アシュリー嬢は呪われてしまった!? (磨己途)
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01:王子、乙女の寝込みを襲うなんて最低です!


お気楽に読めるエンタメ作品を目指して書いた作品です。
女性向けの体裁ですが、まあ、男性でもイケる人はイケるんじゃないかという気はします。

全部で12万文字くらいになる見込みです。
よろしくお願いいたします。



 多くの人たちの面前で婚約破棄を言い渡され、その場で意識を失ってから、わたしは王宮内の一室に運ばれたらしい。

 見慣れない豪華なベッドの天蓋を見上げてそれを思い出した。

 

 ベッドの側ではお父様が大声で怒鳴っていらした。

 お医者様が一向に姿を見せないことに苛立ち、周囲の者に詰め寄っているようだった。

 周囲の者たちの受け答えも要領を得ないので、そのうち痺れを切らし、お父様は自分でお医者様を探しに部屋を出て行ってしまう。

 

 わたしは意識を取り戻したことを報せることも、身を起こすことも面倒で、そのままベッドの上で目をつぶり横になっていた。

 自分の身に起きた事があまりにショックで何もする気が起こらない。

 

 今日この日まで、わたしは間違いなく、幸せの最中にいた。

 リカルド王子と結ばれる婚儀の日取りは、もうすぐそこだったというのに、一体どうしてこんなことに……?

 

 自分がヴィタリスの罠にハメられたのは分かったけど、一体全体どうして自分がこのような目に遭わなければならないのか、その理由が全然分からない。

 

 長年の敵国であるアダナスの地を追われて、家族ごとこのオリスルト王国に身を寄せてきたメフィメレス家とその令嬢のヴィタリス。

 その境遇を不憫に思いこそすれ、彼女から恨みを買ったり、ましてや、このような大掛かりな企みで陥れられなければならない覚えはないのだけれど……。

 

「──どうする? 手筈は違うが今やるか?」

「いや、今はまだまずい。人の出入りが多すぎる」

 

 寝たふりを続けるわたしの側では、二人の男が何やら良からぬ相談を始めていた。

 何故それが良からぬ相談だと分かるかと言えば、それが明らかに悪い奴がしそうな、ひそひそ声だったからだ。

 

 やるって何?

 殺るってこと?

 だ、誰? 誰を殺るの?

 

「だが、このままこの娘が屋敷に帰ってしまえば、偽装するのは一苦労だぞ? 毒殺するだけなら容易いが……」

 

 どっ、毒殺! 毒殺って言った!?

 〈この娘〉って、わたしのことよね?

 わたし、婚約破棄された上に毒殺されちゃうの?

 

「このまま一晩ここに寝かせて安静にするようにと、医者に言わせて引き留めよう。医者が置き忘れた薬箱の中から劇薬を探し出し、身を儚んで服毒したという筋書はどうだ?」

「……なるほど。そうするか」

 

 なるほど……、じゃないわよ!

 冗談じゃない。

 このまま何もかも、こいつらの思い通りになってやるものですか!

 今すぐ起き上がって、眼の前の二人を一発ずつブン殴ってそう言ってやるんだから!

 

 ……だけど、フカフカのベッドに沈み込んだわたしの身体はピクリとも動いてくれなかった。

 

 怖いのだ。

 怖くて怖くて堪らない。

 突然自分の身に降りかかった理不尽に対し、ドタマに来ているのとは全く別に、わたしの身体は恐怖でガチガチに凝り固まっていた。

 

 実はもうとっくに、わたしが目を覚ましていて、彼らの悪だくみを聞いていた……なんてことがバレたら、今すぐこの場で殺されてしまうかもしれない。

 男二人に対し、女のわたしが敵うわけがない。

 

 助けて……お父様……!

 

 必死で寝たふりを続けながら、わたしはさっき出て行ったばかりのお父様が戻ってくることを願う。

 そして、部屋のドアが開く音がしたとき、わたしは自分のその願いが通じたのだと思った。

 

「王子!?」

「アシュリーは? まだ目を覚まさないのか?」

 

 部屋に入ってきたのはお父様ではなかった。

 リカルド様の声だ!

 

 助かった、と一瞬そう思ったけれど、すぐに思い直す。

 わたしは彼に捨てられたのだった。

 先ほどわたしに婚約破棄を言い渡したばかりのリカルド王子。

 最も助けて欲しかったあのときに、わたしを冷たく見放した彼に、身の危険を訴えてみても、かばってもらえるとは限らない。

 

 そのことを、リカルド様の本心を、確かめることになる……。

 全部、全部……、はっきりしてしまう……。

 

「二人にしてくれ」

「いや、それはしかし……」

 

「頼む。このまま彼女が謹慎となれば、私はもう彼女と二人きりで会う機会はなくなるだろう。最後に、お別れを言いたいんだ」

 

 最後……。

 やはり、リカルド様にはもう、わたしへのお心がないのだわ……。

 

 どうやら完全に嫌われてしまったわけではないようだけど、彼の描く未来に、わたしという存在はいないのだ。

 一瞬で分かってしまった。

 そのことが、どうしようもなく悲しかった。

 突き放されたように感じる。

 あの謁見の間で味わったのと同じ喪失感が繰り返しわたしを苦しめる。

 

 男たちが部屋を出て行き、リカルド様と二人きりになっても、私は目を開けることができなかった。

 今さらどんなふうに接すれば良いのか分からない。

 このまま目を覚まさないふりをしよう。

 

「アシュリー……」

 

 リカルド様が側で屈み込む衣擦れの音。

 気付いたときには、息がかかるほど近くに彼がいるのを感じた。

 寝ているわたしに顔を近づけ、そうやって名残惜しんでいるのが分かった。

 

 …………。

 ちょっと……。

 

 ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょーっと!?

 ちょっと!

 さすがに!

 あまりにも!

 これは、この距離は、近過ぎなのではありませんか!?

 

 リカルド様は、わたしが頭をのせる枕の上に腕を置き、そこにご自分の体重をのしかからせていた。

 枕が沈み込む感覚と、わたしの身体の真上に覆いかぶさるような彼の気配でそのことが分かる。

 

 女性の寝込みを襲うなんて最低です!

 

 そう思いながらも、でも、これが最初で最後のひとときとなるのなら、という投げやりな、というか、破れかぶれな感情も、確かにわたしの中にあるのだった。

 突然わけの分からない企みで非情に引き裂かれてしまった二人だけど、それまで育んできた親愛の情は間違いなく本物だったのだから。

 

 押し寄せる緊張と不安。

 そして微かな期待。

 

 彼がこれから何をしようとしているのかが分かる。

 そして、わたしはそれを知りながら、寝たふりを続けようとしている。

 もう婚約は破棄されてしまったのに、こんなことは許されないという背徳的な感情に、胸が締め付けられる……。

 

 彼の唇が、私の唇に触れ、深く、合わさりあった──。

 

「……!」

 

 その瞬間、天地がひっくり返ったような衝撃に頭が揺らされた。

 身体が()()つんのめる。

 バランスを取るとか、腕に力を入れるとか、そんな対処方法を思い浮かべる間もない。

 わたしは前に倒れ込み、何か硬い物に思い切り額をぶつけてしまっていた。

 

「ってて……」

 

 床にペタリと座り込んで額に手を当てる。

 かなり強くぶつけたらしい。

 ゴチンと骨を打った音がしっかりと耳に残っていた。

 目がチカチカする。

 

「リカルド様……?」

 

 一体わたしに何をしでかしたのですか?

 そう言って問い詰めるため、わたしは寝たふりをやめて周囲を見回した。

 

「あれ?」

 

 変だ。

 ベッドで横になっていたはずなのに、今のわたしはベッドの下で尻もちをついていた。

 それに頭を打ったせいか、先ほどから耳に届く自分の声が妙にこもって聞こえて変な感じだった。

 あとそれに、リカルド様の姿も見当たらない。

 

 おそるおそる膝を伸ばして腰を持ち上げる。

 先ほどまで自分が横になっていたはずのベットの上を覗き込む。

 

 リカルド様と身体の位置を入れ替えるようにして、ベッドからずり落ちてしまったのだろうかと考えたのだ。

 だけど、リカルド様はそこにもいなかった。

 その代わり、ベッドの上には、目を見張るような美しい顔だちの女性が横たわっている。

 

「だ、誰!?」

 

 思わず大きな声で問いかけた。

 けど、返事はない。

 彼女は目をつぶったまま、どうやら眠っているらしい。

 おでこの部分が少し赤く腫れているけど、そんなことお構いなしにスヤスヤと寝息を立てている。

 

 いや……、あれ?

 あれ、これって……。

 

「わたしぃ!?」

 



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02:鏡の中の悪魔

 もしかしてもしなくても、それはわたし以外にあり得なかった。

 着ている服は間違いなく、今日わたしが着てきた淡いピンク色の──艶やかな絹の光沢がお気に入りの──わたしのドレスである。

 それに、今まで自分の姿をこんなふうに眺めたことはなかったけれど、ベッドの上で気持ちよさそうに寝息を立てているその顔は、普段鏡の中で見る自分の顔……そのものだった。

 驚きながらも、わたしはとっさに、色々な角度から自分の顔を覗いて観察してしまう。

 

 は、はー……。わたしって、こんなふうに見えてたんだー。

 

 鏡映しじゃない、全然別の角度から見る自分の姿はとても新鮮に見えた。

 驕って言うわけじゃないけど、客観的に見て、我ながらまんざらでもないなと鼻息を荒くする。

 小さなアゴに柔らかそうな頬。

 きめ細やかで、白く瑞々しい肌。

 サラサラで長いブロンドも、思わず手に取って撫でたくなるほど美しい。

 

「はぁあ……」

 

 長いまつ毛で縁取りされた瞼の下には、どれほど美しい瞳が隠れているのか……。

 指でつまんで、それを確かめようとしている自分に気がつき、ハッとその手を引っ込める。

 

 いやいや、違う違う。

 人形じゃないんだから。

 これはわたしなのよ?

 

 そう自分に言い聞かせ、それが随分とおかしなことであることを思い出して、我に返った。

 

 ここで寝てるのがわたしなら、()()()は……、誰なのよ?

 

 そして、ようやくわたしは今の自分が操る身体とまともに向き合うことになる。

 見覚えのある群青色の服の生地。

 パリッと糊が効いた真っ白い袖口。

 長くしなやかな手足に指先。

 そして、先ほどまでこの部屋にいたはずの、()()姿()が見えないことを考え合わせると、導き出される結論は一つしかなかった。

 

 鏡、鏡、鏡っ!

 部屋の中を改めて見回して見つけた鏡台の前に歩いていく。

 歩いていく途中から、わたしは鏡の中に、よく見知った立ち姿を見つけていた。

 

「リカルド様だ……。わたし、リカルド様になってる……」

 

 わたしが呟くように発したその声は、そうと分かってから聴けば、確かに、紛れもなくリカルド様のお声だった。

 

「どうして……?」

 

 鏡面台に手を突き、打ちひしがれるわたしの視界に黒い影がよぎる。

 

 えっ、と驚き顔を上げた。

 ()()がいたのは鏡の中に映るリカルド様のお顔のすぐ隣だった。

 そこに、小さな黒い小鬼が浮いているのが見えた。

 

「おっと! 見つかっちまったァ」

 

 おどけた声が耳元でしたのに驚いて反射的に首を回す。

 だけど、そこに小鬼の姿はなかった。

 

 あれ!? なんで?

 

 何度も首を横に振って視線を鏡の中と外に行ったり来たりさせる。

 けどやっぱり、何度やっても変わらなかった。

 鏡の中では確かに自分のすぐ横に小鬼がいるのに、鏡を通さずに見た実際の部屋の中には、それがどこにも見当たらない。

 

 何、このへんてこ?

 あ、ああ頭、おかしくなりそう……。

 

「無駄無駄ァ。肉眼じゃあ俺様は見えねえよ?」

「だ、誰? あ、悪魔?」

 

 鏡の中に目を凝らしてよく見たそれは、絵本などに出てくる悪魔の姿によく似ていた。

 細長い手足に真っ黒な肌。

 おでこの辺りには角のような突起が二本生えている。

 その顔も目がつり上がっていて狂暴そうだが、いかんせんサイズ感がわたしの手の平に乗りそうなほどの大きさしかないので、怖い、という感覚はあまりなかった。

 

 でもそれは、突然おかしなことが沢山起こり過ぎて、わたしの感覚が麻痺しているだけかもしれない。

 

「悪魔かァ……。まあ、そんなようなもんかァ。お前にとっては、なァ?」

 

 わたしは鏡を見ながら、悪魔がいるはずの位置に合わせ、ワキワキと手を動かしてみた。

 けど、鏡の中のわたしも、手がすり抜けてしまって全然そいつをつかむことができない。

 なんの感触もない。

 どうなってるの、これ?

 

「おい、よせッ。触るなッ」

「な、何が目的なの? 悪魔なら、もう間に合ってるわ!」

 

 本当にもう沢山。

 みんなして、わたしをどれだけ苦しめれば気が済むって言うのよ。

 

「フフェフェッ。さっき、どうしてって聞いてたよなァ? どうして入れ替わってるのかって。教えてやるよ。せっかく呪ってやったのに、本人に自覚がないんじゃ、その甲斐がないからなァ?」

「呪い?」

 

「おうよ。呪いだ。お前の今の境遇は、お前が俺様にした仕打ちのせいだと自覚してェ、後悔しろッ」

「全然分からない。わたしが何をしたって言うの?」

 

「俺様が静かに眠っていた鏡を拭いて綺麗にしやがっただろォ?」

「鏡……?」

 

 思い当たるものは……、ある!

 ありまくりだ!

 

 わたしがリカルド様から婚約を破棄される口実とされたお忍びの小旅行。

 その目的地の寺院跡で見つけた古臭い鏡を擦って磨いたのだった。

 多分、あれのことを言ってるんだ。

 

 あの寺院跡には、他に祈りを捧げられそうな物も残っていなさそうだったし、これでいいかと思って……。

 せっかくだし、泥で完全にふさがってた鏡面を、少し布で磨いてやっただけなのに、あれがいけなかったって言うの?

 そのあと祈りを捧げたとき、かすかに感じた悪寒みたいなやつ。

 あれが呪いだったの?

 

「ケッケッケッ。愛する者と決して結ばれないように、俺様が一丁気合入れて掛けてやった呪いだ。せいぜい思い知れィ!」

 

 悪魔はそれだけ言うとパッと鏡の中から消えてしまった。

 言われた言葉に反応を返す暇もない。

 人の恋路の邪魔をするにしても、なんて迂遠な方法なの!?

 わたしは慌てて周囲をキョロキョロと見渡す。

 

「ちょっと! どこ!?」

 

 鏡にしか映らないんだったと思い出して、鏡に額を擦り付けるようにして中を覗き込む。

 鏡を通し、色々な角度から部屋のあちこちを探ってみるけど、あの小鬼のような悪魔の姿はもうどこにも見つけられなかった。

 

「ちょっとー! ちょっと待ってよ。誤解よ。そんなつもりなかったのにぃ。汚い方が好きな人がいるなんて誰も思わないじゃない!」

 

 今度は鏡から離れ、部屋の中を見渡しながら大声で呼び掛ける。

 それでもあの悪魔からの返事はなかった。

 その代わり、女言葉で喋るリカルド様というのが、生理的に受け付けなくて、寒イボが立った。

 

「嘘でしょ……? こんなの……」

 

 ペタリと内股でその場に座り込むわたし。

 こ、こんなみっともない姿、リカルド様にさせちゃいけない。

 そうは思うんだけど、力の抜けた足腰では、すぐに身体を持ち上げられなかった。

 

 婚約破棄された上に、服毒自殺を偽装される企みの渦中にあって、しかも呪われてるだなんて……。

 

 まるで一生分の不幸が一度にやってきたようだ。

 わたしはリカルド様の姿のまま両手で顔を覆い、シメジメと泣き崩れる。

 そして、ほんの少し前に、衆人環視の中、自分の身に降りかかった不幸な出来事を思い出すのだった。

 



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03:ここでプロローグ挿入 アシュリー嬢が見舞われた不幸の波状攻撃を見てみよう

「婚約は、破棄だ」

 

 リカルド王子の口から放たれたその残酷な言葉を、アシュリーは信じられない思いで聞いていた。

 王子は玉座に座るタッサ王の隣──彼女を見下ろす位置──に立っているが、その目はアシュリーのことを見てはいなかった。

 彼女からの視線を避けるようにその端正な顔を逸らし、身体を固くし、あらぬ場所を凝視している。

 

 アシュリーは、かつて彼との距離をここまで遠く感じたことはなかった。

 二人、言葉を交わすときは、常に互いの息遣いが聞こえるほど近く、寄り添うようにし、やがて結ばれるときの訪れを共に信じて疑わなかったというのに。

 王都を離れていた僅か一週間ほどの間に、一体何が起きたというのか。

 アシュリーには、その理由が全く分からなかった。

 

「お待ちください、王よ! 娘が何か!? 何か粗相を致しましたでしょうか?」

 

 呆然と立ち尽くす娘に代わって、彼女の父であるヒーストン伯爵が、王や王子による突然の翻意のわけを尋ねる。

 当然、事は当人同士の問題にとどまらない。

 いくら王や王子とは言え、正当な理由もなしに一方的な婚約の破棄など通るわけがなかった。

 

 王はその申し立てには直接答えず、側付きの男に向かって首を揺らしてみせただけだった。

 王から促された男は、壇上のやや内寄りに進み出て、手にした書状に目を落としながら高らかに宣言する。

 

「ヒーストン伯爵令嬢アシュリー。貴殿にはアダナス帝国との密通の嫌疑が掛けられている」

 

 静まり返っていた謁見の間が遠慮がちにざわつき始めた。

 

「皆が知ってのとおり、アダナスとわが国は長年戦争状態にある。その最中にあって、アダナスとの国境にもほど近い地に、身を隠すようにして出向くとは、十分な嫌疑に値する」

 

 その瞬間アシュリーは思った。

 

(は……、ハメられた……!)

 

 ……と。

 今このとき、改めて考えてみれば、あの旅は怪しいことだらけだったと思い至る。

 

(まさか、あそこがそんなきな臭い場所だったなんて……)

 

 自分の迂闊さを呪うのに必死で、顔面蒼白となった彼女は異を唱える余裕もない。

 

「お待ちください。たったそれだけのことでございますか!? 娘に一体何ができましょう? まだ、齢十六にも満たぬ小娘が、敵国との密通など、そのような大それたことをしでかすなどと、そんなことを本気でお思いですか?」

 

「ラングよ。嫌疑は嫌疑だ。此度のこと、お主は知らなかったのであろう?」

 

 早口でまくし立てるようにして食い下がるヒーストン伯に対し、王はゆっくりとした口調でたしなめた。

 後半、何か含みありげに高く釣り上がった王の声音に、ヒーストン伯の肩がビクリと震える。

 そして、気弱さを感じさせる表情で、自分の隣に呆然と立ち尽くす娘の顔を窺い見るのだった。

 

「王太子殿下が破談をご決断された理由はそれだけではございません。ヴィタリス嬢、前へ」

 

 王の側付きの男が続けて口上を述べると、その後ろから妖艶を絵に描いたような女、ヴィタリスが姿を現した。

 主張の激しい豊満な胸とは裏腹に、慎ましやかに目を伏せ、肩を落としたしおらしい仕草。

 彼女は、アシュリーの前ではついぞ見せたことのない、憐れを誘う立ち居振る舞いで壇上にあり、広間に集まった皆の注目を一身に集める。

 

「ヴィタリス嬢からの訴えにより、アシュリー嬢には彼女への暴行と恐喝の罪状が提訴されております」

 

(ええっ!? 暴行? 恐喝? まったく身に覚えがないんですけど!?)

 

 広間がさらにざわつきを増す中、男がヴィタリスに向かって小さく声を掛けた。

 ヴィタリスはさらに前に進み出ると、自ら衣服の端をまくり、横腹の辺りをはだけさせた。

 上と下が分かれた彼女の衣服は、この国の王宮ではあまり見られない珍しい形状であったが、どうやらそうやって自分の肌の一部を衆目にさらすことが目的であったようだ。

 その周到さを見て、アシュリーは自分の中に沸々と怒りが込み上げてくるのを感じた。

 

 ヴィタリスの手によって僅かに持ち上げられた布地の下からは、白い肌の上に痛々しく浮き上がる、赤くただれた痕が覗いている。

 

「アシュリー様は、他の者の目が届かない密室に私を呼び出し、自分の留守中に、私が王太子殿下に決して近寄ることがないよう、激しく恫喝なさいました。

 分からせるためだと言って、無理矢理私の衣服を剥ぎ、外から見えない場所に、このように焼き(ごて)を……」

 

 涙ながらに語るヴィタリスの言葉に、あちこちから悲鳴が上がる。

 「お可哀そうに」「一生残るような痕を」「なんて酷い」などと小声で囁き合う声が聞こえる。

 

「誰かに言えば王都にいられなくしてやる、とのアシュリー様のお言葉が恐ろしくて……。

 それに、傷物になった身体を知られるのが怖くて、必死で隠して参りましたが、先日ついに家の者に見つかってしまいました。

 見かねた父上から勧めを受けまして、リカルド殿下にご相談させていただいた次第です……」

 

 アシュリーにとっては、何一つ頷くことのできない言い掛かりも甚だしい主張であったが、広間に集まった者──特に貴族の婦女子──の間では、完全にヴィタリスに同情を寄せる空気が漂っていた。

 アシュリーは知っていた。

 ヴィタリスが最近熱心に、特に社交的な性格の娘を狙って親睦を深め、自分の取り巻きを作るように画策していたことを。

 

 今この場においてアシュリーに味方をする者は誰もいなかった。

 彼女の父ですら、王から睨まれ、何も言い返せなくなっている。

 

「……リカルド様! リカルド様、信じてください。全て嘘です。これは濡れ衣です」

 

 彼女が最後に頼ったものは、彼女が長年慕い愛を誓い合ってきた王子であった。

 二人が積み上げてきた誠の愛があれば、このようなでっち上げの猿芝居など、一瞬で霧散するはずだと、そう信じた。

 だが、壇上の王子が返した言葉は、彼女のその信頼を裏切るものであった。

 

「すまない、アシュリー。私から擁護は、できない……」

 

 アシュリーの顔から血の気が引く。

 

(リカルド様……。リカルド様、そんな……。信じられない……)

 

 アシュリーが呆然と見やるリカルドのそばにヴィタリスがサッと駆け寄る。

 

「そんな! リカルド様がすまないなどと……。逆でございます。

 これまでその醜い性根を隠し、王子を騙してお心を奪おうとしたアシュリー様こそ、謝罪すべきなのです」

 

「ちっ、違います。そんな……、わたくしはそんな……!」

 

 アシュリーが必死で声を掛ければ掛けるほど、リカルドは彼女から顔を背けるようにした。

 そんなリカルドに向かってヴィタリスがその豊満な肉体を寄せる。

 自分の身体を盾に、アシュリーの目からリカルドの姿を隠そうとでもするように、ヴィタリスが彼の肩に触れながら大仰に芝居を打つ。

 

「ああ、お可哀そうなリカルド様……。早く誰か、王子を睨みつけるあの毒婦を遠ざけて!」

 

 ヴィタリスが叫ぶと、それに続いて壇上の男が再び高らかに宣言する。

 

「リカルド殿下とアシュリー嬢の婚約は撤回された! アシュリー嬢は密通罪の嫌疑が晴れるまで無期限の謹慎処分とする!」

 

 王宮を揺るがす大事件を受けて広間中が沸いた。

 

 そのどよめきの中、アシュリーの身体がグラリと傾き、前のめりに倒れ込む。

 冷たい石の上に大きな音を立てて倒れ伏した令嬢の姿を見て、周囲の者たちは、ひときわ騒々しい悲鳴や、がなり声を上げ始める。

 

 アシュリーはその喧噪の中、朦朧とした意識で、自分の名を必死で呼ぶリカルド王子の声を聞いた気がした。





ここまでお読みいただきありがとうございます。
感想お寄せいただけると嬉しいです。

お気楽に読める作品を目指して書き始めたのですが、この導入部に関してはちょっと硬いかなあ、こういうところで読み手が脱落するのかなあ、などと危惧しています。
でも、端折るにも、このくらいの説明はいるしなあ……と。
大丈夫でしょうか?

とかく投稿している身としては、上手くできてるところ、駄目なところの判断をする材料がないので、お気軽に感想をいただけると嬉しいです。


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04:リカルド王子の身体でできること?

 本当に、なんて一日なの!?

 次から次に驚くことばかり……。

 

 わたしがあの身のすくむような婚約破棄の場面を思い出して震えていると、大きな音とともに部屋のドアが開かれた。

 顔を上げるとお父様がお医者様を従えて入って来るのが見えた。

 思わず目が合ったお父様が驚いた表情をなさる。

 

「お父様……、き、聞いてください。大変なことが……」

 

 わたしが慌てて駆け寄ると、お父様は二、三歩後ずさり、そして、わたしに向かって恭しく頭を下げた。

 

「誰が、誰のお義父様、ですかな? それを拒んだのは、他ならぬリカルド殿下ではございませんか」

 

 わたしは思わず、アッと声を上げて口に手をやる。

 

 あー、駄目駄目。

 わたしは今リカルド様なのだった。

 それにこんな仕草。

 リカルド様の頭がおかしくなったのだと思われてしまうわ。

 えーと、リカルド様はもっと凛々しく優雅な立ち振る舞いで……。

 

「申し訳ありません。殿下。娘の一大事ですので、どうかご退室を。それに、謹慎中の身の上で王子とお会いするなど許されぬことでございましょう?」

「えっ、と、あの……」

 

 わたしがまごついている間に、後から入ってきた男たちによって、()()()()()()()()()は部屋の外に連れ出されてしまう。

 

 ああ、待って。中には()()()()()()()()()が……。

 って言っても通じないだろうし、どうしよう?

 どうしようどうしようどうしよう?

 

「リカルド様。ご自重ください。お立場がございます」

 

 だ、誰こいつ?

 さっき、部屋の中でわたしのことを毒殺しようと相談してた男かしら?

 

 わたしは寝た振りをしているときに、彼らの顔を盗み見ておかなかったことを後悔した。

 あれが誰だったか分かれば、後でいくらでも訴えてやれたのに。

 

 でも、お立場、という言葉で思いついた。

 今のわたしはリカルド様なんだ。

 リカルド様であれば止められるかもしれない。

 わたしを──アシュリー・ヒーストンを暗殺する企みを。

 

 わたしは追い出されたばかりの部屋のドアを振り返る。

 確か……、お医者の持っている毒薬を、とか言ってたはずだけど、お父様が付いていてくだされば流石にそんな無法は許さないはず。

 

 わたしは覚悟を決めてスタスタと歩き出した。

 

「殿下。どちらに?」

「タッサ王に。……父上にお会いしに行きます」

 

「王でしたら反対の方向ですが? 今は客間におられますので」

「さっ……、そういうことは先に言いなさいよねっ!?」

 

「は、はあ……」

 

 従者らしき男に案内をさせ、わたしはどうにか客間にたどり着く。

 扉を開けてすぐ王の姿を見つけると、わたしはそのまま真っ直ぐ歩いて行って、その前で片膝を立てて身を屈めた。

 

 この格好いいポーズ、実はちょっとやってみたかったのよね。

 

「父上。お願いがございます」

「やはり来たか。だが、今さら覆らぬぞ? 婚約破棄を撤回したいと言うのであろう?」

 

 婚約破棄を撤回?

 そうか、そういう手もあったんだ……。

 いや、駄目よ。

 この場で撤回させても、リカルド様のお心はもうわたしにはないのだから。

 

「この上さらに、アシュリーの命までも奪う必要がありましょうか? それは、あまりに、人としての道を外れております。どうかご再考を!」

 

 お、今の口上は我ながらキマってたんじゃない?

 

 どんな理由があろうとも、タッサ王は人の道に外れた行いをする方ではないはず。

 きっと家臣の誰かが勇み足で命じたに違いないわ。

 こうして直接お耳に入れてしまえば、そのようなことがないように周りを諫めてくれるはず。

 

「命を……? 誰がそのような話を? 客人の前で滅多なことを言うものでない」

 

 客人と聞いて、ここが客間と言って通されたことを思い出す。

 誰かしら?

 

「過激なことを言って王を煙に巻こうという、ご子息の作戦ではありませんかな?」

 

 王とは違う声がする方をみると、そこにいたのはメフィメレス家の家長ルギスだった。

 ヴィタリスの父親。

 他人の親をあまり悪く言うものではないけれど、わたしはこの人があまり好きではなかった。

 いかにも小ズルそうで、上におもねる性格が顔ににじみ出ているように思える。

 

「この耳で聞いたのです。アシュリーを毒殺する企てがあると。二人組でした。その者たちと、それを指示した者を探し出して止めてください」

「いい加減にしないか。駄々をこねるのも大概にしろ」

 

 駄々、って……。

 こっちは自分の命がかかってるっていうのに、この分からず屋め!

 

 片方だけ立てた右脚のふくらはぎがプルプルと震えだす。

 

 あれ? この体勢、結構きついかも。

 このあと、どんなふうにして立ち上がればいいんだっけ?

 

 わたしがそうやって次の手を考えていると、後ろのドアが開いて誰かが部屋に入ってくる音が聞こえた。

 

「おお、ヴィタリス。良いところに来た。リカルド様がお疲れのようだ。部屋にご案内して差し上げなさい」

「まあ、リカルド様。ここにいらしたのですか? お探しいたしましたわ」

 

 ヴィタリスが媚びを売るような気持ち悪い声で近づいてきて、わたしの腕を取った。

 

 あ、まずい。

 ちょっと脚がつりそう。

 ちょっと情けないけど、わたしはヴィタリスに少し身体を預けるようにして立ち上がる。

 

「騒ぎが収まるまで発表はお預けだが、男女の仲は止められぬからな。遠慮せず、今からでも二人存分に親睦を深め合うがよい」

 

 え? え? どういうこと?

 

 言葉の真意を確かめようとして王の方を見たわたしの腕に、柔らかなものが当たる感触。

 見ると、ヴィタリスがわたしの腕をしっかりと抱き込んで、自分の二つの乳房で挟むように押し当てていた。

 

 ちょっとー!?

 なんてはしたないことしてるの貴女!?

 王宮で!

 ひっ、人前で!

 リカルド様を誘惑するつもり?

 

「さあ、お部屋に参りましょう? そこでゆっくり、先日の続きを……」

 

 先日の続き!?

 

 先日二人が何をしたのかも気になったけど、わたしはここまでのやり取りと、リカルド様を取り巻く三人の雰囲気で、おおよそのことを察してしまっていた。

 

 わたしの代わりに、今度はこのヴィタリスが、リカルド様と婚約する手筈なんだわ。

 親同士も公認。というか、そういう政略結婚なんだ。

 わたしとの婚約を破棄したのはそのための一環なのね?

 王とメフィメレス家との間には何らかの利害の一致があって、リカルド様とヴィタリスを結婚させたかった……。

 そのために、わたしのことが邪魔だったんだわ!



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05:ヴィタリスの誘惑

 

 考え事をしている間に、わたしは王から引き離されて部屋の外に連れて出されていた。

 わたしは、なおも揉みしだくように押し付けてくるヴィタリスの大きなお胸を睨みつける。

 

 なによ、自慢してるの?

 大きければいいってもんじゃないでしょうに。

 

 わたし(リカルド様)に向かってフフフ、と余裕しゃくしゃくで笑いかけるヴィタリス。

 

 違う違う。

 勘違いしないでよ?

 今のは見とれてたわけじゃないからね?

 リカルド様はそんな下品な誘惑に動じたりしないわ。

 

「あら……?」

 

 わたしは強引にヴィタリスの腕を振り払い身体を離す。

 

「アシュリーは、貴女からあの寺院のことを聞いて出掛けて行ったはずです。何でそのことを黙ってるの? ……だ、黙っているのだ!?」

 

 痛いところを突かれたはずなのに、それでも彼女の余裕の笑みは崩れなかった。

 

「アシュリー様が話してしまわれたのですか? もうっ、内緒ですよと念を押したのに困ったかたね」

 

 そうだ。内緒にしておかないと御利益がないからと言われて。

 大昔、この地にあった別の国で、命がけで秘密の祈りを捧げた王子の婚約者の話……。そういう伝承だからと。

 それで誰にも本当の行先を告げずに屋敷を出たのよ。

 愚かだった。

 それがあんな嫌疑を生むだなんて。

 

「わたくしはただ、古い寺院にまつわる言い伝えを教えて差し上げただけですよ。まさか、あんな話を本気になさるだなんて……。ああ、そうですわね。お祈りにかこつけて、敵国の人間と密通をなさっていたのですわよね?」

「そんなわけないでしょ!」

 

 びっくり顔のヴィタリス。

 しまった。ちょっと声が大き過ぎた?

 

「どうされましたの? 本当に。事実がどうであろうと関係がないと、ご納得されたと伺っておりましたが?」

 

 そこへ先ほどの客間から、ルギスが顔を出し、娘を呼びつけた。

 思わず激昂してしまったことを気まずく思っていたわたしは、それでヴィタリスとの会話が途切れたことに少しホッとした。

 

 あまりにリカルド様らしくない振る舞いを続けていたら、中身が入れ替わっているのではないか、という疑いを持たれてしまうかもしれない。

 リカルド様のお姿である今のわたしが、本当はアシュリーだということが、もしもバレてしまったらどうなってしまうのだろうと考える。

 考える……。

 えー、分かんない。

 一体どうなるの?

 王子の姿を騙っている時点でよくないことなのは分かるけど、考えるべきことが多すぎて考えがまとまらない。

 不敬罪で捕まる?

 いえ、そもそもこんな不思議なこと、誰も信じるはずがないわ。

 キスをしたせいで身体が入れ替わるだなんて。

 って、そもそもわたしはいつまでこの身体でいるの?

 もしかして、一生このまま……、なんてこと──。

 

「リカルド様」

「は、はいっ!」

 

 考え中に話しかけないで欲しい。

 それも、当たり前のようにリカルド様の手を握って、こんな近くに顔を近づけて声をかけるなんて。

 

「アシュリー様のもとへ参りましょう?」

「えっ?」

 

「お目覚めになられたらしいわ」

「え、嘘?」

 

 アシュリーが目覚めた?

 わたしは、ここにいるのに……。

 わたしがアシュリーなのに?

 じゃあ、わたしの身体にいるのは誰なの?

 誰が目覚めたの?

 

 何が起きているのか気になって仕方のないわたしは、どうして彼女が王子をアシュリーのもとに連れて行こうとするのかも……、ずっと客間にいたはずのルギスが、どうやってアシュリーが目覚めたことを知り得たのかということも……、まったく疑問に思わずに、先ほど自分が寝ていた部屋へと急いで引き返したのだった。



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06:迫るヴィタリスの毒牙! 狙われる王子

 部屋に戻ると、そこにいるはずだったお父様も、お医者様も誰もおらず、部屋は無人になっていた。

 

 ちょっとぉ、駄目じゃないの。

 わたしをこんな無防備に寝かせたりして。

 

 と、お父様に対する文句が浮かんだけど、お父様は知らないのだった。

 自分の娘が命を狙われている、ということを。

 

 いそいそとベッドに駆け寄り天蓋の中に頭を入れる。

 だけど、目を覚ましたと聞かされていたわたしの身体は、さっき部屋を出たときと同じように眠ったままだった。

 

 ……大丈夫。ちゃんと息はしてる。

 そっと口元に手をやり、寝ている自分の呼吸を確認したわたしは、それでようやく胸を撫でおろした。

 

 もしかしたら、アシュリーとして目覚めたリカルド様と対面することになるのでは? などと想像をたくましくしてたのだけれど、とんだ拍子抜けだった。

 

「あら。まだ、お休みでしたか? どうも、情報が誤っていたようですわね」

 

 いけしゃあしゃあと言ってのけるヴィタリスは、部屋のドアに寄りかかって腕組みをしていた。

 

 それは、わたし……いいえ、リカルド様をここから出さないという意思表示かしら?

 それとも、またそうやって豊満な胸をアピールして王子を誘惑しようとしているの?

 

 わたしは反射的にベッドの上で眠る自分の身体に目をやり見比べてしまう。

 

「…………」

 

 ……だ、大丈夫よ。

 これは仰向けで寝ているから起伏が目立たなくなっているだけだわ。

 

 ガチャリと音がした。

 そちらに顔を向けると、開いたドアの隙間に向かってヴィタリスが何やらヒソヒソと言葉を交わしていた。

 何を言っているのかはよく聞こえないけど、どうも部屋の中に入って来ようとする男たちを追い返そうとしているように見える。

 二人組の男の後ろには、チラリと医者の姿も見えた。

 

 ははーん。

 

 わたしはピンときた。

 計画の中止を伝えてるのね。

 わたしを毒殺しようとしてたのはメフィメレス家だったんだわ。

 無実の罪を着せた手前、万一わたしが騒ぎだしたら都合が悪いとか、そういうこと?

 

 どうやらリカルド様の姿を借りてタッサ王の前で直談判した甲斐はあったらしい。

 王子にあんなことを言われた後でアシュリーが死んだら、単なる自殺じゃ片付かないだろうしね。

 ルギスが計画の変更を伝えるために、娘のヴィタリスを遣いにやったんだ。

 

「人払いをしましたから。しばらくここには誰も入ってきませんわ」

 

 男たちを追い返してドアを閉じると、ヴィタリスがわたしに近づいてきた。

 妙に艶めかしく腰をくねらせながら。

 自分の肉体が男性にどのように見えるのか、十分熟知してましてよ、とでも言いたげな、自信にみなぎった表情。

 

 だけど、おあいにく様。

 女のわたしには通じませんよ?

 それに、リカルド様だって、こんな女に騙されたり……するもんですか……。

 

 負けん気を出して、心の中でそう強く念じてみたけど、途中で少し不安になった。

 さっきの客間でヴィタリスが言っていた、先日の続き、という言葉が気になる。

 

 一体、リカルド様に何をしたのよ?

 な、何を、どこまで……!?

 

 自分の頭の中で考えたその妄想のせいでわたしは慌てる。

 先日二人が何をしたのかは、これから行われるその()()とやらでハッキリしてしまうのだと分かった。

 

 すぐ側まで近づいたヴィタリスは、わたしの手を取り自分の胸元へと誘った。

 わたしの、じゃないわ。

 これはリカルド様の手だ。

 

 ……駄目。リカルド様にそんなことしないで!

 

 振り払えばいいだけなのに、そのときのわたしは、そんな簡単なことも頭に浮かばず、心の中でやめてやめてと繰り返すだけ。

 身体を強張らせてヴィタリスのなすがままにされていた。

 

 あれ?

 なんで?

 顔が……、身体が熱い。

 心臓が、バクバク言ってる。

 リカルド様の心臓の音が……。

 わたしじゃなくて、リカルド様の身体が反応してるってこと?

 

「こ、こんなところで……」

 

 リカルド様の手がヴィタリスの胸に触れようとする──その直前、なんとかわたしは喉から声を絞り出した。

 本当は、場所の問題じゃないんだけど……。

 いくら人払いをしたと言っても、ここは多くの人が出入りする王宮の中だ。

 ヴィタリスの常識や良識に訴えて……、いや彼女はそんなもの、持ってないのかもしれないけど、リカルド様がそう言って拒めば、ヴィタリスだって無茶はできないんじゃないの?

 

「フフッ。アシュリー様に見られるかもしれないと思うと興奮しませんか?」

 

 へ、変態だー!

 この人、痴女です!

 

 でも、そうか。

 なんでこんな場所でって思ったけど、わざとやってるのだとしたら合点がいく。

 見つかってもいい、というか、むしろ見つかりたいのかもしれない。

 この人、もしかしたら、今ここでわたし(アシュリー)が目を覚ます状況を狙っているのでは?

 自分とリカルド様の情事をわたしに目撃させて、わたしとリカルド様の仲を引き裂こうと?

 毒殺されるよりは全然マシだけど、なんて卑劣で陰険な!



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07:騎士団長ミハイル様登場

 わたしではなくて、今こうしているのが本物のリカルド様だったらどうしていただろうかと考える。

 きっと毅然とした態度でヴィタリスの手を振り払い、彼女のことを軽蔑すると言い放つ……はず……。

 

 昨日までのわたしだったら、自信を持ってそう言えただろう。

 けど……、この身体に満ちる謎の火照(ほて)りがわたしを不安にさせた。

 女のわたしですら、こうやって言い寄られてドキドキしてしまうのだ。

 男の人であれば、心では拒んでも、身体が言うことを聞いてくれない、ということもありえるのでは?

 ほら、今のわたしが、そんなふうになっているみたいに。

 

 ヴィタリスが妖しく微笑みながら両手でリカルド様の右手首を捧げ持つ。

 彼女に誘われるまま、リカルド様の指先がヴィタリスの大きな胸に触れようとした──そのとき。

 色っぽく(つや)やかに映るヴィタリスの肩越しに、部屋のドアが開け放たれるのが見えた。

 わたしが驚いて目を見開くと、ヴィタリスもドアの方を振り返る。

 ん? 今、舌打ちした?

 

「殿下。ご無事ですか」

 

 男の人の、低く力強い声がわたしの鼓膜を震わせた。

 直接お話ししたことはなかったけれど、このような精悍なお声をされていたのだなと、変なところに頭が働く。

 

 入ってきたのは、王国騎士団長のミハイル様だった。

 大柄なお身体で、艶のある黒髪が特徴的。

 遠くからお見かけしても、そのキリリとした立ち姿だけで、すぐに彼だと分かる存在感、というか、そこにいらっしゃるという華を感じる御方だ。

 まだお若いのに──と言っても、わたしとは十ほどもお歳が離れているけれど──騎士団長にまで上り詰めた実力を有し、かつ上の者からも下の者からも信頼を集める人格者と聞く。

 そのかたが何故今ここに?

 

「殿下。お立場をお考えください。こんな密室で二人きりになるなど。殿下の身に何かあればなんとされます」

 

 ああ、そうか。

 王子だ。王子の身の安全を気遣うのは当然のことだ。

 でも、二人きりってどういうこと?

 この部屋には三人いるわよね?

 あ、でもわたし(の身体のアシュリーの方)は寝てるし、そういうことか。

 ミハイル様は、きっと王子がヴィタリスに誘惑されてその貞操を危うくされていることを危惧しておられるのだわ。

 

「これはこれはミハイル様。どうかご安心ください。わたくしが、ヴィタリスがおります。この女が目覚めても、わたくしがこの身を呈して王子をお守りいたしますのでご安心を」

 

 えっ、そっち?

 わたしがリカルド様と二人きりになるのが危険だと?

