野良猫の躾け方 (ふみどり)
しおりを挟む

野良猫の躾け方

「よォ。似合わねえ制服着てんじゃん」

「……わざわざ会いに来てくれるとは思わなかったな」

 

 ブロック塀に寄りかかって自分を待っていたらしい少年に、つい困ったような微笑みを向ける。早く帰って堅苦しい制服を脱いでしまいたいのに、と内心だけで毒を吐いた。

 特徴的な白い髪に褐色の肌、耳元で揺れる花札のようなピアス。先日と同じ特攻服を身に纏った彼は、確か同い年だという報告を受けていた。

 

「黒川イザナくん。俺に何か用?」

「随分品行方正ってツラしてんじゃねえか。あのときとは大違いだな」

「俺は誰彼構わず威嚇するような真似はしないよ」

 

 君たちと違ってね、と微笑んでみれば、イザナの目元がぴくりと動く。激高して殴りかかってくるかと思ったが、意外と彼は冷静だった。ブロック塀から背を浮かせ、軽い足取りでこちらに歩み寄る。

 その顔に笑みを貼り付けたまま、俺の顔を覗き込むようにして言った。

 

「アンタ、普段は真面目な高校生やってんだ?」

「勉強は大事だからね。ちゃんと毎日高校に行ってるよ」

「ふぅん……それ、すげえ頭いいとこのだろ」

「はは、毎日ついていくのに必死だよ」

「成績トップとってるやつが何言ってンの」

 

 やはりイザナは俺のことを調べたうえで会いに来たらしい。

 うちの学校の生徒でも脅したのだろうか、と小さくため息をつく。悪戯に堅気を巻き込むのは方喰(うち)のやり方ではなかった。無関係の誰かさんには申し訳ないことをしてしまった。これだからクソガキの相手は面倒だ、と笑顔のうちで奥歯を噛みしめる。

 半端に知恵のある、ルール無用の恐いもの知らずほど面倒なものはない。

 

「俺のことを調べるのは構わないけど、何か知りたいなら俺に直接聞いてくれないかな。たいていのことは聞いてくれたら答えるから」

「へえ。何、ほかのやつ巻き込むの嫌なの?」

 

 極道一家の跡取りのくせに、とイザナは煽るように鼻で笑う。

 実際煽りにきているのだろうが、やはり彼はこちらのことを何もわかっていない。反射的にそう思ったところで、つい小さな苦笑が浮かぶ。

 いや、確かにこの世界もずいぶん変わってしまったと聞く。イザナがこちらの世界に対してそういうイメージをもってしまっているのもきっと無理はないのだろう。

 残念なことに、今や異端なのは方喰(うち)のほうだ。

 

「……ウチは昔気質でね。今世間で幅をきかせてるようなクズどもみたいな、ただ金を稼げればいいってやり方はしないんだ」

 

 俺がイザナと初めて顔を合わせたのはほんの数日前の夜のことだ。

 所用を済ませて帰宅すると、何やら若いやつらが怒号を飛ばしていた。何かあったのかと顔を出せば、イザナをはじめとする数人のガキが取り押さえられ冷水をかけられている。

 それだけ見れば十分に事情は理解できた。このところ、ガキの悪戯では済まないアソビで稼いでいる馬鹿どもがいるという話を聞いていた。方喰のシマで暴れたのか、クスリでも撒こうとしたのか。それを見とがめた若いのが折檻のために引きずってきたらしい。

 筋者に囲まれて震える悪ガキのなか、眼が生きているふたりだけは妙に目立っていた。それが彼、黒川イザナと、少し年下に見える火傷痕のある少年。

 肝が据わってんのがいンなァと思いながら、ほかを押しのけて彼らの前に出た。やんちゃがすぎようが何だろうが、堅気は堅気。躾は必要でも、やりすぎてはいけない。

 

『おい、お前ら』

 

 若、と呼ばれた俺に、イザナと少年は目を瞠った。同じ年頃の人間が筋者に敬語を使われていることに驚いたのだろう。

 うすく微笑んだ顔を保ったまま、ふたりを見据える。怯えのない瞳に感心はするが、まったく危なっかしい。

 

『堅気をウチに連れ込んで折檻はやりすぎだ』

 

 世間さまのルールなんぞには縛られない極道にも、通すべき筋はある。仁義を通し、筋を通し、自分たちのルールすら守れなくてはお天道様の下も歩けない。

 シマを守れ、堅気に手は出すな、クスリは御法度。弱きを食い物にする外道でなく、弱きを助け強気を挫く任侠たれ。それが極道の「筋」、方喰にとって絶対のルール。

 極道とはそういうものだと、文字通り骨身の随まで叩き込まれてきた。若と呼ばれる立場である以上、なおのことそれを破るつもりはない。それこそが「極道」である「方喰」の存在意義なのだ。

 その夜と同じくじっとこちらを見つめている大きな瞳に、なるべく穏やかに微笑みかける。

 

「別に君がどこで何をしようと俺にとってはどうでもいい。けどうちのシマで遊ぶのはやめてほしいな。ウチは堅気に手を出すつもりはないけれど、度を超すなら手は打たなきゃいけなくなるからね」

「は、あのときみたいにか?」

 

 あれいい刀だったな、とイザナは愉快そうに笑う。

 彼らを解放しろと命じたとき、若いののひとりがごね始めた。堅気に迷惑を掛けてたのはこいつらですよと、まあ使命感からくるものだったのだろうが、それでも「上」に意見したのは頂けない。

 隣に立っていたやつの白鞘におさまっていたドスが、景気よく空を貫く。耳たぶを掠って後ろの壁に突き刺さった刃は、夜の灯りのもとで鈍く煌めいた。

 

『俺に二度同じ言葉を言わせるつもりか?』

 

 今にして思えば、堅気を守ろうという使命感からの言葉にそれは俺も大人げなかったかなとふと反省する。今日帰ったら一応声を掛けておいてやろうと小さく決めた。

 しかし刀が宙を飛ぶ状況を面白そうに話してしまう目の前の彼に、さすがにちょっと肝が据わりすぎというか、少しは畏れというものを知って欲しいなと苦笑する。堅気には越えないで欲しい一線を軽く越えてしまいそうな危うさが見えた。

 しかし、そんな彼の「悪」の熱に浮かされる人間も少なからず存在してしまうのだろう。その先には碌なものなんてないのに、と俺としては苦笑するしかない。

 どうして堅気の世界で生きられるくせに、大人しくそこで息をしてくれないのだろう。生まれたときから堅気ではいられなかった自分には理解できない。

 

「あの程度では済まないってことだよ。と言っても、君は気にしなさそうだけど」

「わかってんじゃん」

「困ったね。それで、結局きみは何の用?」

「別に? 暇つぶしに顔見に来た」

「俺で暇はつぶせないと思うけど。家に帰るだけだよ」

「ならちょっと付き合えよ」

 

 ほら、とイザナが指さしたのは一台のバイク。

 つい「連れられた先でボコられたりする?」と尋ねると、「してほしいなら考えてやってもいいけど」と軽い言葉が返ってくる。これが本当にただの気まぐれだというなら、彼は相当に頭がイカれてるヤバイやつだと我が身を棚上げして遠い目をした。

 とはいえ、経験上こういうのは断っても諦めてくれないものだということは知っている。それなら一回で終わらせてしまった方がのちのちを考えれば楽だろう、と首を振って通学用の鞄を持ち直した。

 

「いいけど、すぐ戻るから服だけ着替えさせてよ。制服は肩がこるんだ」

「は? 俺を待たせんの?」

「ここで俺を待っててくれたんならあと数分くらい待てるでしょ」

 

 十分で戻ってくるよ、と顔も見ずに歩き出す。唯我独尊に見える少年は動く様子もなく、どうやら不満ながらも妥協したらしい。俺からすれば暇つぶしに誘われたことにもびっくりなら、妥協してくれたことにもびっくりだ。逆上して殴りかかってくることさえ予測していたのに、彼は何も言わず待つ姿勢にはいった。

 ひょっとしてこれ、懐かれでもしてしまったのだろうか。背中に彼の不満げな視線を感じながら、同世代の友人などもったことのない俺は足早に家へと急いだ。

 

 

 ***

 

 

 俺は、自分が極道一家の人間だということは特に隠していない。隠したところで人の口に戸が立てられるはずもなく、そんなところに無駄な労力をさきたくはなかった。どうせバレるのだ、堂々としていればいい。むしろそのほうが余計なトラブルも避けられる。

 だから、友人といえるものは生まれてこの方もったことがない。それを悲観しているつもりはなかったが、もう少し年の近い人間とのコミュニケーションは経験を積んでおくべきだったかもしれない。今になって少し後悔している。

 

「イザナ、俺は今日予定があるって言ったよね?」

「は? 俺は行くって言っただろ」

 

 何せ、とにかく会話が成立しない。

 半ば無理矢理連絡先を交換して以降、イザナはちょくちょく絡んでくるようになった。半強制的にバイクの後ろに乗せ、ゲーセンだの海だのに連れ出してくる。せめて待ち伏せでなく事前に連絡をいれろと口を酸っぱくして言えば、ようやく「今日」とか「行く」の一言だけメールをよこすようにはなったのだが、それでも俺の「今日は無理」という言葉を受け入れた試しはない。つい「日本語読めないの?」と尋ねそうになった言葉をごくりと飲み込んだ。さすがに海外の血が入っている人間に言っていい台詞ではない。

 今日も今日とてブロック塀に寄りかかっていたイザナは、俺を相手にガンを飛ばしている。同年代には怯えた顔や媚びを売る顔ばかり向けられていた極道息子にとっては妙に新鮮だったが、だからといってイザナの我儘を聞いてやる義理はなかった。

 あのね、と大きなため息をつく。

 

「俺も家の用事ってもんがあるんだよ。出かけてばかりはいられないの」

「まだヤクザじゃねーんだろ? 何だよ家の用事って」

「ヤクザじゃなくてもすることはあるんだよ。知っての通り特殊な家だからね」

 

 確かに俺はまだ「極道一家の人間」に過ぎず、俺自身が「極道」なわけではない。何せまだ学生の身、盃だってもらってはいないのだ。しかしそれでも、何かとこなさなければならない「雑務」や「お話」、「会食」はある。いずれあの組を継ぐ人間として、完全にノータッチではいられなかった。

 だから無理なものは無理、と言えばイザナはひとつ舌打ちを落とす。そして一瞬たたずに目前に迫りくる、その拳。

 

「……あんまり駄々をこねるんじゃないよ、イザナ」

 

 確かにその威力はただのガキとは言いがたい。力も技術も、何より容赦のなさも、そりゃあその辺のクソガキどもなら相手にはならないだろう。生まれたときから「暴力」に囲まれていた「方喰」の人間じゃなければ、きっと歯の数本くらいはイっている。

 左手で受け止めた拳を払って、前髪を上げたその額を掴む。小柄なイザナの頭蓋は、右の掌だけでも十分に足りた。

 

「今日は時間がねェって言ってんだ。聞き分けろ」

 

 いつもより少し低い声、荒れた口調。その使い方は理解している。

 俺だって今日のは行きたくないんだけどね、とそのままオールバックの額に軽くはたいてその横を通り過ぎる。オイ、と不満そうな声を気にすることなく、振り向かずにひらひらと手を振った。

 

「最近俺に構ってばかりでしょ? ほかのお友達とでも遊んできなよ。ワルイコトするならウチのシマ以外で、ほどほどにね」

「俺に指図してんじゃねーよ」

「指図じゃなくてオネガイだって。お互いのための」

 

 イザナ、と足を止めて首だけで振り返った。餌もあげていないのに近づいてきた野良猫は、可愛げはないが何となく愉快な存在ではある。

 わざわざ俺に構うなんて、頭がイカれている以外の何者でもない。

 

「俺はわりとイザナの後ろに乗るの嫌いじゃないんだ。また時間のあるときに乗せてよ」

 

 そう微笑むと、野良猫は返事の代わりに鼻を鳴らした。イザナの不満そうな視線が横にずれる。ようやく納得したらしい。

 またね、と笑顔で背を向ければ、背後でバイクの排気音が響いた。

 

 

 ***

 

 

「若、お時間が」

「わかってる。すぐ着替えるよ」

 

 制服のジャケットを投げ捨て、用意されていたスーツを手に取る。堅苦しいものから堅苦しいものへと着替えるのは気が重く、正直「雑務」にかかずらうよりもイザナと適当に出かけていたかった。

 やれやれとネクタイを締め直すと、さっと腕が伸びてきてスーツの乱れを直す。

 

「……このところ、例のガキがよく絡みにきているようですね」

「ああ、イザナのこと? なかなか肝が据わってるよね。一応逃がしてやったとはいえ、わざわざ俺に絡みにくるなんてさ」

「よろしいので?」

 

 父の片腕、そして俺の教育係でもあった彼は静かな視線を「若」に向ける。いや、静かな視線と表現するのは生ぬるいだろう。静かではあるが、熱はある。問いかけ、挑みかけ、答えによっては―――という、脅しすら含んでいる眼差し。

 しかしこちらにとっては慣れたもの。ふ、と口元を歪める。

 

「構わないよ。同い歳の堅気と話す機会なんて今までなかったけど、結構楽しいもんだね。ゲーセンに遊びに行ったのなんて初めてだったなぁ」

「若は幼少のころから真面目でしたからね。少しくらい羽目を外してもいいかと思いますよ」

「自分で言うのもなんだけど、俺たぶん羽目を外したらヤバい類いの人間じゃないかな」

「ご自覚があるようで何よりです」

「ははは、ならあえて勧めないでよね」

 

 いいんだ、と繰り返した。

 黒川イザナと関わりをもつことによって今後生じるメリットと、デメリット。その両方を考えたうえで、イザナの誘いに乗っている。

 脳裏に浮かんだのは黒川イザナ率いる「黒龍」(ブラックドラゴン)はじめ、巷でアソビまわっているやつらの顔ぶれと、そろそろそれを目障りに思っているこちらの世界の古狸やらクズの雑魚やら。さてどうやって遊んでやろうかなぁと、少しばかり心が躍っているのは否めない。

 若、と改めて一家の跡取りの気性を知る教育係が真面目な顔をする。何か言おうと口を開きかけたところを手で制して、にこりと笑った。

 

「黒龍から目を離すな。ついでに、調子に乗ってるっていうイザナのオトモダチからもね」

 

 いやあ「極悪の世代」なんて謳うよねえという笑い声に、貴方も同じ世代でしょうにと教育係は襖を開ける。つい失礼だな、と口を尖らせれば、彼は大きくため息をついた。

 彼らと一緒にされるなど、まったくもって心外だ。

 

「俺が真面目に『不良』やってたら、こんなに娑婆は平和じゃないよ」

 

 さてお仕事お仕事~と板張りの廊下に足を踏み出すと同時に、庭の鹿威しがカコンと音を立てた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

海と路地裏

「そういえば一昨日窃盗事件があったらしいんだけど、イザナ何か知ってる?」

「知らね」

 

