帝國の書庫番 (跳魚誘)
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帝國の書庫番 一幕

有坂孝晴と刀祢麟太郎の話。


 女中に尋ねてみた事がある。どうしてみんな、もっとはやく走らないの?と。女中は、子供はみなそう思うものでございます、坊っちゃまのお元気には大人はかないませんから、と答えた。やはり、と思ったものだ。その女中の言葉すら、意識して「遅く」しなければ、自分には聞き取れなかったのだから。

 

 帝都には物が集まる。幕府の時代から脈々と整備された物流網の賜物だ。寺前の目抜きは乾物や刃物、草鞋下駄、各地から仕入れた品々の店が並び、常に賑わっている。そんな人だかりの中を一人の少年が歩いてゆく。紺地の絣に普段履きの下駄。頭の後ろで結われ背中まで届く髪が特徴的な少年は、饅頭屋の前で立ち止まった。

「おばちゃん、今日のは小豆かぃ?」

「ああ、有坂の坊ちゃん。そうだよ、北前でいいのが届いたからね。」

「じゃ、ひとつおくれ。」

「はいはい、いつもありがとうね。」

「へへ、帰ったらまた勉強だから、ハラが減っちまうんだ。」

「そうかい。ゆっくり食べていきなさいな。」

 小銭を小さな手から受け取り、女将はさらのまま少年に饅頭を渡す。少年は毎度、その場ですぐに食べ切ってしまうのだ。しかし、通りの向こうから聞こえた悲鳴のような声に、一瞬女将の手が止まる。ここからでは見えないが、喧嘩でも起きたのだろうか。

「おや、なんだろうね?ああ坊っちゃん、ごめんよ……。」

そう言って女将が目線を戻した時には、少年の姿は跡形もなく消えていた。

「坊っちゃん?孝晴坊っちゃーん?」

女将は手に饅頭を持ったまま、途方に暮れた。

 

 手に風呂敷包みを抱えた女が、地面に尻餅をついている。彼女は目の前にある菓子屋から出てきたばかりで、その包みには菓子屋の紋が入っている。どこかへの手土産にするつもりだったのだろう。その包み目掛けて店と店の隙間から飛び出してきた小さな影を、通りすがりの人々ははじめ、獣だと思った。しかしその、褐色の毛に覆われた獣は、突如現れた少年に首を押さえつけられ、呆然としている。

「人様のもんに手を出すのは、畜生のやることだぜ、お前ぇよ。」

前屈みになり、それを押さえつけながら少年が言った。背中まである髪が、はらりと一房、胸元に落ちる。そこで漸く、周りはその褐色の獣が、どうやら人間であるらしいと気づいた。着物も肌も見分けがつかないほどに汚れて擦り切れ、ほぼ半裸の体は、少年よりも小柄だった。その体を、伸び放題のぼさぼさ髪が覆っているのだ。余りに異様な風体に恐怖を感じたのか、後ろにへたり込んでいた女が顔を青くして後ずさる。少年は押さえつける手を離さぬまま言った。

「姉さん、中身は無事かい?」

「へっ!?ええ、お待ちになって……。」

「ダメになっちまってたら、これで替えてもらいな。」

少年はちらと彼女を見やり、左手で懐を探ると、金属片を投げてよこす。女が慌てて受け取ると、彼女の目がこぼれんばかりに開かれた。

「こ、これ、丁銀じゃないの!あなた……!?」

「有坂のもんだよ。小遣いには不自由してねぇんだ。」

少年の返答に周囲はざわついた。少年は一つため息を吐くと、暴れるでもなく押さえつけられたままの小柄な人間に目を向けた。それにしても酷い有様だ。掌も胸元も膝も硬くなりかけた傷だらけで、殆ど骨と皮しかない。這うようにしてやっと生きていたことが容易に想像できた。少年は片手でその首を地面に押さえてはいたが、力は最初以外入れていなかった。

「『なんで俺から逃げねぇ』んだい、お前?食い物に飛びつく気力しかなかったか?」

軽い口調で少年は言うが、相手は無反応だ。仕方なく少年は、顔を覆い隠すその髪を少しどけてみる。現れたのは、落ち窪んだ眼窩に青い顔、飢えているのは一目でわかる。しかし、その相手は幼い瞳でじっと少年を見つめている。彼も、恐らく少年と同い年か、もしくは年下くらいの少年だった。

「もう一度言うが、『怖い』ならさっさと逃げていいんだぜ。」

その言葉にも反応はなかった。

「言葉はわかんのかぃ?」

すると、ゆっくりと、僅かに、少年の瞼が下り、そして再びゆっくりと開いた。

「そうか、通じてんだな、言葉……。」

周囲は静かだ。実際には周りに集まった人だかりは、「有坂」と名乗った少年に向かい何かを騒ぎ立てているが、彼は意図的にその音を遮断していた。仰向けに地面に張り付いたままの少年の瞬きを肯定と捉え、有坂孝晴は目を細める。

「俺から逃げねぇなら、お前ぇはまだ、『人間』だ。」

 そう言って、孝晴は軽々と少年を抱え上げる。同時に音を「合わせる」と、驚愕の声が奔流のように耳を貫き、孝晴は僅かに顔を顰めた。

「あの子、有坂の子だって!?」

「なんてこと、公爵家の坊っちゃんじゃないの!」

「あ……有坂家の子が、そんな乞食に触っていいのかい!?」

わんわんと響く声に対して、ボロくずのような少年を抱えたまま、孝晴は笑う。

「うんにゃ、うちの家訓でな。『手を出したら、最後まで責任を取る』ってのが母上の教えさ。……手ェ出しちまったからな、俺がコイツの責任、取らなきゃならねぇんだよ。」

 

 

「ご無沙汰です、富さん。」

 低くはあるがよく通る青年の声に、女将は顔を上げた。そこには、烏羽一色の軍服をまとった青年が立っている。その姿を見た女将は、顔を皺くちゃにして笑みを浮かべた。

「おやまあ麟ちゃんじゃないかい!最近来ないと思ってたらまあまあ!」

「有坂様が命じなかったものですから。」

全くの無表情のまま答える青年にも、女将は「相変わらずだねぇ」と笑顔のままだ。

「あれ、襟巻きが変わったね。昇進したのかい?」

「ええ。今は中尉として隊を率いる身です。」

「まあ偉いことだねぇ。来ないから全然知らなかったよ。お祝いにおまけしとくかね。」

「いえ、店の負担になるようなことはよして下さい。私なぞのためにそんな。」

淡々と断る青年の言葉を笑って流し、女将は油紙を手に取った。

「坊っちゃんのはこし餡だろ?」

「はい。六つで。」

「あんたのは?」

「……。」

青年は黙ってしまう。まるで睨み付けるかのような鋭い目、感情が全く浮かばない人形のような顔。そして、身に纏う警兵の軍服。初めて彼が店に現れた時、すわ下男が盗みか殺しでもやらかしたのかと、女将は肝を潰したものだ。実際には、彼は有坂公爵家の縁者で、あの有坂孝晴の使いで訪れている、礼儀正しい青年であると、何度目の来店で女将は知ったのだったか。

「選べないかい?」

「はい。……すみません。」

「じゃ、同じのにしとくね、坊っちゃんのと。」

「……はい。」

女将は六つと一つに分けた饅頭をくるくると包み、銭と交換に渡しながら言った。

「けど麟ちゃん、この時間ってことは休みだろう?やっぱりいつもその格好はやめた方がいいんじゃないかい。みんな怖がっちまうよ。」

「この軍服の存在が抑止になるなら、それに越したことはありません。帝都が、ひいては帝國が平和であることが私の願いであり、役目です。」

「やっぱりあんたはいい子だねぇ。」

女将は溜息を吐きつつ、小銭を受け取り笑う。対照的に、青年は包みを抱えて俯いた。

「……皆さんそう言いますが、私は、違うと思います。私は私の目的の……。」

「はい麟ちゃん、お金多いよ。七つ分払おうったって、あたしゃ金勘定ができないほど耄碌しちゃいないよ。好意くらい大事にしとくれ。」

「……はい。ごめんなさい。」

ぺこりと頭を下げる青年に、女将は満足そうに笑みを浮かべた。

「それにもう、何年前になるかねぇ。あの坊っちゃん、金だけ払っていなくなっちまったことがあったからね。その時の分とでも思っときなさいな。……あの頃はしっかりした子だったねぇ、あの坊っちゃんも。」

青年は頭を上げ、一瞬だけ目を細めたが、もう一度軽く会釈をして店を出て行った。

 

(結局、私の分までいただいてしまった。)

 刀祢麟太郎は、烏羽色の外套の下から包みを取り出して眺める。ここの饅頭は、有坂孝晴が昔から変わらず好んでいるものだ。普段、彼の分を買うことがあっても、麟太郎が自分のために買うことは滅多にない。警兵中尉の麟太郎が、孝晴のために動くことは、良く思われてはいない。有坂公爵家唯一、武官にすらならず文官の片隅に収まっている、あの「木偶の三男」。女将が「あの頃の」と言ったように、世間の有坂孝晴に対する評価は、そんなところだ。何が原因か赤犬のような褐色の髪をもつ麟太郎に対し、「有坂の犬」と揶揄する者もいる。出来の悪い木偶の坊とその飼い犬、そう言いたいのだろう。麟太郎自身は、全く気に留めていないどころか、飼い犬であることに誇りさえ抱いているのだが。

 刀祢麟太郎は、少年期までの記憶を持たない。覚えているのは、あの時、見知らぬ少年が瞬間的に目の前に現れ、組み伏せられたあの一瞬から先の記憶だけだ。自身の生まれも、本当の名前も、正確な年齢もわからない。有坂孝晴は、全てを与えた。飢えから解放された。寒さから逃れられた。言葉と感情を思い出した。後に義父となる師も、彼が見つけた。ただ這いずるだけの野良犬は、彼の番犬として生まれ変わった。なれば、飼い犬と呼ばれることは、麟太郎にとって賛辞でこそあれ、蔑みの言葉にはならない。隊員にはもどかしい思いをさせているらしいが、問題が起こるほどではない。ただ一つ、表情だけは戻って来なかった。彼が元々そのような人間だったのか、それとも失った記憶の中に原因があるのか、それは彼自身にもわからない。だからこそ、彼は警兵を志願した。邏隊よりも強い権限をもち、あらゆる場面で治安維持を行う、冷酷で無慈悲な警兵。感情が表情に出ない彼には、うってつけだった。

(私が世の平和を願うのは、ただ、あの方をお護りしたい、それだけのこと。皆が言うように『善い』人間ではない。)

 

『俺から逃げねぇなら、お前ぇはまだ、<人間>だ。』

 

 あの時の孝晴の言葉の意味は、思考を忘れた当時の麟太郎には理解できなかった。しかし、今はもう、分かっている。孝晴と共に過ごすうち、彼は麟太郎だけに秘密を打ち明けた。彼は、他の人間よりも「早すぎる」のだという。例えるなら、剣に極限まで集中した時、相手の振る剣先の軌道が直感的に読めたり、遅く見えたりする、あの状態が、彼の「普通」だ。

 ゆえに、常人には――いや達人であっても恐らく――彼が本気を出せば、剣先で捕えるどころか、目視すらできない。かつて、少年の孝晴が忽然と現れた瞬間に麟太郎が地面に叩きつけられていたのは、そのためだ。逆に、孝晴は意図して周りに(彼の言うところの)「頭の回転数」を合わせなければ、話す声を聞き取ることすらできない。周りは静止し、たった一人、彼だけが知覚する世界。人より速い動物ですら、いや動物だからこそ、彼を「脅威」と認識し、怯え、もしくは敵意を向け、避ける。だから、彼は麟太郎を「人間」であると判断したのだ。確かに、麟太郎があの時の記憶を思い返すと、根源的な恐怖心を覚えてはいたのだが。それよりも、十五の孝晴が見せた、あの冷たさと諦めを孕んだ表情から、目が離せなくなっていたのだ。

有坂孝晴は、國務省第三書記部の一等書記である。書記部の中でも書類の精査と整理が仕事で、「書庫番」と揶揄される部署である。孝晴は普段、仕事場にも顔を出さずにぶらぶらとほっつき、申し訳程度についている部下にも殆ど仕事をさせない。しかし、彼は休日に職場に出てくると、その日「だけ」で溜まった処理を全て一人でこなしてしまう。何故そんなことをするのかと聞くと、「一時に全ての情報を入れた方が、頭の中で関連づけしやすい」という答えが返ってきた。彼は「整理のため」に回される書類「全て」を覚え込み、そして、別々の書類の中にある情報の点を線にすることで、「なんらかの問題」を見つけてしまう。そして――それを、他人に知られないように、片付けに向かう。その「問題」が帝國の機関や、諸外國にまで絡む事態であることも稀ではない。そんな危険な彼の「働き」が世に知られることはない。三男坊である彼が、長男や二男より優秀であってはならないと、彼の中には刻み込まれている。その理由を、麟太郎はまだ知らない。

(この帝都が、帝國が平穏無事であれば……そんな生き方をする必要はないのだ。だから、私は。)

麟太郎は、一つの饅頭が入った包みを、六つの包みの中に押し込んだ。

 

 帝國公文書館の第三棟、中庭に面した一つの事務室に、文官服に身を包んだ有坂孝晴の姿があった。のんびりと書類の束やら綴られた本やらを誰もいない部屋の机に積み上げていた彼は、ふと、手を止めて窓を見た。

「そろそろかねぇ。」

その言葉とほぼ時を同じくして、窓が細く開き、黒い影がするりと音もなく部屋に滑り込む。

「参りました。」

「ん、待ってたぜ。流石庭番仕込みは違うねぃ。」

「貴方がこんな事をなさらなければ、私がこんな風に忍び込まなくてもよいのですが。」

「わぁってらい。」

孝晴はからからと笑った。刀祢麟太郎は静かに窓を閉め、饅頭の包みを彼に手渡す。包みを解いた孝晴は、すぐに一つの包みを麟太郎に投げてよこした。

「他人の好意を無碍にすんじゃないよ、お麟。」

「……。」

「ん、やっぱ饅頭はここのが一番うめぇや。」

無言で饅頭と孝晴を交互に見つめる麟太郎に構わず孝晴は饅頭を頬張りだしたが、一つの饅頭を飲み込んでから、笑って言った。

「顔に書いてあるぜ、お前がもらったって。」

「嘘ですね。」

「そうさな。けど、見りゃわかる。」

「何をですか。」

「お前の顔と、この包み方だよ。というか、誤魔化す気がありゃ、もうちょい工夫はするもんだ。」

「……。」

孝晴は澄ました顔で六つの饅頭をぺろりと平げ、さて、と麟太郎を振り返った。

「これから俺にゃお前の声が聞こえなくなるが……帰るかい?」

「いえ、私はお側にいます。」

「忠犬だねぃ。」

「私は貴方を一人にはしません、ハル様。」

孝晴はちらと麟太郎を見たが、何も言わなかった。

 

有坂孝晴は目を閉じた。そしてゆっくりと瞼を上げる。日は傾きかけていたが、手元にはあと一机分の書類が残っている。孝晴は眉を寄せた。いつもより書類量に対して含まれる情報量が多かったようだ。頭がぼんやりとし、頭痛が始まる。自身の唯一にして最大の弱点がこれだ。食事が足りないと、一気に身体の全ての機能が落ちる。普段は力を出さないのは、常人以上に食料を必要とするのを悟られないためでもある。甘味を摂取するとより頭が「はっきり」するため、仕事の前には必要分だけ買わせるようにしていたのだが。

「お麟。」

「はい。」

部屋の隅で自身の姿が窓から見えないように控えていた麟太郎が、孝晴の方へ顔を向ける。

「まだ終わっていないようですが?」

「六つじゃ足りなかった……。」

「私の分はもう食べました。」

「うー、ちくしょう、飴は減らしたかねぇんだが。」

頭を押さえながら机を漁る孝晴を見て、麟太郎は言う。

「次から九つ買いますか。」

「……んにゃ、あんまり、食う量は増やしたかねぇ。噂になるからな。効率を上げるしかねぇや……。」

「また、衣笠先生に相談してみては。」

「病気じゃねぇからなぁ。ま……また嫌がらせに行ってやるのも、悪くねぇやな。」

そう冗談めかして言いつつも、孝晴の顔色はよくない。麟太郎は静かに机に近付き、小袋を置いた。

「先日、隊員に『喫茶店』という場所に誘われまして。その時にとっておいたものです。足りますか。」

孝晴が怪訝そうに開けてみると、そこには角砂糖が二つ入っていた。

「黒い泥水のようなものに、これを入れて飲むそうです。砂糖が勿体ないと思ったので。」

「……泥水飲んだのかい?」

「はい。ただ……味は泥水ではなかったので。飲めないことはないです。」

「そりゃあよかった。」

苦笑しながら角砂糖を齧る孝晴。その頭に麟太郎が手を触れた。瞳だけで見返す孝晴に、麟太郎は言う。

「少しは楽になりますか。」

目付きの悪い顔に何の色も浮かべないまま、ただただ髪の流れに沿うように頭を撫でる手に、孝晴はゆっくりと目を細め、頬杖をついた。

「俺ぁお前と違って、犬じゃないんだがねぇ。」

 

 夜の闇に、影が疾る。旭暉の帝都は、数多の思惑が蠢く魔都でもある。そこに現れる絣を着流す青年は、ただ人知れず静かに、魔の絲を払いゆく。帝國の「書庫番」の歩みは、どこへ向いているのか。それはまだ、誰も知らない。

 

「帝國の書庫番」

一幕 「有坂孝晴」と「刀祢麟太郎」



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帝國の書庫番 二幕

一幕の一年ほど前、刀祢麟太郎と分隊の任務の話。


『恭がよく躓いたりぶつかったりするのは、やっぱり眇(すがめ)だからだろうねぇ。』

『生まれつきだもの、仕方ないじゃないか。』

『なんて可哀想な子だろう。男だってのに、これじゃあまともに剣も握れないんじゃないかい。』

『士族に生まれたばっかりにねぇ…。』

 

 そんな聲を、聞かされ続けて育った。多分向こうは、俺に聞こえていたとは気付いていないだろう。それでも、悔しかった。俺のどこが可哀想だと言うんだ。はじめからそんな扱いで俺を見るな。俺を惨めにしたいのは、お前達だろうが。血を吐く思いで、剣を磨いた。鋒の軌道は、ずれる。踏み込んだ位置は、遠い。死角が広い。左から狙われて何度も吹っ飛ばされた。それでも。片端者は落とされる警兵の入隊試験に受かり、尉官まで昇進した。だからこそ、あの「ちび」は許せなかった。あんな子供のような風体で、まともに戦える筈がない。俺達の上に立つ為に、「有坂」の名をいいように使ったに違いないのだから。

 

「私と二人での見廻は不服ですか、石動(いするぎ)少尉。」

「……。」

「私は気にしませんし、今は構いません。ですが、他の目がある場所では、上官が声を掛けたら、何か応えた方がいいですよ。」

 日は既に落ち、辺りは二人の持つカンテラの灯だけが照らしていた。前を行く小柄な男も、その後ろに不機嫌そうに従っている男も、烏羽一色の軍服に外套を羽織っており、彼らが警兵であると知らしめると同時に、彼らの姿を闇に溶け込ませていた。

「俺は、あなたを上官だと思っていません。」

「正直でよろしい。嘘をつかれたら、叱らねばならないところでした。」

無表情に答えた小柄な男の、赤犬のような毛色の髪だけがうっすらと闇に浮かび上がっている。後ろの男ーー石動は当然その表情を目にしてはいないが、彼がどんな表情であるかなど、分かりきっていた。彼、石動の所属する東都中央兵団第一五七分隊の長、目の前の、石動よりも頭一つ半近く小柄な赤毛の男ーー刀祢麟太郎は、何が起きても表情を変えないことで有名だった。喜びも、悲しみも、怒りもしない、「有坂の犬」。隊の編成が通知され、この男を初めて目にし、そして副隊長に指名されたとき。込み上げる怒りのままに胸ぐらを掴み上げた時さえ、彼は表情を変えなかった。鍛え上げてはいるが、筋骨隆々とまでは言えない石動の片手でも持ち上がるほどの軽く小さな体で、一体何ができるものか。今回の「見廻」も、その当て付けだろうか。相次ぐ警兵狙いの殺害事件の調査、そしてその下手人の逮捕、もしくは排除。それが今回各分隊に与えられた任務だったが、何故か麟太郎は石動のみを指名し、連れ出している。これでは襲ってくれと言っているようなものだろう。これまでに殺された仲間は皆、一人の処を襲われているのだ。少人数で動くのは、当然避けるべきだ。

(俺が邪魔だからと、始末するつもりではないだろうな。)

屯所から離れ、民家の並ぶ路地を歩きながら、石動は常に周囲の気配を探っていた。生まれつき左目の視力がない彼は、代わりに聴覚を頼って生きてきた。特に、死角からの攻撃であれば「空気の震え」で察知できる。今のところ、状況に変化はない。街の中心部であればガス灯も立ち並んでいるが、住宅地にそんなものはない。幕府の時代から変わらない生活空間の中を無言で歩む二人の姿は、遠目に見れば人魂か狐火のようだ。

ふと、鳥の羽音が頭上から聞こえた。こんな夜更けに珍しい、と思った、その瞬間。

「後ろ!と、左です、石動!」

 鋭い声が飛び、同時に二人が動いた。サーベル拵の官給刀ではなく、取り回しの効く小太刀を抜き、「それ」を叩き落とす。短弓用の細い矢は呆気なく折れ、地面に乾いた音と共に落ちた。周囲は造りの似た平家の民家。方向はわかった。が、姿は見えない。ぽつりと、麟太郎が呟いたが、石動はそれを聞き逃さなかった。

「やはり、『彼となら』二人でも手を出して来ると思いましたよ。」

「どういう意味ですか。」

麟太郎が石動に瞳だけを向けた。感情の浮かばない目。苛立たしい。

「あんたは、俺なら囮にできるとでも思ったのか?」

俺が『可哀想』だから?

その一瞬、怒りが脳裏を支配した、そして、それ故に、動きが遅れた。

「石動!」

咄嗟に足を動かしたが、避け切れない。一本の矢が左足の腓(こむら)部分に突き刺さる。呻き声を噛み殺した石動の゛頭上から゛、声が降ってきた。

「頭を下げて地面に付けろ!」

反射的にその通りに動く。背中の上に重み、同時に、肉に何かが刺さる音が、ほぼ同時に複数回響いた。

「……。」

右目だけで石動は背後を見遣る。地に伏せた石動の背を踏み付ける麟太郎の足元だけが、石動からは見える。しかし、「音」で分かっていた。自分に傷が増えていないのだから、先の攻撃は麟太郎が受けたのだと。足からじわりと痛みと共に熱と痺れが回ってくる。成程、こうして動きを封じて殺していたのだ。足音が一つ、二つ…六つ、いや、七つ。地面に放られたカンテラの光の中に、影が増えてゆく。

「私達が通り過ぎるのを待っていましたね。」

全く声音を変えずに麟太郎が言う。一人が喉を鳴らして笑った。

「随分と卑怯な手を使っていたんですね。一人に対して七人がかりですか。」

「慎重だと言ってくれや、ちび助。」

「ええ、だからこそ『二人で』来たんですよ。必ず『一人』を狙っていた貴方がたの実際を知らなければなりませんでしたので。」

嘲笑が起きた。背中の重みが消える。麟太郎は動けているのか。痺れは腿あたりまで上がってきている。同じ矢で射られたなら、麟太郎はもっと毒を食らっているはずだが……。

男の声が聞こえた。

「帰れると思ってんのか、ちび?警兵ごっこはもっと大人になってからやんな。」

「ま、残念ながら、お前はここで死ぬんだが。」

「死にませんよ。……動くな、石動。毒の回りが早くなります。じっとしていなさい。」

上半身を起こし、なんとか敵と相対しようとした石動は、目を見開いた。麟太郎の身体には、少なくとも五本の矢が突き立っている。

「なんで、あんた、動けて……。」

「理由は今はよいでしょう。私が君を守りますから、自分の事だけ考えなさい。」

言葉を失う石動と対象的に、周囲の男達は侮蔑の色すら隠さなくなってきた。

「なんだぁ?このガキ、まだそっちの片端を庇うってよ!」

「とんだお笑い種だな、新政府の警兵ってのは、やっぱり人員も練度も足りてねぇなあ。」

「おい、ガキ。我慢してんならそっちのお兄ちゃんを置いて逃げな。まともに動けるならの話だが。」

麟太郎は、一つ息を吐いた。そして、小さな体で仁王立ちになる。格好の的だ。

「大事な部下を傷付けられて、見捨てて逃げる上官があるものですか。」

静まり返った周囲とは裏腹に、男達は笑い声を隠さない。

「ははは、こりゃ傑作だな。面白い、根性だけは認めてやるよ、ガキ。お前を跪かせて、それから殺してやる。」

ど、と鈍い音と共に、麟太郎の右太腿に矢が突き立った。もし彼が避けたなら、石動に当たる位置。上半身に向けて放たれた矢は左腕で受けた。何故受けるのか。何故。どうして、彼は倒れない。男達は刀を差している。仲間の遺体も、矢傷は一つか二つ、あとは刀で斬り殺されていた。それでも的当てのように矢を放つのは、ただ甚振っているだけなのだ。左足に矢が刺さったとき、初めて、麟太郎が小さく「ぐうっ」と呻いた。そしてゆっくりと、膝を折る。勝ち誇ったような男達の顔と、自身の命の危機よりも、石動は、麟太郎の動きから目が離せなかった。膝を折り、姿勢を低くし、両手を外套の下に差し込み――

 

「情報は充分得ました。用済みです。」

 

その声と、肉が潰れる音。一瞬遅れて男達が全員、地面に倒れた。ぴくりとも動かない者、悲鳴と呻き声を上げている者。麟太郎は、まるで何事もなかったかのように立ち上がると、呻いている男の首から細い鉄の棒のようなものを抜き取った。ゴボゴボと男が何か言っているが、口から溢れるのは血ばかりだ。

「私が暗器使いであると、知れ渡っても困りますから。ここで全員、死んでいただきますよ。」

そう言うと麟太郎は、抜き取った鉄棒を男の眼球に突き立て、脳天に向かって抉り上げる。既に動かない男達は正確に目を射抜かれており、それが棒手裏剣であるとやっと石動にも理解できた。生き残った男達に、順番に、淡々と止めを刺し終えた麟太郎は、全ての手裏剣を回収すると袖で拭い、服の下に仕舞う。そしてちらと石動を見てから、漆黒の空に向かい「『くろすけ』、いますか」と声をかけた。はたはたと羽音と共に舞い降りたのは、一羽の鴉だった。先程の羽音はこれか、とぼんやりと考える石動の前で、麟太郎は上衣から紙と鉛筆を取り出し、何か書くと、鴉の脚に結えて再び放つ。それが終わると、やっと麟太郎は石動の方へ向き直った。まるで針山のようなその姿に絶句する石動に、無表情のまま麟太郎は言う。

「本部へ『これ』を片付けるよう報告しました。まずは君を治療してもらわなければ。」

「いや……その、」

「私は大抵の毒には耐性がありますから。ただ、力がないのは事実なので、不安定だったらすみません。」

そう言うと、麟太郎は石動の手を引き上げ、背負い投げの要領で勢いをつけて背に載せた。石動の視界の先で、刺さった矢を伝い、地面にぼたぼたと黒いものが垂れ落ちた。

「待っ……待ってください、歩けます、その傷じゃあんたの方が……。」

「嘘はいけません。そろそろ下半身全体に来ているでしょう。この時間でも対応してくれる知人がいますから。」

図星どころか、言われて初めて気付いた。下半身が動かない。そして、ここまで一切表情を変えず、これほどの傷を受けてなお、あの挙動をしてのけた麟太郎は一体何者なのか。これからどこへ向かおうというのか。ぼんやりとし始めた頭で考え始めた石動は、自身の中から麟太郎に対する嫌悪感が消え去っている事にも、途中で自身の手から握っていた小太刀が抜け落ちた事にも気付かなかった。

 

 帝國陸軍衛生部医事本部乙種研究棟第三室。石油ランプの薄灯りに照らされた部屋に、紫煙がたなびく。白衣と鼻眼鏡を身に付けた若い男は、「室長」と書かれた板の置かれた机に座り、煙管を燻らせながら分厚い書物に目を走らせている。どうやら旭暉語ではないその本のページを白く細い指がめくったと同時に、外から扉が叩かれた。女性的にすら見える長い睫毛の下の瞳がスッと動き、本から扉へと視線を移す。

「誰だ、それと要件は。」

『二等衛生兵、藤ヶ森です。守衛より、衣笠室長に緊急の連絡と。負傷者が二人、警兵です。』

「そいつが俺を指名したんだな?」

『はい。』

男は一気に煙を吐くと煙管を丁寧にしまい、つかつかと部屋を横切り扉を開けた。伝令にやってきた衛生兵は唐突に開かれた扉に驚き後退ったが、男は気にも留めず、制帽を被りながら言った。

「連れてこい。いや、俺も行く、一緒に来い。で、運ぶのだけ手伝ってくれ、あとは俺が片付ける。」

「は、はい、分かりました、衣笠室長。」

「さて、今度は何をやらかしたかね、リン公……。」

室長――衣笠理一(としかず)は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながらも、口端だけを上げながら、小さく呟いた。

 

「夜分にすみません、衣笠先生。」

「夜分にすみません、じゃねぇ!なんだその格好は……。」

 急ぎ門の前に駆け付けた理一は驚愕と呆れが入り混じったような表情を浮かべた。腕から足から針山のように矢が突き刺さった男が、ぐったりとしたもう一人の男を背負って立っている。全身烏羽の軍服で分かりづらいが、足元を見れば血だまりができかけていた。その後ろには点々と血の足跡が続いている。

「どっから歩いてきた。」

「五弁花橋方面から。」

返答を聞いた瞬間、理一の顔色が変わる。

「馬っ鹿野郎!すぐ上の奴を降ろせ!」

「そうですね、彼は毒を受けて。」

「そっちはそっちでなんとかするが問題はお ま え だ !何で喋ってられる!?これ以上血を失ったら死ぬぞ!」

「まだ、視界は正常です。……それに、彼は私の部下です。先に処置を。」

「同時にやる!おい、お前はこっちだ。俺は下の馬鹿を連れてく!」

「わ、分かりました!」

連れてきた衛生兵と共に麟太郎が背負っていた男を引き剥がすと、彼はぼんやりと「衣笠……?」と呟いた。意識はあるようだがこちらも危ない。そして糸が切れたように倒れ込む麟太郎を素早く受け止めれば、その体は案の定、外套に染み込むほどぐっしょりと血に濡れていた。理一は舌打ちする。

「その場で矢、抜かなかったのは褒めてやるよ、リン公。」

「情報を持ち帰るまでが任務、ですから。そんなことしたら、親父殿に怒られ、ます。」

そして麟太郎は「私の方が階級は上ですよ、衣笠少尉」と呟くと、目を閉じた。

 

 病室の寝台から、窓越しに外を眺める。鳶が円を描くように暫く飛んで、そして去っていく。石動は悩んでいた。あれから三日。負傷から治療までが早かったためか、傷以外の不調は完全に回復している。当然、行かなければならない。彼のもとへ。そう分かってはいるものの、余りにも不甲斐ない自身へのやるせなさと、自覚してしまった視野の狭さ。何より、石動は自分の愚かさが許せなかった。自分は、眇だというだけで見下されることを、何よりも嫌い、それゆえに努力してきた。きっと麟太郎も、肉体的に不利な属性を持っている点では、同じような状況だったのだろう。だというのに……。無力感からか、石動は無意識に顔の左半面を覆う前髪の下の、ガラクタのような眼球に、瞼の上から触れていた。

 その時、病室に大柄な人影が入ってきた。試験に受かり、士官学校に入った時からの同期で、同隊の隊員でもある辻堂武雄だった。真っ直ぐに石動のもとに向かってきた辻堂は、威圧感のある見た目とは裏腹に、気遣わしげに石動を見つめる。

「辻……。どうした?」

「恭の字、ようなかことになっちょ。わいが来んなならん。一緒に来らるっか?」

「動けないことはない。しかし何が……。」

「おいが支ゆ。とにかっ来え。」

 

 念のためと杖を取り、(不本意ながら体格差上仕方なく)辻堂に半分抱えられるようにして別の一室にやってきた石動は、部屋に入る前から怒りに任せて叫ぶ声を聞き取った。入り口で、恐らく担当であろう一等軍医が、困り果て泣きそうな顔で振り返った。

「怪我人に乱暴はやめてほしいと、止めたんですよ私は……。」

(鷹峰?)

 声の主は、同じく同期の鷹峰だった。配属された分隊は異なるが、同期の誼(よしみ)でよく顔を合わせている。二人が部屋に入ると、他の病人はたまたま出ていないのか、仕切りの開かれたいくつかの寝台が並ぶ中、一番奥の仕切りだけが閉じられ、その中から声が聞こえてくる。

「……あいつはな、あんたみたいな足手纏いが居なけりゃ、へまをするような奴じゃない。それであんたは何をした?怪我人連れて、歩き回って、伝手頼りに特別扱いだ?本当にいいご身分だな!」

「あの時はそれが一番早かったからそうしたまでです。知らせを送ってその場で待っていたら、駐屯地から医事本部へ指示が出され、それから医官が現着、その後本部に向かい、漸く治療です。時間がかかりすぎます。」

 

(……!)

 

 淡々とした静かな声。麟太郎だ。石動は動けなかった。違う、違うんだ。その人は俺を庇って、しかも医者に引き渡されるまで、ずっと俺を優先して。

 

「そうだとしても!……一番腹が立ってるのはそこじゃないんだよ……あんたは、あいつを『囮にした』んだよ。あいつは眇で、夜はより視界が狭まる!なのに、」

「それは、石動君に対して失礼な考えではありませんか?」

 

 唐突に尋ね返され、鷹峰の声が面食らったように止まる。続けて語る麟太郎の語調は、あくまで静かだ。

 

「私が彼を選んだのは、彼の実力であれば任務をこなせると判断したからです。確かに、私が行ったのは囮捜査です。ただ、下手人は必ず『一人』を襲っていたことを忘れましたか。それに、襲う対象はある程度選別されていました。多人数や、そうですね、我が隊の辻堂君のように、『仕留め損なう可能性がありそうな』体躯の人間は狙われていなかった。しかし、具体的に彼らが何人の規模で、どこと繋がりを持っているか知るには、彼らに相対した上で、生き残らなければならない。だから、『私と石動君』で向かったんです。石動君は片目が不自由ですが、それを補って余りある実力がありますし、私がどのように見られるかは、経験上分かりきっています。例え二人組でも我々のような見た目なら、彼らも油断して手を出してくるだろうと踏んでのことでしたし、実際、釣れましたからね。そもそも、狙うならより弱そうに見える私の方だろうと思っていましたから、一番の囮は私自身のつもりでした。石動君なら、私が囮になっている間に情報を持っていってくれる、と。彼は私を嫌っていますから、私を残して去る事を躊躇わないはずです。結果そうはなりませんでしたが、相手に対して情報を引き出す時間ができましたし、彼らを束ねる者が、警兵組織が新造で脆弱であると踏んでいる事、一部内部事情にも通じていそうだという事も分かりましたから、成果としては上々でしょう。あとは死体から何が出てきたか、ですが……それはまだ私にはわかりません。ここから出ていないものですから。」

ぐ、と鷹峰が声を詰まらせた。それでも彼は言い募る。

「けど、なら何であんたはそんなにピンピンして、あいつは、」

「やめろ!」

 杖を投げ捨て、辻堂の手も振り切り、殆ど体当たりをするように、石動は仕切りに飛び込んだ。がしゃん、と脆弱な柱が鳴り、布の仕切りの先にある寝台に突っ込む。目を丸くしている鷹峰と、いつも通り無表情の麟太郎。上半身だけ起こしたその体は全体を包帯で覆われ痛々しいが、その表情と語調のため、平気そうに見えるのだろう。それでも流石に体に触れるのは躊躇われたのか、鷹峰の手は麟太郎の髪を掴んでいた。

「離せ、鷹、やめろ、その人は何も悪くない。」

「恭兵……?」

鷹峰は茫然と手の力を抜き、麟太郎は石動を見て、言った。

「石動少尉、何かありましたか。火急でないのなら、まだあまり動かない方がよいですよ。足に障ります。」

「ッ、」

石動は言葉を詰まらせた。ここまでされて、他人の方を心配するのか。どうして。

「何故……自分の事は言わないんですか。」

「自分の事、とは?」

「あんたの方が俺よりよほど酷い怪我して、あんたが一人で奴らを全員始末して、あんたが俺を命懸けで運んで助けたって事、なんで言わないんですか!」

 麟太郎は二度ほど瞬きをして首を傾げた。対照的に鷹峰はぎょっとした顔で麟太郎を見遣る。あの時の医者の声が切迫していたことくらい、熱に冒された頭でも覚えている。背後に辻堂の気配も感じたが、もう止められない。様々な感情が混ざり合った涙で視界が滲む。石動はそれ以上麟太郎を見られず、寝台に縋るようになりながら俯いた。

「全部、俺が悪いんです。あの時、俺は任務中なのに、あんたに対する怒りの方に気を取られた。それがなければ、こんな失態しなかった……あんたが、俺を庇わなきゃならなくなる事もなかった。俺は馬鹿です、何も分かってなかった。自分が一番努力していると慢心していた、大馬鹿者です……。」

「恭兵、お前、」

「そうでしたか。」

感情のない、というより、抑揚のない声。しかし麟太郎は少し俯き、言った。

「私は嫌われていても構わないと思っていましたが……それが君の集中を妨げる原因になってしまったんですね。私がもっと、信頼を得る努力をすべきでした。申し訳ありません。」

「!?」

石動は驚愕し顔を上げ、その場の全員が言葉を失ったが、麟太郎は気にする様子もない。

「けれど、君はやはり優秀ですね。気を取られていたにも関わらず、避けることができたのは君の実力ですよ。」

「避けた……?いや、避けられなかったからこうなって、」

「あの矢は膝裏を狙っていました。完全に気付けていなかったなら、膝関節の骨が砕けて歩くこともできなくなっていたはずですよ。それを避けたのは、間違いなく、君の力です。」

 その言葉に、石動は悟った。彼こそ、間違いなく、彼自身の実力でそこにいるのだ。そして自分は、彼には一生敵わないのだろう、と。

 

 天高く馬肥ゆる秋。陸軍病院内の庭には陽だまりができている。麟太郎は背もたれのある長椅子に座り、うたた寝をしているように見えた。その膝には一羽の鴉が巣篭もりでもするかのように腰を据えている。近付く足音に気付いたのか目を開けた麟太郎は、石動に言った。

「もう、杖がなくても平気ですか。」

「いや、そもそも隊長の方が出歩いたら駄目でしょう……。呼ばれたから来ましたが。」

「……君に『隊長』と呼ばれると、なんだか妙な気がしますね。」

頭の片隅で、麟太郎でも「妙な気持ち」を感じるのかと驚きながらも、膝の上の「くろすけ」を撫でる麟太郎の隣に、石動は腰掛ける。

「それで、その……何用ですか?やっぱり俺、降格とか除隊とか……。」

「違いますよ。どうしたんですか、君らしくもない。」

石動は一つ息を吐いた。鴉の「くろすけ」は麟太郎の手の下で、気持ち良さそうに目を閉じている。

「俺は、今まで自分を周りに認めさせる為だけに生きてきたんだと、気付いたんです。強くはなれたと思います。ただ、結局それだけで。隊長とは、器自体が違うんだと。そう思ったら、糸が切れたというか……今までの俺は一体何だったんだろう、と思って、ここにいる価値がわからなくなりました。」

「器?についてはよく分かりませんが、そう卑屈にならないでください。四日前……あの時にも言いましたが、君には実力があります。自分の弱点を補うために努力できる才能があるという事です。だからこそ、よい友人が集まるのではないですか。あの鷹峰君、第一ニ六分隊の所属でしたか、あそこまで怒ってくれる友人というのは貴重ですよ。」

「本当にあれはすいませんでした鷹にも後日土下座させます。」

「気にしていませんよ、私は。……まずはこれを。」

そう言って麟太郎が取り出したのは、刃に布を巻いた小太刀だった。石動ははっとする。あの時、腕から力が抜けて落としてしまったものだ。あの怪我を負いながら、これすら回収していたのか。差し出されるままに受け取ったそれを呆然と眺める石動だったが、それを気にする事もなく麟太郎は言った。

「君を呼んだのは、私のことも話しておかなければならないと思ったからです。」

麟太郎は目線を伏せ、艶々とした「くろすけ」の羽根を撫でる。

「私も、反省したんです。今までは、自分が誰からどう思われようと気にしていませんでしたが、隊を率いるということは、私が隊員を知るだけではいけない……隊員にも、私を知って貰わなければ、誤解が命取りになりかねない。そう、理解したので。私の所為で、不要な犠牲を出したくはありませんから。」

「隊長……。」

「だから、まずは君に、話させてください。……難しいものですね、別に秘密主義ではないのですが、自分から話すのは初めてです。」

皆、特に訊ねてこないので、とぽつりと溢す麟太郎。その表情は無表情だが、何となく、普段よりも困惑しているように感じる。思わず石動は言った。

「教えてください、隊長。正直、知りたい事しかないですよ、あんなところ見せられたら。」

「そう、ですか。」

 ぽつぽつと、抑揚のない声で、彼は語り出した。彼の師は元隠密で、小さく身軽な体を活かした戦い方や暗器の扱いは、彼から習ったこと。その中で訓練として毒への耐性をつけたこと。小柄で華奢な見た目に反して体は頑丈らしい、ということ。

「らしい、って、どういうことですか。」

「訓練を始めてから気付いたんです。耐性をつけるために毒を飲んでも、……まあ初めはのたうち回る事にはなりますが、すぐに慣れるので、三日も調子を崩しはしません。そもそも痛みや苦痛に強いというか、体が慣れているようなんですよね。」

「何かそういう経験が?」

「分かりません。私には六年……いや、もう七年になりますか。生まれてから七年前までの記憶がないので。」

「……!?」

「だから、本当に分からないんです。痛みに強いのも、表情が作れないのも、この髪も、生まれつきだったのか、他に原因があったのか……。ただ、有坂様に拾われるまで、あまりよい生活をしていなかったのは確かなようです。事あるごとに言われますからね、『初めて会った時のお前はそりゃあ酷い姿だった』と。」

 麟太郎の語り口は淡々としているが、その内容は想像を絶していた。警兵の入隊試験に合格する人間は、幼少期から鍛練を重ねてきた士族や貴族の男子が殆どだ。石動自身、自分の弱点を克服できる戦い方を、幼い頃から試行錯誤を重ねた末に会得している。しかし、記憶がないとは。例えそれまでに鍛え上げ、何かしら「体が覚えている」事があったとしても、基本的にそれまでの経験は無かったことになると考えてよいだろう。

「では、その……隊長はたった七年で、あそこまで戦えるようになったのですか。」

「最初の二年は、とにかく『生活と作法』を覚える事に費やしましたし、本格的に訓練を始めたのは、警兵になると決めてからですね。こうして動物の類に懐かれやすいのも、『動物のような生活をしていたからだろう』と言われましたよ。」

この「くろすけ」は特別ですが、と言いながら、麟太郎は鴉の首元あたりの毛を梳るように掻いた。それが猫であったならば、喉でも鳴らしそうだ。指先を動かしながら、麟太郎は少しだけ目を細める。石動には、それが「よくない感情」の現れのように感じた。

「しかし、尉官への昇進は、皆が思っているとおり、有坂家の名前の力が作用したでしょうね。だから、皆の怒りは尤もではあるんです。私にその名を利用する気がなくても、有坂家と関係を持っているのは事実ですから。」

「そちらの人脈を使って昇進した訳じゃない、けれど、有坂家と繋がりがある人をいつまでも一般兵にしてはおけないと、上が勝手に、ですか。」

「私は『有坂孝晴様』に一生を賭しても返せないほどの恩義がある、ただそれだけです。奥方様にも主に勉学や作法の面でお世話にはなりましたが、『有坂家の人脈』を利用できる力など、私にはありませんよ。それこそ私など、有坂家にとっては、拾い犬のようなものです。」

 石動は麟太郎の声を聞きながら、今までの「なんとなく」が間違いではないように思えてきた。語りは変わらず淡々と抑揚なく、表情も変化しないが、彼の敏感な耳は、「有坂孝晴様」と麟太郎が言った時、声にほんの僅かに力が篭ったのを聞き取っていた。最後の一言は、内容は自嘲にも取れるのに、寧ろ語調は、より穏やかだ。石動は、思い切って切り込んでみた。

「隊長。もしかして……感情、ありますよね?」

「…………えっ。」

「驚いてる!驚いてますね隊長!?」

「いや……その、感情が『ない』とまで思われているんですか、私。ありますよ、感情も痛覚も。表情に出ないだけです。」

「でも、声には出ていますね、少しですけど。」

 今度は麟太郎が絶句する番だった。自身の話し方に抑揚がないと自覚はあったが、表情が変わらないのだから声音も変わっていないだろうと思っていた。庭番を師に持つ者として、聴覚も疎かにしているつもりはなかったが、自身のことについては気付かないものだ……。そんな麟太郎の様子を少し嬉しそうな色さえ浮かべて見ていた石動は、はっと気付いて表情を変えた。

「その、俺を庇った時、倒れそうになりましたよね。何故その後動けたのですか。」

「ああ、あれは演技です。」

「……演技?」

石動は目を点にしたが、麟太郎の声音からして、嘘ではないようだ。

「あの状況では、油断させ切ってから仕留めるのが最も効率的でしょう。私は『嘘』はつきませんが、必要な『演技』や『誤魔化し』は当然しますよ。より苦しんでいるように見せかける為に、わざと受けて呻いてみせただけです。」

「……めです。」

「何ですか?」

 ごく小さく、俯き加減に発した石動の言葉は流石に聞き取れなかったらしく、麟太郎が振り向いて聞き返す。石動はゆっくりと顔を上げ、言った。

「隊長は、もっと自分を大切にしなければだめです。」

 

「よぉ、理一(リイチ)。」

「なんだ、有坂の。珍しいじゃないか、平日にその格好は。」

 有坂孝晴は、陸軍病院を訪ねていた。麟太郎がいると聞いた部屋を訪れ、そこで理一と出会したのだ。仕事以外であまり着ない文官服を「平日に」彼が着るのは珍しい。孝晴は肩を竦めた。

「お前さんの執務室ならまだしも、病棟にゃ流石に、遊び人の格好じゃあ入れねぇだろぃ。」

「俺の執務室も、遊び人が出入りする場所じゃないんだがな。」

 理一は息を吐き苦笑する。衣笠伯爵家は、公爵である有坂家より家格は下にしろ、衣笠理一は二十代の若さで現当主である。彼は孝晴を対等に扱う、数少ない人間のうちの一人だった。

「で、お麟は。刀祢の爺さんに頼まれてよ。『あいつは絶対に傷が塞がる前に出歩くようになる、治りを遅くするから絶対にやめるように叱って欲しい』ってな。……なんだかんだで過保護だぜ、お麟の『親父殿』もよ。」

「分かってんな、流石は師匠で養父(おや)ってか。見てのとおり、出歩いてやがる。まだ一週間だぜ?俺も動くなと言ったんだが。」

「まァ、麟は『動いても死なない』って判断できりゃ、動く奴だからねぇ。」

「はぁ……医者の言う事くらい聞けってんだ。犬っコロでももう少し大人しくするぞ。」

溜息を吐く理一に、孝晴はのんびりと笑って応える。

「流石に病院を抜け出したりはしねぇさ。どっかに座るとこでもありゃあ、そこにいる。」

「ったく……仕方ない、探すか。俺も暇って訳じゃないんだがな。」

二人は並んで廊下に出て行く。後には、畳んだ掛布団が置かれた寝台だけが残された。

 

「…………。」

 ぱちぱちと瞬きし、無表情でじっと石動を見つめる麟太郎。今まで憎らしさしか感じていなかった筈なのに、その戸惑う様子は余りにも幼く見えた。いや、既に彼の実力は充分過ぎるほど分かっているが、その純粋さと幼さは恐らく心根の部分から出ているのだろう。何故こんなにも純粋な人間が警兵という道を選んだのかは、石動には分からない。しかし。

「今回は、仕方なかったでしょう。俺が足手纏いでしたから。でも、あんな風に自分の身を削るのは、避けてください。例え分隊だとしても、貴方は我々の隊の『長』なんです。隊長への誤解は、俺が解きます。俺は、隊員として、副隊長として……貴方の隣に立てるよう、強くなります。だから、隊長はもっと自分の事を大切にしてください。」

「私は、……。」

 麟太郎には言えなかった。どんなに必死で追いかけようと、隣に立つ事すら許されない人がいるのだと。あの人の孤独な世界には、常人が努力したところで、決して届きはしない。手を伸ばそうと、孝晴はその手を掴もうとはしない。孝晴の孤独と苦しみに較べたら、肉体の苦痛など大した事とは思えなかった。ただ、せめて傍にいる為に。彼がこちらの世界に留まれるように、こちらの世界に絶望してしまわないように、この國の平穏を守る。孝晴の存在が麟太郎の生きる理由であり、警兵になったのは目的の為の手段でしかない。けれど。

「分かりました。私も、上に立つ以上、無責任にはなれませんし、目的を達するまで死ぬつもりもありません。努力してみましょう。」

その返答を聞くと、石動の表情がまるで音でも聞こえそうなほど明るさを増す。こうも分かりやすいのによく警兵になれたものだ、と表情は変えないままに内心驚く麟太郎の肩を、石動は両手で強く掴んだ。

「では、まず飯を食いましょう、隊長はもう少し体を大きくした方が良いです。あとは表情ですね、顔も筋肉で動かしている訳ですから、鍛えればきっと動くようになります。」

「いや、私この七年、全く身長が伸びていないので、恐らくもう伸びませんよ。」

「だとしても、歳がわからないんでしょう?これから伸びるかもしれないですよ。辻知ってます?あいつの鶏料理がなかなか美味いんです。あ、最近喫茶店っていうのも流行り出しましたよね、今度行ってみましょうよ。」

 非常に楽しげに話す石動は、それまでの彼とは全く違っていた。本来は、人の感情はここまで表情を変えるものなのだな、と内心で感心しつつ、麟太郎は言った。

「……正直、君は警兵に向いていない気がしますよ。」

「相手が隊長だから、です。公私の別はつけると決めました。」

「あと、その……私は痛みには強いとは言いましたが、君ほどの力で傷口を握られると、流石に痛いです。」

「あっ!?すみません!大丈夫ですか!?大丈夫ですかじゃない!何をしているんだ俺は!」

「……。はぁ。」

 

「……何やってんだ、あいつら。」

 なにやら慌てた様子の石動恭兵と、無表情にそれを眺めている刀祢麟太郎を見て、理一が呆れ顔で呟いた。隣で孝晴が可笑しそうに喉を鳴らす。

「なんでぇ、犬が二匹になってやがんじゃねぇかぃ。」

「……いやに嬉しそうだな?」

「さぁな。で、だ。早く連れ戻して説教しねぇと。なぁ、衣笠センセ?」

 理一は一度孝晴を見遣り、大きく溜息を吐くと、白衣を翻して歩き出す。

「おい、そこの馬鹿ども、医者の指示を無視して動き回ってんじゃねぇ。治ってるんなら、今すぐここから放り出すからな!」

 

帝國の書庫番

二幕 「東都中央兵団第一五七分隊」



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帝國の書庫番 三幕

二幕の三月ほど後の話。


 その男は、帝都の外れ、少し前まで國境であった場所に近い荒屋(あばらや)に住んでいた。元はどこかで腕を鳴らした剣士だったとの噂だが、それが本当なのか、そもそもその男の名すら、誰も知らなかった。訪ねる者もおらず、また男が誰かを訪ねる事もない。荒屋までの路も荒れ果てるままに、付近の住民がたまに、刀を差して道着で出歩くその姿を見かけるという事実だけが、その存在を証明している男。少年は、唐突にその男の前に現れた。絣の着物、普段履きの下駄、頭の後ろで結わえた長い髪。男の世界をこじ開けるように荒屋の戸を開け放ったその少年は、笑みを浮かべ、言った。

「なぁ……あんたの剣を、俺にくれねぇかぃ。」

 

 

 からころと下駄を鳴らしながら、有坂孝晴は通りを歩く。当然、本来であれば職務中の昼下がり。忙しなく行き交う人々、白い息を吐きながらも談笑する婦人たち。ああ、帝都は平和だ。数年前までは乞食や浮浪者も近寄る隙があったが、整理と開発が進んだ結果、中心街には殆どそのような姿は見られなくなった。しかし、その平穏の皮を一枚引っぺがせば、狂騒の吐泥(へどろ)が溢れ出てくる事を彼は知っている。文明開花、大いに結構。流れ込む澱(おり)も、また結構。しかし、どぶ浚いができるのは、それに気付いた者だけだ。ゆるりゆるりと歩を進めれば、周りからの呆れと苦笑と羨望が混ざり合った視線が絡み付いては離れてゆく。これだから、自分では気軽に買い食いもし辛いのだ。飴屋の親父なんぞは、あからさまに孝晴を嫌っている。まあ、自分を含め兄弟全員、容姿が悪くないという自覚はあるため、若い女であれば多少は話しかけやすいのだが。有坂家の評判が自分の所為で落ちるような事はない。長兄は海軍中佐を務めた後貴族院議員となり、次兄は陸軍大尉だ。仕事を放り出してぶらついていたとして、落ちるのは孝晴個人の評価のみであるから、母親も気にしてはいないだろう。しかし孝晴の目的は別にあった。

(大胆なことをやるもんだ。もう戦争なんて何十年も前に終わってんのによ。)

外つ國との複数の取引書類中にあった数の不一致。それぞれを確認しただけでは気付かないだろうが、全ての書類を暗記している孝晴は気付いていた。反政府勢力――旧幕軍の生き残りに兵器を横流ししている者がいる。流石に昼間からそのような動きはしないだろうが、軍の本部、各駐屯地、その他を実際の路で結び付け、首謀者の気配を探る。その為の「散歩」だった。「有坂家」の嫡子である自分が通報すれば、例え書記官の身分でも、聞き届けられない事はないだろう。しかし。

(兄貴たちを差し置いて、それはできねぇ相談だわなぁ。)

襟巻を口元に引き上げながら、孝晴は自嘲する。何故自分なんぞに、こんな能力が備わっているのだろう。兄達と違い、自分には何も望まれていなかったというのに。だが、見て見ぬふりができるほど厚顔無恥にはなれなかった。気付いた自分が「どぶ浚い役」になるしか道はないのだ。

 

 

 男は、少年を追い出しはしなかった。少年は、ただ黙って男の動き、型、全てを視る。男は、ただ黙って剣を振るい続ける。そして少年は、一度視たその動き、剣の流れ、力の込め方、足捌き、それを全て再現してみせる。その繰り返し。少年は、剣を振る男の太刀筋や姿勢を「美しい」と思った。高名な剣士だったという噂は、きっと本当だ。しかし、数えで十三の少年には、流派までは分からない。男も、少年も、互いに互いが何者か知ることなく、剣を振る。

 

 

 夕刻。孝晴は、ゆったりとした足取りで執務室に現れた。恐らく彼が来るとは夢にも思わなかったであろう面々が一様にギョッとして表情を変えるが、孝晴がにっと笑うと愛想笑いが返って来た。もう勤務時間は終わっているのに、何人もここに残っているのは意外だったが、一人の書記官が孝晴のもとへ近付き、おずおずと口を開く。

「……あ、有坂一等書記。その、第一書記部からの催促がありまして……。」

「んにゃ、問題はねぇよ。静屋、お前も帰んな。」

「一等書記殿は?」

「勿論、俺も帰るぜ。」

「そうですよね……。」

静屋と呼ばれた二等官は、はぁ、と溜息を吐いた。

「貴方様のご指示には従いますが……。毎度その……締切間際になると、こちらの胃が痛いのですよ。」

「安心しろって、俺が仕事をすっぽかした事があったかぃ?」

「毎日です。」

「はは、違いねぇや。」

もう一度溜息を吐くと、礼をして去っていく静屋。続くように、他の人員もいそいそと帰り支度をし、部屋から出て行く。残った孝晴は、執務室の鍵束入れから書庫の鍵を一つ取り出し、開けに向かう。なに、そこにある筈のものが記憶通りであるかどうか、確かめるだけだ。

 孝晴は彼を始め第三書記部の書記官たちに、最低限の仕事しかしないように命じている。一部の者は楽でよいと思っているようだが、静屋は生真面目な性格だ。孝晴の命令で期限近くまで仕事を残す度、気が気ではないのだろう。こんな事をしている孝晴がいる限り、まともに仕事もできず、昇進も見込めないのだ。可哀想ではあるが、仕方ない。そもそもここは送られてくる書類を整理し、然るべき場所へ納め、要請があれば引っ張り出し、写しを作成し、管理するための部署だ。保管を目的としない重要書類や、各省の機密文書は当然各省で取り扱われている為、内容の精査もそれほど難しいものではない。故に、落第の狭間で受かった者や、取り敢えず役職が必要な道楽貴族もよく送られる。まさに孝晴がその筆頭だ。その「ありとあらゆる軽微な情報が集まる」第三書記部の立場を孝晴は最大限に利用しているが、静屋のように、真面目に打ち込んでもこのような場所に流れ着いてしまう人間もいる。哀れだ。どうして自分の能力の一部でも、まともな期待を受けてきたであろう、彼らのような者が持てなかったのだろうと自身に問うても、どこにも答えは存在しない。

 

 

 「俺ぁ、兄貴を殺しそうになったんだよ。」

 ある日少年は、ぽつりと言った。自分が感情を制御できなければ、人間が死ぬ。そう自覚した時の恐怖。遊びでも剣を握る気になれなくなった少年は、ある時元剣士であるという隠者の噂を耳にした。もしそれが本当ならば。他者に惑わされず、自己を律することができなければ、そんな生き方はできない。それができる人間がいるなら、もしかしたら――。そして少年は男の元へやって来た。本当に自分に必要なものは、誰も自分には与えてくれない。そうこぼす少年に対し、男はやはり黙っており、何も言わなかった。

 

 

 有坂家の屋敷は、孝晴が産まれる前、外つ國の様式で建てられたはじめの建物のうちの一つだ。それだけ新政府と繋がりは深いが、体制が変わる以前から力を持ち続けているのだから、我が家ながら恐れ入る。広い敷地、苔生し美しく石の配置された庭園、「母屋」の洋館には母がいる筈だが、出迎えの女中に軽く告げると、孝晴は庭の道なりに歩み、「離れ」に向かった。純旭暉様の母屋に屋根付きの板廊下で複数の棟が連なるそれは、貴族身分にあってもそれ単体で豪邸と呼べる代物だ。有坂家の兄弟は幼い頃は離れで家庭教師や武道の教師と共に過ごし、ある程度の歳になると母屋に移り、親――母の教育や作法を改めて叩き込まれる。長兄孝雅、次兄孝成はそれぞれ、別の特別な「勉強」をした事は知っている。それが無かったのは、孝晴だけだ。長兄は歳が離れているが、次兄の「勉強」は、探ろうと思えば、造作なく探る事はできた。何せ孝晴は、誰にも見られずに動ける。けれど孝晴はそれをしなかった。畳の上で髪を解き、結い直すと、葛籠を開ける。取り出した黒の羽織を纏い、刀を差すと、孝晴は一つ息を吐き、いつの間にかそこから姿を消していた。

 

 

 少年に真剣を鞘ごと投げ渡し、間髪入れず振るわれた男の太刀の鋭さは、男が本気で斬りかかっている事を示していた。しかし、その表情はあくまで静かだ。少年は、分からない、と思った。自分が本気を出すまでもなく、男の方が「遅い」のだ。とっくに、少年に剣が当たらない事も知っている筈だ、この男なら。ならば何故、こうも静かに、穏やかな殺意を向けるのだろう?男は鞘を握ったままの少年を見ると、自分の振るう刀を少年に向かって投げつけた。少年は難なく抜き身の刀の柄部分を握って受けるが、その瞬間に少年の手から鞘に収まった刀が抜き取られていた。「隙をつかれた」のは、初めてだった。驚愕する少年。男は鞘を払った。二人は真剣を握って向かい合う。

 

 

 晴れ渡り冷え切った月夜。鬱蒼と影を落とす草木の中には、僅かに踏み跡が獣道として残っている。その先には、酷く朽ちた荒屋があった。壁板は白く剥げ、屋根も半分崩れかけている。しかし、思いの外広いその床の上には、確かに人の気配があった。小さな蝋燭を囲み、明かりが漏れないように座す三人の男は、一様に軍服を着用していた。二人は鳶、一人は烏羽。暗がりではその色も判別できないが、当然彼らは互いを認識している。

「此方からは廿四挺。」

「一箱か。」

「それ以上は……。」

「わかっている。それぞれ分包して各実働隊へ送る。予定より少なくはなったが、やむを得まい。」

一人の鳶服が声を顰めながら話すに合わせ、他二人がその手元を覗き込む。その時。

 

「『横流し』の見返りは『それ』かぃ?」

 

 唐突に響いた、穏やかな男の声。弾かれたように三人が顔を上げると、黒い羽織を着た長身の男が、扉の前に立っていた。

「っ、貴様……!?」

一人が思わず声を上げたが、言葉が続かない。他の二人も呆然としている。彼らの脳内では、闖入者が誰なのか、どうやって中に入ったのか、何故気付かなかったのか、目的は何なのか……と、次々と浮かぶ疑問の処理に手間取っているのだろう。「人間(ひと)」の頭の回転は遅ぇなぁと思いながら、黒羽織ーー孝晴は笑みを浮かべて見せる。

「鐡國人どもが、よく書類偽造に応じたもんだと思ったがねぇ。『それ』が手に入るなら別だ。だろ?徒野(あだしの)清司一等警兵、義永(よしなが)龍藏中尉、……小田切禮次郎少佐。」

「!!」

「佐官級まで絡んでるとなりゃあ……『旭暉全図』も『帝國帝都詳細図』も、複写はできらぁな。」

事もなげに発された声に対する驚愕の反応が、孝晴の言葉に間違いがないと示している。一本線に一ツ五弁花の袖の鳶服ーー小田切は既に相手が全てを察していると悟ったのか、口を開いた。

「何故我々だと分かった?」

「陸海警全員の出身・階級・姓名は頭に入れたんでな。特に出身は判断材料になる。つまりだ、候補の中からあんたらだって分かったのは、今ここに来てからっつう事になる。」

そんな馬鹿な事があるか、と三人共に思っただろう。軍部に所属する全員を覚えている、と言ったのか、この男は?

 小田切は一つ息を吐いた。切り替えが早い。そこは流石に佐官といったところか。

「貴様の目的はなんだ。ただ我々の名を当てに来たのではあるまい。」

「まずは『それ』を返してもらう。で、あんたらの蹶起(けっき)も止める。俺ぁその為に来た。」

「……どこまで知っている?」

「まず、あんたらは旧幕臣、もしくは反政府側で戦った藩の出身で、戦争後に割を食ってる。次に、新政府の体制が整って、軍備増強と都市整備が始まった。武器輸入もその一環だ。最後に、各駐屯地、部隊、それぞれに必要な小銃の備品数に応じた発注数に対して、一番少なくて三点、多けりゃ二箱……納入数が減った事例がここ四年で丗件余。備品の小銃が『不良品』として処分されたのが三年の間に百廿余挺。納品書にも廃棄記録にも書き換えた跡はねぇ。偽造がないのは、『最初から虚偽の内容を書いていたから』だ。納品数は色々と理由つけて誤魔化してたよなぁ。小銃は安いもんじゃねぇし、ここまで廃棄が増える理由もない。だが、『頻度』の問題だぜ、少佐。事が起こるまで時間がねぇって分かったのはな。よくもここまで長い間、こつこつやり続けたもんだ。」

滔々と語る孝晴を睨みながら、三人は一様に薄ら寒いものを感じていた。彼らは、長い間、長い長い間息を潜め、少しずつ計画を進めてきた。怪しまれないよう細心の注意を払って来たのだ。それを書面の上だけで見抜いたと?有り得なかった。

「で、今動くことにしたのは、『帝國帝都詳細図』が完成したからだろ。あんたらが動くにも、詳細地図が手元にありゃ都合がいい。旭暉を狙う外つ國にちらつかせる餌にもなる。帝都の構造を知れば攻略の戦術が立つからなぁ。寧ろ、外つ國も味方につけてんのか?ただ、一個わかんねぇんだな。」

「……ほう?」

「あんたらの『目的』。」

孝晴は柔らかな笑みを崩さずに言った。

「ろくな事じゃねぇのは少なくとも分かるが、武器集めて、どこを最終目標にどう動くのかがわからなかった。目的がわからねぇからな。だから、あんたらに近しい人間のいる部隊と、帝都外への連絡が飛ばしやすくて、かつどこの邏隊・警兵隊の目も届きにくい境界地点……つまり、ここを張ってたって訳だ。」

烏羽の外套を着た青年ーー徒野が、ぴくりと反応した。まさにそれを考慮し、開発も及んでおらず灯りもない、つまり移動を悟られにくい場所をと、彼がそれぞれの管轄範囲を調べ尽くして選んだ場所だったからだ。彼は音もなく立ち上がった。他の二人も、義永は孝晴を睨みながら、小田切は気が乗らない風にゆっくりと、立ち上がる。徒野は言った。

「目的を貴様に伝えて、なんになる。」

「なんにもならねぇ。ただ、地図は返して貰わねぇとな。」

孝晴は目を細めた。

「それは『原本』だ。今書庫にあるのは『うち』が作った複写でな。あんたらが事を起こしたら、俺らにも火の粉が降ってくる。」

「……成程。お前は、第三書記部の者か。いや、そうか……有坂の三男か、お前は。」

「知ってくれてんのかぃ。嬉しいね。」

「よく見れば、有坂大尉に似ている。」

「はは。」

小田切は息を吐く。何度目の溜息だろうか。有坂家二男の有坂孝成には一度、合同演習で会った。新政府に繋がる者として排除対象ではあれど、彼の指揮能力には舌を巻いた記憶がある。演習後、それとなく話しかけた。いや、見事な采配だった。噂には聞いていたが、有坂家の者はみなそうなのか、と。青年大尉は謙遜するように微笑み、私など兄に較べたら、と述べた後、複雑な表情を浮かべ、言ったものだ。ーー弟は才覚に乏しい訳ではないんですが、ただ、何もする気がないようなんです。

「その三男坊が、まさかこんな世直しごっこに興じていたとはな。」

「世直しなんかじゃねぇさ。あんたらの方が、自分らをそう思ってんだろうよ。正義の志士だってな。俺がやってんのは、ただの『どぶ浚い』さね。」

「なんだと……!」

黙って孝晴を睨んでいた義永が低く声を絞る。孝晴は眉を下げて苦笑した。

「で、武器掻き集めて、政府に反旗を翻して、どうするつもりなんだぃ?」

「……今の政府は一部特権を得た藩の人間が動かしている。それは当然変える、そして、政府に迎合する帝(みかど)を排除する。」

「義永!」

「おっと……。こりゃ、『万華(ばんか)』の案件だったかねぃ。」

鋭く制した小田切の声を気にするでもなく、孝晴は腕を組んだ。それまで静かだった義永は耐え切れなくなったのか、呪詛を込めるように吐く。

「あんな衛士(えじ)風情の集まりが何だと言うんだ。政府側の貴様にはわからんだろう……我らや、少佐が、ここまで来るのにどれほどの経験をしてきたか……一族の者がどんな目に遭ったか……貴様に……!」

「んにゃ、まぁ、そりゃあ有坂家(うち)は、な。けど、俺も部下と飼い犬が厄介な目に遭うのは捨て置けねぇ。あとは、俺の個人的な話になっちまうがねぃ。」

口調だけは崩さずに、孝晴は一歩前に踏み出した。徒野と義永は既に、剣を抜いている。小田切は後ろに下がった。彼らは孝晴を生かして帰す訳にはいかない。そして孝晴も。

 

「感傷に浸る気はねぇんだが、『ここ』が暴徒の巣にされんのは、我慢ならねぇんだ。」

 

はじめから、斬るつもりでここへ来ていた。

 

 手ぶらのまま踏み込んで来た孝晴に虚を突かれ一瞬二人の動きが止まるが、背後の小田切は守らねばならない。ならば、寧ろ二人の間に無警戒に割り込んだ孝晴を斬らない手はない。同時に二人は刀を振るう。右袈裟に、そして胴一文字に。捉えられない筈がなかった。しかし。

 背後で拳銃を構えていた小田切は、信じられないものを見た。二人が斬りかかった瞬間、孝晴が「消えた」。いや、跳んだ。床がメシッと軋む音が後から聞こえ、その時には黒い羽織の姿は、二人の身長を優に越える位置にあった。刀は空を斬り、そして義永の上衣を一文字に、――徒野の右手首から先を斜に斬り飛ばした。

「えっ、」

「な……?ッ、ぁあ、あ、ぐ、ぎっ……!」

呆然とする義永と、一瞬の後に何が起きたか理解した徒野が驚愕と混乱の呻きを上げる。刀を握ったまま転がった手首が、蝋燭を倒し、消した。天井の隙間から月光が差し込む中、とん、と軽い音と共に着地した孝晴。だが、小田切は動揺を鎮め、引き金を引いた。

 

(拳銃!)

孝晴は既に、それを認めていた。指に力が入り、引き金がゆっくりと動く。煙と弾丸が飛び出すのが見えた。銃の弾は、完全な真円形ではない。羽織の下の刀を抜く。そして刃の、最も薄い部分が、弾の頂点にくるように。中心から、髪一本ほど左か。床の血に触れないように着地してから弾丸が刃に触れるまでの刹那だけ、孝晴は限界まで“集中”した。

 

ぱきん。

 

膝をついた徒野の頭上と義永の頬を何かが掠め、今度こそ、小田切は目を見開き、頭から血の気が引くのを感じた。目の前の男は、刀を右手で正眼に構えつつ、左手で峰を押さえるようにして立っている。こいつは、いつ、刀を抜いた?

「貴様……今、何をした?」

声が震えていた。銃把を握る手も震えているだろう。月の光を反射して、目の前に立つ男の瞳が青く光った気がした。

「答えろ!何をした!」

同時に、再び小田切は引き金を引いた。回転式拳銃には、まだ弾丸が残っている。

ぱん。

余りにも軽い音と共に、倒れたのは義永だった。目の前には、長身の優男が妖しい笑みを浮かべている。その右手は刀ではなく、小田切の握る銃を上から握り、銃口の向きを――義永の方へと――変えていた。

「やめときなァ。俺は『この距離でも避ける』ぜ。」

「お前……お前は一体、」

何者なんだ。

いや。

“何”なんだ。

その言葉を言う前に、小田切は熱いものが腹に突き刺さるのを感じた。孝晴は、感情のない目でそれを見ている。右手を失った徒野が、この暗がりでも分かるほど真っ青な顔をしながら、有坂孝晴に向かって左手で突き出した刀。それを孝晴は半歩体を捻っただけで避けた。当然、その刃は、彼の目の前にいた小田切を貫いた。ただそれだけの事だ。

「少、佐、」

「逃げろ、徒野。」

小田切は、喉の奥に鉄の味を感じながら声を絞った。

「逃げろ。こいつは、化け物、だ。」

 

 全身が心臓になったようだった。興奮しているからか、血は一向に止まらない。呼吸が苦しい、肺が痛い。噴き出す鉄の臭いを獣道に撒き散らしながら、漸く徒野は小道にまろび出た。追ってきてはいない、のだろうか、あの男は。何年かけただろうか、みなそれぞれの組織に潜り込み、時を待ち、外つ國とも密約を交わした。あとは同志達に決行を呼びかけるのみ、だった。それを、たった一人の男に……。汗なのか涙なのか、それとも血を流した所為なのか、霞む目が一瞬、影を捉えた。今すれ違ったのは。――何故、「すれ違った」?奴は、後ろに――

「その軍服は、斬りたくなかったんだが……悪ぃな。」

その哀しげな声が、徒野が聴いた最後の音となった。

 

 

 「……師匠。」

 少年の声は震えていた。膝をついた男の体から噴き出す血が床を染めてゆく。少年は、「何故」に自ら答えを出した。男は、――斬られたいのだ。そう結論を出した時、少年の心は凪いだ。そして、一閃。男には視えなかっただろう。袈裟斬りにされたと理解した瞬間、果たして、男は笑った。笑って、膝をつき、倒れる前に、背後の床の間を指差した。刀が少年の足元に放られる。そして男は、倒れ伏した。指された先には、丁寧に畳まれた手紙があり、それを見て、少年は無意識に声を出したのだった。

 

「名も知らぬ少年よ

お前は私の剣技ではなく、剣を御する自制の技術を求めていた。故に、私は私自身を全てお前に与えることにした。この刀は決して折れない。持っていけ。お前と剣を交えられたことに感謝する。

 

水鏡之心曇勿」

 

美しい字だった。教養もあったのだろう。しかし、男が存在した証はもう、孝晴の中にしかない。

 

 

 「あーー……ハラ、減ったなァ。」

 月を見上げ、孝晴は呟く。足元には、烏羽の軍服を纏い、背中を袈裟斬りにされた死体が横たわっている。まだ若い彼にとっては無念だったに違いない。しかし。

(いざ事が起これば、鎮圧されようが、あらゆる組織が捜査されるはずだ。刀祢の爺さんが『庭番』だったのを知ってるのは俺と理一だけとはいえ、政府も馬鹿ばかりじゃあない、お麟に万一の事がないとも言えねぇ……。)

そこまで考えて、孝晴は苦笑した。

「なんで、あんな忠犬になっちまったかねぃ。いや、俺が拾っちまった報いか。」

手を出したら、最後まで責任を取る。その最後は、まだまだ先のようなのだ。孝晴は振るった刀を見る。脂はどうしても付くが、血振りするまでもなく、血の一滴も残っていない。斬られた瞬間は、痛みも感じなかっただろう。ただ、と孝晴は背後を振り返った。頭を撃ち抜かせた義永中尉はすぐに絶命しただろうが、小田切少佐は、命を絶ってやる事もできなかった。動く気力があれば、拳銃で自決しているかもしれないが、それでも苦しませたのは確かだ。

 

――水鏡の心を、曇らせてはならない。――

 

「俺の心が水鏡なら、多分、モノが映るのは黒く濁ってっからだと思うぜ、師匠。……なぁ、『鏡丸(かがみまる)』?」

物言わぬ刀に語りかけ、小さく自身を嘲笑すると、孝晴は刀を納める。小袋から取り出した飴をガリと噛み、誰にも見られる事なく孝晴は姿を消した。

 

 惨殺された警兵の遺体が道に放置されていると、通りすがった行商人から邏隊に通報があった。何かから逃げるように倒れていた遺体の背後には、森の中まで点々と血痕が続いていた。それを辿った先にあった荒屋の中も惨状で、二人の軍人の遺体が見つかった。また、國土全図と帝都の詳細地図に加え、反乱の実行を指示する書状も発見され、陸軍・海軍・邏隊・警兵隊内で大々的に反乱分子の摘発が行われた。現場の遺体は、それぞれが自らの得物で互いを攻撃している状況から、仲間割れを起こして殺し合いになったと判断された。そこまで目を通すと、有坂孝晴は新聞を長椅子の脇に放る。

「おい、俺の部屋は手前のごみ捨て場じゃねえぞ。」

「この部屋、煙草臭ぇから怠ィんだよ。」

「だったら入り浸るんじゃねえよ……。」

溜息を吐く衣笠理一に対して、にへらと笑みを浮かべて見せる孝晴。

「まぁ、こっちもお前に用があったからな。」

「なんでぃ、衣笠センセの方からってのは、珍しい。」

理一は眼鏡の奥から孝晴を見ると、白衣のポケットから何か小さなものを取り出し、親指で弾く。孝晴が受け取ったそれは、中心から真っ二つに割れた弾丸だった。

「……お前がやったな?」

「……。」

孝晴は薄く笑みを浮かべ、弾丸の破片を投げ返す。理一も難なくそれを受け取りつつ、検死の為に現場に向かったと明かした。

「状況証拠で仲間割れって事になったが、多分俺以外にも『背中の刀傷だけサーベル刀の傷じゃない』って気付いた奴はいる筈だ。流石にこの弾が『斬られた』ものだって思った奴はいなかったがな。けどな、あまり一人で動くなよ、孝晴。いくらお前でも手に余る事はあるだろうよ。麟太郎がやられたのだって、こいつらが原因……、」

そこまで言って、理一は一瞬口を止め、納得したような表情を浮かべた。

「あぁ、リン公の敵討ちか……。」

「ま、それが無いとは言わねぇよ。警兵隊の内部情報を流してたのはそいつらの同胞だ。警兵を排除しようとしたのは、『警兵狙い』だと思わせる目眩しと、単純に敵を減らすって目的の両方だらぁな。ウチの犬に手ェ出した報いくらいは受けてもらっても悪かねぇだろぃ。」

「はぁ……成程な。」

(どうせ『それだけ』じゃないんだろうが……。)

理一の涼やかな目が、僅かに細められる。理一も、彼と麟太郎には恩がある。だが、有坂孝晴という男はやはり底が知れない。いや、誰も彼の「底」などには触れられないのかもしれない。それでも。

「麟太郎を行かせなかったのは、同胞を斬らせない為だろ。」

「はは、ばれてら。」

「あいつは任務とお前の為ならなんでもやるが、俺達みたいに捻くれちゃいないからな。同じ警兵なんか殺した日には相当堪える筈だ。お前も大概過保護だぜ、リン公に対してよ。」

「……リイチには敵わねぇな。」

「元から他人(ひと)の心を読むのには長けてるつもりだぜ。」

「ひと、ねェ。」

長椅子に寝そべりながら呟いた孝晴は、普段と変わらない、柔らかな笑顔だ。しかしその笑みには、他人と距離を置こうとする拒絶と、拒絶の殻に覆われた寂しさとが表れている。その殻をより固くしてしまったのは、きっと自分だ。出会って間もない頃とはいえ、彼を「突然変異体」だと分析してしまったから。その時孝晴が見せた、諦観と失望の色が混ざった笑み。瞬間的に、理一は自分の誤りを悟った。彼が本当に求めていたのは、「孝晴も人間である」という答えだったのに。せめて「突然変異を起こした人間」とでも言えばよかったのだ。ほんの小さな違いだが、それでも理一はそれを今でも悔いている。だから。

「さて、俺からはもう何もねぇよ。リン公もこの件でまだ駆けずり回ってんだろ?俺は研究室を見てくるけど、今日はここに人は入れないから気の済むまで寝とけ。砂糖はないが、酒なら後ろの棚の下に入ってるからさっさと飲んどけよ。」

「なんでぇ、いやに優しいじゃねぇかぃ。」

「疲れてる友人を追い出すほど、冷血になった覚えはないぜ、俺は。」

ただの友人として、対等な人間として付き合うと、衣笠理一は決めたのだ。

 

 襟元を開(はだ)けさせたまま、一升瓶を抱えて長椅子に寝転がっている自分の姿は、さぞだらしない事だろうと孝晴は思った。基礎代謝(と理一は言っていた)が高いらしい孝晴は、酒の分解も早く、殆ど酔わない。酒は米からできている訳だから、余りにも飯が足りない時には頼っている。液体で多少腹は膨れても、そこまで「頭が満たされる」感覚はないため、あくまで緊急時やそれ以外のものが用意できない時の措置だ。手っ取り早く頭を回すには飴や金平糖、もっと言えば角砂糖なんかが一番よいのだが、男がそんなものを頻繁に買う訳にもいかない。理一は女兄弟ばかり家にいるため、頼めばよいのかもしれないが、あれで彼も忙しい身だ。花街通いも、遊んでいる訳ではないのだろう。瓶を抱いたまま、ごろんと寝返りをうつ。あの日から思考を止められず、その分物理的に動かないようにしなければ体が保たなかった。あの荒屋は、建物ごと消える事になるだろう。男の記憶を留めるものが、また一つ消える。同じようにいずれ自分も消えなければならないとは思っている、のだが。

「友人、……か。」

人から外れた化け物の自分が、人への執着を捨て切れないとは、なんと滑稽な事だろうか。ただ、悪い気分でないのも事実だった。孝晴は目を閉じた。眠っている間は思考せずに済む。今は“友”の好意に甘えてもよいだろうと、孝晴は、記憶も思考も全て、深い闇の中へと沈めていった。

 

帝國の書庫番

三幕 「有坂孝晴」



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帝國の書庫番 四幕

「現在」の話。


 花散らす雨の中、あたしは「家族」から引き離された。握られて引っ張られてゆく手首が痛くて、二度と逃がさないという執念すら籠っている気がして怖かったけど、まだ細くてちびだったあたしに、逆らう力はなかった。堤防添いに並ぶ五弁花の白が篠突く雨と一緒に落ちて、雪が降っているみたいだった。これから暖かくなるはずの季節に、あたしだけが、冬に向かって連れさられていくような気がした。

 

 『りり』、『おりり』。

あたしを呼ぶ声。高くはないけど、ゆったりとした、優しい声。かかさまは、美しい人だった。女だけの世界の中でも、いちばん光っていた。だからあたしは、かかさまに似てるって言われると、本当にうれしかった。他の「ねえさま」と同じように、かかさまも元は、女衒に買われたりなんかしてやってきたはずだけど、誰よりも美しいだけじゃなくて、誰よりも頭がよかった。そんなかかさまの子だから、あたしはみんなに可愛がってもらえた。『南天様のお子だから』。もちろんあたしも、かかさまに相応しい女になれるように、たくさん努力した。

 あたしの父親が誰かなんて、関係なかった。あそこで生まれる子って、ほとんどいないんだ。だから、みんながあたしに色々教えてくれた。あたしより三つ上の「ねえね」が、かかさまに言われてあたしについてくれたけど、みんながあたしの「ねえさま」だった。

 あたしが五ツになった年、あの男がやってきた。連れて来られたのは、大店にも負けないようなお屋敷だった。あたしは脱がされて、髪を切られた。変な服を着せられた。どうして、どうして。なんでこんなことするの。あたしは泣いた。泣いたら、顔を殴られた。それこそ、動けなくなるまで。鼻血が出て、顔が熱くて、目も腫れてよく見えなくなった。床に紅が散っていた。あたしの血だ。どうして、どうして。殴られたって、投げられたって、蹴られたって、涙は止まらなかった。痛いよ、かかさま。「ねえさま」、助けてよ。それしか考えられなかった。何日かそんなことが続いたあと、床に這いつくばるあたしのとこに、「その家の人」が来た。ちょうど、「ねえさま」達と同じくらいの女達だった。

『ごめんね、〈トシ〉ちゃん。』

 その女達は言った。あたしはそんな名前じゃないよ。でも、そう言ったら、女は悲しそうに首を振った。そしてあたしの顔を拭いて、氷の袋で冷やしてくれた。やっぱりここは金持ちの家なんだなと思った。でも、女達は悲しそうだった。

『お父様には、逆らえないの。』

『お父様も、ご苦労されているの。』

『何もできなくて、ごめんなさい。』

『助けてあげられなくて、ごめんなさい。』

 そっか、とあたしは悟った。かかさまのいるあそこがどんな場所かは、何となく分かっていた。格子の向こうからは男達が「ねえさま」達を品定めしている。昨日までいた「ねえさま」が「病気」になって、そのまま二度と奥から出て来なかったなんてことも茶飯事だ。かかさまは特別だったけど、外へ出てゆける訳じゃない。美しくたくましく生きるみんなを、牢獄が囲っていた。堀の外も同じだった。この人たちは、あの男に逆らえない。こんなにお金があって、きれいな服を着て、それでも、この人たちも牢獄に居るんだ。この人たちには、あたししか――頼れる人はいないんだ。

 次の日から、女達は来なくなった。『〈トシ〉を甘やかすな』って怒鳴り声が聞こえたから、分かっていた。自分が、強くなるしかないんだ。その日から涙は出なくなった。我ながら早い順応だったと思う。殆ど暴力的な稽古と、はち切れるまで詰め込まれるような勉強。どちらも苦しかったけど、力のためだ。恨みとか怒りとか、不要な感情は殺した。求められるままに全て吸収して、あの男よりも強くなって、あの女達――「姉」達も救う。それは自分にしかできない事だ。そしていつか、かかさまにもう一度。

 漸く廓(くるわ)への出入りを赦されたのは十七の歳。「かかさま」――南天太夫は、既に死んでいた。病だったそうだ。いや、違う。遺体を片付けたという男から、その有様を聞き出した。数年前まで、生きていた。生かされていたのだ。顔が崩れ落ち、動く事すらできないまま。――性病。牢獄の外から男が持ち込む災厄。この歳になるまで、ありとあらゆる知識を詰め込んで来たのだから、分からない筈がなかった。

(――殺してやる。)

母を殺した男。母を最後に抱いた男。最近まで生きていたのだから、罹患したのは自分が生まれた後だ。そうだ、医官になればいい。軍人の道は避けられないが、医官ならば研究ができる。お誂え向きに、自分は上流階級の情報が得やすい立場でもある。病に関する研究を進めてゆけば、きっとその中で、病の持ち主を突き止められる。自分の顔を見たら、そいつはどんな表情をするだろう。「俺」に残された母の形見は、この「顔」しかないのだから……。

 門前から踵を返した足の下で、積もった雪が悲鳴のような音を立てた。

 

 

 瓶柄塗の格子を並べた絢爛豪華な見世屋、欲情を掻き立てるような紅い提灯。外界と隔絶されたそこに立ち入ることができるのは、身分も立場も金もある男達。白衣に錆色の軍服のまま門を潜った衣笠理一は、ふらりと一件の見世に足を向けた。

「衣笠様〜。」

「今日はわっちにしなんしょ〜?」

張見世の『格子』の女たちが甘い声をかける。理一は笑顔を返し、一人の格子に問うた。

「『誰を選んで欲しい』?」

「まぁ、わっちじゃ足りないなんて、むごうありんすね。」

「『薄雪』は?」

「今晩は、座敷に出てありんす。」

「じゃ、『駄賃』でもやっとくか。」

その言葉に彼女が笑みを返したのを確認し、理一は張見世から離れ、後ろに控えていた茶屋者に言った。

「『錦木』はどうだ。」

「へぇ、衣笠様の御用命なら、すぐにお出ししますんで。」

「なら、頼む。」

 茶屋者の返事を待たず、勝手知ったるという風に店に入ってゆく理一。当然、金払いのよい「馴染みの客」である彼を茶屋者が止めることもない。あとは遣手の女が『錦木』の部屋へ案内するだけだからだ。

 

 行燈の薄灯に照らされた部屋の中には、まだ遊女の姿はない。戸を引いた室内には、遣手がいるだけだ。それでも理一は警戒するように周囲に聞き耳を立て、辺りに気配がない事を探ってから、白衣のポケットから取り出した小さな紙包を女に握らせる。

「『薄雪』に渡せ。もう良くなったみたいだが、念のためな。肺に違和感が出たら飲むように伝えてくれ。」

「……ほんにありがとうござんした。わっちらのためにいつも……。」

「俺の我儘でやってんだ、ばれる前に戻りな。」

女は深く頭を下げ、部屋には理一だけが残される。座って寛ぐ事もなく天井に目を向けた理一は、初めて麟太郎と出会った時を思い出す。

『貴方は、衣笠家の方ですね。であれば、問題ないでしょう。私の師は旧幕府の庭番です。……ここに忍び込めた理由としては、これで充分ですね?』

(あんな馬鹿、後にも先にも見た事ねえな。……けど。)

だからこそ、秘密の共有者となり、友となり得た。しかし自分の本当の秘密を、彼らは知らない。

「……今日は冷えるな。」

花冷えの夜、牢獄に作られた幻想世界の中。理一はぽつりと呟いた。

 

「やあ、衣笠卿。」

「これは、中佐殿。」

 すれ違い様に声を掛けられ、衣笠理一は踵を重心にくるりと体を反転させ、直立の姿勢を取った。

「最近、随分と景気が良さそうですな。」

「ええ、予算で入れていただいた鐡國製の機器がなかなか良くて。研究も捗っていますよ。」

 笑顔で答えつつ、理一は気付いていた。彼が言ったのは、そのような意味ではないと。ただ研究成果を出していることを褒める為だけに、甲種の中佐が乙種の少尉に「卿」などと呼びかけはしない。ここはあくまで軍隊の一部で、階級が絶対だ。例え生まれ育ちに貴賤があろうと。そもそも、病原菌や細菌毒素、その他技術の軍事利用・開発を目的とする甲種研究部と、治療・無毒化を目的とする乙種研究部は、扱う物は同じでも基本的に相容れない。相手が「待っている」のは分かっていたが、理一は敢えて言った。

「お誉めに預り光栄です、中佐。これを励みに今後も精進いたします。では。」

「待ちたまえよ、『衣笠伯爵』。」

「……。」

 立ち止まり、半歩だけ振り返る。その動きはどこまでも優雅だ。中佐の後ろには、部下だろう数人が控えている。少尉の理一より上の階級の者も居るが、中佐命令ならばこんな事にさえ駆り出されるらしい。こんな早朝に、可哀想な事だ。

「君が頻繁に『遊び歩いて』いることについて、風紀を乱すと考えている者が居てね。」

「ほう。仕事は疎かにしているつもりはありませんが?」

「君の廓通い癖の事だと言わなければ、分からないかね。」

相手も軍事教練を受けているとはいえ研究者である。いきなり激昂するような事はない。その代わり。

「合法の遊び場で愉しむ事に、何か問題が?」

「君の行動は君の『階級にそぐわない』という事だよ。それくらい理解できる頭はあるだろう?」

「私が爵位に胡座をかいているのが気に食わないという訳ですね。で、数に頼んで憂さ晴らしにいらしたと。流石甲種は考える事が下劣だな。」

「口を慎めよ、乙種。君も分かっている筈だ、軍属である以上、私にも従う義務はある。違うかね。」

男はやはり、どこまでも男だ。暴力と権力が全て。気に食わない者には制裁を。金で勝てないなら数の力を。理一はにっこりと綺麗な笑みを浮かべた。

「軍内の規律には従いますが、個人としては貴方には従えませんね。『衣笠伯爵家当主』に喧嘩を売る意味をお分かりでないようですし。」

「仕方ないな。」

 目で合図され、背後に居た数人――数など覚える意味がない――が、理一の前に立つ。成程、腕は立ちそうだと理一は思った。体格もよい。研究職とはいえ、伊達に軍人をしている訳ではないのだ。

「態度を改める気はないんだな?少尉。」

「ないね。爵位で呼んだのはそっちだろうが。身分はこっちのが上なんだよ、馬鹿が。」

トントンと自らの頭を指で叩いて見せれば、目の前の男は簡単に乗ってきた。こちらは中佐ほど場数を踏んでいないのだ。相手が一歩踏み出した瞬間、重心の移動に合わせて足を払う。そのまま重力を利用しつつ軽く手を添えれば、男は一回転して後ろへ吹き飛び床に叩き付けられた。

「次。」

同時に飛び掛かって来た二人には、両腕を鞭のように振って首に手刀を叩き込む。背後の気配には目線すら向けず、少し屈んで下から抉るように鳩尾に肘を入れ、起き上がり脚を狙ってきた始めの男を軽業師のような後方転回で避け、そのまま振り下ろした爪先でもう一人を昏倒させる。

「受け身くらい取りやがれ、愚図ども。教練を忘れたのか?気楽なもんだな、軍人ってのはよ!」

 数分も経たず、中佐以外の全員が膝をつくか床に這っている有様だった。彼らが弱い訳ではない。理一が、強いのだ。衣笠伯爵家は、幕府以前よりの武門。元は佐幕派であったが、転向後の圧倒的な功績により爵位を授けられた。「衣笠家の男」は、幼少期からあらゆる武道・武術を叩き込まれる。それが衣笠を名乗る者の宿命だった。

「……で、ここまで乗ってやったんだ。本当の目的はなんなんです?中佐。」

 息一つ切らさない理一に、中佐は内心で感嘆の息を吐いていた。陸軍衛生部医事本部乙種研究部第三研究室長、衣笠理一。歳はまだ二十二。背が低い訳ではないが、外形は華奢で色白、更に顔立ちも女のように妖艶であるのに、これだ。的確に急所を狙い、動けない程度に叩きのめしているが、後遺症は残らないよう手加減までしているときた。

「君はやはり、逸材だよ。何より、人体に対する造詣が深い。何処に何れ程の衝撃を与えれば人体を破壊できるか、的確に理解している。その上で、研究者としての働きも申し分ないではないか、こちらまで噂が流れる程なのだから。……甲種に来ないかね。」

「見返りは?」

「もっと『見境無い』研究ができる。君の悪癖も見逃してやろう。」

理一は溜息を吐いて、そして笑った。

「それならば、お断りします。遠慮なく触れ回って結構ですよ。衣笠理一(としかず)は、女遊び好きの色情狂だとね。」

 

 研究室の室長である理一には、執務室も与えられている。多少動いて体は温まったが、仮眠を取るには少し昂りを静めなければならないな、などと考えつつ扉を開けて一歩踏み込めば、そこは用のない限り他人を入れない自分の空間、であるのだが。

「よォ。」

「……。」

 長椅子に座り込み、この寒さだというのに着物を着崩した男が、手にした一升瓶を机に置いた。この有坂家三男坊は、以前調子が悪そうな時に酒を用意してやって以降、以前にも増してここに入り浸るようになってしまった。こんな早朝に人を動かした中佐も中佐だったが、孝晴も孝晴だ。理一は溜息を吐いた。

「なんだ、また頭の調子が悪いのか?」

「んにゃ、帰りがけに寄ったら、面白ぇもんを見ちまってな。」

「面白いもん?」

「お前さん、引き抜きに遭ってんだな、リイチ。」

すっと目を細くする理一に、ふにゃりとした笑みを崩さない孝晴。

「見たのか。」

「まぁねぃ。」

「んな事の為に本気出してんじゃねぇよ。」

「『ついで』さね、だからこうして飲んでんだ。」

理一の顔に浮かんだなんとも言い表し難い表情に、孝晴はからからと笑った。

「何で蹴ったんだぃ?」

「……。」

「向こうのが給金はいいだろ。廓にも行きやすくなんじゃねぇかぃ。」

「ま、甲でも成果出す自信がない訳じゃねえよ。ただ……。」

理一は執務机に凭れ、目を伏せる。孝晴は一度置いた瓶を喇叭のように咥え、残りを一息に飲み干し、そして静かに理一を待った。理一が目を開ける。

「多分、向こうに行けば、俺の歯止めが効かなくなる。元々の動機があるからな。」

「『仇を取りたい奴がいる』だったかね。」

頷く理一。そこまでは話している。

「けど、医学やってたら分かるさ。この力は『救う為』に使える……そもそも、救う為に使うもんだって。」

だから身銭削って「こんな事」してんだ、と苦笑する理一だったが、孝晴が気付かない筈がない。ただ人助けの欲を満たす為ならば、わざわざ遊廓に固執する必要はない。理一は続ける。

「それに、姉さん達を嫁に出してやらなきゃならん。」

「お前の姉さんら、もう嫁ぐにしちゃいい歳じゃねぇかぃ。今までも貰い手はあったはずだぜ?」

「親父がそっちの世話してやらなかったんだよ。俺にかまけてたからな。俺が外道に落ちるのは、全部片付けたその後だ。」

 理一の口調は冷淡だった。孝晴が理一と出会った頃には既に理一は当主を継いでいたが、彼が死んだ父親を良く思っていない事は想像に難くない。彼が元々嫡子でなかった事は貴族の間では周知の事実だ。全て併せて考えれば、自ずと彼の出自は見えて来る。笑みを崩さない孝晴の様子に、理一も察するものはあったようだが、まだ互いに過去を明かしていないのは、今の関係で信頼が置けると確信しているからだ。理一は喉で笑うと、涼やかな目を孝晴に向けて言った。

「有坂の。お前、自分が他人(ひと)と違うと思ってるだろうが、人間なんて、簡単に『人間(ひと)でなし』になる。忘れんなよ。」

「……お前さんにゃ、そうなって欲しくはないねぇ。」

「ほう、そこまで想われてたとは驚きだな。」

「はは。」

 軽く笑い、孝晴は立ち上がった。このまま、文字通りの風となって消えるのだろう。忍び込んだ姿を見られない為とはいえ、その度に彼の生きる時間が常人のそれと違うと見せつけられる思いがする。案の定そうして孝晴は消え去ったが、しかし、今日彼が残した言葉は、理一の目を僅かに開かせた。

 

『お前さんも、俺を呼んだっていいんだぜ、リイチ。』

 

 誰も居なくなった執務室の中、理一は先程まで孝晴が座っていた場所にぼんやりと腰掛けた。産まれは、遊廓。三人の娘しか残さず死んだ妻の代わりに、基本的に子は堕ろす遊女を衣笠伯爵が一年「買い取って」産ませた子。それが、自分。何故父はわざわざ、遊女を選んだのか。老齢だったとはいえ、仮にも伯爵家当主だ。後妻くらい見繕えたはずなのに。そして、何故母は、自分を女と偽って手元に置いたのか。母も、当時いた「ねえさま」達も、殆どが死んだ。まだ仮名の手習を終えたばかりの「りり」が、そんな事を知る筈がない。例えそのまま育っても、いつかは男になっただろう。母は聡明な女だ、そのくらい理解していた筈なのに、何故……。

「呼んでもいい、か。」

 男なら、泣くな。男なら、強くなれ。男なら、斯くあれ。男なら、男なら、男なら。

 理一は自らの顔に触れた。

 

 かかさま、男の世界も、女と同じくらい、苦しいものです。あたしはやっぱり男だけど、どちらの苦しみも知ってしまいました。でも、あたしは助けて欲しかったときに、助けてもらえなかったから、助けてって言うのは怖いんです。あたしは男なのに、耐えられなくなったら、きっと男でいられなくなります。

 

 ああ、全くこの世は、男であっても、女であっても、生き苦しいものなのだ。理一はそのまま長椅子に寝転がった。とっくに花は散ったのに、寒さだけが冬のような早朝。長椅子に残った孝晴の体温が、やけに温かく感じられた。

 

帝國の書庫番

四幕 「りり」と「衣笠理一」



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帝國の書庫番 五幕

春の終わり、青葉芽吹く頃。


 「春ってのは、どうにも落ちつかねぇもんだな。」

 ぶらりぶらりと歩いてゆくのは孝晴だ。その後ろには、烏羽の軍服を纏った小柄な影が控えている。麟太郎は孝晴が自分に話しかけたのかどうか、少し考えてから抑揚なく答えた。

「虫も獣も、春になると動き出します。植物さえそうです。人だけがそうならない理由は、ないのでは。」

「そうかもなァ。ま、浮かれ気分も悪くねぇやな。やっと寒さも落ち着いて来たんだ。」

 孝晴が返事を返したことで、麟太郎は内心息を吐く。孝晴は必要な時には呼びつけるし、麟太郎も承知の上でいる。呼ばれておらずとも着いて行く事も茶飯事ではあるが、警兵服姿の麟太郎が傍にいれば、嫌が応にも目立つ。一人でふらふらとしたいだけだったのならば気分を害したかも知れない、と考えていたところ、先程の会話が発生したのだ。どうやら今日も許されたらしい。従う事を許されなければ、その日は黙って離れるのみではあるのだが。

 二人は早くも葉を繁らせる五弁花並木の土手を抜け、その先で橋を渡り、東へ向かう。さて、この先には何があっただろうかと麟太郎が考えていると、一軒の蕎麦屋から一人の男が出てきた。麟太郎だけでなく、普段他人に興味を持たない孝晴までもが足を止めたのは、その若い男が余りにも落胆した様子だったからだ。大きな溜息を吐いて顔を上げたその男と、孝晴の目線が重なった。男は数秒間孝晴を見つめ、言った。

「……お兄さん、生まれは東都か?」

「生まれも育ちも東都だねぃ。」

 孝晴はすぐに答えたが、麟太郎は一瞬、その強い西訛りの抑揚に気を取られた。その間に男は孝晴に近づいている。唐突に距離を詰められキョトンとした表情を浮かべる孝晴に、男は――頭を下げた。

「頼む!西都の飯が食える店、知ってたら教えてくれへんか!?」

 

「いやあ、すまんな兄さん、俺、東都に来てからほんま難儀してんねん……こない味の濃いぃもんばっか食うてたら塩漬けになってまうわ。どうせ漬けられるなら出汁のがええっちゅうねん。」

「そんなに味が違うもんかい、西の食いものは。」

「全然ちゃうで!東都のもんは塩っ辛い醤油ばっか使(つこ)てるけど、西は出汁が基本なんや。味噌の汁も殆ど飲まへんな、普段はすまし汁やねん。んで、まぁこれから東都で働くんやし、そのうち慣れる思てたんやけど、ここ最近我慢でけへんようなってな、行ける範囲でええ店ないか探しててんけど……。」