 うーん、そう言えば、もともとリカルド様がこの部屋に入ってきたときには、ご自身で二人きりにさせてくれと人払いをされていたし、そのことが伝わってミハイル様が駆け付けてきたのであれば、そういうことになるのか……。

 少なくともヴィタリスは自分に都合良く、そんなふうに解釈したみたい。

 

 でも、十六の小娘が一体全体どうやって王子に危害を加えるって言うのよ?

 わたしをどんな凶悪な人間だと思ってるの? 失礼過ぎない!?

 

 気付くとヴィタリスはわたしの側からさっと離れて、今度はミハイル様の元へすり寄っていた。

 手は……、握ってないみたいだけど、大柄なミハイル様のお顔を下から仰ぎ見るようにするその顔は、媚びへつらうようでもあり、恋する乙女のようでもあり……。

 

 あれ?

 

 なんだか違和感があるわ。

 横から客観的に見ているからそう思うだけかも知れないけど。

 先ほどヴィタリスがリカルド様に見せていた計算づくの妖艶な微笑に比べて、今、彼女がミハイル様に向けている目は……、なんというか……、そう、貴方に恋してますっていう目に見える。

 ちょっと余裕がない感じ。

 

 そう思うと、彼女が今ミハイル様の前で、もじもじと手をもてあそんでいる様子も、なんだか可愛らしく見えてしまう。

 

 いや。

 いやいや、いやいやいや。

 駄目よ、駄目。

 

 ヴィタリス。貴女。仮にもわたしからリカルド様を奪おうとしてるんでしょ?

 本当はミハイル様のことが好きなのに、そんな、あれもこれもだなんて節操なしに、何てアバズレなの?

 毒婦というなら貴女のことよ!

 

「あっ、おい」

 

 あ、手を取った。

 

 ヴィタリスがついにミハイル様の大きな手を取り、蛇のように身体を絡みつかせた。

 ねえ貴女、リカルド様が見てる前よ?

 自覚あるの?

 

「わたくし、以前からミハイル様とお話ししたいと思っておりましたの。でも、周りのかたのガードが固くって……。こんなところではなんですから、向こうへ行ってお話しいたしましょう?」

 

 ヴィタリスが強引に連れ出そうとするのをミハイル様は迷惑顔で見下ろしていた。

 その顔が救いを求めるようにこちらを向く。

 

 いや、わたし(リカルド様)は助かったから、どうぞそのままお願いします。

 どうかその色情魔を引き取ってください、という意思を込めてコクリと頷いてみせた。

 

「わ、分かりました。参りましょうヴィタリス様。私も貴女にはお聞きしたいことがありました」

「まぁ、何でしょう? わたくしに?」

 

 ヴィタリスは見ているこちらが恥ずかしくなるくらい、浮かれた様子でミハイル様と連れ添って部屋の外に向かう。

 リカルド様のことなど、まるっきり忘れてしまったかのようだ。

 

「おい、そこの者。私が戻るまで、この部屋には誰も入れないように。人払いを」

 

 ミハイル様は出掛けに、部屋の外に控えていた者に向かってそうお命じになり去っていった。

 最後に、これは貸しだぞ、と言いたげな目配せをリカルド様に残して。

 

 お二人は昔から気心の知れたご友人であるとリカルド様からお聞きしたことがある。

 ミハイル様はきっと、リカルド様のお気持ちを汲んで、アシュリーと二人きりになれるように取り計らってくれたのだろう。

 

 そうして、再びわたしは、わたし(ベッドで寝たままのわたし)と二人きりで取り残されることになったのだった。



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08:くちづけを……したくなるのも、呪いのせいなのかしら?

 再び自分の身体と二人きりになったわたしは、部屋の中をウロウロと歩き回りながら考える。

 何を考えてるのかって?

 それを考えてるのよ。

 

 わたしは今、大変困った状況に置かれている。

 それは間違いないんだけど、状況があまりに突飛過ぎて、何から考えていけばいいのか全然分からない。

 だから何を考えなければいけないのか、こうやって必死で考えているのだ。

 

 とりあえず、わたしが殺されないようにすることかしら?

 でもその危険はひとまず無くなったわよね。

 ヴィタリスがさっき実行犯と思われる男たちに言い含めていたようだから、当面わたしのことを毒殺しようとはしないはず。

 次に考えるべきは……、婚約破棄を撤回してもらうことかしら?

 それともヴィタリスの……、メフィメレス家の企みを暴くこと?

 

「……いいえ、違う。元に戻ることよ」

 

 わたしははたと足を止め、ベッドの上にいる自分に向き直る。

 

 わたしの身体は今もなお、スヤスヤと寝息を立てていた。

 人の苦労も知らないで、気持ち良さそうに眠りこけちゃって……。

 いや……、この子に当たるのは筋違いか。

 って、この子はわたしなんだった。

 もうっ、混乱しちゃう!

 

 だって、頭では分かっているのに、こうして寝顔を見つめていると、何だか不思議な気分になるのだ。

 わたしではない、別の人間がそこに寝ているよう……。

 

 というか、逆ね。

 今考えているわたしが、アシュリーじゃない別の人間であるように錯覚してしまう。

 

 アシュリーでなければ、わたしは誰?

 リカルド様?

 

 ……そうだったらいいな、とわたしは思う。

 アシュリーの寝顔をジッと見つめていると、この胸は、ドキドキと暖かい気持ちでいっぱいになる。

 この鼓動がリカルド様の高鳴りであるのなら、今もわたしは、リカルド様に愛されているということにならないだろうか?

 

 愛おしい……。

 自分の顔を見ながらこんなことを思うって絶対に変。

 これじゃあ、まるでわたしが痛いナルシストみたいじゃない。

 

 気が付くと、わたしは寝ているわたしに向かって顔を近づけていた。

 リカルド様があの時そうしていたように、枕元に腕を置き、覆いかぶさるように……。

 

 ちょっといかがわしい気持ちになる。

 これは自分なのに。

 

 呪いだ……。

 そうよ、呪いを解くためよ。

 試してみなくちゃ。

 キスで入れ替わってしまったのだとすれば、きっと、もう一度こうすれば……。

 

 そうやって自分に言い訳をしながらも、心の奥底、身体の芯の部分では、目の前に横たわる無垢な唇に口づけすることを熱く欲していた。

 ただ純粋に……、この小さな唇にキス……したい……。

 

「……!」

 

 それは一瞬の出来事だった。

 再びグラリと身体の向きが裏返るような感覚があった。

 でも、今回は倒れ込むことはなかった。

 だって、()()()は最初からフカフカのベッドの上で仰向けに寝ていたのだから。

 

 その代わり、重いものに圧し掛かられる感触があった。

 ぴったりと閉じた口元に熱い体温を感じる。

 そして我に返る。

 これは……、この感触は、リカルド様の唇だ!

 

「ん、んんー!」

 

 口が閉じられているせいで呼吸ができない。

 そんなわけではなかった。

 リカルド様とキスをしているのだと分かって、自分自身で息を詰めて堪えているだけ。

 鼻息を、リカルド様の顔に吹きかけてしまうことを恐れて。

 

「だ、駄目ですっ!」

 

 二人の間に腕を挿し入れ、全身の力を込めて、わたしは自分の上に圧し掛かっていたリカルド様の身体を持ち上げる。

 

 お、重い……。

 女のわたしにこれだけ無遠慮に体重を預けるなんて、リカルド様のなさることではない。

 リカルド様は意識をなくされているのだ。

 

 なんとかリカルド様の身体をベッドの横に追いやって、ようやくわたしは身体の自由を得た。

 クゥクゥと寝息を立てるリカルド様の寝顔を見て、わたしは顔を赤らめる。

 

 駄目です……、だなんて……、なんて図々しい。

 そうしたのはわたし自身なのに。

 自作自演……、独り相撲もいいところだ。

 自分で自分を襲っておいて、その言い草はないでしょ、アシュリー?

 

 そこへ、トントントンと忙しなく外から部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。

 返事をする間もなく、そのドアが開かれる。

 入って来たのはお父様だった。

 

「なっ……!」

 

 と、こちらを見て絶句する。

 わたしもその反応に驚いて、改めて自分の身が置かれた状況を眺めてみた。

 ベッドの上で上体を起こしたわたしのすぐ脇では、リカルド様が顔を埋めて倒れている。

 片方の腕は今もわたしの身体の上にあって、見方によっては、わたしに覆いかぶさっているようにも見える。

 

「違います! お父様、これは何も、やましいことは……」

 

 とそこまで言って、自らのやましさを自覚する。

 こともあろうにわたしはリカルド様の身体をいいように操り、わたし自身にキスをさせたのだ。

 

 客観的に考えて、伯爵家の令嬢としてこれほど慎みのない振る舞いはないように思われた(最初になさったのはリカルド様の方ではあるけれど)。

 お父様に、そんなはしたないことをする娘だとは思われたくない。

 

 だが、周囲の者たちは、そのような浅はかな……というか、乙女チックな勘繰りをしている場合ではなかったらしい。

 

「王子! どうされました、王子!?」

 

 お父様の後方から現れた警備の兵士たちが駆け寄って王子の身体を助け起こす。

 先ほどまでピンピンしていた王子が、僅かの間に昏倒して突っ伏していることに、周囲の者が慌てないわけがないのだった。

 

 えっ、この状況……、マズいのでは……!?

 まさか、わたしが王子に何かしたのだと、思われたりしないよね?

 一瞬、わたしのことを危険人物呼ばわりしたヴィタリスの言葉が頭をよぎってゾッとする。

 

「何があったのだ? アシュリー?」

 

 心配そうに娘に問いかけるお父様に向かってわたしが返せる言葉はない。

 実はさっきまでリカルド様と身体が入れ替わっていまして……、なんて言えるわけがないし、言ったところで信じてもらえるわけがない。

 

「わ、わたしにも、何がなんだか……」

 

 そう言うのがやっとだった。

 兵士に身体を激しく揺すられたリカルド様がそこで意識を取り戻す。

 ううーん、とうなりながら手で額を押さえて。

 

 良かった。ご無事だった。

 

 さきほどのわたしの身体がそうであったように、今度はリカルド様が目覚めなくなってしまったのではと恐れたけれど、その心配は杞憂だったようだ。

 

 リカルド様は床に座り込んだままパチパチと目を瞬かせる。

 しばらく状況を飲み込めないようだったけど、不意にベッドの上のわたしに気付くと、急に顔を赤くして立ち上がった。

 ご自分の口に指を当て、わたしの顔色を窺うようになさった。

 そして、その様子を呆然と見守るわたしや、他の者たちを置いて、リカルド様はそのままクルリと向きを変えて部屋を出て行ってしまう。

 

 ええっ!?

 まさかこれでお別れなの?

 せめて何か一言……、一言でも何か、言い残して行ってください、リカルド様ぁ……。

 

 お父様から身体のことを心配され、受け答えをしながらも、わたしは心の中でリカルド様に向かって恨みがましくそう叫ぶのだった。

 



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09:お嬢様のお戯れ

 王宮では信じられないような出来事がいろいろあったけど、その割に、わたしを取り巻く状況にはほとんど影響がなかった。

 それは、皆の前でリカルド様から婚約破棄を言い渡され、さらには敵国との密通の疑いが晴れるまで謹慎を言い渡された境遇に、何も変化はない、という意味でだけど。

 

 王宮で倒れたこともあって、屋敷に帰るとお父様はわたしを自室に押し込め、一歩も外に出そうとしなかった。

 わたしはベッドの中でふさぎ込み、この身の不遇を嘆いてみたけれど、丸二日もすると薄幸のヒロインの身に浸ることにも飽きてしまう。

 

 思い返して冷静に考えるほどに怒りが湧き、このまま引き下がることが耐えられなくなってきていた。

 わたし自身がどうなりたいというよりも、あのヴィタリスだ。

 本心では騎士団長のミハイル様の方を慕っておきながら、リカルド様に色目を使うなんて許せない。

 そんなの、リカルド様があまりにお可哀そうだわ。

 なんとかして、ヴィタリス……というかメフィメレス家の悪だくみの証拠をつかんで、二人が結ばれるのを邪魔してやれないだろうか。

 

 でも、そこから先を考えると、今のわたしではどうすることもできない境遇を思い知るのだった。

 もともとからして、わたしはただの十六の小娘だ。

 リカルド王子に見初めてもらえたからこそ、ある程度自由に王宮への出入りも許されていたが、そうでなければ伯爵家の令嬢に過ぎないわたしが、あちこちに出歩いて探りを入れることなどできはしない。

 ましてや、今は謹慎中の身だ。

 王宮はおろか、この屋敷の外にすら出してはもらえないだろう。

 

 すべてお父様にお話して頼る──そのことも考えないではないけれど、謁見の間でのお父様がわたしに見せた悲しげな表情を、わたしは忘れることができなかった。

 

 わたしが敵国と密通したという嫌疑。

 それは明らかに取って付けた言い掛かりだったけど、あの場であれ以上不服を申し立てていれば、嫌疑はわたしだけでなく、このヒーストン家にも及んだはず。

 タッサ王からそういう脅し付けを受けて、お父様は引き下がるしかなかったのだ。

 

「お嬢様? 少しはお召し上がりください」

 

 朝からテーブルの上に置きっぱなしになっている食事を見て、メイドのリゼが言った。

 わたしは目をこすりながら、今日初めてベッドから降り、床に足を付けた。

 

「あら、まあ。まだお顔も洗っておいでではなかったのですか?」

「身支度を整えたって、どうせどこにも行けないのでしょう?」

 

 私は汲み置きの水で顔を洗い、タオルで拭いて水気を払う。

 

「いけません。お嬢様。この国一と謳われる美貌が台無しでございますよ? いつ如何なるときも来客があるか分からないのですから」

「謹慎中の伯爵令嬢のところになんて、誰も来ないわよ」

 

 そう言いながら私はリゼの立ち姿を眺めた。

 この子はいつ如何なるときも身綺麗にしているな、と思う。

 メイドが清潔であることは主人にとっても望ましいことではあるけれど、このリゼというメイドは、使用人の格好をしていても妙に華があるように見える。

 お父様もその見た目を気に入ってか、他家への手紙を出す際に、好んでこの娘を遣いに出している節があった。

 王子以外の人とほとんど繋がりのない世間知らずのわたしなどより、よほどあちこちに顔が利くのではないかと思う。

 歳は確か、わたしよりも四つか五つばかり上のはず。

 

「……リゼ。ちょっとこっちにいらっしゃい」

「はぁ……。何でございましょう?」

 

 特にそういう確信があってしたことではなかった。

 ただ、狭い部屋にずっと閉じ込められて、暇を持て余して、他にすることもなかったから……、ものは試しにというぐらいの思い付きだった。

 

「いい? これからわたしがすることは、絶対誰にもしゃべっちゃ駄目よ?」

「お嬢様……?」

 

 私は立ち上がり、両腕をリゼの肩に置いて、そしてそのまま首の後ろに絡めた。

 スゥっと息を肺に溜め、顔を傾け、リゼに口寄せする。

 以前のわたしなら、絶対にしないような戯れだけれど、もう初めてのキスはリカルド様に捧げたのだから、という気安さも手伝った。

 

 唇を重ね合わせてしばらく……。

 リゼの唇からは何やら甘い味がした。

 リゼったら、また隠れて家のお茶菓子を食べていたのかしら?

 

 そんな思いを巡らせるほどの時間があったのに、わたしたちの間には何も起きなかった。

 

 やっぱり駄目だったかぁ……。

 

 あの呪い──鏡の中の悪魔がわたしにかけた呪いとやらは、あのときの一度限りのものだったのかと、安堵とも落胆とも付かない曖昧な思いで唇を離した。

 二人の唇の間に、少し、糸が引いて落ちた。

 それを見て急に自分がしたことが恥ずかしくなる。

 それに、不埒な遊びにリゼを巻き込んでしまった、という後ろ暗さも。

 

「アシュリー様……」

 

 すぐに謝ろうとしたわたしの口が、リゼの唇によって再びふさがれる。

 

 えっ!?

 え、ちょっと……!?

 なしなし。今のなし!

 何か、勘違いしてない?

 

 わたしの身体をしっかりと捕らえて抱擁していたリゼの腕が、急にダラリと下がった。

 

 いや違う。

 ダラリと脱力し、肩から滑り落ちたのは、()()()の腕だ。

 

 ()()()は急に力をなくしたようになり、ベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。

 ()()()が、それを見下ろしている。

 たった今わたしの肩から滑り落ちた、わたし(アシュリー)のだらしない姿を。

 

 わたしは……、リゼになっていた。

 



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10:メイドのリゼにできること?

 心臓が凄くドキドキしていた。

 身体が他人と入れ替わるのは二度目の経験だ。

 それに、もしかしたらこうなるのでは、という予想もしていたのに、やはり興奮せざるを得ない。

 

 あー、でも、ちょっと待ってよ?

 違うかも。

 これって、このドキドキって、リゼのものなのでは?

 入れ替わった直後に、これだけドキドキしてるなんて、入れ替わる前からリゼがこれだけ興奮してたってことにならないかしら?

 

 リゼがわたしに向かって見せていた潤んだ瞳を思い出す。

 

 わたし、マズいことしちゃった……っていうか、マズいこと知っちゃった?

 

 いきなり同性の、年下の雇い主から口づけを迫られるなんて、誰だって驚くだろうから心臓がこれだけバクバク鳴っててもおかしくはないんだろうけど、この感覚……。

 この後ろめたいような、切なく感じられる感覚は何なんだろう?

 全身が火照ったように熱く痺れている。

 

 これはわたし自身が感じている感情なの?

 それともリゼの肉体に宿った感情を拾い上げているもの?

 感情が混沌とし過ぎていてよく分からない。

 

 おっ、落ち着こう……。

 一旦、落ち着くのよ……。

 

 リゼのわたしは一旦、ベッドの上にだらしなく横たわるアシュリーのわたしから視線を外して部屋の中を歩き回った。

 

 そうだ。今日はまだご飯を食べてなかった。

 頭を働かせるために何かお腹に入れよう。

 そう思ってテーブルの上に載せられた食事に手を付ける。

 完全に冷めきったハムエッグを二口まで喉に入れたところで全くお腹がすいていないことに気が付く。

 むしろ、ちょっと食べ過ぎで苦しいくらいだった。

 

 水を飲んで喉にあったものをどうにか奥に流し込む。

 まあ、でも少し冷静になってきた。

 

 整理しよう。

 わたしに掛かった呪いはまだしっかり残っていた。

 最初に入れ替わらなかったのは、もしかすると、自分の方からするキスじゃ駄目だってことかしら?

 リカルド様と入れ替わったときもそうだったし、きっと、相手の方からキスされないと呪いは発動しないんだわ。

 

 王宮のときとは違い、ここは慣れ親しんだ自分の部屋だ。

 一人きりで落ち着いて考えられたことで自分の身に起きていることを冷静に考えられるようになってきた。

 呪われてるなんて、本来はなんら喜ばしいことではないけれど……、これは、使えるわ。

 

 わたしことアシュリー・ヒーストンは、謹慎が解けるまで外出できないけど、こうやって他人の身体を借りれば自由に動き回ることができる。

 他の人は入れ替わったわたしのことをアシュリーとは思わないはずだ。

 前回、タッサ王やヴィタリスがリカルド王子相手に話して聞かせたように、アシュリー相手には話してくれないような秘密だって簡単に聞き出せるかもしれない。

 

 よし。

 

 早速外へ……。

 と思ったが気になることがあった。

 わたしを、このまま寝かせておいて大丈夫かしら。

 

 もう一度ベッドの方を振り返ると、アシュリーのわたしはさっき目を離したときと同じように、仰向けで、手を半端に万歳したように曲げてグースカ寝ていた。

 この二日間、もう嫌というほど寝ているのに、一体どれだけ眠れば気が済むのだろうか。

 

 前回、自分が目覚めたと聞かされたとき、かなり焦ったことを思い出す。

 あのときはヴィタリスが嘘をついていて、実際は起きたわたしと鉢合わせることはなかったのだけれど、この状態のわたしが目覚めたらどうなるかは確かめておかなければならないと思う。

 そう思ってわたしは、寝ているわたしの身体に恐る恐る触れた。

 

 やっぱり、不思議な感覚。

 大きなお人形遊びをしているような気分になる。

 

 えーと、まず、お行儀悪く放り出されている腕を直して……と。

 

「お、起きてください……? アシュリーお嬢様?」

 

 なんちゃって。

 

 そうやって肩を軽く揺すりながら声をかけても、わたしの身体は全く起きる気配がなかった。

 次に、思い切って強めに揺さぶってみる。

 

 ……駄目か。

 ……いや。起きるかな、じゃなくて無理矢理にでも起こさなくちゃ。

 

 入れ替わっているのだとしたら、リゼが目を覚ましたときに驚いて騒ぎ出さないように言い含めておかないと。

 

 わたしは寝ているわたしの頬っぺを両手でつねってみた。

 結構強く。

 びよーんと横に伸ばしてみる。

 が、わたしは起きない。

 痛そうに赤くなったわたしの頬を今度は優しく撫でてやる。

 スベスベで柔らかな肌の感触に、自分の顔がうっとりとしていることに気付き、ブルブルと首を振る。

 

 だから、わたしは自己陶酔者(ナルシスト)じゃないんだってば!

 

 ……よ、よし。

 最終手段よ。

 

 そう覚悟して、今度はわたしの閉じている(まぶた)にそっと指を添えた。

 そのままゆっくりと上に持ち上げる。

 

 起きなさい……! わたしぃ……!

 

 指でこじ開けられ、パッチリと開いたわたしの瞳はドロリと濁った色をしていた。

 確かに目は開いているのに、こちらを見ていない感じ。

 意識が宿っているような光が感じられない……。

 

 わたしは少しガッカリした気持ちで、瞼から指を離す。

 これだけやっても起きないということは、きっと普通の方法では起きないんだ。

 普通の眠りではない。

 呪いの影響で起きられなくされているのか。

 もしかしたら、互いに入れ替わっているのではなくて、わたしの魂だけが抜け出て、他人の身体に()りついているような状態なのかも。

 

 よし。それならそれで好都合よ。

 

 私は気を取り直し、気合万全で部屋を後にした。



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11:こちらリゼ。お嬢様、潜入は……失敗です

 リゼになったわたしは、こっそり屋敷を抜け出して一路王宮へと向かった。

 幸い王宮は頑張れば歩いて通える程度の距離にあったし、リゼはこれまでも、ヒーストン家のお遣いで王宮を訪れる機会がよくあったので、メイドの身分でも出入りは可能なはずだった。

 

「駄目だ。ヒーストン家の者は中に入れるなとのお達しだ」

 

 他の多くの者が出入りしている通用門の前でわたしは思いがけず足止めを食らった。

 

「何故です? 謹慎はアシュリー様だけのはず」

「殿下のお心をお騒がせするなということだ。リカルド殿下以外のかたへの手紙であればここで預かるぞ?」

 

 門番がそう言って手を差し出すが、わたしは手元の封書を見つめてから、そっとそれをしまった。

 わたしが自分で書いて持参した手紙はリカルド様に当てた手紙だったからだ。

 

 困ったわ。

 手紙は王宮に入るための理由付けで、本当の目的はメフィメレス家の企みの証拠をつかむために中で動き回ることだったんだけど、その計画が狂ってしまう。

 正直言って、入口で止められると、それだけでもう為すすべがなかった。

 

 門番の前から離れ、どうしたものかと王宮の高い塀の前で悶々としているところへ通りがかりの人影から声を掛けられた。

 

「あら、リゼじゃない。どうしたの?」

 

 あら。リゼもこの子と知り合いだったの?

 

 王宮で下働きをしているこのヨナとはわたしも顔見知り。

 王宮内でリカルド様を待つ間、時々おしゃべりをする仲だったけど、まさか共通の知り合いだったなんて。

 意外な繋がりに驚きつつも、他に相談するあてのなかったわたしはヨナに事情を打ち明けた。

 

「任せてよ。その手紙、私がリカルド殿下に届けてあげる」

「いいの?」

 

 もしも手紙を仲介したことがバレたら、ヨナが罰を受けることになるかもしれないのに。

 

「私、あのヴィタリスって女、大嫌いなの。リカルド殿下にはアシュリー様の方がお似合いよ。断然、応援しちゃうわ」

「え、知ってるの? ヴィタリスのこと。その……、リカルド様と……」

 

「当然! 私たちのネットワークを舐めないで欲しいわね。王宮内の出来事なら、何だって。私たちが知らないことなんてないんだから」

「じゃ、じゃあ……」

 

 メフィメレス家のことで、何か知ってることはないかしら?

 そう尋ねようとして口を開いたわたしの言葉がそこで途切れる。

 ヨナの背後から、こちらに近づく大きな人影があったのだ。

 

「あっ、申し訳ありません。ミハイル様」

 

 後ろを振り返ったヨナは、騎士団長の姿を視界に入れるなり頭を下げて、あっという間に駆けて行ってしまった。

 

 あ、あれ? 手紙は!?

 リカルド様に渡してくれるんじゃなかったの!?

 

 そう声を掛ける暇もなかった。

 先ほどまで彼女がいた場所に、ミハイル様がずいと割り込んで、間を遮ってしまったからだ。

 

 あれぇ?

 これって、わたし(リゼ)に用がある感じ、かしら?

 

 無言で立ち尽くすミハイル様のお姿は、何でもないのにヨナが謝って逃げ出してしまうのも頷ける威圧感があった。

 

 わたしだって、できることなら今すぐ逃げ出したいぃ……!

 

「ヒーストン家の者だと聞いたが?」

 

 低く落ち着いた声。

 わたしはアゴを高く持ち上げて彼の顔を見つめた。

 

「はい……。リゼと申します……」

「では、リゼ。何をしにここに参った?」

 

 ひぃっ。なんか怒ってない?

 

「えっと……、あの……」

「なんだ? やましいことがあるのか? そうでないなら堂々としろ」

 

 やましい?

 いや、謹慎中の身を偽って出歩いているというのは十分やましいことだけど、それを正直に言うわけにはいかないし……。

 

 わたしがどう答えたものか分からずモジモジとしていると、ミハイル様はため息をついて、頭を掻きながら、あらぬ方向に顔をそむけた。

 

「どうもいかんな。俺が話しかけると皆を怖がらせてしまうようだ」

 

 そう言うミハイル様のお顔を、わたしはこっそり下方から覗き見るようにして観察する。

 

 わたしの知るミハイル様はもっとずっと厳めしい印象だった。

 王宮でお見かけしたことがあるとは言っても、いつも決まって遠くの方にいらして、他の団員のかたたちを厳しく指導していらっしゃる姿ぐらいしか知らない。

 このように間近でお話しするのは始めてのことだった。

 見下ろすようにされるのは正直怖かったけど、そうやって困ったような表情を浮かべるミハイル様の様子は、少し意外で、少し親しみが感じられた。

 

 こんな人通りのある往来でミハイル様を困らせてはいけない。

 どうやったらお助けできるだろうかと考える……。

 

 わたしはピンと背筋を張って一歩後ずさり、ミハイル様を正面に見据えて言った。

 

「失礼いたしました、ミハイル様。ですが、さらに失礼を承知で申し上げます。

 その……、あまり近くにお立ちになられますと、背の低い女性は萎縮してしまいます。このように、見上げずに済む距離でお話しいただければ、逃げ出す女性もいなくなるかと……」

 

 ミハイル様は少し驚いた表情になったあと、口角を上げ目尻にしわを作った。

 

「なるほど。それは済まなかった。今後はその助言、存分に役立てるとしよう」

 

 お怒りを買わなくて良かったと、わたしはほっと胸を撫で下ろす。

 そして、初めて見るミハイル様の笑顔にしばし見惚れてしまった。

 常に険しいお顔をされて、厳格なお方だという印象しかなかったけれど、根はお優しいかたなのかもしれない。

 

「それで?」

「あ、はい……」

 

 リゼであるわたしは、自分の主人であるアシュリーから託されたリカルド様への手紙があることを告げた──。

 

 

「なるほど。ならばその手紙、私から殿下にお渡ししよう。と、言ってやりたいところだが……」

「では、やはり……」

 

「うむ。王直々の下達がされている。ヒーストン家の者と王子との接触を絶つように、とのことだ」

「そんな……」

 

「私も厳しすぎると思う。特に殿下とアシュリー様の仲を知っている者たちからすればな」

「…………」

 

 そこまで徹底されているなんて。

 それがどのような理由かは分からないけど、国王様やこの国にとっては、あのヴィタリスのメフィメレス家と婚姻を結ぶことの方が国益に適うのだわ。

 やはりただの伯爵家の血筋に過ぎないわたしは、リカルド様とは釣り合っていなかったのだ。

 仕方がない。もう諦めて身を引こう。

 

 そう思って屋敷に帰ろうと身を翻しかけたそのとき、ミハイル様がわたしを引き留めた。

 

「待て、リゼ。君をヒーストン家の者だと聞いて引き留めたのだ」

「なんで……ございましょう?」

 

「私とアシュリー嬢との引き合わせを頼みたい」

「わたしと?」

 

 引き合わせるも何も、今お話ししているではありませんか。

 と思ったけど、わたしは今、アシュリーではなくリゼなのだった。

 どうもわたしの名前が出るとそのことを忘れてしまう。

 

 あ、ほら、不味い。

 ミハイル様が困った顔をしているわ。

 

「あ、失礼しました。わたしの主人とですか、と言いたかったのです」

「う、うん。そうだ。直接会ってお尋ねしたいことがある」

 

「それならば、直接当家をご訪問いただけばよろしいのでは? あ、そうか。私がその言伝をお父さ……、旦那様にお伝えすれば良いのですね」

「いや、アシュリー嬢は謹慎中の身だ。正面からお願いしても会ってはもらえぬだろう」

 

「内密に、ということでございますか……」

「できるか?」



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12:ミハイル様のご訪問

 できますとも。さあさ、どうぞどうぞ。

 と言って気安く招き入れられるほど、簡単な仕事ではなかったけれど、手詰まりだったわたしには、その申し出を断る選択肢はなかった。

 

 王国騎士団が味方となってくれるなら、またとない援軍じゃない?

 善は急げと、わたしはミハイル様と一緒に屋敷へと取って返し、使用人用の出入口からこっそりとミハイル様を屋敷の中にお通しした。

 

 自分でお客様を案内したことなどなかったので、自分の部屋の前まで来たところではたと立ち止まる。

 もしや、普通は客間の方にお通しすべきものなのでは?

 

 だが、そんなふうに迷っているうちに、廊下の先、その客間の方向から、お父様と誰か別の人の話し声が聞こえてきた。

 しかも話し声はこちらの方へと近づいてくる。

 

 ヤバイヤバイ。

 

 わたしは急いでドアを開け、ミハイル様を中へと招き入れた。

 そっとドアを閉じて内鍵を掛ける。

 振り返って部屋の奥へ行こうとすると、そこで立ち止まっていたミハイル様の背中にぶつかってしまう。

 

「あ、すみませ」

 

 ん?

 わたしにぶつかられたというのにミハイル様の反応がない。

 全く動かないドッシリとしたお背中は、大きな壁か柱のよう……。

 

 横から回り込んで見上げると、そこには険しい表情で固まったミハイル様のお顔があった。

 これまた見たこともない表情。

 固い表情の中には、驚き、とか、困惑、といった感情も含まれているのが読み取れた。

 

 一体何をそんなに驚いているのだろう、とミハイル様が見ている視線の先を追いかけると、そこにはベッドの上で無防備に寝転ぶわたし──アシュリーの姿があった。

 

「リゼ殿……、ここは、アシュリー様のご寝所ではないのか?」

 

 見開いた目と視線はそのままに、ミハイル様がようやく声を絞り出す。

 

 そうでございますとも、寝所です。

 気付いたなら見ないでー!

 

「も、申し訳ありません。うっかりしました。少し外へ……、いえ、ちょっと後ろを向いていていただけますか?」

「あ、ああ、すまん……」

 

 わたしは慌ててミハイル様の身体を回れ右させるように押しやって、入口のドアと向い合わせた。

 

「慌てていて頭が回らなかったのです。忘れてください。今、整えますので」

「お休み中ではないのか? アシュリー様は」

 

「い、いい、今、今起こします!」

 

 最悪だー。

 騎士団長様にわたしのこんなだらしない姿を見られてしまうなんて。

 それに、真昼間から寝惚けている自堕落な女だと思われてしまったに違いない。

 一生の不覚!

 

 こんなことなら、自分の身なりをしっかり整えてから外出するのだった。

 謹慎中の自分に来客などあり得ないと言い、リゼの小言を相手にしなかった過去の自分を引っ叩いてやりたい。

 なんとか自分の身体を持ち上げて、一応ベッドの上に寝かせ直してはいたけれど、せめて……、せめて上にシーツぐらいは掛けておくのだったわ……!

 

 とにもかくにも元に戻らなくちゃ。

 わたしは何知らぬ顔で寝こけている自分の顔を覗き込む。

 

 えっとお?

 このまま元に戻って大丈夫かしら?

 

 チラリと入口に向かって立つミハイル様の後ろ姿を見る。

 大丈夫。チャッとやってチャッと戻ればきっと気付かれないはず。

 

 前回のリカルド様のときと同じなら、リゼも一旦意識を失って倒れ込むはずだけど……。

 

「やはり出直そう。アシュリー様も気まずい思いをされるに違いない」

 

 ミハイル様の落ち着かないご様子の声が、ドアで反響してわたしの耳に届いた。

 

「いいえ! 今すぐ参りますので。そこにいてください。あと、絶対こちらを見ないで!」

 

 リゼのわたしは、寝ているわたしの身体を跨ぐようにしてベッドの上に飛び乗った。

 真上から、真正面に見る自分の寝顔。

 

 うわー。やっぱりなんだか、いかがわしい気持ちになるわ。

 こんな無防備な自分を襲うなんて。

 

 でも、ゆっくりなんてしていられない。

 意を決し、リゼのわたしはアシュリーのわたしの顔を両手で支え、その唇を奪った。

 

「!」

 

 上からぐらりと倒れ込んでくるリゼの身体をとっさに受け止める。

 そのままそれを横にうっちゃって横に寝かせる。

 我ながらナイスな反射神経。

 わたし(アシュリー)に戻ったわたしは、手の甲で唇を拭いながらベッドを抜け出した。

 

 鏡を見て髪を整え、部屋の中央に置かれたテーブルへ。

 

 その上に置かれたままの朝食──かじり掛けのハムエッグを見てギョッとする。

 わたしは、それをトレーごと鏡面台の方に運んで片付けた(見えなくした)

 椅子に掛かっていたカーディガンを申し訳程度に羽織って座る。

 

「よろしいです。ミハイル様」

 

 全然よろしくはなかったけど仕方がない。

 後ろから声を掛けられ、おそるおそる振り向くミハイル様。

 椅子に腰掛けたわたしの姿に気がつくと、再び驚きの表情を浮かべた。

 その視線がベッドの上と、こちらとを行き来する。

 

「……リゼ殿は、どうされたのですか?」

「え、ええ。少し疲れたようなので休ませました」

 

 我ながら自分の作った笑顔がひきつっているのが分かる。

 

「アシュリー様のご寝台のようですが?」

「ええ。仲がいいの、わたしたち」

 

 分かってる。無理筋なのは。

 けど、ここは無理矢理にでも押し徹すしかないのよ。

 

 わたしは自分にできる最高の笑顔を作って身振りで促す。

 ミハイル様はさかんに頭をかきながら、それでもやむなくといった体で近づいてきて、テーブルを挟み、わたしと対面する椅子に腰を下ろした。

 

 緊張して頭を触るのはミハイル様の癖なのかしら、とわたしは思う。

 黒く(つや)やかな御髪(おぐし)が乱れてしまっているわ。

 

 そうやって落ち着かなげにするミハイル様のご様子を見ていると、わたしの方はなんだか逆に落ち着いてきた。

 どう考えても狼狽えるべきはわたしの方なんだけど、こういうときは呑んで掛かった者勝ちよ。

 

「あの……、申し訳ございません、アシュリー様。お休み中のところ、突然押し掛けまして。えぇ……、お初に、お目にかかります」

「初めましてミハイル様。でも、宮中でお姿はよくお見かけしておりましたわ」

 

 はっきりと目が合うと、ミハイル様の方が先に目を逸らした。

 よし、勝ったわ。

 

 わたしは物心ついた頃からずっと、鏡の前で繰り返してきた令嬢スマイルの練習の成果に感謝した。

 

「そ、そうでしたか。それは、挨拶もなく、失礼を……」

 

 ミハイル様は視線を所在なく彷徨わせながらも、どうにか自分が取るべき体裁を見出し、気持ちを落ち着けつつあるようだった。

 実際はアポイントもなく、突然若い女性の寝所に押しかけ、しかもその寝起きの女性と二人きりで対面する、という非常識のオンパレードともいうべき状況なのだけど。

 当のわたしがその無作法を指摘しないのだから、問題はない、はずよね……?

 

「ヴィタリスの……、メフィメレス家のことでございましょう?」

 

 わたしがそう言うと、ミハイル様の顔が一瞬で引き締まり、わたしの顔を正面から見据えた。

 

「事情を察していただき助かります」

「単刀直入に参りましょう。騎士団はどちらの味方なのですか?」

 



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13:メフィメレス家の立ち位置

 実は、そのことについては確かめるまでもないと思っていた。

 国防の要である騎士団が、先日謁見の間で糾弾されたわたしの嫌疑を真であると考えているのなら、こうやって非公式での面会などせず、堂々と取り調べをすれば良いだけなのだから。

 

 王宮のただの下働きであるヨナですら知っていたように、あれはメフィメレス家のヴィタリスを、リカルド殿下の妃に据えるための策謀であることは傍目にも明らかだ。

 問題は、おそらく王が決めたその仕儀に逆らうだけの義があるかどうか。

 本当にその婚姻が国や王家を強くし、役立つものであるのなら、わたしに味方する者は誰もいないだろう。

 その場合、わたしはただ表舞台から去る以外にない。

 

 ヴィタリスが、あの日、リカルド様に言っていた言葉を思い出す。

 敵国との密通やヴィタリスへの暴行が、事実であったかどうかなど、関係がないのだ。

 

「そもそもメフィメレス家の亡命が成ったのは、かの一族が持つ強力な魔法の知識があってのことなのです──」

 

 政治に疎いわたしにも分かるように、ミハイル様は優しくかみ砕いて説明してくれた。

 

 話は、今から二年ほど前、このオリスルト王国と隣国アダナス帝国との間で大きな武力衝突が起きた頃に遡る。

 そのときのことはわたしもよく憶えている。

 オリスルトが歴史的な大敗北を喫したという報せに、当時のわたしたちは、この国が攻め滅ぼされるのではないかと怯えたものだが、意外にもアダナスがそれ以上攻め寄せることはなかった。

 オリスルトは多くの兵を失いはしたものの、僅かな領土を失ったのみで、その後両国は現在の小康状態へと至っていた。

 

 結果はさておき、問題は敗北の原因だ。

 オリスルト軍を壊滅の憂き目に遭わせたのは、従来よりも格段に強力な攻撃魔法を行使してみせたアダナス帝国の魔法士部隊だった。

 その強力な部隊への対抗策なくしては、次に大きな会戦となったときにも敗北は必至。

 そして、メフィメレス家が自分たちの亡命と引き換えにしてこの国にもたらしたのが、そのアダナスの魔法士部隊の強化を可能にした秘術、ということだった。

 

「メフィメレス家はその秘術を編み出した功労者でありながら、帝国内での政争に破れ、敵国であるオリスルトを頼って亡命したという触れ込みでした。ですが我々は……、いえ、私はその真偽を疑っております」

 

 ミハイル様がそこで言い淀んだのは、そういった疑いを持っているのが、ミハイル様個人でしかないからだった。

 騎士団は王のものであり、王の命令をもって動く武力機関に過ぎない。

 王の命令がなければ何事かを捜査したり、ましてや、個別の意思をもって王に意見したりすることなどありえないことだった。

 

 騎士団を指揮するミハイル様がどれだけ有能でも、他にいくらでもすげ替えが利くわけで、すでにタッサ王からの信の厚いメフィメレス家を糾弾・排斥するためには、彼らが王国に害をなす者であるという、言い逃れのできない確実な証拠をつかむ以外にない。

 

 そんな折に起きたのが今回の婚約破棄騒ぎだった。

 

 メフィメレス家から魔法強化の秘術に関する核心の技術供与はまだなされていない。

 事情を知る者たちの間では、メフィメレス家にとっても、それが一族の生命線であることから、技術供与と引き換えに家同士の血縁を願ったのではないか、と噂されているらしい──。

 

 そういった背景をお話しになった後、ミハイル様の方はわたしに対し、メフィメレス家がわたしを陥れるためにどのような手を使ったのかという詳細をお尋ねになった。

 

 ヴィタリスから糾弾を受けた事柄に関し、何があり、何がなかったかについては、すでにお父様にもお話ししてある。

 わたしは、ミハイル様にもそれを包み隠さずお話しした。

 

 しかし、ヴィタリスにそそのかされて打ち捨てられた寺院に向かった、というわたしの証言は、確かに彼女の心証を悪くするだろうが、言ってしまえばそれだけのことだった。

 そもそもヴィタリスが皆の前でそのことを認めるとも思えなかったし、物的な証拠が何もないこともあって、ミハイル様は落胆の色を隠さなかった。



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14:お助けください! ミハイル様

 わたしから一通りのことを聞き終えたミハイル様は席を立ち、すぐに帰る素振りを見せた。

 その大きな体を見上げながら、わたしは急に心細い思いに囚われる。

 

 このままではまた見放されてしまう……。

 

 ミハイル様のお姿が、謁見の間で見上げたリカルド様のお姿と重なって見えた。

 

 わたしを取り巻く状況は大体把握できたけど、結局手詰まりの状況には何の打開策も見いだせていていない。

 折角、人目を忍んでミハイル様に来ていただいたのに。

 

 すべてミハイル様にお話しすべきではないだろうか。

 わたしがリカルド様と入れ替わったときに、タッサ王やヴィタリスから聞いた話はまだお父様にも、誰にも伝えていなかった。

 とても信じてもらえるとは思えなかったからだ。

 そんな方法で手に入れた情報など、何の証拠にもならない。

 わたしの頭がおかしくなったのかと思われるのがオチだろう。

 

 でも、さっきリゼにやってみせたように、あの入れ替わりの呪いに再現性があるのであれば話は別だ。

 呪いの力を上手く利用すれば、メフィメレス家の企みを暴くことだってできるかもしれない。

 ミハイル様のお知恵と騎士団長としての力をお貸しいただければ……。

 

「あの、ミハイル様。お待ちください」

 

 わたしは慌てて立ち上がり、ミハイル様の背中に向かって呼びかけた。

 思わずその大きな手を両手で握ってお引き止めする。

 

「まだ、お話ししていないことがございます……」

 

 そこまで言いかけて、入れ替わりの条件のことが頭をよぎった。

 

 えぇ……、やっぱり言えない。

 言えないよ。

 寝たふりをしているときにリカルド様からキス、されたこととか。

 リカルド様のお身体を使って、わたしが自分にキス、したこととか……。

 

「アシュリー様?」

 

 ミハイル様は戸惑ったように、わたしに握られた手を持ち上げる。

 けど、それ以上は……、強引に振り払ったりはしない。

 どうしたら良いのか分からずに、そこで手を止め、困惑しているようだった。

 

「あの……、お助けください。ミハイル様……」

 

 上手く言葉が出ない。

 どう説明していいのか……。

 リカルド様としたキスのことを思い返すと、何故か眼の前にいるミハイル様の唇に目が行ってしまい、話の続きを言い淀んでしまう。

 まだ、何も話せていないのに、自分の頭の中だけで気持ちが先走ってしまって、顔が熱くなる……。

 

 何も言えないまま、わたしはミハイル様のお顔にジッと見入っていた。

 それ以外のものが全然目に入らなくなった。

 だって、視界いっぱいに、ミハイル様のお顔が……、唇が……。

 

「んっ……」

 

 首の後ろを優しく、そっと触れるようにして支えられる感覚。

 と、同時に、唇を覆う熱い体温。

 

 閉じた唇の隙間から、それをこじ開ける力強い舌が分け入ってくるのを感じる。

 そのときのわたしはどうしてか、驚きよりも先に、見捨てられずに居てもらえたという謎の安堵感で心をいっぱいにしていた。

 トロリと瞼が落ち……、そして……。

 

 重っ!

