降谷零を合法的に眺めたい (赤穂あに)
しおりを挟む

眺めたいとは言ったけど眺めさせろとは言ってない

こちらはゼロしこ沼落ちをキメた筆者が、当初パッションのままに書き殴ったものです。勢いとフィーリングだけで察してください。


 僕の、恋人は……、ふっーーー。

 

 あーばばばばばばイケメンイケボ無理尊い死んでしまうやろーーーーーふえええええとか脳細胞死滅した感想をこぼした女(男)はたぶんアホみたいにいることだろう。男も女も等しく全ては降谷零のそれになった、なったんだよ分かれ。人によっては何十回となったんだよ、ほんとに。そして頼む、抱いてくれ。あわよくばワンナイトラブで捨ててくれ。興奮する。絶対夜のお供も完璧にこなすはず。童貞でも美味しいですありがとうございますぺろぺろ。

 とかいう、ど下ネタな妄想を来る日も来る日も繰り返した罰なのか、私は幼児退行してしまった。ママのおっぱい恋しいとかそういうメンタル的なアレではなく、私のお手手可愛い紅葉みたいなフィジカル的なアレで。

 は? 意味わからんのですが。

 私が何したっていうんだよ、マザー。因みに、マザーもファザーもなんならシスターズもめちゃくちゃ見覚えのある顔をしていたので本当に物理的に赤ちゃん返りをしている。らしい。

 はあ?? 意味わからんのですが(二回目)。

 意味はわからんが、現実として私は幼女プレイ(物理)を強いられてしまうことになった。あまりにもしんどい。ギリギリ二十代半ばと言い張っていたそこそこいい歳な社会人だったのに。特殊性癖は二次元にしか持っていなかったのでひたすらキツイ。あ、嘘です。記憶に鮮やかに刻まれるリアタイ美少女戦士は神でした。神さまありがとう、私は今世も元気にオタクになる。あみちゃんを推す。

 

 そんなこんなで、大して強くはないニューゲームを代わり映えもせずにオタク街道まっしぐらで突き進んでいたら、なんとびっくり。お父さんの仕事の関係でお引越しをするという。今も昔も実家以外で生活したことがないので、とても新鮮である。

 そうしてやってきました、東都の米花町。

 はあ??? 意味わからんのですが(三回目)。

 神は言っている、私に死ねと。ふざけんなそんな神こっちが殺すわ。月に代わってお仕置きの恩を仇で返すことになるが、そんなもの知ったこっちゃねえ。その幻想をぶち壊す。俺の黄金の右腕がアガートラムじゃクソッタレ。

「今日からここが我が家だよ」

 はあー、新築の木の匂いが素敵。なんとびっくり、私の部屋もあるではないか。子供部屋という共同生活から、唐突に与えられたパーソナルスペースに脳みその処理が追い付かない。つまりここが私の城だな? OK、私はこの街で強く生きるぜペアレンツ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「そう言えばお姉ちゃん、どこの高校受けるの?」

「歩いて通えるし、帝丹高校かなー」

「へえー」

 モシャモシャと唐揚げを咀嚼しながら相槌を打つ。お母さんは近いと楽チンよねーと笑ってるし、お父さんはもう少し真面目に進路を考えなさいどうたらこうたらと嗜めモードだ。

 別にいいじゃん、帝丹高校。偏差値知らんけど日本有数の財閥のお嬢様が通っても、平成のホームズが通ってもおかしくないくらいの偏差値はあるんじゃないの。知らんけど。米花町に存在していることぐらいしか問題点ないでしょ、帝丹高校。一番だめだわ。

 会話には意識半分でタルタルソースの美味さに取り憑かれていると、お姉ちゃんは、で、アンタは? と返してきた。何のこっちゃと思いながらもぐもぐ顎を動かしていると、妹のみっちゃんが、はるちゃん受験しないの? と同じくもぐもぐしながらお姉ちゃんの補足をした。

 え、中学受験って普通なの……? すまんがその常識がそもそも私の中にない。因みに、ネットでてきとうにググったら田舎ほど公立偏重で、都会ほど私立偏重、らしい。

 なるほど、日本のヨハネスブルグといえども、都会ではあるみたいだ。首都だもんな。ていうか、お姉ちゃん自分は私立行ってないのに何言ってんだ。おかしくない?

「いやまあせっかくそれなりに頭良いんだしさー、私立でも補助出るんじゃない?」

「え、勉強いっぱいしなきゃダメなやつじゃん……やだ……」

「勉強はそれなりでいいからしなさい」

 真面目に考えろっていう割に勉強しろってうるさくないパパ上好き。愛してるありがとうお陰でロクでもないオタクに育ったわ本当にごめんなさい。

 

 まあおふざけはほどほどにして、今世の私のちょっとした夢を語っておこう。誰に語るなど、野暮(メタ)を言ってはいけない。

 何を隠そう、今の私は警察官志望である。動機は一点の曇りもなく不純そのもので、合法的に降谷零を眺めたいからだ。推しが生きているなら拝みたいし、崇めたいし、公僕となり血税を縛られたい。私の給料を車の修理費に溶かしてほしい。

 しかし、そうなると最終目標が公安警察。そもそもどうやってなるのか? 警察庁ってどうやったら就職出来るの? 警視庁との違いがそもそもわからん、という絶望的なレベルの知識しかなかったので、速攻でググった。

 警視庁っていうのは、要するに県警だ。その都道府県の警察。それの東都版。で、警察庁は日本の警察組織の頭。はあー、なるほどな。降谷さんがエリートだなんだって言われてた意味をようやく理解した。地方公務員と国家公務員か。そりゃ雲泥の差だ。

 つまり、警察庁に入るためには、国家公務員試験をパスするのが大前提となる。うん、無理。私そんなに優秀じゃない。採用毎年十人ぐらいって。正気の沙汰じゃねえわ。流石すぎる降谷零。怖い人だ……。

 となると、普通に警視庁に入るのが順当だろう。公務員試験はこっちもあるけど、毎年十人とかいう鬼畜の所業よりはなんとかなりそう。流石にそれはなんとかしろ、私。お前の降谷零にかけるパッションはそんなもんじゃねえだろ? 止まるんじゃねえぞ……。

 高卒でも短大卒でも大卒でも、警察官にはなれるってことらしいが、私が警察学校で音を上げない保証もないので大学は出ることにしよう。正直、降谷零を眺める以外に警察官になりたい理由もないので、保険をかけてしまうのは致し方ないことだ。愛国心のカケラもないからな、明らかに会わない方がいいが欲って怖い。死ぬ予感しかない。ほどよくがんばろ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 おい待って聞いてないてきとうに進学した高校に推しが通ってるとかマジで聞いてないびっくりしたサラッと新入生代表とかいって挨拶しだすな優秀かよこっちはお前の声だけでも心臓止まりかけるんだよバカ自分の殺傷能力の高さを理解しろよあーーーーーすでに顔がいいーーーーーー推しがすでに推しーーーーーー無理ーーーーーーー。

 と、入学式で一体何人死んだか想像もしたくないのだが、ビビった。お前タメだったのか……。将来確実に推しの顔を見て尊いと天を仰いだ一秒後にどう見ても私より若い……って絶望に打ちひしがれるのつら。この世は地獄。

 そしてこの後同じクラスと知って私はさらに死んだ。供給過多で普通に死ぬんだが。やめてください。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 入学式二日目にして我が校には降谷零ファンクラブなるものが爆誕したわけだが、お前どんだけの女の人生狂わせるんだよ……怖すぎ……。

 と、魅惑蠱惑誘惑の降谷零に震えた以上に、私は世のJKの行動力にも震えている。行動に移すまでのアジリティエグすぎでは? おばさん心臓に毛が生えてる自覚はあるけど、びっくりして不整脈起こしちゃうよ?

 顔には一ミリも出さないけど、寿命は些細なことでジリジリ縮んでいる気しかしない。このレベルで臓器が想定外の活動して生命活動の維持に支障をきたすのでは、普通に警察官にならずにてきとうなタイミングでポアロ通うだけにした方がいい。どんだけ人生に妥協するんだ私は。しっかりしろ。

 私が選んだ学校は、私の学力で無理なく通えるそこそこレベルの進学校だ。正直、警察庁に将来入庁するお方が通うレベルの学校ではないと思うのだが、まあ、その辺は降谷零クオリティで全てがどうにかこうにかなるのだろう。

 ポジティブに考えたら、私も頑張りゃ警察庁いけるんじゃ……? とか考えるのもおこがましい。前提として愛国心無し、全体の奉仕者の自覚無しだ。明らかにやめた方がいい。定期的に公務員試験のことや公務員そのもののことを調べているが、まあ私の意志薄弱さでは無理な領域だ。大人しく警視庁公安部を目指す。充分エリートじゃねえかたどり着ける気がしない。

 思いっきり話が逸れたが、ここは進学校だ。昔もそこそこな進学校に通ってはいたが、もっと校則とか頭のネジとか全体的にゆるくて、私としてはあまり進学校に通っていた自覚はない。少なくとも、入学式翌日に進路希望調査なんてプリントを渡してくるような真面目さはなかった。周りもすらすらと記入を始めている。だめだ、完全に学校選びしくじった。これは小中に引き続きぼっちの予感。精神的ジェネレーションギャップは未だ大きい。

 もう面倒くさいから警察官って書いておくか……。高卒でもなれるらしいからええやろ……。遠くを見つめながら、中身がスカスカのプリントを伏せる。ぼうっとしてないと無意識に降谷零を眺めるのでこうするしかないのだ。

 ところで、今の降谷零は視線を感じたり出来るのだろうか……気になる……。気にするな感じ取れる方だった場合死ぬぞ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「石村、おまえふざけてるのか?」

 入学して三日目。私は職員室に呼び出された。言わずもがな、進路希望調査のアレのせいだ。目の前の担任は呆れ半分、おこ半分みたいな感じで聞いてくるが、私はめちゃくちゃ真面目に書いたのでそんなこと言われてむしろこちらがおこである。

 別に生徒に夢を与えろとか高尚なことは言わないが、将来の夢全否定するのはいかがなものか。警察官になりたいからなり方教えてくれって言ってるわけでもないし、アドバイスくれって言ってるわけでもない。

 あー、こいつさてはバカだな?? くらいで流してくれりゃあいいんですよ。こちとら中身は社会人経験のあるおばさんぞ? 希望職種に就くための下調べくらい流石に自力でどうにかできる。

 なんてこと、先生にはわからんか。わかるわけないわな、ごめんね。

 先生的には、「今の時点でどの大学行きたいか」を聞きたいのに素っ頓狂に「将来の夢」を書かれても進路相談もできんか……申し訳ない。やりづらい生徒でごめんな……もう若くないんだ……。

「ごめんなさい、大学すっ飛ばして最終目標書きました……」

「大学行く気はあるのか?」

「あります。警察官になれるかどうかもわからないので」

 そして保険をかけている可愛げもクソもない生徒、それが私である。素直に謝罪はしたし、面倒くさいとか、扱いづらいとか思われてないと助かるんだけどなー、無理だなー。先生もうちょっと表情隠そうぜ、ポーカーフェイスしよう、目の前にいるのあんたの生徒ね。繊細じゃない私のハートをスチールウールが擦ってくる。散ったのは鉄粉だった。心も剣で出来てた。無限の鉄粉製造機(アンリミテッド・スチールパウダー)。

「はあ……。いいか、明日までに書き直して提出しろよ」

「えっ書き直すんですか?」

「お前がふざけたことを書くからだろうが!」

「……怒鳴られるほどのことではないと認識していますが」

 だからふざけて書いてないんだが? 私に失礼すぎでは。おこだぞ。

 こんなクソ面倒くさい生徒を持ってしまったことに関しては同情一択だが、だからといって怒鳴りつけるほどのことじゃねーだろクソがと半ギレである。まだ入学して三日なのに人生の選択誤った感がヤバイ。

 もう転校しようかな。今の環境だと降谷零オーバードーズだし。精神衛生上なにもよろしいことがない。しんど。これが真面目に生きてこなかったツケか。ほどほどにやってればほどほどに生きていける確信がある人生はダメだな、だから人は生まれ変わったら記憶なくすんだな。正しい。いや私生まれ変わったのかどうか分からんけど。家族構成一ミリもブレてない。すぐ話が逸れる。

「とにかく! 再提出は明日だ、いいな!」

「書くものお借りできますか? すぐ直しますので」

「明日出せと言ってるだろうが!」

「何がそんなに気に食わないのか存じませんが、自分の思い通りにことが運ばないからって八つ当たりするのやめていただけます? こちとら中学から上がったばっかり、世間のせの字も知らない華のJKなんですよ? 優しく諭せとは言いませんが、物には言い方くらいあるでしょう。古賀先生も教職として経験を積まれているのでしたら、面倒くさい生徒には怒鳴りつけるという方針がよろしくないこともご存じでは? 私がここでポロっと泣き出して父母に訴えでもしたらどうするんですか。体罰教師のレッテル貼られるんですよ? もちろん、私の態度もアレかもしれませんが、それでも私、割と穏便に受け答えをしていたと自負しているのですが。手間を増やしたことは謝罪します。しかし、警察官という回答はふざけて書いたものでもなければ、ましてや貶されるような内容でもないはずです。不満が顔に出たかもしれませんし、その点も重ねて謝罪します」

 オタク特有のグチャグチャ早口弁舌をふるうというクソオブクソ、慇懃無礼な必殺技を放って、ついでに謝罪をねじ込む。いやまあ正直、泣かされるって例えで煽って反対に泣かせたろかなとかも考えたけど、体罰の下り辺りで思いっきり血の気が引いていたので流石に謝った。ごめん、クレーム怖いよね、本当にすまない。でも大人気なかったのはお互い様なので私のことも許してほしい。穏やかに行こうぜ。

 最終的にその場で第二志望に帝丹大学と書き込んで、お開きになった。ついぞ担任の口から謝罪が出てくることはなかったが、いい歳こいた大人がガキンチョに怒鳴りつけてしまうようなメンタルが標準実装されてる人間なのだから、まあ、再提出を折れてくれただけでも御の字だと思うことにしよう。

 次はねえけどな、同じことしたら社会的制裁加えてやっからな。震えて眠れ。

 因みに、この出来事のせいで私は先生方から「警察官の子」と呼ばれるようになるわけだが、それを私が知る日はまだまだ先である。私のお父さんは普通の会社員だぞ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 高校入学して三ヶ月が経った。ものの見事にぼっちでいっそ先見の明すら感じる。なんて役に立たない千里眼だろうか。ガチもんの万物を見通す目があれば国家公務員試験なんてチョロチョロのチョロいで済むというのに。カンニングは不正だって? バレないようにやるカンニングは正道だって中忍試験で習わなかったのか、ジャンプ履修し直してこい。

 四限目終了のチャイムが鳴って、先生の終了の声を待たずしてクラスメイトはいそいそと机の上を片付け、机の脇にかかった鞄から弁当を取り出す。今日はここまでと号令がかかる頃には誰も先生の話など聞いていない。ガタッと勇ましく立ち上がり、仲良しグループで机の寄せ合って食べ始めてる。青春ですねー。私は机など一ミリも動かすことなく、弁当箱を取り出し箸を手に持ち手を合わせてから咀嚼を始める。マミーの飯が今日も今日とて美味い。愛してる。

 生春巻きのチリソースかけだー、と心の中で拍手の嵐を送っていると、視界の端で推しが教室から出て行くのが見えた。いつものことである。

 なんとびっくりなことに、降谷零は、高校生活において友人がいない。らしい。ぼっちではないのだが、いやお前が言うなって話はおいといて、ともかく、親しい友人はいないようである。親近感湧くわ、仲良くしたくないけど。解釈違いです。

 暇さえあれば(そして気を抜くと無意識に)降谷零を眺めてしまうという超絶ストーカー疑惑が持ち上がりそうな特技(誰がなんと言おうと特技)を持っている私から見た降谷零という人間は、こんな感じである。

 一つ。社交性がある。

 もうそれぼっちと呼ばなくね? 友人いないとか嘘じゃね? と思うかもしれないが、社交性があることと友人がいることはイコールにはならない。年取って社会人経験を積めばそれなりに理解できるのだが、社交性っていうのは要するに表面上問題なく取り繕う技術である。

 悪く言えば上っ面がいい。そして上っ面なので、それ以上踏み込むことはないのだ。自分で言うのもあれだが、私だって本気出せば社交性をひねり出せないこともない。友人も作れるだろう。面倒くさいからしないだけだ。リアルJKのノリについていく自信もない。

 二つ、頭がよい。

 降谷零だしまあ言うまでもないんじゃね、で流してもいいのだが、頭がよいということは、意味が複数ある。勉強が出来るということと、頭の回転が早いということだ。彼の場合、このどちらも当てはまる。勉強が出来ることは新入生代表の挨拶をしたことで学校中が知っているが、頭の回転が早いっていうのは、たぶん、クラスメイトにでもならないと気付かないだろう。

 社交性の部分に繋がってくるのだが、とにかく、当たり障りがないことを言うのだ。誰の内側にも踏み込まないが、誰も内側に踏み込ませない。内面の線引きの察知が異常なまでに正確で、踏み込ませない為の境界線が割とあからさま。まあ、つまり、とっつきにくい。私は喋りたくない。疲れる。

 三つ、運動が出来る。

 二ヶ月ほど前の体力測定で、確か全国で一位取って表彰されていた。正直言って、高校生にもなれば運動神経の良し悪しも小学生の時ほどのヒエラルキー上位者効果はない。しかし、突出すれば話は別。全国一位て……サイボーグかなんかなのか。高一時点で降谷零はリンゴをクラッシュ出来るという事実を知ってしまった。びっくりするくらい興味ない。ただ、グシャッとしたリンゴから飛び散った果汁が頬を滴る可能性を見出したのは僥倖だった。生涯役に立つことのない情報だが。

 四つ、モテる。

 女子にバカみたいにモテることは自明の理なので省くが、恐ろしいことにこの男、同性からもモテる。まあ、顔が良くて頭もよくて運動神経もよくて、そのくせ社交的なのである。そりゃモテるわー。

 なのに、友人がいない。ごめん笑う。お前の人生ハードモードかよ、泣いていいぞ、慰めてやらんが。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 高校に入学して、早くも三ヶ月も経った。小中と比べれば随分と平穏無事に過ごせているが、いかんせん、肩は凝る。気を張りすぎている自覚はあるが、そうでもしないと上手くやれる自信もない。出来るだけ多くの人と、出来るだけ分け隔てなく関わっていく。きちんと境界線を守った上で。そうしないと、俺は昔の二の舞になると信じ込んでいた。

 小中では、見た目のせいであれやこれやと随分面倒な目に遭った。仕方のないことではあると、半分くらいは諦めていたが、せめて高校ではそんな煩わしさから解放されたくて、偏差値以上にお堅い校風であるここに進学した。

 ありがたいことに、俺が願った通り、この学校の生徒は頭がよく、また、見た目で判断したとしてもそれを口に出さない知性が備わっていた。もちろん、もともとがお堅い学校なので馴染めるかという不安はあったが。正直面倒ごとが少なければ馴染めないことに文句は言えなかった。要するに馴染めてはいない。

 ただ、某クラスメイトほどは浮いていないし、マシだと思う。

 名前は忘れたけど、先生たちからは「警察官の子」と呼ばれてるらしい。なんでも、進路希望調査の際に、警察官、とだけ記入して担任と一悶着起こしたそうだ。警察官。その単語だけに反応して興味半分で詳しいことを聞いてみると、教師陣の中でもその日のことは意見が別れているらしかった。

 担任は言いすぎだった。警察官の子がかわいそうだった。警察官の子ももう少し殊勝な態度を取ればよかったのに。反抗的だった。担任も謝罪を口にするべきだった。警察官の子のマシンガントーク少し怖かった、エトセトラ。

 あからさまにどちらの肩を持つ、というわけでもないが、とりあえず共通していたのは「自分のクラスに警察官の子がいなくてよかった」という点に集約していた。興味半分だったが、何言ったのかものすごく気になるんだけど。

「うちの学校、ああいうタイプの子、少ないからねー。悪目立ちしないといいけど」

「降谷くん、同じクラスでしょう? どう?」

 どう? と聞かれても、話したことがないから分からない。としか答えられなかった。そして俺は、その後に告げられた言葉に目を丸くすることになる。

「そうなの? 降谷くん、けっこうクラスの中心になって話進めてくれること多いって聞いてたから、てっきり話したことあるのかと思ってたわ」

 言われて気付いた。俺は、そいつの名前も覚えていないくらい、関わっていない。色んな人と、満遍なく付き合ってきたと思っていたので、なかなか衝撃的だった。

 そうなると、猫かぶって隠している好奇心旺盛な自分がむくむくと起き上がってくる。どんなやつなんだろうか。警察官になりたいという目標だけは一致しているようだが、それ以外自分との共通項が全く見当たらない。

 どうしたもんかな、と首を傾げた翌日、お昼ご飯がぼっちという共通項を見つけ、そういうことではない……。と、遠い目をした。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 最近推しと目が合うんだけど。

 いやもう自意識過剰なだけならいいんだよ、やだ……目が合っちゃった……きゃっ(勘違い)だったら、痛々しい上にきっしょく悪いんだよ年考えろクソババアと自分を罵って終われるんだよ、最初の五回くらいはそれで終わってたんだよってあああああああまた目が合ったんだけどこわ。推しと目が合うとかこわ。心臓バックバクでしぬ。ホラーかよ。しぬ。ドッキリ系ほんとダメだから勘弁して。繊細じゃないけどチキンなの。厚かましさとホラー耐性は別物なの。ていうか降谷零、お前一番前の席なのに後方窓際の方チラチラ振り返るのやめなさい。授業聞け。私も聞け。

 というか、いくらなんでも急に目が合いすぎでは? と首を傾げていたけど、違うわ。今までバレてなかった視線がバレただけだわこれ。たぶん。お前自分で、視線感じ取れるタイプだったら死ぬぞやめろ、とか言ってたくせにやめてないじゃねーかふざけんなよバカ。ナチュラルに暇だなと思ったら降谷零眺めるのほんとにやめろ。普通にアウト。将来の夢は警察官です☆ みたいなアピールしといてストーカー規制法に簡単に抵触するのほんとやめろ。我慢しろ、お前は十年後ぐらいには公安警察の一員になって堂々と上司を拝むが如く降谷零のご尊顔を拝見できるようになってるから本当に今は耐え忍べ。煌めけ理性。輝け俺のコスモ。

「はい、じゃあ今日のロングホームルームは席替えな。くじ引いてー」

 黒板と先生の後頭部以外に視線を送らない誓いを立てた直後、ありがたいことに席替えとなった。前の方が良い人は教えてくれと言う担任に、もうこれは神が私に人生の転機を与えてくれたのだと信じることにした。一番前の席になれば、後ろからじっくり眺めるなんていう愚行を二度と起こすこともあるまい。

 スッと静かに挙手して、最近視力が落ちてきたので一番前の席がいいことを申告すれば、担任は大仰に頷いて教卓の前を指し示してくれた。一体何にそこまで大袈裟に頷いたのか分からないが、まあ、おそらく私が学生らしい勤勉な行動や発言をしていることに感無量とか、そんなところだろう。私をなんだと思っているのか。八割方自業自得なので何も言うまい。因みに視力は全然落ちてない。バリバリの両目ともAである。

「他は? 後ろがいいは聞かんからなー」

 ええー、とか、俺背が高いので一番後ろがいいと思いまーす、とか。そういうありがちなふざけた声は聞こえない。ほんっとに頭固え学校だな、高校生なのに大人しすぎて不安になるわ。ハメ外せるのなんて今くらいなんだぞ……お前らそれでいいのか……?

「はい。俺も、一番前がいいです」

「降谷もか。石村の隣でいいか?」

「大丈夫です」

 ………………いや大丈夫じゃねえよなんつったお前?

 

✳︎✳︎✳︎

 

 推しが隣の席になった。

 おかしいおかしいおかしいおかしい! 絶対降谷零お前視力悪くないだろ! 絶対裸眼両目Aあるだろ! そんなイメージある! イメージしろ! ここは惑星クレイ!! 俺とお前はヴァンガードファイト!! 助けてくれ私のHPはすでにゼロ! 次回、石村死す! デュエルスタンバイ!!!!! 山札引き切って敗北したマリクの気持ちが今ならわかる……。嘘ですわかりません……今の現状も分からない……一体何が起きてるの……。

 隣の席から山月記を朗読する推しの声が聞こえてくる。めっちゃいい声。好き。CV古谷徹なのに生身の降谷零だとちょっと朗読下手なのくっそ萌える。かわいいかよ。あと声若干高い。かわいすぎか。しぬ。さっきから十秒に一度は鼻の下触って何も垂れてないか確認しないと気が気じゃない。同級生の朗読に興奮して鼻血流すとかもうマジで警察官とかなれないから本当に頼む私の毛細血管。拡張するな。耐えろ。推しが尊いしんどい。

「はい、ありがとう降谷くん。今の箇所で李徴が──」

 朗読を終え、椅子に掛け、椅子を引く。一連の静かな音が先生の声と若干かぶりながらも隣から聞こえてくる。全部推しが発してる。やばくない? やばくない? 私息してる? 先生の声にめっちゃ聴神経集中させてるけど、木製の椅子を引くギッて音がやたらめったら耳に響く。無理。先生、もっと腹から声出して。腹式呼吸して。私は腹の底から響くように発しそうなあああああああああって絶叫を飲み込んで。発するなよ、いいな。フリじゃねーぞ、黙れ。お前の人生がかかってる、黙れ。

 軽いゲンドウポーズを取りながら、黒板と先生の後頭部を睨みつける。いっそ本当に視力が下がっていれば黒板の字を見るのに必死になれたのに。なぜ私の視力はこんなにもいいのか。昔と違ってきちんと理性保って趣味を謳歌してるからですね、ゲームのやり過ぎは禁物です。メガネの無い人生をこのまま送りたい。でも推しと物理的に距離を取りたいから遮蔽物としてメガネはアリかもしれない。そうだ、メガネ買おう。伊達メガネは流儀に反するからブルーライトカットメガネにしよう。そうしよう。

「石村さん」

「……なんでしょう?」

 今世で縁のなかったメガネ屋さんの場所を脳内地図で検索していると、推しに呼ばれた。ビックリした、お前私の名前知っとったんかい。あ、違うわ、さっきの席替えで担任が私の名前呼んだんだったわ。さっきの今で忘れるほどポンコツ頭脳ではあるまい。さすが未来の公安警察のドン、控えめに言って脳みそ輝いてる。ていうか降谷零の声で呼ばれる自分の名前控えめに言ってやばい。鼓膜破れてない? 出血してない? なんか警察官になる前に推しに殺される気がしてきた。それはそれで至高。

 顔を一切そちらに向けることなく、無難な返事をすると、悪いんだけど、足元……という、すまなそうな声と私の足の横に転がる消しゴムを確認した。ああ、落としたのか。拾ってくれってことね、OKOKところでこれは本当に私が触って大丈夫なのか? 推しの持ち物に触れるんだけど大丈夫? 全然大丈夫じゃないよ? 私が触ったら推しの消しゴム蒸発して消えてなくなるのでは? 思考回路はショート寸前どころか焼き切れている。今すぐ会えないところに逃げたい。しにそう。推しを摂取しすぎてしぬ。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

「……どういたしまして」

 誰に宛てたかもわからない逡巡を二秒で終わらせて、なんのこともなく私は消しゴムを拾い、数回指で汚れを払い落とし、顔だけを若干隣の推しに向け、視線はそちらに向けず、愛想笑いも全くつけず、出来る限り抑揚を殺した声で消しゴムを推しの机の片隅に置くというミッションをクリアした。向けられていた手のひらは無視したわけではないので、何卒許していただきたい。視界に収めないことに必死になりすぎて、本気で見えていなかった。ごめん。

 全く気にしていないかのような穏やかな感謝の言葉は、鼓膜に永遠に刻んでおく。あー、録音させてくれ。しっかりしろ理性が蒸発しかけてる。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 例の警察官の子に、おそらく、嫌われた。

 彼女は石村晴美さんという名前らしく、まあ、俺と一緒でクラスではけっこう浮いてる。浮き方は全く違うけど、ともかくどちらもクラスに馴染んではいない。俺は昼休みになればするっとクラスから出てフェードアウトしていくが、彼女は堂々と一人ぼっちで昼食を取っている。どちらが正しいなんてことはもちろん答えがないわけだが、誰に見られているわけでもないのに、律儀に手を合わせて弁当に一礼する姿は好感が持てた。俺も見習おう。

 他の休憩時間にもクラスメイトと当たり障りのない会話をしながら、彼女を観察してみた。ぼけっと窓の外を眺めていることもあるし、サイズが様々な本を読んでいることもある。当日提出日の課題を片していることもあったし、出されたばかりの課題に手をつけていることもあった。なんというか、普通におとなしい。本当にマシンガントークで担任を黙らせた人物が彼女なのだろうか。ぶっちゃけ声を聞いたことすらないので、想像がつかない。

 授業中に関しては、座席の配置上露骨に後ろをじろじろ見ることも叶わず、プリントを回したり、先生の問いかけに対して周りと相談するような素振りを見せたり、そんな合間合間で彼女をちらりと伺う。彼女は前を見て授業を聞いているので、目が合うことがちらほらある。

 が、この時ようやく気付いた。あれ、俺がやってることちょっとストーカーっぽくない? そしてさらに気付く。

 目が合う度に、それとなく逸らされている。気がする。

 いや、そりゃそうだろ。当たり前だろ。普通に考えてクラスメイトにジロジロ見られて気分いいか? いいわけない。というより、俺はジロジロ見られたりヒソヒソ噂されたりするのが嫌いだと思ってるくせに、同じことするってどういう了見だ。バカなの? 好奇心は猫も殺すっていうけど俺の理性も殺すの? 申し訳なくて死にそう。と、気付いた頃には目が合うと露骨に逸らされるようになった。本当にごめん。

 なんとか挽回して普通に話せるくらいになれないかなーと思い、席を隣にしたわけだが、うっかり落とした消しゴムを拾ってもらうも、差し出した手を完全スルーされたので、もう手遅れかなって思わなくもない。人並みに会話できるように頑張ろう。

 でも声掛けたら返事してくれたし、お礼言ったらそれにも返してくれたから、たぶん嫌ったからといっておざなりな対応をする人ではないのだろう。偉いなぁ。その辺も見習おう。




全部勘違いですワハハ。

以下オリキャラ名前まとめ

石村晴美(オリ主)

石村浩司(父)
石村聡美(母、旧姓青木)
石村美紀(姉)
石村美知(妹)

古賀大成(担任、化学)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夢を見た

救済の伏線です


 夏休みも目の前の、高校一年の七月。毎日が体感猛暑で、クーラーがなければ寝られないような天然サウナの中、その日も例のごとく冷房をガン回しして健やかな眠りについていた。暑いとそれだけで夢見が悪くなる。おそらく気分の問題。

 夢の中の私は、ニュースを見ていた。帰省や行楽に向けたお盆シーズンの天気予想、流行るだろうファッションカラー、オリンピックの開催国の候補地など、ごく一般的なお昼のニュース番組って感じがした。お父さんとお母さんはいない。お姉ちゃんがそうめんを茹でてくれているようで、どうやら、両親は二人で仲良く旅行に行っているらしい。

 私の手元にはネギがあり、みっちゃんの手元には氷水を張った大きな深皿が用意されている。こんな暑い日に凝った料理をしようなんて気力は誰にもないらしい。お母さんが三食しっかり食べなさいと常日頃から言っているので、とりあえず何か食べておけばいいでしょうぐらいの食事だ。コンビニじゃないだけ褒めてほしい。お姉ちゃんを。

「突然ですが緊急ニュースです。先程、イングランド行きの飛行機が空中で炎上し、墜落したとの情報が入りました。繰り返します──」

 物騒なニュースだな、ぐらいで終わる内容なのに、夢の中の私はヒュッと息を飲んだ。ネギがついた手で胸の辺りを掴む。どうやら、身体と思考がちぐはぐらしい。呼吸が浅くなり、冷や汗をかいている自覚がある。ただ、原因が全く理解出来ない。夢の中の私は、鍋の前で茹で具合を確認するお姉ちゃんに向かって叫んでいた。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!! お父さんとお母さんが乗った飛行機、便は?!」

「え? なに? ちょっと待って、冷蔵庫にメモ貼ってあるから」

 お姉ちゃんの口から出てきた数字は、アナウンサーの口から紡がれたものと全く同じで、みっちゃんが、真っ青な顔で、嘘……と呟いた声で、場面は切り替わった。

 

 七月某日、夏のセーラー服の白さで周りの人から浮きながら、私は母の写真を胸に抱いていた。みっちゃんは父の写真を、お姉ちゃんは二人の位牌を抱えている。思考が全く追い付かない私とは異なり、夢の中の私は声を上げることもなくボロボロと涙をこぼしている。お姉ちゃんとみっちゃんは、わんわん泣いている。お父さんとお母さんが死んでしまったのだから、当然だった。私が声を上げていないのは、夢と現実で精神がふらふらしているからだろうか。

 お葬式の手配や手伝いは、お父さんのお兄さん、私たちにとっての伯父さんの力を借りた。お姉ちゃんも私も、自力で色々調べたけど、全部目が滑ってちっとも頭に入ってこなかった。遺体が見つかったという知らせも、上滑りした。ああ、あの箱の中に、お父さんとお母さんがいるのか。

 式が進み、最後のお別れの時間になった。葬儀屋さんが、遠回しに遺体の損傷が激しいことを参列者に伝えた。グロテスクな姿は、もう見た。と、夢の中の私は思った。

 そうか、見たのか。お姉ちゃんとみっちゃんはほとんど顔を見ずに、お花だけをそっと添えて、棺から離れた。私はまだ見ぬ二人の遺体を見た。酷い有り様とは、こういうことをいうのだろう。心なしか、焦げた臭いもして、私はひどい寝汗と共に目を覚ました。

 そしてトイレに駆け込み、そのまま吐いた。

 生々しい夢だった。というか、あれは夢だったのだろうか。突拍子の無さが非常に現実味を帯びていて、なんとなくまだ鼻の奥に焦げ付いた臭いが漂っているような気さえする。カレンダーを見ると、ニュースが流れていた日付が昨日だということに気付いた。

 海外旅行になんて行ってないのはわかっていたが、それでも足音を立てぬようにお父さんとお母さんの寝室を覗いた。静かな寝息とベッドの膨らみに胸を撫で下ろす。冷蔵庫にも、それらしきメモは見当たらない。そもそも、昨日そんなニュースを聞いていない。

 夢だと思う。思いたかった。けれど、そんな一言だけで割り切れるほど、私は摩訶不思議な出来事を不思議という感想だけで終わらせられない。小さな饅頭のような手を見下ろした日を、忘れているわけがなかった。

 そっと部屋に戻り、白む空を横目に買い置きの新品のノートを開いた。記憶から薄れてしまう前に書き留めておかなくては。無駄になればいいと思いながら、ひたすらボールペンで文字を残す。

 夢の中の日付、ニュースの内容、飛行機の便、オリンピック候補地、イングランド行き、今日の日付。あとは、あとは。額をがんがんとたたきながら、どうか役に立たないでくれと願う。そして同時に、きっと役に立つのだろうという予感めいた確信もあった。

 どうか夢で終わってくれないか。お願いだから。

 これが、最初の地獄とは理解出来ずに、私はノートを鍵付きの引き出しにしまった。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 ミンミンミンミン。けたたましい蝉の声をBGMに、塩分の玉が額や頬を滑り落ちる。化粧なんて高尚なものをしていないので、お気に入りのハンドタオルで顔をガシガシ拭くことが出来るのは幸いだった。

 あと数年もすれば、そっと顔を押さえるようにしか拭けなくなるし、なんならそのままトイレに直行してあぶらとり紙やら化粧直しが必要になってくることだろう。あー、面倒くさい。女性らしさは昔から母のお腹の中に置き去りのままだ。今更拾ってこれない。まあもともと持ってないので、化粧直しなんてしたこともないわけなんだが。

 そんな化粧に関する言い訳を、誰に聞かれるでもなくダラダラと脳内で垂れ流していると、学校に着いた。校門をパタパタと駆け足で過ぎていく生徒もちらほらいる。時刻は始業十分前なので、教室が遠い人は少し急がないと怪しい時間だ。私はそんなに遠くないし、遠かったとして急ぐ気がないのであまり関係ない。

 そもそも、今日は終業式なのだからちょっと遅れたくらいなら、大して問題もない。明日から夏休みだ。

「はい、じゃあ、楽しい楽しい夏休みだ。ハメ外しすぎないように、解散」

 校長先生の話を聞き流し、担任の話を聞き流し、解放されたこの瞬間、すでに夏休みである。席が真横になったことでぱったり目も合わなくなった推しを名残惜しむこともなく、荷物を持って席を立つ。

 あーあ、今年の夏休みは何しようかな。公務員試験の勉強はするとして、そろそろ体力づくりからステップアップした物理的制圧術でも学ぼうか。ボクシングは推しと被るので却下。合気道とかどうだろう。スポーンと相手を投げ飛ばしてみたい。警察官になるわけだし剣道でもいいなぁ。ジョギングに素振りと筋トレを追加しよう。大学は合気道部があるところでもいいかもしれない。お金かかるししばらくは独学だなぁ。大学生になったらぼちぼちバイトしよう。一本背負いとかも憧れる。我ながらなんとも気が多い。

 有意義な人生計画に想いを馳せていると、校門が見えてきた。人の話を全て右から左へ聞き流していたので、ついさっき通り過ぎたような気さえする。もちろん、数時間は経過しているので気のせいだ。

 校門にはうちの制服ではない人物が結構いる。せっかく早く帰れるのだから、夏休みの打ち合わせはメールかなんかで済ませればいいのに。私は未だにケータイを所持していないので、今の連絡手段のトレンドが何かはわかってないのだが。スマホじゃないので、緑アイコンのあれではないんだろうということしか分からない。

「ヒロ!」

 推しの大きな声が後ろから飛んできて、心臓が跳ねる。クラスでは聞くことのない明るい元気な声で、誰かを呼ぶ。もちろん誰かは分からないが、その誰かは同じく明るく元気な声で推しを呼んだ。

「ゼロ!」

 その呼び名にぞわりと背中が粟立つ。ゼロ。警察庁警備局警備企画課に存在しないものとして扱われ、それでも、誰に知られるでもなく日本を守る秘密組織。どっかの犯罪集団と対をなすような、そういう組織の通称、それがゼロ。

 もちろん、今、推しを呼んだのはそんな意味ではないだろうけど、その名前で推しを呼ぶというだけで存在そのものに意味がある。そんな風に推しを呼ぶのは、たぶん、この世で一人だけだろう。

 そうか、彼はヒロというのか。どう書くのだろう。名字は? 推しを呼んだグリリバのええ声(若干高い)の主をすれ違いざまにちらりと横目で伺ってみると、なるほど、お前もイケメンだな……美人薄命か……。顔が良すぎるのも困りものである。私には縁遠い悩みに合掌。強く生きろ。

 ……ああ、スコッチは拳銃自殺するんだったな。確か推しのせいで。推しの人生ガチしんどすぎて関係ない私がつらい。可愛い嫁さんもらって強く生きろ。公安入ったら仲人おばさんをけしかけるモブになりたい。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 結局、夏休みに入って私が力を入れたことは予定通り勉学と鍛錬だった。字面が真面目すぎてヤバイ。誰だよお前ってほんとそれな、私が一番そう思ってるわ。

 三時のおやつのお誘いにきたお父さんは驚きで私のお気に入りのマグカップを割ったし、お風呂の時間を知らせにきたお母さんは無言で部屋の電気を消した。もしかして勉強したら私が死ぬと思ってる? 私をなんだと思ってるんだ、流石に怒るぞ、ぷんすこ。

「はるちゃん、急に勉強してどうしちゃったの? 受験の時より真面目じゃん」

「私はね、みっちゃん。警察官になるから今からしっかり勉強しておくんだよ」

「へー。あんた警官になりたいわけ? めっちゃ意外。全く似合ってないね」

 ケラケラと笑い飛ばすお姉ちゃんの言葉は純度百パーで正しい。私自身、自分が犯罪者か警察官どっちが似合ってるかと聞かれたらコンマ二秒で犯罪者と答える。どうあがいても取り締まられる側の人間だ。

 いや、悪いこととかしたことないんですけどね、単純にね、しょっぴける側にいるほど真面目に生きてないって意味ですよ、同人はグレーゾーン。グレーはセーフ、親告罪。お目溢しの範囲内なら違法な行為ではないです、公安と一緒にしないでください私がなりたいのはその公安だった詰んだ。クロです。

「はるちゃん、警察官になりたいの? 危ない職業ね……お母さん、あんまり賛成できないわ」

「公務員って考えれば大丈夫だよ」

「なら役所勤めでもいいだろう?」

「やだ。私、警察官になるから」

 推しのご尊顔を堂々と拝むためにな……とは口が裂けても言えないが。動機がクソすぎて親の顔が見れない。本当にすまない。

 妥協で生きてそこそこ楽しい人生も捨てがたいっちゃ捨てがたいが、この世はなんと恐ろしいことに私の人生の最推しが生きているのだ。存在している。目が合うだけで心臓潰れかけるし声が聞こえるだけで鼓膜張り裂けかけるが、その代わり降谷零に戸籍があって感情があって最近知ったが友人がいて彼にもまた人生があるわけだ。

 ……あっちはエクストリームハードモードだが。せめて部下になって雑事ぐらいは片付けてあげたい。あわよくば堂々とそのご尊顔を拝み倒したい。

 途中、ちょっといい事言ったんじゃない、みたいな空気になりかけたけど、結局推しの顔拝みたいから推しの顔拝むわってだけの話だった。清々しくクソ。それでこそ私。

「何が何でもなる」

 なので、退路を断つ。私はそれ以外道はないのだと、周りに思ってもらう。そうすれば、私は死に物狂いで夢を叶えるだろう。変なプライドだけは一丁前なのだから。警察官に、俺はなる!

 

✳︎✳︎✳︎

 

 夏休みのショッピングモールはとても涼しい。ここに来るまでにかいた汗が乾いてくると、今まで感じていた暑さはどこへやら、寒さすら感じるくらいだ。そして、その寒さを中和してしまえるほど、色んな人でごった返している。ほとんど気のせいだろうが、人の多さに暖かさを感じる。同じくらい、煩わしさも感じるのだけど。

 今日は、お姉ちゃんに引きずられるようにして、買い物に来ている。いわゆる荷物持ちだった。いつものことなのでそんなに気にならない。それが妹のさだめなのだと、妹二人でよくふざけて言っている。あとでお駄賃としてデザートを奢ってくれる約束をしているので、特に不満はなかったりする。

 夏休みの暇な一日に、荷物持ちくらいでちょっと人気のパンケーキにありつけるなら安いもの。もっとも、もう一人の妹はそうでもないようだったけど。

 そのもう一人は、ちょっとトイレと言って先ほど席を外した。心なしか顔色が悪かったように思う。たぶん、臭いに酔ったんだろう。鼻がいいので、体臭やら、食べ物の匂いやら、売り物の香料の匂いやらで知らず知らずの内にダメージを負っている。本人は曰く、引きこもりには人間の波はきついとのことなので、嗅覚への負担をあまり自覚できていないかもしれない。

「遅いね、吐いてるのかも」

「心配だね、私見てこようか?」

 トイレに行ってくるとふらついた足で離れていってから、すでに十五分が経っている。大きなショッピングモールの女子トイレなので混雑しているだけとも考えられるけど、大きなショッピングモールだけあってトイレもかなり広いのだ。混んでたとしてもかかり過ぎ、ゲーゲー吐いているなら迎えに行って、もう今日は帰った方がいい。パンケーキはまた今度かぁ。残念。

「君たち、暇なの? よかったら一緒に遊ばない?」

 どうしようね、と、ちょうどお姉ちゃんがトイレの方を見たとき、後ろの方から声をかけられた。お姉ちゃんはトイレの方に向けた目線を一ミリも動かすことはなかったが、反射のように鼻の脇はピクッと震えた。やだなぁ、機嫌悪くなると怖いんだけど。

 あからさまなナンパを二人して完全に無視して、どうしたものかと思案する。二人揃ってここを離れてしまったら、すれ違った時困ってしまう(よりによってあっちはケータイを持ってない)し、一人残すのはそれこそ面倒くさい。

「無視しないでよ、つれないなー」

「……離してもらえますか?」

 最悪だ……とため息をつきたくなったけど、それ以上にお姉ちゃんの顔がヤバくて飲み込んだ。基本的に過激思想だから殴りかかりそう、シスコン怖い。ナンパ相手は選んだ方がいいですよ……悪いことは言わないから。そっと手を離してスススッと立ち去ればお姉ちゃんも見逃してくれるはずだから。

 心の底からナンパ男を不憫に思って、目と態度で言葉で手を離すよう訴えたのに、どこ吹く風で、姉妹なの? 似てるねー。なんてペラッペラな台詞を吐いている。私の目には自殺願望者にしか映らない。スプラッタは私のいないところでやってほしい。

「私の可愛い妹から離れてくれる? 気持ち悪いし、気分も悪いわ」

「強気なこと言っちゃって可愛いねー。なあ、向こうに俺のツレがいるんだけど、どう?」

「どうもこうもないわ。さっさと消えろ」

 向こうのメンタル強すぎてめまいがする。頼むからお姉ちゃんがもっと過激な言葉を吐く前に立ち去ってほしい。こんなところで悪目立ちしたくないし、もしこのタイミングでトイレから帰ってきて現場を目撃しようものならナンパ男の命の保証がない。最近筋トレと独学の格闘技を覚え始めたのに。

「おい」

「ん? ぃっででで!!!」

「うちの姉と妹に何か用ですか?」

 あー、遅かった。南無。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 念願の解放ではあるけど、離れていった腕は曲がる限界値を若干だけ無視している。かわいそうに。助けてあげないけど。自業自得である。

 私は随分と温厚に注意をしたし、お姉ちゃんは温厚ではなかったけど口だけで済ませようとした。それでわからないのだから、痛い目にあうのは仕方がない。はるちゃんは身内に関する沸点がものすごく低いのだ。口より先に手が出てしまうあたり、お察しである。

「ってぇな! なんだよてめえ!」

 捻りあげられた腕を反対の手でさすりながら、ナンパ男は抗議をした。なんだよてめえはむしろこっちの台詞である。

 はるちゃんが、こっちをちらりと見て「知り合い?」と目で聞いてくる。こんな奴と知り合いとは思えないけど、一応確認だけするって感じがありありと見て取れた。

 私は小さく首を横に振って、知らない人だということを告げる。お姉ちゃんは「知り合いたくもないわ」と唾を吐きかけそうな勢いだ。二人ともとても怖い。同級生に「あんたの家のセコムお姉ちゃんたち怖い」と言われたことを思い出す。私から見ても怖いんだから向けられた方はもっと怖いのだろう。ナンパ男の顔が青かった。

 しかし持ち前の鋼鉄メンタル(捨てた方がいいと思う)でナンパ男ははるちゃんを標的にして噛み付いてくる。身長の関係で思いっきり見下ろしているが、対するはるちゃんはかすかに顎を引いてメンチを切っている。警察官になりたいと言っているのにどう見ても不良。もしくはヤンキー、あるいはチンピラ。逮捕する人の目ではないことは明白。

 ナンパ男の顔色は青を通り越して白くなってきた。怖いものは素直に怖いと言った方がいいと思う。悪いことではないよ。危機察知能力は生きる上で大事。

「まだ、何か、ご用が?」

「て、めぇに用はねえよ!」

「石村さん!」

 よもや一触即発、(はるちゃん主催の)一方的な蹂躙ショーが始まるのか……と諦めかけた時、名前を呼ばれた。もっとも、私たちは全員石村なので誰のことを指しているのかわからないけど、少なくとも私ではないだろう。こんな褐色金髪イケメン、一回見たら忘れられない。うわ、イケメン。

 ナンパ男は唐突に乱入してきたイケメンに、あからさまに戸惑った。

 なんだよ男連れかよ(しかもイケメン)、そんな舌打ち付きの副音声が聞こえてきた。たぶん九割方合ってると思う。

 お姉ちゃんも、なんかイケメンが助けに来た……と困惑気味だ。お姉ちゃんも困惑しているとなると、必然的にイケメンが呼んだ石村さんははるちゃんということになるわけだが。

「………………降谷くん」

「その、待たせてごめんね。この人と何かあった?」

「別に、何もねえよ!」

 はるちゃんの顔が酷すぎて、三下風の捨て台詞を吐いていったナンパ男のことなど誰も気に留めていない。表情筋死んでるけど、どうしたの。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 姉と妹をナンパしていたクソ身の程知らずにガン飛ばしていたら推しが追い払ってくれた。

 高校入ってから本当に不意打ちで推しにこういうことされててそろそろ心停止しそうなんだけど誰か助けて。

 困ってたみたいだったから、なんかごめんね。と眉尻を下げる姿はもう無理かわいいこっちこそ気を回してもらってすまないしお手を煩わせたこと申し訳ない。この無礼は命をもって償うことも辞さない。なのでとりあえず喋るのやめてもらっていいですか私は鼓膜の振動を意識的に停止させるすべを習得していないから! これ以上声を聴くと! しぬ!! 気がする!!!

「掴みかかりそうな感じがしたから。うちの学校厳しいし、喧嘩なんかしたらたぶん停学だよ?」

 そこまで頭回ってなかったけど心の底からありがとう。警察官を志す身で高校時代に暴力沙汰で停学処分は完全にNGです。未来終了するところだった。

 しかし、掴みかかりそうというイメージを持たれていることには甚だ遺憾の意。殴りかかりそうと言われなかっただけマシだがほぼ同義なのでアウトです。未来のゴリラである推しに現在ゴリラ認定された。世知辛い。

 そうだね、うちの学校頭固いもんな。という言葉を声帯の奥で飲み込んで、お手数おかけしました……。と一礼。ちなみにここまでほぼ無表情でやり切っている。お姉ちゃんとみっちゃんの視線が痛い。たぶん、私がどういう心持ちでこんな顔をしているのか図りかねているんだと思われる。残念ながら、私も推しに対する諸々は計り知れないことなので返答はできない。

「助けてくれて、ありがとうございます」

「大したことしてないよ」

「はるちゃんの知り合いですか?」

「石村さんのクラスメイトの降谷零といいます」

「ご丁寧にどうも。私は晴美の姉の美紀で、こっちが晴美の妹の美知です。しかし、かっこいい子ねー。クラスメイトとか羨ましい」

「そうだね、ラッキーだね」

 本人に面と向かって落ち着いた声でかっこいいと賛辞を送るお姉ちゃんのメンタルもぐうかっこいいと思うが、そろそろ私はこの場から去りたい。推しが歩いて来た方をチラ見したらこの間すれ違ったスコッチいた。ほぼ確実に推しの連れ。つまり今の私は推しの貴重なお出かけの時間を強奪している。斬首刑で許されるかな?