 そう、と缶に口を付けると、安っぽい炭酸が舌の上を弾けた。

 バイクで連れ出すのは海が多かった。適当な海縁にバイクを止め、大した話をするでもなくジュースやアイスを片手にぼんやりと波を眺める。ひとのそう多くない場所を選んでいるのか、わりと静かな時間を過ごしていた。

 口数は少なくもないが、多いとも言えない。気分が乗ったときはぺらぺらと喋るが、じっと黙っているときもある。おそらく、本来は口数の多い方ではないのだろう。喋るのが苦痛なわけではなさそうだが、お喋りを楽しむ気質ではないように見えた。

 俺自身も、騒がしいよりは静かな方が好ましい。意外とこの時間を楽しんでいる自分には気づいていた。イザナとの会話には、ストレスが少ない。

 問いに短く答えた横顔に目をやった。イザナは何も言わず、海を眺めながらコーラの缶に口をつけている。

 

「……ンだよ、知らねえって言ってんだろ」

「別に疑ってないよ。どうもプロじゃない若い連中がやらかしたことらしいから念のため確認しただけ。まあ、ウチのシマのことじゃないし関係はないんだけど」

「なら聞くんじゃねーよ」

「いやいや、これでも俺はその犯人たちのためを思って言ってるんだよ。盗み癖は一度染みつくと本当に抜けないらしいからね、盗みをやったら痛い目に遭うって早いうちに理解させてやらないと」

 

 ウチのシマまで荒らされる前に、と付け足せばそれが本音だろと鼻で笑われた。実際その通りなので、否定するとなくにこりと微笑む。

 

「見つけたらどーすんだよ、海にでも沈めンのか?」

「しないよそんなこと。キタナイもん海に沈めたら魚食べる気が失せるでしょ」

「じゃあ山か」

「俺キノコとか山菜も好きなんだよね」

 

 その答えにイザナは軽く噴き出した。

 自称「平和主義」で真実「面倒ごとの嫌い」な俺としては、海だろうが山だろうが死体という証拠を残すような真似などする気はなかった。

 もちろん冗談だけど、と軽く言ってコーラの缶を傾ける。

 

「殺したりしないよ、ちょっと怖い思いをしてもらってから放り捨てるだけ。そしたら勝手に自首してくれるから」

 

 俺たちも刑務所のなかにまでは手を出せないからね、と言葉を締める。

 非合法な自分たちの手から逃れたければ「合法」な檻のなかに逃げるのが一番、それだけわからせてやればいい。

 ふん、とイザナは機嫌がいいんだか悪いんだかわからない調子で鼻を鳴らす。

 

「ヤクザなりの人助けのつもりか?」

 

 ひとだすけ、と繰り返してつい笑った。

 あまりにもこの稼業に似合わない言葉だと思う。

 

「建前的にはそうかもね。俺としては単純に気にくわないってだけ」

 

 極道の跡取りとして少しばかり稼業の手伝いをしていれば、自然と耳にも入ってくる情報がある。

 何故だかここしばらく、底辺しか集まらない掃きだめのような世界に好き好んで首を突っ込むガキが増えてきたという。それも若気の至りにちょっとワルいことを知って卒業していくようなレベルでなく、本気でこの世界でメシを食えると思っているクソガキが。

 この世界にはこの世界のルールがあり、義理もあれば秩序もある。下手をすれば表の世界よりも厳しいそれを無視しながら、美味しいところだけもっていこうなんてやり方は気に食わなかった。

 極道にしてみれば、ただでさえじわじわ強くなる世間の締め付けに堪えながら息をしているのが現状なのだ。それを加速させようなんて輩はどうしたって目障りでしかない。まだその世界に片足しか突っ込んでいない俺でさえそう思うのだから、長年この世界で息をしている爺さんたちは相当頭にきていることだろう。

 飲み干した缶をゆらゆらと揺らしながら、赤い缶と青い海のコントラストに目を細めた。

 

「どこにも行く場所がなくなった底辺しか来なくていいんだよ、こっちにはね。まだ日の当たる場所にいられるくせに観光気分で来ているようなら、まあ、躾はいるでしょ」

 

 ハ、と隣で鋭く息を吐く気配がした。

 今度こそ機嫌を損ねたらしいイザナが、まだ中身の残っていた缶を海に放り捨てる。音を立てて鮮やかな赤が海面に潜りこんだ。

 ちゃぷりと再び浮き上がってきた赤は、濁った波間でひどく目立っている。

 

「戻れねえやつもいンだよ」

 

 大きな瞳は空虚に揺れる。

 それを見た俺は、つい内心で下手な嘘だ、と呟いた。

 

 

 ***

 

 

 すでにイザナについておおよそのことは把握していた。生い立ちや関わったひと、彼が今まで生きていた間に触れてきたもの。彼が「黒龍」となって好き放題暴れていながら満たされない理由も、予想はできている。

 俺からすれば理解も共感もできない苦しみ、哀しみ、絶望。しかしイザナにとっては重いのだろう。人間の闇なんてだいたいそういうもので、自分の闇は自分のもの。他人に理解などできるはずもなく、抜け出すもまた自分次第だ。

 こんな風に恐怖で逃げてくれるやつなら話は簡単なんだけどな、と俺は地面に転がる薄汚いそれらから足を下ろした。

 

「声を掛ける人間は選んだほうがいいよ。こんな時間にスーツ着て外歩いてる未成年見てボンボン(あたり)とでも思ったんだろうけど、ヤバいやつ(おおはずれ)の可能性もあるから」

「う、ぐ……!」

「何だっけ、貧しいひとへの募金集めてるんだっけ? いい心掛けだなあ、俺もボランティアとか寄付とかそういうのすごくいいことだと思うよ。身を削ってでも誰かを助けようなんて素晴らしいよね」

 

 そう言いながら、血を流して転がる彼らの懐から財布を抜き取る。身分証がはいっていないのは残念だが、妙に雑な入れ方で数枚の札が突っ込まれていた。おそらくこれも「募金」として集めた金なのだろう。

 にっこりと笑ってそれを抜き取り、小銭だけが残った財布を投げ捨てた。恐怖に震えた視線が自分に向けられているのは感じていた。

 

「感心ついでにこのお金はきみたちの代わりに募金しておいてあげる。大丈夫、責任もってコンビニの募金箱にでもねじ込んでおくから」

「あ、……!」

「小銭は残してあげたから電車代くらいはあるでしょ。大人しくオウチに帰ったほうがいいよ」

 

 もう痛いの、嫌だよね?

 必要以上に優しい声に、あ、とかう、とか意味を為さない音だけが零される。自分たちから絡んでおいて何の反撃も予想していなかったなんて随分お花畑な脳みそだなと、ただ呆れるしかない。骨の数本と少々の根性焼きで済んだのだから運が良かった方だと心底思う。

 俺にしてみれば、あまりに怠い「雑務」を済ませた帰り、路地裏でストレス発散の一服をしていたところを絡まれたのだ。機嫌が悪いときでもちゃんと堅気に「遠慮」した自分の理性を褒めてくれてもいいくらいだ。

 歩きにくい血まみれの絨毯を踏みつけながら、さっさと帰ろうと放り捨てていた吸い殻を拾って携帯灰皿に入れる。自分の痕跡が残っていないことをざっと確認し、表通りに出ようと明るい方に顔を向けた。

 ずっとこちらを見ている人間がいることには気づいていた。止めるでもなく、手を出すでもなく、愉快そうにこちらを見ている二人分の視線。

 

「こんばんは。見物料とるよ」

「コンバンハ~。ンなケチくさいこと言うなって」

「何だ、スーツ着てっけど俺らと歳変わんねえんじゃねえの」

 

 何か縁でもあるのかな、と同じ顔をしたふたりと正面から相対する。

 黒と金が交互に並んだ長い髪の長身と、それを反転させた髪型の少し小柄な彼。そういえばこの辺りは彼らの遊び場だったっけ、とイザナの「オトモダチ」として報告された資料を思い起こした。十三歳にしてひとをひとり死に追いやった「六本木のカリスマ」の灰谷兄弟。

 一応調べさせたとはいえ関わるつもりはなかったんだけどな、と小さく苦笑して首を傾げる。正直本当に早く帰りたかった。

 

「そこ、通らせてもらってもいいかな。ただの一服だけのつもりだったのに余計な運動しちゃって疲れたんだ。これ、どっかで募金もしなきゃいけないし」

「え、マジでそれ募金すんの。ウケる」

「こんなはした金懐にいれるほど困ってないんだよ」

「うわ、金持ってるやつの台詞じゃん。何、いいとこの坊ちゃん?」

 

 さあね、と軽く返す。もしかしたらイザナが何か言ってるかもしれないと思っていたが、どうやら俺のことは知らないようだった。

 今のところ、正直いって彼らに関わるメリットは特にない。構わず通り抜けようとすると、明らかに道を塞ぐように立つふたり。

 余計な関心買っちゃったな~と思いながらにこりと微笑む。兄の方は同じようににこりと微笑み返してくれたが、動く様子を見せず。仏頂面の弟も、俺から視線を外すことなく重心を低く保っている。

 どう見ても明らかな喧嘩腰に、ついため息が出そうになるのを必死でおさえた。

 

「……いや、帰りたいんだけど」

「名前なんてーの? 歳いくつ?」

「会話してほしいな?」

「お前が答えりゃすむ話だろ。まあ俺らとやりあいてーなら大歓迎だけど」

「うわ面倒くさい」

 

 反射的に口からこぼれ落ちた本音。

 ガラの悪い声でガン飛ばしてくる弟の方を片手で制しつつ、まーいいじゃんと兄の方はニコニコと続けた。

 

「名前聞いてるだけじゃん? 言えねー理由でもあるわけ?」

「……ああ、本当に面倒だな」

 

 灰谷兄弟。黒川イザナ。極悪の世代。堅気のくせにとっくに頭はイカれていて、堅気が着てはいけない世界を我が物顔で練り歩き、俺から見ても「ヤバイの」に目をつけられ始めている彼ら。彼らが今後どうなったところで興味の範囲ではないが、彼らのせいで自分に余計な仕事や手間が増える可能性は大いにある。

 大人しく戻れるうちに戻ってくれたらいいのに、何を好き好んでこんな底辺を歩きたがるのか。俺からすれば物好きのマゾヒスト以外の何者でもなかった。

 眉間に寄りそうになった皺を指で押さえつつ、何とか笑顔をつくりなおす。

 

「イザナにでも聞いて」

「……は?」

「え、」

「黒川イザナ、オトモダチでしょ。イザナは俺のこと知ってるよ」

 

 だからさ、とゆっくりと歩み寄る。兄の方の肩にぽんと手を置いた。

 

「堅気が俺の前塞いでんじゃねえよ」

 

 そう言って同じ高さにある肩を押せば、思いのほかそれは軽く動いた。流れのままに弟の方も押しのけるが、そちらも特に抵抗する気配はなく。

 イザナに一目置いているのは本当のことらしいな、と頭の片隅で思った。

 

「じゃあ、きみらも早く帰ったほうがいいよ。灰谷蘭くん、灰谷竜胆くん、もう遅いから夜道には気を付けてね」

 

 動く気配を見せない彼らの様子を見ることなく通り過ぎ、明るすぎる繁華街の大通りに出る。

 適当にぶらついて帰るからと家の者を帰してしまったのだが、もう歩くのも嫌になってきた。迎えに来てもらおうと携帯を取り出して電話を掛ける。

 ちなみにあとになって俺はこのときの行動をわりと真面目に後悔することになるのだが、時すでに遅し。長く多くの人間に遠巻きに見られてきた俺にしてみれば「だってまさか俺みたいのに寄ってくるやつがイザナ以外にいるとは思わないでしょ」という話なのだが、そんな極道息子に対して「俺ら『堅気』には手ェ出さないんだろ?」と平気で笑ったこの兄弟、どうやらしっかり頭がイカれている。

 餌もやってないのに寄ってくる野良猫が三匹に増えた今日この頃、別に猫好きではない俺は大きくため息をついた。

 

 

 ***

 

 

「ねえ、野良猫の駆除ってどうしたらいいと思う?」

「若、いけません。猫が可哀想です」

「待ってねえまさかその顔で猫好きなの? いや猫っていうか人間なんだけど」

「適当に締めなさい。堅気ならほどほどに」

「変わり身はやいよ。ほどほどで退かなそうだから加減がねえ」

 

 しかし、と教育係はいつも通りの無表情で続ける。

 

「随分と気に入っていらっしゃるようにお見受けしますが」

「……そう見える?」

「ええ、珍しく楽しそうです」

 

 笑っていらっしゃいますよ、と言われて頬に手をやった。確かに口角は上がっているが、まあいつも通りと言えばいつも通りのはず。しかし幼い頃から面倒を見てくれている彼が言うのなら、確かに自分は楽しんでいるのかも知れない。

 く、と喉の奥が鳴る。それならば、ともう開き直ることを決めた。

 

「せっかくだから、もう少し遊んであげようか」

 

 彼らと付き合うデメリットの方が大きくなる、そのときまで。

 何を思ってか、そんな俺を見て教育係が苦笑したのを視界の端で捉えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

焼き肉と筋

 せいぜい週に一、二本程度だった煙草が、このところ格段に増えた。理由なんてわかりきっている、この野良猫どものせいだ。

 しゅぼ、と手の中でライターの炎が弾ける。

 

「やっほ~伊織チャン元気ぃ?」

「うわ、俺らの顔見た途端に煙草出すって何? 制服着てるときは吸わねえって言ってなかった?」

「俺も別に吸いたいわけじゃないんだけどな。イザナ、何で追い払っといてくれないの」

「お前が嫌がってンの面白えから」

 

 あとから他の奴らも来るかもって、俺は別に仲良くなりたくもなければ関わりたくもないのだが、本当に彼らの頭の中がわからない。

 路地裏で灰谷兄弟に遭遇して数日後、俺はこの三人に拉致られて横浜にある廃倉庫に連れて行かれた。今度こそリンチでもされるのかと思いきや、そこに揃っていたのは「極悪の世代」の残り、つまり武藤泰弘、望月莞爾、斑目獅音。しかも妙に友好的に挨拶をされてしまい、これならリンチのがマシだったなともはや何回目かもわからない遠い目をした。

 大将のダチなら先に紹介しといてくれよな、なんて灰谷蘭に言われたときはぎりぎり拳を我慢できたのだが、斑目獅音に耳元でやかましく叫ばれたのには我慢できなかった。

 やっちゃった、と鼻に拳を食らって悶絶している一応「堅気」の彼を見て反省していた俺は、殴りたくなる顔してるそいつが悪いから気にするなと望月莞爾に肩を叩かれ、武藤泰弘もその後ろで大きく頷き。何かちょっとイイ奴らだなと思ってしまった自分の頭を力一杯殴ってやりたかった。いや、実際爆笑しながら斑目獅音をつついている灰谷兄弟よりだいぶまともな感性をしていると思う。

 とはいえ、一応自分の立場としてちゃんとナカヨクするつもりなんかないよと当人たちに宣言をしたのだ。イザナが絡んでくるくらいならまだしも、「極悪の世代」全員と顔見知りになってしまうとお互いに面倒ごとが増えるだけだから関わるなと。