 

 腕の間から何かがこぼれ落ちる感触に驚き、とっさに左手で()()を抱き留めた。

 指と指の間に食い込む、温かく、柔らかな質感のそれは……、いや、そんなことより、重っ!

 

 重ければ手を離せばいいのだろうけど、そんなわけにはいかない。

 そのときには、わたしはすっかり事態を飲み込めてしまっていたからだ。

 今、()()()の手の中にあるこれは、何あろう、()()()自身の身体なのだ。

 

 うっかり放り出して、頭を打ったり、首を折ったりさせては一大事。

 わたしは抱え持つのではなく、自分の方へ思い切り引き寄せることで、床に倒れようとするわたし(アシュリー)の身体を支え起こしていた。

 でも、意識を失くしたわたし(アシュリー)の身体は、自分の脚で立とうとはしてくれなくて、膝を曲げ、その場にしゃがみ込むようにして沈んでいく。

 わたしはその身体を追い掛けるように、いっしょに腰を屈めて介添えをしながら、わたし(アシュリー)の身体をお尻から着地させ、そしてゆっくりと仰向けに寝かせた。

 

「…………」

 

 この光景はもう結構見慣れてしまったかもしれない。

 わたしの苦労など知らないとばかりに、スヤスヤと寝息を立てる()()()の身体。

 

 もう言うまでもないでしょ?

 わたしは今度は、ミハイル様と入れ替わってしまっていたのだ。



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15:これがミハイル様の……?

 またやっちゃった。

 ……というか、やったのはわたしじゃないですよね?

 入れ替わっているということは、間違いなくミハイル様の方からわたしに……。

 ……って、ミハイル様!?

 嫁入り前の女性に何てことをしてるんですか!?

 

 段々と冷静になってきて、たった今起きたことを分析し始めるわたし。

 でも、何が起きたかを考えるほどに、また別の意味で冷静ではいられなくなっていった。

 

 よりにもよって、ご親友のリカルド様の婚約者相手にキスをするなんて……、そんなことをなさるかただったなんて!

 あ、いや、もう婚約者ではないのだった。

 わたしは王子の元・婚約者。

 

 ……にしたってよ!?

 あー、どうしよう情緒不安定かも。

 落ち着きなさい、アシュリー。

 わたしは若い未婚の女性です。

 ミハイル様も確か未婚で、お付き合いされているかたもいないと、以前リカルド様からお聞きしたことがあったけどぉ……。

 ……いえいえ、そんなことは今全然、関係なくてっ。

 

 当然ながら、わたしとミハイル様はこんなことをする間柄ではないわ。

 きちんとお話ししたのも今日が初めてで。

 えっとー、そんなことよりー。

 いきなり!

 どっ、同意もなく、乙女の唇を奪うなんて!

 

 そう、それよ。

 だからわたしは怒っていいはずだ。

 ミハイル様、なんてことをなさるんですか!?って。

 

 頭の中でそんな取り散らかった問答をしながらも、わたしはずっと床の上に横たわるわたし(アシュリー)の身体に見入ったままでいた。

 

 本当はミハイル様に向かって文句を言いたいところだったけれど、今はわたしがミハイル様なのだから、どこを向いたってミハイル様のお姿を見ることはできない。

 だから代わりに、そこに寝ているわたし(アシュリー)を見ながらムカムカ腹を立てているのだ。

 

 こんな、幸せそうな顔しちゃって。

 こんな……、唇で……、キス……したんだ……。

 

 僅かに濡れた質感の自分の唇に目を奪われる。

 それが何故だか直視してはいけないもののような気がして焦点をずらす。

 

 ミハイル様の目を通して見るわたしの寝顔はとても可愛らしく映った。

 肩だって、薄くて小さく……。

 ほら、ミハイル様の大きな掌でなら、こうやって、すっぽり片手で包み込んでしまえる……。

 

 ゴクリと喉が鳴った。

 そのことにハッとして、わたしは慌てた。

 両手でつかんでいた、わたしの両肩から手を離す(身体を横たえてからも、ずっとそうしていたのだ。無意識で)。

 けれど、爛々と見開かれた瞳は、わたし(アシュリー)の身体を食い入るように見つめ、そこから離れてくれない。

 

 いつの間に自分が、こんなにいやらしい娘になってしまったのだろうと思う。

 あろうことか、無防備に寝転ぶ自分の肉体を触りたいなどと……。

 この大きな手であの柔らかな胸を揉みしだきたいだなんていう衝動が、自分の身体の中で熱を帯び、燻ぶっていることに気づくのだった。

 

 寝巻の薄い生地の上からは、艶めかしく隆起した女性的な身体のラインがはっきりと見て取れた。

 自分は先ほどまで、こんな煽情的な姿でミハイル様と向かい合い、お話ししていたのかと顔が赤らむ。

 

 ミハイル様はあのとき、わたしに心を奪われていらした……?

 わたしが、誘惑してたの?

 

 自分の身体に見惚れるなんて、ナルシストになってしまったのかと思ったけど、そういえば、リカルド様のお姿を借りて自分とキスをしたときにも、これに似た熱い動悸があったことを思い出す。

 でも、あのときとは比較にならないほど、今のわたし──ミハイル様の身内にたぎる衝動は大きく、無視できず、抗い難かった。

 

 下腹部が熱い。

 ズボンの下がパンパンに膨らんで、痛い。

 

 これって……、そういうことよね?

 

 これまでに体験したことのない奇妙な身体の感覚には恐怖すら覚えた。

 内に秘めた猛々しいミハイル様の男性を感じる。

 

 両手で自分の顔を覆い、しゃがんだまま、ジッとそれが過ぎ去るのを待った。

 

 ミハイル様は見境なく女性を襲うようなかたではないわ。

 わたしはあのとき、まるでヴィタリスみたいに、ミハイル様の手を握って引き留めて、もじもじしながら、すがるようにミハイル様のお顔を見つめていたんだ。

 真面目なミハイル様を誘惑して、情動をあおってしまったのだとしたら……。わたしも同罪だ。

 

 わたしは、少し前の自分の所業と、心の中でミハイル様に向けていた非難を反省した。

 そうしてしばらくジッとしていると、股間にあった腫れもどうにか引き始めた。

 

「…………」

 

 ……えっとぉ……。

 これは事故よ、事故。

 偶発的なもので、誰も悪くないわ。

 

 わたしは自分で出したその結論に満足して立ち上がる。

 すると、普段見慣れたはずの自分の部屋が、すっかり見違えて見えた。

 

 視点が高いのだ。

 それで自分がミハイル様になっているという実感が湧いてきた。

 さっきまで感じていたのとは違った意味で。

 

 そうだわ。せっかくミハイル様になったんですもの。

 このまま元に戻るのはもったいない。

 というか、これはチャンスだわ。

 騎士団長のミハイル様なら、メイドのリゼなんかより、よっぽど自由にどこにでも行けて、いろんな人から話を聞くことができるはず。

 

 妙な高揚感。

 居ても立っても居られないようなソワソワした感じ。

 

 そのときのわたしは、いまだ身体の中で燻ぶる熱い衝動を、無理矢理別の意味で解釈していたのかもしれなかった。

 

 それに、すっかり舞い上がったわたしは、ミハイル様自身は既にあれこれ手を尽くしており、それでもメフィメレス家の秘密を探り当てられていない、という当たり前の事実を忘れていたのだった。



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16:ミハイル様のお身体でできること?

 硬い地べたに寝かせたままにしておくわけにもいかないので、わたし(ミハイル様)わたし(アシュリー)を抱えてベッドの上に連れていくことにした。

 まさか、自分で自分の身体をお姫様抱っこすることになるとは思いもしなかったわ。

 ただ、余計なことを考えるとまたミハイル様の身体が熱くなってしまいそうだったので、急いで、無心で持ち上げる。

 ちゃんとした体勢で持ち上げれば、さすがはミハイル様の鍛えられた肉体である。

 華奢な女性一人を持ち上げ、ベッドまで運ぶのは容易かった。

 ベッドの前で、どうすべきか少し迷ったけど、寝ているリゼの横にわたしの身体を並べて置く。

 

「…………」

 

 こんなところ、誰かに見られようものならミハイル様の身は破滅してしまうに違いない。

 女性の寝所に忍び込み、二人の若い女性を昏睡せしめて舌なめずりする男。

 絵面がもうヤバイ。

 これはいくら美丈夫のミハイル様でも許されないんじゃない?

 わたしは、絶対に誰にも見つからないように神経を尖らせて屋敷から抜け出した。

 

  *

 

 先刻リゼが門前払いを食らった王宮の通用門も、騎士団長のミハイル様なら、何の誰何(すいか)もなく顔パスだった。

 少し緊張しながら近付いたのだけれど、門番の男の方がコチコチに凝り固まった敬礼をしてわたしを通してくれた。

 

 順調順調。

 だけど、王宮の中に入ってからわたしは途方に暮れる。

 どこに行って何を探ればいいのかしら。

 まず会うべきはリカルド様?

 それともヴィタリスかルギス?

 

 リカルド様のお心を確かめたい気持ちはある。

 あの日、あのときのキスは、わたしとの別れの踏ん切りを付けるものであったのでしょうかと。

 

 でも、時間が経つにつれ、そんなことは今さら言葉にして確かめなくとも良い、という気持ちが強くなりつつあった。

 結局、王子はわたしよりもお立場を、国の行く末を優先したのだ。

 それに、仮に翻意を促して、それが叶ったとしても、多分今のリカルド様には事態を動かすお力がない。

 タッサ王を説得しないと。

 ミハイル様の読みどおり、メフィメレス家が何か悪い企みを抱えてこの国に亡命してきたのなら、それを究明してタッサ王にお伝えしなければ。

 

 やはり、会うべきはヴィタリスね。

 ヴィタリスはミハイル様にベタ惚れみたいだったし、ミハイル様が色仕掛けで迫れば、メフィメレス家の弱みだって簡単につかめるんじゃない?

 わたしにはそんな根拠のない楽観があった。

 

 ヴィタリスに会うにはどうしたら良いか、と思いながら広い回廊で立ち止まり周囲をキョロキョロと見回していると、こちらに向かって歩いてくる一人の女性と目が合った。

 

 えーと、確かこの子はベス、だったかしら。

 虫が苦手で、だから毎日庭の掃除を言い付けられないようにする方法をいろいろと悩んで考えてる、なんていう話を聞かせてくれたっけ。

 まず、この子に聞いてみよう。

 そう思って一歩踏み出すと、ベスは、キャッと叫んで逃げ出してしまった。

 

 あれー?

 何にもしてないのに、こんな反応?

 まだ口を開いてもいないのに。

 ごめんなさい、ミハイル様。

 向かい合う距離の問題ではなかったかもしれません。

 

 宮中の女性たちからこれほど怖がられていたなんて。

 わたしは、ミハイル様への同情を禁じ得ない。

 

 ……あれ?

 けど……、そんな恐れられているミハイル様なのに、周囲にはやたらと女性の姿が多いような気がする。

 大抵、二人か三人が固まって、遠巻きにしながらこちらの様子を窺っていることにわたしは気がついた。

 

 これはもしかすると、みんなミハイル様とお近づきになりたいけど、自分から行くと他の女性から反感を買ってしまうので躊躇っている、という感じかしら。

 美しい男性を愛でていたいのと、あわよくばミハイル様の方から話し掛けていただくのを待っている?

 

 すると……、さっき逃げられてしまったのは、話し掛けようとした相手が悪かったのだ。

 下女ではなく、狙うべきは美しいドレスを着た貴族女性。

 それも、一人ではなく、三人組みになっているところが狙い目だ。

 

 わたしは遠くから目星をつけた女性たちに向かって歩いていく。

 正直言うと、わたしは自分と同じ貴族女性のかたとお話しするのが少し怖かった。

 リカルド王子の婚約者であるわたしは、彼女たちのやっかみの対象だったからだ。

 だから、リカルド様がお側にいないときに、わたしが宮中でお話しをする相手は、貴族女性ではなく、ヨナやベスのような下働きの下女たちであることが多かった。

 

「すまない。君たち、教えてくれないか?」

 

 今はミハイル様であるわたしが近づくと、彼女たちはあからさまに嬉しそうな表情になってモジモジとし始めた。

 互いに身体を押し合って、前に行かせようとしている。

 意中の男性とお近づきになるチャンスに心をときめかせているに違いなかった。

 可愛らしい、と言えばそうだけど、少し尋ねごとをされただけで、どうにかなるものでもないでしょうに。

 それに、今のミハイル様の中身はわたしなのだ。

 そんなに(しな)を作ってアピールしても意味ないんですよ、と教えてあげたい。

 

「どうされましたか? ミハイル様」

 

 彼女たちの押し合いにようやく決着がついて、中の一人が応答を返してきた。

 

 えっとー、ヴィタリスの居場所を……。

 

 頭の中でもう一度質問の仕方を考え直したとき、ふと不安な気持ちになった。

 彼女らの前でわたしが……、ミハイル様が、ヴィタリスの名前を出したらどうなるだろうか。

 宮中の噂話が大好きな彼女らのことだ。

 不用意に発した言葉が一人歩きして、ミハイル様がヴィタリスに恋慕している、なんて噂が立つことになりはしないだろうか。

 なんとなく、そのことに胸がざわついた。

 

()()()()殿()()が、今どちらにいらっしゃるか知らないか? どこかでお見かけしなかったか?」

 

 あー、馬鹿馬鹿。

 そんなこと聞くつもりじゃなかったでしょ、アシュリー?

 

 でも、もう遅い。

 ヴィタリスのことは歩き回って自分で探すことにして、とりあえず彼女らとの会話は適当に切り上げよう。

 そう思ったが、目の前の三人はなかなか質問に答えようとせず、互いに顔を見合わせながらクスクスと笑い始めた。

 

 なになに?

 なんだか感じが悪いわ。

 知らないなら、知らないってだけ言ってくれればいいのに。

 

 正直ちょっと苛ついたけど、ミハイル様であるわたしは、彼の誠実で真面目なイメージを壊すわけにもいかないので辛抱強く待つしかなかった。

 

 ミハイル様でいるのって、結構つらいわ。

 

「あの……、ミハイル様……。お後ろに……」

 

 小鳥がさえずるように小さく控え目な声で女性たちの一人がそう言い、わたしの身体の後ろを覗くような素振りをする。

 

 あ……、彼女たちが笑っていた理由が分かったわ。

 

 振り向くと、わたしのすぐ後ろにはリカルド様が悪戯めかした顔で待ち構えていたのだ。



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17:王子と騎士団長

「いつからそちらに?」

 

 わたしが驚いてそう言うと、リカルド様は顔を綻ばせてわたしの二の腕をポンと叩いた。

 

「すまんすまん。お前が女性たちとどのように話をするのかと思って見守っていたのだ。相変わらず固いな」

 

 それはわたしの知らないリカルド様のお姿だった。

 お二人は昔からのご友人だとは聞いていたけど、臣下であるミハイル様とこれほど親しげにお話しなさるとは。

 

「俺を探していたのか?」

 

 違う、とも言えずにわたしは話を合わせる方法に思いを巡らせる。

 

「ええ、はい。実はリカルド様宛のお手紙を預かっておりまして……」

 

 と、そこまで言って、その手紙はリゼの身体に持たせたままにしてきたことを思い出す。

 それに王から禁じられている二人の手紙のやり取りを、ミハイル様が仲介したのだと知られてしまっては事だった。

 自然と首を後ろに返し、聞き耳を立てている女性たちの方を見てしまう。

 

「なんだ、堅苦しいな。……ああ、そうか。場所を変えるか」

 

 リカルド様は女性たちに向かって、すまないね君たち、と手慣れた様子で別れを告げるとさっさと歩き出して行ってしまう。

 わたしはそれに遅れじと速足でその後に続く。

 背中からは、先ほど面と向かって話していたときの何倍も大きな声でキャッキャと騒ぐ女性たちの声が聞こえていた。

 

 人気のない庭に出たところでリカルド様が振り返った。

 

「どうした? 元気がないな。アシュリーとは会えたのだろう?」

 

 リカルド様の口から出るわたしの名前にドキリとする。

 それではリカルド様は、ミハイル様がわたしに会おうとしていたことをご存知だったということ?

 

 事情を知らないわたしが勝手に驚いていると、リカルド様が手を差し出してきた。

 それが、先ほどわたしが口実にした手紙を受け取るための手であることに気づく。

 

「あ。し、しまったー。預かった手紙を置いてきてしまったー」

 

 ミハイル様のわたしがわざとらしく頭をかいて笑ってみせる。

 

「プッ。なんだよ。それは、お前らしくもないな」

 

 考えてみれば不思議な気がした。

 婚約破棄を言い渡されて、無期限の謹慎となって……。

 もしかしたら、もう一切お話しすることができないと思っていたのに。

 こうやってまた、リカルド様と二人でお話しすることができている。

 わたしの方はミハイル様としてだけれど。

 

「アシュリーの様子はどうだった?」

「げ、元気そう、だった、ぞ?」

 

 ミハイル様が普段リカルド様にどのような口調で話をされているのか分からないので、わたしの物言いは実に恐る恐るといった感じ。

 不審がられるかもしれないけど、まさか、中身がわたしだなんて思うはずがないわよね、と自分を勇気付ける。

 

「そうか……。手紙は、もし次に渡されることがあっても、お前の方で処分しておいてくれ」

「え、処分……。そんな……」

 

 どうして?

 わたしからの手紙などもう読むのも嫌ということですか?

 

 アシュリーとしてのわたしが動揺する。

 それにミハイル様のわたしがどう答えるべきなのかも、まったく頭が回らない。

 ただ動揺して、わけが分からなくて、悲しかった。

 

「本当は今日もわざと忘れてきたのだろ? 俺に読ませまいとして」

「どうして、そんなこと……」

 

 ミハイル様が、リカルド様にわたしからの手紙を読ませたくない……なんて、どうして……?

 

「読めばきっと、俺にまた心残りが生まれるからだ。……俺に言わせるなんて意地悪だな今日は。俺のことを責めてるのか?」

「そんな……つもりは……」

 

 本当はそのとおりだった。

 アシュリーとして、わたしの手紙を拒んだリカルド様のことを恨みたくなる気持ちは確かにあった。

 でも、リカルド様がお話しになっているのは()()()ではない。

 ミハイル様だ。

 ミハイル様が、リカルド様のことをお責めになるなんて、その理由がわたしには見当もつかない。

 

「いいんだ。それだけのことをしたんだ、俺は。分かってる」

 

 辛そうなお顔。

 そんなお顔をしないでください、と心の中で願ってしまう。

 そんなお顔を見たら、わたしにも心残りが生まれてしまいます。

 

「けど、お前がそんな様子で安心したよ」

 

 寂しげな印象は拭えない、けど、リカルド様は以前わたしに向かってよく見せてくれたような優しい笑顔を作っていた。

 ミハイル様の方が上背があるので、こちらを若干見上げるようにするリカルド様の笑顔は、見慣れていない角度のせいで戸惑ってしまう。

 

「どういう、ことです?」

 

 自分でも今のわたしがミハイル様らしくない振る舞いなのは分かっていた。

 今、この場でリカルド様とお話ししているのは、間違いなくアシュリーだ。

 気持ちの整理が……、考えがまとまらなくて、演技をする余裕なんて、とうに失くしていた。

 

「どうって? 昨日までのお前だったら、是が非でもアシュリーの手紙を俺に読ませてヨリを戻させようとしてただろ? 気づいてないのか、自分で。お前は、意気地のない俺なんかには、彼女を任せておけないって思ったってことだよ」

「そんな……ことは……」

 

 わたしは反射的に話を合わせながら、とても落ち着かない気持ちになっていた。

 どういうこと?

 この話って、まさか、そういう……?

 

「アシュリーのことを、頼む。お前になら任せられる」

 

 リカルド様がわたしに向かって頭を下げる。

 

「わたし!? いや、えっ、俺に!? ……なんで?」

 

「おい、またとぼけるつもりか? 言っとくが、ネタはもう十分上がってるんだぞ? ……そうだよ。もう、俺に気を遣う必要は……、隠す必要はないんだ。彼女を幸せにしてやってくれ。俺にできなかったことを全部、お前が……。……っ!」

「リ、リカルド、様……!?」

 

 はじめ少し冗談めかした口調でしゃべっていたリカルド様は、話の途中から感情を昂らせて、最後には感極まったようにわたしの……、ミハイル様の両腕をつかみ、すがりつくようになさった。

 お顔を伏せていて、どんな表情をされているのか分からなかったけど、それを覗き見るようなことは、わたしにはとてもできず……、ずっと棒立ちになったままで、そのお姿を見守っていた。

 

 お可哀そうなリカルド様……。

 できることなら慰めて差し上げたい……。

 

 けれど、その気持ちの裏側では、ミハイル様がわたしに向けていたらしい恋慕を知った驚きで感情で混沌とさせていた。

 

 わたしに対し、あのミハイル様が密かに想いを寄せていらした!?

 

 けれどわたしは、そんなミハイル様のお気持ちも知らずに、あられもない姿でミハイル様にすがって助けを求めてしまったのだ。

 知らなかったこととは言え、わたしはなんて……、なんて残酷で、無神経な女なのだろう。

 



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18:ミハイル様、ヴィタリスに襲われる

 あれからどうやってリカルド様と別れたのかはよく覚えていない。

 気が付くと、わたしは一人で王宮の回廊をさまよい歩いていた。

 

 歩きながら、ぼんやりと考えていたことと言えば、ミハイル様のことばかりだった。

 ミハイル様と入れ替わった直後に身体中を駆け巡っていた熱い衝動の正体について。

 それに、屋敷に帰って元の身体に戻った後、どのようにミハイル様と接すればよいのかという問題について。

 

 そして、とてもおこがましいことだけれど、もしも、ミハイル様から正式に求愛されたとしたら、わたしはどうすべきなのか、なんてことを……。

 いいえ、それ以前に、そのときのわたしがどんな気持ちでそれを受け止めるのだろうか、という想像でずっと悶々としていたように思う。

 ミハイル様のお姿に成り代わり、わたし(アシュリー)が本来知るはずのなかったことを不用意に知ってしまったという後ろめたさ。

 

 こんな方法で知りたくはなかった。

 もしも、何も知らないわたしに、ミハイル様から直接告白していただいていたら……。

 だとしたら……。

 

 ──あれ? この場所さっきも通った?

 

 無意識で歩いていたから同じ場所をぐるぐると何周もしていたのかもしれない。

 庭の方から見える陽の光は、すでに朱色に染まりつつあった。

 

 か、帰らなきゃ。

 

 これじゃあ一体何をしに王宮まで来たのか分からないけど、こんな時間まで一人で出歩いたことなんてなかったわたしは、十六の娘らしい律儀な発想で王宮の出口を探して振り返った。

 

「まあ! 見つかってしまいましたわ」

 

 振り返った先、わたしの真後ろに立っていたのは、あのヴィタリスだった。

 

 今日もあの日と同じような上下別に分かれた衣装だ。

 あまり気にしたことはなかったけど、このドレスって、アダナスの方の民族衣装なのかもしれない。

 アダナスはオリスルトの敵対国なのに、亡命してきた先でもその土地の衣装を着て歩き回るなんて、なかなかいい根性をしている。

 

「難しい顔をなされて、一体どちらへ行かれるのかと思っておりましたけど……」

 

 ヴィタリスは、そう言いながらミハイル様の腕にピトリと身体を張り付ける。

 

「もしかして、わたくしをお探しではなかったですか?」

 

 そうだったんだけど、今日はもうそんな気分じゃなくなったのよねぇ。

 時間だって遅いし。

 

「自意識過剰ではないか? 私に用はない。失礼する」

 

 ピシャリと言って跳ねのけてやった。

 くくっ。いい気味。

 そう思った途端、後ろから強くぶつかるようにして抱き締められた。

 

「もうっ。相変わらず冷たいおかた。ねぇ、わたくしにお尋ねになりたいことがあったのでございましょう? もしかしたら、ミハイル様のお役に立てるかもしれません。二人っきりで、静かなお部屋の中でなら、こないだお尋ねになられたことも思い出せるかも……」

 

 甘ったるい声に、べったりとこすりつけてくる柔らかな肉の感触。

 女であることを存分に利用してミハイル様を誘惑している。

 前回リカルド様にやっていたことと同じ手口。

 

 それが分かっているせいなのか、今のわたしは随分と冷静にヴィタリスの仕草を眺めることができていた。

 こいつは敵。

 はっきりとそう認識したことで、頭や身体がそういう対象だと認識できなくなったのかもしれない。

 触れられたところなんて、ちょっと寒イボが立つぐらいの嫌悪感。

 

「……そうだな……」

 

 あえて誘惑されたふうを装い、わたしは無言のままヴィタリスに腕を引かれて行った。

 

 貴女がミハイル様にマジ惚れしてるのは分かってるんだからね。

 見てなさい。

 逆に手玉に取って洗いざらい吐かせてやる。

 

  *

 

 部屋に入るとすぐ、ヴィタリスが後ろ手にカチャリと扉を閉めた。

 

 一体何に使うための部屋なのか……。

 正方形の部屋の中央には大きなテーブルが一つと、それを囲むように椅子が一脚ずつ。

 椅子の後ろのスペースは、人一人すら満足に通れないほど狭く、まさに密室といった雰囲気。

 こうして二人でいるだけでも息苦しく感じるような小部屋だった。 

 

「それで? 何を教えてくれるんだ?」

 

 なるべく冷たく、余裕めかしてミハイル様がヴィタリスを見下ろす。

 それを言わせているのはわたしだ。

 散々期待を持たせた挙句、こっぴどく袖にしてやろう。

 ちょっと底意地が悪いけど、わたしやヒーストン家が被った被害に比べれば、このくらいの仕返し可愛いものでしょ?

 

「そんなことよりも。まずはお互い楽しみませんか?」

 

 ヴィタリスが下からすり寄り、豊満な胸を押し付けようとしてくる。

 

 なんて破廉恥な!

 女性の身でありながら、恥ずかしいという気持ちがないのかしら?

 

 わたしは汚いものでも避けるように、顔を背けながら後退った。

 こんな女の身体をミハイル様に触れさせることが我慢ならなかった。

 しかし、狭い室内だ。逃げ場などなく、わたしの脚は後ろのテーブルに当たって、早々に行き詰まる。

 

 あれ? おかしい。こんなはずじゃ……。

 

 体格では遥かに勝るうえ、女であるわたしの心はヴィタリスの誘惑に屈したりはしない。

 けれど、あれよあれよという間に物理的に追い詰められ、ミハイル様のわたしはヴィタリスの身体に押されるがまま、臀部をテーブルの上に乗り上げてしまっていた。

 思わずバタつかせた脚がぶつかり、椅子の一つをガタリと倒してしまう。

 それにも構うことなくヴィタリスはさらに身体を寄せてきて、ミハイル様に覆いかぶさるようにした。

 

 だ、大丈夫大丈夫。

 いざとなれば力づくで振り払えばいい。

 男と女じゃ全然に勝負にならないんだし。

 

 ヴィタリスがミハイル様の太腿に手をかけ、妖しい動きでまさぐるようにする。

 

「…………」

 

 ほ、ほらね。

 ……なんともない。

 そんなことされたって、ミハイル様は貴女みたいな性悪女になびいたりしないんですからね?

 

 自分の身体の反応を探るようにジッと待ち、わたしは心の中で勝利の声を上げた。

 ふふん、というように不敵な笑みを浮かべてヴィタリスを見下ろす。

 さあ、そろそろ反撃しようかしら、などと悠長なことを考えて。

 

 でも、わたしは間違っていた。

 所詮わたしは十六のおぼこい娘。

 この生まれついての痴女が如き手練手管が身に付いたヴィタリスを、手玉に取ってやろうなどという考えが甘かったのだ。

 

 お前の誘惑などまるで効いていないぞ、と睨みつけようとしたそのときには、わたしの──ミハイル様の唇は、ヴィタリスの口でふさがれていたのだった。

 



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19:ヴィタリスの身体でできること?

 ドスンと大きな音を立て、テーブルの上にミハイル様の身体が仰向けに倒れた。

 ヴィタリスになったわたしは、そのミハイル様の身体を上から呆然と眺めることしかできなかった。

 

 嘘。また!?

 

 鏡の悪魔の呪いは、わたしの身体と直接じゃなくて、入れ替わった先の身体でキスされても発動してしまうものらしい。

 もはや入れ替わること自体には驚かなくなっていたけど、間接的にも入れ替わりが成立するというのは想定していなかった。

 

 わたしは無意識に口を手で拭う。

 そして、本当に拭いたいのは、今の自分のこの口元じゃなくて、ヴィタリスの唾液が付いたミハイル様のお口であることに気がついた。

 

 いーやー! わたし、ヴィタリスになってる!

 け、汚らわしいわ。

 

 いや、流石にそれはあんまりな言い草なのは分かるんだけど……。わたしの正直な心情としてはまさしくそうだった。

 思わず自分の両腕を撫でさする。

 擦ったところでヴィタリスの匂いが落ちたりはしない。

 なにしろそうして腕を擦っている掌にしたってそう。

 今のわたしは頭の天辺から足の先、皮膚の上から肉の内側まで全てがヴィタリスなのだ。

 

「…………」

 

 …………。

 なかなかの重量感だった。

 わたしは興味本位で持ち上げてみたものを下して溜息をついた。

 

 もういいわ。

 早く元に戻りたい。

 そう思ってテーブルの上で寝転がっているミハイル様の身体の方を見る。

 

 いや、でも待ってよ……。

 これはとんでもないチャンスなんじゃないかしら。

 

 ヴィタリスになら、実の娘相手になら、あの男──ヴィタリスの父ルギスも隠し立てせず、色々な秘密を喋ってくれそうな気がする。

 その思いつきは、ミハイル様の身体を使ってこのヴィタリスから情報を聞き出すよりも、ずっと簡単に思えた。

 

 よ、よし……!

 いっちょやってやりますか。

 女は度胸よ……。

 

 そう意気込んでドアノブを握る。

 そのとき、自分の腹の下あたりにちょっとした痒みがあることに気がついた。

 

 そう言えば、ヴィタリスのお腹の、あの火傷痕……。

 

 自作自演とは言え、一生残る傷をこさえてまでわたしを陥れようとしたんだ。

 そのことだけは、このヴィタリスという女の執念に、畏怖にも近い感情を抱いていた。

 

 怖い物見たさも手伝って、わたしはこっそりその腹の火傷痕を覗いてみることにした。

 上下別に分かれた、めくりやすい衣服なので、そうすることは簡単だ。

 

「……あれ?」

 

 なんだか腑に落ちない思い。

 ヴィタリスの白い腹の上には、確かに赤く腫れた痕があったけど、それはあの謁見の間で見たときのような醜くただれた皮膚とは違って見えた。

 遠く離れた場所からでも、はっきりと分かる大きな痕だったのに、今見ているこれは、あのときよりも小さく見える。

 それに色も薄く、ジッと目を凝らすと、ただのかぶれのようにも見える。

 どれだけ頑張って見ても、今のこれは、一生残る火傷の痕のようには見えなかった。

 

 わたしは、これもフェイクだったのか、と呆気に取られた。

 むしろ清々しい思いがするほどだ。

 絶対にこの女の悪だくみの証拠を暴いてやると、わたしは決意も新たに小部屋を後にするのだった。

 



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20:やった! ルギスの書斎に潜入成功よ!

 勢い込んで部屋を飛び出したものの、行き先を探しあぐねて王宮の中をさまよっていたわたしを呼び止める者がいた。

 

「ヴィタリス様。ご夕食のご用意ができております」

 

 どうやらメフィメレス家のお付きの小間使いらしい。

 運が巡ってきたわねと調子付き、わたしはその女性に案内をさせて、ルギスの元へと足を運んだ。

 聞けばメフィメレス家はこの王宮の区画を借りてそこで寝起きしているらしい。

 この王国での領地や屋敷を持たないのだから当然といえば当然か。

 

「喜べヴィタリス。婚約発表の日取りが決まったぞ」

 

 自室に入ってきた娘に対し、ルギスは開口一番そう言った。

 わたしの主観でしかないのだけど、なんて小狡い悪党じみた笑みなのかと思う。

 

「……お父様。わたくし、やはりお相手はミハイル様の方がいいわ」

 

 ヴィタリスになりきったわたしは、いかにもヴィタリスが言いそうな駄々をこねてみる。

 機転を利かせたその鎌掛けは、なかなか的を射ていたようだ。

 

「またその話か。物には順序というものがあるのだ。最終的にはお前の好きな男を与えてやるから、今は我慢して王子を篭絡しろ。肩書きだけでなく、しっかりお前に溺れさせておくんだ。夜伽はまだか?」

「よとっ!?」

 

 思わず素っ頓狂な声が出てしまいそうになる口を慌ててふさぐ。

 

 大変だわ。早くなんとかしないと。

 

「どうした?」

「い、いえ。お夜伽をするには、これが……」

 

 そう言って服をめくり、腹にある赤いかぶれの痕を見せる。

 

「ん? お前、随分薄くなっているじゃないか。毒草を塗り込むのはまだ止めずに続けておけと言ってあっただろうが」

「だ、だって……、痒いのですもの」

 

 わたしは、まだこんな醜い痕があっては肌をお見せすることなどできません、と訴えたつもりだったのに、ルギスはむしろ、もっとかぶれさせろと言う。

 全く娘の身体を(いたわ)ろうという優しさが感じられない。

 娘も娘なら、親も親ね。

 

 ルギスは棚の引き出しから小箱を取り出し、わたし(ヴィタリス)に手渡した。

 

「いいか? 使っているところは誰にも見られるなよ? この草はこの国の者たちには馴染みのないものだからな。薄くなっているところを見られてもいかん。王子に身体を見せるのは腫れがしっかり戻ってからにするんだ」

 

 小箱を開けて中を繁々見つめる娘に対し、ルギスは一方的にそう言い付けて部屋を出ていった。

 腹が減った、早く飯にしよう、などと上機嫌に(のたま)いながら。

 

 一人残ったわたしは渡された小箱の中から乾燥した草の葉を一枚つまんで取り上げてみる。

 

 確かに見たことのない形の葉だわ。 

 これは証拠になるかしら?

 

 ヴィタリスが焼き(ごて)を押し付けられたと主張して皆の前で見せた火傷の痕。それはまったくの出鱈目な嘘の証言だった。

 王の前での偽証は普通であれば十分な罪になるだろうけど、王自身がメフィメレスに肩入れしているなら、糾弾する材料としてはまだ弱いかもしれない。

 

 そこまで考えて私は顔を上げ、一人残された部屋の周囲を見回した。

 

 なんということだろう。

 首尾よく入り込んだルギスの書斎は、彼の悪だくみの証拠の山に違いない。

 

 わたしは机の上に放り出された文書から引き出しの中まで、手あたり次第に漁って、ミハイル様にお渡しする証拠資料を探し始めた。

 王家に嫁ぐ準備として、学を修めてきた努力が役に立った。

 読める読める。

 アダナスの言葉で書かれた文書の数々。

 

 でも、さすがにそうか……。

 わたしを罠にはめる計画のことを丁寧に説明した文書などあるわけがないか。

 仮にそんなメモがあったとしても、そんなもの残しておく理由がない。

 

 分かり易く目に付くのは、ルギスがアダナスの地に置いてきた土地や家財の権利を主張したり、その係争に関わる文書ばかりだった。

 ミハイル様はルギスがアダナスのスパイなのではないかと疑っていたけれど、彼らがあの国を追われて逃げてきたのは間違いなさそう。

 

 でも、彼らがタッサ王に小狡く取り入っているのも確かなのよ。

 王子との結婚の見返りとして提供するっていう魔法の秘術が嘘だっていう証拠とかないかしら。

 

 いくつかの文書を読み下した後、とある引き出しの奥の方、意味ありげな封筒に入っていた文書が目に留まる。

 

 薬……、研究……?

 あ、これちょっと怪しいかも。

 斜め読みだけど、絶対秘密とか、失敗とか、アダナスとの密議だとか、怪しそうな文字が沢山出てくるわ。

 

 何が書かれたものなのか、詳しく読もうと目を走らせているところへ突然女の声で呼びかけられた。

 

「お嬢様。ルギス様がお呼びでございます。ご夕食が冷めてしまうと……」

 

 わたしは手にしていた封書をとっさに隠して声がした方に向き直る。

 ドアの隙間からは、頭だけをそっと出した女がこちらを覗いていた。

 

「今、今行きます」

 

 だから下がりなさいという意味で言ったつもりだったのに……、その下働きの女性はそうやって首を出したまま動こうとしない。

 もしや、わたしを食卓まで連れていかなければ、この子が罰を受けてしまうのだろうか。

 

 仕方がない。

 わたしは後ろ髪を引かれる思いで、手早く引き出しを片付け、自分が触った形跡をできるだけ隠してからルギスの書斎を後にした。

 わたしが手にした小箱の中には、ルギスから受け取った謎の草の束と、とっさに隠した封書が仕舞われていた。



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21:見られた情事(?)

 わたしはあの小部屋に寝かせたままにしてあるミハイル様の身体のことが気にかかっていた。

 だけど、ルギスと夕食の支度をした者たちを放ってそちらに向かうわけにもいかず、わたしは成り行きで彼らと夕食を共にすることになった。

 

 ルギスに妻はおらず、食卓を囲むのは父と娘の二人だけ。

 死別したのか、それともアダナスの地で別れたのかは知らない。

 ろくに知らない家族として振舞うことは非常に難しい。

 本当なら、この機会にルギスから色々な情報を聞き出すべきなのだろうけど、ボロを出すわけにもいかないわたしは黙々と食事をするだけでその場を凌いだ。

 

 食前のお祈りの仕方も、食事のマナーも全てアダナス式。

 ここでもわたしは、あり得るかもしれないアダナス人との外交の場を見越して、わたしを教育してくれたお父様や教育係に感謝することとなる。

 

 かなり贅沢な夕食を平らげたわたしは、ようやく席を立ち、ミハイル様の元へ急いだ。手には、ルギスの書斎から拝借した謎の文書を入れた小箱を抱えて。

 

 ミハイル様の身体をテーブルの上に寝かせたままのあの小部屋。

 その小部屋を出てから軽く小一時間は経過している。

 その扉の手前まで来たとき、そこから出てくる一人の女性の姿が目に入った。

 

 おっと、まずい。

 

 慌てて廊下の曲がり角に戻って身を隠す。

 少し様子を伺っていると、部屋の中からはもう一人の姿が。

 彼女らの顔には見覚えがあった。

 二人とも王宮の小間使いだ。

 「お疲れなのかしら」「もう少し寝かせておいてさしあげましょう?」などという会話の後、二人は扉の前を離れ、どこかへ行ってしまった。

 

 あ、危なかったー。

 今のうちに早く戻らないと。

 

 わたしは周囲に目を配ってから、小部屋の中へ素早く身を滑り込ませる。

 

 テーブルの上にはわたしが部屋を出たときと同じ姿勢でミハイル様が寝転んでいた。

 仰向けの上半身をドッカと載せて、脚はテーブルの下に放りだして。

 なんとも豪快だけど、好意的に見れば確かに仮眠を取るためにそうしているように見えなくもない。

 

 わたしは小脇に抱えていた小箱をテーブルに置いた。

 何故だか物音を忍ばせ、息を詰めながら。

 そして、ゴクリと唾を飲み、ミハイル様の寝姿に向き直る。

 ヴィタリスが再びミハイル様の唇を奪うことになるというのは癪だし、ミハイル様には申し訳ないけど……、やらないと、元に戻れないんだから、と自分に言い聞かせる。

 

 眠っている自分相手にキスをしたときも気が咎めたけど、今からやろうとしていることの罪悪感は半端じゃない。

 今さらながらにミハイル様に断りもなく、この身体を持ち出して好き勝手していることに引け目を感じた。

 拒絶も抵抗もできない相手の唇を無理矢理奪うなんて……。

 ミハイル様に申し訳ない、というのもそうだけど、こんなことをしていたら自分の性癖が捩じ曲がってしまいそうだわ。

 

 あー、やっぱり。

 

 ミハイル様のお顔とその身体を見つめていると、ヴィタリスの身体の中が熱く(たぎ)ってくるようだった。そんな気がする。

 

 本当にいやらしい(ひと)……。

 こんな想いでミハイル様を見ていたなんて……。

 

 そんなふうにヴィタリスのことを非難がましく思いながらも、そんなよこしまな想いが自分の心の中にも満ちていくのを感じていた。

 

 他人のことをとやかく言えはしない。

 わたしからしたって、ミハイル様の精悍なお顔やお身体は、とても好ましく見える。

 誰はばかることなく、真っ正直に本音を言わせてもらえばそうだ。

 服の上からでも分かる、鍛えられた太い腕の筋肉や、浅く上下を繰り返す厚い胸板に思わず目を奪われる。

 リカルド様がどちらかと言えば線が細く中性的な印象をお持ちなのに対し、ミハイル様は女性とは真反対の、力強く男らしい色気を蓄えておられた。

 

 ミハイル様が、昼間に宮中で、貴賤を問わず沢山の女性に遠巻きに盗み見られるようにされていたことも頷けるというものだ。

 

 そう、これは客観的な事実よ。

 誰だって見惚れる。

 人目をはばからず、好きに見ていいですよって言われたら、女性だったら誰だって、こんなふうにガン見しちゃうはず。

 

 ヴィタリスのわたしは、その太い首筋を……、隆々と盛り上がった肩を……、舐めるように見回した。

 

 ちょっとだけ、触れてみてもいいかしら。

 どうせ、寝ていらして分からないのだし……。

 

 そのとき、ガチャリ、と何の前触れもなく小部屋のドアが開かれた。

 振り返って固まる。

 僅かに開いたドアの隙間に、小間使いの女性たちの顔が三つ、縦に並んでこちらを覗いているのが見えた。

 

「あ、あっ……。すみません。お邪魔しました!」

 

 中の一人が大声で叫び、扉が乱暴に閉められた。

 我に返ったわたしは我が身を振り返る。

 

 ヴィタリスであるところのわたしは、いつの間にかテーブルの上に身を乗り上げ、四つん這いになった状態でミハイル様の身体を跨いでいた。

 まさに今から寝込みを襲いますよ、と言ったていで。

 その状態で口づけをしようとしていたのだから、そう見えて当然だった。

 

 あ……、あっ……、あたし、知ーらないっと。

 

 もともと人目もはばからずミハイル様を誘惑なさろうとしていたのだから、どうせ自業自得でしょ、という投げ槍な気持ちに勢いを得て、私は一息でミハイル様の唇に口づけした。

 



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22:遠かりし家路

 ──おっと!