 あと保身的な意味で誰かに見られるのが普通に怖い。未来の梓さんの気持ちを私は今理解した。夜道で後ろから刺されるやつ。私は公安になるまで死なねえぞ。

「降谷さん、ありがとうございました。今日は買い物も終わったし、もう帰ります。失礼しますね」

「え、みっちゃん、パンケーキは?」

「ゲロ吐いたやつが何言ってんの。パンケーキはまた次。みちがそれでいいって言ってんだから帰るよ」

「えっ、石村さん、大丈夫?」

「ああ、まあ、たぶん」

 推しにゲロった事実を知られた私のメンタル以外は大丈夫大丈夫。

 その後特に何かあるわけでもなく、無難な会話を二、三交わして推しとバイバイした。推しが「石村さん、またね。バイバイ」と言ったのでバイバイという表現を今だけ崇め奉ることにする。私はそのかわいい表現を採用できなかったので「さようなら」と返してしまったわけだが、別に間違ってるわけでもないから良しとしよう。とりあえず手は振っておいた。気持ちは舞台袖にはける推しを見送るオタである。圧倒的大正解。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 夏休みの暇な一日。複合型施設のショッピングモールにやって来たのはヒロと映画を観る為だった。観る映画は俺の意見が(じゃんけんにより)通り、刑事物の連ドラの劇場版になった。

 テレビよりスケールの大きい事件は見応えがあって、推理のし応えもあった。劇場版で爆発するのは鉄板でありながらもおおっとなったし、勧善懲悪の最後はやはり爽快感があった。もっとも、現実の事件や事故などはもっとシンプルなことの方が多いのだろうが。そこはフィクションの楽しみ方なので、野暮なことはいちいち言わない。

 映画も終わり、ふと周りを見渡してみると時間も時間だけに随分と人が増えていることに気付いた。昼食を取るために移動する人、涼みに来ただけの人、映画に行く人に、俺たちみたいに映画から帰って来た人。かなり広い建物なのに、人だかりで若干視界が悪い。昼ごはんはここで済ませるつもりだったが、他に移動した方がいいかもしれない。

 この後はどうしようか。そんな今日の予定についてヒロと相談していると、「ん? ぃっででで!!!」と、あまり穏やかではない声が近くで響いた。

 揉め事かと、ほぼ反射で声がした方に向かうと後ろから「下手に首突っ込むなよ!」とヒロになじられた。どうやら付いてくる気はないらしいが、俺の行動を止めるつもりもないようだ。ありがたく好きに動くことにする。

 喧嘩かなにかと予想して声の元へ向かった俺の目に映った光景は、なんとも信じがたいものだった。クラスメイトが男の腕を捻りあげたと思ったら、飛んで来た罵声にガン飛ばして応戦している。なかなか怖い。

 背に女の人二人をかばいながら勇ましく仁王立ちするその様は正しく警察官のそれのようであるが、睨みあげる男の顔色を見ればその形相はヤクザかなにかの方が適切だろうと思われる。

「まだ、何か、ご用が?」

 一節、一節、区切りながら投げつけられた声は驚くほど低い。そろそろ彼女が本当に俺が想像しているクラスメイトと同一人物かどうか自信がなくなってきた。他人の空似と言われた方が納得できる。「て、めぇに用はねえよ!」随分と大きなチワワの幻覚が見えてきたあたりで、石村さん(仮)が組んでいた腕を下ろした。あ、これヤバイやつだな。止めないと。

 腹に力を込めて石村さん(仮)を呼べば、自分でも思っていた以上の声量が出て、呼びかけた相手以外からも結構な目線を向けられる。ちょっと恥ずかしい。これで人違いだったらお笑い種だ。まあ、喧嘩を止めたなら無駄ではない、と思うことにしたい。

 もっとも、その杞憂は石村さん(仮)が俺の名前を呼んでくれたことで吹き飛ばされた。それとは別に、石村さん(真)から向けられた真顔で少なからずダメージを負ったわけだが。相変わらず嫌われている。

「その、待たせてごめんね。この人と何かあった?」

 声をかけたものの気の利いたセリフが思いつくわけでもなく、決まり文句のような声をかける。出来るだけ笑顔で、でも威圧しないように困ってますといった表情をチワワに向ければ、「別に、何もねえよ!」と、これまたテンプレのような声を上げて去っていった。男の俺が出てきて逃げたのなら、たぶんナンパかな。

 チワワは去ったので、とりあえず俺は暴力沙汰はまずい旨を伝えておいた。警察官になりたいわけだし、高校で停学処分をもらわないに越したことはない。石村さんは、口を一度、はく、と動かし、お手数おかけしました……、と一礼した。因みにこの間ほぼ無表情。

 俺は数テンポ遅れて言葉選びを間違えたことに気付いた。女の子に向かって掴みかかりそうってなんだよ、失礼だろ。石村さんの声が出なかった一拍が、なおのこと俺の失言を責め立ててくる。いや、俺の思い込みなんだけど。その後に続いた謝辞は、さらに罪悪感の側頭部を殴る。ごめん、本当にごめん。下手につっこむのもまずい気がして、大したことはしていないと返しながら、心の中で謝罪した。

「はるちゃんの知り合いですか?」

 本当にただの知り合いレベルの知り合いだなーと思いながら、クラスメイトだと名乗れば、向こうも姉と妹だと名乗ってくれた。なるほど、確かに似ている。特に妹さん。三姉妹なのか、他にもいるのか。どちらにせよ、羨ましい。

 流れるように俺の外見を褒めてくれたお姉さんは、どちらかといえば男らしく、その後流れで同調し(てくれ)た石村さんはあいも変わらず目も合わない。あまりにも自業自得。石村さんに対してだけ肩の張りが減る、だいたい悪い意味で。直さないとそろそろ本気で失礼だ。

 どうしたもんかと顔には出さず頭を悩ませていると、妹さんからお礼と帰宅する旨を伝えられた。どうやら、石村さんは吐いたらしい。えっ、なんで。

 思いっきり動揺して体調を聞くと大丈夫だと言われたけど、副音声で放っておいてくれとも聞こえた。そこまで……。まあ、デリケートな問題だったんだと思うことにする。普通に考えたら夏休みに偶然会ったクラスメイトに対して唐突に家族がゲロったこと伝えたら放っておいてほしくもなるだろう。うん、嫌だなその状況。

 あんまり引き留めるのもよくないと思ったので、とりとめもない会話をいくらか交わして、石村さんたちと別れた。またね、と言ってスルーされるのも悲しいし、さようならでは固すぎるなと思ったので、バイバイ、と手を振ったら、返されたのはさようならだった。悲しい。ただ、手は振り返してくれたので、やっぱり律儀だなぁと嬉しくなった。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「ゼロ、大丈夫か?」

「ああ、別に。何かしたわけでもないから」

「お前のクラスメイト、喧嘩っ早いなー、ほんとに女か?」

「うーん、でも担任にけっこうエグいこと言ったって聞いてるし、どうなんだろ」

「というかお前、めっちゃ警戒されてなかったか?」

「そ、れは、まあ、うん」

「実態はおいといて、人畜無害だと思われることのが多いのにな! ウケる」

「実態として俺は人畜無害だよ、ヒロと違ってな」

「はあー? 俺のどこが有害なんだよ?」

「首突っ込むなって言って放置してくるのかと思ったら近くでニヤニヤ眺めてるところとかだよ!」

「面白そうだったから仕方なくね?」

「何が面白そうだったんだよ……こっちは笑えない……」

「人殺しそうなガン飛ばしてるやつが急に無表情になるのとか面白い通り越して怖かった。ゼロ、ほんと何したんだ?」

「いや、べつに、何も……してないわけじゃないけど何かしたわけでもない」

「確実に何かしてるやつだろ、それ」

「あー、その、むしろ俺がガン飛ばしてたっていうか、なんていうか」

「……お前、ガン飛ばすほど嫌いなやつ助けたのか?」

「違うんだって〜……」

 




pixivでは一万字を目安に一話として投稿してたので、それをほぼそのままこちらに一話として適宜修正等しながら投げてますが、正直分けた方がいいよな〜と思いながら分けずにあげてます。見づらさとか含めて追々考えます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

美しさは罪、はっきりわかんだね

 ショッピングモールのナンパ事件以降、特に変わったこともなく夏休みは終わった。

 課題は全て片してある上に新学期の予習も抜かりなく、ランニングに追加して始めた筋トレと通信教育(喧嘩殺法)は体重を少し押し上げ、体脂肪率を減少させた。

 驚くことなかれ。なんと、腹筋が割れた。仮にも女として腹がバキバキになってしまうのはどうかとも思ったが、カッチカチは腹部を触った瞬間そんな気持ちは吹き飛んだ。普通にかっこいいわ。これが私のお腹……? 万年運動不足で少し悲しいことになっていた、あの……?

 なるほどな、こうして人は筋トレに傾倒していくのか。筋肉はいいぞ。

 

 そんなこんなで、新学期である。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 新学期になったからと言って、私の人生に何か波風が立つわけでもない。と思っていた時期が私にもありました。二秒くらい。

 

 いつも通り始業チャイムギリギリで学校に到着し、私と違ってギリギリ登校などもちろんしない推しを視界に収めないよう努めながら荷物を降ろせば、軽やかな声で「石村さん、久しぶり。夏休み変なことなかった?」と気遣いをいただき、溢れ出そうなんんんっという変な声を耐え忍びながら、特に変わりないことを伝えたら、背筋がビンと張った。

 は? なんだ今の? と思いつつ、何事もないかのように鞄を机に引っ掛ければ、何やらヒソヒソと声が聞こえてくるのである。中身は聞き取れなかったが、背中の産毛が粟立つ感覚があるのでおそらくいい感じの内容ではないのだろう。勉学と筋トレは私に気配を察知する能力を授けたらしい。

 ちょっと意味不明だけど後々公安警察に入る身なので、動物ばりに神経質なのはたぶん役に立つだろう。主人公から盗聴された時とか。それでよく公安が務まるなって私は言われたいけど物理的に痛そうなのは趣味じゃないのでやっぱり嫌です。メンタル追い詰められる方がいい。Mではない。この間が二秒である。思考回路が光回線級にマッハ。

 そして二秒の逡巡の回答を得るのは、その日の昼休みのことだった。伏線回収早すぎやろ。

 

 例の如く、降谷零は昼休みになればそそくさと教室を退散し、私はいそいそとお弁当に手をかける。クラスの二大ぼっちが今日も今日とて自由なわけだが、堂々たるぼっちはそんなこと歯牙にもかけないので、誰の目も気にしちゃいない。私はいつだってこの時間はお母さんの作るお弁当に夢中である。

 わあー、今日はオヤツにゴマ団子がついてる。テンションうなぎのぼり。午後からも真面目に頑張る任せてマザー。

「石村さん」

「………………ふぁい」 

 ちくわ胡瓜をもしゃもしゃしていたら、クラスの子に話しかけられた。口に放り込んだ直後だったので、咀嚼し飲み込むまで返事が遅れてしまったことは許してほしい。悪気はないのだ。そして急いで胃の中に落としたので出てきた返答も少し間抜けである。自分自身の舌ったらずを発揮したところでキモいだけなのでこの辺りはむしろ私が許せない。お前がやっても萌えねえんだよ死んで出直せ。

 声をかけてきたクラスメイトは、女の子だった。二人。残念ながら私は彼女たちに関してそれ以上のことを知らない。見たことあるわ、以上。

 なので、私は返事をする以上のことはしなかった。知らない人に用事はないので。せめて最低限の礼儀は守ろうと思い、顔も視線も彼女たちに向けはしたものの、私に呼びかけた以外に口を開いてくれない。

 えっ、これは私が話さなくてはならないやつなの? すみません、どちら様ですか……? いやそれは言わん方がええやつ。それだけはわかる友達おらんけどわかるぞ。

「あの」

「はい」

「夏休みにね、石村さん、ショッピングモールにいた……よね?」

「……いましたね」

「あの、変な意味じゃないんだけど、石村さんって、男の人追い払ったりとか、得意だったりする……?」

「その言葉に変じゃない意味ある?」

 素で突っ込んだが、変な意味しかないだろそのセリフ。えっ、私はクラスメイトになんだと思われてるのか? つい先日、推しにゴリラと認定されたばかりだというのに。「あ! ごめんなさい! 違うの、そうじゃなくて……」と、もごもごもじもじしながらああでもないこうでもないと頭をひねるクラスメイトは今更だけどすごい可愛い。……えっ、可愛い。

 何だこの子めちゃんこ可愛い。高校生になってから学校の生徒とか降谷零しかほとんど見てなかったから全く気付いてなかったけど、ガチで可愛い。

 髪の毛は明るく染めてない、化粧は全くしていない、スカートは異様なレベルで短くない、あどけなさを残してて、JKですウェーイ! ってなってない。は? 天然記念物か? 国宝か?? 神さまありがとう、ここはエデン。

 もっとも、うちの学校は思い返すとお堅いので、そういう子は他の学校より多いのかもしれないが。えっ、頭良くて顔も良くてあどけなさまで残してるとか天使かよ……ここに通っててよかった……。学校選び間違えたって言ったやつ誰だよ、表出ろ。

「石村さん、先生から聞いたんだけど、警察官になりたいって、本当?」

 ガチ美少女にめまいを起こしかけていると、後ろにいたモブ子に話しかけられた嘘どこがモブだくっっそスタイルいいやんけおっぱい張ってて腰締まってて太ももがちゃんと太いとか勘弁してくれーーーー私の性癖と理性がガチンコファイトするーーーーああああーーーーー身を乗り出して机に両手着いて誘ってるんですかーーーーーー推せる。

 手、手首、前腕、上腕、肩。美しいラインを目で追いながら、煩悩と本能と直情をギリギリのラインで押さえつける。そんなものに目を向けている場合ではない。

 本当ですよと返せば、お願いがあるんだけど、とナイスバディに詰め寄られた。嫌です。

 私は興味ない奴には圧倒的ノーと言える日本人だが、性癖にぶっ刺さりした相手にはなんでもイエスと言ってしまうポンコツに成り下がる自信がある。伊達に降谷零にほぼ顔面だけで堕ちてない。いやトドメは例のあの一言だったけど。

「ストーカーを追っ払ってほしいの」

「無理です」

「ナンパ男追っ払ってたでしょ? お願い、頼れる人がいないの」

「まず、あなたのストーカーではないですよね? そこから既に筋違いでは?」

 美少女に目線を移して、言外にあなたが私に頼むべきなのでは? と問いかける。私と、目と目が合う〜した美少女は私が好きだと気付くわけも当然なく、もともと大きめの目を更にパチクリと大きくして、表情だけで「なんで」と聞いてくる。

 うーん、わかりやすい。ストーカーにつけ狙われる理由が嫌でもわかる。まずその付け入りやすさから直さないと追っ払ったところで変わらんだろうという本音は飲み込んだ。親しくないので礼儀は守る。

「単純な話ですが、あなたが切り出せないから助け舟を出したということくらいはわかります。こちらの方なら、連れもなく自分ではっきりと頼んできそうなものですので」

「正解。で、断ったのはなんで?」

「不躾ながら質問で返しますが、何故、私がイエスと答えると思ったんですか?」

「人助けじゃない」

 ああ、それで警察官のくだりか。警察官に幻想抱きすぎだろ。完全なるブーメラン。

「本職の方を頼ることをオススメします」

「頼れないから、頼んでるの」

「だから、何故、あなたがそれを言うんですか? 繰り返しますが、筋違いです」

 意を決して口を開こうとした美少女を視界の端で捉えたので、私はさらに続けた。

「もっとも、ご本人から頼まれたからといって受けるいわれもありませんが」

 きっぱりと断った。当然である。何度でも言うが、何故、私が受けると思っているのか。何故、受けないといけないのか。

「最後にもう一度言います。本職の方を頼ってください。それがあなたのためだと思います」

 日本警察を頼るべきだと心の底から思っているので、素っ気なく突っ返して話を終わらせる。話は終わったと伝えるためにも、二つ目のちくわ胡瓜を口に放り込んで顎を動かすと、「もういいわ」とナイスバディは立ち去っていった。美少女は「ごめんなさい、ありがとう」と一礼してそれに続く。

 机にはメモが一枚残されており、改めてそれに目を通す。背後のクラスメイトたちが次第にざわめきだしたのを耳で確認して、上手くいっているといいのだが、と思うと同時に、どうしたもんかね、と頭を悩ませた。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 いつも通り屋上で一人の昼ごはんを済ませて、午後の始業の七分前に教室に戻る。隣の席の石村さんを眺めれば、文庫本を片手にこれまたいつも通り一人で自由に過ごしている。

 お互い一人なんだから、昼を誘えばいいだろうと常々思っているのだが、断られるとけっこう精神にきそうなので結局実行できないままでいる。断られた以降、どう話しかければいいのかいい案もない。我ながら呆れるが、少なくとも一年間はクラスメイトなのだからまだ焦らなくてもいい、と、思いたい。

 席に着いて次の授業の科目を確認し、教科書類を確認する。えーと、確か課題はなかったはず。前回どこまでやってたっけな、「降谷くん」隣から聞こえてきた声に現実味が持てなくて三秒くらい固まっていたら続けて「こっち向かないでください。ちょっと聞きたいことがあって」と話しかけられる。振り向かなかったのは偶然にも正解だったらしい。

 え、というか石村さんに話しかけられているんだがまじか。

「降谷くん、うちのクラスって親が偉い人とかっていますか?」

「偉いって、具体的にどれぐらい?」

「金持ちとか国家権力に関するとか」

「……いないんじゃないかな。話としては、聞いたことはない」

「……なるほど。じゃあ、降谷くんから見て、もっとも無害そうな人って誰ですか?」

 ある意味あなたが一番有害そうな気がしなくもないと思いつつも、その台詞は脳内だけにとどめた。

「まず有害そうっていう、明らかにヤバイなぁって思うような人、うちの学校は少ないんじゃないか?」

「では最後に」

「うん」

「降谷くん、ストーキングされたことあります?」

「……あるよ」

「答えてくれてありがとうございます。不躾なことを聞いて、ごめんなさい」

 どういたしまして、と返すような締めくくりではなかったのでなんとなく黙ってしまった。ものの一分くらいしかない会話だったが、一体俺は何について話したのか意味不明すぎて脳みその処理が追いつかない。

 特に最後のなんだよ、ストーキング? されたことはめちゃくちゃあるよ。だいたい全員お巡りさんのお世話になっていったけど。嫌なことを思い出してしまった、しかし、本当に何故彼女はこんなことを聞いてきたのだろう。

「石村さん、何かあったの?」

「いえ、別に。たぶん、何もないので手をこまねいているのだと思います」

「……このクラスに、証拠残さない陰湿なストーカーがいるってこと?」

「察しよすぎでは?」

 つまりそういうことか。

「どうするの?」

「……どうもしませんが」

「嘘だろ? なら、わざわざ聞かないよな?」

「……首を突っ込んでくれるなら僥倖です。今日の放課後ひまですか?」

「何すればいい?」

「ビデオカメラ調達できます?」

「任せて」

 話は終わりと、始業のチャイムが鳴り渡る。先生が扉を開けて、日直が起立の号令をかける。話は結局見えてこなかったが、どうやら、彼女の警察官を目指す一面が見れるかもしれないらしい。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「まず、普通に考えて教室のど真ん中……まあ前方よりの真ん中ですけど、そんなところでストーカー相談始めませんよね。周りに聞こえるようにって、隠すどころか知らせるような行為です。知らせてどうするか。あぶり出すんだろうなと思いました。ご友人に会話を投げたのは、当事者が探す方が確実だと考えたからだろうなと。最後に彼女、私にお礼を言いましたからね。ああ、見つかったんだろうなと確信しました。もっとも、見つけた後にやることといったら一つなので、あんまり褒められたものではないと思いますが」

 目的の相手はこちらに振り向き静止したまま動かないので、そのまま続ける。

「次に、頼れる人がいないって点に話を移して考えたんですよ。なんでそういう風に思ったのかなと。今こうして目の前にすると確かになぁって感想です。正確には、信じてくれる人がいないって意味だったんですね。そりゃあ、彼女ほど可愛らしくて、無害そうで、人に迷惑をかけるのも気にしそうな、思いっきりストーカー被害者ですって風貌があるにも関わらず、助けてくれる人がいないなんてそんな話はないですよ。おまわりさんが秒で調査巡回してくれる案件です。本来なら。ただ、色眼鏡で見られますよね。ストーカー案件って人によっては性犯罪に分類されますので、『同性からストーキングされてます』なんて言ってしまえば、悪けりゃイタズラと思われて取り合ってもくれないでしょう。……あら、表情を見るに、どこに相談したかはともかくとして、やっぱり信じてもらえなかったんですね。それに関しては同情しますが、あんまり相手を恨んでもいけませんよ。恨むくらいならその方の上司なり上の方にチクった方が効率的です」

 床に押し倒された彼女の表情から感情は読めないが、押し倒した方の感情はよく分かる。物事がうまく進まないことへの癇癪だろうか、非常にイラついているようだ。こういう時は煽るに限る。

「おまけで、なぜ私を頼るのかっていう結論に至ったのかは、まあ、たぶん偶然だと思うんですよ。思い返せばショッピングモールではけっこうな騒ぎになったような気もしますし、あの日は偶然降谷くんもいたわけで、他にもクラスメイトがいてもおかしくないかなと。警察官の話については先生方に箝口令を敷くとして、私の名前より先に出てくるキーワードみたいになってるようなので、夏休みのそれと合わせて、最終候補になったんでしょうね。あと、友達いないんで目立つのには格好の的。ぼっちがなんか喋ってるぞって、注目浴びやすいですものね。その辺、降谷くんは昼休みに教室から消えちゃいますので、妥協案で私なのかな、と。あと、今回に限って言えば男性を巻き込む選択肢はないですよね。異性のストーカーまで増えたらもう何がなにやら」

 と、ここまで話してストーカー女が標的を私に変えた。今気が付いたが、恐ろしいことにナイフを所持している。美少女の肌が血の気の引いた青から血の気のなくなった白へとランクダウンした。

 気にしいみたいなところがあるので咄嗟に止めたりして注目を集めないことを祈る。やめてくれ、あなたの顔に傷でも残ろうものなら私の精神が死ぬぞ。美少女は国宝。未来の公安警察は国宝を守るぞ任せろ。

 結果として、気にしいよりも恐怖が勝ったのか、美少女はおとなしくしてくれていた。

「あなた、なんなのよ」

「警察官志望の女子高生ですが」

「柊さんに絡んで、私と彼女の時間を邪魔して、なんなの」

「絡まれた方なんですけどさすがに風評被害がひどい」

 柊さんって誰だよと思ったけどたぶん美少女のことだろう。名前まで美しいね、しんどい。言いがかりもしんどい。

「どっか行ってよ!」

 割と頭のヤバイ系に昇格していたらしいストーカー女は、躊躇なくナイフを突き出してくる。ヤバすぎるだろ、これだから米花町は……って現実逃避したいが、残念すぎるこれこそが現実である。

 せちがれえなと嘆きつつも、ひょいひょいとナイフを避けながら後ろに下がる。今は美少女から引き離すのが最優先だ。むやみやたらに振り回されるナイフは、ある程度距離を取っておけば物理的に届きようもなく当たらない。その代わり、じわじわ教室の端まで追い詰められて行くのだが。遠ざかる美少女が死にそうな顔をしている。

 うーん、心配は有難いが、やはりもう少し自分のことを優先して考えるべきなのでは。なんならこの場からとんずらするくらいでいいんだぞ。

 背中がトンと壁に当たる。黒板だ。いやだな、チョークの粉で汚れるじゃん。目の前の口裂け女みたいに笑う狂人は追い詰めたと言わんばかりに両手でナイフを構え直した。玄人のレベルはわからんが、ど素人だということはよくわかる。

 今の今まで散々避けられているのに、持ち方を改めることに何の意味があるのか。顔に向けて思いっきり振り下ろされたナイフを中途半端に避ければ、慣性の法則により避けきれなかった髪の毛が結構な量切られた。はい、暴行罪でーす。

 黒板に突き刺さったナイフを抜こうと力を込めた腕を掴み、力を込める。痛みに顔を歪めながら睨んでくるので、いい度胸してんなぁと呆れる。もちろん、褒めてない。

「石村さん!!」

「降谷くん、フライングですよ。撮れました?」

「撮れたけど、ナイフ出した時点でもうよかったんじゃない?」

「弱いでしょう。現に、彼女は同性のストーカー被害を訴えて一度棄却されてます」

 叩き潰すなら、徹底的にやらないと。せめて、この睨んでくる顔を絶望とか恐怖とかそういうので染めるくらいには。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 石村さんを頼ろうと提案したのは亜弓だった。ショッピングモールでナンパされていた女の人を力技で助けていたし、先生たちから警察官志望だということを何かの話のついでに聞いていた。

 確かに、助けてくれそうだとは思った。でもそれ以上に、巻き込んでしまうことに強い抵抗があった。だって、悪いのは私なのだ。

 こういうと、必ず亜弓は悪いのはストーカー女だという。あんたは付きまとわれてる被害者だと。そうかもしれないけど、付きまとわれてる私にだって原因はあるのだ。もっと亜弓のようにはっきりした態度を取れたらとか、石村さんのように自分の好きなように振る舞えたらとか。

 付け込まれやすい自分の非を、私は理解していた。ただ、理解しているだけで、どうにも出来ないところが一番ダメなんだと、自覚もしていた。

 だから、頼ろうという提案には乗ったけど、せめて自分で解決しようと、犯人を見つけるのに利用させてもらおうという形になった。甚だ、石村さんからしたら迷惑なだけの話だと思う。

 

 まず、昼休みに話かける。「周りに聞こえる声で喋って」と書いた紙をお弁当箱の横に置いてから。意図はつかめていないみたいだったけど、石村さんはそれに答えてくれた。初めて話したけど、よく通る声だと思う。意識してそういう声を出してくれていたのかもしれないけど、亜弓が石村さんと話している間に私は周りを伺う。

 みんな自分たちのグループで話しているふりをしながら、聞き耳を立てている。普通の反応だ。普段誰とも話さないクラスメイトが、どう聞いても物騒な相談を持ちかけられている。興味がないはずがない。そういう話は、小声で回りと共有するのが女の子の性だ。

 だから、誰とも話さず、じいっとこちらを伺っている人が一番怪しい。もちろん暫定だけど。

 そういう人が、何人かいた。ただ、その中でも目があってそらさずに嫌な笑みを浮かべたのは一人だけだった。産毛が逆立ち、反射で腕をさすった。もういいと思い、話を切り上げようとした。正確には切り上げられたのだけど、その時の石村さんの言葉は概ね正しかった。やっぱり、クラスメイトを巻き込むのは間違っている。本当に申し訳なく思う。謝罪とお礼を口にしたが、自分の言葉の薄っぺらさに泣きたくなった。

 

 だから、放課後、亜弓にも頼らず自分でなんとかしようとして、結論としてなんとかなんてとてもできず、挙げ句の果てに同性に襲われそうになっている時に現れた石村さんに、これ以上ないほど驚いたのだ。

 

 彼女は私が巻き込んだ人選の意味を正しく理解していたし、ほとんど内容などなかった会話からほぼ正解を導いていた。探偵みたいだと思いながら、石村さんの話を聞いていると、体にのしかかっていた重みが消えた。

 土井さんが、狙いを私から石村さんに変えていた。

 いつの間にか握られていたナイフに、頭が真っ白になる。自分が刺されていたかもしれない恐怖と、自分のせいで刺されてしまうかもしれない恐怖。勝ったのは前者で、私は声を上げることもしない。最終的な被害は石村さんの髪の毛だけで済んだけど、そういう話でもない。

 ああもう。どうして、私はこんなんなんだ。全部終わって、罪悪感で顔が歪んだ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 証拠を押さえるから一部始終を撮影しておいてほしい。石村さんから頼まれたのはそれだけだった。あと、もういいと言うまでは出てくるなとも。

 もちろん、俺は食い下がった。危ないことはしないに限るし、逆上でもされようものなら何をされるかわからない。誰かに助力を求めるなり、他にも方法はある。だが、彼女は一貫してノーと答えた。

「穏便にことを運べば、同じことが起きるんですよ。相手は、ストーキング被害経験者のあなたから見ても無害そうと思われるような、巧妙で陰険な人間です。なら、有害だとわからせてやればいい。脅しでもなんでもいいんですよ、とにかく、被害者から物理的に引き剥がすんです」

 映画研究会から借りてきたビデオカメラを回しながら、石村さんの言葉を反芻する。言っていることは正しいだろう。やっていることも、被害者側から見れば正義のヒーローだ。俺としても、加害者側をかばう気などさらさらないので、間違ってるとは思わない。

 ただ、どうしようもない違和感が湧いてくるだけで。

 石村さんの髪の毛が切られたところで、我慢できなくなって飛び出した。フライングだと釘を刺されたが、それより証拠が大事らしい。しっかり一部始終収めていることを伝え、やはりここまで粘る必要はなかったんじゃないかと思いオブラートに包んで伝えると、これでようやく最低限だと言わんばかりに首を横に振る。

「弱いでしょう。現に、彼女は同性からのストーカー被害を訴えて一度棄却されてます」

 馬乗りになって、制服を引き剥がそうとし、奇怪な言葉で威嚇し、ナイフを振り回し、髪を切る。これでようやく証拠になるのかと思うと、頭が痛い話だ。正直、身に覚えのある案件なので、石村さんの言い分が正しいということは身をもって知っている。

 ストーカーという犯罪は扱いづらい。だから、それ以上の被害が出てようやくあるべき場所に突き出せる。俺は男だからそれでも仕方ないと思えたが、柊さんの場合は加害者が同性ということであしらわれた。誰に相談したのかはさておき、生きづらい世の中だ。大人になったらなんとかしようと思う。

 とりあえず、今の俺に出来ることは柊さんにジャージを掛けてあげることくらいだった。

「とりあえず、警察呼ぼう」

「いえ、呼ぶのはストーカー女のご両親にしましょう。ビデオをご覧いただいて、身の振り方を考えていただきます」

「は……?」

 土井さんの呆然とした声が虚しく響く。ベクトルは違うが、俺も柊さんも同じ心境だろう。彼女は、一体何を言っているんだろう。

「なに、いってるのよ」

「あなたこそ、何を言ってるんですか? 一番悪くて保護観察処分で済ませそうな警察なんかに、突き出すはずがないでしょう。凶悪犯罪者でもないあなたを、少年院にぶち込んでくれるとも思えません。なので、お父様お母様に軟禁してもらおうかなと。娘の犯罪の証拠をチラつかせて、彼女に二度と接触させないよう言質をとって、念書を書かせて、あなたが二度と犯罪に走らない抑止力になってほしいんですよ。前科前歴つかない代わりに、見張るだけ。ありがたい話だと思いませんか? 身内の犯罪を黙秘してくれるっていうんですから。ああ、もちろん、これは私個人の提案なので、最終決定は被害者本人に委ねます」

 突然、白羽の矢が立った柊さんは、十秒ほど考え込んで、「あなたを、あなたの親に突き出します」と答えた。その目はもう土井さんを見ておらず、早く消えてほしいという胸の内が見て取れる。当然だな、と思いつつも、やっぱり俺には違和感が募っていく。

 柊さんの言葉に噛み付いてきたのは土井さんだった。なんで、なんでと意味をなさない声はとても自己中心的だ。まあ、ストーカーは総じてそういうものなので驚きもしないし今更呆れもしない。ただただ被害者である彼女に同情するだけだ。

 今回のことがトラウマにならなければいいがと願うが、冷静な自分がどうやったらこれでトラウマにならないんだよと突っ込む。せめて、と、自分の身体を二人の間に割って入れるが、あまり意味もなさそうだ。

 土井さんはありがたくもない愛情を、口から憎悪とともに吐いている。柊さんは耐えきれずに耳を塞いで俯いた。

「ぐちゃぐちゃうっせぇぞ。この犯罪女」

 そして石村さんはキレた。あれっ空耳かな。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 大して可愛くもない女が国宝級に可愛い美少女を圧倒的理不尽で困らせているってだけでぶっころ案件だというのに、このストーカーブス、あまりにも自覚が足りない。こんなに好きなのになんで分かってくれないのよってヤンデレやめろ。需要ないんだよ。まず向こうはお前のこと好きじゃねえんだよ、察しろよ。

 ああー、わかんないかー。無理だよねー。だからストーカーこじらせたんだもんねーーーーーー。もういっそ死ねば? その方が肥やしになるし自然環境にも優しいわ。今世とアディオスしろ。

「お前の気持ちなんてこれっぽっちも聞いてねえんだよ。ほら、わかるだろ? お前も、彼女の気持ちスッパリ無視してたもんな? 一緒一緒! ポジティブに考えろ? お互いがお互いを無視! ある意味以心伝心、相思相愛だぞ? 喜べよ、平和じゃねぇか。あとはお前が消えれば万々歳、円満解決だ。……不満そうな顔すんじゃねえよ。こっちはお前の親に加えて警察に保護観察処分頼むだけの物的証拠は持ってんだよ。ほら、将来潰したくねぇだろ? 優しさだよ、やーさーしーさー!」

「お、脅しの間違いでしょ!」

「文句言える立場だと思ってんのか? 頭悪いなー。まあ、頭いいやつストーキングとかしねぇか」

 これ以上はラチがあかないので、物理的に黙らせた。こう、腹に一発ドスッとね。一瞬で沈んだストーカーブス、静まり返る現場。フゥー! 推しと美少女にすごい目で見られてる! 穴が開きそう。っていうか推しと美少女の並びヤバ……たぶん日本掌握できるわやばい……写真一枚いいですか……?

「……どうするんだ?」

「あー……。保健室連れてって、親に連絡してもらって、迎え呼んで、その場か日を改めてかで話し合い、かな」

 今更敬語で猫かぶってもまるで意味がないので素で返す。ドスッとしたあたり一ミリも突っ込まれないので、この降谷零という男、高校生の時からそういうバイオレンスでアグレッシブなマッスル偏重資質があるのかもしれない。物騒な男子高校生だな……、私も物騒な女子高校生だけど。

 なんて説明するんだとジト目で聞かれた気がするので、先生にはジャレてたら教室で頭を打ったことにして、迎えの親が来たら言いにくいので場所を変えてって感じかな。と付け足す。今日中に終わらせた方が美少女の心の平穏のためになるんだろうけど、そう上手く進むとの限らないのがなぁ。まず、親が来るとも限らないし。

 それならいっそ、ストーカーブスを証拠と一緒に送り届けてもいいんだけど、でも加害者宅行きたくないに決まってるよなぁ。全然関係ないけど推しのジト目めっちゃ可愛いね、興奮するな、ビークールビークール。

「私は、今日、終わってほしい」

「そっか。それなら、保健室で話し合いだね」

「ごめんなさい」

「えっ?」

 緊張の糸が切れたのか、ごめんなさい、ごめんなさい、と美少女がうつむきながら繰り返す。顔は見えないがぽたぽた雫が垂れているので泣いているのは確定だ。そして肩から掛けられたジャージを力一杯握りしめている。クソほど空気を読まないので心がぴょんぴょんしてくるが、ゴミ屑ではないのでお口にチャックで黙った。

 大丈夫だよ、もう終わるから、と優しく声をかける推しの彼氏力やばい。えっ、あそこ付き合わないかな。永遠に推す。

 バカみたいな思考に走っていたが、美少女は泣き止むどころかさらにボロボロ泣いて、迷惑かけた、私が悪い、一人で何にもできないと自己嫌悪で死にかけている。好みの美少女が自己否定を繰り返して泣いてる様は、はっきり言って精神的にキツイ以外のなにものでもない。

 可愛いって罪なんだなぁ。隣で寄り添う推しもかなりの大罪人だし、美しさが人を惑わす力はえげつないと再認識した。そりゃ傾国の美姫とかいう言葉も生まれるわ。しかしジャージの下で服を半分くらいひん剥かれているので男の自分が触るのはまずいよなぁって感じで手持ち無沙汰(推定)な推しぐう聖人。

「あなたの悪いところは、自信がないところだね。信じてもらえないかも、自分にも非があるかも。そんな風に考えるから、それが態度に出て、ストーカー被害もまともに受け取ってもらえなかったんじゃないの? 慎ましさは美徳だけど、あなた、外見で美しさはカンストしてるんだから、内面はもう少しズボラでいいと思うよ。もう少しワガママになったら?」

 そして私は聖人とはほど遠い人間だし、いい機会だと思ったので人格矯正的な指導を入れておこうと思う。もう少し言いようはなかったのかと思う文面だが、自己評価が低いこと以外悪いところがないから困る。いや、人間素晴らしすぎてもダメなんだなって今思ったわ。もう少し彼女は高慢ちきくらいでいいと思います。ど性癖です。

 それじゃあ降谷くん、あとよろしくね。それだけ言い残して、ストーカーブスを俵担ぎしながら保健室に向かう。あわよくばこのままいい感じの空気になってくれないかなっていう千パーセント下心だ。

 実は……みたいな報告、明日の朝してくれないかな。えっやばいめっちゃ期待。心の中では全裸待機。




もちろんそんな報告はない。

柊叶恵(美少女)
室瀬亜弓(魅惑のボディー)

土井桜(ストーカー女)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ごめんで済んだら警察は要らねえ

 クラスメイトが早々に一人減った新学期。ストーカーブスが所属していたおとなしめのグループは少しだけ思うところがあったようだが、概ね教室に流れる空気は何も変わっていない。

 そう、何も変わっていない。残念なことに推しと美少女からお付き合い始めました報告はなかった。ストーカーダイソンの組み合わせなので実は隠れて付き合ってるのでは……? と淡い期待を抱いて性懲りもなくチラチラ眺めたりしていたのだが、密かに見つめ合っているとか、放課後に逢瀬を重ねているとか、ナイスバディが昼を一人で取るようになったとか、そういう感じのことは一切ないので私の願望は叶わなかったようだ。悲しい。

 でも美少女は目が合うと手を振ってくれるし、ナイスバディも微笑みかけてくれるようになったのでストーカーブスを追い払っただけの報酬は得た。眼福で死ねる。ありがとうくそ女。二度とツラ見せるなよ。お前のおかげで私は首元スッキリレベルのショートカットヘアーだ。ここまでの短髪は初めてなので違和感がすごい。でも髪の毛洗うのめっちゃ楽でいい。寝癖はひどい。

 ナイスバディには、追い出し会(意味深)の翌日に自分がいる範囲でのことを全て話した。訂正、話させられた。豊満ボディの圧力やばくて秒で屈した。ひえっこれがハニートラップ……。

 まあ、事の顛末とストーカーブスの末路ぐらいのもんだ。私より先にご友人から直接聞いてたんだろう、なんなら向こうの方が詳しいようだった。あまり掘り下げて気持ちのいいものでもないだろうし、私から何か聞いたわけではないが。

 あとは、結局なんで手を貸してくれたのかをしつこく聞かれた。ええー、そこ聞いちゃう? あんだけ拒否ってたくせにお前なんなん? みたいなこと聞いちゃう? あっ答えるんでおっぱい突き出して迫ってくるのやめてください即堕ちふたコマ。

「好みの美少女が困ってたのでやっぱ助けよっかなって。あっ、あなたもステキなわがままボディで好きです」

 言えるかバカタレ! 流石の私も言えねえわ。常識と理性と分別くらいはささやかながら装備されてんだぞバカ。ぶっ飛んでる自覚はあるけどかっ飛ばしていい時と悪い時ぐらいわかるわタコ。

 無難に「気が変わったので」と答えておいたが「まあ、そういうことにしておくわ」と返されたのでナイスバディに筒抜けなのでは? と疑心暗鬼がやばい。えっ、このナイスバディ自分のエロさ正しく理解しすぎ……? であれば是非ともご友人にも美貌を正しく理解するよう指導してほしい。笑顔が眩しくて好きになってしまう。はあーーー、推す。私の短髪は気に入ったし気にしなくていいのよ。

 因みにナイスバディが当日いなかったのは美少女がうまく誘導して先に帰したからだったらしい。巻き込みたくなかったのと俯いていた。うっわまつ毛の存在感。長さと量に恐れおののいていると、はっとしたように顔を上げ、で、でも一人だと危ないし! 次は一緒に危ないことしてもらおうかなって! と、とんでもない宣言をした。色々考えた結果、人に頼ることを覚えたとポジティブに解釈しよう。

 根が素直な天使が頑張ってわがまま言うとかシチュエーション的に最の高すぎて全私が死んだ。神はここにいるぞ……どちゃしこ……。

 

 先日、そんなやりとりをして確実に一度天に召された私の魂なのだが、残念ながら清らかになって帰ってくるわけでもなく、私のメンタリティはドス汚れたままである。そんな私の精神を許さんとばかりに睨みつけてくるのは悲しきかな、推しである。

「ああ、石村。おはよう」

「……おはようございます」

 圧が強えんだよ……。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 警察官的な一面が見れるかなーと思って呑気に手を貸したら、悪魔的な一面を垣間見てしまった先日。恐ろしいほどの論理武装と物的証拠で精神的に殴りかかり、翌日にはくだんのストーカーは学校から消えていた。

 消した張本人は呑気に授業中に欠伸をしたりして、平時とさほど変わらない。普通に怖い。えっ、俺の隣にいるのはその手のプロかなんか? 警察官志望と聞いていたけど、ヤのつく自由業の方が向いているのではと素直に思う。キレた時に唐突に口が悪くなるところとか。おっかなすぎる。

 恐々としながら努めていつも通りに「おはよう」と挨拶したら、「おはようございます」とこれまた平時とさほど変わらない返事をいただいた。えっこわい。あいも変わらず視線は合わないけどあんなもの見せておいて丁寧な挨拶とかただのホラーでは?

 ちなみに、共犯では? ってレベルの共同作業をしたのだからあわよくば打ち解けられるのではないかと期待したのだがそんなことは全くなかった。切ない。

「ああ、石村、おはよう」

 なので、もう色々あった後なんだし砕けていこうぜって感じで、丁寧な対応をやめてみた。同学年の女子(親しいわけではない)を呼び捨てにするのはどうかとちょっとだけ悩んだが、なるようになれだ。

 返ってきた返事はいつも通り丁寧な挨拶だったので、普通にしくじったなと心の中で泣いた。けどもう言ってしまったことは引っ込まないので諦めることにする。無茶が通れば道理が引っ込むのだ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 推しが謎の圧力かけてわたしのせいしんをころころしにきてる。

 

 唐突に呼び捨て、唐突に話し言葉が雑。いや、思い返すとストーカー撃退にそそのかした時すでにちょっと口が悪かったな? まあ未来のトリプルフェイスがすでに口調不安定でもまったく違和感ないのでスルーしてたが、あれだな、興が乗ったら化けの皮剥がれるタイプだな。大人になるまでにそのくせ直せよ……冗談抜きで死ぬぞ。まあ殺しても死なないタイプでもありそうなので大丈夫そうでもあるが。どっちだよ。

 前フリ無しの推しの対応変更に戸惑いながらも返事をした私はけっこう偉いのではと思っている。反射で猫被ったのは仕方ない。だって圧力怖かったんだよ、明らかにストーカー対策にキレている。

 私がしたことと言えば、被害者に実害被らせて、それをビデオカメラに収め、その証拠を使って加害者を脅し、加害者家族に軟禁を迫った。

 はい、完全にアウトです。もう誰がどう考えてもやり口が犯罪者。警察官になりたいとは。あっしかも共犯に未来の公安のエース選んでるわこれはころころされてしまう。

 ふええしょうがないじゃんだって私クラスメイトのこと全く知らないから口固そうでストーカー被害に理解ありそうな知人が一人しかいなかったんだもん。おかげで美少女は今日も平和に生きてるわけだし、セーフでは? セーフでは?? ダウトですねわかります。

 危ないからもう推しには極力関わらんとこうと思いました。まあ、うん年後には眺める権利を得るからさ……それまで我慢しような……。

 とか思ってた時期が一瞬だけありました。マジで一瞬だから流石の私も脳みその処理が追いつかないね? でも推しがグイグイくるんですよね? ちょっと私もなにが起きてるのかわかんなぁい??

 若干ょぅじょ風に言っても事態は好転しないどころか悪化した。休み時間に話しかけられるし、授業中にも支障ない範囲で話しかけられるし、挙げ句の果てにはお昼ご飯誘われた。

 さすがに無理。ようやく鼓膜が耐性ついてきて声で死なないようになったばっかりだというのにお昼のお誘いは無理。でも我ながら、「お昼一緒に食べない?」「えっやだ」の返しはないと思う。テンパってたから許してほしい。悪気はないんだよ……なんなら推しからの悪意を感じる……。この間感じた背中の粟立ちを思い出す……。

「調子乗んなよ! ブス!」

「……Oh」

 なるほどな、要するに二秒の逡巡のフラグ回収はまだしていなかったということか。と、洋式便座に腰掛けながら一人で頷いた。あと推しからの悪意じゃなかったわごめん。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 結論だけ言ってしまえば、降谷零ファンクラブの誰かに目をつけられたということだろう。夏休み明けに嫌な感じがあったことを考えると、ショッピングモールの件を目撃したと推察できる。たぶんクラスメイトに。でないと、降谷零にゴリゴリ押されるようになったこのタイミングバッチリに水ぶっかけられる説明がつかない。学校内の誰かなら、もう少し犯行までタイムラグがあると思う。

 クライスメイトどんだけ同じ日に同じ商業施設利用してんだよ、他に遊びに行くところねえのか。特大ブーメランが飛んできそうだが、私はお姉ちゃんの荷物持ちに駆り出されただけなのでノーカンです。自主的なものではない。

 着火剤になったのはほぼ確実に私の「えっやだ(食い気味の引き気味)」だと思うが、私全然悪くなくない? 圧倒的被害者で草。テンプレみたいな暴言と水バジャーとか可哀想すぎて爆笑。調子乗んなよブスとかマジで言う奴いるの? お堅い進学校()だと信じていたのに勘弁してくれ笑い殺す気かよ腹筋割れる。

 あとブスじゃねえからうすしお味の顔だ覚えとけ。可能性の塊だ、伸び代しかねえんだよ、私は私の顔好きだからなクソが。

 

 延々トイレでゲラゲラ笑っているわけにもいかないので、さっさと用を足して教室に戻る。パンツが濡れて脱ぎにくいし履きにくいのが非常にクソ。それはもう盛大にぶっかけてくれやがったので歩いたところが濡れる濡れる。昼休みの廊下には当然、生徒も先生もいるのでめっちゃ見られるしヒソヒソされる。

 ええ……、先生、生徒が水浸しで廊下を闊歩してるんだからもうちょっと心配してよ……。生徒と一緒にモーゼごっこに参加しないでよ……。つらたん。

 廊下をビッシャビシャに濡らしながら教室に帰ると、昼休みだというのに降谷零がいらっしゃった。おおう、珍しいな。私がいるところからだと顔は見えないが、その代わりに彼を囲んでいる女子たちの顔はよく見えた。すっげえ顔してる。

 なるほど、お前が犯人かよくわかった。

 お前にブスと言われた私のメンタルはたった今ボロボロになったので必ず報復する。覚えてなくていいぞ、忘れたころに精神ぶちころがしてやる。

 

 あいつにどうやってやり返してやろうかなと、ロッカーからジャージを引きずり出しながら考えていると、「石村!」と担任が叫びながら教室に飛び込んできた。前方扉から入ってきたので、ロッカー付近の教室後方で私をジロジロ眺めていたクラスメイトの視線も、そもそも私の存在を認識してない前方の視線も、一斉にそちらを向く。

 担任は向けられた視線には怯みもせずに二、三度首を左右に振ったかと思うと思いっきり私の方を向いて首を固定させた。入学二日目に怒鳴りつけられたことを思い出す。ろくなことを言われないのを確信した。

 私の直感通り、担任はずかずか歩み寄ってきたと思ったら眉毛をキッと吊り上げて「お前、何してるんだ!」と、どうポジティブに解釈しても私をなじる罵声。それだけならまだしも両肩を結構な握力を込めて揺すられる。

 お前こそ何してんだ、こちとらぱっと見いじめの被害者やぞ。むしろされた方だろそんなことも分からないんですかー?? お前今度こそ私が言うまでもなく体罰教師のレッテル貼られんぞ。知らんからな。

「お言葉ですが先生。ご自分の目の前の状態を正しく認識した上で、私が、何かをした、と本気で思っているのなら、脳みその検査をオススメしますよ。たぶん異常が見つかりますので」

 それでも相手への思いやり(笑うところ)を忘れない私はなかなか慈愛に満ちていると思う。はあー! 優しい! 私は優しい!! 別に体温下がって寒くなってきたから早々に着替えてサボって帰りたいとか思ってない!! せめて弁当だけでも食べて帰る。サボりじゃないです、早退です。このままだと風邪をひいてしまうので。

 いかん、本当に寒い。先生退いてくれ。指に力込めなくていいからさっさと退け。

 しかし、今更だけど本当にこの担任教師、わりかしマジで頭に障害でもあるのでは? あまりある単細胞っぷりには心の底から前世がザリガニがなんかかな? と首を傾げてしまう。人間初見プレイならいたしかたない。私は人生二度目だからその辺の判定甘めにしてあげられるが、今までの初見殺しはいったいどう対応してきたのだろう。謎である。

 しかし、初めての人間の生はきっと難しいのだろう。しょうがないから許してあげるよ、だからさっさと手を離せ。寒いんじゃ。

「お、まえ!」

「いた……」

「石村さん! どうしたの!」

「ずぶ濡れじゃない。早く着替えましょ」

 下手したらこいつストーカー女以上に異常者かな? と肩に食い込む指の痛みにどうしたもんかと呻いていると、都合よく教室に現れた美少女とナイスバディに助けられた。ナイスバディに至っては担任の手を払いのけるというイケメン対応までしていただいた。すき。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 両手に花状態で保健室まで連行され、あれよあれよと着替えを促される。下着類どうするかな……と悩んでいたら、保健室の先生が常備されてるパンツを貸してくれた。因みに男子のパンツは常備してないみたいなので、心の底から女で良かったと思う。いや、男だったらそもそも水ぶっかけられてねぇな……女社会こわ……。

 でも結局ブラの替えがないんだよなー。平均くらいのおっぱいしかないけど、いちおう生物学的には女なのでノーブラの上にジャージ一枚羽織るだけっていう選択肢はない。心もとなすぎる。襲われる自意識とかそういう問題ではない。ブラジャーに慣れるとノーブラで外を歩けなくなるんだよ、理由はわからんけど。

「私のでよければ使う?」

 ちょっと待っててとだけ言い残し、ナイスバディがわざわざ教室まで戻って持ってきてくれたのは、カップ付きのインナーだった。肩紐を中指と人差し指でつまみながらほぼ反射で「でか……」と呟いた私は悪くないと思う。いや、ほんと、デカイ……。これが人をダメにするパイオツ……。こうなりたいとは思わないが、その胸に顔を埋めたいとは思う。ぱふぱふは人類みんな大好きだよね。私は大好きです。

「体育の後の着替え用に持ってきてたけど、なくても問題ないし使って」

「ありがたい、ん、ですが、その」

「ブカブカだと思うけど無いよりマシでしょ?」

「あ、亜弓……」

 美少女がたしなめているが、ぐう正論。そうだ、無いより遥かにマシだ。別に自分のおっぱいにコンプレックスがあるわけでもないので、虚しくなるわけでもない。ありがたくお借りします。

 すすぎ後の脱水を忘れたような制服一式を脱ぎ捨てて、ちゃっちゃと着替える。すっかすかの胸元はジャージを羽織ってジッパーを上げてしまえば、適度に押しつぶされて胸だけ異様に浮くなんてこともなかった。よし、出歩ける格好になったぞ。帰ろう。

 先生からここで洗濯機にかけていく提案もしてもらったが、それだと乾燥まで帰れなくなるので丁重にお断りした。この格好のまま教室に帰るとか正気の沙汰ではない。無駄に犯人刺激するのも悪手だろう。何故なら、ジャージ姿で授業を受ける私の隣には降谷零がおわしますのだ。

 あの押せ押せなノリだと確実にあれやこれやと聞いてくるのは目に見えてるし、それによって犯人の脳みそがバーニングするのは自明の理。私に益がなさすぎる。しかも次、担任の授業やんけ。絶対帰る。

 しかし、悲しきかな。家に帰るには私のカバンは教室に置き去り、結局一度教室に戻ることになってしまった。取りに行ってこようかと善意だけで小首を傾げてくれる美少女の提案には、ほぼ脊髄反射でおなしゃす! と叫びそうになったが、美少女をアゴで使うなど恐れ多くて無理だった。はあ……こうやって昔の美人は国を滅ぼしたんだな……そりゃ滅びるわ……。人は本能に抗えない……。

 

 教室に戻れば始業二分前で、担任はすでに授業のスタンバイをしていた。努めて笑顔で「気分が悪いので早退します」と言おうと思ったのに、気が付けば本音がこぼれて「胸糞悪いんで早退します」と真顔で言っていた。うん、こういうとこだな。

 自覚はあるが直す気はないのでカバンだけ引ったくって教室を出る。推しがすごい何か言いたそうな顔でこっちを見ていたが、すまんな、今はそっとしておいてくれ。

 推しの視線をガンスルーし、美少女とナイスバディにありがとうと礼を言って教室を去ろうとしたら、背中がビンと張ったので、無視しても対応は間違いだったらしい。泣いていいか?

 

✳︎✳︎✳︎

 

 石村が水浸しになって教室に帰ってきたと思ったら担任に詰め寄られて柊さんと室瀬さんに拉致され戻ってきたと思ったら担任に喧嘩売って帰った。これが本日の昼休みのハイライトだ。自分で言ってて意味わからないが、現実に起こったことをまとめたらそうなったから仕方ない。

 何がどうしてそうなったって感じだが、聞ける雰囲気でもなかったし、視線で訴えかけたらガン無視されたので向こうも助力を求めているわけではないのだろう。もっとも、助けてとかそもそも言うタイプなのかどうかも謎だが。真顔で助けとか要らんけどって言われそう。

 因みに、石村を濡れ鼠にした犯人は彼女が教室に戻ってきた時俺と話していた女子の内の二人で間違いないと思う。当たり障りのない会話をしていたと思ったら、顔がとんでもなく歪んだ。残りの二人がせいぜい目を丸くして注視したくらいで済んだことを考えると、睨みつけるほどの視線を送ったのはあからさますぎる。なんで普通に戻ってきてるんだ、とか、そのぐらいの気持ちだろうか。

 彼女が一人静かに泣いて、バレないように解決するとでも期待したのかと予測すると、似合わなすぎて少し笑った。確実にやり返すタイプだからせいぜい夜道に気をつけた方がいい。もちろん言ってやらないが。

 

 目下一番の問題は、彼女が被害に遭ったのが十中八九俺のせいだということだ。昔から異性から、場合によっては同性であっても、そういう類の感情を向けられることが多かった。いい意味で済むなら俺も全く気にしないのだが、こんな感じで悪い意味に転がることも残念ながら少なくない。ストーカーとかその代表だ。

 そういった経験則から、高校では当たり障りなく過ごそうと思っていたのだが、どうやら自分は浮かれていたらしい。いや、らしいじゃないな、浮かれていた。

 警察官になりたくて、クラスから浮いていて、身近な人のために率先して動ける。いささか過剰な面が気になるが、自分だってそれなりに手が早いのでやはりそういうところを含めて親近感がわく。親近感がわいた結果がこれなので、そろそろ俺も悲しくなってくる。仲良くなろうと思ったらコレ。俺が何をしたというんだ。いや、被害者は俺じゃないんだけど。

 ……あれ、これますます嫌われる流れじゃないか? は? ふざけんなよ、勘弁してくれ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

8月9日

クラスの暗い女が降谷くんとショッピングモールで話してた。ムカつく。

話しかけてもらってるのに、なに、あの顔。ぶっさいく。さっさと消えろよ。

 

9月2日

降谷くんがぶさいくに話しかけてる。優しいなぁ。でもあの女、振り向きもしない。ふざけんな。腹立つ。

昼休みには柊さんと室瀬さんにも話しかけられてたのに、また最悪な態度。自分の顔、鏡で見て来たら?