 まあしかし、そんな親切な忠告など彼らが聞き入れるわけもなく。先日は「遊んであげる」などと偉そうなことを口にしたが、もはや逆に遊ばれている自覚はあった。関わってくる以上は使い倒してやろうと思うが、さすがに額には青筋が浮いてくる。

 じゃあ人目のつくところでは他人のふりした方がいいのかと言ってくれたムーチョくんの気遣いだけが救いだ。少しは見習えクソガキども。

 

「伊織クン、メシいこーよメシ。腹減った」

「大将何食う~?」

「肉」

「三人で勝手に行きなよ……」

 

 竜胆に無理矢理肩を組まれ、俺は煙草をくわえたままため息をつく。ひとつ下の竜胆としては一応気を使って「クン」をつけているらしいが、もっとほかに気を使うところがあるだろうと。週に数回こうして待ち伏せをされるのだからまったく迷惑このうえなかった。

 ちゃんと用意してくる土産がなければ、とっくに相手になんかしていなかっただろう。

 

「気になってんだろ? 最近起きてる窃盗事件」

 

 竜胆のその言葉に、すっと煙草の先を下げる。視線だけで続きを問えば、面白そうにそいつは歯を見せた。

 

「メシ、付き合うよな?」

「言うからには価値のある情報なんだろうね」

「そこは後のお楽しみだろ」

「……仕方ないな、着替えてくるよ」

 

 だいたいこうして妥協させられるのだから、日々自分の甘さを痛感する。

 しかし、自分と全く違うルートから得られる情報が貴重なのは確かだった。しかも灰谷兄弟のカリスマか脅しかで得てくる情報だけあって、それなりに信憑性が高い。

 礼代わりに適当に予約した焼肉店はイザナのお気に召したらしい。ぱくぱくと肉を口に運ぶイザナを見て、大将大好きの灰谷兄弟もご満悦の様子だ。傍若無人でも素直にひとを慕う心はもってるんだなと変に感心しながら、追加の注文をしてメニューを戻す。

 で、と肩肘をついて微笑めば、ハイハイと蘭が箸を指でまわす。

 

「何かさー、裏に頭のいいやつがいンだって。そいつもガキらしいんだけど」

「実行犯と別に計画立ててるやつがいるってこと?」

「そ。分け前欲しい馬鹿に声掛けて窃盗団みたいなことやってっけど、別に仲間ってわけじゃねーっぽい。もし手足が捕まっても多分ソイツは捕まンねーんじゃね?」

「その『頭』の情報は?」

「知んね。調べてほしい~?」

 

 にやにや笑う蘭を無視し、視線を浮かせて思考を巡らせる。

 高級店を次々と襲っている窃盗団は、防犯カメラを見る限り犯人の特定こそ出来ずともかなり年若い集団だということがわかっている。そのわりには抜かりのない計画で盗みを成功させるものだから警察も手を焼いているようだ。

 今のところ彼らは「方喰」のシマの外で好き放題をしているようだが、徐々に手を広げているのは犯行現場を見ればわかる。このまま行けば「方喰」のシマでアソビを始める可能性もある上に、そろそろ「ワルいコ」の素行を問題視し始めている本家の爺どもが本気で動いてもおかしくはない。

 今、方喰には()()()()()。この状態で裏世界を荒らされ、方喰の「上」や「同列」に派手に動く口実を与えることだけは避けたかった。どこも金策には困っている昨今、どさくさに紛れて方喰のシノギに手を出されてはたまらない。

 お互いのために「ワルいコ」には大人しくしててほしいんだよなあ、と手元のジンジャーエールに口をつけた。

 そんな気になンの、と竜胆に聞かれてうーん、と頭を揺らす。

 

「俺には俺の事情があるんだよ。出来るだけ世間には平和でいてほしいんだ」

 

 だからそいつら、邪魔でねえ。

 俺にとっては何気ない言葉だったが、灰谷兄弟はぴくりと肩を揺らした。ふ、と愉快そうにイザナは肉に食らいつく。

 

「どうすンだ? 手伝ってやろーか、探すのも、痛めつけンのも」

「情報提供はありがとうだけど、それ以上のことをしてもらうつもりもさせるつもりもない。何度も言うけどイザナ、俺は黒龍と組む気ないからね。コッチには関わらせないよ」

「……へえ」

「というか手を出されると俺が殺されるんだよね。勘弁してほしいな」

 

 え、と驚いた顔をした三人に、まだわかってないのかよとにこりと微笑みかける。

 

「いい加減自覚してね、君たちはコッチの大人にお目こぼしをもらっている状況なんだよ。ガキのやんちゃで済むうちは見逃してくれるけど、そろそろはしゃぎすぎだって自覚くらいはあるでしょ? わかんだろイザナ、一回ウチのに捕まってんだからさ」

 

 極道(ホンモノ)の大人にとってこいつらは「はしゃぎすぎのクソガキ」。一応堅気ではあるものの、こちらの領分を土足で踏み荒らそうとしている目障りな連中。もちろんそれは、その窃盗団も同じこと。

 

「クソガキ潰すためにクソガキの手を借りるなんて極道としては恥以上の恥だってことだよ。俺は極道じゃないけど、それでもウチの看板に泥を塗る真似は出来ない。そんなことしたら折檻や勘当通り越して真面目に殺されるね。それが筋を通すってことだ」

 

 俺がイザナと付き合いがあっても特に問題視をされていないのは、今のところイザナが方喰の関係するシマで遊ぶのを控えているからだ。そして「大人しく遊んでてくれるようにある程度コントロールしている」なんて本心半分嘘半分なことを言って誤魔化しているから。そうでなければ軽く十回は俺の頭は割られている。

 実を言えば、わりと危ない橋を渡っている自覚はあった。イザナが方喰(ごくどう)と手を組むなり動きを知るなりするために近づいてきているという魂胆をもっていることは理解していたが、それを許せば俺の命はないと言っていい。

 今の距離感がかろうじて誤魔化しのきくぎりぎりのラインだ。これ以上は極道の跡取りとて誤魔化せるものではない。むしろ、日々真面目にまだ堅気なりに跡取りとして働いているからこそ誤魔化せているとも言えた。

 本当に甘くないんだよ、と俺はひらひらと手を振る。

 

「俺を殺したいなら好きにしてくれて構わないけど、そのときはさすがに俺も皆まとめて道連れにするからね」

「それで脅してるつもりか?」

「ただの事実でオネガイだよ。皆死ぬより皆生きてる方がいいと思わない?」

 

 正面に座るイザナの挑戦的な瞳を笑顔でかわし、グラスの空いている蘭におかわりを尋ねた。

 蘭の顔色に特に変化はないが、彼が意外と思慮深いことくらいは伊織も察していた。竜胆は少しばかり向こう見ずなところがあるが、蘭はわりとリスクを避けたがり、今も何となく伊織から目を背けている。今後の付き合い方でも考えているのだろう、このまま少しは距離をとってくれたらいいと思う。

 しかし案の定というか話の深刻さをあまり理解していなさそうな竜胆は、さして気にした様子もなくメニューを広げる。竜胆の場合、単純に「方喰伊織」を面白がって関わってきている節があった。そもそも利用しようという頭がたいしてないのだろう、単純というか逆に面倒というか。こいつ考えなきゃいけないことを全部兄に任せてきたんじゃないだろうかと思う。蘭の苦労が偲ばれると同時に全力でざまあみろと内心で笑った。いいぞもっと兄貴を苦労させてやれ。

 追加のオーダーを店員に通し、今網に乗っているものを食べきってしまおうと再び箸を手に取る。同時に伊織さぁ、と斜向かいから声が飛んだ。

 

「何?」

「お前の家、えーと『方喰一家』? 何か事情でもあンの」

「何で?」

「やけに必死っぽいから」

 

 お前がそんな頑張んなきゃなんねー理由でもあンの、と何気ないながらも鋭い目を向ける蘭。

 ちょっと喋りすぎたかなぁと反省しながら苦笑を向けるが、それがカマ掛けだということは確信していた。蘭が方喰の事情など知るはずもない。

 

「そりゃ必死だよ、極道は筋とメンツにうるさいからね。俺が気を抜いて何もしなくても、張り切ってやりすぎても、どちらにしろ角が立つ。だから上手く片付けなきゃいけない」

 

 方喰の跡取りとして、方喰なりのやり方でね、と返した微笑みに、フーンと蘭は興味のなさそうな顔で目を背ける。何かを気取られたとは思わなかった。さすがに腹の読み合いの経験値が違う。

 オイ伊織、と蘭の隣で偉そうに座る彼に呼ばれ、そのまま目線をずらす。少々不機嫌な顔をしたオウサマは、それ、と網の上を箸で指した。

 

「焼けてんだろ。寄越せ」

「俺が丹精込めて育てた肉を寄越せってイザナ、暴君が過ぎるよ」

「あ、てめ、」

「うわ大将の肉食っちゃった」

「何でイザナの認定されてんの? 俺が育てたんだから俺のだよ」

「あ゛? 伊織てめェ、調子に乗ってんじゃねえぞ」

「乗ってないよ。ほらイザナ、竜胆の前のが焼けてるからそっち食べたら」

「こっち!? いやいいけどさぁ」

「り~んど、ほら俺の肉やるから拗ねンな~?」

「ってそれ焼きすぎて焦げてんじゃん!」

 

 物騒な話はそこまでとばかりに始まる肉の奪い合い。別にそこまで食い意地が張っているつもりはないが、まあこれも同い年とのコミュニケーションの一環かなととりあえず自分の肉は死守することにした。

 お前の肉は俺のものとばかりに灰谷兄弟の肉を奪っていくイザナはなかなかに面白く、そのあと店にやってきた残りの「極悪」たちの前からも次々と奪うその食い意地は大したものだなといっそ感心させられる。特に斑目の前からは一瞬にして肉が消えるのでおそらく彼はこういう役回りなのだろう。俺もうるさいやつは嫌いなので同情はない。

 こいつらが迷惑かけなかったかと尋ねた武藤には曖昧に笑うことしか出来なかったが、まあこれはこれで面白かったと思っておくことにした。同い年の人間たちと騒ぎながら焼き肉だなんて、俺の人生を考えれば最初で最後かもしれない。

 ただ、結構かなり騒ぎすぎたために顔馴染みの店主からかなりにこやかな笑みを受ける羽目になったのはよろしくなかった。

 極道だろうが悪ガキだろうが、堅気に迷惑をかけてはいけないのです。方喰のやり方が染みついている俺は、そっと会計に迷惑料を添えて店を後にした。

 

 

 ***

 

 

「馬鹿騒ぎは頂けません」

「反省してるってば……で、調べはついたの」

 

 ここに、と教育係に差し出された写真と資料を受け取る。柔らかな髪色の姉弟と、弟の方と同じ年頃に見える黒髪の少年。それぞれの経歴と現状、添えられた但し書き。

 ぱらぱらと資料をめくっていけば、おおよその事情が頭に入った。ふーんと最後まで目を通し、部屋の隅にある文机に放り捨てる。

 事情は把握した。あとは誰に対してどう対処するかだが、さして悩むほどのことでもない。問題を片付けるためならば、多少のことは躊躇するつもりはなかった。

 

「病院に手を回して、あとは銀行かな。頼める?」

「はい。よろしいので?」

「いいよ。随分優秀みたいだから」

 

 そういうひとは大事にしてあげないと、と明るく言えば、同感という風に教育係もコクリと頷く。極道なりの「大事に」であるところは申し訳ないが、そこは自分たちに目をつけられるようなことをした彼が悪いと思う。

 大人しく堅気の世界で、その才能を発揮していればよかったのに。

 

「好きな子のために四千万なんて、随分健気で可愛いよねえ」

 

 極力「堅気」に手は出さない「方喰」とはいえ、相手は向こうからこちらの世界に土足で踏み入った人間。

 容赦をしてやるつもりはさらさらなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野良猫と未練

 これでも無意味な暴力というものは好きではない。ひとを殴って痛む良心は確かにもちあわせていないが、かといってそれに愉悦を覚えるほどの変態でもなく。どちらかといえばただの作業、俺にとっては必要がないならわざわざする気もない労働と言えた。

 だから相手が堅気か否かということ以上に、やらなくていいならやりたくないのだ、こんな面倒なことなど。拳についてしまった血を払いながら、大人しくしてねと黒髪の少年に笑いかける。

 

「逃げないなら痛いことはしないって言ってるのに何で暴れるかな。実はそんなに賢くなかったりする?」

 

 そもそも後ろ手に縛られているのに逃げられるつもりでいるのかと。仕方なく軽く拳で撫でてやった顔には、いくらかの痣と血が見えた。

 

「もうすぐ客が来るから、そいつらが来たらちゃんとお話しよう。再三言うけど、俺は堅気にはなるべく手を出したくないんだよ、しかも年下の子相手に」

「今さら、説得力、ねーっつの……!」

「その程度で済んでることに感謝してほしいな」

 

 喋りにくそうに呼吸をした彼は、口の中の血をぺっと吐き出す。嗚呼、畳が汚れた。自分で汚したからには自分で綺麗にしてもらわないといけない。乱れた黒髪をひっつかみ、額を畳に叩きつける。がつ、という鈍い音とともにまた畳に血が散った。これはキリがない。

 血で汚れた顔を持ち上げ、その切れ長の瞳を覗き込む。まだ眼が死んでいなくて安堵した。そう、それくらいでなくてはここに呼んだ意味がない。

 

「そろそろ来るはずだから。もう少し待っててね、九井一くん」

 

 

 *

 

 

 彼らがうちの敷居を跨ぐのはこれで二度目だった。

 こちらの様子を見て間髪入れず飛び込んでこようとした片方を咄嗟に蹴り飛ばしたイザナ、その反応速度には素直に感心する。じたじたと暴れ叫ぶひとりを踏みつけ、何なんだよと面倒くさそうな視線を俺に向けた。

 イヌピー、と叫んだ九井くんを押さえ込み、はは、と軽く笑って答える。

 

「いきなり呼んで悪かったね、イザナ」

「面白えことすんなら最初から呼んどけよ。途中から来てもわけわかんねーだろが」

「この状況見て面白いだなんてさすがイザナだね」

「ンで、そいつは何だよ。堅気には手ェださねェんじゃなかったのか」

「度を超すなら躾は必要とも言ったでしょ?」

 

 まずは紹介しようか、と長い黒髪を掴んで顔を上げさせた。反動で畳に血のしずくが落ちる。

 

「こちらは九井一くん、俺たちの二個下かな? そこにいる乾青宗くんの幼馴染みで、近頃多発してる少年グループによる窃盗事件の首謀者だよ」

 

 へえ、とイザナは片頬をあげる。乾くんは大きな目を見開いて動きを止めた。どうやら彼は幼馴染みの犯罪を知らなかったらしい。

 

「ついでに金だけ持ってるクズから依頼を受けて犯罪コーディネーターみたいなこともしてたみたい。感心するよ、確かに少年犯罪なら捕まっても刑期は短く済む。それなら儲けを優先して協力する馬鹿なガキも多かっただろうね」

