黒蝶の羽ばたき (ふみどり)
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1

 まったくひとの都合というものを考えないやつらだと思う。高校一年生という多感な時期、しかも新たな人間関係の構築もおおよそ済んだところで無理矢理決められた転校。それも、よりにもよってこの学校に。

 こんなに机の少ない教室は初めて見たな、と感心しながら黒板の前で笑顔をつくった。四つの机のうち三つを埋める彼らは、どうも友好的とは言いがたい。

 

黒笹(くろささ)胡斗(こと)です。よろしくお願いします」

 

 端の女の子は無関心寄りの好奇、真ん中の長髪は友好の皮を被った好奇、まあこのふたりはまだいい。少なくとも会話は成立しそうだ。

 それよりも最後のひとり、サングラスの奥で輝く蒼の瞳はどうやら僕のことをちゃんと「視」えているらしい。友好的どころではなく、敵意ともまた違う。強いて言うなら「嫌悪」だろうか。

 なるほど、黒笹の爺どもが五条家を目の敵にするわけだ。

 

「センセー、何でそいつここにいんの?」

 

 ぴしゃりと冷水のように浴びせられた言葉。悟、と隣にいる担任が咎めるも、その六眼は僕を捉えて離さない。

 

「うぞうぞ湧いててキモいんだけど。しかも席隣とかマジ無理」

「悟!」

「構いませんよ先生、六眼の持ち主にはそういうふうに見えると聞いています。だからウチは昔から五条家と仲悪いんだそうで」

「は? 仲悪いも何も眼中にねーけど」

「それはよかった、眼中にないなら僕のことも見えないよね。じゃあお隣失礼」

「あってめ、」

 

 一番廊下側、彼の隣に用意されていた席。しれっとそこに座ると、五条悟は面食らったように立ち上がり、咄嗟にのけぞった。そこまで嫌がられるとかえって愉快だ。

 何とも言えない顔で僕を見る担任に笑顔を向け、お気遣いなくと続きを促す。この程度なら想定の範囲内、むしろ想定の中でもかなり友好的なほうだ。何なら視界にいれる前に「駆除」されることさえ考えていたのだから。

 今も、嫌悪を見せても命を狙ってくるほどの様子はない。呪霊操術の使い手に窘められてむくれている程度で済むとは思わなかった。

 ふと目が合った長髪の彼は、うちの子がごめんねとでも言いたげに苦笑を浮かべる。ふたりが親しいとは聞いていたが、どちらかというと保護者と子どものような関係のようだ。とりあえず同じように笑顔を返しておこう。

 

『見てきて欲しいんだ。六眼の持ち主と、呪霊操術の使い手をね』

 

 ふと、耳の奥でいけ好かない声が蘇る。

 顔も見たことがない相手だが、見る必要もないことを知っていた。顔も声も知らぬ間に変わっている、そういうやつだ。黒笹よりもずっと気味の悪い存在だと思うのだが、僕の感性は黒笹の中で少数派らしい。

 まさかそいつのせいで転校までさせられるとは思ってなかったけど、と机に片肘をつく。近くに在る馬鹿でかい呪力の持ち主たちのせいで活発になり始めた体内の「ソレ」らを宥めながら、授業を始める夜蛾先生の言葉をぼんやりと聞き流していた。

 

 *

 

 別に仲良くなれとは言われていない。無論、言われていたところで従う義務もない。だが一般的な生活を送っていれば、ある程度の人間関係を構築しておくことの重要性は身に染みて理解している。

 にこり、と笑顔で敵意がないことを示した呪霊操術の使い手は、夏油傑と名乗った。

 

「さっきは悟がすまなかったね」

「気にしてないよ。こちらこそ気を使わせてごめんね」

 

 休憩時間になるなり話しかけてきた彼は人当たりの良さそうな顔で、一応人付き合いを上手くこなそうという気概はあるらしい。打算込みだとしてもその気持ちはありがたく受け取るべきだろう。僕としても不必要に険悪になりたいわけではない。

 その後ろからひょっこり顔を出してきた紅一点、家入硝子と名乗った彼女も軽く挨拶をしてくれた。そういえば彼女は確か反転術式の使い手なのだったか、何やら噂を聞いたことがあるような気がする。

 まったく何て豪華なクラスメイトだろうか、夜蛾先生の苦労が察せられる。

 

「お前らよくそんなキモいやつに近づけんな……」

「悟、いい加減にしな。いくらなんでも度が過ぎる」

「つか何、五条の眼には黒笹がどう見えるわけ。普通の野郎じゃん」

 

 どうって、と真っ黒のサングラスがこちらを向いた。同時にうえっと気持ち悪そうにのけぞられる。その態度を見ても、別に僕に不快感はない。むしろどう見ても不遜が過ぎるタイプの人間の真剣に嫌そうな顔というのはわりと愉快だった。どうぞ好きなだけ嫌がってほしい。

 悟、と見かねて咎めようとした夏油くんを手で制する。あまりの愉快さに肩が揺れた。

 

「五条くん、君ってあれかな、集合体とかダメな方?」

「集合体も何も、大量の虫が蠢いてんの見てキモくねーやつとかいねーだろ」

 

 え、と硬直するふたりを余所に、やっぱり見えてるんだなあと感心して頷いた。

 大昔から「黒笹」は「六眼」を目の敵にしてきた。話は簡単、こうして「視」えてしまうからだ。

 頬杖をついていた左手をほどき、そっと指を伸ばす。瞬きをする間に僕の指先にはひとひらの蝶。漆黒のそれはクロアゲハによく似ているが、もちろん別物だ。

 僕が僕の中で飼っている、呪力によって生み出されたそれ。

 

「蠱毒って知ってるかな。大昔からある、有名で古くさい呪術の手法」

 

 蠱道、蠱術、巫蠱、その呼び名は数あれど、示すものは同じ。

 大量の生き物を一カ所に閉じ込めて食い合わせ、最後に生き残った一匹を媒体として呪いを施す呪法のことだ。古代中国から始まったとか何とからしいが、あまりに横行しすぎて呪いを理解しない人間の間でもよく知られている呪法と言えるだろう。

 黒笹の相伝の術式は、まさにそれだ。

 

「僕の術式は蝶だけど、ほかにもいろんな蟲がいるよ。当主は代々蜘蛛だしね」

「……君の中に蟲がいるってこと?」

「いるどころじゃねえ。うじゃうじゃだよ」

 

 しかめっ面の五条くんは、辿るように僕の身体を指さした。

 

「蝶はまだいーけど、それ幼虫だろ。芋虫がうじゃうじゃ集ってる。無理、キモ」

「へえ、そういう風に見えるんだ。黒笹の術師は幼少のころに体内で蠱毒を起こすんだけど、僕の場合、最後に生き残ったのが蝶でね。だからそれ以来、そいつとそいつの子々孫々が僕の中で蠢いてるってわけ」

「お前それつまり呪力なんだろ。自分の呪力くらいコントロールしろよ。しまえ。消せ。キモすぎ無理」

「見えないようにしようとしても六眼には見えてしまうから黒笹は五条を嫌うんだけどねえ。正体がばれるから」

「なるほどね。見えすぎるのも大変だな、悟」

「まあ私らには見えないから関係ねーわ。蝶、綺麗じゃん」

「ありがとう」

 

 家入さんの賛辞を素直に受け入れて蝶を戻す。しゅるりと指先に吸い込まれるように消えたそれは、また僕の呪力の中で息を潜める。

 しかしそうか、このまま五条くんに嫌がらせを続けるのも一興だが、呪力のコントロールで見えないようにできるのなら努力してみるべきかもしれない。六眼を前に鍛錬ができるのは、ある種の幸運ともいえる。

 ふむ、と体内の呪力を巡らせる。とりあえず幼虫を身体の奥深いところにしまい込むよう意識する。

 んだよ、とガラの悪い声が飛んだ。

 

「やっぱコントロールしようと思えばできんじゃねーか!」

「あ、できた? とりあえず幼虫しまったけど」

「幼虫しまうって言い方がすごい」

「五条、どう見えんの?」

「幼虫は消えた。蝶は増えたけど俺的にはまだマシ」

「さすがに全部しまうのは難しいな。まあマシになったんなら良かった」

 

 これでしばらく我慢してねと笑いかけると、ふんと五条くんは鼻を鳴らす。仲良くする気はないという意思表示だろうが、先ほどまでよりは柔らかい。思ったよりチョロいという感想を咄嗟に喉の奥に押し込んだ。

 やれやれ、と夏油くんが苦笑しながら言う。

 

「ごめんね、礼儀を知らないうえに素直じゃないやつで」

「え、逆にだいぶ素直じゃない? 可愛いよね、五歳児みたいで」

「ああん!?」

 

 暴れ始めた五条くんを力尽くで宥める夏油くんを余所に、僕と家入さんは和やかに連絡先を交換する。

 高専に転校なんて面倒ごとになってしまったと思っていたが、これは意外と愉快な日々が待っているかもしれない。最終的に殴り合いを始めたふたりの「最強」を指さして笑いながら、頭の中では天秤がゆらゆらと揺れる。

 

 *

 

「少しは止める努力をしてくれないか」

「嫌ですよ、巻き込まれたら死ぬかもしれないじゃないですか」

「それな」

 

 結局夜蛾先生の拳に遮られるまで喧嘩を続けていたふたりは、頭にコブを作ったまま大人しく正座をしている。しかし特級ふたりに拳を食らわせたどころかちゃんと言うことを聞かせているこの教師、なかなかに侮れない。次期学長と目されているだけはあるということだろうか。

 まったくと腕を組んだ先生をよそに、少し冷静になったらしい五条くんは嫌そうながらもちゃんと僕を見て口を開いた。

 

「で?」

「……なに?」

「さっき聞いただろーが。結局オマエ、何でここにいんの」

 

 黒笹はそういう家じゃねーだろって、思ったより彼はこちらのことをよく知っているらしい。

 数ある呪術師の家系の中でも、黒笹はかなり特異と言える。なぜなら、古くからある家系にもかかわらず、呪術界とほとんど交流をもたないまま存続してきたからだ。

 

「呪術界からの任務はほぼ受けることなく、直接自分とこに来た依頼だけ受けてんだろ。それも呪術界じゃ断られるような後ろ暗いヤツばっか。当然、高専に子ども送り込むような家じゃねえ」

「高専に子どもを送り込むのが珍しいのは御三家もでしょ」

「るっせ、俺はいーんだよ。で、その黒笹の人間をわざわざ転入までさせて高専に送り込んでくるとか、どう考えても何か企んでんだろうが」

 

 すべてを見通すような六眼の視線が痛い。まあ、彼が言ったことはおおよそ事実といえる。

 他家との交流をほぼ持たずにきた黒笹の実態を知る者は少ない。そのせいで呪術師の家系でなく呪詛師の家系だなんて揶揄されていることも知っているし、高専に入学した黒笹も僕が初めてだという話だ。そりゃ胡散臭いというものだろう。

 そしてその懸念は完全に正しいのだから、つい肩が揺れてしまう。

 

「……おい」

「ああ、ごめん、五条くん、きみ本当に素直で可愛いね」

「あ?」

 

 僕への疑念を、こうもストレートにぶつけてくるとは。

 これは「最強」ゆえの傲慢か、はたまた無知ゆえの愚行か。腹の底を見せることなく相手の腹を見通すのが呪術師なのに、彼ときたら腹芸というものをする気がないらしい。

 これが今世の「六眼」か。別に好きではないが、嫌いでもなかった。

 

「お察しの通り、僕がここに来たのは黒笹の意志だよ。きみたちを見てこいと言われてね」

 

 きみたち、という言葉に夏油くんの肩が揺れる。そう、五条くんだけじゃない、夏油くんのことも言われているんだよと、その動揺を肯定するように笑いかけた。切れ長の目がさらに細められる。

 嘘はついていない。アイツの言葉に従うのは黒笹の意志なのだから。しかし、まだアイツの正体や目的まで話す気はない。アイツに従うつもりはないとは言え、生き残りを考えるなら情報の扱いには気を付けなくては。

 黒と蒼の二対の視線を正面から受けながら、僕はにこりと笑って続ける。

 

「ま、それ以外のことは特に言われてないし、言われたところで素直に言うことを聞くつもりはないからあんまり警戒しないでくれると嬉しいかな。でも、僕の前であんまり迂闊なことは言わないでね」

 

 言うつもりはなくても、言わされることはありえるから。

 そう軽く言えば、五条くんは苦虫を嚙み潰したように顔をしかめ、夏油くんはむしろ愉快そうに肩を揺らし、首を傾けて言った。

 

「家の言うこと、聞かなくていいのかい?」

 

 その言葉に、いいんだよ、と軽く返す。

 別にあの家が好きなわけでもないし、ずっと黒笹の呪術師として生きるのも退屈だと思っていたところ。じゃあどうしたいんだと言われれば悩むところではあるが、少なくとも従順な人間でありたいとは思っていない。

 だから、構わない。たとえその結果、黒笹の蟲どもが僕の敵となろうとも。

 

「僕、反抗期なんだ」

 

 最悪、黒笹を滅ぼせば済む話だ。

 ばさり、と耳元で蝶の大きな羽ばたきが響いたような気がした。

 



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2

 いまだに夜に眠る生活には慣れない。

 時計の針が頂点を指そうかという真夜中に、共用のキッチンの灯りを付ける。小さな片手鍋を取り出し、適当に牛乳を注ぎ入れた。もってきた蜂蜜をとぷりと入れ、ゆるくかきまぜながら火に掛ける。柔らかな甘い香りは、それだけで眠気を誘ってくれるような気がした。

 高専にきてからおよそ一ヶ月、とりあえず殺されることなく生き延びている。クラスメイトともひとりを除いてわりと上手くやれていて、残りのひとりも積極的に害しに来る様子はない。むしろ引っ込みがつかなくなっているだけというか、最初にあれだけ邪険にしてしまっただけに態度を軟化させるタイミングを逃してしまったようにも見える。時折ちらちらと窺うような視線を感じるのはおそらく気のせいではない。

 僕としては好かれようが嫌われようが構わないので、どうぞ好きにしてくれと思う。殺しに来ないでくれるならそれで十分だ。

 ぷく、と鍋の縁に気泡が浮かぶ。ぼんやりとそれを眺めながら、自分の中に少しずつ眠気が降り積もるのを待つ。もはやこれが日課になりつつあった。

 

「……高専て昼間に任務行くんだもんな」

 