そこで男はまた溜息を吐いた。孝晴は珍しく面白そうに笑みを浮かべながら話を聞いている。孝晴が心当たりの店に案内してやる代わりに要求したのは、「連れて行った店の飯を自分にも奢ること」だった。対価としては突飛な申し出に男は暫し悩む素振りを見せたが、最終的には承諾した。それほど食に執着する性質(たち)なのだろう。

 男は並ぶと孝晴と同じくらいの長身で、左目を斜めに横断する傷跡が特徴的だ。それでいて悪人面という訳ではなく、寧ろ好感を抱かせる雰囲気ながらも所作には落ち着きがある。歳は孝晴と同じか少し上だろうか。躊躇なく孝晴に話しかけたあたり、本当に帝都に出てきたばかりなのだろう。麟太郎は少し離れて二人の背後を歩いている。男は頭を下げた後、孝晴の後ろに警兵が控えていることに気付き怪訝そうな顔をしたが、孝晴が簡単に麟太郎を紹介し「こいつは普段からこの格好してるだけで、今日は非番だ」と伝えると、「まだ小ぃさいのに警兵サンやってるんか。頑張ってんなぁ、偉いで!」と笑顔で麟太郎の頭をがしがしと撫でてきた。尉官以上が身に付ける襟巻の存在には気付いていないのか分からないが、少なくとも悪気や害意は麟太郎には感じられなかった。感じていたら、こうして大人しく後をつけている訳がない。

「あんたは西都の出身なのかぃ?」

「西都っちゅうか、湊(みなと)のもんや。」

「へえ、湊ね。何でまた帝都に。」

「東都に転属されてしもてな。」

孝晴はいつもの笑みを崩さぬまま言った。

「どうも帝都が嫌そうだねぃ。」

「そらそうや!急に呼び出されてお前は東都勤務やー、言われて、そない簡単に地元を忘れて喜べるかい。まぁ、稼ぎはようなったから悪くはないねんけど。」

「じゃ、ま、取り敢えずここを試してみるかい。」

「すき焼きか。確かに西にもあるわ。」

暖簾を潜る孝晴が、普段よりも深い笑みを浮かべている事に麟太郎は気付いていたが、黙って二人を見送った。

 

「なんやろ……すき焼きてもっとこう、甘いもんやないん……?」

「甘い?充分甘かっただろぃ。」

「ちゃうねん、単純なんやけどもっと趣のある味っちゅうか、肉をもっと味わって食うもんっちゅうか、なんであないに汁だばだば入れんねん……ちゅうか兄さん、めちゃくちゃ食いよったな。」

「タダ飯が食えるんだから、そりゃ食うさね。あんたも同じ立場ならやるだろぃ。」

「タダより高いもんはない、って言葉知ってるか?」

「はは、悪かった。次行くかぃ。」

「ちょ、頼んどいてなんやけど、これ、俺が満足するまであんたに奢り続けるんか?」

「迷惑料には安すぎるくれぇだぜ。こっからは『頭使ってやる』からよ。」

「ハァ……厄介な奴に声かけてしもたかもしれへん。」

大きな溜息を吐きながら頭を抱える男の後ろで、孝晴が「頭を使う」意味を知る麟太郎は黙って目を閉じ、再び二人の後に続いて歩き出した。

 

 うどん、鮨、鍋、洋食に至るまで。何軒目だっただろうか、店を後にした孝晴は珍しく神妙な面持ちで、呟くように言った。

「なんか、悪ィな。」

「いや、寧ろここまで付き合うてくれるとか思てへんかったし、ここまで食いまくるとも思てへんかったけど、兄さんが真剣に考えて店探してくれてんのはよう分かった。」

「遷都後に西都あたりから来たって店を当たってきたんだが、西そのままって店はなかなかねぇんだな。東都の人間の好みに合わせてりゃ当然っちゃ当然か……。」

遷都はもう四十年前、東都で受け入れられてゆくうちに味も変わって行ったのだろう。比較的新しい店にも男はあまり満足そうでは無かった。頭の中で店ができた時期や立地、その他孝晴が覚えている限りの情報を繋ぎ合わせながらここまで来たというのに、こんなにも「簡単そう」な事で躓くとは。さしもの孝晴も予想していなかった。

「……気になったんだが、なんだかんだ言って、あんたも全部食ってんな。」

「そら、体が資本の仕事やからな。食おうと思えば食えるで。まあ……お陰で財布がめちゃくちゃ軽いねんけど。」

じっとりとした目を男は孝晴に向けるが、孝晴はふと、顔を上げる。

「あんた、体使う仕事って言ったな。甘いもんはいけるクチかい?」

「へ?あぁ、まぁ確かに疲れた時は甘いもんが欲しくはなる……ってちょ、兄さん!?」

「ある!飯屋じゃないが、少し前に湊から移ってきたって茶店が、噂になってたはずだ。」

「ほんまか?……あーーー、もう、この際や。最後まで着いてったるわ!」

走り出す――勿論彼にとってはゆっくりとなのだが――孝晴の姿に、麟太郎は普段の彼とは違う何かを感じていた。いつも微笑んでいるものの、ある意味麟太郎以上に感情を出さない彼が「楽しそう」なのだ。もしかしたら、生まれてからずっと「有坂家の男」としての立場に縛られ、東都の「外」を書面上でしか知らなかった彼が、今初めて「ただの『兄さん』」として扱われ、西という未知の領域の人間に生で触れているからかもしれない。あんな風に分を弁えず孝晴に声を掛ける人間など、東都には居ない。……自分も含めて。

(東都の外を知らないのは、私も同じか。)

自分の感情を言い表す言葉を見つけられなかった麟太郎は、無表情のまま二人を追った。

 

 中心からは少し外れ、高台からであれば湾の入江が望める帝都の南部。湾に近いため、魚を商う店や料理屋が点在する区画に、ぽつりと見える暖簾。それを見た男は目を開いた。

「あれ、ほんまか、あの店なんか。」

「心当たりありそうな顔してんなぁ。」

満足気な孝晴を尻目に、今度は男が先に駆け出して行く。

「お麟。」

「はい。」

「行くぜぃ。」

「私もですか。」

麟太郎が毎度外で待っていたのは、孝晴ほど大食ではない事と肉が好きではない事が主な理由だったが、それでも何故今度は呼ばれたのかと首を傾げた時、店の方から嬉しそうな声が飛んできた。

「兄さーん!麟クンも来ぃや!」

孝晴は麟太郎に向けて、にやりと笑った。

 

 茶店はこじんまりとしたものであったが、新しく建てた訳ではなく、元あったものを譲り受けたのだという。店主は若い男だった。

「まさか出水屋が東都に来てはったとは知らへんかったわ、自分の親父(おやっ)さんとこ、俺が餓鬼ん頃初めて連れてってもらった菓子屋やねん。懐かしわ〜!」

「おおきにな、あんちゃん。儂も同じ湊の人間に贔屓してもろて嬉しいで。」

会話を横で聞いているだけで、二人の背景が分かってしまう。どうやら、西の人間は東の人間に比べて話し好きのようだ。店主は「帝のおわす新都でも家の味を広めたい」と東都に出てきた菓子屋の息子であり、湊にある元の店は、男が「子供の頃ご褒美として初めて食べさせてもらった甘味」だったらしい。男は満面の笑みを浮かべながら言う。

「な、兄さんと麟クンも食べや!湊にしかない餅やで。」

「『なかった』が正しいのでは?」

「へぇ……こりゃあ、餡は豆かい?」

「そうですね、昔は湊あたりでしか手に入らなかったようです。今はこっちでもそこの湾に船で届くんですよ。」

「なんやねん、東言葉なんて使いよって!」

「東都のお客は慣れてないねん!はじめあっちと同じように呼び込みしたら閑古鳥やったんやぞ。」

なんとも騒がしい二人をよそに、東都生まれ――麟太郎に生まれの記憶はないが――の二人は珍しげに餡のたっぷりかかった餅を眺め、そして口へ運ぶ。滑らかながら弾力のある餅の食感と共に、とろりとした甘い餡が舌を包む。滑るような餅の喉越し、甘過ぎない餡も、豆自体が僅かに塩味を持つため、より甘味が引き立つようだ。角砂糖をそのまま齧るような真似もする孝晴であったが、これは確かに……。

「うまい。」

「美味しい、ですね。」

真顔で呟く孝晴と、無表情の麟太郎。側から見れば表情と言葉のちぐはぐさに混乱しそうなものだが、男は満足気に笑った。

「せやろ!兄ちゃん、もう一皿頼むわ!」

「まいど!」

そうして、暫く三人は甘味に舌鼓を打ったのだった。

 

 勘定を済ませて店を出る頃には、日が傾きかけていた。男は夕陽を背にして微笑みを浮かべる。

「おおきにな、兄さん。一時はどうなることかと思たけど、あんたに聞いてよかったわ。麟クンもずっとついてきてくれたなぁ。今度は自分にも飯奢ったるからな。」

「いえ、私は結構で……まあ、よいでしょう。ご厚意であるなら、お受けします、……。」

麟太郎は頭をがしがしと撫でられているため、言葉を途切れさせながら答えた。初対面だというのに、距離感が近過ぎはしないだろうか。初めの一回で、放っておいたら毛氈生地の軍帽が型崩れしてしまいそうだと察した麟太郎は、既に帽子を外し抱えている。その様子に、孝晴がからからと笑った。

「いや、俺も珍しいもんが食えて良かった。今後『流行る』だろうから、覚悟しといた方がいいかもしれないねぇ。」

「流行るとええなぁ。けど、あんたにも気に入ってもらえたんならええわ。」

孝晴は笑みを崩さない。発言の真意を知る麟太郎は、変わらず無表情だ。

「ところで、お前さん。名前を聞いてなかったねぃ。」

「あぁ、せやったな。」

「まだ名乗っていなかったのですか。」

二人の言葉に、さしもの麟太郎も割って入らずに居られなかった。あれだけの数の店で食を共にしていたというのに。そして麟太郎は瞼を細めながら孝晴を見る。

「私の名前だけ真っ先に教えておいてですか。」

「俺が名乗って逃げられたらつまらねぇだろぃ。」

その口調と笑みから、それだけではない何かを悟った麟太郎は口を噤んだ。

「なんや、兄さん有名人なんか?」

「覚えといて損するか得するかは、そいつ次第って感じかねぇ。……有坂孝晴だ。」

「孝晴クンね、よろしゅう……ん、有坂?」

初めは笑み、次に何かを思い出すように、そして最後に真顔へとくるくると変化する男の表情を、孝晴はくすくすと笑いながら眺める。その孝晴をまじまじと見つめる男。

「有坂って、『東都で敵に回したら命はない』っちゅう噂の有坂か?」

「そんな風に言われてんのかぃ?けど、多分その有坂だ。」

「ほんまかいな……どうりで周りが遠巻きにする訳や。」

「そういうこった。」

麟クンの所為やなかったんやな、と言いつつ、意外と驚きの度合いも低く、すんなりと納得する素振りを見せた男に、今度は孝晴が語りかける。

「で、あんたは。」

「ああ、せやな。俺はショウスケ。多聞(たもん)正介や。改めてよろしゅうな。」

「ん、よろしく。」

笑顔を交わした二人であったが、孝晴はその笑みを深める。細めた孝晴の目の奥が、仄青い光を帯びた。

「俺にゃ、お前も大概只者(ただもん)じゃないように見えるんだがね。普段何してんだぃ?」

「へぇ、そないな事わかるんか孝晴クン、なかなかええ目持ってるやんけ。俺、邏隊やねん。帝宮の。」

呆気なく明かされた男――正介の職に、麟太郎がぴくりと反応を示した。

「……精鋭中の精鋭という事になりますね、帝宮護衛隊の所属だというなら。」

「せやな。けど俺は街のお廻りやってる方が性に合うねん。」

「ふぅン、だから東都勤務が不満なのかぃ。」

孝晴は表情を崩さないままだったが、正介はふと遠くを見るような目をして、後ろを振り返った。その先には夕陽と、微かに湾の入江が見える。

「ウチは貧乏士族やけど、『正しき事を成せ』が親父の口癖でな。俺もそれを守ってきたつもりや。せやから、こうして認められたんは光栄やと思てる。ただ、麟クンらより、邏隊は街の奴らの近くにおんねん。道間違えそうな奴らに説教食らわしたり、迷うてる奴らの話聞いたったり、そういうんが合うてるんやろな、俺には。」

「そうかぃ。」

「ま、やるからにはきっちり仕事はさしてもらうで。交代で勤務やから、帝宮周りにいる時は声かけてや。反応でけへんけどな。」

にっと笑って振り返る正介。そして彼は「今日は楽しかったで」と礼を言うと、最後にもう一度くしゃりと麟太郎の頭を撫でる。

「そない小さいと大変やろけど、頑張りや、中尉サン。」

「気付いていたんですね。」

「当たり前や。」

手を振って去っていく正介の背を見ながら、気付いていた上でその態度もどうなのかと首を傾げる麟太郎の隣で、孝晴は軽く声を上げた。

「因みにこいつは俺の一ツ下で、あんたともそう歳は変わらねぇからな!」

正介が明らかにわざとであろうと分かる躓き方で転びかけ、「嘘やろ!?」と叫び返す。孝晴は喉を鳴らして笑い、言った。

「一々反応が大きいンだよ。」

 

 男を見送った二人の前には、長い影が二つ、足下に伸びている。春も終わりに近付き日は長くなったとは言え、休日には帰宅する麟太郎は刀祢の家へ、そして孝晴は自分の家へ戻らなければならない時間だ。都の中心へ向かって歩きながら、ふと、孝晴が言う。

「お麟。お前はあいつの事をどう見たね。」

「正直に言えば、あのような方に出会ったのは初めてですので、正確に観察できていたか自信はないのですが。悪い方ではないだろう、とは思います。」

抑揚なく答える麟太郎に、孝晴は顎に手を当てて笑みを浮かべた。

「うん、悪い奴じゃねぇのは確かさね。ただ、さぁて、奴が俺らを見つけたのは、本当に偶然だったのかねェ。」

「……初めからハル様に近づく心づもりがあったと?」

「お前の表情について何も言わなかっただろぃ?あんだけよく喋る野郎が。」

それを聞き、麟太郎も思い返してみる。確かに、体の小ささに反応してはいたが、表情変化の無さには一言も触れられていなかった。だからこそ、戸惑いがあったのだとも言える。警兵服姿で完全に無表情の麟太郎に初対面で怯えないのは、知人か同じ警兵くらいのものだ。

「成程、予め私の存在を知っていた可能性があると。」

「ま、帝宮護衛隊に転属されたなんて話は、簡単につける嘘じゃあない。所作にも隙がなかったし、実力者なのも間違いない。単に場数を踏んでて、お前みたいな奴にも慣れてるだけ、かも知れないがねぇ。」

「調べてみましょうか。」

麟太郎の言葉に、孝晴は首を振る。

「うんにゃ、今はそこまでの必要はねえさ。美味い菓子にもありつけたし、久々にたらふく食わせてもらったしなァ。」

(そう言えば、あの男もハル様と同じだけ食べたと……。)

頭の中で、今日巡った店の件数に一食の代金と人数を掛け合わせて、少々正介が気の毒にも思えてきた麟太郎であった。

 

 (ちっと遅くなってもうたな。)

 多聞正介が小走りにやって来たのは、帝宮の外苑だった。帝の宮までの間には広大な敷地が広がっており、帝宮邏隊(正式には帝宮護衛隊)の本部もそこにある。しかし彼はそこを通り過ぎ、外苑内にある神社にやって来た。ここに来るまで、誰にも見られていない事は確認済みだ。

 正介は拝殿を兼ねた本殿の前で最敬礼の姿勢を取ると、一飛びで賽銭箱と階段を飛び越え、音もなく板戸に体を滑り込ませる。狭い本殿の中は五色の布や御幣が飾られ、中央に鏡が置かれている。その裏の床板を数度、規定どおりの回数ずつ、上下左右に滑らせると、かこ、と小さな音がした。もう一度周囲に聞き耳を立ててから、静かに床板を持ち上げ、隙間に滑り込む。裏側から先程と逆の回数だけ床板を動かせば、もう床が開く事はない。開けられるのは、手順を知る者ーー自分達だけだ。

 正介は暗闇の中、音も立てずに石段を降ってゆく。突き当たった先には扉があり、似たような仕掛けがある。鍵を使わないのは、鍵自体が奪われる事を防ぐ為だという。指先の感覚だけで仕掛けを解いて扉を開けば、その先には、四隅に蝋燭が立てられた薄暗い部屋があった。中には、漆黒の装束を纏った二人の女ーー垂らした布で顔を隠している為、女性である事しか分からないーーが控えており、無言で正介に礼をした。ここで行う事は分かっているのだが、やはりなんとも心地が悪い。

「着替えくらい、自分でできるねんけど……。」

呟くように言う正介に構わず、女達は彼の服を脱がしてゆく。終わるまでは、されるがままになるしかない。

「なぁ、やっぱ自分ら、話したらあかんの?」

二人は無言を貫く。溜息を吐くと、正介はそのまま身を委ねた。脱いだ着物の代わりに、洋式の軍服を纏う。色は、漆黒。胸元に張られた飾布は、狩衣の名残なのだという。仕草で座るように促され腰を下ろすと、頭から首まで覆う張子の面を着けられる。獣を模したその面が、この部隊の最大の特徴だ。前部と後部を紐で締め、首元の留め具で固定し、最後に漆黒の外套を留める。外套の裏地に刺繍されているのは、「旭暉輪菊金鵄紋」。旭(あさひ)たる輪菊を導く金の鵄(とび)を纏う者は、この國で八人しか存在しない。

(嘘ついた訳や、ないねんけどな。邏隊もちゃんとやってるし。あの店も知らへんかった。まさかあないなとこになぁ。ええ収穫やったで。)

二人の女が開いた扉の先は、長い廊下になっている。静かにそこを歩きながら、正介は面の下で小さく笑みを浮かべた。

(しかし、なかなかおもろい奴やんけ……有坂家の弟クンは。あの家、まだまだなんや色々とありそうやな。)

 最後の扉には、女達と同じように顔を隠し、槍を持った男達が控えている。何も言わずとも、二人の手により輪菊の描かれた扉はゆっくりと開かれる。扉を通り抜けた先で跪くと、「鼬面の男」は、言った。

 

「万華菊紋隊(ばんかきくもんたい)、花弁が一、『朱華(はねず)』。参内仕りました。」

 

帝國の書庫番

五幕 「晴に華咲く食道楽」



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帝國の書庫番 六幕

有坂家の現在と孝晴の過去。


 有坂家の広大な敷地内では、それを維持するための庭師・管理人・掃除夫・女中などが日中は常に動き回っている。着物を着崩し下駄履きで出て行く孝晴の姿は、彼らにとっては見慣れたものだ。また末の坊っちゃんはお仕事を放って遊びに行かれるのだなあ、と彼らが内心苦笑していると、ふと、孝晴の足が止まる。つられて使用人達も門の先に顔を向けた。鳶色の軍服に、袖口の線が三本。皮の手箱を提げたその人影は、同じく鳶色の軍帽を外して脇に抱え、その場に立ち止まったままの孝晴に、微笑みかけた。

「また仕事をすっぽかすのか?孝晴。」

珍しく罰が悪そうな顔をした孝晴は、やがて苦笑して応えた。

「……お久しぶりです、孝成兄さん。」

 

「お休みですか。」

「うん、数日だがね。」

 迎えに出た小間使いに鞄を渡しながら、近寄ってきた孝晴に応える孝成。孝晴より少しだけ身長は低いものの、兄弟で一番風紀を重んじる厳格な性格をしているのがこの次兄だ。口煩い方ではなく、寧ろ物静かで謙虚な質(たち)であるため、小言を言われるまではないのだが、孝晴の職務放棄を兄が良く思っていない事は知っている。その孝晴の内心を感じ取ってか、孝成は弟とよく似た目で孝晴を見ながら苦笑した。

「母上と父上に御挨拶してくる。今回は離れに泊まるつもりだから、孝晴が使っていない部屋を開けておいてくれ。」

後半は荷を渡した女中に対して言った孝成に、孝晴が少し目を開く。

「兄さんは母屋に部屋がおありでは?離れよりも手入れされている筈ですが。」

「軍の生活に慣れてしまったから、あまり、母屋にいたくないんだ。そもそも私は豪奢なものは好きではない、離れの方が落ち着く。お前も一人で離れ全てを使っている訳ではないだろう?」

「それは、まあ。そうですね。」

微妙な表情で答える孝晴を見て、孝成はくすくすと笑った。

「そう私を厭うな。どうせ三日後には戻るし、私も休暇中に済ませたい用があるから、殆どここには居ないさ。」

「そういう訳ではないんですが……。」

「では、私は行く。お前も、あまり母上と父上に迷惑をかけるなよ。」

「……分かっています、兄さん。」

母屋へと去って行く孝成の背を眺める孝晴。流石軍人なだけあり、重心を崩さない美しい歩き姿だ。真面目で、努力家で、期待を全て背負い、それに応えてきた次兄。有坂家の中心である母は、何故か長兄ではなく次兄を選んだ。何とはなしに頭を掻くと、踵を返し、孝晴は離れへと戻って行く。よく手入れされた庭は、あの日から殆ど変わっていない。そう、丁度この時期だった。梅雨入り前の陽気のもと。三ツ離れた兄も、自分も、まだ幼かった、あの日から。

 

 

 葉は繁り蕾は緑鮮やか、あとは雨を待つだけという紫陽花の姿をよそに、空は外を駆け回りたくなるような皐月晴。有坂家の子供達にとっても、それは例外ではなかった。木刀で打ち合いながら笑い、庭に走り出てくる二人の少年。

「兄貴、ほら、やっぱり外の方が気持ちいいじゃねぇかぃ。」

「それはその通りだが、孝晴、これじゃあ規則も何もあったものじゃないぞ。」

「稽古じゃねェんだから、それくらい多目に見なきゃ損だぜ。」

からからと笑う弟に、孝成は困ったような顔をしたが、それでもすぐに笑みを浮かべた。齢(よわい)十三で文武の天才の名を恣(ほしいまま)にする孝成ではあったが、十になったばかりの弟の奔放さを見ていると、自らの中の「子供」の部分が高揚してしまうのも確かだった。見上げれば抜けるような青空、練習用の棒きれを持って走り回る弟の姿はなんとも微笑ましい。しかし、孝成の胸の奥に、少しだけ、黒い感情が頭をもたげる。弟は、早々にあの母から見切りをつけられた。その分、期待も束縛も重圧もないのだ。――羨ましい。一瞬、孝成はそう思った。

「孝晴。」

「どうしたね、兄貴。」

孝晴は言葉遣いも奔放だ。しかしその口調が、孝晴自身は殆ど会った事がない父に似ているというのも不思議なものだ。勿論、弟も「有坂家の男」に相応しい成績を修めている事を知っている孝成ではある。けれど。

「そんな事では、いつまで経っても私には追いつけないぞ。お前は『覚えが遅かった』んだから。」

それでも、少し意地悪な言葉を選んだのは、やはり孝成自身もまだ子供だったからだろう。孝晴は四ツの歳まで言葉が話せず、その後もぼんやりと周りを眺めている事の多い子供だった。ここ三、四年で活発に動くようになり、漸く普通の子供らしくなったのだ。孝晴の表情が強ばり、さっと頬に赤みが走った。孝晴自身も、気付いている。その所為で、自分が親に興味を持たれていないのだと。だから、怒った。

「……だったら、兄貴は、俺が本気でいったら、受け止めてくれんのか?」

「当たり前だろう。」

孝成にも、人一倍厳しい鍛錬をしてきた自負がある。同年代には既に、彼を負かせる者はいない。そんな彼の前で木刀を握った弟の構えは、完璧に「教えられたとおり」のものだった。相対し、そして、その一瞬。孝成には、怒る弟の目の奥が、仄青い光を帯びたように見えた。

 

 兄が強い事は、よく知っていた。兄はいつも、一回りも二回りも大きな大人を相手にして、試合に勝っていた。家柄を憚って相手が手を抜いていると見抜いた時は、珍しく声を荒げて叱っていた。本気で戦えと。それで負けたなら、自分の力不足だと。そうして相手の闘争心を煽っておいて、同じ相手に勝ってみせるのだから、実力は本物なのだ。だから、希望を持ってしまったのかもしれない。いや、その時は怒りの方が頭を支配していた。

(俺が話せなかったのは、お前らが遅すぎて聞こえなかったからだろうが。)

(誰も俺を見つけてくれなかったから、黙って止まってるしかなかったんじゃねえか。)

(俺が、お前らに合わせられるようになるまで、どんな気持ちだったと思ってんだ。)

(でも、兄貴なら、血の繋がった兄なら、もしかしたら――)

 刀を握って飛び出した孝晴は、愕然とした。兄は、構えたまま、全く動いていなかった。まずい。"瞬間的に"気付く。面を狙ってしまった。自分の力で木刀を振り下ろせば、兄の頭蓋は木っ端微塵に砕け散る。体はもう動いてしまった。止められない、いや、止めなければ、止まれ、この人は、兄は、母の一番大切な、

 

母の宝を壊したら、俺は。

 

動かしてしまった手足、せめて軌道を、変えなければ。全神経を通して全力を手足に込めた瞬間、頭の中で、何かが引きちぎれるような音がした。

 

 どしゃっ、と鈍い音がして、地面に何かが叩き付けられた。

「孝晴、……?」

今まで、たった今まで相対していた弟の姿を探して、呆然と音の方を振り返った孝成は、自分の後ろ五、六歩ほどの距離に、弟が蹲っているのを見つけた。どういう事だ、孝晴は自分の前に居た筈だ。いや、しかしあの、異様な雰囲気は……。戸惑いながらも、孝成は異変に気付いた。弟は突っ伏したまま、ぴくりともしない。駆け寄りその肩に触れようとして、さしもの孝成も目を剥いた。孝晴は顔中が血塗れだったのだ。

「孝晴!?どうした、何が……!」

孝成は慌てて弟を抱き上げようとしたが、転んで顔を酷く打ったなら動かすのはまずいと、頭の傷を探す。しかし、妙な事に気付いた。傷がない。その血は、弟の目や、鼻や、耳や口から溢れている。異変に気付いた使用人が集まって来る。孝晴自身も、周囲の騒ぎを感じていた。音はよく聞こえないが、真っ赤な視界に、慌てふためく兄の顔がうっすら見える。よかった、生きていた、殺さずに済んだ。

「兄貴、」

げほ、と咳をして血を吐き出した孝晴は、小さく、言った。

「あたま、いたい。」

 

 孝成はその場を使用人に任せ、すぐに母親に報告した。ほどなくして医者が到着したが、やはり外傷はなく、極度に興奮した為に出血したのだろうというのが、医者の判断だった。既に出血の止まっていた孝晴は、布団の中で半身を起こしながら大人しくそれを聞いていたし、孝成もそれ以前に見た事は何も言わなかった。医者が離れを後にすると、孝晴は俯き、ぽつりと言った。

「『兄さん』、ごめんなさい。俺の所為で、迷惑をかけました。」

孝成は驚いた顔をしていた。いくら言われても使わなかった敬語を、孝晴が用いたからだろう。それでも孝成はすぐに首を振った。

「違う、孝晴。私がちゃんとお前を見てやっていなかったから……。」

その後も孝成は孝晴を心配する言葉をかけたが、孝晴はそれを無感情に受け流していた。

(そうじゃない。あんたには、見えてないんだ、俺の事は。あんたにも、見えないんだ。)

「優秀」で「普通」な兄。母の権力が絶対のこの家にも、この世界にも、居場所がある兄。――羨ましい。一瞬、孝晴はそう思った。泣きたいような気持ちと裏腹に、孝晴は顔だけで笑みを作っていた。

「やっぱり俺、有坂家(うち)にゃ、相応しくねぇや。」

呟いた声音は、自分でも驚くほど弱々しく、それを聞いていた孝成も、無言になり、暫く側を離れなかった。

 

 

 孝晴が「今までどおり」を演じつつも、何もかもやる気を失くしたのは、その時からだ。その三年後、ただ無言で向き合い続けてくれた剣の師は、自らの手で殺した。自分もいつか、彼のように消えなければならないという気持ちは、今でも心の中にある。理由は分かっている。孝晴を一番恐れているのが、孝晴自身であるからだ。しかし、いざ気付けば手を出さずに居られないのは、性分というものか、それとも、自分の存在を肯定できる場所を作ろうと、足掻いているだけなのだろうか。

 孝晴は思考の底から自身を引き上げる。とにかく、三日間だ。兄がいる間は夜に出歩けない。その間は、昼間の仕事に久々に出る事にしようと決め、急に曇り始めた空の下、孝晴は少し早足で自身の部屋へ向かった。

 

 有坂孝成は歩調を弛める事なく階段を上り、絨毯を踏みながら廊下を歩む。広間、談話室、書斎、幾つもの使用人控室、それらに一切目を向けず、辿り着いた先。樫の扉を無言で開き、部屋に入ると鍵をかける。そこは自分の部屋であるのだが。

 

「待っておったぞえ、孝成。」

 

 其処に居る事は分かっていた。兄や弟が挨拶に訪れる時は、母は彼女の部屋で兄弟たちを迎える。しかし、孝成の場合は違う。帰宅を知らせば、母は自分の部屋にやってくる。輸入品の窓掛けは締め切られ、装飾過多の洋燈が部屋を照らしている。陰鬱な部屋だ、と孝成は思った。生活感など欠片もない、ただ一級の調度品が並んだだけの部屋。しかし、其処に立つ女は、息子である孝成から見ても非常に美しかった。この部屋の生活感の無さも、その女の妖艶で現実離れした美貌には寧ろ違和感が無い。これが有坂家の実質の主であり支配者、女傑と呼ぶには生温くさえある三兄弟の母――有坂十技子(とぎこ)だった。

「孝成、只今戻りました。」

「分かっておる。近う寄れ、そして……体を見せい。」

無言で頷き、釦に手をかける。毎度の事で慣れている上、この場では「服従」が最善の選択肢だ。静かな、衣擦れと言うには些か風情のない、軍服を脱ぐ音だけが暫く響く。衣類は素早く畳んで纏め、一糸纏わぬ姿で立ち上がった孝成を、母は目を細めて眺める。

「鍛錬は怠っておらぬようじゃな。拵え方も結構、均整も取れておる。さて、その右腕の痣は何じゃ?」

「机に打ちました。『軍務以外では謙虚で穏やかな人間』を演じている以上、多少の欠点を作らねば、逆に目立ちます。実戦で傷を受けた訳ではありません。」

「左様か。じゃが、利腕を傷付けたのは感心できぬぞえ。」

「申し訳ございません。」

「まあよい。お前が、利腕が使えぬ程度で不覚を取る事などあるまい。母はそう信じておるからの。」

笑みを深め、彼女は目線で許可を出す。もうよい、と。素早く衣服を身に付けると、孝成は言った。

「母上。お尋ねしてもよろしいですか。」

「構わぬぞえ。」

「孝晴に変わった所はありますか。」

その問いに、母はその表情をふっと消した。予想外だったのだろう。しかしすぐに、彼女は口元に笑みを浮かべる。

「相変わらず、時折夜遊びに繰り出しておるようじゃの、あれは。」

「何処(いずこ)へ?」

「それは知らぬ。妾の手駒をあれの監督に割けと言うのかえ?」

「いえ。母上がそのように判断しておいでなら、私から申し上げる事はございません。」

そこで流石に、母は怪訝そうに目を細めた。

「どうした、孝成?あれの放浪癖は今に始まった事ではなかろうに。」

孝成は少し目を逸らし、言葉を選ぶ。母の機嫌を損ねたら、自分に利は全くない。ただ面倒な事になるだけだ。

「母上は、何故孝晴を此処に置き続けているのですか。使い道が無いなら、さっさと嫁でも取らせて家から出すべきでしょう。」

「成程、それは妾も考えておった。」

母は優雅に首を傾げ、表情を笑みの形に戻す。

「有坂家は孝雅が継ぐ、あれにはもう子があるからの。次の子が男子(おのこ)であればなおよいがのう。孝晴には孝雅ほどの政(まつりごと)の才はないゆえ、代替品にもならぬ。ただ、あれが拾うてきた『狗』はなかなかに使い勝手がよくての。よく躾けられて物覚えもよい。何より、我が家に血は繋がっておらぬが、孝晴の為なら『どんな事でも』やるからの。役に立つ可愛い仔犬じゃ。そして孝晴は、あれで妾には逆らわぬ。駒として置いておく価値はまだあると、妾は思うておる。」

「そう、ですか。」

母は、誰の事も信用しない。彼女が他人を見る基準は、「使えるか、否か」だ。それは孝成を含む自分の子供達に対しても例外ではない。この母の寵愛は、一般に言う愛情ではなく、単なる評価に過ぎない。期待に背けば、すぐに切り捨てられるだろう。尤も、母自身もそのような世界を生き抜いてきた事を知っているのは、恐らく孝成だけだ。感情の無い目で母を見つめる孝成に、彼女は寧ろ満足気な表情を浮かべて近付き、抱擁する。

「しかし、妾の宝はお前じゃ、孝成。この旭暉一の男(おのこ)じゃ、お前は。この國の盾であり美しき剣(つるぎ)じゃ。それを忘れるでないぞえ。」

「承知しております、母上。」

淡々と答える孝成もまた、彼女を名のある人間というよりも、「母」という属性で認識している事を、彼女は知っているのだろうか。知ったとして、彼女は悲しみや怒りを感じるのだろうか。孝成には分からなかった。

 

 使用人達の元へ帰宅の報告に回り(当然、「謙虚で礼儀正しい人間」を装う為だ)、西棟に住まう父の元へ顔を出し、母屋を出る頃には日が傾きかけていた。着いた頃にはあれほど晴れていた空も、雲がかかって薄暗い。離れに向かい、既に整えられた部屋に荷物を片付けると、孝成は孝晴の使っている部屋へ向かおうとして、廊下で足を止めた。文机のある書院で、座布団を枕に、酒瓶を抱えて寝転がる孝晴の姿がそこにあった。幼い頃から変わらない長い髪が畳に散り、寝返りを打ったのだろう、帯は弛んで衿元が肌蹴ている。その場に立ったまま、じっとそれを観察する孝成の目は、「眠る弟を見守る兄」のそれではない。そこに宿るのは、品定めするかのような冷たい光だ。こんなにだらし無くしていても、体を見れば、弟が単に自堕落に過ごしている訳では無いと分かる。孝成はあの瞬間の事を誰に話していない。だが、確かにあの時、孝晴は「消えた」。

(こいつには、何かある。それは間違いない。その「何か」が、私の脅威となるなら、その時は。)

「口数が少なく真面目で謙虚な兄」は、家族さえ欺き続け、今は弟を始末する時の事を考えている。何故?どうしてそんな事を考えたのか。あの時の孝晴に対して感じたもの、それが――"恐怖"だったから、だろうか。

 その時、「うぅン」と孝晴が呻いた。孝成は瞬時に表情を変える。目を開けた孝晴が見たのは、少し呆れ顔ながらも、小言を喉の奥で飲み込んでいる、そんな顔をした兄だ。孝晴は眠そうに瞬きをした。

「あにき……兄さん。」

「……。」

「……。」

 その言葉に目を丸くする孝成と、あからさまに「しまった」という顔をする孝晴。互いに無言で見つめ合った後、孝成は、堪え切れないという様子で息を吹き、笑い出した。呆気に取られながらも孝晴は身を起こす。兄がこんな風に笑うのを見たのは初めてだった。孝成も、何故自分が「笑う」という行動を取ったのか分からない。しかし、理由はどうでも良かった。少なくとも、今は。

「ふふ、お、お前、やはり無理をして敬語を使っていたのか。」

「あの、違……寝起きだから……。」

「こんな時間に寝惚けるほど眠り込む奴があるか。もう日が落ちるぞ。ああ、昔は敬語を使えと教えたものだが、今は懐かしいな。『兄貴』か。ふふ……。」

笑う時に手を軽く口元に添える仕草は、孝晴も無意識にしてしまう癖と同じだ。やはりこの人は自分の兄なのだなあと何となしに思った孝晴に、孝成は言った。

「飲むか?一緒に。」

「えっ、兄さんは飲まないのでは。」

「飲まないが、『飲めない』訳ではないさ。」

「俺は酔いませんが、相手が俺でいいんですか。」

「構わない。久々の休暇なんだ、兄弟と盃くらい交わしても罰は当たらないだろう。」

 くすくすと笑いながら「湯を浴びてくる」と言い残し去って行く兄を呆然と見送る孝晴。一体兄はどうしたのだ。いや、あの兄の事だ、何か裏があってもおかしくはない。孝晴は兄が時折、恐ろしく冷たい目をする事を知っていた。麟太郎のような「感情のない」目とは違う。相手を試し、値踏みし、価値を見定めようという、底冷えするような意思の宿る目。あの目に一番似ているのは、母の眼(まなこ)だ。孝晴はあの目が苦手だった。目を向けられただけで、自分の全てが否定されるようなあの目が。けれど先程の兄の目は、そうではなかった。あの兄とて、人間なのだ。もしかしたら気紛れを起こすのかもしれない。戻って来た孝成は既に升を手にしていた。女中達を下がらせ、二人並んで縁側に座る。目の前に見える庭の地面を雨粒が濡らし、そして塗り潰してゆく。孝成が空を見上げて言った。

「降って来たな。」

その横顔は、まだ若々しく、優しげにさえ見える。孝晴は「そうですね」と答え、升に口をつけた。

 

 孝晴は考える。兄は何を隠しているのだろうと。互いに本性を探り合いながら、「兄弟」という役割を演じているのは、滑稽な事この上ない。けれど今は、篠突く雨の、暑さも過去も疑念も記憶も全て押し流すような激しい音が、縁側で談笑する二人の男を包み込んでいた。

 

帝國の書庫番

六幕 「二男と三男」





帝國の書庫番 幕間一
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帝國の書庫番 七幕

雨夜の憂い。女の目に映るものは。


 「篠突く」などという美しい言葉は、こんな土砂降りの雨には似合わない。季節が過ぎれば止むとは言え、雨の臭いは嫌いだった。大事な「妹」が去ったのも、あの事件が起きたのも、雨の日だった。どちらも過ぎた事だけれど、女の心には、あの日の臭いが染み付いて離れない。

 

 

 格子窓の隙間から眺めれば、雨粒が瓦に当たって流れ落ちていく様が見える。ちらりと目線を横から上に向けると、直立不動のまま、睨むように外を見ている白衣の男の姿がそこにある。普段着用している眼鏡をかけていないのは、彼が遠くに目を凝らしているからだ。その美しい横顔には、苛立ちの色がありありと浮かんでいる。

「……衣笠様。聞きなんし。」

女は気遣わしげに声を掛けた。男――衣笠理一は、黙る事で先を促す。

「此処からじゃ、見えるものなどありんせん。忘八が方々探しても、あの子らは、」

「だからって、廓(ここ)には邏隊も警兵も入れないんだ。ここの子供を拐(かどわ)かすなんて、ろくな目的じゃないのは分かるだろうよ……。」

 ぎり、と怒りに任せ歯を鳴らす理一。女も気持は同じだった。「禿(かむろ)の少女が消える」事件。去年も何度かあった。しかし今年は、数が異様だ。共通しているのは、それが必ず「雨の日」に起こるということ。梅雨に入ってからも、この店だけで既に三人の童女が消えた。その度に理一は何か掴めないかと店を訪れて来るのだが、客を装っている以上、行動範囲は限られてしまう。まだ軍医学校を出たばかりで、給金も少ない理一に身銭を切らせる意味がないのだ。それでも、理一自身、我慢ならないのだろう。

「……衣笠様、知ってありんすか。禿が消えているのは、この店だけじゃありんせん。」

「!」

「茶屋と客から聞きんした。店の場所や規模に繋がりもない、と。」

「場所も、規模も、無関係……。」

理一は驚いた顔で女を見たが、すぐに何かを考え始めた。そして小さく、呟く。

「堀……?」

 しかしその瞬間、理一は勢いよく背後を振り返った。隣の女が思わず身を震わせるほどの激しさ。その勢いのまま、理一は女の腰を抱えて部屋の角まで一直線に飛び退る。その目線が天井と部屋の床を素早く上下した、その時。天井板が軋む音と、そこが抜けたのは、ほぼ同時か。敷かれたまま寂しく放置されていた布団の上に、埃や木片と共に降ってきたのは、二人の男だった。思いの外音がしなかったと感じる間も無く、女にとっては一瞬。目の前にずぶ濡れの男が一人、両手に尖った棒――手裏剣か――を握り、片方を女に、そしてもう片方を理一に向けていた。

「静かにして下さい。」

低い声に、射殺すような鋭い目。しかしよく見れば体躯は小柄だ。濡れて埃に塗れた為、烏羽の軍服が所々白くなっている。女を庇ったまま、その警兵を冷たく見据える理一の目には、女が殆ど見た事のない、赤い怒りが宿っていた。

「『それ』を下ろしやがれ。」

「お二人が、騒がず話を聞いてくださるのであれば。」

「その細腕今すぐへし折ってやろうか?クソガキ。」

「……後ろに転がっている『あれ』が、貴方が追っている件の下手人です。」

思いがけない言葉に、理一が目を見開いた。それを見た少年は、再び「騒がずに話を聞いてくださいますか」と淡々と問う。女は理一を見上げた。武器を向けてはいるが、この警兵に害意は無いのではないか。理一はちらと女を見遣り、周囲の気配に変化がない事を確認すると、厳しい目付きのまま言った。

「名乗れ。」

「……。」

「手前(てめえ)が身分を明かすなら、聞いてやる。あと手裏剣も先に下げろ。」

「東都東茅野兵団所属、刀祢麟太郎警兵少尉です。所属の詳細は今は関係ないので、話をしてよいですか。」

「……ちっ、分かったよ。」

この子供が真に警兵の身分であるかは、理一であれば後でも確かめられるだろう。言われるままに武器を仕舞った相手に、警戒を解くまでは行かないものの、理一は少年についてもう一人の男を見遣る。部屋中に満ちる雨と泥の臭い。そちらの男も濡れ鼠で、どうやら轡を噛まされ手足を縛られているらしい。

「で?」

理一が冷たく訊ねる。刀祢と名乗った少年は淡々と答えた。

「廓内で少女が消える件について、私の『主(あるじ)』が真相を突き止めまして。その命に従い、私は軍としてではなく個人として動きました。此処に私が居たと知られる訳にはいかないので、同じくこの件を追っていた貴方が『これ』を捕らえた事にして欲しいんです。」

「待て、要点以外をもう少し言え。こいつが犯人ってのは間違いないのか?」

「先程、貴方も気付いたではありませんか。『堀』だと。」

少年の返答に、理一は「聞いてやがったのか」と呟いたが、はっと顔色を変える。つまり彼は、天井裏に居た二人の存在に、全く気付けなかったのだ。言葉を失った理一を意にも介さぬといった風に、少年は続ける。

「経緯は省きますが、『主』がこの件は事故などではなく『人攫い』であると知り、方法と犯人に目星をつけたので、私がそれを確かめて捕らえました。」

少年は一度目線を下げる。

「『これ』は漁民で、潜水の達人です。廓の堀は外部からの防衛を目的としていませんから、潜ってしまえば渡り切るのは容易い。大雨の日を選ぶのは、水嵩が増して堀から上がり易くなる事と、濡れたまま歩くのに都合が良いからです。そもそも人目にもつき辛いですし。そして雨でも廓の少女達は裏で働いていますから、何かの用で外に出た隙を突いて堀に引き摺り込み、通水路に流して後で遺体を引き上げるんです。」

「……なら子供らは、ここから消えた時点で、死んでたって事かよ。何でわざわざ殺してから連れ出したんだ。」

「聞きたいのですか。」

少年は、一度目線を女の方に向けた。その目から感情は全く読み取れない。しかし、彼が目を向け直した理一の方は、足元に転がる男を射殺さんばかりだった。男が大人しいのは、拘束されているというだけでなく、「怯えている」からであると、見ているだけの女にすら伝わる。それほど、理一の怒気は凄まじかった。理一の無言を肯定と捉え、少年は一度目を閉じると、言った。

「犯すんですよ。遺体を。」

 

ボギン。

 

関節が砕ける音と、男のくぐもった悲鳴が小さく聞こえた。理一が、男の肘を踵で踏み抜いていた。少年は語調を変える事なく理一を見遣る。

「殺さない方がよいですよ。」

「……。」

「因みに、『現場』も確認しています。今夜も、そうして堀から上がったところを捕らえて来ましたので。」

「始めから、俺に押し付けるつもりで、か?」

「はい。」

迷う素振りすら見せず即答した少年は、「話を戻しましょう」と静かに言う。その表情は、仮面でも被っているかのように、全く変化しない。

「始めに言ったとおり、私は此処に居たと知られる訳にはいきません。貴方も目的が果たせます。協力していただけますか。」

理一は震えながら涙を流している男と、無表情の少年を交互に見遣り、目を細めた。

「例えこいつが本当に犯人だったとして、手前を信用できる要素がない。」

「……。」

「確かに、廓内の問題は内(うち)で片付ける事になってる。その上でこっちは尻尾すら掴んでなかったのも、事実だよ。だがな、お前も『侵入者』なのは間違いないだろうが。外の人間がそこまでする理由はなんだ。手前こそどうやってここに入り込みやがった?」

理一の声音は厳しい。少年は腕を組み、少しだけ考える素振りを見せたが、首を傾げ、言った。

「では、私の秘密をお渡しします。」

「は?」

「貴方は、衣笠家の方ですね。であれば、問題ないでしょう。私の師は旧幕府の庭番です。……ここに忍び込めた理由としては、これで充分ですね?」

「なっ……、」

「もう、時間がありませんので、お任せします。私が『自分と師の処遇』を貴方に委ねた事、お忘れなく。……さて。」

絶句した理一の足許に少年は屈み、転がる男の髪を掴むと、頭を引き上げ目を合わせる。

「貴方、と呼ぶのも嫌気がさしますが。貴方は『子供だけでは満足できなくなり、遊女を狙って侵入したところ、こちらの衣笠伯爵に気付かれ、捕らえられた』。そうですね?」

男は肘を砕かれた痛みに啜り泣くばかりだったが、少年がビードロの玉のように無感情な目で「そうですね?」と念押しすると、辛うじて頷いた。すぐに少年は男の頭を放り出して立ち上がり、理一を見る。

「……他に詳しい話が聞きたいのであれば、次の非番……一週間後に私を訪ねてください。では。」

 そして少年は、濡れた服の重みを物ともしない身軽さで天井に向かって飛び上がり、彼が開けた穴の中に音も無く消えて行った。落ちる時も、彼が音を殺していたのだろう。理一が呆然とするのも無理はない。旧幕府の関係者というだけでなく、それが「庭番」――幕府お抱えの諜報・暗殺部隊、単純に言えば忍集団――であるとなれば、新政府が成立し三十年以上経ったとは言え、表立って東都を歩ける立場ではない。そんな秘密を呆気なく明かして行くとは。少年が去った天井を見上げながら、理一がぽつりと呟いた。

「あいつ……馬鹿なのか?」

 

 

 雨夜の逢瀬は、嫌でもこの記憶を思い出させる。磨き上げられた板張りの廊下を通って部屋に向かいながら、女は息を吐いた。襖が開かれれば、そこには見慣れた白衣の姿。煙管を咥える横顔は、自分など及ばないほどに美しい。その目がゆっくりと女を捉え、穏やかに細められる。

「いつもより遅かったな。」

「女を急かすのは、無粋でありんすよ。」

「言うじゃねぇか、錦木(にしきぎ)。……脱いでいいか。」

「お好きにしなんし。」

煙を細く吐いて煙管を置くと、理一は白衣と軍服を脱いでゆく。女も同じく、邪魔な帯を早々に解いて座した。眼鏡も外し、綿の肌着だけを纏った理一は、飛び付くように女の腰に抱き付き――

 

「ねぇーねっ!ただいま!」

 

満面の笑みを浮かべ、ぎゅっと、女を抱き締めた。そこには、肉欲など欠片もない。女――錦木は、苦笑しながら理一の頭を撫でる。

「『りり』、あんた結局、一度も廓言葉を使わないね。あたしは教えた筈なんだけど。」

「あたしはお客様じゃないもん。ねえねは、あたしに他人行儀に喋って欲しいの?」

 顔を上げ、子供じみた仕草で頬を膨らませる理一。錦木は、彼の――「りり」だった彼の世話を任されていた、南天太夫付きの禿だった。あの頃の彼にとっての「ねえさま」、錦木にとっても共に育った仲間達のうち、生き残ったのは、もう、自分だけだ。彼の母も、大人になった彼を目にする事なく死んでしまった。だからなのか、理一は錦木の前でだけ「りり」に戻る。本人曰く「口調がそうなるだけ」らしいが、錦木には、彼の中にあの頃の「少女」がまだ存在しているようにしか見えない。それに、錦木にとっても、あの雨の日に、目の前で泣きながら連れ去られて行った「妹」の可哀(あわれ)な姿は忘れられない。それを止める力は、まだ九つになったばかりの錦木には無かった。彼は未だに、ここを「家」だと言い、廓の女達を「家族」だと言う。それ程、幼い彼にとって「外」での経験は受け入れ難かったのだろう。

「ね、やっぱり今日は元気ないね。雨だから?それとも、体が悪いなら、あたし診るよ。」

「体は悪くないよ。雨だからね、どうしても思い出すんだ。本当に惨い事だったよ……。」

敢えて錦木は、理一と別れた日の事は言わなかった。彼にとっても触れられたくないと分かっていたから。理一は錦木を見上げ、ふわりと笑った。

「きっとあの子達は成仏できたよ。麟太郎が弔ってくれたから。」

「海に流された遺体も、出来るだけ引き上げて埋めてくれたんだっけ。」

「うん、あいつ、ほんとにいい奴だから……たまにちょっと心配になっちゃう。」

あんなことする馬鹿だし、とクスクスと笑い声を立てる理一。あの時、刀祢麟太郎が現れなければ、そして聞いた話によると、その指示を有坂家の三男が出さなければ、更に被害は増えただろう。二人は、理一にとっても錦木にとっても「家族」を守ってくれた恩人だ。尤も、二人とも廓を訪れないため、錦木はあの時の「恐ろしい警兵の少年」である麟太郎以外を目にした事はないのだが。

「あんたの話を聞いてると、麟太郎って子も、有坂様も、いい友達みたいで安心してるよ、あたしも。」

「友達……かぁ。」

「違うのかい?」

不思議そうに訊ねる錦木に、理一は苦笑した。

「あたし、意外と敵が多いから。あたしは二人とも友達だと思ってるけど、うーん、『協力者』くらいに言っておいた方がいいかも。」

「それじゃ寂しいじゃないか。」

「男にも色々あるんだよ。」

そう言って理一が浮かべた諦めを孕んだ笑みは、驚くほどに彼の母ーー南天に生写しだ。初めて彼が店に来た時、楼主が暫く動けなかったという話も頷ける。十七の理一が、廓入りした頃の南天と、余りにも似ていたから。南天も、凛々しく気高く努力を惜しまず、しかし時折見せる諦観と儚げな表情が、大輪の花と可憐な小花を束ね合わせたかの如き美を紡ぎ出すような女だった。

『あたしは、この子に悪い事をするよ。』

生まれたばかりの「りり」を抱いた南天は、まだ幼い錦木の前で言った。

『あたしはね、ここに入った時から、まともに子を産むなんて、諦めてた。けどね、買われて産んだとはいえ、この子は、あたしの子なんだって思うとね……どうしようもなく、愛おしいんだよ。手放したくない。……この子はきっと、人一倍苦労する。あたしは、恨まれても仕方ないね。何も分からないこの子に我儘を押し付けるなんて、最低の親だ。』

子を為す事、その喜びなど、当時の錦木には分からなかった。けれど、赤子を抱く彼女の慈愛と諦めの混ざった儚い笑みは、まるで天女のように美しかったのだ。

 錦木は、そっと理一の頭を撫でる。理一は逆らう事なく目を閉じる。畳に横たわるその体は、細くしなやかではあるが、鍛え抜かれた男のそれだ。しかし、そう意識してしまえば、「家族」としての関係は壊れるだろう。彼が、唯一心の中の「彼女」を曝け出せる場所を、守ってやりたい。その気持ちに偽りは無かった。

「何かあったのかい?」

「……。」

「あんたがくっついて離れないのは、大概そういう時だよ。」

昔からね、と付け加えれば、理一は少しだけ、抱き付く腕に力を込めた。

「暫く、ここに来られなくなるの。」

「忙しくなるのかい?」

「ううん、違う……これはあたしの所為……。でも、ねえね達まで馬鹿にされた気がして、我慢できなかったの。」

「何があったか知らないけど、りり、あんたって冷静なのに短気だよねえ。」

「そうかもしれない、ここのみんなの事を考える前に、手が出ちゃった。」

「手って、あんた……。」

錦木がその先を続ける前に、理一は顔を上げ、有無を言わさぬように錦木の目を見据え、言った。

「あたし、謹慎処分になったの。だから暫くここには来られない。」

理一の目の奥は、何かを覆い隠すように薄暗い。錦木は何も言えなかった。話す者の居なくなった部屋の中には、ただ、雨音だけが空虚に響き渡っていた。

 

帝國の書庫番

七幕 「錦木」



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帝國の書庫番 八幕

夏の初め。重なる出会い。


 本の量だけを見れば、書庫にも見えるその部屋。しかしその膨大な本を収める書棚の中央には、洋式の文机が据えられている。合わせて誂えられた椅子に腰掛ける事もなく、衣笠理一は手元の本に目線を滑らせる。この部屋以外の本は、粗方読み尽くしてしまった。本を読み、財産管理等の雑務をこなし、敷地内の射撃場や道場で一人稽古を行う日々を繰り返し、そろそろ半月が過ぎる。雨の季節は終わりを告げ、庭に出れば空気の変化を感じるが、一月の謹慎が解けるのはまだ先、の、筈だった。

「……。」

「すげェ顔してんぜ、リイチよぉ。」

 無言で理一が振り返った先には、窓の枠を軽く飛び越え、部屋に降り立つ黒羽織。既に時間は深夜。心地良い夜風を通す為に窓は開けており、机上の洋燈の灯りも漏れているであろうから、居場所が割れた事は疑問にすらならない。ただ。

「この部屋の外、登れるような突起はねぇんだがな。」

「跳べば届くもんさ。」

「二階だぞ、ここ……。」

「暉式の家でやったら屋根が抜けンだろうな。」

からからと笑う孝晴だが、彼は「窓枠に手を掛けて這い上がった」訳ではなく、「一飛びで窓枠を飛び越えた」のだ。地面に凹みでもできそうなものだが、彼の場合衝撃を筋肉に吸収させてしまうため、痕跡も殆ど残らない。ただ、常人には視認できない速度での動作を可能にするその筋肉は、見た目の数倍は「密」で「重い」。脳に合わせて体が発達しているのだろうが、確かに木造屋根に飛び乗ったら、着地の衝撃を殺したとしても重みで抜けかねない。彼が軍に入らなかった理由の一つでもあるのだろう。

「で、何しに来た。俺が謹慎中なのは知ってんだろ……。家の者以外と会ったと知られたら、また処分が追加されちまうんだがな。」

「俺が見られてる訳ねェだろぃ。」

「そういう意味で言ってねぇよ。」

孝晴はくすくすと笑い、腕を組んだ。

「明日、謹慎解除の報せが来るはずだぜ。」

「は?」

「喧嘩相手の肩すっぽ抜いたのは、ま、やっちまったとは思うが、お前さんは理由なくそんな事しねぇ。話をでかくしたのは太田の坊っちゃんだろ。」

「……。」

「太田家もなんだかんだで影響力は強ぇからな。だが、太田の御当主は、坊っちゃんにゃ甘いが、人間はでき過ぎるってくらいできてる。経緯を確認したらすぐ、嘆願書を軍に送ってたぜ。」

「それで、謹慎明けが早まるってか。」

理一は一つ溜息を吐いた。孝晴はどうやら、理一が処分を受けた経緯の殆どを知っているようだった。孝晴の言った通り、そもそもの原因は「喧嘩」だ。しかし、理一が喧嘩を吹っ掛けられた訳ではない。病院に検査で訪れていた一団の中、ある一人の男に対して投げかけられた罵倒の言葉に、理一の方が勝手に、頭に血を上らせてしまったのだ。理一自身、大人気ない割り込み方をした自覚もあり、運が悪かった――どうやら理一が喧嘩した男は、太田公爵家の分家筋だったらしい――とは言え、処分も納得していた。

「何でまた、お前がわざわざ動いたのかわからねぇな。お互い金に困ってる訳でもあるまいに。」

「……これは、俺が『言った方が良い』と思ったから隠さずに言うんだが。」

孝晴は怪訝しげな理一の顔を眺め、ふんわりと目を細めた。

「俺に話持ってきたのは、お前の一番上の姉さんだよ。」

「!……。」

「お前が謹慎中、ずっと一人で籠ってんのが心配だってよ。『謹慎が解けたらお前を連れ出してやってくれ』とさ。ついでに、お前から謹慎食らった理由を聞いてないってんで、できるなら訳を知りたいっつってたから、調べてみたってとこだな。」

「たまに出かけてたと思ったら……。別に心配されるような事はしてねぇぞ。」

呆れ顔で呟いた理一に、孝晴は息を吐き、首を振った。

「当主がいきなり謹慎食らってその理由も言わねぇ、家中の者とすら最低限の接触しかしないで部屋か道場に篭り切り、しかもその当主は自分より歳下の弟だ。……女が不安にならねぇ理由あるか?」

「最低限ってなあ、顔を合わせる度に大丈夫なのかって言われるから、うちの事は心配ねぇって……。」

そこで理一は口を黙み、軽く頭を押さえた。

「ああ、くそっ、俺か。『俺』が大丈夫なのか、って聞いてたのか、姉さん。」

「気付くのが遅くねェかい、衣笠センセ。」

「くそったれ……。」

苦々し気に吐き捨てる理一だったが、孝晴は笑みの奥で考える。彼の姉ーー「初」が、あまり主張せず一歩退くような性質の女であるとはいえ、他人の感情を読み取る事に長けている理一が彼女の思いに気付かなかったのは、余程この件で腹が立っていたのか、それとも意図的に家族を避けていたのか。何にせよ、彼にとっても家族にとっても、よい状態ではないだろう。

「ま、俺はお前が『太田家の奴輩(やつばら)に他人が馬鹿にされてンのを見逃せずに割って入った』としか太田卿には伝えてねぇし、それ以上の事は知らねぇから安心しなァ。身内調べて確認取って、嘆願書書いたのは太田卿自身の判断だ。で、だ。本題なんだがよ。」

「はぁ……わざわざ忍び込んでまで来た理由ってのは、一体何なんだよ?」

「お前の姉さんの依頼、もう半分を叶えてやるンだよ。謝罪やらなんやらが終わったら、仕事再開する前に休み取れ。」

「とんでもねぇ事言いやがんな……。」

「けどお前さん、復帰したら、真っ先に仕事で予定埋めるだろぃ。」

「だからこんな風に言いに来たってか。」

笑みで応じる孝晴。理一は深く溜息をつき、「努力する」と呟いた。

 

 数日後。朝から目を眩ませるような陽射しが照り付けている。薄鼠の紬に羽織を合わせた理一は、傘を差して門へ向かう。洋式の屋敷に暮らし、正装では洋装も着るが、普段の理一は着物を好んだ。孝晴と出かけると告げた時の、お初の安堵に溢れた顔を思い出し、理一は息を吐く。大人しく自己主張に乏しい腹違いの姉は、自分から行動を起こす事が殆どない。覚えている限りでは、自分が初めてここに来た時の――

「よォ。」

 その声に理一は思考を切り上げ、笑みを浮かべた。門の先には、いつものように絣を着流した孝晴と、暑苦しい烏羽の軍服が立っている。

「有坂の御令息が家までお迎えなんざ、贅沢な事もあったもんだ。」

「『友人』じゃねぇのかィ。」

「友人なら冗句くらい理解しろよ。」

「はは。」

いつものように短く笑う孝晴だったが、ふと理一を眺め、言った。

「お前さん、軍帽が無いと目立つんだなァ。」

そう言えば、外出着の状態で二人と会うのは初めてだったか、と思い返す理一。彼自身にも自覚はある。「太夫」の座にあった女に生写しなのだから、至極当然の事でもある。もう少し若い頃は、羽織で出かけていてさえ、男達から声を掛けられたものだ。理一は笑い、孝晴の後ろの麟太郎に目を向ける。

「そこの烏よりは目立たねぇよ。」

「私の方が階級が上なのを忘れていませんか。」

「お前はそんな事気にするタマじゃねえだろ。」

「そうですね。」

いつもの無表情で応えながら、冗句とは難しいものだと麟太郎は思った。

 

 出水屋は氷を始めたらしく、長蛇の列が出来る程の盛況振り。店主の男は手伝いを雇ったようで、美しいとは言えないがくるくるとよく動く愛想のよい娘が一人、てきぱきと客を捌いていた。

「これもハル様が?」

「んにゃ、俺は最初にちっとばかし『美味い菓子を出す茶店を見つけた』って小間使い達に言っただけだぜ。」

「確信犯じゃねぇか。」

普段よいものを食べている孝晴が「美味い」という菓子。小間使いの女が気にならない筈がない。そして女は、噂を広めたがるものだ。瞬く間に出水屋の名は東都を駆け巡った事だろう。理一の言葉に、孝晴は澄まして言う。

「お麟も美味いと思っただろぃ?悪い事はしてねェよ。」

「しかしここまで混雑していたら、近付けませんよ。私達がお客さんを追い払ってしまいかねません。」

「そうさな……。悪ィなリイチ、飯の後にするか。日が落ちてくれば暑さも客も少しは引くだろ。」

「別に構わねぇよ、お前らの好きにしな。」

麟太郎はまだしも、孝晴は普段好き放題入り浸っているというのに。気遣いなのか、彼が来たいだけなのか分かったものではないと、理一は苦笑した。

 

 三人で(正確には、二人の後ろを麟太郎が付ける形で)夏の日差しの下、ゆっくりと歩く。家の敷地を除けば、研究室・執務室と練兵場と走り込み用の屋外路以外に出る事自体が、理一にとっては久々だった。道中は無言だが、その無言もまた心地良い。しかしこの三人連れは、やはり目立つのだろう。様々な感情を孕んだ目線が向けられては、後ろに流れて消えて行く。

「有坂の、お前、よくこんな中で連日ぶらつけるな。」

「気にしたところで詮無いぜ。変わりゃしねぇからよ。」

「それもそうか……。」

笑う孝晴の横で、ちらと後ろを振り返れば、我関せずといった無表情の麟太郎。この二人の傍に居る時は、他人の視線など気に掛ける方がおかしいのかもしれない。

 

「ハーールーーー!!」

 

 唐突に甲高い声が響き、三人同時に足を止めた。声の方向には広場があり、青葉繁る五弁花の木の下に小さな人集りができている。

「何ぞ不躾な。」

「俺の事じゃないと思うぜぃ。俺を『ハル』なんて呼ぶのはお前くらいなんだからよ。」

ぼそりと呟いた麟太郎に笑いながら答えつつ、聞き覚えのある声だと孝晴は広場に足を向ける。

「どうした?」

「んにゃ、多分あれは……。」

その間にも、その甲高い声――女、いや、少女のものだ――は響き続けていた。よく通る声だ。人が集まるのも道理だろう。

 

「ああっ!だめ、だめですハル!動いてはだめ!戻ってくださいコハルーー!」

 

 近付けば、人集りの中、一人の少女が泣きそうな顔で木の上を見上げて飛び跳ねながら叫んでいる。洋式のワンピースの裾が、動きに合わせ忙しなく揺れる。孝晴はゆっくりと近付いたが、木の上を見て眉を寄せた。高さは、八尺はあるだろうか、幹から張り出た枝の先端付近に子猫がしがみ付き、心細げに鳴いている。理一も気付いたようだ。

「アレがあの子の猫なんだな、多分。」

「……。」

「跳べば届くって考えてんのか?やめとけ、目立つどころか、ばれるぞ。」

「そうさな、それもあるが……。」

口を噤む孝晴。猫よりも速く跳び、捕まえる事はできる。しかし、獣は力の差に敏感で、尚且つあれは子猫だ。殆どの獣に上位の存在だと警戒される孝晴が触れれば、恐怖に襲われた子猫は飼い主など忘れ、本能のままに逃げ去るだろう。

「お知り合いなのですか。」

麟太郎が問う。孝晴は一つ息を吐いた。

「勘解由小路(かげゆこうじ)家のお嬢様だよ。」

「成程。」

抑揚なく頷くと、麟太郎は軍帽を外した。そして理一の前に差し出す。

「先生、持っていて下さい。」

「俺に持たせるのかよ。」

「ハル様に持たせろと?」

「はいはい、分かりましたよ、中尉殿。」

どうする気かと興味半分な理一を尻目に、麟太郎は人集りに近付いてゆく。少女と共に上を見上げていた男の一人がそれに気付き、ぎょっとして叫ぶ。

「け、警兵!?」

その声に、少女も振り返る。麟太郎の姿を認め、あどけない顔にさっと怯えが走った。漣のように、驚愕と困惑が広がってゆく。何故警兵が、騒ぎ過ぎたのか、と囁き合う声が上がる中。

 

「皆さん。」

 

 低い声。騒めきがぴたりと止んだ。麟太郎は無表情にそれを眺め、ゆっくりと言葉を吐く。

「道を、開けて下さい。」

再び少し騒めいた後、塊が二つに割れた。幹から十尺ほどだろうか、立ち止まった麟太郎に、少女は駆け寄って叫んだ。

「警兵さま、違うんです!皆さんは、わたしの為に集まってくれただけで、」

「木の下から離れて下さい。」

「でも!」

彼女の言葉は麟太郎の一瞥によって途切れた。全く感情が浮かばないその目を見て、恐怖しない筈がないだろう。少女はふらふらと後退り、空間が生まれる。麟太郎は姿勢を低く取る。ざり、と長靴の下で砂が鳴った。

一瞬。そう、周りの人間には見えただろう。

 地を蹴った麟太郎は、その勢いのまま木の幹を三歩で垂直に駆け上がり、身を捻って猫のいる枝の根元に吸い付くように飛び乗った。殆ど音を立てず、枝も揺れていない。忍の業(わざ)だ。呆気に取られたのは人も猫も同じだったようで、枝の先端付近でみいみいと鳴き声を立てていたそれは、今は丸い瞳でじっと麟太郎を見ている。枝の上に蹲る黒い姿は、さながら大きな猫のようだ。子猫が動かない事を見て取ると、麟太郎は一つ首を傾げ、そして。

 

「みゃーお。」

 

 鳴いた。

 木の下の全員が目を丸くしたが、猫の耳がぴくりと動き、声の方に向けられる。みいみい、にゃあにゃあ。子猫に合わせるように人が鳴く。すると子猫は、体を麟太郎の方に向け、覚束ない足取りで歩き出した。

「コハル!」

思わず少女が叫ぶ。その声に気を取られたのか、枝の中ほどで猫が一瞬立ち止まり――その瞬間、麟太郎は幹を蹴り、張り出した枝と平行に跳んだ。当然、その先に足場になるような場所など無い。繁った葉を掠め、黒い影が勢いよく落ちてくる。驚愕のどよめきの中、少女が口を覆って息を飲む。しかし、地面に叩き付けられると思われた麟太郎は落下の勢いを回転で殺し、外套を砂塗れにしながらも何事もなく立ち上がった。その右手には、目を丸くしている子猫がすっぽりと収まっている。猫と同じ表情で固まっている少女に麟太郎は歩み寄ると、その手を取って子猫を抱えさせた。

「貴女の猫なのでしょう。もう離してはなりませんよ。」

「えっ、あ、」

少女が何か言おうとした時、唖然とするばかりだった人集りが、耐えかねたように爆発した。

「凄ぇ!警兵の坊主、あんた、今のなんなんだ!?」

「警兵なんて、血も涙もない奴らばかりだと思ってたが、あんたみたいなのも居るんだな!」

騒ぎながら押し寄せる人々。だが烏羽の影は素早く後退り、囲ませるような事はしない。けれどもそこで一度立ち止まり、麟太郎は彼らを見上げた。

「我々が権力を持っている事は否定しませんし、任務に情は必要ありません。しかし、我々の本分は『平和護持』です。困っている方を助けてはならないという道理はありませんよ。」

 相変わらずの麟太郎は「用がありますので、では」と言い残し、去ってゆく。興奮冷めやらぬ人々の間で、子猫を抱いた少女は、その姿が見えなくなるまで、砂で汚れた烏羽の外套を見詰め続けていた。

 

「どうして隠れていたんです?」

「お前、あんな、只でさえ目立つってのによぉ……。」

 孝晴は笑いを堪え切れないと言った様子だ。手を口で塞ぎながら、体を震わせている。理一はそれを呆れ顔で見ていたが、麟太郎には穏やかな笑みを向けた。

「けど、放っとける性分じゃねぇもんな、お前らは。」

「お二人に出来ない事であれば、私がやるだけです。」

「確かに、俺達にはあんな芸当はできねぇよ。雉が居れば、一人で鬼退治に行けるぜ、リン公。」

「……犬と猿ですか、成程。」

「冗句を真面目に受け取るなよ……。」

「難しいですね。」

歩きながら腕を組む麟太郎の髪やら外套やらを、理一が片手でぱたぱたと叩いて砂を落としている。面倒見がよいとはこういう事なのだろう。小柄な麟太郎に女性と見紛う美貌の理一が世話を焼いている様子はまるで母子のようだが、孝晴自身はそんな親子関係を知らなかった。麟太郎は理一に礼を言うと、いつの間にか笑いを治めている孝晴に顔を向ける。

「あの方を一番『助けてやりたい』と思っていたのは、ハル様でしょう。」

「そう見えたかぃ?」

「難しい顔をしておられました。」

「……。」

「何故私に命じられなかったのですか。」

首を傾げる麟太郎に、孝晴は一つ息を吐いた。

「あの娘の事は知ってるが、ま、手を出してやる義理も無かった、それだけさね。」

「あちらもハル様に気付いていたとしても、ですか。」

「薄情者(もん)と思われンだろうが、構やしねぇよ。」

麟太郎は瞼を細めた。確かに孝晴は自身の能力を隠している。けれど。

「ハル様。力を隠す事と、『嫌われる』事は、同じではありませんよ。」

「!」

「それに、自分の悪評や悪意による被害が、自分の身にのみ起こるとは、限りません。私は、ハル様が『人として』誤解されるのは嫌です。」

「へぇ、お前は俺の腹(ハラ)まで見えるようになったのかぃ、お麟。」

麟太郎は首を振った。

「私にはハル様の考えは分かりかねますが、人を作るのは行動です。それが打算や偽善の心に根差していても、です。ご自身で行えない事は、私に命じて下さい。今までもそうして来たとおりに。他人(ひと)の目があろうと、私は命令を遂行しますから。」

孝晴は、ふう、と一つ息を吐き、笑みを浮かべる。その笑みが何を意味するのかは、麟太郎には分からない。

「犬が飼い主に命令するかね。」

「犬とて、飼い主を引いて走ることもあります。」

「そりゃあ、『躾がなってない』って言うんだぜ。」

ぼふ、と頭に感触があり、麟太郎は表情を変えないながらも内心驚く。孝晴が彼に対して頭を撫でるような真似をするのは初めてだった。何かが、孝晴の中に届いたのだろうか。そんな二人の会話を聞く理一にも、麟太郎の言葉に一つ、感じるものがあった。

(人を作るのは行動、か。)

 力を持つ者は安易にそれを振るうべきではない。しかし、どうしても我慢できなくなる時がある。今回の件も、相手の罵倒が理一の逆鱗に触れたのが原因だ。自分のこの癖について考えると、否応無しに自分に流れる「男」の血を意識してしまう。あの男もそうだった。自分も何度殴られた事だろう。しかし。

(あいつはいつも、自分の思い通りにならないと殴りやがった。でも、俺は『他人の為に』怒(いか)る事ができる……。俺は、あいつとは、違う。)

保身の為と、手を出す事をやめてしまったら。それこそ「あの男」と同じだ。理一は一度自分の手を見つめ、握った。

「リン公、良い事言うじゃねぇか。俺も吹っ切れた。」

「先生まで……そんなに大した事を言いましたか、私。」

首を傾げる麟太郎に、理一と孝晴は顔を見合わせ、笑った。

 

 軽く食事を済ませ、日が傾きかける頃。今度こそと出水屋を訪れると、予想通り、客は概ね引き、行列も無くなっていた。これならば他の客の邪魔にはならないだろうと暖簾を潜ると、ちょうど中の客も捌けたところらしく、奥に一人座っているだけだ。手伝いの娘が振り返るが、店主の方が孝晴に気付いて声を上げた。

「おっ、この前のお兄さんやないですか!」

同時に、座っていた後ろ姿が、弾かれたように振り返る。あっ、と思う間も無く、つかつかと歩み寄って来た男は、口に詰め込んだ餅を飲み込みながら言った。

「孝……孝晴!自分、此処に何しよったん!?客がえらい事になってんねんぞ!」

「おや、呼び捨てかぃ。俺とお前はそんな仲だったかねぃ?」

「両の手じゃ足らへんくらいの店で一緒に飯食うたやん!」

「付き合いは一日だけだろぃ。」

「なかなか鋭い突っ込みするやん、ってちゃうねん!」

手刀を地面と並行に振るという謎の動作を取った後、男ーー言うまでもなく多聞正介は、息を吐いた。

「孝晴クンと来た後から、ごっつ客が増えよって、終わり際に運良く残っててやっと食えるくらいの有様やったねんぞ。何したん自分?」

「『流行らせた』。」

「怖っわ……。」

澄まして答える孝晴に対し、引き気味に呟いた正介は、やっと孝晴の背後の二人に気付く。

「麟クンも相変わらずやなあ、と、……なんやえらい別嬪さん連れてるやんけ。」

「ああ、よく言われる。で、誰だお前?」

にっこりと微笑んで応えた理一の声は、当然、女性のそれではない。硬直する正介。孝晴は声を上げて笑った。

「っは、リイチ、あんま虐めてやンなよ。こいつぁまだ帝都に来てそう経ってねぇんだ。だろ?正介。」

「あっえ、姉さ……やない、兄さんか。いや、驚いたわ……。」

「ついでにもう一つ驚いとけ、こちらにおわすは旧河城守『武芸百般』衣笠家の御当主、衣笠伯爵その人だ。」

「はぁ!?衣笠て國史の教本にも載ってる武将やんけ!」

「転封もあったし、城も焼けたがな。で、こいつはなんなんだ、リン公?」

「この店を見つける切掛(きっかけ)になった方ですよ。」

淡々とそれだけ答えると、麟太郎は正介をじっと見つめた。意図を組んだ正介は、踵を付け姿勢を正す。

「自分は、帝宮護衛隊護衛官・多聞正介帝宮巡査です。以後、お見知り置きを。……っあー痒い!東言葉は合わへん!」

「最後で台無しだな。」

言葉の抑揚を平坦にする努力は垣間見えたが、正介が東言葉に慣れるのはまだ先のようだ。孝晴は愉しそうに薄い笑みを浮かべている。麟太郎は店主と手伝いに話をつけているようで、まだ食べられますか、などと聞こえてくる。そちらは任せて、理一は正介を眺めた。

「帝宮邏隊員なのか、あんた。どうりでいい身体してる訳だ。」

「なんや兄さんにそう言われると、妙な気ぃするんやけど。」

「俺は医者だよ。軍医少尉だ。……リイチでいい。」

それを聞くと、正介は意外そうな表情を浮かべる。

「少尉て、医専出なんか?」

「いや、医大の課程を繰上げて特例で卒業したから、少尉待遇ってだけだ。研究がやりたくて入ったからな。昇進には興味無ぇんだよ。」

「……孝晴クン、この兄さん『あの』衣笠家の当主やんな。で、医者もやってるんか?」

「そう言ってんだろぃ。」

「頭どうにかなりそうや……。」

正介は思考を放棄した顔で頭を抱えた。そんな三人に向かい、麟太郎が振り返る。

「有坂様、衣笠先生。まだ氷もあるそうですよ。あと、正介さん。店主さんが『溶けてるで』と伝えて欲しいと。」

「せやったぁ!食いかけやったわ!てか、もう帰らなあかんやん!お三人さんはゆっくりしてき!寅やんおおきにな、また来るで!」

慌しく席に走ると、溶けて水になりかけた氷を掻き込み、代金を置いて走り去って行く正介。「まいどー」と笑みを浮かべながら手を振って見送る店主に、孝晴が目を向けた。

「『寅やん』?」

「あ、儂、寅之助言います。お兄さんがうちを流行らせてくれはったんですね、お陰でいい手伝いも雇えて仕入れも増やせましたわ。ありがとうございます。」

「そりゃあ良かった。じゃ、氷三つと……餅二つ頼む。」

西の言葉は難解だと思いつつも、三人は席に着くのだった。

 

 夏の夕べは、昼の暑さと夜の涼しさが混ざり合う。善哉とはまた違う、豆餡と餅のかき氷は、行列ができるのも納得の美味さだった。体も心地良く冷え、帰路の足取りも心なしか軽やかだ。

「美味かっただろぃ?」

「ああ、美味かった。お前が策を打ったとは言え、流行る訳だ。」

日が落ちた為に傘を畳んだ理一は、満足気に頷く。どうやらお初の心配事も解消出来そうだと孝晴が思った時、理一が二人を振り返った。

「そういや、あの正介って野郎。いつ知り合った?」

「三月前くらいかねぃ。春先だ。気付いたかぃ?」

「俺の記憶が間違ってなければ、な。」

理一は一度目を閉じた。

「二年前の西都行幸で、帝を狙った野郎を取り押さえた邏隊員の姓が確か『多聞』だった。」

「ん、俺もそれがあいつだと思ってる。東都に転属になったって言ってたからな、それが理由じゃねぇかぃ。」

「そいつがたまたまお前と出会う、か。」

孝晴はからからと笑った。

「ま、今日のは偶然だと思うぜぃ。悪い奴じゃねぇのは、お麟のお墨付だ。」

「……ええ、あの方には邪気がないですから。」

麟太郎は内心、孝晴も多聞正介について調べていたのだな、と思ったが、孝晴の事だ。調べたというより、頭の中から情報を「見つけた」だけなのだろう。少なくとも、正介が邏隊勤務をしているのは確かだ。理一は一つ、息を吐いた。

「何でか、お前の周りには目立つ野郎ばかり集まりやがるな。」

「お前さんも含めてな。」

「違いねぇ。」

そう応えた理一の笑みは、今までで一番、美しく見えた。

 

 理一が帰り着く頃には、もうすっかり夜になっていた。心を配ってくれた姉達にも感謝しなければならない。いや、先にする事は、寧ろ謝罪だろうか。そんな事を考え一人苦笑した理一は、屋敷の門の前に立つ人影を認め、足を止める。その影も、気付いたようだ。鳶色の軍服に、小銃の襟章。そして、浅黒く精悍で、刀のように美しい顔。

「お前……。」

「夜分の訪問をお許し下さい。謹慎が解けたと聞きましたので、謝罪と感謝をお伝えしなければならないと、参りました。」

 凛とした立姿のその男は、理一に向かい、深々と頭を下げた。

 

帝國の書庫番

八幕 「邂逅相遇」



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帝國の書庫番 九幕

夏の初め。変わるのは関係か、心か。


 男は、山中で育った。猟を生業としていたが、学制の恩恵で入学の機会を得られた。学校は首席で卒業した。教師に勧められた事もあり、猟で培った射撃の腕と、父から伝えられた剣を頼みに、軍に入りたいと伝えた時、嫌な顔一つせず送り出してくれた両親には、ずっと感謝している。その時には、自分の外見など誰も気にしていなかったから、帝都へ出てこんな事になろうとは、想像すらしていなかったのだ。

 

 「役者のよう」「二枚目」などという見てくれへの賞賛は、力を発揮すればする程、誹りへと変わった。猟師の出で、婦人の目を攫ってしまうのも原因だったろう。妬み嫉みとはそういうものだ。そのうち、金持ちの女だけでなく男にも身を売っているのだと、「陰間」「陰子」「色売り」と言われるのが当たり前になった。妻も娶ったというのに可笑しな事だと、自分では気に留めていないつもりだった。所詮遊戯の狩りと的当てしかした事がないのだろう、上流出の同輩達に、銃の腕は負けなかった。それに、いざとなれば剣がある。だから。

 

『……おい、手前ぇ。』

 

新設の試験部隊に選抜され、身体検査を受けに行った先で。

 

『こいつに謝罪しろ。膝ついて頭を下げやがれ。』

 

白衣の男が当たり前のように割り込んで、相手を叩きのめした時、只々、驚く事しかできなかったのだ。

 

「……狭い家で満足なおもてなしもできず、済みません。」

「いや、俺が無理を言ったんだ、気にするな。そこのは……、」

「家内です。」

「失礼しました、お内儀。突然の訪問ですから、どうかお気遣いなく。」

「いえ、まさかウチにその、衣笠様がいらっしゃるなんて……お湯を沸かしますね。」

 戸口で呆然としていた女がぱたぱたと土間へ駆けていくのを見て、気遣いは要らないと言ったのにと理一は苦笑した。土間と板の間だけの小さな町屋。奥には寝所があるのだろうが、大店からそのまま衣笠邸に移った理一にとっては、初めて見る「一般人の家」だった。

「俺の事、話したのか?細君に。」

「ええ、自分を庇ってくれたのが、貴方だと聞いて。『どう御礼をしたらよいか』と二人で話し合いましたが、自分の立場で貴方に満足していただけるような案もなく。せめて頭を下げねばと伺った次第です。」

互いに円座に腰を下ろして向かい合う。理一は下座を選んだ。男は驚いた顔をしたが、この家の主(あるじ)は彼だ。理一が礼をすれば黙って礼を返した。

「さて……名前を訊いてなかったな。」

「猪(しし)を狩る、で猪狩(いかり)です。自分は山を降りましたが、家業は猟師で。」

「成程、下の名は?」

「雁平と言います。雁は『かりがね』のガン。」

「鳥撃ちもやるのか?」

「ええ。よくお分かりで。」

「銃兵で猟師で鳥に因んだ名前と揃ってりゃ、腕は猟で磨いたんだろうと推測は立つさ。」

「因みに、父は鵙平(もずへい)と言います。」

ふ、と男――雁平は微かに笑った。しかし改めて見ても男前だ、と理一は思う。自分は母親似だが、彼の美しさはそうした女性的なものではない。例えるなら、彫刻刀で切り出した神像を滑らかに磨き上げたような、鋭さと強さの中に静けさを湛える、そんな顔だ。どことなく、高貴ささえも感じさせる。

 女が茶碗を盆に載せてやってきた。二人の前に置くと、雁平の斜め後ろで頭を下げる。

「改めまして、妻の『みわ』です。」

「そうか。おみわ殿、差し支えなければ、どうですか、お座りになっては。」

「えぇ!アタシなんかがそんな、いいんですか?」

みわは目を丸くしたが、夫が目で頷くと恥ずかしそうに床に腰を下ろした。敷物はないのかと尋ねれば、雁平は首を振る。

「ここを譲ってもらうのに殆ど給金を注ぎ込みまして、まだ部隊を移って間もないので、二人分のものしか用意が無いのです。」

「だったら俺はいらないから、おみわさんが座りな。」

「えぇっ。」

みわが目を白黒させて驚く様が新鮮で面白く、理一は笑いを堪えながら円座を取って、みわの前に敷いてやる。流石に雁平も目を見張っていたが、床に座り直した理一に向かい居住まいを正し、言った。

「……お尋ねしたかったのですが。何故、自分にそこまでしてくださるのですか。自分はまだ一等兵ですし、貴方と面識もなかった。だから、『あれ』が原因で貴方が処分されたと聞いた時は、自分にも咎めがあるだろうと覚悟していたのです。それが……何事もなく。申し訳なさと、あの時、驚くしか出来なかった自分への情けなさが、ずっと蟠(わだかま)っていました。貴方は、何の為に、自分を庇って下さったのですか。」

「……。何の為に、ね。」

理一は胡座をかいて背筋を伸ばし、笑う。

「『俺の為』、だよ。少なくとも、あいつらが気に食わなかったから、手を出した。それだけだ。」

「貴方は、銃を撃ちますか。」

「……ああ。」

「知っての上で、その、肩を……?」

 理一は笑みを消した。小銃を撃つ時は、肩と頬で保持する。肩甲骨の関節窩に銃床を嵌め込むような形だ。肩が使えなければ、当然、銃は撃てない。しかも、理一はあの時、捻り上げた肩を「後ろ側にずらした」。すぐに整復し、暫く固定して動かさないよう告げたが、相手がそれに従った保証もない。もし癖になったとしたら、今後、あの男は銃を撃つ度、いや、鍛錬の度に、肩が外れる恐怖に怯える事になるだろう。そう思うと、非道な事をしたものだ。

「その通りだよ。医者が他人の体を壊す為に知識と技術を使ったんだ。処分も妥当どころか、軽過ぎるくらいだわな。有坂の野郎が縮めてくれやがったが。」

理一は自嘲したが、雁平は笑わなかった。

「自分は病院の研究室にも謝罪に向かいました。皆、自分の話を聞いて、貴方は『理由もなく暴力を振るうような人ではないから、納得した』と言っていました。そんな貴方をそれほど怒らせた理由は、何なのですか。」

「訊くのか、それを。」

雁平は一度、おみわに目を向ける。おみわは少し目を伏せた。

「自分はもう、あんな言葉には慣れ切っていました。顔は変えられないのだし、自分以外は皆士族や貴族出の者です。仕方ない、怒りなど感じないと。けれど、貴方の憤りを見て、正直に言えば……嬉しかった。自分の代わりに怒ってくれたようで。けれど理由が分からない。どう感じたらよいのか、今日まで悩み続けていたのです。」

だから、聞きたい。そう雁平は結ぶ。理一は一つ、息を吐いた。

「……お前、廓には行った事があるか。」

「いえ。」

雁平は首を振る。猟師の出で、暮らしも質素だ。そんな金があろう筈もない。理一はじっと雁平の凛々しい顔を見詰めた。

「春を鬻(ひさ)ぐ仕事は命を削る。どういう経緯でそうなろうと、手前の命を売って、手前の命を繋いでんだ。しかも、自分の品物としての魅力を高めなければ金にならないから、また身を削って努力する。女だろうが、男だろうが、同じだ。……お前の過去は知らねぇが、俺はあいつが『陰間』を見下して、馬鹿にしてんのが、許せなかった。」

「そうですか……。」

 自分の「家族」まで馬鹿にされた気がして、という本心は、内に秘める。雁平はじっと理一を見ているが、その目が少し細められた。何か思うところがあったようだ。

「ならば何故、貴方は廓に通うのですか。」

「そう、思うよな。俺の噂を聞いてりゃあ……。」

「廓狂い」「色情狂」の衣笠家当主。その噂を敢えて肯定しているのだから当然だ。周囲にじっと耳を澄まし、此方を探るような気配は無いと確認すると、理一は雁平を、次に、おみわを見遣る。

「お前は口が堅いか?」

「貴方が感じている通りです。」

「だろうな……おみわさんは?」

「えっ、アタシは、大丈夫です、約束は守ります。」

「……これは素直な女ですが、他人の秘密を言い触らすような事はしません。」

「分かった。」

理一は言葉を選ぶ。嘘は言わないが、出生を悟られる事もないように。

「……餓鬼の頃に世話になった女が、廓に居る。」

「それは……。」

「理由は関係ねぇ、門の中は、外とは世界が違う。ただ、俺には両親(りょうおや)がない。昔馴染みは、そいつしか居ないんだよ。……だから、俺は廓に『話をしに行ってる』だけで、廓の女を抱いた事はない。けど、そんな事の為に金を注ぎ込むなんてのは『女々しい』だろ。だから、色好みだって事にしてんだ。『英雄色を好む』なんて言うしな。」

その方が「男として」受け入れられ易い。上からは睨まれても、こうしておいた方が、廓には通い易いのだ。雁平は神妙に頷いた。

「そうでしたか。貴方はその方を大切に思われていて……だからこそ、身売りの職を見下す言葉が許せなかったと。」

「そういう事だ。……絶対にばらすなよ。」

「ええ、勿論。」

雁平は答え、目を向けられたおみわも、激しく首を縦に振る。二人を疑う訳ではないが懸案事項が一つ増えたなと思いつつ、理一は話題を変えた。

「しかし、そうか、今まで何事もなかったんだな。あの野郎がお前を逆恨みして手を出してくる可能性もあったから、頭冷やしてから、後悔しない事もなかったんだよ。」

雁平は少し目を開いたが、小さく微笑む。その笑みは、今までのものとは種類が少し異なっていた。

「もしかしたら、これからかもしれません。数日前に少尉は部隊を抜けられましたから。ただ、私には剣があります、そう簡単に受けに回る気はありませんよ。例え、相手が少尉殿であっても。」

「剣?お前、試験研究の為に選抜された銃兵だろ。」

先程も猟師と言っていた筈だと不思議そうな理一に、雁平とおみわは顔を合わせ、おみわが席を立つ。すぐに戻って来た彼女は、風呂敷に包まれた棒状の物を捧げ持っていた。雁平が「話を伺ったお返しという訳ではありませんが」と言いながら包みを解いてゆくと、中から三尺はあろうかという太刀が現れた。

「これは……見事な拵だな。」

「我が家に伝わるものです。西都東宝院派の造りで、銘は叢雲(そううん)。紋は剥ぎ取られて残っていませんが、自分の祖先は、一九〇五年の戦役で各地に散った、帝の血を引く武将の末裔だと言われてきました。先祖は敗将ゆえに姓を変え、山に潜んで猟師となりましたが……同時に、自分に至るまで、刀と太刀術を受け継いで来たのです。」

「……成程。それが本当なら、衣笠家より古い血統って事になるな。」

「自分は、しがない猟師上がりの一等兵ですよ。」

ふ、と笑って雁平は太刀を包み直す。彼から感じる高貴さは、受け継がれて来た血ゆえのものかもしれない。太刀を包み終え、おみわが仕舞いに戻るのを見ている雁平に、理一は言った。

「どうだ、手合わせしてみるか?」

「!?」

声はなかった。が、これまでずっと端正な表情を崩さなかった雁平が息を呑み、目を剥いた。理一は楽し気に笑みを深める。

「お前の話だと、お前の剣はお前の一族にしか継がれてないものなんだろ。一応、『武芸百般』なんて呼ばれてる身だからな。興味が湧いただけだ。」

「そう、ですか……。」

「嫌か?」

訊ねる理一に、雁平は首を振る。

「自分を庇ったのがあの衣笠様だったというだけでも、身が震えたというのに、まさか貴方と剣を交えられるとは、なんと光栄な事だろうかと。」

 答えた雁平の真っ直ぐな瞳は、鋭く、純粋な光を帯びていた。

 

 木刀を互いに持ち、狭い部屋の中で、それぞれに構えを取る。理一は一般的な木刀を借りたが、成程雁平は使い込まれた長い木刀、しかも柄頭に紐――手貫緒が結ばれたものを、佩刀の姿勢で握っている。馬上で太刀を使用していた頃の名残だろう。もし二人が握っているものが真剣であったなら、まるで演劇の一場面のようだ。簪のように美しい理一と、切先のように美しい雁平。互いに見合い、同時に動く。速さは互角、間合いは僅かに雁平の方が広い。理一は真剣と同じように鎬に滑らせながら木刀を受け、すぐに身を引き距離を取る。隙を伺うが、成程、理一の目から見ても、安易に飛び込めるような隙が雁平には無い。相当な剣の使い手なのは間違いないようだ。

 と。

「あ、あんた、頑張って!衣笠様も〜!」

思わず、といった調子の熱の籠った声。二人は同時に動きを止め、互いに顔を見合わせると、やはり同時に吹き出した。おみわはキョトンとして「へ?」と声を上げ、雁平は腕で口元を隠しながら「す、すみません、みわは素直なんです」と笑いを堪えながら言う。理一は腹を押さえていた。ひとしきり笑い、理一は息を吐く。

「おみわさんの勝ちってとこだな、こりゃあ。」

「面目ない……。」

「なんでです!応援はだめでしたか?」

「いや、駄目って訳じゃないんだがな、ふふっ、くそ、笑いが止まらねえ。」

「だって……二人とも見合う姿が凄く綺麗だったんですもん。どっちも応援したくなるじゃありませんか。」

おみわの言葉には、一切の嫌味がない。雁平は優しい眼差しで彼女を見ている。だからこそ彼は、おみわを妻としたのだろう。

「まあ、あれだけでも充分楽しかったよ。」

「ええ、自分はもっと精進しなければいけませんね。やはり貴方はお強い。」

「そうか?あのまま続けてたらどうなったことか。お前も相当の手練れだよ。」

「恐縮です。」

頭を下げる雁平。さて、話は済んだと理一は立ち上がる。

「いつでもうちに手合わせに来い……って言いたいとこだが、俺にはあまり近付かない方がいい。今は特にな。」

「承知しています。ですが……貴方の心と、御恩は忘れません。」

「気にするな。言っただろ、『俺の為だ』ってな。」

もう一度深々と頭を下げる雁平と、何度も頭を下げるおみわを背中に、理一は玄関を後にした。

 

 雁平宅を出て少し歩いた理一は、足を止め、地面に落ちている小石を拾い上げる。そして、目を細め、腕を振りかぶり、勢いよく民家の屋根に向かって放り投げた。暗闇に吸い込まれた石が屋根に当たる音はない。代わりに、屋根から小柄な影が音もなく飛び降りる。

「そういう理由(わけ)だったのですね。」

立ち上がった麟太郎の手には、先程理一が投げた石が握られていた。

「俺が気配を感じ取れないのは、お前くらいだよ、リン公。」

「感情の起伏が少ないからでしょう。私は。」

苦々し気に言う理一に、澄まして応じる麟太郎。理一と初めて出会った時、自分以外の人間を抱えてなお、気配を悟らせなかった男である。先程探った時に気付けなかったのも当然だった。しかし。

「有坂の野郎に言うのか。」

「はい。」

「……言うなって言ったら?」

「何故ですか。」

麟太郎は無表情に首を傾げる。理一は内心舌打ちをした。きっと孝晴は自分の出生に気付いている。これ以上弱味を晒して、対等な関係を壊したく無い。

「お前は、有坂のをどう思ってる?お前にとってあいつは何なんだ。」

薮から棒に、理一は訊いた。

「主、です。」

「……。」

当たり前のように答えた麟太郎には、理一が不満気な顔をしている理由が分からなかった。しかし無言の理一に促されるように、別の答えを考えてみる。

「もしくは……『世界』でしょうか。」

麟太郎は、掌に握った石を見た。

「私には記憶がありません。私の最初の記憶は、ハル様と出会った時……あの時の感情が何なのか、未だに私には分かりません。けれど、私は、その瞬間から、人としての生を与えられました。ハル様が私を作った……私にとっては、ハル様が、全てです。」

麟太郎はそう言って、理一に目を向ける。

「どうして、そんな事を?」

理一は大きく溜息を吐いた。

「お前の中に、俺は居ねぇのかよ。養父(おやじ)さんは。あの石動って野郎は。隊の仲間は。」

「…………。」

黙り込んでしまった麟太郎の隣で、理一は静かに、言った。

「俺は、お前を友達だと思ってるよ。」

大っぴらにはしないがな、と付け加える理一を、麟太郎は無表情に見ている。

「友人に石を投げますか。」

「お前なら取るって思ってたからに決まってんだろ。信頼してる、って言ったら分かるか?」

「信頼、ですか。」

麟太郎はもう一度、石を見た。何の変哲もない小石は、ずっと握っていたため、温くなり始めている。

「先生は、どうして、あの理由をハル様に知られたくないのですか。」

「それも、俺が奴を友達だと思ってるからだ。」

「『信頼』は無いのですか。」

「違う。友達だからこそ、俺の問題で迷惑かけたくねぇ。分からないか。」

「難しいですね。」

 真っ暗な夜道を二人で歩く。麟太郎はずっと、小石を握って眺めている。温い夜風が二人の髪を撫でた。考えていた麟太郎が、ぽつりぽつりと言った。

「私は、私自身が、先生を信頼している、と思います。しかし、例えば私はよく負傷しますので、先生を頼りにします。それは、迷惑なのでしょうか。」

「迷惑だなんて思った事はねぇよ。」

「では、先生の問題にハル様が関わる事も、迷惑ではないのでは。」

 理一は内心、どきりとした。感情に疎い麟太郎は、的確に矛盾を突いてくる。その通りだ。自分はまだ、彼らに対して壁を作っている。二人なら自分の『弱さ』も受け容れてくれるだろう。それでも。

 目線を下げ、屈み込む。そのまま理一は麟太郎を抱き締めた。

「先生?」

抑揚のない声が耳元で聞こえる。これは「女々しい」感情だ。あの牢獄の中でしか自由になれない自分の、弱さを知られたくないが為の方便だ。その弱さを出した時、自分がどうなるかわからないという恐怖を、悟られたくないという我儘だ。

「頼む。『まだ』、黙っててくれ。」

「私や、あの方……猪狩さんに知られるのは、よいのですか。」

「孝晴に知られたくない。」

「どういう意味ですか。」

「あいつとは、対等でいると決めた。」

「分かりません、何故、ハル様だけに……、」

不動のまま言葉を返していた麟太郎が、黙り込む。暫くその状態が続いた。麟太郎の手から、小石が落ちる。そしてその手が、理一の頭に触れた。

「!」

「……分かりました。ハル様も、貴方を傷付ける事は望みません。私は、先生が帰宅する所を見届けろと命じられただけです。経緯として報告すべきと思っていましたが、先生の気持ちを無碍にしたら、『信頼』を損なってしまいます。それは、私も望んでいません。」

 髪の流れに沿って、麟太郎の手が理一の頭を滑る。細く、小さく、骨張った硬い手の感触。互いに顔は見えない。麟太郎の声からも感情は伺えない。自分は狡いな、と理一は自嘲する。純粋な麟太郎が揺さぶられるだろうと見込んで、こんな行動を取ったのだから。そんな自分にも淡々と優しさを向けるのだから、お人好しにも程があるのだ。だから、せめて。

「ありがとな。」

理一はもう一度だけ、麟太郎の小さな体を強く抱き締めた。

 

 今度こそ理一が衣笠邸に戻ったのを確認し、麟太郎は夜道を歩く。既に深夜を過ぎている。足音を立てない癖が付いている為、彼が歩いていると気付く者すら居ないだろう。早足で闇を掻き混ぜながら、麟太郎は考える。

(私は、ハル様への御恩を返す為に生きている。ハル様の存在が、私の生きる意味だと思っている。間違いなく。しかし、衣笠先生は、『ハル様には知られたくない』と言った。私もだ、私も、ハル様だけに尽くしている。しかしそれは、ハル様を私達から切り離す行為なのだろうか?)

