コヨーテの歌 (ねこや しき)
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メガネの世界

 天沢勇子を幸せにするためにこの話をはじめました。どうぞよろしくお願いいたします。


 地村幸枝は30代の女で、電脳メガネにかかわる仕事をしていて、過去よりも前の記憶がうっすらとある。普通が服を着たような女であるが、ほんのちょっぴり人には言えない秘密を持っていた。

 

 今生はとても進んだ世界で、彼女の前世と比べるとめちゃくちゃ便利で面白くて、幸枝はずぶずぶと沈むように技術に溺れていった。

 おかげで技術も知識もたくさん身に着けた幸枝は、何の苦労をすることなく、──この頃には電脳メガネが発売された──労働力として社会に出ることになる。

 

 ところで幸枝には姉がいる。

病弱で精神的にも強いとは言えない姉である。姉との折り合いは良くも悪くもなく、一般的な家庭の姉妹に比べれば淡泊な関係かもしれない。姉は幸枝を羨んでいたし、幸枝は自由に知識を求めすぎた。でも、家族である事実は覆らないし、姉は結婚したことによって変わっていく。

 

 結婚して変わった姉の苗字は天沢。

 

 幸枝は親不孝な娘だった。人生がうっすら2度目なせいで帰属意識が薄く、実家に帰るのは正月程度。姉はその逆で実家から離れられない人だった。時々会う姉は、実家を離れてからの方が話すようになり、結婚してからはもっと柔らかく笑うようになった。天沢さんという旦那さんはとてもいい人だった。姉が全幅の信頼をおいて、この世で一番幸せだと笑うのだから相当なものであった。そして子供が生まれて、姉は大変そうだがそれでも満足げに笑っていた。実家の父母は嬉しそうに笑っていたし、体が弱い姉を支える天沢さんもしっかりしていたので幸枝は本当に驚いたものだった。上の子は男の子で名前を信彦といった。彼はたいそう優しい子で、姉と旦那の本当に優しい心を学んで生きた。

 

 その数年後に、姉の夫婦に娘が生まれた。この頃は幸枝にとって大変に忙しい時期だった。会社は新たなことを、新しいことをとどんどんつき進み、幸枝は技術に追いつくために必死だった。幸枝は人一倍好奇心や知識欲はあったが、頭のつくりはそんなに良い方ではなかった。興味のないことは後回しになるし、それが結果的に遠回りになっていく。彼女はこの頃の自分をいっとう恥ずかしい人間だと思っている。その頃は正月に帰った実家でも追われるように本を読んだり、あるいは眠り続けていたので甥にも姪にも大きな反応はしなかった。幸枝の内心を言葉にするなら、というより彼女が実際に吐いた言葉は「二人目…、もうそんなに時間たったんだ。おめでとう」であり、彼女の興味外への反応がわかるものである。しかし、前述したように幸枝はそんな過去の自分を恥じているし、そんな反応を直す努力をしている。

 

 幸枝が強く恥じているのは理由があるからだ。

姉夫婦の2番目の子どもが生まれてしばらくした頃。母親が心筋梗塞でぽっくり逝った。あっけないほど簡単に死んだ。幸枝は親不孝な娘だったので、ただ茫洋と葬儀に参列した。

 喪主は父だ。葬式は家族だけでひっそりと執り行った。家族といっても親類縁者はそこそこいるので、通夜には人が集まった。さわさわと人の囁きが波の音のように聞こえる。棺桶の中の母親の顔はなまっちろく、その頬に手を伸ばして姉はしくしくと泣いていた。姉はずっと、それこそ幸枝が訃報に駆けつけた時からずっと泣いている。目の下にはクマがくっきりと浮かんでいたし、青ざめた肌は血の気が通っていないようだった。母は姉の一番の理解者だった。

 姉の子どもたちは天沢さんがみているようで、彼は二人の乳幼児の面倒を一切に引き受けていた。それに加え、情緒不安定になった姉の心も支えていて本当に出来た人だったのだ。姉は母の遺体が荼毘に付されるまでずっと、母のそばから離れようとしなかったから。それを信彦がじっと見ていたのを幸枝はよく覚えている。

 

 出棺の時、父親の背中が驚くほどしなびて見えた。

 姉はこの世の終わりのように泣き叫んでいた。

 幸枝は親不孝な娘だから、ようやくここで泣くことができた。

 

 どれだけ嘆いたところで何も変わらないから、徐々に時間が心を癒していくはずだった。少しずつ少しずつ母がいなくなったことを受け入れて、その現実が当たり前になって「おばあちゃんはねぇ、」なんて会話ができるようになるはずだった。それぞれが心を整理して日常に戻っていくはずだった。

 

 母が死んでから8か月後、今度は父親が倒れた。

 

 この世に不幸があるというなら、姉は可哀想なことに不幸を抱いて生まれたのかもしれなかった。そうでなければ、神様というのはあまりに姉が可愛いからと試練を与えたのもしれない。母の死に引きずられるようだった。父は末期のがんを告白した。前後関係はあまり意味がないが、母の葬儀の時にはもう取り返しのつかないレベルまで進行していたという。幸枝は何も知らされていなかった。姉の横顔を見れば追い詰められたような顔をしてるものだから、聞くことも憚れた。何も知らせないことを選んだ父は、姉に申し訳なさそうに一言詫びた。それが姉に対する最期の言葉になった。

 

「幸枝、お前のことが心配だよ」

 

 姉のいない病室で、正気と夢の間を彷徨う父が幸枝の目を捉えて言った。むにゃむにゃと呂律の回らない口で、そのようなことを言ったようだった。父のことを愛していた姉よりも、親不孝な妹にかける言葉の方がしっかりしていた。父という存在が、ようやく目の前にいるのだと知覚したようだった。

 ややもなく父も死んだ。母を見送ったのと同じ場所で、同じような棺に入った父の姿は不思議だった。家の同じ場所に棺が置かれ、同じ日付だけ死を悼み、火葬場で同じように出棺された。母の時と同じように親戚の声がさざ波のように広がっていく。骨になるまでじっと待っていると耳に言葉が入ってくる。

 

「あんまりねぇ、奥さんに続いて亡くなっちゃうなんて」

 

「本当にねぇ、まだまだ若かったのに…」

 

 青い空に一筋の煙が昇っていくのをじっと見ていた。母の出棺は雨の日だった。こんなに綺麗に晴れてよかったと誰かが言ったのを耳にとらえた。姉の姿は見えない。まだ、炉の前でへたりこんでいるのだろうか。

 家に帰りつくと、姉が腕に抱えていた父を仏壇の前に下した。きゃらきゃらとはしゃぐ子供たちに清めの塩をかけている天沢さんを横目に姉をじっと見ていた。喪服の首がぶかぶかであることに気が付いた。

 その日の夜、なんだか眠れなくて夜空を眺めに軒先に立った。田舎の葬式は最後に飲み食いがあって面倒だ。でも疲れてそれで眠れるのなら良いのかもしれない。お酒を飲んで奥さんに連れられて帰る人たちをよく見る。

 夜空はぴかぴかと星をぶちまけて光っていた。昼間の煙のように暗い空に筋を描いている。ふと、父の最期の言葉が幸枝の脳みそに浮かんだ。一度思い付いたらもうだめだった。幸枝は親不孝な娘だった。家族よりも自分の好きなことが一番だった。やりたいことをやった。ろくに相談なんてした覚えがない。姉と話した覚えがない。それでも父と母は幸枝のことをずっと応援していた。幸枝が生きたい道を踏み外さないように、幸枝の背中をじっと見つめていた。いつだって手を差し伸べれるように。

 思い出の中の両親はいつも笑っているわけではない。心配する顔、困った顔をしていた。姉に向けられた顔だけではなかった。幸枝は人生が二度目だったから、姉が可哀想で両親の気持ちを「もういいや」としたことを思い出した。それが意図的であったかはわからないが、親はそれに気が付いただろう。彼女は尊大にも親の気持ちの上に胡坐をかいたのだ。

 

 幸枝は親不孝な娘だったけれど、それが正しいことなのか疑い始めた。



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子どもたちの記憶

 父の葬儀で姉は泣かなかった。死ぬことに対して心構えができたのかもしれなかったが、姉の普段を知っている幸枝にはどうもそれがおかしなことな気がしていた。現に天沢さんは心配そうな表情で姉を見ていた。子供たちは元気ではあったが、母親である姉の様子に神経を張り詰めている様子があった。母の死であれだけ取り乱した姉が、父の葬儀でこれだけ平坦な感情を見せるのは異常なことだった。

 

「姉さん、遺品の片付けは私がやるからいいよ。ずっと動きっぱなしだから…休んできたら? 」

 

「え、そう? 幸枝こそゆっくりしてたらいいわ。お仕事忙しいんでしょう? お休み、大丈夫? 」

 

 完全に今までの積み重ねのせいだった。幸枝は姉との共同ができない。お互いに境界線を探してタップダンスをしてしまう。一日二日で関係が変わるのなら世の中はもっと生きやすい。幸枝はまともに姉と話した記憶が無いような気がしていた。姉のことを見ていた自覚はあるが、まともなコミュニケーションをした記憶がない。それでも姉ともう少し話したいと思った。表情では取り繕えないほど疲れが見えた。

 

「休みは平気。むしろ有休をちゃんと消化してこい、って言われたところだから…。姉さんこそ二人の子持ちなんだからさ、」

 

「そうなの? 子供はねー、あの人が見てくれてるから大丈夫よ。じゃあ、ふたりで片付けちゃいましょうか」

 

 二人が育って、両親が建てた家は奇妙なほどに生気を失くしたようだった。家に詰まった遺品を片付けるために物を分別するが、どうにも居心地が悪い。すかすかの麩菓子でもまだ存在感がある。姉は休む気が無いようなので、これはもう放っておくしかないのでは、という諦めに近い気持ちが湧く。それに相反するように、この姉を休ませた方がいいとも思う。

 気持ちとは裏腹にてきぱきと体は動き、姉と一緒に動けば部屋は片付いていく。父の衣類に、たくさんのハガキ、母の遺品整理ではやりきらなかった母の遺品。段ボールいっぱいの図工の成果に、カンカンにたくさん入ったネガ。たくさんのアルバム。

 庭先で遊んでいる信彦と勇子の声。走り回る足音。幸枝は過去を思い返す。確かに、小さかった頃には姉と遊んでいたのだ。一緒に泥だらけになって、駆け回って母に叱られた。

 

「…姉さんは、ちゃんと眠れてる? 」

 

「なあに、心配してくれるの? 大丈夫よ」

 

 心配は、案外と簡単に言えた。幸枝に背を向けて、なんでもないように話す姉にほっとしたような、いら立ちのような気持ちになる。姉は頑なだった。幸枝と同じように。今までがそうであったように。

 しかし、長いこと同じ場所にいれば頼り頼られることも出てくる。家は姉夫婦に相続されることになった。その手続きがまたえらい面倒で、夫婦二人でああでもないこうでもないと奔走することになった。その間の幸枝といえば、戦力外ではあったが子守りは出来るだろうということで、幼少の子どもたちとお絵かきやらかけっこやらで遊び倒していた。年長に差し掛かる信彦は年齢にしては落ち着いていたし、下の勇子はまあ甘えただった。

 幸枝はペットマトンの開発に携わっており、その知識から動植物の知識は豊かだった。子供二人と手を繋いで、近所にある植物の名前を教えればそれだけで子供は喜んだ。美味しい蜜を吸える花、食べられる木の実、色水がきれいに作れる花。絵を描き、絵本を読み、子供というのも案外悪いものじゃないと思った。まあ、転んだりするとめちゃめちゃに泣きわめくのだが。

 

「おばさん、これは? なんて名前? 」

 

「おんぶ! おんぶしてよぉ…!」

 

「それは野ブドウ。きれいだけど食べれないよ。ほら勇子、おんぶしてあげるから泣かないの」

 

 さっきまでぐずっていたというのに、背中に乗ってしまえばあっというまにご機嫌だ。下の勇子は幸枝の背中が気に入ったらしく、頻繁に背中に張り付いてきた。

 長女である姉は相続やらなにやらで忙しいが、幸枝は次女であるからか手伝いを申し出る程度にはやることがなかった。母親である姉の不安定さを察しているのもあっただろう。兄妹そろってじっと姉のことを見つめていることがあった。そういう時、幸枝はなんだか「よくないな」と思ってむやみに明るい声で信彦と勇子のことを抱き上げた。天沢さんがずっといればよかったのだが、彼は幸枝よりも先に会社に復帰した。まあ、おおよそのことは姉妹で終わるような段階まではきていたので。

 

「おばさんは物知りだね」

 

「そりゃあそうだ。信彦より長く生きてるんだから」

 

「お父さんの方が年上だけど、ずーっとおばさんの方が物知りだよ?」

 

「信彦のお父さんは…、私よりずっと二人のことに詳しいはずだよ。人によって知ってることは違うからそりゃあ仕方ない」

 

「…そういうもの?」

 

「そういうものだよ。大人だってなんでも知ってるわけじゃない」

 

 どことなく納得のいかない顔で信彦は言う。なんというか、すごく賢い子供なんじゃないかと思った。随分と落ち着いている。幸枝が知っている同僚の子供は、常に動き回って目を離せない生き物だったはずだ。幸枝の言い分をちゃんと聞いてくれるし、目立った癇癪もない。逆に勇子はこのところ癇癪が多い。姉がてこずっているのをよく見る。天沢さんの腕の中で海老ぞりをしているところは傑作だった。信彦と一緒に笑ってしまった。そんな勇子だったが、幸枝の背中にのっている時には癇癪を起したことがない。信頼関係が出来きっていないのかもしれないが、それでも不思議だなと幸枝は思った。こんなに小さな子供にも意思が存在している、ということがすごい気がした。

 

 その日も近所の公園まで三人で歩いていた。おぶわれた勇子は大人しく、見慣れた道をきょろきょろと見まわしていたし、信彦は信彦で道端に突然しゃがみこんだりはした。そのたびに「これはなんだ、あれはなんだ」と上がってくる質問にひとつずつ答えていった。

 

「ユキちゃんは、いつまでいるの? 」

 

「え-、そうだなぁ…多分もうちょっとしたら戻らないといけないかな」

 

 おや、と思った。幼い子供は時間の感覚がないというが、勇子にはもうあるようだった。耳元で潜めた声は幸枝のことを考えてのことか。聞こえる声には、寂しさや残念さがあるわけではなく、ただ確認のために聞いたようであった。

 

「…。」

 

「どうしたの、勇子。さみしがってくれるの? 」

 

「ユキちゃんがいなくてもさみしくないもん! 」 

 

 耳元で爆発したようだった。大音量で幸枝の上半身が揺れた。大声過ぎて耳が痛いが、揺れた幸枝に思うところがあったのか勇子は感情を抑え込むように口を閉じた。植物を眺めていた信彦も、さしもの大声に釣られて勇子を見つめている。

 幸枝は大声にはびっくりしたが、勇子の気持ちが自分に向いているのを感じて内心では微笑ましく思っていた。家族に目を向け始めた幸枝には、甥と姪が中々に興味深かった。幸枝は下の子だったから、周りにはあまり年下はいなかった。いたとしても、その頃の彼女は寄り付きもしなかっただろうが、年を重ねた彼女にとって奇想天外な行動をする子供は好奇心を誘った。彼らは自分なりの理由を重ねて動いていて、小さな体に果てしない何かを詰め込んでいるように見えたのだ。

 

 幸枝が変わろうと思ったところで、今までに積み重ねてきたものは中々に変えがたい。特に幸枝は姉の前ではなかなか思ったように行動をとることができなかった。そもそも、幸枝にはどうするのが正解なのかもわかっていなかったのだ。その結果、甥と姪の前では気負うことなく動けるので、上手くいかない反動もあって彼らを可愛がることになった。しかし、今までの幸枝であれば甥と姪にも最低限の関心しか向けなかっただろうから、確かに彼女は少しずつ変化していた。

 幸枝は人の細かい感情を気にしない。自分にどうしようもないことを知っているからだ。でも、信彦と勇子にかけた時間はその考えを覆し始めていた。会社の同僚とは違う。学校の友人とも違う。逃げず、避けられず、それでも一緒に笑い、喜び、過ごすというのは幸枝にとって苦しく、興味深い生活になった。彼女には未だ理解し切れていないが、こうやって思うことが家族なのだろうかと。こういうものを大切といえるのは良いことなのかも、と思った。後年、彼女はこの考えを悔いることになる。「大切」なら、それなりの行動をとらなくてはいけなかったのだ。

 

「そお?私は勇子と会えなくなるのは寂しいけどなあ」

 

「…勇子はさみしくないもん…」

 

 ぎゅっと首にしがみついた勇子の行動で、気持ちなんてわかったようなものだった。ちらりと信彦を見れば、信彦は信彦でどこか不安そうな顔をしていた。(不思議だ…)そう幸枝は思う。数週間前には彼女と全く打ち解けていなかったのに、今は会えなくなることを惜しんでくれる。

 背中の勇子を揺らして、無理やり空けた左手で信彦の背を叩く。当たり所がよかったのか、大分いい音がした。

 

「勇子、私は寂しがってくれるのは嬉しい。だからそんなに怒らないでほしいな。信彦も、言いたいことがあるなら言ってごらんよ」

 

「なにもないよ」

 

「えぇ? 本当にー? 勇子はー? 」

 

「勇子もない! ユキちゃんがいなくても平気! 」 

 

 「それは残念~」と返せば、勇子は鼻をふんすと鳴らした。信彦も特段なにをすることもないので、なんだか幸枝は一周回って愉快な気持ちになってきた。こんなに小さいのに体の中に感情を詰め込んでいる。よく考えなくても自分もそうだった。

 公園に着けば、勇子の機嫌は簡単になおったし、信彦は信彦で勇子の面倒をよく見てくれる。手のかからない兄妹だった。幸枝は時々ブランコに乗る勇子の背中を押したり、信彦から尋ねられることに答えていた。子供の手のひらは熱くて、ああ生きているんだなと柄にもなく思った。

 

「会えなくなっちゃうおばさん。四つ葉のクローバーを探してよ」

 

「えっ、くれるんじゃなくて探して? さては信彦、さっきのことを根に持ってるな? 」

 

 日がだいぶ傾いた頃、「そろそろ帰るか-」と呼びかければ信彦が私の手を引いてそう言った。にっこりと笑う表情は天沢さんにそっくりで親子だなぁと思う。その辺を走り回っていた勇子も信彦の言葉にはしゃいだような声を上げた。どうも見つけたことがないらしい。

 

「…まぁ、それくらいの時間なら大丈夫だから…さがそっか」

 

 きらきらとした目を向けてくる勇子に負けた。クローバーが生えているところで腰を落とし、じっと探す。もちろん近くには信彦も勇子もいる。「じゃあ競争だね」なんて声にすれば、勇子は楽しそうに手を突っ込んでかき回し始めた。一方の信彦はじっと足元を見つめていて、探し方まで大人びていて二人の様子の落差に笑ってしまった。くつくつと笑いながら遠目で眺めれば、ちょうど勇子の足元に1輪見つけた。

 

「勇子、足のとこにあるよ」

 

「えっ、どこぉ? 」

 

 「そこそこ」と指で示せば見つけた四つ葉に歓声を上げる。それがあんまりにも嬉しそうで、幸枝まで嬉しくなってくる。四つ葉のクローバーひとつでこんなに喜んでくれるなら、いくらでも見つけてあげたくなる。

 

「ねぇ、僕にも見つけてよ」

 

 勇子を見ていると、隣の信彦が袖を引いてきた。信彦はいいお兄ちゃんで、妹の勇子を優先するから珍しい行動だった。見上げる表情がどこか拗ねているように見えて、思わずぐしゃぐしゃと頭を混ぜてしまった。「もちろん」と返せば、「じゃあ早く」なんて言うから、もう一度頭をぐしゃぐしゃにしてやった。

 

「これで信彦の分も見つけたからいいね! 」

 

 今度の四つ葉は三人から等距離のあたりにあった。ぐっと手を伸ばして摘み取ってやる。「ユキちゃんすごい! 」幸枝の指先を見つめて勇子は言う。あっという間に見つけた幸枝に対する賞賛は、輝かんばかりで体がむず痒くなった。すごいすごいと笑う勇子を背に、信彦に四つ葉のクローバーを渡す。

 

「クローバーはね、成長の途中で傷つくと葉っぱが分かれるんだよ。突然変異もあったりするけど、大体はそう。強いよねー」

 

 幸枝は小難しい話をそのままする。普通の大人は簡単な言葉に言い換えたりするが、信彦から質問がこない限りそのままだ。幸枝が幼い頃に分かっていたからで、それで良いと思っている。

 受け取った信彦は、手の中のクローバーを見つめながら幸枝の話を聞いていた。信彦は幸枝のそういうところが好きだった。年齢が子供であっても、幸枝と話すときは同じ目線でいるような気でいられた。母とは円滑な仲ではないし、変なところのあるおばだ。だが、物知りで、一緒に遊んでくれて、優しさの加減がわからない人だった。信彦はそれが分かる子供だった。

 

「んー。どうせだからお母さんとお父さんの分も探してく? 」

 

 



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選ぶこと

 無理を押した姉の体調が崩れたころ、幸枝の有休にも終わりが見えてきた。元々が強くない姉の体は、精神に引きずられて簡単に体調を崩したのだ。幸枝がわかる、というのなら天沢さんはもっと早くから気が付いていただろう。それでも動き続ける、というのは妻としての立場なのか、それとも自分で追い詰めているのか。幸枝にはそういう情動がうまく理解できない。でも、姉が追い詰められているのはよくわかった。

 

「やっぱり無理してた」

 

「……平気よ。これくらなら大丈夫」

 

「…、自分の顔見た? 」

 

 紙のように真っ白な顔で姉は言う。腰のベルトの穴がひとつ縮まったことを幸枝は知っていた。困った顔で幸枝を見上げるが、幸枝は医者ではないので「大丈夫です」とは言えないし、そんな状況でもないだろうことは火を見るより明らかだ。

 

「とにかく、お義兄さんに報告するから。今までのことも全部」

 

 そう言えば一層のこと困った顔になる。幸枝と話すとき、姉はよく困った顔をした。これが天沢さんも一緒だと円滑にいくのに。ままならない。幸枝は上手に出来ない。心臓がぎゅぅっと痛んだ。心臓が痛むなんて重病だ。でも、この痛みが病ではないことは確かだった。痛む分だけ上手になればいいのに、何度繰り返したところで幸枝には上手くできない。やり直しは二度と出来ない。

 夫婦の寝室に姉を寝かしつけて天沢さんに電話をする。姉に聞こえないくらい離れれば、電話口で天沢さんは「やっぱり」と言った。この1週間で幸枝が知っていたことを全て伝えた。幸枝にはそれ以外に姉にできることがないと思った。気休めの言葉も、手伝いも姉には必要がなさそうだった。むしろ──その言葉こそが姉を追い詰めるだろうことが、天沢さんの言葉でわかった。

 

「──、僕も休むように言ったんだけどね、『ユキちゃんが頑張ってるのにお姉ちゃんが休んでられないわ』なんて言うもんでね、いい機会だからこのまま休ませるよ」

 

 喉が締まって言葉が出てこない。姉は、私のことを理由に使ったのだ。それなら幸枝はもうここには残れない。子供たちの世話をして、姉の手伝いをしているつもりだった。でもそれが姉の理由になってしまう。姉のことを考えるなら離れた方がいいのだと思った。幸枝ができることなんて、指を折って数える程ももなかった。

 

「お義兄さん、姉さんのことをよろしくお願いします。私は…、明日の午後には会社に顔を出さないといけなくなったので。何かあったら連絡してください。なんでも、出来る限りのことはします」

 

「随分と突然だね、幸子には話した? 」

 

「いえ、話そうと思った矢先のことでしたので。これから話します」

 

「そっか……、信彦と勇子も残念がるなあ。随分と君に懐いてたみたいだから。詳しい話は家に帰ってから聞くよ」

 

「お仕事中にすいません」

 

 「そんな、家族のことなんだから」という返答を最後に電話が切れた。幸枝は空をぼんやりと眺めて、その場に立ちつくすしかなかった。幸枝には何も上手くできない。自分の行動が空回りしていることを感じた。この選択も、姉から離れることも空回りかもしれなかった。だが一緒にいるのも限界だった。それが目に見えた瞬間だった。

 

 幸枝が明日から仕事に戻る、と天沢さんが戻った夕食時に告げれば、子供たちは「え~!」と大きな声で不満をぶちまけた。ばたばたしている親より、飛びつけば構ってくれる大人である。信彦も勇子もがっかりした。公園で寂しくないと言い張った勇子も、不満に口をとがらせていた。それが嬉しいようで寂しいようで胸がきゅっとした。

 

「ユキちゃん、また会えるの…? 」

 

「そりゃあ親戚なんだから。また会えるよ」

 

「父さんよりずっと休んでたけど大丈夫なの? 」

 

「…信彦はよく知ってるなあ…。戻ったらたーくさんの仕事を片付けないといけないよ。今から憂鬱だわ」

 

 思えば1月近く休んでいるのである。同僚は背を押してくれたが、押し寄せてくる仕事量を考えれば気持ちは落ち込む。上司も同僚も後輩も、両親の葬儀だと言えば「ゆっくり休め」の一点張りだった。そもそも幸枝が取るべき有休を全く消化していなかったのもあった。幸枝の場合、趣味の延長線に仕事があった。だから仕事が全く苦にならない。そりゃあやりたくもない雑務もたくさんあるが、それでも抑えきれない興味だった。

 彼女にとって興味という感覚は興奮状態に近い。欲しい情報を脳みその中に蓄える。興味の派生を追ってさらに不思議の端を掴む。それをまた追う。それの繰り返しだ。脳みその中にたくさんある情報は劣化していくがそれで構わないのだ。情報を認識した瞬間、脳みそに入れた瞬間、それがとてつもない快感に変わる。まるで、うまい食事を摂取するようである。

 広まりつつある電脳デバイス。特に電脳メガネの汎用について、幸枝は尽きない興味をもって研究をしていた。一昔前ではSFの中でしか見れなかったような景色が現実になりつつある。このままメガネを使える範囲を広げていけば、日本中でもっと便利に多くの可能性を叶えられる。それを拡張して、拡張して新しい何かを考えていく。幸枝はその中でも電脳生物を専門にしていた。

 

「なにする仕事なの? 」

 

「えー、そりゃあ…電脳生物かな…。電脳メガネの世界で生きる生き物を作るんだよ」

 

「え、おばさんがそんなの作れるの? 」

 

「なにおう失礼だな信彦。まあ、まだペットの一つも世の中に出してないからな。でもこれは将来性のある企画だと思うよ」

 

「ユキちゃんペット作るの? どんなやつ? 」

 

「ンー、人が知ってるやつと、知らないやつかな。勇子が好きなもこもこの猫ちゃんも作るし、猫ちゃんみたいな何かも作るんだよ。どうやってものを考えて、どんな動き方をするのか。それを考えるのが私の仕事」

 

「おばさんの言い方、悪役っぽい」

 

 「でもそれ、面白そう」と信彦が言うもんだから、幸枝は嬉しくてにんまりと笑った。そうなのだ、幸枝の大好きなことは面白いのだ。信彦にそう言われたのが、ことさらに幸枝は嬉しかった。「信彦は大人になったら何をやってんだろうね!」なんて言って、ぐるんぐるん振りまわした。

 

 夕日もすでに降りて、あたりは暗くなっている。幸枝は晩ご飯の後、荷物を片付けるために自分の部屋に戻った。すると兄妹でやって来た二人は思い思いにくつろいでいる。部屋を片付ける幸枝のことなんてお構いなしだ。こんな日々も終わってしまうのかと思えば、幸枝も寂しいような気がしてそれが可笑しかった。

 鞄の中に持ってきた分だけの物をしまって。散らかりつつあった部屋の中も整理整頓していく。多くの物は父や母の遺品整理の時にやってしまったので、部屋の中は物が多くない。それでも今日までは生活していたのだから、片付けにもそこそこ時間がかかる。

 きゃらきゃらとじゃれてくる子供たちを目に、幸枝は昼のことを思い出していた。

 

 

「そう。こっちは大丈夫だから、お仕事頑張ってね」

 

 

 ノックをして部屋の戸を開ける。布団から顔を出した姉は、相変わらず白い顔だった。ベッドの脇で「明日の昼には会社に戻る」と告げた。家でやることが姉には増えるだろう。体調も良くないだろう。姉は何を思ってほっとした顔をしたのだろうか。



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二人ノ暮ラシ

 戻った会社は記憶のままだった。忙しくも暇でもない。上司には定期的に連絡をしていたし、今日戻ってくることも知っていた。連絡をしたときは「本当に大丈夫なの? 」とひどく心配をされたが、幸枝にも事情があるし、それにどう考えても休みすぎだった。

 

「松川さん、どうもお世話になりました」

 

「あらあ、やだ。気にしなくてもいいのよ。それより大変だったわね…」

 

 「…おかげさまでなんとかなりました」そう言いながら、香典返しを渡していく。同じチームを組んでいる人達はもちろん、幸枝が今まで会った会社の人はみんな人がいい。父親の葬儀のとき、躊躇の欠片もなく有休を消化することを提案してくれた。

 幸枝はこと家族関係においては不器用であったが、外との関わりはそこそこに上手く出来るようだった。そこそこ、というよりは仕事で進捗を報告しあうのが普通だったし、交わす会話も構想やら企画やらに関するものばかりなので、幸枝にはもってこいの職場だったのだ。

 

「父の死に目にも会えましたし、姉の手続きも一段落したので…。まあ、お仕事を頑張ろうと思いまして。進捗はどうなっていますか? 」

 

「こういうのは区切りだからね、幸枝ちゃんが大丈夫ならいいわあ。進捗ねぇ、動物系はともかく植物系はイマイチな感じみたい。植物系の意思を持った何かがいてもおかしくないと思うんだけど…。

あとは、接触した感覚がないと、電脳ペットもどうなのか~って会議がまたあったみたいよぉ。ほんっとに何度繰り返せば良いのかしらねぇ。あなたのやつはそのままよ。みんなして『触ったら生涯恨まれる~』ってやってたから」

 

「ボスにも迷惑をかけましたけど、そっかー、そんな風に思われてたんですね。合ってますけど! 嬉しいからそのまま先に進めます。なんだか良い企画が作れそうな気がするんですよ」

 

 お隣の席の松川さんは、子持ちの女性だ。優しくて穏やかな気性。同僚として幸枝と協力する反面、私生活のことには随分と心配してくれる。お子さんが中学生らしく、デスクには家族の写真が置かれている。

 

 

「幸枝ちゃんがそう言うならボスもちんたらしてらんないわねぇ。植田と芳野とは? もう会った? 別件の書類が足りない~って騒いでたから、書類の不備を確認した方がいいかも」

 

「アー、浦島太郎みたいな気持ちですね。なんにも覚えてないですもん、すごい取り残されたみたい」

 

 「確認しておきます、ありがとうございます」と告げ、幸枝は自分のデスクに向き直る。なにせやることは山ほどあるのだ。1月前の自分のやりかけに、会議で認証が下った案件。周りが片付けてくれた諸々も目を通さなくてはならない。幸枝の日常が戻ってくる。自分が望んで飛び込んだ場所。永遠に尽きない興味を満たすことの出来る場所。しれず幸枝は息をついた。

 

 

 

 さて、幸枝が元の生活に戻っていく中、天沢家も日常を取り戻していく。幸枝がいる間に引っ越しは済み、子供達は先日から新たな幼稚園に通っている。夫の通勤時間は長くなったが、今までのアパートに比べれば充分に良い生活ができた。幸子も住み慣れた家に戻ってきたことに──足りないものが多かったが──さほどの心配もなかった。両親のことも一区切りがついた。煩雑な手続きもおおよそは終わっているし、子供達も元気で夫も仕事で困った話しはしない。何の問題もなかった。何も不安は無いはずだった。それでも幸子の心の底に、重い鉛のような不安がこびりついて離れない。体調が優れないからかもしれない。精神のバランスを崩した幸子は、かつて無いほどに不安定だったから。そう思って自分のことを落ち着けるしかない。

 

 思えば幸子の人生は常に不安と共にあった。生まれてからずっと身体が弱く、物心ついた頃にはすでに自由がなかった。周りの子達が楽しそうにやっていることを「我慢」し続けていた。父も母もとても優しかったし、つらい治療があってもなんとかなった。でも友達と気兼ねなく遊ぶには、身体が弱かった。

 だからあの頃、幸子は母におねだりをしたのだ。「妹がほしい」と。それは幸子の容態が大分良くなってきた頃だったらしい。幸子の体感の中では最近であるが、もっと昔から妹がほしいと言っていたらしい。それから、そうやって幸枝は生まれたのである。

 子を持った親として、あの頃の両親の気持ちを考えると、「とんでもないことを言った」と思ってしまう。子供の無い物ねだりだったのだ。幸子の治療と世話をし、さらに乳飲み子の妹の世話をするのは大変だったろう。その苦労を思う。

 幸子は幸せだった。初めて見た赤ん坊の小ささと泣き声の大きさに驚いた。動くことすらままならない妹を、抱き上げた温かさを随分と鮮明に覚えている。外で遊べない幸子と、小さくて動けない幸枝。あの頃は何もかもが満ち足りていた。

 幸枝が大きくなればなるほど、幸子はずっと物足りなくなっていく。幸枝はおとなしい子供で、小さい頃から癇癪の一つも起こしたことがない。それに反して幸子は病弱な身体に何度も癇癪を起こした。父も母も手のかからない幸枝を可愛がったし、手のかかる姉である幸子のことも可愛がった。自分と妹の違いが目に見えて明確になっていく。

 

 幸枝の年が、幸枝をねだった幸子追い越した頃。幸枝は友達と走り回って遊んでいた。幸子はその頃に体調がまた下降していくところだった。坂道を転がり落ちるように病院に缶詰になる。

 幸枝が小学生に慣れた頃、何も無く健康な幸枝を見て「どうして私だけ」と幸子は思う。もう小学生も後半、言葉も随分と覚えたのに幸子は癇癪を起こした。お見舞いに来ていた幸枝を叩いた。驚いた両親がふたりを引き離して、父親が幸枝をつれていく。母親が叩いた右手を握りしめて強く抱きしめた。わんわんと喚いた幸子を、母親は叱らずにただ抱きしめた。胸に突き刺さるような「ごめんね」という言葉を呟きながら。

 

 その翌日から幸枝は外にいた友達と遊ばなくなった。本を読み漁るようになった。家族と話すとき、身を引くことが多くなった。父と母を幸子にできるだけ宛がった。

 幸子は当時、なにも気がつかなかった。両親との時間が増えたことすら気がつかなかった。幸枝は幸子とあまり話さなくなった。幸子には自分しか見えていなかった。

 中学生になれば幸子は安定した体調を手に入れた。人より弱く、無理は出来ないが学校生活を送ることができる。幸子の人生に余裕が生まれたとき、困った顔をする両親に気がついた。自分と世界がズレた妹を見た。

 

 あの子を望んだのも名前をつけたのも幸子だった。それを勝手に突き放したのも幸子だった。

 

 誕生日にパソコンをねだり、幸枝は後に「メガネ」と呼ばれる技術に傾倒していく。あの日、幸子が幸枝を叩いた日に、幸枝はそれを使う人と出会ったという。

 

 大人になった幸子は、その頃に出会ったことを恨めしく思うこともあった。それがなければ、もう少し幸枝と親しい家族でいられたかもしれない。だが、それが身勝手な願望であることも同時に理解している。幸枝が諦めたのは、自分が原因なのだとちゃんとわかっているのだ。 

 

 幸子はずっと後悔している。

幼かったあの頃に、あんなに身勝手に妹に当たったことを。だから上手くいかない。自分がどうしていたって、妹は自分の好きなことをやっていてほしい。自分が昔に取り上げてしまったから、だから好きに生きてほしいと思っている。

 気遣いが嬉しい。でも気が重い。

子供と遊んでくれて嬉しい。自由な時間がありがたい。でも、でも、でも。勇気が足りなかった。「姉」として正解の振る舞いが分からなかった。

 



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これが日常

 仕事は2週間もすればあっという間に追いついた。追いつかざるを得なかったかもしれない。幸枝は順調に企画と設定を追加していく。電脳空間で生きる生物。自我と成長プログラムを持った生物。現実に存在するものは出来るだけ寄せて、そうでない生き物は0から作り上げる。──なんと心躍ることか。

 

「幸枝ちゃーん、今日のお昼ご飯は食べたの-?そろそろ2時よーう」

 

「えっ、もうそんな時間ですか!? 」

 

 「そうよう、また食べなかったのね」呆れたように言う松川さんに、時計を見た幸枝は思わず頭をかき混ぜた。集中しすぎて周りが見えなくなるのは彼女の悪い癖だった。

 

「……、まずい。今日は外部の人と打ち合わせがあった…」

 

「打ち合わせ先でお腹を鳴らしたいなら無理は言わないけど」

 

「食べます…」

 

 引き出しの中を漁れば栄養補助食品がいくらか出てくる。自分のロッカーにはもっとあるのだが、そんな時間もやる気も無かった。パッケージをはがして袋を割いて中身をかじる。口の中がぱさぱさになったが、幸枝はそれも含めて結構好ましく思っている。お供はミネラルウォーターだ。

 

「アー…、たまに人間として食事をしないといけないのが面倒になりますね」

 

「それはちょっと幸枝ちゃんの感覚が変ねえ。もう少し人間らしい生活をするべきだわ。ここの人は偏りが激しいけど、自分までそうしなくてもいいのよ? 」

 

「変って松川さんも言いますね。私の場合は趣味が高じてここに就職したようなものなので…仕事の半分は楽しくてたまらないから仕方ないですね」

 

「そればっかり! 芳野もそう言ってたけど、この職場の就職者ってどうなってるの…? なんで趣味の人が来るのか全然分からないわ…。この会社七不思議にしてもいいくらい」

 

 ひひひ、と笑いを返せば不満そうな顔の松川も黙る。自分の言葉に首を絞められたのだ。この会社、なぜか入ってくる人間が半分以上趣味やらを追い求めている。「金をもらって好きなことができる」というなら、誰だって入りたい。そういう人間を選んで入れているらしい。なぜ分かるのか不思議である。

 松川もそういう人間の1人である。何故ならこの会社にいる時点でそれは決定している。そういう人間しかここにはいないのだから。

 

「犬用のモーフの進捗はどうです? 性質はランダムにするっていってましたけど、成長の因子の強さとかって会議を通ったんですか? 」

 

「やだ幸枝ちゃん。会議が通らなくても実装しないとならない状況にしちゃうのが私の仕事よぉ。性格と性質の変化、しつけと時間の移り変わりをプログラムできるなんて最高よ…」

 

 ふたを開ければみんな同じ穴の狢なのである。

松川はとろけるような笑顔を浮かべてうなずく。

 

「コイルスの発明は偉大ねえ。0から10までプログラムしなくても、ある程度は形になるというのは素晴らしいことだわ。中身が全く分からないから人為的に調整しきれないのも、生物の反応として良い物になるし。蓄積されたデータだけだと全く同じ性格の生き物が生まれちゃったりするのよねえ、それが解決されるだけでもすごいわあ」

 

「アー、大企業ともなるとデータの回収もすごいですしね。電脳ペットの寿命をどうするかで揉めてましたけど、あれってどうなったんですか? 」

 

「えっ、幸枝ちゃん見てないのお…? 基本的にはナシでいいみたい。リアリティを求める人には「アリ」を選んでもらえばいいんじゃない、ってことに落ち着いたわ。子供の情操教育には「アリ」、年上の皆様には「ナシ」。

コイルスは革新的な発明をしたし、すてきな注文もくれるけど形にするのは中々骨が折れるわあ…」

 

「まだまだ町中を歩けるような設備が整ってませんしね。家から出ないように組むん…って、時間がきたので…ちょっと行ってきますね」

 

「いってらっしゃい。気を付けてね。

コイルスの本社の中だけを歩き回るペットは実装したのよお、感想を教えてちょうだいね」

 

 「了解でーす」っと叫びながらジャケットを羽織り、オフィスを出ていく。仕事用のメガネは良好。資料は全部この中に入っている。外ではまだまだ使い勝手が悪いが、これから向かう先はコイルスコイル社だ。紙の資料は必要ない。

 社用車にはすでに一緒に行く予定だった芳野が来ていた。芳野は幸枝と組んで動くことの多い相手だ。具体的にいうと幸枝は興味のある分野以外の記憶があやふやになる。メモをしても内容を思い出せないレベルになるのだ。幸枝は大いに偏った能力の持ち主である。

 

「遅れました? 」

 

「大丈夫っす。幸枝さんこそ忙しそうにしてましたけど、忘れ物とかないっすか? 」

 

 その言葉に促されて、ポケットに入った名刺を確認した。大事なメガネはつけたままだし、そもそも他に必要な物もない。メガネがあれば打ち合わせを記録出来るのでメモの必要も無い。

 

「名刺があるから大丈夫です」

 

「いやー、ホント幸枝さんは割り切ってますよねぇ」

 

 車に乗り込みながら交わす会話はいつものものだ。初回の打ち合わせで書類一式を忘れた幸枝は、それから毎回芳野と一緒の場合には確認される。当然である。それから、幸枝が必要最低限しか荷物を持たないこともよく知られていた。

 

「手ぶらで行くの、怖くないですか?」

 

「怖くない、っていうよりも…必要以上に何を持てばいいのか分からないんですよねー」

 

 「そういうもんすか」「そういうもんです」と言い合いながら車は出る。社用の車はいい加減に減価償却も終わったようなオンボロだ。みんな気にはしているが、大事に乗るわけでもない。AMのラジオから流行らしいポップスが流れてくる。全国的に明日は晴れるらしい。とりとめない会話をしながら、車はコイルコイルス本社にたどり着く。

 

「本当に実装されたんですね…電脳ペット…」

 

「えっ、うわマジっすか!すげえ!」

 

 ホールに入ってメガネをかければ、そこは外とは明らかに違う空間だった。メガネのあるなしでの情報量が圧倒的に異なる。松川が言っていたように、広いフロアを歩き回る猫の姿。メガネを外せばそこにはなにもいない。生体に反応しているのか、メガネをつけていない人も避けているようである。

 壁際で寝転ぶ猫に近寄って手を伸ばせば、手に反応して顔を寄せてきたり、撫でれば”らしい”反応を返してきた。

 

「うーん、やっぱりメガネとの誤差が……」

 

「そうですか? そんなに気にならないような気がしますけど」

 

「え、結構ありません? 感触がないから余計に感じますけど」

 

 しゃがみこんで何も無い空間を撫でる大人二人である。メガネを持っていない人からすれば不気味極まりない状況だ。メガネをつけていれば良いのだが、この差異がまだまだ難しい状況である。それから、電脳ペットのこのタイムラグもだ。手元の動きはどうしても細かくなるから、それに対応する器具が必要になるだろう。壁際でうんうん唸る女一名と、何も無い空間を撫でる男一名。

 

「あっ! 幸枝さんやばい! 時間がまずいっす!」

 

「おわ! 本当だ!やばいやばい!」

 

 慌てて受付で入場タグを受け取り、示されたとおりの部屋まで駆けていく二人である。残念なことに、このペアでの行動はいつもこんなものである。なお、いつもバタバタとしながらも必ず約束を破ることがないのも特徴である。

 

「お久しぶりです。地村さん」

 

「どうも長い間すいませんでした猫目さん」

 

 ぺこりと頭を下げれば、コイルスの開発主任である猫目はいやいやと手を振り微笑む。目元がややきついせいで取っつきにくそうな外見なのだが、存外穏やかな性質の男だ。

 

「進捗については芳野さんから報告を受けていましたし、オリジナルについては地村さんに任せているので、あなたが出してくる企画を楽しみにしているんですよ」

 

「開発主任にそこまで言われると開き直れそうですね。まあ、今回は大分良いお話しが出来ると思いますよ」

 

「それは嬉しいお話しです」

 

「満足いただけるようにお話しいたしますね」

 

 かけたメガネの位置を直して、椅子に座り直す。コイルスの本社はさすが本社だけあって通信環境が異常に整っている。どこのオフィスにも入り出したメガネと通信システムだが、ここは周りと比べれば笑ってしまうほどに素晴らしい。

 ジェスチャーでコンソールが飛び出て、空間を叩いてやればそれ相応の動きがメガネに投影される。高齢者向けにジェスチャーで動きが補完されるもの、開発者用のものなど研究が進んでいる。驚くような世界だった。社内のどこでも仕事が出来るし、場所も書類もメガネ一つで代用できる。とんでもない世界だった。少なくとも、幸枝の前の人生と比べたら技術の進み方がおかしいくらいに。

 それに、政府もその動きを押していて、日本全国にその情報網を敷くことがもう目前にまで来ていた。そもそもGPSが軍用として開発され、それを使い分けてきたわけである。車道にのみセンサーと乗用車補助のために広げられた通信網があるのだ。これを別の空間としてサーバをつくれば、どちらも一斉に落ちることの無い電脳システムが作れるのである。これで「安全・安心・便利」な世の中が進むのだ。

 幸枝が関わるのはそのもっとも端っこ。なくても困らない。でもあれば人が幸せに暮らせるもの。人が関わらずにはいられず、でも中々手を出すことが出来なかったもの。ペットである。

 

「今回お話しいたしますのは──」

 

 ・・・

 ・・

 ・

 

「で、幸枝さん。言い訳があるなら聞きますけど」

 

「えっ、これってダメなやつですか? うそ…ボスには上げてたし、良いと思ったんですけどダメなんですか? 」

 

「はー…」

 

 諦めたようにため息をつくのは、営業車に戻った芳野である。疲れたように項垂れ、両手で顔を覆ったまま固まってしまった。幸枝は幸枝で判断を誤ったのかと驚いたままだ。

 

「いいっすか、幸枝さん。戻ってきて2週間で作れるような内容じゃないんですよ、アレは。しかも、コイルスの主任技師とあんなに歓談します? そもそもっすよ、僕らの会社は下請けとして電脳ペットの開発をやってるんすから、求められてる以上のものは必要ないんです」

 

「ボスが良いって言ったから持ってきたんですけど。あと歓談っていうより、猫目さんの質問に延々答えてただけですけど。メモが追いつかないのは芳野のせいであって私のせいでは無いです」

 

「いや、うん。そうでしたね、ボスは通ってるんでしたっけ…アレが? 本当にボスは良いって言いました? あれが本当に通ったらうちの負担やばくないすか? 他社と分担したりします? 」

 

「いや、芳野が何を思っているのか分からないですけど、嬉しいんですよね? 」

 

 「まさか!」と叫び返した芳野は満面の笑みである。芳野はスケジュールを組むのが大好きなのだ。組むのも、守らせるのも、上役と話しを通すのも芳野は大好きである。色々な企画のスケジュールを任せられているし、外部とのやりとりもかなりやっているがそれでも楽しそうなのだからすごい。幸枝には理解できないことである。いや本当に。

 

「アレを形にするなら、もう外もメガネに反応する頃になるでしょうし、プレリリースのことなんかも含めるなら早めに出したいところですけど……、いやでもどこの町にタイミングを合わせるかですかね…」

 

「ミゼットの方はゆっくりで良いと思いますよ。電脳空間に慣れてからの方があの子は売れると思いますし。レネーはできるならコイルス本社のロビーで動かしてほしいですね…出来るだけ早いほうが他のペットの敷居を下げそうじゃないですか? 」

 

「確かに。…レネーのこと、松川さんに相談してます? 性質モジュール、相当きついのでは? 広告はボスに相談してからになりますけど、それでも日程はかなりきついっすね」

 

 行きは芳野が運転した車を、帰りは幸枝が運転している。これもいつものことだ。今日の出来事をスケジューリングするのが芳野の役割なので。なので、幸枝と違って芳野は荷物が多い。メガネだけでは外で調整ができなくなるので、どうしても手帳を手放せないからだ。今も隣の席でぺらぺらとページをめくっている。

 

「でも猫目主任からいい話も聞けましたね」

 

「イマーゴでしたっけ? いや~、あんなのが形になったらとんでもないと思いますよ。でも、それが形になった世界を見てみたいものっすけど」

 

「でもきっと、形になりますよ。イマーゴが形になるのなら、もっと出来ることが広がるんですから。……ただ、猫目さんのあの感じ、ちょっと心配ですね」

 

 「そうすか?」気もそぞろに返された芳野の返事に、幸枝は深く頷いた。猫目主任は追い求める目をしている。幸枝の会社でも似たような目をした人が何人もいる。追い求めることを、自分の力だけでは止められないのだ。