 つい、深夜の静寂に呟きを落とす。

 これまでも黒笹が受けた「仕事」はこなしていたが、たいていは世間が寝静まった夜中に行っていた。そもそも「呪い」は秘密裏に行うものなのだからそれは当然で、「帳」があるからと真っ昼間に呪術師が動くものではないと思うのだが、こちらではそれが普通なのだと言う。「いや夜は寝ろよ」とごくごく当たり前に言い放った紅一点に目から鱗が落ちる心持ちだったが、その手にあった煙草に突っ込んでいいのかどうかは悩んだ。同期の中で一番話しやすいかもしれない彼女は、正直なところ常識があるのかないのかよくわからない。

 ちょうどよく温まったのを確認してコンロの火を消す。真っ白のマグカップに丁寧に注ぎ入れ、空になった小鍋をシンクの中に置いた。片付けるのは後にしよう。

 近くの椅子をひき、カップを片手に腰掛ける。カップに口をつけると、まろやかな甘みが心地よい熱とともに広がっていく。

 

「……ふあ、」

 

 ようやく口から小さな欠伸がもれる。良いことだ、そのまま早く眠気がきてほしい。少しずつ瞼が重くなってくるのを感じながら、この一ヶ月の生活を思う。

 わりと上手くやっている、と思う。思ったより任務もちゃんとこなせている。個々の戦闘力では「最強」ふたりに敵わないが、僕の戦い方が通用しないとまでは感じなかった。

 現場の探索も夏油くんの呪霊以上に行うことができるし、多少の呪霊なら僕ひとりでも十分に祓える。呪術師の等級についてはイマイチ感覚が掴めてはいないが、特級の夏油くんに「()()()やるね」と言わせたのだから足手まといではないはずだ。夏油くんがわりと悪い意味で正直者なことはすでに理解している。

 いわゆる「普通」の勉強についても問題なくついていけているし、「最強」ふたりに手を焼いていたらしい先輩方にはむしろ歓迎されていて、実家やアイツから不穏な連絡がくることもなく。わりと快適な学校生活を送っていると言っていい。

 そう、むしろ、だからこそ、だ。だから、「今」が不気味でならない。()()()()()()()()()()()()

 込み上げた欠伸をかみ殺し、ホットミルクと一緒に喉に流し込んだ。まだ少し熱いそれがぴり、と喉を舌く。む、と眉間に皺を寄せると同時に、キッチンの入り口に人の気配を感じた。

 

「……何やってんの、オマエ」

 

 呆れたように言った彼の白銀には、小さな寝ぐせがついていた。

 恥ずかしいところを見られてしまった気まずさを微笑みで覆い隠し、夜半の訪問者に眼差しを向ける。五条くんは何となく警戒した様子でテーブルに歩み寄った。

 

「ちょっと火傷しただけ」

「だっせ」

 

 ははは、容赦がない。

 僕の前で突っ立ったままの彼は、別に夜食を探しにきたわけではないらしい。冷蔵庫や食べ物の入った戸棚に目をやることもなく、ただ僕を見つめている。―――いや、これは僕を見ているのではない。僕を取り巻く黒笹の「蟲」、僕の皮膚の上を飛び交う蝶を見ているように思えた。いくら幼虫をしまい込む努力を続けているとは言え、それでも「蟲」を嫌悪していたことに変わりはないだろうに、どういう風の吹き回しだろうか。

 どうしたのと尋ねても、彼の六眼は揺らがない。

 

「……オマエ、ここんとこ毎晩ここにいるだろ」

 

 おや、まさか知られているとは。

 なるべく静かに部屋を離れていたつもりだったが、うるさかっただろうか。

 僕の内心を掬い取るように、五条くんは面倒くさそうにガシガシと髪を掻く。

 

「音立てねえようにしてても気付くに決まってんだろ。むしろ足音なさすぎて気付くわ」

「わかった、次からは遠慮なく足音立てるね」

「とは言ってねえだろーが嫌がらせか。何企んでんのかと思ったらここでぼけっとしてすぐ部屋戻るし。何なんだよオマエ、怪しすぎるくせに何もしねえからむしろウザい」

 

 なるほど、僕が実家やアイツに向けるのと同じ感情。そう思うとちょっと悪いことをしたなと思わなくもないが、僕にはどうしようもできないことなので苦笑するしかない。

 確かに僕は怪しいだろうし、警戒もしていてほしい。だが、僕自身は特に何をするつもりもないのだ。

 

「言ったでしょう、僕は何をする気もないよ。ごくごく普通に学校生活を送るだけ」

「信じると思うか?」

「思わないね。……にしても意外だな、そんなふうに僕を探りにくるとは思わなかったよ」

 

 腹の探り合いとも言えないほどの、あまりに率直すぎる問い。正直、意外ではある。数百年に一度の逸材、無下限呪術と六眼を併せ持つ五条家の当主が、僕ごとき羽虫を()()()()警戒してくれるとは。てっきり明確に刃向かってきたら殺せばいいくらいに思っているものだと思っていたのに、彼は僕を「警戒すべき対象」として視界に入れてくれている。

 同時に、その理由も理解した。

 

「そっか、きみが心配してるのは夏油くんのことかな」

 

 わずかに五条くんの頬が揺れた。やはり彼は腹の探り合いの経験値が低すぎる。

 夏油くんはもちろん優秀かつ賢明で、そう簡単に他人に振り回されるような人間ではない。しかし、それでも彼はまだ呪術師になって一年と経っていないのだ。まだまだこの呪術界(せかい)を理解しているとは言いがたく、うっかり魑魅魍魎(ジジイ)どもに後れを取ることだってないとは言い切れないだろう。

 いくら傲慢で気にくわないことは力尽くで潰してきたであろう五条くんでも、きっと夏油くんよりはこの世界の面倒くささを知っている。

 

「本当に仲が良いんだね。いいと思うよ、そういうのは大事にしないと」

「……おい」

「茶化してるんじゃない、これでも本当に感心してるんだ。……必要な警戒だと思うよ、どうせ夏油くん、高専卒業したら婿養子の話が山と来るだろうし。今はじっくり品定めかな」

「傑が雑魚の言うことなんざ聞くわけねーだろ」

「言うことを聞く気はなくても、嵌められることはあり得る。そう思ったからきみだって黒笹(ぼく)を警戒してるんじゃないの」

 

 六眼がかすかに細められる。やっぱ何か企んでんのかとでも言いたげだが、言葉の綾くらい理解して欲しい。

 またひとくちカップに口を付けた。温かさがふわふわとした眠気を運んでくる。そろそろ会話を切り上げようと、なかなか引きそうにない彼に少しばかりに情報をくれてやることにした。

 ぺろ、と甘みの残る唇を舐める。

 

「……信じてくれなくてもいいけど、本当に僕は何をするつもりもないんだよ。何もなさすぎて警戒してるのは僕も同じ」

「……」

「ただ、僕をここに送り込んだ理由のひとつには最近気付いた」

 

 数日前、体術の訓練でグラウンドに出ていたときに見つけてしまったもの。きっと相当呪力感知に秀でた呪術師でなければ気付けない、僕だって()()でなければ見逃してしまっただろうそれ。

 おそらく、六眼(かれ)も気付けてはいまい。彼が「最強」としてはまだ()()()なことは察していた。

 

「高専の敷地内に『蟲』が侵入してる」

「―――、」

「僕の呪力を辿ってきたんだろうね。もともと天元さまの結界は『隠す』ためのもので『護る』力はそれほどじゃない。場所さえ特定できれば呪力を薄めた蟲は結界を素通りできる。僕を媒介にして高専を探りにきたんだろう」

 

 高専で見つけたのは「蜘蛛」だった。つまり当主ないし直系が動いている。となれば「高専を探る」のは黒笹全体の意志であり、アイツの指示だ。端から僕が情報を持ち帰ることなど期待していないというか、僕が協力的でないことは理解してくれているらしい。

 蜘蛛はきちんと踏み潰してあげたが、おそらくは何百、何千という単位で蟲は放たれているだろう。夜蛾先生には報告をあげて機密のある場所の結界は強めてもらったが、さてどこまで効果があることやら。

 五条くんも見つけたら潰しといてね、と軽く言ってから、おっと、と付け加える。

 

「素手で潰しちゃだめだよ、毒があるから。即死するような毒じゃないけど、解毒には手こずると思う」

「わざわざ触んねーよそんなモン。……オマエ、実はマジで実家から信用されてねーの?」

「はは、マジの話をすると、蝶って黒笹じゃ地位が低いんだよ、ほら蜘蛛とかに捕食される側でしょ。だから昔からずっと弱い弱い言われてたのに、僕ときたらウッカリ次期当主のクソ蜘蛛野郎踏み潰しちゃって」

「……は?」

「蝶に食われる蜘蛛なんて無様だねって本音を漏らしたらあら不思議、その夜から死ねとばかりに山ほど仕事回されるようになったよ。まあその程度じゃ死なないけどね」

 

 呪術師の家系なら、一族のなかでも処遇に差があるのはよくあることだ。それは術式の有無、呪力の有無、血の濃さなどさまざまだが、黒笹の場合は「蟲」だった。

 昔から根付いてきた価値観を覆したのだから反発は必至というもので。でも僕は後悔してないですだって弱いのが悪いんだ。だいたい僕の身体という蠱毒壺のなかで()()()()()()()()()()()()生き残った蝶が弱いわけないだろうと。そんなこともわからない馬鹿どもの脳みそは本当に蟲サイズしかないのかもしれない。

 しばらく長い睫をぱちぱちと揺らしていた五条くんは、苦悩するようにきゅっと眉根を寄せて口を尖らせる。ん~~~~と呻いた後、大きくため息をつく。

 

「……何か馬鹿らしくなってきたわ。あほくさ、寝る」

「そうだね、もう真夜中も過ぎてる。休んだ方がいい」

「……オマエ寝ねェの」

「片付けをしたら寝るよ。ようやく眠くなってきたし」

 

 最後の一滴まで飲み干し、立ち上がる。

 シンクにカップをおいて蛇口をひねると、静かな夜に水の音が響いた。

 背後の気配は、まだ動く様子を見せない。

 

「……まだオマエを信用したわけじゃねえからな」

 

 背中で聞いた言葉に、つい喉の奥が揺れる。ぶっきらぼうな声色の奥に、ほんのわずか気遣いに似た色があったような気がした。

 

「いいよ、別に。むしろ警戒したままでいてほしいし」

 

 アイツのおおよその目的は知っているが、全てを知っているわけではない。このふたりに何を仕掛けるつもりなのかもわからない。そのために、僕をどう利用する気なのかも。

 正直、黒笹だけなら僕でも何とかできる。だが、アイツが相手となるとさすがに分が悪すぎた。呪術師としてどころかイキモノとしての経験値も桁違い、しかもこちらの手の内はほぼほぼバレているとなれば勝ち筋も見えない。

 だから、僕のことは常に警戒していて欲しい。信用しないでほしい。アイツが何を考えているかわからない以上、警戒はどれだけしても足りることはない。

 

「僕を信じちゃダメだよ、五条くん」

 

 それがきっと、お互いのため。

 首だけ振り返ってそう言えば、相変わらず五条くんは苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。

 



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3

 悟と何かあったのかい、と軽く問われて思わず瞬きをした。

 五条くんは何やら先生に呼び出され、夏油くんとふたりで行っていた体術の実習時間。まあそうでなくてもほぼ毎回夏油くんに稽古を付けてもらう時間と化しているのだが、今回も例外でなく僕は地面に転がされていた。

 一応弁解をしておくが、僕の体術の鍛錬が足りない以上に彼が強すぎるのだ。分類的には式神使いのうえに一般家庭出身のくせに、これだけ体術に長けている彼の方がおかしい。ちなみに家入さんはいつもこの時間になると他で実習を受けているらしい。

 汗だくで地面の冷たさを享受している僕の顔を、夏油くんは真上から覗き込んだ。

 

「ここ数日、悟の君への態度が少し柔らかくなった気がしていたから。仲直りできたのかなって」

「僕は喧嘩をしているつもりはないんだけどね」

 

 確かにあの真夜中以降、五条くんの態度は僅かながらに軟化していた。友好的にとは到底言えないが、余計な罵声が減っただけ会話はしやすくなったと言っていい。

 会話が端的に済むのは有り難いかなと、手に持っていた呪具を杖にひょいっと立ち上がる。どうも筋肉がつきにくい僕は、純粋な体術よりも棒術を得意としている。

 

「少し話をしたからかな。五条くんから話しかけてきてくれてね」

「それは珍しい。友好的に話はできたのかい?」

「うーん、比較的。……いや、初対面のときから十分に友好的だったと思うよ? 初手で殺しに来ないでくれただけ本当に助かったと思ってる」

「まだよくわからないんだけど、きみにとっては初手で殺しにかかられるのが普通なの?」

「そういうわけじゃないけど、蟲を嫌うひとが多いのは確かだから」

 

 正直僕だって好きかと言われればそうでもなく。

 黒笹にとっては力の化身である蟲を好ましく思えない時点で、たぶん僕は黒笹としては異端なのだろう。とは言え常に腹の中で蠢いてるものを好ましく思えって、黒笹もたいがい特殊性癖(へんたい)だよなとつい遠い目になる。

 まあ慣れはするけど、ため息をつきながら何となく腹をさすった。くす、と夏油くんの小さな笑いが零れる。

 

「確かに、慣れるのと好むのは別問題だね」

「夏油くんも?」

「言うこと聞くからって呪霊をペットと思えると思うかい?」

「思わないよ。可愛くないし」

「ははは、同感」

 

 可愛くても困るけどね、と夏油くんは軽く笑う。普段から取り込んだ呪霊を容赦なく使っている様子から察するに、彼も自身の呪霊のことは駒のひとつくらいにしか考えていないのだろう。術式をもっている呪霊なら少しは大事にするかもしれないが、それもあくまで「道具」であり「武器」として。

 比較的柔らかな人当たりに反して、彼は自分の好悪にはかなり忠実だ。実は結構極端な人間性をしているよな、とその微笑みを横目で見る。

 ぱちりと視線が絡むと、何かなと微笑みがこちらを向いた。

 

「ううん。相変わらず夏油くんは面白いひとだなと」

「それ、いつも思うけど本当に褒めてるの?」

「褒めてるよ。そんなきみだから五条くんも懐いたんだろうし」

 

 夏油くんがただの優等生ならもっと違っただろうし、ただのクソガキでもきっと違った。そういう意味で、五条くんはとても幸せなひとだと思う。

 同じ目線でものを見てくれるくせに異なる価値観をもち、自身を諭し導いてくれる相手。()()()()()()()というわかりやすい指針。そんな存在が身近にいればそりゃあ生きやすいというものだろう。何せ悩む必要がまったくない。羨ましいことだ。

 そうかなと不思議そうに首を傾げる夏油くんだが、いい加減気付いたほうがいいかもしれない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……夏油くん」