 立ち止まったのは、有坂家の前。孝晴は出ているか、でなければ眠っているだろう。報告は後日、くろすけに飛んで貰えばいい。

 

 

『汚ねェな、先に切っちまうか。しッかし硬い髪してンなァ、お前。』

『食事に素手を出すんじゃねェ。ほら、こう握ンだよ。で、こうやって使う。真似して覚えんだぜ。』

『いつまでも【お前】もなんだなァ…。そうさな、【リン】にすっか。ちびだから【厘】。悪くねぇだろィ?』

『お前はこれから刀祢の人間だ。軍でもなんでも、好きにやってみなァ、【麟太郎】。』

 

 

 屋敷を眺めれば蘇る、たった三年と数ヶ月の記憶。それでも、今の自分を決定付けた記憶。

「私は、ハル様の犬。……それでは、いけないのだろうか。」

ぽつりと、麟太郎は呟いた。理一の言葉が蘇る。

 

――お前の中に、俺は居ねぇのかよ。

 

 孝晴がこの世に絶望してしまわない為なら。孝晴が見るこの世の闇を少しでも晴らせるなら。どう思われても、どうなってもよいと、思っていた。けれど。

「私は、世界を拡げなければならないのかも、しれない。」

そう呟くと、僅かに麟太郎は目を細め、温い風と共に闇の中へと消えて行った。

 

 夜明け前に服を洗い、長靴(ちょうか)を磨き、替えの軍服を纏い、点呼へ出る。普段通りの休暇明けだ。しかし、各分隊の通常勤務に出る前に、小隊長が麟太郎と石動を呼んだ。二人は何事かと顔を見合わせながらも、先に勤務に出るように隊員に指示し、小隊長の元に向かった。

「何かありましたか、水善寺大尉。」

大尉は一つ息を吐き、「お前、何をしたんだ?」と呆れ顔で話し始める。昨日の夕刻、守衛の元に激しい剣幕で駆け込んで来た女性が居たという。守衛は「屯所内に人を訪ねるならば許可が必要」と伝えて帰らせたが、その時に言われたのが……

「『小柄で赤茶の髪をした目付きの悪い警兵を出せ』だそうだ。」

「私ですね。」

「隊長ですね。」

同時に言った二人を見て、再び大尉は溜息を吐いた。

「貴族の女性が軍に殴り込んでくるような事をしたのか、刀祢?聞けば、勘解由小路家の令嬢らしい。あの家と揉めたら面倒な事になるぞ。何せ大臣なんだからな、勘解由小路伯爵は……。」

勘解由小路、という姓を聞き、麟太郎は思い出す。

「昨日の事ですね。」

「何かしたんですか?」

「猫を助けたんですが。態度が悪いと怒らせてしまったかもしれません。」

「「猫?」」

石動と大尉が同時に疑問符を顔に浮かべたが、その時、入口の方から女性の声が聞こえて来た。よく通る声だ。間違いないだろう。麟太郎はくるりと踵を返した。

「謝罪してきます。」

「あっ、隊長がそのまま行ったらまた怒らせるんじゃ!?俺も行きます!」

「おい貴様ら!……はぁ、全く……。」

背後に石動と大尉の声を置き去りにして、麟太郎は声の方へ向かう。受付で身を乗り出しているのは、やはり、あの木の下で猫を呼んでいた少女だった。

「ほら!ちゃんと許可を取って来たんです、早くあの人に、……。」

麟太郎が声を掛ける前に、少女の方が気付いた。ぴたりと声が止み、次に少女は、何やらきっと眉を上げ、早足で麟太郎に近付いてきた。自分が無愛想なのは百も承知な麟太郎は、あの時の態度が気に食わなかったならばまず怒鳴られても仕方ないと黙って立っていたが、少女は、早足ーーいや、駆け出して、殆ど体当たりのように麟太郎に衝突した。

「え。」

 気付いた時には、床に頭がぶつかる鈍い音と共に、麟太郎の視界には天井が映っていた。流石に予想していなかったとはいえ、女性の力でも押し倒せるほど自分は軽いのか。全く受身も取らず強かに頭を打ってしまった。少々不味いかも知れない。そして、少女は麟太郎に馬乗りになっている。この状況は一体何なのだ。訳が分からず無言のままの麟太郎に対し、少女は、眉を寄せ、唇を戦慄かせ、顔を真っ赤にしながら、叫んだ。

 

「わ、わたしを、あなたのお嫁さんにして下さい!!」

 

「………………。」

 

 麟太郎は、目だけを動かした。片方の目玉がこぼれ落ちそうな表情の石動と、負けず劣らずの顔をした水善寺大尉、そして……。

 その時初めて麟太郎は、「視線が痛い」という感覚を理解した。

 

帝國の書庫番

九幕 「生々流転」



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帝國の書庫番 十幕

それぞれの「子供」達。


「で、どうなったんだぃ?お嬢様とは。」

 外は、全ての音を掻き消すような蝉時雨。部屋の中から聞くならば、それも風流だ。しかし、文机に片肘を付く孝晴と、畳に正座し背筋を伸ばしている麟太郎は、そんな音を気にしてはいない。半笑いで訊ねる孝晴に、麟太郎は淡々と答えた。

「小隊長と石動が、私が頭を打った所を見ていましたので、病院にやるから話は後日、と言ってくれて、彼女には帰っていただきました。」

「なんだぃそりゃお前……。」

何とも言えない表情を浮かべる孝晴。麟太郎は首を傾げる。

「それ以外にどう仕様がありましたか。私はそのような時にどうしたらよいか、教えられておりません。」

「ま、確かに、女の方から男に詰め寄って結婚を迫るなんてのは、殆ど聞かねェわな、貴族士族の間じゃ特に。型破りなお嬢さんだ。」

孝晴は、ふう、と珍しく大きく息を吐く。彼女が訪れたのが休暇明け翌日、しかも、前日夕刻にも一度守衛に詰め寄ったという。猫の件が昼過ぎで、そこから数刻も経たずに、屯所に駆け込んだ事になるのだ。

「一目惚れ、ってやつかねぇ。」

「ひとめぼれ。」

孝晴の呟きを、鸚鵡返しに麟太郎が口に出す。孝晴は掌に頬を乗せながら言った。

「一目見ただけで相手を好きになっちまう事さね。」

「そんな事がありますか。そもそも彼女は私を怖がっているように見えましたが。」

「俺に訊くんじゃねぇやい。大体、女の心なんてのは、男にゃ分からねェもんなんだよ。」

「……。私は、どうしたらよいのでしょう。」

膝の上で手を握り、俯く麟太郎。表情が無くとも、彼が戸惑っているのが手に取るように分かる。ただ、孝晴には彼の迷いが、女の件だけではないような気がした。どことなく、なんとなく。麟太郎に何か変化とでも呼ぶべき事が起きている、ような。しかし確信が持てるほどでもないと、孝晴は頭から手を離し、麟太郎を見遣る。

「……リイチなら、そっちの話に強いかも知れねェな。あいつにゃ女兄弟が居るし、廓の女とも関係持ってる。それに医者だからな、心やら精神やらにも多少は詳しいんじゃねぇかぃ。」

「確かに、そうかも知れません。」

「俺ぁ、そういう女関係についてはからきしだからな、礼節の問題として、早く返事なり会ってやるなりしてやらねぇと失礼だ、って事くらいしか言えねぇ。勘解由小路も古い家柄で、大臣も厳格な采配を取られる人だが、お嬢さんがそんな性格なら、どう転ぶかも分からねぇからなァ。」

 考えながら頭を掻く孝晴をじっと見る麟太郎。麟太郎にその記憶はないが、普通ならば、一番近しい男女の関係は「親」の筈だ。しかし、有坂家はどうなのだろう。麟太郎自身は孝晴に拾われた後、彼の母親にも作法等を教わったが、父親の姿を見た事は無かった。隠居したと聞いている為、死んだ訳ではないのだろうが……。

「奥方様と旦那様のご関係は、参考には……、」

「ならねェ。」

珍しく孝晴は、麟太郎の言葉を遮ると、一刀両断に切り捨てた。

「寧ろ、母上には言わない方がいい。それこそ、お前の人生を髄までしゃぶられる事になる。それに俺ぁ、あの二人がどうして夫婦(めおと)になったのか、知らねェんだよ。」

孝晴の語調は静かだったが、その目に浮かぶのは、有無を言わさぬ薄暗い色。麟太郎は口を閉ざす他無かった。

 

「……で、俺を頼って来たって訳か。」

 窓の閉じられた静かな執務室の中。頁を捲る手を止めて話を聞いていた理一は、唇から紙巻きを離し灰皿に押し付けると、改めて手を組み直し、来訪者ーー麟太郎を眺める。

「とんでもねぇお嬢さんに惚れられたもんだな、リン公。」

「その『とんでもない』は、彼女の立場ですか、それとも行動ですか。」

「どちらかと言えば行動について言った。けど、立場も『とんでもない』のに変わりないか。」

そんな部分を律儀に確認する麟太郎に、理一は思わず笑みを浮かべたが、相手は現大臣の末娘だ。勿論公に口にする者は居ないが、この二日で確実に求婚の噂は拡がった。麟太郎がその場で名前を明かさなかったのが幸いといったところか。

「で、お前はどう思ってんだ。」

「どうも何も、私は彼女の事を知りません。何故そんな思いを抱くに至ったのかも。ハル様は『一目惚れ』だと仰っていましたが、私の何に『惚れ』たのか……心当たりもないので。」

「一目惚れねぇ。そうでもなけりゃ、説明はつかないかもな。」

「そもそも、そんな事が起こるものなのですか。」

言われて、改めて理一は麟太郎を観察してみる。ちびで痩せぎす、目付きは悪い、表情は無い、そして威圧的な警兵服。顔立ちはよく見れば整っているし、子供のようで可愛らしいと言えなくもないが、それは理一が彼の性格を知っている為に、そう見えるのだろう。外見だけでは到底、一目惚れなどされそうに無い。しかし。

「リン公、お前にも似たような事はあったんじゃねぇのか。」

「はい?」

「『孝晴に出会った瞬間から、人としての生を与えられた』。そんな事を言ってなかったか。」

麟太郎は二度ほど瞬きをして、首を傾げる。

「それが何か、関係があるのですか。」

「お嬢さんのは『恋慕』だから別に考えてるのかも知れないが、似た物だって事だ。お前が自分の世界そのものに喩えたあいつへの慕情は、『その瞬間』に起こったんだろ。人の心ってのは不思議なもんで、理性とは別の所に、そういう感情が生まれちまう事はあるんだよ。お前の経験で言うなら、『世話になったから恩返しする』ってのが理性、理屈の部分になるだろうが……それだけじゃないんじゃねぇのか。」

「……。」

 そうなのだろうか。麟太郎は考える。自分の記憶の始まり、あの瞬間。何故、自分は大人しく孝晴にされるがまま、連れて行かれたのか。勿論、あの時の自分に、暴れられるような力は既に無かっただろう。突然の衝撃に驚いてもいた筈だ。けれど、孝晴のあの目に、寂し気で諦めを孕んだ哀しい笑顔に「囚われた」と言うのが正しいのかも知れない。そういう事、なのだろうか。だから自分は、理一に訊ねられた時、無意識のうちにその言葉を選んだのだろうか。自分事なのに、自分ではよく分からない。麟太郎は首を振る。

「そうだったとしても、やはり、彼女が私に求婚までした理由は分かりません。」

「そりゃあ、本人に聞くしかないだろ。女ってのは、繊細かと思えば、意外に大胆で思い切りのいい所もある。秋の空なんて言われる事もあれば、一途に死ぬまで想い続ける事もある。お嬢さんが移り気だと決め付けて熱(ほとぼ)りが冷めるまで待つか?それも失礼だろ。お前の立場的にも勧められねぇな、きっとすぐに親父さん……大臣閣下がお前の事を突き止めて圧をかけてくるだろうし、その時には有坂家は守っちゃくれねぇだろ。」

「そう、ですね。その通りです。」

理一の声は穏やかだ。彼は、麟太郎が混乱している事を理解していた。今まで麟太郎の世界に存在しなかったものと、突如として向き合わねばならなくなったのだから、彼の単純で真っ直ぐな感情がついて行けないのも無理はない。降って湧いた荒療治だ、注意は払わねばならないだろう。麟太郎は顔を上げ、無表情に理一を見た。

「衣笠先生は、彼女について何かご存知ないのですか。」

訊ねられた理一は腕を組み、少し考えて言う。

「勘解由小路家は五人兄弟だ。けど、あの娘が晩餐会なんかに出て来たのを見た事はねぇな……有坂のは見覚えがあったみたいだが、兄貴に政治家が居るから、其方(そっち)の関係かもな。俺が推測できるのは、あの娘はまだ社交の場に出る程の歳じゃ無さそうってくらいか。あとは、お前と同じ。あの時見たのが全部だよ。」

「……そうですか。」

 理一は黙り込んだ麟太郎に代わるように息を吐くと、箱から新しい紙巻きを取り出し、燐寸(マッチ)を擦る。細く白い管の先端は、新たな煙を上げ始めた。

「今日は休みか?」

「はい。……小隊長が計らってくれまして、『頭の傷の経過観察のため』と、一日暇を下さいました。」

「お前、なんだかんだ周りの人間には恵まれてるよな。」

「そう、ですね。いつの間にか、そうなっていました。」

麟太郎の返答を聞きながら、理一は紫煙を吐き、笑みを浮かべる。

「お前を誤解してる奴は多いが、その分、知ってる奴には慕われてんだ。お前が人徳を失わなきゃ、多分、なんとかなるんじゃないか。ただまあ、俺も一応、伯爵家当主だからな。不味い事になったら力添えくらいはしてやるよ。」

「……感謝します。」

 麟太郎は表情を変えないままに、いつもよりも深く頭を下げて、扉を出て行く。煙る部屋の中でそれを見送った理一は、背凭れに身を預け、静かに呟いた。

「俺に出来る助言は、これくらいか……よく考えろよ、リン公、手前の事は、手前にしかわからねぇんだからな……。」

 

 蝉の声がしゃわしゃわと降り注ぐ中、烏羽の陰が道を行く。その冷酷そうな無表情を目にした人々は自然彼を避ける為、麟太郎の歩みを妨げるものはない。夏の日差しの下、真っ黒な軍服を着ていても暑そうな素振りすら見せず、無言で脇目も振らずに歩いてゆく彼の姿は、不気味でさえある。しかしそんな事を気にする麟太郎ではない。辿り着いたのは、あの広場だった。猫を枝の先に引っ掛けていた五弁花の木は、全く変わらない様子で葉を茂らせている。あの日と違うのは、人だかりが無い事だけだ。麟太郎は木に近付くと、軽く勢いをつけて幹を登り、枝の根本に腰掛けた。青々とした葉が影を作り、また枝葉の間を通り抜ける風が心地良い。戦ぐ葉の音に暫し耳を傾けながら、麟太郎は暫く、道行く人々を眺めていた。荷運びの車曳き、何処かへ急ぐ様子の洋装の紳士、会話しながら歩く婦人達。皆、活き活きとした表情で、笑ったり、焦ったり、真剣な顔をしたり。

(平和な日常とは、このようなものか。)

 麟太郎は木の幹に頭を預ける。どちらかと言えば荒事の方に縁深い麟太郎は、昼の世界をこんなにのんびりと眺めた事が無かった。こんなにゆったりと生きたいなどと思った事も無かった。孝晴の世界は、こんなにも明るく、穏やかではないから。

(やはり私は、ハル様から離れては生きられない。)

麟太郎は木の幹に凭れながら目を閉じた。風の音、葉の音、少し離れて聞こえる静かな喧騒。その中に楽し気な少女達の笑い声が混ざり始めたのを感じ、麟太郎は目を開く。終業時間なのだろう、制服を纏った女学生が何人かの塊となって、鈴のように笑いながら歩いてゆく。木に身体を預け、木の葉に隠れた麟太郎の姿は、たまたま木の下から見上げでもしなければ、見つからないだろう。その上で、気配を消す。空気に、木に、自身を溶け込ませるように。微動だにせぬまま麟太郎は待った。よく通る声と、ぱたぱたと軽い足音が、木の下にやって来る時を。

 友人と分かれ木の元に走って来た少女は、何かを探すように忙しなく顔や体の方向を変えている。麟太郎は、少女が上を向く前に声を発した。

「勘解由小路様。」

少女の動きが、ぴたりと止まる。そしてゆっくりと、枝を見上げた。視線の先に烏羽の姿を認めたのだろう、少女の目が徐々に開かれて丸くなり、そして、健康的な白い頬がみるみる紅くなってゆく。どういう感情なのだろう。これが、恋慕の表情なのだろうか。少女は言葉を探すように口を開閉し、やっとぽつりぽつりと音を吐く。

「あの、わ、わたし、ここに来たらまた、あなたにお会い出来るかもしれない、って……。」

麟太郎は静かに応じた。

「私もそう思って、此処で待っていました。貴女を。」

 

 その屋敷は建てられて十数年経つものの、未だに新築のような美しさを誇っている。完全洋式の石造りの建物は、旭暉では見られない装飾が散りばめられ、敷地内は門構から庭まで、全てが外ツ國からの輸入品と様式で構築されている。その屋敷の一室で机を挟んで向き合っているのは、初老を過ぎた白髪混じりの男と、光の加減で金色にも見える、波打つ琥珀色の髪をした青年だった。白いシャツに青のループタイを締め、肩下まである髪を三ツに編んだ青年は、深い碧(みどり)の目で男を睨む。対して男は溜息を吐き、宥めるような表情で口を開いた。

「何度も言っただろう?あの件で、衣笠君に非は無いんだよ。武橋の金次君にも話を聞いた事は、お前にも伝えたね。仲間を見下したり、蔑んだりしてはいけない。それを正そうとしてくれた衣笠君には、寧ろ感謝すべきではないかね。」

「でも、あいつは……衣笠のヤロウは、金次の将来まで奪った!それはいいんですか!?」

「確かに『やり過ぎだ』と思わない事もないし、衣笠君には良くない評判もあるけれどね、彼は簡単に暴力に訴える人間ではないと、私は思っているよ。それに、既に半月、謹慎を受けていたそうだからね。充分だろう。逆の立場になってみなさい、お前が友達や仲間が悪口を言われているのを見たら、彼のように助けに入れるかい?」

男は、表情も口調も穏やかだ。しかし青年は、男の言葉に眉を下げ、口籠もってしまう。

「それは、でも。」

「金次君は、お前ともよく遊んでくれていたね。しかし、彼には少し、悪い癖もあっただろう?お前も分かっていた筈だよ、『榮羽音』。そこを正してあげるのも、友人の役目だろう。もっと早く、お前が導いてあげるべきでは、無かったのかな。」

ヨハネ、と外ツ國の名で呼ばれた青年は、静かな男の言葉を聞いて泣きそうな顔になったが、頭を振って叫ぶ。

「それでも、あんな痛い方法じゃなくてもよかった!確かに金次はちょっと口が悪いけど……それでも守ってやるのが仲間だ!それにパパは、有坂のヤロウに言われなければ、あんな奴の味方なんてしなかっただろ!パパも衣笠の奴も有坂も大っ嫌いだ!」

「榮羽音!」

既に涙を浮かべながら、青年は勢いよく部屋の扉を閉め、走り去ってゆく。男は大きな溜息を吐くと、机上の呼鈴のうち、青い持手のついた方を取ると、数度鳴らした。一分も経たないうちに扉が三度叩かれ、黒の燕尾服を纏った青年が現れる。着衣とその立ち居振る舞いから執事なのであろうと分かるが、此方は先の青年――太田榮羽音よりも更に、異人然とした容貌をしている。血の気のない白い肌、色硝子で作ったような真っ青な瞳、そして白にも近い銀色の髪。青年が一礼すると、緑色のループタイが襟元で揺れた。

「如何なさいましたか、旦那様。」

「少し聞きたいんだが、良いかね。」

「ええ、何なりと。」

青年は背筋を伸ばして微笑んだ。絹を織り込んだ燕尾服の上を、青年の動きに合わせて光が滑る。

「お前は、武橋金次君を知っているね。榮羽音の周りに居る時も含めて、彼についての忌憚無い意見を聞かせて欲しい。」

「先日、『怪我の後遺症』で選抜隊から抜けられた方ですね。」

微笑みを崩さぬまま青年は言うと、少し考える素振りを見せ、更に目を細めた。

「彼は旦那様の従甥御でいらっしゃいますが……太田本家唯一の子である坊っちゃんの名を利用せんと、近付いている節はございます。私共の姿が無い場所では、坊っちゃんの事も、私の事も異人だと見下しているようでございますよ。坊っちゃんの前では善人のように振る舞っておりますが、私が坊っちゃんのお側におります事を、疎ましく思っているのも確かでございます。……武橋家の中でも、武の才は別として、評判は余り良いとは言えません。衣笠伯が手を出さなかったとしても、いずれ軍で問題を起こしたであろうと推測いたします。」

「お前から見ても、やはりそうかね。」

「私が虚偽を申す理由がございませんよ、旦那様。」

男は再び大きく息を吐いた。青年は気遣わし気に「珈琲をお淹れしましょうか?」と問うが、男はゆっくりと首を振った。

「済まないが、榮羽音を追ってくれないかね。最近では、榮羽音は私よりもお前の言う事の方をよく聞くんだよ。あの子には文武の才は無いが、周りの人間を大事にする優しい子に育ってくれた。けれど他人(ひと)を疑わないあの子の純粋さは、時に凶と出る。お前には苦労をかけるが、暫くあの子を見張ってやって欲しい。」

「承知致しました、旦那様。」

青年は白い手袋を嵌めた片手を胸に当て、右足を一歩引いて深い礼をすると、静かに扉を閉めて部屋を去って行く。屋敷の主である太田公爵は、その姿を見届けて目を細めると、机の上にあるもう一つの呼鈴――こちらの持手は深い紅だ――を眺める。

「お前のお陰で、私のもう一人の息子は、随分立派に育ったよ。四辻(よつつじ)……。」

そう呟くと、彼は机から便箋を取り出し、羽根ペンをインク壺に漬けると、曲線の多い横文字で何かを書き始めた。

 

 銀髪の青年は、屋敷内の雑務を他の使用人に任せ、外に出た。まだこの國では、完全な洋装で歩く外ツ國の人間は、異人街やその近辺以外ではあまり見られないが、太田家の周辺では、公爵の息子である太田榮羽音と彼の存在は既に知られている為、特に奇異の目で見られる事はない。寧ろ「またお坊ちゃまが家出したのかい、四辻さん」などと話しかけられた青年が、苦笑を返す場面などもあった。

 彼は目的地である公園に辿り着くと、迷わず広場や池を通り過ぎ、森の近くの林に踏み入って行く。木々の青々とした葉が日差しを遮り、空気も心地良いのだが、蝉の大合唱が耳を劈かんばかりだ。顔を顰めながら青年は奥へ進み、一本の木の前で立ち止まった。

「……坊っちゃん、降りて来て下さい。木が傷みますよ。」

枝の上で膝を抱えている榮羽音に、青年は呼びかける。榮羽音は不器用な癖に、木登りだけは昔から得意だった。目の前に立つ木も、幼い頃に「この木が一番登りやすい」と二人で登った。榮羽音は背が伸び体が重くなった後でも登れるのだから、不思議なものだ。

「坊っちゃん。貴方はもう十六なんですよ。少しは大人になってください。」

「……。」

少し口調を強めに言うと、榮羽音はのろのろと顔を上げ青年を見るが、すぐに顔を背けてしまった。青年は息を吐いた。

「一体、何が気に食わないのですか。聞いて差し上げますから、降りて下さい。」

木の上の榮羽音は暫く無言だったが、やがてぽつりと言った。

「……口調。」

「……。」

「いつもみたいに話せよ。」

今度は青年が一瞬黙った。

「……ここは御屋敷ではありませんし、貴方は主人、私は執事の立場なのですよ。」

「執事が主人の命令を聞かないのかよ。」

「……。」

 青年は、ふう、と小さく息を吐いた。仕方ない。青年から穏やかそうな表情が消えた。

「分かった、早く降りて来いバカ息子。」

「ば、バカって言うな!」

「自力で降りないなら蹴り落とすぞ。」

「わーーっ待って待ってよお前、自分で木が傷むとか言ったくせに!!」

青年が片足を構えて見せると、慌てて榮羽音が枝から幹を伝って降りてくる。これだけ出来るのに、何故武道はてんで駄目なのか。不思議でならないと内心思っている青年の胸に、降りて来た勢いそのままに榮羽音が飛び込んだ。無言のまま青年は、金茶色の柔らかな髪を撫でる。

「……パパ、最近ボクの言う事を聞いてくれない。」

「それは旦那様が、お前の事を想ってるからだ。」

「金次だって、ボクらが旭暉に来た頃、すぐ話しかけて友達になってくれたんだ。最近はたまにしか会ってないけど……。」

(それは、旦那様が外ツ國の女と作った子供とオレまで連れて来たばかりで、風当たりが強かったから、お前に恩を売れば後で役に立つと踏んで近付いただけだ。)

だから、直接太田家に関係のない自分には関わらなかったし、それに気付いている自分を疎ましく思っているのだ。その内心を一切口に出す事は無かったが、青年には分かっていた。似たような悪知恵の働く子供は、昔、彼の周りにも沢山いたから。けれど、それは榮羽音には関係ない事だ。ぐずる子をあやすように、青年は彼の頭を撫で続ける。無愛想な表情と裏腹に、その動きは酷く優しかった。

「やっぱり許せないよ、衣笠の奴も、アイツに味方した有坂の奴も。」

「武橋は今の所軍に留まっているが、いざとなれば他の職を見付けるのも容易いだろう。自業自得なんだから、お前がそこまで思う必要はない。」

「……金次がほんとは悪い奴だって言いたいんだろ。でも、悪い奴を、仲間が庇ってやらなかったら、誰が庇ってくれるんだよ。悪い奴ほど、助けてやらなきゃダメなんだ。」

「榮羽音、」

「そうだ!」

青年が言いかけた時、突然、榮羽音は顔を上げた。目を瞬かせる青年に、榮羽音は言う。

「鞠哉、お前、有坂んとこに文句言ってこい!文官風情が軍人の諍いに首突っ込むんじゃないってな!」

「文官風情って、お前、無職だろ。あと何でオレが。」

「う、うるさい!ボクは……、っ、いいんだよ、ボクよりお前の方が頭いいんだから、お前が行った方がいいんだ!命令だからな!」

碧の目の縁を紅くしながらそれだけ言うと、もう一度抱き着いて来た大きな子供を受け止めながら、青年――四辻鞠哉(まりや)は、大きな溜息を吐いた。

 

「帝國の書庫番」

十幕 「子らの心」



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帝國の書庫番 十一幕

紡がれる絲の中で、獣達は自らの道を探して歩く。


 刀祢麟太郎は、歩いてゆく。一見普段と変わらない、仮面のような無表情。しかしその面(つら)の下で彼は、それが何なのか判別できないモノがゆっくりと、いや高速で、渦巻いているような、奇妙な感覚を覚えていた。これは一体何なのだろう。考えながら、彼は歩む。渦を巻く脳裏を掠めるように過ったのは、孝晴と理一の言葉。彼女に対して何の対応もしないのでは礼を失するという認識は、二人共一致していた。

(お詫びも、しなければならないか。)

麟太郎は歩みを止め、一度も入った事のない着物屋に足を踏み入れた。店主が一瞬硬直する姿は見慣れたものだ。何故そこに入ったかといえば、女用の小物が並んでいるのが目に入ったからに過ぎない。持ち合わせの銭で購入できる一番よいものを、と頼み、金を払う時も顔を強張らせている店主に礼をすると、早々に麟太郎は店を去る。これから自身の向かう場所の事を考え、麟太郎は少しだけ、瞼を伏せた。

(どうして、こうなったのだろう。)

 

 出逢った日には、気持ちを抑え切れず無謀にも軍の屯所に走り、帰されてからは父に無理を言って夜中に許可を発行してもらったが、その後も熱に浮かされたようで、寝所でも猫をずっと抱いていた。翌日彼に怪我をさせてしまったと知られると、流石に父や兄に怒られてしまったが、彼女はあまり落ち込まなかった。あの時の「彼」は、全く怒っていなかったから。だから、彼女は諦めなかった。あの五弁花の木のある広場は、彼女のお気に入りの場所。彼女は、木陰で幹を背凭れにしながら、本を読むのが好きだった。あの場所を彼も時折訪れているのなら。軍に押しかけるような事をせずとも、もしかしたら、また逢えるかも知れない……。そう思いながら、二日、三日。気持ちが褪せる気配は一向に無かった。そして、あの時。空から降って来た、心地良くて静かな低い声。まさかと見上げた瞬間、彼女は再び、恋をした。

 

「お嬢様、本当に宜しいのでございますか。」

「良いんです、外で見られなければ問題ないでしょう?心配しないで、じいや。」

「しかしお嬢様。警兵を無闇に御屋敷に入れては、閣下にとって不都合ではございませんか。」

 玄関の扉の前に待ち構えるように立つ少女は、困り顔の老人に向かい、頬を膨らませて見せる。

「お父様はもう、あの方が警兵であるとご存知です。それに、そんな言い方。お父様に疚しい事があると、じいやは思っているの?」

「そういう訳では……。」

少女は返答を聞くと、にっこりと微笑んだ。

「『政治屋には飲まねばならぬ毒もある』、それはわたしでも知っています。でも、あの方は、誰彼構わず不躾に探っていくような方ではありません。」

「何故、そう言い切れるのですか?」

半ば諦め顔で老人が訊ねると、少女は胸を張り、言った。

「わたしが、そう感じたからです!」

 

 真紅が縁取る烏羽色の軍服は、國家警兵の象徴だ。「平和護持」の四文字を掲げ、どんな闇の中にでも入り込み、巣食う悪を炙り出し、排除する。彼らの身体を飾る真紅の線は、彼ら自身の血の犠牲を厭わない事を表しているという。任務の為なら冷酷非道を体現するような彼らであるが、組織された当初は、実力主義で優秀な者を集めたが故に身分差に端を発する軋轢も多く、派閥争いが頻発し、決して統率の取れた組織では無かったという。数年毎に制度が整えられてゆく中、創設者の名を冠した警兵専門の士官学校が設けられ、教育を施し帰属意識を高める事で、組織の安定化が図られるようになったのが廿年程前。それでも広範囲に及ぶ権限を有する警兵は恐れられ、逆に怨みや憎しみの対象になって襲撃を受ける事件も絶えなかった。人員の入れ替わりも激しく、結果、常に任務を共にする一個分隊単位での結束が最も強く、それ以上となると(表向きは協力任務を行う事があっても)相互監視状態であるのが、警兵の現状。その程度の知識は、國務大臣の娘であるからして、当然頭に入っている。

 だから警兵というのは――少なくとも軍服を着ている時は――常に何かを威圧し、誰かを警戒し、鋭いがどこか不安や哀しみを孕んだような目をしているのだ。彼女はそう理解していたし、それは間違いでは無かっただろう。しかし、今彼女が待つ、彼は違った。まだ名前も知らない、赤みがかった褐色の髪の、小柄な警兵。あの広場の木の上から「一緒に居る所を見られないような場所で話がしたい」と言った彼に対して、彼女が提案したのは、彼女の家――勘解由小路邸だった。勿論、彼が屋敷を訪ねる所を誰かに見られる事も、今は避けるべきだと分かっている。「先に帰って、あなたを待ちます。わたしの家に忍び込めますか」と尋ねると、彼は少し目を細め、「可能です。しかし、御屋敷には玄関から参ります。誰にも見られないように致しますので」と答えたのだ。そして今、彼女は目付け役の老人と共に、玄関で待っている。合図は五度のノック。聞こえたら直ぐに扉を開け、中へ入れるのだ。彼は「何故五度も」と首を傾げたが、彼女が五番目の子であるからだと告げると、黙って頷いた。今か、まだか。そうして少女は待っている。彼が来ないという選択肢は無い。何故なら彼は、「そんな人ではない」から。少女は待った。きっと、もう、

 

こ、コ、

コ、コ、コン、

 

 彼女は沸騰した湯沸かしのように扉に取り付いた。老人は反応できない。力いっぱい押された扉が僅かに開いた瞬間、無音で、黒い影が滑り込む。一瞬だった。少女と同じほどの背丈の小柄な影は、扉を閉める事すら忘れている少女を見、呆気に取られている老人を見ると、少女の手の上からハンドルを握り、ゆっくりと扉を引き、閉める。静かになった玄関の大広間で、彼は帽子を取ると姿勢を正した。

「突然の訪問をお許し下さい。國家警兵東都中央兵団第一五七分隊・分隊長、……刀祢麟太郎警兵中尉です。」

 深々と頭を下げた少年――いや、少年と言うにはあまりにも冷酷な表情をした男に対して、少女は頬を真っ赤にし、老人は思わず一歩後退りするという、正反対の反応を見せたのだった。

 

「此の度は、私のような者にお話のお時間を頂きまして、恐悦至極にございます。」

 有坂家の離れでは、いつものように絣を着崩した孝晴が畳に胡座をかいている。しかしその前には、旭暉様の部屋に合わない燕尾服を纏った異人の男が、正座で向き合っていた。片や公爵家の息子、片や公爵家の執事。互いに素性は知れている。指先をついて下げられていた白髪頭が、ゆっくりと上げられる。風通しのよい部屋の中とは言え、その異様に白い貌には汗一つかいていない。孝晴は目を細めた。

「俺ぁ『暇』してんので知れてんだろぃ。寧ろ、太田の執事が俺なんかに割く時間、あンのかぃ?」

「主人の命で参りましたので。」

ふわり、と微笑む燕尾服の男。四辻鞠哉は太田公爵家の使用人の統括責任者であり、太田公爵の秘書・従者でもある。しかし、太田公爵は彼を息子である太田榮羽音の監督に付けている事も多いため、実質的には榮羽音の従者であると言った方が正しいかも知れない。今回も、彼に命令を下したのは太田公爵では無いのだろう。

「それで、用ってのはなんなんだぃ。」

孝晴の問いに、鞠哉は少し困ったような表情を作る。

「はい。実は、命というのが、榮羽音様より受けたものでございまして。」

「予想はついてらぁ。大方、衣笠の件だろぃ。俺がお父上に告げ口したから怒ってんだろ、榮羽音の奴ぁよ。」

鞠哉は苦笑したが、その笑みが孝晴の言葉を肯定している。鞠哉は柔らかな表情を崩さぬまま言った。

「流石、有坂家の令息であらせられますね。確かに私は、貴方様に対しての抗議を命じられ、参りました。しかし……私としては、貴方様に感謝しているのでございます。」

「へえ?そりゃまた意外だな。」

膝に頬杖をつき、口端を上げる孝晴。姿勢を保ったまま、鞠哉は僅かに目を細めた。

「分家の者とは言え、一族の恥を炙り出して頂きました事に、御礼を申し上げます。旦那様も、榮羽音様も、御心が大変高潔であらせられますが……些か、優し過ぎますので。警戒して頂く切掛にはなりましたでしょう。」

「ンな事俺に言う必要、お前にゃねェだろ。」

「貴方様には、お伺いしなければならない事もございますので。」

目を細めたまま笑みを消した孝晴と裏腹に、鞠哉は穏やかに微笑んだままだ。

「孝晴様。貴方が衣笠伯を庇われた……直接的に申し上げれば、そうなさる程の親交を結んだ理由を、お教え願いたく存じます。文官の貴方様が、軍内の諍いに口を出した事が、榮羽音様には納得いかないようで。お二人の親交の切掛をお伝えできれば、榮羽音様の怒りも解けましょう。」

(成程、そう来るか。)

 つまり、一族の内情を明かした代わりに、理一との関係を教えろ、と言う訳だ。貴族同士だからと言うだけではない。「人間同士の結び付き」は、あらゆる場面で使える有用な情報だ。この慇懃な物腰の異人は、その穏やかな微笑みの下に別の本性を持っていると、専らの噂だった。政界から離れ、文化振興・学術研究・経済活動と、あらゆる分野に多大な援助を行っている太田家を、あらゆる手段を講じて守護する番犬。下心を持って太田家に近付いた者は、いつの間にか手を引かされている。数年前には、榮羽音を誘拐しようとした狼藉者を、彼が一人で叩きのめしたという話もある。人格者として知られる太田公爵が昼ならば、彼は太田の夜を背負う人間。柔らかな物腰でするりと相手の内に入り込み、いつの間にか弱味を握っている。誰が呼んだか定かではないが、

(――「太田の白狐」とはよく言ったもんだ。)

 改めて笑みを浮かべると、孝晴は答えた。

「大した切掛じゃねぇさ。有坂家(うち)で育った刀祢って奴が、今は警兵をやってンだが、俺の持病を心配して、奴がよく世話になってる医者を紹介してくれたってだけだ。勿論うちにゃ侍医も居るが、同年代の方が相談もしやすいだろう、ってな。そいつが衣笠のご当主様だった、ってだけの事さね。」

「……そのようなお話は伺っておりませんでした。ご病気であったとは……大変失礼な事を。」

驚いた表情を浮かべた後、頭を下げる鞠哉。孝晴はからからと笑う。

「そりゃ、知らねェに決まってらぁ、刀祢と衣笠以外にゃ『言ってねぇ』からな。大した事はねぇんだが、少しばかり無理すると倒れっちまう。だからこうして、のんべんだらりと暮らしてんだ。裏が取りてぇなら、孝成の方の兄貴に訊きな。母上も知ってるが、俺が倒れたのを実際に見たのは兄貴だからな。そう言う訳で、たまに相談なんかしてるうちに親しくなった、って事で、納得してくれるかぃ。」

「はい。そのような事情も知らず、不躾でございました。ご無礼をお許し下さい。」

「気にすんな、今後『有坂の三男は病(やまい)持ちだ』って噂が流れりゃあ、出所はお前さんだって事になるからなァ。」

「……。」

一瞬、鞠哉の表情が消えた。孝晴は細めた目の間からじっと彼を見据える。

「意味は、分かるよな?お前さんほどの男なら。」

「承知致しました。貴方様のお身体について、口外は致しません。」

「頑張って誤魔化すこったな。」

苦笑する鞠哉だったが、孝晴にそれ以上話す気はないと感じ取ったのだろう。姿勢を正すと、再度深く頭を下げる。

「改めまして、お時間を頂戴致しました事、御礼申し上げます。」

「『大した話もできなくて、悪かったな』。」

釘を刺すかのような孝晴の言葉にも柔らかな笑みを返し、燕尾服の白狐は去って行った。

 

 縁側から差し込む光の色で、既に夕刻なのだと知る。孝晴は一人、畳にごろりと横になった。

 目を閉じて、考える。辻褄の合わない事は言っていないが、実際一対一で話してみると、四辻鞠哉は噂通り、一筋縄ではいかない相手のようだ。普段はのらりくらりとした振る舞いを見せる孝晴だが、その実、状況から相手の思考を先回りして予測できるというだけで、腹の探り合いや駆け引きが得意な訳ではない。その点四辻は、孝晴が「取引」だと気付く事まで織り込んだ上で、主人の名を出し、孝晴と理一の繋がりという情報を手にして行った。太田榮羽音は公爵家長男、孝晴は三男で、純粋な社会的地位は榮羽音の方が上だ。その榮羽音を納得させる為、と言われれば、此方もある程度応じざるを得ない。その上で自身の立場や引き際を弁えており、必要以上に踏み込みはしない。敵に回せば恐ろしい男である事は間違い無いだろう。

 彼は十年前に太田公爵の息子――榮羽音と共に鐵國から連れて来られ、太田家執事の四辻喜十郎の養子となり、太田家で育てられた。先代の喜十郎氏が二年前に亡くなり、仕事を引き継いでいる。

(四辻の爺さんに、そんな物騒な噂は無かった筈なんだがな……。)

表立って敵対する事は無くとも、鞠哉については調べておくべきかも知れない。そう思ったが、孝晴は目を開け、畳にべたりと張り付くように転がった。

「ハラ減った……。」

目を閉じて、開けるまで。「普通」ならば、瞬き程の時間だ。頭を回し過ぎた。麟太郎が居れば、こっそり饅頭でも買いに行かせられるのだが。

「……お麟は今頃、お嬢さんの所だよ、畜生め。」

『麟太郎が居れば』。そんな考えを持ってしまった自分に嫌気がさす。夕食までは眠って空腹を誤魔化そう。溜息を吐いた孝晴は、今度は思考の為ではなく、眠りの為に目を閉じた。

 

 有坂家の広い庭から門外へ出ると、そこには少年が一人立っている。太田家の使用人ではあるのだが、まだ見習いの立場だ。故に、長である鞠哉の付き人として仕事を学んでいる。未熟な使用人を助け教え導く事も、統括責任者である執事の役目だ。

「四辻さん!お疲れ様でした。」

「有難うございます、新良(しんら)さん。少し長く待たせてしまいましたね。」

少年に向かい優しく微笑むと、鞠哉は歩き始める。大通りまで出て人力車を拾ったのは、自分の足に合わせて歩き続ければ、少年が疲れてしまう為だ。異人の鞠哉は、長身で歩幅も広い。少年には「話に時間をかけてしまった為」と言いつつ、通常は乗り物を使わないように、使っても馬車には乗らないように、など使用人としての心得を説いてゆく。話を終えると、鞠哉は少年に言った。

「車に乗るのは、初めてですか。」

「は、はい!僕……じゃなくて、私は、太田家にお仕えするまでは、このようなものとは無縁でしたので……。」

「でしたら、折角の機会です。少しの間ではありますが、景色を楽しんでいきましょう。」

「いいんですか!?」

「勿論、騒がずに、ですよ。」

元気よく返事をした少年が、普段よりも少しだけ早く流れてゆく景色に目を輝かせている間、鞠哉は先程の面会について思い返す。

(まさか、有坂孝晴が「病身」とはな……。有坂家からそんな話は出た事がないし、体が弛んでいるようには見えなかったが。ただ、刀祢中尉が引き合わせたという話は、納得できる。武家ながら医療の道を選んだ変わり者の一匹狼と、『有坂の犬』の接点は、陸軍病院か。)

 孝晴が何らかの病を患っているという話は予想外だったが、少なくとも、衣笠理一の背後にいるのは「有坂家」ではなく、有坂孝晴個人のようだ。だが、だとしたら彼はどうやって、軍病院内で起きた諍いの事実を突き止めたのだろう。それに、病身だと明かしたのも、それを詮索しようとすれば、直ぐに分かるという警告付きだった。あの時は流石に、表情を作れなかった。警告を受けたからと言うだけではない。彼の目の奥に、得体の知れない闇が見えた気がしたのだ。世間が言うような道楽息子だとは、とてもではないが思えない。

(……食えない奴だ。)

鞠哉は一つ息を吐いた。心なしか疲れたような気がする。そう言えば、小麦と卵に少し余裕があった筈だ。鞠哉は相変わらず楽し気な少年に向かい、呟いた。

「今夜の御夕食につけるお菓子は、私が作りましょうかね。……皆さんの分も一緒に。」

「えっ!?四辻さんのお菓子がいただけるんですか!?」

「大声を出してはいけませんよ、新良さん……。何となく焼きたい気分になったので、厨(くりや)を使わせて頂けるよう、お願いしてみようかと。……皆さんにはまだ内緒ですよ。」

「は、はい!楽しみです!」

はしゃぐ少年が使用人として働けるようになるのはまだまだ先だ、と思いつつ、鞠哉は背凭れに身を預ける。仕事を急いで片付ける事にはなるが、少しはこうして気晴らしでもしなければ、やっていられない。料理人と相談する献立の内容を考え始めた鞠哉の表情は、先程までよりも少しだけ穏やかだった。

 

 麟太郎が通された応接間では、大きな机を挟んで、身が沈んでしまいそうな大きな長椅子に座った二人が向かい合い、少女の椅子の後ろには老人が立っている。有坂家の離れと母屋の食堂、そして板張の質素な平家と軍の屯所しか知らない麟太郎は、この椅子は合わないと早々に感じたが、仕方がない。帽子と外套を預け、普段よりも更に小さく見える麟太郎は、一度老人に目を向けてから、少女を真っ直ぐ見据えた。彼女には、一体何が見えているのだろう。傍目には普段と変わらない様子で、麟太郎は口火を切った。

「初めに、謝らなければなりません。私はきっと、貴女の気持ちを傷付けます。けれど、お伝えしなければならない事ですので、どうかお聞きください。」

「はい。」

短く答えた少女は落ち着いており、微笑んでいる。今の言葉を聞いて、何故。しかし言わなければ仕方がないのだ。

「私は、貴女と結婚はできません。私は貴女に相応しい身分ではありませんし、何より、貴女は私を知りません。何も知らない貴女の気持ちに付け込むような事は出来ませんし、私も、貴女が何故、私にそのような気持ちを向けるに至ったのか、分かりません。……なので、本日は、申し出を断る為に、貴女を探していたのです。」

 申し訳ありませんが、ご理解ください。ぽつぽつと最後まで言うと、麟太郎は頭を下げる。老人は安堵したような息を吐いたが、少女は無言だった。やはり彼女は、傷付いただろう。一方的に向けられた恋慕とはいえ、よい気持ちではない。長く頭を下げ、重い頭を上げると、少女は――微笑んでいた。

「あなたなら、そう言うだろうと思っていました。刀祢、麟太郎さま。」

「……どういう事ですか。」

「あなたはとても、お優しいからです。」

言って少女は、にっこりと笑う。反対に麟太郎は混乱した。言葉を間違えただろうか。いや、確かに「断る」と言った筈だ。無表情のまま固まった麟太郎を他所に、少女は背後の老人の方を向いた。老人も同じく混乱しているようだが、少女が気にする様子はない。

「じいや、わたしの部屋から、ハルを連れてきてくださいな。」

「はっ……!?わ、分かりました、お嬢様……。」

老人が急いで出て行き、二人が部屋に残される。少女は麟太郎に顔を向け直した。

「覚えていらっしゃいますか?麟太郎さまが、わたしの猫を助けて下さった時の事。」

「……はい。何か特別な事をしたつもりもありませんが。」

麟太郎の答えを聞いた少女は、口許を手で隠しつつ、小さく声を上げて笑った。

「この先は、じいやにも聞いて貰っていた方が良い話ですね。少し待って居て下さい。」

「……はい。」

 壁の時計の針が二度程動く間、二人は無言だった。戻って来た気配は急ぎ気味に部屋の中へ入り、扉を閉める。その手に抱えられているのは、確かにあの時、木から下ろしてやった子猫だ。彼女は老人から受け取った猫を胸元に抱くと、そのまま服の中に入れてしまう。洋装にも懐のようなものがあるのだろうか。時折、猫が服の縁に手を出して顔を覗かせる。

「この子は、『コハル』と言うんです。」

「知っています。貴女が叫んでいましたから。」

「はしたなかったですね、わたし。でも、あの時は必死だったんです。」

 少女は話し始める。年が明けて、一月ばかり経った頃。その日は小春日和で、彼女は稽古後の気分転換に庭を散歩していた。すると一匹の野良猫が、繁った垣根の中に入ってゆくのを見かけた。数日間観察してみると、どうやらその辺りを寝床にしているらしい。周りから見られない為、安心できるのだろう。彼女はそれを家族には知らせず、内緒にしておいた。

 しかし、それから二月経ち、春の陽気に草木が芽吹き始めると、庭の手入れが始まり、驚いた猫は逃げ出してしまった。しかし、そこには産まれたばかりの子猫が残されていたのだ。庭師からそれを聞いた彼女は、垣根に走った。繁っていたそこは綺麗に剪定され、内側も露わになっていた。猫とも呼べないような濡れた小さな塊は、放置されている間に死んでしまっていたが、死んだ兄弟達に守られるように、一匹だけ微かに動いていたそれを、無我夢中で彼女は取り上げ、湯で洗い、姉や母に泣き付き、女達総出で毎日世話をした結果、小さな塊は命を繋ぎ止めたのだ。そしてその子猫は、母親を見付けたのが小春日和の日であった事、そして毛色が小春日和の陽の光を思わせる、橙のかった茶虎であった事から、「小春」と名付けられる事になった。

「コハルには親がいません。だから、わたしが毎日一緒に寝ていました。お父様には、使用人に任せなさいと言われましたけど……この子のお母さんが逃げてしまったのは、猫がいると教えておかなかったわたしの所為でもありますから、わたしが責任をもって助けなければならないと思ったんです。幸い、今はこうして元気に育ってくれています。あの時、木の下で転寝(うたたね)してしまったわたしの胸元から抜け出して、あんな所まで登ってしまうほどに……。」

「そう言う訳だったのですね、木の上に子猫が居たのは。」

麟太郎が呟くと、少女はこくりと頷いた。当初の苦労を知っているのだろう、老人も静かに彼女の話を聞いている。

「コハルが居ない、そしてあんなに高い所に行ってしまったと分かった時、わたしは心臓が止まってしまうかと思いました。例え猫でも、コハルはまだ子供ですから、落ちたら死んでしまうかも知れない……そこに現れたのが、あなたでした。麟太郎さま。」

「……。」

彼女の目は、真っ直ぐ麟太郎を見ている。その瞳の奥に、他の者が見せるような恐怖心は、全く浮かんでいない。

「初めは勿論、怖かったです。だって、警兵様が来る時と言うのは、悪い事をした人を捕まえる時です。騒いでしまったのはわたしですが、原因になったコハルは、処分されてしまうのではないか、って。だからわたしは、あなたに訴えました。皆はわたしの為に集まったのだと、わたしが悪いのだと。それでも麟太郎さまは、木から離れるようにと言われました。」

「そうですね、そう言いました。」

「その時に、目が合ったでしょう。」

「はい。」

「……わたし、その時に、感じたんです。『この人はコハルを助けようとしてくれているんだ』って。麟太郎さまの目は、とても優しかったんです。だからわたしは、その後をお任せしました。どうなさるのか分からなかったので、不安はありましたけれど。」

 今度こそ麟太郎は首を傾げた。自分の目を見て優しいと感じた?そんな風に言われた事は、今まで一度もない。彼女はその様子に微笑みを浮かべ、そして膝の上で組んだ両手に僅かに力を入れた。

「わたしが感じた事は、間違っていませんでした。麟太郎さまは、烏羽色の軍服を召していらっしゃったのに、それを砂で真っ白にしながら、コハルを助けて下さいました。本当に嬉しかった。安心もしました。そしてそれ以上に……こんなに優しくて素敵な方は他には居ないと、思ったんです。」

「買い被り過ぎです、それは。」

「どうしてですか?わたしはまだ麟太郎さまの事を知らないのに、どうしてそうだと言い切れるのですか?」

「私はただ……、」

言い掛けて、麟太郎は口を噤んだ。あの場に孝晴が居た事は言うべきではない。有坂の名を出せば、有坂家までもがこの話に巻き込まれてしまうだろう。彼女がその沈黙をどう受け取ったかは、麟太郎には分からない。ただ、彼女は。

「わたしには、そうだと思えばすぐに動いてしまう癖がありますけれど、あんなにも胸が高鳴って、我慢が出来なくなったのは初めてでした。わたし、あなたが好きです、麟太郎さま。そしてこれから、もっと好きになるでしょう。だから、麟太郎さまの事を沢山お聞きしたいですし、今はわたしの事を知らない麟太郎さまにも、わたしを知って頂きたいんです。……そうして互いを知った上で、お返事を下さい。わたしはずっと待ちますから。」

彼女は、麟太郎が思っていたような子供ではない。突っ走るきらいはあるものの、寧ろ、真っ直ぐで意志の強い女性のようだった。

 

「帝國の書庫番」

十一幕 「晴と狐と犬と猫」



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帝國の書庫番 十二幕

二人にとっての「あの日」。そして、その先へ。


 花壇に咲き誇る花々に当たる日の色が彩度を落とし始める、晩夏の午後。美しい鐘の音色が告げるのは、少女達が解き放たれる時間だ。まだ新しい校舎は花吹雪のように少女達を吐き出し、乾いた風に吹かれるように、彼女達は思い思いの方角に散ってゆく。その中に、伸ばした髪を腰まで下ろし、耳の上に縮緬細工の刺し飾りを着けた少女の姿があった。彼女は夢見るような表情で校門へ向かう。あの一日を思い出すと、何もかもが霞の彼方へ消えて行ってしまう。

 

 

 少女の言葉に俯いた、烏羽色の軍服を纏った少年――いや、彼の年齢すら、まだ少女は知らないのだ。落ち着き方からして、見た目よりも年長なのだろう、と彼女は思っていた。その彼は、微動だにしないまま、考えているようだった。無理も無い、彼女の言葉は、貴族の女が吐くには余りにも非常識であると、彼女自身が一番理解している。貴族の娘は、親か相手が決めた先に嫁入りし、夫の陰となって尽くす。それが当然なのだ。勿論、彼女とて伯爵令嬢である。嫁入りに必要な技術は一通り身に付けているし、学校でも成績は良い方だ。けれど、そうして言われる侭にしているよりも行動する方が性に合うのは、長い歴史を生き抜いた先祖の血故なのだろうか。少女が考えながら待つ間黙していた麟太郎が、漸く顔を上げる。

「大変、失礼致しました。」

「大丈夫です、いつまでも待つと言ったばかりですし。」

その言葉に麟太郎は瞼を細めたが、今度は俯かなかった。

「初めに言った通り、私は貴女の申し出を断りに参りました。けれど、貴女にその気が無いのなら……貴女に、誤った選択をさせてしまうなら。私は全て話します。」

少女は僅かに表情を曇らせる。が、すぐに彼女は「全て聞きます」と応え、微笑んだ。感情の機微に疎い麟太郎には、何故彼女の表情が曇ったかなど理解できる筈もない。

 麟太郎は話した。自分には生まれの記憶がなく、飢えている所を有坂孝晴に拾われた事。有坂公爵家で育てられたとは言え、有坂家に迎え入れられた訳ではなく、平民の身分である事。自分が警兵になったのは、帝都の治安を守る事で、救ってくれた有坂孝晴に恩を返す為だと言う事。秘するべき部分は省略しているものの、麟太郎が言葉を重ねる度に、少女はまるで、それが自分事であるかのように表情を変えた。時には苦しそうに、時には心から安堵したように。それが麟太郎には不思議でならなかった。

(私には、自分事さえ分からないというのに、何故彼女は、他人の話に自分事のような反応を見せるのだろう。)

「……分かって頂けましたか。私は、何処の馬の骨とも知れない人間です。そして、今の生を与えて下さった有坂様に生涯尽くすつもりで生きています。自分が妻を娶るなど、考えた事も無い男です。貴女が単に衝動的なだけでは無いと分かりましたが、であれば余計に、私は貴女に選ばれるべきではありません。」

淡々と、最後まで語調を変える事なく、麟太郎が話し終える頃には、少女の表情は落ち着いていた。少女は言った。

「それが、あなた自身の、あなたへの評価なのですね。」

「はい。」

「……じいやは、どう思いました?今のお話を聞いて。」

唐突に振り向いた少女につられて控えていた老人を見ると、……老人はなんとも複雑な顔をしていた。強いて言えば、何かに耐えているような、そんな顔だ。

「お嬢様……私めも、父祖の代からお仕えしている身でございますが、この方の忠義と、生涯を賭して恩に報いる覚悟には、感服せざるを得ませんでした……。」

「ご老人は何故涙を?」

本当に理解できないのだろう、首を傾げる麟太郎。少女は優しく微笑みかけた。

「じいやも、あなたがとても素敵な方なのだと、分かったんですよ、麟太郎さま。」

「分かりません、何も特別な事はお話していませんが。私が言ったのは事実だけです。」

それに、と麟太郎は続ける。

「仮に私が人として認めて頂ける何かを備えているとしても、貴女が今まで送ってきたような生活を私は出来ませんし、貴女を満足させられるとは到底思えません。」

「麟太郎さまは、わたしだけでなく、女というものをご存知ないのですね。」

初めて少女は、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。理由の分からない麟太郎は、当然素直に頷く。

「女の子は、好きな人の為なら、なんでも出来るんですよ。わたしは麟太郎さまのお邪魔をするつもりはありませんし、お支えしてゆきたいと思っています。それが、わたしの『満足』なんですよ。」

「……成程。」

麟太郎の脳裏に、理一の言葉が過(よ)ぎる。

 

――女ってのは、繊細かと思えば、意外に大胆で思い切りのいい所もある。秋の空なんて言われる事もあれば、一途に死ぬまで想い続ける事もある――

 

 その「一途」な方の女というのが、少女の言う所の「女の子」なのだろう。麟太郎は一つ、息を吐いた。

「分かりました。私は、貴女を傷付ける覚悟を決めて参りました。しかし、私が頑なに貴女を拒み続ける方が、きっと貴女は苦しみます。それは本意ではありません。貴女の心が動かないのなら、私が覚悟を曲げます。結婚、は、今は考えられません。しかし必ず、貴女を知った上で、お返事すると誓います。」

それまでに彼女の心が離れるかも知れない、という言葉は言わなかったが、麟太郎は上衣の内側から小さな箱を取り出し、机の上に置く。

「……私が誓いを果たすまで、持っていて下さい。」

少女は箱を手に取り、開けた。そこには紅と桃色の組紐が可愛らしい、縮緬細工の飾り簪が一本入っている。少女は目をまん丸にして麟太郎を見る。麟太郎は抑揚なく言った。

「本来は、申し出を断るお詫びのつもりで買いました。そのような時に何を差し上げるべきか、分からなかったので。女性の身に着けるものであれば良いだろうと。」

「……ふふっ、本当に女心の分からないお方ですね。」

そう言いつつも、彼女は大事そうにそれを箱から取り出すと、耳の上辺りに差す。頬が紅い為だろうか。似合うな、と麟太郎は思った。

「麟太郎さま、今日はもう遅くなります。だから、わたしが一番知って欲しい事を知ってからお帰り頂きたいのですが……お聞き頂けますか?」

「はい。誓ったばかりですから。」

少女はそれを聞くと、にっこりと微笑んで、言った。

「『留(とめ)』です、わたしの名前。勘解由小路留子。『とめちゃん』と呼んで頂けたら嬉しいです……!」

 

 

 あの時貰った簪は、それから毎日身に付けている。父親に、手紙の遣り取りも許して貰った。終業直前に夕立ちを降らせていた雲も、今はすっかり姿を消して、空は留子の心のように晴れやかだ。今日は手紙に何を書こう、と想像を膨らませていた時。

『危ない、足元に気を付けて!』

「えっ!?……あっ!」

留子は、足元よりも声の方に気を取られた。何故なら、その声は旭暉語ではなく――学校で習っている為、理解はできるが――瑛國語だったからだ。声の先に、白いふんわりとしたドレスと、リボンのついた帽子、傘を差した少女の姿を認めた瞬間、留子は泥濘(ぬかるみ)に足を突っ込んだ。ぐらりと傾ぐ体。倒れる。このままでは顔から倒れる。けれど。

(頂いた髪飾りに泥がつくのは、嫌です……!)

彼女は地面に手を付くのではくなく、簪を覆うように顔全体を腕で庇った。

 

ぼふ、

 

 思っていた物と違う音と感触に、留子は混乱する。そのまま全身泥塗れになると思ったが、膝から下以外に濡れた感触もない。

『大丈夫ですか?怪我をしてしまうところでしたよ。』

高く、優しい声。瑛國語。ゆっくりと留子が腕を解き目を開けると、目の前には、フリルのついた白い布。その裾は泥塗れだ。背後には放り出された傘が見える。彼女は倒れ込む留子の前に滑り込み、ドレスのたっぷりとした布で受け止めたのだ。留子は呆然としていたが、我に返って顔を上げる。

『す、すみません!助けて下さって……、』

そこで彼女の言葉は途切れてしまう。ふわりと波打つ見事な金の髪、晴天を映したような空色の瞳。薔薇色の頬をしたその少女は、長い睫毛を瞬かせ、にこりと微笑んだ。

『このような時は、<すみません>ではなく、<ありがとう>と言うんですよ。』

異人の少女は、固まってしまった留子に向かい、優しく手を差し伸べるのだった。

 

 東都中央兵団屯所付近にある食堂。飯時には屯所内宿舎を利用する将校達の姿が多く見られるのが常だった。外では緊張を漲らせている警兵達も、食事時は談笑するような素振りも見せる。しかしその一角に、壁に頭を預けるように座っているのは、あの「有坂の犬」だ。しかも、屯所の玄関口である広間で起きた一件で、彼に貴族の少女が求婚した事も屯所内に知れ渡っている。周囲から様々な感情の籠った視線が彼に突き刺さっているのだが、当の麟太郎は完全な無表情で、周りを見てすらいない。そんな彼に向けられている視線の糸を引き千切るように、机の間を横切ってやって来たのは、石動だった。

「はい、隊長の分です!」

どん、と勢いよく置かれた盆には、飯と汁と炙った魚の干物が乗っている。向かいに座りながら、自分の盆から二人分の湯呑みを下ろす石動。

「有難うございます。」

「隊長が自分で取りに行ったら、また足引っ掛けられるでしょう。」

ふん、と息を吐き、右目で周囲を睨み付けると、石動は飯を掻き込み始める。麟太郎は壁から椅子の背凭れに体重を移しながら、焼けた魚の尾をじっと見詰めた。

「足を出されても、特に物を落としたりしませんでしたが。」

「いくら休憩中とは言え、『引っ掛けられた』時点でいつもの隊長じゃないですよ。その前に気付くのが隊長です。」

「そう、ですね。」

淡々と応えて箸を取る麟太郎だったが、石動はその語調の微妙な変化に気付いていた。

「隊長、ここ数日元気無いですよ。あの御令嬢の件が関係無いとは思いませんが、それだけじゃないでしょう。」

「何故分かるんですか。」

「貴方を良く見ていればちゃんと分かります。まあ俺は耳も良いので、それもあるでしょうけどね。」

石動の言葉に、麟太郎は目線を逸らす。自分でも分からない自身の内心を読み取ったのは、彼と――留子だけだ。石動はまだ、数年の付き合いがあるからだと理解できる。が、彼女は……。口に詰め込んだ飯を汁で流し込んだ石動は息を吐くと、右目を細めた。

「休暇後から、ですよね。何があったんですか。」

「話してもよいものでしょうか。」

「自分で解決できないなら、話すしかないですよ。俺は聞きます。取り敢えず、飯はさっさと食いましょう。午後の勤務もありますし。」

「そうですね。」

漸く魚を口に入れ、骨ごと噛み砕きながら麟太郎は考える。任務中に集中を切らしてはいない。が、それ以外の休憩時間や自由時間には、どうしてもあの日の事を考えてしまう。話せば何か変わるのだろうか。分からない。けれど、自分ではどうしようもない事も確かだった。ただ、話すとしたら夜だろう。こんな場所で話すべきでない事くらいは、麟太郎にも分かる。食事を早々に平らげた麟太郎が顔を上げると、石動は先程までとは違う、なんとも微妙な表情を浮かべていた。

「隊長……いつも思うんですが、骨、刺さらないんですか。」

「骨も砕き切ってしまえば食べられますよ。作法としてよろしく無いのは知っていますが、食べられる部分を残すのは嫌なので。」

(食べられる部分……。)

石動は自分の盆に目線を落とす。麟太郎の事は尊敬しているし、命を救われた恩もある。彼が悩んでいるのなら、力になりたいという気持ちは変わらない。しかし、魚が乗っていた痕跡すら残っていない麟太郎の皿と、頭と骨と尻尾が残された自分の皿を見比べ、こういう所は真似できない、と思う石動だった。

 

 一日の勤務を終えれば、警兵達も宿舎へ戻って来る。緊急の招集がかかる事はあっても、夜間勤務は基本的に当番制で各隊に回って来る為、当番でない日の夜は自由時間だ。将校宿舎内の談話室には煙草の煙が充満し、その中で本を読んだり、碁や将棋を楽しんだり、酒保で購入した菓子を食べたり、何か議論をしている者達も居る。石動と麟太郎は、衝立の裏にある椅子に並んで座った。ここならば話し声が目立たないし、裏で誰かが聞き耳を立てていれば気配で分かる。

「隊長の好物って、魚だけなんですか?」

「魚が好きと言うより、肉が苦手なだけですね。そういう意味では近場に食事処があって助かりますよ。」

「軍の糧食、洋食ばかりですもんね……。」

「初めて牛肉を食べた時に嘔吐したんですよ、私。」

「えっ、毒喰らっても何とも無い隊長が。」

「あれは訓練の結果です。」

他愛もない会話。勿論、本題に入る前に周りの気を逸らす為だ。暫く会話を続け、此方を窺うような気配がないと確認出来ると、漸く石動が切り出す。

「……で、話せますか?」

「はい。」

短く頷いた麟太郎は、語り出した。

 

 

 勘解由小路邸。留子を部屋に戻す間待っていて欲しいと応接間に残された麟太郎の元に、老人が戻って来る。当然麟太郎は暇乞いをして帰るつもりだった。しかし。

「貴方をこのままお帰しする事は、出来ないのでございますよ、刀祢中尉。」

「どういう事ですか。」

申し訳無さ気に眉を下げる老人。麟太郎は首を傾げる。老人は「もう少しお待ち頂かなければならないのです」とだけ言うと、扉を塞ぐように立つ。殺意や害意は感じない。不思議に思いながらも麟太郎は従った。座り心地の悪い椅子の上で姿勢を正したまま、微動だにしない麟太郎を見る老人の表情は、何か心苦しさを感じているようにも見える。窓の外は、もう日が落ちている。暫く無言で待っていると、やがて、戸を叩く音がした。老人が扉を開けた先に居た人物を目にした麟太郎は、一瞬、いや、もう少し長く硬直した。

「君が噂の『あの方』かね。うちのじゃじゃ馬が随分世話になったようだ。」

 瞬間、さしもの麟太郎も、その時ばかりは跳ね上がるように立ち上がり、気をつけの姿勢を取った。そこに居たのは、留子の父にして、現國務大臣――勘解由小路伯爵であったからだ。老人が、留子から麟太郎が来ると聞いた時に連絡をしておいたのだと申し訳無さそうに言う言葉も、「君と留(とめ)にその椅子は大きかったか」と呟く大臣の言葉も、余り耳に入っていなかった。恰幅は良いが肥えている訳ではない。顔付きは四角張って厳しいが、鋭さと威厳を兼ねく備えている。これが、大臣。気圧されたのだと気付いたのは、大臣が「着いて来給え」と声を掛けて背を向けた時だった。勘解由小路は公家の家系だが、その血には幾度もの戦乱の時代を戦い切り抜けて来た記憶が刻まれている。存在が違う、と思いながら、老人と共に麟太郎は彼の後に無言で従った。

 

 人払いされた書斎には、直立する麟太郎と、革張りの長椅子に座る勘解由小路大臣しか居ない。大臣は煙管(パイプ)に火を点けると、ゆったりと一服した。

「座らんのかね。」

「御命令であるなら、着席致します。」

麟太郎の返答に大臣は口角を上げると、ゆったりと脚を組む。

「成程。君は軍人だったな。まあ、座り給え。今の私は、大臣ではなく父親として、君と話しているんだ。」

「……承知致しました。」

大臣が煙管を持つ手で軽く示した椅子に、麟太郎も座る。大臣の正面だ。此方の長椅子は応接間のものよりも硬い。大臣は満足気に背を椅子に預けて言った。

「さて、どうだったかね。うちの娘は。」

「どう、と、申されましても。私は、お嬢様とまともに言葉を交わしたのも本日が初めてです。これから知ってゆくと誓いを立てたばかりですから、何とも申せません。」

「……これから知ってゆく、か。その間、娘を他の男と娶(めあ)わせられない訳だが、君は娘を取り置きでもするつもりなのかね?」

大臣は目を細め、麟太郎をじっと見る。無表情を気にする素振りはない。麟太郎は首を振った。

「違います。私はこれまで、自分が妻を娶る等と考えた事はありませんでした。お嬢様にもそう話して、お話を一度お断りしました。ただ、お嬢様は、もっと互いを知ってから返事が欲しいと言われました。」

「それで、君はそれに乗ったと。」

「……私は、自分自身を知って貰う努力を怠ったが為に、部下を亡くしかけた事があります。人を知る事の重要性は、その時に理解したつもりです。だから、お嬢様の言にも理はあると……結果としてやはりお断りするとなっても、彼女の人となりを知る努力をした上であれば、より誠実であると判断しました。そもそも、私に決定権があるとも思っていませんが。」

そこまで言って、麟太郎は勘解由小路大臣の目を見据えた。

「閣下が一言仰れば、彼女も納得するのではありませんか。平民の私とお嬢様とでは、立場が違うのだと。」

大臣は煙管を吸いながら聞いていたが、大きく息を吐き煙管を口から離すと、喉で笑う。

「君はまだ、『娘を知る努力』が足りておらんようだな。あれは私の言う事など聞かんよ。刀祢麟太郎警兵中尉。」

「……。」

素性を知っていたのか、と麟太郎は目を細めた。だが、考えてみればそもそも、留子が東都にある兵団のうち「中央兵団」への立入許可証を持っていた時点で、彼女が面会を目的とする相手、つまり麟太郎の所属については知られていたのだろう。彼女自身が一晩で許可を取るなど、出来る筈が無いのだから。

「留が『逢いたい』と駄々を捏ねるのでね。どんな男なのかと多少調べさせて貰った。君は命懸けで部下を救った事があるそうじゃないか。」

「!」

無言の麟太郎であったが、内心で呟く。一体何処からそんな話を。大臣は澄ました顔で煙管を咥えた。

「警兵の中でも、君の隊は結束が強いと知られてもいるらしいな。私は軍務大臣では無いので、軍の内情に疎いのは勘弁してくれ給え。」

「……。」

確かに、配属当初とは違い、隊員と軋轢は無く、皆指示通りに力を発揮してくれている。その中で、そこまで自分の事を善様(よさま)に話す者がいるとしたら、真っ先に浮かぶのは石動だが、士族出の彼に勘解由小路家との繋がりはあっただろうか。煙が再び空気に舞い、大臣の視線と麟太郎の視線がかち合う。細められた大臣の目は何処か満足気だ。

「君は良い意味でも悪い意味でも目立つようだが、部下の為に命を張る、気骨のある男なのは確かだ。だろう?だからこそ部下に慕われている。娘が男に慕われる男を好いたならば『当たり』だと私は思うよ。」

「……私は、自分がそのような評価に値する人間だとは思っていません。」

その返答に、勘解由小路大臣は煙管の隙間から笑い声を上げる。そして息を吐くと、笑みを深めて言った。

「成程、君は私の娘を愚弄するのかね。」

「どういう意味でしょうか。」

「私の娘が選んだ男である君を、君は否定した。娘に見る目が無いと言っているようなものではないか。」

(これは、どうすべきだ?何を言おうと、私が不利だ。そも大臣はどうしたいのか。まさか本気で私なぞに娘御を?……そんな馬鹿な。)

 麟太郎は初めて、事実を述べるだけでは済まない会話という物をを知った。これが、政治家か。しかし麟太郎は嘘を吐かない。黙ってしまった麟太郎を見た大臣は、ふ、と僅かに表情を緩め、「少し意地が悪かったかね」と笑った。先程までとは違う種類の笑みだ。

「留は昔からああだ、例え私の言う事でも、意思を違えれば頑として聞かない。だが、筋は必ず通す娘だ。あれが男であったなら、相当な快男児になっただろうな。しかし女は女だ、男にはなれん。故に私は、人を見る目、本質を見極める目を、留には特に養わせたつもりだ。誤った選択をしないよう、そして間違えたとしても自ら気付けるようにとね。」

ふと、先程一瞬だけ留子が見せた表情が思い浮かんだ。彼女が顔を曇らせたのは、麟太郎が彼女の選択を誤りだと否定した為だったのだろうか。

「閣下は、お嬢様の判断に間違いはないとお考えなのですか。」

「そうではない。が、信頼はしているよ。あれは見かけによらず聡い娘だ。その上で、聞いた話と今の君を照らして、少なくとも君は留に対して誠実であろうとしたという事実を評価している。」

 大臣は煙管を吸うと、懐中時計を取り出し、一瞬眺めると、再び仕舞う。時間が迫っているのだろう。しかしもう一つ、結論を聞く前に、確認しなければならない事がある。麟太郎の「お訊ねしてもよろしいですか」という言葉に大臣が頷くのを確認し、麟太郎は言った。

「閣下ほどの立場の方であれば、私について調べる事は容易いでしょう。しかし、私が部下を救ったという話は、隊の者以外知らない筈。その詳細を知っているのは、更に一握りの者だけです。皆、……例え相手が大臣閣下であっても、安易に他人について口にするような者ではありません。閣下は、誰からそんな事を聞いたのですか。」

大臣は麟太郎の言葉を聞き、ふむ、と頷くと、煙管を咥えて手を組んだ。

「君は『鷹峰』という警兵に心当たりはあるかね。」

「……はい。」

「鷹峰家も公家で、長い付き合いがあるのでね。世四郎君が警兵学校を出た時には、ちょっとした祝いも贈ったものだ。そこで、手紙を送ってみたという訳だよ。君も言った通り、人を知り相手を知る事は非常に重要だ。政治家にとっても、父親にとってもな。」

そうして大臣は背広の内側から手紙を取り出す。折り畳まれた紙の表面には、非常に達者な筆で「勘解由小路大臣閣下」と宛名が記されている。

「機密漏洩だと怒らないでくれ給えよ、何せ私は、数年前まで世四郎君から『勘解由小路のおじさま』と呼ばれていたのだからね。『実は留が彼の事を好いたらしく、どんな男なのか知りたい』と書かれた手紙を見れば、世四郎君は断れんよ。まさか、あの子が君についてそこまで知っているとは思っていなかったがね。さて、全て読み上げる訳にはいかないが、ざっくり言えば『無表情故に損をしているが、それを当人は気にしていない、実力は確かだが驕らず、周りばかり優先している様な男だ』というような内容でね。あの気の強い世四郎君がこうまで認めるとは、面白そうな男だと興味が湧いた所で、丁度連絡を受けてね。おっとり刀で君に会いに来たという訳だ。」

 内心驚きながら、麟太郎は大臣の言葉を聞いていた。鷹峰。鷹峰世四郎。石動の同期で、あの時――病室に殴り込みに来た青年だ。そう言えば彼は、あの場で石動との会話を聞いていた。以後、特に麟太郎と関わる事は無かった筈なのに、そんな彼が何故、そこまで自分の事を。麟太郎は、ゆるゆると首を振った。

「分かりません。私は何も大した事はしていません。ただ身命を賭して、受けた恩を返したい方が居るというだけです。それ以上は何も求めていないのに、何故……。」

「本当にそうかね。そこまではっきり心が決まっているならば、君は見知らぬ相手の猫なんぞ放って置けば良かった。留の言葉なんぞ聞かず、切り捨てて帰れば良かった。恩人以外どうなろうと構わないならば、部下も放って置けば良かった。そうしなかったのは何故かね。君の性根が、そう『させない』のではないのかね。そこを留は『優しい』と表現しているのだよ。成程君はある意味、とても分かりやすい。」

「その様に言われるのは初めてです。」

「口調と表情で感情を判断する人間にとっては、君は不気味に映るだろう。だが今の会話で充分、理解可能だよ。君は真っ直ぐで、良い意味で純粋な男だ。だが、君の中には『君』が居ないのだよ。」

そう言うと、大臣は既に煙の消えた煙管から灰皿に葉の燃え滓を掻き出し、立ち上がった。

「留を知ると誓ったのなら、その間に『君自身』も探すと良い。それまで嫁にやる事は出来んな。しかし、頻繁に出入りするのは難しかろう。まずは文(ふみ)の遣り取りでもし給え。」

一瞬呆気に取られた麟太郎であったが、その言葉に弾かれたように立ち上がる。

「お待ち下さい、閣下、まさか本気でお嬢様を私に嫁がせようなどと考えておられるのですか。」

「『今はやれん』、私はそう言ったつもりなのだがね。」

大臣は意味深な笑みを浮かべると、扉を開けて出て行く。外から複数人の足音と「話は終わった、さっさと戻らねばな。ああ、客は自分の足があるそうだ、手配は不用だよ」と声が聞こえ、やがてそれも聞こえなくなる。麟太郎は一人、扉へ近づく。外には留子と共に居た老人が、麟太郎の外套と帽子を持って立っていた。老人に丁重に礼を言うと、麟太郎は周囲を見渡す。大臣と共に出て行ったのか、廊下にも、その先の階段から見える玄関の広間にも誰もいない。ただ、そんな瞬間は今だけだろう。

「本日は、御暇致します。……失礼致しました。」

老人は何か言いたげな表情だったが、黙って礼を返す。麟太郎は階段を飛ぶように降り、一瞬で玄関扉に辿り着くと、来た時と同様にするりと隙間を擦り抜けて出て行った。

 

 月の位置から見て、日付は変わっているだろう。それでも麟太郎は有坂家へ向かった。もう夏も終わりで、夜更けともなれば空気も消えかけの月も寒々しい。静まり返った離れに上がり込み、孝晴の姿を探す。いくら将校とはいえ、そう頻繁に休暇は得られない。今日の事は今日、手紙ではなく自分の口から話さねばならない。孝晴は寝所ではなく、彼がよく昼寝をしている、文机のある書院に居た。麟太郎は違和感を覚える。この時間に孝晴が起きているのなら、絣に黒羽織を着ている事が殆どだ。しかし今の孝晴は寝間着姿で廊下に背を向け、胡座をかいている。麟太郎はわざと廊下の板を軋ませてから、部屋の中へ入り、孝晴の背後に座る。

「戻りました。」

「ん。どうだったぃ。」

すぐに返事が返って来た。どうやら起きていたようだ。麟太郎は頭を垂れながら言った。

「勘解由小路家で話を致しました。」

「そうかぃ。」

「婚姻については、お断りしました。が、お嬢様には、気持ちを変えるつもりは無く……互いを知った上で改めて返答する、という事になりました。」

「……。」

孝晴は背を向けたままだ。その表情は窺えない。何故か、嫌な予感がした。

「ハル様、私は、」

「お麟。」

静かな一言。しかし麟太郎は動けなくなる。感情には疎いが、孝晴の気持ちだけは感じられると思っていた。けれど。

「さっさと心決めて、お留お嬢様ンとこに行ってやんな。ちと騒がしいが、悪い娘じゃねェだろぃ。そもそも、貴族の娘が好いた男と一緒になる事なんざ、殆どねぇんだ。余程馬が合わないなら別だが、そうでないなら、受けてやるべきだと思うぜぃ。」

孝晴が何を思っているのか、どのような意図でそう言ったのか、分からない。見えない。

「私はまだ彼女の事を知りません、それに所帯を持てば、これまでのようにハル様にお仕え出来なくなります。」

孝晴は無言だった。その無言が暫く続き、唐突に、孝晴が消えた。麟太郎は瞬間的に背後を振り返る。廊下の窓の先に見える月を背にした孝晴の目に宿っているのは、まさにその月の光のような冷たい色だった。

「俺にゃ、もうお前は要らねぇよ。だから、お前を必要としてる女を幸せにしてやんな。」

 言い残し、歩き去る孝晴。麟太郎は動けない。動かない。何故。体が動かない。月の位置が変わる程の間そうして固まっていた麟太郎は、漸くのろのろと手を動かし、棒手裏剣を取り出すと、左手の平に突き立てた。鐵の棒を伝い、膝の上に落ちる血の雫。微々たる痛みだが、少しは視界が明るくなったような気がする。

「……戻らなければ。」

ぽつりと呟いた麟太郎は、手裏剣を手から引き抜き、有坂家を後にした――

 

 

「そ、それは……その……大変な一日でしたね。」

 淡々と、しかし石動から見れば明らかに沈んだ様子で話し終えた麟太郎に、石動は何か苦い薬でも飲み込まされたような顔で言った。麟太郎は黙って頷く。一日中駆け回って助言を集め、今まで考えた事もない「結婚」という話に彼なりに真摯に向き合い、挙句待っていたのは、最も慕う人間からの拒絶。それは放心もするだろう、と石動は片手で頭を抱えた。心に受けた傷の大きさに比して、麟太郎がまだ動けているのは、麟太郎自身が自分の心に対して疎いからなのだろうと推測しつつ、石動は言葉を選ぶ。

「隊長は、辛い、って気持ち、分かります?」

「辛い……痛いや苦しいと似た物と認識していますが。」

「普通ならそう言えるでしょうが、隊長は物理的な痛みには強いですからね。今、どうですか。胸の奥の方に、体の不調は無いのに違和感があったりしませんか。」

麟太郎は胸に手を当てた。鼓動が僅かに速い気がする。感情が乱れているという事か。

「……少しおかしいようですね。」

「おかしいと思うなら、それが『辛い』って事です。隊長は鈍いんで普通に仕事してますけど、『心の傷』って、場合によっては動けなくなってもおかしくない程の負傷なんですよ。」

「私は貶されているんですか。」

「事実でしょう。問題は其処じゃ無いんです、隊長。」

ちらと背後を確認しつつ、石動は話す。特に此方を気にしている者は居ないようだが、人が減って来た。消灯時間も近い。

「考えなきゃならない事は色々あるでしょうけど、今一番苦しいのは、孝晴さんに『要らない』って言われた事ですよね?」

「はい。……恐らく。」

「何か前兆はあったんですか。」

麟太郎は首を振る。その日の朝に訪れた時には普通に会話をした。ただ、自身の母について口にした孝晴は、暗い目をしていたが……。

「少なくとも私に対する態度に、変化を感じたのは、夜に訪れたその時からです。」

「……なら、多分、原因が孝晴さんの方にもあるんだと思いますよ。隊長を遠ざけたい理由が。今までずっと、隊長が誹りに耐えてまでお側にいて、それを拒まなかったんでしょう。なのに、急に『要らない』だなんて、おかしいですよ。」

「そう、でしょうか。」

俯く麟太郎の手を、石動は隣から強く握った。骨張って硬いが、本当に小さな手だ。じっと石動を見る麟太郎の目を、石動は右目で真っ直ぐ見詰め返した。

「おかしいと思わなければだめです、隊長。いくら恩人に言われようと、命じられようと。貴方が孝晴さんについて話す時、声が優しくなるのを俺は知ってます。孝晴さんは、尽くして来た貴方を、要らなくなったら捨てるような人じゃ無いんでしょう。」

「……。」

「それとも、本当はそんな人なんですか?孝晴さんって。」

麟太郎は握られていない方の手を、もう一度胸に当てた。成程、麟太郎は孝晴の秘密を守り、尽くす事しかしていない。孝晴自身が語らない事には触れて来なかった。けれど、それはやはり間違っていたのかも知れない。鼓動は通常の速さに戻っていた。

(――私が、本当にハル様を思うなら。真意を確かめなければならない、と言う事か。)

「有難うございます、石動。次にすべき事が見えました。」

石動も、麟太郎の手を通して変化を感じていたようで、「お役に立てたなら良かったです」と笑みを浮かべた。

「ところで一つ君に訊きたいんですが。」

「何ですか?」

「婚姻を断るお詫びに贈物を持って行ったら、『女心の分からない人』と言われまして。どう言う意味か分かりますか。」

「贈物なんて貰ったら好意を抱かれていると思うし破局したら残ったそれ見て余計悲しくなるからに決まってるでしょお!」

思わず叫んでしまう石動。そうなんですか、と呟く麟太郎に、次は恋愛相談かと再び石動は頭を抱えるのだった。

 

「帝國の書庫番」

十二幕 「杪夏に思うは其々の君」



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帝國の書庫番 十三幕

覗き込んだ先は見えずとも、感じられるものは確かにある。


 麟太郎は、善い奴だ。

 俺の為に、自分を捨ててまで尽くそうとする。

 本当は、救ってやったなんて言えないのに。

 早く手放さなければならないと、ずっと思っていた。

 丁度良かったのだ。

 あの時来る筈だった「最後」が、やっと来た。

 そう、本来俺が居るべきだった世界に、戻るだけだ。

 

 

 帝國公文書館第三棟の事務室は、空気が張り詰めていた。普段ならば軽く雑談したり、専門分野の仕事だけをのんびりと片付けたり、真面目な書記官が溜まってゆく書類と依頼の山に気を揉んだりしているのだが。

 一人の書記官が、恐る恐ると言った風に「一等書記」と記された机に近付く。そこに片肘をついて座っているのは、鶯色の文官服を纏った有坂孝晴だった。目を閉じている彼の前に立つと、彼は初めから分かっていたかのように目を開け、差し出された書類をちらりと見遣る。そして、笑って言うのだ。

「丗五行目辺りをもっかい見返してみなァ。」

自席に戻って確認すると、実際、其処には誤字や間違いがあるのだ。あの一瞬しか見ていないのに。孝晴自身は欠伸をしたり俯せで半分寝ていたりするものの、察する者は居た。この人は、仕事を放棄していた訳では無い。「出来過ぎる」が為に、逆の方向に辻褄合わせをしていたのだ。だから今まで一度も、――どんなに締切間際まで残そうと――仕事が「終わらなかった」事が無いのだ。その癖、第二・第一書記部の上等官がやって来る時には、狙い澄ましたかのように爆睡している。彼らからは「やっと真面目に仕事に出て来るようになったと思えば、昼寝をしにでも来ているのか、このお坊ちゃんは」などと呆れ顔をされていたが、そもそも何故、急に仕事に出て来るようになったのか。特に仕事を進めずにいた所で、孝晴は何も言わない。のだが、やはり彼は「有坂家の人間」なのだと書記官達は痛感していた。今まで顔を出してもふらりと消えてしまうばかりだった為に気付かなかっただけで、彼が其処に居ると空気が変わる。いつもの空いた上司の席を懐かしく思いながら、書記官達は手を動かすのだった。

 

 机に頭を付けて薄目になりながら、有坂孝晴は考える。

(……べらぼうに効率悪ぃな、こりゃあ)

昼間に麟太郎と鉢合わせないように、ここ一週間ほど通常勤務に出ているのだが、やはり他人が作った書類を眺めるよりも、自分で処理しながら覚えた方が、手先の作業は増えるが頭へ入り込む量が違う。その差を補うには、より頭を回さねばならないが、僅かな差でも全ての書類にそれが及ぶとなれば、消費する体力――というよりも、脳力とでも言った方が正しいのだろうか――は大きく、「頭が疲れる」のだ。限界を越えれば頭痛と全身の倦怠感が来る。やはり、書類情報は始めからそのつもりで一気に詰め込む方が、自分の体質には合っているのだろう。孝晴はちらと目線を部屋の中に向けた。特に仕事をしろと言った覚えも無いのに、書記官達は黙々と仕事に励んでいる。これが通常の「書庫番」達の仕事風景なのだろう。ああ、駄目だ。腹が減った。

「……静屋。」

「はいっ!?」

「ちっと、来てくれるかぃ。」

呼んだだけだと言うのに声を裏返して飛び上がった静屋は、不安気な表情で近寄って来る。孝晴は内ポケットから財布を取り出し、中身を一枚差し出した。

「購買行って、これで買えるだけ、なんか甘いもん買ってきてくれねぇかぃ。」

「いっ……一圓!?」

「ん。そんだけありゃあ、それなりに買えンだろぃ。」

孝晴が事もなげに差し出した一圓は、一般的にはかなり高価であると理解はしている。しかし空腹には代えられない。

「な、何故私なのでしょうか……?」

「お前さんがこの中で一番真面目だからだよ。何か言われたら一等書記の命令だって言えばいい、頼んだぜぃ。」

「は、はい……分かりました……。」

 他の書記官達が呆気に取られているのを内心で笑いつつ、扉の閉まる音と共に孝晴はぐてりと机に頭を落として目を閉じる。暫くの間は紙の擦れる音、墨を擦る音、鉛筆で紙を搔く音などが聞こえていたが、再びがらりと扉の音がして、孝晴は目を開いた。

「あ、有坂一等書記、これで良かった……のでしょうか……?」

帰って来た彼の姿に、一瞬の静寂の後、室内から吹き出す声がして、つられるようにして笑い声が部屋を満たす。静屋は胸から上に、頭がぎりぎり出るかという位置まで大量に、あんぱんの包みを積み上げて抱えていたからだ。流石にその数は無いだろう、常識的に考えろよ、と他の書記官が笑いながら声を上げたが、孝晴が立ち上がるとその声はぴたりと止んだ。

「ん、やっぱお前さんに頼んで正解だったな。……あんぱんか、悪くねぇ。有難な、静屋。」

部屋の全員と、皆の笑い声に顔を赤くしていた静屋が呆然とする中、孝晴は自分の机に適当に空きを作ると、そこに大量のあんぱんを下ろさせる。満足気な孝晴に、身軽になった静屋が恐る恐る訊ねた。

「あの……これで良かったのですか、本当に……?」

「一圓あればこれだけ買えるとなりゃあ、普通は真面目に使い切って来ようなんざ考えないだろうが、お前は俺の指示にちゃあんと従っただろぃ。俺も購買に何が幾らで売ってるか知らなかったンでな、中途半端に足りないよりはこの方がましだ。」

「えぇと、では、一等書記殿はこれを全て食べられるのですか?」

「食える。」

えっ、と室内の空気が固まった。孝晴はからからと笑う。

「冗談だ、流石に全部ぁ無理さね。けど、俺ぁ結構食う方でな、半分はいけそうだ。」

本当は全部食えるのだが、そんな事をすれば必要以上に目立ってしまう。孝晴は静屋に訊ねた。

「幾つあんだぃ?」

「丁度、廿買えました。」

「廿、ね。そんじゃ、お前ら、みんな一個ずつ持ってきなぁ。時間も八つ時だ、茶でも淹れっか。休憩だ休憩!」

 軽快に手を叩いて見せると、書記官達は顔を見合わせ、始めは迷いつつ、しかし孝晴が笑って見せると安心したように、最後は皆礼を言って、ぱんを持って行く。

「別に今すぐ食えって訳じゃねぇから、持って帰りたい奴ぁ好きにしなァ。」

笑いながら孝晴は机に座る。存外、こんな「普通」も悪くないような気がした。毎度大量に飯を持ち込む訳にはいかないのだが、それは一旦忘れる事にする。最近どうも外ツ國との関係書類がきな臭いだけに、書面上の情報は全て頭に入れておきたい。そんな事を思いつつ紙を開ける。丸く、臍のような凹みのある、きつね色をした滑らかな表面。いつも我慢して数を減らしていた饅頭よりも、

「……。」

 孝晴は動きを止めた。じっと手の中のぱんを眺めた後、半分に割り、かぶり付く。中身は粒餡だった。

(……ちくしょう。)

餡は好きだ。ぱんが悪い訳でもない。寧ろ美味い。しかし、いつもここで食べていたのは、寺前通りのこし餡饅頭だ。そして、その時はいつも、まるで影のように、麟太郎が居た。

 

……お麟。

 

 十五の時の自分は、何と浅はかだったのだろう。それでも手を出さずに居られなかった、見過ごせなかった。だから責任を取って、解放してやらねばならないのに。

気付くと五ツ程あんぱんの空の包みが積み重なっていて、書記官達は「本当によく食うのだなぁ」という顔で此方を見ていた。無意識のうちに平らげていたらしい。孝晴は溜息を吐くと、包みをまとめてクシャリと丸めた。その時。

『陸軍病院医事本部より、資料の閲覧申請です。』

外から聞こえた声に、孝晴は目を細めて立ち上がる。申請者が誰かなど、考えなくとも分かり切っていた。

「入んな。」

「……なんだぁ?第三書記部には、あんぱん祭りの日でもあるのか?」

声に応えて開いた扉の先に居た衣笠理一は、部屋の全員があんぱんを食っているという異様な光景に、思わず頓狂な声を上げた。

 

 廊下の先にある書庫へ向かい、孝晴と理一は歩いている。理一はいつもの白衣を脱いでいるが、此処は病院ではないのだから当然だ。流行病(はやりやまい)の研究の為、過去の記録を閲覧したいとの申請も、如何にも自然。孝晴は鍵束の中から当該書類の納められた保管室の鍵を難なく掬い上げ、扉を開けて中へ入ってゆく。続いて入って来た理一は、無言のまま、扉を閉めた。書庫の中は一気に暗くなる。灯りは、暗幕を透かす微かな日光だけだ。

「……戸、勝手に動かすんじゃねぇやぃ。」

「お前の事だから、もう分かってるだろ。腑抜けた顔してんじゃねぇよ、有坂の。」

「へぇ、そう見えるかね。」

振り返った孝晴は瞼を細めるが、理一は首を竦め、怯む様子は無い。

「リン公の鴉が来た。お前、あいつに何言ったんだ?」

「別に、余程馬が合わない訳じゃないなら、結婚しとけって言っただけだぜぃ。」

「それだけで、んな顔する訳ねぇだろ。」

「会ったのかぃ?麟太郎に。」

「違う。お前だよ。」

理一はそれまで浮かべていた笑みを消す。麟太郎の鴉が運んで来た手紙には、麟太郎は今孝晴に会えない事、しかし孝晴の様子を確認して欲しいとの事が手短に記されていた。呼ばれなくとも黙って着いていくような麟太郎が、孝晴に「会えない」とは。違和感を覚え確認すれば、孝晴は急に昼間仕事に出るようになったらしい。これは何かあったなと踏んで来た理一であったが、予想は既に確信に変わっていた。孝晴が理一の前で「麟太郎」と呼んだのだ。彼を見据える理一に対し、孝晴は無言だ。

「お前なら出来るだろうが、逃げようと思うなよ。俺はお前らの友人として話しに来た。……お前、今自分がどんな顔してるか分かってるか。」

「鏡は見ねぇんだ、俺ぁ。」

「見なくても分かるだろうがよ。手前の状態が分からない程、手前のおつむは鈍くねぇ。」

「……。」

無言で返す孝晴に、理一は溜息を吐く。

「リン公が自分からお前の側を離れる訳がねぇ、だったら奴がお前に『会えない』原因を作ったのはお前だろ。違うか?それでリン公に心配されて、あれだけ買い込まなきゃならなくなるくらい消耗してまで何をやってんだ、手前はよ。」

 理一の言葉は厳しかったが、孝晴は内心、安堵と苛立ちが混ざった、妙な感覚を覚えた。そうか。麟太郎には、他人を心配する程度の余裕があるのか。当然孝晴は、敢えてあの言葉を選んだ。麟太郎が誰よりも、場合によっては自分自身よりも、孝晴を優先している事は百も承知だ。そんな麟太郎にあんな事を言えば、暫くは立ち直れないかも知れないとは思っていたのだが。そこまで自分の事は重要では無くなっていたのだろうか。それは喜ばしい事なのに、こうも苛立つのは、何故だ。

「心配してくれンのは有難ぇんだが、……大きなお世話、って奴だぜ、リイチよぉ。」

「あ?」

孝晴の言葉に、理一は強く眉を寄せる。孝晴は目を細め、笑った。

「言っとくが、こいつは『俺』の問題じゃねぇ。『有坂家』の問題なンだよ。だから、口出しはいらねぇ。自分の落とし前は、自分でつけるさ。」

「だったら!」

思わず、声を荒げる理一。理一には、孝晴の表情が笑っているようには、全く見えなかった。

「……だったら、リン公にそれを話してやれよ。あいつが只でさえ不安定になってるの、お前も分かってただろ。理由も言わずに突き放されて、何とも無い訳ねぇだろうが。それに――」

 

 

 ああ、やはり麟太郎は、善い奴だ。

 こんなにも強く案じられて、慕われて。

 やはりもっと早く、綱を放すべきだった。

 

 

 理一の視界にあったのは、真っ暗な天井。そして静寂。孝晴の長い髪が、その肩からさらりと零れ落ちた。自分の頸からゆっくりと離れてゆく孝晴の手。漸く理一は理解した。自分には知覚できない速度で、頸を掴んで倒されたのだと。

「麟太郎は、俺の側に居るべきじゃ無かった。やっと俺の方にケリをつける切掛ができた、それだけの事さね。だから、心配なら麟太郎の方を構ってやれ。」

静かに言った孝晴は、立ち上がって扉の方へ歩いてゆく。はっと気を取り直し身を起こそうとした理一は、自分の体の上に書類の束が積まれている事に気付いた。ちらと見えた表題で、申請した書類だと分かる。体に痛み等は無い。そうならないように加減されたのだろう。

「ッかは、げほっ!」

漸く喉に声が戻って来て、理一は咽せ込みながら跳ね起きた。同時に、全身の毛孔から冷汗がどっと噴き出す。

「ッ……、孝晴、……。」

理一はぎり、と奥歯を噛み締めた。片手だけで自分を押さえていた時。彼が見ていたのは、自分の顔に浮かんだ――恐怖の表情だっただろう。話はまだ終わっていなかったというのに。あんなにも分かりやすく「哀しい」「苦しい」「寂しい」と書き付けたような顔をして。無理矢理、笑顔らしきものまで作ろうとして。なのに、孝晴の本気の力を初めて身に受け、恐れてしまった。情け無い。自分に手紙を送って来た麟太郎は、まだ「頼る」事を知っているだけ状況はましだ。しかし孝晴は。普段は無遠慮に上がり込んで来る癖に、一番肝心な時には誰も頼ろうとせず、未だに自分を独りだと思い込もうとする。本当に欲しいものを全力で拒絶して、勝手に傷を増やす。馬鹿な男だ。馬鹿者だ。大馬鹿野郎だ。

「……今はお前が一番心配なんだよ……話は最後まで聞けってんだ、くそったれ……!」

絞り出すように呟いた理一は床に拳を叩き付けると、一寸程に開かれた扉の先を睨め付けた。

 

 

 拝啓 勘解由小路留子嬢

 先日ハ失禮ヲ致シマシテ、詫ビヲ申サネバナラヌト筆ヲ取ツタ次第デ御座ヰマス。

 婦人ニ別レヲ告ゲル時、物ヲ贈ルハ善キ事デハ無ヰト教ハリマシタ。私ハ物ヲ知ラヌト熟ゞ思フバカリデス。貴女デアレバ、唯斯フ書ヰタノミデ、私ニ友ノ在ル事ヲ屹度察スルデセウ。私ハ善キ友ニ惠マレテヲリマス。友ニ就ヒテハ書ケサウデスガ、私ニ就ヒテハ、如何記ス可キデアルカ難シク、短ナガラ筆ヲ擱カセテ戴キマス。拙文何卒御赦シ下サイ。

 兵舎ニテ 刀祢麟太郎

 

 麟太郎様

 初めに、筆の乱れを御容赦下さいませ。御手紙を頂戴致しまして、あんまり歓喜に堪へなかつたものですから。私、一體何から記さふと迷つてをりましたら、先に文を頂ゐて終つたのですもの。私が御手紙を抱えて踊つてゐた為、兄姉には笑はれて終ゐました。

 さて、麟太郎様は御自身に就いて記し難ゐと申されましたが、御友人に惠まれてゐると謂ふのは、麟太郎様の御人柄が偲ばれる御話でありませう。留子は、又一つ麟太郎様を知つたと謂ふ事です。

 私も此春十伍となり、いづれ婚姻の御話があると思つてをりました。けれど私、同窓の皆様のやうに、唯選ばれるだけと謂ふのは嫌でしたの。不思議でせう。けれども其が私の性根なのでせう。麟太郎様と御逢ひして、私は幸福に満てをります。

 頂戴致しました簪、毎日着けてをりますわ。御別れの日まで手放しは致しませんでせう。

 近頃めつきり冷えますから、御身体を大切になさつて下さい。御陰様で小春は元気です。

 あまり長くなつては御迷惑になりませう。又御手紙を送ります。

 

 並木の下に銀杏が落ちてゐるのを見て、毛織のケヱプを買ゐました。

 十参夜の月の夜に 勘解由小路留子

 

 拝啓 勘解由小路留子様

 御手紙拝見致シマシタ。私ノ短文デ御喜ビ頂ケタトノ由、驚クバカリデ御座ヰマス。貴女様ノ文二較ベテ、私ノ筆記ハ硬ヰヤウデス。然シ筆記ノ硬軟トイフ物ハ私ニハ難解故、一先ヅ御返事ヲ認ル事ト致シマス。

 貴女様ガ書カレタヤウニ、私モ歳ヲ記サウト思ヰマシタガ、籍デノ私ノ歳ハ正確デハ御座ヰマセン。只、有坂様二決テ戴キマシタ故、其儘二記シマス。今春デ廿参ト成リマシタ。

 私ガ有坂様ニ拾ハレタ時、此御方ノ為二生キル以外ノ道ハ無ヰト感ヂタ物デスガ、其ハ貴女様ノ私ニ対スル気持ト似テヰルノデハ無ヰカト言ハレマシタ。貴女様ノ幸福ト、私ノ忠義ハ、根ヲ同ヂクシテヰルノデセウカ。私ニハ分カリマセン。

 明月ノ夜ハ、私ニハ向キマセン。私ハ隠密ノ働ヲ得意トシマス。今宵ノヤウナ満月ハ、星ヲ消シ総テ曝ケ出シテ終ヰマス。故ニ私ハ月ヲ愛デタ事ガ御座ヰマセン。貴女様ハ、今夜月ヲ愛デテヲリマスカ。

 窓ヨリ月ヲ観テ 刀祢麟太郎

 

 麟太郎様

 此の御手紙が届く頃は、月も欠始めてゐる事でせう。我家では毎年、十伍夜の日には観月の会を開き歌を詠みます。麟太郎様は、月は御嫌いですか。然し同じ夜に同じ月を観てゐたと知り、留子の心は憙びに震えるやうでした。

 有坂様、御参男の孝晴様でいらつしやいましたね。私が孝晴様に御逢ゐしましたのは、御長男の孝雅様が議員と成られた御祝の席で御座ゐました。孝晴様は御多弁では在りませんでしたが良く御笑ゐになり、所作にも大層品が有り、上背も御有りで人目を惹いてをられましたが、私には、何処か人を寄せ付け無ゐやうな、怖い御方と感ぜられました。其様孝晴様が、麟太郎様の仰る処の忠義を受け容れてをられるならば、孝晴様も麟太郎様を心から必要としてゐるのでせう。

 心と言ふ物は、万人同じでは御座ゐません。例へ切掛を同じくしても生づる心は同じでは無く、其の逆も又然りで有ませう。有り様は似てゐても、私の心は私の、麟太郎様の御心は麟太郎様だけの御心です。故に留子は、澤山御話をしたゐのです。共に過し、言葉を交はさ無ければ、其方の御心を伺ゐ知る事は難しい物です。けれども、御手紙には又、御話とは異なる、真の言葉が顕れ出る物と思つてをります。かうして御手紙を拝見するに連れ、麟太郎様の正直で真直な御人柄、私を慮らふと苦心しておられる不器用さと優しさ、さうした物を感ぢて嬉しくなつて終う私は、意地悪でせうか。御気分を悪くされましたら済みません。然し、麟太郎様が私の為に御時間を割ゐて下さる、其で私は幸福になつて終うのです。

 唯、一つ心配が有ります。麟太郎様の筆記を観てゐると、記す中身に迷つてゐるといふ丈で無い、乱れのやうな物を感ぢてをります。何か御心配事が御有りでせうか。有坂家で御育ちの麟太郎様です、筆書が不得手とは思へず、御伺ゐしました。御負担ならば、どうぞ留子の手紙は捨置き下さい。私は、麟太郎様の御邪魔をして迄、御返事を望みません。要らぬ懸念である事を祈つてをります。

 勘解由小路留子

 

 追伸

 御手紙でも、御力に成れる事が私に有るならば、遠慮なく仰つて下さいませ。

 

 読み終わった手紙を卓に置いた麟太郎は、そのまま頭を卓の上に文字通り投げ出した。ゴツと鈍い音が部屋に響き、それぞれの座卓で作業や読書をしていた同室の将校――帝國陸軍では希望すれば将校も兵舎に入れるが、警兵尉官は他隊の者同士三人が相部屋になる事が慣例である――が、同時に麟太郎の方を見た。一人は舌打ちをしたが、もう一人は本から顔を上げ、眼鏡を直しつつ「刀祢?」と静かに声をかける。

「大丈夫です。音を立ててすみません。」

「……本当によくわからん奴だな、貴様は。」

突っ伏したまま答えた麟太郎に対して男はそう呟くと、舌打ちした男を牽制するように見遣り、再び本に目を落とした。書類を卓に広げていた男も、溜息を吐いて自分の作業に戻る。額を強く打った筈の麟太郎はいつもの如く無表情で、その膝の上に乗っている「くろすけ」は一瞬麟太郎を見上げたが、麟太郎が動かない事を確認すると再び頭を羽に埋(うず)める。ここ数日、気温が下がったからなのか、鳩小屋の隣に据えて貰った小屋よりも麟太郎の元にやってくる日が多くなった「くろすけ」の重みと温かさを膝に感じながら、麟太郎は考える。

(留子お嬢様は、何故こうまで赤の他人の性根の内が分かるのだろう。)

 この一週間、二日おき程の間隔で手紙を遣り取りして来た。麟太郎が報告書以外の手紙を殆ど書いた経験が無い事も、毎度悩みつつ返事を書いている事も、彼女には筒抜けのようだ。しかし、それは単に不慣れさが手紙に出ているだけと思えば、然程不思議ではない。再び受け取った手紙に記された内容のうち、最も麟太郎が驚いたのは、彼女が孝晴を「怖い」と評した点だった。孝晴は普段こそだらし無くしているが、社交の場では確りと貴族らしく振舞う。あからさまに誰かを拒絶するような素振りは見せないし、受け応えも卒無くこなす。故に「木偶の坊の癖に取り繕う事だけは上手い」などと、嫉みを込めて言われる事はままあるのだが。しかし、留子は……。彼女には、孝晴が他人に対して引いている一線が見えているのだろうか。その先にあるものが、孝晴が麟太郎を拒絶した理由なのだろうか。

「……。」

顔を上げ、何度も手紙を読み返してみる。留子は、麟太郎が孝晴とどう向き合うべきか――麟太郎にとって絶対である孝晴の「不要だ」という言葉に首を垂れて従うか、それとも石動が言ったように理由を確かめに向かうか、向かうならば何時、どの機会に訪ねればよいのか――石動と話してからも悩んでいる事すら、感じ取っているらしい。嗅覚の鋭い麟太郎でも、こんな芸当は逆立ちしても不可能だ。勘解由小路大臣は「人を見る目、本質を見極める目を養わせた」と言っていたが、これがその成果なのだろうか。それだけでは無いだろう。孝晴のよう、とまでは言えないだろうが、他人の感情に対する彼女の鋭敏さは、ある程度天性のもののように思える。理一の観察眼とも異なる「感覚で人を見る」才。たった二往復の遣り取りでも、それを感じるには充分だった。彼女ならばもしかしたら、自分に足りないものを与えてくれるのでは。心の奥底に朧げに生じた期待に麟太郎自身は気付いていないものの、殆ど一方通行だった筈の二人の関係が、僅かに結び付き始めていた。

 ふと、麟太郎は手紙の一文に目を留める。「人を寄せ付け無い孝晴が麟太郎を受け容れているのなら、孝晴も麟太郎を心から必要としているのだろう」と彼女は記していた。

(……ハル様が、私を?)

