悪魔の薬売りは魔薬を運ぶ (月光画面)
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後悔するには遅すぎて……いややっぱつれーわ

 薄暗い森の中をひたすらに走る。

 まだ数分と走っていないのに手足がガクガクと震えて息が絶え絶えになるのは足場が悪いとか俺の体力が無さすぎるとかの理由では断じて無いだろう。

 

『ギィィィイイ!』

 

 コイツのせいだ。このよく分からない黒い肌をした毛のない猿のような化け物に追いかけられている恐怖で体がうまく動かせない。

 心が折れ、足がもつれそうになるのを何とか抑えつけてひたすらに走る。

 だが俺よりも大きな体を持った猿のような化け物の方が幾分か早い。あっという間に俺の努力を嘲笑うように追い付き、飛びさって追い抜き目の前に着地した。

 その大きな手を振り上げて鋭い爪で引き裂かんと振り下ろす。俺の目には全く見えない速度で振り下ろされたそれは、足を止めることで体の制御を奪われた俺に回避する間も無く襲い掛かり……鋭く鞭のようにしなる棘つきの蔓によって弾かれる。

 

 ()()()

 ()()()()()()()()()

 

『ギギギィィィイイイ!!?』

 

 これで都合三度目の妨害により、ひどく弱いだけの獲物を仕留めきれなかったのが気に触ったのか猿のような化け物は滅茶苦茶に暴れだす。

 ブンッと振り回された腕に近くの木にぶつかると大きな酷く軋んだ音を鳴らしてまるで悲鳴をあげるかなように聞こえる。

 あんなものを喰らえばひとたまりもない、運が良くても粉砕骨折だろう。普通に死ぬ。

 

 直ぐに反転しその場から去ろうとする俺にこれまた三度目の謎の女性が手招きをしている姿を発見して苦しさから解放されたいと、楽になろうと悲鳴をあげる体を引きずってその方向へ向かう。

 正体はわからないし、何なら追いかけているうちに姿()()()()()し人間じゃないだろうと思っているがこれ以外に助かる道が見えないので大人しく指示にしたがう。これでもし敵なら大人しく諦めるとしよう。先程から助けてれている蔦と関係がありそうだし信じる要素は揃っている。

 

「どうして、どうしてこうなった」

 

 また逃げ出した俺に気づいて追跡を再開する猿のような化け物の金切り声と草木の擦れる音が段々と近づいている。

 死ぬわけにはいかない。家に待たしている唯一の家族()を路頭に迷わせることになるしそれ以上に一人ぼっちにさせてしまうのは耐えられない。藁にもすがる気持ちで走り続けやがて一つの疑問が脳裏を過る。

 

 どうしてなんだ。

 俺はただ、物を運ぶだけのバイトをしていただけなのに。

 こんなことになると知っていたなら絶対に受けなかったのに。

 ポケットに入っている小さなケースを感じながら叫びだしたい衝動を理性で噛み殺し歯を食い縛って速度を上げた。

 

 あぁ、本当に……()()とリアル鬼ごっこするハメになるなんて…………どうしてこうなった! 

 

 ┗┓

 

 始まりは一本の電話だった。

 

薬膳(やくぜん)くんさぁ、ちょっと短期のバイトしない?』

 

 丁度バイト先が改装に入り休みができてしまい親がいない俺達にとって結構なピンチだったのでとりあえず事情を聞くことにした俺は近くの喫茶店で待っていると言われ直ぐ様に向かった。

 

 その喫茶店で店長をやっている大畑(おおはたけ)さんが今回の電話をくれた雇い主だ。

 大畑さんは俺が中学の時からの知り合いで妹の溜莉(るり)も良く懐いており今でもバイト上がりに一息つきたいときに愛用している店でもある。

 

 この前にちらっとバイトがしばらく無くて短期バイトでも受けようか相談した事を覚えてくれていたのだろう。

 だから喫茶店で店員でもするのかなと思いつつ話を聞いてみると大畑さんはテーブルの上にあの四角いライターほどな大きさのケースを取り出した。

 よく見ると蓋がついておりその中に針らしきものがあるし反対側には押し込めそうな構造の側面になっている。

 まるでお注射みたいだぁ。

 

「短期のバイトっていうのはね、これをある場所にいる人物に届けてほしいんだよ」

 

「これって何です?」

 

「んー、聞きたい?」

 

 嫌な予感しかしなかった。

 勢いよく首を横に振る俺ににやりと唇を歪める。

 

「これはお薬だよ」

 

 あ、そう……ところでここ喫茶店だよね? 

 既に嫌な予感は確信に変わっているので俺は逃げようとばっと椅子から立ち上がる。

 だがそれと同時に物々しい雰囲気の中年男性が来店し、その何人も人を殺していそうな眼光に気圧されて怯んでしまう。

 

 男はじっと店内を見渡し、大畑さんと俺を見比べてしばし考え込んでから口を開く。

 

「この子は?」

 

「気にしないで、大丈夫だから」

 

「ならいい『薬剤師』いつものやつは」

 

 いつものやつ。

 そんな頼み方をする客は俺の知る限りいない。そもそも椅子に座ってない時点で珈琲やケーキを楽しみに来たと思えない。

 俺はヤバイところに来てしまったのかもしれない。

 

 大畑さんの方はにっこりと笑いながら手元の引き出しからそこそこの大きさのケースを取り出した。

 さっきのお薬とか言うのがダース単位で入りそうなケースだ……

 

「はい、約束の『チョコケーキ』だ。いつも通り生の魔素を強めにしてある」

 

 俺の知ってるチョコケーキと違う。

 

 男の方がスタスタと近寄りケースを開く。数を数えているだろう暫くしてゆっくりとケースを閉じた。

 

「…………確かに、他に『ブレンド珈琲』と『ホットココア』はあるか?」

 

「なんだもう切れたのかい? 在庫はあるよ、取ってくるからちょっと待ってて」

 

「すまない、最近物騒でな。体が暖まるヤツがいるんだ」

 

 どう聞いても麻薬の取引にか見えない現場を見させられている俺氏。

 先程から恐怖で足が震えまともに逃げられないゆえに観念して見学してます。

 ケースが開いて中身にびっしりとさっきのが詰まってた時点でうっひょー! って腰が抜けました。

 ガタガタと小うるさい音をならす俺に眼光が怖い男が俺に視線を向ける。

 

「あんた『薬剤師』の弟子か何かだろう。あいつが取引の場に誰か連れてくるとしたらそれしかないしな。俺は雲山(うんざん)ってもんだ、こういう仕事をしている」

 

 そういって雲山さんは震える俺にかまわず名刺を差し出した。

 

「どうも……」

 

『グリーンカンパニー』……聞いたこともない企業名だ。そこに勤めている雲山佳彦さんというらしい。

 

「お、名刺もらったのかい? 良かったねぇ彼らの企業は元軍人の寄せ集めだからね兵隊の質がいいんだ……困ったことがあれば相談するといいよ」

 

()を知ってる軍人が集められた組織だからな。質が悪けりゃ困るだろ。実質正規の軍人みたいなもんだしな。給料も国から出てるしよ」

 

 二人は新しく持ってきたケースを確認して受け渡しが完了すると雲山さんの方は出ていこうとする。

 最後に振り替えって一言。

 

「店長、肝の据わったやつを見付けたな。そこそこ威圧したがピクリともしやがらねぇ」

 

「だろぉ? 掘り出し物だぜ」

 

 震えて動けないだけなんですが、表情も恐怖のあまり抜け落ちて真顔になってるだけなんですが……

 ていうか足を見ろよ、震えすぎて8ビート刻んでるじゃねぇか足で床ドラムを奏でられるぜ! 

 そんな事を言えるはずもなく雲山さんが出ていくのを見届ける。そしてにこにこしながら俺を見つめる大畑さんが口を開いた。

 

「で、予想外の来客があったけれども……どうしたい?」

 

 いやもうこれ逃げられんでしょ? (震え声)

 だか、一抹の希望に賭けて最後の抵抗をしてみる。

 

「これって断れるんですか?」

 

「さっきの場面を見られた時点でもうこのまま帰すわけにはいかなくなったねぇ…………」

 

 畜生罠じゃねぇか!! 

 絶対に仕組まれてただろ今の取引。いや雲山さんは俺が居たことに驚きはしてたから時間だけ指定してその時間に俺が来るように誘導してたのか……罠じゃねぇか!! 

 

 内心罵詈雑言の嵐になっている俺に可哀想に思ったのか毒々しい緑色の液体が入ったさっきの四角い注射器を大畑は取り出す。

 

「別に違法でも何でもないんだけどねぇ……そんなに嫌ならこれを注射させてくれるなら帰ってもいいよ?」

 

「何ですかそれ」

 

「ここ数時間の記憶が吹き飛ぶおくすり」

 

 こ、ころされる……

 

 いや死なないけどヤバイのぶっ刺されようとしている……っ! 

 どう考えても記憶が()ぶ薬とか「マ」の付く薬の仲間だろっ! 

 えぇ……ここ数年家族ぐるみ(兄妹二人)で仲良くしてた店の店長がヤバかった件について。

 駄目だわ悲観だらけで思考が纏まらないわ。

 取り敢えず判断材料に仕事内容とお給金だけ聞いておくかな! 

 

「俺は何をすればいいんですか? それとその報酬も聞きたいです」

 

「おっ、やる気になってくれたのかな? 君に任せる仕事は簡単だよ。僕が作った薬を僕が売る相手に渡すだけ。お金の取引もない、渡すだけだ。そこら辺はこっちで済ませるからね」

 

「渡すだけ……?」

 

 それじゃあただのお使いじゃないか……何で俺を使う必要があるんだ? さっき見た感じじゃ薬っていうのは消耗品で体に直接作用するから売ってくれる相手の信用と信頼が必要になるようだけど……この場合大畑さん、いやもう心の中でくらいは呼び捨てでいいや嵌められたし。それで『薬剤師』とか言われてたから長い間このヤバそうな商売を続けてたのだろう。だから信頼があり信用がある。

 そして大畑はこの場を離れることができないから俺を使いたい……ん? あぁ、そうか運び役にも信用が必要なのか。『薬剤師』が保証している運び役という立場がないと途中ですり替えられたりしたら専門の人間でもないと服用まで分からないだろうしな。

 で、金銭のやり取りをしないのは運び役を殺してそのまま薬を持っていかれない為か、他の場所で決済するなら殺して奪う意味がないからな。

 

「ん、気付いたかな? そうなんだよ、どうしてもバイトにも質が求められてね……くすねられても逃がさないことはできるけど何事も無いのが一番だろ? うん、やっぱり君はいいね。突然の事にも頭を回せる余裕がある、もっともさっきまではちょっとだけ混乱の渦に飲まれてたみたいだけど」

 

「……で、お給料がまだなんですが」

 

 僅かな間と表情だけで読まれたのか? 

 本当に今までのは演技かなにかだったと思わせられる。

 苦し紛れに放った俺の言葉に全く表情を変えずに大畑は手元のメモ用紙にさらさらとも字を書き連ねていく。

 

「さて、危険手当てと相場を考えて……そうだなこれくらいかな」

 

「……っ!? 嘘でしょう?」

 

 書かれていた数字は拘束時間一日で3万が基本として移動、食事、宿泊費が経費で落とせてその他達成料として別途に金がもらえるというものだった。

 そして、今回のバイト代というのが…………

 

「経費抜きで二日分合計6万と達成料として更に3万……9万で考えてるけどどうかな?」

 

 最悪記憶飛ばしてでも逃げようとしていた心が崩れ始める。

 一回だけ、一回だけ荷物を運ぶだけ。

 このお金があれば妹にも好きなものを買ってあげられるし、その残ったお金で俺の趣味のものも買えるだろう。いや、それだけでなく貯蓄にも回せる余裕が出る。

 

 そこまで頭が回った時には俺の手は大畑の元へ差し出されていた。

 そしてそれを大畑ががっしりと握る。

 

「ようこそ()()()()()()()()()()()。大丈夫、後悔はさせないさ」

 

 ┗┓

 

 この日から俺は『薬剤師』の元でたまに働く『薬屋』として活動を始めたのだ。

 …………え? この一回だけじゃ なかったのかって? 馬鹿野郎お前あんな美味しい思いを一回で終わらせれるわけなかろうが。(溜莉)に欲しかったと言っていたものをプレゼントした時の快感に比べれば誤差よ誤差。

 ただ流石に二回三回目となると怪訝な視線になってたので今は貯金に回している。

 

 嘘です今この危険に比べればかろうじて命の危険の方が勝っていますね……

 

 ちなみに今回のバイトで大体十回目である。場所は北海道で今俺がいるのはかなり北の方。予め野性動物や現地の魔獣──大畑曰く、魔素(まそ)とかいう生物全てに備わっているよくわからんものを多分に偏った取り込み方をして体内の魔素バランスが崩れて変異した個体らしい……わからん──などを調べて出会わないように気を付けてたのに肝心の取引相手が森の中にいって帰ってこないという糞イベントが始まりこんなことになった。

 もう諦めて帰った方が良かったと気付いても後の祭りリアル鬼ごっこの開始である。

 

 死に物狂いで走り回りあの後も二回助けられて、猿の化け物の怒りが頂点を限界突破し俺の体力が底を突き破ったぐらいでようやく変化が起きた。

 今まで俺を招いていた女の姿がまた消える。

 突然道しるべが消え失せた俺は混乱しながらも足を止めず先程まで女がいた茂みへとつっむ。

 

「つぇ!?」

 

 全身に走る小さな痛み、それがおそらく茨のようなものが体に巻き付いて棘が刺さったことによる痛みだと認識するが否やものすごい力で吹き飛ばされる。

 回転する視界、その最中一瞬だけ猿の化け物が茨を引きちぎりながらも進路を塞がれ暴れまわっている姿を見つけてまた体がなにかに捕まれ加速し猿の化け物は視界から消えた。

 

 これ、助かったのか? 別の何かに襲われている気がしないでもないが……どうしようもないので俺はされるがままに連続で吹き飛ばされ続けた。数秒の浮遊感のあと、優しくクッションに包まれるような感触とともに地面に着陸する。

 それでも勢い完全に殺せずごろごろと頃がって衝撃を緩和。全身痛いことと三半規管がぶっ壊れた事を除けば無事といっていいだろう。

 

 目眩と涙で歪む視界で周囲を素早く警戒。死にかけの老人のような震える体で全力で体を起こすが酸素不足極度の緊張肉体疲労に空中に投げ飛ばされたダメージにより人間のひ弱な体は尻を突き出した四つん這いになることしかできない。

 

 体を引きずらせながらも全力で視界を確保していると、近くに綺麗な女性が立っていると気付けた。その女性は先程まで自分を導いてくれた女性だった。

 全裸に植物の蔦を体に巻き付けたような欲情的な姿をしたその女はどういう理屈か枯れ葉の上を足音を立てることなく俺のすぐ近くまで移動してくると全身が擦り傷まみれの俺の体を優しく撫でた。

 当然恐怖は感じるが先程の猿のような気持ちの悪い悪意や敵意のような意図を感じられなかったのでされるがままに全身を撫でられる。

 やがて満足したのか、撫でるのをやめて軽く血の付いた手を口に……

 

「いっ!?」

 

 ()()()。数度に分けて丹念に俺の体をから拭き取った血を舐め終わると、一度深い頷き……怖い。

 恐らく魔獣……植物系統か? わからん、もっと大畑に頼んで勉強しておくんだった。

 後悔しても遅いが……覚悟くらいは決めておこう。俺が死んでも妹の溜莉の方に金が入るように大畑に頼んで保証人になってもらい保険金が入るようにしてあるし、溜莉も強い子だから俺がいなくても大丈夫だ。

 

 再び彼女? の手が迫る。だが予想に反してその手は俺の頬を優しく撫でるだけだった。

 何だ? 結局俺をどうしたいんだ? 