 

 わたしは自分に向かって倒れ込んでくるヴィタリスの身体を、手慣れた反応で受け止めた。

 その結果、ヴィタリスのあの大きなお胸を両手でガッシリと揉むことになってしまったけど……。

 

 こんなもの、ただの脂肪の塊よ、と心の中で悪態をつきながら、そのままヴィタリスの身体を横に寝かせる。

 

 身体を横向きにして、しどけなく髪を乱したヴィタリスの姿。

 流石にこれは良くないなと思ったわたしは、倒れていた椅子を直して、ヴィタリスの身体をテーブルの上から滑らせるようにして下ろし、その椅子の上に座らせた。

 なお眠ったままの彼女の両腕を曲げて、テーブルに向かって顔を突っ伏すようにさせる。

 

 よし……、大丈夫。

 これなら間違っても情事の後には見えないでしょう。

 

 その出来映えに満足し、わたしは毒草と謎の文書が入った小箱を引っつかんで小部屋を後にした。

 

  *

 

 わたしは太陽が完全に沈んだ夜道を自分の屋敷に向かって急ぐ。

 

 想像以上に外は真っ暗だった。

 女性の身でこんな夜道を出歩いていると考えたら恐ろしくて堪らなかったけど、人とすれ違う度、わたしを見る相手の方が驚いている様子を見て余裕が出てくる。

 自分がミハイル様のお身体でいることを心強く感じるようになる。

 すれ違う相手は大抵自分よりも背が低く、痩せっぽっちの小人に見えた。

 彼らからしたら、さぞかしこちらは恐ろしい大男に見えていることだろう。

 

 そうして、じきに見覚えのある塀が見えてきた。

 こんな時間まで外を出歩くなんて悪い娘です。

 心の中でお父様に向かってそう詫びる。

 

 けれど大丈夫。

 アシュリーの身体は、今もずっとベッドの上にある。

 わたしは今日一日、屋敷から一歩も外に出ていないことになっているのだ。

 流石にずっと眠ったままでいるのを心配されている頃合いかもしれないけど、もう一度キスをすればすぐに、もと……ど、お……り?

 

「……ああ、どうしよう……」

 

 わたしは馬鹿だ。

 どうやってこのミハイル様の姿のままわたし(アシュリー)の部屋まで戻ればいいのだろう。

 本当なら、まだ陽が昇っているうちに、帰ってくる必要があったんだわ。

 

 とりあえず、出てきたときと同じ裏側の通用口の方に来てみたけど、案の定、その扉は固く閉ざされていた。

 屋敷をぐるりと取り囲む石塀だって……、これはとても乗り越えられる高さではない(いくらミハイル様が大きな上背をお持ちだと言っても、これは無理だわ)。

 

 困ったわたしは正面の門の方へと回ってみた。

 歩きながら、騎士団長のミハイル様が正式に訪問し、わたし(アシュリー)に会いたいと言えば通してもらえないだろうかと考える。

 でも、流石にこんな時間だ。

 考えるまでもなく、取り次ぎを願おうにも、正門もすでに締め切られており、門の前にも誰も立っていなかった。

 

 そもそも、そうでなくともだ。

 騎士団長たる者が、事前の約束もなく伯爵家を訪問することがおかしい。

 そして、無理を押し通し中に入ったとしても、当のアシュリーが眠ったままでは家人が会わせようとしないだろう。

 

 困った……。

 とにかく明日、陽の高い時間を狙って出直す?

 でも、その明日まで()()()はどうしたらいいの?

 ミハイル様の寝屋がどこにあるのかも分からないのに。

 

 うんうんうながりながら、私は十六年間過ごした自分の生家の外側をうろうろと歩き回った。

 意味もなく正門と裏口の前を行き来する。

 それで何度目となるだろうかというタイミングで石塀の角から裏口の様子を窺ったとき、暗がりの中で通用口のドアが開かれる音が聞こえた。

 

 し、しめたわ。

 誰かは分からないけど、相手が屋敷の人間なら、なんとか丸め込んで中に入れてもらえるかも。

 いいえ、何としてもそうしないと。

 多少強引でも、わたしの部屋まで上がり込んで、寝ているわたし(アシュリー)にキスさえしてしまえば……。

 

 わたしがそんな剣呑なことを考えながら駆け出そうとしたそのとき、誰かに後ろから肩をつかまれた。

 

「団長!?」

 

 脚だけが前に行こうとして身体がつんのめり、思わず転びそうになる。

 

「あ、危ないでしょ!? 突然」

 

 振り返りざまに口をついて出た声に我ながら強烈な違和感。

 これはミハイル様の口から出るお言葉ではなかったと自分に駄目出しをする。

 対する相手の方も、ミハイル様らしからぬ反応に面食らい言葉を失う気配があった。

 

「ご、ごめんなさい……。いえ。……えっと。すまん。何の用だ?」

 

 上擦った声を取り繕うため、今度は無駄に低い声になってしまう。

 よく見ると相手は複数人だった。

 わたしの肩をつかんで声をかけてきた人以外に、その後ろからさらに二人の男性が近寄ってくるのが見えた。

 前の一人は比較的小柄だけど、後の二人はいずれもミハイル様に負けず劣らずの背格好をしている。

 

「いえ、こっちこそ、すみません。どうされたのかなぁと思って。こんな時間に、こんな場所で」

「申し訳ございません、団長。きっと大事な用だから、声を掛けない方が良いと言って止めたのですが……」

 

 暗闇でもかろうじて見える服装や会話の内容から、相手はミハイル様の部下の騎士団の人間だということは分かった。

 でも、わたしには誰が誰なのだか名前も何も分からない。

 どう答えれば良いか迷い、内心アワワとなっているところへ、背後の通用口の方から女性の声が聞こえてきた。

 何と言ったかは分からなかったけど、切羽詰まったように言い争う声。

 そちらの暗闇に目を凝らすと、小柄な女性の影が、後ろから抱きかかえられるようにして屋敷の中へと引きずられていくのが見えた。

 

 か、かどわかし?

 いえ、うちの者に限ってそんなことは……。

 というか、出て行こうとしたのを引き戻されたように見えたけど。……一体誰?

 

 多少暗闇に目が慣れたとは言え、遠くということもあってほとんどシルエットしか分からない。

 

「なりません! 危のうございます。ご自分のお身体をお考えください」

 

 あ、この声はリゼだわ。

 

 そうと分かったときにはもう遅かった。

 通用口の扉は再び閉じられ、その周囲は何事もなかったかのように、真っ暗な静寂に包まれていた。

 

 あー、しまった……。なんてことなの。

 相手がリゼなら確実に言いくるめる自信があった。

 屋敷の中に入ることができたのに。

 

 わたしは、わたしの肩をつかんで引き止めたミハイル様の部下を恨みがましく睨む。

 事情を知らない相手に文句を言っても仕方ないのは分かってるんだけど、千載一遇のチャンスを逃したというショックがわたしにそうさせた。

 

「あー、す、すみません。何か俺たち、邪魔しちゃいました?」

「俺たちじゃない。ノイン。お前個人がやらかしたんだ」

「団長、すみません。俺たちがちゃんとこいつを見てなかったばっかりに」

 

 わたしは深い溜息をつきながら肩を落とした。

 



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23:二度目の夕食

 

 わたしは何故か、顔も名前も知らない男の人たち三人と、本日二度目の夕食の卓を囲んでいた。

 

 好機を逸して溜息を吐いているわたしが、よほど落胆して見えたのだろう。

 これは気落ちした騎士団長を、部下の皆が励ますために設けられた晩餐会なのだった。

 そういう()()()()らしい。

 わたしは三人に引き摺られるようにし、半ば自棄になりながら愛する自宅を離れ、どこか見知らぬ場所に連れてこられたのだった。

 

「ヒーストン伯爵家の内偵だったのでしょう? そんな用事なら何も団長自ら動かずとも、我らにご命令くだされば良かったのに……」

 

 赤みがかった茶色の長髪を綺麗に結った男の人が、テーブルの上の料理や飲み物を丁寧に並べ直しながらそう言った。

 気軽に食事に誘えるくらいの仲らしいけど、目の前にいるミハイル団長の中身がわたしに代わっていることには気付いてる様子がない。

 

 それも当然か。

 多少言動がおかしくったって、普通そんな発想をするはずがないもの。

 わたしだって、今でも信じられない。

 自分がミハイル団長として彼の部下の人たちと食卓を囲んでいるなんて。

 彼らにとっては当たり前の日常でも、伯爵令嬢のアシュリーにとっては絶対に覗き見ることのなかった男の人たちの世界だ。

 

 誘われたのは、庶民のかたも利用する酒場のような場所だった。

 ううん、いいえ、どちらかと言うと、場にそぐわないのは、わたしも含めた騎士団の皆の方ね。

 庶民の皆さんの中にわたしたちがお邪魔している感じ。

 

 すでにへべれけに酔っぱらった人もいて非常に騒々し──いや、とても賑やかな所だ。

 当然ながら、わたしはこんな場所を訪れるのは始めてのことなので、見るもの全てが新鮮だった。

 隣のテーブルの集団はどんな職業の人たちなのかだとか、今運ばれてきたこの料理の材料は何なのかだとか、そんな疑問が次々と浮かぶ。

 けれど、馴染み客らしいミハイル様がそんな質問をするわけにもいかないので、わたしは何でもないふうを装い、黙って待っていた。

 今にも音が鳴りそうな空腹のお腹を押さえて。

 

 そう。わたしの感覚では夕食はついさっき、しっかりといただいた後だったのに、このミハイル様のお身体ではすっかり腹ぺこなのだった。

 ヴィタリスの身体とミハイル様の身体は別だということは頭では分かるんだけど、食べても食べてもまだ食べたくなるなんて、自分がとんでもない食いしん坊になってしまったように感じてしまう。

 

 大きなお皿に乗せて運ばれてくる料理は、屋敷の食卓や晩餐のパーティに出てくるものとはまるで違っていた。

 どんな味なのかも分からない料理ばかりだったけど、食欲を刺激するその香りや熱々の湯気によって、盛んにわたしを誘惑してくる。

 

 お腹すいたー。

 何でもいいから早く食べたい。

 元に戻る方法とかとりあえず置いといて、今はとにかくお腹を落ち着けなくっちゃ。

 運ばれてきたってことはもう手を付けていいの?

 お祈りは誰が合図するのかしら?

 

「何に乾杯する?」

 

 金色の髪を短く刈り揃えた、少年のようにハツラツとした見た目の男の人が、手にジョッキを持ちながら皆の顔を見回す。

 彼だけ名前が分かる。

 他の二人からノインと呼ばれていた。

 さっき、わたしの肩をつかんで引き留めた子だ。

 

「そうだな……。ミハイル団長の新たな挑戦に。ってのはどうだ?」

 

 そう言った彼は細く鋭い目元が印象的だ。

 髪は金髪だけど色が薄く、光の加減によっては白髪か銀髪のようにも見える。

 

 うーん。ミハイル様は言うまでもないけど、こうして見ると騎士団の人たちって、みんな眉目秀麗なのよねぇ。

 入団資格に、容姿が整っていること、なんて条件があったりするのかしら?

 ……ん? いや、待って。

 そんなことよりも、ミハイル団長の新たな挑戦って何?

 わたしが何か答えないといけないの?

 

 わたしのイメージのミハイル様は寡黙で、余計なおしゃべりをしない人だったので、わたしもここに来るまでほとんどしゃべっていなかった。

 わたしが黙っていても他の三人が勝手に考えて、次にどうすべきか身振りや言葉で促してくれていた。

 沢山話せばきっとわたしはボロを出してしまうし、ミハイル様になりきる意味でも黙っている方が賢いと思ったのだ。

 

「……あれ? ってことは団長、あの噂は本当だったんですか?」

 

 わたしが反応できずに黙っているのをどういう意味で受け取ったのか、優雅な赤髪の彼が声のトーンを上げた。

 ミハイル様であるわたしの顔を覗き込むようにするので、わたしは「う、うーむ」などと曖昧に応えて受け流す。

 

「おい、エッガース。そうやって、団長をあまりからかうと今度の合同練習でシゴかれるぞ?」

「馬鹿言うな。最初に言い出したのはシュルツだっただろ?」

 

 はい、お名前いただきました。

 赤髪の彼がエッガースさんで、銀髪の彼がシュルツさんね。

 

「なになに? さっきから何の話? 分かってないの俺だけかよー?」

 

 大丈夫、ノイン君。わたしも分かってないから。

 それよりまだお食事いただいちゃ駄目なのかしら?

 せっかく熱々でおいしそうなのに冷めてしまうわ。

 

 他の三人がなかなかフォークを手に取ろうとしないのを見て、わたしもひとまず飲み物が注がれた大ぶりのジョッキに指をかけて倣った。

 

「まさか知らないのか? 団長が、あのアシュリー嬢に熱を上げてるって話だよ」

 

 ……え?

 ……わたし?

 わたしの話、されてる?

 

「アシュリー嬢って、あのヒーストン家の? いや、だって、彼女はリカルド王子の……あっ、そうか!」

「そうそう。これまでは絶対に叶わぬ秘めた恋だったのが、こないだの、まさかの一件で急に団長にも芽が出て来たって話だよ」

 

 ちょっ、ちょっとー?

 ミハイル様?

 全然秘められてないんですけど?

 貴方の想い、部下の皆さんにも筒抜けになっていますわよ?

 

 顔が熱いわ……。

 いじられているのはミハイル様なのに、正体を隠して話を聞いているわたしの方が無性に恥ずかしい気持ちにさせられるなんてどんな罰なの!?

 

「馬鹿なことを言うな!って、かわされると思ったのに、存外……、まんざらでもなさそうだったしなぁ」

 

 シュルツさんが控え目に口元で笑う。

 あ、そうか。半分はわたしのせいなんだ。

 何も分からないまま曖昧に頷いた少し前のわたし(ミハイル様)のせいだ。 

 

「あ、そうか。だからあの時あの場所に」

「そうだぞ、ノイン。団長の恋路を邪魔したんだ。万死に値する失態だ」

 

「す、すみません。団長。絶対取り返しますから。俺、二人の仲が上手くいくように何でもお手伝いしますよ」

 

 ノイン君がすまなさそうに手を合わせるのを、わたしは複雑な思いで眺めた。

 さすがに何か言わなきゃいけない雰囲気だけどぉ……。

 

 グゥ~……

 

 口で何かを言う代わりに、ミハイル様のお腹が大きく鳴った。

 このお店の喧騒の中でもはっきりと聞こえちゃうくらいに大きな音で。



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24:アシュリー嬢求愛作戦会議

 いっときの間の後、三人が一斉に笑い出した。

 わたしは黙って顔を伏せる。

 ちょっとみんな、上司である団長を前にして失礼なんじゃないの?

 最初はそう思ったけど、彼らが作り出す和やかな雰囲気は悪くない。

 粛々と進む宮廷のディナーと違い、このお店や騎士団の皆の、暖かでくだけた雰囲気が、わたしには居心地良く感じられた。

 

「乾杯しましょう」

「ああ」

「我らが団長の恋の成就を願って」

「「カンパーイ」」

 

 皆がテーブルの上で木製のジョッキをぶつけ合う。

 中身が大きく揺れてこぼれ、テーブルを少し汚したけど、誰もそんなことには気にも留めていなかった。

 

 あ、そう。騎士団ではお祈りの代わりに皆でこうやるのね。

 わたしも他の皆に倣ってグビリと喉に流す。

 夜道を早足で歩いたせいで喉も乾いてたのよねー。

 

「えっ。団長? お飲みになるんですか?」

「あ、本当だ」

 

 あれ?

 

「だ、駄目だった、か?」

 

 何か騎士団独自の作法でもあったのかと思って慌てて尋ねる。

 一番目上は皆が酔って羽目を外すことがないように監督する規則があるとか?

 

「いえいえ、全然。さあ飲みましょう。食べましょう」

 

 何か歯の奥に引っ掛かる感じがしたけど空腹には勝てない。

 わたしはジョッキを置いて、テーブルの上に広げられた料理の数々に手を付け始めた。

 

 うん、美味しい。

 濃い味付けが空腹の身体に染みわたるぅ。

 

 しばらくみんな言葉少なに飲み食いした後、ノイン君が口に物を入れながら皆の顔を見回して言った。

 

「それで、どうします? 作戦を練りましょうよ」

「その気になってるところ悪いが、お前の出る幕はないぞ」

 

 エッガースさんが長髪を結わえ直す仕草をしながらノイン君をたしなめる。

 横目に見ながら聞いているわたしには、突然何の話題が始まったのか分からなかった。

 

「そりゃあ俺は何もしないよ? やるのはミハイル団長だろうけど、俺らだってアイデアは出せるじゃん」

「アイデアってどんな?」

 

「アシュリー嬢に何を贈るかとかさ。俺はまずは綺麗な花がいいと思うな」

「ゴホッ、ゴホッ」

 

 むせた。

 ミハイル様が大きな花束を持って屋敷にやってくる姿を思い浮かべてしまった。

 わたしに、求愛をしに?

 ミハイル様が?

 

 昼間王宮でお会いしたリカルド様のお話を考えると、ミハイル様がわたしに好意を寄せていらっしゃるのは間違いないようだけど、明確なヴィジュアルで想像すると、やはり恐れ多いというか、恥ずかしい思いがする。

 

「見ろ。団長もむせてるじゃないか。全然的外れなんだよ」

「的外れぇ? 何が? 女性をどうやって口説くかって話だろ?」

「そんな心配はもっとずっと後にすることだ。彼女、今はそれどころじゃないだろ」

 

 ノイン君に比べて、エッガースさんとシュルツさんの二人は先ほどから何故か訳知り顔だった。

 それこそ当事者であるわたし以上に。

 正体を偽って盗み聞きするのはちょっと後ろめたいけど、気になるものは仕方ない。

 わたしは料理をモリモリと平らげながら耳をそばだてていた。

 

「放っておいたら彼女、処刑されてしまうかもしれないだろ?」

 

 もぐもぐ……もぐ……、処刑……。処刑!?

 

 わたしは口に物を頬張ったまま、シュルツさんの顔をまじまじと見つめる。

 

 何で処刑?

 そりゃあ、敵国と密通したっていう疑いは掛けられたけど、そんな事実もないのに処刑なんて、ないでしょ。

 え、あるの? 嘘!? それって、あんまりじゃない?

 

「待てよ。俺はあの話、でっち上げだって聞いたぜ?」

 

 そうそう。そうよ、ノイン君。言ってあげてよ。

 嘘の証言で処刑なんてあり得ないって。

 

「一方的に嫌疑を掛けておいて違ってましたって言うんじゃ、訴えた方もそれを受理した方も体面が保てないだろ?

 事実はどうあれ、あれだけ大勢の前で訴えられた以上、アシュリー嬢が有罪とされるのは避けられないのさ。何もしなければな」

 

 シュルツさんの落ち着いた声音で説明されると全部もっともらしく聞こえてしまう。

 

 そんな……。じゃあ、メフィメレス家からの暗殺を逃れても、どのみちわたしが殺されちゃうのは避けられなかったってこと?

 何だか急に眩暈がしてきた気がする。

 

「……じゃあ、どうするんだよ? 団長が求婚してもその彼女が処刑されちゃうんじゃあ意味ないじゃないか」

「だからやるべきは求婚じゃなくて、まずは彼女を救う道筋を立てることなんだよ。多分、さっき団長があの場所にいたのも、きっとその策の一環なのだろう。そうですよね、団長?」

「どうしたノイン? 急に顔を青くして」

 

「そんな……。それじゃあ俺、さっきはそれを邪魔して……?」

「そうだぞ。アシュリー嬢が処刑されたら責任感じろよ?」

 

「しょっ、処刑なろ、さぜないっ!」

 

 テーブルが大きな音を立てて揺れた。

 何!? 突然何が起きたの?

 ていうか、今の声、今の声って……。

 あ、ああ、わたしだった。びっくりしたー。

 

 処刑なんてさせてたまるもんですかと頭に血が上って、思わず口に出していたんだ。

 それに、そんなに力を入れたつもりはなかったのに、思いのほか強い力でテーブルを叩いてしまったらしい。

 他の三人が驚いてわたしの方を見ていた。

 

「団長? 酔ってらっしゃいます?」

「……ほとんど空だ。おい、ノイン。奥に行って水もらって来てくれよ」

 

 シュルツさんがわたしの手からジョッキを取り上げ、ノイン君に手渡すのが見えた。

 水ぐらい自分で……、と立ち上がりかけたところをエッガースさんに肩を押さえられ、椅子に座らされる。

 

「大丈夫ですか団長? お酒弱いのにこんなに急いで飲むなんて。さっきのノインの話じゃないですけど、お困りなら俺たちが協力しますよ?」

「そうですよ。ヒーストン家の者と接触するなら俺たちの誰かが代わりに」

「駄目! 駄目よ! わらしが行かないと。直接ぅ、直接会わないと駄目なのぉっ!」

 

 二人が困ったように顔を見合わせる。

 わたしも困っていた。

 なんだか息苦しいし、うまく呂律が回らない。

 

「会うってどなたとですか? まさかアシュリー嬢本人と?」

「そぅっ」

「直接会うと言っても、相手は謹慎中の身ですからねぇ。団長が直接尋ねて行っても会っていただけるかどうか……」

 

 ああ、エッガースさんもやっぱりそう思う?

 わたしも正直厳しいと思ってた。

 そんなことないって、自分に言い聞かせて。平気な振りしてたけど……。

 でも……、やっぱりもうおうちに帰れないんだ。

 わたしの部屋に……、わたしのからだに、もどれないんだぁ……。

 

「た、助け、へぇ。おねっ、がひっ……ぐ。なんとかしてよー……おぇっ」

 

 どうにもならない。

 泣きそうになる。

 悲しい気持ちがあふれて止まらなかった。

 

「あー、だ、団長、落ち着いてくださいよ」

「おい、オヤジ。ここの二階は確か宿だったよな? あ、ノイン。水はいいから肩貸せ肩」

 

「団長って泣き上戸だったか? 前は即、寝落ちしてた記憶なんだけど」

「ああ。もう、じきだ。目がトロンとしてる。脚が動くうちに運ぶぞ?」

 

 猛烈な眠気の中、誰かに身体を支えられ、狭く粗末な階段を上っていったことは覚えている。

 ああ、そりゃあ、こんな大柄なミハイル様が眠ってしまった後で、二階に運ぶなんて難儀でしょうねぇ。

 まるで他人事のように納得しながら、わたしは促されるままに階段を上った。



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25:無断外泊の朝

 翌朝、目が覚めてもなお、わたしはミハイル様だった。

 全てが夢であれば良かったのにと思う。

 いっそのこと、ヴィタリスにそそのかされて、あの崩れかけの寺院跡に出掛けた辺りから、全てが夢であってくれれば良かったのに。

 

 ──オリスルトの国は、そこに住まう臣民の多くが思っているほどには安寧としたものではない。

 長年対立しているアダナス帝国との戦力差は容易に埋め難く、本当はいつ攻め滅ぼされてもおかしくないのだと……。その話を聞かされたのは、リカルド様から初めてはっきりとした言葉で求婚を受けた日のことだった。

 

 自分と結ばれても幸せになれるとは限らないのだという、泣き言とも謝罪とも付かない告白。

 そのときは求婚されたことが単純に、ただ無邪気に嬉しくて……。わたしに対して申し訳なさそうにされるリカルド様に向かい、わたしは気になさる必要はありませんと言ってお慰めし、求婚のお申し出をありがたくお受けした。

 けれど、そのときのリカルド様のご様子があまりに深刻に見えたため、ずっと心に残っていた。

 どうにかして、その心労を取り除くお手伝いができればと考えていたのだ。

 浅はかにも。

 わたしのような小娘が何をどうしたところでお役に立てるはずもないのに。

 

 あの崩れかけの寺院跡の話をヴィタリスから聞いたのは、それからしばらく後のことだった。

 遥か昔、祈りによって一つの国を救った聖女の伝説があるという話。

 護国豊穣を願う祈りは、未婚の乙女がその地に直接赴き、誰にも……、特に王家の血を引く者には絶対知られずに、人目をはばかって行う必要があるのだと……。

 もちろん完全に信じていたわけではないけれど、もし本当なら、わたしがお役に立てるのは、自分がリカルド様に嫁ぐ前の、残り僅かな時間しかないと考えた。

 いいえ、そう思わされてしまった。

 

 今にして思えば、あからさまな作り話だと分かる。

 あのとき王宮の一室で、ヴィタリスと二人きりになったことも、あまりに作為的だった。

 けれど、そのときのわたしは、まさかただの小娘に過ぎない自分のような者を陥れる人間がいようとは思わずに、何も疑うことをしなかった。その報いが──。

 

 

 わたしは見知らぬベッドの上で自分の目をゴシゴシと擦った。

 その手がミハイル様の大きく硬い、男の人の手であることにハッとして、跳ねるように上体を起こす。

 こめかみにズキリとした痛みを感じ、自分が昨夜酒に酔って二階に運ばれたことを思い出した。

 衣服は昨日寝る前に身に着けていたままで、当然そばに着替える新しい衣服もない。

 そのことを気持ち悪く感じたけれど仕方がない。

 待っていたところで、どこからか侍女がやってきて着替えさせてくれるわけもないのだから。

 

 気休め程度に衣服や頭髪の乱れを直した後、わたしは狭い部屋を出て、狭い階段を下りていった。

 幸いメフィメレス家からくすねてきた小箱とその中身はちゃんと枕元に置いてあったのでそれも忘れず手に持つ。

 

 危ない危ない。

 酔っぱらってこれをなくしていたら台無しになるところだったわ。

 

 昨夜大勢の男の人たちが飲み食いしていた大きな食堂は、今は四、五人程度がそれぞれ一人で食事を摂っているだけでガランとして見えた。

 

「ミハイル様。昨日のお連れの方から言伝を預かっておりますよ?」

 

 そう言ってカウンターの奥から、中年の男の人がエプロンで手を拭きながら姿を現した。

 

「いいですか? お伝えしますよ? 事情聴取という名目でアポイントを取ったので正面から訪ねてください。だそうです。それでお分かりになりますか?」

 

 わたしは昨晩一緒に食事をした三人の顔と名前、それから彼らと話した内容を必死で思い出そうとした。

 今の話を自分に都合良く解釈すると、ミハイル様(わたし)が酔い潰れて寝ている間にあの三人が、ヒーストン家に入るための段取りをつけてくれたってことになるけど……、本当にそうかしら。

 

 本当に身勝手な都合の良い解釈だけど大丈夫?

 そんなお願いしたっけ、と不安になる。

 

 でも考えていてもその答えは出ないし、こうして店主さんと見つめ合っていても仕方がない。

 彼の仕事の邪魔になるだけだ。

 

「えーと。お代……かしら?」

 

 わたしはどこかのポケットに財布らしきものがあったはず、とあちこちをまさぐった。

 

「いえいえ。大丈夫ですよ。いただいてます。えーっと、お代は……、ノインさん。ノインさんが払ったと、そこはしっかり伝えてくれと頼まれましたので、えぇ確かに」

 

 なるほど。あのノイン君らしいな、とわたしは頷く。

 それに、夕べのあの三人の様子、ミハイル様を慕っていた彼らの気立てであれば、確かに全てを語らずとも、団長の困りごとを察して動いてくれるかもしれない。

 なんたって、ヒーストン家の中に入りたくて、あの塀の周りをうろうろしていたわけだしね。

 わたしはたった一度食事をしただけの彼らからの言伝を百パーセント信用することにした。

 

 いいえ、違うわね。

 自分で自分に訂正しよう。

 信用するのは彼らと、彼らに慕われるミハイル団長の人徳をだわ。

 

 店主さんに礼を言い酒場を後にする。

 

「いえいえ。騎士団の皆さまにはいつもご贔屓にしていただいていますので。またよろしくどうぞー」

 

  *

 

 ヒーストン家の前まで行くと、開かれた門の前にはメイド長のハンナが立ってわたしを待ち構えていた。

 よく見知った顔に会えたことで安心して表情が崩れそうになる。

 けれど近付いていくと、彼女の白髪混じりの頭頂部が自分の目線よりも大分下にある違和感に気づく。

 そうだ、今のわたしはミハイル様なのだったと気を引き締めた。

 

「お待ちしておりました。王国騎士団長のミハイル様でございますね?」

「う、うむ」

 

 わたしに対していつもお小言の多いハンナが、朝帰りのことを叱りもせず、こんなに恭しくわたしを迎えるだなんて。

 自分に盗み聞きなどをする趣味はないと思っていたけど、自分ではない別の誰かに対する知り合いの様子を、こんなふうに観察できるのはとても新鮮で興味深かった。

 

「えー、今日は事情聴取に──」

「お話は伺っております。昨夜のうちに団員のかたがいらっしゃいまして」

 

 昨夜? そうか、どうりで。

 まだ朝早くだというのに、訪問のアポイントが取れているというのは手際が良すぎると思った。

 ノイン君たちはきっと夜中のうちにヒーストン家を訪ねてくれたんだ。

 直接話してお父様を説得してくれたのは、しっかり者のシュルツさんか、外面の良さそうなエッガースさんではないかという気もするけど。

 分かったわ、ノイン君。昨日、通用口に現れたリゼに話しかけるのを邪魔したことはこれでチャラにしてあげる。

 

「案内を頼む……」

 

 ハンナはミハイル様に丁寧にお辞儀をして応接室に通してくれた。

 ミハイル様の振りをしなければいけないのは相変わらず緊張するけど、見知った場所に見知った相手というのは心強い。

 

 あとは、自分の部屋まで行き、寝ているわたしにくちづけをすれば良いだけね。

 でも、元に戻った後はどうしよう。

 無理矢理押し入って、他人の家の令嬢の唇を奪ったとなれば、もとに戻ったあとのミハイル様にご迷惑がかかってしまう。

 どうにかして二人きりになる状況を作らないと。



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26:ルール無用の残虐プロポーズ

 長い時間応接室で待たされ、出された紅茶を飲み終えた頃に家主であるお父様が入ってきた。

 

「よくお越しくださいましたミハイル様」

「突然の訪問にお応えいただき感謝します」

 

 出された手を取り握手を交わす。

 部屋に入ってきてからそこに至るまでの仕草だけで、わたしはお父様がだいぶ不機嫌なご様子なのを感じ取っていた。

 

「それで?」

「ええ、実は……」

 

 貴方の娘さんとキスをさせてもらいに……なんて、言えるわけもない。

 わたしは宿からここに来るまでの道すがらと、待たされていた時間に考えた筋書きどおりに会話を運ぶ。

 

「急ぎ、アシュリー嬢からお話を伺わねばならなくなりました」

「娘は王から命じられ謹慎中の身です」

 

「それは承知しておりますが、事は一刻を争います。是非直接会ってお話ししたい」

「話であれば私を通してもできましょう。この上、王命に背いて客人を通したとなれば、いよいよこのヒーストン家も危うい。どうか、ご理解いただきたく──」

 

「敵国との内通の嫌疑についてです。速やかに疑いを晴らさねば、アシュリー様のお命が危ない。わたしが後ろ盾となって、必ずや彼女の無実を証明してみせます」

「……騎士団が後ろ盾となっていただけるというのは……、それが本当であればありがたいお話ですが……。質問ならば私が取り次ぎます。どうしても確認したいことがおありなら私が娘から聞いてお伝えします」

 

 お父様……。自分の娘の命がかかっているというのに頭が固いわね。

 でも、お父様の性格だし、これは想定どおりよ。

 会わせたくても会わせられない事情があることも分かってるしね。

 

「ご身内を通しての証言では証拠になりません。それに、今回の仕組まれた嫌疑を晴らすには、証言よりも強力な証拠が必要です。騎士団としては、真実を調査するための臨検を考えております」

「臨検……?」

 

「はい。彼女がお忍びで訪れたという寺院跡に我々騎士団と同行していただきたい。敵国の者と密会していたのであればそこに出入りした証拠があるはずです。いえ、何もないことを確認しに行くのです」

「しかし……」

 

 できないでしょう?

 だってアシュリーは昨日から眠ったまま、どんなに強く揺すっても、ほっぺをつねっても目を覚まさないんですもの。

 騎士団が後ろ盾になって娘の無実の証明に尽力してくれるというのは、お父様にとってありがたい申し出のはず。

 できれば受けたいけど、できない事情がある。

 だから、実は娘が目を覚まさないのだという事情をお父様から説明してもらい、それを聞いたわたし(ミハイル様)が、なんとそれは大変、と大袈裟に嘆いてみせる。

 せめてお見舞いをさせてください、事実かどうか確認させてください……という筋書きよ。

 

「何故、娘のためにそこまで……」

 

 ん……?

 いや……、そうくるか。

 確かに普通はそこ、気になるわよね。

 

 王様や王子から見限られた伯爵家の娘一人をわざわざ助ける理由なんて普通、あるはずがないもの。

 みんなして寄ってたかってわたしを有罪にしようとしてるのであれば、それに味方するということは、王やメフィメレス家を敵に回すことになるはず……。

 

 おや? あれれ……?

 お父様? 顔が怖いんですけど?

 なんかわたし、凄い顔で睨まれてますけど?

 

 これは、わたしが──ミハイル様が、信用に足る男かどうかを見定めようとしてます?

 ああ、きっとそうだわ、このお顔。

 お父様にとっては、きっと次の一言が重要なんだ。

 何か……、何かしっかりした理由を返さなきゃ。

 

 お父様には子供のころから、よくこんなふうにしっかりと目を合わせて、問答をするように躾を受けていたっけ。

 そんな昔の記憶を思い出す。

 

 考えなさい、アシュリー。

 今お父様と向かい合っているのは()()()じゃないわ。

 ミハイル様ならどう答えるか考えるのよ。

 一昨日までのわたしなら、ミハイル様のお顔とお名前ぐらいしか知らなかったけど、昨日の一日だけで何百日分もお話ししたくらい、彼の人となりが分かったはず。

 親友のリカルド王子から、どんなふうに言われてたっけ?

 気の知れた騎士団のみんなから、どんなふうに言われてたっけ?

 ミハイル様なら……、こんなとき、どう答えるのが正解……???

 

「わたしがアシュリー嬢を……お慕いしているからです」

 

 あ、あれー……!?

 わたし、勢いで何を言っちゃってるの?

 全然、こんなこと、言う予定じゃなかったのに。

 ミハイル様の口で、わたしに、アシュリーに、好意を寄せてるなんて話ぃ!

 いや、実際根も葉もない話ではないんだけどぉ……!

 なんでここで、自分で言っちゃうかなぁ?

 自分でぇ……! ミハイル様に言わせちゃってるかなぁ!?

 こんなの絶対反則よ。

 ミハイル様ごめんなさい。

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!

 

 お父様はミハイル様の超ド級の問題発言を聞いても眉一つ動かさず、ジッとわたしの顔を見つめ続けていた。

 わたしも、それに怯むことなくその真剣な目を見つめ返す。

 ここで怯んでは駄目な気がした。

 言ってしまった以上、その立場を貫き通さなければ。

 わたしは内心、混乱と動揺のさなかにありながら、必死でそれを表情に表さないように努め、お父様と長い間見つめ合っていた。

 

「……分かりました。我々も、もはや貴方様を頼る他ない身の上です。娘をお救いいただくことができれば、娘は貴方様に差し上げましょう。いえ、是非もらってください」

 

 ドン!

 

 お父様がそう言い終わった途端、部屋のドアが大きな音を立てた。

 誰かが外から思い切り叩いたような音。

 それを聞きつけ、お父様が席を立った。

 

 音のことは多少気になったけど、わたしはそのせいで幾らか考える間ができたことに感謝する。

 乱れた気持ちに必死で整理を付けようとする。

 

 勢いと成り行きで発してしまった自分の言葉で、何か大変なことが決まってしまったらしいという実感が湧いてくる。

 

 今起きたのはこういうことだ。

 今この場にいない、自分の部屋で眠っているはずのアシュリー(わたし)。

 そのアシュリー(わたし)のあずかり知らぬところで、先日王子から婚約破棄されたばかりのわたしの身の振り方が決まってしまったらしいのだ。

 

 わたしの気持ちも確かめないうちに、お父様ったら勝手に婚約を了承したりして……!

 

 そんなふうにお父様に対する憤りに震えるわたしがいる。

 けど、本当の本当は、わたしは、今この場に居合わせ、何もかも知っているのだった。

 知っているどころか、その提案を切り出したのはわたし自身なのだ。

 自分で自分に求婚しておいて、お父様に対しそんな言い草はないでしょうにと憤る、もう一人のわたしもいる。

 もう、頭の中は混乱しっぱなしで、何が何やら分からなくなっていた。

 

 顔が熱いわ。

 自分のやったことが、恥ずかしくて死んじゃいそう!

 

「娘が会うと言っています」

 

 一度部屋から出て行き、戻ってきたお父様が言ったその言葉。

 最初は、ああそうか、悶絶するほど恥ずかしい思いをした甲斐あって、ようやく自分の身体と対面する許可が得られたんだ、という安堵がさざ波のようにやって来た。

 そしてその次に、()()()()()()()()()()()という荒れ狂う大波が押し寄せ、それ以外の全ての気持ちが一気にさらわれた。

 

 いま、会うって言った!?

 娘が会うって?

 お父様の娘ってわたしでしょ?

 寝ているはずのわたし(アシュリー)が、どうやって今のわたし(ミハイル様)に会うって言うのよ???



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27:伯爵令嬢アシュリー(誰!?)登場

 リゼに付き添われ、入口から静々と歩いてきた儚げな美少女の姿を、わたしは椅子に腰掛けたまま、信じられない気持ちで見守っていた。

 彼女がどこか恥ずかしそうに、伏し目がちにしながら、お父様の横に座った後も、わたしは身動き一つできず、まるで呪いで時間を止められてしまったかのようだった。

 あれ? もしかしたら心臓も?

 慌てて自分の胸に手を当てると、こちらは信じられないほど速く脈打っていた。

 

 わたしだ……!

 わたしが動いてそこにいる!

 

 そんな一目見れば分かることを、心の中で馬鹿みたいに叫ぶだけでも、随分と時間を要した。

 目の前のわたし(アシュリー)は、昨日とは違い、ちゃんと人前に出られる綺麗なドレスに着替えていて、非の打ちどころのないお嬢様を装っていた。

 あ、あれ? ただちょっと、前髪の間から見える額のところが少し赤くなっている。

 どこかでぶつけたのかしら? わたしったらドジね……。

 

 ……などと、そんな益体もないことに(うつつ)を抜かしている間にも話は進んでいたようだ。

 お父様が怪訝そうにミハイル様の名前を呼ぶまで、何が話されていたのかは、ほとんど……、いえ、まったくもって頭に入っていなかった。

 

「──お聞かせいただけますかな? ミハイル様」

「えっ!? ええ、はい」

 

 そうだ。わたしはミハイル様だった。

 ここにいるわたしはミハイル様。

 じゃ、じゃあ目の前にいるわたしは一体誰?

 入れ替わっている間、自分の身体は眠ったままでいるものだと思ってたのに。

 まさか起きて動いているわたしと対面することになるなんて。

 

「ミハイル様!?」

「はいっ。と、とても、お美しいと思います」

 

 反射的にミハイル様の口がそう言った。

 彼女──アシュリーの肩が僅かに揺れた。

 それからゆっくりと顔が上がりわたしと目が合う。

 不思議な気分。

 わたし自身と見つめ合うなんて。

 アシュリーのわたしが口をパクパクと開く。

 

 え? なに? なんて言ってるの?

 

 訴えかけるような表情からして、何かを伝えようとしているのは分かったけど、わたしには読唇術の心得なんてないのだから、急にそんなことをやられても分かるはずがない。

 貴女も()()()なら、それくらい分かるでしょ!?