「うん?」

「……。……たくさん食べてよく寝てね」

「いきなり何かな?」

「いや、いろいろ言おうと思ったんだけど。やっぱ何か面倒だなって」

「きみって結構あれだよね。……そう、素っ頓狂」

「初めて言われたな」

 

 まあ別に僕が気にすることでもないか、と口から出そうになったものを丁寧に腹にしまう。ものすごく五条くんに好かれてるから気を付けてねなんて言われても彼にとってはどうしようもない話で、まして一般家庭出身の夏油くんにはきっとどう言っても実感が伴わないだろう。呪術界における「六眼」の意義なんて、僕でさえどう説明していいかわからない。

 呪力の籠もった棍をくるりと回す。両端に着いた房がぱさりと軽い音を立てた。

 

「元気に長生きしてほしいってことだよ」

「それはありがとう。早死にする予定は今のところないから大丈夫だよ。とりあえずきみよりは食べてるし寝てると思う」

「健康的で何よりだ」

「むしろ、きみこそちゃんと寝たほうがいいんじゃないかい?」

 

 おや、どうやら彼も僕の夜更かしには気付いていたらしい。だから身長が伸びないんだよって、本当に余計な一言が多いな彼は。

 笑顔を崩さないまま、そうだねと軽く受け流す。

 

「生活習慣を改善してる最中なんだ」

「ふうん? にしても蜂蜜入りのホットミルクがお供なんて意外と可愛いよね」

「ははは夏油くん、さては五条くんから全部聞いてるね?」

 

 どうかなと笑ってみせたこの性悪男、そんな会話をしたその夜に相変わらず眠気を待つ僕の前に現れてみせたのだから本当にいい性格をしていると思う。

 しかも、気まずさを押し隠そうと不機嫌を装っている相棒を引き連れて。

 

「……五条くん、実は夏油くんってとっても面倒なひと?」

「ちょー面倒。ぜってー退かねーし」

「うわあ、五条くんに言われるほどか……」

「あ?」

「はは、まあその仲の良さに免じて聞かなかったことにしておくよ」

 

 仲の良さって、とつい僕は眉を下げ、視界の隅で五条くんも顔をしかめる。そんな様子すらどこか愉快そうに肩を揺らした夏油くんはぱちりと片目を閉じる。うわかっこつけ。

 

「まあいいじゃないか、()()

「、」

「数少ないクラスメイトの仲が微妙なのは結構迷惑なんだよ。だからここらで意地を張るのは終わりにしよう、ね?」

「いや夏油くん、」

()()?」

 

 いや圧がすごい。つい()くんと呼び直せば、力強い微笑みの圧が僅かに軽くなる。呼び方くらいで殺気じみた圧を出さないで欲しい。

 ねえコレ、と横目で五条くんを見れば、何とも言えない顔の六眼がこちらを向けられる。六眼でも死んだ眼ってできるんだなと妙な気づきを得た。ちょっと笑えた。

 

「……えーと、()くんて呼んでもいいのかな?」

「……くんとかキモいんだけど」

「ええ……じゃあ()?」

「………」

「ああ、私も呼び捨てでいいからね」

 

 むっつりと黙り込んだ五条くん――悟の頭をぺしぺしとはたき、夏油くん――傑は僕たちに背を向けたコンロの前に立つ。彼は手際よくマグカップをふたつ用意し、小鍋で牛乳を温め始めた。どうやら本気で僕に付き合って起きているつもりらしい。

 いやさっさと寝ればいいのに、と自分の手元のカップに口を付ければ、そばに置いていた蜂蜜の瓶がひょいと浮き上がる。

 

「……何コレ、いいやつ?」

「ん? うん、ちょっとお高めの。ローズマリーの蜂蜜」

「ローズマリー? 何、何かちげえの」

「花の種類が違えば蜜の味も違ってくるからね。何ならきみも入れてみたら、……ってちょっと待って何でそんな大さじ出すの? ティースプーンでも十分じゃない?」

「傑、お前も入れる?」

「そうだね、今夜は甘いものの気分だな。はいホットミルク、あったまったよ」

「おー」

「待ってその掬い方容赦なさすぎ、」

 

 とろり、なんて表現では足りないほどたっぷりと掬われた蜂蜜。いや僕はケチなつもりはないけれど、だからってちょっと本当に遠慮なさすぎでは。

 軽く僕の十日分ほどしっかり使われた蜂蜜はもうすでに底をつこうとしている。

 

「……いや、いいんだけどさ」

「へえ、確かにこれ、よく売ってる蜂蜜とは違うね。甘ったるくないし香りもいい」

「ふーん? まー悪くねーじゃん」

「……お気に召して何よりだよ」

「けどこれ前のとは違えよな。前のは何の蜂蜜?」

「実は前もかなりしっかり興味をもって見てたんだね?」

 

 僕の数少ない楽しみ、コレクションとも言えるさまざまな種類の蜂蜜たち。わざわざ遠くの専門店にまで足を伸ばして購入しているそれらを別に秘密にしているつもりはないのだが、こうも興味をもたれると何となく気恥ずかしい。

 つい言いよどみながらたぶんラベンダー、と小さく返せば、ついに弱点を見つけたとばかりに彼の口角が上がる。

 

「へ~~~~~。じゃあ明日はラベンダーな」

「こらこら悟、たかるのは良くないよ。胡斗、ほかにも種類はあるのかい? 私は甘さ控えめなものが好みなんだけど」

「一瞬前の自分の言葉を忘れられるなんていっそ才能だと思うよ、僕」

 

 というか明日も来るのと正直な感想を言葉に乗せれば、ふたりはハッと何かひらめいたような顔。おっと嫌な予感。

 案の定、さっと傑は大きな身体を縮こめて目元を両手で覆い、悟はサングラスを外して傑の肩に手を添えた。

 

「今の聞いたかい悟、せっかくひとり寂しく夜を過ごしていた胡斗に寄り添おうとしているのに……っ胡斗が冷たい……!」

「あ~~~~いっけないんだァ、傑くん泣いちゃったじゃん男子~~~~~」

「あははははは。ウッザ」

 

 あら辛辣、と今度はそろって口許に手を寄せる最強(クソガキ)ふたり。打ち合わせでもしたんですかと言いたくなるほど息がピッタリですねきみたちは。仲が良いのは大変結構ですが僕を巻き込まないでほしいなと心から思います。

 やれやれとカップに残ったホットミルクを飲み干した。底に残った蜂蜜が、今日は妙に甘ったるい。

 

「……物好きだね、ふたりとも」

 

 本心からそう零してみれば、返ってきたのはやはりクソガキの悪戯っぽい笑顔だった。

 



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4

 夜の帳の内側で、夜色の蝶が飛び立っていく。数多の翅が重なるさまは、まるで漆黒の幕が重くはためいているようだった。

 僕は個々の蝶と感覚を共有することはできないが、僕の中に残る「親」、つまり蠱毒(じゅつしき)の核となる蝶はすべての蝶と繋がっており、()()と僕は一応だが意思疎通が可能だ。彼女を通し、僕は蝶たちが捉えたものを()ることができる。

 

「……うん、行方不明者三名、三階の一番奥の部屋にいる。血の臭いはするけど息はあるみたいだね。その近くに二級程度の呪霊が一体、……いや、隠れるのが得意なやつがもう一体いる。ほかは四級以下の雑魚」

「ンだよ、二級とか俺らが行く必要ある?」

「こら悟。胡斗、二級は私がもらうから祓わないでくれよ」

「うん、弱らせる程度にしておくよ。四級以下は餌にするから放っておいてね」

 

 はいはいと走って行った最強ふたりを見送り、僕と硝子さんは呪霊の巣となった廃病院の前で待機。何度かこうして四人で任務に就いているが、だいたいこれがお決まりのパターンになっていた。

 僕が索敵をし、悟と傑が乗り込み、前線には向かない硝子さんの護衛として僕が残る。最強二人が前に出るなら僕が現場に突入する意味はあまりないし、硝子さんをひとり放置するわけにもいかないので、チーム戦としてはいい配置だと思っている。

 建物の外にいても聞こえる地響きに、派手にやってるなあと遠い目をした。蝶たちからももう「土煙がひどい」以外の情報が届かない。

 

「……あのふたり、あれで一般人巻き込んで殺したことないって本当?」

「まあ、記録上」

「含みがすごい」

「いやいや、殺したことはないってたぶん。もの壊さなかったこともないってだけで」

「……本当にあのふたりは僕の固定観念を覆してくれるな」

 

 呪術師は密やかに、静かに、闇に隠れて動くもの。痕跡を残すのもいけないことだと思っていた時期が僕にもありました。

 まったく、余波で僕の蝶まで吹っ飛ばされてはかなわない。急いで撤退するように指示を出す。僕の蝶は呪霊から呪力を吸い取って祓い、その呪力を持ち帰って「親」の糧とする。ちゃんと「子」たちが呪力を持ち帰ってくれないとこの大食らい、僕の呪力を食い尽くそうしやがるのでわりと死活問題なのだ。

 やれやれと帰ってきた蝶を腕から取り込み、体内へと戻していく。腹の底に自分のものではない呪力が蓄積していくのは気色悪いが、こればかりはどうしようもなかった。

 蝶の群れをぼんやりと眺めながら、硝子さんは手元でライターの火花を弾けさせた。

 

「にしても、早かったじゃん」

「何が?」

「絆されんの。もうちょい粘るかと思ってたんだけど」

「……絆された覚えはないんだけど」

「名前で呼ぶようになったくせに? しかも毎晩飲み物片手にお喋りとか何、女子かよ」

「女子が言わないでよ硝子さん。……本当にぐいぐい来るんだよあのふたり……」

 

 名前で呼ぶことを強要されたあの夜以来、確かにふたりは毎晩のようにキッチンにやってくるようになった。といっても片方しか来ない日もあるし、眠気が限界だといってさっさと部屋に戻る日もある。僕が行かなかった日もふたりでホットミルクを作っていたりするようで、約束して集まっているわけでは決してなかった。

 おかげで僕の蜂蜜の消費が段違いに早い。仕方なしに休日に買い足しにいこうとすれば、何故か両隣を僕より頭ひとつ大きい二人に挟まれた。距離感の詰め方バグってないかな何このふたり。まあ結局いつもより高い蜂蜜をしこたま奢らせて荷物持ちをさせたのだけれど。

 

「……近づいてもお互いのためにならないって、僕は親切のつもりで言ったんだけどね」

「それはご愁傷さま。まあ諦めなって、ひとの気持ちとか考えるとかあのクズどもには無理だから」

「本当にそれ。僕は自分のこと性格いいとか思ったことないけど、少なくともあのふたりよりはマシかなって思う」

「あのふたりよりクズとかなられても困るわ。フツーの会話ができる程度にはまともでいてよ、黒笹」

「すごい、ハードルが低すぎる」

 

 そんな軽口を叩いている間に、ふっと夜の帳が晴れる。

 しゃーねえ私の出番か、と硝子さんは大きく煙草の煙を吐き出した。その煙に掻き消すように最後の蝶が空をはためき、僕の中に消えていく。

 

「……何か僕まで煙吸い込んだ気分」

「何、ヤニに興味があるなら一本くらいわけてやろっか」

「いらないよ。苦いんでしょ」

「意外と黒笹って子ども舌だよね」

 

 ウケる、と言いながら硝子さんが歩き出した。

 その先には仕事を終えた最強ふたりと、傑の呪霊に乗せられた救助者三人。意識はないようだが、蝶が見た限りでは瀕死というわけではないように見えた。まあ硝子さんがいれば問題ないだろう。先天的に反転した呪力の持ち主である彼女は他者に治療を施せる稀少な存在だ。

 すぐさま彼らの治療に取りかかった彼女の背中をぼんやりと見て、思う。反転術式をつかえる術師がそもそも少ないだけに、黒笹の歴史を見る限り()()を成功させた術師の前例はない。

 だけど、硝子さんなら、もしかしたら。

 

「おい何ボサッとしてんだよ胡斗!」

「補助監督を呼んできてくれないかい、あと救急車の手配も」

「ああ、うん。行ってくるよ」

 

 最強ふたりにせき立てられて踵を返す。

 そのうち硝子さんに協力をもちかけてみようと内心で呟き、足を踏み出す。ついでに、いつのまにか兄元にいたどす黒い蜘蛛を踏み潰した。

 

 

 ***

 

 

 任務の報告帰り、胡斗、と低い声が廊下に響く。

 振り向いてみれば、我らが担任の夜蛾正道。報告書なら出しましたよと伝えても、どうやら用件はそれではないらしい。

 

「いや、転入からしばらく経ったからな。少しは馴染めたかと聞きたかっただけだ」

「ああ、ご心配なく。ご覧の通りというか、不本意ながら仲良くさせられてますよ」

「不本意なのか」

「本意ではないですね。……ああ、別にあのふたりがどうというわけではなく、僕の事情としての話です」

「……あまり家の問題に口は出せんが」

 

 教師には見えない厳つい顔に、不器用な心配が滲んでいる。このひともまた確かに呪術師なのだが、同時にきちんと「教師」としてあろうとしているのも理解していた。僕が今まで出会った中では、かなりまっとうな「大人」の部類に入るように思う。

 高専の学生を「呪術師」として扱うと同時に「子ども」「学生」として扱うなんて器用な真似をやってのけるひとだからこそ、僕の同期の三人にもなんだかんだ懐かれているのだろう。

 黒笹なんて面倒な家の人間である僕のことも、嫌がらずに同じ学生として扱ってくれる。それはきっとありがたく思うべきなのだろうが、慣れなさすぎて背が痒い。

 

「家の事情とお前の意志に齟齬があるなら、担任として俺から黒笹に申し入れることもできなくはない。何かあったら言いなさい」

「あはは、心配しすぎですよ、先生。でもありがとうございます」

「……高専の任務もあるのに実家からも仕事を割りふられる学生を見るのは初めてでな。お節介だろうが、心配にもなるぞ」

「ああ、なるほど。でもあれくらいなら何てことないですよ、さすがに高専に来てかなり減りましたし」

「減ったのか」

「減りました。なくなりはしないのは、まあ、僕黒笹の中では強いので」

 

 直系の連中から嫌われているのもそうだが、実際今の黒笹で僕と同等以上に渡り合える人間は少ない。僕の中に在る()()の強さ以上に、僕自身の呪力の()が黒笹が目指してきたソレの完成形に限りなく近いことが大きかった。

 それもまたあの野郎が黒笹を使って行ってきた実験の結果なのだろうと思えば業腹だが、使えるものは使うしかない。

 