 

「キガイをクワえるキはありません」

 

 しゃ、喋った……

 俺を安心させるためかまた優しく頬を撫でられる。

 ようやく手足が回復した俺は、その手を払わずにゆっくりと立ち上がる。

 そして、改めて彼女? を見る。

 人間の女性に見えるが髪の毛の一部一部に蕾があったり草葉が混ざっている。容姿としては綺麗という言葉に尽きこの危機的状況でもなければ少なくとも一目惚れしていたであろう姿と仕草を自然に保っている。

 …………何か食虫植物、擬餌という言葉が脳裏を過る。

 周囲を見渡しても棘のある茨に包まれておりここだけが開けているようで一種の幻想的な風景に感じるが、つまり逃げれそうにないってことだ。

 

 周囲をちらりと観察した俺に何かを察したのか不明だが女性? が片手を上げるとその先にある茨がひとりでに動き道を開けた……やべぇな。こんなのジ○リでしか見たことねぇぞ。

 それを成した当の本人は可愛らしく首をかしげて作った道を指差した。

 

「アチラに、アナタのおナカマがいます。カレのチカラならばあの()()()()()をタオせるとオモっています。ですがフイウちをウけてしまいヨワっています」

 

 会話できる事に関してはもう考えないでおこう。知識が足りてない俺では考えるだけ無駄だ。

 

 黒い猿……もしかしなくてもあの化け物だろう。お仲間というのは元々俺が薬を渡す筈だった相手だと考えるのが自然だ。あの猿倒せるとこの女性? に思われるくらいには強いと言うことは裏の関係者だろうからな。弱っているといってもこの薬さえ届けばどうにかなるだろう。

 

 だったら俺のするべき、聞くべき事は……

 

「三つ、三つだけ聞かせてくれ」

 

「ジカンはありませんよ?」

 

「直ぐに済ませる。一つに君が誰なのか知りたい。二つ目にあの猿について知っていること。最後に、何が目的なのか……だ」

 

 この三つは知っておかなければならない。例え嘘を疲れたとしても後々にそれを判断材料にできる。

 俺は返事を待ってじっと立つ。彼女? に答える義理はないと言われたらそれまでだが今のところそのような様子はない。

 彼女? は数秒程度目をつむったあとに話し出した。

 

「ひとつめ、ワタシはこのモリにスんでいるモノです。ホカにイいようがありませんので」

 

「名前とかも?」

 

「はい」

 

 セーフ、情報収集としては失敗だが機嫌を損ねたりした様子はなさそうだ。

 その証拠に彼女? は続けて二つ目の質問に答えてくれた。

 

「あのサルについてはワタシもよくわかっていません。オナじシンカしたセイブツでとモクテキとするものがチガウからです」

 

「目的、猿の目的は分かるのか」

 

「はい、カンサツしているカギりあれのモクテキはガイテキのハイジョです」

 

 外敵の、排除。

 

「リユウはわかりませんが、ある地点からエンをエガくようにセイブツをハイジョしていっています」

 

「……なら俺はその中に入ってしまったということか」

 

 なら悪いのは俺か、縄張りというからには熊のように木に傷をつけたり糞や尿などでマーキングをしていただろうからな。

 それを一切見つけることができなかったのが疑問だがそれならあぁまでして執拗に襲われた理由がわかるというものだ。

 

「いいえ、それはチガいます」

 

「……?」

 

 なら何なんだ。

 

「あのクロいサルがナワバりのナカでセイカツしているのならワタシはカンショウするつもりはありませんでした。しかしあのクロいサルはそのソトガワのホカのセイブツをヒョウテキにしハジめたのです」

 

「……分かった。大体の事情は理解した」

 

 つまり暴走しているということだろう。そりゃあ自分の敷地内で遊んでいるだけならまだしも他所の敷地にちょっかいかけるのは不味いわ。ということは三つ目の質問の目的というのもそう言うことだろう。ルールを破ったあの猿に罰を、といったところだろう。

 この森の罰というのはどういうものかは知らないが。

 

「ありがとう、じゃあそろそろ……」

 

「そしてワタシのモクテキは──」

 

 思ったより長引いたので足早に去ろうとする俺は彼女? の手に捕まれる。

 何故か分からず振り向くと同時に彼女? が迫り……唇を奪われた。

 同時に逃げられないように頭の後ろや背中に優しくだが蔦が巻き付けられる。

 

「っ!? ……っ!!?」

 

 しかもこれディープなやつじゃねぇか!? 舌が、舌らしきものが入ってきて……っ!! 

 口の中を蹂躙されているっ! 

 

『三つ目の私の目的は、種の存続です』

 

 繋がった口にから直接脳に響くような音のようなものが言葉だと気づく。口から喋っていた僅かな違和感のある日本語と違いこちらは脳に直接伝えたい意味が理解させられる。

 脳に響く声のようなものが先程まで聞いていた彼女? の声と一緒だったのでこれが彼女? からの交信だと分かった。

 

 分かったところでされるがままになるしかないのだけど。

 

『私の本能に根差した使命は今貴方の情報を取り込み、新たな種子を作るように指示を出しています。取って食べるわけではないので安心して身を委ねてください』

 

 いや無理ぃ! 

 でも逃げられないので少しでも意識を逸らすために目を動かして何か見つけようとするがやべぇものを見つけてしまった……。

 時間が立つにつれて薔薇の花っぽいのがどんどんと枯れていき……その花の根本が膨らんでいってる……。

 なーんか果実ぽいよなぁー、そういえば果実ってその植物の種とか詰まってるんだよなぁー、つまりそういうことなんだろーなー! 

 

 他に見るものも無いので眺めているとやっと解放される。

 体力的にとはまた違う意味で疲れた……

 少しでと精神を回復しようとする俺に彼女? は先程まで俺が見ていたなんか果実っぽいのを俺に手渡していた。

 

「これをアナタにタクします」

 

「何でだよ、種を作るためだけじゃなかったのか?」

 

「ワタシではマモりきれなさそうなので」

 

「それは……」

 

 俺がどういうと続ける前に近くから地面を砕くような轟音が鳴り響く。

 

『ギィィィィヤァァァァアアアアッッッ!!!』

 

 続いて耳を塞ぎたくなるような猿声、咆哮。

 さっき見た茨の防御と拘束を引きちぎってここまで来たのか。

 

「では、ワタシはジカンをカセぎます」

 

「何故、俺と一緒に逃げてアイツに勝てるという者を起こしに行けば良いじゃないか。近くまで来たといっても沿革での妨害は遠隔でできるみたいだし」

 

「いえ、ワタシはチカラモつニンゲンにキラわれているようなので。イッショにいってもコンランさせるだけでしょう。それに……」

 

 また先程よりも大きな破壊音、それにさっきまでは聞こえなかった植物のちぎれる音が混ざる。

 ずいぶんと、早い……? 

 

「ジカンもタりなさそうでしょう?」

 

 質問なんてしなけりゃ良かったか? そしたらまだ時間があったかもしれないのに……

 見たところあの猿に対しての有効打を持っていないのであろう彼女? は足止めして無事で済むのか? 

 

 わからない、わからないが……もう時間がない。

 

「何か、俺に、できることは?」

 

「このコをおネガいします。アナタのマリュウインシをトりコみソダちました。それでもキケンだと、オモわれたのならソダてなくてもいいです」

 

 ただ残してほしい、と。

 だからか、だから俺に託すのか。自分がもし負けた場合あの黒い猿は他の魔獣や生物を見境なく襲うだろうから。俺が持っていた方が種の存続率が高くなるから。

 ()()()()()()()とかいうのはよく分からないが大畑がいつも言ってる魔素となんか関係あるのだろう。ここでもまた勉強不足が目立つ。

 

 彼女は大事そうに手のひらで包み込むその種を俺に差し出す。

 これは……俺は幾つかのメリットデメリットを考慮して…………そんなものは関係ないと、力が及ばずそれでも、犠牲になるにしても何かを残すという、同じ何もできない弱者としてその手を取った。

 

『ありがとう。この子達は貴方の血と意思によって開花します。放置か開花か、貴方がどちらを選ぶにしても私は貴方に感謝します』

 

「俺は……どうするかわからないから……何とも言えないけど、人間で言う血を遺すという貴女の意思に、不義理な真似をしないと誓います」

 

 赤い、手のひらに収まる小さな種肉に包まれた種を大事に抱えて茨が導く道を走った。

 

 最後にと、ちらりと後ろを振り返る。彼女は仰向けになるように倒れこみ、無数の蔦や茨に飲まれて消えていった。その表情はどこまでも優しくて……俺の記憶にないが、そう、母のような表情だった、と思う。



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運び屋はただ運ぶだけ

 茨で舗装された道を走る。

 今日はもうどれくらい走ったか分からないくらいに走ったが今までの人生の中でも一番に長く、全力で、必死に走っただろう。

 今も遠くの方から聞こえるあの化け物猿の咆哮。

 あの恐らく植物の魔獣である彼女が彼女自身の目的のために足止めをして犠牲になっている。

 

 まだ走る。

 

 彼女から託されたとも言うべき種は上着の内ポケットに入れてある。チャック付きで俺がこのバイトを始めてから大畑に貰った特別なベストだ。

 左の裏ポケットに私物、こちらに財布や携帯、先程の種を入れてある。

 逆に右側の裏ポケットには仕事用の道具や商品が入っている。

 

 このベストは何が特別かというと、外から衝撃を与えられても中身が破損しにくいという訳のわからん細工がしてあるらしい。

 試しに卵を入れてぶん殴ってみたがヒビすら入っていなかった。

 ちなみにバットでフルスイングしたらヒビは入った。宙に吊るしたベストを金属バットでフルスイングするその光景を見ていた妹の溜莉にドン引きされたが……何とか誤魔化したけど家でやることではなかったな。

 ついでで試したけど着ている本人へのダメージ事態は軽減程度でしかなく普通に食らった。

 大畑の拳が体にめり込んだあの痛みは忘れられない。

 

 その裏ポケットから自分用の注射器を取り出し走りながら『チョコケーキ』をセットして首筋に打ち込む。

 こいつぁキくぜぇ!!! そんでもって後が怖いぜぇ!!! 

 

 この『チョコケーキ』とか言うのは体力増強剤とも言うべきもので、()の魔素とかを効率的に取り込むことで生命力を外から補充できるのだ。

 何言ってるか分からん? 大丈夫だ、俺もわからん。ともかくわかるのは今まで使うつもりすらなかったこれを使って消えかけの体力にガソリンをぶちこむがごとく無給する。

 先程のまでのふらついた足が回復し、力強く踏み出せる。

 躊躇はなかった。舗装している蔦や蔓、茨の数が減り、残っているものも細々しく弱々しくなっている。

 つまり、時間がない。

 

 追加された薬により回復した体力を全速力で消費して加速し、更に素早く地を駆ける。

 

 ……

 …………っ! 

 

 見えたっ! 

 遠くの大岩の影にもたれ掛かる人影! 

 

 最後の距離を筋肉が悲鳴を上げながらも耐えて詰める。

 影にしか見えなかったその姿が鮮明に見えてくる。俺と同じくらいの年の男だ。目を閉じてピクリともしてない。

 良く見ると全身服が赤く染まっている。血のように見えるが……息はある。

 

「っ、クソッ起きろっよっ!!」

 

 揺らしてみても返事はない……意識がないのか、ならコイツをぶちこんでやるよ! 

 素早く自分用の『チョコケーキ』を取り出し注射器にセット。首筋の血管に当たりを付けてぶっ刺し注入する。

 

「う゛っ」

 

 まるごと一本入れたところで薄目の反応。体力はこれでいいだろう。後は意識を目覚めさせる為に自分用の最後のひとつである『ホットココア』を投入する。

 こちらの薬品は大畑いわく意識を覚醒させ気分を高揚させる分類の薬らしい。説明を聞いて「やっべぇぞ!?」と思って絶対に使うまいと確信していたがまさか他人に使うことになるとは……

 でも命には変えられないので躊躇なく、どんどん入れていく。

 入れてる途中で何度かびくんびくんと体が跳ねてたけど関係ねぇ! 

 さっさと元気になるんだよ! 

