贖い (赤穂あに)
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降谷零の知る赤井秀一

 ああ、もしも。彼を見付けたのが俺でなかったのなら、俺の心は救われるのに。

 ありもしない願いを抱いて、見ないようにと蓋をする。そうならないようにと、俺が生きてきたのはそういう道だ。

 

 ああ、もしも。彼女が俺を憎んでくれたのなら、俺の心は救われるのに。

 そんなちぐはぐな願いをまた増やす。そうならないようにと、細心の注意を払ってきたのは他でもない俺だった。

 

 ああ、もしも。あの子が死んでしまっていたのなら、俺の心は立ち止まれるのに。

 願ってはいけないということは、わかっている。許されない。それは、俺の全てを否定することになる。

 

 それでもと。俺は祈ってしまう。この未来が違えたのならと。そうすれば、全て。

 

 もしも、もしも。許されるなら。

 どうか俺を見逃してほしい。

 

 この命は全て、贖いのために。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 赤井秀一が姿をくらませた。そんな知らせが僕の元に届いたのは、新一くんの存在が大きかったに他ならない。彼はどうやら、僕と赤井の仲を取り持ちたいようだから。

 こちらとしては、もう赤井秀一という個人に特別固執してなにかがあるわけではない。全てはあの日、清算された。赤井がヒロの死に関する真実を僕に告げた日に、僕はその罪を生涯背負っていくことを決めた。僕の所為でヒロが死んでしまったのなら、僕はもうヒロの分まで生きるしかないのだ。

 というか、他にも友人がぼろぼろ死んでしまっているので、誰よりも長生きしてあの世でバカ笑いしてやると決めた。さっさと死んでしまうから、お前らは色々な楽しみを知らずに終わってしまったんだよ、ざまあみろ! そう言って、僕はあの世で笑うと決めたのだ。

 もちろんそんな胸の内は赤井にも誰にも告げていないが、話してくれたことを感謝すると言った後の赤井の顔は、思い出すと見ものだった。

 極悪人のような目元が完全に緩んでいて、大きく見開かれていた。なんとも間抜けな表情だった。僕に殴りかかられたり、僕が自暴自棄に暴れたり、そんなことを想像していたのではないだろうか。失礼だな。

 まあ、赤井に対してそういった態度ばかり取っていたのは他でもない僕なので、その辺の言葉はきちんと飲み込んだ。

 ああ、でも、そうだ。思い返すと、確かにあの時の赤井は様子がおかしかったような気もする。

 僕に、君は強いなと笑った彼は、本当に赤井秀一なのだろうかと我が目を疑うほどに、穏やかで、普通の人に見えた。鋭さもなく、威圧感もなく。彼は心の底から、僕の言葉に安堵したように見えたのだ。

 そうして二、三瞬きをする間に、いつもの赤井に戻っていた。ニヒルな笑みを携えて、彼は小さく呟いた。

「俺は弱くてな」

 表情とセリフが逆なんじゃないかと口を挟む暇もなく、続いて赤井は口だけを動かして、音は僕の耳には届かなかった。彼にはなれない。そう口元が動いた気がしたが、結局、僕にはその『彼』が誰なのか、検討などつかない。何故なら、僕は赤井と親しくなどないからだ。

「だからね、新一くん。僕に赤井が蒸発したって言われても、困るんだよ」

「心配じゃないんですか」

「別に。どこでだって生きていけるだろ、あいつは」

 そう、どこでだって生きていける男だ。赤井秀一という男は、そういう男だ。僕が知っているのはそれくらい。だから、赤井がどこに消えようが興味はないし、死んでいたって、ああ死んだのかと簡単に悼む程度で済む話だ。

『君は強いな』

 脳裏に浮かぶのは、僕を強いと評した、どこにでもいそうな普通の男で。どこででも生きていけそうな強い男ではなかった。ああ、なんだって。僕が赤井を心配してやらないといけないんだよ。腹立つ。

 

 

 