「むしろ僕の家の事情なのにいつも補助監督さんたちに車を出して頂いて申し訳ない限りです。何ならガソリン代と補助監督さんたちのお給料、実家に請求してくださいね」

「そういうところが学生らしくないんだよ、お前は。……本当に何かあったらちゃんと相談しなさい」

「はい、先生」

 

 むず痒い気遣いに笑顔を見せ、踵を返した。

 何かあったら相談しろと言われても、何もないから気味が悪い場合はどうしたらよいのだろう。実家からは事務的な仕事の命令が飛んでくるくらいで、ほかに指示は何もない。

 高専に来てはや数ヶ月、もう来月には後輩を迎えようとしている。ずいぶんほったらかしにされたものだと思う反面、千年は生きてるらしいあの野郎の時間感覚的なら実はまだ数十秒も同然なのかもしれないと思い至った。なるほど、数十秒なら仕方ない。

 ふと足を止めてぐっと伸びをする。こき、と首元で骨が鳴った。

 

「……平和だなぁ」

 

 これが嵐の前の静けさでなければ良いのだけど。

 どうしても警戒を解く気にはなれない自分に苦笑しながら、廊下の先に立つ彼らを見つけて足を踏み出す。

 どう見ても僕を待っている様子の三人に駆け寄り、首を傾げた。

 

「どうしたの?」

「どうしたじゃねーよ、肉食いにいくっつったろ肉!」

「帰りの車で話をしていただろう? 待ってるから早く着替えておいでよ」

「制服じゃ酒のめねーからな。クズどもの奢りだってよ」

 

 いや初耳、というユニゾンに軽く笑って、じゃあ財布置いてこなきゃと走ろうとすれば頭をはたかれた。痛いけど痛くない。十分に手加減されたそれは、「友人」という不可思議な距離感によるものらしい。僕にはまだよくわからない。

 まったく、と傑が腕を組む。

 

「胡斗が三分で戻ってきたら奢ってあげてもいいよ」

「へえ、言ったね? 硝子さんタイムよろしく」

「おっけー」

「って速ッ何アイツ任務んときはとろとろしてるくせに!」

 

 俺らより速いんじゃ、と悟の言葉を最後まで聞くことなく寮に向けて走り抜ける。

 絆されるつもりはないし、必要以上に近づくつもりもない。ただ、あの野郎の思惑がわかるまでは。その企みの輪郭が見えるそのときまでは。

 

「……こういうのも、悪くないのかな」

 

 途中で邪魔しに来た傑の呪霊を踏み潰し、悟が待ち受けていそうなルートをかわした僕のタイムは二分四十六秒。

 やったね、と硝子さんとハイタッチをかわす横で傑と悟が本気で悔しそうにしているのは、普通に面白かった。

 




このあとちゃんと「廊下は走るな」というお説教タイムがあります。


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5

呪術について、コミックス未収録の内容も踏まえ、かなり楽しく自己解釈しております。ご注意ください。


「……胡斗お前、まじで別に弱くなかったんだな?」

「ようやく信じてくれて嬉しいよ、僕は」

 

 そう信じられない顔で宣う悟に、つい呪力操作の手が緩む。幼虫出すなっつのと身をよじらせる悟に蟲たちを差し向けながら、足下に転がる可愛い芋虫たちに目線を落とした。

 黒と金の芋虫は、もはや指一本動かせないという様子で荒い息を吐いている。

 

「一般家庭出身としては上等なんじゃないかな。頑張ったねふたりとも、立てるようになったらもう一本行こうか」

「さらっと鬼なのウケる」

「やだな、愛の鞭なのに」

 

 犬死にするよりはマシでしょうと、愛用の呪具をくるりと回す。そりゃそうだと硝子さんはふたりの傍にしゃがみこんだ。念のため怪我の具合を診ているらしい。

 

「打撲程度だよ。硝子さんが治すほどじゃない」

「ん、そうっぽい。ちゃんと手加減してんだな、黒笹」

「後輩に大怪我を負わせるほどひとでなしじゃないし、ちゃんと加減も知ってるよ。悟や傑と違ってね」

「さらっと私たちを引き合いに出すのはやめてくれないかな」

「俺らだって手加減くらいできますけどォ!?」

「初っ端に骨折させたやつらの台詞とは思えないね」

 

 高専の裏山の桜も綻び、新たな学生が高専の門を叩いた。無事に進級した僕たちは二年生として彼らを迎え、よく面倒を見てやってくれ、ただし絶対に加減しろとさんざん念を押されたので仕方なくこうして彼らに戦う術を叩き込んでいる。

 しかし僕の同期ときたら、まあ戦闘メインではない硝子さんはともかくとしても、「一般家庭出身の新入生」と言えば傑しか知らない世間知らずと「()()これくらい大丈夫だろう?」を地で行く無自覚の脳筋だ。

 最初の実習から七海くんの腕と灰原くんの肋にヒビを入れた馬鹿ふたり、今までどこの修羅の国で生きてきたのと同情せざるを得ない。誰に同情するって、そりゃ後輩たちと結局ひとりで彼らの面倒を見なければならなくなった僕自身にだ。まったく迷惑この上ない。

 

「……う、」

「っと、……」

「うん、回復もはやくなったね。体力がついてきてる証だよ」

 

 よろけながらも何とか身体を起こすふたりは、まだ闘志は薄れていない。なかなか根性があって大変よろしいと、立ち上がる前にふたりまとめて呪具でなぎ払う。

 身体が動かないときほど咄嗟に反応できるようにならなければ、生命の危機など回避できない。盛大に吹っ飛びこそしたものの、一応腕でガードはできているようだった。たいして可愛がる気などなくとも、ちゃんと成長してくれる様子には達成感を覚える。

 

「少しは成長したかな」

「え、これで? 胡斗にボコボコにされるとかすぐ死ぬだろフツーに」

「再三言うけど僕だって別に近接弱くないんだよね。規格外の自分たちを基準に考えるのやめたほうがいいよ」

 

 君たちに比べれば全人類は赤子も同然なんだから。

 そういうもんかと悟は傑の顔を見るが、傑もまあそうかもしれないという顔で頷いた。それからフォローのつもりなのか、いつものにっこりした笑顔を僕に向ける。

 

「大丈夫、胡斗なら小学生くらいのレベルはあると思うよ」

「一応光栄だと言っておくけど、それちっとも褒め言葉に聞こえないからほかで言わないようにね」

「え、そう?」

 

 自覚がないなんて可哀想にと半ば本心から言うと、硝子さんも大きく頷いた。微笑みを保ったまま傑はごきりと指を鳴らしていたが、そうやって言論統制してきたから一般常識が身につかなかったんだねと言葉を添えれば何とも言えない顔で手をほどいた。そのあたりの素直さは大変よろしいと思います僕は。

 わっかんねー、と頭の後ろで手を組む悟に、らしくもなく拗ねたように唇を尖らせる傑。そんなふたりに苦笑をひとつ落とし、改めて可愛い後輩たちに目をやった。転がることしかできなかった芋虫はようやく震える手足を動かし、身体を起こそうともがいている。

 筋は悪くないと思う。もう少ししごいて戦闘の空気に慣れさせれば、低級呪霊くらいは自力で祓えるようになるだろう。

 

「七海くん、灰原くん」

 

 物好きにもわざわざこの世界に足を踏み入れた彼ら。どんな事情があってのことかなんて欠片も興味はないが、来てしまった以上は生きるか死ぬかだ。

 

「頑張ってはやく強くなってね」

 

 とりあえず手加減下手な悟や傑の相手をしても、大怪我をせずに済む程度には。

 まあそれだけで二級程度の実力は必要な気がするけど、とは言わなかった。

 

 

 *

 

 

「意外と面倒見がいいんだね、胡斗は」

「ふたりがちゃんとしてくれたら僕があんなに頑張る必要はないんだけど」

「いやあの程度で骨折するとか思わねえだろ」

「呪力を最近知ったばかりの子が呪力で身を守るとかできるわけないでしょ、骨折程度で済んでよかったと言うべきだよ」

 

 何故だか未だに続いている深夜のホットミルク。

 いつからかそれ専用のマグカップがキッチンに現れ、どうせなら蜂蜜だけじゃなくてミルクにも凝ろうと高級な牛乳が用意されるようになった。もう勝手にしてくれと思っている。

 やれやれとカップに口を付ければ、柔らかな甘い香りが鼻を抜けた。

 

「まあもう少ししごけばふたりの()()()()くらいには付き合えるようになるんじゃないかな。術式含めた話になるとわからないけど」

「金髪の方は何か持ってンぞ、術式。まだ曖昧すぎて見にくかったけど」

「へえ。それは今後が楽しみだね」

 

 私も頑張って手加減を覚えないとって、それを口にしてしまうところが傑なんだよなと思うが僕は賢いので口にはしません。

 こんなのが同期な僕も本当に大変なのだが、こんなのが先輩である彼らも十分に気の毒だ。手本にもできない実力者がすぐ上にいるなんて不運としか言いようがない。

 悟の口ぶり的に、強力な術式をもっているわけでもなさそうな可哀想な後輩たち。さすがの僕も運動ついでの実習くらいは付き合ってやる気になるというものだ。

 

「にしてもこの学校、呪術の知識とかちゃんと教えてるの? 転入以来、そういう授業はほとんどなかったような気がするんだけど」

 

 僕が転入してきたのは秋を過ぎて冬も近づいていた頃だ。一般家庭出身の傑もそこそこの知識はあるように見えたから気にしたことがなかったが、入学早々に叩き込んで基本を終わらせているということだろうか。

 そう言うとふたりは揃って視線を浮かせ、首を傾げた。

 

「なかったんじゃね?」

「必要なことは実習や任務のときに聞いて即実践って感じだったかな。知らない言葉はその都度確認して覚えてたよ」

「ここ本当に教育機関?」

 

 高専では学生も含めぽんぽん死ぬとは聞いていたが、これも一因であるような気がする。確かに知識があればいいというわけではないが、ある程度の知識がないと呪術的な要素を理解した上での勘が働かないというか、その場その場での最良(ベスト)を選び取ることができない。

 その意味ではおそらく黒笹のほうがマシだ。何せ長年あの家に寄生している(むし)は年季の入りすぎた呪術マニア。体質のせいで幼少から目を付けられていた僕は早くから呪術の基礎や理論、実例を叩き込まれたし、ほかのやつもだいたい教えを受けていたと聞いている。

 業腹ではあるがその知識のおかげで九死に一生を得たこともあった。実践に勝るものなしとは言うが、知識なしにとりあえずやれというのは死ねと同義だ。

 別にそれで困んねーだろと平気な顔で宣う悟に、やっぱりコイツの下とか僕なら絶対に嫌だなと後輩たちに同情せざるを得ない。というか、最低限の知識くらいもってくれないと今後任務で一緒になったときに会話が成立しなくて面倒なことになりかねない。

 

「……悟、七海くんは術式あるんだね?」

「ん、ああ。まだ()()()()してねーけど」

「じゃあ、そっちの話も必要かな……」

 

 特に七海くんはその真面目さゆえに、きちんと知識を踏まえて実践を重ねていきたい方に見える。理論ばかりで立ち止まられても困るが、多少は教えてやらないと実践も身に入らないだろう。任務先で足を引っ張られるくらいなら、面倒でも先にものを教えてやった方がましかもしれない。

 深々とため息を吐く僕を悟がにやにやと見つめる。いや君もやるんだよと言えば面倒だからヤダと舌を見せられた。今度ホットミルクに塩を一掴みほど入れてやろうと思う。

 そんな僕たちのやりとりを聞きながら、きょとんとした顔で傑は言った。

 

「悟、その()()()()っていうのはどういう意味だい?」

 

 んあ、と悟は虚を突かれたように青い目を見開かせた。同時に僕は、ほら教えてないからこういうことになる、と遠い目。

 幼少から呪術に触れているものなら常識といえることでも、呪術に触れて間もない人間には未知の知識だ。

 

「……傑が入学したときの術式はどうだったの?」

「そういやすでに結構カタチになってたな。無意識に成立させちまってたんだろ」

「カタチ?」

「おー。胡斗、解説」

「聞かれてるの悟でしょ……」

 

 といっても、僕が言って聞くような性格をしていないのはわかっている。

 やれやれと首を振り、何から話せばいいのか頭の中の知識を順番に並べた。

 

「術式っていうのは最初から形が定まっているわけじゃなくて、―――そうだな、一本の樹のようなものなんだ」

 

 まず、もっとも太い幹がある。それが術式の一番の核であり、どれだけあがいても変えようのないところ。術式を術式たらしめるための「定義」だ。

 

「呪霊操術で言うならたぶん『呪霊を操る』だし、無下限呪術なら『無限という概念を現実世界に持ち出す』なのかな。それを中心に据え、さまざまな術式効果が枝葉のように広がっている。これが『術式』の全貌」

「けど、余計な枝葉ほっといたらイラネーとこにまで呪力使っちまうだろ。だからそこから力入れて育てたい枝だけ残して剪定するわけ」

「効果の幅を狭めることで残った効果を強化する、つまり『縛り』を課すということで合ってる?」

 

 その通り、と僕と悟が同時に頷いた。さすがに傑は理解が早い。

 本来術式効果の幅はかなり広い。根幹の「定義」にさえ背かなければ、結構何でもできてしまうのだ。だが、多くの枝葉が残っていれば、当然それぞれの枝葉は育たない。か細い枝程度の術式効果など、ほぼ無意味に等しかった。

 だから呪術師は、自らの術式(ちから)に縛りを課す。いらない枝葉(こうか)を切り落とし、本当に欲しい部分を磨き育てていくのだ。

 

「そうやってそれぞれ『術式』を成立させるんだ。目に見えるものでないだけに、傑みたいに無意識でやっちゃう術師もいるみたいだけどね」

「つか大半の術師はそうなんじゃねーの? 俺もあんま考えたことねーわ」

「それは相伝の術式だからでしょ。何代も掛けてより優れたカタチをつくってきた結果が君の無下限呪術だ」

「なるほどね……つまり七海はまだ『剪定』をしていなくて、術式そのものの全貌がまだ定まってないということか」

「そ。まあ本人の自覚が薄くて樹が育ってないってのもあるけどな」

 

 確かに最近の呪術師はそこまで自覚的にやることは少ないって聞いたような。しかし傑ときたら、無意識で呪霊操術ほどの樹を育ててきたとは確かにとんでもない素質だと思う。潤沢な呪力(みず)もあることを考えれば、確かに「特級」たるに相応しい。

 それにしても、とふと考える。僕はてっきり傑が何かの「縛り」でそれをしているのかと思っていたが、呪霊操術という大樹を考えれば別にそれが「縛り」になるとも思えない。ねえ、と好奇心のままに口を開いた。