 

「ッオオオオオォォ!?!? ォオオオオオ!!!??!??」

 

 獣のような雄叫びを上げて男が目を覚ます。

 何度も何度も荒く呼吸を繰り返し目玉だけがギョロギョロと動き周囲の状況を整理しているのだろう。数秒沈黙ののち、目玉をギョロりと動かして俺を見た。

 

「『薬屋』さんだよね? 『薬剤師』さんの所の。俺を助けてくれたのかな、この体の様子から生命活性と動態活性だよね。『薬屋』さんはあの猿にもう会ったかな?」

 

 怒濤の質問と此方の所在を確信する言動。

 怖いわ。

 何よりも質問しながらも自分の体をチェックして直ぐに立ち上がるのが怖い。

 だが何よりも俺は優先しなければならないことがある。

 

「あっちの方角で多分植物の魔獣が足止めしてる」

 

「そうか、植物ってことは多分()()かな。だとするとあの猿は本当にイレギュラーか。『薬屋』さん、俺宛の薬今貰える?」

 

「これだ」

 

 直ぐに必要になると思っていたので準備していたケースを取り出して渡す。

 素早く受け取った男はその中の一本を取り出して腕に刺し中身を摂取する。

『チョコケーキ』とも『ホットココア』とも違う薬品。名前は確か『ホットサンド』で特定の魔素の結合を強くするものらしい。

 魔素の結合が何かって? 知らん。

 

「っ、あー流石に『薬剤師』さんの所のは違うね。これなら……大分血流しちゃったけどまだまだ行けるね」

 

 そういって彼はぐっと拳を握って……血が溢れだした。

 溢れだした血は段々と形を作り、一本の槍を形作る。

 ……もう驚きもしねぇや、嘘です唖然としてるだけです。

 

「俺の名前はジョンで頼む。『薬屋』さん、戦闘は?」

 

「からっきしだ、こちとら薬屋って呼ばれてる通り薬売る以外は一般人なんだ」

 

「はは、こんなとこまで来ている時点で一般人じゃないでしょ」

 

 マジなんだけどなぁ、こちとらその当然のように使いこなしてる血を武器に変える魔法みたいなものも良く分かってない知識すらも一般人なんだよな……

 

「何はともあれ俺は戦えない、薬もさっき渡した分で全部だし。ここにくるまでも助けがあって来れただけでそれがなければ既に死んでる」

 

「ふぅん……助け、ねぇ……まぁいいでしょ。じゃああの猿は俺が仕留めるってことで」

 

「問題ない、が。出来れば早く向かってほしいんだが……」

 

 急がないと本当にあの彼女が死んでしまうかもしれない。

 案内するために振り向いて、見た。

 

「枯れてる……っ!?」

 

 今まで周りを囲んでいた蔓や蔦が見る影もないくらいに萎れている。

 それを認識すると同時にジョン(偽名)が血の槍を構えて前に出る。

 

「来るよ」

 

 ジョンがそう一言呟いた次の瞬間、草むらからどうやって隠れていたかもわからないほどの黒い巨体が飛び出し異様なほど小さな音を立てて、俺達の前に着地した。

 

 あの化け物猿だ。

 全身を小さな傷で覆われながらもその生命力に衰えは見られない。むしろ激怒している分か筋肉が盛り上がり口からよだれを垂らしながら血走った目で此方を見つめてくる姿には肉体面では万全のように思える。

 

 ……あの手に握り締められたあの花は、そうか、間に合わなかったか。

 

 ふつふつと何に向けての怒りかは分からないままに熱が発せられる。それと同時に何時も通りの思考が頭を巡り、自分でも驚くほどスムーズに岩陰に隠れる事ができた。

 

 全身のかすり傷が燃えるような熱さを発している。熱い……えっ、あっつ!? 

 あれ? 全身から血が吹き出てきたぞ~わぁお。

 

 そんな混乱する俺を他所にジョンと化け物猿の戦いが始まる。

 

 バッと飛び出したのはジョン。体を捻り血の槍を後方に構えながら突撃、対する猿は猿声を上げながら迎え撃つ構えを取る。

 人間のスペックを完全に何回りも越えた化け物相手にジョンは槍に添えていた左手を横凪ぎに振るう。

 血の壁だ。

 そう思わせるほどの大量に見える血が膜を成し猿に向けて飛んでいく。

 なぁにあれぇ……

 

 それに対して猿は俺の目でギリギリ残像が見える速さで腕を裏拳のように振るい血の膜を弾き飛ばした。

 視界が開けたと同時にもう片方の手を突き出しジョンを仕留めようとするが血の膜が晴れた時にはもうジョンはそこにはいなかった。ジョンの居場所は猿の直ぐ真下左足の部位。

 俺の角度からは見えていたが、あのジョンは血の膜を目眩ましにして、体勢を低くし膜の外側へ移動、猿の弾き飛ばした血の液体にすら隠れるようにして移動し足元へ潜り込んだ。

 槍を構え刃先の部分を太もも辺りに叩きつけようとするジョンにギリギリのタイミングで気付いた猿の首辺りの筋肉が盛り上がる。

 

 もしかして、噛みつこうとしてるのか? 間に合うわけ……

 そう思ったが嫌な予感は止まらず、血が出ていることや隠れていることも忘れて叫ぶ。

 

「避けろォーっ!」

 

 一瞬だけ目線を此方に寄越したジョンが叩き付ける軌道だった槍をくるりと回して気持ち悪い動きで顔を股下に動かし足元にいるジョンを噛みつこうと猿が動く。

 それを流れるような槍さばきで剃らし、逆に石突で打撃を頭部に与え一瞬猿がふらつく。

 無理な体勢を強いてまで攻撃に転じた代償として次のジョンの持つ槍の柄に足を打ち据えられて転倒する。

 

 そして、絶好の機会を逃さないというように、ジョンは森に響き渡る声を上げながら槍を突き出した。

 黒く、艶のない皮膚に深々と突き刺さり、赤い血液だと思われる物が噴き出す。

 

「ギィィィイイイ!!?」

 

 化け物猿の聞いたことのないような絶叫。

 脇腹の辺りを深々と刺された化け物猿は暴れまくりジョンは堪らず槍を放して待避した。

 

 槍を無くしてしまったが大丈夫なのか? あの猿はまだまだ元気そうに見えるし……

 

 そんな俺の疑問に答えてくれるかのようにジョンは言う。

 

「いいや、終わりだ」

 

 猿に刺さっていた槍がひとりでに動き、猿の体内に入り込んでいく。

 それと同時に異変を感じ取った猿の動きが完全に止まる。

 1,2,3……

 たっぷり数秒硬直した後に身体中のありとあらゆる穴から大量の血液を吹き出し、大きな音を立てて崩れ落ちた。

 俺を散々と追いかけ回し、この北海道の森を蹂躙し、あの植物の魔獣が足止めしか出来なかったあの猿の魔獣は、呆気なく、死んだ。

 なんだ、おかしいだろう。俺があんなに苦労して、どうしようもなくて、初めてあった彼女に助けてもらって、何も出来なかった相手に、ジョンは……。

 

 空虚さと無力感がどっと押し上げてくる。

 漫画でもそうだろう。ただの素人がどうにかすると考えるではなく、力有るものがどうにかしてくれる。俺に、出来ることはない。

 何か、軋むような音が聞こえたような気がして……それと同時に目の前の惨状に緊張の糸が解けたこともあり俺は胃の中をぶちまけた。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 獲物を仕留めて完全に脱力した様子のジョンがグロッキーな俺を心配してか近寄ってくる。

 何か、オーラ的なのを纏っているような……

 途端に全身が熱を持ち、また気持ち悪くなってゲーゲーと吐き出す。

 

「あぁー、一般人ってこういう事か……魔獣が死んだところに立ち会った事が今まで無かったのか」

 

 あるわけねぇむしろ魔獣見たのすら今日が始めてだよ。

 

「魔獣が死ぬと周囲に大量の魔素がバラ撒かれるんだ。耐性が無い人がそれを受けると体の中の魔素が過剰反応して体調不良を起こすんだけど……『薬屋』さんはかなり辛そうだね」

 

 やばい、ジョンが何言ってるかわからん。いや聞こえてはいるし半分くらいは理解できるんだけど体が熱くて、胃の中がぐるぐるしてる上にグロ画像はきつすぎる……

 

「ちょっと待ってて、今仲間に連絡して迎えに来て貰うから……個人用の回復薬を俺に使ってくれたみたいだし、こんなんで借りを返したとは思わないから安心して運ばれてくれ」

 

「ま、待て……まだやらないといけないことが……」

 

「次来たときにすればいいでしょ? 俺も回復薬ドーピングで無理矢理倒したみたいなものだし結構限界だからこれ以上が来たらヤバイんだ」

 

 く、そ……目眩もしてきた。

 でもせめて、あの植物の魔獣の……彼女がどうなったかだけは……

 

 だが体が重すぎてジョンに抵抗することができず、森の中を運ばれていった。

 

 ┗┓

 

「──以上が今回の概要になります」

 

「成る程ねぇ……取り敢えずはお疲れ様、手当金の話もしたいし、『薬屋』君も聞きたいことあるでしょ」

 

 喫茶店の店長にしてその傍らに裏の世界では『薬剤師』として働く大畑佐之助は珈琲を淹れながら『薬剤師』としてのバイトである薬膳の仕事の報告を聞いていた。

 

「そうですね……空港の荷物検査で絶対に止められると思ってたケースが完全に素通りされた時には目を疑いましたよ、検査ちゃんとしてんのか? ってね」

 

 そんな薬膳の苦笑いににこりと微笑みながら大畑はコーヒーカップを三つ用意する。

 

「はは、そんなのバレないように工夫してるに決まってるだろう。信じてなかったのかい? 万が一止められても渡した名刺を見せれば通れるしねぇ」

 

「空港にも裏の事情通は居ますからね。むしろいなければ武器の持ち込みができなくなりますし」

 

「むしろある程度偉くなったら教えられて理解し対応しなければいけないという事になるしね」

 

「空港も真っ黒なのか……というかですね、さっきから気になってることがあるんですが」

 

 大畑がカップにそそいだ珈琲を薬膳のとなりに座る男……ジョンに手渡す。

 ジョンは礼を言って受け取り珈琲を一口飲み込んだ。

 それを見て薬膳にも珈琲を手渡そうと大畑は珈琲をそそぎながら薬膳の気になっていることを問いただした。

 

「どうしたんだい? 今回はイレギュラーが多かったし質問攻めにされる覚悟は出来てるよ」

 

「じゃあ遠慮なく……」

 

 薬膳はすぅっと立ち上がりびしりと音がなりそうなほど鋭く隣に座る男、ジョンを指差した。

 

「なんで俺を空港で見送ってくれた筈のこの男が、俺が空港について直行でここに来たにも関わらず俺よりも先にここに居るんだよ正直に言ってめちゃくちゃ怖いわそれでいて普通に二人とも対応してくるものだから俺の頭がおかしくなりそうだったわ!」

 

 ┗┓

 

 あの一件の後、俺はジョンの伝で死にかけの俺を介抱してもらってその次日には飛行機に乗って帰ることができるようになった。

 その事を大畑さんに連絡すると、決して本名は言わないように念入りに釘を刺され詳しいことは実際に会って聞くと言われた。

 ジョンの仲間の方にお礼を言い空港に送ってくれたジョンとも別れを告げて飛行機に乗ること二時間程。

 公共交通機関を利用し、妹にもう少しで帰る種のメールを送り、やっとの思いで帰って来たと思って喫茶店の扉を開けたらなんか二人いた。

 片方は店長でありここで会う約束をしていた大畑だからわかるんだけどもう一人だよ。

 何でジョンがここにいるんだ!? 

 

 その思いの丈をぶちまけるが二人は微笑みを崩さない。いや、ジョンは目だけが笑ってない。細かく震え今も周囲を観察してる。怖い。

 何だ、何をそんなに見ること事があるんだヤメロ、こっちを見るな怖い怖い怖い。

 

「俺達のような者は独自に移動できる手段を何かしら手にしているものなんだ」

 

「僕もあるしねぇ……使いたくないけど。一番手軽なのは魔術で姿消ししたヘリとかかな?」

 

「よくあるUFOとかの目撃証言がそれだな。まああれは姿消しに失敗したやつだけど」

 

 成る程、一番手軽なのでヘリコプターとかぶっ飛んでんな。ヘリだけに。

 しかしまあ、ジョンがここにこれる手段はわかった。けどまだ疑問は残る。

 

「でもジョンがここに来る理由にはなりませんよね?」

 

 最低ヘリって事はどんな手を使ってもそこそこの労力がかかるっていう事だ。

 ただドッキリを仕掛けるために先回りをしておくなんてそんな酔狂な人物にも見えない彼がする筈もない。

 

 ジョンはぐびりと珈琲を飲み干すと人好きしそうな笑みを俺に向ける。やっぱ目が細かく動いてるから何かを確認してる……? 

 

「おいおい、言ったじゃないか。借りはまだ返せてないって……実際あのままじゃ結構な確率で死んでたしな。で、こちらの『薬剤師』さんと連絡とってこっちで少しの間お世話になることにしたんだ」

 

 成る程……いやおかしくないか? なんでこっちに来る事が俺への借りを返すことに繋がる? 

 普通に向こうに居て、必要な時に力を貸してくれるだけで良かったんじゃないのか。

 

「彼はね、君に知識を教えてくれるんだ」

 

「知識……もしかして裏の常識というやつですか?」

 

「そうだね、僕が教えてもよかったんだけど……僕は逃走術とか詳しくないんだよね。所詮裏方の知識しかない」

 

「その点俺はバリバリの前衛だしそこそこ経験も積んでる。本来なら知識なんていう秘蔵のお宝とか技術とかは依頼でも教えたりしないんだけど……」

 

 そう言ってジョンはちらりと大畑の方を見る。

 成る程、腕の良い『薬剤師』との顔繋ぎという面も合わせて利益が勝ると考えたのか。

 使っていた時に溢してた言動から推測するに大畑さんレベルの薬屋は稀なんだろう。

 

 だが、この話には一つ問題点がある。

 

「あの、俺……この仕事終わったらもうこのバイト辞めようと思ってるんですけど」

 

 そうだ。

 俺はあの魔獣とかいう奴にこれ以上関わる気がない。

 元々危険がないというから続けていたバイトだ。この一件で更に死ねない理由ができたし、もうお金の為だけにこのバイトをする理由が無いのだ。

 

 色々考えたが、これが最善だと思う。初めは確かに知識を教えてもらおう、と。だが養う家族の事を考え、この託された種子をどうするかを考えたら何よりも簡単で確実なのはこの業界から手を引く事だと思えた。

 これまで稼いだお金が無くなるとしても、例えあのヤバ気な薬で記憶をトばされたとしても。

 ジョンは不思議そうな表情をしているが大畑は少し微笑んで、自分用に淹れた珈琲で口を湿らしてから告げた。

 

「そうか……わかった」

 

 大畑は思いの外あっさりとそれを認めてくれた。

 ジョンがぎょっとした目で大畑を見詰めているが大畑はそれを片手を上げて制すると何でもないような口調で言った。

 

「ジョン君については大丈夫だ、向こうに失礼の無いようにしておこう」

 

「良いんですか?」

 

「良いも悪いも元から危険がないという前提での雇用条件だったし」

 

 大畑は深くうなずいて、手元のスマホに目を落とす。そして幾つか操作した後、身構える俺に向けて一つの小型ケースを取り出して投げた渡した。

 それを何とかキャッチする。

 これは……薬のケースか? 大きいような気もするけど。

 なんでこれを? 

