孤独におやすみ (なでしこ)
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孤独におやすみ

 

 

 

 やけに静かなこの部屋は、無駄に空気だけが重かった。()()を待たせる場所にしては、少し無理がある。座っただけで高級だと分かるソファは、彼女の体をよく受け止めた。

 約束の十分前に来たことは決して悪いことではない。遅刻するよりは幾分もマシだ。それなのに受付の人間は、彼女の姿を見て顔を引き攣らせた。

 それは彼女が一番分かっていた。自分は来客ではないことぐらい。それだけに、こんな待機部屋を用意してくれたコトに驚いていたのだ。

 瞼を閉じれば、広がる夢。躍動するウマ娘たちのレース。物足りなさを感じながら見守っていたあの日のこと。自身の他に誰も居なかったせいで、彼女は思わず口角を上げる。

 熱狂が足りない。魅力が足りない。迫力が足りない。夢が足りない──―。近頃の観衆がそんなことを考えながら観ていることぐらい、彼女は知っていた。当の本人も同じ気持ちなのだから。

 それが、今変わろうとしている。あれだけ物足りなかった中央のフィールドに新たな夢が舞い降りようとしている。そしてそれをカタチにするために──―自身が居る。

 面白いぐらいに、あのウマ娘が走る姿が頭をよぎる。初めて見たあの日のこと。そして観衆が彼女に惹かれていく顔。そのどれもが美しく、この世界を彩ってみせた。そしてそれは、未来へ繋がる虹の架け橋となる──―。

 思いの外、自身が冷静であることを証明するような思考であった。それからすぐ、ノック音とともに小太りの男が姿を見せた。目が合うと、男は呆れたように言う。

 

「いいかね。──ルドルフ君」

 

 立ち上がった彼女は、表情を変えず開かれた扉へと脚を進める。

 ローファーが床を踏む。乾いた音が聞こえてくるぐらいに静かな部屋で。彼女の胸の中に眠る意識は、記憶の旅に出る。

 

 

 ★★★★

 

 

 日本ウマ娘トレーニングセンター学園。通称・トレセン学園。その生徒会長室でシンボリルドルフは、大量の書類に目を通しながら淹れたての紅茶に口付ける。少し舌が痛むぐらいの熱さがちょうど良かった。

 我ながら良い味になっている、と鼻を鳴らす。外では鳥たちの声がよく聞こえる朝であった。

 

「──少し濃いんじゃない?」

 

 ボールペンの動きを止めて、僅かに視線を上げる。その先では、声の主が悪戯っぽく微笑んでいた。朝日が姿を見せる時間にしては、少しばかり妖艶な笑みである。

 

「私には丁度いい塩梅であるが」

「疲れてるのよ。なのに、こんな朝からお仕事なんて」

「それが私の役目だからな。マルゼン」

 

 シンボリルドルフは笑ってみせたが、マルゼンスキーの目から見ても少し痛々しい顔であった。当の本人はそれに気付いていないのが寂しくもあった。

 荘厳で他人を寄せ付けない雰囲気の生徒会長室。扉の前に立つだけで足が震えてしまうという話も少なくない。だがその中は至って普通の空気感である。堅苦しさの中に、マルゼンスキーの柔らかさが中和している。

 加えて、室内に差し込む朝日が後光のようにシンボリルドルフを照らしている。ふふっ、と微笑むマルゼンスキーの顔を見ても、彼女は何も言わなかった。

 二人が所属するトゥインクルシリーズは日本最高峰のウマ娘たちがしのぎを削る。それだけに、観衆を熱狂させるレース展開も多い。そうして人々はウマ娘の虜になってきた。

 それは過去からの積み上げ式で、今現在も中央の()を保つためにシンボリルドルフをはじめとする代表的なウマ娘の存在が欠かせないのである。

 

「読まなくても良いんじゃない?」

「それは無理な話だ。これらの書類は──」

「ちがう。()()の話よ」

 

 言いかけた言葉を飲み込んで、マルゼンスキーの視線を追うと、テーブルの上に置かれたウマ娘新聞。文字通り、ウマ娘の情報に特化した専門紙だ。レース結果だけでなく、業界を網羅していることで評判は高い。世間の新聞離れが叫ばれているものの、シンボリルドルフは毎回欠かさず読んでいる。

 彼女にとって、時代の流れを汲む上でいい情報源になっていた。それなのに、否定的なマルゼンスキーの言葉の意味を理解出来なかった。

 

「ふっ。気に障る記事でも書かれたのか?」

 

 自身の記憶には残っていなかったが、もしかしたらという思いを込めて問いかけた。するとマルゼンスキーは苦そうに笑う。

 

「もう。ちがうわよ」

「なら何故」

「寂しいじゃない」

「……記事量は多いと思うが」

「そうじゃなくて。トゥインクルシリーズのこと」

 

 軽快とまでは行かなくとも、順調に走っていたボールペンがまた止まった。同時に顔を上げるシンボリルドルフ。マルゼンスキーも彼女の顔を見つめていて、今日初めて目が合った気がした。

 

「それが分かるから、切なくなる」

 

 マルゼンスキーの呟きに対して、聞こえないフリをして。意図的だと悟られないように目線を外したシンボリルドルフは、ボールペンを丁寧に置いて高級な椅子にもたれる。力の抜け具合を見ても、どれだけ自分の体が強張っていたかが良く分かる。虚な視線を天井に送ると、あまり綺麗ではないと気付いた。

 

「あなたの抜けた穴は、あなたが思っている以上に大きなモノなの」

「だからと言って私に出来ることは限られている。もう一線を退いたのだから」

「……そうね。ごめんなさい」

 

「気にしないでくれ」くるりと椅子を九十度回転させた。わずかに軋む音がして、高級感が薄れる気がした。

 シンボリルドルフは窓の外に広がる青空を見上げてみる。朝日も先ほどよりは高くなっていた。心が晴れるはずの青い空なのに、そうはならない。靄がかかったままである。

 二人がこの会話をするのは、初めてではなかった。基本的に、二人で会う時は必ずと言っていいほど話題に上がる。そして、今みたいに答えの出ないまま疑問だけが宙に浮く。

 イタチごっこになると分かっていても、口にしてしまうのだ。中央のことを誰よりも思っている二人だからこそ。

 

