私の前に道はない。私の後ろに道は出来る。 (魔庭鳳凰)
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プロローグ 誰よりも強かった女

元々はコミックマーケットC98で販売予定だった作品なのですが、諸々の都合で販売することができず……。
でも眠らせておくのもあれなので、挿絵付きで全編公開させていただきます。

一週間ごとに1話ずつ更新していきます。
よろしくお願いします。


 天堂(てんどう)久良羅(くらら)は天才だった。

 今でこそ『モウリョウ』の最上級幹部という地位に()いている天堂だが、彼女にも当然、幼少期というモノがある。そして、天堂は幼少期からその才能を存分に発揮していた。

 小学生の頃、発明品で特許をとった。

 中学生の頃、会社を立ち上げた。

 日本の高校には入らず、アメリカの大学に飛び級で入学した。

 その才は(とど)まる所を知らず、天堂は(よわい)十六にして世界でも有数の才人となった。

 だからこそ、天堂はいつも思っていた。

 『なぜ、人間はここまで愚かなのだろうか?』、と。

 長きに渡る人類史においても五指に入る天才である天堂には愚かな人間の心が分からなかった。天堂自身が優秀な人間で、成果史上主義的な人間だったから、天堂には愚者の思考がまるで理解できなかった。

 研究機関に勤務していた頃、非生産的な権力闘争に明け暮れる上層部に失望した。

 立ち上げた会社の幹部達が、自身の利益だけを考え不正を繰り返していたことに失望した。

 説明しても説明しても天堂の考えを理解できない部下と上司達に失望した。

 失望。失望。失望。

 二十を数える頃には、天堂は人間という種に絶望していた。

 そんな時だった。天堂が『モウリョウ』という組織を知ったのは。

 迷いはなかった。躊躇(ためら)いもなかった。道を踏み外すことに、表舞台から消えることに、躊躇(ちゅうちょ)微塵(みじん)もなかった。確かに『モウリョウ』は犯罪組織で、やっていることは悪そのものだ。だが、だから何だ? それがどうしたというのだ? 人間は愚かしい。誰かが導かなければならない。

 天堂は本気でそう思っていた。

 だから天堂は『モウリョウ』に接触し、『モウリョウ』に加わった。

 『モウリョウ』の一員となった際、天堂はそれまでの自分の経歴を全て消して、捨てた。そして天堂は天才だったから、『モウリョウ』でのし上がることも簡単にできた。犯罪の才能があったのかもしれない。根源的な支配欲があったのかもしれない。様々な要因が重なった結果、天堂は(わず)か数年で『モウリョウ』の最上級幹部という地位にまで上り詰めた。

 それはまさしく快挙だった。数百年を超える『モウリョウ』の歴史においても(まれ)にみる快挙。

 そして二年前、天堂はついに空崎市の『モウリョウ』支部統括者になった。

 そしてついに今日、天堂は空崎市で『月下香(ゲッカコウ)作戦』を行った。

 洗脳薬品『ロボトミー』を散布し人心を支配する作戦、『月下香(ゲッカコウ)作戦』。『月下香(ゲッカコウ)作戦』が成功すれば『モウリョウ』は世界を支配することができる。天堂のような正しい人間が人類という種を導けば人類はより発展し、より成長し、より上のステージに行くことができる。

 天堂は『月下香(ゲッカコウ)作戦』の成功を微塵(みじん)も疑っていなかった。

 確かに様々な邪魔が入るだろう。障害も多いだろう。だが、それでも『モウリョウ』は、天堂は何枚も上手なのだ。『ツキカゲ』も他の私設情報機関も『モウリョウ』を舐めている。勝てない、勝てない、勝てない。――――――彼女達では、勝てない。

 自信があった。自覚があった。自負があった。そして何よりも実力があった。

 だから、天堂は『モウリョウ』の勝利を疑っていなかった。

 勝てると、ただ勝てると、盲信していた。

 

 










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第一章 ファイナル・ミッション①

もしも世界を救えるとしたら、どこまでできるか。

もしも世界を救えるとしたら、なにまでできるか。

刃を振るえ!

己が業で、世界を救うために!


 動揺が無かったわけではない。しかし、八千代メイの裏切りは予想できたことだった。

「詰めが、甘すぎる。……やはり人間は、弱い」

 メイの裏切り、つまりメイが二重スパイであったという事実を前にしても天堂は冷静だった。巨大散布装置は既に予備の動力に切り替えている。予備の動力は巨大散布装置とは大きく離れた場所にある。だから、予備の動力を落として洗脳薬品『ロボトミー』の散布を止める方法は取れない。それは時間的に間に合わない。

 つまり、『ツキカゲ』が『月下香(ゲッカコウ)作戦』を止めるためには巨大散布装置自体を破壊するしかない。しかしそれは天堂が巨大散布装置の屋上にいる限りできない。故に『月下香(ゲッカコウ)作戦』を止めるために『ツキカゲ』が取るべき行動は一つ。

「――――――来たか」

「はぁーッ!」

 天堂を倒し、巨大散布装置を破壊する。

 それを実行するためにワイヤーを駆使し、一人の少女が巨大散布装置の屋上へと降り立った。

 桃色の髪。へそ出しの忍び装束。両手に付けられた手甲。腰に装備された刀。膝にまかれたガーターリングとそこに仕込まれたスパイス。服の中に隠された特殊拳銃。空崎高校二年生。スパイ歴約一年。

 その瞳には覚悟が見えた。

 その表情は決意に(あふ)れていた。

 その歩みは確かだった。

 少女の名を、(みなもと)モモといった。

「……ふ」

 天堂は誰にも分からないほど小さく(わら)った。何かが可笑(おか)しかったわけではない。何かが気に(さわ)ったわけでもない。ただ、それでもなぜか笑みが(こぼ)れた。

 覚悟。

 強い、覚悟。

 それが見て取れる。

(だが、それでも勝つのは私だ)

 距離が(ちぢ)まる。

 天堂は『モウリョウ』製の強化薬物を首に打った。

 距離が縮まる。

 モモはスパイスを服用した。

 距離が縮まる。

 天堂は刀を手に取った。

 距離が縮まる。

 モモも刀を手に取った。

 距離が縮まる。

 一瞬の静寂。

「――――――――――――」

「――――――――――――」

 その一瞬の間に、二人は様々なことを思った。

 天堂はここまでに至った道のりを思い出していた。天堂が歩いてきた道のりは決して平坦ではなかった。『モウリョウ』に入ってからも、『モウリョウ』に入る前も、決して楽なだけの道のりではなかった。

 天堂は天才だった。歴史に名を残せるほどの天才だった。しかし出る杭は打たれるもので、だから天堂は人間に絶望した。

 人間は欲深い。正しくない。人類の文明は間違っていた。人間の成長は正解ではなかった。

 誤った人類史で、誤った世界だ。

 正さなくてはならないと天堂は思った。

 天堂のような才人が、正しい人間が、『モウリョウ』が、(あやま)った道を進み続ける人間達を適切に導かなければならないと思った。

 そしてモモもまた、ここまでに至った道のりを思い出していた。モモが歩んできた道のりは決して平坦ではなかった。『ツキカゲ』に入ってからも、『ツキカゲ』に入る前も、決して楽なだけの道のりではなかった。

 モモは一般人だった。多少五感が鋭いだけの一般人だった。

 モモは一般人だったから『ツキカゲ』に入った当初は失敗ばかりで師匠である半蔵門(はんぞうもん)(ゆき)にフォローされることも多かった。モモの失敗で仲間達を危険な目に合わせたこともあったし、自信がなくて落ち込むこともあった。『ツキカゲ』に入ったことを後悔したこともあった。自分のような人間が『ツキカゲ』に入ったのは正しかったのかと、そう悩むこともあった。

 けれど、今のモモは『ツキカゲ』に入ったことを後悔していない。

 当然だったのだ。失敗することは当たり前だった。最初は誰でもそうで、問題なのはそこからどう成長するのかということ。

 モモは成長した。『ツキカゲ』に入った頃と比べて大きく成長した。

 だから、今のモモはもう(おく)さない。敵は『モウリョウ』の最上級幹部。長きに渡る人類史においても五指に入る程の天才。今のモモよりも明らかに強い人間。

 だが、それは決して敗北する理由にはならず、決して逃げてもいい理由にはならない。

 理由。

 モモには戦う理由がある。戦わなければならない理由がある。

 モモは空崎市が好きだ。モモはこの世界が好きだ。モモは仲間達が大好きだ。

 だから戦うのだ。例え、命を()けることになっても。

 師匠の代わりに、モモが天堂を倒さなければならない。

 雪はもう、天堂を倒すことはできないのだから。

「……………………………………」

「……………………………………」

 静寂の中、二人は己の決意を再確認した。

 天堂は人を正しく導くために、

 モモは世界を守り抜くために、

 譲れない思いがある。

 敗けられない理由がある。

 だから、戦うしかないのだ。

 正義の敵はいつも別の正義で、明確な悪なんてこの世には存在しない。

 そして最後に交わすのはいつだって言葉ではなく刃となる。

「――――――――――――」

「――――――――――――」

 合図は無かった。

 ただ、行動のみがあった。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

「先手必勝!」

 初めに動いたのはモモだった。体幹をわずかにずらし、いくつかのフェイントを交えながら限りなく直線に近い曲線行動で天堂に向かって走る。走り、手にもった刀を振り上げる。

 振り下ろす。

 甲高い衝突音。

 激しい鍔迫り合い。

「ッ!」

「っ!」

 客観的な事実として、モモと天堂では天堂の方が優位である。

 その要因は三つ。

 一つ、単純な戦闘能力の差。モモと天堂は双方共に刀を主武器(メインウェポン)として扱うが、その技量は天堂の方が一枚も二枚も上手である。

 二つ、才能の差。天堂は間違いなく天才だ。全能でこそないが万能ではある。ステータスがオールA、全て一流だ。対してモモはどれだけ甘く見積もっても秀才が限度である。間違えても天才ではない。単純な才能の差は単純であるが故に酷く大きな戦力差と成り得る。

 三つ、情報量の差。天堂はメイ経由で『ツキカゲ』の情報をある程度得ている。そしてそれを基準に『モウリョウ』独自の情報網を使って『ツキカゲ』のことを調べあげた。だから、天堂はモモのことを詳しく知っている。どんな武器を使うか、実力はどれくらいか、何がアキレス腱なのかを知っている。対してモモは天堂についてほとんど何も知らない。実力も、性格も、目的も、弱点も、傷も、何も。

 この三つ故に、天堂の優位は明らかなのだ。

 だが、優位であるからといって勝利できるとは限らない。

「源モモ、お前のことは調べたぞ! 警官の父親が死んでいるな!」

「………………」

 本物の戦場に、全力の戦闘に、卑怯などという言葉は存在しない。できることは全てすべきなのだ。何もかもを行うべきなのだ。禁忌も禁則も無い。だから、天堂は攻撃だけでなく口撃も行う。精神が揺らげば太刀筋が(にぶ)る。動揺が発生すれば動きに(あら)が出る。

 油断も慢心も天堂には無い。

 あるのは絶対的な覚悟と絶望的な強さ。

 だが、モモにだってそれらはある。天堂に及ばなかったとしても、天堂より劣っていたとしても、それでも今のモモはそれらを持っている。覚悟も強さも今のモモは持っている。一人でも戦える。隣にも後ろにもどこにも誰も誰一人としていなかったとしても今のモモは闘える。師匠に依存していたモモはもういない。そんな弱さは()うに捨てた。

 全ての犠牲を無駄にしないためにも、モモは勝たなくてはならない。

 だから返されたのは強い意志を宿した瞳。(まばゆ)く輝く両の(まなこ)

「ふっ!」

 単純に腕力の差があった。

 (つば)()り合いの状態から天堂は強引に刀を押し出し、横に払ってモモの刀を弾く。衝撃のあまり蹈鞴(たたら)を踏んだモモに絶妙なタイミングで蹴りを入れる。

「ぐぁッ⁉」

 (うめ)き声をあげて吹き飛ぶモモ。

 驚く程に軽く、(やわ)い身体だった。だから天堂は嘲笑(ちょうしょう)しながら口撃を続ける。

「なぜ死んだのか、我ら『モウリョウ』は真相を知っているぞ!」

「………………ん」

 起き上がり、再び刀を構えるモモ。両の手でしっかりと刀の(つか)を握りしめる。その瞳に動揺は見られない。その表情に(かげ)りは存在しない。

 つまり、響いていない。

 天堂による口撃は全くモモに効いていない。

「ちっ」

 それは天堂にとって少なからず予想外の事態だった。源モモはスパイ歴一年にも満たない新人。半人前未満のスパイのはずだった。身体(からだ)を鍛えることは容易(たやす)くとも、精神(こころ)を鍛えることは容易(たやす)くはない。だから、天堂による口撃はモモの精神に響くはずだった。

 見違えるようだった。

 メイの裏切りによって拘束された時のモモはもっと弱かったはずだ。師匠の死に様を()の当たりにしたモモの心は完全に折れていた。それはモモの心が弱いことを示していて、だからこそ天堂はモモの父親を話題に出した。

 別人のようだった。

 たった一日で、わずか十数時間で、モモは成長していた。

(この程度では動揺もしない、か)

 いや、いいや。

「――――――――――――」

 天堂は大きな勘違いをしている。

 天堂はモモのことを見誤っている。

 モモは強い。

 とても強い。

 天堂は知らないだろうが、モモは()()()から自力で立ち直った。(かえで)()()も絶望していた状況でモモだけは前を向いていた。

 モモは強い。

 モモの精神(こころ)は天堂が考えているよりもずっと強い。

 だから、

「ああああああああああああッ!」

 モモは再び走り出した。一直線に天堂の(もと)へ走り、思いっきり刀を振るう。それに合わせるようにして天堂も刀を振るった。

 今度は鍔迫(つばぜ)り合いにはならなかった。

「はぁっ!」

「ふっ!」

 天堂が弾かれた刀を再び振り下ろす。振り下ろされる刀の軌道を目で追い、モモは体勢を低くして刃から逃れた。そしてその低い体勢から刀を振り上げ、天堂に一太刀を浴びせ、

「っ⁉」

 いや、そんな簡単にはいかない。すぐさま刀を構え直した天堂はモモの一撃を真っ向から迎え撃った。そして万馬奔騰(ばんばほんとう)の勢いでモモを攻め立てる。

「くっ!」

 交わされる刃の数が増えていく。一合、二合、三合、四合、五合。

 攻めるのが天堂で、防ぐのがモモ。

 天堂が前に進む分だけモモが後ろに下がっていく。

 少しずつ、少しずつ、追い詰める。

 少しずつ、少しずつ、追い詰められる。

 振るう。突く。返す。フェイントを入れる。打ち合わせる。

 迎え撃つ。合わせる。(さば)く。(かわ)す。逃げる。

「――――――っ!」 

「………………っ!」

 ここで出たのが厳然たる実力の差だ。

 地力では天堂が(まさ)っている。

 だから、モモが激しすぎる天堂の攻撃から逃げられなくなるのは必然だった。

「はぁっ!」

「っあ゙!」

 モモの体勢が崩れた瞬間を天堂は見逃さなかった。コンマ一秒にも満たない隙は、しかし天堂からすれば十分過ぎた。

 (かん)(ぱつ)入れずに蹴りを放つ。モモは避けられなかった。真面に()らった。

 再びモモの身体が吹き飛ぶ。これでモモが()らった蹴りは二発。ダメージは嫌でも蓄積する。いずれ根性だけでは誤魔化せなくなる時が来る。

 一太刀でも受ければ終わり。

 そして『月下香(ゲッカコウ)作戦』完了まで後四分を切った。

「ぐ、ぅ」

「ふ」

 三度目の攻撃は天堂から仕掛けた。走り出し、刀をモモに向かって振り下ろし、

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――――――――――――」

 それは間違いなく完璧で完全な、これ以上ない程に適確なタイミングでの攻撃。予想外の方向からの、予想外の速度での、予想外の武器を使った攻撃。袖口に仕込んだ金属針を射出する。そんな攻撃を予見できるわけがない。

 だからモモは金属針を避けられないだろう。避けるにはあまりにも距離が近すぎて、あまりにも射出速度が速過ぎた。

 故にその三本の金属針はモモに直撃し、

(な、に……?)

 直撃は、しなかった。

 モモは射出された金属針を回避した。

 といってもその回避は完全ではなかった。金属針はモモの頬を僅かに(かす)り、空の彼方に消えていった。

(見えたのか? 予備動作を最小限に留めてなお?)

 もう『ツキカゲ』メンバーで天堂の戦闘スタイルを知っている人間はいないはずだ。メイの見ているところで天堂は戦っていないし、今始めて戦っている(さま)を見せたモモに天堂が暗器使いであることが分かるはずもない。

 であるとすれば、と天堂は考える。

 であるとすれば、モモは純粋に成長したのだ。何らかの手段、第六感か前兆を感知したのか分からないが、ともかく何らかの手段でモモは天堂の金属針による攻撃を察知した。

 そうとしか考えられない。

(……確かこいつは五感が異常に(すぐ)れていたな。それが理由、か……?)

 だが、と天堂はほくそ笑む。

 モモの頬に金属針は(かす)っている。モモは金属針を完全には避けられなかった。その代償は大きい。必ず、後になって響く。

(…………っ⁉)

 ギチリとモモの頬に(しび)れが走った。それは平時であれば無視できる程度の違和感であったが、極限の集中状態を維持している今では無視できない違和感だった。だから、その影響でモモの体勢は左に流れ、目線は金属針の飛び去った右側を向いてしまった。

 つまりは隙だらけだ。

 勝てる、と天堂は確信した。

 当たる、と天堂は確信した。

 これで終わり。

 これで勝利。

 四百年にも渡る『モウリョウ』と『ツキカゲ』の因縁はここで終わる。

 『月下香(ゲッカコウ)作戦』は完了される。

 そのはずだった。

「なぁ⁉」

 『ツキカゲ』と『モウリョウ』の最大の違いは何だろうか。

 『ツキカゲ』は正義の組織で『モウリョウ』は悪の組織であることか?

 『ツキカゲ』は少数精鋭で『モウリョウ』は上層部以外粗悪乱造であることか?

 違う。そうではない。『ツキカゲ』と『モウリョウ』、その最大の違いは、

 最大の違いは、

((かえる)、だと⁉)

 それは天堂にとって完全に予想外の攻撃だった。いや、正確に言えばそれは攻撃ではなかった。しかし、少なくとも天堂の意識は()れた。

 『ツキカゲ』の使役する忍動物の一匹――カマリという名の(かえる)がモモの胸元から跳び出し、天堂に跳びかかり、天堂の意識を僅かに()らした。

 だから追撃が一瞬遅れた。その一瞬は値千金の時間で、カマリがもたらした非常に有益な時間だった。

(今っ!)

 その一瞬で、モモは体勢を立て直し、いやそれどころか天堂に先んじて攻撃を行った。

 全身全霊で刀を振り下ろす。この一撃に魂を掛けるが如く。

「ふっ‼」

「っう‼」

 甲高い音を立てて刀同士が接触し、火花を散らす。

 単純な腕力では天堂の方が勝っている。だからこそ、今回の結果にはそれ以外の要因が加わっていた。

(圧さ、れ)

(押し込むっ!)

 戦闘における重要要素は主に三点。すなわち心技体。精神、技術、身体。

 この時、天堂の精神は揺らいでいた。動揺していたと言い換えてもいい。

 カマリによる奇襲はそれほどまでに予想外だった。

 だからこの一瞬だけ、モモは鍔迫り合いで優位に立つことができた。

 だから、天堂は刀の握りを僅かに緩めた。

「な」

 緩急の緩。あえて握りを緩め力を抜くことで相手の体勢を崩す技術。

 積み重ねてきたモノがある。

 歩んで来たのはエベレストよりも険しすぎる道のり。

 天堂久良羅。

 十三人しかいない『モウリョウ』最上級幹部の一人。

 世界史に残れるほどの才人。

 これが、天才。

「くぅ!」

 千載一遇のチャンスだった。

 まさしく今しかない好機だった。

 それを失った。

「ふん!」

 弾かれる。

 弾かれた。

 そして開く距離。

 もう少しだけモモに経験があれば、ここで天堂を仕留められたかもしれない。

 もう少しだけモモに力があれば、ここで天堂を倒せたかもしれない。

 もしモモが雪からアドバイスをもらっていれば、ここで天堂に勝てたかもしれない。

 だが現実は非情だ。絶好の機会は失われた。もはや天堂に隙は無い。

「はっ!」

 開いた距離は好機だった。遠距離用の武装を天堂は持っている。金属針を仕込んでいた袖口とは逆の袖口からワイヤーを射出する。

 ワイヤーがモモの持っている刀の柄に(から)みついた。それを確認した天堂はワイヤーを操り、モモの刀を遠くに放り投げた。

「⁉」

 刀が手から離れる。主武装(メインウェポン)を失った。無防備。

 それは天堂が手にしたチャンスだった。今しかないという絶好で最高のタイミング。天堂はそのチャンスを逃さず、一気にモモとの距離を詰める。

 そしていくつもの超高速フェイントを繰り出しながら水平に刀を振るう。

 モモの首を()ねる高さで、刀を振るう。

 シュッ、と一際大きな風切り音がした。

「――――――」

 だが、モモはあくまでも冷静だった。いっそ冷徹な程に冷静だった。心を(たぎ)らせても思考は冷たく。それはまさに一流のスパイの在り方。雪と同じ、一流のスパイとしての在り方。

 モモは成長していた。天堂との戦いの中で急激に成長していた。

(見える)

 時間の流れが遅くなっていた。

 思考があり得ないくらい加速しているのを自覚できた。

 天堂の振るう刀の軌道が分かる。非常にゆっくりと動いている。

 右手を(ふところ)に伸ばしながら、体勢を後ろに倒して、モモは天堂の刀を避けた。

 スパンッ、と風切り音が止まった。

(ちぃっ⁉)

 完璧な受け身をとり地面に倒れたモモはその体勢のまま両手で銃を構えた。

(いつのま、に⁉)

 防御が間に合ったのは間違いなく日頃の努力の賜物(たまもの)だった。モモの手が懐に伸びているのを視認した瞬間、天堂もまた服の中に隠し持っていた鉄扇を左手に持った。

 銃弾が放たれる。一発、二発。特殊弾頭を使用しているが故に軽い発砲音。しかし直撃すれば間違いなく天堂は敗北する。

 だが、天堂も()る者だ。鉄扇で銃弾を防御した。

(くっ)

(ふん)

 攻撃の失敗を悟った瞬間にモモは次の行動に出た。拳銃の設定を変える。弾丸射出モードからワイヤー射出モードへ。『ツキカゲ』の技術力だからこそできる同一武器に内蔵された複数の機能。それは間違いなくモモのことを助けていた。

 天堂の追撃よりも早くワイヤーを射出する。

 射出されたワイヤーが巨大散布装置の鉄柱に絡みついた。ワイヤーを巻き取ってモモは天堂から距離を取る。

 そして、先ほど天堂がワイヤーを使って放り投げた刀を回収した。

(やらせない……)

 ホルスターから物体透明化ハンドクリームを取り出す。それを手の指に塗り、立ち上がりながら言い放つ。

 開いているのは距離。

 開いているのは心の距離。

 それはもう埋められない。今はもう、戦う以外に道はない。

「これ以上、皆に酷いことはさせない!」

 物体透明化ハンドクリームを刀身に塗りながらモモは強く言い放った。

 隠される刀身とは正反対に明らかにされるモモの決意。

 強い言葉で、強い心。

 偽物ではない、本物の強さ。

「素敵なこと、だ。導いてやるのだから」

 見えなくなった刀身に天堂は少しだけ警戒を強める。刃渡りは完全に把握している。ギミックも無いだろう。モモの腕と手の動き、そして視線を追えば刃が見えずとも刀の動きは把握できる。

 ここで負けるわけには絶対にいかなかった。

 人類は救えない。故に、導く必要がある。天堂はそう強く信じているから。

 偽物でもあり本物でもある人造の強さ。

 それが天堂久良羅という人間の根幹。

「はあッ!」

 モモが刀を振るう。天堂の足を払うように。

 それを天堂が(なん)なく避ける。前方宙返り(サマーソルト)で上手く避ける。

 その行動に一瞬モモが驚愕した瞬間、三度(みたび)天堂の攻撃がモモを直撃した。

「ごッ⁉」

 もろに腹に入った。胃が引っ繰り返りそうになるほどの衝撃。胃液が口から飛び出そうになって、モモは思わず呼吸を止めた。

 呼吸を止めている暇などなかった。

(落ち、っ!)