 

「彼に使ったんだろ? 支給だよ。後そうだな…………一週間後に返しに来てくれ。それを返却されたその時に、君を正式に退職させよう」

 

「今じゃできないから、って事ですか?」

 

「うん、そんな感じだ。色々手続きが要るからね。一週間後までには準備しておくよ」

 

「わかりました……」

 

「今日はもう帰っていいよ? 疲れたでしょ。何かあれば連絡してくれれば時間は作るから」

 

 確かに、二日も家を空けてしまっているし体中に筋肉痛やらなんやらの痛みを感じている。

 ……彼女の事や、この種の事を相談したかったが今は、体を休めたい。

 

「お言葉に、甘えることにします」

 

「うん。じゃあまた今度……もう関わりたくも無いのかもしれないけど、必要なときは躊躇っちゃ駄目だよ?」

 

 ┗┓

 

「で、どうするつもりなんです?」

 

 薬膳が帰った後、喫茶店に残った二人は向かい合って話をしていた。

 大畑が薬膳が帰ってからずっとスマホで何かをしているのでジョンの方が暇をもて余し、遂に声をかけたのだ。

 大畑は苦笑いをしながらスマホを一度置き、ジョンに向かい合う。

 

「どうも何も、依頼は続行だよ」

 

「当の本人はあの様子でしたが?」

 

 大畑はもう一度ちらりとスマホに目を写すと、今度は然りとした態度でジョンへ言った。

 

「僕が目を掛けたんだよ? それに今の情勢だ。妹君の事もある。絶対に彼は戻ってくるよ」

 

 そう言いながらカップに残った珈琲を飲み干す。

 

「やはり良い豆だ、これが現実とは別世界にある()()で作られた豆だとは思えないよ」

 

「『薬剤師』さん」

 

 本来ジョン程の裏の傭兵、退魔術師とも言える人達が人に秘伝とも言える技術を教える事などあり得ない。あの黒い猿のような化け物も本来一人で狩るようなモノではなく、素人から足抜けしたそこそこの退魔術師が三人で殺せる程度の力がある。そんな男の知識や技術、それは命を助けられたり、有名な薬屋との顔繋ぎ、商談での不始末といった程度で教えるなどと到底あり得ない事であった。

 だがそれをジョンの人柄もあるが『薬剤師』の恒常的な契約を背景にした、将来的に部下になる人物を鍛えるといった名目でやっと指導の依頼を受けさせる事ができた。

 

 そこまでした今回の話をこんな簡単に無為にするのか、という怪訝な表情を隠さないジョンに向けて大畑はまたも微笑みを返して余裕を持った口調で話す。

 

「さっきも言った通り問題なしで依頼続行。でも確かに今は何も仕事はないし暫くはのんびりしておいていいよ?」

 

 そんな態度を崩さない大畑に一つ大きなため息を吐いて遂にお手上げになってしまったジョンも喫茶店を出ていく。

 一人残った大畑はまたスマホの画面に目を移す。

 

「これで戦力の補充も問題なし。あぁそうだ、薬膳君も束の間の休息を楽しむと良い。それは僅かと持たない儚いものだけど……どうせもうすぐそんなものは失くなってしまうのだから、慣れるのなら早い方が楽だよ?」

 

 誰に言ったでもないそんな言葉を吐き出した大畑は何時もの柔和な笑みではなく、口が裂けるような笑みを浮かべていた。



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不吉な植物

 夕暮れ時前、最低限の荷物だけを持って帰路に着く。

 向こうで使った下着や服はベスト以外血塗れで二度と使えない有り様だったので処分して貰った。残っているのと言えば財布や携帯などの貴重品位だ。

 大畑から貰ったケースはベストの左胸ポケットに入れてある。十五センチ程の長さのケースもスッポリ入るからこのベストは非常に便利だ。これだけは返すのが名残惜しい。

 中身はまだ……確認していない。

 いつもより大きいけど今回巻き込まれて使った結果ギリギリというより足りてないという話もしたから回復系が多目に入ってるんだろうとは思っている。

 

 しかし何というか、あっさりとしたものだったと今更ながらに思う。

 今まで働いてきて今更ながらに抜けるというからには最低でも記憶処理的な何かをされるものだと思っていた。

 いやできるか知らないが、それくらいか同じくらいの処置はされるだろうと思っていた。

 淡々とし過ぎて裏があるのか勘繰ってしまう。

 

「うぉっ」

 

「きゃっ!?」

 

 だが考え事をしながら疲れた体でぼさっと歩いていたのがいけなかったのだろう。

 何もない道の真ん中にも関わらず誰かとぶつかってしまった。

 どうやら此方が弾き飛ばしてしまったらしく相手は尻餅を付いて座り込んでしまっている。

 そんなに強く当たった感じはしなかったんだが……いや、そんな事よりも怪我がないか確認しないと。

 

「すみません、怪我はありませんか?」

 

「……えっ? あっ、ええ、問題ないわ」

 

「……? それは良かった、宜しければお手をどうぞ」

 

 何故手を差し伸べられたかわからないと言った表情を浮かべる少女──多分俺よりも年下だと思う──はじっと、俺の顔を見ながら手を取ってふわりと擬音が立ちそうな程身軽に立ち上がる。

 そして再度謝罪をするために手を離して……あれ? 離して……離してくれない……? 

 

「…………」

 

 いや、あの……じっと見詰められても困るんですが。

 

「いえ、失礼しました。どうやら疲れているようで……顔色が悪かったのでつい」

 

「あぁ、成る程」

 

 いやそれはそれでどうなの? 

 とは思うが先に失礼働いたのは俺だし何も言わんけども。

 

「素人意見ですが今日と明日の間は家でゆっくりとしていた方が身の為かと」

 

「え、そんなに顔色悪く見えるだろうか?」

 

 ヤバイな……家に帰ったら溜莉に何て言われるだろうか。今から言い訳考えておくか。

 とと、思考が脇に逸れたがやることはしなくては。

 手を合わせて頭を下げる。

 

「此方の不注意ゆえにぶつかってしまい申し訳ない。怪我が無くて良かったが何か償える事はあるだろうか」

 

 俺の謝罪を受け取って何かを少し考え込んだ少女は少しだけ腰を落として下から俺の顔を覗き込んできた。

 

「えっと、頭を上げてください。私も、周りを見てなかったのが悪かったのです」

 

 そう言われて頭を上げる。すると近くに寄ってきていた少女の姿がよく見えた。

 普通の、日本人の中高生にも見えるし落ち着いた雰囲気の大人にも見える。だが目の前に居るのに何かが(あいだ)にあるような……不思議な感覚だ。

 うん、自分で思ったがそんなに見詰めていては変態みたいだな。

 あまりじろじろと見てはいけないので視線を少女の目に固定する。

 

「っ……、私行くところがあるので失礼しますが。()()()()()()()()()()()()()()()()()体を大事にしてあげた方が……そうですね、良いと思いますよ?」

 

 何だ? 変な言い回しだな。でもそうか……色々あったし、精神的にも参ってるのかも知れない。

 

「俺に態々そんな忠告をありがとうございます。道中お気をつけて。俺も……気を付けます」

 

「……ふふ、では──」

 

 二度と会うことはないでしょうけど──

 そんな言葉が聞こえたような気がして……少女はこれまた幽霊のような虚ろな足取りで去って行った。

 

 …………足音とか一切聞こえなかったんだけど本当に人間だったよね? 

 最近というか昨日のあの一件から魔獣とかいう非科学的生物を見てから疑り深くなってしまった。

 いや、でも受け答えとか対応の仕方とかは違和感無かった……無かった……? 多分無かったし、誰慣れ構わず疑うのは違うだろう。

 俺は考えるのを止めて今度は誰ともぶつからないように身長に家への道のりを歩き始めた。

 

 ┗┓

 

 いや不味い、かなり不味い。

 歩いてる途中で周囲の風景がなんというかこう、滲み出した。

 建物とかはそんなにでも無いんだけど人間とかすっごいぶれて見える。

 熱あんのかなぁ? とか思いながらやっと帰宅。病院行こうにもその気力がない。寝れば治るさ。治らなきゃ明日行く。その時はタクシー呼ぶかぁ。

 おぼつかない手でとあるアパートの一室の鍵を開ける。

 

「ただいま」

 

 扉を開けて、声を出すが返事はない。それはそうかだって今日は金曜日だしな。溜莉も学校があるし、その後は友達と遊ぶだろう。

 まだ夕方の五時過ぎだしウチの家は門限など決まってない。無連絡の泊まりなどは流石に問題だが、ちゃんと帰ってくるなら問題ないと相談して決めた。

 俺自身深夜にバイトを入れたりして守れないからな。

 

 このボロアパートは洋室と風呂場兼洗面所兼トイレと小さなベランダが有るだけの小さな一室だ。これで三万。周りの交通機関からそれほど遠くないし安いのは安いが、部屋が実質一つしかないという年頃の娘である溜莉にかなり負担をかけてしまっている。

 一人部屋くらい用意してあげたいのだが……洋室はそこそこに広いのでどうにか本棚とカーテンを工夫して小さな個室のようなものを作る事ができたが……その時は溜莉も喜んでくれていたが今は窮屈なだけだろうと思う。

 

 何時ものようにベストを壁にかけて、衣服を着替えゆったりとした服装に着替える。

 洗濯物は……そんなに無いな。全部捨てたし、他の荷物も無い。

 携帯だけポケットに入れておき、中古で買ったソファに深く座り込む。

 ……そういやお土産をねだられてたけど忘れてたな。そんな余裕一切無かったし。

 せめて空港で何か買ってやれば良かったんだけど……。向こうで世話になった退魔術師? の人達に少しでも身内の情報を渡すのに忌避感を覚えたというか。

 

 そんなとりとめの無いことを考えながら目を瞑る。

 家に帰って落ち着いて、だいぶマシになった。少しだけ、少しだけ休んだら、夜飯を作らないと…………。

 

 何を作るかな、やっぱり余り物のチャーハンかな。卵は有るだろうし、冷凍ご飯も溜莉は食べようとしないだろうから残ってるだろうし……あぁ、ベーコンとか……買って、帰れば……よかっ、た…………。

 

 ………………。

 

 …………。

 

 ……。

 

「……ぃさ ! ……ぃさん!」

 

 ……………………んぁ? 

 

「兄さん!」

 

「お、おおお!?」

 

 寝過ごした!? 今何時だ!? 

 窓から見える外はもう真っ暗で部屋の中を絶妙な明るさの電球が照らしてる……十数分寝たとかいう感じではない。

 携帯、携帯どこだ!? ソファに置いてた筈何だが……無い。

 

「兄さん、お探しの携帯はここにありますよ」

 

 俺と同じ黒髪を腰まで垂らした学生服の少女、妹の溜莉が俺の携帯を差し出しながらすぐそこで仁王立ちしていた。

 

「あ、ははは……悪いな」

 

「いえ、そんな事よりもですね」

 

 差し出した俺の手をひょいと避けながら俺の携帯をひらひらと扇ぐように指の先で動かす。

 何だか機嫌が……悪い? 

 

「るり……じゃなくて私言いましたよね。危険な仕事や体を壊すような仕事なら辞めてくださいって」

 

 半目になったじとっとした目をこちらに向ける溜莉。最近急激に口調も姿も大人びて綺麗になったから尚更一人部屋とか作ってやりたいんだが如何せん金銭面が辛くてな……じゃなかった、そうか俺が気絶したみたいに寝てたからか。

 確かに一日二日家を空けて帰って来たと思えば死んだように寝こけていたらビックリもするか。

 

「しかしルリちゃんよ、バイトしなきゃ生活が立ち行かない事は良くわかってるだろう?」

 

 だから深夜にバイトもしてるし何なら一日中働いてる時もある。そんな次の日に真っ昼間から寝こけている何て珍しくも無い筈なんだが……。

 

「それは勿論。兄さんには感謝してるし尊敬もしています……何時もありがとう」

 

 恥ずかしくなったのか一瞬顔を背ける溜莉。だが気を取り直したのか直ぐにこちらを向き直すとびしりと指を突き立てた。

 

「人を指差してはいけません、ちゃんと教えたでしょ」

 

「あっ、ごめんなさい……じゃなくて! る……私が言いたいのは!」

 

 余程興奮しているのか少し前まで使ってたるりの一人称に戻りかけているのを済んでのところで押さえながら更に声も隣に聞こえないように調節するという我が妹ながら器用なことをすると感慨深く思っていると溜莉は予想外の言葉を告げた。

 

「新しく始めたバイト……兄さんがここ半年ほどで始めた大畑さんの所のバイト。それを辞めて欲しいと言っているんです」

 

「……え?」

 

 何でそれを溜莉が知ってるんだ? 誰にも言ってなかったし隠すように動いていたのに。

 いやそれよりもだ、どこまで、どこまで知ってる? 

 

「大畑……さんの所でバイトしてるの、何時から知ってた?」

 

「ぅぇ!? そ、それは……さ、最近です。偶々知りました」

 

 あ、怪しい……いや、何時知ったとしても然程の問題はない。重要なのは何をしてたか知ってるかどうかだ。

 

「そのバイト……俺が何してたか知ってる?」

 

「…………知りません」

 

 嘘だ。ほんとに知らないなら「そんな言い方するのなら……やっぱり危険なことしてたんですね」とでも返してる筈だ。

 クソ……でも、もう関係無いか。だって俺は……。

 

「まぁ、それはどっちでも良いんだ。俺はもうあのバイトを辞めたからな」

 

「え!?」

 

「今日辞めたいって伝えてきたよ。向こうも了承してくれた。今日からまた、何時ものバイト生活に逆戻りだ」

 

 まぁ、何かが切っ掛けで妹をあの世界に捲き込んでしまったら悔やんでも悔やみきれないのでこれが一番良かったと今でも思っている。

 溜莉は予想外といったように右手で前髪を弄りながら視線を左右にキョロキョロと……ん? 