 

 そもそも、だが。

コイルスの内情に詳しくない幸枝ですら、イマーゴ機能に懸念をもつ。「考えただけ」で制御ができてしまうのなら、どこまで制限がかかるだろうか。どこまで思考を制限するのか。人間の悪意や、無意識の欲望にイマーゴは事細かに反応してしまうだろう。

 それにその話は噂で聞いた話と酷似していた。会社に導入するようになったメガネ、メガネの拡張されていく機能。その中で裏ワザとして存在すると言われていたものだ。制作会社側には未実装の機能、未来に必要な新たな技術革新。技術革新には痛みも伴う。利権も法整備も金だって相当動くのだ。それは到底、個人に負担できることでは無い。

 

「猫目さんも、引き際を誤らなければいいけど」



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夏と冬

イサコが幸せに笑ってるところが見たい……


夏 信彦7才、勇子3才

幸枝「久しぶりー!大きくなったね…、元気にしてた? 」

信彦「元気だよ。オバさんこそずっと来なかったけど元気なの? 」

幸枝「まあ人並みに仕事は忙しいからさ。元気よ元気。……ユウコは? 」

信彦「お母さんのとこだと思う。最近、ずっとお母さんにべったりだし」

幸枝「ほー。お兄ちゃんはちょっと寂しいね」

  (頭を乱雑に撫でる)

信彦「いた!?痛いよ!」

幸枝「はは。年末に寂しがってるお兄ちゃんにプレゼントだよ。ほら」

信彦「これ!最新のメガネじゃん! 」

幸枝「よく分かりましたー! ver2.39最新子供メガネ"オトモダチ号"だよ」

信彦「名前ダサくない? 」

幸枝「……やっぱり思う? 」

 

 *****

 

幸枝「久しぶり姉さん。元気にしてた? これ、会社の人と私からお土産」

幸子「あらー、気にしなくてもいいのに。今年はただゆっくりするだけだし…私の体調もいいから、暇なら子供たちと遊んであげて」

幸枝「もちろん!…姉さん、あれから体調は大丈夫なの?倒れたりとか、具合悪くなったりしてない?」

幸子「もう!大丈夫って前も連絡したじゃない?そんなに心配させちゃった?もう大丈夫。あの人にも随分と怒られたけど、そのあとは無理することもないんだから」

幸枝「それならいいんだけどさ。…姉さんは体が強くないし、いつも無理するから…。心配されるのが嫌なら健康でいたら?」

幸子「分かったってば。も~健康健康!みんな元気すぎて困っちゃうくらい健康!」

幸枝「アー…姉さんはいつもそうなんだから。ところで勇子ってどこにいるの? いない? 」

幸子「あら? 庭とかで遊んでない? 」

 

 *****

 

幸枝「おっ!本当だ。勇子がいる」

勇子「…ユキちゃん? 」

幸枝「そうだよユキちゃんだよー。なにしてたとこ? 」

勇子「なんか、変な音がするから…」

幸枝「変な音…? 」

勇子「うん」

幸枝「それってどんな音かな? 」

勇子「うーん、なんだろ。……、ラジオの…ざらざらしたやつみたいなの」

幸枝「砂嵐か…、それはメガネをかけてるときだけかな? 他に何か聞こえる?」

勇子「ほかに? うーん、聞こえないと思う」

幸枝「そっか……勇子はすごいなあ…!(ぎゅっと抱きしめる)」

勇子「えー!なに!?」

幸枝「うふー!これからが楽しみで心配だなーって!」

勇子「なにそれー!ユキちゃんおしえてよー!」

幸枝「もうちょっと秘密だなあ!がんばろ!」

勇子「ずるい!ユキちゃんだけ知ってるじゃん!ずる!」

幸枝「ユキちゃんは大人だからいいんでーす!残念!」

勇子「あー!待ってよユキちゃん!おしえてよー!ずる!ずるだよ!1」

幸枝「待ちませーん!(……まさか、勇子がイマーゴ体質だなんて)」

 

 

冬 信彦8才、勇子4才

幸枝「ああ~…しみいるこたつのぬくもり…」

幸子「勇子! こら! 早くパジャマに着替えなさい! はし、服を着て! ちょっと待って!! 」

勇子「やだーーーー! 勇子このままで平気だもん! 」

幸子「風邪ひくから! 待って… 」

幸枝「……おぉ、これが幼児。…信彦、お前もきっとこんな感じだったんだろ? 」

信彦「(嫌そうな顔)一緒にしないでよ」

幸枝「私もそんな感じだっただろうから気にすんなよ、思い出さ……いつか笑える日が来る…」

信彦「オバさんも裸で逃げ回ったの? 」

幸枝「もっとまずいことをやってるよ…」

勇子「ユキちゃーん助けて-! お母さんが怒ってる…! 」

幸枝「うわ! 勇子、べちゃべちゃじゃん。そんなの姉さんが怒るのもアタリマエ! 」

幸子「そのまま…そのまま捕まえてて…! 」

勇子「うーうー、やだ! 」

幸枝「まあまあ、すぐ終わるからそう暴れない、いっ!? 」

信彦「アチャー…オバさん、大丈夫? 」

幸子「こら勇子! ユキちゃんに謝ンなさい! いい加減に服を着るの! こら!! 」

勇子「やだ!! 」

幸枝「…子供のパンチって痛いんだな…」

信彦「オバさん、ミカンむいて」

 

 

夏 信彦8才、勇子4才

勇子「あー!ユキちゃん久しぶりー!」

幸枝「久しぶりー!勇子、おっきくなったねえ!…半年でこんなに成長すんの…? 」

勇子「えへへ~。そうでしょ、勇子おっきくなったんだから! 」

幸枝「はーー、勇子は本っ当にかわいいわ…。疲れた心に効く…」

勇子「ねー! それより遊ぼ!お兄ちゃんは友達と遊びに行ってていないの」

幸枝「あれ、そうなの?お盆だからいると思ってた」

勇子「ユキちゃんがメガネあげたからだよ! お友達とメガネで遊ぶってゆってたもん! ユキちゃんのせい! 」

幸枝「ア、アハハー…それはごめんだなあ…」

 

 *****

 

幸枝「久しぶり姉さん」

幸子「あら早かったのね」

幸枝「ボスに『休みをとれ!』って怒られちゃってさー、本当はもうちょっと詰めようと思ってたんだけど」

幸子「いい人で良かったじゃない。心配してもらったんでしょ? 」

幸枝「や…どうだろう…うちの職場、結構変わってるから…。単純じゃないところがあって…。まあ私の話はいいよ。これ、お土産ね」

幸子「いつもありがとうねえ。…お父さんとお母さんに手、合わせておいでね」

幸枝「そうだね…初盆だもんね…」

幸子「あっという間ね…」

 

 *****

 

信彦「オバさん、今年も来てたんだ? 」

幸枝「信彦もおっきくなったけど、…可愛げはどこに落としてきたのかな?おばさんは不思議だなあ」

信彦「そんなことよりおばさん」

幸枝「そんなことより!? 」

信彦「メガネのブロックがきつすぎるから取ってほしいんだけど」

幸枝「…信彦はいくつになったんだっけ? 」

信彦「もう7歳だよ」

幸枝「7…? まだ神様の子どもじゃない? 全然だめだけど」

信彦「……だめ? 」

幸枝「うっ…! 信彦おまえぇ! やるようになったじゃないか! どこで学んでくるんだよそんな小技! 」

信彦「ブロック取ってくれないの…? 」

幸枝「…いいよ…姉さんには内緒だからな…。あと悪用したら私直々にボコボコにしてやるからな…」

信彦「ユキちゃんありがと!」

幸枝「(重い溜息)小学生にしては賢すぎない…?今時の子ってみんなこうなの…? 」

信彦「あ、入学祝いもありがとう! 」

幸枝「どーいたしまして! 」

 

冬 信彦8才、勇子4才

幸枝「こんばんはー」

幸子「あら、今日は随分と早かったのね」

幸枝「アー、うん。連絡したより早くてごめん…」

幸子「そんな顔しないで。悪いって言ってるわけじゃないの、単純に珍しいでしょ? あの人も信彦も勇子だってユキちゃんと会えるのを楽しみにしてるんだから」

幸枝「…うん、姉さんには敵わないね。…これ、今回のお土産」

幸子「いつもいいって言ってるのに! ここはあなたの家でもあるんだから。ゆっくりしていってね」

幸枝「…ありがと」

 

 *****

 

勇子「ねーユキちゃん」

幸枝「んー? 」

勇子「ユキちゃんって何をしてる人なの? 」

幸枝「唐突だねえ勇子。仕事の話でいい? 」

勇子「うん」

幸枝「そうだな…電脳ペット、というのを作ってるよ」

勇子「電脳ペット? ただのペットじゃないの? 」

幸枝「いい質問だねぇ…。違うのはね、メガネで見るか、見えないか。それだけだよ」

勇子「メガネがないと見えないの? 」

幸枝「そうだよ。触れないし、匂いもしない。でも生きてる」

勇子「触れないのに生きてるの? 」

幸枝「そうだよ勇子。触れなくても生きてる。データで構成されてても生きてるよ」

勇子「ふーん? ユキちゃんはすごいんだね」

幸枝「ありがと」

 

 *****

 

信彦「今日って、お父さんどうしたの? 」

幸子「なんだか会社でトラブルが起きたんだって…。正月早々に運がないというか…」

勇子「えー! まだお父さんにあけましておめでとう言ってないのに! 」

幸子「そうねぇ、気長に待ちましょうね。今日中に帰るって言ってたし、運が良ければ昼には戻ってくるって話しよ」

信彦「フーン」

幸子「えー…じゃあ待つ…」

幸枝「…おはよう…あけましておめでとうございます…」

信彦「オバさん起きるの遅くない? もうお昼だよ」

幸枝「うん…信「おはよう! あけましておめでとうございます! ユキちゃん今年もよろしくね! 」…うん、よろしくね…」

幸子「もうお雑煮もおせちも大方食べちゃったわよ」

幸枝「うん…ごめん、寝坊しすぎた…」

勇子「ユキちゃん、なんでそんなに寝坊したの? 」

幸枝「同僚と年越しチャット…おしゃべりしてたら…熱い議論になってしまって…寝たのが日の出頃だからです…申し訳ありません…」

信彦「こういうのをジゴージトクって言うんだよね? 」

幸子「…そうね、私もなんとも言えないわ」

信彦「寝坊したオバさんは、僕たちにお年玉をくれないといけないよね? 」

勇子「えっ!? ユキちゃん、お年玉くれるの!? 」

幸枝「…もちろんだよ! 奮発させていただきます! あと勇子、ユキちゃんはちゃんと働いてるからね? お年玉あげられる稼ぎはあります…毎年あげてます…」

 

 

夏 信彦9才、勇子5才

幸枝「ただーいま。今年もお世話になります! 」

勇子「おかえりユキちゃーん! 今年はいつまでいるの? 」

幸枝「うーん…16日からお仕事だから15日には帰るよ」

勇子「もうちょっと長くいればいいのにー! 今年のお土産は? 」

幸枝「はーいはいはい、ちゃんと買ってあります。勇子に渡していい? 」

勇子「あっ! フランボアのタルトだ! 」

幸枝「喜んでもらえた? 」

勇子「うん! お母さんのとこ、もってくね! 」

信彦「ただいまー。て、あれ? オバさんて今日だったんだ? 」

幸枝「そうでーす。二泊させてもらうわ」

信彦「あのさ、前にもらったメガネなんだけどさ」

幸枝「ああ、プロテクト外したやつね。危ないことはしてないでしょうね…」

信彦「してないしてない。これって開発でかかってるプロテクトまではとれないの? 」

幸枝「ちょっと何を言っているのか分からないんですけど…」

信彦「ソースコードとかって見れないの? 先輩が色々と出来るんだけど、このメガネで追いつけないのはメガネに問題がある? 」

幸枝「…、…。信彦、やるならちゃんと責任もってやれよ。私は全部助けてやれないので、というかそこまで楽しんでるならまとめて学ぶべきかな! あなたの力量不足です!(大声)もっと知識をつけてください! 」

信彦「…」

幸枝「いっだ! ………いやはや、成長を感じる…」

 

 *****

 

幸枝「お義兄さん、そっちの業界は今年はどうでした? 」

義兄「こっちはこっちでメガネの好景気に引っ張られてますよ。仕事のやり方は変わるけど、仕事も増えるっていうのは良いことさ」

幸枝「やっぱり仕事のやり方も変わりました…? 」

義兄「そりゃあね。ありゃ、もうインフラだね。ないと生活が成りいかない時代も近いと僕は思うよ」

幸枝「ああ、まあそうですよね…。不便とかはないですか? いえ、参考までに。うまくいけば解決できますけど…」

義兄「いやー、ね。これからの子どもたちが心配だってことかな。メガネがないと困るが便利すぎるだろう? この過渡期が終われば、僕はそれでいいかなあ…」

幸枝「そうですね。…未来を見据えて動かないとですね」

義兄「この近所にもコイルスの研究所があるだろう? 幸枝さんは知ってる? 」

幸枝「まあ、何度か行ってますね。主任技師の方と親交がありますよ。去年コイルスに行ったときは調整が大変だって言ってましたけどね。新しい分野だから新規参入も多いみたいですし、利益が大きいのも考え物だって笑ってましたけど」

義兄「大企業ならではの悲鳴だね。僕たちの会社もそんな悲鳴を上げてみたいものだよ」

幸枝「ははは」

 

 *****

 

冬 信彦10才、勇子6才

幸枝「アー…あけましておめでとうございます」

幸子「あけましておめでとう! もう、大みそかまで帰ってこないなんて! 」

幸枝「…ごめん、仕事が佳境で…」

幸子「三が日くらいは休めるの? 」

幸枝「うん。なんとかなるよ、もう少ししたら一息つくし…」

幸子「それならいいけど」

幸枝「まー! そのかわり! お年玉は弾むからさ! 」

幸子「そんなこと気にしなくていいの。無理しちゃだめよ? 」

幸枝「…うん」

 

 *****

 

勇子「あれ? ユキちゃんだ-! いつきたの? 今年は来ないかと思った」

幸枝「おぉ~おはよ。今朝来たよ。あけましておめでとう、勇子・信彦」

信彦「あけましておめでとう。仕事、いそがしいの? 」

幸枝「アー、そうだね。ちょっと忙しいよ。まあでも! そんなことは! どうでもいいので! はい! ちびっ子達手を出して! 」

信彦・勇子「「はい! 」」

幸枝「はーい、お年玉です! こっちが信彦、はい勇子ね」

信彦「ありがとうオバさん」

勇子「ありがとうユキちゃん! 」

幸枝「いいえ~! 今年も元気に過ごすんだよ! 」

 

 

夏 信彦10才、勇子6才

 

幸枝「あー…今年も暑いね…」

信彦「そう? そこまで暑いかな…」

幸枝「いやーこれは若さですわよ」

信彦「そんなことはどうでもいいんだけどオバさん」

幸枝「そんなこととは…、なんだよ信彦」

信彦「こないだ電脳空間がどっかの町に入ってさ、ペットも新しく出たでしょ? アレってどこが特別なの? 」

幸枝「おー? 興味ある? 大黒市も町中をペットが歩けるようになったし…特別に! 講義してあげよっか! …なんだその顔」

信彦「いや…別に」

幸枝「まあいいわ。こないだのやつはついに発表されたオリジナルペットで、モールという名前のネズミ型ペットマトン。町中歩きが出来て、言語を100%理解できんの。ただし、鳴くことくらいしかできない」

信彦「なにそれ…ただのネズミじゃん」

幸枝「なんだと! ペットマトンで人語を完全に理解して、かつ意思疎通ができるし学習能力だって高いし可愛いやつだぞ!? 」

信彦「…。なんで開発したわけ? 」

勇子「ただいまー! あー! ユキちゃん来てたんだ! 」

幸枝「おー久しぶり勇子。手を洗っておいで。…そりゃあ、やってみたかったから? 」

信彦「オバさんて、本当にいっつもそうだよね…」

 

 *****

 

幸枝「姉さんさぁ…」

幸子「なに? 」

幸枝「来年は勇子の入学でしょ? ランドセルって天沢から贈られてくる? 」

幸子「そうねぇ…本当に可愛がってくれてるから…今回も学習机とランドセルを買ってくれると思うわよ。信彦の時もそうだったし」

幸枝「そうだよねぇ…入学祝い、どうしようかと思ってさ」

幸子「気にしなくていいのに。来てくれるだけで二人とも喜んでるでしょ? それで充分なのよ」

幸枝「うーん…それも何だかな…って。ああ、勇子のメガネってバージョンアップしてる? 」

幸子「それはあなたの方が詳しいでしょ? なに、決めたの? 」

幸枝「まぁ、うちの会社でだしたペットマトン、あげようかなって。情操教育にも効果があるって話だし、信彦にもあげたら…困らないだろうから二人に」

幸子「まあ…なんというか…そんなに高いものをあげなくてもいいんだけど。いつもありがとうね」

幸枝「学習机よりは安いから安心して! 」

 

 *****

 

義兄「やぁ幸枝さん、今年もお疲れ様」

幸枝「アー、お疲れ様でした。今年もお世話になります」

義兄「毎年言ってるけどね、気にしないでいいよ。ここは君達の家なんだから」

幸枝「それはそうですけど…これだけ暮らせば天沢家ですよ。私はちょこっとお邪魔さしてもらってるんで」

義兄「君たち姉妹はそういう頑ななところはそっくりだよね…」

幸枝「えっ、そうですか!? 」

義兄「本当に」

 

 

 

 

義兄「おぉ、除夜の鐘だね。今年もそろそろ終わりだ」

幸子「ほら勇子起きて! 初詣に行くわよ」

幸枝「あら…信彦ったら眠いの? おねむなの? お子様ね~」

信彦「うるっさい。眠くない。メガネどこ? 」

勇子「う~~眠い~~。寒いよ…お母さん~~」

幸枝「…鐘、鳴り終わったんじゃない? 」

幸子「…こういう年もあるわよ。ほら、勇子、手つないで」

義兄「じゃあここで言っちゃおうか。はい、信彦! 」

信彦「え、僕!? もー…あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします…」

みんな「「「「今年もよろしくお願いします! 」」」」

 

 

 



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ベルが鳴る

お葬式の描写が出てきます。金沢のはずですが北海道式で書いてしまいました(北海道出身のため)。どこかで変えたいと思います。


 

「姉さん? 」

 

『───』

 

 姉である幸子から電話があったとき、幸枝はペットマトンの修正パッチを試しているところだった。このペット、外に出た瞬間に良いように扱われて発禁扱いされたのだ。あまりにも可哀想である。こんなにもかわいらしい造形にそれらしい生態をつけたというのに。楽しい頭のユーザーの思い付きですぐに発売禁止だ。開発側のことも考えてほしい。

 

「もしもし? 姉さん? なにかあった? 」

 

「───。」

 

 幸枝にわざわざ電話を寄越す姉、というのは珍しいことだった。いつもメールで連絡を寄越す姉からの電話。嫌な予感がしていた。告げられた言葉に会社を飛び出す。スニーカーを履いていてよかった。全力で走れる。「嘘だろう」と、心がそれだけを叫んでいる。幸枝がこの頃を思い出すとき、彼女の記憶は飛び飛びになっている。

 

 信号機が赤でイライラする。待つ時間が異様に長く感じられた。病院の駐車場はいっぱいで車を止めるスペースがない。焦りで手元が汗ばむ。

 

 病院の消毒液の匂い。暖色の蛍光灯。淡い色合いのカーテン。ベッドに横たわった、白い顔の義兄。傍らで泣き崩れる姉の姿。窓際で身を縮めている勇子と、手を繋いで泣いている信彦。何があったか詳しくは分からない。でも、結果は一目瞭然だった。

 

「姉さん…」

 

 姉は、幸枝に電話をしたにも関わらず、幸枝の声に気がつかなかった。

 義兄の手にすがりついて、布団にしわが寄っているのも気にしていない。髪は振り乱して、きっと目元は赤くはれ上がっているだろう。嗚咽に小さな悲鳴な時々混ざった。ぎゅうぎゅうと触れた手は、もう姉の温度しか残っていないのだろう。それほどに白い。

 今、妹の幸枝は必要なかった。

 

「信彦、勇子。ちょっと外に出よう」

 

 手招きすれば、2人は素直に寄ってくる。

姉には時間が必要だった。まだ2人の「母親」に戻るには時間がかかるだろう。それほどに姉の取り乱し方はすごかった。病室を出て扉を閉めても、かすかに嗚咽が聞こえるような気がする。

 

 2人と手を繋いで、エレベーター前のホールまで歩く。信彦は父親が死んだことを理解しているのだろう。ぐずぐずと泣いていた。一方で勇子は「いつもと違う」ことは分かっていても、それがどうしてなのかは理解が追いついていないようだった。

 幸枝はふたりの家族ではなかったけれど、何をしないといけないのか分かった。膝をついてぎゅうぎゅうと強くふたりを抱きしめた。目を丸くした勇子はぎゅっとしがみついてきて、信彦は堰を切ったように泣き出した。どれだけ大人びた子供でも、子供は子供だ。不安だったのだろう。姉はきっと、初めから取り乱していたのだろうと幸枝は思う。本当は幸枝もことの流れが気になってはいた。看護師に聞けばそれもわかるだろう。でも、ここで二人を放置するのはあまりにも違うのではないかと思ったのだ。手を引いて歩いて、この場で止まって二人の顔を見たときに、「そうしてよかった」と強く感じた。

 

 何もわからなくても不安を感じていないはずがない。分かっているならそれ以上に、人の不安は伝播していくものだから。

 

「もうちょっと、姉さんが落ち着くまでここにいよう…」

 

 痛いくらいに抱きしめて、落ち着くまで泣いたなら少しは先に進めるようになる。幸枝がそうだったように、姉が乗り越えてきたように。それを信じるしかなかった。信彦に釣られて泣き始めた勇子の背をさすって、幸枝はぼんやりとした不安が濃くなっていくのを感じる。耳の奥に姉の嗚咽がわんわんと響くようだった。あんなに取り乱した姿は、母親の葬儀以来だろうか。

 姉はこれから大丈夫だろうか。天沢さんの死を乗り越えることができるのだろうか。姉は、もう姉だけではなく母になったから、だから大丈夫だろうか。父の葬儀では落ち着いた振る舞いが出来ていたから、手順や流れは身についているから大丈夫だろう。

 

「信彦、勇子…。姉さんの力になってあげてね」

 

 大丈夫、とは口が裂けても言えなかった。だってどこから見ても大丈夫じゃない。落ち着いている幸枝にすら、これからが大変だということが分かる。取り乱している姉ならどれほど苦しいものか。幸枝には「正しい」家族が理解できないから、どうすればいいかわからない。それが一番になるのじゃないかと想像するしかなかった。

 

 幸枝は手放した物が戻らないことを知っていた。でも、それだけだった。

 

 

・・・

・・

 

 

 線香の匂いが満ちた空間に、黒い服を着た人が詰め込まれている。父も母も同じ空間で通夜を行ったことを思いだした。今日の喪主は姉だ。

 黒い喪服に真珠の首飾り。細い首が頼りなく何度も伏せられる。音は無い。記憶の中で、やつれた姉の眼差しが責めるように幸枝をのぞき込む。

 写真の中の義兄は微笑むだけで何もしゃべらない。参列する人の唇だけがぱくぱくと、空気を求める金魚のように動いている。目元が見えない人、人、人。義兄の職場の人間も、親戚の人達も、見覚えのある人すら霞がかって顔が見えない。

 坊主が経を読む。じゃらりと数珠が鳴る。耳に戻ってきた音が、器用に姉の声を拾った。「どうして」と。

 白い菊の花が揺れている。風が無い式場の中でさやさやと、草原に揺れるようである。香が参列者の列を回る。きいきいと車輪を回して、縦横に動いている。足を止める度に新しい煙が上がる。読経が続く。頭上のスピーカーから音が広がっていた。

 

 鯨幕に背を向けて、姉が参列に謝辞を述べている。

隣に並んだ信彦と勇子の顔色は優れない。姉は泣いていた。白いハンカチを握りしめて、マイクを持った手が震えている。彼女の言葉は不思議と頭の中に入らない。上滑りするように耳から耳に抜けていく。唇を噛みしめた信彦。何かを理解したような勇子。

 波のように揺れ動く参列者の群れは黒く、顔だけが薄ぼんやりと明るい。話しを聞いているのかいないのか。幸枝にはその口が心無い言葉を吐いているように見えて目をそらした。

 姉は立派に役割を果たした。

葬儀の準備も、当日の動きも。忙しかったために、子供たちの世話を全てはできなかったが、それは幸枝と天沢の親類とで十分だった。

 姉はあの病室で以来、感情の振り幅を失ったようだった。いつでも悲しみと思い出の中を行き来しているような、不思議なバランスで呼吸をしていた。

 事実、幸子の心情は実に複雑だった。心には常に悲しみが付きまとい、ふとした瞬間に夫との思い出が心に去来する。思い出している間はまだよく、一区切り着けば一際強く悲しみを呼び起こした。後日、彼女はこの時期のことを何ら覚えておらず、強すぎる感情が防衛するために記憶を薄れさせたのかもしれなかった。

 世界はぐらぐらと煮立った鍋のように危うい。いつ吹きこぼれるか、温度を計るには手を浸さなくてはならない。誰がやるものか。

 

 そうやって幾度も夜と朝が来た。信彦と勇子は少しずつ大人に近づいて、2人の姉妹は時が止まったどころか過去を見ている。

 遺体が火にかけられる時。たくさんの花に埋もれた姿に、信彦はぎゅっと目を瞑って泣いた。棺の中にノートが一冊増えた。

 棺のふたが閉められる時、幸枝に抱えられて勇子は泣いた。父親に会えないことを悟って手を伸ばした。

 火葬炉の扉が閉じたとき。最後まで棺に触れていた幸子は泣いた。崩れ落ちる人というのを幸枝は初めて見た。母の葬儀より、父の葬儀よりひどい泣き方だった。赤ん坊よりも下手くそな泣き方だ。夫の名前を引きつる喉で呼んで、呼んで、諦めたように蹲って顔を覆って泣いた。 その背を義母がなだめるように、さすっていた。

 悲しみとは、感情とは伝播するモノである。

母親の悲しみに勇子はぼろぼろと泣き出す。言語化できなくともわかるのだ。母親にすがれないこともよく分かっている。だから勇子は手を繋いでいたオバにすがる。信彦は勇子よりずっと年上で、ずっと色々なことが分かっている。だからつらくてつらくて、一番側にいたオバが妹を貼り付けて振り向いた時に「こういうときには目敏いな」と声を殺しながら思った。勇子と一緒に抱き寄せられて、声が漏れそうになって一際強く唇を噛みしめた。幸枝は何も言わず、ただ幸子のことを見つめていた。

 

 ごう。炉に火が入る。温度が上がり、扉の近くにいた幸子は係員に促され、義母に手を引かれて立ち上がる。

じっと扉を見つめる。義母に促される。彼女はじっとそのまま。

じっと立ち尽くす。誰に言われても、幸子は火葬炉の前に立ち尽くしていた。

 残された人達は。

粛々と場を引き上げていく。いるべき場所に、待つべき場所に。ぞろぞろと目の前の背中を追うように、人は列を成して出て行く。幸枝はふたりの手を引いて部屋を出た。姉はひとり、背を向けて立っているだけだった。その背中から読み取れるものは、なにひとつなかった。

 

 古い畳の上。泣き疲れた勇子が幸枝の膝を枕に眠っている。鼻水がたまっているのか、ぷすぷすと呼吸のたびに音がする。なんともいえない平和な音だと幸枝は思う。

 集まった親戚はおよそ15。さやさやと風に揺れるすすきのように落ち着きがない。なにせ、20分たっても幸子が戻ってこない。

 

「信彦、何を見てるの?」

 

 部屋を移動して、涙が落ち着いた信彦は片隅で膝を抱えて、メガネで何かを見ているようだった。調べ物をしているのか、それとも好きなチャンネルでも覗いているのか。わずか数年で、彼は目端の利く使い手として成長していた。

 

「…別に。」

 

「そう、飽きたら外に出ても大丈夫なはずだよ」

 

 ちらり、目線を窓の外に向けて幸枝は口に出す。外といったところで広大な敷地に木々が生い茂っているだけだ。遊具の一つもない。だが、大人たちは座敷から出ることはほとんどないから、居心地はいいかもしれなかった。さきほどから、どうにも大人の視線があまりにも過ぎるような、気がしていた。

 信彦はじっと幸枝の目をのぞき込んで、何かを考えるように時間をおいて首を横に振った。「勇子が起きるまではここにいるよ」と、そう言った。

 

 それから少し。砂時計が1度ひっくり返るより短い時間で、幸子が部屋にやって来た。目は泣きはらして真っ赤だったが、落ち着いた表情だった。入り口で一度頭を下げ、幸枝たちがいる方に向かってくる。

ちらちらと視線が幸子を追っている。当然だ。最後に見た姿があれだったのだから。

 幸枝の隣にとっすり、気が抜けたように座って幸子は勇子の頭を撫でた。

 

「…ごめん、ユキちゃん。迷惑かけたね」

 

「……迷惑じゃないよ」

 

 どう返すべきか分からなくて、幸枝はそう返すのがやっとだった。幸子の顔を見ることができない。ざらざらと乾いた音を聞いて、幸枝はなんだか怖くてたまらなかった。膝の上にある、勇子の熱だけが頼りだった。そういう、不安になるような声で幸子はもう一度「ごめん」と言った。

 幸枝はいたたまれなくて、勇子を幸子に譲った。眠気にわずかにぐずったが、幸子の膝のいいところを見つけたのがそれもすぐに収まる。勇子の頭を支えた手のひらの内側に、きつく握った爪の痕がいくつも見えた。誰にも見えないところで、幸子が苦しんで耐えた痕だ。幸枝はそれに触れることもできなかった。そっと顔をそらして、逸らした先にいた信彦をじっと見つめた。信彦は幸子がきたことに顔を上げていたが、それだけでじっと彼の母親を見つめるだけだった。表情が読み取れない。

 

「信彦…? 」

 

 幸枝はそれをとても不思議に思った。彼も、彼だってさっきまで泣いていたのだから、母親のそばにいれば安心するのではないかと。安心するために側に近寄るかと思えばそうでもない。

 幸枝はとりあえず立ち上がることにした。なにせ、勇子に膝を貸しっぱなしだったのだ。びりびりと足がしびれる。ため息ともつかない吐息が、幸枝の口から漏れた。正直なところ、相当な足のしびれで立つのはしんどい。だが、ここに尻を落ち着けてもいられないような気がしていた。

 

「姉さん、ちょっと外に出てくるから…ゆっくりしたらいいよ」

 

 ゆっくりもなにも、と幸枝は心の中で思う。この中で一番忙しいのも、心に余裕がないのも幸子だ。だからきっと、幸枝は幸子の側で気持ちを分かち合うのがよかった。けれど、幸枝は幸枝でしかなかったので。足を伸ばすために、外に出る。姉を置いて。ひとりだけ、誰もいない外に行く。

 幸子はひとつ頷いて、眠る勇子の頬を撫でた。

 

 硬質なヒールが床を叩く。一歩進むごとに人のざわめきも小さくなっていく。そうやって歩くうち、知らずに入っていた肩の力が抜けていくのを幸枝は感じていた。肺から空気を抜ききるように、長いため息が口から漏れる。外へ行く道は遠いわけじゃない。それでも肩が落ちた。まるで瓶の中に閉じ込められたような気持ちだ。

 そうやって玄関ホールまで歩いたとき、後ろから駆けてくる音がした。振り向けばそれは信彦だった。幸枝に追いついた信彦は彼女を見上げて言う。

 

「俺も一緒に行っていい? 」

 

 賢い子供だ。幸枝は他の子供をよく知らないが、自分が同じ年頃の頃、こんなに賢かった覚えがない。信彦は優しく、賢い子供だった。幸枝が思うよりもずっと賢い子供なのだ。

 

「…いいよ」

 

 だから幸枝がわずかに躊躇ったことも、不器用な笑顔になってしまったことも、信彦にはちゃんと伝わっているだろう。

 信彦は幸枝の言葉にひとつ頷いて、軽い足音で外に向かう。一緒に、と言ったのは信彦なのに、先に歩くのは信彦で。なんだかそんなことを考えると、今までの息の詰まるような気持ちがどうだってよくなってしまった。幸枝は小さく笑う。子供よりも移り気な心情に、笑うしかなかった。

 幸枝の笑いに気づいて信彦は振り返る。その顔があんまりにも不思議そうで、義兄に似ていてやっぱり笑いがこみ上げた。外はあいにくの曇り空だが、室内に比べれば明るい。外に一歩踏み出せば風を感じる。足の裏の感触も変わる。音がこもらないから、足音も衣擦れの音も大きく聞こえない。

 別に、外に出たからといって何が出来るわけでは無い。公園のように遊具もないし、ベンチが所々にあるくらいだ。所々に吸い殻が落ちている。

 ベンチにどっかり腰を下ろせば、身体に入っていた力が全て抜け落ちるようだった。知れず口からは息が長く漏れ出していく。目線を上げれば信彦と目線がかち合う。

ベンチの空いたところを手のひらで幾度か叩けば、意図を察した信彦はそこに座った。

 ひうひうと二人の間に風が吹く。それほど寒くない日だった。足下には吸い殻が散らばっている。数種類の吸い殻だ。それがやたらと目に入った。

 

「メガネにさ、」

 

 ぼんやりと眺めていれば、どこか尖った声で信彦が言った。目の前の空間に指を走らせているところからすると、電脳空間にアクセスしているようだった。

 

「死んだ人のメモリーを組み込んだらさ、電脳ペットみたいに形に出来ないの」

 

「ああ…」

 

 食いしばった歯の奥からうめき声が漏れた。

幸枝は思わず天を仰いだ。そうだ、そうだとも。信彦は幸枝の仕事を側で見ていたのだ。賢い子供だ。だからそんな発想も当然のことだ。幸枝たちの会社ですら案が出たくらいだ。

 信彦は幸枝を見ない。メガネの向こうに集中している。それがフリかどうかはわからない。でも、幸枝はこれが彼にとって大事な質問であるとよくわかった。彼女自身にも覚えがあった。

 

「今はできないよ。人間は複雑すぎてデータに変えるには膨大すぎる」

 

「そうなんだ」

 

「そうなんだよ」

 

 (間違ったな)と幸枝は思う。

振り向いて幸枝を見た信彦の目が黒々と、涙でにじんでいるのが分かったからだ。

 どんなに強い感情も、人は永遠に保つことは出来ない。だから思い出せるように写真を撮り、言葉を綴り、映像に残してきた。でも、思い出すのだ。何度でも、忘れたと思っても。

 

「お父さん…」

 

 目の縁にたまった涙が、表面張力を超えてこぼれ落ちる。泣き出した子供を前に、幸枝はまた思う「間違った」と。幸枝と信彦は違う人だから、それを考えなくちゃいけなかった。でも幸枝はそれ以外ができなかった。

 わんわんと泣き出した子供を前に、彼女は抱き寄せることしか出来なかった。泣いて、時間がたてば人はそれを「思い出」に変えることが出来る。だからそれまで、どうかこの子供が頑張れるようにと、幸枝は祈った。

 

 

 

・・・

・・

 

 

 

 手持ちぶさたな時間を過ごして、ついに骨が焼き上がったと知らせが来る。

 ぞろぞろと黒い人並みが列を作って進む。炉の前に人が集まりきれば、係の人間が扉を開けた。むっと熱い空気が部屋に満ちた。汗ばむほど熱い。顔がひりひりと陽を浴びているようだ。

 

「ご親族の皆様がた…」

 

 はじめは幸子の仕事だった。

 

 長い箸が器用に骨を拾い上げる。ゆらゆらと揺れながら他の骨を押しのけながら、その骨をつまみ出して納めた。

 幸子も三度目の葬式である。骨上げも三度目だ。慣れたものだ。

 

 説明が耳を通り抜けていくのを感じながら、親族と連れ立って骨を納めていく。足元から頭に向かって、一つひとつ箸で拾っていく。若かったからか、それとも別の理由からか。同じ男であった父親に比べて骨が多いような気がした。

 一番始めに幸子から。冷め切っていない熱を感じさせないほどに青白い指先だ。伏せたまぶたから読み取れるものは無いが、彼女が一番始めに拾った骨は人差し指ほども大きさは無かった。拾うのに酷く難儀したようで、そっと差し込まれた箸がゆらゆらとかたかたと揺れていた。摘まめばそれで1つ。かつり、桐の箱に骨が落ちる音がした。

 

 後に続いて天沢の父と母が、信彦と勇子の手を引きながら骨を拾う。後に後に、何度も何周も。桐の箱が満ちるまで。時に大きな骨を砕き、箸で拾うのが難しい骨を拾い。頭に向かって1つずつ拾っていく。何度も繰り返す内に"作業"になり、人が死んだことが段々と腑に落ちていく。なんとも思わなくなるのだ。これが果たして人であったのか、それすらあやふやになってしまう。心が凪いでいるのがわかる。

 

「ああ、立派なのど仏ですね」

 

 「生前に立派な行いをした人はのど仏が立派なんですよ」と、係が言ったのは何周した頃だったか。ついに首元まで来たのだ。それを別の骨壺に納めなくてはならない。指し示された骨を、幸子はゆっくりと箸で拾い上げた。小さな骨壺に、それは軽やかな音を立てて落ちたのだった。

 

 

 

 家に入る前に、塩で身体を清める。

小袋に入った塩を身体にかけながら、勇子は不思議そうに問いかける。

 

「ねぇ、どうしてお塩をかけると清められるの? 」

 

「確かに、なんで塩なんだろう」

 

 上手く出来ない勇子を手伝いながら幸子は頷く。その様子を見ながら、手早く終えた幸枝はぼんやりとしていた。問いかけの内容の解答を幸枝は持っていたけど、なんとなく話す気がなかった。でも、その解答は意外なところから発せられる。

 

「塩ってさ盛り塩とかに使うでしょ。神様がケガれを祓うために海水で身体を洗ったのが由来らしいよ」

 

「えー! そうなの? お兄ちゃんすごいね、物知りだね」

 

 きらきらとした顔で信彦を見上げる勇子。「ユキちゃんみたいだね」と幸子を振り返る勇子。得意げな信彦の顔。

 いつか、前に見たような家庭の様子に、幸枝はどこか安心していた。「これなら大丈夫だろう」きっと、姉も前と同じように前を向いていられると、なんの保証もなく思った。

 

 



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家族の記録

 支部の方でも読んでいただきありがとうございます。


 夫が亡くなって、父親が死んだときほどではないにせよ手続きが膨大に現れた。あの時ほど子供達は小さくなく、やることもなんとなく見えていることで、幸子はなんとか処理を続けることができた。

 時々、ひどく現実感が曖昧になって、しれず涙がとまらなくなることもあった。我が身に降り注いだ不幸を呪うこともあった。それは決まって一人の時で、幸子の心を苛んだ。それでも生活が崩れることはない。

 幸枝の存在も大きい。何くれなく姉の様子をうかがって、子供達の注意を引きつけてくれる。会社も休みを取っているらしく、子供達が休んでいる間は家にいてくれるらしい。

 近頃は今までよりも幸枝と話しているような気がしていた。おかしなことだ。幸せだったと胸を張っていえるような、父も母もいた頃よりも会話がある。会話がなくとも幸枝の気遣いを感じられた。

 それは今夜もそうだった。

 

「姉さん、いま大丈夫? 」

 

「なあに? とくに忙しいこともないけど」

 

「いやあ、ね。最近飲んでないじゃない? 一緒にどうかと思って」

 

 差し出されたワインは、盆と正月に好んで飲んでいたものだった。その辺りで買えるものだが、甘口で飲みやすく何本も飲んだものだった。

 子供達が寝静まった夜。縁側にコップとワインだけが並んだ。つまみを買うのは忘れたと幸枝が苦笑いする。

 星がきれいな夜だった。だから誘ったのだと笑うから、思わず釣られて笑ってしまった。自慢気にいうものだから。些細なことに気がついてくれるから。このどこかズレて、一生懸命に人を気遣ってくれる妹が嫌いじゃないのだと、ちゃんと分かっている。

 

「ねぇユキちゃん。私、もう大丈夫だからね」

 

 囁くような会話の合間に、勢いに任せて言った。ずっと言わないといけないと思っていたことだ。曲がりなりにも姉として、幸枝の人生に傷をつけるのはまずいと思った。知らないなりにも、幸枝がどれだけ今の仕事を好きで、どれだけ向いているかは見ていれば分かる。

 上手く笑えていただろうか。幸子は少しだけ不安だったが、意図して幸枝の顔を見なかった。ゆらゆらと揺れるコップの中、わずかに光る水面だけが彼女の視界にあった。

 

 

・・・

・・

 

 

 じりり、じりり。

会社から電話がかかってきたとき、幸枝は勇子と信彦の勉強を見ていた。学校から教師がやってきて、休んでた間分の宿題だとかを置いていったのだ。

 

「ユキちゃーん! 電話鳴ってるよ! 」

 

「わかってるって! いいからほら、続きやってくれないと私も電話に出れないよ! 」

 

 居間で勉強する様子を見ていた幸子は、微笑ましそうに笑いながら洗濯物をたたむ。葬式から数日だが、家の中の雰囲気は悪くない。表向きは元に戻りつつあった。

 

「はい、幸枝です」

 

『あー、幸枝ちゃん? いま電話大丈夫? 』

 

「大丈夫です。何かありましたか? 」

 

 幸枝にかかってくる電話といえば、仕事関係か親族しかない。電話は松川からだった。困ったような申し訳なさそうな声がする。

 幸子の前を通って、庭先に出れば子供達に声は届かない。突っかけを足に引っかけて家に背を向ける。

 

『ちょっと、おやすみのところ申し訳ないんだけどね…大規模な依頼が入っちゃったのよ。それも、あなたの大好きな分野で。ボスも、話した方が良いって言うから』

 

「アー、じゃあペットマトン系の依頼ですね。でも私、あと少し休む予定だったんですけど、それも待てないんですか? 」

 

『…そうなのよねぇ。あなたの家族が大変だってことは分かってるし、あとちょっとで休みが明けるっていうのに、それでもボスは声をかけろって言ってて…』

 

「いや、はい。あのお心遣いは嬉しいんですけど、でもやっぱり、もう少し休みをいただきたいなって」

 

「ねぇ、ユキちゃん」

 

「えぇ? なに? 」

 

 会話の途中で後ろから声がかかる。通話口に一言謝って振り返れば、幸子がおっとり微笑みながらそこにいる。

 

「ねぇユキちゃん。もう大丈夫だから、

…だからね、お仕事がんばって」

 

 その言葉に、どことなく腑に落ちない感覚が幸枝にはあった。まだ葬式が終わって数日だ。母親が亡くなったときには、元の生活に戻るまでに大層時間がかかったように覚えている。父親が亡くなった後の処理の多さも聞いていた。だから、大丈夫なはずはないのだ。

 それでも、夜にも今にも「大丈夫だ」と言われて、それが姉の気遣いであることが充分にわかる。それが強がりであっても。

 

「……いや、姉さんが気にすることじゃないよ。私が好きでやってたことだし」

 

「まーまー! 大丈夫って言ってるのに。天沢のお義母さんたちもいるし、何かあったら連絡するから。大丈夫。ユキちゃんにしか出来ないことなんでしょ? 」

 

「いや、そうなんだけど…、アー…姉さんには敵わないんだよな…わかったよ」

 

 笑みを深めて「頑張ってね」と言う幸子に、幸枝は苦笑いを返す。通話口を近づけて一言謝れば明るい声で返される。松川のこの明るさには何度も救われている。

 

『いいえー、気にしないで。それより決まった? 』

 

「えぇ、決まりました。明日から仕事に戻ります」

 

『それは喜ばしいことだけど、…大丈夫だとは思うけど無理はしないようにね。ご家族も大変でしょうに…悪いわね…』

 

「いえ、気にしないでください。好きでやってる仕事ですし、姉も気にするなって言ってますから」

 

 『申し訳ないわ…でも明日からよろしくね』そう言って一言二言会話をして電話を切った。仕事への興味とやる気が湧き上がると同時に、姉たち家族に対する後ろめたさもある。しかし、姉があれだけ強く言うのも珍しいことだ。

 腹の底から長い息が漏れる。どっちにせよ選んだからには進むしかない。仕事が、それもとびきり面倒で面白そうな案件が待っている。きっと家に帰ってくるのも、そう簡単なことではなくなる。

 

(それでいいのか幸枝? )

 

 自分の心に問いかけたところで答えなど決まっている。不安で、落ち着かない選択の結果ではあっても、幸枝は進むしかないのだ。

 

 

 ***

 

 

 夕食はアジのフライとほうれん草の白和え、それからジャガイモの味噌汁だった。アジのフライの衣をつけるのは久しぶりで、にもかかわらず上手くいった事を信彦に自慢したら鼻で笑われた。勇子は褒めてくれた。幸子は相変わらずね、といった顔で配膳を指示した。

 勇子が箸を配って、信彦がそれぞれのご飯をよそう。それぞれの席に全て揃ったら、みんなで「いただきます」だ。幸枝が子供の頃から変わらない習慣である。

 普段から一緒にいるのに、食事をしていても会話は途切れない。勇子は箸の持ち方を注意されて不服そうだ。

 

「あー、皆さんにお知らせがあります! 」

 

「はい! 」

 

 びっと手を上げた勇子を見て、「まあまあご飯は食べながら」と言いつつ、自分も味噌汁をかき混ぜる。

 

「わたくし、幸枝は明日からお仕事に復帰することにいたしました! 」

 

「ああそうなの? 」

 

 「信彦つめたい! 」と返しながらも、対面に座る幸子の様子をちらりと見てしまう。誰の許しが必要なことではないのだけれども。

 

「なので、明日からしばらく来れないと思うんだけど…みんな元気でやってよな…。私がとても寂しい…」

 

 「はーい」だとか「仕事頑張って」だとか「身体に気をつけて」と返答がくる。ほっとした反面、寂しさが強く感じられて若干落ち込む幸枝だった。

 

「そう落ち込まないで。ほら、ユキちゃんの好きなやつ、たくさんあるから」

 

「うん…ありがとう姉さん。…それで白和え作ってくれたの? 」

 

「そうよ、ちょっとしたものだけどね」

 

「ユキちゃんこれ好きなの? あげる! 」

 

「勇子はー、ほうれん草が嫌いなだけでしょ-、自分で食べて」

 

「やたら多いと思ってたけどそういうことなんだ」

 

 そういうことで、仕事前夜は明るく楽しく過ぎていった。勇子も信彦も惜しみはするものの、正月と盆には必ず会える幸枝のことだ。そう強い気持ちになるわけもない。最後になる実家の味を味わって一日が終わる。ジャガイモの味噌汁は食べるのが難しく、箸でつつき回し、溶けて消えてしまったのが幸枝の心残りであった。

 

 朝が来る。

久しぶりの仕事は、実家からの出発だ。普段よりも早く起きて、早く身支度をして、箪笥に眠っていたスラックスを履いて仕事への気持ちを上げる。化粧はほぼなし。強めのリップとフェイスパウダーが幸枝の戦闘服だ。

 普段は全く見ない幸枝の格好に、朝早くから起きていた子供達は少しだけ驚く。すっぴんで少年みたいな格好でうろついているオバが"きちんとした"格好をしているのだ。

 

「ユキちゃん、いつもその格好でお仕事いくの? かっこいー」

 

「えーありがとう勇子-! お仕事100倍頑張れそう~! 信彦は? なんか感想ないの? 」

 

「…普段からそういう格好をしてたらいいと思う」

 

 ハッハと笑いながら信彦を小突いた幸枝は、朝食を作る幸子の手伝いに入る。今日の朝ご飯はパンらしい。牛乳にヨーグルト、紅茶にサラダ。メインのパンは近所のお店のクロワッサン。幸枝のお気に入りだ。

 

「まだゆっくりしててもいいのに」

 

「最後の日も一緒にやりたいよ? 」

 

「そお? じゃあトマトを切ってくれる? 」

 

 頷いてエプロンも着けずにトマトを切る。刃を滑らすようにしてやれば、中の種がぐちゃぐちゃになることもない。昔はよくぐちゃぐちゃにしたことを思い出した。

冷蔵庫を覗けばリンゴが入っている。姉が汁物を混ぜているのをいいことにこっそり切ってしまう。

 

「あ、ユキちゃん。冷蔵庫の……」

 

