば、それは明らかに明白な事実だった。露伴をはじめとした一同は、その残酷で敢然たる事実から目を背けるかのように俯いていた。

 

 

「トレーナーさん」

 

 

その一言に、一同の視線はそこに注がれる。それはこの世界に住まうセイウンスカイから発せられたものだった。そのトレーナーを短く制する一言に、彼が口を噤んだことを確認するとスカイは消えゆく自身に向かって言葉を掛けた。

 

 

「……分かりました。相手になります」

 

 

彼女に対して掛けるのは、哀れみでも同情でも何でもない。彼女の最期の願いに対して正面から向き合い、そしてその願いを叶えることだ。

 

 

二人の間にはとても静かな、夜明け前の風が吹き込んでいく。彼女にとって、きっと何か伝えたいことがある。それを受け止められるのは、きっと……きっと私しかいない。

 

 

「……それじゃあ、行きましょっか」

 

 

2人のスカイは、そしてその二人の奇妙な運命と絡み合い、そして導かれていった一同はその魂の終点……ウマ娘たちにとっての原体験であり、そして生きてきた軌跡を刻み付けてきた場所そのものであるターフに向かって行った。

 

 

「……」

 

 

柵を潜った二人は、簡単なアップを済ませると横一列に並んで前方を見据える。勝負はターフのコースの一周。それが今まで生きてきた短い競技者としての人生で、最後のレースとなる。

 

 

……これで、最期か。

 

 

漠然とこびり付いていた、そして乗り越えたはずの現実が急に実感となって心を縛り付けた。今まで自分が生きてきた証そのものが、音を立てて消えようとしている。それを哀しんでくれる場所すら、私にはない。

 

 

それでも。

 

 

遺さなければ。私なりに……そして、それを伝えなければならない相手は……

 

 

心を縛り付けた最後の恐怖を振り切り、彼女はその目を一度閉じ、そしてゆっくりと開ける。ここにいる人たちに、恐怖で震えて、しがみついている姿が私の最後の姿であって欲しくない。

 

 

スカイは消えゆく灯をその身に感じながら、走り出すためにその身を前に傾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「位置について……よーいドン!」

 

 

恭也の言葉によって、二人は一斉に走り出す。初速も、コース取りもほとんど同じ。普段であればこのレース、平行世界のスカイの圧勝で終わることだろうが、今の彼女の身体は既に消失が始まっていて、走っていることが奇跡と言ってもおかしくない状態だ。

 

 

そのハンデを追っていても尚彼女の走りには目を見張るものがあり、スカイと互角の走りを展開していた。

 

 

そしてその最後のレースを、一同は固唾を呑んで見守っていた。否、正確には只の傍観者に甘んじる他なかった。灯が消えゆく中で、彼女は最後に自分自身とレースをするという選択を取ったのだ。それならば自分たちは、それを見届ける義務と責任がある。

 

 

「……!」

 

 

恭也は既にレース場の向こう正面にまで到達した二人の姿を見つめる。夜の闇を切り裂いて走りぬく二人には、どちらも譲れぬ信念があった。その信念に身を焦がしながら走る二人の姿は、不謹慎ではあるが今迄見てきたどのレースよりも雄々しく、そして美しかった。

 

 

ハッ、ハッ……

 

 

二人の息遣いと、踏み抜く足音だけがターフに響き渡る。その音だけがやがてこちらに迫ってきて、二人は最終カーブに差し掛かる。

 

 

「……ッ!」

 

 

身体に残った最後の力を振り絞る。泣いても笑っても、これが最後だ。自分にできることを、自分に残すことができること、それをするだけだ。

 

 

「ハアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 

喉から溢れんばかりの声を振り絞り、足に力を込める。それに呼応して隣を走るスカイも叫び声をあげた。

 

 

「アアアアアアアア!!!」

 

 

負けられない戦いがそこにある、二人の純粋な勝利への渇望はゴールに向かうにしたがって研ぎ澄まされていった。

 

 

……スカイ君。

 

 

彼女たちの二人の想いに、自分ができることは何もない。できることがあるとすれば、それは……それは……

 

 

「……頑張れ!」

 

 

気が付いた時、露伴は叫んでいた。否、叫ばずにはいられなかった。その想いに呼応した一同は、次々と手を口に当てて大きな声を挙げていく。

 

 

「……スカイ君!」

 

 

「スカイ君!」

 

 

「スカイ!」

 

 

夜の帳に響く声。その声は数万にわたる歓声に匹敵する力となって彼女たちの背中を押していた。その中で彼女たちは、その身を削り走り抜けていく。言葉では語りつくせぬその光景を描きながら、彼女たちはラストスパートに入っていった。

 

 

「ハアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 

「アアアアアアアア!!!」

 

 

恭也は二人の、どちらが勝ってもおかしくないその接戦の様を手を力強く握りしめながら見つめる……そして遅れてしまったが、そのレースで初めての声援をスカイに対して掛けた。

 

 

「勝て!スカイ!」

 

 

「……!」

 

 

その刹那だった。その勝敗を分けた男の、たった一言の声援。その一言を耳に聞き届けた二人の内、あるものはその脚に力を入れ、更にスピードを上げてゴールへと向かう。

 

 

……そしてあるものは「決定的なこと」に気が付いてしまうと、ゆっくりとスピードを緩めていき、ゴールの手前1メートルほどの位置で立ちどまってしまった。

 

 

先頭で唯一ゴールを走り抜けたスカイは、驚いた表情で後方を見つめる。立ちどまったスカイはフラフラと身体を揺らすと、その場にどうと倒れ込んでしまった。

 

 

「……!」

 

 

急いでスカイは彼女の元に駆け寄り、その場に蹲る。先程とは異なり、最早彼女に近づいても消失が早まる様子はなかった。それは偏に、既に彼女たちの観測が殆ど終わっており、事を速める必要はどこにもなくなったというわけだろうか。

 

 

彼女は震えながら自身を覗き込むスカイに向かって、途切れ途切れに言葉を紡いだ。

 

 

「………アハハ。強いなぁ……私は……」

 

 

「どうして……!」

 

 

どうしてその走りを途中で止めたのか。動揺をにじませて倒れ込んだ彼女に質問を投げかけたスカイを見て、彼女は苦しそうに顔を歪ませながら言葉を紡いだ。

 

 

「……トレーナーさんの声が……聞こえたから……貴方にとってのトレーナーさんの……」

 

 

「………!」

 

 

彼女の脚を立ち止まらせた理由が、そこにはあった。ウマ娘にとって、その願いが走る上で大きな原動力となることは間違いない。しかし、もう一つ大きな原動力となる力がそこにはあった。彼女にはそれがあって、自分にはもうそれがない。そのことに彼の一言によって気づかされた。それだけのことだ。

 

 

「……トレーナーさん。強いでしょ、貴方の……貴方のセイウン……スカイは……」

 

 

こちらに駆け寄ってきた恭也に、そう声を掛けるスカイ。恭也は倒れている彼女の身体を起こす。彼の腕に伝わるその不自然軽さが、彼女との別れが既に目のまえに迫ってきていることを否応なしに示していた。

 

 

「……ううん。君も強かった。本当に強かったよ……スカイ……それに君だって……僕にとっては……大切な……」

 

 

「………それ以上は言わないで下さい。私にとってのトレーナーさんは……一人だけなんです。嫌な言い方になってしまって……申し訳……ありません」

 

 

「………いや、こちらこそ、ありがとう……」

 

 

そこには、この世界の自分自身では受け止めることができない、確かな愛があった。そしてあくまで自分の消失によって必要以上に心に傷を残さないように、という彼女の気遣いがあった。スカイの言葉の真意を受け取った恭也は、静かに礼を述べながらその目から涙を零す。その涙を零したのは、彼女が残そうとしているもの、それに彼が気付いたからだった。

 

 

「ねぇ……私」

 

 

「……?」

 

 

彼女が……自分自身が遺そうとする一言を、一語一句聞き漏らすことがないようにスカイはその耳を彼女の口元に近づける。既に精魂尽きたのか、それとも他の者に聞こえることがないように、彼女だけにその言葉を告げるためにか。とても小さく、しかし彼女にだけはしかと聞こえるその声で、スカイは言葉を紡いだ。

 

 

「………………」

 

 

スカイのその言葉を聞き遂げた彼女は、小さく頷くと口を開いた。

 

 

「……うん。分かった………分かったよ……私」

 

 

彼女の言葉に満足そうにスカイは笑みを浮かべると、右の頬に僅かな暖かさを感じる。ゆっくりとその視線をその方向へと向けると、そこからは一日の、万物の始まりを告げる朝日がその顔を覗かせていた。

 

 

「……………綺麗」

 

 

徐々に朝日が昇っていき、暗闇に覆われていた世界を覆いつくしていく。全てが始まり、そして全てが終わろうとしていた。視界を次第に光が包み込み、彼女の目からは今まで堪えていた涙がこぼれる。

 

 

こぼれた涙は朝日を受けて煌々と輝いている。既に倒れている彼女の身体の殆どは見えなくなっている。一同はその姿を見て改めて彼女には時間の猶予が残されていないことを実感した。

 

 

「……本当に……皆さん。ありがとう……ございました」

 

 

「……」

 

 

「………スカイ君」

 

 

最早彼女に対してしてやれることはない。露伴はせめてもとスカイの傍に跪くと、既に光を映しているか分からない彼女の目のまえで、空に向かってペンを走らせた。

 

 

せめて……せめて。

 

 

彼女の頬から、ノートを開くように紙が出現する。そこに何やら文字を書き込んだ露伴は、ゆっくりとスカイの方に視線を向けた。

 

 

「……スカイ君。本当に済まなかった。君を救える方法が、あったかもしれないのに……」

 

 

最早言葉を紡ぐ気力すら残されていないのか、露伴の言葉にスカイは気にする必要はないとでも言うかのように、ゆっくりと首を横に振った。

 

 

「…………ありが…とう」

 

 

彼女が最後にどんな想いを抱いたのか、今となっては最早分からない。それでも彼女が最後に浮かべた笑顔で、彼女の心はほんの少しでも救われたと言えるのではないだろうか。

 

 

スカイはその顔に穏やかな笑顔を浮かべたまま、ゆっくりとその身体が薄く見えなくなっていくと、やがて完全に見えなくなった。

 

 

 

腕に感じていた僅かな重みさえも無くなる。恭也は僅かに残ったその暖かみを宿した両手を胸の前に持っていくと、涙を静かに零した。

 

 

「スカイ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

全てが無に還り、日常へと引き戻された一同は、その突き崩された平静を取り戻すのにしばしの時間を要したことは言うまでもないことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

集英社、編集部の一角。携帯電話を握りしめている彼女…編集者である泉京香の顔は怒りによって、そして派手に塗られたチークも相まって赤く染めあがられていた。彼女は携帯電話を握るその手の力を強めながら、強くその通話相手に対して言葉を掛けた。

 

 

「…………もぉ~。露伴先生、何処に行ってるんですか!」

 

 

自身の担当である漫画家、M県S市杜王町に住む彼……岸辺露伴と数日間全く連絡が取れなくなっていた。電話にも出なかった今日この頃だったが、根気よく電話をかけ続けた結果、今しがたようやく彼と連絡を取ることに成功したのだ。

 

 

電話の向こうにいる彼は一体どこにいるのか。そして今の今で一体どこで何をしていたのか。聞きたいことは山ほどあった。息まく彼女とは裏腹に、返事をした露伴の声色はひどく落ち着き払ったものだった。

 

 

「……いいじゃあないか。再来週の分までの原稿は既に描き上げて、君たちのところに送っている。あまり漫画家に対してせっついてもいいことないんじゃあないか?」

 

 

確かにその通りだった。彼は失踪の直前に、編集部に数話分の完ぺきな原稿と共に、「しばらくいなくなるが、いずれ戻る」というメモ書きを送ってきていた。つまり現状彼がいなくなっていて、掲載が滞るということは特にないのである。

 

 

「……そ、そんなことより露伴先生、今どこにいるんですか⁉いつも旅行なら編集部に一報を入れてくれるじゃあないですか!」

 

 

バツの悪くなった編集者は、電話の相手に対して論点をずらして彼を責め立てる。しかし相手は短く舌打ちを一つしたかと思うと、そのまま携帯電話を切ってしまった。

 

 

ツー、ツー。

 

 

「…………って!露伴センセッ!センセッ!」

 

何度声を掛けても、既に電話は切られてしまっている。編集室に彼女の絶叫が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

「………さて」

 

 

露伴は携帯電話を乱暴に切ると、ポケットの中にそれを押し込んだ。今日という今日は、特別な日だ。誤って電話に出てしまったが、それは間違いだったといえるだろう。露伴はゆっくりとため息を一つつくと、後ろから声が聞こえた。

 

 

「………トレーナー君?誰と話していたんだい?」

 

 

露伴は声のした方向へと首を向けると、肩を小さくすくめた。

 

 

「…………なんでもないさ、大した用じゃあなかった……ルドルフ。それより君は今、旧友と会っていたんだろう?」

 

 

「エアグルーヴさ。彼も……基樹君も一緒だったよ。彼ら今度……式を挙げるそうだ。君も一緒に参加してほしいって」

 

 

「そりゃあ本当かい?なんていうかその……」

 

 

言いようがない感情が自身を襲い、口を噤んだ露伴だったが、やがて気を取り直すと言葉を続けた。

 

 

「勿論参加させてもらうよ……それはそうと、もう本番だ」

 

 

本番。その言葉を聞いたルドルフの顔は一層引き締まったものになる。今日はウマ娘にとって1年の締めくくりであり、その集大成である有馬記念の日だった。彼女はファンからの期待を背負い、そのレースの本命の一人として参加することが決まっていた。

 

 

「…………いよいよ私も最後のレースだな」

 

 

彼女の口から漏れ出たその一言に、露伴の表情は浮かないものとなる。ルドルフの学年上、もうこれ以上トレセン学園に在籍することはできない。本日行われる有馬記念を以て、彼女はトレセン学園を卒業する。「皇帝」として全てのウマ娘たちを牽引し続けた彼女の最後の雄姿を見届けようと、会場には例年よりも遥かに多い人数が会場に押し寄せていた。

 

 

「………これで、最後か」

 

 

そうつぶやく彼女の表情は、うかがい知れない。彼女の人生にとって、転換点が今ここにあるということは疑いようのない事実だった。露伴はそんな彼女を静かに見つめると、徐に口を開いた。

 

 

「君に一つ聞いておきたいことがあるんだ」

 

 

「…………?」

 

 

「………ルドルフは卒業したら、どうするんだ?」

 

 

ずっと気になっていたことだった。噂に聞けば彼女はURA本部から直接スカウトが来たようだ。それだけではなく、数々の実業団からもオファーを受けている。そして何より奇妙なことは、彼女がそれらのスカウトを全て断っている、ということだった。

 

 

その質問を投げかけたルドルフは、目を伏せてしばらく身体を左右に振る…釈然としない彼女の態度に露伴は首を傾げていたが、やがてルドルフはその顔を上げると、徐に口を開いた。

 

 

「……トレーナー君、いや露伴先生……君は杜王町に住んでいるんだよね?」

 

 

「あぁ」

 

 

「そ、その……その家は……広いんだろうか?」

 

 

彼女の言葉の真意を掴むことができない。露伴は首を傾げたが、その返事をするために口を開いた。

 

 

「……あぁ。一軒家だし、そこらの家よりは広いと思う。何より不測の事態だったが、大幅に改修工事をしたから、新築みたいなものさ」

 

 

露伴が不思議そうに答えると、ルドルフはその顔を赤らめる。そしてしばらく時を隔てた後、彼女はおずおずと口を開いた。

 

 

「…………その家、私が卒業したら少々手狭になってしまってもいいだろうか?」

 

 

「それって……」

 

 

露伴の問いに、ルドルフは静かに頷く。しばらく時が流れた後、露伴は彼女の目をまっすぐと捉えると、徐に口を開いた。

 

 

「……ちょうど部屋が一人だと広いなと思っていたところだ」

 

 

露伴の言葉に、ルドルフは尻尾をこれでもかといわんばかりに振る。それが彼女の気持ちを端的に表していた。露伴は恥ずかしさを隠すために、そのまま言葉を続けた。

 

 

「さ、さぁ。もうレースが始まるぞ。」

 

 

「あ、あぁ。絶対にこのレース、勝利を君に持ち帰ってみせる。楽しみにしていてくれ」

 

 

ルドルフは懸命にその心の内が漏れ出ないように努めながら、ターフの方へと足を向けた。

 

 

 

 

 

 

2人きりの控室。この部屋にやってきてからの間、二人は特に言葉を交わすことはなかった。やがて彼は腕時計で時刻を確認すると、俯きながら椅子に座る自身の担当ウマ娘に声を掛けた。

 

 

「…………スカイそろそろ時間だ。」

 

 

恭也の言葉に、スカイは俯いていた頭をゆっくりと上げる。菊花賞を制し、同期のウマ娘たちより頭一つ抜きんでた活躍をみせたスカイは、ファン投票によって有馬記念に出場することが決まっていた。

 

 

「わかった」

 

 

スカイは椅子から立ち上がると、部屋を出てターフへと続く長いトンネルを進んでいく。

 

 

「……」

 

 

あのことがあってから、スカイにも何か心境の変化があったのか。より一層真摯にトレーニングに向き合うようになった。

 

 

あの日。もう一人の自分からバトンを手渡されたあの日。彼女に手渡されたその目に見えぬバトンの重さは、想像を絶するもののはずだ。

 

 

「……スカイ!」

 

 

恭也の言葉に、スカイはターフに向けていたその脚を止める。ゆっくりとこちらを振り返るが、その顔はトンネルの出口から差し込む光が逆光となって窺うことはできなかった。

 

 

彼女に、なんて言葉を掛ければいいか。

 

 

「勝ってこい?」「君らしい走りをすればいい?」

 

 

頭に浮かんだどのセリフも、今の彼女に掛けるべき言葉としては及第点にも満たない陳腐な代物だ。言葉に詰まる恭也をよそに、その不自然な沈黙を打ち破ったのはスカイの方からだった。

 

 

「………私。走るのが嫌になってたんです」

 

 

「……!」

 

 

彼女の口から発せられたその一言は、あまりにも驚くべきものだった。驚愕する恭也をよそに、スカイはそのまま言葉を続けた。

 

 

「……菊花賞で一緒に走ったスぺちゃんを見て、感じたんです。『あぁ、私はここまでなんだ』って。これからシニア期に向かって、活躍できるのはスぺちゃんやグラスちゃんみたいなウマ娘で、私は……私は……」

 

 

「そ、そんなことは……」

 

 

「………身体から力が抜けていくのを感じたんです。そこまで言えば、トレーナーさんならわかるでしょう……?」

 

 

その一言に、恭也の頭が真っ白になる。一般的にウマ娘という種族には「本格化」なる現象があり、本格化を迎えることで競技者として相応しい強さを携えるようになるとされている。スカイはクラシック期に入る前の時点で本格化を迎えており、「競技者」として問題なくクラシック期のレースを戦い抜くことができ、また結果を残すことができた。

 

 

そしてその本格化を迎え切ってしまったウマ娘は、基本的に身体的な向上を迎えることは余程のことがない限りは難しい。これは人間でいう「成長期」と同じで、山頂まで登り切ってしまえばあとは下るしかないと言ってしまえば簡単な話だ。

 

 

スカイの言っていた、「身体から力が抜けていく感覚」が本当だとすれば、彼女は…

 

 

「スカイ……」

 

 

それ以上、今の彼女には掛けるべき言葉はなかった。今しがた彼女の言っていたこと。それは彼女が既に山頂を登り切ってしまったことを示していた。驚愕している恭也だったが、それと同時に納得している自分もいた。トレーニングに感じていた僅かな違和感。彼女の伸びきらないタイム…その一つ一つの事象が、たった今彼女の独白によって一つの線となって繋がってしまった。

 

 

そのあまりにもショックな出来事に、絶句する恭也だった。しかし彼は、次に彼女が発した言葉によってその俯きかけた顔を上げることになった。

 

 

「……でも彼女に出会った」

 

 

「……!」

 

 

「彼女には、全然敵わなかった。最後のレースだって、彼女が立ち止まってなかったらどうなっていたか分からない。彼女は私に…その背中を見せるだけ見せて行ってしまったんです。ズルいでしょ、本当に…?」

 

 

……恐らく二度と解くことができない。その課題……その圧倒的なまでの背中を見せて、彼女は光そのものになってしまった。その光を浴びてしまった彼女は、謂わば呪いを受けてしまったのだろう。その追いつくことができない背中を追い続けるその呪いを……

 

 

そしてそれは彼女にとって、大きな道標になったことだろう。暗中模索、もしかしたらその道半ばで船を降りる他なかった彼女に、もう二度とその行く先を迷うことがない、北斗七星となったに違いない。

 

 

「……それに、言われちゃったんです。あの子に…最後に…」

 

 

「……なんて言われたんだい?」

 

 

そういえば彼女は、最後に言伝をスカイにしたはずだ。あまりにも小さい声で、僕はその話の内容を聞き取ることはできなかった。

 

 

「……『私の分まで、走って』って…そんなこと言われたら、もう走るしかないじゃあないですか」

 

 

スカイは数歩、こちらに近づいていく。その顔に、最早その違和感は微塵もなかった。あるのは、たった一つの想いだけだった。

 

 

「……もう、一人のためのレースじゃあないから」

 

 

スカイはそう言うとニッと口角を引き上げる。

もう、彼女は大丈夫だ。

 

 

「それじゃ、セイちゃん行ってきますね!」

 

 

スカイはそう言うと、腕を頭の後ろに持っていきながら光が差す方向へと足を進めていく。恭也は彼女の身体が光に呑まれる直前、大きな声を喉から振り絞った。

 

 

「スカイ!」

 

 

彼女は、振り返りはしなかったが立ち止まった。大丈夫、聞こえている。彼女に掛けるべき言葉は、これしかない。

 

 

「待ってるからな!セイウンスカイ!」

 

 

その言葉をしかと聞き遂げたスカイは、手を数度ひらひらと振ると、再び歩みを進めていく。やがてその身体は完全に光に包まれて見えなくなった。

 

 

 

 

 

露伴はレースを見守ることができる最前列…柵の手前に移動すると静かに観客たちの方へと顔を向けた。ここが彼女たちの居場所であり、全てだと言っても過言ではない。この会場にいる全ての人たちの声が大きな力となって、彼女たちの背中を押している。

 

 

「……ウマ娘ってやつはつくづく不思議な生き物だな」

 

 

「……そして可能性に満ちた生き物、だろう!」

 

 

隣から突如聞こえた声にぎょっとして振り向くと、そこには2度も共に世界を救った、最早腐れ縁といってもいい二人のウマ娘、アグネスタキオンとエアシャカールの姿があった。

 

 

「なんだ……君たちか」

 

 

「なんだとは何だ!シャカール君もそう思うだろう!」

 

 

「……まぁ、もう嫌になるほど顔を拝ンでいることには変わりねぇなぁ」

 

 

一連のやり取りを繰り広げた3人は、視界に広がるターフに目を向ける。タキオンの言う通り、彼女たちは可能性に満ち満ちている。その可能性をこの目に焼き付けることができる。その幸せを噛みしめていた。

 

 

「ところで露伴先生……一つ君に尋ねてみたいことがあるんだが」

 

 

「………?そりゃあ一体なんだ?」

 

 

首を傾げる露伴を余所に、タキオンはそのまま言葉を続けた。

 

 

「君がスカイ君……平行世界のスカイ君に何やら書き込んでいたのが目に入ってね……あれ、君の不思議な能力……という奴だろう?」

 

 

「何書き込んだんだよ、あれ?」

 

 

二人からの質問に露伴は少し考え込んだような素振りを見せたが、やがてその顔を上げると言葉を続けた。

 

 

「……僕の能力は「相手の体験を隈なく暴き、そして対象に命令を書き込むことができる」というものだ。それで昔、敵を倒す時に「地獄に行く」と書き込んだことがある。まぁ、地獄というものが果たしてあるのかどうかは分からないが……まぁ、ある種の願望というか、当てつけみたいなものだ。そこまでの干渉をできるかと言われれば、最早神の領域に踏み込んだものと言わざるを得ないからな」

 

 

「……それはつまり、どういうことだい?」

 

 

「……ある種の願いみたいなものさ。彼女はその身に有り余るほどの受難を被ったんだ。その彼女の魂……まぁそれがあるとは限らないが、その行方が少しでも報われてほしい、そう思っただけだ」

 

 

「……だーかーらー!なんて書いたんだ?」

 

 

「……こう書いたのさ。つまり……」

 

 

 

 

露伴の言葉が紡がれ、二人はその内容に驚いた表情を浮かべる。そんな3人を余所にして、会場には一際大きな歓声が沸き上がった。

 

 

『さぁ、始まりました!○○回有馬記念!今回のレースの目玉は勿論このウマ娘!このレースを最後に、花道を飾る「皇帝」、シンボリルドルフです!1番人気に選ばれました!』

 

 

その最後の雄姿を見届けるために会場に押し寄せた観客から、大きな歓声が上がる。数多の伝説を刻み付け、多くのウマ娘に希望と羨望、そして絶望を与えてきた彼女の背中は、正に「生きた伝説」そのものだった。

 

 

ルドルフはターフの上に雄々しい姿で立つと、観客に向かってその手を引き上げる。その姿を見た観客から、一際大きな歓声が沸き起こった。

 

 

そして続々と、テンポ良く実況者が出走者の紹介を済ませていく。

 

 

『そして3番人気はこのウマ娘!クラシック3冠の内、「皐月賞」と「菊花賞」を制したルーキー!トリックスター、セイウンスカイです!』

 

 

純白の、セーラー服のような勝負服をはためかせた彼女がターフへと姿を現す。その姿を目に止めたルドルフはその口角を僅かに引き上げた。

 

 

「……どうやら見つけたみたいだね、セイウンスカイ」

 

 

「……はい。今日は勝つつもりで来ました」

 

 

彼女の目を見たルドルフは安心したように笑みを浮かべる。今日のレースはきっと、最後で最高のレースになる。彼女はきっと「次」の担い手になる違いない。

 

 

「愉快適悦……いいレースにしよう」

 

 

やがて一同は横一列に並んで、ゲートに収まる。そのレースが始まる寸前、その光景を目撃する観客の間に静寂が支配した。

 

 

スカイはそっと目を閉じると、ゲートが開くその瞬間を待つ。

 

 

……やっぱり私の居場所はここだ。

 

 

私の心の中には、刺さって抜けない棘がある。それは会長さんにも、タキオンさんにもシャカールさんにもある。その抜けない棘は恐らく一生、私たちの心に住まうことになる。

 

 

……それでも。

 

 

彼女は最後に、残してくれた。走ることの楽しさを。最後に、教えてくれた。頬を撫でるこの風の美しさを。

 

 

私は今日を生きている。

 

 

ゲートが開くその直前、彼女はその目を見開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

降りしきる桜の花びらが絨毯となって道に敷き詰められている。その道の上を一人のウマ娘が、のほほんとした様子で歩いて行った。

 

 

心地よい春の日差しが頬を差し、暖かな外気が自分の身体を包み込む。

 

 

「おはようございます。」

 

 

門の前に立つ、彼女の朝の挨拶に彼女は立ち止まる。緑色の制服と帽子を身にまとった彼女は、立ち止まった自分に対して不思議そうに首を傾けた。

 

 

「……どうかなさいましたか?」

 

 

「いや、どうしてここに毎朝立っているのかなぁって……変なこと聞いてごめんなさい」

 

 

「確かに毎朝ここに立って辛くないかと言われれば、トレーナーさんたちと飲み明かした次の朝なんかは、少し思う時もありますね。でも……」

 

 

「……でも?」

 

 

「貴方たちウマ娘が笑顔で朝を迎えている。それを確認できるのは、ここが一番なんです」

 

 

彼女のその言葉には遥かなる優しさと、そしてそれさえも超えた慈愛に似たものを感じた。彼女に朝の挨拶を返した自身は、校門を潜り校舎へと足を繰り出していく。

 

 

今日は待ちに待った選抜レース。これから競技者としての3年間がスタートする。それには、二人三脚でその日々を駆け抜けるパートナー、トレーナーを探さなければならない。

 

 

その時だった。足元に敷かれた桜の花びらに気を取られ、前にいた人物にぶつかってしまう。ぶつかった拍子に、彼の手に持っていた何枚かの紙がひらひらと地面に落ちていった。

 

 

「……ごめん!」

 

 

男はそう言うと、自分が悪いわけでもないのに自身に謝罪をして、地面に落ちた資料を拾い始めた。彼女も謝りつつ、地面にしゃがむとその資料を拾うのを手伝った。

 

 

ふと、彼の胸元に光っているバッジが目に留まる。彼女はそのバッジを視線に留め、彼に資料を手渡しながら徐に口を開いた。

 

 

「……トレーナーさん、なんですね」

 

 

「あぁ!そうなんだ……といっても僕はまだ新米なんだけどね!」

 

 

彼の声に聞き覚えがあった。不思議と引き寄せられるように視線を上げて彼の顔を見た彼女は、デジャヴに襲われた。

 

 

初めて会ったはずなのに。そしてその感覚は、相手も同時に襲われたようだった。

 

 

「……君。どこかで会ったことあったっけ?」

 

 

その問いに、彼女は首を横に振る。男は一足先に立ち上がり彼女の手を引いて立たせてあげると、徐に口を開いた。

 

 

「……変なこと聞いちゃってごめんね!それじゃあ!」

 

 

男はそう言うと、そのまま校舎の方へと足を向けようとする。彼女はその背中に、呼びかけずにはいられなかった。

 

 

「……貴方の名前、聞かせてください!」

 

 

男は立ちどまり、彼女の方へと顔を向けると、自身の名前を告げた。

 

 

……!

 

 

その名前を聞いた瞬間、スカイの瞳からは涙があふれる。なぜだか分からないが、彼とまた出会えることをずっと待っていたような気がする。まるで長い旅路を経てようやく再開を果たしたような、そんな気分に襲われた。

 

 

「……君の、君の名前はなんて言うんだい?」

 

 

彼女は数歩近づくと、彼に自身の名前を伝える。彼女の名前と同じ、清々しいほどの青い空が一面に広がり、二人のことを静かに見守っていた。

 

 

 

終わり

 





どうも、皆さん。ボンゴレパスタです。
岸辺露伴は歩まないシリーズ、如何だったでしょうか?
本作は前作の「岸辺露伴は調べない」の続編にあたるものであり、前作を書き終えた後に構想を練って、書き上げた次第です。
個人的には、アプリの当時新シナリオだった「トゥインクルスタークライマックスシリーズ」には思うところがあり、それを基に着想を得ました。

何はともあれ、最後までお付き合い頂き本当にありがとうございました。感想等書いていただけると幸いです。


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岸辺露伴は求めない1

 

 

 

新年が明けて早数日経過した昼下がり。正月ムードだった世間は、遅足ながらもいつも通りの日々に戻ろうとしていた。サラリーマンや学生は数日ぶりに自身の心身を拘束する会社や学校への道のりを、いつもより数倍重い足取りで、その雪に敷き詰められた道の中向かっていく。

 

 

M県S市、杜王町の一角にある一軒家では一人の男……岸辺露伴の姿があった。

 

 

この男には、世間一般が送るであろう休日だろうと祝日だろうと、そして正月だろうと関係なかった。この男にとって、漫画を描くことは「生きること」そのものであり、そこには日によってペンを止めるということは万が一にも起こらない。

 

 

そのはずだった。

 

 

「露伴先生、お茶を淹れたよ」

 

 

一心不乱にペンを取る露伴の背中に向かって、声を掛ける人物が一人。露伴はその声に目もくれず、背中越しに声を返した。

 

 

「あと1ページで終わる。ちょいと待っていてくれ」

 

 

そう言われた彼女は、お茶を淹れたティーカップの内の一つをそっと露伴の仕事机の上に置き、残りのカップとお盆をテーブルの上に置くと、露伴の後ろに設置された椅子に静かに腰かけた。

 

 

彼のために淹れたお茶も、いくら彼が俊敏にペンを走らせるとしても原稿を描き終えるころにはきっとぬるくなってしまうが、そんなことは大事な事じゃあない。彼のこの姿を独占できること。これが何よりの至福だった。

 

 

露伴がわざわざ海外から発注したという、豪華な造りの椅子に背中を預けると、彼女……シンボリルドルフは静かにお茶を啜った。

 

 

カリカリ、カリカリカリ……

 

 

室内には只々、露伴がペンを走らせる音だけが静かに響き渡る。ルドルフはそんな彼が集中力を削がれることがないように、その音をBGMにして静かに彼の仕事の様子を見守っていた。

 

 

有馬記念を終えて、卒業を待つのみとなった私は、例年に比べると随分と休暇の多い年末年始となった。最初は実家に帰ろうかとも思ったが、春から新たな生活を送る許可を得たこの家にお邪魔しようと思い、露伴にダメ元でそれを頼んだところ、メールで一言「了解した」と返ってきたので、その日のうちに荷物を纏めて露伴の家に向かって、長い休日を杜王町で過ごさせてもらっていた。

 

 

露伴先生と一緒に、そして時には一人で。杜王町やS市の中心を何度か出歩いた。広瀬康一君や山岸由花子さん、そして虹村億康君や東方仗助君といった新たな友人たちもできた。

 

 

杜王町の皆は口々に、「露伴先生に彼女ができるなんて」、「彼は付き合うなんてやめておけ」と言っていたが、異口同音な意見に思わず私も苦笑してしまった。

 

 

だが、ライバルが少ない分には全く問題ない。露伴先生の魅力に気付いているのは私だけで十分じゃあないか。仗助君と露伴先生が、仲が悪いと言うにはあまりにも殺伐とした空気が二人には流れていて少々気にはなったが、それに触れるのは聊か野暮というものだろう。

 

 

肝心なことはそんなことじゃあない。ルドルフの心は先程生徒会副会長としているナリタブライアンから来たメールのことで占められていた。

 

 

やがて5分ほど経過し、露伴は静かにペンを机に置いて腕を引き延ばしてストレッチすると、ルドルフが淹れたお茶を静かに啜った。

 

 

「美味いな……そういえば君はいつから学園に戻るんだ?」

 

 

「……明日には一度学園に戻るよ。生徒会の運営をブライアンに任せてしまっている。エアグルーヴがいない今、長い間私が学園を留守にするのは頂けないからね」

 

 

「……そうか。」

 

 

ルドルフは露伴の方をちらりと見る。彼は大方来週描く漫画のシナリオについて考えているのだろう。しかし、彼には私の要求を吞んでもらう必要がある。ルドルフは意を決すると、露伴に向かって口を開いた。

 

 

「……時に露伴先生。一つ頼みがあるんだ。」

 

 

「……?」

 

 

露伴は顔を上げると、訝しげに彼女の方へと顔を向ける。そもそも彼女が頼みをするなんて物珍しいからだろう。そしてそのことが露伴の漫画家としての直感が働かせた。

 

 

「断る」

 

 

「えー――!」

 

 

驚きのあまりルドルフは思わず椅子から立ち上がる。理由も聞かずに断るなんて。抗議の声を上げようと口を開きかけたが、露伴はそれを手で制すると、言葉を続けた。

 

 

「……君が頼み事ってことは殆どないじゃあないか。つまりよほど面倒なことが起きて、それを助けて欲しいってことだろう?」

 

 

露伴の指摘は尤もだった。これは少々、否大分奇妙で複雑な事件であることに変わりはない。だからこそ、彼の力が必要なのだ。

 

 

「た、確かにこれは少々厄介な頼みだ。だが、これは本当に切実な頼みなんだッ!露伴先生!」

 

 

「断る!明後日から取材のために妖怪伝説の調査のために山に行くんだ!」

 

 

そう言いながら露伴はその場の議論から逃れるために部屋から立ち去ろうとする。何とかして、何とかして彼をこの場に留まらせなければ。ルドルフは焦って部屋の扉の前に回り込んで両手を広げて立ち塞がると、口を開いた。

 

 

「それよりも!それよりもきっと先生の漫画家としての琴線に触れる事件なんだ!頼む!」

 

 

その言葉に露伴はぴたりと立ち止まる。

 

 

「……おいおい。それをこの岸辺露伴の前で言って良いのかい?いいぜ、聞かせてくれよ」

 

 

占めた。やはり彼を立ち止まらせるにはこれしかなかった。露伴の様子を見て安心したルドルフは彼を見据えて言葉を続けた。

 

 

「……今朝、ブライアンからメールが届いたんだ。トレセン学園内で奇妙な事件が起きたと。」

 

 

「……ほう?それはどんな?」

 

 

「校舎の真ん中に大量に顔のないぬいぐるみや人形が設置されたり、イラストや落書きが設置されたり……そんな具合だ。警察も来て調査をしているが、全くと言って良いほど犯人に繋がる手がかりがないらしい。指紋一つも採集できないと」

 

 

「……うーむ」

 

 

「まだ被害者は出ていないが、このままでは学園の運営にも問題が出てしまう…頼む、露伴先生。警察がお手上げ状態な以上、頼れるのが君しかいないんだ」

 

 

 

「………」

 

 

 

露伴はその話をじっと聞きこんでいたが、やがて立ち上がるとルドルフをそっと退けると、部屋の外へと歩き出していった。

 

 

……ダメだったか。

 

 

露伴の興味をそそるようなものではなかったか。ガッカリと肩を落とすルドルフに向けて、露伴は部屋の外から声を掛けた。

 

 

 

「……おい。何をしているんだ。支度をして出るぞ」

 

 

 

「……え?」

 

 

突然の言葉に、ルドルフの目は大きく見開かれる。ルドルフはボストンバッグにカメラや画材、着替えを数着要領よく放り込むと、再度ルドルフに声を掛けた。

 

 

「……漫画のネタとしては短編にちょいと描けるかどうかのもんだが、まぁ及第点だ。さっさとその事件を解決して、妖怪伝説の調査に行かせてもらうよ。向かうは府中、トレセン学園だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新年が明けたトレセン学園。

東京の府中にも珍しく雪が降り、東北には劣るものの雪が薄く地面に降り積もっている。

 

 

タクシーから降りると、露伴はルドルフを連れ立ってトレセン学園の門の前に降り立った。

 

 

「……全く。有馬記念を終えてしばらく来ることはないと思っていたが」

 

 

「まぁまぁ。沈黙は金、雄弁は銀というじゃあないか。」

 

 

そんな会話の応酬をしつつ門を潜ろうとすると、門の向こうから一人の人物が走り寄ってきた。

 

 

 

 

「お久しぶりです、露伴先生、そしてシンボリルドルフさん!」

 

 

その人物は露伴にとっては、幾度か学園に脚を運んだ際に取材の対応をしてもらったことがある。ルドルフにとって彼女は、学園のトップの右腕として、学園の運営を共にした同志といってもいいだろう。

 

 

「たづなさん。お久しぶりです。」

 

 

駿川たづな。トレセン学園理事長秘書である彼女は、ルドルフを見据えると静かに頭を下げる。やがて彼女の案内に従って学園の中へと歩みを進めていく。やがてとある場所でルドルフは立ち止まり露伴に声を掛けた。

 

 

「少し生徒会の皆に挨拶をしてこようと思う。お土産も渡さなくちゃあならないとね……すまないが先にたづなさんから事件の話を改めて聞いておいてくれないか?私からの又聞きでは伝え漏らしていることがあるかもしれない」

 

 

 

「あぁ、了解したよ」

 

 

 

ルドルフはそう言うと、校舎内に入り、そして階段を上がると生徒会室の方へと向かっていった。残された二人は顔を見合わせると、校舎の中には入らずに校舎の外をたづなの案内に従って歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雪が敷き詰められたその校舎の外を、二人はゆっくりと歩みを進めていく。たづなはいつもと変わらない柔和な笑みを…そしてそこに少々の躊躇いを携えて、彼女は徐に口を開いた。

 

 

「露伴先生はあの事件のこと、ルドルフさんから聞いたんですよね?」

 

 

やはり学園の職員として、その事件は居心地の悪いものなのだろう。漫画家の興味が搔き立てられたここに来たと言うと不純な動機を彼女に伝えることは、聊か野暮というものだろう。

 

 

「……え、えぇ。まぁざっくりとは聞きましたよ。」

 

 

「そうしたらもう一度隈なく、ご説明します。始まりは…って」

 

 

口を開きかけたたづなの顔が、驚愕の表情が浮かび上がる。露伴は一体何事かと彼女の顔を凝視すると、たづなは震える手で露伴の肩越しのある方向へ指さした。

 

 

「ほら……あれです。」

 

 

たづなの手が、ある方向へと指さされる。訝し気にその方向へと首を向けた露伴は、それを目に止めると不快そうに顔を顰めた。

 

 

「……あれは」

 

 

それは、学園の校舎のある壁中に貼り付けられた、ポスターだった。ただのポスターと言っても、ただのポスターではない。それは1人のウマ娘の顔がイラストされているポスター…と言いたいところだが、そのポスターに描かれているウマ娘の顔は、何かマッキーペンのような黒のペンで乱雑に塗りつぶされていた。

 

 

 

 

 

ルドルフから聞いただけではどのようなものかは分からなかったが、たしかにこれは悪戯と呼ぶには少々タチが悪いだろう。ウマ娘が多くいるこの学園で、顔が黒く塗りつぶされたポスターや顔のない人形を設置するとは悪趣味もいいところだ。

 

 

そのような代物のポスターが、壁一面に不規則に貼り巡らされている。センセーショナルなその光景に、道行くウマ娘たちのその脚をとめて、自身のスマホでその様子の撮影に講じている。

 

 

カシャカシャ、カシャカシャカシャ……

 

 

耳障りなシャッター音が辺りにこだまする。たづなが彼女たちのもとへ走りより、早くこの場から立ち去るようにと指示を出している一方で、露伴はつかつかと壁に近づくと、その異様な状態の代物をしげしげと眺めた。

 

 

犯人は一体誰なのか。それは皆目見当がつかないが、この岸辺露伴の興味を引かせたことについては、賞賛に値すると言っていいだろう。自身の漫画のネタに入れても面白いエッセンスになるかもしれない。

 

 

露伴は壁の状態を留めておくために、カメラを取り出す。しかしそのカメラの電源ボタンをいくら押しても、カメラの液晶画面に光が灯ることはなかった。

 

 

「……チッ」

 

 

そういえば急いで出てきてしまったものだから、取材用のカメラの充電をしないままに来てしまった。いつもならしないであろうミスにやり場のない怒りをぶつけると、露伴は肩から掛けていたスケッチブックを取り出してすらすらとその目のまえの景色を写実的に描き移していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時だった。

 

 

 

…!

 

 

背後から突然、突き刺さるような視線を感じる。スケッチブックを閉じてその視線の方向へと首を向けると、そこにはたづなが懸命に立ち退かせようとしているウマ娘や職員たちの集団の中に、こちらをじっと見つめる視線があった。

 

 

……放火犯は現場に戻ってくると言う。この壁を拵えた人物ではないにしても、もしかしたら何か重要なことを知っているかもしれない。

 

 

その人物は、露伴がこちらを振り返ったことを確認すると、足早にその人混みを抜けて遠くへと走り去ろうとしていった。

 

 

「おい!アンタ!」

 

 

露伴は急いで立ち上がり人混みから離れていくその人物を追おうとしたが、現場を取り巻いていた野次ウマの人混みに邪魔されてしまい、その間に人物はあっという間に立ち去って行ってしまった。

 

 

「……クソッ」

 

 

 

何とかして人混みから抜けた露伴だったが、既に相手は遥か遠くへと走り去り、小さな背中も曲がり角によって見えなくなってしまっていた。これでは今から走ったところで奴に追いつくことができる可能性は低いだろう。

 

 

ドサッ。

 

 

人混みを掻き分けて不審な人物を追ったために、肩に掛けていたスケッチブックが肩から外れて地面に落ちる。スケッチブックの中には破いて描いてしまっていたものがあったため、その内の数枚はスケッチブックの挟んでいた表紙から外れて地面にするりと滑り落ちてしまった。

 

 

今日は厄日だな。

 

 

露伴はため息を一つつくと、その場にしゃがみこんでスケッチブックと散乱した紙を拾い始めた。すると群衆の中にいた内の1人のウマ娘が足元に落ちた紙を拾い上げ、その紙に描かれているイラストに目を向けると、瞬く間に感嘆の声を上げた。

 

 

「すっげー!」

 

 

露伴は一体何事かと首を上げると、そこには一人のウマ娘の姿があった。彼女は自身のスケッチブックの紙を、目を輝かせて見つめていた。

 

 

「えーと…君は」

 

 

露伴は急いで落ちていた紙を拾い上げて、目のまえのウマ娘に声を掛けようとする。しかしそのウマ娘はイラストをみつめたその輝いていた瞳を今度は露伴に向けると、彼の言葉にかぶせ気味に口を開いた。

 

 

「……これ!おっさんが描いたのか!」

 

 

…おっさん?

