【キンオペ編完結】たそがれより世紀末まで〜98×99三強カップリングがイチャイチャしたりするかもしれないしドロドロするかもしれないしの幻覚話〜 (つみびとのオズ)
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スペシャルウィークとアドマイヤベガの場合
スペシャルウィークとアドマイヤベガの場合
きっと、私たちが出会ったのはたまたまだった。私とアヤベさんはときどき寮で顔を合わせて、たまには向かい側の席に座った。けれどそれくらい。それくらいで、それくらいの仲だったはずだった。
たまたま出会って、たまたま仲良くなって。どこまでもたまたまで、運命的な出会いがあったわけじゃない。何回出会いをやり直してもこうなるなんて、私には言い切ることはできない。
それでもこうして。それでもこうして、私たちが今一緒にいるのなら。
それが運命でないのなら、奇跡と呼ぶのが相応しい。
「おはようございます、アヤベさん」
「おはよう、スペシャルウィークさん」
朝の寮、まだ人の少ないテーブル。そこで先に座っていたアヤベさんに挨拶された。私も自然とその前に座る。当たり前のように座ってみたけど、まだ慣れない感覚と間隔だ。私たちの仲はまだそれくらい。
「アヤベさん、朝ごはんはもう食べましたか? 良かったら、一緒に食べませんか?」
「……いいけど。あなたの食事を見ていると、自分が食べてなさすぎるんじゃって気持ちになるのよね……」
「アヤベさんは絶対、もっと食べた方がいいですよ! ダービーの先輩として、ダービーを狙うウマ娘へのアドバイスです!」
「それ、あなたの食事量の言い訳じゃないのかしら」
うぐっ。先輩風を吹かせてはみたものの、学年でいえばアヤベさんの方が先輩だ。丁寧にたしなめられると、私としてはなすすべがありません……。
私にとって親しい先輩といえばスズカさんだけど、アヤベさんは当然スズカさんとは違う距離感で私に接してくる。なんというか、先輩というか……お姉さん? 姉どころか私と同じウマ娘を初めて見たのがトレセン学園に来てからだったから、その表現が正しいのかはわからないけど。ウマ娘が別のウマ娘に抱きうる感情、というか。
「はあ……でも食べなきゃいけないのは本当ね。あなたの言うことも一理ある」
「えへへっ、そうですよ、そうなんですよ! だから私も、今日もたくさんおかわり」
「それはどうかと思うけど」
「はい……控えます」
体重の管理も、ウマ娘にとっては必要なことだ。それはわかっているのだけど、私はついつい食べ過ぎてしまう。太りにくい体質……などという都合のいい話はなかった。
はあ、とため息が出る。ぐう、とお腹が鳴る。すると見かねて、アヤベさんが口を開く。なんだか私、アヤベさんに助け舟を出してもらうのを待ってたみたい。
「食べていいわよ。私が間違ってた。お腹が空いてトレーニングに集中できないんじゃ、元も子もないじゃない」
「ほ、ほんとですか! ならなら、これ! さっきキッチンで作ってきたんです!」
「別に私が許可を出すことでもないのだけど。……というか、何かしらこれは」
どん、と私は二人の間のテーブルに包みを置く。そして開いて中身を出す。そのまま意気揚々と、この特製おにぎりについての説明を始める。
「これはですね、爆弾おにぎりです」
「爆弾、おにぎり?」
「はい。爆弾です」
「説明になってないと思うわ、それ」
うむむ。説明とは難しい。アヤベさんはいつもちゃんと私のわからないことを説明してくれるけど。私にはそれができていない。
それが年齢の差だと言えばそうなのかもしれないけれど、私もトゥインクル・シリーズの先輩として、それなりの付き合いの人として。何か伝えられたらいいなと思うのは、わがままなのだろうか? けれど、アヤベさんの次の言葉はこうだった。
「まあ、それがあなたらしさなんじゃないのかしら」
「私らしさ、ですか」
「そう。それがあなたを形作るもの。……あなたにも、トレセン学園に来た理由があるのでしょう? そういうものよ」
そう、目の前の瞳は問いかける。夜空のようにしんとして、けれどどこか遠くを見るようなその瞳が。そう真剣に問われたのなら、それには私もしっかりと答えられる。
「私は、『日本一のウマ娘』になりたいんです。生みのお母ちゃんと育てのお母ちゃん。二人から託された、私の大事な夢です。そのために、ここに来ました」
「二人から、託された」
ああ、そりゃ引っかかるか。先にそれを説明しなきゃいけない。やっぱり私は、説明が下手だ。
「はい、二人のお母ちゃんです。生みのお母ちゃんは、私が生まれるのをとっても楽しみにしてたらしいです。私が生まれてすぐ亡くなってしまったので、育てのお母ちゃんからのまた聞きなんですけど」
「……それは」
私の話を聞いて、アヤベさんは少し俯く。確かに、そんなに気軽に聞ける話じゃない。それをこんなところで出して、つくづく話すのが下手だな、私。
「ああすみません、そんな重い雰囲気にしたかったわけじゃなくて! むしろ、逆なんです。この話を聞いて、私のことをもっとよく知ってもらえたらと思って」
「いえ、続けていいわよ。あなたの、大事な話だもの」
そんな言葉に込められた感情は、まるで誰かを思い返すような。アヤベさんの立ち振る舞いにある「らしさ」も、アヤベさんなりの理由で出来ているのかもしれないけれど。
けれどそこには立ち入れない。だからそんな気持ちを押し込めて、私は促されるままに言葉を紡ぐ。
「はい。私にとって、二人のお母ちゃんに支えられているのは幸せなことです。私に託された夢で、私自身の夢でもあります。多分アヤベさんの言う私らしさって、二人のお母ちゃんのおかげだから。だから、ちゃんと『説明』したくて。……どうでしょうか」
そう問うと、アヤベさんは一つため息を吐いて。少しだけ和らいだ表情で、アヤベさんなりの言葉を返す。
「ええ、上出来じゃないかしら。爆弾おにぎりの謎は、どこかへ行ってしまったけど」
「ああそうだ、実はこれ、二つあるんですよ! お一つどうですか、アヤベさん!」
「このサイズ、食べれる気がしないのだけど。そもそも爆弾って結局何」
「爆弾は爆弾です。食べたらわかります! なんというか、こんなことを今更、って感じなんですけど」
今更。思えばたまたま会話を重ねてきたけれど、それ以上にはなっていないこの関係。それを今更進める。今更だけど、まだ遅くない。
「二人で同じものを分け合うのって、友達って感じがしませんか」
それはあるいはこれから始まる、二人の関係だ。
「友達。そういうの、よくわからないのだけど」
「なら、二人で分け合う関係ってだけでもいいですよ。名前なんてなんでもいいです」
「二人で分け合う。……それなら、私にも分かるわ。誰かのために、何かを捧ぐ」
そう呟いて、アヤベさんは少し遠くを仰ぎ見る。何かを追いかけて、想い焦がれているように。朝の日差しが彼女を照らすのに、その姿を際立たせているのは日差しの作る影の方だった。そんな気が、した。今わかるのは、そこまでだった。
「いいわよ。そのおにぎり、ひとつちょうだい」
「はい! あっ、大と特大、どっちがいいですか!?」
「ちなみに今テーブルに出てるのは」
「大です!」
「ならそっちで。……これで小さい方なのね」
そうして、二人きりのテーブルで。鳩の鳴き声が聞こえる頃には大体みんな起きてきたけれど、その時にまだ食べ終わっていなかったのでずいぶん目立ってしまった。私じゃなくて、アヤベさんが。「爆弾ってこれ、結局大きくて丸いだけじゃないかしら」なんて言いながら衆目を浴びつつ爆弾おにぎりを食べ続けるアヤベさんに大変申し訳ないと思いつつ、その埋め合わせをどこかでしたいななんて思いつつ。そんなことを思いつつ、私たちはそれぞれの日常へ帰る。だから今日アヤベさんと話したのは、その朝の少しだけだ。
きっと、私たちの出会いはたまたまだ。普段は別の大切な友達や先輩がいるし、会話を交わせるのはたまたま会った時だけ。
けれどその僅かな時間が、私たちに何かをくれるなら。必然じゃなくて偶然でも、私たちが確かに出会うなら。
それが運命でないのなら、奇跡と呼ぶのが相応しい。
アヤスペの可能性を感じた方は感想と評価を下さると大変世界が変わります
世界を変えたいです
よろしくお願いします
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スペシャルウィークとアドマイヤベガと雨
みんなで見れば
怖くない
きっと、私たちが出会うのはたまたまだ。たまたまの出来事で、たまたま同じ場所にいる。だからその日の雨も、たまたま降っていたものだろう。私が廊下で窓の外の雨を眺めていると、スペシャルウィークさんがそれに声をかけてきた。雨が降るのも彼女に会うのも、たまたま、だ。
「こんにちは、アヤベさん。何か、外に気になるものでもありましたか?」
「ああ、スペシャルウィークさん。……別に、特に何もないけれど」
そう言うと、なんだかピンときていない様子。スペシャルウィークさんだって、何もなく空を見上げることくらいあるのではないか、とは思うのだが。
「そうですか、私もよくやっちゃいます、ぼーっとするの」
「ほら、やっぱり」
「……やっぱり?」
「なんでもないわよ」
声に出てしまっていた。彼女の前では、ついつい気が抜けてしまう。スペシャルウィークさんは私より先にあの過酷なトゥインクル・シリーズに挑み、比類なき成績を収めているというのに。私が空に捧げるべき成績の、見本となるくらいの。
それなのに、彼女と私は違う。以前聞いた、彼女の母親の話。亡き母親の想いを受け継ぎ、それを眩しい光に変えている。……私とは、違う。
「どうしました、アヤベさん。……なんだか顔、怖いです」
「……ああ、ごめんなさい。少し、ね。気にしないで、いいから」
そう言うと、スペシャルウィークさんはそれ以上踏み込まない。それはある種当然で、私たちの関係を象徴するやりとりだ。彼女は光で、私は影。似ている点があるからこそ、表裏一体の交わり得ない点が見えてくる。
だから、それきりだ。少しの沈黙を挟んだ後、スペシャルウィークさんはまた口を開く。立ち去らず、まだ私のそばにいてくれる。
同じように、雨に濡れた窓を見て。その先に写る光景を見ているのが二人ともかどうかは、わからないけれど。
「アヤベさんは雨、好きですか?」
「そうね、嫌いではないかもしれないわね」
「どうしてですか?」
「そんなに気になる?」
「はい、気になります」
そう直球で聞かれると、私の方が困ってしまう。私にはそれほどの価値はないのに。誰も私を顧みなくていいのに。きっと社交辞令のようなものに過ぎないはずの彼女の言葉さえ、酷く暖かく、突き刺さる。
「部屋でゆっくりするのは、嫌いではないから。雨が降っていれば、自然とそうなるじゃない」
「なるほど、なるほど。部屋ではどんなことをするんですか? そもそも、アヤベさんの趣味ってなんですか?」
「……今日は随分積極的ね、あなた」
「はい、雨の日ですから!」
その理屈はさっぱりわからないが、彼女なりの雨の日の楽しみ方ということか。閉じた空間、狭い世界。その中で独りを選ぶのではなく、誰かと共に過ごすことを選ぶ。その相手に、今日は私が選ばれている。
少し考えて、答えを吐く。返せる答えは、この上なく簡単で。
「趣味……と呼べるほどのものはないわ。ずっと布団の上で寝ているのよ。それだけで時間は潰せる」
答えてみれば、空っぽだった。空っぽの時間、空っぽの私。けれどきっと、私はそれでいい。
なのに。
「時間は潰せるって、それは立派な趣味ですよ」
「寝ているだけで趣味になるのなら、皆その趣味は持っているんじゃないの?」
「そんなことないですよ、私の友達にも寝ることが趣味の子がいますし。色んなところで寝てます」
「……それは私にはできないわね」
「ほら、それならそれがアヤベさんの趣味というか、こだわりですよ。寝るところへのこだわり。ふかふかの布団がいいんですよ、きっと」
「それは、あるかもしれない」
思ってもみない、無意識的な心の動きだったけれど。ただ時間を潰すだけでなく、私はそこに意味を感じていたのだろうか。微かな幸せという、密やかな意味を。それを、横にいる少女に気付かされた。
「はい。他にもアヤベさんが時間を潰すためにやることがあるとすれば、それは立派な趣味ですよ! なにか、ありますか?」
「そうね、他には──」
逡巡して、思い当たる。私の人生で、もっとも時間を割く行動。祈りを込めて、償いを告げて。新月の夜の、あの時間。
「──思いつかないわね。ごめんなさい、また考えておくわ」
けれどそれを彼女に伝えるのは、なぜか憚られた。きっと、私と彼女が出会ったのはたまたまだ。それくらいの、薄氷のような関係だ。けれど彼女にもしそのことを話したら、きっと彼女は理解してくれる。全て話さないとしても、事情があると慮ってくれる。薄氷は、分厚くなってしまう。
だからこそ、怖い。これ以上互いに踏み込むのが。彼女は私に母親のことを話したのに、卑怯極まりない話かもしれないけれど。それでも私は、私には許されていない。
彼女がそれを赦すならこそ、私はそれを避けねばならないのだ。
「いえいえ、私が聞きたいだけですから」
「そういえば、あなたはどうなの」
「どう、とは」
「趣味よ。せっかくなら、聞いておきたいじゃない」
そう、話題を転換した。もちろん本心でもある。それなりに、彼女と親しくしたい。おそらく私にも、そんな感情が芽生えていた。
「うーん、といっても、トレセン学園に来てから環境が変わりすぎて……まだ特定の趣味は……」
「なによ、あなたも私と同じじゃない。それなら何か、故郷での趣味はなかったの? 聞いておきたいの、後学のために」
そうからかってやると、スペシャルウィークさんはうんうんと唸りながら。
やがて、答えを出した。
「そうですね、それなら……」
少し、もったいぶって。きっと彼女には、そのつもりはなかったのだろうけど。
「天体観測、です!」
私には、致命の一言だった。
「私の住んでた北海道って、夜はほんとに星空が綺麗で。だからお母ちゃんと一緒に、よく星空を見上げたなあ……」
「そう、なの」
「知ってますか、星ってあれだけたくさん光ってるんですけど、周りの光があるとすぐ消えちゃうんです」
知っている、そんなの。
「だから一番綺麗に見えるのは、月の光もない新月の夜で」
知らないわけが、ない。
「あっでも、そうなると今日みたいな雨とは相性が悪いんですよね……星空は晴れじゃないと、特に新月の日は、せっかくだから」
「せっかくだから、晴れていて欲しい。晴れていなければ、困る。……そう、よね」
「はい! あっそうだ、よければアヤベさん、今度一緒に星を見に行きませんか? せっかくなら一番よく見える、新月の日に」
やめて。その誘いは、私には。必死に頭を振り絞って、苦し紛れの言い訳を返す。
「……悪いけど、お断りさせていただくわ。そうね、私の趣味は寝ることだから」
「あはは、そうでしたね。少し残念ですけど」
「残念?」
「人と一緒に星を見たら、色々悩みは晴れますよ? 私の場合はお母ちゃんでしたけど」
それはきっと正しくて、だから私には届かない言葉。私にとっての新月の夜は、あの子と二人きりで語らうもの。そう定義したのだから、それがどんなに正しくなくても。間違っているとは、言わせられない。誰にも、だ。
「そうね、それなら考えておくわ」
「本当ですか!? 楽しみにしてますね! ……あっ、そろそろ行かなきゃ! すみません、お先です」
「ええ、さようなら、スペシャルウィークさん」
「はい、また。アヤベさん」
そうしてまた、僅かな時間の会話は終わる。なんとか、緩やかに会話を着地させられた。どうしようもないところまで、話してしまえばあの子はたどり着いてしまう。だからここまで。私たちの距離感は、ここまでだ。たとえ彼女はそれ以上を望むとしても、私にとってそれは灼けつくような痛みにさえなりうるのだから。
彼女に誰かを傷つけさせるわけにはいかない。それだけを願い、窓の外を見る。
まだ、雨は降っていた。
きっと、今日は止まないだろう。
アヤスペの可能性はあなたの評価と感想にかかっていると言っても過言ではないので、ぜひよろしくお願いします
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スペシャルウィークとアドマイヤベガの見るもの
実は某所の再掲です
きっと、その日出会ったのもたまたまだった。たまたまアヤベさんを廊下で見つけて、そちらへ走っていった私。手を振りながら、アヤベさーんって、呼びながら。だけど、そこまではもちろん、やりたくてやったことなんだけど。
すってんころり。思いっきりこけてしまうのは、完全に予想外でした……。場所はアヤベさんから3mほど離れたところ、ゴール前でのアクシデントです。うう、恥ずかしい。
「……大丈夫? スペシャルウィークさん」
「は、はいぃぃぃ……」
地面につんのめったまま、私はなんとかアヤベさんに返事をする。まだおでこがヒリヒリする。ウマ娘は頑丈とはいえ、どちらかと言うと心も痛い。情けない姿を見せた心が。
「どうしたの? 急に走ってきて」
「えーっと、それは」
ストレートに問うてくるアヤベさん。……あれ、もしかするとバレてない? アヤベさんを見つけたから走ってきて、それでずっこけたこと。特にさしたる理由もなく、アヤベさんが目的で走ってしまったこと。いやそれを隠したからどうというわけでもないんだけど。どうというわけでもないんだけど、なんだか少しくすぐったい。
「こちらに何かあったかしら。私が代わりに見てきてあげてもいいけど」
「ああ、いいですいいです! 起きますから!」
そう言って、私はようやく起き上がる。うつ伏せの状態から身体を持ち上げて、ついてしまった埃を払う。うう、改めて思うのは、こんな姿を見られてしまって恥ずかしい……。
「大丈夫? 急に走り出したから、何事かと思ったけど」
「いやー、そんな大したことは」
なんとか誤魔化す。誤魔化せているのだろうか。いや、誤魔化せていると信じよう。
「あなた、結構危なっかしいわよね。たまに見かける限りでは、友達らしき子によく面倒を見られているし」
「ええ、いつ見てたんですか!? というか、何を見たんですか!?」
「たまたまよ。食堂とか、廊下とか、寮とか。食堂が多いわね。あなたを見るうちの七割は食堂で、誰かに呆れられているところね」
「それ、アヤベさんからの印象じゃないんですか……。私はこう、日本一のウマ娘を目指していますから! ビシッとしてますよ! ……って」
そこまで言って、若干誇張混じりの発言を終えた後で。アヤベさんの言葉に交えた、私の知らない事実を見つける。
「アヤベさん、もしかして、結構私のこと見てますか……?」
思えば、最初の会話から。こちらに来るのを見ていた、と言っていた。そしてそうでない時も、私が彼女に気付いていない時も。彼女の方は、私に気付いていたのだ。嬉しい。素直に、そう思った。
「言われてみると、目につく時は多いかもしれないわね。あなた、結構目立つのかも」
「そうなんですかね」
「そうなんじゃないの」
そうなんじゃないの、って。なんだか他人事みたいだ。アヤベさんは時折、自分のことを自分じゃないみたいに話す。自分の気持ちというものを、分けて考えているような。
「うーん、目立つ理由が理由なら、ちょっと恥ずかしいですけど」
「あれだけ食堂を荒らしておいて、目立たないことはないと思うのだけど」
「うぅ、でも美味しいんですよ、食堂のご飯」
「食事の楽しみ、ね。悪いけど、私にはあまりわからないものね」
それは失礼ながら、私もそう思っていたところだ。たまーに寮で夜食を摂るアヤベさんを見かけるが、大体スティック状の栄養だけを目当てにしたような食事ばかり。私としては勿体無いと思うのだが。せっかくこう、たくさん美味しいものが食べれるのに。
「確かに食事って、生きるためにすることですけど。でもそこに楽しみを見つけるのって、結構素敵なことだと思いますよ」
「あなたが言うと、どうにも過食の言い訳に聞こえてしまうけど」
「うぐっ、それは……。でもでも、本当です。たとえばレースだって、ウマ娘の本能って言われてますけど」
言い訳をしてしまっているのは本当だけれど、言い訳をするくらい好きなことではある。それこそ、レースにも同じことが言える。ストイックに練習を続けるアヤベさんになら、このたとえがいいかもしれない。
「レースでライバルと競って、勝ったり負けたりして。それで次はもっといい勝負が出来て。それもきっと、楽しいことだと思います。本能で走りたいのとは、別の理由」
そう、言葉を差し伸べる。もっともっと、あなたと仲良くなりたいから。
「走るのは楽しい。……そうね、だからウマ娘は、走ろうとするのでしょうね」
「はい。アヤベさんも、きっと。今までのレースで、そういうことがあったんじゃないですか? なんだか最初の食事の話と、だいぶずれてきちゃいましたけど。でも、そういうことだと思うんです。生きるために必要なことでも、楽しむことはできるんです」
「……それは」
一瞬、アヤベさんの表情が、見たことのないものに見えた。大げさな話をしすぎて、困惑させてしまったかもしれない。私とアヤベさんは、そんな大層な仲じゃない。まだ、だけど。まだ、であって、ずっと、じゃないけど。そう、信じてはいるけれど。けれど私も切り替えて、話題を変えようと試みる。
「なんだか変な話しちゃいましたね、すみません。まとめると、私が何を食べてても気にしないでください、ってことです!」
「善処するわ。なんとか、目を逸らすことにする」
「ああ、それは悲しいです〜! せっかくですし、もっと声をかけてくださいよー!」
思ったより、アヤベさんは私を見つけてくれている。なら今度は、もっと触れたい。せっかく同じ学園にいて、せっかく縁が出来たのだから。まだまだ、あなたを知りたい。そう思う心さえ、同じであったらとても嬉しい、と思った。
「はあ……。それで、どこに用事があったのよ」
「へ?」
「『へ?』じゃなくて。あなたがこけた原因は、何かこちらに用事があって走ってきたからでしょ」
「……ああ、それは」
うう、ここまで来ると言い訳はできない気がする。思ったより、その話題を引っ張られてしまった。万事休す。
「実は、単にですね。単にその、アヤベさんを」
「私を?」
「アヤベさんを見つけたので、つい追いかけようと……」
面と向かって言うと、恥ずかしい。かなり、恥ずかしい。もう一度こけて顔を伏せてしまおうか。そんなつもりさえするくらいの発言だったけど、アヤベさんは少しはにかんで。
「……まあ、目の前でこけないでくれるのなら。用事は解決したようでよかったわ」
「あうぅ、アヤベさぁぁん……」
「ちょっと、抱きついていいとまでは言ってないわよ。心配しなくても、それくらいであなたに悪い印象を持ったりしないわよ。今更、ね」
「今更、ですか」
「そう、今更。あなたと会うのも、もう結構な回数だもの。それくらいなら、いいかと思って」
その言葉は、花束のように宙を舞う。宙を舞って、私に届けられる。そっか、私たちは。私たちは互いに、互いに向かって歩み寄っていたんだ。
「じゃあ、特に用事もないのなら。また、会いましょう」
「はい。また、明日。明日もきっと、会えたら嬉しいです」
そして、別れゆく。今日はこれまで。互いの踏み込みは少しずつで、きっかけがなければすれ違うことすらない関係だけれど。
きっと、明日はもう少し。もう少しだけ、長い時間だ。
純粋に励みになるので、感想や評価をくれたら嬉しいです
アヤスペの可能性を感じてもらえたらとても嬉しいです
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スペシャルウィークとアドマイヤベガと相談事
参考になります
きっと、それを私に聞いてきたのもたまたまなのだと思う。たまたま私が近くにいて、たまたまその時そのことを考えていた。そうでなければ、スペシャルウィークさんが私にそんな質問をするなどあり得ない。
「うぅ〜……どうしましょう、アヤベさん……」
「待って。まず一つずつ、整理しましょう。というかもう一度言ってもらわないと、状況が理解できない気がするわ」
そう言って、私は再度スペシャルウィークさんに説明を促す。その行為には本当にそれを私に問うていいのか、という意味も込めてはいたのだが。そんな私の考えを知ってか知らずか、彼女は再度現状を説明する。
「はい……。えっと、まず今度、雑誌の撮影があって」
「ええ。それ自体は、初めてじゃない」
「うう、それはそうなんですけど……。でもでも、今回はっ」
私たちトゥインクル・シリーズを走るウマ娘にとって、雑誌やテレビのインタビューというものは全く縁がないものではない。ことスペシャルウィークさんのような、優秀な成績を収めているウマ娘にとっては。
もっとも、それについては私も人のことは言えないのだが。主にインタビューの度に何を言えばいいのかわからない、という点について。
ただし、今回の彼女の悩みは一味違う。
「今回は、『ファッション誌のインタビュー』なんですよね……。つまり、私のファッションセンスが、全国に……。ああもう、もうダメです、アヤベさあぁん!」
「……それで私に助けを求めるのは、判断ミスな気がするけど」
つまり、そういうことだ。なんでも彼女は今回、ファッション誌からのインタビューを求められた。けれどファッションのいろはなど見当もつかず、私に助言を乞うてきた。
やはりそこで私を引き合いに出すのは、かなり妙な判断だとは思うのだが。なにしろ私もそういうことには全く明るくない。たとえば「髪を自分で切るのはおかしい」なんてことも、カレンさんに指摘されるまで思いもよらなかったのだから。
つまり、ここには身だしなみに気を遣える人間はいない。むしろそこに上下をつけるなら、私よりスペシャルウィークさんの方がよっぽど出来ている気がする。
「私、服なんてお母ちゃんのおさがりしか持ってないんです……それで、アヤベさんに聞こうと思って」
「それは、本当に申し訳ないのだけど」
「はい? えっと、どういう」
「私も、知らないわ。外行きの服、いつも同じセーターだもの」
「同じセーター!? 私でも流石に毎回違う服着ますよ!?」
そう驚かれても、そうなのだから仕方ない。適当なインナーを着て、その上にセーターを着る。……一応こだわりはあって、それなりに手触りの良いものを選んだ。でも、それくらいだ。季節によっての取り合わせとか、ましてや一日一日によって着こなすとか、もってのほかだ。
「そういうものかしら」
「そういうものですよ! うう、アヤベさんはおしゃれそうな雰囲気してるのに〜!」
雰囲気と言われても困る。スペシャルウィークさんは、私をなんでもできる、頼れる先輩だとでも思っているのだろうか。そんなことあるはずがないのに。
「申し訳ないけど、ご期待には沿えないわね。けど、どうして私にそんなことを」
「ああえっと、だってアヤベさん、その……」
「その?」
「……やっぱりなしです! ともかく、私はアヤベさんに聞きたいんです、ファッション!」
「それは、参ったわね」
まったく、この子はどうしてこう強情なのだろう。私に構って、どうなるというのだろう。彼女には他にもたくさんの友人がいる。それこそこの問いをぶつけるに相応しい相手もいるだろう。それなのに、どうして。
「どうして、私なの」
わからない。彼女にとって、私は一体なんなのか。
わからない。そんなことを聞いてしまうほどに、私が彼女に関心を示してしまっている訳が。
彼女が私に何かを見出している意味と、私が私自身の行動に理由をつけようとする意味。その両方が、わからない。だって私の生きる意味は、決してそこにはないのだから。
それでも。それでも彼女は、スペシャルウィークさんは私を見つめて。私のことを見つけて、話していた。
「どうしてって、その……今更言うのもなんですけど、アヤベさんにはお世話になってますし」
「あなたには他にも親しい人が大勢いるじゃない。インタビューなんて大事な仕事の相談を、私に任せなくてもいいはずよ」
「それは、そうかも知れません。トレセン学園に来て、私は色んな人に出会えました。……でも。アヤベさんも、その一人です」
彼女の言葉は、いつでも私を捉えている。その言葉の方角は正しい。正しすぎる。私が踏み込ませまいとする私自身の闇にさえ、届いてしまいそうなほどに。
「ほんとは多分、なんとなくわかってたんだと思います。アヤベさんが、そんなにおしゃれとか興味ないんだってこと。それなのにわざわざこんな相談をして、困らせて。……ごめんなさい」
「謝ることじゃないわ。それでも私に聞いてきた理由があるんでしょうし。それくらいなら、貴女のこともわかるわよ」
「はい。私が思ったのは……その」
「ここまで来て言い淀まれると、流石に少し困るわね」
先程からスペシャルウィークさんは、何かを言おうとしては止めている。そんなに言いにくいことなのだろうか。もっともそれでも、何も言おうとしない私とは大違いなのだけど。
「はい、すみません! えっと、言います。……その、アヤベさんって、綺麗だなって」
「……綺麗?」
瞬時にその意味を理解できない。言葉の意味ではなく、そんな言葉が向けられる意味が。
「ああっ、変な意味じゃなくて! 雰囲気とか、立ち振る舞いとか。……だからきっと、この人はしっかり育てられてきたんだろうな、って。もちろん、私もお母ちゃんにちゃんと育ててもらいましたけどね!」
「何が言いたいの」
「ああつまり、つまりですよ! つまり、そんなアヤベさんが綺麗な服を着たら、きっと素敵だろうなって……。それで二人でそんな話ができたらいいなって、思ったんですけど」
私へ伝える、彼女の言葉。私を心の底から褒め称えさえする、彼女の憧れ。そんな彼女の純粋な賞賛は、私が受け止めて良いものなのだろうか。言葉に詰まる。これ以上会話を続けることは、互いのためにならない気がしたから。たとえその語らいが、どれほどきらきらと瞬いていようと、だ。
「けど、それは一旦置いておいて。私の話もいいけれど、本題はあなたのインタビューの服装でしょう」
「あっ、そうでした……。でもアヤベさん、一緒に考えましょうね!」
「はあ……。そうね、ここまで来たら付き合うわ」
「やった! 実はですね、気になってた服屋さんがあって」
「買いに行くところが決まってるのなら、さっさとそこに行けばよかったじゃない」
「ひっ、一人は無理ですよ〜! だからアヤベさんと一緒に、行こうと思って」
「……私と、一緒に」
ようやく、彼女の企みが見えてきた。
「ファッション誌のインタビューがあるから、服を見繕いたい」「だけど自分一人では何もわからないから、誰かの付き添いが欲しい」「そして私が服装に無頓着だから、このタイミングでそんな自分以上にお洒落に気を遣っていない先輩の服も見繕いたい」
だいたいこんなところか。スペシャルウィークさんも大概服装など気にしないタイプに見えるが(事実今の私服は全て母親のお下がりらしいし)、それでも私のそれは目に余るということか。そこまで後輩に気遣われては、私としても断る術はなく。
「いいわよ。今度の週末でいいかしら」
「本当ですか!? ありがとうございます! 絶対ばっちり、おめかしして行きますからっ」
「服を探しに行くのに、その前から服装に気を配る必要はあるのかしら」
「えっ、どうなんでしょう」
「聞き返されても困るわよ」
ともかく、そうして約束を取り付けて。それぞれの用事の時間になれば、自然と私たちは別れる。私たちが出会うのは、いつでも偶然によるものだ。今日もたまたま、そういう話題があったからにすぎない。偶発的で断続的で、そうである限りこの関係が深化することはない。緩やかに、今のままでいい。そのはずだ。
でも。
でも、きっと。彼女はそれを望んでいない。スペシャルウィークさんは、私ともっと仲良くなりたいと思っているのだろう。だから、何気ない話を楽しんでくれる。だから、私のことを肯定する。だから、私と出会う「約束」を取り付けさえする。
出会いを偶然から、必然に持ち上げて。そうなればそこにある語らいは、時間を潰すためだけのものではなくなる。「私との時間を楽しみたい」彼女はきっと、そう思っている。私はあなたのことなど、なんとも思っていないのに。そうでなくてはいけないのに。
私が生きる意味があるとするなら、それは肯定されるべきものでも楽しむべきものでもない。誰にもわからない、私とあの子だけのためのいのち。そう決まっていて、それは誰にも揺るがさせるわけにはいかないものだ。どんなに親しくしてくれる人でも、全てをぶつけるべき競争相手にも。当然、スペシャルウィークさんにも。
彼女にとっての私は、最近少しよく喋る先輩。それもたまたま、だ。そんな薄い関係の私があなたに望めるのは、せいぜい一つだけ。
どうか、それ以上は近づかないで。
きっと、それだけが望みだった。
次回!デート!