「リンゴは切っちゃったわ」

 

 良かった怒られなかった-、と言いながら皮を剥いていく。昔と同じようにリンゴも切って良かったらしい。鼻歌でCMで流れていた曲を歌う。幸子は呆れたような顔をしたものの、朝食の準備に戻った。配膳をして、カトラリーは全てテーブルの中央に。個人の皿の上には、リンゴとサラダと目玉焼きが準備された。

 

「ご飯食べるよ! 」

 

 幸子の号令で全員が席に着く。朝ご飯はいつもなら好きなタイミングで食べるものだが、今日はみんなで会わせてくれるらしい。幸枝はなんだからそわそわしてしまって、席についてもなんだか落ち着かなかった。

 だいたい揃ったらそれぞれが「いただきます」をして食べていく。牛乳を飲み、ヨーグルトを食べ、サラダを混ぜて、クロワッサンをかじる。相変わらずクロワッサンは美味しいし、しばらくはこんなに手の込んだ朝ご飯は食べられない。なので幸枝は、ちょっとびっくりするぐらい、朝ご飯を食べた。

 

「ごちそうさまでした」

 

 空になった皿を前に、手を合わせて幸子に礼をする。それにぶんぶんと手を振りながら、「大げさね」と笑った。

 

「片付けはやっておくから、遅れないように仕事に行っておいで」

 

「えっ、ええー…まだなんとかなるけど…、お言葉に甘えるね。ありがとう姉さん」

 

 まだ席についたままの幸子と子供達を置いて、幸枝は身支度を最後までととのえる。歯を磨いてリップを塗り直す。鞄の中身を見直せば、いつもの通りに入っているのは手帳が数冊と筆記用具だけ。問題は何もなかった。

 

「じゃあ、行ってくるわ。信彦と勇子は姉さんのことをよろしくね。姉さんは身体に気をつけて無理をしないようにね」

 

「はいはい。ユキちゃんも無理をしないで、また帰ってきてね」

 

「また来てね! 」

 

「事故んないようにね」

 

「はーい! 出来るだけ顔を出せるように頑張るからね、またね! 」

 

 玄関先で見送ってくれる三人に声をかけて。そうして幸枝は車に乗り込んだ。



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メガネを好きな人

「あああ…このマトン、性質がどうしても安定しないんですけど……松川さんはどうなりました…? 」

 

「…性質モジュールの変質の仕方がおかしいのよねぇ……最近、ちょっと電脳空間との相性がズレてきてるのよ…」

 

「やっぱりそっちもですよね…。画一的な学習をする必要はないですけど、成長のプログラムが前回とは仕様がおかしいとしかいえないというか…そういう状況ですよね…」

 

 職場に戻ってこっち、幸枝は大規模なプロジェクトの一端として働いていた。それこそ、身を粉にしてという表現がよく似合うほどに。

 電脳ペットの開発に成功している幸枝の会社に、それ以外のモジュールの発注がかけられたのである。シリーズとして、電脳空間のパトロールを行う人工知能を備えたものだ。

 それから、それ以外にも細々とした物質。電脳空間だけに存在するモジュールと、効果を与えるものを試験的に作るように依頼されている。こちらは他社との競合で、他の会社よりもうまくいけな注文をとれるものだ。チャンスを前に、代表は気合いが入っているらしい。前例というか、実績を持っている幸枝たちに与えられた仕事は自由度も高ければ要求も高い。

 

「あ゙あ゙ー!? 」

 

「どうしました植田。メモリアルの設計でそんなに叫ぶことあります? 」

 

 頭をかきむしりながら奇声を上げたのは、データ管理に並々ならぬ情熱をかける男だ。ペットマトンに成長プログラムを作れたのは、この男のおかげと言っていい。行動記録をデータ化、無限に分岐する選択肢を選び取ることで「成長」を表現することが可能になった。

 さしもの彼も今回のオーダーにやや苦労している。

 

「いやいやいやいやいや。いや? ペットの記録を"メモリアルとして残したい"という気持ちは分かります。でも、可動年月全ての中から複数枚の"良いショット"を、それぞれ選んで持ち主に返す。ですよ? 正気とは思えませんね。これを実現させるなら、まずはペットの稼働時間を決めないとダメです。データが膨大すぎてサーバが足りません。精算度外視のクソみたいな企画になっちゃいますよ。でも作らないとダメじゃないですか。叫びますよ」

 

「植田も大変ですねー…」

 

 じゅるじゅると手元の野菜ジュースをすする。そもそもこれらの企画書を提出したときから、問題は大量に存在したのだ。むしろ。企画から制作までできるのがこの会社の強みではあるが、それでも無理がある。企画書を提出してきた芳野を質問攻めしたくらいには厳しいのだ。

 

「いやだわ…もう退勤時間じゃない…? 」

 

「ああ…また今日も残業だ…」

 

「残業もそう悪くないですけどね」

 

「えええ、幸枝ちゃんダメよ。その思考は危ないわ」

 

 「私はお先に失礼するわー」と言って帰っていく松川には悪気もなければ何もない。彼女には家で帰りを待つ娘がいるし、残業も良いものではないのは確かだ。仕事が半分以上趣味の人間は除いて。

 デスクに上体を乗せた植田は何事かをぶつぶつと呟いているし、幸枝はぼんやりと紙パックの中身を飲み干している。

 

「ねぇ、植田。社内開発用のボットかなんか作りませんか? 今の状態じゃ効率が悪すぎると思うんですよね」

 

「…」

 

 幸枝の一言に、つぶやきは止まり。そのかわりに沈黙が下りる。幸か不幸か、今部屋の中にいるのは二人だけだった。パソコンや簡易サーバが稼働する音が耳につく。紙パックの底から空気を飲み干す音がし始めた。

 

「幸枝サンさ、実は天才だったりします? 」

 

「本当の天才は植田みたいに、好き勝手に完成させて儲けにつなげるような人だと思いますよ」

 

 伏せていた体を起こし、おでこに奇妙な模様をつけた植田は輝くような目を幸枝に向ける。行儀が悪いとわかっていても、どうしても最後まで飲み切りたい幸枝は紙パックを吸い続けるも、どことなく虎の尾を踏みつけた気持ちになった。

 

「ああ~! 何で気がつかなかったんだ? 開発環境がね、PCだけだと限られちゃうって思ってたんだよね! 少なくともモデリングと試作用には新しいやつが欲しいし、メガネのリソースだけだと足りてないもんね! 接続用の…暗号式で、個人認証で提供データの階層が変わるようなやつでも作っちゃう!? ああ~~~なにそれ楽しそう! 今やってるやつより絶対に楽しい…! 」

 

(完全にやってしまったわ)

 

 現実を見ずに、ひたすらに自分のやりたいことを語る人間の目だった。きらきらと輝き、エネルギーに満ち溢れている。だが、幸枝たちはお金をもらって働いているに過ぎない。会社の要求に従ってものをつくらなければならない。だから、こんなことは許されるはずがない。ある程度やって満足したら止まるはず、そう思っていた幸枝の思惑は当たらない。

 

「いや、…ちょっと待ってよ…これ、ボスに通るんじゃない? 」

 

 そう言いながら手元のキーボードを鬼のような速さで叩き始めた同僚を見て、幸枝は諦めと覚悟を決めるしかなかった。もっと、そう。彼女が思っていたのは、簡易的な創造ベースである。とりあえず形にすること、そこまでの作業スペースの確保だった。でも、この天才的な技術と知識を持っている男が、やたらとはりきっているのなら。そう簡単に終わらないだろうことは、もうわかりきっているのだ。

 

「植田、それって企画書ですか? 残業申請書ですか? 」

 

「どっちもですね! ボスにメールで叩きつけるわ。あー、久しぶりじゃない? ミゼットの時以来? あんなに小さい体にプログラムが入ること入ること」

 

「…うーわー…もしかしなくとも私の分も入ってます? あ、メール…」

 

「言い出しっぺだから当然ですよね。残念なことに松川さんはいないけど、企画部のテーブルには芳野もいるから、そっちも巻き込んじゃいますわ」

 

 提出よろしく、と言う植田に悪びれたところは全くない。メールからリポップした書類には電子承認を求める欄だけが空白で、それ以外にはぎっちりと文字が詰まっている。過去最高といっていい。

 

「植田、これ。内容が大分おかしいのですが…」

 

「えー? だってこれからやることを考えたら当然だし必要では? 法律で就労規則ってあるけど、あれって会社で働く時間ですよね? 僕たちはさ、それ、趣味で開発したくなるわけですから」

 

「わかるんだけどわかりたくなかった…! 」

 

 内容にあるのは、今日の残業で何を行うかということ。電脳空間の探査用システムの開発。電脳空間の把握とデータ化。疑似電脳空間の開発。モデリングシステムの改定と新システム。開発段階におけるデータ共有の認証化と外部アクセス。おおよそのところはこういったところで、それをビジネス用語で飾り立てて、何を言っているのか一目ではわからない状態になっている。

 

「あー、松川さんが早く出社してほしい。…はい、認証」

 

「あとーあとー、何を盛り込んだらいいかな…盛っちゃえば弾かれないやつも出てくるでしょ」

 

「植田! 認証! 」

 

「あーりがとう! 」

 

 残業届をよく読んでみれば、今日の残業はとりあえず20時。3時間の残業でなにができるのか、と思われがちだが…集まる人間とやることによっては十分変わるのだ。

 

「呼ーばれて飛び出てびっくりな芳野っす! 」

 

 残業届を提出してから少し、計画がメインの芳野がやってくる。植田は帰ってきたらしい企画書の返答からやることを抽出しており。ふたりがそろったらもうやることは決まっている。

 もうケンカもかくやの話し合いである。予算だとか、時間だとか。そもそも別のことをやるべき予定があるのに、それ以上のタスクを突っ込みまくる植田に対してのお怒り。それから、それに対するボスのお褒めの言葉。なんにせよ折衷案が出なければ話は進まないのである。その間、幸枝がなにをやっていたかというと。お気に入りのお茶を沸かして、近所で買ったドーナツを食べていた。

 

「幸枝さんは意見ありません? 」

 

 不意に質問をぶつけられたのは、ドーナツを食べ終わる頃だった。幸枝の様子を見てずるいと言ったのは植村だ。芳野はじっと幸枝のことを見ている。

 

「ボスからGOが出てるなら、植村の案でいいんじゃないですか? とくに意見はないですけど」

 

「そうやって! …担当以外には、本当に淡泊ですよね…。幸枝さんは、もっと好きにしてもいいと思うんすよ…。植村さんのストッパーとしてちゃんと機能して欲しいんすよ、本当に」

 

 「植村さんのストッパーは私じゃなくて松川さんですよ」と返しながらも、肩を落とした芳野に同情の視線を流しておく。調整する側も大変なのだ。

 

「えー…僕ってそんなに暴走します? ちゃんと利益の出る仕事はしてると思うんですけど」

 

 しれっとした顔で返すのは植村で、その返答が全てを物語っている。彼は本当に利益のある仕事をするが、それ以上に無条件に仕事を増やすこともあるのでどうとも言い難い部分が多い。注文通りの仕事をしないことに定評がある。なぜ許されているかというと、結果的に仕事が評価されるからだ。巻き込まれる人間は天災に巻き込まれたと思うしかない。

 

「うーん。やっぱりペットに寿命をつけるべきだと思うんですよ。ペットマトンを作り始めたときにはなかったバグとか、ズレとかがここのところ広がってるでしょ? 電脳ペット病院とか作ってサービスの拡大はして、でも寿命はそれぞれの見た目とかモチーフに沿うべきだと思いますね…近々サーバの台数が追いつかなくなりそうですし…」

 

「まともに話してればまともですよね」

 

「その提案も織り込まないとまずいっすね」

 

 苦い虫を噛みつぶした顔をする芳野だが、一方で楽しそうに手帳にメモを書き始めている。すさまじい量のメモだが、彼は素晴らしい速度で書き切る。

 世の中に色々な人がいると知ってはいたものの、幸枝はここでは「まあ普通」といった範疇の人間に納まる。奇人変人の巣窟じみた、なにかに特化した人間が多すぎるのだ。幸枝はこうはできない。

 

「アー、ふたりとも楽しそうでいいですよねぇ…」

 

「何言ってんすか、幸枝さんだって相当楽しそうですけど」

 

「幸枝さん、ボスにあんだけ言わせといて楽しくなかったら怒られるレベルでは? 」

 

 知らぬは本人ばかりと、呆れたように言う二人に幸枝はきょとりと目をしばたたかせた。楽しいのは確かにそうだが、それが周りに分かるほどとは思っていない。

 

「そんなにわかりやすいですか? 」

 

「この会社で一番楽しそうに仕事をしているのは幸枝さんだと思いますけど。楽かどうかは置いて」

 

「あーあ、これだから。ウチの会社の人間ってこういうやつばっかじゃないですか。なんなの人事」

 

「人事部は確かに謎ですけど…植村にだけは言われたくないのでは。ていうか私も植村にはいわれたくないです」

 

 じわじわと熱くなる頬を自覚しながらも、言われっぱなしが気にくわない幸枝はゆるゆると反論する。

それに真顔になるのが植村で、会話を変えてくれるのが芳川である。

 

「いや、僕もそれには賛成っすね。…そういえばなんですけど、医療用メガネの開発の話って聞きました? 」

 

「はー? 一緒にしないで欲しいんですけど…。というか、医療用? そもそも今って病院の中はメガネ使えないですよね? 」

 

「確かに。病院にだけは食い込めてないですよね」

 

 疑問を浮かべる幸枝に、芳野は楽しそうに返答する。彼本人からすればそれは楽しいことなので。嫌がる人が多かろうと、彼にとっては難しい調整こそが楽しみなのだ。本質的には加虐体質の彼はぎりぎりを攻める。目標からのズレを大幅に許しはしない。だから、予定がぎちぎちのハードスケジュールは大好物。

 

「医療現場の機器が誤作動することのない空間の構築と患者情報の保存と共有、それと──精神疾患向けの空間の構築、を検討してもらえないかってことらしいすよ」

 

「わーーーー! なにそれ!? 本気で言ってんの!? 豪華すぎじゃないの!? 」

 

「アー…私も同感ですけど…それは、ちょっと気になりますね…医療用の電脳空間、しかも精神接続とかになるんじゃないですか…? 」

 

 それに乗っかるのは楽しいことが大好きな開発者である。植田はデータ管理に対して目がないし、幸枝は「特別な空間」に興味を強く引かれていた。二人はワーカーの前に、とてつもなく電脳空間が好きな人だったので。それは当然のことだったのかもしれない。

 

「芳野、それを提案した人は誰ですか? 」

 

「えーっと、ねぇ…あぁ、小此木先生っていう、お医者さんらしいすよ」

 

「へぇ…。植村、」

 

「……いや、ね。わかってますよ? でも送った企画書を下ろすのは流石にちょっと無理じゃないかと思うんですよね」

 

「ですよね! ああー…話しだけでも聞きたい…」

 

 ぐらりと自分の中の指針が揺れるのを感じる。天秤が傾くように、欲求と好奇心が皿に加わってしまったのだ。自分のことながら制御ができるものではない。幸枝自身がどうにかできるものではない。

 場に残るふたりの男は目を合わせて考える。いわく「これどうやって止めます? 」「いや無理に決まってるじゃないすか」

 

「ああ、植村がひとりでそれを片付ければよくないですか? 私はひとりで小此木さんの話しを聞けばいいので…」

 

「いや無理ですけど!? 幸枝さん無茶言うね!? どっちも無茶な話だし、そこまでいくとボスも認めないと思いますけど!?」

 

「流石に僕もそれは厳しいと思うんすよね」

 

 鈍い反応を繰り返すふたりに、幸枝はそれでも引かない。常の幸枝なら諦めてもおかしくないが、不思議と今回は引く気が起きなかった。"引いてはいけない"と感じるぐらい、今回の件は引き受けるべきだと強く思った。

 対するふたりも引かない幸枝にややも諦め気味だ。なにせ、植村の上げた案は社内での開発ラインの話しであるし、芳野は計画がすり替わるだけで厳しい日程が変わらないことは察していた。

 そして、芳野のもう一点の懸念は。

 

「いや、幸枝さん。この話しがウチで通ったところで、政府から認可が下りないとウチの儲けにはならないんすよね、わかります? 」

 

「…なら、猫目さんに繋ぎをとるので、小此木さんの話しを聞きたいです」

 

「…今回は随分と食い下がりますけど、そんなに魅力的な話しですか? 」

 

「とても。とても魅力的な話しだと思います。それに将来性を感じます。私たちがなにもしなくても、数年後には形になるはずです。ですが、ここで私たちが関わることに価値があると思います」

 

 心は「やるべき」と叫んではいるが、それがなぜかと言われればそれは言語化しにくい。興味だけでそう言っているのかと、そう言われればそうなのだ。でも、どうしても関わりたいと幸枝は考えている。

 

「…うーん、確かに。僕らが開発に関わらなくても、誰かひとりが言い始めたならどこかで形にはなるだろうね。それも医療系統には未だにメガネは食い込んでないわけだし、医者が実際にそれだけ言うなら効果はあるんだろうし」

 

 先ほどとは違い、前向きな発言になった芳野に幸枝はやや期待する。大きな利益はないが、将来的なアドバンテージとして「知っている」ことは力になるのだ。でも、大きな期待はしてはいけない。なぜなら芳野だから。

 

「でも公的な記録には残らないでしょ? うちが紹介したって、コイルスが納得しなきゃこっちには仕事が降りてこない。逆にね、小此木さんがうちにアポを取ったのが不思議なぐらいなんだよ」

 

「はー…、そうですよね…」

 

「うん、でもそれならいいんじゃないかな。小此木さんは良い技師を見つけて希望が叶うし、医療も進歩する。猫目さんは新しい可能性を得る。僕たちは伝手を手に入れる。具体的な利益は出ないけど、ウチからコイルスに持って行って損は出ないですね」

 

「芳野…! 」

 

「芳野…!? 」

 

 まさかの許可である。幸枝はあふれ出す喜びに思わず立ち上がったし、反対に植村は椅子に深く沈み込んだ。「くそ、芳野が裏切るなんて…」などとぶつぶつ呟いている。

 

「まあまあ植村、ウチのものにはなりませんからね。幸枝さんが外れるのは、小此木先生の話を聞くのと、それから猫目主任技師に紹介するときぐらいでしょう。あなたの企画も何とかなりますよ」

 

 「なんとかなるように私がいるんですけど」と楽しそうにする芳野に、ひらすら苦い顔をする植村である。植村は植村でやりたいことがあり、幸枝は幸枝でやりたいことがある故のすれ違いである。実際に損益が生じる中でのやりとりにしては軽いが。

 それにしても幸枝のやりたいことが通った。話しを聞いて、紹介するだけとはいえど、幸枝の紹介によっては猫目が紹介を断る可能性もある。幸枝自身は「それはありえないだろう」とは思うが、猫目も趣味でコイルスにいるわけではない。

 

「芳野、小此木先生の連絡先を教えてください」

 

***************************************************

 

Q.幸枝ってどんな人?

 

芳野「メガネに対する好奇心と発想が会社で一番強い人っすね。仕事に打ち込んでるところを見れば、どれだけ好きでこの会社に来たのかがわかります。ていうか、幸枝さんを落としたコイルスの人事がよくわからないっすね」

 

植村「採用同期の1つ年下の女。会社で一番気があうような気がしてたけど、今回の件も含めてあんまり自由すぎるのは良くないな…、って学びました。もうちょっと芳野さんが楽しくなさそうな仕事をしたいです」

 

松川「頑張り屋さんな女の子、って感じね。きっとこの会社は天職なんじゃないかしらね? いつも楽しそうだから、こっちも楽しくなっちゃって困るわぁ」

 

ボス「自由に仕事をしてもらえると会社が儲かる」



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変化

「…は? 芳野? もう一回言ってもらえます? 」

 

「…いや、気持ちは分かりますけどね。…コイルスが倒産買収されましたよ」

 

 ぽっかりと開いた口が閉じない。信じがたく、脳みそに意味合いが入ってこない。あのコイルスが倒産! しかも買収だなんて! 青天の霹靂といっていい。あんなに知識があって、ノウハウも順調に育っていたし、頭の切れる主任技師がいて倒産だ。

 

「いや~、ね。うっすらと予感はしてたんすけど、やっぱりという感じですわ」

 

「えっ、倒産しそうな雰囲気ってありましたか…?」

 

「ああ、幸枝さんにはまだ分からないかもしれないですけどね。うちに回ってくる仕事も少なくなってましたし、他のところともそんな感じだったのでね」

 

 そもそもコイルスは手広くやりすぎたのが問題だったらしい。電脳メガネは随分と広がったが、それに対してのバグも多い。様々な企業に導入したものの、使いきれなかったり専門のソフトの応用がきかなかったりと、後手後手な部分もあったらしい。極めつけが医療部門の大幅赤字。小此木医師は外部監督として開発にうまく入れたらしい。順調な部分もあったが、どうもうまくいかない部分があり。また国からの許可も下りずに難航。他の部分も掛け合わせて順調に業績は悪化。そしてついにその日がやって来たのだという。

 

「…なんだか結果的にコイルスに悪いことをしたような気がします…」

 

「気にすることはないっすよ。結局そっちに舵を切ったのはコイルスですし。コイルスはなくなったけど、人員はそのまま新しい会社にそっくり変わるだけですしね。猫目さんもそのまま部署に残るって話し」

 

「…まあ、そうですよね」

 

 「そういうこと」と笑いながら芳野は足早に去っていく。

貴重な人材を遊ばせておくことはないだろうし、流出は痛手だ。多少の異動や変化はあったとしても、研究技術職はそう大きく変わらないだろう。猫目は仕事を失わないだろうし、どうなっているかわからないが小此木医師も場合によっては同じような関係が続く。それなら良かったのかもしれないが、不思議でもあった。コイルスを吸収できるだけの資本と技術のある会社。幸枝には両立する会社を思い浮かべることができなかった。

 

「……吸収したのはメガマス社、ねぇ」

 

 椅子に深く背を預ければ、ぎいぎいと椅子が軋んだ。画面に映ったネットニュースには様々なコメントが寄せられている。メガネ越しのコメントに幸枝は苦笑を浮かべた。

 

・・・

・・

 

 それから何度かメガマス社との仕事があった。それこそ、小此木医師の考えた医療用メガネに関する仕事が随分と会社に回されてきたらしい。残念なことに幸枝は全ての仕事に関われたわけではない。分野違いもあれば、開発とは違うものもあったらしいと芳野から聞いた。猫目に会うことはなかったが、その噂は幸枝にも届いた。幸枝は社内で少し年長者になった。

 

 電脳メガネの普及はすさまじいものがあり、現在では個人の家屋の中でのメガネの使用が可能になっている。大きな街では外でもメガネが問題なく使えるようになってきた。会社の規模にもよるが、ひとりに1台パソコンを充てるよりもメガネを配るようなところもあるらしい。

 バージョンは次々とアップデートされ、メガネはどんどん便利な機能が増えていく。ユーザーも増えていく。使用者が増えていくにしたがって、電脳メガネのバグも随分と上がってくるようになった。電脳空間に関わる一部の人間は、そのバグが不可解なものだと思うようになってくる。まるで規則性がなく、決まった時刻にのみ不通になるような、そんな「オカルト」のようなバグがあるのだ。

 その知らせが入ったのも、そういったバグの対処を行っているときだった。息せき切って松川が幸枝の前に立つ。その表情は動揺が色濃い。

 

「ちょっと! 幸枝ちゃん聞いた!? 」

 

「…なにをですか…? 」

 

「猫目さんが失踪したって…! 」

 

「は…? 」

 

 幸枝はまるでその言葉が理解できなかった。普段の会話では出てこない言葉だ。言葉の意味をうまく処理しきれなかった。松川はそれを理解した上で何度かそれを繰り返し、そして理解する頃には。

 

「猫目さんが失踪する理由がなくないですか? 」

 

 猫目はコイルスの頃から主任技師を務めている。メガマスに代わってからも地位は変わっていない。先日、下の子が生まれたと聞いた。仕事も家庭も順風満帆、彼がいなくなる理由がない。心配もあるが、幸枝に占めた感情は疑問だった。それに対して松川が答える。

 

「失踪したのは1週間前で、ご家族から捜索願が出たのが昨日。メガマスは猫目さんが会社に来ていないことを知っていながら、ご家族に待つように伝えたらしいわ。我慢が出来なくなって振り切ったみたいだけど。…理由はなにもわかってないそうよ」

 

「…随分とお詳しいですね。もう噂が出回っているんですか? 」

 

 頷く松川は顔色がよくない。残念だが幸枝は噂話に明るくない。ネット掲示板なら別だが。松川が話すのを待つしかなかった。落ち着かなくなったのか、松川がうろうろと歩き始める。その隙にネット掲示板でメガマスを検索する。電脳メガネ、バグ、新しい改造の仕方、GPSの不具合、オカルトじみた噂話。

 

「そうなの。おかしなくらい広まってるのよ。…おかしいわ、メガマスがそんなことを許すはずがないのに」

 

 メガマスはコイルスよりもずっと強かな方針で動いているという。社会を便利にしようとしていたコイルスに比べれば、利益をずっと考えて動いているとは芳野のコメントだ。植村はそれを当然と言ったし、彼と繋がりのある研究員はプロジェクトを切られたという。

 ネット掲示板、大手にはすでに噂がのっているようだった。実名は出ていないが、その立場は明確である。見る人間が見れば誰なのかはわかるだろう。更新日は3日前。捜索願が出る前。情報を出した人間は確実に社内の人間だ。

 でも、よくあることだ。

 

「メガマスはそんなに厳しいんですか? ネットの掲示板はすごく盛り上がってますけど」

 

「ええ? 掲示板が? メガマスがそれを放置するなんてありえないわあ…」

 

「……猫目さんが失踪するのだってあり得ないですよ」

 

 立ち止まった松川と幸枝の目が合う。思っていることは同じだった。「きな臭い」と。

原因は定かではないがまともではない何かが動いている。人ひとりが失踪するとは穏やかではない。大企業が噂を消火しきれないのもおかしい。たかが噂といえど、放っておくにはリスキーだ。

 メガマスになんらかの意思があるのか、それとも別の要因があるのか。部外者である幸枝には想像しかできない。想像できるから、掲示板には心ない言葉が並んでいる。

 

「…メガマスとの関わり方を考えるべきかもしれないですね」

 

「そうね…、ボスも知ってるだろうけど、一応上げておくわ」

 

 顔を見合わせてうなずき合った。経営陣も馬鹿ではないので、噂はとっくに手元にあるだろうし、考えもあるだろう。ボス、というのも別に代表取り締まりではないので、気軽に意見を上げることができる。そういう社風なのだ。だから幸枝は楽しく仕事ができる。好きなことやれる。

 

・・・

・・

 

 それから数日、小此木医師と会う機会があった。メガマスに社名が変わってから、正式に会社に所属するようになったらしい。医療分野にも非常に手が広く、治験のようなものが始まっているそうだ。

 

「小此木先生が元気そうでなによりです」

 

 小此木医師は相応に年を重ねた人だ。幸枝からすれば父親とかわらない。どことなくいつ亡くなってもおかしくない心境があった。

 小此木医師は相変わらず、人の良さそうな顔で笑っていた。メガマスは小此木医師の考えに理解を示しているらしく、研究費も潤沢だそうだ。

 

「…その、猫目くんの話しを聞いたかい? 」

 

「聞きました。…失踪したと伺いましたけど、噂は本当なんですか? 」

 

「ある日を境に、本当にいなくなっちゃってね。こっちでも不安と混乱がすごくて…。…理由もわからないし」

 

「……やっぱりそんな素振りはなかったんですね」

 

 返答に小此木医師は静かな顔である。じっと、腹の中で「どういう言葉が正しいか」を噛みしめている。その言葉には年齢と経験が確かにあった。

 

「誰にも分からないことだよ。見える物が全てではないからね」

 

 幸枝には返す言葉がなく、ただ頷きを返すのが精一杯だった。自分が猫目に向けていた感情が心配よりも、好奇心に近かったのではないかと後悔した。

 幸枝は猫目のメールアドレスを知っているだけだ。家族の力になることはできない。会社が違うから真相を追究することも出来ない。静かに待つ以外にない。

 小此木医師は眉を下げて言う。

 

「気になっているんじゃないかと思っていたんだけど…どうも、あんまりよくなかったみたいだね。

…お願いがあって呼び出したのに申し訳ないね」

 

「いえ、私も気になっていましたし。不躾な発言をしてしまいましたし…」

 

「ああ、気にしないで。もっと露骨に言われることもあるんだよ。…まずはね、この書類を芳野君に渡して欲しい」

 

 机の上から渡された茶封筒は薄い。しかし、メールで送らない時点である程度の機密情報であることがわかる。メールで送った、送ってないの水掛け論をしないように、情報の流出をできるだけ防ぐために紙での受け渡しは今でも現役だ。

 

「それとね、お願いの話しなんだけどね。……孫娘の誕生日に電脳ペットを贈りたくてね」

 

「プレゼントに」

 

「そう、それもデザインも機能も出来るだけオリジナルにしたいんだ。君の会社ならそれも出来るかと思って」

 

「それは……、確かに可能ですけど時間がかかりますよ。大丈夫ですか? 」

 

「ああ、大丈夫。来年の誕生日に間に合えばいいんだ」

 

 「じゃあ機能に合わせて見積もりを出します」と幸枝が言えば、小此木医師はそれに嬉しそうに笑った。小此木医師は、その年齢にしてはメガネや電脳空間に造詣が深い。だが一人で電脳ペットを作り上げるのは不可能なのである。なにせ認可がおりない。

 

 孫娘にオーダーメイドの電脳ペットを贈る祖父、という図は微笑ましく、幸枝はこの仕事が楽しみになった。フルオーダーの中身も予算も期待できたし、納期にも余裕がある。芳野もうるさくは言うまい。

 嬉しそうに孫娘のことを語る小此木医師は幸せそのものだった。医療用空間や器具について語るときよりも、はるかに喜色が強い。それだけ可愛いのだろう。現に会話の中には何度も「かわいくてねぇ」という言葉が出てくる。どうにも、勇子と同じ年の少女らしい。聞いているだけで、その少女のことをよく知っているような気にすらなった。

 

 (ああそういえば、)もうずっと、幸枝は姉の家に連絡を入れていないことに気がついた。今夜は寝る前にメールを送ることにした。

 

・・・

・・

 

 小此木医師の電脳ペットのデザインは、なんというかどこか間の抜けた犬をモチーフに決定した。デザインを形にしたのは松川で、アイディアと方向性は小此木医師のものだ。彼はしきりに「愛着の持てるものがいい」と口にした。

 

 余計に入った仕事だったが、むしろ松川は乗り気だ。幸枝がヒアリングしてきた状態や参考資料を材料に、嬉々として取り組んでいるようにすら見える。

 

「こういう仕事がやりたかったのよぉ」

 

 いつか自分の息子にもオリジナルの電脳ペットをつくりたいらしい。「世界に一つだけ」というのは、松川にとって嬉しいのだ。

 幸枝は幸枝で内部プログラム──とくに、性格のパラメーター──の調整が難しい。今までのペットはランダムに性格を配置していたが、今回のペットはある程度は固定しなくてはならない。

 そして、電脳空間での悪意に対する防御能力だ。孫娘がなんらかの悪意にさらされたとき、それをそうと認識できる能力がこのペットに必要だ。今までの電脳生物よりもはるかに高度だった。格別に高度な判別能力が必要だった。

 小此木医師の最後の注文が

「ああ、少しメモリに余裕を残しておいてほしい。自分がそこに入れたいプログラムがある」

というもので、これが一番の難題だった。ペットは基本的に改造不可であるのに、会社がそれを作っては信頼に差し障る。電脳ペットは悪質なプログラムになりえるのだ。現在は外を自由に歩くことはできないが、それでもいつか実現するだろうし、人の手によって書き換えられるとしても難しい注文だ。

 それでも製作の方針は決まり、納期も長いことから仕事の合間合間で進められていく。担当に仕事が割り振られ、段々とプログラムが組まれていった。気の詰まるような作業の合間に、その仕事は大変な息抜きになったのである。

 

 リ・リ・リ・リ

 

「はい、地村です」

 

『地村幸枝さんのお電話でしょうか? こちらメガマス病院です。落ち着いて聞いて下さい。ご家族が…』

 

 夕暮れの差し込む、穏やかな一日の終わりであった。言葉の意味を分かった途端、背中を冷や水が伝ったかのようで、電話の形にした指の感覚がなくなった。不明瞭な白い図形が視界にちかちかと瞬く。不思議と声が震えることはなく、電話の受け答えに応じていた。

 緊張が途切れるのは一瞬で、電話が終わった途端に周囲の音が戻ってくる。息が詰まったような閉塞感、心臓は慌てふためいて戻ってくる様子がない。

 

「幸枝ちゃん落ち着いた方がいいわぁ。ほら、深呼吸して」

 

 関節がこちこちになって、動かなかった手を握って顔を覗いたのは松川だった。心配そうな顔をしている。それがわかった。

 手のひらの温度を思い出して、肩から力が抜けた。体温が戻ってくる。でも心臓は慌ただしいままだ。むしろ激しくなっていくようである。意識して深呼吸をした。

 

「……幸枝ちゃん、何があったのかしら? 」

 

「あの、アー…」

 

 言葉にするのに躊躇いを感じるのは久しぶりのことだった。言葉にすれば現実を認めることになるので嫌だった。うまく言葉にできなくて、頭を抱えて髪をぐしゃぐしゃにした。

 幸枝の様子に、部屋の中にいた人たちは気づいている。わかっていて、静かに松川とのやりとりを見つめている。いつもはうるさいキーボードの音すら聞こえない。気を使ってくれていた。でも、幸枝にはわからない。彼女は焦りの中にいる。

 

「あ、の。甥と姪が事故にあいました、…姉も状況が悪いと、」

 

 焦りで言葉がうまく出ない一方、ひどく冷静に状況を見ている部分もあった。その部分が急いで病院に向かうことを言っていた。説明すればなんとかなると。

 

「わかったわあ。説明はこっちでやっておくから病院に行ってちょうだい。明日、ボスに電話をしておけばそれでなんとかなるから大丈夫」

 

 松川は重ねて落ち着くようにと幸枝に言う。

うなずきながら、幸枝は身の回りを片付けて簡単な引継ぎを声に出していく。松川は焦れたようにその姿を見ていた。必要なことだった。だが、一刻も早く病院に行くべきだと思っていた。

 

「もういいから行っておいで」

 

「はい、すいません」

 

 一度、深く頭を下げて会社を出た。

階段を駆け下りる足が、だんだんと早くなっていく。自動ドアすら意地悪をしているようだ。駐車場で車のそばに来た時にはもう、息が上がってひどく疲れていた。

 

 西日が目を刺す。

 この日のことは忘れようとも忘れられない。



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位置について

 病院に駆けつけたとき、姉は錯乱状態で眠らされ、甥と姪は緊急手術の最中だった。その場には天沢の親類もいた。

 

「ど、ういう状況なんでしょうか…! 」

 

 息せき切って看護師に聞けば、難しいところだという。事故による身体の損傷は子供の体力を当てにするしかないと。

 それも、信彦が多くの傷を負って勇子をかばった様子があるという。

 

 心の中を暴風のような焦燥が暴れ回っていた。きつく食いしばっていなければ今にも不安を叫んでしまいそうだった。たまらなく情けなくて、怖くて、見えない相手に許しを請いたかった。

 足早に去って行く看護師に礼も告げず、幸枝は備え付けの椅子に崩れるように腰を下ろした。自然と項垂れる頭に、震える両手で顔を覆った。

 

 姉は別室で鎮静剤で眠っていた。ひどい取り乱し方だったと看護師は同情していた。

病室で姉は死んだように眠っていた。青ざめた肌、落ち窪んだ目。前に会ったとき───家を出た日が最後だという事に気がつき、幸枝は胃の中に氷が落ちてきたような思いだった。───あの時は、もっと健康的な顔つきだったのに。

 側のイスに腰掛けて、幸枝は悔いた。情けなくて涙が出た。悲しくて、何も出来なくて自分を哀れんだ。だって、幸枝はなにもしなかったのだ。

 

 ぎゅうぎゅうと手のひらを握ったって戻らない。痛みが罰にはなり得ない。時間が戻ることはありえない。黒い淀が心の底にたまっていくようだった。重たく粘ついたそれが、幸枝の今までの時間を否定する。「どうしてお前は気が付かなかった」と。「お前が楽しいとき、姉が苦しんでいることがわからなかったのか」と。

 

 夕暮れの最後の光が差し込む廊下に、手術のランプが緑に光っている。じりじりと時間が妙に遅い。神に祈る気持ちがよく分かった。

 天沢の親族は──信彦と勇子の祖父母にあたる人達──、難しい顔で座っている。姉のベッドの横に、本当は幸枝がいた方がいいのかもしれない。でも、幸枝が立ち上がるには疲れ切っていた。

 

「幸枝さん、幸枝さん」

 

 悄然と項垂れる幸枝に声をかけたのは義母だ。その表情は疲れが見えた。それで「隣に座っていいか」と声をかける。頷く幸枝を確認して、彼女は座った。

 

「ねぇ、つらいねぇ」

 

「そうですね」

 

「もうちょっと頑張ろうねぇ。信彦と勇子が頑張ってるからね」

 

「はい……」

 

 そう言って、幸枝と目を合わせてかすかに笑ったようだった。やさしい人なのだろう。ほとんど顔を合わせたことのない幸枝にも気を遣ってくれる。

 だけれど、不安は消えない。焦燥は和らがない。他人を意識するようになった分、気持ちが割かれてどうしたらいいのか分からなくなった。

 幸枝は、幸子の妹として彼女の元に行くべきなのか、ここで待つべきなのか。このままこの人と話すべきなのか、黙していいのか。ぐるぐると頭の中が回る。

 

 ばつり。

 

手術中のライトが消えた。

それに反応するのは廊下にいた3人。立ち上がり医師が来るのを待つ。不安が強い。心臓が強く動いているのが分かる。リノリウムの床に曖昧な影が伸びているのを見た。

 スリッパの音がばたばたと近寄ってくる。ドアが開いて、グリーンの手術着を着た医師がどこか疲れた様子で幸枝たちを見ていた。

 

「天沢、信彦くんと勇子ちゃんのご家族ですか? 今回担当をした桜田と申します」

 

 自然に頭が下がる。重力に引きずられるような下げ方だった。

それも当然だと思う。医師の暗い声のトーンは、それだけで幸枝たちに結果の一つを想像させた。

 

「大変申し訳ありません。私たちの力不足で信彦くんを助けることはかないませんでした……。

 勇子ちゃんは今、かなり危ないところですが命を繋げている状況です。これについては、私より専門の者から別室で説明をさせていただきます」

 

 凍り付いたように、とはこういうことを表現するのだと幸枝は知った。視界に入る天沢の義父母は表情が固まり、桜田医師の言葉を理解しきれていないようだった。かくいう幸枝もそうで、表情筋がうまく動かずやたらと喉が渇いた。それで声を出すのもつらい。

 想像よりは幾分良かったのかも知れない。でも、それを「良かった」と表現するのは人間として間違っているし、それに理解が追いつかない。言葉の意味はわかるのに現実を受け入れがたくて怖くて、もうそれはどうにもならない事実であった。ぼろぼろと涙がこぼれて、もう言葉の一つも上手く出なかった。

 天沢の方もそれは一緒で、義母はもう呻き声を抑えることもできず泣いていた。義父は表情に見えないだけで、ぐっと歯を食いしばっているようだった。申し訳なさそうな顔で立つ医師も、別に悪いわけではない。彼は手を尽くしただろう。

 でも。でもまだ幸枝たちは立ち止まれなかった。

悲しんでいるだけでは済まなかった。まだ、まだやらなくてはいけないことが、考えなくてはいけないことがある。生き残った、まだ頑張っている勇子がいるのだから。それが、幸枝の心を強く励ます。

 

「……手を尽くし下さり、ありがとうございます。案内をお願いします」

 

 涙をぬぐいながら、鼻をすすりながら頭を下げた幸枝がどう見えたか分からない。桜田医師は一度、深くうなずいて幸枝たちの前を歩き始めた。誰もなにも話すことはなかった。でも、考えていることはきっと一緒だろう。幸枝は袖でぐいぐいと目を拭って、挑むように廊下を進む。その先に成功があることを信じて。

 

 

「今回の治療について担当になる小此木医師です」

 

 個室で待機していたのは、幸枝もよく知った顔だった。好々爺然とした人の良さそうな顔、医療に対する熱意を持った人。一瞬、目を見張った小此木医師は顔を隠すように深く礼をした。

 

(そうだ。ここはメガマスの系列だし、小此木先生は病院の先生だ)

 

「…、小此木です。よろしくお願いします」

 

「地村です。……今回、事故に遭ったのは姉の娘にあたる、天沢勇子になります」

 

「それではまず、今回の症例についてお話しさせていただきますが…。幸子さんはまだお目覚めではないですか? 」

 

 当然の質問であったが、その場にいる人間に確認できる者はいなかった。移動している間に頭の中をかすっていたが、確認に動ける場面ではなかった。そう伝えれば、側に控えていた看護師が確認に行ってくれたらしい。まだ薬が効いていて、眠ったままであるらしい。

 

「そうですか…、いや、そのほうがいいかもしれない。では、幸子さんが目覚めた際にはもう一度説明することになると思います。これは皆さんにとって聞きなじみのない話になるでしょうから」

 

 こわばった表情のまま椅子に座った5人。看護師は小此木医師の後ろで静かにメモをとっているだけだが、その場にいる人間はみんな緊張していた。老年の域にある小此木医師もである。メガマス社としての評価をかけた説明であるからだ。

 

「今回の事故には様々な条件が重なっています。……電脳メガネをつけていれば、電脳空間とのリンクによって制御された車との接触事故は"普通"、防げるはずでした。しかし、これが上手く働いていません。このバグについて私は専門外なので言及はいたしません」

 

「そんな…! あなたの会社がきちんとしてないから起きた事故ってことじゃないか!」

 

 そうだ、その通りなのだ。いきり立つ義父にその反応が当然であっても、幸枝は同じように反応することができなかった。その可能性は、開発の現場で働いている彼女自身が薄々と勘づいていたことだった。徐々にずれていく電脳空間との齟齬、頻発する事故とバグ。それでも見ないふりをして、電脳メガネの楽しさに夢中になっていた。

 それが、こんなことになるなんて。

 

「ええそうです。これは私たちの怠慢です。なので万全な状態で治療に当たらせていただきますし、治療費はこちらで受け持たせていただきます。

 信彦くんがかばったおかげで、勇子ちゃんは比較的軽傷で済みました。それも手術がうまくいったので、生命にかかわるような状態ではありません。ですが、この後も経過観察が必須です」

 

「お金がなんだっていうの! そんなバグだか何だか知らないけど、それがなければ信彦は死ななかったのよ!? それをのうのうと! 人の命をなんだと思ってるの」

 

 ひしゃげたような声だった。感情が重すぎて、言葉をつぶしてしまっている。それくらいに悲しくてつらくて、怒りに満ちた言葉だった。顔をくしゃくしゃにして、泣き始めた義母は顔を俯かせている。反対に義父はじっと小此木医師のことを見つめていた。

 

「大変申し訳ありません……。出来うる限りの手を尽くします」

 

「あなたは謝ってくれるけどね、実際に会社はそれをどう考えているんだい? 言い方からすると、他に何件も起きているようでしょ。起きた時に解決していればうちの子は助かったかもしれないだろう?」

 

「はい…、申し訳ありません。本当に申し訳なく思っています」

 

 大きなため息が義父の口から漏れた。それは許す意味の区切りではなく、諦めのこもったため息だ。何を言っても変わることのない返答を分かっているのだ。それも末端の人間に言ったところで変わらない。裁判でも起こさない限りは態度を改めないだろうし、メガマスは今までの被害者を黙らせてきたように手厚くもてなすのだろう。

 それが幸枝にもわかった。幸枝に言えることはなかった。非難をするには業界が近かったし、顔見知りをなじるには人生経験が足りなかったかもしれない。信彦が死んだことも現実感がなかったし、勇子がいまだに意識を取り戻していないことも受け入れ切れていなかった。ただ、混乱と悲しみは心の中に渦を巻いている。

 

「それと、伝えなければならないことがあります。……、勇子ちゃんは日常的に暴力を受けていた可能性があります」

 

「は?」

 

 一度深く下げられた頭を眺めた後、幸枝と目が合った小此木医師はそう言った。口が塞がらないというのはこういうことなのだろうか。幸枝は頭の中でもう一度、小此木医師の言葉を繰り返した。「ぎゃくたいを、うけていた可能性が、ある」勇子が、誰に? あの家にいたのは幸子と信彦と勇子だけ。なら、それは。

 

「確証があるわけではありません。ですが、可能性としては幸子さんからでしょう」

 

 嘘、うそうそ。だって、幸子は姉は勇子のことをとっても大切にしていたのに。信彦も勇子も大切だって、仲良く暮らしていたじゃないか。それは、それはいつのことだっけ。ああ、それはずっと前のことだった。幸枝は仕事に夢中になって、姉のことをほっぽっていた自分のことを恥じた。恥じるという言葉は彼女の心情を表すには生ぬるい言葉だろう。自分を責めた。とても強く。

 

「もう一点、幸子さんは既往症をお持ちですか? 先ほど看護師から受け取った資料によると、取り乱した時に体調が悪そうな身振りがあったのと、お持ちのお薬手帳に相当の記載がありましたが…」

 

「…はい、姉は小さい頃から体がつよくなかったので」

 

「一度、検査を受けるべきかと思います」

 

 その検査もこちらで行いますので、と言った小此木医師はメガネでその表情がよくわからなかった。誰もがそれ以上を話すことなく、居心地の悪い沈黙が続いた後に信彦と勇子のところに案内されることになった。

 

 空気はどこまでも重くて、足音だけがやけに大きく聞こえる。他の入院患者の声も生活の音もあるというのに、不思議なほど耳に入らない。

 幸枝の前を歩いている、ふたりがどう思っているかは分からない。顔が見えなければ一言もしゃべらない。何を思っているのかも、これからどうしたら良いのかも分からなくて。ただ、メガマスのせいでこんなことになっているのだと、ぼんやりと理解していた。

 さほど歩いたわけではないが、隔離された長い廊下に4422と4423と書かれた札が現れる。一般病棟からは離れた位置だ。ぶらぶらと歩いていてはこんな場所にまでは来れないだろう。

 

「4422が信彦くんで、4423が勇子ちゃんの病室になります」

 

 看護師が深く頭を下げているのを見て、自分がどうしてここに立っているのかを瞬間忘れてしまった。この人がどうして頭を下げているのかも理解できない。

 義母と義父は静かに勇子の病室へと入ったから、(ああ)と思いながら信彦の病室へ足を踏み入れた。

 

 整然とした部屋だった。

病院はどこも似たような部屋だが、それを鑑みても白くて何もなくて、見慣れた信彦すらも白くて。肌を清められて、静かに横たわった信彦があまりにも眠っているようで。

 もう耐えられないと思った。

視界が歪んだと思ったら、もう後から後から熱い涙が押し寄せてくる。誰も幸枝のことを見ている人はいなくて、どうしたら正しい判断なのかがわからなくて。それ以上に失われていくものが悲しくて。幸枝は信彦のベッドに近づくことすら怖かった。

 近づいていく信彦の、小さな肩とか幸子に似た鼻筋とか。はっきり見えるだけ近づいて、それでやっぱり信彦がそこで、命を失っていることがわかってしまった。言葉にならない、表現するには凶暴な感情だ。荒れ狂って幸枝の心の中をめちゃめちゃにする。

 喉の奥から呻きが漏れて、拭ったぶんだけ落ちてくる涙が落ちてくる。食いしばった歯の間から、獣みたいな声が漏れた。がんがんと頭が痛む。耐えきれなくてベッドの側に膝をついた。触れた信彦のその手の冷たさに、触れなければよかったと後悔した。まだ幸枝の手のひらに納まる大きさで。ベッドだってまだまだ余白が多くて。本当はこれから大きくなって、たくさんのものをつかめるようになって、もっともっと自分の好きなことができるはずだったのに。それは永遠に失われてしまった。

 

 うめき声が小さく信彦の名前を呼んだけど、幸枝は我が身の愚かさを思い出して、名前を呼ぶことすら出来なくなった。そうなると、自分が泣いていることも間違いな気がしてくる。

 こんな思いを前にもしたと、幸枝は顔を覆ったまま思い出していた。ああ、いつだったかそれは。そうだ、それもまた親の死んだときだった。あの時も間違ったと思ったのだ。親不孝な娘のまま終わってしまったと、これからはそういう生き方をやめようと思ったのに。また、幸枝は同じ間違いをした。

 なにも変わっていないのだ。幸枝は幸枝のまま。

ぐずぐずと鼻を鳴らして、泣くだけ泣いて。後悔と失敗を抱えてそれで終わりだ。

 

──はたして、それでいいのか?