 絶対的スターの不在──。今のトゥインクルシリーズが抱えた重大な課題となって、シンボリルドルフの肩に思い切りのしかかっていた。そして、その右腕として支えるマルゼンスキーにも。

 もう一度、椅子をくるりと回転させる。やはり少し軋む音。高級そうなのは見かけだけらしい。

 

「ルドルフ、酷い顔をしてる」

「……そうか」

「私には想像できないほどのストレスだと思う。たまには発散しないと」

 

「分かっている」と言いつつ再びペンを手に取るもんだから、マルゼンスキーは少し呆れて彼女のペンを取り上げて見せた。一方のシンボリルドルフは、いつもより強引な彼女に小さくため息。

 

「マルゼン」

「働きすぎよ。あなたが倒れたらそれこそ本末転倒じゃない」

「だが……」

「時間が無い、とでも言うんでしょ?」

 

 シンボリルドルフは言葉を飲み込んだ。言い当てられたせいで、それを続ける気にはなれなかったからである。その代わり、言葉を紡いだのは優しい視線を送るマルゼンスキーの方であった。

 

「私が出来ることはやっておく。大丈夫。生徒会のみんなも喜んでたわ。貴女(シンボリルドルフ)を休ませたいって伝えたら『ぜひお願いします』って。貴女、気を遣わせすぎよ」

 

 反論する暇を与えないように、マルゼンスキーは彼女の肩を優しく叩いて席を立つように促す。断固として動くつもりは無かったシンボリルドルフであったが「彼女の優しさを無下にするのは申し訳ない」なんて感情が湧いてきたせいで、意外とすんなり腰が上がった。

 

「……休めと言われてもだな。何をすれば」

「そうねぇ。()()()()()で叫んできたら?」

 

 彼女にとって、それはあまりにも懐かしい単語であった。無論、忘れていたわけでは無い。ただ触れる機会が減っていただけで、どのウマ娘も通ってきた道である。

 

「今の私には難しいかもしれないな」

「昔はこっそり叫んでたじゃない」

「……昔の話だ」

 

 大樹のウロは、井戸のように地面へ穴を開けられた切り株のこと。レースに出られない悔しさ、勝てない辛さ、はたまたそれ以外のストレスを、その穴に向かって叫ぶ。周りがどう思おうが関係無い。ある意味、このトレセン学園で一番ウマ娘の本音を聞いてきた存在だ。

 

「そうじゃなかったら、横になったら? あんまり寝てないんでしょ」

 

 他のウマ娘と違い、マルゼンスキーの前では弱い自分を見せることに抵抗が無かった。純粋に付き合いが長いということを差し引いても、彼女は相手を包み込む能力に長けている。シンボリルドルフに限った話ではなかった。

 

「……では少しだけ」

 

 ここで横になるのなら、ソファしかない。マナーというか、生徒会長としての品位を気にするシンボリルドルフであったが、マルゼンスキー以外に誰も来ないであろうと自身に言い聞かせた。それだけ、彼女の疲労が体に蓄積されていたのである。

 

「ソファが大きくて良かったわね」

 

 マルゼンスキーのその問いかけに、シンボリルドルフは返事をしなかった。横にならず、ただ深く腰を落としているだけ。不思議に思った彼女は、顔を覗き込む。

 穏やかな顔で深い眠りに落ちていた。規則正しい呼吸音。気が抜けた瞬間こうなってしまうのだから、普段彼女なりに肩肘を張っているのだ。それをマルゼンスキーは知っていた。

 トレセン学園の生徒会長に就任してから、笑うことが減った。本当はダジャレ好きで気さくな性格をしているのに。唯一の七冠ウマ娘になってしまったが故に──。

 

「……体に悪いわよ。こんな紅茶」

 

 ──未来を憂う味がしたのである。

 

 

 ☆☆☆☆

 

 

 すでに星が広がっていた。月明かりが綺麗に差し込んでいて、夜の訪れを覚醒していく頭が理解する。立ち上がって明かりを付ける。目を覚ましたシンボリルドルフは、寝過ぎたと後悔すると同時に一枚の置き手紙へ視線をやった。

 

 ──おはよう。書類は片付けておきました。戸締りよろしくね。

 

 おはようと言うには、少し気が引ける時間であった。マルゼンスキーには申し訳ないことをしたと。壁時計を見ると、針は十九時を回っている。半日も眠っていたのだ。

 若干の後悔がシンボリルドルフの心に居座るものの、それはすぐに消え去る。むしろ、先ほどよりも頭の中がスッキリして、心地が良かった。

 ただずっと座った体勢で眠っていたせいか、全身の筋肉が凝り固まった感覚がひどい。思い切り背伸びをすると、盛大に骨が鳴った。

 マルゼンスキーが掛けてくれたであろうタオルケットを綺麗に折り畳んで、部屋の明かりを消す。すでに校内の明かりも消されていて、少し不気味ですらある。ただそういうのに恐怖心を抱かないのがシンボリルドルフでもある。

 校舎を出ると、視界が明るくなった気がした。星空である。普段意識していなかったけれど、この世界を明るく照らしてくれる存在。見上げた彼女の脳裏に、ふと言葉がよぎった。

 

 ──大樹のウロで叫んできたら? 

 

 朝のマルゼンスキーとの会話である。彼女に言われるまで頭の片隅に追いやっていたその存在。しばらく気にしていなかったせいで、妙な好奇心が湧き出てくる。自然と、脚はそちらを向いていた。

 ストレスを叫ぶ、と言われたが、いざ目の前にすると懐かしさが勝ったのだ。この時間帯は、他にウマ娘が居ないこともあって隠れて叫ぶのにはもってこいの時間でもある。

 大樹のウロに近づいて、穴の底を覗き込んでみる。底が見えない、まさに闇。そんなに深くはないはずなのに、夜というのも相まって不気味であった。同時にそれは、ウマ娘の心の闇で出来ているようにすら彼女には見えた。

 

「私は何も変わっていない。弱いままだ」

 

 それに背を向けて呟く。言葉にしたのはいつぶりかすらも分からない弱音だった。

 シンボリルドルフというのは、苦しかったレースを思い出すだけで、汗が噴き出てくるようなウマ娘なのだ。いつの間にか、自身の弱さを人前に出さないように出さないように意識して。

 自分が情けないと思ったことは無い。無いけれども、中央を包む()()()()()を埋めるだけの何かを出来ない。自己否定の感情から逃げるように、一歩、二歩と大樹のウロから離れる。