友達未満のデート、ご期待ください
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スペシャルウィークとアドマイヤベガとショッピングモール前
きっと、いつもの私たちはたまたまだ。たとえばアヤベさんにファッションの相談をしたのも、多分あの日にアヤベさんを見つけなければ思いつかなかったことだ。たまたま見つけて、たまたま話して。たまたま、その話題が盛り上がって。
だけど、今日は少し違う。ほんの少しだけど、大切な差。今日の私は、あなたが来るのを待っている。
待ち合わせをした。たったそれだけで、偶然は必然へと変わるのだ。
きっと、今日は素敵な日になるだろう。それも、必然だ。
「あっ、アヤベさん! こっちです、こっち!」
「おはよう、スペシャルウィークさん。待たせてしまったかしら」
「いえいえ、そんなこと! ちょっと楽しみすぎて、早く来すぎちゃいました」
トレセン学園近くのショッピングモール、その南口の前での待ち合わせだった。先程から自動ドアが私たちを招き入れるみたいに何度も何度も開閉している。いや、私の立ち位置が悪くてセンサーに反応してしまっているだけなのだけれど。気づいた時にはもう遅く、アヤベさんが来てしまって移動のタイミングを失ってしまったのである。そんな扉をちらりと一瞥したあと、アヤベさんはため息をついて。
「楽しみって、そんなに面白いことはしないわよ。ただの買い物」
「そんなことないですよ! アヤベさんとお出かけするのなんて、初めてなんですから」
「まあ、それはそうだけど。それにしたってはしゃぎすぎじゃないかしら」
「……そう見えますか?」
「そう見えるわよ」
ううん、でも仕方ないじゃないか。アヤベさんとの初めてのお出かけ。アヤベさんはそれほど気にしていない様子だけど、私にとっては大きなイベントなのだ。いやもちろん今回の目的たるインタビューに向けての服選びも大きなイベントなので、二重に。
はい。私、二重に緊張しています。
「それにしても、アヤベさんはほんとにずっとセーターなんですね……」
目の前の人の服装は、確かに彼女自身の言葉通り薄手のセーターだった。インナーで厚さは調整できると言えど、今みたいな梅雨時に。そんなに服装に無頓着なのか。いや、あるいは? ふと浮かんだ疑問を、アヤベさんにぶつけてみる。
「アヤベさん、なんでいつもセーターなんですか?」
「使いまわせるからね。内側は見えないから気を配らなくていいし、いつも同じ服装でいられる。気を使わなくていい。……あと」
「あと?」
その「あと」が気になるところだ。なのでちょっと詰めてみる。ずずいと少し顔を近づけると、アヤベさんは観念したようにわけを話してくれた。
「手触りが、いいのよ。えっと、そう、落ち着くの」
少しだけ、言いにくそうに。私に言ってしまうのが恥ずかしいのだろうか。確かにそれは、取るに足らない。やっぱりアヤベさんは、ファッションへのこだわりとかはないのかも。けれどそう思わせる、いつものアヤベさんらしさが垣間見える理由。そして普段の印象とは少し違う、ちょっとかわいらしい理由でもある。
「何よ、その顔」
「えっ、変な顔してますか」
「笑ってるじゃない。理由を聞き出して面白がっているのなら、少し酷いわね」
「ああ、そんなことないですよ〜! でも、理由にはびっくりしたかもです」
「そうかしら」
「はい。アヤベさんにも、こだわるものがあるってことですから」
私は、アヤベさんのことをよく知らない。いつもストイックに走っていて、なんだかんだで私のことを心配してくれて。そんな誰でも知っていることか、私の前で見えたことしか知らない。たとえばどんなことを楽しみに生きているのかとか、そういうプライベートなことは何も知らない。強いて言えば、今までの会話から受けた印象があるとすれば。
自分のことを、一歩引いて見ている。私がアヤベさんの態度から感じ取ったのは、そういうこと。それは彼女の普段の落ち着きにも繋がるのだけど、何故か私にはそれだけじゃないようにも思えた。
今は、言葉にできないけど。
「こだわり、ね。それなら今日の服探しも、それに則ろうかしら」
「はい! アヤベさんが気にいるような服、絶対見つけましょうね!」
「忘れないように言っておくけど、メインはあなたよ」
そんな会話を皮切りに、私たちはショッピングモールの中に入っていく。……そういえば、私がファッション誌のインタビューを受けるための服を探すのが本題だったっけ。見つかるだろうか。というか自分みたいな田舎娘に、都会の服が似合うだろうか。うう、急激に不安になってきた。けれどアヤベさんはずんずん進むので、私はなんとか着いていくしかない。
攻守交代、なんて。そんなワードが頭に浮かんでしまったのも、無理はないと思った。
「何個か服屋はあるみたいだけど、どれから行くの?」
「えっ、何個もあるんですか!? どうしましょう」
「どうしましょうって、あなたね……」
「す、すみませんっ! ほんとに何もわからなくて、ここのショッピングモールなら服屋があった気がするなーって、前来た記憶を頼りにして」
「ちなみに前来たのは何故かしら」
「ここの上階、美味しいご飯屋さんが沢山あって……」
そこまで聞いたアヤベさんは、はあ、とため息。呆れられても仕方ないけれど、そこまで聞き出したアヤベさんの方もちょっと鬼だと思う。間もなくアヤベさんはポケットからスマホを取り出して、すいすいと操作を始める。何をしてるんだろう、それすら見当のつかない私。
ああ、無力だ。
「とりあえず、調べたわ。一階から三階まで、各階に一店舗ずつレディース中心の洋服屋があるみたい」
「れでぃーす……?」
「女物の服のことよ」
「女の人が着る服ってことは、スカートとかってことですか?」
「そうだけど、それだけじゃなくて。……あなた、私の服装を心配してる場合なのかしら」
真剣に心配されている気がする。後で説明を受けたところ、レディースというのは女性が着る用の服ということらしい。いやそれくらい当然私もわかっていたのだけど、なんでも服のデザインなどで男用と女用は違うらしい。はい、親のおさがりしか着ていないとこんなこともわからない女の子になります。全然知りませんでした。
「じゃあとりあえず、一階のお店から。着いてきて」
時間が惜しいとばかりに、アヤベさんは足早に歩き出す。今日のアヤベさんは妙に積極的だ。もしお出かけを楽しんでくれているのなら、それはとっても嬉しいことなんだけど。
「待ってください、アヤベさーん!」
今の私は、とりあえず。こうやってなんとか後ろから追いつこうとするのが精一杯だけど、とりあえず。とりあえず今の私は、あなたと一緒に歩けることだけでも、充分すぎるくらい幸せだった。
きっと、今日のお出かけだってたまたまだ。それ自体は私が約束したからだけど、それにはきっかけが必要で。そのきっかけにはさらにきっかけが必要で、それはどこまで行ってもたまたまだ。きっかけがなければ、私たちは出会うことすら叶わない。すれ違っても互いを認識できないまま、そのことに不都合すら感じないまま。きっと、そんなふうにお互いの日常を過ごしていた。
けれど今、この時間。この瞬間。私たちの関係は、お互いの日常に組み込まれている。あなたがいなければ、私は今ここにはいないだろう。きっと他のことをしていただろう。そんなふうに、互いの時間は分け合うからこそ変わってゆく。そんな時間を共有する一人として、私はアヤベさんともっと仲良くなりたい。
もしかするとそうやって分かち合うことは、お互いの深きに踏みこむことかもしれないけど。立ち入るべきでないところまで、誰かの大事なものを暴き立てることかもしれないけど。
アヤベさんは、時々私を突き放す。きっと私を慮って。私が深く、深く踏み込んでしまわないように。その思いは、わかってしまう。たまたまの出会いでも、何度か重ねるうちにわかってしまう。わかってしまうように、なった。
だからこれからも関わり続ければ、もしかしたら私は見てはいけないものを見るかもしれない。それが何かはわからないけど、やはり一つだけわかることがある。前を行くあなたを追いかけ追い付き、並んで歩けるようにさえなった今だからわかることがある。
何があっても、私は手を離さない。
きっと、もう友達だから。
アヤスペ…
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スペシャルウィークとアドマイヤベガのショッピングモール後
きっと、それもたまたまだろう。いや、たまたまでなくては困る。ショッピングモールに入って、まずはと目指した一つ目の服飾店。ちなみにスペシャルウィークさんは何も下調べをしていなかったので、なぜか私が先導しているのだけど。それはともかく、これはたまたまだ。
フリルがひらひら、リボンが目一杯。全く詳しくない私でもわかる。この店は普通じゃない。たまたまでなければ、こんな店には入らない。もちろんまずはの一店目で、すぐにこの店を出るという選択肢もあったはずなのだけれど。
「お客さま、もしかしてロリィタファッションにご興味がおありですか?」
「ろり……ぃた?」
「ああ、まずそこから説明いたしますね! でもきっとこの店に入ってくださったからには、必ずお客さまの気に入る服を見つけさせていただきます!」
「わあっ、ほんとですか!? ありがとうございます! よろしくお願いします!」
横に並ぶスペシャルウィークさんが、あれよあれよと完璧に営業トークに丸め込まれるのを見て。
なんとなくこの店からは出られないな、と直感したのだった。
「まずはロリィタと一口に言いましても、何個か種類がありまして──」
「ふむふむ──」
流れるようにはじまった講義を尻目に、私は店内を歩く。まさかスペシャルウィークさんを置いて他の店に逃げ出すわけにもいかないし。確かにそうやって店に飾られた服を見てみると、色々な系統があるようだ。
同じようにフリルやリボン、レースを中心として形作られたファッションであっても、色合いや細かいデザインの差、パーツの組み合わせでその印象は大きく変わる。少し興味深いと思った。服飾とはパズルのようなもので、存外奥深い。もっと見ていたい、とも。
私は一つのマネキンに近寄る。何かを見つけたかのように、導かれるかのように。
「すみません、これ」
「はい、なんでしょう」
そう言って私が店員さんに指したのは、ピンクと白を基調としたコーディネートを成されたマネキン。ふわふわのコートとレースの靴下が可愛らしく、まるでお姫様のような雰囲気だ。多少着こなすのは難しそうだが、これくらいなら。
「これを、あそこにいる彼女に着てもらえないかなと思って」
彼女のような素敵な女の子なら、どんなものだって似合うだろう。それくらいはわかる。いままでのか細い付き合いでも、それくらいなら。ちなみにスペシャルウィークさんはまだあそこで別の店員さんの説明を受けている。その頭から煙が出ているかのような幻が見える気がする。おそらく大量の情報を処理できていないのだろう。
それならば私が選んでやったほうが、都合がいい。そんな気がした。
そう、思ったのだが。
「お客さま、お言葉ですが」
「はい、なんでしょうか」
「ご自分で気に入った服なら、自分で着るのが一番だと思います」
「……それは」
「もちろん人によって、似合う似合わないはありますが。そこは我々にお任せください。その人の望むコーディネートをサポートするのも、私たちの役割です」
そんな意識外からの発言で、私の思考はしばらく止まる。私の望む。私のための。そうか、だから私は。
私の心情というものがあるのなら、それは空虚でがらんどうだ。だから、私の望みはない。だから、私のためには何も起こらない。そのはずだった。
けれど今の私は、我が身を着飾る服に惹かれていた。それもどこか浮世離れした、今の私とは違うものに。私自身が、それを着たい。そう、変わりたい。きっとそう思ってしまったから、この瞬間に手を伸ばしてしまったのだろう。ならば、それならば私は。
「いえ、やっぱり大丈夫です。すみません、呼んでしまって」
それならば私は、伸ばした手で何かを掴むことだけは避けなければならない。私の全てが空っぽだとしても、それはあるべき姿だから。どんな色も光も、そこには必要ないのだから。
「そうですか。それなら私どもとしましても、無理強いはできませんので」
「すみません」
「いえ、それは店員の仕事ですから。大丈夫ですよ」
そう言って、その店員さんは去っていく。仕事だから、ということを理由にするのなら、それは私の生き方そのものと似ているのだろう。けれどそれらは決定的に違うところがある。今去って行った彼女には自分自身の日常があって、私の日常は何もないということだ。
強いて何かがあるとすれば、新月の夜の語らいだけ。私はやはり、そうあらねばならない。そのはず、だ。
なのに。
「あっアヤベさん、お待たせしました〜! すごいですね服って、なんだかいろんな種類があるらしいですよ、全然覚えられなかったですけど」
なのに、どうして。どうしてあなたは、私の視界に存在するの。きっと、私たちの出会いはたまたまだった。だからそれ以上にはならないと信じて、きっと私はそう信じていたからあなたと関わった。そのはずだった。
けれど何度か会えば、それに従い言葉を交わすようになって。いつからか互いの姿を目で追って、言葉で呼び止めさえするようになって。
「大丈夫よ、スペシャルウィークさん。待ってないから。少しこちらでも、考えことをしていただけだから」
そして今こうして、私とあなたは同じ時間を過ごしている。言葉をかけ合い、離れてしまえばまた一緒になるのを待ち続ける。そんな関係。
そこまで、私たちは深く関わっている。
そこまで、光は侵蝕している。
「アヤベさんは、何かいい服見つかりましたか?」
「……いいえ。他の店を見てみるのもいいかもしれないわね」
スペシャルウィークさんは無邪気に問う。でもきっと彼女は直感的に、私がこの空間を気に入ってしまったことに気づいているのだろう。あなたはそういう子だ。鋭くて優しくて、だからこそ私はあなたが怖くてたまらない。
だから嘘を吐いた。私があなたを裏切る限り、絶対にこれ以上親密にはなれないはずだから。
「そうですかあ……。実は私、もうここで服買っちゃおうかなぁって思ってて」
「分かってると思うけど、ここの服は一般的なファッションじゃないわよ。ファッション誌のインタビューには向いてないかも」
「それは、そうなんですけど。でも、さっきの店員さんに説明を受けて。本当はあんまり何言ってるかわからなかったんですけど、これだけははっきり覚えてることがあって」
「何かしら」
「『ロリィタファッションは、幼い頃の夢を叶えるファッション』、なんですって。確かに今の私とは違って手は出にくい服装ですけど、その考えは素敵だと思って」
「なるほど、要するに。店員さんの言葉に感化されたから、ここで服を買ってしまいたい。そういうことかしら」
影響されやすそうな子だとは思っていたが、案の定という感じだ。そのくせ他人にも強い影響を与えてくるから始末に負えないのだけど。そんなふうに言ってやると、少し照れくさそうにスペシャルウィークさんは頬を掻いて。その後に一つ、言葉を付け足した。
「それで、よかったら。アヤベさんも一緒に買ってくれたらー、なんて……どうでしょうか」
「……はあ。一応、そう提案するに至った理由を聞かせてもらおうかしら」
「えっと、そうですね。やっぱり一人で買うというか、着るのは恥ずかしくて」
「それなら着なければいいんじゃないの? というより、それじゃインタビューなんて受けられないでしょう」
「でもでもっ、一度着れば怖くないと思うんです。……そしてそれは、アヤベさんもです」
なんで。唐突にも思える名指しに、私の心は揺れ動く。
「なんでそこで、私が出てくるのかしら」
なんで私が怖がっているのが、あなたには分かってしまっているのか。
「だってアヤベさん、ずっとその横にある服、気にしてますよね?」
「そうかしら」
「そうですよ。もう流石にちょっとくらいなら、アヤベさんの考えてることもわかりますから」
なんで私自身すら気づいていなかった心臓の高鳴りまでも、あなたは聞き取ってしまうのか。
なんで、なんで。なんでどこまでもあなたは、私に触れてしまうのか。
「だからせっかくだから、ここで買いましょう。……きっと二人一緒なら、怖くないですよ」
そう、あなたは言葉という手を差し伸べる。私は、その手を振り払いたくて。なのに振り払うためには、一瞬あなたに触れなくてはいけなくて。その一瞬ですら、あなたが私を灼くのには充分足りてしまうだろう。だから、振り払えない。
「……はあ。なら、あなたの服も選びましょうか」
「やった! せっかくですし、もうここで着替えちゃいましょうね!」
「いや、それは」
「だめですよ、そうしないとアヤベさん、絶対買いっぱなしにするじゃないですか」
「……仕方ないわね」
そんなふうに、あれよあれよと話は進み。スペシャルウィークさんが買ったのは、フリルとリボンが存分にあしらわれたドレスのような一式だった。いや、一応ワンピースなのだけど。本当にこれを日頃のファッションとして紹介するつもりだろうか。度胸があるというか、怖いもの知らずというか。その片棒を担いでしまった私には何も言う資格はないので、粛々と二人で会計を済ませる。
「……服ってこんなに高いんですね……」
「そういうのは店の中では言わないことね。後で帰ってから返してくれればいいから、ここは私が払うわ」
「うぅ、すみません……」
マネキンを指して店員を呼べばコーディネートがそのまま買えるというのはありがたいシステムだが、思ってもみないパーツの多さには少々驚いた。意匠の多いファッションだから、それなりに値段はするのだろう。それだけ着るのも大変そうだと、数刻先の予定にため息を吐いた。
更衣室をそのまま借りて、それぞれ服を持って個室に入って。こんな申し出を受け入れてくれた店員さんには感謝しないといけないな、と思いつつ、着替えるべき服を手に取る。……このコート、ふわふわだ。ふわふわで、もこもこだ……。思わず軽く感動してしまう。高級なブランドのふわふわとは、かくも素晴らしいものなのか。気持ちいい。ずっと触っていられる。思ったより数倍、いい買い物をしたかもしれない。……半分下着姿でそれは誰も見ていないとはいえ流石にみっともないと気づいたのは、しこたまふわふわを堪能した後だった。
最初にジャンパースカートを着て、ブラウスを上から重ねる。さらにその上にふわふわのコートと、マフラー……。今更だが、ここの服はこれから夏だという時に着るものではない気がする。インタビューにも浮いてしまいそうだし、当初の目的からは随分ずれてしまっていた。
まあそれでも、悪くない。
「スペシャルウィークさん、着替えたわよ」
「はい、こっちも着替えましたから、せーので見せ合いっこしましょう!」
「いやに元気ね……まあ、構わないわよ」
「はい! じゃあ、せーの!」
「せーの」
そうして、二人同時に更衣室のカーテンを開ける。そうして恐る恐る、あるいは期待に満ち溢れながら横を見る。お互いに目を見開いて、あなたの顔はぱあっと花開いて。
私の方はそこまで表情豊かには出来ないけれど、自分も言葉で言い表せない素晴らしさを伝えられていたらいいな、と思った。
「えへへ……どうですか、アヤベさん」
「素敵だと思うわ。……本当に」
薄い筋の通った何層もの白い生地の上に、赤いリボンがいくつも添えられているスカート部分。上半身の部分は黒地に花びら風のレースが組み合わされていて、本当に可愛らしい。まるで絵本から飛び出たお姫様のような格好だけれど、それがしっかり彼女に似合っている。
『幼い頃の夢を叶える』、だったか。そんなファッションのコンセプトを体現している、素人ながらにそう見えた。
「ありがとうございます! アヤベさんも、とっても可愛いです!」
「……可愛い?」
「そんなところで自信無くさないでください! ほら、ここに姿見ありますから、ほら」
そうやって、促されるままに。私は鏡に映った自分自身を見る。私の姿を。見たことのない、私を。
(これ、は)
レースをふんだんに使った淡いピンクのジャンパースカート。そしてそれよりすこし柔らかく濃いピンク色の、ふわふわなファーコート。衿元や袖のリボンや服の端にあるレースがワンアクセントになっていて、総じて小さく可愛らしい印象を与える服装だ。きっと普段の私の印象とは、かけ離れた服装だった。
「どうですか、すっごく可愛くないですか! なんだか新しいアヤベさん、って感じがします」
「……ええ、そうかもしれないわね」
新しい。今まで見たことがない。そんな彼女の印象は、おそらく的を射た表現だろう。彼女ですら気づかないほどに。だってこれは、きっと。
ずっと不思議だった。何故私が、この服に目をつけたのか。きっと私とはかけ離れているのに、服装なんて気にしたこともなかったのに。店員さんも言っていたように、「私が気になった服」は、「私」が惹かれた服なのだろう。ようやく、その謎が解ける。この服に惹かれた存在。その本当の意味は。
(私はあの子の代わりに、この服を着たいと願ったんだ)
「幼い頃の夢を叶える」それがロリィタファッション。そして私は、幼いままのあの子と二人で一人。だから私は、ここに惹かれた。だから私は彼女のために、「彼女に似合う」服へと導かれたのだ。私がそれを着ることで、彼女がそれを着ることまでも再現していたのだ。あの子の夢を叶える。それだけのために生きてきた私にとって、そこに近づけた感覚は、どうしようもなく愛おしくて。
幼い頃の夢という言葉は、私にとっても切り離せないフレーズだった。スペシャルウィークさんにとって、母親から託されたそれが今でも支柱になっているように。それはきっと、私と彼女で同じこと。それに今、やっと気づけた。だからこそ彼女のおかげで、今日一つのことを成し遂げられたのだ。スペシャルウィークさんのおかげで、だ。
「アヤベさん……? そのもしかして、泣いて」
「ごめんなさい。……ごめんなさい。でも、ありがとう」
「大丈夫、ですか? でも本当に、似合ってますから。アヤベさん、素敵ですよ」
きっと、そうなのだろう。あの子に、この服は似合っている。だからたとえ私がどうなろうと、この瞬間の「私の姿」には意味があるのだ。
つーっと、頬を撫ぜる透明な雫。しばらくの間、それは止まらなかったけど。
きっと、幸せだった。
「さっきはごめんなさい。それにしても確かに、ここのお店美味しいわね」
「ですよね! ……じゃなくて、そんなこと気にしないでください! 今日は本当にありがとうございました」
そうやって装いも新たにしたあたりで、ちょうど昼ごはんの時間帯だった。スペシャルウィークさんおすすめのお店がこのショッピングモールにはたくさんあるらしい。そういうわけで、そのうちの一つの洋食屋に入ったのだ。この服装でも入って良さそうな店、という点も含めたチョイスだった。
わかりやすくじろじろと見られるというわけではないが、当然目立つ格好だ。個人的には特に腕あたりの肌触りがいいので、それはそれとして置いておける程度の問題だが。
「それにしても、本当にその格好でインタビューを受けるつもり?」
「はい! だってせっかく、アヤベさんと選んだんですから!」
「何がせっかくなのか、よくわからないけれど」
予算も使い切り、今更他の服を買う余裕もない。となれば確かにスペシャルウィークさんの言う通りなのだが、彼女はそれでよかったのだろうか? そういった疑問の提示のつもりだったが、屈託もなくそう返されてはどうしようもない。
「アヤベさんも、似合ってますよ」
「それは何回も聞いたわよ」
「何回でも言っちゃいます」
「……はあ、仕方ないわね」
そうやって、二人で少し目立つ格好をして。そのまま外食をして、他愛もない話をして。そんなふうにして、時間は緩やかに過ぎていく。心地いいと、少し思った。この関係がどういったものかは曖昧だけれど、少しだけ心地いい。そんな私の考えを見透かすように、スペシャルウィークさんも同じようなことを言う。
「なんかいいですね、この感じ」
「そうね。私も、悪くない」
「ふふっ、それならよかったです。今日が始まるまで、実はうまくいくかどきどきでしたから」
「うまくいったと言っていいのかしら」
「それはもちろん。仲良くなれましたから」
仲良くなる。それは多分、一般的には素晴らしいことだ。人と人が分かり合えるのなら、それ以上のことはない。それが人間の理屈。けれどそれは正確には、生者の理屈で。私があの子のことを想うには、それを避けねばならないはず。
それでも、私は誰かと関わりを持つ。そのうちの一人がスペシャルウィークさんで、今までの私はそれらの関係と距離を置くことで自身の現状を成立させていたはずだ。だから当然彼女とも、そうしようとしたはずだ。けれど、出来ていない。彼女と私の関係に、他と違うところがあるとすればそれだ。
距離は置いている。そのはずなのに、わたしの心は揺れ動いている。彼女の放つ陽光に、私の体は晒されてしまっている。どうしてそうなってしまったのか、どうしてそれを止められないのか。
きっと、たまたま出会っただけのはずなのに。
「あのアヤベさん、笑わないで聞いてくださいね? 今ふと、思ったことなんですけど」
「……いいわ、何かしら」
そして、その理由は。私にはきっと気づけなかったその答えは、彼女にはわかっていた。屈折し歪曲した私という存在を、やはりその眩しさは暴き立ててしまう。
「アヤベさんって、お姉さんみたいだなって。私のことを助けてくれる、お姉さん」
彼女が唯一わからないことがあるとしたら、その発言がどれだけ残酷なものかということだけだろう。
もちろん、彼女に罪はない。罪悪を重ねたのは、そう感じさせるような接し方をしてきた私の方だ。ずっと私はあの子の影を見ていたのだ。いつものように。「スペシャルウィークさん」ではなく、あの子を。それを見抜かれていた。彼女は、見抜いてしまっていた。
「……アヤベさん? どうかしましたか」
「いえ、大丈夫よ。……ごめんなさい」
「何も謝られるようなことはしてないですよ。それより、いつもこっちが感謝してるようなものですから」
やめて。
「私が変なことをしてたら、気にかけてくれたり」
やめて。
「私が話しかけたら、どんなことでも親身に聞いてくれますし」
やめて。
「今日だって、一緒に買い物までしてくれて! 本当に、ありがとうございます」
もう、やめて。
それらは一つだって、あなたのためにはしていないことだ。あの子を失った私の代償行為。私が積み上げた罪の証。そんなものに、あなたの気持ちを使わないで。
そう、今すぐ全てを言ってしまいたいのに。何もかもを、終わりにしたいのに。
「……いいえ、大したことはしていないわ」
「もう、アヤベさんはすぐ謙遜しちゃうんですから」
私にできる絶叫は、そんなか弱い譲歩の形を取ることだけだった。
そのあと少し食事をして、また世間話をして。それは先程までとなんら変わらず、先程までの続きにあるものだったけど。たとえば何かが変わったわけではなく、今までの見え方の意味がわかっただけ、だけれど。
世界が色褪せているように思えた。
きっと、そうに違いなかった。
「じゃあアヤベさん、寮に着くまではこの格好ですから」
「……ええ、そうね」
「一人ならびっくりされるかもですけど、二人なら大丈夫ですよ!」
「……ええ、そうね」
帰路に着く頃にも、まだ空は青かった。梅雨時だけれど、今日は雨は降っていなかった。
今すぐにでも降って欲しかった。
「アヤベさん、聞いてますか?」
「……ええ、そうね」
「聞いてないじゃないですか! それなら」
そんなふうに上を見上げていた私の視界の下半分に、場違いな格好の少女が映る。そうしてそのまま、彼女は。
「ほら、行きますよ!」
「うわっ、ちょっと」
手を引いた。私の手を。時さえも閉じ込める牢獄から、まだ見ぬ外へ連れ出すように。
「スペシャルウィークさん、何を急に」
「だって、急に元気なくなるんですもん! そういう時は走るって、ウマ娘の鉄則です!」
そう言いながら、彼女はスピードを上げて。私も釣られて、やがて更に加速して。並んで走る頃には、手を繋ぐ必要はもうなかった。
走るのにはどう見ても向かない格好で、どこまでも駆けて行くウマ娘が二人。気持ちの面まで並び立てているとは、とても私には言えないけれど。
あなたはどこまでも、私を見ている。私がそれに報いれているとは、決して言うことが出来ないのに。これからだって永遠に、報いることはできないのに。
なのに。なのに、彼女の言葉を振り払えない。あまつさえ彼女の存在に、私自身への救いを求めてしまう。求めるのはあの子の幻影で、彼女自身ではない。それは不誠実で不純で、唾棄すべき動機だ。そもそも自分自身のことなんて、どうだっていいはずなのに。そうずっと、私はそうしてきたはずなのに。
ぼろぼろだった。わかるのは、今なぜか手足が必死に動いていること。横には、楽しそうに笑うあなたがいること。そしてそれに置いていかれたくないと、そんな望みを持ってしまっていること。私が近づくのは、彼女のためにならないとわかっているのに。何もかもが私の行動を、否定して止めようとしてくれているのに。
それでも私の心が今持つ感情は、一つだけ。壊れた機械のように、その一つだけを遂行する。
たとえ、私があなたを見ていないとしても。
どうか、あなたのそばにいさせてほしい。
きっと、いつか地獄に堕ちるとしても。
これからもこの文字数にはならないと思います
信じてください
この文字数になっても読んでください
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スペシャルウィークとアドマイヤベガとハンバーグ作り前
というわけで今回は反省して三分割します
すみません!
きっと、たまたまなのだと思う。深い意味はなくて、偶然で。だって今までは滅多になかったことだから、これからも滅多にないことのはず。だからきっと、たまたまだ。
けれど、もしそれがたまたまではないのだとしたら。アヤベさんの方から、私に話しかけてくれること。それがもし、単なる気まぐれではないのだとしたら。
そうやって伸ばしてくれた手を、私は離したくない。そう、思うのだ。
「ふぅ……これ、ご飯時までに終わるかなあ……」
そんな弱音を吐いた午後五時ごろ。寮のキッチンにて、私スペシャルウィークは一つの大仕事に取り掛かろうとしていた。ずばり、料理である。
もちろんトレセン学園の食堂は食べ放題かつ絶品で、そこで朝昼晩を済ませることにはなんの不都合もないのだけど。それはそれとして、今日は自分で作りたい気分なのである。これには深ーい訳がありまして……。
「何してるの、スペシャルウィークさん」
「うわっ、アヤベさん!?」
そんなふうに食材の前で唸っている時、だった。アヤベさんが私に声をかけてきたのだ。おそらくはたまたま通りがかって、たまたま見かけて。そしてたまたま、話しかけてきた。うん、まあ確かに気になる光景ではあるだろう。改めて、買ってきた食材を順に見ていく。
ひき肉、玉ねぎ、パン粉、牛乳に卵、そしてにんじん……その他諸々。それぞれ結構な量を買ってきてしまった自覚はあるが、私のお腹にはこれくらいないと足りないのでありまして……うう、それをまじまじと見られるのはこう、恥ずかしい。
「あなた、料理なんてするのね。いえ、意外とまでは思わないけど」
「そうなんです、久しぶりにというか、実家ぶりにというか……」
「なるほどね。それでどこから手をつけていいかわからない、と」
「はい……。作り方は覚えてますよ、何度もお母ちゃんと作ったにんじんハンバーグですから!」
「にんじんハンバーグなら、食堂でも出ると思うけど」
「それはそうですけど! でも、たまにはそういう懐かしい味、みたいなのが食べたくなる時あるじゃないですか」
我ながら、食へのこだわりは強い。アヤベさんは反対に、あまりそういうのへの関心はなさそうな感じではあるけれど。けれど個人的に思うのは、そういう人でも美味しいものを美味しいと思わないはずがないということ。つまり食べることの楽しさは、誰にだってわかるはずのことだ。
「……懐かしい、ね」
「はい! もちろん完全にお母ちゃんの味を作れるわけじゃないですけど、それでも食べれば思い出せるかなって思いまして。なので、今日はちょっと気合を入れて、具材までは揃えたんですけど」
「そこで最初に戻るわけね」
「はい……」
そう、そういうことである。買ってきて初めて分かったのは、私のような大食らいのために毎日料理を作ってくれていたお母ちゃんはとんでもないということ。買ってきてようやく分かったので、買うことは止められなかった。さて、どうしましょう。ほんとに。
そんな私の後ろ姿から、露骨にてんてこまいなのを感じ取ったのか。見かねて、という感じで、アヤベさんが口を開いた。
「食材、無駄にしたらもったいないでしょうし。手伝いましょうか? 私でよければ、だけど」
「ほ、本当ですか!?」
通りがかって目に留まったからというだけなのに、若干かなり申し訳ないけれど。その申し出を断るわけにはいかなかった。確かにアヤベさんの言う通り、食材を無駄にするわけにはいかないし、それに。
「なら頑張りましょう! よーし、けっぱるべー!」
「急に元気になったわね、あなた」
「なりますよ、そりゃ」
「よくわからないわね」
だって、あなたと同じ時間を過ごせるのだから。恥ずかしくてこそばゆくて、絶対口には出せないけれど。大切な人と何かを分け合えることは、きっととても素敵なことだ。私にとってだけじゃなく、私たちにとって。
「さあ、じゃあ作りますよ! まずは玉ねぎ! これ全部切りますから、分担してやりましょう!」
「あまり詳しくないけれど、玉ねぎ三個はハンバーグ何個分なの」
「本来なら……六個くらい? でも大丈夫ですよ、全部食べますから!」
「何というか、恐ろしいわね……。止めはしないけど」
「はい、じゃあ切りますよ!」
「分かったわ、やるわよ」
そうして、とんとん、とんとんと。玉ねぎのみじん切りといえば、もちろんハンバーグ作りには欠かせない工程なのだが。そこには当然のようについて回る問題が一つある。文字通り、いくら切っても切り離せない問題が。
「うぅ〜、沁みます、目がぼろぼろです、アヤベさあぁ〜ん……」
「これ、すごい来るわね。……ぐすん」
玉ねぎといえばの涙腺刺激で、二人で涙と鼻水まみれ。アヤベさんにまでそんな格好をさせてしまうのは、なんというか若干許されないことをしてしまった気がする。
……とはいえ、アヤベさんの涙を見るのは初めてではない。一緒に服を買いに行ったあの日、可愛らしいロリィタファッションを、勇気を出して二人で着たあの日。あの日、アヤベさんは自分の姿を見て泣いていた。何故かはわからない。似合っていて嬉し泣き、という雰囲気ともまた違っていた。私はきっと、まだアヤベさんのことをよく知らないから。だからあの時は、そばにいることしかできなかった。
でも、と思う。もしも、と思う。きっと、次にアヤベさんが涙を流すことがあるのなら。今の玉ねぎとは、別枠だけど。その時こそ、私は。私はあなたの手を握って、その痛みさえ分け合って。楽しいことも辛いことも、分け合えば、きっと。
「あなた、手が止まってるわよ」
「あっ、すみません! 考えごと、してました」
「……包丁を持ちながらは危ないわ。気をつけるのよ」
「はい。ありがとうございます」
そんな少しの気遣いも、何だかとっても嬉しい。アヤベさんと私の距離は、きっと前より縮まっている。そしてこれからも、もっと。そうであって欲しいというのは、私の一方的な考えだろうか。でもそうであったなら、やっぱり私は嬉しいのだ。
そうしてなんとか、玉ねぎを切り終えて。みじん切りの山は見ているだけで泣けてきそうだ。別の意味で。なのでさっさとフライパンで炒めよう。どでかいフライパンがあればよかったけれどそういうわけにもいかなかったので、玉ねぎの山を二つに分けて二人で炒める。並んで、じゅうじゅう。そんな待ち時間を有効活用しようと、私はアヤベさんに話しかける。
「そういえばアヤベさんって、料理なさるんですか?」
「サンドイッチくらいなら。外に持っていくのにちょうどいいのよ」
「なるほど、外に。散歩とかですかね」
「そんなところね。サンドイッチだけは手慣れてしまったかも」
機能を重視した食事っぽいのは、流石にアヤベさんらしいというか。けれど外に出かけることがあるというのは、今までのアヤベさんからは教えてもらっていないことだ。そりゃもちろんインドア派だとしても、全く外に出かけないわけはないと思うけど。
「何かしら、その笑みは」
「別に、何でもないですよー?」
顔に出てしまっていたか。そんなふうに私の知らないことを、少しずつ少しずつ新しく教えてくれる。それはきっと親愛の証。前よりずっと、仲良くなれた証拠。やっぱり、そう思いたい。
きっと、私たちはもっと仲良くなれるのだ。
アヤスペの幻覚はそろそろ市民権を得てきたのではないかと信じているのですが皆さんは見えてきましたか?
見えていたら感想や評価をください!