9月3日

お昼に誘われてるのに、断るとか、意味不明。ムカついたから、佐江も呼んでトイレで水ぶっかけてやったのに、平然と教室に帰ってきたし。なんであんなに偉そうなの、ムカつく。

9月4日

今日はあの女が休んだ。快適。永遠に学校に来なければいいのに。あいつも転校しないかなぁ。帰りは佐江とクレープ食べに行った。プリクラ撮ったりカラオケ行ったり、ひさびさに楽しくて、気分がいい。

9月5日

佐江が休んだ。昨日は元気そうだったのに。大丈夫かな。メールも返事がないから、ずいぶん具合が悪いのかもしれない。あいつは学校来てるし、普通にしてるの見ると、イライラしてたまらない。腹いせにノートを隠した。少しスッキリしたけど、ちっとも気にしてないのを見てやっぱりイラついた。

 

9月6日

佐江の家にお見舞いに行ったら、佐江のママから昨日からずっと寝込んでて部屋から出てこないと聞いた。果物のゼリーだけ置いて家に帰った。もう1回メールだけしておこう。

9月7日

メールの返事がきた。ゼリー食べてくれたみたいで嬉しい。休んだ分のノート見せてほしいと言われたので、明日はちょっと荷物が増えそう。

 

9月8日

学校には来たけど、佐江の顔色がすごく悪い。なんで休まなかったのか聞くと、私のためだという。そりゃ、佐江が居てくれた方が嬉しいけど、無理してほしいわけじゃない。明日は休みなよと言うと、絶対ダメだと泣いた。どうしちゃったの?

9月9日

すっかり忘れてた。休みの日のノートを見せる約束。ロッカーから何冊か持ってきた時に、前に隠したあの女のノートが混ざってた。まあ、佐江だし見られても大丈夫でしょ、と思ってたのに、ノートを見て返さないとダメだよって。なんで佐江まであの女の肩持つのよ。気に入らない。

9月10日

ノートは結局、佐江が勝手に返してしまった。ああ、どうも。とか、無くなっても気になってないなら隠したままでもよかったんじゃないの? ウザい。次は制服隠してやろうかな。

9月11日

ちょうど体育がある日だったので、制服を隠してやった。ざまあみろ。笑ってやりたいのにちっとも困った顔しないからだ。制服が見当たらず、周りを見回してるあいつにまた柊さんと室瀬さんが声をかけてる。本当にムカつく。何故かこっちをジッと見ていたけど、証拠もないだろうし無視した。ただ、佐江が後ろで吐いた。

9月12日

佐江がまた休んだ。メールをしても返事がない。昼休みになって、ようやくメールが来たけど、中身は返事じゃなかった。あいつに制服返せって、それだけ。無視してたら、下校時刻に電話がかかって来た。

 

「お願いだから、石村さんに制服返して!」

「な、なによ。佐江、どうしちゃったわけ?」

「どうしちゃったじゃないよ! 早苗こそ、自分がやってることおかしいと思わないの?!」

 一方的に責められて、カチンときた。なに、その、私だけが悪いみたいな言い方。そりゃあ、私が誘ったから悪いのは私かもしれないけど、早苗だって共犯だ。「私だけじゃないでしょ!」思わず反射で怒鳴ってしまい、電話の向こうの早苗が黙った。嫌な静かさがあって、耐えられなくなったのは私だった。

 ごめん、言い過ぎた。でも結局、それに続く言葉も思いつかなくてまた黙る。電話の向こうで、佐江は泣いてるみたいだった。なんで? なんで泣いてるの? 佐江が泣く意味がわからなくて、でも何を言えばいいのかわからない。電話を切ることもできずに、固まっていると、佐江が口を開いた。

「謝る相手、私じゃ、ないでしょ……!」

「え」

「はい、時間切れでーす。あなたのご友人、最低のクズでしたね、わかってたけど」

 右手からケータイをかすめ取られて、佐江に意味不明なことを言って、電話を切ったのは石村晴美だった。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 性差はないと思うけど、一定数、自分だけじゃないって心理からメンタル強くなる人間っていうのはいると思う。その最たるものが集団心理なのだと思うが、要するに、味方がいれば心強いって話だ。

 良くも悪くも、連れという存在が個を強くすることがある。で、そういう奴は、連れのいうことならって話を聞く場合がある。私は濡れ鼠事件の主犯と仲間をそういう関係では、と推察した。

 実際、二人はとても仲が良かった。下校中に食べ歩き、ゲーセン寄ってプリクラ撮って、カラオケ。女子高生の間の儚い友情かもしれないけど、私の目には親密に映った。なので、言っても聞かなそうな主犯ではなく、連れにお願いをしたのだ。

「私に余計なことしないでください。何もしないでくれたら、私も何もしません。ただ、何かしてくるなら、私は手っ取り早い手段が好きなので相応の報いを向けて理解してもらうことにします」

 連れは最初はしらばっくれていたが、調子乗んなよブスって叫んでた声、カラオケでシャウトしてたお友達の声とよく似てましたね、と微笑んだら顔が真っ青になって分かったから時間をくれと言った。

 既に勘付かれていることと帰り道つけられていたことを正しく理解したようで、それなりの知能を持っていることに感謝する。因みにこの時、場所は連れのご自宅の前だったので、逃げることは可能だが、一番安心する逃げ場が割れているので逃走も問題を先延ばしにする程度の効果しかない。なるほど、バカではないね。さすが進学校。

 もちろん、私は気は短いが心は広いので時間をあげることにした。来週いっぱい、金曜日の下校時間までに、謝罪と二度としない旨を直接私に言ってくれれば全部なかったことにする。出来なかった場合、自主性を無視して同様のことを強いるのでよくよく注意してほしい。もちろん、今日ここで私と話した内容は秘密にした上で。

 私にとって何より大切なのは再犯がないことなので、この脅しのようなやり取りを理解した上で謝罪されても意味がないのだ。

「簡単でしょう? あなたが、他人を濡れ鼠にした暴行罪を悔いて、共に謝罪をしようと促すだけでいいんですよ」

「早苗は、私のいうことなんか、きかない……」

「聞かなかったらあなたのご友人が頷くまで物理的に説得するだけなので、まあ私はそれでもいいですよ。心に傷を負う程度でしょう」

 死にはしませんよ、死にたくなるかもしれませんけど、と笑ったら、連れは玄関先でへたり込んでしまった。放っておいても家族が見つけてくれるだろうと判断して、その日は帰った。

 そして翌日、連れは学校を休み、主犯は懲りることなく私のノートをくすねた。どういう結末を迎えるにせよ、あと一週間で終わると思えば許せた。まあ謝罪はしないだろうなーとほとんど確信していたので、どうやってやり返してやろうかとウキウキしながら一週間を過ごし、そして、今日がその日だ。

 

「いやー、期限ギリギリで制服盗むとか、自分から首絞めるから、本当に頭悪いんですね。ご友人が泣いてましたよ?」

 この一週間の流れを説明してやれば、主犯もバカではないらしく、連れの態度も相まって、異様なまでに大人しくなった。人目につくと面倒なので、個室トイレに押し込む。

「まあ、そのご友人も結局はっきり話を切り出せなくて逃げてるんですけど。あんまり仲良くなかったんですかね?」

「佐江は悪くないでしょ……!」

「あら、驚いた。自分に責任の大半がある自覚はあったんですね。その点だけは褒めて差し上げます」

「私にどうしろっていうのよ」

「別に、どうも。というか、あなたが何もしなければ私は何もしませんよ。要するに、黙ってろよクソッタレってことです」

「だったらあんたも、降谷くんにからむの、やめなさいよね! ブスの分際で!」

「ブスにブスって言われると死ぬほど傷つくんでやめてもらえます?」

 ていうか、絡んできてるの向こうなんだけど、こいつの目は腐ってるのか? 私悪くなくない? いやまあ確かにお昼誘われて引き気味にやだって答えたのは、今でも私が悪かったかなとは思ってるけど。でも誘いに乗ったら色々耐えきれずに私死ぬやん? なら断るしかないじゃん?

 推しを前にして声だけで鼻血の心配しなくていいレベルまで進化したことを誰でもいいから褒めてほしい。私としては快挙なんだが?

「あなたはすごーい、ブスですね。内面の話です。ブスっていう自覚がないところが、ブス通り越して汚泥みたい。意味のない嫉妬して、八つ当たりして。ご友人巻き込んで、反省もしない。悪あがきで根拠のない罵声飛ばして、相手を責めるボキャブラリーがブスしかない。惨めな貧相な、心の中」

「ふ、ざけ」

「ああ、うるせえなぁ。ちょっと黙れよ。お前の話を聞く時間じゃねえんだよ。お前が、私に謝罪したくなるよう手を貸してやる時間なの。人に水を引っ掛ける暴行罪、人のものを盗む窃盗罪。お前の罪を自覚して、私に謝罪をして、二度としないから許してくれって泣きへつらう時間なんだよ。わからねえなら、同じことしてわからせてやったっていいんだが?」

「お、同じことしたら、あんたも犯罪者でしょ……!」

「そうだな、どっちも親告罪じゃないから、お前が被害届を出したら私も立派な犯罪者だ。さて、この意味わかるか?」

「ひっ……」

 うーん、バカではないって素晴らしいね。そうだよそうだよ。被害届を出したら立件されて犯罪者になるんだよ。

 私も、お前もな。

「私が濡れ鼠になった時、何人私の姿を見たかわかるか? お前がここで濡れ鼠になっても、誰も見てないよな。私のノートを盗んだ時、ご友人にそれを見せたな? お前のノートはまだ盗んでないけど、くすねて燃やせば何にも残らない。私の制服を盗んだことも、ご友人は承知だろ? 今すぐ制服を剥いで、焼却炉にぶち込んでもいいよな、楽しそうだ」

「や、やめて」

 恐怖に耐えきれず、ボロボロと両目から大粒の涙が溢れでる。許してほしい、反省してる。目は口ほどに物を言うが、なるほど、確かに声に出した謝罪以上に自分がしてしまったことに対する意識は感じる。

 が、感じるだけだ。自責の念を感じたからといって、私が許してやる道理もなければ義務も義理もない。私は連れに対して、はっきりとその旨を先日伝えてあるし、この主犯だってそれを正しく理解したはずだ。何もしなければ、私は何もしない。

「なんでだよ? お前、私に同じことしただろ?」

 ただ、手を出してくるなら、同じく手を出してわからせてやるまでだ。

 常々思ってはいるのだ。ごめんで済んだら警察いらないってやつ、あれは非常に正しい。そんな、その場しのぎで取り繕ってしまえる言葉なんかで許しを与えてしまうから、こういう馬鹿がつけあがる。

 目には目を、歯には歯を。暴力には暴力を。わからないなら二倍三倍百倍千倍返しだ。

 心底、なんでやめないといけないのかわからないといった表情をして、らしくもなく首を傾げてみる。恐怖による反射で泣いていただけだった顔が、理解してもらえないと悟った困惑に引きずられて歪み、どうしたらいいのかわからない戸惑いに誘われるままワンワンと泣く。まるで子供だ。

 ごめんなさい、私が悪かったです、許してください、もうしません。ありきたりな、その分他意のない懺悔の言葉を精一杯並べて許しを請う。何度でも言うが、だからといって私が許してやる道理はない。

 道理はないが、まあ、自分で言ったことだし、泣きへつらった不細工な顔をいつまでも見たくないし、もういいか。飽きた。

「罪状は複数ありますが、初犯なのでまあ許して差し上げます。ただ、ご自分の発言には責任を持ってくださいね? あなたは今、『二度としないから許してくれ』と言ったんです。それを、お忘れなきよう」

「は、い、ごめ、なさ……」

「で、私の制服どこです?」

 保健室に予備の制服あるとか全く知らんかったので、隠し場所のセンスには正直、拍手喝采を送ってもいいと思った。




山野早苗(主犯)
飯田佐江(連れ)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ここをどこだと思ってるんだ?! 米花町だぞ?!!

 

 ノートは取り返したし制服も返ってきたし、言うことなしですわー。とせせら笑っていた土曜日。私はとても機嫌が良かった。お姉ちゃんも機嫌が良かった。みっちゃんは一番機嫌が良かった。なぜなら今日は、みんなで夏休みに果たせなかったパンケーキを食べるという使命のもとショッピングモールにやってきているからだ。

 正直言ってパンケーキはもうどうでもいいし、ここには二度と来たくないという本音があったのだが、みっちゃんに来てくれないの? とおねだりされて断る私ではない。行くに決まってるだろ、はるちゃん張り切っちゃう。

 もっとも、一番張り切らなくてはならないのはお姉ちゃんのお財布なんだけど。人の金で食う食べ物は美味い。しかし、その辺りは私もみっちゃんも常識をわきまえているので、二人揃って中間の価格帯のパンケーキを頼んだ。なんにせよ美味い。

 こんな穏やかな気分で過ごす休日は久しぶりだなあと、新学期に入ってからの己の身の回りの怒涛のラッシュを思い出して震える。やだ、私の身の回り物騒すぎ……? さすがジャパニーズヨハネスブルグ、ここで人は穏やかな日常を送れないらしい。

 その証拠にほら、パンケーキ食べてる別の客がもがき苦しみながら口から泡吹いて倒れた。穏やかな休日とは? お姉ちゃんがみっちゃんの目を覆い隠しながらここには二度と来ないわ……と呻いた。

 

 誰かの悲鳴であれよあれよという間に周りはパニック。素直に帰りてえと思ったけども、誰も救急車を呼ばないし警察に連絡もしないので、バックヤードに乗り込んでさっさと通報させた。悪いが私はケータイを持ってない。スタッフのどもりがひどかったので、結局は受話器をひったくって私が通報したのだけど。

 なるほどな。ヨハネスブルグの住人とはいえ、さすがに人が目の前で泡吹いて倒れればテンパるらしい。ちなみにこんな風に言っているが、私は私で動悸がヤバイのでたぶん冷静ぶってテンパっている。あれで死んでるんだとしたら、私は初めてリアルに人が死ぬところを見たことになる。夕飯食える気がしない。

 ものの十五分ほどで救急隊とパトカーがやってきて、いよいよ現場は騒然となった。どさくさに紛れて帰ってしまいたかったが、今帰ったところで怪しまれるだけなのでやめておく。

 因みに、倒れた客はもがき苦しんではいたが死んでいなかったので、助かる可能性があるそうだ。にわか知識で店の牛乳使い尽くす勢いで飲ませ吐かせを繰り返したが、役に立ってるといい。牛乳に含まれる成分が膜貼ってなんとかかんとか、だった気がする。何で見たかは忘れたが、とにかく生きてりゃなんとかなるよたぶん。

 服を牛乳まみれにしてしまったことに関しては私も道連れなので許してほしい。可愛い服をダメにしてしまってすまない。

「なるほど……、では、あなたと食事中に被害者は急に苦しみ出したと」

「は、はい。しばらく普通に食べたり話したりしてたんですけど、き、急に……あんなことに……」

「じゃあ、アンタなら被害者に毒を盛るチャンスがあったわけだな?」

「わ、私知りません!」

 事情聴取の合間にとんでもないことぶっこむ刑事がいるなーと呑気に眺めていたら、そいつの上司っぽい恰幅のいい刑事さんが「毛利くん!」と言って問題の刑事をたしなめた。

 なるほど、これが毛利小五郎か。刑事時代からこれとは恐れ入る。一般企業だったらクレームクレームそれまたクレームで一ヶ月くらいでクビ切られそうなタイプだな。やはり身内の絡まない彼はポンコツ迷探偵……。いや、今はポンコツ刑事か。

 ともあれ、お姉ちゃんが彼に向ける視線があまりにも絶対零度で怖い。

「はる。あんた、警察官になるのはいいけど、あんな風になったら私が懲戒処分くらうレベルのクレーム入れるから、気を付けなさいよ」

「うっす」

 私が同じことをやったら社会的に死罪に処されるみたいなので、肝に命じておこう。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 警察ご一行に足止めされること二時間。ど素人なので捜査が難航しているのかどうかも分からんが、一人一人話を聞いて、ついでにざっくり荷物検査と身体検査をしてるんだとしたらこんなもんかな、とも思う。

 聞き取りが筒抜けなのは非効率だと感じるが、人の話を聞いて気付くこともあるだろうし、オープンな感じでやるのは一般的なのかもしれない。ただし米花町に限る、みたいな。

 しかも今日は土曜で、ここは人気ショッピングモール内の人気のパンケーキ屋さんだ。お昼時とは少し時間がずれているとはいえ客は多く、その分聞き取り対象も多い。

 その上、やってきた刑事は被害者の連れを躊躇なく疑い、騒ぎの最中偶然バックヤードに居たため何が起きたのか理解出来てないスタッフを怪しいと恫喝し、人命救助のため通報やら牛乳洗浄をおこなった私を犯人だろうとなじった。たった今私は紙面で読んだトンチンカン推理で指差される健全一般人たちの心境を理解したわけだが、なんなら一生知らなくてよかった。隣ではお姉ちゃんがブチ切れてる。

「はあ?! あんた、警察だかなんだか知らないけど、なんなの! うちの妹がしたのは人命救助! 感謝されこそすれ、犯人呼ばわりされるいわれはないわよ!!」

「だーかーら! 毒盛られたって知ってること自体が怪しいんだよ! 通報やら牛乳やら、高校生ができる対応じゃねーだろ! うさんくせえ!」

 それは我ながらちょっと思った。

「ふざけんな! だったらいつ、妹が毒持ったのか言ってみなさいよ、ええ? あんな顔も知らない赤の他人、いつ近寄ってどうやって怪しまれずに一服盛ったわけ?」

「それは今から鑑識が証拠を」

「証拠より論を先に持ってくるな! これ以上ふざけたこというなら出るとこ出てやるから覚悟しろよ!!」

「お姉ちゃん、落ち着いて……」

「落ち着いていられるか! 社会的に殺してやる!」

 とうとう口調がやばいところまで来たので、みっちゃんと二人掛かりでなだめる。どうどう。そんなことしたって聞く人間ではないだろうということをなんとなく理解しているので、私の心中は非常に凪いでいる。

 疑われるのはいい気分ではないが、証拠もないし実際無実なので捕まるとは一ミリも考えていない。なんならお姉ちゃんがヒートアップの結果、公務執行妨害というよく聞くしょっぴく口実のアレで捕まらないかの方が不安だ。

 そうなった場合も、店にいる人間の証言があれば無罪放免にはなるだろうが。そもそもそんな事態に陥らない方が望ましい。

 一通り聞き取りが終わり、関係ないと判断された人間からちらほら帰宅が許されていく。もちろん私は許されていない。毛利小五郎いつか刺すと胸に誓いながら、お姉ちゃんとみっちゃんは帰っていいと言われた。露骨に疑われすぎててつら。人助けなんてするもんじゃねえなこの世はクソ。

 いやでもいくら私とはいえ目の前で人が苦しんでたらね? 助けてあげようぐらいは思うんだよ?? 今困ってる私を助けてくれる奴はいねえけどな! この世はクソ。

「二人とも先帰ってていいよ。大丈夫大丈夫、犯人じゃないし普通に終わるよ」

「申し訳ない。思い出したくはないかもしれないが、倒れている時の状況を詳しく聞かせてほしいので、ご協力をお願いします」

「ほら、頭ぱっぱらぱーなのはあの人だけだよ。大丈夫だって」

「私、帰らない」

 ここに来てわがままを言い出したのはみっちゃんだった。ちょっと半泣きである。そりゃまあ自分の希望で私をパンケーキに連れてきたわけだし、気が気じゃないんだろう。ある意味、みっちゃんとしてはいつも通りな対応なわけだが、私もお姉ちゃんもいい加減こんな生き地獄みたいな現場からは可愛い妹を引き剥がしたい。

 が、みっちゃんは私が帰れない限りテコでも動かないだろう。仕方がないが、犯人を吊るし上げるしかなさそうだ。はあ、面倒くさい。

「被害者のことではないんですけど、気付いたことあるので言ってもいいですか?」

「ぜひ。なんでもいいので仰ってください」

「スタッフのお兄さん」

「えっ!あ、はい、ぼ、僕ですか?」

「そうですそうです。お兄さん、被害者が倒れた時バックヤードにいて、何が起きたのか分からなかったって言ってましたよね?」

「は、はい。と、いうか、あなたも、僕が、バックヤードにいたの、知って、ますよね?」

「ええ、はい。電話かけろ! って怒鳴り込んだの私なので」

 救急車と警察呼べ! と言ってバックヤードに乗り込んだのは間違いないので、そこはしっかり肯定する。大事なのはそこではない。

「なんで理由を聞かなかったんですか?」

「えっ」

「『何故私が警察と救急車を呼べと言った理由も聞かずに通報しようとしたんですか?』と聞いているんです」

「それ、は、あなたの、剣幕が、すごくて……」

「それでも、なんで? の一言くらい、普通出ますよね?」

「ぼ、くを、疑ってるん、ですか? 自分から、目を、そらすため、かも、しれません、けど、ひどいんじゃ、ないですか?」

「別に、そらしてませんが。私の容疑は紛れもなく冤罪なのでそらす必要もないです。あなたこそ、質問に対する答えが曖昧では?」

「僕が、犯人だって、証拠は!? あるんですか?」

「それを探すのは私の仕事じゃないですが、例えば、そうですね。被害者に食事を持ってきたのがあなたなので、一服盛る機会があったとか?」

「彼に、サーブしたのは、僕だけじゃ、ないだろ!」

「え?」

 小さく疑問の声を上げたのは女性スタッフだった。その顔は思いっきり何言ってんだこの人? と書いてあり、声につられた男性スタッフとお互い困惑の顔で見つめあう。

「な、なに?」

「あのお客様、男性なんですか?」

「あ……」

 思わず漏れた声がもはや自白のようなものだ。

「あれ? よく分かりましたね? 被害者が男性だって。綺麗にお化粧をして、髪を内側に巻いたショートボブの、ロングスカートを履いていた人を、よく男性だって気が付きましたね?」

「そ、れは」

「そもそもおかしいですね? あなたは、何が起きていたのか分からなかったと話していたのに、どうして被害者がその方だって分かったんです? フロアで悲鳴が上がっても出てこようとせず、通報が終わってもやはりバックヤードに引っ込んだままだったあなたが」

「な、なんだよ、まるで、僕が犯人みたいに……!」

「その通りです。論より証拠、簡易的な身体、荷物検査で見つからなかったとすると……肌着の中か、靴下や靴の中、ですかね? おっと、顔に出やすい人ですね。一番ありえそうな証拠だと毒の容れ物ですかね? まあ証拠はあなたが持ってるようなので、観念してお縄に頂戴してください」

 地面に四つん這いになった男性スタッフは、あいつが悪いんだ……と、刑事ドラマみたいに動機を語り出したが、興味ないので「じゃああとよろしくお願いします」と恰幅のいい刑事さんに一言断ってさっさと帰った。帰り際にようやく気付いたけどあれ目暮警部だな。いや、まだ警部じゃないかもしれないけど。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「はるちゃん、すごい! 探偵さんみたいだったね」

「いやー、私がなりたいのは警察官なんで探偵はちょっと……」

 この世界の探偵はおそらくろくな奴がいないだろうし、という台詞は飲み込む。というかそもそもホームズもろくな人間ではないので、探偵になるイコール人としてクズになるという方程式が存在する可能性すらある。もっとも、今日という日を思い返せば警察官ですらという話になるが。

「そういや、なんで男だって分かったの?」

「え? たぶん近くで見れば大体気づくと思うよ」

 苦しげなうめき声は低かったし、床に倒れた時に横に流れた髪の毛は改めて見れば露骨に顎のラインを隠していた。喉仏もがっつり出てたし、関節も骨ばっており、見れば見るほど男性だった。たぶん私でなくても近くでじっくり見れば気付けた。あれで分からないんだったら、いくらなんでも第一印象に惑わされすぎだ。

「そうなの? すごいわね。あんなクズ警察官の一員になるくらいならいっそ探偵でいいんじゃない?」

「お姉ちゃんがものすごく根に持ってる……」

「私は警察なんて信用しないわ、今日決めた」

「私もああいう人ばっかりなら、ちょっとなー……」

 たった一人の刑事の言動により、姉妹間での国家権力の信頼が地に落ちた。なるほど、だから警察官だけではないけど、そういう聖職者であることを求められる職業っていうのは日頃の行いも大事なんだなぁ。媚びへつらえとは言わないけど、さすがにさっきの態度はないわな。

「でも、はるちゃんが警察官になるなら、私ははるちゃんは信用するよ」

「みっちゃん……!」

「他の人はその人の対応で考えるね」

「そうだね、それが正しいね……」

 言外で基本方針として警察そのものを信頼しないと言っているようなもんだが、私自身も別に警察組織を信頼しているわけではないのであまり突っ込まないことにする。十年後くらいに元凶の刑事がめちゃくちゃメディア露出するようになるんだけど、二人はその時まで覚えてるかなぁ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 米花町やばい。

 今更すぎるかもしれないけど本気でやばいぞこの町。ドミネーター欲しい。犯罪係数測ってほしい。潜在犯をしょっぴいてほしい。あっでもそれだとほぼ間違いなく私がしょっぴかれるのでやっぱりドミネーターは無しで。話が逸れた。

 殺人未遂の嫌疑をかけられた翌日……、まずこの時点でやばい。昨日パンケーキ食ってたと思ったら店内で人が泡吹いて倒れたばっかりだというのに、昨日の今日でまた事件である。

 控えめに言ってやばいし、大げさに言えば海に沈めた方が治安のためだと思う。そうだここをアトランティスにしよう……。推しが日本平和にしたいって奮闘する未来は尊いけどまずは米花町を滅ぼすところから手がけた方がいいと思う、割とマジ。

 で、今日。お母さんに醤油が切れたから買ってきてほしいというささやかな願いに応えるべく、勉強の息抜きを兼ねて家から出てみたら変態がいた。どう見ても露出狂ですありがとうございません早急に死ね。しかもその露出狂は私ではなく幼気な少年少女にイチモツを披露している。よし、殺そう。

 男の子が女の子を背に隠して「あっち行けよ!」と応戦しているがそんな乱暴な言葉は変態をつけ上がらせるだけだった。私の位置から見える横顔がこの世のものとは思えないほど気色悪い。性犯罪者は本当に死ね。

「おい、おっさん」

「あれ? 君もおじさんとあそ」

「日曜日の真っ昼間から汚ねえトラウマ子供に植えつけてんじゃねえ! ぶっ殺すぞ!!!」

「ごっ……!」

 顎を粉砕してやるつもりで上段回し蹴りをぶち込んでやれば、鈍い音と声を漏らして男は沈んだ。情操教育によろしくないのでコートの前ボタンを律儀に全部止めてやる。

 警察を呼びたいが、あいにく私はケータイを持ってない。理由が底辺すぎて非常に親にねだりたくないが、そろそろケータイの購入を視野に入れるべきかもしれない。たぶん言えば買ってもらえるだろう。なんならみっちゃん持ってるしな。

 でも百十番通報用の端末とか……普通にやだ……。米花町は魔境。

「オレ、ケータイ持ってるよ」

「へ?」

「お姉さん、ケータイ持ってないんだろ? オレ、警察よべるよ。でも、オレがしゃべっても信じてもらえないと思うから、代わりに話してくれる?」

「え、あ、うん」

 なんだこの幼稚園児……と、ひっそりおののいている私をスルーして男の子は服の下からネックストラップに吊り下げられた子供用の小さいケータイを取り出す。確かそういうタイプのケータイには防犯ブザー機能付いてたと思うんだけどなーという野暮は黙っておく。非常時にそんなもん冷静に使えるやつなんてそうそういない。この子も落ち着いているように見えるけど、たぶんテンパったままなんだろう。

 恐ろしいことに電話帳に百十番が登録してあったその子のケータイから警察に通報、十分もしないうちにパトカーとお巡りさんがやってきて変態をドナドナしてくれた。

 少年少女が精神状態を確認されている横で、私は過剰防衛に説教を食らったのだけど解せぬ。お巡りさんが私の身を案じた上で話を切り出していなかったら反論してたところだ。久々に女の子扱いされたのでほだされたとかではないです。着実にゴリラの道を歩んでいるけどそれは推しのはずなのでたぶん気のせい。

「では、ご協力ありがとうございました。くれぐれも、無理はしないように!」

「かしこまりましたぁー」

「僕たち、本当にお家まで送っていかなくて大丈夫かい?」

「うん、父さんたちには電話したよ」

「そう……。日が明るいうちでも、気をつけるんだよ」

「ありがとう、おまわりさん」

「ありがとう、バイバイ」

「はい、バイバイ」

 穏やかな笑顔を浮かべて、紳士的なお巡りさんはパトカーに乗って帰っていった。確実に私ではなくお姉ちゃんやみっちゃんがエンカウントするべき人材だったなと思う。余裕で昨日の警察組織の失態()を挽回できたのに。残念。

「お姉さん、助けてくれて、ありがとう」

「ありがとう、これ、あげるね」

 ようやく喋る余裕が出来た女の子に、お礼と称した折り紙のチューリップをもらう。ええ、可愛い……。困惑する可愛さである。ロリよりおっぱい派だけど今だけロリコンになれる可愛さ。

 努めて笑顔で「ありがとう」と言って受け取ると、女の子は照れたように笑った。あー、これはいけませんね。そりゃ変態に絡まれます。心配だし家まで送ってあげようかな、いやでも親に連絡したって言ってたな……こっち来るまで待ってるか。

「お姉さん、おつかい終わったんだろ? 早くかえんなくていいの?」

「……なんでおつかいに来たって思ったの?」

「しょうゆ入った袋しか持ってないし、おサイフもケータイも持ってない人、そんなにいないよ」

 なるほど、目ざとい。なんだこいつ本当に幼稚園児か? もしかしたら発育不良の小学生の可能性が……? あったとしても、やはりこのレベルで目ざといのは恐ろしい。将来の夢はお巡りさんが探偵かなー? あははははーーーーーーーあああああああ???!!!

「新ちゃん! 蘭ちゃん!」

「あっ! 母さん!」

 こ、いつ! 工藤新一か!!?! そして女の子は毛利蘭!! やって来たおかんは藤峰有希子!! うわああああああ全員顔がいいーーーーーー目が潰れるーーーー!!! 初めて推しを生で見たときと同格のヤバさが私を襲う。網膜が受信の限界値超える。死んでしまう。

「……お母さん来たね、私は帰るよ」

「うちの子たちがお世話になりました! よければお礼がしたいんだけど」

「いや! 大女優に何かしてもらうほど立派なことはしてないんで! 結構です!」

「あら? 変装してきたんだけどおかしいわね……?」

「美人はそんなもんで隠せませんよ! それじゃあ! あ、あと少年、私がおつかいなのは正解だけどケータイは普通に持ってないよ、変な奴には気を付けて! お嬢さん、チューリップありがとうね! 部屋に飾るね!」

「バイバーイ!」

「バイバイ!」

 もはや何を口走っているのか自分でも分からないが、とりあえず逃げるのが正解なのは確定。ただでさえヤバすぎる米花町にいるというのに、あんな事件ダイソンと同じ場所にいていいわけがない。命がいくつあっても足りない。具体的に覚えてるのはほとんどなくても、彼に関わること自体がヤバいというのはいくらなんでも覚えてるし忘れられるわけがない。

 忘れられるわけがないのだが。

「……顔見てもちっともわからんかった……!」

 私が覚えてるのは二次元の話であって、今私が生きてるのは当然、三次元だ。立体だしリアルなのである。完全に間違った表現になるが、実写化してる。

 初見で降谷零を降谷零と認識できたのだって、金髪褐色CV古谷徹っていうあまりにもあまりにわかりやすい特徴があったからだ。そういや昨日の毛利小五郎と目暮警部も見ただけじゃ全然わからんかったな……。マジか……。

 

 エンカウントが死ぬほど怖いので、工藤新一の顔は忘れないようにしようと固く誓ったのだが、悲しいかな、米花町はそんなに広いわけではないので、結論として今までなら気付かずにいられただろうエンカウントに気付けるようになってしまっただけだった。公安になるまで私は死なねえぞ……!

 

✳︎✳︎✳︎

 

「石村、おはよう」

「……おはよう。ちょっと聞いていい?」

「なに?」

「死ぬほど会いたくない相手が同じ町内に住んでると仮定して、会うくらいなら死ぬってなったら、どうする?」

「……どうするって、どっちを?」

「どっちでもいいけどより現実的な答えが欲しい」

「自分が遠くに行くしかないんじゃないか?」

「デスヨネー。県外進学か……でも東都の大学出ておきたいんだよなぁ……」

「仮定の話じゃないのかよ」

「盛ったけど現実の話だね」

「……盛ったの後半?」

「流石の私も死ぬくらいなら会う腹くくるわ」

「誰だよそいつ……」

「死神だよ……」

「はあ??」

 




主が高一だと新一くんと蘭ちゃんが年長時に出会った原作と思いっきり矛盾してるけど二次創作だしセーフ。日付と曜日の矛盾があっても同じようにスルーしてください。年代以外はほぼ間違ってるぐらいの気持ちで読んでネ!

因みに普通にしゃべってるけどしゃべってるだけでまだ全然仲良くないです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

身に覚えのない恨みほど怖いものはない

 

 工藤少年との邂逅から早週間。季節はすっかり熱気が取れて、アウターが心地よい時期にモードチェンジしていた。

 その間変わったことなど特にない──わけもなく、日々自分が米花町の住人なんだなぁと痛感するばかりだ。デスアイランド米花町。怖すぎ。一番心配しているお父さんが限界突破して無言で私名義のケータイを契約してきたくらいにはやばい。

 実はパンケーキ以外の話は誰にもしていなかったのだけど、ある日とうとう変なのに巻き込まれすぎてパトカーでお家に送られた。お父さん以外にはあんた何したのって言われたので、たいがい信頼されてない。いや、ある意味信頼されてた。被害者にはならないだろうという厚い信頼だった。オーケー、私は強く生きるぞ。

 で、私は学んだわけだ。この町で行動するイコール犯罪に巻き込まれても文句は言えねえんだと。いや、おかしいだろ、文句言うわ。めっちゃ文句言う。

 ただ、文句言っても犯罪が向こうから歩いてやってくるわけだから、もう拒否権ねえんだなって悟りを開くしかなかった。歩いてやってきた犯罪を何度か盛大に殴り飛ばしたらパトカータクシーになったからこの世に神などいない。……学んだというより悟り開いてたわ、笑えない。

 なので、私は限界まで出歩くのをやめようと思ったんですよ。朝は始業ジャストに間に合うようにささっと登校して、帰りは一切の寄り道をせずに直帰。あとは家の中で勉強やら筋トレやらやって、どうしてもジョギングだけは外に出ないといけないので、最短ルートでまずは杯戸町までダッシュしてから五キロ走る。帰りも米花町にインした瞬間から家までダッシュ。

 こうする他思いつかなかったのだが、割と効果的だったのか目に見えて巻き込まれにくくなった。米花町にはたぶん犯罪係数を上昇させる特殊な磁場が出ている。

 ただねぇ、忘れてたんだよねぇ。私、そもそも、巻き込まれたな、完全に犯罪案件だなって事案が発生したの、初回は学校だったんだよ。

「古賀先生が体育館倉庫で頭殴られたんだって!」

「遠藤先生が見つけて、さっき救急車で運ばれてったらしいよ……」

「誰に殴られたのかな……?」

「学校のやつだったら、犯人まだこの学校にいるかもしれないぞ」

 校内で傷害事件、しかも被害者は担任、第一発見者は副担任。ひ、ひえ〜学校なんて何も安全じゃねぇ〜と思ったが、そもそも人がいれば犯罪が起きるのが米花町クオリティなので、なんなら学校なんて安全じゃない部類の最高峰の一つと気がつかされた。

 もう嫌だこの町。全てを投げ出して海外逃亡したい。推しと知り合いになっておけばワンチャン公安じゃなくても合法的に拝めるやろ、とかいう舐めた考えに甘んじようとしたからなのか、生きてるだけで米花町在住という名のSAN値チェックがえぐみ強すぎ。心折れそう、頑張れ私。

 急遽自習となった三限目は、当然その話題で持ちきりだった。真面目な人が多いので、出された課題は完了させるのだが、完了させた後、監視する人もいないのであーだこーだと言いたい放題。担任が殴られた理由やら、殴った犯人の憶測やら。元気なことだ。

 因みに私はさっさと課題を完了させたので国家公務員試験の過去問を眺めている。ほぼ解けないのでとりあえず眺めて、こういうことやるんだなーくらいの感じで。うーん、やはり国家I種は無理だなぁ。言ってる意味分からん。理解できても賢い回答できる自信がないぞ。大学だけ東都大学の法学目指しておくかなぁ。

 ガラッ。

 少し騒がしい教室の前方扉が開け放たれて、教室に入ってきたのはスーツの二人組だった。学校では普段、スーツの人は校長と教頭くらいしか見ないので、確実に部外者だ。顔に見覚えもない。

 タイミング的には警察官かなぁ。片方の顔つきが険しい。まさか担任死んだのか。ザマアミロぐらいの感想しかないけど、通ってる学校に殺人犯がいるのは流石にイヤ。静まり返った教室に向かって、現れた二人組は警察の者ですと名乗り続けて言った。

「石村晴美さんという方はどなたでしょう?」

 漫画だったら、ザワッという効果音が書き込まれていそうな嫌なざわめきが響いて、私は一瞬フリーズした。は? 私? 今、このタイミングで?

 空気の読めない馬鹿に徹していたいが、そうやって振る舞うリスクの方が高いなと直感的に察したので、スッと右手を軽く挙手して答える。

「私です。警察の方が、何のご用ですか?」

「お伺いしたいことがありますので、着いてきていただけないでしょうか?」

 めっちゃ下手に出てくれてはいるが、確実に任意同行である。名指しで一人だけ連れ出そうとしている辺り、私が犯人である、もしくは、それに準ずる関連が認められている可能性が高い。

 残念ながら私は今日も今日とて、休み時間であろうとトイレ以外で席を立っていないのでアリバイはほぼ完璧なのだが、それでも冷や汗がヤバイ。ふええあの担任いつか私が直接闇に葬ってやるからな覚えとけよ。

 警察側が任意同行という形を取ってくれるというなら、私にはもちろん拒否する権利がある。が、現実というのはハードモードがデフォなので、拒否イコール怪しいと連想ゲームになってしまう。詰んでる。前門の虎、後門の狼とはこのことだ。私が何をしたって言うんだよ……。

「どこに行くんですか?」

 助け舟を出してくれたのは隣に座る推しだったが、なんならそれはトドメにもなった。

「警視庁までご同行願います」

「なぜ彼女だけ連れて行くんですか? 襲われたのは、このクラスの担任ですよね?」

「被害者の担当生徒としてではなく、事件の重要参考人としてだからです。他の方は今から別室にて順番にお話を伺います」

 さらに教室がざわつく。ほら、石村さん、古賀先生と……。私が担任と幾度となく揉めていることは周知の事実なので、後ろであることないこと密談される。

 クラスメイトですらこの有様なのだから、いつぞやの口論を職員室で見ていた教師陣からしたらもっと私は怪しいだろう。副担任も、あの場にいたかどうかは置いといて、騒ぎのことは知ってるはずだ。

 つまり、すでにその辺りは警察の耳に入っている可能性が非常に高い。だからと言って、証拠もないのに任意同行求められるほどのことではないはず。反対に言えば、『何か証拠らしい証拠さえあれば、疑われるに充分だ』ということにもなる。考えたくはないが、そういう何かがすでに発見されているのだろうか。

「疑われていると思えばよろしいのでしょうか?」

「あくまで任意同行に過ぎません。拒否してもらっても結構です」

 嘘つけ〜。拒否したら怪しいってなるんだろ〜。ドラマでめっちゃ見たことあるぞそれ〜。と脳内無理やりふざけてみるが、そんなこと言ってる場合ではない。アドレナリンがどばどば出てる。冷や汗出てきた気がする。完全に流れが黒でヤバイ。

 この間のパンケーキのテキトー冤罪とはわけが違う。ある程度証拠をとなりうる何かを見つけた上での疑惑だ。でっち上げなのは確定だが、私にそれがでっち上げだと証明するすべがあるのかどうかが確信が持てない。落ち着けアリバイはクラスメイトが証言してくれる。……動機も説明してくれそうだが。鬱。

「荷物をまとめるので、少々お待ちください」

「ご協力感謝します。他の方も、順番にお話を伺いたいので、一人ずつ別室までお願いいたします」

 廊下側一番前方の席のクラスメイトが、誘導されるままに教室から出て行くのを視界の隅でとらえながら、私は教科書やらノートやらを片っ端から鞄に詰める。雑に扱わないよう気を払え。落ち着け、落ち着け。焦ってどうこうなる話ではない。

 まずは、私が疑われた証拠が何か掴む。その上で、それが虚偽、又は証拠に足りえない事実を証明する。それだけの話だ。それだけの話なのに、少し手が震える。

「石村」

「……なんか、とんでもないことになったね。困った」

 隣から声色だけで心配してるのが伝わってくるようなトーンで話しかけられたので、限界までなんでもないような声を出して返す。虚勢を張っていないとメンタル持っていかれそう。とにかく、何が私を黒だと言っているのかを確かめないと。前提として、証拠は少なからずある。警察の介入っていうのはそういうことだ。

 事後にしか動けない代わりに、起きたことに対して絶対的な権力で処理する。なるほど、処理される側になってみると、とんでもなく恐ろしい組織だ。涙が出るわ。泣いてる場合じゃないが。

「大丈夫。私、関係ないし。なんとかなるよ」

「もう少しなんとかなりそうな顔して言えよな、そういうことは」

「……そんなやばい顔してるか」

「土気色って感じ」

「やばい」

「大丈夫……って、俺がいうのは無責任だけどさ」

「そうだね」

「おい。それでも、できる限りのことはするから」

「あえて言うけど、首突っ込まない方が正解だと思うよ、こればっかりは」

「人のこと心配してる場合か」

 だめ押しで手の震えと声の震えを指摘され、もはや私は黙るしかない。

「真犯人が捕まれば、万事解決なのはわかるだろ? だから、俺たちで見つけるんだよ。石村だって、自分をはめたヤツ、締め上げたいだろ?」

 ふざけたこと言ってるなあ、と半分呆れながら推しの方を見てみれば、ああ、ふざけてるのは私の方なんだな、と情けなくなる。下手くそな笑顔を浮かべて、限りなく私が不安にならないように言葉を選んで、安心させようと努力しているのが丸わかりだ。

 そうか、この人は、私のことを本気で心配してくれてるんだな。自惚れでもなんでもなく、そう思った。他人のために心を砕ける美徳が、心の底から眩しく感じた。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 石村が警察に連れて行かれてしまった。任意同行とは言っていたが、断ることが心証を悪くするだけのことだと分からないほど彼女は愚かではない。手早く荷物をまとめる手は、落ち着いているように見せかけて、震えていた。自分の置かれている立場を正しく理解出来るからこそ、血の気のない顔色を隠しながらするやり取りは痛ましかった。

 慰めの言葉が役に立ったかは分からないが、目が合った途端ぽかんとしていたので俺も大概変な顔をしていたのだと思う。呆れたように笑っていたので、少しは気が楽になっているといい。あとは、慰めの言葉をただの言葉で終わらせないだけだ。

 クラスメイトが順繰りに呼ばれていき、帰ってきた者から何を聞かれただの何を教えてくれたのだの周りに喋り散らす。聞き耳を立てる限り、古賀先生との間に起きたことをメインに聞き取りをしているようだ。つまり、動機の裏付けじゃないか。

 舌打ちしたくなる衝動を抑えて、深呼吸をする。俺が聞かなきゃならないことを頭の中で整理して、順番を待っていると、降谷くん、と名前を呼ばれた。最近よく聞くようになった声だ。

「柊さん」

「さっきね、私の番だったの。石村さん、古賀先生と本当に仲悪かったんだね」

 警察とのやり取りをまとめると、なるほど、確かに動機の裏付けではあるようだったが、どちらかと言えば事実確認の方が近いようだ。入学してまもなく職員室で言い合いになったこと、濡れ鼠になった時に疑いの目を向けたこと。知っているのはこれくらいだったが、それ以外でも、随分と目立ってもめたことが幾度となくあるようだった。

 薄々感じてはいたが、古賀先生は石村に対して非常に差別的だったらしい。

「でもね、私思うんだけど、これってさ、石村さんが古賀先生を嫌っているんじゃなくて、逆だよね?」

「俺も、そう思う。嫌ってるからって、率先して突っかかっていくタイプではないし」

 やられたら数十倍で返しそうではあるが、自ら率先して殴りかかるタイプではないだろう。過去にあったいさかいの話もほとんどの場合、古賀先生が口火を切っている。古賀先生が石村を殴ったというなら納得できるが、反対はまるで想像がつかない。

 というか、やるならもっと上手くやるだろうという謎の確信もある。この場合は全くフォローにならないので絶対に言わないが。

「ねえ、降谷くん。私ね、石村さんにまだちゃんとお礼をしてないの」

 もちろん、降谷くんにもお礼をしないといけないんだけど。穏やかに微笑んだ柊さんの顔を見ながら、俺は何もしてないよと返す。本当に何もしていないし、彼女があれで救われたのだと、助かったのだと言うのならやはり俺のおかげではない。

 俺にはああいう苛烈な手段がそもそも選択肢になかった。せいぜいジャージを掛けてあげたくらいだ。その程度のこと、改まって礼を受けるほどのことではない。

 ううん、と首を振ってはっきりと意思を示す彼女の姿は、やはり俺の功績ではない。

「二人に助けてもらったよ。だから、二人にお礼がしたい」

「あら、私は仲間はずれ?」

「室瀬さん」

「亜弓はいっつも助けてもらってるけど私も助けてるもん」

「言うようになったじゃない」

「えへへ」

 室瀬さんも話に加わって、聞き取りの内容を共有する。ほとんどが柊さんから聞いた内容と同じだ。ただ、彼女はより突っ込んで話を聞いていたらしい。

「まだるっこしいから、石村さんを疑ってるのかって聞いたのよ。正直、古賀先生が石村さんを殴るならまだ理解できるけどって前置きした上で。そしたら、なんて言ったと思う? 石村さんが古賀先生を呼び出したんですって。ケータイにメールが来てたみたい。もう、諸々ずさんで絶対はめられたって確信したわ」

「現物……は、もちろん見てないよね?」

「ええ。受信メールの画面だけ。たぶん言えば見せてもらえるわ」

 生徒が仲が険悪な担任をメールで呼び出し。そこで何かあって、殴った。警察の筋書きはそんなところだろうと目星をつけて、話を切り上げる。次は俺の番だ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

お話があるので、二限目の休み時間に体育館倉庫まで来てください。

石村晴美

 

 このメールに心当たりは? と聞かれたが、当然ない。なんでいちいち突っかかってくる厄介なキチガイを用もないのに呼び出さなきゃならないんだ。原文まま伝えるメリットがなさすぎたのでもっとマイルドに伝えたが、どうやら向こうは私と担任のいざこざをある程度把握しているらしく、とっさに用意したオブラートはあまり意味がなかった。

 ただし、聞かされた内容に関しては一部身に覚えがなかったので、それが尾ひれなのか流言なのかで色々変わってくる。因みに、情報源が教師陣ということを考えると担任のホラの可能性が非常に高い、と私は思う。

 しかし、自覚が足りないとかいう話ではなく、私は本当に、担任にあそこまで目の敵にされる理由がわからない。そりゃあ、ファーストコンタクトは私のクソオブクソな態度でアレだったが、正直どっちもどっちだったと思うのだ。

 嫌ってくるのは構わない。それなりのことをしたという自覚はある。だが、憎まれるほどではない。というか、初見から既に嫌われてたのでは? という疑惑すらある。全っ然心当たりねえけどな!!!

「そもそも、そのメールアドレスは本当に私のものなんですか?」

「被害者の電話帳に登録があった。登録名は君になっていたよ」

「アドレスだけですか?」

「いや、電話番号も載っていた。個人情報にあたるので開示は出来ないが」

「それと私の番号が違えば疑いは晴れますか?」

「君のケータイから送られていない証明にはなるが、君が送っていない証明にはならない」

 まあ番号二つあればもう片方から送れるよなって意味なのはわかる。ガラケー主流のこの時代に、二台持ちはほとんどいないだろうが理論的には可能だ。現実的ではないが。

「端的に言おう」

「なんでしょう?」

「被害者の意識が先ほど戻った。君をこちらに連れて来ている間のことだ。我々からの、犯人を見たかという問いに対して、彼は君の名前を挙げている」

「……ブラフ?」

「ではない。わかっただろう。メールの送り主など、今では瑣末な問題だ」

 こっちからしたらちっとも瑣末な問題じゃねえんだよ、ぶっころすぞ。という言葉は飲み込んだ。犯人じゃない事実は私が誰よりも知っているが、現実の闇が深すぎてそれはまったくさっぱり見えてこない。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「古賀先生が目を覚ましたんですか?」

「はい。頭部を殴打され、気を失ってはいましたが今は意識もはっきりしているそうです。こちらの問いかけにもしっかり答えてくださっています」

 よければ、教室に戻った際にクラスメイトの方に教えてあげてください。柔和な笑みを浮かべた目の前の男の顔は、きっと人を安心させるにふさわしい表情をしているのだと思う。もっとも、俺は今、安心している場合ではないのだが。

「先生は、殴られた時のことを何か言っていましたか?」

「ええ。石村晴美に殴られた、とはっきり仰っているようです」

 さっきの会話から広がった疑惑が、ますます確信に近くなる。やはり、石村は誰かにはめられている。そして、はめた張本人は被害者である担任の可能性が高い。

 ただ、何のために? 本当に殴られているのはなぜ? 意識を失うほどの衝撃なら、一つ間違えれば本当に死んでしまう。そこまでしておこなう自作自演は、本当にただの自作自演なのか?