 

 

その言葉に露伴の身体はぴたりと停止する。このガキ、今僕の事をおっさんといったのか?冗談じゃあないぞ。僕はまだおっさんと呼ばれるような年じゃあない。

 

 

文句の一つでも言ってやろうかと口を開きかけたが、その目を輝かせている少女を見て露伴はそれをあと一歩のところでふみとどまった。

 

 

「あ、あぁ。そうだ…僕は漫画家だ」

 

 

「えぇ!すっげー!漫画家先生なのかよー!名前、なんて言うんだ?」

 

 

良い反応だ。初対面で年上に対して敬語を使わないという点では少々頂けないが、それを面と向かって指摘するほど僕は子供じゃあない。マナー違反をその場で指摘すること自体がそもそも一番のマナー違反、それが鉄則だ。

 

 

「岸辺露伴だ」

 

 

「えぇ!あのピンクダークの少年の!」

 

 

これは更に良い反応。僕の代表作を知っていて、この反応。差し詰め僕の漫画のファンといったところだろう。ファンというのならば、話は別だ。今までの無礼慇懃な態度も可愛いものに思えてくる。

 

 

……だが。

 

 

「……オレ、アンタの漫画のファンだったんだ!」

 

 

……は?

 

 

その瞬間、その場の空気が氷点下まで凍り付く。能天気な彼女もさすがにその場の空気の異質さに何事かと露伴の顔を見上げると、そこには空気と同じく、氷のように張りついた表情の露伴の姿がそこにあった。

 

 

「……ひっ」

 

 

突然襲い掛かった恐怖に、思わず彼女は後ずさる。そんな彼女を露とも気にせずに、露伴はうめくように口を蠢かした。

 

 

「おいおいおいおい……おいおいおいおいおいおいおい。だった…?君は今、「僕の漫画のファンだった」、そういったのか…?」

 

 

それは露伴にとっての地雷…下手をしたら漫画を読んだことがない、と言われるよりも遥かに屈辱的な、怒りを禁じえない言葉だった。

 

 

どうしてこいつが僕の漫画のファンじゃあなくなったのか。それを知るためにこいつの頭を覗いてやろうか。幸い周りにいた奴らも騒動にひと段落が着き、いなくなっている。今ならこいつの頭を見ても不審に思われることはないだろう。

 

 

「……露伴先生」

 

 

そんなある種、暴走した露伴にストップを掛ける一言。自身の興奮と怒りが水を掛けられ、いくらか冷静さを取り戻していく。露伴はその声を発した人物の方を向くと、溜息を一つついて言葉を口にした。

 

 

「ルドルフ…」

 

 

「……君のことは大好きだが、そこは頂けないな。仮にも私はまだこの学園の生徒会長。あまり生徒を怖がらせるのはやめてやってほしい。彼女はまだ、中等部なんだ」

 

 

彼女に嗜まれ、露伴はその空に差し出した手をゆっくりと降ろす。彼が大人しく言ったことに従ったことを確認すると、ルドルフは柔和な笑みを露伴に浮かべ、そして一人困惑している彼女へ顔を向けた。

 

 

「……君、すまなかったな。彼は少々、純粋なところがあるんだ。君は確か、ウオッカ君だったね?」

 

 

ウオッカと呼ばれた少女は背中をしゃんと伸ばすと、ルドルフの方へ顔を向けた。

 

 

「……そうっす!お久しぶりっす、ルドルフ先輩!」

 

 

一生徒の名前と顔をいちいち覚えているとはいやはや恐れ入るが、ルドルフは一度見た人間の顔と名前は決して忘れないという。凄い能力だと露伴が内心感心している一方で、ルドルフとウオッカは二人で会話を繰り広げていた。

 

 

「あぁ。今日トレセン学園に戻ってきたんだ。少々問題が校内で発生したと聞いてね。私はまだトレセン学園の生徒会長だ。問題が起こってそれを放り出すわけにもいかないじゃあないか。」

 

 

「あぁ。あの壁の……今校内外でちょっとした騒ぎになってるんスよ。そういえば、会長は今日学園に戻ってきたって……実家に帰ってたんスか?」

 

 

「いや、M県で年越ししていたよ。露伴先生の家で…」

 

 

「え!二人で!?二人で家にいるなんて……いるなんて……!ブーッ!!」

 

 

 

 

その途端、ウオッカの様子がおかしくなる。彼女の顔は急に紅潮し、その大きな目と口をわなわなと震わせながら二人を交互に見やったが、やがてその鼻から鼻血を噴き出すと、目を回してその場に倒れ込んでしまった。

 

 

「……え?」

 

 

 

突然の事態に困惑する二人。実を言うとこのウオッカという少女、恋愛といったことにはてんで疎く、恋愛ドラマでカップル役の俳優二人が手をつないだだけでも直視できずに鼻血を出してしまうようなウマ娘である。年上のウマ娘であるルドルフが、異性の家で二人きりで年越しをしたという事実は、彼女の脆弱な恋愛キャパシティーをパンクさせるには十分すぎるものだった。

 

 

なんとも騒がしいトレセン学園の日常に、露伴とルドルフは久方ぶりにこの騒がしくも奇妙な日常に戻ってきたことを実感したのだった。

 

 

 

 



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岸辺露伴は求めない2

 

 

 

久方ぶりのトレセン学園。

新雪の上にコントラスト鮮やかな鼻血をまき散らし、ノックアウトされたボクシング選手よろしく地面に仰向けに倒れている少女を、露伴とルドルフは気まずそうに見つめていた。

 

 

「どうするんだこれ」

 

 

本能的、無意識で放った責任を逃れるその一言。つまり「僕は何にもしていないぞ、君がこうしたんだ」という意がふんだんに盛り込まれているその露伴の一言にルドルフは呆れたように目をくるりと回したが、事実ウオッカがこうなってしまったのは自身の言葉によることは言い逃れのしようのない事実だ。

 

 

「…どうするって。彼女をこのままにしておくわけにもいかないだろう。」

 

 

二人で顔を見合わせたが、最もらしい答えを見つけることはできない。とりあえずこのままにしておいたら寒空の下で体調を崩すだろうし、何においても倒れ込む少女の傍に二人の姿があったとなれば、非常に外聞が悪い。

 

 

その時だった。

 

 

「ウ、ウオッカさんッ!?どうしたんですか!?」

 

 

タイミング良いのか悪いのか。先程まで野次ウマ対応をしていたたづながちょうどこちらに戻ってきた。たづなは驚愕した表情で、一体何が起きたのかと二人と倒れ込むウオッカを交互に見つめている。

 

 

「……えーと。これには訳があるんです。」

 

 

露伴の捜査は、あらぬ誤解を解くことから始まった。

 

 

 

 

 

 

 

「………なるほど。事情は分かりました。とりあえず彼女のこのままにしてはおけないので、保健室に連れていきましょう。ルドルフさん、彼女の脚を持ってください。」

 

 

事情を聞いたたづなは、案外素直にそれに納得し、彼女の介抱へと行動を開始していた。恐らく生徒会長であるルドルフの今迄の信頼があってのことなのだろう。ルドルフはたづなの指示に従って彼女の脚を持つと、二人で彼女の身体をひょいと持ち上げて彼女を保健室へと連れていく。

 

 

「ねぇ、ちょっとあれ……」

 

 

「会長さんと……たづなさん何してるのかな?」

 

 

「……連れていかれてるの、ウオッカちゃんだよね……?」

 

 

校舎の中に入り保健室へ連れて行こうとするが、必然的ではあるがその光景は校舎内にいるウマ娘たちの目に触れられることになる。道行く人たちはその光景を奇異なものとして見つめていた。露伴はこの珍妙な光景の同行者と思われたくないため、その3人の数歩後ろをこっそりとついて行っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やがて一同は保健室に到着すると、幸い中で休んでいる他のウマ娘はいなかった。露伴は一応3人よりも前に回り込んで、ベッドの周囲に据え付けられているカーテンを開けるという役割をすることで、自分は役立たずではないことをそれとなく示したが、たづなとルドルフにとってそんなことは最早どうでもいいことであり、二人はさっさとベッドの上にウオッカを丁寧に置いた。

 

 

「………ひとまずはこれでいいでしょう。」

 

 

たづなの一言が、仕事の完了を告げる。一同がとりあえずウオッカの目が覚めるまではここにいようということで落ち着き、各々が椅子に座って一息ついた。

 

 

その時だった。

 

 

「……あの、それウオッカですよね?」

 

 

保健室の扉の前の廊下に立つ少女。緋色のツインテールに、大きく開かれた釣り目…彼女は腕を組みながら、一行に質問を投げかけた。

 

 

「……ダイワスカーレット君」

 

 

ダイワスカーレットと呼ばれた少女は室内に入ると、ベッドで横たわる彼女に向けて顔を向ける。その表情にはいくらか心配の表情が窺えた。如何にも優等生という所作で彼女はウオッカからこちらへと向き直ると、一同に質問を投げかけた。

 

 

「……コイ…いえウオッカに何ががあったんですか?」

 

 

「そういえば君はウオッカ君と同じ寮…ひいては同じ部屋だったね。仕方ない、事情を説明した方がよさそうだ。」

 

 

ルドルフはため息を一つつくと、スカーレットに対してどうしてこうなってしまったのか。その経緯を説明し始めた。初めはいくらか余裕のある表情で聞いていた彼女も、その経緯を聞くうちにどんどんとその表情は突き崩されていった。

 

 

「………アンタ!そんなことで倒れたの⁉バッカじゃあないの⁉ほら、そんなことで寝てんじゃあないわよ!起きなさいよ!」

 

 

スカーレットは眠っているウオッカの肩を掴むと、かなり強く揺さぶって彼女の意識を現実に引き戻しにかかる。ウオッカはなすすべなくその頭を前後に振られており、見かねたルドルフが彼女を引きはがしにかかった。

 

 

どうやら先程までの彼女の優等生然とした態度は、猫を被っていたようだ。スカーレットはルドルフに肩を掴まれてようやくウオッカから離れたが、するとウオッカはゆっくりとその目を開いた。

 

 

「……ん?オレ……何して……」

 

仰天。どうやら今のスカーレットの起こし方に、効果があったようだ。眠気眼のウオッカをよそに、スカーレットは彼女に再び掴みかかると、凄い剣幕でウオッカにしかりつけた。

 

 

「アンタが倒れたって聞いたから来てみたら、何してるのよ!あんなバカげた理由で気を失うなんて!」

 

 

「ス、スカーレット…なんでここにいるんだ……ってそうじゃあねーよ!お前には関係ないだろ!」

 

 

 

 

 

「なによ!」

 

 

「なんだよ!」

 

 

室内にいる一同を余所に、目覚めたばかりのウオッカと部屋にやってきたばかりのスカーレットは舌戦を繰り広げていく。尤も、舌戦と呼べるほど上等なものでもなかったが。露伴は先程から続く「カオス」の嵐が早く過ぎ去ってくれることを願って天を仰いだ。

 

 

「それくらいにしなさい」

 

 

室内に冷水を掛けた一言。ウオッカとスカーレットはその言葉に身体をぴくりと震わせると、その言葉を発した人物…たづなを震えながら見つめる。彼女はいくらか口元を笑顔の形にしていたが、その意は決して二人の喧嘩を好ましく思っているわけがないことは、想像に難くなかった。二人が大人しくなったことを確認すると、たづなは露伴に向き直り言葉を掛けた。

 

 

「それじゃあ、ウオッカさんも目覚めたことですし。先程の事件の詳細についてお話しましょうか。ルドルフさんはここでスカーレットさんとウオッカさんを見ていてあげてください」

 

 

たづなの指示に従って、露伴は部屋を出ようとする。しかしその背中をルドルフが引き留めた。

 

 

「……待ってください。私もその事件の仔細については及び知っているかはわかりかねます。あくまでメールで事件が起きたとブライアンに伝えられただけですから」

 

 

すると、ルドルフに続いてウオッカやスカーレットも口々に言葉を発した。

 

 

「……事件ってあのポスターのやつっすよね?それ、オレにも聞かせてください!この学園で何が起こってるのか、知りたいっす!」

 

 

「……私もです。SNSにもそのことで持ちきりで、友達も怖がっています。私に何かできることがあれば力になりたいんです」

 

 

「……それはできません。ルドルフさんはともかく、ウオッカさんとスカーレットさんもまだ中等部…事件に巻き込まれる恐れがあるのに、わざわざ貴方たちを危険に巻き込むわけにはいきません」

 

 

ウオッカとスカーレットの懇親の願いは、無情にもたづなに否定されてしまう。教育者として、たづなの意見は至極当然のものだった。自身の学園に在籍する生徒を、ましてやまだ中等部である彼女たちを、危険に巻き込むことはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、こと岸辺露伴の場合。彼はたづなとは全く異なった意見を持っていた。

 

 

「いいじゃあないか。彼女たちの助けも借りよう」

 

 

「露伴先生!」

 

 

露伴の言葉に、否定の意を示すためにたづなは彼のほうへと向き直る。しかし、彼はその誹りをものともせず、あくまで冷静な判断に基づいて発した自身の発言の補足説明をするために言葉を続けた。

 

 

「恐らく。いや、断言してやってもいい。犯人は学園にいる者の誰かだ。」

 

 

「え……」

 

 

その言葉にたづなは絶句するが、露伴はそれをものともせずに言葉を続ける。

 

 

「学園で事件が発生しているというのに、誰も犯人についての尻尾もつかめていないし 、天下の警察でさえお手上げの状態。つまりこの学園の地形や、何時に通行人が少ないのかといった様々なことについて熟知していないとこの芸当をすることは困難だ。トレセン学園の職員や生徒はもちろんのこと、学園に出入りするURAの職員や業者一人一人が容疑者だとすれば、とてもじゃあないが僕とたづな君、そしてルドルフだけじゃあ手が回らない」

 

 

露伴はこう言葉を続けると、ウオッカとスカーレットの方へと向き直った。

 

 

「……もしも生徒の中に事情を知るものがいるとするならば、きっと彼女たちが力になる。なんたって既に学園にあまり脚を運んでいないルドルフや、学園の細部にまで目が回りにくいたづな君と違って彼女たちは現役の生徒。何か情報を掴むことができるとするならば、彼女たちほど心強い味方はいないんじゃあないか?」

 

 

露伴の言うことはもっともだった。理事長秘書のたづなと雖も、その業務の殆どは事務方作業であり、ウマ娘たちの細部にまで目が渡っているとはいえない。またルドルフにおいても生徒会長としての業務は大幅にナリタブライアンに負担してもらっていて、自身はあまり運営にはかかわっていないというのが本音である。この場において、学園のウマ娘たちの実情を知る上ではウオッカとスカーレット以上の適任はいない。

 

 

たづなは少し考え込んでいたが、やがて顔を上げると二人に向き直った。

 

 

「……わかりました。ですが、約束してください。自ら危険なことをしないと…もしも危ない目に遭いそうだったら、私や露伴先生に助けを求めてください」

 

 

その言葉に、ウオッカとスカーレットは首を力強く縦に振る。その様子に幾分か安心したのか顔の表情を緩めると、たづなは室内にいる一同を見渡した。

 

 

「そうしたら、今から事件のことについてお話します」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう言うや否や、たづなはポケットから数枚の写真を取り出す。そこには先程話を聞いた通り、首の無い人形や顔が塗りつぶされたウマ娘のポスターなど、禍々しい写真が収められていた。

 

 

「……これは中々だね」

 

 

ルドルフはその写真の一枚一枚に目を通すと、明らかに顔を曇らせる。これは悪戯とよぶには少々、いやかなり度が過ぎている。ブライアンが泣きついてきたのもこれを見れば頷けた。

 

 

「初めてこれが発見されたのは今から10日ほど前…ちょうどルドルフさんが有馬記念を終えて、帰省したその日に起きました。それがこの写真です」

 

 

 

 

 

たづなはそう言うと、机の上に置いている写真の内の一枚を指さす。それは校庭に植樹されている大欅の根本に積みあがるように置かれている顔が無い人形が、山のように積みあがっていた。

 

 

「最初は問題児…ゴールドシップさんの仕業だと生徒会の方で対応していただこうとしたのですが、本人は「私はやっていないと」……確かに彼女は、犯行日時彼女のトレーナーと外出中で、アリバイもありました」

 

 

これをやってのけたと疑われるようなことを日頃しでかすウマ娘がいるのか?と露伴は内心驚いていたが、周囲の人々の反応を見れば、彼女が容疑者として挙がることは納得しているようだ。

 

 

「生徒会にその人形は撤去して頂きましたが、数日後に今度は木彫りの人形が……同じように首のない状態で学内にある食堂の一角に数十体配置されていました……1回目の事件の時点では、生徒がいない深夜に発見できたこともあって生徒を怖がらせてはいけないと内密に処理されたんですが…」

 

 

「……2回目ではそうはいかなかったと」

 

 

露伴の発言に、たづなは重々しく頷いた。

 

 

「生徒の皆さんにも事件のことが明るみになって、SNSにも拡散…我々は警察に相談し、解決を図って頂くことにしました。生徒の誰かがこんなことをしているのならば、その間違いを正すのも私たち教育者としての責任だと……しかし警察の方も犯人を突き止めることができませんでした。」

 

 

「……何も発見されなかったのか?」

 

 

「いえ、実を言うと犯行現場に、犯人のものと思われる足跡を発見することはできたんです。ですが……」

 

 

「ですが……?」

 

 

「2つの犯行で発見された足跡は、全く別人のものだったんです。靴のサイズが2センチ以上違っていたと。それに現場の近くにあった監視カメラは、犯行時刻の前後画面にひどいノイズが走って何も映っていなかったそうです。」

 

 

たづなから提供された情報は、正に「奇妙」の一言に尽きるものだった。犯人は単独犯ではなく、グループなのだろうか?またグループだったとして一体何の目的があって?謎は謎を呼び、一同は答えを探し出すことができず俯くことしかできなかった。

 

 

「…」

 

 

「………露伴先生、これから何かわかることはあるかい?」

 

 

不安気な顔を覗かせて、ルドルフは露伴の顔を覗き込む。正直のところ、犯人がどういう人物なのかはおろか、その意図さえも全く見当もつかない。

 

 

「……正直言って「カオス」だよルドルフ。靴跡が違う犯人に、誰一人犯人を目撃していないことはおろか、監視カメラさえ妨害させる……分からないことばかり、というのが正直なところではあるが、それでもたった一つ。一つだけ分かったことが一つある」

 

 

「……?」

 

 

周囲の視線は露伴に注がれる。露伴はため息を一つつくと、慎重に口を開いた。

 

 

「これは模倣犯なんてものじゃあない。ましてや愉快犯なんてものでもない。この犯人には明確な「意思」が存在する。」

 

 

「意思?」

 

 

「あぁ。人形やぬいぐるみ、ポスターの首を欠いて表現している。これは何か我々に伝えたいという何かがあるということさ。一目につきやすい場所を現場に選んでいるのも、偏にこれが目的だろう」

 

 

「……注目されることが目的?」

 

 

その言葉に、露伴は力強く頷く。そして周囲を見渡すと、言葉を続けた。

 

 

「……とすれば、犯人はまた犯行を犯すだろう。まだ目的を達成してはいないんだからな。そしてまた行動を起こすというならば、僕らにもいくらかやりようがあるということさ。さぁ、君たちにも手伝ってもらおうじゃあないか」

 

 

 

 



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岸辺露伴は求めない3

 

 

 

 

 

学園で起きた事件の調査は、まず校内の人物たちに聞き込みに回ることから始まった。 この方法が、効率が良かったとは決して言えない。それでも犯人の顔はおろか、その影にさえ触れることができていない。そうとなれば一人ずつ、地道に話を聞きこんで犯人の手がかりを掴む他その方法は残されていなかった。

 

 

自身が求めていた情報を有していなかったウマ娘は、そのことを申し訳なさそうに頭を下げると、その気まずさから逃れるように足早にその場から立ち去っていく。ウオッカはその背中を見つめながら小さくため息をつくと、同じくそばで聞き込みをしていたスカーレットと顔を見合わせた。

 

 

「……全然。ダメだな」

 

 

聞き込みを始めて早数時間。自身の拙い努力はまるで結実しない。瓦礫の山から、たった一つの探し物を追い求めるような作業に辛さと、若干の惰性が生じていたウオッカは同じくその作業に講じていたスカーレットを見ると、どうやら彼女も自身と同じ感情に襲われていたようだ。

 

 

「……犯人。何考えてるのかしら。露伴先生は注目されることが目的だって言ってたけど」

 

 

露伴がプロファイリングした、その目的。彼は高名な漫画家で、取材の一環で犯罪者がその犯行を犯す際に、どのような心理の基に行動を起こしているのかという犯罪心理学にも深く精通しているのだという。

 

 

ただそこには当然疑問は残る。「注目を集めたい」という目的で犯人が犯行を起こしているというのであれば、なぜわざわざ顔を欠いている人形やポスターを使用しているというのだろうか。犯人がウマ娘であると仮定して、自身が注目されたいと思っているというんであれば、わざわざそんな回りくどい行動を起こすには疑念を感じざるを得ないし、第一自身が注目されたいというのであれば犯罪を犯すというのは最早悪手としか言いようがない。

 

 

それに2つの現場に残されていた、二つの足跡。それぞれの現場には、犯人のもの、もしくは犯行に何か関係している者の足跡が発見されている。そしてその足跡は同一人物ではなく、それは別人であることが判明している。つまりこの事件には、少なくとも2人の人物が関係しているということになる。

 

 

謎が謎を呼び、犯人への足取りはますます遠のいていく。お世辞にも自分が賢い部類ではないことは自覚していた。そんな自身の頭をいくらこねくり回しても、その霧を払うことは叶わないことは分かっていた。それでもこのまま手をこまねいて、犯人の犯行を許すことなんて到底できない。ウオッカと、そしてスカーレットは何か自分たちにもできないかとこうして地道に、その脚を使って聞き込みに講じていた。

 

 

「クソッ……」

 

 

それにしても、こうもなにも情報を得ることができないとは。自身の無力さに打ちひしがれながら、ウオッカは傍にあったベンチに腰を下ろす。スカーレットはウオッカの晴れない顔をしばらく無言で見つめていたが、やがてその場をさっと立ち去ってしまった。

 

 

「……」

 

 

ウオッカにとって、日常を送っているはずのその学園の景色が、どこかしこりがあるような、しかし明確にある歪みとなって視界に広がる。この学園で、何かが起こっている。冬空は彼女を取り巻く冷笑として、そして過行く時間と比例せず、成果を得ることができなかった自身に突きつけられた明確な事実として彼女に重くのしかかっていた。

 

 

ダメだ。動いていなければ、現実に心を押しつぶされてしまう。

 

 

それはどうしようもない無力感だった。ウオッカは目から溢れそうになる涙をこらえるためにきつく歯を食いしばると、その脚に力を込めて立ち上がろうとしたが、それは叶わない。ただただ、その無力な自分に打ちひしがれながらその苦痛に耐えることしかできなかった。

 

 

彼女の我慢が、遂に最高潮に達する。その目からその綻びが生じる、その直前だった。

 

 

「アッツ……!!」

 

 

首元に突然、冬の寒さとは全く反対に位置する熱さが襲い掛かる。その熱さに思わず声を上げて飛びのいたウオッカが、その正体は何かと視線を向けた。

 

 

「ス、スカーレット⁉お前何して……」

 

 

そこにいたのは先程姿を消したはずのダイワスカーレットだった。先程自身の首筋を襲った熱さは、彼女があてがったホットコーヒー(勿論微糖)だったことを確認したウオッカが抗議の声をあげると、彼女はその目を細めながら口を開いた。

 

 

「アンタねぇ。なんて顔してるのよ。」

 

 

友人のその一言に、ウオッカは返事に窮する。いつも突っかかる彼女の顔が、いくらか柔らかいようにウオッカには映った。

 

 

「アンタがそんな辛気臭い顔してたら、こっちまで暗い気分になるわ。いつものアンタらしく、もっとシャキッとしなさいよ!」

 

 

きっと彼女は今、自身を励まそうとしているのだろう。彼女らしからぬ振る舞いに、思わず彼女の頬は緩んだが、急いで顔に袖をあてがって、「冬の寒さで鼻水が出てしまった」と急いで誤魔化すと、彼女に向けて声を掛けた。

 

 

「うし!そんじゃあ聞き込み再開するか…!お前がいなくなってた分、遅れを取り戻さないとな!」

 

 

「えぇ、そうね……って、なんでそうなるのよ!」

 

 

二人はそう言いあいながら、再び聞き込みに講じるが、その日のうちに彼女たちが犯人に関する情報を掴むことは、遂に叶わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後の夜。

 

 

闇夜に包まれた学園は、昼間のようにウマ娘たちがその青春を送る日常とは切り離された、どこか近寄りがたい雰囲気が醸し出されていた。それはいつものことのようにも思えるが、きっと学園を襲う事件もその事情に一役買っていることだろう。寮の消灯時刻間際まで漏れ聞こえる彼女たちの声も一切ないことが、彼女たちの心情を端的に表していた。

 

 

それでも。トレセン学園の平穏を脅かす不届き者がこの学園に姿を再び現すというのであれば。理事長の命によって、24時間体制で学園中は厳戒態勢が敷かれており、いつもよりはるかに多くの人員が、彼女たちの日常を守るため。そしてその日常を脅かす犯人を見つけるために、校内を巡回していた。

 

 

「……寒いなぁ」

 

 

一人残る警備室で、男は小さく声を漏らした。1月の夜は初老を既に超えた自身の老体には少々堪える。トレセン学園に警備員として5年以上従事している佐々木清吾は制帽の傾きを、そのツバを親指で押し上げると、窓から覗く真っ暗な、洞穴のような空を見つめた。

 

 

「……」

 

 

喉の奥にへばりついた痰を咳で吐き出し、室内に設置されているストーブに手を当てる。60歳まで真面目に一般企業に勤めあげた清吾は、定年後にこのトレセン学園の警備員として勤めることになった。

 

 

老体である彼にとって、今日のような深夜になっても働き続けることは少々身体に堪える。それでも彼がこのトレセン学園の警備員の仕事を5年もの間離れることがなかったのは、偏にこの学園にいる彼女たちのためだった。

 

 

この健やかで、そして残酷な勝負の世界であるトレセン学園。それでも彼女たちはその重荷に押しつぶされることなく、健気にこの学園で日常を送っている。そんな彼女たちに間接的にでも支えることができるこの仕事は、定年を過ぎた自身には新たな生きる目標となった。

 

 

……そんな彼女たちが生活を送るこの学園で、その日常を脅かすような事件が起きている。この燃え尽きかけた自身の心を再び使命の炎に燃え上がらせるには十分だった。

 

 

焦燥と苛立ちが綯交ぜとなり、その思考の坩堝から逃れるために男は胸ポケットに入れているタバコに手を伸ばす。しかし数年前から警備員の室内では禁煙になったことを思い起こすと、腰を庇いながら清吾は椅子から立ち上がった。

 

 

「よいしょっと…」

 

 

年々、時間というものは自身から冷酷に、そして確実に。自身からできることを奪っていく。自身も今年で65歳。再雇用といってもこれ以上警備員としてこの場所で働き続けることはできまい。

 

 

そんな残り少ない将来のことを思い浮かべながら、清吾は警備員室の扉を開けて外へと足を繰り出す。1月の縛れる寒さが身体を刺すように襲い掛かり、彼は制服の上に羽織った外套のファスナーを首元まで引き上げると、喫煙所まで急いだ。

 

 

今日の夜は、やけにしばれるな。

 

 

 

いつもと変わらぬこの景色、絶対に守り抜いてみせよう。このウマ娘たちが日常を送る校舎を、このターフを。

 

 

そう思うと、視界に入る学園の全てのものに何かと感傷的な気分が沸き上がってくる。このフェンスにも、校庭に入る一本の木でさえも、玄関の前に置かれた無数の写真にも。

 

 

「……?」

 

 

その場を通りすぎようとした清吾は、自身の視界を捉えたその違和感を感じとるのに一瞬で遅れた。数歩先に歩んだ彼はその違和感に襲われ、首をゆっくりと先程の方向へと向けると、そこには校舎の玄関の戸に無数に張り付けられている写真の数々だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一仕事を終えたその人物は、ゆっくりとその場を立ち去ろうとする。既に目的は達成した。そしたら次に、次に…

 

 

 

 

その時だった。

 

 

 

「…おい。そこのお前」

 

 

 

恐らく…否自身を呼び止めるその声に、その人物はその歩みを止める。肩越しに声を掛けたその人物をみやると、そこには一人の男の姿があった。

 

 

「……!」

 

 

「……やれやれ。今夜あたりにでも犯行をするんじゃあないかと踏んで張り込んでいたが、まさか大当たりを引くとはな。さっさと解決するものだとばかり思っていたが、まさか日を跨いだ捜査になるとは」

 

 

「…」

 

 

「とにもかくにも、僕ほどの漫画家の時間を割いた代償は高くつくぜ」

 

 

夜風に運ばれ、男の耳につけられたペン先の形をしたイヤリングがはためく。その男、岸辺露伴はもったいぶった様子で壁に手をつくと目のまえの人物…トレセン学園に混乱と恐怖をもたらしたその人物を睨みつけた。

 

 

 



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岸辺露伴は求めない4

 

 

 

 

一月の夜風が、やけに身に染みる。

普段は執筆活動に支障をきたさないように、取材でやむなく外出せねばならぬ時以外は、必ず22時までには床に着くように心掛けていた露伴にとって活動時間外に、ましてや氷点下に達した屋外での活動は彼の機嫌を不機嫌にするには十分な要素だった。

 

 

「君、ありがたく思ってくれよ。僕ほどの漫画家が、こんなことのために時間を割くなんてな。ルドルフの頼みじゃあなかったらくだらないと断っているところだった。」

 

 

当然のことではあるが、犯行を成し遂げ、揚々と現場から切り上げようとしている目のまえの人物…トレセン学園をささやかな混乱へと陥れたこの犯人とは、全く面識がない。それでもこの岸辺露伴の今の精神状態は、目のまえの赤の他人である犯人に対して、わざとらしく相手をなじることでしか解消のしようがなかった。

 

 

「お前と鉢合わせしたことが、偶然とでも思っているのだとしたら、それは間違いだと言っておこう。お前は必ず罪を犯す、そう踏んだ僕は学園の警備に一つ穴が生じるように警備を手配したのさ。お前がそのことに気が付いて、逃走経路を練って、犯行を犯すであろう日数をちゃんと勘案してな。今日あたりにでも来るんじゃあないかと踏んでいたが、まさかジャックポットだとはな」

 

 

それは手品師が種明かしをするよな…テストで満点を取って母親に褒めて欲しいと強請る子供のような饒舌ぶりだったが、今の露伴にとっては目のまえの犯人から受ける外聞は、犯人の吠え面をかかせ、その苛立ちという炎を弱らせることに比べれば、あまりにも些末な出来事だった。

 

 

「さて。なんでこんなバカげたことをしでかしたのか。多少の興味はあるが、それは警察に引き渡す前に君の頭をちょいと覗かせてくれれば良しとするか。」

 

 

「……」

 

 

犯人の表情を窺うことはできない。今の犯人にとって、自身の言動は訳の分からないものばかりだったに違いない。確かに頭を覗くと言ってもその意味は理解できないだろうし、スタンドの概念を説明したところでその意図を咀嚼することもできないだろう。だか、そもそも犯人のこいつにそんなことをわざわざ説明してやる義理はどこにもない。

 

 

「さて………お前はもう終わりだ。悪いがこっちも眠いもんで、さっさと捕まってくれるとありがたいね」

 

 

露伴はそう言うと、一歩ずつ犯人のもとへと近づいていく。岸辺露伴は、言葉の通りこのまま犯人が観念して、大人しく捕まってくれることを切に願っていた。早くホテルに帰って眠りたい。抵抗したり逃げたりしようものなら、その分体力を浪費し、警察にこいつを引き渡した後、警察からの事情の聴きとりが終わり、解放される時間が遅くなる。(もっとも、警察の聴き取りはヘブンズ・ドアーで記憶の改ざんをすればどうにでもなるが)

 

 

……ダッ!

 

 

露伴が犯人まで数メートルのところまで近づいたその時。犯人は露伴とは反対の方向へと飛び出していく。どうやら自身のささやかな願いは泡沫と化し、犯人は自身にとって最も悪手となりうる選択を取ったようだ。

 

 

男が数歩先へと走ったところで、道の反対から一人の人物が両手を広げ、近づいてくる。それは、自身の愛バ、シンボリルドルフの姿だった。もしも犯人が抵抗したり、逃亡を図ったりした時のために彼女に傍に待機していてもらったが、まさか彼女の力を借りることになるとは。先程の邂逅でわかったことだが、どうやら犯人はウマ娘じゃあなく、人間だ。

 

 

 

 

とすれば非常に犯人には同情するが、人間である犯人がウマ娘、そして現役を退いてはいるものの、数週間前までG1の前線で活躍していたルドルフと正面から戦って勝てるわけがない。無理に抵抗しようものなら、病院送りは免れまい…骨の一本や二本程度で済めばいいのだが。

 

 

「……?」

 

 

その時、露伴は違和感に気がついた。この世界に生きているならば、ウマ娘と人間の圧倒的な種族としての力量差は知らないはずがない。ウマ娘に向かって、丸腰の人間が向かっても勝算など微塵も存在しない。

 

 

 

 

それにも拘らず、犯人はそんなことを気にも留めないかのように、ルドルフにまるで赤いマントを目に止め、闇雲に突撃する闘牛のように突っ込んでいった。

 

 

なにかマズイ。

 

 

 

漫画家としての本能が、すかさず脳内に警鐘を鳴らす。

 

 

 

「ルドルフ、逃げ……」

 

 

そう言葉にした瞬間、ルドルフと犯人の身体が接触する。その瞬間、ルドルフの身体はまるで車に激突したかのように空中へと吹っ飛んでいった。

 

 

「……ルドルフ!!」

 

 

自身の喉から、悲鳴とも言える声が絞り出される。急いで露伴は彼女の身体が地面に激突しないように前へと踏み出すが、とてもじゃあないが今自身がいる場所から、彼女のもとへと踏み出すには距離が遠すぎた。

 

 

どういうことだ?目の前の現象について、それを詳しく分析する時間と余裕は、今の露伴には残されていなかった。できることは、この窮状を如何にして逸するか、それだけだった。

 

 

 

 

……クッ。

 

 

露伴はその一瞬で思考し、決断し、そして覚悟した。即ち、自分のことを度外視しても彼女のダメージを必要最小限に抑える、その決断だった。露伴は背後から幽霊のような、白い帽子を被った少年のようなそれ……スタンドを出現させた。

 

 

「……うおおおおおおおお!ヘブンズ・ドアー!!」

 

 

彼女を、彼女を助けなければ。

 

 

露伴の腕に本の見開きのようなものが生じ、そのページの余白に露伴は瞬時に文字を書き込んでいく。

 

 

「時速80キロで前方に5メートル吹っ飛ぶ」

 

 

その瞬間、露伴の身体に急なGがかかると共に彼の身体は不自然に、まるで縄で思い切り引っ張られたのように、前方に吹っ飛んでいく。そしてルドルフの身体が地面に激突するその寸前、彼の身体が即席のクッションとなって彼女のダメージを最小限に抑えた。

 

 

「……グッ!!」

 

 

身体から鈍い音が響き、咥内から血が噴き出す。幸い地面に敷き詰められていた雪がクッションとなり激痛は免れたが、鈍い痛みが雪の冷たさと共に全身に駆け巡った。

 

 

「トレーナー君!」

 

 

ルドルフは自身が最愛の男によって守られたという状況を理解すると、急いで露伴の顔を覗き込む。呼吸は痛みに耐えるようでいくらか浅くなっているものの、どうやら別状はないようだった。

 

 

……良かった。

 

 

ルドルフの顔には様々な表情が綯交ぜとなって浮かぶ。それは露伴が無事だったという安心。そして彼にもしものことがあったらという不安……様々な表情が瞬時に浮かび、そして消失していったが、やがてその顔には一つの感情が刻み付けられ、終点を迎えた。

 

 

「………言語道断。貴様のことを、決して許さない」

 

 

それは怒りという言葉では表現しきれぬほどの憤怒、怒髪冠を衝くものだった。愛する露伴を傷つけられた。徐に立ち上がった彼女の耳は引き絞られ、その脚は荒々しく前掻きをしていることからも、その激情は口ほどに物を言っていた。

 

 

「……」

 

 

彼女の様子を一瞥した犯人は、やがてルドルフという障壁がいなくなった逃走経路を再び走り始める。ルドルフはその般若のような顔のまま犯人を追おうとしたが、足元にいた露伴のうめき声で我に返ると、その脚をぴたりと止めた。

 

 

今は追えない。

 

 

「露伴先生…しっかり…!誰か、誰か来てくれ!」

 

 

 

 

今の彼は手負いの状態。そんな彼を捨て置いて犯人を追跡することは、ルドルフにはできなかった。せき込む露伴の背中を甲斐甲斐しくさすりながら、ルドルフは周囲の空を響かせるほどの大声で助けを乞った。二人の足元の雪は、露伴の口から垂れた血によって紅く染め上げられていた。

 

 

 

 

 

 

 

闇夜の中、先程大立ち回りを演じた犯人は、急いで道を突き進んでいた。フードを深く被っているし、顔が割れる心配もあるまい。急いでこの場から立ち去れば証拠は残らないし、監視カメラの映像もアレがなんとかしてくれるはずだ。

 

 

この身が捕まらなければ、まだチャンスはある。今回は邪魔が入ったが、次からはもっと時間や作戦を練れば、練れば………

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれ。なんで私は…… コンナコトヲ?

 

 

その時だった。

 

 

「こんばんは。貴方、何をされているんですか?」

 

 

自身の目のまえに立ちはだかる、一人の女性。その風貌からしてどうやら学園の関係者のようだった。

 

 

致し方あるまい。大方彼女も見回りにきた連中の内の一人だろう。申し訳ないが、強行突破させてもらおう。

 

 

犯人は先程ルドルフを吹っ飛ばした時と同じ要領で身体を前のめりにすると、まるで闘牛のように彼女のもとへと突っ込んでいった。荒い息が、白い煙となって口元から吐き出され、その速度は瞬時に加速していく。彼女が身の危険を感じて道のわきに逸れればそれまでだし、どかねばしばらく病院での生活を余儀なくされるだろうが、致し方あるまい。

 

 

事実、この時犯人はウマ娘をはじき飛ばすほどの力を有しており、犯人自身もその力に過信していた……即ち、そこには確実なる敗因が存在していた。

 

 

つまり、ウマ娘を凌駕する力を身に着けたとしても、それに過信してはならぬということ。そして目のまえに立ちはだかる女性、駿川たづなのことを知らなかったということである。

 

 

たづなは犯人の身体と激突する直前、その犯人にめがけて雪を投げつけた。新雪は粉の様に夜風によって散開し、即席の目くらましとして犯人の視界を瞬時に奪うことに成功した。

 

 

「~~~!!」

 

 

動揺によって犯人は瞬時に立ち止まる。凝り固まった自信に、負けるはずがないというその過信が、予想外の出来事によって突き動かされ、脳内はショートしてしまった。

 

 

「……!マズイ!」

 

 

雪のカーテンの中から、突然一つの人影が接近する。急いでその拳を繰り広げた犯人だったが、その手は虚しく空を切った。

 

 

そしてその空に出した手を元に戻そうとしたが、突然雪の煙の中から出現した何者かの腕にそれを掴まれると、抵抗する暇もなく犯人の身体はそのまま空中に一回転し、地面に勢いよく叩きつけられた。

 

 

受け身の取り方など知らぬ犯人は、その頭を強かに打ち付け、意識を手放す。学園の隅で行われた、静かな決闘を制したたづなは、すくっと雪の煙の中から姿を現すと、裾の乱れを治す余裕を見せつけるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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岸辺露伴は求めない5

 

 

 

 

瞼の薄い皮膚を隔て、光がうっすらとうかびあがる。

露伴はその覚醒しきらぬ意識の中で、目をゆっくりと開け、まずしたことは、自身の身に何があったのか。そして今自身がいるのはどこなのかを考えることだった。

 

 

確か僕は……犯人を追っていて。

 

 

そうだ。犯人に攻撃されたルドルフを庇った結果、自身は意識を失ってしまったのだ。記憶の整合性が取れたのと同時に、身体に淡い痛みがその記憶を引き金として戻ってくる。

 

 

 

……ウッ

 

 

胸部を襲う鈍い痛みと、咥内に淡く残る鉄の味に不快気に顔を顰めつつ、それでも露伴の頭を占めていたのは、犯人のことでも、また自身のケガでもなく、自身が守った愛バ、シンボリルドルフのことだけだった。

 

 

彼女は、彼女は無事だったのか。

 

 

別にこんな目に遭ったのは、不覚を取ったからというわけじゃあない。彼女のことを守るため、偏にそのためだった。不安によって完全に意識を取り戻した露伴は、急いでベッドから起き上がる。彼女のことを探そうと、その名前を喉から引き絞りそうになった瞬間、横から大声が放たれたのだった。

 

 

「露伴先生!」

 

 

露伴はその声の主の方へと首を向ける。そこにいたのは、正に露伴の頭を独占していたその人物、シンボリルドルフその人だった。露伴の意識が目覚めたことに気が付いたルドルフは、喉の奥から悲鳴に近い声で、彼の名前を絞り上げると、まるでその手からこれ以上砂が零れ落ちることがないように強く、強く彼の身体を抱きしめた。

 

 

「すまない……私が、私がもっとしっかりとしていれば」

 

 

ルドルフの胸の中を占めていたのは、専ら自責の念だった。自身があの時点で犯人を取り押さえることができていたとしたら。彼を危険な目に遭わせてしまったのは、自身のウマ娘としての身体能力に高を括った結果だと。

 

 

彼の力なく倒れ込む身体の感覚。真っ白な雪の上に垂れ流れる血のコントラスト。助けが来るまでの間、彼にもしものことがあったらと不安で頭の中で膨れ上がっていくあの感覚。

 

 

……そしてそれを皆まで言わずとも、露伴は彼女の心境を理解していた。うめき声を上げつつも、今自身がなすべきことを理解した露伴は、彼女に向かって声を掛けた。

 

 

「まずもう少し、力を緩めてくれないか?ただでさえ身体が痛いんだ」

 

 

「……!す、すまない!」

 

 

露伴の言葉に、自身の配慮が至らなかったことを理解したルドルフは、謝罪の言葉を述べつつ、パッとその手を露伴から離す。軋む肋骨の痛みに顔を顰めつつ、露伴は努めて彼女に対して柔和な笑顔を浮かべつつ、彼女に向けて言葉を掛けた。

 

 

「心配するな。この痛みだったら、骨は折れていない……精々、打撲がいいところだろう。それにこうなったのは君のせいじゃあない。僕の判断だ。それを君のせいだって?ふざけたことを言うのも大概にするんだな」

 

 

それは女性に掛ける慰めのセリフとしては、間違いなく及第点にすら遠く及ばぬ、ひどい代物だった。それでもこと岸辺露伴がシンボリルドルフに掛ける慰めの言葉として、これほど彼らしく、そして彼女の後悔という尾を引かせないものはないだろう。

 

 

事実先程の様子に比べ、ルドルフの様子は幾分も落ち着いていた。彼女のそんな様子に笑みを漏らすと、改めて露伴は周囲の状況を確認するという余裕が生まれ始めていた。

 

 

「そういえば、ここは…」

 

 

「ここは、学園にある保健室だよ……君が意識を失って、急いでここに連れてきたんだ」

 

 

どうやら、犯人の攻撃を受けたルドルフを庇った結果、あれからしばらく間気を失ってしまったようだ。額に巻かれている包帯を見れば、既に治療に必要な応急処置は済んでいるようだが、ルドルフは急いで後ろを振り返り、声を掛けると、保健室には数人の人物が脚を運んできていた。

 

 

部屋に入ってきた人物の内の一人、学園のお抱えの医師が簡単に意識を取り戻した露伴の体調を改めて検査し、そして大事には至らぬことを説明すると、その隣にいた駿川たづなは露伴に対して、既に犯人が取り押さえられたことを聞かされた。

 

 

「それは安心しました……しかしたづなさん。あれほどの犯人を取り押さえるのに一体どうやって……」

 

 

 

そこまで言いかけて、ベッドからたづなの顔を見上げた露伴は、彼女の顔の笑顔に…しかしその有無を言わさぬ迫力を孕んだその笑顔は、その質問について、それ以上の詮索は許さないという意をふんだんに含まれていた……その笑顔を目に止めると、思わず口を噤み、苦笑いで彼女の笑みに応えることしかできなかった。

 

 

「……そ、それはともかく……犯人の身柄は分かったんですか?」

 

 

「はい。それは既にわかりました。この近辺の大学病院の看護師だそうです。」

 

 

「……看護師?」

 

 

「はい。犯人は淀川真美、26歳女性。都内の大学病院に勤務する看護師で、所持していた免許証からその身元を割り出すことができたそうです。」

 

 

我々の頭を悩ませ、学園のウマ娘たちに不安を植え付けた犯人の正体は、あまりにも突拍子のないものだった。学園とは全く持って関係のない看護師が、わざわざ顔の欠いたウマ娘の人形やポスターを、学園に忍び込んで配置するという奇妙な犯行に及ぶ理由は、全く想像がつかなかった。

 

 

それに疑問はそれだけではない。犯人は女性だった。ともすれば、ウマ娘ではなく、ましてや男性でもない彼女が、ウマ娘であるはずのルドルフを凌駕するほどの大立ち回りをみせたことが、聊か露伴には信じられなかった。

 

 

「なるほど……色々聞きたいことはあるが……犯人は何の目的があってあんなことをしでかしたんだ?」

 

 

「それが……その」

 

 

露伴の質問に対して、たづなの答えはやけに歯切れが悪かった。露伴はベッドの姿勢を変ええると、相手の返答をせかすように言葉を続けた。

 

 

「おいおいおい。ここまで身を粉にしてこの事件の解決に貢献してるんだぜ?今さら勿体ぶらなくてもいいじゃあないか」

 

 

「それもそうですね……犯人は終始、「分からない」と言っているそうです」

 

 

「……はぁ?分からない?」

 

 

それはあまりにも、的を得ない返答だった。露伴が首を傾げながら反芻したその言葉に、たづなはゆっくりと首を縦に振ることで同意の意を示した。

 

 

「はい……一体何の目的であんなことをしたのか。どうやって犯行日時やルートを算出したのか。それらの質問全てに、彼女は「分からない」と答えているそうで」

 

 

つくにしても、もう少しマシな嘘というものがあるだろう。あれだけのことをしておいて、犯行現場から立ち去る姿は既に自身やルドルフが目撃している通りだ。きっとこれから、過去の事件に残された手がかりから、彼女が犯人であるという決定的な手がかりを発見するのには、既に時間の問題だし、それさえ分からぬほどの短慮であるならば、そもそもここまで逃げ切ることなどできなかったはずだ。

 

 

……ということは。

 

 

つまり。彼女の言っていることを鵜呑みにするとしたら?その真相はますます深い闇の中へと沈み込んでいくことになる。

 

 

「……それでもだ。犯人はもう一人……もう一人いるはずなんだ。そいつについて、彼女はなんて言ってるんだ?」

 

 

「……それについても、他のこと同様に『分からない』って。」

 

 

「なっ‼そんなこと……あり得ないはずだ!同じ手法の事件……一回目の事件と二回目の事件の間、その事件について知っていたのは警察の関係者と、そして学園の関係者数人だけのはずだ!」

 

 

隣で聞いていたルドルフは、その証言に声を荒げる。確かに彼女の動揺は尤もだ。淀川真美が2つの事件の内、どちらの事件を犯したのかは明らかではないが、いずれしてもどちらの事件が起きたタイミングであったとしても、世間にそれが表沙汰にされていないのだとしたら、1つの事件をみたことによる「愉快犯」、または「模倣犯」という線は限りなくゼロに近い、ということになる。

 

 

つまり2人の犯人。淀川真美ともう一人の犯人には何かしらの接点がなければおかしいはずだ。露伴はそう頭の中で結論付けると、顔を上げて、たづなのほうへと視線を向けた。

 

 

「……いずれしても足跡が違うんだからな。たとえ彼女からの証言が聞けなかったとしても、もう一人の犯人の方は、まだ目的を達成していない……即ちまだ行動を起こすということだ。」

 

 

「つまり、その時に犯人を捕まえれば、全て解決すると?」

 

 

たづなの発言に、露伴はゆっくりと頷く。その日は軽度なケガで済んだ露伴は、ルドルフに連れられて学園を後にし、根城としている駅前のホテルへと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「犯人が捕まったですって!?」

 

 

今朝ウオッカと共にいつものように言い争いをしながら登校していたスカーレットは、校門の前にいたたづなに呼び止められたのだった。

 

 

スカーレットは、今しがたたづなの言っていたことに驚きの表情を浮かべる。確かに、昨日の夜は学園の外が騒がしかったのを寮の部屋から聞いていたが、まさか二人のうちの一人の犯人が捕まっていたとは。

 

 

「オレたち…………オレたち、何もできなかった」

 

 

隣に立っていたウオッカは、その無力感を端的に表す一言を発する。自分たちにできたことは、精々学園中を無闇に聴き取りに講じていただけだ。今回の犯人の確保について、自分たちは何も寄与できていない。

 

 

「心配いらないさ」

 

 

「………!」

 

 

そう言ったのは、いつからいたのかたづなの傍に立っている岸辺露伴だった。驚くスカーレットとウオッカは彼のことをじっと見つめたが、それをものともせずに露伴は言葉を続けた。

 

 

「……君たちが何の心配もなく学園生活を送ることができるようにということが何よりも一番肝心なことなんだ。」

 

 

露伴の慰めの言葉に、二人は唯々その視線を下げることしかできなかった。その言葉は、明らかに大人が子供に掛ける慰めであり、それは唯々自身の無力さを痛感させるものだった。

 

 

露伴とたづなと別れたあと、二人は酷く重い足取りで校舎の方へと向かっていく。無力さに打ちひしがれた二人の間には、いつものような言い争いはどこにもなかった。そこにあるのは、どうしようもない喪失と悲愴だけだった。

 

 

その時だった。

 

 

「……なぁ。スカーレット」

 

 

「……」

 

 

止めてくれ。今は何の言葉も自分には惨めに思えてしまう。何よりも負けず嫌いな自身にとって、それほどプライドを深く傷つけられることはなかった。足早に校舎に駆け込もうとするスカーレットを余所に、ウオッカは自身の相方に何度も、しつこいと思えるほどに声を掛けた。

 

 

「なぁ!おい、スカーレット!」

 

 

「……アンタ。いい加減に……」

 

 

「上見ろって!!」

 

 

……?