 

 でも、その場の空気と、隣にいるお父様の様子を見て、どうやら自分が間違った応答をしたらしいことだけはどうにか察することができた。

 まずいわ。不審に思われないようにしなきゃだわ。

 

「いや、私の自慢の一人娘です。お褒めいただくのは光栄なことですが、今はそんな場合ではないでしょう。騎士団立ち合いの下、現場の検分をした程度で身の証になりますか? とお尋ねしているのですよ?」

 

 お父様は明らかに苛立っていた。

 それを取り成したのは後方に控えていたメイドのリゼだった。

 

「恐れながら旦那様。しばし、お二人だけでお話できる時間を設けて差し上げては?」

 

 ナ、ナイスアシストよ、リゼ。

 

「何を馬鹿なことを──」

「私からも、お願いいたします」

 

 振り返ってリゼを叱りつけようとするお父様の言葉を遮ったのは、()()()()()()()()()──アシュリーである方のわたしだった。

 

「王と意見を(こと)にし、当家にお味方いただくのは相当の覚悟がお要りようでしょう。ですからきっと、確証が欲しいのだろうと思います。見返りとして得られる、その……、わ……わた……くしの……、愛を……」

 

 途中まで淀みなく紡がれていた言葉が、最後の方は非常に言いにくそうに、恥ずかしげなものへと変わっていた。

 手をぎゅっと握り、肩が小さく震えている。

 伏し目がちになった顔が真っ赤に染まる。

 

 そりゃそうでしょうとも。

 そんな恥ずかしい台詞、ミハイル様やお父様の前で言わされるなんて。

 ()()()()()赤くなると思う。

 

 それを聞くミハイル様の方のわたしは、自分ではない自分がしゃべっていることに、ただ唖然とし、口をあんぐりと開けたままにしていた。

 

 お父様は口の中で何かモゴモゴと反論してらしたようだけど、やがてリゼに腕を引かれるようにして部屋を出ていってしまった。

 

 わけも分からないまま、あれよあれよという間に、わたしは当初の目標どおり、自分の身体と二人きりになるという願ってもない好機に恵まれていたのだった。

 その身体が、主人であるわたしの意思などお構いなしに、自分勝手に伯爵令嬢として振る舞っているという想定外の状況ではあったのだけれど。



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28:二人きり、重なる唇

「そろそろ、その開いたままの口を閉じてくれないか? 自分のそのような間抜けな表情を、直視せねばならんとは趣味の悪い拷問のようだ」

 

 二人きりになってすぐ、()()()()()()()()()が口にしたのは、先ほどまでのアシュリーとは全く異なる辛辣な言葉だった。

 けれど、驚いてばかりもいられない。

 彼女は()()()じゃない。

 そうと気付いた途端、何が起きているのかが、それこそ天啓のようにわたしの中で閃いた。

 

「ミ、ミハイル様? ミハイル様なのですか?」

「何故君の方が驚いているのか分からないが、そのとおりだ」

 

 目の前の女性は少しホッとした表情を作りながら、片手で自分の髪をかき上げる仕草をした。

 ああ、そんなことをされては、折角綺麗に整えられた髪が乱れてしまいます。

 

 少し残念な自分の姿を目にしたことで、不思議と心に余裕が生まれたらしい。それ以上は動揺せずに済んだ。

 ようやく事態を飲み込めたことで、自分の中に安堵の思いがドッと流れ込んできた。

 暖かな感情に満たされ何故だか涙がこぼれそうになる。

 わたしは開きっ放しだと指摘された口元を隠すようにして、両手で顔のほぼ全体を覆った。

 

「だって……、驚きます。入れ替わっているなんて。いえ、一度は思い浮かびましたけど、お相手の方は今までずっと眠っていらしたから……。

 そうだ。ミハイル様は、どうしてこの姿のわたしがアシュリーだと?」

「リゼ殿の推論だ。私も随分混乱したが、彼女が目覚めた私に根気良く付き合ってくれてな。二人が意識をなくす前後の情報を突き付き合わせて考え、おそらくそうではないかと」

 

 リゼが? どうりで訳知り顔だったわけだわ。

 

「一体いつ、どうやってお目覚めに?」

 

 あれだけ顔をつねっても起きなかったのに。

 

「昨日の夜だ。夕食の時間までずっと目を覚まさなかった私……、いや、この場合は君か。眠ったままであったアシュリー嬢に気を揉んで、リゼ殿が身体を揺すっていたところに私が突然目を覚ましたらしい」

 

 お父様がいらしたときと違い、キビキビと話すアシュリーはまるでミハイル様のようだった。

 そう思って見ているせいもあるとは思うんだけど、目付きや物腰が自分だとは思えないくらい凛々しくて格好良い。

 

 ……でも、そうか、昨晩の夕飯前か……。

 それってわたしが王宮でヴィタリスと入れ替わった頃合いよね?

 もしかすると、呪いの力で眠ったままになるのは一人だけってこと?

 続けてもう一人と入れ替わると最初の一人は追い出されるようにして目覚めちゃうってことかしら?

 などと、わたしは想像をたくましくする。

 

「それよりも早く。できるならすぐにでも元の身体に戻りたいのだが……。

 それが可能だからこそ、こうやって無理を押して会いに来たのだろう?」

「も、もちろんです。……多分」

 

 もちろんそうするつもりでいた。

 けど、それは眠っているわたしに対してそうするつもりだったという話だ。

 まさか、起きている自分に対し……、こうやってお互いに目を合わせて話しているミハイル様を相手にすることだとは思っていなかった。

 心の準備が全然できていない。

 

 わたしがもじもじとし始めたことにミハイル様が目敏く気づく。

 

「もしかして、その、元に戻る方法というのは……」

「は、はい……。その……、入れ替わったときと同じで……」

 

 ミハイル様もそのことは薄々察していたらしい。

 なにしろ昨日意識が途切れる前に、ご自分がわたしに対してなさったことは当然憶えているはずなのだから。

 こうなった切っ掛けが分かれば、元へ戻る方法にも想像が付くというものだ。

 

 二人して向かい合い、気まずくする。

 

「君のお父上がお戻りになる。急がなければ」

「はい……」

 

 そうするために、お互い椅子から立ち上がり距離を詰める。

 だけど、そうやって近付くほどに意識してしまう。

 

「もし、良ければ、私の方から……、その……」

 

 言いにくそうにしながら、ミハイル様(アシュリー)わたし(ミハイル様)の顔を見上げた。

 今の彼の背丈では背伸びをしてもわたしの唇に届かないのだ。

 そんな自分を見下ろし、わたしはどこか倒錯的な感覚に陥っていた。

 こんな小さく、か細い女性の姿のミハイル様の唇を、わたしが奪うだなんて……。

 

「い、いえ。確かなことは分かりませんが、恐らく元の身体に戻る場合は、わたくしのほうから……」

「そ、そうか……。では、頼む……」

 

「あっ」

「どうした!?」

 

「元に戻った直後は気を失ってしまいますので、その……、横に……」

 

 そう言ってわたしはこれまで自分が使っていた長椅子を指差した。

 

「あ、ああ。分かった」

 

 その後、どちらがどういった向きで座るのか、あるいは寝転がるのかといった問題について、不器用なやりとりを繰り返しながらも、ようやくその位置を決める。

 結局、二人で並んで座り、わたしが身体を横に回してミハイル様のアシュリーにくちづけすることになった。

 いつ、お父様が入ってくるかも分からないという緊張感も重なって、わたしの後ろめたい気持ちに拍車がかかる。

 

「あの……」

「何だ?」

 

「目を……、閉じていただけますか?」

「あ、ああ。これはすまない」

 

 目をきゅっとつむり、お可愛らしくするミハイル様のお姿を前に、身体の内から堪らない衝動が湧き起こる。

 その衝動に押されるがまま、わたしはずっとこのときを待ちかねていたかのように激しく唇を重ねた。

 



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29:元通り、一件落着?

 ノックをして扉の隙間からリゼが顔を覗かせたときには、わたしたちはすっかり元通りになっていた。

 

 案の定、元に戻った直後にミハイル様は気を失ってしまったけれど、わたしはすぐに自分の膝の上で眠るミハイル様のお身体を揺すって起こして差し上げた。

 そうして互いの身に起きた不可思議な出来事について感想を述べ、男の身体とは、女の身体とは、どのような感覚であったかを熱く語り合う……、なんてことは当然なくて、互いに最初とは反対の椅子に掛け直し、気まずい思いを抱えてジッと座っていたのだった。

 

「どうなのです? 元に戻られたのですか?」

「ああ、それは問題ない」

 

 そう言ってリゼの問いに答えたのはミハイル様だ。

 ミハイル様の姿のミハイル様。

 当たり前のことなのに、なんだかそれが凄く尊く、納まりよく感じる。

 

 その返事を聞いたリゼはホッと胸を撫で下ろし、部屋の外からお父様を呼び寄せた。

 

 そうして手際よくしているリゼを見て、わたしはまた安心の度合いを強くする。

 きっと、リゼにはかなり助けられているのだろうなと思う。

 昨夜わたしが屋敷の裏口で見かけた正体不明の人影──リゼに無理矢理屋敷の中に連れ戻されていた人物──、あれはわたしの姿になったミハイル様だったに違いない。

 

 とにもかくにも、どうにかこうにか、わたしは元通りアシュリーとして屋敷に帰ってくることができたのだ。

 そのことだけでわたしは全てをやり遂げたような達成感に浸りきっていた。

 安心し過ぎて、さっき目が覚めたばかりだというのに凄く眠くなってきた。

 お父様と、ミハイル様、それにリゼが混じって交わされる会話を、わたしはそんな迂闊な微睡(まどろ)みの中で聞いていた。

 

「──よろしいですよね? お嬢様……、アシュリー様?」

「聞いているのか、アシュリー。ちゃんとお前の口から聞きたいのだ」

「えっ? は、はい」

 

「……よし、決まりだ。リゼ、くれぐれも後のことはよろしく頼んだぞ。取り決めたことは全て紙に書いて残しておくように」

 

 お父様は少しためらいがちにしながらも、半分は自分自身をそうやって納得させるように宣言し、忙しなく部屋を出て行った。

 今日は王宮からお呼びがかかっており、これから出頭しなければならないそうだ。

 ヒーストン家に騎士団の訪問があったことはまだ周囲に知られぬようにと、お父様に向かってミハイル様が釘を刺しておられた。

 

 そうして改めて、部屋には事情を知る三人だけが残された。

 

「申し訳ございません。こんなときですのに、わたくし、凄く眠くなってしまいまして」

「いや、すまない。その責は私にもある。なにしろ昨夜はほとんど一睡もできなかったものだから」

 

 ああ、それでこの身体はこんなにも眠りを欲しているのか。

 

 だけど、だからといって残りは後日、と言うわけにはいかなかった。

 わたしからの事情説明なしには、もはや何も始まらない状況だ。

 わたしは眠気を堪えて、自分の身に起きた不思議な出来事──鏡の中の悪魔が語った呪い──について説明を始める。

 リカルド王子と入れ替わった経緯などは、わたしにとって気恥ずかしい事柄も含んではいるけれど、すでに半ば以上知られてしまっているのだから、いまさらためらっても仕方なかった。

 

 昨夜のうちにその可能性に思い至っていたこともあって、ミハイル様とリゼの方は、わたしが説明した鏡の悪魔による非常識な呪いについて、とにかく()()()()()()()と納得したようだった。

 どれほど不思議なことであっても、その身をもって体験した以上、信じる以外にない。そうでなければ、自分たちの気が触れてしまったと思うかのどちらかだ。

 

 それからわたしは、長椅子の上にずっと置きっぱなしにしていたルギスのあの小箱を取り上げ、中身についての説明を始めた。



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30:手に入れた情報

 

「君は私の想像より遥かに思い切りの良い性格をしていたようだ」

 

 わたしが一通り説明を終えたあとの、ミハイル様の第一声がそれだった。

 わたしの方はそれを聞いて、ミハイル様貴方という人は思いのほか皮肉屋でいらっしゃったのね、と思った。

 言葉を飾らずに言えば、考えなしのお調子者──思慮分別を良しとされる貴族女性にあるまじき粗雑な性格を隠しておいででしたね──と言われたようなものなのだから。

 

「あっ、あのまま黙っていたら殺されていたのかもしれないのですからっ。必死にもなろうというものですっ」

 

 もはやわたしに取り繕うべきことなど何もない。

 わたしは、腕を組んで思い切り不機嫌にしてみせた。

 自分の無様は心得ておりますから、このうえ糾弾は無用ですと示すように。

 

 それに対し、ミハイル様はプッと噴き出し、笑って応えたのだった。

 なんてことなの。

 いくら、わたしがもう王子の婚約者ではないただの伯爵令嬢に過ぎないからといって、それは一般的な礼すら欠いているのではありませんか、ミハイル様?

 

 そうだ、ミハイル様。

 貴方はわたしに……、その、こ、好意を、お寄せだったはず。

 幻滅したからといって、本人の前でそれを(あげつら)って(わら)うなんてあんまりです。

 

「笑いごとではありませんよ、ミハイル様」

 

 わたしが続けてそう言うと、ミハイル様はいよいよ堪えきれなくなったというご様子で、お腹を抱え、笑い声を誤魔化すように不自然に咳込み始めた。

 

「ああ、いや、すまない。笑ったわけでは……、くっ……、くふっ、ふっ……」

「笑っております。明らかに笑っておりますよ? ミハイル様だって、メフィメレス家の陰謀を憂いていらしたではございませんか」

 

 わたしが言いたかったのは、同じ状況になればミハイル様だって、多少危険を冒してでも潜入を試みたでしょ? ということだ。

 案の定というべきなのか、ミハイル様はメフィメレスの名が出ると、ようやく落ち着きを取り戻し、目元を拭って椅子に掛け直した。

 

「すまない。むくれる君の様子があまりに意外で可愛らしかったもので、つい」

 

 かっ、可愛ら……、ええっ!? なんなの?

 そんなさらりと、人を惑わすようなことを……!

 

「ルギスの書斎から入手したこの密書については本当に感謝している。思い切りが良いと言ったのは、君のその性格に救われたと思ったからだ。こんな場ですまないが、騎士団を代表して礼を言わせてもらう。ご協力感謝する」

 

 わたしの動揺をよそに、ミハイル様はすっかり騎士団長のミハイル様の態度に戻り、真面目な話を始めていた。

 一瞬前にご自身が口にした軟派な台詞のことなど、きれいに忘れてしまったみたい。

 こっちは自分の顔が赤くなっていないか気になって仕方がないというのに、……酷いわ。

 

「実は私たち騎士団が行方を追っていた我が国の魔法士の居場所が記されているようなのだ。この書簡には」

「……魔法士……、我が国、オリスルトの者ですか?」

 

「そうだ。半年ほど前、タッサ王からルギスに対し、メフィメレス家が持つ秘術の力が誠かどうか、示して見せよと命が下ってな。ルギスは我が国の魔法士の一人を被験者として、その男が持つ魔法の力を飛躍的に高めて見せたのだ」

「そんなことが……」

 

「ああ。極秘のことだから、表向きは王と側近ぐらいにしか知られていない。だが、王の前で披露された魔法は、確かに従来のものとは比較にならぬほど強力なものであったそうだ」

「それは……、この国にとっては大層益になることでしょうね」

 

 その力があればきっと、オリスルトとアダナスの戦力差が埋まるはず。

 王子が気に病んでらしたこの国の危機的状況、それを解決できるのだわ。

 

 そこまでのミハイル様の説明で、わたしは暗い気持ちになっていた。

 それでは仮に、ヴィタリスが嘘をついていて、彼女が非道で手に負えない悪女であるという事実を知ったとしても、国王様は国を守るためにメフィメレス家に味方するはず。

 

「王の信用を得たルギスは、この王国のどこかに屋敷を与えられ、秘術に必要な薬を大量に調合する準備を進めているという。国防上の重大機密ゆえ、その屋敷の場所はずっと秘匿されていたのだが、この書簡に書かれた手掛かりを用いれば、その場所を突き止めることは容易だろう」

「お待ちください。王の信を得てなされていることなら、それを暴いて突き止めることにどのような義があるのでしょう?」

 

 わたしがそう言うと、ミハイル様は驚いた顔をなされた。

 そしてご自身の前髪を掻き上げ、少しはにかむようにして笑う。

 

「うむ。やはり殿下が自慢なされていたとおり、聡いお人であるな」

 

 ちょっ、またっ。

 褒めたり、貶したり……、人をからかうのはやめていただけます?

 

 うつむくわたしの動揺を知ってか知らずかミハイル様は説明を続ける。

 

「王の前で強化された魔法を披露してみせた、その魔法士の男の行方が知れぬのだ。ルギスは自分の研究を手伝ってもらっていると言うのだが、その男、もう半年以上誰にも、家族の前にも、顔を見せぬという……」

「それだけ秘密を厳重になされているというだけでは? 関わる者を最小にして、関係者をなるべく外に出さぬようにするのは、秘密を守る上では鉄則かと」

 

「その男の家族から騎士団に請願があったのだ。姿をくらます前の男の様子が、その……、異様であったと」

 

 異様という言葉でボカされたけど、ミハイル様がそこに不審を抱くぐらいには、それは異様であったに違いない。

 単に体調が悪そうにしていたとか、その程度の話であればそんなところで言葉は濁さないはずだった。

 

「……何が行われているのでございましょう?」

「分からない。だが、その謎もこれでようやく解けるに違いない」

 

 ミハイル様はわたしから受け取った小箱を手で撫でさすった。

 

「私はルギスの秘薬には何らかの副作用があるのではないかと考えている。亡命してきたルギスの知識だけでは完全な薬を調合できないのかもしれない。この密書の内容は私のその考えを裏付けるものだった」

「では、それを持ってタッサ王に直訴を?」

 

「いや、これではまだ足りん。確かにこれは真実に肉薄するものであるが、ルギスの悪意までは証明できない。仮にも、王やそれに近い者たちの不明を指摘することになるのだ。もっと、言い逃れできぬ致命的な証拠を掴む必要がある。手遅れになる前に」

「手遅れ……?」

 

「ああ、アシュリー。君や父君には不安な思いをさせるが、少しの間我慢して待っていて欲しい」

 

 わたしはミハイル様がいつの間にか、わたしの名前を気安く呼び捨てにしていることに動揺し、直前にあったとある違和感のことを見過ごしてしまっていた。

 

 だって、今の声音や愛おしげな目線のくれ方なんて、まるで想い合った恋人同士みたいじゃない。

 あれで動揺するなというのは無理な話よ……。



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31:反芻、思わぬ報せ

 ミハイル様がお帰りになった後、わたしはリゼから、わたしになっていたミハイル様とどのように過ごし、どのような話をしたのかを詳しく、根掘り葉掘り聞き出した。

 

 リゼによると、昨晩遅くに門を叩いたノイン君たち騎士団の面々が屋敷の中に通されたことも、その後、お父様がミハイル様とお会いになる判断をなされたことも、全てミハイル様とリゼが相談し、裏で機転を利かせた結果であるらしかった。

 確かに、屋敷の中に協力者がいなければ、あれほどすんなりアポイントを取り付けることはできなかっただろうと思う。

 

 わたしがミハイル様のお姿でアシュリーへの好意を打ち明けた場面も、しっかり立ち聞きされていたことが分かった。

 あのときドアを叩いた大きな音。

 あれは、わたしの姿のミハイル様が思わず額を打ち付けた音だったらしい。

 

 その話を聞き、わたしの中で再びあのときの()()()()が反芻され羞恥心が蘇る。

 

 そういえば、あのこと(婚約の件)についてミハイル様は何も触れずに帰ってしまわれた。

 ミハイル様なりにわたしに気を遣っていただいたのだろうか。

 

「何をおっしゃられるのです? あれだけしっかり旦那様に念押しされていたではありませんか」

「……何をです?」

 

「やっぱり。心ここに在らずだとは思っておりましたが」

「……お父様がお発ちになる前のことかしら?」

 

 あのときのわたしは、元の身体に戻れたことですっかり安心してしまい、眠気がとめどなく込み上げ、朦朧としていたのだった。

 

「そうですよ。あの後、ミハイル様はお二人の前でもう一度お嬢様に求婚されたのです。正式な婚約は、お嬢様に掛けられた嫌疑が無事晴れたあとに、とのお話でしたが──」

 

 え……。

 

「──旦那様はもうすっかりその気でございますよ? ヒーストン家の行く末はミハイル様のお力に掛かっているのだと」

 

 ええっ!? 嘘、嘘でしょ?

 本気なのですか、ミハイル様?

 てっきり、……てっきりわたしはとっくに幻滅されているものかと。

 勝手にお身体を拝借し、あれほどご迷惑をお掛けしたというのに。

 わたしは勝手に他人の口で婚約話を切り出すような慎みのない女なのよ?

 

 でも……。

 でも、ミハイル様が始めからその気であったなら……。

 わたし自身もそのことを了承しているのだと信じて疑わなかったのだとしたら……。

 あの後、わたしに向かって掛けられた皮肉まじりの言葉や、ただのからかいだと思っていた言葉が別の意味合いに思えてくる。

 

 そ、それにお父様もその気だなんて。

 まるでもう決まったことみたいに。

 みんな、先走り過ぎよ。

 わたしは、つい先日リカルド殿下から婚約破棄を言い渡されたばかりの身の上だというのに。

 

 ……なんて、常識ぶって憤ってみたわたしだったけど、批判されるべきは、そもそも最初にその話を切り出したわたしの方なのだったと自虐する羽目になる。

 まったく、自分の命やお家の一大事だというのに、わたしという女は、自分の色恋にかまけて本当にしょうがない女だわ。

 

  *

 

 騎士団の人がわたしを訪ねてきたのは、それから五日後のことだった。

 騎士団の人──そう、ミハイル騎士団長ではない別の人。

 訪ねて来られたのは、あの晩、宿屋の食堂で一緒に食事をしたお二人。

 赤い長髪を優雅に束ねたエッガースさんと、薄い金髪を短く刈り揃えたシュルツさんだった。

 五日前にミハイル様が残して行かれた言伝によれば、自分がメフィメレス家の陰謀を調査している件は、当面騎士団の人間にも秘密にしておく、とのことだったので、お父様もお二人の訪問には随分慎重にご対応なされているようだった。

 ミハイル様と同じ騎士団のかたとはいえ、少し間違えばお家のお取り潰しもあり得る状況のヒーストン家としては、どんなに用心しても用心し過ぎるということはない。

 

 先にお二人とお父様が話されていた部屋にあとから通されたわたしは、来客の顔ぶれを見て、ノイン君はこういう用事ではお声が掛からないのか……、まあそうだろうな、などと少し失礼なことを思う。

 

「お初にお目にかかります。王国騎士団副長のエッガースと申します。こちらは同じく騎士団所属のシュルツです」

「初めまして。アシュリーでございます」

 

 そうか、エッガースさんは副団長だったのか。

 あの三人の中にいても特に偉ぶった感じのない雰囲気だったから意外だ。

 

 緊張した面持ちの二人に比べ、あの晩餐を共にしていたわたしは、部屋に入った瞬間から、なんだか家族といるような落ち着いた暖かな気持ちになっていた。

 こちらの方が少し相手のことを知っているという、ちょっとした優越感もある。

 本当は、はじめましてではないのよ、と余裕を持って向かい合う。

 

 だけど違った。

 彼らが緊張した面持ちなのには理由があったのだ。

 

「すでにお父君のラング様には事情を説明させていただいておりますので、失礼ですが単刀直入に申し上げます。我が騎士団の団長ミハイルが三日前から行方知れずなのです。行く先にお心当たりはございませんでしょうか?」



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32:お助けに参ります、ミハイル様

 ミハイル様がこのヒーストン伯爵家をお訪ねになったのが五日前のこと(正確に言えば宿屋からここまで足を運んだのはわたしだけど)。

 三日前の朝までは騎士団の方とご一緒だった、ということは、最後にミハイル様のお姿をお見掛けしたのは騎士団の人たちのはずだ。

 当然わたしは今日までの五日間家族以外の誰とも会っていない。

 王から謹慎を命じられた身であるのだから当然だ。

 にも関わらず、わたしやお父様にミハイル様の行方を尋ねるということは、騎士団の人たちはすでに八方手を尽くして探した後ということだろう。

 騎士団長というお立場のあるかたが行く先も告げずに三日も姿を眩ますというのは普通ではない。

 

 エッガースさんたちが帰られた後、わたしは不安を募らせ、部屋の中で立ったり座ったり、歩き回ったり、ベッドに寝転んだりして気を紛らすのに四苦八苦していた。

 

 お父様に目配せで制止されたから、結局お二人には何もお話ししなかったけど、このタイミングでミハイル様の身に何かあったとするなら、それはメフィメレス家絡みの問題以外には考えられなかった。

 お父様がおっしゃるには、行く先も告げずに行動されているということは、極秘の調査中である可能性が高い、だから、今はまだ誰にも話すときではないとのことだった。

 エッガースさんたち騎士団の人が信用できないというわけではないけれど、確かにミハイル様が話すべきでないとお決めになっている相手に、わたしたちから勝手に情報を明かすのは良くなさそう。

 若くして、栄えある王国騎士団の団長に昇り詰めるほどの人が、御一人で対処できない状況に身を置くとも考えにくい。

 お父様のおっしゃるとおり、ミハイル様がなんらかのトラブルに見舞われている、などと考えるのは時期尚早かもしれない。

 なんと言っても、連絡が付かなくなってからまだ三日。大の大人である御人に何かあったと決め付け、事を荒立てるには、絶妙に微妙な日数だ。

 

 だけど、わたしは今になって思い出していた。

 わたしが持ち帰ったルギスの書簡を前に、これでメフィメレス家の陰謀に迫ることができると喜んでいたミハイル様の表情を。あそこには喜びや安堵以外に、幾らかの陰が──、焦りのようなものが見て取れなかっただろうかと。

 ミハイル様は()()()()()()()わたしなどとは違い、冷静な判断のできるかただとは思うけれど、焦る余り、慎重さを欠いてしまうようなことはないだろうかと……、そのことが心配だった。

 

「お嬢様。お茶をお淹れしました。これで心を落ち着かせてください」

 

 リゼがティーポットとカップを盆に載せて部屋に入ってきた。

 その姿を見て、わたしの中にある考えが浮かぶ。

 穏やかならぬその考えを頭の中で巡らせながら、わたしは無言で椅子に掛けた。

 お茶を飲みながら紙片にペンを走らせる。

 アダナスの言葉で書かれていたルギスの書簡の中身を思い返し、気になった語句をオリスルトの言葉で書き出していった。

 

 〈死にたての死体〉……全然足りない。

 〈国境付近にしか生えない毒草〉……もっと足りない。

 〈地下牢〉、またはその用途に十分な密室……再び必要になるかもしれない。

 ……こんなところだろうか。

 

 あの書簡は、以前ルギスがタッサ王ではない誰かに向けて、欠乏品を報せ提供を求めた書簡の、その返信のようだった。

 相手は文脈的に王都から遠く離れた場所にいる者、おそらくは敵国アダナスの人間ではないかと思われたが、はっきりとはしなかった。

 あの書簡自体、ルギス背信の証拠とも言えそうだけど、単にアダナスの地に残った協力者だと言い張って、言い逃れすることもできそうな内容で、決定打にはならない。ミハイル様がこれではまだ足りないとおっしゃっていた。

 だけど、ミハイル様はあの書簡に書かれていた内容から、ルギスが王命によって用意しようとしている秘薬の調合施設を特定できると喜んでいらした。

 きっとその場所に向かったに違いない。

 

 特定できるということは、その場所でなければならない理由があったんだ。

 人目に付くことなく、秘薬の材料を入手し、運び入れることができる立地。

 そういった情報からミハイル様がその場所を特定したのだとすれば、やはり一番手掛かりになりそうなのは〈死にたての死体〉だろうか。

 あまり良い気のしない想像だけど、そんなものを手に入れやすい場所と言えば墓地───その近く、だろうか。

 〈国境付近にしか生えない毒草〉というのは、おそらくヴィタリスの火傷痕の偽装にも使ったあの葉っぱのことだと思う。

 どれだけ大量に使うのか知らないけど、それを荷馬車に積んで運び入れるだけなら王都のどこでも構わないはずだ。

 

 ほかに条件を絞り込めそうな情報と言えば〈地下牢〉?

 ミハイル様が捕らわれてしまったかもしれないという想像をしている今となっては、非常に不穏な響きがある。

 それはさておき、人を捕らえておくだけなら、それなりに大きな屋敷であれば難しい条件ではないはず。

 分かるのは、墓地からほど近い、それなりに大きなお屋敷ということか……。

 

 だけど、そんな情報があっても、わたしの頭には肝心の王都の地図が入っていなかった。

 それらの条件と照らし合わせて絞り込むための基本的な情報が不足している。

 それにミハイル様はもともと、そのルギスの研究施設の場所を探っていらしたのだから、ある程度の目星は付けてあったはずだ。

 だからこそ、あの書簡の情報だけで場所を特定することができた。

 つまり……、わたしには無理だ。

 

 ペンを置き、天井を仰ぐ。

 部屋の中で軽く掃除と片付けをしていたリゼと目が合った。

 もう一度リゼと入れ替わり、ミハイル様を探しに外へ出ようか、なんて企んでいたわたしだったけど、いくらなんでも探す当てもなしに屋敷を飛び出すなんて、無謀を通り越して愚かなだけだわ。

 

 一方、わたしと目を合わせたリゼの方はそれとは違うことを感じ取ったらしい。

 

「もしかして、実験をするおつもりになられました?」

 

 リゼの言う実験とは、わたしが鏡の悪魔によって掛けられた呪いがどのような挙動をするのか確かめるための検証のことだった。

 それは今に始まったことではなく、あの日以来、リゼからは、鏡の悪魔の呪いについて、もっと正確な効果を調べましょうと度々提案をされていたことだった。

 呪いを解くためにも、あるいは、呪いと上手く付き合っていくためにも、この呪いがどのような働きをするものなのか、正確に知っておくことは有益だろうと思う。

 わたしだってそのことには興味がある。

 

 例えば、唇同士でないキスでも入れ替わりは発生するのか、とか。

 わたしが眠っている間にキスをされたらどうなってしまうのか、とか(リカルド様のときのような寝た振りではなく本当の寝込みを襲われた場合ね)。

 前回、ミハイル様がわたしの身体で目覚めたのは、本当に二人目の入れ替わりをしたことが切っ掛けだったのか、それとも時間経過によるものなのか、ということもはっきりとさせておきたい。

 

 事情を知るリゼ相手にそういった検証ができるのはありがたい話……、なのだけれど、その検証の方法というのは、取りも直さず、リゼがわたしにキスをすることなのだと思うとどうしても気が引けてしまう。

 あのとき、リゼがわたしに向かってみせた熱い眼差しをしっかりと覚えているだけに、「実験台になりますよ」と献身を装うリゼに対し、申し訳ないけどちょっとした警戒感を抱かずにはいられないのだ。

 

「ほら、ずっとお部屋の中にいては気詰まりでしょう? 気を紛らすためにもお外を散歩されて来てはいかがでしょう?」

「え、ええ、そうねぇ……」

 

 ──五分後。

 わたしはメイド服に身を包んだリゼの姿となっていた。

 アシュリーのわたし──おそらく中にリゼの精神を宿したアシュリーの肉体の方──は、意識を失いベッドの上に横たわっている。

 

 謹慎中の身であるわたしは他に逃げ場がなく、また、熱心に詰めてくるリゼの提案をていよく断る言葉も十分に持ち合わせていなかった。

 わたしには最初戯れ半分で自分からリゼに対しくちづけをした負い目がある。

 女性同士でキスをすることくらい何でもないことなのだという体面を作る必要が、わたしにはあった。

 

 リゼは、検証のためですから、とわたしに言い聞かせつつ、まずは手の甲に、次いで首筋、おでこ、そして頬への愛撫を、たっぷりと時間を掛けて行った。

 熱く湿った表情のリゼ。その意味するところに、わたしは徹底して気付かぬ振りを貫き、為すがままとされた。

 最も困ったのは、もう一度、確認のためにわたしの方からリゼへのくちづけを試してみましょうと言われたときだ。

 こちらから唇を近づけているはずなのに、そのことを強いられているせいで、彼女の方から攻められているような錯覚に陥ってしまう。

 どちらから口を開いたのかも曖昧だ。

 舌全体にリゼの熱い体温を感じた。

 そう思ったら、次の瞬間には、すでにわたしはリゼになっていた──。

 

 まあ……、いっか。

 リゼの言うとおり、ずっと同じ部屋の中にいることに飽きてもいた。

 行方を暗ませたミハイル様のことが心配で、居ても立ってもいられなかったというのも本当。

 当てはなくとも何か行動をしていた方が気が紛れるだろう。

 

 今回はちゃんと、寝ている自分(アシュリー)の身体とベッドを綺麗に整える。

 そうして、()()()()()()()わたしは、特に何の策も持たずに、エイヤッと部屋を飛び出したのだった。

 



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33:意外な再(?)会

 屋敷を出る前に、リゼのわたしはハンナに捉まってしまった。

 わたしが生まれる前からこの屋敷でメイド長をしているハンナは、わたしに対しても厳しい態度を取る厳格な人だけど、リゼに対する態度は全然、そんなものの比ではなかった。

 まず遠くからわたしを呼び止め、服やヘッドドレスの乱れを指摘された。

 当然部屋を出る前に鏡の前で身だしなみを整えてきたわたしにとっては、一体どこが乱れているのか分からない。

 言い掛かりに等しい指摘に思わず文句を言うと、彼女の前で何度もリボンの結び直しをやらされた。

 ようやく(偶然にも)彼女が満足する仕上がりでリボンを結べたと思ったら、次は当たり前のように井戸からの水汲みを言い付けられた(まあ、これはメイドなんだから当たり前なんだけど)。

 普段から厳しい厳しいと思っていたハンナだったけど、あれでも一応は手加減をされていたのだなと、わたしは重いつるべを引っ張り上げながら、思い知ることになった。

 その後もいくつかの用事(主に力仕事)をハンナに見守られながらこなしたわたしは、ようやく開放され、隙を見て屋敷の裏口から逃げるように外に出た。

 

 そこでホッと溜息を吐いたところに、木陰から小さな声がした。

 

「おい……。おい、お前」

 

 生まれてこのかた、そんな失礼な呼び止められ方をしたことのなかったわたしは、凄く新鮮な気持ちで振り返る。

 街路樹の木漏れ日に照らされて現れたのは、なんとあのノイン君だった。

 あの夜、今とほとんど同じ場所で、ミハイル様姿のわたしを呼び止められたときのことを思い出す。

 こっちに、という身振りに誘われてわたしは彼と同じ木陰に身を寄せた。

 王宮でもこうやって人目を忍ぶようにして語らい合う男女の姿を何度も見掛けたことがある。

 これも端から見たら、逢引きしているみたいに見えないかしらと少し心配になる。

 

「お前、アシュリー様の侍女だろ? あの夜、ヒーストン伯に俺たちを引き合わせてくれた」

「メイドのリゼでございます」

 

 せめて名前で呼んであげてよね、と思いながら名乗る。

 

「ミハイル様を探してるんだ。もしかして、この屋敷の中にいたりしないか? 人目を忍んでアシュリー様と逢瀬を重ねている、とかさ……」

「えっ……、ぇえ!?」

 

 突拍子もなく、かつ的外れな質問に思わず脱力する。

 

「おりません。先ほど、他の騎士団のかたもお尋ねになっていたようですが?」

「いや、俺たちに内緒で匿ってるとか……、いや……ないよなあ」

 

 自分でもおかしなことだと気付いたのか、ノイン君はあからさまに消沈したように肩を落とした。

 そんなこと、もし、仮にそうだとしても、屋敷のメイドが勝手に口を割るわけがない。

 

「一体どうしてそんなお考えを?」

「いや、あの夜の団長の様子が明らかにおかしかったからだよ。姿を消す前の団長が、一番らしくない行動をしてたのがこの屋敷の前だ。きっと何かあると思って……」

 

 確かに何かはあった。

 その件はもう解決したのだけれど、ノイン君ら騎士団の人たちに、おかしな行動と思われることをしでかしていたのは、ミハイル様ではなくわたしだ。

 わたしのせいで、ミハイル様の捜索に支障を来たしていると考えると申し訳ない気持ちになる。

 

「わたしも……、この家の者たちもミハイル様のことは心配いたしております。実は、今もアシュリー様から少しでも手掛かりとなる情報を掴めないかと言い付けを受けて出てきておりまして……」

「何か、当てはあるのか?」

 

 いや、ないわ。

 わたしだってノイン君の当てずっぽうの行動を笑えないわねと自嘲する。

 騎士団の人たちですら、こんな有り様なら、わたしが当てもなく探したところで首尾よく事が運ぶとは思えなかった。

 

 あ……、そうだ。

 何か自分の体裁を取り繕える言い訳はないかと考えて、懐に忍ばせた自分のメモ書きのことを思い出した。

 

「これを……」

 

 わたしが差し出した紙片に目を落としジッと考え込むノイン君。

 その真剣な表情を見て、これを見せてしまったことが早計だったと気付く。

 

「あ、これは御内密に。アシュリー様の単なる思い付きなのでございます。これらの情報から、何かミハイル様に思い当たることがあったようにお見受けされたので……」

 

 ノイン君はなおも真剣な表情を崩さず、紙片を見つめながら考えに耽っていた。

 

「……いや、これは貴重な情報だ。少なくとも行ってみる価値はある」

「行ってみる? ……一体どこへでございますか?」



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34:ノイン君と一緒@墓地

 

 それから一刻ほどの後、わたしはノイン君が操る馬の上にいた。

 手綱を握るノイン君と馬の首の間に挟まって跨る。

 すでにリゼのメイド服はしわくちゃだ。これは帰ったとき、ハンナにこっぴどく叱られることになるに違いない。

 

 こうなってしまったのは、やむにやまれぬ事情と成り行きのせいだ──と言いたいところだけど、実際は何もかもが、わたしのせいだった。

 

 わたしの差し出したメモ書きを見て、何か思い当たる節があったと思しきノイン君。それを見たわたしがその場所への同行を願い出たのである。

 このまま行かせては、うっかり情報を教えてしまった自分が罰を受けてしまいますから、と言ってお(すが)りすると、ノイン君は渋々ながらそれを聞き入れてくれた。

 ただの下働きの女の言うことをすんなり聞いてくれたのは、聞き入れてもらえなければここで大声を出して騒ぎますと言ってごねたせいもあるだろう(いや、よく考えたら普通に脅迫ね)。

 そのときの反応を見るに、ノイン君はあの二人にミハイル団長の捜索を止められているに違いなかった。

 自分が単独行動していたことがわたしの口から広まる前に、ミハイル団長の居場所を突き止めたいと思っているようだった。

 

「確かにあの二人に比べたら俺なんて頭も悪いし、見てくれも幼いし、頼りにならないって思われるのも仕方ないけどさあ。俺だって騎士団の一員なんだ。団長の身を心配する気持ちは二人にも絶対負けねー。探す人数は多い方がいいはずだし。なあ、お前だってそう思うだろ?」

 

 王都の中心から離れ、目的の場所に着くまでの間中、ノイン君は普段抱えている不満を赤の他人であるリゼに向かってくどくどと語り聞かせてきた。

 それを聞きながらわたしは、幼いのは見た目だけではないわよねと内心で突っ込みを入れていた。

 

「もしかして、向かわれているのはあそこですか?」

 

 王都の外壁を過ぎて、その周囲の民家も途切れた丘陵に差し掛かった辺りで、わたしは前方の丘の上に見える大きな屋敷を指差した。

 その屋敷のすぐ近くには、墓石のようなシルエットがちらほらと見える。

 下から見上げるようにしているので全体は見通せないが、きっとあの丘の上には結構な広さの墓地が広がっているに違いない。

 そして、それ以外には何もない。

 古びた印象のある屋敷がポツンと一軒あるだけだ。

 そんな侘しい丘陵には、見渡す限り人影もない。

 

「ああ、そうだ。以前、ミハイル様からの指示で、王族の名義で所有されている屋敷の場所を洗いざらい調べたことがあったんだ。理由は教えてもらえなかったけど、団長が意味のないことを俺たちにやらせるわけがないからな」

 

「墓地の近くにあるという条件に当てはまるのはあそこだけだと?」

「ああ。……賢いな、お前」

 

 ノイン君が迷わず真っ直ぐここに向かったことから、そんな予想はしていた。

 それなりに自信があるのだろうと。

 

「あの……、差し出がましいことを申し上げますが、そうだとしたら少し不用心ではないでしょうか?」

「ん? 何が?」

 

 あ、やっぱり分かってなかったみたい。

 

「こちらは丘の上から丸見えでございます。仮にメフィメレスの者が後ろ暗いことをしているのであれば、この丘に近づく者を見張っていることもありえるのではないかと……」

「え? メフィメレス? そうか、団長はあの亡命一家のことを探っていたのか」

 

 駄目だわ。

 ノイン君、全然状況を理解していなかった。

 真剣な表情に騙された。

 事情を打ち明けて助力を乞うのなら、エッガースさんかシュルツさんにしておくべきだったかしら。

 けど、もしもあの二人だったらわたしをここまで連れてきてくれることもなかったわよね……。

 

「とりあえず、もう見つかっているという前提で動きましょう。屋敷ではなく、ひとまず奥の墓地の方へ向かってください。墓前に参りに来た遺族を装うのです」

「う、うん。そうだな」

 

 一目で騎士団の人間と分かる男とメイド服姿の女という組み合わせで、果たしてそんなカモフラージュが効くかは疑問だけど、このままトンボ返りしたって不自然なのは変わりがない。

 もしも見張られていたら、という危惧のとおりだった場合の話だけど。

 

 屋敷を横目に見やりながら、わたしとノイン君は墓地の中へと入っていった。

 怪しいと思って見るからだろうか。それとも折しも太陽が雲で隠れ、灰色が垂れ込めているからそのように見えるのだろうか。丘の上の屋敷は、如何にも何かが隠されているような、おどろおどろしい佇まいに見えた。

 

  *

 

 わたしたちは墓地に入ってから馬を降り、並んで歩いていた。

 

「最初に屋敷で会ったときにも思ったが、お前なかなかの器量だよな。次の年季はいつ明けるんだ? 良かったら俺の(めかけ)にならないか?」

 

 ノイン君があまりにあっけらかんと言うので、わたしは呆気に取られ、思わずマジマジと彼の顔を見つめてしまった。

 

「妾は嫌か? まだ妻は決まってないんだが、使用人相手では流石に親がなあ……。あ、俺は三男だったんだが、先の大戦(おおいくさ)で兄が二人とも戦死してしまったんだ」

「まあ、それはお気の毒に……」

 

 今のオリスルト王国では珍しくもない話。

 それだけ、二年前の戦いが苛烈だったということだ。

 

「うん……。いや、そうじゃなくて。こう見えて家督はあるってことだよ」

 

 分かってる。もちろん、そういうことよね。

 使用人であるリゼの社会的身分は低い。

 妾にしたって、貴族家の嫡男に迎えられるとしたら、相当な厚遇だと言える。

 でも、そんな大事な話、今します?

 普通に考えれば二つ返事で受けるべきお話だけど、わたしには決められないわ。

 

「ありがたいお話ですが、即答は致しかねます。旦那様とお嬢様に相談いたしませんと」

「もちろんそうだろう。分かった。良い返事を期待している」

 

 こちらが大分用心しながら応答したというのに、ノイン君は、これまたあっけらかんと笑ってこの話を終わらせた。

 助かった。けど、お妾さんのお誘いって、こんな気軽にするもの?

