【第一章 完】ドロップアウト・ツインズ (Hannibal)
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第一話

 男が一人、森の中で横たわっていた。脇腹には鮮やかな切り傷があり、血がとめどなく流れている。そして彼は何をするわけでもなく、ただひたすらにそれを眺めていた。

 

 正面から、枯れ葉を踏みしめる音が聞こえる。首を上げ、音のする方に目をやった。

 するとそこには少女が立っていた。

 

 濃い青の長い髪の毛を持つ彼女は中学生だろうか、制服と思わしきよれよれの薄汚い服を着ている。

 肌が露出している首や手には、痛々しくも風化した傷痕が消えることなく残っていた。

 しかし何より目を引くのは頭から生えた細長い二本の角だろう。

 

「……誰?」

 

 睨みつけながら少女が問う。

 

「ここで何してるの?」

 

 少女は手に持ったバッグを男に向かって投げつけた。防ぐ気力すら残っていない男の頭にそれは直撃する。

 

「口もきけないの?」

 

 それから辺りに漂う血の臭いに気がついた彼女は目線を落とした。血が止まらない男の脇腹を認めると、そこに手をかざす。

 

 最初に少女の手がぼんやりと光る。それから血液が一つの生き物のように波打つと、握りこぶしほどの、棘がびっしり生えた塊になった。

 そのおかげで血が流れ出ることはもうなくなった。

 

「あんた、〈転生者〉?」

 

 血を止めるまでの一連の流れを不思議そうな目つきで見ていた男を、少女は怪訝な目で見つめ返す。

 

「たぶん」

 

 男は力なくそう答えた。

 

「死を待ってるだけみたい。惨めだね、楽にしてあげようか?」

 

「もう疲れたんだ……しばらく放っておいてくれないか?」

 

「これ以上喋らなければいいけど」

 

 そう言ってから少女は男の横を通り抜け、小高い丘になっているところに座り込む。それから二人は一切口を開くことはなかった。

 

 

ーーーーー

 

 

 それからかなりの時間が経った。

 太陽は既に消えたが、巨大な月が照らしているおかげで暗くはない。

 

 丘の上に座ってから身動き一つしなかった少女はふと立ち上がると、男の方には目もくれずにもと来た道を戻って行った。

 

 

ーーーーー

 

 

 一人きりになった男はここまでのことを夢想した。

 男がいた場所はなんと言えばいいのだろうか。「普通の場所」以外の表現は難しいと彼は思った。

 

 西暦2022年の地球。日本。空を飛ぶ魔法はなく、二足歩行する巨大兵器も存在しない、そんな世界だ。

 彼はそんな世界で暮らしていた。

 

 彼の目から見る世界は灰色だった。

 代わり映えのしない毎日を過ごしていた彼は、気がつくととあるビルの屋上にいた。道路を行き交う人々が豆粒のように見える。

 

──こういうときはどうするんだっけ。靴を脱いで揃えて、それから裸足になる?

 

 思考は雑然としていたが、そんな些細なことが気になったのはよく覚えている。

 結局、靴を脱いだだけで終わった彼は──恐怖心が、思考が心の奥底から復活するよりも先に──両足を揃えて地面を蹴った。

 

 風を切る感覚が心臓を縮こまらせる。

 みるみるうちに地面が近づく。

 

 目を閉じて、彼は程なくして訪れる死とは何か考えることに集中したのだった。

 

 地面に叩きつけられる衝撃。

 

 男の意識はそこで途切れた。

 

 

ーーーーー

 

 

 次に気が付いた時に男は城の中にいた。どうやってそこへ行ったかは覚えていない。とにかく謎の、中世の王城を思わせる、ドーム状の大部屋に男はいた。

 

 周りには沢山の、おそらくは同じ世界からやってきたと思われる人間たちが立ち尽くしている。

 そしてその外側には中世の騎士を思わせる甲冑を着た偉丈夫たちが斧槍を構え取り囲んでいた。

 

 山に落ちたショックにより今となってはぼんやりとしか覚えていないが、男は確か歓喜したはずだ。

 

 『この状況は知っている。俺は"転生"したんだ。これから良い未来が待っている』と、心の底から希望が湧き出たのは覚えている。

 

 それから王冠とマントを羽織った、いかにもといった王様がやってきた。

 場が完全に静まるのを待ってからその王様は口を開く。

 

「君たちは──魔法の世界へ転生した。実のところ、消えゆく命を我々の魔法でこの世界に肉体ごと引き上げたのだ……これで通じるかな?」

 

 ざわめきが広がる。この状況を理解していない者は、男を含めて誰もいないようだ。

 

「よしよし、どうも最近は話が早くて助かる。ではわしはこれで……」

 

 王が早歩きでその場を去る。

 入れ替わりにやってきたのは、片眼鏡をかけた長身の男性。床に引きずるほどの厚い何層ものローブを着込んでいる。

 

「はじめまして、私はクロムウェル。魔術省の転生委員会会長です」

 

 周囲の反応をしっかりと確認しながら彼は続ける。

 

「我らは、貴方たち異世界の民──〈転生者〉と呼んでいます──君たちと契約を結ぶことで数倍の魔力を得ることが出来ます。君たちはまず自身の持つ魔力の種類を測定し、その後素質に合った魔術師養成学校の生徒が充てがわれます」

 

 異世界、魔法……おのおのが言葉をつぶやく。

 

「分からないことがあれば、私まで。詳しく説明しますが、まあとりあえずは検査してみるのがいいでしょう」

 

 〈転生者〉の中から特に疑問の声は上がらなかった。それどころか、喜びのあまり涙するものまでいた。

 

 

ーーーーー

 

 

 それから取り囲んでいた兵士のうち何人かが出てきて、一人ずつ選んで個室に連れて行く。どうやら順番は適当のようである。

 男の出番は一番初めだった。兵士に呼ばれて、ドアをくぐっていく。

 

 結構な長さの廊下を歩いた後、ドアが何個も並んだところへ出た。一緒に呼ばれた数人の〈転生者〉は、男と同時に並んだドアの中へ入っていった。

 

 中は薄暗く狭かった。目の前には若い女性が座っており、二人の間には水晶玉が載せられたテーブルがある。

 占い師の館の内装だといえば十人中十人は納得してくれるだろう。

 

 この時の男は緊張していた。促されてようやく席に着く。

 

「手をかざして……それから、なんでもいいので強く何かを想ってください。できれば、ここに来る直前に思っていたことを思い出すように」

 

 何を思い浮かべたかは、覚えていない。

 しかし指示どおりにした直後、その占い師のような女が苦虫をかみつぶしたような顔をしたのを鮮明に覚えている。

 

 

ーーーーー

 

 

 それから男は部屋を出て、兵士に案内された。階段を降りてたどりついたのは物置だった。

 

 埃被った木箱やらが並べられており、部屋の隅には蜘蛛の巣が張っている。

 

 客人に対する対応ではないのは明らかだった。

 

 意を決した男は扉に対して聞き耳を立てる。しばらくすると、その必要もないぐらい音量で話し声が聞こえてきた。

 

「だからあれほど言っただろう! 世捨て人は連れてくるんじゃないって! 死ぬ直前に生を渇望したやつだけが良質な魔力を産むって、あれほど……」

 

「ああ、やっちまったことは仕方ない。クロムウェル様に転送してもらおう。どこか世界の果ての果ての僻地にでも……」

 

 それを聞いた男は腰を抜かした。

 しりもちをついて──音を立てしまった。それに気が付いた兵士二人が部屋に入ってくる。

 

「聞いたな……」

 

 そう言うと二人とも剣を引き抜き、〈転生者〉の元へとにじり寄る。死の恐怖を今その身をもって味わっている彼は動くことが出来なかった。

 そうして十分に距離を詰めたところで、片方の兵士が剣を振り上げた。

 

 その時、男の生存本能が働く。身を投げ出すように右側へ身体を捻じると、脳天目掛けて振り下ろされた剣は左の脇腹を裂いた。

 床と触れ合った剣が甲高い音を鳴らす。

 

「うあぁぁぁッ」

 

 それと同時に男が痛みで絶叫する。

 それを聞きつけたようで、一つの足音が急速に近づいてきた。

 

「なにをしているのですか!」

 

「クロムウェル様!」

 

 男の動転した意識では、何か人影が増えたことしか分からなかった。

 

「私が来るまで待てとあれほど……」

 

 そうぼやきながらクロムウェルは人差し指と中指を突き出すと、短く何かを呟いてから〈転生者〉である男にそれを向けた。

 直後、男の座り込んでいる床に魔法陣が現れた。

 

「即興で組んだ移動魔法です。北の森林の上空へ繋ぎました。極北の山々とまではいきませんが──」

 

 それからクロムウェルは兵士二人に向き直って言った。

 

「おそらくは串刺しになって死ぬでしょう」

 

 次の瞬間には、男の認識していた世界が一瞬として青空に切り替わった。

 直後、落下する感覚。加速度的に強まる落下速度を前に、男の意識は一瞬で消えた。

 

 そして次に男の目が覚めると、そこは枯れ葉のベッドの上だった。

 

 そこからは、冒頭の通り。

 やがて刺さった枝の痛みやかゆみも気にならなくなると、沈んでいく意識に身を任せた。

 

 

ーーーーー

 

 

 口の中で湿った感触がする。土を吐き出しながら、男は瞼を開く。

 

 太陽を見るとまだ昼前のようだった。昨日と同じ方向から音が聞こえ、男は目線をそちらにやる。

 制服ではなく、シンプルなシャツとスカートを履いた例の少女がちょうどやってきたところだ。

 

「まだいたんだ」

 

 バスケットの中から何かを取り出すと、それを男に投げつけた。

 腹で受け止め、それから手でゆっくりと持ち上げる。ほとんど灰色の硬いボールのようであった。

 

 少女のほうに目をやると、彼女は同じものを口に加えて咀嚼していた。

 男もそれをまねして口に持ってくる。

 

 堅いその感触に石を想起したが、なんとか噛み千切った。中を見ると、どうやらパンのようであった。

 

「本当に食べてる……」

 

 少女はそう言うと嘲笑うような卑しい笑みを浮かべる。しかしその表情はどこか悲しげで、その嘲笑も自らに向けているように見えた。

 

「……それ食べ終わったらどっかに消えてくれない? ここはわたしの場所なの」

 

 男はそれを無視した。

 

「どっか行けって言ってるでしょ!」

 

 少女がいきなり男の脇腹を蹴り飛ばす。今度は心の底から楽しそうな、口角の吊り上がった凶悪な笑顔を浮かべる。彼女の右手は静かに震えていた。

 

「ほら早く、消えてくれない!」

 

 今度は男の足を踏みつけ始めた。さらに馬乗りになると、顔に二発のパンチを喰らわせる。男は無抵抗だ。

 

 彼は三発目を予想していたが、それが飛んでくることはなかった。不思議に思った彼は血の味がする口を動かす。

 

「どうした? ……俺はもう何もしないぞ」

 

「どうして消えてくれないのよ! わたしの居場所はここなの!」

 

 涙目になりながら、少女は吠えた。

 

「そうか」

 

 男はただ一言だけ返す。

 それから少女は男の上から離れ、昨日のように丘の上に座り込んだ。

 

 前の時のような沈黙が二人の間に割って入った。

 

「……家にいたって良いことは何もないし、心が塞ぎ込むだけなんだ」

 

「そうか」

 

 少女は、今度は興味深そうな目で男を見つめ始めた。

 男は相変わらず空を眺めている。

 

 途切れた会話は木々のざわめきや鳥の鳴き声が補っていたが、それに耐えかねたようにまた少女が口を開いた。

 

「名前は?」

 

異守 六郎(いがみ ろくろう)

 

 短くそう言い切った後、彼は長いため息をついた。

 

「あんたなんか、自暴自棄になってる。このまま眠り続けて死ねたらいいのになー、とか思ってるんでしょ?」 

 

 六郎は心中で『その通りだな』と、一人納得した。

 

「かわいそうなやつだ、かわいそうだなぁ」

 

「そうか」

 

 何かを思いついたように、少女はゆっくりと立ち上がった。それから斜面を駆けて下って行く。

 六郎は厚い灰色の雲に覆われた空を眺めていた。

 

 

ーーーーー

 

 

 体感にして三十分ほどだろうか。手押し車を押しながら少女が戻ってきた。

 

 六郎はちらと目をやったがすぐに興味をなくしてそっぽを向いた。

 そんな彼の後頭部に蹴りが直撃する。

 

 鈍い痛みを感じて頭を押さえる六郎を見て、少女の口元は少し緩んでいるように見えた。

 

「早くこれに乗れ。おまえをここよりもっとひどいところに連れて行ってやる」

 

 言うが早いか、六郎の首根っこを掴むとそのまま引きずりだした。

 

「早く乗れよ、命令してるんだからさ」

 

 彼は極めて緩慢な動作で手押し車に転がり込んだ。

 

 

ーーーーー

 

 

 振動によって上下する視界に街が見えてきた。

 順番に、巨大な五本の塔、煉瓦色の色とりどりの屋根、それらを囲う純白の城壁だ。

 

 下り坂ということもあり、ブレーキを掛けながらゆっくりと下って行く。そうすると上の方からは見えなかったものが見えてきた。

 

 城壁の周りにまるでフジツボのように群生する、腐敗した木々で組まれたみずぼらしい家たちの群れだ。

 

 山を下り切ったころには、もうあの立派な家々のカラフルな屋根は見えなくなっていた。眼前に広がるのは黒ずんだ、低い色彩のあばら家たち。

 

 人の姿こそ見えなかったが、よそ者を寄せ付けない尋常ならざる雰囲気は六郎にも感じ取れた。

 

 そんな彼を気にすることなく、少女は街の大通りを突っ切って行く。早く終わらないかと思考している内に、手押し車が止まった。

 

 少女が取手を握っている手を思いっきり振り上げると、六郎は無様にも地面に投げ出された。

 おそらくここが少女の家なのだろう。

 

「ここが?」

 

 その隙間だらけの、くさりかけの柱に支えられたあばら屋を家とは呼べなかった。

 

 六郎の言葉がまるで聞こえていないかのように、少女は家の中に入って行く。彼は黙ってそれに続いた。

 

 正面に短い廊下とはしご、右側にはドアが二つあった。

 

 粗悪なつくりのせいで、立て板の間の隙間から容易に中を伺うことができる。

 

 右手の部屋の中では、少女と同じような、しかし二回りほど太く短い角を生やした人が酒瓶を右手にいびきを立てながら寝ていた。

 

「よそ見してないでついてこい」

 

 押し殺した声でそう言うと六郎の服を雑に引っ張る。

 

 少女に続いて梯子を上ると、そこは屋根裏部屋だった。

 

 六郎が直立したら頭がつっかえる程の高さのこの部屋にはタンスにベッド、机代わりの木箱が置かれている。

 

「ここが今日からお前の場所だ。わたしの許可なく降りるなよ」

 

 それから彼女はタンスを開けると、またもや六郎に何かを投げつけた。

 

肩にぶつかり落ちたそれを拾い上げる。見覚えがあったそれは石のように固いパンであった。

 

 ベッドに腰かけながら少女がパンにかじりつく六郎を眺める。

 

「懐かしいなぁ、昔子犬を飼ってたんだ」

 

「犬って、四足歩行で毛が生えたかわいい生き物だよな?」

 

「そうそう。アイツに酒瓶で頭をカチ割られて三日目で死んじゃったけど、かわいかったなぁ」

 

 その犬の重さを思い出すかのように、抱えるポーズを取って見せる。

 

「そうか」

 

「……私の名前はパゼラ、覚えておいて」

 

「そうか」

 

 六郎はタンスに背中を預けて、そのまま瞳を閉じた。隙間だらけで屋外と寝るのとあまり変わらない。彼はそう思った。



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第二話

【前回のあらすじ】
 異世界転生を果たしたどこにでもいる普通の男異守 六郎(いがみ ろくろう)は、前世で自殺していたことが原因で処刑されかけてしまう。
 なんとか一命をとりとめた彼は、頭に角の生えた少女に命を助けられ、家に連れ込まれた。


 六郎の目が覚めた時には、時刻は昼頃を回っていた。

 

 少女の姿はなく、壁にかけてあった灰色のボロボロな制服が消えている。おそらく学校とやらに行ったのだろうと六郎は考えた。

 

──ここからどうしたものか。

 

 逃げ出すのは容易だろう。じんじんと痛むところ見返すと、青あざになっていた。ここにいても、彼女の言う子犬のように殺されるだけだろう。

 

 しかし彼にとってはどうでも良かった。どうせ二度も死んだ身なのだ。一度目は現実世界で飛び降りて、二度目はあのクロムウェルに飛ばされて。

 

 それならいっそ、あの少女の玩具になるのも、それ相応の罰でよいのではないか。

 

 そんなことを考えながら、六郎が何の気もなしに屋根裏を見回していると、タンスの上に写真を見つけた。

 ひびの入った額縁の中に老婆と共に写っている少女は、純粋な心からの笑みを浮かべていた。

 

 六郎が無感動にそれを眺めていると、扉の開く音がした。

 

 それからハシゴが軋む音。体重に耐えかねて今にも崩れそうだ。

 六郎にはその音で分かった。登ってきているのは少なくともパゼラ──あの少女ではない。

 

 下に続く穴からひょこりと角が生えてきた。壊れかかったハシゴがもう一度悲鳴を上げると、仏頂面の男が現れた。体は運動不足により肥えていたが、腕っぷしだけは強そうに見える。

 

「なんだ、また犬コロでも拾ってきたと思えば……ヒトじゃねぇか」

 

 どこか呆れたような調子で、無精髭を指で撫でながら大男が言う。

 

「お前、なんでここにいる」

 

 粗暴なその目つきが六郎に刺さる。

 

「……死んだと思ったら目が覚めて、それからあの女の子に連れてこられた」

 

 多少の省略を挟みながらも、六郎は素直に答えた。

 

「そうだろうな。だが俺が聞きたいのはそうじゃねぇ、なんだってこんなゴミ溜めみてぇなところにわざわざ来たんだって話だ」

 

 男の声色に不機嫌な色が混じった。

 返答を間違えれば拳が飛んでくる、そんなプレッシャーを六郎は感じた。

 

「それは──」

 

 彼が言葉に詰まったその数秒後に、大男の背後で声がした。

 

「お、お父さん、なんでここに……」

 

 次第に尻すぼみになるパゼラの声に、『お父さん』と呼ばれた大男が振り返る。

 

「家に知らんやつがいたらぁ、それは気になってしょうがないだろう」

 

 パゼラは息をつまらせ、口を開かなかった。

 

「で、なんでこんなやつを連れてきたんだ?」

 

 彼女は震えながら鞄から一枚の紙を取り出し、それを父に差し出す。

 彼は奪い取るようにしてその紙をパゼラから受け取った。

 

〈〈転生者〉寄宿支援金のお申し込みはお早めに!〉

 

 パゼラの通う学校のチラシだ。異世界からやってきた〈転生者〉と一つ屋根の下で暮し、面倒を見る者は特別に金を得られるというものだ。

 

「ね、いいでしょ? コイツを置いておけば、お金が入るんだから、ね?」

 

 しばらく悩んでから、パゼラの父は口を開いた。

 

「置いといてもいいぞ。ただし、ちょっとでも俺の邪魔をしたら叩き出す」

 

 それから思い出したかのように一つを付け足す。

 

「面倒は全部お前が見ろ。これ以上ガキの面倒なんか見てられねぇ」

 

 そう言い捨てると、彼は梯子を降りて行った。

 姿が見えなくなってからしばらくして、やっと張りつめていた空気が溶けだした。

 

 いま屋根裏部屋にいるのは、六郎とパゼラの二人だけだ。

 

「何見てるんだよ」

 

 震えた声で、パゼラはそう彼に問いかける。

 

「……別に、なんでもないが」

 

 ややあってから六郎はそう答え、顔をそらした。

 

「なんで見てるのかって聞いてるの!」

 

 その直後、六郎は乱暴に髪を掴まれ、パゼラの顔と直面した。

 

 鼻先数センチ。

 

 彼女の濁った緑色の瞳は涙を湛えていた。

 六郎はそれを見て思わず──悲しい気分になり、それが表情に出た。

 

 それがよほど気に食わなかったのだろう、空いた右手が彼の頬にめがけて飛んできた。

 平手打ちだ。

 

 軽快な音が響く。六郎の頬がじんじんと痛んだ。

 パゼラは髪を掴んだまま彼を睨みつけていたが、しばらくすると舌打ちし、自分の机へ向かっていった。

 

 それで二人のコミュニケーションは終わった。

 

 

ーーーーー

 

 

 翌日。

 六郎はパゼラの後ろをゆっくりと追従する。廃墟街を抜けてほとんど舗装されていない道を歩く。

 

 しばらくすると、街道が見えてきた。

 見渡す限りの平原。しっかりと踏み固められた土の道を荷馬車と人々が行きかっていた。

 

 進路を右に変えると、目の前に飛び込んできたのは白銀の壁と、大きな門。

 六郎が台車に乗せられた時に見た、あの大きな街を守護する城壁だ。

 

二人は五分も経たずに門の近くまでたどりついた。

 

 開け放たれた正門を通り抜けると、石造りの家が見えてくる。

 

 色とりどりの花と煉瓦に彩られた街並みは、元居た世界で様々な人々が物語上で空想したファンタジー世界そのものだった。

 

 六郎が感動しなかったと言えば、それは嘘になるだろう。そんな彼の心境をよそに、パゼラは街中を進む。

 

 道行く通行人は、彼女を見るなり眉をひそめて露骨に距離を取った。そして同じような目線を六郎に向ける。

 

 二人はそれを意に介さずに足を動かした。

 

 

ーーーーー

 

 

 そのうち巨大な建物が見えてきた。左右対称なそのずっしりとした佇まいは、間違いなく学校のそれであった。

 

 正門から出てくる生徒はパゼラとほとんど同じ服を着ている。異なる点があるとすれば、彼女たちの制服はパゼラのそれと比べて白く清潔という点だろうか。

 

 いくつかのバリエーションがあるようにも見える。

 

 その生徒たちは、街の人達よりも露骨にパゼラを避けていた。

 

「何見てるんだよ! さっさと散れ!」

 

 彼女は眉間にシワを寄せ、歯を剥き出したかと思うと次の瞬間にはそう周りに向かって怒鳴り散らした。

 反発する磁石のように周りの生徒たちは退いていった。

 

「早く行くぞ」

 