 

 

「…………上?」

 

 

その言葉を聞いたスカーレットは、言われるがままに上へと首を向ける。そこには、まるで1月の空から降り注ぐ雪のように、何やら大量の紙が舞い落ちていたのだった。

 

 

「これは……!」

 

 

空から舞い降りていった紙の内、一枚を空中でつかみ取ると、スカーレットはそこに目を通す。それはウマ娘の顔が黒く塗りつぶされているポスターだった。

 

 

ザワザワ……ザワザワ……

 

 

何これ……

 

 

これって……

 

 

周囲には、既に学園のウマ娘たちが何事かと集まりだしている。あるものはそのポスターを手に取り、またあるものは上を指差し、そしてあるものはスマホを構えてその光景を画面に刻み付けていた。

 

 

今現在、このポスターは現在進行形で空から地上に向かって降り注ぎ続けている。つまり、つまり犯人は…

 

 

「……まだ……まだあそこにいる……?」

 

 

ウオッカの口から漏れ出た言葉。その言葉はスカーレットも言葉に発さずとも脳内で思い浮かんだ可能性そのものだった。

 

 

今度こそ、今度こそ犯人を捕まえる。

 

 

ウオッカとスカーレットは示し合わせたわけではなく、弾かれたように二人は校舎の屋上に向かって同時に走り出したのだった。

 

 

 

 



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岸辺露伴は求めない6

 

 

 

 

 

ウオッカとスカーレットは、屋上でポスターを散布している犯人を取り押さえるために、急いで校舎へと足を踏み入れる。それは昨夜犯人の確保に役立つことができなかった贖罪の走りそのものだった。

 

 

次こそは、絶対に捕まえてみせる。

隣を見ずとも、最早自身の右隣を走るウオッカもきっと同じ感情を抱いている、それは分かっていた。校舎の玄関口でローファーを脱ぐ時間さえ惜しい二人は、土足のまま校舎に上がると、突如校舎になだれ込み困惑している学友たちを尻目に、急いで階段を駆け上がっていった。

 

 

「…………!!」

 

 

太ももに大幅な負荷がかかってくる。これも良いトレーニングになるな、と思いつつ二人は数階分の階段をまるで飛び跳ねるように駆け上がると、あっという間に屋上に続く階段までたどり着いた。

 

 

「……行くわよ!」

 

 

「あぁ!」

 

 

自身の掛け声に、ウオッカは頼もしい言葉で答える。互いに顔を見合わると、ウオッカとスカーレットは屋上に続く扉を力強く引き開けた。

 

 

……ギギッ!!

 

 

軋むような音を立てて、扉が開き、転がり込むように屋上へと二人はその身を晒す。冬の朝に突き刺すような風の寒さが二人の肌をすり抜けていくが、そんなことが露とも気にならないほど、二人の胸の内には意思の炎が強く燃え滾っていた…即ち、「この犯人を必ずや捕まえてみせる」という強い意志と覚悟だった。

 

 

二人の10メートルほど先にある縁に、フードを目深に被った人物がいる。その人物は校舎の前にばら撒いた大量のポスターを仕舞っていたであろう、すっかり凹んだ大きなリュックサックを背負うと、正に悠々と犯行現場から切り上げるところだった。

 

 

この犯人。思っている以上に頭の良い人物のようだ。昨夜の内にもう一人の方の犯人が捕まり、警備が手薄になっている今を狙い行動を起こした。そして登校の時間はたづなも校門で挨拶をするために出払い、そして職員や警備員の多くも学園にはまだ訪れていない。自身を止めるものがおらず、また数多くのウマ娘たちの目に触れることができる。つまり今日の朝は犯人にとって、これ以上にないほどの好条件だったようだ。

 

 

「アンタ……!」

 

 

「このまま……逃げられると思ってんのかよ?」

 

 

絶対にこの扉を通らせるわけにはいかない。それが二人の総意であり、覆ることのない決定事項だった。二人は縁から犯人が動かないように、まるで網を用いて魚を一箇所に集める追い込み漁のように、要領よく、そして油断なく二人は犯人を囲い込んでいった。

 

 

犯人を囲む2人の包囲網は徐々に、徐々に狭まっていく。やがて犯人まで2,3メートルほどにまで近づくと、2人はその脚をぴたりと止めた。

 

 

2人は顔を見合わせると、犯人に飛び掛かる瞬間を示し合わせる。日頃犬猿の仲だと思えぬほどぴったりと息を合わせると、2人は一斉に犯人に飛び掛かったのだった。

 

 

ここまでくれば、ウオッカとスカーレットの仕事の8割は終わっていると目された。見る限り、相手はウマ娘ではない。つまり種族として人間より遥かに俊敏で筋力に勝るウマ娘が……ましてやそんなウマ娘が2人いる状況であれば、たとえ犯人が抵抗しても簡単に取り押さえることができるはず、そう踏んでいた。

 

 

…結果としては、彼女たちの目論見は失敗に終わった。

 

 

瞬間、犯人は助走もつけずに前に向かってジャンプすると、飛び掛かってきたウオッカとスカーレットの2人を、まるで高跳びのようにその頭上を軽々と飛び越え、出口に向かって走っていった。

 

 

「ナッ!」

 

 

2人の間には衝撃が走る。ウマ娘でさえ難しいであろう、人間である犯人が自分たちの頭上を助走もつけずに軽々と飛び越えてみせた。

 

 

「…………追うわよ!」

 

 

 

「おう!」

 

 

 

驚きは一瞬の内に通り過ぎ、二人は一瞬の内にまた決意を胸に戻すと、先程扉に向かった犯人を追う為に走り出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

校舎内を、フードを被った犯人が走り、それをウマ娘2人が追うという珍妙な光景を、トレセン学園の住人たちは図らず目撃することになった。多くの者はそのあまりの突拍子のない光景に、只々口をあんぐりと開けてそれを見ることしかできなかったが、当事者であるウオッカとスカーレットは、いつまで経っても縮まることのない犯人の背中に疑念を抱き始めていた。

 

 

 

 

……人間である犯人に、私たちが追いつかない?

 

 

人間の走る速度は、どんなに早く走れたとしても時速20キロ程度、それも数十秒の間が限界だろう。それに比べてウマ娘は、時速70キロ以上の速さで数分は走ることができる。校内だからといって手を抜いているわけじゃあない。間違いなく全速力で犯人に向かって走り出していた。それなのに犯人との距離は全く縮まることを知らない。

 

 

先程から、犯人は人間という生物を凌駕した力を示し続けている。

 

 

どうしてと考えても、それに対して何か行動を起こす余裕は、今の二人にはない。できることは少しでも犯人との距離が遠ざかることがないように、懸命に足を繰り出すことしかできなかった。

 

 

犯人は渡り廊下を疾走していくが、このまま闇雲に犯人を追っているだけでは埒が明かないだろうことを、二人は理解していた。前方数メートルを走る犯人の背中の様子を見るからに、犯人は微塵もつかれている様子はない。あれでは相手のスタミナが尽きるまで追いかける作戦もうまくいかない可能性は高いだろう。これでは数分後に、自分たちのスタミナが尽きて相手に逃げ切られてしまうだろう。

 

 

犯人は3階から階段にたどり着き、2階へと降っていく。当然ではあるが、犯人は闇雲に走っているわけではなく、逃走を図る傍らで着実に出口に近づいて行っている。警備が手薄な今、校舎外に犯人に出た場合、取り押さえることはいよいよ難しくなるだろう。

 

 

やがて校舎の突き当りにある二手に分かれる分岐に差し掛かる。犯人は迷わず玄関に続く階段がある左の道へと舵を切った。スカーレットは当然犯人を追おうと、左に進もうと足を進めた。

 

 

その時だった。

 

 

「……おい!スカーレット!お前はそのまま奴を追ってくれ!」

 

 

「え?え?」

 

 

スカーレットが返事をする間もなく、ウオッカは分かれ道を犯人の行った方とは逆の道に進んでいく。

 

 

……しょうがないわね!

 

 

あのバカが何を考えているのかは知らないが、言われなくてもそうするつもりだ。スカーレットは苛立ちを端的に表すうなり声を上げると、犯人を追尾するべく左へと足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

分岐を抜けた犯人は急いで階段を降り、遂に1階にたどり着く。既に階段を降りると、玄関口までは一直線だ。スカーレットは一向に縮まらない犯人の背中に向かって、懸命に声を掛けた。

 

 

「コラ………!アンタ……止まりなさいよ!」

 

 

分かってはいるが、そんな言葉を掛けたところで犯人が止まるはずなどない。スカーレット自身も既に校舎内で犯人を追い回したせいか、息が上がり始めていた。犯人の身体が日の光を浴びて、逆光となり黒くなっていく。やがて犯人はそのまま、玄関口に足を掛けた。

 

 

その時だった。

 

 

ドサッ!

 

 

犯人の目のまえに、何かが上から降ってくる。スカーレットは逆光で見えないその降ってきたものを、目を凝らして見つめたが、やがてそれはゆっくりと立ち上がると口を開いた。

 

 

「やっとよ………追いつけたぜ~~~。お前の面、拝むためによ……2階から飛び降りてやったぜ」

 

 

「ウオッカ………アンタ」

 

 

それは先程分かれたはずのウオッカの姿だった。どうやら彼女はこのままでは犯人に追いつくことはできないと踏んで、分岐で自身と犯人と分かれた後、玄関口の上まで回り込み、タイミングを見計らって2階から飛び降りて挟み撃ちに講じたようだ。

 

 

そしてその作戦は、見事に上手くいったようだ。悔しいが、ウオッカの英断によって犯人と今迄以上の接触に成功し、挟み撃ちに講じることができた。

 

 

そして何よりスカーレットが驚いたことは、ウオッカがそのような機転が利く行動を起こすことができ、そしてウマ娘としてもっとも大事である「脚」を痛めるのではないかという不安よりも、この学園を守り抜いてみせるという、確固たる「意思」と「根性」だった。

 

 

犯人は立ち止まり、また校舎へと逃げようと試みたが、そこには先程から追われているスカーレットの姿がある。2人の小娘の術中に嵌ったことを悟った犯人は小さく舌打ちをすると、その拳を胸元に構えた。

 

 

「こいつ……」

 

 

「あくまで大人しく捕まるつもりはないってことね……」

 

 

それは自分たちへの明確な敵意を示すファイティングポーズだった。産まれてこの方、空手や柔道、ボクシングの類の一切したことのなかったことを後悔しつつ、ウオッカとスカーレットは犯人を取り押さえることができるようにとりあえず見よう見まねで身構えた。

 

 

こんなことなら、カレンチャンでもいてくれれば良かった。

 

 

その時は突然として訪れた。犯人は一歩踏み出すと、拳を振りかざしてウオッカに殴りかかる。彼女はウマ娘としての筋力を信じてその拳を受け止めようと試みたが、その拳を手でつかみ取った瞬間、犯人の力強さに驚くことになった。

 

 

「ナッ…!」

 

 

ウマ娘である自分が、人間である犯人の力に押し負けている。驚くウオッカを余所に、犯人は掴まれた片方の拳はそのままに、空いている方の手で相手の裾を掴み取ると、ケンカ四つの形になった。

 

 

「アンタ……!」

 

 

ウオッカから犯人を引きはがすため、スカーレットはそのまま犯人に飛び掛かる。それは偏に、犯人の力比べにウマ娘が押し負けそうになる、という異常事態を勘案してのことだった。

 

 

「…………」

 

 

犯人はスカーレットの方をちらっと見つめると、ウオッカを背中で担ぎ、背負い投げの形を取る。突然の出来事に困惑するウオッカは、それに抵抗し踏ん張ることさえできなかった。ウオッカは犯人に投げ飛ばされると、スカーレットを巻き込んで彼方へ吹っ飛ばされていった。

 

 

2人の身体は縺れあい、玄関口の扉に衝突する。ガラス製の扉は二人が勢いよくぶつかったことで音を立てて割れ、二人はそこに倒れ込んでしまった。

 

 

呻きながら立ち上がろうとするが、その脚には力が全く入らない。受け身も取ることさえままならず、どうやら衝撃をもろに受けてしまったようだ。そんな2人の様子を静かに見つめると、少し外れたフードをまた目深に被り直し、そのまま障壁のなくなった玄関口から堂々と逃走を始めようとした。

 

 

「クソッ………」

 

 

ウオッカの口から、悔しさを表す声が漏れ出る。犯人を追いたくても、今の状態では立ち上がる事すらままならない。自分たちの無力さに再び打ちひしがれながら、二人はその背中を見送ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よくやったな、ウオッカ君。スカーレット君」

 

 

そこには先程まで校門にいたはずの岸辺露伴の姿があった。彼は昨夜の戦闘で痛む傷に顔を顰めつつ、玄関口に立つ犯人をじっと逃すまいと見つめていた。

 

 

「ろ、露伴先生!?」

 

 

「ど、どうして?」

 

 

先程まで彼は校門にいたはず。その疑念を露伴に投げかけると、彼はじっと二人を見つめ、言葉を口にした。

 

 

「……本当はたづなさんと少し話すためだけに来たんだが、昨晩の戦闘でどうやら現場にスマホを落としてしまってね。現場にまだ落ちてはいないか確認に来たんだが、偶然その時騒動に出くわしたわけさ」

 

 

「そ、そうだったのかよ!」

 

 

「あぁ、ともかく。騒動の元である犯人を捕まえようとしたんだが、既に到着したのは紙がばら撒かれた後…誰かがこいつを止めなければこのまま取り逃がすところだった。本当に助かったよ……君たちがこいつを足止めしていなければどうなっていたことか」

 

 

その言葉に、ウオッカとスカーレットは顔に明るさを取り戻す。無力だと思っていた自分たちだが、ようやく犯人の確保に向けて助力できたようだ。露伴の言葉に顔をほころばせる2人だったが、犯人はそんな彼らを尻目に立ち去ろうとした。

 

 

「…………!」

 

 

 

しかし、犯人は露伴の傍をすれ違い、逃げようとした瞬間にまるで気絶するかのように倒れ込んでしまった。

 

 

「………何はともあれ、油断しなければこいつだってわけない。これで犯人を無事確保できたってわけだな」

 

 

「…………え?」

 

 

「すっげ~~………」

 

 

人智を超えた目のまえの光景に、ウオッカとスカーレットは只々驚くことしかできなかった。ヘブンズ・ドアーによって一仕事終えた露伴は、倒れた犯人をじっと見下ろすとウオッカとスカーレットを助け起こしに掛かったのだった。

 



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岸辺露伴は求めない7

 

 

貴方にとっての希望はなんだろうか?貴方にとって夜を超えるための活力は、一体何だろうか?

 

 

僕にとってそれは、間違いなく彼女だった。彼女の傍にいて、彼女のことを見て、そして彼女を支えること。それこそが僕の希望だった。

 

 

そして彼女の願いは、僕の願いでもあった。彼女には大きな目標があった。途方もないと思えるその夢を語る彼女の顔はどこか朧げで、手を伸ばしてしまえば霧となって霧散してしまいそうな、そんな危うさがあった。

 

 

だからこそ、何としても彼女の夢を叶えたい、そう願った。彼女のためにできることは何でもしたし、時には無茶をしてしまったこともある。それでもその日常こそが、僕にとって全てだったんだ。

 

 

だからこそ。だから希望を摘まれたその時。僕は大きな絶望の淵に叩き落された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝のトレセン学園は、犯人によってもたらされたカオスによって騒ぎが生じている。カーペットのように敷き詰められているチラシの上で、仰向けになってすっかりのびている犯人をじっと見下ろしながら、露伴はその犯人の目深に被られているフードを取り払った。

 

 

「こいつ……」

 

 

それは、およそ30代の男だった。露伴は敵の素顔を知れたことにとりあえず満足しつつ、ヘブンズ・ドアーの能力によって露わになった男の情報……名前や年齢、職業や体重はもちろん、彼が生まれてきて今迄見聞きした情報の仔細が記載されているページを手に取ると、それに目を通した。

 

 

羽賀進。年齢33歳……職業はトレセン学園の警備員?こいつ、関係者だったのか。

 

 

意外な敵の素性が判明したわけだが、この情報は露伴の頭に新たな疑問を落とすことになった。こいつがトレセン学園の警備員だったとして、昨日逮捕されたはずの看護師とは一体なんの繋がりがあるのだろうか?職業も、年齢も離れている二人だ。なにか繋がりがあるようには全く思えない。

 

 

それでもこいつら犯人には、何かしらの繋がりがなくてはあまりにも不自然なのだ。1件目と2件目の事件……その間に事件について知っている者は学園内の一部の者に限られる。つまりこいつが事件をみて真似しようと行動を起こした模倣犯という線はかなり薄いというわけだ。

 

 

もしかしたら、SNSで目的を同じくして繋がったというケースもありえる。それにしても一看護師と警備員がわざわざ顔のないウマ娘がモチーフの代物を学園にわざわざ設置する、その意図が全く分からない。

 

 

解せないことはあまりにも散在しているわけだが、いずれにしてもこいつの中に必ずその答えは隠されているはず。騒ぎを聞きつけた警備員たちがここに来るまであまり時間がない。こいつが連行されてしまえば、一民間人である自身がこいつから話を聞き出すことは難しくなってしまうだろう。露伴は目のまえのことに集中するため、急いでページを捲り始めた。

 

 

…初めて彼女ができたのは15歳、中学3年生の時。こいつ、初めてのキスの時彼女に舌を入れて拒絶されて、それをクラスの連中に言いふらされているな…って今はそんなことはどうでもいいんだ。

 

 

こいつが犯行に関わるようになった記述があるのは、もっと後の方のページのはずだ。露伴は更にページを読み進めていくと、とある箇所に目を止めた。

 

 

『20○○年1月○○日。深夜の巡回中に首の欠けた人形が大量に配置されているのを発見。学園長に報告、そして現場の状況の保存のために写真にそれを収めた。人形は全て同一人物のようであり、姿形は顔の欠けている特徴があるものの全て同じだった。』

 

なるほど、1件目の事件の第1発見者はこの男だったようだ。つまりルドルフに見せられた写真は、こいつが撮った写真だったわけか。露伴は一人でそのように納得したわけだが、直ぐに驚きの表情を浮かべることになった。

 

 

…この文章、可笑しいぞ?

 

 

ヘブンズ・ドアーが露わにさせた文章は全て真実のはずだ。自分自身の心に嘘をつくことなどできないし、そもそもこの文章はこいつが体験し、考えたことそのものだからだ。

 

 

この文章はまるで、こいつが純然たる市民としての犯行現場の第一発見者であり、そして警備員として真っ当に職務を遂行したって言っているみたいじゃあないか。つまりこの時点でこいつはこの時点では犯人側の人間ではなかったというわけだ。

 

 

つまり…つまり一体どういうことだ?こいつはこの時点で犯人ではなかったとしたら、この犯行現場に触発された模倣犯だった、ということか?疑問が新たな疑問を呼び込み、新たなに提示された事実は、自身を新たな思考の路地に放り込む入口と化す。

 

 

いずれにしても、もう少し記述を読み進める必要がある。1ページ先を読み進めた露伴は、また新たな疑念を投下されることになった。

 

 

「ワ・カ・ラ・ナ・イ?」

 

 

そこにはまるで、精神異常者が書き殴ったかのような………「ワカラナイ」とカタカナで書かれた拙い文字が、連続でページの見開きいっぱいに書き込まれていたのだった。…目のまえに飛び込んできたその状況のあまりの異様さに、露伴は思わず息を呑んだ。

 

 

その時だった。

 

 

「おい…!こいつだ!捕まえろ!」

 

 

「…おいこいつ、羽賀じゃあないか?まさか………」

 

 

その先に隠されているはずだった真実を暴くことは、叶わなかった。騒ぎを聞きつけた警備員たちが現場に押し寄せ、気絶している羽賀を発見する。露伴が止める暇もなく、羽賀は犯人として連行されていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なるほど、そんなことがあったのか」

 

 

トレセン学園の一角にある部屋。露伴の報告を聞いたルドルフも、その状況のあまりの歪さに顔をしかめた。その事件にまつわる全ての事実は、謎と呼ぶほかない代物だ。いくらその事実を精査しようとしたところで、現在手元に揃っている情報では、この事件の全貌を明かすことはできなかった。

 

 

「さしあたり犯人の確保には成功しましたが、SNSではその話題でもちきりでして……マスコミもこの事件について取り上げ始めています。学園は今その対応に追われていまして」

 

 

たづなが告げたその状況は、あまりにも想像に易い。実際ホテルで朝つけたテレビにもそのようなニュースが流れていた。注目されることが目的であるというならば、正にこの状況は犯人が求めて止まなかった状況だろう。

 

 

「しかしまさかこの学園の警備員が犯人だったなんて…」

 

 

ウオッカは喉の奥から信じられないといった声を上げる。彼女にとっては、この学園に自分たちの安心を脅かす存在が潜んでいたことに驚きを隠せないようだ。

 

 

事実、警備員と看護師の関係性。犯行動機の不明。犯人たちの人並外れた力…その疑問点を挙げればキリがない。露伴たちの前には敢然たる疑問が障壁となって立ちふさがっていた。

 

 

「…………で、でも犯人は捕まったんですよね?それだったらもう事件は終わったんじゃあないですか?」

 

 

スカーレットの意見は尤もだ。例え2件の事件の犯人が違っていたとしても。その犯人の繋がりが全く不透明だったとしても。またウマ娘を軽くいなしてしまうような力を持っていたとしても。その犯人は2人とも見事に捕まった。つまりこれ以上この事件のことについて考える必要は既にどこにもないといってしまえばそれまでだった。

 

 

「…………確かにな」

 

 

ウオッカも小さくではあるが、肯定の意を示す。それは言い換えてしまえば、思考の放棄だ。全く先の見えない、不気味な暗闇の中にこれ以上身体を留めておくことは、彼女にとっては聊か苦痛だった。その疑問から目を背けるような彼女の提案に、室内にいた一同はその案に甘んじる雰囲気に呑みこまれつつあった。

 

 

「…………いや」

 

 

待ったを掛ける、とある人物が放ったその一言。室内の人物たちはその言葉を放った人物の方をじっと見つめた。ルドルフはその一言を放った人物に向けて顔を見つめた。

 

 

「……それは…それは一体どういうことだい、露伴先生?」

 

 

露伴は自身が掛けたその言葉の真意を口にするため、言葉を続けた。

 

 

「多分…正直漫画家としての勘としか言いようがないんだが、この事件はこれで終わりなんかじゃあない。この事件は………この事件は恐らく…」

 

 

その時だった。

 

 

校舎の方が何やら騒がしくなる。事態の把握をしようと窓の外に身を乗り出した露伴は、外の景色を目に留めた途端、あまりの衝撃に目を見開いた。

 

 

「ナッ……あれは……」

 

 

それは顔を欠いたウマ娘を模した、銅像だった。銅像は校舎の目のまえの広場に、人目を惹くように設置されており、既にその周囲には多くの生徒たちが集まっており、スマホを片手にその様子の撮影に講じていた。それは露伴にとって……否、事件は既に解決したと結論付けようとしていたはずの部屋にいた一同にとってはあまりにも衝撃的な事実だった。

 



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岸辺露伴は求めない8

 

 

あれは…

 

 

初めて窓の外のあれを目撃したその時。あれに私は見た覚えが……一種のデジャヴを感じた。

 

 

チラリとウオッカの顔を見ると、見るからに彼女の顔には動揺と呼ぶには青ざめすぎている表情が浮かんでいる。それについて何か言葉を掛けようとしても、きっと今の自分も彼女と同じような表情に浮かべている。現に開こうとした口の中の生唾は瞬時に渇き、言葉を紡ぐことは叶わなかった。

 

 

……あれは。あれはもしや……

 

 

それはあり得ない。頭の中に浮かんだ一つの可能性を、瞬時にスカーレットはそれを否定した。何故ならば、何故ならば彼女は……彼女は……

 

 

深く抑え込んでいたはずの記憶が、その蓋を押しのけて噴出しそうになるのを必死に抑え込み、彼女は押し黙ることでその場をやりすごそうと決めた。ウオッカに再び彼女に視線を向けると、彼女もどうやら自身と同じ結論を下したようだった。ウオッカとスカーレットは急いで現場に向かう一同に続いて、部屋から外へと出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはあまりにも異様な光景だった。

解決したと思われた一連の事件がまだ続いていた。それだけでもこの事件の解決に向けて動き続けた一同には衝撃の事実だったが、驚くべきことは他にある。

 

 

「……ッ!」

 

 

一同は急いで窓の外から見えた現場に向かって走り寄る。校舎の外から出て、目のまえの広場に設置されているその代物は、一同の視線を再び釘付けにすることになった。

 

 

学園の広場の中央に設置された、1体の銅像。少々彫像の出来栄えとしては粗削りではあるものの、それが一体何を模して造られたものなのか。それを伝えるには十分なクオリティを有したそれは、校舎にいた生徒たちの目を、惹きつけるものだった。

 

 

大胆で、且センセーショナルなそれ。

そのいわくつきの代物に魅せられた生徒たちは、自分たちのスマホを取り出すとその撮影に講じている。大方撮影した写真を後で友人と共有し、そしてSNSで拡散するためだろう。

 

 

「離れてください!」

 

 

たづなの指示によって生徒たちが現場から引きはがされている間、露伴はじっと考え込むように銅像を見つめていた。

 

 

「……」

 

 

「露伴先生。これって……」

 

 

ルドルフは不安そうな顔を浮かべ、露伴のことをまっすぐと見つめる。2人の犯人が捕まり、終わったと思っていた事件が、実は続いていた。前提が容易く崩壊し振り出しに戻った一同は、その混乱の中でもどうにかしてその解決の糸口を掴もうと思案していた。

 

 

「……犯人は元々、3人いたってことだろうか?」

 

 

確かにそれは、ありえない話ではない。2人の犯人の逮捕に感化され、計画を起こした3人目の仲間。そう考えれば一応整合性はとれるが、そこには説明することができない疑問がいくつも生じる。

 

 

「いや…これはそんな単純な話じゃあない気がする。もっと根本的な…何か…何か」

 

 

ルドルフの読みは間違っている。犯人は元々繋がりがあったわけでは決してない。だとしたら、先程ヘブンズ・ドアーで読み取った警備員の羽賀の記述に、その旨が記載されているはずだからだ。

 

 

羽賀の記述には、犯人の存在の示唆は勿論、犯行の動機やその様子さえも全く記入されていなかった。あるのはたった一つ。「ワカラナイ」という言葉だけだった。

 

 

「……!」

 

 

その時だった。どうして今まで気が付かなかったんだ。今までの犯人の2人…警備員の記述と、更に看護師の証言が本心から出たものだとした場合…スタンドであるヘブンズ・ドアーが暴くはずの精神の根底さえも、阻害することができるのは…できるのは…

 

 

『スタンド使いとスタンド使いは、いずれ惹かれ合う』

 

 

かつて杜王町で吉良吉影を捜索する際に言われた、その言葉。自身がルドルフの依頼によってこの学園にやってきた。その縁を、因果をその言葉に当てはめるものとみた時…真実は。

 

 

「まさか…まさか犯人は…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時だった。

 

 

「キャーー!」

 

 

先程まで野次ウマの一人として銅像の周りにいた生徒の一人が、ある方向を指さしながら、周囲に響き渡るような大きな声を上げた。

 

 

「……⁉」

 

 

露伴は一体何事かとその方向を振り向くと、校舎を取り囲むレンガ造りの壁に、スプレー缶で何やら絵を描く人物がいた。その目撃によって、周囲の人物たちは口々に悲鳴を上げながら、その方向に首を向けた。

 

 

「止めなさい!」

 

 

たづなは作業に講じている犯人に走り寄ると、その腕をつかみ取る。犯人は振り返り、邪魔者であるたづなを排除しようと試みたが、瞬く間にたづなによって無力化させられてしまった。

 

 

「観念しなさい…!って貴方は……?」

 

 

遅れて犯人のもとへ歩み寄ってきた露伴がその犯人の顔を覗き込む。たづなによって犯人は身動きが取れない状態であり、その顔を覗きこむと、犯人は警備員の制服に身を包んだ老人だった。

 

 

「見覚えがあるのか、たづなさん?」

 

 

「この方は……佐々木清吾さん。この学園で長年警備員として働いて頂いている方です。仕事熱心な方で、生徒のウマ娘たちを自分の子供のようにかわいがっている方で……それなのに」

 

 

つまり、この男は本来であれば犯行に加担するような性格の人物では決してなかった。つまり……この犯行は……犯行は……

 

 

「たづなさん。警備員の業務に関するマニュアルを拝見したい。可能か?」

 

 

「え、えぇ……案内します」

 

 

それは、自身の中で立てられた一つの仮説に対する確認だった。佐々木を警察へと引き渡した露伴たちは、たづなの案内によって、彼女の執務室に案内される。

 

執務室は彼女らしく、非常に整頓され無駄な私物は置かれていなかった。彼女は執務室に据え付けられた棚から分厚いファイルを取り、そのページを捲り目的の箇所を見つけると、露伴たちが見えるように机の上に広げてみせた。

 

 

日本ウマ娘トレーニングセンター学園:警備業務マニュアル

 

 

そう表された紙には、実際の業務にあたって必要な行動、してはならないことがいくつかの項目に渡って記載されていた。露伴はその記載を上から指を指しながら読み進めていたが、やがて一つの箇所でその目は留まった。

 

 

「これは……」

 

 

「露伴先生……?何が書いているんだい?今回の事件と、そのマニュアルが何か関係あるのかい?」

 

 

「あぁ……あるどころか大アリさ。ほら、これを見ろよ」

 

 

露伴はとある箇所を指さしながら質問を投げかけたルドルフがその記載が見えるようにファイルの向きを変える。ルドルフはその記述が周囲の人たちにもわかるようにその記載を、声を上げて読んだ。

 

 

「業務マニュアル21。もしも学園内で不審者と遭遇、もしくは不審者の痕跡を発見した場合。可能であるならば状況の共有のために支給されたカメラで現場の記録をすること」

 

 

「これが……事件と関係あるんですか、露伴先生?」

 

 

「あぁ……これが、この行為こそが事件を引き起こすトリガーだったんだ」

 

 

「トリガー?……って、まさか!?」

 

 

露伴に続き、事件のカラクリに気が付いたルドルフは驚きの声を上げる。いや、この場合。この事件の真実について知りうるのは、室内にいたメンバーの中では、特異な体質・ギフトを持った露伴と、そのことについて聞かされていたルドルフだけだっただろう。

 

 

周囲の人々は、それについて釈然とせぬまま2人のことを見つめている。露伴はそんな周囲の人物たちを置き去りにしながら考え込んでいたが、やがて一つの言葉がその口からポロリと漏れ出た。

 

 

「……これはマズイぞ」

 

 

「……マズイ?」

 

 

ルドルフの質問に、露伴はその顔を顰めながら言葉を続けた。

 

 

「つまり……今回の行動がトリガーとなったということは、それが本当に合っているというんだったら……非常にマズイことが起こる。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時だった。

 

 

「キャー!」

 

 

校内のあるところで、悲鳴が上がる。その悲鳴の出どころを確かめるために、露伴たちは急いで執務室から出てその方向へと向かっていった。

 

 

「それで、露伴先生!一体何が分かったんだよ!」

 

 

先程から話を読み込むことが全くできなかったウオッカは、そこで初めて露伴に対して抗議の声を上げる。露伴はその現場へと向かう途中で彼らに説明を始めた。

 

 

「君たちにとって、今から話すことは突拍子のないことだろう。だが、驚いたり茶々を入れたりしないで聞いて欲しい……僕には、普通の人間にはない「能力」がある。そしてその能力を持つ者同士は、何の因果かお互いに惹かれ合う、そういうものなんだ」

 

 

「……そして。僕はトレセン学園の騒動を引き起こした能力者に、まるで引力によって引き寄せられるようにここに戻ってきた、そういうわけだ」

 

 

「犯人は……露伴先生の言った能力者ってこと⁉」

 

 

その質問に、露伴はゆっくりと首を縦に振る。そして露伴は能力を持たぬ一同にも理解することができるように、ある程度話を咀嚼しながらその言葉を続けた。

 

 

「犯人の能力は確かではないが、ある程度予測することはできる。今までの事件の一連のやり取りからある程度な…」

 

 

「それはつまり?」

 

 

「……黒幕の目的は一つ。『多くの人の目に触れる・注目される』ことだ。そうでなければあんなセンセーショナルなことをしでかす理由が何一つない。尤も、その方法が「顔の見えないウマ娘をモチーフにした、ポスターや人形、銅像を人目に触れさせる」ことなのはいまいち釈然としないがな」

 

 

「そ、それじゃあ今迄捕まった犯人たちは……?」

 

 

「黒幕に操られていた・能力の制御下に置かれていた、これしか考えれまい。犯人が作成した、ポスターやチラシ、銅像に対してあるアクションを起こすことでその制御下に置かれるわけさ」

 

 

「……あるアクション?」

 

 

「あぁ。それは警備員のマニュアルにもある通り、「その現場を記録する」こと。これしかあり得まい。この学園の警備員たちは、不審者やその痕跡を支給されたカメラで保存するように指示されている。これは能力を用いて、先程捕まえた羽賀から暴いた情報からも明らかになっている。今まで犯人たちが「ワカラナイ」と言っていたのも、偏に自身の意思によって行動をしたわけじゃあないから故だろう」

 

 

能力者によってある条件を満たすと、その目的に助力するものが増えていく。それはまるで犯人を宿主として感染が広がっていくような能力だった。

 

 

「警備員たちは犯人たちによって、その業務にあたった結果能力者の能力に感染した、そういうカラクリだ。さっき言ったカラクリの整合性を確かめるために警備員のマニュアルを確かめる必要があった。」

 

 

「なるほど、そうだったんですね!」

 

 

「世の中にはカタツムリに寄生し、鳥に発見されやすくするためにその触覚を膨張させる寄生虫・ロイコクロディウムや、寄生したカマキリに異常な行動をさせて、水場まで誘導させて水死させる寄生虫・ハリガネムシもいる。犯人がウマ娘にも勝る筋力を身に着けたのはこういうカラクリだ。能力の影響によって、人間に本来備わっているはずの身体のリミッターそのものを外してしまう、というところだろうか」

 

 

 

自分たちの力を遥かに上回る力をみせた犯人たちのカラクリ。その真実に一同はただ驚いていたが、露伴にそれに構わずさらに言葉をつづけた。

 

 

 

 

「そして……「記録する」ことがその感染経路であるとするならば、今の状態は非常にマズイ。」

 

 

「それって……どういうことだい?」

 

 

「気づかないか?写真を撮った時点で犯人の能力下に置かれる。今迄の現場には何がいた?そいつらは何をしていた?」

 

 

露伴の言葉に、ルドルフは現場のことを思い出すために思考を巡らせる。犯行現場には顔の欠いたポスターや銅像があって、そこには沢山の野次ウマがいて……彼女たちは……彼女たちは……

 

 

スマホで撮影を…

 

 

「…写真を撮ってた?」

 

 

どうやら事態は、既に取り返しのつかないところまで進んでいるようだ。現場の記録の保存の結果、黒幕の毒牙に掛かった佐々木が既に行動を開始しているということは。

 

 

一同は急いで声のしたと思われる箇所に到達し、その方向へと首を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……これは」

 

 

目の前の光景を一言で言い表すとするならば、それは「地獄絵図」だった。生徒であるウマ娘たちが、ある者は校舎の至るところにスプレーで何かを描き、またある者はポスターを壁に貼り付けている。先程まで穏やかな空気が流れていたトレセン学園は、僅かな時を経てカオスと恐怖が入り乱れた地獄絵図に早変わりしてしまっていた。

 

 

「…僕たちが犯行の邪魔をし続けていること。これは既に感染元である黒幕にも及び知られていることだろう。そして、黒幕がその1つの目的をもとに人々を操ることができるとしたら…」

 

 

壁にポスターを貼っていたウマ娘の一人がこちらに顔を向ける。その表情は、何の感情さえも窺うことができない洞穴だった。

 

 

「……どうやら逃げた方がよさそうだな」

 

 

目的を達するため、その障害物を排除する。

逃げた露伴たちを追って、続々とウマ娘たちは脚を踏み出していった。

 

 

 



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岸辺露伴は求めない9

 

 

浮世離れした、不思議な奴。

 

 

初めて彼女に出会った時、それが彼女に対してオレが抱いた最初の印象だった。学園の性質上、学園に来るウマ娘たちには個性的なキャラクターを持つ者が多い。ところかまわず占いを披露するマチカネフクキタル先輩や、奇行を繰り返し度々生徒会のお世話になるゴールドシップ先輩が良い例だ。

 

 

トレセン学園に入学して数日後。オレは朝方いつもよりも早い時間に目が覚めてしまい、寝付くこともできないため、学園の場所の仔細を把握しがてら、朝のランニングに赴いていた。

 

 

冬はすっかりと顔を潜め、春の朗らかな風が心地よく頬を撫でつけていく。 これからオレはこのトレセン学園で、勝負の世界に身を投じるのだ。ぼんやりと心のうちに生まれていた覚悟と不安が、次第に確固たる感情として心に据え付けられていた。

 

 

ハッ、ハッ、ハッ……

 

 

早朝のトレセン学園には誰にもいないのか。自身の息遣いだけが辺りには響き渡り、彼女は物見遊山でもしようかと視線をあちこちに移しながら足を繰り出していったが、やがてとある箇所に目を留めた彼女は、スピードをゆっくりと落とし、やがてその場に立ち止まった。

 

 

……あれは。

 

 

桜の木の下に佇む、一人の少女。制服を身に着けている辺り、当たり前ではあるがこの学園の生徒のようだ。彼女はまるで惹きつけられるように、引っ掛かった違和感を拭い去るかのようにふらふらと少女のもとへと歩み寄ると、そっと声を掛けた。

 

 

「……おい」

 

 

なんて声を掛けていいのか。そんな事を思った故か、あまりにも要領を得ない声かけを少女にしてしまう。少女はゆっくりと顔をこちらに向けると、自身に向けてじっとその目を向けてきた。

 

 

きれいな目だ。

 

 

まるで宝石のような瞳がこちらに2つ、じっと見つめてくる。同性ながら

ドギマギしてしまうのを何とか抑えつつ、彼女は言葉をつづけた。

 

 

「……ウオッカ。オレの名前はウオッカ、中等部1年だ…お前は?」

 

 

「……○○です。」

 

 

まるで鈴の音が鳴るような、そんな声だった。頭の上に王冠を載せた彼女は首を傾けて、相も変わらず顔をじっとこちらに顔を向けているものの、その表情の色に名前を付けるには聊か感情を読み取れない、そんな顔をしていた。名前を告げた彼女は、こちらから目を反らすことなくポケットから何かを取り出すと、ずいと何かを自身に手渡してきた。

 

 

「……え?」

 

 

それは一枚の紙。中央にはデカデカと、先程彼女が名乗った名前が印刷されていて、横には小さく「日本ウマ娘トレーニングセンター学園・中等部1年」と書かれていた。

 

 

「え…これ…名刺か…?」

 

 

困惑。その一言に尽きる状況だった。今しがた知り合ったウマ娘に、名刺を手渡される。いや、たしかに名刺は挨拶としてすぐに手渡すものだが、一生徒が名刺?