そんなお前を僕は知らない




俺は、人殺しだ。


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ジェイムズ・ブラックが重宝した部下

 赤井くんが居なくなった。辞表はとうの昔に受理されていたので、FBIという組織から彼にいうことは特にない。

 あえて言葉にするのなら、今までの貢献を讃えることくらいだろうか。彼がいなければ、かの組織は未だに世界に巣食ったままだっただろうから。

 彼は不思議な青年だった。誰よりも優秀、誰よりも冷静。だからこそ、誰よりも行動が迅速で、周りはそれに振り回される。彼という人間は、常に台風の目だった。それを疎んだ者も少なくないが、いつだって彼はその実力だけでそれら全てをねじ伏せてきた。

 燃える炎のような男だったと、言っていいだろう。

 そんな彼は、組織の壊滅作戦が完遂されたと同時に、FBIを辞めると言った。何故かと問えば、いつものように皮肉げな笑みを浮かべてもう目的は果たしたのでねと言い切った。彼がFBIにこだわった理由は、あの日、全て無くなったのだと悟った。満足気な顔をした赤井くんを見たのは、あれが初めてかもしれない。

 そう、私には、彼は満ち足りたのだと、そう思えたのだ。

 だが、現実はどうやら違ったらしい。彼は不義理な男ではないので、遠くに行くとなれば挨拶の一つもありそうなものなのに、それがない。

 上官という立場を考えれば、なるほど、私に挨拶がないのは仕方がないと思える。しかし、ジョディくんに聞いても、キャメルくんに聞いても、誰も彼の行く先を知らないのだ。どうやら名探偵の彼も、何も聞いていないようだ。

 ああ、何故、彼の顔を、満ち足りたのだと私は思い込んでしまったのか。

「申し訳ない、Mrs.世良。私も彼の行き先は知らなくてね」

「いえ、Mr.ブラック。こちらこそ、散々世話になったにも関わらず、挨拶一つ出来ない息子で不甲斐ない」

「とんでもない。彼は、本当に素晴らしい捜査官でしたよ。彼さえ受け入れてくれるなら、今すぐにでもこちらに戻ってきてほしいくらいだ」

「……あの子は帰らない、きっと」

 私たちがここを訪ねることも、もうないだろう。世話になった。感謝している。赤井くんの母はそう告げて、静かに去って行った。その姿は彼の手本となった人らしく、私が想像していた彼の去り際そのもので、私は少しだけ寂しくなる。

 彼という人は義理堅く、人情味あふれ、しかし、それらを覆い隠して任務にあたることのできるという、優秀以外評価のしようのない人物だった。誤解されやすいが、信頼も厚い。FBIには彼の帰りを待つ者も多い。彼はそういう人間だ。台風の目で、多くの人に影響を及ぼす。去った後すら、そこは荒れている。

「私は、君を、誤解していたのかもしれないな」

 私が見ていた彼は、台風の目だった。多くの人もそう思っただろう。赤井秀一という人間はFBIきっての切れ者で、世界最高峰のスナイパー。誰も隣に立つことは出来ない。後ろを追うことも出来ない。彼の母親さえも。母親が『あの子』と評した彼を、誰も知らないように。

「それじゃあ、ジェイムズ。世話になった」

 FBIを辞める時、彼は簡素な別れの挨拶だけを残して去って行った。握手も交わさず、抱擁もなく、彼は言葉一つでFBIを去った。これからどうするとも言わず、こちらから問えばまあてきとうに考えるさといつものように答えて。

 ああ、そうか。ひらりと背中越しに向けられた別離の言葉が、彼の最期の言葉であって、あの子の発した最初の言葉だったのだと。知ってしまっても、もう遅い。あの子はもう、帰らないのだ。

 

 

 

あの子はどの子




俺は、不義理な人間だ。


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メアリー・世良の愛する息子

 秀一は優秀ではあるけれど、それをひけらかすようなことはあまり好きではない子だった。物静かで、落ち着いた子だった。

 四つ下の秀吉もよく似た子で、秀一は秀吉が何か成果を上げれば諸手を挙げて喜んだし、秀吉もそんな兄を尊敬し褒められたくてチェスや将棋に打ち込んだ。

 穏やかな子供達だった。私と夫の間に生まれた子とは思えないほど、荒事の出来ないような子たちだった。

 しかし、いつからだろう。あの子は、秀一は徐々に変わっていった。

 武術を習いたいと言い始めた。私や夫のように強くなりたいのだと言った。わがままなど一つも言ったことのない愛する我が子の望みを、私たちは喜んで受け入れた。元来器用な子だったので、すぐに上達した。