 

 まあ、今頃それを死ぬほど後悔しているだろうけど。

 それを聞いたイザナは愉快そうにハ、と笑う。九井くんと一緒に引きずってきたアタマの足りないガキどもは、残念なことにウチの地下室行きだ。まあ迂闊に殺すような真似はしないし、何なら傷つけてもいないだろう。

 彼らに必要なのは血や傷でなく、ただ純粋な「恐怖」だ。

 

「俺は地下(そっち)のが見てェんだけど? 伊織」

「残念だけど健全な青少年に見せていいものじゃないかな~。悪いけど少し付き合ってよイザナ、少し九井くんと話がしたいんだけど、乾くんにも聞いてほしくてね」

「乾連れてこいっつーから何だと思ったら、へえ、こいつも関係してんの?」

「いや、乾くん自身は無関係。関係あるのは乾くんのお姉さん」

 

 九井くんの身体が大きく揺れた。ココ、と乾くんの口から声にならない声が落ちた。

 動かない首を必死にまわして俺を見る九井くんの瞳には、初めて動揺と恐れが見える。俺はにっこりと表情を動かして彼の頭を畳に落とし、這いつくばる血まみれの顔を覗き込んだ。

 

「助けたいんだよね、九井くん。乾くんのお姉さんの乾赤音さん。全身火傷で昏睡状態だって?」

 

 治療に必要な額は四千万。一般家庭の乾家では到底融通できる金額ではなく、今も必死で働いているそうだが努力むなしく眠り姫は茨の中。

 今は昏睡状態でも、いつ彼女の体力が尽きるとも知れない。少しでも早く金を作らなければという焦りから九井くんは非合法な手段に手を染めた。

 いや全く、無謀もここまでくると感心してしまう。

 

「俺は結構真剣に感動したんだよ、九井くん。好きな子を助けるために四千万て正気の沙汰じゃない。けど君は一生懸命勉強して危ない橋を渡って、四千万には足りなくてもそこそこの小金は稼いだんでしょ? きみ、お金儲けの素質あるよ」

 

 ただ、それをこちらの世界で発揮するのは頂けない。

 

「きみみたいのに領分を荒らされると何かと面倒でね」

「っアンタ、方喰一家の方喰伊織だろ!? アンタらのシマには手ェ出してねえはずだ!!」

「あれ、そういえば自己紹介忘れてたけど俺のこと知ってるんだ?」

「方喰はそういうのにうるせえうえに今若いくせにやべえのがいるって聞いてた! だから方喰一家のシマには手ェ出すなって、俺は……!」

「ふはっ完全にバレてんじゃねえか。何だよやべえのって」

「心外だなあ、俺は自分とこのシマの平和と秩序を守ってるだけなのに。ああそうだね九井くん、確かに君は方喰のシマには手を出さなかった。賢明だ」

 

 だけど、確かに俺に喧嘩を売ったんだよと笑いかける。

 なるほど、うちのシマに手を出してきそうで来なかったのは、ちゃんと弁えてくれていたからだったらしい。お気遣いを頂いたのに申し訳ないが、遠慮なく手を出せる「建前」を調えるためにこちらから罠を張った。

 方喰のシマではないが、少しばかり縁があって融通を利かせられるジュエリーショップ。この日、この夜、この時間ならこの店に金や高級品が山とある。そして警備はヌルいぞと、わざわざその界隈に顔の利く灰谷兄弟を使って情報を流した。

 そしてその店には()()()()、俺のダイジなモノが預けてあった。

 

「オヤジの形見をさ、預けてたんだよね」

 

 視界の端で、イザナの肩が揺れたような気がした。

 

「だいぶ汚れてたからそろそろ綺麗にしてもらおうと思って。それを盗もうとしたんだから俺には落とし前をつける権利がある。そうでしょ?」

 

 こんな罠にも気づかないなんて可愛いねと言ってやれば、九井くんはぐっと歯を噛みしめた。実際、灰谷兄弟やその配下が相当上手いこと情報を流してくれたからこその結果だろう。彼が相当に神経を張り詰めて周到な計画を練っていたのは知っている。

 さて、と俺は立ち上がり、部屋の隅に置いておいたケースを手に取る。別に俺は本当に九井くんを苛めるつもりはなかった。手を出す口実だけあれば、あとはオハナシがしたかっただけ。

 彼が二度と、こちらの領分に手を出すことのないように。

 

「結局のところ、九井くんは別に犯罪行為が楽しいわけでもお金が好きなわけでもないんでしょ? 好きな女の子を助けるためにお金が必要、ただそれだけ」

 

 かちりとケースのロックを外し、蓋を開ける。中を見た九井くんの眼が、これ以上なく見開かれた。

 

「手術以外にもいろいろお金が掛かるだろうから、ちょっと上乗せして五千万円。俺の個人的な資産だから後ろ暗くない綺麗なお金」

「あ、んた、……!」

「これ、貸してあげようか?」

 

 好きな女の子のために手を汚すことも厭わなかった九井一くん。

 彼に極道(おれ)から多額の借金をする覚悟はあるだろうか。

 

 

 *

 

 

 数秒放心していた九井くんは、乾くんのココ、という囁くような声ではっと我に返る。手足を縛られ満足に動けない芋虫のような身体を必死にもがき、膝をついて額を畳に打ち付けた。ガッと俺が押しつけたときより大きな音が響く。

 そのまま額をこすりつける彼の肩は、強く震えていた。

 

「かしてください」

 

 声には涙が混じっている。もはや全身が震えている彼は、言葉を話すのもやっとのように思えた。

 

「ぜったいにかえします。りしも、……いくらになってもかえします。なんでも、いうことをききます。おれのことをすきにしてくれてかまいません、だから」

 

 そのおかねをかしてください。

 よせ、やめろ、と喚く乾くんの声など耳には入っていないらしい。涙ながらの懇願など見慣れたものだが、我が身でなく他者を想って頭を地面に擦りつける姿を見ることは少なかった。まして自分よりも年下の少年が、好きな女の子のために、などと。

 俺は極道ではないが、それでも極道の跡取りだ。そんな俺から借金をするリスクを、この賢い子がわかっていないはずがないというのに。

 一切の迷いなく土下座をした彼の肩に、そっと手を置いた。顔を上げさせ、赤くなってしまった切れ長の目を覗き込む。

 

「条件交渉なしに土下座した心意気は買うよ、九井くん。いいよ、貸してあげる」

「……!」

「利率とか返済についての話は後にするとして、まず大前提だけど。五千万は貸してあげるけど、俺は善意や同情で申し出たわけじゃない。きみの将来性とこちらの社会の秩序を考えて、つまり俺のために言っている」

「わ、かって、ます」

「うん、だから条件。せっかく綺麗な金を貸すんだから、きみも綺麗な金で返すこと。まっとうに働いて五千万返すのは相当大変だけど、それでも一線は決して越えないこと。そういうやつらと手を組むことも許さない」

 

 かといって返済が遅れるのも許さないけど、と俺はにこりと笑う。

 

「きみの金を稼ぐ才能を見込んでの投資だと思って欲しい。きみはまっとうに、ほんの少しも後ろ暗くない方法で金を稼ぎ、利子を含めてちゃんと俺に金を返す。泣き言は聞かないし遅れるのも許さない。ただし、返済が順調であれば俺はきみやきみの周囲に手を出すことはしないし、きみの邪魔をするやつの排除くらいは手伝ってあげる」

 

 これを甘いと見るか厳しいと見るかは当人次第だろう。

 五千万なんて法外な金を彼がまっとうに生み出すことができるか、それによって全てが変わる。きちんと返済が進むなら俺は彼の切り札にすらなり得るが、彼の金儲け(さいのう)に限界がきたとき全ては終わる。

 

「わかるね? ()()()()()()()()()()。……ああもちろん、きみがこの約束を反故にしたら、」

 

 この返済は、どこかの可哀想な女の子に頼むとしよう。

 ゴクリ、と目の前の彼は息を呑んだ。しかし、目の奥の覚悟は消えていない。じゃあ契約成立だ、と彼の肩を叩いた。

 そのまま視線を踏みつけられたままの子犬に向ける。

 

「そういうことだから乾くん、きみのお姉さんは助かるよ。良かったね」

「て、めえ……!!」

「イヌピー、いい! あとは俺が稼げばいいだけだ。まっとうに稼げって言う以上は学生の間くらいは手加減してくれるよな」

「むしろ大卒くらいなってもらわないと困るしね。きみをどう売ってもたいした金になるとは思えないし、頑張って完済して欲しいから相談には乗るよ」

「十分だ。やってやるよ、利子まできっちり返してみせる」

 

 いい心掛けだと笑いながら彼の拘束を解いた。

 イザナに目配せをして乾くんを押さえていた足をどかさせたが、まっすぐ殴りかかろうとするのだから本当に犬か猪のようだ。しかし乾くんを止めようとした九井くんがよろけたのを見て、慌ててその身体を支えにいく。

 最近は少し疎遠ぎみだったと聞いていたが、ちゃんとまだ仲が良いようだ。うんうん、そのまましっかり九井くんの金儲けも支えてあげて欲しい。

 襖の外に控えていたやつに声を掛け、肩を貸し合う二人に笑顔を向けた。

 

「じゃ、ウチのに車出させるから早く病院へ。もう手術始まってるよ」

「……は?」

「しゅじゅ、……え?」

「せっかくお金貸してあげるのに赤音さんが助からなかったら意味ないでしょ。こうなることはわかってたし、医者も一日でも早いほうがいいって言ってたからすぐに手術しろって話通しておいたんだよ。表向きは彼女の境遇を不憫に思った金持ちの寄付ってことになってるから、わかってると思うけど俺のことは誰にも言わないように」

 

 院長が出迎えると思うからこれで払ってね、と九井くんの手に金の入ったケースを握らせた。まだ呆けた顔のふたりの肩をパンとはたいて、ほらしっかり、と檄を入れる。

 

「借用書の作成や細かい話は手術が終わってからでいいよ。赤音さんの一日でも早い快復を祈ってるね」

 

 ケースをしっかりと抱き込んだ九井くんと、複雑な感情が入り乱れているらしい乾くん。もう、どんな顔をしていいのかわからないという様子だった。まあ無理もない、冷静になる隙を与えないよう性急にことを運ぶのは極道の常套手段だ。

 とにかく行っておいで、と背を押してふたりを追い出す。赤音さんが助かる確証が出るまでどうせまともに話なんかできないだろう。囁きのように落とされた「ありがとう」は聞こえなかったふりをした。正直、礼を言われる筋合いなんてない。

 ふたりが去った部屋は妙に静かだ。じっと成り行きを見ていたイザナが、ようやく口を開く。

 

「……随分とお優しいな、伊織」

「そう見えた? 俺としてはこれで九井くんの荒稼ぎもなくなるし、すぐ使う予定のなかった金が利子付きで返ってくることになったからホクホクだよ」

 

 九井くんが悪い子にならないっていう確約も出来たしね、と微笑めば、イザナは不機嫌そうに鼻を鳴らした。内心では「金稼ぎが上手いやつなら黒龍に欲しかった」とかそんなことを思っているんだろう。残念、これで彼のバックには俺がつく。黒龍だろうが何だろうが、誰にも手出しをさせるつもりはない。

 それで、と眉間に皺を寄せたままイザナは一歩俺に歩み寄る。

 

「結局、俺はただの乾の押さえ役ってわけ? 使ってくれんじゃん」

「まさか。ただ、イザナはコッチのことに興味あるみたいだから見たいかなって。社会科見学だよ」

 

 こういうのが見たくて俺に近づいたんじゃないの、と続ける。イザナの宝石のような目がまっすぐ俺を貫いた。その顔には何の表情も浮かんでいない。

 今回のは確かにあんまりないケースの「オハナシ」だけど、と前置いて俺は笑う。

 

「九井くんの才能は今後脅威になりそうだったから、早めにコッチの世界からご退席頂いた。ついでに俺の資産を増やしてもらう手伝いを頼んでね。五千万なんてまっとうに稼げるやつはほんの一握りだけど、こんな若いうちから金稼ぎのことばっか考えてた子なら出来るかもしれないでしょ?」

「出来なかったら?」

「九井家や乾家、そのほか親しい皆々さまにご協力頂いて搾り取るよ? でももちろん九井くんがまともに返してくれるのが一番楽だから、身近に事情知ってるひとがいたほうがいいと思って乾くんに来てもらった。心身ともにサポートしてあげてほしいからね」

 

 俺だって誰彼構わず金を貸すような真似はしないが、今回はこのやり方が一番いいと思った。九井くんの金を稼ぐ能力というのももちろんだが、何よりも大きかったのはその当人に「弱点」があったこと。

 

「九井一は、乾赤音の存在がある限り俺から逃げられない」

 

 好きなひとのために犯罪にすら手を染めた少年。俺からすればひどく哀れで愚かしい。そんなわかりやすい「弱点」を堅気に残してこちらの世界を荒らそうなんて片腹痛い。俺が手を出さなくても、いずれその「弱点」をつかれて可哀想な目にあっていたことだろう。といっても、そうなるまえに彼女のほうがもたなかったかもしれないけれど。

 こちらの世界は、もうどこにも居場所がないやつの掃きだめだ。どこにも居場所がないやつしか来てはならないし、まして堅気に未練のあるやつなど。自分に残った大事なもの全部を引き込むくらいの覚悟がないと生きてはいけない。

 にこり、とイザナに笑いかけた。

 

「堅気に大事なものを残してるくせにコッチに飛び込んでくる人間はさ、コッチじゃただの餌なんだよね。そういうやつを食い物にするのはウチの筋に反するんだけど、最近じゃそういうの気にしない半端者が増えてきてる。だから俺は堅気に未練のあるやつは堅気にいてほしいし、筋も通さねえクズの半端者なんか死ねばいいと思ってるよ。本当に迷惑だから」

 

 そこまで言うと、ハ、とイザナが嘲るように嗤った。回りくどいんだよテメェは、と俺の真ん前に立ち、額がつきそうなほどに顔を寄せられる。

 

「はっきり言えよ伊織、何が言いてえ?」

「じゃあはっきり言うよイザナ、堅気に未練があるくせに観光気分でコッチに来るのはやめてもらえるかな」

「ねえよ未練なんざ。俺にはこれしかねえ」

「強がってるのか自覚がないのかどっちかな。きみを慕っている鶴蝶くんも確実に巻き込むよ?」

「鶴蝶は俺の下僕だ。王についてくンのは当然だろ」

 

 俺が鶴蝶くんの名前を知っていることにもイザナは怯まなかった。しかもこの確信した口ぶり、まあそうだろうとは思っていたけど鶴蝶くんはイザナの「弱点」ではないらしい。

 じゃあこちらはどうだろうと、その名前を口にした。

 

「佐野真一郎くんも?」

 

 イザナの顔色が一瞬で変わった。

 あえて柔らかい声のまま、もうひとつの名前を告げる。

 

「それに妹さん、エマちゃんだっけ」

 