 考えれば考えるほど正解がわからなくなる。彼女の無実という真実がすぐ目の前にあるのに、そこにたどり着くには見えない壁が多すぎた。ダメで元々、彼女はそんなことしませんよと答えれば、柔和な警察官は、落ち着いた声でそれはその通りでしょうねとまた微笑んだ。というか、できないでしょう。優しい声は、まるで石村を責める色がない。

「君も、他のクラスメイトの複数人も、犯行時刻と思われる時間帯に、彼女の姿を教室で目撃しています」

「それなら、なんで」

 彼女は連れて行かれたのか。

「君は、石村晴美さんと仲が良いそうですね」

「……比較的、が付きますが、まあ、悪くはないと思います」

「彼女の口から、被害者に対する……なんでもいいのですが、話を聞いたことがありますか?」

「……話、というか、嫌っていたとは思います。ただ、古賀先生が露骨に石村を嫌っているから、それに対して反抗するって感じでしたけど」

「ふむ。やはり、被害者は石村晴美に対して差別的な言動を日頃から取っていた、ということですね?」

「……もしかして、疑われているのって古賀先生ですか?」

 被害者であるはずの古賀先生を疑っているとして。なら何故、石村は連れて行かれたのだろう。疑われていないのに連れて行かれた? 疑っていない人を、警察が連れて行くのはどんな場合だろうか、と、ここまで考えて、すうっと血の気が引いた。

「石村が、狙われてるんですか?」

「……二十七年前のことです。被害者……古賀大成は、同じように後頭部を背後から何者かに殴打され、病院に運ばれたことがあります。当時の犯人は高校生ということもあり、厳重注意のみで事件は解決したことになっています。犯人の名前は、石村浩司。石村晴美の、父親です」

 何が何だか、わからない。ただ、想像よりはるかに問題が根深いことだけは理解した。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「手口、というか、事件の流れは今回とほぼ同じだ。古賀大成は石村浩司の呼び出しを受け、そこで後頭部を殴打され、病院に搬送された。ただ、当時とは異なるのは出血もなく、目撃者がいたという点だ」

「お父さんが、人を殴った?」

 うっそだろ、おいって感想しかない。あのキングオブもやしみたいなひょろひょろお父さんが? 人を殴った? ダメージ与えられないでしょそれって。お母さんが全力で殴りかかった方がまだ説得力も物理的効果もある。

 ありえない。絶対ありえない。お父さんは拳より舌先でぶちのめす方が得意だし、自分でそう言ってるし、家族間で殴り合いの喧嘩になったら真っ先に白旗をあげると宣言している。私が小学生の時の話だ。運動なんて無縁なので、今ではもっと情けないことになってる。私はお父さん十人に囲まれて一斉に襲われても返り討ちにできる自信すらある。

「当時のクラスメイトも信じられないと口を揃えて話していたそうだ。が、被害者、目撃者が君の父親を犯人とし、君の父親はそれを認めた」

「はあ?!」

「怪我もせいぜいたんこぶだったそうでな、大ごとにはならず、全員がそのまま進級、卒業している。卒業を機に、君の父親は遠方の大学に進学し、彼らの関係は断たれた」

 流石にたんこぶくらいなら作れるかな……? 唐突にリアリティ出てきたけど、お父さんレベルの非力に殴られて病院搬送って大げさじゃない? 普通にあの単細胞な担任なら殴り返した方が手っ取り早いし、単細胞だから脊髄反射でそうしそう。

 ……なるほど、脊髄反射じゃなかったってことか。

「担任がお父さんをはめたんですね。私みたいに」

「我々はそう考えている。ただ、そうなると辻褄が合わない点が一つある」

「出血、および意識を手放すほどの殴打を自作自演はしない、ということですか?」

「話が早くて助かる。なので、考えられる可能性は二つだ」

 君をはめようと何者かと画策して、反対にはめられた。もしくは、何者かが君の名前を利用して彼を襲い、彼はそれに便乗した。

 人差し指と中指を立てて語られた可能性は、少しもぞっとしない。どちらにせよ、担任、もしくは共犯者から明確な私への悪意がうかがい知れる。私が何をしたっていうんだよ……。というか、可能性がその二つだっていうなら、実質答えは一つのようなものなのだが。

「はめようとしてはめられたっていうなら、流石に共犯者の名前を出すと思うんですが」

「いや、わからんぞ? 目的そのものが君をはめることだと仮定するなら、共犯者の名前を出すことはそのまま自白になる。自白してもろともになるくらいなら、君をはめる」

「えええ……?」

「少なくとも、古賀大成は君に対して過剰な私怨がある。原因に父親が絡んでくるかは不明だがな」

「……絡んでる気がします」

 思い出すのは、入学してまもないあの呼び出された日だ。やたらと絡んできたのは、お父さんを認識していたから。私の暴言に対して、血の気が引いたように見えたのは、体罰という言葉に反応したと思い込んでいたが、私が言ったのはこうだ。

『私がここでポロっと泣き出して父母に訴えでもしたらどうするんです? 体罰教師のレッテル貼られるんですよ?』

 担任は、体罰という言葉に反応したのではなく、父母に訴えるという言葉に反応したのではないか? そして、ただでさえ気に食わなかった生徒が因縁のある父親の話題を持ち出してきて、地雷が作動した。それを契機にことあるごとに突っかかってきて、最終的に犯罪者のレッテルを貼ろうとしてきている。

 人としてゴミクズやないか、勘弁して。

「ふむ。そうなると、あとは共犯者が誰か、だな」

「そんなの、簡単に分かるんじゃないんですか? 送られてきたメールサーバーから、辿れるでしょう? アドレスを変えてたとしても、履歴は残りますよね?」

「今時の高校生ってそんなことも知ってるのか? まあ、今通信会社に確認を取っているから、直にわかると思うが」

 サイバー犯罪対策課みたいなやつ、まだないのか。確かにようやく最近インターネットが一般的になってきたもんな……。あと十年でIoTテロとか起きるようになるんでしょ……技術の進化エグい。「馬頭刑事、失礼します。メールの送信者が特定できました」ノック無しで乗り込んできた刑事さん? が、資料を手渡して颯爽と去っていく。どうやらそこに共犯者の名前があるらしいが、まあ捜査資料だし私には見せてくれないだろう。

「さて、共犯者の名前が分かったわけだが、こりゃあ、なんだろうな」

 と、思っていたのだが。ばさりと受け取ったばかりの資料を机に投げ出す刑事さん。おいおい、見えちゃうぞ大丈夫か。いやこれはむしろ見ろって言ってるんだな。

 そんな自己解釈のもと、目の前に広げられた資料を堂々と手に取り文字の上に目を滑らせる。答えにたどり着いた時、目がおかしくなったと思った。

【送信者:遠藤一樹】

「こいつから、恨みを買った覚えは?」

「全然ありませんよ……」

 頭を抱えてうなだれる。思えば、今生で初めてこんなに思い悩んでいるような気がする。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 兎にも角にも、石村が狙われていており、警察はそれを把握していて、なおかつ犯人の目的を仮定した結果、警察は石村晴美を疑ってますよとアピールするために連行したということは分かった。狙われていること自体がそれはそれで心配ではあるが、疑われているわけではないというのは僥倖だ。

「名目上は監視ですが、護衛をつけます。ご安心ください、必ず彼女は我々が守ります」

「……なぜ、俺にここまで話してくれるんですか?」

「連れて行かれる彼女に負けず劣らずのひどい顔をしていましたので。あと、ここに入ってくる時も随分気負っていましたよ。もう少しポーカーフェイスを覚えた方がいいですね」

 ……そう言ってウインク飛ばしてくる目の前の警察官は本当に警察官なのだろうか? ホストか何かの間違いでは? 顔に出ていた恥ずかしさより、目の前の恥ずかしげもなくウインクしてくる男の存在の方が恥ずかしい。なんで男に照れないといけないんだ。

「さて、現時点でお話しできるのはせいぜいこれくらいですね」

 何かあればすぐ知らせてほしい、と言って渡されたのは二枚の名刺だ。

「渡邉徹、馬頭蓮二。僕が渡邉で、馬頭が彼女を連れて行った方です。直通のケータイの番号も書いておくから、何でも言ってください」

 名刺をひっくり返せば数字の羅列がある。現職の警察官の連絡先をこんな形で入手するとは、なんとも言えない気分になる。因みに、番号を教えてもらっても俺はケータイを持ってないのでほぼ活用できない。

 他の方に教えても構いませんが、人選には気を付けてくださいね。先んじて打たれた釘に、人を選べば教えても問題ないんですねと返すのが精一杯だった。いちいち心臓に悪いな、この人。とりあえず、柊さんと室瀬さんには伝えておこう。

 




遠藤一樹(副担任、体育)

渡邉徹(柔和な方)
馬頭蓮二(険しい方)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

そんな間柄の人今生ではいなかったから……

 

 警視庁ランデブーを決めた私を迎えに来たのはお父さんだった。果てしなく気まずいし、心の底から申し訳ないと思う。私が担任の起爆スイッチ押したところも一部あるんだろうと思うと、本当にお父さんに悪いことをしてる。人生二度目なんだし、親不孝だけはしまいと心に決めて生きて来たのに、本当にごめん。

 娘がお世話になりました。お見送りしてくれた刑事さんに丁寧に頭を下げる姿に私の胃がマッハ。

「晴美」

「はい……」

「すまない。父さんのせいだな、こんなことになってるのは」

「え、いや、違うでしょ。なんでお父さんが悪いわけ? 何にも悪いことしてないでしょ? お父さんそんなことしないよ。それくらいわかる」

「いや、面倒くさがって、放置したツケだ。よりにもよってお前に返ってくるなんて……」

 お父さん曰く、当時は担任にそれはもう随分と面倒くさい絡まれ方をしていたらしい。勝手に考査の時期に競われたと思ったら勝手に向こうが負けて文句を言われたり、父がからきしの運動系で勝手に勝鬨をあげたのですごいなと答えればまた不平不満をこぼす。挙げ句の果てには暴行騒ぎをでっち上げ。

 警察の調書には父がそれを認め和解したことになっているが、実際、学校では担任がはめたと筒抜けだったらしく、自作自演ヤローは風当たりが強くなり、それに対してもまたぎゃあぎゃあ騒いだらしい。筋金入りのキチガイで震える。そしてお父さんのスルースキルもなかなかやべえな……。私だったら自作自演を逆手にとってガチで病院送りにしてるわ……。こういうところだろうな、キチガイに拍車をかけてしまったのは。

 刑事さんは暫く様子見も兼ねて自宅の近所や私の近くを巡回すること、直接連絡が取れる番号を渡しておくのでどんな些細なことでも動きがあれば知らせてほしいこと。そして、父からは絶対に担任に接触しないでほしいことを告げた。

 それに対してお父さんは何の不満を口にするでもなく、神妙に頷く。火に油を注いで燃え上がるのは、今回はおそらく私だ。周りを鑑みなくていいならどうにかこうにか逃げおおせる自信はあるが、今は言うべきではないだろう。ただ、その代わりではないが通学を車で送迎したいと言い出した。やめてくれどこのお嬢さんだよ。

「申し訳ないが、それは許可できない。それこそ、あなたの姿が古賀大成の目に触れる可能性がある上に、周りの生徒から伝聞で伝わる危険性もある」

「しかし」

「お嬢さんの安全のために、どうかご理解ください」

 私を引き合いに出されてお父さんは言い淀む。トラウマレベルのDQNにまた絡まれる可能性があるというのに、それより私の心配をしてくれている。ありがたくて感動するが、私は車での送迎など真っ平御免なので刑事さんの背中を押す。親心の分からない娘ですまない。でも送迎はいやだ。あと仕事に支障出るでしょ断固拒否するからな。

「下手に刺激して何かされるのも怖いし、私も送迎は嫌かな……」

「晴美……」

「大丈夫だって。それなりに体力も筋力もあるし、警察の人が周りにいるんだよ? そうそう滅多なことにはならないよ」

「……すまない、本当に」

「お父さんは、何にも悪くないよ」

 今日あったことは、お父さんと相談して家族には話さないことにした。余計な心配をかけてしまうし被害が広がる可能性もあったから。頭のおかしい奴は、何をするか分からないのだ。

 もっとも、一番頭おかしいやつを私は履き違えていたわけなんだが。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 翌日、普通に登校したらものすごい量の視線を浴びた。登校中に感じた「あー、誰かにつけられてるってこういう感じなんだな?」っていう警察官からのそれと比にならない。騒然とするんじゃなくて静まり返っている辺り、お察し頂きたいレベルだ。堂々とこちらを伺いながらヒソヒソ話し出すのやめろ。私は被害者だぞ。いや、加害者だと疑われてないといけないからこの反応は正しいのか。

 これ解決するまでこうなの? きつい。黙ってぼっちのが断然いい。

 ただ、遠巻きに眺めてくるやつだけではないのは、本当に、ほっとした。石村さんと呼びかけてくれた美少女とナイスバディには感謝の念しかない。どうやら、彼女たちも私のことを心配してくれているらしい。

 こんな大して親しいわけでもないクソのためにすまない、今はさすがに甘える。ふおお、美少女とナイスバディと降谷零に囲まれていて私は今日死ぬのかもしれない。いつの間に来たんだ降谷零。君たち本当にありがとうございます……絶対足向けて寝ないからな……。

「普通に登校してきたのね」

「まあ、任意同行だけだったので」

「大丈夫か? 古賀先生不在だから、ホームルームとかやるの遠藤先生だぞ?」

「なるほど、その辺までは聞いてるのね。でも、知ってるって気付かれる方が怖いからなぁ」

「石村さん、遠藤先生と仲悪かった?」

「そっちは一切合切、心当たりがなくてですね、本当、お手上げです」

 昨日一晩中、自分が無意識のうちにやらかしたのでは? という可能性を考えていたのだけど、やはり思い当たる節がない。知らず知らずのうちにやからしていたなら、そりゃあ心当たりなんてないだろとセルフツッコミもしたけど、それは置いておく。

 まず前提として、私は自分で率先して揉め事を起こすタイプではない。やられたら半沢直樹も真っ青なやり返しをするだけであって、自分から殴りかかったりしない。カウンターパンチャーだ。撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけっていうアレ。売られた喧嘩は確実に買うが、喧嘩は売らない。買い専である。

 父がらみもないと思う。念のため副担任の名前を教えておいたが、お父さんは覚えがないと言っていたし、まず担任と違って世代が全く異なる。副担任は担任とはふた回り近く年が違っていて、なんなら私の方が近い。三十もいってないでしょってくらいだ。

 若いお兄ちゃん系のスポーツマンタイプなので、担任と違って生徒からの人気もそれなりにあるらしい。知らんけど。担任がキチガイ入ってて信頼がないっていうのは言われなくても察したが。

 恨みの線が少なくとも自覚があるという前提では全くないので、本当にお手上げである。美少女が痛ましそうな顔でこちらを見てくるので、気にしないでいいと手をプラプラ振った。何か言いたそうではあったが、気をつけてねとだけ言われたので、言わないことにしたらしい。考えた結果黙っていることにしたのなら、私から言うことは特にないのでありがとうとだけ答える。予鈴が鳴った。

 それぞれが自分の席に着いた頃、教室の前扉が開いた。副担任だ。ああ、こいつが私をはめようとしてるんだなと思うと、口から滑らかに紡がれた言葉に死ぬほど反吐がでる。

「石村、昨日は災難だったな」

 ええ本当に。誰かさんのせいでね。

 一言も発さずに会釈のみで答える。その爽やかなツラを殴り飛ばしてやりたいなと思いながら。

 本当に気持ち悪い。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 嫌な感じがするなと思った。

 遠藤先生と仲が悪いのかと聞いてみれば、心当たりがないと答えられて、余計に。遠藤先生がなんでもないかのように石村さんを慮る言葉を吐いて、もっと。何にも分からないところから一方的に感情を向けてくる人は、確かにいるから。

 とても怖いと思った。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 結局、何にも事態は好転しないまま担任は職場に復帰した。要するに、現在進行形で教鞭に立っている。相当メンタルはタフなようで、私を見て舌打ちをこぼすくらいには元気だ。

 気分を変えたいという誰かの提案で席替えが行われて、私は幸運なことに一番後方の座席を手に入れた。たぶんクラスメイト全員がホッとしたと思う。隣の席は、顔しか知らない男子だった。廊下側の角になったので、右側には磨りガラスがある。打てば割れるような遮蔽物でも、物理的に人との距離が取れるのはありがたい。

 副担任は、事件前と同じようにたまに教室に顔を出す程度になった。体育担当ではあるが男性なので、私が顔を合わせることもそんなにない。嫌な沈黙が続いて、まとわりつくような視線だけが残っている。

 警察なのか、担任なのか、はたまた副担任なのか。安心感は全く湧いてこないので、たぶん警察ではないだろう。

 もらった名刺を活用するタイミングもなく、担任が警察に私の処分を求めて直訴したということだけ聞いた。どうやら、校長にも同じような訴えをしているらしいが、警察の判断を待てと却下されたという。ざまあ。

 私の勝手な想像だが、校長としてはこれを機に担任を懲戒解雇したいんじゃないかなーと思ってる。暴行事件のでっち上げなら、充分理由に値する。私が全く疑われていない前提の話にはなるが、学校側からの聞き取り調査を全く受けていないので、たぶんその通りなのだろう。これが日頃の行いである。私は担任以外には問題を起こしたことはないのだ。ざまあ。

 と、いう感じに、露骨に油断していた。これはいただけない。完全に自業自得ですありがとうございます。なんて、ふざけている場合ではない。

「よお石村。災難だったな?」

 つい先日聞いたような言葉を、真逆のトーンで紡がれる。楽しんでるな、と確信してどうしたもんかとうなだれた。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 油断はしていた。関わらなければとりあえずの現状維持は叶うだろうと、事態が好転していないものの悪化していないことをいいことに、保留という姿勢を貫いたのは確実に間違いだった。と、今更ながら、副担任と二人きりになってしまった状況になってから後悔する。遅えよ。

 でもなっちまったものは仕方がないので、今をなんとかすることに頭を使うしかない。まずは、目の前でニタニタ笑うこいつの目的をいい加減把握するべきだろう。数学担当の教師から、音楽担当の教師が呼んでいるから準備室まで来いなんて、遠回りの伝言ゲームをしてまで私を呼び寄せた理由を、知っておくべきだ。たぶん、はめた理由にそのまま直結してくるはずだ。

「私は小野田先生が呼んでいる、と川上先生に聞いたのでここに来たのですが。遠藤先生、小野田先生がどちらにいらっしゃるかご存知ですか?」

「ここには来ないぜ。今日は吹奏楽部の外部練習の引率だ」

 気を張ってればそもそも引っかからなかったという事実に密かにダメージを負いながら、そうですかと返事をする。だからニタニタにちゃにちゃ笑うんじゃねえよ気持ち悪いな。非常に不愉快な顔をしている。

「あと、降谷や室瀬もここには来ないぜ。今頃、古賀先生に呼び出されてんだろ。ほら、どうだ? ちょっとはビビってきたか?」

「あなたに恐れを抱かないといけないという意味が理解できませんが、小野田先生が私を呼んでいるという事実がないなら私は帰ります」

「ほら、すぐそういう態度取るんだよなぁ、石村は」

 無視して真横を通り過ぎようとしたが、すれ違いざまに腕を取られる。アホほど握力が強い。伊達に体育教師を務めてないってことか。

 振りほどこうと思えば振りほどけるが、意図がつかめないのであえて放置する。胸糞悪い笑顔はいまだ健在だ。何が楽しいのだろう、こっちは何も楽しくない。その横っ面裏拳でぶち抜いてやりたいくらいには胸糞悪い。はあー、腕を握られたアザだけでは正当防衛は弱いよなぁ。

「お前のそういうところ、いいよなぁ」

「……は?」

「お前みたいなやつ、屈服させたら楽しいだろうなぁ」

 背中の産毛が逆立つこの感覚には、覚えがある。こいつが私に向けてるのは悪意だ。ただ、純正な悪意だけじゃない。汚い、相手を想う故と偽って自分の行為を正当化する、腐臭。その臭いと、屈服させるという言葉。にわかには信じがたいが、直感はそれが正しいと告げている。

「はめるの意味が、変わってくるじゃねえの……!」

「下品なこと言うのもいいなぁ、ソソる」

 舌なめずりするな、性犯罪者予備軍。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 事件から一週間、いい意味とは思えないが何事もなく時は過ぎている。古賀先生にも遠藤先生にもなんの動きもなく、ただただ無駄に過ごしているような錯覚に陥る。そんな時に、古賀先生から呼び出された。

 何か掴めるかもしれないと思い、応じればそこには室瀬さんがいた。俺と同じように呼び出されたらしい。「あんたが彼女はめたくせに何様なの?」後ろ姿しか見えないが、その冷ややかな声だけでもなかなかの迫力があった。

「室瀬さん」

「あら、降谷くん。あなたもこのクズに呼び出されたの?」

「……古賀先生、なにを話してたんですか?」

「お前らだろ、石村を庇ってる奴らは。いい加減にしてくれ、被害者は俺だぞ?」

「……石村も濡れ衣着せられてる被害者ですが? 虚偽の犯罪の申告は軽犯罪に当たりますよ」

「虚偽ではないから問題ないな」

 こいつどういう神経してるのよ、と室瀬さんが腕をさする。薄ら寒くなるほどの白々しさだ、産毛が逆立つのもわかる。精神構造に異常があるとしか思えない。せめて口を滑らせてくれれば助かるのだが。……煽った方がいいんだろうか、そういうの一番得意そうなの石村なんだけどなぁ。

「そもそも、呼び出したのが遠藤先生なんですから、殴ってきたのは遠藤先生と考えるのが妥当なのでは?」

「俺は石村に呼び出された」

「メールですよね? それもおかしいんですよ、なぜ、先生は彼女の連絡先を知ってるんですか? 彼女は家族にしか連絡先を教えてません」

「署名があればそいつだと思うだろ」

「石村が先生の連絡先を知っていることもおかしいです。あと、警察からは『石村晴美の連絡先が登録してあった』と聞いてますが? もちろん、本人のものではなかったそうですが。おかしいですね、誰が登録したのでしょう? なんで持ち主が知らないんですか?」

「あいつが小細工したんだろ。小賢しいやつだ」

「小賢しい小細工ヤロウはあんたでしょ! こっちは遠藤先生とグルだって知ってんのよ!」

「室瀬さん!」

 むしろこっちが口を滑らせる形になってしまったが、それでも古賀先生はそれなりに驚いているようだった。バレてると思ってなかったという驚きなのか、俺たちが知っていることに対する驚きなのかは判別がつかない。

「あんたらが石村さんをはめるためにてきとうな番号と捨てアドで連絡先に登録した。登録名を石村晴美にしてね。で、そこからメールを送って、遠藤先生のアドレスをまた変えた。メアドなんて何回でも変えれるものね。で、軽く殴られて騒ぐだけの予定が、あんたは救急車で運ばれるレベルで殴られた。あっちはあんたのこと裏切ってるのよ? そっちこそ庇ってやる必要ないんじゃない?」

「庇うも何も、俺は遠藤先生に何もされちゃいねえよ」

「なるほど、ようやく理解しました。あなたの目的は徹頭徹尾、石村をはめることなんですね」

 だから、殴られた犯人を聞かれた時も『石村をはめる』という目的が達成されるなら構わないと思って、遠藤先生の名前は出さなかった。そして今もだ。室瀬さんにおおよそ正解だろう筋書きを突き付けられても平然としらを切る。

 バレた時、どうなるか理解しているのだろうか。高校生の時もどうにかなったそうなので、俺には想像つかないが結構権力あるところの家の人だったりするのかもしれない。厄介な奴が持つ権力は最悪だなぁ。

 しかし、そうなると今度は遠藤先生の目的が、理由がわからない。少なくとも一度は手を組んだのだから、目指す方向性は同じなのだろう。古賀先生は過去の怨恨だとして、遠藤先生は一体石村に対してどんな思いでこんなことをしているのか?

「俺が石村をはめて、どんな得があるんだ?」

「無実の他人を犯罪者に仕立て上げたい奴の気持ちなんて、知るわけないでしょ」

「得があるかどうかは知りませんが、胸は晴れるのでは? 石村の父親にも同じことをして、反対に疑われた過去の払拭にはちょうどいい」

「当時も俺が被害者だ! 警察の調書にも残ってるだろ!」

「俺が聞いたのは、当事者以外は誰も信じてないってことぐらいですよ。現に、今の事件を調べている警察官は当時のことを疑っています。和解した案件なので、わざわざ口に出さないだけでしょうね」

「あのクソ親子……!」

 クソはお前だろ、という言葉を飲み込んだ俺の横で、室瀬さんが思いっきり「クソはあんたでしょ」と唾飛ばしそうな顔で言い捨てた。同意しかないが、実際言ってしまえる胆力は凄まじい。俺の知ってる女子がだいたい豪胆で怖い。

「降谷くん、もうこいつからは無理よ、遠藤先生を直接締め上げましょう」

「まあ、この人喋ってくれそうな気配もないしな……」

 結局、遠藤先生が古賀先生を殴打した理由は分からずじまいだったが、ここまで頑なだとおそらく最後まで喋ってくれないだろう。なんなら、本当に石村に殴られたのだと思い込んでいるのではないかと疑うレベルだ。自己暗示みたいなものだろうか。こんなのでも教師になれるんだなと思うと、日本の未来が心配になる。

 机に拳を押し付けたまま遠くを睨みつける古賀先生。手は力を込めすぎて色が白くなっており、目は血走っている。警察ではなく病院にお世話になった方がいいのでは、なんて笑えない。早く行きましょうと急かす室瀬さんに促されるまま、視線を古賀先生から外したその時だった。

「ああ、そうか」

 温度差で寒気を感じるほど落ち着いた声が、古賀先生の口から漏れた。反射的に振り向くと、顔を右手で覆い、机に肘をついて笑っている。一体何がおかしいのか。

「だから、俺を殴ったんだな」

 

✳︎✳︎✳︎

 

 石村晴美。俺が憎くて憎くてたまらない男の娘。愛想がないところも、人を小馬鹿にした態度もそっくりだが、父親と違って運動までそつなくこなすものだから、かえって癪に触る。協調性はなく、いちいち態度は反抗的。俺以外から見ても胸糞悪い生徒だろう。遠藤先生はその口だった。と、思っていた。

 態度が横柄だと言った。目つきが気に食わないと言った。だから思い知らせてやりましょうよと言った。提案された方法は身に覚えがあったものだが、親子揃って因果だなと笑ってやることにした。

 しかし、ことはうまく運ばず、石村晴美は警察から事情聴取を一度受けただけに終わった。学校からの聞き取りもなく、処分もない。ふざけやがって、殴られ損じゃないか。遠藤先生はリアリティを出そうとして力加減を間違えたと言ったが、石村晴美まで被害が及んでいないなら意味はない。

 仕方がないから、もう少し踏み込んで追い詰めましょう。遠藤先生は薄ら笑いながら、俺に降谷と室瀬を呼び出して足止めするよう言った。

「石村は、俺がはめてやりますよ」

 安心してください。分類で言えば、間違いなく笑顔だっただろう。ただ、もっと適切な表現をするならあれは、恍惚だ。ああ、ようやく合点がいった。そうだろう、そういう感情は人を陥れたいと行動するに値する熱量を持つ。その対象に憎悪を向ける俺を、あわよくば排除したいと実行する程度には。

「今、なんて仰いましたか、先生」

「え? 小野田先生いないの? って」

「その前!」

「遠藤先生から、石村さんに小野田先生から呼ばれてるって伝えてって言われたんだけど」

 場所は?! 怒鳴りつける降谷の圧に押されて、川上先生が訳もわからないまま音楽室と答える。答えを聞くやいなや、室瀬と共に職員室を飛び出していく。

 ここから音楽室まで、全力で走ればものの五分程度で着くだろう。学校というのは存外狭い。せめてもの情けで遠藤先生に電話を掛けてやったが、出ない。

「なんだったの……? 古賀先生、何か知ってます?」

「さあ。思春期の考えることなんてわかりませんね」

 お楽しみなのだろうと結論付けて、石村晴美が泣き喚く様を思い浮かべて、ようやく胸が晴れた。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「石村!!」

 音楽室の扉を荒々しく開けて室内に飛び込んできたのは、降谷零だった。数十秒遅れて、ナイスバディもやってくる。二人ともかなり息が上がっており、相当慌ててこっちに来たということがうかがい知れる。なるほど、経緯はどうあれ、今のこの状況を察知して駆けつけてくれたらしい。相変わらずいい人たちだ。

 そんなことを呑気に考える私の見た目は随分とひどい。制服を引き裂かれ、髪はぐしゃぐしゃ、殴られた拍子に口の端を切ってしまい血が垂れている。裂かれた制服の間からは愛想のないブラジャーがこんにちはしており、スカートはホックをぶっ壊されたのでずり落ちないように手で押さえている。パンチラは流石にちょっとご遠慮したい。一応女の子。

 足元には副担任を転がしているが、一応襲われた女の子。返り討ちにしたけど被害者。

「悪いんだけど、目をそらしてもらえると非常にありがたい」

「え、あ、悪い!」

「降谷くん学ラン貸して。石村さん私のベルト貸すからこっち来て」

 呆けていた降谷零と違って、ナイスバディはこの惨状からだいたい全てを悟ったらしく、私に降谷零の学ランを着せてダメになったスカートをなんとか着れるようにしてくれた。

 降谷零の学ランを着てる私は全力で解釈違いだから脱ぎたいなーと思いつつも、言葉を発していい空気ではなかったので黙る。息止めたい、なぜ私は呼吸が必要な生物なんだ、推しの学ランが私の呼気で汚れる……。というか血も付くし割と本気で脱ぎたい。ブラチラくらいなら耐えられる。

「警察呼ぶわ。……刑事さん直接呼んだ方がいいかしら?」

「今、名刺持ってないんですよね」

「あるよ、はい」

「ありがとう」

 私じゃなんて言えばいいのかわからないから、と発信状態になったケータイを渡される。二回目のコールを遮ったのは、はい渡邉です、という柔らかい声だった。聞き覚えがある。確か、一週間前に私を教室であえて晒した方の刑事さんだ。

 石村です、と言うと、何かありましたか? 大丈夫ですか? と続けて問われた。そしてそのまま、警護担当の者からいつもより出てくるのが遅いと伺っておりますが、と続く。なるほど、気を揉ませてしまっているらしい。

「遠藤一樹に襲われました。返り討ちにしましたが、正当防衛を主張できる程度には殴られています。やりとりを録音してありますので、証拠も充分あります。しょっ引いてください」

「場所は?」

「音楽室……正門から一番遠い校舎の三階角です」

 直ぐに近くの者を向かわせます。礼を告げる間も無く切られた電話は、ツーツーと無機質な音しか出さない。はあ、疲れた。

 もういいかと思いナイスバディにケータイを差し出すと、顔をしかめている。元がいいので全くブサイクではないが、綺麗な方が好きなので、あんまり見たくない表情だ。どうしたんですか、と言おうとして口を開いたら、言葉を発するより先に降谷零が声を出していた。

「わざと殴られたのか?」

 そうだよ、というのは簡単だが、言わない方がいい空気が流れていた。同時にナイスバディが顔をしかめている理由も理解した。しかし、怒られても心配されても、私が取る手段の最善はコレだったのだから仕方がない。

 副担任は、おぞましいことに私に劣情なんかを抱いていたらしい。反抗的な、気の強い、男を睨みつけるような女を組み敷くのが性癖ってことだったんだろう。心の底から気持ち悪いが、ターゲットを私にしてしまったのはご愁傷様という他ない。結局何の成果も果たせないまま前科者だ、性犯罪者ざまぁ。

 ただ、性癖の目覚めが私ではなかった場合、胸糞悪さは増すわけだが。被害者がいなかったと祈るしかない。

 正直、警察に突き出すには襲われるだけでも充分だったとは思う。ただ、私は芋づる式に担任も消してしまいたかった。だから、あえて襲われた。掴まれた腕を振りほどけないフリをして、口でしか抵抗できないと思わせて向こうに喋らせ、それでも中途半端に抵抗して殴ってくるように誘導した。

 お陰で暴行罪に仕立て上げられるし、私は正当防衛として無罪放免だし、録音から副担任の狂言も証明できる。

「他に方法あっただろ!?」

「あったけど、自分の身に降りかかった途端に安全策取るような奴にはなりたくない」

 私はすでに、同じような目に遭わせて、同じように証拠を押さえて、同じように他人を排除したことがある。あの時、美少女は自分が悪いと泣いていた。自己嫌悪と罪悪感で、さぞ辛かったことだろう。私なんかが推し量れるものではないけれど、あの時こそ、他の手段があったはずだ。

 けど、私はアレが最善だと判断したからああした。だったら、自分の身に降りかかった今も、同じ最善を取るべきだろう。

「あの時とは全然、状況が違うだろ! 警察は先生たちを疑ってたし、お前は一人で襲われたんだぞ!」

「一緒だよ。疑わしきは罰せずだったし、やられない自信はあった」

「私たちのこと、信用してないの?」

「……?」

「私たちのこと、頼りないから、頼ってくれないのかって聞いてるの」

「いや、普通、他の人頼らないでしょう? こんなこと」

「そう、私、あなたにとって他人なのね」

 よく分かったわ。ナイスバディのあまりにも落ち着いた声と頬を伝う液体がミスマッチ過ぎて、飛んでくる平手に対応が遅れた。めちゃくちゃ痛かった。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「いい?! よーく聞きなさい! あんたは自分が怪我しようが何されようがなんっっとも思わないのかもしれないけど! 私や叶恵は死ぬほど嫌なの!! 降谷くんもたぶん嫌よ! 何でかわかる?! あんたが好きなの! 好きな人が嫌な目に遭うのは死ぬほど嫌なの! あんただって、大事な人くらいいるでしょ?! おんなじことよ! わかる?!!」

「えっあっううん??」

「室瀬さん、たぶん理解してないぞこいつ」

「なんてやつなの!!」

「別に難しいこと言ってないけどな。友達だから、心配したってだけの話だ」

「えっ、友達だったの??」

「……これはひどい」

「はっ倒すわよ!!」

「ひええ」

 ナイスバディの凄み怖過ぎてガチでちょっと泣いた。泣いてたら警察が来て副担任はドナドナされた。泣くほど怖い思いをさせたのが副担任だと信じ込んでいるらしくて、警察官の心象がさらに悪くなったので俯いた。ウケる。気絶してるのも揉みくちゃになった際頭でも打ったんだろうと結論付けていた。腹筋つりそう。肩震えたのは笑ったからなんだけど二人には思いっきりバレてて両サイドから笑うな、と、肘でど突かれた。さっきまでの優しさどこいった。

 なるほど、これが友人の距離感か。久しく忘れてたから許してほしい、精神年齢おばさんには小中はしんどかったんだよ。

 





小野田敏江(音楽)
川上勉(数学)

以前支部のコメントにて「伝言ゲーム中に事件のこととかあるんだしおかしいなって思わなかったの?」という旨のご指摘を受けたのでこちらでも補足。
まず、学校全体の認識は「石村がとうとう古賀と盛大にもめた(やらかした、など)」ぐらいです。他の人が絡んでるとは思ってないので、遠藤も全く疑われてません。疑ってるのは警察以外だと石村、降谷、柊、室瀬の四人だけです。
で、不在の先生からの呼び出し伝言に疑問を感じなかったのかという点については、普通に知らなかったというだけです。学生の時は全く意識していませんでしたが、学校の先生ってめちゃくちゃ忙しいんですよね。他の先生のスケジュールとか普通に把握してないと思います。なので、降谷さんに問い詰められた際「あれ、先生いないじゃん、おかしいなー」ぐらいで喋ってます。

支部の時とはまたちょこちょこ変えてありますが、この部分をきちんと反映させるにはまだ私の文章力が育ってなかったので諦めました。申し訳ない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

この世の地獄、いや天国。とりあえず死んだ

 

 石村晴美。無罪放免。

 遠藤一樹。暴行、強制わいせつ未遂、虚偽の申告の容疑で拘留中。送検はほぼ確実。懲戒免職。

 古賀大成。懲戒免職。

 以上。

 

 いや、以上じゃないが? 救いようのないクソの片方に対する処分があまりにも軽い。そいつも警察に虚偽の証言をしているんだが? という私の真っ当な言い分は権力の前に掻き消えた。

 どうやら警察のそこそこお偉いさんにクソ担任の兄がいるらしくて普通にもみ消されたらしい。さらに悲しいことに実家もそれなりに裕福だそうで、働かなくても食っていけるとか。圧倒的うんこ。この世はクソ。

 国家権力の闇を垣間見てしまい、本気で警察庁目指そうかなと思う。死ぬ気で勉強します。

 せめてもの慰めは学校側が担任の無実という訴えを全く取り合わず、日頃の生徒や教職員からの苦情、副担任の起こした狂言への加担という公務員が犯してはいけないラインを踏み越えたことを理由に、懲戒免職に踏み切ってくれたことだろう。完璧なる勧善懲悪は難しいが、その努力に不平を漏らす私ではない。校長先生ありがとう。クソ担任ざまぁ。

 因みに副担任は犯罪行為が公アンド盛大だったので懲戒免職はもちろん、ぶち込まれた内容に関してもちょっとニュースになった。見る人が見れば誰が被害者なのか察してしまうレベルには洗いざらいだったが、まあ、性犯罪の被害者のセカンドレイプにしては軽傷で済んだので良しとする。せいぜい学校内の奴らに指さされるくらいだ。屁でもない。

 というか、あれから美少女かナイスバディか降谷零がだいたい近くにいるのでダイレクトに指差してくるような勇者がそもそもいない。ただしジロジロ見てくる輩は尋常じゃなく多い。まあ御三方見目麗しいからな、仕方がないね。なんかよくわかんないけど私の友達らしいしドヤっておこう。本当によくわかんないけど友達になった。豪華すぎ。いつか目が潰れそうでとても怖い。あっ、今日も眩しい。おはよう降谷。

「おはよ。結構寒くなってきたな」

「なー。みんなよくスカートあんなに折るわ……無理……」

「ジャージ履けば?」

「JKに夢見てるおっさん達がさすがにかわいそうでしょ」

「慮る対象がよくわかんないけど、まあちょっと萎えるよな」

「えっ、人並みに生足にロマン抱いてたんだね?」

「たぶんお前ほどではない」

 わあー、よくご存知で。すっかり性癖を隠すこともやめてしまったので、笑顔で肯定すると、若干引き気味である。しかしこの男、人の性癖云々で態度を変えたりしない程度にはすでに人間出来ている。すご、本当に高校生? 私うん十年生きてるけど未だにメンタル小学生だよ?

 ただしノリにはついていけないというポンコツ仕様。口だけ達者、メンタル鋼鉄に成長してて我ながら扱いづらいことこの上ない人間になったなと思う。仲良くしてくれてありがとう。

 季節は十一月も随分過ぎてすっかり寒くなっていた。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 日本の四季は素晴らしいが、ここ最近は季節の切り替え方が少し下手くそでつらい。合間の情緒が薄くて、はい夏、はい冬、って感じで寒暖差についていけない。涼しいとか暖かいっていう中間の概念思い出してもらってよろしいか? 朝、起きるのが割とつらい。走れば温かくなるけど、そこにたどり着くまでがしんどい。お布団は温い。眠い。

 私は自分に激甘なので、本当に朝がしんどい。お布団と永遠に仲良くしてたいなー、うう、起きる……。私は警察庁のスーパーエリートになって腐ったクソヤローどもを全員クビにしてやるんだ……。古賀なにがしを絶対に公開処刑してやる……。

 呪いの誓いとともにお布団から這い出ると、やはり肌寒い。パパっとランニングウェアに着替えてランニングシューズに足をねじ込む。うう、まだ十一月だというのに冬を越せる気がしない……。

 手足をぶらぶらさせてから、つま先を支点に足首をぐりぐり回す。伸ばした腕を胸に押し付けて反対の腕でさらに抱き込むように引き延ばす。背中側で指を組んで地面に向かって引き、肩甲骨を締めるように後ろに持ち上げる。首をぐるんぐるんと右左に回して、屈伸、伸脚。膝を胸まで持ち上げるつもりで数度高く飛び跳ねて、そのままダッシュで杯戸町へ向かう。

 一日の始まりって感じがする。命の危機を感じながらじゃなければ最高なのに。これだから米花町は……。

 

 心の中でぶつくさ文句を言いながら、杯戸町まで駆け抜ける。特にルートを決めているわけでもないので、てきとうに一時間町内をぐるぐる走る。

 杯戸町には美術館や映画館、病院にショッピングモール、小中学校はもちろん大きなホテルもある。なんというか、東京に住んだことないから分からないのだが、都会ってなんとか町ってレベルでもこうまでなんでもあるんだろうか? ちなみに、米花町もなんでもある。昔は地方都市生まれの地方都市育ちだったので、すこし勝手がわからない。

 こんなになんでもあるから、人がたくさん住んで、アホみたいに殺し合っていくのかなぁ。結局私は死ぬまでオタクで現実の事件になんて目を向けたことがほとんどなかったので、人口密度と犯罪率の相関とか地方と都市の自殺率の違いとか、そういうことはまるで知らない。

 ただ、米花町が異常っていう常識だけは今、身を以て知っている。知りたくなかったけどな! 生活圏内からホイホイ犯罪者出るんだけどほんとにここやばいな? 以上、みたいな。やばいなで済ますな。人を見たら泥棒と思えということわざかなんかがあるが、ここでは泥棒では済まない。犯罪指定都市米花町。誰か人理修復してくれ。

「きゃああああああ!!」

 とか考えてる側から悲鳴。近くから聞こえて来たが、通りが違うのかそれらしき人物は視界の中にはいない。残念ながらどこぞの名探偵みたいに自ら首を突っ込んでいくタイプではないので、そのまま無視してランニングを続ける。

 一つ先の交差点を通った際、五十メートルほど離れた場所に小さな集団があったので、その辺で何かあったのだろう。早朝なので二、三人程度だったように思う。消防なり警察なりに誰かしらが連絡してくれることを祈って走り去る。

 しかし、関わりたくはないが好奇心が湧くのはご愛嬌というか。こういう精神を病的に膨らませてしまった挙句、頭の出来がいいと幼児化してしまうのかもしれない。頭良くなくて良かったと、意味不明な安心感を覚えながら、手近な建物の屋根に登って屋根伝いに現場に近づく。

 人は頑張れば壁くらい多少の凹凸を使って登れるし、練習すれば屋根の上くらい跳べる。防衛省から来た体育教師も技術だって言ってた。人の上に着地しなければ全て許される。

 

 交差点の角に位置する小さなビルの屋上から、集団の中心を覗き見る。悲鳴が上がって以降人が立ち去らずそこにいるのだから、まあそうだろうとは予想していたが、思った通り人が倒れている。胸から血を流しながら。凶器らしき物は見えないが、ショッキングな絵である。

 朝っぱらからこんなもん見つけて、とんだ災難だなぁ。本心から同情する。ただ、なんでこんなずっとジロジロ死体眺めてるかなと疑問には思うが。

 とりあえず消防と警察に連絡だけして、通報したらさっさと逃げればよくない? この世界の人その辺の感覚ちょっとおかしいよなぁ。まあ悪の秘密結社がオスプレイでマシンガンぶっ放す世界だから基準が色々頭おかしいんだろう。自分だけまともぶるなと言われると全くその通りでサーセンって話になるが。

 念のため通報しておこうかな、と考えていると遠くからウゥーとパトカーのサイレンの音。なるほど、誰だか分からないが通報はしていたらしい。なら、警察が来る前にさっさとランニングに戻ろう。こんなところから現場を覗き見ていたとバレようもんなら無駄な疑いを向けられるだけだ。

 だったら見るなよ、私も大概頭おかしくなってるな。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 翌日、同じように朝からてきとうに杯戸町を走り回っていると、またどこからともなく悲鳴が聞こえてきた。どうやら杯戸町ならセーフという認識は少し改めた方がいいらしい。

 昨日と同様に近づきすぎないように場所を特定し、近場の建物の上から覗き込む。昨日見た死体と同じように胸から血を流し、倒れている。発見者らしき男の人が大丈夫か? と声をかけながら肩を揺するが、何の反応も見せない。周りの人はダメ元で消防にも連絡したようだが、徒労に終わりそうだ。目を凝らしてよく観察してみたが、やはり凶器は見当たらない。

 ……これって連続殺人事件だったりする?

 予想は的中しており、さらに翌日には悲鳴を聞くことはなかったが、ランニングから家に帰ると三人目の被害者が発見されたことを報道するニュースが流れていた。

 警視庁からの発表によると、被害者に共通点はなく、通り魔的犯行と予想しているらしい。犯行は深夜、人目に付かない裏路地などでおこなわれているそうで、夜間の外出を控えるよう警告も出された。

 お母さんが怖いわね、とこちらを見たのでランニングは大通りですることにするよと笑っておく。ニュースの話を信用するなら、人目があり暗くなければ大丈夫だろうと予想できる。少なくとも私の感性ではまだ素の状態の米花町の方が危険地帯だ。

 ランニングの場所をもう少し遠くにしてもいいのだが、将来のことを考えたらあまり遠くに足を運んで地理を覚えることのメリットは少し薄く思える。世界の中心はこの辺り一帯なのだ。この近辺なら詳しいに越したことはないが、遠ざかるほど重要度は下がる。ただ、もちろんお母さんは納得していない。

「ランニングマシンでも買えば?」

 私の笑顔の回答にかえってそわそわし出したお母さんを見かねて、お姉ちゃんがめちゃくちゃ雑な案を出す。お母さんはそれなら安心ね〜と間延びした声で乗り気だし、お父さんは無言でチャンネルをテレビショッピングに変えたので、私も無言で番組をニュースに戻した。

 朝五時から家の中でドタバタする無神経さは流石に持ち合わせていないし、その通り伝えてみれば、発案者がそれは嫌だわと言って速攻で却下したのでホッと一息つく。だからお父さん、さっき見た電話番号メモするのやめて。買うなよ、フリじゃないぞ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「杯戸町の殺人事件のニュース見た?」

 朝一で挨拶より先に物騒な話題を振ってきたのはナイスバディことあゆちゃんだった。今日も今日とておみ足から肩口、指先まで麗しい。

「おはよう、見たよ」

 なんなら現場も。最低限の分別のつけた返事だけで済ませ、別の一言付け加える。早朝派でよかったよ。彼女は私がランニングで杯戸町に通っていることを知っているのだ。

「そりゃ、夜出歩かなければ平気かもしれないけど。わざわざ杯戸町まで行くのやめたら? 米花町……も、それはそれで危ないけど」

「それな。米花町走り回るくらいなら明るい杯戸町まで行く」

「おはよー。はるちゃん、杯戸町のニュース見た? 大丈夫?」

「おはよう、かなちゃん。なんで二人揃って私が巻き込まれる前提の話をするの? おかしくない?」

「自分の身に降りかかったこともしかして覚えてないの?」

 自分ですら身の回り物騒だな?? と思いつつも目をそらし続けていた現実を容赦なく突きつけてくるあゆちゃんおにちく。そこに痺れる憧れるゥ!

 そこに美少女改めかなちゃんは、はるちゃん変な人に絡まれやすいから気を付けてね、と追撃。こんなパーフェクトキューティーガールに言われるほど犯罪者ホイホイなこの身は一体なんなんだ? 私の体からはもしかしたら他人を犯罪者に導く特殊な磁場でも出てるのでは? 私のボディは米花町だった……??

 クソみたいな現実をこれでもかと突きつけられたが、まあ要するに二人とも杯戸町でのランニングを日課にしている私を心配してくれているに他ならない。うーん、この流れは推しこと降谷も参加する流れだな。「おはよう、石村、生きてるな」おはよう、もう第一声には突っ込まない。

 「おはよう、めっちゃ元気だから安心しろ。はい終わり」

「そうだ、降谷くんと一緒にランニングすればいいんじゃない? 安全じゃない?」

 最近ボクシングとその他トレーニングを始めたと話していたことを思い出したのか、かなちゃんがそんなことを言い出す。脊髄反射でどっちが? と返した私は悪くない。

 私が降谷を守るのか? 降谷が私を守るのか? たいがいそいつの方が襲われそうな顔してるんだけど、と言わなかった私偉い、空気読んだ。嘘です、危機察知能力が仕事しただけです。めっちゃ笑ってるんだけど怖いからやめろ。危機察知能力、仕事が遅え。

「なんか言ったか?」

「いえなにも」

「いいじゃない、お互い安全よ」

「室瀬?」

「勘弁して、刺される可能性上がるだけじゃん」

「どういう意味だ!」

 濡れ鼠で済まなくなるって意味だよ。言ってやろうかと思ったが、降谷のメンタル無駄に傷付けるだけだなと確信したので黙っておいた。私はなんて優しいのか……。

 代わりにもう少しマイルドに「通り魔じゃなくてお前のファンに殺される……」と遠い目をして言ってやれば押し黙ったので顔がいい人は大変だなぁと再認識した。大げさだと言わない辺り、自己把握が的確なので素晴らしいと思います。絶対お前とランニングはしない。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 連続通り魔殺人事件がニュースで報道されてから、そろそろ一週間が経とうという頃。早朝ランニングですれ違う人はだいぶ少なくなっていた。

 そりゃあそうだろう、なんせ出歩くなって言われてるのに出歩いた挙句、死体が三体増えたのだ。どの死体も心臓を一突きされており、ほぼ即死だということらしい。胸に血のシミを一つだけ付けていた二つの死体を思い出す。なるほど、猟奇的殺人犯としか思えないが、無駄な信条があるタイプと見た。

 そんな世情から、杯戸町で夜間に外にいる人はほぼ皆無となり、ほどなく死体の増加は止まった。しかし、犯人が捕まったという報道もなく、私が走っているような少し狭い路地では昼夜問わず人っ子一人いないようになっていた。冬も深まってきて日の出が遅くなり、時間帯的には朝だが明るさ的には夜明け前の薄暗がり。

 あっ、これあかんやつかな? と、思いつつも犯罪者の為に私の都合を曲げるのは非常にムカつくので、無視してランニングを続けていたら、とうとう遭遇してしまった。

 

 うわ、という途切れた悲鳴を耳が拾った。死体を見つけた衝撃で響き渡る悲鳴は散々聞いてきたが、今鼓膜を震わせたのはそういう響きを無理やりせき止めたような不自然さがある。

 そう、たぶん、叫び出す人の口を強制的に遮れば、あんな音になるのだろう。

 考えるより先に、音の聞こえた方に足を切り替えていた。確実に首を突っ込む形にはなっているが、突っ込まなかった時の後味の悪さを考えれば可愛いものだろう。

 耳の感覚と第六感を信じて入った裏道で視界に飛び込んできたのは、まだ少年と呼ばれるような男の子に跨り、ナイフを振りかぶっている男の背中だった。

 男の子は足をばたつかせて抵抗しているが、体格の差で逃げ出すには至っていない。なんとか自由に動かせる両腕でナイフを持った男の右腕を抑えているが、男が口を塞いでいる左手をナイフに加勢させればすぐ無駄になることは明白だ。もし分かった上で右手だけでじわじわ嬲っているのだとしたら、とんでもなく性格が悪い。さすが人殺し。頭がおかしい。

「おい!!」

 走りながら数十メートル先の背中に怒鳴りつけると、男は緩慢な動きでこちらに振り返った。なんだその謎の余裕。お前今現行犯やぞ、未来の警察官なめとんのか……、あー待て待て待て待て向きを戻すなナイフに両手を添えるな殺すの優先って本気でやべえ奴じゃねえかお前出る場所間違ってんぞ!! ここは杯戸町!!

「腕でみぞおち隠せ!」

 私の言葉にピクリと反応を示したのは少年ではなく、男。やっぱりこだわりあるタイプのサイコパスだったらしい。

 何が何だか分からない少年は言われた通り胸の前で腕を交差してバリケードを張り、心臓にナイフを突き立てられなくなった男は元凶である私に狙いを変えた。上等だこら、電気椅子送りにしてやらぁ。

 男は跨っていた少年の上から立ち上がり、左右に揺れるように私の方へ近づいてくる。右手のナイフがブラブラと力なく垂れた腕に合わせて、右へ左へとさまよう。なんてホラーテイストなサイコパスだ。普通に怖いので勘弁してほしい。

 走る速度を落とすことなく真っ直ぐに男に向かって行けば、威嚇だか捕捉だか分からないが、ナイフをこちらに向けられる。人にナイフ向けるの慣れすぎだろ、少しは躊躇しろ。

 お互い全く怯まないので、男との距離はほどなくしてゼロになり、ゼロになった時には私の左膝が男の鳩尾に食い込んでいた。ナイフを持った右手は、左手で明後日の方向に限界まで関節を無視させる。

 鳩尾での強打で気を失ったのか、曲がるべきではない方向に腕を向けて握力が死んだのか。どちらが先かは分からないが、ナイフがカランと地面に落ちた一秒後、男は力なく地面に倒れ伏した。念のため、ナイフは遠くに蹴飛ばしておく。

「君、怪我は? すぐに警察が来るから」

「あ、生きてる、おれ、いき」

 言葉の途中だったが、少年は地面に体を投げ出したまま泣き出した。私はその様子を見て息を吐く。よかった、生きてる。自分がしたことが無駄にならなかった安堵と、これでしばらくは杯戸町の方が安全だろうという打算で肩が軽くなった気分だ。

 わんわん泣いてる少年のフォローを特にするわけでもなく、ほぼ通報用端末と成り果てているケータイから百十番する。悲しきかな、友達ができたところで私は筆不精だったし降谷に至ってはケータイ未所持だった。

 そう言えば、本人から聞いたわけではないけど身内が居なかったような気がする。身の回り全部自分でやってるのかなぁ、そりゃあなんでも出来るあむぴが未来で出来上がるわけだわ。納得しかない、お疲れ様です。

 脈絡もなく、友人の将来を哀れんでパトカーの到着を待った。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 犯人の引き渡しやら事情聴取やらで当然のように学校は遅刻をかまし、遅れて入った授業では無駄な注目を浴び、授業が終われば友人らに取り囲まれ尋問まがいのことを受けた。くっそ、素直に休んでおけばよかった。なぜいつも犯人逮捕に貢献しているのに怒られるんだ、理不尽すぎ。まあナイフ持った男に蹴りかかったことを伝えたらさらに怒られるのでその辺は言ってないが。

 ランニング中に犯人らしき人間と遭遇したので警察に突き出したとだけ言っておいた、嘘ではない。いつも通り降谷あゆちゃんペアに訝しがられたが、嘘ではない。かなちゃんだけが危ないことはダメだよと優しく心配してくれる。すき。

「はるちゃんがあんまり危ないことばっかりするなら私も首突っ込むからね」

 あ、違う、私の正しい扱い方覚えた脅し系。正解。私は好きな人からのお願いに異常に弱い。全部イエスと言いたくなる。

「はるちゃんは、私が危ないことしてもいいの?」

「首かしげるオプション付きとか顔がいい自覚があって最高、すき、危ないことは減らします」

「言ったわね?」

「ああー、おっぱい押し付けるのやめて死んじゃう言いました言いました」

「降谷くんあと一押し!」

「えっ俺?」

 あゆちゃんの豊満なおっぱいと私のたくましく育ってきている上腕二頭筋がこんにちはしている。これはいけません、私の理性がさよならバイバイ俺はこいつ(おっぱい)と旅に出る。ぴかちゅう!