 

「──もう帰るのか?」

 

 それは夜の空気によく響いた。

 シンボリルドルフの肩がビクリと跳ねる。あまりにも唐突な問いかけであったせいだ。声は自身の背中から。つまり、大樹のウロの方から聞こえるではないか。

 大樹のウロの後ろは校舎の壁で、人が出入りすることは出来ない。はじめての経験で、心臓の鼓動が早くなるのが自分でも分かった。意を決して、恐る恐る振り返る。

 

「やあ。待っていたよ。シンボリルドルフ」

 

 長く伸びた黒髪に、少し釣り上がった目。黒いジャージのようなモノを見に纏っている。そして何より、自身と同じ頭の上に付いた耳。目の前に居るのはウマ娘であるのに、()()()()()()。シンボリルドルフの直感がそう言った。

 しかし、声を掛けられた時よりも恐怖心は無かった。危害を加える様子もなく、妙な親近感すら覚えるぐらいだ。

 

「ウチの生徒では無いな。──誰だ」

「やっぱ気になる? ……まぁそうか」

 

 大樹のウロ。そのフチに腰掛けたウマ娘は、頭をぽりぽりと掻きながら考えている。重心が後ろに行くだけで落ちていきそうな雰囲気すらある。やがて、思い付いたように。

 

「この切り株に住まわしてもらってる。ホームレスウマ娘、とでも言っておこうか」

 

 シンボリルドルフは、ジッと彼女の目を睨みつけた。

 

「──私は真剣に聞いているんだ」

「む。真剣に答えたのに。ひどいなぁ」

 

 ホームレスウマ娘、と名乗る彼女は、わざとらしく首を傾げた。身なりはホームレスと言う割に綺麗な格好をしている。ジャージではあるが。だからシンボリルドルフはイラつく。

 からかうな、とまさに言おうとした瞬間である。先に言葉を紡いだのはホームレスウマ娘であった。

 

「──孤独だろう」

 

 思わず、シンボリルドルフは目を見開いた。そして鋭く彼女を睨みつける。まるで自己を守るための本能が働いているように。

 

「なに?」

「見える。心の奥がよく見える。孤独に飲まれそうになっているな。シンボリルドルフ」

「……随分と分かったような口を利くのだな」

 

「分かるさ」ホームレスウマ娘は夜空を見上げながら言う。攻撃的な態度ではなく、どこか穏やかなソレに、シンボリルドルフも思わずため息が出た。

 純粋に、彼女の言うことは正しかったからだ。だから何も言えなかった、と表現した方が正確である。シンボリルドルフの心の奥底にある孤独感を一目で言い当てたのだ。

 彼女は、ただのウマ娘ではない。本能が訴える。先ほどまで誰も居なかった場所に、突如として現れたウマ娘。まさに超常現象だと疑いたくもなる環境が揃いすぎていた。

 

「あたしはここの全てを知っている。お主の悩みも、他のウマ娘たちの悩みだって」

 

 それが戯言(たわごと)だとは思えなかった。妙な説得力を纏っていたせいで、シンボリルドルフは彼女から視線を外す。

 (はた)から見ても、この大樹のウロで生活出来るとは思えない。思えないが、シンボリルドルフはあえて考えた。彼女の言葉を鵜呑みにしたケースを。だがそれも、すぐに彼女の言葉で遮られる。

 

「噂には聞いていたが、(おぞ)ましいな。お主の雰囲気は」

慮外千万(りょがいせんばん)。貴女にそのようなことを言われる筋合いはない」

「や、つい。気を悪くしないでおくれ」

 

 実際、悍ましいと言えばその通りであった。トレセン学園の生徒会長というのは、そういう存在であるべきだと、シンボリルドルフ自身が理解していた。極端な話、近寄り難い存在であるべきだと。

 マルゼンスキーのような存在は異質であると同時に、シンボリルドルフにとっては心を許せる存在でもある。言い換えれば、彼女以外にそう呼べる者は居ないということ。

 

 ──だから、孤独なのだ。

 

 頼りたい時に頼ることが出来る存在は、生きていく上で極めて貴重なモノである。シンボリルドルフは、生徒会長になってそれを痛感していた。

 

(いただき)というのは、常に孤独なのだよ。この世界は、そうやって出来ている。ウマ娘に限った話ではないがね」

「面白い事を言う。私はそうは思わない」

「そうかい」

 

 見栄を張った、といえばそれまでだ。嘘をついたシンボリルドルフの口角は下がり、視線も無意識に揺れている。

 対照的に、ニタっと口角を上げた彼女。その顔は、痺れるような違和感をシンボリルドルフに与えた。不気味に笑うこのウマ娘。何を考えているのかまるで見当がつかなかった。

 

「史上唯一の七冠ウマ娘。唯一無二の存在であるが故に、お主にしか分からない重圧もあるであろう」

「……やはり貴女は、分かったような口を利く」

「だから言ったであろう。あたしはお主のことを知っていると」

 

 加えて、この見透かしたような視線。ホームレスウマ娘の青色の瞳が揺れる。美しいはずなのに、シンボリルドルフは不快だった。心の中に土足で上がり込んで、好き勝手荒らして。その挙句に、自身のことを知っているなんて言ってくる。

 それは握り拳となって、彼女の内面を表現した。ホームレスウマ娘は、呆れたようにため息を吐く。

 

「最強であったお主は、今の立場を受け入れた瞬間、象徴(シンボル)になってしまった」

「…………」

「トレセン学園の生徒会長になるということは、日本のウマ娘の象徴である。お主も分かっておるのだろう」

「無論だ」

 

 顔を背け、同意する。数秒後。おもむろに口を開く。

 

「私には責務がある。このトレセン学園の歴史を守り、未来へ繋ぐという」

「歴史、ねぇ。良く言えばそうだろう」

「……なんだと?」

「積み上げられた歴史の上にお主たちは生きているのは事実だ。だがそれは、歴史という名の()()の上に立っているだけ。つまり、前に進むことを最初から知らないのだよ」

「屁理屈を」

「事実ではないか」

 

 コンクリートすら砕ける錯覚。それだけ彼女の握り拳は硬くなっていた。シンボリルドルフは、真っ向から否定することが出来なかったのだ。本来ならそうすべき立場であるのに。

 