 

「ルリちゃん」

 

「……いや、でも…………が…………」

 

「ルリちゃん?」

 

「あっ! はい! 何ですか?」

 

「いや、その()()どうしたのかなって」

 

 そう指輪だ。明らかに俺が向こうに行くまでには無かった。

 自分で買ったにしては溜莉の好みから少し離れているように見えるし俺に隠してる恋人が居たとしても着けている指が右手の小指だったのでそんな場所に着けるか? という疑問が湧いた。

 

「…………っ」

 

「……え? 何か聞いちゃ不味かったか?」

 

「い、いえ違いますよ? これは、その……と、友達から貰って……サイズが小指にピッタリだったので貰ったんですよ!」

 

「あ、あぁそうだったのか……なんか、その聞いて悪かったな」

 

「いえいえ! 私こそお疲れの中問い詰めてしまってごめんなさい!」

 

 両手をぶんぶん振って否定した後神妙になって謝罪する溜莉。

 俺としてはその指輪がちょっと気になった程度だったのでそこまで慌てられると逆に困る。

 取り敢えず夕飯の準備もしなくちゃいけなかったので立ち上がろうとするが……ふらついてしまいまたソファに逆戻りしてしまう。

 目の方は溜莉を見てもぶれないし全く問題なくなっていたが体の方がまだおかしいらしい。

 地面に立っているようで浮わついた気分になる。

 

「兄さんは座って待っていてください。今日は私が作りますから」

 

 俺に優しく微笑みかけながらくるりと回りってキッチンの方へ向かう溜莉。

 うん、その方が良いだろう。この状態の俺がキッチンに入ってもまともに料理できる気がしない。

 俺は返事の代わりに片手を上げて感謝の意を示し、料理する溜莉の後ろ姿をゆっくりと眺めながら体の回復させることに専念した。

 

 ┗┓

 

 食事を終えてシャワーを浴びた後、夜も更けて寝る準備を整えてからソファに体を沈めて明日の予定を考える。

 大畑の所のバイトが最悪今日まで伸びるかもしれなかったので今日と明日はバイトを入れていない。つまり休みだ。

 食材の買い出しは勿論、家の掃除や消耗品の補充をしなければいけない。ぱっと見た感じティッシュが危うい位で問題ない筈だが再確認は必要だろう。前に一度洗剤を切らして大惨事になったからな。

 

 俺は基本ソファで寝る。何年か前、二人だけで生活するようになった時は一つしかない布団で二人仲良く寝たものだが流石に体が入りきらなくなったので布団を買い足す金も惜しかった同時にソファで寝てみたら案外安眠できてしまったのでそれ以降俺はソファで寝るようになった。

 勿論掛け布団の類いはかぶっている。じゃないと死ぬからね、寒さで。

 

 今なら布団一式買い直すくらいなら何とかなるのだが……何となく買い換えないまま今日まで来てしまった。臨時収入である大畑のバイトも無くなった今、新しく買うことはしばらく無いだろう。

 溜莉は……もう寝たのか、布団が静かに上下していて微かな呼吸音が聞こえる。

 明日は休みだし何処かに遊びに行くのかもしれない。最近転校生が来たとかなんとかで楽しそうだからな。

 

 少し体勢を変えて何となく、種の入っているベストを見る。黒い、厚手のベスト。ポケットが外に四つと中に二つ、中のポケットは不思議な守りで護られているという訳のわからないベスト。俺が前身血まみれになったり、森の中を転げ回ったりしながらもこのベストは汚れたり、破りれたりもしないほどの頑丈性と特異性を見せた。この半年、その便利さからずっと着けていたからかこの一週間が最後だと思うと感慨深い。

 ……多分このベストも返すんだよな? 

 貰えるのなら欲しいけどな。

 種もなぁ、どうするか……地面に植えたら……生えてくるよな? 流石に生えたら誤魔化しきれないだろうし討伐されるのだろうか。ていうかどうなるんだろうか人型? そんな漫画みたいな事ありえるのか……ん? 

 

(今、微かに光った?)

 

 いや、そんなわけない。まだ種なのに。

 

 そんな恐ろしい想像中の中、手元の携帯が微かに震える。

 メールか。

 

(……明日の夜急遽バイトに入って欲しい、か)

 

 夜働いてるバーの店長からのメールだ。

 明日は休ませて欲しいという話をしていたのにこんなメールが来るなんて明日は本当にヤバいのだろう。

 

(今も調子良いし……明日には完全に治ってるだろ)

 

 明日は行けますという内容を送り返して予定が決まったところで今日は寝ることにする。

 

 ふと、何となく溜莉の寝ている布団を見る。

 

 また……頑張らないとな。

 

 ┗┓

 

 真っ暗な空間で俺は立っている。

 目の前にあるのはただ無限に広がる暗闇と……植物の蔦。

 その植物の蔦が俺の全身に絡み付いており離れない。

 何も見えないはずなのに、俺の体とその植物の蔦だけが暗闇から浮かび上がるようにしてぼんやりと見える。

 

「何だこれ、離れないな」

 

 いくら引っ張っても、どれだけ剥がそうとしてもこの植物は離れないしびくともしない。

 やがて疲れた俺はこの植物を良く観察する事にした。

 

 葉は付いていて蕾もあるが一つたりとも開花してない。蕾の形から想像するに薔薇かそれに近いものだと考えた。

 何故かこの場所に居ることには疑問を覚えられないが、この植物がどうなっているかだけはすごく気になる。

 

 それからどれだけ経ったか分からないが一つだけ、分かってしまったことがあった。

 

「この植物……俺から生えてるじゃねぇか……」



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花に花屋に薬屋に

「それでは兄さん、行ってきます。それと先程も言った通り今日は友達の家に泊まってきますので」

 

「あぁ、灯対(ひつい)さんの所だったな? 楽しんできてくれ」

 

 朝、(溜莉)の見送りを終えて今日の朝の家事の続きをする。

 掃除、洗濯、洗い物……粗方片付けた時にはもう昼前になっていた。

 取り敢えず一息つけるようになったので恒例のソファに体を深く沈める。

 今から買い物に行って……途中で何か軽食でも挟んで夜飯の準備……は今日溜莉が帰ってこないからいらないだろ? 

 もういいや、さっさと買い物行って夜まで寝よう。

 

 そういうことになった。

 手早くベストを着込み、その上から上着を羽織る。

 もうすぐ秋も終わり冬の季節なのでこうしないと寒くて動けなくなる。

 だから、そうだから仕方なくこのベストを中に着込む。そうして貴重品を中のポケットに…………? 

 

「何だ? 妙に半開きだな……ちゃんと閉めてる筈なんだが」

 

 まぁ、記憶間違いくらいはあるだろう。気にせず貴重品を入れ込みしっかりとチャックを閉める。

 そして最後に……

 

「変化無し……やっぱ夢は夢か」

 

 種の様子を確認してまた直し込む。

 あの意味深な(体から植物が生える)夢を見た後体を確認したが何も起きておらず最後に心当たりのあるこの種を今確認した。

 何故今になって確認したのかというと理由は情けないが怖かったからだ。

 見ることで何かしらが起きるのが怖かった。溜莉が居たこともあり、起きた時点で何も無かったので溜莉が出ていってから見ようと決めていた。

 それにも関わらず溜莉が出て行った後、今の今まで放置していたのは俺の心の弱さだろう。

 今見たのだって流れで確認したからだ。持ち物の再確認はしなければ安心できない質であるがゆえになんとなく確認してしまったのだ。

 

 うん、まぁ、何もなくて良かった。

 

 準備を整えて家を出る。鍵をいつもの隠し場所に隠してから歩きだした。

 

 子供の頃から歩いてきた懐かしい道をゆったりと歩く。

 もうすぐ冬と知らせる独特な匂いと冷たい風が露出した肌に刺さって軽い痛みすら感じる。

 体調が良くなったと言ってもまだ体がふわつく感じがまた出てきてしまった。

 家に居るときには感じなかったがすれ違う通行人の姿がぼやけて見えたり逆に存在感が強く感じたり……これもう絶対病気とかじゃねぇな。

 

(やっぱあの(魔獣)が死んだときに感じた熱と関係あるんだろうなぁ)

 

 後傷口から血が出る事も。

 

 どうにかして行きつけのスーパーにたどり着き、買い物を済ませたもののやはり意識が確りとしない。

 道中目覚ましに黒い炭酸飲料を買って飲んでいるが炭酸の火力が足りない……。

 

 ふらふらっと歩いて何処かに軽食屋が無いかと探しているが……さて、ファストフード店はもう少し先だったな。

 ふら、ふらっと……ん? 

 

「あ、昨日の……」

 

「あぁ、昨日の女の子か……」

 

 ばったりと道の真ん中で昨日の少女と出会った。

 昨日と相変わらず気配というか存在が希薄な人だな。

 

「…………」

 

 き、気まずい……っ! 

 ただ単に街中で見掛けてしまっただけだから用とか無いのに声を出してしまったばっかりに呼び止めてしまったから……! 

 

「あの……どうして居るのですか?」

 

「えっ?」

 

 どうしてって……、え? キツくない? 

 

「あっ、えっと間違えました……あの、家で休まれた方が……宜しいかと」

 

「あ、あぁ、成る程」

 

 そういう意味ね、ちょっと当たりがキツすぎて心が折れそうだったぜ。

 

「大丈夫だ。問題はない。直ぐ治るだろうから」

 

「直ぐ治るからと無理をするのは……ってもしかして……」

 

 少女が視線を俺の顔から下げて手の甲を見ている。

 正確には手の甲の傷か? いやなんか違う気がする。どちらかというとその周囲? 

 

「……お昼まだですか?」

 

「え? あぁ、今から?」

 

「来て下さい」

 

「えっ? ぅえっ?」

 

 唐突に来て下さいって言われて服の袖を捕まれて引っ張られる。

 抵抗、抵抗……するかぁ? いやなんかそんな気が全く起きないんだが……。

 ヤバそうな所に連れ込まれそうだったら上着を脱け殻にして逃げよう。

 

「行きますけども……説明して貰っても?」

 

「向こうで話します……から」

 

 段々と言葉尻が弱くなっていったがそれでも引っ張る力は緩めない辺り本当になにかあるのだろう。多分。

 それにしても誰かに見られてたらちょっとした惨事だな……友人にこの件でからかわれたりしたら返す言葉に困るぞこれは……。

 …………逆ナン? 

 いや、心配してくれてる(だろう)相手方に失礼すぎる。

 やはり見られないことを祈って早く目的地に着くことを祈ろう。

 

 五分ほど歩いたところで見たことの無いようなお洒落で小さな洋食店に見える場所に連れ込まれる。

 こんなところに店があったんだな……と感心していると少女はやっと手を離しスゥっと奥の方へ消えていってしまった。

 

 あれだな。さっきから思うに……人と接するのが苦手な人なんだな。(精一杯のオブラート)

 説明が無さすぎるんだが。

 

 仕方ないので近くの椅子に腰かける。

 店に客は居らず、奥の部屋っぽい所にも店員の気配すらない。

 周囲に目を通しても難しそうな本が詰まった本棚とカウンター、今座っているのと合わせて二つ程のテーブル席と古風な調度品? みたいなのが隅っこの方で並んでいる。

 詳しいことは分からないが落ち着いて過ごせる空間、それを作ろうとしているのは分かった。実際居心地が良いし。

 他には……あれは写真立て? 家族三人の写真か、ずいぶん古そうだけど……けど、なんだ? 違和感が…………。

 

「あれは……?」

 

「お待たせしました」

 

 っと、体をゆっくりと回して少女の方に体を向ける。

 少女は手元にマグカップと……何かの錠剤を皿に乗せて持っていた。

 

「お水と、お薬です。あなたの症状に良く効きます。休まないならこれは必要です」

 

 ずずいっとその二つを俺に向けて差し出す少女。

 いや、行きなりそんなこと言われても……ちょっと話してみるか、流石にこの流れでは飲めんわ。

 

「待ってくれ、俺は突然連れてこられただけで現状の把握がしたい。ひとまず、これは何だ? 何の薬だ?」

 

「魔素酔いと魔流因子の結合緩和の薬です。あなた、体に魔獣を寄生させていますよね?」

 

「は?」

 

 なんかもう、え? とかは? とかしか言ってない気がする。

 ていうか……あぁもうクソったれ! 何となくそうじゃないかと感じ始めてたけどホントに裏の関係者かよ! 

 しかも何だ? 寄生? そんなの心当たりあるわけ……ある、わけ……? 

 

 あったわ、昨日の夜の夢がまさしくそれじゃないか。

 しかもあれだわ、魔流因子? それっぽいのをあの彼女? が言ってたわ。取り込んで~とか。

 

「今自覚したようですね……」

 

 少女は手に持っていたマグカップと錠剤をテーブルに置くと()()()()()()()()()()()()()()()()薔薇の蕾を一輪手折る。

 それと同時に蕾があった根本から赤い霧のようなモノが吹き出し、濃厚な鉄と薔薇の臭いが入り交じった香りが店のスペース一杯に広がった。

 目眩がするような濃厚で、強い匂い。

 

「ぅっ……これは?」

 

「心配要りません、ただの流血による魔法的現象です。……やはりイビルプラント、属別は薔薇、これは、主格を守ろうとしている?」

 

 何だ、俺の体が、熱い? 