孤軍奮闘より味方がいた方が嬉しいです
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スペシャルウィークとアドマイヤベガとハンバーグ作り中
きっと、この状況はたまたまだ。奇妙な光景。私とアヤベさんが二人で一緒に、ハンバーグを作っている。ちょっと前まではあり得ないとさえ言えるような、滅多にない状況。でも今なら、たまたまの確率くらいなら。
きっと、それくらいなら起こり得るようになった、そんな偶然で、だけど今だからこその状況。
二人で一緒に料理をする。そんなどこかではありふれた、それが私たちが今過ごす時間。
「さて、そろそろ次ですね! 玉ねぎが炒め終わったら、次はいよいよひき肉……じゃなくて、そうだそうだ、忘れてました」
フライパンの火を止めて、私はアヤベさんに次の指示を伝える。玉ねぎを炒め終わったあたりで登場する、ここが私のこだわりポイント。お母ちゃん直伝の、ひとアレンジだ。
「ここにある、にんじん。これも細かくみじん切りにして、また玉ねぎと同じように炒めます」
「なるほど、それがあなたの家のにんじんハンバーグの作り方、というわけね」
「はい! もちろん普通のハンバーグより、手間は増えちゃうんですけど」
にんじんを刻んでひき肉に混ぜ込む。お母ちゃんがいつもやっていた、にんじんハンバーグの作り方だ。なんでも一本そのまま火を通してハンバーグに突き刺すのは、結構テクニックが必要で難しいのだとか。
「こうなったら乗りかかった船だから、手伝うわ」
「ありがとうございます! 結構大変なんですけど、これはこだわりたいところなので」
「こだわり、ね。あなた、お母さんを大切にしてるのね」
「えへへ、そうかもしれません」
アヤベさんにそんなふうに言われ、素直に照れてしまう私。けれど隠すようなことでもなく、私はお母ちゃんのことを大切に思っている。私に叶えたい夢をくれた、お母ちゃんのことを。
そしてそれは、一人だけじゃなくて。
「……実はこのレシピ、それなりに歴史がありまして」
「『聞いて欲しい』って顔してるわね。いいわよ、興味があるわ」
「ありがとうございます。えっと、お母ちゃんがいつも作ってくれたって言ったじゃないですか」
「そうね」
「それは、育てのお母ちゃんの話ですけど。この作り方自体は、育てのお母ちゃんが生みのお母ちゃんから教えてもらったものだそうなんです」
「……それは」
「だから私にとって、このにんじんハンバーグは二人のお母ちゃんの思い出の味なんです。小さい頃からずっと食べてきた、大切な味なんです」
生みのお母ちゃんは、私が生まれてすぐに亡くなってしまった。けれどその大切な友達だった育てのお母ちゃんが、私の子育てを引き継いだ。もちろんお母ちゃんから直接聞いたことはないけれど、そこには他の誰にだって秘密の、二人だけの会話があったのだと思う。
そしてその二人の繋がりのおかげで、今の私は生きている。生みのお母ちゃんのことも、育てのお母ちゃんのことも。何も忘れず捨てず消さずにこうして今を生きられるのは、想いを受け継いでいられるから。そう育ててくれた、おかげだ。
「……そう、だったの。きっとあなたの二人のお母さんは、二人ともあなたのことを大切に思っていたのね」
「そうだったら、嬉しいですね。私も同じように二人のお母ちゃんのことを大切にできていたら、もっと嬉しいです」
「きっと、できているわ。私なんかが言っても、信用ならないかもしれないけど」
「……そんなこと、ないですよ」
とんとんと、包丁の音が協奏する。その上で二人きり、言葉だけが跳ね回る。静かな舞台の上だけど、そこにはもういっぱいの。
「アヤベさんは優しい人です。それは私にもわかります。そして多分、厳しい時は厳しく言える人です。お世辞なんか苦手だと思います。……だから、アヤベさんの言うことは信用できますよ」
「……ごめんなさい」
「なんで謝るんですか。褒めてるんですから、しっかり受け取ってください。そうじゃないと寂しいです」
「いえ、私は」
そう言って、顔を背けようとするアヤベさん。この人は時々強情だ。多分きっと、自分を褒めるのに慣れていないのだと思う。それは個人の性格だし、私だって誰かに慰めてもらわないとなかなかできないこと。でも、だからこそ。
ぐるり。包丁を一旦手元に置いて、アヤベさんの顔を両手で押さえて。その少し柔らかいほっぺたをこちらに向けて、私はあなたにお願いをする。このやり方は少しずるいかもしれないけど、それでも伝えたいことだから。
「アヤベさん、言ってみてください。『ありがとう』って」
「何よ、急に」
「急にじゃないです。ずっと思ってたことです。アヤベさんはもっと、自分への評価を素直に受け止めたほうがいいです。たとえば前服を買いに行った時も私は可愛いって言ったのに、なかなか納得しなかったし」
「そうかしら」
「ほら、また。そういうところ、ですよ。まあ、とにかく」
ぱっと両手を彼女の顔から離す。そうしても、そのままこちらを向いていてくれた。ならきっと、言葉は繋がる。そう信じて、そう願って。
「はい、言ってみてください。『ありがとう』」
「えっと」
「ほら、『ありがとう』」
「……ありが、とう」
よし、言わせられた。少し、いやかなりもじもじしながらだけど、まずは一歩。卑下も謙遜も何もない、純粋に称賛を前向きに受け止めた「ありがとう」。それが返ってきた。初めて返ってきた。また、一つ。その一つに、私もすっと言葉を返して。
「こちらこそありがとうございます、アヤベさん!」
きっと、そうやって。互いに歩み寄るのだろう。
「あとは、全部を混ぜるだけね。大きすぎるし、これも二人でやった方が良さそうね」
ひき肉も卵も玉ねぎもにんじんも一つのボウルにぶち込んで、ビニール手袋でなんとかそれを混ぜる。二人で一つのボウルに集中しないと、混ぜ切るのにかなりの時間がかかってしまいそうな量だ。つくづくアヤベさんがいて助かった。それにしてもお母ちゃんはどうやってこれを一人でやり切っていたのだろう? さっぱりわからない。
「はい、あと一歩ですね! アヤベさん、本当にありがとうございます」
「どういたしまして。これならちゃんと、夕飯時には間に合いそうね」
そう言いながらひき肉を力いっぱい混ぜ込むアヤベさん。その姿を見て、そういえば、と思った。すぐに聞いてみる。なんで、今まで気づかなかったんだろう。
「そういえばアヤベさん、アヤベさんは晩御飯どうするんですか?」
「私?」
「そうですよ、すっかり忘れてました。食べる予定とか、ありますか?」
「まあ普通に、食堂に行くかしら。特に考えてはいなかったわね」
よし、それなら。タイミングがいいというか、アヤベさんならいつも通りなのかもしれないというか。ともあれこういう成り行きなら、この先にある結論は一つだろう。
「ならアヤベさん、よかったら、なんですけど」
「何かしら」
きょとん、と首を傾げるアヤベさん。全く何を言われるか思いもよらないという顔だ。私としてはむしろ、アヤベさんの方から主張してもいいくらいの権利だと思うのだけど。
まあ、それならそれでこちらから言おう。気付いていないことを気付かせるのも、助け合いの一つだから。
「一緒に食べませんか、このハンバーグ」
ほんの少し、勇気が必要な発言だったけど。それでも私は確かに、あなたに手を差し伸べる。その手を取ってくれるかはわからないとしても、それでももっと近づきたいから。あるいはあなたもそう思っていると、私の中ではもうわかっているから。
きっと、確かに信じているから。
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スペシャルウィークとアドマイヤベガとハンバーグ作り後
編?なのか?
アヤスペそろそろ浸透してきましたね
きっと、そんなことを言い出したのもたまたまだ。アヤベさんとハンバーグを作り出して、それもいよいよ大詰めといったところで。私はアヤベさんに一つの提案をした。大それた提案。当たり前の提案。どちらか判別がつかないから、これも偶発的なものだろう。
「一緒に食べませんか、このハンバーグ」
そう、聞いた。きっと、伝わった。生みのお母ちゃんと育てのお母ちゃん、二人から教わったレシピで作ったにんじんハンバーグ。私自身のために作っているそれを、アヤベさんと一緒に食べるということ。
手伝ったのだから一緒に食べるというのは、ある種当たり前の結論だけど。きっと、その問いにも、答えにも。勇気が必要なのは、それこそ当たり前だった。
ひき肉を捏ねていたアヤベさんの手が止まる。確かに迷い、思い悩む。それが伝わる。けれどその先には否定しかないなんて、決まっているはずがない。
「……これは、あなたの思い出の料理でしょう。あなたと二人のお母さんのためのもので、私は関係ない」
「確かに、そうかもしれませんけど」
やっぱりそうやって、アヤベさんの言葉は否定から始まる。きっと、それは私のことを考えてくれているからこそなのだろう。
「なら、一人で食べるべきよ。……それは、亡くなったお母さんとの語らいでもあるのでしょう」
「はい。アヤベさんの言う通りだと思います。でも。でも、そうじゃなくて」
「……何かしら」
「生みのお母ちゃんはきっと、私が自分のせいで一人きりになって欲しいなんて思ってないはずです。これは、私の勝手な想像かもしれませんけど」
遠くに別れて離れ離れになってしまった、いつか亡くした人を想う。それは絶対に大切なことだ。私はだから、生みのお母ちゃんのことを忘れたいなんて思わない。
だけどそれは、生みのお母ちゃんのことだけを考えるってことじゃない。今の自分が頑張っている姿を見せることで、きっと空の向こうにだって私の幸せは伝わるのだから。
だから。
「だから私は、生みのお母ちゃんのことを考えるのなら。今日ならアヤベさんと、一緒に考えられると思ったんです」
「私と一緒に? それは、無理よ。私はあなたのお母さんのことなんて何も知らないし、その資格はない」
「知らないのは、私も同じです。私にとって生みのお母ちゃんは、物心つく前に亡くなってしまった人ですから」
「……それ、は」
アヤベさんの口が固く噤まれる。何かを言おうとして、それでもそれを止めた顔だ。……アヤベさんはそうやって、私を気遣ってくれている。そして、そんな人だから、私はこうして。
「アヤベさん。アヤベさんはいつも、私に優しくしてくれます。だから私も、二人のお母ちゃんのことまで話しちゃいました。もちろんこんなこと、誰にでもなんて言えませんよ。アヤベさんがそれを優しく受け止めてくれる人だから、話せたんです。さっき言った通り、アヤベさんは優しい人ですから」
「……ありがとう。でも」
「だから、です。アヤベさんは多分、私の生みのお母ちゃんのことを本当に真剣に考えてくれてるんだと思います。だからそうやって、自分からは遠ざけようとして。でも、だから。そんなアヤベさんだから、私は一緒に、生みのお母ちゃんの思い出を一緒に分け合いたい」
きっと、個人的な事情は誰かと分け合うには難しい。辛くとも楽しくとも、一人で抱えてしまうのが一番簡単だから。でも私は今ここに、分け合ってもいいという人を見つけた。だからこれは私のわがままだ。あなたを手放したくないという、私のわがまま。
「だから、お願いです」
だけど、そのわがままと共に願うのは。
「私と一緒に、今日は一緒にいてくれませんか」
いつか今度は私の方が、あなたの抱えるものを分けてもらえたら。
あなたにもわがままになって欲しいと、私は心からそう願っているのだ。
少し、沈黙が走る。人気のない暗くなってきたキッチンで、作業の音さえも一つもなくて。灯りは一つだけ。音は一つもない。そんな世界に確かに存在していたと言えるのは、私たち二人だけだった。
やがて、アヤベさんが口を開いた。少しずつ、言葉を紡いだ。世界は、ゆっくりと動き出した。
「いいのかしら、私で。私はあなたが思ってるほど、立派な人間じゃないのに。信じてもらうことだって、間違ってるかもしれないのに」
「それでもいいです。私はもちろん、アヤベさんのことをよく知らないと思います。それでもきっと、大丈夫です。アヤベさんのことを見誤ったりなんてしてないって、自信を持って言えます」
そう言って、私は。すっかりひき肉まみれになったビニール手袋のまま、もう一人のビニール手袋を掴んで。少し逃げようとするその指を、ぎゅっと掴んで離さないで。
薄いビニールで仕切られていたけれど、それでも確かに握っていて。二人で、手を繋いでいて。
「だから、大丈夫です。私はアヤベさんと、一緒がいいです」
きっと、私たちの出会いはたまたまだった。最初から、何度か会うまで。もしかしたら今日だって、少しタイミングが合わなければこんなことにはならなかったかもしれない。
だけど今、私たちは二人で一緒にいる。私はそうしていたい。あなたもそうしていたいと思っていたなら嬉しい。私たちの気持ちが、たまたまでも一致するのなら。確率は低くとも、それが一緒になるのなら。
それが運命でないのなら、奇跡と呼ぶのが相応しい。
「ふう、ようやく完成です〜!」
「こうして見ると、二人の分で随分サイズ差があるわね」
「これくらいでいいって言ったのはアヤベさんじゃないですか! 欲しいならもちろん分けますよ! ちょっと、お腹は空くでしょうけど……」
「だからこれくらいでいいって言ったのよ。あなたがよく食べるのは、もう十分知ってるから」
そうやって少し突き放すように、けれど私のことをよく知って喋ってくれるアヤベさん。これから私たちがする話は、先程の流れの通りの話だ。つまりアヤベさんは、私の願いを聞き入れてくれた。
「……それで私は、何を聞けばいいのかしら」
「はい、それはですね、えっとですね……どこから話しましょうか」
「知らないわよ。……でも、亡くなった人の話って難しいものよ。だから、ゆっくりでいいわ。……ある程度は、なんでも聞いてあげるから」
「ありがとうございます。ならまずは、育てのお母ちゃんから聞いた思い出話から」
「ええ。聞かせて、スペシャルウィークさん」
それから、一晩をかけて。色々なことを話した。トレセン学園の誰かに生みのお母ちゃんについてずっと話すなんて、多分初めてのことだった。育てのお母ちゃんから聞いた普段の二人の話、私を身籠もっていた頃の二人の話。そして私が初めて生みのお母ちゃんのことを聞かされた時の話。色々なことを、話した。
その相手がアヤベさんだったのは、私にとってはきっととっても幸せなことだったのだろう。ずっと優しく聞いてくれて、私の伝えたいことに頷いてくれて。時には相槌だけじゃなく、アヤベさんなりのアドバイスや返事をしてくれて。その中でも一番心に残っているのが、この言葉だ。
「あなたがそんなふうに育ったのも、きっと生みのお母さんのおかげなのでしょうね」
アヤベさんのその言葉で、私は一つのことに気付けた。遠くへ行ってしまった人のことも、今その想いを受け継いでいる人から垣間見ることはできる。だからたとえ遥か彼方へ去ってしまっても、その想いは決して消えないのだ。
それが、私たちが走るということの意味。私たちはウマ娘は、誰かの夢を叶える存在だから。
そんな、ある意味では当たり前のことだけれど。
きっと、あなたのおかげで気付けたことだった。
きっと、これからの私を支えてくれることだった。
きっと。
きっと、それくらい大事な。大切な言葉を、私はあなたから受け取った。
※
今日の私は、どんな顔をしてあなたを見ていただろうか。あいも変わらずあの子の影を、あなたに見ようとしていただけじゃないだろうか。生みのお母さんのことさえも話してくれるあなたに、私はちゃんと向き合えていただろうか。それを話せてしまっている時点で、私とあなたは明確に違うのに。あなたが私を見ているほど、私はあなたを見ていない何よりの証明なのに。
あなたを見ていない。だから信頼していない。だからきっと私があなたの話を聞いて吐けた言葉も、薄っぺらなものに違いない。なんとか苦しみ絞り出して、それでも吹けば飛ぶような言葉しか重ねられない。あなたと私は、それほどまでに違うのだ。
それなのに、今日の私は。あなたに心を開かれたことを、どこかで嬉しいと思ってしまっていて。だから否定しきれなくて、否定した自分の方があなたから否定されるのがたまらなく怖くて。あなたはそれすらあり得ないと言うけれど、あなたを見ていない私にはその言葉は信じられない。
きっと、私はあなたに何も出来ていない。
きっと、これからも私はあなたを騙して生きていく。
きっと。
きっと、それくらい罪深い。そんな咎を告げる役割を、私はあなたに背負わせている。
アヤスペは大詰めに入りそうな雰囲気ですが無限の可能性があります
信じて!
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スペシャルウィークとアドマイヤベガと図書室前
きっと、今日のこれもたまたま。梅雨時なのだから雨が降る日は多く、その気圧に影響されてしまう日もまたそれなりにある。だから気分が優れないのは、たまたま、だ。きっと、それだけのこと。
それ以外の変化の理由。それは、見ないようにしていた。同室のカレンさんにも、最近変わったと勘付かれてしまってはいたけれど。
私たちの関係は、一定の距離感を保ったもの。だからこそ続けていくことができるし、だからこそ心地よい。そう思ってしまったところで、私があなたとの関係に存続と心地よさを願ってしまっていることにも気がつく。見ないようにしていても、変わってしまっていた。
ここはトレセン学園の図書室。窓の外で跳ねる雨の音以外は、何も聞こえない静かな空間。独りになるには最適の場所だ。それ以外のどこにいても、あなたに見つかってしまう気がしたから。
時間を潰すのに適当な本を見繕い、ゆらりゆらりと、ずきんずきんと。少し頭が痛いし、体調は良くないのだろう。こういう時は慣れ親しんだ類の本を読むに限る。頭を使うには向いてない日だ。
『星座のものがたり』
そう題された本を開き、何度も読んだ物語をその本の中にも見つける。何度も何度も読み耽り、その度に私に重ねた物語。
双子座と、その成り立ち。ディオスクロイの物語を。
『ディオスクロイと呼ばれる双子の兄弟ポルクスとカストルは、二人で数々の栄誉を勝ち取りました』
神話に語られる英雄譚。それは二人が二人でいたから成し遂げられた。きっと二人とも偉大な英雄であったけれど、一人では成し遂げられなかった。
『ある時、双子の兄カストルが矢を受けて死んでしまいました。弟ポルクスはそれを悲しみ、自分と兄を共に星座としてもらうよう神に祈ったのです。ポルクスは不死身でしたが、それでも兄と一緒にいることを望みました』
だからきっと、そういう選択をした。片方だけで生きていくのではなく、二人で死を分つという選択。もちろん、現実には不死身はない。神もいない。私は必死に生を求め、そうである限り永遠にあの子と一緒にはなれない。
それでも私の選んだ道は、ディオスクロイに準じるものだ。あの子の想いを生かすため、私のどこかを殺すため。死んだ部分にあの子を埋め込んで初めて、私は走ることができる。
……少し、訂正するべきか。ディオスクロイの物語は悲しいけれど綺麗なもので、私のように拙く醜くはない。私のそれは、死への寄り添い方として肯定されるべきではない。私はそんなことをつい先日突きつけられたばかりだ。彼女の優しい言葉によって。きっと私を肯定するための言葉によって。
時間は回り、図書室にも人が増えてくる。雨はまだ止まないから、それを避けるために皆ここに来るのだろう。雨が止んだら、ここを去るのだろう。それなら私はいつ、この場所から飛び立てるのだろうか。そんな思考も、きっと気圧の変化のせいに違いない。
あいも変わらず少し痛む頭を抑えながら、また暇潰しにページをめくる。ぱらぱら、ぱらぱら。窓越しに香る雨の匂いに、少しだけ使い込まれた紙の匂いが混じる。紙というのは薄いものだな、などと当たり前のことを思った。
一つ一つは薄く、破ろうとすれば誰にでも台無しにできてしまうもの。それが連なって本という形を取れば、誰もがそこに書かれた文字列に意味合いを感じずにはいられない。他愛もないはずのものの積み重ねに、積み重ねたからこその意味合いが生じてしまう。
……これもきっと、たまたまだ。今の私は何にでも意味を見出し、それで己の身体を刺してしまう。そういう気分というだけで、本来はやはり大したことではないはずなのだ。私とあなたの関係は、きっと。
そうやってページを捲る手が、ある一つで止まった。多分これも、たまたま。偶然、私の手は一つの物語を捉えた。きっと、初めて読むわけではないけれど。幾度か読んだうちでは、初めて。初めて、あなたに重ねる物語。
乙女座の物語。一等星スピカを擁する、輝ける女神の物語。
『かつて、人々は争いもなく、神々と共に暮らしていました。そうして人々を見守る一人が、女神アストライアでした』
女神アストライア。慈愛に溢れ、その手には天秤を持つ。正義を計る天秤だ。彼女は常に、正しくあろうとした。
『やがて人々は欲望を知り、互いに争うようになりました。神々は次々と大地を去って行きましたが、アストライアは留まっていました。彼女はまだ、人間に正しさを説こうとしたのです』
人の善性を信じた。どこまでも正しくあろうとした。聞き入れないとはつゆほども思わず、人間の中に善さを見出そうとした。
『しかし、結果は変わりませんでした。アストライアは悲しみながら、それでも己とその天秤を星座として打ち上げ、今も人々を見守ることをやめないのです』
そして、この結末だ。報われない、救われない。彼女は何一つ悪くないのに、触れる相手が彼女の言葉など聞き入れなかったから。己の欲望だけしか見ていなかったから。人はどこまでも閉じ籠ったから、彼女の手はどんなに正しくても届かない。
まるで彼女のようだ、そう思わざるを得なかった。正しくて、優しくて、だからこそ救いようのないモノにすら手を差し伸べてしまう。たとえ神と人のように、永遠に分かり合えない関係だとしても。そう、他人事のように彼女を嘆いた。
そうさせているのは、自分なのに。
だからこそ私は、救いようがないのに。
きっと、私たちの出会いはたまたまだ。たまたま、私と彼女は顔を付き合わせる機会があった。たまたま、それから話すようになった。たまたま、互いのことを目で追うようになった。たまたま、二人で服を買いに行った。たまたま、二人で料理をした。たまたま、彼女の大切な話まで、聞いてしまった。
全てたまたまだ。全て偶然の成り行きだ。だから私は彼女に触れる権利など、最初からずっと持っていないままだ。
彼女は優しく正しいから、何もかもを私に見せてしまう。私にはそれを傷付けることしかできないのに。私があなたに見ているものは、きっと、あの子の幻影だ。そうである限り、私は彼女に何も打ち明けることはない。
他人は傷付けるのに、自分は傷付けられたくないから。
あるいは未だに彼女のことを、他人を傷付ける人間だなどと恐れてしまっているから。
そのどちらかか、両方だ。どちらにせよ、救いようがない存在だ。どこまでも正しい、あなたには。
……さて、雨はまだ止む気配がない。手慰みのはずの読書は、私の心を締め付ける。今日は苦しい午後になってしまうな、と思った。そうしてとりあえず本を畳む。これ以上読んでも、良くない見立てを増やすだけ。それは何より彼女に対して良くないことだ。星座は死を完成とするもの。死から想いを繋げている彼女とは、かけ離れた概念なのだから。
そう、思って。
本を抱えて、図書室の隅から本棚の方へ移動して。その途中、明るい部屋の中心部を、見遣って。
私は、ばさりと本を落としてしまう。両手で抱えていたはずなのに、そこにかかっていたはずの力はたちどころに抜けて。
その音に、周囲が振り向く。ほぼ全員が驚いてこちらを一瞥するのみで、それきりだったけど。一人だけ、こちらをずっと見る瞳があった。もう見慣れた眼だった。大きくて、丸っこくて、けれど綺麗で。星の海のような、吸い込まれそうな輝きで。
きらきら、していて。
こちらを見つけるや否や、その瞳を目一杯細めて笑ってみせて。
(どうして、あなたがここにいるの)
そんな問いはきっと、言えない。むしろ本を拾ったまま、私は彼女に近づいていく。わかっている、この程度のことは偶然だ。喜んではいけない。私にはその資格はない。私はあなたを最後には、拒絶するしかないのだろうから。
なのに、どうして。
まだ、雨は止まない。いつかはそれでも別れたけれど、今日は雨が止むまでは。
きっと、一緒にいられる。それを望んでは、いけないはずなのに。
アヤスペはそんな感じです多分
でも他のアヤスペも見てみたいですね
見せてくれませんか
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スペシャルウィークとアドマイヤベガと図書室中
アヤスペ〜
きっと、たまたま。きっと、偶然。そうであって欲しい。そうでないとしたら、私たちの関係はその先へと進んでしまう。居心地の良ささえ感じてしまうことを否定できないとしても、せめて否定しようというそぶりだけは見せなければいけない。
そうでなければ私は、あなたのその笑顔を壊してしまう。きっと、いつか。絶対に、確実に。だからそれだけは避けようと、私はあなたから離れようと。そう、しなければならないのに。
「あっ、こんにちは。アヤベさん」
どうしてあなたは、私の方へと近づいてきて。
「ええ、こんにちは。スペシャルウィークさん」
どうして私は、あなたの方へと導かれてしまうのだろう。
雨降る日の図書室は、人も多くてそこかしこで密やかな会話が行われていた。そうしてそれは、私たちも類に漏れない。互いの横に座って、各々の本を傍に置いて。あなたの呼吸さえ聞こえるほど、近く静かな空間で。
きっと、まだ雨は止まない。ずっとではなくても、出来るだけ長く。そう、希ってしまうのだ。
「スペシャルウィークさんは、何をしに図書室へ来たのかしら。あなた、あまり本を読むような子には見えないわよね」
「あっ、アヤベさんひどい! ……なんて、その通りなんですけどね……。実は今日、どうしても終わらせないといけない補習課題がありまして、どうしても集中しないといけなくて」
「なるほど、それでそのノートと教科書の山。……本当に今日中に終わるのかしら、それ」
「いやあ、結構それが、その」
露骨に言い淀むスペシャルウィークさん。横を見れば広がるのは、未だ手付かずの課題たち。座学が苦手そうなのは、彼女の当初の印象通りといった感じではあるけれど。そしてそこに現れた私。なるほど、彼女が私を満面の笑みで迎えた理由も理解できるというものだ。
きっと、それだけだろう。そのことに確かに私は安心し、確かに私は一抹の影を内心に去来させる。矛盾している。歪んでいる。それでも、彼女のそばにいる。今わかることはきっと、それだけだろう。
「それなら、私も手伝いましょうか。もちろん解くのはあなただけど、分からないところは教えてあげるから」
「えっ、ほんとですか!」
「声が大きいわよ。でも、それは本当。さあ、さっさと始めましょう。図書室が閉まったら終わりだもの」
「……はい。えっと、よろしくお願いします……」
声が大きい、と指摘した途端にトーンダウンするスペシャルウィークさん。こうなるとらしくなくて逆に違和感を覚えてしまうのだから、人の感覚というのは難儀なものだ。それに違和感を覚えるほど、普段のあなたを知ってしまったということも含めて。
そんな思考を無理矢理閉ざすように、私は彼女に次の発言を促す。そうやってあなたに求められたものを返すだけなら、私にも許されていると思った。
「何からやればいいのかしら」
「その、まずは数学から……これが一番わからなくて」
「『まずは』、ね。いいわよ、ちゃんと付き合うから」
「うう、ありがとうございます……」
そこまでしおらしくなられると、謎の罪悪感を覚えてしまうのだが。私たちの関係において、助け合いなどというものはただの気まぐれか社交辞令に過ぎないだろう。つまりそこまで感謝される筋合いもないはずだ。そうでなくては、いけないのだ。
それだけ。それだけのことを、今日は何度もリフレインしている。言い聞かせるように、けれど誰にも言えなくて。それなら私が言い聞かせる相手は、自分自身以外にはあり得なかった。
あなたのことを想うなら、あなたのそばにはいられない。それだけのことを、何度も、何度も。駄々をこねる子供を説き伏せるかの如く、ただ神に祈る無力な群衆の如く。
いや、それはいい。今気を向けるべきは、目の前の彼女を助けることだ。いつものように、やればいい。
「じゃあ解らない問題があったら聞いてちょうだい。それまで横で待ってるから」
「ああ、それならここを早速」
「一問目じゃない。これがわかってなかったら、何もわかってないのと同じじゃないの?」
「はい、返す言葉もございません……」
やれやれ、思ったより重症だ。彼女は地頭が悪いわけではないのだろうけど、所謂天才型ということなのか。このぶんだと座学の補習など日常茶飯事だろう。もっと普段から勉強しなさいよ、などと小言を言いそうにもなるが、そこは堪えた。これ以上やる気を削いだら、泣き出しはしないでも投げ出してしまいそうだし。
「これ、三平方の定理を使うだけじゃない。まさかそれすら忘れたなんてことは」
「えーと、底辺×高さ÷2?」
「それは三角形の面積の公式ね」
「なしてぇ……。だって名前似てるじゃないですかぁ」
「三、しか合ってないじゃない。数字が一つ合ってればいいなら、数学の意味がまるっきりなくなるとか思わないの?」
「うぅ、数学は苦手です……」
「なら、さっさと終わらせましょう。手伝うから」
結局、大体の問題について解き方からなにまで教えてしまう形になった。これでは補習の意味もないような気もするが、頼られてしまっては断れないのも事実であり。後にできてしまう問題点は、自分で解決してもらおう。
これからも、こういうことはあるのかもしれない。これまでも、彼女は私を頼ってくれていた。「お姉さんのようだ」と言っていた。きっと、それは私を頼りにしているという彼女なりの表現。だけど私にとっては、心臓を的確に握り潰すような。
あなたが頼る私は、あなたを見ていない私。あの子に成せなかったことを、代償行為として行ってしまっている私。あなたを見ている私は、あなたが頼れるほど強くはない。
本当の私は、あなたに見せていない。だからこの関係は成り立っている。だから私はあなたのそばにいることができる。「お姉さん」である限り、私はあなたのそばにいる。指先さえ触れてしまいそうな二人の合間に、ゼロを無限に重ねた限り無い距離があるとしても。
なら、そこで留めよう。ようやく私は、私なりの答えを見つける。その視界は汚泥のように腐り切り、その足並みは血反吐のように醜く痛々しいとしても。その先に私は、答えを見つけた。
徹底して、あなたの提案のみを肯定し続ける。そうすれば、私が見えることはないから。私の方が肯定されることすら、事務的に処理してしまえばいい。
きっと、それが正解だ。清く正しき天秤の女神は、あなた一人だけなのだから。
「これで、数学は終わりね。お疲れ様」
「ありがとうございます……。でも、ほとんどアヤベさんに聞いちゃいましたね……」
「そうね。次の補習までに、それは自分で何とかしなさい」
「そんなぁ〜……」
「泣き言を言わない。ほら、まだ課題は残ってるでしょう」
「はい。あとは国語ですね。これも、全然わからなくて……主に漢字が」
「スペシャルウィークさん、薄々思っていたのだけど」
「はい」
「あなた、単純に勉強量が足りてないんじゃないの?」
そう指摘してやると、彼女の顔は「痛いところをつかれた」という表情をした。具体的には言われた瞬間顎を引いて、苦しそうな顔をして。どうしてこの子は言葉だけでここまで表情豊かになれるのだろうか。
「そ、それは何と言いますか」
「公式や漢字は、理解というより覚えるものじゃない。それが解らないのは、単なる勉強量の問題よ」
「そうですね、そうなんですけど……」
何か、隠している。それくらいはその露骨な態度からすぐにわかる。スペシャルウィークさんは隠し事が下手なようだ。何もあなたに言おうとしない私とは違って。
微妙に会話に間が開く。図書室での会話などもとより許可されたスペースでかつ静かな声で行うものだが、それでもそこに生まれた静寂は、明確に今までとは違う空気を形作る。
ぴんと、気持ちが張り詰めて。私だけでなくスペシャルウィークさんも緊張していた。それだけ勇気の必要な発言をするのだろうか。私にはわからない。その内容はもちろん、わからないけれど。
それでも、確かにわかること。
きっと、彼女の言葉は正しい。それが私の在り方とは、相容れないとしても。
アヤスペぇ〜
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スペシャルウィークとアドマイヤベガと図書室後
佳境です
アヤスペも満遍なく効いてきた頃だと思いますが
きっと、その話題に切り替わるのはたまたまだった。この雨の日、まず私が図書室でたまたま時間を潰していた。そしてたまたま、スペシャルウィークさんは補習の課題に悪戦苦闘していた。だからそれを私が手伝うところまでは、流れとしては自然なものだけど。そこから彼女の勉強不足を指摘した時に、スペシャルウィークさんの持ち出す話題が意味ありげなのは予想外だった。私からすれば偶発的な話の転換、だからやはりこれもたまたまだ。
ざあざあと、雨足は少し強くなっていた。私たちはこの図書室に閉じ込められてしまったようなものだ。雨が止むまでは出れないし、その前に図書室が閉まってしまえば泣く泣く寮に帰るしかない。そんな時限式の鳥籠は、独特の空気を作り出していた。
「どうしたの、スペシャルウィークさん。そんなに言いにくいことかしら、勉強をせずに調べていたものというのは」
いつのまにか彼女を詰問するような形になっていた。まあ、基本的な公式や漢字の問題が解けないとなれば私としてはそう詰め寄るのも無理はないと思いたい。こうしてついつい世話を焼いてしまうのは、あの子と重ねてしまっているからかもしれないが。
「えっと、そりゃ言いにくいですけど。でもでも、せっかくですし」
「なにが『せっかく』なのかはわからないけど。それならせっかくだから、聞こうかしら」
そう促してやると、ようやくといった感じで。少し顔を赤らめながら、まるで隠していた秘密を明かすかのように。彼女は少し不安げに、けれど言葉を絞り出す。
一歩を踏み出す。私とは、違う。
「実はその、勉強の合間にというか、調べてたことがありまして」
「補習の追加課題を受けるほどそれに熱中してしまっては、意味はないと思うけど」
「それは、すみません……。でも、ずっと思ってたことで。それでその、それもあってさっきアヤベさんを見つけた時、嬉しくなってしまって」
「……私?」
予想もしていなかったタイミングで、私の名前が出てきた。いいや、本当はわかっていたのに見ないふりをしていたのかもしれない。彼女が私を見つけた時の表情に、「たまたま」以上の感情が込められていたことなど。何故なら私もとうの昔に、「たまたま」だったそれを手放せなくなってしまっていたのだから。
けれど、もう私は答えを見つけている。正しさ故に愚か者にすら手を差し伸べるあなたを、私に触れて傷つく前に優しく遠ざける方法を。
「はい、実はアヤベさんにお願いがありまして。勉強を手伝ってもらった矢先で、申し訳ないのですけど」
「いいわよ。まあ、何でも聞いてあげるわ」
あなたの「お願い」。それがなんであっても、親身に薄っぺらに対応し続けること。そうすれば、私は。私とあなたの、関係は。