 

 

この実に奇妙な状況に、ウオッカはポカンと口を開けることしかできなかったが、当の本人はそれを意にも介さず、言葉をつづけた。

 

 

「そうです…あなたに覚えてほしくて。○○のことを」

 

 

ますます混乱を呼び込むその一言。覚えてほしい?自身のことを?様々な疑念が頭のうちに噴出することになったが、ウオッカはそれ以上このことに突っ込むことは、ますます自身の脳内に混乱を呼び込むことになりそうだと考え、それ以上このことについて彼女に問いかけることはしなかった。

 

 

「ま、まぁ…よろしくな」

 

 

何はともあれ。彼女もこれからの学園生活を送る上での大切な友人の一人であることには変わりない。ウオッカが差し出したその手を、彼女はそっと握り返す。

 

 

浮世離れした不思議な奴。彼女抱いた第一印象はそれだったが、もう一つ。彼女に抱いた印象があったことは、今考えてみれば予兆のようなものだったのかもしれない。

 

 

いずれにしても、それについて今思い返したとしても、既に物事は時と共に流れ、消して巻き戻すことはできない。その後悔と記憶の残滓だけが、自身を強く捕らえて離さなかった。

 

 

すなわち「目を離せばどこかに消えてしまう」と

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2度あることは3度ある。常軌を逸してしまった校内のウマ娘たちが、大挙して障害である自分たちを排除しようとその足を繰り出してくる。ウマ娘たちを相手にして、逃走を図る機会は今までに何度かあったが、今回の逃亡は今まで以上に窮迫性を孕んだものだった。

 

 

口の奥から鉄の味が滲む広がり、肺を乱雑に押し広げる。

 

 

露伴たちは先程走ってきた廊下を再び走り始める。やがて最初にいたたづなの執務室に駆け込むと、急いで室内にあった椅子や机、棚をドアに置き即席のバリケードを構築した。肩で息をしながらその場に座り込むと、一同はドアの外から荒々しく響くノック音を聞きながら、互いに顔を見合わせた。

 

 

これから、どうするべきか。

 

 

室内に施した対策は、あくまでこの場を凌ぐ応急処置にしかならないということを、室内にいる一同は全員理解していた。こうして室内で敵の侵入を食い止めている間にも、敵は着々とその目的…「より多くの人に注目される」こと。その本懐を果たしていっている。敵の能力によって、感染者は鼠算式に続々と増えていき、そしてその感染者たちが残した代物を、より多くの人々が目撃し、そして記録していき、またその数を増やしていく。

 

 

「これ…マズイな」

 

 

ウオッカは苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべ、スマホを露伴の方へと向ける。すでにSNS上では一連の事件が大々的に取り上げられていて、マスメディアにもニュースとして一般の人々に向けてセンセーショナルに報道されている。タイムライン上にはその事件の写真が掲載されていて、まさしく黒幕の思うつぼ、という状況が作り上げられてしまったわけだ。

 

 

「……これからどうするんだい?露伴先生」

 

 

自身がその案を思いつくことができず、歯がゆさを覚えながらルドルフは露伴に対して質問を掛ける。この状況を解決に導くためには、やはり事件の裏に潜む黒幕の尻尾をつかむ他ないだろう。だが、未だ自分たちはその影すら見つけることができていない。

 

 

何か、何か事件を解決するためにできることはないのか。今までの事件の中で、何か黒幕に近づくための手がかりがあるはずだ。

 

 

「何か…何かないのか」

 

 

4件の事件の内容。感染者たちの特徴。記録することによって感染するという特殊な条件。何か…何か…

 

 

「…………あ」

 

 

突如、露伴の声が口から洩れる。彼はまっすぐと顔を上げると、次にその顔をルドルフの方へとゆっくりと向けた。

 

 

「…………あるかもしれない」

 

 

「……それは本当か⁉」

 

 

「あぁ。一連の事件…今までの4件の事件がどう起きたのか。その内訳…1,2件目は看護師の淀川。3,4件目は警備員の羽賀と佐々木。警備員はそれぞれ、業務の内容に従って犯人である淀川真美が残した形跡を記録した結果感染したことは分かっている。」

 

 

「…………それがどうかしたんですか?」

 

 

「…警備員たちが感染した経緯は業務の内容から然るべきということさ。言い換えれば、1件目の淀川真美はその経緯が不明…つまり彼女はマザーとなる黒幕と接触した結果、第1感染者になった可能性が高いというわけさ」

 

その言葉を聞いたルドルフの目は大きく見開かれた。

 

 

「つまり、淀川真美の頭をヘブンズ・ドアーで見ることができれば!黒幕に近づくことができるということだな⁉」

 

 

露伴はその言葉にゆっくりとうなずく。黒幕と接触したのは、恐らく感染する以前の話だ。それならば彼女自身にもその記憶の残滓が記載されているに違いない。黒幕に近づくために見出した活路。しかしながらその活路については、一同の前には大きな障壁が存在していた。

 

 

「ですが…感染者の淀川真美は…」

 

 

たづなの脳内に思い浮かんだ懸念事項。それについては、露伴自身も認識、そして同じく懸念していたことだった。

 

 

「あぁ、彼女は今、留置所の中だ。つまり彼女の話を聞くためには、留置所の中に行って彼女の顔を拝む必要があるというわけだな」

 

 

感染者の淀川真美は現在、付近の警察署の留置所にその身を拘束されているはずだ。SPW財団のコネクションを用いて、彼女から話を聞くという手段もないわけではないのだが、それではあまりにも時間がかかってしまう。一刻の猶予も残されていない現状では、そんな悠長に事を構えている暇などどこにもあるまい。

 

 

つまり、つまり一般市民である自分たちが留置所の中にいる彼女から話を聞き出すには。

 

 

「…………留置所の中に忍び込む必要がある」

 

 

それはあまりにも大きなリスクだった。しかしながら、それをしなければ状況はどんどん悪化していく。校内で感染者が蔓延しているということは、既にいつ校外へも出てしまっても可笑しくない。この世界が混沌と恐怖に包まれるのに、多くの時は要しないだろう。

 

 

「……それでもやらくちゃあならないだろう」

 

 

ルドルフの口から漏れ出た一言。それは学園を導き、守り抜いてきた者の、誇り高き決意の一言だった。露伴はその言葉にゆっくりとうなずくと、座り込んでいた床からすくっと立ち上がった。

 

 

ここで立ち止まっていても埒が明かない。黒幕を見つけ、学園を救う。そう決めた以上はすぐに行動を起こさなければならない。

 

 

「よし、それじゃあまずはこの学園から出ることが最初だ。」

 

 

露伴はそういうや否や部屋の窓を開け、片足を窓枠に掛ける。そして外へと出る直前、室内にいる一同の方へと顔を向けると、声をかけた。

 

 

「…………さて、それじゃあ付いてくるやつは?」

 

 



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岸辺露伴は求めない10

 

 

忘れた日なんて、一度だってない。

 

 

これ以上、何処を探せば。誰に尋ねれば、心は許されるのだろうか。あと何度思い返して、その残滓に縋り付けば、もう一度……

 

 

頭の中で軋み、胸の中には錨を取り付けられた心が深海へと深く、深く沈み込んでいく。

 

 

最後に朝日を美しいと感じた朝は何時だろうか?最後に夜を超すのが怖いと思わなかったのは、一体何時だったか。いくら影を追い求めても、一切の光はそこになく、その影は深い闇に紛れ視認することができなくなる。

 

 

一体どうすれば。一体どうしていれば…どうしていれば……

 

 

……?アレ……?

 

 

思考が……。アレ……?何が……どうして?どうして……

 

 

何かが、少しずつ零れ落ちていく。大切なものだ。自分にとっても……みんなにとっても……

 

 

神様。どうかこれ以上奪わないで。

 

 

心のうちに浮かんだ切なる願い。それを失わないように必死にそれをつかみ取ろうとするが、全ては砂のようにパラパラと、手から虚しくすり抜けていった。

 

 

 

 

……

 

 

全ての整合性が失われ、感情と混乱だけがその場に取り残された時。浮かんだことはたった一つだけだった。

 

 

……ワカラナイ。

 

 

 

 

 

 

「……到着したな」

 

 

トレセン学園を抜け出し、一同がたどり着いたのはトレセン学園からほど近くにある警察署だった。

 

 

「……」

 

 

目的地にたどり着いたというのに、一同の顔に安心感といった類は何一つ見受けられない。それもそのはず、彼女たちの心に占められていたのは、たった一つの出来事だけだった。

 

 

ここに到着するまでに目撃した光景の数々。既に校外に「現象」が発生しているリスクは懸念されていたものの、実際に目撃するとそのショックは聊か大きいものだった。既に街は荒廃の前兆を見せている。人々は現場に混乱し、その光景を「記録」する。そのカオスは文字通り感染し、更なる混乱を人々に伝染させる悪循環。街のあちこちでは悲鳴と動揺の声が上がり、各地でその収拾を収めるためにパトカーのサイレンがひっきりなしになり続けていた。

 

 

事態は一刻の猶予さえ許されない。

 

 

「さて、これからどうする?」

 

 

警察署に忍び込み、拘留されている人物の証言を聞く。言葉にしてしまえばそれは簡単な話だが、それは大前提として違法な行動である。街の混乱を収めるためにいくらかの警察職員が現場に出払っているとは言っても、それが実現には聊か困難な問題であるという事実には何も変わりはない。

 

 

「……全員で行くわけには行かないでしょうね」

 

 

現在、ここにいるメンバーは露伴、ルドルフ、たづな、ウオッカとスカーレットの5人である。この全員がわざわざ警察署に乗り込むことはあまりにも目立ちすぎるし、ましてやウオッカやスカーレットはまだ中等部の女の子だ。警察署に多少の変装をして潜り込んだとしても、彼女たちの姿、顔だちはあまりにも目立ってしまう。

 

 

「……僕が行こう。当然だが、僕がいなければ作戦は成功しないんだからな」

 

 

しばらくの沈黙の後、露伴はその口を開く。当然のことではあるものの、現在警察署に拘留されている淀川真美から素直に話を聞くことができるとは限らない。彼女から確実に証言を取るためには、露伴のヘブンズ・ドアーの能力が必要不可欠だ。つまり警察署に忍び込むメンバーの中には、必然的に露伴が入ってくるということになる。

 

 

「なら、私が付いていくよ」

 

 

すかさずルドルフが口を開き、そのメンバーに志願する。しかし、露伴はその提案に対して決して首を縦に振らなかった。

 

 

「いや、君は競技者としてあまりにも顔が知られ過ぎている。ましてやここはトレセン学園のお膝元。君たちウマ娘に対して興味を抱いている者もきっと多いだろう。君はここでウオッカ君とスカーレット君といてくれ……たづなさん、貴方が僕に付いてきてほしい。貴方だったら職員に顔が割れるリスクは限りなく低いだろう。」

 

 

「わ、わかりました……」

 

 

「露伴先生……」

 

 

ルドルフは不満気に露伴のことを見やったが、同時に彼女は露伴の理屈が正しいことも重々に理解していた。ウマ娘特有の嫉妬を一瞬醸し出した彼女も、すぐに元の聡明な彼女に戻り、ウオッカとスカーレットの二人に声を掛けた。

 

 

「それでは私たちはここで待とうじゃあないか……露伴先生。後は頼んだよ」

 

 

露伴はその言葉に首をゆっくりと縦に振ることで彼女に応えると、自身がこれから乗り込む建築物に視線を移し、一歩前に踏み出した。

 

 

 

 

 

警察署の入り口に守衛として立つ2人の警官は、互いの顔を緊張した面持ちで見合わせ、外の惨状に再び視線を戻した。

 

 

自然と、警杖を握る手の力が強くなる。

 

 

本日未明。警察署に入った多数の通報は、管内の職員を驚かすには十分すぎる材料だった。職員は騒動の鎮圧に駆り出され、署内に残された職員は僅かとなっている。他の警察署からの応援を待つ間、こうして何もできないことはもどかしさとして喉の奥につっかえていた。

 

 

「……一体、何が起こっているんだ?」

 

 

不安気に漏れ出た一言。どうやらそれはもう一人の守衛にも聞こえていたようで、その身体は僅かに揺れたのを視界の端でとらえた。

 

 

その時だった。

 

 

「……あの!」

 

 

目のまえに一人の女性が歩み寄ってくる。着の身着のまま、急いでここまでやってきたようで靴の片方が脱げてしまっていた。

 

 

「どうしました⁉」

 

 

彼女に歩み寄り、一体何があったのか尋ねると肩で息をしながら言葉を紡いだ。

 

 

「……ちょうど、あそこで……騒ぎが……私…怖くて」

 

 

そう言うと彼女は曲がり角の先を指さす。既に警察署の目と鼻の先で事件が発生している。警官たちは顔を瞬時に引き締めると、女性が指さした方向へと駆け出して行った。

 

 

……市民を、この町を守らなければ。

 

 

2人の警官が曲がり角に差し掛かる。するとそこには女性が言っていたような騒ぎは全く起こっておらず、一人の男が立ち尽くしていた。

 

 

「……は?」

 

 

目のまえの状況を全く理解することができない。2人の警官がポカンと口を開いていると、その場にいた男は徐に口を開いた。

 

 

「……本当に申し訳ないが、ちょいと君たちには協力してほしくてね。平たく言えば、君たちの制服が必要なわけだ。まぁでも……これはこの騒ぎを収めるためだ。許してくれ」

 

 

すると男は空に向かって何やら走り書きをする。その光景を見た瞬間、警官たちの意識は暗闇へと吸い込まれていった。

 

 

 

 

「さて……それじゃあ服を貰うとするか。寒空の下で放置するのはちょいと可哀想だが、精々風邪っぴきになるくらいだろう。」

 

 

「露伴先生!どうでしたか?」

 

 

露伴のもとにやってきたたづなは、交互にその場で気絶している警官と、露伴を見合わせながら、近くに隠していた片方の靴を慌てて装着した。

 

 

「……さて。たづなさん。こっちの奴の方が貴方の着丈に合いそうだ。僕は他の奴が来ないか確かめながら向こうで着替えるから、ここで着替えてくれ」

 

 

「わかりました!」

 

 

露伴は片方の警官を担いで、曲がり角の更に向こうへと姿を消す。たづなは一人残された場で、警官から制服を脱がせ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

警官姿に身を包んだ露伴とたづなは、警察署内へと足を運んでいく。署内は先程から発生した騒ぎの鎮圧のために駆り出され、皆慌ただしく動いているようで、顔なじみではない露伴とたづなが署内に紛れ込んだとしても、違和感に気が付く者は誰もいなかった。

 

 

「急いで拘留所を探そう……案内図がある」

 

 

二人は署内に掲示された案内図を見ると、どうやら最上階に拘留所はあるようだ。二人はエレベーターに乗り込み最上階へと向かう。

 

 

「4階です」

 

 

エレベーターのオペレーターが最上階に到達したことを告げる。二人が外に降り立ち、拘留所へと向かうと、そこには通路が檻によって区切られ、見張りが一人立っていた。

 

 

「……?お前ら何の用だ?」

 

 

見張りが訝し気にやってきた二人のことを見つめる。彼が露伴たちの到来に疑念を抱くのは至極当然だろう。それでもこいつにここから立ち去ってもらわなければ、話が前に進まない。露伴は怪しまれないように笑みを浮かべながら、言葉を発した。

 

 

「……交替の時間だそうで」

 

 

「はぁ?交替ぃ?おいおいおいおいおい……まだ交替の時間には2時間もあるぜ?それに次の担当は松下だったはずだ」

 

 

「……松下さんは応援に駆り出されてしまったので」

 

 

たづなが横から助け舟を出す。しかしながら見張りの警官の顔が緩むことは全くなかった。

 

 

「……それはそうだろうな。これだけ騒がしかったら尚更だ。だが、お前ら見ない顔だな?……少し確認するから待て」

 

 

見張りの警官は胸に付けられているインカムに手を伸ばす。しかしその瞬間、警官はインカムに伸ばした手を止めると、大きく目を見開き二人のことを見つめた。

 

 

「……ろ、露伴先生?アンタ、『ピンクダークの少年』の作者、岸辺露伴先生だよな⁉なんでここに……」

 

 

「……!」

 

 

しまった。どうやらこの警官、漫画のファンだったようだ。自身はルドルフやウオッカたちよりも有名ではないにしても、連載を抱え第1線で活躍する現役の漫画家だ。漫画のことが好きであれば、その顔を知っているであろう可能性を失念していた。

 

 

だが、このような反応をされて悪い気はしない。露伴は思わず顔をほころばせたが、次に発した警官の発言によってその顔は凍り付いた。

 

 

「オレ、アンタの漫画のファンだったんだよ!」

 

 

その瞬間、露伴は先程のように高速で空に何かを走り書きをすると、警官はその顔にページを出現させながら昏倒した。

 

 

「……こいつ……!漫画のファンだった、だぁ?そもそも漫画を読んでないと言われるよりも腹が立つ……!」

 

 

あからさまに苛立ちながら警官を見下す露伴を見つめ、たづなはため息をつく。最近ではあるが、この岸辺露伴という男が分かってきた気がする。シンボリルドルフ会長が何故この男に惚れたのか。その経緯は全く分からないが、それには深い訳があるのだろう。

 

 

 

 

 

 

何はともあれ、警官の腰についている鍵を奪い取ると、檻を開け犯人たちが拘留されている場所へと歩み始める。

 

 

やがてしばらく歩くと、檻がいくつか付けられた場所を発見する。どうやらここが目当ての拘留所のようだ。露伴とたづなが注意深く檻の中にいる人たちの顔を見ながら歩みを進めていると、とある箇所に目が留まった。

 

 

「……うっ」

 

 

それは正しく「異様な光景」だった。一人の女性……髪は整えられておらず方々に乱れた彼女が何やらぶつぶつと呟きながら、壁に一心不乱に絵を描きこんでいた。

 

 

……顔のない、ウマ娘。

 

 

それは今まで目撃してきたもの同様、顔のないウマ娘の絵だった。どうやら彼女は鉛筆のような描くものがないため、指から出た血で描いているようだ。そのあまりに異質な様子に息を呑みつつ、二人は互いに顔を見合わせた。

 

 

間違いない。彼女が淀川真美だ。

 

 

露伴はじっと彼女を見据えると、声を掛けた。

 

 

「……おい」

 

 

その言葉に、檻の中にいる淀川はピタリと壁に描いている手を止めると、壊れた人形のようにふらふらと露伴の方に顔を向ける。その瞬間、露伴が空に絵を描くと、彼女はまるで糸の切れたマリオネットのように力なくその場に倒れこんだ。

 

 

「さて……これで話が聞けるな」

 

 

露伴は檻を開けてその中に入ると、彼女の顔に発生したページを手に取り、その中に目を通し始めた。きっと彼女は黒幕に接触した唯一のキーパーソンだ。彼女の記載の中には、きっとその手がかりがあるはずだ。

 

 

「…これは」

 

 

ページをいくらか捲り、とある箇所で彼の目は留まる。そこには彼女が「今の彼女」になってしまった状況がつぶさに記録されていた。

 

 

「……20〇〇年4月21日。勤務している病院に二人の急患患者が搬送される。一人は日本ウマ娘トレーニングセンター学園の生徒のようで、もう一人は、彼女のトレーナーのようだ。一人は手術によって一命を取り留めたが意識不明、もう一人は……」

 

 

「同年11月30日。意識不明だった患者の意識が長い年月の末に目覚める。頻りにもう一人の搬送された患者のことを気にかけていたようだが、その顛末を正直に伝えたところ、精神レベルの著しい低下を観測。その日から患者の名前を呼び続け、食事にも手を付けずに暴れていたものの、ある日を境に精神に異常を来し、「ワカラナイ」と頻りに言葉を発し続け、当病院では手に負えないと判断され、付近にある精神病院に治療のために収監される」

 

 

それは、あまりにも衝撃的な事実だった。顔の欠けたウマ娘、動機と方法の矛盾性。その要素の一つ一つが黒幕の状態……つまり精神に異常を来している状態を鑑みれば、そのピースが一つの線となって繋がり、頷ける。

 

 

つまり黒幕自身も、自身がしでかしている状態の認識ができていないということだ。

 

 

露伴は淀川から得た情報を、包み隠さずにたづなに伝える。そのことを漏らさずに聞いたたづなは驚いた表情を浮かべたが、やがてその顔に暗い表情を宿した。

 

 

「……なるほど。それは納得できました。その……でも……そうでしたか……黒幕の方の場所、分かっています。」

 

 

苦労して得た真実。それが決して希望であるとは限らない。例え真実が暗闇よりも深く、哀しみと絶望に包まれたものだったとしても……それでも。

 

 

それでも。

 

 

「……さぁ。いきましょう。黒幕と決着つけるために」

 



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岸辺露伴は求めない11

 

 

初めて彼女に出会ったのは、トレセン学園に入学して数日が経過した時のことだった。

スカーレットはトレセン学園に入学し選抜レースに出場するまでの間、新入生たちは生徒たちを一括して指導を請け負う教官のもとで、その競技者としての生活はスタートした。

 

 

桜舞い落ちる春のトレセン学園のターフで、生徒たちの前にして教官はその指導にあたる。、彼の指導を受ける生徒たちの中の一人ダイワスカーレットの眉は、不機嫌によって八の字に引き上げられていた。

 

 

……ぬるい。

 

 

ぬるい。これではあまりにもぬるすぎる。アタシはウマ娘として、「1番」になるためにウマ娘の育成機関として頂点に立つこの学園の門を叩いたのだ。ここにいる連中はもちろんのこと、これから走るレースで膝をつくようなことがあってはならないのだ。

 

 

他の生徒のウマ娘たちがこのトレーニングについてどう思っているのかはわからないが、このように生徒たちを一緒くたに、「懇切丁寧」に……まるで雛が羽を付けて巣立つように組まれたトレーニングでは、自身が成長するに足りるものとしてはあまりにも不十分すぎる代物だった。

 

 

「……よし、実践に移ろう。それじゃあ400メートルを走ってみようか」

 

 

「教官!」

 

 

スカーレットはその声を上げ、教官の声を遮る。一体何事かと、教官と烏合の衆と化したほかの生徒たちはスカーレットに顔を向ける。彼女は集団から一歩先に前へと飛び出ると、胸を張って言葉を放った。

 

 

「……私は、1500メートルを走りたいです」

 

 

アタシはこれから、ウマ娘として強豪ひしめき合うプロの世界へと乗り込んでいく。そしてアタシはその世界で、幼い頃から目標としていた「ティアラ」をつかみ取るのだ。ジュニア期を経て2年目のレースに強豪たちと渡り合い、勝利をつかみ取るためには、少なくとも確実にマイルを走りきるスタミナを獲得・その体感を掴む。この事項の完遂が急務だ。

 

 

つまりこんなところでちまちまと短い距離を走ることは、非常に不服なのだ。

 

 

「えーと。君は……」

 

 

「ダイワスカーレットです」

 

 

アタシはその名前が周囲にも聞こえるように、言葉を続ける。彼女の傍若無人ぶりを目撃した周囲の者たちは、ある者は腫物を触るかのように見つめ、ある者は蔑みの視線を向けていた。

 

 

「いいかい?君たちはまだ入学したてで、マイルを走るスタミナは持っていない。それに選抜レースでトレーナーがつくまでは、基本的なトレーニングで……」

 

 

「今のうちに、その距離が如何ほどのものか。肌で実感したいんです」

 

 

教官もウマ娘の指導のプロだ。その辺の知識については、入学したての自身がとやかく言うことも、そしてそれに対して反発し、背伸びをしてトレーニングをしようとする自分は生意気と受け取られても致し方ないことを、スカーレットは理解していた。

 

 

それでも。

 

 

本気で勝ちたい。そう願うのであれば、自身のように、多くのことを実践し、吸収する気概を見せつけなくてはならない。

 

 

……フン。

 

 

ここで上昇志向すら持てぬ者が、これから大海原を無事に渡り切ることができると本気で思っているのか。スカーレットは愚者たちの視線を意にも介さず、苦笑を浮かべる教官をにらみつけるように見つめると、ある者が声を発した。

 

 

「……すんません。オレも1500、走りたいっす」

 

 

一体誰だろう。

 

 

スカーレットは何者かとその声の方向に首を向けると、そこには一人のウマ娘。片目が隠れた黒髪に、ヘッドギアをつけたウマ娘の姿があった。彼女はハリのある声でスカーレットに続くと、教官の反応を待たずにターフにあがり、ウォーミングアップを始めた。

 

 

彼女の名前は……確か、ウオッカだ。

 

 

ウオッカ。自身の寮の同部屋のウマ娘。少々勝気な子であるという印象は受けていたが……

 

 

ウオッカに続いて、スカーレットは急いでターフの上に上がりウォーミングアップを始める。彼女の隣でアップをしながら、スカーレットはウオッカに声を掛けた。

 

 

「貴方、ウオッカさんよね?一緒に頑張りましょう」

 

 

あくまで優等生として。スカーレットは彼女に対して労いの言葉を掛けるが、ウオッカはその口角をにやりと引き上げると、言葉を返した。

 

 

「……おいおい。オレに対して優等生面は止めてくれよ。お前の腹の中はもうわかっているつもりだぜ」

 

 

なるほど。彼女はあくまで見抜いていたか。恥ずかしさが体中を熱さとなって貫いていくのを感じたが、スカーレットの胸の内にはある一つの感情が浮かんでいた。

 

 

素直にうれしかった。ライバルの誕生に。優等生という皮をかなぐり捨て、素直に感情を露呈することができる存在の誕生に。

 

 

「……いいわ。吠え面かくんじゃあないわよ。ウオッカ」

 

 

結果は二人とも1500メートルを満足に走り切ることは出来なかった。へとへとになりながら、縺れるようにゴールを二人してたどり着く。見るに堪えない姿を晒すことになったのは言うまでもないが、それでも二人は。ウマ娘の歴史に名を刻む二人のウマ娘たちの船出には、十分すぎる代物となった。

 

 

「お疲れ様でした」

 

 

走り終え、誰もいなくなったターフにへたり込む二人。そしてその2人に声を掛ける人物。ウオッカは肩で息を整えながらその人物の方へと首を向けると、素っ頓狂な声を張り上げた。

 

 

「お、お前は……!」

 

 

驚きの声を上げるウオッカに続き、スカーレットもその方向へと首を向ける。するとそこには一人のウマ娘の姿があった。王冠を模した髪飾りに、鹿毛の髪。彼女はウオッカに続きスカーレットにも顔を向けると、言葉を続けた。

 

 

「よかったら、これをどうぞ。」

 

 

そう言って彼女から、汗を拭くタオルを手渡される。スカーレットは素直にそれを受け取ると、ウオッカに対して言葉を掛けた。

 

 

「ちょっと。アンタ……この子と知り合いなの?」

 

 

「い、いや。今朝知り合ったばかりだ。名前は……」

 

 

「……○○○○○○○○○です」

 

 

自身の名前を告げた彼女は、蜃気楼のように在りどころを探し当てるのに苦心するような、そんな危うさがあった。そんな彼女をじっと見つめていたが、まるで自身の深い心のうちまで覗き込まれてしまう。そんな錯覚に陥った。

 

 

そんな錯覚に陥ったスカーレットは無意識の内に彼女から目を反らす。すると彼女はスカーレットの方へと顔を近づけ、言葉を続けた。

 

 

「……お近づきの印に、どうぞ。」

 

 

戸惑うスカーレットをよそに、彼女はずいと何かを手渡す。なし崩し的にそれを受け取り、目を通した彼女は素っ頓狂な声を上げた。

 

 

「え⁉こ、これ……名刺?」

 

 

それは彼女の名前が仰々しく掘られた名刺だった。何の説明も受けずに手渡されたそれに困惑していると、ウオッカが横から口を開いた。

 

 

「……オレの時もそうだったんだよ。」

 

 

なんでたってこんなことをするのか。疑念を込めて彼女に向けて視線を投げかけると、彼女は意にも介かぬように言葉を続けた。

 

 

「覚えていて欲しいからです。私のこと」

 

 

突拍子のない彼女の発言にスカーレットは目を丸くする。覚えていてほしい?それは……つまり。つまりどういうことなのか?自身の存在の認識の波及という、あまりにも奇妙な動機と、それをもとに繰り出される奇妙な行動に二人は茫然としていたが、それを気にも留めずに彼女は言葉を口にした。

 

 

「これからよろしくお願いします。スカーレット、ウオッカ」

 

 

そう言って見せた彼女の笑顔は、今までにみたどんな日の太陽より輝き、そしてどんな花よりも美しく、儚いものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ある時、彼女と話した時。それはウオッカといつものように喧嘩をした後のことだった。

 

 

「スカーレット」

 

 

いつからそこにいたのか、彼女は自身の背後に立っている。何事かと顔を向けると、彼女は言葉を続けた。

 

 

「どうしたんですか?怖い顔して」

 

 

「……あのアホ……ウオッカと喧嘩しただけよ」

 

 

「……フフッ。スカーレットらしいですね」

 

 

ウオッカと一緒くたにされるのは少々腹立たしいが、これ以上物事に突っかかるほどのスタミナは残されていない。スカーレットはため息を一つつくと、話題を反らすため……そして彼女に対して以前から気になっていたことを彼女に質問を投げかけた。

 

 

「そういえば貴方って、アタシやウオッカのことだけ呼び捨てで呼ぶわよね?」

 

 

「……いやですか?」

 

 

「そういうわけじゃあないけど」

 

 

彼女の返答を否定しながら、顔を覗き込むと、その表情は読み取ることはできない。会話の続きに窮していると、彼女の方から徐に会話が切り出された。

 

 

「……スカーレットは、私たちが最初に会った時のこと、覚えてますか?」

 

 

「え、えぇ……」

 

 

突然のことに戸惑いつつ、スカーレットがそう答える。

 

 

「……私も。あの時、走りたいって言えば良かったなぁ」

 

 

「……え?」

 

 

彼女が呟いたその一言を、アタシは聞き取ることができなかった。そのあとそれを聞き返しても、彼女は自身が言った発言が何だったのかを教えてくれることはなかった。

 

 

……あの時の彼女の顔。

それは彼女が浮かべたあの表情。あの表情を、アタシは今でも忘れることができない。

 

 

……それはとても。とても寂しそうな笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何はともあれ、嵐のような登場をみせた彼女。そのセンセーショナルな登場をそのままに、学園生活では大いに彼女に困らされたことは言うまでもない。

 

 

しかしながら、別に彼女のことが嫌いなわけでは決してなかった。寧ろ大切な友人の一人で、アタシにとっては大切な……

 

 

それでも彼女には、他の友人たちとは確然とした違いがそこにはあった。彼女との間に確かに存在していた溝は、いくら時をかけても決して縮まることはなく、彼女のことを知ろうと近づいても、その距離は確かな代物となって自分やウオッカとの間に棲み分けとして在り続けた。

 

 

つかむことができない、蜃気楼のような彼女の残滓を、今でも私は日々の節目に、生活を送る中に感じることがある。

 

 

時には退屈な授業を過ごす教室の隅に。

 

 

時には練習に勤しむターフの上に。

 

 

時には電車を待つホームの向かい側に。

 

 

 

 

時には歩いている途中に肌を撫でつけた、街角の風の中に。

 

 

こんなところに、いるはずもないのに。そんなことはわかっているはずなのに。後悔だけが日々、使われない部屋に蓄積する埃のように降り積もり、アタシや……恐らくウオッカにも。アタシたちだけではない、多くの者たちの心の中に降り積もっていることだろう。それはアタシたちの影を大きな暗闇の中に少しずつ呼び込み、確かなシコリとなってそこにあり続ける。

 

 

この疵が。この痛みがいつか無視できない代物となる日が来るのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

警察署から出てきた露伴とたづなの表情には、入る時に比べるといくらか暗い影が差していた。制帽を脱いで一息つく露伴は、そばにあった植え込みの段差に腰を落とした。

 

 

「お疲れ様。露伴先生……何か手がかりは掴めたか?」

 

 

質問を投げかけるルドルフに対して、露伴は徐に言葉を続けた。

 

 

「あぁ。手がかり……黒幕の正体。それを掴むことができた」

 

 

「なっ……!ほ、本当か⁉それで犯人は⁉」

 

 

露伴の言葉を受けて、ルドルフは大きくその目を大きく見開く。ルドルフの質問に答えるために、露伴がその重い口を開く。その時だった。

 

 

「グッ……⁉」

 

 

身体を貫く、どんよりとした重い不快感。まるで風邪の引き始めにかかってしまったような、そんな感覚。頭がまるで鉛を付けられたようにどんどんと重くなり、いましがた伝えようとした情報は頭から等加速度運動的に零れ落ちていく。

 

 

……一体。一体どういうことだ?

 

 

「ろ、露伴先生⁉どうしたんだい⁉」

 

 

自身の身に起こった現象を理解することができずに戸惑う露伴は、やがて自身の身に起こった事象の原因にたどり着いた。

 

 

……そういえば僕は、初めての事件現場、トレセン学園で起きた事件としては3件目になるが、事件が発生した際にその様子をカメラで撮影しようとしたが、電源が入ってなかったため、その時僕は、僕は…………

 

 

「……スケッチブックで‼僕は事件を『記録』しているッ!!」

 

 

それはそうだ。事件を「記録」することがそのスタンドの感染条件とするならば、僕のスケッチブックで事件の様子を描いたことは、間違いなく「記録」という行為に抵触するはずなのだ。

 

 

「す、すまない……ルドルフ。僕は感染してしまっていたようだ……考えが……意識が……取り込まれて……」

 

 

「露伴先生――――‼」

 

 

ルドルフの必死の呼びかけに、まるで縋り付くように露伴はルドルフの体にふらつきながらしがみ付く。露伴は肩で息をしながらウオッカとスカーレットに声を掛けた。

 

 

「僕から……君たちに伝えておくことがある……!大切なことだ……!この事件を解決するために……!恐らく、いやとても重要なことだ…!」

 

 

「……‼」

 

 

驚くウオッカとスカーレットをよそに、露伴は先程見知った情報を懸命に、自由を奪われていく口で紡いでいく。彼女たちは驚きのあまりその目を大きく見開いたが、全ての話を聞き終えた時、彼女たちの顔に浮かんでいたのはある感情だけだった。

 

 

「そう……だったのかよ……」

 

 

「……」

 

 

哀しみ、それだった。自分たちを苦しめた事件の真相。それはあまりにも、救いようのない悲劇と形容する他ない代物だった。そんな黒幕を突き動かす動機は、露伴の発言からも容易に伺い知ることができた。

 

 

それでも。

 

 

止めなければならない。今言った彼の発言が本当であるとするならば、尚更黒幕を止めなければならない。これ以上、黒幕が傷つかないように。これ以上……哀しみの楔が打たれないように。

 

 

『「……わかりました」「わかったぜ!」』

 

 

二人が息を揃えて返事をすると、露伴は安心したようにため息を一つつく。瞬く間に露伴の思考は黒い渦の中に引き込まれていく。

 

 

苦しい。

 

 

まるで水中に放り込まれたように息を満足にすることができない。露伴は最後の力を振り絞ってルドルフの顔を向けると、なんとか言葉を振り絞った。

 

 

「……さぁ。お前も……行くんだ」

 

 

「……そんな⁉私は露伴先生のことが心配だ!放っておくことはできない!」

 

 

「い、今……そんな駄々をこねている場合じゃあ……」

 

 

「断る!」

 

 

ルドルフが涙ながらに大きな声を上げて露伴の声を遮る。意識を何とか保ちながら自身を見つめる露伴を見つめながら、ルドルフは言葉を続けた。

 

 

「……本音を聞かせてくれ。露伴先生。私は君の愛バなんだ……今くらい、君のことを守りたいんだ」

 

 

長い沈黙が場を支配する。その果てで、意識が暗闇に飲み込まれる直前、露伴は言葉を続けた。

 

 

「……助けて……くれ……ルド……ルフ……」

 

 

それは彼の、意識が飲み込まれる直前に見せた確かな本心だった。

 

 

「……心得た!ウオッカ君とスカーレット君、たづなさんは急いで向かってくれ!」

 

 

あの岸辺露伴に頼られた。感情に顔が染まりそうになるのをこらえ、露伴を押さえつけると一同に声を掛ける。その言葉を受けた一同は急いでその場を離れ、全ての因果に決着をつけるために走り出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ここですね」

 

 

たづなの案内で、3人はとある施設の前に立つ。そこは病院からほどなくの場所に建っている精神病院だった。

 

 

ここに黒幕がいる。

 

 

沢山の哀しみが溢れた。傷は膿み、癒えることなくそこにあり続ける。それでも。

 

 

「いきましょう」

 

 

その意思は、既に固まっていた。即ち、どんな哀しみが流れようとも、その因果に決着をつけると。

 








恐らく次回最終回です


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岸辺露伴は求めない12 Fin

 

 

夏が限りなく続いてほしいと願うように。

 

 

このまま夜が明けてほしくないと願うように。

 

 

それは決して、叶うはずがない。やがて寒さと共に秋が訪れ、世界には朝日がやってくる。だからこそ人々はその願いを切に祈り、生きているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

精神病院の一角にある、とある隔離病室。

外の騒ぎによって、ここにも混乱が波及しているようで館内は人々が慌ただしく動き回り、流入が激しい。

 

 

つまり、ここには誰がいようがいまいが、館内にいる者たちは誰も、そのことについて疑念を抱くことはないということだ。無断で病院に侵入している以上、その方が都合が良かったのは言うまでもない。

 

 

「……こちらです」

 

 

職員の案内を受けることなく、たづなはそこまで2人のことを案内する。どうして黒幕がいるであろう場所を、彼女が知っているのか。それを2人が疑うことも、彼女に尋ねることは決してなかった。

 

 

つまり2人も彼女同様、黒幕の正体が既にわかっていて、そして彼女が黒幕の居場所知っていることを2人も当然の原理だと思っているのだ。3人はある隔離病棟の前にたどり着いていた。彼女は2人の方へ顔を向けると、徐に口を開いた。

 

 

「……いいですか?」

 

 

それは2人に対する覚悟の問いかけだった。この扉を開けてしまえば、否が応でも現実と、真実と直視することになる。もしものことがあれば、私だけでその結末を目撃し、2人はここで待っていても良い。というニュアンスを込めた問いかけだった。

 

 

当たり前だった……彼女たちはいまだ中等部だ。多少しっかりしているとは言っても、その光景を目撃するには、聊か苦痛すぎる代物だった。

 

 

それでも。

 

 

「……アタシたちも行きます。」

 

 

「オレたちにも、黒幕を止めなくちゃいけない理由があるっす」

 

 

そしてそれは、2人にとって愚問に等しいものだった。既に私たちは、部外者とは決して言えない位置にある。黒幕の正体が見立て通りであるとするならば。あの子が事件の一端として存在しているのであれば、尚更私たちがこの部屋に入らなければならない。その痛みに向き合う必要がある。

 

 

「……そう、ですよね。いきましょうか」

 

 

たづなはそう呟くと、扉の取っ手に手を掛ける。金属で出来たそれは、心なしかひんやりとしていた。手先に流れる血流の熱さとのコントラストで、残酷なまでに感じるそれは、彼女の心をえぐり取るには十分だった。

 

 

……進まなければ。

 

 

真実に向き合うためには。これ以上、哀しみの涙が零れないように。たづなは一つ息を吐くと、扉をゆっくりと引き開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 

そこには一人の男の姿があった。無精ひげを頬やあごに浮かべ、こけた頬に彫り込んだ生気のない目……その男はベッドの上で体育座りをしていた。

 

 

「…トレーナーさん。」

 

 

「……」

 

 

たづなは部屋の中央にいる男にそう声を掛ける。彼女の問いかけに対しても、男はまるで人形のように、その場を動くことはなかった。病室には今まで自分たちが目撃してきた事件のように、顔の見えないウマ娘の絵や人形が散乱している……その光景が、彼が一連の事件の黒幕であることを否が応でも実感するには十分すぎる材料だった。

 

 

彼を見たのはおよそ数か月ぶりのことだったが、最後に見た記憶の内にいる彼とはずいぶん様相が異なっている。最後に見た時の彼は、もう少し……それは致し方無いだろう。あんなことがあったのだから。

 

 

否、今そのことについて彼に思いを馳せたとしても致し方あるまい。外の惨状を止めるためには、彼に頼んで止めさせる他ない。

 

 

「あ、あの……!」

 

 

ウオッカが彼に対して声を掛けても、依然と男は反応を示すことはない。まるで電池の切れてしまったラジコンのように、時を止めてしまったかのように。なんて声を掛けて良いのか、それすらわからない。

 

 

それもそうだ。彼の時間は今、文字通り寸分の針も進めることなく止まってしまっているのだ。4月21日のあの日から、病院に運びこまれたあの時から、彼の中の時間は世界から隔絶され、彼は思考を止め、希望を捨ててしまった。そこにあるのは彼の抜け殻であって、彼自身の心はもうここにはいない。

 

 

……だが、彼を止めるためには彼に耳を傾けてもらう必要がある。

 

 

だが、彼の意識を一時的にでもこの世界に引き戻すためには。一体どうすれば……でも、なんて声を彼に掛ければいいのか。必死に考えを巡らせていたウオッカは一つの考えを思い浮かべると、急いで携帯を起動させ、写真のフォルダを探り始めた。

 

 

……あるはずだ。必ず、必ずあるはずなんだ。

 

 

写真が……彼女の写真が。哀しみの、記憶の残り香そのものだった。ずっと記憶と同じくそこにあって、ずっとずっと、ぬぐい取れず癒えることもない深い疵となってあり続けた写真。あることがわかっていたのに、見ないフリをして、見ないようにしてきたその写真は、アルバムをいくらかスクロールした先にあった。

 

 

写真の彼女は、静かに笑っていた。手に小さくピースサインを作り、オレの隣でポーズを撮る彼女。まるで、今にでも自分に話しかけてきそうな、そんな瞬間を切り取った写真がそこにはあった。

 

 

これを……彼を見せたら。どうなるのか。傷を深く抉り取ることになるのは言うまでもないだろう。

 

 

それでも。

 

 

……ごめんなさい。

 

 

心の中でそう呟いたウオッカは、スマホを持って彼の視線の先にその写真をかざす。その瞬間、彼の目……今までの生気のない色を宿していた彼の目に感情が宿った。

 

 

……それは。

 

 

今迄見たことがないくらいの哀……。

 

 

「アァ……」

 

 

彼の口から洩れた一言。その小さな一言は、瞬く間に大きな波動となって広がった。

 

 

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!」

 

 

まるで間欠泉から熱湯が噴出するように、彼の内から発したのは魂の慟哭だった。喉の内から発せられたディストーションは病室内をひび割るように突き抜け、その場にいたものはその様子を唯々、見つめることしかできなかった。

 

 

自身にとってスタンド能力を発現し、周囲の人々を巻き込む大事件を引き起こした原因となった彼女の顔。既に精神と自我が摩耗し切り、遂にはへし折れてしまった。哀しみや怒り、焦燥感、絶望……様々な処理し難い感情が壊れかけた頭の中で綯交ぜになってしまった。そんな不安定な精神状態の末、その原因の彼女の顔すらも認識することができなくなってしまった今の彼が、彼女の顔を唐突に見せられた結果。

 

 

彼は意識と夢遊の世界の中から無理矢理現実に引き戻され、その冷酷な真実と向き合うように仕向けられてしまった。

 

 

「トレーナーさん!話を聞いてください!」

 

 

「…ちょっと!」

 

 

一同の必死の問いかけも、彼の耳には全く届かない。現実に彼を引き戻したのは良いが、これでは彼が体育座りをしていた状態とあまり変わりがない。寧ろ状況は悪くなってしまっている可能性すらある。彼は今、記憶の奥底に閉じ込め、見えないフリをしていた哀しみと向き合っているのだ。

 

 

こんな時、彼にどんな言葉を掛ければいいのか。露伴から言伝されたあのことは、今言う場面ではない。スカーレットは跪いて、ベッドに蹲る彼の目線にできる限り高さを合わせると、徐に口を開いた。

 

 