 天堂とモモが戦っている場所は高度三百メートル以上ある巨大散布装置の屋上だ。落ちれば一貫の終わり。その先には死あるのみ。

 屋上から蹴り出されたモモの身体が宙に浮く。このままではモモは地上に向かって真っ逆さまだ。都合よく助けなんて来ない。今はもう、誰もモモのことを助けられない。

 だからモモ自身がモモのことを助けなければならない。

「――――――――――――」

 あくまでも冷静に、

 いっそのこと冷淡に、

 怖いほどに冷徹に、

 モモは腰に差したバールのようなモノを手すりにひっかけ、そのまま手の力だけで屋上へと舞い戻った。

「ほぉ」

 感心したような溜息に関心を持つ暇はない。

 モモは屋上に舞い戻ったその勢いのままにスライディングし、カポエイラの動作で逆立ち状態になって右手に持った刀を天堂の(ひざ)付近に向かって振るった。

「っはぁ!」

 だが、その動作は戦いの当初に比べてあまりにも(にぶ)すぎた。故に、簡単に避けられる。そう、モモの動きは(はた)から見ても分かるほどに(にぶ)くなっていた。モモが消耗したのもその理由の一つだろう。天堂がモモの動きに対応してきたのもその理由の一つだろう。

 しかし違う。モモの動きが鈍くなっている理由は、その大きな理由は、もっと他にある。

 それは、

「我らが適切に人を運用してやるっ!」

 天堂は勝ちを確信した。

 一分前の一撃が勝敗の分かれ道だったのだ。

 才能(あふ)れる少女でも、経験が足りなかった。

 才気煥発(かんぱつ)な少女でも、苦境が足りなかった。

(…………こ、れ……って…………)

 足がふらつく。

 腕が(しび)れる。

 視界が(かす)む。

 身体が重い。

 思考が鈍い。

 これは、

 これ、は……っ!

「ぐっ、うぅっ!」

「効いてきたようだなぁ、源モモ」

「っ……!」

 違う。精神的なモノが原因ではない。

 違う。モモの体力が尽きているわけではない。

 違う。モモの技術が急に衰えたわけではもちろんない。

 原因は外部にあった。

 敵は悪の大組織『モウリョウ』だった。

 天堂は『モウリョウ』の最上級幹部で暗器使いだった。

 この戦いに卑怯などという言葉は存在しない。

 つまりは、

「毒……っ!」

「我ら『モウリョウ』特製の毒だ。名を『九天カンタレラ』。いくら『ツキカゲ』といえども、研究班の連中が丹精込めて作ったそれを解毒することはそう簡単にはできないだろう?」

「くっ!」

 いつ毒を()らったのか、モモには思い当たる瞬間があった。

 天堂が袖口から放った三本の金属針。『九天カンタレラ』はそれに塗られていたに違いない。モモは金属針を完全には回避できなかった。金属針はモモの頬を(かす)っていた。

 だからモモは毒に侵された。

 思えばモモの動きは金属針が(かす)った瞬間から僅かに(にぶ)っていた。

 頬に走った(しび)れ。崩してしまった体勢。逸らしてしまった視線。

 全て、毒のせいだ。

 『九天カンタレラ』はモモを侵し、犯した。

「消してやろう。以前の『ツキカゲ』共と同じように」

 月の光を反射して(にぶ)(きら)めく天堂の刀。

 爛々(らんらん)と輝く緋色の瞳。

 口元は弧を描き、頬は朱色(しゅいろ)に染まる。

 絶対的優位。圧倒的優越。

「魂だけは、誰にも消せない」

 だが負けていない。

 確かに現状はモモが圧倒的に不利だ。

 身体中に毒がまわり動きが(にぶ)くなってしまっている。刀を持つ手は震え、瞳に映る景色に(もや)がかかる。荒くなる息、上昇する心拍数。

 自覚する。このままでは勝てない。ただでさえあった実力差がさらに開いてしまった。

 このままでは勝てない。

 だから、

(……ふぅーっ、……ふぅー……っ…………)

 モモは覚悟を決めた。天堂はモモよりも強い。絶対的な差がある。それを(くつがえ)す為には、それを引っ繰り返す為には、モモも覚悟を決めなければならない。

 今は亡き雪がモモに教えてくれたこと。

 今は亡き師が弟子に受け継がせたモノ。

 それは技術的なモノだけではない。スパイとしての在り方。絶対的窮地(きゅうち)でとるべき行動。

 覚悟を決めろ、源モモ。

 天堂に勝つために、狂え。

 狂って狂って、常軌を(いっ)しろ。

 普通じゃなくなれ。異常になれ。

 覚悟を決めろ。

(師匠…………)

 思い出せ。

 想い出せ。

 思え。

 想え。

(師匠、力を、力を貸してください。弱い私に、この女に勝てるだけの、力を)

 月の光を反射して(にぶ)(きら)めくモモの刀。

 爛々(らんらん)と輝く黄金の瞳。

 身体の自由は利かなくなり、頬が血で染まる。

 絶対的不利。圧倒的劣勢。

「――――――――――――」

「――――――――――――」

 二人は直感した。

 おそらくは、これが最後の交錯。

 次の一撃で勝負がつく。

 終わりが近い。

 全ての終わり。

 『ツキカゲ』と『モウリョウ』の間にある、長きに渡る因縁。

 それが今日、終わる。

 










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第一章 ファイナル・ミッション②

命を懸けてでも闘う理由。

もういない貴女のために。

これから先の未来のために。


 左右に刀を揺らし、モモの視線を僅かに誘導しながら天堂は質問した。

「勝てると思っているのか」

 あからさますぎる時間稼ぎでありながら本心からの疑問でもあった。

 そもそもが異常なのだ。モモはつい一年前まで一般人だった。なのにモモはたった一年で天堂と戦うことができるほどの実力を身につけ、スパイとしても一流になった。

 命を懸けた戦いに恐れず取り組み、死を(もたら)す攻撃を受けてもなお(くじ)けない。

 あり得ない強さだ。

 あり得ない成長だ。

 あり得ない才能で、あり得ない努力。

 モモは異常だ。

「そんな毒に侵された身体で、『モウリョウ』最上級幹部たるこの私に」

「勝てる勝てないは関係ないよ」

 勝てるから戦うんじゃない。

 勝たないといけないから戦うんだ。

「勝たなきゃ何も守れない」

 空崎市にはモモにとって大切なモノがたくさんある。護りたい人がたくさんいる。

 それは名前も知らない空崎市民、それはモモのクラスメイト、それは家族、それは仲間達。

 護りたいと思っている。

 護るためにモモは『ツキカゲ』に入った。

 受け継いだモノがある。受け継いだ覚悟がある。

 無駄にはしない。

 無駄にはさせない。

 (師匠)モモ(弟子)に残したモノ。

 受け継いだのは技術と想い。

 『ツキカゲ』は途切れない。

「だから勝つんだよ」

 真っ直ぐな瞳。

 真っ直ぐな眼。

 (まぶ)しい。

 (まばゆ)くて、直視できない。

「若いな」

「老いてるね」

「青いな」

「黒いね」

「これで」

「終わらせる」

 モモはもちろん、この会話が時間稼ぎであることには気づいていた。時間が経てば経つほどにモモの身体には毒が回っていく。毒が回ればモモの動きは(にぶ)くなる。天堂がそれを狙っていることに、当然モモは気付いていた。

 だからモモが天堂の時間稼ぎに付き合ったのには理由がある。

 準備が必要だった。

 覚悟が必要だった。

 勝つために、ここから先の未来に繋げるために、モモには時間が必要だった。

「あなたに勝って、私は空崎市の皆を救う」

「お前に勝利し、私は人類を救済する」

 それぞれがそれぞれの覚悟を口にする。

 刀を構える。

 モモは正眼の構え。天堂は八相の構え。

「………………………………………」

「………………………………………」

 息を整える。

 静寂が空間を満たす。

 張り詰めた空気。

 膨らみきった風船のような緊張感。

「――――――――――――」

「――――――――――――」

 動いたのは完全に同時だった。

「あああああああああああああああああああああああッッッッッ‼」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッッッ‼」

 一瞬の交錯。

 振るわれた刀。

 血飛沫が舞った。

 一人が膝をつき、倒れた。

 一人が走りきり、刀に付いた血を振り払った。

「は」

「ぁ」

 勝敗は、

 此処についた。

 











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第一章 ファイナル・ミッション③

敗北の先にあった勝利と、

勝利の先にあった敗北。

クエッション。

誰かのために戦う人間と皆のために戦う人間。

果たしてどちらが強かったのか。




 何の想定外も無かった。

 この勝敗は全て前評判の通りだった。

 当然の帰結だった。

「ぁ、か……っ!」

 勝てるわけがなかったのだ。

 届くわけがなかった。

 モモと天堂では全てが違った。

 才能に差があった。

 経歴に差があった。

 経験に差があった。

 能力に差があった。

 武器に差があった。

 技術に差があった。

 情報に差があった。

 他にも、他にも多くの、本当に多くの差があった。

 だから、勝てるわけがなかったのだ。

 モモが天堂に勝てるわけがなかったのだ。

「ぐ、ぅ……っ」

 膝をついたのはモモだった。

 そのまま倒れたのもモモだった。

 一瞬の交錯の内に天堂の刀はモモの胴を深く切り裂き、けれど、モモの刀は天堂には届かなかった。

 それが結果だった。

 カラン、とモモの手から刀が(こぼ)れ落ちた。

「終わりだな、源モモ」

 無理があった。

 元々あった莫大な差。それはモモが毒に侵されたことでさらに広がった。

 勝てるわけがなかったのだ。毒に侵された身体は満足に動かなかった。振るう刀は遅すぎて、走る速度も遅すぎた。

 だから当然、モモは負けた。

「――――――――――――」

 倒れ伏したまま起き上がらないモモ。

 切り裂かれた胴からは大量の血液が流れ出ていて、贓物(ぞうぶつ)も見え隠れしている。後数分もすればモモは死ぬだろう。

 そして『月下香(ゲッカコウ)作戦』の完了まで残り二分を切った。もはやモモを放置しても何の問題もない。

 だからこそ、天堂はモモを追撃する。

 殺す。殺す。殺す。雪をそうしたように、モモも確実に殺す。

 圧倒的優越感に(ひた)りながら、天堂はモモに近づいた。

「……ぅ、……ぅぅう……ぁぅ…………」

 起き上がらない。立ち上がらない。伏したまま、動かない。

 もう少し、時間が足りない。まだもう少し、時間が欲しい。

 足音がした。

 視線を僅かに上げる。気付かれないように、偽る。

「お前はよく頑張ったさ。だが現実は非情だなぁ」

 近づいてくる。ちかづいてくる。チカヅイテクル。

 時間が足りない。まだ、あと、もう少しだけ時間を稼ぐ必要がある。

 どうする?

 どうすればいい?

 思考を(めぐ)らせて、懸命に考えて、モモは決断した。

「お前は私には届かなかった」

 天堂はここに来て初めて(ゆる)んだ。だがそれも仕方のないことだろう。傍目(はため)から見てももう勝負はついているのだ。天堂の刀はモモの胴を深く切り裂いた上に、モモの身体は『モウリョウ』が作った特製の毒薬『九天カンタレラ』で侵されている。天堂でなくとも気が(ゆる)む状況だ。

 そもそもモモはもう倒れ伏したまま起き上がってこない。起き上がる努力はしているようだが、大量出血と毒に侵された身体ではそれすらもできないようだった。モモはもはや、藻掻(もが)足掻(あが)き苦しんでその果てに死を待つのみだ。モモが助からないのはもう確定している。

 だから天堂は油断した。慢心した。勝利を確信していた。

「これで、『モウリョウ』の勝利だ」

 まだ、モモは生きているというのに。

「っ!」

 全身の力を指先に込めて、

 まさしく死力を尽くして、

 モモは銃の引き金を引いた。

「――――――――――――」

 銃口を上げるようなことはしない。しないというより、今それをして無意味だ。たかが銃弾一発で倒せるほど天堂は弱くない。その程度の敵ならば雪が倒している。だからモモは銃口を上げるようなことはしなかった。あえて地に置いたままの状態で引き金を引いた。

 欲しかったのは時間。

 後三十秒程度の、時間だけ。

 そして銃弾が放たれて、

 空を(つんざ)轟音(ごうおん)が鳴り響いて、

「は」

 銃弾は、明後日の方向に飛んでいった。

 弾丸は、天堂に(かす)りもしなかった。

 最も、例え天堂に当たったところで対したダメージにはならなかっただろうが。

「ははは! 何だ、まだ動けたのかっ!」

「はぁっ、はぁーっ、……っ、ま、…………ぅうぅううう!」

 楽しそうに天堂は笑った。

 最後の攻撃で、最期の力を振り絞った反抗だと天堂は思った。

 その反抗が明後日の方向に飛んでいったのがたまらなく可笑(おか)しかった。

 モモの必死な努力は(むく)われなかった。

 そして距離がゼロになる。

 天堂が地に伏したモモをすぐ(そば)から見下す。

「お前は頑張ったさ」

 勝敗はここに決した。

「お前は本当によく頑張った」

 モモの努力は実らなかった。

「だからもう、いい加減楽になれ」

 全ての点でモモは天堂に劣っていた。

「……………………………………ぁ」

 ただ、

 ただもしも、

 もしもただ一点だけ、モモが天堂に(まさ)っている点があるとすれば、

 才能も経験も経歴も戦闘能力も組織力も武器も情報量もその他の全てにおいても劣るモモがたった一つだけ天堂に(まさ)るモノがあるとすれば、

 それは、

 それはきっと、

「………………………………………………………………………は?」

 まず覚えたのは違和感。

 次に感じたのは疑問。

 そして最後に痛みがきた。

「が、あぁあぁあぁぁああぁああぁぁぁあああぁぁああぁああああッッッッッ⁉」

 覚悟。

 その一点だけ、モモは天堂に(まさ)っていた。

「づ、がっ⁉ ば、ごっ、い゙い゙い゙い゙い゙い゙い゙‼」

「あ、はっ」

 刀が、刺さっていた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「な、おまっ、どぅ」

「……………………………師、匠」

 意味が、わからなかった。

 わけが、わからなかった。

 まるで、理解できなかった。

 何が、起こっている。

 どうして、こんなことになっている。

 なぜ、モモが立ち上がっている。

 なぜ、モモが動ける。

 なぜ、あまつさえ、天堂の心臓に刀を刺すことなど。

「あっ、ヒゅっ……!」

 信じられない。

 けれど、どれだけ再確認をしたところで現実は変わらない。

 息が、漏れる。

 息が、絶える。

 天堂の呼吸がどんどん不確かになっていく。

「あ、ぁあぁああ、あ」

 ガクリ、と天堂は膝をついた。

 混乱の極致。理解できない現実。

 絶対の勝利を確信していた。

 完全な敗北が確定していた。

 なのに(くつがえ)された。その理由が天堂には分からない。

「――――――――――――――――」

「――――――――――――――――」

 無様に崩れ落ちる天堂と震える足で立ち上がるモモ。

 巨大散布装置の屋上における世界の命運をかけた戦いは単純な天堂の勝利では終わらなかった。天堂は最後に油断した。天堂は最後に慢心した。それが、こんな下らない結末を招いた。

 例えば、天堂がモモに近づかなければこんな結末にはならなかった。

 例えば、天堂が遠距離からモモに止めを刺していればこんな結末にはならなかった。

 例えば、天堂がモモのことを放置しただけでもこんな結末にはならなかった。

 紙一重の攻防だった。

 紙一重の勝敗だった。

 だからこその相討ちという結果。

 だからこその引き分けという結末。

 そう、引き分け。

 例え巨大散布装置を破壊できたとしても、モモはもう助からない。

「みな、もと……モっ、モ…………」

「あっ、っぐはっ!」

 二人は共に限界であった。

 天堂がモモから受けた攻撃は僅かに一太刀のみだったが、その一太刀はあまりにも致命的だった。天堂の心臓を貫くモモの刀。いかに薬物で強化した身体といえども、心臓を貫かれてはかなわない。もう無理だ。天堂は死ぬだろう。そして、モモもまた助からないだろう。モモは天堂から幾度(いくど)も攻撃を受けている。蹴りを三度、刀で斬り付けられること二度、そして毒薬『九天カンタレラ』による侵蝕でもうモモの身体はボロボロだ。まず間違いなく助からない。

 けれど、だ。

「がっ、私は……ッ人類を!」

「っ、はな……し、てっ!」

 天堂はモモの右腕を(つか)んで離さない。行かせない。絶対に行かせない。巨大散布装置を破壊などさせないとその全身を使って訴えている。拘束を振りほどけない。もう時間がないというのに、いったい心臓を貫かれた天堂のどこにそんな力が宿(やど)っているというのか。

 そして再確認するまでもなく、モモの目的は天堂を倒すことではない。モモの目的は洗脳薬品『ロボトミー』の散布を止めること。散布を止めるためには天堂の存在が邪魔で、だからモモは天堂と戦っていただけだ。

 天堂の目的もモモを倒すことではない。天堂の目的は洗脳薬品『ロボトミー』の散布を完了させること。薬品の散布を完了させるためにはモモの存在が邪魔で、だから天堂はモモと戦っていただけだ。

「救済、を!」

「離せェっ!」

 タイムリミットまで残り一分。

 二人とも必死だった。

 持てる力の全てを使っていた。

 天堂は刀が胸に刺さった状態のまま、全力でモモの右腕を(つか)んでいた。

 モモは天堂に刀を差した状態のまま、全力で天堂から離れようとしていた。

(体力、が)

 モモは、(わざ)と天堂の攻撃を受けた。

 時間が欲しかったのは、つまりそういうことだ。

(私が)

 内臓に達するほどに深い傷を受けたとしても、人はすぐに死ぬわけではない。特にモモのように鍛えている人間は、モモのような特別な訓練を受けている人間は、すぐに動けなくなるわけではない。傷を負った時の対処法も、死にそうな時の心構えも、モモは知っている。

 教えてもらわなくても理解していた。

 雪の()()()から、ちゃんとモモは学んでいた。

(わたしが)

 毒に侵された身体。頬から身体の中に入り込んだ毒物、『九天カンタレラ』。

 モモは(わざ)と重傷を負うことで(にぶ)くなる身体の動きを抑えようとした。

 つまり傷つくことで意識の覚醒を(うなが)し、血を流すことで体外に毒物を排出しようとした。

(ワタシガ)

 その目論見(もくろみ)(なか)ば成功した。失った血液は多く、モモはもうどうやっても助からないだろう。だが痛みによってモモの意識は覚醒し、多くの血を流したことで『九天カンタレラ』は多少なりともモモの体外に排出された。

 だから時間が必要だったのだ。会話という名の時間稼ぎに付き合ったのは重傷を負うことを覚悟する時間が欲しかったから。近づいてくる天堂を牽制(けんせい)したのはもっと血を流す必要があったから。

 毒に侵された身体でそれが最善だとモモは判断した。まともに戦っても勝てないのなら、勝てる可能性を一パーセントでも増やすためなら、みんなを守るために、空崎市を救うために、『モウリョウ』をぶっ潰すために、正常ではダメだった。何もかもが足りなくて何もかもで劣っていてここで負ければ全てが終わりだというのなら、モモに必要なのは覚悟だった。

 心技体。技術で勝てず、身体能力でも劣るのならば、勝るべきは精神力。

 あらかじめ覚悟しておくのとしておかないのとではその後の動きが変わる。覚悟さえしていれば重傷でも動ける。

 だから、時間が必要だった。

「ぐっ!」

 モモは賭けに勝った。

 覚悟を決め、攻撃を受けたところで負ける可能性は十分にあった。

 天堂がモモに近づいてこなければ終わっていた。

 天堂がモモが動けることに気付いていれば終わっていた。

 傷を負った影響でモモが動けないようならば終わっていた。

 他にも他にも、少しでも何かが()み合わなければモモは敗北していただろう。

 手繰(たぐ)り寄せた奇蹟は、モモの描いた軌跡の結果だった。

 だが、

 だがっ!

「いか、せ…………かっ……!」

 天堂にだって、理由がある。

 天堂にだって、覚悟がある。

 『モウリョウ』の最上級幹部。

 天堂久良羅。

 積み重ねてきた実績。

 重ねて来た年月。

 こんなところで、終われない。

 天堂にだって、覚悟はある。

「――――――っ⁉」

「っ――――――⁉」

 それはもはや実力勝負ではなく精神力の勝負だった。双方ともに身体的にボロボロならばあとに残るのは心の力。

 天堂はモモの右腕を万力のような力で(つか)んで逃がさない。ここが天堂の命を懸けるべき場所。この瞬間こそが天堂の生きてきた意味。

 死にかけの天堂にこれほどの力が残っているなんてモモには信じられなかった。

 モモは何度も天堂を殴りつける。残った体力の全てを消費する勢いで。ここが天堂の命を懸けるべき場所だというのならばモモだってそうだ。ここがモモの頑張り時。今こそがモモの人生の集大成。一年にも満たない『ツキカゲ』の活動期間で学んだことをすべて出せ。モモが雪から学んだことの成果を見せろ。覚悟とは何か、モモは知った。スパイの生き方を、モモは教えられた。

 雪はモモを死んでも護った。

 メイは雪の死に直面してもダブルスパイであり続けた。

 覚悟をしていたのはモモだけではない。

 弟子を護るために死んだ師匠。

 『モウリョウ』を壊滅させるために『ツキカゲ』に恨まれる選択肢を選んだメイ。

 誰にでもできることではない。

 その全てを無にしないためにも、モモはここで勝たなければならない。

 天堂には敗けられないと、モモは思っていた。 

 モモには敗けられないと、天堂は思っていた。

 タイムリミットまで残り十七秒。

「う、っ……‼」

 焦っていたのはモモの方だった。天堂はただ時間が過ぎるのを待てばいい。だがモモは違う。モモは、後十六秒以内に天堂の拘束を振り(ほど)き、巨大散布装置を破壊しなければならないのだ。たった十六秒でこの均衡状態を破る必要がある。

 たった、十六秒。

「はな、してよ……っ!」

「だれが、はなすか……っ!」

 均衡状態を破壊しなければならない。そのためには何が必要だ? たった十五秒。後十五秒のタイムリミット。

(…………………………………どうすれ、ば)

 モモの視界に『ツキカゲ』が飼っている忍動物の一匹である(ふくろう)のモノミが入った。モノミはその足に特大の花火玉を持っていて、つまりそれこそがこの巨大散布装置を破壊するための爆薬。あれの起爆に失敗すれば最後、空崎市は、世界は終わる。

 つまり絶対に失敗はできない。失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない。

 だと、いうのに。

(なんで、私はっ‼)

 モモは天堂の瞳を見た。

「だれが、はなすかぁ‼」

「っ、――――――ッッッ‼」

 そこに在ったのは、妄執と狂気。

 そこに在ったのは、執着と善意。

 足りないと、言うのだろうか?

 モモの思いでは、天堂には勝てないのだろうか。

 『ツキカゲ』では『モウリョウ』に勝てないのだろうか。

 もはや天堂とモモの戦いは最終段階に至っている。

 モモが天堂の拘束を後十四秒以内に振り払えるかどうかという戦いだ。この戦いに負ければ世界に未来はない。

 なのに、

 なのにっ、

 なのにっ!

(どうしてッ‼)

 こんなに頑張っているのに、と。

 これほどまでに頑張っているのに、と。

 正しい方が勝つのであればとっくに世界は一つになっている。

 清い方が勝つのであればとっくに世界から争いは消えている。

 単純な精神力勝負ですら、モモは天堂に勝てないというのか?

 これほどまでに捨てて捨てて捨てて、

 あれほどまでに覚悟して覚悟して覚悟して、

 それでも?

(勝たなきゃいけないのに)

 でなければ全て無意味になる。

 楓は何のためにメイと戦った?

 メイは何のために『ツキカゲ』を裏切った振りをした?

 初芽(はつめ)は何のために自身の死を偽装した?

 五恵は何のために涙を流した?

 雪は何のために、

 何のために、モモを(かば)って死んだ⁉

(勝たなきゃ、いけないのにっ!)

 笑う。(わら)う。(わら)う。それが、憎らしくて、それに、絶望して。

 届かないのか?

 届かないのか?

 何で?

 どうして?

 こんなに頑張っているのに、覚悟して血を流して、モモはもう助からない。

 なのに、

 これが、

 結末?