「ありがとうございます! えっと、今度一緒に出かけようってお誘いなんですけど。それについて調べてたんですよね、実は」
「なるほどね。前は下調べしてなかったものね」
「はい、お恥ずかしながら……」
なるほどそういうことかと、腑に落ちる音がした。彼女と出かけるのは、まだ二回目。けれど初めてではない。それなら、断る理由はないはずだ。もうそれは既に通過した地点で、それによって進展することなどない。なにより、私はもう前には進まないと決めたのだから。
「それで。今度はどこに行くのかしら」
「えへへ、それはですね」
そう楽しげにもったいぶって、彼女は椅子の下の鞄を漁り出す。水平の視線では見えないほどに身をかがめて、それでもひょこひょこと動く耳と尻尾が彼女の気持ちをこちらに伝えていて。私はそれを自然と目で追ってしまっていた。やがて彼女が目的のものを取り出す、運命の瞬間まで。
一冊の、薄い本。私はそれに見覚えがあった。同じ本を、トレセン学園に来た頃に買っていたからだ。きっとそれは彼女は知らないことだ。だから私はそれを隠す。その気持ちを隠すので、精一杯で。
「これ、『天体観測スポットまとめ』の本なんですけど。一緒に観に行きませんか、アヤベさん!」
そう彼女が指差す写真の場所にも、私は酷く見覚えがあった。あの子と語らう、私にとってかけがえのない場所だった。
「……どうして」
「どうかしましたか、アヤベさん……?」
「……いえ、なんでもないの。いいわよ、いつ行こうかしら」
どうして、あなたはそこまで私に近づいてしまうのか。これがたまたまの偶然だと言うのなら、運命などではないというのなら。私は一体、誰を呪えばいいのだろう。誰がこんな巡り合わせを、残酷な奇跡を私たちに与えたのだろう。
それでも、何とか言葉を絞り出す。あなたの中の私の姿まで、今の私のようにならないように。そうすると、決めたのだから。
それでも、スペシャルウィークさんの言葉はやはり正しくて。どこまでもどこまでも正しくて、私が触れたら灼き尽くされてしまいそうで。
だから、その返答も当然のことだった。当たり前の論理の帰結。どこまでも、正しい。
「今度の新月の夜、一緒に見に行きませんか」
新月の夜が、一番星がよく見える。以前にも彼女とこの話はした。故郷での彼女の趣味が天体観測だというのも、やはり既に聞いた話。つまり天体観測に向いた月の暦があることくらい、その時点で彼女だって知っていた。だから全ては、とうの昔にわかっていたことだ。いずれ私たちの間に、この話題が浮かび上がることは。
口を噤む。脂汗が流れそうになるのを必死に誤魔化す。脳の中身は冷水をぶちまけたようにどこへも纏まろうとしなかった。髪の毛の一本一本まで、怖くて震えているような気がした。
彼女と関わるなら、ここまで来るのはわかっていたのに。そしてそれでも彼女の願いに徹する存在になろうと、つい先ほど決めたばかりなのに。それでも恐れるのが、私の弱さだ。目の前にいるのが正しさと慈愛の女神だとしても、それすら疑うのが、私の愚かさだ。
「……どう、ですか? 嫌、ですか?」
不安気に、その深い瞳でこちらを覗き込んでくるスペシャルウィークさん。……そうだ、彼女だって怖いものがないわけがない。私に断られるのは当然怖くて、それでも私に星見を提案しているのだ。彼女はいつでも私に手を差し伸べてくれるけれど、その手が震えていないはずがない。
なら、私は。彼女の願いがそれならば、私は。
「……いいえ、構わないわよ。今度の新月の夜、ね。夜間外出申請は忘れないように、ね」
「……はいっ! ありがとう、ございますっ!」
「声が大きい」
「ああっ、すみません」
「それと、もう一つ」
「はい」
「星は、静かに見ましょう。その日は、静かに」
「……はい。わかりました」
ねえ、「あなた」は許してくれるかしら。二人きりで話すための時間に、私が誰かと一緒にいることを。暗い昏い新月の夜なのに、こんなにも明るい太陽をそばに置いてしまうことを。私にとって大切な星空が、月に一度の大切な時間が。
私だけのものでは、なくなってしまうことを。
……そんなことばかりを考えてしまっていた。スペシャルウィークさんへの懺悔から舌の根も乾かぬうちに、私はあの子へまた罪を告白する。どうしようもないほどに、咎と楔は私の全身を覆っていた。
これも、私への罰なのだろう。あの子の影をスペシャルウィークさんに求めて、だからあの子自身のことも本当は見ていなくて。私は誰のことも、大切になどできていない。
「……さて、そろそろ帰りましょうか」
「えっと、課題は終わりましたけど……。雨、まだ降ってますよ?」
「私は構わないわ。帰ると言ったのも、私だけの話よ。……それじゃ、さよなら」
「ああ、待ってください! それなら私も、帰ります。走って帰れば、そんなに濡れずに済みますよ」
少し雨の勢いは収まっていたが、それでもまだ止まずに降り続けていた。きっと、私がその中でも帰ろうとしたのは、もう限界だったからなのに。欲深くあの子とスペシャルウィークさんの二人を求めて、それ故に何も得られるはずはない。そんな自分がこれ以上誰かに浸るのに、そんなふうに許されるのに耐えられなかったからなのに。
それでも、伸ばされたあなたの手を振り払えない。私はあなたの願いを肯定するのだと、定めてしまったから。
「……じゃあ、一緒に帰りましょうか」
「はい! 一緒に帰りましょう、アヤベさん!」
一つ、決めたことがある。あの子との語らいの日、スペシャルウィークさんと一緒に星を見ることについて。優柔不断で愚鈍な私に、やっと決められたことがある。本来ならこうなるより前に、もっと早くに対処すべきことだったのだろうけど。それでもその差は己の血で贖おう。何も成せない私では、あのポルクスのように神に願いを聞き入れられるはずがないとしても。あなたのためにいのちさえ捧げると、それだけは生まれた時から決まっているのだから。
決めたことは一つだけ。スペシャルウィークさんが私に伸ばした手が、あなたと私の繋がりに一寸でも触れそうになるのなら。
私は迷わずその手を振り払い、二度と関わらないように拒絶する。
きっと、ではない。絶対に、断じてだ。たとえ、取り返しがつかなくなるとしても。それが私の、誓いだ。
アヤスペを流行らせてください
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スペシャルウィークとアドマイヤベガと天体観測前
きっと、今日のこれからはたまたまじゃない。私とあなたが仲良くなれたから、できたこと。私が勇気を出して、あなたも私を見てくれて。そうやって二人で一緒にいてもいいって思えたからこその、導き出された当然の帰結。だからこそ迎えられた、今日この日のよく晴れた夜。
やっぱり、運命ではない。その出会いは偶然から、その歩みも偶発的。きっかけはどこにでもあることで、それ一つ一つは取るに足りない。だからこれは、運命ではないのだけど。
それなら私はこの出会いを、きっと、奇跡と呼ぶのだろう。
「……さて、夜間外出許可は出したかしら」
「はい、ばっちりです! フジ先輩には遅くなるな、って一応言われましたけど」
「当然、今日は遅くなるわよ。少なくとも私は、そのつもり。先に帰ってもらっても構わないけど」
「まさか! 今日は夜更かし、しちゃいます! ……えへへ、楽しみですね」
「……そうね」
寮の玄関には少し外の空気が入ってきていた。扉を開けばそこには世界が広がっている、そんな場所に今私たちは二人で立っていた。特に何か行事や大事なレースがあるわけではないけれど、今日は少し特別な日。私と、アヤベさんにとって。
「場所は確認した? 初めて行くところなのだから、案内は頼むわよ」
「はい、もちろんです。今回は下調べをしたので、前服を買った時のようにはなりませんよ」
「新月の夜は暗いから、足元にも気をつけてね」
「そうですね。もちろん、アヤベさんもですよ。今日は私がアヤベさんに、天体観測の楽しさをレクチャーしちゃうんですから!」
自然と握りこぶしと声に力が入ってしまうのは、きっとそれだけ楽しみだから。私がアヤベさんに提案した天体観測。それも新月の夜の、一番よく星が見える時間に。一応今日の天気は確認したけれど、雨は降らないらしいからそこも安心。絶好の星見日和なのだ。
故郷にいた頃、お母ちゃんとよく星を見た。たとえば悩みがある時は、二人で星を見ながら話し合った。たとえば大事な事柄の前日は、二人で星にうまくいきますように、ってお願いした。たとえばなんでもない日だって、二人で星を眺めるだけで。だから私は、星が好きだ。どこまでも散らばる光の粒が、私を一人じゃないって気持ちにさせてくれるから。
「アヤベさん、何持ってるんですか、それ」
「レジャーシートとヘッドライト、それに暖を取るための飲み物を入れたタンブラー。あとは方位磁針つきの腕時計に、防寒用のひざ掛けとクッション。深夜は本来人が出歩く時間じゃない、それくらいのことは考えた天体観測一式よ。『私は天体観測など初めてなのだから』、その程度はちゃんと用意しておく必要があるでしょう? ……というよりスペシャルウィークさん、むしろあなたは何を背負ってるの」
「……え? 望遠鏡、ですけど」
「なるほど。で、それだけしか持ってない」
「はい」
「あのね、スペシャルウィークさん」
「はい」
「都会の空は、明かりを持たないで行けるほど明るくはないと思うわよ」
アヤベさんに指摘されるまでの私は、望遠鏡一つ担いだっきりで万全のつもりだったのだが。なるほど、アヤベさんの言うことには一理ある。というより一理では足りないくらい説得力がある。夜出かけるのは同じでも、周りがトレセン学園と実家じゃ全然違うに決まっていた。
あちゃー、私、ひょっとして天体観測初心者レベル? いやいや、アヤベさんをしっかりリードしないと。今のところはむしろアヤベさんに逐一確認されてしまっているが。アヤベさんの方が手慣れている、というか。まるで、初めてじゃない、みたいな。
そんなはずは、ないのだけど。今回の天体観測は、私からアヤベさんを誘ったものだ。アヤベさんとこの話を進める上で、色々アヤベさんには説明した。その上でアヤベさんが言ったのは、「自分にはよくわからないから、私に任せる」ということだ。いつも頼ってばかりだから、頼られるのは素直に嬉しい。……現状、うまくいっていないかもしれないけど。
そういえば、もう一つ。基本私に任せたアヤベさんから唯一注文らしい注文があった。それは忘れていないし、大事なことだと思う。出かける前の最後に、私はそれをアヤベさんに再確認する。
きっと、これは今日の二人を繋ぐ言葉。決して切れない、切ってはいけない。そんな、約束だ。
「星見は静かに、言葉は交わさずに」
「……あら、覚えていたの」
「当たり前じゃないですか、約束ですから」
「そう、ね。私のわがままでしかないけれど」
「私が納得したんですから、二人のわがままですよ」
もしかするとこれはちょっとおかしいのかもしれない。二人でわざわざ出かけておいて、目的地に着いたら一切会話はしないなんて。けれど私はアヤベさんがそう望むのなら、それでいいと思ったのだ。
たとえばせっかくの初めての天体観測なのだから、じっくり星を見たいということもあるだろう。そもそもそれは、私も同じ気持ちだし。星空を見上げた時の心の広がりは、言葉では言い表せないもの。多分私もそんな煌めきに感動するのに精一杯になるだろう。
それに。それにきっと、当たり前のこととして。私たちが同じ場所で、同じ時間を過ごすのなら。同じものを見て、同じように夜に耽るのなら。
きっと、言葉は必要ない。それでもあなたと分かち合えると、私はそう信じたい。
「さて、そろそろ行きましょうか、アヤベさん。ちょっと部屋に戻って、荷物を整えてきました」
「それは、懐中電灯ね」
「はい。そりゃスマホでも明かりは点けられますけど、風情がないっていうか。なんというか『静かに』ってことなら、そもそもそういうのは持っていかない方がいい気がして」
「……ええ。それは、そうかも、ね」
そう私に頷くアヤベさんは、何故だかひどく複雑な表情をしていた。もちろん私はアヤベさんのことなど、まだ何も知らないのだけど。それでも少しだけわかる、その瞳に映る迷い。顔は少し俯き、頬の端は僅かに緩んでいるのに。その口元は強く、強く結ばれていた。
まるで、何かを押しとどめるかのように。
「アヤベさん? どうか、しましたか」
「……いいえ、なんでもないの。あなたが懐中電灯しか持たないのは、良い心がけだと思っただけ」
「あっ、望遠鏡も持っていきますよ! これ、北海道から持ってきた良いやつなんですから!」
「それも別に構わないわよ。私は使わないと思うけど、そもそもろくに関わらない取り決めだもの。……それに故郷から持ってきたものなら、使ってあげなければかわいそうよ」
「やったー! ありがとうございます!」
「別に、感謝される筋合いはないと思うけど」
「すみません、つい……」
「謝られる筋合いもないわよ」
そうして話すうちに、いつもの調子に戻るアヤベさん。先程一瞬見せた表情はどこかへ雲隠れしてしまった。……これまでも、何度かあったことだ。アヤベさんがほんの少しだけ、私に動揺を見せること。そして隠してしまうこと。
アヤベさんはきっと、何かを躊躇っている。躊躇っているという表現が適切なのかさえわからないけれど、それは私を慮ってのことなのだと思う。それはわかる。だっていつも、あなたは私を大切にしてくれるから。
けれど、それなら。私にとってもとっくの昔に、アヤベさんは大切な人だ。偶然から始まった関係でも、どこにも劇的なものがなくても。そんなものは必要なくて、今ある関係がその証明になる。互いが何かを抱えるのなら、それを想える関係だ。私はそうありたい。私はそう信じている。あなたもそうだったらいいな、そんなふうにまで思っている。
きっと、私たちの出会いはたまたまだった。だけど今一緒にいるのは、たまたまなんかじゃないのだから。
アヤスペ流行ってますよね?
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スペシャルウィークとアドマイヤベガの天体観測中
きっと、私たちの出会いはたまたまだった。そんな私たちの関係なのに、私とあなたはこうして語らう。こうして一緒に出かける。こんな夜更けに。誰もいない時間に。だって今日は天体観測、星見を彩る新月の日なのだから。だってそれが、私たちのした約束なのだから。
地図に防寒着に懐中電灯に望遠鏡に、荷物はあらかた用意した。アヤベさんはとっくのとうに準備を終えていたけれど、時計を見ればなんとかまともな時間帯だ。
「じゃあ、そろそろ出発にはいい時間ね。目的地に着く頃には、ちょうど深夜一時くらいかしら」
「はい。実はちょっと、ドキドキしてますけど。……アヤベさんと一緒なら、大丈夫です」
「……ありがとう」
「いえ、こちらこそです。それじゃ、行きましょうか」
「ええ。行きましょう」
ぎい、と音を立てて寮の扉を開く。自然と視界に入る空には、月はかけらも見つからなくて。すっかり少ない街明かりに照らされた星空が、あたり一面に見えていた。
「うわあ……」
「……綺麗ね」
「はい。こっちに来てからは、普段星空を見ることなんてなかったですけど」
「そうかも、ね。都会の星はか細くて、見つけようとしなければ見つけることはできない。……さて、それはそれとして。ここで満足してはダメよ、スペシャルウィークさん」
「あっ、そうでした」
「まさか、忘れてたの?」
「そんな、まさかあ! ちょっと見とれちゃいましたけど、ガイドによればもっと綺麗に見えるそうですから! ここからちょっと離れたところにある、丘の上です。坂道も結構あるので、しっかり気をつけて案内しますね」
「ええ。お願いするわ」
そして一度、目線を空から下に下ろして。懐中電灯で道を照らしながら、地図と方位磁針を頼りに道を行く。夜の道でこけてしまわないように、二人で並んでゆっくりと歩く。スマートフォンは置いてきたから、頼りになるのは故郷から持ってきていたアウトドアグッズだ。ちなみにアヤベさんもその手のものをしっかり準備してきていたので、二人とも万全といった感じ。……それにしても。
「そういえばアヤベさんは、意外とアウトドア派なんですか? 前話した時の感じで、インドア派だと思っていました」
「あら、前何か話したかしら」
暗くて数メートル先も見えない夜道で、声だけを頼りにあなたと会話する。そんな時間もきっと、特別だ。
「話しましたよ、ちょっと前! ほら、趣味がどうとかの時。アヤベさんの趣味はふかふかの布団で寝ることだって」
「……ああ、そんなことを言ったかもしれないわね」
ううーん。興味なさげというか、いまいちピンとくるほど思い出し切っていないというか。アヤベさんの返事はそんな感じだ。アヤベさんとの会話を弾ませるのは結構難しい。最近はそれなりにうまくいくようになったと思っていたんだけど。でも楽しい。それはいつでも、変わらない。
「言いました言いました! だから私はてっきり、アヤベさんは部屋で読書とかをするのが暇の潰し方なんだと思っていたんですよ。なのに」
「なのにと言われると、まるで予想外のことがあったみたいね」
「ええ、そりゃもう! だって今日のアヤベさん、アウトドア完全装備じゃないですか! びっくりしましたよ、すごくびっくりしました」
「私からすれば、あなたが最初望遠鏡一つ担いだだけで行こうとした方が驚いたけれど」
「うぐっ、それは……。でもでも、アヤベさんに今まで抱いていたイメージと違うっていうか、それでびっくりしたというより、なんというか」
「落ち着きなさいな……何が言いたいのか纏まってないわよ」
アヤベさんのヘッドライトの明かりが、僅かな角度の揺れによってこちらに向けられる。私の方を向いて、歩くのを止めて会話の続きを促す。少し立ち止まって話をするのも悪くないな、と思った。まだ夜は長い。今日はきっと、素敵な夜だ。だからきっと、この道のりだって楽しいのだ。
少し、息を吸って。そして、そのまま吐き出して。やがて私は想いを口にする。初めての気持ちだった。
「嬉しかったんです。アヤベさんの、今まで私が知らなかったことが知れて。……私はまだ、アヤベさんのことを全然知らないと思います。でもこうして仲良くなれて、少しは知れたと思います。……それはこれからもそうだったら、とっても嬉しいです」
きっと、素直に思ったそのままのこと。やっぱりアヤベさんの言う通り纏まってないかもしれない。それでもそのままを、そのままの気持ちを口に出した。きっと、それが一番だと思ったから。あなたに示せる私の言葉の中では、それが一番正しいやり方だと、そう思ったから。
暗くて顔は見えないままだけど、隣からはあ、というため息が聞こえた。呆れたような、けれど少しほっとしたような声も混じっていた気がした。アヤベさんはいつもそうやって、私を見守ってくれているのだ。時には危なっかしい私のことを、道を外れないように導いて。
きっと、これからもそうなのだろう。アヤベさんは私の言葉を受けて、それに対する返答を述べる。ゆっくりと、確実な言葉を選ぶように。私が、どこかへ行ってしまわないように。その言葉に込められた意図があるのなら、そういったものかもしれない。なんとなく、思っただけだけれど。
「……そうね。あなたはやっぱり、優しいのね」
「優しい、ですか」
「そう。優しくて、正しい。素直なのよ。だから正直、見ていて怖いところはあるのだけど。……でも、それはきっと、あなたの良いところなのよね」
「そう、なんですね。ありがとうございます。アヤベさんが言うなら、きっと、きっとその通りです」
「それは私を買い被りすぎよ」
「もう、アヤベさんはいつもそうやって」
そう言って、私はアヤベさんの方へ懐中電灯を向ける。足元を照らして、身体全体が見えるように。そうして明かりで照らした制服姿のスカートの下からは、しなやかな脚が伸びていた。鍛え上げられた、柔らかくてけれどばねのような筋肉の秘められた脚。どんな道でも、どんな世界でも駆けていけるような強さを感じた。
ひと目見ただけで、この人がどれだけレースに全力で取り組んでいるのかわかるだろう。私にもわかる。アヤベさんはきっと、アヤベさんなりの理由で走っているのだ。譲れない特別な想いがある。叶えたい夢がある。私と同じ。そんなことを今更再確認した。今更だけど、今更だからこそ。
「えっと、どうしたのかしら。私の足元に何かある?」
「わっすみません、アヤベさんの脚が綺麗だなって」
「……そんなことを真正面から言われると恥ずかしいわ」
そう言われて、慌てて下から目を逸らす。そうなると目に入ってくるのは、身体の上についているもの、つまりアヤベさんの顔であって。つい今度はそちらに目をやってしまう。
改めて見ると、アヤベさんの顔はあまり手入れをしていないように見える。肌が若干荒れてるし、唇もちょっとかさついてるかも。いやでもそれは致命的じゃない、気がする。だって、綺麗だし。
普段あまり目を見開くタイプじゃないからわからないけど、アヤベさんは目の形が綺麗だ。少し切れ長だけど、瞳の形はよく見える。目尻まですーっと睫毛が通っていて、印象的な目つき。上の睫毛も長くて艶やかで、うーん、もっとちゃんとすればもっと綺麗になりそうなのに。
……いや、私にもおしゃれはよくわからないか。アヤベさんの同室のカレンさんの方が詳しそうだし、なんとなく既にアヤベさんは講義を受けている気がする。その上で多分、あんまり頓着していない。逆に言うとそれが私なんかでもわかるくらい、元の素体が良いってことなんだろうけど。
「どうしたの、私の顔に何かついてるかしら」
「いえそんなことは! ただ、綺麗だなって」
「……さっきからなんなのよ、もう」
「ああすみません、変な意味じゃなくて!」
「変な意味だったら今すぐ追い返してるところよ。……ほら、早く行くわよ」
……やっぱりアヤベさんは、あんまり褒められるのには慣れてないみたい。それは見た目だけじゃなくて、他のことでも。今までもずっとそうだった。まるで自分には価値がないみたいに。そんなことは絶対ないのに。
いや、今のは私の褒め方が変だったんだけど。アヤベさんの顔をじっくり見たことはないことはないはずだけど、そんなふうに見たのは初めてだったかも。そもそも私も、あまり自分の見た目に気を配っているわけじゃないし。そういう意味でも珍しい。きっと、たまたま。たまたま目についただけなんだろうけど、ね。
それでももしかすると、その変化も重大なことかも知れなくて。何気ないことの積み重ねで出来ている私たちの関係は、何をきっかけに更に進展するのかなんてわからない。だからこの気持ちも、大切にしまっておこうと思った。アヤベさんには内緒で。
そしてまた、二人並んで歩いていく。誰もが寝静まり明かりを消していく時間帯で、私たちだけの音と光が存在する。土を踏む足の音。歩みと共に揺れるライトの明かり。私たちだけが、この世界で動いている。そんな気さえした。そう思ってしまうような、幻想的な星の海。そしてその最奥はすぐそこだ。私たちの目的地は、すぐそこだ。心臓の高鳴りが自分に聞こえてしまいそうなくらい、楽しみでたまらなかった。
きっと、素敵な時間になるだろう。これまでで、一番。一番の思い出が、私とあなたを待っている。
アヤスペ〜
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スペシャルウィークとアドマイヤベガと天体観測後
きっと、出会いはいつも偶然のもので。
きっと、歩み寄りはいつも偶発的で。
だけど、私たちはここにいる。
私とあなたは、ここにいる。
「ふう〜……。もうすぐですね、アヤベさん」
「坂道なんだから、よそ見しないの」
「あはは、すみません」
「でも、もうすぐなのはその通りね」
「はい。これだけ山の上まで登ってくると、周りに明かりなんか全然なくなって。……そこの星がどれくらい綺麗なのか、想像もできないですね」
星海の目的地まで後少し。私とアヤベさんは、目的の丘に続く山道を二人で登っていた。懐中電灯に照らして時計を見ると、とっくの昔に到着予定の午前一時を回っていた。道中で話し込んだせいで、少し予定より遅くなってしまったみたい。
もっとも、どっちにしろ普段なら寝ているような時間だ。夜というのは寝ていればすぐだけれど、起きてしまえばこんなにも長い。そんな当たり前のことを、自分の感覚で実感する。……うう、ちょっと眠いかも。
「ふわあ〜ぁ……」
「星を見ながら寝てもいいけど、風邪はひかないようにね」
「寝ませんよ! 風邪もひきません!」
「そう。それなら安心なのかしら」
「はい! 大船に乗ったつもりで、着いてきてください! あと半分ってところです!」
「眠そうに見えたけど、まだまだ元気ねあなた」
確かに言われた通りというか、我ながら眠いなりに元気だ。夜更かし特有の興奮、というやつだろうか。今はそれでいいのだけど、明日、いや正確には今日の授業は大丈夫だろうか。セイちゃんみたいに居眠りしてしまいそう。
それは確かにちょっと不安ではあるのだが、この瞬間はどうでもいいことに違いなかった。今はあなたと一緒にいる。それが一番大事なことだから、それだけを考えて。
「ほら、行きましょうアヤベさん」
「何かしら、その手は」
「夜道は危ないですから、手を繋ぎましょう。二人なら安心です」
「……まあ、一理あるわね」
そうやって、私はあなたに手を伸ばす。そしてあなたはその手を握ってくれる。だから、私たちは分かり合える。
きっと、いつか。その時は、すぐそこまで。
そうして、もう少しだけ歩いた。アヤベさんの手は私のものに比べるとひんやりしていて、その点は二人の眠気の差かなあと思ったけど。それでも人の体温があった。握り返してくる微かな指の力があった。だから、大丈夫。私はあなたを繋ぎ止められている。
きっと、どこにもいかない。
そうして遂に、たどり着いた。
「……ここ、ですね」
「ええ。……ここからなら、星がよく見える。新月の夜、だもの」
トレセン学園から、都会からは少し離れた、少し山道を歩いた先にある丘の上。視界の下半分は街なみの明かりで、上半分はあたり一面に散らばる星空だった。どちらにも共通していることがあるとすれば、そこにあるのはいのちの光だということ。輝いて瞬いて煌めいて、それは刹那の閃光でも那由多の燐光でも美しいものなのだ。
一歩脚を踏み入れると、踏み締めた草のにおいが鼻をくすぐる。青い、青いいのちのにおいだった。私たちを出迎えてくれていた。この神聖な空間は、私たちを受け入れてくれている。今は私たちだけのために、この小さな丘はそのためだけに開かれている。そんな気さえした。
「じゃあ、準備をしましょうか。レジャーシートを敷いて、あなたは望遠鏡もセッティングして」
「はい。それで全部出し終わったら、静かに、ですね」
「そうね。……きっと、あなたにとっていい時間になるわ」
「アヤベさんにとっても、ですよ」
既に場所の方は私たちを待ち構えている。ならばあとは私たちの方がそれにふさわしくなるだけだった。レジャーシートを敷いて、その上に二人で座る。お尻にレジャーシート越しの草のチクチクした感触が伝わってきて少しくすぐったい。
アヤベさんの持ってきたレジャーシートは一人用のものらしく、二人で座るには少し狭かった。二人の肩が触れ合うくらいに。二人の世界が繋がってしまいそうなくらいに。先程まで手を繋いでいた時よりもより一層、あなたが近くに感じられた。
それでももう、私たちの間に言葉はなかった。その状況をどちらも受け入れているという事実だけで、充分だった。先程までの会話が、すっかり途切れてしまったというだけで。私とあなたはそれだけで、今がどういう時間か理解していた。
さあ、地面は暗くて何も見えやしない。なら、そんな時は上を見てみよう。遠く高く、空の方を見てみよう。
今まで見たことがないほどに、眩しい星空が私たちを出迎えてくれるはず。
きっと、それは必然だ。
※
言葉はなかった。それはそういう取り決めだったけど、そのことすら忘れるほどに息を呑んでしまっていた。視界に収まりきらないほどの星空は、私なんかが一度に受け止めるには大きすぎて。望遠鏡を覗く余裕もなく、私はただ星を見遣る。身体は動かさず、首だけを動かして。隣に触れるあなたの星見を、邪魔してしまわないように。あなたもきっと、この光に感じ入るものがあるはずだから。幾千億年と続く、いのちの光の姿に。
流石に故郷で見るそれほど輝きの数は多くなかったけれど、それでも久々に見るぶん感動はより大きかった。多分それだけじゃなくて、アヤベさんと一緒に見ているというのは大きいのだろうけど。それは後で伝えよう。今はただ、このままでいい。このままが、いい。
やがて私はただ圧倒されるだけだった空の中から、一つ一つの星の繋がりに目を落とす。この時期の星空は、春の大三角と夏の大三角が唯一同居する時期だ。デネボラ、アークトゥルス、スピカから成る春の大三角と、デネブ、アルタイル、ベガから成る夏の大三角。有名な天体がよりどりみどりだ。とりわけ今の私の目を引くのは、北東の方に輝く琴座のベガだった。ベガといえばやっぱりアヤベさんを思い出してしまうし、それに見合った綺麗に青白く光る星なんだけど。織姫星としても有名なベガには、もう一つ琴座そのものの言い伝えがある。一年に一度とはいえ再会を約束された七夕とは趣を異にする、永遠の別れの物語。
この琴は元々、オルフェウスという音楽家の持つ琴だった。彼には美しい奥さんがいたのだけど、ある時その奥さんは毒蛇に噛まれて死んでしまう。それを嘆き悲しんだオルフェウスは、琴の演奏で冥界の神をなんとか説得し、現世へ愛する妻を連れ帰ろうとするのだ。ただ一つだけ冥界の神から言い渡されたのは、「決して振り返るな」という約束事。
オルフェウスは奥さんの手を取って、長い長い道のりを帰っていた。手は繋いでいたけれど、決して振り返らずに。現世に帰るまではそうしていなければ、永遠に別れなければならないから。
……けれど結論から言えば、彼はあと少しというところで振り向いてしまった。約束を破ってしまった。だから、永遠に出会えなくなった。オルフェウスはそれに絶望し、自らの命を絶った。残された琴が、彼の代わりに永遠に星座となった。約束を破るな、という、いわば教訓めいた話だ。昔お母ちゃんに聞いた話だ。
けれど、お母ちゃんはこうも言っていた。失った人のことを想いながら、そんなふうに人は冷静でいられるだろうかと。どんなに正しい道をわかっていても、それをそのままできない時はある。そういうことをわかってあげられるようになりなさい、そんなふうに言っていた。今の私がそんな状況になったとして、それがわかってあげられるのかははっきりしないけれど。
そんなふうに少し心の内側を見てしまっていても、視線を戻せばまだ空は星に満ちていた。まだ夜は長い。アヤベさんの方をちらりと見ると、じっと視線を空へ向け続けていた。星に照らされた髪の毛が、流水のように艶を閉じ込めていた。あなたは今、何を考えているのだろう。その瞳に映り込む星は、あなたに何を教えているのだろう。それはきっと私にはわからない。わからないけど、アヤベさんがそれで救われるなら、私から他に言うことはないのだ。
そのまま、星空を眺めていた。二人で、ずっと。ずっと、ずーっと。
このまま朝が来なくてもいいと思うくらいに、私たちはずっと。そのはずだった。
きっと、そのはずだった。
※
ぽつり、ぽつり。最初のその感覚は、どこかに汗が垂れたのかと思った。天気予報ではそんなことは言っていなかったから。けれど確かに、やがて確実に。
きっと、通り雨。たまたま、今だけ降りかかってきただけ。私たちの間にある違いを洗い出してしまうには、充分すぎる量だとしても。
終わると思ったか終わりません
話自体はもうすぐ終わります
あと少し、お付き合いください
良かったらアヤスペ〜って感想に書いといてください
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スペシャルウィークとアドマイヤベガと天体観測終
きっと、それもたまたま。天気予報が外れることもある。その程度のことに誰も裏切りなんて感じない、誰だってたまたまのこと、よくあるわけじゃないけどありえることだと思うだろう。午前二時になろうかという頃、私とアヤベさんの天体観測中に降り始めたのもそういう雨だった。
はじめはぽつり、ぽつり。その頃はこれくらいならすぐ止むと思って、あるいは願って星見を続けていた。今日は大切な、大切な日だ。それくらいで途切れるはずがないと、あるいはそう信じたかったのかもしれない。
それほど雨雲が出ていたりはしなかった。それでも明確に染み渡るように、土が濡れるにおいと共に雨の気配がし始めていた。いつかアヤベさんが、「雨は嫌いじゃない」と言っていたのを思い出した。私はどちらかというと苦手だった。空を閉ざしてしまうから、雨の日は苦手だった。今もただずっと、雨が降ってもそれでも空を見上げているアヤベさんとは違う。
思えばその時点で既に、私たちの間には溝があったのかもしれない。必死に見ないようにしていただけで。
二人とも、押し黙ったまま。やがて雨は勢いを増す。そんなこと考えもしていなかったから、傘など持ってきていなかった。今日がどんないい一日になるか、そのことだけ考えていたかった。
ぴしゃぴしゃと跳ねる水の音、それに応じるように濡れていく髪の毛。耳に水滴が当たるたびに僅かにびくんとなってしまう。尻尾も雨の当たる上側から濡れてきて、否応無しに反応する。生理的嫌悪感、だった。私たちが生きている限り、びしょ濡れになるのもそれで体温が下がるのも嫌なことだった。
アヤベさんも、そのはずなのに。
水気を含んだ制服も段々と身体に張り付いてきて、身震いしてしまいそうな冷たい世界の中で。それでも私たちはまだ、まだそこで星を見ていた。
……いいや、星を見れていたのはアヤベさんだけだったかもしれない。私の頭の中はアヤベさんのことでいっぱいだった。降りしきる雨の中、微動だにしないままのアヤベさん。私の動揺だって当然わかっているはずなのに、それでもひたすらに星だけを見るあなた。星見は静寂と共にあるもの、そう二人で約束はしたけれど。
それでも、わからなかった。アヤベさんは今日初めて天体観測をしているはずだ。私の誘いで。だから私が打ち切りを言い出すまで待っているのだろうか。それなら私は天体観測の取りやめを宣言しなければならない。この沈黙を破って。
一瞬、迷う。焦りから破った約束が、取り返しのつかない結果を招く琴座の神話。それを思い出し、喉まで出かかった言葉がぎりぎりでつっかえる。ここにあるあなたの時間を、私は今から壊してしまうのだろうか。……それても、だった。
それでも、雨脚は一層強くなる。こんなに濡れては風邪をひいてしまうかもしれないし、それはアヤベさんのためにならないことだ。体調不良それ自体ももちろんあるけど、それだけではない。
自分のことを大切にしないなんて、そんなふうにはなってほしくはない。だから。だから、それだけの思いを込めて。
「アヤベさん」
声は震えていた。
「アヤベさん、帰りましょう」
身体も震えていたのは、寒さのせいだけじゃないかもしれない。
「このままじゃ風邪ひいちゃいます。だから、お願い、ですから」
それでも、あなたに届いてほしい。その一心で、私は私たちの約束を破る。それが永遠の別れを引き起こすかもしれないなんて、そんな覚悟はないけれど。考えは及ばない。思考は浅い。それでもその表層だけで、抑えきれないほどあなたを想うから。
けれど一向に、あちらからの返事はない。ただひたすらに、微動だにせず星見を続ける。このままじゃだめなのに。