「何故悩む? 何がお主を立ち止まらせる?」

「……何が言いたい」

「まだ分からぬか。前に進む気がないのかと問うている」

 

 心臓を握り締められた感覚だった。このまま語気を強められれば、ソレを握り潰してしまうのではないか、と思わせるほどに。

 そう言われて初めて、自身が過去に囚われているのだと悟った。

 シンボリルドルフは、この不思議な感覚の正体を探っていた。何が違い、何が今の自分を狼狽えさせるのか。時折、風で木々が揺れる。その自然の音ですら喧しい。

 

「生憎、これ以上貴女と議論をする気はない」

「随分な言い草だね。あたしみたいな怪しい奴の言葉には聞く耳を持たないってわけかい」

 

 大樹のウロのフチに腰掛けていた彼女は、立ち上がって背伸びをする。背はシンボリルドルフと変わらないせいか、二人の間には妙な圧迫感が生まれた。

 

「お主は、ウマ娘にとって何が一番大切だと思う」

「議論をする気は無いと言っただろう」

「そうではない。これは一方的な問いかけだ」

 

 屁理屈である。分かってはいたものの、シンボリルドルフは無意識のうちに頭を回していた。

 観衆の熱狂というのは、ウマ娘が走る活力にもなりうるのだ。走りたいと本能が叫んでいて、風を切るあの感覚、ターフの感触、そして観衆の大声援──そのどれもが、ウマ娘の存在意義なのである。

 

「──夢を与えられる力があるか、どうか」

「……意外だな」

 

 ホームレスウマ娘の口からは思わず言葉が漏れた。理論的に物事を考えるだけの生徒会長だと認識していただけに、その答えはあまりにも意外であった。

 一歩だけシンボリルドルフに近づいた。二人の間には十分な距離があるが、その圧迫感にビリリと空気が震えたような。

 

「お主がそんな抽象的なコトを言うとは」

「あくまでも理想の一つだ」

「現実にすれば良いだろう」

「簡単に言うのだな。そんな素質を持った奴はそう簡単に生まれない」

「そうだろう。特に()()()大きすぎるだけに」

 

 嫌味であったが、シンボリルドルフはまともに相手をしなかった。このまま背を向けて去ることだって出来るのに。それなのに、彼女の脚は地面に埋め込まれたかのように動こうとしなかった。

 不快と感じていた胸の中は、いつの間にか無くなっていた。残ったのは、妙な爽快感と()()()

 変革期を迎えているトレセン学園。絶対的スターの出現を心待ちにしている観衆たち。待っているだけでは出てくるはずもない。出る杭を引っ張り上げる以前の問題だ。

 入学してくるウマ娘は個性的で、一つのきっかけで大きく跳ねる素質を持った者たちばかりだ。ただ観衆が求めるスター性と呼ぶには違う。

 真のスーパースターは、努力で後付け出来ない。生まれ持った絶対的な才、それを無駄にしないツキ、そして日頃の努力──。その全てが揃ったウマ娘だけが成り得る存在なのだ。

 

「お主だからこそ出来ることがあるはずさ」

「……」

「それが特権という奴じゃないのか? お主(シンボリルドルフ)に与えられた唯一の。前例を壊すぐらい、容易だろう」

 

 そして、自らの手には委ねられていた。この権力をふるうだけのタクトが。史上唯一の七冠ウマ娘と呼ばれ、日本ウマ娘界の象徴として。

 

「……今が耐え時なのかもしれないな」

 

 最後の最後に、ホームレスウマ娘は嫌味のない笑い顔をした。つられるように、シンボリルドルフも少しだけ口角を上げる。

 

「帰るのか?」

「これ以上、貴女と()()することはない。それに、私にも意地がある。トレセン学園の生徒会長として」

「なんだ。要は慣れないお説教に疲れたってわけ」

 

 背を向けていたシンボリルドルフは、くるりと回る。

 

「それと、そろそろお帰りになった方がいいのでは? ホームレスなんて、変な嘘をつかず」

「どうしてそう思う?」

「貴女は、何者なのだ」

 

 その問いかけに、彼女は答えなかった。ニヤリと心を見透かしたように笑って。

 ただシンボリルドルフに見つめられると、バツが悪そうに頭を掻いた。一向に言葉を紡ごうとしない。それは、自身が嘘をついている肯定だった。

 

()()()()()()()()、とでも言っておこう」

「……そうか」

 

 再び振り返ったシンボリルドルフを呼び止めるように、彼女はわざと大きな声で「そうそう」なんて言う。

 

「カサマツにどえらい芦毛がおったんや──」

「なに?」

 

 シンボリルドルフの問いかけには、二つの意味が込められていた。

 一つは、藪から棒に何を言い出すのか、ということ。もう一つは、どうして急に関西弁を使ってみせたのか、ということ。

 

「──そんなことを言ったウマ娘が居てな」

「……」

「一人でブツブツと喋って去っていったよ。独り言にしては(やかま)しかったせいで、あたしの頭から離れん」

 

 綺麗に晴れた夜空であったが、白いイナズマに貫かれたような渇き切った空気。それに撃たれたような痛み。

 

 シンボリルドルフは思う。

 

 この世界は、自身が思っているよりもずっとずっと広いということを──。

 

 

 ☆☆☆☆

 

 

 愛知県豊明市。この日の中京レース場は、平日にも関わらずそれなりの観衆がターフに視線を送っていた。地方のレース場としては最大級の規模。週末になればトゥインクルシリーズのレースも開催されるぐらいだから、それなりの設備を揃えている。

 

「──珍しいわね。貴女が地方に出向きたいなんて」

 

 マルゼンスキーの問いを、シンボリルドルフはターフに視線を送ったまま聞いていた。

 

 中京盃──。今から始まるレースにはトゥインクルシリーズに所属するウマ娘は出場しない。いわば地方、ローカルレースである。客観的に見ても、中央のトップであるシンボリルドルフがこんな地方のレースを観に来る理由は無かった。

 純粋に、レベルが落ちるからだ。シンボリルドルフがわざわざ脚を運んでまで観るには、明らかに物足りない。今から走るウマ娘たちだって、そのぐらいのことは理解している。

 なのに、彼女はこの場に居る。 何故か? 答えは、あの夜に遡る。

 

 ──カサマツにどえらい芦毛がおったんや

 