 六郎の腕を掴むと足早に校舎の中へと入っていく。

 

 

ーーーーー

 

 

 長い階段を登り、たどり着いたのは「学長室」と書かれた部屋だった。

 扉をノックし、それから踏み入る。

 

「学長、うちで暮らさせる〈転生者〉を連れてきましたよ」

 

 パゼラが白々しく言う。

 学長と呼ばれたその白い髭を蓄えた老人は、震える手でメガネを取り外すと二人の方に首を上げた。

 

「またお前か……今度は何を」

 

 六郎が視界に入ったところで、思わず言葉が途切れた。青あざによって変色した皮膚を見れば誰だって同じような反応をするだろう。

 

「……そこの君は?」

 

「ああこいつは──」

 

「パゼラ、君に聞いているんじゃない。彼自身に質問しているんだ」

 

 鋭い眼光でパゼラをにらみつける。それから視線を六郎に移す。

 

「異守 六郎、〈転生者〉」

 

 彼は短くそう言い切った。学長は手元の紙をパラパラと捲る。

 

「そうか……王宮で行った召喚儀式のリストには載ってないな」

 

 自分が呼ばれ、そして殺されかけたのはその儀式だろうと六郎は確信した。

 口には出さなかった。

 

「……この時期は儀式の余波でやってくる野良〈転生者〉も多い」

 

 勿体ぶったように、学長は曖昧に言葉を切る。

 それから不意をつくかのように再び口を開く。

 

「今の環境に満足しているか?」

 

 鷲のような鋭い眼光を六郎に投げかけながら聞く。

 

「満足している」

 

 六郎は即座に返した。

 

「ふむ……」

 

 改めて学長は熟考を始めた。パゼラはもう飽きたのか、立ったまま貧乏ゆすりをしている。

 

「いいだろう。異守 六郎が君のもとで暮らし、寄宿支援金を受け取ることを認める」

 

「やったー!」

 

 パゼラがガッツポーズを取る。

 

「ただし」

 

 遮るように学長が割り込む。

 

「……ただし、この書類をすべて書いてから」

 

 分厚いその紙の束を見て、パゼラは舌打ちした。

 

「かなり時間がかかるから……君はそうだな、保健室に行くといい。治療魔法を受けられる」

 

 

ーーーーー

 

 

 学長室を出て、一人になった六郎は周囲を見回した。学長にああは言われたが、彼は保健室に行くつもりは毛頭なかった。

 

 何も考えずに数歩踏み出した直後、彼の足が止まる。兵士に切られた脇腹が痛い。嫌な悪寒がする。

 

 パゼラのささやかな魔法で傷痕を塞いだと言っても、血を固めて流血を防いだだけ。消毒もしなければ止血もしていない状況では、悪化するのは自明であった。

 

 夕暮れに染まった廊下で彼はうずくまる。

 その夕日を浴びた誰かの影が、丸まった六郎の背中にかかる。

 

「もし、そこのお方、大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だ」

 

 相手の顔も見ずに六郎はそう言った。

 

「とてもそうには見えませんわ」

 

 見るとそこには金髪の女子生徒がしゃがみ込み、六郎の顔を覗き込んでいた。

 

 豊満な胸は制服の上からでも分かる。よく見るとパゼラのものとは少しデザインが異なっている。

 

「立てないようでしたら私(わたくし)が保健室までお連れしますわ」

 

 そう言うが早いか、六郎の脇の下に腕を入れる。

 それから肩を組むようにして六郎を立たせた。

 

 甘い香りが漂ってくる。石鹸の甘い匂いだ、パゼラのすえた臭いとは大違いだ、彼はそう思った。

 

「私、ルビアール・ハインドリヒと申します。ルビアと呼んでくださって結構ですわ」

 

 慣れた口調で、まるで短い詩でも歌うかのように彼女は自己紹介をした。

 

 その間にも足を進め、いくつかの階段をゆっくり降り、真っ白なベッドが並んだ部屋に着いた──保健室だ。

 

 そのうちの一つに六郎を寝かせると、自分は枕元の椅子に座った。

 

「私、治療の術に長けていますの。それと、どこが悪いかは一目見ればわかりますわ」

 

 熱い痛みを伴ってぶり返してきた六郎の傷に手をかざす。ルビアがそこに意識を集中させると、クリーム色の淡い光の粒が集まる。

 

「さあ、楽にして」

 

 徐々に自分の身体から悪寒が消えていくのを六郎は感じていた。

 

「何かこう……話題はありませんか? 無言で治療するというのも気まずいものでして」

 

 少し恥ずかしそうにはにかむ彼女はまるで絵画から抜け出してきたようであった。

 ややあってから六郎の方が口を開く。

 

「パゼラって知ってるか?」

 

「え? ええ、まあ、彼女は悪い意味で有名人ですから」

 

 彼女は露骨に眉をひそめた。

 

「私、学年が違うので詳しくはないのですけれど……誰にでも暴力を振るう、粗暴な魔族ですわ」

 

「そうか」

 

 またしばらく会話が途切れる。

 ルビアは相も変わらず治療を続けていた。

 

 今度は窓の外を見ながら、六郎は聞いてみる。

 

「……誰か、俺のことを助けてくれないかな」

 

 意を決したその声は、本人にしか分からないレベルで震えていた。

 

「……? 助けるとは、どういうことですか?」

 

 その表情には困惑が浮かんでいた。

 

「私にできるのは、こうしてあなたの傷を癒すことだけですよ」

 

「……そうだな。ありがとう」

 

「いえいえ、次からは身体の不調を感じたらちゃんと相談することですよ?」

 

 ちょうどそれが言い終わったタイミングで光が消える。先程まで六郎の身体に染み込んでいた痛みはまるで嘘のように消えていた。

 

 服をめくりあげて確認すると、傷も見てわからぬほど綺麗サッパリに消えている。

 

「さて、これで治療は終わりましたわ。ベッドで少し安静にしていくといいですわ」

 

 それだけ言うとルビアはそそくさと立ち去った。存外あっさりとした別れ際であった。

 

 

ーーーーー

 

 

 一人になった六郎は目を閉じ、これからのことについて考えた。

 

 最初に浮かんだのは、ルビアとのやりとりだった。

 

『私にできるのは、こうしてあなたの傷を癒すことだけですよ』

 

 それから、パゼラの顔が浮かび上がる。

 

『かわいそうなやつだ、かわいそうだなぁ』

 

 彼女の持つ暴力性は彼が身を持って知っている。

 

 どうしたらあんな他者に対する思いやりのない振る舞いが行えるのだろうか。しかし彼にはすべてがどうでも良かった。

 

 これからどうしたものか──そもそも行く当てもない野良〈転生者〉である六郎にとって、答えは決まっていたようなものなのだ。

 

 

ーーーーー

 

 

【第5話】

 パゼラが学長室から出てくる。大量の書類の山に疲弊した顔だ。

 それからふと六郎のことを思い出し、彼を探し出す労力を考えた形相が苛立ちのそれに変わる。

 

 素早く左右を見回したところで、曲がり角から現れる目的のそれを目にした。

 

「どこ行ってたんだ」

 

 金のことしか頭にない、ただひたすらに事実の確認と多少のストレスだけが入り混じった声だ。

 そんな彼女に六郎は皮肉気味な笑み浮かべながら右手を振って返した。

 

 

ーーーーー

 

 

「しかし、私に拾われるなんてついてないね」

 

「そうか」

 

 六郎は全くそう思っていなかった。他の人に見つかったとしても、自殺志願者とみなされて放置されるのが関の山だろう。

 

「まあいいか、早く行くよ」

 

 そう語るパゼラの足取りは、来るときよりも軽快になっている。

 

 

ーーーーー

 

 

 正面玄関を出たところで、突然彼女の進路が阻まれた。見るとそこには、三人の女子生徒が並んで歩いていたところだった。

 

 制服の形はパゼラと全く同じだ。

 

 彼女たちはパゼラを見ると下卑た笑みを浮かべる。それはパゼラが見せたものより何倍も悪意が濃縮されていた。

 

「なんか臭いと思ったらまだいたのね。臭いからどっかに消えてくれない?」

 

 真ん中の女が一歩前に出ながらそう言う。パゼラはよろめきながら二歩下がる。

 

 周りの二人はその様子を見ながらクスクスと笑っていた。

 

 短いスカート、着崩した制服、けばけばしいメイクに身を包んだ彼女たちは周囲の目をはばかることもなく二人に敵意を向けている。

 

 パゼラはというと、校門で生徒を追い払った時のように歯を剥き出した怒りの形相をしていたが──その表情は悲痛さに歪んでいた。

 

「あら? その男は?」

 

「超絶テクで落としたんでしょ、下の口は緩くて使い物にならないから!」

 

 すかさず取り巻きの一人が合の手を入れる。 

 

「それもそうね」

 

 三人は耳を塞ぎたくなるような音量で下品な笑い声を発した。

 

 それから六郎の方を見る。無表情で、まるで何もないようにピクリとも動かない──彼の反応は三人組が期待していたものと違っていた。

 

「なんとか言ったら?」

 

 謂れのない悪意のこもった目線で、まじまじと六郎の目を攻撃する。

 またも無反応。

 

「口も利けねぇのかよ」

 

 それでも無反応な彼に舌打ちをすると、今度はパゼラの方を見た。

 

「まあ、実戦テストを楽しみにしておくことね。せいぜい半殺しで済ませてあげるから!」

 

「お前がどう負けるのか見物ね!」

 

 また例の笑い声の合唱を三人で行うと、校舎の中に消えて、姿は見えなくなった。

 

 引っ張られた気がした六郎が目線を右斜後ろに落とすと、パゼラが彼の裾を力強く握っていた。

 

──ああ、あの家に帰れば俺は殴られるのだろう。

 

 六郎は無感動にそうぼんやり考えていた。



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第三話

【前回のあらすじ】
 パゼラによって家に連れ込まれた六郎はパゼラの父親と遭遇し、家に住むことを半ば黙認された。
 その後、パゼラは寄宿支援金を得るために六郎と共に学校に向かう。
 校内を散策していた六郎は転生した時の傷が痛みだし死にかけるが、通りすがった生徒、ルビアールに解放され事なきを得る。
 パゼラと六郎は合流し帰ろうとするが、その途中でパゼラをいじめてくる三人組に遭遇してしまう。


 帰り道の途中で、パゼラはひたすら自分の手を掻きむしっていた。

 傷痕の薄皮が裂けて血がにじむ。

 

 家に戻ってくるなり、彼女は上着を脱いでからベッドに寝転んだ。

 

 しばらくは荒い呼吸で天井を眺めていたが、突如として飛び起きると六郎の髪を掴んで床に引きずり倒し、それからやたらめったらに殴打する。

 

 痛みを感じながらも、六郎は無抵抗だ。

 

 それで気が晴れたのだろうか──呼吸の落ち着いたパゼラは目に浮かんでいた涙を袖でふき取ると、タンスを開ける。

 

 中から緑色の水晶が入ったガラスケースを慎重に取り出すと、木箱の上に置いた。ランプのあかりを付ける。

 

 どこからか取り出した荒い布製の手袋を身に着けて、パゼラは緑の水晶を摘まみ上げてランプに透かした。

 

 その不気味な濁った輝きを眺めながら、パゼラは深呼吸した。

 

「これさえあればあいつらをぶちのめせるんだ」

 

 それから彼女はカレンダーをちらと見る。つられて一緒に見た六郎は、日月火水木金土の一週間があることを確認した。

 

 その月の最後の日には髑髏マークが描かれており、『実戦テスト』の文字が添えられていた。

 

「……一週間後、実戦テストでボコボコにすれば二度と関わってこない、たぶん」

 

「実戦テストっていうのは、なんだ?」

 

 独り言のようなそれに対して六郎が反応する。

 

「学生同士で決闘をしてその結果で成績を決めるの」

 

「決闘って、また物騒だな」

 

「野生動物とか強盗に襲われるのに比べたら全然。降参すればそれで終わるし」

 

「そうか」

 

 そこで会話が途切れた。

 しばらくしてから六郎がまた口を開く。

 

「いつも俺にやってるみたいに、いきなり殴ったりしたらダメなのか?」

 

 表情一つ変えずに彼は聞いた。

 

「だってあいつらは抵抗してくるし……それに」

 

 一旦言葉を切ってからパゼラは続ける。

 

「それに、外で暴れたら悪いのは私になるから」

 

 一瞬だけ悲しそうな顔をした後、パゼラは歯ぎしりをした。

 

「そうか」

 

「これが決まればわたしは実戦テストに勝てるんだ、そうしたらもう誰もわたしに関わらないはず」

 

 言っている内にパゼラの表情は、舌なめずりするように口元が緩んだ。

 それから静まった屋根裏部屋に腹の音が響き渡る。

 

「ああそうだ、そろそろ何か食べなきゃね」

 

 そう言うと彼女はタンスの中からまた石のように固いパンを投げてよこした。今度は投げつけるのではなく、放物線を描くように投げる。

 

 六郎は難なくキャッチした。それからパゼラは机に向き直り、六郎に背を向けるような形になってから口を開いた。

 

「あんたに話しかけてると……気分が楽になってくる」

 

 六郎は見ることが出来なかったが、そう語る彼女は比較的穏やかな顔をしていた。

 

「そうか」

 

「ああそうだ、これ、危ないから勝手に触ったらだめだよ。本なら読んでていいけど」

 

「わかった」

 

 

ーーーーー

 

 

 翌日、早朝。

 ベッドで目覚めたパゼラが目をやると、六郎はすでに目覚めており本を読んでいた。

 

「私は水浴びしてからいくけど、あんたはどうする?」

 

 そう言われて六郎は自分の服のにおいを嗅いでみた。パゼラと同じ臭いがする。

 

「臭いな」

 

「あー時間がないね、先に行くから、私が帰ってくるまで勝手に出ないでよ」

 

「そうか」

 

 それからパゼラは教科書類をあらかじめ詰めていたバッグを掴んで外に飛び出す。学校へ向かう方向とは真逆の方向に曲がり、道なりに進んでいく。

 

 道が無くなり、あとは細々としたけもの道が続くだけだが、パゼラは迷わず進んでいった。

 捻じれた木々を難なくすり抜けた先には川が広がっていた。

 

 彼女は一応人のいないことを確認すると、服を脱ぐ。

 

 その身体には無数の傷痕が刻まれていた。胸の間にはひと際大きな切り傷が見える。

 下腹部は無数の切傷に覆われていた。背中はもはや普通の肌から張り替えたようにも見えるほど傷だらけであった。

 

 それから彼女は、足からゆっくりと川に入って行く。

 

 ゆったりと浸かったあとは、カバンの中からボディソープを取り出して身体を洗っていく。

 

 この山の草木を用いた彼女の自家製だ。

 早朝のたっぷり一時間、ここで身体を清めてから彼女は学校へ行く。

 

 

ーーーーー

 

 

 服を身に着けてから、来た道を戻るようにして通学路へ向かう。昨日までの臭いはほとんど消えていた。

 

 ひたすら地面を見続けながら、彼女は学校を目指し歩き続ける。ぶつかりそうになったとしても、相手の方から勝手に避けてくれるのだ。

 

 パゼラにとって授業はそんなに苦ではなかった。真面目にノートをとる姿を揶揄する者もいるが、その程度気にはならなかった。

 

 ただ、今目の前で行われている授業に限ってはそうではなかった。

 

「基本中の基本、おさらいしますが、我々は異世界の魂を持つ者──〈転生者〉、または〈転魂者〉──と契約を結ぶことでより強力な力を発揮できます」

 

 教壇に立つ妙齢の女性が咳ばらいをし、続ける。

 

「過去は異世界人を前世に持つ者である〈転魂者〉と契約を結んだ時にだけ発生する偶発的な事象でしたが」

 

 黒板にひとりでに文字が浮かぶ。

 

「転移省が異世界大召喚陣を作ったことにより、意図して特殊能力を得ることができるようになりました」

 

 一段落ついたところで、机に突っ伏したパゼラを見る。

 

「聞いていますかパゼラ? 貴方のためにもう一度言っているのですよ」

 

 教室に笑い声が響く。

 当のパゼラは顔を上げ、教師の顔をぼんやりと眺めただけだ。

 

「契約するメリットとは……まず魔力の増大、それから互いの特殊能力の覚醒」

 

 振り返り、自動で文字を描く黒板に書き足す。

 

「未契約の状態でも特殊能力は使えますが、それは日常の生活でも使えるかどうか微妙なもの。契約して初めて戦いの場でも使える程の能力になります」

 

 軽く息継ぎをしてから教師は続ける。

 

「特殊能力は、その人がもっとも得意な魔術体系から派生した能力になります。〈転生者〉の方は、死の直前に願ったことが強く反映された唯一無二のものになります」

 

 教師が片目でちらと見ると、再び机に突っ伏したパゼラの後頭部が見えた。彼女は肩を落としため息をつき、黒板の文字を消した。

 

「貴方がた中等部の方は、ほとんどの人が召喚された〈転生者〉と契約を結んでいると思います。しかし、まだ契約をしてない人も焦らないでください。パートナー選びに、慎重になりすぎるということはありません。それに──間近の実戦テストは他の科目で代用することも可能です」

 

 

ーーーーー

 

 

 昼休みが来ると彼女は足早に席を立つ。今度はどこのトイレがいいだろうか、そう考えながら廊下を小走りする。

 今回選んだのは、同じ棟の五階のトイレだ。

 

 個室に入り鍵を閉めると、カバンの中から例のパンを取り出す。いつもの硬さに辟易しながらも無心にそれを食べ始めた。

 

 しばらくして、トイレのドアが開く音がした。

 それから足音がして、そして止まる。

 他の個室のドアが開く音はしない。

 

──くそ、今日は外れたか。

 

 パゼラは心のなかでそう吐き捨てた。

 

 それから彼女の入っている個室のドアが揺れる。ため息をつきながら見上げると、上の隙間から人の顔が覗いていた。

 

 紫色の前髪によって眼は完全に隠されている。

 

「ここにいたんだねー」

 

 低くねばつく陰鬱な声がパゼラの全身を絡める。

 

「あんたも本当暇だね、わたし以外に話しかける相手はいないの?」

 

「いるにはいるけど…………あなたが寂しそうだから、ひひひ」

 

 パゼラはこの引き笑いが苦手だった。

 もっと言えば彼女そのものが。

 

 彼女の名前はネクラマ・ノワール。パゼラと同じ中等部に所属しており、契約した〈転生者〉はまだいない。

 

「それより、例のアレはできたの? 見てみたいなぁ」

 

「学校が終わったら、わたしの部屋で見せてやるから」

 

 それから彼女はネクラマを無視し、いない者かのように扱ってパンを齧るのを再開した

 

「じゃあさー、もっと学生らしい話しない?」

 

 パゼラの態度をものともせず、彼女はさらに覗き込む。それ以上体重を掛けたら落ちてしまいそうに見える。

 

「うるさいなぁ、もうどっか行ってよ」

 

 パゼラは咀嚼を止めずに睨みつける。

 

「いいじゃん」

 

「そもそも何を話すの?」

 

 よじ登っていたドアから飛び降りて、ネクラマは考え始めた。

 

「うーーーん」

 

 ドアを挟んで姿こそ見えなかったが、パゼラはその様子を白々しく思っていた。

 しばらく考え込んだ後に彼女が答える。

 

「何をするのかな?」

 

 パゼラは口の動きを止めずに片手間で返答する。

 

「わかんないでしょ? 早く消えて」

 

 それを言い終わるのと同じぐらいのタイミングでトイレのドアが閉まる音がした。

 

 再び静寂が訪れ、パゼラは安堵した。それから彼女は残された昼休みの時間を思い出し、パンを急いで飲み込んだ。

 

 

ーーーーー

 

 

 午後の授業は実技であった。だだっ広い運動場に的が立てられている。

 

 パゼラを含む、中等部の二つのクラスがそこにはいた。

 

 教師の説明が終わると、的に沿って並ぶ人の列が五本できた。今回はくみ上げた魔力を素早く的に向けて投射するという課題だ。

 各々が的の前に立つと、両手を突き出して詠唱を始める。

 

 魔術師が魔法を行使するためには、今自分の周りにある元素魔力を完全に理解し、それらを適切な形でくみ上げなければならない。

 

 今のところ命中率は三割と言ったところだろう。彼らが放つ各々の火球やツタといったものはわずかに的を外れる。

 

 そうしてパゼラの番がやってくる。

 目を閉じて腕を突き出す。

 すべてを忘れ去って目の前の物事に集中する。

 

 普段の校庭と変わらない魔力構成だったが、何か違和感を──磯の臭いを感じた。『難題』として教師が張った結界か何かだろう。

 

 そんなことを頭の片隅で考えながら、パゼラは大地の要素を組み立てていく。

 

 彼女の手元には宙に浮かぶ土塊ができていた。

 

 それを的に向けて発射する。ただし海の魔力の影響を考慮し、軌道に修正を加える。

 

 それは見事的に命中した。

 

 中央をぶち抜き、木でできた的が粉々になる。

 

 一瞬場が静まった後、まばらな拍手が起こる。確かな成功感、達成感を得たパゼラは笑みを浮かべていた。

 

 

ーーーーー

 

 

 授業終わりの時間が近づき、皆が器具の片づけを始めた。

 

 ある者は箒を魔法で操り粉々になった的を掃き集めている。ある者は分担して他の機材を運んでいる。

 

 パゼラは遠く離れた位置から何をするでもなくそれを眺めていた。

 

 突如──彼女の後頭部に刺激が走る。

 パゼラはよろけて膝をついた。

 

 頭のあたりを触ると、生暖かい感触が。恐る恐る掌を見てみるとそこには血がこびりついていた。生臭く、生暖かい。

 

 それから後ろを振り返ると、赤黒く変色した石が転がっている。それを挟んで、奥にはいつもの三人組が立っていた。

 

 いつものように笑みを浮かべている。周りに教師がいることを鑑みてか、あの不快な笑い声は上げていない。

 

「ちょっと褒められたからってデカい顔するんじゃないわよ」

 

 それから三人は歩み寄って座り込んだパゼラを立ったまま囲んだ。派手に蹴るのではなく、ゆっくりと彼女の手や足を踏みつける。

 

 パゼラは諦めた心境で痛みを忘れようとしていた。

 

 それからリーダー格の女がしゃがみ込むと髪の毛を引っ張る。石の当たった頭皮が引っ張られじんじんと痛む。

 

「まさか降りたりしないわよね。実戦テスト」

 