 鍛えた技では勝ちまくれない〜仲間は向こうで増やして私を持ち前の見映えで誘惑してくる〜余裕で屈する。無理。すき。はあ、お胸がふくよか……。なんか後ろの方で推しと推しが相談してるけど頭がクラクラしてよく聞こえない。

「石村」

「はあ……なに……」

「……俺いる?」

「いいから!」

「……心配だから、あんまり一人で無理するなよ? 人を頼れって、わがまま言えってお前が柊に言っただろ? な?」

「…………」

 想像してみてほしい。降谷が、あの降谷零が、私の両手を自分の両手でそっと包み込みながら、顔を覗き込んで、眉尻を下げて、少し目を細めて、憂いを帯びた声で、心配なんだぞ? と囁いてくる。

 えっ、現実? 夢では? 夢小説でこんなの読んだことあるもんこれは夢。圧倒的に夢。まごうことなき夢。誰がどう言おうと夢。こんなキャパオーバーな現実は無理、死ぬ。本当に無理。

 声にも顔にもある程度の耐性が付いてきているけどそういう次元じゃない。なめてんのか? こちとらお前の恋人宣言に別の意味で人生路頭に迷わせたことあるんだぞふざけてんのか。お前に会うために映画館通ったんだぞバカ軽率なことするなあと私いちおう異性だぞその辺も考えて行動しろ。勘違いするやつもいるんだぞさてはお前はハニートラップを得意とするバーボンだな???

「ほら、俺だと意味ないだろ」

「……むり」

「は?」

「しんだ……」

「は? なに、えっ! 待て! なんで泣く?!」

 限界超えて泣いた。降谷、お前自分の破壊力理解して。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 石村が何度言ったところで無茶するだろう、ということで、柊が提案したのは色仕掛けだった。ちょっと意味わからないが、石村が柊と室瀬の見た目にとんでもなく弱いということはそんなに長くない付き合いの中でも充分すぎるほど知っていたので、合理的だよなぁと感じてしまったのも事実だ。

 彼女は同性愛者とかではないが、可愛い女の子や豊満な女性が好きらしい。本気か? と聞いたら男でも同性をかっこいいと思うことはあるだろうと返されて、なるほど、納得したのは記憶に新しい。

 そして、好意を持って接してくる人間に対して非常に甘いということもわかっている。ただ、その好意を理解して受け取ってくれるまでがどうしようもなく面倒くさいのだが。人との間にある壁がべらぼうに高くて分厚いタイプなのだろう。

 俺は幼馴染に、壁はないけど深すぎて底が見えないお堀とその底に竹槍が埋まってるタイプと言われたので、なんとなく、理解出来なくもない。壁が見える見えないの違いがあるだけで、どちらも距離が遠い。そういう奴は、懐に入れてしまえば永遠に懐の中なので、身内に甘いのは仕方がないのだろうと思う。もっぱら俺のことだが。

 なので、まあ、要らないかなと思ったけど、二人にも後押しされたので、懐に入れているだろう俺も色仕掛けに参加したんだが、結果、泣かれた。

「むり……顔がいい……。声もいい……。垂れた眉毛可愛い……。お目目おっきい……。鼻高いし手もおっきい……。お肌すべすべ……。すき……推す……一生推す……」

「…………」

「やだ、絵面がめちゃくちゃ面白いわ」

「降谷くんこっち向いてー」

 発熱で眩暈がする。おい柊写真を撮るなやめろ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

和解(妥協)(理解)(悟り)(諦め)

 

 降谷にハニトラされて限界突破したので前世から秘めてた思いの丈を泣きながら切々と語ったら気まずくなった。しんど。私悪くなくない? 顔がいいのにそういうこと軽率にしてくる向こうが悪くない?

「ねえ、そう思うよね?」

「面白いからどっちでもいいわ」

「つらい」

 一ミリの同情も見せずにあゆちゃんは笑顔で一刀両断してきた。めちゃくちゃいい笑顔なので言葉通りただただ面白いんだと思う。かなちゃんが見せてくれたツーショット写真は項垂れながらほろほろ泣く女と、その女の手を取りながら褐色を覆い隠すほど赤面したイケメンという神がかった意味不明画像だったので、なるほど、ただのギャグ。私も第三者ならせせら笑うわ。ウケるね。写真送って。

 赤外線で画像をもらいゲラゲラ笑い転げる。いや、ほんとなんだこのシュール画像。どういう場面? なんで手取ってる方が照れてんだよ草。自分は照れるとかいうライン超越した奇行に走ったことは棚に上げておく。

 何度でもいうがあれは自分の顔面偏差値の高さの自覚しかない降谷が悪い。お前の脳内では偏差値六十くらいかもしれねえけどそんなもんじゃすまねえからな、私は死ぬ。

「はるちゃん、降谷くんのこと好きなの?」

「そりゃ好きでしょ。どこ嫌いになるの?」

「そういう感じかぁ」

「恋愛のれの字もないわね。ますます降谷の態度が笑えてくるわ」

「ほんとそれな。私が言ったのはかなちゃんに可愛いすきとか、あゆちゃんにえっち抱いてって言うのと同じなんだよ。いちおう気を使って今までそういう発言を控えていたのに……向こうが誘惑するから……」

「自重って言葉知ってたのね、驚いたわ」

「あゆちゃん私に辛辣すぎでは?」

 ここは私の理性を褒め称えるタイミングですよ? 悲しい、と両手で顔を覆い隠してさめざめと泣いたふりをしていたら、かなちゃんがよしよしと頭を撫でてくれた。タッグによる飴と鞭が完璧すぎる。これは一生頭が上がりませんわ、間違いなく二人の尻にひかれる我々の業界ではご褒美です喜んで馬車馬の如く働く。

 国のためには働けないが、好きな人のために身を粉にして働こう。今決めた。推しが生きる国を守るからな〜、他の人類もおまけで勝手に各自救われてくれ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 降谷とはるがひときわシュールなコントを披露してから半月ほど経った。気付いたらそんなに時間が経っていて、あれ以来二人はさっぱり絡んでいない。席が遠くなっていたことがこんなところで弊害が出るなんて。いや、弊害なのかしら? 少なくとも最初の方は露骨に降谷は安心していたので、全部が全部悪い方には転がっていない。

 ただ、その平穏に甘えた結果ずるずると気まずさを引きずって今や降谷の方が今更どうすればいいんだと頭を抱えている状態だ。バカじゃない? ちなみに、はるははるで、向こうから来ないならこっちからは行かないという、典型的な去る者追わずタイプなので降谷へのダメージだけが深刻。来るもの拒むタイプなんだから、それくらい予想できたんじゃないの? 究極的に淡白じゃない、あの子。

「今回のこと、俺が悪いのか?」

「知らないわよ。はるに聞いてそんなこと」

「聞けるか!」

「大丈夫よ、別に変な意味全く含んでないから。イケメンに顔がいいって言ったぐらいの気持ちしかないわよあの子」

「それに対して俺はどうすればいいんだよ」

「礼でも言っておけば?」

「おかしくない?」

「はるが頭おかしいんだから平気よ」

 ひっちゃかめっちゃかな理論だが、向こうも思うところがあるらしく微妙すぎる顔になった。一理ある、と思いつつも認めたくないってとこかしら。ほぼ認めてるようなものでしょそれ、と思いつつも黙っていてあげることにした。そろそろどうにかしないと、たぶん一生このままだというのは降谷も薄々気付いているんだろう。目に見えて焦っているが、いい案もなくて右往左往してなにも改善していない。

 ちなみに、はるには自分からどうこうするつもりはない。顔がいいやつは存在するだけでいいそうなので、別に仲良くしなくてもいい、というのが本人談だ。こわ。人の心ないのかしら?

「ともかく、さっさとどうにかしないとどうにもならなくなるわよ。私は別に、それでも困らないけど」

 分かってるよ、とうなだれた降谷はたぶん私の言っている意味も、はるが口からドバドバ垂れ流した言葉の真意も分かってないのだと思う。その辺りは男と女の考え方の違いなので、仕方ないといえば仕方がない。

 女の口から出てくる賛辞の言葉は、男が考えるほど深い意味もなければ重い感情も持たないものだ。下手したら真逆の意味の場合もあるが、はるはそういう嘘をつくタイプではないのでその辺は疑わなくてもいい。ただ、深読みするほどのこともない。

 額面通り受け取ればいいだけなのだから、本当に、あの言葉への返事はありがとうぐらいで充分なのに。

「分かってないわね」

 まず、頭を抱えるのが間違ってるの。言ってもわからないだろうから、こればっかりは自分でどうにかしてくれないと、なんともない。降谷を手で追い払いながら、叶恵にもう戻ってきていいわよとメールを送った。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 結果だけ先に言うと、降谷とはあれ以降一言も話すことなく冬休みを迎えた。私が推しを合法的に眺めるにはまだ早かったという神からの思し召しだと思うことにする。せっかく仲良くなれたと思ったのに悲しいね。

 しかし、考えるまでもなく顔で苦労してそうな人間に、切実なノリで顔がいいとか言ってしまった私の軽率さも悪かったかなと、今となっては少し反省もしているので潔く諦めた。目算、あと十年くらいの辛抱だし余裕余裕。それまで私は降谷零の部下に相応しい人間になるべく鍛えておこう。私の超合金メンタルをなめてはいけない。これくらいではへこたれない。

 冬休みに入って私がしていること言えば、夏休みとほぼまったく同じである。筋トレ、ランニング、勉強。近所でいろんな道場の体験入門に片っ端から参加して独学の間違ったところを修正したり、道具がなくて諦めていた剣道の体験行ったら金はいらんから通えと半ば脅されたり。

 ダメ元でお父さんに相談したら即日道具一式と月謝を用意してくれて、めでたく剣道を本格的に始めることになった。お父さん私に甘すぎでは? いや、普段わがまま全く言わないからかな……年頃の娘の久々のおねだりが剣道道具一式か……ありがたく使わせていただく。

 翌日道具一式持ってお邪魔したらマジで月謝を一度拒否された。正気かこの人。いやもしや私にそこまでさせるだけの天賦の才が……?! と脳内でふざけるのはそこそこにして、無償は流石に胃に悪すぎることもあってお父さんに頼んで説き伏せてもらった。

 しかし、「責任持って教えていただくということでしたら、それなりの報酬を受け取っていただけないと信用できません」はあまりにも正論パンチ。なるほど、確実に私のお父さん。

 

 と、言うわけで正月早々私は剣道場に来ている。三が日とは。

 いや、教えていただくことに文句があるんじゃなくて、教える側の休み的な意味で。そんな年明けてすぐに働き出さなくてもいいじゃない……これがジャパニーズ社畜……、いや、道場の師範代は社員じゃねぇな??

 聞けば、どうせ毎日剣は振るのでそこに私がいるかいないかの違いしかないそうだ。社畜じゃなくて武士だった。剣の道に生きるってこういうこと言うんかな。ボキャ貧で申し訳ないがすごいわ、カッコいい。

 むしろ、私が正月からどうかと言われて喜んでと答えたことの方が驚かれていた。今時の子は友達や家族と遊びに行ったりするんじゃないかと。おっと、これはぼっち疑惑かけられてるかな? 最近友人一人減ってしまったのでそういう話題は慎重にお願いいたします。泣いちゃう。嘘だが。

「そうですねぇ。まあ、遊びたいお年頃だとは思います。けど。あれです、努力って前倒し出来るので。今やっておけば、遠い未来で私の役に立つかもしれないんですよ。立たないかもしれませんけど」

 私は人並みの人生なら一度送ったことがあるので知ってる。

 日本という国でいえば、てきとうに学校に通って、てきとうに就職して、てきとうでもそれなりの人生は送れる。高望みせず、全部程々でいいというなら適宜ちょっとした努力で生きていける。とてもサボりやすい国だ。昔の私の気持ちのままいえば素晴らしいの一言だが、今の私はちょっと違う。

 今の私は高望みをしている。程々では到達できない。なにせ、常に目の前に人参ぶら下げられているのだ。ほら、お前が頑張れば美味しいご褒美が待ってるぞって。そりゃあもう、頑張るしかない。望みは推しの合法的観覧権だ。人生賭ける価値もある、あまりある。

 なので、出来ることは全部やっておくしかない。剣道は警察学校で選択できる武道の一つだし、今ここで経験値を積んでおくことは全く無駄ではない。大学校の方に万が一で進めた場合も、幹部育成以外があまり学べないことを考えれば、獲得できる時に自己防衛術を学んでおけば大きなアドバンテージになる。役に立つかは置いといて。

 残念ながら、努力したところで役に立つとは限らないことも、私はよく知っている。人生なんだから、そんなもんだ。全部うまくいくことはない。

「人生十数年とは思えない言葉だな」

「いやあ。若輩者が生意気言って申し訳ありません」

「逆だ。若輩者がたどり着く言葉ではない。ふむ、私の勘もまだまだ現役らしいな」

 顎に手を添えて薄く笑った師範代は、名前を黒川敏春といい、自称昔はぶいぶい言わせた人物らしい。その類の人の現役宣言は普通に恐怖的な意味合いで不安を煽るのだけど、教えを請う身なので口には出すまい。なぁに、死にはしないさ死には。

「よろしい。では、教える前に一つだけ聞いておこう」

「なんでしょう?」

「君の前倒しの努力は、なんのためだ?」

 ふむ、随分と抽象的な質問である。何を聞きたいのだろう。現代文のテストなら、質問者、つまりは出題者の意図を理解して答えるべしという鉄則があるわけだが、これは点数をつけるテストではない。ただ、お眼鏡に適うかどうかの分岐点ではあるのだろう。しくじったからと言って指南をやめるということはないだろうが(そもそも月謝いらんから来いと言われた身である)、及第点を出せればぶいぶい言わせてなんなら現役ってお方のガチ指導が受けられる可能性があるわけだ。そそられる。

 もっとも、そそられるからと言って、気に入られるために媚を売れるかと聞かれたらそこは所詮私なので無理な話だ。特になんの変哲もなく、つまらない回答をする他ない。

「私に限らず努力とは、当人のためだけにあるべきでしょう」

「正しいな。確かに、君の綺麗事はしかと聞いておいた」

 綺麗事と言われてしまったが、笑顔なので悪くはなかったのだと思うことにする。しかし、自分のためですって回答が綺麗事とはこれいかに。人生の先達は考えることが違うんだろうなぁ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 それなりに険しい人生を歩んできて、それなりに多種多様な人間を見てきた。職業柄と言えばそれまでだが、人を見る目も養われた。なので、目の前に現れた少女には言いようのない違和感を覚えた。

 なんだ、この感じは。この少女は、一体なんなのだろう。

 学びにきたきっかけも、自分に合う武道を見つけたいと至極真っ当な答えだ。いや、現代人として武道を身に付ける必要があるかと聞かれれば、確かにそもそも不必要ではと思わなくもないが。物騒な世の中であり──なにより物騒な町なので、とそこは納得できたが、答えは別にあった。

 彼女は、将来は警察官になるのだという。夢だとは言わなかった。

 才能はある。真っ直ぐ伸びた背筋、ぶれない体幹、柔らかい手首、そしてなにより、勘がいい。聞けば日頃から鍛えていると答え、それも将来の為なのだろう。目標を正確にし、その達成のために的確な努力を積み上げる様は、誰が見ても十五、六の高校生の姿ではない。あまりにもいびつだ。

 そして、その自身の努力も徒労に消えるかもしれないと平気で言ってのける姿は、異常以外のなにものでもない。

 おそらく、彼女はどこかがおかしいのだろう。私が抱いた感覚は、悲しいことに正しかったようだ。

 なのでせめて、道を外れないようにしてやれればなと思った。

「私に限らず努力とは、当人のためだけにあるべきでしょう」

 全ては自分の為におこなうのだと、役に立つかも分からない努力を積み上げる彼女が、その真っ直ぐさのまま、間違った方向へ進まないように。

「正しいな。確かに、君の綺麗事はしかと聞いておいた」

 その鋭さすら伴う一本道が、綺麗事になることを祈るとしよう。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 剣道キッツイ。楽しいけどキッツイ。よく考えなくても私は今まで独学で格闘技的なものを会得したり、体力づくりとして筋トレやらランニングやら色々頑張ってきたけど、対人で鍛えたことは全くなかった。ぼっちだからねやかましいわ。

 すでに両手の指じゃ足りない程度にはクソ犯罪者を豚箱送りにしてはいるものの、あれだ、頭を使ってぶちのめしたことはない。人体の急所を的確につけば人は倒れる。以上。ぐらいのレベルしか、実は私にはなかったのである。

 そこにきて、ごりごりの師範代からのどスパルタ鍛錬。いや、鬼かな? 尋常じゃない速度で体に痣が増えてる、なら、わかりやすいんだがなんとびっくり、私には筋繊維の悲鳴以外の実害がない。めっちゃいい音してしばかれてるんですけどね? 痣とか全くないね?? これがプロの犯行。そりゃ痛くないのに痣になるわけないね、ガチすぎて師範何者なの……と震えている。指導者ガチャでとんでもない当たりを引いたらしい、最高かよ。

 三が日は本来、道場は休みの予定だったらしいが、来れば指導はすると言っていただけたのでありがたく三日間朝から晩まで素振りやすり足などの基礎を叩き込んでもらった。

 あとは礼儀作法。全く知らんかったのでとても助かった。竹刀の先を床につけたらだめらしいぞ、道具は大事に扱おうな。と、三日分のハイライトはザ初心者向けビギナーコースって感じだったのだが、四日目から急にドリフト走行決め出した。なぜか他の門下生帰った後に特別待遇で滅多打ち。振り落とされなかった私、えらい。いや、知らんところでジュゲムに引き戻されてるだけかもしれないが。

 そんなわけで冬休みの思い出は、相手の初動に反応できるようにならんと将来的に死ぬということを体に覚えさせられた。これに尽きる。花のJKの冬の思い出じゃねぇよ、正直めちゃくちゃ楽しかったです。

 学校が始まったら毎日しばき倒すわけにもいかないからということで、通常時は平日二日と土日に通うことになった。追加で来たいときは事前に電話さえ入れればいつ来てもいいという優遇っぷりである。やべえ、勉強する時間を確保しなくては……。剣道にうつつを抜かして学業を疎かにしそうな未来を受信した。気を付けよう。

「というわけだから、しばらく遊べない。ごめんね」

「あんた、煩悩まみれなのかストイックなのかどっちなのよ」

「そもそも誘っても来てくれたことほとんどないよ、ひどい」

「えっそんなに断ってた?」

「いいね〜とか、機会があれば〜とかはよく言ってるよ」

「すごい、断る常套句」

 残念ながら私には全く自覚はないが、これはどうやらそれなりの回数それとなく断っているらしい。二、三回くらいは、ああ、言ったような気がするなってのがあるんだが、かなちゃんにひどいと形容されるくらいなんだからなかなか無意識に拒否してるらしい。

 残念ながら腰が重いのは昔からなのでこればかりはなんともならない。行けば楽しいんだけど、行くまでが長い。引きこもり気味のクソオタだから許してほしい。なんなら本人結構遊びに行ってるつもりだから。月二回って妥当な数字じゃない? 結構遊んでない??

「遊び呆けてる奴は毎日帰りにどっか寄ったりしてるわよ」

 高校生のバイタリティ凄いな、前向きに検討いたします。

「毎日とは言わないけど、たまにははるちゃんの好きなことしに行ったりしようよ」

「私の好きなこと?」

 急に趣味嗜好の話になった。クレープ食べに行ったりとか、と提案して来たのがあゆちゃんというのは少し驚きだが、なるほど、そういうのも遊びに行くにカウントされるのか。甘いもの好きなんだねぇ、と呑気に笑いながら考えてみるが、私の趣味とはなんだろう。改めて聞かれると困る。なにかあったかな。

 オタクなのでもちろん、漫画もゲームもアニメも好きだ。思い出補正とリアルタイムを同時に噛み締めることができる稀有な存在という意味では、オタクの中でも頭ひとつ抜けている、かもしれない。が、アニメはともかく、漫画もゲームも大して所有しているわけではない。なぜなら金がかかるから。給料を全ツできた社会人時代とは違うのだ。そうなると、それらを趣味と語るのは気が引ける。

 それらを除外して改めて考えてみると、やべー答えがひとつ出てくる。

 今の私は人生そのものがコンテンツになっている。さらに、そこに最推しが降臨して、その衝撃で私の脳みそはパーンして、人生賭けてそいつを観察してやろうという決意をした。ここにしかいない一般異常者。

『趣味は降谷零くんの顔を眺めるために私が何をすべきか考えて実行に移すことです☆』

 ヤバすぎる秒でムショか病院送り、お巡りさんこっちです。よし、私は無趣味だ。

「特にない」

「え、筋トレ趣味じゃないの……?」

「……義務?」

「はるの警察官に対する異様な熱意はなんなの?」

「趣味かな……」

 ちょっとよく分からないと言われてしまったが、残念ながら嘘ではないし間違ってもないのではははと笑っておくしかない。仕方ない、だって二人が想像してる私の人生設計には、前提が一つ足りないのだ。

 警察官になるので身体を鍛えておこう、じゃなく、降谷零を眺めたいので警察官になろう、なら鍛えておくに越したことはない、が正しい。

 なので、筋トレが義務で警察官志望が趣味は一ミリのブレもなく正答。人としては大いに誤り。この秘密は墓場まで持ってく。

 折衷案ということで、今度ボルダリングに行くことになった。何と何の間を取ればその結論にたどり着くのかは置いておいて、競技的な壁登りはやってみたかったので非常に嬉しい。現実のビルの壁登る技術はあるんだけどなーという本音は黙っておく。

「あ、でも土日は剣道あるから平日の学校帰りがいいです」

「それなら明日は体育ないし、どう?」

「善は急げだねー、明日にしよう!」

 決断力と実行力におののきながら、明日ボルダリングに行くことになった。楽しみ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「あ、降谷くん。今日の放課後ボルダリング行くんだけど、一緒に行かない?」

 かなちゃんは勇者か何かかな? 降谷の目は思いっきり後方に並んでいる私とあゆちゃんに向けられている。いや、石村いるだろ……? ちょっと……って、視線が言ってる。

 私も半分くらいは悪いとはいえあまりにも露骨な拒絶にちょっと泣きたい。はあー、私が何したっていうんだよ、ちくしょう。私がしたのはセクハラだよ。すみませんでした。

「……行く」

 え?!!!!! 行くの?!!!!! こそっとあゆちゃんに、降谷来るなら私行かない方が良くない? と耳打ちしたら、なんとびっくりめちゃくちゃ軽ーくではあるけどほっぺを引っ叩かれた。

 さらにはものすごい形相で肩を鷲掴んで「あんた、もし来なかったら絶対に許さないから……」と地を這うような低い声で脅された。ひえっ……見たことないガチトーン……、確実に行かないと命の危機が待ってる。ちらりと降谷を見てみると、目が合ったのち思いっきりそらされる。いや、行かん方がええやろこれ……。

 

 以上が本日お昼のハイライト。現在くだんのボルダリング場にやってきているが、妙に空気が重い。何故二人は私たちを置いて飲み物を買いに行ってしまうのか。まあなんとなく仲直り? させたいんだろうなっていうのは分かるけど、したいかどうかはまた別やぞ。主に向こう。

「あのさ」

「はい」

 思いっきり身構えていたところに話しかけられたので、反射で敬語で返事をしてしまった。素直ないいお返事は降谷のお気に召さなかったようで、なんで敬語なんだよと文句を言われた。わずかに眉間にシワが寄っているのでどうやら本気で嫌だったらしい。さーせん……。

「いや、咄嗟に」

「……悪い」

「はい?」

「その、避けてたのは、俺だろ」

「まあ、そうだね」

「フォローしろよ」

「私に対して理不尽すぎるでしょみんな」

 私相手だったら何言ってもいいと思ってません? 顔がいいので全員全部許すけど。私は心を許した相手にだけは大海原レベルで寛大なのでな、そんなことは海の広さに比べればちっぽけな話ってやつである。そんなことよりボルダリングしようぜ。

「別に構わないんだけどね、そんなことより壁登ろうぜ」

「なあ、お前、なんでそんな平然としてるわけ?」

「うーん。私としては、降谷があんなに避けてたのに、今ここにいることの方が不思議なんだが」

「……本当は、冬休み入るまでになんとかしようと思ってたんだよ」

「何を?」

「俺の気持ちの整理を!!」

「へえー」

「雑!」

「仕方ない。私から言うこともうないよ」

 思いの丈はすでに語り尽くしたので、あとは降谷の消化待ちだ。消化できないなら仕方ないなって諦める。というか、消化出来なかったんだなぁ、そりゃそうだよなぁと諦めた。何度でもいうが、それは仕方がないことなのだ。

 私は悪いことをしたとはあんまり思ってないけども、降谷だって悪いことなど全くしていない。いや、ハニトラは降谷が全面的に悪いけど、そのカウンターパンチに耐えられなかったことに非はない。

 なので、気持ちの整理とやらがつかないなら、つかないままでも一向に構わないのだ。私はそれを責める権利はないし、降谷はそれにさいなまれる義務はない。要するに無茶すんなよって話だ。友人を選ぶ権利は誰にでもある。

 ちょっと無茶しがちな友人をたしなめようとしたら泣かれた上にセクハラされた降谷は、そういう人とはちょっと……、と拒否する権利は当然あるわけだ。まあ私もある意味セクハラされたわけだがそこは実質ご褒美だったので別にいい。思い出すと降谷のいい香りが鼻腔に湧き上が以下自主規制。

「言いたいことがあれなのか……」

「溢れ出るパッションが止まらんかった。すまんな」

「親指立てるな。あー、なんだ、普段からあんなことずっと考えてるのか?」

「現在進行形だぜ」

「えええ……」

「神の造形美を持つ至高の男が目の前にいるから仕方ない」

「そういうこと本人に向かって言うか?」

「耳が赤いぞ色男」

「……わかった、室瀬が言ってた意味が。しっかり理解した」

 はて、なんかあゆちゃんに言われているらしいけど、何言ったんだ。しょーもない感想にマジレスすんなとかそんなとこかな。アドバイスが的確すぎてウケる。

 因みに一度ストッパーがぶっ壊れると理性が死ぬので、今後自制して発言できる気がしない。まあこの間レベルでぶっ飛ぶことはほぼないだろうけど息をするようにはあー顔がいいとか言いそう。……言うわ。その辺まで理解できてるかは怪しいなぁ。まあ困るの私じゃないしな、いいか。

「俺は褒められたんだな、うん、ありがとな」

「どういたしまして?」

「壁登るか」

「そだね」

 色々諦めたらしい降谷に促されて、ようやく壁登りを始める。当然のように中級者向けから始める降谷は大して苦もなくスルスルと登っていく。さすがかよ、お前は何が出来ないんだ。

 私はビルの壁いけるしワンチャンと思ったので上級者向けから登る。死ぬほどキツかったがなんとか登れた。感想としては、ビルの壁の方が圧倒的に登りやすい、これに尽きる。垂直かつ一定間隔で窓とかあるのは偉大だなって思った。

 あと、筋トレしすぎはあれかなって感じだ。筋肉って重いんだなってようやくはっきり自覚した。ちょっとだけボディビルダー的な肉体に憧れていたけど、実用性を考えてあまりゴリラになるのはやめよう。筋トレしすぎて衣装が入らないって怒られるアイドルみたいになってしまうかもしれないし。それは自己評価が高すぎ。

「指先懸垂できるぞここ!」

「お客様! 危ないのでやめてください!」

 ヒャッハーしてたらスタッフさんに怒られて三人から生暖かい目で見られた。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「降谷くん、大丈夫?」

「…………!」

 かなちゃんが四つん這いになった降谷にペットボトルを差し出す。ゼエゼエと荒い息を繰り返している彼の心情を表すなら屈辱だろうか。いや、流石に大げさかな?

「もういっかい……」

「悪いことは言わないから、やめときなさい……」

 撤回。全く大げさではないらしい。なるほどな〜、プライドが高い。ぐびっとペットボトルを傾けてお茶をあおれば、喉を通る液体が気持ちいい。うはー、緑茶がうめえ。思わず銭湯スタイルにもなる。水分補給したしもう一回登ろうかな。

「私もっかい登ってくるね」

「おれも」

「やめなさい」

「はるちゃんも、やめたげて……」

「降谷が往生際悪いだけじゃん。何回やっても私が勝つもーん」

 そりゃあね? プライドエアーズロックな降谷くんは? どっちが早く登れるかって勝負をけしかけておいてね? 負けちゃった上にリベンジしようとして最終的に先にバテちゃってね? 我慢ならないとは思いますけどね??? 私はまだ余裕があるので壁を登りたいんだよ〜、楽しいぞこのスポーツ。

 頭使うし筋肉使うしめちゃんこトレーニング向き。実戦向きなのがなおのこと良い。筋トレからこっちに切り替えたい。剣道と並行して通うかな、いやお金が足りないな……。うーん、悩む。悩んでる間に一番上までたどり着いた。うーん、やっぱり今日限界まで楽しむだけにしよう。

 無心で登ったり飛び降りたりしていたら、いつの間にか復活していた降谷が躍起になって追いかけてきた。鬼気迫る勢いで追い抜いて行ったのですれ違いざまに脇腹突っついてみたら、変な声出して落ちていった。SSR級のレアボイス聞こえた気がする、やったぜ。あ、地獄の番人みたいな顔してる、降りたくねえな。

 





黒川敏春(師範)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

降谷零を合法的に眺めたい

タイトル回収みたいな


 

 私は考えた。すでに真正面からあれだけ顔がいいと泣き喚いたのだから、別に公安警察に配属されて部下になる日を待たなくても降谷の顔を拝んでもいいのでは? と。

 ほら、降谷も私の態度に諦めたみたいだし、私からどれぐらいの熱量で推されてるか二割ぐらいは理解してくれたと思うし。

 逆に二割ぐらいしか理解出来てないとも言えるが、十割理解する日はおそらく一生涯来ないので二割も理解出来てれば十二分だ。無自覚に日本国民全員抱く(予定の)男だからな、大味な感じもいいと思います! 私は! お前を! 生涯推すぞ!!

 と、いう熱意を込めて熱視線を惜しみなく送ってみたら、尋常じゃないレベルで嫌がられたので異議申し立てをいたします。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「その異議は却下します」

 腕を組んで無情な裁定を下した裁判官はもちろん降谷零その人である。

 お互いがお互い、被告か原告か弁護側か検察側かは分からないが、少なくとも判決を下す側にいてはいけない立場なのは変わらないので、まずお前が却下する権限を却下する。第三者にお願いしないといけないので、そこはかなちゃんにお願いしようじゃないか。

「かなちゃーん、ちょっと弁論を聞いた上での判断が欲しいんだけど」

「柊だと若干お前寄りの判断出すだろ! 不公平だ!」

「降谷が直接下すよりはまだ公平ですぅー!」

「室瀬裁判官の招致を要求する」

「面白そうなら喜んで」

「あゆちゃん私の味方してくれないじゃーん、やだぁー!」

「あからさまな不正やめろ」

「私べつに絶対はるちゃんの味方するわけでもないよ?」

「なんだと??」

 おや、これは実質三対一の流れでは? と思いつつ、開廷したのは私なので仕方なく話を続けることにする。

「争点は私に降谷の顔を眺める権利があるか否かです」

「閉廷。興味ないわ」

「せめて判決下して?」

「ありません。閉廷」

「降谷に聞いてない!」

「いや、降谷くんがないって言ったらないよ……」

「マジで味方されなかった」

 秒で閉廷された上に権利は認められなかった。他者の顔の観覧権は基本的人権には含まれないそうです。ここはテストに出ないので覚えなくていいです。そんなこと言われたら私人生の目標は見失うんですけど勘弁してください。

「……顔がいいやつ眺めたいなら柊とか室瀬見てればいいだろ」

「苦渋の決断で自分のこと顔がいいって評したわね」

「かなちゃんとあゆちゃんは当然眺めるし、降谷はまた別腹なの」

「降谷くんもすぐに慣れるよ」

「ふつうに嫌なんだが……」

「やだ〜推しの顔を眺めたいんだよ〜」

「もう石村がどうしたいのかよくわからない」

「言ってる通りのことしたいんだと思うわよ」

「なら黙って勝手に眺めてればよくないか?」

「そんなのストーカーじゃん、犯罪ダメ絶対」

「倫理観狂ってるのか?」

 狂ってる自覚があるから自白して承認制にしているのだが? 三分の一も伝わらない純情じゃない邪な感情……。別に伝わらんでもいいから諦めて顔を拝まれろよ頼む。

 いやまあね、たしかに勝手に眺めてればええやんって思ってたよ? 半分くらいは今もそう思ってるよ? けど残り半分の私の理性が──半分もないかもしれないけどそれはおいといて──ほんとにそれでええんか? って聞いてくるわけですよ。

 特に、みんながみんな変なやつから熱視線を向けられること多そうだったから、申告しておいた方がまだマシかなって。私はあなたの外見が最高に好きなのでめっちゃ見ます! あれ、申告したところでストーカーとの違いがわからんね? ただの自己主張強くなった厄介では?

「言ったところでストーカー紛いのことしてる事実は変わらないわよ?」

「……ね? 今気付いたわ、どうしよう?」

「やめればいいんじゃないか?」

「人生とかいうクソゲーまじクソ」

「そこまで?!」

 はあ〜なんだよ〜。推しの顔も満足に眺められないこんな人生キングオブクソ。これがリアル補正か、つらい。立体になった推しの尊さと現実という世知辛さで雁字搦め。

 平面って偉大だなー! 二次元しか愛せなかった前世を思い出すわ、三次元は難しい。三次元になっても麗しいどころか、なお素晴らしさに拍車がかかった推しが生きていてくれているというのに。

 生きてることを尊重しろと完全に神が言っている。お前の推しには命があるんやぞって脳内で説教垂れてる。感情持ってるんやぞってお怒りである。全くもってその通り過ぎてぐうの音も出ない。

 うっ、仕方ない諦める……。仲良くしてくれるだけでいいんだって諦める……。それだけでも間違いなく身に余る至高……。むしろ喜びで身を滅ぼすレベルで至福……。

 そうだ元気を出せ、むしろ凹んでるなど許されないぞ、おら、その代わり顔をジロジロ見るな。それだけのことだろ。うっ、無理、仲良くなってしまったので今の私はどうしようもなく強欲。だって推しが私のわがまま聞いてくれるワンチャンあるんだもんわがまま言わせてくれ〜、理性総動員して我慢しろこのうんこ〜。脳内戦争が忙しすぎてニューロン焼き切れそう。

「……分かりました。降谷くんのことをジロジロ見るのはやめます……」

「敬語やめろよ……お前のそういうとこ怖いんだよ……」

「理性のスイッチ入れるのにはこの方法しかねえんだよ……」

「すでに理性ぐらついてるけど大丈夫?」

「大丈夫大丈夫私は煩悩の塊だけど推しの本気で嫌がることはしない絶対しない」

「具体的にどうするの?」

「私から降谷くんには一切近寄りません」

「えっ」

「私用では絶対近寄りません、ご安心ください」

 それではさようなら、と三人からふらふら離れる。もうやる気ないので次の授業サボろう。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 頭が痛い。なんで石村はゼロか百しか選択肢がないんだ、おかしいだろ。振り幅大きすぎて対応しきれない。絶対俺は悪くない。

「降谷くん元気出して」

「見られるの我慢するか接触しないかの二択よ、諦めなさい」

「おかしいだろ……!」

「この間も、はるは頭おかしいって言ったでしょ! 降谷も知ってるでしょ!」

「むちゃくちゃだ……」

 俺が責められてる意味もわからないし、石村の結論も意味わからない。ジロジロ見ないためには交友関係断たないとダメなのあいつは? まともな会話も出来ないってことか? でも言われてみるとあいつ確かに人と話すときあんまり顔見てないな……。目が合わないことが多い。

 ……そしてなんで俺はこのタイミングでまともに会話をしてなかった時のことを思い出すかな、石村の言ってたこと本気じゃないか。消しゴム受け取ろうとして差し出した手を完全にスルーされたのはそういうことか。視線合うたびにそらされてた意味も完全に理解した。思い返せば思い返すほど、本当に勝手に眺めていない。本気でこっち見てない。マジかよ。なんなんだそのポリシー。

「別にそんなしょっちゅうするわけでもないけどね。たまにだよ。それに、はるちゃんジロジロ見た後、褒めてくれるし、好きって言ってくれるよ。私は嬉しいけどなぁ」

「完全主観で喋ってるからね、悪い気はしないわ。……もっとも、降谷が耐えられるかって言われると、うん、頑張りなさい」

 頑張れない、無理。だって俺、見たことあるぞその場面。柊の真正面に立って「かなちゃんは今日も可愛いねーあっいつも可愛いけど。いつ見ても可愛い。この世に舞い降りた天使。神が遣わしてくれた天使。穢れが晴れる気がする。すき、一生すき」って言ってたやつだろ。同じようなこと言われろってこと? 無理無理無理無理。女子同士だから許されるだろうけど、俺相手だとまず周りが面倒くさいし俺自身耐えられない。この間の二の舞。絶対やだ。思い出すだけで死にたくなってくる、あまりにも恥ずかしい。羞恥心で人は死ねる。

「勘弁してくれ……」

「それだとはるちゃんと永遠にさよならだよ?」

「サラッと胸抉るのやめてあげなさい」

「だってやるって言ったらやるんだもの、はるちゃんだよ?」

 それは俺も知ってる。あいつは近寄りませんと言ったら本当に近寄らないだろう。ポジティブに言えば意志が固いが、ネガティブに捉えれば死ぬほど頑固だ。梃子でも譲らない。聞く耳を全く持たないタイプではないので説得の余地は基本的にあるが、今回に限って言えば折衷案が出せない。なにせ、結論を出すのは俺で、石村はそれに従うというスタンスだからだ。

 要するに、俺が折れるか、柊が言ったように永遠にさよならかのどっちかと言うことだ。究極すぎる。

 お前は舌を噛み切るような思いで結論を出しているんだろうが、その結論に俺は舌を噛み切りそう。ちくしょう、答えは一つだった。正直分かってた。諦める。諦めればいいんだろちくしょう。

「次サボるから、てきとうに誤魔化しといてくれ」

「はいはい」

「頑張ってね〜」

 ああああああ頑張りたくない頑張りたくない。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 気分が悪いので休ませてください、と死んだ魚の目を引っさげて言ってみれば保健室の先生は疑うこともなくベッドを一つ貸してくれた。優しい。保健室に来るのはこれで二度目だけど、いつ来ても先生優しい。

 ……いや、違うな、いつもとんでもない風貌で現れるからだわ。今日は目が死んでいるし、前は濡れ鼠だった。要らん心配をかけてしまって申し訳ない、とりあえず今は心の平穏のために寝かせてプリーズ。しんどい時は寝るに限るね。走り込みでもいいんだけど、サボりすぎても良くないからね。この一限だけサボったら教室に帰ろう。今は寝る。

 シャッとカーテンを引いたらコンマ二秒後にシャッとカーテンが開かれた。そしてなぜかいる推し。は???

「…………え、ベッド譲りましょうか?」

「サボるんだろ、もっといいとこあるぞ」

 問答無用で手を引かれて保健室を後にする。先生があらあらみたいな顔して見送ってくれたが、残念ながら期待してくれてるような甘酸っぱい空気はない。さながら処刑台に連行されてる死刑囚の気分だ。鳴り響くチャイムが鎮魂歌のごとく響き渡り、ますます目が死んだ。さっきの今でプラス思考な想像できるほどメンタルタフじゃねえぞ。

 降谷に連行されてたどり着いたのは図書室だった。いや、授業中は開いてないでしょ。試しにドアに手をかけて引いてみたが、やはりビクともしない。そんな私をちらりとも見ないで、降谷は斜め後ろの司書室のドアをガチャリと開けた。

 え? なんで鍵持ってんの? 内側から施錠するから早く入れじゃねえよ、違法作業お得意になるの十年くらいフライングしてるからな、何してんだ。しれっと図書委員の職権濫用の現場を見せられてしまった、何も知らないことにしたい。お前を信頼して鍵を預けた先生の気持ちを二十文字以内で答えよ。

 慣れた手つきで内側から施錠をして、廊下からも図書室側からも死角になった位置の椅子を引く。ついでに先生たちが使う部屋の特権たる空調のスイッチも入れる。そんなサボってる印象はなかったんだけど、なるほど、これは確実に常習犯。

「座れ」

「ええ……いやです……」

「いいから座れ」

「うっす」

 有無を言わせぬ圧力に屈して大人しく腰掛ける。なぜか正面に座る推し。誓いがものの一時間も保たなかった現実にいささか心が折れる。せめて破ったのは自分の意思ではないと強く主張することにする。

「石村」

「はい」

「敬語やめろ」

「うっす」

「お前、見ていいよって言ったらどうすんの?」

「…………ん?」

「見ていいよって言ったら、どうすんの?」

 空耳かな? と思ったけど空耳じゃなかった。残念ながら声色だけではどういった意図で発しているのかは把握しきれない。いや、顔上げればいいんだろうけどさー。さっきの今ですよ? 上げれるか。

 ええー、とか、いやー、とか、俯いたままごにょごにょ言葉を濁していたら、顔上げろと言われた。ひえっ。ダメ押しで、今見ていいよって言ってるだろとも。

 いやお前さ〜〜〜〜? 軽率にそういうことするなって話したよな? やめろ?? ……いや、話してないか? 私の脳内理性会議の話では? ダメだ、記憶が定かでない。でも言った言わないはおいといて、そろそろ自覚を持った上でそういう発言はした方がいいと思います。えっ、本当に顔上げるけど大丈夫? 無駄に顔見るのが怖いんですが。

「石村」

「失礼しまーす……」

「感想は?」

「顔がいい。推す」

「お前外見ばっか褒めるよな」

「外見で褒めるところがあるアドバンテージ分かってねえのかてめー」

 これはお説教ものである。いいか、降谷。普通な、人なんて会って二秒で印象決まるんだぞ。二秒。第一印象で今後が決まるの。

 その時に、お前も、かなちゃんもあゆちゃんも、目に見えて既に優れてる部分があるの。つまりマイナスから始まることが少ないんだよ。めちゃくちゃメリットだからな、それ。ちょっと取っつきやすい笑顔でいれば懐に入りやすくなってるの、そういう外見してるの。疑われにくいし、信頼されやすいんだよ。

 まあ一概に全部が全部そうなるとは言わないけど、そういう可能性が高いの。便利だぞ。これだから顔がいいやつはそういう自覚足りなくて困るわー。まあ三人のレベルで顔がいいとね、そりゃね、絡んでくるやつは良くも悪くも肉食系の面倒くさいやつばっかりかもしれないからね、見目の良さは煩わしいかもしれないけどね。

 私みたいな凡人からすれば羨ましがることすらおこがましいレベルでもう美点。この世に生を受けてくれたことに感謝する。神様ありがとう。私はこの顔面を一生推す。はあー、顔がいい、すき。

 説教をしようと思ったのに気が付いたら褒めていた。おかしいな。仕方ないね、降谷の顔は人の人生狂わせるために生まれてきたようなところもあるからね。全ては剛昌大明神の手のひらの上ですよ。今日も今日とて推しが眩しい。生きる。

「……とまあ、見ていいよって言われちゃうとこうなるよね。できる限り自制はするけど。降谷が私の理性殺しに来ないかぎりこの間みたいにエンジンフルスロットルみたいなことはしないよ、たぶん」

「たぶん」

「約束はいたしかねる」

「う〜〜〜〜〜ん」

 机に肘をついて頭を抱えながら降谷は唸りだした。乱雑に掻き上げられる形になった御髪の隙間から耳がこんにちはしてるが、色が赤くなってるので照れてるんだろう。はあ〜、絶対こいつあむぴになる頃にはこんな外見べた褒めくらいじゃ赤面しないようになってるでしょ、貴重な時間をありがとう。

 しかしこのピュアピュアな男子高校生が一体どういう人生歩めばああなるのか。人生って修羅場ばっかりだね。強く生きろよ。しかし金髪に褐色だけでも映えるのに耳が赤くなってなおのこと鮮やかですな〜ふふふかわいいね非の打ち所がない。推す。

「わかった。諦める」

「ん? 何を?」

「勝手に好きなだけ見ろ。その代わり、ほいほい縁切ろうとするのやめろ。いいな?」

「……ぷりーずわんすもあ」

「どうぞ! ジロジロ見てください!!」

 聞いた? 聞いたよ。幻聴じゃない? いや、二回言ったしたぶん現実。ははーん、さてはドッキリかなんかだなー? と身構えていたのに、待てども待てどもネタバラシが来ないのでおそらくガチ。は? マジ?? 公認???

「熱でもあるの……?」

「あると思う、主にお前のせいで」

「保健室行く?」

「……今はそういう話じゃない」

「無茶しやがって……」

 自分から言い出しておいてあれなんだけど、別に私は降谷が嫌がる様が見たくてああいう申告をしたわけではない。

 照れ顔はぺろぺろウマァなんでいただいておくとして、一応友人として見てくれている相手から、事あるごとに内心顔がいいと下心丸出しで拝見されているのはどう考えても異常だなと思ったからあえてゲロっただけだ。

 黙っていてもよかったが、女子二人には明け透けにしてしまっているのでいつかはバレるだろうなと思ったし、なんならすでに察している可能性も高かった。それなら自白した方がワンチャンあるかなという浅はかな願望ゆえの行動である。降谷のためを思っているようで、全くもって自分本意のアクションである。

 人生の推しは降谷だが、一番可愛いのは自分なので仕方ない。

 なので、何度だって繰り返すが嫌なら嫌で構わない。煩わしいだろうし構うのもやめよう。ただ、私情じゃなくてお仕事だったら合法だよねってことで変わらず公安警察を目指すのみである。とてもアグレッシブなストーカーだなって我ながら引く。我が辞書に撤退の文字はない。

「お前がな」

「うん」

「どっか行くほうがやなんだよ」

「ほう」

「そんなことも分かんないの?」

「なるほどな〜。降谷は私のこと一緒にいて楽しいすきって感じに思ってくれてんだな〜」

「……うっせ」

「ありがとね。それだと、私が言ったことは色々間違ってたわ。ごめん」

 素直に謝罪を入れれば胡乱げにこちらを見るので、私は笑って自分のちょっとおかしい話をした。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 私はね〜、と間延びした声で話し始める石村の話は、素っ頓狂な内容だった。降谷って生きてる自覚ある? と口火を切ったと思ったら、私はあんまりない。と断言した。今こうやって話している最中にも、急に目を覚まして全然違うところで自分がまた歩き出すんじゃないかって思ってる。

 ……夢見がちなこと言ってるなぁ。という感想を抱いた俺を見透かすように、石村はドリーマーすぎてウケるよな〜。とまた笑った。自分が奇天烈な話をしている自覚はあるようなので、ますます俺は混乱する。思春期特有のアレかと思ったが、自覚症状があるなら当てはまらないだろう。

「だからね、家族以外はなんとなく距離感を測りかねるというか」

 よく分かんないんだよね。へらりと笑ってはいるが、その顔には見覚えがある。任意同行を求められた時と同じ笑い方だ。顔色がいい分、いくらかマシに見えるが、不健康そうな笑顔だった。

 だからね、別に、私は近くにいなくてもいいかなって思うわけよ。石村は、こちらを全く見ないまま、笑ったままだ。

「私はね、みんなが楽しそうで、嬉しそうで、幸せそうなら、それでいいよ」

 私は勝手にそれ見てああ今日も眼福だわーって笑ってるから。なるほど、思ってた以上に、こいつは頭がおかしい。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 私のおてて可愛い紅葉してから十年ちょっと経ったが、私にはまだおおよそ現実感がない。ネットで素人なりに調べると、離人症とか現実感喪失症候群と言ったりする病気もあるそうだが、まあ違うだろう。

 私がおかしいのは間違いないが、正確に言うなら、私がここにいるのがおかしいのだ。何故だかわからないまま現実味を放棄しているわけではない。正しく理解した上で、ここにいることはおそらく正しくないんだろうなぁと、漠然とだが確信しているだけ。

 家族がそのままだったのは唯一の救いだったのか、余計に現状を受け入れられない要因になったのか、もはや私には判別がつかない。お父さんもお母さんもお姉ちゃんもみっちゃんもいて、何故か、降谷零もいる。深く考えるとドツボにはまる上に考えるまでもなく解決しないので基本的に目をそらしているが、脳みその一番深いところでいつだってその疑問は巣食っていた。

 まあ、考えないまま生きてきて、自由にやってきて、今こうして張本人にゲロっているのは完全にその場のノリと流れだけど。

「俺らだって、お前が楽しそうで嬉しそうで幸せなら、それでいい」

「そう、優しいね」

「なんでわざわざ蚊帳の外に行くのかがわからない。いっしょに楽しんで喜んで幸せになればいいだろ?」

 プロポーズみたいだな、と空気読めないこと言いそうになったのでお口チャック。ありがたい口説き文句ではあるけども、それは昔の私と盛大な解釈違いを起こすので却下したい。私はモブ希望だしなんならポアロの椅子でいい。それがどうして友人ポジにいるのか。ノリと流れの力ってすげー!

「お前、生きてる実感ないって言ってるけど、石村に生きてる実感なくても、俺からすればお前は生きてる友達だから、あんま寂しいこと言うなよ。室瀬も柊も、そんなこと言われたら悲しむぞ」

「そういうとこなんだよなぁ……」

 可愛くて、綺麗で、眩しい。優しい、優しい、友達三人。私を甘やかすから、私は調子に乗るし、強欲になって、取り返しがつかないことになりそうで、怖い。

 そうだ、怖い。私はこのまま自分の欲望に駆られて、うっかり、大事な友人を死なせるようなことがあってしまったら、生きていけるだろうか。それならもっと遠ざかりたい。幸せだという知らせだけを受け取りたい。たぶん幸せだって聞けて、たまに幸せそうな顔が見れれば、充分なはずだ。今なら。

 引き返せるラインが、たぶん、ここなんだろう。

「みんなが優しいから、欲張りになる」

「欲張ればいいだろ。殊勝なんて、らしくないぞ」

「ホォー? なら、私は降谷の顔をジロジロ眺め回して顔がいいー! すき! って叫んでもいいってことになりますね」

「それぐらいの、どこが欲張りなんだよ」

「めっちゃご褒美なんだよなぁ、これが」

「変なやつだなぁ」

 机に腕を組んで、そこに突っ伏す。慰められているのだろうか、頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜられて、許されたんだなと噛みしめる。つまり、引き返せないところに入ったということだ。踏み込んだのは私で、引っ張ったのは降谷で、引っ張ってほしがったのも私だった。

 欲に負けたので、ことさら強欲に生きるしかないなぁと、自分都合な自分を笑った。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 降谷がお顔を眺めていいって言ったよ! と笑顔で元気よく語ったはるちゃんはなんとなくだけど落ち込んでいるように見えた。空元気っていうのだろうか。基本的にダウナーなので、元気よく振る舞っているのを見せられるとそわそわしてしまう。

 はるちゃんは元気なときに表情には出なくて目が輝くのだ。よく真顔でいつもの告白をしてくるし、亜弓に聞いたらデフォで表情筋死に気味だものねと返された。笑うときは笑うんだけどね、常時笑顔でいるタイプではない。つまり仮定は合ってる。

 そんなはるちゃんの空元気は、降谷くんもよく分かっているらしく、こっそり何かあったのか聞いてみれば、どっちを選んでも元気がないなら、近くで見張れる方がいいと思ってああなった、とのことだ。なるほど、過程はともかく降谷くんは折れたらしい。実質一択だったけどね、言うのは野暮なので黙っておこう。

「大丈夫、すぐ慣れるよ!」

 割と本気でそう応援すれば、遠い目をしたのでまだ葛藤があるらしい。はるちゃんと言えども女の子から手放しで外見を褒め称えられるのは、どうにもむず痒いのだろうと思う。私も、男の子に顔がいいね! と言われる想像をしてみたけど、あ、これはダメだなって感想になったので、心中お察しする。はるちゃんじゃないと許されない感すごいな。はるちゃんすごい。

「もうなるようになれ……」

 悲壮感すら漂っていたので、褒められたあとは大体もれなく愛の告白が付いてくることは言わないでおいた。翌日、降谷くんはお亡くなりになった。

 さらに翌々日にははるちゃんはすっかり元どおりになり、一週間もすれば降谷くんは愛の告白にもありがとう俺も好きだよぐらい返事が出来るようになっていた。慣れってすごい。

 




ここまでで序章みたいな感じです。まだしばらく高校生します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

お見合いおばさんになりたい人生だった

2年生になりました。ここからさらに好き放題登場人物たちを動かしますので色々注意してください。

・最終的に降谷零さんの相手の夢小説にしますがあくまで最終的にです
・降谷零さん以外の登場人物も急にオリキャラ(モブ)とくっついたりします

ご了承の上でどうぞ。


 

 昨年度の冬、私の人生の目標たる『降谷零を合法的に眺める』ことがめでたく叶った。やったぜ。お前が泣いても眺めるのをやめない。

 私の厨二病がいささか晒されてしまったが、もう葛藤するのも馬鹿らしいくらい私の今世ハッピーってことでええやん? と思うことにしたので、気が楽なもんである。とりあえず降谷を死なせないことに余生を注ぐ。お前の命は私が死んでも守る。

 ついでではないが、念願叶ったとニチャついて生きてるだけでは味気ないので、次の目標は降谷を喜ばせることにしようと思う。手始めに可愛い彼女作るのとかどうですかね? 柊叶恵ちゃんっていう素敵な子がいるんですけど。

「はるちゃん、私、彼氏できちゃった」

「は????????」

 何処の馬の骨だ三枚におろしてやるぜったいにゆるさない。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 春休みに彼女ができた。

 思いっきり一目惚れで、彼女の連れも俺の連れも丸っ切り無視して完全に勢いだけで告白したら、なんと、オーケーを貰った。人生の幸運全部突っ込んだと思う。

 何でオーケーしてくれたのかと聞いてみたら「真正面からああやって言ってくれたのが嬉しかったから」と顔を赤らめながら返された。可愛い……俺の彼女が顔だけじゃなくて中身まで可愛い……。神さまありがとうございます。

 一生大事にする……、と天を仰いでいたら、親友が呆れてラブコメは勝手にやってろと言い捨てて先に帰ってしまった。ねえ待って。今日は叶恵ちゃんが友達紹介するって言ってお前も連れてくるように頼まれてるんだけど? ていうか俺そのことちゃんと言ったよな? 叶恵ちゃん二人連れてくるんだぞ? 俺一人で行けって?