 別れ際、彼女から言われた言葉が頭にこびりついていた。関西弁だからかもしれないと考えてしまうあたり、やはりこの方言は脅威的である。

 シンボリルドルフが調べてみると、その存在は確かにあった。一目瞭然であった。

 十戦八勝。二着が二回と、地方とはいえ圧倒的な成績。そんなウマ娘が居るのなら、すぐにシンボリルドルフの耳に入ってくるのだが。彼女に関してはそうもいかなかった。

 ターフに入ってきた彼女を、双眼鏡越しに見つめる。あの夜聞いた通りの見た目をしている。

 

「芦毛か……」

「えっ? でも芦毛のウマ娘は──」

「走らない。そう言われているな」

 

 芦毛のウマ娘は走らない──。この世界における常識。マルゼンスキーの問いに答えながら、シンボリルドルフは考える。

 誰が言い出したのかすら分からない。噂話が肥大化しただけ、と受け取る者も少なくはない。だがそれが一人歩きしたのには明確な理由があった。

 現に、実績を残す芦毛のウマ娘が現れなかった──。これが一番大きかった。いつしか人々はそれを、根拠に基づく事実として考えるようになったのだ。

 だからヒトは、盲目になる。ウマ娘に従事する者ほど芦毛という先入観に呑まれ、心のどこかで彼女の存在を否定する。

 

 ──歴史という名の前例の上に立っている

 

 奇しくも、あの夜の言葉が心にスッと沈み込んでいった。

 

「だが一流になるような奴は往々にして、そういった既成概念を打ち破る」

「随分と期待しているのね」

「そう聞こえるか?」

「えぇ。とっても」

 

 微笑むマルゼンスキーを横目に、再び双眼鏡を覗き込んだ。初のターフ、初の遠征だという彼女の顔を食い入るように見つめる。

 オーラと呼べるモノは感じられない。片田舎に居るウマ娘だと言われて、疑問を抱くこともない。まさに見かけ通りの芦毛である。

 シンボリルドルフは、にわかには信じられなかった。本当にあのウマ娘が、カサマツを席巻しているのだろうか、と。

 

「まるで願っているみたい」

「……私が?」

「彼女が何かを変えてくれる存在になってほしいと」

 

 何も言わず、ただウマ娘たちがゲートインしていく様子を眺める。カサマツ以外で走ったことのない彼女と、そのトレーナーにとっては、力試しの意味合いが強いレースだった。

 中京盃は、東海ダービーを目指す二人にとって重要な通過点。初の遠征、初のターフ、通用するかしないかは置いておいて、大きな経験値を得られると踏んでの出場。

 ジュニアクラウンを制して、中京盃──。それは、当たり障りのない育成プランのはずであった。──並のウマ娘であれば。

 

 芝。一六〇〇メートル。良バ場。

 ゲートが開くと同時に、駆け出すウマ娘。燃え出す前の炎のように、じわりじわりと観衆が温まっていく。

 シンボリルドルフが注目する芦毛のウマ娘は、三番のゼッケン。中団の位置をキープしていた。

 綺麗なフォームで、塊の中に溶け込んでいる。が、チラチラと芦毛を確認するウマ娘たち。それはシンボリルドルフから見ても分かりやすく、()を放っているのだろうと察する。

 しかし、特段目を引くレース展開ではない。ため息に近い感情を吐いた途端、彼女は視線を奪われる。

 第三コーナーを回り、中団の位置をキープしていた彼女が加速を始める。これまでエンジンを温めていたかのように、急激に伸びていく。

 

 声が聞こえてきそうだ。彼女たちの叫びが。思いが。負けたくないっ! ──と。

 中央も、地方も同じなのだ。レベルの違いがあるにせよ、レースの本質は変わらない。隣のウマ娘よりも、早くゴールを駆け抜ける。そのために、彼女たちは血の滲むような努力をする。

 思わず感情が溢れそうになった。マルゼンスキーに悟られないよう、手で口元を隠す。

 その本質の中で、一際光り輝く可能性。カサマツが生んだ芦毛のウマ娘。それが今、大きく飛躍するきっかけを掴もうとしているではないか。

 スパートを掛けた第四コーナー。溜めに溜め込んだ欲求を爆発させるように、脚が跳ねる。ターフを抉る。空気を切り裂く。

 その()()()姿()()は、初めて見る者を驚愕させる。シンボリルドルフも例に漏れず。中央でも滅多に見ない。いや、そもそもどうしてその姿勢で走れるのか理解できない。

 その(さま)は、まるで弾丸だ。灰色の弾丸が飛んでいる──。隣からはマルゼンスキーの感嘆が聞こえる。

 

 結果、先頭を走っていた二人のウマ娘を悠然と差し切り、見事一着でゴール。わずか一分二十秒の空白。

 

「……ほう」

 

 後続を二バ身離してのゴール。圧巻の展開だった。まさに横綱相撲と呼ぶに相応しいレース。

 観衆は沸いた。名も知らぬ芦毛のウマ娘が見せた会心の走りに、一撃で心を奪われた。

 その様子を、シンボリルドルフは黙って見つめる。彼女の持つ爆発的な個性。完全に目が覚める前の才能。砂漠の中からガラスの靴を見つけてしまった気分である。

 そして、直感が訴えた。彼女は中央でも通用する──と。

 

「彼女にも目標があるのかもしれない」

 

 マルゼンスキーがそう言ったのは、これからシンボリルドルフが起こそうとする行動を、予測出来たからである。

 ただ言われた方は、水を差された気になる。興奮冷めやらぬ様子で反撃する。

 

「否定的なのだな」

「あら、違うわよ。彼女だってカサマツでやりたい事あるかもしれないじゃない」

 

 何気ない会話であるが、実に皇帝の右腕らしい言い方であった。

 中央に来るとなれば、彼女を取り巻く環境が大きく変わることになる。レースに出ることだけが幸せではないことを知っているから、念のための問いかけだ。

 

「少なくとも、地方に居るべき()()()ではない」

「……ふふっ。それもそうね。一応の確認よ。気を悪くしないで」

 

 結果的に、あの夜が功を奏した。と言っていいだろう。ここまで強いウマ娘であれば、遅かれ早かれ噂は聞こえてきたはずだ。

 しかし、シンボリルドルフにとっては今日見に来たことに意義があった。ホームレスウマ娘との会話した記憶がまだ熱いうちに。

 地方から中央に転入すること自体、全く無いわけではない。年に何人かは引っ張り上げられる形で編入してくる。

 だが現実は厳しいもので、中央のレベルはローカルシリーズと比較しても段違いである。努力では埋めきれない絶対的な差を痛感し、踵を返す者も多い。

 