 息がかかるほどに顔を近づけながらそう脅迫をする。

 

「死ぬより痛い目に遭わせてあげるから」

 

 パゼラの頭の中にはあの緑色の水晶が浮かんでいた。それを武器にしながら、殺意を込めた目線で答える。

 

 それがリーダーの癇に障ったようだ。パゼラに向かって唾を吐きかけると、三人は去って行った。

 

 彼女たちが見えなくなったところで、パゼラは唾の掛けられたところを地面にこすりつける。

 

 それから彼女は血の垂れる頭を手で押さえながら立ち上がり、とぼとぼと歩き始めた。

 途中、教師が彼女に声をかける。

 

「パゼラさん? その頭は……」

 

「さっき転んで打った」

 

「だ、大丈夫ですか?今なら保健室が空いていますが……」

 

 パゼラはその言葉を背中で受けながら校舎に向かった。

 

 

ーーーーー

 

 

 彼女が血の跡を点々と残しながら保健室にたどり着くと、明かりがともっていた。

 

 多少不思議に思いながらもパゼラが戸を開けると、そこには見知らぬ高等部の生徒が座っていた。

 

 彼女は知る由もなかったが、ルビアールである。

 

「あら、どうかしま……」

 

 パゼラはルビアを知らないが、ルビアはパゼラを知っている。

 

「どうしたんですか」

 

 来訪者向けの態度を取り去って、冷たい態度で彼女に向かい合う。

 

──どうせ他の生徒と喧嘩でもしたのでしょう

 

 彼女は心のなかでそう思い、身構えた。

 

「見ての通り、怪我をしたから来たんだけど」

 

 パゼラもそれには気が付く。

 

「そうですか……その怪我はどうして?」

 

「そんなのどうでもいいでしょ? 早く包帯をちょうだい」

 

「答えられないのですか」

 

 彼女にとっては、この問題児がどうして傷を負ったかが重要なのだ。

 

 もし喧嘩をして──誰かを傷つけての結果なら、その過ちを指摘しなければならない。

 そうでなかった場合のことは特に考えていなかった。

 

 一方でパゼラの方では、問答をしながら苛つきを覚えていた。この女は流れる血を見て何も思わないのだろうか。

 

 まるで頭に心臓があるように、そこが脈打ち痛みが増す。耐えかねたように彼女は切り出した。

 

「見てわからないの? わたしが、怪我をしているじゃない!」

 

「……、そうですね……」

 

 ルビアが引き出しから包帯と消毒液を取り出す。

 

「それで、どうして怪我をしたのですか?」

 

 回想するだけで、パゼラの胸中には悲しい気分がとめどなく溢れてきた。唇がわなわなと震えるだけで、言葉は出てこなかった。

 

 それから彼女はルビアが手に持った包帯と瓶を奪い取る。

 

「あぁ!」

 

 ルビアの悲鳴も、悲痛な心境で満たされたパゼラの心には何も響かなかった。

 

 消毒液の栓を取ると、頭上で逆さまにして中身を頭から浴びる。空になった瓶を机の上に放り投げると、次は包帯をぐるぐると頭に巻き始めた。

 

「どいつもこいつもクズばっかり! 邪魔だから早く消えてくれないかな!」

 

 そう言いながら間近にあった棚に蹴りを加えると、パゼラは振り返ることなく保健室をあとにした。



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第四話

【前回のあらすじ】
 自身をいじめてくる三人組に遭遇し気分の悪くなったパゼラは家で六郎に暴行を加えていた。
 翌日、彼女は学校に登校し、同級生のネクラマに放課後に会う約束を取り付ける。
 その後はまた三人組に絡まれ、さらにルビアにも邪険に扱われながらもなんとか学校が終わる。


 学校が終わると、パゼラは昼休みの時よりも急いで飛び出す。

 例の三人組に会わないためだ。

 

 授業中に絡まれた分、確率は低くなると彼女は踏んでいたが──そんなものは加害者の気分次第ではどうとでもなる。

 

 ずきずきと痛む頭を包帯の上から押さえながら校門から飛び出したところで、声が掛けられる。

 聞き覚えのあるねっとりした声だ。

 

「パゼラちゃーん、待ったよ」

 

 眼が隠れるほど長い前髪の下にある大きな口がにやりと開く。

 

 パゼラは探す手間が省けたことに対する安堵と、行動を読まれていたことへの苛立ちからため息をついた。

 

「さあさあ案内して? おうちはどこなの?」

 

 

ーーーーー

 

 

 微妙な距離を保ちながら二人は道を歩いた。

 

 パゼラは短気な暴力者として嫌われているが、ネクラマはそれ以上に何を考えているか分からない存在として気味悪がられている。

 

 そんな二人が並んで歩いていれば、普通の人ならこの世の終わりを予感し蜘蛛の子を散らしたかのように去るだろう。

 

 二人ともそんなことには気にせず、街道のど真ん中を突き進んだ。

 街の外に出て、わき道に入り、そのうち例の廃墟街に近づいてきた。

 

「はぁー、こんなところに住んでるのね」

 

 にやにや笑いを崩さずに、ネクラマがつぶやく。

 

「そういうあんたはどこに住んでんの?」

 

「素敵なツリーハウス」

 

「あんたが住んでる森だなんてロクなところじゃないね」

 

「そうだねー」

 

 ネクラマはにやにや笑いをさらに強める。

 

 

ーーーーー

 

 

 それからいつものあばら屋にたどり着いた。一階からのいびきが外にまで響いている。

 

 ふとパゼラがネクラマを見ると、前髪の隙間から彼女の瞳が見えた気がした。

 細長いそれは、獲物をにらみつける狡猾な蛇のように見える。

 

「へぇー、これがパゼラちゃんの家かぁー」

 

「そうだけど、そんなに面白い?」

 

 気味の悪さを感じながら、パゼラはネクラマを睨みつけた。しかし、すでに前髪の向こうに隠れてしまったその眼には届かなかった。

 

「うんうん、とっても興味深いねー」

 

 その言葉を無視し、顔をしかめながらパゼラはドアを開け素早く屋根裏部屋に滑り込む。

 

 六郎は家を出た時と変わらない姿勢で本を読みふけっているように見えた。彼はパゼラをちらと見たが、すぐに本に目線を戻す。

 

 それから遅れてネクラマがやってくる。

 

「おじゃましまーす」

 

 やはり前髪に隠されて眼こそ見えないが、彼女は六郎を凝視しているように見えた。

 

 その視線に何か陰湿なものを感じた六郎は、本でそれを遮った。

 

「この人は?」

 

「〈転生者〉の六郎。家に置いてると金がもらえるんだ」

 

「ふーん」

 

 片手間で聞きながら、ネクラマは六郎とパゼラを交互に見ていた。

 

「そいつを見てたって何にも面白くないよ。何言っても『そうか』としか言わないし、言われなきゃなんにもしないから」

 

 そう言いながらパゼラはタンスを開け、例の緑色の水晶が入ったケーズを取り出した。

 

「おぉ……」

 

 一目見たネクラマが感嘆を漏らす。

 

「想像以上だね、どうやって作ったの?」

 

「簡単だよ……山に堆積する死、小さな魂のかけらをコツコツと溜めたんだ、この水晶の中に」

 

 間髪おかずにパゼラが続ける。

 

「学校のあいつらは大地を恵みとか言っているけど──それだけじゃない。恵みの裏にはたくさんの死が溜まっているんだ。わたしはそれを拾い上げただけ」

 

「ひひひ、パゼラちゃんは頭がいいね。黒魔術の才能あるよ」

 

「やめてよね、これは普通の術で、黒魔術なんかじゃないから」

 

「でもこれだけじゃ足りないね」

 

 急に声色を落としながらネクラマが続ける。

 

「足りない……?」

 

「指向性だよ。濃厚な魔力は詰まってるけど、今これを開放しても床に垂れるだけ。目標に向かっていくような仕組みを与えなきゃいけない」

 

 カバンの中から棒切れを三本取り出すと、それを組み立てて一本の長い棒にした。先端の部分には何かを入れるくぼみが空いている。

 

「それは……魔法杖」

 

 あっけにとられながらパゼラは見ていた。

 魔法杖には使用する魔力を増大させる効力があるが、高価なもので彼女には手の届かないものであった。

 

 パゼラは人のいない時間帯を見計らっては街中の杖専門店のショウケースに張り付き、一週間に一回はそれを眺めているのだ。

 

 魔法杖は一本の、肥沃な魔力を吸い育った大木から切り出す必要がある。

 しかもそれが三つに等分されているとなると、並大抵の技術で作れるものではない。相当に高価な代物には違いなかった。

 

「実際にやってみる?」

 

 

ーーーーー

 

 

 三人は外に出てしばらく歩いてから、森と平原の境目まで来ると足を止めた。

 

「ちょうどいいから、あの木で試してみようか」

 

 パゼラから受け取った緑の水晶を、同じく手袋をして取り出した。それを例の杖のくぼみに嵌める。

 

「仕上げはこれ」

 

 ネクラマは懐から取り出した瓶を、そのはめ込まれた水晶の上で開けた。

 瓶からあふれ出た灰色で透明な何かがその水晶に吸い込まれた。

 

「それは?」

 

「妖精の死骸。生きるものに嫉妬して飛んでいくんだ。これで一発分」

 

 ネクラマはパゼラに杖を手渡した。

 

「軽く振ればそれだけで出るはずだよ、多分」

 

 言われた通り、彼女は杖を振った。そこから出た緑色の瘴気はふよふよと空気中を進んでいく。

 

 それが触れた大木は瞬く間に生気を失い、萎びていった。ネクラマがそれに駆け寄る。

 

 大木は少女の片手に収まるほどの大きさにまでなっていた。

 

「ひひひ、成功だね……次はあれで試してみら?」

 

 ネクラマが指さした先にはリスのような生き物の親子がいた。しかしそれは六郎が知るものの三倍の大きさはあった。手には齧った跡のある頭蓋骨を持っている。

 

 その生物に向かって、躊躇うことなくパゼラが杖を振るった。それはやんわりと追尾しながら、親の方に命中した。

 

 その瞬間、すさまじい臭気が辺りを襲う。

 

 本当に強烈なにおいとは目に染みるものだ。六郎が閉じていた目を開くと、そこには腐り果てた肉と白骨だけを残した親リスがいた。

 

 一瞬にして変わり果てた姿になったその姿を見て、子が絶叫する。

 

 その光景を目にして、六郎は思わず眉をひそめる。

 

「ふひひひ、ひひひひひ」

 

 ネクラマは口のあたりに手を当て、もはや発作かと思えるほどの引き笑いをしていた。

 

 やがて我に返ったかのように、リスのような生き物は森の中へと消えていった。

 

 パゼラは、何もなかったかのように杖を眺めている。

 

「出力も……問題なさそう。でもこのレベルでぶち当てたら、あんなふうに骨だけになるんじゃない?」

 

「ひひひ、大丈夫でしょ。中等部なら防護壁ぐらい展開できて当然だし……腕か足の一本が腐り落ちるだけじゃない?」

 

「それもそうか、いいかもね、たまにはやられる側になる体験ってことで」

 

 パゼラは無意識のうちに自分の首を撫でていた。手に感覚が伝わってくる──決して消えることのない傷痕の、乾ききったそれだ。

 

「それから──その杖はあげる」

 

 思いもよらぬ提案にパゼラは動揺する。

 

「えっ……その……」

 

 次の言葉を出すのに、彼女はえらく戸惑った。

 

「いいの? わたしが、貰っても」

 

「いいよー。あげる」

 

 それを眺めていた六郎は何か不思議な感覚を味わっていた。贈物というには、ネクラマの態度はあっけらかんとしている。

 

「ありがとう」

 

 パゼラの口からやっと出たそれはぎこちなさの塊である。彼女自身はこれでいいのかどうか分からない様子であった。

 

 それに対してネクラマはいつものにやけ笑いを絶やさずにいた。

 

 

ーーーーー

 

 

 それから、日が暮れ始めたところでネクラマが切り出した。

 

「私はそろそろ帰るけど……明日、六郎君を借りてもいい?」

 

「え? 別にいいけど……」

 

 次にネクラマは六郎の方を見る。

 

「あなたは?」

 

「別に、ついていくだけだが」

 

 彼はあっけらかんと答えた。パゼラも別段興味を示した様子はない。

 

「じゃあこれ」

 

 そう言って六郎に紙を手渡すと、ネクラマは街の方へ足早に消えていった。

 

「また明日ー」

 

「……寝る前に身体を洗おうか」

 

 そう言うとパゼラは六郎の袖を引っ張り、例の水浴びする場所へと向かった。

 

 

ーーーーー

 

 

 六郎の湯浴みはつつがなく終わった。

 

 パゼラがあらかじめ置いておいた着替え──どこからか手に入れた古ぼけたパーカー──に袖を通すと、座り込み川を眺めているパゼラの、少し離れた隣に腰を下ろした。

 

「これはどこで?」

 

「バザーで売ってた。なんでも野垂れ死んだ〈転生者〉から剥ぎ取ったから激安でね」

 

 はたと思い、六郎は自分の着ているそれの匂いを嗅いだ。幸いにもほんの少しかび臭いだけで、死臭の類はしなかった。

 

「別に死体が着てたやつってわけじゃないからね」

 

 それからしばらく会話が途切れる。

 

 パゼラは水面をひたすらに眺めている。無心に川を見つめる彼女の顔は、普段の自分を卑下した表情よりは幾分かマシに見えると六郎は思った。

 

「ところでさ」

 

 パゼラが唐突に切り出す。

 

「なんで六郎は生きてるの?」

 

 予想外の質問に、六郎は青ざめた。それからややあって、彼はようやく口を開いた。

 

「……どうしてそんなこと聞くんだ」

 

 後半につれて低くなるその語調は、質問というよりは相手のことを責めているようにも聞こえる。

 

「特に意味はないけど……一回でいいから、誰かに聞いてみたいってずっと思ってたから」

 

 特に悪気もなしに、パゼラがそう返す。

 それから六郎は自分の心に問いかけた。

 

「もしかしたら……明日──いやいつか──今より良くなるんじゃないかって、そう思ってるから生きてるんだと思う」

 

 彼は正直に答える。

 

「へー、そうなんだ」

 

 笑いを含みながら返すパゼラは、無意識のうちに自分の首元にある傷痕を触っていた。ある種の同情、そしてある種の侮蔑が籠っていた。

 

「でもどうしてそう思うの? 今日も昨日と変わらないし、明日も今日と変わらないかもしれないじゃん」

 

「それは……」

 

 突き付けられて、六郎は息をのんだ。それから、何か返そうと頭を回転させた。

 

「俺は……死ぬ前は、転生する前は一人だった。ほんとうに孤独だった。でも──」

 

 何か言葉を繋げなければならない。彼は必死に頭を回転させる。

 

『どうして六郎は生きているの?』

 

 何か、何か。六郎は彼女を納得させるような言葉が欲しかった。

 

──生きていれば、きっといいことがあるさ。

 

 そんなことは口が裂けても言えなかった。彼自身がそんなことは絶対にないと、一番よく知っていた。

 

 彼の答えを待つパゼラの目線に耐えかねて、何も考えずに口を開いた。

 

「今は、一人じゃないから。もしかしたら何かが変わるかもしれないって、心の奥底でそう思ってるんだろう」

 

 六郎のその言葉は嘘ではなかった。それは自分自身が心のどこかで願っていることだと、口にした瞬間に気が付いた。

 

「ふーん、そっか……」

 

 遠い目で月を眺めながら、パゼラがそう返した。



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第五話

【前回のあらすじ】
 パゼラは同級生のネクラマと共に、実戦テストで使用する秘密兵器の試運転をしていた。
 実験は大成功、触れただけで四肢が萎びる魔法杖が完成した。
 そしてネクラマは去り際、六郎と食事をする約束を取り付ける。


 翌日。

 

 六郎は渡されたメモを頼りに街中を散策していた。隣にパゼラがいなければ、彼は何の変哲もない〈転生者〉だ。

 着ている服が多少──いやかなりボロボロであることを除けば。

 

 指示に従い、学校の前を通り過ぎ、その先にある大通りを横切って進んでいく。

 色とりどりの花の代わりに、今度は意匠を凝らした様々な看板が見えてきた。ここは住宅街ではなく、商業地区だ。

 

 そうして六郎は指示された店の前までやってきた。重厚な取っ手に手をかけ、それから意を決してドアを開く。

 

 白を基調とした店内に、これまた白い机とテーブルが並んでいた。

 見回すと、ネクラマが手招きをしていた。店内を突っ切り六郎は向かいに着席する。

 

「ひひひ、よく来たね」

 

 彼は無反応だ。

 それからネクラマがメニューを手渡す。

 

「好きなのを頼んでいいよ、私が支払うから」

 

 メニューを開いて六郎は目を見開いた。この世界の文字と共に、見慣れた彼の世界の文字でルビが振ってあったのだ。

 

 そしてメニューの名前も『ハンバーガー』『うどん』『唐揚げ』など、どれも見覚えのあるものばかりだ。

 

「ふひひ、驚いた?」

 

 六郎は思わず顔をあげてネクラマの顔を凝視する。どうして彼女がこんなところに招いたのか、表情からそれを探ろうとしたのだ。

 

 しかしそこには普段通りの目の隠れたニヤケ面が浮かんでいるだけだった。

 

「ここは〈転生者〉向けのメニューが出る店なの。六郎くんが今一番食べたいものを注文して?」

 

「そうか」

 

 それから彼はメニューを眺めながらしばらく考えた。

 

「よし決まった」

 

 ネクラマがウェイターを呼ぶ。

 

「ご注文は」

 

 白い店内に似合った、白と黒を基調とした制服だ。六郎の元いた世界のものとほとんど変わりはない。

 

「ハンバーガー、それからこの麦茶モドキ」

 

「私はコーヒーで、砂糖もたくさんね」

 

 注文を復唱した後、ウェイターは厨房に消えていった。それをはっきりと確認してからネクラマは六郎に向き直った。

 

「ところでさ……君はどうしてパゼラちゃんと一緒にいるの?」

 

「どうしてって別に、拾われただけだ」

 

 子犬との思い出を語るパゼラの姿が脳内に浮かんできた。

 

「捨て犬みたいにな」

 

「ひひひ、それ自分で言っちゃう?」

 

「あいつはそう思ってる」

 

「ふーん……」

 

 ネクラマは興味深そうに頷く。

 そこまで話したところで料理が来た。

 

「おまたせしましたー」

 

 この店内にふさわしくない野太い声に六郎は疑問を覚えて目を向けた。そこには想像通りのガタイの良い男が立っていた。

 

 健康的に焼けた筋肉質な腕、頭にはハチマキが巻かれている。どちらかと言えば──居酒屋か、定食屋で見かける顔といった風体だ。

 もちろんこの高級感溢れる店の雰囲気からは浮いている。

 

「あんた、この辺じゃ見かけない顔だな」

 

 興味深そうに六郎の顔を覗き込む。

 

 距離が、近い。

 すこし顔を反らしながら六郎は話した。

 

「最近ここに来た〈転生者〉だ」

 

「おおそうかそうか、よく来たな!」

 

 彼を訝しんでいた顔は白い歯を剥き出した明るい笑顔に切り替わる。

 それから大男は右手を差し出してきた。六郎はそれに応え右手を出す。力を込めていない手は勢いよく振られた。

 

「ってことはこのお嬢ちゃんが契約者か?」

 

「違うよ? この人はまだ契約してない野良〈転生者〉」

 

「なるほどなァ、早めにいいパートナーを見つけた方がいいぜ」

 

「それはどうして?」

 

 ネクラマのその言葉を聞いて、待ってましたと言わんばかりの笑顔を見せた。

 

「俺たち〈転生者〉は契約を結ぶと特殊な力が使えるようになるんだ。死ぬ直前に願ったことが強く関係するらしい」

 

 それから咳払いを挟んで喉を整える。

 

「俺は地震で棚の下敷きになった時にこう思ったんだ! 料理でもっとたくさんの人を笑顔にさせたかったって! ……そんな俺が契約したら、どんな能力を貰えたと思う?」

 

「………………料理が、上手くなったとか」

 

 考え抜いた末に六郎が自信なさげにつぶやく。

 

「よく分かったなぁ! その通り!」

 

 ひときわ大きな声と身振りで男が動き出す。その様子はさながらミュージカルだ。

 

「腕一本で料理を振る舞っていくうちにかわいい嫁も見つけて……俺は今幸せだぁ〜!」

 

 それから沈黙が数秒間流れた後、拍手が巻き起こる。

 

 周りの客は皆この光景に慣れているようだ。

 

「そうか」

 

「そうとも!」

 

 店主が自慢げに胸を張る。

 

「それで、お前はどうなんだ?」

 

 声色を変えながら、店主が六郎に問いを投げかけた。

 

「どうって……何が?」

 

 きょとんとする六郎に対して、店主は真剣な眼差しで問いかける。

 

「あるんだろう? ここに転生したからには、やりたいことが」

 

「いや……俺は」

 

──何もない。

 

 自分は何を思って自殺などをしたのだろうか。六郎は心の中で自問自答をし始めた。そうしてから、彼は気が付いた。

 

──やりたいことなど何もない。ただ逃げたかっただけなのに、気がついたらここにいたんだ。

 

 周囲の喧騒が六郎の意識から遠のく。男の、暑苦しいとも言える視線は依然として六郎を捉えていた。彼は気圧されながらも何か言葉をひねり出そうとするが、唇が震えるだけで何もできなかった。

 

──逃げたいと思ったのに、なのになんで俺はここにいるんだ?