いつも私のことを気にかけてくれたアヤベさん。ときどき私のことをおかしそうに見つめるアヤベさん。そんなアヤベさんは、今この瞬間私を見ていなかった。星だけで、それ以外は何も見ていなかった。そのまま永遠に、どこかに行ってしまいそうな。
それだけは、嫌だった。だから私は、立ち上がって。今度こそ聞こえるように、ただ響きが失われてしまわないように。
「アヤベ、さん……っ! 帰りっ、帰りましょうよ!」
そうして、あなたに手を伸ばす。今度だってきっと、あなたを繋ぎとめるために。
それなのに。
ぱしっ、と、力無い音が雨音に紛れて消える。けれど私には聞こえる音だった。私たちに亀裂が入る音だった。アヤベさんが私の手を払い除ける、その音だった。
「帰るなら、一人で帰りなさい。私は帰らない。あなた一人で、帰ればいい」
そう言ってアヤベさんはこちらを振り向く。いつもとは違う、その瞳に宿る意志は。明確な拒絶の意志、それ以外の何物でもなかった。
一度入ったひびは、雨の日のそれはすぐに広がっていく。粉々の言葉が、私たちの間に降り注ぐ。もう二度と元に戻らないぐらい、粉々だった。
「私は今日、星を見るの。それはずっと決めていること。あなたには絶対にわからないこと。だから、帰りなさい」
「……いや、です。アヤベさんを置いていくなんて、できません。アヤベさんの言う通り、アヤベさんのことはわかりません。でもだから、わからないから一緒にいるんじゃないんですか。そうすればいつか、そう思って」
私は必死に言葉を繋げる。アヤベさんが断ち切ろうとするそれを、必死に。
けれど、その言葉は振り解かれる。冷徹に、残酷に。致命的に。
「わかるため、ね。ならあなたは、私のことを何かわかっているのかしら」
「いっぱいわかります。優しいことも、私のことをいつも気にかけてくれていることも。……そして、何かを隠していることも」
「そうね。じゃあ、何を隠していると思う?」
「……それは、わかりません。でも」
「ほら、わからない。そしてそれはあなたが私をわかろうとする限り、私があなたから隠してしまうから。私が、そういう人間だから」
冷たく、切なく。アヤベさんの声は無感情であろうとしていた。そうであろうとしていたけれど、ずっと微かに震えていた。
「まずあなたに隠していたこと。『私にとっての天体観測は、初めての体験などではなく定期的な行動である』。新月の夜には必ず、この場所に来る。あなたがたまたま選んだ、この場所に。ええ、きっと罰なのだと思ったわ」
「そんな、そんなことで罰なんて」
「そしてもう一つ。『私が天体観測を行うのは、生まれたその日に亡くなった双子の妹との大切な時間だと考えているから』。だからその時間をあなたと過ごすことは、本来許されることなんかじゃない。だから、これは私への罰なのよ」
「……そん、な。それって、それはアヤベさんのせいなんかじゃ」
彼女は極めて他人事のように、自らの秘密を曝け出した。それを隠していた理由は、その素っ気ない口振りから逆に痛いほどにわかってしまうのに。そして、それを暴いたのは私だった。わからないからあなたのことを知りたいと、無邪気に愚かに望んでいた私だった。
「あなたのせいだとでも言いたいの? 無神経に私に近づいた、あなたのせいだとでも」
「……そうです。悪いとしたら、それは私で」
「それは、違うわ。断じて、絶対に」
その言葉に込められた意志が、一番強くて痛かった。どちらも血まみれにしてしまう、諸刃の剣だった。
「あなたはただ、わからないだけ。無知を罪だとするのなら、教えない、教えられない方に罪の根本はある。……そうよ、あなたにはわからない。あなたに私のことなんて、永遠にわからない」
「そんな、そんなことなんか」
「また、そうやって。そうやって、いつもいつも。そうやって他人のことをわかろうとできるあなたには、私の言葉なんて伝わるわけがないじゃない!」
ざあざあ、ざあざあ。わたしたちをずぶ濡れにして、それまで築いた関係全部を洗い流してしまう雨でも。アヤベさんのその叫びは、しっかりと聞こえてしまう。私に、届いてしまう。
「私はあなたに何も言えない人間なの。今日この日まで、ずっとあなたに近寄ろうともしなかった人間なの。あなたがどんなに私に自分のことを話せても、私は一向に話せない。そんな、どうしようもない人間なの」
「……っ、でもっ」
「でも、でも。そうやってあなたはいつも、私の今を否定するのね。……当然のことではあるわ。あなたから見れば私はどんなに愚かで、どんなに哀れか。何もかもを明るく話せてしまう、あなたと違って」
「もうやめてください、そんなこと思ってるわけないじゃないですか」
「……そうね、あなたはそうは思わない。私からは、そう見えるのに。だからあなたと私は、違う」
決定的な違い。何もかもを隠していたあなたと、そんなことすら知らずにあけすけにしていた私。そしてそれでも歩み寄ろうとする私と、歩み寄ることなど最初から望んでいないあなた。
全てが、違うのだと。
もうどれだけ濡れようが構わなかった。ただあなたと一緒にいたかった。あなたが濡れるのが嫌だった。だから一緒に帰りたかった。
それだけだった。
きっと、それだけすら叶わなかった。
「帰りなさい」
「……嫌です。絶対、ぜったいに」
「そう。なら、はっきり言わせてもらうわ」
そう言って、アヤベさんは私の瞳を見る。どしゃ降りの雨粒越しに、絶え間なく視界を遮る滴の先の、それでもその先に確かにある、私の瞳を。
──はじめて、私を見ていた。今までずっと一緒にいて、はじめて。そんな気がした。
「あなたと私は、わかり合えない。だから、私にとってあなたはいないほうがいい。……そう、最初からずっと、そうだったのよ」
「最初から、ですか。私たちは、最初から」
「最初から、会わない方が良かった。……事故みたいなものよ。あなたにどうにかできたことじゃない」
「……そう、なんですね」
ようやく、私たちの会話はどこかに辿り着く。つい先程までずっと続いて欲しかった夜が、いつのまにか今すぐにでも終わってほしいものに変わっていた。そのはずなのに、ここまで話し込んでしまった。身体中ずぶ濡れで、顔もぐしゃぐしゃで。……そんなふうに自分を俯瞰して見て、やっと私は私の今の顔に気がついた。
私の両の目から、今もなお私たちを包む豪雨と混ざり合うほどの涙が流れていたこと。そしてアヤベさんはそんな私を見て、その上でその言葉を選んでいたこと。
きっと、ようやくわかったことだ。だから私は、私もアヤベさんに向けての言葉を紡ぐ。もう、繋がらない。
「私、アヤベさんのことが好きでした。アヤベさんがなんと言おうと、私はアヤベさんのいいところをたくさん知ってるつもりでした。いつかアヤベさんが秘密にしてることを聞けたら、その時はどんなことでも受け止めるつもりでした。……そのつもり、でした」
「そうね。あなたはそういう子。ずっと、変わらない」
「でも今日、アヤベさんの秘密を聞いて。アヤベさんの気持ちも聞いて。私はずっと、アヤベさんに何も出来ていなくて。私なんかいない方が良かったって、アヤベさんの言う通りで」
「……そうね」
「……でもっ、でも! 私はアヤベさんに、もっと何かをしてあげられたらって思うんです。今でも、思っちゃうんです。……だめなのに。私じゃ、アヤベさんの力になることは出来ないのに」
どこまでも雨は降っていた。雨の終わりを区切りに出来ない今、私たちは言葉で断絶を作るしかなかった。星はまだ光っていたのに、私には見えていなかった。きっとアヤベさんにも見えていなかった。それも、私のせいだ。
「こんなに私は何も出来ないのに。こんなにあなたは、私のことを拒絶しているのに。どうしても私は、いなくなってほしくないって思うんです。アヤベさんがどこかへ行ったら嫌だって、思っちゃうんです。……そんなこと、思っちゃいけないのに。私には、そんな資格はないのに」
「私はどこにも行かないし、そもそもあなたのそばに歩み寄った覚えもない。そういう人間よ、私は」
どうしようもない私は、この期に及んでアヤベさんに手を伸ばしてしまう。きっとそれは差し伸べる手ではなく、掴み返して欲しいと求める手。そんな愚かな私の手は、あなたの正しい手に振り払われるだけで。
「こちらへ寄ってくるのも、どこかに去っていくのも。全てあなたの勝手にすればいい。あなたの自由。私のことを考えるなんて、無駄よ」
「……そう、ですか。そう、なんですね。アヤベさんは、そう言ってくれるんですね」
……断絶によってのみ生み出された会話は、どこまでも相容れないことを示していた。最初から。最初から、あなたはそう言っていた。だから、この会話を終わらせるのに必要なのは。
雨に濡れても気にならなかった。幸せな時間が壊れてしまったことも気にならなかった。ただあなたを傷つけてしまったことだけが嫌だったのだと、私にはそのことがようやくわかる。
一寸先も見えない闇の中、互いの顔だけは見える夜の中。私はアヤベさんに見えるように、とびっきりの笑顔を作った。自分でも不思議なくらい、自然と笑えた。涙と雨に見分けなどつかないから、これはきっと、完璧な笑顔だった。
「……ありがとうございます、アヤベさん。アヤベさんには、色々お世話になりました。最初は時々会って、爆弾おにぎりの話をしたりするくらいでしたけど。ファッションの話とか、料理の話とか。アヤベさんだって得意なわけじゃないのに、私のために付き合ってくれて。私はアヤベさんに、たくさんの時間を使ってもらいました。たくさんのものを、貰いました」
ぺこりと一礼して、また顔をあげて。まだまだ元気いっぱいというふうに、いそいそと手荷物を片付け始めて。
「だから、ごめんなさい。今までずっと、ごめんなさい。無神経な私と一緒にいるの、辛かったですよね。大切な時間を邪魔されて、苦しかったですよね。……だから、ごめんなさい」
ああ、やっぱりだめな私。最後くらい、あなたに傷を残してはいけないのに。どうしても最後に、何かを残したくなってしまう。
「さようなら。……今まで、とーっても楽しかったです!」
そうやって最後まで、私は本心でしか喋れなくて。わんわん泣きながら何度も何度も転びながら、一人きりで山を駆け降りて。寮では誰も起きていなかった。私一人だった。アヤベさんはまだあそこにいるのだろう、と思った。ずっとずっと、私からは手の届かないほど遠くに。それでいいのだと思った。それがそれぞれのあるべき場所なのだと思った。
きっと、私たちの出会いはたまたまだった。だから、それがいつ終わってもおかしくない。支障はない。それぞれにそれぞれの日常があって、元いたそこへ帰るだけ。
きっと、それだけのこと。それは運命などではなく、ましてや奇跡なんて素晴らしいものじゃない。
出会うべきじゃない不幸な事故。そう呼ぶのが、相応しかった。
※
私はあなたに必要ない。あなたが私を見遣ることは、己の古傷を抉ることに等しいのだから。知れば、あなたはまた亡くした肉親という共通点を自分の中に見つけるのだろう。そうして私のために、自分の中の大事な感情を明らかにしてしまうのだろう。それを秘密にしておくべきなのは、あなたにだって言えることなのに。
「私になら言ってもいい」なんて言わないで欲しい。それは確かに誰かに話すべきことだとしても、誰かのために話すことじゃない。あなた自身がその気持ちを大切にするために、そのために紡ぐべき言葉だ。
あなたはいつだって、私のことばかりだった。だから私はあなたに私のことを話すべきじゃなかった。そうしてしまえばあなたはきっと、それを私と分かち合おうとしてしまう。痛みも、傷も、何もかも。それは相手を癒すとしても、自傷行為にすら等しいのに。
他者に自己を捧げることは、自分の痛みに気付ける人間がやることだ。傷んでも構わない私のような存在だけが為すべきことだ。だから、あなたがこれ以上、大切なあなたがこれ以上自分自身を傷つけてしまう前に。
私はあなたを拒絶して、救いようのない存在だと見限られる。最後には人を憐れみながらも星へと昇った、清く正しい天秤の女神のように。あなたはいつまでも、私に縛られていていいはずがないのだから。
きっと、私たちの出会いはたまたまだった。あなたにとっては不幸な事故で、何も得るもののない時間。何もあなたに成してあげられない私が、たださまざまのものを与えられては活かせない虚しい時間。たまたま長く続いただけの、遠い遠い周り道だ。今の私に願えるのは、あなたもそう結論付けていて欲しいということだけ。ここまで散々私たちは違っていて欲しいと言っておきながら、最後に一致を望むなんて虫が良すぎる話だけど。
互いの認識が一致すれば、同じことを考えれば。それで話は終わる。それだけで、この関係には終止符が打たれる。
きっと、そのはずだ。それだけが唯一、私からあなたに返せるものなのだから。
次回完結です
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スペシャルウィークとアドマイヤベガの結実
長きに渡りありがとうございました
きっと、私たちの出会いはたまたまだった。たまたま寮で会話を重ね、たまたま一緒に過ごす時間が多くなっていった。そういうふうに深く変化するのも、あくまで一時的なもの。だからその関係そのものすら一時的なものに過ぎないとしても、何ら不都合はないはずで。
あの天体観測の日から数日が経った。私とあなたが会わなくなってから数日が経った。もっとも普段からそれほど頻繁に会うわけではないから、それほど差があるわけではない。もちろんそれで生活に支障が出ることもない。時々しかなかったものが永遠に失われたとして、それで起こる変化など微弱なものだ。
きっと、あなたは私のことなどそのうち忘れてくれる。そうやって無意味な関係を捨て、意味のある関係に注力できる。これ以上、あなたは傷つかない。そうあるために、私は接触を避けていた。
そう、避けていたのだ。もうそれなりにお互いの生活リズムが一致するタイミングはわかっていたから、それを少しずらすのは容易かった。あるいはあちらも同じことを考えているのかもしれない。だからこそ、私たちはもう出会わない。
きっと、永遠に。今の私はそれを、それだけを心から望んでいた。
※
最近、夜はあまり寝付けなかった。梅雨はもう終わったというのに、気圧の変化に因る体調不良は尾を引いていた。あるいはあの日雨に打たれすぎて風邪を引いてしまったのかもしれない。そうやってくるまっている羽毛布団を手のひらで掴み食みながら、それとは対照的に凍てついた心中を見下し噛み締める。それが最近の私だった。まだ、元には戻れていなかった。ずっと続きそうだったあの日の雨すらも、朝が来る頃には無かったことになっていたのに。
あなたと初めて星見に行ったあの日、あるいは普段なら一人で星見に行くいつもの日。あの日、私はあなたを拒絶した。今まで隠していた負い目を曝け出し、あなたを傷付けてまで。きっと、あなたはあの日を楽しみにしていたのに。嫌な思い出を作ってしまった。だから、早く忘れた方がいいのだ。それはあなただけでなく、きっと私も。
それなのに。毎日毎日ただ暗闇の中で目を開いていた。布団の感触を確かめながら、眠れないのだと何度も認識した。理由は分かりきっていた。このままでは本格的に体調を崩してしまう。それはレースにも差し障りのある事柄だ。
私はあなたのために走らなければいけない。それ以外のことで眼を曇らせるわけにはいかない。だから、これは解決しなければいけない事案だ。きっと、たまたま。その程度だから、時間が経てば消えてゆく。そのはずなのに、いくら経っても終わらなかった。
ずっと、あなたのことを考えてしまっていた。
それでも何とか途切れ途切れの睡眠を取り、無理矢理目を覚ますために朝早くに朝食を取る。……万が一スペシャルウィークさんに会ってしまわないように、場所は寮の自室だ。カレンさんはまだ眠っている。そんな部屋で一人、ぱさぱさとした栄養食を口にしていた。彼女にも今回のことは言っていない。きっと、言ってしまえば彼女にも心配をかけてしまうから。理由はそんなところだろう。
わからなかった。自分のことがわからなかった。あの子のために生きると決めてから、一度もその場所を離れたことなどなかった。そんな自分のことなど、全て知っていると思っていた。そのつもり、だった。
けれど、あなたは私に触れてきて。初めは決して近くない距離だったのに、そこから私に近づくためにはたくさんの痛みを伴ったはずなのに。私の方からは動かないで、彼女にばかり背負わせて。結局私は、どうすれば良いのかわからなかったのだ。あなたと私が取り返しがつかなくなる前に終わらせるには、どうすれば良いのか。だから、ああした。ああするしかなかったのではない、ああする以外の方法を見つけられなかったのだ。
(ねえ、あなたならわかったのかしら)
あっという間に味気ない食事は終わり、また一人の時間がやってくる。あの日断絶を告げたあなたに、届かないとわかっているから私は言葉を投げかける。もう縋っても触れられない。手を取ろうとしても差し伸べられない。だから初めて、私は素直にあなたを見つめられる。ぎこぎこと古びた木製の椅子にもたれながら、思考を伸ばすのは手の届かない方へ。それはいつもはあの子に向けてだけれど、今は違っていた。
きっと、そうして初めて。初めて私はあなたに、あの子の幻影を重ねなかった。姉気取りの先輩ではなく、ちっぽけな関わりを持つ一人として。そうやって、あなたを見れていた。
ねえ、スペシャルウィークさん。あなたはきっと、私によくしてくれていた。そして私もきっと、それに応えたいと思っていた。思っているだけで、何もできなかったけれど。あなたがどれだけ手を差し伸べてくれても、私は変われなかったけど。
それでも最後に、あなたを明確に突き放して。私とあなたの距離は、それで何とか保たれて。あなたは悪くないのだと、なんとかそれは伝えられたはず。あなたを傷付けているのは私。あなたに会うべきでないのは私。そんな価値がないのだと、それだけはわかったはず。それさえ伝えられるのなら、私はどうにだって。
……そうやって、あの時の感覚をリフレインして。私の不器用で嘘ばかりの言葉がちゃんと愚かだったか、確認して。
『だから、ごめんなさい』
──それが彼女の最後の言葉だったことの意味に、私はようやく気がついた。
違う。彼女は私の心無い言葉に謝ったんじゃない。そんな時の彼女は、強く痛々しく棘の中に手を差し伸べられる子だ。私の知るスペシャルウィークさんは、そんな傷は厭わない。だから私はそれを止めようとして、私は。
私は、「あなたには私はわからない」と、決定的な断絶を示したのだ。そしてそれが、彼女が謝ったことの本当の意味に繋がる。彼女は最初から、私の薄っぺらな拒絶など意にも介していなくて。彼女はきっと、己の無力さが断絶を生んだことだけを嘆いていて。
彼女の最後の結論は、自分を悪者にすることで。
私が最後にしたことは、あなたが致命的な自傷をする手助けになってしまっていて。
私の最後の願いは、一つもうまくなんかいってなくて。
「……どうして、なの」
誰にも聞こえない声が漏れる。まだ昇り始めたばかりの日差しすら、私を見てはいないだろう。独りぼっちの世界に、ただただ私の声が響く。どうして、こうなってしまったの。どうして、ずっと気付かなかったの。どうして、全ては取り返しがつかないの。
既にあの日から一週間以上が経った。あなたは酷い人に遭った不幸な事故として、今までのことを忘れているはずだ。それなのに、現実は逆で。あなたはあの日からずっと辿り着いていただろう苦しみを、ようやく私は見つけることができて。
「自分のせいで、この関係は壊れた」
きっと、あなたはそう思っている。本当に今更、そのことに気づいた。
※
それからの私は、今まで以上に走ることだけを考えるようになった。そうしていた。理由は単純かつ愚鈍で、罪の意識に耐えられなかったから。もはや私に希えるのは、もう手の届かないところにいるあなたができるだけ幸せでいてくれること。具体的でなくて曖昧でも、それくらいしか祈れない。
相変わらず、スペシャルウィークさんを見かけることはなかった。一目見てしまえばあなたは自分の失敗だと思い込んだ傷をもう一度自分自身で抉ってしまうし、私はそんなあなたを見ても震えて何も言えないだろう。だからこうするしかない。もう取り返しはつかない。ただ二度と会わないように、ずっと互いの傷だけは開かないように。そういうことだった。
(……ふっ、ふっ)
誰もいない、夜のグラウンド。星明かりと三日月だけが、空から私を見守っている。そんな時間。あれだけのことをして、それでも夜は好きだった。眠れないままでも、落ち着いた。だから私はたびたび夜に外に出る。天体観測も含めて、だ。
「もう少し、走っていこうかしら」
どうしようか。走ることはウマ娘の本能であり、そうしている限り何もかもを忘れられる気がした。けれどオーバーワークは厳禁だ。追加のトレーニングも、あくまで自己管理の範疇だ。そんなことを考えながら、真っ暗な練習用のコースを見渡す。もっともこんな時間には、私以外の人影など──。
(……あれは)
一人、星の下を走る影があった。風を切って、夜を踏み締めていた。どこまでも、どこまでも走っていた。先程までの私と、同じように。そうしてあっという間に私の目の前まで走ってきて、そこで彼女は脚を止める。自分以外のウマ娘が存在することに戸惑っている様子だが、それは私も同感だ。このまま無視して、互いの時間に戻ってもいいのだけど。
「こんばんは。こんな夜更けに走ってる子が、私以外にいるなんて、ね」
「……こんばんは。私も、びっくりしました。運命的な何か……などと言うのは言い過ぎでしょうか」
すーっと伸びた栗毛の長髪、星の光をも飲み込む小さいけれど静かな意志を秘めた瞳。確かに彼女には、何かどことなく気になる点がある気がする。とはいえそれくらいでは、今までの私なら声をかけることはなかっただろう。
ならばきっと、私がこの見知らぬウマ娘に話しかけるのは。
「自己紹介、なんて柄ではないのだけど。アドマイヤベガよ、よろしく」
「サイレンススズカです、こちらこそよろしくお願いします」
もっと人と関わりたい、そんな変化があなたから与えられたから。そういうものなのかもしれない。
サイレンススズカと名乗る少女は、控えめながら私と会話を始めた。くるりくるりと左回りにうろつきながら。彼女の癖なのだろうか。私もよく喋る方ではないので、その会話は途切れ途切れだった。スペシャルウィークさんの時はこうではなかったな、と思い出してしまった。おそらくサイレンススズカさんにも、そういったよく話す相手がいて、その時は聞き手に回りがちなのだろう。そういう点でも、私たちは似ているのかもしれない。
「それにしても、綺麗な空ですね」
「そうね。天体観測にはもってこい」
「天体観測、ですか。実は私の同室の子が、最近凝ってるみたいで」
サイレンススズカさんの口から、意外な情報が漏れてくる。私のそれは趣味ではないけれど、星見を嗜むウマ娘はそれなりにいるのだろうか。たとえば、スペシャルウィークさんのように。
「スペちゃん……あっ、同室の後輩で、スペシャルウィークって子なんですけど」
……まさかそんな私の思った通りの名前が出てくるなんて、思いもよらなかったけれど。
「……スペシャルウィークさん、ですか」
「はい。スペちゃん、最近毎日夜間外出許可を出してるみたいで。それでどこに行くんだろうって聞いたら、天体観測って」
「毎日? 毎日、天体観測に?」
「……はい。夜更かしのし過ぎはよくないって、本当は先輩として注意してあげなきゃいけないんですけど」
信じられない情報が、スペシャルウィークさんのルームメイトたる彼女の口から発せられる。スペシャルウィークさんは、毎日天体観測に行っている。あの日あれだけの傷を負っても、なお。愕然となる思考回路を、必死に繋ぎ止めて何かを考え続ける。何かはわからなかった。けれど止まっていた、終わっていたはずの何かが動き出していた。
いいや、本当は最初から終わってなどいなかったのだ。スペシャルウィークさんは、まだ諦めていないのだろう。だからきっと、まだ彼女は天体観測を続けている。私が絶とうとしたその繋がりを、それでも決して絶やさないために。
「サイレンススズカさん。スペシャルウィークさんは、今日も天体観測に行ったのかしら」
「……はい。スペちゃんのあの目は、絶対にやり遂げたいことがあるって時の目でした。……あの、もしかして」
「何かしら。行かなければいけないところがあるから、最後に一つだけ聞くわ」
「スペちゃんは、誰かを待ってるんだって言ってました。もしそれがあなたなら、スペちゃんのことをよろしくお願いします」
「……そうね。こんな短時間の会話で、そこまで見抜かれてしまうとは思わなかったけど」
「それと、もう一つ。スペちゃんを酷い目に遭わせたら、私はあなたを絶対許しません」
「それは、約束できるわ」
「はい。いってらっしゃい、アヤベ先輩」
そうして、私は駆け出した。ターフを走り終えたばかりの泥まみれのジャージ姿そのままで、いつもの用意は一つも持たずに。たん、たたん。足音しかわからなかった。一寸先は闇だった。何度も歩いた道とはいえ、それでもライトなしではいくらか怪我を作りながらの道のりだった。それでも注意深く行くよりは、その方が何倍も早く辿り着けるだろう。
まだ、何もわからない。やはり人の痛みを抱える余裕などない私にはあなたの気持ちはわからない。それはある種真実で、私とあなたにはわかり合えないことがある。私はあなたがわからないし、あなたも私をわからない。
けれど、あなたはわかろうとしている。どんなに痛みを伴う方法でも、あなたは私のことを理解しようとしている。そのためにあなたは、独りぼっちで星空を見上げて。孤独を纏う私を見て、それを理解するために孤独になろうとしている。
無理矢理だ。めちゃくちゃだ。そんな方法で、あなたの心はどうなるの。あなたはどうして、そこまでやろうとするの。それはやはりわからない。
だけど、私にも一つだけわかることがある。
あなたは、私を待っている。
きっと、すぐそこで。
※
星空は相変わらずよく見えた。いつも通りの丘だった。違うのは、私が泥と傷だらけの姿なこと。空には新月ではなく、三日月が浮かんでいること。そして、あなたの後ろ姿があること。まだ真新しいレジャーシートを敷いて、その左半分に彼女は座っていた。誰かが来るはずもないのに、誰かのための場所を空けていた。
「横、いいかしら」
不思議とすんなりその言葉は出てきた。出てきた後で、「星見は静かに」という自分の言葉を思い出した。彼女の返事はなかった。けれど僅かに身体を寄せて、もう少しだけ左側に寄って。彼女は静かに待っていた。
なら、私のすることは決まっている。
そう思った。そうするだけだった。
言葉はないまま。私は静かにあと少しの距離を踏んで、やがて泥まみれの靴を脱ぐ。靴下も汚れ切っていたので、一緒に脱いで裸足になる。服についた土を払い、少し切れて血の垂れた頬を擦り。出来るだけ汚れを無くしたあと、私はあなたの隣に腰を下ろす。
疲れ切った身体は、思わず重心を下に下ろしてしまい。私は両の手のひらを腰の近くに置く。
その、片方を。左側に置いた、私の左手を。
ぎゅっと、強く握りしめるものがあった。その手は震えていた。彼女はずっと怖かったのだと、それでもここに独りで待っていたのだと。
あなたの震える右手は、私の左手を上から強く強く握りしめて。決して離さないように、もうどこにも行かないように。まるで押さえつけるかのような、そんな力のこもった手のひらだった。
けれど、それがどこにでもある普通の繋ぎ手になるのには。私があなたの手を握り返すのには、大して時間はかからなかった。
私たちの関係がそこに浮かび上がるのは、あっという間のことだった。
「……ねえ、アヤベさん。本当は静かにするつもりだったんですけど、一つだけいいですか」
「別に、一つじゃなくてもいい。今日の天体観測は、あなたのものなのだから」
空の真ん中には三日月が浮かんでいた。白く大きく、けれど太陽がなければ輝けない。強いようで一人ではいられない。そんな星。私の星見とは無縁のものだ。それを眺めるのはあなたの時間だ。
今日は初めて、私があなたに寄り添うのだ。
「えへへ、じゃあたくさん、たくさん言いたいことはあるんですけど。とりあえず、一つ」
「何かしら、スペシャルウィークさん」
「また私と、お話ししてくれますか? また私と、一緒に」
互いに目線は交わさず、白い白い月を見上げながら。きっとあなたは勇気を出して、その言葉を告げた。そしてそれは、私のための言葉じゃない。あなたがあなたのために、あなた自身のしたいことだ。
なら、私は。
「ええ。私も、あなたと話がしたい。……それくらいなら、言わなくてもわかるわよ」
「……そうですね。なら、もっと別の話、しなきゃですね」
「ええ。話したいことは、たくさんあるの」
「はい。私も、です」
私も私自身の言葉で、あなたと共にいることを願おう。
そうして、私たちの言葉は巡り合う。取り留めのない雑談は、何日分も溜まっていた。きっと、たまたま出会わないと出来ないようななんでもない会話。けれどあなたと出会わなければ、決して出来ないようなかけがえのない会話。今宵の星見は騒がしく、時折空ではなく相手の方を見遣るような賑やかなものだったけど。
それが、あなたの世界なのだろう。あなたにとって私は、今のように笑い合いたい存在なのだ。あなたという太陽に照らされてようやく、けれどしっかりとその顔を輝かせる三日月。きっと、そういう関係だ。
「……ねえ、スペシャルウィークさん」
「なんでしょうか、アヤベさん」
「あの日のこと。あの雨の日の天体観測のこと、なんだけど」
ひとしきり話して、何度か笑い合って。私はまた、静寂を破る。あの日自ら引きちぎった線を、再びあなたと結ぶために。
「はい。あの時は、ごめんなさい。私アヤベさんのこと、何もわからなくて。……だからわかりたくて、でもその方法もわからなくて」
だから彼女は、こうして毎日天体観測を続けていた。何もわからなくてもがむしゃらに、それがあなたの強さだった。……私がもう見ていられないとさえ思ってしまった、あなたの眩しい傷だった。
だけど、だからこそ。私はあなたに言葉をあげられる。あなたにたくさんのものを貰ったように、私からもあなたに何かを返せるのだ。
「いいえ。こちらこそ、ごめんなさい。たくさん酷いことを言った。たくさん酷いことをした。そんなことがあなたのためになるなんて、本気で信じていた」
「アヤベさんが私のことを気遣ってくれてることくらい、わかります。ずっとわかってます。アヤベさんは、そういう人です。アヤベさんがそうじゃないって言い張っても、私にはそれがわかってます。……やっぱりわかりますよ、あれだけ一緒にいるんですから」
「そうね。多分私も、あなたのことをわかってしまっていた。……あなたは、優しい。そして、正しい。優しすぎて、正しすぎるの。だからこうやって他人の痛みばかり見つけて、自分の傷に無頓着で」
真横を向く。あなたと目が合う。繋いでいたままの手を握り締める。星は、あなたの瞳に見えている。それはわかった。なんとか判別できた。
私の視界が、涙に滲んでいたとしても。自分の意志で泣いたのは、初めてのことかもしれなかった。けれどそんなことはもう、どうでもいいことだった。
「あなたは、いつも! 今日までだって毎日夜に出歩いて、それがどれだけ自分自身を傷つけてるか知らないで! 心配をかけてしまう相手のことばかり気にして、心配されている自分のことは気にもかけないで! ……それは、嫌なの。私はあなたに、危うい道を選んで欲しくないの。いいえ、私だけじゃない。誰だって、あなたが傷つくのは嫌なはず。あなたは皆に好かれているんだから。だから。だからあなたはもっと、自分を大切にしてほしい」
ざーっと滝のように流れた感情は、それもまた初めての感覚で。言葉にならない言葉。でも確かに、届いていた。
「ごめんなさい。……そして、ありがとうございます。やっぱりアヤベさんは、優しい人ですね」
「それはあなたの方よ」
「それならお互い様ってことにしましょう。私もアヤベさんに言いたいことがありますし。これもお互い様、の話題です」
「……じゃあ、さっきの私の話は聞いてくれるの」
「……はい。確かに私、誰かのためばっかりだったかもしれません。実は昔、似たようなことを言われたことがあるんです。『私の夢はお母ちゃんの夢であって、自分自身のものじゃない』って」
「そう、だったの」
「でも、それはやっぱり私にとっても大事な夢だってわかって。だから私は多分、今も走れています。……けれどそれは、走りのことだけじゃなかった。『日本一のウマ娘』を目指すなら、自分自身が一番って自信がなきゃいけないのに。ありがとうございます、アヤベさん。アヤベさんのおかげで、気づけたことかもしれません」
「それなら、良かった」
「でも、それはそれとして。私もアヤベさんに言いたいことがあるので、言わせてもらいます。こんなことを言われた手前ですが、アヤベさんは自分を大事にしなさすぎです。自分なんて価値がないとか、そんなことばっかり言って。……そんなわけないじゃないですか。アヤベさんみたいな素敵な人が、意味がないわけないじゃないですか」
それはきっと、先程私が言ったのと似た台詞。つまりあなたがそれを受け入れるなら、私もそれを受け入れる必要がある。仕方ない、というわけだ。
「お互い様、ですけど。アヤベさんも、自分を大切にしてください。私も、自分を大切にします。約束、です」
繋いだ手は離さないまま、もう片方の手であなたは小指を差し出す。それも、私とあなたで繋いで。
両の手が繋がる。私たちは、一つだった。
「……ねえ、アヤベさん」
「何かしら、スペシャルウィークさん」
また、会話はしばらく途切れて。二人で星を見て、あの日とは確かに違う空を見て。
「月、綺麗ですね」
やがて始まったそれは、話題も出尽くした最後の出涸らしだったけど。
「そうね。このまま、もう少し」
それでも限りなく、私とあなたを満たしてゆく。
そのまま、手を繋いでいた。同じ月を見ていた。同じ時間を過ごしていた。ずっと。ずっと。
きっと、私たちの出会いはたまたまだった。運命的なきっかけはなく、時折の会話から偶発的に始まったものだ。一度出会っただけでは全ては決まらない。たとえば百回繰り返しても、私たちがそのうち出会えるのは一度あるかもわからない。薄くて、か細くて、あっという間にちぎれてしまいそうな関係だ。
それでも今、一緒にいる。必然じゃなくて偶然でも、ここにある事実は確実なもの。そんな幾億の可能性の果てに、私たちが確かに出会うなら。
それが運命でないのなら、奇跡と呼ぶのが相応しい。
ご愛読ありがとうございましたこれにてアヤスペの幻覚は一区切りになります
本当にありがとうございました感想評価とても励みになりました
次回、キンオペ
なのですが更新はこれにて一区切りとさせていただきます再開したらその時はよろしくお願いします
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キングヘイローとテイエムオペラオーの場合
キングヘイローとテイエムオペラオーの場合
「三着! 三着です! 安田記念、日本ウマ娘最先着は──」
最強世代と呼ばれるウマ娘たちがいた。黄金の世代と云われるウマ娘たちがいた。絢爛たりて不夜たりて、誰一人として悲劇たりえない。偉大なる業績を積み上げて、去る時さえも美しく。幕引きを決して見誤らない、黄昏に終わるワルキューレたちがいた。
ああ、なればこそ問おう。ボクという王から、君という王に問おう。
「──キングヘイロー! 三着はキングヘイローです!」
世紀末への手向けは、誰も持ち合わせていないのかい?