 射撃に興味があると言ったので、こちらも教え込んだ。シャーロック・ホームズを読み始めた。

 緩やかに緩やかに、あの子は変わっていった。悪いこととは露ほども思っていなかった。あまり物事に執着のない子供だったから、あの子の中に特別なものが出来るのならきっと幸福なことなのだろうと信じていた。

 それは間違いだったのだけど。

 あの子がハイスクールに上がる少し前のことだった。夫の最期のメールに従い、日本に移り住んでいくらか経った時のことだ。あの子にとっては、将来のことを考え始める年頃だったと思う。

 真純が生まれる、ほんの少し前のことで、あの子はかつて習い事をねだった時と同じように、アメリカに留学したいと言い始めた。状況が状況なだけに、すぐさま背中を押してあげられなかったのは仕方のないことだった。家族を守れるのは私しかおらず、いつ何処で何が起きるか一切の予想が出来なかった。所属先にも今は頼れない。

 少しだけ、正常な判断能力を欠いていたのだと、今は確信できる。

「安心してくれ、母さん。俺は自分の身一つくらいなら自分で守れる。父さんと母さんの自慢の息子だろ? アメリカで学びたいことがあるんだ。出産を控えている今、ろくな手伝いもせずに悪いが、頼む。大丈夫、定期的にきちんと連絡は取るし、目的が済んだら必ず合流するさ」

 穏やかな笑みを浮かべて、あの子は私が安心するような顔と言葉で自分の意思を押し通した。

 どうして、私はあの時あの子の言葉に頷いてしまったのだろう。どうして、私はあの時あの子の顔に安心などしてしまったのだろう。夫との宝物を守れるのは、もう私しか居なかったのに。

 

 あの子は約束通りに月に一度は手紙を送ってきた。私宛てと秀吉宛て。しかし、真純がそれなりに大きくなった頃に回数は減り、個別宛てではなくなり、こちらが幾度となく催促をしてようやく一度返事を寄越すという形に変わっていった。異常というほかなかった。あの子は、約束を違えたことなど一度もない。誰よりも不安がったのは秀吉だった。

 あの子に何かあったのではないかと、心配している旨を手紙に認めていた。そうすると、手紙の返事はすぐに送られてきた。ますます異常だと、秀吉は何度か泣いた。変わってしまったのに、変わっていない。姿が見えないことも、不吉な予感を増長させた。

 秀一は、約束を違える子ではない。それでも、約束を違えた。家族に要らぬ心配をかける子でもない。それなのに、私にも秀吉にも要らぬ心配をかけさせた。心配している旨を伝えれば安心させるようないつもの手紙が届いた。あの子は何も変わっていないのに、何かが歪んでいるようでただ不安だった。

 そしてその不安は、最悪の形で的中した。

「母さん、俺はFBIに入る」

 七年ぶりに顔を合わせた秀一は、最早別人になっていた。真純に興味を示さなかった。皮肉な言葉が増えた。こちらの心配を意に介さなかった。

 誰だ、この男は。

 血の気が引いた。一度も手を上げたことなどなかったが、ふざけるなと殴りかかった。殴り返された時は思わず呆然とした。

 ショックで固まっていると、秀一は少しだけ眉を寄せた。見覚えのある仕草だった。武術を習い始めた頃に、怪我をして帰ってきた秀一が見せた顔だった。秀一が怪我をして、反射的に顔を曇らせた私を見て、あの子がした顔だ。私を心配させたことに、あの子は傷付いたのだ。

「あなたは、それでいいの?」

「そうすることが俺の使命だ。母さんも、父さんの死の真相を知りたがっているだろ」

 そうして秀一は、宣言通りFBIに入った。夫の死の真相を突き止め、根源たる組織を叩き潰し、私の身体をも元に戻した。良かったと微笑んだ秀一の胸の内を、結局、私は最後まで理解してあげられなかったのだろう。

 だから私は、最愛の息子を失ったのだ。

 人知れず消えてしまったあの子の心を、私は何も分かっていない。

 

 

 