勿論、彼の目的――彼が気付いた事件の解決の為、麟太郎が代わりに動いた事は何度もある。遊廓の件等はまさにそれだ。それらは、孝晴の目的と自身の目的が合致しているし、麟太郎が動いた方がよい理由もあった。しかし人目を気にしない孝晴が、態々麟太郎を呼んで饅頭を買わせていたのは?何の用も無いのに付き従う麟太郎を、追い払わなかったのは?

「私を必要としているのに、『要らない』と言ったなら、それは、嘘、なのでは……。」

思わず声を出して呟いた。何故、「嘘」を吐く必要が。何故、何故?

 麟太郎は立ち上がった。嘘を吐くなと最初に自分に教えたのは、他ならぬ孝晴だ。膝から落ちた「くろすけ」はガアと鳴き、同室の二人が再び顔を上げる。麟太郎は留子からの手紙を内ポケットに入れ、外套を羽織ると、「くろすけ」を拾い肩に乗せる。

「もう消灯が近いぞ。」

眼鏡の男が言った。麟太郎は無表情に彼を見る。

「出かけて来ます。用が出来ました。」

「行先は。」

「軍病院です。」

短く答えた麟太郎に、書類を片付け終わったらしい、髪を刈り上げた男が言った。

「朝点呼までに戻らなかったら、テメェの布団滅茶苦茶に乱しといてやるからな。」

「……善処します。」

素早く長靴を履き音も無く出て行った麟太郎を見ていた二人だったが、眼鏡の男が溜息を吐いて言った。

「まさか、本気でやるまいな?そんな子供じみた事を。」

刈り上げの男は其方を見る事も、問いに答える事もせず呟く。

「白鞘(しろさや)よぉ。」

「何だ。」

「刀祢の野郎、扉から出てったぜ。」

「……。」

「何時も出てく時は、窓から飛んでく癖によ。」

白鞘と呼ばれた男は眼鏡を外して布で拭うと、小箱に仕舞った。

「そうだとして、今俺達が詮索する理由も無かろう。……貴様も就寝準備をしろ、柄本(つかもと)。」

「へーへー、ジジイとガキと同室ってのは面倒だぜ、本当に。」

「失敬な、俺の白髪は体質で年齢は貴様と離れては、」

「分かってるよ、何回聞かされたと思ってんだ。だからジジイなんだっつのお前はよ。」

それぞれに与えられた区画からはみ出ぬよう、布団を敷き、消灯に備える。同室の三人は、それぞれ別の小隊に属するものの、階級は全員同じ。分隊長という立場も同じだ。必要以上の干渉は無いが、同室になれば嫌でも互いの事が分かってくる(それも目的として部屋割りされているのだが)。ここ数日の麟太郎の変化に気付いている二人は、支度を整えると、ただ黙って消灯を待った。

 

 陸軍病院は、夜でも明かりの灯された部屋が多い。その影に隠れながら暗い廊下を疾駆し、麟太郎は部屋の前に辿り着いた。扉に身体を付け中を伺うが、物音や気配は無い。ノブを静かに引けば、空いている。素早く隙間に滑り込んだ麟太郎に、静かに声が掛けられた。

「待ってたぜ、リン公。」

「返事が無かったのは、私を待っていたからですか。」

部屋に明かりはないが、まだ半分程残った月の光が部屋に差し込む中、理一は煙管を吸っていた。口を離して煙を吐くと、理一は机から立ち上がる。

「……ああ、そうだよ。昨日、有坂のに会って来た。」

「有難う御座います、先生も忙しいのに……、」

言い掛けて麟太郎は、言葉を止めた。理一がとても分かり易く苛立っていたからだ。美しい目は細められ、組んだ腕には力が入り、時折強く歯を噛み締めると、鋭い牙が――

「……先生、牙をお持ちなんですね。」

思わず声に出してしまった。理一は「あ?」と一瞬面食らった顔をしたが、すぐに気付いて言う。

「これは『犬歯』ってやつで、誰にでもある。俺はそれが普通より鋭いだけだ。……親父もそうだったからな。三番目の姉さんも同じだ。」

「すみません。場違いな事を言いました。」

「いや、別にいい。そんな事より、リン公、お前、その鴉に付けた手紙に『有坂のに<会えない>』って書いたよな。あの意味を聞きたい。」

麟太郎は普段通り、淡々と答える。

「ハル様は『俺にはもうお前は要らない』と私に仰いました。それに従うか、それともその理由を問い糺すべきか、私の心が決まって居なかったという意味です。」

「って事は、今は決まったんだな。」

麟太郎は頷く。理一は口の端を上げて笑った。

「あいつにも隠してる事がまだあるなら、俺達は対等だ。ここまで早くなると思わなかったが、俺は腹を決めたぜ。奴を一発分殴る為なら、弱みの一つくらいくれてやる。」

「そういうものなのでしょうか。」

「俺の気持ちの問題だからな。」

そこまで言うと、理一は再び顔を顰める。

「しかし、奴と話をするには骨が折れそうだ……あいつ、俺を突き倒して逃げやがったからな。流石に有坂のが本気で動いたら、誰も止められやしねぇ。」

「ハル様が先生にそんな事を。」

「俺も相当、情けなかったがな……。」

悔し気な表情を浮かべる理一。麟太郎の肩に乗った「くろすけ」が、頭を麟太郎の頬に擦り付けた。早く言えとでも励ましているのだろうか。

「私も、ハル様があの速さで去ってしまえば、何も出来ないと思っています。……だから、ハル様が『逃げられない』状況を作るべきかと。」

麟太郎が上衣のポケットから取り出して理一の前に掲げたのは、――留子からの手紙だった。

 

「帝國の書庫番」

十三幕 「濁った水鏡」



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帝國の書庫番 十四幕

白き秋の終わりは、彼誰時にも似て。


 男は、幼い頃から頭が切れた。当時であれば、天才と言っても差し支えなかっただろう。彼が少し言葉を操ってやれば、忽ち大人は自分の手足となり、何でも叶えてくれた。その才が少年を傲慢な男にしてゆくのに、時間はかからなかった。自分の思い通りに他人を操る彼は、内心では常に他人を見下していた。他人など、自分の為に動く駒としての使い道しか無いからだ。勿論彼は、必要な努力は怠らなかった。いくら口が達者でも、実力が伴わなければ張子の虎でしかないと、聡い彼は分かっていた。幼少の頃の一時の恥など、将来得られる対価に較べれば微々たるものだ。分家とはいえ、名家の出である男にとって、取り巻きにできる人間は腐る程居た。

 成人するまでにそうして人脈を張り、表向きはそれなりに義務を果たしながら、その実上手く騙し取った金で博打や女遊びを楽しんできた。しかし男にとって最も楽しい――楽しかった――のは、広い私有の狩場に乞食や人買から買った子供を放し、文字通り「狩猟」する事だった。

 始めは、何があったか等とっくに忘れてしまったが、許しを乞う相手に「自分の銃から逃げ切ったら赦してやる」と持ちかけたのだが、それが心底愉快だったのだ。下等民が恐怖に顔を引き攣らせ、逃げ惑い、馬上の男に泣いて縋ろうとする。極上の愉悦に浸りつつも、止まっている獲物を撃ってもつまらない。そういう時には、わざと狙いを外すのだ。至近距離で弾ける土草を目にした獲物は、恐慌状態で再び逃げ出す。気の済むまで追い回したら、あとは適当に獲物のどこかに弾を当てて終わりだ。当然、獲物の確保や運搬は自分ではなく、取り巻きに行わせる。腕やら足やらが吹き飛んだり、腹から血を流しのたうち回る下民共がその後どうなろうと、男の知った所ではない。そうした趣味で狙撃の腕を上げた事で、実力主義の軍でも一目置かれていた。無能な癖に偉そうな上官達は、軽く擦り寄ればすぐに懐柔出来るのだから楽なものだ。狙撃兵の運用法を研究する為に新設された試験部隊に転属が決まった時も、これで更に銃が撃てると悦びさえ感じていたのだが。あの時に全てが変わってしまった。下民の癖に正確無比な狙撃で抜きん出た結果を出す稚児野郎、そして何故か奴を庇った白衣の一匹狼。内心、こんな女男に何が出来ると高を括るっていた事は否めない。しかし、次の瞬間に男を襲ったのは激痛だった。肩が爆発でもしたのではないかという程の痛みに悶える男に、奴は言った。「暫く安静にして動くなよ。……俺の言う事をちゃんと聞く耳がまだあれば、手前の肩は治る。けど、安静に出来なきゃ悪化する。肩と一緒に性根も治すかどうか、手前で選ぶんだな」と。何故だ。どうして自分は見下されている。お前などにそんな権利があるか。嫡子ですら無いのに家督を掠め取った郭公(かっこう)の癖に。煩い、触るな、あんなカマ野郎の言う通りになってたまるか。肩の痛みは強くなる一方で、仕方なく侍医に診せれば「何故すぐに言わなかったのですか」などと糞のような言葉。殴り倒してやったが、肩から厭な音がして男も倒れた。名前にしか利用価値の無い馬鹿な異人は、何か心配しているとでも言うような事を文に書き付けて来たが、心配などと言う言葉が見えた瞬間に破り捨てた。何故お前らは皆上から目線なんだ。馬鹿の癖に、愚かな癖に、下等民の癖に!

 そんな時に男は出会った。その「青年」と。

 

 

 秋も深まり、冷えた風が頬を撫でる。栗や茸が美味い季節だ。乾燥させた銀杏の殻を指先でぱちりぱちりと割りながら、麟太郎は考える。

(……今夜だ。)

今日は通常休、呼出も無かった為、予定通り計画は実行されるだろう。後ろめたさが無いとは言えない。しかし、これは自分の為だけに行う訳では無いのだ。

『おかしいと思わなければだめです、隊長。いくら恩人に言われようと、命じられようと。貴方が孝晴さんについて話す時、声が優しくなるのを俺は知ってます。』

『孝晴様が、麟太郎様の仰る処の忠義を受け容れておられるならば、孝晴様も麟太郎様を心から必要としているのでしょう。』

 石動の言葉と、留子の手紙。どちらが欠けても気付かなかった。自分にとっては絶対の存在である孝晴が、――逆に自分を求めているかも知れないという可能性に。ぱちり、ぱちり。銀杏の硬い殻を指先で割るのは、初めは修練の一環だった。礫や手裏剣を、指先だけで飛ばせる力を得る為だ。師である義父(ちち)は、後ろの板の間で静かに座っている。好々爺にしか見えないこの老人が元庭番だなど、孝晴以外には突き止められなかったのではないかと、麟太郎は思う。

 

 

 ――「『リン』。お前は、『麒麟児』という言葉を知っているか。」

そう言われ、黙って頷くリンを見て、床に紙と硯箱を置きながら、彼は言った。

「『麒麟』とは、平らかな世に現れるとされる瑞獣だ。故に、そのような世をもたらすであろう、優れた能力を持つ者の事をそう呼ぶ。又、一説にこの麒麟、雄雌を合わせた物だとも言う。雄が麒、雌が麟だ。」

老爺(ろうや)はリンの目をじっと見据える。老人らしく皮膚の垂れた瞼の隙間から覗く光は、真っ直ぐで、強い。

「孝晴様が優れた力をお持ちである事は疑いない。儂の過去をお一人で暴いて見せたのだからな。しかし、優れた者も、支えが無ければ立てなくなる時が来る。お前があの方の為と世の泰平を目指すならば、お前はあの方を支える『麟』となれ。」

老人は筆を取る。白地に浮かび上がる三文字を、リンは瞬きすらせずに見詰めていた。

「……儂はこの名でお前を籍に入れて来た。お前は今日から、『麟太郎』を名乗る。儂の息子としてな。」

「謹んで、御名前、頂戴致します。……親父殿。」

 

 

 "ちび"の「リン」は、そうして、神獣の片割れの名を戴く者となった。麟太郎は、あの時義父に言われた通り、孝晴を支えてきたつもりでいた。しかし、雄と雌であると言っても、麒と麟は「夫婦(めおと)」ではない。麒麟という一つの存在を成すものだ。ならば、ただ「仕える」だけでは不完全であるし、一方的に切り離されて、黙って従う訳にはいかない。例えそれが、此方が勝手に決めた事であっても。

(それに気付けたのは、衣笠先生や、石動や、留子お嬢様が居たから、か。)

ぱちん。最後の殻が指先で弾ける。孝晴しか存在しなかった筈の麟太郎の世界に、いつの間にか色々な物が増えていた。義父。理一。石動。隊の仲間。上官。饅頭屋の女将も、随分良くしてくれていた。そして、出逢ったばかりの留子までも、皆、麟太郎の為にと。今思えば、――自分で選んだ首輪以外に――麟太郎に繋がる別の絲に気付いてしまったら、独りぼっちの孝晴の世界が遠くなる気がして、見ない振りをしていたのかも知れない。「孝晴と対等で居たい」と言った理一の気持ちが、漸く理解出来たような気がした。

 考えているうちに釜の蓋から泡が噴く音が聞こえ、麟太郎は顔を上げた。足元の七輪では、秋刀魚が二匹並んで腹から脂を滲ませている。麟太郎は割った銀杏の中身を細く削った竹串に刺し、ひっくり返した秋刀魚の隣に並べると、飯の様子を見る為、竈の方へ向かった。

 

 煌びやかな装飾に、蝋燭の立てられた硝子のシャンデリア。床には毛足の短い絨毯が敷かれ、複雑に編まれたその模様の上を革靴が歩き回っている。大広間の奥には硝子の嵌め込まれた窓が並び、紅く色づき始めた木々と石が配された広い芝生の庭が、窓から漏れる明かりに浮かび上がっていた。

(眠ぃ。)

有坂孝晴は、くぁ、と軽く欠伸をしかけるが、なんとかそれを噛み殺す。貴族は定期的に親睦会を開いているのだが、最有力貴族の一つである有坂家の現当主である父・督孝(よしたか)は実質隠居の身、母十技子もあれで人前には滅多に出ない。次期当主と決まっている長兄・孝雅を出席させ、貴族達に印象付けておくのも母の目的の一つなのだろうが、生憎今回は次の議会準備の為出席不可だそうで、孝成は当然軍務で不可。という訳で、仕方なく孝晴が出席する事となった。とは言え、旭暉人の中では長身の孝晴である。身の丈に合わせて仕立てた三ツ揃いの背広を卒なく着こなし、髪も洋装に合わせて普段よりも下の位置で結っている。このような時にも「使える」からこそ、まだ自分は母に目溢しされているのだろうと、形式的な挨拶を只管こなしながら孝晴は思った。

 この國の貴族には、元公家・元武家の双方含まれているが、実際に貴族として扱われるのは爵位を持つ家のみ。政界で出世する事によっても爵位は得られる為、そうした者は「有坂家への手蔓」を求めて挨拶に来る事引っ切りなしだ。孝晴自身は一度自己紹介されれば全て覚えてしまうのだが、「有坂家の人間に覚えられた」と勝手に名前を使われては面倒なため、「私は物覚えが兄ほど良くありませんので、名刺を頂けますか。ご挨拶頂いた事、兄に伝えておきます」と答え続けていた。既に片手で持ち切れなくなりそうな紙束をどうしたらよいものか。これだから、懐もない窮屈な洋装は好きでは無いのだ。苦笑しつつ孝晴は周囲を見遣る。理一は反対の壁際で、二回りも年長であろう男と談笑していた。衣笠家当主である彼が此処に居ない筈が無い。今回は運が悪いと思いつつ、常に彼の視界に入らないよう、理一の視野角を計算しながら孝晴は動いていた。彼の視線を避けるように大広間の隅にゆっくりと歩いて行くと、よく通る声が聞こえ、思わず孝晴は其方に目線を向ける。果たして、其処には彼女が居た。確か歳は十五。彼女の周囲にも人が途切れる事はなく、笑顔で対応しているようだ。大方、誰に求婚したのだと訊ねられているのだろう。勘解由小路家の末娘に、突如として湧いた大きな噂だ。相手が誰であるか漏れていないというだけでも、良くやっている方だろう。孝晴が頭を押さえて小さく息を吐いた、丁度その時。

「失礼、お疲れでしたか。」

横から声を掛けられ、孝晴は「いえ……」と首を振り掛けたが、相手を見て言葉を変えた。

「確かに少々、気疲れしたかも知れません。私は君と違って政治には明るく無いので。」

「それでも、貴方は御立派ですよ。僕は今回、妹のお守りに来たようなもので気楽ですが、貴方は確り務めを果たしておられるじゃありませんか。」

声を掛けて来たのは、勘解由小路家の三男で、四番目の子である勘解由小路鐵心(てっしん)だった。まだ二十歳を過ぎておらず、議員の元で書生をしている青年だが、頑健そうな体躯は父である大臣によく似ている。あまり集まりに出ない事にしている孝晴ではあるが、それでも勘解由小路家の人間とはある程度面識がある為、多少は憚り無く応対しても問題無いだろうと孝晴は笑って見せた。

「気楽だなど、御冗談を。妹御の周りは人集りが出来ていますよ。捌くには骨が折れそうですが。」

「あれで留子は人を遇(あし)らうのが上手いので、僕は心配していません。件(くだん)の相手も、僕らにすら名前を教えてくれませんし、不要な騒ぎは起こさないでしょう。」

「はは、そうですか。」

少し前は、大人達の間を走り回っている天真爛漫で騒がしい娘だという印象だったが、なかなかどうして、大人の女らしくなっているようだ。最近訪ねていない長兄の娘も、大きくなっているだろう。隣の鐵心を見れば、留子を見るその目は穏やかで優しい。本来はこうあるものなのだろうか、兄弟というものは。孝晴は、有坂家にあって「真っ当な」人間は、長兄の孝雅だけだと思っている。しかしその長兄は早くに軍に行き、妻を娶り、当主を継ぐまではと家を出て所帯を持ちながら、今は議員の激務に身を置いている。他人に合わせられるようになるまで時間を要した末弟の孝晴は、長兄とまともに接したのは、孝雅が既に大人になってからだ。子供同士で共に育つ兄弟関係とは、一体どのようなものなのだろう。

 ぼんやりと孝晴が考えていると、鐵心と留子の目が合った。留子は周りに断りを入れるような素振りを見せてから、ぱたぱたと此方に走って来ると、開口一番言った。

「酷いじゃないですか、お兄さま!一緒に居て下さると約束しましたのに、わたし一人にして。もう、わたし疲れてしまいました。」

「存外何とかなっていたじゃないか。ほら、以前お会いしただろう。有坂家の孝晴様だよ。」

鐵心は眉を寄せる留子の頭を軽く撫でると、隣の孝晴を紹介する。ごく当たり前の流れであるが、挨拶する前に留子の表情が僅かに強張ったのを、孝晴は見逃さなかった。自分が麟太郎にとってどのような存在か知っているのであれば、当然の反応。つまりこの娘は、そこまで聞いているのだ。しかし、そこで留子は意外な提案を口にした。

「ねえ、お兄さま。わたし、疲れてしまいましたから、上のバルコニーに行ってもよろしいですか?風に当たりたいんです。……孝晴さまも、お疲れに見えますが、一緒に如何ですか?」

「!」

一瞬驚いたが、留子の目は孝晴の手にある山のような名刺に向いていた。成程。鐵心も「確かに」といった表情で頷く。

「本日は上を使っていないので、人を避けて休むには良いのではありませんか、孝晴様。ただ、うちのは喋らせておけば延々喋るので、煩いかもしれませんが。」

「お兄さまー?わたしだってそれくらいの分別はあります!」

むうと頬を膨らませる留子に、鐵心は笑いながら「それは悪かったな」と言いつつ、外に出るなら上衣を忘れないように、灯りがないだろうから足元には気を付けるように、などと諭している。孝晴はその間に、上着の腰のポケットやら内ポケットやらに名刺を詰め込む。分けて納めれば、外から見て分からない程度にはなるものだ。物を詰めてポケットを膨らませるのが不恰好であるなら、何故こんな物が付いているのかと不思議に思うが、洋装はそうなっているのだから仕方ない。孝晴は二人を振り返ると、「では、先に参ります」と告げ、隙を見てそっと大広間から抜け出した。留子は暫く後に来るだろう。幾ら関わりのある家の者同士とは言え、一緒に出て行けば要らぬ誤解を招く。孝晴は明るい一階から、折れ曲がった大階段を昇って二階へ上がる。以前は外交の為に使われていたこの館。一階だけで充分な広さがある為、今夜は二階を使用しておらず、階段の先は、暗く静かな廊下に窓からの薄灯が差し込んでいる。階下の騒めきは背中に、歩む先には足音一つしない。どうやら同じように会場を出た者は居ないようだ。

 孝晴は廊下の窓の反対側にある扉を開ける。其処も広間になっており、此方は窓の先に広いバルコニーがあるのだ。薄暗い広間を抜け、ガラス扉を引き、夜風を身に受けながら孝晴は石造りの手摺に身を凭れさせた。長い髪が風に遊び、手に冷たい石の温度が伝わる。理一ならばこのような場所で煙草を吸っていそうだ、と思い、孝晴は組んだ腕の上に頭を載せた。

(絶対ぇ、怒ってンだろうなぁ、リイチの野郎)

会場では孝晴が意図的に彼を避けていたものの、理一もどこか孝晴を視界に入れないように動いている節があった。孝晴は溜息を吐く。それを選んだのは自分なのだから、悔いる事など無い。だのに、どうして。

(辛い、なんて。俺は人間【ひと】に執着すべきじゃねェってのに。)

後ろで扉が開く音がした。男にしては軽い足音だ。留子だろう。顔だけで振り返ると、毛皮のケープを羽織った留子が部屋に入る所だった。彼女は部屋の中程まで来ると、歩みを止める。

「孝晴さま。あなたとは、確りとお話しなければならないと思っていました。」

静かな部屋に、良く通る声が響く。孝晴は苦笑した。

「さて……私は何を貴女にお話しすればよろしいのでしょう。留子様?」

留子は眉をきゅっと下げた。不思議な反応だ。はぐらかされたと憤るでもなく、言葉を重ねるでもない。表情としては、悲しそう、と喩えるべきなのだろうが、彼女が今の言葉でそんな顔をする理由は何だ。仕方なく孝晴は手摺から身を離し、彼女の元へ向かう。

 

 空から、布の翻る音がした。

 

 弾かれたように背後を振り返れば、其処には、余りにも見慣れた烏羽の影。同時に、かちゃん。錠が落ちる金属音。か弱い月光を背にして立ち上がる麟太郎の気配を感じながら、広間の入口に目を向ければ、案の定、理一が立っていた。その手は今まさに、扉の鍵を閉めた形をしている。

「お前ぇら……!」

謀られた、と、瞬間的に理解する。この場には留子がいる。彼女の前で消え去る事は出来ない。そして、バルコニーから飛び降りる選択肢も無い。何故なら、この真下は会場の大広間であり、窓が面している為、中に居る多数の貴族の目に触れかねない。孝晴は絞り出すように言った。

「……大臣閣下のお嬢様を囮に使うたァ、随分と太ぇ事しやがんじゃねぇかぃ。」

「こうでもしなけりゃ、お前は捕まらねぇだろ、有坂の。」

理一の口調は淡々としているが、強く眉を寄せたその表情から普段の余裕は感じられない。対照的に、後ろの声は、全く抑揚が無い。変わらない声。意識して存在を考えないようにしていた、その声。

「私や衣笠先生が直接お声を掛けても、会って頂けないと判断しました。……だから、留子様に、御協力をお願いしたのです。」

「何処まで話した。」

「何も。しかし、彼女は信頼出来ます。」

 ぶちん、と。

 何かが切れる音を聞いたのは、孝晴だけだったろう。

「ハル様!」

「!」

顔を覆った指の間から、生温い液体が、ぼたぼた、と床に垂れた。麟太郎と理一が同時に反応したが、床に膝をつく孝晴に、いち早く駆け寄ったのは麟太郎だった。

「孝晴さま!?どうなされたのですか……!?」

「気にする程ではありません、発作ですよ。……てめ、何してやがる!」

「……。」

留子の悲鳴のような声と、素早く答えてから走って来る理一。孝晴は無言で自身の手を見た。視界の半分が黒い。左目から血が溢れていた。理由は単純、麟太郎の発した「彼女」という言葉に、何故か瞬間的に苛立った。そして、勝手に動きそうになった体を抑えつけた。それだけだ。理一の厳しさと心配の混じった声が降って来る。

「下で何も食ってねぇのか、手前?」

「あんな目立つとこじゃ、食わねぇよ……。」

自分が感情を制御出来なければ、人が死ぬ。だからこそ、心を波立たせないように過ごして来たというのに、たった一言でこの様とは。ふと気付くと、麟太郎が何かを差し出している。孝晴に何かあった時の為にと、麟太郎が常に角砂糖を入れるようになっていた小袋。払い除けようとしたが、出来なかった。代わりに孝晴は声を出す。

「何してやがんだ。」

「何、とは。」

麟太郎は首を傾げる。孝晴は歯噛みした。

「俺に構うなって意味が分からなかったか、え?そんな阿呆に育てちゃいねぇんだよ。分かったらさっさと嫁と一緒に失せろってんだ、お前なんてもう必要ねぇンだからよ、」

「嘘です。」

 

 孝晴が言い終わるとほぼ同時に声を発したのは、――留子だった。驚いた孝晴は左目を手で覆ったまま彼女を見遣る。彼女は眉を下げ、丸い目を大きく見開き、そしてその目から、涙を溢れさせていた。再び彼女の唇が動く。

「わたし、孝晴さまと余りお話した事はありませんけれど……今のお言葉は、嘘です。どうして、孝晴さま、何が、あなたをそんなに、苦しめているんですか……?」

途切れ途切れにそう言うと、留子は手で涙を拭い始めるが、後から後から溢れるそれは、手では払い切れない。流石に言葉を失う孝晴をちらと見てから、理一が胸ポケットから手巾(ハンケチ)を取り出し、留子に差し出す。

「どうも、留子お嬢様は他人の気持に敏感らしくてな。お前を連れ出す為の入れ知恵はさせて貰ったが、彼女が居ればお前の真意も分かるんじゃないか、ってのが、連れて来た本当の理由だ。だろ?リン公。」

「はい。」

短く頷いた麟太郎は、手を差し出したままだ。

「私は、ハル様に要らないと言われて、今まで――ハル様と出逢ってから、初めての感覚を味わいました。それが『辛い』というものなのだと私に教え、そして、……私自身が、ハル様を一人にしないと誓った事、それを思い出させてくれたのは、仲間と、友人、そして留子お嬢様でした。ハル様。これは私の我儘です。しかし私の本心です。私はハル様に、お一人になって欲しくありません。ハル様が本当に私を疎むならば、私は即刻、消え失せます。けれど、ハル様が――嘘をつかれているならば、私は、此処を動きません。私は、私に立てた誓いを守ります。」

感情を感じさせない、しかし強さを感じさせる目で、麟太郎は真っ直ぐに孝晴を見ている。孝晴は目を逸らした。

「リイチよぉ。」

「何だ。」

「俺ぁ言ったよな、これは『有坂家』の問題だってよ。それを勘解由小路のお嬢様の前で話せってか?」

理一は少し俯き、屈んだ孝晴を見ている。そして一つ、大きく息を吐いた。

「それがどうした。俺だって、廓生まれだ。母は遊女。親父と血は繋がってやがるが、立場は養子だ。だから、未だに家族とも上手くいってない。表面上は取り繕ってるがな。」

「!? お前、」

「お前は俺の出自なんて、とっくに気付いてただろ。俺は親父を憎んでるし、姉さん達と話す時も、俺が存在してる事さえ嫌になる時がある。俺にはあの男の血が流れてる、ってな。手前の事、家の事で悩んでるのが自分だけだとでも思ってたか?」

美しい目を細め、一度言葉を切る理一。隣の留子は驚愕の表情を浮かべて彼を眺めている。理一は腕を組んで立っているが、自身の腕を掴む手に力が入っており、何かを抑え付けようとしているのは明白だった。

「……お前の抱えてるもんがでかいってのは、俺も分かってるつもりだ。けどな、誰だって何かしら苦しんで、捥がいて来てるんだよ。俺だって……まだ、断ち切れてない。それでも、お前らと出会って、お前らの為になら力になりたいって思えるようになれたんだ。それでもお前が、俺を、俺達を拒絶するなら、理由くらい吐いてけ、馬鹿野郎。」

言って、理一は俯いた。手に力を込めたのは、……恐怖の為。

(くそったれ)

内心理一は呟いた。駄目だ、まだ、怖い。いっそ女として育てられた過去まで、口にする覚悟を決めた、そう、思っていたのに。

「リイチ、もういい。」

 静かな声に、顔を上げる。孝晴は顔から手を離し、膝をついたまま理一を見上げていた。半分が血で汚れたその頬に、最後の一雫が下瞼から溢れて流れ落ちる。孝晴は無表情だが、血の雫の所為か、泣いているように見えた。

「お前さん、俺が何も言わねぇのは、お前も隠してる事があるからだって思ってんだろ。」

「……お前が話したがらねぇ事吐かせるんなら、俺の方も言わないんじゃ気が済まなかっただけだ。」

「そうかぃ。」

短く答えると、孝晴は力を抜いて、床にどかりと腰を下ろす。胡座をかき、大きく息を吐くと、ずっと差し出されたままだった麟太郎の手から袋を取り上げ、中身を口に放り込んだ。数度噛んでそれを飲み込むと、孝晴は留子に目を向ける。

「見苦しい処をお見せしました、お嬢様。いや……まだお見せする事になりますので、どうかご容赦下さい。」

「……。」

着物で寛ぐような姿勢で座り込んだ孝晴であったが、その目の奥にある『何か』がとても恐ろしく、けれど、同時に強い悲しみも感じさせる。留子は立ち竦んだまま、何も言えなかった。そして孝晴は、何故かある種の安心感を覚えていた。諦めと言った方が正しいかも知れない。ただ、留子の口が堅い事はよく分かったし、それを承知で二人は彼女を連れて来ている。大人しく話すしか無いだろう。

(聞かずに離れてくれりゃ、まだ良かっただろうが……此処までされたら、仕方ねぇやな。)

 ふう、と一つ息を吐く孝晴。三人は、黙ったまま動かない。開いたままの窓から、冷たい風が流れ込んでいる。

「俺の兄貴の話だ。」

 唐突に、孝晴は言った。

「二番目の、孝成兄さんが九つの時。河川敷で悪餓鬼共が、片端の犬に石を投げて遊んでた。兄さんは割って入って、大喧嘩して、その犬を抱えて帰って来た。今は負け無しの兄さんも、その時は多勢に無勢で相当やられてな。俺は心配して兄さんにくっついてたし、流石に母上も庭に出て来た。うちを取り仕切ってるのは母上だからな。それで兄さんは、血塗れで息も絶え絶えの犬を抱えて、今の話を母上にした。母上も、それを見て大層哀れに思ったみたいでな。こう言ったよ。『可哀相にのう、その有様では、まともに生きてはゆけぬ。早う首を刎ねてやるがよい』。」

留子が息を飲む。理一は眉を寄せた。麟太郎の表情は、変わらない。孝晴は自嘲するように、喉の奥で笑った。

「あン時の兄さんの顔、俺ぁ忘れられねぇ。あの兄さんが、固まっちまってな。母上は不思議そうだったよ。『手を出したら、最期まで責任を取れと、教えたであろう?』ってな。兄さんはそのまま、裏庭に行った。で、今うちの裏庭の奥には、『犬塚』がある。此処まで言えば、分かるか?『リン』。」

理一は、何と言ったら良いか分からないという表情で、麟太郎を見た。留子は、手巾を口許に当てて握り締めている。そして孝晴は、漸く麟太郎の顔を見て、言った。

「俺ぁ、お前を助ける為に拾ったんじゃねぇ。殺す為に連れ帰ったんだ。」

 

 ああ、だから。

 だから、あの時の孝晴は。

 冷たく、諦めを孕んだ表情をしていたのか。

 

 麟太郎は理解した。そして、今。孝晴の目に宿るのは、同じ諦めと、更に深い絶望。

一度目を閉じると、麟太郎は口を開いた。

 

 

 月の光は弱い代わりに、星の美しい晩秋の夜。今宵は会館で親睦会が開かれている為、太田家の屋敷では、会場に出掛けた太田公爵の帰宅に向けた準備が整えられている。まだ予定まで時間があるものの、他の仕事に不備が無いか館内を回っていた四辻鞠哉は、来客の報せに内心驚きつつ、玄関ホールへ向かった。予定は無かった筈、しかも、相手は……。

 鞠哉は素早く玄関を整え、他の使用人は不要と退がらせてから、扉を開けた。その先に立っていたのは、鳶色の軍服に、右腕を布で吊った男。男は、鞠哉以外に誰も居ないと見るや、開口一番に言った。

「折角御主人サマの友達が来てやったって言うのに、出迎えが遅くないか?」

「大変失礼致しました、武橋様。」

頭を下げる鞠哉。此奴――武橋金次の相手は、下手に他の使用人に任せる訳にいかない。性根は腐っていても、頭は切れるのだ。何か一言でも隙を見せれば、そこから見えない細い針を突き刺して来るような男。鞠哉は姿勢を正す。

「突然の御訪問でございましたので、御迎えの準備も出来ず、申し訳ございません。御用件を御伺いしても宜しいでしょうか。」

「榮羽音、居るだろ。出せよ。」

笑みと言うには、余りにも神経を逆撫でする表情。相手が榮羽音や太田公爵であれば、こんな顔はしない。鞠哉はもう一度礼をして、眉を下げる。

「榮羽音様に、どういった御用が……」

パシ、と頬が鳴った。

「下男の分際で一々探り入れるのは無礼だぜ。俺はお前と話しに来たんじゃねぇんだよ、鞠哉ちゃん。友達がちょっと顔見せに来た、それだけなんだけどなぁ?」

「申し訳ございませんでした。客間でお待ち下さい。」

「『此処でいい』。時間が無いからな。ほら、さっさと行ってこいよ。」

「承知致しました。」

鞠哉は静かな表情を崩さずに踵を返す。距離が離れてしまえば騒がないのも、頬を叩く時に音が周りに響かず、跡も残らない程度に留めているのも、武橋金次は全て計算ずくだ。当然、鞠哉がそれを主人に伝えない事も分かっている。榮羽音は「『あいつら』が来るなら行きたくない」と言い張った為、今夜の会には出席していない。武橋金次の訪問を伝えれば、目を丸くして玄関へ走るその様子は、余りにも純粋で、無防備だ。後について行けば、榮羽音は金次の姿に驚いているようだった。久し振りと笑顔で言う金次に、少し戸惑ってもいる。当然だろう、奴は金や名前が必要な時以外、榮羽音の元には来ないのだから。

「金次、え、何で急に……そうだ、腕!大丈夫なのか?」

「まぁな、腕こんなにされちまったからよぉ、返事出来なかったんだよ。手紙、くれただろ?だから礼を言おうと思って寄っただけだ、すぐ帰る。」

「そっか……何かあったら言えよ、ボク、金次みたいに強く無いけど、味方だから。」

「それでこそ公爵の息子だぜ、榮羽音!俺も、こんな有様でも軍には居られる事になったし、お前も御父上みたいにもっと立派になれよ。閣下、また新しい事業の援助してるんだっけ?」

その言葉に一瞬、榮羽音がびくりと反応したが、彼は笑顔を作って見せる。

「うん、パ……父上は外ツ国の技術や化学の研究に援助金を出す事にしたみたい。それが旭暉の為になるんだって、」

「榮羽音様。」

少し後ろに控えていた鞠哉の静かな声に、榮羽音がはっとして口を閉じる。

「そうだ、うちの仕事とかお金の事、あんまり喋っちゃダメなんだった。ごめんな金次……。」

「気にするなって、お前はよくやってると思うぜ。まだ十六なんだから。」

 一見すれば人好きのする笑みを浮かべる金次だが、鞠哉には分かっている。金次は敢えて太田公爵と榮羽音を比較する言葉を選んで榮羽音の劣等感を刺激し、言う必要のない内情を語らせるように仕向け、それを止められた榮羽音に罪悪感を覚えさせ、その感情を利用して彼を肯定する言葉をかけた。榮羽音の中には劣等感と「褒められた」という事実だけが残り、それ故にまた金次を慕うようになる。榮羽音が純粋である事を利用した姑息なやり方だ。しかし、ちらと鞠哉を見た金次は充分だと感じたのか、身を翻す。それを確認した鞠哉は、榮羽音の隣に歩み寄った。

「榮羽音様、御部屋にお戻り下さい。」

「鞠哉は?」

「御見送りを致します。」

「分かった。金次、早く怪我、良くなるといいな!」

武橋金次は背中を向けながら左手をひらひらと振ったが、彼がその見えない貌にどんな表情を浮かべているか容易に想像出来、鞠哉は内心溜息を吐いた。

 玄関を出て、扉を閉めてすぐ。鞠哉が振り向いたのと、その頭に金次の手が伸びたのは同時だった。

「!」

髪を掴まれ、顔を近付けさせられる。髪が抜ける音がしたが、鞠哉は表情を崩さない。金次は舌打ちをして鞠哉の青い目を睨み付ける。

「ったく、邪魔しやがって。つくづく目障りだなお前よぉ。」

「……。」

手を離された鞠哉は姿勢を正しつつ、内心驚いていた。おかしい。今までも侮蔑の目を向けられたり、嫌味を言われたり、他人に分からないように小突かれる事はあったが、此処まであからさまな言葉を吐いたり、手を出して来るのは初めてだ。それに、今一瞬見えた奴の襟元、首筋に何か――あんなものは今まであっただろうか――少し眉を寄せる鞠哉に、金次は心底愉し気な笑みを浮かべて言った。

「いずれ、お前の毛皮引っぺがして、襟巻きにでもしてやるから、精々待ってろ、化狐。」

金次が軽く手を叩き合わせると、抜かれた銀色の髪が風に散って行く。やはり右腕も動かせない訳では無かったのだと思いつつ、黙って頭を下げると、鞠哉は思考する。

(あれは……何だ?入墨?赤い点、いや、もう少し大きかった。円か?一部では分からないが……。)

 頭を上げた時には、金次は既に門を出ていた。奴が急に態度を変えたのは何故だ。何か新しい後ろ盾でも得たのか。首筋に刻まれていた印は、それに関係しているのだろうか。鞠哉は一度髪を解き、乱れを直して結い直す。冷え切った空気の中、言い知れぬ違和感を覚えながら、忠実な狐は主の帰りを待っていた。

 

「帝國の書庫番」

十四幕「玄冬の先触」



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帝國の書庫番 十五幕

欠けた半身は片割れを求める。抜け落ちた刀が鞘へ戻ろうとするように。


 あの時ほど孝成が傷を負った姿を、孝晴は後にも先にも見た事が無い。

 その日、彼は初めて侍女を付けずに外出した。教本に記載された地形や治水の跡を自分の目で確かめたくて、歩いて見て回ったのだという。それも孝成らしい話だが、幼い頃から規律に厳しく正義感が強かった彼である。本を片手に河原の土手を歩いていた孝成は、その光景を見て、彼よりも年長の少年達の中に割り込んだ。生きる世界の違う庶民の少年にとって、突如現れた小綺麗で生意気なちび助でしかない孝成は、石を投げられ、棒で叩かれながらも彼らを殴り返して叱り飛ばし、犬を抱えて走って帰った。誤って罠に掛かったのか、それとも野犬同士の喧嘩でやられたのか。片端でびっこ引きのその犬は、手当てしてやれば、命は助かったかも知れない。だが、番犬に出来るような勇猛な性格の犬であったなら、例え片端でも子供は手を出さない。助けても「役に立たない」のは明白だった。

 母の言葉を聞いた孝成の血に塗れた顔が、絶望の硬直から、感情そのもの全てを覆い隠すような表情に変わった瞬間の母の微笑みは、純粋に満足気だった。あの時蹌踉めきながら裏庭に向かった孝成だが、彼が今も裏庭に足を運ぶ姿を、稀に目にする時がある。その点では、まだ、彼は「人間」を失ってはいないのだろう。

 

 開かれた窓から吹き込む夜風が、窓枠に嵌まった硝子を鳴らす微かな音。静まり返った広い空間の中、低い声が、空気を揺らした。

「私は、生きています。」

一言。麟太郎は言った。孝晴は目を細める。

「今、私の命があるのは、ハル様が私を殺さなかったからです。」

「違う。……お前は運が良かっただけだ。」

「どういう意味ですか。」

答えの代わりに、ふう、と疲れたような息が孝晴の口から漏れた。理一は留子を見たが、彼女は目に涙を溜め、余りにも残酷な話に震えながらも、じっと二人を見据えている。強い女だ、と理一は思い、敢えて手を引っ込めた。衝撃で倒れてしまうようなら、支えるつもりだったが、彼女は耐えようとしている。孝晴は膝に片肘をついて、何処か遠くを見るようにして言った。

「お前を拾ったのが兄貴だったら、お前はその場で死んでた。『俺だったから』母上は興味を示さなかったンだよ。俺ぁ出来損ないで、母上に期待されてねぇからな。使えない屑の末っ子が、同類を拾って来たってのを面白がって、好きにさせたってだけだ。……初めは、な。」

 

 

 少年が自分の家に「それ」を抱えて来た時、庭の使用人達は驚愕と困惑に騒めいた。坊っちゃんは一体何をしているのだ、と囁き交わす声も、有坂孝晴には、はっきりと聞こえている。しかし、彼が澄ました笑みの下で、これから起きる事を想像し、不安と恐怖を抑え込んでいると気付いた者は居なかっただろう。

 孝晴は、兄と遊べなくなってから、同年代の子供との付き合いも避けていた。学校には通うが、課題を提出し授業を受けたら、すぐに姿を消し、寺前で饅頭をつまんで帰る。あの真面目で厳格な兄に対してさえ、怒りを顕にしてしまったのだ。何も知らない同世代の子供達と「普通に」接して居られる自信は無かった。その後「師匠」と出会い、心が凪ぐ感覚を身に付けたが、その頃には友人と呼べる存在など出来ている筈も無かったし、十五にもなれば「有坂家の子供」に安易に関わらない程度の分別はつく。もっと幼い頃は、孤独に耐えかねて獣や鳥と戯れようとした事もあったが、餌を撒こうが何時間待とうが、一度たりとも獣が孝晴に近付いた試しは無かった。みんな俺の事が怖ぇんだ、と気付いたのは、初めて馬乗りに連れて行かれた時の事。練習用で気性も穏やかだという馬が、孝晴にだけは近付こうとせず、それどころか息荒く脚を踏み鳴らし、威嚇するように睨み付けていた。そして十五になるまでに、孝晴は、全てを諦めた。自分はそもそも、人との交わりを望むべきでは無かったと。――そんな孝晴から、この痩せ細ったちっぽけな少年は、逃げなかったのだ。

(こいつは、俺の事を知らない。けど、言葉も解ってる。それに、俺から、逃げなかった……人間なんだ、こいつは、まだ……。)

殺したくない。

できるなら。

できることなら――。

そんな小さな願いを押し殺しながら、孝晴は母屋へ向かった。母にはもう孝晴の奇行が伝わっている筈だが、母が庭に出て来る事も無かった。

 

「母上。『犬』を拾いました。」

 異臭を体中から発している汚れた茶色の毛玉。そんなものを抱えて部屋にやって来た孝晴を見た彼女は、ゆったりと口を開く。

「なんじゃ、それは?」

「飢えて人を襲おうとした所を捕まえました。俺が世話をするので、飼っても良いですか。」

「ふむ……。」

母は、美しい仕草で手を頬に当て、少し笑みを浮かべながら、孝晴と毛玉に目をやる。毛玉から、骨と皮だけになった人間の手足が垂れ下がっている事にも、気付いただろう。孝晴は思考しないよう、返事の中身を想像しないように必死で「頭の中」を空にしていた。考えれば考えるほど、返事までの時間が、長くなる。母の唇が動いた。

 

「そうじゃの、好きにするがよい。さあ、疾(と)く退がりやれ。」

 

呆気なく、母はそう言った。目を丸くして立ち竦む孝晴に向け、彼女はふわりと微笑む。

「鈍い子じゃのう、母が良(よ)いと言うたのじゃ。不満でもあるのかえ?」

「いえ、……何も。失礼しました。」

 部屋を出て扉を閉めた時、孝晴は少年を抱えたまま、廊下にへたり込んでいた。この手の中の少年を殺さずに済んだという安堵感だけではない。虚無感。母に興味を持たれていない、などと思っていたのは自分だけだ。そもそも、『母の眼中に自分は居なかった』。孝雅が相手でも、孝成が相手でも、母が理由も問わず、殆ど見る事さえ無く、無条件に許可を出すなど、有り得ない。使用人が驚いて声を掛けてくるまで、孝晴の頭の中は空っぽになっていた。

 

 その後、少年の世話を始めてみると、思いの外、彼は体が丈夫で物覚えが早い事が分かってきた。地頭が良いという以上に、一度「やれ」と言えば、一日中でも、一晩中でも、出来るようになるまでやり続ける。その体力や精神力には、孝晴も素直に驚いた。あんな状態でも生き延びられていたのは、この頑丈さも理由の一つだろう。少年に「リン」と名付け、少しずつ言葉も交わせるようになった。確かめると、どうやらリンには孝晴と出会うまでの記憶が無く、「腹が減って寒かった」という感覚だけが、それまでの彼の全てだった。ただ、リンは初めて孝晴の前で声を出した時から敬語を使っており、恐らくそれは彼自身にも分からない、育った環境故のものだろうと孝晴は推測していた。いつかリンが全て思い出したら、元の居場所へ帰ってしまうのだろうか。いや、どうせ、大人になれば離れるのだから、この関係はそれまでの戯れでしかない。表情のないリンが何を考え、どう感じているのかまで読み取るには、まだ孝晴は幼かった。

 それから一月経ち、二月経とうかという時。母は孝晴とリンを母屋へ呼んだ。好きにしてよいと母は言った筈だが、経過報告だろうかと考えていた孝晴は、母の前に出た瞬間、自分の誤ちを悟った。母は、総てを知っている顔をしていた。その上で、リンを「使えそうだ」と判断したのだ。物覚えが早い。大人しく従順。頑丈な体と強い精神力。まだ言葉は拙いが、常識も少しずつ覚えている。そして何より、「有坂家に全く縁のない存在」だ。母はリンと二言三言会話を交わした後、にこりと微笑んで、言った。

「これはお前がここまで育てたのかえ?」

「はい。」

「中々に良い拾い物をしたのう。明日(みょうにち)から、お前が学校へ行っている間『此方』へ通わせるがよい。妾が礼儀作法の面倒を見てやろう。」

「……有難う御座います、母上。」

「して、これに名はあるのかえ?」

「『リン』と付けました。」

どうせ知っているのだろうと思いながら、孝晴は答えた。母は嬉しそうに微笑む。

「リンよ、妾は其処の孝晴の母じゃ。これからは、妾の教える事も良く聞くのじゃぞ。」

「ハルさま、の、おかあさま。きれい、ですね。」

一見睨み付けるような目付きで母の顔を見ながら、淡々と、リンは言った。母は小さく笑い声を上げ、孝晴に向き直る。

「『ハル』と呼ばせているのかえ。」

「『タカハルさま』が言い辛そうだったので、ハルでよい、と。リンは言葉を解していますが、まだ話す事には慣れていないので。敬語は教える前から話していました。」

「成程のう、面白い奴じゃ。」

そう笑う母の目の奥には、愛情などという生温い感情は読み取れない。どこまでも冷たく鋭い、値踏みするような目。

(どうして俺ぁ、こいつを『ひと』のまま連れて来ちまったんだ。)

この先、リンは常に母の評価に晒される事になる。実子故に目溢しされている孝晴と違い、リンは籍もない浮浪児だ。もし母の期待に応じられなければ……その時に手を下すのは、自分だ。あの時、初めに連れて来た時に殺しておけば。一時の感情に流されて、育てたい等と言わなければ。人間としての自己認識を取り戻したリンを殺す日が来る恐怖に、怯える羽目にはならなかったのだ……。

 

 

「……母上がお前に興味持って、お前は母上の期待に応えた。お前が生きてンのは、お前の力でしかねェんだよ。お前が軍に行きたいっつった時、刀祢の爺さんに預けたのは、これでお前と『有坂家』の繋がりが切れると思ったからだ。けど、お前は刀祢姓を得てからも、警兵になっても、俺から離れやがらねぇ。今でも母上がお前をたまに呼んでンのも知ってんだよ、俺ぁ。だが、流石に所帯を持ったら話は変わる。お前が主人になる訳だからな。それでやっと、お前は『有坂』の手から離れられる。」

 孝晴の言葉は、余りにも端的で短い。しかしその裏にある彼の記憶が、抱え込むには重過ぎる物であると皆分かっていた。同じ時を過ごした麟太郎はどうなのか。自然、理一と留子は麟太郎に目を向ける。麟太郎は、――首を傾げた。

「離れなければ、なりませんか。」

「……は?」

流石に面食らい、目を見開く孝晴。麟太郎はじっと、血に汚れたその顔を見ている。

「私が以前言ったのを覚えているでしょう、ハル様であれば。例えどんな心に根差していても、その行動が人を作ると。ハル様、私は貴方に出会うまでの事を、殆ど覚えていません。けれど、貴方に出会わなければ、遅かれ早かれ私は死んでいました。奥方様が私を利用する為に優しくして下さった事も、私は承知しています。それでも、やはりハル様が私を救ったのです。その事実が揺らぐ事はありません。」

「まだ分からねぇのか、お前?俺は……、」

顔を歪めた孝晴は、唐突に口を噤む。その顔に浮かぶのは、驚きの表情だ。自分は、今、何と言おうとした?

孝晴が黙ったのを確認し、麟太郎が再び口を開く。

「しかし私も間違っていました、ハル様。今なら分かります。貴方を一人にはしないと言ったのに、私は、貴方だけを特別視して、周りから切り離していました。ハル様を隣でお支えする事を、いつの間にか、諦めてしまったんです。どれだけ努力しても、ハル様には届かないと。違いました。ハル様は望んでいた。なのに私は、追い縋っているつもりで、後ろに退がっていたんです。『犬』は、主人の後ろを歩きません。隣を歩き、時に前を走ります。貴方の引く綱の下にある事も、貴方の隣にある事も、私自身が望んでいます。それでは、いけませんか。」

「……なんで、」

俯いて黙った後、発した孝晴の声は、僅かに震えていた。態(わざ)と「犬」扱いして、自分の気持ちを切り離そうとして来たのに、それでも手放せなかった首輪と綱は、とっくに自分の手には無かった。傷付け突き放しても戻って来た。恐ろしい。どうして。一番恐ろしいのが、自分だからだ。母の支配は、言い訳に過ぎない。どんな生き物も寄り付かない、人間からも疎まれる自分。従順である以外に、母に認められる術を知らない自分。兄を殺しかけた自分。師を自らの手で屠った自分。生きる時間の違う自分。そんな自分が、あの時。

 

 殺したくない。

 できることなら、――ともだちに、なりたい。

 

そう、思ってしまったのだ。十五の自分は、何と浅はかだったのだろう。そして、今でも何も変わって居なかった。有坂家と、自分と共にあれば、常に死の陰は付き纏う。あの犬も、師も、死んだ。だからこそ、離れなければならない。なのに。

「……ぇんだ。」

俯いた孝晴の頬を伝った雫は、黒ではなかった。

「俺が、お前を殺したくねぇんだ。お前は……俺に初めて出来た、ともだち、だから。」

ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。麟太郎は僅かに目を細めた。たった独りで帝都の、帝國の危機すら止められる力を持つ孝晴。しかし今そこに在るのは、友を失う事を恐れ苦悩してきた、一人の青年の姿だった。

 

 啜り泣きの音が、風の音に混じる。留子は理一に縋り、声を押し殺すように泣いていた。麟太郎は彼女のように泣けなかった。涙が出ない。ただ、驚きの感情はある。あの孝晴が涙を零した。静かに。甕に落ちた一雫の雨が、縁から水を溢れさせるように。けれどその涙は、孝晴との間に存在していた壁を溶かした。そう、麟太郎は感じた。

「ハル様。」

静かに呼びかける。無言で孝晴は顔を上げた。麟太郎には、彼の表情から感情を読み取る事は出来ないけれど。

「私には記憶がありません。しかし、貴方と出会った瞬間からの事は、覚えています。あの時、既に感じていたんです。貴方の為に生きる道以外は無いと。だから私は、ハル様に殺されたりしません。勿論、他の誰の手によっても。死んだら貴方のお側に居られなくなりますから。例え貴方に刃を向けられようと、私は貴方の前では死にません。」

「……できねェだろ、そんな事たぁ。」

暫くの間無言だった孝晴が、少し、笑ったように見えた。応える麟太郎の声に抑揚は無いが、その言葉はどこか、熱のようなものを孕んでいる。

「ハル様が出来ない事は、私が行います。ハル様がお一人で立てない時は、杖にもなります。貴方は『リン』にとっての『麒』です。貴方無しで生きるつもりは、私にはありません。だから……ハル様は悩まなくて良いのです。」

そっと、手を伸ばす。孝晴は動かなかった。その頭に、麟太郎の手が触れる。髪の流れに沿うように、頭を撫でる小さな手。こんな事が、前にもあった気がする。孝晴が、ゆっくりと頬につく手に頭を預けた。

「本当に、着いて来るンだな?」

「私は貴方を一人にはしません、ハル様。」

呼吸を大きく一度行う程の間の沈黙。そして、ふ、と小さな息と共に、孝晴が喉の奥でくつくつと音を立てる。そして、急に天井を仰ぐと、からからと、笑った。

「あー、お前はとんでもねェ馬鹿だぜ、『お麟』。」

「よく言われます。」

麟太郎の頭を軍帽の上からぐしゃりと撫でると、孝晴は寄り添う二人に目を向ける。

「悪かったな、リイチ。」

「本っっ当にな。俺だって手前の事ばかり考えてる訳にはいかねぇんだぞ。」

「御当主様の苦労、お察しするぜぃ。」

口の端を上げる孝晴を見て、理一は特大の溜息を吐くと肩を竦めた。

「けど、友達だからな。見捨てねぇよ。」

「はは。」

ああ、いつもの孝晴だ。けれどこれまでよりも少し、距離が近付いたのは確かだろう。麟太郎も変わった。さて、自分はどうだろうか……。だが、一先ずは何とか、収まる所に収められただろう。そう思い、理一は事の発端である留子を見遣る。と、ほぼ同時に。

「……よ、よか゛っ゛た゛です〜〜〜!」

 わっと留子が泣き出した。麟太郎以外がぎょっとする中、留子はぼろぼろと涙を溢しながら、何度もしゃくり上げる。口許に当てている理一の手巾は既にびしょ濡れだ。

「わた、わたしっ、御免なさい、でも……孝晴さまが、凄く、嬉しそうだから……本当に良かったって……!」

「……お麟、どうなってンだぃ、この嬢ちゃんは。」

今度は憮然として麟太郎を振り返る孝晴。しかしその半分呆れ混じりの驚きと照れの混じったような声音で、彼女の言葉が間違っていないのだと分かる。麟太郎は淡々と答えた。

「私の内心を初対面で見抜いた方ですよ?」

「とんでもねぇなァ。」

孝晴は息を吐き、眉を下げる。

「しかし、本当に誰にでも共感なさるのですね、留子様。」

「す、済みません……でも、わたし、どうして孝晴さまを怖いと思ったのか、分かった気がします。」

留子は赤くなった目を手で擦りながら、微笑んだ。

「初めは、あんなに柔らかな振る舞いをする方が、どうしてこんなに冷たく感じるのだろうと不思議でした。でも、孝晴さま、沢山秘密や悩みを抱えていらして、周りを巻き込まないようにしていたのですね。だから、わたしはさて置き、麟太郎さまや、衣笠さまとお話している今の孝晴さまは、怖くありません。本当はとてもお優しい方なのだと、」

「一寸待っ、留子様は……おいリイチ!女ってのは皆ンなこんな感じなのか?」

「何の話だ?」

今度は面食らった顔。こんなにもころころと表情を変える孝晴を見るのは初めてで、理一はクスクスと笑いながら恍(とぼ)けて見せる。何故孝晴が焦ったのか。留子が「自身はさて置いて」と言ったあたり、彼女は男二人が孝晴の秘密――勿論、内容までは分からないだろうが――を、共有していると勘づいているのだろう。人は見かけによらないとはまさにこの事だ。

「ま、女が皆んな『こう』な訳じゃねぇよ。お嬢様の察しが良過ぎるだけだ。天下の有坂様も形無しだな?」

「ちくしょうめ……。」

「え、えっと……御免なさい、わたし、思った事をそのまま言ってしまうので……。」

右手で軽く頬を掻く孝晴に、留子は申し訳無さそうに声を窄める。未だ兄弟にも麟太郎の名すら明かさない程に口は硬いのに、不思議な女だ。孝晴はもう一度溜息を吐くと、血の付いた自分の手を眺める。

「さァて、どうすっかねぃ。お麟はさっさと窓から帰れば良いとして、俺ぁこんなナリじゃ出て行けねぇ。」

確かに、と理一も頷いた。念の為に理一が診ても既に血は止まっていたが、真っ赤に染まった眼球を晒せば騒ぎになる事は想像に難くない。難儀な体質だと息を吐く理一。

「そう言えばお前、床に血を落としたよな?消しておくか……リン公、灯(ひ)あるか。」

「入子(いれご)の小さいものなら。」

 座り込んでいる孝晴の前に、理一と麟太郎が膝を着く。留子は泣き腫らした顔ではあるが、興味津々で彼らの手元を覗き込んだ。麟太郎は服の何処かから掌に収まるほど小さな竹籠を取り出し、手袋を嵌めると、籠の中心に飛び出ている蝋で固められた糸を摘み、手袋の指先で擦る。一瞬でそこに火が灯り、留子が驚きの声を上げた。

「凄い!どうなっているんですか!?」

「仕組みは……長くなるので、次の文(ふみ)に記します。この火はあまり保ちませんから。」

「すぐ終わるから大丈夫だ。っと、これだな。」

理一も、これまた何処に持っていたのか、硝子の小瓶を取り出し、中の液体を絨毯の染みに数滴垂らす。それを暫く手巾で押さえて拭うと、染みは消えていた。

「なんだぃそりゃ。」

「オキシドール。簡単に言えば消毒液だよ。」

「んなもん、こんな時まで持ち歩いてンのかぃ?」

「いつ何処で医者が必要になるか分からねぇだろ。最近何やら妙な事件もあるしな。」

言いながら、ちらと孝晴に目線を向ける理一。孝晴は目を細める。麟太郎は無言だが、火を指先で潰して消し、立ち上がる。

「私は……後で離れに参ります。留子お嬢様、本当に有難う御座いました。」

深々と彼女に礼をする麟太郎に、留子は手を口許に当て、この暗がりでも分かる程に顔を赤くした。

「いえ、あの、その……これからも、皆さまのお力になれるなら、いつでもお手伝いします。」

「はい。では。」

短く返事を返すと、麟太郎は外套を翻し、一直線にバルコニーに飛び出すと、屋根に飛び上がって消えて行った。孝晴は苦笑しながら留子を見遣る。

「本当に『あれ』で良いんです?」

「わたしを選んで頂けるなら、それに増す幸福はありません。」

留子はにっこりと笑って答えた。孝晴も笑う。その先を決めるのは二人だ。さて、と孝晴は立ち上がる。それを待っていたように、理一が口を開く。

「で、どうやって誤魔化す?」

「そうさな……。」

孝晴は腕を組んだ。こっそり帰るには自分の名前は知られ過ぎているし、麟太郎の袋にあった砂糖は全て食ったものの、まだ頭痛は残っているため、無茶をすればまた血を噴く可能性がある。どうしたものか。すると、留子がおずおずと二人を見上げ、言った。

「あの……少し聞いて頂きたいのですが。」

 

「おや、衣笠伯爵。お戻りですか。」

「ええ、一寸煙草をやりに外へ。」

 入りしな、初老の男が声を掛ける。理一が応えると、彼は意外そうな顔をした。

「何故外へ?此処でも皆吸っているではありませんか。」

「有坂様が煙草を苦手にしているらしいんです。それで、個人的に彼の居る場所では吸わないようにしているんてすが……、」

言いかけながら会場内を見回した理一は、おやと不思議そうな表情を浮かべる。

「そう言えば、有坂様は帰られたのですか。」

「そのような話は聞いておりませんが……。」

男が言いかけた時、扉の外からばたばたばたと激しい足音と共に「お兄様ぁ〜〜〜!」という声、同時に目を真っ赤に泣き腫らした少女が走り込んで来る。入口付近の人々がどうしたのかと騒めく中、兄を呼んでいた少女と理一の目が合った。泣きながら彼の元へ飛んで来た少女に面食らった顔をする理一に、彼女は言った。

「衣笠さまですね!?」

「ええ、」

「衣笠さまは、お医者さまですよね!」

「まあ、医学校は出ていますが……どうなさったのです。」

困惑した様子で理一が声を掛けると、少女は息を詰まらせながら言った。

「わ、わたし、有坂様にお怪我をさせてしまいましたぁ……!」

わっと泣き出す少女と、どよめく人々、慌てて走って来た鐵心と、そして――扉の外には、非常に罰が悪そうな表情をしながら、血の付いた手巾で片目を押さえている有坂孝晴が立っていた。

 飛んで来た鐵心が泣きじゃくる留子から聞き出した話はこうだ。バルコニーで涼みながら暫く話をしていたが、流石に体が冷えてきた。戻ろうと孝晴に言われたものの、留子はまた質問攻めに遭う事を考えると戻りたく無かった。そこで、それまでの会話で、孝晴が晩餐会での舞踏を苦手としていると聞いていた留子は、体を動かせば冷えも治まるし、一緒に練習しませんかと誘った。そして……

「わたし、裾を踏んで倒れ込んでしまって、それを有坂様が受け止めてくださって……!」

「……そのまま足を滑らせてバルコニーの柵に額を打(ぶ)つけたんですよ。あの、お嬢様、恥ずかしいのであまり言わないで下さい。上手く受身を取れなかった私の落ち度なのですから。」

あの有坂家の三男、木偶と言われてはいるが、社交の礼儀を弁え笑みを絶やさない有坂孝晴が、恥ずかしそうに眉を寄せている様子に周囲は驚いた。しかし流石に鐵心は顔を青くして、何か言いた気に留子と孝晴を交互に見ていたが、やっと口を開く。

「し、しかし孝晴様、その、血が……、」

「失礼、私で宜しければ拝見しますが。」

その言葉を鋭く遮ったのは衣笠理一、留子が声を掛けた相手だ。彼が軍医少尉である事は皆知っている。大人しく彼の言に従って手巾を外した孝晴の目が真っ赤に染まっているのを見て、周囲の何人かは息を飲んだ。理一は淡々と「打ったのはこの辺りですか」などと確認し、最終的に一言「打撲ですね」と告げた。

「打撲……?目を打ったんですか?」

恐る恐る訊ねる鐵心に、理一は首を振る。

「違います。体を打つと、其処が内出血を起こして痣になります。が、目の上辺りを打つけると、皮膚の内側に溜まった血が目の中に下りてくる事があるんです。なので、見た目程酷い怪我ではありません。ただ、早く帰って患部を冷やした方がよいでしょうね。」

「……そうします。鐵心君、面目ない。」

「いや!その……留子は、後で叱っておきますから……。」

今すぐにでも妹を怒鳴ってやりたいというような顔をした鐵心に、孝晴は苦笑する。

「余り彼女を責めないで下さい、私が色々と疎かにしてきたツケが回って来たんです。次までに舞踏も練習しておきます。衣笠様も、有難う御座いました。」

「大した傷でないとは言え、場所が場所ですし、数日は無理なさらない方が宜しいかと。」

「そうしましょう。では、お先に失礼致しますよ。」

医者らしく助言する理一に孝晴は緩く頭を下げ、館の出口へ向かって行った。未だ周囲は騒めいていたが、孝晴が居なくなると、鐵心が大きく溜息を吐いて妹へ向き直る。

「留。」

「は、はい……。」

「今日は帰ろう。僕が覚えている限り、この二月ほどで、お前が他人に怪我をさせたのは二度目、転んで助けて貰ったのも二度目だ。ちゃんとお父様にも報告して、反省しなさい。周りが見えなくなる癖を治さなければ、嫁になど行けないぞ。」

「はい……そうします……。」

落ち込んだ様子でとぼとぼと兄の後を着いて行く留子。彼らが出て行ってしまうと、暫く周囲の話題は今の騒ぎ一色だったが、人々は勝手に何かしらの結論をつけ、それぞれの目的に戻ってゆく。理一は小瓶の隣から紙巻きの箱を取り出し、燐寸を擦ると、ふう、と煙を細く吐いた。

(なかなかに女優じゃねぇか、あの娘【こ】。)

 

『わたしが、孝晴さまにお怪我をさせた事にするのはどうでしょうか。』

『わたしは麟太郎さまに怪我をさせた前科がありますし、先日も泥濘に嵌って転んだので、兄は呆れるでしょうが、怪しいとは思わないでしょう。』

『わたしに、こうと思えば突き進んでしまうきらいがあるのは皆知っていますし、きっと、いつもの仕出かしだと済ませてしまう筈です。』

『わたし自身の評価など、些細な事です。だって、麟太郎さまのご友人であるお二人の、お役に立てるんです。それにわたしも、沢山泣いてしまいましたから、泣きながら出て行った方が自然でしょう?』

 

 彼女の案に孝晴と理一が理屈や違和感を極力感じないような状況設定を加えたものが、先程の茶番だ。初めに麟太郎から手紙を見せられ、彼女に協力を依頼したいと打診された時には驚いたが、彼女の推察力と胆力は本物だ。孝晴の前ではああ言ったものの、彼女は「孝晴を逃さない為の枷」でもあった。それにも、彼女は勘付いているらしいのだから。

理一はもう一度白い指先を口許へ持って行く。そのうち、また絣の着流しと烏羽の影が二人連れ立つ姿が見られるようになるのだろう。それを期待している自身を微笑うと、理一は会場の人混みの中に戻って行った。

 

 帰宅した孝晴が負傷している様子を見て仰天する女中に「転んで打つけっちまってな、大した事ねぇから報告も要らねえ、どうせ明日には母上の耳に入ってる」と軽く告げ、孝晴は部屋に上がった。窮屈な洋装を脱ぎ、名刺を纏めるように言い付け、手早く湯を浴びると、浴衣に裸足で歩いてゆく。板張りの廊下を満たす空気は、もう冷え冷えとして冬を感じさせた。床の間の襖を引けば、光の当たらない部屋の角に一つの気配。孝晴は無言で部屋を閉め切り、床に座す。

「お麟。」

「はい。」

抑揚のない声が返って来た。初めて言葉を交わした時と同じ、「いつもの」声だ。孝晴の表情は柔らかだった。

「俺ぁ、母上が怖い。他人が怖い。んでもって……俺自身の事が、一番怖い。」

「……。」

「けど、駄目みてェだな。お前が居る事に慣れ過ぎた。どうにかして手放さなきゃなンねぇと思って来たってのに、俺の方がお前に『甘えてた』。笑い種だわな、俺みたいな木偶の人間(ひと)で無しが、一端(いっぱし)の人間みてェに思ってんだぜ。」

麟太郎には、孝晴が言葉を選んでいる事が分かっていた。静かに麟太郎は言う。

「ハル様は、ハル様です。家の掟があろうと、他人と違っていようと。ハル様だから、お側に居たいと感じる、それが私にとっての事実です。」

「ん。」

短く頷く孝晴は、少し目線を逸らしてから、膝の上に頬杖をついた。

「……悪かった。あと……有難な。」

麟太郎は、少しだけ、目を細めた。驚いたのだろうが、やはり殆ど顔には出ない。しかし、孝晴にとっては、それで充分だった。長ったらしく語る必要も無いのだ。麟太郎が相手なら。

「……ハル様に御礼を言われる事になるなど、思ってもみませんでした。私はどうお答えすれば良いのでしょうか。」

漸く言われた内容を咀嚼し終えたらしく、麟太郎は首を傾げる。孝晴は笑った。

「好きにしなァ、お前はずっとお前なんだからよ、『お麟』。」

 

 帝都の周縁、更にその外、旧國境すら越えた山の中。この地域によくある炭焼き小屋の前に、立ち尽くす一人の影があった。いや、正確には、その場に立っているのは二人。一人は小屋の主であろう男。そしてもう一人は――漆黒の軍服に、長い洋羽織。頭は「狐」の面で覆われた、小柄な人間だった。薄暗い月の光にも、白い面ははっきりと浮かび上がっている。まるで妖異か神かといった異様な雰囲気の人間は、驚愕の表情を浮かべる男の前に静かに佇んでいる。

「……何で万華(ばんか)が、こんな処に……。」

「理由は、貴方自身が知っている筈だ。元陸軍中尉、小田切信三郎。」

狐面が答える。声音からすると、どうやら中身は男のようだ。小田切と呼ばれた男は暫し無言だったが、ゆっくりと言った。

「兄が死んで軍を辞めざるを得なかっただけの私に、何用があるかなど、てんで分かりませんな。」

「その行動はなかなかに賢しいが、それで貴方が叛乱に加わっていた事実まで消える訳ではない。」

感情を感じさせないその物言いに、男は僅かに顔を歪める。

「私は身内が出した恥で迷惑を被ったのですぞ。」

「ならば何故、こんな近郊に留まる必要がある。貴方達の出身は奥北だ。」

「地元に戻ればそれこそ命に関わる!私は此処の者に救われたのだ!」

「何故命に関わる?」

「それは、」

言い掛けた男は、はっと口を噤む。狐面は淡々と言った。

「戻れば、『計画を失敗させた』と糾弾されるからだろう?叛乱が露顕したのは貴方の兄の失態が理由だ。貴方が計画に関与していなかったのならば、奥北から指示を出していた者がそれを知らぬ筈がない。……さて、何故俺が此処に居るか、理由に答えよう。貴方から奥北の協力者の名を聞く為だ。」

「何故言う必要がある。貴様等は警兵でも邏隊でもない!」

絞り出すように言った男に、狐面は一歩近付いた。

「我々は、帝を護る為に存在している。帝の身に及ぶ災いは祓わなければならない。その為であれば、我々は動ける。理解できたか?」

瞬間、男が腰に下げた鎌を抜いて投げ付けた。狐面は首を傾げて避けるが、男は脱兎の如く駆け出していた。狐面がそれを追う気配は無い。男が何かに躓いた。倒れるその体に、まるで生き物のように鎖が絡み付く。驚きに男が声を発する前に鎖が引かれ、文字通り後ろに飛んだ男の体を抱え込むようにして口を塞いだのは、漆黒の軍服に獣――此方は「鼬」だろうか――の面を着けた人間。もう一人の「万華」だった。

「……!」

「騒ぐな。俺の役目はお前を無傷で連れて行く事だ。」

鼬面は男の口を押さえながら言った。狐面と違い上背がある。声ももう少し低い。ただ二人共、頭部を全て覆う面の為か、声の質が分かり辛い。鼬面は男を地面に転がし、手早く足首を布で縛ると、結目を作った布を男の口に噛ませ、目も布で覆うと、抱き上げる。結目が邪魔で叫ぶ余地が無い。鼬面の声が言った。

「余り暴れるなよ、鎖で傷が付く。我々に、今此処でお前を痛め付けるつもりは無い。だが、抵抗が酷ければもっと強く縛らなければならない。大人しくしている事だ。……『浅葱』、確保した。」

「有難う。早く戻ろう。」

最後の部分だけは仲間――あの狐面が「浅葱」らしい――に向けて言った鼬面に抱えられながら、そこまで男は聞いたが、それ以降二人が言葉を発する事はなく、冷えた夜風を切り裂くように、漆黒を纏った獣面達は闇へと消えて行った。

 

「帝國の書庫番」

十五幕「麟子連れ添い、鳳凰于に飛ぶ」



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帝國の書庫番 十六幕

帝都に蠢く思惑は、ただ人知れず静かに、魔の絲を紡ぎゆく。


 すっかり木葉は紅く色付き、人々が最後の秋の味覚に舌鼓を打つ、冬の始め。一時世間を騒がせた勘解由小路家令嬢求婚の話題は、続報が出ない事もあり気を引かなくなり始めていた。留子もあの日以来、家族や他人の目がある場所では大人しく振る舞っていたが、実際の心中は嬉しさ半分、気掛かり半分という所だった。あの後、麟太郎からはすぐに、丁寧な礼を記した手紙が届いた。また、衣笠理一と、そして有坂孝晴からも、文(ふみ)が送られて来たのだ。勿論三人共、表に宛先である留子の名以外を記していない。その為、二通目・三通目を受け取った時、麟太郎から受け取った手紙に返事も出していないのにと留子は内心混乱したが、手紙を留子に届けてくれる「じいや」は、何も言わなかった。

 麟太郎の手紙は相変わらずの文体ではあったが、有坂孝晴と互いに本心を明かす切掛を作った留子に対して、非常に感謝している事が読み取れた。それまで表れていた筆の乱れも直っている。しかし、と留子は思い返す。

(衣笠さまと、有坂さまのお手紙からは……やはりどこか、寂しさを感じるのは、何故なのでしょう。皆さま、あの時和解されたというのに。)

 衣笠理一は柔らかな筆跡をしており、文字の流れにも無駄が無い。彼の手紙には、麟太郎と同じくあの時の礼、留子の献身への賛辞、そして麟太郎と気長に付き合って欲しいという旨と、孝晴を怖がらないでやって欲しいという旨、最後に追伸で、孝晴の発作と自分の生まれについては一部の者しか知らない為、口外しないで欲しいと書き足されていた。追伸の形になったのは、理一が留子に釘を刺しておくかおくまいか、迷ったからだろう。麟太郎に「信頼出来る」と言われた事は嬉しかったし、理一もきっと麟太郎の言葉を疑っている訳では無い。ただその上で、念の為、書かずには居られなかった。それが若くして当主の座にある彼の人となりなのだ。

 対して有坂孝晴は、完璧と言っても良い美しい字をしている。それこそ、書の教本をそのまま写し取ったかのような。余りにも整っている為に人柄が読み取れない字、というものを留子が目にしたのは初めてだった。普通ならば手本に習って書いたとしても、文字の大きさや力の入れ方、線の引き方や傾き等、随所に癖が表れて来るものだ。留子が考えたのは、孝晴が人格や癖を読み取られないよう、敢えて教本の文字を真似ているという可能性。しかし、幾ら真似たとて、こうも違和感無く書けるだろうか?

 内容は、謝罪から始まっていた。自分の事情で迷惑をかけた事、発作を起こして驚かせた事。有坂家は分家を作らない為、役割を果たす才の無い子女に対して少し厳しい所があり、それを留子が気にする必要は無いとも記されていた。確かに、有坂家には分家が存在しない。衣笠家のように動乱時代の武将として名を馳せた訳ではないが、幕府の側用として何度か記録に名が挙がる人物を輩出している家である。最近――と言っても、まだ幕府があった時代の話だが――では、倒幕派の放った刺客を返り討ちにした話が有名だ。そんな有力貴族が家を分けないというのも不思議な話ではあるが、有坂家は直系子孫のみを徹底的に管理する方法で生き残ってきた、という事なのだろう。孝晴の手紙の最後に短く書かれていた「麟太郎が留子と結ばれて欲しいという思いに偽りは無い」という言葉。何も知らなければ、手放しで喜んでしまったかも知れない。しかし、やはり孝晴は、影に日向に立ち回る有坂家から、麟太郎を切り離したいのではないかとも思えてしまう。あの時麟太郎の言葉を受け入れた孝晴が、喜びに近い感情を抱いたのは確かだ。少なくとも留子はそう感じた。けれど孝晴はまだ、何かを恐れているような気もするのだ。それが何であるか、留子には分からない。文の内容に思考を戻し、留子は顔を曇らせる。

(有坂家に分家を作らないという家令があるのなら、孝晴さまはずっと、あのままなのでしょうか。ずっと、ご自身を出来損ないだと苛んで。それは余りに、悲し過ぎます……。)

 帰宅の為、学舎(まなびや)の板張り廊下を歩く留子。あの日の出来事でもう一つ、忘れられない事が留子にはあった。理一の顔だ。彼が、自身の秘密を明かした時。孝晴も感じていた通り、彼はまだ「言葉を喉に詰まらせている」顔をしていた。衣笠家は公家の出ではなく、政治的な繋がりも先代の死により途切れた為、現在の勘解由小路家と衣笠家に特別強い関わりは無い。計画に協力する為に文を送り合いはしたが、留子が実際の彼に会ったのは、あの日が初めてである。それでも、三人が共に心の内を曝け出したあの場で、あんなに苦し気な顔を見てしまえば、孝晴だけでなく理一も、口にした以上に深い苦悩を抱いていると痛い程に伝わって来た。それを抱えながら、麟太郎と孝晴の為に尽力できる強さも。

(……どうしたら、皆が苦しまずに済むのでしょう。わたしがすべき事は、何なのでしょうか。)

留子は麟太郎を好いている。しかし、それだけで良い筈も無い。今はただ待つしか出来ないのか。もどかしい。自身の生まれや立場が「枷」になっていると感じるのは、初めてだった。

『考え事をしながら歩いていると、また転んでしまいますよ。』

留子は顔を上げる。其処に立つのは、あの、金の髪の少女だった。以前のようなふっくらとしたドレスではなく、紺色のワンピースを着ている。

『ユリアさん……。』

『今、先生のお手伝いが終わったので、帰る所だったのですが。門までご一緒しても構いませんか?』

ふわりと微笑む少女に、留子もほっとしたように、笑みを返した。

 

 留子は少女――ユリアと共に廊下を歩く。彼女は、歳は留子と同じく十五だが異人街の出であり、瑛國語の教師になりたいと、学校に頼んで見習いをしている。留子を助けた日は、その許可を取りに訪れていたそうだ。無事に教師見習いとして採用された彼女は、助手の雑務をこなしつつも、授業や放課の後、瑛國語が苦手な生徒の課題を見るなどしている。彼女は生徒達と歳も近く、其々の躓きに合わせて丁寧に解説してくれると親しまれる存在になっていたが、皆が彼女に惹きつけられるのは、何よりその美しい容姿故だろう。白粉を塗った顔とは違う、赤い血の透けるような白い肌に、緩やかに波打つ金色の髪、空の色を閉じ込めたような瞳。長い睫毛に整った顔立ちは、まるで舶来品の洋人形が命を持ったかのよう。実際、留子も彼女に助けられた時、思わず見惚れたものだ。それを切掛にして、二人は時折他愛無い会話を交わす程に仲を深めた。兄弟と喧嘩した話、義姉に素敵なケープを選んで貰って嬉しかった事、自分の戀(こい)の悩みなど。

『それで、留子さん。今は何を悩んでいるのですか?』

ユリアが訊ねる。留子は悩んだ。ユリアの歩調はゆっくりで、答えを急かす様子は無い。考えた末、留子は言った。

『ユリアさん、喩えばのお話です。ユリアさんから見て、わたしは友達です。そして、ユリアさんが、わたしの別の友人に、悩みを抱えている人が居ると知った時……そしてその人が、ユリアさんの知人でもあり、わたしにとって、とても大切な人だと知っている時……ユリアさんなら、どうなさいますか?』

ユリアは、ぱちぱちと長い睫毛を瞬かせた。留子と麟太郎と孝晴、そして理一との関係は、伏せて話すには非常にややこしい。伝わらなかっただろうかと留子が不安になった時、ユリアがゆっくりと唇を緩める。

『少し難しいですね。私にとって【留子さんほど親しくは無いけれど、面識はある】という程度の間柄の方についてのお話、という理解が間違っていないのなら。』

『そう、そうです。』

激しく頷く留子に、ユリアは小さく笑ったが、その優し気な笑みを崩さずに言う。

『私なら、何もしません。留子さんにとっては大切でも、その方が【私】の助けを必要としているかは分かりません。私自身が助けになれるかどうかも、分かりません。相手の方のお悩みも、外部の助言や、私の手助けで解決する事かもしれないし、そうでないかもしれない。それが分からない以上、私は、安易に口を出す事も、手を出す事もしないでしょう。』

『そう、ですか。そうですよね……。』

留子は俯いた。ユリアの考え方は正しい。やはり自分に出来る事は無いのだと表情を曇らせる留子であったが、ユリアは微笑んだまま、言葉を続ける。

『けれど、仲良くなる努力は、するかも知れません。』

『どういう事ですか?』

『先程の答えは、あくまで私にとっては他人……言ってしまえば、相手からも私からも、互いをよく知らない相手に対するものです。ならば、その方と仲良くなって、私にも悩みを打ち明けて貰えるような間柄になって初めて、私はその方のお悩みに向き合うと思います。』

そう言って、ユリアはにっこりと笑った。

『留子さん、貴女もよく仰っているでしょう?【人を知る事が大切だ】と。』

留子は目を見開いた。そう、そうだ。何も知らないから、何も出来ない。ならば、知れば良い。信頼して貰えるようになれば良い。それが「自分らしい」方法だと、何故今まで忘れていたのか。自分は、会って、話して、感じて、そうして人を知って来たではないか。

『有難うございますっ!』

唐突に大声を上げた留子に、ユリアが目をぱちくりとさせる。周囲の女生徒や教師も立ち止まり、不思議そうに留子を見ていた。留子は頬を真っ赤にしながら小さな声で「済みません」と呟くが、直ぐにユリアに向かって満面の笑みを浮かべた。

『ユリアさん、本当に有難う御座います。出来る事がないなら、作れば良かったんです。わたし、頑張ってみます!』

 言うや否や、深々と頭を下げてから走り出す留子。そんな彼女に小さく手を振って見送るユリアに、数人の女生徒が近寄って来る。

『ユリアさん、ご機嫌よう。勘解由小路さんは一体どうなさったの?』

『ご機嫌よう、雪子さん。お悩みがあったようですが、お話したら、晴れたようです。』

『勘解由小路さん、なんだか放っておけない方ですわよね。最近元気が無いようでしたから、良かったですわ。』

『それにしても、ユリアさんは凄いのね。先生のお手伝いだけでなく、私達の悩みも聞いて下さるの?』

『私は先生になりたくて、こうして勉強させて頂いていますから。皆さんの相談に乗るのは当然です。』

 ころころと、鈴のように少女達の会話が転がってゆく。その隣を、一人の女が通りすがる。西都小紋の着物を纏い、真っ直ぐな髪を顎の下で切り揃えた美しい女だ。彼女は少女達に目を向けると、顔を僅かに顰め、足早に去って行く。女を見送った後、少女達は不思議そうに呟いた。

「椿先生、どうなさったのかしら?」

「余り気分が良さそうには見えませんでしたわね。話し声が大き過ぎたのかしら……。」

女生徒に囲まれたユリアは苦笑する。自分は、女――花道教師の冷泉椿(れいぜい つばき)が、何故あのような目を此方に向けたのか、知っている。しかし、それは生徒達には関係無い。今の自分の立場にも。

『長々と立ち話をしている事は、行儀がよいと言えないかもしれません。私は帰りがけでしたから、失礼しますね。』

ユリアは瑛國語で言うと、丁寧に礼をした。女生徒達も同意する言葉を交わしながら、校門まで来ると手を振って別れの挨拶をし、散って行く。一人ワンピースの裾を風に遊ばせながら歩くユリアが微笑みの下、脳裏で呟いた言葉は当然、誰にも知られる事は無い。

 

――これで留子ちゃんが有坂家に近付けば、もう少し情報が落ちてくるかな。

 

 

 こつこつと窓が鳴る。衣笠理一は本から目を上げ、煙管を置いた。こつこつ。

「少しくらい待ってくれよ……今開ける。」

理一は一人呟くと、机を離れ、窓を引き上げた。窓の外には、一羽の烏が止まっている。烏はじっと理一を見ると、麻紐で紙片が括り付けられた片脚をひょいと上げた。理一はそれを解いて取ると、表情を和らげる。

「有難うな、『くろすけ』。気を付けて帰れよ。ま、街中なら、鷲や梟なんて飛んじゃいねぇだろうがな。」

声を掛けられた烏の「くろすけ」は、もう一度理一の顔を見詰めると、窓枠の上で二度程飛び跳ねて向きを変え、真っ黒な空へ飛び去ってゆく。開けた窓から入り込む冷気に軽く身震いをすると、理一は元通り窓を閉め、洋机ではなく、煖炉(ストーブ)近くに据えた安楽椅子に腰掛けた。丁寧に巻かれた紙を解きながら、しかし本当に頭の良い烏だと思い返す。「くろすけ」に態々労いの言葉を掛けるのは、彼が言葉を理解しているからだ。少なくとも彼は、人間の顔と名前・場所と地名を言葉によって判別出来る。初めに覚えさせる必要はあるし、長期間行かない場所や会わない相手は忘れてしまうようだが、「何処の誰に届けろ」と命じれば、その通りに飛ぶのだ。麟太郎であれば伝書だけでなく、ある程度複雑な指示を出す事もできるが、それも全て言葉によるものだ。彼が余りに伝書役として優れている為に陸軍では烏の研究も始められた程だが、やはり他の烏では同様の働きは出来無いらしい。

(あいつも、他の烏と自分は違うと思ってるのかもな。……孝晴みてぇに。)

そんな事を考えながら、理一は紙を伸ばし終える。その内容に、溜息を一つ。

「やっぱりか。」

 ――某件について、進展は無し。警兵の扱う処では無いとの由。

 短く記された麟太郎の文に、理一は眉を寄せる。つい最近、先月の頭頃からだ。「気付かぬうちに着物の袖が切り裂かれている」という事件が起こり出したのは。始めは新聞に取り上げられたが、ここ一月の間に紙面には載らなくなった。しかし、人の集まる場所に顔を出せば、必ず誰かが口にするその話題。奇妙なのは、「被害者は多いが、実害が無い」点だ。勿論、破られた着物は繕わなければならない。その手間や金は実害と言えるだろうが、逆に言えば、それ以上の事は何も無いのだ。ただ気付くと、洋服や着物の袖が裂けている。孝晴も妙だと感じているらしく、軍病院の執務室を訪れた彼に聞けば「噂を元に調べた限り、被害者の身分・年齢・性別に決まった法則は見出せない」との事だった。ただ「晴着や正装が狙われた例が無い」点のみが、強いて挙げられる共通項だと言う。

『――ま、一通りぶらついてみてはいたンだがねぃ。どの方向でも、行けば必ず誰かしらが話してやがる。お前さんなら分かンだろ?リイチ。こんな短ぇ間に、東都中の何処に行っても【斬られた】奴が居るなんてェのは異常だぜ。』

孝晴はそう言っていた。まさにその通りで、理一が理解出来無いのは、布を切るのにどうやら刀を使っているらしい、という点だ。邏隊が被害者の衣服を調査し、小太刀か匕首か懐刀(かいとう)か、とにかく小型の刀の鋒(きっさき)をごく僅かに刺し、布地に滑らせるようにすると、似た切り口が出来ると突き止めた。これは初期に新聞に載っていた情報だが、愉快犯だと片付けるには余りに物騒である。悪戯で切りたいだけなら、鋏でも使えば良い。刀で着衣一枚だけを斬り付けるなど、それこそ一歩誤れば身体を傷付けるだろう。そんな事態が何時起きてもおかしくないと、理一は最近何処に行くにも、処置の為の最低限の医薬品、そして縫合用の針と糸を持ち歩いていた。消毒液もその一つだ。しかし今の所は危惧したような事態は起こらず、初めは恐怖が勝っていた市井の空気も、最近では「またか」程度である。その空気が、どうにも厭だ。それで、麟太郎に警兵の側で何か動いていないかと訊ねてみたのだが、警兵はこの件に手を出すつもりは無いらしい。実際、目的も分からず、人が殺されている訳でもない。住民達の不安を掻き立てたのも一瞬で、治安を乱しているとも言えない。警兵が組織として取締に乗り出すような案件では無いのだろう。届出せずに繕って済ませる者も居る事を考えれば、邏隊が把握しているよりも、実際の被害者は遥かに多くなるだろうに。

(……勘、なんて。不確かにも程があるが……引っ掛かって仕方ねえ。)

理一は溜息を吐き、麟太郎からの文を煖炉の火に翳して焼いてしまう。と、その瞬間。扉が開く。叩く音すらしなかった。弾かれたように立ち上がった理一を、扉の前に立つその人影は、じっと見据えた。

 

 

「『蝙蝠』達は、良くやっているようだね。」

 男の声が、耳に届く。何処か嬉しそうな響きを孕む、穏やかな声。この声が自分を導いて来た。明ける事の無い暗闇の中を。

「……。」

口を開こうと一瞬思ったが、辞めた。殺しならば慣れている自分を使わず、被検体を使ってよく分からない事件を起こしている理由も。導火線を剥き出しにしたまま歩き回っているような男を引き入れた理由も。彼の中に答えがあるならば、知る必要は無かった。

「私はね、君のそういう所が好きだよ、『飛鼠(ひそ)』。」

男の声が微笑む。此方の内心を悟ったらしい。

「……僕(やつがれ)は、彼奴(きゃつ)等に報いる事のみが、本懐故。」

「安心し給え、私の大切な『仔』を育てるには、沢山栄養が必要だからね。彼等も是非研究する事になるとも。だが、物事には順序というものがある。急いてはならないよ。」

嗄れた自分の声に応える男の気配が近付き、自分の頭に手が伸びる。幼児にするようなその仕草を、甘んじて受けた。自分のような者でも、男にとっては、子供どころか赤児にも等しいのだから。少なくとも、本気でそう思っているのだ、この男は。正気では無い。そんな事は分かっている。しかしその純粋な狂気に、燈に群がる羽虫のように、狂人達は惹き付けられる。……自分も含めて。

 飛鼠。男が自分に付けた呼び名。光に集る羽虫を喰らう、盲(めくら)の獣。そう、自分は、仲間等ではない。ただ男と目的を共にしている為に、此処に居る。それを妨げるならば、周囲の羽虫も喰わねばならない――

その男は、暗闇に浮かぶ「赤き月」の幻影を視ながら、節くれ立った手で刀の柄を強く握った。

 

 

 開け放した部屋は、この家の主が私室として使っている。当然、戸を叩きもせずに開く事は、通常であれば許されない。しかし女は直立したまま、安堵と疲労の混ざった表情で椅子に座り直す若い当主を、じっと見詰めた。

「お前、またこんな時間まで起きているのですね。」

「開けるなら声くらい掛けてくれないか、『きり』姉さん。」

女に応えて息を吐く理一。これでも一応は衣笠邸の主なのだが、と内心嘆きつつも、理一は女――異母姉で三女の「きり」に目を向けた。

「それに姉さんこそ、こんな時間まで起きてるものじゃない。早く寝ないと体に触るだろう。」

「それはお前も同じでしょう。」

「俺は鍛えてるし、慣れてるから平気だよ。」

言われても、きりは弟の顔から目を離さない。小さく薄い唇を結び、大きな目だけが目立つその顔。先に目を逸らしたのは理一だった。

「お前、初姉様に心配を掛けた事、忘れた訳では無いでしょう。」

「……。」

「だと言うのに、お前は、懲りて居ないのですね。一人で何をしているのです。」

「仕事だよ。家の事とか……色々あるんだ。」

理一の返答に、きりは僅かに眉を寄せて言い募る。

「家事なら、管理人に任せる事も出来るでしょう。」

「その分、余分な出費が出る。姉さん達の為にも、無駄遣いはできないんだよ。だから俺がやってる。分かってくれないか?」

理一の声音は穏やかだが、ごく僅かに苛立ちが混ざっている。それに気付けないきりでは無かった。

「そんな事は分かっています。お前が本当に私達の為を思っている事も。けれど、お前は私達に何も言わないじゃないですか。お前、そういう所が御父様にそっくりなんですよ、『トシ』。」

俯いたままの理一が、椅子の肘掛けに置いた手を微かにぴくりと動かした。正式な場以外で、彼は自分の名を呼ばれる事を嫌う。自分達姉妹弟(きょうだい)の、同じ父が、彼に付けた名。

「私、お前のそういう所が嫌いです。」

「知ってるよ、姉さん。」

「……。私は休みます。お前も早く寝てください。」

返事を待たず扉を閉め、踵を返したきりは、面食らったように立ち止まる。

「初姉様。こんな時間に何をしているのです?」

「……きりちゃんが部屋を出る音が、聞こえたから。」

 廊下の少し先に佇む儚げな容貌の女は、そう言って悲し気に笑った。きりは早足で彼女の元へ近付くと、手を取って歩き出す。初が逆らう素振りは無い。寝室の前までやって来た時、初がおずおずと言った。

「きりちゃん、もう少し、優しい言い方はできないかしら?トシちゃんも、色々頑張っているのだし……。」

立ち止まったきりは、大きな目を姉に向け、手を離す。その直前、彼女の手に少しだけ力が入ったのを、初は感じた。

「出来ませんし、するつもりもありません。御父様は、トシを甘やかすなと仰いましたもの。」

「でも……これでは、きりちゃんが嫌われてしまうわ。きりちゃんも、トシちゃんを心配しているのは同じなのに……。」

きりの眉が寄り、そしてゆっくりと下がる。彼女は首を振った。

「初姉様、あの子の恨みは深いんです。あのままのトシを私達が許容し続けたら、いずれあの子は破滅しますよ。御父様から目を背け続けて、恨みつらみを抱え込んだまま。だから、トシは自分で気付かなければいけません。ずっとこの家の事と、私達の事と……あの子の母の事しか考えて来なかった子ですから、荒療治になるのは覚悟の上です。姉様だって、その為に『あれ』を残したのでしょう?」

「きりちゃん……。」

「それに、私はトシが嫌いです。……あんな風に、自分を蔑ろにして、誰にどう思われても構わないなんて思っている人、大嫌い。」

最後の言葉を吐いた彼女を見て、初は手を伸ばすと、きりの頬をそっと撫でた。その表情は、穏やかで優しい。

「それは、きりちゃんも同じだわ。余り自分を嫌いにならないでね。きりちゃんは、本当に優しい子なんだから。」

姉の手は温かい。きりは、暫し口を噤む。きりが産まれた時、母が亡くなった。士族の出で薙刀の使い手であったそうだが、性格は穏やかな上、体も強い方ではなかったらしい。次姉の「月」も、体が弱い。きりが生まれてからの初は、乳母や使用人達と共に、まるで母親のように父と妹達の面倒を見て来た。異母弟の理一(としかず)が、そんな衣笠家で育った三姉妹の為に力を尽くしている事は、きりとて知っている。彼女は一つ、息を吐いた。

「私のは同族嫌悪ですよ。姉妹(わたしたち)の中で、私が一番、御父様に似ているんですから。」

 

 閉じられた扉を暫くの間見詰めていた理一は、深く深く息を吐くと、椅子の背凭れに体を預けた。

(きり姉さんは、一体何が気に食わないんだ……。)

研究は、母を殺した「病」を知り、元凶の男に近付く為。家の管理は、姉達の嫁入り先への持参金を出来る限り増やす為。必要だから行っているに過ぎない。衣笠家の当主であるからして、常に身体は鍛えているから、多少の無理も利く。そもそも衣笠家に男は理一だけなのだから、自分が役目を果たすしかない事は、おきりも分かっているだろうに。

(俺、姉さん達から逃げたいのか……?だから、妙な事件なんかが気になるのか?いや……雰囲気が厭なのは確かだ。けど……。)

 幼い日の記憶。あの時に、この家の女達も救うと決めた。決して蔑ろにして来たつもりはない。復讐心から飛び込んだ医学の道も、体の弱い姉の助けになっている。しかし、いつまで経っても、彼女達と打ち解けられた気がしない。お初は自分を心配しているが、あれは誰に対してもそうするだろうから、家族として、姉弟として特別だからという訳では無い。おきりは先の通りだ。唯一お月は、自分を「トシちゃん先生」などと呼んで笑うが、逆に言えば侍医と患者程度の関係なのだろう。あの男――父親が居る間は姉妹と接する時間など貰えなかったから、他人行儀になるのは仕方無いかも知れないが。分からない。自分の中にあの男が居るから?自分だけ母が違うから?それとも――。理一は無意識のうちに、自分の顔に手を触れる。

 

 あたし、姉さん達の事、嫌いなのかな。あたしと同じあいつの血が、姉さん達にも流れてるから。だから上手くいかないのかな。駄目だね、あたし。かかさまの仇も取れてないし、姉さん達も幸せにできない。どうしたらいいんだろう。……ねえ、どうしてあたしが会いに行く前に死んじゃったの。かかさまは誰より頭が良かったから、きっと、「こうすれば良いんだよ」って、言ってくれたよね。あたし、寂しいよ。恋しいよ。

 

「会いたいよ、かかさま……。」

 

 ごく小さく呟いたのは、急に襲い来た猛烈な眠気の所為だろうか。肘掛けに、するりと落ちた手が引っ掛かる。理一は椅子に掛けたまま、滑り落ちるように眠ってしまった。

 

「帝國の書庫番」

十六幕「初冬の風に混じる毒」



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帝國の書庫番 十七幕

新たな絲は寒晒しの中、二人を結ぶ紐となる。


 冬になると、闇夜に響いていた虫達の声も静まり、人々も心なしか口数を減らす。つい最近まで目を楽しませていた木葉は散って焚火の糧となり、年末前の僅かな平穏に浸る人々はその火に集って手を翳す。