 その風潮を壊す──。そんな可能性を感じさせるレース、走りを彼女はしてみせた。皇帝、シンボリルドルフの前で。

 

「中央には思った以上に壁があるから」

「……やはり否定的ではないか」

 

「だから違うわよ」と笑うマルゼンスキーであったが、彼女の言うことも一理あった。

 日本で敷居が一番高いトゥインクルシリーズ。そこに所属しているだけでも、誇り高いことである。

 それを誇りと捉えるか、驕りと捉えるか。ウマ娘が一つ上のステージに行く上で、自らを律せられる能力もまた、一流への絶対条件だ。自身の才能に溺れ、誇り(プライド)だけが大きくなってしまえば、競走ウマ娘としての先は見えている。

 

「田舎から出てくるあの子も、戸惑うかもしれないわね」

「……それは分かっている。地方と中央では、求められるモノが違うと。だがそれを乗り越えられないようでは、知れたものだ」

 

 シンボリルドルフは、脚を組み替える。そうは言いながらも思い返す、レース直前の表情。そして、レース中の表情。

 気の抜けた顔をしていたというのに、蓋を開けてみれば圧勝。レースになると、本能が叫ぶのだ。誰よりも早く走りたい、という本能が。彼女を見て、血が(たぎ)った。もう何年も感じていなかった感覚。思い返すだけで体が武者震いを起こすような。

 

「ただ速いだけではダメ。中央のウマ娘としての品格があの子にあるかしら?」

「──品格か」

 

 シンボリルドルフは幾度となくその言葉を聞き、そして自らの口でウマ娘たちに呼びかけてきた。

 だが、それが何なのか。何を意味しているのか。彼女はそう問われた時、ハッキリと言い返せるだけの自信が無かった。

 

「何なのだろうな。品格とは」

「……さあ。あの子が教えてくれるんじゃないかしら」

「君も随分と彼女を買っているのだな」

「そうよ。それなのに貴女ったら、疑ってばっかりで」

 

 マルゼンスキーは小悪魔的に笑う。それは君のせい、と反論する前に彼女の目の前に現れた一人の男。シンボリルドルフは気を取り直して、一つ小さな咳払いをする。

 

「──やあ、貴方が彼女のトレーナーさんかな」

 

 黒服に連れられてやってきた、壮年の男。ハンチング帽が年相応感を醸し出していて、いかにも地方のトレーナーらしい。

 立ち上がり、一歩階段を降りる。軽い自己紹介をしただけで、分かりやすく狼狽えた。

 ただシンボリルドルフのオーラに気圧されていながらも、しっかりと地に足をつけて話を聞こうとする姿勢はある。あまり長引かせるのも良くないと思った彼女は「単刀直入に言おう」と前置きして。

 

「オグリキャップを中央(トゥインクルシリーズ)にスカウトしたい──」

 

 

 ☆☆☆☆

 

 

 中京盃から数日後。トレセン学園に戻ったシンボリルドルフは、一人で大樹のウロに居た。すっかり日は沈んで、空は闇に包まれている。周囲には誰も居らず、一人になりたい彼女にとっては好都合であった。

 シチュエーションとしては、ホームレスウマ娘と会った日と似ている。が、彼女は姿を見せなかった。不思議と会いそうな気がしていただけに、シンボリルドルフは肩透かしをくらった気分である。

 

 ──(トレーナー)、落ち込んでたわね

 

 オグリキャップをスカウトしたあの日。その帰りにマルゼンスキーがボソッと呟いた言葉だ。

 提案を受けた彼女のトレーナーは、明らかに動揺していた。目は泳ぎ、唇は震え、簡単な相槌すら打てない。

 それはシンボリルドルフのオーラに圧されたから、ではなく。オグリキャップとの夢を打ち砕かれたような──。見ていて哀れになるような顔をしていた。

 

「中央のため。何より、彼女(オグリキャップ)のためになる」

 

 大樹のウロのフチに腰を下ろす。その呟きは、まるで自分に言い聞かせるような声をしていた。シンボリルドルフらしくない弱々しい雰囲気。

 スカウトと言えば聞こえは良いが、やっていることは()()()()である。中央にとってプラスになるかもしれないが、カサマツ側から見ればエースが不在になるわけで。他のウマ娘たちのモチベーション維持という意味でも、大きな打撃であることには違いない。

 二人にとって、悪くない話であることは客観的に見ても事実だ。中央で走りたくても走れないウマ娘も多いことを考えると、これはまさに千載一遇のチャンスであろう。

 

「──私はどうすればいい」

 

 それを疑問と捉えるか、弱音と捉えるか。普段彼女のことを良く見ているウマ娘であれば、間違いなく後者を選ぶ。

 自覚はあった。あったから、無かったことにするように、立ち上がってその場を後にする。ホームレスウマ娘とは会うことなく。

 

「──そんなものは本人が決めることだろう」

 

 下を向きながら歩いていた彼女はハッとして、振り返る。だが大樹のウロには声の主は居ない。すると今度は、彼女の背中から聞こえる。

 

「やあ。また会ったな。シンボリルドルフ」「……貴女は」

 

 あの日と同じ、ジャージっぽい服に伸びた黒髪。夜風に靡かせ、三女神像の近くにあるベンチに腰掛けていた。

 まるで友達に話しかけるように、夜に似合わない明るい声を投げる。

 

「どうだった。芦毛のウマ娘は」

「……聞いていたのだろう。それが全てだ」

 

 シンボリルドルフが素っ気なく答えると、少し寂しそうな顔をして見せた。反抗期の娘にあしらわれる親のようだ。

 あの夜のように、話に付き合わされると思っていた彼女は、隣に腰掛けようとする。するとホームレスウマ娘はそれを手で制止した。

 

「ま、お主は今のままで良い。あたしはずっと見ているから」

「……貴女はやはり」

「違うぞ。そんな大層なモノではない」

 

 これから出てくるセリフを察したように、彼女は返答する。大樹のウロの方へ脚を進める彼女。シンボリルドルフはただその後ろ姿を見つめるだけ。不思議と背を向ける気にはなれなかったのだ。

 

 対照的に、振り返ったのは彼女の方であった。

 