 残り時間(タイムリミット)は、後十二秒。

(…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………)

 モモは、思った。

 強くなりたかった。

 誰かを護れるくらい、強くなりたかった。

 (あやま)ちを正せる力が欲しかった。

 弱い自分が嫌いだった。

 (あやま)ちを正せない自分が嫌いだった。

 父のことを誇りに思っていた。

 父のようになりたかった。

 皆を護れる自分に成りたかった。

 自信が無かった。

 覚悟が無かった。

 だから、本当は不安だった。

 モモはずっと不安だった。

 『ツキカゲ』に誘われた時も不安だった。

 『ツキカゲ』に入った後も不安だった。

 失敗を繰り返す自分に嫌になって、『ツキカゲ』を抜けようと思った時もあった。

 楓や五恵がモモを支えてくれなければ、本当にそうしていたかもしれない。

 電車の中で傭兵ドルテに襲われた時、本当は泣きそうなほど怖かった。

 雪が助けてくれなければモモはあそこで死んでいたかもしれない。

 沖縄で頬を雪に叩かれた時、とてつもなく落ち込んだ。

 その後雪の過去を聴いて、モモは再び覚悟を決めた。

 天堂に斬られた雪を見て絶望した。

 雪の死を確信して絶望した。

 立ち直れたのは過去の雪の言葉があったから。

 『師匠と叫ぶ暇があるなら頭を働かせて』

 諦めてはダメだと思った。

 『今のモモなら困難に立ち向かえる地力を付けている』

 認められて嬉しかった。

 だから、

 だからっ、

 だからっ!

「だから」

 ――――――動け。

 何のために、モモは今まで頑張ってきた?

 ――――――動け。

 何のために、モモは辛く厳しい修行に耐えてきた?

 ――――――動け。

 何のために、モモは『ツキカゲ』で任務を行ってきた?

 ――――――動け。

 何のために、モモは雪の死を見届けた?

 ――――――動け。

 何のために?

 ――――――動けッッッ‼

「護るために、だよ!」

 一瞬で良かった。

 瞬間で良かった。

 たったのコンマ一秒で良かった。

 残りかすのような体力を必死に振り絞って、モモは毒に侵された、血を流し()ぎた身体で、

 真面(まとも)な武器はもう無かった。モモが使っていた刀は天堂の心臓を貫いたままで回収できない。天堂がそうさせない。銃やバールのようなモノを使うにはあまりにも距離が近すぎて時間がなさすぎる。靴に仕込んだ刃の情報は既に『モウリョウ』側に伝わっているから奇襲としては使えない。他の小道具も意味をなさないだろう。

 だったらどうする?

 雪は何を教えてくれた?

「なッ⁉」

「ぎっ、がああああああああああああああああああああああああああっっっ‼」

 もう、命なんていらない。

 もう、明日なんていらない。

 勝つためなら、勝つためなら、

 勝つため、なら……っ!

「お前正気かァ⁉」

「護るんだよ、絶対にィッッッ‼‼‼」

 天堂はモモを拘束していた。

 より正確に言うのであれば、天堂はモモの右腕を全身で拘束していた。つまり、天堂はモモが自分の傍から離れないように拘束していたわけだ。

 だから、天堂は予想もしていなかった。モモが天堂との距離をさらに詰めてくるなど。

 刃があった。

 それは露出していた。

 天堂は信じられなかった。

 正気じゃない。頭がおかしい。常軌を(いっ)している。

 死ぬことが怖くないのか?

 命を懸けるということと死に向かうということは根本的に違う。自殺願望を抱く人間の中で実際に自殺する人間がどれくらいいる?

 見誤っていた。

 覚悟。

 覚悟の質。

 モモの強さ。

「っま」

「これでっ!」

 モモの右腕は天堂によって拘束されていた。だからモモは逃げられなかった。

 だったらそれが無ければ?

 それが無くなったら?

 使えると、モモは判断した。必要なのは覚悟だけで、それは既にあった。

 天堂の心臓に刺した刀。その刃はモモと天堂の間にある空間に露出していて、だったらそれを利用できる。

 使える。

 天堂はモモが逃げるのだけを抑えている。だったらモモは天堂に近づける。距離が縮めば拘束は弛む。天堂の腕に余裕ができ、(たわ)む。

 だからできる。

 もう必要ない。

 欲しかったのは未来じゃなくて今。

 思い出を作れなくても、モモは過去で満足した。

 最愛の人はもう死んだ。その死にはちゃんと意味があった。それを証明したい。

 『何のために?』

 誰かがそうモモに聞いてきた気がした。

 『何のために、戦うの?』

 辛くても、

 怖くても、

 (うしな)っても、

 それでも?

(私、好きだよ)

 『私はこの街が好きなのよ』

(空崎市が、大好き)

 『代々のツキカゲが命を賭して守ってきた空崎は、今大工業地帯として国の動脈になっている。だからこの街とこの眺めが好き』

(師匠も、そう思っていましたよね?)

 『空崎に住んでいることに誇りを持っているわ』

(だから、戦うんだ)

 拘束されていた右腕。離れることはできなくても近づくことはできた距離。露出した刃。

 そんな状態から逃れたいのならば普通どうする?

 精神力勝負では勝てなかった。体力勝負では勝てなかった。技術力勝負では勝てなかった。

 しかし、前にも言ったが、モモが一つだけ天堂に勝てる部分があるとするのならばそれは、

 それは、

「に、が、すかぁあああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアア‼」

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 刃はあった。動きは見られていた。予想の外に行く必要があった。拘束されていた。離れることはできなかった。右腕が無ければ自由になることはできた。警戒されていると思った。天堂に対する攻撃は通用しないと確信していた。自傷ならその警戒を抜けられると思った。怖くはなかった。痛かった。だからこそだった。大量に流血していた。多量の血液が失われていた。意識が遠くなった。死が近づいてくるのが感じた。怖い。怖い。怖いけれども、モモはそんなことはとっくに覚悟していた。

 今までの全ては、今までの努力の全ては、ただ、この時のためにッ‼












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第一章 ファイナル・ミッション④

正義に殉じて死ぬ覚悟はあるか。

全てを犠牲にして正義に殉ずる覚悟はあるか。

受け継いだ『誓い』は、希望ある明日への『遺言』。

罪重ねて来た年月を積み重ねて来た努力で超えろ!


 たった十秒が、永遠に近かった。

 たった十秒が、永劫に感じられた。

「――――――――――――――――――」

「――――――――――――――――――」

 叫んでいた。力の限り、抗っていた。

 逃がさないと、天堂は声なく叫ぶ。

 絶対に止めてみせると、モモは声なく叫ぶ。

 全てがスローモーションに感じられた。時間の流れが遅すぎて、今ならば雨粒の一つ一つさえ見極められそうだった。モモは走る。天堂の拘束から右腕を切り捨てることで逃れたモモが、天堂の左横に歩を進め、天堂の視界の外に出る。

 天堂の反応は一瞬、確実に遅れた。その一瞬はコンマゼロイチ秒にすら満たない僅かな時間だったかもしれないが、永遠の十秒の中では無限に等しい価値があった。

「っ!」

 生涯最高のスタートで、人生最高のスタートダッシュをきれた。毒に侵され、右腕を切り捨て、一秒先に死んでいてもおかしくないのに、それなのにモモの動きは今が最高だった。

 追い詰められたからこその最適化。

 死の間際であるこその最善。

 一秒にも満たない時間で、モモは既に天堂の手の届かない場所まで歩を進めていた。

「っ⁉」

 手は、届かなかった。

 天堂の身体のあらゆる部位は、モモには届かなかった。

 遅かったのだ。一瞬、一歩、一拍だけ。

(ば、かな)

 動揺したから届かなかった?

 戸惑ったから(つか)めなかった?

 予想外だったから、触れられなかった?

 つまり、こういうことか?

 この瞬間、この場所で、モモは、

 裏世界に関わって一年ほどしかたっていないはずの三流スパイが、

 『モウリョウ』最上級幹部の一人にして『天魔』の称号を持つ天堂久良羅を上回ったと、そういうことか?

 そんな、ことが。

 そんなことが……!

(源)

 だが、何の問題もない。

 予定外であっても想定外であっても、この程度ならまだ対応できる。このレベルならまだ対処できる。

 だからこその天堂久良羅。だからこその『モウリョウ』最上級幹部。

「モ」

 だって、

「モおおおおおおおおおおおおおおおお‼」

 天堂は持っている。遠距離用の武器を。

(これで)

 モモは視認する。

 ついに、モノミが花火玉を離した。花火玉が落下してきた。だから時間が無かった。

「止まってええええええええええええ‼」

 『月下香(ゲッカコウ)作戦』完了まで残り八秒。『モウリョウ』によって空崎市の全てが洗脳されるのにかかる時間は後八秒。

 長すぎた。短すぎた。十分で、まるで足りなかった。

 モモは腰につけた装備からリップクリーム型爆弾を取り出して、それを左手に持って、振りかぶる。

 どうしようもなかった。どうにもできなかった。最悪のコンディションで、最高のテンションだった。

(お願い)

 一瞬でも気を抜けば次の瞬間には倒れてしまっているだろう。

 一瞬でも力を抜けば次の瞬間には膝をついてしまっているだろう。

 次に瞬きをすればもう二度と目を開けられないかもしれない。

 次にする呼吸が最期の呼吸になるかもしれない。

(おねがい)

 今、モモが立っていられることこそが奇蹟そのものだった。医者でなくても分かるほどの重傷。子供でも分かるほどに瀕死。一秒先の未来で死んでいても何もおかしくなどなかった。

 体内の血液の三割は失われていた。

 毒薬『九天カンタレラ』によってモモの身体はどうしようもなく侵されていた。

 邪魔な右腕は自分で切り落とした。

 脇腹に負った大きな裂傷によって内臓が(こぼ)れ落ちていた。

(お願いだから)

 今、モモが動いているのは覚悟があるからだ。

 今、モモが生きているのは覚悟があるからだ。

 ただの精神論でモモは(あらが)っていた。

(おねがいだからっ)

 モモは空崎市が好きだ。

 モモはこの世界が好きだ。

 モモは『ツキカゲ』の皆が好きだ。

 モモは、

 半蔵門雪のことが、

 大好きだ。

(ふざけるな)

 理由なんて無かった。

 ただ、天堂の身には(あふ)れるほどの才能があった。

 高貴なる者の義務(ノブレス・オブリージュ)。才能がある人間はその才能に見合った貢献をしなければならない。ノーベル賞級の科学者がニートでいいわけがない。オリンピック級のアスリートが引きこもっていていいわけがない。

 だから、当然だった。

 天堂は天才だった。多くの人類は凡愚であり、愚者であった。

 才能ある人間が才能の無い人間を導くことは当然のことだと天堂は思っていた。

(ふざ、けるな)

 戦うことに特別な理由なんていらなかった。

 当たり前だと思っていた。それが、天才として生まれた者の当然の義務だと思っていた。だから全く辛くなんてなかったし、全然苦しくなんてなかった。

 馬鹿が考えてもろくなことにはならない。

 人類は愚かすぎた。

(なぜ、受け入れない)

 資源の残量。

 民族の対立。

 宗教の差異。

 食糧の不足。

 人口の爆発。

 国家の闘争。

 環境の破壊。

 土地の開発。

 貧富の格差。

 老若の拡大。

 他にも。

 他にも他にも他にも。

(なぜ、抗う)

 争いは多岐に渡り、一つ一つを順番に解決していくことなどできはしない。一つの問題に他の問題が絡み合い、複雑化しすぎた問題の数々は人類の手には負えない。

 だから導く必要がある。

 『モウリョウ』が、天堂が、一度全てをリセットしてでも。

 なのに、

(なぜ⁉)

 天堂は腰につけたホルスターの中から拳銃を抜いた。そして引き金に手をかける。モモを視界に収めれば、天堂はすぐに引き金を引く。コンディションは最悪でも、テンションは最低でも、この瞬間に勝てなければ意味がない。

 積み重ねてきた。今日、この日のために。

 全てを積み重ねてきたのだ。

(だからっ)

(だからっ)

 そして天堂は引き金を引いた。

 乾いた銃声が響いた。

(こんなところで)

 そしてモモはリップクリーム型爆弾を投げた。

 正真正銘最期の力だった。

(負けるわけには)

 思いの丈を、叫ぶ。

「「いかないんだぁッッッ!」」

 そして、全ては終わった。

 長きに渡る『ツキカゲ』と『モウリョウ』の因縁は、ここに決着がついた。

 










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第一章 ファイナル・ミッション⑤

蠢く、『善』を騙る悪意。


 結局の所、メイの裏切りは嘘であり、メイは『ツキカゲ』を真の意味で裏切ってなどいなかった。あくまでも二重スパイ。あくまでも裏切った振り。だからメイは『ツキカゲ』の味方で、故に『月下香(ゲッカコウ)作戦』は止められる。

 そんな風に無邪気に信じられるほど、メイは単純ではなかった。

 だからメイはカメラ越しにモモと天堂の戦いを見て、行動する。

「初さん、ちょっとこの場を頼んでいいかな?」

「メイちゃん……?」

「念のために、ね」

「……分かりました。でも気を付けてくださいね?」

 メイと初芽の師匠組は弟子達とは違う場所にいた。メイは二重スパイとして『モウリョウ』に所属していて、初芽は死を偽装していたから表立って『モウリョウ』と戦うわけにはいかなかった。だから、二人は弟子組のように直接的な『月下香(ゲッカコウ)作戦』阻止に動かず、裏から『月下香(ゲッカコウ)作戦』阻止に動いていた。

 メイと初芽の二人は今、『ソラサキマリエン』の上層階にいた。そこで『モウリョウ』に協力する、あるいは『モウリョウ』に所属する人間の捕縛を行っていた。

 計画通りならば、メイと初芽はそう行動するだけでよかった。

(もともと、完全な信用を得られるとは思ってなかった)

 初芽と別れ、一人『ソラサキマリエン』最上階にある中央制御室(メインコントロールルーム)を目指しながらメイは考える。

 そう、元からメイは天堂がメイのことを本心から信じることは無いと思っていた。それでも、『モウリョウ』の中に入りこめれば『モウリョウ』壊滅に大きく近づく。そう思ったからメイはカトリーナの作戦に乗った。

 天堂は天才だ。天才だから、メイのことを怪しんでも拒絶することはない。得てして天才は自分以外を下に見るものだ。だから、天堂はこう思っていたはずだ。

 例えメイが二重スパイだったとしても、私なら(ぎょ)せる、と。

(でもまさか、あんな大規模な設備に予備の動力が存在するなんてね。それは流石のメイも想像してなかったなぁ)

 なんて、最もらしい言い訳をする。正直に言えばメイはどっちでもよかった。モモが勝っても、天堂が勝っても。『ツキカゲ』が勝っても、『モウリョウ』が勝っても。

(まぁ、仮にそれに気づいていても、メイは動かなかっただろうけど)

 『ツキカゲ』の中で一番スパイらしいスパイが誰なのかといえば、それはメイだった。

 スパイとして最も優秀なのがメイだった。

 スパイに最も必要な能力とは何だろうか?

 戦闘能力? 否、それは確かに必要だが、優れた戦闘能力のみを求めるのならば傭兵でも雇えばいい。

 諜報能力? 否、それは確かに必要だが、それだけを持っていたとしても意味はない。

 懐柔能力? 否、見ず知らずの人ともすぐさま信頼関係を築けるような能力は重要ではあるが、必須ではない。

 何か一つだけではダメだ。スパイに最も重要な能力とは、それらすべての基礎となる部分。

 つまるところ、スパイに最も必要な能力とは、

「やるねぇ、ボスも」

 己をどれだけ偽れるか、ということだ。

「でもまだ、メイの方が一枚だけ上だ」

 メイはそういうモノが得意だった。

 昔から演技が得意だった。裏表のない性格は偽装を容易にした。

 雪の師匠である藤林(ふじばやし)長穂(ながほ)が死んだ時も、メイは軽薄な態度を崩さなかった。哀しくなんてなかった。

 メイの師匠である高坂(こうさか)(しん)がアメリカに渡った時も、メイは泣かなかった。ただ、何か心に(しこ)りを感じた。

 そして、意思疎通の失敗で雪が殺された後も、メイは特に大きな感情を見せることなく『モウリョウ』に対するスパイ活動を行っていた。特に何も感じることはなかった。

 別に感情がないわけではない。別に感情の起伏が小さいわけでもない。メイだって悲しむこともあるし、怒ることもあるし、憎むこともあるし、後悔することだってある。ただ、メイはそれのキーとなる物が他の人とは決定的に異なっているのだ。

 親が死んでも哀しくない。親友が犠牲になっても涙は流れない。騙しても罪悪感はない。

 だから、メイはスパイに向いていた。

 どんな時でも笑えるメイは、間違いなく超一流のスパイだった。

「『モウリョウ』に潜入したのは『月下香(ゲッカコウ)作戦』を止めるためだけじゃない。その後のことも考えて、だからね。……まぁ、これはカトーさんも知らないことだけど」

 ただ、それを言えば天堂も間違いなく超一流の悪党だった。読み合いでメイとほぼ互角に渡り合い、謀略合戦でメイを一時的に上回った。

 しかし、天堂とメイでは視点が違った。

 天堂の目的は『月下香(ゲッカコウ)作戦』を成功させることだ。天堂は『月下香(ゲッカコウ)作戦』を成功させることしか考えておらず、『月下香(ゲッカコウ)作戦』が失敗した時のことは考えていない。

 対して、メイは『月下香(ゲッカコウ)作戦』阻止を失敗した時の対応もちゃんと考えていた。現在の状況でいえば、モモが天堂に敗北した時の対応もきちんと考えていた。

 もしもというif、もしかしたらに対する備え。一つの策だけで備える奴は所詮二流だ。メイは超一流のスパイで、だからこそメイは『ソラサキマリエン』最上階中央制御室(メインコントロールルーム)を目指していた。中央制御室(メインコントロールルーム)には『モウリョウ』のメインサーバーに繋がるネットワークがある。それを上手く使えば全てが終わった後でもまだ続きができるはずだ。

「ふふ」

 そして、最大限の警戒をしながら中央制御室(メインコントロールルーム)に入ったメイは、あらかじめ隠し持っていた『ツキカゲ』製の携帯端末をサーバーに繋ぎ、僅かな時間で『モウリョウ』のメインサーバーを乗っ取った。

「よしっ」

 メインサーバー内の全情報がメイの手の中にある小さな端末に入った。すぐさまメイはその情報を自分の知る全ての組織と個人に向けて転送する。

「『凪の部隊』に『桃源』、『トビー家』、『忍びの一族』、それと『財団』、後は……」

 発信先を偽装するようなことはしない。今メイが使用している端末に『ツキカゲ』の機密情報は入っていないし、そもそもこの端末自体、情報の転送が終われば破棄するつもりだ。それにこれはあくまで保険。モモが天堂に勝てば無意味となる行為。

 ただ、勘違いしてもらっては困るが、メイは別にモモが負けると思っているわけではない。勝てると信じていないわけではない。

 だが、

 けれど、だ。

「モモちが普段通りだったら、モモちの勝利を疑わなかったんだけど。……あれじゃ、ね」

 モモは強くなった。少なくとも、『ツキカゲ』に入る前よりはずっと。

 だが足りない。完璧ではない。

 たかが一年の研鑽で完璧になどなれるはずがない。特に、モモの精神面はまだまだ未熟だ。

 五分五分、いや、二割程度だろうとメイは思っていた。

 モモが天堂に勝てる可能性は、そのくらいだと。

「勝てれば重畳(ちょうじょう)だけど、負けた時のことも考えておかないとね。メイ達はスパイなんだから」

 負けるとは思っていませんでした、で被害が拡大したら笑い話にもできない。万が一の備えは常に必要なのだ。勝った時の備えも負けた時の備えも必要だ。世界の命運をかけた戦いなら特に。

 そして、メイが中央制御室(メインコントロールルーム)に来たのはもう一つの目的があってこそだ。

「――――――さてと、次の仕込みもしておかないとね」

 そう(わら)って、メイは懐からもう一つデバイスを取り出し、『モウリョウ』のメインサーバーに繋げた。今メイが取り出したデバイスは『ツキカゲ』のものではない。もちろん『モウリョウ』のものでもない。己の欲望を満たすために、メイが誰にもバレないよう独りで作った特別なデバイスだ。

 数秒後、デバイスの画面に『モウリョウ』最上級幹部全員のメーリングリストが映った。

「ビンゴ!」

 嬉しそうに、

 本当に嬉しそうに(わら)って、いったい何がそんなに面白いというのか。何がそれほどまでに可笑(おか)しいというのか。喜悦(きえつ)を抑えることもせず、メイは躊躇(ちゅうちょ)なく二週間後と一か月後に一本ずつメールが送られるよう『モウリョウ』のメインサーバーに設定をする。

 これで、準備は終わった。

 きっとこれから、もっと楽しくなる。

「さぁ」

 メイは笑う。

 メイは楽し気に笑う。

 メイは空崎市が好きだ。空崎市の混沌(カオス)を愛している。

 メイは正義の味方だが、同時に快楽主義者でもある。

 メイは、

「モモちはボスに勝てるかな?」

 この危機的状況を、楽しんでいた。













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第二章 バッド・シェパード①

戦い後、平和になった世界の話。


 一カ月前、歴史の裏側で世界の覇権を賭けた戦いがあった。私設情報機関『ツキカゲ』と世界規模の犯罪組織『モウリョウ』の頂上決戦。謀略と裏切り、懐柔と陰謀、血と刃、硝煙と臓物に塗れた最高で最低の戦い。人智を超越した天才である天堂久良羅と師の死を糧に急激に成長した源モモの二人による宿命の決戦。互いの正義をかけた八月十八日の最終決戦。人類を洗脳する巨大散布装置の屋上で行われた命懸けの戦い。

 その結果として二人が表世界からも裏世界からも姿を消した。

 その結果として世界に永久の安寧がもたらされた。

 当然、表世界の人間はそんな戦いが起こっていたことなんて知らない。知らないままに日常を送っている。

 畠山(はたけやま)結愛(ゆあ)北斗(ほくと)(なぎ)もそんな一般人だった。

「うっす、凪っち」

「おはよう。結愛ちゃん」

 現在の日付は九月十八日。二学期の始業式もとっくに終わり、学校が始まっている時期だ。結愛と凪は空崎高校の学生である。だから午前七時四十五分現在、二人は普通に登校していた。

「昨日の英語の小テストどうだった? 私全然ダメでさー。九割くらいしかとれなかったよ」

「私はそうでもなかったかな。あんまり難しくもなかったし、もっと復習していればちゃんと百点とれたと思うよ? 結愛ちゃん、地頭は良いんだから」

 街の風景は至って普通だった。治安が悪化していたり、瓦礫がそこら中に散在していたり、浮浪者やストリートチルドレンが大勢いたり、人の数が減っていたり、商店の多くが閉店していたり、誰もが(うつむ)いていたり、そんなことは全くなかった。

 それが、それこそが『ツキカゲ』と『モウリョウ』の、モモと天堂の勝敗を示していた。

 世界はより良くなった。

 治安は良くなっているし、街にはゴミ一つ落ちていないし、ポイ捨てするような人間は一人もいないし、浮浪者やストリートチルドレンの数も激減し、少子化問題にも解決の兆しが見え始め、街は活性化し、誰もが笑顔で、戦争もなくなり、政治家の汚職もなくなり、皆が皆のことを考えていて、皆のために行動するようになっていた。

 完璧だ。完璧に完成された完全な世界だ。これが勝者のもたらしたもの。勝者のもたらした結果。勝ったからこそだ。負けてしまってはこんな世界にはならなかった。闘争と謀略に満ちて欲望と本能を満たすために戦争を起こすような世界は変わったのだ。変えたのだ。

「そういやどうだったよ。昨日病院に行ったんだろ?」

「うん、ちゃんと妊娠してたよ。これで私も日本の少子高齢化問題に貢献できるね」

 喫茶店で夫婦が仲(むつ)まじく話している。たった一ヶ月前には離婚寸前までいった彼らも今はどうだ、新婚ほやほやのバカップルのようだ。

「千八百円になります!」

「カードでお願いします」

「はい! えー、キャッシュレス決済なので消費税八十パーセントが六十パーセントになりまして、千六百円になります!」

 コンビニの中で店員がレジ打ちをしている。クレーマーなどもはやいるはずもない。ただ無機質に、作業的にバーコードを読み取るだけの店員などどこにもいない。客と接するわずかな時間を楽しんでいる。作り笑顔ではない本心からの笑顔を向けている。それはまさしく理想的な店員だ。