 これは、あの時の……いやそれよりも更に。

 

 全身の力が抜ける。熱が場所を移動するように全身のあらゆる場所から植物の蔦、蔓、茨が飛び出る。

 そして感じた。胸から唸るような熱を。

 それはあの種のものだと見ずとも確信させ、それを取り出す前に……。

 

「私は敵ではありませんよ。安心してください生まれたての幼き魔獣の子。ただ、あなたの力ではその人が死んでしまうかもしれないんです」

 

 俺ではなく、その先にいる何かに話しかけるような声に動きが止まる。

 そして少女は俺の顔を見て、見ていて安心できるような柔らかな笑みを浮かべる。

 

「名乗りましょう、私は織音 緣。今はもう存在しない『花屋』と言われていた医者の娘です。大丈夫、危害は加えません。私を見付けてくれる人は貴重なので」

 

 ┗┓

 

 店内の隅から隅まで薬膳の体から生え出した植物の蔓や蔦が伸びきっておりその光景だけ見れば廃棄され時間が経ちすぎて自然に呑み込まれた廃墟のような様をしている。

 その植物の中心、薬膳の横に立った緣は薬膳の体をじっくりと観察してから口を開いた。

 

「驚きました。これ程までに寄生先の主格にこれ程までに負担をかけずに存在しているとは……これは寄生というよりも共生と言った方が正しいのかもしれませんね」

 

 薬膳の体は異常だった。

 異常なほど正常だった。

 これほどの植物が体から生えてきているというのに、緣の持つ力で調べた結果。変異しているのは僅かな2%程。

 侵食は最低限で、最大限寄生先に配慮し、適応しないとこの変異率はあり得ない。その知識を知っていた緣はだからこそ今目の前の薬膳が体調を崩している理由を掴みかねていた。

 黙りこくった緣を不思議に思った薬膳が振り向く。

 

「寄生でも共生でもどちらでも良いんだが……俺の体はどうなっているんだ? あなた……ええっと」

 

「織音と、もしくは『花屋』と呼んでください。『花屋』は父の名ですが私はその後継者なので」

 

「じゃあ織音さん、俺は詳しいことは何も知らないんだ。この裏の話も最低限以下の知識しかない。魔素とか魔術とか言われても……って感じだ」

 

 その事を聞いた緣は驚いた。

 魔素とは基本にして全て。それを知らないということは空気中の成分が何かと言われ酸素と答えても理解できないのと同じくらいの知識の無さだということ。

 

「では詳しく説明させてもらいますが。あなたの名前と、師か、こちらの世界に案内した人は居ますか?」

 

 その声色はさっきまでの柔らかなものとは違い、真剣さと少しの緊張感を帯びているものだった。

 

「俺の名前は……うん、薬膳だ。薬膳流天」

 

 そこ僅かな変化を感じ取った薬膳は名乗ろうとして……躊躇し、『薬屋』の名前を言うか迷ったあげく、引退するのだからと本名を名乗ることにした。

 目の前の自分を見詰める緣の言葉には確かな心配と真剣さを感じ取ったこともあり、そんな相手に自分の偽名を使うことを躊躇ったという理由もあった。

 

 その名乗りを()()()()()から偽名でもなんでもないものと理解した緣は、てっきり通り名で名乗るものだと思っており本名を伝えられたことに対して目の前の患者の裏に染まっていなさ加減に一抹の不安を抱きながらもそれを動揺に表さず言葉を繋げる。

 繋げる言葉は、ド素人のまま裏の世界に身を投げさせ、あまつさえこのような分かりやすい寄生に対して何の対策もしなかった相手の名。

 

「では薬膳さん、あなたの水先案内人は?」

 

「ええっと、言わなきゃ駄目?」

 

「はい」

 

 力強い断言。

 彼女、織音緣は自分を善性の存在だとは考えていない。

 だが最低限の論理感として怪物蔓延るこの世界に最低限の情報無く突き落とした相手に対して警告する程度の優しさを持ち合わせていた。それはさながら意図的に情報を抜いて説明する詐欺師を相手するかのように、明らかに危険度の説明をしないで耳障りの良い言葉を並べる悪徳のセールスマンに対して警告を鳴らすように。

 

 緣は見詰める。この出会いは奇跡のような物で、長くは続かない夢幻のようなものだと知っているから。

 その緣の笑顔が消えた表情を見て、大畑の行為はやはり何かと不味いものだと推測が確証に変わった薬膳は絞り出すような声を出して答えた。

 

「一応世話になった人だから突っ掛かるのは止めてくれよ? 何かとヤバいっていうのは分かるけど」

 

「……ええ、私にはどちらにしろ無理な話ですから」

 

「おう? ……その、俺をこっちの世界に招待してくれた人っていうのは……『薬剤師』って人だ」

 

『薬剤師』、と緣は頭の中で反芻するが心当たりは無かった。

 

(当然ですか、ここ最近……というより長い間外の情報が入ってきていませんからね)

 

 緣は取り敢えず名前を聞けた事だけを収穫として、笑顔が消えていたことに気が付きできるだけ柔和な笑みを目指して表情を作った。

 

「その人とはできれば関係を切った方が良いと思いますよ」

 

「あはは……」

 

 笑顔で辛辣な言葉を放つ緣に薬膳は苦笑いしながら返す。

 それに対して緣はにっこりと微笑み、薬膳はほんの少し自分でも理解できない震えに襲われ冷や汗をかき始めていた。そして少しずつ確かにそうかもしれないと、完全に縁を切った方がいいかもしれないと思考が流れ出す。

 だがそれはゆっくりと歩きだした緣に気を取られて中断する。

 

「私の質問は一旦おしまい。では薬膳さんの質問に答えましょう」

 

 緣は足元に広がる蔦などの中から一つ持ち上げて優しく撫でる。

 

「この植物はただの植物ではなく魔獣であり、その中でもイビルプラント、不吉な植物と言われる種族に当たります」

 

 緣の手元で生き物のように、いや生き物であると証明するようにうねりうねりと動きだし緣の手を離れても直立に立つ。

 

「本能で動き、多くの場合に核を持ち、それ以外に何をされてもよっぽどの場合以外にダメージは入らないので比較的討伐が面倒で、難しい部類に入りますね」

 

 緣はまるで生徒に授業をする先生かのように丁寧に、分かりやすく言葉を繋いだ。

 植物の蔦は緣の目の前でゆらゆらと揺れ動くと、緣の差し出した手にゆっくりと巻き付き出す。それを見て自分は以前蔦によって投げ飛ばされた事を鮮明に覚えていた薬膳は何をするのかと焦って近寄ろうとする。

 だが途中で緣が微笑ましいものを見るかのような表情に気づいて足を止める。

 

「大丈夫。イビルプラントは不吉の象徴だと言われていますがその本質は植物で変わりありません。……人を食べたりなんてしませんよ?」

 

 緣はクスクスと小さく笑いながら心配そうに見詰める薬膳を見る。

 人と話すことは楽しい、人に何かを教えることは楽しい。

 緣はとある事情によって長い間誰とも話せていない事によるその発散でき無かった欲を発散するように喋り続ける。

 またしばらく話さなくても満足できるように。

 薬膳のリアクションや言葉を楽しみながら説明を続けた。

 

「まぁ、このように意志疎通が出来る個体は稀ですが居ないわけではありません」

 

 ──その上発見次第に狩られるかその特性を生かした意思疏通できる農産物生産機となるか迫られるので事実上存在しない、という言葉を胸に留めて話を続ける。

 

「この子は薔薇、そして魔素の傾向が生と曖、霧に片寄っていますからこの子の魔法は幻覚やそれに近しいものになるでしょう」

 

「魔素とか魔法とかって何なんだ?」

 

 またこの質問。緣は魔素の説明を怠った『薬剤師』なる人間に静かに怒りを抱きながら、目の前の青年に分かりやすく説明しようとして迷う。

 

「今日、お時間は問題ないでしょうか?」

 

「あぁ、夜に行かなきゃ行けない場所があるがそれまでなら空いてるが」

 

 そこで緣は少し考える。

 今はまだお昼時であり、魔素などの説明をするなら簡略化してギリギリである。

 彼自身はまだ一般人のつもりだろうが魔獣に、それと意思疏通できる植物系の魔獣に形はどうであれ好かれ、共生とも言う関係で過ごすのならそれはもう無理だ。

 知らなければならない、彼がどのような決断をするにしても知らないままでは日常を過ごすことすら不可能になる。そう考え、流石に干渉しすぎかと自重するべきかと検討する。

 

(……少しだけ、もう少しだけ話す口実を増やしてみるだけ。断られればそこでおしまい。薬を飲んでもらって、もう二度と会うことはできなくなる。感情を入れ込まない、説明をするだけなのですから)

 

「…………織音さん?」

 

「……薬膳さん。その時間目一杯に使うのならば私が説明をしても構いません。幸い私には時間だけはありますし、条件を飲んで貰えれば今日中に魔素と魔法、魔術とその他の知識をあなたは得ることができます」

 

「それは……」

 

 薬膳も即答は出来ない。明らかに裏の関係者、あまり関わりたくない出来ることなら直ぐに立ち去りたいのが本音で連れてこられた理由としてもこの植物の魔獣との共生状態をどうにかするというもので、この状態で何が不利益になるのかを未だに理解が追い付いていない。外見だけの問題なら今日今までの間のように隠れて貰えればいいし、何故か理由もなくそれがお願いできる気がしていた。

 だが、それだけで目の前の相手のような裏の関係者相手に隠しきれる気がしないし、あの大畑の相談しようにも今はどうしても信用がができない。

 

「条件は?」

 

「最後に私の質問に答えること。そうですね最低二つは答えてもらいます」

 

「……それくらいなら、いいか?」

 

「知識の対価としては破格だと思いますけどね」

 

 薬膳は迷って、迷って、今の状況から自分の状態を見直して一つの結論に至った。

 

「そういえば飯がまだだった気がする……」

 

「…………あっ」

 

 そうだ自分は腹が減っていたのだった、と。



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仕事し始めてからの勉強ほど苦しく必要なものはない

 

「すみません、元々は食事を対価に私が付いてきて貰っていたのに」

 

「いやそれはこうして食べ物を出してもらったのでいいんだけども……」

 

 やっぱあれは食事を提供するから付いてきて欲しいで合っていたのかという今更の答え合わせが出来てホッとしている薬膳は右手に持ったトーストに一口かじりついた。

 

 二人は真面目な話から一転して、緣が奥で調理してきた食事を摂っている。

 緣は簡単に卵を焼いたパンで挟んだホットサンド。薬膳は緣がせっかくなのでリクエストを受けると言ってくれたので厚切りベーコンとスクランブルエッグにトーストを焼いてもらい食べていた。

 緣は少しずつ自分で作ったホットサンドをパクつきながらテーブルの上に置かれている少なくなった薬の置いてある皿を見る。

 

「何だかんだと言いながらも魔素酔いの薬を飲んで貰えましたからもう目眩や見るものがぶれたりする症状はここから出た後も大丈夫でしょう」

 

「ここから出たらまたああなるって聞いたら流石に……他にもこいつに問題は起きないって言うし…………」

 

「何故そこまでその薔薇の魔獣を気にするのでしょうか? いえ、答えなくても良いですただの好奇心なので」

 

「好奇心で聞いてるのに答えなくてもいいのか……?」

 

「はい……?」

 

 薬膳は自分と相手との微妙な認識の違いに違和感を覚えながらも食事を終えたので先の話の続きを促した。それは条件を飲んで、話を最後まで聞く、聞かせて欲しいという意思表示だ。

 緣はそれを受けて首をかしげながらもそれに了承し、飲み物を再度継ぎ足してから魔素についての講義を始める。

 話しやすいように、緣は薬膳の目の前に立ち、一枚のメモ用紙とペンを用意する。

 

「そうまずは……空気中に生物の体内にはたまた水や土の中にも存在する、物質的には存在しないけど確かに効力を、強制力を発揮する存在を魔素と名付けられました」

 

「なんだそれは、俺の体にもやっぱりあるのか?」

 

「えぇ、あなたにも私にも……細かい比率は違いますが同じ魔素があると断言できます」

 

 緣が薬膳の目の前に座り、紙にペンで上から順番に生 力 地 空 火 動と少し区切ってから枯 衰 曖 霧 冷 静と覚え歌のような物を口ずさみながら書き列ねていく。

 

「『生命の水より出でて力をふるい地に立ち空を纏い火を燃やし動かした。

 やがて枯れはて衰弱し曖昧に溶けて霧散し冷ややかとなり静止した』これは私が父から教わった魔素の始歌です」

 

 それぞれに意味があり力があると緣は言い、父の話ができて楽しげな表情を浮かべる。

 

「これらを全部纏めて第一魔素、または十二元素と呼ばれています」

 

「第一魔素?」

 

 薬膳が訝しげに言う。まるで第二やその続きがあるようだなと問いかけるように。

 緣は楽しげな表情のまま頷く。

 

「えぇ、簡単に言うだけでも第二魔素である五大色素。前者二つが結合し多種に渡る変化を遂げた第三魔┃文素《もんそ》があります。ここまで説明すると時間がかかりすぎるので今はこういうものがあるのだと覚えているといいでしょう」

 

 緣は紙に二つの動物を書いた。二匹とも猿の絵だと辛うじて分かる程度の画力だった。

 薬膳は少し前のあの化け物の事を思い出して顔をしかめる。

 緣は薬膳の嫌悪の感情に気が付いていたが気にせず更に書き足していく。

 そして二つの猿の絵それぞれの周りに生 力 地 空 火 動と円で囲うように書き足してそれを指差した。

 

「十二元素の内、この六つは今現存する魔獣以外の生物に必ず一定以上に備わっている魔素で基本的にどんな事情があっても急激に変化を起こしません……例え死ぬような傷を受けたとしても生の魔素が低下するに合わせて他の魔素も低下するだけであり下限を割ることも無く、上限を突破することもない。全体のバランスが崩れることは無いのです」

 

 片方の猿の猿に×を書き記し、頭の上に輪っかを作る。

 

「ですが、何らかの外的要因。魔術、魔力、神秘などの干渉を受けてバランスが大きく崩れる事があります」

 

 緣は次にもう一つの猿の絵の横に大きく生と書いた。

 そしてその生の字から矢印を猿の方へ向ける。

 

「生の魔素一つ異変を起こすだけでも要因は様々なものがあります。魔術や魔法による呪いによる生の魔素縮小状態での固定化、この場合は体は元気なのに衰弱していく、全身から力が抜けていくなどの症状があります。逆に外部から生の魔素を直接取り込むなど刺激して活性化させ、疲れているのに急速に回復する、致死量の出血を起こしていても生の魔素があれば多少の生命維持をすることができます」

 

「それって……」

 

「そう、裏の薬の事です。あれは便利なものですが油断してはいけません。直接体内の魔素を刺激、増幅させているわけなのですからそのプロセスは魔獣化のモノと同一なのです」

 

「…………っ」

 

 薬膳はそれを表情に出さないまま恐怖した。

 前に一度自分に使ってしまったあの『チョコケーキ』という薬、そしてあの時はそれしか無いとはいえ体が勝手に跳ねる程に影響を及ぼしていた『チョコケーキ』と『ホットココア』をジョンに打ち込んだ事。

 それら全て、本当にリスクが無いままに恩恵を預かっていたのだろうか、本当は幾らかの可能性で自分が自分でなくなっていたのではないか、ジョンも魔獣となり自分を襲って来ていたのではないか。

 今更ながら得体の知れない薬を自分に、他人に使っていたことによる無知ゆえの失敗の恐怖を味わっていた。

 

「…………と言ってもちゃんとした処理を施した薬は短時間で何本も接種しない限りそのようなことは起こりませんが」

 

「……それって何れくらいなんだ?」

 

「さて、その品質にも依りますが……一度に二本三本程度で変質変異を起こすのは売り物にはならないでしょう…………ですからその様に怯えなくても問題ありませんよ?」

 

 薬膳が無言で水を飲む。緣の言葉には肯定も否定もせず、微動だにせず緣の話しの続きを待った。

 内心を見抜かれた事にも動じず、隠していたつもり表情も自分のポーカーフェイスが甘かったのだと思いそんなこともあるだろうと納得した。

 大畑にも、雲山にも内心で恐怖で混乱しているときにも表面上は堂々としていると隠し通せていたポーカーフェイスを見抜かれたことをそう納得した。

 