「夢の(つぼみ)というのは、どうしても人を慎重にさせる。手に持っている者も、それを眺めている者も」

「彼女がそれだと?」

「お主も感じたのだろう。可能性を。だから今は、お主の手のひらの上にあるではないか」

 

 シンボリルドルフは何も言い返せなかった。彼女は本当に分かったような口を利く。

 現に、オグリキャップの走りは驚異的であった。「地方だから」という言葉を払拭してくれるだけの可能性が彼女にはある。だからシンボリルドルフ自ら声を掛けたのだ。

 そして──その先にある夢。その蕾だと、ホームレスウマ娘は表現して見せた。

 

「彼女が中央を変える存在になるかもしれない。私はそう思う」

「そうは言っても、片田舎の娘だ。中央が求める品格にそぐわないであろう」

 

 品格という言葉に、シンボリルドルフは分かりやすく顔を歪ませた。

 

「品格とは何なのだ。何の為にそんなモノが存在するのだ」

「ほう」

「その見透かした目も、嘲笑う顔も。貴女は一体何を考えている?」

 

 シンボリルドルフの問いかけに答えることなく笑う。

 

「この間、(いただき)は孤独だと言ったな」

「私の質問が先だろう」

「まぁ、いいではないか」

 

 余裕のある雰囲気。またしてもだ。この彼女に、シンボリルドルフは飲み込まれてしまう。あの皇帝がだ。

 

「頂から降りたいと思うか」

 

 あまりにも唐突な問いかけに、シンボリルドルフは一瞬考える。そして──。

 

「……否。私がここに居ることで、ウマ娘たちを引っ張れるのなら」

 

 真っ向から否定する。今自分が立っている場所は、まさに選ばれた者だけが居座れる。その自覚があった。他の追随を許さないだけの、高い場所に居るという自覚が。

 

「……お主ならそう言うと思っていたぞ。やはり強いな。お主は」

 

 この夜に溶け出してしまいそうな、儚さを纏った彼女は、シンボリルドルフに優しい視線を送った。

 今日の夜風は二人を包み込むほど優しかった。ひどく懐かしい感覚。未来を見つめてトレセン学園に入学してきたあの頃を思い出す。

 

「シンボリルドルフよ!」

 

 震える。空気が乾燥する。よく響く。

 視線を奪われた。彼女以外には何も見えない。

 

「もっと悩め! 悩み抜け! 一人ではないのなら、きっと答えは見つかるであろう!」

 

 体に電撃が走る。言葉の圧だ。それだけで、あのシンボリルドルフを震わす。寝静まっていた鳥たちも、思わず飛び立ってしまうほどに。風で木々が揺れ、夜を忘れさせる。

 

 意識が集中していく。なのに、周りの音が一向に静まらない。今までに無い感覚だ。気持ちが悪いのに、このゾーンから抜け出せる気がしなかった。

 深く深くに沈んだ己自身を、引っ張るように。

 

「あ──なた、は」

 

 目眩がした。視界にヒビが入る。右手で顔を抑えて一瞬の痛みを憂う。

 

「──あたしはお主の味方だ。これからもここで見守らせてもらうぞ」

 

 やがてそれは跡形もなく消え去り、広がる視界には、自身だけの孤独な世界に変わっていた。

 夢でも見ていたのかと思うほど、爽やかな後味が口の中に広がる。朝焼けがよく合う味だ。夜で無ければもっと良い気分になれただろうと、シンボリルドルフは月を見上げる。

 

「──三女神の像、か」

 

 月から視線を落とすと、このトレセン学園を見守ってくれる三女神の銅像がある。時折、ウマ娘たちからもここで「おかしな体験」をした話もチラホラと耳に入る。

 信じていないわけではないが、信じるつもりもない──。態度に現したことはなかったけれど、今は否定する気になれなかった。

 

「不思議なコトもあるものだ」

 

 そう呟くしかなかった。言葉にするのが難しい感情を、空気に投げる。行くあてがなくただ漂い続けるソレを見守るしか出来ない。だが彼女の耳に、確かに聞こえた気がした。──皇帝の名を呼ぶあのウマ娘の声が。

 

 

 ★★★★

 

 

「粗相のないように頼むよ」

 

 待合室から出されると、記憶の旅は終わった。

 無駄に綺麗な白い壁に、太陽の光がよく映えた廊下を歩くことになった。決して広いとは言えないのに、陽の光のせいで眩しくて仕方がない。誤魔化すように目を尖らせていたシンボリルドルフに、スーツの男は言う。

 高そうな黒いスーツは、少し日焼けしているように見えて勿体ない。しっかり管理が出来ていない点、良い加減な性格なのだろう──。彼女がそんなことを考えているとは知らず、男は良い気になって先導していた。

 

「私がここに居る時点で、それは果たせない約束なのではないでしょうか」

 

 開き直りとも受け取れる態度に、男は少しイラついた。同時に呆れて見せた。だがここで声を荒げる方が自身の立場を悪くする。それは自覚していたから、何も言い返さずにただ革靴を鳴らす。

 

 ── URAの中央諮問委員会。そのビルに彼女は居た。正確には()()()()()()いた。

 一般的な諮問委というのは、一つの企業や団体に対して拘束力の無い助言が出来る組織。その為、経営に直接的な関与は出来ない。

 そんな所がシンボリルドルフに召喚を命じたのだ。普通なら動揺してもおかしくはない。が、意外にも彼女は冷静であった。

 

「後悔はしていないのかね?」

 

 男の弱々しい問いかけに、彼女は表情を変えない。

 

「なぜそのようなことを」

「決まりに刃向かうのは、リスクがあるではないか。そんなことを君がするとは思えなくてね」

 

 ウマ娘がこうして世の中を席巻できているのは、彼女たちだけの力では無い。

 教育を管理する人間が居る。レースを管理する人間が居る。そして──ウマ娘の存在を世界に浸透させた()()がある。その歴史こそ、前例であり、ルールそのものなのだ。

 その上で人々は熱狂し、涙する。ウマ娘が持つ個性と実力に酔いしれて。

 

「私に出来ることをしたまで、です」

「君が自由にやり過ぎるのも困るんだけどねぇ……」

 

 ため息混じりの声色だ。人生を辛いなりに生きていた人間の思いが詰まったモノ。ルールに縛られて生きてきた証でもある。

 