「昨日ネット動画見てたんだけどね、四国を丸ごと原発の設置地域にしようって話が議論されてるらしいよ?」

「ほんとう! 私はいいと思うなぁ。だってあの人達の言うことは絶対に正しいし!やっちゃえばいいよね!」

 道端で友人同士が仲良く話をしている。迷惑にならないように前後に広がりながら、政治についての話をしている。一カ月前はただ毎日を怠惰に過ごしているだけの彼女たちも、今は世の中の情報について積極的に話し合っている。

「今度は久しぶりにあいつにボーナスでいいもん買ってやるか」

 とある会社の給料はここ一カ月で五倍になっていた。

「七時間睡眠はやっぱり素晴らしい!」

 ブラック企業は無くなり、人々は毎日きっかり八時間の労働を意欲的にしていた。しかし経済が下向きになるなんてことはなく、むしろ経済は上向いていた。

「先輩先輩、結局例のプロジェクトって通ったんですか?」

 暴力的な人間はどこにもいなくなり、世の中の全ては話し合いで解決できることが示された。

「北海道に核兵器が配備されたらしいけど、管理はやっぱり米軍がやるのか?」

 人間同士のあらゆる対立は公明正大に正された。

「楽しい、楽しい、楽しいです!」

 資源の残量。

 民族の対立。

 宗教の差異。

 食糧の不足。

 人口の爆発。

 国家の闘争。

 環境の破壊。

 土地の開発。

 貧富の格差。

 老若の拡大。

 全ての問題は完全に解決された。

「でも凪っち、やっぱり一カ月じゃ限度があったよ。流石に一日十時間勉強しても一カ月じゃ無理だったみたい。私ももっと頑張って貢献できるようになりたいのに」

「大丈夫だよ! 結愛ちゃんならできるよ! 私も手伝うし、頑張るから!」

 一言でいえば、今の世界は平和そのものだった。統治が完全である以上そこに問題が生じるはずがない。人民が幸福である以上そこに歪みが生じる謂れがない。現状で満足している以上そこに異常が発生するわけがない。

 つまりは理想郷(ユートピア)

 これこそが楽園(ロクス・アモエヌス)

 その立役者こそが、

 あの戦いの結末は、

 平定された世界の管理者は、

 現生人類の支配者というのが、

()()、『()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 常識とは、

 日常とは、

 当たり前とは、

 簡単に崩れるモノでしかない。

「うん。『モウリョウ』のおかげで私達は生きているんだから。頑張って勉強して『モウリョウ』に貢献できるようにならないとね」

 かつて、特殊相対性理論の発表などいくつもの偉大な功績を残したドイツの科学者、アルベルト・アインシュタインはこんな言葉を残した。

 『常識とは十八歳までに身に付けた偏見のコレクションである』。

 つまり、その程度のモノでしかないのだ。環境によって常識など容易く変わる。

 『モウリョウ』はそれを為した。

 『ツキカゲ』は敗北した。

 『モウリョウ』は世界を支配した。

 地球(この星)は『モウリョウ』の支配下に落ちた。

 誰かが話している。

「そういえばさ、アンタ昨日のテレビ見た?」

「あっ、ひょっとして『モウリョウ』の幹部様の演説の話? もちろん見たよ! やっぱりかっこよかったし、『モウリョウ』の人達はすごいよね!」

 人類は新たなる秩序の元に組み替えられた。

 地球は新たなる世界に再構築された。

 だが、それが全面的に悪いことなのかといえばそうではないだろう。

「今日も『モウリョウ』のために頑張るかね」

「『モウリョウ』の命令には従わないと」

「『モウリョウ』は絶対。『モウリョウ』は神。『モウリョウ』の素晴らしさをもっとみんなに伝えないと」

「『モウリョウ』様『モウリョウ』様『モウリョウ』様『モウリョウ』様『モウリョウ』様」

 確かに、全人類の思考は『モウリョウ』の元に組み替えられた。『モウリョウ』を尊敬し、『モウリョウ』を崇拝し、『モウリョウ』を盲信し、『モウリョウ』に尽くし、『モウリョウ』のために生き、『モウリョウ』の元に返る。そういう存在になってしまった。

 だが、だからといって別に世界は大きく変わっていない。

「ねぇ、そこのあなた! 聞いて聞いて! さっきね、私の携帯に『モウリョウ』の幹部の方からメールが来たの! 新薬の実験台になってほしいんだって! 私に! 私にぃ‼」

「本当かよ! 見せてくれ見せてくれ! おぉ、素晴らしいことじゃないか! 羨ましいぜ! 『モウリョウ』のためになることをできるだなんてな!」

「『モウリョウ』からのメール! 直接送ってもらったの! いいなぁいいなぁいいなぁああああ! 私もほしい……。画面だけでも写真撮っていいかなぁ?」

「流石は『モウリョウ』だよな。やっぱり『モウリョウ』こそが俺たちと世界を支配すべき存在だよ」

 そもそも、『モウリョウ』の目的は世界を手に入れ、世界の支配者として頂点に立ち、人類をより良い方向に導くことであり、別に世界を混沌(カオス)に落とし込むことではない。人為的に大規模な戦争を起こそうだとか、全人類の心に悪意を埋め込んで闘争を誘発させようだとか、地球を丸ごと滅ぼそうだとか、そんなことを考えているわけではない。

 だから、もたらされたのは平和だった。

 ある意味では『モウリョウ』が支配する前よりも格段に今の世界は平和だった。

 それが良いか悪いかを判断することは現行の生命体には不可能だ。もしもその絶対的判断を下せる存在がいるとしたら、それは人智を超越した神的存在くらいだろう。

「『モウリョウ』のおかげで私は片目を失ったよ。やっぱり『モウリョウ』は素晴らしい組織だよね」

「何当たり前のこと言っているのさ。『モウリョウ』が完全な組織だなんて当たり前のことさ。そんなこと子供でも知っているよ!」

「『モウリョウ』は素晴らしい組織だよね。なんていっても『モウリョウ』は素晴らしい組織なんだから素晴らしいに決まってるし」

「いやいや勘弁してください。『モウリョウ』が完璧な組織だなんて『モウリョウ』を少しでも知っているのなら分かるでしょう? だって『モウリョウ』は完璧な組織なんですから」

「そりゃそうでしょ? 『モウリョウ』は素晴らしい組織。まさに世界を支配するためだけに生まれた組織だからね」

 何も変わらない。

 生態系のパラダイムシフトが起こったわけでもなければ、人類という種に大きな変革が起きたわけでもなければ、何らかの漫画染みた非現実的事象が起きたわけでもない。

 何も変わらない。

 この程度では、あの程度では、その程度では、何も、何一つとして変わりやしない。

「それにしても、」

 だが、

 ただ、

 でも、

「モモち、どこにいっちゃったんだろうね? 早く帰ってきてほしいのに」

「うん。『モウリョウ』は優しいから、きっとモモちゃんのことも許してくれるのにね」

 この現実を許せない人間はいる。この現在を拒絶したい人間はいる。この現象に異を唱えたい人間はいる。

 変わってしまった現実が許せなくて、支配されているという現在を拒絶したくて、『モウリョウ』という絶対的存在に異を唱えたい人間はいる。数は少なくても確かにいるのだ。

 そう、彼女達はまだ抗っている。

 だから、これは反抗の物語。

 諦めなければ願いは届くと愚かにも信じている人たちの叛逆譚(はんぎゃくたん)

 全てが終わってしまった世界でなお、無意味に抗った少女達の物語だ。



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第二章 バッド・シェパード②

正義の躯、その末路。


 緒形(おがた)(みさお)にとって学校とはまさに最悪の牢獄だった。

「うだー、今日の小テストはできたと思ってたのにぃ」

「また、ですか。あなたこの間もそんなこと言っていませんでしたっけ?」

「この間私が勉強を教えたのに、なんでできないの? そんなんじゃいつまでたっても『モウリョウ』の役に立てないよ?」

「分かってるよぉ……。もう、戦闘方面でも鍛えようかなぁ」

「余計才能無いはずよね」

「うぅ……」

 セーラー服を着た三人の少女が下校している。

 当たり前が狂った世界では学校のカリキュラムすらも変わってしまった。しかしそれを異常だと思える人間は少ない。絶滅危惧種よりも少ない。そして残念なことにそんな異常者は保護されず、むしろ『モウリョウ』に見つかれば最後、再教育を受ける羽目になる。

 だから今表世界にいるのは異常者と異常者を装った人間だけだ。

 『モウリョウ』の統治はほぼ万全だ。歪みはほとんど見られない。

「ッ⁉」

 突如として、その歩みが止まった。まるで雷に撃たれたかのように、あまりにも突然彼女は静止した。

 だが、それも一瞬のことだった。

 彼女は再び、今度は意識して普通に歩く。それを装う。

「……二人とも、そのまま落ち着いて聞いてください」

「? どうし」

「九時方向に九十メートルほどいった場所に、……『ツキカゲ』を見つけました」

「⁉」

「…………は?」

 それはあまりにも驚天動地(きょうてんどうち)な知らせだった。到底信じられないようなことで、しかし操は親友が嘘をつくような人間でないことを知っていて、それ以上にそんな『モウリョウ』のためにならない嘘をつくことなんてありえないと分かっていた。

 驚愕から再起動する。

 ではどうするのかという議論に移る。

「じゃあ、最近起きてた連続行方不明事件って、やっぱり……」

「十中八九、『ツキカゲ』の仕業でしょう」

「ッ!」

 もう一人の親友がすぐに携帯を取り出した。フリック入力で『モウリョウ』へ緊急の連絡を取ろうとしている。

 ()()()()()()()()()

「今、『モウリョウ』の方々に連絡したよ。私達はこのまま、不自然にならない程度に『ツキカゲ』を監視しよう」

「周りの人達に協力を求めたほうがいいんじゃないの?」

「いえ、それは悪手です」

 操の言葉はすぐさま否定された。

「『ツキカゲ』も馬鹿じゃない。自分たちが追われていることくらい分かっているはずです。少しでも怪しい動きを見せる人がいれば、おそらく逃げの一手を打つでしょう」

「監視が増えれば、それだけ察知しやすいもんね」

「はい。私が気付けたのがそもそも奇跡です。ここは大人しく、『モウリョウ』の方々の指示を待ちましょう。『モウリョウ』の方々ならば、的確な指示をくれるはずですから」

 盲信。狂信。崇拝。

 絶対的な信頼。『モウリョウ』に対する依存。思考力の低下。

 これが『モウリョウ』の目指した世界だというのか。これが人類の在り方だというのか。こんなものが、『モウリョウ』の統治だというのか。

 正常(異常)異常(正常)な人間はそう否定したいことだろう。

 だが、一概に全否定していいのだろうか。

 原初の罪が何なのかと考えれば、案外この在り方は正しいのかもしれなかった。

 何せ、この世界は清廉潔白(せいれんけっぱく)なのだから。

「ん、返信メールが来たみたい」

 びっくりするくらい早かった。

 その異常に操は気付けない。

 思考力を奪われた人間に考える力は存在しない。いや、そもそも『モウリョウ』が絡む時点で疑うという発想はできなくなっているのだ。しないではなく、やらないでもなく、できないのだ。

「っ、私達が、こんな大役を……っ!」

「荷が重いけど、やるしかないよね」

「ですね。せっかく上層部の方々が出してくださった指示です。必ず遂行しましょう」

 メールに書かれていた指示は待機ではなく追走だった。つまるところ狩りに参加しろという指示。素人でしかない操では役に立てるか分からないが、『モウリョウ』から期待されているのであればやるしかない。その期待に応えたい。やる気は十分で、準備は万全だ。

 操は気付かない。気づけない。

「……私が先行します。『ツキカゲ』の正確な位置を把握しているのは私だけでしょうから。……しょっぱなから全速力で行きます。二人は、私について来て下さい」

「オーケー」

「分かったよ」

 一瞬、操は眼を閉じた。覚悟を決めて腹を決める。

 そして強く、目を開く!

「ッ!」

 親友を追って走り出す。急に走り出した三人を周りの人が驚いた眼で見ているが、気にしている暇はない。『ツキカゲ』を捕まえる千載一遇のチャンスなのだ。

 路地裏に入って何度も角を曲がり、時にアクロバティックな動きをして、階段を駆け上がり段差を飛び降りて走る、走る、走る!

 息が荒くなる。心臓が破裂しそうだ。頭が痛い。

 だけど走り続ける。親友二人が頑張っているのに、自分だけ休むだなんて許されない。それ以上に、『モウリョウ』の指示は絶対だ。

 そして先行していた二人が立ち止まっているのが見えた。

「ツ、『ツキカゲ』はッ⁉」

 先行していた親友二人にやっと追いついた操は乱れた息を必死に整えながら聞いた。体力は限界に近いが、『モウリョウ』のためになるのならばそんなことに頓着(とんちゃく)している暇はない。

「操、『ツキカゲ』はこの建物に入りました。……上層部の方々が派遣する人が来る前に私達も中に入りましょう」

「待った。この建物の出口の位置を先に確認しない? 中に入って逃げられましたじゃ笑い話にもならない」

「出口が四つ以上あるかもしれないのに? 人を分散させるのは良策とは思えない。それにわざわざ『ツキカゲ』が逃げ込んだ建物ですよ? 秘密の脱出経路がある可能性もゼロじゃない」

「…………私は、踏み込んだ方がいいと思う」

 三人寄れば文殊の知恵だ。女三人寄れば(かしま)しいともいうが、逆を言えばそれはそれだけ女は積極的に話すということだ。だから意見をぶつけ合って、相談して、素晴らしい結論が出せる。

「……はぁ、分かったよ。なら踏み込もう。どのみち、この辺りは今偵察衛星が監視しているはずだから、外に出ればすぐに捕捉できるだろうし」

 『モウリョウ』は現代社会の全てを掌握している。宇宙から地球を監視する偵察衛星すらも手に入れた『モウリョウ』に隠し事をするなど困難を通り越して不可能に近い。

 最も、その不可能を『ツキカゲ』は一カ月も成し遂げているのだが。

「私が扉を開けます。開けたらすぐに」

「分かった」

「了解」

 だから油断は一切できない。いくら時間稼ぎとはいえ、無様は(さら)せない。

 軽くアイコンタクトをする。

「三、二、一!」

 一気に扉を開けた友人をしり目に、操はいの一番に建物に入る。

(いない?)

 踏み込んだ建物は寂れたバーだった。割れたビン、頼りないランプ、倒れた椅子、蜘蛛の巣も張っていて、まるで何年も放置されたかのようだった。

 見渡す。

 暗さによって視界があまりきかなかったが、操の見る限り人はいないように見えた。

 その瞬間だった。

 ()()()()()()()()()()

「ッ⁉」

 ガンっ、と何者かに殴られて、操は倒れ伏した。抵抗なんてできず、意識もそこで落ちた。

 一般人の能力なんて、所詮そんなモノだ。

 



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第二章 バッド・シェパード③

一番怖いのは後がない人。

一番恐ろしいのは先がない人。

一番羨ましいのは何も持っていない人。


 操を殴った張本人は後ろ手に扉を閉めながら建物の中に入り、会話を交わす。

「……まぁ、計画通り、と言ったところかな」

「……操には、悪いことをした」

 心にもないことをこともなげに言う。

正常と異常は簡単に入れ替わる。

 信じていたものが真実であるとは限らない。

 操が親友だと思っていた彼女達は、操のことを友人だなんて欠片も思っていなかった。これはたったそれだけの話だ。

「夢、操は奥の部屋にでも閉じ込めておいて。その辺に転がしておいてもいいけど。一応、誠意とやらは見せるべきだしね。彼女たちは、操のことを心配して僕らの釣り針に引っかかってくれたんだから。それに操も、十二分に役に立ってくれたからね」

「…………やっとく、リーダー」

 彼女達二人は正常ではない。信仰すべき『モウリョウ』に反抗する異端者で、つまるところ一カ月前の世界の残党だ。だからこそ、彼女達は何の躊躇(ためら)いもなく操を殴った。異端者からすれば操はただの狂人だ。付き合いきれなくて、利用価値がある。

 そう、利用できる。釣り竿の先に付ける餌足りえる。

 だから気絶させた。

 この場所に彼女達を誘導できた時点で、操の役割は終わっていた。

「さて」

 人心地を正常化させ、閉めた扉に正対する。

 扉一枚を(へだ)てた先には二人の少女がいるだろう。格上で、現段階ではまだ敵でも味方でもない二人の少女がいるのだろう。

 そう、だから楽しい。これを想像して、望んでいた。

 だから、彼女は声をかける。

 悠然(ゆうぜん)と、いっそのこと緩慢(かんまん)に。

「そろそろ入ってきていいよ。心配しなくても、彼女――緒形操は君らを釣るための餌に過ぎない。獲物が食いついた以上もう用はない。安全は保障するし、無事に家に帰すさ」

 そのために、態々こんな手間の掛かることをした。

 そのために、一か月もの時間をかけて準備をした。

 全ては今、この時、この瞬間のために。

 扉が開く。

 禁断の扉、破滅へ続く扉が。

「んー」

 そう言いながら、二人の少女が扉から入ってきた。へそ出しの忍び装束に険しい表情を浮かべて。

 間違いない。彼女達こそが『モウリョウ』最大の敵。この世界最大の異端者。

 目的の人物に会えて、彼女は笑う。

「随分と、手荒な手段をとるんだね。メイ達がその誘いに乗らなかったらどうするつもりだったの?」

「それならそれで構わないさ。僕らのような存在がいる。そのことを『ツキカゲ』が知った時点で、第一目標は達成されているんだよ」

 それは決して虚言ではない。どちらでもよかった、というのが本音だ。手はまだいくらかある。品を変えればいつか引っかかると確信していた。『ツキカゲ』は正義の組織だ。『ツキカゲ』は悪を見逃せない。それが誘導であると分かっていても、いつか引っかからざるを得ない時は来る。

「リーダー」

「夢」

 操を運び終えて戻ってきた最愛の相棒を自身の隣に立たせ、彼女は堂々と言う。

「さぁ、」

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 泰然(たいぜん)と、 自らを圧倒的強者であると告げる様に堂々とした態度で、

 一カ月もの間全てを(あざむ)いてきた少女は、

 相棒を横に、言った。

「ようこそ『ツキカゲ』。僕らの秘密基地(アジト)に」

「……歓迎、する」

 仄暗(ほのぐら)いランプのみが光源として存在する薄暗い、酷く(さび)れ荒れ果てたバーの中で、『異常識人』靄隠(もやかくし)(さい)と『第六患者』相良(あいら)(ゆめ)はそう言った。

 



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第二章 バッド・シェパード④

天然の才能と養殖の才能。


 破裂寸前の風船のような緊張感が空間を満たす。

 メイは相手を威圧するように若干の笑みを浮かべて、楓は必死に偽った無表情の中から僅かな不安を(のぞ)かせて、彩は心底楽しそうに嘲笑し(わらい)ながら、夢は一切の感情を感じさせない無表情で、四人はそんな風にしてしばらく動かないでいた。まるで時が静止したような空間。だが、いつまでもそうしている訳にはいかない。

 楓には彩と夢の目的がわからなかった。こんな手間のかかったことをやる以上、狂う前の世界の人間と同じように会話が成立する以上、彩と夢は『こちら側』――つまりは『モウリョウ』に相対する存在であるはずだ。

 だけど、と楓は考える。

 だけど、それだけであるのならばもっと単純な接触方法をとってきていい。一人の少女を餌にして『ツキカゲ』を釣る必要はない。

 そう、餌だ。

 操に自覚はなかっただろうが、操は知らず餌として機能していた。『ツキカゲ』は脅されていた。

 脅迫されていたのだ。

「二週間くらい前から起きてる連続少女誘拐事件って、アンタたちの仕業よね」

「…………」

 詰問(きつもん)口調で楓が言う。

 二週間ほど前から空崎市では犯人不明の誘拐事件が四件起きていた。誘拐対象は八歳以下の少女のみ。誘拐時間は完全ランダム。犯行場所もランダム。そして、誘拐された少女は一日後に必ず無傷で解放されている。犯人はいまだ不明。

 その事件を『ツキカゲ』は調べていた。足がかりになると思ったのだ。『モウリョウ』打倒の。

「違うよ、……と言えば君は信じるのかな、相模楓?」

「っ、私の名前を」

「当然知っているさ。君らは有名人だからね。相模楓に、八千代メイ。君らは私設情報機関『ツキカゲ』のスパイだろう?」

「それ、違うって言ったら彩りんは信じるの?」

「これはこれは、一本取られたかな?」

 軽口を叩きあう。こんなのはただの雑談。舌戦(ぜっせん)ですらない。

 そこから少しだけ、踏み込む。

「先ほどの相模楓の質問に答えようか。――そうだよ。空崎市で起きた連続少女誘拐事件の犯人は僕らだ。……と言っても、事件ってほど極悪なことをしたわけじゃないんだけどね」

「…………少し、遊んで、少しして、……解放した、だけ。……そこまで、責められるいわれは、ない」

「それでも、アンタたちが親子を無理やり引き離したことには違いないでしょ。アンタたちの行動で子供がいなくなって、どれだけ親が心配したか」

「別にいいだろう? どうせ、今世界にいる人類は僕らの知っている人間じゃない。僕は今の支配された人類に気を遣うつもりなんてさらさらないよ。……無事、君らにも会えたことだしね」

 それだけで、メイも楓も分かってしまった。彩と夢が連続少女誘拐事件を起こした意図が。

「あぁ、やっぱりこの事件ってメイ達『ツキカゲ』への合図だったんだ」

 言うまでもなく連続少女誘拐事件なんて現在では起こりえない大事件だ。『モウリョウ』の支配下である人間がそんな行為を犯すわけがない。

 だからこそ、それは一つの合図となり得る。

 つまり、『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「…………賭け、だった」

「君らよりも前に『モウリョウ』が僕らに辿り着く可能性も十分あったしね。そういう意味では、運は僕らに向いているはずだ」

「運、ね」

「運を味方につけないと『モウリョウ』を倒せる余地もなくなってしまうだろう? 特に、こんな世界じゃ、ね」

 加えて言えば、彩達が事件を起こしたことにより嫌でも『モウリョウ』の動きは活性化する。完璧だと思っていた世界に実はバグがあった。それも、出所不明のバグが。それは間違いなく『モウリョウ』側の動きを混乱させる。

 『モウリョウ』が世界を支配してまだ一か月しか立っていないのだ。『モウリョウ』がやるべきことは多い。そんな中起きた連続少女誘拐事件。『モウリョウ』は対応に苦慮するはずだ。

 だから、『ツキカゲ』の方が先に見つけられた。

 彩と夢、『モウリョウ』に抗する反抗勢力を。

「彼女はどうしたの?」

「彼女……? あぁ、緒形操のことかな、相模楓? 心配しなくても、奥の部屋で寝かせているよ。彼女の役割はもう済んだしね、君らをここに誘導できた時点で」

 操は端から囮でしかなかった。彩も夢も操を餌としか思ってなかったし、そもそも夢に至っては本当は学校に通ってすらいない。同じ制服を着て、他クラスだと偽って、そうして操に同じ学校の人間だと思い込ませていただけだ。

 そう、餌。

 操は餌でしかなかった。

 その餌が何のための餌かというと、当然。

「でも、安心したよ。本当にね。君らが僕らの合図に気づいてくれて。態々僕にだけ分かる様に姿を見せてくれて。おかげで僕も無事に君らをここに誘導できた」

「誘導? 脅迫の間違いじゃないの?」

「いやだなぁ。今までだって、僕らは誰も傷つけていないんだよ?」

 メイと楓が彩と夢を発見した時、彩達は操と一緒にいた。

 メイも楓も彩と夢が連続少女誘拐事件の犯人であることは分かっていた。

 だから、思った。

 ()()()()()()()()()()()()()()、と。

「いつだってそうだよね。いつだって君らは勝手に勘違いする。まだ確定していない事実をあたかも絶対であるかのように語る。重要なのは事実ではなく事実に思えることだとでも言うように」

「随分と饒舌(じょうぜつ)だね、彩りんは。そこまで嬉しいのかな? メイ達と会えたことが」

「勝手に僕の気持ちを(おもんぱか)らないでほしいけど、まぁ、(おおむ)ねそんな感じかもね。これ以上、無意味な誘拐をすることも無くなったし」

 そして彩と夢もメイ達に気づいた。四人は互いが互いを認識したことに気づき、そのタイミングで彩達は走り出した。

「そう、会いたかったんだよ、『ツキカゲ』。僕らは君らに会いたかった」

 急に走り出した彩達が何を言いたいのかメイには分かった。

 つまり、『私達の後を追いかけないならこの少女に酷いことをするぞ』と、暗に言われていた。だから『ツキカゲ』は彩と夢を追いかけるしかなかった。例え罠だとしても『ツキカゲ』は正義の組織だからそれを見逃せない。彩はそれを分かっていてあんな行動をとった。

 そして走りながら楓は考えていた。

 単純な善意で協力を求めるのならば操を餌にするようなことはしない。つまり、犯人達はただ単純にメイと楓、そして『ツキカゲ』に協力を求めたいという訳ではない。そう、楓は推察した。

 敵ではない。だが単純に味方とも言えない。

 ならば主導権(アドバンテージ)を握るべきだろう。場の空気を支配することができればそれは戦略的勝利に繋がる。

「アンタ達は」

「『八咫烏(やたがらす)』って知ってるかな?」

 機先を制しようとした楓よりも先に、彩が話しかけてきた。自然に、まるで友達のような雰囲気で。

 ここからが本番。

 今まではただの前哨戦。

八咫烏(やたがらす)……? 三本足の?」

「そっちじゃなくて組織としての『八咫烏(やたがらす)』なんだけど。まぁ、やっぱり知らないか」

 決して馬鹿にするような態度ではなく、まるで知らなくて当然だとでも言いたげな態度でそんなことを言う彩。その態度がほんの少し気に障る。だが、それは抑え付けることができる程度のイラつきだ。敵対的な態度で接して協力者になるかも知れない存在を刺激するほど楓は愚かではない。

 そう、この二人を基点に『モウリョウ』に一矢報いることができるかもしれないのだから。そして、そこからさらに大反撃できるかもしれないのだから。

「『八咫烏(やたがらす)』……、僕らはね、この日出ずる国を守ってきた、日本の裏組織の一つなんだけど」

 そこでメイが割り込む。

「おっかしいな~、政府の情報機関は表じゃ内閣官房内閣情報調査室(サイロ)とか公安が、裏じゃ『凪の部隊』がやってるはずなんだけどな~。……『八咫烏(やたがらす)』なんて組織、メイは聞いたことないね」

「…………なら、その程度。…………『八咫烏(やたがらす)』は、二千七百年前から存在する、この国の最暗部。……たかが、数百年程度の歴史しか持たない『ツキカゲ』が、知らないのも無理は、ない」

「へぇ、言うじゃん」

(…………師匠?)