「さて、話を戻します。この猿の生の魔素が過剰に接種され、その器が壊れるほどに注ぎ込まれるとします。では何が起きるか……わかりますか?」

 

「……パンクする?」

 

「ある意味ではそうですね」

 

 だが緣は問題はそこではないと、猿の絵に視線を戻す。

 周りに描かれていた生の文字以外の上に生の字を書き連ねていく。

 二つの字が重なり、それぞれが無茶苦茶な読めない文字になってしまう。

 

「正しい正解は他の領分を侵して侵食する。それはさながら川の水が氾濫して近くにある村を飲み込んでしまったかのように、他の相容れない物を無理矢理に巻き込んで広がっていく」

 

「……聞く限り、無事で済むとは思えないんだが」

 

「当然。溢れだした水は止められず、もっとあった場所に帰ることも出来ない。被害にあった場所も水の影響から逃れられず変わってしまう」

 

 緣は無茶苦茶になった文字を今度は違う色のペンでその文字の上から新しく文字を書き足す。

 それは元あった文字と入り交じった見たこともないような字。

 存在しない字を見て首をかしげる薬膳。意味が分かっていないと理解している緣も書くのに合わせて説明する。

 

「本来混ざり会わないそれぞれの魔素が干渉し合い本来ならあり得ない形で魔素が存在することになる。当然現実の肉体にも影響が無い筈がなくそれは肉体の変質と言った形で表れる。生の魔素ならば代表的なのは肉体の強化、膨張、再生力の上昇等ですね」

 

 聞く限りは良いこと尽くしだがそれだけではないと薬膳はあの黒い猿を思い出していた。あの猿は明らかに正気を失っていたし、元の目的や性格など完全に消失していたと見ている。だが逆に意識を保つ、理性と知性が有るようなあの彼女のような存在に関して疑問を覚えた。

 相反する二体の魔獣を思い浮かべ考えるも答えは出ず、緣に魔獣した場合知性が残るのかどうかを聞くことにした。

 

「それが魔獣化だというのなら、その元の生物の精神に異常をきたしたりはしないのか?」

 

 緣が足元に広がる蔦の一つを手に持って言う。

 

「します。変質するときに沸き上がる内側からの衝動に耐えきれなかった場合、ただその衝動を満たすために活動する魔の獣となるでしょう。元々の魔獣の語源でもありますね」

 

 ですが、と緣は薬膳の体から伸びる植物の魔獣を指差す。

 

「稀に意思を持ったまま、知性を宿し言葉を交わす事ができる魔獣が居ます。その衝動に負けず、己を律した者や生まれ持ってしてそういう生物だった場合がそうなれるのです。あぁ、間違えないように人間から変異した魔獣は人の言葉を話すことはありますが殆どはただ喋れるだけで理性など存在しないので不意打ちには気を付けるようにしなさい。多くはありませんが表面上は何でもないようにして擬態する場合があります」

 

「そんな、どうすればいいんだ」

 

「全てを疑ってかかる、何も、誰も信じないこと。それしかありません。常に疑い、備えて、回避するしかないんです」

 

 薬膳はそんなのは無理だと思った。そんな常に気を張り詰めたような生活ができるわけがないと。

 

(それしか無いのだとしたら、今目の前に居る織音さんの事すら信用できないと言うことになる。いやそれ以前に俺は大丈夫なのか? 魔獣と共生して、ほんの少しの変質で済んでいると言っていたが)

 

 じっとりとした汗が背中に張り付き、息が浅く、早くなっていくのを薬膳は感じていた。それは自分自身への正気の疑いも含めての恐怖だった。

 

「……少し、脅しすぎてしまいましたね」

 

「え?」

 

「ごめんなさい。でもその心構えは必要なものなのです、裏に僅かでも触れてしまったのなら」

 

 それが命を助けることになると緣は知っているから。だから素人の薬膳に脅すような真似までして印象付けた。

 そしてそれは成功し、未だに息が少し乱れている薬膳に少しの申し訳なさと……ある感情を抱きながら不安を解消するための解説を始める。

 

「心配しなくてもそんな擬態をするような魔獣が蔓延るような事にはなりません。その筋の人間にはわかるような擬態ですし、見付け次第優先的に狩られています」

 

「そうだったのか」

 

「えぇ、そしてあなたの心配するあなた自身の魔獣化も非常に可能性が低いものとなっています。あなたの100%の魔素に1、2%を継ぎ足した今の状態でもあなたは100%の状態を保てている。おそらくはこの植物の魔獣と馴染めば馴染むほど注ぎ込まれる植物の魔獣の魔素が多くなってもその比率は変わらないものとなるでしょう。勿論リスクが無いわけではありませんが……まさにあなたとその魔獣は共生をしているわけですね」

 

 薬膳の無言を気にせず緣は次の話をする。時間が余り無いこともあるがこれだけは話さないと帰せないというものがもう一つあったからだ。

 

「魔素については今はこれくらいで良いでしょう。次は魔術と魔法に関してです、それが終われば魔素の溜まり場の危険性、そうしてどうなるかを覚えてもらいます」

 

 ┗┓

 

 俺は今、勉強をしている。

 何故か必死こいて勉強をしている。

 いや、何故かじゃないけど生きるために、危険を回避するためにしているんだが……ちょっとだけ俺の講師は長話が好きらしく既にかなりの時間が経っているのに終わる気配が見えない。既にメモ用紙として使われた紙の束はえらいことになってるし。

 

「流天さん、聞いていますか?」

 

 このように別なことに意識を飛ばせば瞬時に察知されて注意される。

 いや確かにわからないことがあればそれも気付いてくれるからかなりわかりやすく説明してくれるが……連続6時間ぶっ通しは俺どうかと思うんだ。それと途中で薬膳と呼ばれるのも何だがそれこそ学校みたいで辛かったので下の名前で呼ぶようにしてもらったり工夫をしてみたりもした。無駄だった。

 

「少し疲れてきましたか、ではおさらいだけして……終わりにしましょうか」

 

 ……声を出す気力もねぇ。

 

「まず、魔術。これはどういうものか答えてください」

 

「…………」

 

「声に出さなければ伝わりません」

 

 頭の中で浮かべるだけで伝わらないかな……無理か。心なしか長時間の授業を聞いて萎れてきているような植物の魔獣の蔦を撫でながら考えをまとめる。

 

「…………魔術は、魔素の特質を利用した技術。その過程は大きく分けて三行程に別れており、『魔素の選別と結合』『効果の着色』『言葉の指向制御』である。これの利点は式さえ理解し、適正があれば誰にでも使える事にある。逆に不利点は反射レベルで習熟しなければ声に出して自分に言い聞かせて演算の補助をしなければならないこと」

 

「はい、合格です。裏の人間で魔素の存在を感じ取った事のある人間なら誰しもが使えるであろう技術です。言葉は第三魔文素であるので必ずではありませんが完全な演算が不可能ならば呪文を言葉にする必要があります。そしてその中でも代表的な魔術を覚えていますか?」

 

 勿論、叩き込まれたからな。それに何故かこの知識だけは頭に直接書き込まれる様に記憶されたし。因みに適正っていうのはその人物の魔素の配分らしい。稀に一つだけ高かったり低かったりしてもそれが正常だったりする人物は適正が限られると言っていた。

 この6時間は無駄ではない事を証明する為に頭の中でもう一度再確認しながら言葉にしていく。

 

「『血装』『言霊』『放出』この三つは誰にでも覚えられるように術式が公開されている」

 

『血装』は体内の魔素を血液に直接集めて循環させる事で身体能力を強化する。

 対処法は体内なので干渉できず無理なので諦めてそういうものだと納得する。つまり無い。じゃあ何で教えた。魔術師は体が強いの説明だけでよかったのでは? 術式まで覚える必要は無かったのでは? 

『言霊』はそれの声バージョン。声に乗せて放つことでその声を認識し、その意味が分かる者はそれに従ってしまったり、印象を強く植え付けられてしまう。

 対処法は意識をしっかり保っていたり相手を疑っていたりしていたら効力が落ちる。

『放出』はただ単に体内魔素を一つの方向に向けて放つだけ。だがそれだけでも衝撃はあるし簡単なだけに魔獣が使ってくる場合もある。食らってしまえば最低でも俺がさっきなっていた魔素酔いにもなる可能性があるし、体内の魔素比率をそのまま放出できれば……簡易的な魔法のような事を起こせるらしい。魔法の説明に関しては多分次に問題として出されるから割愛、頭痛いし。

 それでもって対処法はもう何か飛んできたら躱すしかない。

 ごり押せって事ですね。いや知識があるだけで初見の際の驚きの分のロスが消えるのでそれだけでも充分なのだが。何かを向けられたら回避しなくてはいけないとわかるだけでありがたいし。

 

 ちゃんと頭の中でも解説できるようになったと自分で満足したところで織音先生が微笑みを浮かべて頷く。

 

「はい、正解です。ちゃんと中身も理解しているようですね。先程調べた結果流天さんには何れも適正が低かったのでこう言うものがあると知識だけは入れといてください」

 

「……はい」

 

「どれか一つでも適正があれば私が教えられたのですが……流天さんの場合は全てが低すぎて適正にまで届かないので。効力が低くなっても使えるのは使えるのですがそれより知識を詰め込むことが必要だと考えました」

 

「いや、俺だっていきなり訳のわからん魔術や何たらを使えと言われないでホッとしているから、どちらかというと知識だけの方が嬉しいし。前提の魔素を感じることができないので元から無理だと思う」

 

「それはどうでもなりますよ。手荒になりますが」

 

 一体何されるんだ……。

 

「それほど怖がらなくても、器から溢れない程度に魔素を体に注ぎ込み続けるだけですよ。変異もしませんが副作用で熱っぽくなる程度です」

 

「恐怖を感じるに充分なのでは」

 

「次に魔法です。こちらは魔術と違い余り対魔術師の中では普及していません。何故ですか?」

 

 スルーですか。

 ええっと魔法か、確かこれは魔獣が良く使うから覚えなさいと知識を詰め込まれたのでよく覚えている。

 

「魔術は万人が使えるように公式が存在するのに対して魔法はその個人の魔素比率や考え方によって発現する固有の魔術。その個人の存在そのものが術式であり、生まれながら持つ力と同じように本能で使えるので出が早く、その効果も様々な為に対処が難しい。その分使える人間は珍しいし、その中でも戦闘に使える魔法を持つ人間は更に珍しいが扱える場合法則そのものを相手するに等しいので注意が必要である。魔獣は基本的に変異する際に使えるようになる」

 

 つまり? 出会ったら無理ゲー。

 ゲーム的に言うなら魔術がレベルアップで覚えられる汎用技で、魔法が主人公しか使えない専用技みたいなもの。何がタチ悪いかって魔法が使えても普通に魔術が使える点なんだよな。

 魔法は本能的に使える分無言で放つことが出来るし、法則が襲いかかってくるって重力とか慣性とかに対抗しろってことだからただの人間には無理ですねこれは……。

 

 知らないところでこの世の中ちょっと地獄過ぎないだろうか。

 

「はい、及第点でしょう。これなら最悪死ぬ瞬間にどうして、と疑問に浮かばず理解して死ねるでしょう」

 

 そもそも死にたくないんだが。

 俺が苦悶も浮かべる面白い表情をしていたのか、俺の顔をちらりと見ると織音先生がクスリと笑い、手元のメモ用紙の束を纏めて始まる。

 

「冗談です。ですが魔法に関しては対策以前の問題なのでぱっと見で理解が不可能ならば距離を取ることしかできません。もっとも距離を取れるという幸運があっての話ですが」

 

 そして織音さんはメモ用紙の何枚かを抜き出して穴を開けて紐でまとめる。昔の製本の様に読めるような形にするとまた何枚かを抜き出して穴を開け始める。

 

「次は魔素溜まり、どういう場所が溜まりやすく、溜まりすぎればどうなるかを説明してください」

 

 確かそれぞれの魔素によって溜まりやすい場所が変わったはずだ。だがそれにも一定の共通点があって……溜まりすぎれば、何か一つ、二つと偏りすぎればその場所そのものが変異してしまうという話だった筈だ。

 

「魔素が溜まりやすい場所は生命の溢れる場所またはその逆。霊脈、活火山、深海などのその奥地に集まりやすい傾向がある。引き寄せられる魔素も十二の内のその場所に適した幾つかで全てが引き寄せられる。そして溜まりすぎた場所はこの世界からずれて魔界と言われる場所になり自然と魔獣が発生するような危険な場所になる。通常一般人が近寄っても大きな干渉を受けたり、魔界に落ちることはないが気分が悪くなったり、何かを感じたりすることがある」

 

 魔界というのは何というか……ゲームのダンジョンのような存在らしい。魔素を一切感じないような表の人間には近寄ることも感じることもできないけど向こうから無理矢理干渉してきたり、運が悪ければ魔界に片足を踏み込むような事になるようだ。

 今考えればあの彼女に会った場所も異常な場所だったし魔界と呼ばれるような場所だったのかもしれない。

 もう、彼女が消えた今。確かめるすべは無いが。

 

「そうですね、合格です。ですが最後に人工的に魔界を発生させる事ができると付け加えていれば完璧でした。魔界はこの世界とは法則が違う場合が多々あるので必ず近寄らないように、既に魔素を浴びて、魔獣と関わってしまったあなたでは近寄るだけで飲み込まれるでしょうし少しでもオカルトの話がある場所は行ってはいけません」

 

「これで、終わり……か?」

 

 おわって……つかれた……ていうか今からバイトかよ……。

 というかこんだけ知識を詰め込んだけど大体の場合出会ったら即終了なんだよな、対策も一貫して逃げろ近寄るなだし。一応の対応策は幾つかで教えてもらったし、魔界に落ちた時の出方も教えて貰ったが……正直出来る気がしない。

 

 天井を見上げてピクリともしなくなった俺を横目に見て一つ溜め息を吐くと織音さんは悩むように頭を抱える。

 

「……そうですね。これで説明を終わります」

 

 俺が回答をしている間もやっていた紙の整理を終えたのか紙の本をもう一度束ねて横に置くと真剣な眼差しで俺の目を見詰める。

 俺でこれだけ疲れているのに教える方のしんどさも相当なものだろう。出来るだけ佇まいを直して織音さんに向かい合う。

 