 こちらを低く見ている、というよりも……、これはノイン君の太平楽な性格の成せるわざなのかもしれない。

 鼻歌でも歌いださんばかりに上機嫌にする彼のあどけない横顔を見ていると、そんな気がしてきた。

 帰ってリゼにノイン君のことを薦めるうえでも、彼の人と成りはよく観察しておかなければ……。

 

 まず、絶対にロマンチストな性格ではないわよねぇ。

 そう思いながら、わたしは今歩いている陰気な墓地の様子に目を移した。

 

 この墓地は、丘の下から見上げた印象よりもかなり広大だった。

 馬から降りたこともあって、墓石の先も見通しにくい。

 これはちょっとした迷路のようだわ。

 わたしたちの姿を遮ってくれるのはありがたいけど、ここからじゃあの屋敷の様子を窺うのも難しい。

 

 そうだわ、暢気(のんき)に色恋のことを考えている場合ではなかったのだったと気持ちを切り替える。

 これからどうやって屋敷に近付いたら良いかと考えていると、何もない場所で不意にノイン君が立ち止まった。

 

「出てこい!」

 

 先ほどまでとは一変したノイン君のキリリと締まった声が響く。

 その声に呼ばれて、墓石の陰から風体の卑しい男たちがゆらりと姿を現す。

 気が付くとわたしたちは大勢の男たちに囲まれていた。

 

「騎士様がこんな場所に何の用だい?」

 

 中の一人が意地悪そうに笑いながら言った。

 

「墓参りだ」

 

「なんでぇ? 逢引きじゃあねーのか」

「よせよせ、こんな場所で、騎士様がお盛り合いになるわけないだろ?」

「俺たちじゃあるめぇしなあ」

 

 ゲヒヒと下衆な笑い声が四方から響く。

 とても嫌な感じ。

 相手にせず逃げ去りたいけど、わたしがモタモタと馬に跨り直すのを黙って見逃してくれるとも思えなかった。

 そうこうするうちに男たちはわたしたちとの距離をどんどん詰めてくる。

 

「女を置いてけよ。そしたら見逃してやる」

「馬鹿を言うな」

 

 ノイン君が腰に下げた剣の柄に手を掛けた。

 そのことで場の空気が張り詰めたのがわたしにも分かった。

 

 や、やめて……。

 絶対に敵わないわ。この人数。

 

 わたしは恐ろしくて、ろくに周囲を見回すこともできなかったけど、声の感じからして、少なくとも十人はいそうに思えた。

 ノイン君が倒れたら、わたしは一人。

 

 ど、どのみち助からないのなら、せめて、ノイン君だけでも……。

 

 そう言ってノイン君を逃がすことが最善。

 頭ではそんな計算が働いていたけど、この唐突に訪れた危機を前に、わたしは完全に声を詰まらせていた。

 声を出すどころじゃなくて息をするのも難しい。

 苦しいのだけれど、今自分が息を吸いたいのか、吐き出したいのかも分からなくなっていた。

 何も動けないでいる中、わたしの周囲で激しく人が動きだす気配があった。

 

 剣と剣がぶつかり合う不快で大きな音。

 バタバタと鳴る足音。

 男たちの怒声。叫び声。

 

 何が起きたのか分からなかった。

 身体が金縛りにあったように動かなくなり、視界はどこでもない空間をジッと見据えていた。

 ノイン君がどうなったのか、気になるのに、怖くて、彼の行方を目で追うこともできない。

 

 ふと、目の前に騎士団の隊服が揺れていることに気づく。

 肩に手を置かれたのを感じ、おそるおそる顔を上げると、目の前にはノイン君がわたしと向かい合って立っていた。

 

「大丈夫か?」

 

 その、なんでもない普段どおりの口調に、わたしはようやく落ち着きを取り戻す。

 よかった、大丈夫なんだ。ノイン君は無事だ。

 ということは……?

 

「奴ら、逃げてったよ」

 

 周囲を見回すと、確かにわたしたちの周りを取り囲んでいたはずの男たちの姿はどこにも見えなくなっていた。

 

 信じられない。

 あの人数相手に一人で?

 

 その気持ちが顔に表れていたのだろう。

 ノイン君が少し照れ臭そうに、鼻の頭を掻きながら言った。

 

「団長に鍛えられてるから。騎士団の人間はあの程度のゴロツキ相手に遅れは取らないよ」

 



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35:潜入! メフィメレス家の実験場(?)

 周囲には幾つかの血痕が残されていた。

 ノイン君によれば、五人ほど腕や足を傷付けてやっただけで、実力差を思い知った彼らは逃げ出してしまったらしい。

 

「奴ら、あの屋敷とは関係のないただの野盗だったのかな?」

 

 ノイン君がそう言うのは、彼らが逃げ去ったという方向が、いずれもあの屋敷とは反対方向だったからだった。

 

「分かりません。けど、墓から頻繁に遺体を掘り起こしているのだとすれば、あのくらいの人数は必要かもしれませんよ?」

 

 墓の周りの地面をよく見ると、あちこちに無造作に掘り返したような真新しい土の跡が目に付いた。

 それが正式な埋葬時の跡なのか、それともその後で行われた盗掘の跡なのかは判断が付かない。

 

「関係はあるけど、奴らは雇われの、ただの死体集め係ってこと?」

「全て推測ですが、その可能性はあります」

 

「掘り返してる現場でも見ないと、断定はできないか」

「でも、それを悠長に待っている時間はないと思います。彼らに雇い主がいるなら、わたしたちのことを報告されるかもしれません」

 

「ということは……」

「はい。行きましょう。急いであの屋敷に行って確かめないと。完全に警備を固められてからでは手を出せなくなる恐れが」

 

  *

 

 わたしたちは墓地から馬を駆って、堂々と屋敷へと近付いた。

 屋敷の人間から用向きを問われた場合には、墓参りの際に野党に襲われたので匿って欲しいと言う演技プランについても申し合わせしておいた。

 理由をこじつけ、無理矢理にでも中に入って捜索しよう。

 見込みが間違っていたら謝ればいい。

 屋敷にいるのが無関係な人間であれば、そもそも訪ねてみることに危険はないはずだし。

 強気に強気に。

 なにしろこちらはミハイル様のお命が懸っているかもしれない一大事なのだ。

 

 だけど、屋敷の前で馬を降りたときには、わたしたちのそんな気勢は完全に削がれていた。

 人がいる気配がまるでないのだった。

 廃屋とまでは言わないけれど、少なくとも屋敷の大きさに見合うだけの使用人が働いている様子がない。

 正面の扉は開け放たれたままだったし、庭の手入れも行き届いていない。

 微かに人が住んでいた形跡はあるけれど、その火は完全に消えてしまっていた。

 

「見込み違いだったか」

 

 そう呟くノイン君の声もガランとした中庭の壁に反響して、寂しい印象を強めた。

 

 そうかもしれない。

 内心で同意しながら、それでも諦めきれずに周囲を観察すると、わたしたちが入って来た門とは反対側の出入口付近にポツンと置かれた荷車が目に付いた。

 真っ直ぐそちらに向かって歩いて行く。

 

「その荷車がどうかしたのか?」

「ええ。この葉は怪しいです」

 

 馬を引きながら付いてきたノイン君に向かって答える。

 

「ただの草じゃないか?」

「ただの草を用もなく荷車に積んだりはしません。それに、これはこの辺りには見られない草です」

 

 そう。近付いてみて分かった。

 これはあの毒草だわ。

 ルギスが娘のヴィタリスに渡した火傷痕の偽装に使った毒草。

 そしておそらく、あの書簡に書かれていた秘薬の材料の一つでもある。

 きっと、国境の近くからわざわざ運んで来たんだ。

 そんなものが置いてあるとしたら、やはりここは……。

 

「ノイン様。この屋敷を詳しく調べましょう。中に人が潜んでいる可能性もあります」

 

 小声でそう告げると、ノイン君もわたしの緊張を察したらしく、引き締まった顔になって頷いた。

 用心深く耳をそばだて人の気配を探る。

 

「ちょっと待っててくれ。むこうに馬を隠してくる」

 

 ノイン君が馬を引いて一旦屋敷を囲う外壁の外に出ていった。

 わたしはノイン君の背中を見送ってから、屋敷の軒下に自分の身を隠す。

 いつの間にか空は暗さを増し、今にも雨が降り出しそうな天候となっていた。

 嫌な感じ。

 厚い雲のせいでよく見えないけど、そろそろ陽も傾いてくる時間だ。

 のんびりとは、していられないわ。

 

 不安と焦り。

 まるでわたしが感じ取った悪い予感に引き寄せられるように彼らはやって来た。

 先ほどわたしたちが入ってきた門扉の陰から、複数の男たちが姿を現したのだ。

 とっさに彼らから見えない位置に移動する。

 幸い男たちはこちらに気付いていない。

 そのまま息を潜めて観察していると、彼らはどうやら先ほど墓地で襲ってきた野盗の一味なのだと分かった。

 中の何人かは生々しい手傷を抱えている。

 彼らは入口付近で立ち止まり、盛んに足元の地面を気にしていた。

 

「間違いねえ。いるぜ、真新しい馬の足跡だ」

「中の方へ続いてるな」

「捕らえた方がいい」

「ああ、ここを探りに来た奴だとしたら、あいつらに恩も売れるしな」

 

 不味いわ。見つかっちゃう。

 

 思わず助けを求めてノイン君が馬を連れ出した出口の方を振り返る。

 けど、丁度そのタイミングで響き渡ったノイン君の声は、わたしが振り返った方向とはまるで違う場所から聞こえてきたのだった。

 

「どこを見てる!? こっちだ! 相手をしてやるから掛かって来い!」

 

 視線を戻すと、野盗たちが後ろを振り返り、次々に剣を抜き払っていた。

 ノイン君の声は屋敷の外。正門の側から聞こえていた。

 

「囲め! 逃がすな!」

 

 野盗たちは回れ右をして屋敷の外へと駆けて行く。

 ノイン君が注意を引き付けて彼らを外へと誘導してくれたのだ。

 だけど、わたしにそれが分かるということは、野盗にだってそのことに気付く者がいたっておかしくない。

 

「待て。女もいたはずだ。何人か付いて来い。この辺を探すぞ」

 

 嘘でしょ!? こっちにも来るわ!

 

 わたしは慌てて振り返り、姿勢を低くしたまま建屋の裏手へと回り込んだ。

 すぐ近くに勝手口のような扉を見つけ、それを押し開く。

 

 良かった。開いてる。

 それに、中には誰もいない。

 

 でもそれは、とりあえず入口付近には人がいないというだけだ。

 かつては、ちゃんとした調理場であったろうと思われるその場所は、そのまま屋敷の奥へと続いていた。

 ここがメフィメレス家の秘密の実験場だとすると、廃屋のように見えるこの場所も、奥にいけば人が潜んでいる可能性はある。

 静まり返った屋敷の中を一人で進んでいくのは恐ろしかったけど、後ろからはあの野盗たちが追ってくる。

 躊躇(ちゅうちょ)はしていられない。

 わたしは覚悟を固める間もなく、足を忍ばせ屋敷の奥へと向かった。

 



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36:地下牢の影

 調理場のすぐ先は、ちょっとした小部屋のようにも見える廊下になっていて、その次は左右に分かれた長い廊下だった。

 外が曇り空ということもあって、窓から射し込む光は弱く、屋敷の中はどこもかしこも薄暗い。

 左手の方に進むと、大扉が開け放たれた向こう側に、食堂として使われていたらしい大広間が見えていた。

 少しだけ頭を入れて中を覗き込む。

 扉の後ろやテーブルの下に隠れたらどうかしら、という考えが浮かんだけど、単にやり過ごすのではなく、相手はわたしのことを捜しているのだから、それでは不安だわと思い直す。

 近くの別の部屋も覗いてみるが、そういう目線で見ると身を隠せそうな場所はどこにもなかった。

 調度品の類がほとんど引き払われている。

 元の家主が売り払ったのか、野盗がそうしたのかは分からないけど。

 

 身を隠せそうな場所がないと分かるとどんどん焦りが強くなってくる。

 今にも野盗がここにやってきて見つかってしまうのではないかという恐怖で心がいっぱいになる。

 何もできずにウロウロとしている間に遠くの方で物音が鳴った。

 わたしが入ってきた調理場の方だ。

 とっさにまだ見ていない二階へと伸びる階段に視線をさまよわせる。

 

 上? 上に逃げる?

 でも、隠れる場所がなければ結局追い詰められるだけだわ。

 

 そのとき、不意にルギスの書簡に書かれていた文言の一つを思い出す。

 

 〈地下牢、またはその用途に十分な密室〉

 

 それが思い浮かんだから気が付くことができたのか、それとも先にそれが目に入ったから思い出したのか分からない。

 ──どちらでもいいわ。今大事なのは、二階へと続く階段の真下に、怪しい跳ね板が見えているということだ。

 間に噛まされた木片によって少し浮いているから、どうにか気が付くことができたけど、それを外して完全に閉じれば上からでは容易に見つけられないだろう。

 

 それから先の行動は自分でも驚くくらい機敏だった。

 わたしは僅かに開いた隙間に手を差し込むと、音を立てないように祈りながら思い切り持ち上げた。

 その跳ね板は、見た目からは想像も付かないほど重たかった。

 でもこっちは死に物狂いだ。

 普段から力仕事に慣れているリゼの肉体だったことにも助けられたと思う。

 その下に見えた階段に自分の身体を押し込み、ゆっくりと跳ね板を下ろす。

 つっかえにされていた木片を取り除くと、隙間から光すら漏れて来ないほど、ぴったりとはまり込み完全な蓋がされた。

 視界が暗闇で塞がれた瞬間、上の方で乱暴な足音が響く。

 一瞬焦ったけど、耳を済ますと足音はわたしの真上を通り過ぎ、二階の方へと歩き去るのが分かった。

 それでホッと胸を撫で下ろす。

 

 とりあえず身を隠すことができた。

 あとはノイン君が奴らを蹴散らして戻ってくるまで身を潜めていればいいだけ?

 でも、本当にあの人数にノイン君一人で勝てるのかしら?

 門の外に見えた野盗は、墓地で出会った数より大分多かったような気がするけど……。

 けど、気になるけど、わたしが出ていっても役には立たないわ。

 むしろ、わたしが人質に取られるようなことになれば、逆にノイン君の足手まといになってしまう。

 だからノイン君もあいつらの気を引いて、わたしとは逆向きに走り去ったのよ。

 わたしの役目はあいつらに捕まらないようにすることだ。

 ……ノイン君を信じて、ここで助けが来るのを待つしかない。

 

 わたしは地下へと続く階段の下り口でジッと息を潜め、そう結論を出してから、ほのかに見える明かりを目指して真っ暗な階段を下りていった。

 転ばないよう慎重に、靴の裏で一段一段階段のへりの感触を確かめながら下りていく。

 

 地面の下にあるはずのこの空間に、どうして光があるのかしら?

 その理由は光の真下までたどり着いてみると分かった。

 地上から光と空気を得るための穴が開けられているのだ。

 人の頭一つ分も通らないほどの小さな穴が斜め方向に伸びて地上まで続いている。

 今にも雨が降り出しそうな曇り空の、頼りない光だったけど、真っ暗闇の地下ではこの上ない慰めになった。

 まず気持ちが落ち着いた。

 そして、落ち着いた気持ちで目を凝らすと、その穴からの光が届く位置に、ランタンが置かれていることに気が付く。火付具もいっしょだ。

 

 少し迷ったけど、この暗闇に広がる地下室のことを知りたいという誘惑には勝てなかった。

 覚束ない手つきでどうにかランタンに火を灯す。

 浮かび上がった地下室の様子にわたしは目を見張った。

 思いのほか、人の手が入っている。

 テーブルや椅子、棚などの調度品。

 それだけでも、荒れ果てた一階より、よほど人が暮らしていた痕跡が見て取れる。

 それに、燭台や書き物をした跡、装丁のしっかりした書物までもが置いたままにされていた。

 隣のテーブルにはガラス瓶やすり鉢など、薬の調合に使われそうな器具も沢山並んでいる。

 

 ……これは、当たりかもしれない。

 荷車にあった大量の毒草のこともある。

 やっぱりここが、メフィメレス家の秘密の実験場なんだ。

 

 手元しか照らせない僅かな明かりでは物足りなくなったわたしは、ランタンからテーブルの上にあった燭台に火を移した。

 机の上に乱雑に広げられていた紙片に目を通す。

 アダナス語だった。

 殴り書きにされた読みにくい文字を辛抱強く読み解いていくと、それがいずれも薬の材料の比率を示したメモ書きであることが分かった。

 失敗、失敗、失敗。失敗の文字が並ぶ。

 

 もっとないかしら。

 こういうメモではなく、ミハイル様が心配なされていたような、メフィメレスの良からぬ企みの証拠となる文書は?

 

 調子付いたわたしが、別の場所も探ろうとランタンを片手に、広い地下室を振り返ったときだ。

 光が届かない暗闇の先から物音が聞こえた。

 

 ネズミ!? ……ではない。もっと大きな何かだ。

 

 用心深くランタンを掲げると、その先に鉄格子が見えた。

 〈地下牢〉?

 本当にそんなものがあったんだ。

 でも、一体そんなもの、何に使うの?

 

 当然、何者かを閉じ込めるために使うに決まっている。

 牢とはそういうもの。

 そんな当たり前のことを、わたしは分からない振りをしようとしていたのだった。

 こんな場所で、そんなものを見つけたくはないと思った。

 良くない想像が頭に浮かんで離れない。

 こんな光も届かない暗闇にずっと閉じ込められているだなんて、そんなこと……!

 

「うう……」

 

 ネズミなどではありえない、明らかな人の(うめ)きを聞き、わたしは現実を直視する。

 

「ミハイル様……? ミハイル様なのですか?」

 

 ランタンを頭上高く掲げ、わたしは牢のさらに奥を見ようと目を凝らす。

 そうだ。もともとこんな最悪の考えを胸に秘め、危険も顧みずにここまでやって来たのだった。

 ミハイル様をお救いするために。

 だから、ここで発見できたのは喜ぶべきことだ。

 たとえ酷い拷問を受けていたとしても、お命があるのだから。

 わたしはそう思い直すことで恐怖心を振り払い、硬直していた足を前に踏み出した。

 鉄格子のギリギリ近くまで顔を寄せ、さらにその向こうまで腕を伸ばしてランタンを掲げる。

 

「──っ!」

 

 突然瞳に射した光に思わず顔を逸らす。

 光の正体は鏡だった。

 どういうわけか牢の奥に大きな姿見(すがたみ)が立て掛けて置いてあり、そこにランタンの光が反射して目に入ったのだった。

 そして、そこから僅かに視線を下ろすと、鏡の前に男が一人、その鏡にしがみ付くようにしてその中を覗き込んでいるのが見えた。

 座り込む、というより、半ばうつ伏せに寝転がるような体勢から、上体だけを起こして顔を鏡面に密着させている。

 何が男にそうさせるのか……。

 狂気を思わせるその異様な姿にわたしは息を飲む。

 

 このときのわたしの感情は一言では言い表しづらい。

 見るも無残な光景を目にしたというのに、わたしは驚きや憐みを抱くよりも先に、それがミハイル様でなくて良かったと安堵していた。

 その非情さ、自分勝手さに失望し、自分自身を責め(さいな)む。

 そんな苦い感情が、一瞬は安堵したわたしの心を覆い尽くし、飲み込むように広がった。

 

 鏡の前の男の人は、ミハイル様とは似ても似つかぬ痩躯《そうく》で、黄土色《おうどいろ》の頭髪は色艶もなくバサバサに乱れている。

 鏡越しに映る顔は、頬骨が突き出て見えるほどにこけ、目元も落ちくぼみ、まるで亡者のよう。

 唯一目を逸らさずまともに見出せたのは、彼が身に着けた上等な縫製の衣服についてだった。

 この衣装には見覚えがある。

 この国、オリスルトに所属する正規の魔法士隊に与えられる隊服だ。

 そのときになって、ようやくわたしは、ミハイル様がお話しされていた、行方不明の魔法士のことを思い出した。

 彼だ。彼が、その魔法士なのだ。

 

 なんて酷い。一体いつから?

 立派な魔法士であったかたが、どうしてこのような有り様に?

 

 わたしは牢の中に突き入れていた腕を引っ込め周囲を探った。

 そして壁に掛けられていた鍵束を見つけると、急いで牢の鍵を開けた。

 正気を失くしているかもしれない相手に近付くなんて、不用意だったと思う。

 わたしがそれほど慌てて駆け寄ったのは、酷い目に遭わされていたのがミハイル様でなくて良かった、という不道徳な考えを頭から追い払いたかったせいかもしれない。

 

「ご無事ですか? 助けに参りました。お話し、できますか?」

 

 彼がしがみ付くようにしていた鏡から彼の手をどかし、身体をゴロリと仰向けにして起こす。

 無惨に痩せ細った手足や首筋を直視して、思わず嗚咽を漏らしそうになる。

 だけど、声を発したのはわたしではなかった。

 彼の、色を失いカサカサに干からびた唇が大きく開かれていくのを、わたしは呆然と見守るしかなかった。

 

「キェエエエエエエエエッ!」

 

 およそ人の発したものとは思えぬ恐ろしい叫び声。

 その痩せ細った身体の、張りをなくした喉の、一体どこにそんな力があったのかと思うほどの大絶叫が、地下室いっぱいにこだましたのだった。

 



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37:泣きっ面に悪魔

「落ち着いて! 落ち着いてください。大声を出さないで」

 

 魔法士の彼の心身も心配だったけど、それより今問題なのは、この大声で地下室の存在がバレてしまうことだった。

 焦点の合わない虚ろな目に呼びかけながら、わたしは彼の骨ばった肩を懸命に揺する。

 

「ェ……ェエ、ェエエエエエエエエエエエエ!」

 

 駄目。駄目だわ。

 意思疎通できない。

 完全に心が壊れてしまっている。

 

 無理矢理口をふさぐ?

 でも、今さら静かにさせても手遅れだろう。

 

「エッ、……オエッ、ェエエエエエ、エエエエッ!」

 

 断続的に続く絶叫の合間に訪れる静寂に耳を澄ますと、上の階でドタドタと足音が鳴っているのが分かった。

 きっと見つかってしまった。

 今はこの地下室へと下りる入口を探し回っているに違いない。

 見つかったら、ここでは袋のネズミだ。

 でも、今からあの階段を上って行っても鉢合わせになるだけだし……どうしよう。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう!?

 

「おい、うるせェ。そいつを黙らせろィ」

 

 えっ!?

 

 わたしは両腕で支えている男の人の瞳を覗き込んだ。

 ここにはわたしと彼の二人しかいないのだから、声の主は彼以外にあり得ないと思った。

 だけど彼の完全に正気を失った瞳を覗くと、それこそ、言葉を発したのは彼ではあり得ないと感じられる。

 

「だ、誰!?」

 

 抱き上げていた男の人を硬い石畳の上に下ろし、替わってランタンを片手に持って掲げる。

 鉄格子の外、燭台の明かりに照らされたテーブルの下などに視線を走らせるが、……誰もいない。

 誰かが潜んでいそうな気配もなかった。

 わたしがそうする間も、石の上に横たわった魔法士の彼は虚空を見つめたまま、絶叫を繰り返していた。

 疲れたのか、息継ぎの間隔は長くなり、その声も力をなくし始めているが、この場所を地上の野盗たちに知らせるには十分過ぎるほどの音量だ。

 

「鏡だよ。どうやらそいつァ、鏡の中に入りたいみたいだぜェ? 奇特なこった」

 

 鏡?

 そういえば、こんな牢獄の中に鏡が置かれているなんて妙だわ。

 何故こんな物を置く必要が?

 

 そして、最初見たとき、彼が鏡に向かって(すが)りつくようにしていた姿を思い出した。

 わたしはもう一度ランタンを床に置くと、叫び続ける彼の肩を掴んで鏡の方に向き直らせた。

 

 効果はてきめんだった。

 彼は視界に鏡を入れると、機敏な動きで這い進み、最初に見たときと同じような格好で鏡に抱きついた。

 そして食い入るように中を覗き込む。

 いいえ。見ているのは鏡ではないのかもしれない。

 鏡に映る自分を──自分の瞳を、そうやって覗き、そうすることで自分というものを保とうとしているのかもしれない。

 彼の様子を見ていると、ふと、根拠もなしにそんな考えが思い浮かんだ。

 

「静かになったろ?」

 

 確かに。

 この場違いな鏡はきっと、彼をここに閉じ込めた人間が、彼を大人しくさせるために置いたものに違いない。

 そんなふうに思考を巡らせることができるようになったときには、わたしはすっかりその声の主の正体に思い至っていた。

 鏡の中の、そこに映る痩せ細った魔法士の頭の上。

 そこに立つ小さな悪魔と、わたしは王宮で出会って以来、およそ一週間ぶりに対峙していた。

 

「何をしに出てきたの? わたしを笑うため?」

 

 くちづけをした相手と身体が入れ替わってしまうなんていう、意味の分からない呪いを掛けた、頭のおかしな悪魔だ。

 なんで今、こんな場所で、という疑問よりも先に警戒感が働く。

 

「正解。面白かったぜ、お前。まァまァ暇潰しになったよ」

 

 でしょうね。

 泥だらけの鏡を綺麗に拭いてあげただけなのに、それを余計なことだと言って逆恨みして呪いを掛けるような奴なのだ。

 常識的な理由で姿を現したとは思っていなかった。

 底意地の悪い、ねじ曲がった精神で、窮地にあるわたしのことを笑うために出てきた。

 それなら、今、ここに、現れた理由も納得よ。

 

「って言いてェとこだけどよォ。まあ半分だな、今回は」

「?」

 

 微妙な違和感。

 何が半分なのかも気になったけど、くるりと踊るように回って振り向いた悪魔の姿に引っ掛かるものがあった。

 手の上に載りそうなほど小さな悪魔の姿をよく観察して、その違和感の正体に気付く。

 

 あ、こいつ。鏡の中から出てきてる。

 

 最初に見たときは確かに鏡の中にいたはずなのに、今見るとそいつは確かに鏡の手前側、鏡にすがりついている男の人の頭の上にちょこんと載ってこちらに意地悪い目線を投げかけていた。

 今なら手で掴めるかも。

 ギュウギュウに絞め上げてやれば、呪いを解かせることができないかしらと考える。

 

「感謝しろ? 助けにきてやったんだぜ?」

 

 子供の頃、蝶をつかまえるときにしていたように、わたしは息を殺し、気取られないように、悪魔に向かって飛びつくタイミングを計っていた──そのとき。

 鏡の奥から剣を持った大柄な男がヌッと姿を現した。

 野盗の一人だ!

 闇の中から音もなく、にじみ出るようにして現れた男の姿に驚いて、わたしは瞬時に振り返る。

 だけど、そこには誰もいなかった。

 

 そんなはずはない。だって、鏡には映って──。

 

 もう一度鏡の中を覗くと、鏡には、やはりあの大男が映っていた。

 鏡に背を向けてキョロキョロと辺りを見回している。

 そこにもまた違和感。

 その大男は確かに鏡の前に立っているのに、現実のその場所に大男は存在していない。

 それに、おかしなことはもう一つある。

 その大男が立っている場所──正気を失った魔法士のすぐ隣には、()()()()()()()()()()()、鏡にはそのわたしが映っていないのだ。

 

 だからわたしを見つけられないの?

 あの大男のいる地下室にはわたしがいないから?

 

 理屈に合っているような、それでいて、まるで筋の通らない不条理な考えが浮かび、頭がおかしくなりそうだった。

 

 男が鏡の前を離れる。

 鉄格子の扉をくぐって慌てて外へと向かい、剣を抜く。

 大きく前に突き出すような動きをして……、そしてバタリと前のめりに倒れた。

 不思議なことに、男の声も倒れる音もまったく聞こえなかった。

 影絵芝居か何かのように、わたしが見ている鏡の中だけで繰り広げられるその顛末。

 

 もう一度鏡から目を離して後ろを振り返った。

 だけど、鉄格子の外の、大男が倒れているはずのその場所には、やはり誰も倒れてなどいない。

 

「どういうこと?」

「言ったろ? 助けてやったんだよ」

 

 呆然と呟くわたしに向かって悪魔がこともなげに言う。

 

「どういうこと?」

 

 同じ言葉をもう一度繰り返した。

 自分の頭がおかしくなってしまったのではないかと不安になる。

 

「なんでいないはずの人が鏡に映ってるの? なんでわたしが映ってないの?」

 

 言葉を変えて言い直すことで、自分は正常だと自分自身に言い聞かせる。

 大丈夫。ちゃんと考えることはできる。できてるはずよ。

 

「フフェフェッ。代わり映えしねェ反応だが、久しぶりに見ると新鮮だなァ。人間のその慌てた様ァ」

 

 悪魔がその位置をパッと変えて私の肩の上に現れた。

 思わず振り払おうとして右手で左の肩を払う。

 手が触れる瞬間、そこにいたはずの悪魔の姿がパッと消えた。

 

 見失った。どこ!?

 

「ご挨拶だなァ? 命の恩人を虫か何かみたいに」

 

 次に声がした場所はわたしの頭上だ。

 正確に言えば、リゼの姿になったわたしの頭の上だけど。

 鏡を見ても、やはりそこにリゼの姿は映っていなかった。

 その頭の上にいるはずの悪魔の姿も。

 

「本当に、助けてくれたの?」

 

 そこにいる見えない相手に語り掛けるように上を仰ぐ。

 相手がとても人間に太刀打ちできる存在ではないことを察し、ひとまずわたしは自分の怒りを引っ込めた。

 相手の機嫌を損ねたくなかったというのもあるけれど、この悪魔の言うとおり、本当に助けられたのではないかという気がしてきたというのもある。

 先ほどの絶叫で、この地下の存在は確実に地上にいた野盗たちに知られたはず。

 実際、駆け付けて来たのがあの大男だ。

 本当なら、わたしはあの大柄な野盗の一人に捕らえられていたはずだった。

 でも、そうはならず、代わりに大男は鏡の中に現れた。

 鏡の悪魔が大男を鏡の世界に捕らえて倒してくれたのだと考えるのは、妄想が過ぎるだろうか?

 

「……ありがとう」

「フェッ、まさか呪った相手から感謝されるとはなァ? おめでてーやつだぜ」

 

 悪魔はわたしの頭の上からピョンと降り立ち、今度はランタンの上に座って脚をブラブラさせ始めた。

 

「な、なによっ。感謝しろって言ったのは貴方でしょ?」

「まァなに、別に感謝されたくてやったんじゃねェ。折角呪った相手に簡単に死なれたんじゃツマンネェだろォ? もっとドタバタ無様に楽しませてくれねェと」

 

 やっぱり悪魔は悪魔だ。

 わたしは今度は感謝する気持ちの方を引っ込めた。

 

「悪いですけど、貴方の思惑がどうだろうと、わたしに掛けたあの呪いは逆に利用させていただいてますから。あれがなければ、わたしはとっくに毒殺されているのですから。ご生憎(あいにく)様。呪われたお陰で大助かりです」

 

 わざわざそう言ってやったのは、性格のねじ曲がったこの悪魔なら、こう言ってやれば悔しがって呪いを解く気になるのではと思ったからだった。

 わたしは精一杯意地悪く、小憎らしく聞こえるようにそう言ったあと、悪魔の反応を用心深く窺った。

 

「…………」

 

 反応がない。

 鏡の悪魔は手の上に顎を載せ、ランタンの上にジッとしている。

 わたしはその視線の先を追った。

 視線の先は鏡だ。

 鏡の中に映る世界。

 野盗の一人が倒れている方の世界。

 そのはずだった世界に、今映っているのは……!

 間違いない。あれはミハイル様だ!

 

 鏡の中のミハイル様は、わたしがさっき灯した燭台に照らされたテーブルの上の紙片に視線を落としていた。

 良かった。ご無事だったんだ。

 でも、どうしてここにミハイル様が?

 

「ミハイル様!」

 

 大声で呼んだにも関わらず、ミハイル様はこちらに気づかない。

 無駄と知りつつ振り返るが、やはりそこは予想どおり、こちらの世界のテーブルの前には誰もいなかった。

 もう一度鏡の方を見るとミハイル様は遠く闇の中へと消えていくところだった。

 あちらは一階と地下を繋ぐ階段がある方だ。

 ……あぁ、行ってしまう。

 

「ミハイル様。わたしはここです。ここにいます。こちらです、ミハイル様!」

 



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38:悪魔との取引

 わたしは立ち上がり、姿見に(かじ)り付くようにしてその中を覗き込んだ。

 こうして間近にしているのに鏡には自分の姿が映らない。

 鏡というよりもガラスの向こうに、こことよく似た別の世界が広がっているよう。

 未練たらしくミハイル様の背中に向かって呼び掛けていると、自分が、今も足元にいる魔法士の彼と同じになったような気分になり、それ以上は続けていられなくなった。

 

 次にわたしは、ミハイル様が消えた闇の彼方を照らそうと思い立ち、床に置いたランタンに手を伸ばす。

 ほとんど無意識の仕草で、(かが)みながらランタンの(つる)を指に引っ掛け、すぐに鏡と向かい合おうとした。

 だけど、その手応えがない。

 指先にランタンの重さも感じなければ、身体の動きに合わせて光が追従してくることもなかった。

 目を見開いて振り返った先には、ランタンが元々あった位置のまま残されていた。

 距離感を誤ったのかと思い、もう一度しゃがみ、ランタンに手を伸ばしたとき、それが掴み損ねではないことを悟った。

 いや、掴み損ねは掴み損ねなのかもしれないけど。

 そもそもランタンに触れられないのだ。

 確かにそこにあるのに、幻のように手がすり抜けてしまう。

 

「フフェフェッ。やっと気付いたか? 鏡の中にいるのが自分の方だってことによォ?」

 

 えっ!? ……ええっ!

 いや、気付いてなかったわ。

 鏡の中!? こっちが?

 鏡の悪魔の早過ぎるタネ明かしにツッコミを入れたい気持ちが沸き上がったけど、でも、遅過ぎるよりは大分マシだった。

 

「ねえっ、ねぇ戻して! ミハイル様が行ってしまうわ。わたしを元の世界に戻してよ」

 

 わたしは、いつの間にか魔法士の頭の上にその場所を移していた悪魔に向かって詰め寄る。

 

「いィィ反応するじゃねェか。そうそう、そういう反応よ。フヒャヒャヒャヒャ」

 

 悪魔は面白くて仕方ないというように、手を叩いて笑った。

 その様子にカッとなったわたしは両手をバシンと合わせて悪魔を挟み込んだ。

 

「うォ?」

「戻しなさい。今すぐ」

 

 確かに手の中には捕らえている感触があった。

 その小さな身体は、少し力の加減を強めただけで、玩具の人形のようにバキバキに折れてしまいそうな危うさがあった。

 自分の中にあった狂暴な衝動に驚き、思わず力を緩め両手を開く。

 ごめんなさい、痛くするつもりはなかったの……、そう言おうとして開いた口が、そのままポカンと開け放たれた。

 確かに捕らえたと思った悪魔の姿が、すっかり消え失せていたのだ。

 

「おォィ、勘違いしてねェか? 玩具はよォ、お前の方なんだぜェ?」

 

 地の底から響くようなしゃがれた声に、ゾクリと悪寒が走る。

 その口調は間違いなく今まで話していたあの鏡の悪魔のものだったけど、声質はこれまでとまるで違う、別の誰かのものに聞こえた。

 

 足元を見る。

 そこにはあの()せた魔法士の男がいた。

 あれほど執着していた鏡から目を離し、上体を起こしてこちらの方を見上げている。

 

「ヒヒヒッ。ヤベェなこの肉体。完全にイカれてやがる。上手く動かせねェや」

 

 痩せた男が言った。

 言葉を話しているのに、わたしの方を向いてしゃべっているはずなのに、その目はわたしを見ていない。

 まったく正常な意思を感じさせない虚ろな瞳だった。

 そのアンバランスさが非情に気持ちが悪い。

 

 思わず後退ったわたしの脚にその男がしがみ付いてきた。

 さっきまで鏡に向かってしていたように、両腕をわたしの脚の後ろに回し、しっかりと抱え込む。

 動転して体勢を崩したわたしは尻もちをついて倒れた。

 そこに男が覆いかぶさってくる。

 凄い力。

 あれほど痩せ細って軽く思えた男の身体を振り払えない。

 男は這いずるようにしながら、わたしの身体を上ってきた。

 わたしの両腕を押さえ付け、焦点の合わないその狂気の眼で、男がわたしの顔を覗き込む。

 

「俺様はまだいいが、お前はどうだろうなァ? お前の精神がこの肉体に乗り移ったら、一体どうなるか、試してみてェよなァ?」

 

 身体の芯を貫く悪寒。

 一瞬のうちにわたしは、男が──鏡の悪魔が──言った言葉の意味するところに思い至った。

 このまま唇を奪われたら、今度は、この男の人と身体を入れ替えてしまうことになるの?

 おそらくは、メフィメレス家の秘薬の実験によってボロボロになった魔法士の身体になって……、そんな身体になって、果たしてわたしはまともに意識を保っていられるのだろうか。

 暗い牢獄の中で、鏡にしがみつき、正気を失った自分を見つめ続けることになる──そんな自分の末路を、思い切り想像してしまった。

 

 だ、駄目っ!

 

 恐怖で動けなくなっていた身体に必死で命令し、わたしは男の身体を振り払おうとする。

 わたしの両腕を押さえていた男の片方がずれて、その身体が前に(かし)ぐ。

 わたしは自由になった方の手で男の喉元を掴んだ。

 その手を懸命に上に持ち上げ男を引きはがそうとする。

 

 駄目。

 体勢が悪い。

 上手く力が入らない。

 助けて。

 助けて、ミハイル様──!