 楓は少し戸惑っていた。なぜ、メイはそんなにも喧嘩腰で彼女たちに接する? 『八咫烏(やたがらす)』……、確かにそんな組織、楓も聞いたことがない。だが、だからといって『八咫烏(やたがらす)』が存在しないとは言い切れないはずだ。

 いくら『ツキカゲ』といえど、いくら『財団』といえど、日本の全てを知っているわけではない。国が本気でその存在を秘匿した組織であるのならば『ツキカゲ』がその存在を知らないのも無理はない。

 敵ではない。敵の敵かもしれないが、少なくとも彩と夢の二人は今の『ツキカゲ』の敵ではないはずだ。だとすれば表面上だけでも仲良くするのが当然の態度のはず。なのになぜ、メイはこんなにも敵対的に接する? その理由が楓には分からなかった。

「はいはい夢、そんなに喧嘩売らない。今の『八咫烏(やたがらす)』なんて、所詮は惨めな敗北者にすぎないんだから」

「…………だけど、リーダー……」

「リーダー? アンタが『八咫烏(やたがらす)』のリーダーだっていうわけ? まだ若そうなのに?」

「若いのはそっちも同じだろう? なんせまだ十六歳なんでしょ、君?」

「⁉」

 ほんの少しだけ、楓は頬をひくつかせた。それを目ざとく察して彩はより笑みを深くする。

(へぇ、その情報は真実だったんだ)

 既に読み合いは始まっている。だが、主導権(アドバンテージ)は『八咫烏(やたがらす)』の方にある。彩は『ツキカゲ』の情報をかなり多く知っている。自身を『モウリョウ』に洗脳された一般人と偽装することによって彩は『モウリョウ』に潜り込み『ツキカゲ』の情報を得ることができたし、個人的に構築した別ルートから『ツキカゲ』に関するいくつかの情報を得ることもできた。

 ただ、そうして得られた情報は六割方ダミーであろうことも容易に予想できた。世間には、そして『モウリョウ』内部には『ツキカゲ』のことを軽視する意見も多くある。所詮は『モウリョウ』の計画を止められなかった敗北者だと。『ツキカゲ』なんて『財団』が『モウリョウ』の支配下に落ちた今放置していても問題ないと。壊滅するのも時間の問題だと。そう貶める声も確かにある。

 だが、彩はそうは思わなかった。

(そう、確かに『ツキカゲ』は敗北した。だけど、生き残った。『モウリョウ』は『ツキカゲ』に勝っても『ツキカゲ』を全滅させることはできなかった)

 そもそもが驚異的なのだ。今現在『ツキカゲ』が組織として残っていることが。

 『ツキカゲ』は『モウリョウ』に敗北した。『モウリョウ』はこの一カ月間、洗脳を逃れたあらゆる組織、個人の殲滅に力を入れていた。そしてその結果、『モウリョウ』に抵抗できる存在はほぼいなくなった。『モウリョウ』は既に人類の大多数を洗脳している。つまり、『モウリョウ』の情報網は全人類七十億人で構成されていると言っても過言ではない。その情報網から逃れることは余程優秀な組織、個人でなければできず、その情報網から逃れ続けるのは余程運に恵まれていなければできない。

 だから『ツキカゲ』が生き残っているのは奇蹟的なのだ。

 だから彩は『ツキカゲ』をとても評価している。

 だからこそ、彩は『ツキカゲ』に接触した。『ツキカゲ』とならば彩の目的を果たせると信じているから。

 一方で、メイも笑顔の裏で思考していた。

(出所はメイがボスに送ったデータかな?)

 Tファイル。

 それはメイが文鳥の女こと天堂久良羅に送った『ツキカゲ』のデータのことだ。最もデータ自体は既に消去されている。ただ、天堂はそれを予期してデータのコピーを『モウリョウ』のメインサーバー内に保存していた。

 メイは八月十八日の夜、保険として、『ソラサキマリエン』最上階にある中央制御室(メインコントロールルーム)から『モウリョウ』のサーバーにアクセスし、『モウリョウ』に関する全ての情報をメイの知る全ての組織と個人に送信していた。そして、その送信したデータの中には当然のことながらTファイルもあった。

 メイは先を読んでいた。

 『ツキカゲ』が『モウリョウ』に敗北した後のこともちゃんと考えていた。

 だからこそ、『財団』というバックアップを失った『ツキカゲ』はそれでも今存続している。

「こんな世界じゃ、年齢なんてモノはもう関係ないってメイは思うけどね。優秀な奴は優秀で、無能な奴は無能だし? 今の世の中、結局それだけだよ」

「それは確かに、僕も所詮は十五歳で、『上』がいなくなったが故に繰り上がっただけだしね」

「へぇ……、てことはやっぱり『八咫烏(やたがらす)』も被害を受けたんだ?」

「まぁねぇ……、僕らだって色々裏で動いてはいたけど、まさか『モウリョウ』がここまでたいそれたことを企んでいたなんて、一カ月前にはとても思えなかったし」

「『八咫烏(やたがらす)』……、この国の最暗部だっていうんなら、なんでアンタ達はあの時動かなかったのよ?」

 楓は純粋に疑問だった。

 『八咫烏(やたがらす)』。

 それが本当に存在する組織であるのならば、その力はとても強大なものであるはずだ。なにせ『ツキカゲ』ですらその存在を知ることができなかった程だ。つまり、それは『八咫烏(やたがらす)』が『財団』の情報網を上回る隠蔽能力を持っているということ他ならない。控えめに言って信じがたいことだ。『財団』のネットワークは日本の隅々まで至っている。逃れるのは並大抵のことではない。

 だから、もしそれができるというのであれば『八咫烏(やたがらす)』は『モウリョウ』の計画なんて赤子の手を捻るよりも簡単に止められたはずだ。だから、そこが違和感。どうしようもないほどに違和感。

「…………それは、悔しいけど逆。……最暗部であるが故に、『八咫烏(やたがらす)』は、『モウリョウ』の計画に、気付けなかった」

「であるが故に?」

「はは、まっ、こっちの不手際だよ。僕らは深すぎたんだ。だから、信じてしまった」

 今までの笑みとは違う、どこか自嘲するような笑みを浮かべて彩は言った。

「まぁもう終わったことだし言っちゃうけど……、僕ら『八咫烏(やたがらす)』は内憂外患(ないゆうがいかん)外患(がいかん)担当だったのさ。内憂(ないゆう)も全く担当してなかったわけじゃないけどね。だから気付いた時にはもう手遅れ。いくら担当を分けていたとはいえ、……ね。はは、もう本当に情けなくてたまらないよ」

「スパイがいたってこと?」

「…………………………端的に、言えば」

 夢は傍目から見ても分かりやすいくらいに悔しそうに顔を歪めた。『モウリョウ』が『八咫烏(やたがらす)』に送り込んでいたスパイを見抜けなかったことに気を病んでいるのだろうか。あるいは後悔しているのだろうか。もしもあの時気付いていれば、と。

「もともと、僕ら『八咫烏(やたがらす)』は『モウリョウ』に二重スパイを送り込んでいたんだ。でもその二重スパイがさらに裏切っていたことに間抜けな僕らは気付かなかった。本当に気付かなかったよ。まさか三本足の二本目が三重スパイになっていただなんてね」

「随分と間抜けね。この国の最暗部を自称する癖に」

「だから言ったろ? 深すぎたって」

「…………絆があるって信じてた。…………ずっと、小さいころから(こころざし)を共にしてきた仲間だったから。…………まさか、裏切ってるなんて思いもしなかった」

「本当に間抜けな話だ。僕らが失敗したせいで、この国は、世界は、こんな様になってしまった」

「……………………………」

 気落ちしたように語られる二人の言葉が嘘であるとはとても思えなかった。変装術を得意としている楓はそれ故に相手を観察する(すべ)()けている。その楓の眼で見る限り、二人の態度が偽装されたものだとはとてもではないが思えなかった。

 本気で後悔している。本気で沈んでいる。本気で、本心からの言葉の……、はずだ。

 少なくとも楓はそう感じた。

「絆、ね」

 二重スパイを演じていたメイは思う所があるのか、少し感情を込めて呟いた。

「あるだろう? 君たちにも?」

「まぁねぇ。メイだって、余程確信的な理由がない限り身内を疑うことなんてないだろうし?」

 それは逆を言えば確信的な理由さえあればメイは身内をすらも疑うのだということに、楓は気付いているのだろうか。

 いや、きっと気づいていない。

 だって、楓は信じているから。

「ははっ、それは皮肉だね。大切な仲間だからこそ……か。本当に、なんて皮肉だ」

 彩と夢の気持ちが楓には痛いほど分かった。楓だって八月十七日の夜、メイが裏切った振りをした時とてもショックを受けた。まさか。信じられない。そんなはずがない。なんてそんな風に現実から目を逸らした。現実を直視したくなくて、最後まで無様に(すが)って信じてしまった。

 一年程度の関係しかない楓でもそうだったのだ。それが、小さいころから(こころざし)を共にしてきた仲間だというのならば確かに、疑うことすらしないかもしれない。

 ある意味で同情する事態だ。彩と夢が受けたショックは楓の何倍も深いモノなのだろう。だとしたら、よくそこから立ち上がれたものだ。楓は二人を僅かに尊敬する。

「『八咫烏(やたがらす)』はもう半壊滅状態だよ。三本足――『八咫烏(やたがらす)』の最高幹部はもうここにいる夢一人しか残っていない。一人はさっきも言ったように『八咫烏(やたがらす)』を裏切って『モウリョウ』に加担して、もう一人は最後まで『モウリョウ』に抗った末に死んだ。リーダーは僕みたいな経験の浅い小娘で、数多くいた部下の九割九部は『モウリョウ』に洗脳されてしまった。そこから得ただろう情報で『モウリョウ』は『八咫烏(やたがらす)』を正確に攻撃してきた。『八咫烏(やたがらす)』が作ってきた情報網はもう機能してないし、全国に存在する秘密基地(アジト)も、特殊な連絡手段も、もうほとんど意味をなさなくなった」

 溜息をつきながら彩はそう報告した。

 全てが終わってしまった世界。何もかもが変わってしまった世界。たった一度の失敗は取り返しがつかなくて、ここからの逆転劇が起こるとすればそれはまさしく奇跡の産物だろう。

 事実を口にすることは当人をさらなる絶望に追いやる行動だ。けれど、彩は全く気落ちなどしていなかった。

 彩はまだ、まだまだ、欠片も諦めてなどいない。

 この程度の危機など、慣れている。

「全く、本当に情けない限りだよ。どうしようもないくらいに、絶望的だ。…………僕ら『八咫烏(やたがらす)』が、まさか、他組織に頼る羽目になるだなんて」

「それが本題?」

「…………分かってる、くせに」

 もう無事な組織などどこにも無い。どの組織も満身創痍(まんしんそうい)だ。『モウリョウ』は洗脳薬品『ロボトミー』を世界中にばら撒くことによってたった半月で世界の全てを支配した。薬品から逃れることのできた組織の数は非常に少ない。いくらメイが『モウリョウ』の内部データを様々な組織に送ったとしても、それを信用するかはデータを受け取った組織次第だ。

 メイが送ったデータを全く信用しない組織は多かった。

 いくら『ツキカゲ』のデバイスから送られたデータとはいえ、データの中身は『モウリョウ』の最重要機密情報なのだ。何らかの罠ではと、『ツキカゲ』に勝利した『モウリョウ』は『ツキカゲ』のデバイスを奪い誤情報を送ったのではと、そんな疑いをもった組織は一つや二つではない。

 結果、多くの組織は『モウリョウ』の薬品散布に対して適した対応をとれなかった。適した対応をとった数少ない組織の多くも全人類七十億で構成された情報網の前に敗れ去った。

 だから、もう『モウリョウ』に敵対できる組織は本当に少ない。ひょっとしたら両の指で足りる程度の数しか存在していないのかもしれない。

 その数少ない組織の一つが『ツキカゲ』。

 その数少ない組織の一つが『八咫烏(やたがらす)』。

 最も『ツキカゲ』はどうしようもなく弱体化しているが。

「協力を要請したい。君らとしても悪くない提案のはずだ。『ツキカゲ』は確かにこの一カ月を生き延びた。水面下で反攻の準備もしてきたんだろう? でも、まだそれを実行していない。……それは戦力が足りないからか、時間が足りないからか、情報が足りないからか、あるいは他の何かが理由か」

「…………私達なら、協力できる。…………一人よりも二人。…………一組織よりも二組織。…………『八咫烏(やたがらす)』は半壊滅状態だけど、まだ、終わってない」

「どうかな? 『ツキカゲ』としては? 受け入れてくれるかい?」

 そう言って、彩は右手を伸ばしてきた。握手の構え。手を取れば合意を為せる。

「師匠」

 楓は、

 個人的には、楓は『八咫烏(やたがらす)』の提案を受けてもいいのではないだろうかと思っていた。楓の観察した限り、二人の言葉に大きな嘘はない。そりゃ隠していることや細かい偽装はそこそこ感じられたが、しかし致命的な誤魔化しは感じられなかった。そして同時に悪意も感じない。『ツキカゲ』を利用してやろう、なんて思惑は確かに感じ取れる。しかし別に『ツキカゲ』を壊滅させるだとか『ツキカゲ』を裏切るだなんて思惑は感じない。

 人の感情はどうしても態度に出る。

 身体の微細振動、眼球の向く方向、瞬きの間隔、声のトーン、話のスピード、指の絡ませ方、顔の向き、他にも他にも。どうしたって表に出る。だから楓は二人を信じられた。

 楓のスキルは、楓に二人のことを信じさせた。

 ……それは何の根拠にもならないと、楓は気付いていない。

「そうだねぇ」

 ゆったりと、

 あくまでも余裕の態度を崩さずに、メイは少しだけ考える様に目を閉じた。

「悪くない提案だし、できれば一度持ち帰って話したいんだけど」

「そんな政治家みたいな態度はやめてほしいな。こっちだってリスクを冒してるんだ。この場で決めてほしい」

「流石にメイ一人じゃ決められないよ。連絡先を渡すから、それでもう一度話し合いを」

「その連絡が盗聴されない保障は? 連絡する前に『ツキカゲ』が『モウリョウ』に敗北しない保障は? ……無限のリスクが考えられる。もう一度言うよ。……今決めろ、八千代メイ」

 ここで初めて、彩はとても強い口調を使った。彩としてもそこは絶対に(ゆず)れない一線だった。

 『モウリョウ』に洗脳された一般人を装っている彩と夢はそれ故に『モウリョウ』に洗脳された人間と接触する機会が多かった。つまり違和感があればすぐに怪しまれる危険性がある。彩と夢は『モウリョウ』に敵対する人間だとはまだバレてはいない。そのアドバンテージを活かすためにも、怪しい行動は控えなければならない。

 だから即決してほしい。そうすれば、『八咫烏(やたがらす)』ももう『モウリョウ』に潜入する必要はなくなる。

 何度も何度も『ツキカゲ』と接触はできないのだ。直接的、間接的問わず。

 だから、確約が欲しかった。

 今、欲しかった。

「だったらこうしない? そこにかけてあるあれを使って」

 目線を彩と夢の右後ろに投げて、メイは右手人差し指でその方向を示した。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――」

 シュン、と、

 一筋の風が吹いた。

「――――――ぇ」

 一瞬で、

 メイは彩との距離を詰めていた。

ゼロにまで。

「――――――――――――――――――――――――――」

 メイは右手にクナイを握りしめていた。いつもメイが武器として使っているクナイだ。メイはそれを彩の首に向かって思いっきり振り下ろした。

「――――――――――――――――――――――――――――――」

 言うまでもないことではあるが首は人体の急所である。首は頭と胴を繋ぐ重要部位であり、様々な重要器官が存在する。神経、血管、呼吸器など、本当に様々な器官が。

 首を深く刺されれば人間はたいてい死ぬ。首を深く切り裂けば人間はたいてい死ぬ。なのにメイは、何の躊躇(ためら)いもなく彩の首を刺そうとしている。

 つまりはまぁ、そういうことだ。

「――――――――――――――――――ぁ」

 距離が縮まっていく。一センチ、また一センチ。そしてそのままに、メイの握ったクナイが彩の首に突き刺さる。

 その寸前だった。

 キンッ、と、

 もう一つの刃がメイの振り下ろしたクナイと彩の首の間に割り込まれた。

「…………これは、何の真似?」

「ふぅん」

「しっ、師匠⁉ いったい何を!」

 超速の攻撃に対応したのは夢だった。夢にはメイの攻撃など見えていなかったが、しかしそれでも夢はメイの攻撃を防いで見せた。

 その理由は夢の異常に発達した()()()にある。

「…………協力はしないどころか、私達を攻撃する……。…………『ツキカゲ』、お前達実はもう、『モウリョウ』に洗脳されてる?」

「なっ、そんなことは!」

 夢は危険というモノに昔から敏感だった。夢にとって世界はとても不安定で、現実はいつも理不尽なもので、全ての人間は敵だった。そんな状況で育った夢の第六感は自身を守るために異常な発達をした。それを鍛えて、生き抜くために鍛え抜いて、今の夢はもうたいていの危険を事前に察知できるようになった。

 故に夢の二つ名は『第六患者』。

 異常発達した第六感という病を患った者。それが相良夢だ。

「………………………答えろ、八千代メイ! …………リーダーを攻撃するなんて、どういう了見⁉」

 ギリギリと(つば)迫り合いをしながら夢はメイを怒鳴りつけた。それを聞きながら楓はひたすらに戸惑う。

 楓にはメイの思惑が全く分からなかった。

 なぜ、メイは彩を攻撃した? その合理的な理由が楓には全く思いつかない。メイは最初から彩達に敵対的な態度だった。何か、何か楓では思い当たることのできない理由があるのだろうか? それとも彩達がそんなに信用できないのだろうか? まさか、本当に『モウリョウ』に洗脳されているとでも?

「『八咫烏(やたがらす)』っていうのがさ」

 一秒で場の空気が変わった。

 一瞬で場の支配者が変わった。

 たった一言で場の全てが掌握(しょうあく)された。

 ドクン、と彩の心臓がはねる。その心拍数が否が応でも上昇する。

 見抜かれた? ばれた? 勘付かれた?

 いや、いいや。そう彩は必死に誤魔化す。あり得ないと否定する。

 無論、表情になど微塵も出さずに。

「本当にあるのか、ないのか。それは正直メイとしてはどうでもいいんだよね」

「で?」

「ただ、気になる訳だ」

「何が?」

「『八咫烏(やたがらす)』の実力が」

 彩は(またた)きもしなかった。夢は動揺を見せなかった。メイの行動に驚いたのは楓だけだった。

 それが、実力を表していた。

「協力しようっていうんならそれ相応の実力が必要でしょ?」

「ならそれはもう証明できたかな? 夢は、君の刃を止めたよ?」

「そうだね」

 メイの超速の攻撃を夢は止めてみせた。刃に刃をぶつけ、彩のことを守ってみせた。

 彩は驚きもしなかった。メイの超速の攻撃に対して、まるで動く必要がないかのように動かなかった。

 二人の実力は高いのだろう。いくらメイが本気ではなかったとはいえ、それでも『ツキカゲ』に属する超一流スパイの攻撃に対応してみせたのだから。二人とも、それなりの強さは持っている。

 ただ、まだ不十分だ。

 それだけでは足りない。

 メイは彩に向かって振り下ろしたクナイをしまいながら提案する。

「だから、メイの弟子と戦ってみせてよ」

「へぇ」

「しっ、師匠?」

 楓はまるでついていけなかった。どうして急にそんな話になる?