私のあの子




俺は、親不孝者だ。


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世良真純が尊敬する兄

 秀兄がどこかに行ってしまった。ボクの一番上の、強くてカッコいい兄さん。

 新一くんにもママにも吉兄にも、誰にも何にも告げずにどこかに行ってしまった。そういうところは、まあ秀兄っぽいなぁと思う。秀兄のことだから、きっとどこででも生きていけるんだろうけど、気軽に会えないのはどうしても寂しかった。

 そんなことを新一くんに相談すると、彼は彼で降谷さんに相談に行ったようだった。ママもFBIの人を訪ねていたけど、こちらは空振りで終わっている。

「降谷さんはなんて?」

「どこでだって生きていけるだろってそれだけ。冷たくねーか?」

「うーん。正直に言うと、ボクも降谷さんと同意見だけどな」

「いや、オメーはもっと心配しろよ……」

 少しだけ引き気味に新一くんはそう言うが、やはり彼の心配が取り越し苦労としかボクには思えなかった。

 だって、秀兄だ。FBIきっての切れ者で、世界最高峰のスナイパーで、詳しくは教えてもらえなかったけど、つい先日だって偉業を成し遂げた。ママや彼の身体が元に戻ったことだって、秀兄の功績が大きいと聞いている。

 ボクの一番上の兄は、そういう人だ。

 誰よりも特別で、誰よりもすごい人。そんなの、新一くんだって知っているだろうに。

「降谷さんや世良が言うこと、わからねーわけじゃねーよ。ただ、なんとなく……」

「なんとなく?」

「胸騒ぎがするというか……」

「全部終わったんだろ?」

 ボクは、細かいことを知らされていない。いくら探偵ぶったって、いくらジークンドーが使えるからって、触ってはいけない闇の部分というのはどうしても存在している。

 ボクが知っているのは、パパが死んでしまっていたという事実と、ママが元に戻ったという現実だけだ。きっとそれ以外は、ボクが知らない方がいいのだろうとわかっている。だからボクは、そこに関してだけは何も聞かない。ただ、終わったんだと。それだけを知っている。

 秀兄がそう言ったから。

「全部終わったって、秀兄は言ってたぞ?」

「赤井さんが?」

「そう」

「……燃え尽きちまうような人じゃ、ねーと思うんだけどな」

「当たり前だろ! ボクの兄さんだぞ! だから、心配なんてしなくていいんだって!」

 きっと、秀兄はFBIでやるべきことが終わったから辞めてしまっただけ。きっと、次は何をするかななんて、あの自由で誰にも縛られない兄は考えているんだ。きっとそう。

 そうじゃないと、ママや、吉兄が、潰れてしまう。

「真純。母さんと秀吉を頼んだぞ」

 頭を撫でられた記憶なんてなかったけど、それはとてもすんなりと馴染んで。触れた骨張った手はとてもボロボロで。微笑んだ顔は生まれて初めて見たものだったけど。それでも、他でもない、大好きな兄の望みがそうであるなら。

「便りがないのは元気な証拠! まあ、なんかわかれば教えてあげるさ!」

 ボクは、秀兄が初めてみせてくれた弱さを、支えなければならない。そう思った。

 間違っているのだとしても、そうしたいと、ボクは思う。

 

 

 

知らない顔をした兄




俺は、無責任だ。


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羽田秀吉が敬愛する兄

 僕は兄さんによく似ていたと思う。

 顔付きこそ僕は真純に近いけど、中身は兄さんにそっくりだったと断言できる。記憶力に自信があるし、得意なことに打ち込む時の集中力は突き抜けている。昔の兄さんは特別に好きなものはなかったので、後者が発揮されることはあまりなかったけど、それでも、記憶力の良さは人一倍だった。

 聞いたことは忘れずに、聞いたことから筋道を立てて推理することも得意だった。要するに、肉体派より頭脳派だ。

 真純は完全に肉体派で、頭は良い方なのだけど、考えるより先に手が出ることがあるのが玉に瑕。と、今は真純のことは横に置いておく。話は、居なくなってしまった兄さんのことだ。

 ともかく、兄さんは気性の穏やかさそのままに、荒事がとんと苦手だった。運動神経はよかったので、いじめられてボコボコにされるなんてことは全くなかったが、殴り返す方法が分からないと言わんばかりに困った顔で笑いながら逃げるのだ。秀吉、危ないぞと。手を引いて走る兄さんは時折僕の方を振り返りながら、みんな喧嘩が好きで困るよなと笑っていた。