 有坂孝晴は、あれ以来少しだけ変わった。週に二、三度は第三書記部に顔を出すようになり、仕事の進捗や確認を行う。直ぐにふらりと出て行ってしまうし、書記官達との会話は最低限であるものの、それでも以前に較べて関わりが増えたのは事実だ。彼らの孝晴に対する見方も少し変化したらしく、孝晴からではなく、書記官達から話し掛けてくる事さえ、時折ある。

 実際の所孝晴は、麟太郎を自分から遠ざけるべきだという気待ちを変えた訳では無い。けれど、最も近くで孝晴の異質さを感じて来た筈の麟太郎が、そして嘘を吐かない麟太郎が、それでも「孝晴の前で死なない」と断言したのだ。だから、自分も少しだけ、人に近付いてみても良いかも知れない、そう思った。それだけの事、だったのだが。まさか部下から苦言以外の内容で「一等書記」と呼びかけられる日が来るなど、夢にも思わなかった。麟太郎に買わせるようになってから久しく訪れて居なかった饅頭屋にも、足を運んでみた。案の定、女将は文官服姿の孝晴に目を丸くして驚いたが、それでも「坊っちゃんはこし餡だろ、ずっとうちの饅頭を食べてくれてたのは知ってるからねぇ」と手際良く饅頭九つを包んでくれた。記憶より少し白髪が増えたが、語り口は全く変わらない。流石に「ちょっと見ないうちに男前になったもんだね」と言われた事には、そこまで長い間会っていない訳ではないのにと閉口したが、女将の表情から察するに、どうやら自分は恥ずかしそうな顔をしていたらしい。女将は孝晴が木偶の三男と呼ばれている事を知っているだろうに、最後に「またいらっしゃいな」と笑った。

 文官服で夕刻の街を歩きながら、孝晴は考える。ここ数年、國外情勢は大きく変化した。その中で旭暉は上手く立ち回り、戦乱に手を出す事だけは避けている。それ故の平和が、今の帝都にはある。女将の饅頭の味は変わらず、ガス燈の数も増え、新しい石橋が架かり、詳細地図が作成され、最新の兵器による軍備も進んだ。しかし。

(何で今議会にゃ、軍事関連法案の提出が矢鱈多いンだ?いや、法整備自体は必要だ、そもそも旭暉は新政府になってから対外戦を経験してねぇ。備えあれば憂い無したァ言うが、まるで……。)

まるでこの先、外ツ國と戦争する事が決まっているかのような。孝晴は、包みから饅頭を一つ取り出して頬張る。勿論、此方にその気が無くとも始まってしまうのが戦争であるし、不意に巻き込まれる形の戦争は國にとって最悪の事態だ。だからこそ外交というものがある。他國と利害関係を一致させ、敵を牽制する。此迄の洋外省は、未だ國を富まするが先決と、一貫して領土拡大方針を避けて来た。当然だろう。うち幾つかは孝晴が潰したが、数年前までも叛乱の企てが続いていたのだ。國同士の戦争が出来る程、旭暉は「一つ」では無い。外ツ國からの情報が入って来るという事は、技術や思想や文化だけで無く、歴史――外ツ國同士でどのような争いが行われて来たかを知る事でもある。地続きの大陸がどんな戦乱を経験したかを思えば、周囲を海に囲まれた旭暉は幸いだ。しかし、洋外省が此処に来て外進を仄めかすような文書を出している事も気になっていた。内部で密かに情勢の変化を掴んでいるのだろうか?いや、ならば関連議案が提出される事など無いだろう。文書と自らの足での情報収集を基本とする孝晴であるが、それでも分からない事は伝手を頼るしかない。三ツ目の饅頭を咀嚼して飲み込むと、孝晴は息を吐いた。

(政治家以外で外ツ國の情勢に詳しいって言や、太田家なンだろうがなぁ……。俺ぁ理一の件ですっかり坊っちゃんにゃ嫌われちまったし、)

 あの若い太田榮羽音の貌を思い浮かべ、そして、ふと。そう言えば、あの切裂きの件。異人が被害に遭ったと言う話は「聞いていない」。孝晴は特に異人街と接点も無く、それ以外に異人と接する場所は(政府や軍の関係各所を除けば)観光地や別荘地くらいのものなのだから、彼らの状況が耳に入らないのは当然とも言える。盲点だった。

「……坊っちゃんの機嫌取りに行って、聞いてみっか……。」

あの「白狐」の方に、という言葉は、五ツ目の饅頭と一緒に飲み込む。こし餡饅頭は、季節が変わろうと、自身が変わろうと、相変わらず美味かった。

 

 

 それから半月。孝晴は面会の約束を取り付け、太田邸に向かった。早いもので、街の装いも風の匂いも、すっかり冬だ。泣き出しそうな曇天の下、孝晴は珍しく爪先まで洋装で固め、綿裏地の洋外套を羽織っていた。太田家の洋館を訪れるのに何を着たらよいのやらと悩んだ末、仕方なく訪問用の洋装を仕立てたのだ。普段洋装を着るのは晩餐会や親睦会等の催し事に出席する時くらいの為、礼装の三ツ揃で事足りる。しかし訪問の為だけにそれを着るのは、慶事も無いのに紋付袴で顔を出すようなものだと思えば、滑稽な事この上ない。そうして長兄が背広を仕立てた店を訪れた所、通常は一月程かかるが、有坂家の、そして贔屓の客である孝雅の弟であればと、二週間で仕上げてくれたのだ。まさかそんな所で兄弟の恩恵に与ると思ってはいなかったが、情報を得る為の行動は早いに越した事は無い。

 門番に用件を告げて少し待つと屋敷から案内役の使用人が迎えに来るのはいつも通りだが、どうも様子がおかしい。余り歓迎されてはいないようだ、と察したものの、先の件をこれ程までに引き摺っているのだろうか。先ずは説明から始めなければならないかと考えながら開かれる玄関を眺めていた孝晴は、隙間から飛び出して来た影に目を見張った。

 

「帰れ!」

 

どん、と胸に重い衝撃が響く。が、力が入り切っていない。孝晴は呆然と、太田榮羽音の金茶色の髪を見下ろしていた。彼は拳を握って、壁でも叩くように何度も振り下ろす。彼は、泣いていた。直後に四辻鞠哉が飛んで来て、落ち着いてくださいと宥めながら引き離す。

「帰れ、帰れよこのヤロウ!」

「……どうしたってんだぃ、榮羽音?」

そう言った時、四辻が此方に一瞬目を向けたのが孝晴には分かった。しかし榮羽音は泣き腫らした目で孝晴を睨む。

「とぼけるなよ!あれも……あれもお前がやらせたんだろ!ボクはお前のことなんか大っ嫌いだ!」

「坊っちゃん!」

「コイツの前で坊っちゃんとか呼ぶな!」

流石の孝晴も、何がなんだか分からない。見れば玄関には他の使用人も居るのだが、皆困惑しているようだ。一体この家に何があったのだ、と思っていると、四辻が榮羽音を抱きかかえるようにしながら、素早く声を発した。

「大変失礼致しました、有坂様。旦那様は応接間でお待ちです。吉野さん、有坂様の外套をお預かりして、ご案内を。」

「、承知致しました。」

指示を出した四辻は泣き喚く榮羽音を抱えて奥へ足を向けたが、去り際に確かに孝晴に目配せをした。その目からは敵意を感じない。どうやら四辻は孝晴を敵視している訳では無いようだ。一先ず孝晴は、言われた通り外套を預け、使用人について応接間へ向かった。

 

 深く礼をして部屋に入る。何処かの國で描かれた誰かは分からない男女が、額縁の中で踊っている。壁に食器を飾るのは外ツ國の風習なのだろう。そんな部屋の中で、太田公爵は立ち上がると、孝晴に右手を差し出した。孝晴も自身の右手で受ける。昔は剣を握っていたのであろう、固い皮膚の感触。ガラスの天板に螺鈿の花が透ける卓を挟んで椅子を勧めた太田卿は、自身も長椅子に掛ける。前掛けを着けた女中が紅茶と角砂糖を置いて、彼の合図で礼をすると部屋を出て行った。皿に並んだ角砂糖には、美しい花が咲いている。珍しいな、と孝晴が思っていると、太田公爵が息を吐いた。

「孝晴君には、以前の礼を、ちゃんと言っていなかったね。しかし、もう一つ、今度は謝罪しなければならない事が起きてしまった。」

「御子息の件ですか。何があったのか伺っても?」

太田公爵は沈鬱な顔で頷くが、ちらと扉に目を向けた。

「その話をするには、鞠哉が戻ってからにさせてくれるかね。先に本来の話をしようか。……私に忠告したい事がある、だったかね。」

「はい。と言うよりも、確認させて頂きたい事があり、お訪ねしました。それが、もしかしたら忠告になるやも、と。」

「……。」

孝晴の顔を見詰める太田公爵は、少し疲れたような顔をしている。孝晴は口火を切った。

「昨今の、切裂き事件についてはご存知ですか。」

「……勿論だとも。」

おや、と孝晴は思った。太田公爵は、まるでその話が出ると予想していたかのように、一瞬口を噤んだ。孝晴はより慎重に言葉を選ぶ。

「余り褒められた事ではありませんが、私は仕事を抜け出して街中を散歩するのが好きなんです。しかし、初めにあの事件が取り上げられてから、一月以上経つと言うのに、未だに、何処へ足を向けても『あの』話が聴こえて来るのです。隣の誰が着物を切られただの、繕わなきゃならない、だの。愉快犯だとしても、害意のある者が長期間彷徨(うろつ)き続けているなんて物騒ですから、早く下手人が見付かればよいと思っているのです、が。確認したいのはこの先です。」

一度言葉を切り、様子を伺う孝晴。公爵は黙って首を縦に振った。

「……私は、私なりに下手人の目的を考えてみましたが、てんで分からない。何故なら、被害を受けた者に共通点が無いのです。今の所、『誰でも切られる可能性がある』としか言えない。ただ、私の歩き回る範囲に居ない者の状況は、どうなっているのだろうかと、気に掛かったのです。端的に言えば、帝都に滞在する異人に、被害が及んでいるのか。外ツ國の技師らとも縁の深い閣下であれば、何かお耳に入っている事があるのではないかと思い至った次第です。」

太田公爵は、穏やかそうなその貌に憂慮の表情を浮かべながら、孝晴をじっと観る。

「それが忠告になる理由を、先に聞かせてくれないかね。」

「もし異人に被害があるにも関わらず、國が把握していない……私はしがないなりに役人ですから……となれば、彼らの身に危険が及んだ時、対応が後手に回ります。國の間で問題になりかねません。そして異人に被害が全く無いとしたら、恐らく意図的になされている。『誰でも被害に遭う』のではなく、『旭暉人のみが被害に遭う』事になります。それが知れたら、こう思う者も出る筈。『旭暉に恨みや不満のある異人の犯行だ』と。今の旭暉は、異人との交流を断つには未熟です。外ツ國の技術や製品の輸入を進める現状がその証左。異人排斥の動きなど起これば、國も……そして、御子息や閣下にも危険が及ぶ。これが、忠告です。」

「……。」

「幸い、私の知人には邏隊の者が居ます。邏隊でも何か掴んでいる可能性はありますが、手掛かりが増えるならば、それに越した事はありません。……それに、先だっては結果的に、御子息が友人を失う切掛を作ってしまいましたので……いち早くその可能性をお伝え出来れば、せめて罪滅ぼしになるのではないかと思った事も、確かです。」

そう言って、孝晴は口を閉じた。太田公爵は孝晴が話し終えてからも、じっと孝晴の顔を見詰めていたが、やがて小さく息を吐く。

「鞠哉、入っておいで。」

 その声に直様、扉の外から「失礼致します」と四辻鞠哉の声が応えた。奴も会話を聞いていたのなら話が早くなるな、等と思っているうちに、銀髪の長身が静かに滑り込んで来る。音を立てないように扉を閉めた四辻は、そのまま扉の脇に控え直立した。太田公爵は表情を和らげると、孝晴に目を向ける。

「回りくどくなって、済まなかったね。順番に話そう。まず、衣笠君と、武橋家の金次君の件については、伝えてくれて本当に感謝している。経緯を知らなければ、私は衣笠君の正義を踏み躙る所だった。無知とは恐ろしいものだよ、孝晴君。太田一族を預かる者として、それを私に報せてくれた事、改めて礼を言わせてくれ。」

「私は衣笠のお嬢様に頼まれて知った事を、お伝えしたまでです。理一(としかず)氏は、御姉妹に何も言わずにいたようで、姉君が不安がっておられたので。よく病院に出入りしている刀祢中尉に訊ねてみた所、彼が調べてくれました。」

そうかね、と公爵は穏やかに頷く。しかしその表情はすぐに曇り、そして彼は頭痛でも堪えるように、額に指先を触れた。孝晴は黙って彼の言葉を待つ。

「……君は先程、榮羽音が友人を失う切掛を作ったと言ったが、それは心配しなくて良い。まだ金次君はうちを訪ねて来るからね。あの子は人によって態度を変える癖がある。榮羽音はまだ、金次君を友人だと思っているよ。」

「そうでしたか。」

この場の誰も、それが良い事だとは思って居ないのは、火を見るより明らかだ。孝晴は短く答え、公爵は表情を変えぬまま、息を吐いた。

「次に、君に対する榮羽音の無礼についてだ。……鞠哉。」

はい、と答えて静かに公爵の隣に立った四辻は、封の切られた封筒と、握り潰されたような跡のある紙を、孝晴に見えるようにして机上に置いた。

「これは……。」

思わず孝晴は呟く。蚯蚓(みみず)がのたくったような、震え滲んだ文字。しかし内容はなんとか読める。

 

『キリサキマノ ヰジンハデテケ キヨクキ ノ テキ』

 

「これを榮羽音にと、門番が子供から受け取ったそうだ。危険な物ではないかと封を開けたのは門番だがね、紙の内容までは確認しなかったんだよ。」

孝晴は眉を寄せてその紙を見ていたが、それについて頭を回す前に顔を上げる。

「しかし何故御子息は、これを私が届けさせたと?」

それを聞いた太田公爵は、隣に控える鞠哉と一瞬目線を交わし、重苦しく口を開いた。

「これが届いたのが、今朝だったからだよ。」

「……。」

「榮羽音は、……残念な事にだが、金次君を結果的に傷付けた衣笠君と、彼を庇った君に対して余り良い感情を抱いていない。それでも、少し前に一度金次君が顔を見せてからは、済んだ事だと思えるようになっていたんだ。だが……君が今日訪れると知っていた榮羽音は、これを見て、君の仕業だと思った。『今度は自分を直接傷付けて笑いに来たんだ』とね。もう一つ言えば、先に君が言った通り、昨今の切裂きの件で、私の知る限り、異人に被害は無いようなのだよ。政府の関係者や外交官から、工場の指導者までね。だから、君がその話を始めた時には驚いたよ。ただ……。」

そう言うと公爵は四辻を見たが、二人が何か言う前に孝晴がその先を引き取った。

「成程、だから敢えて御子息を止めずに、私の反応を見たのですか。」

「!」

「あの時、四辻さんと目が合いましたから。」

驚いて顔を上げる公爵だが、孝晴の目は四辻鞠哉を向いていた。彼は白い顔を確認するように公爵へ向ける。ゆっくりと頷く公爵。

「……はい、その通りでございます。重ね重ねの御無礼を、どうかお赦し下さい。」

「それで、四辻さんはどう思いました?」

「有坂様は、少なくともこの手紙の存在を知らずにいらした。私にはそう感ぜられました。」

頭を上げた四辻の慇懃な声を聞きながら、内心、孝晴は苦笑いした。そんな方法で確かめるなどと入知恵したのは、間違いなく四辻だろう。太田公爵はそこまで人を疑わない。榮羽音程ではないにしても。

「四辻さんの言う通り、私は『これ』については全く知りませんでした。それに、子供が持って来たと仰いましたか?私に近付く子供など、姪くらいのものなので。駄賃でも渡して運び屋をさせるにしても、相手を探す方が難しいですよ。」

太田公爵は孝晴の言葉に苦笑する。有坂家が「安易に触れられない家」だと知っている為だろう。

「それを肯定しては、君に礼を失するね。……本当に済まなかった。こんな手紙が届いたのだから、君の言った通りの事が、この先起こるかも知れない。忠告を受け容れさせて貰うよ。」

孝晴は頷いた。しかし、そうなると確認しなければならない話が増える。孝晴は拡げられた紙に目を落とし、それから公爵を見詰めると、微笑んだ。

「ところで……少し、この紙を拝見したいのですが、その前にお茶を頂いても?」

「ああ、済まないね、もう冷めてしまっただろう。鞠哉、新しく淹れてくれるかな。」

「畏まりました。」

 柔らかな物腰を崩さずに素早く二人の前に置かれたティーカップを取り、四辻は奥の部屋に姿を消す。その間に孝晴は目の前に残された角砂糖を眺めた。白い立方体の上に、様々な形や色の花が載っている。砂糖細工なのだろうが、飴では無さそうだ。その様子に、公爵が何故か嬉しそうに笑みを浮かべた。

「気になるかね?」

「ええ、このような形をした砂糖は、我が家では使った事が無いもので。渡来物ですか?」

「鞠哉が戻ったら、聞いてみると良いよ。」

孝晴が何か答える前に、盆を手にした四辻が戻って来る。机と同じ高さに腰を落とし、盆から二つの空のカップを机に置いたと同時に、盆の上の砂時計が落ち切った。小さな網を乗せたカップに、ポットから濃い飴色の液体が注がれる。最後の一滴を孝晴に近い側のカップに落とし、網を外す。四辻は二人の前に静かにカップとスプーンを置くと、カップ以外の物を纏めて持って出て行き、殆ど時間を置かずに戻って太田公爵の斜め後ろ側に控える。普段は緑茶を好む孝晴でも、香りの立ち方が先程のものとは全く違うと感じられた。そう思っている間に、太田公爵が微笑んで言う。

「鞠哉、孝晴君がお前に聞きたい事があるそうだよ。」

あんな雑談のような内容を、公爵自らが伝えるとはと孝晴は内心驚いたが、それは四辻も同じらしく、一瞬彼の身体に緊張が走る。しかし四辻はすぐにそれを消し、不思議そうな表情を作った。

「私に、でございますか。お答え出来る事であれば良いのでございますが。」

「いや、大した事では。この……角砂糖にこのような精巧な細工を施した物を、見た事が無かったもので、何処で手に入れたのかと。貴方なら分かると閣下が仰いまして。」

 その瞬間、四辻は目を見開き、そのままの表情で公爵に目を向けた。公爵はにこにこと笑っている。四辻は主人から目を逸らすと、少し間を置いて、躊躇うように口を開いた。

「それは、……私が作ったものでございます。」

「えっ、」

「勿論、職人の造形には及ばないと承知しておりますが。」

思わず声を上げてしまった孝晴に、少し早口で言葉を重ねる四辻。その目は恥ずかしそうに伏せられていた。こんな顔もする男だったのかと内心驚く孝晴であったが、公爵は優しげ気に目を細める。

「孝晴君、幾つか紅茶に入れてみてくれるかな。」

「ええ、はい、では。」

言われるままに角砂糖を摘み、二個、三個と落としてみる。温かい紅茶に触れた立方体はさらりと溶けてゆくが、薄い紅色や黄色の薔薇は水面に咲いたままだ。

「成程、溶ける速さが違うのですね。これは……何で出来ているのですか?飴、では無さそうですが。」

「簡単に申し上げれば、砂糖と水飴を混ぜたものでございます。そうすると粘度が出まして、細工が行えるように……、失礼致しました、未熟な身で不要な話まで。」

四辻は頭を軽く振ると口を噤む。公爵は同じく花の浮かぶ紅茶を口へ運んでからソーサーに戻すと、苦笑した。

「遠慮する事は無いと思うがね、私は。お前の菓子作りの腕は、職人にも劣らないものだよ。」

「……恐れ入ります。」

孝晴はそんな二人を眺めつつ、紅茶のカップに口を付けた。太田公爵は、四辻鞠哉を「ただの執事」とは明らかに違う目で見ている。そして四辻も、それは同じらしい。彼が太田家を護る為に動く理由の一つは「これ」かも知れないと孝晴は感じた。甘く芳醇な香りの液体が喉を通り、胃の腑に落ちる。角砂糖三ツに、少量の砂糖細工。これで少しは「普通に」頭を回せる。カップを置き、孝晴はゆっくりと息を吐いた。

「では、閣下。幾つかお尋ねしたい事がございます。」

 

 太田卿と四辻から聞き出せた話は、以下のような物だった。異人に被害は無いが、元々帯刀習慣のある旭暉の人間よりも、事態を深刻視している事。それもあってか、ここ一月の間に拳銃を携帯したがる異人が増えた事。旭暉人には認められている武装の権利が、異人には無いと不満が出ている事。逆に、民が皆刀を振り回しているなど、やはり旭暉人は野蛮だと揶揄する声がある事。そして、切裂きの件で嫌がらせのような手紙が届いたのは、彼らが知る限り、この一通のみである事。

(議案の件は、異人の武装申請が増えたからか?いや、一月前にゃもう議案作成にかかってっから、捩じ込んだにしては数が多い。洋外省の直近の書類は、第三にゃ回って来ねェからな……。第二を覗いておくべきだったか。)

 手紙を届けた「子供」についても、近所で見た記憶がない事と、年齢が十前後の娘であろうという事以外、門番の印象には残らなかったという。見た目や言葉遣いにも特徴は無く、着物もごくありふれたものだったらしい。ただ貴族の娘でない事は確かで、笑顔で「よはねさまにおてがみです」と差し出す仕草は微笑ましく、中にも紙が一枚入っているだけであったため、まさかそんな内容が記されているとは思わなかったそうだ。公爵は眉を下げて孝晴を見た。

「やはりこうなると、旭暉の人間が異人を嫌って事を起こしていると思うべきなのだろうか?」

「理由は分からないにしろ、この手紙の差出人は旭暉人ですよ。」

静かに、しかしきっぱりと言い切った孝晴に、公爵が目を見開き、四辻が僅かに眉を寄せる。

「まず紙が御子神製紙の國産洋紙ですから、異人が手に入れられる場所は限られて来ます。少なくとも異人街では輸入品が主流の筈です。異人のつけペンには、輸入洋紙の方が合う為でしょう。そして、洋紙に筆で書いているというのも可笑しな話です。異人が洋紙を手にした状態で、筆を使うでしょうか。筆跡を悟らせないようにする為だとしても、この墨はよく磨られて斑(むら)も無い。慣れた者が磨っていますよ。そして……これは、文字を書こうとして書いたものに見えないんですよ、私には。」

「ま、待ってくれ孝晴君。どうしてそんな事まで分かるんだね。」

滔々と語る孝晴に対し、思わず声を上げた公爵に孝晴は目をぱちくりとさせたが、ああ、と声を上げて微笑んだ。

「私は『書庫番』ですよ。月だけでも何千と書類を見ていますから、紙や筆記具にはそれなりに詳しいんです。なんなら、同じ紙さえあれば、これと見分けが付かない程度の写しを作る事も出来ます。それが仕事ですからね。」

「あ、ああ、そう言えば君は公文書館の一等書記だったね、成程。」

「こんな事に仕事が役立つとは、思っていませんでしたけれども。やっていれば自然と詳しくなるものです。」

苦笑して見せた後、孝晴はもう一度二人を見た。太田卿は納得したようだ。四辻は静かな表情で控えているが、その裏には何処となく固いものがある気がした。ひとまず孝晴は話を続ける。

「それで、この文字ですが。確かに形だけ見れば片仮名に見えます。しかし、これには文字としての流れが全く無い。力の入れ方も、線を引く方向すら一定していません。直線ばかりで、滲みも多いので分かり辛いですが。まるで『文字を知らない者に、線を引く指示だけを出して書かせた』ような……。」

「……子供、でございましょうか。」

ぽつりと、四辻が呟いた。孝晴は目を細めるが、首を振る。

「分かりません。ただ、十程の歳であっても、何らかの理由で教育を受けておらず、誰かの指示するままに書いたものを持たされた可能性が無いとは言えませんね。しかし、太田家宛ではなく『御子息宛』であったのは何故なのか。そして私が訪問する当に今日届けられたのは、偶然であったのか。……一つ事実として、御子息は心を痛められ、そして私に対する怒りを再燃させた。これが意図して行われたならば、この切裂きの件、有坂家も無関係ではいられぬやも知れません。」

「……。」

太田卿は眉を寄せて手を組み、額をそこに軽く当てる。慌てて孝晴は言った。

「御子息に私が嫌われて済むなら、私だけの問題で終わります。そう深刻な顔をなさらずに……私はあくまで有坂の道楽息子ですから、余程の事で無ければ、有坂家では大した扱いをしませんよ。」

「そうではないよ、孝晴君。」

顔を上げた公爵の表情を見て、孝晴は虚を突かれた。彼は孝晴をじっと見詰める。その目は哀しげで、何処までも優しい。

「今日君が来てくれたのは、私に忠告する為だったね。そして先の件でも、私に事実を伝えてくれた。君は私達にとって恩人なんだ。だからこそ……私は君を心配している。もしこの件を企てた者の真の狙いが異人なのだとしたら、関係の無い君を、今日此処で巻き込んでしまった事になる。君の身に何かあったら、私の責任だ。そして榮羽音の事も……どうか、気に病まないで欲しい。そして、自分を蔑ろにしないで欲しい。世間が何と言おうと、どんな立場であろうと、君が誰かの為に行動出来る気高い人間であるのは、間違い無いのだからね。」

 今度は孝晴が目を剥いて固まった。いや、二人から見たらその時間は一瞬だった。しかし孝晴は、自身の主観でたっぷり十数秒間、硬直していた。やっと公爵の言葉を咀嚼し終えた時、孝晴は自分が混乱したのだと気付く。今迄、自分の身を――まるでただの人間のように――案じるなど、考えた事も無かった。兄を殺しそうになった時も、師に剣を向けられた時も。まして、自分の行動が気高いなどと表現されるとは、脳内の何処にも想定されていなかったのだ。我に返った孝晴は、顔を隠すように頭を下げる。自分がどのような顔をしているか分からなかった。

「……御心配、有難う御座います。本日のお話は、邏隊の友人に伝えても構いませんか。」

「ああ、構わないよ。因みに、相手は誰なのか訊いても良いかな?」

「帝宮邏隊の多聞巡査です。これも、実は街を遊び歩いていた時に知り合いまして。職分は違っても邏隊員ですから、何かしら計らってくれるでしょう。」

「成程、遊び歩きもなかなか、無駄にはならないものだね。」

「ええ、早くこの件が収まる事を願いますよ。」

顔を上げて答えた時には、孝晴の表情は普段の笑みの形を作っていたが、普段よりも少し速い心臓の動きは、頭を落ち着けても暫く戻らなかった。

 

「雪だ。」

 話を終え玄関の扉を出ると、暗い空からひらりとひとひら、白い物が舞い落ちる。当然のように見送りに着いてきた四辻が「今年の初雪でございますね」と空を見上げた。孝晴は横目で彼を見遣る。銀色の髪に白い肌、青い瞳。雪山に棲む銀狐を思わせる彼の目は、普段よりも遠い所を見ている。孝晴が振り向くと、四辻はそれに合わせて姿勢を正した。

「今日は色々と話が出来て有意義でした。邏隊がどう動いてくれるかは分かりませんが、何かあればお伝えするつもりです。」

四辻は普段の慇懃な笑みで「有難う御座います」と頭を下げた。しかし、孝晴はその声音に微妙な変化を感じる。ふむ、と少し考えると、孝晴は、歩き出した自分に合わせて一歩足を踏み出した四辻の、その爪先を軽く踵で蹴飛ばした。

「っ、」

「おっと。」

四辻は何かに躓いたように体勢を崩す。その体を受け止め、声すら漏らさないとは、と孝晴は内心舌を巻いた。しかし流石の四辻も「何も無い」場所で転びかけた事に驚きはしたようで、孝晴に縋るような姿勢になり息を呑んだその隙に、孝晴は彼に耳打ちした。

「お前さん怒ってンだろ。あんな文送って来た野郎に。」

「!」

「何か掴んだらお前さんにも情報をやる。知ってる事があれば俺にも流してくれねぇかぃ。返事は要らねぇ、このまま何事も無かったように戻りな。」

「……。」

孝晴の手で立たされながら四辻は目を丸くして絶句したが、直後に逆に目を細めると、頭を下げた。

「大変申し訳ございません、とんだ失態を。」

「いえ、気になさらず。」

笑顔を作った孝晴だが、姿勢を正した四辻の表情を見て、笑みを消す。

「失態をもう一つ、お赦し頂きたく存じます。実は、有坂様にお渡ししなければならないものがございました。少しだけ、お時間を頂戴出来ますでしょうか……?」

四辻は真剣な表情のまま、声色だけをさも申し訳無さそうに変えていた。孝晴が頷くと、四辻は身を翻す。器用な男だと思いつつ待つと、雪の染みが石畳に幾つか吸い込まれる程の間に四辻は戻って来た。手には小さな包みが抱えられている。

「花飾りを付けた砂糖です。有坂様がお気に召したようなので差し上げるようにと承った事を、『うっかり』忘れてしまい……大変失礼致しました。」

「そうでしたか、それは有難い。よい土産になります。」

孝晴が包みを受け取る。同時に、四辻が殆ど声を出さずに囁いた。

(『頸に赤い印のある者』を見たら、注意して頂きたく存じます。)

「……。では、これで。榮羽音にも宜しくと伝えて下さい。」

「承知致しました。」

軽く会釈する孝晴に、深々と礼をする四辻。情報だけでなく、大きな収穫を得られた事に満足しながら、孝晴は革靴で冷えて軋む路を踏み締めた。

 

 

 既に使用人も皆寝静まった館の中。絨毯の上を歩く白髪の長身は、誰もいないのを良い事に、大きく深く息を吐いた。

(思いの外、時間をかけてしまった。)

有坂孝晴の訪問直前に届いたあの手紙の為、彼が帰った後も榮羽音を宥め、しかも咄嗟の思い付きで角砂糖を渡してしまった為に、皆の仕事が終わった後に減った分を作り直し、更に通常業務の確認も終えた所で、とうに日付は変わっていた。しかし、あの有坂孝晴から協力を打診されるとは。だが、互いに利用価値があるとして持ちかけられた取引だったのは確かだ。彼は異人の自分より市井に詳しいだろう。孝晴も、異人に関する情報源として自分を利用出来ると踏んだ。太田家を、そして――榮羽音を泣かせた不届者の尻尾でも掴めるなら、乗ってやる。そこまで考えた時、鞠哉の胃が小さく鳴った。

(…………腹が減ったな……。)

鞠哉は痩躯ではあるが、かなりの長身だ。何があっても対処出来る様に時間を見付けて稽古もしている。主人の夕餐後に使用人も食事を摂るが、今夜は先の作業等を行っていた為に何も口にしていなかった。鞠哉は少し迷ったが、どうせ朝も早いのだから眠らなければよいと、厨に向かう。布巾の被せられたパンの塊から端を薄く二切れだけ切り落とし、床下の貯蔵室でハムを数枚削り取ってパンに乗せ、挟む。自分の手巾にパンを包んでから、包丁を綺麗に洗って片付け、包んだサンドイッチを持って自身の部屋へ向かう。

 

「……!」

「マ……もご、」

 

 扉を開けた瞬間に声を上げなかった事に対して、常に冷静であるよう訓練を積んで来た自分を褒めてやっても良い、と鞠哉は思った。部屋の中から飛び付こうとした榮羽音を逆に此方から抱えて口を塞ぎ、後ろ手で扉を閉めて鍵をかけ、扉の横にある寝台に押し付けるまでが一連の動きでなされ、ぱちぱちと目を瞬かせる榮羽音に、鞠哉は声量を抑えながら叫んでいた。

『こんな時間まで何やってるんだ、馬鹿息子!俺の部屋は個室とは言え使用人部屋だぞ、主人の子が簡単に出入りするなとあれほど!』

『だって僕……あっ、何か持ってる!ハムの匂いだ、お前こそこんな時間にずるいぞ!』

『お前は夕食を済ませただろ……はぁ、もういい。少しは休ませろ。時間が無いんだから……。』

二人の会話は鐵國語だった。鞠哉は寝台から離れ燕尾服を脱ぐと刷子(ブラシ)をかけ、戸棚に仕舞う。肌着だけになると、その間に勝手に寝台の上で手巾を開けていた榮羽音の隣に腰掛ける鞠哉。

『半分食べるか。』

『いいの!?』

『本当は良くない。』

そう言いつつも、鞠哉は榮羽音の手からサンドイッチを取り上げ、綺麗に半分に割って手渡した。榮羽音は空腹でそれを欲しがった訳では無い。ただ、同じ事をして安心したいだけだと、鞠哉には分かっていた。それがたまたま、今回は食事だっただけだ。本当に子供なのだ、彼は。小さなパンを飲み込むまでの僅かな時間だけ、薄暗い部屋は静かだった。机上の洋燈は、榮羽音が灯したのだろう。

『……あのさ。有坂の奴と、何話したんだよ。』

ぽつりと、榮羽音は言った。鞠哉は少し考える素振りを見せたが、静かに答える。

『互いに、知っている事を話した。それだけだ。有坂孝晴には、お前を貶める気は無い。』

『……。』

俯いて黙り込む榮羽音。そして彼は、そのまま鞠哉の肩に凭れ、手をぎゅっと握った。

『俺が言っても信じられないか?……【ハンス】。』

その言葉に、榮羽音の体がぴくりと震えた。そして、ゆっくりと頭が左右に振られる。

『ううん……信じる、信じたいよ。けど僕は、あいつ、嫌いだ。今日も……僕なんて眼中に無かっただろ、あいつ。』

『……ハンス、』

『いい、何も言わなくて。僕に何の才能も無いのは、僕が一番分かってる。だからパパも僕には何も任せてくれないし、あいつも僕を見下してる。金次だって、僕が信じるのをやめたら、きっと僕を見捨てる。何をやっても駄目なんだ、僕は。』

『……。』

鞠哉は鎮痛な面持ちで榮羽音の頭を見下ろす。孝晴が言った様に、今朝の手紙で榮羽音が傷付いたのは事実だ。怒りはなんとか治ったようだが、榮羽音は傷付くと自己否定に走る。鞠哉はそっと彼の肩に腕を回し、そのまま胸に抱え込んだ。

『お前の才能は、目に見える物じゃ無い。それにお前、外ツ國の言葉は直ぐ覚えるだろう。それは才能の一つだ。』

『言葉を覚えても、使える頭が無いもの。』

『だから俺が居るんじゃなかったのか、何なりと命令しろよ、お坊ちゃま。』

『……。』

姿勢を崩して寝台に倒れ込むと、ぎゅうと抱き締め返される感触があった。甘やかしている自覚は鞠哉にもある。けれど。

『僕の事分かってくれるのは、お前だけだよ、マリー。僕のマリー、僕だけのマリー。』

『……。落ち着いたなら、さっさと寝ろ。もう明けの八ツを過ぎるぞ。』

『うん。』

 

 

「おかしくないよ、だってお前の目の中、聖母さまがいる。聖母さまの色だ。ぴったりだよ。」

「じゃあ、こうしよう。みんな僕をヨハンって呼ぶけど、お前だけはハンスって呼んでいいよ。これはパパにもないしょ。僕とお前だけ。ね、良いでしょ、マリー。」

 

 

 胸の中で丸くなっている大きな子供は、確かにあの日あの時、鞠哉を救ったのだ。だから、何があっても……。

天井を眺めながら過去に思いを馳せかけたが、一つ言い忘れていたと鞠哉は半身を起こす。

『そうだ、寝る前にもう一度口を磨いて……って、ハンス?おま……おい、寝ろって此処で寝て良いって意味じゃあない!』

榮羽音は鞠哉の腰を捕まえながら、既に寝息を立てていた。叩き起こそうかと一瞬頭を過ぎるも、鞠哉は溜息を吐いて再び寝台に身を預け、榮羽音が落ちないようその体を引き寄せると、片手でなんとか布団を被せてやる。

(……これを赦してしまう俺も大概だ。)

 鞠哉はもう一度深く溜息を吐くと、腕を枕に天井を見上げた。洋燈はそのうち燃え尽きて消えるだろう。あと一刻もすれば朝の支度の為に起きなければならない。その時に榮羽音は部屋へ戻しておこうと決め、鞠哉は瞼を閉じる。二人分の体温を包む布団は、普段より少しだけ暖かい。灯りの漏れる窓の外では、初雪が静かに地面を染めて行くのだった。

 

「帝國の書庫番」

十七幕「黒と白、寒と暖」



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帝國の書庫番 十八幕

時は少し戻り、世が冬の間口に踏み入った頃。


 灯りを落とし、煖炉で燃える火が薄く照らすだけの部屋。格子型の硝子が綺麗に並ぶ窓の向こうには、漆黒の中にぽつりぽつりと主張する瓦斯燈の灯りが見える。煖炉のお陰で部屋は暖められているが、体が熱いのはそれが理由では無い。心臓の音が体中に響いて、頭の天辺から脚の爪先まで一つの塊にでもなったようだ。理由はただ一つ――来るのだ、彼が。彼の愛しい人。文の遣取りは最初程頻繁にでは無くなったが、それは留子の気が変わったからではない。秋の終わりまで謹慎の名目で数を減らし、そして二人で「当初のように頻繁な文通を続ければ、何処かに嗅ぎ付けられる可能性がある」として、控えるようにしたのだ。しかし、今夜。麟太郎からの返信に記載された日。それこそ、一日中自分を保っているのが精一杯。やっと了承して貰えたのだ。窓から離れているようにと文には書いてあったが、それでもどうしても目は行ってしまう。寝台に腰掛ける留子の膝には、猫のコハルが丸まっている。まだ甘えたなコハルの頭を撫でながら、留子は暗闇の中の点々を数えて、心を落ち着けようとしてみた。一つ……二つ……八つ、九つ……。

 その時、数えていた灯りの数が急に減った。驚いている間も無く、一瞬、冷たい空気を感じる。そして、その時にはもう、刀祢麟太郎は其処に居た。陰の中に溶け込むような烏羽の軍服は、初めて会った時から何ら変わっていない。音も無く、ぴたりと窓を閉めた彼は、黙って留子に深く頭を下げる。留子は動け無かった。顔を上げ、直立した麟太郎がじっと留子を見ている。数秒間、睨み合うように硬直していた空気を、猫が破る。留子の膝からひょいと飛び降りたコハルは、とてとてと麟太郎に近付き、その足首に体を擦り寄せた。

「……毛が。」

「あっ……。」

猫の方へと目線を逸らし、小さく呟く麟太郎。留子が何の意味も無い声を上げたが、麟太郎は静かに屈むと、脚に絡み付く猫を抱き上げる。

「コハルですか。」

「……はい。」

「大きくなりましたね。」

「……はい、麟太郎さまのお陰で。」

留子は立ち上がり、麟太郎に歩み寄る。留子の言葉に首を傾げる麟太郎から猫を受け取り、寝台に載せると、彼女はぱっと駆けて麟太郎を抱き締めた。

「お会い、したかったです。」

「……。」

麟太郎は煖炉を背にしている上、留子と殆ど背の高さが変わらないものだから、抱き着いてしまうと留子から表情は全く見えない。けれど、彼がどんな表情をしているかなど考える意味は無いのだ。大切なのは、彼の心なのだから。

「……済みません。このような時、男はどうするべきなのでしょうか。」

「ふふっ。」

棒立ちのまま、淡々と訊ねる麟太郎。留子は腕に少しだけ力を込めた。

「麟太郎さまのなさりたいようにすべきです。わたしは、抱き締められると安心しますから、抱き締める事も好きです。」

「そう、ですか。」

 ややあって、麟太郎の手が留子の頭に触れた。そしてゆっくりと髪を滑る。そう言えば、彼は有坂孝晴に対しても、同じようにしていた。これが今彼にできる唯一の愛情表現なのだと思うと、留子は堪らなくなって、そのまま暫く麟太郎を離さなかった。

 

 

 冬に入り気温が下がると、体を壊しやすくなる。廓の中でも風邪引きが増えているようだ。次姉の体の調子も管理するのは自分ゆえ、早めに薬を買わなければならない。そんな事を考えながら、衣笠理一は軍服姿で通りを歩む。休日なのだから外出着でも良いのだが、以前孝晴に言われたように、目立って仕方がないのだ。孝晴や麟太郎のように、気にしないて居ようとしても、寄って来られると遇らうのも面倒だ。それに軍服ならば、軍医であると一目で分かる。彼が向かっているのは、町の薬屋だった。薬師で町医者であった、西方という老人の診療所を兼ねた薬屋では、ほぼ一通り必要な物が揃う。理一も医学を志した頃から懇意となり、西方老人を医者として尊敬していたが、彼はつい先日、天寿を全うして亡くなってしまった。薬屋は助手をしていた女が継いだのだが、この女がまた変わり者で、常に顔の下半分を布巾で覆い、一切言葉を発しないのだ。西方老人が指示を出せばその通りに動いていた為、聾では無いようだが……その西方老人はもう居ない。今迄通りに薬が手に入るのか、そもそもあの女――西方老人は「トーコ」と呼んでいた――だけで店を続けているのか。薬の調達と、店の様子の確認。その二つが理一の目的だった。問屋が軒を連ねる一角の、通りを挟んだ角にある建物がそれだ。入口の戸は開いている。先客がいるな、と感じた瞬間、理一の眉が僅かに寄せられた。その声がどうやら、男の怒鳴り声であったからだ。理一は歩調を緩め、開け放たれた戸に静かに近付いてゆく。内容が聞き取れるまで近付くと、今度こそ理一は顔を顰める。どうも、男は腰痛で此処を訪れたらしいが、湿布薬を勧められた事が気に食わない――というより、店にいる「女」に直接処置を施せ、身蓋もなく言えば「触れ」と迫っている。

 理一は「性の奉仕が欲しいなら女を買えば良い」などと口が裂けても言わないが、それでもまだ、買われれば女に金が入る。まして薬屋に奉仕を求めるなど言語道断だ。無理に手を出すようなら飛び込んで助けようと戸口に取り付き中を窺った理一は、おやと意外そうな顔をした。土間の隣の板張り床の上で、壁一面の薬箱を背にして台の後ろに座っている女は、顔の下半分を隠したあの「トーコ」であったが、彼女の目は怒鳴り付ける男を全く恐れて居ない。怯えて呆けている訳ではなく、例えるなら組手で相対した時、相手の隙を伺うような目だ。腕に覚えがあるのだろうか。男が痺れを切らし、彼女の胸倉を掴もうとしたか、それとも顔の覆いを剥ごうとしたか、右手を突き出す。案の定と言うべきか、その右手は彼女を捉える事は無く、逆に素早く立ち上がった彼女の右手に捉えられ、彼女が鮮やかに腕を一回転させると、男の手は背中に捻り上げられていた。

「いでででで、痛てえっ!この糞婆、何しやがる!」

歳上の女に手を上げようとして、何を言っているのだろう。理一は噴出すのを堪えながら戸を潜る。男は慌てて新たな客の方を見たが、女は一呼吸置いて男の腕を固めたまま、ゆっくりと理一を見て、少し目を細めると、頭だけで小さく会釈した。

「おいあんた、その色は軍医か!?この暴力婆なんとかしてくれ!」

叫ぶ男。理一は軍帽の鍔を上げ、男に向かってにっこりと笑いかけると、言った。

「もう少し捻っても折れないぜ、『トーコ』さん。」

一瞬女は目を開いたが、その目が弧を描くと同時に、男の情けない悲鳴が店内に響き渡った。

 

「先生が亡くなったばかりだってのに、災難だったな。しかし、あんたに武の心得があるとは知らなかったよ。」

 男はほうほうの体で逃げ出してゆき、店の中に客は理一だけだ。彼女は理一の言葉を聞くと、傍に置いてあった洋紙を取って、鉛筆を走らせる。

 

 オミ苦シイ処ヲオミセシテ、申シワケゴザイマセン

 

その文の上には、薬の名前や他の客への問いと思われる文に線が引かれている。筆談で会話しているのだ。理一は首を振ると、彼女の目を見る。

「気にしなくていい。ただ、そこらの悪党なら捻れそうな腕はあるにしろ、心配なのは心配だ。……名前、先生が呼んでたのを聞いただけだったから、改めて訊いても構わないか?」

彼女は頷くと、先の一文に線を引いて消し、その下に「透子」と記した。透子(とおこ)。理一が礼を言うと、彼女は微笑んで頷く。何となく、このような表情を何処かで見た事があるような気がした。ただ、それは余りにも朧気な感覚であった為、理一は一先ず問いを重ねる。

「手前勝手で申し訳ないんだが、あんなのが寄って来て此処が無くなるなんて事になったら、俺も困っちまう。だから、出来る事があれば協力したい。その為に、今の透子さんの立場を教えて欲しい。あんたは此処を継いだって事だが、薬師も医者も継いだのか?」

透子は一つ頷く。では、彼女は西方老人の弟子であったという事か。

「もう一ついいか?」

頷く透子。

「透子さんは、今一人で此処を回してんのか?」

首肯。理一は首を振るだけで答えられるように言葉を選んでいた。彼女もそれを理解しているようで、手許の鉛筆は動いていない。

「……助手や弟子を取る気は、無いのか。」

彼女は頷くと、理一が何か言う前に手を動かして、こう書いた。

【私は唖です。人を雇って動かすにも字を書かねばなりません。二度手間です。私が直接、患者や客に対応した方が早いのです。】

「……。」

確かにその通りだ。しかし聾ではない唖というのは、どのような理由であろうか。喉の病気か、心因性のものか、はたまた……。理一は彼女の目を見る。その表情は真剣だ。

「一つ思った事があるんだが、それを伝えるには、透子さん、あんたが話せない理由を、知っておきたい。……嫌でなければ、教えて貰えないか。」

「……。」

彼女は少し瞼を伏せる。しかし嫌がっているというよりは、何かを考えているような表情だ。やがて透子は、理一の目を見た。そして紙を手許に寄せ、暫く何かを書付けてゆく。そしてその紙を理一に見せぬまま、手を頭の後ろに回した。顔の覆いを外すようだ。彼女は顔に何の色も浮かべる事なく、ごく自然に、髪でも解くように、布を解いた。

理一は、僅かに目を見開き、それを見詰める。彼女の両側の頬には、肉が陥没したような疵があった。更に彼女は口を開いて見せる。舌が無かった。

「……。そうか。」

小さく呟いた理一に、透子はにっこりと微笑む。その笑みに他意は読み取れない。彼女は先程書いた紙を理一の前に向けると、理一がそれを見ている間に、手早く元通り顔を覆った。

【私は武家の娘でした。当然、兄弟姉妹皆、武芸に励んでいました。弓矢の手入れをしていた弟が、誤って手を滑らせ、矢は私の顔を貫きました。その時に駆け付けてくれたのが、西方先生です。舌は矢に持っていかれました。もう丗年も前の事です。】

「……それで透子さんは、家を出て、先生の弟子になったのか。」

頷く透子。理一は顔を歪めた。彼女は恐らく四十後半、丗年前ならば女盛りの少女であった筈だ。そんな頃に、顔に傷を負い、言葉も話せなくなったとは……。彼女の哀しみはどれ程のものであっただろう。俯く理一の前から紙が取り上げられ、先の言葉に線が引かれた後に、続きが記載されて戻って来る。

【私は怪我をする前から、ここに通っていました。妹がよく体をこわしていたので、楽にしてやる方法はないかと、教えてもらっていたのです。だから、嫁に行けなくなったなら、真に医者になろうと思い、先生に引き取ってもらいました。】

「……凄いな、透子さんは。」

理一の言葉に、透子は微笑みを返す。彼女がそうして立ち直れたのも、西方老人あってのものかも知れない。本来、医学とは、医術とはそういうものなのだ。復讐の為にその道に入った自分に後ろめたさを感じつつも、彼女の唖が治らない物であると確認した理一は、改めて透子に訊ねる。

「透子さんは、『手詞(てことば)』って知ってるか?」

透子は首を振る。理一は言葉を続けた。

「聾唖学校で取り入れられてる会話法で、手の動きで言葉を表すらしい。俺も読んだ事しか無いんだが、要は、声を出せる奴と透子さんが手詞を覚えて……外國語(とつくにことば)と同じだ、通訳して貰うんだ。そうすれば、書いて見せるよりは早いだろうし、人手も増える。」

透子は目を丸くし、ぱちぱちと瞬く。今までは殆ど後ろ姿か作業中しか見た事が無かった為に気付かなかったが、彼女は目での感情表現が豊かだ。理一は少し表情を和らげる。

「俺はここ数年の付き合いだから西方先生と透子さんしか知らないが、西方先生の他の弟子に知り合いが居れば、協力を頼んでも良いんじゃないか。此方でも手詞の教本を取り寄せてみる。急な思い付きだから、上手くいくかは分からねぇ……けど、今は一人で全部出来ても、やっぱり無理はして欲しく無いってのが、正直な所だ。」

【なぜですか。】

初めて、透子の方から問いが返って来た。理一は苦笑する。

「透子さんみたいな立派な医者は、不養生しやすいだろ。声に治療の見込みがあれば、外ツ國の新しい療法なんかも提案するつもりだったが、それが出来ないなら、少しでも楽な方法を取って欲しいと思った。俺も一応、医者だからな。」

 

 数種類の薬と薬包紙を買い、次は手詞の資料と教本を持って来ると伝えると、衣笠理一は店を出て行った。残った透子は息を吐く。

(どうやら、悟られはしなかったみたいね。昔から、似ていない姉妹だと言われていたものだけれど。)

 彼女は、衣笠理一を知っていた。勿論、師である西方老人を慕う客として、そして医者の一人としては、当然知っている。目立つ風貌をしているし、廓狂いの色男だという噂も聞いている。しかし、彼女と衣笠理一の関係は、それだけではない。透子は先に「西方老人に引き取ってもらった」と書いたが、籍は変えていない。住込みの奉公人として働き、店を譲られた形だ。姓を知られたら、きっと彼は自分が何者か気付くだろう。衣笠理一。衣笠家前当主の子。その彼が、親の先妻の姓を知らない筈が無い。

(初めて此処に来た時には、驚いたものだけれど。あの子は私とも、妹とも、血の繋がりは無いのにね。まさか、医者になっていたなんて。)

 彼が衣笠を名乗った時には、何の因果だろうかと思わざるを得なかった。妹の子の異母弟――義甥と、同じ職を通じて関わる事になるとは。考えながら手を動かし、店の片付けを粗方済ませた透子は、先の理一の言葉を思い返し、一人微笑みを浮かべる。

(それにしても、この歳になっても知らない事はまだまだあるものね。手詞なんてもの、初めて聞いたわ。『御参り』の時に、匂坂君に訊いてみようかしら。あの子は、色々な物事に通じているから。皆とも話し易くなれば嬉しいわね。)

彼女は戸口から外に顔を出し、他の客が居ない事を確認すると、入口を閉じる。そして店の奥へ向かい、そのまま裏口へと消えて行った。

 

 

 有坂孝晴は、座布団を枕に寝転がりながら、新聞に目を通していた。当然、平日の昼間であるから、書庫番業務はすっぽかしている。ただ、平日に顔を出すようになってから、前のように煩く言われる――第二や第一書記部からの小言は別として――事は無くなった為、幾分か気は楽だ。それに市井の情報は、第三に回ってくる書類よりも新聞の方が早い。切裂きの件は、爵位のある者やその妻子が被害に遭った時のみ「犯人未だ姿を見せず」などと紙面が割かれる程度だ。今はまだ、仕立屋に注文した背広が仕上がるのを待つ身。その間に出来る限り情報を集めておきたいと、記憶にある限りの記事や噂を頭の中で洗い出してみても、日毎に新しい新聞を読んでも、異人の被害に関する情報は無い。ごろりと孝晴は背を畳に預け、新聞を放り出して寝転がった。流石に少し冷えを感じる。しかしその冷えが、体の熱を逃してゆく。じきに頭も冷えるだろう。

(……俺ぁ、何の為にこんな事に気を割いてんだか。)

帝都の異変に一早く気付いてしまえば、放って置けないのは性分だ。自分にはその力も備わっている。ただ、切裂きの件は今までのそれとは事情が異なる。調査してまで関与する必要はあるのだろうか。そう、何度も思った。しかし、孝晴は苦笑する。理由等とうに分かっていた。

(結局、これが自己満足だってンだから、笑っちまわぁ。)

真っ当に仕事に打ち込むではなく、人とは違う自分にしか出来ない事を探して彷徨い、暗闇から這い出る事件を密かに斬り捨てる事で小さな自尊心を満たす。麟太郎や理一のように、他人の為、世の為等と思うような心は自分には無いだろう。ただ気付いたから、片付ける。気付ける自分が、溝(どぶ)を浚う。それが何時しか、自分から探すようになっていた。より深い溝を、より深い闇をと。

 はたた、と鳥の羽音がした。寝転がりながら障子に目を向けると、廊下の板を爪が掻くかつかつという音と共に、障子を透かして影が見える。孝晴はごろりと体を転がし、腕を伸ばして障子を開けてやる。隙間からぴょんぴょんと飛んで来たのは、あの「くろすけ」だった。孝晴は障子を元通りに閉めながら、おやと思う。「くろすけ」は、足に何も巻いていなかった。

「どうしたぃ、『くろ坊』。お前さんがお麟の文を落とすなんて事たぁ無ぇだろぃ?」

孝晴が声を掛けると、「くろすけ」はじっと孝晴の顔を見詰める。顔は此方の方が可愛いが、その仕草は麟太郎そっくりだ。そして、トコトコと歩いて横向きに寝転んだ孝晴に近付くと、なんとその腕に沿うようにして蹲った。そして仰天している孝晴の腕に頭を載せたではないか。

(……こいつぁ驚いた……いや、『くろ』はお麟の命令なら俺にも近付いて来たが、触れた事なんて無かったってのに。)

否応無しに鼓動が早くなる。今まで、一度たりとも生きた獣に触れた事など無かったのだ。これは、懐いたという事なのか?そもそもこの鴉が麟太郎の元に居ないのは何故だ?しかし疑問よりも興味と不安の方が勝った。孝晴は反対の手を、恐る恐る「くろすけ」の頭に伸ばしてみる。

 ガッ!と一声鋭く鳴いて、「くろすけ」は触れようとした手を牽制した。

「なんだぃお前さんよぉ……。」

孝晴は溜息を吐き、今の緊張を返せやい等とぼやきながら、ぐでんと大の字に寝転び直すが、「くろすけ」はその場を離れない。元通りに腕に頭を載せると、どこか不貞腐れたように目を閉じている。獣が不貞寝とは、不思議なものだ。

「お前さん、実はヒトだったりしねぇよな?はは、そんな事たぁ無ぇか。妖怪変化の類いか、絵物語でも無けりゃあ、な。」

呟いた孝晴に、「くろすけ」は目を開け、そして再び閉じた。冗談のように言ったが、此処まで言葉を正確に理解する鴉は他に居ないだろう。少なくとも、この鴉が届け先の違う文を持って来た事は一度も無い。直ぐに返事を出すから待てと言えばちゃんと待つし、此方が麟太郎や理一に送った文も、届かない事は無かった。

「……案外、お前さんも、自分と他の鴉は違うって悩んでんのかぃ?そんなら俺と一緒さね。俺も……、」

他の人間とは違う。孝晴はその部分を口には出さなかった。そして思う。もし、自分がこの家に生まれて居なかったならと。貧しく、日々の暮らしにも事欠くような場所に生まれて居たら、こんな体では生きる事すら出来ないだろう。職を放って遊び歩いても、昼間からだらけていても、安定した衣食住が保証されている、そんな「有坂家の子」の立場に、自分は生かされている。此処から離れるのは、きっと自分が死ぬ時だ。

「お前さんも、難儀だねぃ。鳥だってのに、ヒトの側から離れられないってのは。ま、周りから可愛がられてるだけ、俺よりましかも知れねぇな?」

その言葉に、「くろすけ」は頭を上げる。直後「痛ぇっ」と孝晴は声を上げた。見れば、嘴で腕をしこたま突いておいて、その場所にまたも頭を載せて澄まし顔をしている。鴉が何を思っているか等、分かる筈が無かったかと孝晴は口を噤むと、そのまま暫く一人と一羽は動かなかった。

 

 

 寄り添う二人の間には、無音の時が流れていた。しかし、そんな事をしている場合では無い。留子は自ら体を離し、一歩下がって麟太郎の目を見る。その瞳は全く静かで、それでいて優しかった。留子の気が済むまで待って居てくれたのだろう。

「有難うございます、麟太郎さま。」

「……ええ、はい。抱擁が好きだと仰いましたので。私でよいならと。それで、話に入っても構いませんか。」

「はい。その為に態々、来て頂いたんですもの。」

そう、今夜の時間は、ただ逢瀬の為にある訳では無いのだ。麟太郎が口火を切った。

「孝雅様や、他の公爵家の方に、孝晴様について訊ねて回っていると言うのは、本当なのですね。」

留子は頷いて言う。

「念の為、先に申し上げて置きますが……関係を穿って見られないようには、気を付けています。以前わたしが孝晴さまに『お怪我をさせた』話については、皆ご存知ですから、そのお詫びの為に、どうお近付きになるべきかと……孝雅さまには、元々良くして頂いておりましたから、わたしが弟君と仲良くしたいと言って、喜ばれこそすれ、不審に思われてはいません。」

「留子様なら、その心掛けはお有りと思っていました。しかし……何故、そのような事を。そして私に何を伝えたいのですか。文には記載されていませんでしたが。」

麟太郎は目を細めて、そう言った。息を細く吐く留子。麟太郎が初対面の相手を怖がらせる理由が、分かった気がした。確り目を見ていれば、彼が怒ったり、責めたりしている訳ではなく、ただ事実を述べて問うているだけだと解る。しかし、その睨むような目、感情が削ぎ落とされたような顔、そして淡々と抑揚無く吐き出される言葉。部屋が薄暗いのも相まって、彼の「不気味さ」が際立っていた。勿論、それで自分の心が変わる事は無いのだが。留子は麟太郎の目をじっと見る。

「わたしは、あの親睦会の日に、皆さまのお話を聞いていました。それで、麟太郎さまだけでなく、衣笠さまと、孝晴さまからも、お手紙を頂いたんです。あの場では確かに、皆さまは蟠(わだかま)りを解かれたと思います。けれど、衣笠様も、孝晴さまも、ご自身以外を心配する内容を書かれていました。それが、どうしてか、とても寂しく感じたんです。お二人はまだ、ご自身の抱える何かに苦しんでいらっしゃる。けれど、わたしが力になれるかも分からない。ならば、お二人とお近付きになって、もっと知るべきだ。そう、思ったから……お話を聞いて回っていたんです。」

麟太郎は暫く無言だった。そして、そのまま首を傾げる。

「何故ですか。」

「え?」

「何故、貴女がそこまでなさるのですか。いえ、言い方が違いますか。一度ご協力頂いたにしろ、貴女にとって、私も、孝晴様も、衣笠先生も、他人です。他人の為にそこまでする理由は何なのですか。」

一瞬面食らったが、次には思わず、吹き出してしまった。くすくすと小さく笑う留子を、麟太郎は不思議そうに目を瞬かせながら見ている。留子は、ふう、と息を一つ吐き、自分を落ち着けてから、微笑んだ。

「麟太郎さま、お手紙に書いていらしたでしょう?わたしの心と麟太郎さまの心は似ているのだろうかと。わたしはあの時、其々の心は自分だけの物だとお返事しました。でも、似たような事を経験された麟太郎さまなら、分かってくださる筈です。麟太郎さまは、孝晴さまをお慕いしています。その孝晴さまや、ご友人の衣笠さまが、悩まれているなら、力になりたいと。そう思った事は無いのですか?」

「それは……つまり?」

「わたしが麟太郎さまをお慕いしている以上、孝晴さまも、衣笠さまも、わたしにとって他人ではない、と言う事です。わたしは、麟太郎さまと結ばれたいと思っていますが、自分だけが幸せであれば良いなどと考える事は出来ません。わたしに出来る事など少ないかも知れませんが、手の届く所だけでも、皆さんに、幸せになって欲しい。そう思うのは、可笑しな事でしょうか?」

「……。」

麟太郎は口を噤む。考えているようだった。後ろでコハルが、みゃあと鳴いた。留子が猫を抱き上げ、頭を撫でながら戻って来ると、麟太郎はゆっくりと言った。

「可笑しな事かどうかは、私には分かりません。しかし、留子様がそう思われるなら、それが事実なのでしょう。」

「有難うございます、麟太郎さま。手紙に書きました『お伝えしたかった事』の一つは、今お話した内容を、直接伝えたいという事でした。麟太郎さまに、誤解されたく無かったんです。」

「そう、ですか。確かに、先に知っていたら、少なくとも疑問には思ったでしょう。私は孝晴様と衣笠先生以外の貴族の方々とは、殆ど付き合わないもので、知る由は無かったかも知れませんが。」

そう言って、麟太郎は留子を見る。先程留子が「一つ」と言ったため、続きを待っているのだろう。留子はそこで、きゅっと眉を下げた。

「もう一つは……麟太郎さまに、あなたを知る方が、あなたをどのように思っているか、もっと知って頂きたい、とお伝えしたいと思っていました。」

「どういう事ですか。」

麟太郎は首を傾げる。留子は腕の中の猫を抱く手に、少し力を入れた。

「わたしが孝雅さまにもお話を伺った事は、手紙でもお伝えしました。孝雅さまは、議員になられる前に父の秘書をされていましたから、当時は沢山可愛がって頂きました。先日お訪ねした時も、本当に喜んで下さって……。その時に孝雅さまは、ご兄弟をとても大切に思っていらっしゃる事と共に、麟太郎さま、あなたを心配しているとも仰られたんです。」

「孝雅様が……?何故(なにゆえ)……。」

麟太郎は目を細める。有坂孝雅は、麟太郎が拾われた頃には既に軍に勤めていた。有坂家で養育された三年の間、今の有坂孝成と同じように、偶に家に帰って来た時に顔を見る事はあった。麟太郎が刀祢姓を得て家を出た時には、挨拶に行った。麟太郎と有坂孝雅との間には、その程度の付き合いしか無い。何故「心配」という言葉が出るのだろう。そんな麟太郎に、留子は優しく微笑む。

「孝雅さまは、ご兄弟の孝成さま、孝晴さまと同じように、あなたも、有坂家の家族だとお考えのようです。」

「……。そのような事実はありませんが。」

「孝雅さまのお気持にとっては、それが事実なんです、麟太郎さま。」

無表情のまま首を傾げる麟太郎。留子は猫を片手に抱え、もう片方の手で麟太郎の手を握った。二人は高さの同じ目線で、静かに見つめ合う。

「孝雅さまは、昔の孝晴さまについて、お話して下さいました。幼い頃、孝晴さまは、他人との交わりを避けがちであったと。そんな孝晴さまが、楽しそうに麟太郎さまに物事を教えているのを見て、こう思われたそうです。『本来私や孝成が務めるべきであった【きょうだい】の関係を、孝晴に教えてくれたのは麟太郎君だ』と。だから、孝雅さまにとっては、殆ど面識が無くても、麟太郎さまは家族のお一人なんです。」

「それは……孝雅様の思い違いでしょう。私は、孝晴様に『友達』だと言って頂きましたが、友人は家族ではありません。」

一度目を逸らしてから、麟太郎が答える。留子は、やはり、と心の内で思った。初めて此処で会った日もそうだった。麟太郎は、彼を評価する言葉を、受け止められない。麟太郎は卑屈な訳では無い。少なくとも留子には卑屈であるとは感じられ無かった。ただ、彼への評価は、彼にとって事実ではない。故に、理解出来ない。否定する。麟太郎の中には、「麟太郎」が、居ない。不思議だった。自己を持たない訳では無い。決断が出来ない訳でも無い。ただ、評価だけが彼を素通りする。

「麟太郎さまは、ご自身が『褒められている』と感じる事はありますか?」

「……無いように思います。私は、自身に出来る事をしているだけですから。」

「どうして、そう感じられないのか、考えた事はありますか。」

「……、……。」

どうして。留子のその問いに、麟太郎は答えられなかった。言われた通り、その理由など、考えた事も無かった。麟太郎にとっては、自分が当然に出来る事をして、他人を助ける事は、自分への評価に結び付いていない。それが今まで、当たり前であったから。

「可笑しな事を言ったら、済みません。褒められるとは、どのような状態を表すのですか。それで何か、……心体に、変化が起こるのですか。」

麟太郎は留子に問う。留子には、彼が何故そうなったかなど、分かる筈もない。ただ、麟太郎が真剣なのは確かだ。留子が何を言おうとしているのか、理解しようとしている。彼は。留子は麟太郎の手を握ったまま、その手を自身の頬に触れさせた。硬い手に、柔らかな頬の感触が伝わる。

「……わたしは、褒められると、『嬉しい』と感じます。心が温かくなりますし、自信にもなります。麟太郎さまは、孝晴さまに信頼されていらっしゃいますし、隊の方からも慕われていらっしゃいますし、ご友人もいらっしゃいます。だから、留子は、そんな皆さまが麟太郎さまに対して抱く気持ちを、麟太郎さま自身に、気付いて欲しいと思ったんです。孝雅さまが麟太郎さまに向ける気持ち、孝晴さま、衣笠さまが麟太郎さまを思う気持ち。『褒められて嬉しい』という感覚は、感情の一部でしかありません。……麟太郎さまは、ご自身の力で孝晴さまとの関係を前に進められました。けれど、そんな麟太郎さまを思う皆さまの気持の温かさが、麟太郎さまに届いていないのは、とても悲しいんです。先にも言いましたが、わたしは、自分だけが幸せであれば良いなどと思いません。わたしに出来る事があるなら、せずには居られないんです。だから一つ、孝雅さまのお気持を、伝えさせて頂きました。あなたを思っている方は、沢山います。それを、忘れないで下さい……。」

留子は手から力を抜いた。自然と麟太郎の手は抜け落ちる。指先には、まだ留子の体温が残っていた。留子は無言のままの麟太郎を見詰める。その目は、少なくとも麟太郎を責めているようには見えない。

「孝晴さまや衣笠さまが、わたしが素性を探っていると感じて不快になられる事があれば、もっと他の方法を探します。わたしは、直接お話を伺うにはまだ遠い関係ですし、それに『大臣の娘』という立場もありますから、目立ってしまいます。けれど、わたしは欲張る事にしました。皆さまの力になりたい。一方的な我儘ですけれど。……わたしがお伝えした事で悩ませてしまったら、申し訳ありません。でも、わたしは何があっても麟太郎さまが大好きです。それだけは、信じて下さいね。」

留子はそう言うと、もう一度麟太郎に抱き着いた。そして直ぐに、数歩退がる。麟太郎はじっと留子を見詰め、「分かりました」と静かに呟いた。その表情は、以前見た時と、先程この部屋に来た時と、全く変わらない。けれど、彼に新たな迷い――悩みと言った方が正しいだろう――を、生んでしまったのは確かだ。それでも麟太郎は語調を変えない。

「先ず、留子様が孝晴様や衣笠先生について知りたいと思う理由は、理解しました。御心配をかけて申し訳無いとも思いましたが、そこまで案じて頂けるというのは、我々全員にとって、光栄な事なのでしょう。そして、次に仰った事については……此れから、考えてみます。答えが出るかは、分かりませんが。」

留子が頷くと、麟太郎は「では」と短く言い残し、窓の外へと飛んで行った。再び一瞬だけ部屋に入って来た空気は、心なしか先程よりも冷たい。留子はゆっくりと窓に近付き、鍵を下ろす。そのままの足取りで寝台に腰掛ける彼女の、腕に抱えられた猫が見上げたその顔に、笑顔は無かった。

(きっと、孝晴さまや、衣笠さまが抱えている寂しさを埋められるのは、麟太郎さまです。けれど、麟太郎さまがご自身を『下』に置いている限り、その立場以上の事は出来ない……。わたしに出来るのは、麟太郎さまが、ご自身をお二人と対等だと思えるように、言葉をかける事……けれど、やはり麟太郎さまを悩ませてしまいました……。)

留子は様々話を聞くうち、孝晴も理一も「一人で育った」事が、どこか感じる寂しさの根底にあるのではないかと考えていた。平等化政策が取られても、貴族の中にも、貴族と平民の間にも歴然とした身分差は存在し、その貴族も家毎に全く異なる暮らしを送っている。有坂孝晴は自分を「出来損ない」と言い、衣笠理一は養子の上、若くして当主となった衣笠家唯一の男子だ。留子には、あの月の光が差し込む暗い広間で語られた以上の、彼らの心情は分からない。けれど、その二人が麟太郎を大切に思っているのは確かなのだ。麟太郎が自身に欠けた部分を見付け出す事が出来れば、また、何か変わるかも知れない。しかし、それは同時に、純粋な麟太郎を苦しませる事でもあるのではないか。ぐるぐると考えながら、留子はコハルに頬を寄せながら呟いた。

「わたしは本当に、麟太郎さまの支えになっているのでしょうか……。」

煖炉の火は、もう小さくなっている。布団に潜り込んだ留子の胸の中で、子猫が小さく、みゃあと鳴いた。

 

 冬の風が、頬を撫でる。暗闇の路地は、麟太郎にとっては馴れ切った道だ。考え事をしながら歩いても、足音は一切しない。纏った烏羽の外套が多少はためくが、その音は風の音よりも小さい。麟太郎は無表情であったが、その内心は、衝撃に乱れていた。言われて初めて気付いたのだ。自分は、驚く。怒りもする。呆れる事もあるし、感嘆したり、悲しみ傷付いた――それも石動に教えられたが――事もあった。故に、感情が「ある」と思って来た。しかし、今までに、「歓喜」した事が、あっただろうか?

(ハル様や親父殿に技術を認めて頂いた時、私は喜んだだろうか?……いや、私は「感謝」していた。もう一度ハル様の為に尽くせるとなった時、友人だと言って頂いた時、私は喜んだのだろうか?……違う、私は、「安堵」していた。褒められるとは、何だ?嬉しいとは、どういう事だ……?何故私には、その感情が「無い」?)

 

ぽたり、

 

雫の落ちる音に、弾かれた様に麟太郎は背後を振り返る。だが、背後に水が落ちる様な物は無い。ここ数日雨は降っておらず、雨樋も乾いている。幾ら見回しても、水の出所も、垂れ落ちた跡も見つからない。

(幻聴……?何故水音など……。)

麟太郎は片手で頭を押さえ、自分がそんな仕草をした事に驚く。まるで頭痛でも感じているようではないか。ただ、その「驚き」で少し頭が冷えた気がする。まだ十五の留子が、自分だけでなく、孝晴や理一までも気遣っているのだ。彼女の心遣いに報いなければ、勘解由小路大臣にも顔向け出来無い。孝晴も理一も気に掛けている切裂き事件についても、情報を拾わねばならないのだ。動揺している暇など無い。麟太郎は頭を一度振ると、初冬の夜を切裂く様に駆けて行った。

 

「帝國の書庫番」

十八幕「闕遺の寒烏」



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帝國の書庫番 十九幕

来訪者の胸中は、如何に。


 東都の冬は身に染みる。そう感じるのは、単なる環境の変化が理由だろうか。いや、それだけでは無い。

(湊じゃ殆ど毎日、町中を走り回ってたってのに、此方じゃ訓練と立ちんぼの繰り返しやし、『御参り』もせなあかんし、元気なつもりやけど、疲れはあるんやろなあ。)

 多聞正介は、制帽の庇の下から周囲に目線だけを走らせながら思う。警備中は、顔の向きを変える事すら許されない。勿論、何か察知すれば真っ先に駆け付けるのが仕事なのだが、そんな事態は、そう起こりはしない。それでも、そんな事態はそう起こりはしないと油断も出来無い。巷の事件が、思いも寄らない場所で危機と繋がっている場合もあるのだ。護衛官が姿勢を正して立つ姿そのものが抑止にもなる。その意味では、街中を闊歩する警兵達の烏羽軍服が、敢えて闇を思わせる黒色を選んで制定された事と、自分達の存在は似ているかも知れない。

(ま、もっと黒いんもあるんやけどな……あー、実家が懐かしわ、偶には帰省したいもんやで。)

余り注意を散漫にしないよう、正介は思考を切り上げる。そして視界の端にその姿を認めた。

(……有坂孝晴。麟クン……は、おらへんみたいやな、今日は。)

 絣の着物に、結っても腰まである長い髪。流石にこの季節だからだろう、襟巻きをしているが、足下は相変わらず裸足下駄だ。背後に宝物殿を護る正介から位置は離れているが、遊歩道まで視界を遮るものは無い為、姿形ははっきり見えた。彼はそのまま道なりに歩いて去って行ったが、視野に映るか映らないかの際で、一瞬だけ立ち止まったように正介には思えた。

 

「なんでおるん……?」

 もう日もすっかり暮れた終業後。本部に戻った正介は、上司から問答無用で追い立てられる侭に、応接間へ向かった。何がなんだかといったまま部屋に飛び込んでみれば、革張りの長椅子には、有坂孝晴が座って茶を飲んでいる。と、ばしん、と頭の上から衝撃が降って来た。

「痛ったぁ!」

「馬鹿者!此方は有坂公爵家御三男の孝晴様だぞ!口の利き方に気を付けろ!」

「えっ、なん……なんも言うてくれてへんの孝晴クン!?」

上司に警棒でしばかれた頭を抱える正介を見て、薄く笑みを浮かべていた有坂孝晴は、その言葉に軽く手を上げ、笑いながら椅子から立ち上がる。

「はは、悪ぃ正介。『多聞正介を出してくれ』としか言ってねェや。と、彼と私は、この通り気安い関係なので。気になさらないで下さい、巡査長。」

有坂孝晴は、後半がらりと口調を変え、遊び人の風体であるにも関わらず、その纏う雰囲気までも一瞬で変えてしまった。呆気に取られる上官が滑稽で、笑みを堪えていたら、また叩かれた。

「痛ったぃ!」

「多聞、その締まらん顔は何とかならんか!」

「今のは巌さんの照れ隠しやろぉ!?八つ当たりやん!」

「上官を下の名で呼ぶな!畏れ多くも我々は帝の……、ごほん、失礼。此奴と居るとどうも締まりませんな。」

口許に手を遣り笑う孝晴を見て我に返ったのか、上官――早瀬巌は咳払いで誤魔化すが、孝晴は緩く笑みを浮かべて言った。

「そう仰らずに、早瀬さん。それが彼の美点でもありますよ。しかし勤務中とは別人ですね、普段の多聞君は。」

「気色悪っ。『多聞君』やて。」

「ひっでェ事言いやがる。前言撤回だ、好きなだけ殴られとけやぃ。」

「あ痛ぁっ!」

三度目で、衝撃に耐えられず制帽が飛んだ。仕方なく屈んで拾ってから咎めるように早瀬を見れば、仏頂面の上司は正介には目もくれず孝晴に頭を下げた後、漸く目線を此方に向け「呉々も粗相の無いように!」などと言い捨てて出て行ってしまった。正介は溜息を吐くと、勤務は終わっている為不要ではあるのだが、一応は来客との面会だと帽子を被り直し、孝晴に向き直った。

「何の用か知らへんけど、まあ、座りや。」

「ん?あぁ、お前さんの万才を見に来た訳じゃ無かったなァ。しッかし、あんなにぱかぱかと景気良く殴られるもんかね。」

「普通やろ。軍ならケツしばかれんねんで。」

ふゥン、と含み笑いを浮かべる孝晴。何を考えているのだろうか。そんな孝晴に相対し、彼が腰掛けようとしない事を不思議に思いながら、正介は訊ねる。

「で、何しに来たん?」

短い問いを聞いた孝晴は、何故か少し口を噤む。まさか自身が訪ねて来た理由を忘れた等と言う事はあるまいと少し待ってみると、孝晴は頭に手を当て、眉を寄せた。

「……場所、変えっか。」

「は?」

「んにゃ……最初はお前さんをウチに呼ぼうと、言伝を頼むつもりだったんだがねぃ。突然有坂に呼び出されたなんて、十中八九お前さん、ある事無い事言われンだろうと思ってなァ。だったら、俺が直接迎えに行く方が早ぇと思って此処に来た。有坂は有坂でも『三男』なら、大した事ぁ無ェ。で、誰も聞いてないなら此処で話しても良いと思ったンだが……、」

其処で孝晴は息を一つ吐く。

「この部屋は無理だ。俺ぁ外で待つから、着替えて出て来てくれねェか。」

「はぁ……なんや分からへんけど、とにかく話したい事があるんやな?それは別にええけど……何で此処は駄目なん?」

正介は怪訝そうに孝晴を見たが、ふと気付く。どうも顔色が良くない。

「なんかあったんか?」

孝晴は首を振って、答えた。

「この部屋は臭くて堪らねぇ。やっぱり俺ぁ、煙草は嫌いだ。」

 

 

 そして今。制服を脱いだ正介は、有坂家の「離れ」――と、孝晴は呼んだが、庭と言い佇いと言い、正介にとっては充分過ぎる程の豪邸だ――の書斎に居た。文机と火鉢の置かれたその部屋は、畳一枚取っても、丁寧な手入れがなされているのだろう、正介の実家の書院のそれとは大違いだ。孝晴が部屋から人を払い障子を閉めると同時に、正介は畳に飛び込むと床に転がった。

「おっと……『寛げ』なんて言う暇もねぇたァな。座布団は要るかぃ?」

「いらへんいらへん!あー、こないふかふかな畳は久々や、こんなええ畳の上で敷物なんて使(つこ)たら親父の雷が落ちるわ。」

「そうかぃ。」

孝晴は笑うと、敷いた座布団にどかりと腰を下ろした。正介は身体を其方に向けると片肘を床に付け、掌に頭を乗せる。そんな態度で孝晴に臨む相手など、彼以外にない。

「んで、何があったんや。遊びの誘いに来た訳やないんやろ?」

「ん、そうさな。そのまま、平常にして聞いてくれ。」

「……。」

表情を変えないまま、すっと僅かに目を細める正介に、伊達に邏隊をしていないなと孝晴は感じた。話の内容を大声で語るべきでは無いと、暗黙の了解を得た後、孝晴は懐から一枚の紙を取り出すと、正介の目の前に差し出す。

「なんやこれ。」

「何て読める?」

「……『キ……リ、サキマ、ノ、』……、」

途中まで寝転んだまま口にしていたが、正介は素早く座し直すと紙を取り、無言でその文を何度か目で追った。その眼光は鋭い。言わずもがな、その紙は孝晴が太田公爵から預かったものである。暫く其れを観察し尽くした正介は、顔を上げて静かに言った。

「どういう事や。」

「太田公爵家に届いた脅迫文を、俺が預かった。邏隊のお前さんに見せりゃ、何か分かるんじゃねぇか、ってな。」

 そして孝晴は、事の顛末を掻い摘んで話して聞かせた。じっと耳を傾ける正介の表情は、真剣そのものである。「街のお廻りの方が性に合う」と言っていただけあり、事件にはやはり敏感なようだ。正介の短い問いにもそれは現れており、孝晴は好感を持った。単純に「其れが何か」を訊ねるのではなく、「何を意味するか理解した上で、其れが手に渡った状況」を問える。間違い無く逸材と呼ばれる人間の一人だろう。太田家に赴いた日の騒動、異人の状況、公爵から話をする許可を得た事まで話して、孝晴は一度口を閉じた。正介は暫し目を伏せる。そして、目を開くと先ず、左右に素早く目線を走らせた。そうして気配を確かめてから、漸く彼は言った。

「異人に切裂き被害が無いっちゅうんは、まだ邏隊に伝わってへんやろうな。確かに一つ手掛かりにはなるかも知れへん。ただこの文(ふみ)自体は、ほんまに事件と繋がってるかまでは分からへんな。」

「ん、そりゃそうだ。単に切裂きの件を利用した嫌がらせの可能性もある。」

「ただ……異人絡みとしたら面倒やな。犯人でも被害者でも、どっちでもや。せやけど、太田公爵は実害を被ってるねんな。小っさい嫌がらせとしてもや、あの家は『異人窟』なんて言われるくらいやから、受けてる支持と同じくらい、排斥派からは疎まれてるやろ。雇い人に異人はようけ居てても、身内に異人はおらへんちゅうにな。」

成程貴族の内情にも通じているようだ、と孝晴は口端を上げる。太田榮羽音は元非嫡出子とは言え、父の血を確りと引いている。だからこそ、本家次期当主――現当主である太田公爵――の醜聞として問題となったのだ。榮羽音が鐵國で得た嫡出の身分が旭暉で認められたのが、十年前。しかし太田の御曹司は、帰国してみれば妻とは離婚しており、更に息子と共に異人の少年を一人連れて帰って来た、その状況で再び揉めたという経緯がある。太田榮羽音を異人と扱わないのは、それを知っているからに他ならない。孝晴は探るような内心を隠し、からかい口調で言う。

「なんでィ、お前さんも帝都にちったァ詳しくなったみたいじゃねぇかぃ。」

「アホ、俺かて帝宮邏隊員やで、有力貴族の家族構成くらい頭に入れて仕事してるわ。見た事無かったから分からへんかっただけや、孝晴クンの事は。ちゅうかそないな格好でフラフラしてる孝晴クンも孝晴クンやで、……あかん、話戻そか。」

正介は事も無げに言ってのけると、ガシガシと頭を掻いた。こうしていると、本当に勤務中とは別人のように見える。昼に孝晴が通り掛かって観察した正介の姿は、きっちりと整えた頭に、被った制帽の影を顔に落とし、その下から傷のある目で鋭く睨みを効かせる、精強な護衛官そのものであった。全く人の事を言えた義理ではない。心の内でそう笑っている孝晴から目を離し、正介は紙を見遣る。

「で、や。結論を先に言うと、邏隊は異人街の捜査はできひん。警邏権持ってても実質は治外法権のままやからな。ほんで俺も、邏隊員としては仕事が違てるから直接出来る事は無い。」

「そうかぃ。」

其処で正介は孝晴の顔に目を戻す。孝晴は笑みを浮かべたままだ。正介も話を終わらせる気は無い。

「ただ、帝宮邏隊にも、この辺の邏隊員から引き抜かれた奴はおんねんな。そういう奴の一部は、邏隊に伝手がある筈や。文の事は伏せて、異人の状況を内密に調べるように言ったるわ。……文はまだ公にすべきやない、別所にも脅迫文が届くか、二通目が来るかして、嫌がらせ犯の目的が確定してからにせぇへんと、あの家、『どっちの』信頼も失くすで。それは避けなあかん。」

「成程な、流石はお廻りだ。」

孝晴は口許に手を軽く添えて笑みを浮かべた。当然、孝晴もその考えには至っている。異人排斥派には燃料を与え、異人側には罪を擦り付けたと受け取られるであろう、榮羽音への文。だからこそ孝晴は、太田公爵に許可を得て預かるに留めたのだ。正介は「せやろ」などと笑って、一つ伸びをすると、胡座をかいた膝に片肘をつき、言った。

「孝晴クン、やっぱええ奴やな。」

「なんだぃ、藪から棒に。」

怪訝そうに手を下ろす孝晴の様子に、正介は穏やかに目を細める。

「初めて会うた時も俺の為に付き合うてくれて、今は太田の家が困ってるから付き合うてるんやろ。」

孝晴は僅かに目を開く。そして楽しそうな笑みを浮かべる正介に、努めて普段通りに言った。

「そんなんじゃねぇ、俺ぁ早く帝都を気軽にぶらつきたいだけさね。」

「照れんなや。」

ばっさりと切捨てられた孝晴が口を噤んだ間に、正介は窓を見遣る。月は見えないが、夜はとっくに更け切っている。

「ほな、他に用が無ければ帰るわ。俺の下宿は蓼町さかい、気ィ向いたら来てもええで。まあ夜勤やと、夜もおらへん時あんねんけど。」

「ん、そうさな……新聞には目を通しとくかねぃ。」

そう言って孝晴が立ち上がろうとすると、正介は軽く手を振ってそれを制した。

「見送りはええよ。もう遅いし、ゆっくりしときや。」

「なんでぃ、滅多にない機会だぜ?」

「せやかて、この寒空にもっかい孝晴クン引っ張り出すなんて、俺はできひんわ。歳上の言う事は聞いとくもんやで。」

言いながら、ひょいと跳ぶようにして立ち上がる正介。孝晴は動きにつられてその横顔を見上げた。頬骨の上から眉まで、一直線に引かれた傷が、殊更に目立つ。

「なァ、一つ良いかぃ。」

「なんや?」

振り返る正介。孝晴は、指先を自らの右の目に沿わせながら言った。

「それ、何時の傷だィ?」

ぴたりと、正介の動きが一瞬、止まる。おや、と孝晴は思った。正介は直ぐに笑みを浮かべたが、その直前に見せた表情は……。

「……東都に来る前のもんや。邏隊は荒事も多いん、知ってるやろ。」

そう言った正介は、部屋を出るまで笑顔を崩さなかった。

 

 多聞正介の気配が消えるまで座していた孝晴は、そのまま後ろにごろりと身体を倒し大の字に寝転がった。一先ずの目的は達したし、正介も職分に関しては誠実だ。自分に接触した理由や、今も見送りを断った理由などは気になるとして、信頼出来ない相手では無いだろう。そう結論付けてから、孝晴は頭の後ろに手を組み、思い返す。

(何だ、あの顔は?奴が帝襲撃を防いだ邏隊員ってンなら、傷くらい誇りそうなもんだが……。)

 目を閉じ、「その報道」の記載された新聞を脳裏に呼び起こす。群衆の後ろで小刀を袖に隠して身を潜めていた男に、いち早く気付いて飛び掛かり、「顔に創(きず)を負いながらも」取り押さえた巡査。あの目の傷は、その時の物では無かったのか。いや、理一の言った通り、複数の新聞の中には巡査の姓を記載した物もあった。「多聞」。西では珍しくも無い姓なのだろうか。しかし、邏隊員、姓、傷まで揃っていて、同一人物でないとは思い難い。では、先程見せたあの複雑な顔は。人好きのする笑みの後ろに後ろめたさを隠すような顔は、何だったのだろう。傷を隠そうとしたり、恥じたりしている様子は無かった。やはりあんな反応を見せた理由は分からない。

(新聞にゃ出てない所で、何かあったのかも知らねぇなぃ。)

そうして孝晴は思考を切り上げ、身を起こす。膝の上に肘を乗せ、頬杖をつくと、一人ごちた。

「しッかし、『ええ奴』ねェ。俺の何処がそんな風に見えンだか……。」

太田卿の時に驚いた分、今回は其処迄の動揺は無い。それでも、自分の黯(くら)い心には、雫が落ちた程度の波が立った。麟太郎は「人を作るのは行動です。それが打算や偽善の心に根差していても、です」と言ったが、自己満足の行為で人間性(と言うのも可笑しな物ではあるが)を判断されるのは、やはり奇妙だ。其処まで考えた孝晴は、何処か拗ねたような顔で、ぽつりと零す。

「……照れてなンかねぇやぃ、ちくしょうめ。」

部屋を暖める火鉢の中で、炭がぱちりと微かな音を立てた。

 

 

 吐く息は白いが、寒さは感じない。多聞正介は闇の中を疾駆する。燈を避け裏道に入れば、見廻の邏隊員や警兵と出会す確率も減る。周囲を警戒しつつ、息を上げないように、かつ最大限速く。やっと帝宮外苑が見えると、正介は速度を緩め、静かに歩き始める。誰も居ない神社から、地下へ、そして小部屋へ。衣を替える間、正介は無言だった。

(今迄なんも言わんと、あない急に言われたら、誤魔化せられへんやんか。)

自身の目に走る傷がかなり大きく目立つものであると、正介は知っている。そもそも、眼球を傷付け無かったのが奇跡だと医者に言われた程なのだ。逆手で振られた刀の鋒が頬に減り込んだ瞬間に、咄嗟に背を逸らした為、瞼から上は皮一枚で済んだ。自分の運命を変えた傷だ。

(多分、気付いてんねやろな、孝晴クン。俺が襲撃犯を取り押さえたっちゅう事。)

二年前――もうそろそろ三年になる――の事件は、新聞でも大きく取り上げられた。しかし、新聞には載らなかったその先がある。多聞正介は、血塗れの包帯を巻いたまま、移送中に犯人と二人きりで話した。その男には家族も無かった。ただ、世に対する不満と、それを正さんとする大義だけが胸にあった。正介は目に見える範囲だけが世界ではない事、自身の命を捨てるには早過ぎると男を諭し、監視の隙を突いて、捕らえた犯人を自ら解き放った。

 

――あんたには真っ直ぐ生きる力がある、其れをこんな事に使ってどないすんねん。自分一人しかおらんのやから、もっと命を大事にしい。残りの人生、道を見失わへんように生きるんやで――

 

泣きながら何度も頷いた男を、正介は忘れられない。正介が男を逃した事は、仲間にばれた。懲罰房に自分が閉じ込められている間に、男は捕まり、「脱走」の罪も加えられ、処刑された。邏隊は隊員の功績だけを広めたかった為、犯人を逃したのが正介だという事実は揉み消された。自分の決断が、彼の罪を重くしてしまったのだ。この傷は決して名誉の負傷等では無い。正しき事が、時に人を残酷に殺すという戒めの傷だ。そして、閉じ込められたまま首を落とされる筈の正介の命を救ったのは。

 

 

 廊下の終わりにある輪菊の扉の両側には、顔を隠し槍を持った男が二人。しかし、今日はその間にもう一人、小柄な人影――「狐面」が立っていた。正介が立ち止まると、狐面は静かに近付き、正介の前に立つ。

「なんだ、出迎えか?」

正介――「鼬面」――の、標準語抑揚は完璧だった。狐面は肩を竦め、声を潜めて言った。

「『あの人』絡みで遅れたんでしょう、どうせ。」

「敵わないな、『浅葱』には。」

それを聞いた狐面は、くるりと身を返し、その後ろに続く鼬面と共に扉を通る。形式上の挨拶を最敬礼と共に行い、顔を上げる。

 地下とは思えない煌びやかな、しかし夜らしいぼんやりとした灯火が照らす、荘厳な空間。金箔で模様の描かれた板張りの壁には、八方位を守護する神獣の姿が彫り込まれている。正面の階段は地上に通じており、この階段を直接登る事が許されるのは、本来は万華菊紋隊の"筆頭"、「狼面」を冠る者のみであるのだが、正介もこの階段を通り先へ行く事が出来る。ただ、命令があれば、という制限付きだ。

 神代(かみよ)に天より降りし初代の帝は、金色に輝く鳶に導かれ國を平定し、八の華の咲く野に辿り着く。華を刈り陣を敷こうとした武神を止め、野を去ろうとした帝の恩に応え、八の華は帝を守護する戦士を生んだ。それが万華菊紋隊、通称万華部隊の起源とされている。現在の八人の身分は「衛士」である。幕府が倒れ、其の存在が問題となったが、軍・邏隊と相互に連携する条件で存続している。隊員には個々に役割と張子の動物面に加え「色」が与えられ、其の色が隊員の名となる。狐面は「浅葱(あさぎ)」、正助は鼬面に「朱華(はねず)」の色。

 広間には、二人の他に人の姿は無い。二人は無言で広間を横切ると、東側にある大きな扉へ向かう。丹塗りの厚い扉を引くと、先は隊員の詰所となっている。八人掛けの机には、男が一人、女が二人座っている。この中でだけは、面を外してよい決まりなのだ。しかし、二人の足は扉を開けたまま止まった。正面には、漆黒の軍服が静かに立っている。纏う洋羽織の内側に見える赤、面は、――「狼」。

 

「扉を閉めろ。」

 

万華筆頭・「深緋(こきひ)」は、低い声で言った。黙って従う二人。厚い木の戸が閉められた瞬間、朱華の目の前には深緋の面があり、その掌が朱華の顔の真横――面を掠めないぎりぎりの位置――に叩き付けられていた。鈍い音を立てた扉が丈夫で良かった等と考えながら、朱華は息を一つ吐く。

「気付いてたんか。」

「私が気付かないとでも思って居たのならば、お前は相当の阿呆だ。」

深緋は朱華より少しだけ背が低い。しかしその発する気は、並の人間なら気を失うかも知れないほど強い。強く、静かで、冷酷だ。深緋は隣で気まずそうにしている浅葱にも顔を向ける。

「お前とも後で話をしよう。だが、先にお前だ、朱華。」

ゆっくりと深緋は朱華に顔を向け直し、言った。

「お前が有坂孝晴に接触を図ったのは、先の春だった。理由は何だ。お前は『私の弟』に近付いて、有坂家の……いや、『私』の何を、探ろうとしている、朱華?」

 

「帝國の書庫番」

十九幕「縁と恩」



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帝國の書庫番 廿幕

漆黒の衣と獣面を纏うは、旭暉の盾にして剣。


 万華とは、万の華であり、万の華にあらず。

 八色(やしき)の華は、帝の輪菊を花芯にいただき、八ツ花弁の華として咲く。

 一片(ひとひら)の花弁落つるとも、華は新たなる花弁を生ず。

 万の華を散らし、万の華を咲かす。其が、万華菊紋隊なり――

 

 

 丹色の柱が目を引く円形の部屋には、丹塗りの扉以外にも、二箇所の出口が設けられている。二人の獣面が向かい合う後ろで、男が静かに円卓から立ち上がった。

「なんや清(せい)さん、行かはるん?おもろいこと、始まりそうやのに。」

女が優雅に言う。漆黒の軍服を纏い、切れ長の目元と唇に紅を差し、真っ直ぐな髪を顎の下で切り揃えた美しい女。男は彼女を一瞥すると、直ぐに手元に置かれた面を取り、手早く着けてしまう。

「深緋(こきひ)と朱華(はねず)、浅葱(あさぎ)で話すべき事ならば、我々が聴きだてする必要も無かろう。……話が着くまで深緋が動けんのだ、某(それがし)が警戒に当たる。」

「流石『鷲』さんやねえ。」

「それに、いざとなれば、銭形殿が居る。」

やんわりと首を傾げて笑う女の隣で、男の言葉に苦笑しながら手を振る女。その手元には洋紙と鉛筆が置かれ、顔の下半分を黒い布が覆っている。言うまでも無く、あの「透子」だ。彼女もまた、他の全員と同じように漆黒の軍服を身に付けている。透子の隣で「うちも同類や思われてるんは心外やわ」と女が笑みを浮かべるが、透子は手元で鉛筆を動かした後、「鷲」の面を付け矢筒を背負った男に、書き記した紙を見せる。

【藤黄君、気を付けてきてね】

鷲面――藤黄(とうおう)は、紙を持って微笑む透子に頭を下げると、片方の扉から外へ出て行った。

 

「危ないやんか、深緋。面に擦りでもしたら、また俺『つるちゃん』に怒られてまう。」

「面には触れていない。話を逸らそうとしても無駄だ。」

「逸らそうとしてる訳やないねんけどな。」

温度を感じさせない深緋の口調に、朱華は内心で溜息を吐いた。深緋は自分に覆い被さるような体勢で目の前に立っている。相手が深緋で無ければ逃げようもあるが、そもそも朱華に逃げるつもりは無かった。朱華の口調は、全く普段通りのものだ。

「何時から気づいてたん?」

「『初めから』だ。お前が最初に弟に接触した時から、と言えば理解出来るか?」

「……あー、もしかしてやけど、春先に三日開けたん、その所為か……敵わんわ。」

今度こそ息を吐くと、朱華は両手を挙げた。深緋は狼面の奥からじっと視線を送りながら、扉から手を離し、一歩退がる。

「何言うたらええ?」

「お前が浅葱を引き込んで共謀した理由と目的だ。如何によっては、私がお前達を処分しなければならない。」

深緋の口調は静かなものだが、この場合の処分は、文字通り、命を「処分」される事を意味する。顔を此方に向けた浅葱に、朱華は軽く手を振った。大丈夫だ、と言うように。

「理由も目的も分からへんのに、『共謀』ちゅうんは乱暴やで、深緋。浅葱は元々関係あらへん。俺が協力を頼んだだけや。」

「ならば、はぐらかさずに答えろ。」

「……。俺の目的は、あんたをもっと知る事や。此処で仕事してるだけの付き合いやない、もっと深いトコを知るには、育った環境と周りの人間――家族との関わりを知るのが一番ええ。せやから、家と兄弟に近付いた。理由は、……万華の為や。そうとしか言えへん。」

「言えない理由は。」

「約束やからや。」

そこで深緋は、一つ呼吸を入れた。

「つまり、お前の交わした『約束』の相手は、万華に上ずる存在という訳か。」

「俺は誰とした約束でも守る。身分職分は関係あらへん。」

「先に『万華の為』と言った以上、お前が如何(どう)言おうと、結論は覆らない。」

「……せやな。けど、其処まで分かったなら、言えへん理由(わけ)も分かるやろ。俺は万華にも、あんたにも、不利益になる事はしてへんし、せぇへん。」

応酬は、あくまで静かだった。しかし、部屋の気温が下がったと錯覚する程に、その場の空気は冷え切っている。だが、それは唐突に消え去った。深緋が圧を解いたのだ。

「時間だ。後は浅葱に聞いておく。」

「……、」

一瞬言葉を失う朱華と対照的に、深緋は全く調子を変えずに言う。

「帝に、お前を寄越すようにとの御下知を賜っているからな。もう戻られる。」

「さよか。それで今……、まあええわ、時間無いんやろ。」

朱華は肩を竦めると、あからさまに不機嫌な顔をしている女と、隣で見守っている透子の方を深緋越しに一度見遣る。

「すまんな、おもろいことにならへんで。」

「は?あんたがうちらの前で阿呆晒したちゅうだけで噴飯物やわ。」

「なら良(え)かった。」

何がや、と舌打ち交じりに呟く女の声を背に、朱華は入ったばかりの丹塗りの扉を再び通り、出て行った。

 

 一人が消えた部屋の中、不機嫌そうに女が頬杖をつきながら、面を着けたままの二人を見遣る。そのうちの一人、小柄な狐面――浅葱は、その場から動かないまま、面を綴じる紐を解いた。中から現れたのは、簪で留められた金色の髪に、同じ色の長い睫毛。開かれた瞳は空色。まるで舶来品の洋人形が命を持ったかのようなその顔立ちは――

「朱華の言は真実(まこと)か?浅葱。」

「ええ、彼の行動目的に嘘はありません。」

はっきりと「男の声」で深緋の問いに応えたのは、あの「ユリア」だった。深緋の声音は落ち着いており、責めているようには聞こえない。流石に女が首を傾げる。

「なんや、男の癖に女生徒に成り代わって、うちの生徒をぎょうさん可愛がってはる『ユリアさん』は、あの阿呆と組んでお転婆してたんと違うん?」

「どうしてそんな意地悪な言い方するんですか、『椿先生』。僕は学校に戸籍も提出して、ちゃんと許可を受けているんですからね。勿論、女性の装いと振る舞いも。」

ユリア、いや、その美しい異人の少年の話す旭暉語に、違和感は全く無い。常に瑛國語を話し、少女達と鈴を転がすように笑い合う姿からは想像出来ない大人びた少年の様子は、彼女とは別物だ。顔さえ違っていれば、の話だが。深緋が小さく息を吐くと、女――女学校の教師、冷泉椿は口を噤んだ。それを確認し、深緋は言う。

「『匂坂(さぎざか)』には、朱華の動きを報告させていた。だが、方法まで私が決めた訳では無い。女学校への潜入が、お前の趣味以外である事を願おう。」

「深緋さんまで……そうでは無い事なんて分かってるでしょう。あくまで、朱華さんに協力する為……より正確に言うなら、協力している振りをして観察する為、ですよ。」

「しかし今は『振り』では無い。違うか?」

深緋の言葉に、にこりと、優しく笑みを浮かべる浅葱。しかしその笑みは、内にある感情を悟らせないような笑みだ。浅葱は柔らかに口を開いた。

「そうですね。僕は、朱華さん『にも』協力する事を選びました。」

「解せんな。先の理由が事実ならば、私を探っても何も出ない事くらい、お前は理解出来るだろう。」

「それなら、僕らの行動にも問題は無いでしょう?朱華さんが言った通りです。万華にも深緋さんにも不利益は出しません。僕が断言します。」

「理由は。」

「朱華さんは、『頼み事を断れる』人ではありません。ただし、物事の優先順位は選択出来ますし、自分で下した決断の結果は、『何があろうと』受け入れる人だと、僕は判断しています。そんな人が、……帝の『お願い』で動いているんです。深緋さんは、あの帝が、万華の破滅を望まれると思いますか。」

浅葱――匂坂と呼ばれた少年は、一瞬、直接「帝」と言う事を躊躇ったように見えた。彼がちらと目を向けると、案の定、椿が苛立ちを隠しもせず眉を寄せている。

(椿さんは、帝への執着が激しいからなぁ……だからと言って、朱華さんにいつも当たられるのも困り物なんだけれど。)