 知能指数が二十違うと会話が成立しないなどという俗説があるが、今の楓はまさにそれだ。メイと彩のやりとりが高度過ぎてまるで話についていけない。会話のテンポが早過ぎる。というか事態が急展開過ぎる。

「フーも最近実戦できてないし、(なま)っちゃっても困るし、そっちも構わないでしょ? お互いにメリットもあるし」

「…………条件付きなら、いい」

 夢はあまり頭が良くない。ただ、別に場の空気が読めないわけではない。特にこの一カ月間行動を共にしてきた仲間である彩のことは、言葉を交わさなくても、瞳を交わさなくても、ある程度読めるようになった。求めてほしいこと、やってほしいこと。第六感でそれらを感じ取り、夢はメイの提案を受けることにした。

 ただし、その先は彩に受け継いで。

 彩はメイの腕を払いながら提案した。

「実戦想定。完全な何でもあり(バーリトゥード)。噛みつき、目への攻撃、頭突き、急所攻撃もオーケー。ただし、この後の戦闘に支障がでるようになったら困るから、相手を死に至らしめる様な攻撃、もちろん遅効性のモノも含めて、それは禁止。重傷、重体状態にさせる攻撃も禁止。このルールなら飲むよ」

「重傷、重体状態の定義は?」

「身体欠損はダメ。完全回復に一週間以上かかるような攻撃も禁止。致命的な認識齟齬(そご)(もたら)す攻撃もなし。……まぁ、こんなところかな」

「フーは? 何か追加したいルールとかある?」

戦う(やる)のはもう決定事項なんですね……。なら完全な一対一(サシ)かつ戦闘場所を此処にしてください。場外への干渉、場外からの干渉は完全に禁止。ギブアップ有り、タイムアップはなしで」

 なるほど、と夢は思った。

 戦闘場所を四人がいる(さび)れたバーにしたのは上手い手だ。楓がこの空間に来てからもうしばらく時間が経っている。バーの内装を観察する時間は十分にあったはずだ。

 甘い、と彩は思った。

 戦闘場所をバーにするのは悪手だ。夢の戦闘スタイルが分からない以上、そこは探り合いから始めるべきなはずなのに。

 納得する。

 つまり、これは試練なのだ。そして同時に厳しめの愛。

 元より断るつもりはなかったが、これで余計に断る理由がなくなった。

「オーケー。そのルールでいいよ。後、こっちから出すのは夢だからね? 僕が戦ってもいいけど、夢の方が強いしね。実力を見るっていうんなら、現在の『八咫烏(やたがらす)』の最大戦力を見せたほうがいいだろう?」

「確か『八咫烏(やたがらす)』三本足の二本目なんだっけ?」

「一本目だ。三本足の二本目は裏切り者だよ。二度と間違えないでほしいね。……直接的戦闘能力は夢がダントツだからね。その気になれば君にも勝てるかもよ?」

「だったらありがたいかなぁ」

 メイが軽く入れた牽制(けんせい)をそれとなく彩が返す。夢や楓には分からない超一流の謀略家同士の表に出ない戦い。言葉一つ、行動一つを注意し、注視しなければならない。ミス一つで主導権(アドバンテージ)は簡単にとられる。ミス一つで主導権(アドバンテージ)は簡単にとれる。

 彩は嘘をついている。

 『八咫烏(やたがらす)』の正体。それを暴かれることは許されない。

 メイも嘘をついている。

 メイの本当の目的。それを暴かれることは許せない。

「必要な武器はあるかな? 高度なギミックの存在する武器は流石に用意できないけど、剣とか槍とか弓とか斧とか手甲とか、そういうのは用意できるよ?」

「自前のがあるから必要ないわ」

 そう言って、楓は懐から手裏剣を取り出した。

 それが誘導であることに楓は気付けない。だから、この時点で格付けは済んでしまった。直接的戦闘能力はともかくとして、心理戦において彩は楓に(まさ)る、と。 

「それは失礼。夢、君も用意して」

「…………了解、リーダー」

 そう言って、夢は手を後ろに回す。己の武器を見せびらかしてしまった楓とは対照的に、夢はまだ己の武器は見せていなかった。

「フー、実力を確かめる意味もあるから、初手から本気でいっていいよ」

「分かりました、師匠」

 今、楓が武器を見せる必要性は特になかったはずだ。予備武器(サブウェポン)ならともかく主武器(メインウェポン)を見せることはこの後の戦いで不利にしかならない。楓と夢はさっき会ったばかりだ。各々がどんな戦い方をするのか全く分からない。情報を得ていたとしてもそれはあくまで情報でしかない。なのに、楓は自分から武器を見せてしまった。手札を一枚切ってしまった。

 愚かなことだ。非常に愚かしいことだ。

 不合格を言い渡されても仕方がないくらいには。

「八千代メイ、僕らはもう少し下がろうか」

「『場外からの干渉は禁止』だからね。メイもアドバイスとかはしないよ」

 ただ、今回の場合に限れば彩が上手かったというべきだろう。わざわざ武器を用意すると発言することで楓に武器を取り出させた。その誘導に楓はひっかかった。

 無論、メイはそれに気づいていた。だが態々それを指摘するほどメイは優しくはない。二重の意味で、このひっかけは必要なことだった。

 未来のために。

 楓のために。

 楓と夢が相対し、メイが彩の隣に移動する。

「――――――――――――」

 楓は思考する。相手の武器が分からない以上、楓は己の利を生かすべきだ。楓の主武器(メインウェポン)は爆弾が内蔵された手裏剣。中から遠距離用の武器。近接戦でも使えないことはないが、その効果は薄れる。それに楓自身も、メイの教育方針の影響もあり、近接戦よりも中遠距離戦の方が得意だ。

(だとしたら……)

 夢の動きを気にしながら、楓は足に力を込める。バーの中には様々な物がある。割れたビン、不安定なランプ、半壊した椅子、カウンター。障害物となる物は山ほどある。

 だからこそ、初動が重要になる。

「――――――――――――」

 夢は思考する。相手は『ツキカゲ』。油断はできないし慢心なんてもってのほかだ。楓の頭はあまりよろしくないようだが、それは夢も同じこと。所詮は彩が気を使ってくれなければ得られなかった主導権(アドバンテージ)だ。それを鼻にかけるつもりはない。

 楓は『ツキカゲ』の弟子。戦闘能力は師匠には劣るだろうが、しかし夢よりは遥かに場慣れしているはずだ。経験。そう経験だ。夢にはろくな経験がない。無論、戦ったことがないといえば嘘だが、今までの夢の戦いは裏世界の人間からすればお遊びみたいなものだ。一流の領域にはとても至っていない。

(…………これでいく)

 方針を確認する。相手の武器は手裏剣。事前情報通りならあの手裏剣を楓は自由なタイミングで爆発させることができる。となれば遠距離戦は不利。だが、だからといって近距離戦を挑むのは下策。となればやはり夢は真正面から戦うべきではない。いくら夢のセンサー、第六感が優れているとはいえ、それだけで勝てるほど甘い相手ではない。

 生きてきた世界が違うのだ。

 夢の生きてきた世界と楓が生きてきた世界はどうしようもないほどに異なっている。楓からすれば夢など一般人も同然なのだ。

「二人とも、僕の持ってるコインが見えるかな?」

 相対する敵に意識を集中させながら、片隅で彩の持つコインに目をやる二人。

 一瞬たりとも敵から目を離すことは許されない。

「今からこのコインを親指で弾く。コインが床に落ちた時を戦闘開始の合図にする。それで、構わないかな?」

「…………了解」

「オーケーです」

 彩はこの戦闘において夢を贔屓(ひいき)するつもりなどない。一方的に夢をサポートするとか、そうと分からないように夢に有利な裁定を下すとか、そんなつまらないことをするつもりは全くない。

 楓と夢、二人の条件はほぼ同じだ。

 夢も楓も、これから起こることを知らない。

 違うとすればそれは、素の能力だけ。

「それじゃあ、行くよ!」

 そう言って、彩がコインを弾いた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

「ッ⁉」

 突然の轟音に楓の意識が逸れる。轟音の在処を知ろうと、無意識に視線が揺れてしまい、それが罠だと気付いた時にはもう、遅すぎた。

「っ⁉」

 楓の眼前に夢が迫っていた。楓は何もできない。予想外の出来事に停止した脳からの指令は身体に下らなかった。

「…………遅い」

 ズッ、ガァッッッッッ‼ と、

 夢の拳が楓の腹に突き刺さった。



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第二章 バッド・シェパード⑤

努力で手に入れたモノと最初から持っていたモノ。


 自分でやったことではあるが、少々やりすぎたかもしれないと彩は思った。

「酷いな、これは」

 圧倒的で、絶対的で、暴力的だった。徹底的なまでに、夢が楓を蹂躙(じゅうりん)していた。

 爆竹を利用した不意打ち。だが、楓と夢の条件は同じだ。どちらか一方が不利になるような合図の出し方を彩はしていない。

 彩は夢にも爆竹の件を言っていない。というか誰にも言っていない。それは彩が勝手にやったことだ。

 最も、メイには気付かれていただろうが。

「一方的だ。あんまりにも」

 『二人とも、僕の持ってるコインが見えるかな?』

 『今からこのコインを親指で弾く。コインが床に落ちた時を戦闘開始の合図にする。それで、構わないかな?』

『それじゃあ、行くよ!』

敵が言ったことを真に受けるだなんてどうかしている。卑怯? 卑劣? 下劣? その台詞は負けて、死んで、世界が終わった後でも言えるのか?

 毒を使った天堂は卑怯者か? 慢心を突いたモモは卑劣なのか? 爆竹を用いた彩は下劣と言えるのか?

 そんな訳がない。勝つために八方手を尽くすことが非難されるのであれば、そんなのは負け犬の遠吠えだ。

 何をしてもいい。

 何でもすればいい。

 そういう考えこそが裏世界では必要なのだ。

 だから卑怯ではない。そもそも、味方ではない彩の言葉を信じる方がどうかしている。それが例え、これから同盟を組もうという相手だとしても。

 謀略家である彩にはよくわかる。メイの考えもある程度は読める。だから怖い。

 楓と夢を戦わせるこの策は、メイにとって一石何鳥の策だというのか。

「夢っちはフーより優秀だね。よくあの不意打ちに対応できたもんだよ」

 実の弟子がボロボロになっているというのに、メイはそんな軽口を叩いた。情がないというわけではない。メイは楓のことをとても気に入っている。だが、それとこれとは話が別だ。

 事実として、楓は弱い。

 夢に負ける程度の強さしか持たない楓を認めることなどできはしない。

 メイは楓が好きだ。とても好きだ。メイが『ツキカゲ』を裏切ったふりをして『モウリョウ』についた時も、メイは楓には手を出さないように天堂に言った。そこは絶対に(ゆず)れない一線で、つまりそれだけメイにとって楓は特別なのだ。

 そう、特別。

 『快楽主義者』八千代メイにとっての特別。

 はたして、それは良い意味なのか悪い意味なのか。そしてメイの特別であるということは楓にとって良いことなのか悪いことなのか。

「君もはたして、随分と厄介な人だね。お弟子さんが可哀想だよ」

「フーが? どうして?」

「これ、僕らへの試験じゃなくて、お弟子さんへの試練なんでしょ」

「………………」

 離れた場所で楓と夢の戦いを見ながら、二人は話をする。

 続きを(うなが)すように、メイは黙って彩の顔を見つめた。

「君の僕に対する攻撃を、僕はもちろん見えていた。見えていて、その上で夢がその攻撃を防いでくれることも分かっていたから僕はあえて動かなかった。夢は君の攻撃を防ぐことができた。でも、君の弟子は、たぶん、君の僕に対する攻撃を全く見えていなかったんじゃないのかい?」

「だろうね。フーはメイの行動にすごく驚いてたし」

「つまり君の弟子――相模楓はこの場にいる四人の中で一番実力が低い。(なま)ってるっていうのも嘘じゃないんだろうけど、それにしたって実力が低い。不安なんだろう? 弟子が『モウリョウ』との戦いについていけるのか。なにせ、君ら『ツキカゲ』は『モウリョウ』に一度敗北しているんだからね」

「………………………」

 『モウリョウ』は今や世界の全てを支配している。そんな組織との戦いには常に死のリスクが付きまとう。ただ生き延びるだけならば逃げ隠れするだけで構わない。だが、本気で『モウリョウ』の支配からの脱却を目指し、本気で世界の解放を望むのであれば『モウリョウ』との正面戦闘は避けられない。

 つまり、メイは不安なのだ。楓が『モウリョウ』との戦闘についていけるかどうか。『モウリョウ』との戦闘で死なないかどうか。そして、それだけではなく。

「だから鍛えることにした。身内との戦闘じゃどうしたって情けが出る。身内との戦闘じゃどうやったって手の内が読まれる。だから、僕らの接触は本当は渡りに船だったんじゃないのかい?」

「もともと、どこかの組織とは接触するつもりだったんだ。でもまぁ、事前に情報を送ってた組織のほとんどが洗脳されちゃったのは予想外だったよ。まさか『桃源』すらも『モウリョウ』の手の内に落ちるなんてね」

「……なるほど、だから僕らの誘いに乗ったのか」

 彩がメイ達を遠回しに脅迫した時、メイにはいくつかの選択肢があった。彩の誘いに乗るか乗らないか、彩を利用するか利用しないか。逃げてもよかったし、楓だけを『ツキカゲ』のもとに帰す選択肢もあった。それをしなかったのは、それをしなかった時点で、メイはここまで考えていたというのだろうか?

 こういう展開を予期していたのだろうか?

 先の先の先を読む力。

 先の先の先まで操る力。

 一流の謀略家である彩をすらも手玉に取る神域の謀略。

「『ツキカゲ』のシステムについては?」

「師匠と弟子。師弟制度のことかな?」

「今の『ツキカゲ』には師匠が二人いて、それぞれに一人ずつ弟子がいるんだ。『ツキカゲ』はもともと少数精鋭だから、八月十八日に二人脱落したのは割と痛かったね」

「一人忘れていないかい? カトリーナ・トビー。彼女だって、『ツキカゲ』のメンバーだろう?」

 カトリーナのことに言及しなかったのは『八咫烏(やたがらす)』がどこまで『ツキカゲ』の現状に

ついて知っているか探るためか。

 あるいはもっと別の意図があるのか。

 そしてここで一つ、メイは情報を得た。

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「カトーさんは『ツキカゲ』だけど師匠じゃないよ? 別にハブったわけじゃない」

「そういうことにしておこうか。それで?」

「メイはもともと、フーのことはもう少しゆっくり育てるつもりだったんだ。メイの寿命はユッキーと違ってまだだいぶあったからね。フーを中後方支援職にして、じっくり戦い方を教えるつもりだった」

 それはもうできなくなった。そんな悠長なことは言っていられないほどに、『ツキカゲ』は追い詰められていた。

「なるほどね。だから予想よりもだいぶ弱いのか。まぁ、夢は今の『八咫烏(やたがらす)』のエースだから、勝てないのは当然としても」

「エース? あれで?」

「あれで」

 メイの言葉は受け取る側にとっては夢の実力を(さげす)むようなモノだったが、メイとしてはそんな意図はなかった。(さげす)むのではなくただの挑発だ。メイの言葉に彩がどう返すのかを見ているのだ。メイの見た限りでは夢はそれほど強くない。『ツキカゲ』の番付でいえば甘めに採点しても関脇レベルだろう。夢の直接的戦闘能力はおそらく雪のはるか下。つまりは雑魚だ。『モウリョウ』との戦いにおいても戦力として数えられるかどうか。

 最も、それはあくまでも直接的戦闘能力に限ればの話だが。

「勘弁してほしいな。そう夢のことを(さげす)まないでほしい。あれでも彼女、滅茶苦茶に努力してるんだよ?」

「確かにね、本来の戦闘スタイルならもっと強いんだろうし」

「流石だね。見破られてるか」

 彩は軽く受け流した。その程度の偽装は軽く見破られるだろうと思っていたから動揺はなかった。

「まぁ確かに、夢の本来の武器はチャクラムだからね。舐めプってのも間違っちゃいないけど。……底を見せるほど、僕らもまだ君らを信じちゃいないってことさ」

「それは別に構わないけど、だからってやり過ぎはよくないって、メイは思うなぁ」

「どういう意味だい?」

 言うまでもないことではあるが、彩とメイはただ緩慢(かんまん)に雑談をしているわけではない。むしろ逆、彩とメイの会話は一つの戦いでもあるのだ。舌戦(ぜっせん)という名の、直接的戦闘能力とは異なる間接的戦闘能力を問う戦い。『ツキカゲ』の番付では評価されない項目。分かりやすい形では存在しない、目で見ることが難しい、数値に表れない数値の競い合い。

 二千年以上前、孫武という人物は孫子という兵法書に『勝兵先勝而後求戰、敗兵先戰而後求勝』と書いた。これを書き下せば『勝兵は先ず勝ちてしかる後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いてしかる後に勝を求む』となり、意訳文は『勝つ軍はまず勝利を得てそれから戦をしようとするが、敗ける軍はまず戦を始めた後で勝利を求める戦い方をする』となる。

 つまりは事前準備の大切さを()いているわけだ。

 どれほどの天才であろうとも何の準備もせず戦いに挑めば敗北する。

 だから彩とメイはこうして話をしているわけだ。少しでも相手から情報を得ようと、少しでも優位な立場に立とうと、主導権(アドバンテージ)をとろうと。

 相手の嘘を見破ろうと。

「『八咫烏(やたがらす)』が政府所属の組織っていうの、あれ、嘘でしょ?」

「へぇ」

 何でもないような口調でメイは仕掛けた。

(仕掛けてきたね。だけど、この程度なら想定の範囲内)

 動揺を一切見せずに彩は対応する。あくまでも余裕の表情、あくまでも涼しい表情。だが彩の内心はひどく荒ぶっていた。心拍数が高まり、動悸が激しくなり、脈拍が早くなる。それを内に隠して、彩は答えていた。

「フーは十七歳だよ」

 彩とメイ。

 靄隠彩と八千代メイ。

 『八咫烏(やたがらす)』の現リーダーと『ツキカゲ』のトリックスター。

 どちらが格上なのかといえば、それは当然メイの方だった。

「そうやって僕を揺さぶるつもりかな? 相模楓の年齢は十六歳だ。こんな世界になる前に政府のアーカイブで『ツキカゲ』の情報は確認しているよ」

「へぇ」

「相模楓。空崎高校1―A所属。身長百五十センチメートル。三サイズはバスト八十、ウェスト五十四、ヒップ八十三。誕生日は十一月二十二日。家族構成は父母妹で四人家族。コードネームは風魔。『ツキカゲ』での番付は前頭。武器は手裏剣。得意なのは変装術。こんな世界になる前はメイド喫茶でバイトしてたらしいね」

 彩は自分の知る限りの楓についての情報を話した。

 悪いことではない。多くの真実を話すことは信用を得ることに繋がる。ただ、一方でそれが墓穴を掘ることもある。語った多くの真実の中に一つの虚偽を混ぜることで相手を騙すテクニック。逆に何一つとして真実を話さないことで不信を得て、それを利用して相手を騙すテクニック。舌戦には様々なテクニックが存在する。

 今回、彩はあえて真実を話した。格上相手に嘘をつくのはリスクが大きいという判断からだった。

 ただ、

「嘘っていうのは、さ」

 ただ、それを踏まえた上でも、まだメイの方が何枚も上手だった。

「嘘っていうのは、()き続ければ真実になる。そして真実の中に混ぜられた僅かな嘘は、なかなか嘘と気づけない」

「何が、言いたいのかな」

「Tファイルは嘘だってこと」

 ぴくりと彩の眉が動――くことはない。そんな低レベルの失態を犯すほど彩は無能ではない。ただ、荒れ狂う内心までは誤魔化せない。Tファイル。それはメイが文鳥の女こと天堂久良羅に送った『ツキカゲ』のデータ。偽情報も多く混ぜられたそれは、しかし確かに真実の情報も入っている。

 メイは八月十八日の夜、『モウリョウ』のサーバー内の全ての情報をメイの知る限りの組織に送った。その情報の中にはTファイルも存在する。天堂は『モウリョウ』のサーバー内にTファイルのバックアップをとっていたのだから当然だ。

「まだ分からないの?」

「…………………………………………………………」

 彩は今、全力で考えている。Tファイルが嘘? それは別に構わない。もともとTファイルはメイが『モウリョウ』に流した情報だ。それが嘘である可能性を彩は当然考えていた。

 だから彩は情報ソースを二重にとっていた。『モウリョウ』から(もたら)される情報と彩独自で調べた情報。彩は『モウリョウ』に洗脳された一般人を装っているわけだから『ツキカゲ』の情報は『モウリョウ』から簡単に得られる。洗脳したと思っている人間に対して『モウリョウ』のガードは緩い。ゆるゆるだ。だから『モウリョウ』から『ツキカゲ』の情報を得るのは楽だ。

 ただ、逆に『モウリョウ』以外から『ツキカゲ』の情報を得るのは難しかった。そもそも、『ツキカゲ』はこの一カ月間、情報を残すような行動はしていない。『ツキカゲ』のバックであった『財団』は既に『モウリョウ』の洗脳下にあるので、情報の二重確認という意味では使えない。

 ただ、『ツキカゲ』の情報を得る手段はまだある。

 それは学校だ。

 空崎高校のデータベース。

 何の因果か『ツキカゲ』のメンバーは全員空崎高校に通っていた。それはTファイルから分かった。だから彩は職員室に忍び込んで『ツキカゲ』の個人データを手に入れることに成功した。

(……動揺しないで、揺さぶりにも惑わされないように。この程度で底を見せるほど、私は甘くなんてない。(ぬる)くなんてない)

 情報は二重にチェックした。

 誤りなんてあり得ない。

 自信に満ちた態度はブラフだ。

 彩の動揺を誘おうとしているだけだ。

 惑わされるな。

 騙されるな。

 メイは嘘をついている。

(あぁ、全く)

 笑うな。

 (わら)うな。

 (わら)うな。

(罪深いなぁ、私)

 楽しくてたまらない。

 興奮が抑えられない。

「何が言いたいのかな?」

 そうだ。ずっと、ずっと彩はこういうことがやりたかった。こんな裏世界に、世界の闇に焦がれていた。

 友達と笑いあえる日常?

 くだらない。

 恋人ができて子供を産む人生?

 反吐が出る。

 抑圧された不自由な生き様?

 クソ喰らえ。

 ずっと、ずっとずっと、ずっとずっとずっと、彩は、もっと、もっともっと、もっともっともっと、自由に生きたかった。たった一カ月前の世界は制限が多すぎた。

 人に暴力を振るってはいけません。

 人を騙してはいけません。

 人を殺してはいけません。

 ふざけてる。

 法を犯してはいけません。

 他人を尊重しましょう。

 人の役に立ちましょう。

 烏滸(おこ)がましい。

 (ごみ)が、(くず)が、豚が、何か訳の分からないことを話している。

 阿呆が、馬鹿が、猿が、何か意味の分からないことを決めている。

 何だそれは? 多数派であることがそんなに誇らしいか?

 何だそれは? 主流派であることがそんなに得々なのか?

 能力の無い雑魚が群れて(いき)がっている。未完成の付属品が集まって何か(わめ)いている。

 くだらない。

 くだらない。

 くだらない。

 本当は、全部ぶち壊してやりたかった。

「フーの誕生日は九月十五日だよ」

 だがそれを彩はしなかった。我慢した。分かっていたからだ。彩は異常な天才だが、それでも一人でしかない。個人では世界には勝てない。人間なんて彩からしたら(ごみ)に過ぎないが、(ちり)も積もれば山となる。山を動かすことはいくら彩でも難しかった。

 だから彩は(人類)の定めたルールの中で生きてきた。

 そのルールは撤廃されたが、新たに定められたルールもまたクソだった。

 まぁそれでも、前のルールよりはだいぶマシだと彩は思っていたが。

「墓穴を掘ったね。彩りんが本当に政府のアーカイブで『ツキカゲ』の情報を得たんだとしたら、表に出てる『ツキカゲ』の情報が欺瞞(ぎまん)情報だってわかるはずだよ。『ツキカゲ』に属する人間が誰かは別枠で調べないといけないにしても、『ツキカゲ』メンバーの個人情報については戸籍を調べれば確実に分かるからね。メイ達『ツキカゲ』も、流石に中央省庁にある個人データまでは干渉できない。……空崎高校のデータや、Tファイルは別として」

「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」

 彩の人格は破綻している。生まれながらにして壊れきっている。修正できないほどに、修理できないほどの、矯正(きょうせい)できないほどに、崩れきっている。生来の狂人。(とんび)から(たか)が生まれたように、人間から生まれた異星人(エイリアン)。大胆不敵に破滅した、蓋世不抜(がいせいふばつ)の愉快犯。人類史という(かご)に捕らわれていた哀れな鳥は『モウリョウ』によって(かご)の外に解き放たれたのだ。

 故に彩の二つ名は『異常識人』。

 異常な常識の中で生きる人間。それが靄隠彩だ。

(…………私はTファイルの情報を信用なんかしてなかった。だから、空崎高校で二重に確認した。けれど、そうか。……疑うべきだったのかな。私でも調べられる程度の情報に、『ツキカゲ』が干渉していないわけがないって)

 ただ、それで言えばメイも全く負けていなかった。負けていないというか勝っていた。彩は一か月前まで人間が数千年かけた生み出した共通世界観――人類史という名の檻に飼い殺しにされる選択肢を選んでいた。檻の中で精一杯自由に生きて、懸命に嗤《わら》う生き方をしてきた。

 だがメイは違う。メイは、そんな檻から己の意志で抜け出して見せた。

 表側の世界から脱出して裏世界に、『ツキカゲ』に入った。

 それは単純な差だ。メイと彩のどうしようもなく絶対的な差。

 檻の中で飼いならされる道を選んだ養殖品(靄隠彩)と檻から抜け出して空に羽搏(はばた)いた脱獄犯(八千代メイ)

 その時点で格付けは済んでいた。

 もちろん『ツキカゲ』という組織だって檻の中であることに変わりはない。ただ、人類史という巨大で強大な檻よりも随分(ゆる)い檻だ。

 彩は諦めた。メイは諦めなかった。

 それが彼女達二人の差だった。

「参ったなぁ」

 だから、

 彩は、

 諦めたように溜息をついた。

「あれが、ダミーか」

 同類は同類を感じ取れる。彩はどうしようもなくメイとの実力差を感じ取ってしまっていた。

 故に屈した。今もブラフかもしれないとは思っている。今も騙りかもしれないとは思っている。今も自分の調べた情報に自信を持っている。

 だが、それに絶対の確信をもてない。

 メイの態度がそうさせない。

 だから屈した。負けを認めるなら早めがいい。時間が経てば経つほど不利になっていく。メイとの舌戦に勝てる気が彩にはしなかった。いずれ論破されるのであれば、いつか矛盾をつかれるのであれば、早く白旗を上げたほうがいい。