 大事なふたりなんじゃないの、と言い終わる前に胸ぐらを締め上げられる。イザナは完全に血走った目をしていて、よくこれで未練がないなんて言えるなあと軽く苦笑した。

 口の横から泡でも噴かんばかりのイザナは、叫ぶように言い放つ。 

 

「血も繋がってねえんだから兄貴でも何でもねえ!! 俺を騙してたやつだ、アイツに未練なんかあるわけねえだろ!! エマだって……っ!!」

 

 調査によればある時期から佐野真一郎と一切接触をしなくなったそうだが、どうやら原因は血の繋がりがなかったことがわかったかららしい。

 盃交わせば家族になる世界で生きてるせいかイザナの気持ちはわからないが、施設で過ごしていた彼からすれば大きなショックだったのかもしれない。血の繋がった家族なんて俺もいないけどね、と内心だけで呟き、まあ落ち着いてと喉元にあるイザナの手をぺちぺちと叩いた。

 

「そっかそっか、俺の勘違いか。いやあごめんね、そういうことなら確かにイザナはコッチに向いてるかもしれないね」

 

 は、とイザナが息を吐く。力が緩んだ瞬間を見計らって腕を外した。にこにこと笑ってみせながら襟元の乱れを整える。

 確かにイザナは本当に堅気なのかと思うくらい頭がイカれている。他人に興味がないせいか倫理観もないし、何をしても罪悪感を抱かない。そのくせ妙なカリスマ性で他者を惹きつけ、意外と頭もまわるし腕も立つ。誰か裏社会のルールを教えてやれば、それを利用してのし上がるくらいのことは出来る素質だと思う。

 イザナはコッチの社会に適した人間なのだろう。そして俺と組めば、おそらくそれは実現する。

 

「勘違いしてたお詫びに、イザナに手を貸してあげてもいいよ」

 

 失礼なことを言っちゃったもんね、とイザナの肩に手を置いた。わずかに息を切らせたイザナの肩が、呼吸にあわせて揺れている。

 こちらの社会の渡り方や人脈のパイプ。黒龍の薄汚い商売。俺が手を貸せば、黒龍は今までの比ではないほどの力をもつことが出来るだろう。

 俺と手を組みたかったんでしょ、と笑顔で語りかける。

 

「でも、やっぱり堅気に未練はないって証拠は見せてもらわないとだから―――」

 

 肩を引き寄せ、イザナの耳元に口を寄せる。

 

()()

 

 佐野真一郎を。佐野エマを。未練を疑わせる存在をその手で抹消しろ。

 どうせ放っておいても、コッチの世界でイザナが暴れれば彼らは無事では済まない可能性のほうが高い。それならイザナの手でさっさと引導を渡してやれ。

 

「堅気の繋がりを清算できたら、何でも手伝ってあげる」

 

 さあ、どうする?

 そう語りかけると、イザナの耳元の花札がカランと揺れた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野良猫の決断

「で、ゼンブ片付いたワケ?」

「まじ俺らのおかげじゃん」

 

 だからこうしてご馳走してるのに、と高級料亭にまるで相応しくないスウェット姿で箸をもつ二人を見て苦笑する。食べ方は意外と綺麗なので不快感はないのだが、似つかわしくなさすぎて面白い。

 

「食べたことがないものがいいって言うからここにしたけど、口に合った?」

「高そうな味はする」

「俺はケッコー気に入った~」

 

 それなら良かった、と俺も箸を手に取る。

 何故だか金回りのいいこの兄弟も一見お断りの紹介制の店なら入ったことがないだろうと思って選んだのだが、とりあえずお気に召してくれたらしい。慣れてない人間を連れていくからわかりやすい味付けのものにしてくれと頼んではおいたけれど、さすがは()()()()金持ち御用達の店。俺たちに合わせた料理を用意してくれたようだった。

 

「随分上手にやってくれたみたいだからね。ほんのお礼だよ」

 

 九井くんたちを誘き出すために、灰谷兄弟やその配下に情報を流してもらった。かなり警戒していたはずの九井くんが見事につれてくれたのは、それだけ上手く話を広めてくれたという証拠だろう。その手腕には素直に感心する。ただ喧嘩が出来るだけの馬鹿にできることではなかった。

 少し自慢げな顔した竜胆がにんまりと笑う。

 

「ニュースにもなってたもんな、少年窃盗団全員出頭したって」

「涙ながらに捕まえてくれって訴えてたって話だけど、伊織チャンてば何したの?」

「俺は何もしてないよ、ウチ一番の強面とちょっとオハナシしてもらったけど」

「それじゃん」

 

 といっても彼らには傷ひとつないはずだ。ただ痛みを与えるよりも恐怖を思い知る方法などいくらでもある。危ない方法で金を稼ぐより法に守られた檻の中にいたほうが安心だとわかってくれたなら、これでもう馬鹿に手を染めることはないだろう。

 乾赤音さんの手術も無事終わり、九井くんとの契約も成立。九井くんには自身に依頼をしたことのある「金だけ持ってるクズ」のリストを提供してもらい、それを「この世界のオトナ」に提出してお褒めの言葉と少なくない額の報酬を頂戴した。

 大筋として想定通り。働きに見合った結果も得た。強いて言うなら、あとは。

 

「で、うちの大将と何かあった?」

 

 イザナの答えを待つだけ、というところ。

 蘭の探るような視線に、にこりと微笑みを返す。

 

「さあ、最近イザナと会ってなくてね。最近って言っても二週間くらい? その前が来すぎだったんだよむしろ。イザナ、どうかしたの?」

「ま~伊織に絡みすぎだったのはそーなんだけど。妙に情緒不安定なんだよね」

「ちょっとしたことで何人も部下ボコして病院送りにしてるらしい。いつものことっちゃいつものことだけど、やけに機嫌わりーの」

「へえ。何か悩みでもあるのかな」

 

 あの日、見るからに動揺していたイザナ。答えを待ってるよ、と肩を叩いて帰らせたのだが、いまだ結論は出ていないようだ。やるなら俺の目の前で、と念は押したから早まった真似はしないだろうが、情緒不安定だというなら佐野真一郎や佐野エマの身辺を見張らせておいた方がいいかもしれない。

 どうしようかな、と視線を揺らすと、同じカタチをした二人分の瞳がまっすぐこちらを向いている。おや、竜胆まで俺が原因だと感づいているらしい。

 にこりと微笑み返すと、蘭はふうんと肉の欠片を噛み砕き、竜胆は舌打ちをして視線を外した。

 

「疑うのは自由だけど俺は何もしてないよ」

「モッチーがイザナの前で伊織の名前出したら鼻折られたらしいんだけど」

「それは災難だったね。お見舞いのお菓子でも贈っておこうかな」

「何したんだよ」

 

 いつになく真剣な視線に、真剣な声音。蘭と違って搦め手の向かない竜胆は、まっすぐだからこそ誤魔化されることをよしとしない。

 蘭もまた、決して俺から視線を逸らそうとはしなかった。

 

「……本当にイザナは慕われているね」

 

 いっそ羨ましいかもしれない、とふたりの顔を見て思う。

 この性悪な兄弟も、他の「極悪の世代」も、きっとイザナがどちらを選んでも何も変わらないのだろう。表の世界だろうが、裏の世界だろうが、イザナは自分たちが認めた男に違いない、と。

 まだ会ったことのないイザナの可愛い「下僕」くんも、また。

 

「これは嘘でも誤魔化しでもなく言うけど、放っておきな」

「それで納得すると思ってンの?」

「納得しなくても構わないけど、俺はこれ以上言わないよ? イザナだってそう思うから誰にも何も言わないんだ。俺から言えるのはそれくらい」

 

 そこで立ち上がりかけた竜胆を片手で制し、蘭はお吸い物の椀を手に取って口につける。静かに飲み干し、再び椀を置いた。その紫の瞳には何の感情も浮かんでいない。

 

「ンなこと出来るとも思わねえけど、別に大将脅してるとかじゃねーんだろ?」

「してないよ。イザナは脅しが通じる類いの人間じゃない」

「で、伊織チャンはイザナおちょくって遊ぶ趣味もねーよな」

「好んで蹴られたくはないね」

「しかも、意外と嘘はつかない」

「蘭はわりとひとのことをちゃんと見ているよね。感心するよ」

 

 そ、と蘭は口を閉じる。少し目を伏せて、また俺を見た。そのときにはもう、いつも通りの腹の底を見せない笑顔。

 

「ところで伊織チャン、俺全然足りねーんだけど。おかわり~」

「あ、俺も。あと三人前は出してよ、高ェ店は量がすくねンだよな」

「うーん食べ盛り。仕方ないな~」

 

 苦笑しながら追加を頼み、次々と品の良い料理が消えていくのを見る。俺もそれなりに食べる方だとは思うが、この兄弟は俺の比ではない。まあここまで景気よく食べてくれたらご馳走しがいがあるというものだ。仕事の報酬なのだから好きに食べればいい。

 ついでにこれは部下さんたちに、と土産を持たせれば、覚えてたら渡しとく、と二人して箱を凝視していた。

 

「……渡すんだよ?」

「たぶん」

「きっと」

「あはは蘭、竜胆、こういうのは俺のメンツに関わるんだ」

 

 ちゃんと渡せよとにっこり笑えば、一段低い声で不服そうに「へーい」と声を揃える。まったくこの正直者ども、おつかいくらい普通にこなしてほしい。

 店の暖簾をくぐり、外に出る。腕時計を確認すれば、思ったより時間が遅いことに気づいてひとつ瞬きをする。二人を満腹にするのに思ったより時間が掛かってしまった。

 

「伊織クン、俺らこの後てきとーに遊んでくけど」

「俺は帰るよ。明日も学校だし」

「うわ真面目~、……そういやお前学校行ってんだっけ」

「実は俺不良じゃないんだよ蘭。知ってた?」

 

 知らね、と同じ顔で笑う兄弟と別れてタクシーに乗る。流れていく夜の灯りをぼんやり眺めながら、最近荒れているというイザナのことを思う。

 そもそも即断できない時点ですでに答えは出ているのだ。あとはイザナ本人がそれを認められるかどうか、それだけの問題。兄を、妹を、血の繋がりがなくても「大事」だと認められるかどうか。ついでにその兄と妹と血が繋がっている「弟」を受け入れられるかどうか。

 言葉にするのは簡単だが、まあそう簡単ではないのだろう。

 

「……ふ、」

 

 零れかけた欠伸をかみ殺し、目元を指で拭う。

 境遇のせいなのかそもそもの性質なのか、イザナはかなり厄介な性格をしている。それにくわえ、言ってなんだが佐野真一郎もどうやら器用な人間ではない。おそらくは血の繋がりのない兄を拒否ったイザナと、拒否られてビビった兄貴。心のままを上手く言葉に乗せることができない不器用な口下手と、言葉を言葉のままにしか受け取れない典型的な単純馬鹿といったところか。

 元とはいえ伝説のチームの総長ならそこで日和らないで欲しいんだよな~とため息をついていると、公園らしき場所にひとが集まっているのが見えた。しかもどうも平和な集まりではないらしい。ひとのカタチをした影が次々と吹っ飛んでいく。

 さて大人か子どもか、と信号待ちのタクシーの窓から目をこらしていると、何というタイミングだろう、かすかな街灯の下でも煌めく白銀の髪。

 気づいたときにはもう、俺はタクシーに料金を支払っていた。

 

 

 *

 

 

 荒い呼吸が静かな公園に響いている。

 倒れているのはどいつも黒龍の特攻服で、立っているのはイザナだけだった。気の毒に、イザナの鬱憤晴らしにでも使われてしまったのだろう。そこらに飛び散る血の量は、身内のじゃれあいで済むようなものではなかったことを物語っていた。

 

「やあイザナ、荒れてるね」

「、……テメェ」

「偶然通りがかってね。機嫌が悪いとは聞いていたけどこれはひどいな、憂さ晴らしをするにしてももう少し方法を考えてあげなよ」

 

 ぴり、と痛いほどに突き刺さる空気はまるで手負いの獣のような。どうせ一発も食らっていないだろうに、何で全部潰したほうがこんな空気を纏っているのか。まったく、ここまで思い詰めるならさっさと結論を出せばいいものを。

 暗がりでもわかる憔悴具合。どうせ食事や睡眠もまともにとれていないのだろう。あまり追い詰めて暴走されるよりは早めにケリを付けさせるべきだろうか。

 ゆらり、とイザナは揺れるように一歩前に出る。

 

「……伊織」

「うん?」

「……てめえで言ったことは守ンだろーな」

 

 こちらを見据える大きな瞳には、もはや狂気の色さえ見えた。

 

「俺から言い出した『約束』だ。もちろんだよ」

「……なら、決まりだ」

「いいの? イザナ」

 

 家族なんでしょう、と言い終わる前に胸ぐらを掴まれた。家族じゃねえんだよ、と孤独な獣は自分の言葉で傷を負う。

 どこまでも馬鹿で哀れなイザナは、血走った目でその言葉を声にする。

 

「真一郎を殺す」

 

 エマもだ、と絞り出すように落とされた声は、もはや悲鳴のようだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野良猫と首輪

 俺は約束を違えるつもりは少しもない。イザナが裏社会でのし上がる手伝いをすると口にしたからには、もちろん全力で彼の背を支える覚悟はあった。

 ただし、その状況に陥ることのないように手を尽くさないとは言っていない。俺は堅気に未練のある人間にこちらの世界には来て欲しくないし、イザナのように素質のある人間ほど陽の当たる世界で平和に過ごしていて欲しいと思う。そのためなら血の繋がらない兄弟の仲直りという、感動の茶番劇でさえ演出してみせるとも。

 今、俺の目の前には痣だらけの佐野真一郎にしがみき、幼児のようにしゃくりあげるイザナの姿がある。

 

 

 *

 

 

 別に、これといって特別なことをしたわけではなかった。

 血の繋がらない「家族」を殺すと言ってみせたイザナに、それじゃあ佐野真一郎のほうから片付けようと決行の日時を伝え、それより先に佐野真一郎に会いに行っただけだ。

 

『お、見ねえ顔だな。バイク好きか?』

 

 ひとがいない時間を見計らってバイク店を訪れた俺を、彼は笑顔で迎えてくれた。その懐の深さが滲み出るような、人懐っこく大らかな笑顔。これは天性のひとたらしかな、と俺も笑顔で応え、首を振る。バイクを見に来たわけじゃないんですと言えば、彼は不思議そうな顔で首をひねった。

 

『俺は方喰伊織と言います。黒川イザナの……友人、みたいなもの、ということにしておいてください」

『、イザナの? ……ダチじゃねえの?』

『うーん、お互いちょっと難しい事情がありまして』

 

 つい苦笑をしてしまったが、まあそこはどうでもいい。話をしなければならないのは俺とイザナの関係じゃない。イザナと、クソヘタレな佐野真一郎の関係の方だ。

 にこ、と笑顔を作り直して正面に経つ彼を見据える。

 

『今夜、イザナがこの店に来ます』

『え、』

『といっても、俺がしたのはお膳立てだけ。イザナはまだブチ切れたまんまですよ。たぶん貴方に殴りかかるでしょう』

『……それは、』

『これが最後のチャンスだと思ってください』

 