 しかも内一人この間いっしょにいた室瀬さんだよ? 俺すごい目で見られたんですけど? 助けてくれるのが親友じゃねーのあいつ絶対許さない恋路に悩んだ時絶対助けてやらないからな。

「お、おまたせ!」

「全然待ってないよ、こんにちは叶恵ちゃん」

「こんにちは」

 見捨てられてしまってはもうどうしようもないので、諦めて一人で待ち合わせ場所に立つ。数分もしない内に、叶恵ちゃんが友達二人とやってきた。挨拶すると、ふわっと笑った顔がもう無理、めっちゃ好き。頭お花畑な自覚あるけど運命ってあるんだなって感じする。こんなこと考えてるから親友に見捨てられたのか、でもまあ叶恵ちゃんが可愛いから仕方ないよな!

 能天気に笑っていたら、室瀬さんともう一人の友達からガンつけられてる? ってレベルの視線を向けられる。うわっこわい。友達じゃなくてSPの間違いじゃない? 品定めされてる感半端ない。こわい。

 なるほど、常日頃から護衛と生きてるからあんなふわふわしたままでも生きていけるんだな、ありがとう二人とも。

「どーもはじめまして。かなちゃんの彼氏の顔を拝みに来ました、石村晴美です」

 圧が強い。室瀬さんもかなりの眼力があるが、なんというか、ほとんど真顔からのプレッシャーは異常。俺は今日殺されるのでは? と命の心配をしたが、流石にそんな事態になれば叶恵ちゃんが止めてくれると信じる。

 それに、向こうから挨拶をしてくれたのだから、対応さえしくじらなければ信頼してもらえる可能性もある。よし、俺はそっちを信じる。ポジティブにいこう。

「はじめまして、萩原研二です」

 フレンドリーに、フレンドリーに。笑って手を差し出せば一拍遅れて握り返してくれたので、今すぐどうこうなることはないだろう。室瀬さんも、久しぶり。と笑いかけてみれば、舌打ちの後、久しぶり。と返してくれた。舌打ち必要だった? 助けて松田。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 萩原研二です。そう名乗ったかなちゃんの彼氏(仮)は、事前に伝えられた通りの優男風のロン毛のイケメンだった。とんでもない既視感がある。昔めっちゃSNSで見た顔。推しと他四人でめっちゃ見た顔。なんなら推しが本気の独りぼっちになる足がかりになった顔。

 まじかー、お前かー。私が先に会っちゃうのかー。ああー。

 という胸の中の嵐はおくびにも出さず、表情を無にして差し出された手を握り返す。開口一番「一目惚れしました! 好きです付き合ってください!」とかいう少女漫画もびっくりな告白をぶちかましたと聞いていたので、どんな奴だと身構えていたのに萩原研二。チャラそうっていうキャラ設定はよく見かけたが、チャラい通り越して純情五千パーセントなんだが。

 なるほどな? これもリアル補正ってやつですか? 事実は小説より奇なりだもんな?? その告白を了承したかなちゃんもなかなかだな。

 

 というかちょっと待て。こいつ降谷のメンタル抉るだけでなくかなちゃんのメンタルも葬るのでは??? は?? 戦犯か??? 死ぬより先に私がぶちころがすぞ???

 

 舌打ちを飛ばしながら久しぶりと言ったあゆちゃんに心の中でエールを送りながら、こいつ一体どうしてくれようと頭を回す。そういえば、松田くん来てないね、とかなちゃんが何気なく聞くのでもうお腹いっぱいです爆処二人もこんな前から顔見知っててもどうしようもない勘弁して。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 つっっっっっっかれる。大好きな彼女の友達ってだけで普段より気を使うし、女子三人に囲まれている状況にも緊張する。やっぱり松田は許さない。

 室瀬さんはなんかもうすごい露骨。目だけで言いたいことわかる。あんたのこと信用してないからなんかあったらぶっ飛ばすわよって声が聞こえる。幻聴に違いないけど絶対合ってる。過保護すぎない? まあ叶恵ちゃんはめちゃくちゃ可愛いし、今までろくなことがなかったんだろう、しょうがない。と、思わないとやってられない。敵意がカンスト。

 で、石村さんはなんだろう。よく分からない。挨拶以降、ほぼ目が合わない。最初はすっごいガンつけられてた感じあったけど、ほんとに最初だけだったし。

 というかほとんど喋らない。相槌は打ってくれているので話を聞いていないわけでもない。あえて気になることと言えば、頑なに敬語だというところだろうか。

「別に敬語じゃなくてもいいよ」

「別に砕けて話すほど親しくもないと思いますが?」

 こんな辛辣な台詞を吐かれる時だけしっかり目を合わせてくるのできっと彼女はドSなんだと思う。心底理解できないと言わんばかりに顎に手を添えられて考え込むポーズを取られたし、室瀬さんにはそのやりとりを鼻で笑われた。叶恵ちゃんからは、はるちゃんは仲良くなるのに時間かかるから仕方ないよ、と、フォローになってないお言葉をいただいた。

 あれ、もしかして俺の味方いないのかなここ? しんどい。

「飲み物買ってくる」

 クラス分けの不満に対する話を聞いていた最中に、ひらっと軽く片手を振って席を立ったのは石村さんだ。人混みの中にするりと溶け込んだ彼女は、それでも標準よりは頭半分大きい背丈で紛れてしまうことはない。ただ、それなりに人がいる場所で一人で放っておくのもアレだよな、と思ったので、俺もついてくよとだけ残して、その背中を追う。

 気を付けてねと手を振ってくれた叶恵ちゃんに対して、室瀬さんは私カフェオレとだけ言葉を投げつけてくるので素直に点数稼ぎをしておこう。

「石村さん」

「あら、会話が弾まない相手をわざわざ。お疲れ様です」

「会話の頭から折ってくのやめて?」

「頑張って続けようとして偉いですね」

 全く褒められた気がしないが、賛辞は賛辞なのでありがとうと返しておく。三拍くらい溜めたのち、しみじみといった風に本当に偉いと思いますよ。と付け足されたので、石村さんのお眼鏡にはかなっているのでは? と自惚れたくなった。ダメ押しで、もっとも、かなちゃんの彼氏として云々は関係ありませんがと言葉を足された。そうですか、関係ないですか。

 露骨に肩を落とすのもアレなので、じゃあどうすれば二人にも彼氏って認めてもらえるかなぁと聞いてみれば、あゆちゃんはどうか知りませんけど、と前置きをされた上でこう言われた。どちらかと言えばそちらが知りたいとは言えない。

「私は、かなちゃんに好かれて、かなちゃんを好きで、かなちゃんを泣かせない人なら、別に誰でもいいですよ」

「俺、いけるんじゃない?」

「知りません」

「手厳しくない?」

「あなたがかなちゃんを泣かせない証明って、どうやってするべきだと思います?」

「えーと、大事にする」

「そうですね。永劫に、という枕詞が必要ですが」

「えいごう」

「どうぞ頑張って、一生を賭けて証明してくださいな」

 ガコンと自動販売機からほうじ茶のペットボトルが吐き出されて、石村さんはこちらを向いてにこりと笑った。目が笑ってないという言葉の意味を、人生で一番噛み締めたのはこの日だったと思う。

 もっとも、気付くのは随分と先になるわけだが。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 萩原研二という男はいい奴なんだろうなぁ、とは思う。降谷が──スコッチも含めて仲良くしていた男だし、あのイケメン天パ捻くれグラサンポエマー(二次創作補正を添えて)の松田陣平と親友? 友人? やってたんだから、人並み以上には度量みたいなもんがあるんだろう。爆弾の前で防護服脱ぐクソみたいなアイアンメンタルもあるしな。本当にクソ。

 あゆちゃんの絶対零度の眼差しに耐えつつ、私に気を遣いながら、朗らかに話を弾ませられるんだからもうもろもろ並ではない。エイリアンかな、こいつ? でも死ぬんやろ? と思うと私は真顔になるしかないんですけどね、ええはいどうしたもんか。

 降谷のメンタルぶち壊すだけでもふざけんなよてめーって感じなんだけど、そこにかなちゃんまで乗っかってくるともうダメ。本当にダメ。そんなことになるくらいならせめてかなちゃんとは別れさせたい。冗談抜きで。

 ただ、一目惚れの即日告白、即答快諾のカップルとは思えないくらいウマは合ってるし見た目はお似合いだ。私としては邪魔したい要素が、最終的に肉片になって死ぬ以外見当たらない。あゆちゃんは誰連れてきてもたぶん一定期間は拒否するだろうから参考にならない。

 そしてそもそも、私の未来予知という名の厨二病は当然口には出せない。次こそ降谷に精神病院に連行される。

 別れさせる選択肢は潰された。となると、思い付くのはもう一つの選択肢である。

 死んでしまって瑕疵をつける愚か者には、生き残ってそれを避けてもらうしかない。いわゆる、救済ってやつ。

 降谷の沼に頭のてっぺんまでドボンした時に、救済系は死ぬほど読んだ。あの手この手で救われたり、はたまたそんな危機はなかったかのような日常の話を目玉が溶けるほど漁った。だって推しには何も考えず幸せに生きててほしかったので。今でもそう思ってる。今の方が、より強く願ってるかもしれない。

 そんな指南書のような思い出を振り返って、頑張ればまあ、出来なくはないのでは? と思わなくもない。ただ、簡単ではないだろうしヘタを打てば私の命が危うくなる、かもしれない。そこまで萩原研二という人間を助けたいかと聞かれれば、少なくとも今のところはそんな気持ちは微塵もない。

 彼の死がどれほど辛いことになったとしても、死んでしまったら死んでしまったで、出来うる限りかなちゃんと降谷を慰めるだけである。まあ、私の慰めで事足りるのかって疑問はこの際考えないでおくとする。あくまで暫定、もしかしたら将来的に自発的に死なせたくないなって思うかもしれないし。

 思ったところでって可能性も、今はやめておこう。

 しかし救済か〜、懐かしいな〜。本当に脳みそ腐るまで読んだ。降谷零の魅力と環境の残酷さに耐えられなくて救いを求めてたの懐かしすぎる。今やそれが現実の未来だと思うと本当にさらに救いがない。許されてええんかそんなこと?

 許されていいわけない、と思うのならやはり私の取るべき行動は一つである。何がなんでも死なせない、これだけ。

 では、死なせないためにできることとは? という話になる。

 よくあるのは、防護服を着ろと口を酸っぱくして言い聞かせるってやつだったが、あのチャラ男聞きゃしねぇってとこまでがテンプレだった。ただし私が読んだ夢小説より抜粋。享年二十二歳じゃ仕方ないね。成人してるだけの若人なんか実質反抗期だもんね。それで死んでるんだから世話ねぇが。

 どうしたら頭ちゃらんぽらんのクソ天狗鼻高驕りマン(※私の偏見と決め付け)の鼻っ柱をへし折れるのだろう。人は誰からの言うことだったら聞くのだろう。そうだ、惚れた弱みって言葉がある。

 

 だったら、かなちゃんの為に生きてもらうことにしよう。

 

 それとなく、泣かしたら私がてめーの肉片使ってハンバーグ作ってやっからな……という呪いを込めて、めちゃくちゃ穏やかでマイルドな表現を使って脅しておく。笑顔を添えて。

 私は妲己じゃないしグロNGなので当然やらないが、それぐらいの気持ちはある。なにせ、こいつは私の友人二人の心を折るのである。絶許。ぶっころ。冷たいほうじ茶でカッカする心臓を冷やしながら、あゆちゃんの飲みたいだろうカフェオレと、かなちゃんが好きなアイスティーも買っておく。

「萩原くん、何飲みますか?」

「え、あ、いいよ、自分で出す」

「やっすい前金なので、お気になさらず。受け取らないなら、私はあなたをかなちゃんを大事にしない人間とみなします」

「……メロンソーダ」

「はいはい」

 ガコン。メロンの味なんてほとんどしない炭酸飲料を手渡しながら、もう一回笑っておく。死んだら殺すぞ、は、西の高校生探偵の専売特許なので遠慮しておくとして、気持ちはそれに近い。

 いいか、お前の肩に乗っかってるのは、お前の命だけじゃねえんだぞ。

「まあ、私やあゆちゃんにもしっかり気を回すのは立派ですが、一番優先しないといけないのはかなちゃんと、自分自身だということはくれぐれもお忘れなく」

 思いっきり笑顔が引きつった萩原研二を眺めながら、カフェオレとアイスティーを押し付ける。おら、しっかり点数稼ぐんだよ、しっかりしろ優男。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 萩原研二とはるが席を外してものの三分。ねえねえ暇? っていう何の捻りもないアプローチを受けて、思わず舌打ちをこぼす。あんたに割く時間は少なくともないわよと言ってやりたいが、この手の手合いは口を開けば調子に乗る。無視して叶恵に、あの二人早く帰ってこないかしらとぼやけば、連れもいるの? 大人数のが楽しいよねと無理やり会話に乗っかろうとしてきた。

 一緒に行けばよかったと後悔しても遅い。下手に移動してしまうのも、すれ違ってしまった場合向こうに悪い。萩原研二は知らないけど。

 ああでもはるはそれぐらいのことでは文句は言わないし、やっぱり移動した方がいいかしら。

「向こうに俺の連れもいるしさ」

 聞いてない情報を一方的に伝えてきて、うざったいことこの上ない。私では押し切れないと思ったのか、叶恵にターゲットを変えてまた何やらぺらぺらとまくし立てている。だから、聞いてないから。汚い口閉じなさいよ、辞書で顎ぶん殴るわよ。

 因みに話しかけられている叶恵は、はる達が歩いていった方しか見ていないので見事なまでに完全スルーしている。前は、おたおたしながら困り果てていた顔を良くしていたので、心の底から、たくましくなったなと思う。ほぼはるのおかげね、ありがとう。

 ほら、向こう行こうよ、と、全く聞いていなかったので、脈絡あったのかどうかもわからない流れで手首を掴まれる。顔も知らない人間の腕を断りもなく掴むって、親からどういう教育受けてるのかしら。底が知れるわ。不愉快だし、相手によっては恐怖感与えるって、分からないわけ? 特に私は平均より背が低いので、体格的には物凄い威圧感を覚える。こんな人気のあるところじゃなかったら、恐ろしいと感じるほどだ。

 そういえば萩原研二も出会い頭に叶恵の腕をがっしり掴んでいたなと思い出す。なるほど、私は男のああいう所作が苦手らしい。彼の顔が赤らんでいなければカバン振り回して後頭部ど突いていた。こいつはど突いてもいいわね。

「お待たせー! カフェオレと、叶恵ちゃんはアイスティー買ったけどよかった? まあ、俺の金じゃないんだけど!」

 ははっ! と何事もないかのようにペットボトルを掲げて戻ってきたのは萩原研二。はるがいない。

「この人は?」

「知らない人よ」

「ナンパかな? 悪いねー、俺が先約なんで!」

「そ、そうか……。それじゃあ!」

「じゃあなー、……二度と来んなよ」

 立ち去ったのを確認した途端、口も顔もなかなか悪いものに変わる。しかしそれもほんの一瞬のことで、すぐに顔は元に戻って、二人とも大丈夫? 離れちゃってごめんな。と、こちらを気遣ってくる。ペットボトルを差し出された辺りではるがゆっくり戻ってきて、ただいまーと呑気にほうじ茶のペットボトルを振った。

 ふーん、そういうことなの。まあ、あんたが信用するっていうなら、私も信用してやろうじゃないの。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 露骨すぎたかな、と反省したのはあゆちゃんが私の方をジロリと睨んだからだ。バレるの早すぎでは?

 お察しの通り私は二人のセコムを自負してるので、身の程知らずのナンパくそ野郎なんて見逃すはずもないのだが、致し方ない。かなちゃんに萩原研二の生存率を上げてもらう為にはお互いの好感度を鬼のように上げていかないといけないのだ。かなちゃんからもベタ惚れ状態になってもらわないといけない。向こうはほっといても勝手にますます惚れ込むでしょ、美少女の魔力はやべぇぞ。

 しかしこの萩原研二という男、想像よりはるかにスマートだ。追い返す時もイヤミがなかったし、奢ってもらったことを自分から白状していくスタイル。一般論でどう受け取られるかは分からないけど、私からの好感度は上がった。鼻にかけない男はモテるぞたぶん。ただし喪女の言うことなので話二割くらいで聞いてくれ。私の中の好感度上げてどうすんだそっちじゃねぇ。

「叶恵ちゃん、アイスティー好きなの?」

「うん、紅茶はなんでも好きだよ」

「そうなんだ、じゃあ、今度は紅茶の美味しいお店に行こっか」

「萩原くんは、紅茶好きなの?」

「うーん、普通?」

「じゃあ萩原くんが好きなものは?」

 うーん。なんかもうあゆちゃん連れて帰っちまおうかな。角砂糖ドボンドボンと突っ込んでじゃりじゃりいってる紅茶みたいな空気が流れてる。なんだ? なんでこいつらこんなに甘ったるいの? 全く信じてなかったけど運命ってこの世にあるんじゃね? と思わせるくらいにバカップルしてる。ここは現実ですか?

 二人の視界からそれとなくフェードアウトしてきたあゆちゃんが隣にそっと立って、ブラックコーヒーにしてもらえばよかったわと嘆いたので現実ですねありがとうございますよそでやってください。心なしか喉を通り過ぎるほうじ茶が甘い。やべえぞ空気に砂糖が溶け出してる。スタンド使いに違いない逃げよう。

 甘ったるい二人を置いてきてさっさと帰路に着けば、あゆちゃんが「はるはあいつでいいわけ?」と娘を渡したくない父親みたいなことを言い出したので、私は「かなちゃんを幸せにしてくれるなら誰でもいいよ」と理解のある母親ポジの回答をする。ふざけてんじゃないわよ、とカバンをペットボトルで殴られたが、別にふざけてないんだけどなぁ。大真面目ですよ、大真面目。

「ちゃんと幸せにしてくれるなら、誰でもいいよ。もちろん、萩原研二じゃなくてもね」

「じゃあなんであいつの株上げるようなことしたのよ?」

 びっくりするぐらい正確に思惑を見抜かれていたので、やっぱり露骨すぎたなぁと反省。今後に活かそう。機会もなさそうだけど。

 どうやらあゆちゃんは、彼が私のお眼鏡にかなったと信じているらしい。まあ、将来有望な公務員(になるはず)だし、間違っているわけではないけど。当然、公務員がどうのは言えないので、思いつくままに彼を褒めておく。

「顔は整ってるし、かなちゃんのことかなり好きみたいだし、かなちゃんもかなり好きみたいだし、同席した面倒くさい女友達に気を使って会話はできるし、ナンパ男は穏便に追い返せるし、点数稼ぎけしかけたら奢ってもらったこと自分からゲロるし……、うん。いいんじゃない?」

「後半、あんたがお膳立てした内容じゃない。順序がおかしいわ」

「……マジじゃん。うーん、そうだね、アレだよ。アレ」

「どれよ」

「友人の門出に水差すのも、アレかなって……思って……」

「私のことディスってる?」

「違うんですうまく言えないけどあの二人を応援することにしたんです掘り下げないで」

 ひぃん、あゆちゃんの追及がえぐい。あとほんとにディスってないです語彙力がダストボックスですまない。すぐにIQが一桁まで落ちるタイプのオタクだから許して。

 最終的に、あゆちゃんは顔に腑に落ちないけどって顔に書いたまま、まあいいわと引き下がってくれた。どうやら私と違って告白現場に遭遇した分、複雑な心境があるらしい。そりゃあ口頭で伝えられただけの私ですらそいつ大丈夫かよって本気で顔が歪んだので仕方ない。

 この場合の大丈夫かよって台詞は、告白した方にもされた方にも向けられている。つまり、その場で了承したかなちゃんの精神構造も大概おかしい。運命ってやつがあるんだとしても、まあたぶん当事者にしか理解できないもんだろうから、やはり私は脳みその異常を疑うばかりである。そしてその勘ぐりは現在進行形ではあるものの、私に見える範囲ではこれといって問題はなさそうだし、問題が起きるようならかなちゃんから相談してもらえるくらいの信頼は頂いてる自負もある。

 要するに、反対する理由が何もないのだ。

 あと、認めるとか認めないとかいう立場でもない。思うのは勝手だが、口に出すことではない。

「まあ、男女のあれこれに口出しすんのも野暮ってやつでしょ」

「おばさんみたいな台詞吐かないでよ」

「はっはっは」

 おばさんだから仕方ない。あとは若いお二人でどうぞっていうお見合いおばさんにならないだけ感謝しておいて。

 

✳︎✳︎✳︎

 

11/7

↑4

11/7

↑1?

?/?(×夏)

↑1?

?/?(たしか冬)

↑1

 

7〜

22→高卒

 

・ノンキャリア→キャリア転向?

 

国家I種 21〜32orU20(大学卒業見込)

学歴不問=高卒ok

 




最後のメモ書きは記載ミスではありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

嵐の前だからって静かなわけでもないのが米花町

 

 萩原研二に気を取られてすっかり頭から抜け落ちていたが、私は、降谷を、喜ばせたいのである。いや、かなちゃんの幸せだって願うし祈るしなんなら実行しますけどそれとは別でね?

 推しの! 未来を! 明るく愉快にしたいんだよ!!

 素敵な彼女を作って世界一のカップルを生み出したかったのに……。なお、別の相手ではあるけど素晴らしいカップルは私の与り知らないところで生まれていた模様。仲人の才能は私にはなかったらしい。知ってた。ただのお節介おばさん。

 そして悲しきかな。私はもう「これだ!!!」って感じで降谷にくっつけたい女の子を知らない。というか女の子の知り合いがほとんどいない。友達もろくにいない。改めて噛み締めると切ない人生である、しゃーない。

 いちおう選択肢としてあゆちゃんもいるっちゃいるが、恋愛的な意味で絶望的にウマが合いそうにないのでダメです。間違いなく誰も幸せになれないし全ての友情にヒビ入って終わる未来しか見えない。見えている地雷はさすがに踏まない。

 他には……、お姉ちゃんとみっちゃんがいるけどダメだな。お姉ちゃんには彼氏いるし、みっちゃんはちょっと私彼氏とか連れてこられたら例え降谷だとしても祝福出来る自信がない夜道で階段から突き落としそう私の可愛い妹はお前にはやらん。

 というか、降谷の女の子の好みも知らねえや。まずはそこからか。

「やっほー降谷、相変わらず顔がいいね。テンション爆上げすき。ご飯一緒に食べない?」

「顔はテンション高くなさそうだけどな、ありがとう。ご飯食べるのはいいけど、いい加減クラスに馴染んだらどうだ?」

「コミュ力のあるぼっちはさすが言うことが違うわ、泣いた」

「喧嘩売ってる?」

「お前がな」

 クラス分けで全員と離された私への無情な精神攻撃に口頭だけで泣いておく。つまりは泣いてない。

 四月のクラス替えで大変遺憾なことに、私はうちの学校では珍しいギャル系パリピ系ばかりのクラスメイトに囲まれることになった。なぜ。彼ら彼女らは外国語ばりに何喋ってんのか理解できず、むしろぼっちでありがとうございますって感じだ強がりじゃないです泣いてない。

 日常会話に冗談抜きでついていけないんだからもう仕方がなくないか。お前たちが喋っているのは何語だ。異文化交流をクラス内でやりたくないです、ぼっちは安息。いいな? 何故ぼっちの私をここにぶち込んだのかと直談判してやりたいが、先生たちはそんなこと微塵も考えてないだろうからお口チャック。

 誰だお前も大概問題児だからそこに放り込まれたんやぞって言ったやつ脳内で喋るなうるせえ私も自覚はあるわほぼ不可抗力だわ泣く。

 世知辛すぎる先生たちの賢明な判断にひとり心の中で大号泣していると、降谷が弁当箱持ってきた。今日も自作のお弁当か、偉いな。私は今日も今日とてお母さんの手作り弁当である。現在の凡人レベルの自炊能力は朝食でしか発揮されていないが、実家暮らしの高校生と考えれば私も充分偉いだろう。ちなみに、今日のメインは野菜たっぷりのオムレツだ。美味しかったです。もはやつまみ食いのために朝食作ってるまである。偉いとは。

「降谷はまた当たり障りなく仲良くしてんの?」

「んー、まあそんな感じ」

「はあーよくやるわ」

「喧嘩売ってる?」

「褒めてる褒めてる」

 私にはとてもできない芸当なので、言葉はあれだが褒めてることには違いない。まず話すのが面倒くさいんだよなぁ。言語通じないし、ノリも合わないし、化粧が濃くて少し酔うし、言語通じないし。

 もっとも、黙ってぼっちしてれば無害なのでなんでもいいが。私に実害が出ないなら宇宙言語のやり取りでもお菓子のシェアでもつけま限界盛り大会でもなんでも好きなことやってておくれ。そしてできれば私の知らないところでやれ。

「そういや大した話じゃないんだけどさ」

「うん」

「先生たち、石村のこと『警察の子』って呼んでるらしいぞ」

「……『官』が付いてた気がするんだが?」

「完全に間に『沙汰が多い』が付いてるよな」

「目が笑ってんぞ」

「わかる?」

 聞いたとき吹き出しそうになったと楽しそうに話してくるが、私はちっとも楽しくないし笑えない。なんだ警察沙汰が多い子って。そりゃ比較的問題児クラスにぶち込まれるわ。しかし何度でもいうが私は大体被害者。加害者の時の私は警察のお世話にはなるようなヘマはしない。圧倒的犯罪者思考でこちらは別の意味で笑えない。バレたら死ぬね。隣にいる未来のお巡りさんに殺されるね。

 あと普通に過剰防衛で厳重注意受けたことあったな、と思い出して表情筋が死んだが、高校入ってからは降谷の存在のせいで真顔を保つ訓練を常に受けていたので気付かれることはなかった。ただ、ロクでもないことを考えていたことだけはなぜかバレて、また変なことしてないだろうなと釘を刺された。またってなんだまたって。

「最近はおとなしくしてるし……」

「本当か? 正直、お前がわざわざ昼誘いに来る時点で俺にとってはなかなか胡散臭い」

「私の扱いよ」

「で、用件は?」

「降谷の異性のタイプ教えて」

「ぐっ」

 思いっきり噎せた降谷だが、たぶん気合だけでお茶を吹き出すのを防いだ。ナイスガッツ。素晴らしい。

 で、どんな女の子が好きなんだお前は? おばさんに言ってごらん、見つけられるかは置いといて参考にして女の子探してくるから。出来れば外見的特徴を述べていただけると最初の選考が楽なので非常に助かる。

「それ聞いてどうするんだよ」

「降谷、彼女欲しくない?」

「会話しろ。別に欲しくない」

「はあ? 不能かお前?」

「言葉を選べ!!!」

 わずかに頬を紅潮させ、怒鳴る。いちおう仮にも戸籍上は女なんだからそういうことを言うな! と、前置きが酷すぎることは今はスルーしよう。女子高生に夢見てるタイプだとは思わないので、普通にシモトークを異性と出来ないタイプだと仮定する。うわあ、健全。部屋に隠されたエロ本探しに行きたくなる。本当にお前はここからどうやってああなるのか、心配しかない。せめて童貞を綺麗な形で捨ててほしい。私は推しに爛れたキチガイ入った夢を見るタイプのオタクです。

 素直に「高校生の楽しみって言ったら男女交際なので、降谷に出来たら私好みの女子と付き合ってくれないかなと思ったが、私の好みが降谷の好みではない可能性もあるので聞いておきたかった」とゲロったら、「お前の男女交際の楽しみ方が異常すぎる」と物凄い目で見られた。仕方がない、私個人はその辺り全く興味がないので。私を好むような見る目のない男は願い下げだし、私の好みの男が私と付き合うのも解釈違いなのでご遠慮願う。約束されたロンリー。大丈夫、今のご時世……私たちが成人してそういうことを本格的な考える頃には、結婚や出産だけが人生の喜びなんてことはなくなってるから。私の今世には推しがいる。降谷が生きてる限り確実に私の人生ハッピー。最高だな!

「俺に彼女出来たら、お前らと遊べなくなるんじゃないか?」

「結婚式に呼んでくれれば文句はない。高校生の時の彼女が嫁とか純愛ラブロマンス最高すぎて私がスタンディングオベーションする。顔だけじゃなく愛情まで輝いてる。やばい、すきすぎてご祝儀に帯封つけたい」

「なんで俺の人生設計を石村がしてるんだよ、怖い」

「ごめん、楽しくて」

「楽しいのか、それ? お前は……、なんか、あれだな。生涯独身かめちゃくちゃ早く結婚しそう」

「両極端すぎる。わかる」

「ノリと勢いだけで結婚するのはやめとけよ」

「おうよ」

 話が脱線して結局戻ってこなかったけど、二人とも弁当に箸を付けてしまったので会話は一時中断を余儀なくされた。話しながら咀嚼するのはお行儀が悪いので、お母さんから駄目と口を酸っぱくして言われていたのだが、降谷も同じタイプだったので沈黙が変な空気になることもない。食べ終わった頃にようやく降谷が口を開いた。

「彼女云々はともかくとして、高校出たら警察学校行って、警察官になって、この国のため、市民のために働く。俺の人生設計なんてお前と似たようなもんだぞ」

 ごっくん。予定以上の量のお茶を飲み込んだので、思った以上に喉を通った音が大きい。噎せなかった食道にブラボーと賛辞を送って、確かになぁとシンプルな返事をする。思った通りではあったが、やはりというかなんというか。降谷は大学行かないんだなぁと確信した。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 萩原研二とはじめましてした日の夜。彼が死んだら困ると思ったので、彼がいつ死んだのか記憶を頼りにノートに書き起こしてみた時、おや? とは思ったのだ。

 原作で佐藤刑事が松田刑事を死んだことに対して、あれから三年と懐かしんでいた。その松田刑事が敵討ちに執念を燃やすくだんの事件はさらにその四年前。原作に出てきた降谷零は二十九歳で、七年前は二十二歳。警察学校組と称される五人は警察学校時代の同期と明言されていたので、まあ全員大卒でも、ギリギリ辻褄は合う。降谷零が誕生日迎えてない三十歳という考え方をすればギリでもないんだけど三十路の降谷零とかやばい興奮する三十路であのベビーフェイスはやばいわ最高かよ好き今は置いておけ煩悩。

 なので、降谷零が二十代と三十代の狭間でどうたらという点はまず置いておくとして、現実的な点で考えてみる。

 萩原研二が爆死した事件は、そりゃあもう大掛かりな事件だったはずだ。確か十億盗まれてた気がする。だから米花町は犯罪指数に対してセキュリティガバいのなんとかしろ。で、どっか二箇所に爆弾仕掛けてあって萩原研二だけこの世からおさらば。まあ防護服着ろうんこって話だが、見方を変えれば彼は『防護服を脱いでしまう程度には慢心しており、それを注意されないあるいは注意されても聞き流してしまえるほど能力のあった人物』とも言える。着任初年度や二年目のぺーぺーがなせる技ではない、改めなしていい技ではない。となると、やはり高卒から警察学校入ってる説が濃厚だし、現実的だろう。

 もっとも、そうなると、今度は降谷のポジションに無理が出てくるわけだが。高卒で二十九の時点で警察庁って。国家I種から入っていない場合、警察庁所属になるには警視以上まで昇進する必要がある。普通に無理ですねありがとうございます。

 所詮ネット知識なのでどこまで本当かわからないが、高卒からだと巡査部長になるのも最短で二十三歳とかなんとか。いやまあ日本はまだまだ学歴社会なのでだろうなぁって感想しかないが、それ以降も階級ごとに最低任期みたいなものはある。要するに高卒が二十九歳で警視は無理。能力が高くても日本っていう国で評価される限り永遠に無理。となると、ありえないなって思うが、これしかないな、とも思う。

《降谷零は高卒で警察学校に入学、卒業後に警察官として赴任、どこかのタイミングで国家I種に合格し、警察庁に改めて入庁》

 いや、漫画かよ……。あ、漫画だったわ……。推しがハイパー超絶スペックすぎて引く。こいつ本当に人間かな?

 国家I種の合格に必要な勉強時間は千時間と言われているので、丸一年毎日三時間勉強すれば、理論上受かることは充分可能だ。高卒の身で、独学で千時間積んで、国家I種合格。やべえ。有能すぎる。なんで日本に生まれてしまったのか、惜しすぎる。愛国心尊いけどなんでこんなクソみたいな年功序列学歴わっほいな国に生まれてしまったんだ。はあー、もったいねえ。

 アメリカ生まれでFBIとかだったらもっとしがらみなく生きていけたんじゃねえのかな、と思ってしまったが、未来の安室透と降谷零とバーボンが各自赤井いいいいいい!! と叫んだので、ねぇなと乾いた笑いがこぼれた。そういや、スコッチはうちの学校にはいないわけだけど、彼も高卒から二十代半ばで公安ってめちゃくちゃ優秀なんだなぁ。私もがんばろ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 唐突だが、高校二年になってからの私の立ち位置を説明する。

 進学して放り込まれたのはうちでは珍しいテンアゲパリピ系生徒が集められたクラス。だいたいスクールカーストの上の方にいる感じの人。私はそのカーストにすら参列していない空気。つまりはぼっち。

 彼らは私をいじめることもなければディスることもなく、必要ならば声をかけてくるし必要な時に声をかけたら答えてくれる、とてもいい関係を保ってくれている。ギャルは常識ある説を押してる番組があったけど私も今後は推奨する。パリピは言語統一がされてないだけで常識は兼ね備えている。と思う。

 化粧だけは相容れないが私に押し付けてくるわけではないので我慢しようくさいけど。くさいけど。流石に濃すぎる。若い内はそんなもん要らんぞ本当に。そして必要になった時に後悔するぞ本当に。

 で、私の隣のクラスにいるのがかなちゃんとあゆちゃん、反対側の隣のクラスにいるのが降谷である。女の子二人は相変わらず仲が良く、男の子一人は一年時の頭を彷彿とさせるような馴染み方をしているらしい。誰とでも分け隔てなく親しいようで誰とも仲良くなかった降谷を思い出してちょっと変な笑いが出る。お前も実質ぼっちな、私のこと笑うなよ。

 一年生の時ほどずっと一緒に行動しているわけではもちろんないが、今でもみんな仲良くしてくれてるので帰りに遊びに行ったりしてるし、暇だと各自剣道場に見学に来たりもする。師匠は正座しての見学を許してくれているので、三十分ごとにかなちゃんとあゆちゃんは一時退席する。降谷は本当に見た目以外ごりごりの日本人で感服した。

 ボソッと、俺も剣道やろうかなと言っていたが、素手で戦える方が便利だなと結論付けたそうでその案は呟きだけで消えた。確実に私より優秀だと思うので、師匠を取られなくてよかったと胸を撫で下ろす。因みに、極めればボールペン一本で戦えるぞ、剣道。現実はフィクションより頭おかしいので戦える。観覧車の上でどんぱちするのは現実。頼むからもっと平和に生きてほしい。米花町を潰すしかない。無理。

 

 と、こんな感じで私の人生はそんなに大きな変化や節目を迎えることもなく、いつも通りすぎていた。いつも通り学校に通って、剣道場に通って、トレーニングを続けて、勉学に励む。書き出すとクソつまらん高校生活送ってるようにしか見えないが、私は楽しいからよし。

 いや楽しいからよしじゃねえよ、私が楽しんでどうする、降谷に向けろそういうのは。推しを喜ばせるんだろ。私の人生、目的を見失いがちすぎて自分で自分が心配になる。ほらもう、すーぐ現実逃避するんだからよぉ〜。

「こんにちは、お姉さん」

 現実逃避もしたくなるんだよ名探偵〜。おうち帰りたい〜。後ろのお姉さんめっちゃ美人でいいねその人お母さんでしょ若いね〜。

「あら! このあいだの!」

「今すぐシャッターを下ろせ!」

「きゃあああああ!!」

 帰りてえ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 毎日のように米花町では大小問わずの犯罪が跋扈してるんだろうけど、私自身はここ最近、随分と平和に毎日を過ごしていた。

 悲鳴が聞こえても好奇心で覗きに行ったりしないようにしているし、カバン引ったくられそうになっても絶対離さずそのまま顎にアッパー決めて静かに立ち去るようにしてるし、私以外が引ったくられていても犯人をチェイスしないし、私の真横通った時だけ足引っ掛けて顔面スライディングを強要するだけに留めている。すごい大人しくない? お行儀が良すぎる。

 お陰で警察に通報するようなこともほとんどなくなったし、通報したのに怒られるとかいう理不尽もご無沙汰だ。我ながら言ってて平和とは? という一大命題みたいなもんを掲げそうになったけど私の解釈では平和。

 だったというのに、ここ最近まで溜まってた犯罪ゲージが全開放されたかのようなこの現状惨状諸行無常。流石にちょっとついていけなくて思わず韻踏んだ。

 場所は銀行。左には可愛い顔をしたショタ、その後ろには直視を躊躇う美女。右にはどなたか存じ上げないが女の人。他にも周りに二十人ほど人がおり、全て床に座らされている。

 座らせたのは目出し帽を被った四人組で、手元には拳銃が握られておりせっせと行員に金を出させている。どう見ても銀行強盗ですありがとうございます。えっ、工藤新一くんただのショタだしお父様ご不在だし誰が解決するんですかこれ? お姉さんって呼びかけられた瞬間逃げるべきだった。しくじった。

 こういうところには確かカウンター内に通報用のボタンみたいなのがある、という話は聞いたことあるので警察には連絡が行っているはずだ。ただ、シャッターは全て下ろされており外から内部の様子は伺えない。人質が何人いて、犯人が何人いて、武器の携帯やら細かいことなんにもわからん状態で突入や解決は現実的ではない。隣のショタが「お姉さん、やっつけられないの?」と純真無垢な顔でおっかなびっくりな提案をしてくるが、無茶いうな。

「拳銃持ってる相手に向かっていけるわけないでしょ……私に死ねって言ってるのか……」

「新ちゃん! 静かにしてなさい! ごめんなさいね、この子が」

「ああ、いえ……」

 こしょこしょと小さい声で話していると、犯人の一人から、うるせえぞ! という怒声とパァン! という威嚇を一発もらった。銃口は天井を向いていたので誰も怪我などはしてないが、音だけで周りはパニックだ。老若男女問わず悲鳴が起きて、中には出入り口まで駆け寄る人まで出た。シャッターが閉じてるのでもちろん外には出られないのだが、それはまずい対応なのでやめた方がいい、と冷や汗をかいていたら業を煮やした犯人が痛い目見ねえとわからねえのか……と泣き叫ぶ背中に向かって銃を構えた。まずい。

 パァンという二度目の銃声は、一人の男性の太ももに突き刺さった。痛みに呻く声とともに床に倒れ込み、血がだくだくと湧いてくる足を見て泣きながら助けてと叫ぶ。犯人はさらにうるせえと叫び、響く悲鳴は先ほどの比ではない。まずい、まずい。

 このままパニックが続けば、足だけでは済まない。死人が出るぞ。なんてったってここは米花町で、主人公がいるのに彼はまだ天真爛漫な幼児だ、ことが起きる要素だけ揃っていて、うまく運ぶ要素はない。

「あっあああ! たす、たすけてくれ! いたい、足が、俺の足が!!」

「ひっ……! いやあ! たすけて!!」

「きゃああああ!」

「だから、うるせえって……」

 拳銃を持つ手が持ち上げられた。これ以上は絶対あかんやつ。

 致し方ない、と思い立ったら即行動。スクッと立ち上がり、ショタと美女の制止を無視して銀行内に設置された作業台からペン立てを引っ掴み、そのまま右腕を振りかぶって出入り口めがけてスローインした。シャッターの手前にはガラス戸があり、ペン立てとこんにちはした後、盛大な音を立てて割れる。現場は一気に静まり返り、加害者被害者問わず、私に注目している。やだなあ、完全にまた警察にお説教されるじゃん、いつだって主張してるけど私被害者ですよ。

 そのまま足を撃たれた男性に近付き、そばにしゃがみこむ。大丈夫ですか、と間抜けな問いかけをしてしまったのだが、男性は呆けた顔から一瞬で痛みを思い出したように眉を寄せて、それでも大丈夫だと返した。いや、嘘やん。全然大丈夫じゃないじゃん。

「そのまま寝転がっていてください。患部を心臓より高くして、止血をしましょう。包帯やタオルはないので、私の上着で縛ります。ご容赦ください」

「あ、ああ、ありがとう……」

「痛いでしょう。大丈夫です。その内警察が来てくれますし、無事とは言い難いですが生きて帰れますよ」

 できる限り不安にさせないよう、努めて笑顔で優しい言葉をかける。太ももを上着で縛った瞬間、痛みで顔をしかめた以外はそれなりに落ち着いた表情になったようだ。周りの客も静かにしているし、パニックは防げただろう。もう、あとは静かにしていてくれることを祈るしかない。騒げばどうなるかわかっただろうし、騒ぐメリットがないことも理解できたはずだ。

 だからといって恐怖が消えるわけではないが、それも和らぐはずだ。なにせ、犯人の興味は全部私に移ってしまった。まだ死にたくねえ。

「何勝手に動いてやがる」

「あれ以上パニックが続けば人が死ぬと思ったので。私も死にたくないですし、他の方に静かにしてもらっただけです。あなた方も、さっさとお金持ってトンズラしたら如何ですか?」

 逃げ切れるかどうかわかったもんじゃないけどなという言葉は素直に飲み込む。ここで煽る行為は意味がない。いや、充分煽ってるとかそんなことないって。「にげても、おまわりさんがすぐつかまえにくると思うよ!」ほらね〜、私じゃな〜い!

 何煽ってんだ工藤新一静かにしろ藤峰有希子の顔の血の気の引き方がえぐい。そりゃあ最愛の息子が鬼のように空気読めない発言したらそうなる。ショタの無垢っぷりこわ……天井知らずかよ……そりゃあ原作コナンくんああなるわ……。いや、コナンくん分かっててやってるからもっとタチ悪いな……。こわ。

「なんだ、このガキ!」

「だって! 日本の警察はゆうしゅうだって、父さんが!」

「し、新ちゃん!」

「子供のいうことに目くじら立ててないで、逃げる算段つけたらどうです? サイレンこそ聞こえませんけど、外で車が止まる音が続いてますよ」

 耳をすませば、キッというタイヤとアスファルトの擦れる音が何度も聞こえる。わあっと客の間で歓喜の声が思わず漏れ、それを押しつぶすようにまた一発破裂音が響いた。副音声で黙れって言葉が聞こえる。しかし、この男だけ気が短すぎないか、一人でパンパンパンと三発も。

 ……いや逆か? 仮定にすぎないが、正解ならワンチャンある。……ワンチャンあるが、そのワンチャンを実行するのはなぁ……。バレた時の警察の説教も大概イヤだけど、家族と友人たちからの説教のが遥かに精神削るし無茶はしないと約束した身である。私だってこんなことしたくないんだよ? 脳内シミュレートでぶりっ子で乗り切ろうとしてみたが、想像の中のかなちゃんは悲しげに俯いたし、お父さんは静かに倒れた。そろそろ笑えないし、ははははと言って流すのもキツイ。わかってる自覚しかない。

「おい、そこの女。クソ生意気なお前だよ」

 クソ生意気に肯定を示すのは非常に癪に触るが、なんですかと返事をすれば、短く、立てと命令される。静かに立ち上がって犯人を見れば、お前は人質だと言ってせせら笑った。私ならもっと大人しそうでひ弱そうな女性にするけどな。拳銃所持による自信の肥大っぷりは謎だ。あえてクソ生意気な女をチョイスしてしまってもどうにかできる自負を生んでしまう。バカだなあ。

 こっちに来い、と誘導された先は発砲したアグレッシブ野郎とは別の犯人のところだった。え、私の中の仮定がもはや崩れかけているんですがそれは。詰んだか? 助けてお巡りさん。

 四人の中で一番背が高い犯人に大人しくしてろよ、となんともフランクに銃口を額に押し付けられる。ふむ。怯えたフリをして、それを犯人の手ごと両手で押しのける。なるほど、軽い。仮定の強度は増したようで少し安心する。あとは安全ともう一押しが欲しい。

 銃を押しのけた私を見て、強がってても所詮はガキの女と油断したのか、露骨に犯人たちの気が緩む。さっきの威勢はどうしたんだ? ああ? と私の肩を軽く突き飛ばしたのに便乗して、一番太ましい犯人の方へよろける。足がもつれたように見せかけて拳銃を持つ手を巻き込むように倒れ込む。手を避ける素振りも見せずに、なんなら拳銃で私を押すので、そのままどしんとみっともなくも床に尻餅をついた。ゲラゲラ笑う犯人たちは随分と楽しそうである。まあ、金持って人質連れて逃げるだけだもんな。チョロいもんよな、逃げられるならな。

 でも、もう少し演技と小物には力を入れた方がいいと思います。あとは牢屋で反省しな。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 まず、大した音量でもなかったのにうるさいって急に発砲したのが気になった。よく考えなくても、弾丸飛んできたら普通の人は悲鳴あげて逃げ惑うよね? つまり、黙らせるために発砲っていうのは合理的じゃない。まあ、相当なお馬鹿さんなら力を見せつければ思い通りに動くだろ、みたいな妄想抱くのかもしれないけど、バカスカ撃ってきたクズ以外は行員脅してせっせかカバンに金詰めてたし、行動もスムーズだったから。発砲には意味があった、計画の内だったと考えたわけ。撃たれた男性も、腹とか胸なら死ぬかもしれないけど足だったからよっぽど死ぬ心配もない。これは拳銃は空砲じゃないぞっていう印象付けね。ぶっちゃけ、この二発で充分だったとは思うけど、クソ生意気なガキにムカついたし客がポジティブな意味で騒いだから、最後のは本当の意味で黙れってことで撃ったんだと思うよ。

 それで次に気になったのは、同じ人間が三発立て続けに撃ったこと。気が短いのが単純にあのクズだけだった可能性もあったけど、脅し専用で所持してたなら一丁で充分だからね。なので、他の犯人たちが持ってるのは偽物だと仮定した。間違ってたら素直に大人しく人質してるつもりだったけど、額に当てられた銃口は明らかに鉄製ではなかったし、重量も軽かった。撃った現物の反動の少なさを見る限り確実に樹脂を使ってないタイプだと思ったから、同じ形で重量が噛み合わないのはおかしい。しかも、拳銃に人が倒れ込んできても逸らす素振りもない。偽物だって確信したね。

 四丁の内、二丁が確定で偽物。一丁は本物、残りは一丁は不明。まあ、分が悪い賭けになったけど、拳銃持ってるだけで慢心するあほんだらどもってのは分かってたし、素手でのやり取りならそれなりに自信もあったからね。本物を持ってる奴を落として、不確定なやつ、偽物のやつの順番に鳩尾か顎に一発かましてやれば事件解決よ。

「納得したかな少年?」

「すっげー!」

 終わりの方は推理もクソもなかったが、未来のホームズくんはお気に召したようで、目を輝かせて私の行為をすごいすごいと褒めてくれる。そしてその麗しいお母様も助かったわありがとう、とまばゆいばかりの笑顔。ちょっと優越感ある。ドヤ顔きめたくなる、後ろでお巡りさんたちが頭からツノ生やして待ち構えてなければね。私、被害者。

 例のごとく警察の方には危ないことをしないようにとこっ酷く叱られ、怪我がないことを確認されたのち安堵され、犯人逮捕に協力したことを感謝された。今日の夜あたり、また馬頭さんから「お祓いに行け」とメールが来そうである。へへ……、実はもう十回くらいは行ってるけど何にも効果ないから諦めたよ……。神も仏も米花町には住んでない。住んでいるのはこのショタ、死神たるショタだけである。

 気付けばショタの隣には麗しの夫人の旦那様まで立っていてめまい起こした。ひえっ……今からここで人死にが起きるぞ! と叫びかけた私は間違ってない。

「はじめまして、工藤優作と申します。以前にもあなたに助けていただいたと、息子と妻から伺っております」

 ぺこりと一礼された上で名乗られてしまった……。これは名乗り返さないと無礼だろう、というのはわかっているが、もっぱら防衛本能が名乗ることを拒否する。名乗るな、死ぬ確率上がるぞ。でも頭の中のお父さんとお母さんが人様に失礼なことするのはいけませんって怒っている……ううっ……。お姉ちゃんが礼儀も知らないやつは警察官なんかになれないわよって目くじら立ててる……。これは割と毛利小五郎の所為……いつか刺す。

「石村晴美と申します。今日の件も、以前の件も、偶然居合わせたに過ぎませんので、お気になさらず」

 顔が引きつってないといいなぁと思いながら、私は当たり障りのない挨拶を返した。

 




すげー理屈っぽいことが書いてある時はだいたい自分なりにきちんと(インターネッツで)調べた上でのことなので、やばいくらいとんでもないことは書いてないと信じたいんですが、なにぶんこれを最初に書いたのは4年くらい前だし書く時にちゃちゃっと調べるだけだし時間の経過とともに私はその辺のことを綺麗さっぱり忘れるので…へへ…よくわからんけどそういうことやろで終わらせておいてくだせえ…すみません…。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

時価数百万円をポンと渡せる神経が相容れねえって話よ

 我が家は極めて普通の一般家庭なので、客間とあえて呼称するような客間はない。人をお迎えするなら、居間かキッチンの前に広がったダイニングだろう。そして間取り的に居間とダイニングの間に仕切りはないので、実質、人をお迎えするような場所は一つなのである。そのたった一つの場所に、今、とんでもない顔ぶれが並んでいる。

 工藤優作、日本を代表する作家。

 工藤有希子、旧姓藤峰、工藤優作の妻で日本を代表した大女優。

 工藤新一、その二人の間に生まれた男の子。

 我が家で殺人事件でも起きたのかなって顔ぶれに胃が死にそう。二人がけのゆったりしたソファに特に狭そうな感じも見せず、間に息子を挟んで笑顔でこちらを見る三人。お父さんとお母さんは目をパチクリして、現状について行けてない。そうだね、私もついて行けない。

 二人が座るソファの真後ろに立ちながらめまいに耐える。とりあえず私は不審な対応をしないことに精一杯だ。胃がいてぇ。

 改めてお礼に伺わせていただきました、とだいたい誰でも知ってるレベルのお高いと評判なお茶菓子を差し出しながら、工藤優作は口火を切る。お父さんが訳がわからないと言った顔のまま、それでもちらりと私に振り返る。目でまた危ないことをしたのかと問いただされている。ごめん、不可抗力だったの、許して。

 というか工藤家さっきの今でフットワーク軽すぎでは? 創立記念日だからって軽率に推しへの貢ぎ物の検討とかするんじゃなかった。よく考えなくても降谷は貢ぎ物とか喜ばない。

「お礼とは、うちの娘が何か?」

「半年ほど前、うちの息子が不審者に絡まれていたところを助けていただきまして」

「お姉さん、ありがとう!」

「ははは……、どういたしまして」

 お母さんはあらはるちゃんえらいのね、なんて呑気に笑っているがお父さんは若干ゲンドウポーズで思案している。そうです、つまりは不審者に絡まれてるところに突っ込んでいきました。正解!