撃ち落とさせろ。
天輪の如きその冠が、喝采の裏に消える前に。
どうして、こうなったのだっけ。
冷たすぎるくらいのクーラーが効いた合宿所の広間、すなわちそれなりの観客がいるところで、どうして、こんなことをしているのだっけ。テーブルに着いて、50cmちょっと目の前の人を見て、やはり思う。どうして、と。
「さあ! キング君! 今こそ雌雄を決する時! 果たして孤独に死すリア王と、王すら殺す王子のハムレット! 一体どっちが強いのか──」
「決めてやろうじゃない! 私たちの、腕相撲で!」
それでも、だった。張り合わない理由など、この人との間には存在しないのだ。
テイエムオペラオーという、クラスもデビュー時期も違う同級生については。どうしたって薄い縁で、どう考えても細い繋がりだ。だけど不思議と、この誇大な同級生と張り合うことはできた。キングのプライド、というやつかもしれない。まあそんなもので関係が成り立つのは、大袈裟極まりないファイティングポーズを取るオペラオーさんからの働きかけも大きいのだが。
どうにも、こうして私たちは張り合うことがたまにある。高笑い対決だとか、ラーメン大食い対決だとか、なんでこんなことをと思いつつ、全力で迎え撃たなければいけない気がする……などなど。
まあ、つまり。
「い、いいんですかぁ……? テーブル、壊さないように……」
「構わないよドトウ、そもそもボクでは審判の君には破壊者の面ではとても及ばないとも! だからこそボクは君を超えるため、このテーブルをぺちゃんこにして見せる──、そう、多人数用の広い机という竜を殺すジークフリートのように……」
「それならあなたの掌の『背』を、机に叩きつけてぼろぼろにしてあげるわよ! 勝つのは私! この、キングヘイローなんだから!」
どうしたって、この戦いは負けられない。
……やってやろうじゃない!
「……では、はじめっ! ですぅううう〜〜!!」
最後の夏合宿は、そんなイベントが多かった。
※
「ふぐぐ……やるね、キング君!」
テイエムオペラオーについて、私はそれほど親しくない。顔を知っている同級生、くらいの仲でしかない、と思うくらいだ。なら「勝負」なんてするわけがないだろうというのは、まったくもってその通りなのだが。そもそも突っかかってきていきなり訳のわからないことを言うのはあっちだし、そこでいやに的確な挑発をぶつける技術があるのもあっちだ。つまり私が勝負に乗っかるのは不可抗力だ。仕方ない。そういうわけで、どういうわけか。みたいな。
「……っつ、負けないわよ、絶対に!」
どういうわけか、その勝負には負けられない気がするのだ。そもそも今回の勝負だって意味不明だ。リア王とハムレットの共通点なんてシェイクスピアで四大悲劇で王位をめぐる話で……意外とある。いやいや、それがどうして「どっちが強い?」になって、どうしてその代理役が私たちなのだ。確かに私はこのキングヘイローであるわけで、彼女もまた今年の戦績から「覇王」と呼ばれ始めているらしいけれど。
それにしたって、だ。
「なんで、私がっ」
「うおっ!?」
「私がリア王呼ばわりされなきゃいけないのよ!」
そこくらいは、文句を言っていいだろう、と! ぐぐいと腕を捻りながら、徐々に増えてきたギャラリーにも構わず声を荒げた私なのだった。
知っているとも、その悲劇くらい。「お嬢様」を舐めないで。知ってか知らずか押し付けた「役」割が、「王位を滅ぼした王」、だなんて。
「やああっ!!」
それにはムッときたので、叩き伏せにかかる。力を込めて、汗を垂らして。テーブルを破壊するには至らない、なんとか甲を当てるほどの決着だったが。最後まで必死に抵抗して、そんなにあなたはハムレットの方が強いことにしたかったのか、そんなふうにも思いつつ──。
「き、キングさんの勝ちですうぅぅ〜! ごめんなさいごめんなさいオペラオーさん、負けを宣告してごめんなさい〜!」
終わった直後にあわあわと、同期を過剰にさえ労わるメイショウドトウを見て、すとんと落ち着く気持ちがあった。
どうにも。
どうしたって。
この点、勝ち目はない気もする。
「くっ……なんということだ! ハムレットは、リア王への復讐を成し遂げられないのか! おおなんという悲劇! なんという哀しみ! そしてその中心にいるボク!」
「負けたのに中心にいるのは、ズルくないかしら」
「はーっはっはっはっ! 真の強者とは、負けても美しくあるものさ! 無論、勝っても! というわけで次は負けないよ、キング君」
「はいはい。じゃあそろそろ、トレーニングに行くべきね。合宿中なんだから」
「そうとも! そうだね! そう思っていたところだよ! さあ行こうドトウ! 光り輝く夏の青空がボクたちを待っている!」
とかなんとか言って、オペラオーさんはドトウさんを引っ張って熱い砂浜に駆け出して行った。どうやら、一件落着らしい。よくよく考えると何も解決していないというか何も大したことが起こっていない気がするけれど、私とあなたの勝負はそういうものでいい気もする。
譲れないけど、瑣末で。
勝ちたいけれど、勝たなきゃいけないことはなくて。
そういう勝負もあってもいいかもしれないと、ようやく至れた時分なのだから。
うん、悪くない。ここまで来てみれば、そんなに悪くないじゃないか。
夏の青空とやらは、去年と同じように鮮やかだった。夏合宿は、今年もつつがなく進んでいた。だから私は振り返って、今日も変わらず思うのだ。
──ああ、楽しかった!
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キングヘイローとテイエムオペラオーと雨
どうしたものか。そう嘆息せざるを得ない状況にあった。何故か? 嗚呼、何故だろうか。その問いはとても難しく、しかしてシンプルである。これすなわち、ボクの目の前にある命題は──。
「雨に濡れながらトレーニングをするボク! 果たしてどうして、何故こんなにも美しいのか!」
「おばか! 風邪引くわよ、風邪!」
つまりはそんな、美しきが故の罪であった。いや、キング君の言い分もわかるとも。今日の雨は雨というには嵐に近く、風は吹き荒び海は荒れ狂う……流石に合宿といえどトレーニングを優先すべき状況ではない、ということだろう。宿舎から飛び出ようとするボクの腕を必死に掴むキング君がそう言いたいことはわかるとも……しかし、しかしだよ!
「……時に、キング君」
「何かしら。どうでもいいけど今年の夏合宿はよく顔を合わせるわね」
「そうだろうとも! 運命の導きのまま、ボクは君を見つけたら突撃するようにしているからね! 王として!」
「はあ? はあ。いやそれより、つまりは何が言いたいのよ」
……うっすら剣を突き立てて見たけれど、その王は下手な刃など意に介さないみたいだった。それだけ今まで向けられてきたものがあって、それでも退けてきたものがあって……なるほど、ならまだボクは足りないのだろう。というわけで、本題に戻って。
「時にキング君、他のウマ娘に勝つために必要なことはなんだと思う?」
たまには、「舌戦」だ。
「君が言い負かせたなら、嵐に飛び込む真似はやめてあげるよ」
どちらがより美しい論理を組み立てられるか、今日はそういう勝負をしようじゃないか!
ざあざあと雨がうるさくて、けれど万雷の喝采にも聴こえていた。なるほどそれなら、ボクたちの舞台にはふさわしい。稲光さえ栄光に変える、それが覇王というものだとも。そうとも、ボクの論理は──。
「どんな逆境でも、諦めないことよ」
──先に言われた。
「……ぐっ。ぐっっ!!」
「……なによその、本気で苦しみながら笑ってるような半々の表情は」
「いや、いいとも。続けたまえ、キング君」
そう言うと、君は少し微笑んで。
「まあ私は、既にあなたより勝てていないわけだけれど」
爛々たる瞳を、光の無い空へ向けていた。
「勝つことは難しい。私が勝った負けたを争った相手が、実力の面でのみ争っていたわけではない。枠番、体調、レース展開、失策……まあ、色々と不確定要素はあるでしょう。期待されたものがそのまま実力になるわけでもないし、実力が常に十全に発揮されるわけでもない。それが、私が学んだことよ」
「ほう。それならボクが勝てたのは、あるいは三女神の采配であったのかもしれないね。そしてこれから、見放されることも」
今年のボクは、最強と呼ばれていた。かつて誰か「たち」が最強と呼ばれたように、最強だと言われていた。無敗、常勝、覇王。今年の半分を過ぎて、負けは一つもなかった。けれどそんなのは紙一重の差であると、彼女は言ってのけたわけだ。秋の盾や有マまで取れるかなんて、年間無敗を遂げられるかなんて、実はそれほど容易い道ではないと。
無論、わかっているとも。
それでも、なのだろう。
「……それでも、一着を取れば勝ちなのよ」
そう呟く口元に、悔しさは滲んでいなかった。
俯く立ち姿、右腕を掴む左腕。されど顔だけは上を向くから、彼女は雨粒の喝采を受けるのだろう。
「諦めずに走り続ければ、いつかは自分の道が見える。私はそれほど勝てなかったけれど、確かに勝ちもした。困難に向けて諦めなかったから、もぎ取ることができたのよ。」
「……ふむ」
「負けても諦めないこと。それが私の、勝つための結論。あなたは、どうなのかしら?」
なるほど、なるほど。
「それならボクは、こう言うほかないね」
諦めないことが、勝利に必要なものである。言おうとしたことは、ほぼほぼ同じだった。それならば議論は成立せず、ボクたちは仲良しこよしで帰るしかない。それもいいだろう。そういうこともあるだろう。
それでもなお、ボクが「舌戦」を続けるなら。
「勝っても、それ以上を諦めないことだよ」
ねじ伏せられてでも、刃をぶつけるしかない。
君が「柔」なら、ボクは「剛」だ。
穏やかな話し合いなんて、望んでいない。
「……そう」
ボクはきっと、そう告げて。
「なら、そうね」
君は、確かに受け止めて。
「なら、頑張りましょうか。風邪だけ、引かないように」
ぐいと、ボクの腕を引いた。
……してやられた!
「ほらほら、とりあえず更衣室まで走るわよー!」
「……くっ! また勝てなかった! この夏合宿、君の方がどうにも上手らしい……認めようキング君という王を! しかし宣言しよう、最後に勝つのはボクであると!」
「はいはい、頑張りなさいな」
そんな感じで、柔よく剛を制す。飛びかかったつもりが、その勢いで結論まで決められてしまった。悔しいが、負けである。もっと激論を交わすつもりだったのに、結論が同じでは仕方ない。どうしたって小細工程度で、これは勝負の仕掛け方が悪かっただろうか、などなど。つまりはどちらにせよ、ボクたちは嵐の中トレーニングに勤しむ似た者同士というわけだ。
「……ふふっ」
「どうしたんだい、キング君」
「ああ、いや」
駆けながら、語らう。嵐に立ち向かいながら、互いに立ち向かう。「君には負けない」、そう思う。誰にだって思うけれど、誰にだって別々の気持ちを持つ。
「こういう立場になったか、と思ったの」
次の日くしゃみが出たけれど、その日も楽しかった。
ただ少し、寂しそうだった。
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キングヘイローとテイエムオペラオーとタイムアップ
どうやら、ここまでらしい。私は終わりだ、私は行き場がない、私は逃げられない、私は──。
「ここにもいない! キング君よ、姿を現したまえ!」
(それで出て行ったらかくれんぼにならないでしょうが!)
と、そんなこともなかった。今日の勝負は、「かくれんぼ」。一時間の間に私を見つけられるか、見つけられないか、もしオペラオーさんが私を見つけられなかったら哀れ魔王に連れて行かれるのだ、とかなんとか。まるでかくれんぼに勝ったらバッドエンドとでも言われたような気がしたが、それでも引き下がる道理はなく呑んだのだ。
そして隠れたのはある一室のロッカー。そしてギリギリまでこの部屋に入りさえしなかったのがオペラオーさん。いつになったら来るのかとばかり思っていたが、ロッカーの中から敵の様子を窺えばここまでちんたらしていた理由はすぐにわかった。
「嗚呼! 何処へ行ってしまうのか! キング・オブ・キングは、魔王に連れ去られてしまうのか! しかしそんなはずはない……なぜなら! そう!」
夏合宿開始からの数日突っかかり続けられて、今更ながらに再確認したことだが。
「魔王ではなくこの覇王が! 君を見つけ出すからだ! ラララ〜真実を射抜く者の名は〜、そうテイエムオペラオ〜♪」
どうもこの人のテンションは、一人でも永遠に続きそうなくらい騒がしいらしいということだった。
(……まったく、不思議な人ね)
もちろん何も口には出さず、心の中でため息を。シニア級に入ってからのテイエムオペラオーというウマ娘の戦績は、当然知っている。四戦四勝、すべて重賞の無敗神話。「私たち」とは違って、盃を分け合うことはないみたいだった。もっとも私だって、誰かから奪い取れたわけではなかっただろうけど。
あの頃は騒がしかった。それほど昔ではないのに、ふとそう思ってしまう。今年と去年は何も変わらないはずなのに、すべてが変わった気さえする。同期の中では恐れながらブレーキ役をやっていた気がするのに、こうしてオペラオーさんと絡むと彼女を勢い付けるばかりなのだから、やはり不思議なものだ。
「……さて、あと探していないのはこのロッカーか」
かくれんぼは残り二分。そんな二分は短いが、ちょっと積み重ねてみた一年は長い。それが私たちの人生で、トゥインクル・シリーズというものだ。長い時間をかけた、と本人が思った時点で、そこが己の引き際になる。時代と名のつくほどのうねりが、一瞬一瞬で切り替わる。早いのではない。速いだけだ。私たちウマ娘のいのちが、全力で駆けて行くものであるだけだ。
たとえばそう、今窓の外に沈む夕日のように──。
「見つけたよ、キング君」
「あら、もう少しで遠くへ連れ去られるところだったのに」
──私と黄昏の間に、一人の少女が立っていた。
残り三十秒。ぎりぎり、あなたの勝ちだ。
※
「……ハーッハッハッハッ! やっと勝てた!」
「そうだったかしら? 会うたびに何かしら仕掛けられて逆に覚えていないのだけど」
床に座り込んで夕日に背を向けて、当たり前みたいに二人で話し始めていた。ちなみに覚えていないというのは、流石に嘘。どんなことでも負けるというのはやはり悔しいものなので、うやむやにしてみたくなっただけ。
「そうだとも! これで一勝二十敗、一矢報いた形だね!」
けれどそんなのはあなたも同じなので、きっちり負け星の数は数えていたらしい。勝ち星より負け星が気になるあたり、そこも似たもの同士か、と思った。諦めが悪くて、勝負から逃げられなくて、どんな手段でも勝ちたいと願う。ならばそのぶん負けを悔しがるのは、当然のことだと思った。王を名乗る者同士、と言うには、泥臭い道理だとも思うけれど。
「……なら」
ならば、と思う。それならばこそ、と思うのだ。昔劇場で見たように、黄昏は時代の転換点を指し示す。古きは滅び、新しきは生まれる。さる神話の戯曲に比べれば、あまりに小さな移ろいだけれど。
「また明日も、勝負しましょうか」
今の、私の役割は。
「……いいとも! 明日も明後日も、そして──」
古き王から、新しき王へ。
「──この先、ボクが君を越えるまでだ」
黄昏を迎えるその時に、何かを遺してやることだ。
頑張って。先の時代の残香として、教えられることは教えるから。
「楽しみにしているわ」
「それはこちらこそだよ、キング君」
そう言って、オペラオーさんはおもむろに立ち上がる。夕日が影を作るけれど、彼女からすれば逆光を背負っているのだろう。軋む木の床に落ちる淡い黒も、墓標から伸びるそれには見えなかった。私と、違って。
「では! また明日!」
「ええ。また、明日」
去っていく。見送る。影も見えなくなる。影が濃くなる。陽が落ちる。立ち止まったままでいる。座り込んだままでいる。ここで落ち着いて、至っている。
暖色の電灯が点き始めて、時間は夕方の先になる。一日が終わったあとの時間というものは、今の私には間近に迫った概念だ。人生を一日に喩えるならば、むしろ陽が落ちてからの方が長いのだから。そこに対する心構えは、もう既に済ませている。答えは得た。結論に至った。あとは最後、終わり始めてから終わり切るまでの時間をどうするか、というだけだ。そのことばかり悩んでいたけれど、どうやら私はここ数日で見つけていたらしい。
また、明日。
その「明日」が、本当に来るまでに。
不思議と立ち向かわずにはいられないあなたに、老いた王から遺せたら。
──ああ。
今日も。昨日も。一昨日も。去年も。一昨年も。期待されていた時も。仲間がいた時も。仲間に勝てなかった時も。自分なりの道を見つけた時も。そうしてそのまま、独りになった時も。負けた時も。勝った時も。今、この瞬間も。
楽しかった。
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キングヘイローとテイエムオペラオーの第一幕
どうして。
どうして。
どうして。
「……ふざけるなよっ……!」
どうして、こうなったのだろう。
平静なオペラオーさんなら、多分こう形容する状況だった。
「どうして、君は」
悲劇、と。
※
誰も寝てはならぬ。そう、誰も寝てはならぬ。何故ならボクが起きているから。非常に珍しく何となく、眠れないから。暑いからだろうか? それともボクが美しすぎて妖精が悪戯をしているのか? 嗚呼嘆かわしや、誰に問うても答えは出ないのだ。というわけでナウ夜空の下の宿舎外、彷徨えるボクは佇む自販機に語りかけ──。
「……あら、オペラオーさんじゃない」
どうにもたまたま、出くわした。
「こんばんは、キング君。君も眠れないのかい?」
というわけで、自販機の代わりに話しかけてみる。確かに自販機は光り輝く絢爛であるが、しかしてキング君の艶やかな鹿毛もまた麗しく、甲乙をあえてつけるのならばやはりキング君に軍配が上がるだろう。……なぜならやはり、そこに在るのは王だからだ。なので自販機君からは麦茶一つ注文して、それを取り出しながら彼女の方へ目を遣る。
「そうね。だから見ての通り」
「走り込みをしていたところ、だね。いやはや、流石というべきか」
砂に塗れたジャージ姿で、キングヘイローはそう答えた。なるほど、ボクに答えたのだ。
「眠れない夜は、走りたい時なのよ」
ボクの悩みの、答えを。
「ふむ。それではボクも負けてはいられないね!」
「目をしぱたいているように見えるけど。寝たら?」
「まさか! 君に負けないためにボクは起きていたのだから! ジャージを! ジャージを持ってきたまえ! ジャージを持ってきたら王国を」
「そのセリフ通りなら、誰も持ってきてはくれないわね」
なるほど仕方ない。しかし走りたいものは仕方ない。動ける王は自ら走ると、そういう戯曲でもあるかもしれない。眠くなってきた気もするが、やはり誰も寝てはならぬのだとか。などなど。というわけで、冷えた麦茶を一口飲んで。
「では、待っていてくれたまえ!」
そう言って走り去ったボクを、キング君は律儀に待ってくれていた。
それが当たり前であるように、そんなふうに思ってくれていた。
だから。
だから、そのうちに。
「……お待たせしたね、ごきげんよう」
「いいえ、夜空を見ていたから」
最強を名乗るか。
「そうだね、綺麗な空だ」
最強の前で、最強を名乗るか。
「じゃあ、一緒に走りましょうか」
「エスコートは、よろしく頼むよ」
ならば。
「なんといっても、君は世代のキングだからね」
「もちろん、そのつもりよ」
その肩書きを、喰らい尽くすのみだ。
撃ち落とさせろ。
だから、それまでは。
「……本当に、綺麗な空だ」
天輪よ、頂に座せ。
※
「……はっ、はっ、はっ……」
「ハーッハッハッハッ!」
「うるさいわよ!」
というわけで、砂浜の上を並走中。海も空もあんまりにも静かなので高笑いをしたら怒られた。ボクの笑い声がうるさいというのはきっとあまりの美声に驚いたということの照れ隠しであり、本音はこの静寂極まる舞台がお気に召すということだろうか? ……あまり変わらない? いや、深く考えても仕方ないか。走ってるんだし。走っている時はなんであっても楽しい、ウマ娘の鉄則だ。
足並みを揃えて。呼吸を一致させて。心拍すら、等しくして。並走というものはレースとはまるで違って、二人だけの舞台なのだ。騒がしく囲まれるのがボクの本望と言えど、こういう静かな演目も悪くない。多分君は、そう思っている。ならばボクもそう思わねば、並走は成り立たないというものだ。
なんといってもあのキングヘイローと、共に走ることができるのだから。
「はーっ、はーっ、はーっ……」
汗が見える。眼が見える。息が聞こえる。どうしたって、実感できる。
ボクは今、憧れと共に走っているのだと。
──前の安田記念、ボクは当たり前のように直に観戦していた。距離も合わない、ボクの覇道では通れない道を、どうしても。どうしても、見たくなったから。そこに出走するキングヘイローというウマ娘のことを、見たくなったから。
「最強世代」と呼ばれたうちの最後の一人のことを、見たくなったからだ。
スペシャルウィーク。グラスワンダー。エルコンドルパサー。ツルマルツヨシ。セイウンスカイ。そして、キングヘイロー。引退、長期休養、そんな様々の幕引きがある中で、「今」走っているのはキング君だけ。奇しくもボクと同じ「王」だけが、孤高に孤独に走っていた。もがいて、足掻いて、残光を引いていたからだ。世紀末において、唯一残る金色の光。手に入れなければ、勝たなければ、覇王は最強を名乗れない。
もちろん、負けるつもりはないとも。連戦連勝の世紀末覇王たることは、重圧ではなく自負であるとも。負けたくないから、戦ったのなら必ず勝つとも。だけど、だからこそ、どうしても──。
(君に、勝ちたい)
そう、思うだけだ。
誰も寝てはならぬ。夜の帳が降りたとしても、カーテンはまだ降りていないから。大勢の前で決着をつけよう。見届けさせてやれ。君の輝きとボクの輝きを、真正面からぶつけてやれ。……そう、そう思って、そう思っていて、と──。
「……どうしたんだい、キング君」
「……ある程度、走ったもの」
緩やかに、ブレーキをかけるでもなく。ただただ力が抜けていくように、砂浜を駆ける荒い音が失くなった。キング君の手(足か?)によって、並走は唐突に幕引きを迎えたのだ。やれやれ、彼女はもう眠いのだろうか? 走るのをやめるなんて、いやまあそりゃボクはねむ、眠いが……。
「……かくん」
「いきなり立ったまま寝ないでちょうだい!?」
意識が落ちる前、そんな声が聞こえた気がする。
※
どうやら、
「……はっ」
眠っていたらしい……とまぶたを開いて気づく。そういや走っている途中だったような、一区切りだったような、そんな覚えが──。
「おはよう、オペラオーさん」
「まだ夜だよ」
「それでも目を覚ました姫を見たら、王子はおはようと言うものよ」
──夜空の下、潮騒の中、そして膝枕の上だった。うっすらと意識と記憶を取り戻していくと、砂浜の上で立っていたあと途切れている。そして、これだ。……なんということだろう。……なんと!
「……なんと素晴らしい!」
「うひゃっ!?」
「ブラーヴァ! まさか、まさか! この覇王たる歌劇の主役しかありえないほどの煌めきを持つボクでさえ、救われるヒロインにしてしまうとは!」
「……びっくりするのも飽きてきたけど、なんとも慣れないわね」
むう。乗っかってこない。直角に起き上がって再び砂浜に立ったのに「うひゃっ!?」だけだ。ドトウやアヤベさんやトップロードさんのようにはいかないか、などなど。同年代といえど世代は違う、ならばやはり彼女にふさわしい会話の空気というものがあるのだろうか? とはいえそれにボクが合わせるのも違うだろう。ただ今はボクたち二人だけだから、ボクたちだけにある関係性であるべきだ、と。そんな特別な意味じゃない、いつものように勝負をすればいい。なんとなくそう思ったあと、なんとなくそうではない気がした。つい。
「ふむ」
つい、見下ろせない。彼女の方を見ないまま、前を向くふりをする。まだ届いていない気がするのだ。まだ勝てない気がするのだ。「最強」を食らうには、足りないものがあるはずなのだ。寝起きの感覚というものは不安定かつ鋭敏だ。そんな時だからこそ、「キングヘイロー」の底知れなさを感じた気がした。栄枯盛衰の果て、千年帝国の終わり。そこにいる、老王。だからとても大きく、
「しかし、その」
討ち倒せないまま、
「そうなると、どうしたものか」
黄昏の先へ、消えてしまいそうな──。
「とりあえず、立ち上がったままはよしなさいな」
──とす、とす。砂の山が、静かに崩された。
「……じゃあ今日は、王子様のお言葉に甘えようかな」
なんだ、と。考えてみれば、当たり前のことだった。軽やかな台詞を述べるのにぎこちなくなってしまうなんて、ボクとしたことがとんだ失態だ。
彼女は最初から、ボクの目覚めを待っていてくれたのだ。どうしてか、膝枕をしてくれていた。
彼女は最初から、ボクの勝負を引き受けてくれていたのだ。どうなっても、全力を見せてくれた。
なら、決まりだ。この夜のためにこの夏はあるのかもしれないと、そんなふうにも思いながら、キングヘイローの横に座った。どうしてもそうしなくちゃいけなくて、どうしてもそうしたかった。最強世代の最後の一人、その隣に今座っている。立つのではなく、座って止まっている。だからこれはやり取りであっても、勝負ではない。
「まずは私から、話をしましょうか」
己の王道を、唄うだけ。
キング君の台詞で、カーテンは上がった。
※
「まあ、私の戦績なんて散々なものね。出られる重賞に出ては負け、それでもめげずに出ては負け」
「それでも、君は最強世代だ」
「いい勝負をしたからね。勝てたことは殆どないのだけど」
「勝敗のみで輝きは決まらない。しかして勝つのはボクだけどね!」
「そう。そうやって負けないと思っているから、私は私の道を行ける」
夜空を見上げながら、一見自虐のような話が始まった。けれどその口元は笑っていて、だから寂しそうに見えた。
「砂浜、苦手なのよ。なのに毎年走ってる」
「おや、そこはボクの勝ちだ。ダートには思い入れがあるからね」
星砂を手のひらに掴みながら、溢しながら、言葉を零す。ぽつりぽつりと、ジャージと身体にまだらの砂がついていく。二人とも、だ。
「私だって思い入れはあるわよ、フェブラリーステークスに出たんだから。そしてそこできっちり思い知ったわけ、砂埃は合わない。どうにも慣れない、気が散るわね」
「それでも、毎年走ってるのかい」
「ええ。夏合宿だもの。海辺を走ってこそ、でしょ」
「それだけじゃないだろう」
そう言ったら、少しばつの悪そうな顔をした。今日は勝ったり負けたりで、やっぱりそもそも勝負じゃない。たまには、そういう日がある。
「思い出すから。今までの、私の道を」
「同感だ。だからボクも、砂浜を走るんだ」
心を通い合わせる、ただそれだけの日が。
「デビュー戦で骨折してね」
「それは聞いたことがある気がする」
「光栄だね」
「敵情視察は当然よ」
「なら、その顛末も。ボクの再出発は、最初に走り出してすぐだった」
あの頃は、と思い出す。遠くなったな、と。同時に隣に座る君は、もっと遠くに見えているのだろう、とも。たった数年前のデビューなんて、遥か昔の出来事だ。
「ダートからの再出発。だけどもちろん目標は……クラシック三冠だった」
「追加登録制度があるとはいえ、無茶なスケジュール」
「そうだろうね。でも、それこそが覇王への試練なのさ。だからこそボクは、ここで毎年走る。あの時の焦りと希望を思い出せる。この砂を踏む感触が、一つの存在証明だ」
「……よく言った」
「言われなくとも。だが、やはり光栄だ。世代の王たる君に褒められるのは、誉であろうことだね」
そう言ってみると、ため息が聞こえた。薄くて、深い。長くなくて、短くない。話し始めてから時間がどれほど経ったか、まるでわからなくなっていた。
「世代のキングは、がむしゃらよ」
「己が道だ」
「一流とは言えない無茶ばかり」
「君だから走れた」
「そもそも大して勝てなかった」
「ボクをいくら試しても、君自身の答えには敵わないよ」
「……そうかもね。なら、ここは私の勝ち。まあ、」
「今日は勝負じゃ、ないけどね」
「そう。あなたに私が、宣言する日」
「ボクが君に、宣言する日でもあるね」
一つ一つ、はめ込んで。かけ離れたピースを探して、噛み合うところを見つけて。憧れだとも。勝てないままだとも。
「認めましょう」
「うん。認めよう」
だけど、そんな認識さえ。
「私たちは、唯一無二の王である」
「孤高に闘い、至高に座する」
「そう言い切れる、走りをした」
ボクたち二人は、一致するのだ。
どう考えても、偶然だけれど。
どう見ても同じなら、それでいいじゃないか。
「諦めなかった」
「諦めないさ」
「だから勝てた」
「勝つとも、この先も」
「故に私は、キングヘイローなのよ」
「ずいぶんと傲慢だ、悪くない」
「あなたほどじゃあないわよ」
「そうだねえ。ボクはいずれ打ち倒される哀れな愚王であるかもしれない!」
「そんなことを思っているようには見えないわね」
それはもちろん、図星だ。隠すつもりもない。隠したくなんかない。勝利への渇望は、勝って当然と言われてなお滾るもの。拳に砂を握り締め、それでも全部を掬おうとするもの。一粒だって、取り落とさない。
「そうとも、ボクは傲慢な覇王なのさ。だけど最後に笑うのが、王というものだろう?」
そう、ずばっと。ばしゅっと、言い切ったのだが。
「あなた悲劇観たことないの?」
そんな冷静なツッコミが飛んできたので。
「ボクが主役ならああはならなかった!」
ぺちん。ぶっ飛ばしてやった。
「なんで頬を触るのかしら」
「これは愛のビンタだよ」
「いつの間に継母役になったわけ? 王様より悲劇的だろうと思うけど」
「それでも笑う! なんといってもボクだから! 覇王は! ボクは! テイエムオペラオーは! 美しく素晴らしいのだから!」
「……あなたは笑っていて、というのは。残念ながら、同感ね」
そう言って、笑った。
つられて、ボクも笑った。
大胆不敵に。
繊細華美に。
少女のように、二人で笑った。
だから、こう言えた。
「さて、ボクらは王である」
「故に、互いに王道を持つ。理念を持つ。天輪を、我が手に収める」
どうしたって、こうとしか言えなかった。
「うむ。ボクの王道は」
「私の王道は」
「諦めないことだよ」
「諦めないこと、よね」
どうやら、一致した。
「ふふっ」
「……ふふふっ」
「あははっ! あはははっ!」
「ハーッハッハッ!」
「それはうるさい……なんて、冗談よ」
一致しているのなんて、ずっとわかっていた。最強の王として、二人とも譲れないものがあるに決まっていた。なのにそんな当たり前を確認しただけで、とても嬉しかったのだ。宿敵というには運命が足りない。仇敵というには怨嗟が足りない。だけど相手への渇望だけで、ボクと君は勝負できる。最強の王に、互いに手が届く。
「ねえ、キング君」
どうやら、この舞台は極上である。
「何かしら」
どうにも、この気持ちは止められない。
「ボクは今年、一度も負けるつもりはない」
どうしたって、勝ちたい。
「そう。それは結構な目標ね」
どうして、君も同じらしい。
「だから」
どうしても、最強を討ち果たしたいらしい。
ボクが君の立場なら、必ずそう思うだろう。
君がボクの立場なら、必ずこう思うだろう。
「年末の有マ記念、ボクにとって年間無敗がかかった一戦。そこで、ボクと勝負してほしい」
どうなったって、君に勝ちたい。
「ああ、そうね」
「そうとも。どうだいお姫様、王子様がボクでは不満かな?」
「もちろん、いいえ」
そうして、幕は降りる。第二幕、第三幕、全何幕と続けられるだろうか? ありがたいことにボクは、ボクたちは、また一人負けられない相手を見つけたのだ。薄くて遠い繋がりだからこそ、手に入れたそれは手放さない。そんな物語が、歌劇が、二人の前に現れる。ヴァルハラの如く永遠に続く勝負の物語は、きっとこう形容できる──。
「……だって私、そこをラストランにするつもりだったもの」
──舞台装置が壊れて、役者が奈落に落ちたなら。
「あなたの覇道の最後に名を連ねられるなら、本当に悔いはない」
どんな演目のどんな場面であろうとも、その時点で絶対にこう形容する。
「ありがとう。おかげで、最後まで楽しかった」
悲劇、と。
天輪には、届かない。
※
「ちょっと、オペラオーさん?」
どうしたのだろうか、と思う。
「ふらついてない? また眠いのかしら」
多分相手は平静で、ボクがおかしい。
「そろそろ夜も遅いし、宿舎に戻るわよ」
それでも、だった。
どうして。
どうして。
どうして。
「ほら」
当たり前みたいに、親しげな手が伸びてきて。
どうした。
どうした。
どうした。
どうしたんだ、お前は。
「……ふざけるなよっ……!」
──ぱぁん、と。
乾いた音で、優しい手を弾いた。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして、そんな目で見るんだ。
どうして、困惑しているんだ。
どうして、理解できないんだ。
どうして、こうなったと。
「どうして、君は」
ああ、本当に。
どうして、こうなったのだろう。
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キングヘイローとテイエムオペラオーの第二幕
「どうして、君は」
真夏の夜は寝苦しい。暑くて短くて、ちっとも休める気がしない。どうにも起きていたい、起きてしまう日はあるというもの。夢など見なくていいから、現実を見つめていたいというもの。だから、一人でだって起きていられた。波の音と砂の跳ねる音があれば、それだけで眠れなかった。
でも、多分。どうやら、本当は。
「そんなことを、言えるんだ」
私はずっと、夢を見ていて。真夏の夜に、狂想の夢を見ていて。起きているつもりで、見ていなくて。あなたのことを、見ていなくて。
「勝負を終えるなんて、笑顔で言えるんだ……!」
オペラオーさんが私に言った台詞は、多分そういうことだった。あなたが怒るなんて、きっと殆どの人が見たこともない状況。その相手に、私がいた。
私のラストランまで、四ヶ月を切っていた。そこまで敷いた私の王道は、間違ったレールの上らしかった。みんながいなくなってからの私の道のりは、この区切りは、彼女にとっては許せないものらしい。そんな、そんなふうに全部台無しにした。いや、私が台無しにしたのだと、言ってのけられた。なら、私は。私の、人生は。そう冷静に、愕然としていた。
ぽとりと額から汗が垂れる。蒸しているのに唇が乾く。瞳は揺れて、それでも激情を捉える。なんと、なんと答えようか。なんと答えれば、彼女が絞り出したものに応える台詞となるだろうか。この舞台を、潰えさせずにいられるだろうか。せめて、せめて。彼女の抱いた想いを壊したのなら、彼女のための報いとなろうとしたかった。なのに、それすら叶わなかった。
「……ボクは、すべてに勝たねばならない。空前絶後であり、過去と未来と現在に勝たねばならない」
わからないまま、歌うように語るオペラオーさんを見る。空を見上げて、だけど私に向けていた。紛れもなく、私を刺し殺す台詞だった。その敵意に怯えてしまって、やはり何も言えなかった。「最強」とは、こういうものなのかと。
どうして、ここまで怒れるのかと。
「ボクのライバルは皆強敵でね。そして冬からは、新しい世代が現れるだろう。無論、その先も。君にも覚えがあるだろう、新世代に追い立てられる感覚というものは」
私のために、焦がれるのかと。
私は答えない。私は答えられない。当然あるだろう言い返しが、口から出ない。彼女にぶつけるにはあまりに弱くて、飛び出せない。怯える私はきっとみっともなくて、先輩の風格なんて無くなっていた。そんな私をきっと知りながら、獰猛に詰め寄るあなたがいた。私らしくない私の前で、あなたらしくないあなたが進んでいた。それでも私に言わねばならないと、そういう台詞に見えた。
「……だからボクも、追いかけなければならないのさ……いや」
ざり。私が崩した砂の山を、踏み潰して。
ぐいっと。悔しさを滲ませ切って、歯を食いしばり。
戦慄。つんざくような瞳は、目元から薄く充血して。
「追いかけさせろ。キングヘイロー」
私の眼前で、密やかに吠えた。
「ボクを、見ろ」
私を、見ていた。
どうして。
どうして、私は。
どうして私は、彼女を見ていないのだろう、と。
諦めていた自分に、気づいた。
※
ボクにとって、最強世代は憧れだった。走り始めた時から、ずっとその名を聞いてきた。ボクの王道において、最強を名乗る道のりにおいて、必ず墜とすべき敵のように思えた。
だけど、彼女たちは去っていく。黄昏に消えていき、華々しく去っていく。決して、ボクに負けてはくれない。ボクはずっと、最強に勝てない。そのまま最強を名乗れるか? 最強と勝負しないまま、最強を決めれるか? 覇王は、覇王たり得るか?