 

 脳内に吐露できない言葉が溜まっていく。まるで毒だ。だんだんと、頭から血の気が引いていく。

 それから突然、無限に続くと思える時間は終わりを告げた。

 

「まあ、秘密にしたいこともあるよな!」

 

 店主はそう言うと笑みとともに白い歯を見せて厨房のドアに消えていった。店内は再び元の状態に戻る。

 

「冷めないうちに食べよ?」

 

 それからネクラマはカップを取る。六郎はハンバーガーを両手で持った。 

 温かいバンズに瑞々しい葉野菜が挟まっている。それを恐る恐る口に運ぶ。

 

「美味い」

 

 六郎の口からその言葉が思わずこぼれる。

 

「本当に思ってるの?」

 

 ネクラマの声は、いつもの不快な笑い声を含んだそれではない。冷徹なそれは尋問に近い。

 

「……ああ、思っているぞ」

 

 うすら寒いものを感じながら、六郎はそう答えた。

 

「そう? なんかあんまり美味しそうには見えなかったから」

 

 六郎は確認するように自分の顔を撫でていた。それをよそに、ネクラマは角砂糖を十個以上溶かしたコーヒーを啜る。

 

「ひひひ、あまーい!」

 

 

ーーーーー

 

 

「それで、パゼラちゃんのことはどう思ってるの?」

 

 食事が終わり、六郎が麦茶モドキを啜っている中ネクラマが切り出す。

 

「別に、かわいそうな奴だとは思うが」

 

「……あなたもそう思うんだ?」

 

 それからいつもの引き笑い。今度はかなり強い。本人は口のあたりに手を置いて必死に抑えている。

 

「……どうして俺を呼びつけたんだ?」

 

「え? こうしてお話したかった、からだけど」

 

 散々笑った後、目に浮かんだ涙を拭きとりながらネクラマはそう答えた。

 六郎は彼女の眼を覗こうとしたが、しかし相変わらず分厚い前髪に遮られている。一方的に『観察』されているその感覚に、六郎は不快感を覚えた。

 

「六郎くんは、まあ及第点かな?」

 

 店員に勘定を頼みながらネクラマが言う。

 

「パゼラちゃんと仲良くね?」

 

 

ーーーーー

 

 

 それから二人は食事を終えて、店の外に出る。代金はすべてネクラマが支払った。

 日は完全に暮れて、暖色の光に照らされた街並みが青黒い空気の中にぼうっと浮かび上がっている。

 

「どうだった?」

 

「ああ……とても良かった。ありがとう」

 

「ひひひ、どういたしましてー」

 

 二人は正門の方に向かって歩き出した。

 

「それからついでなんだけどさー」

 

 その途中でネクラマが切り出す。

 

「パゼラちゃんって君の他に誰と暮らしてるの?」

 

「父親がいるな。パゼラと同じく角も生えていた」

 

「他には?」

 

 食い気味にネクラマが質問を重ねる。

 

「いないな」

 

 それから彼女は口元を抑えながら考えるそぶりを見せた。そしてしばらくしてからまた口を開く。

 

「そ、ありがとう。じゃあ私はここで」

 

 学校前でネクラマが立ち止まった。

 

「森の方に住んでるから、私」

 

「そうか」

 

「さあ、早く帰らないとパゼラちゃんが嫉妬しちゃうよ」

 

「そうか」

 

 口ではそう言ったが、六郎はそう思っていなかった。

 

「じゃあねー」

 

 手をふるネクラマに、六郎は右手を一度だけ挙げて返した。

 

 

ーーーーー

 

 

 六郎はパゼラの家に帰らなかった。

 

 ネクラマと別れ、しばらく歩き続けていた。

 

 彼女の家に向かう分かれ道を曲がらずに通り過ぎたあたりで、彼は走り出した。日はあっという間に暮れ、十メートル先も見えない暗闇になった。

 

 それでも六郎は歩き続けた。

 彼女の元に帰りたくなくなったわけではない。ただ逃げたかった。

 

 走り続けて、疲れ果てて、六郎は倒れこんだ。

 

 自分はこの世界で何をしたかったのだろうか。そう考えながらゆっくりと瞼を閉じる。

 

 

ーーーーー

 

 

 そこに馬の蹄の音が聞こえてくる。魔力で稼働する青白いランプに照らされた車体は金の装飾が施されており、その高い地位を誇示している。

 

 その馬車はよほど急いでいるのだろうか、夜道にもかかわらず馬を飛ばしている。

 

「うおおおおおッ」

 

 運転席に座る従者が道に横たわる六郎に気が付き、寸前で馬を急いで止めた。

 

 前足を振り上げながら馬が大きく嘶く。

 それから馬車の下開きのドアが開き、同時に階段に変化する。

 

「……まったく、どんな馬鹿者かと思えばあなたですか」

 

 馬車から降りてきたのは、クロムウェル。数日前、〈転生〉してきた六郎を空中に放り投げた張本人だ。

 音に気が付き、目が覚めた六郎はあくびをした。

 

「まさかまた生きて会うだなんて、思いもしませんでしたよ」

 

 その様子に、クロムウェルは呆れながらため息をついた。

 

「ああ、あんたは……」

 

 クロムウェルの姿をはっきり確認すると、六郎は起こしたと思った状態を地面に投げうって大の字になった。

 

「今度こそ殺すんだろ? さあさあ殺してくれよ。最後の晩餐はもう済ませたんだ」

 

 クロムウェルはさらに深いため息をつく。

 

「別に殺そうだなんて思っていませんよ」

 

 彼は不快そうな表情を浮かべる。

 

「貴方の存在がバレると面倒だったからです。魔法使いなどというぽっと出のよそ者が国家予算を使う一大計画で、貴方のような失敗例が召喚されたとなれば、たちまちそのあり方を糾弾されて私たちは絞首台送りですから」

 

 悪びれるでもなく、彼は言ってのけた。

 そんな彼の言葉を、六郎はまるで聞いていないように見える。

 

「私の転移魔法で生き残ったのなら、それもまた縁。どうぞ好きなように生きてください」

 

「待ってくれ」

 

 六郎が、馬車に戻ろうとしたクロムウェルのローブの裾を掴む。

 

「俺はこれから……どうすればいいんだ?」

 

 その様子を見たクロムウェルがまたもため息をつく。今度のそれは、憐憫を含んでいた。

 

「やっぱり、貴方はそういう人間ですよね」

 

 ほとほとあきれ果てた様子で、クロムウェルが肩をすくめる。

 

「とりあえずは、『貴方を必要としてくれている人』についていくのが良いのでは? 助けてもらった恩を返すのもまた良いでしょう」

 

 それからクロムウェルは馬車に備え付けられた青白いランタンを取り外した。

 

「これ、差し上げますから早く帰ってください。その様子から見るに、誰かに拾われて命拾いしたのでしょう?」

 

 

ーーーーー

 

 

「必要としてくれる人……か」

 

 クロムウェルと別れ、夜道を歩きながら、六郎がつぶやく。

 パゼラの顔が、彼女の振るう暴力が、彼女が吐き出す罵詈雑言が思い起こされた。

 

 

ーーーーー

 

 

 それから、六郎は特に何事もなく家にたどり着いた。街灯のない外壁の外は街道よりも暗かった。

 

 ゆっくりと家のドアを開ける。いつものように響き渡るいびきを尻目に屋根裏部屋へ向かう。

 

 見るとそこには木箱に向かって作業をしているパゼラの背中があった。手元はランプで照らされている。

 

「戻ったんだ……遅かったね」

 

 振り向かずに彼女が言った。

 

「……そうだな」

 

 六郎はそう答えながら床に座りこむ。少し機嫌が悪そうに見える、彼はそう思った。

 

「どこに行ったの?」

 

「〈転生者〉向けの料理を出す店だった」

 

「そうなんだ」

 

 それから少しの間をおいてパゼラがしゃべる。

 

「別に興味ないけど」

 

 二人は口を閉ざした。

 ガリガリと、何かを削る音だけがあばら屋の中で響く。パゼラはブーツの底を刃物で削っていた。

 

 一段落したところで息を吹きかけて粉を飛ばす。

 それから振り向いて六郎に声をかけた。

 

「見てこれ、今度の実戦テストで使う武器」

 

 魔法陣と、その周りに文字が書かれている。それは六郎でもはっきりと分かった。

 

「……あんたのおかげで買えたんだよね、このブーツ」

 

「そうか」

 

 〈転生者〉を家に住まわす報奨金のことだろう。このために自分は生かされているのだ、と六郎は改めて思った。

 それからゆっくり息を吸い込んで、六郎が口を開いた。

 

「他になにかやることはあるか?」

 

「別に何もないけど……どうしたの? 急に」

 

 不思議そうにパゼラが聞く。

 

「一宿一飯の恩を返そうかと思ってな」

 

「いや別に、そんなこと考えなくていいけど。あんたが勝手に思ってるだけでしょ、それ」

 

「じゃあ何をすればいいんだ? 俺は……」

 

 途中で六郎の言葉が途切れる。

 

 パゼラはしばらく考えたが、しかしすぐには答えが浮かばなかった。

 

「……知らない、もう喋らないで」

 

 パゼラは明かりを消し、硬いベッドにもぐりこんだ。



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第六話

【前回のあらすじ】
 六郎はネクラマに誘われて〈転生者〉向けの食事が出るレストランへ行った。そこで店主に「転生したからには何かやりたいことがあるはずだ」と言われた六郎は、自分がただ現実逃避したかったことを思い出す。
 それから六郎は家には帰らず、まっすぐ走り続けた。倒れ込んであとは死を待つだけとなったところで、偶然通りがかったクロムウェルに諭され、パゼラのもとに帰ることにした。
 帰宅後、六郎は「自分にできることは何かないか」とパゼラに聞いたが何も返事をもらえなかった。


 翌日。

 今日は日曜日、六郎の元居た世界と同じく休日である。

 

 まだ完全に日が登りきっていないうちから目の覚めたパゼラはカレンダーに印をつけた。

 

 『実戦テスト』の日まであと四日──そう考えると、彼女の心は不安もしくは期待、興奮のどれとも受け取れる高揚感に包まれる。

 

 それから床で寝ている六郎に目を向けた。硬い床をものともせずスヤスヤと眠っている。

 よくもまあそんなところで寝れるものだと半ば感心しながら、パゼラはカバンに荷物を詰め始めた。

 

 例の魔法杖やブーツを入れると、カバンはいっぱいになった。それから彼女は床で静かな寝息を立てている六郎を足でつつく。

 

「起きて、ほら起きて」

 

 次第に足に込める力は強くなった。

 

「ふあっ、ああ……」

 

 殆ど蹴るような強さになったところで、ようやく六郎の目が覚める。

 

「出かけるよ。今日は日曜日だから……"ここ"にいると下の階のアイツが面倒くさいんだ」

 

「そうか」

 

 そう言ってゆっくりと立ち上がるそのまま滑るように一階へ降り、外へ飛び出した。

 

 

ーーーーーー

 

 

 学校に向かう道の途中で、六郎は昨日の疑問を思い出していた。

 

「タンスの上にあった写真で……一緒に写ってた人は誰だ?」

 

「ああ、あれ? この近くに住んでたグエンおばあちゃんって言うんだけど」

 

 彼女の感情は変化を見せず、平坦なままだ。

 

「誰にでも優しく接して、あの外壁町のみんなに慕われてたんだ。わたしにも、色んなものをくれたり、話を聞いてくれたりした」

 

 そう語るパゼラの顔はいつにもまして穏やかだ。

 この表情を見るのは子犬の時以来だろうか。六郎はそう思った。

 

「でもさ、わたしのことを『本当は優しい子』なんて言うんだよ?」

 

 パゼラは半ば吹き出しながらそう続ける。

 

「そうか」

 

「それっておかしいと思わない?」

 

 六郎はそれに答えない。それから二人は無言で歩き続けた。

 

 

 

ーーーーー

 

 

 学校にたどり着くと、パゼラは六郎に向き直って言った。

 

「じゃあわたしは工房棟に行ってるから、その辺どっかぶらついててよ。これ持ってれば警備に捕まったりしないから」

 

 ポケットから取り出した薄いカードを投げ渡す。見るとそこには、六郎の世界の言葉で『寄宿〈転生者〉証明証』と書かれていた。

 

「そうか」

 

 それから六郎は、行くあてもなく本棟に向かった。

 

 

ーーーーー

 

 

 一方でパゼラは、本棟には入らずに運動場の方へ足を向けた。

 

 運動場では主に実戦テストの練習が行われている。的に向けて、火や雷や水、それから土などの様々な魔法がぶつけられていた。

 それを横目にパゼラは早歩きで通り過ぎる。

 

 たどり着いた先は工房棟であった。ここには様々な器具が置かれており、主に美術や魔道具の授業で使用される。

 

 パゼラが工房棟のドアを勢いよく開ける。薄暗い室内には誰もいなかった。

 孤独は彼女の好むものだ。

 

 室内のひんやりとした空気をたっぷりと肺に吸い込んでから、電気をつける。

 

 机の上にブーツを放り投げると、手近な椅子を床におろした。それから後ろの方に向かい、たくさん並んだ皮袋の中から緑の粉が詰まった一つを選んだ。

 

 工房棟には生徒が自由に使える素材が置かれている。

 パゼラは机に戻り、あらかじめ彫っておいた溝にその緑の粉を擦りつける。

 

 息を吹きつけ余計な粉を払うと、ブーツを持ち入ってきたドアの反対にあるドアを開く。

 

 そこには狭い庭が広がっていた。

 出来上がった魔道具などを試すための空間である。壊れた的の残骸、途中で放り出した試作品などが隅に山を作っていた。

 

 パゼラは右の革靴を脱ぎ、ブーツに履き替える。それから彼女は深呼吸してから、右足を地面にたたきつけた。

 

 右足と地面の重なったところから、緑色の閃光が溢れ出る。

 

 それから、足を叩きつけたところから三十センチほど離れた先に、小さな土の山ができていた。その高さは十センチと言ったところか。

 

 パゼラはそれをしゃがみ込んでじっくり観察する。

 

「うーん」

 

 彼女の見立てでは、彼女の背丈と同じぐらいの立派な壁が出現するはずであった。

 

 大きさは失敗した。次は強度を確認する。

 

 触ってみたが、岩と相違なかった。強度は問題ない。それから思案を始めた。

 

「休日も学校に来て練習とは、感心しますね」

 

 思考を中断されたパゼラが驚き振り向く。

 彼女がいつも周囲に振りまく刺々しい憎悪はそこにはなかった。

 

「ロベルト……先生」

 

 パゼラが思い出したかのように付け加える。

 そこに立っていたのは大柄な男性だ。いわゆる糸目で長身、髪は薄緑でかなり長い。

 

「なるほどなるほど、エンチャントですか。咄嗟の防御壁に使おうというわけですね。私の授業を真面目に聞いてくれている生徒がいるとは感激です」

 

 その巨躯に見合わないしなやかな動きで、パゼラに近づいた。

 そのまま素早く彼女の足元にしゃがみ込み、ブーツをまじまじと観察し始めた。

 

「ふむ……刻まれている術式は悪くありませんね。むしろ問題は触媒の方でしょう。粉は何から?」

 

 パゼラは黙って工房の机の上に置かれている袋を指さした。

 

「なるほど、しかし出来合いの触媒はいけませんね。そこの白い粉を混ぜればある程度の延性を期待できるでしょう」

 

 そう言うが早いか、ロベルトは立ち上がって工房棟の中に入って行った。袋の中に手を突っ込み、緑の粉をすり鉢の中に放り込む。次に白い粉の袋から、同じように粉を取り出しすり鉢に入れる。傍に置かれた計量カップには目もくれなかった。

 

 一旦手を洗ってから、それら粉を混ぜながらすりつぶす。素早く行われるその一連の流れを、パゼラは立ったまま眺めているだけだった。

 

 それからロベルトが彼女の元にやってくる。

 

「さあこれを使ってみてください」

 

 同じように粉を擦りこませる。

 少し離れて、もう一度地面を蹴る。

 

 緑の閃光。

 

 それからパゼラの視界が灰色に覆われる。目の前には彼女の背丈をまるまる飛び越える『壁』が出現していた。

 

「おお……」

 

 思わず声が漏れる。それからパゼラはロベルトの方を見た。

 何かを言いたそうに口を動かすのを、ロベルトは読み取った。

 

「ええ、今加えたのは光魔法の基本触媒です。あそこに置いてある本は参考になるかもしれません」

 

 それからわざとらしく自分の顎のあたりに手を載せてから彼は続けた。

 

「そうですね…………貴方ならあと三日、全力で費やせばモノになるかと思いますよ」

 

「あ、ありがとう……ございます」

 

「それでは、私はこれで」

 

 爽やかな笑みを浮かべると、ロベルトは振り返りドアに向かった。

 

 

ーーーーー

 

 

「盗み聞きですか」

 

 工房棟を抜け、校庭に面したところでロベルトが口を開く。その表情は微動だにしていない。

 

 それからややあって物陰から人影が現れる。制服を着た濃いピンクのロングヘア。

 いつもパゼラをいじめているグループの中の一人、リリアナだ。

 

「中等部のリリアナさんですね?」

 

 彼女は一瞬バツが悪そうな顔をしたが、すぐさまいつもの反抗的な顔に切り替わった。

 

「あんな奴に構うなんて、お気に入りってわけですか?」

 

「教師として当然ですよ。すべての生徒に平等に接するのが私のポリシーなので」

 

 リリアナは何か言おうとしたが、それよりも先にロベルトが口を開く。

 

「それから貴方、死相が見えますよ」

 

 閉じたままのロベルトの片目がほんの少し、開いたように見えた。

 

「な、何……脅しのつもりですか?」

 

 突拍子もない発言に、リリアナが思わず後ずさる。

 

「いやいや、手慰みに占いを習っていましてね。……そうですね、地雷原で遊ぶのもほどほどにしたほうが良いですよ」

 

 何か負け惜しみかいちゃもんでもつけようと思ったが、しかしリリアナはそれをしまい込み、踵を返して去っていた。

 

「……まあ、目に見えないから地雷と言うのですが」

 

 彼女の姿が見えなくなってから、ロベルトはそう呟いた。



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第七話

【前回のあらすじ】
 日曜日。パゼラは実戦テストで使うための道具を作るために、そして機嫌の悪い父親から逃げるために六郎と共に学校へ向かった。
 ロベルト先生の協力もあり、パゼラの道具制作はだいぶ進展した。
 しかしその様子を、パゼラをいじめている三人組のうちの一人であるリリアナがこっそり監視していた。
 ロベルト先生はリリアナに対して「死相が見えている」と占いを交えたアドバイスを送る。


 リリアナは空き教室にやってきた。例のあの三人組のリーダー格──トリルが机に脚を乗せていた。だらしなく胸元のボタンを開けている。

 リリアナは後ろ手でドアをゆっくりと閉める。

 

「どうだった?」

 

「やっぱり練習してたよ」

 

「どうせ無駄なのによくやるよね」

 

 軽薄な笑みを浮かべながら、トリルは机に置いてある菓子を口に放り込んだ。リリアナはそれを見て作り笑いを浮かべる。

 

「あとは対戦表の改ざんだけだけど……」

 

 勢いよく扉が開かれる。

 トリルは危うく椅子から落ちるところであった。

 

「なんだクレインか。どうだった?」

 

 トリルが空いた扉の方に目をやりながら言う。

 三人組の最後の一人──眼鏡をかけた銀髪ショートの少女だ。

 

「トリルの名前出したら一発だったよ」

 

「でしょ? 私のパパはすごいんだから」

 

 トリルは上機嫌に椅子の足を浮かせている。

 

「じゃあ例のアレ、よろしくね」

 

「はいはい、薬学だっけ? あとで上げとくよ」

 

「あー楽しみだね、パゼラ──あのクソ女を大衆の面前でボコボコにするのは」

 

 それから何かを思いついたように、ピタリと動きを止める。表情がふと真顔に戻る。

 

「それでも、付呪道具でこそこそ用意してるなんて生意気じゃない?」

 

 トリルは手繰るように、考えを掘り起こすように言葉を繋げた。

 

「それをさ……ぶっ壊したらさ……、もっと面白くない?」

 

「いやそれは」

 

 リリアナの口から思わず言葉が漏れた。刺すような二人の視線が突き刺さる。

 何もなかったかのようにリリアナは押し黙っていたが、やがて観念して彼女は改めて口を開いた。

 

「やめた方がいいんじゃない……ロベルト先生にも『遊びはほどほどにしろ』って……」

 

「はぁ? あんたはこれが遊びって言いたいわけ?」

 

 椅子からスッと立ち上がり、リリアナに一歩近づきながらトリルが詰め寄る。

 

「実戦テストの内容が将来のアピールに繋がるってことぐらいあんたにも分かるでしょ?」

 

「そ、それはそうだけど、そこまでやる必要ないでしょ……普通に勝てるんでしょ?」

 

「あんな出来損ないのドブ女に私が負けてるって言いたいわけ!?」

 

 声を荒げながら、トリルが机を叩きつける。リリアナが思わず一歩下がる。

 トリルはその距離をつめ、額がくっつくほど顔を至近距離まで近づけた。リリアナの視界は怒りで震える目に覆われ、彼女は思わず目をそらした。

 

「まあまあ、圧倒的に勝つところを見せて特待をねらうんでしょ? やるなら確実にね」

 

 クレインが口を挟む。

 その軽薄そうな言い方は二人に対して釘をさしているようだ。

 

「……そうそう、"やるなら確実に"、ね」

 

 またもや扉が勢いよく放たれ、サングラスをかけた男が入ってきた。そのまま男はトリルの肩を無遠慮に抱き寄せる。彼女はまんざらでもなさそうだ。

 

 彼の名前は氷魚山(ひおやま)。〈転生者〉であり、トリルと契約を交わしている。

 

「あーん、声ぐらい掛けてよ」

 

 先程までと打って変わったトリルの猫撫で声に、リリアナは顔をしかめた。

 

「別にいいだろ?」

 

 氷魚山はそう言うとトリルの胸をもんだ。甘い喘ぎ声が部屋の中に染み渡る。

 

「ああそうだ、クレインも今度抱いてもらったら? 転生前に仕込んだテクがすごいんだから」

 

「そう? それはすごい楽しみね」

 

 クレインは笑いを保ったままだ。

 

「ああ、俺も楽しみだ」

 

 それから氷魚山は視線をリリアナに移し、その身体をじっくりと眺めた。サングラスでも隠しきれないほどの欲望が見え隠れしている。

 

「俺としてはリリアナの方が気になってるんだがなぁ……まだ処女臭い感じがそそるんだ」

 

 リリアナは今度は顔に出すまいと、表情筋に意識を集中させた。

 

「ちょっとー、気にしてるんだからやめてあげなよ」

 

 トリルが口を挟む。その軽い言い草は明らかにリリアナのことを下に見ていた。

 

「そうなのか? 今日の夜にでも俺が……大人の階段を上がらせてやるよ」

 

「そろそろお暇しようかなぁー、二人の時間を邪魔しちゃ悪いし」

 

 いつの間にかドアの方に移動していたクレインが割って入る。リリアナに向かって一瞬だけ手を招くと、そそくさと教室を後にした。

 

 

ーーーーー

 

 