 そう、これが最後のチャンスだ。

 イザナを、こちらの世界から蹴り出すための。

 極悪の世代(クソガキども)を、堅気の世界に繋ぎ止めるための。

 今ならまだ、戻れる。悪い大人(クズども)から、守ってやれるから。

 

『弟に癇癪ぶつけられたくらいでビビらないでくださいよ、伝説の暴走族(チーム)の元総長でしょ。ーーーちゃんと、』

 

 ちゃんと、兄弟喧嘩をしてください。

 佐野真一郎の目が、見開かれた。

 

『兄弟ってそういうもんなんでしょう? 俺は一人っ子なのでただの想像ですけど』

『は、……はは、……そう、だ。……まじでそーだワ。言われっぱのまま引き下がって日和るとか、』

『クソダサいですよね』

『えっ何お前大人しそうな顔してそんな言葉投げてくンの? ドストレート決めンの? オニーサンの心に突き刺さるんだけど』

『そりゃあ貴方のおかげで随分苦労しましたからね。大変なんですよ、ひとの話をちっとも聞きやしねえ野良猫の相手は』

 

 だから、さっさと首輪を付けて面倒を見てもらわなくては。

 きょとんとした顔の彼に背を向け、じゃあよろしくお願いしますと言って店を去ったのが今日の昼のこと。

 そして深夜となった今、盛大な兄弟喧嘩の末に何とか仲直りまでこぎ着けたというわけだ。お涙頂戴の家族ドラマには興味がないので喧嘩の内容はあまり聞いていなかったが、どれだけイザナに殴られ蹴られても折れなかった佐野真一郎の強靱さにだけは感心した。

 極道の仕事(シノギ)なんて結局は相手の心をいかに上手く折るか、つまり諦めさせることができるかどうかで大半が決まる。

 恐怖で相手の心を折り、正常な思考回路さえ奪ってしまえばこちらのもの。だからこそ腕っ節のある人間より頭のいい人間より、諦めない人間が一番厄介なのだ。

 どうやら佐野真一郎はその「厄介」な類いの人間らしい。折れない、退かない、諦めない、どれだけ痛めつけられようとも、佐野真一郎は変わらない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 これが関東をまとめあげ日本一と謳われた伝説の暴走族(チーム)、初代黒龍の総長か。お前の敵う相手じゃないよ、といまだ泣き続ける背中を見つめる。ただただ震えるその背中は、いつもよりさらに小さく見えた。

 尻餅をついたまま、()()()()「弟」になった彼を抱きしめた彼と目が合う。口を開こうとした彼を制し、唇の前で人差し指を立てた。佐野真一郎がきゅっと口を噤んだのを確認して、そのまま逆の手を軽く振って一歩下がった。せっかくの兄弟の仲直り、俺が水を差すのはさすがに野暮だろう。

 俺の意図を理解してくれたらしい佐野真一郎は一瞬イザナに視線をやって、それからまた俺に笑顔を向けた。痣だらけで血まみれの、満面の笑み。

 早く手当てすればいいのにと思いながら俺は彼らに背を向ける。なるべく音がしないように外に出て、大きく伸びをした。

 これで一段落、と思ったのだがなかなかそうもいかないものだ。店のすぐ近くに、見知った車が停まっていることに気付いた。

 

「お疲れさまです、若」

「迎えを頼んだ覚えはないんだけど。どうしたの?」

「姐さんがお帰りです」

 

 俺の教育係が「姐さん」と呼び敬意を払う人物はただひとり。俺にとって敵ではないが、味方とも言いづらいあの女性(ひと)

 その呼び出しともなれば、応えないわけにはいかない。まったく息をつく暇もなしか、と俺は黒塗りの車に乗り込んだ。

 

 

 *

 

 

 表向きは夫の事業を引き継ぐ社長だが、その実は極道一家をその手で守り抜く、事実上の方喰のトップ。方喰よりも上位の組織の長の娘として生まれたこのひとは、父に心底惚れ抜いて嫁いできた生まれながらの極道。

 俺と血の繋がりはないが、物心つく前から俺を息子として育ててくれた養母だった。

 

「おかえりなさい、養母(かあ)さん。お久しぶりです」

「ええ、なかなか帰れなくてごめんなさいね」

「いえいえ、お元気そうで何よりです。お仕事はいかがですか?」

「いつも通りよ。……あまり時間が取れないから、率直に聞くわね、伊織」

 

 正直、何の話をされるかはわかっていた。

 にこりと微笑んだまま、厳しい顔をしたそのひとの視線を受け止める。厳しいと言っても、その表情には少しだけ「心配」の色も見えた。

 

「最近、お友達ができたそうね」

「うーん、語弊があるような」

「よく連んで遊びに出掛けているんでしょう?」

「それも語弊が。……いえ、茶化しているつもりはないんです。俺は俺の立場をよくわかっているつもりですよ。そのうえで彼らと接触をもっています」

「……そうね、貴方は自分の立場をよくわかっている。だから確認する必要もないとは思っているのだけど」

 

 立場的に確認しないわけにもいかないの、と養母は苦笑を浮かべる。わかっています、とその苦笑に応えた。

 極道(ホンモノ)であることにプライドをもつ「方喰」が、半端者(チンピラ)と繋がりをもつことは許されない。強きを挫き弱きを守る存在が、弱きを食い物にするクズと馴れ合っていてはいけない。そう疑われることすら許してはならないのだ。

 姿勢を正し、俺はすっと頭を下げた。

 

「疑われるような真似をして申し訳ありませんでした。しかし、誓って方喰に恥じるようなことはしていません」

「……随分と過ぎたアソビをしている子たちだそうね」

「はい。ただ、それももう終わります」

 

 これが「今日」だったのは運が良かった。自信を持って「終わる」と言える。

 今後、黒川イザナの手綱は佐野真一郎が握るだろう。そうなれば今の黒龍は変わるか消えるか、少なくとも今のような後ろ暗い存在ではなくなる。多少の反発や離反はあるだろうが、黒龍という後ろ盾がなくなれば今のような派手な商売はできない。

 そして大将が変わればほかの極悪の世代たちも変わる。強い者に付き従う不良の習性を考えれば、イザナがしないことはほかのやつらもしない。まあ少々の喧嘩はするだろうが、それくらいなら子どものやんちゃだ。

 

「これからこの一帯は平和になりますよ。こちらの世界に片足を突っ込んでいたクソガキはただの不良に戻り、いずれは昔やんちゃをしていただけの堅気の大人になるでしょう」

「……ちゃんと堅気(むこう)に帰してあげたのね?」

「はい」

 

 俺がイザナと交流を持ち続けたのはこのためだった。

 こっちに来てはいけないよと、極道(おれたち)の方に来るのもダメだけど反グレ(クズ)はもっとダメだよと、頼むから堅気にいてくれよと。

 今日、何とかそれが叶った。もう少し成り行きを見守る必要はあるだろうが、これで彼らと関わる必要はなくなる。肩の荷がおりたと思う反面ちょっとつまらない気もするが、まあ気のせいだろう。このところ身の回りが騒がしすぎたせいで静けさに慣れないだけだ。

 そう、と養母は納得したように目を伏せた。それからまた視線をあげて、ちょっと面白そうな顔で笑う。

 

「だけど伊織、貴方もまだ堅気なのよ。仕事を手伝わせていておいて申し訳ないけどね」

「? はい」

「堅気なら、誰とどう付き合おうが自由だわ」

 

 初めてできたお友だちでしょう、と言われた言葉につい瞬きをする。

 あまりにも痒い言葉に、いやその、と言い募ろうとするが、養母は愉快そうに微笑むだけ。きっと貴方にも必要なものよって、いやだから俺は別に。

 

「ああ、そろそろ行かなくちゃ」

養母(かあ)さん、」

「またしばらく帰れないけど、元気にしてなさいね」

 

 実はひとの話を聞かないそのひとは、言うだけ言ってさっさと立ち上がる。あ、これもう何言っても無駄なやつだなと、俺は反論を諦めて見送りの姿勢に入った。

 無理矢理空けたスケジュールの穴を、これ以上俺で逼迫するわけにもいかない。お気を付けてと棒読みで言った俺に額を軽く弾いた養母は、ほんの一瞬だけ瞳に切なさを浮かべた。

 

「……()()()()、楽しく過ごしなさい」

 

 次の瞬間にはいつも通りの笑顔に戻ったそのひとは、そのまま手をあげて部屋を後にする。すぐに車のエンジン音が近くで聞こえた。本当に忙しいひとだ。

 残り時間と言われた意味は理解していた。俺の立場とこの家の事情を思えば考えるまでもない。

 

「……楽しく、ねえ」

 

 急に静かになった部屋で、俺はひとりそう繰り返した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野良猫のトモダチ

 数日後に俺を呼び出した野良猫は、出会い頭に俺の顔面狙って蹴りを繰り出してる程度にはいつも通りだった。飼い猫になればちょっとは人の話を聞くようになるのではと期待していたのだが、なかなか猫の気性というものは変わらないらしい。

 鞭のようにしなやかに繰り出される脚を何とか躱しきり、まあ少し落ち着けと顔面に缶ジュースを投げつける。寸でのところでキャッチしたイザナは完全なる不機嫌を隠そうともせず、俺を睨みつけたままオレンジジュースのプルタブをあけた。

 雑務を片付けた帰りに近所の爺さんにもらったものなのだが、炭酸入りのジュースでなくて良かったと心から思う。

 

「どちらかというと俺は感謝されてもいい立場だと思うんだけど、いったい何を怒ってるの?」

「オマエ、真一郎に入れ知恵しただろ」

「ああ、そのこと」

 

 別に口止めはしていなかったし、口止めしたところで佐野真一郎(クソヘタレ)はどう見ても隠し事に向いていない。第一、俺は後ろ暗いことなんてしていないのだ。だからバレたらバレただとは思っていたのだが、まさかこんなに怒るとは。

 にこっと笑ったまま俺は両手を開いてみせる。

 

「俺は兄なら兄としてちゃんとしてくれって言っただけだよ。台詞を指定したわけでもあるまいし、入れ知恵なんて人聞きの悪い」

「………」

「何そのもの言いたげな顔。だいたいイザナ、俺は何度も裏社会(こっち)に来るなって言ってきたはずだよ。その俺がまさか進んでイザナの手伝いなんかするはずないだろ?」

「……俺が真一郎を殺さねえってわかってたってことかよ」

 

 歯噛みするような言葉に、イザナの屈辱が伺える。自分のことを見透かされていたようで面白くないのだろうが、それはちょっと俺のことを高く見積もりすぎというものだ。

 どれだけ考えて用意を整えても、ひとの行動のすべてなんて読めるはずもない。

 

「七割くらい、かな」

「……あ?」

「イザナが真一郎くんと仲直りする確率。いや、実際会ってみたら真一郎くんて本当に天然もののひとたらしって感じだったし、八割くらい? でもさすがに絶対なんて確信はもってなかったよ。そっちを選んでくれて正直ほっとしてる」

「……じゃあ、」

「俺は約束を破るようなことはしない」

 

 もし、イザナが佐野真一郎を殺していたら。

 もし、イザナが佐野エマを手に掛けていたら。

 自分の中の渦巻く狂気に従い、堅気に残していた「未練」を自分の心もろとも葬り去ったとしたら。

 

「そのときはちゃんとイザナの面倒を見るつもりだったよ。俺の人生計画が多大に狂うことになったとしてもね」

 

 堅気の未練を切り捨て、他のどこにも行けない底辺まで堕ちてきたのなら、俺はそれを「覚悟」として受け入れなければならない。覚悟を見せられたならそれに応えるのは当然のこと。だが事実としてイザナはそちらを選ばなかった、ただそれだけだ。

 いまだ不機嫌そうなイザナは、眉をひそめて俺の言葉を繰り返す。

 

「……オマエの人生計画?」

「俺には俺の目指すものがあるってこと」

 

 まあそこはいいでしょ、と持っていた鞄を抱え直す。何か用があったんじゃないの、と珍しく休日に連絡を寄越してきた野良猫に視線を向けた。

 すると珍しくちょっと気まずそうな顔をしたイザナは視線を逸らし、くぴりとジュースの缶に口を付ける。

 

「……真一郎が」

「真一郎くん?」

「……礼が言いてえから、オマエのこと連れてこいって」

「礼? 言われるようなことしたつもりはないけど」

「俺もそう言った」

 

 まだ、イザナとの視線は合わない。

 数秒間の沈黙のあと、まさか、とつい顔面に余計な力が入る。

 

「……ひょっとして真一郎くん、俺のことものすごくいいやつだとか思ってる? もしくはイザナといいトモダチなんだみたいな」

「俺が何言っても聞きゃしねーんだよオマエまじ何言いやがった!!」

 

 どうやら佐野真一郎、想定以上の思い込みの激しいタイプの馬鹿だったらしい。また癇癪を起こし始めたイザナをどうどうと宥めすかし、仕方なくバイクの後ろに跨がる。

 もう縁を切っても構わないはずなんだけどな~と遠い目をしながら、自分の口角が上がったままなことには気付かないふりをした。

 

 

 *

 

 

 そのあとバイク屋に連れられた俺は佐野真一郎にしっかり頭を下げて礼を言われ、イザナにもいいダチがいて嬉しいなんて言われてしまって、もはや何と言ったらいいのか。

 視線だけで「ねえ何コレどういうこと」「オマエのせいだろ何とかしろ」「無理でしょ俺の話一切聞いてないよさっきから」「これが真一郎なんだよ余計なことしやがって」と会話が成り立つなんて俺とイザナも付き合いが長くなったものだなと。

 にこにこと嬉しそうに笑いながらバイクをいじる伝説の暴走族の元総長、たぶん頭の中には脳みそが入っていないのだろう。

 頭が痛くなってきたのでとりあえず「トモダチ」の話は一旦横に置き、イザナにこれからのことを尋ねた。イザナはあまり言いたくなさそうだったが、真一郎の視線を受けて仕方なさそうに重い口を開く。

 

「……黒龍は解散する」

「そう」

 

 少しも驚く様子を見せない俺を苦々しく睨みつけながらも、ぽつぽつとイザナは言葉を落とした。佐野真一郎の前ならイザナは素直だ。

 後ろ暗い商売ももうやめること、自分の目の届く範囲では二度と同じことをさせないこと、それから。

 

「俺は、俺のやりたいことを、……する」

 

 兄の後を継ぐのでなく、兄の大事なものを壊すのでもなく。馬鹿のくせにその意味は正しく理解したらしい佐野真一郎は、歯を見せてにっかりと笑った。

 

「いーじゃん」

 

 その一言がイザナにとってどれだけ大きいのかは理解していないようだけれど。

 ぱっと顔を明るくしたイザナを横目で見つつ、まあそれなら大丈夫と内心で胸をなで下ろした。イザナの「やりたいこと」が何なのかは知らないが、佐野真一郎に言えないようなことはしないだろう。越えてはいけない一線さえ守ってくれるのなら、新しい暴走族(チーム)をつくるなり好きにすればいい。