最強不在の最強などごめんだ。なんとしてもお前たちと雌雄を決してやる。最強のまま消えるな。ボクを、最強を、見ろ。
ボクと君たち、どっちが強い?
そういう疑問は、当然のようにあったのだ。
だからどうしても、君に勝ちたい。
※
最初から、比べられてきた。期待されてきた。実績より先に、重荷があった。勝って当然の私が、厳しいライバルに囲まれた。勝つことは難しい、とさえ言われた。実際、その通りだった。
追いかけさせろ? 自分を見ろ? それは、私も同じなのだ。最強世代の繋がりは、ある種の軛でもあったから。彼女たちと並び立つ限り、一流の走りの上に天性のセンスをぶつけられる。最強の括りにいるうちは、競い合うことばかり見ているうちは、最強になるためには勝たねばならないと思っているうちは、私は私でいられない。そう気づくのには、それなりの時間が必要だった。
最強に縋るなら、あくまで私は最強を演じよう。あなたが最強世代を見るなら、当たり前のように最強世代の一人になろう。
だけど、もう私は一人なのだ。
そんな結論は、変わらないけれど。
寂しいことでは、ない。
※
「最強世代が一角、キングヘイロー。焦がれるとも、憎いとも」
ぶつけられる抜き身の感情。腑まで切り捨てられる私の諦観。諦めて、いたのだろうか。いいや、諦めていたのだ。先程まで。もしくは今も。諦めない方法さえ、長き時で失った。うだるような夜が深まる中で尚、どろどろに煮えていた。煮えて煮えて、私は原型を留めない。テイエムオペラオーという炎の勢いは、それほどまでに激しかった。
どうして。
どうしてそんなに、私を。
そう、思った。
「だから勝ちたい。だから挑んだ。何故か? まだ終わっていないからだ! ボクの最強を証明するために、未だ根深い旧き最強と雌雄を決さねばならない! ……本気だとも。自惚れだろうと憧憬だろうと、まだ追いかけなければならないさ」
まるで歌劇のように、長々と台詞を語るあなた。その声は朗々と響き、ひしひしと悲劇を歌っていた。そう、やはり悲劇だった。舞台装置が壊れても続く歌劇は、どうしたって悲劇だった。
「……それなのに」
私が去ることを、受け入れられない悲劇だと。取り返しのつかない台詞が、粛々と並べられていた。
「何故終わる? どうして戦わない? ボクとの勝負が楽しいのなら、走るのだって楽しいのなら、どうしてそれを諦めるんだ」
答えられない。答えたくない。だって、私は。その「だって」が、一度も口から出て行かなかった。だけど、確かに思うばかりだった。どうしても弱音ばかりで、終ぞ台詞にならなかった。仲間たちは皆去ってしまった。私だって十分走った。もう、できることはやった。そう思っていた。そう思いたかった。華々しく終わりたいと、当然のように思っていた。
「……私は、あなたを見ていなかったのかしら」
ぽつりと、やっと絞り出した台詞は。
「ボクだって、そう思いたくなかった!」
吐き捨てるように愛おしむように、縋る想いに殺された。
「君はどうして走るんだ! 諦めないから走るんじゃなかったのか! ボクと君と、それぞれの王道で諦めないのだと!」
「そう、ね」
「それがなんだ? ラストランは、ラストランはボクの舞台なのか!? 君のラストランだぞ! ボクの年間無敗がかかった舞台を、どうして喰らいに来ないんだ? ……答え、たまえよ」
何より私は、その「最強」に勝つ必要を感じていなかった。それが私の、諦めだ。
あなたと勝負をすることは、私の王道に入っていないと。そう思っていたことは、なんて失礼なことなのだろうと。そして、愚かなことなのだろうと。まだこんなにも美しい輝きが、私を追いかけるのに。いつも追いかけてばかりだった私を、追いかけてくれるのに。
なんと言い訳をしよう。なんと道化になろう。あなたの憧れを道化に仕立てて、そんなことが許されるだろうか。それは悲劇を無理やり喜劇にする、最低のデウス・エクス・マキナだ。ここで私が己を蔑めば、すべてが終わり、すべてが台無しになる。そう思った。絶望の淵で、そうわかった。
一つ、わかった。
もう、後戻りはできないと。
進むも地獄、戻るも地獄、どうしたって、この夜ですべてが終わるのだと。あなたのおかげで、わかった。
だから、私は。
「ねえ」
「なんだい」
そう、わかったからこそ。
あえて、私は。
「どうして、私を見ているの」
「……何?」
あえて、私から問いかけよう。
どうやらついに、台詞が湧いた。
根拠はない。答えが見つかるわけでもない。ただなんとなく、このままは嫌だ。
「言われっぱなしは癪だという理由だけで、喧嘩を買わせてもらうけど」
どうしたって、あなたには。
「何も知らないあなたが何故、私に焦がれられるのかしら」
負けたく、ない。
やっと。
どうやら、もう一度。
「……上等だ」
あなたに勝ちたいと、そう思えた。
あえて過ちを認めない。あえてあなたに疑問をぶつける。正しいはずの敵にも、敢然と立ち向かう。そう、そうしてきたはずだった。どんな道のりでも、私の道にしてきたはずだった。
「ありがとう」
これは本心。偽らざる、第二幕の幕開け。
「一流の視界に入りたいというのなら、それなりの覚悟は必要よ」
あなたのおかげで、私に気づけた。
それでも、彼女の瞳は飢えたまま。僅かに戻った光は、私が与え続けなければ失われてしまう。餌を、敵を、試練を、勝負を。そうやって舞台は作り上げられ、私とあなたは高めあう。それくらいはわかる。それがわかれば、十分だ。
「なるほど。ボクと君の」
「ええ。私とあなたの」
「勝負か」
「ご名答。最後に正しかった方が、勝ち」
時間はまだある。夜明けまでに幕を閉じればいいだろう。誰も寝てはならぬ、というところだ。
しかして、どうしたものか。どうやら今までの状況、私が彼女に礼を失したばかりらしい。あれほどまでに怒りを抱かせ、取り返しのつかないところまで沈み込ませた。二人の関係は、崩壊した。そう、言ってもおかしくない。
「じゃあ、始めましょうか」
だからこそ、あえて、私は。私の過ちという前提から覆し、あなたを追及する必要がある。なりふり構わないし、後ろ盾など何もない。気高さ一つで、この舞台に立つ。あくまでそんな私を見据えるあなたがいるからで、まだ主役はあなたのままだけど。
「ここからの主役は、私よ」
私がそう定めたのだから、この道は私の道だ。
「……ほう」
「あえて、問いましょう」
……一つ、突破口の当てがないでもないのだから。これは、直感だ。
誰もが去っていく。誰もが終わっていく。誰もが一人は怖い。王であることは、弱さを持たない理由にならない。あえて、あえてだとも。私の引退が諦めと充足感に満ちていると、あなたを見ていなかったのは本当だとも。それが間違いだというのなら、正して引退も撤回しようとも。潔い、諦めのいいウマ娘なら。だけど私は、キングヘイローなのだから。過ちを認めるくらいなら、開き直って正しさにしてみせようとも。それが私の弱さで、強さだ。長い歳月で見つけた、私の王道だ。
「どうして、あなたは」
……まあ色々言ったが、実のところは一つだけ。
「私の視界に入れるなどと、そんな傲慢を抱けるのかしら?」
私の負けなんて、認められない。
そう思い直したのだから、こう言い返すのは必然だ。
それでもあなたは、私に勝ちたいと思うのかしら?
とりあえずは、これだけだ。私から言えるのは、私が勝つに決まっているということだけだ。ならばあなたの怒りは必ず未熟であり、正すべき過ちである。無論私も諦めかけていたのだから、その点あなたに正してもらったわけだけど。それだけで負けを認めないから、私は私なのだ。
「……傲慢、だと?」
「そう。あなたは、間違っている」
「なるほど、そう来たか。それだけの台詞を歌う、覚悟が君にはあるのだろうね?」
まだ怒りを滾らせながら、テイエムオペラオーは睨みを効かせた。──そう。視線を合わせろ。視界に立ち塞がれ。憤怒を浮き立たせろ。ここからしばらくとりあえずは、私がリードしてあげる。思い上がりだと断じたぶん、攻撃の手番は入れ替わる。だけどこのままでこの夜を、この勝負を終えるな。私が台詞を語ったら、必ずそれに台詞を返せ。先程までの私のように押し黙ったら、私のようにそのまま負けてしまう。それは許さない。負けを認めるなど許さない。悔しがりながら、焦がれながら、憎みながら、私に向き合え。私の過ちを正すのなら、あなたの過ちも正してやろう。喰い殺された方が、悔い改めるのだ。
「もちろん。あなたの覚悟を見定めるために、私の覚悟を語ってあげる」
「覚悟はないと断じたはずだが」
「あなたが私を目覚めさせてくれたのよ」
「お姫様にしては獰猛だね」
「褒め言葉と受け取っておくわ」
舞台は巡る。舞台は終わらない。潰えず、燃える。
二人の調子はいくらか戻り、けれど取り返しはつかないのだろう。一度ぶつけた感情は永遠に残るし、私はその上で更に感情をぶつけていくのだろう。あなたは未熟だと、きっと怒りをぶつけるのだろう。そうなれば、どんどんと舞台は壊れていく。壊れて、壊れて、唯一無二になる。だからこそ、私は──。
「そこまでして追い求める『最強』に、なんの価値があるのかしら」
──全力で、勝負を挑むのだ。
「孤独と孤高を見誤り、玉座に座することを至上として。それがあなたの言う、『諦めない』? 笑わせるわね」
一つ、見つけた。土壇場だろうとなんだろうと、一つあなたの綻びを見つけた。強さの源だとしても、それを正さない理由にはならない。あなたの王道の原点だからこそ、私はその綻びを暴く。あなたが私に気づかせたように、私もあなたに気づかせる。
「最強世代と呼ばれた君が、そんなことを言うのか」
……ほら。
「そう、そこ」
「何が言いたい」
「あら、そんなの一つだけよ」
どうやら。ようやく、見つけた。
あなたはどうしても、私を踏み躙れなかった。
ならば私もそうだろうと、あえてこの言葉を吐こう。
「……ふざけないで」
睨みつけた。あなたの瞳を揺らした。もう一歩、更に詰め寄った。だけど見据えたままだから、私たちは決して逃げ出さない。最後の最後の決着がつくまで、永遠の舞台を二人で征こう。
「あなたは、『私』を見ていない」
そう、意趣返しをしてやった。
熱く燃える激情。冷たく吹き荒ぶ冷徹。氷炎せめぎ合い、やがてどちらかが消え去るのみ。この関係が骨まで砕ける時、私たちは答えを得る。ただ一人の勝者のために、取り返しのつかない喧嘩をしよう。
立ち向かい、見つめ合い、しかして捉えて勝つために。星明かりよりも爛々と、私たちは光っていた。
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キングヘイローとテイエムオペラオーの第三幕
夜は更ける。終わりが近づく。しかして──誰も寝てはならぬ。君だけじゃない、ボクもだ。過ちを正すことを「傲慢」と断じられた、ボクもだ。寄せる波の音と砂を踏み躙る音、これだけあれば奏でるには容易い。ボクたち二人なら、容易い。
そう、容易い。ボクの刃を打ち返し、君は反す刀を振るう。回りゆく舞台、閉じない結末。誰もがついていけない世界でも、ボクたち二人ならば歌い切れる。死ぬまで歌って、終わりに終わりを感じさせない。そう、思えた。
歯向かってきたとは言うまい、あくまで挑戦者はボクなのだとも。それでも天輪を撃ち落とすのは、王と王の勝負で勝つのは、最強を証明するのは。
「それでも、ボクが勝つ」
玉座に座るのは、ただ一人だ。
ボクが見据えた瞳は、確かにボクを見据えていた。もっとも彼女の弁ではボクは彼女を見ていないし、彼女はボクを見る価値がないらしいけど。それでも情けで付き合ってくれるというのなら、まずはその慈悲の皮を剥いでやろう。そのお淑やかな衣装は、君が着るには美しくない。
「さて、キング君」
「なにかしら、オペラオーさん」
「君はボクにこう言った。視界に入れるに値しないと」
「そうね、二言はない」
激情は潰えず、されど劇場の如く揺籃す。ボクの目に映る眩しい光は、この期に及んで更に上へと登ろうとするらしい。年間無敗を目指す覇王の肩書きさえ、一蹴しようと。
ふざけるな。やはりそう思う。どうして、君は。やはりそう問いたくなる。これほどまでに追い立てても、黄昏の向こうへ逃げ去ってしまうのか。ボクは最強になるために、最強を証明するために、最強世代を討ち倒さねばならない。まだ君は走れるはずだ、まだ最強であるはずだ、王は王で在るはずだ。それでは足りないのかと、ゼロ距離で睨みつけていた。
「──だから、私に走る理由はなくなるのよ」
キングヘイローの優しい眼差しは、やはり諦めに見えたのだ。
「……そんなはずはない!」
だから、ボクは。
その瞳に、煌めきを見せてやろうじゃないかと。
「だって、あなたも私を見ていないもの」
その諦観の根本に、ボクがいたとしても。
「だから、そんなはずはないと」
「それじゃあ、あなたにはわからない」
君はそうして追撃をかわし、残酷に事実を突きつける。ボクに何がわからないというのだろう。君に焦がれた、最強に憧れた、そんなボクが君を見ていないのか?
「それでも、あなたは私と走りたいのかしら」
「……当然だよ」
そう、やはり告げて。
それでも変わらない、優しく冷たい瞳があって。
だから、わかった。
「いいだろう、キングヘイロー」
超えてみせろ。
「ようやく、自分の立場がわかったみたいね」
捉えてみせろ。
「あくまでボクさえ君を見ていないと、そうのたまうわけだ」
まずは、舞台に立て。
「そう」
何もかも拙いのはボクの方だと、傲慢にもそう言わんばかりに。
「誰も、私を見ていない」
今のボクは、君の相手に相応しくない。
そう、冷たく。
しかして、希望を。
キングヘイローは、歌っていた。
煽り、駆り立て、己への生温い視線を粉砕する。どこまでこの関係が壊れても、走る理由が欲しい。
──そう、訴えているように見えたのだ。
「君は、最強世代だ」
「同期はみんな去ったもの」
「だとしても」
「最強世代は終わったと、誰もが思っているでしょう」
「ボクはそうは思わない」
「……それに、一人は寂しいものよ」
「……それは」
優しく、諭す。
「あなたじゃ、私の仲間の代わりにはなれないわ」
冷たく、閉ざして。
「だから今は、ロスタイム。終わるからこそ、戯曲は美しく華々しい」
「──そんなことは、わかっているとも」
どうしても届かないものに、縋り続ける。
わかる。ようやくわかるようで、今の自分には絶対にわからないものだと、わかる。彼女の抱えたものの端にさえ、触れられないとわかる。
走り切ったあとの栄枯盛衰。その幕引きを美しくするための方法。何より孤独の中で、何を拠り所にすればいいのか。
「そして、その感情はわからないとも。拙く未熟な、ボクには」
……ボクだって、わからない。ドトウという宿敵が現れてこそ、ボクの王道は進むに値していたのだから。独壇場であっても、孤独ではない。
「ボクにだって華々しきライバルがいる。常に寝首を掻きにくる友がいる。だからこそ、失ったことなんて想像もつかない」
「そう、だからあなたにはわからない」
キングヘイローは、しめやかにそう告げた。やはり、諦めに聞こえた。一寸見せてくれた希望は、ボクの願望にさえ思えた。その瞳は、光を湛えて閉じ込めたものに見えた。これ以上思い出を壊さないための、ボクという破壊から逃れるための会話に思えた。
そう、そうだろう。まだこれから走り続けるボクには、走り終わる方法はわからない。君の希望には、仲間の代わりには、なれない。だけど、そんなことはわかっているのだ。わからないことなど、わかっている。
「それでも、どうしても」
どうしても、君に。
「ボクは、君と走りたい」
君に、勝ちたい。
「諦める理由くらい察しはつく。そしてそれをボクが理解できないというのも理解できる。だが、それでもだ。君が過去になるとして、だとしても、どうしても」
理屈がない。感情すらおぼつかない。先程までの怒りから一転、崩れていく関係に縋りつくような台詞ばかりに変わっていた。それでも、勝ちたいと思い続ける。これだけは君を見ていると、王道と最強の上に君はいると。信じて信じて信じ続けて、消える炎に薪を焚べる。
「そう。ライバルを失い、勢いを失い、答えを掴み、あとは散るだけ。そんな私と走ることが、あなたにとってどんな益になるのかしら」
「そんなの、決まって……!」
「私にとって、どんな益になるのかしら」
挑発的な口調。優しいままの紅の瞳。だけど口元は笑っていなくて、未だ揺るぎなくボクを喰らわんとする。そう、そうやってボクを見てほしい。やっぱり、そう思った。ぞくりと肌を伝う感覚が、ボクの願いの本質だ。
それだけ、それだけなのだ。あの憧れのキングヘイローが、最強世代の王が、ボクに相対する。それだけでいい。それだけでいいじゃないか。走ってくれ。ボクを見ろ。それさえあれば、ボクは──。
「──いや」
「それだけ」じゃ、いけないのか。
それだけでは、見ていない。
どう考えても、ボクは君を見ていない。
「訂正しよう」
「ふむ」
やっと。
「今のボクにとって、君に勝つことは価値がない」
「言ってくれるじゃない」
やっと。
「だってそうだろう? 君は本気じゃない。執念がない。……それは十二分に焚べ終わって、残った灯のために走っている。君の言う通りの、ロスタイム」
「ええ、だからこそ」
やっと。
「君の理屈が正しければ、ボクの理屈を飲み込ませれば、君にはもう価値はない。終わった最強、孤高と孤独の履き違え。……それは、君のことだ」
「──なら、どうして」
どうやら、やっと。
「どうして、あなたは私に勝ちたいの」
「ボク」に、興味を持ってくれた。
「君」を、見た。
「なに、なんのことはない。これから先もずっと決めきれない、そんな悩みだということさ。はっきりとした答えを出したのち、またボクたちは悩むのだろう。この問いに。この舞台に」
これが他の何者でもない、「テイエムオペラオー」からの。
「ただ何者でもなくとも、勝負の上ではすべてに勝ちたい。お互い、諦められないから」
そしてまた何者でもない、「キングヘイロー」への。
「王でなくていい」
「そうとも、私は既に玉座を降りた」
「最強でなくていい」
「当然、あなたもいずれ堕ちる」
「ボクたちの関係なんて、綺羅星のように一瞬の旅路だ。永遠に光る功績が欲しいなどと、あまりに傲慢」
「ボク」から、「君」への。
「それでも永遠を願うから、世界はボクらの言いなりなのさ」
傲慢で、何が悪いと。
「……ああ、なるほど」
「なんだい、キング君」
「君」から、「ボク」への。
「どうやら私たち、二人とも正しくて──」
「どうにもボクたち、二人とも間違っていたみたいだね」
寂しくて、何が悪いと。
「そうね。だってまだ」
「壊れて終わるこの関係を、諦められないもの」
王でも最強でもない二人の、手を結ぶような手向けなのだ。
焦る必要はなかったのだ。拘る必要はなかったのだ。勝負は必ずやってくるのだから、付加価値を気にする必要などなかったのだ。互いに王であり、最強であるだろうとも。己の道を違えることは、他者には許さないだろうとも。
だけど、それだけでいい。勝負が終わればその勝負に価値はなく、勝負することに根本的には価値はない。どうしても、それでもだっただけ。勝ちたいという気持ちだけが揺らがないなら、それ以外はどうでもいい。王道を走るのではなく、走った道が王道になる。だから君のラストランは、決して過ちではないのだろう。ボクがまだ走りたいと願うのも、過ちではないのだろう。
「諦められない。……まだ、納得はいかないけど」
正直なところ、それが本音だが。
「戦う理由なんてなんでもいい。ただ勝ちたいなんて、当たり前だ。それでも、君は去ってしまうのか」
「いい顔ね。まだ、見据えている。前よりよく見えている。一流の私が保証するわ」
「それは肩書きじゃないのかい」
「己自身の矜持よ」
ボクの決心は固い。同じように、君の決心は固い。だからボクたちは、黄昏と世紀末で断絶する。それぞれの世界へと、ただ一人歩みを進める。
だけど、必ず相見える。どうしたって、勝敗はつく。ならば道を変えずとも、そのまま衝突すればいい。己の道を行くだけで、ただその前の敵を排除すればいい。何人たりとも邪魔をさせない、そのうちの一人というだけだ。ボクたちは何者でもなくとも、それだけ強く気高いのだから。
「改めて言おう。ボクは、君に勝ちたい」
「私が何者でもなくとも?」
「当然だ。君こそボクが覇王でなければ、この輝きに見向きもしないのかい?」
「まさか。肩書き以上にうるさいもの、あなた」
「なら」
「ええ。私も、あなたに勝ちたい」
全部捨てた。全部粉々にした。ボクたちの関係には、もはやなんの価値もない。それでもまだ、何故だか繋がっている。勝ちたいと思い続けて、終わらない。壊れゆく王と王の対比の中、ボクらは向かい合っていた。終幕を望まないまま、終幕に向かっていた。
「今日限りかしら」
「今日限りだろうね」
「少し、寂しい」
「ボクはかなり寂しい」
「結局負け越しだものね、あなた」
答えは多分、見つかる。果てのないくだらなく美しき勝負の数々は、この日別れるためにあったのだと。どうやら、そういうことらしい。結論を出して、袂を分つ。王と王は、それぞれの道を行く。二人にとって過去や未来との戦いは、なんの価値もないのだから。
「──でも、どうしても」
それでも、だった。
「ボクは、君に勝ちたい」
テイエムオペラオーは、キングヘイローに勝ちたかった。全部無くなったって、それだけは迷わなかったから。舞台は終わる。舞台は巡る。でもその寸前に、生まれたばかりの感情がある。古きは滅びるだろう。黄昏は世紀末は終末であるだろう。しかしてそれを越えたなら、新しい命が待っている。
……なんて、そんなのはある種「どうでもいい」。ただ今、目の前にあるのは。
「勝負しようか。キング君」
「もちろん。一流に挑む権利をあげるわ」
どうしたって、君には負けない。
それ、だけだ。
「タイムリミットは、この夜が明けるまで。誰も、寝てはならぬ」
まだ、言い負かせていない。
「なにをぶつけて戦うのかしら」
「少し考え中だ、手持ちは吐いてしまった」
まだ、勝っていない。
「それなら、私が決めてもいいのだけど」
「そういうわけにはいかない、これはボクの舞台だ」
──まだ、勝負ができていない!