三思後行(さんしごこう)した結果です。それだけする価値が彼女にはあると、私は思います」

「……頼むからあの人(委員長)の前では口の利き方に気を付けてくれよ」

 

 日本ダービーにオグリキャップを──。

 トゥインクルシリーズを席巻していた彼女はクラシック登録をしていない為、出走権を有していない。

 カサマツからやって来たシンデレラは、おおよその予想を覆し、まさに快進撃を見せていた。地方だから勝てた、なんて声はもう聞こえてこない。むしろ地方出身というレッテルが、人々の感情をそそった。

 そのタイミングで、トゥインクルシリーズで最も格式が高いとされる日本ダービーだ。当然、人々は願う。オグリキャップがそこで走る姿を。

 ──だが現実はそうもいかない。前例が無いだけでなく、クラシックには例外は認められない。それを認めてしまえば、クラシックルールそのものが瓦解してしまうのだ。

 

「──観衆が望んでいるのに」

 

 漏れた言葉は、男の耳に届いているはずだ。だがあえて、聞こえないフリをしている。長いモノには巻かれる主義だから。

 一万人分の署名が集まった。それだけの人間が求めているのだ。オグリキャップを。このルールの改正を。──その中に、シンボリルドルフの名もあったが故に、今日に至る。

 

 諮問委というのは、助言をする組織。あくまでも()()()()諮問委員会は。

 URAに関しては、そうもいかない。なにせ国をも動かしかねない存在となっているウマ娘。彼女たちを動かすには、それ相応の金が動く。民間企業からの出資を受けての運営は幅が広がったとは言え、それだけ監視の目も厳しい。

 何より、出資する企業が増えるほど、本部は対応に追われるのだ。そこでURAは本部への負担軽減を目的に、レースに関する制度整備を中央諮問委員会へ一任。元々、優秀なトレーナーやスタッフとして従事していた人間が所属していたこともあり、不都合もなく、名を変えることなく、いつしか判断を委ねられる組織に変わっていた。本来であれば、諮問委と呼ぶべきでは無いが、本人たちが自称しているのだ。シンボリルドルフがどうこう言うことは出来なかった。

 男は扉の前に立つ。半身だけ振り返って、一歩後ろに立つ彼女に言葉を投げる。

 

「いいかね。粗相のないように」

 

 繰り返しになるソレは、シンボリルドルフの耳に届いていない。扉をノックし、男は先導して部屋に足を踏み入れる。続けて彼女。その荘厳な雰囲気はまるで、トレセン学園の生徒会長室のよう。

 

(なるほど。皆はこういう気持ちなのだな)

 

 入るのを躊躇うウマ娘の気持ちが、少しだけ分かった気がした。目の前に居座る女性。こちらを睨みつけるような鋭い目に、シンボリルドルフは僅かに体が震える感覚を覚えた。

 待ち望まれたスターの出現。それがもう少しでカタチになろうとしている。

 

「さて。なぜ呼び出されたかは分かるかね。ルドルフ君」

 

 先程とは打って変わって、やけに声に力のある男。後ろ盾に強い権力があるおかげだと自覚しているのかしていないのか。

 このチャンスを握りつぶされるかもしれない。だから、ここに来たのだ。素直に。呼び出されたのではない。自分の脚でここに立って見せた。

 男よりも若く見える委員長は、問いかける。何故そこまでして肩入れするのか、と。シンボリルドルフは答える。「三思後行した結果」だと。委員長は続ける。

 

「中央で最も由緒ある格式高いレース。それが日本ダービー。故に誰でも出走資格があるわけではない」

 

 知っている。知っているさ──。だからこそ、ここに立っている。シンボリルドルフは表情を変えず彼女と目を合わせる。

 生まれた時から頂点を志し、相応の勝利を積み重ねたエリート中のエリート。そんなウマ娘にのみ、ダービー出走の()()が備わる。委員長の言葉は、彼女の耳に届いていない。

 シンボリルドルフの願った可能性が、花開こうとしている。いや、彼女の想像を超えるペースで観衆を飲み込んでいく。

 これこそが、品格ではないか。人々がオグリキャップのレースを望み、彼女自身も観衆の期待に応える。それこそが、唯一無二の品格。オグリキャップというウマ娘の存在価値。

 

「たった一人のウマ娘のために、ルールを変えろと言っているようなモノよ」

 

 諮問委の委員長は毅然とした態度でそう言う。だがそれは──シンボリルドルフも同じであった。

 

「ですから、そう申し上げているのです」

 

 ずっと靄がかかっていた心の中は、いつしか晴れ渡っている。皇帝の中で、確かに起こった変革。未来を憂うだけのあの頃とは違う。

 彼女の視界に広がるのは、艶やかなフローリングだけ。それなのに、妙な高揚感があった。──らしくない感情が湧き出てきて、少し可笑しい。シンボリルドルフは僅かに口角を上げた。

 ……途端に視界が歪む。わずかに痛む頭。三女神像の前で感じたモノに似ている。でも顔を(しか)めるには至らなくて、彼女は一瞬だけ瞼を閉じた。頭を下げていて良かったなんて思いながら。

 

 シンボリルドルフの頭の中に広がったのは、どこかで見たことがあるような光景。

 

 雲色の空を切り裂く白いイナズマ。

()()を撃ち抜こうと轟いている。ターフが燃え尽きてしまうのではないかと思ってしまうほどに。

 怪物と言うには、あまりにも美しい。灰被りの田舎娘が紡ぐサクセスストーリーは、多くの者を魅了することになる。そんな確信があった。

 顔を上げた彼女の表情はさっぱりしていた。不思議なほどに孤独感が薄れていく。

 先ほどまで浸っていた記憶の旅。そこで脚を止めなかった事実を、シンボリルドルフはふと思い出した。

 

 あなたの力で日本ダービーに出してくれ──。なんて無謀なことを言い出す彼女のことを。

 そして映る幻。瞳を揺るがす美しい風。雲が切り裂かれて、青く輝く空の下で。

 あぁ、そう。これは未来。自身が憂いた真っ暗闇の道はもう無い。

 

 白いイナズマが立つ。

 空気を震わせ、ニヤリと口角を上げて、地面を抉るほどのオーラを纏い、視線を送るその先で──。

 

『だったら実力で覆す。常識も……ルールも! この脚で!』

 

 ──シンデレラグレイは硝子色の靴を鳴らす。

 

 



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