 くわえて、今後は佐野真一郎の店を手伝うという話までまとまっているらしい。首輪をつけたどころか働く気にさせるなんて、つくづく「家族」というものは偉大だと思う。

 

「つってもバイト扱いだけどな。伊織もガッコ忙しいだろうけど、またイザナと遊んでやってくれよ」

「……えっと、……はは、まあ、……はあ」

「オイ諦めんな伊織」

「もう面倒くさくなってきた」

 

 背中が痒くなるような「トモダチ」扱いだが、だって何を言っても「照れんなって!」で流されてしまうのだ。

 どこをどう見れば俺やイザナが照れているように見えるのか、佐野真一郎ときたら脳がないどころか眼まで腐っているのかもしれない。もはや身体のどこなら正常に機能しているのだろう。馬鹿は度しがたいというが、なるほど確かに難しい。

 しかし、と耳の奥で先日落とされた言葉が響く。

 

『……残り時間、楽しく過ごしなさい』

 

 楽しく、楽しくか。

 そう長くない時間を、俺が「楽しく」過ごすためには。

 

「……イザナ」

「ンだよ」

「トモダチいたことある?」

「はァ?」

 

 まあ十中八九ないんだろうけど、と我が身を棚上げして肩が揺れる。

 可愛い下僕たちこそたくさんいるのだろうが、世に言うトモダチというのはだいたい対等なものだ。上も下もなく、同じ目線で接することができる相手。

 きっとイザナにはいないだろうし、俺だってそうだ。ということは、つまり。

 

「俺たち、お互いが初めてのトモダチなんて笑えるね」

 

 そう言ったときの、イザナの顔と言ったら。

 眼球がこぼれ落ちるんじゃないかと思うほど見開かれた目に、徐々に赤く染まっていく褐色の肌。お、と佐野真一郎の面白そうな声が落ちると同時に、眼前に迫る拳。

 来ると思ったそれをギリギリで受け止め、続けて繰り出された逆の拳もまたすれすれで受け止める。照れ隠しにしてはかなり強烈というか、はははと口では軽く笑って見せるが少しでも力を抜いたら歯の一本くらいはイくことだろう。本当に堅気かコイツと思うくらいの鋭さだが、さすがの俺もプライドくらいあるので大人しく殴られてやるつもりはない。

 ぎぎぎ、と音がしそうなほどの競り合い。なんだか妙に新鮮だった。

 

「照れ隠しが拳ってちょっと過激すぎない?」

「誰が照れてるっつーんだよコラ」

「お前ら喧嘩は外でやれよ~。てか伊織、オマエ実は見かけによらず強い?」

「これでも場数だけは踏んでまして」

「ハ、いつも躱すだけでろくに反撃もしてこねーヘタレのくせに」

「ははは、言ったねイザナ?」

 

 俺は基本堅気に手をあげたりはしないのだが、まあ今回くらいは構わないだろう。何せイザナはちゃんと堅気に戻り、俺もまだ堅気だと念を押されている。そんな俺たちが喧嘩したところで何の問題もないはずだ。

 とは言え、ちょっとはしゃぎすぎてしまったかなという自覚はある。俺の左腕にはヒビが入ったし、イザナの額はすっぱり切れてしまったし、佐野真一郎の店を血まみれの埃まみれにしてしまったしと、自分でも驚く程度には調子に乗って暴れた。が、一応弁解しておくと、バイクにだけは俺もイザナも指一本触れていない。

 俺たちにくすり箱を投げて寄越した佐野真一郎は、床に飛び散るガラス片をほうきで集めながらさめざめと泣いていた。

 

「もーバイクが無事なら何でもいい……っ!」

「壊したものは弁償するので請求書くださいね」

「ンだよガーゼ足んねえんだけど。買ってこいよ伊織、血ィ止まんねえ」

「直接病院行った方が早いよ。俺も腕ヤバそうだし、車呼んだからイザナも乗ってきな」

「やっぱお前ら普通に仲良いだろ」

 

 その言葉に「まさか」と、俺とイザナの声が綺麗に揃う。

 こんなガキくさい小競り合いを楽しいーーーそう、「楽しい」と。自分がそんな感情を持ち合わせていたことに気づけたのは、確かにイザナのおかげだったのだと思う。

 診療時間外のためにしんとしている病院の待合室で、伊織、と響いた小さな声。なに、と視線をやることもせずに答えると、右肩に遠慮のない重みがのしかかる。

 

「……真一郎とは話したけど」

「うん」

「まだ、エマには会ってない。……もうひとりも、」

 

 これは、ひょっとして弱音でも吐かれているのだろうか。

 不遜なイザナのあまりにもらしくない声色に、肩が揺れそうになるのを必死で堪える。こういうのはたぶん笑ってはいけない、せっかく野良猫が飼い猫になろうとしている最中なのだ、そう仕向けたのは俺なのだから邪魔をしてはいけない。

 なるべく真面目な声を装って、そっか、と相槌を打つ。実際、佐野エマはまだしも佐野万次郎ーーーきっとイザナにとって憎らしくて羨ましくてたまらない存在と向き合うのは、相当な葛藤があることだろう。共感はできないが、理解はできる。

 右肩に乗った頭のせいで腕の痛みはますます酷くなったが、俺はあまんじてその痛みを受け入れた。

 

「大丈夫だよ」

 

 あまりに薄っぺらい言葉だ。だが、本当にそう思う。

 佐野家のことは紙の上のデータでしか知らないが、何せ長男があの脳天気馬鹿だ。その兄と育ってきた弟が「新しい兄」を拒むとは思えなかった。実際、「マイキー」となって「新しい妹」を受け入れた実績もある。

 佐野エマだって、たとえ血の繋がりがなくたって約束通り迎えに来てくれた「ニィ」を今さら否定するだろうか。

 まして、そんな複雑な事情のある孫たちを平気で受け入れて育てている佐野万作氏の器の大きさを考えれば。

 

「……全部上手くいく」

 

 そう、何も心配することはない。

 これからお前は、陽の当たる世界で家族とともに生きていくのだ。

 

 

 ***

 

 

 そして、俺の予想はやはり正しかった。

 紆余曲折こそあったらしいが、イザナは無事佐野家に迎え入れられた。たまに「弟」と洒落にならない喧嘩をして家出をしたりもするが、それも「家族」だからこそと思えば可愛いものだろう。

 鶴蝶くんを傍に据え、極悪の世代たちをまとめて取り込んだ「天竺」なんて暴走族(チーム)をつくったときにはちょっと笑ってしまったのだが、「海が見たかったから」なんて理由で横浜を締め上げたのを聞いたときにはもっと笑った。何その理由。おかげで東京どころか神奈川の治安までちょっと良くなってしまったので俺としては万々歳です。

 まあ「俺が勝ったらお前も天竺(げぼく)な」とか言って殴りかかってきたときはどうしようかと思ったのだが、無事平和的にドローに持ち込んで事なきを得たので良しとしよう。肋骨を何本かやられたが俺も鼻骨と歯を数本頂いたので十分に「平和的」の範囲内だと思う。しかし一部始終を見ていた極悪の世代たちと鶴蝶くんの態度がそれまでと変わったことだけは解せない。極道一家の跡取り息子が弱いわけないだろうと言いたい。

 それからまたしばらく、兄たちの背を見て育った弟くんも「東京卍會」なんて暴走族(チーム)を組んだという。おかげでまともに友だちができないらしいエマちゃんは本当に気の毒だと思う。伊織くんもマイキーに何とか言ってよとか言われたが、俺が言って聞くわけないだろと。エマちゃんとは会えば軽く話をする程度の距離感なのだが、妙に懐かれたような気配は察している。

 

「だって伊織くんはウチの(おとこ)どもと違って話聞いてくれるし」

「それは比較対象が酷すぎて複雑」

 

 マイキーくんともたまに話す程度の関係は築いていて、彼を通して東京卍會の知り合いまでちゃくちゃくと増えていった。どうも彼の周囲にも危うい種が隠れているように見えたが、マイキーくんもまた相応の求心力でもって危うい種ごと仲間に引き込んでいるらしい。

 確実に真一郎くんの志を受け継ごうとしている彼が中心にいるのなら、きっと「東京卍會」も大丈夫だろうと思えた。

 

「あ、伊織くんじゃん鯛焼き奢って」

「俺を見たら二言目には甘いモンたかるのやめようか」

 

 ちなみに黒龍に拘っていたワンコがこっそりそこに紛れていたことにもちょっと笑った。必死にお金を稼いでいる友人との繋がりを保ちつつ、彼は彼で「初代黒龍」の面影をある人物に見いだしたらしい。どうもそれはマイキーくんでもイザナでもないらしいが、真一郎(あのばか)に似た人物がまだ他にもいるのかと思うと少々頭の痛い思いがした。関わらないようにしようと思う。

 

「……ココが最近無理してる、気がする」

「了解、本人から話を聞くよ。必要なら寝かせ(オトし)ていいからね、イヌピーくん」

「わかった」

 

 そんなこんなで佐野家を中心に、不安定ながらも娑婆は平和になっていった。

 俺も俺で結局なんやかんや彼らと縁を切れないまま時間だけが過ぎていく。トレーニングと称してヤクザの事務所に飛び込んだ鶴蝶(ばか)竜胆(ばか)に本気の説教を食らわせたり、モッチーくんにラーメンの隠れた名店を教えてやったら崇められる勢いで感謝されたり、蘭の意味のわからないこだわりを聞くのが面倒になって適当に三つ編みを褒めたら調子に乗られたり、興味本位でムーチョくんに将棋を習ったら筋がいいと褒められたり、イザナとの喧嘩を見て以降大人しくなった獅音の頭を撫でてみたら犬耳が見えたような気がしたり。

 イザナとも相変わらず、たまに会って話をして、海を見ながらぼんやりして。イザナが本格的に真一郎くんの店で働き始めた後は、たまに「S・S MOTORS」に呼び出されたりもした。そこでイザナにバイクを差し出されたことには驚いたけれど。

 

「……これ、俺に?」

「イザナが初めてパーツ集めて組み立てたンだよ。かっけえだろ?」

 

 中古だけどイイやつなんだぜと自慢げに笑う真一郎くんの隣で、何となく気まずそうな顔をしたイザナが磨き上げられた赤いボディを撫でている。

 俺はバイクに詳しくはないが、そんな俺でもわかる程度にはいいバイクであるように思えた。

 

「イザナ、もらっていいの?」

「……」

 

 おっと、返事がない。

 目を合わせようともしないネコチャンから視線を外し、しょうがないなと真一郎くんに目を向ける。

 

「ちなみに普通に買ったらいくらくらいするんですか? あ、新車の値段でいいですよ」

「オイコラ普通に払おうとすんな財布しまえ」

「素直じゃないお前が悪い……と言いたいところだけどね、イザナ。真面目な話、パーツ代だけでもいいから金は取るべきだと思うよ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()、そう言うとイザナの眉がひくりと動いた。

 バイク自身の価値だけでなく、堅気の道を選んだイザナが生み出した初めての「商品」。それは、暴力やクスリでなく、真っ当に生きる「覚悟」の具現とも言える。

 店内の灯りのもとできらりと光るそれは、確かになかなか格好いい。

 

「これは金を取る価値のあるものだ。買う権利だけでも十分、」

 

 その続きを言う前に、首元を締め上げられる。

 眼前で見開かれた紫の瞳は苛立ちに揺れ、言わなきゃわかんねえのかとでも言いたげの。

 

()()()お前にやるっつってんだよ」

 

 だから、と。

 その三文字に込められたものを、俺はゆっくり飲み込んだ。

 俺なんぞにそんな心を傾けるなんてと捻くれた声が頭の中で響くと同時に、胸に浮かんだ柔いもの。あまりにもらしくない自分にゾッとしつつも、そう言われては断る方が無粋だと財布を懐に戻した。同時に首元の手が緩む。

 

「……じゃあ、ありがたく頂くよ。大事にする」

「……当たり前だろ」

「とりあえず免許取らなきゃね」

「真面目か?」

「……えっひょっとして伊織バイク乗れねえの?」

 

 暴走族と連んでるくせに、と信じられない眼でこちらを見る兄を軽くスルーし、イザナは上機嫌で俺とバイクを外に引きずり出した。仕方ねーから俺が教えてやるって、お前俺に偉そうな顔できるのが嬉しいだけだろうと。

 エンジンはこうで、ブレーキはこうでと意気揚々と説明を始めたイザナに、俺はもう苦笑するしかない。まあイザナはイザナなので、途中で説明に飽きて「とりあえず乗ってみろ」と言い出すくらいは予想の範囲内なのだけれど。

 

「……よく初心者の後ろに乗ろうとか思えるよね……」

「俺の言うとおりに運転しろよ。転けたら殺す」

 

 殺すどころか下手したらもろともに死ぬぞと思いながらエンジンを掛ける。

 深く響く排気音と、真っ赤なボディ。慣れないながらも後ろにトモダチを乗せて走る道は、確かに爽快だったように思えた。

 

 *

 

 そんな日々は本当に愉快痛快で、確かに俺は「楽しく」過ごしていたと思う。

 それが終わりを告げたのは、俺が大学を卒業したその日。ほかの奴らが祝ってやるよとか何とか言って茶化すなか、イザナは何も言わなかった。俺は別に何を匂わせていたつもりもなかったが、きっとイザナだけは察していたのだと思う。

 

 俺はその日を最後に、皆の前から姿を消した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

野良猫たちの国

 この場所から海を眺めるのは何年ぶりだろうか。

 近隣の風景が多少変わったとしても、この潮風はずっと変わらない。少しの振動でもじくじくと痛む身体に力を入れて、以前と同じように海縁のコンクリに座り込んだ。

 別にこの場所に何か用があるわけではない。ただ、最後のけじめをつけるならここがいいような気がしたから立ち寄っただけ。手の中で踊る小さな金属片の感覚を確かめながら、静かな波の音に目を瞑る。

 大学卒業と同時に堅気と縁を切り、極道の世界に身を置いて数年。俺がやらなければならないと思っていたことは、予想よりも随分あっさりと片付いてくれた。ただの「跡取り」に過ぎないうちから積極的に動いていたことが良かったのか、惜しみなく金を注ぎ込んだのが良かったのか。教育係をはじめとする「家族」たちが、反発しながらも最後にはちゃんと納得して協力してくれたことも大きかったと思う。そうでなければこんなにも短い期間で平和的な「店じまい」なんてできなかっただろう。

 まあだけど、と心の中で呟く。つい片頬が上がった。

 

「……俺が生きてることが、一番の予想外かなぁ」

 

 生死の境をさまよったとは言え、一応は五体満足、指も欠けることなく揃っている。全て、本当に全て捨てるつもりでいたのに、しかも「足」までちゃんと残っていた。

 初めてのトモダチからもらった、赤く輝く傷ひとつないバイク。本当なら堅気と縁を切った時点で手放さなければならなかったそれ。

 今の俺に残っているのは、傷だらけの身体と、手の中の趣味の悪い指輪と、このバイクだけ。ずいぶん身軽になったもんだと肩が揺れた。

 