「ボクと君は確かに剥き出しになった。互いの過ちを認めた。互いの正しさを認めた。……だけど、それで納得するのか? そのまま緩やかに消えていく関係なんて、フィナーレにふさわしいのか?」
これで終わりなんて認めない。このまま潰えるなんてふさわしくない。王とか最強じゃない、ボクたちにとってふさわしくない。だからどうしても、決着をつけたい。勝敗をつけたい。この喧嘩を勝負にしてでも、必ず終わらせたくない。ずっとずっと納得はいかないし、理解なんてしてやらない。このまま終わるだと? 走らないだと? それは未熟だからこそ、ボクにはわからない。理解できない考えが立ち塞がって、傲慢にも自分が正しいと言ってのける。なら、上等だとも。
「私の考えは変わらない。有マが、ラストラン」
「ボクの考えは変わらない。もっとその先も、勝負し続けろ」
「ここに来て、決裂ね」
「最初から、引き裂くための語らいだよ」
勝敗をつける。雌雄を決する。それは当たり前のように、相手を殺める行為である。主役を奪い、舞台を奪い、やはり玉座に座するのだ。価値のない空席ではなく、勝ち取った証として。ここまで互いを罵り称えたのだから、どちらが優れているか決めなくてはならないに決まっている。
「勝負の議題は、一つ」
「何かしら。一流にふさわしいものを頼むわよ」
「この舞台において、キングヘイローとテイエムオペラオーのどちらが主役なのか、だ」
「……乗った」
再び見据えた。瞳と瞳が捉えあった。宙には永遠の星が光り、離れ離れになるまいとひしめき合っていた。だけどボクたちはこれから、ただ瞬く刹那になるのだ。星が消えても世界が終わっても変わらない、取り返しのつかない断絶を生むのだ。どうにもならない終わりを、互いの人生に刻み込め。一生抱える、傷にしろ。
肩書はどうでもいいだろう。無意味に喧嘩して無意味に勝ち負けを決めるのだろう。悲願の勝利でも、無敗神話を打ち立てるようなものでもないだろう。そんな素晴らしい勝負より、きっと今が、今だけはこの勝負に一番勝ちたい。ボクが正しいのだと、君にそう言いたい。
結論を迎えたかに見えた舞台は、また脈々と動き出す。燃料を焚べ、役者の期待に応え、誰も望まない仕合が始まる。これより手に取るは己そのもの、どんな装飾もない殺すための剣。ボク自身で、キミを見る。
「さて、オペラオーさん」
「何かな、キング君」
さあ、来い。
「一つ、問うてあげる」
どう言われようとも。
「あなたはまるで、未来のないことを否定しているようだけど──」
どう、足掻こうとも。
「──あなたの言う未来って、なんなのかしら?」
どうなろうと、止まらない。
「もちろん、決まっているさ」
なぜならボクが望むのは、華麗なる幕引きではない。
「終わることのない永遠の戯曲があれば、極上だとは思わないかい?」
散々指摘された傲慢を、裸になっても纏おうじゃないか。
永遠を願って、何が悪い。
終わるなら、負けろ。
やはりボクたちの舞台は、血染めのように眩しかった。
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キングヘイローとテイエムオペラオーの第四幕
どうやら、最後までそう言ってのけるらしかった。どうしても、そこは譲れないようだった。永遠の実現。不滅の待望。終幕の否定。再演ですらなく、あくまで新しい舞台を走り続ける。それが理想であり、自分たちにはそれができる。やはり傲慢だけど、どうにも気高く。オペラオーさんは、そう言った。「永遠に終わらなければ、最高だ」と。それが彼女の結論。主役が掲げた、輝かしき思想。途方もない、素敵な夢。
つまり、どう言い繕おうと。
「──だからあくまで、私のラストランを否定するのね」
「当然だね。だってそれは、華々しく舞台を去ることに他ならない。終わる必要なんて、どこにもないのに」
どう剥き出してしまおうと、彼女は。
「だって君は、どうしようもなく美しい」
王でも最強でもなくとも、私を天輪にするらしい。たとえ、どうにもならないとしても。ひた走り、走り続ける。ただそれだけのキングヘイローを、揺るぎない存在だと確信している。
──正直、殺し文句だ。
「どんどん勝てなくなるのに」
「最後まで君は衰えない。ボクは今年の君を見てこそ確信した」
「負けたくないから、とは思ってはいけないのかしら」
「それ以上に勝ちたいと思うから、君は走っているのだと思っていたが」
そうだとも。ああ、そうだとも。まだ走れるとも、まだ勝ちたいとも。まだ、終わりたくないとも。オペラオーさんの台詞はすべて図星で、罪を暴かれる犯人の気分だ。骨の髄まで詳らかにされて、心の粒まで解体される。やれやれ、つくづく大した役者だ。このままではどうやっても、主役は探偵を演じるあなただろう。
ただ、それでも。
「それでも、諦めないから」
私は、主役を諦めない。
「諦めないために、走ることに区切りをつけるのよ」
私は、私の未来を諦めない。
「だって私の舞台は、これからなんだから」
私は、絶対に諦めない。
「諦めない」の一言で、逆境を覆してやるのだ。
終わりがなんだ。永遠がなんだ。そんなもの、そんなもの誰だって価値を知っている。誰しも終わりは怖くて、永遠は願ってしまう。だからこそ私は、恐れるものに立ち向かう。永遠を願う? 素晴らしいじゃないか。美しい終わり? 最高じゃないか。どちらも甲乙つけ難く、その二つでは決着がつかない。そんな難しい選択は、この青い命で何度も繰り広げてきた。そして今回が一番難しいとしても、私には変わらないものがある。
「この舞台は、私の人生の話。一つ終わり、次に行く」
なら、なら。
「終わるけれど、終わらない。それが私の、あなたからも得た結論よ」
その両方を取る私が、一番傲慢な主役だ。
私が私であることだけは、誰にも揺るがせられないと。
眠気の峠を超えた午前三時頃。宙の星々はひしめき合い、喝采なき舞台を讃え続ける。
もうすぐ、幕は降りる。
※
「詭弁だ」
「そうかもね。否定はしないわ」
「だが、素晴らしい」
「ご名答。美しいものは、いつだって危ういのよ」
穏やかに、緩やかに。台詞の応酬は、殺し合いであり対話である。お互いを理解するために、心の臓まで裂く行為である。つまり互いの血に塗れた今が、紛れもない最高潮なのだ。
「じゃあ一つ、話をしてあげる」
「……いいとも」
永遠は否定しない。終わりも否定しない。そう至った私の物語を、ここであなたに語ろう。黄昏から世紀末まで、次の舞台へのバトンだ。
にこり。
多分お互い、優しく笑えた。
「出会いはきっと、星のようなもの。私の友達が、ライバルが、仲間が、そう教えてくれた。みんな強くて、みんな逞しい。終わりへと飛翔したのではなく、未来へと羽ばたいていった。……その決断を侮辱することは、あなたであっても許さない」
「それでも、君は走るんだね」
「答えを見つけるために、ね。まだ走る意味を問いきれてないから、走るということを極められていないから」
仲間たちのように輝けただろうか。それは常に思う。ならばと走り続けたことが正しかっただろうか。それは常に疑う。ふと見た己の指先は、少しばかり傷だらけだった。悔しさの痕が、隠せていなかった。
「それでも、有マがラストラン。そう決めた、憂いを絶った。……あなたが、立ち塞がるから」
「……ボクが?」
そう、そうなのだ。
「だって私にふさわしいのは、いつだって超えられないほどの逆境なんだもの」
だから私は、最強の王を見て。
「あなたを死ぬ気で追いかければ、答えが掴める気がしたのよ。本当に、死ぬ気で」
誇りと驕りで走り切る、傲慢なあなたを見て。
「君が、ボクを」
気持ちはわからなくはないけれど、そんな信じられないみたいな顔をしないでもいいのに。もちろん他にも理由はあるけれど、私にとってはこれが最高。もちろん今までにもそれぞれの最高があって、今だけ選びとる最高だけれど。そうやって選択を繰り返し、次の舞台へ終わって終わらない。それが、私で。
「──追いかけていた。あなたが主役の舞台で、そこから主役をもぎ取るために。いつだって、私は挑戦者なんだから」
今も、私だ。
挑戦者。これが今だからこそ言語化できる、最高の理由だ。
私は、あなたに勝ちたい。
「……ボクだけだと思わないことだ。ボクには数多の好敵手がいる。特にドトウは強い。君たちのライバル関係にも勝るとも劣らない、最高の宿敵だと思っているよ」
「ならばそれごと撫で切って私のラストランにしてしまえば、きっとその伝説は永遠になるでしょうね」
「……永遠か」
そう呟いて、オペラオーさんは顔を背ける。否、宙を見上げていた。九十九の星を見上げて、その中にある繋がりを探しているようだった。私の答えとあなたの答えを、繋ぎ止められたみたいだった。星の海は、もう眩しくない。
「ボクの好敵手の一人に、星に詳しい人がいてね。彼女が言うには、星の輝きは何百何千も前のものらしい。何光年をかけて、ようやくボクらの前に姿を現すらしい。……不思議な話だと思った。その輝きが生まれた時にいた人たちは、もう地球のどこにもいないのに」
「それでも、私たちの前に現れる。輝きは永遠だから、途絶えず途切れず見えてくれる」
「そうなりたかった。永遠になりたかった。星々が永遠になれるのだから、同じくらい輝けば永遠になれると思った。……なのに、最強世代は去っていく。ただ一人君という存在になっても、変わらず去っていく」
星に台詞を歌う彼女は、ようやく私と同じに見えた。すれ違いかけ離れ壊れていく関係の中にあって、何故だか私と同じに見えた。寂しそうに、見えた。
──なんだ。
「……おばか」
「むっ」
「へっぽこと言ったのよ、このおばか」
「聞き捨てならない! この美しく崇高な覇王的頭脳を持つボクに向かって、バカとは! へっぽことは!」
「いや、あなた成績悪いでしょ。……それにそもそも、そうなるんじゃおばかでへっぽこなのよ」
「ずいぶんな言いようだ」
「だって、私と同じだもの」
そう、言ってやると。
「──なんだ」
ぱあっと目を輝かせながら、こちらを見て。
「ボクたち、同じだったんだ」
心底嬉しそうに、そう言った。
今までで一番素朴で、一番綺麗だった。
※
いつの間にか、二人で立って宙を見ていた。
「星は眩しい。ああはなれない。だけど、ああなりたい。だから蹄跡を残したくて、私たちは走り続ける」
「何かを打ち立てれば忘れられないだろうか。それさえやがて過去になるんじゃないのか? もちろん、超えられるのは歓迎だとも。……だけど、忘れられるのは寂しい」
「過去にはなる。けれど、過去は輝かしい。人が何度生まれて育っても、その横に歴史がある。私たちの次の世代は、私たちを見て走る。あなたにとっての、私たちのように」
「だけど競えない。届かない。それは歯がゆい」
「歯がゆいのは、過去がまだ輝いているからよ。『最強のウマ娘を決めろ』なんて、土台無理な話だわ」
「──それでも!」
まだ訴えてくれて、彼女の真摯さが伝わる気がした。この期に及んで主役の座を奪い取る、そんなふうな気もした。
「それでもボクは、最強になりたい! 君たちと競い、未来のスターたちとも走りたい! もちろん、負ければ悔しいよ。だけど最後まで、最後なんてなくたって、覇王は覇王であり続けたい。どれほどまでも、第一線で」
「勝って当然くらい言われているだろうに、ずいぶんと貪欲ね」
「いつかは負けるさ。だからこそ、永遠を望む」
はっきりと、彼女はそう言い切った。
「負けてもやり直すために、永遠はあるんだよ」
芝居がかった口調もほとんど解けて、台詞と本音の違いはつかなくなっていた。それでもやっぱり、私を見ながらそう言った。
「……走るのが、怖い?」
「……ああ」
どうやら。
「今が一番、走るのが怖い」
ここからは、彼女が主役らしい。
「去年は一歩届かないレースが多かった。勝てるはずなのに、何度もそう思ってしまった。でも違う、今年になってそうわかった。たとえハナ差でも、勝負は絶対につく。勝てるはずでも、勝者以外は等しく敗者だ」
「同感。好走だなんだと言われても、私はちっとも嬉しくない。だから走って走って走って、有マだって勝つつもりよ。……少し前まで、諦めていたけど」
「そう。勝ちたい。だからこそ、今年は勝ち続けた。そしてだからこそ、次負けるのがあまりに怖い。当然勝つという自信と同じくらい、手を抜けない理由はもう一つあるのさ」
「……強いわね。勝ち続けるって」
「走り続けることは、等しく強者の証だよ」
寂しかった。勝てないのが怖かった。勝負の段に立ちたくなかった。私が散々吐露してきた気持ちは、どうやらそこまであなたと同じらしかった。テイエムオペラオーとキングヘイローは、似たもの同士のようだった。
「だからボクは、君に走り続けてほしい」
だからこそこうやって高めあい、ライバルとは違う視点でお互いを見る。内側にあるものを暴くには、同じ目線が最も近い。
「……なんだ」
私とあなたの関係に価値がないと言ったのは訂正しよう。きっと、きっと、どうやらとっても──。
「私たち、単に仲良くなれるじゃない」
「そうだね。不思議なことに、そんなことにも気づかなかった」
──とっても、相性がいいみたいだ。
本当に不思議だ。刃を収めてみれば、こんなにも。こんなにも近くに、あのギラついた輝きが手に入る。優しいものとして、手中に収められる。ならばどうして、と思う。あんなに許せなくて、あんなに取り返しがつかなかったのか。
「ねえ」
「何かな」
「どうして、あなたは」
「ふむ。どうして、君は」
「友達に」
「それだけのことが」
「こんなに、遠かったんでしょうね」
「おや、聞いてしまうのかい」
やれやれ、みたいな表情をされた。わかっている、わかっているとも。わかっていて、聞いたとも。同じだからわかっていて、それでも同じだから言わせてやろうと思ったとも。だけどそこで花を持たせてやろうと思ったのだから、あなたの方は素直に受け取ればいいのに。与えられた勝利は勝利に数えられないなんて、とんでもない傲慢。……まあ、私たちらしい。私もまったく、同じ気持ち。
「じゃあ」
「いっせーので、いいかな」
「最後の台詞をバッチリ決めた方が、勝ち」
と、いうわけで。
「いいだろう」
「準備はできてるわ」
位置に、ついて。
「いっせー、」
「のっ!」
よーい、
「怖かった!」
どん!
※
わかってみれば、あっけない。故にこれはフィナーレではなく、ある一幕の終わりでしかないのだろうと思う。終わりであり、永遠である。つまり、あいこだ。
「ボクたち、単に怖かったんだ」
どうしても、かけがえのないものだけど。同時に叫んで、同時に笑って。開け放たれた口から、相手の気持ちがそのまま飲み込めて。お互いの気持ちがそのまま伝わることは、きっとどうしようもなく美しい。
「……当然でしょう。年間無敗、世紀末覇王」
「それを言うなら、だよ。距離自在、歴戦の老王」
怖かった。大きく大きく、だから相手が見えていなかった。
怖かった。殺すつもりで向かってくるから、どうしたって死にたくなかった。
「だけどそういうデータと戦うわけじゃない、あなたに言われて気づいたことよ」
「そして主義主張が違うくらいで喧嘩するなんて、まったくばかげたことだともね」
だけど、お互いだった。なら王と王ではなく、キングヘイローとテイエムオペラオーとして向かい合える。確かに違う。確かにそれぞれの道がある。だけど同じで、だから主役だ。それならお互い、なんの引け目もないじゃないか。
「それで喧嘩を思いっきり買われたのでは、なかなか食えないジュリエットだけど」
「あなたがロミオなら、潔く死んでくれるのかしら?」
なんて軽口を叩き合えたので、元のようだった。そう、元から、最初から、ちゃんと見えていたものは見えていた気がした。ただこの「走る」という勝負はウマ娘にとって特別で、故に色々な理由をつけてしまっていた。走ることの理由にも、最後のレースの理由にも。
だからこそどちらも正しく、どちらも間違っていた。その通り。そのまま。最初の前提から最後の結論まで、ずっとずっと変わらない。私たちは、どこまで行ってもお互い様だ。
「まさか! ボクは絶対に負けないとも! ……そう、君にもだ」
「期待、してるわ」
「世紀末の主役は、ボクだ」
「どんな時代でも、私の幕引きよ」
一歩引いて、手を結んだ。
仲直りのサイン、だった。
こうして、幕は降りる。
※
「……あっあっオペラオーさぁぁん、こんなところにぃ〜〜!! 風邪、ひいちゃいますから、起きてください」
「……誰も寝ては、ならぬ……むにゃ」
「だからここで寝ちゃダメですぅ〜……」
そんな会話が、宿舎の外から聞こえてきた。私は食堂でコーヒーを一杯入れて、無事徹夜を乗り切ったところだった。朝日はあんなに美しかったのに、そこら辺でこてんこてんとなってしまうのだから困ったものだった。そもそも日差しで目が覚めないものだろうか? わからない。やっぱり私とあなたは違うのかもしれない。
まあ、それならそれでいい。違うところがないなんて、それもまたありえない。どこまでも同じでも、永遠に同じではない。星々のように、いつかはそれぞれの道を行く。私が仲間たちと知ったことで、決して寂しくないことだ。寂しくないと、あなたに教えられたことだ。決着はつき、答えは出た。美しく、幕は降りる。
……じゃあ、ここで終わるのか?
もちろん、違う。今日抱えた悩みは、今日だけ抱える悩みじゃない。今日吐き出せただけで、走り続ける限りそれこそ永遠に取り憑く悩みだ。きっと年末が私のラストランであることはあなたにとって飲み込めないものだろうし、私にとっては譲れないままだ。仲良くしようと同じだろうと怖かろうと、戦わなければ私たちじゃない。それでも永遠を望むのがあなたなら、私はあなたに真の永遠を見せようじゃないか。未来に続くということの意味を、私があなたに教えるのだ。
勝て。
終わるな。
その言葉、そっくりそのまま返してやろう。
幕引きは、終わりではない。
次の舞台のために、この舞台を閉じるのだ。
ラストランの先にあるものを示すのが、私の王道。
花束よりも永遠の手向けを、あなたに。
勝負はまだ、ついていないのだから。
主役は、私だ。
※
どうやら、そのまま夏は終わり、秋を超えて、冬になったようだった。
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キングヘイローとテイエムオペラオーの終幕
どうして。
などと問うべき相手は、もういない。
※
さて、諸君。こう思ったことはないか? 「どうして、私が」、と。「どうして、私は」、と。不意に訪れた不運を恨み、天輪に授かる幸運もない。ならば己はどうして笑い、どうして生きているのかと。我が人生に、見るべきものなどあるのかと。大袈裟な問いに見えて、きっと誰もが抱えたことのあるありふれた悩みだ。
「さあ今年もやってきました、年末最後の大一番! 有マ記念! 数々の有力ウマ娘が集まっていますが、なかでも最注目はこのウマ娘以外あり得ないでしょう! 年間無敗、前人未到のグランドスラムを賭けた一戦! 四枠七番──」
もちろん、ボクもそうだとも。ありえないと笑われるかもしれないが、ボクは最初から持つべきものをすべて持っていたわけじゃない。己の持つものを信じていたから、前に進めただけでしかない。それだけ。それだけで、ここまで来た。それだけで、踏み締められる。
特別になりたいか。
英雄になりたいか。
最強になりたいか。
なれば、ただ。
「──テイエムオペラオーです! テイエムオペラオーが本バ場にやってきました!」
怯むな。
そして、殺せ。
立ち塞がる者すべてを蹂躙し切った時、世紀末覇王は誕生する。
屍の上の英雄譚、血染めに狂った舞台の終幕。
されど、祝えと言ってのけるのだ。
たとえすべてが奈落に墜ち、物語を終わらせる神さえも壊れたるとしても。それでも、喝采をもぎ取れ。誰も味方が居なくとも、どんな闇が行く手を阻もうとも、輝いて、己が輝いて、舞台の照明はそれで足りる。
勝ち続けた意味はそこにある。負けが許されない意味はそこにある。座するは終焉、担うは恐怖。最果てを望み、深淵を羨み、しかして常に追われて殺す。そうして己が身を研ぎ切った先に、今日というフィナーレがある。ならばこの舞台の結末は、ボクの手のひらの上だとも。
「天候は綺麗な晴れ! 良バ場の発表! まさに年末にふさわしい、ベストコンディションと言えるでしょう! さて本当に、今日『も』テイエムオペラオーは勝ってしまうのか!」
──天より正しく地より尊い、傲慢と呼ぶなら呼べばいい。我が身は既に星より輝き、罪人より血に濡れている。勝利の積み上げは罪禍の積み上げ、見えぬ見ずとも断罪の刃が向けられる。
すべてが敵。すべてに道を阻まれる。客席さえ、期待よりも怖れが上回る。「本当に勝つのか」と、信頼と疑念と恐怖が重く深く混ざり合う。今日の舞台は、断頭台だ。ボクにも負けはあると示すための断頭台だと、誰もが思っているのだろう、と。
「テイエムオペラオー、ゲートに入りました」
──嗤わせる。
ボクの勝利を疑う者など、ボク以外には許さない。己の勝利を問う権利は、己自身にしか与えられていない。
黙って見ていろ。
さもなくば、ただ──。
「七枠十三番、メイショウドトウ! こちらもゲートインです!」
──ボクより、勝てばいい。
勝者は常に、唯一人なのだから。
「各ウマ娘、ゲートイン完了」
……さて、と。
神話を紡ぐわけではない。これから始まるものは、そんな現実離れしたものじゃない。
「最強を決める、最後のレース、いよいよです」
英雄になるわけじゃない。これから終えるものは、そんな世界に根ざしたものじゃない。
もっと儚く、取るに足りない、誰しも切なく抱いていられる、そんな姿になるだけだ。
それが、最強。
その日の永遠であり、その年の刹那である。
今日まで束ねて今年のレースは合計二十分、その舞台の上でしか生きられない──。
──人生の、主役だ。
「今一斉に、」
歯向かえ。目を離すな。どうしたって勝たねばならないのだから、全力でボクに勝ってみろ。勝てるものなら、この最強に勝ってみろ。どこにでもいるありふれた傲慢、それを否定できるなら否定してみるがいい。
「スタートしました!」
終幕の、開幕だ。
※
なるほど。
どうやら、
「各ウマ娘固まっています! テイエムは後方から三番手」
一筋縄ではいかないと、これまでだってずっと思ってきたけれど。
「オペラオーさん」
そう、我が宿敵が呟くのを聞いた。
耳元を通り過ぎ、前方に陣取った。
「どんな手を使ってでも、ですよ」
……目を離すな、などと言う必要はなかったわけか。
「前も後ろもぎっしりと詰まって、テイエム動けません! これは、これは苦しいレースになるか!?」
ドトウと実況の声が言う通り、だった。勝ち続けた。勝ち進んだ。そうしてここで、年間無敗に王手をかけた。だけどそのぶん、数多を屠った。特にドトウには、何度も何度も辛酸を舐めさせただろう。紙一重だろうと積み重ねて、ボクたちの間に超えられない差を感じさせただろう。その結果、だ。
前、左、右、後ろ。それぞれの進路に誰かがいて、ボクは走れど動けない。テイエムオペラオーへの全包囲網が、この日のために敷かれていた。確かに、ボクが主役のまま。確かに、ボクが最強のまま。その事実をこれ以上なく証明する徹底マーク。誰もの視点の中心に、ボクがいる。見ている。見られている。この時点で、最強は証明されている、とも。たとえ勝たなくとも、だ。そう言い切れるくらいに、このレースの結末は見えていた。幕引きは、ボクの幕引きは見えていた。
「……ふっ」
完全に、道は潰えていた。
ボクの舞台は、こうして終わる。
偉大な覇王の最期なら、決して悲劇ではないだろう、と。
そう言われたなら受け入れざるを得ないだろうほど、絶望的な状況だった。
「ふーっ、ふーっ……」
ああ、わかっているとも。憎いだろうと、羨むだろうと、そうでなくとも勝ちたいだろうと、ボクはよく知っている。皆の勝利を奪ってきたのが、このボクなのだから。だからこうして勝利を奪われる側になったとしても、誰も恨むことはないだろう。最強は証明した。主役なのは間違いなかった。
これで負けたなら、仕方ない。「どんな手を使ってでも」、だろう。徹底マーク、動けば喰われる獰猛なる宿敵が前にいる。そして最早彼女だけでなく、すべてがボクの敵となった。どこへ動こうと、どこへも往けない状態になっている。レースは一対一ではないからこそ、すべてが敵になるこの状況だって飲み込むしかない。ならばこの結末だって、飲み込むしかないのだろう。最強故だ。主役故だ。故に、この結末だ。これ以上ない、飲み込むべきだ。
最強は決まった。
主役はボクだ。
そのまま変わらず、ゴールする。
「仕方ない」、というやつだ。
そう、思った。
「第三コーナー回って未だ展開動かず! テイエムは後方三番手から動かない!」
まだ動けない。まだ動かない。まだ、まだ。本当にまだ、とは、限らない。このまま、ということもありえる。むしろその方がふさわしい、とさえ言える。……誰かの言葉を思い出したのだ。終わることは、美しいと。終わることは負けることだと、その時否定したけれど。その言葉の是非は、終ぞつかなかったのだから。
「はあっ、はあっ……!」
……ああ、くそっ。
どうして、どうして、どうして!
負けを受け止める準備ばかり、頭に浮かんでしまうんだ!
「第四コーナー中間地点を過ぎている! テイエムオペラオー、前を狙っている! しかしまだ囲まれている! 完全な包囲網は崩れないー!」
理屈は散々に捏ねた。負けるだけの材料は自分で揃えてしまった。
理不尽だ、そう言える。
だから仕方ない、そうも言える。
こんな負け方許せない、あとでそう吠えられる。
ボクが負けても、誰も咎めない。最強の名に傷はつかないし、それでも獲りたかった勝利だって悪くない。この舞台は、ボクが主役のまま美しい。そう思ってしまったのは、確かだろう。
だろうと、どうやら思うらしい。
どうしても、どうしたって、どう足掻いたって。
どうして、ボクが。
「……ふざけるなよっ……!」
ふざけるな。
勝てないとわかったら、負けを飲み込む理屈ばかりだと?
ボクにだってもちろん弱さはあるだろう、そんなことは知っている。だからこうして考えてしまう、そんなことは知っている。
けれど、けれど。
「さあテイエムはどうする! 残り310メートルしかありません!」
諦めないことが王道なのに、最強や主役で満足してどうするんだ!
足掻け。死ぬまで。歌え。壊れるまで。笑え。果てるまで! 神話ではない、英雄ではない、されど、ボクが最強を求めるのは──。
「残り200を切った! 残り200を切った! テイエムは来ないのか!? テイエムは来ないのか!?」
──覇王たらんと、諦めないからだ。
そう、
「……勝負です、オペラオーさん!」
君はボクを「負かす」ことが目的でないと、必ず勝利を取りに来ると、それも信じて諦めなかったとも!
「もちろんだ、ドトウ!」
最後の最後に、必ず包囲網は崩れる。前へ前へと、全員が動く。何故か? 皆、勝ちたいからだ。負けないためではなく、勝つために走っているからだ。ラストスパートのラストスパート、終曲の残り三小節。それ以上に心動かすクライマックスなど、ありえない。
……だから、目の前のドトウは必ずここで抜け出す。
そして、だから、だ。
「……テイエム来た! テイエム来た! テイエム来た! テイエム来た!」
だん。
そこに出来た穴を見逃さないから、ボクは覇王で最強だ。
勝たせろ。
ボクに、勝たせろ。
「はああぁあーっ!」
「やぁああああーっ!」
ようやく、ようやく踏み締められた大地があった。
遂に、遂に開けた天空があった。
けれどそこはまだ、ただの空白に過ぎない。
「抜け出すか!? メイショウドトウと! テイエム! テイエム!」
未知の果て、終わりの先。そこに根ざすは、永遠不変の絶対輪理。今日は一つの区切りであり、確かに舞台が終わる日だ。けれど次の舞台があるから、世界と未来は続いていく。世界は永遠である。未来は天輪である。どうやら、そうして。
「テイエムか! テイエムか!? わずかにテイエムかー!」
ボクはまだ、勝負をしてもいいらしい。
これだけやっても勝てるのだから、まだ向かって来るといい。
勝っても負けても、勝負は楽しいものだから。
※
「いい勝負だったよ、ドトウ」
「……勝ちたかった、です」
「もちろん、これからも油断はしない」
「ええ、勝ちます。いつか、未来に、絶対に」
「楽しみにしている。まあ、今はひとまず」
「はい。おめでとう、ございますっ!」
息も絶え絶えに言葉を交わしながら、やはり思う。負けたとして、観客の落胆はありえなかっただろう。失望させる走りなど、するわけがないだろう。それほどまでにボクは強く、期待を背負い続けている。それでも、今日は困難な戦いだった。いつもよりも特別で、いつもよりも勝ちたかった。そしていつもより、勝つことが遠かった。だからこそ、どうしたって、今日という日は。
「はーっはっはっ! みんな、ありがとう!」
この歓声は、ボクだけのものだ。
自分でも驚くほど素直な台詞が、自らを讃えていた。
どうやら、これで。まだ実感はないというのが正直なところだけれど、これで。このレースに勝って、これで。
「目標達成、おめでとう」
年間無敗の偉業は、未来永劫刻まれる。
「彼女」にも褒められて、万雷の喝采を浴びて。
こうして、幕は降りる。
※
──いや、そうではない。
多分、そうではない。
このまま終わるのは、きっとそうではない。
なんとなくいい雰囲気になって、なんとなく未来を感じて、なんとなく明日を疑わない。それはきっと、しっかりした終わりではない。舞台の幕引きとしては、二流三流。「一流」には、程遠い。
どうかな、そうではないだろうか?
「さて、一つ問おう」
「何かしら、オペラオーさん」
「そんなもの、決まっている」
そう言って、傍の人を見た。きっと今までで一番、憔悴しきった瞳だっただろう。激戦を終え、満ち足りて、受け止められない。だからこそ、剥き出しで渡り合おう。
「キングヘイローとテイエムオペラオー、どちらが今日の主役なのか、だよ」
そう問うべきだろう、キング君?
「……今勝負したばかりなのに」
「今の勝負の判定をするのさ」
「よくわかってるじゃない」
「ここにある喝采は、二つあるからね」
極まる歓声、轟く喝采。そう、この熱狂はボク一人に向けられたものじゃない。それとは別の淡く澄み渡る声が、もう一人の王に届けられている。
「……みなさま、今までありがとうございました」
ラストランを見守ってくれたファンへの、真摯で柔らかな言葉。観劇の終わり、役者を終えたあとの台詞ではない一言。そう言って観客に笑いかける君は、憂いの一つも浮かべてくれなかった。
やっぱり、そうか。
どうやら、まだ。
どうしても、まだ。
終わらない、終わりたくない。
終わりたいとしても、終われない。
だから、大丈夫。
「最後の話を、しましょうか」
「ああ。手短に、丁寧に」
「簡潔に、華やかに」
「……笑って終えよう!」
一流のハッピーエンドに終わるのは、どうしたって決まっている。
ただどんな意味もなく、主役の座が欲しいだけだ。
これほどまでに素晴らしい舞台なら、最後は真ん中に立ちたいだけだ。
始めよう。
勝負はまだ、ついていない。
※
「悔しくないのかい、勝てなくて」
「あなたこそ、諦めそうになったんじゃない?」
「ボクの負けず嫌いは知っているはずだ」
「私の方こそ負けず嫌いのはずよ」
「じゃあ悔しいはずだね」
「それが悔しくないのよ」
「負け惜しみだ」
「負け惜しみじゃないわよ」
そういう押し問答は、しばらく続けられた。
多分色んな人が見守っていて、けれど聞こえる人の声はこちらに向いていない気がした。ここにもどこにでもある当たり前の喧騒の一つを、舞台の上で歌えていた。
「……しかし、ラストランで四着か。まだ走れるんじゃないのかい、君」
「こんなもんじゃないわよ、私。もっと前から仕掛ければ届いたんだから。我ながら青いわね、憎らしいほどに」
「憎らしいほど強いのはボクじゃないのかな」
「一流の私が、他人を勝てない理由にすると思う?」
「……まあ、そうだろうね」
そこは負け惜しみでもなんでもなく本音で、そうである限りボクが負かせる相手ではない気もした。つまるところ本音だと認めればボクの負けだが、本音なのはわかりきっていた。
「だって君、ボクのマークもろくにできてなかったから」
今日のレース、一度も君を見なかった。
どこまでも自分の道を進むのだと、当たり前のように示していた。
「あれだけボクを見ろと言ったのに」
「不器用なのよ。まだまだ発展途上。それこそ、永遠にね」
「それが一番強いなら、仕方ない」
「最後まで可能性を見せ続けるから、惜しまれながら終わることができる」
「……まだ走ってほしいと思うのは、ボクだけじゃないだろうに」
ああ、どうにも。
「そうね。奇しくも私も同感」
どうにも、どうしても。
「それでも私は、未来に進みたいのよ」
「そう、かあ」
やられたな、と思う。
「君の舞台の主役は、紛れもなく君だよ」
玉座は、不可侵だ。
それぞれの王道は、邪魔できない。
どうしても、君の勝ちは奪えない。
「最後まで期待を持たせる走りなんて、反則じゃないか」
ずるいなあ、と思って。
他者の輝きが、眩しかった。
※
「ところで、純粋な疑問なんだけど」
「何かなキング君。ボクは君が何を言ってもムッとするくらいの機嫌だけど」
「いやそんなことじゃなくて、単純な話。……グランドスラムって、どれくらいすごいわけ?」
「え?」
「いや、私結構節操なしにレースに出てたから。真っ当なローテーションでそのまま勝つって、逆に想像できなくて」
「えーと、真っ当というわけでもないんだけどね。重賞八連戦、結構タイトなスケジュールだよ」
「……凄まじくない?」
「すごいだろう?」
「うん。すごい」
なんだか子供のように当たり前に驚かれたので、拍子抜けだ。いや、すごいんだけど。ボクすごい。
「GⅡが三つ、GⅠが五つだね。いや、そこら辺は流石に知ってるか」
「当然、一流だもの。そもそも私、長距離も走れるんだから。獲ってないだけで」
「それなら年間無敗の説明、必要かな」
「必要よ。しっかり説明して」
むう、頑固だ。とはいえやぶさかではないだろう、何故ならボクはボクだから! 偉業を讃える者が一人増えることは、喜ぶべきことだろう! というわけで、
「とりあえず初戦は京都大賞典で、トップロードさんを木っ端微塵にした。今日も勝った。ボクの麗しき好敵手が一人!」
「厚かましいって思われてそうね」
「トップロードさんは優しい!」
「甘えてるのね」
「次の阪神大賞典でも勝った!」
「引け目とかあるべきでないのはわかるけど、そこまで来るとすごいわね……」
一つ一つ、
「春の天皇賞も勝った。トップロードさんに。ここが今年最初のGⅠだ」
「なんだかトップロードさんの方に親近感が湧いてきたのだけど」
「会いに行くといい! 君ほどのウマ娘なら歓迎するだろう」
「いや、何度か挨拶したことあるわよ? トレセン学園じゃあなたより有名人よ? ……ともかく、あなたの伝説は一歩そこで進んだわけね」
「伝説というほどじゃないよ」
「それは未来で決められるものよ」
「そうだね。ボクとしてはいずれ超えられる伝説と思っていたけれど」
解きほぐしていって、
「……次は宝塚記念だ。ここでは悔しいことと、嬉しいことがあった」
「グラスさん、ね」
「そう。最強世代とのリベンジマッチ、待ち望んでいたとも」
「彼女の骨折は本意ではない。わかっていると思うけど」
「だから悔しいのさ。一度目で勝てなかったボク自身の拙さが」
「……なんだ」
「何かな」
「ううん、なんでもない。それより嬉しいこと、聞かせなさいよ」
「もちろん、宿敵の登場だよ」
「メイショウドトウさん、ね。よくもまああなたみたいなのについていけてると、私としては感心するばかりよ」
「そう! ドトウ! 我が最大のライバル! ……今日も、勝ちに来てくれた。彼女だから、戦えた。そこから先、トップロードさんとドトウと何度も鎬を削ったよ」
そのまま、
「……そして、今日だ」
今日の話になった。
「誰かはこう言うかもしれない。テイエムオペラオーにはライバルがおらず、だから勝てただけでしかないと。……羨ましかった。勝ち負けを拾い合う最強世代が」
キング君は、答えない。多分、それで正解だ。今は、ここは、ボクの舞台。ボクの王道。ボクだけの、玉座だ。孤独に見える。孤高に見える。ならば、悲劇にも見えるだろう。
「……それでも、今ならこう言える。ボクは今日まで、勝ちたかったと。渡したい勝利なんて、一つだってない」
でも、ボクはそうは思わない。ボクの王道は、破滅への道のりだとは思わない。
「だから、ボクは走り続けるよ」
ボクがそう思うのだから、これが紛れもない正解だ。
「立ち向かって来る好敵手のためにも、ボクは勝利を譲らないのさ」
「……なるほどね」
はあ、とため息を吐いたようだった。合点がいった、そんなふうに見えた。滔々と語り続け、ボクは君に何かを伝えられただろうか? ……なんて、そんな不安はなかった。言いたいことは言った。好きにするだけ好きにした。君が誰も見ないなら、ボクは誰もを見るだけだ。そういう結論に、たどり着いた。長い王道の先にある、未来に続く区切り。そんな中継地点に設置された、一つ目のゴールラインを──。
「あなたの勝ちよ、テイエムオペラオー。それほどまでの精神があってこそ、偉業は未来に刻まれる。あなたは確かに、永遠になった」
──二人一緒に、切った。
「……両者勝ち、か」
「引き分けとは言わないでよ」
「レースでも稀にあるからね、同着は」
「今日のレースはボクの勝ちだけどね」
「これから先の勝負はわからないもの」
いつの間にか周りの視線はボクらにだけ向けられていて、ただ静かに聞き入っているようだった。穏やかだからこそ価値ある会話を、静寂が密やかに引き立てていた。
しかし、これから先か。今日の勝負は、今日まで続けた主役争いは、二人勝ちだ。どうにも二人とも勝ちたいので、そういう結論は仕方ない。まあつまり、こうなるのも仕方ないというわけで。
「じゃあ、次の勝負を決めようか!」
始めよう。次の舞台を。
「いいわね。私、一つ案があるのだけど」
「聞いてあげようじゃないか、諸君!」
受けよう! 更なる喝采を!
溶け込むような穏やかな舞台は終わり、遙か広き激動の舞台がこれより始まる。ボクが促せば観客は立ち上がり、忙しなく拍手の音が鳴り響く。ぱちぱち、ばちばち、雷鳴よりも閃いて。綺麗だと思った。美しいと思った。この瞬間が、本当の終わりだと思った。そして同時に、永遠になるのだと思った。永遠の、始まりに。
終わらない、終わらない、この日の残響はきっとボクたち全員に刻まれる。遠い未来になっても、色褪せない思い出を作れる。終わることで、舞台は永遠になるのだと。そう、信じた。
「私とあなた、どちらが名を残すか」
「未来に向けて、永遠の勝負だ」
信じているから、絶対になる。
汗だくの手を握り合って、高らかに笑い合った。
──ああ、そうだとも。
これだから、勝負は楽しい!
どうにもたまらず、ボクたちはそう思った。
※
かつて最強と呼ばれた者たちがいた。
今最強と呼ばれる者もいる。
それでも、いつか最強ではなくなる。
そうしてたとえ彼女たちが、どれほど美しく幕引きを迎えようと。
必ず次の舞台で、どこかでボクたちは生きている。
どうしたって、勝負はやめられない。
だって、あんなに楽しかったし。
いつまでも、楽しいのだから。
これにて、幕が上がる。
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