 いなくなった二人に見向きもせず、トリルと氷魚山はお互いを見つめ合っていた。その絡み合う視線は軽薄で、そしてどことなく淫らである。

 

「それで、実戦テストで俺たちが戦う相手は?」

 

「ああ、パゼラって女。別に覚える必要ないよ? どうせ学校辞めちゃうから」

 

 自然と口角が緩む。

 

「ちょ、おま、何考えてるんだよ?」

 

 トリルのその様子を見て、半ば吹き出しながら氷魚山は応えた。

 

「ほんっとうに邪魔で目障りだから消えてもらおうかと思って。あいつの持ってる武器を全部壊しちゃうの」

 

「お前本当に言ってんのかぁ? 人の心がないぜ」

 

 その軽率な口調は、トリルそのやり口に感心を示している。

 

「そう? これも優しさってやつよ」

 

 

ーーーーー

 

 

 二人の甲高い笑い声を背中で聞きながら、リリアナとクレインは廊下を歩いていた。

 

「本当、嫌になっちゃう」

 

 ため息とともにリリアナがその言葉を吐き出す。

 

「よくあんなのと付き合えるよね」

 

「それって私のこと? それともトリル?」

 

「両方」

 

 クレインの口元が不意に緩んだ。あまりのおかしさに口が勝手に動いたのだ。

 

「昔からそんな気はあったでしょ。誰とでも股を開いてたし。偶然相性のいい奴に会っちゃったってことで」

 

 クレインが続ける。

 

「私はこうなること考えてたしね。それでもメリットの方が大きいからトリルの手下してただけ」

 

 それから一呼吸置いて、クレインがリリアナの横顔を見る。

 

「まさか何も考えないでついて行ってたの?」

 

「まあ、幼馴染だし……」

 

 リリアナは心もとなくそう返すと、顔を反らし、窓の外に目をやった。

 

「あ、あの!」

 

 二人の進行方向に、小さな影が立ちふさがった。かなり小柄で、制服の意匠も異なっている。初等部の生徒である。

 

「部室……返してください!」

 

 リリアナのクレインは二人で顔を見合わせたあと、改めてその初等部の生徒に向き直った。

 

「あれだけやられたのにまだ懲りないの?」

 

 先に口を開いたのはクレインだ。手のひらで頭を押しのける。

 

「だって、あの部室はわたしたちの……」

 

「文句があるなら実力で奪ったら?」

 

 今度はリリアナが割って入る。

 少女は歯を食いしばり、両足に力を込めた。その直後、クレインが右手のひらを少女に向ける。そこから炎がほとばしり、彼女のスカートに火をつけた。

 

「え、きゃあ!」

 

 火のついたところを手で必死に払う。そうして顔を下げた少女の肩に、クレインの足が飛んでくる。

 蹴るのではなく、力を加えて押し飛ばすだけの形だ。

 少女の華奢な体がたやすく倒される。

 

 振り下ろされた足はそのままスカートの火のついた部分を踏みつぶし、火をもみ消した。

 スカートにはほんの少しの焦げ目がついただけであった。

 

「雑魚。そんなんでよく大口叩けたね。家に帰ってママのおっぱいでも吸ってれば?」

 

 初等部の少女は涙を浮かべた顔でクレインを睨みつけると、袖で顔を拭いながら階段を駆け下りていった。

 

「……あそこまでする必要あった?」

 

 まだ少し焦げ臭い廊下でリリアナがつぶやく。

 

「あのままだったらあの二人のイチャイチャ空間に突撃してたよ。氷魚山絡みで機嫌悪くしたトリルの相手とか二度とごめんだからね」

 

「まあ、それはそうだけど」

 

「しっかしスカートが燃えなくてよかったー、さすがに初等部に手を出したらトリルでも隠しきれないからね」

 

 半笑いを浮かべながらクレインが歩き出す。リリアナは、ロベルトの言葉を頭の中で反復していた。

 

「死相が見えてる……か」

 

 

ーーーーー

 

 

 リリアナとクレインは売店を目指して歩き続け、二人は本棟にたどり着いた。階段を降りたところで二人は不意に足を止める。

 視界に飛び込んできたのは、とても背の高い男──六郎だ。

 

 彼女たちの認識では、パゼラと一緒にいた男。彼は初めて会った時、三人に対して無関心を貫いていた。ここはひとつ、自分の立場をわからせなければならない。

 

「どうする? シメておく?」

 

「そうだね」

 

 そんなごく短いやりとりを一瞬で終えると、早歩きで六郎の方へ向かった。

 しかし第一歩を踏み出した瞬間、二人の動きはピタリと停止した。

 

「あら、あなたは……」

 

 六郎に声をかける人物がいる。ルビアだ。

 

「こんなところで会うとは奇遇ですわね、何をしていらしたの?」

 

「連れを待っていたんだ。図書室に籠っていようかと思ったんだが、俺の読める文字の本はなかった」

 

「あらあら……」

 

 周囲に人はたくさん集まり、いつの間にか人だかりができていた。

 

「ルビアさんだ」「あの男は誰?」

 

 そんな状況も意に介さず、ルビアは口を開いた。

 

「そうだ、昨日街中であなたを見かけましたよ」

 

 今までのたおやかな声とはうって変わり、毅然としたものになる。

 

「ネクラマ・ノワールと一緒にいましたね、何かあったのですか?」

 

「別に、食事に誘われただけだ」

 

 うーんと少し唸ってから、ルビアは再び口を開いた。

 

「彼女の周りでは常に黒い噂が絶えません。黒魔術の研究を寮で行っていて、中にははぐれ〈転生者〉を人体実験に使っているとかいないとか……」

 

 六郎が口を挟む間もなく彼女は続ける。

 

「親はあの『片腕の魔女』ですよ? とにかく……危険です」

 

「『片腕の魔女』って?」

 

「ほとんどの主要都市で指名手配されている方ですよ」

 

 後ろから声がかかる。六郎が振り向いた先にいたのは緑髪糸目の男性、ロベルトだ。

 

「やれやれ、人だかりができていると思えば真昼間の、それも廊下のど真ん中で陰口ですか」

 

「い、いえ、私は彼がネクラマと一緒にいるところを見かけて、心配で……」

 

 ルビアが赤面しながら顔を伏せる。

 ロベルトの方はと言うと、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。

 

「実際にその人を理解する前から偏見を持ってはいけませんよ。貴方の癖の一つでもあります」

 

 それから彼は六郎の方を向き直った。

 

「それで、貴方は……」

 

「異守 六郎、〈転生者〉だ」

 

「ふむふむなるほど」

 

 ロベルトはそう言いながら六郎から視線を外し、人だかりをさらりと一瞥する。

 その直後、人込みから離れる二つの人影があった。

 

 

ーーーーー

 

 

「目が合った」

 

 クレインの手を引きながら人込みから離れるリリアナがそう言う。

 

「だからって逃げ出すのは悪手じゃない?」

 

「そうかも、だけどどうしろっての?」

 

 階段を駆け上り、別の階の廊下に出たところでクレインが手を振りほどいた。

 

「思慮浅いあんたの負けってこと」

 

 クレインが薄ら笑いを浮かべ、リリアナは舌打ちをした。

 

 

ーーーーー

 

 

 視点を戻し、廊下で会話する六郎とロベルトの場面──

 

「……そういうことですか。貴方は渦中にいるようだ」

 

 心なしかロベルトの顔は、普段よりも少し口元が緩んでいるように見える。

 

「そうですね、占いの観点から、一つアドバイスをするなら……」

 

 六郎の顔をじろじろと眺めながらロベルトは続ける。

 

「これ以上落ちるかどうかは貴方次第、ですね」

 

 その言葉を聞いて、六郎はあからさまに顔をしかめた。

 これ以上、どこに落ちるというのか。

 彼は心のなかでそう思った。

 

「……覚えておく」

 

 それから六郎はとぼとぼと歩き始めた。

 

「どこに行きますの?」

 

「連れの様子を見てくる」

 

 姿が見えなくなったところでルビアが声を出す。

 

「あっ……また名前を聞くのを忘れてしまいましたわ」

 

 それから少しの間が訪れる。

 周りにあった人込みはいつの間にかなくなっていた。

 

「しかし──」

 

 去った人々を探すようにロベルトは周囲を見回す。

 

「どうにも私は生徒から避けられている気がします。元暗殺者はやはり世間体があまりよろしくないのでしょうか?」

 

「さあ……? でも、人の顔をみて勝手に占うのはあまりよろしくないのでは?」

 

 

ーーーーー

 

 

 六郎は道行く生徒に道を聞き、工房棟にたどり着いた。

 かすかに物音が聞こえている。

 

 彼が工房棟の中に入っていくと、そこにはせわしなく作業するパゼラの背中があった。

 すでに日は暮れかかっているが、明かりもつけずに作業を続けている。人の気配に感づいた彼女が素早く振り返る。

 

「なんだ、六郎か」

 

 安堵のため息交じりにそう呟く。パゼラの顔や髪の毛、それに服は緑色の粉や土でとても汚れていた。

 

 机の上には大量のメモ書きが置かれている。

 比率を逐一メモして手当たり次第に試し、失敗したものには二重線を引いていたのだ。

 

 六郎はそれをまじまじと見つめてから、訝しむパゼラの目と合った。

 

「……ジロジロみて、どうしたの?」

 

「いや、殴られるかと思ったんだが」

 

 予想外の言葉にパゼラは一旦静止し、少し考えて、それから微笑を浮かべた。

 

「ああ、そういうことね」

 

 大量のメモ書きを見て、実験にうまくいっていないパゼラが苛立っているのではないかと六郎は考えたのだ。

 しかしそうではなかった。それを指摘された彼女も不思議な気分だった。

 

「……わたしみたいなクズでも、案外いいところあるのかもね」

 

「え?」

 

「だからさ、その、こうやって勉強に打ち込めるってのは……長所じゃない?」

 

 彼女は自信なさげにそう呟いた。

 

「そうだな」

 

 二人がそんなやり取りをしている内、チャイムが鳴った。

 

「もう少しだけ作業してるけど、先に帰ってもいいよ。この時間なら……もう、帰っても大丈夫だろうから」

 

 

ーーーーー

 

 

 六郎は一足先に帰ることにした。学校とパゼラの家の行き来も、もう慣れたものだった。

 

 大通りを左に曲がると、みすぼらしい木製の家々が見えてくる。都市を囲う壁の外側にへばりつくように存在しているこの集落は、「壁外町」と呼ばれ、主に肉体労働者や汚れ仕事を生業とする者が住み着いている。

 

 隙間だらけの家屋からよそ者を監視する視線を受けながら、六郎はパゼラの家に前までやってきた。

 そんな軒先には、一人の男が立っていた。

 

「なんだおめぇか……。まあいい、ちょっと付き合え」

 

 パゼラの予想は外れていた。

 

 

ーーーーー

 

 

「まあそうビビるなって。今日は誰かと飲みたい気分なんだ」

 

 六郎が一階のリビングに足を踏み入れたのは初めてだった。

 

 流しには使ってから数日は立っているであろう食器が放置され、部屋のいたるところに空の酒瓶が積み上げられている。

 

 そして恐る恐る椅子に腰掛けた彼に投げかけられた言葉は、意外なものだった。

 

「大変だろ? アイツの側にいるのは」

 

「まあ……」

 

 同意するわけではないが、しかし核心を突いた言葉に思わず苦笑が漏れる。

 

「なんせ癇癪持ちだからな、俺も黙らせるのに手を焼いたもんだぜ」

 

 そんな六郎の表情には目もくれず、一人でそう言って笑うと酒瓶を呷った。

 

「それからもう一つ聞きたいんだがよ、ガッコーってのはどういう所なんだ?」

 

 酒臭い息を撒き散らしながら、六郎の顔を覗きながら言う。

 彼は言葉に詰まった。どこから話したらこの男に通じるものだろうか。

 

「……世の中で役に立つことを大人たちが教える場所」

 

「いまいちピンとこねぇな、俺がガキの頃は数が数えられりゃ働かされてたもんだ」

 

 そう言って酒瓶を呷る。

 

「全くよぉ、昔の俺は冒険者として大成功してたんだ。そりゃあ毎日宴会を開いたって使いきれねぇぐらいの金を稼いでた」

 

 向かいで全く酒には手を付けない六郎には目もくれず、さらにまくしたてる。

 

「それが今じゃ毎日ゴミみてぇな給料で働きながらこんな安酒を毎晩飲むだけの生活!」

 

 突如込みあがった怒りを鎮めるため、男は空の酒瓶を無造作に放り投げた。それは壁にぶつかり、鋭い音を立ててバラバラになった。

 

「『片腕の魔女』の呪いのせいで俺は武器を持てなくなっちまった!」

 

 唐突に椅子から立ち上がると、六郎に歩み寄り拳を振るった。

 パゼラと動きは似ているが、しかしそれとは比べ物にならないほどの強い衝撃が六郎の脳をゆする。椅子から転げ落ちる六郎をよそに、顔を真っ赤にしたパゼラの父は両腕を広げて叫ぶ。

 

「だが俺には商才がある! 長かったがもう少しだ。わざわざパゼラを十三年間育てた甲斐があった! あと数年もすればあいつをガンガン働かせて今よりいい生活にありつけるんだ!」

 

 それから酒瓶を一本まるまる飲み干すと、まるで気絶したかのように眠りこけてしまった。

 

 六郎は起き上がると、倒れたままのパゼラの父を横目に屋根裏部屋に向かった。

 しばらくするとパゼラが帰ってきた。

 

六郎は彼女に何か言おうと思ったが、しかし何を言っても殴られる予感がしたので、黙ったままだった。



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第八話

【前回のあらすじ】
 パゼラと共に学校に来た六郎は何をするでもなくぶらついていた。そのさなか、パゼラをいじめている三人組のうちの二人──リリアナとクレインに絡まれそうになるが、その直前に偶然通りかかったルビアのおかげで事なきを得る。

 ロベルト先生と合流し少し話した六郎は、パゼラの元に向かう。彼女は六郎に向かって満足げに「わたしみたいなクズでも、案外いいところあるのかもね」と語った。
 それから一足先に帰った六郎はパゼラの父親に遭遇。酒に付き合うように言われ、それで酔ったパゼラ父に暴行された。

⚠️今回はかなりキツめの虐め描写があります!苦手な人は飛ばしてください!⚠️


 それから二日が経ち、実戦テスト前日。

 

 パゼラはいつもの履き潰した靴ではなく、例のブーツを履き家から飛び出した。硬いブーツを少しでも慣らしておくためだ。

 

 実技テストまでの数日間は授業が休みになる。

 前日ということもあり、道行く中等部の生徒たちは皆一様に緊張や不安を顔に浮かべていた。

 

 息の詰まるような、張りつめた空気が彼らを支配している。

 

 それを感じながら、パゼラは息を切らしながら工房棟へ向かう。

 

 この二日間で、彼女はロベルトから課された課題──粉の比率の答えをほぼ掴んでいた。

 そんな彼女の行く手を遮るように、数人の生徒が横に並ぶ。

 

 パゼラは舌打ちをしながらそれを避けようとするが、それに合わせ人が動く。まさかと──不審に思った彼女が顔をあげると、目が合った。

 

 それと同時にパゼラはひどい寒気を覚えた。

 

「そんなに慌ててどこにいくの?」

 

 トリル、リリアナ、クレインと──パゼラには見覚えのない生徒が四人。

 

 普段よりも殺気の混ざったそのぎらついたトリルの視線は、彼女を委縮させるのに十分だった。

 これから、いつもよりも数倍ひどいことが起こるのだろうと考え、彼女の頭は真っ白になる。

 

 横並びだった彼女たちはいつの間にかパゼラの周りを取り囲んでいた。

 

「最近がんばってるみたいだからさぁー、あたしらがヤキを入れてやろうかと思って」

 

 そう言ってトリルはパゼラの肩に手をまわしてきた。そのジョークに周りの人間は笑い声をあげる。

 彼女は何もできず、ただ顔を引きつらせるだけだ。

 

「そんな顔するなって、ちょっと顔貸してくれよ」

 

 工房棟よりもさらに遠くにある旧校舎。普段は滅多に人が立ち入らず、草も生え放題だ。

 

 これから何が起こるかはわかっている。

 諦観に満ちた表情で唇を噛みしめながら、パゼラは思考を停止し始めた。

 

 ふいに、周囲を囲っていた人影が消える。突然背中に強い力が掛かり、パゼラの身体は地面に突き飛ばされた。

 

 肘をつき、立ち上がりながら自分の背中を蹴り飛ばした見ず知らずの生徒を見る。反抗的なその目つきを、彼女らはただ笑って眺めていた。

 

 それから再びパゼラを囲むと、蹴りを浴びせ始めた。

 パゼラはひたすら無心になるように努める。

 

 カバンを抱え込み、身体を丸め、耐えればこの時間が終わるのだと、自分に言い聞かせた。

 突如、トリルが口を開く。

 

「それよこせよ」

 

 何のことか頭が理解するより先に、手の甲にブーツのつま先が飛んできた。激痛の余り手を引っ込め仰向けになる。

 パゼラの手から離れたカバンを他の生徒たちがすかさず拾い上げた。中身を乱雑にひっくり返すと、魔法杖、クリスタルと替えの靴が出てきた。

 

 クレイルが杖を拾い上げる。

 

「へぇー、結構いいの持ってるじゃん」

 

 多少は感心した様子でそう呟くと、テキパキと三つ折りの杖を組み立てた。

 組みあがったそれを地面に突き刺すと、けだるげな調子で周りに声をかける。

 

「耐久力テストー」

 

 意図を理解した一人が、格闘術の構えを取った。

 全員がそれに注意を向けている内に、パゼラは殆ど無意識にここから逃げ出そうと地面を這いずった。

 

 彼女の角が乱雑に掴まれ、それから顔が地面に叩きつけられる。

 

「まだ終わってないんだよ」

 

 トリルが目線を無理やり杖の方へ向けさせる。

 先ほど構えを取った生徒が、ほとんど奇声に近い掛け声とともに右足を跳ね上げさせる。

 回し蹴りは杖に命中し、パキンという軽い音がして──それは真っ二つに折れた。

 

「えー、案外脆いね。安物なんじゃないの?」

 

 しばしの静寂の後、笑い声が巻き起こる。その様子をパゼラは何も考えず、ひたすら眺めていた。

 ただ心の奥で引っかかる僅かな罪悪感を彼女は感じていた。

 

 それから呆然としている彼女の顔に向かって──砂が掛けられる。

 

 目に入ったそれを取り除こうとするうち、その無防備な顔面に向かって膝蹴りが放たれた。

 体中に電気が走ったような痛覚を感じた後、不意に力が抜けうつ伏せに倒れこむ。

 

 鼻からこぼれた血が地面に点々と模様を作っている。パゼラは痛みと血の匂いでかき回された意識をどうにか保っていた。

 

 彼女がもがいてる隣から、焦げ臭いにおいが漂ってくる。

 

「魔法杖って実はよく燃えるんだよね」

 

 彼女は見ることが出来なかったが──目の前では炎魔法によって、折られた杖に火がともされようとしていた。

 

 やがてパチパチという、はじけるような音と共に杖に火が燃え移り、松明のようにそれは燃え上がった。

 

 徐々に近づいていくその音と熱気にパゼラは身体をよじる。

 痛み、それから鼻を突く焦げ臭さが彼女を襲った。

 

「嫌、熱──」

 

 思わずこぼれ出た微かな悲鳴に、トリルは嗜虐心に溢れた笑みを見せた。

 

 路傍に転がる汚物をつつくかのように、先に火のついた棒をパゼラに押し付ける。それが当たるたび、彼女は小さく呻いた。

 十分それを堪能した後、トリルは立ち上がり振り返った。

 

「ほら、ほかに誰かやらないの?」

 

 手に持った松明を突き出しながら彼女はそう聞いた。リリアナと、そのほかの四人はあからさまに嫌悪感を示している。

 

「つまんねぇヤツらだな、あたしの言うことが聞けないっていうの?」

 

 松明を地面に放り投げて彼女はそう言った。

 

 地面を転がるそれから目をあげると、トリルのむき出しの敵意──パゼラに向けられているそれと、ほとんど同じもの──が自分たちに向けられていることをリリアナは知った。

 

 彼女はおずおずと前に出て、松明を手に取る。それから、まだ赤熱している先端をパゼラに押し当てた。

 うめき声が上がる。

 

 リリアナは顔をゆがめていた。それから、()()()()()()()()できることなら早く終わってほしいとも祈った。

 

 トリルはその様子を見て手をたたきながら、猿を連想させる大きな笑い声をあげた。

 そして他の棒切れに火をつけると自らも再び参加した。

 

 パゼラは耐えている。

 自分に対して起こっていることをすべて無視し、もう少しの辛抱だと言い聞かせた。体中を引き裂くような痛みに晒されながらも、なんとか意識を保つ。

 

 やがてトリルは飽きが来たのだろう、突然棒切れを放り出すと立ち上がった。

 それから周囲を見回す。

 

「あー、忘れるところだった、靴ってこれだっけ?」

 

 ボロボロの平べったい靴を摘まみ上げる。

 

「たぶんそれ」

 

 リリアナは目を合わせずに手早くそう答えた。トリルはいともたやすく靴底を引っぺがすと、それをパゼラに向けて放り投げた。

 

 次に目をつけたのは、箱に収められた緑色に輝くクリスタルだ。濁った輝きを放つクリスタルを箱から取り出し、手の上にのせてジロジロと眺める。

 

「なにこれ? けっこう綺麗だね」

 

「授業料ってことで貰っておいたら?」

 

 そう答えるのはクレイルだ。箱に仕舞うと、ポケットに突っ込む。

 それからトリルは力なく横たわるパゼラに歩み寄った。

 

「明日の実戦テストが楽しみね! もしサボったら死ぬよりひどい目に遭わせてやるから」

 

 そう言って唾を吐きかけると、踵を返し鼻歌交じりでトリルは去って行った。他の六人は黙ってそれに追従する。

 一人残されたパゼラは力なく呟いた。

 

「六郎……」

 

 

ーーーーー

 

 

 六郎が屋根裏部屋で文字の分からない読書に勤しんでいると、梯子を登る音がした。

 

 彼が何の気もなしにそちらの方を見ると、ずぶ濡れのパゼラが立っていた。ただでさえ伸び放題の髪の毛がまとわりついており、表情をうかがい知ることが出来ない。

 

 パゼラが普通の状態ではないことは、彼にも一目見てわかった。

 