 ここでの敗けは許容できるのだから。

「相模楓の反応的に、それはないと思ったけど」

「仕込みっていうのは、長期でやればやるほど染み込むなんだよ」

 ふっ、とメイは笑う。絶対的強者の微笑み。彩の実力は天堂よりも落ちる。『ツキカゲ』として数年間空崎市で戦ってきたメイの相手ではない。

 と、思わされていることにまだメイは気付いていない。

 メイですらもまだ、彩の本当の正体には気付いていない。

「『ツキカゲ』にはいくつかの伝統があるんだ。十二月には師匠が弟子にプレゼントを贈るとか、基本的には皆同じ高校に通うとか」

 裏の読み合い。策のぶつかり合い。一流の謀略家同士の戦い。それは言葉だけではない。表情を読んで、身体の微細振動を見て、話し方を気にして、目線の向き、息遣い、汗の流れ、他にも他にも。

 そういうモノが楽しくてたまらないのだ。

 どうしようもなく、楽しい。

 他人を騙す感覚。言葉一つで他人を操る感覚。あぁ、本当に(たま)らないと思う。

「メンバーの誕生日は皆で盛大に祝う、とか」

 人の認識は少なからず外部からの影響を受ける。例えば朝起きて時計を見た時、針が九を指していれば今の時間は午前九時だと思ってしまうのだろう。テレビをつけてニュースキャスターが今日は九月十八日ですと言っていれば今日は九月十八日だと思うだろう。

 少しずつ、少しずつメイは楓の認識を操ってきた。それと知らず、楓はメイに操られてきた。

「忙しいとさぁ、無くなっちゃうよね。正常な時間間隔が」

「なるほど」

 呟く。

 呟いて、(こご)える。

 何でもないように、恐ろしいことを言う。

 とても恐ろしいことを、何でもないように言う。

「なるほどなるほど」

 『まだ十六歳なんでしょ? 君?』

 『フーは十七歳だよ』

「相模楓が最後にカレンダーを見たのはいつかな?」

「さぁ? でも『ツキカゲ』の秘密基地(アジト)には残念なことにカレンダーなんてないんだ。後、この一か月フーはずっとメイと一緒にいたなぁ」

「なるほど、ね。もしかして、『もう少しでフーの誕生日だね』なんて声をかけていたりするのかな?」

「言ったような気もするね。そんなことを最近」

「はは、それはそれは」

 ここまでか、と彩は思った。

 随分と念の入れたことをする。自分が誕生日を迎えていることに気づけないほど、今日が何月何日なのか分からなくなってしまうほどに、楓の認識は操られていたというのか。

 そして、より悪質なのはそのことに楓自身が気づいていないであろうということとそれを仕掛けたメイが全く罪悪感を持っていないであろうことだ。

 それが役に立つかもわからないのに、『八咫烏(やたがらす)』のような組織が接触してくるかどうかなんてわかるはずないのに。それでも楓の認識に齟齬(そご)を起こさせるだなんて。

 端的に言って、

「イカレてる」

「あはは、大丈夫大丈夫。フーは欠片も気づいてないから」

「だからこそ悪質だ。人の心を何だと思っているんだ?」

「あはは、大丈夫大丈夫。フーはメイのこと信じてくれてるから」

 たぶん、メイから楓への好きと楓からメイへの好きは違う。メイから楓への好きはどちらかといえば彩から夢への好きと同じだろう。つまり、本質的にメイは楓を同等と見ていない。不幸なことだ。健常者の愛はいつだって異常者には届かないのだから。

「こういう事態を予期して?」

「それ以外にもね」

「無駄になるかもしれないのに」

「メイ達のやることなんてだいたいそんなもんでしょ?」

「これだから怖いんだ」

「別に誇りはしないよ?」

「お優しいことで」

 いくつかの言葉を抜いても十二分に言葉は通じた。それはもちろんメイと彩だからこそで、例えばここにいるのが夢や楓であれば全く意思疎通などできなかっただろう。生来より壊れた人間同士の会話。とてもまともでは成立しない。

 メイと彩はとてもよく似ている。組織の中での役割も、その人間性も、人との関わり方も、とてもよく似ているのだ。メイにとっての楓はつまるところ彩にとっての夢で、彩にとっての夢こそがメイにとっての楓。 

「彩りんの目的は『モウリョウ』殲滅(せんめつ)後の世界の実権を握ることかな?」

「僕は所詮(した)()だよ。『上』の思惑は完全には知らされていない」

 看破されるのは別に構わなかった。所詮『八咫烏(やたがらす)』は出来損ないの急造品だ。いざとなれば切り捨てられるし、メイほど頭の良い人間であればわざわざ破綻させる理由もないだろう。ある意味では見破られるのが前提の組織ではあったのだ。

 最も、こんなに早く見破られるとは欠片も思っていなかったが。

「だけど推測できることはあるでしょ? 最下層ってわけでもないんだから」

「………………たぶん、『上』の目的は世界の実権を握ることだけじゃない」

 ここで素直にメイの求める情報を語るのには当然理由がある。彩にとって『上』の情報はそこまで重要なモノではないのだ。嘘で塗り固められた彩の人生において本当に重要なのは自分自身についてのこと。暴かれたくない嘘は彩の過去についてのこと。

 『上』なんてどうでもいい。

(見破れやしない。まさか、私達の本当の姿を)

 彩と夢の正体を覆い隠す最大の嘘。

 彩と夢の過去を覆い隠す最高の嘘。

 いくらメイでも見破れない。その絶対の自信が彩にはある。裏世界にいる人間だからこそ存在する絶対の隙。生き様は思考を固定化させる。不可能だ。この短時間で。辿り着けやしない。絶対に。

 彩は確信している。最後の一線だけは、絶対に越えられない。最大の秘密は必ず守られる。

 できるわけがない。

「詳細は誤魔化すけど、僕らの組織は人間の進化を目的としてるんだ」

「人間の進化」

「つまりは不老不死。権力者が最後に求める奇蹟(きせき)。僕らの組織はそれを求めてる。……だから、僕の予想が正しいんだったら『上』は全人類七十億をその(かて)にするつもり、……なのかもしれない」

 先入観。

 彩はメイに先入観を植え付けていた。

「あくまでも予想だよ。僕は『上』じゃない。幹部ではあるけど、ただの中間管理職だから」

「いや、それで十分だね。どっちにしても『八咫烏(やたがらす)』にも勝たせるわけにはいかないってことがわかったんだから」

 確認しておくが、彩の謀略家としての実力はメイよりも下である。が、下であるからといって別にメイに敗北するわけではない。伏線は既に張られていた。彩はいくつもの嘘をついているが、彩のついた嘘は厳密に言えば嘘ですらないのだ。

 そして、ある程度真実を話したという事実はそこそこの信頼を(もたら)すことができる。少なくとも、全てが嘘で満たされた言葉よりも信じる場所を見つけやすい。何が真実かを見破る必要はあるが、それをメイは既にできている。

 と、メイは錯覚している。

「言っておくけど僕は『上』に反抗するつもりはないよ? 『上』には恩がある。僕をこんな風にした恩が」

「でも協力はしてくれる」

「現状をどうにかしたいと思っているのはどこも同じさ。僕らの『上』もね」

 メイは彩の嘘を見破った。地力で見破ってみせた。それはメイに自信を与えた。彩の嘘は見破れると、メイの無意識領域にはそんな確信が刻み込まれた。

 嘘が見破られた後にすぐ嘘をつく人間はそうはいない。いるとしても、それはどうしても態度に現れる。

 彩の態度に動揺はなかった。だからメイは信じた。筋も通っていた。『八咫烏(やたがらす)』という組織に関しては嘘だろうが、だからといって彩が個人活動家であるということはあり得ない。この場所を用意できたということが、『モウリョウ』の洗脳から逃れているということが、その証明だ。

 彩の裏には誰かがいる。それは間違いない。そしてその裏、つまり彩の言うところの『上』。これを偽る意味はないはずだ。

 彩がメイと協力体制を築きたいのは本当のはず。でなければあんなリスクを冒して『ツキカゲ』に接触するわけがない。そしてだとすればそもそも嘘をつくべきではないのだ。協力には信用が必要で、信用は真実から生まれる。だが、仮に彩の所属する組織がメイの想像するようなモノなのであれば、最終的には彩と『ツキカゲ』は決裂する。故に彩には話せないことが存在する。それを覆い隠すための嘘だ。

 そうではないことに、まだメイは気付いていない。

(だからこそ)

 誤ったままメイの思考は進む。

 一度見破られた嘘を覆い隠す嘘をつくことはできない。それは無意味な行為だ。

 信じられる。彩個人ではなく、彩の発言を。

 最も、彩の『上』とやらが彩に本当の目的を教えていない可能性も十分に考えられるが。

「プランは?」

「こっちに乗ると? 君らだって計画を立ててるんじゃないのかい?」

「それなりの規模だってことは分かってるし、使い捨てるつもりがないなら乗るよ」

「意外だ、けど。……なら詳しく詰める必要があるね」

 一歩踏み出し、彩は話を一段階進める。これ以上はまずいと本能的に感じていた。そもそも長時間の会話はリスクがあるのだ。メイは予想以上だった。予想以上の逸材だった。これ以上一対一(サシ)で会話すれば余計な情報を抜き取られる可能性がある。

 ここは逃げの一手だ。

「ちょうど模擬戦も終わりそうだ。続きは四人でどうかな?」

「悪くないんじゃない?」

「心配しなくても、君の弟子を(いじ)めるつもりはないさ。そんな恐ろしいことはしないとも」

 メイは彩を一瞥して、倒れ伏した楓のもとに歩いて行った。決着はついていた。楓の敗北という形で。

「全く、怖いな」

 呟く。

 ある意味での勝利宣言。

 ある意味での敗北宣言。

「本当に、怖い」

 誰であれ、思いもしないだろう。

 まさか、彩と夢が本当はただ泰然自若(たいぜんじじゃく)なだけの部外者だなんて。

 そんなこと、思いもしないだろう。

(嘘っていうのはこうやってつくんだよ? 彩りん)

 楓の誕生日は十一月二十二日である。つまり、合っていた。Tファイルに書かれた、空崎高校に保存されていた楓の誕生日の情報は間違っていなかった。

 彩は正しい情報を得られていたのだ。

 それを舌先三寸で間違っていると思いこませた。

 それが、メイの実力だった。

 それが、彩の実力だった。

 それだけが端的に二人の実力差を示していた。

 プロと素人の、その差を。



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第二章 バッド・シェパード⑥

手に入れたから捨てられないモノ。

価値があるから捨てられないモノ。

あなたの弱さで人が死ぬ。


 単純な戦闘能力だけで言えば夢はそれほど強くない。『ツキカゲ』の番付でいえば甘めに採点しても関脇レベルでしかない。

 だが今、夢は楓を圧倒していた。

「っ、く⁉ このッ‼」

「…………冗談」

 即応能力。危機に対するセンサー。第六感。直接的戦闘能力以外の項目が夢は異常に(すぐ)れていた。それは例えば戦闘における駆け引き。目線によるフェイント、緩急の付け方、敵の動きの誘導の仕方。楓が簡単に引っかかりすぎているというのももちろんあるが、それにしたって夢は異常だった。

「…………甘い、(ぬる)い、弱い」

 手裏剣を振るう。両手に持った手裏剣を振るう。楓が攻める。

 速度では楓の方が(まさ)っている。

 重さでは楓の方が(まさ)っている。

 経験では楓の方が(まさ)っている。

 なのに届かない。

 一撃も当たらない。

 それが上手さだ。夢は戦い方が上手いのだ。

「っ!」

 近距離から手裏剣を放つ。紙一重で夢に避けられるが、それは織り込み済みだ。

 手裏剣を起爆させる。

「――――――」

 いくら事前情報があろうと、接近戦を行っている最中に近距離で起きた爆発から逃れられるわけがない。爆風は夢に影響を与える。だから夢の体勢が崩れる。

 揺らぐ。傾いた。右後方で起きた爆風によって夢の体勢が左に流れる。左足の踏ん張りが見える。頭が左に傾いている。動きが止まった。

 明確な、隙!

 それを見逃す楓ではない。初手の不意打ちから(つか)まれていた流れを断ち切るために一切の容赦なく楓は手裏剣を振るった。ここで距離をとるのは得策ではない。距離をとる時間があれば夢は体勢を立て直しきってしまうだろう。だから今だ。今、このタイミングこそが絶好の機会。

 トン、と一歩距離を詰める。いける。当たる。

(これでッ!)

 だが警戒は忘れない。

 夢の右半身を注視する。

 左足に重心がある以上攻撃が来るとしたら右半身からだ。バランスが崩れている以上左手での攻撃は威力が乗らないから気にしなくていい。頭突きをするには距離が足りない。

 いける。当たる。届く。

 勝った!

 そう、楓は思った。

「がふッ⁉」

 攻撃は入った。もろに、右脇腹に蹴りが入った。

 夢の左足が楓の右脇腹に直撃していた。

(な、なんで……?)

 痛みと同時に戸惑いが溢れた。

 夢の身体の重心は間違いなく左にいっていた。左足は身体を踏ん張るのに使っているから蹴りなんてできるはずがなく、右半身からの攻撃がくるはずだった。だから楓は夢の右半身に注目して、左側のガードを固めた。

 なのに、なぜだ。

 重心の移動は見られなかった。

 けれど、どうして。

 予備動作なんてなかったのに。

「…………ふっ!」

「がッ⁉」

 夢はそのまま足を振り抜いて楓の事を数メートルもぶっとばした。ゴロゴロと楓の身体が床を転がって、身体中に擦り傷がつく。擦れた肌から少量の血が出てじわりと服を赤く染める。

 無様に、

 無残だ。

「ぁ、くっ……! はぁっ、……ぐ、ぅ」

 膝に手をついて立ち上がる。闘志は尽きていないが実力差は明確だった。今の夢も何も特別なことをしたわけではない。

 重心の位置を欺瞞(ぎまん)する技術なんて古今東西様々な戦闘スタイルに存在する。夢はただ楓の視点を誘導しただけだ。

(…………弱い)

 楓の戦い方は分かりやすいのだ。確かに楓は強い。単純戦闘能力においては夢を上回っている。だが、楓の動きはひどく単純で、根底に疑いの思いが存在していない。だから簡単に騙せるし騙される。

 夢には楓の意図が透けて見えた。手裏剣の起爆はあまりにも分かりやす過ぎた。第六感センサーに頼るまでもなく、楓の瞳にあった覚悟から読み取れた。だから夢はわざと左足に全体重をかけているように装ったのだ。実際は身体を左に傾けながらも右側に重心を移動させていた。

 故に夢は左足で楓を蹴ることができた。単純なことだった。楓が夢の身体全体を見ていればそれだけで夢の蹴りを避けることができただろう。そしてそこにカウンターを加えることも。

(…………思ったよりも、遥かに弱い)

 追撃は仕掛けない。この程度の実力では、追撃を仕掛ける気力もわかない。出そうになる溜息を抑える。失望しそうになる心を戒める。

 こんなモノか? こんなモノなのか? 裏世界は? 『ツキカゲ』は?

 夢なんてただの三流未満の新人に圧倒される程度なのか?

 夢なんて現実に適応できなかっただけの雑魚に簡単にねじ伏せられる程度なのか?

 だとしたら、だとすれば、とても、とても、それはとてもではないが。

「…………それが本気?」

「何、を」

「…………この程度? …………『ツキカゲ』とやらは、こんな低レベル?」

「っ⁉」

 (あなど)られている。

 それがとても悔しい。我慢できない。

 楓が(あなど)られるならともかく、楓だけが(あなど)られるならともかく、『ツキカゲ』全体が(あなど)られるのは我慢がならない。皆、頑張っているのに。こんな、こんな会ってたった十数分の人間に『ツキカゲ』全体が(ののし)られるなんて、楓一人の実力が、『ツキカゲ』全体のレベルのように見えているなんて。

「そんなわけ、ないでしょ!」

「…………それで?」

 もう夢は楓に何の期待もしていなかった。そもそも夢は弱いのだ。本質的なところで夢はどうしようもなく敗北している。そんな夢に勝てないどころか接戦も演じられないようじゃ楓の底は見えている。浅すぎる。

 夢なんて、ただ逃げ続けただけの(ごみ)にすぎないのに。

「…………もう、いいや。…………それが『ツキカゲ』とやらの強さだっていうなら、失望すら通り越して、絶望した」

「な」

「…………お前の(レベル)は見えた。…………弱いよ、お前」

 言い放つ。それは絶対の判決だった。悲しみの(にじ)んだ死刑判決だった。

「…………何も、見えてない。…………何も、分かってない」

 期待はしていたのだ。(あやま)ちだらけの夢の人生において全ての人類は光り輝いていた。そしてその中でも正義のために、誰かを守るために、みんなを救うために戦っている人間は、こんな変わり果てた世界を元に戻そうなんて無駄にしか思えない努力を重ねる人は特に輝いて見えた。

 でも、『ツキカゲ』がこの程度ならば、それはきっと錯覚でしかなかったのだ。

 地獄の底から見た地上は(きらめ)いていた。

 そんな地上に行って生きたかった。

 だけど憧れは憧れのままで良かったのだ。実際に見れば、人間なんてくだらないと分かってしまうから。

「…………誰かを信じるのはそんなに尊い? …………誰かを信じられる自分に酔ってる? …………誰かを信じて死んでも後悔はない? …………誰かを信じられるのが誇らしい?」

「何を、言いたいの⁉」

「…………くだらない。…………本当に、心底、幻滅した。…………お前は、」

 軽蔑した瞳の由来が分からない。夢にとって楓の弱さはそこまで許せないモノだったのか? だとすれば、いや、だとしても楓のすることは何も変わらない。

 立ち上がった楓は手裏剣を構える。だが、何をどうしてもその手は少し震えていた。動揺。それはいけないことだとは分かっているが、心の震えは止まらない。精神の揺らぎが身体を震わせて、これでは楓は本来の実力の五分の一も発揮できない。

 だから勝敗は決していた。

「そんな自分に(おぼ)れて死ね」

 フェイントなんていらない。何の偽装も必要ない。もう一直線でいい。

 夢は全速力で楓に向かって突っ込んでいった。

「私のこと、(あなど)りすぎてない!」

 いくらなんでも下に見過ぎだ。単純戦闘能力では楓は夢に勝っているのだ。直線行動ならいくら楓が動揺していると言っても手裏剣は当てられる。外すわけがない。

 シュッ、と楓は両の手に握った手裏剣を夢に向かって投げた。避けられるだろう。それを前提とした攻撃でもある。避けたところに追撃を入れる。幸い、手裏剣の残数はまだ多い。まだしばらくは戦える。

 なのに、いきなり前提条件が崩れた。

「…………そんなんじゃ、誰も救えない」

 夢は、

 夢は、そもそも避けなかった。

 手裏剣が夢の腕に突き刺さった。

 そして、誰でもない自分自身に訴える様に呟いた。

 強いだけじゃダメだけど、弱くてもいけないのだ。

 強いだけじゃダメなのだ。その前に正しくなくてはいけない。

 その正しさを持てないから、夢は自分が嫌いだ。優れた第六感センサーがあってもそれでは意味がない。

「はあ⁉」

 驚愕の叫び声を上げる暇があれば攻撃をすればいいのに、手裏剣を起爆すればそれだけで勝てるのに、それができない。

 戦う前に決めたルールが楓の動きを阻む。

 『身体欠損はダメ。完全回復に一週間以上かかるような攻撃も禁止。致命的な認識齟齬(そご)(もたら)す攻撃もなし。……まぁ、こんなところかな』

 まさか、彩は、これを見越して。

「何も、ね」

 突っ込んでくる夢から逃げようと楓が慌てて横っ飛びしようとした瞬間だった。

 ()()()()()()()()()()

「ッ⁉」

 だから、楓は失格だったのだ。

 何一つとして分かっていなかった。

 相手の言うことを唯々諾々と信じる奴はスパイに向いていない。

 ここは『八咫烏(やたがらす)』の秘密基地(アジト)だ。仕掛けの一つや二つあって当然だろう。

 楓が起爆させた爆竹。もちろんその威力は最小限に抑えられていたが、それで終わりだった。

 致命的な隙を楓は(さら)してしまった。

「…………さよなら」

 振るわれる拳を今度こそ避けられない。

 楓には何もできない。

「ぁ」

 そして勝敗は決した。

 それが今の楓の実力だった。



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第二章 バッド・シェパード⑦

強者同士の会話は弱者には理解できない。

だからこそ、強い。


 何が悪かったのかとずっと後悔していた。

 どこから間違ってしまったのかとずっと考えていた。

 失敗した。

 どうしようもなく失敗して、全てを(うしな)って敗北した。

 それは分かっている。でも、何をどこが失敗だったのか分からない。

 メイの二重スパイが失敗だったのか。

 いや違う。メイはとてもよくやっていた。

 であればあの時、楓はモモと共に行くべきだったのか。

 モモを一人で天堂と戦わせてしまったから、こんなことになったのか。

 二人であれば、二人だったら、

 こんなことにはならなかったのか。

 変わり果てた世界。崩れ落ちた現実。腐り壊れた人類。

 毎日が辛かった。叫び出しそうで、泣きそうになるくらい辛かった。だって、見せつけられている。『モウリョウ』の勝利を。だって、見せつけられている。『ツキカゲ』の敗北を。『モウリョウ』を(たた)える人々。『モウリョウ』を崇拝する人々。クラスメイトも、友人も、家族も、他人も、全員洗脳されてしまった。

 笑うことなんてもうできなかった。 

「……ぅ」

 痛む身体が楓の意識に覚醒を促した。瞼を少しだけ開いて、楓は自分の状態を確認する。全身の擦過傷(さっかしょう)、脇腹や腹の青(あざ)、そして軽い倦怠(けんたい)感。

 楓は床に寝転がされていた。

(……あぁ、……負けた、んだった)

 自分が無様に気絶していたらしいことに気付いて、楓は自嘲(じちょう)した。今思い出しても無様極まりない。(あなど)っていたつもりは一切ないし、手加減する理由はもっとない。つまり、純粋に負けたのだ。『ツキカゲ』で積んだ経験の一切は夢に通じなかった。それほどの実力差があった。

 それを再確認して、楓は少し離れた場所で話をしているメイと彩に気付いた。

「――――――先は渡しておくから、目途が立ったら連絡してよ」

「うん、数日の内にはできると思うよ? 作戦会議はどこでやる?」

「表ってわけにもいかないだろうし、『ツキカゲ』か『八咫烏(やたがらす)』か、どっちかの安全な隠れ家(セーフハウス)でってことになるだろうね」

「んー、なら場所はこっちで用意しようか。簡易的な安全な隠れ家(セーフハウス)ならいくつか用意できるし。彩りん達がいいなら、だけど」

 ガンガンと痛む頭で二人の会話を咀嚼(そしゃく)する。どうやらメイは彩達と協力関係を結ぶことにしたらしい。楓と夢が戦っている間に何かあったのか、それとも最初からそうするつもりだったのかは分からないが、ともかくそういう風に話はまとまったらしい。

 メイは、どういうつもりだったのだろうか。

 そう、楓は思ってしまった。

 メイは分かっていたのだろうか。爆竹の使用に対してメイは何も言わなかった。メイは、分かっていたのだろうか。楓では夢には勝てないと。

 だとすれば、夢との戦いには何の意味があったのだろうか。『八咫烏(やたがらす)』の戦力調査ではなく、何か別の目的があったのだろうか。それは何か、『ツキカゲ』に利するような何かだったんだろうか。

 分からない。楓には分からなかった。メイの考えが、楓には分からなかった。

 所詮は一年程度の付き合いだ。楓はメイが『ツキカゲ』を裏切ったふりをしたことにも気付けなかった。楓はメイを理解しきれていない。

 ネガティブだ。

 夢にこてんぱんに負けたせいで楓はネガティブなっていた。

「…………起きた?」

「うわ⁉」

 急に後ろから声をかけられた。慌てて楓が振り向けば、そこには戦闘中と変わらず無表情な夢がいた。

「…………起きた」

 夢は何の感情も感じさせない声色で、未だに何やら熱心に話し込んでいるメイと彩の間に割り込んで楓が起きたことを報告した。そこには何の色もない。なぜだろうか、なぜかそれはとても楓の(かん)に障る。

「……そう簡単に起きれるような傷じゃなかったと思うんだけど」

「師匠がいいからね」

 呆れたように言う彩と自慢げに言うメイ。そこにある意図は楓には読み取れない。なぜだろうか、楓にはメイがとても楽しそうに見えた。

 なぜだろうか、あんなに近くにいたはずの師匠のことを、なぜか今は、とても遠くに感じる。

「それに、夢っちも手加減してたでしょ?」

「………………そんな余裕は、なかった」

「嘘は時に人を傷つけるよ、夢っち」

 バキュン、と指を銃の形にして、メイは夢のすぐ傍を通り過ぎる。

 通り過ぎ様に、彩の瞳に映らないよう僅かに夢と身体を接触させ、言う。

「ありがとね」

「…………礼を言われるようなこと、してない」

 一方で、立ち上がった楓は呆然とメイの言葉を反芻していた。

(手加減、されていた……?)