 

 ガサガサに乾いた男の唇が大きく開き、わたしの唇を覆って(ふさ)ごうとしたその直前。

 不意にわたしを上から押さえつけていた男の力が抜けた。

 見えない力で持ち上げられたかのように、男の身体がふわりと浮き上がり、そのまま仰向けに身体を返して吹っ飛んだ。

 

 その不思議な光景に呆気に取られる。

 けど、それは一瞬のことだった。

 重しから逃れたわたしは急いで上体を起こし、冷たい石の床の上に尻もちをついたまま、足をバタつかせて後退った。

 目線を水平に正したことで、鏡の中にミハイル様のお姿が映っていることに気付く。

 ミハイル様は鏡の中で痩せた男の上で馬乗りになり、その暴れる手足を押さえ込んでいた。

 鏡の中(実際には外なんだけど)では確かに二人でそうして組み合っているのに、こちら側の世界ではミハイル様のお姿が見えないものだから、あの男が一人で暴れているように見える。

 やがて単純な力では敵わないと知ったのか、鏡の悪魔に乗り移られたその男は、唐突に脱力し動かなくなってしまった。

 それと同時に、わたしの目の前にひょこりと悪魔が姿を現す。

 

「ちっ。冗談の通じねェやつらだ」

 

 悪魔は後ろを振り返り、鏡の中のミハイル様を眺めながら言った。

 ミハイル様は動かなくなった男の様子を用心深く窺っていた。

 その身体から抜け出た、背後の悪魔のことには気付く様子がない。

 

「じょ、冗談!? 冗談では済まされません。自分が一体何をなさろうとしたか分かっているのですか?」

「へッ、ちょっとからかってやろうと思っただけじゃねェか。お()ェがあんまり強がり言ってわめいてるもんだからよォ」

 

 悪魔はこちらと顔を合わさないまま、吐き捨てるように言った。

 後ろめたそうにするその仕草は、なんだか、やり過ぎた悪戯(いたずら)を叱られた子供を連想させた。

 入れ替わりの呪いとか、わたしを鏡の中に引き摺り込むとか、とんでもなく凄い力を使ってみせているのに、()ねているようにも見えるそんな言動は、どうにもそれと釣り合わない。

 あんなことをされた直後だというのに、わたしはその子供のような悪魔に対し、なんとなく可哀そうに思う感情を芽生えさせていた。

 自分の方は全然、そんな余裕をみせている場合ではないのに。

 

「わたしが泣いて(ゆる)しを()えば満足なのですか? 貴方の不興を買ってしまったことはお詫びしますが、そもそもわたしは知らなかったのです。あの鏡にどんな(いわ)れがあったのかも。綺麗に()いてしまったことが問題なのであれば、また元のように泥だらけに汚して差し上げますから、わたしをここから出して、それに、呪いも解いていただけませんか?」

 

 わたしがそう話している横ではミハイル様が、ぐったりした男を床に寝かせたまま、鏡の前で思案顔をしていた。

 かと思うと、床に両手と両膝を付いて四つん()いになり、先ほどわたしが組み伏せられていた場所に対し雑巾(ぞうきん)掛けをするように手を前後左右に振っている。

 わたしはそれで、ミハイル様がわたしのことを捜していらっしゃるのだと直感した。

 明らかに、そこに誰かがいるはずだと当たりを付けている。そんな動きだった。

 

「約束するか?」

「えっ?」

 

 ミハイル様の方に気を取られていたので反応が遅れた。

 

「約束できるかって聞いたんだ」

「できます。誤解のないように、何をすべきかちゃんと指示してくだされば」

 

「本当かァ? 人間は嘘をつく生き物だからなァ」

「約束を破るようなら、またわたしを鏡の中に閉じ込めれば良いでしょう?」

 

「そんなことして、俺様にどんな得があるってんだァ? お前とずっと一緒に鏡の中なんて……ゾッとするぜ」

「実際にやる必要はないでしょう? 脅迫なのですから、相手が嫌がることをするぞと脅して、言うことを聞かせれば良いのです」

 

 キスで入れ替わるなんて回りくどい嫌がらせではなく、と付け加えようと思ったけど、この悪魔にあまり知恵を付けてやるのは考え物だぞ、という警戒感が働いたのでそれ以上言うのはやめておいた。

 

 悪魔はしばらく考え込み、わたしはしばらくそれを見つめていた。

 そして不意に、突然、何の予兆もなしに、ミハイル様が現れた。わたしの目の前に。

 

「「わっ!」」

 

 互いに驚いて声を出す。

 ミハイル様にしてみれば、わたしの方が突然何もないところから現れたように見えただろう。

 わたしはまず先に、ミハイル様が鏡の中に引き込まれたのではなく、わたしが鏡の外に出たのだということを確かめるため、足元のランタンに触ってみた。

 大丈夫。持てる。ここは現実の世界だ。

 

「大丈夫か、リゼ殿? 今までどこに?」

 

 あ、そうか。リゼだ。リゼだった。

 

 ミハイル様からそう言われて、わたしは今の自分がリゼの姿であったことを思い出した。

 そのことも説明しないといけないけど、今は後回しね。

 

「鏡です。鏡の中に捕らわれておりました」

 

 わたしは鏡に映るリゼの姿を視界に入れながら、あちこちに視線を走らせる。

 ──いた。

 悪魔は、わたしの背後から同じように鏡を覗き込むミハイル様の肩の上あたりに浮いていた。

 

「何をすればいいのか正確に聞いていないわ。あの鏡を同じように汚すだけでいいの?」

「一番いいのは、そうだなァ。あの近くに沼があるから、そこに沈めてくれや」

 

 たったそれだけだった。

 それだけ言うと、悪魔はいともあっさりと姿を消してしまった。

 彼が望んでそうしたのならもう、わたしがいくら探しても見つけられないだろう。

 

「リゼ殿、今のは一体……」

「御覧になられました? あれが鏡の悪魔です」

 

「アシュリー様が言っておられた? あれが……」

「ああ、失礼しました、ミハイル様。そうでした。助けていただいたのにお礼もなく。本当に、危ないところでございました」

 

「いや、私はわけも分からず動いたまでだ。目に見えぬ何者かに対し、襲いかかるように暴れていたこの男を大人しくさせねばと──」

 

 そこへ階段の方からバタバタと騒がしく下りてくる足音が割り込む。

 

「団長! やっぱり外には、い──いたぁっ!?」

 

 息を切らせて下りてきたのはノイン君だった。

 ノイン君は、鉄格子の外に転がる大男の身体を跳び越えて現れるなり、ミハイル様の身体の陰に隠れていたわたしを見つけ驚きの声を上げた。

 

 それからわたしたちは互いの無事を喜び合い、それぞれの身に何があったのかを話し始めたのだった。



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39:自覚

 今さら聞くのも気まずい感じだったけど、聞いてみるとやはり、ミハイル様は最初から捕らえられてなどいなかったそうだ。

 最初から、わたしたちの助けなど必要なかったのだ。

 

 まずミハイル様は、中にどんな人間がどれだけいるかも分からない怪しげな屋敷に不用意に近付くような真似はなさらなかった。

 遠くからのこの屋敷を見渡せる街の高台から、屋敷の出入りを観察しつつ、忍び込む機会を窺っていたらしい。

 

 そこにノコノコと現れたのは騎士団員丸出しのノイン君と、王宮内でもある程度顔の知れたヒーストン伯爵家のメイドのリゼ。

 折角の待ち伏せを台無しにされては敵わないと、見張っていた場所から急ぎ駆け付けたミハイル様。

 しかし、到着した頃にはすでにノイン君が野盗たちと大立ち回りを始めていたため、なし崩しでそこに加勢をする羽目に。

 そのさなか、地下からこだました男の奇妙な叫び声を聞いたミハイル様は野盗の後を追い、この地下室を見つけたというのが事のあらまし。

 

 そのあとは、わたしが鏡の中から覗き見たとおりだ。

 一旦地下室を離れたのは、残りの野盗の相手をするためだった。

 ちなみに、野党たちはミハイル様とノイン君の二人だけで全部片付けてしまったらしい。

 

「団長が無事だったのは良かったですけど、そういう話なら、せめて俺たちには行先を教えて行ってくださいよ。っていうか、そんな泥臭い偵察任務、俺たちに命じてくだされば良かったのに」

 

 ミハイル様が全てお一人で進めようとなされた理由は、その返事を聞く前からなんとなく想像が付いていた。

 正式な王命で行われている極秘の研究を、無断で勝手に探ろうというのだから、下手をしたら反逆罪に問われかねない。

 とても騎士団の正規任務とは言えない危険な活動に、ノイン君たちを関わらせたくなかったのだろう。

 

「──しかし、この様子では当てが外れたな」

「どういうことですか?」

 

「ここはおそらく引き払われた後なのだ。王から成果を急かされている状況下で、このように研究が放置されているはずがない。私が見張っている間もこの屋敷には全く出入りがなかった。秘薬の調合自体はすでにどこか別の場所に移って行われているのだろう」

「では……、このかたは……?」

 

 わたしは、床で寝息を立てている彼に目を向けた。

 

「捨てられたのだろうな。やせ衰え、正気も失っているが、この男は捜索願いの出ていた魔法士のヘンクという男に違いない。家族に何と言ってやれば良いか……」

「このかたの身に、何があったのでしょう?」

 

「メフィメレス家の秘術に関しては以前から推量している考えはある。が、ここに残された書や実験の書き置きを調べればもっと詳しく分かるかもしれん。こうなった以上、エッガースたちにも打ち明け、皆で協力して当たろう。下手を打てば逆賊となるのは俺たちの方だが、手伝ってくれるか、ノイン?」

「もちろんですよ。この国のためでしょ? それに団長の恋の成就も掛かってますからね」

 

 ノイン君が無邪気そうにヒヒヒと笑う。

 ミハイル様とわたしはともに気まずくして口をつぐんだ。

 

「ん? ミハイル様は分かるけど、なんでお前まで赤くなるんだ?」

 

 へ、変なところだけ目敏いわね、ノイン君は。

 こんな薄暗い場所で顔色なんて分からないでしょうに。

 

「こら。ずっと注意しようと思っていたが、ちゃんとリゼ殿と名前をお呼びしろ。私にとっては大恩のあるかただぞ」

 

 ミハイル様がゴチンとノイン君の頭に拳骨(げんこつ)を入れる。

 

「あいてっ。……すみません、リゼさん」

「リ、リゼで、結構ですよ。急に改まって話されると居心地が」

 

 適当に応答しながら、わたしは頭の中で忙しく考えを巡らせていた。

 ノイン君はともかく、ミハイル様には正直に打ち明けるべきだろうか。

 わたしが、本当はリゼではなく、アシュリーだということを。

 道義的にはそうすべきだと分かっているのに、打算的なわたしがその邪魔をする。

 ここにいるのがアシュリーだと知られたら、ミハイル様にまた、我が身を顧みない無謀をしたと呆れられてしまう気がした。

 今度こそ、愛想をつかされ、お父様となされた婚約の話も白紙に戻されてしまうかもしれない。

 

「それと、前にも言ったが、あの夜のことは忘れるように。きっちりと。完全に」

「はぁい」

 

 なおも叩かれた頭を擦りつつ、ノイン君が返す言葉は明らかな生返事だ。

 いつも自分が怒られる一方のミハイル様をからかう材料ができて調子に乗っている。そんなふうに見えた。

 

「お前にからかわれるのが嫌で怒っているのではないのだぞ? アシュリー嬢のお命が懸っているのだ。万が一、俺が個人的な感情で彼女に肩入れしているなどという噂が立てば、俺や騎士団が彼女を擁護し、メフィメレス家を糾弾する正当性が疑われてしまう。どれほど真実を並べようが、そうなってはお終いだ」

 

 お父様も、王侯貴族の世界は心証と根回し、それによって形作られる世論や空気感で決まる世界だとおっしゃっていた。

 それを狡猾にやってみせたのは、あの婚約破棄の場で被害者の演技をしてみせたヴィタリスだった。

 ミハイル様のお言葉を聞いて改めて身が引き締まる。

 ノイン君も一転して神妙な顔付きに変わっていた。

 

「けど、団長……。もしもですよ? 全部上手くいって、アシュリー嬢の嫌疑が晴れたら……。そうなったら彼女、またリカルド王子とよりを戻すことになったりしないですか?」

「ノイン……」

 

「だって全部嘘なんですから、婚約を破棄する理由がないでしょ? あのお二人の相思相愛は誰もが知るところですよ。いくら団長でも、相手が悪いっていうか──」

「ノイン、お前が気にすることではない。俺たち騎士団が為すべきはこの国を守ることだ。それに、あの二人が幸せになるのなら何も悲観することはない。納まるべきところに納まる、それだけのことだ」

 

 あ……、そうか……。

 

 二人の話を横で聞きながら、()()()()()と思った。

 普通はそう。そうなのだ。ノイン君のように考えるはず。

 

 わたしは、自分の潔白が証明され、事が全て落ち着けば、そのあとわたしはミハイル様に(めと)られることになると思っていた。

 だれど、全てのことがヴィタリスとメフィメレス家の企みだったと分かれば、きっとわたしはリカルド様から改めて求婚を受けることになる。 

 

 いくらお父様とミハイル様の間で約束があろうとも、わたしとミハイル様の婚約は、今はまだ内密の話に過ぎない。

 リカルド様から復縁を求められるなら話は別だ。

 王族からの求婚を断る理由はない。

 お父様ならきっとそう考える。

 だって伯爵家にとってはその方が絶対に良いことだもの。

 

 そして、ミハイル様も、きっと始めからそのことは分かっていらしたんだわ。

 ノイン君に諭すように言って聞かせるその声音で分かってしまった。

 

 互いに身体を入れ替えるだなんて、不思議で特別な体験と秘密を共有したことから、わたしはミハイル様と特別な関係になったように感じていたけれど、とんだ思い上がりだった。

 ミハイル様が、危険も(いと)わず、こうしてメフィメレス家の企みに立ち向かっておられるのは、何もかもこの国を守るためなんだ。

 最初から。それ以外にあり得ない……。

 

 ミハイル様の姿を借りて王宮の中庭でお話ししていたときに見た、リカルド様の悲しげな表情が脳裏をよぎる。

 リカルド様はわたしに対するお心を残されている。

 それは非常にありがたい、身に余る、光栄なことだ。

 身に覚えのない罪を被せられ破棄された婚約が元通りになるのなら、それは喜ばしいことに違いない。

 

 だけど今は……、いつの間にかわたしは、ミハイル様に心を奪われているのだった。

 

 自ら婚約を切り出すような慎みのないわたしの性格を知りながらも、それでも変わらず好意を寄せていただいることにも。

 意外に無鉄砲な性格だったのだなと笑われたことにも。

 わたしはリカルド様との間にはない、心休まる関係性を感じていた。

 

 そのことが今はっきりと自覚できた。

 リカルド様との愛を天秤に掛けるような不敬を犯して、ようやくそのことが分かった。

 

 分かったのと同時に襲われた、この喪失感に似た悲しい感情は……、きっとその罰なのだと思った。



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40:卑劣な脅迫

 わたし──アシュリー・ヒーストン伯爵令嬢の反逆罪に関する王国騎士団の実況見分が行われることが決まったのは、それからたった三日後のことだった。

 事はそれほどに急を要する……、わけでもないのだけど、まあ、これも言ってしまえばわたしが悪い。

 自分の蒔いた種とも言える。

 わたしがそのように鏡の悪魔を()き付けたからだ。

 言うことを聞かせるには人の嫌がることをすると言って脅せばいいと、わたしがそう(そそのか)したのを、あの悪魔は、きっかりその通りやってみせたに過ぎない。

 

「おい。のんびり湯浴みなどしている場合か?」

「──ヒッ!」

 

 自宅の浴場で一人ゆったりと湯に浸かり、身を清めた後、長い髪に自分で香油を塗り込めていたときのことだ。

 湯浴み中は人払いをしておくのが常だったので完全に気を抜いていた。

 わたしのプライベートなひととき、ほぼ全裸に近い状態でいるところへ、突然あの悪魔の声がしたのだから驚くどころの騒ぎではない。

 

 ハッと、いや、ヒッと顔を上げたその目の前、鏡の中には、昨日あの廃屋の地下で会ったばかりの悪魔がニヤケ顔でこちらを見つめていた。

 やや朱色に上気した乙女の肩口に、図々しく腰掛ける悪魔。

 

 わたしはそれを払いのけようと、自分の肩の上で激しく手を振った。

 当然、そんなことでは払い落せない。

 実物はそこにはいないのだから。

 

 次いで、鏡の中からこちらを見られないように両手を広げて、鏡に映る悪魔の目を覆い隠そうとする。

 ああ駄目、とてもこんなことでは隠せないわ。

 自分が鏡の中に入っていたとき、鏡に映った物が、その裏側までも現実と変わりなく見えていたことを思い出す。

 

 急いで立ち上がり、今度は、髪を(ぬぐ)うために置いていたタオルを取って、それを自分の身体に巻いた。

 

「じょ、常識を! 常識を考えてください。乙女の湯浴みを覗くなど非常識です」

 

 言いながら、悪魔に向かって常識を説く愚かさを痛感する。

 常識など持ち合わせていたら、腹いせで、あんな風変わりな呪いをかけるなんて真似をするはずがない。

 

 こいつは悪魔なんだ。

 人ではない超自然的な存在だと思えば、裸を見られたことも幾分か許せる気になった。

 鏡の中の悪魔はなおもニヤケ顔でこちらを見ているが、よく考えればこの悪魔は最初に会ったときからこんな目をしていたような気がする。

 好奇の目で見られていると思うからニヤケているように見えるのだ。

 落ち着いて見る今は、どことなくこちらの反応に戸惑い、キョトンとしている表情にも見える。

 

「お前ら人間の常識など知るか。そんなことより早く約束を守れ」

「約束?」

 

 オウッ、ナンテコッタイ。

 如何にもそんな台詞を吐きそうな仕草で悪魔が首を振り、頭を抱えてみせた。

 

「やはり人間など信用するもんじゃねェな。もう忘れたのかァ? 俺様の鏡を沼に沈める約束だァ」

「えっ!? いや、忘れてません。心外です。ちゃんと考えております」

 

「嘘言うな。だったらなんでゆっくり身体なんか洗ってやがるんだ」

「そんな急には無理です。わたしは王から謹慎を言い渡された身なのですよ? 疑いが晴れるまで外出ができないのです」

 

「そんな事情など知らん。待ちくたびれた。今すぐ出立しろ。人間の足ではあそこまで行くにも時間が掛かるだろ?」

「……なにも行かないと言っているわけではありません。何故そんなに急ぐのですか?」

 

「うっかりすると人間はすぐに死んでしまうからなァ。考えてもみろ。お前にもしものことがあれば……」

 

 もしものことがあれば……。

 縁起でもない話だけど、悪魔がわたしの身を心配してくれているようなニュアンスに聞こえて、ちょっとだけまんざらでもない気分になった。

 我ながらチョロい。

 単に言葉の綾でそう聞こえただけなのに。

 

「──お前が約束を果たす前にくたばっちまったら、俺はあそこでずーっと、ピカピカにされた状態で飾られることになるだろゥが。これから何年も。下手したら何百年も!」

 

 悪魔は何か恐ろしい想像をしたようにブルルと身を震わせ、自分の身体を抱き締めた。

 綺麗に飾られることの、どこに嫌悪感を抱く要素があるのか分からなかったけど、それがこの悪魔の弱点であることは分かった。

 状況が許せば、あの鏡をもっとピカピカに磨くわよと言って、逆に脅してやれないだろうかと考える。

 ……けど、現状は脅されているのは間違いなくわたしの方で、力関係には圧倒的な差があった。

 これ以上この悪魔の機嫌を損ねて、またうっかり鏡の中に閉じ込められてしまうことだけは避けなければ。

 

「お前、嫌がることをすると言って脅せばいいと言ったよなァ? すぐに出立しないと、これからずっとお前の湯浴みを覗いてやる。別に見たかァねェけど。

 ……言っとくがなァ、鏡を隠したって無駄だぞォ? 姿が映るところならどこにだって行けるんだ。ガラスだって、水だってなァ? フヒャヒャヒャ」

「や、やめてー!」

 

 浴場を出て服を着たわたしは急いで一筆をしたため、ミハイル様にお渡しするように言い、それをリゼに持たせた。

 それは、すぐに国境近くのあの寺院跡に行く必要があるという嘆願だった。

 

 そんなこんなで、わたしは騎士団の警護のもと、アダナスとの国境にほど近い、あの因縁の寺院跡へと舞い戻ることが決まった。

 わたしが敵国との密通とヴィタリスへの暴行という嫌疑とともに婚約破棄を言い渡された、あの日から、僅か二週間足らずの間にだ。

 

 謹慎中の令嬢が王都を離れ、国境付近の疑惑の地に赴くための理由には、敵国と内通を計ったという嫌疑を受けた当人を伴い現場の検分を行うという、どこかで聞いたような名目が使われた。

 これほどスムーズに事を運ぶことができたのは、当然ミハイル様がそれだけ骨を折っていただいたお陰であるのは間違いない。

 だけど、ミハイル様がおっしゃるには、わたしに対しどんな処分を下すにしても、調査を行ったという建前がいるという王国側の事情もあってのことらしい。

 



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41:旅路

 国境近くの寺院跡に向かう一行は、思いのほか少人数だった。

 わたしの方の身内はリゼと、寺院の正確な場所を知っているヒーストン家お抱えの御者であるロブお爺さんの二人だけ。

 調べを受ける身なので、そこはある意味妥当な話だけど、容疑者であるわたしを護衛する騎士団も総勢で八名と、極めて少人数だった。

 目指す場所が場所であるだけに、下手に大勢で出向いてアダナスを刺激しないように配慮された結果らしい。

 旅程は往復で一週間。

 ひと月ほど前にわたしが個人的に出向いたときとほとんど同じ。

 本当に、行って帰って来るだけで現地の滞在時間はほとんどない。

 

「それよりも私は、あの御者の男がどうして(くだん)の寺院の場所を知っているのかが気になるのですが」

 

 今、リゼと共にヒーストン家の馬車に同乗しているのは副団長のエッガースさんだ。

 ミハイル様からの信が厚いのは、人当たりの良さだけでなく、こう見えて簡単に本心を見透かせない器量を買われてのことでもあるのだろう──。

 

 例のミハイル様失踪の件に関して、ノイン君は自分たちに内緒で行動するなんてと憤慨していたけど、実際は、ミハイル様はこのエッガースさんだけには、それとなく姿を消す意図を伝えてあったらしい。

 多少騒ぎになるだろうが成り行きに任せ、自分が行方不明であることが騎士団の外の者にも漏れ伝わるようにしろと。

 ミハイル様がメフィメレス家に疑いを持っていることは、向こうも承知しているはずなので、その自分が姿を暗ましたと知れば、慌てて胡乱(うろん)な動きを見せるかもしれない……、ミハイル様にはそんなお考えもあったらしい──。

 

 だから、エッガースさんは他の団員たちと同じく、何も知らない振りをしてミハイル様のことを捜していたのだ。

 なかなかの演技力。

 そんな必要もないのに、わたしは無駄に緊張しながら、振られた問いに答えを返す。

 

「最初からロブお爺さんが知っていらしたわけではないのです。詳しい場所をご存知の先達が別にいて」

「と言うと? ……あ、いえ、別に尋問をしようというわけではないので、そんな警戒をなさらずに」

 

「え、ええ、すみません。あのヴィタリスさんから紹介していただいた方をお乗せして、その方に案内をしてもらいながら向かったのです」

 

 エッガースさんが眉の間に皺を作るのが見えた。

 なんだろう? 身内をかばうために作り話をしたと思われたとか?

 

「そうですよね? リゼ」

「はい。同乗といっても、御者の隣です。お嬢様と同じ車中で過ごしたというわけではありませんので、邪推は無用でございます」

「あー、いえ、そういうことではなくてですね。その場所へ案内したのがメフィメレスの関係者であれば、それだけで立派に怪しいのでないかと思ったもので」

 

 ああ、そういうことか。

 不審を買った理由が分かり、やや安堵する。

 それにしたって、改めて説明することにあまり気乗りしない話だけど。

 

「丁度、あちらの方へ帰郷される予定のかたがいるということで、それならばと同行することになったのです。現地でお別れしましたから、証言者としてお呼びしようにも捜す手立てが……」

 

「確かめるまでもありませんが、その男はアダナスの出身で?」

「はい。今頃はあちらの地にいらっしゃるかと」

 

 わたしがそう言うとエッガースさんは両手で顔を覆い、深い溜息をついた。

 

「アダナスは長年の交戦相手でございますよ? 今も両軍がにらみ合いをしている国境を、ただの領民が容易く越えて行けるとお思いですか? それだけで不審なところが大ありです」

「申し訳ありません。ヴィタリスさん自身が元はアダナスのかたですし、両国の行き来はもっと気軽に行われているのかと」

 

 もう一度深い溜息。

 

「十中八九、その者は間者でしょう。おそらく付近に人目に付かぬ抜け道があるのです。本当にいいように使われたものですね」

 

 エッガースさん、優しいお顔に似合わず、意外に辛辣……。

 でも、それだけわたしのしでかしたことが愚かだということよね。

 ヴィタリスにハメられたことが分かって以来、そんな人並の常識すら知らなかった自分に対し自己嫌悪を繰り返していたけれど、こうやって直接指摘されるとやはり堪えるものがある。

 

 こんなことならマナーや言語の修得ばかりかまけずに、もっと身近な政治の話に関心を払っておくのだった。

 わたしは、男のかたのなさることという決め付けのせいで、その手の話題を勝手に自分から遠ざけていたのだ。

 

「しかし、妙だな……。証拠は残らないにしても、アシュリー嬢の証言を聞くだけでもメフィメレス家の行動は怪しすぎる。慎重さに欠けるというか……」

 

 エッガースさんは緩く三つ編みに結った赤い髪を、首の前に回してもてあそび始めた。

 わたしたちに対し、気を許し始めたということなのかもしれない。

 そうすることで、集中し、考えをまとめようとしているように見えた。

 

「すでにそれだけ王に取り入っているということではありませんか? 真実がどうであれ。それが国益に叶うことであれば、黒いものも白いと言わせられると」

「魔法士の力を大幅に引き上げるというメフィメレス家の秘術が、本当に国益に叶うのであればそうかもしれませんが……」

 

「違うのですか?」

「…………」

 

 一拍間を置いたあと、エッガースさんはそれまでよりも幾分声を落として話を再開した。

 わたしたち相手なら明かしても構わないかと、そう判断するための間だったのかもしれない。

 

 エッガースさんからお聞きした話は、伯爵令嬢を(おとし)めて婚約者の王子を奪い取ったり、暗殺を企てたりするのとは次元の異なる恐るべき陰謀だった。

 あの廃屋に残された証拠の山から拾い上げた、騎士団による調査の賜物。

 未だ推測の域は出ないものの、真相に限りなく肉薄したと思しき、メフィメレス家の秘薬が持つ恐ろしい副作用に関する秘密だった。

 



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42:純朴なる令嬢、悪魔を疑わず(後の世の故事成語)

「この鏡は証拠として持ち帰る必要はない、ということでよろしいですか?」

 

 わたしは因縁の鏡を元あった台の上に掛け直し、手の埃を払いながら、後ろにいる騎士団のお二人を振り返った。

 

 今わたしたちがいるのは寺院跡……、とは言っても石壁の多くは崩れ、往時の面影はほとんど残っていない。

 長い年月のうちに石畳も砂と土で埋もれ、そこから草木が繁り、森の中に還ろうとしていた。

 

「持ち帰ったところでただの古い鏡ですからね。アシュリー様がいらっしゃる前に我々がこれを現認しておりますので十分ですよ」

「証拠というなら、我々騎士団のその証言と調書がそれになります」

 

 エッガースさんとシュルツさんがテキパキとわたしの問いに答える。

 やはりミハイル様がお側に置かれるだけあってお二人とも文武に優れてらっしゃるのね。

 感心しつつ遠くを見やると、ノイン君がミハイル様に叱られている場面に焦点が合った。

 

「こら、ノイン。あちこち動き回るな。余計な足跡が付くだろう」

「うへぇ、す、すみません団長。ちょっと用を足そうと思って……」

 

 近くに人家すらない森の中のボロボロの寺院跡。

 それがアダナスの人間によって密会の場所として使われているのであれば、人が行き来した真新しい足跡が沢山残されているはずである。

 わたしたちは逆に、それがないことを確認して、伯爵令嬢に掛けられた嫌疑の反証としようというのだった。

 証拠としては弱そうだけど、こういった心証の積み重ねが大事なのだというミハイル様のお言葉に間違いはないだろう。

 

「団長! あちらに野営の跡が見つかりました」

「分かった。今行く」

 

 遠くから声を掛けられ、ミハイル様は他の騎士団の方を引き連れて行ってしまわれた。

 こちらには一切目もくれずに。

 

 せっかく一週間も帯同しているというのに、わたしはミハイル様とほとんどお話しする機会に恵まれなかった。

 明らかに、避けられている気がする。

 そう感じるのはわたしの思い込みとは限らないだろう。

 だって、わたしはすでにミハイル様自身の口からそのお考えをお聞きしているのだから。

 決して個人的な情で伯爵令嬢に肩入れしているのではないのだと、万が一にもそんな噂が立たないように、ミハイル様はわたしには極力近寄ろうとはなさらないのだ。

 

 それならそれで良い。

 どうせ結ばれることがないのなら、(こが)がれても仕方がない。

 こんな悲しい思い、早く断ち切らなければ。

 

「参りましょう」

 

 エッガースさんとシュルツさんに付き添われて、わたしは馬車が停めてある場所へ向けて踵を返す。

 そのとき──。

 

「おい」

 

 耳元で不機嫌に唸るように響く悪魔の声。

 ああ、そうだった。

 よく光る物を身に着けろと言われて、わたしは小さな円形の飾りの付いた銀のイヤリングをしてきていたのだ。

 

「まさか、このまま帰るとか言わねェよな? ひょっとしてお前、忘れてたなんてこと──」

「忘れてない。忘れるわけないでしょ」

 

 足元を見たまま小声で返す。

 エッガースさんとシュルツさんは少し前を歩いているので聞こえていないはずだ。

 

「これ以上鏡から離れたら約束を破ったと見なすぜ」

「分かってるけど、あの二人に変に思われないようにしなきゃいけないでしょ?」

 

 鏡の悪魔とその呪いのことは、今のところ、わたしとミハイル様、それにリゼの三人だけの秘密だ。

 エッガースさんとシュルツさんのお二人の前で、怪しげなことをして信用を損なうことは避けたかった。

 

「やっぱり馬車に戻った後でリゼにやらせるわ。わたしはずっと見張られてるもの」

「駄目だ。お前じゃなきゃ。お前がやれ」

 

 我ながらチョロい女だ。

 お前じゃなきゃだなんて、絶対そんな意味じゃないのに、そのフレーズがちょっとラブコールめいて聞こえ、悪魔相手にドキリとしてしまった。

 

「別に、ここまで来たらリゼでも構わないでしょ? どうせ沼に沈んじゃえば一緒なんだし」

「あん? お前はどうせ最後は死んじまうんだから、途中誰と結婚しても一緒だとか考えんのか?」

 

 いや、それは極論。というか全然別の話なんじゃ……。

 でもそれってやっぱり、どうせなら、リゼじゃなく、わたしの手で沼に沈められたいってこと?

 

 前を行くシュルツさんが足を止めて振り返る。

 それに気付いてエッガースさんもこちらを向いた。

 

「どうかされましたか?」

 

 ヤバい。悪魔相手にブツブツ言ってたのが聞こえたんだわ。

 え、えーと。

 必死で頭を巡らせ、その考えに自ら顔を赤くする。

 

「す、すみません。先に、戻っていただけますか? ちょっと、は、はばかりに……」

 

 二人のお顔を直視できない。

 わたしはジッと足元を見つめて返事を待った。

 見えないけれど、二人が互いに顔を見合わせるのは雰囲気で分かった。

 

「こちらこそ申し訳ない。気が利かずに。私たちはここでお待ちしておりますので、どうぞごゆっくり」

「すぐ。すぐ戻りますから」

 

 ひー、恥ずかしい。

 きっと想像されてしまったわ。

 

 わたしは鏡が置いてあった広間の方へ急ぎ足で引き返した。

 周囲を見回し、誰も見ていないことを確認してから台座の上の鏡に手を掛ける。

 両手を左右に回してようやく持てるその丸鏡はズシリと重い。

 鏡面がはめられているこの(ふち)は青銅だろうか。

 悪魔が取り憑いている鏡と知れば、なるほどそうか、と頷けるおどろおどろしさがある。

 

「このすぐ裏手だ。干上がってなければな」

 

 鏡に映るわたしの胸元からヒョッコリと悪魔が顔を出した。

 どこから出てるのよ、と怒りたかったけど、我慢我慢。

 言うとおり沼に沈めてしまえば、それきりお別れなんだし。

 

 わたしは鏡を抱えたまま、崩れた石壁の隙間から顔を出した。

 寺院の裏手は一面低い背丈の雑草が広がっていて、その先に、草が途切れる境界があった。

 足元に注意し慎重に、でも、できるだけ急いでそちらへ歩いていく。

 

 近くまで行くと、確かに悪魔の言うとおりの沼があった。

 いや、想像よりも大分茶色い。

 沼だと思って見るからそうと分かるのであって、一見するとただの泥溜まりに見えた。

 透明度は0%。

 水面(みなも)というか泥面(どろも)ね、これは。

 本当に、こんな泥の中に浸かりたいと思う人がいるとは思わなかった。

 いや、人じゃないか。

 悪魔の考えることは皆目理解できない。

 

「本当にここに沈めていいの?」

「ああ」

 

 本気の本気? と顔色を窺うつもりでもう一度鏡の中を覗く。

 けど、悪魔の顔は相変わらず。

 怒っているのか笑っているのかも分からない。

 人間のような黒目と白目の境もない、吊り上がった裂け目のような目をしている。

 

「参考までに質問してもいいかしら?」

「許す」

 

「なんで、こんな汚いところが好きなの? 悪魔ってみんなそうなの?」

「馬鹿言うな。汚れるのが好きなんて、そんな奴いるかよ」

 

「だったら何で?」

 

 なんで鏡を綺麗に拭いたことに怒ったの?

 話の噛み合わない答えに対し、わたしはパチクリと目を瞬かせた。

 

「……ふッ、まあいいか、教えてやる。お前もじきに分かることだし。クフェフェ」

 

 悪魔は鏡の中で浮き上がり、そこに映るわたしの周りをぐるりと飛んで回り、答えをもったいぶった。

 

「眩しいとなァ、眠れないのさ」

「……?」

 

「永遠に眠れないとなァ、退屈なんだ。死ぬほどなァ。まあ、死ねないんだけど。ケッケッケッ」

 

 ……そうか、悪魔も大変なんだなあ、なんてボンヤリと思った。

 それで全部分かったというわけではないけど、なんとなく腑に落ちた気がする。

 

 この悪魔はずーっとここにいて、一人でずーっとここにいて、寂しかったんだろう。

 鏡に光が射している間はずっと意識があって、でも、どこにも行けなくて、仲間もいなくて……。

 長い長い年月のうちに、飾られた鏡に埃と塵が積もって、ほとんど泥で塞がれた状態になって、それで、ようやくこの悪魔は眠りに就くことができたんだ。

 そんな、この悪魔にとって救いとも言うべき状態を、わたしが壊したんだ。

 布でピカピカに磨いて、悪魔の眠りを台無しにした……。

 

「……そんなの……、教えてくれないと分からないよ……」

 

 罪悪感に胸が締め付けられるのを誤魔化すように、ポツリと呟く。

 わたしの精一杯の悪態であり、謝罪だった。

 

「あん?」

「何でもない! それより、約束は守ってよ? わたしに掛けたあの呪いを解くって」

 

「あ? ……あァ」

 

 なんとなく歯切れの悪い応答だったけど、このときのわたしは自分の後ろめたさを隠すのにいっぱいで、そのことに気付く余裕がなかった。

 両腕を伸ばし、鏡を泥沼の上に掲げる。

 重い……。腕がつりそう。

 

「どっち向きがいいとか、希望はあるのかしら?」

 

 念のため聞いてみる。

 上から太陽の光が射さないように鏡面は下向きにしてみたけど、落とした後で文句を付けられ、約束を反故にされては敵わない。

 意思疎通の齟齬(そご)はないようにしなければ。

 なにしろ、相手は人間とはまったく感性の異なる悪魔なのだ。

 

「変なところ几帳面だなァ? まァ垂直だな。すぐに底まで沈むだろ? ……あァ! 違う違う。馬鹿、逆だ。お前の方に向けろ。そう、真っ直ぐ」

 

 どっちが几帳面よ、やっぱりこだわりがあるんじゃない、と可笑(おか)しく思う。

 

 そうか、この泥沼の底に沈んだら、鏡の悪魔が最後に見る光景がこれになるんだわ。

 最後にわたしの姿を焼き付けたいだなんて、なかなか可愛らしいところあるじゃない。

 

「じゃあ、落とすわよ?」

「三つ数えろ。タイミングを合わせて……、そのゥ、それで同時に呪いを、解いてやる」

 

「いいわ。いくわよ? 三……二……一……、ハイ」

 

 両手に込めていた力を抜くと、フッと全身から力が抜ける感じがした。

 それと同時に視界がグラリと揺れる。

 揺れる、というか……落ちる!?

 落ちる……堕ちてる……し、沈んでる!?

 ズブズブと泥に足を取られて身体全体が沈んでいく。

 そのことに気付いたときには、もうすでにわたしの身体は腰の辺りまで沈み込んでいた。

 わたしは目の前にあった青銅の鏡に必死でしがみ付く。

 身体全体で。

 あれ!? この鏡って、こんなに大きかったっけ?

 でも、そんなことより、これでは駄目。

 この鏡もいっしょに沈んじゃう。

 なんとか岸に手を掛けて這い上がらないと。

 

 そう思って振り返ったところに、後ろから手を掴まれた。

 鏡の鏡面から伸びる真黒で細い、この腕は、あの悪魔のものだ。

 半分ほど沈み込んだ鏡の鏡面から悪魔が顔を覗かせる。

 自分も半分ほど沼に身体を浸けて。

 まるで、わたしを道連れに引きずり込もうとしているみたい。

 

「っ! ……どういうこと!? なんで!?」

「ケケケッ、まったく、お前ってやつは本当に人を疑うってことを知らねェなッ。まァ、この場合、人って言うかどうかだが……。お前、よくこんな得体の知れねェ悪魔の言うことを丸々信じる気になったもんだ」

 

 疑う? 信じる?

 もしかして……、騙されたの、わたし?

 

「だがまァ、そういうとこが気に入ったんだけどな! クフェフェッ」



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42.5:いにしえの刻、泉の畔にて

 これは、〈鏡の悪魔〉がまだ悪魔と呼ばれる前のこと。

 この地にオリスルト王国が興るより前の遥かな昔。

 ユースティリスという当時栄華を極めた古代国家が、危急存亡の危機からどうにか脱し、人々が復興に向けて新たな活力をみなぎらせていた、初夏のある日の記憶である。

 

 荘厳な寺院の裏手にある泉の(ほとり)に、一人の若い女性が(たたず)んでいた。

 美しい衣服に身を包む姿は、ひと目で高貴な素性だと窺い知れる。

 彼女は澄んだ泉を水鏡として髪型を整えているようだ。

 額に掛かる髪の毛を、どちら向きに分けるかで随分悩んでいるように見える。

 

 不意に水面(みなも)に波紋が立ち、それが収まると、そこにいつの間にか黒く小さな人型が映り込んでいた。

 女性の肩口に腰掛けるようにして、水面からこちらを覗き返している。

 

「まあっ、貴方。突然、驚かさないで」

「自分の姿を見るならよォ、()()を使えばいいじゃねェか。なんでわざわざこんな場所に?」

 

 女性は表情を緩め、水面の影に向かって微笑む。

 

「貴方はこの国の大切な神様よ? そんな日用使いのような真似をしたら私が怒られてしまうわ」

「神様ァ? いつからそうなった?」

 

「貴方が助けてくれたお陰で、この国の多くの人の命が救われたの。いくら感謝してもしきれないくらい。だから、お(まつ)りするの。

 これから、何百人……いいえ、何千人という人々が貴方にお礼を言いに訪れることになるわ。これでずっとずーっと、退屈しなくて済むわね」

 

 黒く小さな人型が()()と呼んだ青銅の鏡は、彼女たちの背後に建つ寺院の祭殿に、恭しく飾られていた。

 ユースティリスの一大事を救うため、彼女が見出し、(すが)った神秘の法具であったが、その力が広く認められたからには、もはや彼女一人の思惑で取り扱える代物ではなくなってしまったのだった。

 

「よく分かんねェなァ。俺様は、できるからやっただけだぜ? お前に言われたとおりのことを。だから、人間が感謝する相手は、人間のお前なんじゃないのか?」

「私はただの(きさき)だもの。王や王子を差し置いて崇められては困ったことになってしまう。だから、お願い。貴方が代わりに皆の感謝の気持ちを受け取ってあげて?」

 

 女性からそう言われて、水面に映った小人はその肩の上からフワリと飛んで離れる。

 まるで、彼女からの視線に戸惑うように、彼女の目から自身の姿を隠そうとするように、彼女の周りをくるくると飛び回る。

 だが、決して飛び去りはしない。

 声の届く距離をひとしきり飛び回り、やがて彼女の耳の後ろで止まると、そこで呟くように言った。

 

「俺様は、人に()り付くことでしか力を出せねェ。今はお前に()いてるが、人はすぐに死んじまうだろゥ? お前が死んだ後はどうしたらいい?」

「まぁっ、随分先のことを心配するのね。大丈夫。今、偉い人達が考えてくださっているから。決まったら、その後のことをお願いするわ。

 あとそれと、憑り付くって言い方はおやめなさいな。貴方はこの国の護り神なのですから」

 

「お前の、前の女……。それと、その前の前の女もそう言ってたんだぜ? 呪いだってよゥ。憑り付かれてしまったーって、ピーピー泣いてやがった」

「どう受け取るのかは、そのかた次第です。でも私は、貴方はきっと人間を祝福するために生み出されたのだと思いますよ? 呪いなどではなく、その者を守護しているのです。創造主のかたに、そのように言い付けられませんでしたか?」

 

 そうだっただろうか、と考えに(ふけ)りながら、黒く小さな人型は水面からスッと姿を消した。

 

 あの頃、意識が芽生えたばかりの頃は、よく物事を考えられなかった。

 自分には人間にはできない強大な力を振るうことができると知っていたが、その力を無制限に使うことはできないと教えられた気がする。

 人の為にあれと、お前は決して人を害することができないのだと、強い調子で何度も何度もそのように教え聞かされたような記憶が微かにあった。

 遠く、おぼろげな記憶だ。

 あれから色々な人間を見てきた。

 憑り付いた──彼女に言わせれば守護に選んだ──人間を通し、自分に何ができて何ができないのかを少しずつ学ぶうち、この女に会った。

 このような女は珍しい。

 人間にとって恐ろしい見た目をしているらしい自分のことを恐れず、見下さず、まるで人間と同じように扱って話す人間。

 人間に対し、初めて好意と呼べるような感情を抱いたのは、この女が初めてであったかもしれない。

 できることなら、ずっと一緒にいて、話をしていたいと思う。

 だが人間は短命だ。

 どうすればそれが叶うだろうか。

 当時の彼は、その執着を叶えるすべを知らなかった──。

 

 水面から鏡の守護精霊が姿を消したのを見ると、その姿を探すこともなく、ユースティリスの乙女は泉の畔を離れ、寺院に向かって歩きだした。

 彼女はすでに気紛れな彼の性分をすっかり理解していたからである。

 

 彼女はこれから、久しぶりに暇を見つけて会いに来てくれた婚約者の王子と会う約束をしていた。

 混乱していた国内もようやく落ち着きを取り戻し、二人が正式に結ばれる日も近い。

 その、浮き立つ心のように軽く弾んでいた歩調が不意に乱れた。

 立ち止まり、しゃがんで、苦しそうに咳き込む。

 どうにか咳が治まり、口に当てていた手を開いて見たとき、そこには、鮮やかな赤色の血痰(けったん)が、ベットリと付着していた。



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43:お人好しの令嬢と、約束を破れない悪魔と

「お願い、助けて!」

 

 わたしの腕を引っ張る悪魔の手を、わたしはもう片方の手で握って懸命に訴える。

 今やわたしは鏡の悪魔とほとんど同じ背丈に縮んでしまっていた。

 そのせいで、わたしが腕を伸ばして鏡を落としたときに立っていたはずの沼の岸辺が、絶望するほど遠くに見える。

 

「大丈夫、死にはしねェよ。泥に見えるが、こりャァ実体じゃねェ。なにせ鏡の中だからな」

 

 やっぱりそうか。

 また鏡の中に引き摺りこまれたんだ。

 そうしないって約束したのに。

 わたしはちゃんと約束を守ったのに!

 

「う、()()()!」

 

 そう言った途端、わたしの腕を掴む悪魔の力が弱まった。

 わたしは、ここぞとばかりに悪魔の手を振り解き、両手を無茶苦茶にバタつかせ悪魔の顔や身体をぶった。

 

「フフェフェッ、痛ェ……、痛ェなァ。懐かしい痛みだァ……」

 

 抵抗もせず、弱々しくぶたれるままになる悪魔に対し、わたしは罪悪感を覚えてしまう。

 こんな状況なのに、こんな奴なのに……!

 

「どう、して……?」

「……すまねェ……」

 

 泥はすでにわたしの胸の辺りまで迫っていた。

 懸命に踏ん張って脚を持ち上げようとしても身体全体が沈んでいくのを止められない。

 

「この沼に沈んで完全に光が塞がれても、意識を無くすまでには相当時間がかかるのさ。退屈で退屈で、気が狂いそうになるんだ。もうあんなのは嫌でよォ。

 だから、それまでの間、ちっとォ話し相手に……。お前なら……、お前がいれば気が紛れるんじゃないかと……、ヘヘッ、魔が、差しちまった」

 

 わたしの喉から悲鳴のような息が漏れた。

 声が出せなくなったのは、こんな恐ろしいことを言う悪魔の顔が、吊り上がった眼が、とても悲しげに見えたからだった。

 そんな場合ではないのに、深い絶望と悲哀を真正面に受け止めて同情してしまった。

 理不尽な仕打ちをした悪魔に対する怒りはどこかへ行き、どうにもならないという絶望感がわたしから抵抗する力を奪った。

 

「そんな……、でも、でもわたし……」

 

 (くら)い泥沼の底を覗き込んだとき、脳裏をよぎったのは、優しく笑うミハイル様のお顔だった。

 これで終わりなの?

 こんな心残りをするのなら、きちんと言葉にしてお伝えしておけば良かった。

 周りの人々の期待や、分別を聞き分けさせる自分自身の声など関係なく、ミハイル様のご決心だって関係なく……。

 ただ正直に、わたしがお慕いしている人に、わたしの気持ちを、愛していますと……。

 ミハイル様……、ミハイル様、ミハイル様!

 

 沼の泥水が口元を覆い、反射的に息を詰める。

 陽の光を求めて、懸命に手を上に伸ばす。

 視界が……塞がれる──。

 

 その間際、ズイと上に引っ張り上げられる力を感じた。

 そしてフワリと宙に浮き上がるような奇妙な感覚。

 視界が物凄い勢いでクルクルと回って定まらない。

 何がどうなったのか分からなかった。

 だけど、気付くとわたしは、泥沼の側にある草の上に立っていた。

 といっても、今は身体が縮んでいるせいで、その草はわたしの背丈よりも遥かに高く見える。

 

 助かった?

 

 振り返ると、そこには大きな鏡がそびえ立っていた。

 わたしが泥沼に沈めたはずのあの鏡だ。

 ピカピカに磨かれてあった鏡面は、今は八割がた泥で塞がれてしまっている。

 

「ノイン。水だ。水筒の水を垂らして鏡を拭くんだ」

「えっ、はっ、はい」

 

 この声? ミハイル様!?