 そんな兄さんに、僕はチェスなら勝てるんだけどなぁと返したような気がする。息を切らせながらぼやく僕に、息一つ乱さないまま兄さんはなんと言っていただろうか。頭を撫でて、何か褒められたような気がするのに。

 

 兄さんは、父さんと母さんを尊敬していた。

 もちろん僕も尊敬しているけど、二人みたいになりたいとは思えなかった。僕はそんなに運動は得意ではないので。兄さんは頭も良くて運動も得意だったので、素直にああなりたいと思えたのだろう。そう。嘘ではなかった。

 父さんと母さんを見て、二人ともカッコいいよなぁと、目を緩ませた兄さんの言葉は嘘ではなかった。僕にはわかる。きっと、メアリー母さんも理解しているだろう。

 ただ、気付けば、どこかが歪んでしまっていただけで。それがどこだか、僕たちには一つ足りともわからないというだけで。

 そしてそれが何よりも、致命的だった。

 射撃の訓練を始めた兄さんは、父さんが息を呑むほどのスピードで上達していった。いつだったか、お酒を飲みながら発した言葉をよく覚えている。親としては、恐ろしい。

 つまりは、親じゃない、父さんの仕事の立場で言えば、どうしようもなく頼もしいという意味なのだろうと、理解するのには数年かかった。僕が二人の仕事を正しく理解したのはずっと後になってからだったから。

 その頃には、兄さんはアメリカに発っており、真純もそれなりに大きくなり、手紙は数ヶ月に一度しかこなかった。

 恐ろしかった。兄さんが、手が届かない程遠くに消えていく気がした。怖くて堪らなくて。それでも、大好きな兄さんを困らせたくなくて。けれどどうしようもなく、不安に押しつぶされそうで。

 苦しさに負けて筆を取ると、滲んだ文字を撫でるような優しさに満ちた手紙が来た。怖かった。怖がってしまうことが苦しかった。

 だって、一番怖いのは兄さんのはずなのだ。僕は知っている。兄さんは、荒事がどうしようもなく苦手なのだ。

「どうしたの?! そのアザ……」

「母さんとやりあってな……。なに、やられてばかりじゃないさ」

 父さんの死の真相を突き止めるのだと言った。そうして、兄さんは言葉通りそれを成し遂げた。

 母さんの身体を元に戻してみせるのだと言った。そうして、兄さんは言葉通りそれを成し遂げた。

 全ての根源をこの世から排除するのだと言った。そうして、兄さんは言葉通りそれを成し遂げた。

 兄さんは、きっと僕のような生き方をしてきた人間には理解できないほど危ない橋を渡り、細い糸を手繰り寄せ、事を成し遂げたのだと。方向性は違うけれど、僕も一端の勝負師ではあるので。その素晴らしさだけは理解できる。その、苛烈さも。

「秀吉、久しぶりだな」

 服の下に包帯を隠して微笑んだ兄さん。僕の頭を撫でて、終わったよと安堵した顔を見せてくれた。タイトルを取ったんだな、素晴らしいことじゃないかと褒めてくれた。お前は昔からボードゲームが得意だったなと得意げに、まるで自分のことを自慢するように。

 ああ、ああ。こんなにも、僕の兄さんは変わってない。きっとずっと、喧嘩なんて誰よりも嫌いなままなのに。嫌いなことを貫いて、苦手な場所に身を置いて、きっと色んなものを犠牲にして、身を削り、もう、ボロボロなのは身体だけじゃない。

「元気でな」

 怖かった。兄さんが遠くに行ってしまう。今度は本当に消えてしまう。確信があった。もう、今、引き止めなければ僕は、永遠に兄を失う。

 いやだ、いやだ。そんなことは嫌だった。でも、僕を大切にしてくれる兄が、母を愛している兄が、ろくに顔を合わせていない妹を慮る兄が、それを全て捨てたいと望むほどに苦しいのなら。

「兄さんも、元気でね」

 僕は、兄の命だけは、守りたかった。

 

 

 