 内心でそう考えつつ、少年が深緋へと目を戻すと、口許に手を持って来て考えるような素振りをしていた深緋は、すっと手を下ろした。

「帝が我々をどのように捉えているかは、我々には関係無い。我々万華は、只、帝を守護する為の存在であり、帝の御用聞では無い。理解した上で言っているのだろうな?」

「勿論。でも、帝室庁に命じたら勅命になっちゃいますし、帝が御自身の意志を『願い』という形で出せる相手なんて、深緋さんと朱華さんだけでしょう?役人と政治家と軍人以外で帝と直接言葉を交わせるのは、お二人だけなんですから。帝が何故、御自ら朱華さんを万華に推薦したか、僕は納得出来たので。僕が朱華さんを信用しているというだけでは、判断材料にはなりませんか?」

浅葱は金色の髪を掻き上げながら、穏やかに語る。浅葱自身も、朱華が具体的に帝から何を求められたかは知らない。ただ、彼は。浅葱は空色の瞳を狼の面に向けて上げた。

「……それに朱華さん、僕が朱華さんを監視して深緋さんに報告してた事、気付いてたと思いますよ。そうで無ければ、さっき深緋さんが僕を尋問するって言った時、もっと僕の事を心配した筈ですから。異例の入隊とは言え、試験にもちゃんと合格してる以上、『朱華』の適任者ですよ、あの人は。だから、いずれ詰められると分かっていてもやめられない程、大事なお願いだって事じゃないかなと思うんです。でも、身の回りを嗅ぎ回られる深緋さんが不愉快なのもよく分かりますから、どうするかは深緋さんが決めて下さい。……深緋さんは、直接確かめる事だって出来るんですから。」

誰に、の部分を敢えて暈(ぼか)して、浅葱は話を終える。深緋はじっと浅葱に面を向けていたが、やがて黙って腕を組んだ。全て納得した訳では無いだろうが、帝が関わっていると知ったのだ。深緋は冷酷だが、非情では無い。何せ、帝の玉体を守護する衛士の「統率」が深緋の任務だ。万華部隊員は其々が旭暉中から集められた文武智謀に優れた精鋭であり、其の指揮を取る「深緋」は、他人を力と恐怖で支配するような人間に勤まる職では無い。今日強く詰め寄ったのは、下知により帝の元へ送る前に、朱華の真意を確かめる必要が生じた為だろう。それに朱華も、あの程度で動揺する程弱くは無い。万華は年齢・性別・在籍年数問わず、名目上の立場に上下は存在しないが、単純に武の技量のみを比せば、「深緋」の次点に挙げられるのは「朱華」なのだから。

 やがて、深緋は腕を解く。狼面の内から声が発せられた。

「……お前の見識を容れよう、匂坂。」

「有難う御座います。」

「但し、お前達の任務が疎かになった時、そして私の任務が阻害された時。その時には、私はお前達が適任ではないと判断する。」

「構いません、その時には処分して貰っても。」

にこりと微笑む浅葱に、一瞬、深緋が動きを止めた。しかし、それがどの感情に由来する挙動かは、面があっては分からない。再び発せられた声音にも、深緋の感情は顕れていない。しかし。

「これは命令ではなく、忠告だ。……『有坂十技子』には近付くな。」

「……。」

浅葱は笑みを消した。有坂家を実際に管理しているのが彼女である事は、周知の事実だ。だが、態々その名を今、出すという事は。

「理解(わか)りました。気を付けます。」

浅葱は頭を下げる。深緋は踵を返すと、漆黒の洋羽織を旗めかせ、丹色の扉から出て行った。

 

 

 夜も更けた執務室に充満する紫煙。揺めく空気を照らすのは、何かの資料が山積みにされた机上の、石油ランプのみ。しかしその机には誰もおらず、代わりに長椅子に向き合って座る男が二人。

「全く、俺はお前と違って通いなんだがな。」

「しかし、衣笠先生は大概、この時間でも此処に居ます。」

「……まあな。」

ふう、と大きく息と一緒に煙を吐き、短くなりかけた紙巻きを灰皿に押し付けると、衣笠理一は目の前に座る麟太郎に目を遣る。いつも通りの烏羽軍服、姿勢正しく、唇以外は微動だにさせない、見慣れた姿。

「で、何があった。有坂のとは、今は上手くいってるだろ?」

「はい。今回は、別の相談に乗って頂きたいと思いました。ハル様や、他の友人ではなく、医師である衣笠先生の意見を聞きたいのです。」

理一は瞼を僅かに細めた。つまり、体に何か不調があると言う事か。頑丈さが取り柄の麟太郎が気にする程の不調ならば、常人であれば手遅れの場合もある。

「どうした。何処か痛むのか。」

「……いえ、痛みは無いのですが。音、です。」

「音?」

鸚鵡返しに訊ねた理一に、麟太郎は淡々と話した。留子に呼ばれて会いに行った事、其処で自分の感情に「欠落」があると気付いた事、そして、その時に聞いた「水音」の事。留子が孝晴と理一について気に掛けている点は伏せられていたが、概ねその夜にあった事を聞き、理一は眉を寄せる。

「大臣邸に忍び込んだ事については、何も言わないでおく。……が、お前は『喜べない』って事以上に、その『水音』が気になってるんだな?」

頷く麟太郎。

「初めは、幻聴であると思いました。確かにあの日、あの場所に、水の落ちたような形跡は有りませんでしたので。いえ、幻聴なのは間違い無いと思います。問題は、それを私が今でもはっきりと思い出せるという点……そして、あの音に、別の感覚が付随している事に気付いた点です。」

「……。詳しく話せるか。」

「『闇』です。」

余りにも端的な答えに、流石の理一も暫く硬直した。しかし、麟太郎は冗談を上手く扱える程、器用な会話はしない。改めて理一は訊ね直す。

「どういう事だ?その音を聞いた時は夜更けだったんだろ。夜だったって以外に、引っかかる所があるのか。」

「はい。私は、水が特に苦手ではありません。溺れた経験も無ければ、雨に打たれようが滝に打たれようが、限界を越えなければ体が壊れる事もありません。雫の落ちる音を、気にする理由はありません。けれど、あの音には、何も無いんです。他の音も、景色も、感覚も、感情も、全てが消え去ったような、闇、と言うより、無、とでも言った方が正しいような。『このような記憶は、私には無い』んです。」

「!」

ぽつぽつと呟かれた、最後の一言を聞いた瞬間、理一の顔色が変わる。理一は麟太郎が口を閉じた事を確認し、ゆっくりと言った。

「もしかして、お前、それが『失くした記憶の一部』だと思ってるのか?」

「……そうなのではないか、と思い至りました。これまで……ハル様に拾われてから、今までの間、一度も感じた事の無い感覚なので。故に、先生に訊ねるべきだと思いました。医学的に見て、失った記憶が戻るという事は、あるのでしょうか。」

それを聞いた理一は片手で頭を抱え、麟太郎はじっとそれを見ている。暫く考えて、理一は息を吐いた。

「例えば、強い衝撃を頭に受けて、記憶が保存された部分が死んじまった、なんて場合には、もうそれまでの記憶は戻らないと思っていい。他に、病や精神的な衝撃で、記憶が無くなる事もある。前者は治療で治せる可能性があるが、お前は少なくとも、頭に傷が残ってたり、体自体に病気の症状が出たりしてる訳じゃ無い。つまり後者……心に何か強い衝撃を受けて、それを全部忘れた。その可能性が高いと俺は思う。」

「心、ですか。」

「戦争なんかの時に屡々あるらしい。酷い体験をすると、その体験自体を忘れる。お前の場合は、『何があったか』も分からねぇがな。」

一度言葉を切り、理一は麟太郎の反応を伺う。目線を下に向けて少しだけ考える素振りを見せると、再び理一を真っ直ぐ見詰めた。

「では、以前の私に何が起こったか分かれば、記憶が戻る可能性もあるのですね。」

「……話聞いてたか?今の話はあくまで俺の見立ての上での話で、お前が『そう』だと断定出来る訳じゃねえ。仮にそうだったとしてもだ、リン公、お前が失くした記憶は、お前にとって『どうしても忘れたい物だった』って事になるんだよ。それを無理に思い出すなら、今の自分を全部捨てる事になるかも知れねぇぞ。」

部屋に漂っていた白い煙は、いつの間にか消え去っていた。静かに、ゆっくりと語られる理一の言葉をじっと聞いていた麟太郎は、僅かに目を細め、そして再び、ぽつりと言う。

「先生は、私の体の傷痕を知っていますか。」

「知ってるも何も、何回治療したと思ってんだ。切傷も刺傷も矢傷も体中にあるじゃねぇか。」

「背も見ていますよね。」

「笞痕か?確かに古い……、」

其処で理一は目を見開き、そして強く細める。察しの良い理一が、気付かない筈が無かった。

「……あれは、お前が孝晴に拾われた時からあったんだな?」

麟太郎は、こくりと首を縦に振る。

「私は、此れが笞刑の傷なのではないか、と思っていた事があるのです。」

「馬鹿言え、笞刑なんざ俺達が生まれる前に廃止されてる。」

「地域によっては、廃止後も続けられていました。」

「それでも、完全廃止は十年以上前だ。有り得ねえよ。」

首を振る理一。麟太郎は瞳を伏せた。何かを思い出すように。そして再び、理一を真っ直ぐ見遣る。何処か、決意を孕んだような目だった。

「同じ事を、ハル様にも言われました。私には、ハル様が居た。ハル様が私の全てでした。だから、今まで気にして来なかったのです。『私が何者であったのか』を。」

「……。」

「衣笠先生と出会い、隊の仲間……部下を得、そして留子様の言で、私には、感情にさえ欠けがあると気付くに至りました。以前、勘解由小路大臣が私に言いました。私の中には私が居ないと。其れはもしや、この『欠け』の事なのではないかと。私は皆に良くして貰っています。しかし、私が私に向き合わずに好意を享受するのは、不誠実に思えます。なかんずく、私が何者か分からないまま、留子様の思いにお応えしてはならない気がするのです。」

微動だにせず淡々と語る麟太郎だったが、理一の中には一種不安とも呼べる感情が、じわりと滲み出していた。確かに、麟太郎には過去が無い。しかし理一が出会った時には、既に麟太郎は彼としての自己を確立していた。勿論、彼が犯罪者であった等とは思って居ない、いや、思いたくないだけだと、改めて気付かされた。当然、麟太郎自身が最も不安な筈だ。それでも、記憶というのは妙なもので、昔の記憶を取り戻す代わりに、新たに得た記憶を全て忘れる、という事もあるのだ。失いたくない、と思ってしまった。今の――友人、と呼べる者の一人を。理一は自身の頬に手を触れる。

(医者が贔屓なんて、しちゃだめなのは分かってる。けど、そもそもあたしは、復讐の為に医者になったはぐれ者だもの……少しくらい、医者らしくなくても、構わないよね、かかさま。)

「……俺は、思い出して欲しくない。俺の知るお前は『刀祢麟太郎』だけだからな。お前がお前じゃなくなるのは嫌だ。それが率直な気持ちだ。」

麟太郎は、ぱちぱちと目を瞬かせる。

「驚きました。先生らしくありませんね。」

「俺も友達が少ないのは知ってるだろ。」

理一は自嘲したが、直ぐに真剣な顔で麟太郎に言った。

「だが、お前がその気なら、俺に止められる事じゃない。それでお前の懸念が解消されれば、それこそ万々歳だ。けど……少しでもおかしいと思ったら言え。その時俺が出来る事はしてやる。」

麟太郎は暫し理一を見ていたが、有難う御座います、と頭を下げた。その顔には当然、何の感情も浮かんでいない。しかしその目の奥に見えた、決意のような何か。理一は新たな紙巻きに火を着けると、消えない微かな不安を煙と共に吐き出した。

 

 

 薬棚の並ぶ板の間の奥には、畳敷きの客間と、寝所が連なっている。薬や器具が入った棚が壁に沿って置かれた客間は、以前から診察室としても使われて来た。部屋の中央の卓に置かれた灯明皿の火と共に、座した二人の影が揺れる。かりかりと紙に鉛筆を走らせる透子の隣に座って茶碗を口に運んでいるのは、冷泉椿だ。当然、透子も椿も纏うのは普段通りの着物である。椿は茶碗から唇を離し、切長の目を細めると、ほう、と息を吐いた。

「変わった味やけど、美味しいわ。」

【マツリカをお茶に入れてあるの。気持ちが落ち着くから。】

「マツリカ……知らない薬やわ。」

予め書いてあった文字を見せ、微笑む透子。椿は苦笑すると、音を立てずに茶碗を卓へ置いた。

「ほんま、すんまへん。こんな遅くに、おぶぶまでいただいてしまって。」

【面を着けてる時だけが仕事じゃないもの。皆の体や心を見るのは、普段から変わらないわ。椿ちゃん、少し辛そうだったから気になってたの。だから、むしろ来てくれてありがとう。】

「……。」

椿はその文字を見て目を伏せる。かりかりと、紙を掻く音が暫く響いた。

【椿ちゃんの思っていること、私には全部話してもいいのよ。私は話したくても話せないから、口を滑らせる心配はないもの。それに、自分の嫌なところは、他人から見たら良いところだったりするものよ。ため込むのは体に毒だわ。】

「先生は、なんでもお見通しやね。」

椿は、息を一つ吐く。切り揃えられた髪がさらりと揺れた。語られる彼女の半生が恵まれて居なかった事は、透子は既に知っている。彼女は臣籍降下した元宮家・冷泉家の姫として育てられたが、実際は先代帝の「不義の子」だ。腫物の様に扱われて来た彼女が唯一求めたのは、腹違いの兄――帝に、「認められる」事。女が実力を以て、最も帝に近付ける場所は、万華である事は事実だ。しかし、万華に居る限り、彼女は帝にその存在を知られる事も無い。何故なら、帝がその素性を知るのは、「深緋」の立場にある者だけだから。……本来ならば。

「うちは……どうしても我慢できひん。うちがずうっと欲しかったもんを、あの阿呆は簡単に手に入れて……へらへらしよって……『お願い』やて?ほんに、反吐が出る。」

絞り出すように吐き捨てた椿の背に、透子は優しく手を触れた。椿も分かっているのだ。朱華――多聞正介の実力も、隊員としての働きも、申し分無いという事を。そして、その彼を選んだのが帝自身である為に、深緋以外で帝との会話を許された初めての万華であるという事実も。それでも、気持ちはどう仕様も無い。必要なのは、吐き出す場所だ。尤も、正介は椿の感情を受け止めた上で受け入れているようだが、朱華は万華の中でも深緋・浅葱に次ぐ激務を強いられる。そんな隊員達の身体面・精神面での負荷を緩和し、治療し、薬や、必要があれば戦う為の毒を作る。敵が毒を使うなら、分析し解毒する。それが、透子――梟の面と「小紫」の色を持つ者の仕事だ。

(『小紫』を譲れそうな子を見付けたと思ったけれど、あちらも大変そうだし……もう少し私が頑張らないとね。皆、まだまだ若いんだから、無理をさせないように気を付けなきゃ。)

背をゆっくりと撫でられているうちに、椿は申し訳無さそうな表情を透子に向け、ぽつりと言った。

「……こんな僻みだらけの汚い女、兄様に相応しく無いやんな。うちかて分かってるんや。」

【誰しも、ひがんだり妬んだりはあるものよ。これは内緒だけど、有坂君にもそんな相手がいるみたいよ。】

「あの有坂はんに……?」

素直に驚いた表情を浮かべる椿に、透子はにっこりと微笑んだ。

【大切なのは、その気持ちを否定しないこと、そして、気持ちの中身を理解すること。できることをやって、できない時には無理をしないこと。それでも力を出さなきゃいけない時は、がんばった後にしっかり休むこと。だから今日は、もう寝ましょう?】

「……せやね、銭形先生、今日は甘えさせてもらいます。」

 二人は立ち上がり、灯明を持って襖を開け、寝所に移動した。茶を沸かす為に土間の火を焚いた為、部屋の中も暖まっている。椿が残りの湯で顔を拭いている間に手早く布団を出してから、透子は灯明を消す前に紙に文字を書き足し、戻って来た椿に見せる。

「『銭形やのうて、透子って呼んで欲しい』?何か理由があるんですか?」

【少しね。お客に姓を知られたくない子ができたの。】

「ふふ、じゃあ透子先生やね。今日はおおきに、ありがとう。」

透子は顔の布を取らないまま微笑むと、それまで書き記した紙を灯明に翳し、燃やしてしまった。

 

「帝國の書庫番」

廿幕「花は風に惑い、鳥は水に揺蕩う」



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帝國の書庫番 廿一幕

光は時に、心の底に毒を生む。


 格子の外では、ちらちらと舞う雪が提灯に近付き過ぎて消えて行く。一夜で醒める夢のように儚い熱が、今宵も体を包み込む。

 廓の内では、男と女の立場は逆になるのだと、外から入って来た一人の遊女が言った。外でどれ程地位があり、女を躾け従えていようと、廓では只、一人の男に過ぎない。遊女が頑として首を振れば、望んだ女を目にする事さえ叶わない。

しかし乍ら遊女とて、望みの相手とだけ床を共にする訳にはいかない。どんなに金払いが良かろうと、どれだけ美しい優男であろうと、目の前に居るのは本当に抱かれたい男では無いのだ。口吸いを望まれて応えながら、これが"妹"であったならと想ってしまう自分は、最低の「ねえね」だと内心自嘲しながら、錦木は男の首に白い腕を絡ませた。

 

 

 寺前の店も板戸を替え、油売りや炭売りが家々を訪れる冬。人々は襟巻を身に着け、はたまた外套の襟を立て、其々の行先を目指して足早に去って行く。有坂孝晴は普段と歩調を変えず、薄く積もった雪を素足下駄で踏鳴らしてぶらつきながらも、首に巻いた襟巻を口許まで引き上げた。冬は好きだ。頭が冷えて肉体が制御し易くなる。孝晴が余り寒さを感じないのは、他者に倍する筋肉が熱を生成している為らしい。その分腹は減るのだが、冬場に食う蒸(ふか)したての饅頭がまた美味いのだ。しかし。

(今の時分、頸の印なンて探すにゃ向いてねぇやな……。)

孝晴は白い息を布の隙間から吐く。太田邸からの帰り、四辻鞠哉が言い残した言葉。

 

(『頸に赤い印のある者』を見たら、注意して頂きたく存じます。)

 

 あれから、現在までの犯罪記録や人相書、著名人、伝説上の人物――そうした架空の存在であっても、その特徴を真似る事で、行動に正当性を持たせたり、求心力を上げたり、箔を付けたりできる――に至るまで、あらゆる記録と記憶を掘り起こしてみたが、首や肩、全身の飾り刺青や顔や腕に入れられた入墨が特徴の者は居ても、頸の位置にある赤い模様を特に強調されている存在は見つけられ無かった。傷痕等に関しても同様である。そもそも傷であれば、色よりも形や大きさの方が印象に残る。あの瞬間によく機転を利かせたものだとは思うが、何処から「赤い印」の情報が出たのかも、其れがどの様な印なのかも分からない。そして季節柄、外で首元を露出させている人間は殆ど居ない。

 歩き回って得られる情報には限りがあると分かってはいるが、昨今の新聞では、生仏やら神女やら異能者等と呼ばれる人間を引っ張り出して、斬裂き事件の犯人探しと娯楽を兼ねたような記事が頻繁に掲載されるようになっていた。名乗りを上げて見世物になっておいて、結局犯人を見付けるに至って居ないのだから詮無い事だ。念写やら千里眼やら透視やら、よくもここまで「異能の者」を見付けて来られるものだ、と孝晴は内心苦笑する。この短期間でこうも簡単に異能者が見付かるのなら、とっくに自分にも同類が見付かっていてもおかしくないのだから。という訳で、新聞記事の情報も当てにならないとなると、別の方法を探すしかないと、孝晴は腕を組んで歩いて行く。

(この時節でも、家以外で人が襟を緩める場所と言やあ、長屋の風呂か、置屋か、廓……廓は立ち入る人間が限られるし、置屋は帝都からは無くなったし、俺ぁ長屋なんて入った事もねぇからなァ。『当たり』を引くかは分からねェが、念の為、リイチにも情報を渡しとくか……?四辻の野郎なら、坊っちゃん程リイチを毛嫌いしてねェだろうし。)

廓内部の人間から情報を得るには、理一に訊ねて貰うのが最も穏便だ。麟太郎を忍び込ませた事もあったが、あれは他に手段が無かった為だ。自分は人に見られず動けても、それを人一人抱えて目的の部屋に着くまで続ければ、自分に限界が来る以前に、抱えられる常人の側が耐えられないだろう。廓内は法外の世界、理(ことわり)は廓の中にある。正当に門を潜る以外の方法で入れば、どうなっても文句は言え無い。

(今のお麟にゃ、お留お嬢様が居るからなァ。)

孝晴は息を吐いた。襟巻の隙間から白い息が漏れる。あの二人の状況を詮索するまではしていないが、少なくとも関係が悪化した様子は伺えない。このまま穏便に、とまでは行かずとも――身分違いの戀なのだ、多少の混乱は避けられない――兎に角、麟太郎が有坂家から離れて所帯を持てるならば、それが一番良い。相手が勘解由小路留子なら麟太郎を任せても良いと、あの日思えたのだ。麟太郎は変わらず孝晴の為なら何でもするだろうが、今までの様に麟太郎だけを危険に晒すような真似は出来ない。

 もう帝都の人間に、事件に対する危機意識は殆ど無い。自分が動く必要があるのか?何度となく繰り返した問いを頭の中で思い浮かべる。ただ、会期が終わってみれば軍事関連法案は通過し、更なる軍拡に向かって政治の舵が切られたにも関わらず、四辻鞠哉が密かに送って来た文によれば、異人街で大きな混乱はまだ起きておらず、どうやら自治組織が上手く旭暉側と話し合って動いているらしいとの事だった。それだけでは無いだろうと、孝晴は太田卿の顔を思い浮かべる。

(あの人も、事業を相当抱えてっから、異人街以外でも動いてンだろな。)

太田卿の目は、哀し気ながら、何処までも優しかった。榮羽音に嫌われているのは仕方ない。しかし、太田卿の悲しむ顔は何となく、見たく無いと思った。元々、孝晴は誰と関わる事も諦めていた。必要以上に他人に関心を持つ事も無かった。なのに、麟太郎を得ただけで、こうも変わった。自己満足の材料に他人を使うのは気に食わないが、太田卿と、律儀に情報を送って来る四辻の為に、もう少し力を入れても良いかも知れない。

 そんな事を考えつつ道の向こう側に目を向ければ、一台の辻馬車が視界に入る。降りて来た男女が何か話した後、男が女を背に乗せ、そのまま建物に入ってゆく。この距離と、背中を気にしている向こうは気づいていないだろうが、此方からであれば姿形と行先で分かる。

(姉貴を背負って街医者通いたぁ、リイチも苦労してんなぁ。)

口許に手を添えて孝晴は笑う。あんな様子を見て、態々今、理一の負担を増やす事もあるまい。暫くは他の伝手を当たってみようと、孝晴は踵を返してその場を離れて行った。

 

 

 戸を潜って来た客に目を向けた透子は、その姿に目を丸くする。衣笠理一は、不思議そうな表情を浮かべる女を背負ったまま、透子に向かって、にかりと笑った。

「悪い、透子さん。何処かに座らせても良いか?」

透子は急いで畳から降りると、入口の戸に「診察中」の札を下げ、土間に出る扉を開ける。そして、開けた扉の先を右手と両手で一度ずつ示した。はっとした顔をする理一に微笑めば、理一は頷いて扉に足を向ける。

「どうして透子さんは、二回も御手を出したのかしら?」

「後で話すよ、姉さん。」

背中から聞こえた声に応える理一と、背中から声を発した女。そんな二人を微笑ましく思いつつ、透子も扉の先へ向かった。

 土間を通り、診察室を兼ねた客間へ。上がり框に姉を座らせ靴を脱がせてから、衣笠理一は彼女を支えながら立ち上がる。真っ直ぐな美しい髪をした、少し青白い顔色の女。透子は椅子を出しながら、ちらと彼女に目を遣った。微笑みに、妹の面影がある。髪質もそっくりだ。歳はもう、妹が嫁いだ時より上の筈だが、どこか幼く見える。

「いつも、此処でお薬を貰っているの?」

「普段は表で薬を買ってる。今日は……姉さんを一度、透子さんにも診て貰いたいと思ったんだ。透子さん、これは俺の二番目の姉で、名前は『月』。」

「衣笠月と言います。透子さんは女の人なのに、お医者さんでいらっしゃるのね。」

穏やかに、ゆっくりと話すお月。透子は笑みで応えた。不思議そうな顔をするお月に、透子は素早く紙を見せた。

【私は唖なんです。】

「まあ、そうなの。」

お月は驚いた様子だったが、それ以上何も言わないで、微笑んでいる。感情の起伏が薄いという訳では無い。単に口数が少ない、という訳でも無さそうだ。透子は先の文字に線を引き、書き足すという慣れ親しんだ筆談で、こう切り出した。

【まず、脈をみてもよいですか。】

 

 透子がお月を診ている間、理一は邪魔をしない為だろう、お月の隣に黙って座っていた。透子は考える。普段理一が買って行く薬は、気虚(ききょ)に効くものが多い。確かに、彼の診断は間違っていないだろう。しかし、お月の痩せた体と冷えた手足、良くない顔色。透子はかりかりと筆を走らせてから、一度手を止めて理一に目を向ける。理一は透子の目を見て、更に両手の動きを見ると、一つ頷き、静かに目を伏せた。それを確認した透子は改めて、お月に紙を見せる。

【首を振るだけで答えてください。理一くんに、月のものについて話したことはありますか?】

お月は一瞬顔に疑問符を浮かべたが、目をはっと開き、そしてゆっくりと首を振る。

【ひと月のうち、毎月同じ頃に、月のものは来ていますか。】

再び彼女は首を振った。

【頭が痛くなる日は多いですか。】

お月はそこで、こくりと頷く。透子は一つ納得した。恐らく、彼女は気力不足だけでなく、瘀血(おけつ)の症状も持ち合わせている。疲れ易く、頭痛やのぼせも起こり易い。故に、あまり長く話すと疲労が勝ってしまうのだろう。透子は再び書き足した紙を、お月の手を優しく握りながら見せた。

【月のものは、本当は、毎月同じ頃に来るんです。お腹が痛くなることも多いのではありませんか。どうして、理一くんに伝えていないか聞いてもいいですか?よければ、この続きに書いてください。】

透子はお月の顔を見て、安心させるように、にっこりと微笑む。紙と共に鉛筆を受け取ったお月は、戸惑いの表情でちらりと理一の方を見たが、やがて言われた通りに書いて、透子に渡した。

【トシちゃん先生は忙しいから、私にとって当たり前の不調は、特に伝えていません。それに、男の人だから、恥ずかしいのです。】

透子は、成程と思った。だから理一は、彼女を自分に診せたのだ。彼は、お月が症状を伝え切っていないと気付いている。しかし、何故お月は、弟である理一を「先生」などと呼んでいるのだろう。ひとまず疑問は脇に置き、透子は卓の奥に受け取った紙を押しやると、次の紙を取り出してから理一の前に手を差し出した。その手が彼の肩に触れる前に、理一はぱちりと目を開け、笑みを浮かべる。

「もういいのか?」

頷く透子。そして、「少し待っていてください」と書き残し、一度部屋を出る。

 盆に茶と小鉢を載せて戻った透子は、一度盆を卓に置き、かりかりと書いた紙を二人に見せ、微笑みかける。

【月さんは、初めてで緊張したでしょう。お薬は後で渡しますから、お茶を飲んで行きませんか。お茶うけもどうぞ。】

「よいのかしら?」

戸惑うように理一を見るお月。理一は安心させるように笑って見せた。

「大丈夫だよ、寧ろ姉さんは貰った方がいい。」

返答を得てから、透子はそれぞれに茶碗を渡す。理一に渡したのは普段自分でも愛飲している焙茶(ほうじちゃ)だが、お月の碗には紅花茶が入っている。紅茶よりもより鮮やかな色をした茶が珍しいのか、お月はゆっくりと赤みがかった水面を眺めてから、少しずつ口に含む。次に、鉢の中の干果実のようなものを指先で摘んで一口食べた彼女は、目を丸くした。こくりと飲み込んでから、お月は理一と透子を交互に見て言った。

「トシちゃん先生、それに、透子さん……このお茶……それと、これは何かしら?とっても美味しいわ。」

【棗(なつめ)を蜂蜜で炊いています。お口に合ったようでよかったです。】

紙を掲げ、にっこりと微笑む透子に、お月もほっとした表情を浮かべる。理一は黙って茶を啜っていたが、その顔は満足と安堵が混ざったような、優し気なものだった。

 

【今日お渡しするお薬は、先ほどのお茶と棗です。】

「そうなの?良薬は口に苦しって嘘ね。ねえ?トシちゃん先生。」

「それは、文字通りの意味と言うよりは、喩えだからな……。」

苦笑しながら応える理一に、不思議そうに首を傾げるお月。此処に来た時よりも、随分と気が楽になったようだ。透子はお月を診て、彼女は他の家族にも体の辛さを明かしていないのではないかと感じた。それが何故かまでは透子にはまだ分からないが、継続して通ってくれたらもう少し助けになるかも知れない。

 あとは、普段理一が出しているであろう薬も欠かさず飲み、理一の判断に従うようにと伝える。理一は少し恥ずかしそうに笑うと、水平にした左手の上に右手で作った手刀を載せ、そのまま垂直に右手を上げた。透子もまた、それを見てにっこりと笑う。

「ねえ、トシちゃん先生。初めから思っていたけれど、一体それは何なの?」

お月が首を傾げて言う。理一は椅子に掛けた彼女の頭を撫でると、優しく微笑んだ。

「これは手詞って言って、耳が聞こえなかったり、色んな事情で言葉が話せない人が、手の動きと表情で気持ちを伝える為のもんだ。俺もまだ余り覚えてねえけど……透子さんにも教本を渡してあってな。今のは通じた……んだよな?」

最後の部分は透子に問うた理一に、笑顔のまま深く頷く。お月は驚いたようだった。

「言葉が話せなくても、お話しが出来ると言う事?」

「ああ。」

「不思議ね。」

お月はふわりと微笑み、そして透子の方を向く。

「私も、手詞を覚えてみたいわ。私には時間が沢山あるもの。」

理一は驚いた顔をしたが、お月の目は透子に向いている。透子は鉛筆を取った。

【来れるときは、ぜひ来てください。また、お茶しましょう。】

 

 来た時と同じように、お月を背負って出て行った理一を見送り、戸に下げた札を外した透子は、薬棚の前に敷いた座布団に座りつつ、僅かに目を伏せる。

(お月ちゃんは、何故あそこまで体が弱ってしまったのかしら。大病を患っているようには見えなかったけれど……。)

 背負われて移動しているのは、足が立たない為だろう。支えられながら少しの間立つ程度は可能なようだが、現に彼女の足は痩せ細っていた。妹の子なのだから、病弱であってもおかしくは無い。ただ、妹は透子と演武を見せ合ったり、手合わせをする程度には体も動いたし、だからこそ衣笠家に嫁いだ。それに、衣笠理一自身がおぶって連れて来るというのも妙である。遊び好きという話はあるが、金が無いという噂は聞かない。医師として付き添うにしても、人や車を用意するのは容易い筈だ。

(それに……お月ちゃん、まだ何か、話したがっているように見えたわ。多分、理一くんの居ない所で。でも、お月ちゃんは理一くんの助けが無いと、外出は出来ないのね……。)

透子は薬紙や袋を整理しつつ、考える。自身の仕事を疎かにする訳にはいかないが、仮にも彼女は自分の姪だ。彼女は自分に何を伝えたかったのか。

(澄子……私は貴女の代わりにはならないけれど、医師としての仕事は出来るわ。だから少しだけ、私が貴女の子に関わる事を許してね。きっと、お月ちゃんを元気にしてみせるから。)

暫くしたら仕事の合間に休みを作って、衣笠家に問診に向かおう。声を持たない透子が心の内側で静かに決めた事に気付く者は、誰も居なかった。

 

 

 硝子から漏れる光が、濃い翳を落としている。薄暗い殺風景な廊下に立つと、外の世界が朝の光に包まれているのが嘘のようだ。まあ、この廊下の東側は壁になっているというのが、光の届かない理由なのだが。何故壁になっているかと言えば、その壁の先に東に面した部屋があるからだ。部屋の中には半日だけ光が差し込む。廊下にまで部屋から漏れ出た光が届いているのは、ある一つの部屋のみ、壁に面した窓がある為。その窓から十数歩離れた位置で、二つの影が交差した。一人は着物に刀を差した老人。もう一人は、鳶服の青年。

「止まれ。」

言葉を発したのは老人。青年は小さく息だけで笑い、そのまま歩き去ろうとした。

「儂の『蝙蝠』を勝手に使った弁明を、未だ聞いておらん。」

老人の嗄れた声が響く。ぴたりと、青年の足が止まった。そして半身だけ老人の方へ体を向ける。

「それがどうしたってんだよ?あの餓鬼共だって、毎日毎日布切りばかりじゃ退屈だろ。使い道を見付けてやったんだから、有難がっても良いんじゃねぇかぁ?」

「貴様がどう思おうが、貴様の行動は『アカツキ』の目的に沿ってはおらんのだ。『蝙蝠』は無駄遣い出来る物では無い。」

「その『アカツキ』様が、俺を連れて来たのを忘れたのか?あぁ、盲(めくら)にされた時、頭もやられちまってるのかぁ。」

喉の奥でくつくつと笑う青年。老人は内心で溜息を吐いた。あの男の行動に口を挟む事はしないが、本当に何故、「これ」を連れて来たのだろうか。

「貴様は狂人では無い。が、内腑が腐り切っておるわ。貴様と関わる者は皆腐り果ててゆく。何れその身も腐り落ちよう。」

「あぁ?」

切長の目を細め青年が凄むが、老人はふと、廊下の先へ顔を向ける。

「口を閉じろ、『天竺』が来る。」

「……チッ。」

 まだ誰の姿も見えない廊下。しかし数秒後には、その角の先の階下から、一人の若い男が現れた。色白の優男で、葡萄茶(えびちゃ)の着物と同じ色の羽織。濃紅(こいくれない)に染め抜いた襟巻が、肌によく映える。青年はにこやかに二人に向かって手を振ると、無言のまま、硝子窓の部屋へ入ってゆく。その後、部屋の中から声が聞こえて来た。

『飛鼠さん、金次くん、まだ居るかい?』

「……。」

老人は微動だにせず、青年は怠そうに振り返る。硝子窓の窓掛けが開けられ、間から笑顔の男が手をひらひらと振っていた。老人が反対側の暗がりへと歩み始めると、『飛鼠さん今日は機嫌が宜しくないようだね』等と、あっけらかんとした声が聞こえて来た。取り残された青年――武橋金次は内心でもう一度舌打ちをしたが、仕方なく硝子に近寄る。

「んだよ。」

『【父上】に、一先ず指示通りにできたと、伝えてくれないかい?』

「それだけか。」

『うん、それで充分だ。あまり長く僕の近くにいると、硝子越しでも良くないかも知れないし。』

金次は息を吐いて、去り際に男を睨む。

「俺がお前なんかの伝言役の為だけに居ると思ってんじゃねぇぞ。」

『思っていないさ。寧ろ僕はもっと君と話したい。君は僕に無い物しか、持っていないから、とても興味深いんだよ。』

「るせえ、実験動物の癖に。」

『あはは、その通りだ。金次くんのそういう所、本当に面白いね。』

 盛大に舌打ちをすると、武橋金次もまた、男が来た方向とは反対側に向かって歩いて行く。男は気を害した風も無く、屈託ない笑みを浮かべて手を振っていた。しかし奴は、「アカツキ」の息子――という事になっている――であり、「ただの人懐こい男」では全く無い。かと言って、言葉に裏がある訳でも無い。空洞の中に仮初の人格を載せたような奇妙な男。そしてそれ以上に、あの男は恐ろしい力を持つ。呪われたような力を。故に、「アカツキ」が彼に直接会う事は無い。今迄に出会った人間と、此処に居る人間達は別物だ。飛鼠はあんな事を言っていたが、自分もまた「アカツキ」に選ばれた特別な人間なのだと理解出来ないとは、愚かな老人だ。まあ、腕が立つのは確かだ。用心棒にはなるのだろう。

 武橋金次は蝶番を軋ませながら扉を開けた。薬品棚には本が詰め込まれ、鋳鉄の金庫からは糸で綴った本がはみ出ている。殺風景ながら雑多な部屋の中に、「アカツキ」は居た。

「武橋君か。そろそろ来るだろうと思っていたよ。天竺が帰ったのだね?」

「はい。『一先ず指示通りにできた』だそうです、『アカツキ』さん。」

アカツキと呼ばれるその男は、机に肘をつき、微笑みを浮かべる。

「それは良かった。しかし、蒔いた種が芽を出すには、時間がかかるものだからね。此方は暫く観察しておこう。」

独り言なのか、語りかけているのか分からないが、その微笑みは金次に向けられている。

「さて、君は弓で遊んでみる気はあるかな?」

「はい?」

唐突なアカツキの言葉に、眉を寄せる金次だったが、アカツキは手の甲に頬を載せながら笑う。

「君の狙撃の技術を使ってみたくてね。先ずは弓で練習してみ給え。」

「……しかし、」

言い淀んで、金次は唇を噛む。確かに弓術も相当習ったが、自分の肩は。

 心の奥から湧き上がる怒りが金次の顔を歪ませるのを見て、アカツキは頬から手を離す。

「いや、言葉が足りなかったかな。今迄使っていた腕と逆を使うんだよ。左手で弓を引き、左手で銃を撃つんだ。」

「は?」

呆気に取られた金次に、アカツキは手を顔の前で組み、言った。

「人間、時間さえ掛ければ、やって出来ない事など無いのだよ。君には才能があるし、私は君を否定しない。勿論、私の言を聞かないのも君の自由だが、私は君と共にあれたらとても嬉しいよ。」

「そうですか。なら、やってみます。『遊んで』良いんですよね?」

「勿論。」

にっこりと笑うアカツキに笑みを返すと、金次は部屋を出て行った。

「……『育てる』というのは、本当に楽しい物だね。」

組んだ手の上に顎を乗せた男の唇が、弧を描く。

「思い通りに育てば嬉しい、予想と違う花が咲いても、咲く前に枯れても、それはそれで面白い。しかし、育つ迄の間、只無為に待つ訳にもいかない。『蝙蝠』も慣れて来た頃だろうし、そろそろ、『採集』を始めても良いか。」

天井の洋燈すら灯していない、自然光だけが差し込む部屋の中で、アカツキは独り、呟いた。

 

「帝國の書庫番」

廿一幕「辰砂」




幕間二 主要人物イラスト・小ネタ落書きなど
https://privatter.net/p/9096665


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帝國の書庫番 廿ニ幕

各々の思議は、白皙の内に秘められて。


 貴族の娘の婚姻は、父親か相手先の親が縁談を進めるか、貴族の息子自身が女学校等を探して目星い娘を娶る。しかし、衣笠家の娘三人は、誰一人として嫁に出ていない。縁談が無かった筈は無いだろう。彼女達に話があっても、取り合って来なかった父の問題だ。理一が貴族の集まる機会で、自分より二回りも歳上の当主達とばかり話すのは、姉達の嫁ぎ先を探す為だ。しかし当主としては新参の理一は、他の当主達と子供の話が出来る程深い付き合いがある訳では無い上に、話したとしても、専ら自分に対して娘や孫を娶らないかという内容ばかり。自分より歳上の姉達の婿を探すとなると、難しいにも程がある。しかし、女に不自由を強いるような相手の元に渡したくない。自分の娘達を、結果的に家に縛り付けている「あの男のような」相手の元には。何故、女の一人や二人や三人を幸せにしてやるだけの事が、こうも難しいのか。そもそも、女の幸せって何なの。あたしが男だから分からないだけなの?それとも、――あたしが幸せを知らないから、分からないの?立場とか、世間体とか、この世は柵(しがらみ)が多すぎるよ。分かんないよ。投げ出したいよ。でも、自分にしか出来ないのだから、やるしかない。例え何もかもが暗中模索であろうとも。

 

 

 有坂家の「母屋」の応接間。珍しく着物を着崩していない孝晴の前に座っていたのは、勘解由小路留子だった。彼女は椅子の上で頭を下げる。

「わたしの為に機会を設けて頂いて、有難う御座います。」

「此方こそ、態々出向いて下さるとは思わず、満足なもてなしも出来ずに申し訳ありません。」

 苦笑する孝晴であったが、女中達が用意した茶と菓子が卓には並んでいる。彼女達は既に下がらせたものの、話の内容によっては場所を変えなければならないと、孝晴は留子の言葉を待つ。此処は有坂家の「母屋」。母の目の届かぬ場所など無い。留子が姿勢を正すと同時に、孝晴も内心で少しだけ身構える。

「先ずは、改めて謝罪させてください。先日の……その……わたしの失態で、お怪我をさせてしまい、本当に済みませんでした!」

「ああ、それはもう、気になさらないで下さい。怪我も単なる打身でしたし、この通り、すっかり治りましたから。」

「でも、父とも相談したんです。やはり、お詫びは必要であると。それで今日は、孝晴さまを、お誘いに参りました。」

孝晴はぱちぱちと目を瞬かせる。有坂家三男の出不精は、貴族ならば皆知っている。勘解由小路伯爵が大臣職にあろうと、孝晴が殆ど親睦会等に顔を出さない事は承知しているだろう。そんな孝晴を何に誘おうというのか。孝晴の疑問を感じているのかいないのか、いや、この娘は心の微妙な変化を感じ取っている。何故なら、表情が変わったからだ。まるで悪戯っ子のような、愉しげな顔に。そのまま彼女は、手を胸の前で合わせ、にっこりと笑った。

「匂坂(さぎざか)に、わたし達の別荘があるんです。孝晴さまのお休みに、別荘でおもてなしをさせて頂けませんか?」

「匂坂ですか。」

 匂坂は、旧國境を越えた先、内陸部の山麓にある保養地だ。黒岩連山の湧水を湛える紫水湖の景観は異人からの人気も高く、周囲には各國大使らの別荘が並ぶ。夏には船遊びや水浴を楽しめるが、匂坂が最も美しいのは春だ。湖に至るまでの長い山道に、野生の五弁花が咲き誇る。そして現れる紫水湖の水面には、薄紅を裾に纏った連山が逆さに映る。

しかし、今は冬真っ只中。邸宅の管理者がたまに確認に訪れる程度で、この時期を選んで滞在する話は余り聞かない。怪訝そうな顔をする孝晴に、留子は両手で口を隠して笑う。

「こんな時期にどうして、とお思いでしょう?」

「それは、まあ。」

「わたし、雪が好きなんです。帝都にも雪は降りますが、すぐに片付けられてしまいますでしょう?だから、毎年、冬の匂坂へ行くんです。冬の景勝地の旅亭もよいですけれど、慣れ親しんだ別荘で過ごす冬も格別で。有坂さまは、雪遊びをしたことは?」

「あまり、ありませんね。幼い頃に、庭で団子を作ったくらいで。」

「まあ!なら是非、わたしと雪合戦を……ではなくて、ええと、失礼しました……一緒に、別荘で雪見を楽しみませんか?」

孝晴は口許に片手を添え、小さく笑った。

「分かりました。一度、母に尋ねてみます。」

 

 余りにも呆気なく許可は降りた。母は、孝晴が仕事を放っぽって惰眠を貪っていようと、夜中に消えていようと、一度たりとも何か言って来た事が無い。あの時――麟太郎を拾った時――に分かった通り、ずっと母は自分に興味が無いのだから、当然と言えば当然だ。雪道を行く馬車の中から、孝晴は外を眺める。確かに帝都にも雪は降るが、ここまであらゆる物が真っ白な風景は、生まれて初めて見た。有坂家は、と言うよりも母は、自身が帝都を離れる事を好まない。あれだけ情報を握っているのだから、各地に手駒が居るのだろうが、それが何処の誰であるか等、孝晴は知らない。故に、孝晴にとっては、此れが初めての帝都外へのまともな旅行と言っても良かった。

 到着すると直様、勘解由小路家の使用人に囲まれ、袷羽織を身に着け、下駄の歯で雪を踏み締めながら玄関の階段を上がる。改めて雪に囲まれてみると、音の響き方が違う、と孝晴は感じた。理屈は分からないが、何もかもが吸い込まれるような静けさがある。人は居るのに、居ないような、そんな感覚。其処に自分の「世界」を重ね、孝晴はかぶりを振った。周りに合わせる事には、もう慣れた。それでも、自分の感覚はやはり、人のそれとは違う。孝晴が「しばらくの間」茫っと邸を眺めていた事に全く気付いていない使用人達を見て、孝晴はそう思った。

 

「ようこそおいで下さいました、孝晴さま!」

 玄関口で履物の雪を落としていると、ぱたぱたと留子が走り寄って来た。着物に滑らかな毛皮の上着を羽織って楽し気に微笑む彼女に、孝晴も頭を下げる。

「此度はお招き有難う御座います、お嬢様。」

「どうか、畏まらずに……此処ではゆっくり、寛いで頂きたいんです。」

「はは。では、お言葉に甘えて。」

「ええ、あっ、孝晴さまの荷はお部屋に運んでおいて下さいね。まずは私たちの邸をご案内しますから!」

言うが早いか、留子は上履きに替えたばかりの孝晴の手を引いて歩き出す。

「とと。」

少し慌てた素振りをしつつも、孝晴は驚く。貴族の娘が、こうも簡単に男に触れるとは。しかも彼女には、麟太郎という意中の男が居るというのに。そんな孝晴を尻目に、留子は気にする素振りも無く、邸内を歩いて回る。此処は食堂、此方に遊戯室、此の先が御手水場、等々。交わす会話も、なんと他愛の無いものだろうか。他に何の感情も見えない、只々楽し気な留子。

(やっぱし、女の考える事なンて、わかんねェや。)

孝晴は手を引かれるまま、内心で溜息を吐いた。

 一通り案内が終わり、同時に孝晴が邸の間取りを頭に入れ終えた頃。老人の呼ぶ声に、留子が立ち止まる。

「お嬢様、御食事の支度が整いましたよ。」

「有難う、じいや。孝晴さま、お腹は空いていらっしゃいますか?」

「ええ、あまり遠出はしないもので。それに、御邸中を歩き回ってしまいましたし。」

「まあ。」

留子は孝晴の軽口に、口に手を当ててくすくすと笑い声を立てた。

食堂に案内されると、整えられた食卓の上に、美しい磁器の皿が並んでいる。その皿の数を見て、ふと、孝晴は首を傾げて留子を見た。

「お嬢様、旦那様はお忙しい中でしょうが、兄君方はいらっしゃらないのですか?」

「ええ。鐵心お兄さまは川田先生の所でお勉強中ですし、務お兄さまは執筆のお仕事、大志お兄さまも、お義姉さまのお腹にお子がおりますから、今回はわたしだけなんです。」

「……。」

流石になんとも言い難い表情を浮かべる孝晴に、留子は笑って続ける。

「それに今回は、わたしの失態をお詫びする為のご招待ですから。お父さまにも、ちゃんと許可を貰っているんですよ?」

思い返せば、初めに迎えに出たのが留子だけであったのに違和感を覚えてはいた。しかし、彼女に引かれてついて行ってしまった事で、その違和感を頭の片隅に追いやってしまっていた。幾ら交流のある家で、使用人も控えているとて、そして孝晴にその気は全く無いとしても、婚姻前の男女が別荘に二人で過ごすなど、有り得ない。本当に勘解由小路伯爵が許可しているのなら、それこそ何か裏があるのでは無かろうか。

「……それは流石に、お転婆が過ぎるのでは?お嬢様。」

「あら、孝晴さまは、そうした世間体はあまり気になさらない方だと思っていました。」

「自分事と他人事は別ですよ。」

苦笑いで答えるも、留子は動じない。

「それでもこの度の招待は、わたしから孝晴さまへのお詫びです。沢山楽しんで頂きたいのは、わたしの心底からの気持ちですから、受け取って下さると嬉しいです。」

周囲に控えた使用人達の落ち着いた態度で、彼らも全て分かっているのだと察しがついた。孝晴は一つ息を吐くと、「分かりました」と卓に着くのだった。

 

 タレを絡めてよく焼かれたビフテキ、裏漉しした芋のスープ。食後には、甘い小麦の生地を膨らませ、クリームをまとわせたケーキ。以前晩餐会に招待された時よりも美味く感じるのは、料理人が腕を上げたのか、それとも環境が違うからか。何事もなく昼餐を済ませた後、孝晴は留子に連れられるままに、只々「休日」を過ごしていた。食後の運動と言われ、広い庭に積もった雪の中で、雪を丸めて積み上げたり、玉にしたものを当て合ったりと、子供じみた遊びに興じる。濡れた着物を替えて、座敷から一面の白に覆われた湖を眺め、茶を飲みながら景色を楽しむ。晩餐までの間には、遊戯室で碁を打つ。一手毎に勝ち筋が見えてしまう孝晴ではあるが、わざと負けるような事も出来ない性分故、長めに考える振りをする。最終的に留子が負けるのだが、彼女は頬を膨らませて悔しがり、もう一度とせがむ。そんな留子に付き合ってやりながら、孝晴はふと思った。

(何ンにも情報を頭に入れねぇ日なんて、ここ何年も無かったかも知れねェなぁ……。)

朝は出立の準備をしていた為、新聞すら読んでいない。仕事も普段のように抜け出すのではなく、休暇届を提出してきた。遊びに興じるだけの、無為な時間。

(こんなにのんびりしちまってて良いもんかねぇ。)

そんな事を思いつつ最後の石を置けば、留子が「また負けましたーー!」と頭を抱えるのだった。

 

「孝晴さまは、碁が大変お強いのですね。わたしだって弱くはないと、お父さまや孝雅さまにお言葉を頂いた事もありますのに。」

「兄が?」

 長椅子の上で、孝晴は少し驚いた表情を浮かべる。晩餐と湯浴みを済ませた二人は、談話室で寛いでいた。留子は大きな瞳で孝晴を見ながら微笑む。

「わたしは父と遊びたくて碁を覚えたので、父が忙しい時は、秘書をされていた孝雅さまが、父の代わりにと相手をして下さいまして。そのご縁で、時々お相手をお願いしているんです。」

「そんな事が。」

「それで、わたしもどのようにしたら勝てるか、お互いにとって楽しい対局が出来るか考えて……それで、観察する事にしたんです。わたしの一手に対して、どのような反応をなさるか。余裕そうであったり、嫌そうであったり。そんな反応から、相手の方がどんな運びを考えていらっしゃるかを推測するんです。」

「其処まで相手の反応が分かるものですか。」

「何となく、ですけれど。」

にっこりと笑う留子に、孝晴は内心舌を巻く。同時に、他人の感情に対する彼女の敏感さは、そのような生活の中でも磨かれたのかも知れないという納得も感じる。でも、と留子は唇を尖らせた。

「孝晴さま、わたしが何をしても、全く動じないんですもの。まるで、最初から終局の盤面が見えているみたいでした。だから色々試して頑張ってみましたけれど、どうにもならないくらい、孝晴さまは強かったです。」

「……。基礎の打ち方と、有名な対局の流れを幾つか覚えれば、殆どの状況には対応出来るものですよ。」

嘘だ。孝晴は、碁や将棋等の遊び方を覚えた後、一度たりとも勉強した事は無い。ただ、思考の速度が違う為に、あらゆる手の先にある道が見えるだけ。本当は、勝つ為に努力している留子の足元にも及ばない。自分は助言など出来る立場に無いと思いつつも笑って見せれば、留子は「成程、基礎がやはり大切なのですね」と微笑んだ。

 それから二人は翌日の予定について軽く話すと、それぞれに分かれて部屋を出た。来客用の寝室を案内された孝晴は、翌朝起こしに来ると告げて去って行く使用人を見送り、一つ息を吐いて扉を開ける。

 

奥の暗闇で、何かの目が廊下の灯りを反射した。

 

瞬間的に孝晴は身構えたが、相手が動き出す前に暗闇に目を慣れさせその姿を捉えると、呆気に取られる。

「お麟……?」

「……何故、ハル様が此処に?」

麟太郎も無表情ながら、同じ事を感じたようだ。きっちり扉を閉め鍵を掛けてから、孝晴は窓際に近付くと、机上の洋燈に火を入れ、ふう、と息を吐き出す。

「そいつぁ俺の台詞だぜ……此処が勘解由小路家の別荘だって知らねぇ訳じゃねぇだろぃ。」

麟太郎は無表情のまま首を傾げる。

「おかしいですね。私は『明日は必ず休暇を取って、今夜此方に来て欲しい』と留子お嬢様に頼まれまして。先だって最寄りの駅まで日向さんに迎えに来て頂き、別棟で雪を払った後、此方の部屋に留子お嬢様が向かうので、灯りを点けずに待っていて欲しいと、そう聞いていましたが。」

「そういや、昼飯の後から見てねぇなァ、あの爺さん。」

「それで、何故ハル様がこの部屋に……、」

言い掛けた麟太郎が、ぴたりと動きを止め、真っ直ぐに扉を見遣る。

「居ンのか。」

「はい。」

二人は口を噤む。麟太郎が静かに動き始めた。軍服でなくとも、麟太郎は足音を全く立てない。そのまま扉まで近付くと、麟太郎はゆっくりと無音で鍵を開け、素早く扉を引くと、扉に張り付いていたそれを隙間から引き込み、元通りに鍵を閉める。麟太郎の腕に抱えられた留子は、余りにも一瞬の出来事に何が起きたか理解出来ず、目をぱちぱちと瞬いたが、次の瞬間、爆発でもしたように顔を赤くして、目を見開いた。

「り、り、りんたろうさま、」

「お静かに。」

動揺の余り口も回らなくなっている留子に、淡々と麟太郎は告げる。その様子に孝晴は大きく息を吐いて、額に手を当てた。麟太郎に抱かれた留子の表情は、疑いようもなく、彼を愛する女の顔だ。これだけ強く心が変わっていないのならば、そして此れが彼女の狙いであったなら。許可した勘解由小路伯爵も大概だ。孝晴は頭を掻きながら額から手を離す。

「……お嬢様。『少し』、お話をしましょうか。」

麟太郎に支えられながら立たされた留子は、まだ真っ赤な顔をしながらも、ゆっくりと頷いた。

 

 

 暖炉で薪の爆ぜる音に、紙の擦れる音が加わる。拡げた紙を眺める瞳が細められ、美しい口許が弧を描く。有坂十技子は、自室の柔らかな長椅子の上で、ぽつりと呟いた。

「矢張り、今夜向かったか。」

手紙の内容は、軍内に居る手駒からのもの。十技子は彼らを通じて、勘解由小路留子の求婚話の相手が、刀祢麟太郎であると知っていた。其れから季節が二つ過ぎただろうか。麟太郎は常に孝晴に着いていくが、今回正式に招待を受けたのは孝晴のみである為、麟太郎が随伴するとは考え難い。そして平常、麟太郎は非番以外の休暇を取らない。併せて考えると、勘解由小路留子が孝晴を隠れ蓑に、麟太郎を呼び寄せた可能性が高い。そして、それに麟太郎が応じたならば。

「……孝晴の方は、見切りを付ける頃合いかのう。」

有坂十技子は飽くまでも優雅に立ち上がると、通りすがりに暖炉の中へ手元の紙を放り込んだ。そして机に掛け、書状用の美しい紙を取り出すと、筆を取る。彼女がその文を何処へ送ろうとしているのか、中に何を記しているのか。今は彼女以外、知る者は無い。

 

「帝國の書庫番」

廿ニ幕「銀雪の下」



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帝國の書庫番 廿三幕

四角に切り取られた空の中で、月灯りは雪に煙る。


 壁の中を這う配管に、暖気を通しているのだろうか。外は雪に覆われているが、寒さは感じられない。洋燈の灯る部屋の中、三人はそれぞれに向かい合っていた。より正確に言えば、円形の机を挟んで座る留子と孝晴、そして一人机の横に立っている麟太郎という構図。麟太郎は丁度二人の中間に位置を取って、眉を寄せて何か考えている孝晴と、ちらちらと二人の顔に向けて交互に目線を遣る留子を、無表情で眺めていた。彼女は何やら罰が悪そうな顔をしているが、麟太郎には、その感情の裏で彼女がどんな思考をしているのかは分からない。それに今言うべき事は、孝晴が言う筈だ。

 やがて孝晴は、ふう、と一つ息を吐く。留子が微かに身を震わせた。

「先ず、教えて頂けますか。お嬢様は何故、『私と麟太郎が二人になる状況』を作ろうと思ったのです?」

「えっ、」

「麟太郎に逢いたいが為に私を隠れ蓑に使ったのなら、私を同じ部屋に通すなどという間違いは犯さないでしょう。それに、貴女は部屋の扉の前に立ってから、中に入ろうとはしなかった。だろ?お麟。」

顔を上げて絶句した留子に一度目を向けた後、麟太郎は此方を見ている孝晴に向かい、一つ頷く。

「留子お嬢様に、中に入ろうとする気配はありませんでした。」

「えっ、えっと、お二人は、戸が閉まっていても、そこまでお分かりになったのですか……?」

「気付いたのは麟太郎です。そうした方面は、麟太郎の方が私より鋭いので。」

肩を竦める孝晴であったが、留子の顔から混乱の表情は消えない。麟太郎が淡々と補足する。

「私が貴女の存在に気付いてから、ハル様と私は、貴女の出方を伺いました。けれど、貴女の気配は扉の前から全く動きませんでした。」

「お嬢様の性格なら、心を決めていれば行動に移しますし、決めかねていても、きっと動き回るでしょう。『想い人が居る部屋に入るのを躊躇っている』と取るには、どうも違うのではないか、と感じまして。それで、お嬢様が始めから、私と麟太郎を会わせる事を目的としていたと考えるに至った訳です。」

麟太郎に続けて極力穏やかに話す孝晴の言葉を聞きながら、留子は目を丸くしていたが、やがて「そうです」と言って一度目を閉じると、ゆっくりと瞼を開く。その時には既に、留子は真っ直ぐに孝晴を見据えていた。どうやら、迷いは消えたらしい。

「怪我のお詫びというのは、確かに建前です。けれど、これだけは信じて下さい。わたしが、孝晴さまにゆっくりと休暇を楽しんで欲しいと思っていた事、それは嘘ではありません。」

留子は言った。

「わたしは、じいやとそれ以外の皆に、別々の内容を伝えました。じいやだけに、『この部屋を孝晴さまが使う事にして開けておいて、実際は別のお部屋へ孝晴さまを案内するので、この部屋で麟太郎さまと会う』と言ってあるんです。だから、皆はこの部屋が孝晴さまの部屋だと思っていますし、じいやは、この部屋は麟太郎さまと会う為の部屋だと思っています。もう就寝の挨拶は済ませてありますし、じいやは当然わたしが麟太郎さまと会うものと思っていますから、この部屋に人が近付かないようにしてくれているでしょう。」

そこで一度、彼女は言葉を切る。顎に指先を当てて留子を見ている孝晴は無言だったが、麟太郎は首を傾げた。

「何故、そのように嘘を吐いてまで、私とハル様を鉢合わせさせたのですか。」

「それは……、それは、お家からも離れた場所で、信頼なさっている麟太郎さまと交わす会話を聞けば、孝晴さまの事がもっと理解できると思ったからです。」

「へっ?」

逡巡する素振りを一瞬見せるも、留子はきっぱりと言い切った。そして、その内容には流石に思い至って居なかったらしく、孝晴が気の抜けた声を上げる。真ん中で双方の様子を見ている麟太郎は、二人の立場がそっくりそのまま裏返ったようだと、目を丸くしている孝晴を見て思った。直ぐに口を開いた孝晴だが、きっと、彼の体感で呆然としていたのだろう。それを目視する術は、麟太郎も含め、誰も持ち合わせていないのだが。

「失礼、何故『私』なのですか。お嬢様が知ると約束を交わしたのは、そこの麟太郎についてでは?」

ゆっくりと表情を戻し、孝晴が訊ねる。留子は首を振った。

「わたしが『互いを知ってからお返事を頂きたい』と麟太郎さまにお願いして、それを了承して頂いたのは、間違いありません。けれど、わたしが自身の気持ちの成就を願うなら、麟太郎さまを大切になさっている孝晴さまの事を、知らないままで良いとは思えません。……御屋敷から離れた場所で、麟太郎さまとなさるお話には、孝晴さまのお心が表れるのではないか。それを聞けたら、わたしにも、あなたの事がもっと分かるのではないかと思ったんです、孝晴さま。」

「私を家の柵(しがらみ)から離そうとして、こんな事を?」

「これくらいしなければ、あなたは本心を明かしてはくれないと、わたしは思っています。」

留子の言葉に、孝晴は肘をついた手を口許に当てて黙り込む。しかしその沈黙は直ぐに、麟太郎によって破られた。

「留子お嬢様は、扉の外から、私達の話し声や、少なくとも動き回る物音などを、聞き取る事が出来ましたか。」

「えっ……。」

麟太郎は留子をじっと眺めている。何も知らない人間であれば、それだけで恐れ慄くだろう。しかし、そんな無感情な目を向けられながらも、留子は再び顔を赤くして、ぽつりと言った。

「その……、全く聞こえませんでした。」

「でしょうね。訓練も道具も無しに、中の音が聞こえるほど、この部屋は、壁も扉も薄くありませんから。」

麟太郎は孝晴に顔を向ける。二人の会話で察していたのか、孝晴は頬を既に緩めていた。

「ってぇ事は、お嬢様、盗み聞きが目的だったってのに、一発勝負で扉に貼り付いたんですか。」

「そ、そうです!だって、聞こえないなんて思わなかったんですもの……。」

「っ、ははっ!いや、失礼……。」

留子が顔を赤くしながら頬を膨らませ、それを見た孝晴が笑い声を上げる。やはり、留子はまだ十五の娘なのだ。詰めが甘い。しかし、自分の目的を達する為には、ここまでの手段も取れる女。政治家の娘とは言え、末恐ろしいものだ。いや、このような部分も、あの勘解由小路大臣が評価する所なのかも知れない。

「お気遣いは有難いですが、私にこれ以上お話出来る事はありませんよ。」

肘掛けに頬杖をつきながら孝晴は笑みを浮かべて見せるが、留子は頬を膨らませたままだ。だが、やがて彼女は一つ息を吐く。流石の彼女も諦めたのだろうかと、麟太郎は一つ瞬きをした。

 

 留子は、自分の膝に目を向ける。其処には自分の手が並んで置かれていた。何の力も無い、子供の手だ。分かっている。――それでも。

「孝晴さまは、嘘つきですね。」

留子はポツリと、しかしはっきりと言い切る。黙り込む孝晴。麟太郎は、目を細めた。留子は少しだけ俯く。このような詰め寄り方をしたら、麟太郎に嫌われてしまうかも知れない。そんな恐れが、心中に過ぎる。しかし、彼女の性格では、言葉を留めても置けなかった。彼女には確信があったから。

「わたしが、『始めから終局の盤面が見えているようだ』と言った時の、孝晴さまのお返事は、嘘だったのでしょう?孝晴さまが考えている時には、目線が盤上を殆ど動いていませんでしたもの。今までの対局では、目が何処を向いているか悟られないように、瞑って考える方はいらっしゃいました。勿論、盤面全体を見るのは当然ですが、それであっても、ある程度視線は動き回ります。孝晴さまには、それが全くありませんでしたから……だからわたしは、ああ言ったんです。名人には、そのように表現される方も居ますから。でも、孝晴さまは、否定されました。それも、どこか自分を卑下するようにして。もしかしたら、そこに孝晴さまの悩みがあるのではありませんか?わたしは、自分だけが幸せになれば良いとは思っていません。あの夜に感じた孝晴さまの苦しみは、未だあなたの中にあります。知ってしまったからには、知らない振りは出来ません。力になりたい。ならせて欲しい。だから……あなたが、苦しんでまで嘘を吐かなければならない理由を、知りたかったんです。」

留子は一度に言い切った。孝晴はそれを遮らずにじっと聞くと、視線だけを横にずらす。その先には、麟太郎が居る。孝晴の視線の動きを感じ取り、麟太郎は孝晴の方に顔を向けた。

「お麟。」

「はい。」

「お嬢様を餌にして俺を釣った時、お嬢様がここまでするって予想してたかぃ?」

麟太郎は首を振る。

「ただ、留子お嬢様なら、有り得ない事では無いかと。」

麟太郎は、留子に初めて求婚された時、彼女が一晩で駐屯地への立入許可証を手に入れていた事を思い出す。あれも常人が簡単に出来る事ではない。そして麟太郎は既に、彼女から思いを明かされている。

「彼女がハル様を案じておられるのは、本当です。」

気色ばんだ顔で黙っている孝晴に、静かに麟太郎が言った。孝晴は目を閉じて後頭部をがりがりと掻き、

 

「この簪、お会いする度に着けていますね。着物や装いに関わらず。大切な物なのですか?」

 

 後ろから聞こえた孝晴の声に留子が驚いて振り向くと、目の前に座っていた孝晴が、留子の後ろに立っていた。その手には、見覚えのある飾り簪がある。

「そ、それはその、……って、え?孝晴さま、それは、わたしの……?」

留子は思わず、簪が差さっていた筈の頭に手を当てる。ある筈のものは其処に無かった。間違いなく留子の簪のようだ。そしてそもそも。

「孝晴さま、いつ、わたしの後ろに、」

「私が何故嘘を吐くか、でしたね。」

孝晴は留子の言葉を遮り、留子の髪を優しく指先で梳くと、簪を元通りに差し直してやる。その様子を、麟太郎はその場から動かずにじっと見ていた。

「端的に言いましょう。

――私は、人間じゃあ無いんです。」

孝晴の方を振り返っている留子の表情は、麟太郎からは見えない。しかし、孝晴が何故笑みを浮かべているのか、その理由は麟太郎には分からなかった。

 

 

 部屋の硝子窓に触れると、ひんやりと冷たさが指先に伝わる。月の部屋が二階に移ったのは、医者が代わってからだ。もう、十年近く前の事。それまでは月も、きりの世話を手伝ったり、初と共に散歩に出かけたりしていた。しかし体を壊しやすい月は、その日外出から帰ると、普段より酷く熱を出してしまった。父の雷が侍医に落ちた。新しく来た医者は、月に外出を許さなかった。風邪を引くからと極力外気にも当たらないように、管理されたこの部屋の中で過ごす日々。湯浴みや手洗以外は、食事も、勉学も、部屋の中。当時はもっと多くの使用人が居た。姉妹も、毎日必ず遊びに来た。それでも、月は一人だった。食欲は減る一方だった。いつしか、足が立たなくなった。掴まり立ちでなんとか歩ける程度にしか、月の足は動かない。少し動くと疲れてしまう。そんな状況が変わったのは、父が死に、異母弟の理一(としかず)が家督を継いでからだ。彼は月に優しい。けれど、それが逆に、家族としての繋がりを感じさせないのだ。厳格で殆ど女達を顧みる事の無かった父と、軍で働きながらも献身的に月の世話をする理一。容姿も全く自分達と似ていない。そもそも、理一がまともに姉妹と顔を合わせるようになったのは、ここ五、六年のことだ。姉妹とさえ余り接して来なかった月は、彼を身内だと認識出来なかった。

(いい人、なのだけれど。)

理一は月の環境も劇的に変えた。月は外に出たら病に罹ると聞かされ、それを信じて来た。そんな自分に、外に出なければより身体が弱っていくと説き、日光浴と外気浴を促し、彼自身がおぶってまで、外出にも連れ出してくれる。けれど月は、その「医者」としての彼しか知らない。

 月は椅子を回し、向きを変える。この回転する椅子も、どの方向からでも座ったり立ったりしやすいようにと、腕の良い家具職人に作らせたものらしい。椅子を向けると、目の前には卓がある。その上には紅い茶と、棗の入った小鉢。そして隣には、理一が用意してくれた手詞の教本がある。棗を箸で摘んで口に入れ、ゆっくりと噛めば、素朴な甘さがじんわりと口内に広がる。茶を一口。香りが鼻腔に抜けてゆく。美味しい。時間をかけて少しずつ、よく咀嚼して飲み込む。そうして食べ終わってから、月は生白い手を教本に伸ばした。既に何度か読み返したが、手の動きで会話を試みるとは、面白い事を考えるものだ。冊子の表紙を眺め、月は思う。今まで与えられたものだけで生きてきた自分が、初めて自分から興味を持ち、勉強したいと思った。だから理一も、驚いていたのだろう。しかし、自分でもそう感じた理由は分からない。ただ、透子ともっと話してみたいと思ったのだ。

(どうしてかしら。女のお医者様が珍しいから?)

勿論、月が明かしていない不調も見抜いたほど、優れた診察力を持つ医者だから、信頼できると感じたという事もあるだろう。理一が「一度診て貰って欲しい」と言ったのも、納得できる。だが、それだけでは無いような気もする。月は細く白い首を少し傾げるが、特に結論を出す事も無く、瞼を伏せる。沢山考えて疲れてしまった。月は食事を終えた事を知らせようと、呼鈴に繋がる紐に手を伸ばす。

 その時、部屋の扉が叩かれる音がして、月は思わず手を引っ込めた。

「月ちゃん?今、良いかしら?」

扉の外から聞こえたのは、姉の初の声だ。

「大丈夫よ、姉様。今、食べ終えてしまったところ。」

月が応えると、静かに扉が開けられる。初は部屋に入って来ると、卓上にある空の器を取り、盆に乗せた。

「ついでに、これは私が持って行ってしまうわね。月ちゃんにお客様がいらしているの。入って貰っても大丈夫?」

「私に?どなた?」

不思議そうな顔をする月。初は微笑みを浮かべながら、「どうぞ、月は此方におりますわ」と廊下に向かって声を掛けた。言われて姿を見せたのは、脚絆に襷を掛け、風呂敷で包んだ薬箱を背負い、――顔の下半分を布で覆った、壮齢の女。

「透子さん……?」

目を丸くする月に向かい、透子はにっこりと笑うと、綴じた洋紙を一枚めくる。

【こんばんは、月さん。薬を届けた帰りに、会いに来てしまいました。迷惑でなければ、少しおしゃべりしませんか?】

 

「帝國の書庫番」

廿三幕「朧夜の内」



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帝國の書庫番 廿四幕

柔らかな果皮が、乱れ裂け、飛び散る。


 他の建物と違わず帝都の冬を纏う、勘解由小路家の邸宅。父の帰りを待つ留子は、沈鬱な表情で壁の時計を眺めた。こんなにも針の進み具合が遅い事を恨んだ日は、今までに一度も無かっただろう。

有坂孝晴への歓待は、つつがなく終わった。使用人達から様子を聞いていた家族は、帰って来た留子が塞ぎ込んでいる様子に驚いた。しかし、幾ら尋ねられても留子は何も言わなかった。話せるのは、留子の本当の目的を知る、ただ一人の家族――父だけだ。

 有坂孝晴が「自分は人間ではない」と言った時、留子にはその意味が分からなかった。孝晴は、何処からどう見ても人間の形をしているし、その心も、苦しみも、人間らしいものだから。しかし、その後孝晴は、詳しく話してくれた。彼は生まれ付き、思考速度が常人と違う。具体的に比べた事など無いらしいが、思考に合わせて普通に動いたら、その動きが常人には見えない程なのだそうだ。それが、留子の簪を取った時に孝晴が行っていた事。彼は、ただ歩いて、髪から簪を抜いただけ。そんな速度ですれ違ったなら、とんでもない強さの空気の流れが発生しそうだが、不思議とそのような事は無いらしい。それほど頭の回転が早い孝晴であるから、当然、囲碁や将棋等でも、相手の一手毎に、先が読めてしまう。双六や賭博でも、振られた賽が跳ね返る強さと角度を見て、どの目が出るか分かってしまうのだそうだ。その逆を行えば、目を狙う事も彼には容易い。勿論、いかさまも彼には通じない。他者の動きは、彼にとっては遅過ぎるから。

 留子は、それは天賦の才で、尊ぶべきものなのでは無いかと言った。しかし孝晴はこう返した。生まれながらの才を開かせるのは、適切な教育と努力だと。勿論、得手不得手というものはある。体質や、性格も影響する。しかし、天才を天才たらしめるのは、それに見合う努力の量だ。逆に孝晴は、自身は何かを習得する時、努力らしい努力をした事が無いという。剣も、書も、「一度見れば」覚えて再現出来る。囲碁も、実際に覚えたのは規則と用語だけで、それを基にして、最適解を頭の中で弾き出しているらしい。「何一つ努力せずに得る私の勝ちと、経験と工夫を重ねた上にあるお嬢様の負け、何方(どちら)が尊いと思いますか」と訊ねられた時、留子は言葉を返せなかった。そして孝晴は、それ故に、自身が根本的に人間と異なる存在であると認識している。だから、「他者と同じ土俵に乗らないように、化物である事を隠している」のだと、彼は言った。留子も、実感してしまった。孝晴の見せた力は、常識的な「出来る出来ない」の範囲で語れるものでは無いのだ。

 

(そして、そんな孝晴さまが、唯一心を開いていたのが、麟太郎さま……。)

 

留子は固い長椅子の上で、両手を強く握る。

 

『お嬢様は、思い遣りのある方です。口が固いのも、よく知っています。なので、お話させて貰いました。聡い貴女なら分かったでしょう?私について知った所で、貴女には如何しようも無い事が。……私にだって、如何にも出来ないのですから。』

 

 孝晴の言葉が、胸に突き刺さっている。あれは、明らかに留子を遠ざけようと放たれたもの。しかし、留子を悪戯に傷付けようとした訳では無い筈だ。その言葉を吐いた時の孝晴から伝わる感情は、麟太郎に「お前など要らない」と言い捨てた時と似ていると感じた。自身に近付いて来た者が傷付かないよう、先に遠避ける為の、優しい刃。それでも、留子は自身の浅さを思い知らされた。――同時に、麟太郎の覚悟の強さも。

 

『私は、人間じゃあ無いんです。』

 

 言葉と共に笑みの奥から滲み出す、諦めと拒絶の感情。孝晴が麟太郎を「友達」だと言葉にするまでの葛藤は、推し量るには余りある。あの夜の彼の涙は、それ程重いものだったのだ。そして麟太郎は、それを真っ向から受け止めた。

「……わたしは、」

 小さく呟くも、留子はその先を言わなかった。時計の螺子が針を動かす音だけが、暫くの間部屋に響く。見慣れた父の書斎が酷く広く見えるのは、自身の小ささを知ったからだろうか。扉が開く音が聞こえ、留子はゆっくりと立ち上がる。一人で部屋に入った父は静かに扉を閉め、鍵を掛けた。父が表情を変えないのは、いつもの事だ。留子の方からも父に向かって歩み寄り、最後には胸に飛び込んで、がっしりとした体を強く抱き締める。

「分かったのかね。」

頭上から降る、落ち着いた低い声。留子は父の胸に顔を埋めたまま頷いた。

「……はい。一番知りたかった事が、分かりました。」

深く息を吸い込むと、父の背広からは、留子の嗅ぎ慣れた煙管(パイプ)の匂いがした。

 

 

 その家の周りには、野次馬や記者が集まって人集りを作っている。いや、普段からそうだったらしい。何せこの家の住人は、先だって新聞に取り上げられた「念写」の能力者であったからだ。新聞には虚実入り交じる記事が載り、何度か検証実験も行われていた。そんな経緯で、住人の男は良くも悪くも、目立つ人間であったのだ。

 しかし今、麟太郎の目の前にあるのは、異様な光景だった。部屋の中で、男が座布団に座している。膝の前には、何枚か並べられた写真用乾板。きっちりと正座し、膝の上で固く握られた手。着衣に乱れも無い。しかし、その首の付け根から上だけが、その肉体には存在していなかった。噴き出した血が肩から胸、膝、並んだ乾板にまで飛び散り、床にも点々と血痕が残っている。それだけの勢いで血が噴き出すという事は、首を斬られた時に男は生きていた筈。下手人が居るなら、返り血も浴びただろう。しかし、男の周囲や部屋の出入り口には、飛び散ったものだけでなく垂れ落ちたような血痕も、死体を引き摺ったような跡も無い。つまり男は、此処に座したまま首を飛ばされ、その首だけが忽然と消えたとしか思えない死に様を晒しているのだ。そんな状態で発見された為、邏隊だけでなく警兵も派遣される事態となっていた。

「奇妙ですね。」

「ああ、奇妙だ。」

麟太郎の呟きに、上官――大尉の水善寺が応える。邏隊員達も分かっていたが、首を刃物で飛ばすには、骨の継目に正確に刃を当てねばならない。座した人間の首を落とすなら、前傾していなければ、刀を真っ直ぐ振り下ろす事が出来ない。しかしこの死体は背を緩く丸めた状態で座り、それでいて、首の中心ではなく付根を綺麗に切断されている。血飛沫も満遍なく飛び散っており、一方向から刀を振るったようには見えない。もし刀を使ってこんな芸当が出来るとしたら……。

「……。」

麟太郎は、一瞬脳裏に浮かんだ姿を考えから押しやると、水善寺に尋ねる。

「大尉殿。」

「どうした?」

「邏隊の見立てでは、凶器は何と?」

水善寺はじっと麟太郎を眺め、息を一つ吐いた。

「それが分からんらしいので、お前の隊を連れて来たのだ。」

首を傾げる麟太郎。水善寺は腕を組んで「正確には、お前を使いたかった」と続けた。

「邏隊員も、警兵隊員も、貴族か武家出の者が大半だ。邏隊は多少状況が異なるだろうが……それでも、貴様のような技能を持つ者は稀だ、刀祢。忍の者は、我々には思いも寄らん道具を使うだろう?常人とは視点が違うかも知れない。」

「……成程。」

麟太郎は部屋を見回す。室内に新しい傷等の手掛かりになりそうな痕跡は見つかっていない。自然、麟太郎の視線は上を向く。

「隣室から天井裏に上がります。」

「許可しよう。」

水善寺が応えると、麟太郎は廊下からも部屋を観察し、隣の床の間に入る。刀を鞘ごと抜き、天井板を突いてずらすと、麟太郎は垂直に飛び上がり、隙間に指を引っ掛けて体を引き上げた。

(埃があまり溜まっていない。)

麟太郎の第一印象はそれだった。敢えて音を立てつつ、現場の部屋へ向かって移動する。下から「此処だ」と水善寺の声が聞こえた位置で、麟太郎は板を一枚外し脇に置いた。下を覗くと、丁度真上から遺体を見下ろせる位置である。

「何かあったか?」

「天井裏にしては、埃や獣の入った跡が少ないです。誰かが入り込んでいるのか、」

言い掛けた麟太郎の言葉が止まる。怪訝そうに眉を寄せ見上げる水善寺に、麟太郎は言った。

「血痕があります。」

「何?」

水善寺は強く目を細める。

「何処にだ。どのように?」

「難しいです。天井板の縁と言うか、横と言うか……此処、です。」

麟太郎が指差したのは、板を取り外して四角く開いた穴の、縁。一枚板として言えば、表と裏の間、側(こば)の部分だった。真下には踏み入れない為、麟太郎が示した場所の正面側に移動して目を凝らす水善寺にも、黒い染みは見えたようだ。

「確かに血か?」

「はい。」

「……天井から死体を下ろしたにしては、姿勢が整い過ぎているな。別所で殺してから血を掛け直した?いや、遺体に拘束の痕は無いし、そんな妙な手間をかける意味が分からん。そもそも……。」

「……。」

 腕を組み呟き出した水善寺の上で、麟太郎は外した天井板を観察してみる。其方にも、嵌め込むと同じ位置に来る場所に血の跡がある。しかも、残り方が小さい。この染みが付着した時、この板が外されていたのは確かだろう。穴の縁側に付いた血が、板を嵌め直した時に移った。そう見える。しかし、それ以外に、床や屋根の梁等に異常は見受けられない。埃が少ないのは気になる点だが、遺体に埃が付着している訳でもない。恐らく、遺体はここを通ってはいないだろう。ではこの血は?麟太郎は天井から顔を出す。

「大尉殿。」

「どうした。」

「外した板にも、同じ位置に染みがあります。」

「そうか。持って来れるか。」

「はい。」

短い会話の後、麟太郎は板を抱えて隣室に降りる。水善寺に見せれば、「新しいように見えるな」と彼は眉を寄せた。

「他に何かあったか?」

「いえ。」

訊ねられた麟太郎は首を振った。水善寺も、板をひっくり返す等して観察していたが、やがて足元に下ろした。

「何を使って殺したか分からないと、そちら方面からは調べられん。ここ最近の人の出入りが判るまで、出来る事は無いか。」

息を吐き、間を埋めるように軍帽を直す水善寺。麟太郎は遺体と天井を交互に見比べ、ぼそりと言った。

「首、ですか。」

「ん?」

「何故、首の付根から切断しなければならなかったのだろうと思いまして。」

麟太郎はじっと遺体の首の切断面を見ている。水善寺は腕を組んだ。何か考えているのだろう麟太郎の反応を待つ。暫くして、麟太郎は言った。

「首だけを持ち出したとしたら、どうでしょう。」

「……もう、首級で手柄が決まる時代では無いぞ。」

「理由は分かりません。ただ、例えば絞首の様に、首に縄を掛けて、上に引きます。縄が掛かっていますから、そこを避けて切り落とし、首を引き上げる。天井に血が残った残った理由は、首から血が飛んだから……というのは。」

「……。」

 水善寺は動機等の疑問を脇に置き、麟太郎の意見を状況に照らしてみる。確かに真上に引き上げたならば、遺体の周辺以外に血痕が無い事、そして天井に微量の血痕が残った事には説明がつく。更に、首が周辺から見つかって居ない事も事実だ。殺す事ではなく、首を持ち去る事が目的の可能性も、強ち間違っていないように思えた。だが。

「それでも下手人は血を浴びるだろう。遺体も首が無くなれば姿勢の均衡を保てず倒れる筈だ。それにこの血の痕は、一方向から切ったような飛び方では無い。それはどう説明する。」

「そう、ですね。」

麟太郎は水善寺に目を向けた。本当に無感情な顔だ。水善寺とて人形のような顔で眺められる事にも慣れて来たが、不気味さが消える訳では無い。それでも、それが刀祢麟太郎という男だ。麟太郎は首を傾げると、瞬きをし、再び遺体を見てから口を開いた。

「大尉殿は、炊事をされますか。」

「……いや?私はしないが。」

「茹でた卵を、潰さずに切るには、何を使うと思いますか。」

唐突とも思える麟太郎の問い。しかし、水善寺は黙って考えた。

「良く研いだ包丁ではないのか。まさか刀で斬る訳にはいくまい。」

「刃物以外でも、物を切断する事は出来ます。」

「……それで、正解は何なんだ。」

溜息を吐きつつ坊主頭を掻く水善寺に、麟太郎は言った。

「糸です。」

「ほう。」

「卵に糸を巻いて、両側から引くと、均等に力が掛かり、断面を潰さずに両断出来ます。」

淡々とした麟太郎の言葉。水善寺は眉を寄せた。

「まさか、糸で首を切ったと?」

麟太郎は首を振る。

「糸では不可能です。糸で攻撃するなら細いものを選び、巻き付けて素早く引けば火傷や傷を負わせる事は出来ますが、精々皮膚が裂ける程度、上手くいって肉に達するかどうか。卵も、それ自体が柔らかいからこそ可能であって、生きた人体程の弾力には負けると思います。ただ、糸より丈夫な……糸状の刃物のような物があれば、骨の継目を縊り切れば切断も可能なのでは無いかと考えました。」

「……糸状の刃物など、存在するのか?」

「私は聞いた事がありません。」

水善寺は再び大きく息を吐いたが、其れでも一考の価値が無いとは思わなかった。外ツ國から大量に物や知識が流入する今、これまでに無い頑丈な糸が存在しないとも限らない。それに、「糸で切断する」という方法ならば、返り血を浴びない距離から手を下せる。ただし。

「どんな殺害方法であっても、犠牲者自身が協力してこの体勢を取っていなければ、こんな死に方にはならん。」

麟太郎も内心で同意する。抵抗の跡もなく、ただ座っているだけの奇妙な死体。血塗れの乾板には、何も映っていない。まるで彼の死を象徴するかのようだ。ただ一つ、気になるとすれば。

「手を強く握っているのは、何故でしょう。」

「うん……遺体を詳しく調べない事には、何とも言えんな。」

どうやら同じ点を気にしていたらしい水善寺が、麟太郎の問いかけに応えて息を吐いた。

 

 

 勘解由小路大臣の書斎では、父と娘が向かい合って長椅子に座っていた。父はゆっくりと煙管(パイプ)を燻(くゆ)らせ、娘の言を待つ。忙しい父であるのに、急かすでも無関心でも無いその態度が、留子には有難かった。

「……お父さま。」

「……。」

父が無言で頷いた。留子はぽつりぽつりと話し始める。

「はじめに、わたしの我儘を許可して下さり、有難う御座いました。結果としては、その……孝晴さまと、麟太郎さまには、気付かれてしまいまして、こっそりという形にはなりませんでしたけれど。お二人からお話を伺う事は出来ました。」

父は小さく頷き、静かに言った。

「孝晴君の悩みとやらは、お前にも話せるような物だったのかね?」

留子は首を振る。

「本来であれば、わたしには話したく無い事柄であったと思います。それでも話して下さったのは、明かさなければわたしが諦めないと思われて、仕方なくの事でしょう。わたしには到底解決しようの無い、深いお悩みです。わたしには、如何する事も……、」

留子は俯き、一度言葉を切る。父と話せる日が来るまで、何度も何度も繰り返し考えて、分かってしまった事がある。

「孝晴さまは、とても悩み、苦しまれています。いえ、今迄も、そして此れからも悩まれるのだと思います。わたしが、お力になりたいなどという安易な考えで触れた為に、余計に傷付けてしまいました。わたしは、驕っていたんです。よく知って、話を聞けば、きっとお力になれる、って。わたしには何も出来なかったとしても、きっと話せば解決に近付く、って。そんな事有り得なかったと、もっと早く気付くべきでした。……皆、わたしよりずっと大人なのですから。」

留子は膝の上で握った手に無意識に力を込めていた。一番辛かったのは、自分が無力であると思い知らされた事ではない。

「でも、麟太郎さまは、孝晴さまのお心を和らげられるんです。孝晴さまにとって、麟太郎さまは、唯一無二の存在なんです。それが、わたしには強く伝わって来ました。……なのに……!」

視界が、暈ける。

「わたし、まだ、麟太郎さまの事が好きなんです……!!」

堰を切ったように、感情が溢れた。

「麟太郎さまにとっても、孝晴さまは特別な方で、無くてはならない存在なのに……それが分かっているのに、わたしの想いは、変わらなかったんです!麟太郎さまと過ごしたい、麟太郎さまと結ばれたい、麟太郎さまの一番になりたい。知れば知る程、あの誠実さが、愚直さが、愛おしくて堪らないんです。わたしは、事情を知ってなお、孝晴さまから麟太郎さまを奪おうとしているんです。わたしは嫌な女です、助けになりたいと思った筈の心に、我欲の根が張っている、卑しく、穢い女です……!!」

次から次へと頬を伝う大粒の涙。もっと冷静に話さなければ、これでは父は何も分からない。頭では理解していても、心がそれに従わない。麟太郎が、孤独な孝晴の唯一の支えであった事は、あの夜を思い返せば痛い程分かる。分かるのに、麟太郎の隣に居ない自分を想像すると、それ以上に苦しい。自分は皆が幸せになる方法を求めていた筈なのに。自分の心は、その「皆」から、孝晴を切り捨てようとしている。

 父は黙って煙管を咥えていたが、やがてそれを置くと、涙を拭く事もせずにしゃくり上げる留子をじっと見る。

「留。」

「……はい。」

穏やかな声に、穏やかな目。政治家としてではなく、父として家族と接する時の目だ。

「私は、お前がその感情に気付けた事を、褒めたいと思っているよ。お前は大した女だ。何も恥じる事は無いのだ、誰かを愛するという事は、常に我欲との戦いでもあるのだから。」

緩やかな笑みを浮かべる父の言葉に、留子はぱちぱちと丸い目を瞬かせた。睫毛に掬われた涙の粒が、ぱたりぱたりと落ちる。

「友人、恋人、伴侶、子、親、そして自分。誰が相手であっても同じ事だ。愛する者に期待を掛けない人間などおらんよ。期待の無い愛という物は無い。それは単なる無関心だ。しかしその期待は何処から来る?我欲からなのだよ。相手と『斯くありたい』、相手が『斯くあって欲しい』。そうした望みが期待となるのだ。其れが我欲であると気付く者は、実に少ない。そして、自身の欲に気付かぬまま、期待の感情が『斯くあるべき』に変化した時、愛は憎しみとなる。」

「……。」

目を見開いている留子に、父は心地良い低い声で語る。

「しかしお前は、そうはならなかったのだよ。自身の感情の底に欲があると気付き、相手を慮る心を忘れなかった。そこまで強い精神の人間には、早々お目にはかかれまい。私はお前を誇りに思うよ。」

「お父さま……。」

「来なさい、留。」

呼ばれるままに立ち上がり、父の元へ向かう。歩み寄った留子の顔が手巾で丁寧に拭われると、体がふわりと浮き、膝の上に座っていた。幼い頃、ねだってもなかなか座れなかった父の膝は、留子にとっては特別な場所だ。

「随分と大きくなったものだ。」

「……年が明ければ、十六ですもの。」

「出会った頃の都子に似て来たな。」

「お母さまに?」

「丸くなったように見せて、あれも頑固で、はっきりと物を言う女だからな。怒らせると怖い。」

留子は泣き腫らした顔のまま、笑った。そして父の首に腕を回す。父の掌が何度か優しく触れる感覚が背に温かい。留子が落ち着いて来ると、父は口を開く。

「お前が塞ぎ込んでいた理由はよく分かった。だが……其の心配は、杞憂に終わるかもしれん。」

「えっ?」

「孝晴君も、貴族の男子だと言う事だよ。」

顔を上げた留子の目に映る父の顔は、僅かに険しい。自分が塞いでいる間に、孝晴に何かあったのだろうか。留子の心は再び、千々に乱れ始めた。

 

 

 指先で頂点を押さえられた茹で卵の殻に、ピシリと一直線に溝が描かれる。卵を横に一周するそれは実に美しく、卵を押さえていた石動は、思わず息を吐いた。

「……やはり、殻ごと切るのは難しいですね。」

卵をじっと見て言ったのは麟太郎。その手には、普段衣類の修繕に使っている細い糸がある。

「隊長、こんな事も出来たんですね。」

「武器の形をしているものだけが、武器になるとは限りませんよ。ところで、殻が剥き易くなったと思うので、剥いてみて貰えますか。」

「分かりました。」

言われた通り、石動は殻を剥いてみる。溝の下は薄皮まで切れており、指先で押して罅を作れば、薄皮ごと殻が取れてゆく。白い肌を晒す卵を皿に置くと、麟太郎はそれもじっと眺め、ふむ、と息を吐いた。

「昼の件ですか?」

石動が訊ねると、麟太郎は頷く。

「卵の殻一枚なら、糸でも如何にかなりますが、一緒に肉を切断するには至りませんね。それに、回転の力で切ったなら、切断面が焼ける筈ですし。」

「普通は卵の殻も糸で如何にかなりませんからね。」

頬杖をつく石動を麟太郎はちらと見遣ると、手元の糸を卵に引っ掛ける。卵の頂点から尻までを一周した糸は、交差した後麟太郎の指先に握られている。

「ええ、だからこのように、」

言いながら麟太郎はゆっくりと両手で糸を引く。卵の肉につぷりと減り込んだ線が見えなくなり、そして麟太郎の手には真っ直ぐな糸が残る。石動が手を伸ばして卵の上半分を摘むと、美しい断面の黄身と白身が顔を出した。

「似ていると思ったんですが、これでは骨は切れません。」

「それはそうでしょう。刀を使ったって、首を落とすのは容易では無いんですから。隊長は卵食べます?塩取りましょうか。」

「……いただきます。塩は無しで。」

綺麗に割れて二つになった茹で卵に、僅かな時間差で両側から箸が伸びる。

 と、食堂の入口の方から響いた声に、夕食を取っていた全員が其方を振り向いた。

 

「刀祢中尉はいらっしゃっと。」

 

 石動と麟太郎も振り返ったが、二人には声が耳に届いた瞬間、相手が誰か分かっていた。異人にも負けない巨躯に、襟を開いた軍服の着こなし。得物が個人で異なる警兵は、申請して軍服に手を加える事を認められているが、彼のそれは元々、規格の軍服が体に合わず、苦しくなると開ける癖が付いてしまったものだ。故に麟太郎は、士官になるまでの間という条件で、襟を開ける事を許可している。士官となれば、身の丈に合わせた軍服を仕立てられる。尤も、彼に昇進する気があるのかは分からないが。

「辻、どうした?今頃は宿舎も食事の時間じゃないのか。」

「急な報せがあったで、抜けさせてもろうて来た。」

ずんずんと一直線に二人の席まで来たのは、石動の同期で、同じ第一五七分隊所属の辻堂。卵を飲み込んだ石動が怪訝そうに訊ねると、辻堂は言葉少なに答える。ぶっきら棒なのは普段からだ。辻堂は麟太郎に体を向けると、頭を下げる。

「何事かありましたか、辻堂君。」

「失礼す、隊長。」

そう言った瞬間、麟太郎の体が宙に浮く。正確には、辻堂が両脇を抱えて目線が合うように抱き上げたのだ。麟太郎は無表情だが、石動が頭を抱える。

「お前、それ止めろって何度も言っただろう。」

「こうせんにゃ、びんたが高うなってしまうじゃろ。」

「それで、如何したんですか。」

「隊長も普通に受け入れないで下さい。」

石動は溜息を吐くが、続く辻堂の言葉に硬直した。

「孝晴どんがといえなさっと、知っちょっと。」

「……有坂様が、何と?」

麟太郎は抱き上げられたまま石動を見遣る。石動は何か躊躇っているような顔をしていたが、やがて意を決したように、小さく囁く。

「孝晴さんが、御結婚なさると。」

「!」

全くの無表情のまま、しかし麟太郎の全身に一瞬力が入ったのを、辻堂は掌で感じた。周りには聞こえて居ないようだ。石動が気を遣って声を潜めた為だろう。

「……私は、何も聞いていません。何故、君が、それを?」

麟太郎が、ぽつぽつと訊ねる。辻堂は真っ直ぐ麟太郎の目を見て、言った。

「相手は、おいん従妹じゃ。」

 

 

 頭の頂から爪先に向けて、血が抜け落ちてゆくような感覚。目の前に座す母は、柔かに微笑んでいる。頭が制御出来ない速さで回っていた。ありとあらゆる不幸が目の前を過る。自分ではなく、嫁になると決められた女と、その子に降り掛かるであろう、不幸が。

「お前の名誉の為、お前が選んだ事にしておいた故な。東郷の家に挨拶に参って、日取りを決めておくのじゃぞ。」

白い指先が、紅い唇の前に添えられる。そして母は、綺麗に笑う。孝晴も笑った。いや、顔の筋肉を動かして、笑みの形にしただけた。

「分かりました、母上。」

そう唇を動かした孝晴の顔は、普段からは考えられない程に、血の気が失せて白かった。

 

「帝國の書庫番」

廿四幕「白砂に柘榴の垂るるが如く」



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帝國の書庫番 廿五幕

僅な揺れは、重なり合って波を起こす。


 貴族に生まれたならば、何かしらの形で婚姻する。それは至極当然の事であり、寧ろ其処から外れた者は奇異の目で見られる。親同士が縁談を進める事も、珍しくもなんとも無い。しかし、これだけ木偶の坊を貫いて来れば、生涯妻など娶らずに済むのでは無いかと思っていたのも事実だ。勿論、力を出さない理由はそれだけでは無い。しかし、廿三にもなって女っ気も無い出来損ないの三男に、今更結婚話も無いだろうと油断していた。あの母のやり方を思えば、それくらい有り得た筈なのに。この期に及んで、自分の見通しが甘過ぎたのを悔いる事になるとは。孝晴は手元に文字や図柄を書き付けた大量の紙を纏めながら、先程口に放り込んだ飴をがりがりと噛む。暫く自由に動けなくなるかも知れない。いや、この先自分に自由など来るのか。有坂家は、分家を作らない。継子と未婚者以外は基本的に、例え同じ有坂を名乗ろうと、「一族」とは扱われない。一つの罪で、一族郎党諸共に処分される事のあった時代に、「家」が潰れても「血」が残るようにと定められた家令。当時、血を家より重んじる家系は珍しかっただろう。家の記録には残っていないが、有坂に囚われず一から新たな家を興し、成功した者も居る筈だ。しかしこの家令に従う事は、其れまで持っていた立場も地位も、一度全て無くなる事を意味する。それが、孝晴には致命的だった。流石にこの御時世、就いている職を取り上げられる事は無いだろう。だが、立場の後ろ盾が無ければ、今迄のように軽い気持ちで抜け出す訳にいかなくなる。そして、――自分の給金だけでは、「食っていけない」。普段から部屋でごろ寝し、更に朝晩の食事が充分にあって、やっと自由に動ける。しかし、貴族でなくなれば、生きているだけで飢えて、いずれ死ぬ。

(もう、潮時なンだろなァ。俺ぁ生き過ぎた。この首、かっ切りゃ済む事だ。けど……、)

孝晴は、喉元に当てた手を強く握る。指先に脈打つ血管が触れている。唾を飲み込むと、喉仏が掌の中でぐりりと動く。

(どうしてだ……俺ぁ、消えるべきだって、ずっと思って来たじゃあねぇか。師匠みたいに、すっぱり断ち切って、逝くべきだろうが……。)

 あの男は、自身の全てを孝晴に与える事にしたと書き残した。けれど、孝晴は彼の足元にも及ばない。彼はずっと静かで、今際の際に笑みを見せた時すら、その心は凪いで穏やかだった。自身はどうだ。心は濁り、波打ち、執着に揉まれている。けれど、自分が有坂家に残る方法は、取るわけにいかない。――継子に男児がない時は、その兄弟が子を成す。つまり、孝晴が嫁に男児を産ませれば、有坂家に残る事が出来る。だが、それこそ孝晴が最も恐れている事だった。自力で母に認められる程の麟太郎や、文武共に同世代からは抜きん出ているであろう理一。彼らは、自分の身を守る力を持っている。だが、自分は、……情け無い事この上ないが、留子への嫉妬で麟太郎にさえ手を上げそうになった。其れが無くとも、自分は理由さえあれば、人の命を奪える。何も知らず、力も無い女を孝晴の側に置くというのは、猫の皮を被った虎と共に生活させるようなものだ。そして万一、上手く自分を制御し切ったとしても。

 

『――逃げろ。こいつは、化け物、だ――』

 

化け物の子は、化け物。子の見た目や才は、親に似通うものだ。もし、自分が子を成してしまったならば。

(俺みてェな思いして生きる事になンなら、生まれねェ方がましだ。)

孝晴は額に手を当て、目を閉じる。運良く自分と同じような力を持たなかったとしても、有坂の次の後継者になれば、確実に運命を縛られる。どうしたらいい。がり、がりと飴を纏めて噛み砕く。考えれば考える程、思考の糸が絡まり無駄に体力が減って行く。紙束を入れた封筒を閉じて、孝晴は息を大きく吐いた。これ以上周りを巻き込む前に、静かに消えるのがやはり良いのだろう、と思った時、同時に一つの考えが浮かび、孝晴の動きが止まる。……どうせ、自分は出来損ないの人間くずれなのだ。自分だけが恥をかくならば、それで済む方法が、無い訳ではない……。

(其処までして、生きるべきかは分からねェ……けど、帝都のきな臭さは、強くなってやがる。まだ果たしてない約束事もある。あと少しばかり、時間貰っても、悪かねェだろ……そしたらあんたの処(とこ)に、刀返しに行くからよ、師匠。)

暗い水面の向こうに立つ、気高かった男の影を瞼の裏に見ながら、孝晴は独り自嘲した。

 

 

 三人部屋の中に飛び込んで来た黒い影が、そのまま部屋を横切り窓へ向かう。しかしその足元に差し込まれたサーベル刀の鞘が、麟太郎の足を止めさせた。刀を握って片胡座で座っているのは、同室の柄本(つかもと)だ。

「何か。」

無感情な目を向ける麟太郎を、柄本は三白眼でじっと睨む。

「俺の領分を踏んだ。」

「……。」

言われて首を後ろに傾げれば、もしかしたら、僅かに足が入り込んだ、かも、知れない。同室の者の割当区画内に入ってはならないという規則は無いが、自身を探られる事を嫌い立入りを禁じる者も居る。柄本もそのような質(たち)故、普段から気を付けていたのだが。

「申し訳ありません、お詫びなら後でします。今は行かねばなりませんので。」

「何処へだ?刀祢。」

窓際からの声は、もう一人の将校・白鞘(しろさや)のもの。丸眼鏡に白髪混じりの容姿だが、歳はまだ二人と同じく廿代だ。彼の問いに、麟太郎は口を噤む。それを見た白鞘は、横目で柄本を睨んだ。