 私はお巡りさんのお世話になったとしても、家に連絡がいかないレベルの揉め事ならしれっと握りつぶしているので、以前に子供を助けた話などお父さんは当然知らない。今日つい数時間前に起きたことも警察の人に頼んで黙っててもらったので知らない。まあ所詮銀行強盗に巻き込まれただけだからね、怪我もしてないし犯人全員逮捕されてるしね、私も大概感覚狂ってきたな。

 このあとなんて言い訳しようかな……と半ば現実逃避をしながら遠くを見つめていると、有希子夫人が続けた。

「今日も、身内が暴漢に襲われて怪我をしていたところを助けていただいたんです。応急処置も的確で、助かりました。本当にありがとう」

 ん? あれれ〜おかしいぞぉ〜? と言ってくれる少年はまだショタなのでいないが、夫人は今なんと言っただろうか。応急処置って、あの男性のことだよな。親族だったのか? 明らかに不審者のくだりとは違って安心したように喜ぶお父さんの後頭部を眺めながら、頭には大量のクエスチョンマークが浮かぶ。どういうことだってばよ?

 視線を工藤家に戻せば、ショタもちょっと意味がわかってないようだったが、夫人が「ねえ、新ちゃん? お姉さん、かっこよかったわよね?」と声をかけられたら、はしゃいだように「うん!」と答えた。完全にカッコいいという単語に脊髄反射している、それは誘導では。と無表情で頭を捻っていると夫人と目が合い、ウインクを飛ばされる。変な声が出そうになったし胸を鷲掴みそうになったしその場に蹲りそうになったけど気合いで全部耐えた。顔がいい人軽率にそういうことするから本当に勘弁して、死ぬ。気を遣っていただいたことは理解した。私のキャパシティにも配慮していただけるとなおのこと良いです。

「あまり長居してもご迷惑でしょうし、今日はこれで失礼いたします。私どもに出来ることでしたら、なんでも頼ってください。これでもツテはある方なので」

 すっと差し出された名刺をお父さんが受け取る。お父さんは書かれた文字を確認することもなく、後ろでずっと棒立ちをしている私にそれを手渡した。

「晴美。お前が助けた方からのお礼だ。お前が受け取りなさい」

「……ありがとう、ございます」

「お礼を言うのはこっちよ。本当に、本当にありがとう」

 深々と頭を下げた夫妻に、つられて私も頭を下げる。そんなご大層に礼を言われるようなことをした覚えはないが、礼を受け取らないのはそれはそれで無礼だ。そして、私からは自分がした無鉄砲で向こう見ずな行為を、両親に伝えずに済ませてくれたという別の感謝がある。お礼を言うのはこっちと言われたが、終わってみれば私の方こそ礼を言いたい話だった。

 その配慮はありがたく享受するとしても、私はそろそろ本気で行動を改めないといけないのかもしれない。いやね、何度も言うけどね、被害者だけどね!? 大人しくしてろって話なんだよな、うん、わかってる。脊髄じゃなくて脳味噌に従って生きるよう心がける。

「お姉さん、こんどはうちに遊びに来てね」

「……晴美、今日は剣道は?」

「ないよ」

「なら、お邪魔してきなさい。お前も、工藤さんに話したいことがあるだろう」

 お父さんからは、お前が帰ってきたら話をする。と付け加えられたらもはや私に拒否権はない。どうやら、お父さんにはほとんど筒抜けらしい。お姉さんうちに来てくれるの! と、無邪気なショタに手を引かれて、私は流されるままに工藤家にお邪魔することになってしまった。数時間前はあんなに家に帰りたかったはずなのに、今はむしろ帰宅が怖い。ええ〜ん、私悪くない。と思います。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 有希子と新一からその話を聞いたのは今から半年以上前のことだった。

「すげーんだ! わるいやつのかお、思いっきりけっとばして、たおしたんだぜ!」とは新一談である。普段から少し背伸びしたような話し方をする子なので、興奮のまま年相応の身振り手振りで話す様はなかなか珍しいものだった。

 すげーすげー、かっこいい。繰り返されるその話は、同じ現場にいた新一の幼馴染の家でも同じようで、向こうの家では憧れのままに空手を習い出したらしい。米花町は物騒な事件が多いので、その判断には大いに賛成である。こちらは余談だ。

 細かいことは新一の話という名の感想からはわからなかったので、有希子に聞いていた。高校生くらいの背が高めの女の子だったそうで、礼をしたいと言ったら逃げられたという。女優だってバレたから、変に警戒されたのかしらというのが有希子の話。おつかいの途中だってことを新ちゃんが見抜いたみたいで、誇らしげにしてたわよ。

 ふむ。どちらかと言えば、出会い頭におつかいを言い当てた幼稚園児の方に恐怖を感じていそうなものだが、有希子はそう受け取らなかったようだ。この調子だと、新一も自分のせいで逃げられたとは思っていないのだろう。あんまり外で聞いてないことを言い当てるような真似はしないように言っておいたが、ホームズに憧れている限り聞き入れることはないだろう。父親の威厳など、子供の好奇心の前では無力なものである。というか、そもそも自分が人のこと言えたような人物でもない。

「優作、今ね、銀行強盗に巻き込まれたんだけど、助けてくれたのが前に新ちゃん達を不審者から助けてくれた女の子なのよ。覚えてる?」

「前半部分を軽やかに流してるけど怪我はないかい?」

「その子のお陰で無事よ!」

 犯人達をバッタバッタと薙ぎ倒し蹴り飛ばし殴り飛ばした光景はアクションシーンのようだったと興奮した様子で語られる。そういうことを聞いているのではないが、まあ、声の調子から新一含めて無事ということは理解できたのでホッと息をつく。今は順番に事情聴取を受けている最中らしく、終わり次第帰ることを電話口で伝えられた。まだ時間はかかるようだ。

「犯人を捕まえた子もまだ時間がかかりそうかな?」

「そうねぇ。なんだかこういうのによく巻き込まれてるみたいよ。また君か! 危ないことはしないで! ってお説教から入ってたから、私たちより遅くまでかかるんじゃないかしら?」

「わかった。私が迎えに行くよ。そのお嬢さんにお礼も言わないといけないからね」

 電話を切り、頭の中でお礼の品を見繕いながら家を出る。息子と妻を助けてくれた子とはどんな子だろう。好奇心と感謝の気持ちがないまぜになったまま、デパートの洋菓子屋の配置を思い出す。なんだか家の中で電話がジリジリ鳴り響いている気もするが、気のせいだろう。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 押し切られる形で家に押しかけられたと思ったら、お父さんに促されるまま工藤家のお屋敷まで来てしまったのが本日のハイライト。口が上手い年上の男性に苦手意識を持ってしまいそうな程度にはメンタル削られてる。私の精神が好意をベースにした発言に弱いのだから仕方ない。押しに弱いわけではない、善意による行動を拒絶ないしは否定することを当然とするほどクズではないというだけの話だ。常識も良識も私にだってある。発揮する相手はもちろん選ぶが。今日の相手が将来的にクズ対応してない方が絶対正解という確信があるだけである。

 はあー、神対応のパーフェクトコミュニケーション連発してもある意味不正解な気がするのがしんどい。どの選択肢ならこの小説家先生のお眼鏡に叶わず、食指が動くこともなく済むだろうか。塩梅が難しすぎんか。

 隣に腰かけたショタはぐう天使の風貌をしているが、実質ただの死神なのでこれもまた精神がしんどい。可愛いんだけどね〜、完全に美しい薔薇には棘があるってやつですね、わかります。毒もあるやろ(確信)。

 唯一ポジティブに解釈できる要素が『少なくとも今この場で殺人事件は起こらないだろう』ってところしかない。ポジティブの概念書き換えすぎかよ。もっと明るい未来が欲しい。せっかく出された紅茶もお茶菓子もいいお値段がするだろうに、味がろくにわからない。やだ〜、私ったら繊細〜。命の危機なんだから味覚も死ぬわクソが。ハートの中が絶賛大乱闘スマッシュブラザーズしてて忙しい。おうちかえりたいいやかえりたくもないどうすればいいの。

「お姉さん、シャーロックホームズって知ってる?」

「知ってるよ。詳しくはないけど」

 人でなしのクズでしょ? という言葉は飲み込んで、いかにホームズという探偵が素晴らしいかを語るショタの話に耳を傾ける。幼稚園児でこのレベルなのかぁ……、蘭ちゃんよくこんなのに付き合えるね。私もオタクなので愛のある語りたがりは好きだからいいけど、人によっては知らんこと延々語られたら苦痛ってタイプもいるので、その辺を理解できる人間に成長してもらえるとありがたい。その辺の自制心が生まれれば、死神レベルが下がるのでは? ということを期待しての意味だが。いや、下がんねえな。主人公だもんな。

「ところで、お話があるというのはどんなことかな?」

 息子のシャーロキアントークの合間を縫って、話を切り出してくれたのは小説家先生だ。お父さんが私を送り出した台詞からの切り口だろうが、その配慮に感謝すればいいのか戦慄すればいいのかわからない。ただ、その夫妻揃って完璧な空気読みスキルに少なからず助けられたのは事実なので、素直に礼は伝える。

「その、銀行強盗に巻き込まれたこと黙っていてくださったの、ありがとうございます。父にはおおよそバレてますけど、母には伝わらないと思うので」

「子を持つ父としては、そう言った類のことは全て話しておいてほしいのが本音だがね。心配するのが親心だよ」

「分かってますと言いたいところですが、まあ、分かってないんでしょうねぇ……」

 ははは、とから笑いを浮かべながら思わず俯く。もう誰に信用してもらえるかもわからないが、私だって、特にあゆちゃんに盛大に引っ叩かれて怒鳴られて以降、ああダメだなぁと常々思ってはいるのだ。そういうことがある度に、その思いは強くなっている。今日だって大人しくしているべきだとは思った。黙っていれば私に被害はなかった。あのまま放っておいたって、ぎゃあぎゃあ騒いでた誰かが怪我なり死ぬなりしただけだ。私はただの高校生で、それをどうにかしないといけない義務などないし、言うまでもなく守られる側の人間だ。でしゃばるべきではないし、でしゃばった結果人質指名されたし、さらにその結果また警察からお説教だ。全くよろしくない。分かってる。でも結局動いているので、やっぱり分かってないんだろう。

 君みたいな年頃の子は、こういう場合おおよそ分かっていると言うものだがね。小説家先生の微笑みがどういう意味をはらんでいるのか、私に推し量るすべはない。ただまあ、前提から間違ってるなぁと思うだけにとどめて曖昧に笑っておく。残念ながら、中身が人として成長しているかどうかという点は置いといて、すでにお年頃ではない。なんなら分別がいい加減付いてないと痛々しい年代だ。ますます自制心の無さに心が折れそう。どうしてこうなった。

「お姉さん、どうしたの?」

「ん? そうだね、大人げなくて落ち込んでるの」

 服の裾をちょこちょこ引っ張って首をかしげるショタの破壊力たるや。子供だし、深い部分の意味は理解できないにしても、雰囲気がどことなく重いような暗いような、そんな程度には感じ取れるのだろう。よく言うじゃん、子供は大人より空気読めるって。いや、読めるかな? この子。未来の江戸川コナン様やぞ? 読めない気がしてきた。まあ、可愛いのでなんでもいいわ。

 大丈夫だよー、という意味を込めて、へらへら笑っておく。ついでに頭を撫でてみる。ふぅー! 髪の毛ほっそい! サラサラ! これがキューティクルか、しゅごい。

「ともあれ、本当にお気遣い感謝いたします。名刺も、ありがたくいただいておきます」

「遠慮なく使ってやってね! ついでに私の番号も書いておいたから」

 ウインクとともに颯爽と現れた夫人。お茶やらお菓子やら全部用意していただいてすみません、という言葉を発するタイミングを見事に逃し、慌てて受け取った名刺の裏面を見る。十一桁の数字の下には達筆すぎない愛嬌のある字で「有希子」と小さなハートマークを添えて書かれている。ひえっ、字すら可愛い……、お見それしました。

 そんなことするつもりはさらさらないが、思わずこれ一体いくらで売れるかなと考えてしまった。下手な麻薬より高く売れるのでは? しかし絶対に登録したくない気持ちもある。ううーん、返品したい。この名刺が厄災の種になるのでは? 主にやべー強火なファンとかの。

 私の葛藤を一刀両断するかのごとく、ピンポーンという豪邸には似つかわしくない呼び鈴が鳴り渡る。唐突な庶民派SEに一瞬思考が停止したが、よく考えなくても来客だ。礼も伝えたことだし、ショタも美人も美形も名残惜しいがお暇しよう。ふかふかのソファから軽く腰を上げると、見計らったかのようにそのまま座っているよう肩を軽く抑えられ、ボスンとソファに落ちた。隣ではショタが反動で少し跳ねてきゃらきゃらと楽しそうに笑っている。ぐぁっ、ぎゃわいい。

「有希ちゃん、ごめんなさいね。押し掛けてしまって」

「いいのよ〜。英理ちゃんも気にしてたでしょ?」

「あ、お姉さん!」

「……げっ」

 パタパタとチューリップをくれたロリが駆け寄ってくる。どう見ても毛利家御一行ですねありがとうございます帰りてえ〜!

 

✳︎✳︎✳︎

 

 有希ちゃんから、以前蘭を助けてくれた女子高生が今工藤家に来ているので都合が良ければ会いに来てやってほしいという連絡を受けたのがつい先程。蘭と英理を連れて、あとは礼の品を携えて工藤家に足を踏み入れてみれば、家に居たのはいつだったか事件現場に居合わせた小生意気な女子高生が。思わず、げっ、と声も漏らせば、英理がこちらを振り返る。あら、あなた知り合いなの? 知り合いってほどのもんじゃねぇよと返してる間に、蘭はそいつに駆け寄りこんにちはと挨拶をする。おい、随分と懐いてんな。

「もうりらんです、たすけてくれて、ありがとう、お姉さん」

「石村晴美です。こちらこそ、チューリップありがとう。お部屋に飾ってるよ」

「あとね、私、お姉さんみたいになりたくて、からてはじめたんだよ!」

「………………そう。怪我には気をつけて、頑張ってね」

 かなりの間を空けて絞り出された激励の言葉とは裏腹に、表情はそれほど明るくない。まあ、大の男の顎蹴り飛ばす姿に憧れた上にそうなりたいと言われて、喜ばしいかと聞かれりゃ微妙な顔にもなるわな。有希ちゃんからは逃げるように立ち去ったと聞いていたが、自分の突飛な行動に対して気まずさを感じる常識的な思考はあるらしい。……自分の突飛な行動、な。

「突然お邪魔して申し訳ありません。蘭の母の毛利英理と申します。先日娘を助けていただいた礼を申し上げたく、お伺いさせていただきました。娘を助けていただき、本当にありがとうございます」

「ご丁寧にありがとうございます。石村晴美と申します。娘さんの件は、偶然居合わせただけにすぎません。何事もなくてよかったです。頭を上げてください」

 礼の言葉を受け、すっと立ち上がり一礼。返しの礼の言葉を発し名乗る。気にしなくていいと告げ、頭を上げるよう促す。やっぱり女子高生らしくねぇんだよなぁ。所作も選ぶ言葉もいちいち立派な社会人のそれ。胡散クセェな、と一刑事の立場からどうしても引っかかってしまうが、今の俺は一人の父親である。棚上げの形にはなるが、やることは決まっている。

「蘭の父、毛利小五郎です。あなたが居なかったら娘はどうなっていたか分かりません。ありがとうございます」

「あの、ですので、気になさらなくて平気です。子供が変な目に遭ってたら、そりゃ助けますよ。大したことじゃないです」

「それとは別件で、あんたに礼と謝罪と注意だ。事件解決に貢献してくれたことに感謝し、不必要な嫌疑をかけたことを詫びる。あと、煽るような態度は危なっかしいからやめておけ。ありがとう、すまんかった、気をつけろ。以上だ」

「えっ、あ、はい。すんません? ……失礼を承知で言いますが、あなた謝罪できたんですね。驚きです」

「そういう態度を改めろっつってんだよ!」

 まあ俺も反射で言葉を返すことの方が多いので、あんまり人のことをどうこう言えた義理ではないが、それにしたってこいつは酷い。失礼を承知でって前置きをしてはいるが、そう思うなら黙っていればいいだけの話だろうが。いや、本当に、俺も人のことを全く言えないんだが!

 どういうことなのと英理に詰め寄られ、ざっくりと以前の事件の話をする。子供たちがいるのでところどころぼかし、通報があったこと、救急隊が来る前に応急処置を施したこと、手際が良すぎるとして俺が疑ったこと、こいつが事件を解決したこと。一通り話を聞いた英理が口を開いたので、俺はほぼ無意識に目をそらした。絶対怒鳴るぞ、こいつ。

「呆れた! だからあなたは早計だって言ってるの! 証拠集めと組み立てが同時に出来ないところいい加減自覚なさい!」

「だから今謝罪してんだろうが!」

「謝る態度じゃないわよ!」

「まあまあ落ち着いて」

 渦中の人物になだめられ、俺も英理も口を閉ざす。お前が言うんじゃねえよ。人ごとじゃねえから口を出すなとも言えないし、少なくとも俺からさらに紡ぎ出す言葉はない。娘のみならず主人まで……と英理はさらに頭をしっかりと下げた。女子高生改め、石村晴美は顔に思い切り困ったと書いた状態で、腰を折った英理の前に膝をついてしゃがむ。石村晴美の背中に乗った蘭が英理を不安そうな顔で眺めている。……俺が悪いのに俺以外がなんとも気まずい顔のオンパレードだ。ああ悪かったよくそっ。

「石村晴美さん!」

「うおっ、はい何ですか」

「すまんかった! 許してほしい!」

 腰をきっかり四十五度に曲げ、視線を下げる。石村晴美がどういう顔をしているのかはわからない。想像はつかないが、ふと、あの時俺に向かって出るとこ出てやると叫んだ彼女の姉の顔を思い出す。帰らないと目に涙を溜めていた妹の顔も。最後に、ため息をついて面倒くさそうな顔をした張本人。疑われたことに対する緊張感のなさは、何度思い出しても歪だった。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 背中にロリ、正面に頭を上げて困惑した顔の美人弁護士、斜め前に最敬礼をして謝罪をする刑事。絵面の暴力すごい。というか毛利小五郎の貴重すぎる謝罪シーン。やばい、言葉が出ない。あえて言うなら是非! お姉ちゃんと! みっちゃんの前でやっていただきたかったなあ!!

 汚名返上は私じゃなくて二人に示してほしかったというのは完全にこっちの事情なので、それは私が家でやっておこう。主観だけで喋ればこれだけきっちり誠心誠意謝罪されれば全部許す。まあ不快ではあったけど、おっちゃんだしと思ってたのでそもそも怒ってすらいないし。呆れてはいたけど。これを機に態度が改まればなぁと人ごとのように祈るのみである。

「いいですよ許します。その代わりに、一緒に写真撮ってください」

「お姉さん、わたしもしゃしん!」

「一緒に撮る? いいよー」

「……そんなことでいいのか?」

「出来るだけ笑顔でお願いします。お姉ちゃんたちに和解した証拠として提示するので」

 弁護士みたいな言い回しはやめろと嫌そうな声で拒否反応を示す刑事に、あらなんなのその言い草と突っかかっていく弁護士。すごいなこの人たち、一体何年ケンカップルしてるんだろう。

「おとうさん、おかあさん、しゃしんとろう!」

「ほらほら並んで! 私が撮ってあげるわ」

「あ、お願いします」

 ケータイを渡して夫人に撮影を頼めば、背中のロリがわたしちゃんとうつるかな? と大層愛らしい悩みをこぼすので抱っこしてあげた。はああきゃわいい〜。危ない人には気をつけるんだよ〜、善人の皮被って幼女もありとか脳内ハスハスする変態もいるからね〜、私だよ〜。

 撮ってもらった写真は我ながら完璧な笑顔だったので幼女は偉大。肝心の刑事がそんなに笑顔じゃないが、まあよかろう。大して立たない弁をなんとか奮い立ててやろう。

 ロリを抱っこしてご満悦していたら、足元にショタもやってきて「オレも!」と抱っこをせがんできた。えええヤバイ私はこの日のために鍛えてきたのかもしれないと確実に間違った確信を瞬間的に抱いて、右腕にロリ、左腕にショタを抱きかかえる。ヒョイと持ち上げたら大人全員からすごいギョッとされた気がするけどまあ気にしたら負け! わははは、両手に花だよ! 夫人、お写真撮ってくださいよろしく。

「力持ちなのねぇ」

「日々鍛えてますんで!」

 その後は大して重苦しい話題になることもなく、毛利ご夫妻からも手土産と名刺(刑事と弁護士の名刺……)を渡され、最終的には新一くんと蘭ちゃんから「はるちゃん」と呼ばれるぐらいには馴染み、うっかり夕飯までご馳走になりそうな時間まで遊んで帰路に着いた。

 帰宅してからはお父さんからくれぐれも、くれぐれも危ないことに自ら首を突っ込むようなことは極力限界まで控えるようにと、一時間半に及ぶ説教という名の講義『米花町の年間犯罪件数と犯人検挙率、未解決事件について』を受けた。私が遊んでる間に警視庁のホームページからデータ拾ってエクセルとパワポで資料作っていた程度にはガチの講義だったとだけ言っておく。表沙汰になっている事件に関してはなかなか警察組織は優秀だということがよく分かった。十数年後がすでにめちゃくちゃ怖い。

 あとは、お姉ちゃんとみっちゃんに対していつぞやの刑事さんとご縁があって仲直りした旨を伝えたのだが、あまり効果はなかった。写真も見せたが「向こうは愛想ないし、あんたがめちゃくちゃ笑ってるのはこの女の子が可愛いからでしょ」とバッサリ切り捨てられた。いい笑顔が裏目に出るとか全く考えてなかったのでいささかショックである。みっちゃんですら「和解した直後でこの顔はどうなの」と難色を示した。よくよく見たら、ケンカップル発動してるので英理さんですら表情がかたい。これはあかん。溢れ出るやらせ感。

 そして夜寝る前、知らない間に勝手に登録されていた電話帳に並ぶ名前を眺めて、はたとようやく気付いたのである。要らんフラグ立ててどうすんだ。アホか?

 

✳︎✳︎✳︎

 

「石、村。お前、それ、闇の男爵シリーズの、プレミア本……!」

「えっ、そうなの? 借り物なんだけど」

「借りたって誰に?! オークションサイトで一体幾らで買い取られると思ってるんだ?!」

「えっ、えっ、そんなに? 降谷目が血走っててこわい」

「数百万だぞ」

「ひえっ」

「人気出る前の記念号みたいな扱いだから、数が少ないんだよ。増刷されたものはデザインが違うし」

「……お前、工藤優作のファンなの?」

「ああ」

「…………………………いや、でもなぁ」

「ん?」

「人を喜ばせるために他人を差し出すのは人としてダメだろ……」

「なんの話だよ?」

「明日話の続きするわ」

「いやだからなんの?」

 

「降谷、あげる」

「? ……?!!! これ、昨日のプレミア本?!!! は? え、はあ?? えっ、触って大丈夫か?」

「もう降谷のものだから好きにしていいよ」

「え、ごめん、意味わからない、はあ?」

「作者様から宛名とサイン入りでもらってしまったからもうお前以外所有者にはなれない。受け取れ」

「え!? やばい! 俺の名前! なんで??! サインまで! は?! はあ??!!」

「テンションの上がり方えぐ……」

「うわああああ!!」

 




この後どういうコネクションで手に入れたのか聞かれた結果、露出狂と銀行強盗のことまで全部ゲロる羽目になるので説教コース。喜ばせた先から引いてくスタイル。

ロリショタの漢字の開き方の解釈違いを数年前の自分と起こし、修正しようと試みたものの改稿を二ヶ月ほど間空けたことにより忘却し、もうなるようになれと途中で放棄したのでぐっちゃぐちゃです。すまねえ。気になる人、辻褄合わせてくれるなら誤字報告くださいごめんなさいごめんなさい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 

 気が付けば世間はゴールデンウィークなるものに差し掛かろうとしており、我が家でも大型連休に向けての家族旅行計画会議が開かれた。

 例年の催しではあるが、今年はお姉ちゃんが彼氏と成人祝いも兼ねた連泊をするとのことで不在。相手は成人済みの社会人なので、ようやく堂々とお泊まり出来るとのことで浮かれているみたいだ。きちんと清らかなお付き合いらしいけど、お姉ちゃんは別に清らかじゃなくていいじゃないなんて平気で口に出せちゃうところあるのでね、その辺気にしなくてよくなったのとあれば元気にもなる。なにがどうなるかとかは考えてはいけない、生々しいので。

 どのような理由であれ、お姉ちゃんとの交際に真面目に向き合っている風にしか捉えられないので、私は大いに賛成だ。お父さんは複雑な心境のようだけど、お母さんの「高校生にもなれば無責任なままでも大人の階段は登れてしまう」というとんでもない発言のせいで絶句した上に固まってしまった。力なくお姉ちゃんと私の名前を呼ぶ姿がとても可哀想。安心してくれ、私は下手したら生涯健全だから。逃れられない喪女のさだめがしんどい。

 なので、今年はお姉ちゃん以外の四人で旅行ということになったのだが、いつもなら年休とかもろもろ使って四泊五泊するところを二泊の小旅行、場所もデスシティ米花町に越してくる前に住んでたところの近くと、随分とこじんまりした規模である。私もみっちゃんも連れて行ってもらう身でぎゃーつく騒ぐタイプではないので文句は全くないが、珍しさでついついなんで? と聞いてしまった。お母さんがふふふ、とにんまり笑った。聞いてほしかったのがよくわかる。かわいいね。

「実はね〜、今年銀婚式のお祝いにヨーロッパ旅行に行くのよ〜! だから、みんなには悪いけどゴールデンウィークはシンプルにね。ごめんね」

「ぎんこんしき?」

「結婚二十五年ってことよ」

「ああー、そっか、そうだね。おめでとう、お土産よろしく」

「いつ行くの?」

「夏休み前の平日にね。最近はるちゃんもご飯作れるようになってきてるし、大丈夫かなと思って学校がお休み入る前にしちゃったわ」

「何日ぐらい? 一週間とか?」

「三泊五日の予定よ! 今から楽しみだわ〜!」

 灰になりそうなお父さんを放ってお母さんはみっちゃんときゃぴきゃぴ夏の旅行の予定を話す。カレンダーをペラリとめくって、七月の日程を確認する。三泊五日ということは、平日一週間丸々使って行くんだろう。あとは夏休み前のってことは、直前の週頭からかな? えーと、この日、は。

「出発は七月十三日の日曜日だから、はるちゃん、次の日から一週間、よろしくね」

「……うん、わかった」

 お母さんが言った日。思い出すのは、鍵付きの引き出しにしまい込んだノートの一ページ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

2006年7月13日(2005年7月14日朝)

今年のお盆は例年より気温が高く、蒸し暑いことが予想される。ただ、天気は晴れ間が続くと思われ、旅行にはもってこい。帰省ラッシュが予想されるので、新幹線の予約はお早めに!

今年のイチオシカラーはパステルブルー、春を思わすカラーリングも、今年の蒸し暑い夏には清涼感を与えてぴったり!淡い色味の中に、小物で差し色を加えれば今日からあなたもオシャレ上級者。自分の肌に合った差し色を見つけよう。

7年後開催となるオリンピックですが、開催国候補地として、ロンドン、マドリード、モスクワ、ニューヨーク、パリの5都市が最終候補都市として選出されており、今後さらなる選考の上、開催国が決定となる見通しです。

 

緊急ニュース、イングランド行き、225番

空中で炎上、墜落

お昼ごろ、14時前?

14時前にニュース→13時台出発?

家を出るのは何時ごろ?→家から一番近い空港まで電車で1時間半→11時から12時ごろ家を出た可能性

 

飛行機に乗らなければ死なない

 

✳︎✳︎✳︎

 

 暑いと形容するにはまだ早く、暖かなと評するにはもう遅い。そんな狭間の季節。

 冷凍庫のアイスクリームの補充と消費が緩やかながら始まった今日この頃、私がアイスクリームを頬張ったのは師範の家の中だった。随分といなしや反応が出来るようになってきたとはいえいつものように鞭打たれ、季節に対してフライング気味に滝のような汗をかき、道場の清掃が終わったタイミングで奥さまが良かったら食べていきなさいと誘ってくれた。

 特に遠慮も戸惑いもなくぜひいただきますと答えた口に、かすかに驚き、すぐに納得する。ああ、これもまた夢なのだと。

 夢の中の私は勝手知ったるなんとやら、掃除道具を手早く片付け身支度をし、道具一式を手に道場に一礼をして、二分後には師範のご自宅のお勝手に押しかけていた。そこでは奥さまがアイスを皿に盛り付け、果物で飾り付け、お茶の用意までしてくれている。おそらくせめて運ぶだけでもしようと思ってここに来たのだろう。なるほど、どうやらかなり師範のご家庭に馴染んでいるらしい。

 三人分のアイスとお茶をお盆に乗せて、居間まで移動する。すでに席についている師範の前に一つ、隣に一つ、師範の向かいに一つ。お盆を空いた一角に置き、師範の向かいに腰掛け奥さまを待つ。師範は人が揃わないとお茶にも手を付けないので、人として出来てるなぁとよくよく感心する。亭主関白という観念があるのかないのか。男らしいとはこういうことかなと考えながら、そういうタイプは弟子とはいえ女をしばかないなという結論に至ったので、役割分担がはっきりしているだけなのだと思うことにした。

 

 奥さまが少し遅れてやってきて、いただきましょうかと手を合わせた時、道具一式を持ち運ぶためのエナメルバッグがかすかに震えた。ケータイのバイブ音だ。必要なら出なさい。と、シンプルながら確認の許可を出してくれた師範に、失礼しますと一言断りを入れて、エナメルバッグからケータイを取り出す。外部ディスプレイに表示された名前は萩原研二。電話の着信だった。

 私は萩原研二と連絡先を交換していることに驚き、夢の中の私は萩原研二から着信があることに驚いているようだ。珍しい、という感想が頭の中を流れる。たぶん、顔に出ていたのだろう。師範が電話なら席を外しなさいと、静かに背中を押してくれた。

 失礼します。先ほどと全く同じ言葉を使い、席を立つ。部屋を出るのと同時に着信を受け、もしもし、と声を出せばかなり食い気味に電話口の向こうで萩原研二は叫ぶ。

「なあ! 叶恵ちゃんから連絡きてない?!」

 ピクリと目元が引きつった。耳元で叫ばれた不快感にではない。言葉の内容そのものに対する不信感だ。

「……きてない。お前とデートじゃなかったっけ?」

 夢の中の私は嫌味をたっぷり含めて、お前の方が知ってるんじゃないのかと言外で示す。しれっと流しているけどデートの予定共有する程度には信頼感あることにマジかよと私は頭を抱えてうずくまりたい。そりゃお互いぞっこんになれと思ったけど。思ったけど!!

 思ったというのに、萩原研二は私の期待を裏切っているらしい。ふざけるなよ。八つ当たりをしている場合ではないと判断したのか、待ち合わせ場所に居ないし、電話かけても繋がらないと焦る萩原研二に私は静かに心当たりはないんだなと問う。

「ない。室瀬さんも知らないって」

「やめろよなぁ……こんな時期に」

「……悪い」

 こんな時期って、なんだ。重々しく謝罪するほどのなにかが、今、起きてるのか? ああ、でも、これは、夢なのに。何故こんなにも夢の中の私は前髪を握りつぶして歯を食いしばっているんだよ。

 

 二、三度の瞬き分しか、過ぎてないような気がする。場面が移り変わった程度の認識しかないが、この重苦しい空気には鼻が焦げ付くほど覚えがある。

 私は黒いセーラー服に袖を通している。顔を上げるとあゆちゃんが同じような格好をして、顔を地面と平行にしていた。顔を握りつぶすように、乱雑に動く手と指の隙間から水滴がぼたぼたと地面に落ちていく。肩を覆う紺色の特徴的な襟が、小刻みに空気を揺らし、私は目の前が霞んでいくのを感じた。泣いているのだろうか。

 手首で鼻頭を押さえつけたが、何にも濡れた気配がないのでどうやら泣いていないようだった。いよいよ泣かなくなったのか、と、自分の感情に呆然としながら、あゆちゃんの肩を支える。

 崩れ落ちそうになりながら、足を動かす。誰かとすれ違い、なんとなしに顔を向けると、少し長めの黒い襟足が目に入った。比較的シャンと伸びていることの多い背中は頼りなく丸まっていて、ああ、悲しいのだなと人ごとのように思った。そのままその背中を見送っていくと、彼は見慣れた褐色とすれ違った。明るい青い目が、暗く曇っているような錯覚をする。誰も彼も、悲哀の色に沈んでいる。

 何故、私はこんなにもぼんやりとしたままでいられるのだろう。夢と現と、中途半端に混ざり合っているからだろうか。白い、眩しいほどに白い箱の前に立ち、白いかなちゃんの顔を目に焼き付けて、夢の私と体が離れた。

 

 ゆっくり身体を起こしたような、緩慢な目覚めを自覚しながら、私の瞼が眼球の上から退く。ぱちぱちと数度瞬きをして、寝返りを打つ。頭が重い。靄がかかっている。今、私が夢で描いた映像は、なんだったのだろう。反芻しようとして瞼をゆっくり閉じる。黒い視界に浮かぶのは、白い白いかなちゃんの顔と、独特の匂いだ。線香と、花と、あと一つ。なんだったか。酷く違和感を覚えたので、きっと彼女に相応しくないものなのだろう。鼻腔の奥に湧き上がってきた混ぜこぜの匂いを噛み砕いて、理解して、私はまたトイレで吐いた。

 ああ、あれは、化粧品の匂いだ。死化粧。かなちゃんからは絶対にしない、女の匂いだった。

 トイレに飾られた小さなカレンダーを眺めながら、今日の日付を確認する。意味を持つのは今日ではないかもしれない。それでも、この夢に意味があるのなら、私は。

 

✳︎✳︎✳︎

 

2007年5月3日(2006年5月4日未明)

剣道の日。15時切り上げ。アイスの用意。

萩原研二から電話。かなちゃんがいない。→■■■?

 

こんな時期の意味。

ゴールデンウィーク?

何か事件があった?

 

なにを気をつければいいのか

 

✳︎✳︎✳︎

 

 ゴールデンウィークの家族旅行を終え、連休末にはお姉ちゃんの彼氏から家族揃って挨拶を受け、また学校と道場に通う日々が戻ってきた。お父さんはお姉ちゃんの彼氏を大層気に入ったらしく、卒業したらそのまま結婚するんだろうなぁとぼんやりと確信した。お父さんとウマが合う、というよりは、お父さんみたいな人がお姉ちゃんのタイプだった。

 少し理屈っぽいが心配性、屁理屈はこねないし、思いやりを感じる。お父さんとお兄さん(予定)はあまり意識してないようだったが、私とみっちゃんはお姉ちゃんをガン見したしお母さんは少し目を丸くして笑っていた。私やみっちゃんも結婚するならああいうタイプなのかなぁ。ぶっちゃけコミュ障極まりすぎて結婚とかまじ無理では? って確信しかないんだけど。まあお姉ちゃんとみっちゃんが孫産めばセーフでしょ。親孝行は別でするとして好きに生きる。

 

 教室に入れば今日も今日とてパリピたちが楽しそうに騒いでおり、その喧騒っぷりに私は反対になんとなく眠くなる。ただの現実逃避。パリピたちは高校生らしくハッチャケているだけなので、当然文句を言えるはずもない。楽しそうで何よりという老婆心と、楽しい内に楽しめよというババア精神がフードプロセッサーされてぐっちゃぐちゃである。どちらにせよおばさん。

 クラスメイトの顔ぶれが変わりようやく気付いたのだが、降谷もかなちゃんもあゆちゃんも随分と高校生らしくない。いやまあ最終的に私と連めるあたりお察しだったんだけど、進級するまで割とマジで理解してなかった。心の底から進学校寄りに来てよかったと数年前に英断下した自分を褒めたい。グッジョブ。それにも関わらずパリピという名の問題児寄りクラスに放り込まれている現実にジーザス。何度だって繰り返す、私は被害者。

 でも頭の悪くないパリピたちは、いちいちこんな空気に悪態つかないしちょっかいかけないしで、とても穏やかな日々を送ることができている。やはり勉強が出来ることは人生においてとても大事。馬鹿は罪だね。理解力のなさはギルティ。頭の良い友人たちにクラスメイト達に乾杯。

「なあ、石村って室瀬と仲良いんだろ? あいつ彼氏いるの?」

 かんぱーい! と高々と掲げたワイングラスを脳内で握りつぶす。なにが乾杯じゃぶちころがすぞ。ニタニタと下品な笑みを浮かべたクラスメイトをチラッとだけ伺い、話す価値がないなと断定したので無視する。顔はよくないし笑顔も整ってないし髪型は無造作狙って鳥の巣だ。外見的価値が全く釣り合っていない。死ねとは言わんから大人しく生きてろ、高校デビューは見事に失敗してるぞ。あゆちゃんとかいう高望みは今すぐやめろ。私だって殺人は犯したくない。

 ガン無視決めていると、惰弱な見た目通りメンタルも脆弱らしい。さらに踏み込んで突っ込んでくることもなく謎の「もういいよ」という声だけ残してログアウトした。金魚のフンもぞろぞろとついて行く。絶対に一人でトイレに行けない女子かよ。

 名前も知らないクラスメイト数名の背中を見送ることもせず、一限目の準備をする。そういや、そろそろ定期考査だ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 うちの学校は定期考査に関して学年順位というものはない。何故なら、クラスによって受けるテストの中身が異なるからだ。受け持ちの先生が受け持ちのクラスに対しておこなった内容に即してテストを自作しているので、文系科目なんかは物の見事に先生の特色が出る。というか、進行度によってはテスト範囲すら異なるので普通に学年で統計を取れないのだ。

 なので、隣のクラスの友人にテスト範囲を確認しても普通に間違ってるという事故がままある。まあ私はいちいちテスト対策で勉強したりしないので関係ないのだが、ぼっちでうっかり欠席したりするとテスト前は大変ということだ。復唱するが私にはマジで関係ない。学校はやむを得ない事象がない限りサボらないし休まないので。ぼっちは否定しない。

 けどまあ私以外にもぼっちはいるし、ぼっちが全て皆勤賞いけるかっていったらもちろんそんなこともない。なら自分で対策しろよ自分で選んだぼっちだろ、で一蹴なのだが、チラチラと視線を投げつけてくる隣のぼっちは察してちゃんらしい。お断りです、なんで私が知らんやつのために気を回してやらないといけないんだよ。ぼっちのよしみとかこの世にないから。そういう配慮ができないから人はぼっちになるから。

 ていうか私じゃなくて担当教師に聞けばよくない? 私本気で定期考査対策とかしないからまず範囲知らないよ聞くだけ時間の無駄だからな? という私の心の声がもちろん隣のぼっちに聞こえるわけもなく、意を決して私に助けを求めてきたぼっちに対して私は「え、知らないですけど」と氷点下の回答をして泣かした。

 そして同日の昼休憩の時、職員室に呼び出された。こんなの絶対おかしいよ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 何故かついでと言わんばかりに、あゆちゃんに下卑た妄想を抱いた(と私の中では設定された)高校デビューの失敗作をシカトした件まで問い詰められた昼休み。クラスに馴染む努力をした方がいいのではと至極真っ当かつ斜め上なアドバイスを受け、テスト範囲くらい把握しておいてくれないと先生たち泣きそうと追撃され、申し訳ありません善処しますとテンプレ回答で終わらせた。

 チクりやがってという感情は特に湧いてこないが、チクってどうにかなると思われてるのかと、随分私の評価が穏やかなことに安堵する。むしろ私に説教をしないといけない状況を作られてしまった先生に同情。いや、問題児パリピクラスの担任だしその辺りのメンタルは強いか。大丈夫大丈夫、正直今回は私の態度に問題があると自覚しているのでしおらしいもんだ。直す気がないだけで。

 お呼び出しを済ませて教室に戻れば、あゆちゃんとかなちゃんが出入り口の近くに立っていた。ぼっちを見かねてお昼に誘ってくれるのかなーと期待に胸を躍らせていると、失敗作が二人に声を掛けているのが見えて上がりかけた気分がジェットコースターばりに急降下した。後ろにはフンもいる。身の程知らずのアプローチしてないで黙って死んでくれ。

「二人もあんな奴とつるんでない方がいいんじゃないか?」

 そして幾ら何でもどストレートに私のことディスりすぎでは? お前がディスってる奴、身分もわきまえず狙ってる女子の友人やぞ?

 いやまあ五億歩譲ってお前が私のこと嫌うのもディスるのも構わんけど口に出すってどうなの。だからモテんのやぞ。飲み込むべき言葉は飲み込め。勉強しか出来んからこんな中途半端な学校きてパリピからも脱落するんだぞ。と、喧嘩売られたのは明らか私なので真正面からメンタルねじ伏せてやっても良かったのだが、それより先に失敗作を沈めたのはなんとかなちゃんだった。

「そうだね、あなたたちも、陰口叩くこの人とつるむのはやめたら? たぶんロクなことないよ」

 常に微笑みを絶やさない系超絶美少女のほとんど真顔から放たれた超マイルド表現の『てめーに言われたくねえんだよ黙ってろ』は、擁護された私ですら心臓にひゅんってきた。あゆちゃんですら目を見開いてた。なるほどなー、普段怒らない人ほど怒ると怖いって言うけど今それなりに重ねた人生の中で最大級ご理解した。めちゃくちゃ怖い。いや、私はたぶん怒られる側に回ることはほぼないんだけどそれでも気をつけよう。かなちゃんにあんな目で見られたら余裕で心折れて泣くわ。そしてたぶん「どうして泣いてるの?」って畳み掛けてくるのでさらに泣くやつ。ひえっ、いやです……かなちゃん見捨てないで……。

「あっ、はるちゃん。探してたんだよ。お昼一緒に食べよう?」

 パッと振り返って私を呼ぶかなちゃんはいつも通り柔らかく微笑んでいる。視界の外で固まった男どもはすでに興味の外らしい。

 こう言ったらアレですけど、ああいう態度、良くも悪くも私の影響ですかね? 心の底から申し訳ねぇ特にかなちゃんとお父様お母様ごめんなさい。純白の天使は私のせいで小悪魔的な悪魔的な魔女的な何かに目覚めてる。それもまたいいと思ってしまう私が一番戦犯かもしれないけど、自分好みの超弩級美少女が私の影響で喜怒哀楽の表現が変わってきてるとか普通に興奮しない? 私はする。最高かよ神様ありがとう。

 かなちゃんの変化に有頂天している間に、あゆちゃんが私の机から鞄ごとお弁当をかっさらってきてくれていた。どうやら他の場所で食べるようだ。どこに行くのかと問えば、降谷が司書室で待ってるわよとの回答。司書室に行くのはこれで二回目になるけど、前回の思い出がそれはもう悲惨なので出来れば行きたくない。たぶん顔には出ていないはずだが、以前そこで何かしらあったことだけは把握しているあゆちゃんが、無駄に楽しそうな顔で話があるそうよと付け足した。ねえ、なんで付け足したの。

 思わず半目になってあゆちゃんに振り返ると、まあお説教の類でしょうねとトドメを刺された。今お説教受けてきたばかりですけど?

 

✳︎✳︎✳︎

 

「石村さんが……」

 と、友人の話を聞いたのは、提出物を集めて届けに行った職員室だった。馴染んでないのは百も承知ではあったが、どうやらそれだけでは済んでいないらしい。

 暴言を吐いたとか女子を泣かせたとかいじめたとか、それはもう色々だ。並べられた言葉に強く否定できないのがとても虚しい。やりそう。もっとも、相手の受け取り方でそういう表現になっているという前提が付く上でだが。あと、アプローチも自らではないということか。いやでもな、やられたからって何してもいいわけじゃないんだぞ?

「で、どの辺までほんとなんだ?」

「泣かせた以外にまるで心当たりがないんだけど」

「泣かせたのね……」

「今日の一限目の話だね。さっき説教受けてきた」

「なんで泣いちゃったの?」

「テスト範囲聞かれたから知らんって答えたら泣かれた」

 俺たちから言わせればよりにもよってこいつに聞くなって感じの内容だったが、まあ、もちろん交流のないクラスメイトはそんなことつゆ知らず、発してしまったのだろう。しかし、こいつに問いかけるメンタルあるくせに泣くなよ、とも思う。他に選択肢なかったの?

 張本人も、泣かせた件に関して泣かせた自覚はあるものの、罪悪感もなければ反省もしてないようだった。お前は反省しろ。

「だいたい暴言吐くだのいじめるだの、そんな積極性が私にあるわけなくない?」

「ないね」

「でしょ? せいぜいガン無視した程度だっての」

「そう、無視はしてるのね……」

「あゆちゃんに彼氏いるのとか気色悪い笑顔で聞かれて殴らなかっただけ感謝してほしい」

「よかった、理性はあるんだな」

「因みにさっきかなちゃんが吐き捨てた相手だよ」

「覚えてないや」

 おっと? 笑顔で柊がとんでもないこと言った気がするけど気のせいかな。室瀬を見れば視線をどこか遠くに飛ばしたので気のせいではないらしい。間違いなく石村の影響。「そんなかなちゃんもすき」「私もはるちゃんのこと好き〜」ダメだな、手遅れだった。悪化しないことを静かに祈ろう。

 しかしこの様子だと、このまま放っておくのもどうかと思う。呼吸をするように敵を作るのやめてほしい。クラス中から目の敵にされて集団リンチされても、全員叩き潰して無事で済むだろうけどそういう話ではない。

 深くため息をついて頭を抱えれば、容赦なく室瀬が諦めなさいと切り捨てた。諦めたらそこで試合終了だぞ頑張れ。

「まあまあ、元気出せよ降谷」

「誰のせいだと思ってんだよ」

「理不尽な」

「はああ……」

「降谷くんは何に悩んでるの? そろそろ諦めた方が早いよ?」

「なるほどな、降谷が最後の良心だった」

「そして潰えた」

「不吉なナレーションやめろ室瀬」

「うーん。じゃあ聞くけど、降谷、私が諸々改善したら嬉しいわけ?」

「え? そりゃまあ、心配しなくていいなら、嬉しい……か?」

「いや、聞き返すなよ」

 カラカラ笑って善処しまーすと付け加えた石村のことをこの時俺は全く信用してなかったわけだが、一ヶ月もしないうちにその認識を改めることになる。

 

✳︎✳︎✳︎

 

「石村ぁ、帰り遊び行こ〜?」

「行かねぇ〜」

「またフラれたんですけど!」

「お前らと遊びに行きたいと思うことはないから! じゃあな!」

 じゃあね〜! と朗らかに手を振って見送られたのは石村だ。立ち去る背中の半分ほどは大きなエナメルバッグに隠されており、また別のクラスメイトが今日は剣道? と半分しかない背中に話しかける。そう! と腹の底から声を出して返事をすれば、クラスメイトは頑張れよー、と見えていないのがわかった上でその背中に手を振った。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 翌日、二限目の数学。黙々と黒板を染めていく石灰に追いつこうとノートを炭素で染める者もいれば、そもそも意識を手放している者もいる。そんな輩は自己責任だと言わんばかりに黒板はますます白く染まり、おおよそ八割ほど文字で埋め尽くされた頃、石灰が板を叩く音が止んだ。教師が後ろに振り返り、書き連ねられた公式の解説に移る。暫くすると炭素が削られる音も止まり、教室には教師の声だけが静かに響いていた。板書が終わったというのに、顔を上げているものは少ない。教科書に噛り付いているわけではなく、当てられるのを避けるためだ。しかし、そんな者のところにこそ、指名というのは無情にも飛んでくるものである。

 当てられてしまった、この学校には珍しくなく、クラス内では珍しい制服を着崩していない女子生徒は、目に見えて戸惑う。記述式ではない分まだマシだが、まだ数式が教師の求める段階まで進んでいない。言い澱んでいる間の、微妙な空気感が得意な者はほとんどいないだろう。焦れば焦るほど空回るのは分かっていたが、それでも焦って回答出来ない。

「あ、先生。三段目から途中式間違ってます」

「え、ほんと? どこ?」

「xyのあと、プラマイ逆ですよ」

「あれま。石村さんありがとう、ちょっと直すね」

 教師が再び黒板に向き合い、石灰をこすり落とす。視線を外された生徒たちも、こすり落とされた石灰の箇所に合わせて自分たちのノートの炭素を各々取り除く。一人を除いて。当てられた女子生徒は、今の内に進めなければと、間違った板書は放置して問われた数式を解き進める。「途中で式間違ってたから、そのまま進めてもダメだぞ」ぼそっと囁くように隣からかけられた声に、手と脳みその処理が止まる。声につられて横に顔を向ければ、声を出した本人は特に女子生徒のことを見ていない。手元の小さな紙に、何やら文字を書き込んでいるようだ。

 どこから直せばいいんだっけ、と軽くパニックになる女子生徒を追い詰めるように、教師は「よし」と書き直した数式を二度ほど上から下まで確認して、もう一度頷いた。どうやら時間稼ぎが終わってしまったようだ。何にも解決しなかった数式に内心嫌な汗をかくのと、教師が改まって振り返るのと、隣の席から四つ折りになったメモ用紙が飛んでくるのは、ほぼ同時だった。

「ごめんごめん、間違っちゃって。改めて、この数式だと解はいくつになる?」

 ペンケースの陰でメモ用紙を開くと、当てられた数式と途中式、そして解が書かれていた。書かれた通りに答えれば、教師は間違い気付いてきちんと解いてくれたのね、と先ほど言い澱んだことを含めて好意的に受け取った。ほっと胸を撫で下ろし、解説に入った声を聞き流しながら手元のメモ用紙を再び眺める。解説など今更必要ない程度には細かく書き連ねられた途中式。隣に視線を送れば、真っ直ぐに教師に目線を向けているその人物とは当然目も合わない。ペンケースから付箋を一枚取り出して、ありがとうと書き込んで、隣の机の縁に貼り付けて、女子生徒は視線を正面に戻した。

 隣の誰かは、自分の机の縁に現れた短冊形の小さな紙切れに何を思うこともなく、剥がし、丸めて、自身のペンケースに放り込む。女子生徒にギリギリ聞こえる程度の大きさの声で「知らんけど」と呟いて、リップサービスを忘れない。おそらく女子生徒は、誰かの発した言葉をとても好意的に受け取ったことだろう。そうなるように、一ヶ月ほどの時間をかけて仕込んできたのは他でもないその誰かだ。誰にも拾われないほどの薄い声で、浅く長くため息を吐く。なるほど、これはとても疲れるなぁと、一人の友人を思い浮かべながら瞬きをした。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 ねえ、と肩を揺するほどの力で掴みかかり、物理的に石村の足を止めさせたのは室瀬だ。因みに、発せられた「ねえ」の後にもエクステンションマークが数個つく。そのなかなかの声量に、周りを歩いていた生徒数名が振り返り、人物を確認してそのまま素通りしていった。本人たちの自覚はさておき、学校内では二人はそれなりに有名人だ。かたや外見的特徴により嫌でも目立ち、かたや話題の事欠かなさにより同じく嫌でも目立っている。もうプラス二人ほど前者と同様の理由で目立っている人物と四人一括りにされることが多いのだが、現在起きている事象に関しては全く関与しないのでここでは割愛する。

「どうしたの?! あんた、クラスメイトに手振って見送られてなかった?!!」

「それがおかしいと認識される現実やべーね」

 私だってやる時はやるんだぜ、とは石村談である。特に明るい表情でもない状態から繰り出されるサムズアップには違和感しかないが、室瀬はそんな石村に怯むこともなく一刀両断する。そんな方向に本気出すなんて……頭でも打ったのね。挙げ句の果てには病院行きましょうと言い出す始末である。冗談はよしこちゃん、とふざけようと口を開いた石村の目に映るのは、下がり眉をした友人の顔だった。本気だ。

 ふざけている場合ではないことを一秒で理解して、石村は中途半端に開いた口を一旦閉じ、大真面目に答えた。内心、そこまで心配されるようなことなのかと切なくなりながら。

「いやほら、一ヶ月くらい前に話したじゃん。生活態度の改善に努めますって」

「……えっマジだったのあれ?」

「降谷の頼みなら頑張るしかあるめーよ」

「はるの降谷にかける情熱はなんなの……? 本当に恋愛感情ないわけ……?」

「私は推しの人生を彩る為なら命を賭けるし推しの人生を曇らせるものが私なら全力で直すぜ!」

「そう……」

「もちろんかなちゃんやあゆちゃんも同じレベルで好きだからね!」

「ありがとう」

 それはもういい笑顔だったと後に室瀬は降谷に語った。そして、忠告する。

「あんた、お願いだから下手なことはるに頼むんじゃないわよ。はるの辞書にやりすぎの文字はないわ」

「善処する……」

 石村のいい噂をあちらこちらから聞き拾った降谷は、やり場のない感情を両手で顔を覆って隠した。

 




久しぶりすぎてすみません。現実と宝探しが忙しくて……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夢を見る

 テスト結果によるヒエラルキーへの印象操作とか少数派のスクールカースト勘違い勢への制裁とかこれまた別の少数派の自虐的下層者への生暖かいフォローとかそういう諸々を経て、枠外の特別待遇ポジションに収まるために費やした時間、プライスレス。アホほど疲れたんだが、これを息をするようにおこなう降谷頭おかしいのでは? コミュ力おばけかな? 私はおばけでもゴリラでもないので死ぬほど疲れた。

 進んで努力しなければならない時期は脱したのであとはほどほどに現状維持に努めるのみである。対人関係を円滑に進めようと思えば進められるということがよくわかった。いうて社会人だったしな……。ちょっと炎上癖があるだけです。気に入らない奴は燃やせ。ラグロンドメントデュヘインしよ。折り合いなど殺せ。

 そんな意味不明な高校生デビューを二年生にして果たし、かと言って私の身の回りの環境が特に変わるまでもなく、季節はすっかり梅雨である。

 しとしとしとしと。クラスの鳥の巣ヘアーがセットが決まらなくってとくっちゃべっている。安心しろ、お前のヘアスタイルが決まらないのは顔面偏差値所以であって湿度のせいじゃねぇよ。誰がそんな訂正を入れてくれるわけでもなく、私の関与しないところでこんな実のない会話がころころ回されているんだろう。ぼんやりしてても時間が過ぎていき、もう六月が半分終わろうとしている。本当に時間がない。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 目を瞑ると、忘れるなと言わんばかりに夢で見た光景がまぶたの裏で繰り返し再生される。

 お昼の情報番組、緊急ニュース、立ち込める湯気と憎たらしいくらいに晴れ渡った空の色。鼻の奥には湯気のにおいが沸き立って、鼓膜は今震えているかのようにお姉ちゃんとみっちゃんの声を再生する。十秒も目を瞑っていれば冒頭から葬式まであっという間に完走する超倍速で無限リピートされる。ここ最近、ずっと頭がおかしい。

 おかげで連日寝不足だ、なんて可愛らしい精神があればまだ自分のことを好きになれたかもしれないが、非常に規則正しい生活を送っているので夜になれば眠れるし、朝がくれば目は覚めた。起きてる時に、不用意に目にプロジェクターを降ろさなければいいのだ。もともとそんな意味深な雰囲気で物思いに耽ったりすることもないので気をつけることでもない。日常生活では。

 どうしても避けられないのは、道場に通う日だ。稽古の前後、道場の片隅で正座をして瞑想を三分おこなう。その時だけ、どうしたって意識して目を瞑らないといけない。この時に集中できてないとそのまま師範に筒抜けになるのでなんとか乗り越えないといけないのだが、三分も早送りループ耐久映像を眺めていると気が狂いそうになる。雑念しかない。

 日が過ぎるごとに映像の彩度が上がっていき、昨日誤魔化せた(誤魔化されてくれた)ことが今日は誤魔化せなくなる。音がクリアになる。においが濃くなる。額に脂汗が滲んで、とうとう瞑想の途中でストップがかかった。

「一体どうした、お前らしくもない」

「申し訳ありません……」

「理由を聞いているのだが」

 夢見が悪くて、と素直に答えても意味が伝わらないだろう。そもそも瞑想中に寝るようなポンコツ弟子だとも思われてない。いっそ集中できていないことをなじってくれればいいのに。そんな人ではないことは重々承知なので、この静寂すぎる問いかけから逃れるすべがまるでわからない。

 理由は答えられません。正面に姿勢を正して座る師範の目を見てそう言えば、ふむ、と小さくこぼして口を開かれた。

「私は、お前を買っている」

「はい」

「その反面、とても疑っている」

「……はあ」

「具体的に言うと、将来犯罪者になるのではと危惧しているのだが」

「えっ」

「そうさせないのが私の師としての務めだと考えている」

「……はい? えっ、申し訳ないですけどちょっとよく分からないです……。師範、私が犯罪者になるって思っていらっしゃるんですか……?」

「一歩間違えればそちらに突き進むタイプだなと確信はしている」

 えっ、つら。師事してる方に犯罪者予備軍と確信されていたとか普通につら。なるほどな? いいから通えとゴリゴリに勧められたのは更生のためだったと? 泣くが? 神妙に頷くのやめてもらえます?