 

 手のひらを握りしめて、顔を上げる。背中を伸ばして信彦の姿をじっと見据えた。涙は落ちる、悲しくてたまらない。後悔はごうごうと胸に吹き荒れている。立ち上がって、ごしごしと顔をぬぐった。もう涙腺が壊れてしまったのか、止まる気配がない。

 深く呼吸をした。消毒液と人間の匂いがした。

信彦の身体には僅かな傷跡と、そして穏やかな表情が残っていた。忘れないようにしようと、じっとその顔を見つめた。きっと無駄だということを分かっていながらも、せずにはいられなかったのだ。

 

 病室の外に出ると、廊下で義父母がひどい顔で立っていた。どうも、私が出てくるのを待っていてくれたらしい。特段、交わす言葉はなかった。お互いに目礼を交わして、また別々の病室に足を踏み入れる。

 

・・・

・・

 

 勇子は部屋中につまった様々な電子機器と、カラフルなコードにつながれていた。部屋を埋めるほどの機械は、全てが様々な計測を行っていることを示していた。

 でもそれが示しているのは、確かに勇子が生きているということだ。

 ベッド脇にパイプイスが2脚並んでいる。

 

「・・・勇子、」

 

 白い手のひらに触れれば、信彦と違ってあたたかい。小さな手にすがるように両手で握った。大きな安堵が胸を占める。身体を投げ出すようにイスに腰掛けた。

 信彦の時とは違って、幸枝が感じる感情は重くない。小此木医師の説明によって、勇子が「ほぼ」何事もなく目覚めることは分かっているのだ。だからなのか、幸枝には少しの焦りがあるばかり。

 

「勇子、早く起きて」

 

 肌のいたるところにガーゼがあった。信彦とは大違いだった。

 

 

 ***

 

 

 翌日は、会社に一度顔を出してから病院に向かった。

勇子はまだ目を覚まさないようだが、姉は意識を取り戻したらしい。幸枝たちに両親はもういないから、天沢の義父母が一緒に来てくれることになっていた。義父母とは昨日に別れたばかりだったが、どこか不思議な連帯感があった。

 病院の受付で見舞いを告げると、不思議なことに別室に通された。そこには先に来ていた義父母と、見たことのない医師がいた。彼は一度頭を下げ、私たちに大切な話しがあると話し始める。

 

「天沢幸子さんですが、小此木から話しがあったように一度検査を行った方がいいように思います。昨夜、皆さんが帰られてから意識が戻られたのですが、具合が悪そうにされていました。検査のために同意が必要ですので、親族の方にご署名をいただきたいと思いまして」

 

 「検査について幸子さんにお話ししてあります」と、そう言いながら何枚かの書類を机の滑らせた。

細かい字で書かれていたのは、検査に関わる同意についてだ。右下にサイン欄があるが、本人もしくは家族とある。

 

「なぜ姉がサインをしていないんですか? 姉が目覚めていたなら、姉がサインをしていておかしくないはずですが」

 

「その、幸子さんには今様々な症状が出ています・・・。サインの後にお話しする予定だったのですが、短期的な記憶障害が起きている可能性が高いです。それから、表に見えない疾病を抱えている可能性があると見ています。まだ分からない点も多いので、なんとも言えないのですが・・・」

 

 医師の話に天沢の義父母はショックを受けたようだった。「そんな」と小さく呟いたのはどちらだろうか。幸枝はそれも当然だろうと思った。それが分かるだけに、なんともいいがたい苦い感情が胸をよぎる。

 医師がはっきりと言わないのは、それが明確ではないからで。だから検査をしようという話しだ。話しの順序にわずかなちらつきを感じるものの、検査をすることに反感は特になかった。義父と目線を交わして、幸枝はボールペンで名前を書いた。

 

 同席していた看護師に連れられて姉の病室に行く。いくつかの注意を受けての見舞いは、今までの生活で感じたことのないもので不安定さがあった。義父母がいることを心強く感じるほどに。

 姉は個室をあてられていた。昨日は大部屋だったが移動したらしい。姉の入院費もメガマス持ちらしい。太っ腹なことだ。

 じっとりとした曇り空を仰ぎ見るように、姉はベッドに背を預けて座っていた。入院着に身を包んだ姉は、幼かった頃と同じように病の匂いがする。

 

「幸子さん、具合はどう? 」

 

 義母の声に振り返った姉は、見たことのある表情をしていた。それもずっと前に。あれはいつのことだったか。

 

「・・・お義母さん? ごめんなさい、色々と迷惑をかけてしまって」

 

「いいのよ、大変だったでしょう? 子どもを二人も抱えてね、大変だったねぇ。事故も起きてびっくりしたねぇ、」

 

 義母は善意であるし、善良な人だから本当に姉のことを心配して言ってくれている。幸枝にはできないことでも、義母ならできるサポートがあったからと、そう思っていることが良く分かった。義父も私と並んで頷いていた。良い人達だ。

 じっと見つめる先で、姉の表情が不安に傾いていくのが分かった。そうだ、幸枝の一番昔の記憶にある顔。幸枝が幸枝になった頃、姉に突き飛ばされた時の顔だ。

 

 

「勇子はね、勇子は生きてるからねぇ」

 

 

 反応は一瞬で、びっくりするほど過激だった。瞬間湯沸かしよりももっと派手だ。顔色が一瞬で変わって、義母の手をわし掴み。びりびりするぐらい大きな声で言う。不安と怒り、何に対して怒っているのかは分からない。

 

「どういうこと・・・? 事故ってなに、勇子が生きてるって、じゃあ信彦は・・・? 信彦はどうなったの…! 」

 

 注意事項の1つは「信彦が死んだことを伝えないこと」だった。刺激が強すぎる、らしいが反応を見る限りその予想は適切だった。

 側で控えていた看護師がナースコールを押しながら、姉をベッドに押しつける。姉はすさまじい力で義母の腕を掴んだままだ。

 

「じこ、事故? 事故って、信彦がそんな、そんなわけがないじゃないだって、嘘!! 」

 

「すいません、病室を出てお待ちください! 」

 

 幾人か入ってくる看護師達と、腕を引きはがされた義母。病室の外に出るまであっという間で、何が起きたのかもよく分からない。

 呆然、というのが近いかもしれない。義母の腕は赤くなっているし、病室の中からくぐもった声が途切れず聞こえる。

 遅れてきた医師は、我々に一礼して病室に入っていった。少しだけ開いた病室からはわずかに「嘘、嘘! 」と姉が叫んでいた。のどが張り裂けんばかりの声だった。

 それからちょっとして、医師が病室から出てくる。看護師たちも一緒に。

 

・・・

・・

 

 

「ねぇ勇子、勇子。…早く起きて」

 

 義父母は手当てのために別れ、幸枝は勇子の病室に来ていた。病室は昨日よりも様々な器具が増えているようで、狭く感じるほどだった。勇子の病室には、看護師が常駐しているらしく何事かを記録している様子が目に入った。

 昨日からの出来事は、幸枝の思考回路をあやふやにしていた。事故の話を聞き、姉も大変で帰ってからは信彦の葬儀の段取りの話をしていた。感情が置き去りになったように、霞がかった現実味の薄さがあった。

 ぽつぽつと勇子に呼びかけるように名前を呼ぶ。祈るような気持ちだ。取り残されたような気持ちであったかもしれない。複雑に感情が絡み合って、幸枝にはその感情の名前が分からなかった。

 

 どこかのモニターを観測していた看護師が、はっとしたようにこちらを振り返る。幸枝が問い返す間もなく、待ち望んでいた声が聞こえた。

 

「──…おか、さ…? 」

 

「勇子!! 」

 

 思わず握っていた手に力が入る。それに、勇子が一番に呼んだ名前も、幸枝の胸を締め付けた。

 寝起きのぼんやりとした目が、周りを探す。

 

「ユキちゃ、? お兄ちゃんは? 」

 

「信彦、は・・・」

 

 本当に一瞬のためらいだったと思う。幸枝のためらいは姉の姿を見て思ったこと、勇子の心を考えるなら当然のためらいだった。しかし、この場ではうまくなかった。勇子は聡い子どもだったから。それに、幸枝の知らないところで色々なことを学んでいたから。

 

「・・・・・・うそ、」

 

 勇子がその間に何を思ったかを幸枝は知らない。でも、幸枝が思ったのは「失敗した」だった。

 みるみる顔を強ばらせて、幸枝の手を握った。瞳に涙の膜が出来て、すぐに枕を濡らしていく。

 

「うそ、うそうそ。なんで・・・? なんで・・・、お兄ちゃ」

 

「勇子? ・・・・・・勇子!」

 

 身体から力が抜けて、まぶたを閉じていく。ビービーとどこからか危険を示すアラームが鳴っている。驚いていた看護師はどこかへ連絡を取り始めているし、幸枝は幸枝で尋常ではないことを察して何度も勇子を呼んだ。何度も何度も。叫ぶように、祈るように。

 

 すぐに小此木医師が姿を現した。看護師から受け取った記録を見ながら、何事かを話している。ペンライトで勇子の様子を見て、再度確認するように記録を見直す。

目のあった幸枝に向かって、小此木医師は動揺の欠片も見せずに言った。

 

「幸枝さん、落ち着いてください。勇子ちゃんは眠っているだけです」

 

 「詳しいお話をしましょう」と、そう言って病室を出ていった。

感情が置き去りになっている。幸枝が干渉できる領域にはとうの昔からなかったのだ。そっと入ってきた看護師に背中を押されて別室へと向かう。小さな個室にはもう義父母が座って待っていた。

 固い表情で腕をさすっているのは義母だ。簡単な状況を聞いたのかもしれない。幸枝はまた気まずく感じる。それにこれ以上ない失敗に心が重かった。

 

「今の状況についてお話ししましょう。

まだ詳しい状況はわかっていませんが、データと勇子ちゃんの様子からして睡眠状態にあります。特別おかしなことではありません。体を回復させるために、体が睡眠を求めていると思います。ただ。ただ、勇子ちゃんは精神的なショックを、受けたようでしたね。このまま数日、覚醒の兆しがなければ精神治療をおすすめします。人は、体だけではなく心の傷で目覚めなくなることもあるのです」



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よーい、ドン

 信彦の葬式の喪主は、天沢の義父母が行った。幸枝に出来ることはなかった。天沢の家からは義父母と、それから義兄の姉にあたる夫婦がやってきた。姉はまだ病院から出られる状況でなかったからだ。小さい葬儀とはいえ、やることはたくさんあった。忙しくやりとりをしている間は気が楽だった。

 

 信彦の通夜には、信彦の友人だという小学生が何人かやってきた。クラスメイトやクラブで一緒だったという子ども。小学校の先生から話を聞いたという。

 保護者に付き添われながら焼香をし、戸惑いながら涙ぐんでいるが見えた。信彦には通夜に来てくれる友人がいたらしい。退屈だろうに、子ども達は騒ぐこともなく通夜の最後までいてくれた。

 

 通夜が終わって、人が帰る頃。その中でも年かさと思われる少年がひとり、幸枝に近づいてきた。

 

「あの、すいません。信彦の言っていた”オバさん”っていうのは、あなたですか?

 信彦、あなたのことをよく離していて、相談したいことがあるって言ってたんですけど、話せましたか? 」

 

「モジョと、よくクラブで遊んでいたんです。教えればいろんな事を覚えていく電脳ペットで、面白くて・・・。みんなが遊んでるのを見て、”オバさんが開発したんだ”って言ってて」

 

 真っ白になった頭で、どうにか返事をしたと思う。目の奥が痛んだ。燃えるように熱く、視界がぼんやりとにじむ。どうにもならない感情が腹の底から湧いてきて、それはいわゆる─後悔とか、憤りとかで─自分の感情が焼き切れてしまわないのが不思議な程だった。

 

「・・・ありがとう、話を聞かせてくれて」

 

「いいえ・・・、話しがまとまらなくてすいません。でも、信彦は本当にすごいやつで、おれの友達だったんです。だから・・・」

 

 ほろほろと涙がこぼれていく。少年は「悲しい」と言った。信彦が生きていたことをこんなにも偲んでくれる。信彦はやさしくて、賢い子どもだった。それが死んでしまった今でも消えずに残っている。

 

 

 

 

 葬儀の翌日、病院に行くと勇子はやはり眠っていた。数値的には問題がないというが、不安な気持ちは晴れない。白い顔で眠る勇子の手を握り、声をかける。

 

「勇子、今日は晴れてるよ。すごしやすいから、帽子をかぶらなくても遊びに行けそうだよ。モジョたちも勇子のことを待ってるよ。ねぇ勇子。早く一緒に遊びに行こう」

 

「・・・・・・」

 

 返事はない。眠っているのだから当然だ。でもやらずにはいられなかった。ベッドの横に座って、勇子の手のひらの温度を感じる。生きているということが、こんなにも安心するだなんて幸枝は知らなかった。

 

「勇子、待ってるよ」

 

 布団の中に手を戻して、幸枝は立ち上がる。幸枝にはまだやることがあった。

 次に向かうのは、姉の幸子の病室だ。

 

 ノックをして入った姉の病室は、勇子の病室と違って物々しい機械は多くない。検査の結果、何事もなく生活していたのが疑問なほど様々な数値が悪かったらしい。

 

「姉さん、今日はどう? 」

 

 数日前は興奮して手がつけられないほどだったのに、気持ちが切れたのか一日の大半を眠って過ごしているそうだ。看護師から聞いた話なので確かだが、目覚めている時間帯がまばらなので話しをするのは難しい。無理に起こすのははばかれた。

 運悪くというべきか、今日は眠っている。

うすく日の入る病室は気温が整っているのに、どこか肌寒く感じる。個室なので他人の気配もなく、切り取られたかのように不自然な沈黙があった。

 

「勇子はね、まだ眠ったままだよ。ふたりそろって寝てるなんて、親子だね・・・」

 

 立ったまま話しかけても目覚めない。

幸枝が見たことがないくらい穏やかな顔で眠っている。思えば、幸子の人生は我慢と苦労の連続だったのかもしれない。眠っている今が一番幸せで、目覚めてしまえばまた苦しむばかりの現実に戻ってくるのかもしれない。でもそれは幸枝には分からないことだ。ひとつだけ確かなのは、幸枝が幸子が目覚めるのを待っていることだけ。

 

 大きくため息をひとつ。幸枝は荷物を棚にしまっていく。起きた幸子が困らないように、使ったものはとりかえてしまう。やることはすぐになくなった。ここは看護師の手によって全て整えられていた。

 そうやって繰り返した日が7日を超えた時、幸枝たちは1つの決断をする。

 

「小此木先生、電脳治療について教えてください」

 

 

・・・

・・

 

 電脳治療は精神に傷を負った子どもたちに向けたものだという。電脳空間との兼ね合いから、大人はまだ実施できないのだとか。電脳仮想空間とでもいうべき領域をつくり、そこで箱庭生活をしてもらう。「安心できる生活」は精神を繋ぎなおすのに持って来いなのだという。

 幸枝が覚えているのはこの程度だ。技術者として思うのはコイルスから引き継いだ知識は、メガマスに移行することでますます進歩している。今はまだ子どもしか適用できないが、これが大人にまで適用できるなら。可能性の樹形図があっという間に広がっていくことだろう。まだ試験段階といえ、それでも被験は進んでいるというし、子どもだからこそ言語化できない傷を癒せる場というのは貴重なのではないだろうか。小此木医師が当初に描いていた電脳治療というのが、たった数年でここまで形になっているのは純粋に驚きがあった。

 天沢の義父母は安全性についてかなり質問をしていた。精神だけを電脳空間に接続する、なんて言われたところで信じられるものではない。電脳メガネすら満足に使っていない世代だ。幸枝ですら一言で信じるのは難しい。

 だが、電脳メガネが今まで実現してきたのは、仮想空間に生まれたものを現実世界に映し出す技術だ。それなら、その逆もおかしくはない。電脳空間に人間が投影されるということだ。人間を物理的に電脳空間に映し出すのは不可能だ。データは3次元のものではないから。しかし、人間の思考は物理的なものではない。状況に合わせて現実世界にデータを投影していたのが電脳メガネ。電脳メガネは微弱な脳波のレシーブ機能によって成り立っている。それを拾い合わせて、電脳空間の中で自由な行動ができるようにすればいい。意志の取捨選択を、電脳空間の中で生きているように行う。悲しいことも苦しいこともない、そんな箱庭を勇子に準備しようという。

 接続がうまくいけば成功率は高いという。なんにせよ、勇子の意識が一度も戻らないことに焦りを覚えていた幸枝たちには、電脳治療が蜘蛛の糸のように思えた。メガマスのせいで事故にあった勇子だが、その技術で救われるかもしれないというのはおかしなことだった。

 

 電脳空間の汎用性の高さというのは、いったいどこまでいくものなのか。

 

 病室で勇子の顔を眺めながら、自分の心根を恥じた。

一瞬だったけれど、彼女は勇子を心配するより前に、技術者としての好奇心が前に出てしまった。見たことのないもの、新しいものは幸枝の心を強く引っ張る。けれど、それは今の状態ではふさわしくないだろう。幸枝はまた失敗してしまった。

 心は鉛のように重い。心配もある。出口のないトンネルにいるようだ。会社ではミスが増えて、心配そうな顔で見られる。幸子のことも勇子のことも、幸枝に解決できることじゃない。だから時間に任せるしかないことは分かっているのだ。でも出来ない。これじゃだめだと思うのに、うまくいかない。

 

 そうやって仕事や雑事に追われているうちに、信彦の四十九日が来た。諸々の手続きは天沢の家でやってくれた。幸枝は当日にじっと座っていることだけだ。坊主の経も、手続きも幸枝の心を引っ張らない。でも、信彦が死んでから49日もたったのだと思うと、何かがひっかかるような気がした。

 四十九日に合わせて、信彦の骨は墓に収められることになった。幸子は天沢の家に嫁入りをしたから、信彦の骨も天沢家の墓に入る。坊主がつらつらとしゃべっていることはわかっても、内容にまでは気が向かなかった。ただ、幸枝の脳みそに深く刻みつけられたのは、真新しい大小の骨壺が並べて置かれたことだ。こんなに早く再会することはなかったんじゃないか、肩を震わせる義母を見て幸枝はそう思った。

 傘をさすほどではない雨は、幸枝たちの肩を湿らせた。

 

 ゆっくりと幸枝の生活は元に戻っていく。

新しい日課を含めて、幸枝の仕事でのミスは減って、気を揉むような焦燥も和らいでいく。時間はなによりも人の心をやわく癒していく。信彦がいなくなったことも変わらず、幸子も勇子も目覚めていないのに。それが当たり前になっていく。

 家族がいなくなったとして、幸枝の生活に大きな変化はなかった。幸枝が幸子とマメに連絡を取ることはなかった。盆と正月しか面と向かって会話をすることもなかった。

 メールで頻繁に意見を交換する相手はいても、生身で会う友人は少ない。職場にいるときの方が満ち足りているぐらいだ。仕事が終わって、病院に顔を出して、家に帰る。それの繰り返し。家の中には電脳空間に関する論文や雑誌が無数に転がっている。小さな音を立てているサーバは、一般人が手を出すには少しゴツイかもしれない。でもそれだけだ。

 

『電脳空間の構築に当たって、信彦くんのメガネからデータを抽出することはできますか? 』

 

 思い返したのは小此木医師の言葉だ。

試験段階にある電脳空間の質を上げるために、信彦のデータが欲しいと言われた。どう扱うのかは分からないが、電脳メガネには確かに生前に取捨選択した全てが記録されている。それは人格といっても過言ではないくらいに。

 事故の影響で破損していた電脳メガネは、幸枝の手によって全てのデータを抜き終わっている。抜き終わったデータは小此木医師の元へ届けた。勇子が精神を癒すために必要と言われれば、使うあてのない電脳メガネを役立てることの有効性はわかる。

 後悔がないわけではなかった。

メガマスの怠慢で信彦が死んで、それでメガマスが勇子を救おうとしている。どうして、私がなにかをしなくてはならないのか。でも幸枝には一抹の悔しさがあった。信彦に「無理」といったことが、実際には叶えられてしまう現実。電脳空間という限られた場所であっても、データの積み重ねで故人が疑似的に蘇るなら。望む人はごまんといるだろう。勇子がそれを望んでいるように。電脳空間の中で、勇子は「望みの世界」で暮らしているらしい。勇子の願いとか意志とかに反応して、電脳空間が構築されていくのだとか。

 

 ずきずきと痛む頭に手を添えて、明日の仕事について考える。そうだ、そろそろ小此木医師に発注されていたペットマトンが完成するのだ。完成したら小此木医師に届けて、それで。…サーバの中にしまったデータはバレないだろうか。バレたらどうしよう。

 幸枝の意思が反映されない要求によって、意識が眠りに落ちていく。

幸枝の夢の中に出てくるのは、いつも彼女が存在しない天沢家の幸せな一日の様子だ。楽しそうに笑い声を上げる勇子。勇子に付き合ってくれる信彦。見守る夫婦の様子。

 目覚めた幸枝が覚えているのは、寂しさだけだ。

 

・・・

・・

 

 会社が終わり病院に向かう。前よりも混んだ道のりも、同僚と食べに行く夕ご飯もないけれど気にならなくなった。夕暮れの茜色の空というのは、いつの季節も同じような色をしている。影の角度が違うとか、そういうのは置いて。不思議と不安で、落ち着かない気持ちになるのが夕方だった。

 

 夕日の差し込む病室の中、勇子は静かに眠っている。随分と穏やかな顔で眠るようになった。随分と時間がすぎた。それでもまだ眠りから覚めない。肉体的な損傷はもう癒えきったという。あとは勇子の心を待つしかない。

 幸子も同じだ。じわじわと回復してきているというが、幸枝には詳しい状態がわからない。一日の大半を眠っているし、会話をしても反応がわからないときがある。でも、そんなときは決まって幸せそうに微笑んでいるのだ。

 義父母と時々、義理の姉夫婦が一緒に見舞いに来る。時間帯が合うこともあれば、合わないこともあった。挨拶を交わして、簡単な身の回りの状況を話す程度だったが不安が和らぐような気がした。

 

 ぼんやりと幸子の様子を視界に入れて、幸枝は数か月のことを思い返していた。代り映えのない日々だが、良くなることも悪くなることもない。小康状態というのがふさわしい言葉だろう。メガマス病院は丁寧に接してくれた。それが上層からの指示かはわからない。でも、それでも幸枝はそれがありがたかった。

 病室にノックが響いたのはそんな時だった。

 

「こんにちは。ああよかった。幸子さんの病室でしたか」

 

 「勇子ちゃんの病室に行ったらもういなかったから、ちょっと急いでしまいました」と言いながら、額に浮かんだ汗をぬぐうのは小此木医師だ。人の好さそうな顔を柔らかくしている。それに対して幸枝は焦る。なにせ受付で小此木医師に会いたい旨を告げたものの、場所は言わなかったからだ。小此木医師は新技術の開発も、現役医師としても必要とされる忙しい人なのだ。それに、これは患者の家族と医師ではなく──顧客と企業としての面があったから。

 

「すいません! ちゃんと時間と場所をちゃんと伝えておけば良かったですね…。申し訳ありません。

…本当ならきちんとアポを取ってお渡しするべきなんでしょうけど・・・、病院に来たらお会いできるかと思って。こちら、ご注文の品になります」

 

「ああ、ありがとうございます。きっと病院で会うことになってたでしょうからね、気になさらないでください」

 

「ご注文の通りにデータに、あそびがあるようにしてあります。ただ、条件のとおりにプログラムを組んだのですが、現在のサーバとの兼ね合いであまり大きな余分があるわけではないです。お気をつけください。うちのペットメモリアルサービスにも入っています。

 それから…、その」

 

「?」

 

「お代は結構です。小此木先生には本当にお世話になっていますから。──これからも、勇子のことをどうかよろしくお願いします」

 

 勢いよく頭を下げた。

幸枝の言葉に、小此木医師は表情を少しだけ固くした。

電脳ペットは安いものではない。それも特注品になれば値はそこそこ張る。幸枝にはその金額を支払うのに困らないだけの貯蓄があり、そうするだけの理由があると思っていた。メガマス社を信頼することは難しいが、小此木医師のことは信頼できると思った。だから、これはある意味では保険で必要なことだ。

 小此木医師は幸枝の考えなど分からないだろうに、思うところがあるようであった。

 

「──いいえ、そういうわけにはいきません。勇子ちゃんは私の患者ですから、ちゃんとやります。でもね、幸枝さん。これはね、この電脳ペットは孫娘のプレゼントにするつもりなんです。だからね、私はちゃんとお金を払いたいんですよ」

 

「ですが、」

 

「ねぇ幸枝さん。幸枝さんはね、大変よく頑張っています」

 

「え、はい…? ありがとうございます…」

 

 突然の話題の転換についていけない幸枝をよそに、小此木医師は顔を一度撫でて、うんうんと頷く。それから両手に電脳ペットの情報が入ったデータチップを持ち直して、じっと幸枝の目を見つめた。

 

「勇子ちゃんは、誰がそばにいても信彦くんのことを察して眠りについたでしょうし、幸子さんも体がそもそも限界だった。これはあなたにどうしようもできないことです。

どうしようもできないことをね、頑張るっていうのは若さの象徴みたいなもんですけど。あんまり頑張りすぎると疲れてしまうね。幸枝さん、なんでもかんでも自分のせいにする必要はない」

 

 背中に冷や水が流れたかと思った。それと同時に脳みそが沸騰しそうなほど熱い。「どうして」と頭の中でぐるぐると回っている。幸枝はこれまでの人生で、こんなにも内心の思いを突くような言葉を受けたことがない。いつもみんな、幸枝がしっかりしていると言った。楽しいことがあって幸せね、と言った。どうしようもないから夢中でいることに腐心してきた。知らせるつもりもなかった。

 

「幸枝さんの気持ちは嬉しいし、分かるつもりだよ。だけどね、せっかくの孫娘のプレゼントだから代金はちゃんと支払いますからね」

 

 「ありがとう」と小此木医師は何度も幸枝にそう言ったけれど、ありがとうと言いたいのは幸枝の方だった。幸枝はやっぱりまだまだ"若者"だった。小此木医師の経験には勝てない。小此木医師の言おうとしていることは分かる。でも、必要と思ってやったことが「無意味」になってしまい、それはそれで落ち着けなかった。でも確かに、心が少しだけ軽くなったような気がした。

 勇子の今の状況についても簡単に教えてくれた。この調子でいけば秋頃には目覚められるようになりそうだと。先が見えてくると、不思議と気力が湧いてくるようだった。出口のない長いトンネルに、ようやく光が差してきた。幸枝にできるのは待つことだけだったけど、それも上手くできるような気がしてきた。

 

・・・

・・

 

 夏が終わり、秋がやってきた。暑さは随分と落ち着いて、過ごしやすい日々が続いてる。小此木医師は言葉の通りに、「もうすぐ勇子ちゃんは目覚めるでしょう」という話をしていた。

 土曜日、久しぶりに病院で天沢の義父母と義姉夫婦と顔を会わせた。予定を合わせたのではなく、偶然にも同じ時間帯に居合わせたのである。

 

「あらー、幸枝ちゃん。久しぶりねぇ。元気にしてた? 」

 

「お久しぶりです。元気でしたよ、お義母さんたちはどうでしたか? 」

 

 勇子の病室に入って、あまりの人口密度に圧迫感すら感じた。こんなに人がいるのは珍しい。

 義父母は穏やかな顔で椅子に座っていたし、義姉夫婦は窓から外を眺めていた。

 

「最近はねぇ足が悪くなってきたものだから、調子がいい時とこの子たちの都合のいい時にしか来てなくてねぇ。幸枝さんは毎日来てるんでしょう。悪いわねぇ」

 

「気になさらないでください。好きでやってることですから」

 

 病院に見舞いに来たとして、やるべきことはない。時折目覚める幸子とは違い、目覚めない勇子にはできることは本当にない。普段の幸枝なら、そばに座って今日あったこととか、季節の様子を話す。しかし、今日は自分以外の人間がいるからそうするのも恥ずかしい。

 迷った幸枝は勇子の体調について話すことにする。

 

「小此木先生から聞きましたか? 勇子、もうすぐ目覚めるかもしれないって」

 

「聞いたわ。嬉しいわね…、でも少し不安だわ」

 

「そうですよね…」

 

 信彦が死んだことを知って、眠り続けるほどに傷ついた勇子だ。眠りの中で心の傷が癒されて、それで目覚めてどうやって説明したらいいものか。

 幸枝や天沢の家は、長い時間をかけて信彦の死を受け入れた。勇子はどうだろうか。受け入れられるだろうか。

 過ぎた時間は戻らない。置いていかれたことを認められるだろうか。どうやって接したらいいだろうか。それに、幸子はまだ母親に戻れない。しらず握りしめた手に力が入る。

 

「幸枝ちゃん。勇子が目覚めたらね、うちで引き取ろうと思うの」

 

 病室の中に驚きの声はなかった。天沢の家ではもう十分に話し合われた話題であるらしかった。だからこそ幸枝は居心地が悪い。考えないといけないことではあったけれど、幸枝が意図して考えてこなかったことでもあった。幸枝は勇子のことが好きだったけど、一緒に生活することを想像することが難しかった。でも、天沢の家に任せてしまうのも違う気はしていた。

 

「…えぇ、」

 

「幸子さんはまだ、退院できるような状況じゃないし、あなたも子どもの面倒をみるのは難しいでしょう? うちならこの人もいるし、曲がりなりにも経験はしているから、ね」

 

 「大丈夫よ」と言いながら微笑む義母に、情けないことに幸枝は安堵した。肩に入った力が自然と抜けて、うまく頭が回らない。なにかがこみあげて、目の奥が熱く痛んだ。不必要な言葉が出そうで、幸枝はただ口を引き結んで小さく頷くだけだった。それが精一杯。

 

「……すいません」

 

 小さく口の中で囁くように言った言葉は、義母に届いたようだった。困ったように眉を下げて「気にしなくていいの、あなたは若いんだから」とそう言って、義父と頷き合った顔には小此木医師と同じように、重ねてきた経験が見えた。

 

 ノックが響いたのはその時。

滑るように扉が開いて、穏やかな表情の小此木医師が入ってきた。

 

「ああ、皆さんお集まりでよかった。すこし、お話ししたいことがあります」

 

 今までこの手の切り出し方で「良い話」が出た覚えがない。その勘は当たって、小此木医師のはなしはいい話ではなかった。この場にいる人間の中でもっとも理解しているのは幸枝だろう。義父母も義姉夫婦もぱっとした顔ではなかった。

 

「今までの感触からすると、そろそろ勇子ちゃんは目覚める準備ができるはずでした。しかし、なんらかのアクシデントで精神状況が悪化しています。…解析の結果だと外部からの不正なアクセスがあったようでして、本当に申し訳ありません。こちらの不手際です。

 それと、これからの対処についてですが…、このまま電脳空間から勇子ちゃんが出てこないようであれば、どうにかして解決します。こちらは現状の資料になります。詳しくは、そちらの資料を追いながら…」

 

・・・

・・

 

 秋の冷えた寒空の下、他人の葬式に参列した。自分の身内以外での葬式は初めてで、義姉夫婦と一緒なのは心強いような気まずいような心持ちだ。粛々と進む告別式に、黒い服の人々。何を考えているか分からない横顔。それにしても、随分と規模の大きな葬式だと思った。すし詰め状態で、それでも入りきらない人たちのために廊下が開けられた。

 小此木医師が亡くなった。惜しむべき人だった。

 

 喪主は小此木医師の奥方ということで、人が引ききらない中を縫って一言だけ挨拶をした。義父母は体調がすぐれないのためか、今回の葬儀には参加をしなかった。

 

 小此木医師は言葉のとおりに、勇子を現実に連れ戻して、その結果に命を落とした。電脳空間に意識をやった勇子を現実まで連れ戻すには、意識をそこまで連れて行かなければならない。しかし人間の意識だけを電脳空間に運ぶのは難しいことだ。コイルスの研究中の技術にあったものの応用のようだが、子どもの精神ともしくは強いイマーゴ体質の人間にしか適用されない。では小此木医師がそれを強行すればどうなるか。勇子を迎えに行った意識は、そのまま体に戻ることなく衰弱死だ。小此木医師はひとつの命を救って、それで命を落としたのだ。

 何とも言えない、胃が重くなるような気持ちだった。小此木医師の奥方は、こちらを責めるような言葉を言わなかったけれども、責めてくれた方が気持ちが楽だったかもしれない。

 小此木医師は優れた医師でありながら、技術者としても素晴らしい人だった。人としても堅実で豊かな経験を感じさせる人だった。惜しい人だった。幸枝のことをきちんと認めてくれる人だった。家族じゃないのに、家族以上に気づかってもらった。本当に感謝の言葉が足りないくらいに。

 

 勇子は目を覚ました。

眠っていた時間を忘れてしまったように、起きてからはずっと信彦に会いたいと言っている。リハビリで体を動かしながら、少しずつ日常を取り戻す予定になっている。事故で失った時間は短くはない。それを取り戻さなくてはならない。小此木医師が亡くなる二日前に目を覚まして、少しずつ今を取り戻している。

 引き継いだ医師は精神状況を鑑みて「信彦は意識を失っている」ということにすることを提案した。誰もそれに反対しなかった。それくらいに勇子の必死さは強烈だった。──この世の全てを捨てても信彦と会いたがっている。それは幸枝が感じたものであるが、他の人たちもそう変わらない印象を受けたように思う。丸い瞳に疑問だけを乗せて

 

「お兄ちゃんは? 」

 

と聞かれた義父母が答えに苦しんだのだ。答えの間に不安になって、何度も何度も繰り返して聞き返す。記憶が欠如していると判断するのに時間はかからなかった。

 あまりに、あまりな結末だと思った。勇子の精神は落ち着いてはいるが、それは「信彦の死がなかったこと」になっているからだ。あの時に苦しんで心を閉じたのは「信彦が死んだから」なのに。それではどうして、小此木医師が死んでまで勇子を連れ帰って来たのか分からないではないか。いいや、勇子が死んでしまっていいというわけではない。そうではない。でも、現実はあんまりにも非情だった。

 

 それから、それから。

時間は止まることなく進んでいく。勇子は感情を取り戻す。事故以前よりずっと控えめではあったけれど、言葉をつくして要求を伝えるようになった。彼女が一番はじめに欲しがったのは「電脳メガネ」。その時に、幸枝は言語にしがたい感覚を味わった。虚無感のような寂しさのような、怒りのように苛烈ではないが悲しみではない。

 病院に何度も見舞いに行った。看護師とは顔見知りになった。勇子は幸枝を慕ってくれる。でも、幸枝はそれを続けることが難しくなってきた。どうしたらいいのかが分からなくなってきたのだ。正しいか、正しくないか。幸枝の行動原理がエラーを吐き始めた。

 

 

 *****

 

 

『…現在、お呼び出しできない状態にあるか、通信圏外にいる可能性があります。音声ガイダンスに従って──』

 

「アー、もしもし勇子? 元気にしてる? 天沢のおばあちゃんから引っ越したって聞いたけど、引っ越しは無事に終わった?

 

・・・

・・

 

…大黒市に来るんだってね。時間があったらご飯でも食べに行かない? ──姉さんの調子は相変わらずだよ。もうちょっと時間がかかるみたい。時間があったら…、アー、連絡待ってるよ。勇子の声が聞きたいな。またね』

 

 電話の留守番電話サービスに入っているのは聞き慣れた声だ。幼少期から、それこそ生まれた頃から聞いてきた声。母親方のオバの幸枝は、いつまでたっても電話やメールをやめない。勇子がどれだけ冷たく当たっても、返事を返さなくてもずっと諦めない。いい加減にすればいいと思う反面、どこかで声を聞くと安心する。そういう複雑な気持ちを抱くのが地村幸枝という人物だった。

 天沢の祖母に引き取られてから、オバは勇子に会う時間を少しずつ減らしていった。もちろん距離的なことを考えると難しいことだったかもしれないけれど、でもそれに勇子は落胆した。

 電脳メガネを始めてもらったのも、2台目をくれたのもオバだったから。勇子の考えを応援してくれると思っていたのに。小さい頃からなんだって教えてくれたのはオバだった。母とお兄ちゃんとお父さん、それに時々だけどオバが加わってそれが嬉しかったのに。勇子の心にはオバに裏切られた気持ちがあった。

 

 勇子は何もできない少女じゃない。ひとりでなんだって出来るつもりはないが、かなりのことは出来るようになったと自負している。実際に彼女はひとりで戦えるだけの力はもっていた。兄が生前に教えてくれた方法。それに、オバが少しだけくれた、兄のメガネのデータ。ひとりで習得しきるのは難しかったが、ネットをうまく使えるようになってからは早かった。似たような人間を見つければ、そこを皮切りに色々と知ることが出来た。実際に会うまで親しくする人間は多くはなかったが、それでも猫目という人間に会えたのは大きかった。

 

 早く知りたかった。勇子は、電脳空間にいるはずの兄に会う方法が知りたかった。必要な準備を整える必要があった。

天沢勇子にはどうしても叶えたい願いがあった。どれだけ無茶をしても叶えたいものがあった。そのためならなんだって出来る。



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記録をひらいて

 〇月×日(月)

 

 勇子がついにリハビリを始めた。長期間の寝たきりの生活は体の筋力を奪うらしい。歩くことも難しい勇子はもどかしそうな顔をしていた。

 病室で話す勇子は以前とそう変わらないように見える。でも何を思っているのかわかりきれないから。どうしたらいいだろうか。

 夕方に病院に行くと、今日なにをしたのか教えてくれた。簡単なストレッチや食事の内容、看護師さんたちがやさしいこと。早くお家に帰りたい、信彦に会いたいという勇子。「そうだね」と頷いたけど、おかしくなかっただろうか。

 小此木医師の後任の先生は、勇子の心が育って、事実を受け入れられるまで待とうという方針を話してくれた。今の勇子では、事実を知ってしまえばまた心を閉じてしまうだろうと。私たちは信彦が死んでいることを知っているけど、勇子の前では意識不明の重体であるふうに思っていないといけない。それは結構、私には難しいことだった。そこそこ生きてきたつもりだったけど、新たな自分の発見といっていいだろう。今じゃなくてもよかったのだけど。

 とにかくもどかしい。

 

・・・

・・

 

 勇子が目覚めて少し、幸枝はメガマスから引き抜きの打診を受けた。「才能あふれる地村さんに、うちで潤沢な資金をもって研究と開発をしてもらいたい」そういった内容だった。個人のメールに来るにはあまりに都合がよい内容であるし、勇子と信彦のことがあったばかりだ。幸枝はひらめき的なものでいえば凡才である。幸枝には信じようがなかった。それで隣の松川に聞いたわけだ。

 

「……ちょっと、幸枝ちゃん。これ、メガマスの正式なアドレスよぉ。なにをしたらこんなに好条件のお誘いが来るのかしらねぇ」

 

 顔をしかめているのは、松川たちにはある程度の現状を話していたからか。今までと同じ仕事が出来ない以上、理解を得るためにも家族のことは話していた。メガマスの信用なんて知ったことではない。

 他人から見てもあからさまであるらしい。「口止め」だろう。幸枝は今よりもずっと好条件で働けて、メガマスは幸枝のことを見張る。余計なことさえ発信しなければ、幸枝はずっと物理的に豊かな生活が可能だろう。

 

「幸枝ちゃんの好きなようにしたらいいと思うけど、……あんまり好感の持てないやり方ねぇ」

 

「うーん、そうなんですよね。メガマスに転職したい気持ちはあんまりないですし……。でも確かにどれだけ進んでるのかは見てみたいんですよね」

 

 「わかるわあ」と返す松川も同じ穴のムジナなので、最新の技術やら電脳空間の研究レポートやらがあるのならぜひ見たいのは本音だ。だからといってメガマスで働きたいかといえば、それは感情的に"NO"なのだが。

 

「出向扱いで、うちの会社に在籍したまま働くんだったら最高なんですけどね……」

 

「やだ。幸枝ちゃんたら強欲。でも素敵。それで返信してみたらどう? 」

 

「えぇ? さすがに要求しすぎじゃないですか? 」

 

 やさしく微笑む松川だが、妙なすごみがあった。幸枝より生きている分、経験も豊かであるし、これで修羅場を潜り抜けて来たのだそうだ。その松川からすると今回のメールには交渉の余地があり、むしろ大きく吹っ掛けておいた方が都合よく進むだろうと。今回の件は特別な事情がからんでいるからやってみなさいと。そう言うのである。

 

「どう書けばいいか分からないならやってあげるわよお? 」

 

「……、いえ。自分でやります」

 

 そして。松川の見通し通りに幸枝の希望はかなうのである。何を考えているのか分からない人事である。幸枝の会社には出向要請がきて、ボスからは意味深な視線をもらう羽目になった。いわく「こんなやり取りの仕方、見たことがない」と。普通はメガマスから出向で降りてくるのであって、まあまあ一般的になってきた電脳メガネの開発系"から"メガマスに出向なんて見たことがないと。

 急速にインフラ化した電脳メガネ・電脳空間は、各分野に担当を割り振っている関係で知識に疎い部署にはメガマスから専門の人間が派遣されることがままあるらしい。

 ボスと面談して出向の内容が決められた。幸枝の知らないところで、メガマスとやり取りをしたボスの上の役職の人が大変に満面の笑みになったらしい。閑話休題。

 

 

 それで、幸枝はそれからずっとメガマスで働いているのである。出向という体裁をとっているが、メガマスの社員のように扱われている。元の会社に顔を出すこともほとんどない。出向の意味がないのでは、とも思うが幸枝が所属していたいのはメガマスではないので。案外、自分勝手にできるものだと幸枝は自画自賛したものだった。

 

 じりりりん、黒電話の着信音にはっとした。

電話の相手は別部署の花巻だ。

 

「地村です。どうかしましたか? 」

 

『ああ良かった!ちょっとお願いがあるんですけど……、相談窓口に寄せられる苦情が多すぎて処理しきれないので手伝ってもらえませんか? 』

 

「いつも通りに関連する部署に回せばいいのでは? 」

 

『それが多すぎるんですよ。というより、各省庁からも上がってきていて報告があげきれないというか……』

 

「……わかりました。とりあえず行きます」

 

 『助かります!』の一言を最後に電話が切れる。しかし不思議である。相談窓口というか、問い合わせ窓口も仕事をしているのだが。彼らの仕事は上がってきた問い合わせを各担当にあげたり、ふさわしい場所への案内だ。内容は全て記録するし、それが幸枝にヘルプ。よくわからない。

 その場にいた同僚に電話の件を伝えると、強い頷きと共に理解を示された。

 

「いやうん。今年はちょっとバグ的な動きが多いよ。記録を見たらわかるけど、そういう周期みたい。……地村さんに話しがくるのは、うちの連中の中でわりと話が通じるからだと思うね」

 

 さっさと行けと手を払う同僚を横目に、いささか腑に落ちない気持ちの幸枝である。自分が評価されているのか、それとも同部署の人間がけなされているのか。自分の役割以上の仕事をするのにも抵抗があった。

 が。うだうだと考えていられたのは道中までで、窓口業務のブースについてからはまるで嵐のような状態だった。なにせ次から次に相談される。ひっきりなしに電話が鳴り続けている。あまりに日常とかけ離れた空間だった。

 

「地村さん! お忙しいところすいません! 次の件なんですけど……! 」

 

「はい……」

 

 花巻さんは幸枝と同時期に入社した人だ。とくに電脳メガネに対する知識があるわけではなく、ただメガマスの一般職として働いている。それで知識不足で困っていたところを助けたのが縁で、昼食を一緒にとったりする仲である。

 その彼女が鬼気迫った顔で、次々に書類を幸枝に渡してくる。どの内容もクレームに近い。電脳メガネを町中で使った際にエラーが起きたり、ビルの古い空間が大崩壊をしたりと様々である。花巻にとっての問題はどこに届けるべきか、それと見通しである。報告を上げたところでその日のうちにエラーが改善するわけではないのだから。

 渡す場所、簡単な見解、改善の見通し。罵詈雑言が飛び出す受話器を握りながら、新たな書類を仕上げていく。手慣れたものだった。

 30分もそこにいれば、上がってくる問い合わせの内容も見えてくる。同じような異変が多い。それも電脳空間自体に関するものだ。大黒市は古い空間が多い。他の地域に比べてアップデートが遅れているのかと思えば、施設などによって異なるようである。どうにも一区画だけではなく、市内の複数の場所で異変が起きているらしい。もしくは起きていた。

 

「いつもこんなに忙しいんですか? 」

 

「いえっ、こんなのは珍しいですよ・・・・・・」

 

 心底うんざりした顔で花巻は言う。いつもクレームや質問はたしかにあったが、今月に入ってからは段違いに多いという。メガマスの社内では一切起きないバグであるし、担当省が違うこともある。メガマスが最大手でも、開発に携わっていないこともある。クレームには一律のマニュアルがあるし、そう難しい仕事でもないらしい。ただし、メガマスの方針として、クレームの内容と発生場所をまとめておかないといけない。そして、この立て続けのエラー・バグ・電脳空間の接続不良。

 

「クレームの半分くらいは……、いつもは人為的なバグなんです。電脳空間の知識がある子どもたちが、遊び半分で電脳空間に不正アクセスしたり、変な技術で違法行為を愉快な感じにきめてたり……。

でも、最近の問い合わせはそういう大きさじゃないんですよ」

 

「はあ」

 

 幸枝の気のない相槌が耳に入っているのか。花巻はコーヒーをあおりながらぷんすかと怒っている。いわく、それで残業時間がかさむこと。他の人もいるのになぜか自分が名指しで注意されること。それもこれも、全部メガマスが調査を適当にしているからじゃないか。先輩がいうに、定期的にこういう状態になるということ。

 

「ああ、私もそれ聞きました。周期的にバグが増える、ってやつですけど」

 

「やっぱりー! 研究でそういう話が出るならやっぱりそうなんですね! ということは解決の見通しが……? 」

 

「いやー、それは分かんないですね。担当省が分かれすぎてますし」

 

 がっくりと肩を落とした花巻は、このクレームの嵐から解放される日が見通せないことを理解したのだった。幸枝は幸枝で電脳空間の周期的なバグの増え方に考えるものがあった。

 なぜ周期的にバグが増えるのか。人為的に起きるバグとは異なる増え方である。4年前がその周期にあたるらしいが、その頃の幸枝といえばメガマスに入りたてで周囲を見る余裕がなかった。

 定期的に電脳空間にはアップデートが入るが、4年周期というのは長い。その間に何度かアップデートが入るのだから、祭りを起こすようなバグがあるとも思えない。バージョンに合わせて"イタズラ"をする人種に検討はつくが、それでも悪質すぎることはやらないだろう。文字通り違法行為で捕まる。

 

 出向扱いでアクセス権限を上げてもらえない幸枝は焦りがあった。

勇子の事故や、他の子どもたちが遭ったGPS不具合。それらも含めて電脳空間のバグと、それを知っていて修正と公表に踏み切らなかったメガマス。訴えてメガマスを処分するにはいささか証拠がたりない。とくにデータログが足りなかった。電脳空間の基礎から今に至るまで、アップデートを繰り返しているそこへのアクセスログ。勇子の事故の付近で修正や確認が行われたかどうか。電脳空間の成り立ちとその構成。それが分かれば、バグを改善することは可能なのだ。

 バグは人間が関わっている以上、必ず生まれるものだ。だがそれを放置して、それが命にかかわるところまできて、それで電脳空間に対する処置をしないならそれは"間違い"だ。リスクとコストを計り違えている。

 だけど、もしも。もしも、このバグが大量に起き続けたのなら。幸枝の所属している部署も知らん顔はできない。問題の解決に乗り出さなくてはいけない。少なくとも、幸枝が知っている今の同僚たちには問題を放置して平気な人はいなかった。

 データを解析して、問題を洗い出して。バグにはパッチを当てて。そのためにはデータログを見なくてはならない。出向扱いの幸枝でも、人手が足りなければ権限を与えられるかもしれない。