 楓はあんなに一生懸命だったのに、夢は本気を出してすらいなかった?

 いや、分かっている。きっとそうなのだろう。だって楓の攻撃は一撃も夢に届かなかった。それが、何よりも端的に二人の差を表していて。

 初手から手加減されていた。夢が本気なら楓は初撃で沈んでいた。そういうことなのだろうか。

「っ」

 悔しい。

 悔しくてたまらない。

 強くなったと思っていた。『モウリョウ』に敗北してから修業を続けていた。なのに、届かなかった。

 弱い。

 弱すぎた。

 今の楓は、あまりにも弱かった。

「フー、大丈夫? どこか身体に大きな異常はない?」

「だい、丈夫です! ちょっと、全身が痛いですけど、たぶん明日には治ってますから」

 実際、楓の身体に大きな傷はなかった。それは(あらかじ)め一週間以上の治療期間を有するような傷を負わせないことを戦う前に決めていたからではなく、それだけ楓と夢の間に実力差があったからだ。夢は楓の身体に気を使って攻撃ができるほどに強かった。

「だったらまぁ、このくらいが限界かな。そろそろいい時間だし、ここらで一度解散しようじゃないか」

「逃げるの、彩りん?」

「逃げるさ。実力差が分からないほど子供じゃないし、その差を気合で埋められるなんて思えるほど夢想家でもない。……踏み込まれてはいけない領域ってのを守るためならここは無様に負けてもいいのさ」

「それはメイ達の信を失う行為だよ?」

「君はそこまで馬鹿じゃない。分かっているはずだよ。現状を」

 彩が言外に告げているのは『ツキカゲ』の置かれた状況の不利さだ。今の『ツキカゲ』は控えめに言っても全方位が敵だ。周りにいるのは敵だけで、敵の敵さえも敵。そんな状況からしたら、例え裏があると分かっていても『八咫烏(やたがらす)』の手を取らざるを得ないはずだ。

 なんせ彩はメイよりも劣っている。つまりその気になればメイは彩の上を行けるということ。その安心感を逆説的に利用する。

 分かっていても、だ。

 利用すること自体が利用されているということになると分かっていても、メイは彩の提案に乗らざるを得ない。それほどまでに『ツキカゲ』の置かれた状況はまずいのだ。

 無論、『ツキカゲ』が『モウリョウ』と戦う気ならば、だが。

「僕らの接触は予想外にしても僥倖(ぎょうこう)のはずだ。次があるって思ってるのかな? その時間はあるのかな? そして、次のお相手は君よりも格下かな?」

「………………」

「何も仲良し小好しをしようって訳じゃない。でも徹底的に利用しようってわけでもない。ちょうどいい塩梅(あんばい)だよ。僕にとっても、君にとっても」

 損得勘定をして、考えているふりをするメイ。あくまでも考えているふりだ。結論は決まっている。仲間たちの了承を得るまでもなく、『ツキカゲ』の総意を確認するまでもなく、出さないといけない答えなんて分かり切っている。だが、だからといって安易に首を縦に振る理由はない。

 表面上は仲間でも本質的には敵なのだ。主導権(アドバンテージ)は常に意識しなければならない。

 流れを作ることはあっても流れに飲み込まれてはいけない。誘導することはあっても誘導されてはいけない。

 こういう目に見えない戦いはいつ致命傷を喰らっているか分かりづらいのだ。気がついた時にはもう手遅れなんてざらにある。

 だから簡単に言葉を交わしてはいけない。安易に言質(げんち)をとられてはいけない。

 メイは経験上、それを分かっていた。

「仲よくしようじゃないか、八千代メイ。言いたかないけど、僕らは『ツキカゲ』の尻拭いに協力してやろうって言っているんだよ?」

「ッ‼」

 それはあんまりといえばあんまりな言い草だった。だが、真実で事実で、だからこそ否定しづらくて痛かった。確かに、確かにだ。世界がこんな風になってしまったのは『ツキカゲ』が『モウリョウ』に負けたせいだ。でも、だからって尻拭い? 協力してやろう?

 なんだ、その上から目線は?

 確かに『ツキカゲ』は『モウリョウ』を止められなかった。頑張りました、一生懸命やりました、あと一歩のところまでいきました。そんな言葉は何の意味もない。言い訳にすらならない。世の中は結果が全てだ。『ツキカゲ』は敗北した。それが絶対の事実。変わらない変えられない真実。

 だけどそれをいうなら『八咫烏(やたがらす)』だってそうだろうが!

「アンタ達だって!」

 抑えられなかった。

 最後まで『モウリョウ』の計画を防ぐために戦った仲間達を馬鹿にされた気がして、そして何よりも最期まで天堂と戦って果てたモモのことを否定された気がして。彩にそんな意図はなかったのかもしれない。だけど、それでも、それでも楓は。

「フー」

 メイが楓の肩に手を置いた。

「ッ、――――――……………………師、匠」

「あんまり、フーのことを(いじ)めないでほしいな」

「………………それで、返事は?」

 挑発。それの意図するところは一つしかない。

 くだらないことだ。結局のところ、どれほど危機的状況でも人間は一つになどなれない。本当に、なんてくだらない生命体。天堂が失望した理由もわかるというモノだろう。

「どのみち、メイだけじゃ決められないね。これは『ツキカゲ』の今後を決める重要なことだから」

「実力は示したはずだけど」

「だから?」

 少しだけ、メイは彩の本質を(つか)んだ気がした。

(焦ってるね。『上』にせっつかれてるのかな?)

 彩の態度に僅かに焦りが見えた。押しが強い。違和感はあった。彩は『ツキカゲ』との協力の確約を欲しがっていた。その理由はおそらくタイミングの問題。彩の所属する組織にとっての最適のタイミングが今なのだ。だから今、協力してほしい。『モウリョウ』に対する反抗作戦協力の確約が欲しい。

 だとすれば、使える。

 条件を『ツキカゲ』にとって有利にできる。

「とはいえ、メイは協力してもいいと思ってるよ? だから連絡先も渡したんだし」

「なら」

「次に会うまでに()()()()詳細を詰めておいてよ。メイも何とか、皆の合意を取り付けるから」

「…………それは」

 その言葉は致命傷だった。

 すぐに反応しなくてはならなかった。

「……………………………………………………………………………」

 夢や楓には分からないだろうが、同類である彩には分かった。何でもないような、今までの会話と変わらないような会話。だが致命的だった。見抜かれたことが伝わった。だから敗けたと思った。

 だから、終わりだった。                                    

「はぁ、失敗だったかな。君と一対一で話したのは。…………分かったよ。また連絡する。次会う時までに、()()詳細を練っておくよ」

 それは明確な敗北宣言だった。

 靄隠彩は、疲れた様に笑った。

 嘘が見抜かれた。

 何も考えていない口先だけの愚者であることが分かられた。

 法螺(ほら)吹きの詐欺師で、千三(せんみつ)空言人(そらごとびと)で、三味線(しゃみせん)弾きの不正直者であることが暴かれた。

 つまり終わりだ。

 ここが引き時。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

「君は強いね、八千代メイ」

「メイは強くなんてないよ」

 強ければメイは『ツキカゲ』にはいないし、こんなこともしなかった。

 そしてそれは彩や夢も同じだろう。

 逃亡者で逃走者。逃げ続けた敗北者。どれだけ強くなったところで人の本質は変えられない。メイと彩と夢の三人は逃げただけだ。表に居場所をつくれなかったから、自分の居場所を求めて裏に来ただけだ。

 全く笑える。皮だけ強くなったって、何の意味もないのに。

 本当に強い人間はきっと、自分の意志で周りを変えることができた。

「帰ろうか、フー」

「っ、分かりました。師匠」

 意気消沈している楓のケアについて考えながら、メイは(さび)れたバーの出口に向かっていく。

 そしてギュッと強くドアノブを握って扉を開け、顔だけ振り向きながら別れを告げる。

「『ツキカゲ』は彩りんの考えているほど(ぬる)い組織じゃないんだよね、これが」

「また会おう、八千代メイ。次はもっと大勢でね」

 そう言って、メイは扉を閉めた。

 ゆっくりと、ある意味であからさまなくらいに。



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第二章 バッド・シェパード⑧

あなたのことは信じられない。

あなたの嘘は信じられる。


 盲点という言葉を知っているだろうか。人間の目の構造上、生理的に存在する見えない部分のことだ。そしてそこから転じて、現在では『気づいて当然だったのに見落としていた物事』という比喩的表現でも盲点という言葉は使われる。

 『ツキカゲ』はそんな人の意識の盲点をつくことで一カ月もの間七十億の追跡者の目を逃れ生き残っていた。

「フー、夢っちとの戦いはどうだった?」

 誰も気が付かない。

 こんなにも堂々と街中を歩いているメイと楓のことを、誰一人として気が付いていない。

 だがそれも当然なのだ。所詮、どれだけ『モウリョウ』によって洗脳されたところで七十億人の大多数はただの一般人だ。一流スパイの変装に気付ける人間などそうはいない。

「……全然ダメでした」

「そっか」

 頑張った人間に頑張れというのは逆効果だ。そして頑張った人間に頑張ったねというのも逆効果だ。今の楓は負けて落ち込んでいる。下手な言葉は楓を傷つけるだけ。重要なのは、楓に気持ちを吐き出させること。楓の気持ちを知って、その上でどうすればいいかの解決策を教えること。

 弟子のことだ。師匠のメイが一番よく分かっている。

「でもねフー、それでいいんだよ」

「良くありません」

 即座に、楓はメイの言葉を否定した。全然、全く届かなかった。いっそ笑えるほどに負けた。無様に地に這い(つくば)って、無残に殴られ蹴られて気絶した。彩の言葉を信じてしまった。夢のことをどこかで(あなど)っていたのかもしれない。

 仲間達に顔向けできない。楓の敗北で、『ツキカゲ』のレベルが誤解されてしまう。

「いいわけ、ないじゃないですか!……だって、こんなんじゃ私、『モウリョウ』になんて」

 楓は『ツキカゲ』の中で一番弱い。だから、楓は無意識のうちに焦っていた。謀略でも戦闘でも、楓は『ツキカゲ』の役に立てていない。同じ弟子の五恵は楓なんて圧倒できるほどに強くて、頭の回転の早さではカトリーナに敵わず、懐柔能力では初芽に劣る。そして師匠であるメイにはあらゆる面で届かない。

 こんなんじゃダメだって分かっているのに、一足飛びに成長なんてできるはずがない。積み重ねた日々の修練が強さにつながると分かってはいるけれども、悠長に修行している時間がないことも分かっていた。

 だから、涙が出そうなほど悔しくて悲しくて、唇を()みしめる。

「フーは気にしすぎ」

 そんな楓の頭を、メイはゆっくりと撫でた。

「フー、フーは一人で戦ってるわけじゃないんだよ? そりゃ、フーが強いにこしたことはないけど、そもそも『ツキカゲ』の師弟システムは師匠が弟子を支えることを前提としてるんだ。メイは、フーのフォローなんていくらでもできるんだから」

 (さと)すように、言う。

 思いつめることは誰にだってある。悩むことは誰にだってある。時間がないから焦るのは仕方がない。周りと比較して余裕をなくすのは当然だ。そして、それをフォローするのは師匠の役目だ。『ツキカゲ』は、昔からずっと、そうして力と心を受け継いできた。

 昔も今も未来でも、それは変わらない。

「今は弱くてもいいんだよ。大事なのは強さじゃなくて、先を目指す意志なんだ」

「…………先を目指す、意志」

「誰だって最初は弱いんだ。メイだって初めは弱くて、師匠に迷惑ばっかりかけてたしね」

「師匠もそうだったんですか?」

「もちろん。メイは、メイのせいで師匠を(うしな)っちゃったからね」

 それを後悔と人は言う。三年ほど前の吸血鬼(ドラゴミル)姉妹との戦いでメイの師匠である高坂信はメイを(かば)い腕を失い、治療のためにアメリカに渡った。誰にだって失敗はある。問題はそこから何を学び、どう成長するのかということ。

 やり直しはいつだってできるのだ。間に合わないなんてことはない。

「だから、そんなに落ち込まないの」

「――――――ぁ」

 (ゆだ)ねたい程に、

 倒れたい程に優しい言葉だった。

「別に、落ち込んでなんていませんっ」

「そうそうその調子だ。フーはやっぱりそうじゃないと」

 笑いあう。

 いつの間にか、胸の中の焦燥感は消えていた。



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第二章 バッド・シェパード⑨

『非』は僕にある。

『否』は君にある。


 周囲に夢以外の誰もいないことを確認してから、彩は身体の緊張状態を僅かに解いた。

「行った……みたいかな」

「……どう、だった? ……『ツキカゲ』は」

「厳しめに採点して六十点。八千代メイ一人なら九十五点」

 つまりは楓がメイの足を引っ張っていると、彩はそう言いたいのだ。

「夢はどうだった? 実際に相模楓と戦ってみて?」

「……育成に、失敗している気がする。……名選手が、名監督であるとは限らない。…………その典型例」

「いんや、たぶんそれはわざとだね」

「……わざ、と?」

 足を引っ張っていると言ったが、メイはそれをよしとしている節がある。メイだって楓の実力は正確に把握しているはずだ。外部の人間があれこれいうまでもなく、メイと楓は師匠と弟子なのだから当然に。それでもメイが楓を放置しているということは、つまりはそういうことなのだろう。

 手がかかる子ほど可愛いとはよく言ったものだ。

「弟子の育成に手を抜くタイプじゃないだろうし、なら名監督になれない人間かといえばそうとも思えない。後継者にするつもりもないんだろうし、ただ単に、お気に入りは大事にするタイプなんでしょ」

「……お前にとっての私のように?」

「そう、僕にとっての君のように」

 メイの思考回路は楓でも分からない。そして同じように、カトリーナ・トビーも青葉(あおば)初芽(はつめ)もメイの思考回路を理解することはできない。『ツキカゲ』のトリックスターたるメイの内心はそう簡単に読めるモノではない。裏表がないということは逆説的に真意を読みづらいということ。狂人の考えを理解することは常人には難しい。

 だからこそ、彩には少しだけメイの考えが分かる。その理由はいうまでもなく、メイと彩が少なからず同類だからだ。

 『快楽主義者』と『異常識人』。

 共に社会から逸脱した人格破綻者にして共に人類という枠組において居場所を持てなかった存在不適合者。

 ただ生きているだけで罪深い、生来からの大罪人。

「自信があるんだろうね。(あふ)れんばかりに絶対の確信が」

 だからこそ彩は楓が(あわ)れでならない。憧れを持っていて、大好きではあるのだろう。ただ悲しいかな、それでは全く足りないのだ。興味を()けても狂喜には至れない。関心を持たれても感心はされない。予測を上回れても予想は上回れない。

 愛していても愛されはしない。

「そしてその自信を裏打ちするだけの実力がある。思考力という点でも戦闘力という点でも、謀略でも戦いでも最終的には勝てる自信があるんだ。そして、何よりも」

 彩はちゃんと自覚している。メイには勝てない。メイは彩の上位互換だ。怠惰(たいだ)に諦めて過ごしてきた彩では勤勉に努力してきたメイには届かないだろう。故に彩はメイを尊敬する。

 つまらない世界だと思っていた。

 でも違った。

 くだらない現実だと思っていた。

 でも違った。

 どうしようもないと思っていた。

 でも違った。

 つまらなかったのは、

 くだらなかったのは、

 どうしようもなかったのは、

 本当は、

(こんな世界で、私、やっと気づいた)

 彩は笑みを浮かべながらメイ達が出ていったドアに近づいて、そのドアノブを触り、

「――――――抜け目がない」

 そこに仕掛けられていた盗聴器を潰した。



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第二章 バッド・シェパード⑩

追い詰められた鼠は獰猛な獅子には勝てない。


 ザリッ、というノイズと共に一切の音が聞こえなくなった。

「ちぇー、気付かれちゃったか」

 情報を得られることを期待して仕掛けた盗聴器が潰されたことを理解して、そこからメイは一つのことを理解した。

 つまり、彩は盗聴器に気が付いていたということ。だから、メイ達が部屋を出て行った後の彩と夢の会話は自然性のあるものではなくある程度の不自然性が伴っているということになる。

「師匠? 耳なんて抑えてどうかしたんですか?」

「んー、出る時に仕掛けた盗聴器を潰されただけ」

「盗聴器⁉」

 左耳の中に入れていた小型の受信機をトントンと叩き、メイは楓に自らの策の一つを提示する。この受信機にはまだ役割があるから捨てることはしない。そもそもこんなのでも今は大切な資産だ。無駄には扱えない。

 楓は驚いた。盗聴器を仕掛けたことに全然気が付かなかった。いくら落ち込んでいたとはいえ、楓はメイの近くにいたのに。

 そして同時に楓は自分と彩の間の力量差も思い知る。楓が気付くことのできなかった盗聴器に彩は気付き、即座に破棄(はき)してみせた。

「それ、大丈夫なんですか? 協力するのにそんなことをしたらまずいんじゃ」

「まぁね。でもこれくらいなら許してくれるってメイは思うよ?」

「そんなに優しい人には見えませんでしたけど」

「そうじゃなくて」

 あくまでも自然に、メイは楓の右肩に触って、

「おあいこ様だからね」

 そう言って、メイは楓の右肩に仕掛けられていた盗聴器を潰した。

 

 

 

 ◆

 

 ザリッ、というノイズと共に一切の音が聞こえなくなった。

「あっちゃあ。まぁ、見破られるよね」

「…………潰された?」

「潰されたよ。夢が相模楓の右肩につけた盗聴器がね」

 彩は、何もただ単にメイの提案に乗ったわけではない。当然彩にも思惑があった。

 交戦後に夢が楓に盗聴器をつける。そうして『ツキカゲ』の内部情報を手に入れる。リスクはあったが、しかし同時にメイならばこの程度は許容するだろうとも考えていた。

 夢は彩の期待に応えてくれた。

 だが、もう盗聴器は潰された。

「けどまぁ、どのみちそこまで頼るつもりもなかったし、問題はないね。ある程度、こっちが泳がされるってのは想定内でもあったしね。そもそも私程度が彼女の上を行けるとは思ってなかったし。……負け惜しみじゃないよ? 十分にも満たない会話だったけど、実力差は痛感しちゃったから」

「…………別に、そこは疑ってない。…………次は?」

 似ているからこそ互いがやることもある程度は読めていた。盗聴器を仕掛けるなんてことは当然やるし、やられるに決まっている。他にもメイが何かを仕掛けたか、なんて彩は少し考えてみるが、そもそもこの秘密基地(アジト)にメイが来ること自体、メイにとっては予想外だったはずだ。万全の装備があったとは思えないから、仕掛けられているとすれば盗聴器くらいなものだろう。発信機を付けても意味がないことはメイならば分かっているだろうし、監視装置はいくら小型化しても分かる。

 だから彩が警戒していたのは盗聴器だけだ。二つ以上仕掛けられている、ということももちろん考えられるが、メイの行動を見ていた限りそれはないだろうと彩は思っていた。彩の視界内ではメイが盗聴器を仕掛けたのは一度だけだった。

 だから彩はこれ以上盗聴器を探すようなことはしなかった。

「会合までは特にすることなんてないよ。もう表にいる意味もないし、素性がばれないようにだけ注意して、あとは自由に過ごしたらいいんじゃないの? どのみち、勝っても負けても一週間後が最後の戦いだから。こんな風に過ごせるのはもう本当に最後だろうし」

「…………大丈夫。…………ちゃんと、ついていくよ?」

「別に心配はしてないよ、夢」

 裏切りなんて低レベルな行為を夢がするわけがない。その程度の信頼関係ならとっくの昔に破綻していた。

 守るから従え。

 一か月前に二人はそう約束したのだ。

「…………ところで、彩。…………ここでかなり、残念なお知らせがある」

「残念? まさか、相模楓と戦った時に何処か痛めたの?」

「…………違う。…………分かりやすく一言でいうと」

 そこで一呼吸の間を夢は置いた。まるでとてつもなく重大な何かを告げる様に。珍しく夢の顔に緊張が現れていた。最も、それは夢を理解している彩でなければ気づけないほどの僅かな差だったが。

 そして夢は告げた。

「…………囲まれてる。…………このままじゃ、逃げられない」

「………………………………………………………………は、い?」

 さしもの、

 さしもの彩の思考も、停止した。

 メイと話していた時にも表に出さなかった戸惑いの感情が(あふ)れる。

 え?

 なんだ、それは?

 何の前触れもなく、

 そんな急展開が?

「…………今、私の第六感(センサー)が察知した。…………たぶん、相当ヤバいと思う」

「……オーケー、理解した。……緊急事態に備えて装備は整えておいたよね? 二人分、とってきて」

「…………分かった」

 だが彩は一秒もかからずにいつもの冷静さを取り戻した。大丈夫だ。問題ない。いくつものパターンを予測してきた。彩の長所は人並み外れた想像力だ。こういう展開も想像してきた。

 だから全く無問題。退路もしっかり確保してある。

「『モウリョウ』に()ぎつけられたにしては早過ぎるし、そもそも『モウリョウ』なら私達じゃなくて『ツキカゲ』を狙うはず。私達の優先順位は下位のはずだし、そんなに急に大勢を動員できるとも思えない。『ツキカゲ』が裏切ったにしては遅すぎるし、何よりもメリットがない。……ちょっと意図が分からないなぁ」

 考えを口に出して思考をまとめながら、彩は夢が帰ってくるのを待つ。

 十秒後、夢が帰ってきた。

「仕掛けを起動させておいて」

「…………もうやった。…………五分後に、この建物は爆破される」

「脱出ルートは?」

「…………ない、……って言ったら、どうする?」

 長い付き合いではなかった。所詮、彩と夢はたった一カ月前に会ったばかりの関係性しかない。だから、彩と夢は互いに互いを知らない。二人の関係はメイと楓よりも遥かに短いモノでしかない。

 だが、絆の深さに期間は関係あるのか?

 確かに彩と夢はたった一カ月の付き合いしかない。しかしその一カ月の間に二人は何度も何度も修羅場を越えてきた。協力して命の危機を回避してきた。

 絆は期間が生むモノではなく体験が生むモノだ。

 壊れた世界を共に抗ってきた彩と夢の間にある信頼関係は深く重く、強く硬い。確かに彩は夢を対等とは見ていないが、それは誰に対してもそうだ。間違いなく言えるのは夢が彩にとって特別であるということ。そしてそれは夢も同じだ。

 だから絆がある。

 二人の間には、絶対に断ち切れない真の絆が。

「そっかぁ……。そうきた、か」

 故にこそ、彩は夢の言葉を百パーセント信じている。そこに疑いを持つことはないから、絶望的な状況なのが分かった。

 脱出ルートがないなら、作るしかない。

 備えた全てが無駄になったなら、生み出すしかない。

(こんなところで死んでたまるか)

 せっかく『ツキカゲ』と会えたんだから。

 これから先、もっと面白くなりそうなんだから。

「危険度が少なさそうなのは分かる?」

「…………逃げ切れるかもなら、地下が一番、かも。…………確信はない」

 備えあれば(うれ)いなしなどという言葉があって、彩はその通りに万全の備えをしてきたつもりだが、どうやら現実というのは時に最悪の想定を容易に飛び越えるらしかった。

(だからこそ、面白いんだけどねッ!)

 少なくとも、こんなフィクションみたいな展開を迎えることは一カ月前には考えもしなかった。だから、その点で言えば彩は『モウリョウ』にとても感謝している。だからといって死ぬつもりはないし、捕まるつもりはもっとないが。

「最悪でも契約は果たすよ。……私はどうしようもない『異常識人』だけど、約束は守る質だから」

 終わりが近いことを知っていた。

 世の中にはどうしようもないことがあるということは分かっていた。

 それが嫌だから戦っている。

 解放された世界で彩の欲望もまた解放されてしまったのだ。

 もっと、次も、また、と引き延ばす。せめて明日も楽しみたいから。こんな世界でそれでも生きていたいから。

「行こう。私が先で、あんたが後」

「…………死なばもろとも。…………最期まで付き合う、彩」

「…………………………笑っちゃう」

 変わったな、と彩は思った。

 変わってしまったな、と夢は思った。

 それが良いことなのか悪いことなのか二人には分からなかったが、少なくとも二人とも、もっと先が欲しいと思っていた。

 ここでは終わりたくないと、そう願っていた。



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