「目的があれば難癖を付けて良い訳ではないぞ、柄本。刀祢は貴様の区画に踏み入ってはいない。」

「るっせジジイ。」

悪態を吐きながら刀を立てる柄本に、麟太郎が顔を向ける。

「どういう事ですか。」

「テメェの様子が妙なのに俺達が気付いてねぇと思うのか?」

当然のように返された言葉に、無表情のまま絶句する麟太郎。白鞘も眼鏡を入れる小箱を手で弄びながら、窓の外に目線を向けつつ言う。

「貴様はよく分からん行動を取るが、貴様が急いている事くらい分かる。行先もな。貴様の主人の元へ、だろう?『有坂の犬』。」

「分かっているなら、何故止めるのです?」

微動だにしないまま口だけを動かす麟太郎だが、その小柄な細身は今にも弾かれたように飛び出しそうに見えた。柄本が一つ舌打ちをする。

「テメェが夜中窓から飛んでくのを、何で俺達が見逃してたと思う。」

「もう見逃してはくれないと?」

「違ぇよ。」

柄本が片胡座の膝に掌を乗せる。白鞘が眼鏡の位置を直して言った。

「俺も柄本も、貴様を認めている。」

「……。」

麟太郎は首を傾げるまではしなかったが、数度瞬く。

「宿舎暮らしの将校が無届の夜間外出を禁じられている理由は、貴様とて分かるだろう。俺達は何時でも告発出来た。だが、貴様は有坂の縁者だからな。態々言わずとも、そのうち潰れるのを待つ事にしたのだ。しかし、いつまで経っても貴様は音を上げん。職分が疎かになっている様にも見えん。認めざるを得んだろう?貴様の根性は本物だと。だからこそ、消灯後の行動には目を瞑っていた。柄本もだ。」

後ろで口腔の奥から息を吐く柄本。麟太郎が目を向けると、その先を彼が引き取る。

「けど、今時分に出てこうとするなら話は別だ。見ぬ振りは出来ねぇ。知らぬ存ぜぬでも通せねぇ。」

言いながら立ち上がる柄本を麟太郎は見上げる。柄本は鞘に入ったサーベル刀を振り上げ、

「だから俺らも巻き込めって言ってんだ。テメェの情緒はガキ以下なんだからよ。」

ごん、と軽い衝撃と共に、鞘の先端が麟太郎の頭に触れた。黙り込んで固まる麟太郎。

「…………白鞘君も、そのつもりで?」

やっと口から出た言葉を聞いた白鞘が、小さく頷く。

「他隊の者同士を同室にされた所で、互いに探り合うのが常なのだがな。良い意味で貴様に毒気を抜かれたのだろう。俺も、柄本もな。然うしてやろうとしている事が規則破りの隠蔽なのだから詮無い事だ。」

「つー訳で、消灯前に出るならテメェの頭ん中にある計画を吐いてけ。絶対バレねぇと俺らが思えたら行かせてやる。」

麟太郎は二人の顔に交互に目を遣る。まさか、その様に思われているとは毛程も考えた事は無かった。二人とも警兵らしく、感情を表に出さない。柄本は口が悪く語調も荒いが、その実、感情的に怒りを顕にした所は――少なくとも同室になって以降――麟太郎は一度も見た事が無い。そんな彼らが、麟太郎に協力する等と言い出すとは。此れも「欠け」故に、自分には気付けなかったのだろうか。

「有難う、御座います。」

一先ず頭を下げると、柄本が「少しは落ち着いたかよ」と顔を顰める。言われてみれば確かに、先程までの自分は孝晴の元へ向かう事しか頭に無かった。

「私は焦っていたんですね。」

「貴様が其処まで取り乱すのならば、主人の事しか無いだろう。何があった?」

「それは言えません。」

間髪入れず応えた麟太郎に、白鞘が小さく喉を鳴らす。

「引っ掛かっていたら、本格的に警兵に向いていないと諭す所だ。」

「ジジイめいた事してねーでさっさと話進めろや。」

柄本の一言で白鞘が口を閉じる。二人に目を向けられ麟太郎も黙った。兵よりは自由な外出が認められているとは言え、宿舎に入る以上は将校も規則に従う必要がある。身内の訃報等例外はあるが、基本的に平日夜間の外出は事前の届出が必要だ。それに届出があったとしても、頻繁な夜間外出は評価を下げる。だから無断で抜け出すというのも褒められた事では無いと理解はしている。ならば通いにすれば良いのだが、刀祢の家に毎日警兵が出入りすれば、必要以上に目立つ。――養父は既に、有坂家との縁者を警兵に持つ身として、以前よりも好奇と畏怖の目で見られているのだ、彼をこれ以上目立たせる訳にいかない。麟太郎の業と体力があれば、隠し通す事は出来る。出来ていた。と、思っていた。

「……今は、出来るだけ早く有坂様の元へ向かいたいと思っています。軍関連施設であれば、消灯までは出歩いていても規則違反にはなりません。軍病院に知人が勤めていますので、『くろすけ』に文を付けます。なので、何かあれば病院に行ったと口裏を合わせて下さいますか。」

麟太郎の言葉に、白鞘が眼鏡の山を軽く押さえて応える。

「其方の協力者は信用出来るのか。」

「はい。」

短い肯定に、二人が目を合わせる。柄本が瞼を一度閉じた。

「悪くは無ぇ、か。」

「先方の事まで信じて下さるんですね。」

「貴様は嘘を吐かんだろう。」

すげなく返された麟太郎が再び黙った隙に、柄本が目を開ける。

「ただ、行くのは鴉が戻ってからだ。相手が確実に居て、テメェに協力するって返事が無けりゃ、俺らも乗る訳にはいかねぇだろ。それまでは待て。」

「分かりました。……?」

麟太郎は答えるが、直後に首を傾げた。

「『くろすけ』は、戻って居ないのですか。」

「ハァ?見ての通りだろうがよ。」

呆れたような声音で柄本が眉を寄せるが、麟太郎は部屋をぐるりと見渡し、目を細める。

「私が文を付けていないのに、此処に来ていない……?」

「小屋に居るんじゃねーのか。」

麟太郎は首を振る。

「ここ最近はずっと、文を頼まない限り、真っ直ぐ此方に戻っていました。」

今度は柄本が黙り込む。窓際の白鞘は確認するように硝子の外へ目を向けた。目を凝らすと、暗闇の奥に弧を描くようにして動く影が見える。

「いや、どうやら其処に、」

そう白鞘が言い掛けた、その時。

 

と、

 

軽い音を立て、窓の下額縁に、何かが突き刺さった。尻に羽根の付いた棒――矢だ、音が小さかったのは窓の外だからだ、瞬時に頭が警戒態勢に入る。何処から、何故、視界に一直線に飛んで来る黒い鳥が飛び込む。まさか狙いは。射手は窓に対して並行方向から射ている、ならば、窓を開けるより此方が早い――

白鞘が手にしていた眼鏡入れを窓硝子に叩き付けた。派手な音と共に硝子が砕け、背後の二人が此方に向いた気配を感じる。その音で鴉が怯んだが、鴉は白鞘の予想外の行動を取った。その場に留まり、文句でも言うように、があ、と鳴いたのだ。

「莫迦者!『其処』で止まるな!」

叫んだ瞬間、鴉の翼を一筋の影が貫く。その時には既に走り出していた麟太郎が、頭から割れた硝子に飛び込み、突き破って飛び出して行った。数秒の間室内がしんとしたが、白鞘が静かに静寂を破る。

「……、柄本、俺は施設への攻撃があったと報告する。刀祢を頼む。」

「応。」

短く言うと柄本は窓に近付き、刀の鞘で割れた窓を開け、突き立った矢を確認する。其処から窓枠に足を掛けた柄本は、ふと白鞘の顔に目を遣り、眉を寄せた。

「顔色が悪ぃな。」

白鞘は目を逸らし、「問題は無い」と呟く。舌打ちを一つして窓の外へ飛んだ柄本が、鞘を壁に擦って落下の勢いを殺す音が聞こえる。無事に着地したらしい柄本が麟太郎を呼ぶ声と、下階が騒めく音を背に、白鞘は部屋の出口へ向かいながら強く拳を握った。

(射手が操ったのは、――俺だ。)

 

 

「ほう、見事だね。流石、天才と言われるだけある。」

 背後に立つ男の声に、流石の武橋金次も弓を持つ手を下げると細く息を吐く。金次は、軍施設を攻撃する事が何を意味するか知らないような馬鹿ではない。

「あの窓に居た野郎は矢が当る瞬間を見てんです。射角と風向きから此処が割れるのも早い。さっさと退散しましょうや。」

「まあ、落ち着きなさい。それは此処に置いていかなければならないだろう?」

男はそう言って足元を見た。暗闇の中に転がるその男は、信じられないと言った目付きで、床から二人を見上げている。汚物でも見るような目で男を見る青年と、微笑みを浮かべる男性の二人組。青年――金次は舌打ちすると、男へ弓と残りの矢を纏めて突き出す。男は「おやおや」と気にする風でも無く言うと、倒れる男の手を取り、痺れる指を丁寧に解すと弓柄を確りと握らせた。

「さて、小田切君。きっと君の亡骸は直ぐに発見され、紙面を飾るだろう。君は政府の犬に文字通り『一矢報いて』死んだ烈士となれる。喜び給えよ。」

男は穏やかに語っているが、その口調から、感情のようなものは一切感じない。体が麻痺している小田切は、ひうひうと細い息を漏らす。

「貴様……らは……一体……何……、」

「教えてやる義理が俺達にあると思うのかぁ?手前の任務すら失敗して、黒服共に情報まで絞られた滓に、最期に役割を与えてやっただけ有難い話だろ。さっさと死ね、無能。」

「おやおや、手厳しいね、武橋君。」

ふん、と息を吐く金次に笑いかけると、男は小田切の鼻を掴んで、喉奥に何か丸薬のようなものを落とした。そうして男は立ち上がると、もう背後には目もくれず、既に階段の方へと向かっている金次の後を追った。

 

 

 鋭い硝子片の飛び出た窓を突き破った為、麟太郎の軍服には所々裂目が出来ている。服だけでなく、その下の皮膚まで傷付けた箇所も無い訳ではないが、軍帽を深く被っていた頭には傷は無い。流石に頭皮を切れば出血が多く面倒だと麟太郎は知っていた。硝子の欠片と共に地面に落ち、間髪入れず地を蹴る。既に落下して地に蹲る黒い影が、動いていないとしても。

「『くろすけ』!」

麟太郎の声に、影がぴくりと震えた。生きている。麟太郎は一度止まって身震いし、体に付いた破片を振り落とすと、ゆっくりと鴉に近付く。矢が左の羽を貫通して血に濡れている。しかし、頭や胴体には傷は見えない。麟太郎がそっと身体を抱き上げてやると、「くろすけ」は首を動かして麟太郎を見た。今の所、毒などを使われた様子も見て取れない。安心は出来ないが、致命傷ではないようだ。

「オイ、生きてたか?」

背後から聞こえた柄本の声に、麟太郎はゆっくりと頷く。

「……柄本君、私は獣医の元へ向かいます。後を任せても?」

「テメェのご主人サマはどうする。」

ぴたりと麟太郎の動きが止まった。数秒間黙り込んだ麟太郎だったが、やがて、ぽつりと言う。

「…………『くろすけ』を放っては置けません。彼は、出会ってからずっと私に尽くしてくれています。有坂様には、後日お話に行きます。」

「わーった。報告は俺と白鞘がする。早く行け。」

 一度深く頭を下げて駆けてゆく麟太郎を少しばかり眺めていた柄本は、その鋭い目を宿舎の外、柵の奥、街の灯りにうっすらと浮かぶ高い影の方角へ向ける。矢の刺さり方からして其方の方角の、二階建て以上の建物の何処かに、射手がいる筈だ。窓枠に一射、そして空中に一瞬止まった鴉に向かって一射。それを両方的てているのだから、相当な腕の弓遣いであるのは間違い無い。だが、何の為に?確かにあの鴉は伝令として重宝されているが、何故、今なのか。それに、白鞘の動揺っ振りも気になる。大抵の物事は先回りして予測している白鞘が、あれ程露骨に……。其処まで考えた時、俄かに鳴り響く鐘の音と、駆けて来る上官達の姿を認め、柄本は革帯に挟んでいた軍帽を取ると目深に被った。

 

 

 案の定というべきか、警報が鳴り響いているのが遠く聞こえる。金次は細めた目を隣の男に向けた。こいつも無茶を言うものだ。利腕とは逆の手で弓矢を扱うようになったばかりの金次に、高さはあるとは言え、丗間も離れた的を射ろと言うのだから。二人がやって来たのは、一軒の旅亭。掛けられた行燈が照らす戸を引けば、直ぐに女将が現れた。

「あら、禮さんが先にお戻りですか。先生はまだいらしていませんが、御夕食は如何なさいます?」

「ふむ……そうだね、先に頂く事にしようか。部屋へ運んで貰えるかな?」

 男の言葉に了承すると、女将は去って行く。勝手知ったる馴染みの旅亭に彼らが居る事は、全くもって不自然ではない。黙って男の後に着いて部屋に入った金次は、敢えて男より先に、座布団に腰を下ろす。「外」では、敬語を使わないように、そして「彼の方が立場が上に見えるような振る舞いをしない」ようにと言われている為だ。先の小田切は勿論例外である。どうせもう死んでいるのだから。しかし、と金次は思い返す。

 

『ほら、武橋君、見えるかい?』

『あの窓に向かって飛んで来る鴉を、射ち落として欲しいんだよ。』

『ああ、鴉の方は今、鷹に追わせているからね。あと四半刻もしたら、一直線に窓に向かって飛んで来るよ。』

『おや、その前に……人影があるね。うん、先に彼の警戒を煽ろう。』

『あの階に入っているのは、皆将校だからね。頭も回る。窓の灯りを頼って射ていると気付けば、窓を開けるより、暗がりへ追い返す筈だよ。窓が開けば、屋内まで射程に入るからね。』

『ふふ、確かに普通の警兵なら、たかが鴉を助けてやろうとはしないだろうね。ただ、刀祢君の近くに居る者は、彼に感化されて行くようだから、きっと動く筈だよ。そしてあの鴉は賢過ぎるが故に、一瞬だけ隙を見せるよ。なに、獣の領分にそぐわ無い程の頭を持ってしまうとね。その賢さが仇となるものさ。』

 

「……。」

目の前に座し、自分で淹れた茶を啜っている男は、あの場で起こる事を全て予測した。金次は目を細め、「おい」と一言声を出す。男はいつもの笑顔を金次に向けた。

「当たらなかったら、どうしてた?」

金次の言葉に、男は茶碗を置くと、ふうん、と息を吐く。

「今と、特に変わらないよ。」

 和やかに細められた目は、何処を見ているか分からない。「『父さん』はまだ軍病院かな」等と空々しく呟いている男を頬杖で眺めながら、金次は考える。自分が外したとしても、そして万一怖気付いたとしても、彼は小田切をあの場で殺した。それが、巡り巡って彼の目的を達成させる。しかしその成果も、最終目標までの通過点でしかない。途方も無く回りくどいそのやり口は、何里も何夜も走り続けて獲物の息切れを待つ狼のようだと、何故かは分からないが金次は思った。

 

 

 薬品と鉄の臭いが部屋に充満している。その中で動き回る人影は、皆全身を覆う白い服を着ていた。真夜中と思えない程部屋が明るいのは、彼らが扱うものが、非常に危険であるからだ。手術台には一人の男が拘束されて呻いている。その生白い体には既に何箇所も被覆用の綿紗が貼り付けられており、横に置かれた台の上には、赤黒い液体が入った試験管が並ぶ。男の下腹部に新たに針が突き刺さり、液体が吸い上げられると、男の見開かれた目から涙が散る。鉄製の口枷で押さえられている為、声を上げて苦痛を発散させる事も出来ないのだ。

「阿片は使わないんですか?」

慎重に液体を試験管に移した後、一人の白服が訊ねる。もう一人が淡々と答えた。

「もう効かん。それにこれ以上使って、中毒にさせる訳にいかん。大切な研究材料だからな。」

その後も全身のあらゆる臓器に針を突き立てられ体液を採取され続けた男は、失神と覚醒を繰り返し、気付くとその場には全身を包帯で留められ横たわる男と、背広を着た壮年の男だけが残されていた。男の拘束は既になく、口枷も外れているが、動く事はせず、ただ目線だけを動かすと、自分以外のもう一人に目を留める。

「動けるかな、『天竺』?」

背広の男が言った。部屋の中、距離は離れているが、他に音が無い為に声が響く。男――天竺は弱々しく頷くと、顔を歪めながら身を起こす。背広は手助けしようとはしない。天竺の身体に、正確にはその血や体液に触れる事がどれ程危険か、識っているからだ。天竺は青い顔をしながらも、薄らと笑みを浮かべる。自身の身体に抱え込んだ「病達」は、研究を経て、やがて「父」の力となる。この痛みが、自身の生きる証。無数の子供の中から選ばれ、「天竺鼠」としての生を与えられた自分。

時間をかけて身支度を整えた天竺が濃紅の襟巻で口元を覆った事を確認すると、背広の男は微笑んだ。

「然て、帰ろうか。我らが『父』の元へ。」

 

 

 その日の新聞は、警兵宿舎襲撃の話題で持ちきりだった。有坂家三男御成婚か、という話題も無いではなかったが、のらりくらりと躱されたのだろう、具体的な事は何一つ紙面には載っていない。その為、衝撃的な事件の方を大きく取り上げたのだろう。貴族の婚姻話は続報で如何とでもなる。四辻鞠哉は息を吐くと新聞を横に置き、洋燈の灯りの下、分厚い封筒を手に取る。表には「四辻鞠哉殿」、裏には「從壱位勲壱等公爵 有坂督孝参男 有坂孝晴」と記されている。明らかに公的ではないと分かる、鞠哉の名だけを記した宛名。孝晴が己の役職を記さなかったのは、より悪戯と疑われない肩書を選んでの事だろう。一書記官の身分より、公爵家三男の身分の方が圧倒的に高い。しかし解せないのは、この包みが門番の詰所にいつの間にか置かれていたものだという事。あの日以来、門番の警戒体制は上がり、不審な人物や郵便物に目を光らせて来た。だと言うのに、誰も知らぬ間に、敷地内に何者かに入り込まれたという事実。門番が焼き棄ててしまうか迷ったのも分かる。しかし、最終的に有坂家の名に負けて鞠哉の元へ届けて来たのだ。門番達がただ困惑していた事から、内部犯という線も薄いだろう。暫く分厚い包みを眺めた末、鞠哉はその上部にペーパーナイフを差し込んだ。榮羽音への悪意を防げなかった自身への憤りは消えてはいない。だが、自身が誹りを受ける事ならば冷静に受け止められる。この包みの中身が何であっても、驚く事は無い。差出人が真に有坂孝晴ではない可能性を頭に置き、慎重に封を切った鞠哉は、中身を取り出して確認を始める。しかし、鞠哉の決意はいとも簡単に崩れ去る。

『何だ、これは』

思わず母國の言葉で呟き、頭を押さえる。中身は間違いなく、有坂孝晴からのものだ。始めの一枚目には、筆字で無ければ版で刷ったかと思うような整った字で、こう書かれていた。

 

 常の情報提供を感謝する。只、此方では君の期待に沿える成果が出せず申し訳なく思っている。代わりにはならないだろうが、「赤い印」に関する資料を纏めた。参考にして欲しい。

 

 鞠哉が武橋金次の首に一瞬認めた「赤い印」について、知っているのは孝晴だけである。しかし、鞠哉が頭を抱えたのは、その前書きが理由では無い。資料の内容が、余りにも精緻で、膨大であったからだ。あれは冬の初め、初雪が降った日の事だ。其れからまだ二月も経っていない。なのに、頁毎にびっしりと記された版のような文字、詳細な絵図、その図の来歴や使用された例等が、洋の内外問わず延々と書き記されている。これだけで、図版研究の一端を担えそうな文量だ。幾ら有坂孝晴が書庫番として筆記に慣れているとしても、全て手書きでこれを記すには、其れだけに掛かり切りだったとしても、到底二月で収まる仕事量ではない。そして何より恐ろしいのは、人を使って仕上げた訳ではないと、筆跡で分かってしまう事だった。

(これ程の調査を、この短期間に、一人で……?)

鞠哉は混乱した。食えない男だとは思っていたが、これ程の調査能力を持つなら――それが如何にして為されたかは皆目見当も付かないが――それこそ軍や先端の研究機関から引く手数多だろう。木偶の坊と言われるには有能過ぎる。そう考えつつ、鞠哉の指先が紙を捲ってゆく。赤という色彩の意味、旭暉史上の扱い、古代の紋様……吉兆、凶兆、日、月、炎、血、生命、誕生、死。あらゆる文字列が青い瞳の中を流れて行く。しかし、やがて彼は手を止めた。

(有坂家……いや、有坂孝晴が、俺に協力を持ち掛けた真の理由は何だ?奴は一体、腹に何を抱えている?)

銀色の髪をぐしゃりと掻き上げ、鞠哉は目を閉じた。資料は当然利用するとして、有坂孝晴があの薄い笑みの裏に何を隠しているのか、それは探って行かねばならない。彼が真に、太田家の害にならないと証明する為に。開かれた鞠哉の色硝子のような瞳には、洋燈の紅い光が映って揺れていた。

 

「帝國の書庫番」

廿五幕「昏天来りて乱擾す」



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帝國の書庫番 廿六幕

一度転がして仕舞えば、二度と同じ景色は見えない。


 

 走る、走る、走る。

 視線等、気にしている余裕は無い。

 何を間違えた。何がいけなかった。

 どうして――こうなった?

 

 

 鋭い音に続き、小気味よい衝突音が響く。軽く息を吐いて手を下げた道着姿の男の手には、よく手入れされた弓が握られている。的心している事は既に分かっているが、男は的を確認する前に背後にちらと目を向けた。

「其許(そこもと)も、良く諦めも懲りもしないものだ。」

「貴方の矢を学び得たいという心に、変わりはありませんからね。」

寂れた町の弓道場に、たった一人の道場主。そんな空間に似つかわしくない、鳶色の軍服が男の背後に正座している。切長の目を細めて、鳶服は言った。

「かの今河流弓術の後継者の看板を掲げて、此処が寂れている理由の方が、私には理解出来ませんよ。」

「実戦弓術は今の世には合わん。其以上の理由など御座らん。極めた処で、最新兵器の前には無力故。」

高く結った男の髪が、背ける顔の動きに合わせて揺れる。鳶服の青年はくつくつと笑った。

「本当にそうお思いですか、今河先生。」

「其許を弟子に取った覚えは無いが。」

「教え子は、師を見て技を盗むものです。」

 立ち上がった青年は、射場に向かって一礼すると、男の隣に立つ。右手を構えると、左手で弦を引き、指を離す。青年の放った矢は、的に突き立ったままの男の矢を砕いた。目線だけを向けた男の顔を見て、青年は穏やかに微笑んだ。男は目線を僅かに下げる。青年は素手だ。通常矢を射る時に「かけ」を着けない事は無い。そもそも青年は、利き手は右であるのに態々左で引く。指先は擦り切れて皮が固くなっているようだ。初めて彼が姿を現してから一月と少し。男はその青年の柔らかな笑みの後ろにある、軽蔑と強い利己心を見抜いていた。故に、入門を拒んだ。だのに、再び彼は現れた。そして包帯の巻かれた痛々しい指先で、見事に的を射抜いて見せたのだ。そして今。

「……その努力の才を、利他の心で用いれば、一廉の者になれように。」

目を上げて低く吐いた男に、青年は表情を変えずに言った。

「向上心は悪であると?」

「武は、自らの快楽(けらく)の為に用いるものでは無い。」

「それは、真でしょうか。」

青年は笑みを深める。一見すれば、人好きのしそうな笑み。

「古来、狩りは生活の一部でした。獲物を仕留めれば、糧が得られる。其処に悦びは無かったと思いますか。武を以って國を征した王に、歓喜の情は湧かなかったと思いますか。大将首を上げた武者は、何を考えながら、首を大切に持ち帰ったのでしょうか。理屈を後から付けても、力を振るうのは自らの為、ただ根源的な快楽を満たす為ですよ。他者の為に振るう武など存在しません。」

「詭弁だな。」

「そうかも知れませんね。思い込めば、其れが当人にとっての事実となりますし。」

男は眉を寄せる。

「……目的を達したのであれば、某に愛想を使う必要も無かろう。此方もこれ以上構ってやる義理は御座らん。其許が道着を着ない理由も、某は訊かぬ。ただ、才は正しく扱え。此は某からの、忠告だ。」

 微笑んでいた青年の口角が僅かに下がったのを、男は見逃さなかった。直ぐに表情を戻し「そうですか、それでは」と言い残して青年が立ち去った後、男は暫しの間身じろぎもせずにその場に立ち、じっと周囲の音を聞いていた。周囲には誰もいない。窓から差込む光が、時の流れを伝えてくれる。

「……時間か。」

男は呟くと、弓と矢を取り、一番端の的の前までゆっくりと歩く。一呼吸置いて、男は真っ直ぐに端から端まで弓場を無音で駆け抜ける。男が足を止めた時、一つを除いて全ての的の星に矢が突き立っていたが、残りの一つは先程青年が中てた矢を、筈(はず)から真っ二つに割いていた。

 

 

 衣笠理一は、白衣のポケットに両手を突っ込みながら、中庭の雪を軍靴で踏み締める。鍛錬場帰りだと言うのに、その表情は、普段彼に接している者が見れば驚く程に覇気がない。明らかに心此処に在らずといった様子に、通りすがりの者も思わず振り返る有様だ。理一はふと立ち止まり鈍色の空を見上げる。ちらちらと舞う雪にふうと息を吹けば、白は透明に変わって消えて行く。余りに頼り無いそれは、今の理一の心に似ていた。

 お月の具合は、目に見えて良くなっている。こうも早く透子に診せた結果が現れるとは思わなかったが、お月にとって良い方向に向かっているのならば良かった、と、素直に思えていたならば。深く吐いた白い息が、再び雪を溶かしながら散って行く。理一は当主となってから、三人の姉を疎かにしたつもりはない。寧ろ、大切に尽くして来た。その結果分かったのは、自分は、おきりには嫌われ、お初には要らぬ心労を掛け、そしてお月には「よい医者」ですらないという事。お月が理一に対して不調を隠しているだろう事は分かっていた。だが、透子が診てから、お月の声に少しずつ張りが出て、よく笑うようになってきていた。嫉妬ではない。これは無力感だ。そも、母の復讐も糸口にすら辿り着けていないのだ。自身で選んだ道と言え、医者としても、復讐者としても半端者である事を突き付けられた。そして、もう一つ。

 

『錦木は、もう衣笠の旦那とは寝ないって事でさぁ。これは錦木からどうしても伝えろと言われたから言うんですがね、別の客を好いたそうで。で、もう一つ。これも錦木が言えってんで……あっしが言いたい訳じゃねぇですからね……【お前も、そろそろ身を固めろ】ってね。てな訳で、申し訳ねぇが、お引き取り下せぇ。』

 

年の末に忙しくなる前にと、訪れた時。茶屋者からそう伝えられた。……錦木も女なのだ。それに、南天に芸を仕込まれた賜物だと笑っていたが、彼女は店の中でも最上級の遊女。心底惚れ込む客も当然居る。その中で、添い遂げたい相手が出来たのなら、祝福しなければならない事は分かっているのだ。彼女の決意に口を挟む事は出来ない。理一がどれだけ彼女達を大切に思えども、立場はただの客に過ぎないのだから。けれども。

(ねぇねは、何であたしに教えてくれなかったんだろう。あたしたちは、家族じゃなかったのかな。会って話してくれたら、あたしは笑ってお祝いしたのに。だって、大好きなねぇねが選んだ幸せなんだもの。でも、あたし、もう会えないの?身請けされるにしても、ねぇねが誰に貰われるかも、あたしはわかんない……その時が来てからじゃ、遅いじゃない。)

さく、さく。氷が霜柱か分からないような雪を、靴底が砕く。その速度は徐々に落ちてゆく。

 さく。音が止まった。

(それに、俺は……女人を愛せるのか?ねぇねはどうして、あたしに身を固めろって言ったの?衣笠家【うち】の事は、ねぇねには関係無いんだから、後継者を心配してる訳じゃない。だったらどうして……どうして、家族のままで居させてくれないんだ。お前に嫉妬なんてしない。家族として祝福させてくれれば、それで……。)

 風を切る音が聞こえた瞬間、理一の体は勝手に反応し、身を屈めて頭上で竹刀を受け止めると、その勢いのままに背後の男を前方に投げ飛ばした。

「気配が漏れ過ぎなんだよ。」

地面に転がったのは、鍛錬場に理一が現れる度に、何かと突っ掛かってくる男だ。どうも、同期入隊の医官が純粋に軍務に就いている彼より強いのが気に食わないらしい。興味も無いので、名前すら覚えていないが。流石に男も弱い訳ではなく、素早く体制を立て直すが、既に理一は取り上げた竹刀の先端を男の鼻先に突き付けていた。

「……それだけ呆けた顔をして置いて、何故気付けた。」

男は口惜しさを声に滲ませる。負けて口惜しいと思えるのは良い事だ。それを発条(ばね)にして成長出来る。

「好機と思って急いた時点で、それは油断だぜ。それに、意識せずとも体が動くようになるまで鍛えりゃ、この程度気付くまでもないさ。」

「それも、貴様が数多の武道を修めたからか?」

理一は肩を竦める。

「それもあるが、慣れてるからな。この形(なり)なんでな、若い頃は夜道を歩いてりゃ襲われ放題だ。」

一瞬男は呆気に取られたが、安堵と嘲りの混ざったような表情で言った。

「な、なんだ貴様、怪我の功名というだけではないか。」

「誰が負けたなんて言ったよ。全員叩きのめして邏隊に突き出してやったさ。」

「ぜっ……、き……出任せばかり吐くな!その顔で傷物でないなど信じられるか!」

「あぁ?手前ぇ俺を、」

淡々と返していた理一が僅かに苛立ちを語調に込めた時、唐突に目を見開いて硬直する。相手の男は思わず背後を振り返ってみるが、特に異常がある訳でもない。向き直ってみれば、理一は血の気の失せた真っ白な顔をしている。流石に異様だと思った男が「どうした?」と声を掛けるが、理一は踵を返して走り去って行く。敷地内は広い。しかし、周りの音を全て振り切って軍病院に辿り着き、執務室の扉を勢いよく閉め、鍵を掛ける。中には誰も居なかった。息を上げたままふらふらと数歩、そして理一は膝をつく。

 

『俺を、売女だとでも思ってんのか』

 

口から出掛けたその言葉は、理一を酷く動揺させた。その直前まで、身を削って売る家族の幸せを思っていたのに、何故そんな言葉が浮かんだのか?男なら平気でその言葉を吐けただろう。女なら、大切な身内を揶揄するような言葉は使わない筈だ。ならば、自分は?自分は一体。

 わからない、わからない、わからない。

 男の事も、女の事もわからない。

 男なら斯くあれ。女なら斯くあれ。ならば、男でも、女でもない自分は、何を選ぶのが正解なのか。

「あたしは……あたしは一体、『何』なんだ。どうして俺を、女として育てたの、かかさま……。」

天を仰いで呟かれた、余りにもか細いその声は、天井に塗られた漆喰に吸われて消えていった。

 

 

 「あ〜、流石に山は冷えるなぁ。」

 白い息を手に吹き掛け、多聞正介は一人呟く。冬の山道を登るその背には、背負子に山積みの炭があった。目指す山頂から立ち昇る煙が目に入ると、正介は歩みを早める。こんな場所に他人は立ち入らない。これも鍛錬と全速力で駆け上がり始めた彼の足元に伸びる山道は、並の人間が簡単に走って行けるほど平坦ではない。木の根を爪先で蹴り、階段代わりの石を踏み越え、雪を飛ばしながら登り切れば、流石に正介の息も弾んでいた。

「ふぅ、はー……ま、こんなもんやろ。」

よいしょ、と軽く声を出しつつ、一度荷を跳ね上げて整えると、正介は藁葺きの小屋へ向かう。

「弦爺ー、炭持って来たでー。」

無遠慮に戸を引きながら声を掛けると、正介は一瞬きょとんと目を丸くした。上り框に腰掛けて、草履を脱ごうとしている男と、正介の目が合う。

「あ、こらどうも。」

「其許も、刃物の受取に?」

頭を掻く正介を見て、壮年の男は僅かに表情を緩める。

「そんなとこです。居候させてもろてる下宿の包丁を頼んでまして。ついでに爺さんが麓まで降りるんは大変やろから、これも。」

「左様か。」

背中に目線を向けて笑う正介に、男は穏やかな表情で答えた。と、奥で物音がしたと思うと、背が曲がった老爺が笑いながら顔を出す。その片目は布で覆われているが、表情は柔かだ。

「お二人さん、何をやっとるんじゃ?周りに誰も居らんのは分かっとるじゃろ。」

「他人の振り。」

「……の、練習?」

男と正介がそれぞれ答えるが、二人が顔を見合わせた瞬間、正介は噴き出した。

「ぷっは!あー、きっついわあ!弦爺(げんじい)、上がるで!」

「ほいほい、ちょうど芋汁を煮たでな。清(せい)ちゃんも、腹は減っとるじゃろ。たんと食ってけよ。」

「忝(かたじけな)い。」

男は一礼して、老人の後に続き奥の間へ向かう。後に来た筈の正介は、既に戸の先へ姿を消していた。

 

 囲炉裏の周囲に其々座り込んだ三人の手には、木の削り跡が美しい椀がある。よく煮込まれた芋と肉の入った味噌味の汁は、材料は少ないが深い風味を感じられる。

「美味いで、弦爺。これ、肉は猪(しし)か。」

「お前さん達が来るなら、たんと食いもんが必要じゃろうと思うてな。仕留めておいたんじゃ。」

かっかっと笑う老人。

「思い立ってすぐ槍一本で猪狩れる爺さんが、炭も買いに降りられへんなんて、自分で言っといて噴き出すかと思たで。我慢したんやから褒めてや、清兄(せいにい)。」

「うむ、普段から惚(とぼ)けた素振りをするのは骨が折れるだろう。良くやっている。」

「や、そこは素なんやけど……。」

老人は御座に胡座、男は床に正座、そして正介は床に胡座。三様に座しながらも、三人の会話は和やかに他愛無く進む。大の男が二人もいれば、たちまち鍋も空になり、湧水を引いた水場で片付けを済ませると、さて、と老人が声を上げる。

「そろそろ『工房』へ行かんとのう。お前さん達も来るじゃろ?」

黙って二人が頷くのを確認すると、老人は床の片隅の板を素早く動かした。

 開いた床の下に飛び込んだ三人は、暗闇の先へ向かう。先導する老人が辿り着いた先にある扉を開くと、其処はまさしく「工房」であった。使い込まれた鎚や鉄床、素人では使い方も分からない器具。その一角にある石の台座には、赤々と火が燃えている。此処は、万華だけが立ち入る事を許された地の一つ、「衛士(えじ)の兵庫(つわものぐら)」。隊員の得物の手入れや修繕を一手に担う「玄(くろ)」の色を持つ者の仕事場である。玄は宮中から「神火」を分けられ、その火で仕事を行う。神火が台座に灯っている日は、玄が仕事を行なったという事。

「さて、お火様に挨拶じゃ。」

老人――万華菊紋隊の「花弁」・玄、名を柾弦蔵(まさきげんぞう)――は、背後の二人に声を掛け、最敬礼の姿勢を取る。火だけが音を立てる厳かで儀式的な空間の中、顔を上げた三人は、台座から少し離れた位置に腰を下ろす。兵庫に入ってから神妙な顔をしていた正介は、何処か居心地悪そうに言った。

「なあ、ほんまに此処で喋くってええの?面も着けずに?」

「良いんじゃよぉ。寧ろ、お火様の前で隠し事なんぞ要らんわい。のう、清ちゃん。」

「弦蔵殿が仰っているのだ、遠慮は要らぬ。それに、某も、そして他の万華も、此処で弦蔵殿の世話になって来た。」

「……。」

そう言った男――面は「鷲」、色は「藤黄」。名は、今河清吾(いまがわせいご)。弓で知られる家柄の当主であったが、万華に入隊した折に全てを捨て、寂れた道場を隠れ蓑にしている。正介の目の前に居るのは、現万華の中で最古参の二人。その中でも最も長く入れ替わりを見て来たのが、玄だ。瞼を伏せる正介。躊躇う素振りを感じ取ったのか、弦蔵が穏やかに言う。

「正ちゃんや。お前さんの役は、今までの朱華……いや、万華の誰よりも厳しいかも知れん。儂等に打ち明けるにも悩んだじゃろ?何といっても、帝からの御言葉じゃからの。じゃがの、後輩に頼られて嫌な事なぞありはせんよ。清ちゃんも同じじゃ。じゃから、儂等はお前さんを此処に連れて来たんじゃよ。」

正介は左手を目に当て「かなわんわ」と苦笑した。

 

 拘束されて顔を覆われた時、とうとう自分は処理されるのだと思った。邏隊に汚点を残さない為だ。覚悟は出来ていたし、後悔もしなかった。あの男の無念を背負って死ぬ、それが、自分が最期に果たすべき事だった。左目の傷は痛んだが、その痛みが、死に臨む正介の心を穏やかにした。ただ、両親と弟妹に真実を伝えられない事だけが、心苦しかった。懲罰房から出されて、一昼夜程であったか。拘束され続けていた体は言う事を聞かなくなり始め、死を考え過ぎた頭も、それ以外の事を想像していなかった。跪かされた状態で覆いを外された時、目の前に現れたのは、自分は既に死んで天上に来てしまったのかと思った程、余りにも眩く美しい部屋だった。御簾の後ろの声が正介の拘束を解いて退がるように言い、広い広い部屋の中に呆然と座り込む自分だけが残された。事実を認識出来ない程に鈍った頭に響いたのは、低く穏やかな声だった。

 

 正介は息を吐く。そして笑った。

「弦爺、清兄……俺が入って、万華は変わったか?」

二人はその言葉が、自嘲を伴って吐かれた事に驚く。多聞正介は、自薦や隊員からの推薦ではなく、帝からの推薦によって万華に入隊している。そして、彼は帝に「万華を変えて欲しい」と託された。時代は変わった、万華も変わらなければならない、と。

「其許は、誰も変化しておらぬと?」

今河清吾が静かに訊ね返す。正介は、邏隊員だけあって、人の変化には敏感だ。気付いていない筈が無い。

「清兄が言いたいんは、つるちゃんと、ろっしょさんやろ。」

正介が苦笑する。現在最年少の白橡(しろつるばみ)、そして緑青。清吾は頷く。

「面を渡す以外に付き合いが殆ど無かった白橡が、詰所に宿題帳を持ち込むようになったのも、緑青が感情を顕にするようになったのも、其許が来てからだ。」

「ろっしょさんは俺が嫌いなだけやし、つるちゃんには面を傷付ける半人前て怒られっぱなしや。……ま、憂さ晴らしになってるんなら、俺はそれでええねんけどな。存分に怒りをぶつける相手がおらへんのもきっついもんやし。」

正介は膝に肘を立てる。その表情から笑みが消えた。二人は黙って続きを待つ。

「まだ、伝えてへん事があんねん。俺が帝に託されたのは、万華やけど、万華やない。」

 

『私は屹度、君のような者が現れるのを待っていたのでしょう。』

『君の犯した罪も、君の成した功も、私は総て知っています。』

『その上で、君の命を貰い受け、お願いしたいのです。』

『君ならば成し遂げられると、私は信じます――』

 

「……深緋なんや。帝がいっちゃん心配してるんも、いっちゃん変えなあかんと思ってるんも。」

正介は、息と共に吐き出した。

「帝は、御身を護る万華が、使い捨てになってくのが嫌やねん。せめて、誰が其処に居るのかを記憶に留めたい。それが帝の願いや。けど、筆頭の深緋が認識を変えへん事には、意味が無い。その為に、俺は皆んなを知ろうとした。皆んなが自分を、いつか散ってまう『花弁』やなくて、『万華』の仲間やと思えるようにするんが、初めにやるべき事やと思った。せやから、弦爺と清兄には、知っといて欲しかったんや。いっちゃん長く今の万華を見て来た二人やから。せやけど……。」

正介は頬に付いていた手を、そのまま額に滑らせて俯く。弦蔵と清吾は、じっとその動きを見詰めたまま、先の言葉を待った。正介は眉を寄せ、目を細める。

「せやけど、深緋は『完璧』や。深緋としてな。万華の中だけやない、兄弟に近付いてみても、軍の方から探っても同じや。世間用の顔以外の『人となり』が全然見えへん。けど、『深緋』として完成されたあいつを、俺はどうにか突き崩して、『人』にせなあかんねん。帝の御心で打てば響くように。だから、弦爺と清兄に、もっぺん話したかったんや。」

深く息を吐く正介。清吾は、正介は答えを求めている訳では無いと感じた。ただ、何かしらの欠片を、より付き合いの長い自分達から得られたならばと、僅かな可能性を頼っている。清吾は弦蔵に顔を向けた。弦蔵は、優し気だが、何処か哀しそうな顔をしていた。

「正ちゃんや。」

 弦蔵の声に、正介は顔を上げる。その表情には、期待も無ければ落胆も無い。この男は、自分の使命を果たす事に躊躇しない。道が見つからなければ、何度でも違う道を選び、最後には新しい道を作る、そんな男であると、まだ一年程の付き合いでも分かる。

「儂も、まだ言うとらん事があってな。」

「そうなんか?」

「儂は、深緋が『ああ』なった理由に心当たりがある。」

正介が目を見開いた。隣の清吾は目を細めるが、無言を通す。

「深緋の母君……いや、儂は『お十技ちゃん』と呼んでおった。」

その一言で、意味する事が分かったのだろう。正介はなんとも言い難い表情を浮かべた後、一言絞り出す。

「…………冗談やろ?」

「真の話じゃよ。深緋の母は、元『浅葱』じゃ。『深緋』にどんな素養が必要か、よーく知っておる。」

そして弦蔵は、哀しそうに言った。

「あの子は隠しておったからの、儂は言わずにおったのじゃが……得物には、使い手の心が現れるものじゃ。あの子は、『浅葱』の位置に満足しておらなんだ。あの子も可哀想な子じゃ、特別な家の娘じゃからのう。あの子自身を、あの子が認めてやれなかったのじゃろうな。」

黙り込んだ正介を見ながら、清吾も思い出していた。もう十年も前、郷里(くに)で足を悪くした父から家と道場を継ぎ、子を儲け、妻と恙無く暮らしていた清吾が、突如妻子を離縁し帝都へ出て行くと言った時。其迄に一度も向けられた事の無いような、悲しみ、恨み、怒りの籠った言葉を投げ付けられた。親は自らの望みが叶わぬ時、それを子に託す。清吾は万華の為にそれを裏切った。しかし、その意思すら芽生えないような環境で育ったならば。

「……はは、成程なぁ。そら、上手くいかへん訳や。」

 頭をがしがしと掻くと、正介は大きく息を吐き、そして、両手で自身の頬を思い切り叩いた。ばちん、と、静かな空間に反響する音。弦蔵と清吾は一瞬呆気に取られる。正介は、笑っていた。

「おおきにな、弦爺、清兄。別の道が見えただけでも話せて良(え)かったわ!」

そのまま立ち上がる正介。暗い工房の中、驚く程にその笑顔は眩しい。その裏に、ほんの僅かに何か小さな違和感を覚え、咄嗟に清吾は口に出した。

「正介、急いてはならん。」

「や、焦ってる訳と違うで、清兄。」

慌てて手を振る正介。彼はいつもの調子で言う。

「俺かて、いつ任務で死ぬか分からへんのや。その前に約束、果たしたらな。その為なら人身御供になってもかまへんよ。」

「……。」

清吾は眉を寄せたが、それ以上追求しなかった。正介にも、自分達に明かしていない何かがある。其れを知る術が無い以上、掛ける言葉は選べない。

「正ちゃん。」

「ん?」

弦蔵がゆっくりと立ち上がり、その片方の眼(まなこ)でじっと正介を見上げる。

「儂にも、協力させてくれんかの。」

「そら、もう充分協力してもろてるで。ほんまは自分だけでやらなあかん事やし。」

「いや、違うんじゃよ。」

硬く使い込まれた力強い手が、正介の手を握る。

「儂も、そろそろ後継に『玄』を譲らにゃならん。その前に一つくらい、後輩の力になってやっても罰は当たらんじゃろう。」

「……何か、考えがあるんか?弦爺。」

その穏やかな口振りに、正介も再び声音を落とす。弦蔵はゆっくりと首を振った。

「考えなんて大層なもんは無いんじゃがの。深緋の刀を儂の所へ持って来てくれんか。」

「本気で言うてる?」

「誰も盗んで来いとは言っとらんぞい。」

弦蔵は穏やかに笑みを浮かべた。

「儂の役目は全員の得物の手入れと管理じゃ。じゃが、深緋は未だ儂に刀を預けた事が無いんじゃよ。儂もこのままでは玄としての御役目が果たせん。じゃから、儂に頼まれたと言えば、深緋も断る訳にもいかんじゃろう。お前さんが深緋と話す切欠にもなるじゃろ?」

「それは……そうかも知れへんけど、」

少々躊躇いがちに正介は言い掛けたが、そこではっとして口を噤む。弦蔵は頷いた。

「儂が見れば、深緋が何を思って刀を振るっておるか、分かるじゃろう。どうじゃ、助けになるかの?」

正介は弦蔵の穏やかな目を見詰めていたが、やがてその手を強く握り返した。

 

 

 蓼町。此処には昔ながらの民家が多く、立地を利用して素人下宿を営む家も多い。山を降りた正介は、弦蔵に預けていた包丁の箱と、分けて貰った猪肉の包みを背負子に括って自身の下宿先へ戻る道を歩いていた。下宿先の包丁を依頼したと言う話は嘘ではない。弦蔵は、山の上で鍛治を行いつつ、街で刃物屋を開いており、その評判は非常に良い。毎年冬には山に篭っている為、物資を届けるついでに刃物の手入れを依頼しに行くと提案すれば、喜んで包丁を預けられた。勿論、其方の仕事も完璧であるし、美味い肉も手に入った。女将も喜ぶだろうと歩いていると、どうも周囲の雰囲気が何時もと違う。事件という程ではないが、ざわざわと何かを話している者が多い。尋ねてみようかと思ったが、緊急で無いなら、一先ず荷物を片付けてからでも遅くは無い。

 と、その時。男が一人、前方から物凄い勢いで走って来る。裸足下駄で絣の着物。明らかに見覚えのあるその姿は正介に向かって一直線に近付くと、肩をひっ掴み、盾にするように背後に隠れた。

「頼む正介!匿ってくれ!」

「は!?え……孝晴クン!?何して……、」

あれだけの速さで走って来たにも関わらず、殆ど息を上げていない孝晴に一瞬違和感を覚えるも、その思考は前方から響いた声に遮られた。

「他人を盾にするとは卑怯なり、イヤーッ!」

張りのある女の声。顔を前に向ければ、気合い一閃、振りかぶられた――竹箒。棒立ちになった正介の頭の頂点に、箒の長い柄が真っ直ぐ振り下ろされた。メキ、ともバキ、とも付かない音が鳴り、「えっ」と驚く女の声を聞きながら、正介は頭を押さえてゆっくりと踞る。一瞬見えた孝晴は、流石に痛そうな顔をしていた。いや痛いのは自分なのだがと言いたくもなったが、始めに口から出たのは呻き声だった。

「……お、おぉ……。」

「ど、どうして避けないのですか!」

「避けたら、後ろの坊ちゃんに、当たる、やろ……。」

「当てようとしたのです!毎度毎度逃げ出して。こんな素浪人まで頼るなど、恥ずかしく無いのですか!」

「素浪人て。」

顔を上げると、其処には柄に割れ目が入った箒を地面に突き、腰に手を当てて凛々しく立つ女の姿があった。男のように首の後ろまで切り詰めた髪に、袴に羽織。長身も相まって、傍目には少年のようにも見える。背後の孝晴が大きく息を吐いて立ち上がるが、その憔悴したような表情に只事では無い何かを感じ、正介も急いで割って入った。

「ちょ、待ちぃや!お姉さん、コレが誰か分かってはるんか?てか孝晴クン、こんなお嬢ちゃんに何の恨み買ったんや!?」

「恨んでなどおりません。」

孝晴が答える前に、女が涼やかな声で言った。

 

「わたくしの名は、東郷あまね。婚約者として、孝晴さんの怠惰な性根を入れ直し、一人前の武士(もののふ)にするのが、わたくしの務めです。」

 

「…………婚……約、者?」

背後を見れば、孝晴は目を逸らしたが、諦めたように頷く。東郷と言えば、武の名門の一つであったなあなどと現実逃避じみた知識が脳内に浮かんだが、正介は二人を交互に見て、言った。

「……取り敢えず、お二人さん、茶でも飲んで行きぃや。ウチの下宿、すぐそこやから。」

女――東郷あまねも、誤って正介を殴った負目がある為か、少し躊躇うも頷いた。一体何がどうなっているのだと思いつつ、正介は二人を連れて下宿へ向かうのだった。

 

「帝國の書庫番」

廿六幕「万華鏡(ばんかきょう)」



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帝國の書庫番 廿七幕

針だけが動かぬままに、無常に時は流れてゆく。


 静かな表情に端正な長身、腰まである艶やかな長い髪。その所作と纏う雰囲気は、相手が話に聞く木偶の坊である事を忘れさせる程だった。既に決定付けられた婚姻話であるが、腐っても有坂家の実子。木偶というのは、妬みやっかみによる風説だったのだ。こんな男に嫁ぐならば、悪くは無いと思った。思ったのに。

 

『俺はあんたを不幸にする。だから、あんたが俺を振ってくれ。』

 

 余りに甲斐性の無いその言葉を聞いた瞬間、頭の中が沸騰し、気付けば宣言していた。

わたくしが妻として、貴方様の性根を叩き直して差し上げます、と。

 

 

「勘解由小路さん!」

「えっ?」

 ぱちん、と音が鳴り、留子の手に握られた花鋏の先で、ぼとりと花の頭が落ちた。同じ組で作品を製作していた同輩の声に、我に返る留子。花器に生ける為に剪定しようと手にした枝に、ぼんやりとしたまま鋏を入れてしまった。その先に花が付いている事にすら気付かなかったのだ。

「ああっ、わ、わたし……御免なさい!」

慌てて鋏を置き拾い上げるも、覆水は盆に返らない。先程まで美しく枝を飾っていた筈の真っ赤な山茶花は、哀しげに留子の手の上に咲いている。

「勘解由小路さん、ぼうっとしていては危ないわ。どうなさったの?」

「御免なさい、その……考え事を。」

「お怪我が無くて良かったわ。けれど、その枝はもう、使えませんね。」

真っ赤になって縮こまる留子。その後ろから、穏やかな声が聞こえた。

「そう思うん?」

「椿先生……。」

 振り返った少女達の前に立つ椿は、柔らかに留子の手から花を取り上げ、じっと眺めた。

「間違って切ってしもたんは、元には戻せへんね。けど、皆んなと違う場所を用意したげたらええんやないの?」

そう言った椿は、花器の棚に向かい、深さのある小振りの平皿と剣山を持って戻って来る。白地に灰の釉が散った皿に水を張り、花が一つ落ちた枝を見つめながら鋏を取ると、迷いなく振るう。ぱちぱちと小気味良い音が数度鳴り、新たに与えられた小さな世界の上に生き生きと枝が立つ。最後に水面に花を浮かべれば、一枝の山茶花だけで作られた、小さく愛らしい作品が出来上がった。

「花を生ける時に大事なんは、誰の為に、何の為に、どんな心で生けるかです。でも、花の顔を見てあげるんも同じくらい大事です。枝も、花も、皆んな違う見た目やからね。同じ花でも、必ず同じ場所に収まる訳やない。収まる場所を見付けてあげるんも、うちらの役目や。忘れたらあかんよ。」

「はい!」

いつの間にか此方に注目していた少女達は、椿の言葉に返事をすると、再び自分達の作品作りに取り掛かる。椿の所作に見惚れていた留子も戻ろうとしたが、その前に椿が留子の肩に手を置いた。

「……せやけど、留子さん。花も見んと迷ってたら、生け花はできひんよ。放課の後に、話しましょ。」

そう囁いた椿の顔に、怒りの色は見えない。留子は眉を下げながらも、こくりと頷いた。

 

 午前の訓練を終え、解散の号令と共に烏羽達が散ってゆく。其れを廊下の窓から横目に眺めながら、麟太郎は扉を開けた。

「お待たせしました、中尉。」

「いえ、今到着したばかりです。」

部屋の中からの声に首を傾げつつ、麟太郎は応える。男の腕章には医官の徴があるが、色は獣医のものだ。彼は麟太郎の言葉に苦笑した。

「検査に時間がかかりましたから、お待ちになったかと思いまして。」

そう言いながら男は、手にした大きな金属の籠を机上に置く。籠の横には「クロスケ號」と書かれた札が結ばれており、中には羽に包帯を巻かれた鴉が入っていた。首をぐるりと動かして麟太郎を見る様子からすると、どうやら傷以外に不調は出ていないらしい。

「具合は?」

「落下したとの事でしたが、頭や他の箇所にも傷はありませんでした。幸い矢傷も、骨を傷付けずに貫通しております。ただ、元通りに飛べるようにするには、傷が完全に塞がってから、訓練する必要があります。それまでは安静にさせて下さい。」

「分かりました。」

籠の出口を開けてやると、「くろすけ」はトコトコと歩いて出口に足を掛け、ぴょんと机上に飛び降りた。獣医は麟太郎に向かって微笑む。

「本当に賢い鴉ですね。傷は痛むでしょうに、動かないように言えば、ちゃんと止まってくれる。人間の子供より物分かりが良いかも知れませんよ。」

「そうですね。ある程度言葉を理解しているのは確かです。」

麟太郎は、「くろすけ」の足元に黒い布を敷く。その上に布切れを丸めて重ねてやると、「くろすけ」は分かっているとでも言うようにその上に飛び乗った。ずっしりと温かい身体を布で包み、胸元に抱き上げると、更にもう一枚の布で体に固定する。「くろすけ」は嫌がる様子もなく、麟太郎の胸に収まった。布の隙間から嘴を出し、心地良さそうに目を閉じている。

「私の元でも大人しかったですが、やはり中尉は特別なようですね。」

「確かに『くろすけ』は、人懐こいという訳ではありません。私が教えた相手は、問題無く覚えますが。」

私は彼の献身に甘えているだけです、と呟く麟太郎に、獣医は「そのような所が気に入られているのでしょうね」と笑った。

 

 戸を閉めて廊下に出た麟太郎は、胸元の鴉に目を向ける。視線に応えるように、「くろすけ」も嘴を麟太郎の顔へ向けた。麟太郎は思い返す。この鴉との付き合いが始まったのは、警兵入隊試験を受ける前。縁側に干した楜実(くるみ)の具合を見に出た時だった。一羽の鴉が、縁側の板の上で、じっと楜実を睨んでいた。麟太郎が眺めていると、鴉は殻を突いてみるでもなく、麟太郎を見上げて「があ」と鳴いた。

「欲しいのですか。」

麟太郎が尋ねると、鴉は体ごと麟太郎の方を向く。近付いても逃げる様子は無い。屈んで一つ楜実を拾い、鴉の目の前に置いてやる。どうするつもりなのだろうと眺めていると、鴉はまるで麟太郎に返すように、嘴で軽く殻を転がす。

「要らないのですか?」

麟太郎が首を傾げると、鴉はがあ、があ、と声を上げながら一度跳ねた。少し考え、麟太郎は腰を下ろして胡座をかく。そして楜実を摘むと、そのまま指先で押し潰した。固い音を立てて弾けた殻の内側には、柔らかな実が詰まっている。鴉はすかさず嘴を伸ばし、器用に殻を外して啄み始めた。

「……割って欲しかったのですね。」

「があ。」

鴉は返事をするように一声鳴いた。それから鴉は、――「くろすけ」は毎日のように麟太郎の元にやって来るようになり、そしてどうやら言葉を覚え、共に軍務を果たすまでになった。自分が文を送る時だけでなく、鳩を飛ばす時に護衛に付ければ、他の鴉に鳩が襲われる事を防いでくれる。軍が研究している鴉も、どうやらある程度簡単な指示には従うようだが、「くろすけ」には特別な訓練を行った訳では無い。

「お前が居なくなっては困るとはいえ、私に他の鴉を見させるのは間違っている気がしませんか。」

胸元に声を掛けるが、「くろすけ」は素知らぬ顔で目を閉じている。いや、眠っているだけかも知れない。人間相手でさえ分からないのだ、鴉の気持ちの機微など、麟太郎に分かる筈が無かった。

(『くろすけ』を射たのは、二年前の『北讃会事件』を煽動した小田切の実弟。彼奴は毒を飲んで自死したが、此れで終わりだとは誰も思って居ない。そして、私は此の件が終わるまで、宿舎を抜け出す訳にいかない……。)

 同室の二人も麟太郎も、其々に聴取を受けている。更に麟太郎は、鴉の訓練と研究を監督するよう命じられた。その状況で宿舎から抜け出しては迷惑がかかる事くらい理解出来る。次の休日は明後日だが、辻堂から報せを受けて早や三日。当然孝晴からの音沙汰は無い。貴族の縁談は、両家で話が決まれば先へ先へと進んでしまう。……人を寄せ付けずに生きて来た孝晴が、自ら妻を娶ると決めたとは、麟太郎には思え無かった。

(ハル様の世界が変わる時に、私はお側に居られ無かった。あの時誓ったというのに……、)

 其処まで考えた麟太郎は、足を止めて、硝子窓を見た。冬の青空に射す日の光は、黄色がかっていて、か弱い。

(まさか、此れが目的……?ハル様の大変な時に、近くに人を寄せ付けない為に、……私の行動を封じる為に、『くろすけ』を狙った?いや、しかし、理由も、予兆も無い。有坂家に、ハル様に害を成そうとする輩など、この帝都に存在する筈が無い。)

 麟太郎は頭を振る。孝晴の事ばかり考えて、些か過敏になっているのかも知れない。万一、「あの」有坂家を標的としたものであるならば、態々麟太郎のような羽虫に拘(かかずら)う必要が無いのは事実だ。いつの間にか、「くろすけ」が再び目を開けて此方を見上げている。麟太郎はその首元の羽毛を指先でニ、三度梳った。切り替えなければならない。先ずは、漸く時間が取れる今夜改めて、部下である辻堂に話を聞く事にしようと、麟太郎はその場を後にした。

 

 

 授業用の茶室の戸を引くと、午後の光が障子紙を透かしている。ぼんやりとした山吹に彩られた冷泉椿の輪郭は、くっきりと美しい。目許に引かれた紅が、そこはかとなく感じる「大人の女」の色香を引き立てている。留子は暫く見惚れたが、椿が手で口許を隠して小さく笑ったのを見て、慌てて畳に上がった。

「何を見てはったん?」

留子が前に座ると、椿は尋ねた。

「椿先生は、とてもお綺麗なので……。」

「あら。」

素直に答えた留子に、椿は再びふふと笑い声を上げる。自然な所作で茶碗を渡し、「これは授業と違いますからね」と前置きすると、椿は言った。

「それで、留子さん。鋏の先も見えへん程、気になってる事、あるんやろ?悩むんは、悪いとは言わへんよ。せやけど、うちは評価を付ける立場やから、ただ授業に集中して無かったんなら、成績を下げなあきません。何考えてたか、教えてくれはる?」

「……はい。」

受け取った碗に口を付けた後、留子は頷く。椿の切れ長の目や、西都語(ことば)を怖いと言う者も居るが、留子はそうは思わなかった。冷泉椿は常に、自分を律して生徒に向き合おうと努めている。そんな彼女になら……。

「わたしには、想い人がいます。」

「せやね。うちでも知ってます。」

「一時は、大きな騒ぎになってしまいましたから。」

留子は苦笑すると、ぽつぽつと語り出した。

「わたしは、その方と添い遂げたいと思っています。いつも、お手紙を読み返したり、思い出の中のあの方に想いを馳せたり、そうしても気持ちが収まる事はありません。」

 

――貴女の猫なのでしょう。もう離してはなりませんよ。

 

 低く抑揚の無い声と、手に載せられた猫の柔らかな毛、温かな体温。真っ直ぐで穏やかな瞳。あの瞬間は、きっとこの先も忘れられないだろう。自分は、麟太郎の容姿や立場に惚れた訳では無い。麟太郎が麟太郎であるから、好きになったのだ。

 

「わたしは心底、あの方を愛してしまいました。けれど、わたしの愛するあの方は、今、わたしの事など、考えられる状況にありません。きっと、主(あるじ)と慕う方を案じて、何時ものように走り回っておられるでしょう。」

 

――本当に、着いて来るンだな?

――私は貴方を一人にはしません、ハル様。

 

 あの日触れた、二人の関係。頼って貰えた事は、嬉しかった。けれどその時はまだ、知らなかった。孝晴の抱えた闇がどれ程深いのかを。

 

「わたしは今、好いた方の力になれません。こんな寂しい事はありません。そしてわたしは、愛する人と会話すら気軽に出来ない身分です。せめて、この身分を利用して解決出来る事があったなら、わたしは喜んでどんな誹りにも耐えたでしょうけれど。わたしの行動は、悪戯にあの方を傷付けただけでした。」

 

――貴女なら分かったでしょう?私について知った所で、貴女には如何しようも無い事が。……私にだって、如何にも出来ないのですから。

 

 優しく、穏やかな、容赦の無い拒絶は、悩み苦しんだ孝晴が辿り着いた、周りを守る手段。しかしそれを知るのは、自分達だけ。常識や柵(しがらみ)は、否応無しに踏み躙る。孝晴の思いも、そして留子の心も。

「わたしは、……苦しいです。わたしの、勘解由小路家の娘という立場は、何の役にも立ちません。寧ろ、この立場に無ければ、知らなかった事まで知ってしまいました。……先生。どうしてわたし達は、自らの心に従って生きられないのでしょう。自らの気持に正直に生きるのは、何故こんなにも難しいのでしょう。」

留子は話し終わると、泣きそうな顔で椿を見た。そして、驚きに目を開く。余り感情を面に出さない椿が、今はその顔の裏に、まるで紙に落とした紅がじわじわと沁みていくように、溢れんばかりの哀しみを滲ませていた。

 

 

 もう日も落ちる夕暮れ時。だというのに、転がり込んだ厄介事は、簡単に放り出せるようなものではない。箪笥一つと卓だけの部屋に、取り敢えず女将に借りた座布団を敷き、其処に二人――孝晴とあまねを其々座らせている。あまねは背筋を伸ばして茶碗を口に運び、孝晴も何故か正座をしていた。孝晴は疲れた顔で黙り込み、あまねも口を開く素振りが無い。正介は溜息を吐いた。

「お二人さん、何でそないな事になってんねや。あまねちゃんは孝晴クンの嫁になるんやろ?言いたい事があるんなら、話し合うべきやないん?」

「子供扱いなさらないで下さい。わたくしはもう、十八になります。」

「……あまねサンは、何が気に入らへんの?」

ぴしゃりと言ったあまねに腹を立てるでもなく、正介は不思議そうに頬杖をついた。そんな正介に毒気を抜かれたのだろうか。「貴方達が如何様な関係かは知りませんが」と前置きすると、彼女は言った。

「わたくしは、ただ、孝晴さんに立派な男子(おのこ)になって欲しいだけです。孝晴さんと来たら朝は遅起き、気分で遅刻早退なさり、かと言ってお家で勉学なさる訳でも無く、読む物と言えば新聞ばかり。節制も出来ず、毎日のように菓子ばかり求めてほっつき歩いているとの事。故に、結納までの間は、わたくしが生活を正して行こうと決めたのです。」

正介が孝晴に顔を向ける。その目に咎めるような色は無い。孝晴はゆっくりと頷いた。正介は少し考えると、今度はあまねに向き直る。

「それ、あかんのやろか。」

「良くないに決まっているでしょう!」

「うへぇ。」

即答され、苦笑する正介。あまねは眉を寄せ、やがて溜息を吐いた。

「無関係の貴方を巻き込んだ事、そして殴ってしまった事は、申し訳ない限りです。後日お見舞いの品を届けさせていただきます。ただ、……話が出来ると思ったわたくしが愚かでした。悪い交友関係も絶って頂きませんと、貴方の悪評は払拭出来ませんよ、孝晴さん。」

「……。」

無言の孝晴。正介は、何故一切反論しないのかと内心首を傾げる。

「もう良いでしょう、これ以上の迷惑はかけられません。帰りましょう。」

「あー、ちと待ってや、あまねサン。」

「何でしょう。」

眉を寄せたままのあまねの目線を意に解する事無く、正介は立ち上がり、箪笥の中から手帳を取り出すと、頁を開いてあまねに手渡した。其処に記された正介の身分を見た彼女は分かりやすく目を丸くすると、困惑の表情で手帳と正介の顔を交互に見比べる。正介は笑った。

「俺は別に気にしてへんから、見舞いは要らへんよ。で、『ソレ』に免じて、ちーっと俺に旦那、貸してくれへんか。安心し、あまねちゃんの悪口言うたらケツしばいといたる!」

「おい。」

漸く一言発した孝晴にも、にひひと笑って見せる正介。尚も戸惑う素振りを見せてから、あまねは手帳を閉じると正介に手渡す。

「人は見かけに寄らないものですね。」

「堅苦しいのは好きや無いねん。」

むうと頬を膨らませるあまね。正介が送ると言うも、彼女は一人で帰れると素気無(すげな)く告げる。それでも正介は彼女が車を拾うまで見送り、部屋に戻る。

孝晴は、卓上にべたりと突っ伏していた。

「お、おお!?どないしたん!?や、ここ来た時から顔色悪いとは思たけど!」

「……悪り、正介。」

孝晴は握った手の中から小さな塊を取り出し、それを指先で正介の方へ弾く。正確に卓の縁で止まったそれは、鈍い銀色の、文字が刻まれた金属の塊。

「『それ』、やっから、今此処にある米、取り敢えず全部食わしてくれ……。腹、減った。」

「……丁銀やんけ!?」

思わず頓狂な声を出したものの、正介はどう女将に言ったものかと呟きながら、銀を受け取る事無く部屋から出て行った。

 

 白飯の入った櫃に、炙った鯖の干物。小鉢には大根の漬物と梅干しが入っている。狭い卓上がどんどん埋まってゆく様を、孝晴はぼんやり眺めていた。正介は最後に茶碗と箸を二膳持って戸を閉めると、一組を孝晴の前に置き、もう一組を持って孝晴の正面に座った。

「取り敢えず、今炊いてあった米は貰て来たわ。夕飯前で良(え)かったで。」

孝晴は目だけを動かして正介を見る。実際、胃痛と吐き気で気分が悪くて堪らない。しかし、無茶な願いをしたというのに、正介は嫌な顔一つしない。

「他んのは女将が『白飯だけなんて恥ずかしい』ちゅうて出したやつや。気にせんでええっちゅうたんやけどな。ま、明日俺が買いに行くて言うてあるから、気にせず食いや。」

「お前さんは。」

正介は一度目を瞬いてから「これの事か」と茶碗を軽く持ち上げる。

「二人で食うって事で、多目に出して貰たんや。孝晴クンが大飯食らいやって分かってるしな。俺は昼食って来たし、空きっ腹には慣れっこや。気にせんでええよ。」

「……。」

正介に邪気は無い。それは麟太郎が保証した。しかし、出会った日の自分や麟太郎への態度、推察力の高さ、そして、隠し切れない隙の無さ。諸々合わせて考えたら、正介は何かを知る為に自分に近付いているのだろう。けれど、――背に腹は替えられない。同じ貴族相手に飯をせびる事など出来ないし、頭と体が何か食えと急かすのを、同じ頭で押さえ込んでいるのだ。櫃の縁に差し込まれた杓子に手が伸びる。立ち昇る湯気からは、甘い米の匂いがした。

 

「自分で飯よそえたんやな。」

「やった事ぁ無かったが、やり方くらい分かる。」

 すっかり空になった食器を脇に寄せ、孝晴と正介は向かい合っている。珍しく孝晴は眉を下げて、苦笑した。

「悪ィな、正介。こんな事頼めンの、お前さんしか思い付かなくてな。」

「まぁ、しゃーないて。急に生活丸っと変えられたら、そら逃げたくもなるやろ。」

言いながら、正介は開いた卓の上に向かって、銀の塊を弾き返す。

「流石に『それ』は高過ぎんで。そないなもん、軽々しく出さん方がええ。」

「俺ぁ餓鬼の頃から小遣いはコレだったぜぃ。」

「公爵家の金遣いどないなっとんねん……。」

一転して、砂を飲み込んだような表情を浮かべる正介に喉を鳴らして笑うと、孝晴は一つ息を吐く。

「しッかし、よくあまねを追い返せたもんだ。俺が何を言っても聞きやしねえってのに。」

「そら、あの子は肩書きに弱いからな。」

当たり前のように返す正介に虚を突かれ、孝晴は目を数度瞬いた。

「お前さん、あまねを知ってんのかぃ?」

「や、今初めて会ったし、別に付き合いも無いで。けど、態度見たら分かる。せやからさっき、隊員手帳見せたんや。」

正介は手を左右に振ってから、真顔になって頬杖をつく。

「さっき『だらしない行動はあかんのか』て聞いた時、良い訳無いて即答したやろ。教えられた物事が全てで、善悪は常識に従うかどうかで決まる。厳しく教えられて来たんやろな。あまねちゃんは、良くも悪くも世間知らずや。ああいう子の常識の中じゃ、偉い役に就くには人間が立派でないとあかんし、その逆も然り。子供扱いを嫌うってのも、無理に大人の立場に殉じようとしてるって事やし。せかやら、自分が認める相手の言う事は聞いてまうし、認められへん相手には反発する、分かりやすくて純粋で真っ直ぐな子やで。せやから一旦帰らせへんと、孝晴クンとは話でけへんと思てな。俺は身分ひけらかすんは好きやないけど、効いたやろ?」

成程、と孝晴は内心舌を巻く。出会った瞬間から正介はあまねを分析していた訳だ。彼の邏隊員としての性(さが)が為せる業だろうか。散らばった事実を組み合わせて線にする能力に関しては、恐らく孝晴の右に出る者は居ないだろうが、心の動きは暗記出来ない。そのような性格の人間が居ると言う事実も、人との深い関わりを避けて来た孝晴の中には蓄積されていない。

「邏隊員ってのは凄ぇもんだ。」

「何や、褒めても何(なん)も出ぇへんで。で、孝晴クンは何で嫌なら嫌って言わへんの?言葉で言わな伝わらへん事もあるもんやで。」

「……。言えねェよ。」

正介に答えながら、孝晴は肘をついた掌の上に頬を乗せた。あまねが言った「だらしない」生活は全て本当だ。しかし、仕事を放るのは、集中して片付けた方が自分の体には合うから。家で勉強も読書もしないのは、新聞のように毎日更新される情報以外は、全て「記憶して」いるから。菓子は、食わなければ「頭が保た無い」からだ。それを、あまねは知らない。あまねだけでは無い。周りから見ればあまねの行動は、木偶の伴侶を持った妻として頗(すこぶ)る正しい献身だ。その上、あまねは先ず自分が生活を律する。女中と同じ時間に起き、広い屋敷を清掃する。食材選びに同行し、台所にも立ち、その合間に竹刀や薙刀を振る。就寝前には、使用人から会計帳簿の付け方を教わっていた。全て、結婚後の生活を見据えての事。彼女は自分を支える為に努力しているのだ。その努力は、孝晴であれば簡単に踏み躙ってしまえる――見れば全てを覚えるし、作業も一瞬のうちに終えられるのだ――そんな事を、言える筈が無い。「少しの間」黙った孝晴を見て、正介は手を頬から膝に下ろした。

「孝晴クンには孝晴クンの考えもあるやろし、強制はでけへん。せやけど、ああいう子はある意味騙され易いし、依ってるもんが崩れたら脆いもんや。擦り合わせはした方がええと俺は思うで。」

「ん。わぁってる。あまねは、真っ当にこの先の事を考えてる。出来た女さ。」

しかし、その行為が孝晴にとっては文字通りの死活問題だ等と、どうして言えるものか。当然、命を断つ選択も出来ない。あまねが責めを負う事になってしまう。まだ十七の少女が、婚約者を死に追い遣った等と責められるのは酷だ。孝晴の頭でさえ、結論は出せず思考が回る。

と。

ぐわり、視界が揺れた。

何だこれはと思う間もなく、目の前に黒い幕がかかり、そのままその中へ意識が吸い込まれてしまった。

 

 唐突に糸が切れたように床に突っ伏した孝晴に慌てて駆け寄った正助は、その呼吸が深く規則正しい事を確認し、安堵と困惑の呟きを吐いた。

「寝とる……。」

先程まで違和感無く会話していたものだから、さしもの正介でも異変を察知出来なかった。

(まだ、こないだの件の続き、話せてへんっちゅうに……。何か病気でもしてるんか?別に食に不自由してる訳やないやろに、この食い気もおかしいやろ。透子さんに聞いてみるか……?)

 考えつつも、寝返りを打って当たったらいけないと、卓を部屋の隅へ引き摺ってゆく。そして、取り敢えずと孝晴の頭の下に座布団を入れてやり、襖から掛け布団を出して被せる。すやすやと寝息を立てるその顔は無防備そのものだ。正介は思わず頬を緩めつつ、孝晴の艶やかな髪を整える様に軽く撫でた。

(なんや、家のチビ共を思い出すなぁ。元気やろか。)

 左目の傷を指先でなぞる。この傷を負ってから、正介の立場は目紛(めまぐる)しく変わった。そして、帝の「願い」を叶えられるまで、家には戻らないと正介は決めている。だが、家族との思い出は消える訳では無い。遠くなった家族との触れ合いを思い出しながら、正介は穏やかな笑みを浮かべる。元は深緋を知る足掛かりに近付いたとは言え、頼られて悪い気はしない。

(こないな事深緋に知られたら、またどやされるかも知れへんな。)

 一つ、大きく伸びをして立ち上がる。卓に放置された食器をまとめた正介は、空腹を紛らわせる為に白湯でも貰おうなどと考えながら、静かに部屋を後にした。

 

 

 消灯直前の宿舎内。自室に戻る為に廊下を歩く麟太郎は、今まさに辻堂と、通訳を買って出てくれた石動から聞いた内容を頭の中で反芻していた。

――「あまねは、心が強う、自分にも他人にも厳しか女子じゃ。おやっどんが厳しゅう鍛えたで、手ん豆が剥くっくれ毎日竹刀(しね)を握っちょったし、銃も撃つ。おいが爺どんにびんた割られて泣いちょっと、『男子がそげんこっで泣っとは何事か』ゆっせぇ、竹刀を振(ふ)いて来た事もあっと。」

「……何と?」

「辻の額の傷はお爺さんとの鍛錬中に負ったもので、あー、辻堂は東郷の分家筋ですが、辻の母とあまねさんの母は旧大名家の姫で姉妹なんだそうで、その縁で従妹のあまねさんとも幼少から付き合いがあったみたいです。あまねさんは父君に大変厳しく教育されて、自身も刀や銃を扱うそうですが、辻が鍛錬中に怪我をして泣いていたら叱られたと。あまねさんは、幼い頃から自分にも他人にも厳しい方のようですね。」――

 東郷あまねがどの様にして孝晴の妻に選ばれたかは、辻堂も知らなかった。何処から出た話かは分からないが、世間では有坂孝晴が彼女を見初めたと言われている。だが、麟太郎はそれに疑問を抱いていた。人となりを知ればあるいはと考えたが、話を聞いても、彼女が何か特別な――孝晴の人離れした力と釣り合うような――才を持っている訳でも無さそうだった。

(ならば、やはり有坂家が……奥方様が、ハル様の知らぬ間にお決めになったと考えた方が、納得できる。)

麟太郎は歩みを緩め、息を吐く。この予想は恐らく正しいのだろう。

 

『俺ぁ、母上が怖い。他人が怖い。んでもって……俺自身の事が、一番怖い。』

 

 麟太郎に向かいそう吐き出した孝晴の言葉と表情は、はっきりと覚えている。そんな孝晴が、事情を知らない他人と一緒になれば、きっとまた苦しむだろう。元は「犬」であった麟太郎であるが、今は「友」と呼ばれる身。「心配」して、おかしな事は無い筈だ。

(最近は、奥方様に諜報を命じられていない。私は奥方様が何を考えておられるのかを全く知らずに来たが、私は……ハル様の為に、間に立てるだろうか。盾くらいには、なれるかも知れない。)

 次の休日に、どのように動くべきか。麟太郎は考える。有坂十技子との面会は、必ず呼び出しがあって行われる。麟太郎の側から向かったのは、有坂家を出る日に挨拶した時だけだ。突然麟太郎が自らの意思で会おうとすれば、恐らく良い結果にはならないだろう。ならば、あまねはどうだろうか。自分は一応、辻堂の上官である。部下の親戚に慶事があれば、挨拶に向かうのは、恐らく不自然では無い……。そこまで考えて、ふと気付く。

(私が教わって来たのは、一人で生きるに必要な常識であったのだな。)

 有坂家で多くを学んだが、友を得、部下を持ち、妻を娶り、子を育てる為の知識は学んで来なかった。孝晴の話を考えれば、麟太郎にはそれ以外求められていなかったという事だろう。その辺りは石動に相談してみようと思いながら部屋の戸を低くと、丁度軍帽を被って出て行こうとする白鞘と鉢合わせた。正確には、近付く気配を感じて麟太郎が立ち止まったのだが。

「遅かったな、刀祢。」

「……? 何か用でもありましたか。」

「あったのだが、俺の隊に招集がかかった。」

眼鏡の奥から見据えられ、麟太郎は目を細める。

「所用があったもので。話はまた明日に。」

「ああ、構わん。しかし……貴様は、首無事件に呼ばれていたな。また駆り出されるやも知れんぞ。」

無言で見上げる麟太郎の前で、白鞘は洋羽織の首元を引き上げる。

「『首無』の次は、『顔無』の死体だ。年の瀬だと言うのに、兇徒共も勤勉な事だな。」

無言で強く眉を寄せた麟太郎をその場に残し、白鞘は歩き去る。それまで布の中に収まっていた「くろすけ」が、いつの間にか顔を出してその背中を眺めていた。

 

「帝國の書庫番」

廿七幕「噛み合わぬ歯車」



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帝國の書庫番 廿八幕

此世は延べつに幕はなし。


 兄弟の世話をしながらも高等小学校に通い、いつか役者になりたいと語っていた少女。授業後に畦道で級友と遊んで帰って来るような、男勝りで御転婆な娘だった。彼女はその日、日が落ちても家に戻らなかった。早朝、防火水槽に俯せに浮いた少女――女物の着物を着た子供――を見付け、助けようと引き上げた男は、驚きの余り腰を抜かしたという。その顔は、赤黒く爛れて肉が剥け、白い骨が露出していた――

 

 

 寺前の通りは、冬でも活気に溢れている。寧ろ、年末の近い今だからこそ、入用のものを買い込んだり、入れ替えの品を売り捌いたりで、賑やかなのかも知れない。東郷あまねは、女中について買い物に出ていた。有坂孝晴が訪れたのは、親から婚約を知らされた、その日の夜。あまねは翌日には有坂家へ飛んで行き、正式な婚姻前の同居を申し出た。あまねは、自分がどんな相手に嫁ぐにしろ、夫を立て、家を守ると誓っていた。夫の不始末は妻の不始末であるからして、夫が至らないならば妻のあまねが世話してやらねばならない。それは幼い頃から聞かされて来た父母の教えだった。将来妻として当主である夫を支える事になると同時に、年長者として未来の当主――東郷の家を継ぐのは、二つ下の弟である――を教え導く立場のあまねは、文武の鍛錬に明け暮れる日々を送って来た。しかし、分家を作らない有坂家に嫁ぐとなると、これまでのように多数の使用人を雇える保証は無い。ならば、今までした事がない使用人の仕事も妻の自分がこなさねばならないと、先の生活を見据えた花嫁修行を申し込んだのだ。そうして女中や使用人達から、孝晴の慣れ親しんだ世話の仕方や、炊事洗濯を習っている。買い出しもその一環であるが、普段は直接屋敷に届けさせている食材の選び方までも教わっているのは、そうした理由からである。幸い、通いの女中や仕入れの担当はそちらにも詳しかった。初日にそうして話をつけて終い、さて残りの時間は夫の監督に、と思っていたのだが。あまねは教わった内容を書き付けた帳簿を閉じて息を吐く。

「余り、気にしなくとも良いのではございませんか、あまね様。」

 彼女の嘆息を聞き付け、女中が苦笑した。

「孝晴坊ちゃんは、あまね様がいらっしゃる前から、お仕事を好む様子はございませんでしたからね。奥様も孝晴坊ちゃんを咎める事も無く放任でございましたから、慣れていないだけでございましょう。」

「けれど、初日から逃げ出してしまわれたんですよ。きっと、わたくしは嫌われてしまったのです。」

 目を伏せるあまねに女中は労るような目を向ける。幼少期の孝晴は成長が遅く、その分兄二人より学習の開始も遅かったという。また、既に兄が二人居る末っ子の立場もあってか、厳しくされる事が無かったらしい。実際、孝晴は書庫番の職に就いてからも頻繁に休んだり抜け出したりしているし、それを有坂家の主(あるじ)が咎める素振りは無い。そうして甘やかされて来た孝晴に、あまねのような厳しい嫁を充てがえば、こうもなるだろう。女中としては、監督の必要が無く過大な要求もしない、非常に楽な「お坊ちゃん」なのだが。そう考える彼女の隣で、あまねが言う。

「だからと言って、わたくしは任を放棄する訳に参りません。孝晴さんがこのまま、世間から良くない評価を受けていては、孝晴さんの今後の生活が成り立ちませんから。故にわたくしは、嫌われようと、避けられようと、あの方を一人前(ひとりまえ)の男子(おのこ)に育てねばならないのです。」

 その横顔は凛々しく、ともすると少年のように見える。男女共に髪を伸ばす習慣がある旭暉では、洋外に倣い断髪する男はいても、あまねほどに短く髪を切っている女は殆ど居ない。東郷家は現政府の立役者の一人と関係があり、「南州の雄」と呼ばれる武の名門の一つだ。あまねの剛毅さも、そんな家で育った為なのだろう。

「気を張らずとも、坊ちゃんもそのうち慣れましょう。毎日、お仕事に出られるようにもなっているではございませんか。」

そう笑って言った女中の横で、「それが続けば良いのですけれど」とあまねは小さく呟いた。

 

 

 帝國公文書館第三棟内の事務室。書記官達が軽く雑談したり、専門分野の仕事だけをのんびりと片付けたり。平穏な「書庫番」の仕事風景の中に、有坂孝晴の姿があった。極力頭の回転を落とし、半分眠ったような状態で、ゆっくりと、それこそ孝晴にとっては気の遠くなるような時間をかけて、一枚一枚書類を確認してゆく。孝晴は平日も一日二日程は仕事に出るようになっていたため、第三書記部の職員達にとってはその姿は見慣れた光景だ。しかし、これが毎日となったら。自分に耐えられるのだろうか。紙の感触を確かめるように、親指と人差し指の先で触れる。これは非常時動員に関する法令。先程は各地に置く師団の増設を決定する書類だった。文面や筆跡は全て頭に入れたものの、非常に効率の悪い方法を取らざるを得ない。大盥に一滴ずつ水を垂らして満杯にしようとしているかのように、一文ずつ、一文字ずつ。それでも腹は減るものだ。ああ、眠い。孝晴は頭をゆるゆると振る。

(有坂家を出たら無駄費い出来無くなンのは、俺だって分かってっからなァ……。)

 空腹で集中が続かない。しかし、子供の時に貰った丁銀を頻繁に使う訳にもいかないくらいの分別は、孝晴にだってある。今はあまねに渡された財布の中身でなんとかするしかない。正介の下宿先で目覚めた時、女将が朝食を出してくれたが、正介の姿は無かった。邏隊員は出勤も早いのだろう。銀が見当たらなかったのは、恐らく、正介が持っているからだ。眠っている人間の手に握らせておくのが憚られる物なのは間違いない。それを思い出し、孝晴は息を吐いて小さく笑う。

(この体たらくじゃ、俺にゃ価値なンて無ェも同然だなァ。)

 自分は人間では無いし、人間になりたいとも望んだ。なれないからこそ、こうして心を澱ませる。けれど、「どぶ浚い」が出来るのは、自分が化け物であるが故。自己満足の行為と言えど、それに自分の存在意義を見出していなかったと言えば、嘘になる。

(太田の父っつぁんにも、中途半端な事しちまった。)

 自分の思慮が無意識に不変の未来を想定していた為に、首を突っ込んだだけで終わる事になると考えすらしなかった。使えるようで使えない自分の頭に苦笑しながら、ふと思う。太田家と言えば、あの時四辻鞠哉に渡された角砂糖には、まだ手を付けていない。あれを噛んで食べてしまうのは些か勿体無いようにも思うが、ずっと取っておいても意味が無い。昼に帰ったらニ、三個持って来ようと決め、改めて孝晴は書類を眺め始めた。

 

 

 帝都中心部から少し東にある、平屋の広い屋敷。使用人の案内で座敷に案内された刀祢麟太郎は、座布団の上にきっちりと正座していた。その胸には、鴉の入った布が襷掛けに結ばれている。麟太郎は少しの間、外から時折聞こえる鋭い鳴き声に耳を傾けていたが、一人の男が部屋に入って向かいの座布団に腰を下ろすと、深く頭を下げる。

「捜査へのご協力に感謝致します、鷹峰さん。」

「重真(しげざね)と呼んで頂いて構いません。私は兄弟がおりますので、其方に慣れているんです。」

 三十路過ぎの男は穏やかに言った。流石に由緒ある貴族の長男は、警兵を前にしても常人のように狼狽えはしないらしい。では、と断って麟太郎は口を開く。

「重真さん。貴方に、帝都近郊の鷹司達についての情報提供をお願いしたいのです。」

「それは、如何なる理由で?」

 麟太郎は胸に掛けた布を解く。中からは羽に布が巻かれた一羽の鴉が現れた。ぐるりと首を回して男を見る『くろすけ』の頭を軽く指で掻いてから、麟太郎は男に目を向け直す。

「これは軍に登録されている鴉です。この鴉が、四日前襲撃されました。下手人とされる男は死にましたが、我々の調査で、鷹に追われる鴉が目撃されていた事が分かったのです。街中に野生の鷹が入って来ないとは限らないものの、鴉を『追い回し続ける』というのは不可解です。もし、その追われていた鴉と此れが同一の鴉であったなら、下手人には協力者が居た事になります。」

「成程、それで私の所へ。」

「ええ、貴方は組合の長ですから。帝都の鷹司について話が聞ければと。」

 男――鷹峰重真は、納得したように頷く。鷹峰家は、古来宮廷の鷹飼部に鷹を献上していた一族である。その後鷹飼部そのものを任されるようになり、貴族となった後も鷹遣いの一族として知られて来た。その歴史もあって、新政府樹立の際に旧幕府や其方に属する諸大名が手放した多くの鷹を保護し、帝都に正式な組合を設置したのが、重真の父・現当主である師真(もろざね)である。現在は鷹司の技術を修めた重真が組合長を引き継いでいるが、陸軍は鴉研究を始めた頃、調教技術の指南役として彼に協力を求めた。彼が直ぐに状況を理解したのはその為だ。

「訓練の成果を狙われたという訳ですか。」

「……いえ、この鴉が切掛で、軍が研究を始めたのです。この……、」

 そこで一度麟太郎は口を閉じる。「くろすけ」がじっと嘴を麟太郎に向けていた。

「……『くろすけ』ほどに任務をこなせる鴉は他にありません。特別なんです。だからこそ狙われたのだろうと考えていますが。」

「そうでしたか。」

 重真が顎に手を当て、じっと「くろすけ」を眺める。「くろすけ」はその視線を受け止め、重真が顔を上げるまで逸らさなかった。

「成程、確かに、獣らしくない態度を取りますね。分かりました、少しお待ち下さい。」

 そう言って立ち上がる重真を見送りながら、麟太郎は「くろすけ」の首元の毛を軽く掻いてやる。重真はこの鴉の何が特別か、見ただけで見抜いたらしい。少し待つうちに戻って来た重真が畳に置いたのは、組合の名簿だった。

「此方には、鷹司の所在地と管理する鷹の種類・数が纏まっています。」

「写しても?」

「構いません。捜査に役立てて下さい。私としても、邪な目的で鷹を飛ばす者が居るならば、心穏やかではありませんから。」

「有難うございます。」

 許可を得ると、麟太郎は手帳と鉛筆を取り出し、帝都付近で活動している鷹匠達の情報を写す。鉛筆の先を動かしながら、麟太郎は言った。

「重真さん。此処には載っていない鷹司がどれほど居るか、貴方に分かりますか。」

「いえ……ただ、そう多くは無いでしょう。鷹は捕るにも調教するにも技術が必要です。我流で行う者が居ないとは思いませんが、単純に猟をするなら、銃を選ぶ傾向にあります。銃に餌は要りませんし、現にそうして手放された鷹を引き取っていますしね。猟期の間のみ鷹を手懐けるならば、組合に入らずとも行えますが……方法を知らずに簡単に出来る物でも無いと考えると、組合員と面識はある者が大半でしょう。」

「成程。」

 重真の言葉の間に、「帝都とその近辺」の頁を書き写し、麟太郎は筆を仕舞う。

「また、必要になったら話を伺っても宜しいですか。」

「構いません。」

 重真は頷いた。しかし、麟太郎がその場を離れず彼の顔をじっと見ていた為、重真は怪訝そうに言う。

「まだ何か?」

 麟太郎は数度瞬きをした。その心情が重真に推し量れる訳がないのだが、麟太郎はそれを気にする風もなく頷く。

「今の話とは別のお願いなのですが。鳥の調教を、私に教えて貰えませんか。『くろすけ』が襲われて、私が軍の鴉を教えるように言われたのですが。私は『くろすけ』を調教した覚えが無いのです。」

 重真が僅かに目を見開いた。そして再び「くろすけ」に目を遣る。鴉は自分が見られている事に気付いたのか、首をくるりと回して重真を見た。

「刀祢さんは、この鴉に指示を出す時、笛や合図を使いますか。」

「? いいえ。言葉で伝えるだけですが。」

 首を傾げる麟太郎に、重真は苦笑する。

「軍の鴉を教えた時、皆さんが怪訝そうだった理由が分かりました。人間の話す言葉をそのまま理解させるのは、獣の調教とは異なりますよ。犬にだって、『手を前に出せ』ではなく『お手』と決められた言葉を合図にするでしょう。」

「そうですね。」

「刀祢さんが他の鴉をこの子と同じように扱っても、成果は出ないでしょう。人間にも突出した才を持つ方がいるように、きっと、この子も才ある鴉なのだと思います。」

 麟太郎はそれを聴くと、僅かに目を伏せた。

「となると、やはり私は鳥の調教を学ぶ必要がありますね。」

「その事情があるならば、私が再度軍に出向いて鴉を見ましょうか。刀祢さんは調教に関しては素人であると説明も致しましょう。」

「それは願ってもないお話ですが……、」

と、麟太郎がいい言い淀んだ隙に、「くろすけ」が一声鳴いた。それまで全く声を上げなかった為に予想外であったのか、重真が驚いた表情を浮かべる。麟太郎は首を傾げた。

「どうしたのです、『くろすけ』?」

 もう一度「くろすけ」は鳴いたが、麟太郎が首元の羽毛を掻いてやると落ち着いたようだ。指先を動かしながら、麟太郎は目線を成真に向ける。

「……鴉の訓練は、拝命した以上、全うするべきだと思っていましたが。私は、『くろすけ』が今、何を思って鳴いたのかすら、分かりません。素直に貴方にお任せするべきやも知れませんね。」

「そう、ですか。」

 麟太郎の言葉を聞いた重真は、ふむ、と頷く。

「では、軍には刀祢さんと共に話した方が良いかと思いますので、後日改めるとして……宜しければ、お戻りの前に私の鷹を見て行かれますか。鷹と鴉は違いますが、その子を理解する一助となるかも知れません。」

「……助かります。」

 頭を下げる麟太郎に、重真は手を振って微笑むと立ち上がる。

「丁度、雛の給餌もありますから。気になさらないで下さい。」

 重真と共に玄関へ向かうと、出口ではなく敷地の奥へと向かう。広い敷地の中には庭園もあり、池にかかる石橋を渡った傍にある東屋に近付くと、屋根の下に据えられた腰掛けに誰かが座って池を眺めている。その手には短冊と筆があり、どうやら句か歌を書いているらしい。何処かで見覚えのある後姿だと麟太郎が思った時、重真が立ち止まって声を掛けた。

「『ヨシ』、此処に居たのか。客人に鷹を見せるが、お前来るかい。」

「兄上、何度も言いましたが、私は鷹の世話には余り興味が……、」

 上半身だけ振り返った青年は、そう言いかけて硬直する。手にした筆がかたりと地面に落ち、墨の跡を残しながらころころと転がった。その顔が白くなり、青くなり、やがて燃えるように赤くなるのを見て、麟太郎は首を傾げた。

「鷹峰君。今日は非番でしたか。」

「…………えっ、は、あの、……、」

「ヨシ?どうした?」

 青年は目を白黒させていたが、怪訝そうな兄の言葉を聞くと、ゆっくりと椅子から降りて膝をつき、そして頭を地面に下げた。

「あの時は、大変な非礼を致しまして、本当に、申し訳御座いませんでした。」

 

 高い笛の音に応え、力強い羽ばたきが空を裂く。軽やかに鷹を操る成真の様子を眺める麟太郎の隣には、気まずそうな表情で鷹峰世四郎が立っている。彼が病室に殴り込んで来たのも、二年前。今日は丁度交代勤務明けで非番だったらしいが、まさか鷹峰家の中で出会うとは思っていなかった。

「刀祢中尉。」

「何でしょう。」

「直接謝罪する機会を取れず、今まで先延ばしにしていた事、お許し下さい。」

「忘れていたなら、それで構わないのですが。私は気にしていませんでしたし。」

 ぽつぽつと言った世四郎に、淡々と返す麟太郎。全く心情の読み取れない口調と表情に、世四郎は小さく息を吐いた。

「感情を出さないのは、変わっておられませんね。恭兵は分かると言っていましたが。」

「そうですね。私にとっては、彼がああまで私の内心を理解できる事の方が不思議です。」

 二人の目線が空に弧を描く。ぐるりと大きく回った鷹が、重真の腕に舞い降りると、指先から餌を啄む。世四郎が言った。

「その、有難う御座います。恭兵……石動の、帰る場所になって下さって。」

「どういう意味ですか。」

 見上げる麟太郎に、世四郎は指先で頬を掻くと、瞼を伏せる。

「私は元々、警兵になる事を反対されていました。一士官候補生として試験を受けねばなりませんからね。けれども、私は曽祖父に最も可愛がられて育ちましたから、市井の者が武に訴えた時、政治に成す術は無いと、よく聞かされていました。有坂直孝殿の事も、話していましたよ。いざという時に身を守るのは、他者の武ではなく自己の武なのだと。」

 有坂直孝は孝晴の祖父である。新政府成立までは旧幕府で側用を務めていたが、剣の達人としても名高く、乗っていた駕籠を討幕派に襲撃された彼は、逆にほぼ全員を返り討ちにしたという。世四郎の祖父は幕臣であった為、交流もあったのだろう。

「身分で官位を得るよりも、恥じない実力をつけたい。祖父以外には理解されませんでしたが、その意思を示す為に名を変えて髪を切ったんです。」

「名を変えた?」

「元は『世四与(よしよ)』と言う名でした。それを、兵卒らしい名に変えまして。」

 麟太郎は一度瞬きをした。

「古風で良い名ですね。」

「そうですね。しかし、それでやっと家族を説得出来ましたし、今の名も気に入っています。」

 ひゅーい、ひゅーいと笛が鳴く。麟太郎の胸の中で、「くろすけ」が身動いだ。やはり鴉は、鷹が苦手なのだろう。頭を布に突っ込んで、出て来る気配が無い。

 世四郎が再び頬を掻いた。

「けれど、私には長く積み重ねた経験という物が無かった。付け焼き刃の技術が通用したのは、試験までで。入隊してからは……月並みに言えば、辛い日々でした。名を変えてまで入ったのだから、挫けてなるものかと思っていたものの、実力の差を痛感する事ばかりで、世間知らずの坊々故だと馬鹿にされていました。その頃、石動が声を掛けてくれて。『お前は無駄な努力ばかりしている、自分に合った努力をしろ、見ていられん』なんて言って。あいつ、眇(すがめ)の癖に周りを凄く見ているんですよ。警戒の裏返しなんですけどね。何もかも他人より遅れているからとがむしゃらに何でもやっていた私に、全てが中途半端になっていると指摘してくれました。まあ、たまにどつき合う事もありましたけれど、石動が初めて『そう出来る』関係になってくれたお陰で、私は本当の意味で軍人らしくなれたと思っています。」

 語りながら微笑む世四郎の表情や語調が余りにも貴族の青年然としており、麟太郎は驚いた。同時に、勘解由小路大臣の言葉を思い出す。確か「数年前まで『勘解由小路のおじさま』と呼ばれていた」と、彼は語っていた。礼儀正しい貴族の青年と、友人の為に激昂出来る軍人。何方の顔も鷹峰世四郎なのだろう。不思議なものだと麟太郎は思った。そのような表裏は、麟太郎には無い。

「……ただ、石動は常に神経を張っていました。休暇にも帰宅せず、ずっと自身を追い込む事を止めなかった。我々三人の中で一番早く尉官に昇進したのは石動ですが、今思えば、あいつは自分でも分からない部分で、焦っていたのでしょうね。だから中尉の隊に配属された時、焦りと嫉妬で、悪い噂を鵜呑みにしてしまった。常識的に考えたら、士官学校も出ずに入隊した平民出の兵卒が尉官に任ぜられるなんて、裏があって然るべきですから。」

「恐らく私の任官と昇進にはその『裏』が関与していましたよ。望んだ事ではありませんでしたが。」

淡々と返した麟太郎に、世四郎は苦笑する。

「石動が私に言いましたよ、経緯はどうあれ、中尉はその地位を賜るに値する実力があるのだと。」

 そして彼は、優雅に弧を描いて飛ぶ鷹に目を向ける。

「石動は中尉と出会ってから、随分と変わりましたよ。自分の為に自分を追い詰めていたあいつが、中尉の為に自分を高めようとするようになりました。中尉の隣が、今のあいつの帰る場所なんです。だから、私としても中尉には感謝すべきであると。……これ以上を私が語ったら、石動に殴られそうですね。」

「……。」

 世四郎は苦笑して見せる。麟太郎は数度瞬いた。丁度、最後の鷹を小屋に戻した重真が此方に近付いて来るのを認めた世四郎は、麟太郎に向き直る。

「お邪魔して申し訳ありませんでした。」

「此方こそ、休日に時間を取らせてすみません。」

「上官が下官に簡単に謝らない方が良いとされますが、中尉はそのままで良いと私は思います。」

「どういう……、……。」

 麟太郎は言いかけたものの、言葉を飲み込む。敬礼し顔を上げる間に、世四郎の纏う雰囲気が、一瞬で「軍人」のそれに変化したためだ。答礼を返した麟太郎の前で踵を返し、世四郎は去って行く。

(帰る場所、か。)

 麟太郎は「くろすけ」を布の上から撫でる。世四郎が言ったのは、きっと「副隊長として充実している」という程度の意味なのだろう。そう、今迄の麟太郎であれば捉えていた。しかし、今の麟太郎は知っている。自身の居場所を見出す事が、どれ程困難かを。

(あまね殿は、ハル様の帰る場所に、なれているのだろうか。)

 戻って来た重真に応えながらも、麟太郎は胸中に雲がかかるような感覚を止める事が出来無かった。

 

 

 市が開く早朝から見回っていた為、昼前には必要な注文を終えてしまった。荷物は自分で屋敷まで運ぶと言い張ったあまねを説得して配送を頼んだ女中は、残りの時間で市場の見物にあまねを連れ出していた。あまねとて家から離れて嫁ぐ身、そして自ら町で買い物などした事の無い身分なのだ。急に慣れない事ばかりしては疲れてしまうだろう。

「あまね様、ほら、飴の屋台でございますよ。」

 女中が指差す先にはちょっとした人集りが出来ている。不思議そうにしながら子供の後ろから屋台の屋根の下を覗いたあまねは目を開いた。職人の手元には、色とりどりの塊。そこから千切られた物体が、あれよあれよと形を変えてゆく。陶器のように艶のある兎、透明な鱗を持つ鯛、そして、柔らかな飴色の毛を持つ犬。