 

「そういえば何で傑ってわざわざ呪霊食べるの? ゲテモノ喰いが趣味?」

 

 刹那、目の前が真っ暗になった。

 

 

 *

 

 

「反射的にひとの顔を掴むとか人間としてどうかと思うんだよね」

「私も二言目がなければ普通に『どういうことだい?』って聞いたと思うんだけど」

 

 それにしても胡斗は小顔だねって、その馬鹿でかい手をにぎにぎしながら言わないでほしい。その握力によって圧迫された顔まわりの骨や筋肉にはまだ違和感が残っている。

 僕が顔を掴まれたのを見て腹を抱えて笑っていた悟は、あーおもしれ、と目の端に滲んだ涙を拭っていた。

 

「で、確かに私は呪霊を口から取り込むけど、それが何か?」

「あんな穢れの塊を口に入れるなんて不快じゃないのかなと思っただけだよ。僕なら生理的に無理だなって」

「……まあ気分のいいものではないけど、術式を自覚したときからそうしていたからね」

「要は呪霊を体内に―――傑の呪力に取り込めればいいわけでしょ。嫌ならほかの方法試せばいいのに」

「あー……確かに、別にそれ『縛り』じゃなさそーだしな」

 

 腹に入りゃ問題ねーか、と軽く言った悟に僕も頷いた。ええっと、と傑は戸惑った顔をしている。それが『縛り』か否か、また釣り合いがとれているかという感覚は、まだ傑には難しいのかも知れない。

 ふーん、と少し考えた悟はつまり、と頷いた。

 

「呪力は腹で回すだろ。だから呪霊を取り込むときに一回腹に入れて繋がりをつくる必要がある。たぶん術式的にここまでは必須条件。で、『腹に入れる』行為を考えたとき、最初に頭に浮かぶのって『食事』じゃん」

「術式を無意識に捉えたんならなおさらそうだろうね。それで傑の中で『呪霊を取り込むこと』と『食べること』が結びつき、結果として経口摂取に落ち着いた」

 

 呪霊を腹に入れることさえできれば経路なんて些末な問題であるように思う。調伏した呪霊をわざわざ黒い球体に成形するのも、口に入るサイズに直しているだけなのかもしれない。

 僕たちの話を聞いていた傑はじっと考え込み、それなら、とようやく口を開いた。

 

「たとえば胡斗が蝶を自分の身体に戻すときみたいに、呪霊を自分の呪力に溶け込ませて取り込むことも可能だということ?」

「そりゃ試してみないとわからないけど、可能なんじゃない」

「理屈のうえではイケんじゃね」

 

 軽い答えに、なるほどね、と傑は不敵な笑みを口元に浮かべる。かっこつけの傑のことだから、たぶん見えないところで猛特訓して数ヶ月のうちにはものにすることだろう。

 呪霊の取り込みがもっとスムーズに行えるようになれば、調伏した呪霊を一瞬で自分の手駒として使えるようになるかもしれない。一瞬のロスが命取りになることもあるのだから、減らせる手間は減らすに越したことはない。

 傑に死なれるのは困るし、強くなってもらわないと困る。だから別に「胡斗も協力してね」なんてそんな圧の強い笑顔で言わなくても手を貸すくらい構わないのだが、その辺りはひとに頼るのがこの上なく下手な傑らしいとも思う。

 

「それにしても、その呪術や術式の知識はこの世界じゃ常識なのかい? だったら確かに授業か何かで教えて欲しいものだけど」

「僕にとっては常識だけど、他の家はどうなの悟」

「ふるーい呪術師の家のやつならたぶんジョーシキ。けどわざわざ知らないやつにヤサシク教えてやるようなお節介の呪術師なんて基本いねーし、知らねえやつも多いんじゃねえの。知らなくても何とかなるっちゃなるし」

 

 まあ仕組みを知らなくても機械は使えるというか。

 仕組みを読み解き改良していくのが呪術師だと思っていたのだが、それはたぶん黒笹独特の価値観なのだろう。千年単位で引きこもって自分たちの身体と術式をいじくりまわしてきた家の価値観が一般的なわけもない。術式の探求を第一とする黒笹と違って、おそらく「外」の呪術師は呪霊を祓い続けることだけを追い求めてきたのだ。

 

「威力を重視してたくさん『縛り』を課すのがここ千年くらいの呪術の流行なんだっけ?」

「そーいや昔はぽんぽん領域展開とかしてたらしいよな。そのぶん威力はお粗末だったらしいけど」

「待って、千年単位の歴史の流れを『流行』の一言で片付けるの面白すぎないかい?」

 

 珍しく真面目に話していた会話も、次第に他愛もない方向へ流れていく。湯気の上がっていたホットミルクは、いつのまにかすっかり冷め切ってしまっていた。

 



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6

 古びた無機質な階段を一段一段上がっていく。

 すぐ先の屋上で繰り広げられる大型呪霊と後輩たちの戦闘の様子は蝶を通してよく()えていた。初めての実習ということでお目付を言い渡されていたが、ナリばかり大きくて大した力のあるわけでない呪霊の相手くらいなら問題ないはずだ。何せこの僕が丁寧に丁寧にイジメ続けてあげたのだから。

 実際、なかなか善戦を繰り広げているらしい。蝶たちが歓喜するほどに呪力を昂ぶらせ、派手な轟音を上げながら呪霊に拳と鉈を叩き込んでいる。

 よっぽど危なくなったら助けてあげるからふたりで行っておいでと送り出したが、やはり僕の手は必要なさそうだ。

 

「……うん、いい感じに育ち始めたかな」

 

 数多の蝶に集られ消えていく低級呪霊たちを横目に見ながら、彼らの傍に在る蝶から届けられる情報を辿っていく。

 自身の術式を自覚し始めた七海くんと、並外れた体捌きに呪力をのせることを知った灰原くん。目を瞠るほどの成長ぶりとは言いがたいが、着実に力をつけてきている。つい数ヶ月前まで呪術を知らなかった人間の成長としては上等なのではないだろうか。

 そろそろいいかな、と屋上に繋がるドアノブに手をかける。同時に肉のつぶれるような耳障りな音が響き、ドアの反対側にべしゃ、と重みのある液体がぶつかる感覚があった。ドアを開ける前で良かった~と内心で安堵しながら金属製のドアを押し開ける。

 何とも言いがたい悪臭の混じる空気と、ひしゃげたフェンスに抉れてむき出しになったコンクリート。その中心で息を切らすふたりは、とりあえず大きな怪我はなさそうだった。

 

「お疲れさま、ふたりとも。ちゃんと祓えたみたいだね」

「く、ろささ、さん」

「お疲れ、さまですっ!」

「硝子さんにも外で待機してもらってるけど必要なかったかな。息が整ったら外に出よう」

 

 もはや意味を成していないフェンスに近寄ると、呑気に門近くの植え込みで一服をしているもうひとりの同伴者の姿が見えた。

 向こうからもこちらのことは見えたらしく、木の幹から背を離して「要る?」とばかりに自分を指さした。大丈夫だよと手を振れば、了解とばかりに指で丸をつくってまた木により掛かる。相変わらずドライで少しも心配する様子を見せないあたりが硝子さんらしいというか何というか。こちらとしては非常にやりやすくて助かる。

 再び後輩たちに目をやると、ようやく呼吸も落ち着いてきていた。

 

「戦闘の様子は()てたけど、まだ無駄な動きが多いし力みすぎなところがあるかな。ふたりとも体術メインなんだし、力の入れ方だけじゃなくて力の抜き方も学んでいかないとね。あれくらい息切れひとつ起こさず祓えるように」

「はい! 頑張ります!」

「はい。……、……黒笹さん」

 

 素直に頷く灰原くんの隣で、ふと気付いたように七海くんが眉根を寄せた。どうしたの、と先を促してみれば、クールに見えて負けず嫌いの後輩は少しばかり悔しそうに続ける。

 

「……()ていたということは、私たちの近くに蝶がいたということですよね?」

「? うん。今もいるよ」

「えっ」

「……どちらに?」

 

 きょろきょろと周囲に目をやる灰原くんと、じっとりと僕を見る七海くん。その様子が面白くてつい噴き出すと、七海くんの眉間のしわがさらに深くなった。

 何なら今朝この実習を言い渡されたときからずっと彼らは僕の蝶と()()()()()。僕にとっても初めての実験だったのだが、どうやら思いのほか上手くいったらしい。まだまだ呪力感知が甘いふたりだから気付かないというのもあるのだろうが、調整を重ねれば六眼(さとる)は無理でも傑は誤魔化せるかもしれない。

 何事も挑戦してみないとね、と内心だけで頷いて可愛い後輩たちに笑顔を向けた。

 

「近くにいても見えない、見えていても気付けない。蟲ってそういうものでしょ」

「誤魔化さないでください」

「そんなに怖い顔しなくても、ふたりが先輩(ぼくたち)をボロクソ言っていたのは聞かなかったことにしてあげるよ」

「えっ音も拾えるんですか!?」

「へえ、本当に陰口叩いてたんだ?」

「灰原!」

 

 ちなみに音も拾おうと思えば拾えるが、感度も良くないし盗聴の趣味もないので基本的にあまり聞いていない。完全なるカマ掛けだったのだが、さすがに灰原くんは素直すぎないだろうか。

 完全に苦い顔をした七海くんは、観念したという顔でそっと手をあげる。

 

「……陰口に分類されそうなことを口にしたのは私だけで灰原は言っていませんし、対象は五条さんと夏油さんだけです。私たちの面倒をみてくださっている黒笹さんには感謝しています」

「ははは、七海くんは七海くんで馬鹿正直だね。別に僕のことも嫌ってくれていいよ、可愛がってるつもりもないしね」

「そんなことは、」

「あと悟と傑に文句言いたい気持ちは痛いほどわかる」

「ですよね」

 

 あまりに食い気味な「ですよね」にはこれ以上なく呪いが籠もっているような気がした。今はまだほとんど僕が指導をしているから大して接点はないはずなのに、それでもすでに()()()()()()最強ふたり、改めてとんでもない人間性だなと。

 同期である僕ですらも思うところがたくさんあるのに、そりゃ後輩の立場となれば言いたいこともたくさんあるだろう。むしろ本気で素直に慕っている灰原くん、きみのほうがちょっとやばい。

 僅かに芽生えた同情と心配に、僕も人間らしくなったものだなと少しだけ苦笑する。それがいいことなのか悪いことなのか、今の僕にはわからない、が。

 まあ、もう少しくらいはこのふたりの面倒を見てやるのも悪くないかな、という気分にはなる。

 

「……そういえばふたりとも、あれは見える?」

 

 すごい先輩たちをもって僕たちは幸せだよね、それは本気で言ってるんですかとじゃれる後輩たちに、そっとひしゃげたフェンスの先を指さした。

 え、と動きを止めたふたりは同じ方向に目を凝らすが、それぞれ困惑した顔。

 

「……ごく普通の風景以外何も見えませんが」

「何かあるんですか? もしかしてまだ呪霊が!?」

「ほら、よーく見て。もう少し前に出た方がいいかな」

 

 先んじて進む僕に釣られるように、一歩、二歩と警戒しながら足を進めていく。フェンスを乗り越え屋上の縁にきても、僕の言いたいことはわからないようだった。

 何も見えないですけど、と瞬きもせず正面を凝視する灰原くんに小さくため息をつき、いつも言ってるでしょと言い聞かせるように言った。

 

「そう簡単に気を抜いてはいけないよ。いついかなるときも───」

 

 誰に対しても、ね。

 そう言い終わると同時に、僕は右足を振り抜いた。

 

 

 *

 

 

 実習を終えて硝子さんと教室に戻ると、任務に出ていたはずの悟と傑がすでに席に着いていた。おかえり、なんて呑気な様子を見るに、どうやら大した任務ではなかったらしい。もっとも、このふたりが手こずる任務のほうが少ないのだろうけど。

 

「今日は一年たちの初めての実習だったんだろう? その様子だと問題なしかな」

「うん、頑張ってたよ。ねえ硝子さん」

「そーだね。呪霊祓ったあと黒笹に屋上から蹴り落とされたけど生きてたよ」

「お前が殺しにかかってんじゃんウケる」

 

 愛の鞭だってと返しながら席に着けば、隣の席の悟は愉快そうに肩を揺らした。

 傑はそれってイジメじゃないのかいと苦笑するが、こんな学校に来ておいてイジメも何もないと思う。任務中は絶対に気を抜くなとしつこいくらいに教えてあげているのだから、これくらいは指導のうちだ。だいたい三階建ての屋上から突き落とされたくらいで怪我をしていては呪術師など務まらない。

 まあ植え込みを利用して無事に着地してみせた七海くんからはものすごい眼で見られたが、気にするほどのことではない。ちなみに同じく無事だった灰原くんには心の奥底から感謝をされた。それはそれでどうかと思う。

 

「ある程度動けるようになったし、もう手加減下手なふたりでも大丈夫だと思うよ」

「一言余計。でもそうだね、胡斗ばかりに相手をさせるのは悪いと思ってたんだ」

「俺は思ってねーんだけど。メンドクサ」

「そういえば悟、七海くんが『五条家は当主に一般常識や社会性も教えないんですか?』って不思議がっててね、」

「胡斗く~ん、ちょ~っと力が入っても死なない程度には鍛えたんだよな? ボコしても問題ねえんだよな?」

 

 指を鳴らす悟にほどほどにねとだけ返しておく。傑はもっともらしい顔をしてきちんと指導をとか嘯いているが、七海くんが「特級呪術師になるには人間性を捨てなければならないという規定でもあるんですか?」と言っていたことを伝えたらどうするのだろう。それはそれで面白そうだが、一応指導してきた身としてこんなにすぐに死なれても困るので、とりあえず口は挟まないことにした。七海くんは僕に感謝していい。

 このふたりに後輩たちの指導を任せられるようになれば、もう少し僕も自分の鍛錬に時間を割くことができるだろう。硝子さんに協力を頼んだ件もそうだし、蟲の扱いもまだまだ試したいことがある。

 何より───もう、その日は間近に迫っているのだ。

 

「……胡斗?」

「ん、何?」

「いや、考え込んでるように見えたから」

 

 不思議そうな顔の傑に笑顔を返し、何でもないよと適当に言う。

 これまで僕たちや高専に蟲を寄越すくらいしかしなかった黒笹も、その日が近くなれば必ず動く。より正確に言えば黒笹が、ではない。

 ()()()が、だ。

 