苦しみを捨てて生きてくれるなら




俺は、嘘を吐き続けている。


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宮野志保は姉の恋人を知らない

 あの人が行方不明らしい。へえそう。特に何の感慨もなくそう言えば、工藤くんはたいそう不満気に文句をこぼした。どうやら、既に数名に同じようにあしらわれているらしい。

 そんなの当然でしょう。三十も超えたいい大人が、自分の意思で姿をくらましているのだから外野がどうこういう問題ではない。

 だいたい、殺したって死ななそうな人だ。心配するのもお門違い。何も言わずに消えた人に、こちらから何か言うことなどない。

 そもそも、あの人はお姉ちゃんが死ぬことになった原因の一人でもある。私とあの人がお姉ちゃんを殺した。手を下したのがジンだとしても、その付け入る隙を生んだのは間違いなく私たちだ。

 私がお姉ちゃんを組織に繋ぎ止め、あの人が組織に取り入るためにお姉ちゃんを利用した。利用されたお姉ちゃんは、NOCを手引きしたと言って無理難題を押し付けられて、工藤くんの目の前で死んでいった。

 そんな人の心配を、私がすると思っているのかしら。

「なんだよ、オメーだって世話になっただろーが」

「ストーカー被害にも遭ったのだけど?」

「いや、だからそれは」

 私のため、と彼は言うのだろう。しかし、あの人はそう言わなかったことを、工藤くんは知らない。

 あの人は全てが終わった後、包み隠さず全てを伝えてくれた。盗聴盗撮ハッキング、ストーキング行為に以下自主規制。怒りで震える私に対して、申し訳ないことをしたと、あの人は目を伏せた。私の命を守る為だったと。私の為にならないことをしたと。はっきりとそう言った。

 あの言葉の真意を、未だに掴めないままでいる。

「君の命を守る為とはいえ、君の為にならないことをしたと、猛省している。命以外で、なんでも望む償いはしよう」

「私の為にならないって」

「君は、死にたがっていただろう。そんな人間を死なないように見張っていたのが俺だ。到底、君の為ではあるまいよ」

 そう言って穏やかに笑った顔は、ディスプレイ越しでなら何度と見たことがあった。あまりに台詞とそぐわない顔で、情報が一瞬合致しなかったけど。

 お姉ちゃんのケータイの画面だったり、送られてきたメールの添付画像だったりで幾度となく見せつけられた顔だ。お姉ちゃんと笑うあの人は、穏やかな顔をしていた。

 たった一人の姉を奪い取る存在として、いつだって目の敵にしてきたあの人は、それでもきっと誰より姉を愛してくれているのだと。そう信じていた。今でも、結局、それだけは疑えない。

 あの人の口から直接、お姉ちゃんを利用したのだと告げられても。助けなかったと、見捨てたのだと伝えられても。私は、お姉ちゃんの目から見たあの人をいつも見ていたから。

『大くんはね、すごく優しいの。きっと、志保も好きになってくれるわ。だって彼ね、目をそらすと微笑むのよ。照れ屋で、可愛いの』

 お姉ちゃんが見せてくれるあの人の写真は、いつもカメラを見ていなかった。隣か、近くにいるお姉ちゃんを盗み見ている。カメラに向かって揃って写真に写っているものなんて、ただの一つも笑っていないのに。

 顔を背けている時に見せるあの顔が、何を言われたってあの人の素顔だった。慈愛に満ちた顔だった。お姉ちゃんの幸せを、願ってくれている顔だった。私と同じ顔だった。

「ねえ、工藤くん」

「どうした?」

「あの人、幸せだったのかしら」

 お姉ちゃんの幸せを祈る傍らで、あの人自身はどうだったのだろうか。そんなことを、ふと考えてしまう。

 潜入捜査中だったのだから、自身の幸福など二の次に動いていたに違いないが、それでも。さなかにあの人はお姉ちゃんに慈愛を向けてくれた。目的が取り入ることだったのなら、あの顔を直接目を見て向ければ済む話だ。

 それなのに、いつだってあの人は陰からお姉ちゃんを見守った。悟られないように。あの不器用な人が、それをあえてやったとは考えづらい。だから、何度考えてもあの顔は真実で、その度にわからなくなる。