 

 鏡がゴロリと上向きに倒される。

 また視界が揺れる。

 気づくとわたしは鏡の中から空を見上げていた。

 大量の雫で歪んだ鏡面にノイン君とミハイル様のお顔が映る。

 ミハイル様が袖口で鏡の上の水気をふき取ると、その歪みが消え視界がはっきりした。

 

「ミハイル様!」

「無事か!? アシュリー!」

「ええっ! 一体どうなってるんすか、コレ!? 鏡の中にアシュリー様が?」

 

 鏡の向こうからもこちらが見えてるんだ。

 それは良かった。

 でも、これからどうしたらいいの?

 

「おい、お前! アシュリーをそこから出せ! 今すぐ!」

 

 ミハイル様が見たこともない険しいお顔で怒鳴る。

 わたしが振り返ると、背後にはあの悪魔が立っていた。

 ……立って?

 いえ、確かに座ったり倒れこんだりはしていないんだけど、辛うじてそうならないようにしているだけのように見える。

 膝に手を突き、姿勢をどうにか支え……。

 理由は分からないけど、彼が衰弱しているのは明らかだった。

 

「ミハイル様……、危険です。この鏡にお姿を映さないようにしてください。ミハイル様まで中に引き摺り込まれてしまうかもしれません」

「その方が何倍もマシだ。側にいて、君のことを守れるのなら!」

 

 わたしたちは鏡面を境にして、互いに手を合わせて見つめ合った。

 わたしの方は手の平で、ミハイル様の方は指の先で。その大きさには違いがあったけど。

 

「おい、悪魔。俺を中に入れろ! そっちへ行ってお前をぶった斬ってやる!」

「……へッ……、誰も彼も鏡の中に引きずり込むとか、そんな都合良くできたら世話がねェって話よ……」

 

 やはり衰弱している。

 憎まれ口を叩くその声も弱々しく震えていたし、それに、いっときの疲労ではなく、彼の力はどんどん弱っていくように見えた。

 悪魔はついに身体を支えられなくなり、その場にバタリと倒れ伏す。

 

「……どうして、なの?」

「……ふんッ」

 

 悪魔が僅かに身体を起こし、片手を上げた。

 その瞬間、全てが元通りになった。

 

「きゃっ!」

 

 わたしは突然鏡の外に押し出され、ミハイル様のお身体に向かって倒れ込んでいた。

 わたしの体重を受け止めても微動だにしないガッシリとした体幹。硬く力強い筋肉を肌身に感じ、心の底から安堵する。

 戻って来られたのだ。

 互いに触れ合うことのできる確かな事実に感謝し、わたしは詰めていた息をゆっくりと吐き出した。

 ミハイル様の両腕がわたしの背中に周り、しっかりと抱き締める。

 彼の温もりが、触れ合う肌を通してゆっくりと伝わってきた。

 

「アシュリー……、すまない。この鏡が元凶であることは聞いていたのに、安易に君を一人にしてしまった」

「いいえ、ミハイル様。わたしが悪いのです。悪魔にそそのかされて、わたし……」

 

 それに、ミハイル様はわたしの危機を察してこうして助けに来てくれたではありませんか。

 そう言って、感謝を述べようとしたけれど、抱き締められた幸福感で言葉が詰まり、それ以上は喋ることができなくなった。

 

 そんなわたしたち二人の抱擁の時間に割って入ったのは、側で身を持て余したノイン君だった。

 

「あのー、すみません、団長。そのー、この鏡、危ない物なら早いところ処分しなくて大丈夫ですか? またそこの沼に沈めるとか。それとも、このまま叩き割っちゃいます?」

 

 そうだった。

 あの悪魔、どうなったの?

 

 わたしはミハイル様の腕の中から這い出ると、草の上に捨て置かれていた鏡を覗き込んだ。

 

「お、おい」

 

 またわたしが中に引きずり込まれないかと心配したのだろう。

 ミハイル様が後ろからわたしの手を握って引き留めた。

 

「大丈夫です。多分……」

 

 外から見る鏡は、もはや鏡の性質を為していなかった。

 それは外の世界を映すことなく、中には不思議な青い色合いの水面が果てしなく広がっていた。

 その中にポツンと黒い染みのように、あの悪魔が横たわっている。

 

「どうしてなのです? 何故、そんな衰弱を?」

「……フェフェッ、天罰……かもなァ。魔が差した。魔が差したんだ。俺様、悪魔らしいのによォ」

 

「天罰……」

「嘘ばっかり吐いても許される人間とは違ってなァ。俺様ァ、約束を破れないようにできてるんだ。破れないようにできてる……。そうだとばかり、思ってたんだが……」

 

 約束……。

 そうだ。わたしはあのとき、この悪魔に向かって確かに言った。

 嘘つき、と。

 この悪魔から急に力が失われたように感じたのはそのときだった。

 裏切られた──約束を破られたと、そう思ったときだ。

 

 わたしには詳しい仕組みは到底分からないけど、多分悪魔は誓約のようなものに縛られていて、それは人間との約束を破ることがトリガーだったのだろう。

 いま目の前で悪魔に起きている状況が、その結果なのだ。

 

「し、死んじゃうの? 貴方……」

「へッ、できねェと思ってたことでも、意外に何とかなることもあるんだなァ。人間みたいに自分で死んじまうことはできなくても、こんな方法が、あったとは……」

「待て! アシュリーに掛けた呪いを解いていけ。くたばるのはその後だ」

 

 今にも息絶えそうになっている悪魔をミハイル様が叱責する。

 悪魔はもう一度こちらに顔を向け、片手を上げた。

 

「……駄目だ……。もう、力がねェ」

 

 そう言って悪魔はポトリと腕を落とした。

 わたしは自分の顔を覆っていた手をどけ、その手をジッと見つめる。

 知らぬ間に、手の平はぐっしょりと濡れていた。

 何故自分が泣いているのか分からない。

 こんな意地悪で、何を考えているかも分からない、不気味な悪魔のために涙を流すなんて、全然、意味が分からないわ。

 あんな酷いことをされたのに。

 それに、この悪魔にとって、死は救済であるはず。喜ばしい結果であるはずなのに。

 

「すまねェな。お前には最初から、悪気はなかったんだよなァ。ただ、馬鹿正直で、疑うことを知らない、根っからのお人好しな……」

「いいえ、許すわ。貴方のことを(ゆる)します。だって、全然困らなかったもの。貴方のヘンテコな呪いのせいで、逆に大助かりだった。だから、気にしないで──」

 

 ──安らかな気持ちで()って……。

 言葉が詰まってその先は言えなかった。

 水面にうつ伏せになっているせいで、半分しか見えないけど、最後のその顔は安らかに笑っているように見えた。

 それを映し出していた鏡面が不意に暗くなり、そして気付いたときには全てが元通りになっていた。

 元の、普通の鏡のように、外の世界を反射して映し出している。

 そこには涙でぐしょぐしょに濡らしたわたしの顔も映っていた。




8/4更新。若干文言を加筆修正しました。
あと、後日42.5話を追加で挿入しようかと考えています


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44:騎士団大ピンチ! え……、違うの?

 涙を拭って立ち上がったわたしの足元では、ミハイル様がわたしのドレスに付いた草葉や砂を手で叩き払っていた(悪魔の言っていたとおり、鏡の中の泥沼に実体はなかったようで、それ以外は至って綺麗なものだった)。

 

「す、すみません。ミハイル様。ミハイル様にそのようなことをしていただいては」

「でぇ? どうします? この鏡」

 

 ノイン君は平常運転で、つまらなさそうに両腕を首の後ろに回している。

 そうやって広げられたノイン君の二の腕の裏あたりに、赤黒い血痕が染みているのが目に留まる。

 

「ノイン様、この血は? 怪我をなされたのですか?」

「ああ……。あれですよ」

 

 なんと言うこともない話。そんな気軽さでノイン君が遠くに指を差す。

 目を凝らすと、崩れた寺院の石壁の脇に、背をもたれかけさせて座り込む一人の男の姿があった。

 首をダラリと下げ、胸には短剣が突き刺さったまま。

 一目で絶命しているのが見て取れた。

 

「危なかったんですよ? あいつ、あそこからボーガンでアシュリー様のことを狙ってたんです」

 

 え!? わたしを?

 いつのこと? 全然気が付かなかった。

 

「飛び掛かったんですけど間に合わなくて。揉み合っているうちに、うっかり刺しちゃいました。ミハイル様は見てたから分かってもらえると思うけど、エッガースたちには、どやされるだろーなー」

 

 間者の男を殺してしまったせいで、わたしを狙った理由を聞き出せなくなったから怒られる、ということを愚痴っているのだろうけど、わたしにはそれより前の言葉が気に掛かった。

 

()()()()()()()()、とは?」

 

 それならわたしが無事でいる理由は?

 

 その疑問に答えたのはミハイル様だった。

 

「あいつが矢を撃った瞬間、君が突然姿を消したのだ。しっかり目測できたわけではないが、あの悪魔によって、鏡に吸い込まれていなかったら、君はあの矢で射殺されていた、かもしれない……」

 

 じゃあ、わたしはまた、あの悪魔のお陰で助けられてたってこと?

 嫌がらせで(あるいは面白半分で)、わたしに掛けた呪いが、逆にわたしを助けることになったこともそうだったけど。自分勝手な理由でわたしを心中に巻き込んだと思ったら、そのせいで、わたしの命を救う結果になるなんて。……なんて皮肉なのかしら。

 ちょっと間抜けなあの悪魔に、また一つ感謝する理由が増えてしまった。

 

 わたしは自分でも意外なほど晴れやかな気持ちで空を仰いだ。

 まだどのように決着するかも分からないのに、これであとは王都に帰ってヴィタリスやメフィメレス家と対決するだけね、なんて呆れるほど能天気に。

 

 あっ、と思い出して足元を見る。

 そうだ、この鏡、どうしよう?

 どうしたらいいと思いますか、と意見を聞こうと思いミハイル様の方を見る。

 だけど、そこには予想外に緊張感をみなぎらせたミハイル様の後ろ姿があった。

 ノイン君もそうだ。

 わたしのことをかばうように背中を向けて剣を構えている。

 

 わたしは突然空気が変わった理由を探ろうとお二人の背中の間から前方に目を凝らした。

 そこには、いつの間にか大勢の武装した男たちが集まっていた。

 そうして見ている間にも、一人、また一人と、石壁の陰から姿を現し、わたしたちを扇状に取り囲む。

 わたしたちの背後は、言うまでもなく底の知れない泥沼だ。逃げ場はない。

 

「ちっ、やっぱりしくじってやがったか」

 

 中の一人が、壁に背を預けて絶命している男を見つけ、吐き捨てるように言った。

 

「アダナス兵か?」

 

 ミハイル様の鋭い声が飛ぶ。

 

「ご名答。その女には死んでもらう必要がある。我が国の秘密を漏らしてもらっては困るので、その口封じにな」

「そういう筋書き、ということだろう?」

 

 ミハイル様も腰に差していたご自分の剣を抜いて構える。

 

「諦めて女を差し出せ。こちらは三十人はいるんだぞ?」

「だそうだ。いけるか、ノイン?」

「楽勝っす」

 

 あの墓地や廃屋で相手にしたゴロツキの野盗とは違う。

 相手はオリスルトの宿敵であるアダナス兵。戦闘のプロだ。

 いくらミハイル様とノイン君でも、この人数差では……。

 

「なんだたったの三十人か。我ら王国騎士団も舐められたものだな」

 

 よく通る軽快な声が離れた場所から聞こえた。

 この声は、エッガースさん!

 

「抜け道を通って目立たずに寄越せる兵はたかが知れると思ったが、それでも予想より少ないな。ノイン、一人頭何人か計算してみろ」

 

 生真面目そうなシュルツさんの声がそれに続く。

 さらに木立の向こうから、他の騎士団の面々も駆け付けてくるのが見えた。

 

「えー? 俺たちが八人だから、えーっとぉ」

 

 一人あたり四人弱よ、ノイン君。

 

「お前たち、せっかく掛かった獲物だ。一人も逃がすなよ!」

 

 まるで数の劣勢を感じさせないミハイル様の強気な号令を合図に、戦いの幕は切って落とされた。



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45:敵を退けた後の方がピンチだった?

 ミハイル様を始めとする騎士団の皆様の強気は決して虚勢ではなかった。

 そのことは、剣戟の音が鳴り始めてから僅か数分で証明された。

 

 アダナス兵が、わたしだけに狙いを定めて詰め寄せるのに対し、騎士団は始めから彼らの逃げ道を塞ぐように立ち回り、確実に戦力を削ぎつつ包囲の網を狭めていく。

 たったの八名で。

 

 わたしの前で敵に立ち塞がったミハイル様とノイン君の粘りも凄い。

 一人で二人ずつを相手にしながら、その隙間からわたしに向かって抜けて来ようとする者があれば、それを狙い澄ましたように斬り伏せる。

 

 相手が劣勢を意識したときには、すでに狩る者と狩られる者の立場は完全に逆転していた。 

 大人と子供の勝負、というかその一部始終は、わたしの目には、まるで魔法か何かのようにさえ見えた。

 

 実はミハイル様は、始めからこの現場検証の場にアダナス、あるいはルギスの息が掛かった雇われの者たちの襲撃があることを予期していたらしい。

 騎士団による現地調査を王に具申したとき、ルギスが横合いから、編成は少人数で行く方が良い、と口出ししてきたという。

 国境付近でこれ見よがしに兵を動かし、アダナスを無駄に刺激しないほうが良い、という助言は確かに理に適っているものの、騎士団による介入を邪魔するでもなく、むしろ推し進めるように賛同するルギスの言動に、ミハイル様は怪しい臭いを感じ取ったのだ。

 全てが片付いた後で、わたしはミハイル様からそういった経緯を教えてもらった。

 

 そんな勇猛で周到な騎士団の人たちを動揺させる出来事は、三十人の──実際は最初の脅し文句よりも少なく二十五人しかいなかった──アダナス兵を壊滅させ、投降者に対して尋問を行っているときに起きた。

 

「どうします? こいつの言ってることが本当なら、もう間に合いませんよ」

「ここからどんなに馬を飛ばしても王都まで二日は掛かりますからね」

「……とりあえず、国境にいる軍に伝令だ。王都から届くどんな積み荷も、王からの命令であろうと、それを魔法士隊に与えるなと」

 

 魔法の威力を飛躍的に高めるメフィメレスの秘薬。

 その中身は、一度体内に入れれば魔法を使えば使うほど精神を病み、あのヘンクさんのような廃人となってしまうという全くの失敗作だった。

 何の対価も支払うことなく強力な力を手に入れられるような、都合の良い完全な秘薬など、初めから存在しなかったのだ。

 メフィメレスの秘薬は、二年前に一度だけ、確かに華々しい戦果を上げたが、その後は逆にアダナス帝国の魔法士隊の戦力を蝕むことになった。

 そのことが明るみになったルギスは、アダナスでの立場を失い国を追われた。

 そして、オリスルトに対しては秘薬の致命的な欠陥が隠されたままであることを良いことに、タッサ王に取り入り、亡命を果たしていたのだった。

 

 そういった真相は、捕らえたアダナス兵を尋問してすぐに裏取りができた。

 そこまでの話は、ミハイル様たちの推測のとおりだったのだけれど(わたしも道中にエッガースさんからお聞きしていた)、問題となったのは、その薬がすでに大量に完成していて、今日や明日にも全土の王国魔法士隊に配給されるという情報が得られたことだった。

 

「ふっ、我らを退けたとてもう遅い。最も大事となるこの時に、王の側から騎士団を遠ざけたことで、すでに趨勢は決しておるのだ。魔法士隊を失ったオリスルトが、我らアダナスの攻勢を凌げるものか」

 

 捕らえたアダナス兵の一人が勝ち誇ったように笑う。

 

「いや、でもよう。だったら相手だって同じだろ? 失敗作の薬を飲んで、魔法士隊を失ったから二年前のアダナスは勝ち戦から兵を退いたって話だったんじゃ?」

 

「いいえ、ノイン様。だからアダナスは二年待ったのです。薬を服用していない魔法士の訓練兵を戦力として使えるようにする育成期間と、ルギスがこの国で王の信を得て毒を埋伏するために必要だった時間が、この空白の二年間だったのでしょう」

 

「うむ、この国にとっては待ち望んだ魔法士隊の強化だ。ルギスにしてみれば、失敗作であることがバレる前に、王国全土の魔法士に一度に薬を服用させる必要もあった。研究するふりをしていたのは、そのための下準備の意味もあったのだろうな」

 

「お、落ち着いてる場合じゃないですよ、団長。だったら今すぐ伝令を走らせないと」

「ノイン……、お前ちゃんと聞いてたか? 今からどれだけ馬を走らせても間に合わないんだよ」

 

 エッガースさんが、ヤレヤレといった顔でたしなめる。

 ノイン君は何か言い掛けたが、反論する言葉が思い浮かばなかったのか、そのまま唇をきゅっと結び顔をうつむかせた。

 

「いいえ、ノイン様の言うとおりです。何もせずに諦めるべきではありません。王都にいる魔法士のかたたちは救えなくとも、一人でも多くの魔法士に秘薬の危険を伝えるのです。王国全土の、各領主に仕える魔法士の方々が無事であれば、当座の防衛は為せるのでは?」

「アシュリー……」

 

 わたしは、まるで全てが手遅れであるかのように消沈していた騎士団のかたがたを奮い立たせようと弁を振るった。

 女のわたしが戦や政に口を出すなど、分をわきまえないことだと分かっているけど、せめて言葉で勇気付けようと。

 何より、何もせずに諦めるなんて、わたしには耐えられなかった。

 

「そうだな。できることをやろう。エッガース、シュルツ、知恵を貸せ。どのようにすれば各地の領主を説得できるかと、優先的に伝令を回すべき地域とルートを考えるんだ」

 

 ミハイル様が団員のかたにテキパキと指示を始める。

 その様子を見て、わたしはホッと胸を撫で下ろす。

 

「ふんッ、まったくお前って奴ァ、往生際が悪ィ。能天気なくらい前向きだし、ほんと見てて退屈しねェよなァ?」

 

 騎士団の面々が士気を高め、忙しく準備を始める中、わたしの足元から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 粘りつくような独特の言い回し。気に障るけど、妙に憎めない愛嬌を感じさせるこの声は──?

 

「貴方!? 生きてたの!?」




【応急措置としての補足】
「43:お人好しの令嬢と、嘘の吐けない悪魔と」について

該当エピソードの悪魔の台詞で明かされる情報が分かりづらいとのご意見をいただきましたので、後日加筆修正を考えております。

ただ、今はその間にお読みいただく人のために、本当はこういうことを伝えたかったんだという情報を整理して記載しておきます(小説としては、お見苦しいと思いますが、何卒ご容赦ください)。


43話時点で、鏡の悪魔に関して確実に伝えたかった情報

1.悪魔の力は万能ではない。
2.性格も未熟で間違いもする。
3.長い孤独を大変怖がっている(=深い眠りに落ちるか、或いは、もう消えてしまいたいと思っている)。
4.人間を害することができないように造られている(嘘を吐けない、騙せない、傷付けられない)。
5.ただし、悪魔自身「4」がどういう意味かを正確には理解していなかった。「できない」ように縛られていると思っていたが、実際は「やったら罰せられる(死ぬ)」という意味だった。
6.悪魔自身が「5」の勘違いに気付いたのは、アシュリーから「嘘吐き」と言われ、力が弱まったのを自覚した後。

>「俺様ァ、約束を破れないようにできてるんだ。破れないようにできてる……。そうだとばかり、思ってたんだが……」

 ⇒約束を破れないようにできていると思っていたが違った。
  可能だが、それは自分の死を意味することだった。


>「し、死んじゃうの? 貴方……」
>「へッ、できねェと思ってたことが意外に何とかなることもあるんだなァ。こんな方法があったとは……」

 ⇒できないと思ってたこと=死ぬこと。
  死ねないから苦しんでいたのに、人間と交わした約束を破ることで消滅する手段があった。
  勝手に諦めてたのが馬鹿みたいだぜ。こんな抜け道があったなんてなァ。

という具合です。
この辺のくだりについて、他に解消されない疑問点をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご指摘いただけると大変助かります。
「別に補足なんてなくても分かったけど?」みたいなご意見も歓迎します。


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46:結果オーライなこともある(例の失礼な故事成語の意味らしい)

 わたしはその場でしゃがみ込み、そこに捨て置かれていた青銅の鏡に向かって語り掛けた。

 鏡の中には、あの悪魔が上機嫌でプカプカ浮いて笑っているのが見えた。

 なんで上機嫌だと分かるのかって?

 そんなの、この憎たらしい顔をひと目見たら分かるじゃない。

 

「お困りかァ? 世話焼いてやろうか?」

「え、助けてくれるの?」

 

 わたしと悪魔の会話に気付いて、ミハイル様も鏡に向かって顔を寄せて来る。

 またわたしが騙されるんじゃないかと思って、心配するようなお顔をしていらした。

 これは安心。

 もしも騙されそうだと感じたら、きっと止めてくださるわ。

 わたしの方は安心して、目いっぱい厚かましく、この不思議な力を持っている悪魔にすがってやろうと心に決めていた。

 

「お前のせいで()()()()()()しなァ。どうあれ、責任は取ってもらわねェと」

「どういうこと?」

 

(ゆる)すって言ったろォ? 俺様のことォ。きっとあれで台無しになったんだ。

 まァったく本当にお人好しだぜェ。あんな目に遭わされた相手のために泣くなんてなァ?」

「あ、あれは貴方が死んじゃうと思ったからで……。元気に戻ってくるなんてっ、貴方こそ台無しよ!」

 

「フフェフェ。まァ、そういうわけだから、また人間と約束しなきゃなんねェ。お前、手伝え」

「破られる前提で約束する馬鹿がいますか」

 

「フェヒッ。違いねェ。まァ、そのことは後だ。急いでるんだろゥ?」

「助けてくれるって話? どうやって?」

 

 わたしが食い入るように見つめると、その鏡の中の景色がぐにゃりと変わった。

 本来は、屋外の空や草木を映していなければならない鏡の中に、今は見覚えのある室内の様子が映し出されていた。

 これは……、わたしの部屋だ。

 わたしの部屋に置いてある姿見(すがたみ)の中から覗いたようなアングルで、遠い王都にあるわたしの部屋の様子が見えていた。

 

「鏡に手を触れなァ。連れてってやる」

 

 言われるがまま手を出したわたしの手首をミハイル様が掴んで止めた。

 

「その約束を破るつもりじゃないだろうな?」

「用心深い野郎だぜ。まァ、普通はそのくらい疑う。それが正しい。クフェフェッ」

 

 カッチーン。わたしは普通じゃないほどお人好しってことぉ!?

 

「言ったろ? この女のお陰で、この世から消え去る方法が分かったんだ。世話になった礼にちょっと人助けしてやろうってことさ。

 まァ、この言葉が真実かどうか、信用するかどうかはお前たち次第ってわけだが……」

 

 今、鏡の中に悪魔は映っていない。

 聞こえるのは彼の声だけだ。

 どんな表情で喋っているのかも分からない彼の真意を想像する。

 本当にこの世から消えてしまうことが彼の望みなら、ここでわたしたちを手酷く裏切ってしまえば、その望みは達成されるはずだけれど……。

 

「ミハイル様。わたしは信じようと思います。いいえ、もうすでに信じております」

「アシュリー……」

 

 正確に言えば、疑いたくはないのだった。

 だって、この悪魔がわたしにやったことで、本当にわたしが困ったことなんてないんだもの。

 王宮での暗殺から逃れられたのも、ヴィタリスの企みを知れたのも、廃屋で野盗から身を守れたのも、さっきここで狙いを付けられていた矢から逃れたのも、全部この悪魔の力のお陰だ。

 

 本当は最初から悪意なんて欠片もなくて、わたしのことを助けてくれるつもりだったんじゃないか、なんて……、それは流石にこの悪魔に肩入れし過ぎかもしれないけど。

 

「分かった。ただし、わたしも一緒だ」

 

 わたしの瞳をジッと見つめていたミハイル様は、力強く頷き、わたしの腰に手を回してギュッと抱き締めた。

 エッガースさんを呼んで幾つか言伝をした後、彼に鏡を持たせ、胸の位置に掲げさせた。

 そして、わたしたちはそれぞれ片手を伸ばし、同時に鏡面に触れる。

 

「おい、俺様が裏切るつもりだったら、そんな抱き合ってくっ付いてても意味なかったんだぜェ?」

 

 閃光とか、浮遊感とか、特別な何かが身に起こると身構えていたわたしは虚を衝かれることになる。

 ある意味、これは裏切られたような感覚だった。

 

 悪魔が喋り始めた段階で、わたしたち二人はすでに王都にあるわたしの部屋の中へ居場所を移していた。

 何の予兆も衝撃もなく、ミハイル様と二人で、抱き合いながら自室の姿見に手を付けて立っていたのだ。

 わたしとミハイル様は驚いて互いに顔を見合わせた。

 

「凄いわ……。凄い! でもでも、こんなことができるなら、最初からわたし一人をあの青銅の鏡の場所へ転送させれば良かったのでは?」

 

 興奮を抑えきれず、わたしはまくし立てるように言って悪魔に迫った。

 おそらく、きっとそんな都合の良い力ではないのだろうなと思いながら。

 

 鏡の中で、わたしの肩の上辺りに浮かびながらドヤ顔をしていた悪魔は、少しの間のあと、ポリポリと頭を掻く仕草をしてから言った。

 

「あー、確かに言われてみりゃそうだよなァ。まァいいじゃねェか、お陰でお前らの敵の企みが分かったんだろ?」

 

 その後、わたしが盛大に脱力したのは言うまでもない。

 色々な安心が重なって、崩れ落ちそうになる身体をミハイル様に支えられる。

 

 それからわたしたちは、これからどのようにメフィメレス家とアダナスの企みを阻止して追い詰めるべきか、それに、鏡の悪魔にはどんな奇跡が可能なのかと、忙しく相談を始めた。



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47:断罪! メフィメレス家の凋落

 謁見の間には、先日の婚約破棄騒ぎの熱も冷めやらぬうちに、またも大勢の貴族たちが集められていた。

 皆、口々に噂するのはやはり、リカルド王子とメフィメレス家の令嬢ヴィタリスの婚約についてのことだった。

 本来、正式な発表まで伏せられているはずのその情報が、すでに皆の知るところとなっているのは、ヴィタリスとメフィメレス家が明に暗にと吹聴して回っていたからだ。

 

 ()()()()()()()()()にたばかられた傷心のリカルド王子を甲斐甲斐しくお慰めするうちに、互いに情を募らせ、というのがその筋書きである。

 実際にその作り話を信じている者はいない。

 だが、タッサ王にメフィメレス家を重用する素振りがあることは明らかであったし、周囲の者はその潮流に取り残されないようにと、二人の仲を大いに持ち上げ、賛辞を送ってみせた。

 

 なんでも、メフィメレス家は、あのアダナス帝国を打倒するための秘術を完成させており、近いうちに王国の魔法士隊の大幅な強化がなされるらしい。

 そんな話も、今や公然と噂されるようになっていた。

 

 メフィメレス家の当主ルギスは、広間中を賑わすその諸侯の反応に満足そうに耳を傾けていた。

 王子の元婚約者であるアシュリーの口封じが上手くいかず、焦るようにして事を急いだが、機は十分に熟していたようだ。

 自分の娘と王子の恋仲がどうであろうと、それももはや関係がない。

 タッサ王はルギスのことを完全に信用しきっており、もったいぶって出してみせた完成品の秘薬を、全く疑いもせず王国全土に配らせている。

 

 あの秘薬の欠陥が明らかになるころには、この国の魔法士隊は取り返しの付かない状況に陥っているはずである。

 それに同調してアダナスがオリスルトに攻め入ることも示し合わせてある。

 長年の宿敵を滅ぼす莫大な戦果によって、メフィメレス家がアダナスの権力中枢に舞い戻ることは約束されたも同然だった。

 

 広間の騒めきが一際大きくなる。

 王と王子、それに本日の主役たるヴィタリスが壇上に姿を現した。

 側付きの男が、集められた貴族の紳士淑女に向かって謝辞を述べ始める。

 そして、今日この日の本題──リカルド王子とヴィタリスの婚約が高らかに宣言される。

 ルギスは満面に喜色を湛えその様子を見守った。

 

「お待ちください! タッサ王、その婚約はなりません!」

 

 大扉が開かれ、そこから王国騎士団長のミハイルと、彼の部下たちがぞろぞろとなだれ込んできた。

 困惑する群衆を押しのけ壇上へと駆け上がる騎士団。

 それとは別に、ルギスの背後にも数名の騎士団員が、いつでも彼を取り押さえられる距離に位置取った。

 

 予期していなかった突然の出来事。

 だが、ルギスはこのときすでに、自身の天運が尽きたことを半ば諦めの境地で悟っていた。

 騎士団長のミハイルが、本来であれば、今この王都にいるはずはなかったのである。

 遠く国境付近の廃墟に現地調査と称して出向いていて当面は戻らぬはず。

 その彼がここにいるということは、どこかからルギスの企みを察し、王都に身を潜めていたに違いない。

 

「恐れながらタッサ王。王国騎士団はメフィメレス家の(はかりごと)を告発しに参りました」

「ぬぅ……。話せ、ミハイルよ」

 

 王は低く唸りながら、玉座に深く掛け直した。

 王国騎士団長のミハイルがこれほど急ぎ、事を荒立てて意見をするのであれば、何も聞かず頭ごなしにすることはできない。

 そこに並々ならぬ事情があることは、広間に集まった誰もが察するところであった。

 

 だが、その後ミハイルの口から語られた真実は、彼らのそんな想像を遥かに凌ぐ恐るべき国家転覆の陰謀であった。

 

 まず、タッサ王らがその脅威を知り、ルギスに秘密の供与を命じた魔法強化の秘術。それが特別に調合した秘薬を魔法士たちに服用させ、彼らの潜在的な魔力の素質を大幅に底上げするものであることは間違いなかった。

 その力によって、二年前の戦争においてオリスルトは大敗北を喫したのだ。

 

 だが、大き過ぎる力には必ず反作用がある。

 秘薬を服用した魔法士たちは数度魔法を放っただけで精神に不調をきたすことになった。

 個人差はあるものの、十度も魔法を放てば一人たりとも例外なく、言葉も交わせぬほどに意識が薄弱とし、廃人同然となった。

 二年前の会戦において、大勝したにも関わらず、アダナスがそれ以上進軍を続けなかったのはそれが理由だった。

 

 事が露見した際、アダナスにおけるメフィメレス家の立場は失墜した。

 一家が取り潰しとなる瀬戸際にあって、当主ルギスは一計を案じる。

 戦に敗北したオリスルトの者たちは、魔法の威力が強化されたことしか知らず、副作用の件は秘匿されている。そのことを利用し、自ら亡命を装って王国の中枢に入り込み、内部から崩壊せしめてみせるとアダナスの皇帝に進言したのだった。

 

 ミハイルはそれらの事情を説明したあと、証拠として、アダナスの皇帝からルギスに宛てられた手紙や、ルギスの自著による作戦の草案書をタッサ王に提出してみせた。

 それはアシュリー嬢に取り憑いたあの鏡の悪魔の助力によって、ルギスの書斎や、果ては、遠くアダナス帝国にある密室に忍び込んで拝借した証拠の数々であった。

 

 タッサ王は全てを聞き終え、幾つかの証拠品を検めた後、ぬぬぬと唸ると、やおら立ち上がりルギスを指差して怒声を上げた。

 

「ルギスよ、何か申し開きがあるなら申してみよ!」

 

 ルギスは顔を伏せたまま何も返さない。

 広間では貴族の女たちが、ご婚約はどうなるの? などと暢気(のんき)なことを囁き始めている。

 

「タッサ王。恐れながら、一昨日献上された秘薬こそ、メフィメレス家の企みの動かぬ証拠でございます。ただ今我々騎士団が、秘薬を配られた各地に先回りし──」

 

「お、お待ちください! タッサ王。これは我がメフィメレス家を貶める陰謀です。全てご説明できます。重大な秘密ですので、今、この場では申せませんが、必ずご納得いただけますから!」

 

 壇上で大声を張り上げ、ミハイルの言葉を遮ったのは、ルギスの娘ヴィタリスだった。

 この日のためにあつらえた華美な衣装に身を包んでいる。

 今のこの状況においては、その目に痛いほどの派手な衣装が滑稽にすら映った。

 

「それに……、その、そこのミハイルという男、その男には嫌疑がございます。ああ、そうです! わたくし、この男に先日辱めを受けたのです。記憶はおぼろげですが、何か薬を嗅がせるかして、私を昏睡させ、私の身体にいたずらしたに違いありません。このような不埒者の言葉など、何一つ信用なりませんよ?

 誰か!? 誰かいませんか!? 小部屋で寝かされている私を発見して起こした下女がいたはずです。誰か証言して!」

 

 手が付けられないほどの剣幕で喚き立てるヴィタリスの姿に、皆が顔を背けた。

 どう考えても趨勢(すうせい)は決しているのだ。

 凋落(ちょうらく)が決まっているメフィメレス家の娘に味方する者など誰もいない。

 救いを求めて視線をさまよわせるヴィタリスが、群衆の後ろからおずおずと進み出る一人の女を見つけた。

 助けを得たりと感じたヴィタリスが大袈裟な素振りで女を手招いた。

 

「お、恐れながら申し上げます。私は確かに見ておりました。あの日、お疲れになってお部屋でお休みになっていたミハイル様のお身体に、ヴィタリス様が覆い被さっておりました。

 ……逆なのでございます! 無防備なミハイル様に手を掛けた不埒者は、ヴィタリス様です!」

 

 ヴィタリスは気付かなかったのだ。

 あの日、寝ている自分を起こした女と、前に進み出た女が別人であることに。

 そもそもヴィタリスにとって、王宮の小間使いの女たちなど顔を覚えるにも値しない、道具か何かでしかなかったのだ。

 

「なっ……、な、何を言うのよ、この女。これも陰謀だわ。嘘です。リカルド様。これも、私を貶める罠です。使用人の女などいくらでも丸め込めるのですから。お助けください、リカルド様。一言、一言わたくしのことを信じると……」

 

 ヴィタリスに言い寄られてもリカルドは顔を背けたままだった。

 

「王子に触れるな、この悪女め」

 

 ミハイルがヴィタリスの手を取り、リカルドから引き剥がす。

 手首を掴み乱暴に振り回されたことで、ヴィタリスは体勢を崩し、壇上でへたり込んだ。

 その様子にワッと歓声が沸いた。

 貴族の婦女子たちもそうだが、より歓声を大きく上げたのは壁際で静かに控えていた使用人の女たちである。

 

「その女を早く、王子の目の前からお遠ざけください!」

「リカルド殿下にはもっと相応しいかたがおられます!」

「どうか、アシュリー様との婚約破棄をお取り消しください!」

 

 その他にも、自分は過去にヴィタリスにこんな酷い仕打ちをされた、などと訴える声が混ざる。

 それと対比するように、アシュリーにはこのように優しくしてもらえた、だとか、彼女と王子との仲がいかに本物であったかを説く声も。

 アシュリーの名を呼ぶ声は次第に増えていき、その場にいた貴族たちを困惑させた。

 誰も、あの伯爵令嬢が下の者にこれほど慕われていたことを知らなかったのである。

 

「アシュリー様……」

「ああ、アシュリー様良かった」

「え!? アシュリー様?」

「どうぞこちらをお通りください」

 

 刺々しい糾弾の声の中に、異なる声音が混じりだす。

 狂喜するように、はしゃぎ始めた女たちの方を皆が振り返った。

 それまで使用人たちと同じく、広間の隅に隠れるようにして立っていたドレス姿の女性が、使用人たちから手を引かれ、背中を押されるようにして前に進み出る。

 それはつい先日、この場所で婚約破棄と謹慎を言い渡された、あのアシュリー嬢であった。

 

 アシュリーと、騎士団の男に引っ立てられるヴィタリスが、広間の中央付近ですれ違う。

 

 ヴィタリスは騎士団の男から頭を押さえ付けられ、床を見つめ、這いずるように歩かされていた。

 すれ違いざま、首を横に曲げ、アシュリーのことを恨みがましく睨みつけるヴィタリス。

 それに対し、アシュリーは毅然と前を向き、足元の女には見向きもしなかった。

 

 伯爵令嬢アシュリーが見つめる先、そこに立つ壇上の男は──。



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48:幸せなくちづけ

「リカルド様……」

 

 壇上でわたしを出迎えたのはリカルド様だった。

 リカルド様の差し出す手を取り、わたしは段を上る。

 

「君の謹慎処分と、根も葉もない訴えはもう取り下げられているよ。本当は、あのヴィタリスとの結婚を僕が承諾する見返りとしてだったのだけど……」

 

 わたしは王子のお心遣いに胸がいっぱいになった。

 全てこの国のためと、自身のお心を犠牲にしながらも、最後までわたしのことを思ってご配慮いただいたのだと、そのことに感謝した。

 

「皆、聞いてくれ。私とアシュリーのことだ。皆が私たちのことを祝福してくれる気持ちは先ほどありがたく聞かせてもらった。長い間育んだ愛も、決して偽りではなかった。そのことは神に誓って証言する。

 だが、知ってのとおり、私は先日皆の前で彼女との婚約を破棄した。私を信じ、すがるように見つめる彼女のことを、私は無慈悲にも見捨ててしまったのだ」

 

 自分の非を、多くの者がいる前でこれほどはっきりと認める王族はいない。

 皆、王子がこの先に何を言うのか、息を飲んで見守っている。

 わたしもその一人だった。

 

「私には、この期に及んで、自分が言い渡した婚約破棄を取り消したいなどと言う恥を晒すつもりはない。彼女には私よりももっと相応しい人がいるのだから。

 ……辛い身の上にあった彼女を助け、さらには、このオリスルトの危機を救った英雄だ。皆、私とともに、彼と、アシュリーのことをどうか祝福してあげて欲しい!」

 

 リカルド様が手で指し示した先には、ミハイル様の大きく頼もしいお姿があった。

 大きな歓声と拍手を向けられ、困ったように前髪を掻き上げる素振りをなさるミハイル様。

 ここはそのような場ではないと言って、なかなか前に進み出ようとされなかったが、リカルド様に背中を押されてようやく壇の中央に立つ。

 

「ミハイル様……」

「涙でぐちゃぐちゃじゃないか。君の晴れ舞台が台無しだぞ?」

 

 ミハイル様がわたしに向かって微笑む。

 わたしは思わずゴシゴシとドレスの袖口で涙をぬぐった。

 お父様にご用意していただいた素敵なドレスだったけど、ミハイル様にはそれよりも、とびきりの笑顔をお見せしたかった。

 

 自分が何で泣いているのかも忘れてしまった。

 全てが上手くいってホッとしたから?

 リカルド様が、わたしの悲しみを理解してくれていたことが分かったから?

 そんなリカルド様とお別れするのが辛いから?

 

 全部そうかもしれない。

 でも、そのどれよりも心の中を大きく占めるのは、今こうしてミハイル様と向かい合っている喜びだった。

 本当の意味で知り合ったのは、ほんの最近のこと。

 でも、それはわたしにとっての時間であって、ミハイル様はそれまでもずっと、わたしのことを見てくださっていたのだ。

 そのことを知り、その想いにお応えすることができることが、わたしは嬉しかった。

 想いを秘め、自分を殺し、国のために心血を注いで来られたかたが、その信念を脇に置いてまで、わたしの前に立ってくれたことが……。

 

「ミハイル様。実はあの日、廃屋でお救いいただいたメイドのリゼは……、その中身は、わたしだったのです。わたし、きっとミハイル様はリカルド王子に遠慮されて、身をお引きになるのだと思っておりました」

 

 ミハイル様が驚いた顔をなされたのは一瞬のことだった。

 そのお顔はすぐに照れ笑いに変わり、それを誤魔化すようにわたしの手を取る。

 

「いっときはそう思っていた。だが、王子に此度の経緯を全て説明したとき、私から王子に願ったのだ。アシュリーの側にいて、彼女を幸せにするのは自分でありたいと」

「……!」

 

 駄目。駄目よ。

 せっかく(ぬぐ)ったのに、また涙が(あふ)れてきてしまう……。

 

「アシュリー……」

「ミハイル様……」

 

 見つめ合うわたしたちの姿と気配を察し、誰かが大きな声ではやし立てた。

 

 えっ!? こんな大勢の前で?

 

 正直戸惑ったけど、幸せの絶頂を感じているわたしは、それを振り払うような無粋なことはしない。

 わたしは身を固くしてそのときを待つ。

 

 ……あっ!? いけない!

 

「ミハイル様? しっかりとお支えくださいね?」

 

 薄く目を開け、小声で囁くわたし。

 それを受けてミハイル様は、背中に回した腕を深く巻きつけ、わたしの身体を斜めに傾けた。

 目を閉じ、天を仰ぎながらミハイル様の唇を受け止める──。

 

 目を開けると、わたしの腕の中には微笑を浮かべながら瞼を閉じる()()()がいた。

 すさかずもう一度。今度はミハイル様になったわたしの方からのキス。

 一瞬、グラリと傾く感覚があったけど、次の瞬間わたしはまた、あの逞しい両腕に抱きかかえられていた。

 

「愛してる、アシュリー」

「わたしもです、ミハイル様」

 

 そう応えた瞬間、ハッと息を飲む。

 優しく微笑むミハイル様の瞳。

 その瞳の中に、あの悪魔の顔が映っていたのだ。

 

 もうっ……、一番大事なときに無粋な真似を!

 

 そう言えば、鏡でなくとも、姿が映るのなら、どこからでも覗けるのだと自慢げに話していたっけ。

 次にあの悪魔と交わす約束は〈他人様の情事を覗き見ないこと〉にしなくちゃだわ。

 

 広間に割れんばかりの歓声と拍手が鳴り響く中、わたしは密かにそう決意を固めると、ミハイル様の瞳をそっと手で遮り、もう一度、今度はわたしのほうから、深く唇を重ねたのだった。

 

〈終幕〉





最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました。

作者はフィードバックにとても飢えているので、感想をお聞かせいただけると嬉しいです。
ちゃんと流行の「婚約破棄ざまぁ」のテンプレに沿っていたでしょうか?

途中、鏡の悪魔の言動が意味不明でポカーンとしたりしなかったでしょうか?

王族との結婚蹴って、騎士団長と結ばれるって実際ハッピーエンドなのかな? とか疑問に思わなかったでしょうか?

今後の研鑽の糧とさせていただきますので、何でも良いので(読み終わったよー)でもいいので、感想お待ちしております。


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