「……春先は眠くなっていけないね。春眠は暁を覚えないよ」

「お前の場合は年中だろ、居眠り常習犯」

「本当に胡斗はバレないように居眠りするのが上手いよね。夜蛾先生にだけはバレるけど」

「夜寝ねーからじゃん? まだやってんだろ深夜のホットミルク、女子かよウケる」

「だから女子が言わないでよ」

 

 こんな軽口を叩いている間も、きっとアイツは策を弄している。黙ってその日を過ごすことは絶対に有り得ない。おそらく動くはその日当日か、せいぜい数日前。世界が()()()を用意できないタイミングを狙ってくるだろう。まあ僕も黙って見ているつもりはない、と机に頬杖をついた、そのとき。

 ポケットの中で携帯が震えた。ぴく、と嫌な予感に腹の中の蟲たちが震える。画面を見れば、たった一言の短いメールが一通。

 

『一度帰っておいで』

 

 運命の日(まんげつ)まで、もう少し。



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7

 久し振りに足を踏み入れた屋敷は、いつものごとく静かだった。

 静かだと言っても、まああくまでも「音」としてはという意味だ。少し「感知」のできる者なら思わず耳をふさぐことだろう。上も下も右も左も、もちろん前も後ろも、ぎっしりと詰め込まれた「蟲」の気配。六眼(さとる)でなくとも怖気がたつというものだ。

 ぎし、ぎし、と年代ものの廊下をきしませながら進んでいく。指示をうけて実家に戻ってからもう数日が経過していた。蟲のように無感情な使用人たちは何の感慨もなく僕の帰りを受け入れ、黒笹の術師とも特に顔をあわせることもなく。ただ「蟲」だけが僕の動きを監視している。といってもこれは昔からのことなので、変わらないと言えば変わらない。

 実家に戻ってからこっち、特にすることがなくて困っていた。仕方ないから散歩ついでに実家の敷地内を歩き回ったりしているが、そこらの「蟲」どもに警戒されるだけで特に何も起こらない。結局いつも、自分の部屋の前の縁側で座り込んで呆けている。

 何もないならもう高専に帰ってしまおうかと膝に頬杖をつくと同時に、高専に「帰る」なんて言葉を使った自分に呆れた。硝子さんではないが、最近確かに絆されすぎのような気はしている。

 悟に、傑に、硝子さん、灰原くんに七海くん。夜蛾先生に先輩たち。

 心を許しているつもりはない。アイツの思い通りにことが進むのは癪だから生き残って欲しいとは思うが、せいぜいそれくらいのもの。

 呪術師として生きるなら、いつ誰が敵になるかもわからないと思ってしかるべき──そう教えたのはアイツということを考えると、それはそれで複雑なのだけれど。

 ふと、ばさり、と耳元で大きな羽ばたきが響く。

 

「……うるさいよ」

 

 余人には聞こえない蝶の羽音と囁きに似たものは、こうして隙を見ては僕の精神を削ろうと訴えかけてくる。

 

『意志薄弱』

『脆弱。呵々』

『所詮、空虚』

 

 明確な言語をもっているわけではないので、伝わってくるのは思考と概念のみ。それでも十分に何を言おうとしているのかわかるのだから便利であり面倒だ。

 決して味方ではない腹の中の蟲は、僕への嫌がらせが趣味と言ってもいい。真面目に取り合うつもりなどなくとも、耳元で囁かれ続けるのはさすがに勘に障るものがあった。

 黒笹の術師にとって蟲は力だが、同時に毒でもある。蟲に呪力どころか精神までも食い尽くされ、操られるままに呪霊を刈り続ける者や、蟲の存在に堪えきれず自ら命を絶って結局食われてしまう者、──そうならない者のほうが少ないくらいだ。

 しかも、腹の中の蟲のほかに黒笹という家に寄生する「蟲」までいるとあっては。

 

「……自分の意志で生きている人間なんて何人いるんだか」

「はは、まるで君は自分の意志で生きていると言わんばかりの口ぶりだね」

 

 突如として背後から聞こえた声。襖を一枚挟んだ向こうに声の主はいるようだが、今も気配はない。

 僕が背にしているのは自分の部屋のはずだが、まあ勝手に入られたくらいで目くじらを立てるつもりはない。黒笹にプライバシーなど皆無だ。

 振り向くつもりはなかった。顔なんか見ても無駄なだけ。また違う声になっている。それでもアイツだとわかってしまうのは、何となくとしか言いようがない。

 

「呼び戻しておいて数日放置はあんまりでは?」

「ああ、すまないね。野暮用でしばらく外に出ていたんだ」

 

 おかえり、胡斗。高専は楽しんでいるかい、と。

 欠片も心のこもっていない、上滑りするだけの言葉はどこまでも気色悪い。返事をする気にならなくて黙っていると、背後の気配は喉の奥を揺らした。

 

「相変わらず可愛くない子だ」

「さっさと本題を済ませてくれませんか」

「そんなに高専が恋しいかい?」

「ここより静かなのは確かですね」

 

 本人にはほとんど気配がないくせに、そいつが現れると蟲たちがうるさくて仕方がない。警戒なのか歓喜なのか、がちゃがちゃと騒ぎ立てる蟲たちを意識して腹の底に押し込めた。

 そんな僕をにやにやと見つめている気配に、知らず小さくため息が出る。

 

「まあ、そう邪険にしないでくれ。これが最後だから」

 

 最後。その言葉に全身に緊張が走る。

 呪力をあえて高めることはしない。しかし鋭く研ぎ澄ます。神経を集中させ、周囲のわずかの呪力の揺らぎも見逃さないように。

 これはもう反射だった。いつかそういう日が来ることを覚悟していたからこそ。

 

「……最後、ですか」

「そう、最後。……慌てるなよ、殺すとは言っていないだろ?」

「殺す以外の『最後』があると?」

「はは、何を思い上がっているんだい、胡斗」

 

 君に、そんな価値があるとでも?

 体内で押し込めていた毒が、まるで染み出すよう這い上がってくるのを感じた。

 

 

 *

 

 

 もともとが薄暗いこの屋敷は、夜の帳が落ちてもさほど空気に変わりはない。活発に動き出す蟲の種類が変わるくらいで、相変わらずひとの気配は薄い。

 そんな場所だからこそ、携帯の着信はやたらと大きく響いた。緩慢に腕を動かし、それを耳に当てる。

 

「……はい、黒笹です」

『や、胡斗。いま大丈夫かい?』

 

 耳元から聞こえてきたのは笑顔がうさんくさいほうの同期。背後で何やら騒いでいる気配がするのは悟だろうか。

 そういえば、いつもなら気まぐれなホットミルクの時間だ。悟がひとりで騒いでいるわけでもなさそうだから、今日は後輩たちでも一緒にいるのかもしれない。

 賑やかすぎる陽の気配は、この屋敷にいると眩しくさえ感じられた。

 

『まだご実家にいるんだろう? 数日で戻ると言っていたのになかなか帰ってこないから、どうしたのかと思って』

「ああ、……いや、実家のほうが何かと立て込んでてね。でももうほとんど片付いたから、あと二、三日かな」

 

 話はすべて済んだ。

 この屋敷にもう寄生虫の気配はなく、二度と訪れることはない。

 アイツは「最後」だと言った。黒笹との繋がりをこれで断ち切ると。

 

『蟲を使った実験(ひまつぶし)は君でほとんど完成したし、結果も結局凡庸だった。本当はもう少し使()()つもりだったけど、まさか君が自ら黒笹の有用性を潰しに来るとは思わなかったし』

 

 高専にわざわざ(くも)の存在を教えるなんて、と愉快そうに、嘲るように言い放ったアイツの声は、まるで見えない手のようだ。無遠慮に脳に踏み込まれ、魂に触れられているようにさえ感じられる。

 幾度声が変わろうと、この感覚だけは変わらない。

 

『いくら気配の薄い蟲でも、存在を認知されてしまえば()()()()()なってしまう。まったく、(くも)を潰すくらいなら可愛い悪戯だったのに』

『唯一と言っていい使()()()を自らなくしたんだよ。もう少し君は賢いと思っていたんだが、買いかぶりだったかな』

『まあ、思ったよりは便利だったし楽しめたから許してあげよう。準備も整った』

 

 ()()()()()()()

 

『──胡斗?』

 

 耳元で響いた声にはっと我に返る。金気に熱を吸われたのか、携帯を握る手が冷たくなっていた。そのくせうっすらと汗をかいているのが気持ち悪い。

 いぶかしむ傑にごめんごめんと軽く返し、何の話だったっけと空とぼけた。

 

『……何かあったのかい?』

「いや? ちょっと眠いだけ。それで、どうしたの?」

 

 ふうん、と納得したのかしていないのかわからない相槌を打った傑は、気を取り直したように続けた。珍しく、少し弾んだ声色だった。

 

『今日、悟との任務で少し遠出してね。任務自体はたいしたことなかったんだけど、任務先でいかにもって感じの古めかしい定食屋があって』

「悟が入りたいって駄々こねたの?」

『ああ、悟には物珍しかったらしくてね。まあ他に店があるわけでもなかったし、とりあえず入って適当に定食を頼んだんだけど』

 

 適当な相槌を打ちながら、傑が電話でこんな世間話をするのも珍しいと首をひねる。電話の奥の喧噪を咎めないのも珍しい。結構うるさい。

 

『出されたものを食べたら、それはもう驚いて』

「へえ、そんなに美味しかった?」

『ははは、逆。死ぬほど不味かった。飲み込めなくて吐き出しちゃったよ、行儀悪いけど』

 

 いやそれのどこが愉快なんだと引いた声をだしても、傑は愉快そうに笑うばかり。

 それどころか胡斗のせいだなんて意味不明なことまで言い出して、不味かったどころか脳みそを狂わせる毒でも入ってたのかと。

 僕が理由を尋ねるより先に、だって、と傑は柔らかさを含んだ声で言う。

 

『君のせいで、呪霊の味を忘れたから』

「……ん?」

『呪霊より不味いものはないからね、今まではどんなものでも結構普通に食べれたんだよ。美味しいとは思わなくても、まあ飲み込むくらいなら』

 

 あの夜から数ヶ月の試行錯誤の末に、とうとう自分の呪力に呪霊を溶け込ませて取り込むことを成功させた傑。まだ経口摂取ほどスムーズにはできないようだが、格好つけでプライド天元突破の彼のことだからもう数ヶ月後には一瞬で取り込んで一瞬で使うくらいのことはやってのけるだろう。

 穢れの塊だと考えれば当然のことだが、どうやら呪霊というのは相当に美味しくないものであったらしい。そりゃあ世界でいちばん不味いものを知っていれば、他のすべてはマシに思えることだろう。しかし経口摂取をしないでよくなったことで、もうほかの「不味いもの」を「呪霊よりマシ」とは思えなくなった、と。

 食べられるものが減ってしまった、とあっけらかんとした声が鼓膜を揺らした。

 

『君のせいで、君のおかげだ。ありがとう、胡斗』

 

 ──ふと、脳髄の傍で何かが()()()ような音がした。胸の奥に振動が走り、腹の底で唸るような羽ばたきが響く。

 僕という人間が作り替えられたような、まるで羽化をした蝶のような。言葉で表現できない不思議な感覚だった。

 

「……そう、」

 

 脳髄を伝い、脳の中で鳴り響くのはあの寄生虫の声。

 

『君は本当に愚かで可愛いね。哀れを通り越して滑稽だ』

『私に反抗する態度を見せながら、私の言葉にいつも踊ってくれて』

『嬉しかっただろう? 私に褒められるのは。他の黒笹(むし)を見下していただろう? 君も虫ケラ(おなじ)だというのに』

『私の邪魔をして、私の視界に入りたかった? まるで稚児だ。いや、(むし)なら幼虫と言った方が正しいか』

『気付いてないんだろうね。黒笹で一番私に忠実だったのは君だったということに』

『君は()()()()()()()()()()()()()。余計に気を利かせることもない。だから高専に送り込んだ』

『まあちょっとした保険に過ぎなかったんだけどね。それももう十分だ』

『つまり何かというとね、胡斗』

『──()()()()()()()()()()()

 

 生きようが死のうが、何をしようがしまいが、何も変わらないから、と。

 もう好きにしていいよと言ってアイツは消えた。ほかの黒笹(むし)にもよろしくねと言い残し、()()()()()()()()()()()()()()

 何を今さら、と言い返したかったのに口は動いてくれなかった。手は冷え、唇は震え、どこまでも無様で浅ましい羽虫が縁側に座っていた。

 その気配が完全に消え、蟲の巣窟を創り上げた寄生虫が飛び立っても僕は動けないまま。涙が出なかったのは最後の意地だったのか、それとも泣く気力すらなかったのか。腹の内の蟲だけが歓喜に滾っている。

 ふと、精神が蝕まれていくのを感じた。自分という「個」が希薄になっていく。すり減り、削り取られ、──それでもまだ残っていた聴覚が捉えた外との繋がり。

 

『……胡斗? 寝てるの?』

 

 傑の声が脳を揺らす。は、と息を吐くと口角があがった。起きてるよと反射的に返し、一気に昂ぶっていく呪力の波を抑え込む。

 

「……御礼を言うべきなのは僕のほうかもしれないね、傑」

 

 ざわりと周囲の蟲が殺気だった。が、構うことはない。まとめてかかってきても僕の方が強い。何なら羽の一片も残さずに駆除してやる。

 何の話だい、と傑の声が先ほどよりも遠くに聞こえた気がした。

 

「そうだな、……すごく、やなことがあったんだ」

 

 恥辱、屈辱、──言葉なんてどうでもいい。

 僕の「これまで」を叩き壊すほどのそれ。今だっていっそ死んでしまいたいような気持ちが脳の片隅に存在している。だが、そう、「片隅」なのだ。脳の中心に、思考の軸に鎮座しているわけではない。

 僕は弱いのに思い上がっていた矮小な存在に過ぎなくて、何の価値もない。だけど確かに──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 こうして特級を冠する呪術師に、滴を一滴垂らした程度の影響を残したように。

 

『虫籠の中で私の与えた餌を食んでいるのは、楽だっただろう?』

 

 脳内で呪いのような声が反響しても、もう僕の精神は揺らがない。

 ──ああ、認めてやるとも。今まで僕の力を評価してくれるのはアイツだけだった。「君ならこの程度の任務で手こずることはないだろう」と任務に送り出してくれたのも。「蝶」の僕に呪術の手ほどきをし、飲み込みがいいと褒めてくれたのも。

 確かに僕はアイツの虫籠のなかで蠢いていた羽虫の一匹に過ぎない。あらゆる餌を与えられ、どのように育つのか暇つぶしついでに観察されていただけ。僕はそれを、わかっているつもりでわかっていなかった。