「明美のことで、俺から君に何か弁明をすることはない。ことさら、話すべきこともないからな」

 そう言えば、その台詞を聞いた降谷さんが殴りかかろうとしたこともあったかしら。なんて、どうでもいいことに思考を割り振る。きっと私自身も、目をそらしたいのだと理解している。だってあの顔は、いつも写真で見た顔だったから。

「私、あの人のこと嫌いよ」

「……そうかよ」

「ええ。嘘が上手い男は、不愉快だもの」

 あの人は、何を考えているのかわからない。きっとみんなが同じような言葉を吐くのだろうけど、私は少しだけ意味合いが違う。

 あの人は、一個人として何を望んでいるのかがわからない。私が出会った頃はもちろん、組織の壊滅を熱望していたのだと思う。車に跳ね飛ばされてでも取り入って、その縁を足掛かりにコードネームまでもらったのだ。そこに嘘偽りをはないのだろう。

 ただ、どうしても考えてしまう。あの穏やかな顔の意味を。お姉ちゃんの幸せを願ってくれた顔を。それを本人に見せてくれなかった意味を。

 

 怖いのだ。

 だって、ああやって誰かを慈しんでいる顔は、自らの幸福を忘れている。

 それはいつだって、間違いなのに。

 

 

 

まるで私を見ているようで



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工藤新一は共犯者を知らない

 彼女は言った。俺に言った。きっと、真実、『俺』に言ったのだろう。
 幸せだったと。幸せにしてあげられなくてごめんと。
 別れ際に聞いていい台詞ではなかった。何故なら、そんな台詞は偽りだからだ。俺がたどり着くべき言葉ではなかった。
 言わなきゃわからないと詰られる未来を得るために、動いてきたはずだったのに、彼女は俺に謝罪を述べた。何も返してあげられなかったと。何もわかってあげられなかったと。

 ああ、俺は。そんな言葉を聞きたかったわけじゃないんだ。
「俺は、お前を騙していたんだぞ? そしてそのせいで、お前が死ぬかもしれない」
「大くんのせいじゃないよ。でも、そうね。悪いと思ってくれるなら、次会った時にあなたの名前を教えて? 約束よ?」

 なあ、明美。俺は、お前に名乗る名前すら持たない、薄情な男なんだよ。だから、どうか、俺を。


「終わったな」

 そう言った赤井さんの顔を、俺はよく覚えている。

 

 目の前には奴らの本拠地が構えていて、火の手は上がっていないがところどころ吹き飛んでいた。銃声も爆発音も静まり返り、誰かの慟哭が響いていた。呪いの声だった。怨嗟の息だった。

 ああ、あんな奴のせいで。

 ぎりぎりと拳を握り締める俺の手を、そっとほどいたのは赤井さんだった。ひどく骨張った、古傷の多い手だった。彼の人生を物語るようなその手は、どうしようもないほど優しく、無意識に力を込める俺の手を撫でた。

 しゃがみ込み、顔を覗き込まれたのは初めてだった気がする。赤井さんは、俺を子供扱いすることがほとんどなかったから。

 よく頑張ったな、ボウヤ。広げられた手を両手で包まれながら、赤井さんは俺を褒めた。よくやったと労われたことは幾度となくあったが、褒められたのは、この時が初めてだったと思う。

 赤井さんとは、何度も何度も危ない橋を渡ったし綱渡りのような博打も繰り返してきたけれど、いつだって彼は俺が失敗するなどとは思っておらず。小気味いいプレッシャーで俺の背中を押してくれていた。その信頼が心地よくて、俺は懲りずに無茶をしたし、その度に色んな人から怒られた。特に宮野。

 思い返すと、宮野が赤井さんのことを毛嫌いしているのに俺も一役買ってしまっている気がする。ごめん。

「赤井さん?」

「ボウヤに、聞きたいことがある」

「えっ、なに?」

「君から見て、俺はどういう人間だった?」

 赤井さんは、頼りになる人だった。頭が切れて、判断力に優れ、ここぞという時に必ず決めてくれるという信頼があった。俺を子供扱いせずに、一人前として見てくれた。頼ってくれた、頼らせてくれた。相棒のようだと、勝手ながら思っていた。