これが、果たして正解であるとは限らない。彼ほどではないにしても、アタシだってこの痛みはよくわかる。ここにウオッカやたづなさんだって。目のまえにいる彼のことならば、この疵の痛みは尚更だろう。

 

 

「…痛いですよね」

 

 

そう言って彼のことを静かに抱きしめた。かけてあげる言葉なんてない。否、彼を前にしてしまったら、どんな言葉さえも慰めにはならない。それは同情や憐憫であって、決して慰めではないのだ。今のアタシたちにできること、その答えは傍にいて、彼の苦しみや痛みに唯々、寄り添うことだ。

 

 

男は抵抗しようと暴れ、それを必死に食い止めながらスカーレットの目から自然と涙を零す。これが、これこそが彼の痛みなのだ。彼が耐え忍び、そして壊れ切ってしまった彼の心そのものだ。

 

 

「……たづなさん。ウオッカ」

 

 

スカーレットはその目に涙を蓄えながら、二人に声を掛ける。彼女2人の目にも、大粒の涙が浮かんでいる。二人は静かに頷くと、ゆっくりとスカーレットと男に歩み寄り、上から静かに彼女たちを抱きしめた。

 

 

それは痛みだった。そして、悼む気持ちでもあった。とどのつまり、彼には向き合う時間が足りなかったのだ。長い昏睡状態という期間を経て、彼はただ一人置き去りにされてしまった世界に取り残されてしまった。

 

 

時間という代物は如何せん残酷で、どう足掻こうとも敢然とその針を進めていく。私たちはなにをしていても、時間の中でそれぞれ折り合いをつけて何とか日々の日常に戻って……否、不安定さをひた隠しにして、戻ったふりをして生きてきた。

 

 

だが、彼にはその時間は与えられなかった。本来であれば一番向き合う時間が必要だった彼の、その機会は簡単に奪われてしまったのだ。いうなればそれは神様の悪戯。神様に壊され、翻弄されてしまい、精神を壊した末に能力を発現させてしまったのがこの事件の顛末であるとするならば、誰が彼のことを責められようか。

 

 

「……誰かに、覚えていて欲しい」

 

 

彼女がよく口にしていたあのセリフ。精神の混沌の中で自我が崩壊しても。そう口にしていた当人の顔すら認識することができなくなってしまったとしても。それでも無意識の中でその想いを遂げるための能力を発現してしまったのだとしたら。

 

 

……ごめんなさい。

 

 

これは私たちの罪でもある。

この嵐が過ぎるまで。この痛みが少しでも癒えるまで。どれほどの時間がかかるのかはわからない。それでも、それが終わるまではこうしていよう。

 

 

 

 

 

 

 

初めて彼女と出会った日。

トレーナー試験を何とか合格し、新人トレーナーとして学園にやってきてはや数日。たづなさんにそろそろ担当ウマ娘を見つけるようにと言われ、数日後に行われる新入生の選抜レースの資料を見繕っていた、ちょうどあの日だ。

 

 

選抜レースを目前にした、模擬レース。その中のあるレースで先頭をひた走る彼女。今思えば、あの時には既に……僕は彼女に惹きつけられていたということだろう。

 

 

模擬レースを難なく1着に収めた彼女は、周囲の人間にこう触れ回っていた。

 

 

「多くの人に見知ってもらえる、そんなマスコットになりたい」と。

 

 

そんな彼女と話す機会は、案外すぐに訪れた……彼女と出会ったのは、レースの直後のことだった。

 

 

「……もしもし」

 

 

学園に戻ろうとしていた矢先、突然彼女に話しかけられた。間近に見た彼女は、夕日の光に照らされて輝いていて、不覚にも美しいと思ってしまった。彼女はその手にカメラを持っており、ずいとこちらに差し出してきた。

 

 

「……?」

 

 

「カメラを持っていてくれませんか~?中央広場で歌う姿、撮ってほしくて」

 

 

やけに間延びした声で、彼女はそう言う。ここで?歌う?整合性の取れない彼女の発言に、僕が首を30度横に傾けていると、奥から二人のウマ娘が走りよってきた。

 

 

「おいおい!オレは良いなんて一言も言ってねーぞ!」

 

 

「動画はさっき録ったでしょ!」

 

 

「動画はあればあるほどいいんですよ」

 

 

2人のウマ娘たちの抗議も虚しく、彼女は全く意見を曲げるつもりはないようだ。彼女は少々、否だいぶ頑固なようで、2人の友人もしばらく彼女と言い争ってはいたものの、やがて彼女の強情ぶりに根をあげたようで、しぶしぶではあるが、彼女の指示に従って音楽に合わせてダンスや歌を始めた。

 

 

……以上が彼女との初めての出会い。不思議で、撮られるのが大好きで、走ればピカ一の女の子。それが僕の、彼女に対する第一印象だった。

 

 

 

 

 

 

 

次に会った時。それは自身が買い物帰りに高架下を散歩していた時のことだった。4月の風が温かさをそっと運び込み、顔を日差しが照らすことに心地よさを抱きながらも、高架下に入ると、気温がぐっと下がったのを感じた。

 

 

その時だった。

 

 

「……?」

 

 

何やらくぐもった声が聞こえる。彼がその方向へと首を向けると、そこには彼女が白い鳩と一緒にいながらくつろいでいる姿があった。

 

 

「君は……」

 

 

「あれ……貴方はこの間の動画のトレーナーさん」

 

 

彼女はこちらに顔を向ける。初めて会った時と寸分変わらぬ笑みを浮かべながら、僕に言葉を掛ける。僕のこと、一度しか会っていないのに覚えているのか。そう疑念を彼女に抱くと、まるで心の中を見透かしたように口を開いた。

 

 

「……私。忘れないんです。一度会った人のことは、絶対に忘れないんですよ」

 

 

そう真剣に告げる彼女の顔は、何処か寂しさを宿す。彼女の横にいた白い鳩が、彼女の言葉に調子を合わせるように鳴き声を上げた。

 

 

「えっと……その鳩は?」

 

 

「ここでお昼寝してたいんですが、起きた時にホワホワさんが横にいたんです。」

 

 

ホワホワさん?この鳩に、そう名付けたのか?彼は彼女の独特なネーミングセンスに驚きつつ、彼女との会話に講じる。その日はホワホワさんを交えつつ、様々な話題を交わす。

 

 

彼女の生家が病院であること。そこで体験した別れ……長い川の流れを経て、やがて海にたどり着く。その果てを見てきた故に、「忘れられないため」……ウマ娘のレースの世界に飛び込んだことも。

 

 

少しずつ雪が解けるように、打ち解ける彼女との会話は、日がとっぷりと暮れるまで続いた。

 

 

 

 

数日後。彼はまた心の内で気になるウマ娘である彼女と話そうと、待ち合わせの場所である高架下に足を向けていた。

 

 

高架下の影に足を踏み入れると、彼女の姿が見えてくる。こちらにまだ気づいていないようで、彼からは彼女の背中しか見ることができなかった。

 

 

「おー……」

 

 

声をかけようとしたその時。彼は彼女の足元に横たわるそれに気が付いた。それは、数日前までこの世界に生き、私たちと同じ空気を吸っていたはずの白い鳩……ホワホワさんだった。

 

 

その姿はまるで、人形のようだった。無機質になったその姿が意味することは、僕たちにとってはたった一つしかない。

 

 

「……」

 

 

言葉を失った彼は、その場に立ち尽くす。ウマ娘は、人間よりもはるかに優れた聴力を持つ。彼女はこちらを振り返ることは決してしなかったが、彼に向けてただ一言、声を掛けたのだった。

 

 

「……最後に。お別れしてあげましょう……トレーナーさん」

 

 

 

 

 

 

「……これでよしと」

 

 

やがて2人で拵えた穴にホワホワさんを埋葬し、簡素ではあるが墓石を傍に立てる。彼女は何処から用意してきたのか、ホワホワさんの身体と同じ純白の花を墓石の前にそっと置き、ホワホワさんのことを静かに見送った。

 

 

「……好きな色くらい、聞いておけばよかったですね」

 

 

その光景を目のまえにして、彼女はあくまで冷静だった。涙の跡もなく、淡々と墓石に向けて言葉をかけている。

 

 

「大丈夫ですよ。私はあなたのこと、忘れません。私の心の空を、貴方は羽ばたいています」

 

 

「……君は強いんだな」

 

 

「ウマ娘は人よりもムキムキですからね、当然です」

 

 

「い、いやそうじゃあなくて……」

 

 

「……冗談です。」

 

 

残酷なまでの沈黙が、その場を支配する。世界の片隅で執り行われた葬儀の、あるべき姿とでもいうのだろうか。

 

 

「……この間貴方には言いましたが、私は病院で教わったのです……命は流れるものと。」

 

 

「……」

 

 

「上流から下流へ。生まれた時からその旅は始まって、私も貴方も、ホワホワさんも……海にたどり着くのです。それはごくごく自然なこと……太陽が東から上るように、そして物が上から下へと引力によって落ちていくことのように……当たり前のことなのです。だから、悲しくはありません」

 

 

「……だから、一番大事なことは「忘れない」ことなのです。もしも、この瞬間にいなくなったとしても、消えない……爪痕のような。そんな証なのです。」

 

 

彼女の覚悟を、想いを。言葉ではなく心で理解できた瞬間だった。その言葉を口にする彼女の横顔は、世界の誰よりも美しく、強い。そう彼の目には映った。

 

 

そして、彼女の想いを成就すること。そのサポートをすることが、僕のトレーナーとしてしたいことであると。彼はその後の選抜レースを経て、彼女に契約を申し入れ、彼女はそれを受け入れた。

 

 

 

 

 

 

 

期間としてみれば、僕が彼女の担当だった長さは短いものだったかもしれない。それでも彼女と過ごす日々は、どんな日常よりも騒々しく、そして濃いものだった。

 

 

初めてレースで勝利した時。

 

 

レースで負けてしまった時。

 

 

G1レースで勝利を収めた時。

 

 

彼女のマスコットの発売が決まった時。

 

 

まるで写真に収め、大切にアルバムに保管していたワンシーンのように。僕にとっては生きていく上でこの上ない場面だった。

 

 

…だからこそ。

 

 

もっと。彼女の走りを見ていたかった。彼女の我儘に、付き合っていたかった。彼女ともっと、話しておきたかった。彼女の横顔を、もっと見ておきたかった。

 

 

彼女の……彼女の。

 

 

人やウマ娘。全ての生物は例外なく必ず川を下り、海にたどり着く。この世に生を受けた以上は決定事項であり、それを覆すことはできない。病院が生家の彼女は、その光景に誰よりも立ち合い、そしてそれを誰よりも意識し生きていた。だからこそ彼女は。その結末を誰よりも意識していたからこそ、「覚えていて欲しい」という想いを胸に秘めて、その自身の残りの人生を誰よりも強く意識しながら、ターフを駆けていたのだ。

 

 

それなのに、それなのに。

 

 

どこかにいるとも知れぬ神様を強く恨まずにはいられなかった。どうして彼女なんだ。

 

 

「ウッ……ウゥ……グスッ」

 

 

ひとしきり叫び続けた男はやがて彼女たちの胸の中で、やがて小さく泣き始めた。目が覚めてから今日この日まで、ほとんど飲まず食わずに精神の狭間を彷徨い歩いていた。

 

 

今なら、彼も私たちの言葉に耳を傾けるかもしれない。

 

 

「……病院に運び込まれた時。彼女、意識があって……貴方のことを頻りに気にしていたそうです。」

 

 

「……」

 

 

露伴のヘブンズ・ドアーの能力によって判明した真実。それは彼女の海の到着を刻銘に記録していた。この言葉を、その真実を。彼に伝える義務が私たちにある。

 

 

「………最後にこう言っていたそうですよ。『トレーナーさん。私のことを覚えておいてください。』」

 

 

「……ッ」

 

 

「……そして」

 

 

この言葉には続きがある。伝える言葉も涙と嗚咽によって、流暢に伝えることができない。それでも、伝えなければ。彼に、伝えなければ。

 

 

「『……仕方のないことなんです。立ち止まってもいい。それでも絶対に。哀しみや痛みに任せて、振り返らないでください……いつか前を…前を向いて、また歩いて……ください』」

 

 

「……‼」

 

 

「あぁ……」

 

 

景色が、視界が鮮明になっていく。そして、徐々に力がすっと抜けていくのを感じる。

 

 

僕は間違ってしまった。哀しみや怒りに振り返り、そこに囚われてしまった。一人だけ取り残された世界を許すことができず、前を向いて歩いていた他の人々を許すことができずに……彼女の想いを、願いを歪んだレンズでしかくみ取ることができなかった。

 

 

「駄目だなぁ。僕は……ごめん……ごめ……ごめんなぁ」

 

 

届かない懺悔を、男は呟き続ける。その声はあてもなく、宙に霧散していく。そのはずだった。

 

 

『本当にトレーナーさんは駄目な人ですね』

 

 

突然声が降りかかる。ふと顔を上げると、そこにいた人物に彼は大きく目を見開いた。

 

 

「……君は」

 

 

その目に、段々と涙が降りしきっていく。ずっと会いたかった。ずっと、ずっと君に会いたかったんだ。

 

 

『しばらく会わない間に、随分泣き虫になってしまったんですねぇ』

 

 

彼女はふっと笑みを零す。それはまるで、粗相をした子供を優しく りつける母のような、そんな笑みだった。

 

 

「……ずっと。ずっと……でも……なんで」

 

 

彼女は静かに笑みをこぼしたまま、口を開かない。しばらくの沈黙の後、彼女はたった一言。しかしその一言で全てを理解させる、そんな一言を発した。

 

 

「……時間なんです」

 

 

「……そっか。」

 

 

全ての生物には例外なく時間がある。川を下り、海にたどり着くのだ。今まで飲まず食わず、精神をすり減らしてきた。そんな状態では体もやがて軋んでいくのは然るべき、そろそろ身体は限界だった、そういうことだろう。

 

 

「……本当に、ごめんなぁ」

 

 

彼女の想いを汲み取ることさえできなった道化の末路。それが今の僕だ。彼女が僕の前に姿を現したのは、きっと僕のことを許さない、そう告げるためだろう。それでも僕には唯々許しを請うことしかできない。それが無様な道化にできる最後のことだった。

 

 

しかし彼女が口にしたセリフは、彼の贖罪を受け入れるものだった。

 

 

「……いいんです。貴方にそうさせてしまったのは、紛れもない私の責任なんです。一緒に、一緒に償いましょう……それに」

 

 

「……それに?」

 

 

彼女はそう言うと、スカーレットたちに目を向ける。その瞳の中には確かな色が宿っていたが、それを知る者は、彼以外には遂に存在しなかった。

 

 

「……?」

 

 

「私の願い、しっかりと届いているみたいですから」

 

 

「……そうみたい、だね」

 

 

彼女が差し出した手を、僕は手に取る。今までの体の痛みが、心の軋みが徐々に軽くなっていく。この先が何処に続いていくのかは、今の僕にはわからない。それでも、不思議と心の中には不安などなかった。

 

 

……だって。

 

 

横には、ずっと会いたかった彼女がいるから。再会を果たした彼女に想いを馳せながら、そして自分という罪人の魂を最後に救ってくれた、彼女たちに絶えぬ感謝を抱きながら。

 

 

「……あり……ありがと……」

 

 

彼女に手を引かれ、彼の視界は光に包まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

トレセン学園を中心に襲った未曾有の事件は、唐突に異常を来した人たちが正常に戻ったことによってその事件に幕を閉じた。世間は集団ヒステリーとして、説明できない事象を、事件の顛末として片づけた。

 

 

「……」

 

 

たづなは一連の事件の報告書を取り纏めながら、静かにため息を一つついた。ここ数日、トレセン学園は事件が起きたことによる各所への対応で目を回している。

 

 

数人のみが知る、哀しき事件の真相。私たちが精神病院に足を踏み入れた時、既に彼は飲まず食わずで手遅れの状態だった。彼のことを悼む暇さえ、今の私にはない。

 

 

「……たづなさん」

 

 

室内にいた露伴が、たづなに話し掛ける。一連の事件の解決を図った立役者である彼も、その真相を究明して尚、その表情には暗い影が宿していた。

 

 

「……」

 

 

流石の彼も、紡ぐべき言葉が見当たらない。この事件の真相は、ハッピーエンドでは決してなかった。事件の真相について知るものの心の中には、拭い去ることすらできない大きな傷を残した。

 

 

 

「……私たちのやったこと、無駄でした」

 

 

「……それはどういう?」

 

 

「……例え私たちが動かなかったとしても、動いたとしても事件は彼が……そうなることで幕引きとなる。徒に彼を動かしても……」

 

 

確かに彼女の言う通り、たとえ僕たちがこの事件に関与しなかったとしても、彼の身体の状態を鑑みれば、そこまでの時を要さずに事件は終息を見せていたことだろう。つまり彼の行く末は露伴たちが関与しようがしまいが既に決していて、僕たちの行為は徒労に終わったのではないか、そういう発言だった。

 

 

「……確かに。君の言う通りかもしれないな」

 

 

それは確かに、否定のしようがない事実だった。ここで徒に彼女のことを慰めるためにその事実を否定したとしても、それほど陳腐な代物は他にはないだろう。

 

 

しかしながら、このまま彼女のセリフを受け入れ、自分たちの行為は徒労でると片づける。それだけは勘弁ならない。それはこの岸辺露伴の性分には決して合わない代物だった。

 

 

「……だがな。奴の顔、見たんだろう?どんな顔をしていたんだ」

 

 

「……それは」

 

 

ベッドの上で、まるで眠るように横たわる彼の顔。それは穏やかな、まるで憑き物が取れたような……

 

 

「奴が何を想っていたのか。その気持ちなんて、僕には分からない……だがな。僕のヘブンズ・ドアーの能力で見た真実を彼に伝えることができたんだったら、彼の心は、少しでも救われたはずだ」

 

 

「……そう、ですかね」

 

 

「真実は決して変わらない。それならば、残された僕たちにできることは……前を向くことなんだ……哀しみに任せて振り返ることなんかじゃあ決してないんだ」

 

 

その通り。真実はどんな代物より、暗く、哀しいものだった。それでも僕たちは、先も見えぬ暗闇の中でも、希望を何とか見出して生きていかなければならない。

 

 

「……そう。そうですよ……ね……」

 

 

耐えきることができず、たづなはその瞳から大きな涙を零す。失った者を悼んで、涙を零す……しかしそれは振り返るためではない、今日は悼み、立ち止まり、明日にはそれを胸に歩き始めるためだ。

 

 

「……少なくとも、彼女たちは僕たちよりも、そのことをよっぽど分かっているみたいだけどな」

 

 

露伴はそう呟くと、親指を立てて窓の方向を指さす。たづなが指された方向を見ると、そこには夕日に燦燦と照らされたターフの上を、2人のウマ娘たちが走っていた。

 

 

「2人は……彼女と親しかったんだろう?それなら君よりよっぽど辛かったはずだ。それでも……」

 

 

「……そうです……よね。前を、前を向かなくちゃ。でも……今は…………今だけは泣いてもいいですか?」

 

 

露伴はその言葉を紡いだ彼女の顔をじっと見つめ、やがてドアの方へと顔を向けると、徐に口を開いた。

 

 

「……幸いここには誰もいないから。思う存分泣くといいさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハッ、ハッ、ハッ…………

 

 

 

肺が荒々しく伸縮し、喉の奥から鉄に似た味が沸き起こる。

どうすればこの痛みが引いてくれるのか、この疵が癒えてくれるのか。その向き合い方もわからないまま、アタシたちは今日まで来てしまった。

 

 

……否、向き合おうとしてこなかったのだ。時間が経過してくれることに甘えて、自分から、正面から痛みに向き合うことを避けていたんだ。だから今になって、そのツケがこうやってめぐってきたんだ。

 

 

どうしたらいいのか。どうしたらよかったのか。間違えた選択を取った結果、今のアタシたちが……

 

 

『「……アァァァァァ!!」「ウオォォォォォォ!!」』

 

 

その感情の答えもわからないまま、スカーレットとウオッカは声を振り絞る。スタミナも、ペースもへったくれもない。我武者羅に、その行方を探り当てるかのように彼女たちは走り続けた。

 

 

クソッ、クソッ……‼

 

 

涙がこぼれそう。きっとあと数秒後には、この哀しみは鎮魂の涙となって、私たちが走ってきた軌跡を刻みつけながら、数コンマ後の世界に置き去りにされていく。

 

 

それでもいいのだ。この涙もきっと、ターフの風が厳しくも、優しく拭い去ってくれるはずだから。今は思う存分涙を零そう、ちゃんと向き合おう。あと数周も走れば、息も上がって私たちはこの走りをきっと止めてしまう。

 

 

それでもいい。立ち止まっていい。悼んで、苦しんで、ちゃんと涙を枯れるまで流して。そしてまた、私たちのペースでいい、自分たちの力でちゃんと歩き出せばいいのだ。

 

 

それまで、このあてのない感情のままに。唯々、走らせてほしい。

 

 

2人の慟哭が、誰もいないトレセン学園のターフの上に響き渡る。その鎮魂歌は、そのあともしばらく学園の空に届いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある時、彼女と二人で、買い物に行った帰りのことだ。

 

 

「……トレーナーさん。もしも私が海にたどり着いたら、どうしますか?」

 

 

突然彼女に振られた話。彼は顔に苦笑いを浮かべながら彼女の問いに取り繕うと口を開いた。

 

 

「……いやいやいや。君の方が年下なんだ。順当に考えれば、僕の方が先に……」

 

 

 

「人生に順当というものはありません。明日を私たちが今のように生きていることができる保証はどこにもないんです」

 

 

「……それは……そうだけど」

 

 

そんなこと、もしもであっても考えたくはない。しかしながら、彼女の表情は、いつになく真剣なものだった。彼女の質問に対して返事に窮していると、彼女はまたいつもの柔和な笑みに戻り声を発した。

 

 

「……もしも私がトレーナーさんよりも先に海に行くことがあっても。それはそれで問題はないと思っているんです」

 

 

「……え?それはどういう?」

 

 

トレーナーは不安げに彼女の顔を覗き込む。その顔には、どこか満足感すらうかがい知れる、そんな表情をしていた。彼女はちょうど目のまえをはしゃぎながら走っている子供のウマ娘たちの姿を、慈しむように見つめながら口を開いた。

 

 

「……私は既に、たくさんの種を蒔きました。まだまだその数は足りませんが、私が海に行っても、もう多くの人たちに覚えてもらっています……沢山の人に思い出してもらえる。それでいいじゃあないですか」

 

 

「……それは?」

 

 

「人間であろうと、ウマ娘であろうと。全ての生物は等しく、終わりがあるんです。つまりそれ自体は、全く致し方ない事象なんです。肝心なことは誰かに覚えてもらうこと。そして誰かに思い出してもらうこと。それが肝心なんです」

 

 

「人は2度死ぬと言われています。1度目は肉体的なもの。そして2度目は、忘れ去られることによるもの。私は…………ずっと覚えていて欲しいんです」

 

 

「……」

 

 

それが、彼女にとっての「生きる」ということ。沢山の痛みを知って、沢山の別れに立ち会ってきた彼女にとっての答えなのだ。

 

 

「さぁ。しんみりした話はここまでです……早く帰って、買ったおやつでもトレーナー室で食べましょうか!」

 

 

彼女はそう言うと、自身の数歩先を歩みだしていく。ささやかな喜びをかみしめることができる。そんな彼女の背中をいつまでも追うことができることを密かに願いながら、彼は再び歩み始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目覚めた朝は、いつもよりも重苦しい。

どれだけ瞼が重くても。どれだけ夜を超えることが怖くても……全ての人たちに朝は等しく、必ずやってくる。

 

 

ベッドから起き上がったスカーレットは窓を開け、外の景色を眺める。最悪な気分であっても、世界はアタシたちを置き去りにして、当たり前のように時間と共に過ぎ去っていく。

 

 

やっぱりアタシたちはまだ、痛みに堪えきれていない。

それでも生きていかなければ、この1日を超えていかなければ。

 

 

「……起きなさい!ウオッカ」

 

 

その痛みを抱えたまま、それでも決して同室で生活を送る彼女にはそのことを悟られないように。スカーレットは、顔を上げるといつものようにウオッカを叩き起こす。彼女は大きくあくびをしながら口を開いた。

 

 

「……もうちょっと優しく起こしてくれよって……まだ時間はやいじゃあねーか」

 

 

「今日から合同で朝練しようって話していたじゃあない!ほら行くわよ!」

 

 

「……わかったよ!おいてくなよ!」

 

 

アタシたちは進まなければならない。その哀しみと、痛みを抱えたまま。二人の耳には、新たなピアスが1つずつ付けられていた。それは、彼女がかつて付けていたピアスだった。

 

 

自己満足でしかない。それでも、彼女の意思と…想いと共に走りたい。彼女たちの机の上には、彼女を模した人形が置かれていた。彼女の意思と共に、それを胸に走れば。彼女は「生きている」と言えるのではないだろうか。

 

 

それが果たして、正解であるのか。誰も答えは知らないし、その答え合わせが行われるのは、アタシが「海にたどり着いた」、その時だ。その時まで、この傷を背負って、そして暗闇の中の微かな希望を胸にして生きていこう。2人はパジャマからジャージに着替えると、慌ただしく部屋を後にする。

 

 

誰もいなくなった部屋に、爽やかな風が吹き込んだ。

 

 

 

 

 

1月もやがて、終わりを迎えようとしている。本格的な寒さは加速し、東京よりも聊か肌を突き刺す寒さがルドルフを襲う。

 

 

「……寒いな」

 

 

騒動がひと段落し、ルドルフと露伴はトレセン学園をあとにして、住まいである杜王町へと帰っていった。それでもルドルフの胸の内には、大きなもやが霧のようにかかっていった。

 

 

…果たして私は。

 

 

救えた、と言えるのだろうか。全てのウマ娘の幸せを願う。そんな私が、この事件を通じてできたことはあっただろうか。

 

 

例えここで私が何を思おうとも、時間は残酷に過ぎ去っていく。それでも既に部外者に等しい私がここまで苦しみを覚えているのだから、彼女たちはどれほどの受難が待ち受けているのだろうか。

 

 

それでも。

 

 

信じるしかない、ウマ娘の強さを。信じるしかない、学園に根付く黄金の意思を。あとは彼女たちがどのように乗り越え、前に進んでいくのか。永遠に続くと思えるこの冬の寒さも、いつの日にか春が訪れるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時だった。

 

 

ピンポーン。

 

 

「……?」

 

 

「……失礼しま~す‼」

 

 

ドアを叩く音と共に、玄関の外から声が聞こえる。一体こんな時に、誰だろうか。ルドルフは訝し気に玄関に歩み寄り、ドアを開けた。

 

 

ガチャ。

 

 

「……失礼します!」

 

 

「お邪魔しますね~!」

 

 

ドアを開けるや否や、数人の男たちがなだれ込むように部屋の中に無遠慮に入ってくる。男たちはルドルフの困惑をそのままに、室内にある家具や装飾品をじろじろと物色し始めた。

 

 

「……ちょ、君たちは一体…!私たちの愛のs……」

 

 

「……その……ルド……ルフ……」

 

 

男たちに遅れて家に入ってきたのは、自身の愛するその人、岸辺露伴だった。露伴はまるで母親に悪事を告白する子供のように、ばつの悪い表情を浮かべていた。

 

 

「その……非常に言いにくいんだが……」

 

 

「……?」

 

 

「……家を引き払ったんだ。ここはもう、僕の家じゃあない……」

 

 

「……………」

 

 

「……は?」

 

 

は?彼は今、何と言ったのだ?家を、引き払った?言語として理解することができても、文意として咀嚼することができない。ただただ口をぽかんと開くことしかできないルドルフをよそに、露伴は言葉を続けた。

 

 

「事件が片付いたら……取材すると言っただろう?その……妖怪伝説、六壁坂の……。取材しようとしたら……建設会社がそこにリゾートを建設しようと計画していると知ってな。開発されたら妖怪も元も子もない。それを阻止するために付近の山を6つほど、纏めて買ったんだよ……そのおかげで無事リゾート計画は頓挫したのはいいんだが、影響で地価は大暴落。めでたく僕は破産してしまったってわけさ…」

 

 

「……」

 

 

「……アハハハハハハハ」

 

 

「……岸辺露伴――――――――‼‼」

 

 

ルドルフの怒声が、家中に響き渡る。どうやら日常に戻ってきたようだ……最悪の形ではあるが。杜王町の一日は、当たり前のように世界と並行して過ぎ去っていった。

 

 

 

 

 

 

「岸辺露伴は求めない 完」

 









作者のボンゴレです。
以上で岸辺露伴は求めない、エンディングになります。コメントで感想いただけると幸いです。

多分近いうちに続き書きます、ネタはできてるので!


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岸辺露伴は戻らない1

 

 

 

02/07

窓の外には雪が降りしきり、寒さを視覚的に訴えかける。駅のロータリーの隅では、数人の子供たちが積もった雪から数体の雪だるまの制作に講じていた。

 

 

そんな様子の杜王町を一望することができるあるホテルの一室に、一人の男の姿があった。男は窓から机に視線を戻すと、カリカリと驚く速さでペンを走らせ、白紙の紙に次々と絵を描き入れていった。

 

 

いつも使っている机や椅子とは勝手が違い、その僅かな感覚のずれがこの男…ピンクダークの少年の作者である岸辺露伴にとってはストレスとなってその肩に降り積もっていた。

 

 

それでもペンをはじめとした商売道具を失わなかっただけ、マシだと思ったほうがいいだろう。露伴は小さくため息をつき仕事に一区切りつけると、部屋の隅の椅子に座り読書に勤しんでいた彼女に声を掛けた。

 

 

「ルドルフ、終わったよ」

 

 

そこにいるのはシンボリルドルフ。かつてG1を7勝し、競技者としての名声をほしいままし「皇帝」として畏怖され続けたウマ娘。彼女は眼鏡を取り外すと作業を終えた露伴に声をかけた。

 

 

「……作業は終わったのかい?」

 

 

「まぁ大方ね……だがなかなかに厳しいね…そういえば家財は取り戻せそうなのかい?」

 

 

「あぁ、来週あたりには手元に取り戻せそうだよ、露伴先生」

そんな他愛のない会話を2人はホテルの一室で繰り広げる。ルドルフはやがてその会話の隙間を縫うように、彼が作業の手を止めたタイミングで言おうとしていた話題を振ろうと決心すると、露伴に言葉を掛けた。

 

 

「……時に露伴先生。一つ君に相談がある」

 

 

「……?」

 

 

「非常に急で申し訳ないんだが、明日からおよそ一週間、トレセン学園に足を運ばなければならないんだ。それに同行してほしい」

 

 

「……それはまた、急な話だな。」

 

 

眉をひそめた露伴に、ルドルフは申し訳なさそうに肩をすくめた。

 

 

「それについては申し開きのしようがない。卒業前に片づけなければならない仕事やら、メディアの対応とやることが目白押しでね…とどめは生徒会を引っ張っているブライアンが地方に遠征することになってしまってね。私が手伝いに行くだけではどうにも人手が足りなくてね。今は猫の手も借りたい状態なのさ」

 

 

ルドルフの話を聞いた露伴はため息を一つつくと、両方の手の平を肩まで上げ、いつものような傲岸不遜な態度でルドルフに対して口を開いた。

 

 

「おいおいおい…これでも僕は売れっ子の漫画家なんだぜ?そんな僕が雑用みたいなこと、するはずがないじゃあないか」

 

 

……やはり断るか。

 

 

普段は可愛げある彼だが、こんな時は少々、否かなり生意気になるな。もちろんそこも彼の可愛いところではあるのだが。ルドルフはためいきをつくと露伴に対して口を開いた。

 

 

「破産した君が、こうして寝る場所に困ることなく生活できているのは、誰のおかげだったか……それをゆめゆめ忘れないで欲しいがね」

 

 

「ウッ……それを持ち出すのかい?」

 

 

ルドルフは、かつての皇帝の威厳を想起させるような鋭い視線を露伴に突き刺す。彼は自身の落ち度に思い当たりがあるのか、その非難から逃れるように顔を俯けた。

 

 

岸辺露伴がしでかした、言い訳のしようのない「やらかし」。露伴は取材のために、自身の全ての私財を投げうち、国内某所にある山を6つほど纏めて買いたたき、もれなく破産してしまったのだ。その日のうちに担保にしていた家や家財は漏れなく債権回収として持っていかれ、露伴と家に上がり込んでいたルドルフは着の身着のままに追い出されてしまったのがおよそ数週間前の出来事。

 

 

無事に取材のネタをもとにして漫画の原稿を仕上げることには無事成功したものの、それだけの収入では当然のことではあるが、失った家財や財産を補填するには全く足りる代物ではなかった。

 

 

恐らく露伴一人であれば、無一文の彼がホテルに泊まるような余裕も当然なく、杜王町の唯一の友人と呼べる人物である広瀬康一の家に転がり込むしか手段はなかったが、幸い露伴は今、一人ではない。

 

 

つまり露伴にはパトロンとも呼べる人物、シンボリルドルフがいるのである。現役時代にG1を7勝し、その地位を確固たるものとしたルドルフは、レースで獲得した賞金はおよそ露伴とルドルフが生活を送るうえで十分すぎるほどの額に達しており、また彼女の生家であるシンボリ家の支援もある。無一文で外に投げ出されてすぐに、ルドルフの手配によってかつて空条承太郎が宿泊していた、杜王町内のホテルの最高級の部屋にしばし宿泊することが叶った。

 

 

ルドルフの資金によって担保として徴収された家財を買い戻すまでの間、こうしてホテルの一室で露伴とルドルフの2人の生活と相成った次第である。

 

 

 

 

 

 

 

しかしながらここで生まれた問題点が一つ生じた。つまりここでホテルに生活しているのも、家財を取り戻す目処が立っていることも、全てルドルフのおかげである。決して露伴が為したことではない。露伴一人では向こう数か月間は一文無しの状態に甘んじるほかなかっただろう。

 

 

とどのつまりこの騒動の結果、ルドルフと露伴の2人のパワーバランスに若干の、否相当の変化を来すようになったのである。いわば露伴はルドルフに対して、大きな貸しが出来てしまい、この一件以降、何事に対しても露伴はルドルフに頭が上がらなくなってしまっていた。

 

 

露伴の顔を両手で抑え、背けた視線が自身に向くように仕向ける。ルドルフは普段より抑えの効いた声で、まるで子供をしかりつける母のように彼に言葉を掛けた。

 

 

「……当然だろう、露伴先生。それくらいの義理は通してほしいものだよ。それに今回の東京への帰省はシンボリ家へのあいさつも含まれているからね。君も顔を出してほしいと両親も言っている……最もこのお願いを聞いてもらった程度ではこの貸しを補填できるじゃあないがね」

 

 

「……は、はい。」

 

 

そう言われてしまっては、強くでることはできない。露伴はルドルフの威圧に、ただただ首を縦に振ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

02/08

1か月も経たぬうちに訪れた、トレセン学園。

露伴は既に見慣れてしまったその校門の前に立ちながらため息を一つつくと、隣にいるルドルフに静かに声を掛けた。

 

 

「ここまでトレセン学園に足を運ぶなら、もはや学園内に部屋を宛がってもらいたいくらいだよ」

 

 

「……フフ。それもいい考えだ。そうしたら理事長に掛け合って……」

 

 

「……冗談だよ」

 

 

露伴はそう言葉を漏らすと、学園内に足を運んでいく。今日から1週間、この学園でルドルフの手伝いにほぼ寝泊り同然の状態で手伝うことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

02/09

生徒会室でルドルフのことを手伝いながら、露伴はため息を一つ漏らす。慣れないPC作業や役員たちの書類仕事の手伝いに辟易していたことは事実だったが、露伴の頭の中を占めているのは決してそのことではなかった。

 

 

「……どうして僕が廊下を歩く度に、色んな奴らに絡まれるんだ?」

 

 

前回のトレセン学園の訪問とはまるで様相が違う。色々なウマ娘たちに頻りに話しかけられ、きりにサインやら握手を求められる。露伴はその変化に戸惑いを隠せなかった。

 

 

「それは、君は既に学園にとって有名人だからね。今回で君は3回目の学園訪問だろう?既に君の顔や素性は学園に知れ渡っているし、かなり好意的な印象を抱いていることだろう」

 

 

「……好意的な印象?それはどういうことだ?」

 

 

「君は既にトレセン学園を3度救っている。多くの人には知られてはいないが、ひっそりと……それでも確かに君はこの学園を救っている。その救済された者たちが、君のことをひどく言うわけがないだろう?」

 

 

確かに自身が過去に3度、この学園の危機を救っている。1度目はルドルフやエアグルーヴたちを。2度目はセイウンスカイたちを。そして3度目は、ウオッカやスカーレットたちを。

 

 

「なるほどな。これを機に読者が増えてくれるのは嬉しいが……取材のネタも増えるしな」

 

 

「それは大いに結構だが、ヘブンズ・ドアーの能力で無闇にウマ娘の頭を覗くのはよしてくれよ?」

 

 

 

 

 

02/11

「おや?……おやおやおや?君は露伴先生じゃあないか!」

 

 

それはルドルフの言伝で資料をたづなのもとへ運んでいる時のことだった。廊下の向こうから馴れ馴れしく話しかけてくるウマ娘が一人。

 

 

「……げっ。お前は……」

 

 

栗毛のショートヘアに、頭頂部から飛び出た奔放なアホ毛。ハイライトの失せた瞳にダボダボの白衣を身に着けた彼女の姿は、露伴にとっては何度か見覚えがあった。

 

 

アグネスタキオン。

 

 

問題ある所に彼女あり、彼女ある所に問題あり。そんな言い換えが成り立つほどはた迷惑な事態を引き起こすウマ娘の彼女だが、露伴にとって彼女は腐れ縁ともいえる仲であり、彼女と共に2度この学園を救ってきた。

 

 

「そんないやそうな顔をしないでおくれよーー!露伴先生、私と君の仲じゃあないか!どうしてトレセン学園にいるんだい?」

 

 

「相変わらずお前はやかましい奴だな……今回はルドルフの仕事の手伝いだよ」

 

 

その言葉を皮切りに、露伴とタキオンはしばしの雑談を繰り広げる。互いの近況についてしばらく話し込んでいたが、やがて何処からか声が響き渡った。

 

 

「こらー――!アグネスタキオン!どこに行ったんだ!」

 

 

その言葉は、明らかに目のまえにいるタキオンを探す声だったが、その声色は明確な怒気がふんだんに込められているものだった。

 

 

「……おっと。そろそろ時間だねぇ。露伴先生」

 

 

「お前……一体何をやらかしたんだ?」

 

 

露伴がタキオンに視線を投げかけると、彼女はすくりと肩をすくめ、にやりと口角を引き上げた。

 

 

「……まぁ。いつものことだよ。また私に会いたくなったら研究室においでよ」

 

 

そう言ってタキオンはその場を颯爽と立ち去ろうとする。しかし去り際に彼女はふと足を止めると、露伴に対して言葉を掛けた。

 

 

「ところで露伴先生!」

 

 

「……?」

 

 

「君、変わったねぇ!」

 

 

露伴はその言葉の真意をつかむことができず、ぽかんと口を開けたままその場に取り残されるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

02/14

何はともあれ、ドタバタとして業務を無事片づけ、大きな問題も起きずに終えることができた。その間、10代で漫画家として大成して今の今まで、碌な社会経験を積んだことがなかった露伴は、大いに苦心したことは言うまでもない。

 

 

露伴は凝り固まった背中を引き延ばしながら、ため息を一つついた。

 

 

「お疲れ様、露伴先生」

 

 

ルドルフは、くたくたになり液のように椅子に座り込む露伴に対して、労いの言葉を掛けつつ、淹れたコーヒーを手渡した。

 

 

「……あぁ。ありがとう」

 

 

露伴はそのコーヒーを手に取り、口の中へと運び込む。連日の激務の末に飲んだコーヒーの味は、いつもより幾分か苦味を帯びていた。

 

 

「全く、二度とこんなことはやりたくないね」

 

 

「ハハッ。次からは多少慣れて上手くできるんじゃあないかい?」

 

 

そんな軽口の応酬をしつつ、露伴はルドルフのことを見る。すると彼女の表情の変化に気が付いた。

 

 

なにやら彼女、何かもじもじとしているように見える。露伴は彼女のことを見据えると、徐に口を開いた。

 

 

「……ところでルドルフ。僕に何か言いたいことがあるんじゃあないかい?」

 

 

「……え?」

 

 

その顔には「どうしてわかったのか」という表情がありありと浮かんでいた。いたずらっぽく露伴が笑ってみせると、ルドルフは顔を赤らめながら口を開いた。

 

 

「……どうやら露伴先生にはすぐわかってしまうみたいだな。時に露伴先生、今日は何日か覚えているかい?」

 

 

「うん……?今日は確か、2月14日だったか……って。」

 

 

そういえば今日は……思いついた事柄に、露伴が目を見開く。ルドルフはカバンの中に手を入れると、彼女はずいとそれを露伴に手渡した。

 

 

「これは……」

 

 

「……日頃の感謝も込めて……だよ。受け取ってほしい」

 

 

それは2月14日。バレンタインに備えてルドルフが露伴に用意したチョコレートだった。スイーツの分野にそこまで明るくない露伴でも知っているような有名店から取り寄せたそのチョコに、露伴は目を大きく見開いた。

 

 

「これ……いつの間に」

 

 

「……繰り返すが、これは日頃の感謝。そして付け加えるが、私の君への慕情そのものだ。……差し支えなければ、今、食べてほしいんだ」

 

 

露伴は学生時代から、決してモテる分類にいた人間ではない。彼の難儀な性格を知っているものは、誰も異性や友人へ送る対象として彼を選ぶことはほとんどなかったからだ。漫画家になった今、ファンとしてこの時期になると贈り物の中にチョコを送る者もいるが、それはあくまで「ファン」としてのチョコレートであり、特段それが露伴の心を掻き立てる代物になることはなかった。

 

 

それを今、いい年になって異性からここまでストレートに言葉を告げられ、露伴は言いようのない感情に襲われていた。顔から火がでるように熱を帯び、渡し主であるルドルフの顔を直視することができない。もしも今彼女の顔を見てしまったら。確実に今の取り繕った表情は消え失せ、彼女に恥をさらすことになったに違いない。

 

 

「……あ、あぁ」

 

 

チョコレートの箱を開け、その中身を改める。すると上品な包装の中に、区分けされた6つのチョコレートが収められていた。どれも如何にも高級そうなデザインが施されており、随所にパティシエの意匠を感じ取ることができた。そのうちの一つを手に取り、口元に運ぶ。

 

 

「……ビターでいい味じゃあないか」

 

 

先程のコーヒーに合わせてカカオの風味が濃厚で苦味の強いチョコは、素直に美味しかった。露伴が賛辞を述べるとルドルフは照れ隠しに耳を頻りにいじりながら口を開いた。

 

 

「そうか……本当は手作りにしたかったんだが……時間を作ることができなくてね。なにはともあれ、露伴先生に喜んでもらってよかったよ」

 

 

その日の仕事を終え、2人は学園を後にする。明日の早朝にシンボリ家に顔を出し、夕方には杜王町に帰るため、今日はホテルで荷造りをして、明日は簡単な支度で東京を出発することができるようにするつもりだった。しかしながら連日の仕事やらなにやらですっかりと疲れて切ってしまった露伴とルドルフは、荷造りは明日の自分たちに任せ、泥のように眠りこんでしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

02/08

1か月も経たぬうちに訪れた、トレセン学園。

露伴は既に見慣れてしまったその校門の前に立ちながらため息を一つつくと、隣にいるルドルフに静かに声を掛けた。

 

 

「ここまでトレセン学園に足を運ぶなら、もはや学園内に部屋を宛がってもらいたいくらいだよ」

 

 

「……フフ。それもいい考えだ。そうしたら理事長に掛け合って……」

 

 

「……冗談だよ」

 

 

露伴はそう言葉を漏らすと、学園内に足を運んでいく。今日から1週間、この学園でルドルフの手伝いにほぼ寝泊り同然の状態で手伝うことになった。

 

 

 

 

 

 

02/09

生徒会室でルドルフのことを手伝いながら、露伴はため息を一つ漏らす。慣れないPC作業や役員たちの書類仕事の手伝いに辟易していたことは事実だったが、露伴の頭の中を占めているのは決してそのことではなかった。

 

 

「……どうして僕が廊下を歩く度に、色んな奴らに絡まれるんだ?」

 

 

前回のトレセン学園の訪問とはまるで様相が違う。色々なウマ娘たちに頻りに話しかけられ、きりにサインやら握手を求められる。露伴はその変化に戸惑いを隠せなかった。

 

 

「それは、君は既に学園にとって有名人だからね。今回で君は3回目の学園訪問だろう?既に君の顔や素性は学園に知れ渡っているし、かなり好意的な印象を抱いていることだろう」