「この俺が一文無しとか。笑える」

 

 さて、これからどうするか。とりあえずさっさと目的を済ませてしまおうと指輪を握った手を振り上げた、そのときだった。

 バイクの排気音には意外と個性があると言うことを教えてくれたのはそいつだった。「いや全部同じに聞こえるけど」「その馬鹿耳たたき直してやる」と俺が聞き分けできるようになるまで耳が痛くなるほど聞かされた音。

 痛む身体を堪えながら首だけで後ろを向く。同時にすぐ傍で停車したバイクは、やはり見慣れたソレだった。

 

「や、イザナ。久し振り」

「呑気に笑ってんじゃねえぞ、クソ伊織」

 

 やっぱり身長のびなかったんだなあと、口に出したら殴られそうなことを思った。

 

 

 *

 

 

 かつてと同じように隣に座り込んだイザナは、十年近くたっているにも関わらずほとんど変わっていないように思えた。

 髪型こそ変わっていても、顔立ちも雰囲気もまったく変わっていない。まあ前から童顔だったか、とアラサーとは思えない彼が差し出した缶コーヒーを受け取る。いや俺に飲み物を差し出す時点で中身はだいぶ大人になっているかと思い直した。

 

「それで、どうしてここがわかったの?」

 

 イザナとも他の皆とも、俺が大学を卒業して以来一度として連絡をとっていない。唯一ココくんだけは借金のこともあって必要最低限の連絡はしていたが、ココくんにも俺と連絡が取れることは誰にも言うなと言い含めていたし、ここ数年はココくんとの連絡さえ絶っていた。

 だいたい、俺が今こうして生きていることすら俺にとっても予想外なのだ。俺がここにいることをイザナに予想できたはずがない。

 俺の言葉を聞いたイザナは、はっと笑って缶に口を付けた。

 

「鈴付きのレアな首輪つけてやったろーが」

 

 何を、と一瞬考えてから視線を後ろにずらす。鈴付きの―――イザナが手を入れた独特のエンジン音の、レアな首輪―――生産台数もそう多くない真っ赤なビンテージバイク。

 なるほど、やられた。イザナが「やる」なんて言った時点でもっと考えるべきだった。

 

「この俺が手ェ入れた世界でひとつのバイクだぞ。下僕どもにはこれを見かけたらソッコー連絡まわすよう通達済みだ」

「イザナって実は俺のこと大好きだね?」

「寝ぼけてんのか?」

 

 まさか、猫に首輪を付けられていたとは。

 けらけら笑う俺に構わず、それで、とイザナは不機嫌そうに言葉を続けた。

 

「オマエんトコ、家たたんだって聞いたけど」

「耳が早いね。そうだよ、方喰一家は解散した」

「何で」

 

 端的な言葉には、誤魔化すなという念押しが見える。

 別に、済んでしまったことに嘘を言う必要性は見えなかった。もう何を言ってしまっても構わないだろうと、軽く答える。

 

「もう、方喰は方喰としての存在意義を失いつつあったからね。だから壊れる前に引導を渡してやったんだよ。……方喰の跡取りになったときからこうすることは決めてた」

 

 イザナには言ったことあったよね、とその紫の瞳に視線をうつす。

 

「方喰は、強きを挫き弱きを助けるホンモノの極道でなきゃいけない。けど、もう極道が極道のまま生き残れる時代じゃない。行き場のないやつを受け入れても、メシを食わせてやるどころかそいつらを食い物にしなきゃ生きていけない時代だ」

 

 時代は変わった。半端者がのさばり始めたのもあって暴対法の締め付けは強まり、社会は不完全ながらも弱い立場の人間を掬い取り始め、社会の裏側から非合法に「平穏」に貢献していた極道(おれたち)の存在意義は限りなく薄れた。

 存在意義が薄れれば、存在そのものが危うくなる。それが世の常だ。

 

「方喰に残された選択肢はふたつ。変わるか、消えるかだ」

 

 だが、実際のところは一択だ。方喰は弱きを食い物にする外道になど堕ちてはならない。

 まして、()がその選択をすることなど。

 

「……俺はさ、前の組長の子ではあるけど、本妻の子じゃないんだ。親父と愛人との間にできた子ども。この世界の人間なら愛人や庶子は珍しくないけど、本来は俺が方喰を継ぐなんて有り得ない。まして、本妻は方喰より上位組織のトップの令嬢だったからね」

 

 本当なら、親父とあのひと―――養母(かあ)さんの間に生まれる子が方喰を継ぐはずだった。それを台無しにしたのが、俺の実母だ。

 じっと俺の言葉に耳を傾ける紫の瞳から目を離し、正面を向く。凪いだ海は、穏やかながらもどこか不穏さを孕んで見えた。

 

「ねえ、どういう気持ちだと思う? 心底惚れぬいた男と、その男を殺した女の子どもを自分の息子として育てるのはさ」

 

 察するに、親父は大して庶子の俺に興味はなかったのだ。何せ俺に、実母の()()と同じ音の「伊織」なんて名前をつけたくらいだ。十中八九、名前を考えるのも覚えるのも面倒だったんだろうと思っている。

 男児が生まれても自分の扱いが変わらなかったことに不満でももったのか、本妻と仲睦まじかった親父を見て嫉妬に狂ったのか、何を思ったか実母は親父に包丁を突き刺した。そして、同じ包丁で自分の喉をついて死んだのだと聞いている。

 まだ乳飲み子だった俺を、ひとり残して。

 

「相当に反発はあったらしいけど、俺は方喰に引き取られた。十三の誕生日に養母(はは)に教えられるまで、俺は養母(はは)と血の繋がりがあると信じてたよ」

「……、」

「まあ結構に衝撃だったけど、……真実を伝えられたとき、言われたんだ。方喰を継ぐも継がないも好きにしろ、方喰を恨むなら恨めってさ。……どうしろってんだよってねえ?」

「……で?」

「しばらく家出してね。背中に入れ墨入れてきた」

 

 ぶふっとイザナが噴き出した。珈琲がもったいねえだろうがってそれを俺のせいにしないでほしい。

 

「道理でオマエ、頑なに服脱がなかったわけだ」

「こういうのはいざというときに見せるのが粋らしいよ。知らんけど」

「何の墨? やっぱ龍?」

「残念、不動明王」

 

 邪悪を許さず、不義を許さず、()()()()()()()()()()()()()。俺が楽な道へ逃げることのないよう、戒めも込めて。

 ずっと背中に負い続けていたそれは、もういない。包帯の巻かれた肩に手を置くと、背中全体がじくりと痛んだ。

 

「入れ墨見せて、俺が方喰継ぐって啖呵切ったよ。誰よりも『方喰』に相応しい男になって、……俺を息子として育てたこと、誰にも文句は言わせないって」

 

 それが唯一、俺にできることだと思った。

 俺は養母(はは)との血の繋がりを疑ったことはなかった。顔は似ていなくても、それだけ大事に育ててくれたから。俺は方喰の皆を家族だと思っていた。いつだって俺を「家族」として厳しくも優しく迎えてくれたから。

 皆が敬愛した親父の子であると同時に、親父を殺した憎い女が産んだ子である俺を。

 

「俺は、方喰に相応しい男でいなくちゃいけない。方喰の誇りを俺が穢すわけにはいかない。だから俺は、方喰一家を消すほうを選んだ」

 

 一家の人間はできるかぎり金をもたせて堅気へ送り出し、抱えていた仕事(シノギ)はひとつひとつ整理して、半端者(クズ)どもが余計な横やりを入れてこないよう手を打ち、上位組織やほかの組にも義理立てして金を惜しみなく使って、最後に教育係をはじめとする根っからの筋者は実家に戻る養母(はは)に付き添わせた。

 そして最後に、ひとりになった俺は方喰の上位組織のトップ―――俺にとっては戸籍上の祖父にあたるそのひとに頭を下げて一家の解散を宣言した。

 まあ普通に俺は死ぬことになると思っていたのだが、これは一応温情をもらったと言えるのだろうか。

 

「一家解散して堅気に戻るなら、最後のけじめは手足や指より相応しいモンがあんだろって」

「……オイ、もしかしてその包帯」

「そう、入れ墨が跡形もなくなるまで背中焼かれた。ミディアムよりのミディアムレア」

「ステーキか。よく生きてンな」

「さすがに生死の境はさまよったよ。知り合いの闇医者のところで昏睡状態だったらしいんだけど、最近起きてね。文無しの面倒はこれ以上見れないって追い出された」

「……実は絶対安静なんじゃねえのかオマエ」

「ははは」

「誤魔化すな」

 

 一文無しに絶対安静なんてできるわけないだろと。

 俺にできる話はここまでだ。けじめを付け損ねていた手の中の指輪に視線をやる。親父がつけていたというこの指輪は養母(はは)から託された親父の形見。ずっとこれをもっていたのは、別に親父を偲んでとかそういう感情では一切なかった。

 ただ、俺が「方喰」である証明のひとつとして。極道を選んだ自分への戒めとして。背中の入れ墨を焼いて俺を堅気に戻した祖父がこれを見逃したのは、おそらく「自分で片を付けろ」という意味だろうと理解している。

 キン、と指で真上に弾いたそれを、再び右手でキャッチする。その流れのまま、ぽいっと暗い色の海へそれを放り捨てた。

 

「……何だ今の」

「親父の形見」

「ほお。捨てンなら売れば良かったんじゃねえの。金ねえんだろ」

「……その手があったね?」

「おせえよ」

 

 いいんだ、と肩を揺らす。イザナも愉快そうに口角を上げた。

 これで俺のもとに残っているのは、真実ぼろぼろの身体とバイクのみ。肩書きも何もないただの「方喰伊織」なんて、自分でも考えたことがなかった。

 さて、これからどうするか。空を仰ごうとすると背中の皮膚がひきつって痛みが走る。何とも言えない顔をする俺を呆れたような顔で見たイザナは、ひらりと身軽にコンクリを下りた。

 

「話は終わりだろ。行くぞ」

「……イザナ?」

「ったく、俺直々に迎えに来させやがって」

 

 どこに、と尋ねる前に紫の瞳が瞬いた。

 天竺、と自身が率いた彼の夢の具現を口にする。

 

「天竺はただの暴走族(チーム)名じゃねえ。俺の『国』だ」

 

 たとえもうバイクを連ねて道を走ることがなくとも。

 たとえ他の暴走族(チーム)とシマを巡って抗争をすることがなくても。

 その「国」は今なお健在なのだと傲岸不遜の「王」は言う。

 

「行き場のないやつに、居場所をくれてやる」

 

 身寄りのないひと。孤独なひと。誰にも理解されないひと。寂しいという、その言葉の意味すら知らないまま生きてきたひと。

 天竺(おれ)は受け入れる、と王は迷いなく言い切った。

 

「……いつだって、行き場のねえやつはいる。どうしようもなくあがいてるやつも、あがき方を間違えるやつだっているだろ。極道(おまえら)にもうできねえなら、天竺(おれら)が受け入れる」

 

 だから、と。

 イザナの言う「だから」には、妙な力があるような気がした。

 

「来い、伊織」

 

 まっすぐに伸ばされた手を、何だか信じられない気持ちで見つめる。訳ありも訳ありな俺に、差し伸べられた褐色の腕。

 

「……俺、一文無しだけど」

「一文無しじゃねえよ、九井の借金返済まだ残ってんだろ。返したいのに連絡が取れないから利息が膨らむ一方だってキレてたぞ」

「は? ココくんの借金返済はもう終わったけど」

「ああ、九井が結婚したときに祝儀袋に借用書入れて送りつけたってな。格好つけすぎだろオマエ、九井も嫁さんも、義弟の犬っころすら納得してねえよ」

「元金の返済は終わってるんだし、利息分くらい祝儀として素直に受け取ればいいのに……」

 

 そこは九井にも意地があンだろって、そういう問題なのだろうか。その辺は九井と適当に喧嘩しろとイザナは言うが、いくら満身創痍の俺でもココくん相手に負けるつもりはないのだが。いや家庭をもっている相手をこんな理由でボコボコにするのは気が引けるけど。

 そんな馬鹿なことを考えながら、一向に退かない手を見つめ続ける。ええと、とついつい他の理由を引っ張り出した。

 

「あと、俺も恨み買ってないわけじゃないから変なのに狙われるかも」

「義理果たして堅気になったんなら、そのオマエを狙うようなやつは義理もわからねえ『半端者』ってこったろ。ンなもんに負けるやつは天竺(うち)にはいねえ」

「わあ心強い……イザナも義理とかわかるようになったんだね」

「オマエが教えたンだろーが」

 

 言い訳並べんのもいい加減にしろと、それでもイザナは退きはしない。それでも自分から俺の手を取ろうとはしなかった。()()()()()()()()()()()()()。これはそういう問題なのだ。

 わかっている。わかっているが、俺を躊躇わせるのは何なのだろう。

 

「……イザナ」

 

 やることをすべてやったら俺はきっと生きてはいないと思っていた。死にたいわけではなかったけど、俺をずっと守り育ててくれたひとたちへの義理は果たさなければならないと思った。恨まれ憎まれて当然の立場なのに「家族」は皆俺に優しかった。だから、このために生きる以外の道はないと自分に言い聞かせてきた。

 ()()()、と今まで押し殺してきた感情がないわけじゃない。

 

「俺は、……」

 

 ほんとうは、きっと。

 ()()()()()()()()()()()()()()、ずっとそうおもっていた。

 

「……参ったな」

 

 もう、ほかの言い訳も思い浮かばない。

 引きずるように体勢を変える。伸ばされた手に自分の手を乗せ、イザナの手を借りてコンクリから下りた。

 衝撃で全身に痛みが走る。ついよろけた俺を、イザナが受け止めた。

 

「……いってぇ……」

「……最初から素直にそう言えってんだバーカ。待ってろ、ムーチョが車でこっち向かってる」

「そう、ムーチョくんが……皆元気?」

「今のオマエより元気じゃねえやつはいねえ」

 

 ひどい言われようだ、とイザナの肩口で笑えば、すぐ傍で花札のようなピアスもからから揺れる。それを眺めながら、もう一度イザナ、と俺より小柄なくせに少しも揺らがない彼の名を呼ぶ。

 何も言っていないのに全部わかってると言わんばかりの「王」は、いつもの自信満々な声で宣った。

 

()()()()

 

 気遣うように首元に添えられた手は、不思議と温かい。

 

()()()()()()()

 

 俺が言ったこととか覚えてたのか、とあまりにも意外すぎてちょっと笑う。俺の笑い声がわずかに湿っていたことには、どうか気付かないでいて欲しい。

 ったく、と呆れを装った上機嫌な声が耳元で響く。

 

「帰ってくんのが遅ェんだよ。飼い猫のくせに野良気取ンな」

「飼い猫になった覚えはないんだよなぁ……」

 

 いや、まず元野良猫(おまえ)が俺を猫扱いするなと言いたいけれど。

 すごい勢いでこちらに近づいてくる車とバイクの排気音を聞きながら、スピード違反って概念をそろそろ覚えて欲しいなあと喉の奥が揺れた。

 




お付き合いありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。