 彼女は早歩きで六郎に歩み寄ると、ありったけの力を込めた殴打を彼の頬に食らわせた。

 間髪入れずに腹部に蹴りを入れる。

 口の中に血の味を感じながら倒れ伏せる六郎の髪を掴み、顔を引き上げる。

 

「どうしてわたしだけこんな目に遭わなきゃいけないの!?」

 

 唾を飛ばしながら彼の耳元で怒号をあげる。

 

「どいつもこいつも邪魔ばっかりして!」

 

 髪の隙間から見える彼女の目には涙が湛えられていた。六郎は何も答えない。

 頭突きを加えてから、今度は六郎の顔に目掛けてブーツの先端を容赦なく放った。

 

「どうして! どうしてよ! なんでわたしだけ……こんな……」

 

 パゼラの声はだんだんと嗚咽交じりになり、目から涙がこぼれ始めた。それでも暴行は相変わらず続けられた。

 手の甲を踏みつけ、後頭部を硬いブーツで踏みつける。

 

「なんでこうなるの! ねぇなんで! いいことなんて一つもないじゃない! あいつらをぶっ殺すために今まで準備してきたのに! 少しぐらい勉強ができるからってそれがなんなの!? わたしの一生ってなんなの!?」

 

 内に溜まった不平を、六郎にたたきつける。

 彼は糸の切れた人形のように反応しない。

 

「答えてよねぇ六郎!」

 

 彼は分かっていた。答える必要はない、彼女に必要なのは()()なのだ。彼女の父親がそうであるように。

 

 しばらく、パゼラの絶叫と暴力が続いたが、それを遮るように突然──

 下の階から、ガラス瓶を叩き割る音がした。

 

「うるせぇぞ!」

 

 辺り一帯に響き渡ったのは不機嫌さを全面に主張した中年男性の叫び声。

 それを聞いて、パゼラの表情は一瞬にして怯えたそれに切り替わった。

 

 息の詰まる静寂。

 

「う……あ……」

 

 怒りは完全に削ぎ落とされ、後に残ったのは泣き腫らした傷だらけの少女だけであった。

 

「……行こう、六郎」

 

 血と痣まみれで横たわる彼にそう声をかける。

 六郎はゆっくりと立ち合がり、梯子を下るパゼラに追従した。

 

 

ーーーーー

 

 

 空が赤く染まりかけている。日暮れはもうそこまで迫っていた。

 パゼラが六郎の袖を引っ張り、二人で山道を登る。

 

 たどり着いた先は、木々がなく開けた場所。

 パゼラにとってはなじみ深く──六郎にとっては第三の生が始まった場所。

 

 そこまで来るとパゼラは六郎の袖から手を離し、小走りで丘の上に上るとそこに座り込む。

 六郎は、よたよたと歩きながらその丘に背中を預けた。パゼラは膝を抱えてただひたすらに地面を眺めている。六郎は空を眺めている。

 

 遠くで聞こえる鳥の鳴き声以外は、パゼラのすすり泣く声しか聞こえなかった。

 

「……こっちにきて」

 

 多少は落ち着きを見せた彼女の声に、六郎は極めて緩慢に反応する。彼は後頭部からどろりとした液体が滴っているのを肌で感じていた。

 

 それから、丘を登りパゼラの前に座る。

 

 向かい合う二人のその姿勢だけを見れば、無垢な子供が草原で花冠をかぶせているようにも見えるだろう。

 

 しばらくしてから、呼吸を整え、パゼラは六郎の手を握りながら言った。

 

「一人じゃないから、何かが変わるかもしれないって……」

 

 確認するように、自分に言い聞かせるように言ったそれは、六郎がパゼラに向けて放った言葉だ。

 

 新鮮な傷跡がこすれ合い、痛む。

 折れた骨が軋む。

 

 手を繋いでいるその光景を目に焼き付けるように、じっと凝視してから、パゼラは顔をあげた。表情一つ変えない六郎の目と合う。

 

 彼はパゼラの、その生気を失った灰緑の瞳に吸い込まれそうになっていた。

 

「わたしって最低だよね。抵抗しないからって、あんたのこと痛めつけてさ」

 

「そうだな」

 

「逃げないの? こんなに乱暴されて、何で誰かに助けてって言ったりしないの?」

 

「……別に……そんなこと、する必要あるか?」

 

 その答えを聞いてから、少しの間を置いたパゼラは噴き出した。

 

「あっはっは、マトモじゃないよ、それ。マトモじゃない」

 

 天を仰ぎながら、独り言のようにそう呟いた。握られたままの六郎の手が強く握られ、傷口がじんじんと痛む。

 それからひと呼吸おき、パゼラは再び口を開いた。

 

「わたしの言うこと……全部聞いてくれるのは六郎しかいないの」

 

 そう言うと、彼女は身体を六郎の胸に優しく放り投げた。

 

 それから腕を背中に回す。焼けた人肌と生臭い川の匂いが六郎の鼻を突く。

 

 パゼラは六郎の広い胸に頭を押し付ける。彼の頭に固い角がコツコツと当たる。

 彼女は妙な高揚感を感じていた。

 

「そうだ……わたしたちで『契約』しない?」

 

 ゆっくりと、名残惜しそうに顔だけをあげてパゼラが切り出した。

 

「…………そうだな」

 

 六郎はクロムウェルが言っていたことを思い出していた。

 

──恩返しだ、俺を拾ってくれた、恩返し。

 

 それが彼の、三回目の人生の目標だった。

 

「でも──」

 

 口を開いたのは六郎だ。

 

「いいのか? 俺みたいな人間と一緒にいたら……落ちるところまで落ちるだけだぞ」

 

 ほとんど失われかけていた、精いっぱいの誠意を、彼は絞り出した。

 

──そうだ、こんな自己満足にパゼラまで巻き込むことはない。

 

 それからパゼラの暴力を覚悟する。

 しかし返答は彼の予想を裏切った。

 

「別にいいよ、それで構わない」

 

 彼女が熱に浮かされ発するその言葉の熱気を、六郎も感じ取っている。

 

「どうしてかは分かんないけど、六郎を見てると安心するしイライラしてくる。わたしには六郎が必要なの……多分」

 

 涙はもう完全に止まっていた。

 

「それに、これ以上どうやって落ちるっていうの? さあ、手を出して」

 

 微笑みながらパゼラは手を差し出す。

 今度は六郎が上から握り返す。

 それから彼女は呪文を唱える。

 

 普段の声色と異なる重々しいそれを唱え終えると、パゼラの心臓のあたりが淡い緑色に光り始めた。

 

 右胸のあたりから送り出される血液が仄かなエメラルドグリーンに光っている。それが手に到達すると、握っている手を通して六郎の身体に流れ込んだ。

 

 彼は奇妙な心地だった。まるで一つの身体を共有したような、そんな感覚を味わっていた。

 

「〈転生者〉には魔心がないんだってね。初めて魔力を通すことで特殊能力が開花するらしいよ」

 

 六郎は空気が妙に湿っぽいように思えた。

 巨大な青白い月だけが、その様子を見守っている。

 

 

ーーーーー

 

 

 それから二人は山を下りた。

 帰り道の途中、パゼラは涙の乾いた頬に当たる夜風を心地よく感じていた。

 

「それで、明日はどうするんだ」

 

「あんたとわたしの二人で出るよ」

 

「でもさっき準備が無駄になったって──」

 

 パゼラが不敵な笑みを浮かべる。

 

「言ったじゃない、ぶっ殺すための用意をずっと前からしていたって」



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第九話

【前回のあらすじ】
 実戦テストの前日。パゼラはトリルたちに絡まれ、魔法杖を失い、なすがままに暴行を加えられた。
 その晩、パゼラは六郎に暴力を振るった後に外へ飛び出し、月明りの下で契約を交わした。
 そして、パゼラは六郎に向かって明日の実戦テストの作戦を話すのだった。


 実戦テストは春と秋にそれぞれ一回づつ行われる。

 春では中等部第一学年が、秋では中等部第三学年がそれぞれ自らの強さを見せつけるために衆人環境で決闘を行う。

 

 真剣や殺傷能力のある魔法の使用も許可されており、非魔術師からの批判は相次いでいる。

 それに対して学校は、魔法学校は十分な防護壁や手足の再生すらできる治癒魔術師を待機させているために何の問題もないという態度を頑なに取り続けている。

 

 

 しかし学生同士の殺し合いを目的に観戦しに来る魔術師が大量にいるのもまた事実である。

 出店なども設置される、この学校で一番の催し物になっている。

 

 

ーーーーー

 

 

 今日の学内はそんな観客で溢れている。

 パゼラと六郎はそれを見て辟易した。

 

 包帯ぐるぐる巻きの二人は──昨日の分の傷はパゼラが応急手当をした──人込みに揉まれながら、三階建ての建物にも匹敵する高さの巨大掲示板を見ている。対戦の組み合わせと時間が書かれているのである。

 

 パゼラは自分の名前を見つけた。それから時刻を確認すると、周囲の人物を押しのけながら脱出した。

 対戦相手の名前は見る必要もない。

 

 

ーーーーー

 

 

 正門から校舎に続く広い道には出店なども出店しており、お祭りと大差はなかった。

 そんな大通りを避けて二人は体育館に向かう。

 

「着いたよ、体育館」

 

 六郎はそれを見て目を丸くした。

 彼が元居た世界の体育館のそれとは大きく異なる、円形のそれは闘技場そのものであった。

 

「これが体育館?」

 

「そうだけど。今回はここ以外にも、野外決闘場だとか、校庭に即席で作った体育館とかあるの」

 

 それから二人は学生証を見せ、裏口から更衣室に入った。

 

 控室代わりのそこには、中等部の生徒たちが互いに距離を取ってただ時を待っていた。部屋に満ちた、軽い殺意とも受け取れる粗削りな敵愾心に六郎は気圧される。

 

 パゼラはそれをものともせずに部屋の真ん中を突っ切った。遅れて六郎がそれに続く。

 真ん中に置かれたベンチに二人が腰かける。

 

「作戦は覚えてる?」

 

「まあ、ばっちりだ」

 

 昨日、彼女の部屋に戻ってから六郎はノート丸々一冊分の戦術を見せられた。

 トリルの日々の言動や行動などから、癖や得意な魔法分野を分析したものが延々と続いたものだ。

 六郎がそれをじっくり思い出している内に、実戦テスト開幕のファンファーレが遠くで響き渡る。

 

 

ーーーーー

 

 

 それから係員に名前を呼ばれ、一人、また一人と控室から消えていく。

 二人の緊張感は否が応でも高まる。

 彼女は自らの作戦を何度も頭の中で復唱していた。やがてパゼラの名前が呼ばれた。

 

 

ーーーーー

 

 

 長く暗い廊下を歩き続けると、重厚な両開きの扉が見えてくる。

 

 二人が扉の前に立つと、それは自動的に開いた。パゼラは眩しさに目を細める。

 一切の物が撤去された円形のそれは闘技場そのものであった。

 

 真反対にある扉から、二つの人影が近づいてくる。

 遠くに見えるのはトリルとその契約者、氷魚山だ。

 

 歩みを進めるたびに近づいてくるトリルの姿を見て、パゼラの心臓の鼓動は速さをどんどん増していった。

 

 そして互いに地面に引かれた白線の前で止まる。

 距離にしておよそ二十五メートル。

 

 トリルは軍服を模した白い服を着ており、肩章をつけた赤いマントが鮮やかなコントラストを見せていた。腰には宝石をはめた豪華なサーベルをさしている。

 その顔は自信に満ち溢れていた。

 

 隣の氷魚山は普段と変わらない革ジャケットを身に着けていた。

 トリルは目を細め、観客席を見回す。

 

「こんなたくさんの人の前でボコボコにされるって、どんな気分?」

 

 一通り見回してから、パゼラにそう言い放った。

 投げかけられた彼女は微動だにせず、トリルを睨みつけている。

 

 トリルにはそれが気に入らなかった。

 

「降参したら許してあげようかと思ったけど──やっぱりやめた。肉塊になるまで蹴り倒してあげる」

 

 氷魚山が咳ばらいをしてから、六郎に目を合わせてから口を開く。

 

「あんたに恨みはないが……これもお嬢のためなんで」

 

「そうか」

 

 それからトリルが声を張り上げる。

 

「ストレイフ家長女にして嫡子、トリル・ストレイフ!」

 

 実戦テストは互いに名乗り合うことで開始される──これは魔術師の間で一般的な決闘開始の合図だ。

 

「パゼラ」

 

 彼女はたった一言、短く吐き捨てた。

 

「そうじゃないでしょう?」

 

 意地悪な笑みを浮かべ、トリルはゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「貴方の家名はガーフィールド、でしょ?」

 

 その言葉を聞いたパゼラは、しかしトリルの予想と異なり微塵も感情の動くさまを見せなかった。

 それからパゼラとトリルは胸に手を当て、大きく息を吸い込む。

 

「「互いの名をもって──決闘を開始する!」」

 

 その言葉が終わると同時に、氷魚山が懐から何かを取り出す。

 

 微妙に曲がった、鉄の棒。それをしっかりと握り、手首を小刻みに動かす。

 その鉄の棒から伸びるように、何かがおぼろげに形を現し始めた。

 

 二本の棒が伸び、それから黒く丸いものが──バイクのサスペンションが伸び、前輪が出現した。

 その後ろには無理やりエンジンが取り付けられており、見た目は不格好なキックボードに近い。

 

──あれは能力で形作られたバイクだ、間違いない。

 

 六郎は冷静にそう判断した。

 すでにパゼラから教えられていた。

 

『普段から見せびらかしてるからそれぐらいわかるの』

 

 右手でハンドルを捻った瞬間、轟音が鳴り響き土煙が巻き起こる。六郎が瞬きしたころには五メートルの距離にまで縮まっていた。

 氷魚山が半身に隠していた鈍器を大きく振りかぶる。

 

 その瞬間、ふいに六郎の姿が消えた。

 忽然と消えたのだ。

 

 氷魚山も、トリルも、観客も──パゼラ以外の全員が目を丸くし、消えた男の姿を探していた。

 

「まあいいわ、あいつをやっちゃって!」

 

 トリルが我に返り、パゼラを指さしながら叫ぶ。

 

「OK!」

 

 車輪を巧みに操りパゼラの方に向き直ると、氷魚山は再び右手首を捻りエンジンを鳴らした。

 遠くから猛然と近づいてくるバイクを、パゼラはただ睨みつけているだけだ。

 

 氷魚山が再び鈍器を構えたところで、突如視界に一本の木の棒が現れた。

 彼が激突するのと認識するのは同時だった。鼻から血を流しながら、あおむけに倒れる。

 氷魚山のすぐ近くには、折れた木の棒を片手に持った六郎が立っていた。

 

「ナイスタイミング」

 

 視界のど真ん中にトリルを見据えて、パゼラがそう言う。

 

「そうか」

 

 氷魚山は血だまりの上に頭を乗せ、潰れた鼻で何とか呼吸をしていた。

 

「姿を消す特殊能力……! 陰湿なあんたにピッタリね!」

 

 豪著なマントをひるがえしながら、トリルは両腕を突き出す。

 間髪おかずに、バスケットボール大の火球がその手から発射された。その数は三つ。

 

 パゼラは驚きこそしたが、やることは変わらない。

 片足を上げそれを地面にたたきつける。

 

 緑の閃光と共に土壁が現れる。

 土壁が出現したと見るや否や、トリルは腰のサーベルを抜き駆けだした。壁に遮られ、パゼラにはその動作は見えていない。

 

「パゼラ! 後ろに──」

 

 そう叫ぶ六郎の太腿にサーベルが深々と突き刺さる。

 

 彼の言葉によってワンテンポ遅れながらパゼラが振り向いた時には、すでに六郎から剣を引き抜いたトリルが蹴りを放っていた。

 無防備にそれを喰らってしまった彼女は大きく吹き飛ばされる。

 

 こみあがった吐き気を押し戻しながらパゼラは素早く態勢を立て直す。

 トリルは右腕を引き、パゼラの首筋めがけてサーベルを放つ寸前であった。

 体中の意識を頭に集中させ、パゼラは首を動かす。

 

 サーベルの一刺しは回避されたが、次いで素早く放たれた袈裟斬りは避けることが出来なかった。

 肩から腹にかけて、服が切り裂かれ血がとめどなく溢れ出る。

 

 パゼラは痛みを堪え何とか立つ。

 そこに新たな痛みが加わる。

 見ると太腿にサーベルが突き刺さっていた。

 力が抜け、膝をつく。

 

 その姿を見て、トリルがにやりと笑う──パゼラがいつも見上げている、邪悪な笑顔だ。

 

「いつもと同じ、情けない恰好ね」

 

 サーベルを一旦下ろし、それから右足を振り上げパゼラの頬を蹴り飛ばした。

 トリルは深呼吸する。

 

 目まぐるしく動いた戦いの流れは完全に止まり、勝負はもう付いたかのように見えた。

 倒れこむパゼラを、トリルは再び見下ろす。

 

「降参しようだなんて考えてるんじゃないでしょうね? まずは喉を切り裂いて!」

 

 サーベルを引き上げ、ゆっくりと喉元に狙いを定める。

 朦朧とする意識の中、パゼラは剣の軌道上に手のひらを置いた。

 

 サーベルは彼女の肉をいともたやすく貫く。

 剣先はパゼラの手に阻まれ、喉に届く寸前で止まった。

 

 血がサーベルを伝い、パゼラの服の上に滴っていた。

 トリルが舌打ちをする。

 

「先に穴だらけにしようかしら!」

 

 剣を引き抜こうと力を込める。

 が、抜けない。

 

 見れば、剣に滴っていた血が固まっていた。パゼラの口元に笑みが宿ったのを、トリルは見逃さなかった。

 

──この速さで血が固まる? ありえない、まずい。

 

 そう思ってトリルがサーベルを手放し後ろに飛びのいた時には、もうすでにパゼラは立ち上がっていた。

 

 彼女は自分の手からサーベルを引き抜くと、それを右手に握りなおした。

 それから、見様見真似で剣を構える。

 

「穴だらけにしてあげる」

 

「きったねぇ手で私の剣に触るんじゃねぇぇぇ!」

 

 絶叫しながら、トリルは右手を振り上げる。

 その手は関節や爪が伸び、獣のそれになっていた。それが彼女の特殊能力だろう。

 

「あんたにピッタリね! 汚い獣!」

 

 パゼラがサーベルをでたらめに振りぬく。

 付着していた彼女の血が飛び、それが吸い込まれるようにトリルの目に入る。

 目を手で覆い、思わず後ずさる。

 

 パゼラは無防備な彼女の隙を突き、襟をつかむと足をかけそのまま手前に引き倒した。

 うつ伏せに倒れたトリルの頬に、ぬるい感触がべた付く。

 パゼラの血である。

 

 トリルは素早く立ち上がろうとするが、しかし血だまりはすでに固まったコンクリートのように彼女の身体を離さなかった。

 

「血を操るのがあんたの特殊能力な訳ね……!」

 

 自らの血液の遠隔操作、それから凝固と融解がパゼラの特殊能力である。

 

 トリルは血の生臭さで気絶しそうになりながらも、まだ血だまりに触れていない自由な右腕で腰のダガーに手を伸ばす。

 パゼラはそれを見逃さなかった。

 

 サーベルを逆手持ちすると、ありったけの力を込めてそれをトリルの腕に向かって振り下ろす。

 

「ぎぎゃあああぁぁぁっ」

 

 剣は腕を貫通し地面に突き刺さる。

 

「そう、あんたの言う通り……わたしは自分の血液を自由に操れる」

 

 興奮を押し殺しながら、パゼラが震え声でゆっくりと語る。

 

「それだけなじゃく、触れていれば、他人の血液だって、操れる」

 

 ゆっくりと、トリルの首に手を伸ばす。

 焦らすように、ゆっくりと優しく包み込む。

 

「触るな……気持ち悪い!」

 

 パゼラは想像する。

 首筋の太い血管──そこに流れる赤い液体を『停滞』させるイメージ。

 

 するとトリルの首に流れる血液が徐々に固まっていく。

 塊は次第に血流を遮るようになっていった。

 

「やめろ、自分が何してるのか分かってんのかこのゴミ虫が、あたしに逆らうなんて、バラバラにバラしてやる! これが終わった……ら……」

 

 徐々に彼女の意識が薄れていく。

 頭が徐々に白に蝕まれる感覚をトリルは存分に味わっていた。

 

「こ……これ以上……や……るなら……あたしのパパで……あんたを潰せるんだから……」

 

 まとまらない思考から絞り出すその言葉に、もはやいつもの威圧は無かった。

 

「邪魔なの。目障りなの。あんたはわたしの人生にとって……消えてくれない?」

 

「カッ……ケホ……」

 

 パゼラの笑みは今までにないほど歪んでいた。

 

──死ね。死ね。死ね。

 

 緩めることなく、少しずつ、少しずつ血管内にできた血液の塊を大きくしていった。降参させる気など、最初から無かったのだ。

 トリルの意識が真っ白に塗りつぶされるまであと数秒。

 

 パゼラにとっては永遠とも思える時間だ。

 

──あと少しで……!