 メガマスが利益を重視して電脳空間に非がないことを訴えたように、幸枝も使用者の便利さなんて知ったことではなかった。やることは変わらない。見えない部分がそうなだけだ。嫌気が喉元までやってくるけれど、煮え湯を飲まされたような怒りを思い出せば難しくない。考えなければいい。そのためにここにいるのだから。

 

 



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保守する人たち

 △月○日(日)

 

 今日、勇子に新しいメガネをあげた。病院内でできることは少ないことと、それにメガネをよく触ってたからあるといいと思って。まだ体力が戻ってないからリハビリをした後は眠っちゃうし、昼間は病院の子どもたちと遊んでいるみたいだけど、どうしても夜は分からないから。私でも、お義母さんのところでも、すぐに連絡が出来たらいいと思って。

 勇子になにか、って考えた時に電脳メガネになるのが皮肉だなと感じた。だって電脳メガネがなければ勇子は幸せに、暮らしていたかもしれない。姉の様子からしても終わりは遠からずあっただろうけど。この先どうなるか分からないけど、でも電脳メガネがこのまま発達していくなら、なくてはならないものでもある。それは勇子が大きくなったら選べばいい。

 ……仕事で病院に来るのが難しい。結局、勇子の退院のときには間に合わなかった。メガマスに移籍してからは新入りなのもあるけど、……気が重いのかもしれない。勇子は天沢のお義母さんのところに行くから、なんとなく身を引いた方がいいような気持ちがあるのかもしれない。でも続けないと、

 

・・・

・・

 

メタバグ争奪バスツアー

 その知らせがきたのは、やっぱり幸枝がメガマスの開発にいるところだった。コーヒーをすすりながら、うまくいかない場所についてぼやいている同僚の会話を聞いていた。

 

 電脳空間はメガマス社内でも、よくわからないブラックボックスのような扱いをされている部分があった。なにせ、よくわからないが「動く」し、かといえば忠実に作成したはずのプログラムが「動かない」。研究者たちはそれを見極めるために研究しているし、それに乗っかる開発者は必死だ。

 電脳空間の初期の開発に携わった者は、コイルスからメガマスに吸収されるときにそのまま残った。しかし、その中でとくに熱心だった猫目という人間の情報はほぼ残っていない。研究レポートが名無しで残っている場合は、それが猫目のものかと考えることもあった。だが明確に分かるわけもない。研究に研究を重ねて、時間を重ねて分かる部分を増やして、新たな試みを行って、そうやって電脳空間を分析しているのだ。どうやって作られたのか記録が残っていないのが、いっそうのこと不気味だった。

 ああでもない、こうでもないと仮説を重ねて、やってみたいことやコイルス時代の研究を見ては、電脳空間の可能性に目を輝かせる。この場所では幸枝は凡庸な能力な持ち主でしかなかったけど、だからこそ居心地が良かった。能力はさておいても志や希望が近いので、幸枝は好き勝手なことを言っては論理の破綻やら、知識の補完やらをしていた。

 

「・・・・・・はー? なんですかそのタレコミ。うちでそれを処理しろって? まずは空間管理局が対処に動くはずでしょ? 」

 

「やっぱり今年は多いね。当たり年だよ」

 

「・・・・・・多すぎて他の局で手が回ってないって聞きましたけど」

 

「そうみたいよー。こないだは建築局の方で盛大に空間が崩壊したみたいでね、ビルが一棟丸ごとよ? 大惨事」

 

「わかりました! わかりましたって! どうせサッチーとかいうやつがもう見回りでもしてるんでしょう? うちがやることってなんなんですか! 」

 

 控えめな声でやりとりをするのは研究所所属の上司と幸枝だ。電話に出ているのは同僚の女性。フレーバーコーヒーをよく幸枝にごちそうしてくれるが、現在のいらつきはコーヒー程度では落ち着きそうにない。電話の向こうではなにやら説明を続けているらしく、何かを話していることだけがわかる。時間に比例して苛立ちは大きくなるようだ。

 

「分かってますって! 町外れの廃バス置き場でしょ!? 検索したら何とかなりますから! 」

 

 余計ないことを言われていたのか、慌てたように電話を耳から離して切った。長く息を吐く姿はなかなか哀愁が漂っている。そろそろと幸枝は腰を浮かしてこの場からの離脱を図ろうとする。が、隣の上司がすでに椅子に足をかけていた。ぬらりと顔を上げて笑ったのは同僚。諦めた顔でコーヒーをすする上司。

 

「……範囲も状況も不明なので、ちょっと、手伝ってもらえます? 」

 

「「はい」」

 

 

 がたがたとキーボードを鳴らしながら検索をし始めた同僚に、複数のウィンドウを立ち上げながらネット上の情報を拾い上げていく。大黒市に越してきて随分とたつが、簡単な名称だけでは分からないことも多い。クレームとして上がってきたのなら、掲示板にもコメントが出ているかもと軽い気持ちで検索をかけていく。と、幸枝の予想をはるかに超える反応があった。随分と"炎上"しているようだ。

 

「……かなり広範囲の空間が崩壊しているんじゃ? 」

 

「なんか言いました? こっちは場所の把握は出来ました。重なってる電脳空間の情報を簡単に解析して、……アー、地村さんには地表データ以外を見てもらっていい? これは広範囲だわ」

 

「アー、私、公共ドメインへのアクセス権限持ってないんですが」

 

「ウソ。チーフ、地村さんに権限渡していいですよね? 渡しますね」

 

 同僚の物言いに、上司は苦笑いしたが特に口出しをすることもなく。幸枝は公共ドメインへのアクセス権を得た。普段のメガマスでの仕事ではアクセス権は必要ない。同僚からのアクセス権の譲渡を受け、公共ドメインにアクセスする。指定されたコードを入力すれば、複数のウィンドウに見慣れない文字列が出現した後、大黒市に存在する道路を主にした地図が現れた。

 言われた郵便番号を指定すればかなり広域が指定される。市街地からは距離がある場所らしく、民家のドメインにまでは食い込んでいないらしい。道路とその奥に広がる草地、それから付近の水回りやらなにやらが荒れ放題だ。破損状況もひどい。

 

「事故は起きてないみたいですね」

 

「GPSの異常反応もないし、完全に電脳空間がやられてるみたいだわ……」

 

 時々地図が更新されるためにちらちらと光が差す。その頻度は数十秒に一度といったところだ。

 電脳空間の情報を眺めているだけではらちが明かないが、このままではサッチーが空間を直し切れるのかもわからない。損傷がひどければこのあたりでの運転はとても危険なものになる。現在の車の運転はGPSと電脳空間の連動によって、事故が起きないように設定されているのだ。電脳空間があることが前提の設定では、走る車が少ないとはいえ危険度が増すことは確かだ。

 

「……電脳空間のあらかたの被害状況を確認して、あとは空間管理局に投げましょう。このあたりは民家が少ないからアップデートが遅れていたはずなので」

 

「わかりました。……値段で試算します? 状況で? 」

 

「うーん、そっち側の破損の状態とアップデートに必要な日数を簡単にまとめてもらえればいいわ 」

 

 「わかりました」と返事をすれば、それぞれが動き出す。上司に仕事が割り振られなかったが、どうせこのあと上がってくる資料は全て彼が確認しなくてはならないので。長い息を吐きながら同僚が新しいコーヒーを淹れに行った。熱いコーヒーがないと仕事が進まないのだ。全くお門違いの仕事が回されてきたのだから。

 

「あ、これって人為的なやつなんですか? 」

 

「人為的なやつだね。でも、やってる子たちは手練れだよ。カメラにも干渉してることが多くて、証拠が全くつかめないんだからまったく」

 

 チーフは頭が痛そうな顔をしたが、一瞬後には面白そうな顔だ。彼は技術者でメガマスの社員だが、その前に電脳空間が大好きな人間なのだ。新しい技術や電脳空間に関する知識を求めてやまず、持っている人間がどんな人間でも友好的な態度で尋ねるだろう。「すごいねぇ、それってどうやってるんだい? 」なんて言いながら。

 

・・・

・・

 

沈没! 大黒市

 

「……すごい、こんなの初めて見ました」

 

「……だろうね。うちの電話がひっきりなしに鳴っているのが想像できるくらい……」

 

 窓の外に小さく見えるのは空中に泳いでいる大きな魚の影だ。影といってもそれは実体を伴っていないというだけで電脳空間で生きている人からすれば「いる」のと変わりない。

 一般的な魚とは違い、それは影のようにのっぺりとしている。目と体の様子は分かるが、それがどのような理論でそこに存在するのかが分からない。なにせ幸枝が今まで作ってきたペットの中に、水生生物をもとにしたものはいなかったので。でも空中を泳ぐペットというのも悪くないと感じた。実装にどれだけ大変な思いをするのかはわからないが、こういうのは考えるだけはタダなのだ。

 

「大黒市って、いつから空中にまでペットデータを飛ばせるようになったんですか? 」

 

「いやー。なってないよね。それは地村さんの方が詳しいよね」

 

 真っ黒な魚がゆうゆうと空中を泳いでいる。見ている分には目に楽しいが、あのあたりでは戦争のようにバタついているのではないだろうか。それこそ郵政局のサッチーが出動して、バグに対処していてもおかしくないように思うが遠すぎてよくわからない。

 

「……空中って、どこのドメインでしたっけ? 」

 

「さて。どこだったかな……まあ、でも。管理局だけで難しければウチにくる。それだけだよ」

 

 かっこいいことを言っているようだが、空間管理局で対処が難しければウチに回ってくるだろう。それも巷で話題のイリーガルと思われる電脳生物だ。掲示板には目撃情報と様子が逐一アップされており、考察とコメントが忙しなく動いている。メガマスの失敗作だとか、暗号屋のお遊びだとか散々だ。

 メガマスの中でもイリーガルに対する考え方は偏る。なにせサンプリングできるほど目撃例がない。メガマスになくとも、と考える人間は多くコイルス時代の研究内容は擦り切れるほど閲覧されている。それでも、イリーガルは解明しきれていない。意図的に研究内容をぼかしているようにすら感じられた。

 

 コーヒーの湯気にメガネを曇らせながら、チーフは窓の外を眺めている。いつもよりも覇気がないようにも見えるし、眼だけはじっとイリーガルの姿を追っているので頭の中では何事かが起きているのかもしれない。

 

「そういえば話題の空間管理局だけど、課長の人が代わったらしいね。今までみたいに昇進させるんじゃなくて、外部から入れたらしいよ」

 

「はあ……」

 

「空間管理局の課長はさ、クレーム対応でめちゃくちゃ大変なんだよね。正しく言うとクレーム処理じゃなくて、クレームの確認と空間の保持・修繕でさ。しっちゃかめっちゃかだってね、出張したうちの社員が同情してたよ」

 

 チーフはぺらぺらと口を動かすが、その目線は相変わらず窓の外だ。声に抑揚があるが、表情に変化はないのが若干不気味である。この人はいつもこういう話し方をする。今は慣れたものだが初めのうちは少し怖かった。

 それにしても電脳空間に関係しない話しは珍しい。良くも悪くもコアな人間が多いのだ。好きな話しばかりしていると、会話の内容は偏りがちになる。

 

「いや、ホントね。次の課長さんが長続きするといいなあと思ってね。すぐに辞めちゃうんだよ、あの役職に就くとさ。まあ~長続きしそうな感じもするんだけど」

 

「え、そんなに激務をこなせそうな人なんですか? 」

 

「そうだよ。だって小此木っていうんだから」

 

 「この辺の小此木っていったら、しぶとくてやり手で困るくらいでね」そう言うチーフは昔のことを思い出しているのか、ふいに視線を下げた。かなり思うところがありそうだ。

 幸枝は幸枝で"小此木"に思うことがある。それは世話になった医師の名前であり、今その名前が出てきたことに奇妙な縁を感じる。

 

「あの医療部門の小此木さんの息子だって話だから、電脳空間にも詳しいだろうし。前任よりもずっと長続きしそうでしょ? この春に異動してきたみたいだから、今度こっちにも挨拶に来るんじゃない? 」

 



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騒動は祭り囃子

 △月○日(日)

 今日、勇子が退院した。お義母さんのところなら、勇子も安心して暮らせるだろう。

ようやくだな、という感じがする。勇子はリハビリも頑張ってたし、日常生活に戻るのも遠くないと思っていたけど、あの年ごろにしては長い時間だったんじゃないかと思う。

 事故で意識を失って、それからここまで。長かった。勇子はまだ信彦が生きていると思っている。先生はメガマスに掛け合って信彦の体まで準備した。あれが良いことなのか私には判断がつかない。でも勇子は、勇子の記憶はそれで整合性がとれてる。いつか勇子が事実を受け入れられるまで、信彦はそこにいることになると思うと、やるせない気持ちになる。

 姉はいまだに眠ったり起きたりを繰り返している。少しずつ起きる時間は増えてきているらしい。まだ起きている姉に出会えてないけど、 どうしたら元に戻るんだろう……。元に、戻せるものなのだろうか? どうしたらいいんだろう。

 

・・・

・・

ダイチ 発毛ス

 

【メールが届きました】

 

 作業中のウィンドウに通知が来たのは昼頃だった。プライベートなメールに返信するのに、幸枝はそっと周囲を見渡す。分かっていたことだが、誰もが何事かに集中している。幸枝の動きに注目している人はいない。

 受信フォルダを開くと芳野からだ。個人的な用事でメールが来るのは珍しい。タイトルも無し、というのは彼の性格からすると本当に珍しい。疑問に思いながらもファイルを開く。

 

【動画を見て!】

 

 疑問に思いながらも、確かに添付されていた動画を開く。これがもしも芳野を騙った悪質なアソビなら、幸枝は渾身の力(この場合は職場の力も含む)をもって仕返しをする。それにこのメールアドレスは外部サイトに使っていないので、詐欺やウィルスの可能性も低い。

 短いロード画面の後に表示されたのは、ひげ面の人の様子だ。どうも盗撮らしく、見知らぬ顔の女性の視線がこちらを向くことはない。ひげ、である。大まじめな顔をした女性の顔にひげだ。

 それから急にぶれたカメラの視点は、他の人の顔に向く。それぞれの顔はやっぱりひげ面になっていて、しかしその顔に頓着した様子もない。

 

「・・・・・・なに? 」

 

【この動画はなんですか? 】

 

 メールに返信を書き込む。少なくとも女性がヒゲを生やした状態で街中を歩くなんて、"非常事態"ではないか。本人に気がついた様子もないのがさらに恐ろしい。多分、というよりこれは電脳体になんらかのバグが起きているのではないか。目に見えていたら、もっと早々に混乱が起きているはず。

 

【植村さんが撮ってきました。電脳体のバグらしいのですが、原因がわからなくて・・・・・・。ついでに植村さんもヒゲ顔になってます。】

 

 返信を読めば面白い。添付されているのはキメ顔の植村の顔だ。残念なことに顔の下半分にはヒゲが大量に生えている。それが妙にマッチしていて面白い。

 道を歩く多くの人たちは、電脳メガネをつけていない。多くの人にとってメガネは仕事の道具であって、常につけているのは子どもか職務的につけないといけない一部の人間だけだ。

 だから気がつかないのではないか。もしくは彼らのうちの誰かが、家や会社に行けば気がつくのかもしれない。時間の経過に比例してクレームが増えることだけは分かった。

 

 なら原因はなにか、そう考え始めた幸枝に新しいメールが届く。植村からだ。こちらもタイトルがなく、添付されているのは動画。サイズが大きくないから、ごくごく短い物だろう。

 

 

『ちょっと芳野、あなたまでヒゲが』

 

『んっふ』

 

『えっ、どういうことですか、ちょっと! 』

 

『わははは! 』

 

 飛び出してきたのは大きな笑い声と、ひげ面の芳野を写した動画である。それだけだ。松川さんが音声だけで出演しているし、植村は中学生のような笑い方をしている。

 植村の笑い声は耳障りだが、この短期間で芳野にまでヒゲが発生しているとなると伝染性が高いウィルスかもしれない。しかし松川さんが言及されていないとなると、彼女にはまだ伝染していない。もちろん彼らは電脳空間の知識があるから、うまく防衛するだろうけれど。

 

「・・・・・・どういう規準で伝染してる? 」

 

「なにこれ、また変なバグが流行ってるの? 」

 

 ぽろりと口から漏れたつぶやきを、これがなんとチーフが拾った。チーフは動画の笑い声のときから幸枝を見ており(これは幸枝の勤務態勢を問題視しているのではなく、自分が飽きたからこその行動)、静かに幸枝の後ろに移動していたのだ。他人の画面を勝手に覗くのはプライバシーに抵触するので良い行動ではないが、どっちもどっちなので幸枝は気にしないことにした。いや、少し気まずかったが、チーフの様子を見て気にしないことにした。

 しかしチーフの声を聞いて、作業に行き詰まっていた同僚たちはわらわらと興味を引かれてやってくる。おりしも昼が近くて集中力は低下を示す時間帯だ。「助かった」と言わんばかりに遠くの席からマグを片手にやってくる。

 

 幸枝が見ているのは最後のシーンだ。芳野が嫌がって顔を隠す、そこをストップして見ている。慌てて「ちょっと」と言いながら顔を隠そうとするところをアップで撮っているのだ。植村は鬼のような所行をしているが、この動画は参考になる。

 

「おれも見たい」

 

「これ、どういう原理でバグってるんだろうね」

 

「電脳ペットとかの毛髪モジュールとは違うっぽくね? 」

 

「電脳体特有のちらつきが少ないんだけど、これどこのカメラ? 」

 

「伝染性はやばくない? 」

 

「死んでもこれにかかりたくない・・・・・・、これバグ? ウィルス? 」

 

「アー・・・・・・、チーフ? 」

 

「かまわないよ。みんな休憩にしたい時間だろうし、どうせバグだ何だって空間管理局も忙しいだろうから助けてあげよっか」

 

 幸枝の背後に集まった人たちが好き勝手にしゃべるので、ちんぷんかんぷんだ。それぞれが好きな方向に思考を広げているし、事前情報も少ないから本当に好き勝手だ。

 チーフもチーフでこれを積極的に進めていく方向になったらしく、情報の提示をやんわりとお願いされる。メガマス研究課とは、かくもそういう集団なのだ。

 

 それでそれぞれに動画が2つ、写真が1枚送られる。芳野にはかわいそうなことをするが、メガマスの研究部門の一部が彼の動画を保有することになった。哀れである。

 町を歩く人たちのひげ面と芳野の様子、それに植村の写真だ。配られた途端にそれぞれの端末で再生され、比較・検分されていく。もはや幸枝の手を離れてしまった。

 

「面白いけどやっぱり実際に見ないとわかんないよね。ウィルスでしょ? バグにしては広範囲に広がりすぎだし」

 

「最近、電脳体に関するアップデートってありましたっけ? 誰か見ました-? 」

 

「空間管理局の? 近々大規模なアップデートが入りそうって噂しか知らないな-」

 

「全域で変更するならもっと通知が出てるんじゃない? 」

 

「やっぱり実物と生体関連データを見たいよね」

 

 もうどうにもならない。あっちもこっちも生き生きと動き始めたし、それぞれのデスクに戻ることなく好き勝手に集まって、自分の気になる輪に加わっている。チーフもマグを片手に動画を止めたり進めたり、じっと見ている。別の画面ではなんらかのログが動いているが、それがなんなのかは幸枝にはわからなかった。

 

「それで? 地村さんの考察は? 」

 

「・・・・・・2つめの動画での増加のスピードと範囲。それから電脳ペットの毛並みと比べて、毛髪系のモジュールではない事から、ヒゲのような"何か"ということしかわかりません。それと何らかの条件で伝染しています」

 

「チーフぅ! おれ、外行ってきていいっすか! 」

 

「ずるい・・・・・・、それはずるいとしか言えない」

 

「ログデータだけ送ってほーしーいーなー」

 

 盛り上がる彼ら彼女たちはすさまじい熱量だ。行き詰った試験勉強の最中に部屋掃除をしたくなるような、そういう感覚だろう。電脳空間の研究をすすめている彼らであるけれど、普段とは違うことをするのは楽しい。いつもとは違うパズルをいじるのにも似ているかもしれない。

 いつもよりも白熱しているのは、集団で取り組んでいるからだろうか。学校の教室を思わせる騒がしすらあった。チーフに向けられた要望もその延長のようなものだ。普段ならそう簡単に言わないような言葉を、今この瞬間になら言えた。それを許可するかどうかはチーフ次第であったし、チーフは責任者の権限を持つだけの落ち着きと経験があった。

 

「ま、明日だね。報告されたデータの解析は管理局から上がってくるだろうから、それまでは知り合いから集めたデータとかで我慢しな。上もそううるさくは言わないだろうし」

 

 鶴の一声ならぬチーフの一声である。先生に注意された小学生のように彼らは喜んだし、落ち込んだ。知り合いに情報を求めたり、あるいは内線をとったり、もしくは掲示板を漁ったりしている。

 まあ、こんな日常も悪くないなと幸枝は思う。好きなことをやるのは楽しいことだ。だから、幸枝は原因になった、あるいは被害者というべき芳野に連絡した。

 

【動画ありがとう。貴重なサンプルとして扱われることになりました。】

 

 返信は見ないことにした。ログデータは植村に請求することにするためにメールを書いて、それで幸枝はこの件には触れないことにした。興味がないわけではないけど、彼女がやりたいのはこういうことではなかったので。だから同僚たちの楽しそうな姿が、翌日には盛大な嘆きに変わっていて驚いた。

 

「そんな時限式の伝染ウィルスなんてあんのかよ! ていうか、電脳生物をウィルスに仕立て上げたのは結局誰だったんだよ! 」

 

 とは外に出たがっていた年下の男の言である。

 

 

・・・

・・

 

イサコの病室

 

 天沢のお義兄さんが入院したと聞いたのはつい先日のことだった。「大したことはないけれど、年齢のこともあるし入院することになった」と電話で話したお義姉さんの口ぶりは軽く、本当に笑い話のひとつとしているようだった。

 お義姉さんとは何度も電話で連絡をとりあっている。お義母さんにも連絡をとっているが、それよりも頻繁になってしまう。姉が入院して、それから勇子が引き取られてからは頻度が上がった。幸枝が連絡をすることもあれば、お義姉さんから連絡が来ることもある。それでちょっとした近況を報告し合うのだ。少しだけ"定型"とは言い難い形の家族だから、連絡を密にしていないと怖いのだ。

 

「勇子なんだけどね、こないだ浴衣を着せてあげたのよ。夏祭りに一緒に行く友達ができたのね。もう嬉しくってね。写真も何枚か撮ったから後で送っておくわ」

 

「嬉しいです! 勇子の浴衣姿、かわいかったでしょうね。見れなかったのが悔やまれます。……それにしても夏祭りに行くなんて、勇子も少しずつ変わってきてるんですね」

 

「そうねぇ。信彦君の病室に行くのは変わってないみたいだけど、やっぱり時間が解決していくものなのね。心配なところもあるけど、もうちょっと見守っていくのがいいのかもしれないわね」

 

「そうですね……、私もなんとか勇子に会いたいんですけど」

 

「勇子は頑なだものね。でも大人になったら分かるものよ。幸枝さんが何を思っているか見えてくるには、もう少し時間がかかるわねぇ」

 

 「そうですねえ、気長にいきます」と返事をしながら、顔に自嘲が上がってくるのが止められなかった。勇子は頑なに幸枝に会おうとしない。それが何故なのか幸枝には分かるような気がした。

時間がある時に見舞いに行くことを告げて、そのときは電話を切った。

 

 それから数日して病院に行くことを思い立った。とりわけ忙しい用事があるわけでもないし、天気もよくて良い日取りだった。病院はそう遠くない。車で15分かかる程度だろうか。手みやげに何を買うか迷ったが、先日なにかの折りに話題になった菓子屋で適当に見繕うことにした。義兄が食べなくとも同室の人たちに配るだろうし、お義姉さんが見つけて食べるかもしれない。

 信彦には花を持って行こう。もうずっと信彦の病室には花を持って行っている。そこに信彦はいないが、でも勇子にとっては「いる」ことになっている。なので、幸枝やおばの一家が見舞いに行かないのはおかしなことになってしまうのだ。幸枝は月に2度程度のお見舞いを続けていた。

 

 病院の中はいつでも同じ匂いがする。清潔な匂いというのか、消毒液の匂いというか。数年前にずっと通っていたから慣れたと思っていたが、久しぶりに本棟の中に入るといやに強く香った。

 受付で病室を聞き、エレベーターへと足を進める。ホールの中にざわざわと人が多い。年齢も性別も様々だし、来ている理由も様々だろう。なんだかそれが世界との断裂に感じられて、ひどく気持ちが落ち込んだ。

 

 義兄は本当に元気そうだった。「たいしたことはない」という義姉の言葉は全く正しかったらしい。菓子折も喜ばれた。お酒を控えるように指導されていて、最近は甘い物に目がないらしい。近況を話していると、勇子の話も聞けた。

 

「ああ、こないだの夏祭りはね。かわいらしかったよ。随分と急に言うもんだからね、ばたばたとしてしまったけど。勇子ね、ずーっと難しい顔をしててね、それが面白くってね。笑ったら悪いと思って耐えてたんだけど、家から出て行った途端に笑っちゃったよ。嫌とは言わなかったけど、出がけにちっちゃく"ありがとう"って言うからね」

 

 近頃は日が落ちきる頃に帰ってきて心配だとか、学校から帰ってすぐに外に出て行くこととか。休日は家にほぼいなくて、ご飯を食べても気がそぞろであるとか。そういう話を聞けた。

 

「幸枝さんはどう? やっぱり忙しいかい? 」

 

「まあ、そうですね。でも忙しいというのは繁盛してるってことですからね」

 

 当たり障りのない返事は、返答に苦しんだ結果だった。思っていることを全て人に伝えられるほど子どもではないし、共犯者になるほど近しい関係ではなかった。

 あれだけ頑なな勇子を育てている夫婦だから、やさしいし根気がある。幸枝のこともある程度わかっているようで、口元には小さな苦笑いが浮かんでいた。

 

「・・・・・・体はね、大事にした方がいいからね」

 

「そうですよねー。気をつけます」

 

 「じゃあこの辺でおいとましますね」と告げて席を外した。晴れていた空には少しずつ雲が流れてきているようだった。雨が降るほどではないが、日差しは随分と陰ってきた。今までの晴天が嘘のようである。

 

 それで幸枝は次の場所に足を運ぶ。一般の病棟とは離れた位置まで、そこそこの距離を歩く。病院にやってきて迷子になったとしても、ここまで来るのは難しい。探検でもしていればこの場所まで来る人もいるかもしれないが。

 中庭を横目に見ながら別棟に。だんだんと人の気配は少なくなり、病室の前につく頃には自分の息づかいが耳につくようになる。

 申し訳程度のノックと共に入室すれば、そこには物置のようなラックと投影された"信彦"がそこにいる。ご丁寧なことに信彦の姿は事故の後も成長している。両親の外見データから予測された姿を電脳体に反映させているのだ。時々、データをアップデートしているのだろう。どこで請け負っているのか分からないがご苦労なことだ。

 

 申し訳程度に置かれた病室っぽさ。小さな棚とイス。投影をきってしまえば、病室だなんて思いもしないだろう。勇子は心から信じているのだ。だからこんな部屋すら病室に思える。

 しなびた花を取り替えて、イスに腰かければため息も出る。掃除が行き届いているが、本当に物品の管理に使われているのだろうことが分かる。訪れる人がほとんどいないし、投影されている時間も決まっているだろう。ここに来る意味なんてないのだ。実際、義姉と義兄はこの病室にほとんど来ていないと聞いた。

 

「ずいぶんと色々なことがあったよ。イリーガルが空を飛んだり、電脳ペットの病気が流行ったり。勇子はね、こないだ友達と夏祭りに行ったって、」

 

 ここに来るたび、幸枝は沈んだ気持ちになる。今までの選択だとか、後悔だとか。そういうのを引っくるめて「上手くいかなかった」ことがどうにも胸をひっかくのだ。

 前と同じように見舞いをする。前と同じように話をする。変わったのは誰に向かって話をしているのか。ぽつぽつと、順序や内容を気にせずに思い出したことを口に出す。

 あとちょっとなのだ。もう少しで手が届く。証拠を手に入れてしまえば、あとは公にさらせばいい。そこも考えなくてはいけない。もう少し頑張ればいい。

 そうやって近頃のことや季節のこと、勇子のことを話しているとノック音がする。

 

「どうぞー」

 

 入ってきたのはやはり勇子だった。花束を持って、入室するのにためらいを感じているようだった。

 どうも気まずい表情でいるのは、幸枝と会うのが久しぶりのせいなのか、それとも他に理由があるのか。幸枝にはもう理由が分からない。

 

「久しぶり。元気そうだね」

 

「・・・久しぶり。オバさんも元気そうね」

 

「もちろん。夏祭りで浴衣を着たんだって? 写真が送られてきたよ。夏祭りはどうだった? 」

 

「・・・別に、普通」

 

「そう? 仲のいい友達ができたんじゃないの? いつも遊び歩いてるって聞いたけど」

 

 幸枝は1つしかないイスを譲るために立ち上がった。「まあ座んなよ」と声をかけて促すと、そろそろと足を動かして勇子はイスに腰を下ろした。イスをゆずった幸枝は立つしかないので、少し迷いながら壁に背中を預けることにした。ただ立つよりは体が楽かもしれない。

 勇子はその間も迷うような顔をしていた。数少ないながら、幸枝と顔を合わせたときの勇子はよくこういう表情をする。目線が動いて落ち着きがなく、指先がぎゅっと握りこまれて小さく顔をうつむかせる。最近の幸枝の記憶にある勇子の姿そのままだった。話したいことがあるのかもしれない。でも幸枝は「話したければ話す」と思っている。無理に話すのはきっと嫌だろう。

 

「そうでもないよ。そこそこつるむやつらが出来ただけ」

 

「そっか」

 

 質問に答えて、それで勇子はじっと信彦のことを見つめていた。

幸枝は退室するタイミングを計りきれていないし、勇子が退室する必要はない。会話を続けるには幸枝の話題は尽きていたし、勇子は口を開く気がないようだった。室内には機械が作動している低い音が満ちるばかりで、だんだんと居心地が悪くなってくる。自覚してしまえばあとは早くて、幸枝は勇子と会って嬉しい気持ちよりもずっと、勇子といるのが気まずかったのだと分かってしまった。どうしようもなさすぎて笑いすら湧かない。

 焦る必要はないのに勇子と同じように信彦の影を見つめながら、そっと幸枝は口を滑らせた。

 

「ねえ勇子、友達ができたんなら、そっちを優先しな。信彦のことは私が見ておくから大丈夫」

 

 目線を向けて目に入った勇子の顔に、幸枝は自分の失敗を悟った。なにをどう考えても、そんな顔を勇子にさせるつもりではなかった。そこまでに劇的な変化で背筋に冷や水を浴びるような、そんな感覚がした。

 

「なんで、オバさんにそんなこと言われなきゃいけないの…」

 

「勇子、気に障ったならごめん、でも…」

 

「オバさんにだけはそんなこと言われたくない! 」

 

 「もうすぐ叶うんだから!」そう言って、勇子は病室を駆け出ていく。

「やってしまった。」そればかりが胸の中でくるくると回る。ぐしゃぐしゃと頭をかきまわして、喉の奥からは呻き声が湧き出る。でもこの程度の感傷なんて些細なものだ。あんな、あんな表情の勇子を見てしまえば、自分がどれだけ勇子を傷つけたか分かるのだから。とてつもない罪悪感が幸枝の心のうちによぎる。

 勇子はくちびるを噛み締めて眉を下げて。怒るのではなくて悲しい顔をしていた。

 

「・・・・・・悪いね信彦。もうちょっと私たちに付き合ってよ」

 

・・・

・・

 

 side イサコ

 

 息が乱れる。100mよりもずっと短い距離を飛び出しただけだ。中庭に出ればすぐに人の目が気になって足をゆるめた。それでも心臓がばくばくと動いている。胸が苦しい。

 いつもと同じように兄の見舞いに来ただけだった。オバが兄の見舞いをしているのも知っていた。今までかちあわなかったのが珍しいだけで、いつ会ってもおかしくはなかった。それが突然だっただけだ。驚いただけだ。それだけなのだ。

 

(じゃあ、どうしてこんなに苦しいの)

 

 無性に兄の顔が見たかった。今戻ったところでオバがいるだろう。戻ることなんてできない。進むしかない。これまでの勇子がそうであったように、彼女は戻るという選択肢を選ばない。選ぶことができない。

 内心の感情を抑え込むように平常心に戻るように努力する。深い呼吸を繰り返せば、幾分かましになる。気持ちが落ち着けば周りを気にする余裕ができて、それまでに感じなかった視線を感じた。簡易的な偽装アクセスで近くの記録ログを漁ると、見知ったアドレスが近くを移動している。耳をすませば、確かに遠くない距離で急ぐ足音がする。

 もしかしたら自分の勘違いで、ただ誰かを探しているのかもしれない。でも、もしも自分を尾行していたのなら? この病院で見つけて、どこから尾けていた? 捨て置くには握られたくない情報を得られているかもしれない。それなら、カマをかけてでも聞き出す必要があった。

 中庭を突き抜けて本棟に向かう道からはぐれてやれば、彼女の行き先が分かる。もしも自分を追いかけてくるようなら、

 

「どういうつもりだ? さっきから、なぜ私をつける? 」

 

「あ、天沢さん…私、夢で、夢で見たの。それからデンスケ、一緒に探してくれて……。

いやだ私、わけのわからないこと言っているよね」

 

 驚いた顔で振り返った小此木優子は、それから立て板に水を流すように頭の中の情報を口から吐きだした。それは意味の通じるように整えられたものではない。本人の表情には必死さが浮かび、彼女がどういう意図で自分を追いかけて来たのかが分からなくなった。

 

「私……、私、もしかしたらあの人に出会っているの。あなたがいた"4423"っていう病室の男の人、」

 

「貴様! 一体どういうことだ!」

 

 バツが悪そうに、あせった顔で吐きだす言葉に勇子は反応せずにはいられなかった。小此木優子の胸倉を掴み、壁に押し付けて逃げられないようにした。抑えたはずの感情がボタンを弾き飛ばすようにして飛び出してくる。叫ぶように吐きだした。

 

「待って、」

 

「兄のことを、なぜ知っているんだ…!」

 

 曇り空だった空はついに耐え切れずにぽつぽつと雫を落としていく。雷が低く鳴りだし、すぐには止まないだろうことがうかがえた。コンクリートに雨粒が弾かれ、ぱちぱちと音を鳴らす。

 こらえられない興奮に息があがった勇子は、直後の小此木優子のつぶやきにはっと我を取り戻すことになる。

 

「──あに、? 」

 

 余計な情報を与えた。バツが悪くて小此木優子を開放して、表情を見られないように顔を背けた。小此木優子は何を知っている? なぜこのタイミングでここにいる? どうして?

 

「じゃあ"4423"ってあなたのお兄さんなのね。私、何年も前、小さい頃、あなたのお兄さんと会っているかもしれないの」

 

「……なんだと?」

 

「そこで何かが起きた。

 

──教えて。何があったの? あなたのお兄さんに」

 

 ざあざあと雨が降っている。

ともすれば小此木優子の声がかすれるほどの雨だ。

 勇子の声は静かに小此木優子の耳に届く。顔を背けて、雨の中でなお響く声。

 

「そんなに知りたいなら教えてやる。……でも、お前は信じない。きっと私がおかしなことを言っているとしか。

 私の兄は、戻れなくなったんだ。魂が電脳の体と共にあっちに行ったままだ。今も……」

 

 その声が震えていなかっただろうか。いつもと違う声でなかっただろうか。勇子は精一杯の努力で自分の心が言葉に乗らないように努力した。小此木優子がなにを思うかは分からない。得られた情報で何かが進むかもしれない。だが、だが。

 

「"あっち"って、都市伝説に出てくる…、そんな、でもそんなことって…」

 

「やはりな」

 

 「え? 」と聞き返す小此木優子に対して、もう慣れたはずの痛みを感じる。この人間も信じない。"見たことがある"と言った口で拒絶する。今までに何度も繰り返してきたことだ。たくさんの人たちに否定されてきた。話しを聞かれたから答えたのに、誰もがみんな「現実を見ろ」と言う。……一番初めに否定したのはあのオバだった。

 

「…思ったとおり、お前も大人たちと同じだな。ああ。お前の言う通り"都市伝説"さ。馬鹿馬鹿しい話しだろ。気が済んだか? 私がおかしな子だって分かって満足だろ? 満足したなら、もう二度と近づくな」

 

 馬鹿馬鹿しい。それこそ馬鹿馬鹿しいことだ。だって勇子は知っているのだ。これから兄が戻ってくることも、戻ってきてもらうためにしなくてはいけないことも。ほんの少し期待しただけだ。それがいつもと同じ結果になっただけだ。

 雨の中を進む。後ろで名前を呼ばれたところで何が変わるんだ。いつもと同じだ。靴に浸み込んでつま先が冷たい。振り返ってやる必要なんてない。体が冷えていく。雨の中を歩いているんだから当然だ。

 天沢勇子には進む以外の道がなかった。



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一手進める手

 ●月▼日(×)

 お義母さんは体の調子が悪いらしく、勇子はお義姉さんのところに引き取られることになった。・・・子どもを引き取れるような生活をしていないのは確かだけど、決定されたことを話される、というのにもやもやした。誰かを巻き込むつもりはないから、側に人がいない方がいいのは確かだけど、・・・・・・止めよう。私が勇子にしてあげられることはない。

 少しずつメガマスの社内の様子がわかってきた。ネットワーク内の情報も出来るだけ読んでいる。配属された研究課は面白いレポートをいくつも書いているし、上司にあたるチーフは人がいい。うまく人を回して目標を達成していっている。

 気になるのは、猫目さんの名前がほとんどないことだ。猫目さんは電脳空間の開発にかなり初期からかかわっているようだったし、随分と結果を出してきていたようなのに。

 どこにあるんだろうか。早く見つけたい

 

・・・

・・

 

最後の夏休み

 

 サーバーが低い音を上げている。夏も終わりに近づく頃だが、まだまだ気温は高い。サーバーの排熱のことを考えれば、室温は低い方がいい。もう随分と音には慣れたが、圧迫されるような存在感にはどうも慣れない。

 そろそろ小学校は夏休みも終わるころだ。勇子が小学校を卒業する日もそう遠くない。夏が来るたびに、天沢家のみんながそろった夏を思い出す。姉夫婦の仲のよさそうな様子も、信彦と勇子の楽しそうな時間も。もうどうやったって戻らないと分かっているからこそ、どうしても思い出しては悔いてしまう。「もっと自分にはできなことがあったんじゃないのか」そう思っては少しだけ具合が悪くなった。

 

 気持ちを入れ替えるように息をついて、上位アクセス権限で見てきた資料を思い出した。そこにはメガマスに調査を入れるには十分なだけのデータがあった。メガマスは研究機関として、十分な追跡調査も分析調査もしていたのだ。いや、それはメガマスというべきか、前身のコイルスが、というべきか。

 新しいものから遡るようにデータを調べているので、これが根本の部分にまでたどりつくには時間がかかる。それだけにもどかしくもあった。とにかく研究員もいれば、日々の業務・通信量も膨大なメガマスのデータは数えるのも嫌になるくらいだ。ソートをかけて必要そうなデータに絞ってもまだ時間がたりない。流し見程度で調査が入るに足りるデータが見えるのだから、推し量れるものもある。

 幸枝の問題としている電脳メガネのGPSと運転制御の件に関するデータはまだ見つかっていないが、これからの問題はこのデータをどこに叩きつけるか、である。外部メディアにデータを渡しただけでは握りつぶされる可能性が高い。なにせ、勇子が事故にあったときも、マスコミはメガマスの不祥事に喜んで飛びついたものの、その続報にまではたどりつかなかった。話題の大きさにしては不自然なほどに早く鎮火したといっていい。メガマスが半官半営の組織だと考えれば政府内部からの圧力かもしれないし、メガマス自体がかなりの資金を回しているのだから迂遠に圧力をかけるのは難しくない。そうなると権力に押しつぶされず、金銭的な脅しに屈しないだけの告発先が必要になる。

 

「メガマスの外部監査なんて動いてないようなものだし……、」

 

 取り合えずでも、調べてみないとわからないことだ。少なくとも今までの幸枝はそこまで調べてこなかった。そこに必要な人脈を築いてこなかったのは単純なミスだった。それだけ必死だったともいえるが、メガマスに執着しすぎていたかもしれない。手元にデータがそろい始めてそう思った。

 

 思考に支配された手足をもたもたと動かしながら出社をすれば、運が自分に向いているのではないかと、そう思えるような予定があった。

【大黒市空間管理局 訪問】

 目に見えない神を罵ることはあっても、感謝するのは初めてかもしれない。もしかしたら、小此木医師の息子さんが来るかもしれないし、そうでなくても話を聞くことはできる。それとなく外部監査の状況を聞くことくらいはできるだろう。もしかしたらメガマスに怪しまれるかもしれないが、もうここまできたら走り抜けるしかないのだ。ちょっとくらい動きにくくなったところでどうとでもなる。

 

「おはようございます。幸枝さん、チーフが呼んでました」

 

「チーフが? 」

 

 デスクについて、声をかけられて流石に不思議に思う。こんなに早くチーフが来ているのも、幸枝が呼ばれる理由も思い浮かばないからだ。まあでも呼ばれているなら行かなくてはならないだろう。始業の準備に、鞄から出したペンケースにメモ用のノート、野菜ジュースにお茶の入ったペットボトル。鞄をイスにひっかければそれで終わりだ。

 チーフの席は入り口から見て右奥に壁で仕切られている。平の職員がパーテーションで軽く区切られているのに比べると、いい扱いだろう。人によってはパーテーションの中がぐちゃぐちゃになるが、チーフもこの系統が強い。

 ノックをして一声かけてドアを開ける。広めの空間のはずだが、壁には付箋やメモが貼られており、さながら星座のようである。

 

「チーフ? 地村です。お呼びと聞きましたが」

 

「あ、早かったね。呼び出して悪いね、ちょっとお願いがあってさ」

 

 どうも生返事を返してしまうのは、壁のメモを少し読んでしまったからだし、今までにない雰囲気を感じたからでもある。【電脳体とデバイスのシンクロ度】【電脳体の構成要素】【電脳生物と電脳体の違いとは】

 

「たいしたことではないんだけどね、今日の予定に管理局の訪問があったでしょ? あれ、地村さんも同席してもらえないかと思って」

 

「え、私がですか? 」

 

 というのも、空間管理局とのやりとりはいつもチーフと数人がやりとりをするのだが、幸枝が入ったことは一度もなかったからだ。メガマスに入社して以来一度も。

 同席するのはその時によって様々だが、その時々の問題によって詳しい人間がつくらしい。それくらいの情報と状況は分かっていた。幸枝のここでの業務といえば電脳ペットの情報を詳しくしていくのと、それぞれのデータをまとめ直したり、チームに加わって検証実験をやったりする程度だ。電脳ペットの大きな問題というのはなかったし、空間管理局で管理・対処できる範囲にしかならないのだ。なにせ数が少ない上に、構成データが大きくない。

 

「そう。どうもこのところはイリーガルが多いでしょ? イリーガルを研究しているやつをつけるんだけどさ、イリガールって性質的には電脳ペットから遠くないからね、一応入ってもらおうかと思って」

 

「お力になれるとは思いませんけど、了解しました」

 

「急でごめんね。13時半に第三ミーティングルームに集合。資料は必要ない。あー、忘れちゃならないのは電脳メガネね」

 

 指折り数えながら「これくらいかな」と呟いているチーフはいつも通りだ。でも幸枝には表現しにくい違和感を感じていた。電脳ペットもイリーガルも確かに似ている。イリーガルの調査内容と電脳ペットの性質レポートは確かに似通っている部分がある。しかし、イリガールは意図的に作れるものではない。それから電脳ペットに繋がるものとは? なんだ?

 

「うん、多分大丈夫でしょ。時間どおりによろしくね。遅れてくる人って結構いるんだ。……自分がなんで呼ばれるのか、って顔してるけどさ。こないだのヒゲ騒動の時の予想が的確だったからだよ」

 

「アー……、ありがとうございます。遅れないようにしますね…」

 

 少しバツの悪い気持ちでチーフの元を辞去してからは普段と変わらない一日である。会社に慣れてきた新人に聞かれた質問に答え続けたり、情報源にアクセスしやすい方法や、ビックデータといっていいほどの大量のデータの捌き方やレポートの添削。幸枝が一日で最もやる作業はレポートや書類の添削作業だ。内容についての是非はわからないが、文章のつながりや研究者以外に「伝わる」がどうかが重要なので、一度は他人に読んでもらう必要のある書類が与えられる。幸枝は客員として研究をしているが、一番初めに与えられたのがそういった仕事だったのだ。それが今まで引き継がれている。それをどうも思いもしない。一番初めに読めることを喜んですらいるのだから。

 ぼちぼち仕事をこなしていれば時間はあっという間だ。年を追うごとに体感時間は短くなっていく。急いでいるつもりでも時間は走り去っていく。こういう時にパーテーションは邪魔で、周りの様子がうかがいにくい。イリーガルを研究している人間──当麻という──の位置はそう遠くないが、どう過ごしているのかが分からない。時刻は予定時間の10分前だし、そろそろ動き出してもいい頃合いだ。チーフはどうだろうか。普段どれくらいの時間に移動しているのかもわからないし、聞いておけばよかったと後悔した。

 当麻の席を覗いていなければ急げばいいし、いるなら声をかけて一緒に行けばいいか。そう決めて当麻の席に足を運んだ。そこでは当麻がすやすやと眠っているではないか。昼休みは13時までだが、研究職のありがちで熱中して遅くまで残る人もいるので、その関係で眠っているのかもしれない。かもしれない。幸枝は天を仰いだ。チーフの言い分は正しかった。でも他人のこんな様子を見たくはなかった。

 

「アー……、当麻さん。当麻さーん、そろそろ時間なんですけどー」

 

 デスクに突っ伏して寝る当麻のイスの背を揺らしてやる。簡単に起きないのはなぜなのだ。どこまで深く眠っているのだ。声をかけながらもっとゆすれば徐々に覚醒していく。ぼんやりと顔を上げた当麻であるので、それに声をかければ慌てたように顔を擦りながら立ち上がった。

 

「すいません!」

 

 フロア全体に響くような声だった。幸枝はまた天を仰ぐことになった。これは恥ずかしい。流石に立ち上がれば頭はパーテーションからはみ出る。何人かがうかがうようにこちらを覗いているのが見えた。わかる。私もきっと気になるから。

 

「そろそろ約束の時間じゃないですか? 」

 

「ああー、そうですね。そうでした。すいません、地村さん。……今日って地村さんも出席するんですか? 」

 

「そうみたいですね。チーフには今日の朝、聞いたばかりなのでなんの準備もできていないんですけど」

 

「準備なんていらないんですよ! でも地村さんは珍しいですね。まあ俺も呼ばれるのは今年に入ってからですけど。地村さんと一緒のときでよかったです…遅れなくて済んで、本当に良かった…・・・」

 

 目的地に促しながら、ぼちぼち歩いているときの会話である。どうも昨日は遅くまでネット上のイリーガルの情報を収集していたらしい。それらとメガマスに寄せられた情報をすり合わせて、実際にはどのように動いていたのかを検証するのが目的だったらしい。

 

「地村さんってこういうの興味あります? 」

 

 話題に出てきたイリーガルの関連で出てきたサイトだという。どうにも個人がつくっているようなのだが、その内容が個人だけのものとするなら「かなり」のものらしい。タイトルは、

 

「"怪奇クラブ"? 」

 

「はい。実体はほぼ電脳に関係するオカルト掲示板です。これがまた小中学生くらいのコメントが多くて面白いんですよ」

 

「これ、誰が管理してるんですかね? 噂の書き込み速度がすごいですけど」

 

「そうなんですよー。今年に入ってから見始めたんですけど、やっぱり子どもたちのネットワークってすごいですよ」

 

 話している間にミーティングルームに着く。微妙に他の部署から遠くて使いにくい場所だ。普段からここを使っているらしく、当麻は当然のように入っていく。

 中にいるのはチーフと、それと知らない顔の人が二人。時間には間に合ったが、先方より先にはつかなかったらしい。どうもこういうとき、あんまりいい気のしない小市民なところが幸枝にはあった。定期的にやっている打ち合わせらしく、顔なじみの相手で時間もたいして気にしていないのは雰囲気で分かっているのだが。

 

「じゃあ、今回のメンバーがそろいましたので、新顔の紹介をしておきますね」

 

 一番初めに雑談に興じていたチーフが、その延長という感じで幸枝を紹介する。電脳ペットに造詣があること、イリガールと電脳ペットの類似性。ヒントになるかもしれないので、ということ。それに軽く目礼をして、幸枝は席に着いた。当麻は当然と言った顔で座っていた。

 そして幸枝は二人を指し示される。向かって左側が空間管理局職員で、右側の人が小此木という名の空間管理局室長だった。

 

「「よろしくおねがいします」」

 

 それぞれが挨拶すれば、それから議題のような世間話ような体で最近の問題とアドバイスを求められる。やっぱりそつなく答えるのはチーフで、当麻も専門のイリーガルについてはいくらか答えた。分かっていたことだが、幸枝が答えられることは多くない。答えられることがあっても、それは当麻が答えるべきことだ。

 やはり、というべきか。専門分野で呼ぶだけあって、近頃の問題はイリーガルの出現が大きいらしい。今までもちらほらと見つかってきたが、今年に限っては比較にならないほどなのだとか。それに伴って、小中学生の危険なメガネの使い方も相まってクレームがとんでもないらしい。

 

 イリーガルの急増の話、識別アドレスの不足の話、新しいバージョンに強制アップデートする話。話題は尽きることがないし、小此木さんは半ば愚痴になりかけている。それでも共有されるウィンドウには必要なデータがアップされ、それぞれが必要そうな情報を追加していっているので、これがこの人の働き方なのだろう。

 時々によって、幸枝や研究員に与えられる期限付きの調査はここが出所だったらしい。当麻は興味よりも面倒くささが勝つようで、それが表情に現れていた。どうにも子どもっぽいところのある人間だ。

 会話の内容は電脳空間の話は落ち着いて、今はチーフと小此木室長の世間話が主だ。幸枝たちがたどり着く前から電脳空間の話しをしていたようだし、おおよそのことは終わったらしい。ここまでで小一時間だ。そんなに時間がたったように感じないのは、その内容が興味深かったからだろうか。さっきまでは小此木室長が娘たちの成長と父親の悲しみを語っていたものだが、今度のチーフの話はなかなか面白い。

 

「そういえば前ね、路地で面白い子たちを見てね。なんていうかさ、その時はぼく、メガネをかけてなくてね。近所の喫茶店で本でも読もうと思ってたからさ。でね、その子。険しい顔でいきなりおデコにチョキを当てたわけ」

 

 中々に出だしからパンチがある。ただ、小此木室長は顔をひきつらせたようだ。当麻ももう一人の職員もうんうんと頷いているだけなのに、だ。

 

「あ、適当に作った話だと思ってる? 残念だけど本当なんだよね。多分だけど、電脳メガネがあればモーションで発動するなんかだったんだろうね」

 

 それに内容も興味深い。モーションで電脳空間にアクションをかける、というのは電話の機能に近い。しかし、それを実装している機能はそう多くないはずだ。それなら、それは野良で作られたプログラムで管理局からすれば取り締まりの対象になるのではないだろうか。そもそも、それは合法なのか? 違法なパッチでも当てているのでは?