 そして虫籠ごと打ち捨てられた今、──僕はショックを受けている。僕は辛かった。哀しかった。僕は自分の価値を信じていたかったのだと。認めたくないけれど、受け入れよう。

 そのうえで僕は()()()()()()()()()()()()()

 

「落ち込んでた、……のかな。情けないね」

『……胡斗が弱音を言うなんて、余程のことなんじゃないのかい』

「うん、きっとそう。けど、もう大丈夫」

 

 今は違う。落ち込んでなどいない。苛烈なほどに燃え上がるこの呪力がそれを証明している。

 端的に言えば死ぬほどムカついている。それはもう、はらわたが煮えくりかえりすぎて僕の中の蟲たちを蒸し焼きにしてしまいそうなほど。感情を制御するのが呪術師だと言われてきたが、もうどうでもよかった。

 この感情にケリをつけられるのなら、この先の僕の人生すべてを懸けても構わない。

 

「絶対に、思い通りになんかさせてやらない」

 

 一匹の蝶の羽ばたきが遠く離れた地で嵐を引き起こせるなら、黒蝶(ぼく)の羽ばたきであの変態脳みその企みの全てを叩き壊すことだって出来るかもしれない。いや、出来るかもしれない、ではない。

 絶対にやってみせる。たとえ、ほかの何を犠牲にしても。

 

『……よくわからないけど、元気になったならよかったよ』

「おかげさまで。ああ傑、さっきは二、三日って言ったけど、高専に戻るにはもう少しかかると思う。僕の部屋の蜂蜜勝手に使うのは構わないけど、ちゃんと補充しとくように悟に言っといてね」

『はは、お見通しか。伝えておくよ』

 

 電話の奥の騒がしさがまた戻ってきた。その賑やかさが、少し懐かしい。

 そこに戻る前に、もう少し情報を集めて準備をしておく必要があるだろう。アイツを失った当主たち直系がどうなっているのかも確認しないといけないし、黒笹に残っているアイツの痕跡をすべて洗い直して情報を整理しなくては。

 アイツの目的の詳細は僕も知らない。だが、しようとしていることのいくつかは知っている。

 確実に動くとわかっている日に()()()()邪魔ができるよう、用意を整えてから帰るとしよう。

 

「満月までには帰るから」

 

 一寸の虫にだって五分の魂があるのだ。

 虫ケラにも意地があることを、あの脳髄の奥にまで思い知らせてやる。




ようやくタイトル回収はじめ。


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閑話 対価

 それは、まだ月が太り始めるずっと前のこと。

 別に出掛けること自体を苦としているつもりはない。呪術師を夜の生き物と捉えていたとは言え、社会に適応した生活はちゃんと送ってきている。僕だって日光を浴びて目を細めることはあるし、ひとの多い都会の街並みを歩くことはあった。

 とはいえ、これは、……さすがにちょっと。肩に食い込んだショップバッグの紐のおかげで、とっくに腕は痺れきっている。

 

「……硝子さん、まだ買うの……?」

「まじで辛そうじゃん。ウケる」

 

 いやウケねーよ。つい口から転がり出そうになった言葉をすんでの所で飲み込んだ。もはや中身など知りたくもないショップバッグたちがぎちりと自身の重みで悲鳴を上げる。

 今日は硝子さんとふたりで買い物に出ていた。お察しの通りデートのような微笑ましいものではなく、夏が来る前に必要なものを買いそろえておきたいという硝子さんの「荷物持ちをしろ」という要請を受けての外出である。予定があったわけでもなかったので軽くOKしたのだが、これなら任務に出ている傑や悟が帰ってくるのを待つべきだった。

 これまでのお給料を湯水のように使う彼女が差し出してきたショップバッグはすでに十どころか二十を超え、もう数えている余裕もない。

 

「まだまだこれからなんだけど?」

「硝子さん、もはや買い物より僕を苛めることが目的になってない?」

「え~~~まさかぁ」

「何て心のこもってない否定」

 

 愉悦に笑う彼女の手に煙草はない。吸わないのかとふと尋ねてみれば、歩き煙草はダメだろとあっさりと返される。喫煙が許される場所でしか吸わないという常識は持っているのに、どうして「煙草は二十歳になってから」という法律は守れないのだろう。相変わらず彼女の頭の中はよくわからない。

 上機嫌で淡い色のシャツを羽織る硝子さんに、引きつる頬を堪えながら近くの喫茶店を指さした。スイーツでも奢るからせめて休憩を許して欲しい。

 

「私甘いもん嫌いなんだけど」

「そこをなんとか。甘いもの以外でも何でも頼んでいいから」

「なに、素直じゃん」

「ご存知のとおり僕は肉体労働派じゃないんだよ……」

 

 いや、それでも呪術師(ぼく)じゃなかったらとっくにギブアップしてると思うけれど。

 何度も繰り返すようだが僕は別に体力や腕力がないほうなわけじゃないし、何なら呪力で強化もしている。単純に硝子さんの買い物量と時間がそれを軽く上回っているのだ。

 その証と言っては何だか、さっきから通り過ぎる人々に三度見されていて非常に落ち着かない。残念ながら僕はあくまでも凡人なので、あの我が道しか知らない目立つことに慣れすぎている特級ば……悟たちとは違うのです。

 まーいいけど、と店の方に足を向けた硝子さんに安堵しつつ、改めてずり落ちかけたショップバッグを抱え上げた。

 

 *

 

「季節が変わる前とは言え、ずいぶん散財したね」

「そりゃ荷物持ちがいるときに買っとかねーとな」

「はは……次は僕以外でよろしく」

 

 オープンテラスのある明るい喫茶店に入り、ようやく荷物をおろすことを許された。手元の水を一気に飲み干し、適当にオーダーを済ませて硝子さんを向かい合う。

 我がクラスメイトさまは頬杖をついてそんな僕の様子をにやにやと眺めていた。いや本当に良い性格をしていると思う。

 

「……僕は何か硝子さんに悪いことをしたかな?」

「別に? むしろ黒笹がこき使われたがってると思って声掛けたんだけど」

「……え?」

 

 聞き捨てならない言葉を聞き返そうとしたところで目の前に珈琲が置かれる。ついでにと頼んだサンドイッチを受け取って店員の背を見送り、改めて硝子さんに顔を向けた。

 相変わらずしっかりと愉悦を浮かべた顔がこちらを向いている。

 

「黒笹、ひとに借り作るの苦手っしょ。苦手っつか慣れてない? どう見ても人間関係ド下手くそで友だちいなさそうだしね~」

「すごい、一言どころじゃなく余計だね」

「私の鍛錬にもなるし、気にしなくていいっつってんのに」

「……、」

 

 硝子さんが言っているのは、少し前から付き合ってもらっている件についてだろう。

 僕の頼みに彼女は軽く頷いてくれ、特に何を気にしている様子でもなかったのだが、確かに僕としては「借り」をつくっているという認識だった。時間と労力を割いてもらっている以上は何かお返しをしないととは思っていたし、今日の荷物持ちを引き受けた理由にそれがないとも言わない。

 とはいえ、それを見抜かれていたとは思わなかった。何とも言いがたい気持ちになり、つい苦笑が漏れる。

 

「手を借りたら対価を支払わなきゃ落ち着かないって、まじ黒笹って呪術師だよね」

「ああ……うん、そうかもね。そっか、じゃあ気を使ってくれたんだ。ありがとう、出来たらもう少し別の形で対価を支払いたかったけど」

「いいじゃん、大変な方が対価支払った気になるっしょ」

「……ハイハイ、硝子サマの仰るとおりだよ」

 

 まったく、彼女を同期の中でいちばん話しやすいと感じるのはこういうときだろうか。

 僕の都合など知ったことじゃないという顔で珈琲を傾ける彼女だが、その実いちばん僕の()()に合わせてくれている。自分のペースを崩すことはしないが、そのペースに僕を巻き込むこともしないひとだった。他者への感心が薄いからかどうなのかはわからないが、あのふたりだったらこうはいかない。

 そういう意味では確かにありがたい、と心の中だけで呟いて僕も珈琲に口を付けた。ついでのように手元のサンドイッチに齧り付く。キュウリの程よい塩気に自然と二口目以降が続いた。

 ごく、と自分が思うよりも大きな音をたてて最後のひとくちを飲み込んだ。

 

「……硝子さんに頼んだ件、思ったよりも順調で驚いてるよ。さすがだね」

「まーね。ってか今さらだけどいーの? アレ黒笹にとっちゃ奥の手っぽいのに」

「だからこそ、だよ。何でも保険はつくっておかないと」

「ふーん? 私を敵にまわせなくなっちゃうけど」

「あれ、僕はこれでも硝子さんの敵になるつもりはないんだけど」

「え、まじで」

「まじだよ。硝子さんだって好んで僕の敵になりはしないでしょ」

「ないよ、寮に出た虫退治してくれるやついなくなるじゃん」

「ああ……悟もまあそうだけど、傑がゴ……例のあの虫苦手なのは意外だったな」

「デカい野郎二匹が黒笹の後ろで縮こまってるのはまじで笑えた」

 

 極力近づきたくないという様子のふたりの姿が思い出され、肩が揺れる。僕は虫という生き物が区別なく嫌いなのでどの虫だろうが何の感慨もなく殺すのだが、どうやらあのふたりはそうではなかったらしい。うちにはあんなモン出なかったんだよ、いや私もあの虫だけはちょっと、と言いながら僕の背を押す大男ふたりは確かに愉快だった。

 あれほどまでに呪われているのなら、あの虫の呪霊が生まれたらさぞや等級も高いことだろう。ぜひともあのふたりに抜祓にあたってほしいものだと思う。

 と、さすがに食事の場でそれを話すほどマナーを知らないわけではない僕と硝子さんは別の話題で雑談を重ねて店を出た。相変わらずえげつない量のショップバッグも、休憩さえ取れれば堪えられないほどではない。

 

「それで、次はどこのお店行くの?」

「お、帰ろうって言わねーの偉いじゃん」

「これが対価だなんて気遣いをもらったらね。気の済むまで付き合うよ」

「よっしゃ、じゃあ次あのビルのテナント全部見るから」

「待ってごめんわかったコインロッカーか荷物送れるとこ先に行かせて。もしくはあのふたりを、あ、ほら出張帰りで近くにいるみたいだよ。呼ぶね」

「前言撤回はやすぎウケる」

 

 いやそりゃそうでしょ、と遠い目をしながら僕はメールを寄越してきた傑の連絡先を選ぶ。

 何階建てなのか数えるのも嫌になるビルを前に、出張の疲れなど微塵も感じさせない声が遠くに響いた。

 




次からちゃんと満月の日の話に入ります。


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8-1

※捏造解釈入ります


 思いのほか高専は僕を信用してくれているらしい。

 いや、高専というよりは夜蛾先生が、だろうか。戻ってきて早々この任務について尋ねた僕に、夜蛾先生はあっさりと詳細を教えてくれた。高専が把握している今の状況、星漿体の様子、任務についた悟や傑の動向まで。

 それどころか「お前が必要だと思うならフォローしてやってくれ」と僕が授業を欠席するのを見逃してくれるのだから、まったくヤサシイ先生だと思う。

 

「……辛気くせー場所」

 

 それにしても、先生のおかげで薨星宮を探し出す手間が減ったのは有り難い。生命の気配が少しもない薄暗い廊下は、虫たちですら居心地が悪そうだ。

 こつ、こつと足音を立てながら、黒笹を締め上げて得た情報を頭の中で整理する。

 

「うーん、……どうしようかな」

 

 あの脳みそ型寄生虫、名を「羂索」というそうだ。

 黒笹の本家筋のやつらは普通に知っていたようなので、脳みそ自身も隠していたわけではないのだろう。それだけ僕がこれまで知ろうともしなかったということだ。

 僕は羂索が為そうとしていることを正確に把握しているわけではない。羂索自身、黒笹にすべての情報を開示するようなことはしないだろう。だが、ある程度は推測ができる。

 羂索がこれまで注視していたもの、術式、人物。

 やつ自身の思考回路、優先順位、僕の前で口にした言葉。

 あとはこれまで叩き込まれてきた「呪術師」としての知識と直感。

 材料はすでに頭の中にある。あとは組み立てていくだけだ。

 

「六眼と呪霊操術、それに星漿体──いや、天元か」

 

 まず間違いなく、六眼は明確に「敵」として意識している。

 黒笹の記録を見ても、羂索は過去に六眼の持ち主に幾度となく敗北を喫している。だから六眼の持ち主が生まれると知るやソッコーで殺しにいっているのに、それでも次の「六眼」に行く手を阻まれていた。

 つまり、羂索にとって「五条悟」は出来るだけ戦いたくはないが排除しなくてはならない敵かつ、殺すのが手っ取り早いが可能ならば殺害以外の方法で無力化したい相手。

 殺すにしろ無力化するにしろ、確実な勝ち筋がない限り悟の前には現れないだろう。その程度には痛い目に遭ってきている。過去の六眼持ちの皆さんありがとう墓に花でも供えたい。

 呪霊操術については、まあ普通に使いたいのだろう、その身体を乗っ取って。警戒しているというよりは、傑の呪霊操術がどの程度()()()ものなのかをはかっているふしがあった。ついでに、特級である傑の実力も。

 そしてその使い道がおそらく──天元。

 

「……もしかして、すでに僕の声は聞こえているのかな」

 

 呪術界の要、不死の術式をもつ永遠の存在。

 その結界によってこの国を守る、およそ人とは言いがたきもの。

 足を進めながら視線を浮かせるが、当然ながら返答はない。構わず、言葉を続けた。

 

「こんな世界で長生きして楽しいですか?」

 

 長生きしてもせいぜい百年と少し、人間ならそれくらいでぽっくり逝っておくべきだ。こんな呪いの蔓延る世界において、必要以上の「生」はそれこそ穢れを招く。

 天元は「星漿体」と「同化」して肉体情報をリセットする必要があるだなんて誤魔化した説明をしているが、限界を超えた肉体と精神が「呪い」に転ずるのを回避しているだけのこと。あんな穢れた存在になる可能性を抱えてまで長生きしたいものなのだろうか──まして、己を呪いにすべく虎視眈々と狙っているやつがいる状態で。

 

「……まったく理解できないね」

 

 まあ、考え事はここまでだ。虫たちの気配が腹の中でうごめく。

 とりあえず羂索の狙いは「六眼の無力化」「呪霊操術」「天元と星漿体の同化阻止」といったところだろう。優先順位は羂索の手札によるだろうが、まずは目の前の状況に対応するしかない。