 

 ふいに、パゼラの手がトリルの首から退けられる。

 突然の出来事にパゼラは困惑した。見ると、六郎が彼女の手首を掴み、トリルの首からその手を剥がしていた。

 

 僅かな猶予を得たトリルは渾身の力を振り絞る。

 

「ギ、ギブ……アップ……」

 

 トリルはそれから眠るようにゆっくりと意識を失った。

 それから、決着がついたことを知らせるベルが鳴り響く。

 

 

ーーーーー

 

 

「なんで邪魔すんのよ! もう少しで! ぶっ殺せたのに!」

 

 保健室にパゼラの怒声が響き渡る。

 

 トリルが降参した後、パゼラと六郎、それからトリルと氷魚山はすぐさま回収され、待機していた魔術師に治癒魔法をふりかけられて包帯を雑にまかれたのちに保健室に運び込まれた。

 

 その保健室は普段よりもベッドなどが増設されており、ちょうど「U」の形になるように置かれていた。

 パゼラと六郎はちょうど一番端で、向かい合うような配置になっていた。

 

「なんなの本当に! 気まぐれで拾ってやっただけなのによく楯突くよね!」

 

「いや──同級生を殺すのはよくないだろ」

 

「知らない! あんたにはどうせ分からないんでしょ!? わたしの気持ちが!」

 

 そう言ってパゼラは近くにあった花瓶を投げつける。

 が、それは六郎にぶつかる前に別の手によってキャッチされた。

 

「いけませんね、他の生徒たちの迷惑も考えなくては」

 

 パゼラが目を上げると、視界に入ってきたのはライトグリーンの長髪、いつ見ても変わらぬ糸目。

 

「ロベルト先生」

 

「それはともかく、おめでとうございます」

 

「えーっと、ああ」

 

 ぼんやりとした頭でパゼラはその言葉の意味を考えた。

 頭に血が上り、すっかり忘れていたが──彼女は試合には勝ったのだ。

 

「別に……わたしはあいつを殺そうとしただけだし」

 

「ははは、結果とは行動についてくるものですよ」

 

 表情一つ変えずにそう言ったロベルトが水を入れたコップをパゼラに差し出す。

 彼女はそれを一気に飲み干すとロベルトに返した。

 

「それで、なぜ私がここに来たのか分かりますか?」

 

 パゼラは再び頭を稼働させた。

 

「あー、えっと……推薦?」

 

「ええその通りです、貴方の名前はリストに加えておきましたよ」

 

 彼女の通う学校は六歳の年に初等部へ入り六年間を過ごす。

 その後、中等部三年間、高等部七年間を経て卒業する。

 

 高等部からは教師の元で指導を受け、何らかの研究をすることが目標となってくる。実戦テストはそのコネを得るための戦いでもあるのだ。

 

「ではごゆっくり。戦いの傷を癒してください」

 

 そう言うとロベルトは去って行った。

 入れ違いに人が入ってくる──ルビアだ。

 

 色々な器具が入ったかごを胸のあたりで抱えながら、周囲を見回し明朗な声を上げた。

 

「実戦テスト、お疲れ様です。今から問診をしながら回りますので、何かありましたらその時にお伝え下さい」

 

 彼女の登場で室内は色めきだった。

 

 あのルビア嬢と一対一で話すチャンスがある──この学校の生徒なら男女問わず誰もが一度は夢見るシチュエーションであろう。

 そんなこともつゆ知らず、彼女は端のベッドから順番に見て回った。

 

 最初の生徒は──

 

「パゼラ・ガーフィールド……貴方ですか」

 

 彼女の表情が一瞬硬くなったのをパゼラは見逃さなかった。

 

「そうだけど」

 

「……では。どこか痛かったりするところはありますか?」

 

「特にないけど」

 

 手にした紙をペラペラと捲りながら続ける。

 

「首から腹部にかけての大きな切創……傷の具合を見てみましょうか」

 

 ベッドの周りのカーテンを閉じてからルビアは続けた。

 

「上着を脱いでみてください」

 

 言われるがままパゼラは服を脱ぐ。

 同年代の生徒よりも明らかに貧相な痩せ細った身体が露になる。

 

 膨らみかけの胸の真ん中には大きな古傷が縦に刻まれていた。それ以外にも無数の傷が──まるで彼女の身体を蝕むかのように、残されている。

 ルビアはそれをみて言葉を失った。それから彼女はその傷に手を伸ばしかける。

 

「そこは関係ないでしょ」

 

「ご、ごめんなさい」

 

 ルビアが思わず手を引っ込める。

 

「傷は……実戦テストでの傷は完治しているようですね……」

 

 パゼラは頷きもしなかった。

 

「もう大丈夫です。服を着てください」

 

 ルビアは何か声をかけようと考えを巡らせたが、しかし何も浮かばなかった。

 それからルビアはパゼラのベッドを離れ、隣の生徒に声をかけた。

 そうしてベッドを順番に回っていき、最後の検診の相手は六郎だ。

 

「あっ、貴方は……」

 

 ルビアが思わず声をあげる。

 対する彼は無反応だ。

 

「実戦テストに……参加なさったのですか?」

 

「そうだ」

 

「契約者の方は……」

 

 六郎はまっすぐ腕をあげて指をさす。

 ルビアが振り向いた先にはパゼラがいた。

 

 不機嫌そうな顔で、ルビアのことをほとんど睨みつけている。

 

「あ、あの方と契約なさったのですか!?」

 

「ああ」

 

「それは……どうしてです?」

 

「あいつは、俺の命の恩人だ。それだけだ」

 

「そう、ですか」

 

 ルビアの背中に、何かやわらかいものがぶつけられる。

 足元を見ると、枕が転がっていた。振り向くとパゼラと目が合う。

 

「なんか文句でもあんの?」

 

 静まり返った部屋にその言葉が響いた直後。

 同じ部屋にいる──六郎とルビアを除く──全員が敵意を持った目でパゼラを睨みつけた。

 

 それに対し、彼女は即座に左の手のひらを見せつけながら周囲を見回す。

 パゼラの方はすでに魔法を唱える準備ができていた。あとはごく短い一節を唱えるだけで指先から炎が迸る。例えるなら、パゼラだけが銃を全員に突き付けているような構図だ。

 

 それに気が付いた全員が何事もなかったかのように目線を外し、先ほどまで自分がやっていたことに戻る。

 先に手を出した者が勝つ、パゼラは長年の経験からそれを知っていた。

 

 息の詰まるような一瞬を抜けてから、ルビアが口を開く。

 

「す、すいません、私としたことが……」

 

 深々と頭を下げる。それに対してパゼラは部屋の隅をじっと見ているだけで、何も反応はしなかった。

 それからカーテンが閉められ、六郎の問診が始まる。

 

 パゼラはその遮る布をただならぬ気持ちで見ていた。

 ルビアが何かを喋るたびに──内容までは聞こえなかったが──それが気に障って仕方なかった。

 

──とにかく気に入らない。どうしてあの女はわたしのやることなすこと全部に口を挟んでくるの?

 

 そう考えながら眺めているうち、問診は何事もなく終わった。

 再びルビアが扉の前に立ち、部屋内の全員に声をかける。

 

「改めまして、実戦テストお疲れさまでした。次の鐘が鳴るまで安静にして、そうしたら帰宅してください」

 

 

ーーーーー

 

 

 それから夕刻の鐘が鳴り、パゼラと六郎は保健室を後にした。

 

 夕日を浴びながら学校を背にして二人は歩みを続ける。達成感と徒労感が入り混じった、妙なけだるさを感じながら。

 

 やがて街を抜け、見覚えのあるあばら家の群れが見えてきた。

 

 埃臭いにおいが鼻に入ってくる。

 音を立てないように梯子を登り、パゼラは堅いベッドに腰かける。それからゆっくりと上半身を倒しながら今日のことを思い返した。

 

 勝負は一瞬だった。

 六郎が作戦通りに動き、それからトリルが距離を詰めてきて、緊張が身体を支配して、それから、肉の痛み、血の匂い。

 トリルの敗北宣言を聞いたが、しかし達成感はなかった。

 

「ねぇ六郎」

 

──明日から何か変わると思う?

 

 彼女はそう聞こうと思ったが、途中で止めた。

 

──どうせコイツにも分からない。私と同じだから。他人から理不尽に殴られて、それで未来のことなんか何も考えないでただ生きているんだ。

 

 途切れた言葉に六郎は首をかしげた。

 

「……なんでもない」

 

 それからパゼラは目を瞑ると、すぐさま眠りに落ちた。



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第十話

【前回のあらすじ】
 パゼラは実戦テストでトリルを死闘の末に、勝利する。
 そしてパゼラはそのままトリルにトドメを刺そうとするが、六郎に止められる。
 試合後の保健室で治療を受けた後、パゼラと六郎は家に帰る。彼女はこの結果にあまり満足していなかった。


──あまり変わらない。

 

 実戦テストが終わってから四日が経ったが、パゼラはそう思った。

 目立った変化といえば周りの見る目に恐怖の念が込められるようになったことと、トリルが学校に来なくなったことぐらい。

 

 周囲の生徒のうわさ話によれば、トリルはあの日以来自室から一歩も出ていないという。

 それだけだ。それ以外は何も変わっていない。彼女の人生には依然、暗雲が垂れ込めたままだ。

 

 そしてその苛立ちは全て六郎にぶつけられた。

 どうしてあそこでトリルを殺させてくれなかったのか。彼女は何度もそう問いながら彼をいたぶった。

 

「そんなにボコボコにされてさぁ、本当に惨めだよね」

 

「そうだな」

 

 六郎は身体を折りたたんで咳をした。

 普段より長く続いたそれが終わった後に手の甲を見ると、血がべっとりついていた。

 

「大丈夫?」

 

 それを覗き込みながらパゼラが言う。

 まるで道端にうずくまる見ず知らずの人間に向かって親切心で声をかけているように見える。

 

「忘れないでよね、あんたはわたしに生かされてるの」

 

 六郎の額を指でコツコツと叩きながらパゼラはそう言った。

 

「死なないうちに直さないとね、それ」

 

 それからふと、パゼラが思い出したかのようにバッグの中身を探った。

 中から紙を取り出して、それをまじまじと見つめる。

 

「今日までなら……まだセーフか」

 

 そう言うと彼女はそれを再びバッグの中へしまい、カバンを肩にかけた。

 

「今日まで提出の課題があったんだ……いっしょに来る? ついでにその傷治そうか」

 

 二人は学校へ行く次第になった。

 パゼラがドアを開け放つと、目の前には人が立っていた。

 紫の前髪にニヤついた大きな口はネクラマだ。

 

「あれれー、二人してデートなの?」

 

「なにそれ。課題を出しに行くだけなんだけど」

 

「そっかぁー」

 

 パゼラの家を訪れる者はほとんど存在していない。

 そうでなくても、ネクラマは何を考えているのか分からない。警戒心をあらわにしながらパゼラは彼女に接した。

 

「そういうあんたは何しに来たのよ」

 

「え? えーっとね、何しに来たかっていうと……」

 

 二人が目の前にいることなど忘れたかのように、顎に手を当て考え始める。

 

「うーん、じゃあそうだ、パゼラちゃんの勝利を祝いにきたの」

 

 今この場で考えだした理由というのは誰の目にも明らかだったが、ネクラマはそれを隠そうともしなかった。

 

「なんでわたしにそんな絡むわけ? 友達いないの?」

 

「ふひひ、それはねー、他の人と話しているよりパゼラちゃんと話してる方が楽しいからだよー」

 

 そう言ってパゼラはネクラマを睨みつけるが、しかしその視線は紫色の前髪に遮られてネクラマの眼には届かない。

 

「それはそうとさ、じゃあ明日やろうよ、祝勝会。パゼラちゃんの家で」

 

「明日……まあいいけど」

 

 断ってもどうせしつこく迫ってくるのだろうと考え、パゼラは半ばあきらめたかのように言った。それに加えて、彼女は心のどこかで勝利を祝えば少しは変わるのかもしれないとも思っていた。

 

 それを聞いた途端にネクラマは踵を返し、来た道を戻り始める。

 

「また来るねー」

 

「なんなのアイツ」

 

 ネクラマにも聞こえるような声量でパゼラが言った。

 

「俺に聞かれてもな……あ、そういえば」

 

 半ば呆れる六郎だったが、ふと気になることを思い出す。

 

「前にあいつと出かけた時に……お前が誰と暮らしているかみたいなこと聞かれたな……」

 

「なんて答えたの?」

 

「男が一人いるって言っておいたが」

 

 彼は答えに細心の注意を払った。

 

 

ーーーーー

 

 

 それから二人は学校へやってきた。

 六郎は保健室へ、パゼラは職員室へと向かう。

 

 保健室にいたのはルビアールではなく、他の魔術師であった。六郎の傷を、多少は訝しみながらも特に質問などはせずにそのまま治療した。

 それから彼はパゼラと合流しようと、職員室へと向かう。中ではパゼラが取り込み中のようであった。向かいに座っているのはロベルトだ。

 

 時間はそれほどかからなかった。六郎が壁にかけられた勝手に文字が現れては消えていく掲示板を眺めているうち、パゼラが出てくる。

 

「なんか嬉しそうだな」

 

「そう?」

 

 二人が歩きだそうとした直後。

 

「あ、あの!」

 

 後ろからキンキンとした甲高い大きな声が聞こえた。

 パゼラはピクリとも反応せずに廊下を歩き続ける。

 

「パゼラさん!」

 

 そう名前で呼びかけられてからようやく足を止め、怪訝な顔で振り返る。

 

 彼女の頭一つぐらいの下には、緑がかった濃い黒髪をシンプルにふたつにまとめた少女が。

 かわいらしい丸い目はパゼラを真正面から貫いている。

 

「おめでとうございます! これを!」

 

 後ろ手に隠していた花束を、半ば押し付けるように力強くパゼラに差し出す。

 

 パゼラは受け取るつもりなど毛頭なかったのだが、その勢いの良さに思わず反射的に花束を手に取ってしまった。彼女の鼻先に花の甘い香りが漂ってくる。

 

「実戦テスト見てました! トリルさんを──」

 

 その言葉にパゼラが眉間にしわを寄せたことにはまったく気が付かず、少女は続ける。

 

「倒してしまうなんて! さすがです!」

 

 三人の間に微妙な間が流れた。

 

「……あんた誰?」

 

 少し困惑しながらパゼラが質問する。

 

「す、すいません! 自己紹介がまだでした! 初等部のアンナ・フロストと言います!」

 

 実戦テストを始めとした数々の模擬戦闘はこの学校で大きな娯楽になっており、特に有名な生徒にはファンが付くこともまあある。

 しかしそういったファンが付くのは主に高等部の生徒たちであり、中等部の、それも最初の実戦テストから押しかけてくるのは非常に珍しい。

 

「とにかくおめでとうございます!」

 

 アンナは一点の曇もない笑顔で、真っ直ぐな視線でパゼラを見据えている。

 パゼラは自分が責められているような気分になって目を逸らした。

 

「別に……めでたいことでもなんでもないし」

 

 そうひとりごちた後に目線をちらと戻す。

 アンナの目線は相も変わらず彼女を捉えていた。

 

「今度ぜひ部室に来てください! 毎週お茶会をしていて──」

 

 興奮気味にアンナが言葉を続ける。

 

「ちょっといい?」

 

 それが別の声に遮られる。

 パゼラが振り返ると、こちら側にゆっくりと歩み寄るピンクのツインテールが──リリアナである。

 

「ん、初等部の……」

 

 リリアナの目線の先にいるアンナは、怯え切った表情に切り替わっていた。

 

「ああ、トリルに部室を取られてた奴ね。こんなところで何してるの?」

 

 彼女はなんの気もなしにそう言った。

 

「ひ、他人事みたいに」

 

 両手を力強く握りしめながらアンナは言葉を続けた。

 

「あ……あなただってグルになって占領してたじゃないですか!」

 

「私はアンタのためを思ってやってあげたんだけどね、それにこっちにも事情があるの」

 

 そう言うとリリアナは手で払い除けるジェスチャーを見せる。歯ぎしりをしながら彼女は後ずさり、それから背を向けて駆けていった。

 

 彼女の影が見えなくなってから、リリアナはパゼラの方を向き直る。

 パゼラは苛立ちを顔に滲ませていた。

 

「何しに来たの? あんたみたいなのが一人で勝てるとでも?」

 

「そ、そうじゃなくて……」

 

 両手のひらを見せながら、できる限り柔和な声でリリアナが続ける。

 

「トリルが学校に来なくなったじゃない?」

 

「わたしのせいだって言うわけ?」

 

 ひと呼吸おく間にパゼラが割り込んだ。

 

「いや……こうなったのも全部私たちのせいだと思ってる」

 

 語るうちにリリアナの表情は悲痛なものに変わる。

 

「あいつも多分、コテンパンにやられて一人で反省してると思うからさ……」

 

 そう言いながら、彼女が右手を差し出す。

 

「なかったことにして……もう一回やりなおさない?」

 

 瞬間的にパゼラの左手が閃き、右腕を掴み上げるとそれを身体の外側の方向へ捻る。

 

「痛だだだだっ」

 

 リリアナは思わず両膝をつく。

 間髪入れず、その無防備な顔面に右足が炸裂する。

 その蹴りをもろに喰らったリリアナはあおむけに倒れた。

 

「今更何? 不愉快。私の前から消えてくれない?」

 

 肩で息をしながら、パゼラが言葉を紡ぐ。

 

「行くよ六郎」

 

 彼女は踵を返すと、リリアナを一瞥することもなく歩き出した。

 それに追従しようとした六郎を、リリアナの苦しそうな声が呼び止める。鼻血を垂らしている。

 

「……あんたはなんで止めないの?」

 

「別に……俺にそんなことする資格はないよ」

 

「……実戦テストで止めてたじゃないの。とどめを刺そうとしたのを」

 

──あれは思わず動いたのだ。あれは『なるがまま』だ。

 

 六郎はそう心の中で呟いてから、リリアナには声を掛けず振り向きパゼラの背中を追いかけた。

 少し離れたパゼラに追い付くように、彼は駆け足で彼女の隣に並んだ。

 

「イライラする……馴れ馴れしくやがって……何が反省してるだ……」

 

 そうブツブツ呟きながら早歩きをする彼女は、六郎の気配に気が付くと爪を立てて彼の右腕を強く握った。パゼラは六郎からなにか心地の良いものが流れ込んでくるような感覚を感じていた。

 

 それから今この瞬間に気がついたかのように、右手に握る花束を見る。

 苦虫を噛み潰したような嫌な顔をすると、それを六郎の身体に押し当てた。

 

「わたし、花は嫌い。六郎が貰って」

 

 受け取れ、といわんばかりに花束をもう一度押し付ける。

 

「そうか」

 

 そう言うと彼は花束を受け取った。

 

「適当に捨てるなりなんなりしといて」

 

 六郎は少し考えたが、パゼラにこれを渡してきた小さな生徒のことを想うと、捨てる気にはならなかった。

 

「少し寄り道していってもいいか?」

 

「別にいいよ、わたしは先に帰るけど」

 

 

ーーーーー

 

 

 六郎はふらふらと歩き続け、やがて工房棟にたどり着いた。

 それから、隅にうず高く積まれたガラクタの山に手をかけると一つずつ花瓶に使えるものがないか吟味し始めた。

 

 穴の空いた瓶、中から焦げ臭い金属の臭いがする木製の箱……それらを手に取っては隣の山に放り投げるという作業を続けていた。

 

 そうして六郎が漁っていると、後ろで物音がした。

 彼は思わず振り向く。

 

「よっこらせ……ふう、どうして私が肉体労働を……」

 

 腰に手を当てながらそう呟くのはルビアールだ。

 思いっきり伸びをしていたところで、六郎の視線に気が付く。

 

「あっ、あなたは」

 

 背を正し、口のあたりに手を当てて咳払いしてから話し始めた。

 

「あーっとその、こんなところで会うなんてとっても奇遇ですよね?」

 

 少し早口になってしまったことを自覚して顔を赤くする。

 その様子に困惑した六郎が会話を続けられないでいると、調子を取り戻したルビアが再び始めた。

 

「で……こんなところで一体何を?」

 

「これに使う用の花瓶を探していたんだが」

 

「ああ、それでしたら──」

 

 途中まで口にしてから、左右を見回し人のいないことを確認しててからまた口を開く。

 

「──それでしたら、わたくしの家に良い花瓶がいくつかございますわ。見ていきませんか?」

 

 

ーーーーー

 

 

 二人は学校を出て、すぐそばに停めてあった馬車に乗り込んだ。

 革張りの豪華な座席に居心地の悪さを感じながら向かい合って座っている。

 

「それにしても……どうしたんですか? その花は」

 

「押し付けられたんだ」

 

 その言葉を聞いてルビアははにかむ。

 

「また面白いことを言いますね、花束とは誰かに贈るものでしょう?」

 

 そんな会話をしている内、馬車は屋敷にたどり着いた。屋敷が乱立する、一等地のど真ん中だ。

 ルビアが門に手を触れるとオレンジ色の光が門を伝い、それから門が開く。

 

「さあどうぞ、倉庫はこちらです」

 

 手を引かれ連れられた先には、豪華な陶器の数々が博物館のように置かれていた。

 

「どうぞ好きなだけ手に取って見てみてください。これとかどうですか?」

 

「あ、ああ……」

 

 それらが高級品なのは誰の目から見ても明らかだろう。

 自分が場違いな存在であることをひしひしと感じながら、恐る恐る六郎は首を動かす。

 

「ほら、これとかどうでしょう?」

 

 ルビアがシンプルな翡翠色の細長い花瓶を手に取り六郎に見せる。

 凡百のそれとは明らかに一線を画する、美しい波打った模様が高貴さを感じさせる一品だ。

 

 もし落として割ってしまったら一体いくらになるのだろうかと考えた六郎は一歩後ずさった。

 

「あー、いいかもな……」

 

「あら、気に入ってくださいましたか。お近づきのしるしということで、どうぞ」

 

 満面の笑みを浮かべながらルビアが花瓶を差し出してくる。

 

「いやその、この花束……預かっておいて欲しいんだが」

 

「預かる……とは?」

 

「これはパゼラがもらったんだ。それで、あいつが俺に押し付けてきた。『捨てるなんなりしといて』っていってな」

 

「そうでしたか。では、預かっておきますね」

 

 六郎はダメ元で頼んだ願いが聞き入れられ、ほっと胸をなでおろした。

 

「ただし、預かるだけですから、枯れる前に受け取りに来てくださいね」

 

 それからルビアが人の名前を呼ぶ。

 音もなくメイドがやってくると、花瓶と花束を受け取りまた音もなく帰っていた。

 

「さて──」

 

 大きく息を吸い込み、緊張した面持ちで六郎に向き直る。

 

「この後予定はあります?」

 

「いや、特にないが」

 

「それは良かった! 二人でその……お、お茶でも、しませんか?」

 

 

ーーーーー

 

 

 六郎は庭園の真ん中にある椅子に落ち着きなく座っていた。

 

 改めて周囲を見渡す。

 色とりどりの花々が、ガラス張りの天井から降り注ぐ日光を浴びて輝いている。

 白を基調として金色の装飾が施された椅子と机は傷一つなく磨きあげられている。

 

──これじゃあ庭園じゃなくて植物園だな。

 

 やることも無く持て余していると、扉の方からカラカラと車輪の回る音が聞こえてくる。

 

 これまた美しい装飾の施された三段のワゴンを押して、ルビアが入ってきた。

 上には細かな装飾が施されたティーカップとポットが乗っている。

 

「……マナーも何も知らないんだが」

 

「そんなそんな。楽にしていてください。これも正式なそれとは程遠いですから」

 

 ルビアはそう言いながらセットをテーブルの上に置き、それからカップに紅茶を注ぐ。

 

「どうぞ」

 