 

「いやー、そうだよね。きっと違法なパッチを当ててるんだろうけどね。それってすごい楽しそうじゃない? 今の子たち特有の楽しみと冒険だよ。ぼくたちはそういうのが大好きだったじゃない? それってすごくいいな、と思ってさ。でも今日の強制アップデートでそういうのも消えちゃうよね」

 

 それがすごく残念でさ、と続くチーフの言葉に顔色を変えているのは小此木室長だ。チーフは何かを知っていて、この話題を出してきたらしい。小此木室長も心当たりがあるのだろうね。分かりやすい顔色だった。それに興味を示さない当麻と職員もなかなか面白いが。毎度のことなのかもしれない。

 

「アー、チーフすいません。今日の強制アップデートって言ってましたけど、それって事前告知はありました? 」

 

 そうなのだ。幸枝はそっちの方が気になっていた。幸枝が覚えている限りではそのようなことは予定されていなかった。メガマス内ですら置いてけぼりにして、強硬に強制アップデートなんて行われるのだろうか。

 

「古い空間が出やすい地域の、一部の住人にだけお知らせが送られてるよ。やるのもそこだけ。そこで試運転をして、全域に強制アップデートがかかるわけ。今度はすごいよ。本当に強制アップデートさ。さっきの話しの子たち、新型オートマトンにメガネの違法パッチを焼かれちゃうんじゃないかな」

 

 チーフの回答で今日の会はひと段落となったらしい。青い顔の小此木室長に、しらっとしたままの空間管理局職員(幸枝は名前を聞いたところで、緊急度が低いとすべて忘れてしまう)、それに飽きた様子の当麻といつも通りのチーフ。それぞれが荷物をまとめたり、雑談を続けたりしながら少しずつ戸に向かっていく。

 

「あ、地村さん、下まで送ってきてもらっていい? 」

 

「わかりました」

 

「佐脇さんいいですよ!? 」

 

「まあまあ、今日はあんまり地村さんが会話に入らなかったでしょう? そういうのも含めて今日は送られてくださいよ」

 

 そういうものなのかは知らないが、その後もチーフと小此木室長はなんやかんやとやりあってチーフが勝ったらしい。疲れた表情でなぜか幸枝に頭を下げる様子が哀れだった。しかもどこか慣れたところがあるので、幸枝の知らないところで苦労が絶えないのかもしれない。そもそも空間管理局もそういう面があった。

 送るといったところで、空間管理局の二人は慣れているから道案内もいらない。チーフの意図が計りかねたが、幸枝にはありがたい。小此木室長と話してみたいことがあったのだ。

 雑談の中で気取られないように話題を滑りこませた。

 

「昔、メガマス病院で小此木先生という方にお世話になったのですが、お知り合いですか? 」



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このてんびんは、

 ◇月○日(▲)

 仕事が増えていく。できることが増えていく。

近頃は街中のエラーが尋常じゃなく多いことがわかってきた。こんなことは大黒市特有のことらしい。他の自治体から視察にきた職員のひとりがそう言っていた。たしかに子どもがサッチーと追いかけっこをしている姿を見たことがある。そういう下地のある地域なのかもしれない。仕事としてはエラーの原因を追及していくことがだけど、それ以外にも修復を請け負うこともあった。それは空間管理局の仕事なのではないのか、と思う気もしたが手が回らないらしい。大黒市は一定の周期でバグが増えるとチーフが言っていた。古い空間が多いというのも原因のひとつだ、と。それと大黒市には一定の周期でエラーが多い年があるらしい。理由はまだ解明されていないが、人的なものと自然発生的なものが組み合わさっている、とも。それから、大黒市の電脳空間はデータが層になっているようだとも、チーフが話したことだ。

 ……メガマスの、年上の社員から意味深な目線を向けられるのが苦痛だ。はやく、証拠となりうるデータを得てしまいたい。きっと、事故以外にもたくさんの雑な対応があるはず……。

 姉はずっと眠っている。並んだ数値の基準は分からないが、医師の話では健康値らしい。だけど起きない。もしも、小此木先生が生きていらっしゃったなら、姉も治療してもらえただろうか。

 

・・・

・・

 

異界への扉

 

「小此木……宏文でしたら、私の父ですが」

 

 小此木医師と顔見知りであると話すと、小此木室長の態度が柔らかくなったように感じた。どうやら小此木医師とは親類であるどころか親子であるという。そんな偶然があるのか。驚きながらも、当時の会社で電脳ペットを受注しました、という話をすると今度は小此木さんが目を瞬かせる。

 

「デンスケは……、ああ。地村さんのところから来た電脳ペットの名前なんですけどね。うちの娘達の面倒をよくみてくれて、本当に助かっているんです」

 

 会社を去り際に、小此木室長とは連絡先を交換した。この後は金沢に出張があるとかで長い話はできなかったけれど、先のことを考えれば十分だろう。印象も悪くないはずだ。

 メガマスの正面口から、ゆっくりと研究フロアに戻る。メガマスの社内は広く、いくつものブースに分かれている。ただ、どのフロアにも電脳生物がいくらかいる。電脳生物が人の電脳体をすりぬけることはないが、メガネが無いと見えないので人々の反応は様々だ。視線をやって避ける人、撫でるしぐさをする人、デバイスの電源が切れていて電脳生物が慌てて避ける様子。それが面白くて、好きで、幸枝が見たかった未来の姿だった。

 

 きな臭くなったのはその後だ。どうも市内の特定の場所で障害が起きているらしい。幸枝が自分の座席に戻ると、フロア全体に落ち着きがない。どうにも空間管理局が全面的に保全するはずが、メガマスにも状況やデータが送られてきているらしい。なぜか。

 

「あー、またこの現象? 去年に引き続き、今年も随分と起きるね」

 

 チーフが一声かけて数人がデータの解析に回り出す。どうも何度かあることらしい。らしいが、幸枝がそれを知ったのは今回がはじめてだ。

 

「なーんとかして今回は原因までたどり着きたいところだけども……」

 

「いやー、チーフが入ってくれたら進むと思うんですよ! 」

 

 「君たちの仕事を渡そうとしないでくれる? 」なんて会話をしながら彼らは忙しそうに動き出した。

 休憩から戻ってきたらしい同僚のひとりが、幸枝の後ろから漏らすように話しかけてきた。

 

「ありゃ、珍しいね。幸枝さんとか聞くの初めてじゃない? ていうか、この件を大っぴらにしてるのが珍しいか」

 

「この件って、なんのことです? 」

 

「電脳空間の因子不明のバグの発生のことだよ。今までのバグはなんだかんだ言って解決してきたけど、これだけは違う。なんらかの恣意的な目的をもったバグで、定期的に起こってるみたいよ。おれも詳しくはないけど、分野によっては時々はなしを聞かれたりするみたいだね」

 

「……他の職員から聞いたこともないですけど」

 

 肩をすくめながら手に持ったマグカップからコーヒーをすすっている。幸枝が一度も聞いたことのない話しだ。

それに今まで見てきたメガマスの記録の中にも、大きく取り上げられているような問題でもない。おかしなことだ。定期的に起きて、交通障害にまで発展するのなら"普通"はきちんとした対策がとられるはずだ。それがずっと続いているうえに、資料がサーバーに上がっていない?

 

「そりゃあそうだ! メガマスとしては大っぴらにしたくない情報だろうね、人の口に戸は建てられないから。……ここだけの話だけどね、この件に関しては結構ナイーブなんだよ。言いたかないけど、なんだかんだいって派閥争いがあるからね。うちもチーフがトップじゃなきゃもっとギスギスしてたろうね」

 

「派閥? ……入ってからこっち、そんなの感じたことがないですけど」

 

「うそ!? 地村さんってば鈍くない? 旧コイルス派と、吸収合併後のメガマス派の話は有名よ。まー、そんなんだからチーフもそっとしてたのかもねー」

 

 そっと小さな声で告げてきた派閥の件に、幸枝は今まで見てこなかったものを知った。確かにこれだけ大きな組織が業績によって吸収合併されたのだから、派閥ができても不思議ではないだろう。そういうものが存在するのは分かっても、幸枝には派閥をつくることにまでは理解が及ばない。彼女にはそういう考えが心底分からない。

 

「まあでも、ここでオープンにして進めていく気になったってことでしょ。それならきっと、この問題もそう遠くないうちに解決するんじゃないの? 」

 

「そういうものですかね? 」

 

 「チーフの判断は確かだって地村さんも知ってるでしょ」控えめとはいえない笑い声を上げながら、彼は自分のデスクへ戻っていく。釈然としない幸枝をその場に残して。

 しかし、幸枝もそのままではいられない。できるなら、この問題をできるだけ詳細に知りたい。何が起きているのか。以前にも起きた時には何が起きたのか。この問題の原因は? その要求は好奇心から起きているものではなかった。まるで突き動かされるような、見えないものに背中を押されているような感覚だ。

 チーフに話しかけようと足を向けたときには、一本の電話が届いていた。コール音は本人にしか聞こえない、電脳メガネの基本的な機能のそれは現状が思わしくないことを伝えてくるものだった。

 

『佐脇君かい? 空間管理局から報告が上がってきてるかもしれないけどね、どうも電脳空間に穴が空いたみたいだよ』

 

「……、空間に穴? 」

 

 とんとん。チーフがペンの先をこめかみに当てている。周りにいた人たちも一様に動きを止めたため、フロアから音がほとんど消えてしまった。息を飲んで電話の先を気にしているようでもある。

 

「どういうことです? 私のところに来た話しでは、交通に不具合を起こすバグらしき動きがあるということだけですが? 」

 

『誰からの報告かわからないけどね、空間管理局も後手後手に回ってるらしいわ。どうも周辺の交通系システムにエラーが出てる。しかも大規模すぎて、"落ちてる"ことくらいしか分からない』

 

「それならそうとデータをよこしてもらいたいものですね」

 

『まあねえ、研究課に何とかしてもらうのは割とあるもんね。……うちの筋からはさっさと対応してもらえ、ってことでの連絡ね。データはこっちで抑えてる分は送るけど、どこまで役に立つかはわからんわ』

 

「えぇ、対応に当たらせてもらいます。はい。では結果がまとまり次第、折り返し連絡さしてもらいます」

 

 詰めてた息が自然とこぼれるように、張っていた糸がゆるんだようだ。自然と周りの音も戻ってくる。電話を気にしていた同僚たちは、チーフの指示を気にしてその場に棒立ちだ。それをよそに、チーフは手元の資料の裏に何事かをメモしている。

 

「……大黒市内で電脳空間の穴が観測されたらしい。空管理監理局は観測して、急いでサッチーを向かわせてるらしいがどうも処理が追いついていないらしい」

 

「は? なんのための空間管理局なんですか? 」

 

「まあ、これだけ突発的で広範囲なものだから? 」

 

 どうやら手元の資料には簡易的な地図と、それに障害が起きている範囲や穴の位置を記しているらしい。なぜ電子データで送られてこないのだろうか。それも不具合の一つなのか。

 

「全くねぇ。優秀だと仕事をどんどん任されて困っちゃうよ。周辺の電脳空間もいかれちゃってるから、おおよそのマッピングしかできないみたいでね。空間管理局も手を焼いてるみたいよ。復元はあっちに任せて、こっちは原因の特定にとりあえず動けって方針みたいよ、っと」

 

 それからの動きといったら、普段ののんびりしたチーフからは考えられないくらいあっという間だった。役割分担は的確で迷いがないし、割り振られた職員も心得たように仕事に当たっていく。周辺情報をピックアップしたモニターが新たに現れて、担当と情報のリンクが明示されている。どうやら専用の共有ネットワークも用意されたようだ。

 役割がない者たちはそれぞれの業務だ。それで、幸枝はというと。

 

「おー、地村さんもついにコッチのメンバー入りだね、ありがたいわ。チーフ、周辺の電脳ペットの収集を任せていいですか? メモリーから情報を吸い上げておけば、原因の特定に役立つと思いますし」

 

「いいねー。じゃあその方向で行こう」

 

 今までに全く触れてこなかった仕事に、とうとうたどり着くことになった。今までの仕事とは違って、この件は速度が重要になる。

 目まぐるしく点滅し、出現と消滅を繰り返す複数のモニター。会話をしながらも、手が止まらない職員の数々。今まで知ることのなかった一面だ。データ不足だったマップがだんだんと情報で埋められていく。調査結果がリンクで繋がっていき、個人の調査内容を繋いで次の調査を行う人もいる。統括画面は徐々に埋まっていき、原因はわからないものの現時点で事故などが起きていないことは明らかになっていく。

 おかしくなった電脳空間は、丸々一つの区画ほどもあった。GPSとセンサーは生きていたようなので交通事故までは起きないだろうが、早期の解決は求められる。そもそも研究課では回復までは行わないので、幸枝

 幸枝はそれで、自分の専門である電脳ペット、あるいは電脳生物の情報をひたすら洗っていた。そう難しくない作業だが、なにせ量がすさまじい。ペット用のメモリーは常に更新がなされているので、該当の区画に存在していればフィードバッグエラーが出るのだ。そういう個体をひたすら選んで、発生時間前後のメモリーをコピーコピーコピー。その繰り返しである。

 電脳ペットは値段と比例してメモリーの機能が増強される。現状で最もハイクラスの電脳ペットは、動画メモリーも残すので尋常じゃないデータ容量だ。だからこそ、そこに要因が映っていれば確実な情報になる。

 しかし、だからといってデータをコピーするだけなら幸枝はいらないだろう。電脳ペットの性質をつかって、できうる限りの情報収集をせよと言われているのだ。電脳ペットの性質と言えば、それは――

 

「電脳体への反応、とくに電脳メガネを装着した人に反応すること」

 

 電脳ペットは人に反応するようにできている。ペットという役割を持っているからか、彼らは電脳メガネを装着していない人にも反応するのだ。埋まっていく地図を見ながら、中心地点を割り出す。なんでもいい、近くに違法処理されていないペットマトンの1体がいればいいのだ。そうすれば視覚カメラから捉えたメモリーを発掘することができる。勝手に一地区が機能不全になるようなバグが起きるのは奇跡的な可能性だ。かならずきっかけになった何かがあるはず。

 メモリーのコピーをオートアシストに設定して、地図近辺で購入登録されている電脳ペットのデータを引き出しにかかった。

 

(今回の事件はおかしい。過去に前例のある大規模なバグ、修正しきれない古い空間。理由は分からないがチャンスでもある。秘密に触れることができるかもしれない)

 

 

 

side:小此木室長

 

 地村幸枝という人は、少し不思議な人だった。

どうも親父の知り合いということで、それを知って話しかけてきたらしい。「あの時は本当にお世話になりました」と言われたけれども、わたしの記憶に彼女は残っていなかった。お袋ならまだ覚えていたのかもしれないが、ここのところ記憶が怪しいので聞いても分からなかったかもしれない。

 口ぶりは普通だ。業務の内容もおかしなところはない。でも、どうも引っかかる部分がある。彼女の話しによると、デンスケのマトンは親父が彼女に特注したとか。随分と親しくしていたらしい。親父は電脳医療にかける熱量は大したものだったから、お眼鏡に適ったとなればそれなりの腕前なんだろう。

 メガマス本社を出て社用車に乗ると、助手席の同僚がぽつりとこぼした。今まではどうにか我慢していたけれど、やっぱり我慢できないといった体だ。

 

「地村さんは……、メガマスに恨みがあると一部に思われています。

あと、メガマスに業務契約で出向していて、本来は別会社の社員です。籍もまだそっちにあるはずです。腕は良いようですけど、あまり話にはなりません」

 

「……なぜです? メガマス社内で派閥があるのはわかりますが、地村さんだけが恨みを、となると聞いたことがありません」

 

「……メガマスとコイルスの確執ではなくて、彼女の場合は個人的なものだからです。なんでも……、親戚の誰かがメガネの動作不良で亡くなられたとか。詳しい話はわかりませんが、事故の直後からメガマスへの出向を希望したそうです」

 

 駐車場をゆるやかに出ていく。地下に設けられたここは、広々としていて困ることはないが、長居したい場所でもない。彼は前方を見据えたまましゃべり続ける。まるでそこに用意された文章を読み上げているようだ。

 

「メガマスの中でも彼女に対する評価は割れます。馬鹿なやつだと笑う人もいれば、怪しい女を雇う理由が分からないと言う人もいます。知識と腕を買っている人たちは、彼女の関心の高さを評価していますし……」

 

「なかなか評価の分かれる人なのはわかりましたけど。どうしてそのお話をわたしに?」

 

「あまりよいことではないとは、思いますが。メガマスで働いていた時には、地村さんに助けてもらったことがありまして……。色々と陰口をたたかれたり、余計の仕事を回されたりしていましたので、あまり課長には誤解してほしくないなと思いまして」

 

 ちかちかと歩行者用信号が青から赤に変わるのを視界にいれて、ゆっくりとブレーキを踏みながらちらりと視線を動かしてみる。恥ずかしそうに顔をゆがめてるもんだから、これが青春かー、などとおっさんらしい思考にとらわれた。

 

「なるほどー? なるほどねー」

 

「課長、そういうのはもう古いんで……やめていただいて……。それに、そういう気持ちではありません」

 

 「あ、そう?」と軽く返したものの、古いと言われたことにどぎまぎしてしまう。こういうのが優子にも鬱陶しがられる原因なのかもな、なんて頭によぎった。昔はなんだって喜んでくれてたもんだけど、少しずつ好き嫌いが難しくなってきたもんなあ。

 一度切り替わったら軽い内容の会話が続く。メガマスの中で見聞きしたことを話題にすれば、あっちは元メガマス社員として分かることを教えてくれるし、どこが変わったかも分かってくる。以前よりもメガマスは建て増しが増えているし、サーバーの強化かなにかで電脳体のホログラムは鮮明になったし、電脳生物の種類もかなり増えたそうだ。そうやって会話を続けているうちに駐車場だ。楽しい会話は時間を縮めるもんだ。

 

 それにしても、と思う。

メガマス本社で会った研究課の佐脇さん。彼の協力のおかげで監査のための資料が集まりつつある。佐脇さんは今日の打ち合わせで「あんまり激しく動くと、痛くもない腹を探られて面倒になるんですよね」と言っていた。データの扱い方には注意をしろ、とも。

 本データの受け渡しには地村さんを、と言っていたが帰るまでに動きがなかった。ということは、まだ時期尚早と判断したのかもしれない。地村さんはそれらしい素振りをしなかったし、話から不思議な縁があるものだと思ったりもした。その後は現同僚からは地村さんの話を聞くことができた。一体どんな偶然を重ねたらこんなことが起きるんだ。

 それに地村さんは確かにメガマスで働くには不自然な人だ。恨みを持って働いているなら告発や訴訟が目的だろう。でも疑われたり陰口を言われるだけで、5年も真面目に働いている。それとも……、そうするしかないのか。

 なんにせよこの件は難しい話だ。

派閥・権力・名誉に金。組織を正しく保つというのも難しいのだろう。だが半官半民の、もはやインフラのひとつになった技術を持った組織がそれでは駄目だ。うやむやにすることなく、どうにかして白日の下にさらさなくてはならない。

 この後の出張が本当に面倒だ。旧コイルスの支部があった場所とはいえ、調査のために大黒市を離れるのは心配が大きい。空間管理局の管理職としても重荷だけど、電脳空間の度重なるバグやエラーが人為的に起こされているなら、原因を捕まえないことにはどうにもならない。ぼくが大黒市を離れている間に、フォローできないほどのなにかが起きないことを願うしかない。

 でも進んでいるのも確かだ。きちんと準備を進めよう。裏付けと証拠を確かに、調べたり確かめたり、まとめたり。そんなことばっかりやってるなあ。

 

 しかし、メガマスの中で派閥争いをやっているのはどんな連中なんだか。



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あなたに触れる権利

 ■月△日(◎)

 事故の件を調べているうちに、件数が奇妙なグラフを描いていることに気が付いた。・・・今まではデータのサルベージと記録を行うばかりで気が付けなかった・・・。

 大黒市の電脳空間にはたしかに妙なゆらぎが存在している。決まった場所に、特定の時間に「古い空間」が顔をだしている。まるで約束の時間に現れているようだ。それともプログラムを作った人間の意志なのか。調べてみようにも実地調査は難しい。他の報告書なんかを流し見して、なにか掴めたりしないだろうか。メガマスはこの空間のせいでバグが出ると考えているのかもしれない。

 それと猫目主任の息子さんに会った。私は面識がなかったはずだが、彼は私の顔を知っていた。外部保存かアーカイブか、それともメガマスの知り合いから指示を受けたのか。彼は「メガマスが憎くありませんか」と言った。「準備のために地村さんの力が必要です」と言った。変だと思って少しだけ調べてみた。まあ、調べたといっても、彼が「どの入口から入って誰と会ったのか」をさらっただけだ。そうしたら彼が会ったのはあのいけ好かない連中の一人だ。嫌になる。明日にはお断りの話しをしよう。いや、もう少し話して、詳しいことを聞けたりしないか?

 それにしても何をしようっていうんだろう。本当にいやだ。

 

・・・

・・

 

黒い訪問者

 

 朝から続いていたデータの収集はようやく落ち着きを見せていた。時刻はそろそろ2時を回る頃だ。空間管理局の尽力、もとい面目躍如といったところかもしれない。ぼろぼろになっていた電脳空間は平時と同じに戻っている。GPSは問題なくネットワークと同期しており、事故が起こる可能性も限りなく低い。研究課のフロアも一息ついたといったところで、緊張感は薄れきっている。

 

「・・・・・・結局、このバグの原因ってなんだったわけ? 」

 

 穏やかなフロアにぽっつりと落とされた誰かの声が総員の意見といっていいだろう。今回のバグには、研究フロアのほとんどが駆り出された。それだけの人数がそれぞれが情報収集をした結果、結論として出されたのは「人為的なイレギュラーである」ということだ。

 ご丁寧に犯人はどのカメラからも消えているし、映っていない。痕跡も丁寧なほどに削除されている。しかし、あまりにきれいなのだ。きれいすぎるほどバグが無い地点、そこが起点になっただろうと考えられた。

 

「いやー、今回はこれで収まったけどね。この先はまだわかんないからね、もうちょっと注意しといてよ。空間管理局の領分だけど、こっちに回ってくるのが目に見えてるからね」

 

 マグカップを片手に参加者に言うチーフは堂々としたものだ。しかし聞き捨てならないのは、まだこの件が続くかもしれないということだ。たしかに今年の妙なバグを考えれば、大規模な障害がまた起きてもおかしくもないかもしれない。しかし、ここまで大規模な障害が何度も起きるというのは、設計のミスや対策について疑われてしまうのではないだろうか。というか、メガマスの上層部はクレームの処理をどうこなしているのだろうか。

 

「うげー、まだこんなのが続くんですか? 去年もあったから今年は大丈夫だと思ったのに・・・・・・。こんなの何度もやってられませんよ」

 

「まあ、予想だから。去年もでかいのが最後にあってそれで終わったでしょう。今年のバグの量だと、これで終わらないような気がしてね」

 

「・・・・・・たしかに・・・」

 

 話しを聞いていた数人は力強く頷く。今年は例年になくバグが多い。バグの周期もこまめで多い。幸枝は解決に動くことはほとんどないが、今年が異常だというのは話を聞いているだけで分かる。昨年は秋頃にひとりの女の子が交通事故で亡くなった。その時期あたりが一番、バグが頻発していたように思い出された。

 

「アー、ああ。朗報ですね。空間管理局もとりあえずの処理が終わったようですよ。犯人探しまでいけるかわかりませんけど、今日も電脳空間の安全とバックアップがうまくいったようです」

 

 チーフのメガネに連絡が入ったようだった。内容に心底安堵したような吐息が混じる。そこかしこで犯人について話し合っていたメンバーや、実際に自分ならどんな手段で大規模通信障害を起こすか、などについて話していたメンバーがチーフを向く。

 

「さて、みなさん。もう少しだけ退勤時間までありますけどね。今日は業務外の仕事も頑張りましたし、中途半端な時間でもあるので・・・・・・

犯人のプロファイルをやってみたいと思うのですがどうでしょうか」

 

 「ああ、もちろん自分のお仕事を優先したい人はそっちをやってもらって結構です」チーフの付け足しに被さるように、メンバー達は喜びの声を上げたのだった。なぜって、それは楽しそうだからに決まっている。

私たちは楽しいことが大好きなのだ。そして、この人為的なバグに対する興味も大変あった。わいわいと会話をするメンバーと、共有される複数の画面。意見をはさみながら、空間管理局のサーバーにプログラムをひとつしかけた。

 

 

 

 夕暮れがいっとう赤くなる頃、ようやく家に帰り着いた。同僚達の意見や観測データの見方も興味深かった。自分とは分野の違う視点は、電脳空間というひとつに集約されると面白さが重なっていく。楽しい時間はあっという間だった。

 扉を一枚くぐればどの季節でも一定に設定された温度が肌になじむ。一般的な住宅、性別や年齢を加味した平均と幸枝の家を比べれば、幸枝の家は極端にものが少ない。余暇はすべてメガマスのデータ漁りに使われる。だから余分なものが一切ない。

 その代わり、あまり見慣れないものが部屋に置かれている。箱型の、企業でしか見ないサイズのーーサーバーだ。幸枝は慣れたように部屋を横切って据え置きのPCデスクの前に座った。この部屋にはそれ以外のイスが準備されていない。

 鞄は適当に床に放ってパソコンの電源をつけた。真っ暗な画面に一瞬だけ、ひどく疲れた女の顔が映りこむ。酷い顔だ。メガネを外して眉間のあたりを指先でマッサージする。酷使された目がひどく痛んだ。眼精疲労とは随分と慣れ親しんできたが、ここ数年は頭痛も一緒にやってくるようになっていた。

 体のコンディションはよくないが、それでも幸枝はご機嫌だった。ようやく、待望の上位権限を得られたのだ。管理者と同程度の閲覧権限だ。今まで見られなかったファイルも見ることができる。

 今年の急進展具合というのはすさまじい。今までの進展のなさが嘘のように、権限を手に入れ、新たなデータを確認することができた。物事がすごい勢いで移り変わっている。

 

 それでも、気を抜いてはいけない。

まだ気を抜く時期ではない。焦ってはならない。

 

 慎重に自分のアクセスログが残らないように目を滑らせていく。今までは見られなかった別の課のデータ、研究資料。それから上層部の会議ログ。たしかに閲覧できるデータが増えていた。

 大量の文字を認識してデータのより分けを行うのに、相当な時間がかかる。自分専用のAIを作り出して選別させれば、あるいは時間の節約ができたかもしれないが、精度の高いAIを作るには幸枝の技術がたりなかったし、データ容量の積み重ねもたりなかった。この経験から分かったのは、旧コイルスの電脳ペットに乗せる疑似人格AIは相当なものだということである。

 

 さて、嬉しいことにメガマスは電脳管理局の上位組織として存在する。今日のどたばたの後始末でおおわらわな電脳管理局だ。多少の荒さがあっても今日中にデータを吸い上げてしまえば誰かに気が付かれることもないだろう。

 どれからやろうか。悩む部分はあるが、電脳管理局のデータをある程度吸い出した方が後から困らないはずだ。それに、空間管理局の誰かがサーバーのプログラムに気が付くかもしれない。その前にさっさと動いてしまった方がいいだろう。

 

 電脳メガネは確かに優れているが、機体としてパーツが限られる分のスペックの劣りはある。物理的に存在するキーボードを叩きながら、リンクをたどっていく。電脳管理局の管理サーバーまでたどり着くのにそう時間はかからなかった。

 

 カチ、カチとマウスをクリックする音とサーバーの排気音だけが部屋に満ちている。時々、上階か横の部屋から足音や生活の音がわずかに響いた。幸枝の息づかいは静かすぎた。

 

「これは・・・・・・?」

 

 幸枝がその報告データにたどり着いたのは夕食時を少しすぎた頃だろう。過去に起きた大規模なバグの記録と追跡調査の資料だ。データの作成者はなんとチーフである。閲覧して表れたのは大量の数字だ。しかし系統だててきちんと説明文が添えられている。座標を示す数字と地図、バグの種類を表す数字と発見から修正にまでかかった時間。そして、イリーガルの発生量と電脳空間のバグの数をまとめたグラフ。

 

「・・・・・・イリーガルの出現と電脳空間のバグの発生には関連がある・・・・・・?」

 

 少なくとも昨年の時点でのチーフはそのように考えているようだった。デスクに肘をついて考えをまとめようとする。しかし、疲れた頭ではどうにも考えがまとまらない。イリーガルの研究資料は今までにも見てきたが、因果関係が逆のように感じられた。バグ空間があるから、そこからイリーガルが表れる。そのように感じていたのだが。

 

「わからないな・・・・・・。直接聞いてみないとわからないけど、聞くのもおかしいだろうし・・・・・・」

 

 背もたれに体重をかけると、いやに音が大きく感じられた。

さすがに空間管理局のデータまで見漁っているのは、会社勤めのーーとりわけ、出向社員として働いている幸枝にはおかしいだろう。やれるとしたら他の資料と併せて考えたり想像したりだけだ。

 それにしても、チーフは課の垣根を越えた仕事をしている気がする。今回の昼もそうだが、空間管理局から申し込みを上が受理していないだろうに行動している。縦割りの会社としてはよろしくないのではないだろうか。

 そして、もう一つ分かったことがある。

今までたくさんの資料を幸枝は閲覧してきた。どれも旧コイルスの核心に触れるものはなかった。虫食いだらけの欲しいページが抜けた資料、保存ファイルから消えた特定の年月。取り繕った場所もあれば、取り繕いきれていないところもある。簡単に眺めただけでもわかる程度には"消されている"のだ。メガマスに残された資料は完全とはほど遠く、しかも資料は故意に紛失したものとしか考えられなかった。

 

 いったい誰がこんなことをしたのか。

幸枝には信じがたい暴挙だ。技術の継承が行われず、その結果としてなにが起きるか分からないほど子どもじゃないだろう。人が豊かに暮らすために電脳技術は発展してきたのだ。技術にはメリットもデメリットも必ず存在する。それをどうして。

 ・・・・・・利権と金だ。

欲に目がくらんで使う人のことまで考えられていない。だからこんなに歪んだことになる。法整備も準備も、社内の中ですら話題に上がることは少ない。健康上の問題も少なからず話題にされていたのに、問題の解決について行われた会議ログはわずかだった。

 

 猫目主任の息子の言葉が思い出された。「メガマスに恨みはないか」と問われた。幸枝は言葉が上手い方ではないし、取り繕うにも限度があったので丁寧にお断りをしたが、彼らはなにをしようとしていたのだろうか。 それも、猫目主任の息子なんていう年若い人間を矢面に立たせてまで。そんな、くだらないもののために電脳技術が使われるべきなのだろうか。それとも幸枝の価値観ではそうなだけで、一般的には利権と金のために技術を扱うの普通なのだろうか。疲労が原因ではない頭痛が増したような気がする。

 

 物理PCではなく電脳メガネに赤色のアラートが走ったのはその直後だった。アラートは空管理局に紐付けたプログラム。案の定、というか早かったというか。チーフの言葉を聞いて即席で作ったにしてはいい仕事をする。昼間の自分の行動に賞賛を送りたいぐらいだった。

 

『住居空間にバグの発生:住所の演算 推定範囲・・・・・・』

 

 

カンナとヤサコ

 

 急いで空間管理局の該当部分にアクセスする。空間管理局はメガマスの下部組織だけれど、だからといって上位権限で自由にしていい場所でもないので気を使う。

 どうにもログを見ている限りでは、管理局自体が決定した行動をしているわけではないらしい。アクセスログを見ても、空間管理局の物理PCにログインしている人はいない。

 電脳空間にエラーやバグが起きれば、迅速な対処を求められるのが空間管理局だ。人でやりきれない部分を補うAIや疑似パッチが普段から飛び交っているのに、外部アクセスからもほとんど見られていない。となると、空間管理局の人員は昼間の件で随分と疲れているのかもしれない。

 サッチーの出動記録を見れば、たしかになんらの行動をおこしている。その行動ログを見る限りでは、きちんとバグがあった地点に向かっている。と、いうよりもこれは?

 

「原川・・・・・・? 女子高生を起用したっていう、あの? 」

 

 彼女のアクセスもおかしな位置からだ。サッチーを出動させたアクセス履歴もおかしい。未成年を使うだけあって優秀で、情報を書き換えているのかもしれないが。

 それにしたって住宅街、それも民家に入った後からの情報がおかしいのだ。書き換えるにしたってもっと上手くやるだろう。というより、文字化けがひどいか、情報が少なすぎるかのどちらかだ。文字列を追うだけでは現状が全く分からない。

 でも、彼らが電脳空間で形を得ているのなら目を借りることができる。ログでも構わないのだが、ログは一定期間後に情報を軽くしてまとめられるので、今は少し時間が惜しい状況だ。

 

 サッチーの視覚情報保存エリアまでのルートは尋常じゃなくめんどうだった。サッチーの個体認証パスやバックドアを知っていればもっと簡単にアクセスができただろう。あるいは空間管理局の管理者コードがあれば

 しかし、幸枝はどれも持っていないのだからしらみつぶしに当たるしかない。時間がかかればかかるほど気が焦る。空間管理局の中からのアクセスなのにアクセスログを残さないように動くために、余計に時間と手間がかかるのだ。それでもたどり着けないわけじゃない。

 

 サッチーの視覚から見えたのは、普通の民家に沸き上がる無数のイリーガルだった。

 

「どういうこと・・・・・・? 今までの記録から見ても一般の民家に表れるなんて珍し、」

 

 タマと呼ばれたサッチーの視界のありとあらゆるところから、滲むように出てくる黒い影は出来の悪い映画か悪夢のようだ。幸枝の頭の中にある報告ログと比べても、イリーガルがここまで発生していることはない。それにイリーガルと一言で言っても様々な形をもっているのに、ここに表れているのは人型ばかりだ。

 こうして思考を走らせることはできても、現場にいない幸枝にはこれ以上にできることはない。現場にいたとしても、必要な処理をしてきていないのだから出来ることはないだろう。

 

 ・・・・・・見ていることしかできない。

 

 幸枝にできるのは、この状態を記録することだけだ。もしもサッチーがバグやなにかに巻き込まれたとしても、ログが失われることがないように細工をする。もしかしたら、それがなんらかの助けになるかもしれない。

 観察を打ち切り、情報の取得を優先する。サッチーの記録領域にアクセスする。記憶能力の上書きだ。動画をスライスしたような最小領域の視覚情報をまるごと動画形式にする。もちろん記録領域を著しく圧迫するだろう。緊急措置として圧縮されないようにそっちにも手を回す。動画の重さであれば1週間だって保存できるだろうが、それでもやっておいて損はないだろう。

 作業途中で現場の原川が異変に気が付く可能性もある。本来的な権限でいえば原川の方が上だ。もしも気づかれたら逆探知されることもあった。だが、今回の件では現場の緊急性でカバーされたようだった。メガネに映る状態は惨状といっても過言ではない。電脳メガネに慣れた少年少女であればトラウマになってもおかしくない。しかも、理解のない大人にはなにも理解してもらえない。電脳メガネを常にしていなければ、同じものを見ることは出来ない。見えないものは理解してもらいにくい。

 しかし、話しを聞く限りではイリーガルに触れられた少女の電脳体が「アッチ」に行ったという。どういうことだ。

 

 さすがに記憶領域の強化を勝手にやっては足が着くか、と思い立ってログを書き換える。今日の昼、空間の修復の途中で記録用に強化をした、ということにしておく。適当な人間のアクセスログをコピペして張り付けをする。許可も適当な権限を持っているような人物から降りたことにすれば、表面上は業務で必要だから拡張したということになる。これ以上のことは幸枝にはできない。

 

「・・・・・・記録は私ももらう、から」

 

 もしかしたら誰かが気が付くかもしれない。

原川が、気が付いたならどうするだろうか。いぶかしむだろうか。消してしまうだろうか。それとも上司に素直に報告するだろうか。あの状態からして彼女の独断で行動しているようだから、それはないような気もする。

 見ているだけなら映画と一緒だ。娯楽とかわらない。私に何も出来ないなら、自分の出来ることをやるべきだ。

 私にはなにもできない。

振り切るようにウィンドウを閉じようとした視界に、最後に映ったのは通路。

 

「ーーこれは、? 大黒市の古い空間にはまだなにかある・・・・・・? 」

 

 調べなくてはいけないことが増えた。

電脳空間の性質には不明な点が多い。ログやデータの統計だけでなく、もっと根本的な部分へのアクセスが必要だ。あふれかえるバグをつぶす対症療法でなく、根本的な治療が必要なのだ。

 メガマスは何を恐れているんだろうか。不思議とそんな考えが思い浮かぶ。怪物みたいなものだと思っていた。形のない気味の悪い群体のように見えていた。でも、少しだけ形が違って見える。どうやら不安定な場所の上に立っているのはお互い様のようだった。

 私になにが出来るんだろうか。

まだまだ夜は長い。このバグからして、簡単に収まるとも思えない。それに今夜からアップデート2.0が始まる。これが大黒市の古い空間にどんな影響を与えるというのか。

 

 眠れない夜はまだはじまったばかりだ。



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異変

 ■月△日(◎)

 ようやく権限を与えられるようになった。長かった。今までの時間に比べれば、この数週間はとんとん拍子に進んだようにすら思える。

 「コイルス」の研究データをようやく見れる。また膨大な研究の中から該当のデータを探し出さなくてはならない。勃発的なエラーの情報だとか、古い空間に関するレポートはあるだけあったほうがいい。メガマスとのやり方の差が分かれば、それも証拠の一つになるはずだ。

 勇子が大黒市に引っ越してきて、転校してうまくやれているらしい。お義姉さんは「いつも遊び歩いて、家になんてほとんどいないんだから」と言っていた。こっちでは友達ができたみたいだ。少しずつでいいから信彦のことを思い出にできればいいけど。……無理だろうな。目で見えるところに信彦がいるんだから。

 どうしたら。最善というのはどういうものなんだろう……

 

・・・

・・

 

黒いオートマトン

 

 朝のオフィス、ぼちぼちと人が集まって締切が近い人は始業前から動いたりもするが、そうでもない人たちはだらだらとおしゃべりをしている。コーヒーや朝ご飯のサンドイッチをつまんでる人もよく見る。

 今朝の話題の中心は「小学校の臨時移転先として、ビルの高層階というのはどうなのか」ということだ。幸枝は事前にメガマス内の関連データを漁っていたときに知ったが、事前連絡の際にはかなり意見が上がってきたらしい。授業の内容や、通学、施設費用も含めてメガマスが負担することでまとまった、というから何か裏がありそうな話ではある。ので、その裏ってなんだろうか、というのが話のタネだ。もちろん、話している人たちの中には自分の子どもが小学校に実際に通っているのだから笑い話にもならない。

 

「しっかし、ビルの上の方に小学校を入れてしまうなんて、本当に"普通"ではやらないことをメガマスはよくやりますよね」

 

「ねぇ。ちょっとびっくりするくらいだもんね」

 

「うちの子は喜んでましたよ、きっと眺めがいいって」

 

 そんな話しをしていた。幸枝もコーヒーを飲みながら輪の端っこにいたのだが、脳内で動いていたのは小学校の移転場所よりは昨日の動きのことだ。あれからできる限り優先データの読み込み、コピー、確認をしていた。過剰な情報のインプットで頭痛がひどい。寝たのも2時間程度で、業務に支障がでないように最低限だ。だから、昨日の夜の動きがどのように終息したのかもわからない。そこまで手が回っていないのだ。メガマスのこの時間で話題になっていないということは、誰かが緊急で呼び出しをくらうことはなかったのだろう。少なくとも、空間管理局で処理をしきることができたと推測できる。

 

 冒頭の、ポチと名付けられたサッチーが動いている様子は確認できた。どうも古い空間が開いたのは小此木さんのお宅のようで、なんとも因縁の感じられ出現パターンだ。偶然にしては小此木さん一家が関わりすぎているようにも感じるが、なにか原因があるのだろうか。

 発生時刻から見始めて、保存画質を向上させる前の記録を見ているとどうも気になることがいくつか出てくる。小此木一家のこともそうだが、フミエと呼ばれている少女も含めて使っている改造ソフトの存在だ。電脳空間に異物を召喚したり、まあキューちゃんに攻撃するのであればまだプログラム内容として想像がつく。しかしあの札、電脳空間自体に作用するプログラムが組み込まれているようだった。いったいどうやって作っているのだろうか。サガというべきか、幸枝はとにかくそういったことに興味を引かれやすかった。

 

 もしもこの時に、幸枝が昨日の記録をすべて確認していたのなら、ここまでゆっくりとすごしていなかっただろう。だが、幸枝の能力ではこれが限界であり、彼女でなくてもすべてを一人でこなすことは不可能なことだった。

 しかし物事は常に起こり続けて、人は選択をし続ける。

天沢勇子が明け方にした決断が、後にどんな事態を引き起こすのか知る由もない。旧コイルスの執着を幸枝は知らないでいる。だから幸枝は後悔をし続ける。いつも一歩足りず、後手後手になる。

 

 

 

 日常は何気なく過ぎていく。

今日は昨日より収穫があった。情報の確認を職場でするほど肝が据わっていないので、幸枝は就業時間がはやく終わるように祈るような気持ちすらあった。家に帰れば、時間があればもっと資料を探すことができる。決定的な証拠をデータで残している可能性は低いが、それでも事実を隠ぺいしていたことは1つの証左だ。

 ああ、でも。気分がいいから、そろそろ「信彦」と姉さんの見舞いに行こうか。いい報告ができるはずだから。喜んでくれるだろうか。意識もまばらな姉と、意識も体もない信彦。報告するにはとびきり向いていないかもしれないが、決意を新たにするなら心ひとつあればいい。

 

 いそいそと退勤の準備をする幸枝を見て、同僚たちは顔を見合わせた。これまで退勤時間を喜んで迎える幸枝はかなり珍しかったからだ。幸枝に聞こえない程度に「珍しいね」「なにがあるんだろうね」なんておしゃべりをしていた。

 退勤の合図が出たら、幸枝はすぐに自分のデスクを離れた。かるく挨拶をしてまっすぐに自家用車に向かった。今は誰にも止められたくなかったし、就業時間すぐだったから社員は忙しそうにするばかりで幸枝に目を向ける者はわずかであった。

 

 久しぶりに会うような気のする姉は、随分と顔色が良くなって会話が成り立つところまで来ていた。どうもここ数日で一気に快方に向かっている、とは看護師さんからの話である。このまま経過が良好であれば、今年度中には退院することもできるということだった。姉は順調に自分の心を向き合っているという。やっぱり眠りに落ちている時間が長くなってしまうこともあるが、それも眠れないよりはよいことだと話された。

 見舞いの花を1つ花瓶に生けた。

姉が私を認識して話しかけるのも久しぶりのことだった。会話をきちんとできるのがこんなに嬉しいことだなんて、今までの私は思いもしなかっただろう。

 

「ねえ、ユキちゃん。……ごめんね」

 

「気にしなくていいよ、家族でしょ」

 

「――でもね、大変だったでしょう。私も、勇子も」

 

 目を伏せる姉に「そんなことないよ」と返したけれど、どことなく薄っぺらい響きがした。医師に気持ちが上下しすぎるような会話を避けるように言われていたので、幸枝はちょっとしたことにも気を使わなくてはいけなくて、それが少し難しかった。無難な会話をするには家族というのは距離が近い。

 

「姉さんはね、まずは退院できるのが目標だよ。それ以外は片付けるから気にしないでいいよ。なんかあったら連絡するし」

 

 窓際に立って目を合わせた姉の頬のラインが、あまりに柔らかさを欠いていて泣きそうな気持ちになった。本当にずっとこんなふうに話していたなかった。また話せてよかった。信彦のことを忘れられないのは幸枝も一緒なのだ。

 幸子は気まずげに頷いて幸枝の言葉に了承を返した。自分でもわかっているのだ。体が動かなければなにもできないことは。しかし、心がはやってどうにかして動きたいとも思う。今までの無気力な悲しみが、とって変わったように焦りがあった。

 

「……ありがとう。ねぇ、勇子は? 元気にしてる?」

 

「勇子はね、今は大黒市の小学校に通ってて友達もできたみたいだよ。休日もずっと遊びに行ってるって」

 

 「そう」とほっとしたように息をつく幸子だが、まだ心配の色が強い。それを見て経過が安定していることを幸枝はつくづく理解できた。今までのように過度に激昂することもなく、悲しみや怒りといった激しさが落ち着いている。久しぶりの見舞いになったが、近頃はカウンセリングなどの関係で会うのが難しいこともあったため、安心もひとしおだった。ただ、幸子は諸々の理由で、まだ勇子に直接会うことができないというのが気がかりだった。

 

「それじゃあね、また来るから」

 

 他愛ない会話を重ねて、その日はそれで帰ることにした。まだあまり負担をかけるような会話をするべきではないし、長話しすぎるのもよくないだろう。幸子も幸枝のことをわかっているし、忙しいだろうこともよくわかっている。忙しい中、自分の見舞いを欠かさず来てくれる気持ちも、なんとなくわかっていた。花瓶の中にいつだって咲いている花が答えだった。

 

 幸枝の見舞いは幸子で終わりではない。いつもどおり、信彦の見舞いもするつもりだった。一般病棟から特別病棟へ、勇子のための部屋に向かう。

 幸子の見舞いが久しぶり、ということは信彦の見舞いも久しぶりになるのだ。いつも一緒に見舞いをすることにしていたし、同じ病院にいるのだからそう手間もない。かつこつと進むうちに、今日は勇子と顔を合わせなければいいな、と少し思う。以前にここで顔を合わせた際には喧嘩別れになったものだし、その後に仲直りもなにも出来ていないので顔合わせが気まずいのだ。

 会いたくないわけではない。だけれど、会ったところでどう話せばいいかわからない。それが幸枝の素直な気持ちにあたる。

 

 運良くというべきか、道中で勇子に会うことはなかった。目的地が見えたあたりでほっと胸をなでおろす。安心と同時に、自分の情けなさがこたえた。

 夏とはいえ、日差しが大分傾いてきている。廊下に長い影が伸びていて、信彦や勇子と遊んだときはこのくらいの時間に帰ることにしていたな、なんてことを思い出す。

 

「――は、?」

 

 思わず間抜けな声が出たのは、思い出から急速に現実に戻されたからだ。いつもと同じ場所、同じ部屋だ。なのに部屋番号がなくなっている。焦って病室に入れば、そこには精巧なホログラムの影も形もない。むしろ倉庫としての運用が色濃く出ている。明かりの一切ない部屋、今までなかった用具も詰め込まれて用途として正しく使われている。

 

(いつから……、ここは病室ではなく倉庫になっているんだろう)

(勇子はこの状態を知っているんだろうか)

 

 ひんやりとした汗が手のひらを濡らしている。心臓の音が耳元でうるさい。どうしたらいい。まずは天沢の家に確認だろうか。私に連絡が来ていなくても、天沢の家になら連絡が来ている可能性がある。「信彦」は勇子の医療用デバイスの1つという認識だから、治療の経過によってはなくなることもある。だから、勇子の状態がよくなって「信彦」は消えたのかもしれない。

 

 でも、と。1つ前の季節の勇子の状態を思い出す。あれはそんな状態ではなかった。まだ受け入れるだけの心の準備ができていなかったはずだ。……もしかしたら、幸子のように急激な回復があったのかもしれない。でもそれなら、天沢の家から少なくとも連絡はくるだろう。

 どうしてこうなった? 何が起きている? 誰がこれを決めた?