 そうですか、と遠い目をして答えておく。まあ一理も二理もありまくっている自覚はあるので悲観はするが否定はするまい。肯定するだけの根拠はごろごろあるが、異議を唱えられるほどの善性は私にない。

 しかし、私の今までの行いを師範に伝えたこともなければ匂わせたこともないのだが、一体どこで確信に至ってしまったというのか。まさかマジで初見で見抜かれていたとか? いやー、人を見る目ありすぎるでしょ怖いわ。

「お前は考えた方のベースが成人以上のそれだが、感情が子供だ。悪事を悪事と理解した上で、そうしようと決めたら覆すことはない。そこに善悪や正誤の判定は入らない。自分がどうしたいか。それがお前の行動原理だ。そういう人間は、向かう先が両極端になる。昇り詰めようと思えばどこまでも行けるが、落ちれば奈落の底まで突き進む。こう言ってはあれだが、自覚はあるな?」

「……あります」

「お前は馬鹿ではない。道をそう簡単に違えることはないだろうが、一度でも超えてはいけない一線を超えればそれ以降はなんの躊躇もなく人としての道理に背いたことを繰り返すだろう。私は、それを危惧している」

「私にそんな度胸はありませんよ」

「私とてそう信じてはいる。お前は善悪の判別が出来ないのではなく、不要と思った時にしないだけだ。だが、追い詰められた時にはわからない。窮鼠猫を噛むというだろう。今のように正常な判断がつかない時に、取る手段に見境がなくなる可能性は非常に高い。理解は、しているな?」

 要するに、今の私がそういう状態だということなのだろう。

 目をつぶって瞑想をしているだけなのに、今までだって数百回と繰り返してきた動作の中で急に脂汗をかいて集中できない。異常だ。師範が言っていることはおおよそ正しい。成人以上と判断されている下りには一瞬呼吸が止まったが、恐ろしい人だと思う。どういう人生歩めばここまで人のこと見抜けるようになるのだろう。少なくとも剣道の師範代だけで生きてきたわけではないのだろう。

「晴美、お前、どうしたんだ」

 向けられてる善意は慈愛の類なのだろう。優しさからの心配なのだろう。言葉の通り、買ってくれているのだろう。目にかけていてくれているのだろう。

 だからこそ思ってしまう。いっそ問いただしてくれればいいのにと。そうすれば私はそれを言い訳にして白状してしまえるのに。問い詰められたから仕方がなかったと、誰にも理解されなくても誰かに話してしまえるのに。

「……大丈夫です」

「口にした言葉は戻らんぞ」

「だから、大丈夫なんです」

 ふぅとため息を吐かれる。きっと呆れられている。だとしても、だからこそ私は大丈夫だと言うしかない。その言霊に縋って私は何もなかったことにするしかない。何が起きるのだとしても、そんなことはなかったようにしないといけない。

 膝の上に置かれた両手をギリギリと締め上げて、手のひらに食い込む爪の痛みにそう誓った。

 それからしばらく、稽古前後の瞑想はなくなった。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 はるは分かりづらいが意外と表情豊かだ。ベースはぼーっとしているというかむすっとしているというか、あまり愛想がないけど。私もあまり人のことを言えたタイプではないけれど、話しかけられればそれなりの反応は示している。でもはるは話しかけられても反応は薄いしなんなら聞いてるのかどうかも怪しいことが多い。

 反面、懐いてくれるととんでもなく分かりやすくなる。知ってる声に呼ばれると、表情はほとんど変わらないが顔ごとそちらに向き直って、目で「呼んだ?」と聞いてくる。それが、すごい、可愛い。なかなか懐かなかった猫がゆらゆら尻尾を振っているようで、とても愛着がわく。

 嬉しいことがあると目が輝く。嫌なことがあると目をそらす。目は口ほどに物を言うという言葉の意味を、私ははるの態度から学んだ。

 だから、顔に出ていなくてもわかるの。名前を呼んでも振り返らなかったり、話しかけても上の空だったり。そんな些細な違いだけでも、あんたは充分わかりやすいんだから。

「亜弓。はるちゃん、どうしたんだろう」

「さあ、正直さっぱり分からないわね」

「降谷くんに聞いても心当たりないって言うし」

「まあ、あいつに分かるなら私たちだって分かるでしょ」

「そうだよねぇ」

 別にそれは降谷の悪口でもなんでもなくて、言葉通りそのまま、私たちはお互いのことを同レベルで理解しているという意味に過ぎない。私と叶恵はもう少し付き合いが長いから若干違うけど、それ以外はお互いに一年にも満たない程度の期間に相応しい相互理解しかない。何かあっても、その間に得た情報でしか相手を推し量れない。

 それでも、少しは理解できてきたと思っていたのに。頼ってほしいと泣いたのに。あんたが好きだって怒ったのに。

「亜弓」

「泣いてないわよ」

「何も言ってないよ」

「分かってるのよ」

 腕を組んで顔を伏せる。目頭が熱い。まぶたの隙間から熱がしみ出す。分かってるの、はるが私の気持ちを理解してくれていることは、きちんと分かってる。だって約束してくれたもの。無茶はしないって言ったの。手に余ることなら頼ってくれるはずだって自惚れるぐらいには、私たちのことを好いてくれてるって分かる。目が教えてくれる。

 だから、はるが何も言えないぐらい苦しんでるのに何も言ってあげられないのが情けない。はるが何に苦しんでるのかなんて理解できないのは分かってるけど、それでも、分かってあげられないのが悲しい。虚しい。あの子が、助けを求められないことなんて、嫌というほど分かってるのに。私はなんにもしてあげられない。

 大丈夫だよと叶恵はいう。いつもの笑顔はなりを潜めているのだろうけど、顔を伏せている私にはその表情は見えない。はるに出会ってから叶恵は本当に人が変わったから、こういう時どういう顔をするのか、少し予想がつかない。そういえば、この間もはるのこと悪く言った奴を口で撃退していた。あの時の叶恵の顔は少し夢に出てくるんじゃないかというくらい、何の感情も読み取れなくて恐怖を感じた。たぶん、私やはるにしか理解出来なかったけど。

「はるちゃんは、耐えようとしてるんだと思う。何に耐えるのかはよく分からないけど。でも、耐えられなくなったら、きっと助けてって言ってくれるよ」

「なんで、はるがそんな思いしなきゃならないのよ……」

「私は、少し分かるよ」

 パッと顔を上げると、叶恵は少しだけ眉を寄せて微笑んでいた。昔は同じような顔をして、仕方ないとよく言っていた気がする。

「何でかね、我慢しなきゃいけないって思うことがあるの。しなくていいって分からないの。私、そうだったから」

「かなえ」

「駄目なの。本当に、どうしようもなくなって、自分が悪いわけでもないのに、苦しくて、泣いて。そうならないと、我慢しなくていいってことが、全然理解できないの」

 だからね、私ははるちゃんが本当に耐えられなくなった時に大丈夫だよって言ってあげたいの。それまできっと、何も言ってくれないから。

 そこまで言われて、私はまた顔を腕に埋める。去年のことを思い出す。何度言っても自分のことを第一に考えてくれなくて、人を巻き込んでしまった罪悪感ゆえの行動で襲われかけて、助けられて、それでもやっぱり自分が悪いと泣いて虚空に許しを請うた叶恵を。

 後頭部を叶恵の手が撫でる。今と同じように泣いて、どうして一人で無茶したのかと怒鳴った私に、戸惑いながらごめんなさいと謝ったあの子はもういない。ありがとうと付け足せるようになったこの子がいるのは、はるが助けてくれたから。それが今、何も変わらない私を許してくれている。

「ありがとう、亜弓。いっつも誰かのことで泣いてくれる亜弓が、私もはるちゃんも大好きだよ」

「……ごめん」

「ううん。悪いのは、私やはるちゃんだから。大丈夫、今度はちゃんと私がはるちゃんのこと助けるよ」

「ごめん……!」

 情けなくて泣くしかない私の頭をゆるゆると撫でながら、はるちゃんは私よりキャパシティが広そうだからいつになるか分からないけどねと、笑えない冗談を言った。本当に笑えないからやめて。私がますます泣いたので、叶恵はさらに頭を撫でた。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 七月十日。

 コンビニ受け取りとかいう便利な概念がまだ根付いてない上に、未成年のネット通販が代金引換でも出来ない事実に打ちのめされたのは記憶に新しい。結論として倫理観がけっこうガバガバな阿笠博士に注文と引き取りを依頼したのはつい一週間前のことだ。

 将来的に麻酔銃なんてものを生み出してしまうだけあって、注文した商品がなんなのかは一発で見抜かれた上に不審がられたが、悪ふざけで購入したわけではないことだけは理解してもらえたようで最終的には何も聞かないで代理を引き受けてくれた。そういうところが新一くんに付け込まれるんだよなぁとは言わないでおこう。言ったところで理解できるもんではないし、理解できたところで防げるわけでもなかった。

 とにかく、私は合法的な手段で必要なものを入手した。

 

 七月十一日。

 開口一番、滅多に連絡よこさないくせに意味不明な頼みごとをするのはやめろと叱られた。反論の余地が一ミリもなかったので素直に謝罪すれば、分かればいいんだよとお説教はものの五秒で終わった。

 じゃあすみませんが事前にお知らせしたことを頼みたいのですがと開き直って再度頼めば、今度は頭を引っ叩かれた。俺をなんだと思ってやがると割とおこになってしまったので、実験台は多い方がいいと身もふたもない頼み方をする。まあ将来的なことを考えると、この人は割とそういうのに耐性あるのでは説が私の中でまことしやかに囁かれてしまったので、どうしたって人選はこうなる。

 大丈夫ですよ、市販薬だし私も飲むんで。どの程度効果があるか把握しておきたいだけなんです。真面目さと瑣末さをハイブリッドしようと、フラットかつワントーン上げた声で言い放てば、とうとう彼は黙り込んでしまった。しかし他にいいようがないのだ。十秒ほど沈黙が続いたのち、部屋に流れたのはため息だった。

 悪用しないとは思ってるが、使い方を誤れば死ぬこともあるんだぞ。最後の忠告をし、小五郎さんは睡眠薬を受け取ってくれた。礼を述べ、その日の夜、私も同じ薬を飲んだ。

 

 七月十二日。

 ぐっすり眠れた。以上。

 小五郎さんからの報告も同じようなものだった。分かっていたことだが市販薬レベルでは短時間の効果しか期待できない。これではとても寝過ごしてはくれない。ダメで元々ぐらいの気持ちではあったが、神が一服盛るなんてやめておけと、私が犯罪者の道へ走るのを阻止してくれているのだと思うことにしよう。薬事法違反でお縄ですね、どこぞの少年探偵は覚えておいてくれよな。

 

 もっと脳みそを柔らかくして原始的な方法で行こう。

 

 七月十三日。

 いつも通り朝からランニングと朝食作りのルーチンワークをこなして、家族全員を叩き起こす。特に父と母を重点的に。休みの日と言えども、今日は大事な結婚二十五周年記念の旅行の出立日だ。寝てる場合じゃない。荷物の確認で夜遅くまで起きていたのは知っているが、寝坊したら荷物の確認そのものが無に帰す。

 ほら起きてと、ぐずるお母さんをお父さんと二人掛かりで揺する。飛行機に乗り遅れてもいいなら好きにしろと言ってみても、なにやら寝ぼけながらうにゃうにゃ言ってダメだこれは。だから夜更かしなんかするなとあれほど言ったのに。旅行が楽しみで寝坊するとか今時小学生でもしない。と、思う。たぶん。

 やっとこさ予定より二十分ほど遅れてお母さんが起床、お父さんが荷物の最終チェックをする横で朝ごはんを咀嚼している。急遽追加したシジミがさっさと脳みそを覚醒してくれるよう祈ろう。

 みっちゃんが見兼ねて髪の毛を整えているが、別にそんなに急ぐほど工程が遅れているわけでもないので放っておいてもいいと思う。正直あと三十分ほどうだうだしていても充分間に合うだけの時間的余裕は組み込まれている。心配性のお父さんが少し胃が痛くなるくらいだ。可哀想なのでお母さんやっぱりさっさと起きて。

「それじゃあ、はるちゃんはご飯当番よろしくね。みきちゃんとみちちゃんも、手を貸してあげてね」

「はいはい、二人も気を付けてね。日本人は狙われやすいっていうから」

 ご飯を食べて、荷物を確認して、寝室に置き忘れていたショルダーバッグを慌てて取りに行って。少しだけばたついたのち、お姉ちゃんの少し不吉な忠告を受けてお父さんとお母さんは家を出た。そっとボトムスの尻ポケットを撫でて、膨らみを確認する。大丈夫、大丈夫。

 お姉ちゃんとみっちゃんが食器を片付けてくれているのを横目で確認して、ダイニングを離れる。お父さんとお母さんの寝室、二人のベッドの脇に置かれたキャビネットに、隠し持っていた二人分のパスポートを仕舞った。大丈夫。

 飛行機に乗らなければ、死なない。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 はるの様子がおかしくなったのはだいたい一ヶ月ぐらい前からだった。

 話しかけても反応が鈍くて、呆けていることが極端に多くなった。聞いていないようで聞いている、ということが多い子なので、聞き返されることが増えた時は心底驚いた。二つのことを同時にサクサクこなせるわけでもないので、勉強や読書に集中している時はそういうこともままあったけど、手元のページは参考書でもミステリーでも全く進んでいない。心ここに在らずという状態を体現していた。

 もちろん、気付いたのは私だけではない。みちもすぐに気付いたし、お父さんもお母さんもはるがおかしいということは理解していた。ただ、聞いたところであの子が答えないことも全員よく分かっていた。甘えるのがどうしようもなく下手くそな子だから。頑張って頑張って頑張って、崩れ落ちるまで我慢できてしまう子だから。だから、崩れ落ちた時に近くに居てあげられるように見守るしかない。

 お父さんとお母さんは、そんな最中に旅行に出掛けてしまうことを気にしていたが、それを取りやめてしまったらますますはるが限界を超えてしまうと思ったので旅行には行ってもらうことになった。もちろん、はるはそんな話を知らない。お母さんは結局寝付けなくて寝坊してしまった。

 出発当日。はるはいつも通りランニングを済ませて朝食の準備をした。そわそわして寝付けなかったお母さんのその理由を小学生理論と結びつけて叩き起こして、眼が覚めるようにと急遽味噌汁にシジミを足した。本当に、いつも通り振舞っている。この一ヶ月間、何事もないはずはないのに、何一つ日常生活に支障をきたしていない。

 しっかりしていると言えば聞こえはいいが、あそこまでしっかり自立しているとかえって不安になる。小中の頃と比べると友達もいて遊びに出かける頻度もゼロから少し増えたけど、家族以外に誰かちゃんと頼れる相手はいるんだろうか。

「バタバタしてたね」

「仕方ないわよ」

 口を出すことではないけれど、食器を洗いながらはるの交友関係を勝手に心配していると、みちがポツリと口を開いた。間違いなく騒々しい朝だったので肯定の意を返すと、話題が飛んではるの話になる。居ない間にということだろう。

「はるちゃん、どうすれば元気になるのかな」

「さあ……。原因がさっぱり分からないからね、どうしようもないわ」

 全ての皿を洗い終わって水切り台に乗せる。蛇口をしっかり締めて、水切り台から一枚ずつ手に取って水気を拭き取るみちは、はるには絶対見せない沈んだ顔をしている。なんというか、我が家はみんなポーカーフェイスが上手すぎるのがダメなんじゃないかという気がしてきた。もっと顔に出してくれれば、口の出しようもあるのに。

「とりあえず、手が空いてたらみちも家事手伝って。私も講義空いてる時はやるから」

「うん」

「あれ、もうお皿洗い終わった? ごめんね、丸投げしちゃって」

 トイレから戻ったはるは、やはりいつも通りだ。表面上は。ため息をつきたくなるが、事態の好転には繋がらないので黙って飲み込む。あと、皿洗いくらい丸投げしなさい。

「別にいいわよ、これくらい。それよりはる。あんた、一週間も剣道行かなくて本当に平気なの?」

「師範には許可もらってるから大丈夫だよ。代わりに素振り毎日五百回やれとは言われたけど」

「……それ普通なの?」

「他の人に師事したことないから普通がどんなもんか知らないけど、別に死ぬほどキツイってことはないよ」

 なんてことない内容を三人で少し交わし、はるは腹ごなしに百回やってくると庭に出た。みちは宿題を片付けると言ってリビングに道具一式を持ち込み、私は簡単に作れるお昼ご飯のレシピをお母さんが置いていったメモの中なら厳選する。

 二分もしない内にはるは庭から戻ってきて、みちが後四百だねと言った言葉を否定した。「本気で振ってないから今のはノーカン」らしい。信じられない。大して太くもない二の腕の構造が私と同じとは到底思えない。見せる筋肉と魅せる筋肉と使う筋肉は別物だとかいう話をいつだか聞いた気がするが、あの子はどこへ進むのか。警察官じゃなかったっけ?

 そんな穏やかな午前を過ごし、そろそろ午後の準備をしないと、とレシピを二択まで絞っていたら、玄関を荒々しく開く音がリビングに響いてきた。施錠してあったはずなのに、と椅子から腰を上げる前に部屋に飛び込んできたのはお母さんだった。汗だくだ。時計を見ると、もう飛行機が飛び立つ時間を三十分は過ぎていた。

 なんとも呆れる話だが、パスポートを忘れたらしい。はるの小学生理論が一部正解していたのではと思ってしまう。別にツアーに参加しているわけではないので、別の便に切り替えは出来るそうだけど、災難な出だしだ。

「昨日の夜は入ってたのよ……」

「朝に寝ぼけたまま確認するからだよ……」

 みちの容赦ない苦言に肩を落としながらお母さんは寝室に駆け込み、私たちに見守られながらキャビネットを漁り、目的の物を見つけたところでお父さんが寝室にやってきた。どうやらお父さんは駅でお母さんに置いていかれてしまったらしい。すぐ戻るからと言い残して走り去ったそうだが、お父さんは慎重なのでどちらかといえばそそっかしいお母さんに丸投げして大事なパスポートを取りに行かせるのは精神的に無理だったということらしい。そうね、お母さん、持ってきたわよって言って自分の分しかなかったとかありそうだもの。

 二人分のパスポートを家族総出で確認して、お父さんのウエストポーチに大事に仕舞う。あとは空港に向かうだけだが、汗だくでまだテンパったままのお母さんをはるが止めた。とりあえず落ち着いて、ほらお茶。お父さんも。もう飛行機は出ちゃってるんだから、遅れるなら一緒だよ。そう言ってダイニングテーブルに誘導して、空調の温度を下げた。お父さんはそうだな、と一言呟いて氷入りのお茶をあおる。お父さんが腰掛けてしまったので、お母さんもそれにならうしかなくなった。はるはテレビを点けた。もうのんびりさせる気満々だった。

「突然ですが、緊急ニュースです」

 ニュースキャスターが落ち着いた声で伝えるその内容は、とても信じられないものだった。

「先程、イングランド行きの飛行機が空中で炎上し、墜落したとの情報が入りました。繰り返します──」

 紡がれた便の数字に、お父さんが真っ青な顔でウエストポーチから搭乗券を取り出す。お母さんが倒したグラスなんて、誰の目にも留まらなかった。目をつぶって深く、深く息を吐くはるにも、誰も気付いていなかった。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 お父さんとお母さんの記念旅行は結局取りやめになってしまった。嫌な気分を味わわせてしまったことを、とても申し訳なく思う。そもそも旅行を取りやめさせることも、きっと、おそらく、出来なくはなかっただろう。穏便な手段で取り消すことだってたぶん出来た。

 でも、私はそうしなかった。知っておきたかったから。どこまで私の見た夢が現実になるのか、知っておかなくちゃならなかったから。

 まぶたの裏で流れたニュース映像と、現実で流れたニュース映像にはまるで差異がなかった。お昼ご飯の準備に取り掛かっていなかったのは、周りの行動は私の行動の変化で変えられるということなのだろう。変わらなかったのは、飛行機の墜落。死因は変えられないと仮定して。

 まぶたを下ろして、深呼吸をする。映像は流れない。成功したということだと信じよう。まぶたを上げて、またノートに書き込む。大丈夫だ、上手くやれた。

 次も上手くやれる。大丈夫、大丈夫だ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

2006年7月13日

飛行機墜落→同じ

お昼の番組→不明(見てない)

お昼の支度→違う(変えられる?)

 

ご飯の用意はお姉ちゃんがしてた⇔ご飯の用意を頼まれた

仮定:去年はご飯の用意の手伝いをしていなかったので、培ったスキルで当日までに誤差が出る可能性がある

夢を見た時点で起こりうる現実になる?

 

仮定からの推論:萩原研二と別れてしまえば、当日に家から出ることはなくなる?

デメリット:何日がその日か特定が厳しくなる。かなちゃんがそもそも喜ばない。

 

夢を見る対象:家族、友人(暫定)

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ホラー映画よりおっかねえのが米花町ってこと

 人知れずお父さんとお母さんの命を救ってから早くも一週間。私としてはいつも通りの日常を送っているつもりなのに、身内にも友人にもいいことでもあったの? と、遠回りに数日前まで気分の下落があったことを指摘されたので、今後は気を引き締めようと誓った。指摘されるようではいけない。ホラー映画を無数にループして精神でも鍛えようか。怖いから嫌だな、やめよう。

 いやでも師範ほどは怖くないかな。旅行が取り止めになってしまったので、翌日にはその旨と道場にお邪魔したいことを伝えたら当然のようにしばらくなかった瞑想から入られたので、本当に、ものすごく、筒抜け加減に肝が冷えた。無言なのも冷や汗が出る。この人にバレないようになればたぶん誰にもバレねえなと勝手に確信した。よし、ホラー映画周回すっか。

 というわけで、私の夏休みにはある意味夏らしくチキチキホラー映画エンドレスカーニバルが開催されることが決まった。別にホラー好きでも得意でもないから何にも嬉しくない。ドMじゃないのに苦行を強いていくスタイルいい加減やめたい。仕方ない、私の心の平穏のためだ。心の平穏と書いて虚無の極地と読む。因みにお姉ちゃんとみっちゃんを誘ったら普通に拒否られたので参加者は私一人である。心臓発作で死ぬ未来を察知した。怖い。ぴえん。

 そんなこんなでランニングの帰りにレンタルビデオ屋さんで旧作ホラー映画を四本ほど借りていると、降谷とスコッチにばったり会った。ふぁっ?!

 

✳︎✳︎✳︎

 

 石村、と呼ばれた声に降谷だなと確信するのと振り返るのはほぼ同時だった。珍しいところで会うもんだなーと呑気に頭の片隅で考えていたら、振り返った先に居たのが降谷とスコッチ。もう少し正確に言うと、こちらを向いた降谷が居て、私から見てその数メートル奥にスコッチが居た。ありがたいことにこちらには来る気配がない。ちらりと目配せした上で放置することを決めたらしい。

 ショッピングモールの時も思ったけど、なるほどな、そんなに他人に興味ないタイプらしい。ありがたい。永遠に私とはノータッチで頼む。どう接したらいいかまるでわからん。まず名前なんだったっけ。息をするようにスコッチって呼びそう。ヤバすぎるだろ。

 小走りでこちらに駆け寄ってきた降谷は夏休みなので当然私服だ。思い返すとこいつと学校無関係で会うのショッピングモール以来では? ボルダリング行った時も剣道の稽古覗きに来たのも学校帰りだったような気がする。降谷はケータイを持ってないので、仕方のないことなんだけど。

「学校以外で会うの珍しいな」

「そだね」

「何借りたんだ?」

「ホラー」

「意外だな、好きだっけそういうの?」

「どちらかと言えば嫌いだね」

「は?」

 またこいつは何やってんだと、麗しい顔面が雄弁に語る。まあご理解いただきたい試みでもないので深くは話すまい。そんなことより、私は推しに会えた喜びよりもスコッチを見かけてしまった恐怖で今すぐお家に帰りたい。なんで私はこんなにスコッチにビビっているのか。

「ああ、そう言えば俺、幼馴染と来てるんだけど」

 流れるような動作で身体ごと後ろに振り返ろうとする降谷の肩をほぼ条件反射で鷲掴みする。ぎゃあ、触っちまった! ごめんな降谷! 推しにがっつりボディタッチするとかいう禁忌を犯してでも、何故か、私はスコッチと接触したくなかった。本能的に。理由は知らんが、とにかくダメだと私の中の何かが絶対的に拒否している。ここまでダメだと自分でも困惑する。いや、困惑してるの目の前の友人な。降谷はもともと大きい目をさらに大きくして私の奇行を見守っている。

「お前の後ろにいる人?」

「え、ああ。そうだけど」

「別にお知り合いになりたくないので紹介しなくていいです」

「……顔はいいと思うぞ」

「そういう話じゃねえんだよなぁ〜!」

 確かにちらっと見ただけでも顔は良かったけどそうじゃねえしお前は私の価値基準をなんだと思ってるんだ? 別に降谷がとんでもねえブサイクとニコイチ親友でも私は全く気にしないよ? お前と仲良いんだからいい奴なんだろうしね? スコッチもいい奴なんでしょうね? 分かるよ??? 知らんけど。

 降谷の人となりはそれなりに知ってるつもりだから分かるけどね、そうじゃねえんだよ私はスコッチの名前を知りたくないし知られたくないしとにかく無理なの生理的にNGなの。理由はわからんけど!!

「私は人見知りのコミュ障なのでお前の友人と言えど無理に紹介してくれなくて結構です。じゃあな!」

「あっ! おい!」

 一方的に言うだけ言って逃げた。去り際についうっかりスコッチと目が合ってしまったが、なんだろう、あんな感じの目を割と最近どこかで見た気がする。なんというか、あれだ、舌打ちが飛んできそうな、と思い至って、思い出す。ああ、あれだ。あゆちゃんがあんな目をしていた。向けられていたのはかすかな独占欲と、いじらしい敵意だった。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 ゼロと映画鑑賞会を開催するためのDVDを借りるため、朝イチに近くのレンタルビデオ店に来てみれば、結構前にショッピングモールで見かけた女子がいた。我ながらよく覚えていたなと驚いたが、あのゼロが、嫌われていてもいじらしくも助力するとかいうめちゃくちゃ面白い場面だったので印象深かったんだと思う。

 相変わらず表情のない女子だった。ゼロに全く愛想よくしない異性はそれはもうレア中のレアなので、もはや希少価値すら感じている。しかし、真顔でホラー映画を吟味している様は、それこそホラーだったのでやめてほしい。

 特にその女子に自ら声をかけるわけでもなく、どの映画を借りるかをお互い好き勝手選んでいるうちに、ゼロはそいつに気付いたらしい。石村、と話しかける声は親しげだ。というか女相手に呼び捨てとは非常に珍しい。小学校の低学年以来な気がする。俺が見たショッピングモールでの一幕ではゼロが一方的に構っているような感じがあったが、どうやらあれから親しくなったようだ。ちらほら話には聞いていたが、実際に見ないとわからないからな、ぼっちじゃなくなって何より。

 俺個人は別にそいつに興味はないので話し出した二人は放置する。暑いしホラーもいいかもしれない、と女のチョイスに引きずられつつ陳列されたDVDの背表紙を流し見ていると、幼馴染というワードが聞こえた気がした。俺のことかと思ってそちらに振り返ると、何やら向こうがゼロの両肩をがっちり掴んでにじり寄っている。歳の近い男女があんなに距離を詰めているのに、甘酸っぱさのかけらもなくてなんなら苦い気持ちにすらなる。どういうことだよ。大して差のない背丈も相成ってどちらかと言えば男同士の友情みたいなもんなんだろうか。あーあ、俺も同じ高校行っておけばよかった。

 去り際に俺と目が合ったなにがしさんは形容しがたい表情をしながら会釈をして、逃げるように去って行った。なんとなくだが、憐れまれたような気がしたが、流石に気のせいだろう。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 よくわからないままに石村に逃走されてしまい、若干呆けていたらヒロに呼ばれた。振り返って幼馴染の顔をしげしげと見つめる。うん、一般的に見てもカッコいいんじゃないか? つり目がちだが、鼻筋も通ってるし、笑うと人当たりがいい顔してる。うん、顔はいい。中身もいいが。

 もっとも、別に石村にとってそこは重要じゃないらしい。嘘つけ。お前、俺に今まで言ってきたあれこれを胸に手を当てて思い返してみろ。顔面偏差値のアドバンテージ力説したのそんな昔じゃないからな。

「ゼロ、今のってショッピングモールの喧嘩っ早い奴だろ?」

「そうだけど、よく覚えてたな?」

「いやお前のこと警戒できる女子とかそうそう忘れられないって」

「……もう警戒されてないから」

「でも逃げられただろ?」

 からかう気満々で話を続けるヒロはにやけた顔で言葉を放つ。いやまあ確かに逃げられたけどたぶんお前のせいだからな? とは流石に不確定要素が多すぎて言えない。でも俺には今更逃げられる要因なんてないし、あったところでそれを濁して流されるほど薄っぺらい付き合い方もしてない。つまり、消去法で原因はヒロとなるわけだが、それはそれで根拠が薄い。顔がいいから喜んで表情は無のまま眺め回すと思ったんだが。

 思考の海に飛び出していると、腕を組んで黙り込んだ俺を見かねてヒロが帰ってこーいと二の腕あたりを二、三度叩く。ハッとして謝罪すると、いいから映画借りて帰ろうぜと急かされる。話をそっちに引っ張ったのはお前だろうが、と反抗の意を込めて脇腹を肘で軽く突いた。お返しに肩パンをもらい、更にお返しで襟足を引っ張る。沈黙。五秒ほど間が空いた後に攻防は激化し、お店の人に静かにしてください! と怒られるまであと二分。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 ロンリーホラーパーティーを開催した翌日、とてもローテンションでレンタルビデオ屋に借りたDVDを返しにきていた。結論、何も楽しくないし四本目に差し掛かる頃には驚きの動悸に肉体が反応できないという異常事態が起きたのでそいつの序盤で観るのをやめた。おかげで顔にも身体にも外見上反応はまるでないが、心拍数だけ跳ね上がるという役に立つのか立たんのか分からんレベルの技能が身についた。要らねえよ。瞳孔の開き具合と脈で嘘はバレるんでしょ、脈拍コントロールできなきゃ意味ないわ。そしてそんなことができる奴は人間ではない。ニュータイプかな?

 ランニング帰りに再び寄ったお店は昨日と同じ店員さんが受付をしており、返却で、と伝えると分かりやすく驚かれた。えっ、昨日の今日で四本全部見たの? と顔に書かれている。若干引き気味だ。うるせえな私も観たくて観たんじゃねえんだよ、なんなら後悔してるわ。もう映画は脳みそ溶かして観れるキッズ向けしか摂取しない。ポケモン観る。

 ここはコナン(とライダー)以外はだいたいそのまま存在してるのでありがたい世界である。ゲームする時間がほぼないのだけが残念だ、真面目に生きてると娯楽に費やす時間などない。真面目に生きてる人やべえな、いったい何でモチベーション保ってんの?

 恐ろしいほどどうでもいい方向に思考が流れていった時、人生でもう何度目になるかわからない悲鳴が聞こえてきた。店の外だ。よし、シカト決めよう。この間二秒。しかしたったいま用事を終えてしまった私は店から出るという選択肢しかない。よし、聞こえなかったフリして次借りる映画を物色しにいこう。ここまで五秒。動くな! という怒声が響き渡り店員のお兄さんがひいっ! という悲鳴を上げた。おおよそ十秒。

 振り返るとナイフを右手に金を要求するフルフェイスの強盗犯が視界に入った。ため息をついたところでたぶん十五秒。フルフェイスは視界が悪いのをいいことに後ろからナイフを掴んだ手に手刀を落とし、落下したナイフの柄を全力でその強盗犯の鳩尾に食い込ませて意識を刈り取る。最初の悲鳴から二十秒。心の底から、昨日じゃなくて良かったと思いつつ、ガムテープで強盗犯をぐるぐる巻きにして私はお店を去った。私は朝ごはんの支度があるんだよ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 家に帰った私は何事もなかったかのようにジブリパン風トーストを作り、サラダのレタスをバリバリと千切り、スライスした玉ねぎで涙をこぼした。気分がなんとなく洋風だったのでパン食を作ったけど、トーストの所為で和風に見えなくもない。宮崎駿という存在が和。

 夏休みではないお父さんだけが唯一起こされることなく起床してきたので、朝の挨拶を交わしたらお父さんと入れ違いにそれぞれの寝室へ向かう。通常ならお母さんを叩き起こすのだが、確かお姉ちゃんが今日朝一の講義がある日だったはずだ。寝てる場合じゃねえぞ。と、ゆさゆさ身体を揺すっても時計をチラ見してあと十分は寝れる……と無駄に冷静。

 その十分で飯が食えるだろうがと反論できる今世の私は圧倒的健康優良児。いいか、三食食って人はまともな肉体を手に入れることが出来るんだよ、ダイエットとして食事を抜くならせめて夜にしろ。

 一旦キッチンに戻り、醤油バターのかぐわしい香りを無造作に撒き散らしながらお姉ちゃんの部屋に戻ろうとしたら、まだ起きなくてもいいみっちゃんとお母さんが釣れた。二人にはコンソメスープの盛り付けを頼んで、ジブリパンを携えてお姉ちゃんの部屋に侵入すれば、盛大な腹の虫で呼んでもないのに返事がきた。ご飯だよと容赦なく声をかければ、起きるわよ……、と不機嫌そうな声と共に起き上がってくれた。起こさなかったらもっと困るんだから素直に起きてほしい。今日は随分と低血圧らしい。

 全員分の朝食が済んだので、さっさと皿洗いを済ませてランニングウェアから着替える。速乾性の黒い八分袖の上に、半袖のパーカーを羽織る。着替えを見たみっちゃんが今日も剣道なの? と声を掛けてくる。今日も剣道だし明日も剣道だし昨日も剣道だったが、その辺には特に触れずにそうだよ、とだけ答える。頑張ってねと手を振られ、いってきますと手を振り返す。

 家を出て二十分ほど歩けば道場に着くのだが、そこにたどり着くまでには小学校やらコンビニやら、まあ一般的な町にあるものが色々と並んでいる。特に今のような早くない午前中だと、幼稚園児の集団がよく目立つ。散歩の時間なんだろう、みんなで仲良く手を繋いで歩いている。かわいいなーと眺めていると、今日は見知った顔が歩いている日だった。

「はるちゃんだ!」

「はるちゃーん!」

 向こうもこっちに気付いたようで、列から外れて笑顔全開で私の方に駆け寄ってくる。可愛いけど先生の胃が痛いからやめてやろうな。新一くんと蘭ちゃんに、久しぶりーと頭を撫でてやりながらそれとなく列の最後尾に戻す。幼稚園の先生から会釈される。いえいえ、大変ですねお仕事頑張ってくださいという気持ちを込めて笑顔で会釈を返しておく。

 可愛い二人は先生の胃痛など全く気付いておらず、大荷物を持った私を見て今日は剣道? と本日二回目の話題を振ってきた。そうだよー、と相槌を打ちながら、ここから幼稚園までの距離と稽古の開始時間を計算しながら、まあ走れば余裕で間に合うなと結論付け、送り届けることを決める。幼稚園児の説得は大変なんだ。

 新一くんと蘭ちゃんに挟まれながら、公園に着く。遊びだした園児達を眺めながら、なるほど、帰りじゃなかったと若干だけ焦る。お遊戯付き合ってたら流石に間に合わないな。しかし、そこは蘭ちゃん、とても空気が読める。はるちゃん、じかんへいき? と小首を傾げて聞いてきた。条件反射で平気だよ〜と答えそうになるゆるゆるの理性を殴り飛ばし、ちょっとそろそろ行かないとダメかな、と困ったように笑う。

「えー! かえっちゃうのかよ!」

「ごめんねぇ」

 やだー! と駄々をこねる新一くんの破壊力は凄まじいが、そんな未来の旦那をわがままを許容する蘭ちゃんではない。はるちゃんをこまらせないで! と、新一くんの主張をにべもなく切り捨てる。やだ、たくましい……とその様に惚れ惚れしていると、幼稚園の先生がこちらにやってくる。なんかあったのかな? と顔を向けると先生は私のことで揉めている二人に用があるらしく、二人の前にしゃがみ込んで、ようこちゃんは? と問いかける。お姉ちゃんと手を繋ぐ前、二人ともようこちゃんと一緒だったよね? なるほどな、私の登場の所為で園児が一人ログアウトしたらしい。やべえな。

 わかんないとしょんぼりと答える二人の後ろで私はとても嫌な汗をかく。えっ、普通に私の所為では? さっと血の気が引く音が聞こえた気がした。もちろん気のせいだがそのくらい心臓から血液消えた。感覚がした。よ、ようこちゃん……!

 顔も分からぬ園児を探さなければと来た道を振り返ると、視界の遠くで見覚えのある水色が脇道に吸い込まれた。足元にいる二人のスモックを見る。同じ水色だ。ようこちゃん以外はみんな居ますかと先生に問いかければ、他の子はみんな居ますとしっかりした返事をいただいたので私は荷物を置き去りにして全力で走り出す。

「新一くん、蘭ちゃん! 荷物見といて!」

 はーい! という元気な返事を背中に受けながら、水色が吸い込まれた道の角を曲がる。ようこちゃん(暫定)と中肉中背のおっさんの背中を見つけ、努めて明るい声で呼びかけた。

「ようこちゃーん! みんなが探してるよー!」

 ようこちゃん(暫定)は括弧書きの中身が確信に変わる程度にはわかりやすく自分の名前の反応した。ただ、その反応はその中肉中背のおっさんに遮られたわけだが。

 おっさんは見た目から想像できるよりは遥かに軽やかにようこちゃんを脇に抱えて、走り出す。びっくりするほど分かりやすく誘拐だ。というかこちらに微かも振り向かない辺り手慣れてる感がなかなかやばい。小脇に抱えられたようこちゃんは手で口を塞がれて声も出せないし、走っていくおっさんの先には窓にカーテンを引いた車が見える。完全にヤバいやつ。しかし中肉中背程度のおっさんに健脚ぶりで負ける私ではないし、刑事ドラマみたいに間に合わない……! とあと一歩でまかれる杜撰さもなかった。

「火事だああああああああああ!!!!」

 昔テレビで見た『最も野次馬的に人を集める叫び声』を上げて、近所のお宅の窓ガラスを好奇心で開かせる。焦ったおっさんは振り返りはしないものの開け放たれる窓ガラスを気にして首を左右に彷徨わせる。その間におっさんの背中に追いつき、脇からようこちゃんを掠めとり、小綺麗なジャケットに靴の裏スタンプを押してあげた。

 さて、車まではもう十メートルもないし、どうしたもんか。首を突っ込みたくないのは本音だが、子供をターゲットにしているだろう推定手慣れた誘拐犯グループ(最低二人以上)をみすみす見逃すのも、戸惑う。かと言って私が車までカチコミ入れてしょっぴけるかと聞かれれば微妙だ。証拠がない。迷子の子供を交番まで連れて行こうとしただけ、とか言われようもんなら私が加害者で訴えられる事案。蹴り飛ばした拍子につんのめって地面に転がったおっさんと車を眺めながら、こればっかりは最善を取るしかないと諦め、せめてと思いながら車種やナンバー、おっさんの外見など片っ端からケータイのカメラに収めて犯罪者(仮)を見送る。大変遺憾。

「おねえちゃん、だれ?」

 まあ、無垢な少女が無事だったことを素直に喜ぶとしよう。ちなみに、私は新一くんと蘭ちゃんの友達だよ、と伝えたら二秒ほど沈黙したのちに、どろぼうねこ……と呟いたので幼稚園児怖えなと震えた。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 警察への通報や情報提供などもろもろを全て幼稚園の先生方に放り投げて、道場に全力ダッシュ。奇跡的に間に合い、自らの健脚に拍手喝采を脳内で浴びさせていると師範から「緊急時まで事前連絡を入れなくてもいい」というお言葉を頂き、ちびるかと思った。怖すぎぃ……。まあお陰で遠慮なく馬頭さん宛に写メを大量に送りつける時間をもらえたので素直に感謝させていただく。鬼電来そうだから電源は切っておくか。

 稽古自体は何事もなく済み、普段ほとんど会話を交わさない私以外の門下生たちが帰るのを瞑想しながら見送る。師範は剣道を教えることで生計を立てている身なので、当然、私以外にも年齢性別問わず門下生はいる。ただ、私はちょっと教わり方がガチオブガチってレベルでガチなので少しだけ立ち位置がおかしいのだ。

 仲が悪いわけではないが、特別親しいこともない。最初は顰蹙を買っていたらしいが、二十分ぶっ続けで竹刀で滅多打ちにされている私を見てなんとも言えない気分になった、とは来年社会人になる予定の大学生談である。床に倒れ臥す私を呆然と眺める他の門下生に、希望者がいれば同等の指導をおこなうがと言ってのけた師範ぐうおにちく。以降、ノータッチで遠巻きに見られている。私が何をしたというのか。フルボッコだドン!

 そんな私が瞑想しながら他の門下生を見送った後、改めて師範にギッタギタにぶちのめされるまでがワンセットである。私だけにかかりきりになるわけにはいかないのは当然で、その間私は無心で竹刀を振るのみである。他の人とも打ち合いするべきなんだろうけど普通に拒否られるのでできない。とてもつらい。まあ一回生意気だと遠回しに噛み付いてきた門下生ぶちのめしたからな、普通に避けられてる節もあるねわはは。地位を分からせるために必要な暴力だったから仕方ないね。反省してない。

「晴美、明日は来客があるから稽古後の打ち合いは無しだ。掃除が終わったら帰っていい」

「? かしこまりました。師範がよろしければ、お客様がお帰りになるまで待たせていただきますが」

「ふむ……。いや、すまないが、明日は帰りなさい。お前も、余計なことは嫌いだろう」

 まあ、私にとって不必要な無駄は嫌いですけど、と天井を仰ぎ見ながら答えれば、その類だ、とかすかなため息とともに告げられた。内容から何から全てさっぱり分からないが、師範がそう言うのだからそうなのだろうと納得する。私が巻き込まれる可能性が僅かなりある来客ってなんだろう。やぶ蛇にならないことを祈る。素直に明日はさっさと帰ろう。今日はあと何度天井と見つめ合うだろうか。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 道場からの帰り道、寄り道という発想もなく真っ直ぐ帰路に着いていたはずなのに、気が付けばたどり着いていたのは警視庁だった。私の妄想癖と夢遊病にも困ったもので、リアルか空想か判別つかないラインで彷徨うのはやめていただきたい。はあー、流石に警視庁から道着含めた一式担いでお家帰るのは骨が折れるんですよ? どっこいしょ。

「何処行こうとしてやがる」

 力強く椅子に押し戻されてケツが痛えんですが? 診断書もらえばワンチャン? いやごめんて、鬼電予想で電源切ったまでは完璧だったけど電源入れるの忘れたんだってごめんなさい。

「何するんですか、いたいけな女子高生相手に」

「いたいけな女子高生は強盗犯放置しないし、誘拐犯に関する写メ大量に送りつけてきたりしないんだよ」

「捜査に協力的で善良な民間人を拉致誘拐とか日本の警察組織こわぁい」

「誘拐犯の一味と思われる男を特定した。顔は見たか?」

「面通しされても残念ながら見てませんね」

 あまり悪ふざけに付き合ってくれる気のないらしい馬頭さんはスパッと本題に入った。車のナンバーは偽装だったが、車種とその手口から前科持ちの誰かが引っかかったとかなんとか。

 前持ちはキチンと首輪つけとけよと私は思うが、日本という国の法律は犯罪者に激甘なので仕方ない。犯罪者に人権とか要らんくない? 痴漢は手首を切り落とせばいいし強姦魔は竿とリールを削ぎ落とせばいい。再犯しちゃうなら出来ないように人権に制限かければよくない? 加害者心理がこんにちはするので口に出したことはほとんどないが、そういうニュースを見るたびいつも思ってる。

「誘拐されかけた子は顔見てるんじゃないですか? さすがに」

「幼稚園児の証言じゃ証拠にならん」

「でしょうね」

「……正直、俺個人も信用できん」

「そういう言葉にしにくいところも素直に言えるのは美点だと思いますよ。私も、ようこちゃんでしたっけ? あの子のことはよく知らないので信頼できません」

 これが新一くんや蘭ちゃんの証言なら躊躇なく信用するのだが、私は誘拐されかけたようこちゃんのことをよく知らない。賢い子なのか、警戒心が強い子なのか、素直な子なのか、隠し事をする子なのか、人懐こい子なのか。そういうあの子を構成する要素を知らない。なので、あの子が嘘を吐いても真実を話しても見抜けない。勘違いしている可能性がいかほどか測れない。思い込んでる可能性を否めない。それでは証拠にはなりえない。たとえ、被害者の言葉だとしてもだ。

 にこやかに信頼できないと言い捨てた私に対して、馬頭さんの視線は冷たい。まあ、確かに誘拐犯から子供を救った人間の言葉ではないだろう。でもその辺、彼はそれなりに自分の中で折り合いを付けてくれているようなのでいちいち突っ込んできたりしない。警察官の本分、犯罪者を逮捕すること。私はその点においてだけ言えば文句なしの協力的で善良な民間人だから。それを手放す可能性を自分から作り出すほど愚かではない、ということだと、私は解釈した。正誤は、特に今後に影響はないので知らないけど。

「……まあ、いい。お前もせいぜい気を付けろよ」

「えっ、私に誘拐されそうな外見的チョロさあります?」

「ないけどな。この世には穴あれば誰でもいい変態もいるし、お前みたいなやつほど興奮する変態もいる。身を以て知ってるだろ。警戒するに越したことはない」

「ご忠告、痛み入ります」

 何故、某変態クソ野郎を例えに出したかは不明だが、言っていることはどうしようもなく正論なので私は素直に頷いた。笑顔付きだ。なのに、ため息を吐くとは何事だろう、失礼では?

 

✳︎✳︎✳︎

 

 ご忠告痛み入ります、と笑んだ女の不気味なこと、この上ない。

 同期の渡邉もなんともまあ胡散臭い男ではあるが、この子と比べればいくらかマシに思える程度だ。渡邉のあの胡散臭さは所詮、相手の懐に入り込みやすくする程度のものだ。やましいことがある奴には薄気味悪く思えるが、そうでない奴には無害な優男にしか見えない。刑事には見えないだろうが、その分俺が良くも悪くも際立つから気が付けばずっとセット扱いだ。

 お互い上手に利用し合っているので、評価が分かれる渡邉も、俺にとっては胡散臭さも含めてやりやすい相棒みたいなもんだった。だから、気味悪がられることもあれば人から好かれることもあるのは、何もおかしいことではない。狙ってやってるからだ。

 だが、この子は一体どうだろう。普段ほとんど笑わないというのに、気持ちのいい返事を返す時だけ不気味なほどに素直に笑う。愛想よく振る舞う時のスイッチが歪だ。相手に取り入る気がない。

 それなのに、必要だと思われる場面で的確に綺麗に微笑んで正しい答えを出せる。渡邉より遥かに胡散臭く、下手くそな配分であるはずなのに誤魔化す気配がないので、裏がないことがかえって怖い。俺が胸糞悪い出来事を思い出すような忠告をあえてしたというのに、どうしてこんなに明るく笑えるのだろう。

 そもそもだ。どうしてこの子は(更にそもそもで、犯罪に巻き込まれることは置いておいて)ここまで犯人検挙に協力的なのだろう。

 以前、警察に助けられたから? ふざけるな、何が助けただ。あんなの、この子を好奇の目に晒して身内の火消しに使っただけだ。恨まれたって仕方がないし、告発されても文句は言えない対応を俺たちはした。俺としては、根に持たれていないことにむしろ怯えている。ゆすられて当然だ、あれは。要するに、俺たち警察はこの子に夜道で刺される心当たりしかない。遭遇した現場で体張ってどうにかしてくれるのが理解できない。身を呈して他者を守るタイプでもないだろうし、本当に、何のために。

 しかも、最近は頻度が減ってきていたのに、その代わりと言わんばかりに重犯罪度が上がっている。前は露出狂の撃退やひったくりの確保程度だったのに、ここ最近は銀行強盗やら誘拐だ。すでに何度か伝えているが、本当にお祓いに行った方がいい。そして巻き込まれても大人しくしていてくれて構わない。むしろそうしてくれ、頼むから。

「それじゃあ、私帰りますねー。馬頭さん、さよなら」

「じゃあな。本当に、気を付けろよ」

「お優しいですね、わかりましたよ気を付けます」

 また笑ったこの子が、異常まみれでもせめて健やかたれと、俺は祈るだけだ。

 ちなみにその日の夜にコンビニから通報があり「元カノがナイフを取り出して切り掛かって来たところを雑誌買いに来た女の子に助けてもらった。女の子は帰ってしまったが元カノを逮捕してほしい」と現場に向かって監視カメラを見たらあの子ががっつり映っていて俺は頭を抱えた。

 




きちんと間をあけて催促してくれたあなたのおかげで重すぎる私の尻が持ち上がりました。本当にありがとうございます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。