 六郎はカップを手に取り、顔の近くまで近づけた。

 次にカップを軽く回し、香りを嗅ぐ。

 

 それから伺うようにルビアの顔をちらと見てから──彼女は相も変わらない微笑みを浮かべていた──口に流し込む。

 水で薄めた紅茶のような味、それからシナモンを鼻の奥に詰めたかのような痺れるような刺激を感じた。

 

「まあ、なんだその……飲めなくはない」

 

「あら、それは良かった」

 

 紅茶の香りで実際に心が落ち着いていくのを、六郎は堪能していた。

 その頃合いを見計らったかのように、ルビアが口を開く。

 

「私……その……心配なんです」

 

「何が?」

 

「貴方のことですよ! あの時見たあの傷は……パゼラさんに付けられたものでしょう?」

 

 問診の時。ルビアは六郎の身体に刻まれた痣の数々を見た。

 

「そうだが」

 

「……どうして彼女と一緒にいるのですか? 命の恩人とは言っていましたがそれだけで、そのような所業が許されるわけ──」

 

「あいつが俺のことを必要としているからだ」

 

 一人でヒートアップするルビアを諫めるように、強めの口調で六郎が割り込む。

 それと同時に、彼はあの満月の夜のことを彼は思い出していた。

 

──『どうしてかは分かんないけど、六郎を見てると安心するしイライラしてくる。わたしには六郎が必要なの……多分』

 

 幻想的な、眩いばかりの月明りに照らされた彼女の表情には憎悪も軽蔑もなかった。

 

「でも、だからって貴方が傷つく必要はないでしょう?」

 

 ルビアの言葉で現実により戻される。

 そう指摘されて、六郎は初めて気が付いた。

 

「彼女が貴方を必要としているのと同じように、貴方も安心できる場所を求めてもいいんじゃないですか?」

 

──本当に必要としているのは、俺の方かもしれない。この世界に落ちてからの拠り所を。

 

「……そう、だな」

 

 ルビアは六郎の言葉を待っているようだった。

 

「逆に聞くが、なんであんたは俺のことをそんなに気にかけるんだ」

 

 自分の心情から矛先を逸らすように、六郎は彼女にそう問いかける。

 

「それは当たり前のことじゃないですか。傷ついた人がいれば助けたくなるものですよ」

 

 答えはあっけなく返ってきた。

 

「そうなのか」

 

 それから六郎はひと呼吸おき、ルビアの眼を見据えてから再び口を開いた。

 

「俺には……分からない。そういう人の善意なんて……正直気味が悪い」

 

 決してルビア本人に対して言ったわけではなかった。

 そのことは彼女にもぼんやりと感じられた。

 

「だから俺はあいつの元にいるんだろうな。あいつが何を考えているかは分かりやすい。ある意味心地いいんだ」

 

「そう、ですか」

 

 ルビアが目線を手元に落とす。

 

「わ、私にはどうすることもできないから……」

 

 うわごとのように何度もそれを繰り返す。

 うろたえた様子で、落ち着きなく手を動かしている。

 

「パゼラさんの傍にいてあげられるのは六郎さんだけ、そう言うことですよね」

 

 見かねた六郎がカップに紅茶を注ぎ、それをルビアに差し出す。

 彼女はそれを一息に飲みほした。

 

「ありがとうございます。私としたことがお見苦しいところを……」

 

 六郎は何も反応しなかった。

 一息ついてから、ルビアは伏し目がちになりながら口を開く。

 

「本当はその、契約者がいる方と二人きりで会うだなんて、褒められた行いではないのです」

 

 それから赤らんだ頬で、伺うように六郎の目を覗き込む。

 

「だからこのことは二人だけの秘密ということで、お願いします」

 

 彼女の口から発せられるその言葉は、どこか背徳的な甘みを含んでいた。



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第十一話

【前回のあらすじ】
 実戦テストでパゼラはトリルに勝ったが、しかしあまり彼女の人生は変わらなかった。取り巻きの一人であるリリアナが馴れ馴れしく接してくるのは特に彼女の神経をいらだたせた。
 そんなある日、パゼラはネクラマと勝利のお祝いをする約束を取り付けた。
 そして六郎はルビアとの会話を重ねて、「自分はこの世界で居場所を必要としている」ということに気が付く。


 翌日。

 時刻は正午より少し前。

 

 パゼラの家のドアが叩かれた。彼女は素早く下に降りドアを開く。

 予定では、ネクラマがやったきて実戦テストでのパゼラの勝利を祝うことになっている。

 

「ネクラマ?」

 

 そこに立っていたのは、いつものにやけた口ではなく、リリアナであった。

 右目には眼帯が付けられている。

 

「……何しに来たの?」

 

「あ……いや……その」

 

 目を泳がせながら、彼女は明らかに返答に困っていた。

 

「っていうか、どうしたのその眼帯?」

 

「あぁ、いや、これは何でもないっていうか、その……」

 

 しどろもどろな答弁を続けるうち、リリアナの背後から声が飛んできた。

 

「何してるの?」

 

 二人が思わず目線を集中させる。

 そこには大きな荷物を背負ったネクラマがいた。

 

 しかしその声は今まで聞いてきた気の抜けたそれとは違う、低い洞窟の底から響くようなものであった。

 

「あれー? リリアナちゃんも祝いに来たの?」

 

 次の瞬間には、声は普段の間延びした人の神経を苛つかせるものに変わっていた。

 

「いや……その……」

 

 殆ど涙目になっていたリリアナは、突如として崩れ落ちた。

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 そして懐から折り畳み式のナイフを取り出し地面に置く。

 

「私、その、トリルから、あなたを……殺せって言われて……」

 

 一気に吐き出したかと思うと、顔はみるみるうちに青ざめていった。

 

「……今の会話も、使い魔で聞かれてるから……来る……」

 

「……あんたは何がしたいの?」

 

 彼女を見下げるパゼラの目は軽蔑を越して呆れのそれになっていた。

 

「わ、私は、ただ……良いことをしようと思ったのに……」

 

 リリアナは自分に言い聞かせるようにそう呟く。

 

「まあ、来るなら待とうじゃない」

 

 パゼラは自分の声がほんの少し震えているのに気が付いた。

 

 

ーーーーー

 

 

 それから一分もしないうちに──不安そうに周囲を見回していたリリアナの目線に二つの人影が飛び込んでくる。

 見間違えようなどあるはずもない、トリルとクレインの二人だ。

 

 トリルの方は丸まった背に、一週間は手入れをしていなかったであろうぼさぼさの髪の間からぎらついた目が覗いている。

 しわだらけの制服に、腰からはモーニングスター──トゲ付きの鉄球を持った打撃武器──を下げている。

 

 反対にクレインは、いつも通りの澄ました顔をしている。

 

 トリルはまずパゼラより先にリリアナの方を向いた。

 

「忘れちゃった? 目の次は首だって」

 

 首筋に親指を当てながら、例の嗜虐的な笑みを浮かべる。

 

 それから、懐から取り出した刃物をリリアナに向けて、投げナイフの要領で投げつけた。

 ナイフが足に刺さると、リリアナはか細い悲鳴を上げた。

 

「お前は後。先にこっちのゴミを片付けないとね」

 

 頭を振り回すのと合わせて、ボサボサの髪の毛が宙を舞う。

 そして淀んだ色の瞳がパゼラを捉える。

 

「私さ……あんたのせいで学校いけなくなっちゃったの」

 

 歪んだ笑みを浮かべながら彼女はゆっくりと近づいてくる。

 パゼラの身体は恐怖で芯まで凍り付いていた。

 

 動けない。

 

「だから死ね」

 

 それから火球が放たれる。

 

 ふいにパゼラの身体が宙を舞う。

 誰かが彼女を突き飛ばしたのだ。

 

 命中しなかった火球はしばらくの間芝生を焦がし、それから消えた。

 上体を素早く起こしながら、パゼラは──自分を突き飛ばした──寝そべる六郎の頭に容赦のない蹴りを加える。

 

「あ……あんたのせいだからね、あそこで殺させてくれなかったんだから!」

 

「それは……そうだが」

 

 いつものように気の抜けた返事を六郎が返す。

 それを聞いて、パゼラの緊張の糸が切れた。

 

「じゃあ今が、あいつを殺すべき時ってこと。今度こそ全部終わるってこと」

 

「とっとと……死ね!」

 

 パゼラが立ち上がるのと同時に、またもや火球が放たれた。

 雑なコントロールから放たれたそれを二人は難なく回避する。

 それから数発が間断なく放たれたが、やはり二人は避けて見せる。

 

 いたちごっこが続くかと思われたその時、外れた火球の一つがネクラマのバッグに命中した。

 その瞬間、バッグは大きな火柱を上げる。みるみるうちに火は乾いた木でできたパゼラの家を飲み込んだ。

 

 パチパチと音を立てながら火の粉を散らすそれはまるで巨大な焚火である。

 彼女の脳裏には一階で寝ている父親の姿がちらりと浮かんだが、すぐにそれは嘲笑と共に消えていった。

 

──ようやく天罰が下ったんだ。

 

 そしてパゼラは、背中に熱を感じながら目の前の相手に目を向ける。

 

 トリル自身も何が起きたか理解するのに時間がかかったようだが、そんなことはどうでもいいと再びパゼラの方に向き直った。

 足の甲が伸び獣のそれに変わる。

 

 折り曲げた足を伸ばし、一瞬で距離を詰める。

 その間にパゼラは横へ飛びのき、六郎の身体はその場で徐々に透明になり消えた。

 

「臭いまでは消せないわね!」

 

 そう叫びながらトリルが鋭利な爪を何もない中空に突き出す。

 何もない空間からとめどない血がこぼれだす。直後、腹から大量の血を溢す六郎の身体が現れる。

 

「嘘ッ」

 

 それがパゼラに一瞬の隙を生んだ。

 彼女が地を割る土塊を放つより先に、人のそれを超えた反応速度でトリルが飛びかかる。

 

 そして彼女はそのけむくじゃらの手で腰のモーニングスターを抜くと、パゼラの脇腹めがけて振りぬいた。

 完璧な姿勢とは言い難かったが、獣の膂力でそれは十分すぎる破壊力を発揮した。

 

 肋骨が嫌な音を立てる。

 激痛に思わずパゼラは跪く。

 

「押さえつけとけ!」

 

 それを見て満面の笑みを浮かべるトリルが、意気揚々とクレインに命じる。その眼はもはや焦点も定まっていない。

 クレインは素早く後ろに回り込むと、パゼラを羽交い絞めにした。

 

「悪く思わないでよね、私だって生きるのに必死なんだから」

 

 極めて平静にクレインは耳元でそう言った。

 それからゆっくりとトリルがパゼラに近寄る。

 

「じゃあこれで、あんたは消えてなくなるのよ」

 

 ポケットから取り出したそれは、黒緑に鈍い輝きを放つ水晶。

 パゼラが作り出した──そしてトリルが奪った──死の宝珠に違いなかった。

 

 それを握りしめ、ゆっくりとパゼラの顔に近づける。中で蠢く黒い大気は、目の前の怨敵に叩きつけるはずだったもの。

 絶望がパゼラの胸をいっぱいに満たしたとき、不意にトリルの手から宝石がこぼれ落ちた。

 

 いや、そうではない。

 

 見れば、トリルの手頸から先が消失しているではないか。

 地に落ちた水晶の傍らには、腐り落ちたトリルの右手の骨が転がっている。

 全員があっけに取られている内に、パゼラは頭を突き出した。

 

「ぐぎゃぁぁあッ」

 

 彼女の角がトリルの目に突き刺さり、後ずさる。

 消えた右手で必死に目を抑えようとする。

 

「痛ッ」

 

 それから急にクレインの拘束が緩んだ。

 拘束が解けたパゼラは脇腹に肘鉄を加え、それから振り向きざまに蹴りを加え吹き飛ばす。

 

 クレインの立っていたところを見ると、腹を抑えた六郎が立っていた。

 右手にはリリアナのナイフが握られている。彼がクレインの肩をナイフで刺したのだ。

 

「あそこで寝てればよかったのに、なんで……」

 

 パゼラがそう言い終わるのと同時に、六郎が膝をつく。

 それを見た彼女は反射的に駆け出し、穴の開いた六郎の腹に手を突っ込む。

 パゼラは自らの能力で彼の溢れ出る血を止めた。

 

「これで、まだ立てる?」

 

 殆ど意識を失いかけながら六郎は頷く。

 

 それからパゼラはトリルに向き直る。

 角が刺さった目は真っ赤に染まっており、さらに禍々しくなっていた。

 

 トリルと対面したが、パゼラに恐怖心はなかった。腕全体に広がっている暖かな感触が、もたれかかる重みが、彼女を勇気づけている。

 

「どうせあんたのことだから──」

 

 焼け付く空気を肺に吸い込んでから、吐き捨てるように、同時に堂々と口を開く。

 

「わたしにやられて、面目立たなくなって、みんなから見捨てられたんでしょ?」

 

「ううううううぅぅぅぅぅ!」

 

 口から唾液をまき散らしながら、もはや言語にもならない絶叫を上げながらトリルが再び駆けだす。

 そうして一瞬で距離を詰めると、モーニングスターを頭上に掲げた。

 パゼラは六郎から身を離し小さく躍動すると、鈍器が振り下ろされる前にトリルに向かって体当たりをした。

 獣の筋力から繰り出された跳躍を止めることは出来ず、パゼラはあっけなく吹き飛ばされる。

 

 一方のトリルは、苦々しい顔をして空中でモーニングスターを放り投げていた。地面に膝をつく彼女の腹部には、真っ赤な水晶のようなものが刺さっていた。

 それは、六郎の血を固めて作られたナイフ。

 トリルはそれを抜こうとするが、しかし血で出来ている故に滑りうまくいかない。

 

「この……ゴミ虫がぁ!」

 

 そう叫びながら顔をあげたトリルの視界に、パゼラの足が殺到する。

 防ぐ暇など存在せず、それを喰らったトリルは脳が揺さぶられる衝撃に襲われながら、あおむけに地に倒れる。

 パゼラは近くに落ちていたモーニングスターを素早く拾ってくる。

 

「また飛び跳ねられたら嫌だからね……」

 

 独り言を呟きながら、彼女はモーニングスターを頭振り上げる。

 それはトリルの足へ、渾身の力を込めて叩きつけられた。

 

「ぎ、げはぁ」

 

 ぼんやりとした脳内で鈍い痛みが暴れまわる。

 それからパゼラは何度も殴打を繰り返し、最後には骨が裂けて見えてきた。

 

 一旦、痛みが止む。

 何事かと思いながら、やっと意識がはっきりとしたトリルが身体をよじりながら見ると、パゼラは潰れた彼女の右足に手を当てていた。止血をしているのだ。

 

「まだまだ、顔に行くまであと三回は楽しめる」

 

「嫌だ、こんなどうしようもない、底辺のゴミに殺されるなんて嫌だ! 助けて、パパ、助けろよぉ!」

 

 その直後、再びモーニングスターが振り下ろされる。

 今度は左腕だ。灰色の毛が宙に舞う。

 その間、トリルは一心不乱に叫び散らしていた。

 

「うるさいんだよ、もう黙ってろ!」

 

 左腕を潰し終わったところで、無防備なトリルの顔面を全体重を込めて踏みつけた。

 

 それから、パゼラはその手に持った鈍器を放り投げて、トリルに馬乗りになった。

 何度も何度も、その拳を憎き顔に向けて放った。

 今度は観客も邪魔する人も誰もいない。六郎はパゼラの支えを失ってから倒れ伏したままだ。

 

 やがてパゼラは立ち上がると、トリルの首根っこを掴んだ。

 何度も殴打を続けたパゼラの手は裂け血がとめどなく流れていたが、その痛みすらも彼女にとっては心地よかった。

 

 それから最後の、ありったけの力を振り絞って、パゼラはトリルを燃え盛る火の中に放り込んだ。

 もはや悲鳴などは聞こえなかった。人の焼ける、嫌なにおいが辺りに充満した。

 

 そこから振り向き数歩歩いたところで、パゼラは力なく倒れこむ。

 半分はダメージによるもので、そして半分は疲労によるものだ。

 

 パゼラは疲れ切っていた。

 自分の背後で炎上を続けるあばら屋──いままで自分が暮らしてきたそれ──のことを考えながら、このまま眠りに落ちようかと思った。

 

 ふと、彼女は六郎のことを思い出して身体をあげた。

 今すぐにでも眠りたい。そんな気持ちを自分の意志の力だけで跳ね除けながら、彼女は六郎の元にやってきた。

 彼は血を垂れ流し横たわっている。呼吸も浅い。

 

 そこにひょっこりとネクラマがやってくる。

 

「ふひひ、このままじゃ六郎ちゃん死んじゃうよ。もっと止血すれば……まだ分からないけど」

 

 隣に腰を下ろして、パゼラは無心で能力を使い止血を試みる。

 六郎は力なく手を伸ばし、パゼラの腕を握る。

 

「もう…………十分だろ」

 

 その手は乱暴に払いのけられた。

 

──ああ、まだ死ねないのか。

 

 再び朦朧とする意識の中で、彼は一層強く思った。

 

 

ーーーーー

 

 

 六郎が目を覚ますと、見覚えのない天井。

 違和感を感じる匂いは、他人の家に初めて入った時のそれだ。

 横を向くと、隣のベッドにパゼラが横になっていた。

 彼女はすでに目が覚めていた。

 

「ひひひ、生きてたねー」

 

 見計らったかのようにドアからネクラマが入ってくる。

 

「ここは学校の寮。パゼラちゃんの家は焼けてなくなっちゃったからねー」

 

水を入れたコップを二人の枕元に置きながら、ネクラマは続ける。

 

「それでさ、二人は行くところある?」

 

 パゼラと六郎は首を横に振る。

 

「でしょー? じゃあ、ここで暮らしてかない?」

 

「まさか、最初からそれが目的で私の家に来ていたんじゃないでしょうね」

 

「えー、そんなことないよー」

 

 

ーーーーー

 

 

 時は遡る。

 燃え盛るパゼラのあばら家から這い出す人物が一人。いつも一階にいた中年男性──パゼラの父親である。

 全身がひどく焼け焦げているが、魔法防御をしてなんとか一命はとりとめている。

 

 その人物を、ネクラマはしゃがみ込んで見つめている。

 まるで蟻の観察をする子供のように。

 

 やがて丸焦げの人物がそれに気が付く。

 助けを求め、手を動かす。

 

「私が誰か分かる?」

 

 普段とは違うあの冷酷な声でネクラマは問いかける。

 件の人物は、喉も焼け焦げ声が出せない状況であった。

 

 それからネクラマは立ち上がると、その人物を蹴りつける。

 何度も何度も蹴りつけ、最後にはパリパリに焦げた首がちぎれた。

 彼女は取れた首を無感動に眺めていた。

 

「あんたがいなければさー、私だって生まれてくることなかったんだよ? ちゃんとあの世で反省してね」

 

 それから転がった頭を思い切り踏みつけ、地面に擦り付けるように踏みしめる。

 その凄惨な様子を、這いつくばりながら見ていた者が一人。

 リリアナである。

 

 ネクラマが踵を返すと、リリアナと目が合った。

 普段彼女の顔を覆い隠している分厚い前髪は無かった──乱れた髪からはネクラマの目が覗いていた。

 ()()()()と呼べる目の中に、禍々しい琥珀色の瞳が浮いている。

 

 それがリリアナにはひたすらに恐ろしかった。

 

「見た? 見たよね?」

 

 狂気を孕んだその黒い声に、思わず悲鳴が漏れる。

 

「ひっ……」

 

 リリアナは必死に首を横に振った。

 

「その、黙っているから……私、見てないから……その人を……こっ、殺したの」

 

「見たでしょ? ()()()を」

 

 燃え盛る炎に照らされ、リリアナの元まで伸びていたネクラマの影が、突如として実体を持ち宙に浮いた。

 それはリリアナの首元にまとわりつくと、徐々に力を強めた。

 

 そしてボキリという太い音と共にリリアナの身体は地面に投げ出され、二度と動くことはなかった。

 

「あなたはそこで何してるの?」

 

 ポケットから取り出した櫛で前髪を整えながら、ネクラマは背後に立つ人物に声をかけた。

 

「いやぁ、トリルはもう終わりだからさ。路頭に迷っちゃって」

 

 答えるのはクレインだ。

 六郎に刺された肩から血を垂れ流している。

 

「じゃあさ、私の奴隷にならない?」

 

「奴隷って、まあ、それは妥当だろうけど」

 

 普段と全く変わらぬ様子で、もの言わぬリリアナを見下ろしながらクレインが言う。

 

「ひひひひひ、じゃあこれ」

 

 ネクラマはしゃがみ込むと、クレインの影に手を伸ばした。

 それから何かを拾うような動きをすると──クレインの『影』を掬い上げていた。

 見ると、クレインの影が先ほどよりも薄くなっていた。

 それから彼女はいつもの引き笑いを抑えながらその影を瓶に詰める。

 

「これがある限りあなたは私の命令に絶対服従だから、いいね?」

 

 これ以外に生きて帰る術はないと、クレインは確信していた。

 

 

ーーーーー

 

 

 時は戻って、パゼラとネクラマの会話の場面。

 

「うーん、こうやってパゼラちゃんの面倒を見てあげるなんて、私お姉さんみたいじゃない?」

 

「は? 何言ってんの?」

 

 しばしの沈黙。

 ネクラマの口は珍しくへの字に曲がっていた。

 

「……まあ、行く当てもないからそうするしかないんだけど」

 

「ひひひ、じゃあ先生にそう伝えてくるねー」

 

 言うが早いか、ネクラマは部屋から飛び出す。

 パゼラと六郎は二人きりになった。

 

 昼の暖かな陽気が窓から入ってくる。

 六郎は久方ぶりの心地よいベッドの感触を楽しんでいた。

 

「六郎」

 

 不意にパゼラが口を開く。

 

「わたしのこと、嫌いだよね?」

 

「ああ」

 

「わたしのこと、哀れな奴って思ってるよね?」

 

「ああ」

 

「そう。わたしもあんたに同じことを思ってる」

 

 一度会話が途切れる。

 すべてを包み込む春の日差しの中で、ゆっくりと時間が流れている。

 

「それから……あんたはわたしに生かされてるの? 分かってる?」

 

「ああ」

 

──そうだ。俺の居場所はここにしかないんだ。

 

 六郎はそう思いながら、まどろみの中で瞳を閉じた。



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