 ……どうして私は肝心なことを何も知らない。メガマスという会社の中で働いて、核心にも近づいてきたのに大切なことはなにも分かっていない。

 

 私は、どうしたらいいんだろう

 私はなにをしたらいいの

 

「……連絡、しなきゃ」

 

 手の中の花束が折れる。まだ、まだだと自分を叱咤する。勘違いならいい、私だけが知らないのならいい。でも今折れて、最悪の状態に繋がるのなら、それは正さなくてはならない。まだ分からない。まだ分からないのなら、ここで止まっている暇なんてない。なにかしなくてはならない。何もしないでいれば何も変わらない。でも、もがいたら何かが変わるかもしれない。諦めるにはまだ早い。



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これが報いか

 新しい話です。
お気に入り、評価をいただきありがとうございます。
あともう少しお付き合いください。


 ×月◆日(〇)

 久しぶりに昔の夢を見た。

 勇子と信彦と、姉さんたちがまだ元気な頃で。夏にふたりの遊び相手になって、アイスを買いに行った。暑い日だった。泣いたり笑ったり、姉さんに怒られたりしている二人。姉さんたち夫婦と一緒に飲んだ発泡酒の味。広い家の中をみんなで掃除をした。

 懐かしかった。もう絶対に戻ってこない光景だ。これが本当の「夢」っていうやつだ。

 …ごまかすには鮮明すぎた。

 

 

 

 

最後のコイル

 

 どうして、血縁であるはずの幸枝に連絡がこないのだろうか。幸枝は保護者でも親権者でもないからだろう。しかし、幸枝がメガマスの本社で働いているのに、連絡のひとつもよこさないなんて普通あり得るのだろうか。人身事故を起こすような件の、被害者家族に対する扱いとしてはいささか雑ではないか。

 天沢家には連絡が来ていたらしい。電話で確認したところ、「専門用語が多くて難しい説明だったけど、信彦の病室は引き上げるということは言っていたよ」ということだった。

 だけど、と幸枝は思う。天沢家の義夫婦は信彦と勇子の状態について、さほど詳しくない。説明の内容を聞いて「難しい」と言ったことからして、電話の相手は彼らに対しての説明の義務を怠っているだろう。彼らの中ではもう「信彦」は死んだ甥だ。聞けば勇子はやはり様子がおかしいらしい。落ち着きがなくなり、食事の量も減っているそうだ。原因は明らかだろう。それで、どうして問い合わせのひとつでもしてくれないんだろう。

 

 思考に沈んでいた意識を会話に戻す。今は珍しく出向元の会社で必要な書類を提出しているところだった。松川は幸枝が提出した書類をチェックしているところだ。

 

「お姉さんの容体はどう? 」

 

「もうかなり調子がいいみたいです。退院も遠くないだろうという話しをもらいましたし。カウンセリングなんかをはさんでて……、日常生活に戻れるのも遠くないみたいです」

 

「よかったわねぇ」

 

「えぇ、おかげさまで」

 

(誰に、相談できるというんだろう)

 

 幸枝の心に思い浮かぶのはこれからのことだ。勇子のことも、メガマスのことも。幸枝ひとりだけで対応するにはもう限界が見えていた。だが幸枝には頼れる人にあてがなかった。勇子のことは天沢家に任せるしかなかったし、メガマスを訴えるには致命的なデータが足りず、監査を頼むには伝手がない。幸枝にできるのは、そういった伝手を探しながらさらに証拠を集めることだけ。

 メガマスに向かう車の中、ふと思いつく。

 

 ――メガマスは古い空間を消さないのではなく、「消せないのではないか」と。

 

 メガマスの資料、つい先日の最新フォーマットの結果。研究に当てられている人員の割合。公共ドメインに文化局、建設局も含めてアップデートを幾度もかけている。それなのに古い空間は消えない。減ってはいるが、時間が経過するにつれて増えることすらある。表面に塗ったメッキがはがれて顔を出すかのように。

 古い空間のデメリットはいくつかある。現状の対応ソフトで反応しきれないことや、GPSの反応もにぶいこと。それから、――工夫がききすぎてしまうこと。管理する側としてはこれが一番やりにくい。

 だから、メガマス側もこれをなんとかしたいはずだ。

 

 でも、なぜ消しきれないのか。実際、今の状態でも運営できているわけだから、無理に消す必要はないはずだ。

 頭の中で今まで閲覧してきたデータを思い返す。しかし、それだけで理由はわからない。消えない理由も、無理にでも消してしまいたい理由も。

 メガネからデータフォルダにアクセスする。とくに隠してもいない幸枝の今までの研究成果の集積だ。そこには今まで引き受けた仕事の資料もある。思い出すのはコイルス時代に会話をした猫目主任、それから小此木医師と井戸端会議的に得た少しの資料。ぱらぱらと流し見をしていくうちに、ネットで目にした噂話も思い出す。

 

「イマーゴ機能、じゃないか…? 」

 

 古い空間ではイマーゴ機能が反映されるようになっている? 今の空間ではそれが働かない? そういえば進行形で研究されている内容にイマーゴ機能に該当するようなものはなかった。研究自体が破棄されるまでの結果がもう出ているんだろうか。眉唾ものだと思っていたけれど、猫目主任がイマーゴ機能に言及していたのだから、コイルスでは周知されていたはずだ。聞くだけで便利な機能なのに引継ぎがされないということは、それなりのデメリットや危険性が見つかったのだろう。

 メガマスが空間のアップデートを繰り返している、ということはイマーゴ機能自体を失わせることはできなかったのだろう。だから、次善策としての空間の上書き。どこの部署が担当しているんだ?

 小此木医師からもらった電脳心療治療の資料だが、安全性と一緒に試験的な治療であることが明記されている。それに内容が、電脳空間で精神に与えられる負荷の軽減を行うこと、とある。

 では、負荷の軽減を行うとは? 実際に電脳空間でなにが起きるのか。

 

 ――小此木医師は言った。心の望みをくみ上げて電脳空間が変化する。そこで傷が癒えるのを待つのだ、と。

 

 あの時にはあまり気にしなかったことだが、「人の心の望みを汲み上げる」なんてことは電脳メガネの機能をもってしてもできないことだ。だから、きっとイマーゴ機能のなんらかがこの治療の一端に使われていたのだろう。だから、実際にイマーゴ機能は実装されていた。

 そして、それに遠くないものが古い空間の基幹部分にもあるのではないだろうか。古い空間を消すことができない、ということは新しい空間のアップデートで更新できないブラックボックスの部分があるのだろう。

 それなら研究資料を探さなくてはならない。でもどこで見つけられるだろうか。メガマスの資料も、今まではイマーゴ機能については調べてこなかった。一番なのは、小此木医師の研究資料にアクセスすることだ。彼なら確実に研究成果をどこかに記録しているはずである。それも勇子が提供した記録がだ。だが、それをご家族に聞いたところでわかるのかどうか。

 それにこれだけでは足りない。病院で治療が提供されたのだから、病院にも資料はあるはずだし、少なくともその記録がメガマスにないというのもおかしなことだ。まだ幸枝が閲覧しきれていない資料がどこかにある。

 しきりに新たな考えが頭によぎる。本当は、きっと。勇子のことを考えなくてはならない。勇子の体と心の健康が一番だ。だけど、幸枝にできることはもうなにもないから。悩んでいるくらいなら、できることをやった方が建設的だ。焦りと不安ではやる心をなだめる。逃げているのかもしれない。でもそれでいい。少しでも進んでいるならそれでいい。

 勇子に、メールを送ろう。

勇子は。勇子はどう思っているのだろうか。納得しているのだろうか。それなら問題もない。私のただの勘違いで終わるのが一番いい。

 

 

 

かなえられた願い

 

 メガマス本社の席について何事もないように仕事をする。過去のデータや統計をとって、必要な実験を申請する。申請が通れば実際の実験に移って、自分がやったり被験者を募集したり、知り合いに頼んだり、そうやって積み重ねたデータが新しい形をつくっていく。幸枝が主体的に実験を行うことはそうないが、手伝ったり、データを借りたり、デモの対象に選ばれることはあった。

 細々としたデスクワークは体をひどく疲れさせる。データをまとめたり、見比べたりしていると眼精疲労もやってくる。だから幸枝は、15時頃に適当に休憩をとることにしていた。

 休憩する場所をとくに決めているわけではない。自分のデスクでコーヒーとお菓子をかじっているときもあれば、社内の休憩スペースに行くこともある。気分で行く場所を決めるが、今日はひとりになりたくてホールを目指していた。

 メガマスは大企業なだけあって、所属する人間もきわめて多い。それに関連した企業や、関連した公務員も行き来する。幸枝が認識している個人名は本当に限られたものなのだ。

 だから、人通りの少ない場所で、目の前に人が来たときにも取りあえずのあいさつをした。

 

「どうも地村さん。研究は進んでる? 電脳ペットと人間の脳波の可能性について、でしたっけ? 」

 

「はあ、周りの皆さんからデータをいただいたりして、……まあまあですね」

 

 幸枝の記憶の中にぱっと思い浮かんだ顔はない。知り合いかも分からないが、相手がかなりフレンドリーに接してくるので、彼女は顔見知りだったかと内心で首をかしげた。返答も曖昧になる。

 

「それは素晴らしいことだ。これからもぜひ研究に励んでほしい。あなたのおかげで電脳ペットの分野ではかなり色々なことが分かってきてるからね」

 

「ありがとうございます」

 

 名前が思い出せないまま、相手が名前を告げないままに話はすすむ。どうも慣れ慣れしい男だった。それなりに親交があれば名前はまだしも、顔を忘れるということはない。一方的に幸枝を知っているにしては、言葉の選び方がへたくそだった。

 

「いやー、本当にメガマスはあなたのような研究者がいて安心ですね。……ところで、ここだけの話し。地村さんってメガマスのことをどう思ってますかね?

GPSのエラーでご家族を、その、亡くしたってうかがったんだけど」

 

「--なぜ、今になってそのお話しを?」

 

 血が沸騰するような怒りが巡るのを感じた。一瞬で頭に血が上ったようにすら思える。しかし、この場で感情を見せるべきではないだろう。目の前にいるのは、よく知らない顔の、中年太りはなはだしい男だ。殊勝な表情のではあるが本心とは思えない。簡単な知り合いに話すような内容ではないし、そういう態度からいやらしくヤニ下がった顔が透けて見えるようだった。

 

「あなたの仕事ぶりを評価しておりまして、ね」

 

 鼻で笑ってしまいそうになるのを努めてこらえる。なにが「評価」だって? あなたは自分の名前も、所属もなにもかもを明らかにしていないのに私を評価する。自分がどれほど偉いと思っているのだろうか。

 無礼で無神経な男だ。頭に上った血が冷えて、腹の底に懐かしい重い感覚が戻ってくる。無力感と怒り、復讐心が凝った感覚だ。

 

「人に評価されるほどの研究をした覚えはありませんが」

 

「いやいやご謙遜を。ああなたはそれだけ価値のあることをやってきたんです、もっと胸を張って」

 

 大仰な身振りで幸枝に向かって胸を張れ、と言う男。ピエロよりも滑稽な動きをしているが、本人はいたって真面目な様子である。顔は脂で光り、タバコとコーヒーの匂いが染み付いている。40代だろうか、まじめに仕事をしていればある程度は役職を持つ程度の年齢だ。

 返答をせずに男の目を見つめていれば、居心地が悪そうに眼をそらされた。所詮、その程度なのだ。幸枝とて、壮大な目標があるわけではない。だけども、男の立場だったならもっとうまく行くように準備しただろう。……その程度なのだ。

 

「その、」

 

「あなたがどのような提案をする予定だったのかは分かりません。でも、あなたの態度は信用することができません。私はしがない一般研究員ですし、出向扱いの部外者ですから。きっとあなたの期待に応えることも難しいでしょう」

 

 だから、お断りです。言葉をさえぎってしゃべれば、話が進むにしたがって男の顔がいらだちに満たされていく。真っ赤な顔で、言葉尻に噛みつくように続けられたのが彼の全てだろう。

 

「あんた、きっと後悔するよ。この話を蹴ったことを……!」

 

「概要も知らない話を後悔もなにもないと思いますが」

 

 怒りによる体温上昇だろうか、脂汗の増した顔は照明で光っている。その怒りがどれほどのものか推し量ることが幸枝にはできないが、彼にとってはかなりのものであるらしい。肩を怒らせて、ふんぞり返って幸枝をはねのけるように早足だった。ピエロよりも滑稽な姿であるように思えた。

 その後姿をぼんやりと見つめていた。

滑稽だと感じるのと一緒に、心底腹立たしい気持ちがある。

 なぜ今頃になってそんな話をされるか? メガマスの中でのバランスゲームに動きが出たからだろう。バランスが崩れたのか、それとも切羽詰まったから何かが動いているのか。

 ならきっと、あれが現メガマスに迎合したがらない旧コイルス派なのだろう。なんの考えもない行動、浅い思考回路。よくもこれで派閥として成り立っている。それともあの男は試金石的なもので、私のことを精査しているのだろうか。

 

 冷静に判断を下したつもりだったが、心が落ち着いてくるにつれて自分の行動に自信がなくなってくる。話を長引かせて詳細を聞いた方が良かったかもしれない。怒らせるのは適切ではなかったのでは。せめてもっと穏やかにするべきだったのでは?

 

 いいや。それでいい。

 

 私は"正しかった"。家族をメガマスの過失によって亡くして、それでもメガマスで働く人間として正しい返答をした。主義主張を一貫させていた。知らない人にいきなり声を掛けられた側として、おかしな対応はしていない。後悔が全くないわけではないが、でもきっと、いくら繰り返しても幸枝の頭ではあれ以上の対応はできなかった。

 

 そうやって廊下の真ん中で後悔していると、幸枝が来た方からチーフがやってきた。珍しいことだ。そもそも、幸枝は人気のないところに向かっていたのだから、ここいらを歩く人がそもそも珍しい。

 チーフは幸枝が気づいたことが分かったらしい。軽く手を上げて、さらに近寄ってくる。どうも幸枝に用事があるようだった。

 

「ああ、よかった。探していたんだよ地村さん。

空間管理局の室長には会えましたか? うん、大事な話はね、彼にするといいですよ。きっとちゃんと応えてくれる人ですから。それから、ちょっとついでで……手間をかけて申し訳ないんですけどね、これをその彼に渡してきてほしくて」

 

 さらさらと話した室長は、懐から最近ではめったに使われなくなったUSBフラッシュメモリを取り出して幸枝に手渡された。

 先ほどまでのやり取りとのギャップで、幸枝はいまいちうまく呑み込めなかった。

 

「えぇ、物質的なUSBメモリ……久しぶりに見ましたけど、これを……小此木さんに? このご時世にこれって大丈夫なんですか?」

 

「そうなんですがね、これが一番間違いがなくって。渡せば彼はそれで分かるはずなので。ただね、これ、こっそり渡してほしいんですよね」

 

 「きっと、あなたの悪いようにはならないから」とチーフはやさしく言う。手のひらの上に乗っているのは、電脳メガネが普及してから見なくなった電子記憶媒体だ。黒くてキャップが付いているタイプ、あの頃にはよく見ていた一般的なやつ。

 

 見上げたチーフは穏やかな顔だ。焦ってもいなければ、怒ってもいない。先ほどの男とは大違い。

 チーフを疑う気持ちが、ないわけではない。でも、それ以上にチーフはこれまで幸枝を悪く扱わなかった。これまでに一度も。数少ない信頼できる人だとも思う。でも、そんな人に騙されたら、と考えるとたまらなく怖い。

 だけど。

メガマスからほとんど外に出てきていない幸枝では、これ以上にできることはない。チーフを信じて、今までの自分を信じて小此木室長を頼るしかないのだ。

 

 頷いた幸枝に、チーフは「おつかいを任せちゃって悪いですね」と微笑んだ。

 

 

 *****

 

 

 いつか教えてもらった空間管理局に連絡を入れる。呼び出しのコール音の後に取り次ぎらしい男性の声が答える。

 

「えぇ、と。小此木室長とお話しをしたいのですが・・・・・・」

 

『小此木ですか? 小此木は現在出張で外しております。帰ってくるのは・・・・・・調整次第なので、正確な日にちは分かりませんね、申し訳ありません』

 

 なんとも間の悪いことに小此木室長は不在であるらしい。こういう絶妙な間の悪さが自分らしい、と幸枝は思う。

 

『えぇ、と地村さん。伝言でよろしければお伝えしますか? それともお急ぎでしたら、連絡先をお教えしますので、そちらで連絡を取ってもらっても構いませんが・・・・・・』

 

「あー……、急いでいるので連絡先を教えていただけますか?」

 

『かしこまりました。連絡番号は――』

 

 

 メガネから呼び出し音がする。

呼び出される通知音はよく聞くが、呼び出すことはあまりないため少し新鮮な気分だ。

待つ時間はそう長くはなかった。

 

『はい、小此木です』

 

「お世話になっております。研究室の地村と申しますが、急ぎの要件で連絡させてもらいました」

 

『ああ、地村さん。ちょっと待ってくれるかな』

 

 人の多いところにいたらしく、突然の電話に場所を移動してくれたらしい。電話の向こうで人の声と、指示を出す小此木さんの声がする。忙しい時間帯だったらしい。なんだか悪いことをしたような気持ちだ。

 

『お待たせしてすいませんね、要件をうかがいましょう』

 

「ちょっと電話でするには微妙な案件で、資料などもあるので顔を合わせて相談したいのですが。小此木さん、忙しいですか?」

 

『うーん、ぼくはしばらく金沢から離れられなくてね。あ、聞いてたかな? それで、もしよければ金沢まで来てもらえるかな? ……たぶん、その方がうまくいくだろうから』

 

 その方が上手くいく、とはどういうことなのだろうか。小此木さんは穏やかな声で幸枝に返答をするが、詳しい話はしない。幸枝としても急ぎの顔合わせを断られたわけではない。疑問はあっても、困るほどのことではない。小此木さんの周りには人がいるようだし、詳しい話もできないのだ。しぜん、返答はためらいがちになる。

 

「わかりました。ではどこで待ち合わせをしましょうか。私はなんとかしますので、小此木さんの都合に合わせます」

 

『うーん、ぼくが前に住んでいた家の近くにしよう。美味しいコーヒーを飲めるお店があるんだ』

 

 簡単に時間と店の名前について打ち合わせをすると、小此木さんは申し訳なさそうに電話を切った。ぎゅっと胸の前で右手を握り締める。

 この判断が正しいかは分からない。何度目になるか分からない不安が押し寄せてくる。この不安というのは尽きることがない。だけど進めなくてはならない。

 もしかしたら、チーフに嵌められたかもしれない。小此木さんは人当たりがよくて、落ち着いていて悪い印象はないけれど、もしかしたら説得で人を丸め込むのが担当なのかもしれない。

 でももう幸枝にできることは多くなかった。どっちにしたって出来ることをやらなくてはならない。勇子のことを考えれば時間も少ない。騙されたって、また次に何か考えればいいだけだ。自分が裏切られるなんて、些細な恐怖だ。

 

 すぐにしりごむ自分の性根に苦笑いが出る。

気が付けばもう退勤時間を過ぎていた。夕暮れを確認しながら、個人所有のパソコンの電源を落とした。

 

 

 

 

 り、り、り。

 

 呼び出し音だ。歩いていた足を止める。幸枝は電脳メガネからの通知にやけに気を引かれた。夕暮れに通知音。まるであの日の再現のようである。ごくり、喉が鳴った。虫の知らせのような、名状しがたい嫌な予感が湧き上がってくる。呼び出し音は鳴りやまない。手のひらがいやに湿っている。

 先ほどまでとは違った覚悟がいった。指先が震える。メガネに映っているのは、呼び出ししてきたの相手の名前。天沢の、

 

『ああ、幸枝さん。勇子が――』




これからは月一更新になります。
7月の末に更新したいですが、がんばれなかったら8月末に更新になります。


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わたしの夢

おまたせしました。コメントなどいただきありがとうございます。とても嬉しいです


 

 ×月△日(*)

 この世はなんとかなるように出来ているのだろうか。こんなに世界に感謝したのは初めてだと思う。まさか小此木先生の息子さんが監査を行っているなんて! 一体どうなっているんだ。それに、チーフはどうして知っていたんだ?

 

 

 

 ・・・

 ・・

 ・

 

 

 

 side:勇子

 

 あれはとても暑い日だった。オバさんは前の日からうちに来ていて、お土産をたくさんくれた。午前のうちは涼しかったのに、お昼を食べた後はとても暑くなった。

 なぜかその時の家には母も父もいなくて、それでユキちゃんが「ねぇアイスを買いに行こう!」って。私とお兄ちゃんはクーラーの効いた部屋で顔を見合わせた。

 

「アイス、いらない?」

 

 ユキちゃんはちょっとだけ不安そうな顔でもう一回聞いた。私もお兄ちゃんもちょっとびっくりしただけで、アイスがいらないわけじゃなかったの。そんなユキちゃんが面白くて私は思わず笑っちゃった。

 

 セミがうるさいくらいに鳴いている。

 

 私の身長ではセミを取るのは難しい。かといってお兄ちゃんはセミに興味がなかったし。

 近くのお店まで歩く。

夏の日差しは強くて、麦わら帽子をかぶった頭も汗でじっとりとしている。お兄ちゃんはなにを考えてるかわかんないけど、私と手を繋いでくれる。ユキちゃんは楽しそうに、私の腕をぶんぶんと振り回した。私はお兄ちゃんとユキちゃんに挟まれてすごく嬉しかった。ユキちゃんに会えるのはお正月とお盆だけだったから。

 

「それで、松川さんがすごくってね。電脳ペットの性質モジュールについてだったら、あの人にかなう人って中々いないね」

 

「ブラックボックス、って前に言ってなかった? それを何とか出来る人ってこと?」

 

「そうそう。だからすっごいんだよ」

 

 私にはわからないことだったけど、お兄ちゃんが楽しそうだから私も嬉しい。腕をぶんぶん振り回して二人の顔を見上げる。

 

「なあに?」

 

 ユキちゃんは面白そうに私に聞く。お兄ちゃんも私を見つめている。二人の顔の向こうに白い入道雲がもくもくと広がっていて、びっくりするくらい青い空だった。

 

「なんでもなーい」

 

 それだけで楽しかった。暑いだけの道のりがその日の絵日記になった。

 

 

・・・

・・

 

メガネを捨てる子どもたち

 

「これはどういうことですか?! 勇子が? どうして、」

 

「幸枝さん、落ち着いてください。・・・・・・今のところ分かっているのは、どうも小学校に忘れ物をとりにいって、それで別の階で倒れているのが見つかったみたいです」

 

 連絡を受けてすぐに訪れた病室では、勇子がベッドに寝かされていた。つけたままだった電脳メガネを通して、勇子の体がオフラインになっているのがわかる。なぜオフラインに? それにどうしてそんなことに。言葉を聞いてはいるものの頭は混乱していく。すがるように触れた手は勇子の手はあたたかい。それに少しだけほっとする。

 

「それで……、こんな状態になった理由はわからない、と?」

 

「お医者さまも、近くにいた子も警備の人も原因がわからないそうで」

 

 かわるがわるに私に説明をしてくれるのは天沢の義姉と義兄だ。保護者としてすぐに呼び寄せられたという。倒れていたのは現在仮住まいになっている小学校のビル、地下階。一緒に忘れ物を取りに行った生徒は何の影響もない。警備側からは不審な報告は上がってこないという。状況的に考えられるのは階段から落ちたのではないか、ということだけ。

 

「そんな。だって……これは明らかに肉体(からだ)の損傷じゃない」

 

 小さく名前を呼んで力のない手を握りしめた。あまりに自分の声がかすれていて、みっともなくて肩が震えた。

 

 誰が、どうして、こんなことを?

 

 現状で考えられるのはメガマスの誰かだけだ。学校の同級生が一緒にいたらしいが、勇子がいじめにあっていたとして、わかりやすい証拠が残るように行われるわけがない。勇子もおめおめとされるがままなタマではない。

 じゃあどうしてメガマスが? 勇子はメガマスの被害者のひとりであって、ぞんざいに扱えば一面記事を取れるくらいの爆弾であるはずだ。なぜ?

 思い浮かぶのはついさっきの件だ。私は、なんの申し出を断ったのか。分からない。誰であったのかも、何の要件であったのかもわからない。背筋がひやりと冷たくなる。

 メガマス内の派閥のどれかが先走って?

 

 あんまりじゃないか。

勇子が死んだってかまわないとどこかの誰かが思っている。ぞっとする。

 

 思いついたことは胸にしまって。大人になった私は義務をこなさなくてはならないことを知っている。落ち着いた顔で、声で病室にいる人たちに向き合う。これからのことを決めなくてはならないのだ。

 落ち着いた様子の私に、周りもほっとしたようだった。それもそうだ。明らかに取り乱した様子だったのだから。悪いことをしたのかもしれない。でも身内がこうなったなら心配のひとつだってする。

 

「すいません、取り乱しました」

 

「いいえ。それよりも幸枝さんこそ大丈夫ですか? 顔色もずいぶん悪いようですよ」

 

「えぇ、大丈夫です。だいぶ落ち着いたので、これからのことについてお話を伺いたいのですけど」

 

「それがねえ、どうも私たちにはぴんとこないものだから、幸枝さんにも聞いてほしくて」

 

 医師が口にして、ふたりが首をかしげたのは電脳治療についてだった。電脳メガネを通して体調を崩した人たち、それからメガマスに記録されていて表に出てこない意識がアッチにいった人たちのための治療。肉体を生かし、"心"が帰ってくるまでの流れについてだった。

 

 

 

 

 ネットに繋がれば噂話はたくさん出てくる。

少しでも情報が見つからないか、と思って掲示板を覗いたのは馬鹿だった。こんなにセンセーショナルな話題が放っておかれるはずがない。学校という点も、メガマスお膝元の大黒市であることも、それから勇子であったことも話題を加速させる一方だ。クソみたいに楽しそうなコメントがついている。増えていく。スレッドが加速する様子を見て気持ちが悪くなる。勇子は、勇子だけが悪いわけじゃない。あの子がどうなっているのかも知らず、電脳メガネの向こうで事故を食い物にしているやつがいる。

 なんの信ぴょう性もない噂話しかないくせ、それが転がって真実みたいになっていく。適当に目を通しただけでひどく疲れてしまった。

 

 電脳メガネをはずして、眉間をもみほぐす。

思うのはこの件で世間がどうなっていくかだ。小学生の女の子が電脳メガネに関わって階段から落ちて重体、これだけの言葉なら保護者はメガネの使い方を考えるだろう。ただ、どんな人間も道具は使い方だと知っている。それができないから子供からは取り上げるが、使える・使い慣れた大人はむしろ手放すことはできない。

 大人で手放すのは噂話に敏感な人間か、元から電脳メガネに拒否反応がある人間ぐらいだろう。仕事で使っている場合は切っても切れないだろう。

 なにが目的でこんな事故を? きっとメガマスでは問い合わせの電話が鳴り止まないだろう。嫌がらせとしては上等だ。でも、そんなことをしたら「コイルスが発明した電脳メガネ」の評判を落としている。旧コイルスの作戦だとしても、ちょっと目的が見えない。

 なにを考えているんだろう。どうして。こんなのおかしい。こんな未来になるなんて。電脳メガネでこんな景色が見たかったんじゃない。

 

 胸が痛い。

腹も痛い。頭痛もひどい。

 連絡をもらってからずっとこうだ。

 

 私が誘いを断ったからだろうか。

馬鹿にされたことに腹を立てて、それで勇子が死ぬかもしれないことに巻き込む? いいや、あの程度の人間は自分を賭けてまでのことはしないだろう。でも、それを利用した人はいるかもしれない。

 

 じゃあ誰だ。

まただ。また誰かがいる。人を勝手に駒のように扱って、自分以外はどうなったってかまわないと思っているんだろう。自分のために全てがあると思っている人。きっと、信彦の病室を引き上げたときにはもう動いていたんだ。もっと早く気づいて、連絡していたらよかった。

 

 後悔ばかりがよぎる。いつもそうだ。昔からずっと。

後悔するぐらいならさっさとやればいいんだ。それもわかってんだ。分かったつもりでもできないことが多い。

 ぎゅっと強く目をつぶる。どうしようもないことを悔やんでも仕方ない。いつだってそう。その後の私が次にどれだけ頑張れるかが勝負。

 

 細く長く息を吐き出して気持ちを落ち着かせる。とり急ぎやるべきことはなんだろう。この一連の首謀者を知りたい。しかし、それがすぐに分かるなら警察の必要はないだろうから。せめて少しでも情報を得なくてはならない。勇子が怪我をしたときの状況だけでもいい、そうなると必要なのは空間管理局へのアクセスだ。

 絶対に犯人を豚箱にぶち込まなくては気が済まない。こんな好き勝手にやってくれて、私の計画も人の人生もめちゃくちゃにして。なにもかもが明らかになって、それで。

 思考を前向きにしようとしても、どうやったって思い出すのは勇子の姿だ。まぶたが熱い。勝手に視界がゆがむ。反射的に奥歯を噛みしめた。病室とあたたかい手の平。生きている人のぬくもり。

 

 勇子は大丈夫。勇子はきっと、また戻ってきてくれるから、私は私のやるべきことをやらなくては。恥ずかしい叔母では格好がつかない。

 両手で自分の頬を叩く。じんじんと熱くなる皮膚の感触に、頭が切り替わっていくのがわかる。手始めに空間管理局のサーバー、該当時間の監視カメラの映像を確認しておきたい。まだデータが改竄されていないことを祈ろう。改竄されていたとしたら、そこに綻びがないかどうか。あのふざけた掲示板のログもとっておきたい。コメント欄がどうも具体的なのが気になった。

 

 勇子の病室から少し離れて掲示板を検索していたが、近くまで来た足音に目を上げた。先ほど病室で分かれた義姉が、花を持ってそこまで来ていた。義姉は影がかった、疲れた表情で私を見ている。

 

「忙しいところ悪いね、幸枝さん。一緒に花の入れ替えをしに行かない?」

 

「もちろんです。こちらこそ、気が付かなくて・・・・・・」

 

 花は随分と大きい。誰かが持ってきたのだろうか。事故が昨日の今日とあって、義兄の家も私も大した準備はできていなかった。

 

「この花束はメガマスの人が持ってきたんですって。私はもう腹が立っちゃったもんだから、あの人に追い出されちゃって」

 

 花束を持つ義姉と、ナースステーションで花瓶を借りた私。早く戻りすぎるとまた顔を合わせる可能性があるからか、歩みは遅い。

 清掃がきちんと入った床はぴかぴかと光り、靴が踏みしめる音がする。手洗い場もひどくきれいで、水を流すのが躊躇われるほどだ。

 

「治療についてさっき話があったけど、私はあんまりぴんとこなかったけど、幸枝さんはどう? 」

 

「特別に分かるというわけではないですけど、どう進めていくかはわかりましたよ。体を維持しながら意識が帰ってくるのを待つ、というのが大体のところですかね」

 

「ああ、まあそう言ってたね。はあ、何事もなくと言ったらおかしいんだろうけど、意識が回復したらね・・・・・・。勇子も、最近はこの街に慣れて、お友達も増えてきてたんだけどね。こんなことになっちゃってさ、私はもうどうしたらいいのか・・・・・・」

 

「・・・・・・本当に、お義姉さんには、苦労をかけてばかりで・・・・・・」

 

「いやねえ、愚痴っぽい言い方をしちゃったね。幸枝さんにも色々あるでしょう。わかってるよ。でもね、やっぱり気持ちが追いつかないんだね」

 

 幸枝には頷くのが精一杯だった。義姉の顔には隠しきれない暗い影がある。勇子が義姉に心労を与えているのは確かだった。

 整えられた花だけがやけにみずみずしい。花瓶を抱えた幸枝は、義姉と最近の様子について話す。勇子のことだけじゃなく、義姉の住まいの話し。大黒市の話題。電脳化していく街についていけないことがあること。

 ゆっくりと歩いて病室に戻っていると、義姉が突然口を閉じた。不思議に思っていると、突然駆け出す。

「ちょっとあなた! あなた空間管理室の人でしょ! 二度と近寄らないで下さい! 」

 

 大きな声での警告。ヒステリックに聞こえるのは彼女の性格なのか、疲労なのか幸枝にはわからない。ただ、彼女がひどく空間管理室を嫌っているのはわかった。

 

「お義姉さん、落ち着いて下さい。大丈夫ですよ。病院までなんとかなることってないですよ」

 

「そうだよお前、落ち着きなさい。ちょっと話をしていただけだ」

 

「勇子も信彦も、空間管理室がちゃんとしてないからこんなことになってるんじゃないの! 」

 

 「メガマスの担当の人はこうじゃなかった」と義姉は言う。幸枝とは少し違う考えだ。空間を管理どうのの前に、電脳空間の整備やらなにやらをしないメガマスに非がある。治療を提供するのは当然のことだ。それとも、メガマスの担当者になにかを言われたのか。

 落ち着いてきた義姉を義兄に任せて幸枝は早足に向かう。義姉が追い返したのは、ライダースーツの女だ。もしかしたら、と思考にあぶくのように浮かんでくるアイディアがあった。これが神の思し召しというやつなのかもしれない。彼女が病院を出る前に捕まえなくては。

 

 早足で病院の出口に向かう幸枝の視界に、ライダースーツが入ってきたのはそう時間はかからなかった。どうも落ち込んでいるのか歩みが遅い。

 

「間違っていたらごめんなさい。あなた、原川玉子さん? 」

 

 前方に回り込んで顔を見る。メガネをかけた女だった。やっぱり見たことのある顔である。それも、メガマスの名簿でだ。

 

「・・・・・・そうですが。あなたは? 」

 

 幸枝のことを知らない玉子はいぶかしげな顔である。当然だ。知らない人間が自分のフルネームを呼べば困惑する。

 

「私、メガマスで働いている地村幸枝といいます。空間管理室が女子高生を起用した、っていうのはメガマス内の一部で有名なんです。突然ごめんね、聞きたいことがありまして」

 

「は、あ・・・・・・? 本社の方が私に聞きたいことというと? 」

 

 幸枝は迷っていた。どう考えても空間管理室が個人の情報を外に漏らせるはずがない。メガマスと提携した調査なら、データはメガマス内にあるはずだから聞くのはおかしい。つまり、メガマスの社員である幸枝がふつうするはずのない質問をするのだ。どうしても歯切れの悪い聞き方になってしまう。

 

「アー・・・・・・、その。もしかしたら守秘義務に抵触する可能性があるので、無理なら無理と言ってもらって結構なんですけど」

 

 簡潔にものを話さない幸枝に、玉子は内心いらだちを感じていた。メガマス本社に勤めるほど優秀な大人が、まごまごと人の顔色をうかがって言葉に迷っている。これなら自分の方がよほど仕事をこなせるのではないかとすら感じられた。

 

 幸枝は人の耳を恐れて、玉子と壁際に移動した。「あの、とりあえずそっちに移動しても? 」という言葉すら聞き取りにくい声だった。移動途中も幸枝は悩んでいるし、玉子は幸枝という人がわからなくてやきもきする。

 病院の窓から見える太陽はもう随分と沈んでいた。

「・・・・・・昨日の、天沢勇子の事故は空間管理室ではどのように扱われていますか」

 

 玉子からすれば「やっと」聞くことが出来たのはそんな言葉である。玉子からすれば現在、もっとも空間管理室に問い合わせがある質問であるし、特に何とも思わない。ただ、地村幸枝という人の目があまりにも、

 

「天沢勇子・・・・・・? 失礼ですが、あなたは天沢勇子さんとどういった関係で? 」

 

 その質問は玉子の記憶を刺激する。先ほど追い払われた病室でもずっとその名前を考えていた。

 目の前の女は先ほどまでの態度とは随分と違う。落ち着き払い、玉子の目をのぞき込むように観察している。その視線にわずかな既視感があった。この人は私の感情の欠片のひとつも見逃したくないのだ。

 

「天沢勇子は私の姪です。彼女はいま、この病院に入院しています。証明することは難しいですが、昔の写真やログがいくつか残っていますよ。確認しますか? 」

 

 いくつかのログを見せてもらえば、たしかに地村幸枝は天沢勇子の叔母であることがわかった。写真の中の天沢勇子は今では信じられないほど無垢に笑っていた。たしかに2人の顔は似ている。

 空間管理室の、とくに個人情報に関わる部分だ。当然、情報を漏らすことは許されない。しかし、現状を考えれば情報を提供することで、こちらも得られるものがあるように思われた。少なくとも、なんらかの情報が得られると玉子のカンが告げていた。

 

「内情を漏らすのは処罰ものですが、地村さんはメガマスの社員の方ですからなんとか言い訳も立つでしょう。

・・・・・・こちらでは事故扱いです。彼女の不注意による事故だと。調査はある程度行われていますが、途中からメガマス本社に引き継がれています。そのため空間管理室には資料が残されていないかと」

 

「そうですか・・・・・・。では、引き継ぎをしたメガマスの社員の名前を覚えていたりはしませんか? 」

 

「ああ、名刺があります」

 

 玉子からもらった名刺データは2枚。名前だけでは検討はつかないが、メガマスのデータベースを参照すればそれなりのことは分かる。

 幸枝はそもそもデータを融通してもらえるとまで考えていない。これまでのことを考えれば、そういった核心に近いデータは秘匿される。

 しかし、若いデータなら他のやりようがある。引き継ぎをした人の名前がわかるのならなおさら。

 

「該当ビルの防犯カメラの設置はどこにあったかわかりますか? それから、そのログのバックアップは空間管理室に? 」

 

「防犯カメラの設置場所はわかりませんが・・・・・・、バックアップくらいなら残っているかもしれませんけれど・・・・・・、」

 

 玉子は目の色が変わる瞬間をはじめて見た。地村幸枝という人はどうも不安定だ。わずかな時間では彼女を理解することは難しい。なんならお近づきになるのも遠慮したいほどだ。

 それほどに、彼女はぎらついた目でやさしく笑う。

「それなら、なんとかなりそうです」

 

 

 

 それからの様子を玉子は本当に理解できなかった。言葉に語弊がある。玉子は何が起きているかを、病院のロビーにいる誰よりも理解できた。理解できたからこそ、地村幸枝という女のことがわからない。

 

「は? 」

 

 電脳メガネが通信するたびに、ジジと鳴る。そのたびにめまぐるしく画面が増減する。ログは延々と文字を吐き出し続けている。視界の全てが画面で埋まっているだろう。横から覗いていた玉子は、ログを読むことでアクセス先ややりたいことが読める。だから、幸枝が空間管理室のサーバーにアクセスしていることがわかった。ただそれしかわからない。それ以上を読みたくとも、早すぎて追いつくのが難しい。

 弾幕シューティングゲームを複数同時にやっているような視界なのである。ちかちかとコードが連続で動き、幸枝の指先はよどみなく動き続けている。彼女の視線は固定され、数多くのウィンドウが勝手に動いて場所をゆずりあう。その中に文字という文字が詰まっている。玉子のためにか、ルートと達成度合いを視認できるようなウィンドウまで用意された。

 

 玉子とていっぱしの腕を持つ。だから、彼女の腕前も分かった。驚くほど迷いのない強引なアクセス。到着地点を見定めたスマートなやり口。迂遠な回路を選ばず、権限とコードの解析で強引にセキュリティを突破していく。彼女には迷いがなかった。

 それから、彼女は管理者権限を持っているようだった。玉子が出会った人の中で地村幸枝は間違いなく、もっとも権力を持った人だ。権限が強いだけでこんなにもやりやすくなるというのは、玉子に新たな思いを吹き込む。きっと楽しいに違いないのだ。こんなにも自由に電脳空間を操ることができるというのは。

 

 玉子はここまで腕と権限をもった人を見るのは初めてだった。自分と同等か、それ以上の腕前。

彼女と同程度の権限を持っていたら、同じように事を運べるだろうか。

 

 ちかちかと瞬いていた画面の群れが、その痕跡を消しはじめたのはそれからわずかな後である。地村幸枝はなぜか、丁寧に自分の痕跡を消していく。彼女はメガマス社員である権限で強引に突破をしたり、偽装しつつ不正アクセスをかけていたが、その痕跡すらも消そうとしている。

 自分の巣である空間管理室のサーバー内のデータを荒らされ終わるのを見届け、玉子はふいに数日前の違和感を思い出した。

 

「地村さん。もしかして数日前にサッチーの記憶領域を広げたりは? 」

 

「・・・・・・ええ。わかりましたか? 」

 

 必要なデータをコピーしたのはわかるが、どこに保存したのか玉子にはわからなかった。アクセスログを偽造した上にきれいに消していく。舌を巻くような腕だ。それに早すぎる。

 

 再び、ウィンドウが大量に開かれていく。今度は空間管理室ではなく、ーーメガマス本社サーバーにアクセスしている。

 

「なぜ、そこまで警戒されるのですか? 」

 

「さて。原田さんに伝わるか分かりませんが、」

 

 もう玉子には幸枝がどんなデータを探しているかわからない。空間管理室にアクセスしていたときよりもずっと速いペースで進んでいる。慣れているのだ。

 

「どこにでも用心深い人間というのはいるものですから」

 

 玉子は再び考える。今度は目の前で起きていることではなく、彼女が天沢勇子の叔母であることだ。

 今、玉子たちが抱えている難題、そして先ほどは聞きそびれた「4423」を、この人なら答えられるのではないかと。

 ただし、幸枝が味方なのか敵なのかというのは玉子にはわからない。しかし、天沢勇子のために何かをしているのであれば、この状況をどうにかしたいと思ってくれるのではないかと思う。

 

「ありがとうございます原川さん。おかげでいい資料を見つけることができました」

 

 たった数分だろう。メガマスへのアクセスはそれで終了したらしい。満足げに微笑む幸枝に玉子も覚悟を決めた。じわりと緊張で汗がにじむのを感じる。

 

「地村さん、ひとつ伺いたいことがあるのだけど。・・・・・・あなたなら信彦君が亡くなったときのことを話せませんか? それか、4422のことについて」

 

 その質問は幸枝にとって、なにをはらんでいたのだろうか。玉子は部外者であるから何も知らない。それでも、「聞き方を間違えた」と思った。今までで一番、まずいことをしたと感じた。

 幸枝の表情は、怒りと悲しみにゆがんでいた。

 

「だめ。原川さんには助けてもらいましたが、話すことはできません。私は話す権利を持っていませんから」

 

「話す、権利? 」

 

「・・・・・・失言でした。今のは聞かなかったことにしてください。今日はありがとうございました。失礼します」

 

 

 

 

 

 ***

 **

 *

 

 

 

 

「ちょっと聞いてよ幸枝さん! このひと、さっき空間管理室の人と話してたんですよ! 信彦のときも勇子のときも何一つしなかったのに! 」

 

「おまえねえ、そんなにカッカしたって仕方ないだろう。人には出来ることとできないことがあるんだから。それにあの人はね、信彦のことを不思議がっていたからね、ちゃんと関心をもって勇子の件にかかってるんだよ」

 

「そんなこと言ってもね、割り切れない気持ちがあるんですよ・・・・・・! あの事故がなかったら、勇子だってこんなことにはならなかったんですから」

 

「・・・・・・お義兄さん。もし、ですよ。・・・・・・小此木先生の奥様をおぼえてます? あの人になら勇子と信彦のこと、伝えても大丈夫だと思います。きっと、よくしてくださると思います。どうも、詳しい人のようですから」




あと2話です。


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えんゆえに

 

 ○月○日(△)

 ほんとうによかった。

 

 

 ・・・

 ・・

 ・

 

 

金沢市はざま交差点

 

 私の行動はなんらかの監視を受けているのだろうか。人からの監視、カメラの監視、それからメガネの監視。メガマスの特性を考えればどれも容易く行われてしまいそうだ。

 これまでずっとメガマスの中で怪しまれないように生きてきたつもりだった。馬鹿みたいな好奇心と知識欲の塊で、電脳技術が大好きな人。そういう人に見られるようにしてきた。何年もやってきたのに、疑われているのかもしれない。

 もしも監視があるのなら、ばれないように小此木さんに会わないと要らない手間が増えてしまう。勇子が生死をさまようような手を平然と使う相手だ。小此木さんに妨害のような危害が加えられるのはいけない。どうしたらいいだろう。

 

 悩んでいたものの、一周回って堂々と会社を休めばいい思いついたのはすぐだ。有給だってちゃんと使われて本望に違いない。薄暗い気持ちを持つ必要なんてないだろう。見舞いも墓参りもそうやっていたのだ。密談だって有給でやっていい。

 こっちは親戚が生死の境をさまよっているのだ。休んだって不思議じゃない。休んで正解だ。本当にクソみたいな日だ。

 

 小此木さんとの約束の日に勇子が倒れていなくて良かったと、思う。どちらも、おざなりになっていたら、幸枝は耐えられなかっただろう。

 勇子の青い顔が思い出されて、幸枝は強く目をつむった。そして、なんらかの突破口になりそうな小此木さんのことを思い出す。

 

 しかし、金沢とはまた、不思議と縁のある街だ。

 待ち合わせ場所を検索してみると、その喫茶店は案外とアクセスのいい場所にある。幸枝は迷ったが、今回は電車での移動にすることにした。少しでも目くらましになればいい。そう思いながら電車に揺られる。乗り慣れないからか、幸枝はだんだんと不安な気持ちになっていた。移り変わっていく町並みも、勇子から離れていくのも、そんなはずはないのに身から何かが剥がされていくような気がする。

 手元にはメガマスを訴えるのに必要なデータがいくらだってあるのに、幸枝はいつだって不安だった。幸枝自身にも理解できないほどで、決定的な監視カメラのデータですらも彼女の心を落ち着かせられない。

 そんなだったから、喫茶店に着いて小此木さんの顔を見たときにはほっとしてしまった。

 目立たない通好みの外観に、かろりと鳴るベルの音。観葉植物や衝立でゆるく切り分けられた空間。タバコとコーヒーのにおい。

 先に席にいた小此木さんは、ベルの音にひょいと顔をのぞかせて幸枝を手招いた。

 挨拶もそこそこに幸枝は本題を切り出す。そんな時間も惜しいと思ってしまう。鞄から取り出したのは小さな黒い記憶装置。

 

「チーフの佐脇から預かってきました。こちら、小此木さんにお渡しします」

 

「ありがとうございます。旧式のUSBフラッシュメモリだなんて、彼もよく考える」

 

 内容を確認させてもらいますね、と一言告げて。小此木さんは鞄の中から接続アダプターで閲覧をはじめる。

 小此木の目の前の幸枝は、上着も脱がずにじっと座っている。運ばれてきたコーヒーはまだあたたかいはずだが、それに口を付ける様子もない。

 その顔はお世辞にも明るいとはいえなかった。

 