「これで最後です。今までの話を聞いて、あなたは、薬膳流天は本当に……その植物の魔獣と共にあれると思っていますか」

 



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傷だらけの薔薇

「魔流因子は覚えていますよね」

 

「あぁ、さっき教えてもらったからな……」

 

 魔流因子は魔素の流れ方、量、質、比率などが複雑に絡み合った魔素版のDNA、遺伝子情報の様なものらしい。これが少し違うだけで魔法が発現したり、全く違う体質になるという。ただDNAと同じように親から子へ引き継がれはするが全くの普遍というわけではなく外部からの干渉で変化する場合もあるらしい。

 と言うよりも魔獣の変異こそがこれで、詳しく突き止めれば魔流因子が大きく変異して成るものだという。だからこそ不可逆なのだとも。

 

「その魔流因子が、少しずつ変化していっていきますよ。その子の魔流因子と混ざり合うことによって」

 

「それは……どれくらい?」

 

 魔流因子が変化したとしても少量の変化ならば魔獣には変異しない。多少の変化として身体能力や免疫機能が変わるがそれもほんの数%の変化であり問題はない……と聞いている。

 

「その子がこのまま侵食の意を見せなければ3%の変化に留まり、流天さんの趣味に日光浴が追加されるだけに留まるでしょう」

 

「…………それくらいなら特に問題は」

 

「ですが、それはこの子がその意思を見せなければの話であり全くの危険がないという話ではありません」

 

 ……もし、この植物の魔獣が俺に完全に寄生しに来たら。

 

「最低でも35%、それくらいは覚悟しなければなりません。そしてそれは魔獣化のデッドラインでもあります。あなたでは抵抗は出来ないでしょう、やろうと思えば完全に乗っ取る事も出来る。常にあなたの心臓を握られている状態と同義です」

 

「それは……」

 

 迷う、知性があっても魔獣。人外の化け物でその内側から沸き上がるその本能によって生きている。信じる要素もあの彼女? の存在だけでこの植物の魔獣本体が友好的で在り続ける保証もない。

 知識が無い先程までなら無知ゆえに信じることが出来ただろう。今大丈夫なのだからこれからも大丈夫。そんな無根拠で信じたいものを信じて共にあり続けただろう。

 だが知ってしまった。魔獣の事を。

 

 だから迷う。この魔獣は信じても良いのか。

 その賭けは俺の命に見合うものなのか。

 

 悩み、苦しみ、助けを求めるようにして目線を向けてしまった。

 目の前の年下のようで自分とは段違いに確りとしており、たった数時間の間でついつい頼りたくなってしまう彼女の事を。

 見た目不相応な織音さんの凜とした姿勢で俺の答えを待っているのであろう彼女は仕方ないとばかりに、俺を叱るように静かに声を出す。

 

「決断しなさい。流天さん、あなたは今とても不安定な状態です混ざり合いの途中、無意識で感覚器官の共有も起きています。ですが今ならこの子との魔流因子の結合を緩めて引き剥がすことが可能、私が今後お手伝いできるかも分かりません。今しか無い、あなたが決めるのです」

 

 俺が、決める。

 当然だ、これは俺の事情で織音さんはただ善意で俺を助けてくれているだけだ。

 自分の事は俺が決めなければならない。でないと俺はこれから俺の事を信用できなくなってしまう。

 

 集中して思考する。

 魔獣化のデッドラインは30%前後。恐らく織音さんが言っていたデッドラインの35%は俺の場合という意味だろう。そしてそれが最低限、言葉を濁してくれてはいるが俺じゃ絶対に対抗できないと教えてくれているのだと思う。

 簡単なのはこの魔獣を切り離して生きていくこと。俺の理性はそれ一択しかないと囁いている。それしか平穏に生きる道はないと、お前にはもう一つは選べない、と。

 わかっているんだ、そんな事は、でもあの約束がある限り俺は…………。

 

 俺は、俺はどうする。

 

 視界の端に植物の蔦が映った。

 それは少しずつ収縮していき、俺の体に納まっていく。そして、完全に植物の蔦が消えた後胸ポケットに強烈な熱を感じた。

 それはあの種から発せられたもので……俺はその種を取り出す。

 

「それが核ですか」

 

 織音さんが何かを言っているが意識に入ってこない。

 

 完全にこの種に意識を吸われていく。

 

 そして……強烈な熱を発しながらちょっとした衝撃を発して俺の手から弾き飛ばされる。

 

「え」

 

 地面に種が転がる、そして小さな芽が芽吹きそれを伸ばして移動しようとする。

 俺から離れようと、移動しようとしている。

 

「…………」

 

 あの種が示してくれている意思表示は流石に分かる。どうしてそこまでしてくれるのかが分からないが今現状力もない状態で寄生先である俺から離れて心臓である核を晒してまでして示してくれているこの魔獣の意思を理解できる。

 そして同時に死にたくなるような不甲斐ない、自己嫌悪の感情が沸き上がる。

 

 織音さんは沈黙を保っている、いや保ってくれている。

 

 誓いを忘れていた訳じゃない。

 けれど怖かった。俺のせいで妹や回りの人が傷付くのが。

 だから迷ってしまった。

 だけど全部必要な事だったと思う。俺が馬鹿で愚かで薄情な事も自覚する事ができた。

 

 必死に距離を取ろうとする種の魔獣を拾い上げる。

 強烈な熱を発して俺の指が焼けるように痛いが気合いで優しく握り締めた。

 

「そちらを選ぶのなら、種を心臓に。服の上からでも問題ありません」

 

 織音さんの言葉に従い、未だに熱を発する種を心臓に持っていく。

 心臓に近づけていく内に熱は消えて、種はただ手の中に静かに収まった。

 

 そして種は、溶けるようにして俺の体の中に……消えた。

 

「…………これで核が内側にあるという本来の形に戻りました、これで流天さんの各種症状は落ち着くでしょう。そして……不安定がゆえに体外に放出していた不用意な魔素も落ち着きを取り戻す」

 

 確かに分かる、全身を隈無く巡るような自分ではない何かの存在を。完全とは言えなくてもそれを関知出来るようになった自分の感覚器官が増えたような感覚も。

 しかしそれはちっとも不愉快はなくむしろ逆で、力が漲る……とも違う、ともかく安心感のようなそんな心地好さを感じた。

 寄生…………いや、共生がまだ完全に終わっていないのだろう全身を巡る何かを感じながらも今回、不思議なくらい親切にしてくれた織音さんに向かい合う。

 

「あぁ、本当にありがとう……いや、ありがとうございました。感謝しかありません」

 

 織音さんは微笑んで、でも何故か寂しそうな表情をしながら目を瞑る。

 元々儚げな存在感だった彼女が更に朧気に見えていく……これは……? 

 

 混乱する俺を余所に織音さんは口を開く。

 

「今更敬語など必要ありませんよ、感謝は受け取りますが。それよりも……時間がありませんから手短に伝えます。良く聞いてくださいね」

 

 織音さんだけじゃない、周囲の光景もぼやけて、崩れていくような、いや違う風化していくようなそんな錯覚に囚われる。

 

「奥の扉を開けて右手の扉、その部屋の中にある本棚の二段目の裏にある隠し棚。その中にあるペンダントを持っていきなさい。あなたの役に立つ」

 

「待っ」

 

「次にこのメモ紙を持っていきなさい。あなたに直接教えたとは言えど完全に暗記することなどは難しいでしょう。大丈夫、分かりやすいように種類分けはしておきました」

 

「待って……」

 

「最後に、その子に名前を付けて上げてください。魔獣に関わらず名とはその根源に関わる大切なもの、一心同体であるあなたが名前を付けてくれる事をその子も願っています」

 

「待ってくれ!」

 

 話を聞かない、これは…………違う。もう聞こえてない? ただ一方的に話してるだけ? 

 

 織音さんが話している間にも風景の欠落はどんどん侵食している。

 この空間から弾き出されるような感覚。自分が異物であり世界が修正しているようだと感じた。

 

「でも決めるまで名前がなくては不便でしょうから仮の名前は必要でしょう。なので私が仮の名を与えてあげましょう」

 

 織音さんの姿は既に物理的に透けてきて、向こうも俺の姿を認識しにくいのか少しずれた場所に視線を向ける。

 

「スカーローズ。傷跡から咲く薔薇。素敵でしょう?」

 

 その言葉を最後に彼女は霧散し、周囲の風景も変わり果てた物に成り果てた。

 

 動けない。

 

 あまりの光景と展開に頭がついていかない。だが俺の中の冷静な部分が一番可能性が高い想像を俺の脳裏に弾き出す。

 

 あの場所は魔界だった。

 そう考えれば辻褄が合うのだ。

 不安定な俺の状態はいわば周囲に自分の存在を知らせる餌の様なもので、少しでも魔素溜まりに近付けばそれに影響される、呑み込まれるなどの現象が起きる。

 そしてこの場所。その近辺が魔界の領域だとしたら素人の俺が気づかない内に取り込まれてしまっていてもおかしくない。

 実際ここに来るまでに誰ともすれ違わなかった、それはただ単に運が良かっただけと解釈も出来るがもうその時点で俺が魔界に入っていたと考えたら理解できる。

 今も彼女が消えた理由としても、俺が昨日彼女と会っても普通に帰れた理由としても納得できる…………織音さんが魔界の主だとしたら。

 

 魔界の主。魔界が作り上げられてからそれに据えられるか、魔界を引き起こしてしまう程に力を持った存在であるかの2パターンがあるがこれは今関係はない。

 大事なのはある程度魔界の領域内の事象を操れるという事。

 今の状況的にその力で俺が魔界から追い出されたと考えたら方が自然に感じる。

 

 全部が全部正解だとは思っていない。むしろ間違いの方が多いと分かってはいるが自分を納得させるために理由を無理矢理付けて頭の中を整理する。

 

「一先ず…………今何時だ?」

 

 こうやって異常を肌で感じながらも平常を保てるのは慣れてきたからなのか、感覚の麻痺なのか。

 

「あぁ……やっぱり時間の感覚とかもずれてたりするんだな」

 

 まだ時間には余裕を持っていた筈なのに時計は夜の11時から始まるバイトの2時間前を指していた。

 

 ┗┓

 

 薬膳と緣が講義を続ける最中、同じ町の大衆向けのレストランの一席で三人の女性がドリンクを飲みながら談笑している。

 三人の内二人は少女とも言える容姿で、一人は鬼気迫る表情でスマホの液晶画面を覗き込み必死に操作している。

 もう一人の少女はその様子を見てため息と共に苦笑いを浮かべてその様子を眺めていた。

 そして対面に座る女性。その女性はその鬼気迫る表情で誰かにメールを送っている彼女に向かって少しひきつった苦笑いを浮かべながらも声を掛けた。

 

「どう? お兄さんと連絡はとれそう?」

 

 声を掛けられた少女の方は気が気でないのかその長い黒髪をはためかせる勢いで顔を上げて片手を突き出した。

 

「待って、待ってください……っ。兄さんがメールはおろか電話にすらでないなんて……今まで無かったのにっ!」

 

 祈るようにスマホを見詰める少女はぽんと肩に手を置かれてぴくりと震えた。

 手を置いた張本人である少女は笑いながら宥めるように言った。

 

「いや溜莉の兄ちゃんのシスコンっぷりは知ってるけどそんな毎回直ぐに出れるようなものでもないでしょ?」

 

 溜莉と言われた黒髪の少女……薬膳溜莉は首を大きく横にふって否定を示した。

 

「ありえません。兄さんがバイトの時間は把握してますし今日でもありません。夜の寝た後の時間でも無い上にこんな時間で後で折り返す等の返信がなかった事はありませんでした」

 

 まだ幼い時に一人で家に居るのが寂しかった時に思わず電話してしまったときも絶対に一声は声をかけてくれた兄が少しの返信も寄越さないというのはあり得ないと溜莉は熱を奮って説明する。

 

「いや……ブラコンぷりにも拍車がかかってるね…………」

 

「何ですって?」

 

「分かった分かったてば…………で、話を戻すけどこの指輪、間違いなくその兄ちゃんにも()()()()()()()()?」

 

 そう言って茶髪の少女……灯対ともかは()()()()()()()()()()()()を見せた。

 それに追従して対面に座る女性はその右手の小指に嵌められた指輪を見せるようにテーブルの上に乗せる。

 

「…………その指輪はなんだ、って直接聞かれましたので間違いないかと」

 

「それだとおかしいのよね……溜莉ちゃんはお兄さんの魔素を確認して、活性化はしていないって感じたのよね?」

 

「はい、少しぶれてた気もしますが疲れていたようなのでそれが原因だと思いますし」

 

 それに、と溜莉は続ける。

 

「言われてたあのバイトから支給されたベストにもそれらしきものが入っていなかったのでやっぱり兄さんは関わっていないと思います」

 

 溜莉は昨日の夜を思い出す。こっそりと、兄の仕事用のベストのポケットを漁った時のことを。途中兄が目覚めそうだったので急いで確かめたが確かに中には特別怪しいものは何も入っていなかったのだ。

 目の前の女性が教えてくれていた通り、四角いケースは合ったがその他には何もなく二つ目のケースや、その他の魔素が感じられる物は無かった。

 

「こうしていても仕方がないし……今日のところは解散ね。瑠璃ちゃんはお兄さんの連絡がとれ次第いつ空いているか確認しておいて。灯対ちゃんはこのまま私と一緒に来て訓練ね」

 

「はーい!」

 

「…………わかりました」

 

 女性はそう言って席を立ち上がり伝票を持ってレジへ向かう。

 残された灯対は席を出ようとするが一向に動かない溜莉に不思議そうに疑問の目を向けた。

 

「どうしたの? お腹いたいの?」

 

「違います」

 

「じゃあどうしたの?」

 

「…………何故か、嫌な予感がして」

 

 溜莉はスマホから目を離してレジの方向へ目を向ける。その先ある意味で先輩と言える女性が此方を見ながら会計を済ませている。

 

「私達が、『()()』を使えるようになって半年。頼れる大人が居て、あなたが居て、もう普通に生活できないって思っていたのに何だかんだと満たされていて……でも何だか出来すぎているような気がして」

 

「出来すぎているのなら良いことじゃないの?」

 

 席を立った溜莉の横を灯対ともかが通り過ぎていく。

 その光景を見ながら、何故か、心が不安を押し上げるのに耐えきれなくなって、誰にも聞き取れない程に小さく言葉を出した。

 

「だって、誰かが意図して作り上げたかのような平穏だったのに……それが崩れてきたように思えてしまって」



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