「……。」

「お気に召しましたか?」

 目を丸くして見入っているあまねに女中が微笑みかけると、あまねははっと振り返って頬を染めた。

「……可愛い、です。けれど、孝晴さんの無駄遣いを諌めるのですから、わたくしが無駄に甘味など買う訳にはまいりません。」

 其れ迄と打って変わり、ぽそぽそと呟くあまね。その頬に赤みが差しているのに気付いた女中は、声を僅かに弾ませた。

「欲しいのでございますね?」

「違、……と、言ったら、嘘になりますが……!その……。」

 女中に見詰められ、あまねはぽつりと言った。

「犬、が、可愛いなと……わたくし、犬が好き、なのです。」

「まあ。」

「い、家にも犬は居ましたが、わたくしは、もっと小さくて可愛い……番犬や闘犬には使えないような……そんな犬が、昔から欲しくて……わ、忘れて!忘れて下さい!やはりそんな弱者の世迷言は東郷の女に相応しくありません!!」

 話し終わる頃には、あまねは耳まで顔を真っ赤にしていた。急に叫び出したあまねに、飴屋の前に集まっていた数人が怪訝そうに振り返り、あまねは更に声を小さくして「すみません」と呟いた。しかし、初めは微笑ましく聞いていた女中は、少し残念そうに思案する。

「お犬は……有坂の家にはおりませんものね。孝晴様は動物がお嫌いと聞いておりますし……。」

「そ、そうですか。別にわたくしは、今それを望むつもりはありません。それこそ、番犬も出来ない犬など無駄飯食らいですから、不要ですし。」

 まだ頬を紅くしながらもあまねはきっぱりと言ったが、それが本心ではないのは明白だった。女中よりも年少の少女が家と婚姻の為に抑えている内心の欲は、これだけでは無いのだろう。少しは叶えてやりたい、そう女中は思った。

「あまね様、そう言えば最近は帝都の畜犬業者が増えているのでございますよ。見た事も無いような洋外の品種も取り扱っていて。」

「貴女が買えないと言ったばかりでは?」

 怪訝そうに眉を寄せたあまねに、女中は微笑む。

「ええ、そうした業者の中には、散歩の手が足りていないという事で、安く貸犬を出している所もあるんです。飴のお金で、数時間は犬と散歩出来るんですよ。如何です?」

「で、でも……帰宅が遅くなっては、家の仕事に支障が出ます。」

「私が交代して貰いますから、ご心配なさらないで下さい。このままお邸まで戻るのを片道に、私は別の者と交代して仕事に入り、あまね様はまた散歩に戻って犬を返す。それくらいは皆、引き受けてくれますよ。あまね様は評判通り、真面目で一生懸命であらせられますもの。少し息抜きをしながら務めるくらいが、丁度良いのではございませんか。」

 にっこりと笑う女中の顔からあまねは目を逸らしたが、やがて頬を染めながら「では今回だけ……」と小さく呟いた。

 

 

 正午の鐘が窓から響く。孝晴は眠い瞼を擦って伸びをすると、息を吐いた。この数日、昼食までの時間が長くて敵わない。昨日はあまねが弁当を作ったが、余りにも少な過ぎた。「今日は昼休憩中に家に帰って食べる、弁当作りは休め」と言って誤魔化したのは、外食にかける金が多過ぎると咎められた為だ。

(そりゃあ、一食に使う金だけ見りゃ、贅沢してっと思われても仕方ねぇが……。)

 まさか昼だけで店を三、四軒を梯子しているとは思うまい。そんな事を考えつつ、欠伸を噛み殺しながら帝國公文書館の第三棟を後にする。以前はあれだけ歩き回っていたというのに、今は少しばかり歩いて帰るのも億劫だ。有坂家の昼餐ならば、小箱に詰められた飯よりは多く食べられる。あまねが来てまだ一週間も経って居ないというのに飯の事ばかり考えてしまうのは、それだけ自分が異常な体をしているという事なのだが、それすらどうでも良くなりそうな程空腹だった。やっと向こうに有坂家の門が見えて来たと溜息を吐いた時、同時に孝晴の足は止まった。玄関前に、あまねが居る。向こうはまだ此方に気付いていないが、孝晴には見えていた。あまねは足元に居た小さな白い玉を拾い上げ、顔の前に持って来る。そして、とても幸せそうに、その毛の中に顔を埋めた。白い手のひらが小さな頭の上をゆっくりと往復し、抱かれた毛玉から生えた尾がゆらゆらと揺れている。仔犬だ。毛が長く真っ白で、まるで梵天のような体。その辺りの野良には見た事が無い。舶来の犬だろうか。孝晴はその光景から目が離せなかった。空腹も吹き飛んでいた。自分は、人間以外の生き物と、あんなに近く触れ合った事が無い。あまねが、あんなに柔らかな表情を浮かべる事も知らなかった。そして、自分と一緒に居る限り、彼女は今のように幸福な気持ちに浸る事は、二度と出来ない……。

 孝晴は一歩踏み出す。あまねは気付かない。当然だ。孝晴は「自分の時間」で動いている。彼が歩いて居ると気付ける者は、誰も居ない。

 

「あまね。」

 

 背後から声を掛ければ、彼女は文字通り飛び上がった。振り返ったあまねが絶句したのは当然だろう。

「買ったのか。」

 孝晴は声を態と低く出す。あまねの腕が、目を閉じて丸くなっている仔犬を強く抱き締めた。まるで、恐怖を押し殺すように。いや、きっとその通りだ。自分は今、彼女を脅しにかかっているのだから。

「俺ぁ、畜生は嫌ぇだ。さっさと捨てて来い。」

 あまねの青褪めた顔に、僅かに赤味が戻る。そして小さく「そんな酷い言い方、」と呟いたが、孝晴はその先を言わせ無かった。

「なら、お前の家に戻って好きにしろ。畜生の居る家なんざ、俺は帰らねぇからな。」

 語気を強めて言い捨て、踵を返す。あまねは、孝晴が怒りを露わにするとは思っていない筈だ。世間での自分は、仕事を怠けてのらくらとほっつき歩いてばかりの「木偶の三男」なのだから。背後から、きゃん、きゃんと甲高い吠え声が聞こえる。孝晴は眉を寄せ、その声に追い立てられるように早足でその場を離れた。

 

 

 畜犬商で借りる事が出来たのは、洋外から輸入した犬が産んだという仔犬だった。まだ乳離れしたばかりで、矢鱈と短い足でよちよちと歩く様は言葉に出来ない程愛くるしい。そんな仔犬だからなのか、有坂家に着くまでに眠り始めてしまった。あまねは、寝息を立てる小さなふわふわを抱き、女中が交代して出て来るのを待っていた。犬に合わせてゆっくりと歩いた為、昼を過ぎた事に気付いて居なかった。孝晴の動物嫌いが、あれ程のものとも想像して居なかった。孝晴が去ろうとした瞬間に震えて飛び起きた仔犬が、ここまで激しく吠えるとも思っていなかった。

「大丈夫です、ごめんなさい、わたくしが力を込めてしまったから……、」

 あまねは混乱していた。孝晴に声を掛けられた時、あまねには――剣で鍛えた自負があるにも関わらず――全く気配が感じ取れなかった。それに、あの目は。昏く、何者も寄せ付けないような、恐ろしささえ感じられるような、あの目は一体……。

「あまね様!?」

 犬が漸く落ち着いて来た頃、女中が小走りで寄って来た。彼女が経緯(いきさつ)を聞いて、交代してくれたのだろう。孝晴に怒られてしまった、と言おうとしたが、声が出ない。

「何があったのです!?あまね様……これで顔をお拭きになって下さいませ……!」

女中に手巾を差し出され、あまねは自分の目から涙が溢れていた事に気付いた。気付いた瞬間、視界が滲んだ。

(まだ、一週間も経って居ないのに。わたくしは、妻としての勤めを、果たさねば……ならない、のに。)

 あまねは手巾を受け取る事もなく、その場にしゃがみ込むと、やがて押し殺すように嗚咽を漏らし始める。

(嫌われても、構わないのに……どうして、こんなに、怖いの……。)

 自分の心が理解出来ないまま、あまねは泣いた。溢れて止まらない涙を、あまねの腕から顔を出した犬がぺろりと舐めた。

 

 

 白い指先が少し流行遅れのスーツの胸ポケットに伸び、くすんだ金色の懐中時計を引っ張り出す。ぱちんと軽い音を立てて蓋を開けた四辻鞠哉は、文字盤から目線を外し、隣に向かって話し掛けた。

『貴方のお陰で、土地の確認が予定より早く済みました。感謝します、ユーリ。』

 その目線の先に居たのは、これまた白い肌に、金色の髪。青い瞳は髪と同じ色の毛に縁取られ、まるで少女のような顔立ちをした少年だった。言うまでもなく、あの「ユリア」である。ただ、今の彼は吊りベルト付きのズボンをシャツの上に履き、足元は作業靴、髪は後ろで束ねてキャップを被っている。旭暉語でも鐵語でも瑛語でも無い言葉を使った鞠哉に対し、彼はにこりと笑って同じ言葉で応えた。

『いえいえ。ウィリアムさんも太田家の出資に感激して、國元まで新しい機械の買い付けに出て行ったくらいですし。旭暉の職人と共に工場を起こせる事を楽しみにしていますから、僕も異人街自治組合の通訳兼書記として、出来る事は協力したいんです。』

少年はそこで一度言葉を切り、後ろを振り返る。旧國境付近の田園地帯。奥に目線を向ければこんもりと茂った山が見える。数年前まではこの時期になると狩人達が集まっていたらしいが、今はその気配は感じられない。

『北讃会事件の影響で、この辺りは随分と寂れたんですよね。一般の家まで厳しい調査が入ったらしいですし。でも、そんな場所だからこそ、異人と旭暉人が共に働く場を作り、更に、工場を中心にして人を呼び戻したい……僕は、旭暉人として成し遂げたいと思ったんですよ。その理想をね。』

『成しますよ。少なくとも、太田の事業を簡単に失敗させる訳にいきませんし、させません。』

『旭暉人には冰國語が分からないからって、本性出し過ぎてません?』

『貴方が相手だからですよ、ユーリ。』

 鞠哉の言葉に、少年が笑う。鞠哉も小さく笑みを浮かべたが、ふと何かに気付き、少年の手を取ると早足で歩き始める。不思議そうにしながらも従った少年は、空き家になった民家の陰に入って無人の田圃を見遣る鞠哉の表情から、笑みが消えて居る事に気付く。その目線の先を追うと、鶯の文官服を着た人影を認めた。一瞬少年は目を細めたが、直ぐに鞠哉に訊ねる。

『お知り合いですか?』

『……【知人】ではあります。』

 その人影は、頭の後ろで結った長い髪を風に散らしながら、ゆっくりと山の方へ向かって歩いて行く。どうも足取りが覚束無いようにも見えた。鞠哉は僅かに眉を寄せ、少年を振り返る。

『ユーリ、お願い出来ますか。先に旦那様の元に戻って、私はもう少し確認してから帰ると伝えて下さい。』

『……分かりました。もう日も落ちますから、余り遅くならないで下さいね。』

『有難う。』

 少年は鞠哉から書類鞄を預かり歩き出すと、少し歩いて、足を止めずに背後の様子を伺った。鞠哉は自分が帰るのを確認してから動くようだ。仕方ない、と少年は切り替えて、歩きながら考える。見間違いでは無いだろう。確かに、あれは。

(仮にも有坂の人間が、こんな郊外で何をしているんだ?というか四辻さんも、あんななりふり構わず接触しようとするなんて、分かりやす過ぎるでしょ。最近の留子ちゃんはどうも塞いでるし、朱華さんも相変わらず気にしてると思ったら、今度は四辻さんか。……一体何を持っているんだろうね、有坂孝晴って人は。)

少年は小さく息を吐くと、もう振り返る事はせず、最寄りの駅に向かって歩いて行った。

 

 

げひ、げひ。

げひひ、ひっ、ひひ……

 

 奇妙に擦れた笑い声が、誰も居ない山中に響く。いや、その三人の陰以外に誰も居ないと言うのが正しいか。人気の無い山の中に、鳶服の青年と、背広の青年、そしてもう一人、手袋の上に手甲を着け、股引きに脚絆を巻いた、一見旅人のような格好をした人間が後ろから二人の後に着いてくる。その顔は殆ど全てが頭巾に覆われているが、笑い声はその中から聞こえていた。

「煩っせぇな、少しは黙っていられねぇのかぁ?あの気色悪い野郎はよぉ。」

 苛立ちを隠しもせずに呟いたのは武橋金次。その左手には小銃が一丁握られている。隣を歩く背広の男は柔らかな笑みを崩さぬまま言った。

「まあまあ、武橋君。『蜥蜴』もこれで役に立つのだから、大目に見てやり給えよ。それに、久々の射撃なのだから、楽しまなければ損ではないかな。」

 金次は男の言葉に舌打ちで返事を返すと、少し立ち止まり小銃を抱え、近寄って来た覆面男の頭に向けて無造作に銃床を振り下ろした。

「がひっ、」

 鈍い音がして、覆面がつんのめる。金次は口端に笑みを浮かべた。

「俺がテメェに苛ついたら、次からこうする。」

 頭を押さえて奇妙な声を上げる男を後に、楽し気に笑みを浮かべながら歩き出す金次。それを眺めていた背広の男は、表情を変えずに「ふぅん」と笑った。

 以前は賑わっていたという山道も、数年経てば草木に覆われてしまう。生意気だ、と金次は思った。少し隙間を作ってやれば、何処からでも生えて来る、無知蒙昧な存在。そんなモノに人間の痕跡を上書きされるというのは、どうにも気に食わない。それでもこんな使われていない山を登っているのは、先日鴉を射た後に、「そろそろ銃を撃っている所を見たい」と言われた為だ。指先が擦り切れるまで弓を練習したのは銃に戻る為なのだから、金次としても異論は無かったが、練習を何故この山で行うか迄は教えられて居なかった。中腹辺りにある山小屋に辿り着くと、背広が「ああ疲れた」などと笑って座り込むのを横目に、金次はさっさと銃に弾を込め始めた。弓で使い慣れて来た左手で銃把を握る。右手に残った引鉄を引く感覚が、まるで一度も使った事の無い左手にも移ったような感触を覚え、無意識に口端が上がる。銃身を持ち上げ照門を覗くと、遅れて入って来た覆面がその先に現れ、金次は舌打ちして銃を下ろした。しかし覆面は背広の方へ這い寄ると、笑い声の隙間に言葉を発した。

「きひ、ひ、ひと、ヒト、ヒト……けひ、ひ、ひひ……。」

「おや、誰か居るようだね。」

 その言葉に金次は一瞬目を細めたが、背広はそれが当たり前かのように、古い罠猟の道具が掛けられた壁に近付くと、跳上げ窓を細く開ける。そして振り返ると、笑みを深めて言った。

「予想していたより、随分早かったが。武橋君、獲物だよ。」

 金次が無言で窓に近付くと、背広は黙って場所を譲った。葉の落ちた木々の隙間から、山の入口付近に僅かに開けた土地が見える。金次も新聞の記事くらいは覚えている。政府に叛旗を翻そうとした無能共が根城にしていた襤褸屋の跡だ。既に建物は取り壊され、空地でしかない其処に、

「……!」

「驚かなくて良いんだよ、武橋君。私はこの為に此処に君を連れて来たのだからね。」

 硬直した金次の背を、背広が二度ほど軽く叩く。しかし、金次は内心に浮かんだある感情を押し込めるように、声を絞り出した。

「何でこんな所に有坂の野郎が来ると知ってた?」

「知っていた訳では無いんだが、予想していたのは確かだね。亀の甲より年の功と言うだろう?」

 答えになっていない答えを返され、金次は眉を寄せる。しかし、背広――自分達が「アカツキ」と呼んでいるこの男が、特別な人間なのは間違い無いのだ。

「さ、武橋君。撃ち給え。」

「は?」

「この機会を逃したら、次は相当長く待たねばならなくなる。私はずっとアレが欲しかったのだが、督孝も直孝も……その前も機会が無くてね。今回は、またと無い機会なのだよ。」

流石に絶句した金次に、「アカツキ」は穏やかな笑みを向けた。

「それに、『飛鼠』の望みも叶えてやりたいからね。君だって、彼には借りがあるだろう?」

 そう言って「アカツキ」は窓の先へ目を遣る。その通り、自分が左手で銃を持たねばならなくなった切掛を作った衣笠は、有坂孝晴の働き掛けにより太田本家から謹慎の短縮を求められ、のうのうと軍に舞い戻った。左手に僅かに力が籠る。

「ああ、分かっているだろうが、頭と肺は狙ってはいけないよ。腹を狙うんだ。不安がる事は無い、君は沢山努力して来たし、銃を撃つのが好きなのだから。好きこそものの上手なれ、だよ。さあ、久々の射撃なのだから、楽しみ給えよ。」

 優しく、まるで子供に言い聞かせるようなアカツキの言葉。他の人間であれば馬鹿にしていると感じるが、不思議と怒りは湧かなかった。逆に、精神が鎮まり、純粋に愉しみを前にした高揚で充されてゆく。鴉などでは物足りない。久し振りに、人を撃つのだ。もう、周りの音は聞こえない。金次は唾を飲み込むと、僅かに開いた窓の隙間で銃身を支え、両の目で獲物を見据える。丁度、背が見える状態。此方に気付く筈がない。静かに、霜の音のように静かに、金次の左の指先が引鉄を引いた。

 

 

(どうして、此処に来ちまったんだろうな。師匠はもう、居ねぇってのに。)

 孝晴は、頭痛に耐えながら其処に立っていた。何を考えて居たのか分からない程頭を回してしまい、耐えられなくなって、こんな場所までやって来てしまった。これであまねは自分から離れるだろうが、意図的に女を傷付けるのは初めてだった。厭な気分だと思い、そう感じた自分を孝晴は嘲笑う。

(此処で何人殺したンだよ、俺ぁ。其れに比べりゃ、些細なもんだろぃ。)

 日も傾き、気温も落ちて来た。あの日のように夜が来る。空腹を通り越して何も感じなくなっていた為、いっそこのまま一晩過ごしてしまおうかと思った、その時。

火薬の爆ぜる音が思考に割り込んだ。

 聞いた瞬間、銃の発砲音であると分かる。しかし、頭痛が反応を妨げた。音の方向を振り向いた時には、孝晴の視界の中に弾丸が飛び込んで来ていた。

 瞬時に、頭が回転する。弾道は?射手の位置は?音が鳴ってからほぼ同時、入射角を辿る、あの山小屋から撃たれた、確実に『自分が狙われた』、何故、いや、時間がない、弾丸は「こちら」の世界の存在だ、常人には目視出来ない、こちらの――

 孝晴は「迷った」。避ける事は出来るが、この距離ならば射手から自分が見えている。弾は「当たる軌道」を通っている、それくらい射手も分かっているだろう。避けて、殺しに行くか?いや、何が目的かも分からない相手は殺せない。

 その後の思考は本能に引っ張られた。孝晴は体の向きを変え、腰を落とす。そして額で弾を受けた。弾に合わせて角度を計算しながら。ぶち、ぶちっと頭の中で血管が切れる。痛ぇ。目の前が赤と白に激しく明滅し、そのまま孝晴は慣性に身を任せる。自分の体が地面にぶつかる衝撃は、「頭の中の痛み」に較べたら、全く大したものではなかった。

 

 

「…………は……?」

 一瞬前までの高揚感が、嘘のように頭が冷え切っている。鶯の文官服を着た男は、弾かれるようにひっくり返り、頭から血を噴き出しながら仰向けに倒れた。隣でアカツキが残念そうに言う。

「おや……頭に当たったようだね。」

「ちが、」

「ん?」

 思わず声を上げた金次に、不思議そうにアカツキが顔を向ける。金次は混乱していた。

(俺が、失敗した?左手で撃ったから……いや違う、俺は胴を狙った、万一、万が一照準がずれたとしても、何で……どうして『仰向けに倒れる』!?撃ったのは背中からだぞ!衝撃で回るような瞬間は見えなかった、奴は……倒れる時にはもう、此方(こっち)を向いてた!)

「あいつ……、」

 言い掛けて金次は我に返る。アカツキの頭を押し下げ、窓を急いで閉めた。

「……どうしたんだい?」

「人が見えた。」

「おやおや、今日は随分賑やかだね。」

 アカツキは笑みを崩さないが、金次は踵を返し、背後で笑っていた覆面を蹴飛ばすと、小屋の外で壁に身を隠しながら空地を伺う。有坂孝晴の死体の側に走って来たのは、……あの髪の色は。

「狐野郎……!」

 小さく呟くと、即座に金次は小屋に戻る。アカツキは小屋の中で覆面の頭を撫でてやっていた。そのまま黙って自分を見ているアカツキだが、笑みの形に細められたその目線が何処を向いているのか、金次には分からない。

「失敗、した。あと、狐に見つかった。どうする。」

「そうだね。まあ、他人が見付けてしまったならば仕方ない。諦めるとするよ。次の世代を待とう。今は、有坂ばかりに手を割いていられないのだしね。」

「……。」

 あっけらかんと笑うアカツキを見ながらも、金次の内心に生まれた違和感は、何時迄も消える事は無かった。

 

 

 飛び散る赤。

 倒れる体。

 髻(もとどり)を結えた紐が切れ、散らばってゆく長い髪。

 目の前で起きた事が信じられず、四辻鞠哉はただ呆然と立ち尽くした。何かが弾ける音、そして地面に倒れる重い音が、視界に残った映像とずれて、何度も脳内に谺(こだま)する。そうして暫く、体感では途方も無い時間立ち尽くした後、急に意識が正常に戻り、鞠哉は木陰から飛び出した。

「有坂、……ッ、」

 呼びながら傍へ駆け寄ったが、直ぐに絶句してしまう。額の穴から吹き出した血が顔中を赤く染め、地面にも後頭部から溢れた血が飛び散っている。先の音は銃声だったのだろう。余りに呆気なく目の前で人が死んだ事に、さしもの鞠哉も動揺を抑えられなかった。側に膝をつき、胸を押さえる。鼓動が速い。

(何で、こんな……何が起きたんだ。俺はどうすべきだ……?いや、やはり通報を、)

「……オイ、」

「ひっ!?」

 裏返った甲高い声が鞠哉の喉から走り、恐怖に満ちた目が目の前の死体に向けられる。

「げほっ、あぁ、お前さんか……。」

 孝晴の目が、開いていた。

 元々白い顔を更に真っ白にしている鞠哉に、孝晴は言う。

「四辻、俺を背負って、衣笠んとこまで連れてってくれ。」

「……ッ!?待って……下さい、どうして、頭、生きて、」

「俺の『病』について知りたけりゃ、手ぇ貸せ。」

 そう言うと孝晴は再び目を閉じる。鞠哉は驚きの余り止まりそうになった呼吸を、数度胸を強く叩いて再開させた。

「……分かりました、軍病院ではなく、お邸でよろしいですか。」

孝晴は血塗れの顔で僅かに微笑む。それを肯定と捉え、鞠哉は一度目を閉じる。少なくとも、この怪我人には事情があり、更に衣笠家――恐らく、衣笠理一個人――も、それに噛んでいる。その内情を得られるならば、恩を売るのも悪くは無い。そう自分に言い聞かせて動揺を収めると、鞠哉は孝晴の体を起こし、腕を掴んで背中に乗せ、――そのまま無様に地面に倒れ伏した。

「ぐっ!?」

「はは、重いだろうが頑張れよ、精々上手く誤魔化してくれや……。」

 笑い混じりの孝晴の声が力無く萎んでゆき、更なる重みが鞠哉の背にのしかかる。重い。力の抜けた成人男子というだけの重さではない。予想していた目方の、数倍は、重い。

(何だこれ……一体、何なんだ、こいつは……!?)

 くたりとした頭から、肩の辺りに血が染み込むのを感じる。鞠哉は震える腕で体を支え、片足を前に出し、その足を産まれたての仔馬のように震わせながらも、なんとか体の平衡を崩さないようにしながら立ち上がる。それだけでも息が上がりそうだったが、ふと、思い出す。

(このまま、街中まで、歩いて戻るのか……!?)

 動揺の余り忘れていたが、此処は郊外。衣笠邸を目指すなら、四里はある。その間、車や電車に乗せれば大事になるのは明白だった。背負って連れて行けとは、そういう事だろう。そうして立っているだけでも、体力が急激に奪われてゆく……。

『……クソッタレ!』

 母國の言葉で悪態を吐くと、薄暗くなった森の出口に向かい、よろよろと鞠哉は歩き始めた。

 

 円卓の上に開かれた冊子の表面を鉛筆が走る。少し走って、音が止まった。再び走り出して、また止まる。それを無言で繰り返しているのは、一人の少女だった。髪を頭の左右で団子にしており、肌は浅黒く、大きな瞳に気の強さを滲ませている。その隣には、梟の面を被った黒軍服――「小紫」である銭形透子が、黙ってその手元を眺めていた。少女は万華菊紋隊の一員であるが、軍服を纏っておらず、動きやすいように袖が襷で留められている以外は、至って平凡な着物を着ていた。正面の丹塗りの扉が開く度に彼女は顔を上げたが、それが目的の人物では無いと分かると無言で冊子に向き直る。しかし、入って来た狼面「深緋」は、ゆっくりと彼女に近寄って来た。

「どうした、白橡(しろつるばみ)。誰を待っている。」

 少女――白橡はちらと其方を向くと、手を止めて息を吐いた。

「あんたには関係ない。」

「……。私的な事情は、万華には持ち込めない。お前も理解しているだろう。」

「わーってる!でも……!」

 白橡は叫んだが、直ぐに口を噤む。深緋は透子に顔を向けたが、透子も首を振る。そして彼女は立ち上がると、深緋に紙を手渡した。

『緑青ちゃんにも、藤黄君にも、この調子だった。今日、まだ一度も来ていないのは、浅葱君と、朱華君。』

 黙ってその文を読んだ深緋は、白橡に再度目を向ける。白橡は得物の手入れを専門とする「玄」と同じ技術職で、面作りを専門とする色。彼女は十三で代替わりしてもう二年になるが、生まれた時から技術を叩き込まれて来ており、働きは申し分無い。だが、他の候補者と競い合う生活を強いられて来た為、まだ一般人との関わりが少なく、未成熟な情緒は攻撃的になりやすい。そんな彼女が最も信頼しているのは……。

深緋が背後に目を向けた直後、扉が開く。その隙間に鼬面の男が見えた瞬間、白橡が勢いよく立ち上がった。

「……どうした?」

 部屋に入って来た朱華は、その場にいる三人が漏れなく自分を見ているという状況に首を傾げたが、その瞬間に白橡が叫んだ。

「朱華ッ!面取れ!」

「!?」

「早く!あーしは面を被ったお前と話したくねーんだよ!」

「な、何だ?どうしたんだ、一体。今着けて来たばかりだぞ……。」

 戸惑いつつも留具を外し、顔を露わにする――「朱華」こと、多聞正介。

「ほい、取ったで。どないしたん、あおちゃん?てか深緋と小紫さんは何して……、」

「あいつらは関係ない。」

 きっぱりと言い切り、白橡は正介の前に立つ。その真剣な表情を見て何かあると察した正介はしゃがみ込んで彼女に目線を合わせた。

「何があったんや。」

 静かで穏やかなその声を聞いた瞬間、白橡の表情が歪む。しかし彼女は歯を食い縛ると、震える声で言った。

「……あーしの友達が、殺された。」

「!」

「あいつは……おツネは、あーしが学校に入って、初めて出来た、友達だった……修行しかして来なかったから、文字も、算術も、みんなよりできないあーしを、唯一馬鹿にしなかった……でも、おツネは、顔を潰されて死んだ!何でだよ、朱華!?お前、邏隊員だろ!何でおツネが死んだんだ!!」

 最後の言葉を叫んだ時、少女の目から涙が溢れた。正介は静かにそれを聞いている。深緋と小紫も、黙っていた。やがて、正介は彼女の目を真っ直ぐに見て言った。

「分からへん。けど、それを明らかにするのが、邏隊の仕事や。……ツネちゃんは、生きてる俺らが弔ってあげなあかん。」

 そっと正介の手が白橡の肩に触れる。彼女はそれを振り払わなかった。溢れる涙を両手で擦り上げながら、彼女は喉を詰まらせた。

「うるさい、分かって……っ、しょ、すけ、敵、取ってよ。おツネの無念、晴らしてよ……!」

「敵討ちはでけへん。裁くのは法や。けど、下手人を法の下へ引き摺り出すんが、邏隊の仕事や。」

 正介はきっぱりと言った。白橡はまだ幼いが、万華の一員。子供扱いして誤魔化す訳にいかない。白橡は奥歯を噛み締めると、何かを求めるように正介を見る。正介は頷くと、口調は軽く、表情は安心させるように微笑みながら言った。

「泣きや。子供は泣くんも仕事やで。」

「こどもじゃないっ……馬鹿野郎ッ……!」

そして彼女は正介に飛び付き、肩に顔を埋めて大声で泣き出す。正介は黙ってその背に手を回しつつ、深緋に言った。

「深緋。万華は帝に関わる件のみ動くやんな。」

「……。」

「せやけど、俺達の仕事は、つるちゃんがおらへんと成り立たへんやんな。」

「……。」

 黙っているが、深緋が話を聞いていると正介には分かっていた。

「血縁のおらへんつるちゃんに取って、友達は身内みたいなもんや。これだけ『白橡』に影響があるんは、万華にとって、帝にとって、看過でけへんのやないか。」

 万華は、帝に関連がある事件であれば動く。逆に言えば、それ以外の件では基本的に動けない。しかし、帝の剣であり盾である万華の隊員に強い影響を与えるような事件を、万華の権限で調査できれば。正介は、内心で自分を嫌な奴だと思った。白橡――名は、能見葵子というのだが――を慰めながらも、この件は、「深緋」を「人間」に近づける切欠に出来るかもしれない、そう、思ってしまったのだから。腕を組み暫く黙っていた深緋は、やがて呟いた。

「期待はするな。だが……考えておこう。」

 

「帝國の書庫番」

廿八幕「連鎖」



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帝國の書庫番 廿九幕

望むと望まざるとに関わらず。


灯りの落とされた部屋の中、四辻鞠哉は長椅子に横たわっている。見慣れない部屋に充満する血の臭い。いや、これは鼻腔にこびり付いた記憶の残滓だろうか。激しく疲労を訴える肉体に反して、鞠哉の頭はその目を冴えさせていた。目線を上げれば、その元凶の姿が目に入る。向かい合わせに並んだ長椅子に仰向けに横たわって目を閉じているのは、有坂孝晴。頭は包帯で覆われ、顔は左半分しか見えていない。普段は束ねられている彼の長い髪が、今は解けて長椅子の端から零れ落ちていた。鞠哉は小さく息を吐くと、重い体を引き摺り起こす。その時、静かに扉が開いた。入って来たのは、女のような美貌に似合わぬ錆色の軍服を着た男。この屋敷の主である衣笠理一だ。彼は手にしたポットを洋燈の隣に置く。中身を注ぐ音が静かな部屋に二度響き、そして彼は鞠哉の前まで歩み寄ると、両手に持ったカップのうち片方を鞠哉に差し出した。

「カミツレ茶なら、洋外様の生活にも馴染みがあるだろ。」

「……。有難う御座います。」

手を伸ばすと、予想以上に腕が重い。筋肉痛だろう。カップを落とさないように気を付けながら受け取り、鞠哉は茶を口に含んだ。柔らかな甘い香りは、確かに脳の奥底にある記憶をくすぐる。そんな鞠哉の隣に、衣笠理一が静かに腰を下ろした。カップの中身を一口飲むと、彼は鞠哉に向かい小さく笑みを浮かべる。

「悪かったな、服が無くて。寒く無いか。」

「いえ、滅相もございません。私の身分で、衣笠様の着物をお借りしているのですから。」

そう言いつつも、鞠哉の身に付けた着物は着慣れていない為に肌蹴ているし、裾の部分も短く、脛から先が見えてしまっている。鞠哉の方が、理一よりも頭半分程上背があるので当然ではあるのだが、部屋以外で素足になる事は無い為、どうも落ち着かない。ただ、部屋には火鉢が置かれており、寒くはない。そもそも、此処に来た時は、寒さを感じるどころの話では無かったのだ。茶の香で落ち着いたのか、ふう、と息が漏れる。理一が横目でそれを見た。

「……四辻。」

「はい。如何なさいましたか。」

「済まないな、迷惑かけちまって。」

思いも寄らない言葉だった。鞠哉は驚いた。何方かと言うなら、理一は迷惑をかけられた側だろう。鞠哉と同じように。

「私は、貴方様に迷惑をかけられたとは、思っておりません。」

「そうだな、けど、こいつは俺のダチ公だ。お前が見付けて無かったら、くたばってたかも知れないからな……。」

「……。衣笠様。」

鞠哉は、まだ温かいカップを両手で包む。膝の上で、水面がゆらと揺れた。

「本当なのですか、先程……有坂様が仰った事は。」

理一は一つ息を吐く。

「ああ、そうだよ。本当だ。孝晴以外にあんな治療しないさ。」

そして理一は立ち上がり、今度はポットを持って戻って来た。有無を言わさず、鞠哉のカップに茶が追加される。

「どうせ眠れないんだろ。落ち着くまで話してやるよ、孝晴の『病』について。俺が言える範囲内でな。」

「……お願い致します。」

二人は静かに言葉を交わす。その声は、部屋の薄明りの中に溶け込ませるように、密やかなものだった。

 

 

初めにそれを見付けたのは、衣笠家の門衛だった。深夜、日付が変わる頃。よろよろと近付いて来る人影を認めた門衛は、その様子に驚いた。人を一人背負って近付く白髪の男も、背負われた男も、血塗れだった。余り邸宅に客を招かない衣笠家だが、有坂孝晴は何度か訪れており見知っている。背負われたのがその有坂孝晴であると気付いた門衛は、急いで家中に知らせ、確認に出て来たのは、長女である衣笠初だった。理一は未だ帰宅して居なかったのだ。彼女は驚愕し、また鞠哉も、状況を説明出来るような状態では無かった。が、その時、身動ぎ一つしなかった孝晴が、小さく呟いた。

「嫁と喧嘩して深酒して転んじまったンだよ、うちには帰り辛いから休ませてくれ……。」

初は門衛と顔を見合わせたが、どうやら孝晴にも意識はあるようだと納得し、そうして門が開けられた時、丁度帰って来た理一が、家の前に人影がある事を不審に思って走って来たのだった。

 

理一は状況を悟ると、即座に姉を部屋に返した。そして門衛にも何食わぬ顔で仕事に戻るように言うと、この真冬に大汗をかいて門柱に縋るようにしている鞠哉に囁く。

「よく此処まで来たな、あと少し頑張ってくれ。」

鞠哉はその言葉で、衣笠理一は孝晴が「重い」事を知っているのだと察したが、既に疲労困憊しており、無言で頷くしか出来ない。何処をどのように通ったか、鞠哉はわからなかった。ただ目の前にある衣笠理一の背中を追い、離れの一室へ辿り着く。

「元々は来客の宿泊用だったんだがな。俺は客を呼ばないから普段は使ってない。年末の掃除を済ませた後で丁度よかった。」

そう一人ごちるのは、此方に聞かせているのだろうか。そうして部屋に入った後、鍵を閉めた理一は、部屋の隅の洋燈に火を入れ、やっと鞠哉の背から孝晴を引き摺り降ろした。

「で……!?今度は、何をしやがった、手前はよお……!」

「はは、俺ァ何もしちゃいねェよ……。」

背後の声を聞きながら、鞠哉はがくりと膝をついた。幼少期の経験により我慢強さと負けん気を得た鞠哉であったが、今回ばかりは糸が切れた。孝晴はそのまま、向かい合う長椅子の間に置かれた重い長机の上に寝かされる。息を吐いた理一が再度尋ねた。

「一体何があったんだよ、手前が怪我するなんざ只事じゃねぇだろ。」

「奴に聞いてくれ。」

目を閉じたまま、指差す孝晴。その先には座り込む鞠哉の背がある。

「四辻、お前は何を見た?一体此奴に何があった。」

「……。」

鞠哉は迷った。孝晴は今も言葉を話し、生きている。自分が見た光景は本当だったのだろうか?しかし、あれ以外に何と言えば良いのか分からない。鞠哉は床にへたり込みつつも、理一の方へ向き直る。

「有坂様は、頭を……撃たれております。恐らく、狙撃銃で。」

「は!?」

「銃声と思しき音の後、有坂様が頭から血を流して倒れられたのを、私は見ました。辺りには誰も居りませんでしたので、拳銃では無いのではないかと……。」

目を剥いた理一に、だんだんと声を窄めてしまう鞠哉だったが、理一は顔色を変えて孝晴に顔を近付け、詰め寄る。

「手前の頭、今どうなってる。」

「弾は抜けてる……額で受けて、骨と皮の間通して、後ろから出した。」

「……、」

「向こうさんにゃ、当たるのが分かってただろうから、避ける訳にもいかなかったンだよな……刀も持って無ェし……持ってた所で、叩っ切るのを見られたか無ェし……。骨で受けりゃ、当たったように見える……当てた後に、弾の角度に顔を合わせりゃ、頭蓋に沿わせて飛ばすくらい出来っからな……。」

絶句し、そして何かを言おうとしながらも其処まで聞いた理一は、取り出した手巾で孝晴の顔を素早く拭った。額から噴き出した血で顔中が赤く染まっていたが、それを除くと、既に顔の半面が紫色に染まりかけている。

「大馬鹿野郎め!」

「頼むぜ、リイチ。頭が破裂しそうに痛ェ。俺ぁ朝まで『寝る』からよ、好きにしてくれ……。」

絞り出すように言った理一に向かって言葉を吐き出すと、孝晴はすぐに静かになり、深い息を始めた。本当に眠ったらしい。しかし、余りに突飛なその言葉の内容を、鞠哉はすぐには理解出来なかった。銃弾を、頭の皮と骨の間を通して、後頭部から抜いた?刀で切る?そんな事が出来る訳が。

「四辻。動けるか。」

理一の声が、鞠哉の思考を遮る。執事として染みついた性質が、鞠哉の喉から自然と声を出させた。

「はい。お申し付けがございましたら。」

立ち上がる時に少しよろけたが、立ってしまえば何とかなった。理一は苦虫を噛み潰したような表情をしていたが、その目は真剣だ。

「俺はこの馬鹿野郎を救ける。手を貸してくれるか。」

「何をなさるおつもりか、お尋ねしても?」

鞠哉の言葉に、理一は大きく息を吐いた。

「此処で、此奴の頭を切る。」

 

理一は鞠哉に対し、湯を沸かす事と、洋燈を追加で二つ用意し、一つは傘を取り払って火を露出させた状態にしておく事を指示した。それが終わると湧いた湯で布と火鋏の消毒、深鉢の用意、手元に火を持って来る事……。次々に繰り出される指示をこなしているうち、治療は終わっていた。気付いた時には頭を包帯で固められた孝晴が長椅子に移されて眠っており、理一は血を捨てに行くと言って出て行った。鞠哉の体から力が抜け、手足が疲労で震え出す。理一は鞠哉に考える隙を与えない為に、指示を出し続けたのだろう。何もしていない時間があれば、恐らく、立っていられなかった。耐え切れなくなり、鞠哉は体を空いている長椅子に体を俯せにして凭れ掛ける。こんな姿は榮羽音等には見せられたものではない。くたりと力を抜きながら、鞠哉は改めて思い返す。理一は本当に、その場で孝晴の頭皮を切り開いてしまった。そして、痛み止めや麻酔薬は一切使っていなかったと言うのに、孝晴は目を覚まさなかった。孝晴は眠ると言ったが、例え意識を失っていた所で、強烈な痛みを与えられれば覚醒してしまう筈だ。医官である理一とて、そんな事知っているだろうし、大の男が痛みで暴れ出したら、施術しながらそれを抑え込むなど、いくら衣笠の当主と言えど不可能だろう。それでも理一は孝晴の言葉に疑いを持たなかったのだ。

(衣笠理一は、有坂孝晴の病……いや、異常性について、知っていたという事か。)

そう考えた所で、鞠哉は自分の服が血でじっとりと濡れている事に気付き顔を顰めた。この燕尾服は、亡き養父が仕立ててくれたもののうちの一着だ。四辻喜十郎は、まだ若年当主と言われていた太田伯爵を常に支え、彼が鞠哉を旭暉に連れ帰ると決めた時には、即座に鞠哉を養子にすると申し出た。あの頃はまだ、鞠哉は彼らに心を許しては居なかったというのに、御人好しにも程があると未だに思う。鞠哉が養父の仕事を継ぎたいと申し出たのは、旭暉に渡って二年後だ。養父について仕事をこなせるようになる度に、そして身長が伸びてゆく度に、養父は鞠哉に燕尾服を仕立ててくれた。流行の型にならないよう、かつ見窄らしくもならないよう。その、最後に仕立てた一着で、あったのだが。鞠哉はゆっくりと上着を脱ぐ。孝晴の頭が凭れ掛かっていた肩口から胸の方に向かって血が染みて、触れた指に赤が付いた。内に着ているシャツまで、やはり赤黒く染まっているのを確認し、鞠哉が小さく息を吐いた時、部屋の扉が開き、理一が戻って来た。

「ほら、着替えだ。俺に合わせた着物だから流石にお前にゃ合わないだろうが、洋装よりはマシな筈だ。」

そう言いながら理一は着物の他に手桶と薬缶、そして手拭を机上に置き、鞠哉の手元にある上着と鞠哉を見比べると、目を細めて「先に体を拭いた方がいい」と付け加えた。疲労と戸惑いで即座に反応出来ず、一瞬茫然としてしまう鞠哉だったが、理一は気にする素振りも無く、同じ目線までしゃがみ込んだ。

「服も髪も血塗れじゃねえか。明朝、太田公に直接俺が話に行ってやるから、さっさと体拭いて、着替えて寝ろ。その椅子ならまあ、多少狭いが横にはなれるだろ。脱いだら此方(こっち)に寄越せ、出来る限り染みは抜いといてやる。」

そう言って立ち上がると、理一はポケットから紙巻きの箱を取り出したが、何かに気付いたように再び仕舞い込んだ。使用人の立場で、衣笠伯爵その人に其処までさせて良いものかと迷った末に、今はそうするしかないと結論付けた鞠哉は、丁寧に礼を言った後、服を脱ぎながら理一に訊ねた。

「お煙草は、吸われないのですか?」

「……。此奴の体に良くない。」

理一は僅かに黙った後に一言答えると、鞠哉から受け取った血染めの服を持って部屋から出て行った。

 

(あの大馬鹿野郎、何を考えてやがる……。)

理一は井戸から汲み上げた冷水に服を放り込みながら息を吐いた。孝晴の傷の処置は問題無い筈だが、それでも、設備も道具も最低限にすら足りない環境では不安が残る。相手が孝晴で無ければ、直ぐにでも病院に運んで処置しただろう。

(そもそもあの野郎、背負われて来たんだったな……あの状態で何時間耐えやがったんだよ。四辻の根性も大したもんだぜ。俺でもあんなに重けりゃ簡単には運べねぇぞ……。)

考えつつも理一の手は迷い無く動く。まだ血が乾き切っていなかったのが幸いして、冷水で粗方落とす事が出来た。水を替えて薬用の重炭酸曹達をまぶし、擦り合わせる。確認の為に一度引き上げ、小さな燭台の灯りで照らしてみるが、元の色が黒い為見た目には全く分からない。再度水中に沈めて血が溶け出さなくなるまで濯ぎ、折り畳んで水を切る。軍生活と、手当たり次第に詰め込んだ雑多な知識と、医者の経験が役立った。

(それでも、俺の目的には、全く近付いてねぇ……何やってんだろうな、俺は。だから、ねえねにも……。)

息を吐き、首を振る。今はそんな事を考えている場合ではない。「あの」孝晴が、負傷したのだ。しかも、誰かに狙われたというおまけ付きで。孝晴の立場が低いとしても、有坂家に牙を剥いた事実は変わらない。何処の誰が、というより、何が目的なのか。議員である長男・有坂孝雅には、多かれ少なかれ政敵と言える存在は居るだろうが、彼には妻子が居る。脅すにしても、弟の命を狙う意味は無いに等しい。家自体にしても、貴族院の構成員は全員が爵位持ちであるし、軍の将校も貴族・旧貴族が多数を占める。その中で有坂家は、少なくとも表向きは、現在の軍事・政治に直接介入しているとは言い難い。太田家のように手広く事業援助を行なって居る訳でも無い。強いて言えば、旧幕府勢力から恨みを買っているであろう立場ではある。衣笠家のように転向した訳ではなく、帝の縁者――宮家の者と婚姻する事で新政府と繋がりを作り、殆ど害を被る事無く最高位貴族に名を連ねたと、逆恨みを受けたかも知れない。ただ、それは当主の手腕が優れていたというだけの事。孝晴個人の話にしても、北讃会事件の主犯は全員死んでいる上、それが孝晴の仕業だと知る者は自分だけだ。それこそ、あの件は麟太郎にすら明かしていないのだ。

(奴が自分からばらす訳がねぇ、今こうして死に掛けても誤魔化してるくらいだ……起きてから問い詰めるしかねぇか。)

固く絞られた布を持ってその場を離れると、仕方がないので自室へ戻り、衣紋掛けに濡れた上着とシャツを掛けて煖炉(ストーブ)の近くに置く。そうして置きっぱなしの安楽椅子に腰掛け、休もうと思ったが、理一は直ぐに息を吐いて立ち上がった。四辻鞠哉には寝ろと告げたが、あの様子では、恐らく神経が昂っており、簡単には寝付けないだろう。

(落ち着ける茶でも持ってってやるか……少しは医者らしい事、しねぇとな。)

理一は静かに部屋に鍵を掛けると、頭の中で茶葉を選びながら、三度離れに足を運んだ。

 

 

「分かりやすく言えば、此奴は、肉体を自分の意思で制御できる部分が、常人よりも多い。かつ、そもそもの能力が常人じゃ及ばない程高い。で、その理由は、自分でも分からないんだと。『生まれつき周りより速かった』って此奴は言ってたし、それが事実だ。」

そう理一が言うのを、鞠哉は両手で空になったカップを持ちながら、神妙な様子で聞いていた。聞くだけでは信じられない話でも、実際に孝晴の異質さをその身で感じれば、嫌が応にも信じない訳にはいかない。自分も同じだったな、と孝晴との出会いを思い返していると、鞠哉が口を開く。

「有坂様を運んでおりました時、人一人の体重とは思えない程の重さを感じましたのも、それが理由でございますか。」

「ああ、そうだ。目方を比べたら、力士よりも重いんじゃねぇか。お前、よく倒れずに此処まで来れたもんだよ。」

「……恐れ入ります。」

一度笑って見せてから、理一は続けた。

「今、此奴は自分の意思で『朝まで昏睡状態』になってる。手前の脳味噌で考えるだけで、手前の不随意筋すら操る奴だからな。今なら此奴は、刺しても起きねぇ。」

「不随意筋というのは、名前から察するに、意識的に動かせない筋肉という事でございましょうか。」

「ああ。お前、心拍を思い通りに早めたり緩めたり出来るか?」

「……有坂様には、それが出来ると?」

「実際に測った。奴は渋々だったけどな。」

理一が細く息を吐き、茶で口を潤す。

「此奴が起きない今だから言うけどな、……ぞっとしたさ。正直な。孝晴の体は、人間の範疇を超えてる。だからずっとそれを隠して来た。お前にも言いたく無かっただろうが、頼らなきゃ死んでただろうからな。」

静かに話す理一の声を聞きながら、鞠哉は思い出していた。孝晴は、常人よりも速い時間の中で生きている。あの封筒は、そういう事だったのだ。「赤い印」に関する、あの資料の入った封筒。短期間に膨大な資料を纏め上げた事も、誰の目にも触れられず門番の詰所に置いた事も。理一の言葉が本当ならば、全て理解出来る。――その内容が余りにも理解し難いとしても。

「有坂様は、人ならざる者という事なのでございますか。」

ぽつりと、鞠哉は言った。深く穏やかな呼吸は、孝晴の寝息だ。返事の代わりに、鞠哉の背に理一の手が触れる。丁度、心の臓の裏側を暖めるような位置だった。

「それを確実に調べるなら、それこそ解剖でもしなきゃならねえ。けど、孝晴は人に合わせて、人であろうとして来た。だから、此奴はその辺の『人でなし』より、余っ程『人間』だ。……俺は、取り返しのつかない失敗をした。だから、お前はそう思ってやってくれ。」

そう語る理一は穏やかに笑みを浮かべていたが、その笑みは沈鬱で、自嘲めいていた。彼と孝晴の関係も、単純なものではないのだろうと、鞠哉は考える。

(つまり、二人を繋げたという――それが嘘で無いのならば――刀祢中尉も、当然、この事は知っている……は、ず……、)

鞠哉の頭が、かくりと傾いだ。一瞬耐えようと身を固くするも、やがてその白い頭が理一の肩に落ちる。理一は特に避ける事もなくそれを受け止めた。さらりと零れた白い髪の下から静かな寝息が聞こえるのを確認すると、理一は鞠哉の手からカップを取り上げ、机上に置く。

「手前も大概だぜ、四辻。全く、『ただの使用人』が、何で此処まで冷静に対処出来てるんだか。」

理一は独りごちながらクスクスと笑うと、凭れ掛かる鞠哉の体を支えて長椅子に寝かせ、カップを持って部屋を出て行った。

 

 

朝が来た。いや、既に日は昇っている。鞠哉は窓から差し込む柔らかな明かりで目を覚ました。普段は日の出前に起床しているし、それに体も慣れていて勝手に目が覚めるのだが、余程疲れていたのだろうか。一刻も早く屋敷へ戻らねばならない。そうして身を起こそうとした鞠哉だったが。

「ぅぐっ、」

思わず呻き声を上げて長椅子に突っ伏した。全身が痛い、怠い。鍛錬中に筋肉痛になる事はあった、が、これはその比では無い……!

「起きたかィ、四辻。随分、苦しそうじゃねェかい?」

無言で痛みに耐えていた鞠哉の耳に、掠れた声が聞こえた。弾かれたように顔を上げ、再度痛みに顔を歪めながら声の方を見れば、対面する長椅子に横たわる有坂孝晴が、細めた目だけで鞠哉を見ていた。

「……、……。ご無事で、いらっしゃいましたか。」

「リイチの、お陰でな。起き上がンなら、少しずつ、動かしなァ。俺を、此処まで運んだンだからな、限界以上に、力出した筈だ。暫くは、痛みが引かないと思うぜぃ。」

孝晴の顔色は悪く、言葉は途切れ途切れだが、それでも内容ははっきりしている。とても、昨夜頭を撃たれ、そして切り開かれた人間には見えない。言われた通り、ゆっくりと時間をかけて起き上がり、背凭れに体を預けて息を吐くと、それを待っていたのだろう、孝晴が口を開く。

「俺の『病』について、聞いたかィ?」

「……はい。衣笠様が、話して下さいました。」

「ん、リイチなら、察すると思った。ってェ事で、俺ァ、人間じゃねェ。他人(ひと)より早く頭回せる分、消耗も激しくてな。人並みに生活する為に、寝て暮らしてンだが、ま……そう出来なくなっちまったから、今こんな、為体(ていたらく)な訳だ。」

「……。」

鞠哉は、どう返答を返せば良いか迷った。孝晴は、自身を人間ではないと言う。しかし、衣笠理一は孝晴を人間だと思って欲しいと告げた。けれども、彼がそう言ったと伝える事は、しない方がよい気がした。結局、鞠哉はそれに触れない事にした。

「これまで通りの生活が成り立たなくなったのは、御婚姻が原因でございますか。」

孝晴は僅かに目を開く。鞠哉が「貴方様の周囲で起きた最も大きな変化でございましょうから」と付け足すと、孝晴は、ふうと息を吐いた。

「その通りさね。俺一人なら、ぐうたら三男で済むが。所帯となりゃあ、話は変わる。道楽息子の無駄遣い、だらし無い性格、それで済んでたもんが、許されなくなってなァ。腹が減って無けりゃ、弾丸が近付くのに、気付かないなんて事無ェからな。」

「……。常のお食事では、足りないという事でございますか。」

「そういうこった。今は余計に……はぁ。ハラ減った……。」

そう呟くと、孝晴は目を閉じる。悪い顔色が、更に白くなっていた。やはり弱っている事に変わりはないのだ。

「傷は、大丈夫なのですか。」

「……まだ見てねェから、何とも……、」

と。

「取り敢えず、傷口は結んである。額は傷が残るだろうが、手前の代謝なら小さく済むだろ。」

孝晴が言い掛けたのと時を同じくして、扉が開いた。

「包帯はまだ取るんじゃねぇぞ。傷が塞がったか俺が確認してからだ。起きたか、四辻。太田家には孝晴の粗相に巻き込まれて午後から出勤するって言って来た。」

話しながら入って来た理一は、てきぱきと机上に盥や手拭、薬缶、急須、湯呑等を並べる。彼が略礼装の灰無地を着ているのは、太田家へ出掛けた為なのだろう。着替えもせずに此方へやって来たのかと驚く鞠哉を他所に、理一は羽織を脱いで長椅子の背に引っ掛けると、腕を組んで孝晴に目を遣る。

「四辻を巻き込んだのは手前(てめぇ)だからな。公爵がお忙しい中急遽時間取ってくれる方だった事に感謝しろよ。今日が休日じゃなかったらどうするつもりだったんだお前。」

「はは、そうさな……運が良かった、ってこったな。」

孝晴の軽口に溜息を吐くと、理一は急須の中身を陶器の吸飲(すいのみ)と湯呑に移す。そして湯呑の方を鞠哉の前に置いた。

「飲めそうなら全部飲め。」

「有難うございます。」

鞠哉がそれを手に持つと、茶のように見えるそれからは、どこか甘く、そして懐かしいスパイスの香りが漂ってくる。脳裏を擽る、桂皮の香り。

「これは……?」

「飴湯だ。滋養に良い。」

思わず尋ね返した鞠哉に、理一は口角を僅かに上げて答えると、同じ中身の入った吸飲を持って孝晴に飲ませ始めた。

 

乾かした服は鞠哉に渡して着替えさせ、孝晴の顔にも多少血の気が戻って来た。理一は鞠哉の隣に腰掛けて足を組むと、横たわる孝晴に向かい、改めて尋ねる。

「で、何でこんな事になってんだ。普段のお前なら、弾なんざ喰らう訳ねぇだろ。」

「……。」

孝晴は一つ息を吐いた。飴湯を飲んで多少回復したのか、表情は和らいでいる。

「……嫁が、な。俺の今後の為に、力尽くしてくれてる。けど、その所為で俺ァまともに食えなくなっちまった。だから、俺が死ぬ前に、アイツに俺を嫌わせようとしてンだ。あの歳で、旦那を殺した女になんてさせられねェ……。けど、うん……だから、喧嘩別れしたばっかじゃ、死ねなかった。体も参ってたから、こうするしか無かったンだよ。何で俺が狙われたのかは、さっぱり分からねェ。」

理一は眉を寄せたが、孝晴の懸念は尤もでもある。夫の生活を管理する妻のもとで、その夫が死んだなら、責めを負うのは妻だ。悪妻であると噂を立てられ、その後生きる事すら難しくなる可能性すらある。そんな彼女と喧嘩したばかりであったというなら。

「……まあ、確かに、そういう時に責められんのは女だわな。夫を家から追い出して、その先で死なせたなんて事になったら。で、『喧嘩』は上手く行かなかったんじゃねぇのか。」

そう問えば、孝晴はむっとした表情を浮かべ、再度息を吐いた。

「何で分かンだ。」

「そりゃ、東郷家の姫なんて、俺にも縁談があったからに決まってんだろ。ある程度相手については知ってるさ。まだ幼いもんだから断ったが、その頃から男勝りで頑固一徹な娘だった。そんな女がお前を支えるって決めたんなら、相当の事じゃ折れねぇよ。」

理一はそこで、机上に置いた皿から干無花果を一つ口に放り込む。鞠哉の方へ皿を動かせば、彼もそれに倣った。

「俺も食いてェ。」

「ああ?」

「腹減った。」

「ったくよお……。お前じゃなけりゃ、話すなんて以ての外な怪我してんだぞ。」

「医者が良いから直ぐ治らァ。」

舌打ちをした理一が孝晴の口に無花果を突っ込んでいるのを見て、鞠哉が首を傾げた。

「一つお尋ねしても宜しいでしょうか。」

理一は首を、孝晴は目線を鞠哉に向ける。同意を得たと判断し、鞠哉は言った。

「有坂様の傷の治りが速いというなら、何故私を頼ったのですか。私には口止めして置いて、その場で回復を待つ事も出来たのでは。」

「そりゃ無理さね。」

孝晴が即答した。理一が先を引き取る。

「確かに此奴は、人に比べて回復は早い。他の奴の一週間は此奴の一日だと思えば当然なんだがな。ただ、傷を治すってのはかなり体力を使う。食えて無かったんなら、治す力も無かったろうよ。」

「で、今は傷も塞いで、食いもんもあるから治せるってこった。」

「塞いだっつっても、髪で結んでんだからな?動くなよ?」

理一が顔を顰める。頭蓋を圧迫する血を抜く為に切り開いた傷を、その両側に生えた髪を結び合わせて綴じているのだ。因みに額は血が止まりかけていた為圧迫しただけである。溜息を吐いて理一は立ち上がり、腕を組んで孝晴を見下ろした。

「で、喧嘩したまま帰らなかった有坂家のお坊ちゃんは、あまね嬢をどうやって庇うつもりだ?このまま姿を眩ましたら、それこそお前が危惧した事が彼女の身に起こる。」

「……。」

その通りなのだ。孝晴は頭の一部だけを回して考える。あの時の鈍った頭で、「その先」を考えられ無かったのは仕方ない。其処で自分の生を選んでしまったのは、生物としての本能によるものだ。あの場所へ足を運んでしまったのか。そして何故、自分は撃たれたのか……。孝晴は、椅子に座り直す理一を目で追う。理一は目を逸さなかった。

「手前が彼女を『信じる』か、『拒否する』か。二択なんじゃねぇのか。」

孝晴は目を閉じる。理一の視線から逃げるように。結局、同じ所に戻って来てしまった。人ならざる自分が、生きる方法など探した報いがこれだと言うのなら……。

「一つ、気になった事がございます。宜しいでしょうか?有坂様。」

鞠哉が孝晴の思考を遮った。先程とは異なり、孝晴だけに問いかける彼に何か意図がある事を察し、理一は口を閉じる。孝晴は目だけを其方へ向けた。

「先程、傷を治すには食事と体力が必要と伺いましたが、この場に満足な食事があるように見えません。しかし、貴方様は回復しているように見えます。貴方様が必要としているのは、本当に食事なのでございましょうか?」

孝晴は僅かに目を開く。理一も内心、成程こいつは鋭いな、と感嘆していた。身体組織の再生には当然肉や魚を多く摂取する必要があるものの、それ以上に孝晴が欲するのは糖分と熱量だ。孝晴は少し考えて言った。

「お前さん達にゃ分からねぇだろうが、頭回すには甘味が一番効くンだよ。体動かすのも、傷治すのも、突き詰めりゃ頭が体に命令してやらせてンだ。だから……そうさな、飯も必要だが、より必要なのは、糖と脂なンだが。旭暉の食はそこまで大量に砂糖や脂、使わねェから……、」

「つまり、それが補えるならば、奥方様と向き合う時間が取れるという事でございますね。」

孝晴の言葉が途切れた瞬間、鞠哉が言葉を差し込んだ。孝晴は驚いて僅かに首を動かそうとして痛みに顔を顰め、理一は怪訝そうに四辻を見た。鞠哉は普段の慇懃な表情とは異なる面持ちで孝晴に言った。

「材料の仕入れ先さえ確保して頂けるなら、私は、貴方の求める物をご用意出来ます。」

「どういう意味だィ。」

「砂糖とバターをふんだんに使った焼き菓子。たっぷりのクリームを挟んだトルテ。ナッツやフルーツ、果実酒を使った重いケーキ。皆様が洋菓子と呼ぶそれが、貴方様には有用なのではございませんか。」

「……。何が言いたい?」

理一が口を挟んだ。鞠哉は理一に向かって微笑んでから、孝晴に再度顔を向ける。

「有坂様には、『あの件』で情報を提供いただきました。それに……このような形ではございますが、貴方様の困難を知った以上、協力関係を続けるのであれば、力をお貸しするべきと考えました。私としても、貴方程の情報源を、みすみす捨てるよりは利用させて頂きたいのでございます。」

そう言って、鞠哉はにっこりと微笑んだ。理一は唖然とし、孝晴は目を数度瞬いたが、やがて小さく噴き出した。

「ぶっ、いッ、痛てッ、畜生……。」

「……お前ら、いつの間に何の話してんだよ……。」

「凄ェ顔してンぜ、リイチ。はぁ、お前さん、一体何なンだ?ただの執事にしちゃ、肝が据わり過ぎてらぁ。」

「太田家へのご恩返しに、出来る事をして参りましたら、こうなったというだけでございます。」

そう返した鞠哉はふと、穏やかな表情を浮かべる。まるで誰か別の相手を見るように、彼はその顔のまま孝晴の目を見た。

「……有坂様も、誰かに頼らねば生きられない、ただの人間だという事を、私は『身をもって』理解いたしましたので。」

「はは……言うじゃねぇか。」

会話を横で聞いていた理一は、一先ず孝晴にも時間が与えられそうだという事、そして鞠哉に自分の言が伝わった事に内心安堵しつつ、息を吐いて背凭れに頭を乗せた。

「はぁ……立つ瀬無ぇな。で?四辻お前、孝晴が必要な菓子をどうやって用意するつもりだ。業者から仕入れりゃ、帳尻が合わなくなるだろ。」

「……。有坂様が個人的に材料を集めて下されば、私がお作りします。」

鞠哉は一瞬口を噤んだが、そう答える。そう言えば、彼の菓子作りの腕は、職人にも劣らないものだと太田公爵が評していたなと孝晴は思い返すが、理一は眉を寄せた。

「太田家を纏めながら料理人紛いの事まで出来んのか?いや、そもそも執事が料理って。」

「冰國宮廷菓子職人の息子が、菓子作りに親しんでいない理由は、ございませんでしょう。」

「……えっ。」

理一は声を漏らし、孝晴は驚きの表情を浮かべる。二人の目線を受けた鞠哉は変わらず微笑んでいたが、その青い目には何処か淋し気な色が浮かんでいた。

 

 

有坂家の屋敷。此処では本館が母屋と呼ばれ、別館が離れと呼ばれている。その母屋の二階、洋燈と天井の飾燈が照らす一室に、二人の女が居た。一人は、つい最近花嫁修行を兼ねてやって来た東郷あまね、もう一人は有坂兄弟の母であり、実質有坂家を取り仕切っている有坂十技子である。あまねは、自身が失態を犯した事、その後孝晴が戻って来なかった事を正直に報告した。あまねは、自身が有坂十技子に選ばれて縁談を受けた身である事を理解していた。初めて有坂家に来た日も、この同じ部屋で彼女と向かい合い、そして「お主は孝晴の妻に相応しい女子(おなご)と妾は思うておる、とくと励むがよい」と告げられたのだ。そうして期待してくれた彼女にも、自分を躾けて来た親にも、申し訳が立たない事をしてしまった。そう頭を下げる彼女の姿を見た十技子は、優雅に手を口の前に当てると、僅かに首を傾け、そしてゆっくりと目を細めた。

「案ずる事はないぞ、あまねや。『あれ』はそのうち戻って来るからの。お主はただ、それを待てばよい。」

「……お言葉でございますが、お義母様……孝晴さんは、帰らないと告げられて……。」

顔を上げたあまねが眉を下げたが、十技子は笑みを崩さない。

「この縁談は、妾が取り決めたものじゃ。そして、『あれ』は妾には逆らわぬ。お主に影響されるようなものではない故、気にせずともよい。」

 

有坂十技子はそう言って、あまねには何の咎めも無かった。あまねは孝晴の居ない寝所で目覚めた後、身支度を整え、使用人と共に庭の清掃を行いながら、昨夜の有坂十技子の言葉について、考えていた。

(孝晴さんは、お義母様には逆らわないというのは、どういう事?それに三男とは言え、大事なお子の一人の筈なのに、夫の怒りを買った妻にお咎め無しというのは、納得いかない……。まるで、わたくしが居ても居なくても、同じと言われているような……。)

そこであまねは手を止めた。目線の先には、烏羽の軍服を纏った小柄な影。門へ近付くと、目付きの悪いその男は、帽子を取って深く頭を下げた。彼女も孝晴に付き従う警兵が居る事は知っている。

「刀祢さん……ですか。」

「はい。お初にお目に掛かります。刀祢麟太郎警兵中尉です。」

あまねよりも背の低い麟太郎。しかし彼は歴とした中尉であり、小隊を預かれる立場にある。信頼は出来る筈だ。あまねは訊ねた。

「刀祢さんにとって、孝晴さんは、どのような存在なのですか。」

「……。」

麟太郎は僅かに目を細める。感情に疎い麟太郎でも、様子がおかしな事には気付いていた。普段の雰囲気よりも、重苦しい何かが漂っている。抱いた懸念が実際のものになってしまったのではと、外見からは全く分からないが警戒する麟太郎だが、ふと気付く。麟太郎に見られているというのに、あまねの目には、怯えが感じられない。彼女は言った。

「わたくしは、孝晴さんに嫌われています。いえ、そう思っていました。けれど……貴方は、孝晴さんを慕っていると聞きます。貴方の心は、本物なのですか。」

「私には、自分の心があまり理解出来ません。しかし、私が有坂様に命を賭してお仕えする覚悟であった事、そして今は友と呼ばれる身となった事は、事実です。」

麟太郎は淡々と答えた。その声に熱や感情は全く宿っていないが、言葉の内容はそれと反比例するように強い。彼女は一歩麟太郎に近付いた。麟太郎は更に首の角度を上げる。

「孝晴さんが、あのように言ったのにも、何か……わたくしの預かり知らぬ訳が、あるのかも知れません。刀祢さん、わたくしに、教えてくださいませんか。……孝晴さんの事を。」

そう告げたあまねと麟太郎の目線は、長い間逸らされる事なく交わり続けていた。

 

「帝國の書庫番」

廿九幕「告白」



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帝國の書庫番 丗幕

それは、静かに、息を殺して、忍び寄る。


 父は寡黙な職人だった。叱ったり褒めたりが苦手で、あまり多くを話した記憶は無い。けれど、僕は父の試作する菓子が母を笑顔にするのを見るのが好きだった。父の菓子を皇帝陛下が召し上がっているのだと話すときも、母は幸せそうだった。菓子は、人を幸せにするものなのだ。父の仕事は、皆に笑顔と幸せを届ける仕事なのだ。家には膨大なレシピノートやスケッチがあり、僕は夢中でそれを読み漁った。頭の中で材料を混ぜ、型に入れて、焼き上げて、美しく組み上げる。それを初めて現実に実行した時、厨房は飛び散った材料や割れた皿で惨状と化していた。けれども焼けた生地をオーブンから出した父は、それを一欠片食べて、僕を抱き上げると、僕と同じ色の瞳で、しっかり僕の目を見て、言った。

 

『焼き加減だけは、完璧だ。』

 

 その短い賞賛の言葉と、太く逞しい料理人の腕。その日から、僕は将来、自分も父と同じ菓子職人になるのだと、信じて疑わなかった。

 

 

「お前なら直ぐ此処に来ると思ってたぜ、リン公。」

 理一はそう言いながら紫煙をくゆらせる。目の前に立つのは、いつも通りの烏羽を纏う麟太郎。理一は書斎で彼の訪問を待ち受けていた。いつもの鴉が来ない理由は、麟太郎の胸に鴉の頭がはみ出た布が巻かれているのを見れば分かる。

「ハル様が人を避けて隠れるとすれば、此処しかありません。」

 麟太郎は淡々と言ったが、理一は目を細める。孝晴は、麟太郎の「世界」だった。友と呼び合う間柄となったにしても、孝晴への感情が麟太郎の多くを占めている事に変わりない。

「今日まで来れなかったのは、兵舎襲撃事件の調査か?」

「はい。……私が一番の当事者ですから。」

「……ん?」

 僅かに間隔を空けて答えた麟太郎の言葉に、理一は眉を寄せる。理一は、軍が公表している情報以外は知らない。麟太郎は胸の布からはみ出た頭を指先で撫でる。

「公式には、兵舎に矢が撃ち込まれた事件とされていますが、それは全てではありません。先に、射られたのです。『くろすけ』が。」

「……。」

 理一は無言で細く煙を吐き、先を促す。麟太郎は一度考えるように目を逸らし、再び理一の顔に目線を据える。

「何を目的として『くろすけ』を狙ったか、それは定かではありません。下手人は死んでいるとはいえ、その背後に指示者がいる可能性はまだありますので、調査中です。ただ、その為に私は、足止めを食らいました。故に、ハル様の……大事に際して、お傍に居られませんでした。」

 麟太郎が僅かに言葉に間を作った事で、麟太郎は既に、孝晴にとって婚姻がどう問題となっているのかを理解していると、理一は確信する。麟太郎は馬鹿正直ではあるし、感情に関しては理解不足があるものの、鈍感では無い。既に時間は昼を回っている。真っ先に有坂家に向かい、何らかの話を聞いている筈だ。

「どうだったよ、お前から見て。」

「どう、とは。」

「孝晴の嫁として、相応しいと思ったか?」

「……あまねお嬢様について、ですか。」

 傾げた首を戻しながら、麟太郎が呟く。そして僅かに目を細めた。

「私にとっては、ハル様にお会いする事が最も重要なのですが。今その質問に答えねばならない理由がありますか。」

 理一は小さく笑うと、手にした煙管を灰皿の上でひっくり返し、手で軽く叩いて灰を出しながら首を振った。

「悪(わ)り、そういうつもりじゃねぇんだ。ま……来れば分かる。」

 麟太郎は再度首を傾げ、煙管を置いて立ち上がった理一の後に続く。恐らく、麟太郎はあんな姿の孝晴を目にするのは初めてだ。少しでも時間を伸ばせないかと話を振ったのは、孝晴を「世界」と言った、そして孝晴と出会う以前の記憶が欠落している麟太郎に、その「世界」が弱った姿を見せて、何が起こるか分からないと思った為だ。先に理一から話してしまう事も考えたが、麟太郎を抑えられるのもまた孝晴であろうから、やめた。あとは、孝晴が何を何処まで話すかに任せるしかない。

 

 部屋に入った麟太郎は、無表情のまま立ち尽くしていた。目の前には、長椅子にぐだりと横たわる孝晴の姿。

「よォ、お麟。其方(そっち)は変わり無ぇかィ?」

へらりとした孝晴の声が聞こえるが、麟太郎は応える事が出来なかった。頭を半分以上覆う包帯。悪い顔色。

「『誰がこれを』?」

 麟太郎が吐いたのは、その一言だった。そして次に、孝晴の問いかけに答えていない事を理性が教えて来た。これは、理性を置き去りにする程の怒り。不思議と麟太郎はそう理解していた。今迄、こんな怒りは感じた事が無い筈なのに。

「んにゃ、分からねぇ。弾ァ見えたが、射手までは見えてねェからな。俺ぁ速いってだけで、視力はお前らと変わらねェよ。」

 孝晴は答えると、目を閉じて笑った。その笑みは、麟太郎が見た中で最も弱々しい。出会った時の、あの昏い想いを抱えていた孝晴ですら、こんな顔はしていなかった。背後に近付く気配を感じたが、直ぐにそれが理一のものであると理解した為、体は反応しなかった。理一の手が肩に触れる。

「落ち着け、リン公。先ずは話を聞くんだ。」

 そう言いながら理一が孝晴を見遣ると、再び孝晴は目を開く。

「お麟。」

「はい。」

 呼ばれた麟太郎は、素早く孝晴の前に跪いた。孝晴の目が真っ直ぐ麟太郎の瞳を見る。そしてその手が掲げられ、麟太郎の頭に下ろされた。

「俺ぁ、まだ大丈夫だ。」

「……はい。」

 ぐしゃりと帽子ごと麟太郎の髪を握る手は、思いの外、力強かった。

 

 孝晴が事の経緯を語り終えても、麟太郎は無表情のままだった。麟太郎の記憶に影響が出ないかと案じていた理一は内心息を吐くが、麟太郎はそれを知る由もない。三人の間に一瞬落ちた沈黙を破ったのは、その麟太郎だった。

「私は、あまねお嬢様にどう接したら良いのでしょう。」

 要領を得ない言葉であったが、孝晴は察したようだ。

「会ったンだな?あまねに。それに、お前さんに何かしら要求があった。」

 麟太郎が黙って孝晴を見詰めると、「見りゃ分かる」と孝晴は笑った。麟太郎は頷くと、瞼を僅かに伏せる。

「私は彼女に、ハル様について教えて欲しいと言われました。しかし、私がハル様の事情を好き勝手に伝えてしまう事は出来ません。其故、私にとってのハル様と、あまね様にとってのハル様は、同じとは限らない、とお伝えしました。しかし……ハル様がその状態であるならば、彼女の元に戻られるべきではないのではないかと……となると、私が……。」

 淡々と麟太郎は語るが、最後に逡巡する様子を見せる。麟太郎の言葉の調子に、迷いのようなものがあからさまに見えるのは初めてだった。孝晴の負傷が影響を与えているというだけではなく、麟太郎自身の情緒にも変化が既に起きていた事もあるだろう。と、孝晴が軽く息を吐くと、理一に目を向ける。

「なァ、リイチ。一旦、傷見てくれねェかぃ。」

「あ?」

「もう動けそうな感じがしてンだ。ただ、医者の目で見て不味いってンなら、もうちっと待たなきゃならねェからな。」

 理一は面食らった表情をしたが、そのまま眉を寄せて額に片手を当てると、大きく息を吐いて寝転がる孝晴に近寄る。包帯が解かれると、孝晴の顔の左半分を覆う綿紗が露になる。僅かに覗くその頬に鮮やかな紫色の染みが見え、麟太郎が目を強く細めた。理一は孝晴の額と後頭部の傷を具(つぶさ)に観察すると、細く、長く息を吐く。まるで自分を落ち着かせるかのようなその息の後、元通りに包帯を巻き直した理一は、立ち上がって眉を寄せ、孝晴の頭上からその顔を見下ろした。

「傷を開きたくなけりゃ、頭皮は動かすなよ。」

「はは、わぁってらぃ。って事は、塞がってたンだな?」

「あぁそうだよ! 護謨(ゴム)でも食ってんのか手前は……。」

「さァな。」

 半笑いで答えた孝晴は、長椅子に手をつき、ゆっくりと身を起こす。

「ってて……。やっぱまだ痛ェや。」

「たりめーだ!」

「て事で、あまねは俺がなんとかする。家で転がってる理由も出来たしなァ。」

 今にも頭を叩(はた)いてやりたそうな顔で理一が吐き捨てるが、孝晴はそのまま立ち上がると、火の入っていない煖炉――客を招く時には火を入れていた筈だが、今は使っていない為、部屋に火鉢が持ち込まれている――の上に掛けられた鏡で自身の姿を見て、「うへぇ」と顔を顰めた。

「こりゃ酷ェ。制服まで血塗れになっちまったぃ。」

「まあ、言い訳は出来るだろ。表皮だろうが頭を切れば、出血は多くなる。が……その顔はどうにもならねえな、血が抜けるまで放っとくしかない。このまま暫く木乃伊(ミイラ)になって貰うしかねぇな。」

 手を腰に当てて言う理一であったが、直ぐにその表情が真顔に戻る。

「奴の事はどうする。」

「……。」

 孝晴はゆっくりと椅子に腰掛け直し、理一の言葉に対して考えるような素振りを見せる。麟太郎が一つ、瞬きをした。

「奴、とは?」

 当然の問いに対し、孝晴は麟太郎を眺めた。その胸元には布が巻かれ、膨らんだ其処から鴉の嘴がはみ出ている。麟太郎の頭や肩を止まり木にしている事はあれど、こんな風に抱えられている「くろすけ」を見るのは初めてだ。麟太郎の方にも何かあったのだろうが、此方の状況を先に話すべきだろうと孝晴は判断する。麟太郎に語らせる話題を残しておいた方が、「何かあった時」に落ち着かせられる。

「太田家の執事は分かるな? お麟。」

「はい。髪と肌の白い異人の方です。」

「俺ぁ、其奴に体の事を明かした。」

 その一言で、麟太郎は硬直した。瞼すら動かさず黙り込む麟太郎を、孝晴は真っ直ぐに見詰める。

「四辻の野郎が彼処(あそこ)に居たのは、偶然だ。奴さん、俺が倒れた後にすぐ駆け寄って来て、顔真っ青にしてやがった。だから、此奴しか居ねぇと思って、俺ぁ助けを求めた。此処まで運んでくれってな。その見返りに、俺が化け物(もん)だって事を教えてやった。」

「……ハル様が、助けを。」

 ぽつりと、麟太郎が呟く。一切感情の籠らない口調だった。孝晴は続ける。

「それ以外にやりようが無かったってこった。で、利害を一致させた。奴も俺を利用するし、俺も、俺が得られねぇ物(もん)を奴から得る。

お前も、それを知っといてくれ。」

 孝晴は麟太郎の目を真っ直ぐに見ていた。暫しの間二人の視線は交わされたままであったが、その視線を切ったのは麟太郎だった。

「……私は、不甲斐無いです。ハル様が手を伸ばした時、私は其処に、居られ無かった。」

「たりめぇだ。お前は俺の従者でも何でも無ェ。一個の人間だ。合わない時なんざ、当然あるモンだ。」

 目を逸らした麟太郎に、直様孝晴が言う。麟太郎はゆっくりと、自身の胸に掛かった布に手を伸ばす。

「理由は、『ソレ』かィ?」

「…………はい。」

 麟太郎は包を解き、机の上に置いた。解けた布の上でぐるりと首を動かして麟太郎を見上げる「くろすけ」の羽には、布が巻かれている。

「先程、衣笠先生にはお伝えしましたが。」

 そう前置いて、麟太郎は「くろすけ」が射られた事をぽつぽつと吐いた。聞くにつれ、孝晴の表情が険しくなる。

「……そう言や、ここ数日の間の世間の事たァ、何(なん)も頭に入れて無ェや……仕事中は寝て、帰りゃもう覚えちまった書を教えられて、んで、耐えられねェと思ってあまねから逃げ回って……。」

「では、兵舎が射られた事も?」

「知らねェ。」

 鉛を飲み込んだような表情で答えつつ、孝晴は手を口許に添えて思案する素振りを見せる。

「どうも『上手い』な、状況が。」

「どういう事だ?」

 黙って見守っていた理一が口を挟む。孝晴は理一を、そして麟太郎を見遣ると言った。

「俺を殺すンなら、警兵が常にくっついてンのは、邪魔で仕方無ェだろぃ?」

「!」

 麟太郎が目を細めた。同じ事を、「くろすけ」を受け取りに獣医の元へ行った帰り、麟太郎も考えていた。ただ、その時はまさか、孝晴が実際に命を狙われた等と知る由も無かった。

「私を足止めする為に、兵舎を…ひいては『くろすけ』を狙ったと。」

「んにゃ、狙われてたのは『くろ坊』だ。最初からな。」

 孝晴が瞼を伏せる。聞いていた理一が麟太郎の隣に無言で腰を下ろし、僅かに眉を寄せつつ膝に頬杖をついた。その間の無言を問いと受け取り、孝晴は続けた。

「警兵を直に狙ったとしたら、直ぐに徹底的に捜査が入る。軍施設にちょっかい掛けたらそりゃあ捜査にゃなるが、対策に必ずお前さんが駆り出されるとは限らねェ。狙った部屋に当てた所で、何人も同じ部屋に住んでンだから誰を狙ったか分りゃしねぇだろィ。」

「……。」

 麟太郎はゆっくりと瞬く。未だ、「鴉が鷹に追われていた」件については、孝晴に話していない。その情報が無くとも、孝晴の頭はその可能性が最も高いと弾き出したのだ。現に、孝晴は……。

「理由は、何なのでしょう。」

 ぽつりと一言、麟太郎が言った。孝晴が怪訝そうな顔をする。

「そりゃ、今も言っただろィ。俺を狙うに、お前が邪魔だった。お前を足止めするには、『くろ坊』を狙うのが好都合だった。ま、俺を撃った奴ぁ相当回りくどい野郎だってこったな。」

「違います、ハル様。ハル様に、命を狙われる理由など、ありません。」

 麟太郎がきっぱりと言った。孝晴は一瞬黙り込んだ間に、自身が過去に斬り捨てて来た人間の顔を思い浮かべる。だが、それが露見したのであれば、来るのは刺客ではなく逮捕状だ。孝晴は頷いた。

「……ああ、そうさな。俺にも、可能性の高い心当たりは全く無ェ。けど、あの|弾丸(たま)が俺の頭(ここ)に向かって飛んで来るのは、はっきり見た。……、」

 言いながら自分の頭を軽く人差し指の先で叩いた後、孝晴は口を噤む。自分の為に「くろすけ」は狙われた。師を斬った瞬間が脳裏に鮮やかに蘇り、次に竹刀を握って硬直したままの孝成、そして最後に、痩せ細り悪臭を漂わせる麟太郎の姿が浮かぶ。かつて、自分が命を左右した者達。それが今、またも自分の事情に巻き込まれている。しかし。

「ならば、私が……我々が、ハル様を放って置けるとお思いですか。」

「俺も入ってんのか。ま……此処で身を引くようなら、最初からこんな苦労して助けたりしねえよ。」

 麟太郎の言葉に、理一が続く。そう、二人は既に、頼り頼られる間柄になってしまった。

「俺の所為で、お前ぇの鴉が狙われたンだぜ? お前にゃ、お留お嬢様も居ンだからよ。」

 牽制するように孝晴が言えば、麟太郎は一瞬目を下に向けて考える素振りを見せたが、直ぐに目線を孝晴の顔に戻した。

「それは、ハル様の身を案じない理由にはなり得ません。」

「はは……。」

 何処か自嘲めいた笑みを孝晴は浮かべたが、それが何に対する自嘲なのか、麟太郎には分からなかった。孝晴はすぐにその笑みを消し、いつものへらりとした笑みを作る。

「ま、俺もこの様(ざま)だ、大人しく案じられとくかねぃ。」

 軽く喉で笑う孝晴に、理一が一つ息を吐いて口を挟んだ。

「……医者としては、せめて一週間は安静に寝かしときたいんだがな? 呉々も無茶はするなよ。」

「今回は心底からお前さんにゃ礼を言わなきゃならねェが、お前さんこそ、無茶すんじゃねェぞ、リイチ。姉さんらにゃ、お前しか居ねぇんだからよ。」

 孝晴は語調を変えなかったが、その言葉を聞いた理一が黙り込む。言葉の間(ま)に違和感を覚え、孝晴は理一に目を向ける。

「どうした?」

「……ん。そう、だな。そうかもな。」

 珍しく煮え切らない返答を返して、理一は目を逸らすと、「疲れたから休む」と出て行ってしまった。どうやら理一にも何かあり、そして、彼はそれに踏み込まれたくは無いと感じているらしい。麟太郎にもそれは理解出来たようで、静かに話題を変える。

「……どうなさいますか、ハル様。」

「先ずは、帰ってやらねぇとな。お麟、今日は隣を歩け。」

「何故です?」

「記者避けになる。」

 数度瞬いて首を傾げた麟太郎に、孝晴は少し悪戯っぽく、口の端で笑みを浮かべて言った。

 

 

「遅くなって済まなかった、玄(くろ)殿。」

 工房の入口に立つ狼面の男。その前に立つ男――漆黒の軍服を纏い、着けている面は「熊」である――は、首を振って穏やかに応える。

「お主が必要としていなかったのじゃろう? お主は完璧に深緋(こきひ)を勤めておるでの。じゃが、儂も『玄』じゃからの。一度は具合を見なければ勤めが果たせんでな。」

 深緋は頷くと、腰に下げた刀を鞘ごと外して玄に手渡す。引換に代わりの刀を受け取って差しながら、深緋は言った。

「玄殿であれば、私の刀に問題が無いと理解していると思っていた。だが、私にも配慮が足りなかった。『繊月(せんげつ)』を頼む。」

「承った。」

 玄の返事を聞くと、深緋は静かに背を向ける。その背に、玄が言葉を投げた。

「儂を処分せんのかの?」

「……。」

「気付いておるのじゃろう、儂が『伝言を朱華(はねず)に託した』理由に。」

 立ち止まった深緋は、口調を変える事無く言う。

「朱華が責を果たしている限り、止め立てする理由も無い。『深緋』は得物を得手不得手で選ぶ事もしない。私に不都合は無い。」

 淡々と深緋は告げたが、その後僅かに声音を緩めた。

「私は、腹を割った話をされるには向かない。其方は玄殿にお任せする。『此れ迄通り』な。」

「……そうじゃの。お前さんも、儂に胸襟を開いて欲しいものなのじゃが。」

「隊員に対する深緋の役目は、監督と適切な任務選択、そして配分だ。私自身に就いても、私が監督している。私は、此れで良いのだ。」

 狼の面は玄を振り向く事は無く、美しい歩き方で工房を去って行く。深緋を見送った玄は、手の中にある刀に目を向けながら、今の言葉を思い返す。

 

――私は、此れで良いのだ。

 

(深緋は、『自分には不要だ』とは言わなんだ。あの若者にも、ちゃあんと迷いがあるのだの。)

 玄は、深緋の刀を預かって来るようにと朱華に告げた。しかし、深緋は直接訪れ、そして玄が工房で他隊員の相談役をしている事について、気付いていると匂わせて行った。玄と白橡(しろつるばみ)の二人は、其々の工房内において、覆面着衣と言葉に関する規則を免除される。だが、他の六人についてそれは存在しない。彼らが互いに万華の身分を保ったまま素の顔を晒せるのは、帝宮内の詰所である「八華(はっか)の間」の中においてのみである。しかし玄は、万華に自分よりも年少の者が増える度、こっそりと工房に招いて話を聞いて来た。入れ替わりの激しい万華である。気難しい者も居た。野心に溢れる者も居た。けれど、彼ら其々の要望に沿って最も扱い易い得物を誂え、それを管理する役目を負っている玄は、彼らの得物の扱い方で、人間としての本質を見抜けた。気難しく馴れ合いを嫌う者は、実は責務に直向(ひたむ)きになって気負い過ぎていた。野心溢れ自信過剰に見えた者は、周りを思い遣るが故に自分に仕事が回されるように振る舞っていた。過剰にも思える程手入れされた刃が、大切に磨かれた柄が、それを教えてくれた。

 深緋の刀は、玄の打ったものではない。代々深緋は、帝の神宝の中から得物とする武器を選ぶ。深緋が選んだのは、刀――正確には、太刀である。千年の昔、当代一と称された鍛治師が、國の平安を祈念して奉納したものだ。薄く繊細で美しい刀身は軽く、振う軌跡は二日目の月の如し。匂口潤む様はあたかも満開の花の沸き立つよう。双方を取り入れて沸花(ふつか)と号されたその太刀は、國の礎たる帝を守護する神宝の一つに加えられた。武器としての性能も高いが、それ以上に、技術と祈りが込められた宝剣だ。勿論、神宝の中には打刀もある。どれも「深緋」に相応しいものだ。今の世に態々太刀を選ぶというのは、余程の物好きか、あるいは。

「さて……『繊月丸(せんげつまる)』や。儂と少しばかり、語り合うてくれんかの。」

 玄は見事な拵の鞘を優しく撫でると、工房の奥へと姿を消した。

 

 

 格子窓の内側で、薄赤い行燈が畳の上に光を投げかける。互いに襦袢を纏い褥(しとね)に横たわる二人の指先が、静かに触れ合った。同じ布団の中に、二人の男女。男は女を買い、女は男を悦ばせる。それが廓の日常だ。

「冷たい手。」

 呟く女の声を聞いた色白の男は、小さく笑って顔を女の方に向ける。

「錦木さんの手は、温かいね。」

 薄暗い部屋の中、化粧をした女――錦木と同じ程に白い膚(はだ)をしたその男は、ただそれだけ言うと、僅かばかりの力を入れ、錦木の手を握る。そして反対の手を伸ばすと錦木の髪を一度撫でて、再度微笑んだ。この酷く優しく、身体の交わりを求めない変わり者の優男が、錦木の身請け先となる。

 実は、話は既に通っているのだ。男が此処に通ったのは三度。初めて床を共にした日、男に一度も経験が無い事に驚いた。しかし、その身分を思えばあり得ない事では無いと納得し、仕事を済ませた。金は充分に払われているのだ、その分の働きはせねばならない。男はぼんやりと錦木を見ていた。独りでの経験はあるだろうに、まるで初めて女を捧げた少女のような、無垢な絶望の色を錦木は男の目に見た。しかしその目は、僅かに熱をも孕んでいた。男の真っ白な頬は紅く染まっていた。そして男は、まるで初めて気付いたかのように「君は、美しいね」と錦木に告げた。身請けしたいと告げられたのは、二度目の夜だ。錦木はそれを受けた。

 今迄、身請け話を蹴って来たのは「りり」の存在があったから。しかし、幾ら生まれが此処でも、錦木と彼の関係は歪んだものだと、内心理解はしている。自分は、「りり」を妹として大切に思いながら、同時に「りり」を男として愛してしまっている。その気持ちは、初めてこの男と身を重ねた時も変わらなかった。それでも、この男は、何処か似ているのだ。性格も、外見も重なる所など無いのに、何故か錦木はそう感じた。

(あたしは、嫌な女だね。こんな純な男を、愛した男の身代わりにするんだ。)

 「りり」は錦木を「ねえね」としか思っていない。どうあっても、結ばれる事は無いのだ。ならば、互いに別の生を歩む必要がある。それには、彼を「男」にしてやらねばならない。「ねえね」の存在は、その障害となる。ずっと、そう考えて来た錦木の前に現れたのが、隣で既に手を引っ込め微睡んでいる男だった。

 彼は衛生省医局長の息子であり、自身も病院で働いているという。色白なのは、研究で屋内に籠りきりだからだと語っていた。父の紹介で店を訪れ、父の金で錦木を買い、父の許しを得て身請けを決めた、と、何の疾しさも感じていない様子で話していた。生活に不満がある様子も見られない。経験が無かったのも、大切に育てられて来たからなのだろう。錦木を身請けする気になったのも、初めての相手だったというだけで、他の女を知ったら気が移るかも知れない。それでも、錦木を「美しい」と言って笑ったあの顔に、嘘は無かった。だから、これで良い。「りり」は廓から離れる筈だ。この胸の奥の違和感も、何れ「りり」が別の女を娶る頃には、きっと消えて行くだろう。

 

 ぱちりと炭が跳ねる小さな音に、錦木は目を覚ます。真夜中であっても客に合わせて起きる癖が染み付いた身体は、僅かな変化にも敏感に反応する。しかし、隣で眠っていた筈の男は、既に身を整え終えていた。気付いた男は柔らかく笑うと、錦木の頭の側に膝を付く。

「望月さん、」

 許しを乞う言葉を吐こうとした錦木の唇の前に、男が人差し指を差し出した。

「疲れていたのかな?錦木さんがゆっくり眠れたのなら、僕も嬉しい。」

 そう言って男は錦木の頬を撫でた。冷たい手。

「君が体を壊したら、僕が怒られてしまうから。眠れる時には眠って欲しいな。」

 誰に、を男は言わなかったが、きっと父にだと察しはつく。廓の女に無茶を言うものだと思うが、それすら知らない純粋さを眩しくも感じた。錦木は体を起こす。男は「早い時間だから、見送りはいいのに」と笑いつつも、その冷たい手を差し出し、立ち上がらせる。錦木が身を整え終わると、男は少し迷う素振りを見せたが、やがて錦木を抱き寄せた。ほんの一瞬、唇が重なる。そして、男の手が錦木の頬を優しく滑る。

「もう少し待ってね、錦木さん。準備が出来たら、迎えに来るから。」

 名残惜しそうな言葉の後、男は葡萄茶(えびちゃ)の羽織を取り、そしていつもの様に、濃紅(こいくれない)に染め抜いた襟巻で口許を覆った。

 

 

 使用人が真っ青な顔で孝晴が血塗れで帰って来たと言うのを聞くや、東郷あまねは玄関を飛び出した。果たして其処には、鶯の文官服を血染めにし、頭から顔半分を包帯で巻かれた孝晴が立っている。その隣には、烏羽の警兵服を纏う刀祢麟太郎の姿。更に、歩いて来た為なのだろう、後ろの方に遠巻きに見ている野次馬の姿も見える。麟太郎が一歩足を引き振り返ると、野次馬が漣のように引いてゆくが、恐怖よりも興味が勝るのか、逃げ出しはしないようだ。麟太郎は息を吐くとあまねの前に進み出て、「有坂様を送り届けにまいりました」と告げた。あまねは孝晴を見る。表情は静かだが、その目に此方を拒絶するような色は見えない。

「何があったのです?」

「お前さんに酷ぇ事言っちまったから、自棄になって酒開けちまってな。酔って、すっ転んで、頭打って、皮を切った。血は随分と出たが、それだけだ。」

 あまねは麟太郎に目を向ける。麟太郎は頷いた。

「太田家の執事が通り掛かり、拾ってくれたそうです。処置は衣笠少尉が行いました。頭を切った部分は縫合したそうですので、今は、暫く休ませてください。」

 淡々と麟太郎は告げる。あまねにはそれが本当かは分からなかったが、少なくとも、孝晴が怪我を負っているのは事実だ。

「承知致しました。わたくしが、文書館に傷病休暇を届出ておきます。……有難う御座いました。」

 深く頭を下げるあまねに会釈を返すと、麟太郎は一度孝晴を見上げる。孝晴は表情を緩め、苦笑すると、「大丈夫だ」と一言告げて「離れ」の方に向かってしまう。着いて行こうとしたあまねは、残された麟太郎がじっと自分に目を向けている事に気付き、足を止めた。

「……。刀祢中尉。」

「はい。」

「貴方が見ている孝晴さんを、わたくしも……わたくしにも見せて頂けるよう、努力します。」

「……。」

 麟太郎は無言で頭を下げ、踵を返して去って行く。あまねには、自分の言葉が麟太郎にとって正しいものであったのか、分からなかった。

 

 

 書斎の中では、一人の青年が座って書類の整理を行なっている。紙の中身は、政策や議案に関するもの、支援者の取り纏め、遊説先候補と日程の調整、等々。纏めずに垂らされた髪が椅子の背に掛かり、青年の手元が僅かに動くのに合わせてはらはらと落ちる。暫くそのまま作業を続けていた青年は、障子の外から聞こえた声に手を止めると、身に合った背広を引き延ばすように、両手を上げて「うーん」と伸びをした。

「居るよ。入り給え。」

「禮君、もしかして朝からずっと此処に居たのかい?」

 振り返った青年の目線の先で開いた戸から入って来たのは、勘解由小路鐵心だった。青年は目を細めたまま笑顔で応じる。

「君にばかり仕事を任せていては、申し訳が立たないからね。君が帰ったら渡せるように、作って置いたのだよ。」

 青年は立ち上がると、纏めた資料を掲げて見せる。鐵心は関心して息を吐いた。

「流石は禮君だな。僕は、書類仕事は少し不得手だよ。こうして歩き回る方が、性に合う。」

「慣れという所はあるかな。人間、時間さえ掛ければ、やって出来ない事など無いのだよ。それに、得意な分野を活かすのは、悪い事ではない。一人で成り立たない事も、こうして協力すれば、成し遂げられるものだからね。」

 話しながら青年は鐵心に近付き、鐵心が鞄から取り出した書類と手に持った資料を交換する。鐵心はそれを鞄に仕舞うと、青年に言った。

「そうだ、禮君。僕はこの後、少し時間を貰う事にしたんだ。川田先生にはお許しを貰ったが、君にも伝えて置くよ。」

「何か用事かい?」

「有坂家に見舞をしようと思ってね。」

 何気なく訊ねた青年は、その返答に、一瞬表情を硬直させた。しかし、常に笑みを浮かべている青年の表情は殆ど変化せず、鐵心はそれに気付かなかった。

「有坂家の誰かに、何かあったのかい?」

「御三男が、またお怪我をされたらしくてね。どうも最近、孝晴様には運がない。まあ……前回は僕の不注意というのもあるが……年末の挨拶も兼ねれば丁度良い。」

「そうか……問題は無いよ。私は先に昼食を取る事にしよう。午後も忙しくなりそうだからね。」

 青年は鐵心と入れ替わりに部屋を出ると、上着と帽子を取って身に纏う。屋敷から出て行く彼は、何時もと同じ笑みを浮かべていた。

(『怪我』か……。)

 笑みの下で、青年は考える。有坂孝晴は、間違い無く『頭を撃ち抜かれて死んだ』。少なくとも、武橋金次は動揺していたし、自分にもそう見えた。だが……。

「やはりあれは、『有坂の血』だったか。今度こそ、欲しいものだね……『我が仔』の為に。」

 小さく呟いた青年は、次の瞬間には既に、本日の昼食の内容に思いを馳せていた。

 

 

 太田榮羽音(ヨハネ)は、一人部屋に閉じ籠もって布団を頭から被っていた。部屋の中はしんと静まり返り、榮羽音の不安と恐怖を掻き立てる。榮羽音の手の中には、便箋の束が握られている。鐵國に居る母から送られて来た手紙だ。鐵國で母と出会った父は、その身分に構わず母を娶り、二人の間には榮羽音が生まれた。榮羽音が五才の年に出会った鞠哉にも、母は自分の子のように接していた。父の帰国が決められた折、父は母を旭暉に連れ帰るつもりであったが、母はそれを拒んだ。低層の出身で旭暉語も分からない自分が着いて行っても、父の足を引っ張ってしまう、と。

 母は自分に出来る事と出来ない事をよく理解しており、父は何度も話し合ったが、最終的に二人は別れて生きる事を決め、父は榮羽音と、引き取った鞠哉と共に帰國した。父と母が離婚までした理由は、無知な榮羽音には理解(わか)らない。しかし二人は間違い無く愛し合っており、母は現在、宿屋に住み込みで働きながら元気に暮らしている。手紙の遣り取りはそんな近況を知る唯一の手段である。母は榮羽音と同じように、何をやっても上手くいかない。洗濯物を干せば紐が緩んで全て落とし、料理をすればパイを焦がすか半生にし、当時の鞠哉に怒鳴られて泣いた事もあった。ただ、歌が好きで、鐵國や外ツ國の歌をいつでも歌っていた。怒られても、榮羽音のように落ち込む事は無く、歌を歌うと元気になれるのだと言って、すぐに切り替えていた。そんな母が榮羽音は大好きで、そして憧れでもあった。何でも一人で出来る優しい父も、榮羽音の憧れだ。そして、鞠哉も……。

「……。」

 榮羽音は手紙を握る手に力を込める。昨日の夜、鞠哉は帰って来なかった。異人街のユーリから遅れると連絡はあった為、交通手段が無くなり帰って来られないのではと、父は迎えを送っていた。金次が訪れたのは、その時だった。彼は榮羽音を呼び出すと、唐突に尋ねた。

 

 ――お前、人を殺した事はあるか?

 ――勿論だ、俺だってお前がそんな奴だとは思ってねぇよ。

 ――ただ、お前の執事はどうだろうな?

 ――お前は、あいつが何をしてるか、全部知ってる訳じゃ無ぇだろ。

 ――お前の嫌いな相手が、そのうち死体になって出て来るかも知れないぜ。

 

 鞠哉は、昼になる前に帰って来た。疲れているようだったが、仕事の様子は何時も通りだった。しかし、鞠哉の帰りが遅くなった理由を父から聞いていた榮羽音は、何時ものように接する事が出来なかった。……怪我を負った有坂孝晴を手助けした。その怪我というのは、本当に偶然負ったものなのか?――鞠哉が、自分の為に、有坂孝晴を排除しようとしたのでは?

 そんな筈はない、鞠哉は、人を殺そうとなんてしない。けれど、鞠哉は暴力を振るう事に躊躇しない。鐵國に居た頃は彼の拙い言葉や容姿を笑った者に拳を振るい、榮羽音は何度もそれを見て怖くて泣いた。旭暉に来てからも、榮羽音が誘拐されかけた時、何人もの大人を相手に殴り合いを演じた。その時は自分を守る為であったし、今はそれが頼もしい部分ではある、のだが。

(マリーは、僕の為に、間違った事をしてるの……?でも、ママ、僕、どうすればいいの。だって僕、何も出来ない……いつも助けられてばっかりで、僕がマリーにしてる事なんて、なんにもないよ……。どうしたら……僕……。)

『マリーが僕の知らないマリーになっちゃったら、僕、嫌だ……。』

 じわりと視界が滲む。泣き虫な自分が大嫌いだ。弱虫な自分も、大嫌いだ。直接尋ねる勇気の無い、意気地無しの自分も、大嫌いだ。大嫌いな自分しか居ないこの部屋で、瑛羽音は疲れて眠ってしまうまで、布団に隠れて泣き続けていた。

 

「帝國の書庫番」

丗幕「感染」



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