 

 

「……好意的な印象?それはどういうことだ?」

 

 

「君は既にトレセン学園を3度救っている。多くの人には知られてはいないが、ひっそりと……それでも確かに君はこの学園を救っている。その救済された者たちが、君のことをひどく言うわけがないだろう?」

 

 

確かに自身が過去に3度、この学園の危機を救っている。1度目はルドルフやエアグルーヴたちを。2度目はセイウンスカイたちを。そして3度目は、ウオッカやスカーレットたちを。

 

 

「なるほどな。これを機に読者が増えてくれるのは嬉しいが……取材のネタも増えるしな」

 

 

「それは大いに結構だが、ヘブンズ・ドアーの能力で無闇にウマ娘の頭を覗くのはよしてくれよ?」

 

 

02/11

「おや?……おやおやおや~~?露伴先生じゃあないですか!」

 

それはルドルフの言伝で資料をたづなのもとへ運んでいる時のことだった。廊下の向こうから馴れ馴れしく話しかけてくるウマ娘が一人。

 

 

「……げっ。お前は……」

 

 

葦毛のショートヘアに、透き通った青空のような瞳。廊下の向こうから現れた彼女の姿は、露伴にとっては何度か見覚えがあった。

 

 

セイウンスカイ。

 

 

自由奔放なウマ娘。それでも学園に在籍するウマ娘の中ではその実力は頭一つ抜きんでたものがあり、多くのウマ娘たちの中でもひと際大きな存在感を放っているとルドルフから聞いていた。

 

 

「そんないやそうな顔をしないでくださーーい!露伴先生、私と君の仲じゃあないですか~!……そういえば、どうして先生はトレセン学園にいるんですか?」

 

 

「まったく……今回はルドルフの仕事の手伝いだよ」

 

 

その言葉を皮切りに、露伴とスカイはしばしの雑談を繰り広げる。互いの近況についてしばらく話し込んでいたが、やがて何処からか声が響き渡った。

 

 

「おー-い、スカイー-!どこに行ったんだ!練習するぞー-!」

 

 

その言葉は、明らかに目のまえにいるスカイのことを探す声だった。恐らく彼女のトレーナーの声のものだろう。彼にも会っておきたいな。

 

 

「……おっと。そろそろ時間ですね、露伴先生‼」

 

 

「君……一体何をやらかしたんだ?」

 

 

露伴が彼女に視線を投げかけると、彼女はすくりと肩をすくめ、にやりと口角を引き上げた。

 

 

「……いつものことですよ~、気にしないでください!」

 

 

そう言ってスカイはその場を颯爽と立ち去ろうとする。しかし去り際に彼女はふと足を止めると、露伴に対して言葉を掛けた。

 

 

「ところで露伴先生!」

 

 

「……?」

 

 

「会えてよかったです!」

 

 

そう言って彼女は颯爽とその場をあとにする。やがて彼女のことを追ってやってきた彼女のトレーナーのばったりと出くわし、しばしの再会を喜び、少々話し込んでしまったことは言うまでもない。

 

 

 

 

02/14

何はともあれ、ドタバタとして業務を無事片づけ、大きな問題も起きずに終えることができた。その間、10代で漫画家として大成して今の今まで、碌な社会経験を積んだことがなかった露伴は、大いに苦心したことは言うまでもない。

 

 

露伴は凝り固まった背中を引き延ばしながら、ため息を一つついた。

 

 

「お疲れ様、露伴先生」

 

 

ルドルフは、くたくたになり液のように椅子に座り込む露伴に対して、労いの言葉を掛けつつ、淹れたお茶を手渡した。

 

 

「……あぁ。ありがとう」

 

 

露伴はそのお茶を手に取り、口の中へと運び込む。連日の激務の末に飲んだコーヒーの味は、いつもより幾分か渋みを帯びていた。

 

 

「全く、二度とこんなことはやりたくないね」

 

 

「ハハッ。次からは多少慣れて上手くできるんじゃあないかい?」

 

 

そんな軽口の応酬をしつつ、露伴はルドルフのことを見る。すると彼女の表情の変化に気が付いた。

 

 

なにやら彼女、何かもじもじとしているように見える。露伴は彼女のことを見据えると、徐に口を開いた。

 

 

「……ところでルドルフ。僕に何か言いたいことがあるんじゃあないかい?」

 

 

「……え?」

 

 

その顔には「どうしてわかったのか」という表情がありありと浮かんでいた。いたずらっぽく露伴が笑ってみせると、ルドルフは顔を赤らめながら口を開いた。

 

 

「……どうやら露伴先生にはすぐわかってしまうみたいだな。時に露伴先生、今日は何日か覚えているかい?」

 

 

「うん……?今日は確か、2月14日だったか……って。」

 

 

そういえば今日は……思いついた事柄に、露伴が目を見開く。ルドルフはカバンの中に手を入れると、彼女はずいとそれを露伴に手渡した。

 

 

「これは……」

 

 

「……日頃の感謝も込めて……だよ。受け取ってほしい」

 

 

それは2月14日。バレンタインに備えてルドルフが露伴に用意したチョコレートだった。スイーツの分野にそこまで明るくない露伴でも知っているような有名店から取り寄せたそのチョコに、露伴は目を大きく見開いた。

 

 

「これ……いつの間に」

 

 

「……繰り返すが、これは日頃の感謝。そして付け加えるが、私の君への慕情そのものだ。……差し支えなければ、今、食べてほしいんだ」

 

 

露伴は学生時代から、決してモテる分類にいた人間ではない。彼の難儀な性格を知っているものは、誰も異性や友人へ送る対象として彼を選ぶことはほとんどなかったからだ。漫画家になった今、ファンとしてこの時期になると贈り物の中にチョコを送る者もいるが、それはあくまで「ファン」としてのチョコレートであり、特段それが露伴の心を掻き立てる代物になることはなかった。

 

 

それを今、いい年になって異性からここまでストレートに言葉を告げられ、露伴は言いようのない感情に襲われていた。顔から火がでるように熱を帯び、渡し主であるルドルフの顔を直視することができない。もしも今彼女の顔を見てしまったら。確実に今の取り繕った表情は消え失せ、彼女に恥をさらすことになったに違いない。

 

 

「……あ、あぁ」

 

 

チョコレートの箱を開け、その中身を改める。すると上品な包装の中に、区分けされた6つのチョコレートが収められていた。どれも如何にも高級そうなデザインが施されており、随所にパティシエの意匠を感じ取ることができた。そのうちの一つを手に取り、口元に運ぶ。

 

 

「……ビターでいい味じゃあないか」

 

 

先程のお茶に合わせてカカオの風味が濃厚で苦味の強いチョコは、素直に美味しかった。露伴が賛辞を述べるとルドルフは照れ隠しに耳を頻りにいじりながら口を開いた。

 

 

「そうか……本当は手作りにしたかったんだが……時間を作ることができなくてね。なにはともあれ、露伴先生に喜んでもらってよかったよ」

 

 

その日の仕事を終え、2人は学園を後にする。明日の早朝にシンボリ家に顔を出し、夕方には杜王町に帰るため、今日はホテルで荷造りをして、明日は簡単な支度で東京を出発することができるようにするつもりだった。しかしながら連日の仕事やらなにやらですっかりと疲れて切ってしまった露伴とルドルフは、荷造りは明日の自分たちに任せ、泥のように眠りこんでしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

02/08

1か月も経たぬうちに訪れた、トレセン学園。

露伴は既に見慣れてしまったその校門の前に立ちながらため息を一つつくと、隣にいるルドルフに静かに声を掛けた。

 

 

「ここまでトレセン学園に足を運ぶなら、もはや学園内に部屋を宛がってもらいたいくらいだよ」

 

 

「……フフ。それもいい考えだ。そうしたら理事長に掛け合って……」

 

 

「……冗談だよ」

 

 

露伴はそう言葉を漏らすと、学園内に足を運んでいく。今日から1週間、この学園でルドルフの手伝いにほぼ寝泊り同然の状態で手伝うことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

02/09

生徒会室でルドルフのことを手伝いながら、露伴はため息を一つ漏らす。慣れないPC作業や役員たちの書類仕事の手伝いに辟易していたことは事実だったが、露伴の頭の中を占めているのは決してそのことではなかった。

 

 

「……どうして僕が廊下を歩く度に、色んな奴らに絡まれるんだ?」

 

 

前回のトレセン学園の訪問とはまるで様相が違う。色々なウマ娘たちに頻りに話しかけられ、きりにサインやら握手を求められる。露伴はその変化に戸惑いを隠せなかった。

 

 

「それは、君は既に学園にとって有名人だからね。今回で君は3回目の学園訪問だろう?既に君の顔や素性は学園に知れ渡っているし、かなり好意的な印象を抱いていることだろう」

 

 

「……好意的な印象?それはどういうことだ?」

 

 

「君は既にトレセン学園を3度救っている。多くの人には知られてはいないが、ひっそりと……それでも確かに君はこの学園を救っている。その救済された者たちが、君のことをひどく言うわけがないだろう?」

 

 

確かに自身が過去に3度、この学園の危機を救っている。1度目はルドルフやエアグルーヴたちを。2度目はセイウンスカイたちを。そして3度目は、ウオッカやスカーレットたちを。

 

 

「なるほどな。これを機に読者が増えてくれるのは嬉しいが……取材のネタも増えるしな」

 

 

「それは大いに結構だが、ヘブンズ・ドアーの能力で無闇にウマ娘の頭を覗くのはよしてくれよ?」

 

 

ルドルフがたしなめたその一言に、露伴は居心地の悪そうに肩をすくめた。

 

 

 

 

 

 

02/11

「……あの!」

 

 

それはルドルフの言伝で資料をたづなのもとへ運んでいる時のことだった。廊下の向こうから近づいてくる、一人の人物の姿があった。

 

 

「……君は?」

 

 

話しかけた男の顔に、露伴には見覚えがなかった。学園で話しかけてくるということは、ファンの一人だろうか?露伴が訝し気に首を傾けると、その男は徐に口を開いた。

 

 

「そ……その……聞いたことがあるんです」

 

 

「……?」

 

 

要領を得ない彼の発言に、露伴は少々彼に対して苛立ちを感じた。言いたいことがあるとしたら、はっきりと言えばいい。

 

 

「……おい。一体ぼくに何の用なんだい?」

 

 

男はその言葉に僅かに体を震わせると、意を決したように顔を上げて露伴に対して言葉をかけた。

 

 

「……露伴先生の噂を聞いたんです。学園内で困っている人を助けてくれるって」

 

 

そんな噂が回っているのか。露伴は少々誇張された事実に顔をしかめたが、そのことを意にも介さずに男は言葉を続けた。

 

 

「……助けてほしいんです。僕のことを…僕、ずっとこの1週間を繰り返しているんです」

 



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岸辺露伴は戻らない2

 

 

 

 

 

 

「はぁ?」

 

 

露伴の口から漏れ出た一言。それは彼の苛立ちと困惑を表すにはこの上ないものだった。露伴は目のまえにいる男のことを見据えると、顔をしかめたまま言葉を続けた。

 

 

「……すまない。今なんて?」

 

 

「で、ですから……僕はこの一週間を……」

 

 

「聞こえてはいたんだ。ただ言語としてじゃあなくて、文意を理解できなかったんだ。一週間を繰り返している?あまり人をバカにするのも大概にするんだな」

 

 

揶揄われている。そうとしか思えないような、あまりにも荒唐無稽な話だった。露伴は呆れたように目をぐるりとまわすと足早にその場を立ち去ろうと試みる。ルドルフに指示された仕事はまだまだ終わる量ではない。こんなところで見ず知らずの男の与太話に付き合っている余裕など、どこにもなかった。

 

 

「い、いや!からかっているわけじゃあないです!露伴先生の噂を聞いて、藁をも縋る気持ちで……!!」

 

 

岸辺露伴が、トレセン学園に蔓延る謎の解決に一役買っている。その噂話が出回っていることは知っていたが、まさかそれがこんな形で因果としてめぐってくるとは。

 

 

その目に涙を浮かべて、男は跪いて露伴に縋り付く。男の必死な様子を見れば、彼が自分を騙すために声を掛けたわけではないような気がしてきた。

 

 

やれやれ。

 

 

漫画家としての直感が、「このネタを逃すな」と告げている。そしてその直感に殉じて、この問題に首をつっこむことは、後々面倒なことに巻き込まれることになる。そのことも露伴は既に分かっていた。

 

 

それでもそれを見過ごすことができないのが、哀しきかな漫画家としての性だった。ため息を一ついて露伴は男を立たせると、彼に言葉を掛けた。

 

 

「……とりあえず。話だけでも聞いてやろう。付いてこい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

露伴は男を連れて、滞在中に宛がわれた部屋に向かう。部屋に到着し扉を開けると、そこには自身の担当ウマ娘、シンボリルドルフの姿があった。

 

 

「……おや、露伴先生。君が客人を連れてくるなんて珍しい。それに久しぶりだね、大森亮人トレーナー」

 

 

「あ、あぁ。久しぶりだね。ルドルフ」

 

 

「おや、君たちは顔見知りなのかい?」

 

 

大森亮人。どうやらそれが彼の名前のようだ。そして彼もいままでの面倒ごとの例にもれずにトレーナーらしい。確かによくみれば、彼のスーツの胸元には、その証であるトレーナーバッジが取り付けられている。

 

 

そしてルドルフは彼と面識があるとのことだが、一体何の繋がりなのだろうか。確か彼女は生徒会の会長として多くの人たちと関わってきているだろうが。露伴の心に沸いた疑念の答えは、意外にもすぐに返ってきた。

 

 

「彼はチームのトレーナーでね。私の友人が彼の担当なんだ」

 

 

なるほどこれで疑問は解消した。それにしても、このシンボリルドルフというウマ娘は私の心の中が読めるのだろうか。感心を通り越して、若干の不気味さすら感じる。

 

 

「もう君とも長い付き合いだからね」

 

 

ルドルフ、僕の心の中と会話をするんじゃあない。

 

 

「と、ところで。先程の相談なんですが……」

 

 

亮人は恐る恐る口を開く。露伴はルドルフとの応酬を済ませると、彼の方へと向き直る。今するべきことは夫婦漫才をルドルフと繰り広げることではない。今やるべきこと、それは……。

 

 

「……あぁ。相談、ね……ただ口は開かなくて構わないよ。直接のぞかせてもらうから。」

 

 

「……え?」

 

 

そう言うや否や、露伴は亮人の顔にそっと触れる……すると彼の顔から本を開いたようにページが出現し、彼はまるで糸が切れたマリオネットのようにその場に倒れこんだ。

 

 

「あぁ!露伴先生……!いきなり何を……!」

 

 

ヘブンズドアー。それは漫画家・岸辺露伴の能力であり、特別な才能そのものだ。対象が生きてきて見聞きした情報の全てを、ヘブンズドアーは赤裸々にする。

 

 

 

「説明はあとだ。こいつの話をいちいち聞くよりも、直接見てしまった方がわかりやすいというものさ」

 

 

 

ルドルフの非難を涼しい顔で受け流し、露伴は倒れこんでいる亮人の傍にしゃがみ込み、ページに手を掛けた。

 

 

「どれどれ……大森亮人。29歳、男…身長176センチ、体重65キロ……こんなことはどうでもいいな。問題の箇所を……」

 

 

彼が生きてきた情報の全て。それをヘブンズドアーが全てを暴き出す。初めて見た景色や経験……そのすべてを。

 

 

そして、もしも彼の言った「1週間を繰り返している」ということが戯言ではないとするならば、きっとその記載された箇所がなされているはずだ。

 

 

パラ、パラパラ。

 

 

流し読みの要領で、露伴はページを捲る。やがて露伴の視線は、とある箇所によって止められることになった。

 

 

02/08

今日は仕事。来年度入るであろう生徒たちの入学資料を整理していた。きっと来年入るウマ娘たちの中にも、才能あふれる子たちがいるに違いない。選抜レースが今から楽しみだ。

 

 

この大森亮人という男、トレーナーとしては手本するべきような、熱意溢れる男のようだ。一般的に彼の年齢で複数のウマ娘を受け持つことは、異例中の異例であると言えるだろう。それだけ彼が仕事に対して熱心であり、ウマ娘に対して情熱を注いでいるということだ。

 

 

02/09

どうやら学園にあの有名な漫画家、岸辺露伴が来ているようだ。しばらく学園に滞在するようなので、機会があったら一目みたいものだ。ピンクダークの少年は大好きだし、自室には全巻、初版で揃えている。

 

 

なるほど、こいつは僕と、そして僕の作品のファンのようだ。目が覚めたら一筆サインでも書いてやるとするか。

 

 

ゴシップ記事を読むような感覚で、露伴は亮人の記述を読み進める。彼は至極普通な人生の記述…もっとも漫画家・岸辺露伴からいわせれば、「ネタ」がない記述であるとみなさざるを得なかったわけだが。

 

 

同じ要領で10、11日と読み進め、露伴は次のページを捲る。

 

 

02/12

今日は担当たちの合同レース。3月で卒業する子もいるため、このレースも彼女たちにとっては、このメンバーで行う残り少ないレースになることだろう。

  

 

 

 

ん……?

 

 

突如心に生じた違和感。何の変哲もない、前述の記載となんら変わらないはずの記述。それなのに何かが心の内に引っかかる。

 

 

「……!!」

 

 

その違和感の正体に気づいた露伴は亮人の記述から顔を上げると、ルドルフに声を掛けた。

 

 

「ルドルフ。今日は何日だ。」

 

 

「……?今日は2月11日だ。」

 

 

その答えに、露伴の背筋はぞっと凍り付く。

 

 

今日は2月11日。それなのに、記述には2月12日のものが加えられている。まるでその日を経験しているかのように、まるで当然のように加えられているその記述は、本来ありえない、未来の記述のものだった。

 

 

「ありえない……!これは……この記述はッ……!」

 

 

自身を襲う混乱と異常事態に、露伴は明らかに動揺していた。未来の記述を持っているということ。それが意味することとは一体何なのか。

 

 

……こいつは確か、繰り返していると言っていたな。

 

 

亮人から受けていたトラブルの相談。それはこの一週間を自身が繰り返し体験しているという突拍子のないものだった。

 

 

ページを急いで捲っていき、彼が繰り返している期間として言及していた最終日…2月14日の箇所にたどり着く。露伴は恐る恐る次のページに手を掛けた。

 

 

……岸辺露伴は恐怖していた。即ち目のまえに広がる異常事態に。そして同時に、これから起こるであろう出来事、その予想が当たっているとするならば、十中八九厄介なことになることを覚悟していた。

 

 

ペラ。

 

 

02月08日。

目の前の出来事を理解することができない。一体僕の身に何が起こったのか、わからない……既に体験した日を、まるでビデオの巻き戻しのように。このことはどうやら僕しか経験していないみたいだ。

 

 

……やはり。そうだったか。

 

 

この異常事態。どうやら本当に起こっている出来事のようだ。

 

 

露伴は小さくため息を零す。それはすなわち、これから関わるであろう厄介ごとに対する呆れ。そしてそれと向き合うことに腹をくくるためだった。露伴はすくっと立ち上がると、ルドルフに向き直った。

 

 

「どうやら少々……いや、やっかいなことになったぞ、ルドルフ。」

 

 

 

 

 

 



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岸辺露伴は戻らない3

 

 

 

 

一週間を繰り返している。

 

 

あまりにも奇妙で、俄かには信じがたい。それでもその事象は、確固たる事実として3人の目のまえに横たわっていた。ヘブンズドアーの能力を解かれ、目を覚ました亮人は、その上体を引き起こしながら露伴に尋ねた。

 

 

「……そ、それで露伴先生……信じていただけましたか?」

 

 

「さすがに……信じる他なさそうだ。それにしても、なんて厄介な……」

 

 

これまで幾度となく、常識では説明のつかない超常現象に出くわし、解決に助力してきた。スタンド能力によって話が亮人の与太話ではないことが判明した以上、とやかく問う気力はとうに失せていた。

 

 

亮人は露伴の言葉にほっとしたような様子をみせると、言葉を続けた。

 

 

「……信じてもらえてよかったです。ヘブンズ・ドアーで僕の記述を見たんですね?」

 

 

「あぁ。それで信じたよ……」

 

 

……って。

 

 

あれ?

 

 

ここで露伴の胸の内に、一つの。決して拭い去ることができない違和感と、恐怖が生じる。即ち亮人の今の発言に孕んでいる、その意味を理解したのだ。

 

 

「……おい。どうして君がヘブンズ・ドアーのことを知っているんだ?」

 

 

その言葉に、そばに控えていたルドルフの顔も青白く染め上げられる。どうやら彼女もこの恐ろしさを理解したようだ。

 

 

「……それは……まさか…」

 

 

「その通りです。僕がお二人とお話ししたのは、これが初めてじゃあないんです」

 

 

それが事実であるとするならば。この事象には自身のヘブンズ・ドアーの能力は通用しない。自身の能力にある程度の自信を抱き、そして露伴の能力の恐ろしさを十分に理解している2人にとっては、驚愕の出来事に他ならなかった。

 

 

「何回目なんだ。僕と君があったのは」

 

 

「話すことができたのは、2回目です。1度話すことができて事件の説明をしましたが解決には至りませんでした……」

 

 

なるほど。この1週間を繰り返していると聞いて、自身にヘブンズ・ドアーの能力を用いて「記憶を持ち越すことができる」と書けば自身も亮人のように記憶の持ち越しができるとばかり思っていたが、どうやらそれはできないようだ。

 

 

「そしたら、手間ではあるが今一度君の記述をもう一度見せてくれ。情報の洗い出しをしたい」

 

 

「……わかりました。またお願いします」

 

 

……また、か。

 

 

その言葉は、まるで氷のように凍てついた代物と化して露伴の首筋に宛がわれているかのようだった。今迄の行動も、そしてこれからの行動も。全ては徒労と化してしまうのか。その言葉に若干の苛立ちと焦りを感じつつ、露伴は亮人の顔に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……これで粗方の情報は洗い出せた……かな」

 

 

外はすっかり暗くなってしまっている。机の上には亮人の記述に記載されていた今迄の1週間のループの情報がびっしりと書き込まれた紙の束で積み重ねられており、ホワイトボードには特に重要そうな情報が貼り出されていた。

 

 

その情報は膨大な量だったため、整理するのにここまで時間を要してしまった。ルドルフがいなければ、恐らく朝日が昇るまでかかっていた作業だろう。

 

 

「……前回の僕たちが掴んだ情報は、特になかったみたいだな」」

 

 

「はい……前回は僕のことを調査するのに時間を費やしてしまって……」

 

 

「いや、前回の情報をみたところ、一つ分かったことがある。つまり今回の騒動は、君が原因というわけじゃあない、ということだ」

 

 

「……?」

 

 

それは一体、どういうことだろうか。亮人が首を傾げると、その疑問に答えるために露伴は口を開いた。

 

 

「前回の調査、短いながらも丹念に調べ上げられている。君の親族のことや君の部屋に至るまで……それこそ君の部屋まで入って調査が及んでいる……だな?」

 

 

「え、えぇ……」

 

 

「君に原因があるとしたら、この事象に巻き込まれてしまった、ということには少なくとも直近で何か「トリガー」となるようなことに起きてなくてはならない。」

 

 

「つまりそれがないってことは、亮人君自身が原因じゃあないと?」

 

 

ルドルフの問いに、露伴は首を縦に振る。神か妖怪といった類の何かが、無作為に亮人という人間を災厄の種に選んだ、という可能性もゼロというわけではないが……それはあくまで天文学的な可能性だ。有り得ないといっていいだろう。今はその最悪の可能性は考える必要はない……それがもしも正解だとするならば、もはやこのループを抜け出す方法がないということなのだから。

 

 

「だが、聊か君が無関係じゃあないってことは言えるだろう。」

 

 

「……と、言うと?」

 

 

「ループに巻き込まれたこの世界で、今のところ君だけが記憶の持ち超しができている……君自身に原因がないとしても、何か遠からずの縁が君にある、と考えるのが自然だろう」

 

 

そのことを考えれば、一番可能性として考えられるのは、亮人の周りにいる誰か。その誰かがもたらした奇怪な事象に、亮人が巻き込まれたとてみなすのが妥当だろう。

 

 

「また犯人捜しってことか……」

 

 

「確か、君はチームを請け負っていたな……?」

 

 

「ま、まさか……!チームの中に犯人がいるってことですか!?」

 

 

事件に多少なりとも亮人が巻き込まれているというならば、洗い出した相関図を鑑みても担当しているチームのウマ娘の誰かが原因を有しているとみていいはずだ。

 

 

「……今日はもう遅い。チームのウマ娘たちに話を聞くのは明日にしようか」

 

 

「幸い明日はチーム練習にしようと思っていたので……」

 

 

今日は02月11日……否、既に24時をまわってしまっているので、既に12日か。14日までがタイムリミットであるとするならば、タイムリミットまであと2日といったところか。

 

 

今回のループでは、解決に導くのは難しいかもしれない。

 

 

露伴は苛立ちげにため息を口から漏らすが、そのフラストレーションが軽減することはなかった。窓の外には曇る彼らの胸の内とは裏腹に、憎々しいほど澄んだ空に月が掲げられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

02/12

 

 

 

チーム・ベータ・ポエニーキス。

2年前に大森亮人の手によって設立されたチーム。トレセン学園にはリギルやスピカをはじめとした多くの強豪チームが軒を連ねているが、ここ最近その名は学園内外を問わず広く周知されるようになってきている。

 

 

 

自信がなさげには見えるこの男だが、案外トレーナーとしては優秀だったようだ。僕がトレーナーをしていた時には、ルドルフ一人が限界だったというのに。

 

 

「……今私のことについて、何か考えていなかったかい、露伴先生?」

 

 

「…なんのことだい?」

 

 

いい加減僕の心の中を読むのはやめてくれ、皇帝殿。露伴とルドルフの2人は昨日の話を受けて、亮人のチームのもとへと向かっていた。既に時刻は放課後だ……それは既に自分たちには猶予が残されていないことを示していた。

 

 

「チームのメンバーは全員で5人、だったな?」

 

 

「あぁ。そのうち1人は私の友人でね……っと。ここがベータ・ポエニーキスのミーティング部屋か」

 

 

チームには校舎の中とは別に、学園の広大な校庭の敷地の一角に、簡素ではあるが一棟のプレハブ小屋が宛がわれる。チームに所属するウマ娘たちは放課後の練習時間になると一度そこに集まり、チームトレーナーの指示を仰ぎ練習に打ち込むことになる。

 

 

視界には何棟かの横並びにされたプレハブ小屋が軒を連ねていた。

 

 

「チーム・ミラクにユプシロン、カノープス……いろいろな名前があるみたいだな」

 

 

「……カノープスには後でこの「打倒スピカ」の横断幕を下げるように言っておかなければいけないな」

 

 

横並びの小屋の横を歩いていく2人……その並びの一番奥に、彼のチーム「ベータ・ポエニーキス」の小屋はあった。

 

 

……ここか。

 

 

露伴は小屋の戸を3度、小気味良く叩く。するとすぐに扉を開かれ、部屋の中から亮人が姿を現した。

 

 

「露伴先生!ようこそいらっしゃいました……!」

 

 

「御託はいいから早く部屋の中に入れてくれないか。君のチームのウマ娘たちにはやいとこ会わせてくれないか?」

 

 

「は、はい……すぐに……」

 

 

亮人はすぐに大きく扉を引き開け、2人を迎え入れる。露伴とルドルフが室内に入ったことを確認すると、亮人はあらかじめ室内にいたウマ娘たちに言葉をかけた。

 

 

「……というわけでみんな!この人が僕の言っていた露伴先生だ!みんなに話を聞きたいそうだから、協力を頼みたい!」

 

 

室内には先客……つまり彼のチームに所属するウマ娘たちの姿があった。彼女たちは室内に足を踏み入れた露伴たちの姿を認めると、思い思いの反応を見せた。

 

 

「おぉ~トレーナーさん……この人が、あの有名な『ピンクダークの少年』の作者の……」

 

 

「お久しぶりの、ルドルフ会長……!熱愛が噂される露伴先生とご一緒で……!!ンンッ……眼福……ッ!」

 

 

「あれ、ルドルフ。戻ってきたんだ」

 

 

「……」

 

 

それぞれの反応をみつめた露伴は、それに反応するよりも先に、一番自分たちに近い席で言葉を発さず、にやにやとこちらを見つめるウマ娘に顔を向けた。

 

 

「久しぶりだな……タキオン君」

 

 

「あぁ……久しぶりだねぇ、露伴先生」

 

「アグネス……タキオン……」

 

 

ルドルフは彼女の姿に、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべていた。当の本人……幾度となく学園やこの世界で起きた事件を解決に導いてきた狂気の実験ウマ娘、アグネスタキオンの姿がそこにあった。タキオンはルドルフの様子を見ると、ますます愉快そうに口角を引き上げた。

 

 

「やぁ、元会長殿に懐かしの露伴先生。また会えてうれしいよ」

 

 

「君、チームを見つけたんだな」

 

 

「おかげ様でねぇ。同室のデジタル君の紹介でお世話になっているんだ……普段はチームのミーティングなんかには出ないんだが、君たちが会いに来ると聞いてねぇ。」

 

 

昨日、亮人の記録を読んだ時にわかったことではあったが、改めてタキオンが担当をみつけて遂にデビューにまでこぎ着けたことは、彼女を知る2人にとってはいささか驚きの事実だった。

 

 

「と、とにかく。改めてチームのメンバーを紹介させてください!アグネスタキオンに、アグネスデジタル、そしてナイスネイチャ。ミスターシービーにナリタタイシンです!」

 

 

「……ところで露伴先生。君がこんなところにわざわざ顔を出すということは何か厄介ごとなんだろう?」

 

 

紹介を早々に、タキオンはその濁った目に幾分かの力を蓄えながら口を開く。岸辺露伴がトレセン学園に来たということ。それ即ち災いに見舞われることをタキオンはジンクスとみなしているのだろう。

 

 

 

 

心外ではあるが、残念ながらそのジンクスに漏れなく今回も当てはまっている。露伴はその言葉を受けると、真剣な表情で言葉を返した。

 

 

「あぁ……君たちには伝えておかなければならないんだ。」

 

 

「……?」

 

 

一同の視線が来客者である露伴に注がれる。露伴は室内にいる一同を見据えると、徐に口を開いた。

 

 

「……実は、この一週間。ずっと僕たちは繰り返しているんだ。」

 



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岸辺露伴は戻らない4

 

 

 

 

 

 

 

沈黙。

 

 

露伴がこの世界がループに巻き込まれているという衝撃の一言を放った後に訪れたのは、沈黙だった。皆それぞれが、青天の霹靂に対して受け止めようとした結果、全員が同じ行動を選択していた。

 

 

「えーと、露伴先生…?次の新作のお話ですか?」

 

 

「……」

 

 

「アハハ……ちょっと面白いかも」

 

 

否。室内にいるウマ娘たちは、自分の話を真実と認めず、荒唐無稽なものと片づけたのだろう。言葉の通り自身が漫画のネタを口にしたか、それとも露伴らしからず冗談を口にしたのか……いずれにしても、彼が今放った一言が事実であると認識するものは誰もいなかった。

 

 

たった一人を除いて。

 

 

「……露伴先生。それは本当かい?」

 

 

アグネスタキオン。岸辺露伴に何度も振り回されてきた…基、事件の解決に助力してきた彼女だけは彼の話をすぐに事実であると認識し、恐ろしい事態が発生してしまっていると理解した。

 

 

「……え?」

 

 

そして一同も、いつもは飄々としているはずのタキオンの焦り具合から、露伴が決して冗談を言っているわけではないと理解し始めた。瞬く間に動揺が、周囲に広がり始める。

 

 

「……それ、本当なのかい?ルドルフ」

 

 

室内にいたシービーは、自身にとって信頼に足りうるルドルフにその真偽を問う。ルドルフが静かに首を縦に振ると、シービーの朗らかだった表情は曇り、彼女はゆっくりと椅子に腰をおろした。

 

 

「……説明してよ。露伴先生」

 

 

今まで沈黙を貫いていたタイシンの口から漏れ出た一言。それはこの場の全員の気持ちを代弁するものだった。一同は懐疑的な視線を露伴へ向ける。露伴は彼女たちに目を向けると、一連の出来事の説明のために口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

「…………というわけなんだ」

 

 

露伴の詳しい説明を受け、一同の顔には暗い影が宿る。事態は皆にとって突拍子もなく、そして不安と絶望をあおられるものだった。

 

 

「……そんなことって」

 

 

絶望を端的に表す一言。その言葉を漏らしたシービーは、ため息をつきながら天井を仰ぎ見る。椅子に座りおとなしく聞いていたタイシンは音を立てて立ち上がると、声を荒げながら露伴に言葉を投げかけた。

 

 

「ふっざけんな……!アタシたちをこんなことに巻き込まれ……」

 

 

だがその言葉を言い終わらぬうちに、ルドルフがそれを制するように言葉を言い放った。

 

 

「言葉を返すようだが、巻き込まれているのは私や露伴先生の方だよ。」

 

 

「……どういうことですか、露伴先生……?」

 

 

沈黙していたネイチャが、不安気に露伴に言葉をかける。露伴が口を開く直前、再びルドルフがそれを制するように先に言葉を発した。

 

 

「先程説明にあったとおり、露伴先生には特殊な「ギフト」……スタンド能力と呼ばれる力がある。その能力で君たちのトレーナーの記述を見せてもらったところ、彼の身に起こっている現象は、彼自身には原因がない、ということになった。」

 

 

ルドルフの言葉のタイミングを見計らって、露伴が言葉を引き継ぐ。

 

 

「……こほん。亮人君自身には問題はないとしても、記憶の持ち越しが彼だけに起こっている以上、少なくとも彼は無関係じゃあない。つまり間接的に、彼はこのループの問題の核心に関わっている、ということなんだよ」

 

 

その言葉を聞いたタキオンは眉をひそめながら露伴に質問を投げかける。

 

 

「……その問題の核心ってやつが私たちの誰か、というわけかい?露伴先生」

 

 

「僕はそう睨んでる」

 

 

タキオンの質問に露伴は、そう言葉を口にする。タキオンはその言葉を聞くと、カラカラと笑い声をあげながら言葉を続けた。

 

 

「ハッハッ!だったら私は違うな!私には全く、身におぼえのないことだ!」

 

 

「それだったら、デジたんにも身に覚えが……」

 

 

「ア、タシも違うから!」

 

 

身の潔白を証明しようと各々が言葉を口にする。そんな様子を見た露伴はかぶりを振ると、言葉を続けた。

 

 

「いずれにしてもここにいる全員の記録は覗かせてもらう。つまりここで嘘をついたって意味は特にないぞ」

 

 

「だから何も知らないって…!」

 

 

「……嘘なんてついてない……言いがかりだよ」

 

 

疑いをかけられた周囲は皆、それぞれの形で戸惑いや怒りの様子を示す。その様子を確認すると、露伴は言葉を続けた。

 

 

「肝心な事は、現象を引き起こしている本人がそのことを自覚していない、という場合。これが一番厄介だ……そして今の君たちの反応をみたところ、どうやらそれが正解のようだな」

 

 

最悪の展開。つまり犯人は自分が今回のループの原因であるという自覚すらしていないし、その要因となる問題が一体何なのかすらわかっていない、ということだ。なんだか具合が悪いという言葉だけで病気を診断する医者がいないように、ここまで暗中模索の状態では解決へ導きようがない。

 

 

「その自覚を本人がしていないんだったら、ヘブンズ・ドアーの能力でも探しようがないんじゃあ……」

 

 

「その通りだ、ルドルフ。精神的なウィークポイントに作用しているとしても、身に覚えのないことは記述には書いていないだろうな……書いていることは、あくまで本人の主観に基づくこと。つまり本人が気づいていない、または認識をしていない物事については、ヘブンズ・ドアーで記述を見たとしても、わかりようがないんだよ」

 

 

「……そ、そんな」

 

 

亮人は不安そうに言葉を口にする。ここにきて、手詰まりになってしまったという事実を受け止めることができていないのだろう。

 

 

「……だが、主観的な事実にも何かしらのヒントが眠っているはずだ。少しでも分かる情報の欠片から推理して、誰がこの事象を引き起こしているのかを考える必要がある」

 

 

「なるほど……」

 

 

ループを引き起こしている犯人を見つけ、その深層心理に眠る病巣を取り除かなければならない……もっとも本人が自覚すらしていないが。

 

 

「ちょ……結局みるんですか⁉アタシたちのこと!」

 

 

「何とか、勘弁ならないですか……?」

 

 

「当たり前だ。君たちもずっとこの1週間にエンドレスに閉じ込められるのは嫌だろう……少なくとも、僕は死んでも願い下げだね。」

 

 

露伴はそう言って、彼女たちの嘆願を無情にも却下すると、じりじりとにじり寄っていった。

 

 

 

 

 

 

チームメンバー5人の記述を粗方読み終わった時には、既にこの日の練習時間はとうに終わり、寮の門限の時刻まであと10分ほど前まで迫っていた。露伴は最後の番だったタイシンの傍から立ち上がると、亮人の方へ向き直った。

 

 

「さて……一応、分かったことはある程度あった。後で情報の共有を亮人君にしよう。恐らく今回のループでは解決は難しい…情報は君が見聞きしなければ、意味がないからな。」

 

 

「わ、わかりました」

 

 

記憶の持ち越しを露伴自身がすることができない以上、ヘブンズ・ドアーで得た情報を会得した情報は逐次亮人に共有し、次のループへ繋げていかなければ意味がない。

 

 

露伴は部屋にいる1人のウマ娘へ顔を向けると、徐に口を開いた。

 

 

「……じゃあ早速、話を聞くとするか。最初は君だ」

 

 

「……ほう?それは大変興味深いね。旧知の仲の私にかい?」

 

 

「当たり前だ。明日の12時、早速話を聞かせてくれ……どうせ授業にも出ないで実験にふけっているのだろう?」

 

 

「まったくもってその通りだよ」

 

 

その言葉を受け、アグネスタキオンは口角を歪な形に引き上げた。

 

 

 

 

 

 

02/13

露伴とルドルフの2人は、これからチームメンバーの一人であるアグネスタキオンから話を聞こうと、約束した通りに実験室に向かっていた。

 

 

チーム・ベータ・ポエニーキス

大森亮人にとっての最初の担当ウマ娘、ミスターシービーがクラシック3冠を達成したことによってシービーと彼のトレーナーとしての手腕が買われ、チーム創設の話が学園の理事長から持ち掛けられる。ナリタタイシン、ナイスネイチャ、アグネスデジタルの順にチームに加入し、最後にアグネスタキオンがチームに加入したことによって現在の体制になる。

 

 

亮人の最初の担当ウマ娘、ミスターシービーは最古参にしてチームの大黒柱と呼べる存在であり、皐月賞、東京優駿、菊花賞を勝利しクラシック3冠と秋の天皇賞のタイトルを掴んだ1流のウマ娘と言える存在だろう。

 

 

彼女は現役時代、シンボリルドルフと幾度となく雌雄を決するレースを繰り広げてきたウマ娘であり、今年の3月をもってルドルフと共に学園を卒業することが決まっていた。卒業後の進路はルドルフがいくら聞いてもはぐらかされてしまっているそうだ。

 

 

自由奔放な性格であり、寮ではなく独り暮らしが認められている数少ないウマ娘であり、朝早くや夜中に学園外で散歩やトレーニングの光景が目撃されていた。

 

 

2番目のメンバーは、ナリタタイシン。ビワハヤヒデとウイニングチケットと共にクラシックを賑わせたウマ娘であり、彼女は皐月賞を制しているが、現在はクラシック期の秋に患った怪我をもとに、療養中である。

 

 

性格は非常に気難しく、気を許した相手以外にはコミュニケーションすら取ろうとしない。その背景には小さな体躯をバカにされ続けたコンプレックスが深く根付いており、レースに出る目的も、過去に対する復讐心が見え隠れしているようだ。

 

 

3番目のメンバーは、ナイスネイチャ。いくつかの重賞でタイトルを掴むことに成功しているものの、同期で次期生徒会長として名高いトウカイテイオーをはじめとした相手の活躍に苦渋を舐めることが多く、先のルドルフの引退レースでは3着に落ち着いていた。

 

 

下町にあるスナックの店主のもとに生まれ、幼い頃から大人たちに囲まれて生きてきたせいか、性格はよくもわるくも落ち着きのある平熱型であり、その精神には脇役根性が深く根付いているのが、勝ち切れなさにつながっている一因のようだ。

 

 

4人目のメンバーはアグネスデジタル。ウマ娘の、ウマ娘による、ウマ娘のための推し活動。正に「オタクウマ娘」という名称がこの上なく似合うウマ娘が、彼女だろう。そのウマ娘の愛はレースにも十分に活用されており、より多くのウマ娘たちのレース姿を見たいという願望をもとに、ダート・芝を問わずの活躍をみせている。

 

 

そのオールラウンドな活躍も、彼女の才能と多大な努力のもとに成り立っていることであり、トレーニングも普通のウマ娘と比較してもおよそ2倍の質量で臨んでいるようだ。

 

 

5番目のウマ娘は、アグネスタキオン。既に何度か共に学園の危機を解決に導いてきたウマ娘であるが、学園では実験狂いのウマ娘として周知されている。

 

 

高い資質を持っているはいるものの、露伴と出会った当初はデビューもしておらず、担当トレーナーも付いていない状態で学園に在籍していた。しかし遂に学園側からのお目こぼしが終わり、至急担当トレーナーを見つけてデビューの目処を立てるようにと宣告され、困っていたところに同室だったデジタルの紹介を経て、先日チームに加入したようだ。

 

 

「文句のつけようがないチームだな」

 

 

「でもこの中に、今回のループを引き起こしているウマ娘がいる、ということだね露伴先生?」

 

 

「あぁ。とりあえず疑わしい可能性を潰して、真実にたどり着くしか方法はない。」

 

 

「そのために、まずはタキオンから話を聞こうと?」

 

 

「あぁ。加入した時期や性格から考えて、タキオンが犯人である可能性はかぎりなく低いからな。はやいところ話を聞いて、さっさと協力してほしいからな。」

 

 

そう言うと、2人は目的地であるタキオンが無断で占領している教室……実験室の前で足を止める。露伴はため息を一つつくと、扉に手をかけた。

 

 

その時だった。

 

 

ドォン!!