 長い廊下が終わり、いかにもという外見の大樹が目に入る。それを取り囲むように古風な家屋が連なっているが、どうせ天元がつくったまやかしだ。真に重要なのは大樹の根元、そこで引きこもっている老害のみ。

 改めて虫たちを放つ。一瞬にして周囲に虫が満ちるが、次の瞬間には鳴りを潜めた。気配を消して潜むという点において、虫ケラの右に出るものはそういない。

 下準備はこんなところだろう。あとはただ待つだけだ。

 

「……僕の出番はあるかな」

 

 さて、現在における呪術界のふたりの「最強」は、あの呪術を超越した存在からオヒメサマを守ることができるだろうか。

 

 *

 

 とか言ってみたが、まあ結果は目に見えていた。

 壁に背を預け、目を閉じて虫たちが送ってくる情報に全神経を集中させる。

 高専に戻り術式を解いた瞬間の襲撃。悟が襲撃者の対処にあたり、傑が星漿体をつれて薨星宮へと向かっている。

 想定内とは言わないまでも、最悪の状況ではないだけマシと言うべきか。襲撃者の予測くらい伝えておくべきだっただろうか。いや、教えたところであの傲慢どもが()()()警戒してくれるとも思えない。それどころか逆に油断する可能性だってある。

 何せ相手は、()()()()()()()()()()()だ。

 大きく溜息をつき、瞼を開けた。無事に本殿前に到着して気を抜いているのか、何やら話しこんでいる傑たちのほうへ脚を動かしつつ、タイミングを図る。

 仕掛けていた範囲内に彼の気配を捉えた。羽化を待っていた虫たちに、一気に呪力を流し込む。

 

「──!!」

 

 呪力のない人間にあの虫たちは祓えない。突如として眼前に現れた蝶の群れに、彼はとっさに床を蹴って背後に下がった。まったく、呪力がないくせに感知できるってどういうことなのか是非話を聞かせてほしい。

 呪具さえもっていたら容易く蹴散らしただろうが、この状況で「呪力のない人間の気配は読みにくい」というアドバンテージを手放すとは思えなかった。予想通り呪具を手に持っていなかった伏黒甚爾は黒光りするものを放り捨て、すぐさま口から「何か」を出し呪具の刀に持ち替える。

 蝶たちが霞のように消える向こうから、身体に呪霊を巻き付けた獣のような男の目が僕を捉えた。

 瞬間、腹の中の虫たちが騒ぎ出す。うるさい、そんな虫の知らせなんか寄越されなくても腹が立つほどに理解している。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「──まだ新手がいやがったか」

「どうも。拳銃なんて意外と俗っぽいもの持ってるんですね。伏黒甚爾さん」

 

 胡斗、と傑の少し戸惑った声が反響して聞こえる。

 まったくその傲慢からくる油断癖はいい加減にしてほしい。

 

「傑、戦えるよね」

「、問題ない。それより何故こいつが、……悟は、」

「ああ、殺したぜ」

「……は?」

 

 五条悟は、俺が殺した。

 会話に割り込んできた古傷のある唇が、同じ言葉を繰り返す。

 ぶわ、と大気が膨らむように傑の呪力が昂ぶった。

 あーあ、とまた息をつくしかない。

 

「胡斗」

「……致命傷をうけて血まみれで倒れてるのは事実だね」

「黒井さんは?」

「ん? ……ああ、あのメイドさん。どうかな、かろうじて息はありそうだけど」

「そう。──胡斗」

「はいはい」

 

 始まりは同時だった。

 傑の呪霊が辺りを埋め尽くし、伏黒甚爾の呪具が鈍く光り、僕は呆けていた星漿体の首根っこをひっつかんで床を蹴る。

 

「ひゃ、あっ!?」

「舌噛むよ、黙ってな」

 

 そのまま一直線に本殿へ向かおうとすれば、ぴっと耳元に焼けるような痛み。

 ものすごい速さで顔の横を通り過ぎたそれはガッと音を立てて床に突き刺さり、その衝撃で頑丈なはずの刀身がぶるぶると震えていた。

 もはや察知するとか避けるとかそういう威力でも速さでもない。正直普通に血の気が引いた。

 

「ちょっと傑、真面目に足止めやってくれる!?」

「胡斗、本殿じゃない、外に出るんだ!」

「は!? 何で、」

「いいから!」

 

 外に出ろったって伏黒甚爾が出口前にいるだろうがと。

 振り向きざま、伏黒甚爾の口角がつり上がったのが見えた。どう見てもあれは「わざわざ自分のほうに来てくれるなら手間が省ける」という顔だ。

 事情はわからないが、これでこの状況を乗り切れる確率はかなり下がった。勝利条件が「結界のある本殿に逃げ込む」でなく「伏黒甚爾を戦闘不能ないし戦闘意志のない状態に追い込む」に変わったのだ。傑がいるとはいえ、お荷物つきであの化け物の横を素通りする芸当はおそらく不可能だ。

 悟すら瀕死に追い込んだ相手に、傑がどこまでやれるのか。こんな状況であれば興味深く観戦するところだが、そんな呑気なことは言っていられない。

 目の前で繰り広げられる人外の戦闘に、せめて足手まといにはなるまいと星漿体の首根っこをひっつかんだままふたりから距離をとる。壁際によって申し訳程度に虫を散らすと、右手の先で何かがじたじたと暴れ出すのを感じた。

 

「ちょ、……もう、苦しい!」

「ん? ああ、そうか、首締まってたね」

「気付くのが遅い!」

 

 そういえば星漿体って人間の女の子だったと今さらに思い出す。

 改めて目を向けてみれば、どう見てもその辺にいそうな年下の女の子だった。

 

「貴様は……、」

「この状況で自己紹介必要? 傑側の人間だとわかっててくれればいいよ」

「、……。……あいつは、」

「なに」

「あ、いつは、……死んだ、の?」

 

 泣きはらした跡がのこる目元、そこにまた大粒の涙が一筋の線を引いた。

 アイツというのはおそらく悟のことだろう。自分を護衛してくれていた、しかも現代「最強」の片割れに対して「あいつ」とは随分と、とは思うがまあ知ったことではない。

 五条悟は確かに出血多量のうえ、喉を抉られ脳天を貫かれた。どう考えても死ぬのが普通だが、()()()()()()()()()()()()()()()()。しかしそれを超人的な五感をもつ敵がいる状況で口にする気はないし、する必要も感じなかった。

 

「かもね」

 

 それだけ短く答えれば、彼女の肩が大きく震える。

 ぽた、ぽたと涙の滴が血痕のように床を汚した。

 

「あ、……あいつ、……くろいだって、わたしの、せいで……!」

 

 何を今さら、と思ってしまった僕はたぶん冷たいやつなのだろう。だが、その感傷に付き合ってやれるほど余裕のある状況ではない。

 

「……へえ、意外だな」

 

 そして僕は、()()()()人間が大嫌いだ。

 

「自分のせいで誰かが傷つくことを嫌だと思える心はちゃんとあったんだね。てっきり良心なんて欠片もない人間かと思ってたよ」

 

 そのとき彼女がどんな顔をしていたのか僕は知らない。

 視線を向ける気にも、なれなかった。




作者にりこちゃんアンチの気持ちは一切ありません。
ネタバレすると彼女は言われっぱなしで引き下がるほどか弱い子ではありません。


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8-2

 そうなるとわかりきっていたことを今さらのように嘆くのはただの馬鹿だ。だってわかりきっていたんだから。

 わかっていたのに、回避する選択をしなかった。ただそれだけのことなのに。

 

「戦う力どころか護身のすべもないまま動き回ったくせに、自分を護った誰かが傷つくことに泣くの? さすがに想像力足りなさすぎでしょ」

「──、」

「別にきみの思い出作りを責めてるんじゃないよ。きみが何をしようと護ってもらえるのは『特別』の特権だからね、きみは自身の権利を堂々と行使しただけだ。けど、そこから当たり前に予測できた結果をきみ自身が嘆くのはあまりにも滑稽だと思わない?」

 

 誰にも傷ついてほしくなかったなら、自分が星漿体だと露見した時点で高専に逃げ込むべきだった。

 自分が最後にうつくしい思い出をつくることを選んだのだから、そのせいで護衛が傷ついたことに対して涙する権利はない。

 望む望まないに関わらず、彼女は『特別』なのだ。その行動ひとつで多くのひとが振り回される。この世にたった三人しかいない特級の呪術師でさえ、だ。

 同情するつもりはない。『特別』ゆえの我慢も多かっただろうが、『特別』ゆえの特権もあるのだから。

 ──いや、いまはこんなどうでもいいことに思考を割いている場合じゃない。とにかく星漿体を逃がさなければ。

 目の前で繰り広げられる戦闘に、舌打ちをひとつ落とす。

 

「……分が悪いな」

 

 当然ながら傑が弱いわけではない。伏黒甚爾が強すぎる。

 呪力がないなら対人よりは対呪霊のほうが慣れないはず、だから呪霊操術ならば、と思ったが甘すぎる目算だった。次々と繰り出される呪霊への対処が早すぎる。超人的な身体能力や呪具の恩恵もあるが、それ以上に呪術・呪霊を用いた戦闘における経験値が段違いなのは明白だ。

 ここに悟がいて二対一だったら話は変わったかもしれないが、血まみれの瀕死が加勢に来れるわけもない。ここじゃなくて高専の入り口で合流すべきだったかも、なんて考えるだけ時間の無駄だろう。

 となるとこれしかないか、と仕方なしに左の手のひらを見る。痛いのは嫌だが背に腹は代えられない。さっきかすった耳から出ている血ではさすがに足りない。

 あとはタイミングだ。もはや目を追うのも精一杯な人外の戦闘に目を凝らし、ふたりの状態を見定める。傑の劣勢は変わらない。申し訳ないけどそのまま少々の怪我を負ってくれるくらいがちょうどいい──と思ったとき、伏黒甚爾の呪具の切っ先が傑の腹と右腕を切り裂いた。致命傷には浅い、だがそれでいい。

 右袖に仕込んでいた小さなナイフを手に取り、勢いよく自分の手のひらに突き刺した。

 

「は、ああっ!? 貴様何をして、」

 

 星漿体の悲鳴に反応してびっくり人間博覧会が一時的に停止する。

 ぼたぼたっと床に落ちた血が重い音を立てた。うーん、痛い。ナイフを引き抜いた手のひらからは、真っ赤な血が溢れ出ている。まだ僕の血は赤いんだな、と当たり前の事実に自虐的な思いに駆られた。

 いつか僕の血も赤から黒に染まるのではと思うことがある。黒笹が長い時間をかけて作り替えてきた血と肉は、蟲たちにとっては最高のご馳走で栄養剤だ。

 

「胡斗、何を……!」

 

 驚愕した表情の傑に構うことなく、床にできた血だまりと僕を窺うように漂う蝶たちに視線をやる。

 は、と痛む左手を強く握りしめた。

 

「さっさと喰えよ。──蠱術・血粧(ちけわい)

 

 蟲どもの歓喜が全身に響く。気色悪くて仕方がない。

 外に出していた蝶だけではない、僕の身体から許す限りの蝶が溢れ出し争うように僕の血に集り始めた。もはや血の赤は翅に隠れ、黒いものがうごめいているさましか見えない。

 そして徐々に、蝶たちは姿を変える。血管に血が通うように翅に赤い線が走り、握りこぶしほどのサイズだった身体がどんどん膨らんでいく。

 

「……ただの式にしちゃ数が多いと思ったが、お前、黒笹か」

「ご存じいただいて光栄です」

 

 血の池がほぼ消えた代わりに、虫たちの下には黒い影ができている。それはつまり、()()()()()()()()()()()()()()()()を意味する。

 もはやひとの頭ほどの大きさになった蝶たちは、どこをどう見てもただの化け物だ。蝶ならば持ち合わせないはずの牙を得たそれらは、ぼたぼたとよだれを垂らしながら次の獲物を見定めている。

 

「黒笹の蟲がもつ毒は、本来対象の呪力そのものを蝕みます。だから呪力のない貴方には効きが薄いどころか、下手したら何の意味もないかもしれない」

 

 相手から呪力という餌を搾り取るための毒なのだから、それはまあ仕方がない。呪いの分際で生物の摂理を模倣してんじゃねえよと言いたくなるが、それはさておき。

 しかし血粧を受けて血肉を得た蝶たちは、肉を食うことを覚える。つまり、呪力の有無に関わらず()()()()()()()()()()()()()()()

 

「解毒不可能と言われる猛毒と貴方の肉体、どちらが強いと思います?」

 

 耳障りな羽音の大群が伏黒甚爾へと襲いかかる。触れる前に呪具で塵にされるが、それでも構わない。蝶を構成する全て、その羽ばたきで宙に舞う鱗粉すら猛毒だ。

 黒と赤が竜巻のように獲物を取り囲む。周囲の空気が毒に満ちたことに気付いたらしい彼は眉をしかめ、口と鼻を手で覆った。すぐさま呪具を刀から三節棍に切り替え、蝶を打ち捨てるついでに風を起こし、毒を散らしていく。

 やっぱダメか、とつい苦笑して首を傾けた。いくら猛毒と言っても当たらなければ意味がない。少量くらいは毒を浴びせられたかもしれないが、鋼の肉体にはたりないのだろう。

 

「……強いなぁ」

 

 これほどの強さをもつ人間を放逐するなんて、禪院家の頭には死んだ蟲でも詰まっているのだろうか。呪術ごときに拘る連中の考えることはわからない。

 わかっている。黒笹が三桁単位の年数をかけて開発してきた猛毒だろうが受肉だろうが、こんな小手先の術で生き物として圧倒的な力をもつ存在に敵うはずがない。

 

「おい、この程度か?」

「この程度です、残念ながら。……でも」

 

 だが、いまは構わない。僕の狙いは彼を殺すことじゃない。ここで初めて、僕は後ろにいた彼女にちゃんと顔を向けた。

 震える両手を握りしめ、泣きはらした眼で僕を見上げるオヒメサマ。

 わかりきったことで涙を零す甘ったれではあるが、別に彼女に恨みがあるわけではない。彼女のせいで六眼(さとる)が瀕死になったことを責める気持ちはさらさらないし、考えてみれば彼女の存在の流出にはクソ脳みそが関わってる気がしてならないので、何ならあの野郎の被害をこうむった者同士、仲間とも言えるかもしれない。

 だからせめて、苦しみを感じない程度の配慮はしてあげよう。

 

「ごめんね」

 

 ゆるりと彼女の身体が傾く。

 僕たちの頭上で、静かに蝶が羽ばたいていた。

 




嬉しい評価・コメントありがとうございます。おかげさまで筆が乗りました。
短いですが区切りなので。もうすこし続きます。


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