『旧コイルスの研究データの一部と、現メガマスの事故データの一部をここに。

全部のデータは怖いから乗せられないけど、ネット上にもいくらか分散して保存している。これを使っていい結果が出せるといいんだけど。

 小此木君の手腕に期待しているよ。こんなことを頼むことになって申し訳ないね。

 それから、他の情報は彼女が保持している。話を聞いてあげてほしい。』

 

 古くから付き合いのある相手だ。今までの暗号キーをいくつか試すと、該当のファイルが勝手に開いて内容が読めた。

 続いてUSB内に保存されているいくつかの情報、該当のアクセス先のURL。簡単に目を通すが、まさにほしいと思っていた情報である。佐脇は見た目よりもはるかに出来る男だ。

 その彼がそう伝えてきたのだから、小此木も腹を決めて話さないとならない。彼女がどういう存在なのか、小此木もデータベースから拾ってきた情報を知っていた。

 

「さて、地村さん。ぼくたちは少し話しをしなくてはならない。あなたにはきっと信じられないことだろうけど。

――ぼくはね、メガメス内部の監査を行っているんだ。それも、メガマスから依頼を受けた上で」

 

「は? 」

 

 メガマスが内部調査を行っているということが理解できなかった。なぜ今更になって。調査をしているのに、勇子はああなっているのに。小此木の話に幸枝は混乱を深めていく。

 

「幸枝さんのことは噂ですこし聞いたくらいだけど、どうもメガマスのことは信じ切っていないんじゃないかと思ってね。・・・・・・データベースを見させてもらったからさ。

 どうだろう、答えにくいしやりにくいとは思うんだけど、きみの考えが聞きたい」

 

「い、いえ。あの噂は、? 仕方ないと思うのですが、内部監査を小此木さんがされているというのは? 」

 

「そうだ。ぼくはそのために空間管理室に配置されたといってもいい。きみの上司の佐脇はとくに協力的な人だ」

 

「チーフが・・・・・・」

 

「そう。それで彼があなたを指名した。これまで得た情報以上のものをあなたが持っている、と」

 

 ごくり、唾がのどを落ちていく音がした。

 そのときの感情をどう表すべきかを幸枝は分からない。ただ、とても、心臓がしめつけられるように痛んだ。痛むのを唇を噛んで耐えた。あの人は、本当に幸枝に良くしてくれた。

 

「本当に、小此木さんは、メガマスのことを直してくれますか? 」

 

 あえぐように出た言葉の幼稚なことが、小此木にはことさら痛々しく感じられた。この人は、メガマスの被害者のひとりだと、小此木は知っている。

 

「正直なことを言うとわからない。でも、出来る限りのことをしたいと思っている。メガマスはもう少しちゃんとしなくちゃならない。利権と便利さにあぐらをかくだけじゃだめだ」

 

 真剣に話す小此木の目が、ひとつもそらされないことが幸枝に真実味を与える。不意にこの人はやっぱり小此木医師の家族なのだと感じられた。あの人もやっぱり、真剣に向き合っていた。

 だから幸枝は信じられると思った。

 

「・・・・・・信じます。

お渡しします今まで集めてきたデータを、すべて。

 ですが、集めてきたデータの多くは個人のサーバ、それもスタンドアローンのものに保存していて、今お渡しできるものは多くありません」

 

 電脳空間に対する熱意と好奇心の強い人として仕事をしてきた。怪しむ人は天沢勇子の事故を知っている人だけだが、あれも表向きは事故として処理されている。だから、根本的には彼女は「知識欲豊かな人」でしかない。その彼女が今までしらみつぶしに集めてきたデータの集積だ。

 

 幸枝は言葉とともにモニターを展開させる。ダミーや暗号、パスコードを乗り越えるた先にいくらかのデータが保存されている。電脳メガネと交通事故数、原因の抽出と統計だ。これくらいなら見つかったところでたいしたことはない。

 

「電脳空間に関するデータはできるだけ集めています。アクセス権限を得たのが最近なので、集めきっていない部署のものもありますが・・・・・・交通系に関しては出来るかぎりやったつもりです」

 

「いえ、正直なところこれで少しというのは謙遜がすぎるんじゃないかな。ぼくの権限では得られないデータもあるみたいだからありがたいし、別口でもらうデータもあるから、あまり心配しないでくれていい。

 ・・・・・・裏付けもとれたし、不具合の公表は間違いなく行われる」

 

 小此木の言葉に幸枝は安堵した。今までの時間は無駄じゃなかった。これで、メガマスにメスが入る。なにかが変わってくれる。誰かが正しくなかったことが明らかになる。

 長く、幸枝は息をついた。

あまりにも長い時間が必要だった。でも、まだどうなるのかわからないからと、自分に気合いを入れ直す

 

 もうひとつ、と小此木は言う。

 

「不躾な話になるかもしれないけれど、地村さんの姪の天沢勇子さんの件だけれど、――そっちにも手を回せると思う」

 

 勇子の状態はどうなっているのか、と小此木は幸枝に尋ねた。もともと明るくない幸枝の顔は、それだけで驚くほど曇った。状態が良くないことが伺えた。

 

「勇子は、誰がやったのかわからない転落事故で、おそらく、ですが・・・・・・コイルドメインにアクセスしているのではないかと思います。

 彼女自身は電脳空間からのリンクが切られています。だから迂闊に触れるのは危ぶまれる。それで、電脳体を調べました。・・・・・・あまりに消耗が進んでいました。自意識と電脳体に齟齬が現れるのも遅くないでしょうし、もう起きているかもしれません。

 

 コイルドメインにアクセスしていると推測した理由は2つ。

1つめは電脳体の様子に見覚えがあったこと。心理的・身体的な衝撃が過去のリンクを思い出し・・・・・・、イマーゴ機能によってアクセスしたのではないかと考えられます。

2つめは、勇子がずっと夢を見てることです。勇子は、昔の電脳治療中、ずっとあんな様子だったんです」

 

 

 ・・・

 ・・

 ・

 

 

 side:イサコ

 

 気がつけば薄暗い石畳の上にいた。場所に検討がつかない。道の向こうには階段が続いている。

 登りの先も、下りの先もぼんやりとした霧に覆われて見通すことができない。

 

「ここは・・・・・・」

 

 その階段の先からさやさやと囁き声が聞こえる。はじめは聞き取れないほどの細さだったが、だんだんと聞き取れるようになっていく。

 

「あっ・・・・・・お兄ちゃん・・・・・・? 」

 

 わずかに聞こえる声に聞き覚えがあった。この声は。やさしい、遠い記憶の中で何度も繰り返した声だった。

 

「お兄ちゃん・・・・・・っ! 」

 

 兄の声に刺激されて今まで忘れていたことが思い返される。今までどれだけ会いたかったか。どこに一緒に行きたかったか。今まで自分がどれだけ頑張ってきたのか。話したかった。褒めてもらいたかった。

 

「そうだ、この階段の上。そこにいるのね? お兄ちゃん! 」

 

 勇子はにわかに思い出していた。この階段に確かに見覚えがあった。この階段の上には公園があって、そこで、そこでお兄ちゃんと長い時間をすこした。なら、ここを上ってしまえば――やっとお兄ちゃんに会える! 自然、勇子の顔には笑顔が浮かんでいた。

 

『勇子、勇子』

 

 ああ、お兄ちゃんが私のことを呼んでいる! いつぶりだろう。この声をずっと待ち望んでいた。

 いつぶりだろう。まだ私がお母さんと一緒だった頃を思い出す。あの時は、たしか――

 

 

 階段を上りながら思い出す記憶の中。まだお母さんはやさしくて、私とお兄ちゃんのお人形を作ってくれた。

 

「見て! お母さんが作ってくれたの。このお人形はお兄ちゃんと私。だから私のこと忘れないでね」

 

『忘れないさ。勇子こそ僕のこと忘れるなよ』

 

 お兄ちゃんはそう言ってやさしく頭を撫でてくれた。

 まだ思い出す。そうだ、まだあった。お兄ちゃんが私の話を、

 

「・・・・・・お母さん、時々怖いの。私のこと、ぶつの」

 

『泣いちゃだめだ、イサコ』

 

「イサコ? 」

 

『ああ。秘密の暗号名だ。勇子の勇は”いさましい”の勇。だから――イサコ』

 

 「うん! 」と頷いた。嬉しかった。そうだ、それはお兄ちゃんと私だけの秘密だって、秘密の暗号だって言った。それで、お兄ちゃんの秘密の名前は・・・・・・?

 

『そうだなあ、僕は4423』

 

 数字だけのそっけないそれに、私は少しだけ疑問を抱いた。でもそれよりもずっと、お兄ちゃんと秘密を共有できたことの喜びの方が大きかったのだ。

 

『さあ、もうすぐお別れの時間だ。上で遊ぼう、イサコ』

 

 一緒に遊ぼうと言われたことが嬉しくて、満たされた気持ちの中で一緒に階段を上った。それが、ここだ。この階段だった。

 息が上がる。声が聞こえる。やっと、これは夢じゃない! 今まで何度もがっかりして目覚めた嘘じゃない。本当にお兄ちゃんに会える!

 

「ああ、お兄ちゃん! 」

 

『ゆうこ、ゆうこ・・・・・・! 』

 

 誰かの声が私の名前を呼んだ。水を差すように、喜びに舞い上がっていた気持ちが少し落ち着く。誰だったろう。でも、親しげで、懐かしくて、あの人といるのは楽しかった――

 

『迷ってはダメ。そのまま進むのよ、勇子』

 

 ああ、ミチコが呼んでいる。あとちょっとだ。最後の鳥居をくぐったら、そこの先にはずっと待ち望んでいた姿が――

 

『おかえり、勇子』

 

「お兄ちゃん! 」

 

 

ヤサコとイサコ

 

 

「えっ! 優子を迎えに行けって・・・・・・どうし、わかってるって! ちゃんと迎えにいくよ。ポイントは? ・・・・・・うん。ええ? 」

 

 会話に区切りがつき、冷めたコーヒーをすすっていると小此木に電話が入った。断りを一言入れて、小此木は席を立ったのだが、静かな広い店内だから声は聞こえる。なにかしらのアクシデントらしい。

 席に戻ってきた小此木は渋い顔つきだ。

 

「用事ですか? 」

 

「そうなんだ。申し訳ないけど、急ぎみたいで。娘を拾って大黒市に戻るよ。今までの資料で話を進めることができそうだから。地村さんもよければ大黒市まで送ろう。・・・・・・いや、その手腕を見込んで是非とも協力してほしいのだけれど」

 

「・・・・・・? 私が出来ることでしたら」

 

「じゃあすぐに行こう。マスター、お会計! 」

 

 本当に急いでいる様子の小此木さんは、ばたばたと店を出て車まで走る始末だ。これには幸枝もびっくり。

 車に乗り込んだら乗り込んだで、あちこちを触りながら作業をしている。幸枝は見るのを咎められないことをいいことに観察している。彼が触っているのはメタバグだ。

 

「その技術はどうやって生まれたんですか? 」

 

「これかい? ぼくは母から習っただけだから詳しくないね。父ならもっと詳しく分かっただろうけど、ぼくに分かるのは組み合わせと効能だけ」

 

 メタバグを組み合わせて札に仕上げた。幸枝にはまったく仕組みがわからなかった。幸枝が知るメタバグとは感情の結晶である。それが札にされて、それでどうする。どうなる。

 研究員の性なのか、頭の中で推測が勝手に進んでいく。興味深いが、メタバグに対する理解が浅いことがわかるため推測は進まない。

 「よしできた」と小此木さんが成功を告げた後、車は急発進し、幸枝は急な運転に奥歯を噛みしめながら耐えることになる。こんなことなら自分の車で来れば良かったと後悔をしながら。

 しかし、それもあっという間である。小此木さんの娘さんは金沢市にいたらしい。

 

「ああ、いた! すれ違わなくて良かった」

 

 車内での小此木さんのほっとした声と、見つかった瞬間の喜びの姿というのはすごかった。小此木さんは「お父さん」になった。

 歩道に寄せて、小此木さんは声をかける。

 

「乗るんだ! 」

 

「室長? 」

 

 道ばたにいたのは3人の少年少女だ。そのうち2名には見覚えがある。ひとりは小此木さんの娘さんだ。検索したときに勇子と同じ音だから覚えていた情報である。

 顔見知りであるもう一人、原川玉子さんは小此木さんを認識するやいなや頭を下げている。幸枝のことも目に入っていない。

 

「室長、こんなことになってすみません。でも娘さんのやろうとしていることは決して・・・・・・」

 

「後部の電脳ポシェットにメタタグが入っている」

 

 原川さんを後目に、残りの二人は車のドアを開けて乗り込みはじめた。メタタグという言葉に反応して、原川さんもようやく車に乗り込む。三人とも小此木さんの言葉に夢中だ。

 

「メタタグ・・・・・・? 」

 

「これだ」

 

「コイルタグだ! 」

 

 提示されたのは、先ほど作られた電脳物質だ。どうやらあれはコイルタグというらしい。コイルとタグという言葉から連想されるのは、その物質がなんらかのアンカーの役を果たすのではないかということ。

 

「何でこんなものを? 」

 

「本物じゃない。ぼくの技術では再現できなかった。でも、対処療法くらいにはなる」

 

「お父さん・・・・・・」

 

「優子、こんなときに近くにいてやれなくてすまなかった・・・・・・」

 

 ヤサコの声に返す小此木の声は後悔がにじみ、肩はうなだれている。その様子に玉子はなにかに気がついた。強い目でルームミラー越しに小此木を見る。

 

「室長、アンタまさか・・・・・・」

 

「会員番号1番だ」

 

「「「コイル探偵局のバッチ! 」」」

 

「おふくろには色々、弱みを握られていてな・・・・・・」

 

「やはりその手口か! 」

 

 「ふふふ」息がぴったりのやりとりに、幸枝は思わず笑ってしまった。真剣に話していたのに、どうも小此木さんのお母さんの存在で楽しくなってしまう。ということは小此木医師の奥様だ。幸枝は小此木医師が話してくれた話しを思い出して「らしい」と思う。

 一方、幸枝の笑い声に後部座席の三人が、ようやく彼女に意識を向けた。小此木さんはバツが悪そうに視線を動かし、ことの本題について触れていく。さきほどまでのゆるんだ空気は消え去った。

 

「それだけじゃない。実は半年ほどまえからメガマス本社の要請で内部監査を手伝っていたんだ。

――それでこちらが、」

 

「地村さん? 」

 

 座席の間から後ろに軽く会釈すれば、原川はすぐに気がついたらしい。

 

「なんだ。玉子さんは顔見知り? この人はメガマスの監査を手伝ってくれている地村さん。優子のクラスメイトの天沢さんの親戚だよ」

 

「どうも地村です。姪の勇子がお世話になっています」

 

 驚いた気配はあるものの、ふたりは目を大きくして幸枝に会釈を返した。

 

「・・・・・・メガマス内部にも旧コイルスと繋がった一派がある。彼らはある男を動かして失われたコイルスの技術を手に入れようとしている」

 

「それはいったい何者なの? 」

 

「失踪したコイルス主任技師の名前を知っているか? 」

 

 幸枝は小此木の話しに目を瞬かせた。すぐに分かったからだ。

 

「その技師の名は・・・・・・猫目。猫目宗助は失踪した技師の息子だ」

 

 車のエンジンの音に、小此木の話す声。車は着々と大黒市に近づいている。だんだんと、幸枝は不安を思い出してきた。

 

「彼は旧コイルス一派と組んでイマーゴを軸に本社を脅す気だったんだろう」

 

 ああ、だからと。幸枝は今までに自分が蹴ってきた話しはこれだったのだと気がついた。メガマスに恨みがあって、電脳技術に造詣がある人。猫目が、あるいは幸枝に声をかけた人はそれが目的だった。

 

「まさかカンナの事故も? 」

 

「いや、原因はイマーゴと古い空間によって起こったナビの誤作動だ。研一君のデータがそれを裏付けたよ」

 

「本当ですか! 」

 

「ああ、本社にも不具合の公表を確約させた。カンナ君には何の落ち度もない。研一君、みんなの誤解を一緒に解こう」

 

「はい! 」

 

「ハラケン、よかった」

 

 自分と同じ苦しみを抱えた人を目前にしたのははじめてだった。じっと前を見つめたまま、幸枝は胸のうちに広がる感情と対峙する。もっと、はやく出来ていたら――。しかし、後悔と同時に「これで報われる」とも。

 

「大黒市に入るぞ」

 

 後部座席では幸枝に聞こえないように声を潜めた会話が行われていた。原川とヤサコである。原川は幸枝のことを気にしながらも、今回の件で大きな鍵になるであろう情報を伝えようとしていた。きっと、ヤサコ自身も鍵になると思いながら。

 こそこそと話したのは事故の詳細がわかって、幸枝に直接聞くのははばかれたのである。

 

「天沢さんのお兄さんが? 」

 

「そう。亡くなったのは交通事故よ。5年前に」

 

「天沢さんに伝えないと・・・・・・」

 

 大黒市のメガマス病院の前で車は止まった。駐車場に行く時間すら惜しく、車から飛び出そうとする彼女たちに幸枝は声をかけた。

 

「・・・・・・ユウコさん、私の姪のことお願いします。私にはまだやることがあって、ついていてあげられないから」

 

 ヤサコたちは幸枝の言葉に不思議そうな顔で急いでいく。彼女たちは本当に急いでいたから、幸枝の言葉の意図にまで意識が割けなかった。

 反対に幸枝の言葉を聞いて小此木は意外に思いながら顔を向けた。

 

「地村さん、ぼくのことは気にしなくてもいいから病室に行ってください」

 

「勇子は・・・・・・絶対に戻ってきます。だから大丈夫です。それよりも資料をまとめて、早々に問題を明らかにしないと」

 

「――それは、」

 

 身内の一進一退に薄情なんじゃないか。そう思った小此木だが、幸枝の手が抑えきれないほど震えているのに気がついた。年長者としてできるアドバイスがあると、小此木は思った。

 ヤサコのお父さんじゃなく、小此木室長でもなく、ただの肉親を亡くしたことのあるひとりの人として。

 

「地村さん。不安ならそばについていた方がいい。その方が、――いつか後悔しなくてすむ」

 

 幸枝は視界が涙で曇るのを抑えきれなかった。本当は、ずっと側にいたかった。けれど、自分がいたところで変わることなんてないから、出来ることをしなくちゃいけないと思っていた。

 

「大丈夫。ちゃんと準備は進んでいるから。今日はユウコちゃんの側にいてあげなさい」

 

 車から降りてしまえば駆け出すだけだ。

通い慣れ、見慣れた道のり。勇子が小さい頃の入院から何度も来た。

 運動不足の足が悲鳴をあげている。でも大したことじゃない。病室が近づくにつれ、人通りは少なくなっていく。出来るだけ急いだ。心臓はもうずっと痛い。

 病室のドアを開ければ、そこにはもうみんなそろっていた。先ほど分かれたばかりの3人、天沢の義兄と義姉、それから小此木医師の奥様。

 幸枝のメガネには、電脳空間が焦げた痕跡が見て取れた。ここでなにかがあったらしい。そして、苦しみに身をよじる勇子と、すがりつくように身を寄せて叫ぶユウコちゃん。

 

「天沢さん! そうよ! こっちよ! 」

 

 アクセスログを確認すれば、勇子の「魂」がアッチにいってしまいそうなのがわかった。どうして。

 でも、居並ぶ人の中でユウコちゃんだけが呆けも諦めもしなかった。

 

「天沢さんのばか! それでも天沢勇子なの? あの勇ましい天沢さんなら戻ってこられるはずよ! 勇子のユウは”いさましい”のユウ! 勇ましい、あなたは痛みを恐れない勇ましい女の子。だからイサコ! 戻ってきなさい! イサコ! 」

 

 イサコと、ユウコちゃんがそう呼ぶたびに勇子のリンクが戻ってくる。

 

――奇跡だ。

 

 それがどんな奇跡にも劣らない所業だと、少なくとも幸枝には理解できた。隣に立っていた小此木医師の奥様も信じられない顔でログを見ている。

 

 意識を取り戻した勇子の姿に、私の体はついにいうことを聞かなくなった。膝に力が入らない。体をぎゅっと丸めてしゃがみこみ、熱くなったまぶたを手のひらで隠した。ぎゅっと抑えておかないと無様な声をあげてしまいそうだった。

 

「よかった……! 」

 

 

 

 

 side:イサコ

 

 

 

「――! 」

 

 私を呼ぶ声がする。本当はずっと知っていたのだ。ただ気がつきたくなかっただけ。

 

 ミチコとお兄ちゃんの思い出の中に、ちらちらとよぎる影があった。

アイスを買いに行ったり、新しいおもちゃを買ってくれたり。お兄ちゃんはよくその人の話しをした。長いお休みになったらまた来てくれるよ、と。

 

 その人は時々あらわれて、お父さんとお母さんの知らないことを教えてくれる。久しぶりに会うのにすぐに仲良しになって、たくさん遊んでくれた。

 

「ユキちゃん、次はいつ来てくれるかな・・・・・・? 」

 

『勇子、今日はとても暖かい日だよ。――、・・・・・・』

 

 

 まぶたに光りを感じる。目を開けたらそこにはヤサコがいて。ああそうだ。私の胸の痛みは、夢の先はここにあったんだと分かった。

 

 ぎゅっと引き寄せられた手に頭を少し起こして、思うままに口を開く。ヤサコはきっと聞いてくれる。

 

「うん。おかえりイサコ」

 

「ただいま、ヤサコ」

 

 涙がこぼれた。胸はずっと痛む。でも私はここで生きていく。ほかの誰でもなく私が大人になる。

 お兄ちゃんを置いて、私は大人になっていく。




閲覧・感想・評価ありがとうございました。次が最後のお話です。


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こたえを出すとき

 しん、と静まりかえった病院の中。あわいひかりが病室の中に満ちている。

 

 病室を埋めていた人たちは、幸枝と勇子を残してみんな病室を出た。本当は幸枝も出ていくべきだが、医師にかけあって話す許可を得た。どうしても話さなくてはいけないと思い詰めて、幸枝は頭を下げた。大人はみんな幸枝に声をかけながら病室を出た。それくらい幸枝はひどいありさまだった。

 

 医師に簡易的な診察を受けた勇子は、もうベッドの上で上体を起こして座っている。細かい検査がまだ必要だが、安静に生活するには問題はないだろうと診断を受けた。

 

 幸枝はいつかと同じようにベッドの横にパイプ椅子を置いて、やっぱり迷っていた。緊張で心臓が痛いほどに打っている。口の中がかわいて、言葉は喉の奥に張り付いて出てこない。自分のそんなところにうんざりしていた。だから頑張ろうと顔を上げて。視界に勇子の姿が映る。

 

 手元に視線を落とした、勇子の横顔。窓から射し込んだ光が、健康的な肌の色を――勇子は、生きている。

 氷が滴になるように、言葉は自然にこぼれてきた。

 

「――勇子。勇子が、無事で本当に嬉しい」

 

勇子に伝わりやすいように、必要最低限の話をしようとしていたのに。やっぱり上手くやることができない。

 ただ、幸枝の言葉に勇子は思うものがあったらしい。視線を少し合わせて小さく頷く。それは幸枝の心に少し勇気を生む。

 

「少しだけ昔の話をしよう。勇子はもうわかっているかもしれないけれど。勇子に言わずにいたこともあるから」

 

 幸枝の言葉はぱらぱらと地面に散らばる雨のようだった。まばらに降り、多くはないがその滴は大きい。信彦の事故のときのこと。旧コイルスを相手に幸子が粘った交渉。勇子の治療でなにが行われたのか。

 

「あの日、信彦とあんたが事故にあった日。病院は手を尽くしたけど信彦はもうだめだったんだ。姉さんは半狂乱で薬で眠らされていた。ショックだったんだろう。幸いにも、あんたは信彦に守られたように軽傷だった。・・・・・・意識が戻るまでは。その後はもうわかるね? そうだ。それで、姉さんはメガマスとやりとりをした。あまりに理不尽だったけど、勇子の治療にはコイルスの技術が必要だった。それを理由に姉さんは訴えを退けた」

 

 勇子はそれを聞いていた。静かに、相づちもなく。ただ目の前の叔母の姿を見て、自分の知らない話があったことにショックを受けた。自分はまだ知らないことがあったし、勇子の知らないところで色んなことが起きていた。

 

「それとね、私はね・・・・・・。ずっと後悔してたんだ。本当にごめん。あんた達が一番つらいときになにも助けてやれなかった。あんた達が大変だったときに、バカみたいに、なにも知らないフリをして仕事をしていた」

 

 幸枝はその言葉を言うとき、勇子から視線をそらさなかった。そうする必要があると思った。もう本当に、自分勝手でどうしようもなくて、喉がひりつくようだった。それでも涙の一滴もこぼさず、声を震わすことなく言い切ることができた。

 勇子はじっと、そんな幸枝の姿を見て、唇をかみしめていた。勇子だって思うところはある。だけどもまだ、整理しきれない感情が多すぎて言葉にできない。そのまま言っていたら、幸枝は「それは当然だよ。こっちが急ぎすぎたのが悪いんだよ」と返したはずだ。それくらいに急に話しをした。幸枝はちゃんと自分が良くないことをしているとは理解していた。一方で、このタイミングで話すべきなのだとも。

 

「・・・・・・こんなところかな。

勇子、体がつらいときにごめんね。でも今、言わないといけないと思ったから無理をさせたね。本当に自分勝手でごめん。他のことはこれから少しずつ話していこう。今日はこれでおしまい」

 

 勇子とはもう目線はあわない。幸枝はそれにがっかりしない。それは当然のことだとも思う。身勝手に胸が痛むことは無視をした。

 ほんの数分だった。約束通りに短い時間。幸枝は腰を上げてパイプ椅子を片づける。荷物はいつのまにか病室の中に届けられている。それを床から拾い上げてドアに手をかけたとき。

 

「ねえ。どうしてオバさんはメガマスで働いているの」

 

 うつむいた勇子の表情は見えない。光りが窓から幸枝の腹までを明るくするが、顔までにはかからない。幸枝はまっすぐに勇子を見つめている。

 その回答はあまりに容易だった。

 

「ゆるせないから」

 

 うすく影がかかった幸枝の表情に嘘はない。やわらかい陽をあびているのに、岩のように固くこごった表情。今まで一度も勇子に向けられなかった目。うすっぺらな声は、必要以上に感情を抑えただけ薄情な響きがあった。

 

「また明日。ゆっくり休んで」

 

 廊下に出ると、いまだに医師も天沢の義夫婦もいた。ほかの人たちは帰ったらしい。当然の時間だ。残っている彼らの善意がうれしい。心配そうな目線が多いが、先ほどまでの自分の行いを振り返れば当然だとも思う。余裕がないというのは嫌だなあ、とぼんやりと幸枝は思った。

 

「大丈夫です。勇子も、疲れた様子でしたけど最後まで聞いてくれました。本当にこのタイミングですいません。でも、今しかないと思って・・・・・・ありがとうございました」

 

 ここにいる人たちは幸枝の話をよく聞いてくれる。頷いて、よかったねと声をかけながら幸枝の考えを聞いてくれる。

 天沢の義姉はそれで幸枝に笑いかけながら、「本当に良かったね」と言って、これからのことを話そうと言った。

 

「それでね、いま少しだけ話したんだけどね。勇子の治療のことなんだけど、私たちには少し難しいから、幸枝さんも一緒に付き合ってもらえないかしら」

 

「もちろんです。・・・・・・あの、それじゃあ私からも提案があるのですけど。

・・・・・・これからのことは、勇子とも一緒に考えていきませんか? 」

 

 

 ・・・

 ・・

 ・

 

 

 side:勇子

 

 

 ぱたりとドアが閉まった病室で、勇子は思い出していた。ひとりで戦うしかないと思って、知識や技術を身につけてここまで来た。その始まりは、オバである幸枝が勇子を否定したことだった。でも、多分、そうじゃなかったのだ。

 

『ユキちゃん、お兄ちゃんを助けるのを手伝って! 』

 

『・・・・・・手伝えない。勇子。信彦のこともいいけど、まず自分の人生を選ばないとだめだ』

 

 そんなこともあった。勇子が退院して、天沢の家に引き取られてそれからのことだったはずだ。言葉をつくしたけどだめで、信彦の体は病院に用意されていたのを見た後だった。勇子の身近で一番、電脳空間に詳しいのが幸枝だった。だから幸枝なら、絶対に自分の味方になってくれると思っていたのだ。それが認められなかったから、裏切られたと思ったのだ。あんなに自分の、お兄ちゃんのことも大事にしてくれたのに。

 

「おにいちゃん・・・・・・」

 

 心細くて手を握ってみたが、つかめるものは毛布くらいしかない。怖くて、不安で、ぽっかり空いた胸の隙間を自覚した。自覚した途端にぽとぽとと滴があふれてくる。勇子の肌をすべってきたそれを乱暴にこすって、倒れるように枕に頭を預けた。

 横たわると日光が顔に当たる。カーテンは開け放たれたままだ。幸枝はそういうところに気がつかない人だった。

 青くなりはじめた空は清々しくて、熱くなった目にはまぶしすぎた。でもその痛みがほんの少し、心の憂いを吹き飛ばす。

 

 傷は簡単に癒えない。苦しいことも、悲しいことも、痛いこともたくさんある。でもこの世界で生きていくとお兄ちゃんに約束したから。

 

 

 ・・・

 ・・

 ・

 

 

 勇子が退院するまでに色々なことが起きた。まず大きなところとして、幸枝の姉で勇子の母である幸子の調子が回復した。

 

 幸枝たちは勇子と幸子の面倒を見ることになり、各方面を走り回ることになった。手続きや治療の方針などで意志決定が必要なため、病院からの呼び出しが存外に多い。

 

 しかも幸枝はメガマスのあれやこれやで打ち合わせも多く、必要なデータのやりとりだけで膨大な時間が必要になっていた。なにせ幸枝が所持しているのは、過去数十年分のメガマスからコイルスまでのデータなのだ。精選しているとはいえ、求められたデータをコピーするのに時間がかかる。幸枝は全体の進捗はわからないが、小此木さんが上手く進めてくれているのは分かった。小此木さんは時々、幸枝に様子を教えてくれた。ひっそり、他の人にはわからないようなパスワードを仕掛け、幸枝は度々その挑戦をこなして。

 幸枝はメガマスを辞めた。

 

 体の治療が済むと、勇子の治療は心理面に及んでいく。電脳体と精神のずれや、信彦を失った心のケアは時間がかかるであろうと、主治医は言っていた。しかしそれは、良い意味で裏切られることになる。勇子はある程度の心の整理ができていた。

 カウンセラーとの面談でも、心理的な検査でも大きな問題は出なかった。電脳体も大きなズレはなく、これからも電脳メガネを使うことに不便はないそうだ。 主治医からそう聞いたときの勇子の、安心した顔が年相応で幸枝はほっとした

 

 勇子が目覚めた日から、幸枝は少しずつ会話を重ねてきた。季節の雑談から電脳技術の話し。今までの時間を埋めるように。幸枝が話すことが多かったが、勇子に話を向けるとぽつぽつと話してくれることが増えていた。ただ、姉の幸子の話になると、どうしても居心地の悪そうな顔をする。

 

 幸枝勇子がこれからどうしていきたいのかを聞かないとならない。本当はそれが聞きたい。

 勇子の思ってることを大事にしたい。だけど、いつもみたいに臆病風が吹いて、そうなるとうまく口が回らない。そうなると幸枝は、どうしてもストレートに聞くことしかできない。できれば、もっとやさしくしたかった。

 義姉にお願いしようとしたが、彼女は自分が信用を得ていないことを理由に断った。食い下がった幸枝に、義姉は首を振るだけだった。

 

 幸枝は病院の中庭のベンチを場所に選んだ。

「話したいことがある」と勇子に言った幸枝はそこまで歩く間に気持ちを落ち着けた。

勇子はもう随分と調子がいいようで、退屈を紛らわすのに苦労しているようだった。今日は幸枝の様子を見て思うところがあるらしい。緊張感のある様子で幸枝に着いてきた。

 

 日差しの差し込む中庭は、ベンチが複数ある人気のスポットだ。いくつもおいてあるベンチには、場所によって先に人が座っている。幸枝が座ったのは、人が座っていないベンチを2つすぎたあたりだった。座って、深呼吸して、そして口から出た言葉が、

 

「これからやりたいこととか、考えていることはある? 」

 

というどうしようもない聞き方だった。ただ、勇子は慣れてしまったようである。隣に座った幸枝を見て、ほんのわずかな間の後に口を開く。

 

「やりたいこと。・・・・・・お兄ちゃんのお墓参りに行きたい」

 

 勇子の望みは簡潔だった。もしかしたら今まで考えていたのかもしれない。

 

「ひとつだけ? 他にない? 」

 

「じゃあ、前の家、・・・・・・お兄ちゃんと一緒に暮らしていた家に帰りたい」

 

 前だけを見つめて出てきた言葉に、幸枝の胸はぎゅっと痛んだ。勇子はたぶん、期待していないんだ。期待して裏切られたらイヤだから、自分で叶えられない願いをまっすぐに言わない。そのふがいなさったらない。

 

「そっか。じゃあ、中学校は金沢でいいね? 」

 

 でも幸枝はもう大人だから。そうすると決めたから。肩を丸めていた勇子が振り仰いで、目を丸くする。幸枝は叶えてあげると決めたのだ。この一般的からはぐれてしまった姪の人生に関わり、できるだけの手を尽くすと。

 きっと自信を持った笑顔を向けられたはずだ。だって勇子の望みを聞けたから。それはとても嬉しい。まだ私が力になれることがある。

 

「勇子の力になれることが嬉しい。だから勇子、遠慮せずに言って。私も思ったことは言うし。

・・・・・・中学校、入学式に間に合うように退院と引っ越しをしないとね」

 

「これからやることはたくさんあるよ」と勇子の肩を叩いたら、勇子は唇を引き結んでうなずいた。

 ためらいがちに、指先を細かく動かしながら口を開く。

 

「・・・・・・あと、電脳メガネのこと、もっと勉強したい」

 

「うん」

 

「新しいメガネも欲しい」

 

「うん」

 

「・・・・・・お兄ちゃんの、話しも、聞きたい」

 

「うん。大丈夫。ひとつずつやろう」

 

 色んな感情をこらえた勇子は、顔をくちゃくちゃにして泣くのをこらえる。肩をふるわせて感情を抑えようと深呼吸をする勇子を見て、ためらったのはほんの少し。――私は決めたのだから。

 勇子が小さかったときと同じに抱きしめた。

腕に力を込めて、くちゃくちゃの顔を隠すように。背中に腕を回してやさしく叩いてやる。あの頃は腕にすっぽり抱え込めたのに、もうこんなに大きくなっていた。あの頃の信彦よりずっと大きい。当然、成長しているのだ。

 

「ごめんね勇子。いっぱい我慢したね」

 

 うなり声のような我慢の声が、泣き声に変わるのに時間はそうかからなかった。幸枝はずっと抱きしめていた。勇子が泣きやむまでずっと。それで、離れ時が分からない勇子の様子がわかったときに、ひときわギュっと抱きしめて「戻ろっか」と声をかけた。

 そうなるともう、勇子は恥ずかしくてたまらない。そういうお年頃だから幸枝をおいてさっさか帰ってしまった。

 ベンチに残ったのはしめった服の幸枝ひとり。だけど幸枝はなんだか満足していた。勇子の後ろ姿を見て、今までのことと未来のことを考えて心を決める。

 提案をしよう。今までの私なら、きっとしなかったことだ。

 

 

 ・・・

 ・・

 ・

 

 

エピローグ A

 勇子は無事に中学生になった。

 

 出願の手続きやら引っ越しの手続き、たくさんの仕事じゃないタスクが積み重なった。幸枝は今までそういった手続きとは無縁だったものだから、たくさんの人に教えてもらいながら乗り切った。勇子も手伝ってくれたし、小此木さんや職場の先輩も力になってくれた。

 

 幸枝は元の職場に復帰していた。勇子と同じく、四月からはメガマスではなく金沢の元の職場である。メガマスのごたごたのついでに辞めた幸枝であるが、どうもチーフが手を回してくれたらしい。契約の内容を忘れてしまっていた幸枝であるが、会社はそうではないので呼び戻されたわけである。

 

 こっちの生活もだいぶ思い出してきた。

仕事はもう問題はない。メガマスのごたごたも落ち着いてきていた。次に起きるのは行政指導あたりだろう。このあたりはもう、幸枝に関係ない。幸枝の要望は既にデータで提出してあるし、あそこにいる人たちもバカじゃない。

 

 それから、勇子の母である幸子は少しずつ回復に向かっている。近い将来、勇子と暮らせる日も遠くない。主治医も驚くような回復らしい。薬が体に合ったのか、それとも心理的な変化が起きたのか。

 

 いま、幸枝と勇子はふたりで金沢の生家で暮らしている。

 

 今日は早く帰ることができた。今までは好き勝手に会社で過ごしていたが、復帰してからは定時に上がって家で夕食の準備だ。勇子との生活にも徐々に慣れた。それは会社の社員の多くが幸枝の事情を知っていたからであり、職場からの甚大なサポートのおかげだった。

 それで今日の仕事というのは、午後からあいさつ周りだったものだから、気を使われて早引けになった。

 そこで思い出したのが勇子の下校時間である。勇子はまだ部活やら寄り道をする気にならないらしい。今日も同じなら帰路のどこかで勇子を拾えそうだった。うまく出会えなかったらそれならそれで、幸枝はそうやって考えた。

 

 いい時期だと思う。

桜が一面に咲いていて、春らしい青々とした香りがする。窓を開けて運転をしても平気なくらいあたたかい。来週あたり、姉が家に一度帰ってくることに決まった。勇子も同意の上だ。

 安全運転で通学路を家に向かって行くと、途中で勇子の背中を見つけることができた。

 

「勇子~! 乗ってかない? 」

 

 勇子の横に車をつけて窓から名前を呼ぶ。ちょっとびっくりした顔で私を見て、それで側に寄ってきてくれる。

 

「オバさん? 今日、はやくないか? 」

 

「そう! 今日は早く上がっていいよ~っていう日みたい。だから一緒に帰らない? 」

 

 「うん」と窓越しに頷いた勇子が車に乗り込んでくる。重そうな鞄を足下において、シートベルトをしめたら出発だ。

 一緒に暮らすことを提案して、それから随分と時間がたったように感じる。それは勇子との会話がうまく回るようになったからだと思う。もちろん忙しくて時間の感覚がおかしくなっているのもある。

 勇子はずいぶん変わった。着るものも、髪型も生き方も変わった。変わったというほど知っているわけではないけれど、勇子の話しを聞く限りでは大きな変化がある。

 

「今日の学校は――? 」

 

「――、」

 

 今だって学校のことだとか、今日の電脳ニュースの内容だとか、私の仕事のことなんかを落ち着いて話すことができている。興味嗜好は相変わらずだ。だけどもこんなにも変わった。

 他愛ない話しもすれば、信彦との思い出で泣いたりもする。姉の幸子との関係を怖いと言ったり、大黒市でなにをやっていたかを話したり。

 で、時々、自分はどうなんだろうと思って、落ち込むときもある。ちゃんと大人ができているんだろうか。

 

「ねえ、――ゆきちゃん」

 

 その言葉にどれだけ胸を打たれただろう。

 

「・・・・・・なに? 泣いたの? 」

 

 照れくさそうに笑う勇子の顔。

必死にこらえても目頭があつくて、またたきをしても喉に熱がこみ上げて。うれしくてうれしくて。

 鼻をすすりながら笑い声をあげた。下手くそな笑いに勇子が肩の力を抜いたのがわかった。私たち、けっこう似たところがあるよね。多分、お姉ちゃんもおなじ。

 間違いばかりでどうしようもない私だけど、ちゃんとできたこともあったんだと、思う。

 

「今日、ご飯なににする? 」

 

「じゃあハンバーグがいい」

 

 「そしたらひき肉を買いに行かなきゃだね」と鼻をすする。不意打ちに運転から逸れていた注意を引き戻す。こんなときに交通事故なんて起こしたくない。知らず早くなっていた速度を落とし、カーブに向かって入っていく。対向車はびっくりするぐらいの勢いですれ違っていった。隣の勇子は電脳空間にアクセスしてハンバーグのレシピについて検索している。顔を前に戻してアクセルに足をかける。

 

 ゆっくり、自分のペースでいくしかない。そうしたら、いつか誰かがありもしない歌を一緒に歌ってくれるかもしれない。

コヨーテの歌

Coyote singing




最後までお読みいただきありがとうございました。完結です。
感想や誤字脱字報告などもいただき、ありがとうございました。
もしよろしければあとがきもご覧ください。


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あとがき

 ここまで読んでいただきありがとうございました。完結までにとても長い時間(4年! )がかかってしまいました。ついてきてくださったみなさんには改めて御礼申し上げます。

 

 さて、ここは蛇足です。 が、後半にはエピローグ Bもあります。好きに読んでいただければ、と。

 

 

 令和に入ってから電脳コイルを見直して、みごとに沼につかりました。優しくないヤサコと勇ましくないイサコの、電脳の絆で結ばれたふたりの女の子。

 

 当初はヤサコとイサコの対称性にバチギレしていたのですが、だからこそ人生で初めてここまで文字数をかけて「勇子と名前を呼ぶ人」を書ききったと思います。何度読み直しても楽しいので、まあそういったところでしょう。技術的にはつたないですが、あることが第一です。未来の私がにっこり。

 

 幸枝

勇子は作中でほとんど「ゆうこ」と名前を呼ばれません。だから彼女の幸せに尽力してくれる人が欲しくてこの人物になりました。幸枝は勇子にふりかかる雨を防ぐ枝です。しかし、枝でしかないので全てを除けることはできません。原作沿いにする上でこの設定は絶対に必要でした。

 徹頭徹尾そういう人であると思います。ですがその一方で、ちょっと不思議なくらいに勇子の幸せを祈っています。そのために勇子の過去をねつ造しまくっています。あのあたりが一番書いていて楽しかったです。人は葛藤しなくては。

 

 ハッピーエンド

で終わりました。「幸せってなんだろ!」と思いながら途中でプロットをやりました。はじめは「イサコを絶対に幸せにしてやる!」と思って書き始めていますので。なんか、でも、イサコは自分の幸せを自分で叶える人だから、余計かなとも思いつつ。幸せを願うのもエゴだなあ、ともなりつつ。だから言葉を尽くさないといけないんだろうな、と思います。そういう感じ。

 

 電脳コイル

最後まで書ききれたのは、電脳コイルという作品の魅力のおかげです。びしゃびしゃに泣きながらアニメを見ました。本当にありがとうございました。近頃(2014年はじめ)では資料などが再版されていて嬉しい限りです。とってもだいすき! イサコ、わらって!!

 

 

 

 

 

エピローグ B

 

『私たちは共犯者だ』

 

 さらさらと通学路を春の風が吹き抜ける。風に混じってちらほらと桜の花びらも飛んできた。

 4月から入学した中学校はブレザーを制服にした学校で、今までとはたくさんのことが変わった。これまでと同じとはいかない。体に合った制服を着て、指定の鞄を持って川縁の道を通う。

 

 後悔はなかった。

これまでと違う生活をすることも、ヤサコとの縁を細いものにすることも。そうすることが自分に必要だと勇子はわかっていた。あの日、目覚めたときから勇子の見える世界が変わったのだ。今までよりもずっと広く物事を見れる。自分のこと、ヤサコのこと。それから家族のことも。

 怖くて目をそらし続けた時間のことや、これまでずっとそばにいてくれた人たちのことを考えると頭が痛いやら恥ずかしいやらで、正面から向き合うのはまだ難しい。でもきっと、いつか全部に向き合うことができるんだろう。それがわかるようになった。

 

 さらさらと風が耳元を抜けていく。髪を下ろすようになってから、視界をさえぎることが多くて非生産的だった。かといって希望の髪型があるわけでもないから、だらだらと長くしている。

 そうやってぼんやりと考えながら歩いていると、車が寄ってきた。見慣れた車だ。開いた窓からオバの顔が見えた。

 

「勇子~! 乗ってかない? 」

 

 オバは普通の会社員だから、この時間帯はいつもなら勤務時間のはずだ。なにかあったのか。車に近寄りながら疑問を口にする。

 

「オバさん? 今日、はやくないか? 」

 

「そう! 今日は早く上がっていいよ~っていう日みたい。だから一緒に帰らない? 」

 

 まぶしそうに目を細めながら私の返事を待っている。その表情はやわらかで、焦りや怒りとは無縁だ。あの日以来、オバさんは激しい感情を見せない。もともとからそういうタイプの人であるらしい。むしろ他の親族に聞くと、あんなに焦ったりしていることのほうが珍しいという。

 

「うん」

 

 頷いたら嬉しそうに笑ってくれたので、なんだか自分が良い行いをしたような気持ちになった。

 ドアを開けて、バカみたいに詰め込まれた鞄を足元に置く。シートベルトをしめたら車は出発した。学校と家はそんなに離れていないけど、歩くより車のほうが楽に決まっている。

 

「今日の学校はどうだった? 」

 

「……委員会活動がはじまって、別に言うこともないから椅子に座ってるだけになった」

 

「えー? 今もそんな感じなんだ。どこに入ったの? 」

 

 オバの問いかけは時々むずかしく、返答に困ることもある。たぶん、あんまり返答の内容に気を使って話していない。慣れていないんだと思う。

 入院しているときから微妙に話がかみ合わなかったり、返答が難しい問いかけが妙にあった。ただそれも、会話の数をこなすうちに大分マシになった。オバは私の反応をよく見て、最適化をはかっている。

 

「そういえば今朝のニュースでAI技術の話が出てたけど、電脳メガネにコンシェルジュみたいなAIサポート機能って載せられないのか? 」

 

「あ~……、まだ容量的な問題が解決しないかな。ただ、個人で賄える程度ならなんとかできるかもね。精度も賄える程度にしかならないけど」

 

 電脳技術に対する知識と回答はブレがない。運転をする横顔を視界に入れると、ほんの少し嫌そうな顔をしている。うまくできないのが嫌なのかもしれない。そういう気持ちはよくわかる。

 

 私もうまくできないことがある。

 

 やりたいのにうまくできなくて、これでいいのかと迷っている。オバは、たぶん、私の望みをできるだけたくさん叶えようとしてくれる。それはありがたいことだけど、私みたいな人間にはそれは困る。ひとりで歩き続けるためには、助けられることに慣れたらいけない。そう、ヤサコに告げたように。

 

 だけど、とも思う。【このひとにむくいたい】とも。

 

 ぽつぽつと続いていた会話が途切れる。オバと話す内容はピンからキリまであるし、話さない時間ももちろんある。その無言の時間に焦りを感じることはもうない。

 だけど今日は、心臓がばくばくと動いている。こんなに動いているのに、オバに聞こえないのが不思議なほどだ。今日は言える気がする。ヤサコから電話が来たからだろうか。あっちはあっちで進んでいるようだったから、私も一歩を。

 

「ねえ、――ゆきちゃん」

 

 言えた! その言葉には長いブランクがあるはずなのによく馴染んだ。昔、ずっとそう呼んでいた。

 ゆきちゃんを見たら、もうすぐに泣きだしてしまいそうな顔をしていた。それはたぶん、悪い意味じゃないほう。

 

「なに? 泣いたの? 」

 

 あんまりにもくしゃくしゃの顔で泣くのをこらえてるし、途中で嬉しそうに笑うものだから。今まであんなにためらっていたのが馬鹿みたいだ。もっと早くそう呼べばよかった。恥ずかしくて頬があつい。

 

 うまくいって、嬉しい。

 

 ぐすぐす鼻をすすって、目をこすりながら運転を続けるゆきちゃん。言葉にならないうなり声で「うー」とか深呼吸をして、それでもう本当にうれしい顔で言う。

 

「今日、ご飯なににする? 」

 

「じゃあハンバーグがいい」

 

「そしたらひき肉を買いに行かなきゃだね」

 

 「うん」と返事をして思い出す。

電脳空間でお兄ちゃんと一緒にいた頃、自分の名前を呼ぶ声を遠くに聞いていた。電脳空間に季節のうつろいや、天気がときどき反映された。お兄ちゃんはゆきちゃんの名前を呼ぶことがあった。

 

 ゆきちゃんはずっと一所懸命で、私たち家族のためにがんばってくれる。いつか、その理由を聞きたい。

 



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