 

 

大きな煙と衝撃が室内から生じ、扉は容易く吹っ飛ぶ。扉の衝撃を受け、露伴の身体は後方へ吹っ飛んでいった。

 

 

「……!!ろ、露伴先生―――――!」

 

 

「……あぁ、すまないすまない。薬品の調合を間違えてしまった……って露伴先生……これはマズイねぇ」

 

 

「アグネスタキオンーーーー!!」

 

 

頭をしたたかに打ち、のびてしまっている露伴に、絶叫するルドルフ。そして煙の中から姿を現した、煤だらけのタキオン。事態はカオスと表現するにふさわしい代物に様変わりした。

 



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岸辺露伴は戻らない5

 

 

人生とは孤独であることだ。

誰も他の人を知らない。

みんなひとりぼっちだ。

自分ひとりで歩かねばならない。

 

ヘルマンヘッセ

 

 

 

アグネスタキオン。

誕生日・4月14日

身長159センチ

スリーサイズ・B83・W55・H81

靴のサイズ・22.5センチ

学年・高等部

所属寮・栗東寮

レース名家に生まれた異端児。

 

 

 

 

 

用途不明の……何に使うのかなんて知りたくもない、そんな蛍光色の液体が入れられたフラスコに、テーブルの上に乱雑に配置されている、実験に基づいたデータや資料の数々。

 

 

久方ぶりのタキオンの実験室は、記憶の奥底にこびりついた姿と大差はなかった。

 

 

「最後にここに来たのは、まだこの世界が2つに別れていた時…だったかな?」

 

 

「あぁ…最もあの時実験室は吹っ飛ばしてしまったがね。厳重注意の扱いは受けたが、こうしてまた実験室で気ままに実験に打ち込むことができているよ」

 

 

「つまり懲りずに不当に教室を占拠している、ということか」

 

 

「……フム。だが君は既に会長でもなんでもない、ただの一生徒だろう?文句を言われる筋合いはないねぇ」

 

 

「おい、やめないか」

 

 

シンボリルドルフとアグネスタキオン。この二人は先の件のこともあってか、あまり仲が良くない。口を開けば互いに皮肉の応酬を講じるばかりである。露伴は呆れたように目をぐるりと回して二人の応酬を止めると、言葉を続けた。

 

 

「タキオン。僕がはじめに君に最初に話を聞きにきたのは、僕は君が犯人じゃあないことを確信しているからだ。その可能性をゼロだということを先に確認して、君には早いところ原因を究明する手伝いをしてほしい」

 

 

タキオンとは既に、2度も騒動の解決のために力を合わせている。あくまで容疑者という位置づけにあることは変わりないが、それでも彼女の身の潔白を証明したい、というのが正直なところだった。

 

 

「おやおや。随分と情熱的な口説き文句だねぇ。これぞ私と露伴先生の付き合いだからこそ……って気持ちは嬉しいが、言葉に気を付けないと君の愛しのウマ娘の顔が般若のようになってしまっているようだ」

 

 

「あまり私を無礼るなよ」

 

 

露伴とのやりとりで、既にルドルフの嫉妬心と怒りは完全にピークに達していた。タキオンは激怒しているルドルフを我にも関せず、先程の爆発で横倒しになった、ボロボロの椅子を直して座る。露伴はその様子を見届けると、徐に口を開いた。

 

 

「……君のパーソナルな記述については見させてもらった。」

 

 

「……パーソナル?」

 

 

ルドルフは訝しげに、含みを持たせた物言いをした彼の顔を覗き込む。アグネスタキオンは狂気の科学者ウマ娘あることには変わりないと認識だった。その彼女の心の内にパーソナルな……それこそ今回のループの原因の一つとなりうるような、そんな弱さを持ち合わせているということなのか。

 

 

「あぁ、この脚のことか」

 

 

おくびも出さずに、彼女は自身の脚を細い指先でなぞりながら、自身の記述を告白する。ルドルフは動揺した様子で露伴に対して声を掛けた。

 

 

「それは……どういう……?」

 

 

「……いいのか?」

 

 

露伴はタキオンに対して目配せをする。これは彼女にとって、知られたくない精神の側面かもしれない。彼女が話したくないというならば、ルドルフを出払わせて2人だけで話を進める予定だった。もっともルドルフはそれを快く思わないだろうが。

 

 

「構わないとも。元会長殿にどうこうできる話じゃあないからね……ここにいてくれたって問題ないさ」

 

 

露伴の確認に込められた文意を汲み取ったタキオンはそう言う。露伴とルドルフが実験室に転がっている煤だらけの椅子を立て、座ったことを確認すると、タキオンは徐に口を開いた。

 

 

「私…アグネスタキオンはレースの世界じゃあそこそこ有名な家柄の出だ。その出自に沿って……また私自身の願いもあって、走ることが大好きだった」

 

 

「……でもね。私は脚が弱かった。それも格別に、ね。周囲の人間からは『ガラスの脚』と言われて……そんな大層なものじゃあないだろうに。家の者は脚のことを気にして……いや、レースで脚を壊して、結果を残せないような真似があっては家の名前に傷がつくと考えたんだろうねぇ。私を「走る」ことから遠ざけて、早々に優秀な「次世代」に繋げることができるように料理や茶道に、裁縫……様々なことを学ばされたよ。もっとも、いくら教わってもからっきしだったがね。」

 

 

自嘲気味にタキオンは小さく笑うが、彼女の精一杯のジョークは黒ずんだ部屋の中に霧散していった。タキオンは無音の部屋で一つため息をもらすと再び言葉を続ける……彼女の視線は、真剣そのものだった。

 

 

「でもね、私は「それを」諦めることができなかった……「走る(生きる)」ことを。それが私にとっての全てだったから。そのためにはなんでもやった。どんなペース配分で、どんな脚の運び方だったら……どんなケアをしてどんなローテーションを組めば一番脚に負担をかけないか。一番私の脚の寿命を長持ちさせることができるのか。それで頭が一杯だった。私が実験に傾倒するになったのは、偏にこのためだ。身体的な能力を向上させ、限りなく怪我のリスクを最小化することができる、そんな薬を作り出すことができれば。ずっとそんな想いだったんだ。」

 

 

「それは……亮人君には言ったのかい?」

 

 

露伴は出来る限り心配を気取られないように質問をかける。トレーナーとは即ち、心身共に担当ウマ娘をサポートする存在だ。彼女のこの問題も、きっと彼のことならば親身になって寄り添い、まるで自分事のように支えてくれるに違いない。

 

 

だがタキオンはその言葉を受けると、まるでまるで他人ごとのような表情を浮かべながら、言葉を続けた。

 

 

「これは私の…このアグネスタキオン自身の問題だ。彼はあくまで私が学園に在籍し続けるための手段の一つに過ぎない……わざわざ彼に話す必要なんて、何処にもない」

 

 

「そんな言い方は……」

 

 

口を開こうとしたルドルフを、露伴が言葉を制する。露伴はつまり、理解していた。彼女の……恐らくアグネスタキオン自身も気づいていない、その深層心理を。

 

 

つまり彼女は無意識に、防御しているのだ。彼女はこれからデビューし、そして競技の世界に身を投じようとしている。それは正に修羅の道……いつガラスの脚がひび割れ、崩壊するかもわからない、そんな荒唐無稽な道をこれから走ろうとしているのだ。

 

 

そんな危険な旅をするのは、恐怖と不安を背負うのは私だけでいい。彼女は無意識に分かっているのだ……誰よりも荒唐無稽で、狂気的なウマ娘と認識される彼女だが、その実はなんだかんだでお節介焼きで優しいウマ娘であることは、過去の騒動を解決に導いてきた体験から露伴は分かっていた。

 

 

だからこそ、彼女には理解をして欲しい。その危険な旅に、一人で突き進むのはあまりに危険で無謀だということを。そしてあの男、大森亮人は間違いなく信頼のおけるトレーナーで、彼女に不安と危険を背負うにふさわしい男だということを。

 

 

露伴は説明を終えたタキオンを見据えると、徐に口を開いた。

 

 

「はじめに謝っておきたい。今からすることは、君が今しがた言ったことに反する行為だ。だが間違いなく、この問題を解決するのに必要なことだ…少々荒療治ではあるがね」

 

 

露伴はそう言って立ち上がり、実験室の扉を引き開けるとそこには一人の人物が立っていた。

 

 

「……露伴先生。これは中々に……随分とズルい真似してくれるじゃあないか」

 

 

「タキオン……君が今言ったことって」

 

 

そこにいたのは、アグネスタキオンのトレーナー・大森亮人だった。露伴にメールで呼び出された亮人は、意図せずにタキオンの独白を耳に聞き届けることになってしまった…彼は驚愕と哀しみが綯交ぜとなった表情を浮かべていた。

 

 

「……聞かれてしまったか。これは少々…恥ずかしいねぇ」

 

 

タキオンは自嘲気味な笑みを浮かべると、言葉を続けた。亮人はすぐに顔を引き締めると、つかつかと彼女の方へと歩み寄っていった。

 

 

「……⁉君、何をして……!」

 

 

亮人は机の上に置かれていた薬品の入ったフラスコを手に持つと、その中を覗き込む。フラスコ内の液体は、蛍光色を放ち危険性を示していた。亮人は覚悟を決めて、容器の中の液体を一気に胃の中に流し込んだ。

 

 

「……おい!」

 

 

タキオンは彼の意図に気づき、行動を止めようと手を伸ばしたが、既に手遅れだった。亮人の体は、瞬く間に光を放ち始める。その様子にタキオンは狼狽しながら、質問を亮人に投げかけた。

 

 

「……どうしてだ、トレーナー君?」

 

 

「僕が……僕が君のトレーナーだからだよ。アグネスタキオン」

 

 

痛みや不安も、自分事のように支える…そんな存在。それがトレーナーという存在だというのならば。

 

 

なるほど。この感覚だったのか。

 

 

ずっと一人だと思っていた。味方なんていない…信じられない。ずっとそう思っていたはずなのに。

 

 

目の前の会長をはじめとしたウマ娘たちが、トレーナーたちに執着していたあの世界で、私は彼女たちの感覚を理解できずにいた。でも、今なら少しだけ…ほんの少しだけわかる。自分の痛みを背負ってくれる、トレーナーの存在がいてくれるというならば。

 

 

「……フフッ!今日から私は君のことをトレーナー君…否!モルモット君と呼ぼうじゃあないか!」

 

 

「……え?」

 

 

「……安心しろ。多分君が信頼に足る人物だってことが分かった、ということだろうからな」

 

 

タキオンの意図をくみ取った露伴がそう言うと、亮人は戸惑いながらも安心した表情を浮かべる。何はともあれ、タキオンの信頼を得て、彼女のパーソナルな問題を解決することに成功した。

 



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岸辺露伴は戻らない6

 

 

 

 

 

 

自由とは、自由であるべく不自由になることである

 

ジャン・ポール・サルトル

 

 

 

 

2月12~13日。

 

 

生徒の下校時刻はとっくにすぎ、すっかり夜の闇に溶け込んだ学園。

 

 

 

その学園の一角にある一室はポツンと明かりが宿り、室内には岸辺露伴とシンボリルドルフ、そして大森亮人の姿があった。

 

 

アグネスタキオンの問題を解決し、一同の顔にはいくらか安堵の表情を浮かべていた……もっともたった一人、岸辺露伴の顔には険しい表情が刻まれていた。

 

 

「……露伴先生?」

 

 

露伴の顔をみたルドルフが、彼の異変に気が付くと言葉をかける。露伴はゆっくりと彼女の顔を見つめ返すと、言葉を徐に口を開いた。

 

 

「タキオンの問題は解決した…だが彼女は犯人じゃあない。」

 

 

露伴はそう断言する。何かその根拠たりえる何かがあるというのか。ルドルフは首を傾げながら露伴の真意をうかがった。

 

 

「……どういうことだい、露伴先生?」

 

 

まだ候補は4人いて、タキオン本人からも1度だけ話を聞いたに過ぎない。それなのにここまで言い切れてしまう露伴の本心を、ルドルフ本人は聞いておきたかった。

 

 

「タキオンの脚への懸念が、能力を発動させたとして、①どうしてこの時期に能力を発動させたのか。②そしてこのループさせることの意味…この説明がつかない。」

 

 

露伴は指を立てながら、自身の説を端的に述べる。

 

 

確かに露伴の指摘の通りだ。タキオンがデビューすらしていないこの時期に、自身の脚のことを不安に思った末に能力を発動させた、というのはタキオンの性格を鑑みれば不自然と言える。

 

 

彼女は自身の脚のことを鑑みるべき事項としている、それに間違いはないのだが、決してそのことを憂慮している……つまり気に病んでいる、というわけではない。その懸念点を押さえたうえで、どうやって乗り越えるべきなのかに目を向けている。

 

 

またこの問題…タキオンの脚の問題が顕在化していない今、わざわざこの時期に世界をループさせることで解決することでもない。つまり今ループをしたところでその効力に意味はないし、タキオン自身もそのことを理解している、ということだ。

 

 

「……ということは、事件はまた振り出しってことですか?」

 

 

亮人は不安気な表情を浮かべて言葉を口にする。

 

 

タキオンが犯人ではない。そのことはわかっても、だからといってこのループを引き起こしたウマ娘誰なのか、それに近づけたわけではないし、解決の糸口を見失ってしまった……そういうことではないか。

 

 

しかしこの岸辺露伴という男は、決してそうとは考えていなかった。

 

 

「いや、タキオンが犯人じゃあない。そのことが分かっただけでも、この解決に向けては一歩前進したということだ。」

 

 

露伴の性分が前向きだということもあるだろうが、彼の言う通りだった。タキオンがシロだと判明した以上、彼女にはこれから、いつものように捜査の協力を仰ぐことができる。

 

 

「……それじゃあ、じゃあ次の話を聞くのは?」

 

 

「少なくとも、今回のループで問題の解決を図ることは無理だろう。既に今日で12日……いやもう24時を回ったから、13日か。…先に原因と思われる可能性が低いウマ娘…彼女たちに話を聞いた方がいい。」

 

 

つまり問題は、簡単なものから先に片付けて、今回のループで得た情報を基にして、次のループで本命のウマ娘の問題の解決にあたった方がいい、そういうことだろう。露伴の言葉に頷いたルドルフは言葉を続けた。

 

 

「…だとしたら、次に話を聞くのはシービーがいいだろう」

 

 

「それについては、僕も賛成です。彼女はああいう性格ですから……」

 

 

ルドルフの提案に、亮人はそれに同意する。

 

 

ミスターシービー。ルドルフと旧知の友で、大森亮人が初めて受け持った担当ウマ娘。そんな彼女から話を聞こうという2人の意図を、ヘブンズ・ドアーで彼女の性格を覗いた露伴は理解していた。

 

 

つまり彼女の性格を一言で表すというならば、自由。この一言に尽きるからだ。

 

 

雨の日でも、走りたい日には雨の中傘もささずにランニングに赴き、夜中でも走りたい時には時間を問わずに外へ繰り出す。そんな何物にも縛られない、自由の名のもとに生きる彼女は、ある種のカリスマ性を孕み、周囲の人たちからは羨望の視線を集めていた。

 

 

更に特筆すべきは彼女の「ウマ娘」としての純粋なる強さ。自由の中に力強く打ち付けられた、確固たる才能を、彼女は有していた。

 

 

皐月賞、日本ダービー、菊花賞の制覇。

数多のウマ娘たちがその称号に恋焦がれ、ターフで涙してきた。その中であくまでミスターシービーというウマ娘は、「自身が楽しんでレースをする上での延長線」でそのタイトルを全てもぎ取ってきた。

 

 

クラシック三冠を制し、彼女と肩を並べるウマ娘など、片手で数えるほどしかいない、そういわれていた。飄々と、しかし確実に。レースを楽しみ勝ち切る彼女の戦い方と、その実力。圧倒的なカリスマ性は、見るもの多くを惹きつけ、そしてその背中を残酷なまでに見せつけてきたのだ。

 

 

もっとも皇帝と謂れ恐れられたウマ娘であるシンボリルドルフも、彼女と張り合うことができるといわれたウマ娘の一人だった。シービーにとって現役最後のレースとなった一昨年の有馬記念でのルドルフとシービーの一騎打ちは、去年のルドルフの引退レースの有馬記念と並んでウマ娘史上最高のレースと銘打たれている。

 

 

何はともあれ、彼女の現役時代の大活躍。それを初の担当で成し遂げた大森亮人は、若手のトレーナーの中でも頭一つ抜きんでて注目されるに至り、その手腕を買われてチームの創設を理事長に提案され、現在のチームを設立した。

 

 

自由という言葉のもとに生きている彼女にとって、ループを発動させるような心理的な問題は見受けられない。記述にもそのような箇所は見られなかったし、簡単な確認を取って特に問題がなさそうであれば、次のウマ娘たちに目を向けてしまった方がいいだろう。

 

 

「分かった。しかし今日はもう遅い……寮に足を運ぶわけにもいかないだろう。話を聞くのは明日に……」

 

 

既に時刻は24時を回り、学園はすっかり静まり返っている。こんな時間になった以上、今から寮に顔を出してシービーに会うのは失礼だろうし、まず学園側から許可が出るはずがない。それこそ、寮の入り口で寮長か守衛に追い払われてしまうのが関の山のはずだ。

 

 

「いや、彼女は今学園外で一人暮らしをしている。この時間でも学園の許可は必要ない」

 

 

「……おいおい。学生の独り暮らしをこの学園は許可しているのかい?」

 

 

「トレセン学園は基本的には自由闊達、これが基本だからね。許可が出れば独り暮らしも可能なんだよ、露伴先生。実際にシービーとマルゼンスキーが独り暮らしをしていて、マルゼンスキーに至っては毎日自分の車で登校を……」

 

 

「……もういい。わかった」

 

 

吹っ飛んだ生徒が多いとは思っていたが、これは偏に彼女の学び舎である学園の校風の影響が強いに違いない。これ以上彼女から学園の話を聞いていては、常識の相違に頭痛を引き起こされそうだ。

 

 

「シービーにウマインでメッセージを入れておきました。家にいるので、来ても問題ないそうです……時々朝まで散歩に出払っていることがあるので、運が良かったです。」

 

 

「……そうかい」

 

 

学園の生徒が、夜をかけて外でぶらつく。もはやどこから突っ込んだらいいのかわからなくなった露伴は、そのことについて考えることを諦めると、一つ深いため息をつき、椅子から立ち上がってドアノブを捻り、外へと足を繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ここか」

 

 

シービーが独り暮らしをしているマンションは、学園から5分ほど歩いた場所にあった。府中で独り暮らしの広さとはいえ、都内に一人で住んでいるとは。これもレースで結果を残すウマ娘だからこそ成せることであろう。

 

 

シービーの住むマンションのエントランスには、しっかりとオートロックが取り付けられている。亮人はそのままオートロックの装置の前に立つと、部屋番号を手慣れた様子で打ち込み部屋主を呼び出した。

 

 

「……あ、トレーナー」

 

 

「シービー。さっき連絡した通りだ。開けてくれ」

 

 

「はいはーい」

 

 

小さな機械音が鳴り、スライド式のガラス張りの扉が開かれる。露伴たちが歩みを進め、エレベーターに乗り込む……やがて目的の階に到着し、一同は渡り廊下を歩く。マンションは竣工からそれほどの年月を隔てていないのだろう、目立った汚れやヒビもなく、綺麗なものだった。

 

 

「この部屋です」

 

 

先頭を歩いていた亮人はある部屋の前で立ち止まり、ドアをノックする。すると部屋の中から女性の声が聞こえてきた。

 

 

「……開いてるよー」

 

 

ドアを開け、一同は室内へと足を踏み入れる。部屋の中には一人のウマ娘…黒鹿毛のロングヘアーに、白い帽子の髪飾りを付けたウマ娘の姿があった。

 

 

「……やぁみんな。アタシに話、聞きにきたんでしょ?」

 

 

 

 

 

誕生日・4月7日

身長166センチ

スリーサイズ・B84・W55・H80

靴のサイズ・25センチ

学年・高等部

所属寮・一人暮らし

何にも縛られない。天衣無縫の陽気なウマ娘

 



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岸辺露伴は戻らない7

 

 

 

生きること、それは日々を告白していくことだろう。

尾崎豊

 

 

夜の帳が下りた府中の街。ミスターシービーが住むマンションは学園から数分の距離にあり、1DKの間取りは学生の一人暮らしをするには少し広い……否、彼女ほどのプレイヤーであれば、手狭と評していいだろう。

 

 

「さぁ、好きなところにすわって」

 

 

部屋には落ち着いた……しかし女の子らしいインテリアや家具が配置されていた。室内に配置されている椅子に各々が腰を据えたことを確認すると、シービーはダイニングの方へと姿を消していった。

 

 

「コーヒーでいいよね?」

 

 

一同が賛同の言葉を返すと、隣から「OK」と返事が来る。しばらくするとトレイの上に湯気の立ったコーヒーカップを4つ乗せたシービーが姿を現し、面々の前にそれらを置くと、彼女は空いていた椅子に腰を落とした。

 

 

……なにから話そうか。

 

 

大森亮人は、話の切り出し方に思いあぐねていた。

 

 

今まで何度も、彼女の部屋には顔を出していた……それは決して、邪な気持ちがあったわけじゃあない。彼女が寮に住まず、独り暮らしをしているため、生活のサポートをすることもトレーナーの大切な仕事だ。彼女の性格上、あまり家事に頓着があるわけじゃあなく、初めて部屋に上がった際には冷蔵庫にはお菓子とジュースしかなく、トレーナーとして目を回してしまった。それ以降、たまに彼女の部屋に上がり、学園で提供される昼食以外の、朝食と夕食のサポートをするようになっていた。

 

 

そんな見慣れた部屋であるはずの彼女の部屋が、何処か違う空気を放っているように感じてしまう、それこそまるで初めて上がった他人の部屋のような。きっと何も変わっていないのにそう感じてしまうのは、彼女がループを引き起こしている犯人の内の一人ではないかと勘繰ってしまっているからだろう。

 

 

亮人は担当のウマ娘を信じ切ることができない己の卑小さを恥じつつ、会話を切り出そうとする。しかしその言葉を皮切ったのは、別の人物だった。

 

 

「……君は今回のループ、どう考える?ミスターシービー君」

 

 

岸辺露伴。彼はテーブルに置かれた客人をもてなすためのコーヒーには手も付けず、肘をついて両手を組み、そこに顔を置きながら淡々と質問を投げかけた。

 

 

「アハハ。まるで刑事と犯人の取り調べみたいだね、露伴先生……ひょっとして、アタシのこと疑ってる?」

 

 

「さぁな。正直なところ君が深層心理にどんな悩みを抱えているのかなんてキョーミはないが、はやいところ次号の漫画を描きたいしな。はやく犯人を発見したいだけだ」

 

 

「……君、意外と性格悪いね。ルドルフはこの人の何処を好きに…って、今はやめとこうか。今のルドルフの表情、レース以上に殺気立っているし」

 

 

怒髪冠を衝くほど。たった一言、軽く揶揄われただけで彼女が一体どんな表情をしているのか、横を見る気にはなれなかった。亮人はルドルフには触れないように努め、シービーを見つめながら言葉をかけた。

 

 

「それで……どうなんだ、シービー?」

 

 

君が犯人なのか?

 

 

口が裂けてもそうは尋ねることはできなかった。どの担当にも等しく接してきたつもりだったが、シービーは自分にとって初めての担当ウマ娘。付き合いは言うまでもなく一番長く、彼女のことは誰よりも一番理解しているつもりだった。

 

 

だからこそ、彼女に対してそんな言葉を吐くことは、間違ってもできない。

 

 

「……さぁね。仮にループを引き起こしているのがアタシだったとしても、アタシ自身が自覚できているわけじゃあないからね。露伴先生の……なんだっけ、ヘブンズ・ドアー?の能力でもかいてなかったんでしょ?」

 

 

「あぁ。書いてない。ヘブンズ・ドアーは本人が認識していないことを読み取ることはできないからな。」

 

 

「彼の言う通り。もしもアタシが犯人だったとしても、アタシ自身が今回のループの原因はわかってないんだ……だから聞きたい。トレーナー、君はどう思う?」

 

 

「……へ?」

 

 

それは一体、どういう意味なのだろうか。突如尋ねられた亮人が素っ頓狂な声を挙げると、シービーは何か弄ぶように目を細めながら口を開いた。

 

 

「だからトレーナーの君の立場として、アタシのことはどう見える?そう聞きたいんだ。トレーナーの君は、アタシのことを怪しいって思う?」

 

 

亮人はその視線から逃れることができず、シービーの目を見つめ返す。彼女のことを見ても、その真意が果たして何なのか、それは彼には皆目見当がつかなった。

 

 

思えば、僕はずっと彼女に試されてきたのかもしれない。

 

 

彼女は「自由」を体現したようなウマ娘……その担当をしていた上で、ずっと彼女には「アタシの担当として、自由の隣を歩くにふさわしい?」、そう尋ねられてきたような気がする。そんな局面の度に、彼女のことを尊重し、そして彼女のために考えながら、自分なりに答えを出してきた気がする。

 

 

彼女はもう、公式のレースからは引退し、あとは卒業をまつのみ。最近はその問いかけをされるような場面がなかったためか、亮人は瞬時に冷たい汗が首筋を張っていくのを感じた。

 

 

口がパサつき、舌を咥内でまわすことで潤しながら、亮人は口を開いた。

 

 

「……少なくとも、僕はシービーが犯人なんて思ってないよ。」

 

 

自分なりに出した、精一杯の答え。決して取り繕って出した答えではない。シービーが犯人ではない、この件には無関係。まぎれもない自分の本心だった。

 

 

「……そっか。」

 

 

その答えを聞いたシービーが浮かべた表情が、果たしてどんな感情を映し出したものなのか。それはその場にいた誰にもわからなかった。

 

 

やがてシービーはいつものような飄々とした笑みを浮かべながら、口を開いた。

 

 

「……じゃあ、それがアタシの答え!アタシはループに関係ないからね」

 

 

「なるほど……亮人君。君、随分と信頼されているな」

 

 

「曲がりなりにも、彼はアタシのトレーナーだからね。ルドルフ、君ならこの意味がわかるでしょ?」

 

 

「もちろんだ。」

 

 

「え、えぇ……?」

 

 

シービーと露伴、ルドルフたちが交わす言葉の意をくみ切れず、首を傾げる亮人をよそに、露伴は同時に椅子から腰を上げた。

 

 

「さて……聞きたいことは聞けたようだし、そろそろお暇しようかな。」

 

 

「え~、おしゃべりしようよ。アタシ、露伴先生の漫画の話を色々聞きたかったんだけどな」

 

 

こいつ、僕の漫画のファンだったのか。そういえば部屋に置かれた木製の本棚には、ピンクダークの少年の単行本が全巻揃っている。

 

 

「……もう既に活動時間を大幅に過ぎてるんだ。はやいところ寝床に戻って寝たいんだよ」

 

 

時刻は既に2時手前。普段健康的な生活を送っている露伴からすれば、十分夜更かしといっていい時刻だ。いい漫画家は睡眠を大切にする……かつて漫画家の水木しげるは、同じく第一線で活躍していた手塚治虫や藤子不二雄が夭折した中、自身の長寿の理由を「よく寝ていたから」と述懐していたが、事実睡眠は百薬の長となる代物だ。

 

 

ファンの言葉を無碍にするのは漫画家として不徳者な気もするが、最も優先するべきは自身のルーチンワークだ。手を振りながら部屋を後にしようとする露伴だったが、テーブルから離れようとした瞬間、その手をシービーにがしりと掴まれた。

 

 

「アタシの部屋に深夜に押しかけておいて、そりゃないよ」

 

 

それは紛れもない正論であった。今年卒業するとはいえ、まだ学生の彼女の家に深夜に押しかけて、さらに無粋な質問を投げかけておいて、家主がいてほしいと言うのを無視して、自分の都合だけで早々に帰宅しようとしている。常識外れもいいところだろう。

 

 

自身の手を掴むシービーの手を緩めることができるような、何かうまい言い訳を言葉にしようとしたが、中々出てこない。助けを求めてルドルフの方を見ると、彼女はゆっくりと首を横に振った。

 

 

「残念だが、こうなるとシービーは強情なんだ。仕方がないが、今日は眠れそうにないよ、露伴先生」

 

 

ルドルフは首を横に振り、その隣でルドルフの言葉に同意を示すために、亮人はうんうんと頷いている。

 

 

……まったく災難だ。

 

 

露伴は呆れたようにぐるりと目を回すと、諦めたようにゆっくりと再び椅子に腰を落とした。

 

 

 

 

 

 

2月13日、早朝。

 

 

2月の朝は肌寒く、ため息を漏らすたびに吐息は白く曇った水蒸気となって空中に霧散していく。

 

 

トレセン学園の朝は早く、既にグラウンドでは朝練に勤しむウマ娘の掛け声が鳥の鳴き声と共に響き渡っていた。

 

 

「……」

 

 

トレセン学園の一室に座る露伴とルドルフの顔にはたった一つ。疲労がその顔に塗りたくられ、その目の下にはうっすらと隈が浮かんでいた。

 

 

結局、シービーの話に朝まで付き合わされた3人は、亮人は睡魔に耐えられずにシービーの部屋で力尽き、2人はそのまま朝を迎え、こうして学園に赴いて作戦会議に講じていた。

 

 

「昨夜は散々だったな……」

 

 

「私としては、久しぶりにシービーと落ち着いて話ができて楽しかったよ。それこそお互いの進路についても報告し合いたかったんだが、シービーにははぐらかされてしまったな。彼女の性格のことだから、仕方ないがね」

 

 

「……進路について話す時、どうして君は僕の方をじっと見たんだ?」

 

 

「そりゃあ露伴先生、私の進路はもう既に決まっていて、その方角に顔を向けただけだからさ」

 

 

「……」

 

 

そういえば有馬記念の際、そんなことを言われた。ルドルフの「君は覚えていないのかい?」といわんばかりの表情は、そういうことだったのか。彼女の卒業もあと1か月たらず。そろそろ覚悟を決めろということだろう。

 

 

「……それで、なにかわかったかい、露伴先生?」

 

 

「……正直、シービーが犯人である可能性はかなり低い。候補としちゃあもっと怪しい奴がいるからな。ヘブンズ・ドアーの記載でも怪しい箇所はなかった以上、今回のループで彼女にこれ以上の探りをいれるのは効率が悪いだろうな」

 

 

ヘブンズ・ドアーで彼女の記載を観た時、ループの障壁と成り得るような原因は何処にも見受けられなかった。目下これ以上彼女のことを追う必要はないし、ヘブンズ・ドアーの記載には明確に問題が記載されたウマ娘がいた。今回のループで可能性が低いウマ娘たちを確認し、次のループで本命のウマ娘たちの解決に充てるのがベストな選択だろう。

 

 

「私としてもシービーの性格を考えれば、ループを引き起こすようなウマ娘じゃあないと思う……それで次は誰をあたるんだい?」

 

 

「……本命はじっくり解決しないといけないからな。次は彼女にあたってみようと思う」

 

 

そう言うと、露伴はホワイトボードに貼られた一枚の写真を指さす。そこにはピンク色の髪色をしたウマ娘の顔写真が貼られていた。

 

 

 



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岸辺露伴は戻らない8

オタク、狂っていけ。推しという名の合法ヤクで合法ガンギマリしていけ

オタク

 

 

 

 

2月13日。11:30

 

 

ウン……

 

 

頬の表面を走るにぶい痛みで目を覚ます。ゆっくりと目を開け、外界の光を取りいれながら露伴は、自身が早朝に今日の調査の動きをあらかじめ確認したのはよかったものの、睡魔に勝てずに仮眠をとるために机に突っ伏し、そのまま眠りに入ってしまったことを思い出した。

 

 

どうやらうつ伏せに、頬を机につけたまま寝入ってしまったために痛みがあったようだ。頬をさすりながら顔をあげた露伴に、声がかかる。

 

 

「…お目覚めかい?露伴先生」

 

 

「……ルドルフか」

 

 

声のする方へと顔を向ける。自身に声を掛けた人物、シンボリルドルフは既に先に目を覚ましていたようだ。彼女はなにやら、ホワイトボードに様々な情報を書き込んでいたようだ。露伴が訝しげにホワイトボードに目を向けると、彼女は彼の意図に気が付いたのか、口をひらいた。

 

 

「君が眠っている間、今まで得た情報を簡単ではあるがまとめていたんだ……些か私も眠くなってきたよ。少し眠るから、3人目のウマ娘の聞き込みは露伴先生一人でお願いしてもいいかな?」

 

 

「……たしか、アグネスデジタルだったか?」

 

 

ホワイトボードに貼られた、ピンク髪の少女…アグネスデジタル。芝・ダート問わずに活躍をしている稀有なウマ娘。チームにはタキオンの前、4番目に加入したウマ娘で、タキオンをチームへと勧誘したきっかけも彼女だったようだ。

 

 

だとしたら、聞き込みには同室であり、仲が比較的良いタキオンを連れていくのがベストな選択だろう。

 

 

「……気に食わないが、君の考えている通りタキオンを連れていくのがいいだろうな。気に食わないが」

 

 

何度も思っていることだが、彼女は「僕の心を読む」ことに対しては、ある種の気持ち悪さを抱くほどの解像度を有している。それこそヘブンズ・ドアーにも負けず劣らずの、能力である。

 

 

「あまり僕の心を読むのはよしてくれ……って」

 

 

渋い表情を浮かべながら顔をあげた露伴だったが、既にルドルフは寝息を立てて眠りについていた。

 

 

……

 

 

言葉に出さないが、ルドルフも自身が起きてくるまで、我慢して寝ずにいてくれていたのだろう。それにホワイトボードにまとめられていた情報は、非常にわかりやすく整理されていて捜査の役となる代物だった。

 

 

「……まだ2月だ。冷えるぞ」

 

 

露伴は部屋に置かれていた毛布を手に取り、彼女の背中にかけてやった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12:00

 

 

ルドルフがまとめていた情報を精査し終えた露伴は、先日足を運んだある部屋へ向かっていた。目的地の前にたどり着き、ドアをノックすると、もはや見慣れた顔といっていいウマ娘が顔を出した。

 

 

「……おやぁ。誰かと思えば」

 

 

実験用のクリアゴーグルを着用したアグネスタキオンが部屋の隙間から顔を出す。どうやらいつものように授業に出席せず、実験に耽っていたようだ。露伴が要件を口に出そうとしたが、彼女はその言葉を手で制すると、言葉を続けた。

 

 

「わかっているよ……デジタル君のことだろう?」

 

 

露伴が本題に入る前に、タキオンはまるで彼の心を読んだようにその核心に触れる。露伴はその目を僅かに広げると、言葉を続けた。

 

 

「よくわかったな」

 

 

「私から話を聞いたあたり、原因の可能性が低いウマ娘たちから順番に話を聞いて選択肢を絞っているんだろう?タイミングと、私を訪ねてきたことを考慮して、そうなんじゃあないかって思っただけだよ」

 

 

「……話を聞くのに、ルドルフは今寝ている最中なんだ。君の助けがあると助かる」

 

 

「もちろん手伝うが、その前に15分ほど実験室で待っていてくれないかい?キリのいいところまで作業を進めておきたいんだよ」

 

 

タキオンに招き入れられ、露伴は再び実験室に足を踏み入れる。既に爆発よって煤だらけだったは綺麗に片づけられていて、実験器具も新調されていた。露伴は部屋の隅に置かれていた椅子を引きながら腰をかけると、早々に机に戻って何やら実験を再開しているタキオンに向かって声をかけた。

 

 

「君、一応学生だろ?どうやってこんな器具をたった2日で仕入れられるんだ?決して安いわけじゃあないんだろう?」

 

 

「……フフフ!露伴先生、それはトップシークレットというやつだよ。」

 

 

そういえばこのアグネスタキオンというウマ娘、海外から怪しげな小包を取り寄せているとルドルフが生徒会長をしていた際に嘆いていた。好奇心は猫をも殺す、または知らぬが仏……僕には関係のないことだ。あまり詮索するのは得策じゃあない。

 

 

「そうかい……ところで、君はデジタル君とは寮で同室なんだって?」

 

 

「まぁ、なんということはないよ。たまたま同じ寮の部屋で寝食を共にしている……それだけにすぎないさ。まぁコミュニケーションは上手くかみ合っているがね。」

 

 

「それだけでも十分だと思うよ……君が相手ならね」

 

 

「……それどういう意味だい?」

 

 

タキオンが非難を込めた眼差しで彼のことを見つめるが、露伴がその視線に対して応える様子が露ともないことを悟った彼女はひとつため息をつくと、言葉を続けた。

 

 

「まぁとにかく。彼女は変わった……いや、個性的なウマ娘でねぇ。」

 

 

「……たしかウマ娘が大好き、だったか?」

 

 

「大好きどころじゃあない。あれは『ジャンキー』だ」

 

 

「…………ジャンキー?」

 

 

ジャンキー。決してポジティブな言い回しではない。露伴が今しがた、タキオンが口にしたセリフを反駁すると、彼女は顔にニヤニヤと笑みを張り付かせながら口を開いた。

 

 

「そう。彼女はウマ娘でありながら、ウマ娘のオタクなんだよ。この学園の門戸を叩いたのも、ウマ娘をより身近にその雄姿を拝み、尊みを感じたいからだそうだ……この学園に所属しているウマ娘の情報だったら大体、彼女は把握していると思うよ」

 

 

「そうか……それは確かに、ジャンキーだな」

 

 

日本ウマ娘トレーニングセンター学園は、ウマ娘の育成機関としては間違いなく国内最高峰の機関だ。「勝ちたい」と思い焦がれても、その門に手すら届かない者もいる中で、並み居る想いに負けず、この学園に入学するだけではなく結果を残すことができている。それは偏に才能や実力だけではなく、並々ならぬウマ娘への愛が故である。そういうことなのだろうか。

 

 

「……私も彼女のウマ娘への愛には舌を巻いているよ。対象への嗜好心が肉体や精神にどのような作用を及ぼすのか…非常に興味深いからね。彼女には時々、極めて紳士的に実験に助力してもらっているよ」

 

 

「……なるほど」

 

 

露伴はその手持ち無沙汰を解消するために、机の上に置かれていた液体が入っているビーカーを手に取る…しかしその瞬間、その動作を視界の端に捉えたタキオンが悲鳴に近い声をあげた。

 

 

「……ちょっと!露伴先生!それを持つんじゃあない!」

 

 

「……え?」

 

 

タキオンの動揺ぶりに驚いた露伴がその動作をぴたりと止める。慌てふためきながら露伴のもとに駆け寄ると、そっとビーカーを露伴の手から奪い取り、机の上にそっと戻した。

 

 

「これ、何なんだ?」

 

 

「早い話、衝撃が厳禁な代物なのさ。ちょいとした衝撃で爆発してしまう……そんな代物だよ」

 

 

……まさか。

 

 

衝撃が厳禁な薬品。一学園の生徒が手にできる代物だとは思えないが、そんな性質を持っている薬品を、科学の分野に明るくないとはいえ、露伴は一つしか知らなかった。

 

 

「まさか……ニトログリセリンか?」

 

 

「…フフ、よくわかったね。露伴先生は科学の分野にも精通しているんだねぇ」

 

 

ニトログリセリン。採掘や戦争で用いられた爆薬、ダイナマイトの原料として使用されている。わずかな振動で爆発をするため、取り扱いが極めて難しくこの薬品が原因で爆発事故が起き、死傷者を出したこともある危険な代物なはずだ。

 

 

「そんなことはどうでもいい!お前、こんなものをどうやって仕入れたんだ!消防法で第5危険物に分類されるほどの物だぞ!」

 

 

「そんなに怒ることないじゃあないか。ニトログリセリンは狭心症の治療にも使用されるものだぞ。…これだって、水で薄めているから危険性は低いんだ。」

 

 

「だ、だからって、君がこれを持っていていいものじゃあ…」

 

 

露伴の訴えは、間違いなく…99%の人間が正論として頷けるものだった。しかし、タキオンはまるで、聞き分けの悪い子供を窘めるような口調で言葉を掛けた。

 

 

「だーかーらー!狭心症に処方されるニトログリセリン…血管拡張の作用があるとするなら、ウマ娘が走る上での筋力の増幅に転用できるんじゃあないかって思ったんだ!ウマ娘の可能性の研究のため!すべてのウマ娘の未来のために!必要なことなんだ!だから後生だ!…ルドルフ会長殿に告げ口するのだけは!」

 

 

「……」

 

 

この処遇をどうするべきか。考えあぐねる露伴をよそに、タキオンは言葉を続けていく。

 

 

「それに君だってこの薬に助けられたじゃあないか。忘れたとは言わせないぞ?」

 

 

「…は?一体いつ、僕がこんな危険な代物に助けられたというんだい?」

 

 

「君が会長殿に監禁されている時、これを私たちのチームの反撃の狼煙として使ったじゃあないか。」

 

 

…そういえばこのアグネスタキオンというウマ娘。既に実験室を吹っ飛ばした前科があった。そうか、既にこの劇薬は使用済みだったというわけか。

 

 

「…もういい、わかったわかった」

 

 

その言葉は納得の意として使ったわけじゃあなく、偏に思考の放棄だった。露伴が目をぐるりと回すと、タキオンはニタニタと笑いながら言葉を続けた。

 

 

「……さて、それじゃあデジタル君から話を聞こうじゃあないか」

 

 

そういえばそうだった。本題を思い出した露伴が彼女の居場所を聞こうとすると、それを手で制しながら口を開いた。

 

 

「……待て、言わなくていい。恐らく彼女はあそこにいる。」

 

 

タキオンが窓の外を指さす…その方角へ首を向けると、なにやら一人のウマ娘が道端の植え込みにしゃがみ込んでいた。彼女は荒い鼻息をたて、ぶつぶつと何かを呟きながらトラックへ視線を向けていた。

 

 

「あれが…アグネスデジタルか。」

 

 

「この時間だったら、トラックにいるウマ娘たちを観察している頃だろうからねぇ。彼女曰く、トラック全体を観察できるベストポジションがあそこらしい」

 

 

デジタルは露伴とタキオンに観られていることに気が付かず、自身の生きがいである推しのウマ娘たちの観察に耽っていた。

 

 

「やはりスカイさんのトレーナーさんと話す時……!!いつもより平均眉毛が5度下がっている……!やっぱり……!!スカイさんはトレーナーさんのことを……!!」

 

 

彼女の鼻から鼻血がぽたぽたと漏れ出るが、既に視界に広がる光景に夢中になっているのかそれを拭うことすらせずに、引き続き観察を続けていた。

 

 

「あぁ!スカイさんが笑った!…笑った!!あれはいつもの、のほほんとした笑いじゃあなくてガチのはにかみ笑い……!!ガチの照れ…!緊急事態発生!尊みのキャリーオーバー発生中ですぞーーー!」

 

 

遂に興奮がピークに達したのか、彼女は絶頂に達したまま背中からどうと地面に倒れた…恍惚を超えてある種の悟りを迎えたとも見える表情を浮かべながら気絶した彼女の一部始終を目撃した露伴は、彼女がアグネスデジタルその人であることを確認した。

 

 

「…なるほどな。アグネスがつくやつにマトモなやつはいないらしい」

 

 

 

 

何はともあれ、彼女から話を聞けばいいわけだ。露伴はため息をつくと実験室を後にした。タキオンはそんな露伴の様子をニタニタと笑みを浮かべながら見つめ、彼の後に続いていった。

 

 

 



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岸辺露伴は戻らない9

 

岸が見えなくなる勇気を受け入れる覚悟がなければ、海を渡ることは決してできない

クリストファー・コロンブス

 

 

 

 

 

 

幸せとは、一体何なのだろうか。

 

 

全ての人に、それぞれの答えがきっとある。それを金と答える者もいれば、愛と答える者もいる。他の人にとってはくだらないと思うようなものでも、その人にとっては何にも代えがたい、そんなものも確かに存在している。

 

 

そしてアグネスデジタルの場合。

 

 

全てのウマ娘を愛し、愛しそして愛し尽くしているウマ娘。彼女にとってウマ娘は「萌え」であり、魂の洗浄。一筋の希望であり、求道者である彼女にとって、生きる理由そのもの。

 

 

彼女にとっては、学園こそがオアシスであり、楽園でウマ娘を間近に拝み、生活していることこそが幸せそのものである。それは疑いのない事実であった。

 

 

それは、疑いないはずなのだ。そのはず……なのだ。

 

 

尊みの絶頂を迎え、失った意識が戻ってくる。すると仰向けに倒れこんでいる自身を覗き込む2人の顔が見えてきた。

 

 

「タキオンさんと……あ、貴方は……」

 

 

寮で同室として生活を送るウマ娘、アグネスタキオンが自身の顔をにやにやと覗き込んでいる。毎日顔を合わせ、見慣れているはずのタキオンだが、デジタルにとっては日常の一つ一つが「尊み」の発見の連続だった。現に下から彼女の顔を見上げるという、新たな角度からのタキオンの尊顔を拝んだデジタルは、再び心のキャパオーバーを迎えようとしていた。

 

 

タキオンの隣にいる、ヘアバンドを身に着けた男。彼の顔に、デジタルは見覚えがあった。

 

 

「この間会ったな。漫画家の岸辺露伴だ」

 

 

「も、もちろん知ってます!ピンクダークの少年、読んでます!」

 

 

倒れこんだ姿勢を戻しながら、デジタルは露伴のことをその目を輝かせながら口を開く。デジタルはその溢れんばかりのウマ娘への愛を伝導するために、稚拙ではあるものの同人誌を描いて、それをコミックマーケットに出展するといった同人活動にも勤しんでいた。

 

 

そういった経緯から、漫画に対しては人一倍のリスペクトを払っており、デジタルにとってピンクダークの少年シリーズは創作物、芸術作品として最大限の敬意を払うべき作品のひとつだった。

 

 

「……フン。それはなんとも、うれしい限りだ」

 

 

こほん。

 

 

今したいのは決して漫画談義などではない。タキオンは話を区切るために一つ空咳をすると言葉を続けた。

 

 

「そろそろ本題に入ろうじゃあないか…デジタル君。ここに露伴先生が来た、ということは要件は何かわかっているね?」

 

 

「はい……タイムループの解決。あたしの自身に眠る問題……その話を聞きたいんですよね」

 

 

トレーナーから既に、タイムリープを解決するために一人ずつ話を聞いて回っているという話は聞いていた。寮でタキオンが話を聞かれたということを話していたため、そろそろ自分のところに話が来るのではないかと、薄々勘づいていた。

 

 

「わかっていたのか……ここじゃあ話し辛いこともあるだろう。場所を変えようじゃあないか。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トラックのはずれ、ベンチに腰掛けた露伴は隣に座るデジタルを見つめる。下を俯く彼女の表情をうかがい知ることはできなかった。しばらく静寂がその場を支配していたが、やがてその空気を打ち破るために、タキオンは言葉を発した。

 

 

「さて……デジタル君の記載には、何か問題はあったのかい?」

 

 

既にヘブンズ・ドアーは、チーム5人全員の記載を暴き、彼女たちの原因となりそうな心の悩みについて、露伴は把握していた。タキオンが露伴にその記載の中で、デジタルが抱えていそうな問題について、何か書いてあったのかを尋ねると、デジタルはわなわなと震えながら口を開いた。

 

 

「……その~、やっぱり全部みちゃったんですよね?あたしの……その……」

 

 

「…?あぁ、君がやったことや感じたこと。すべてヘブンズ・ドアーは僕のもとにさらけ出す。それが僕の能力だからな」

 

 

「じゃ、じゃああたしのウマ娘ちゃんたちへの観察や、その時感じたことも全部……!」

 

 

なるほど、そういうことか。

 

 

露伴に顔を向けるデジタルの顔は羞恥心によって真っ赤に染め上げられていた。ヘブンズ・ドアーは、その人がどのようなことを思い、どのような体験をしてきたのか。そのすべてを白日の下に晒すものだ。

 

 

デジタルが懸念している記述がどのようなものか。それはおおよそ見当がつく。すなわち彼女が抱いているウマ娘への想いや、その欲求を満たすためにしてきた様々な「観察」活動のことを言っているのだろう。犯罪紛いのことをしていたわけじゃあなかったが(あくまで露伴の尺度での判断であり、他の者から見れば犯罪とみなされる恐れは十分にある)、その仔細について知られるということは、年頃の女子にとっては恥ずかしいことこの上ない体験だろう。

 

 

だが今肝心なことは、デジタルのこっぱずかしい体験のことについて、根掘り葉掘り聞くことなんかじゃあない。露伴は議論を進めるために、柄にもなく慰めるために口を開いた。

 

 

「いや……まぁ僕も漫画家だ。リアリティの追求のために、物事にはこだわる性分……君の突き詰めるために出た行動、わからないわけじゃあない」

 

 

方便として吐いた言葉ではあったものの、露伴にとってその想いは全くわからないわけじゃあなかった。実際この岸辺露伴という男は、漫画家という性のせいで何度か痛い目を見ている。

 

 

最近でも、わざわざ六壁坂の妖怪の正体を知ろうとして、妖怪が住むという山をまとめて買って高速道路の開通の計画を阻止した結果、破産しかけて、家も売りに出すところだった……ルドルフがいなかったら、恐らく自身はしばらく友人の康一君の家で居候しなければならなかったに違いない。(僕としては、それはそれで悪くない話だったが)

 

 

デジタルはまたさっきのように顔を下に向けて、しばしの沈黙がその場を支配する。やがてデジタルはぽつりと、言葉を紡いでいった。

 

 

「わからないんです……これでいいのか」

 

 

「うん……?」

 

 

タキオンは、デジタルの発言の意を掴みかね、首をかしげる。アグネスデジタルの口からでた、迷いの言葉。それは一体何に対して発せられたものなのか?タキオンがそれを尋ねるよりも先に、デジタルは再び言葉を続けた。

 

 

「あたし……ウマ娘ちゃんたちが大好きでこの学園に入学したんです。あたしはただの平凡なウマ娘。この学園にいる時も、見えない空気のフィルターが一枚隔てている……それがあたしにとっての学園生活なんです。」

 

 

「……それはつまり、どういうことなんだい?」

 

 

「……同じ空間にいたとしても、同じ空気を吸うなんておそれ多い推しだらけのトレセン学園。それがあたしにとっての学園生活なんです」

 

 

……知られていることだが、厳しい入学試練を勝ち抜き、更にそこからレースを勝利し結果を残すことができるのはほんの一握り。それがこのトレセン学園という華々しくも、残酷な世界なのだ。

 

 

そんなトレセン学園に、端から見れば不純と非難されてもおかしくないような動機…つまり「ウマ娘をより近くで見たい」という想い一つでこの門を叩いたのがアグネスデジタルというウマ娘なのだ。

 

 

そしてその学園で送る生活の中で、彼女はあくまで「ファン」として学友達と接している。それはつまり、普通の日常生活を送る友人、同位の存在として触れ合うというわけではないということだ。あくまで自身は低位の存在として、彼女は敬いと崇拝の気持ちをもってウマ娘に接している。

 

 

 

ただそんな歪みだらけの状態でも、彼女は結果を残している。そして更に普通のウマ娘にはできない……つまり芝やダートという適正を問わずレースに出場するという突拍子のないことをやってのけている。芝とダートの練習方法は全く異なるものであり、わざわざ2倍の苦労を強いられる。それはすなわち、ウマ娘への狂愛が成せる技なのだろう。

 

 

「この間、初めて重賞のレースがあったんです。ウマ娘ちゃんたちは本当に全力で走り抜けて…………本当に真剣そのもので……」

 

「……」

 

 

「……あたしは唯々、ウマ娘ちゃんたちを近くで拝みたい。そんな安易な気持ちでこの門を叩いてしまったんです」

 

 

それはきっと、才能あったからこその悩み。きっと才覚がなければ、この学園に入学する前に実力の差に、そしてその覚悟の甘さに気が付かされていただろう。

 

 

しかし彼女には競技者として才能があった。否、なまじ才能があったせいで、今になってこの障壁に直面する羽目になってしまったのだろう。レースには勝者がいるのであれば当然の如く「敗者」が存在する。そこに想いの差や運なんてものは介在しない。あるのは神が降った賽の目が示す、敢然たる結果だけ。

 

 

その残酷たる世界、それがレース。割り切ってレースに臨むこともできるが、ウマ娘が好きな故、それができない……それがアグネスデジタルというウマ娘が背負った業であり、彼女だからこその悩み、といっていいだろう。

 

 

正直なところ、彼女の悩みとやらに大きな関心が露伴にあったわけではない。残りの2人のウマ娘の悩みに比べると、タイムリープの原因である可能性は極めて低く、さっさと話を聞いて次のウマ娘たちに話を聞きたいと考えていた。

 

 

しかし。

 

 

何故かそうはしたくない。露伴の心の内に突如して沸き上がった感情。なぜそんな感情が自分に起こったのか、それはわからなかった。長くウマ娘たちと接していく中でほだされてしまったのか……露伴はためいきを短くつくと、言葉を発するために口を開いた。

 

 

「……正直なところ、君の気持ちなんて僕の及び知ることじゃあない。だがな、一つ尋ねたいことがある」

 

 

「……?」

 

 

「君がウマ娘に惹かれる理由はなんだ?」

 

 

唐突に露伴から発せられた質問に、デジタルは首を傾げる。それはデジタルにとって、ある種愚の骨頂ともいえる質問だった。ウマ娘に惹かれる理由?そんなの……そんなの……

 

 

「……それは……その」

 

 

その質問に対する回答を、デジタルは持ち合わせていなかった。既にデジタルのウマ娘に対する愛情は「当たり前のもの」として彼女の感情に定着してしまっている。即ち彼女がどうしてウマ娘を好きになったのか……その確かに胸の内の原動力となっていたはずの原点は、既に自身の記憶の中に埋没し、デジタル自身でも把握することができなくなっていた。

 

 

答えることができなくなってしまったデジタルを無言で見つめる露伴は、やがて目のまえの一点を指さすと徐に口を開いた。

 

 

「それじゃあ質問の仕方を変えよう……君はあそこにいるウマ娘の名前は分かるか?」

 

 

「……?」

 

 

露伴の指さす方向へ顔を向けると、そこには一人のウマ娘……黒鹿毛で前髪に白髪のひし形があるウマ娘の姿がそこにあった。そのウマ娘が一体何者であるのか……それはデジタルによっては至極簡単な問題だった。

 

 

「スペシャルウィークさんです」

 

 

肝心なことは、別に彼女がスペシャルウィークであるかどうかじゃあない。露伴はデジタルをみやると、言葉を続けた。

 

 

「……そうか。じゃあ君はスペシャルウィーク君のどこに惹かれているんだ?」

 

 

「……彼女は北海道の出身で、幼い頃にお母さんが亡くなるという境遇。それでも持ち前の明るさでレースに出場して、天国の母と育ての母の2人に活躍を見てほしい。そんなガッツで夢に向かってひた走る姿に惹かれたんです」

 

その答えに満足したように頷くと、露伴は質問を続けた。

 

 

「それじゃあ質問を続けよう。今度はあそこにいるウマ娘……彼女の名前は?」

 

 

「……彼女はキングヘイローさんです」

 

 

「この流れであれば何を聞かれるか分かっているかもしれないが、そうしたら君はキングヘイロー君のどこに惹かれたんだい?」

 

 

先程から岸辺露伴がどういった意図で質問をしているのか。その意図を図りかねながらも、デジタルは言葉を続けた。

 

 

「キングヘイローさん。彼女の母はかつてG1タイトルを多く獲得したウマ娘でした。彼女はそんなプレッシャーをものともせず、キングヘイローとして、一流のウマ娘になるためにどんなにレースで負けても決してあきらめず、自分の道を模索しながらレースに打ち込んでいる。それが……私が彼女に惹かれた理由です」

 

 

「なるほどね……ということは出たじゃあないか、答え」

 

 

「……え?」

 

 

露伴の口から出た、突拍子のない言葉。驚愕の表情を浮かべるデジタルをよそに、露伴は言葉を続けた。

 

 

「スペシャルウィークとキングヘイロー…今あげた二人の惹かれた理由には共通点があった。」

 

 

「……それは?」

 

 

「すなわち『夢に向かって、誇り高く走る』姿に惹かれた。これが全ての始まりってことさ」

 

 

…………!!

 

 

露伴の言葉に、デジタルの目は大きく見開かれる。どうして忘れてしまったんだろう。あたしが幼い頃から惹かれ続けた姿……本当に欲しいもののために、なりたいもののために。時に衝突し、勝利を奪い合うこともある。悔しさに涙する姿も、勝利で打ち震える姿も全部が……ウマ娘ちゃんたちの魅力なのだ。

 

 

「みんな、みんな本気なんです、よね……あたしも覚悟を決めなくちゃあだめ……ってことですよね?」

 

 

勝負の舞台に立つならば、そこに遠慮や引け目といった、余計な感情は無用。全力のウマ娘ちゃんたちに恥じないためには、あたしも一人のウマ娘として覚悟を決めなければならない。そういうことだろう。今までのあたしにはウマ娘ちゃんを推す資格すらない……あまりにも卑小な心持ちだった。

 

 

全てを呑みこみ、そして胸を張って。覚悟を背負ってゲートから飛び出す。それが答え……アグネスデジタルの胸の内に、もう迷いなどどこにもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

02/14 23:30

 

 

デジタルの心の内にある悩みを解決した露伴、ルドルフ、タキオンと亮人たちは情報を整理するためにとある室内の一角に介していた。

 

 

しかしデジタルの問題を解決したというのに、一同の顔は暗い表情が浮かんでいた。

 

 

「今日が期限ですね。露伴先生」

 

 

タイムリープの期限である2月14日。次のループに備えるために唯一記憶の持ち越しをすることができる亮人にこのループでどんな情報を入手したのか、詳細を伝えた結果思いのほか時間がかかってしまった。

 

 

「……それでデジタル君は原因なのかい、露伴先生?」

 

 

「……可能性としてはありえない話じゃあないだろうが、それよりも本命の問題があまりにも大きいというか、重いというべきか。デジタルの問題を解決した今、2月15日を迎えることができなければ、残りの2人が原因である可能性が濃厚になるだろうな」

 

 

ルドルフの質問に対して、露伴は率直な感想を述べる。その場にいた亮人も、チームの残り二人……すなわちナイスネイチャとナリタタイシンの二人の心の内にある問題が、残りのメンバーよりもはるかに問題として根深いことは認識していた。

 

 

「さて、亮人君。そろそろ24時を回るころだ……もしも2月7日に戻ったら、次のループでやるべきことは覚えたな?」

 

 

「……はい。」

 

 

正直なところ、何がループの引き金となっているのか。その原因は皆目見当がつかなかった……やがて時計の長針と短針が頂点で重なり合う。その瞬間、全ての事象が世界の中でたった一人を除いて知覚されることなく、1週間前へと巻き戻っていった。

 

 

 

 



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岸辺露伴は戻らない10

 

 

2月8日

既に数えることはとうに諦めた、そんな中で迎えた何度目かの朝。亮人は冷め切らない頭を覚醒させるために蛇口からひねり出された水を顔に打ち付けると、正面の鏡に映し出された自身の顔を覗き込んだ。

 

 

永遠に繰り返される1週間。

 

 

目の下に彫り込まれた隈に、生気のない目や肌。筆舌尽くしがたい絶望の中に放り込まれた自身の顔は相変わらず酷いものだったが、それでも今までのループでは得られなかった情報、そして進展が今回のループにあった。

 

 

自分が率いるチームのウマ娘5人…この中のだれかに原因となる者がいる。つまりそのウマ娘を見つければ、この永遠の監獄からの脱出が叶う、というわけだ。一体彼女たちの内の誰がこの世界を巻き込むような超常現象を巻き起こしているのか。そして一体何の理由があってこんな現象を巻き起こしているのか、それを突き止めなければ。

 

 

……今の僕には、心強い味方もいる。

 

 

岸辺露伴に、シンボリルドルフ。それにチームメンバーのアグネスタキオン。彼らがこのループを解決するために力を貸してくれる存在であることが今の彼にとっては、なによりも心強かった。絶望と言えるこの現状の中でも、わずかではあるものの一歩ずつ真実へと近づいている。そう思えば、絶望も少しはマシなものと考えることができるだろう……亮人はため息を一つつくと、カレンダーに目を向けた。

 

 

2月8日

 

 

何度目かの今日この日、岸辺露伴とシンボリルドルフは臨時の仕事をこなすために学園へとやってくる。今までの2回の接触ではループの中盤以降でのタイミングになってしまっていたが、ループの中でより多くの解決のための情報を掴むには、できる限り早いタイミングでループの記憶を失っている彼らに事情を理解してもらい、協力してもらう必要がある。

 

 

亮人はそう気持ちを切り替えると、仕事用のスーツに身を包み、玄関から外へ繰り出す。冬の澄んだ空気が肌を撫でつけ、その身を一度震わせると、彼は急いで学園へと足を向けた。HRの時間からまだ1時間以上前だというのに、既にトレセン学園はウマ娘の姿が多くあり、活気にあふれている。

 

 

「おはようございます」

 

 

彼女たちは亮人のことを目に止めると、朝の挨拶をする。亮人は顔に笑顔を取り繕うと、社会人として、トレセン学園のトレーナーとして遜色ない挨拶を返したが、胸の内には裏腹な感情を抱えていた。

 

 

どんなに練習しても、どうせ1週間経てば元に戻ってしまうというのに。

 

 

亮人はある種のニヒリズム、そして哀れみの視線をもって彼女たちを見つめていると、一人のウマ娘が彼のもとへ近づいてきた。

 

 

「おはようございます、トレーナーさん」

 

 

亮人が顔を向けるとそこには一人のウマ娘…赤髪のツインテールの彼女は手を振りながらこちらに近づいてくると、亮人の隣についた。亮人は努めて笑顔を浮かべて彼女に顔を向けると、彼女に声を掛けた。

 

 

「おはようネイチャ」

 

 

ナイスネイチャ…自身のチームに所属するウマ娘で、下町出身の彼女。彼女は笑顔を浮かべると、顔をあからめながら言葉を口にしたが、生憎亮人の頭の中は一刻も早く露伴たちと接触するにはどうすればいいのかに占められていた。

 

 

「すまない、ネイチャ…今日はちょっと急いでいるんだ。放課後に大事な話があるから、部室にチームメイトを集めておいてくれないか?」

 

 

「だ、大事な話⁉それって………って、チームメイト集めるのね。わかった………」

 

 

その反応を聞かず、亮人は露伴たちが到着しているであろう校門前へと脚を進める。ネイチャは走り去っていく亮人の背中を見つめると、小さなため息を一つつくのだった。

 

 

 

 

 

 

学園の入り口に、一台のタクシーが止まる。扉が開き校門に降り立つ2人の姿を目に止めた亮人の表情には、いくらか安堵の表情が浮かんでいた。

 

 

やはりこの日に二人は来ていたんだ。

 

 

ループの前に露伴から聞いていたが、この日に卒業前の最後の手伝いとして、ルドルフに連れていかれ、彼はこのトレセン学園に姿を現した。遠慮なんかしている場合じゃあない、急いで彼に全てを打ち明けて、協力を要請しよう。

 

 

「……露伴先生!」

 

 

スーツケースを両脇に置いている彼らに走り寄りながら、亮人は2人に声を掛ける。自身の名前を呼ばれた露伴は、訝し気な表情を浮かべながら亮人に視線を投げかけた。

 

 

「うん?……君はシービーのトレーナー君じゃあないか」

 

 

ルドルフはかつての生徒会長よろしく、非常に外交に適した柔和な表情を浮かべながらこちらに言葉を掛ける……しかし、その表情は偏に亮人に対してその表情を浮かべなければならない程度の交流の人物と認識しているということに他ならない。

 

 

「……ルドルフ?こいつは君の知り合いかい?」

 

 

「こら露伴先生。『こいつ』などというはしたない言葉遣いをするんじゃあない……この人は大森亮人。私の友人のミスターシービーの……」

 

 

露伴の訝し気な表情といい、当然のことではあるが……やはりこの世界で記憶を持ち超すことができているのは自分だけのようだ。亮人は二人のことを見据えると、口を開いた。

 

 

「……僕はこの1週間を繰り返しているんです。」

 

 

その一言に、二人の眉間には細かい皺が刻まれている。露伴はため息を一つつくと、亮人に対して実に刺々しい言葉を投げかけた。

 

 

「えーと。大森亮人君、だったか?トレーナーという職業がウマ娘につきっきりになる以上、実態がブラックなことはある程度認識しているつもりだが、少々根を詰めすぎているんじゃあないのかい?」

 

 

早々に激務の末に気がふれてしまった気の毒なトレーナーの目の前から立ち去ろうと、露伴はルドルフの手とスーツケースを両手に取りその場から歩き出す。

 

 

そして露伴が自分のことを気がふれてしまった哀れなトレーナーとみなされたことを悟ると、去り行く露伴の背中に向けて口を開いた。

 

 

「私は露伴先生が対象の記憶……人生の記録そのものを読み取ることができる能力をお持ちですよね……?ヘブンズドアーを」

 

 

「……!」

 

 

その言葉を聞いた2人の体はピタリと立ち止まる。やがて露伴は先程よりも深いため息をつく……どれほどの時間を要したのだろうか、露伴は頭を乱暴に搔きむしりながらルドルフへ顔を向けた。

 

 

「……おいおいおいおい。どうやらこの亮人君が言っていることは与太話じゃあないようだな…話を聞いた方がよさそうだ」

 

 

 

 

 

 

その日の夕方。

 

 

理事長の計らいによって、自身の滞在中に宛がわれた部屋の中で亮人の全ての記述を読み終えた露伴は、座っている椅子の背もたれに寄りかかると、天井を仰ぎ見た。

 

 

「……薄々覚悟はしていたが、亮人君の言っていることは本当だったようだ。」

 

 

この1週間を繰り返している。全く突拍子のない話ではあるが、ヘブンズドアーが大森亮人の記憶から読み取った膨大な情報は、まぎれもなくすべて真実というわけだ。ヘブンズドアーという能力の確実性を理解しているからこそ裏付けられたこの状況の深刻さと、そして絶望感に天井を仰ぎ見ることしかできない露伴だったが、やがて言葉を続けた。

 

 

「……だが流石この岸辺露伴といったところか。次のループで僕たちが解決にあたることができるように道標を残していてくれたようだ。」

 

 

「……道標?」

 

 

疑念を滲ませ、言葉をルドルフが反駁する。露伴はその発言に対する仔細を説明するためにルドルフの方をみやると口を開いた。

 

 

「……前回のループの時点で僕たちは、亮人君のチーム5人のウマ娘たちの内、3人を既に調べ、彼女たちがシロだと判明させている。これは大きな進歩だ」

 

 

「つまり後の二人……ナイスネイチャとナリタタイシンのどちらかが元凶とみて間違いないと」

 

 

ナイスネイチャ……そういえば彼女とは今朝顔を合わせた。下町出身のウマ娘で周囲にも気配りができる、そんなウマ娘だ。ナリタタイシンはシービーの次のチームの古株で、気難しい性格ではあるものの、その芯は友達想いの非常に優しいウマ娘だ。そんな2人の内のどちらかに問題があるというのか。その事実は聊か亮人には信じられなかった。

 

 

つくづく僕という男は……

 

 

全くもって情けなくなる。ループが始まる前まで少なくとも目立った問題など何処にもないと思っていた。最初に担当したシービーがクラシック三冠を達成したことを皮切りに、担当のウマ娘たちも成績を修め始めていたはず。学園を牽引するチームの一角として、その名前を連ねている…そのはずだと。

 

 

内省に耽っている亮人とは裏腹に、露伴は淡々と言葉を続けていく。

 

 

「……その通りだ。しかも次のウマ娘の問題自体は非常にシンプルだ。……もっとも解決は非常に厄介だが」

 

 

それは一体どういう意味だろう?亮人が首を傾げながら露伴の顔を見ると、露伴はその目を見返しながら口を開いた。

 

 

露伴が事もなげに告げた言葉。それに亮人は大いに驚かされることになった。

 

 

「……つまりこういうことさ。ナイスネイチャ、ナリタタイシンの二人は君に惚れているってことだよ」

 

 



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岸辺露伴は戻らない11

しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問うまに

平兼盛

 

 

 

 

「……は?」

 

 

露伴の発言に驚愕した亮人は、只々空気が漏れ出るような、声とも言えない音を口から発することしかできなかった。

 

 

ナイスネイチャとナリタタイシンが自分に好意を寄せている。

 

 

言語としては、彼が発した言葉を理解することはできる。しかしながら、その言葉が持つ文意を咀嚼することは、亮人にはできなかった。

 

 

信じられない。普段よく自分に話しかけてきてくれるネイチャはともかく、タイシンは普段から自身に対してとてもじゃあないが好意のあるような素振りをみせたことはなく、つっけんどんな態度を取っている。そんな2人が……2人が……僕を……。

 

 

「その様子じゃあ、まるで気づいていなかったようだな」

 

 

ルドルフが動揺する亮人を見て、そう言葉をかける。亮人が壊れたおもちゃのようにゆっくりと彼女の方へ顔を向けると、ルドルフは言葉を続けた。

 

 

「ネイチャ君とタイシン君の君へのゾッコンぶりは、学園でも有名だぞ。彼女たちの内にどちらが君を物にするのかを賭け事にしている不逞なウマ娘たちもいるくらいだ。」

 

 

大方そんなバカな真似をするウマ娘が誰かは想像がつく。頭の中に奇天烈な行動を繰り広げる葦毛のウマ娘と、賭け事に目がないニット帽をかぶったウマ娘を思い浮かべ、少しばかり冷静になった亮人はため息をつき、指をこめかみにぐりぐりと押し当てながら口を開いた。

 

 

「……それで、どうやって解決すればいいんでしょう」

 

 

本当はトレーナーとして、露伴やルドルフに尋ねるべき問題ではないことは重々理解しているしているつもりだった。競技者として活躍する彼女たちも、その実は年端もいかぬ女の子であることに相違ない。彼女たちを導くトレーナーとして、この問題に自身で考えて対処に当たらねばならぬことも理解しているつもりだった。

 

 

それでも。タイムループという未曾有の事態に、たった今降りかかった問題に直面し、すっかり彼の精神は摩耗し切っていた。摩耗した精神と焦げ付いた思考回路は、彼はこの袋小路から脱出するための術を考え出すことすらすっかり奪い去ってしまっていた。

 

 

「……それは君にしか出せない答えだろう。僕たちが手放しでアドバイスをしていい問題じゃあない」

 

 

疑問に対して返ってきた露伴の答えは、そんな亮人の迷いを端的に現すものだった。彼が予想した通りの答えが返ってきたことに半ば安心、そして焦燥感を抱きつつ亮人が顔を俯けると、そんな彼を横目に露伴は言葉をかけた。

 

 

「……一つ言えることがあるとすれば、ことウマ娘の恋愛に対する入れ込み具合を甘く見ない方が良い。」

 

 

「それは……どういう?」

 

 

唐突な露伴の発言にきょとんとする亮人を尻目に、露伴は言葉を続ける。

 

 

「走ることに全力を注いで……それこそ「命を賭す」生き物……それがウマ娘。そもそも人間とは全く異なる生物なんだよ。そんなウマ娘が、人間に恋する……つまり走ることへの情熱と同じ、もしくはそれ以上の気持ちを抱いたらどうなるか?それはウマ娘たちを日頃見るトレーナーの君にはわかるんじゃあないか?」

 

 

その言葉に亮人の顔はすっかり青ざめる。それに対してルドルフは腕を組み、脚をかきながら冷ややかな視線を露伴に送った。

 

 

「おやおや露伴先生……誰のことを言っているんだい?」

 

 

「……」

 

 

トレーナーとして彼女たちの走りをずっと傍で見てきた。それこそ彼女はその一瞬に全てを駆けて走るのだ……その刹那に全てを賭して、燃え尽きても構わない。そんな美しさと危うさを彼女たちは共存させている。

 

 

ともすれば。露伴の言うことは全くその通りだ。これは命の問題にかかわる……ループを抜け出す上で、自身の命をトリガーとして試したことはなかったが、仮にトリガーだとしてループを抜け出しても、意味がないからであった。

 

 

「……とりあえず彼女たちと話す時間は作っています。放課後に……チームのみんなと」

 

 

彼女のどちらかが元凶だったとして……その原因を取り除いてタイムループが解決したとしても、もうループをする前のあの頃にはきっと……戻ることはできない。何の問題もないと思っていたあの頃にはもう。彼は一つため息をつくと、ゆっくりと天井を仰ぎ見る……そこにしか困惑と虚しさがひしめく感情の逃げ場はなかったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

その日のトレーナーさんは、何だか様子がおかしかった。いつものように、朝起きて寮から学園に向かう途中。朝が弱い自分にとっては、朝練が無いのに早い時間に学園に脚を向けるには少々気が滅入る。

 

 

それでもわざわざ、無理をして早い時間に登校する理由。

 

 

それは意中のあの人と、ばったり途中で会うことができるからだ。彼は朝の業務のために、生徒の私たちよりも早く出社する。その道すがら、偶然に出会うことができる……そのためにこうして早い時間の登校に講じていた。

 

 

「……」

 

 

朝早く起きて登校したからといって、彼にばったり会うことができるのは週に1~2回程度の頻度だ。労力に対してあまりにも微々たる成果だが、その一瞬のご褒美こそが彼女にとってのひそかな喜びだった。

 

 

彼女の足は校門を通り、やがて校舎へと進んでいく。

 

 

…今日は会えなかった。

 

 

頻度を考えれば仕方ないことだが、心の中で小さく落胆し、校舎の中に入ろうとしたその時、何気なく横に向けた視線がある一点で釘付けになった。

 

 

…いる。

 

 

道の端にこちらに背を向けるように立っていたが、間違いなく彼だ。落ち込んでいた心が急浮上し、興奮によって心臓の拍動が早くなるのが自分でもわかる。緩みかけた口元を務めて元の状態に保ちながら、彼女は軽快な口調でトレーナーに話しかけた。

 

 

「おはよう、トレーナーさん」

 

 

「……あぁ、ネイチャか。おはよう」

 

 

いつもなら朗らかな笑みを返してきてくれるはずの彼。しかし振り向いた彼の表情には影があり、心ここにあらずといった状態だった。心配をするネイチャをよそに、亮人は目だけをぐるりと彼女へ向けた。

 

 

「すまないがネイチャ、今日の放課後にチームのみんなを部室に集めてくれないか?」

 

 

その言葉に、ネイチャの心臓はドクンと跳ね上がる。

意中の相手であるトレーナーから放課後に話があると言われたことなどなかったネイチャは心躍らせたが、チームメンバーの全員を呼んで欲しいという言葉に自身が思い描くような要件ではないことを悟り、視線を僅かに落とした。

 

 

 

「……わかった。チームのみんな集めておくね」

 

 

自身が発した言葉に礼を言うと、トレーナーはすぐにその場を立ち去ってしまう。小さくなってしまう彼の背中に向けて手を伸ばすが、行き場のない感情はやがて霧散し、その手は力なく下げられた。

 

 

 

 

 

 

その日の放課後。ネイチャが呼んだチームメイト5人は部室に集っている。各々が座る定位置は決まっており、練習がないこの日に自分たちを集めた亮人を待ちながら、各々がゲームをしたり、手遊びをしたり、読書に講じたりと思い思いに過ごしていた。

 

 

「……」

 

 

自身から読んでいる本から顔を少しだけ覗かせ、ネイチャはチームメンバーの面々を見渡す。自身は比較的新しい方のチームの加入だったが、既に加入から1年以上が経過している。それでもネイチャはこのチームの雰囲気にある種の居心地の悪さを感じていた。

 

 

居心地が悪いと言っても、決して仲が悪いというわけじゃあない。皆とはうまくやれていると思うし、喧嘩だってしたこともない……それでも。

 

 

何か……お互いが晒すことができない秘密をひた隠しにしているような……歪な中で「普通」という日常を演じるような、そんな居心地の悪さ。ネイチャはチームメンバーに注視していたが、一人のウマ娘の顔を見ると、そこで停止した。

 

 

……ナリタタイシン先輩。

 

 

部室の一番奥の席で、スマホゲームに講じている彼女。チームの中でも最古参であるミスターシービーの次に加入した古参であり、現在は怪我で療養中の身でありながら去年はG1、そしてクラシック三冠の初戦を飾る皐月賞を制した、学園内外で注目されるウマ娘だった。

 

 

そんなウマ娘であるタイシンだったが、ネイチャ自身は彼女と面と向かってコミュニケーションをとったことが殆どなかった……するとネイチャからの視線を感じ取ったのか、タイシンはスマホの画面から顔を上げるとじっとネイチャのことを見つめ返した。

 

 

ネイチャは見ていたことがばれてしまった恥ずかしさと、タイシンの鋭い目つきから逃れたいがために慌てて視線をそらしたが、タイシンはネイチャから視線を外さずに口を開いた。

 

 

「…ねぇ、ネイチャ。」

 

 

「え、どうしたんですか、タイシン先輩……?」

 

「今日アイツから何の用事で呼ばれたかって聞いてるの?」

 

 

「い、いえ……なにも」

 

「……そう」

 

 

そう淡々とした様子でタイシンは再びスマホに視線を落とす。トレーナーのことを口にした時、口調は随分とつっけんどんなものだったが、彼のことを話すタイシンの尻尾や耳が動きを止めることができていないのを、ネイチャは見逃さなかった。

 

 

……トレーナーに対してタイシンが好意を寄せているという噂は、数か月前から知っていた。

 

 

その噂が本当だというのなら……そもそも生徒であるアタシたちに振り向いてくれる保証なんて何処にもないが、もしも、もしも…………。

 

 

その時だった。

 

 

「すまないみんな……待たせてしまった」

 

 

 

 

部室の扉が開き、部屋に自分たちのトレーナーが入ってくる。しかしトレーナーの後に続いて入ってきた2人の人物の姿に、一同の顔はしかめっ面になった。

 

 

「貴方は……」

 

 

「……久しぶりだね、ルドルフ。M県の方へ隠居して、卒業を待つ身なんじゃあないのかい?」

 

 

「久しぶりだね、シービー。息災そうで何よりだよ」

 

 

チームの最古参であるシービーの声かけに、入ってきた2人の内の1人であるウマ娘、シンボリルドルフがそう答える。学園の生きる伝説の唐突な登場に、交流があるシービー以外の面々には緊張が走る。

 

 

「それでトレーナー、ルドルフ会長……と貴方は?」

 

 

「あぁ、彼は『ピンクダークの少年』を執筆している漫画家、岸辺露伴先生だ。」

 

 

ピンクダークの少年。アニメや漫画に疎い自身は読んだことがなかったが、その名前は聞いたことがある……年齢問わず多くの読者を惹きつける摩訶不思議なストーリーと、その中にも確かに存在する圧倒的な「リアリティー」は他の作品の追随を許さないと定評だった。

 

 

その漫画家先生である岸辺露伴が一体何の用なのだろうか。一同の視線が見知らぬ人物である露伴に注がれると、露伴は徐に口を開いた。

 

 

「……実を言うと、この世界は延々と1週間を繰り返している。そしてその原因はこのチームの君たちの内の誰か、ということが分かった。」

 

 

……は?

 

 

その言葉に一同に、明らかに動揺が広がっていく。チームの内の一人であるタキオンは椅子から立ち上がると、露伴に鋭い視線を投げかけた。

 

 

「……露伴先生。久しぶりの再会は嬉しい限りだが、あまりにも再会初めての会話としては、とても明るいものじゃあないね。」

 

 

学園の異端児であるタキオンと、露伴に交流があることに驚いたが、更に驚かされたのはタキオンが露伴の話を冗談と片づけなかったという点だった。

 

 

「……タキオンが犯人じゃあないということはもうわかっている。原因として疑われるのは……」

 

 

そう言うと、露伴はゆっくりと腕を上げる……そして部室の奥に座るタイシンと、そして自身だった。

 

 

「……え?」

 

 

 

思わず声をあげるネイチャと、目を見開くタイシンを他所に、露伴は口を開いた。

 

 

 

 

「プライベートの問題であることは重々承知しているが、今は緊急事態だから言わせてもらおう……トレーナーに惚れている君たちのどちらかがこのタイムループの原因だ」

 



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岸辺露伴は戻らない12

 

 

 

 

「……はぁ⁉」

 

 

両手を机に叩きつけ、ネイチャは露伴の言葉に対して、素っ頓狂な声を張り上げる。そんな反応を取ったのは間違いなく、露伴の今しがたの指摘が、タイシンはともかく少なくともネイチャにとっては紛れもない事実だった。事実ネイチャの顔は、まるで茹蛸のように赤く染めあがっていた。ネイチャは今しがた指摘された内容を否定するために口を開いた。

 

 

「そ、そんな……!根も葉もないことを……!!アタシも、タイシンさんも……って」

 

 

同意を求めるために部室の奥に控えているタイシンの方を振り向いたネイチャだったが、彼女の表情を見たネイチャの表情は瞬時に、まるで冷や水をぶっかけられたように静まり返った。

 

 

怒髪衝天。タイシンの表情を言い表すには、その一言がお似合いだった。まるで豹のように野生味を孕んだ鋭い視線を、発言の主である露伴に投げつけていた。タイシンの怒りに気づいた周囲の人たちが静まり返っていると、露伴は淡々と言葉を続けた。

 

 

「……突然このようなことを言ったのはすまないと思っている。だがこれも全てタイムループを解決するためだ。信じられないと思うのは無理ない……だが、君たちの気持ちに初対面の僕が気付いているのが何よりの証拠だと思って欲しい。他のメンバーの秘密は既に前回ループで解決に導いていたようだ。つまりこのループで君たちのどちらが原因なのか、それを突き止めて解決することができれば、このタイムループは終わるはずだ」

 

 

「……それならば話は簡単だ。この2人のどちらかの気持ちに応えてやればいい。ループが起こらなければ選んだ方が原因だったとわかるし、ループが起これば選ばなかった方が原因だった、そうわかるじゃあないか」

 

 

タキオンは椅子に座って紅茶を嗜みながらそう言葉を発する。タキオンの提案は、まぎれもない事実であった。確かに彼女の言う通り、2分の1の確率でこの問題は解決に導くことができる。

 

 

「……タキオンは僕の話を信じてくれるのか。」

 

 

この突拍子のない話は、事態を説明している露伴自身も信じ切ることができない代物で、話を聞いている一同の顔に浮かんでいる表情は、彼の話が信用に値するものではないことを端的に表していた。その中で唯一冷静さを失わず、更には解決策を提示するタキオンの胆力に露伴は舌を巻くことを禁じえなかった。

 

 

「そりゃあこのアグネスタキオン、既に何度も君に厄介ごとに巻き込まれているからねぇ……もう私の悩みは解決されたんだろう?」

 

 

「僕は覚えていないが、前回のループで君の悩みは解決されている。ヘブンズドアーにはそう書いてあった……」

 

 

「……そうかい。」

 

 

そう一言呟くと、タキオンは再び砂糖を多量に入れた紅茶をすする。誰にも話したことのないはずの悩みが既に知れ渡り、あまつ解決されたと言われる彼女の心中はどのようなものなのだろうか……しかし、少なくとも亮人の目には彼女の表情は幾分か穏やかなものであるように映った。タキオンはティーカップに注がれた液体を全て飲み干すと、小さくため息をついて亮人の方へと視線を向けた。

 

 

「さて……じゃあトレーナー君はどちらのウマ娘を選ぶんだい?」

 

 

「……え?」

 

 

突然話を矛先を向けられた亮人は素っ頓狂な声をあげたが、タキオンはそれには意を介さずに言葉を続けた。

 

 

「さっきも言っただろう?今回のループで好意に応えるウマ娘を選べと言っているんだよ。」

 

 

「そ、そんな……僕には……」

 

 

確かに彼女の言う通りだ。ループを解決するにはタキオンの提案が最も理に適っている。この永遠の監獄から抜け出すことは、記憶を持っていない彼女たち以上に僕自身が望んでいることだ。

 

 

だが。

 

 

果たしてそれでいいのだろうか?もしもネイチャとタイシン、どちらかの気持ちに今答えたとして、それでループが解決したとしても。果たしてそれは「元通り」の日常に戻った、そう言えるのだろうか?ループが終わった後には、失恋という確かな痛みを負ったウマ娘、そして「担当ウマ娘」から「恋人」へと関係性が変容したウマ娘、そしてその一連の出来事を間近で立ち会わなければならないウマ娘たち。彼女たちは果たして、牢獄を抜け出した後に元の日常に戻ることはできるのか?

 

 

少なくとも僕にはそうは思えなかった。例え理にかなっているとしても、それは正しい解決策であるとはどうしても思えなかった。彼女たちは日頃命がけでレースに身を投じているが、その実は紛れもなく、成熟し切らぬ精神を抱えたティーンエイジャーだ。それならばループに解決するのは、トレーナーとして正面から彼女たちと向き合う必要がある。

 

 

亮人は心の内でそう決すると、部室にいるメンバーを見渡しながら徐に口を開いた。

 

 

「……僕はトレーナーだ。ネイチャとタイシンのどちらか、なんて選ぶことはできない。何とか、何とか状況を解決するための方法を……」

 

 

「……は、なにそれ?」

 

 

部室の隅から放たれた一言。だがその一言は、今しがた固めた亮人の決意を瓦解させるには十分すぎるものだった。亮人は自信を喪失させた発言をした張本人であるナリタタイシンへと顔を向けると、彼女は亮人を睨みつけたまま口を開いた。

 

 

「タイシン……」

 

 

「ふざけんな。トレーナーとして、解決したい……?」

 

 

「僕は、ただ……チームを」

 

 

ただ元のように、皆と過ごしたい。チームが元のチームであるように。そう口にしかけた亮人だったが、その想いをタイシンはあっさりと切り捨てた。

 

 

「それはただアンタが傷つきたいだけ……ただアンタが臆病者なだけ。初めからこのチームは一つなんかじゃあないし、アンタが思っているような仲良しこよしのチームなんかじゃあない」

 

 

そんなものは仮初の……せめて目のまえにある歪な平和が崩れないように互いが互いの心の闇を隠して関わり合っていただけだ。突然こんなことをぶちまけられて元鞘に戻りたいと口にする亮人の能天気さに、タイシンの怒りは既にピークに達していた。

 

 

そしてそれは亮人を絶望の淵へと叩き落すにはあまりにも十分すぎる言葉だった。ショックのあまりに言い返すことができずにいる亮人を尻目に、彼女は椅子から荒々しく立ち上がり入り口へと歩みを進めた。タイシンは露伴やルドルフを押しのけながら進み、部室の入り口に立つと、室内から出る直前に皆に周囲を見渡す……そして最後に亮人へ視線を向けると、徐に口を開いた。

 

 

「……絶対に諦めないから。」

 

 

「……」

 

 

絶対に諦めない。その言葉が持つ意味は、今までの会話の流れから見れば明らかなものだった。驚愕と焦燥によって目を見開くことしかできない亮人に対して、タイシンは淡々と言葉を吐きかけ、扉を閉じた。

 

 

「……あと残念だけどアタシが元凶だから。」

 

 

衝撃的なタイシンのカミングアウトは、室内にその日何度目かの静寂を与えるには十分すぎる代物だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

取り残された一同の雰囲気を形容するとすれば、「葬式」という言葉以上に似つかわしいものはなかっただろう。しばしの沈黙を打ち破ったのは、意外にもチームの最古参ミスターシービーであった。

 

 

「アハハ……その……かなり熱烈なプロポーズだったね」

 

 

場を多少なりとも和ませるための、彼女なりの気遣いだった。

しかし彼女の発したその一言は、ただただ室内の冷え切った空気の中に霧散し、室内には再び先程よりも耐え難い静寂が訪れた。

 

 

「……それで?これからどうするつもりだい?」

 

 

この手の状況の打破については気の利いたセリフでも何でもなく、会話が続くような議題の提唱が最善に他ならない…タキオンの発言によって最悪とも言えた室内の空気は少しずつ改善を見せ始めた。

 

 

「……どうするって。タイシン君が犯人だったということだろう?だったら彼女の悩みを解決してやれば万事解決ってことじゃあないか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生物には、例え同じ種族間であっても「差異」というものが存在する。

生物には所謂個体差というものがあり、常に死が隣り合わせである野生においては、食料の確保やテリトリー、コロニーの奪取、防衛等が必要であり、生存確率の大小において個体差は、まぎれもない大きな要素の一つである。

 

 

ならばウマ娘という生物の場合は一体どうだろうか?

 

 

ウマ娘は人間とは非なれど、言語によるコミュニケーションや酷似している容姿、知能指数に至るまで共通項は極めて多く、ウマ娘の歴史は人間と密接なものであった。

 

 

体躯からは想像できない筋力を駆使して農耕や炭鉱業、工業等で人間の力では及ばない重作業を担う役目。

 

 

俊敏性を活かし交通インフラや通信が発達していない時代には、一番早く郵便物や言伝を伝える手段として飛脚を担い、戦時では軍隊に所属し、遊撃隊や伝令としての役目。

 

 

その中でも「個体差」が最も注目されるに至ったのは、意外にも近代に入ってからであり、それはレースの「競技者」として注目されたことが始まりだった。

 

 

レースは通常、コース取りや瞬発的な加速のために必要な筋肉量のためには必然的には身体が大きい方が有利であるとされている。同期のウマ娘であるビワハヤヒデも、学園内のウマ娘の中でも非常に体躯に恵まれていて、その体躯と卓越した戦術を活かして菊花賞と天皇賞という華々しい功績を収めていた。

 

 

それに比べて。

 

 

……アタシはどうだ?

 

 

タイシンは荒々しく息を吐きだして壁にもたれかかると、自身の目下へと視線を送った。初、中等部の頃から「本格化」を迎えることがなかった自身の身体は、同級生に比べても「貧相」な身体だと表現するに等しいものだった。

 

 

幼い頃からずっとそれで苦労してきた。同級生にはチビとバカにされ、嘲笑われてきた。

 

 

「……アンタ、入学するところを間違えたんじゃあないの?」

 

 

「……クスクスクス」

 

 

「アンタみたいなチビが勝てるほど甘い世界じゃあないわ」

 

 

……さい。

 

 

そんな周囲からの嘲笑も、もはや日常茶飯事だった。そんな外部からの刺激を耐え抜くために、少女の性格はどんどん鋭利になっていき、肯定感という代物が生まれるにはあまりにも苛酷な環境だった。

 

 

「お前には無理だ」

 

「諦めて別の道に……」

 

……るさい。

 

 

うるさい!うるさい!うるさい!

 

 

頭の中に反芻していったノイズをかき消すために、握りこぶしを壁に叩きつける。壁に亀裂を拵えたタイシンは息を整えると、心の内とは裏腹に清々しいほど青い空を仰いだ。

 

 

……トレーナー

 

 

タイシンは心の中で意中の相手の名前を呼ぶ。こんな時、彼なら自身の心にかかる霧を振り払って、大丈夫だ、そう言ってくれるだろう。まるで自身が生涯をかけて悩みぬいてきたコンプレックスを些末な問題だと錯覚させてくれるような、そんな言葉をかけてくれるに違いない。

 

 

トレーナーのことを想い少しばかりその表情は緩んだかに思われた……しかしすぐに彼女の顔は再び厳しい表情が浮かぶ。

 

 

ばれてしまった。もっとも知られたくない……彼に思いを寄せていることを。 全てが音を立てて崩壊していく…それはきっと留まることを知らず、全てを壊すまで終わらない。

 

 

だからこそだ。絶対に諦めてなるものか。そう心の中で静かに決意を固めると彼女はその場を立ち去った。



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