 そういうことを、俺は比喩交じりに伝えた。ストレートで言うにはあまりにこっぱずかしい内容だったので。

 コナンの姿だったのだから、別にそのまま言えばいいものを。それくらい、俺は赤井さんに対等に見られたかった。見てもらえていると思っていた。だから、見てもらえるように背伸びをした。その思考がそもそも非常にガキ臭いのだが。

 思いの丈を伝える間、赤井さんはじっとこちらを見ていた。いつもの鋭い目つきには程遠く、全てが片付いた安堵感からなのか、目元からは力が抜けていた。

 その時初めて、赤井さんと世良、羽田名人が兄妹であると感じた。この人は、こんな顔が出来たのか。ライフルを手足のように扱うとは思えない手付きと相成って、本当に一瞬、目の前にいる人が赤井さんなのかと疑った。疑うまでもなく、ずっと目の前にいたのは赤井さんだったのだけど。

「赤井さん、本当に、ありがとう」

 締めの言葉として、俺が選んだのは感謝の言葉だった。一言だけでは到底足りないが、それでもどうしても伝えなければならないのは感謝だと、俺は思ったから。

 俺の謝辞に、赤井さんは一度瞬きをし、開いた目はいつもと同じ強さを携えていた。

「そうか」

 言葉を区切らせ、彼は言った。

「君は、俺に礼を言ってくれるんだな」

 当然だと、反射で返す。数え切れないほど助けられ、赤井さんが居なくてはなし得ないことが山のようにあった。彼自身、自分がどれほど貢献しているか理解出来ない人ではないし、謙遜するようなガラでもない。必要なことを理解している人で、実行に移せる人だ。そうやって、むちゃくちゃながら、ここまで来て。

「こちらこそ、ありがとう」

 力強く握られた手は、皮膚が硬かった。マメが何度も潰れた手だ。甲も薄い傷がいくつも付いていて、彼の人生の壮絶さを教えてくれる。当然だろう、赤井さんは、射撃だけではないのだ。降谷さんと殴り合えるぐらいには近接戦闘だってできる。彼は本当になんでもできる。だから組織壊滅のこの日を迎えられた。その立役者。

 特別な人間なのだと、信じていた。

「ボウヤにそう言われるために、俺はここまで来たのかもしれないな」

 どういう意味だと問う間もなく、赤井さんは立ち上がり、激しい戦闘の末ボロボロになってしまった建物を見る。誰かの慟哭はもう聞こえない。静かな静かな闇夜の中、赤井さんは一言、呟いた。

「終わったな」

 あの顔を、俺はよく覚えている。どこを見ているのかも定かでなく、誰に言ったのかも定かでない。何度か呼んでも返事はなく、一度だけこちらを振り返り、行こうか、ボウヤと歩き出した。

 いつも通りの捻くれた笑みを浮かべていたのに、不安を覚えたのが忘れられない。終わったなと言った赤井さんから、喜びを感じなかったのが恐ろしかった。彼は、この日を待ち望んでいたのだと信じていたから。

 

 それ以降、俺は身体的な問題で赤井さんに会える機会もなく、宮野と研究所に籠る日々が続いた。二ヶ月ほどかけてようやく身体は元に戻る目処が立ち、別れや再会の準備を始めた頃、ようやくアメリカに戻るという赤井さんと会う時間を得た。久しぶりに会う赤井さんは、いつも通りの赤井さんだった。

「やあ、ボウヤ。久しぶりだな」

「久しぶり。アメリカに帰るんだよね?」

「ああ。これ以上ここに居ては、降谷くんに殴られそうだ」

 さすがにそれはないんじゃないかな、とは言えなかった。作戦が完了してから降谷さんは、赤井さんに対して不快感を隠すことを綺麗さっぱり辞めてしまったから。顔を合わせれば顔を顰め、言葉を交わせば棘が混じる。

 赤井さんは一向に気にしていないのがなおよろしくないのだけど、赤井さんはどこ吹く風だ。あの日見たのは幻覚だったのかと思えるくらい、何も変わっていなかった。

 世間話もそこそこに、赤井さんは俺の名前を呼んだ。工藤新一くん。いつも通りの顔で、赤井さんは初めて俺の名前を呼んだ。

「君に会えて、よかったよ」

 それじゃあ。柔く細められた目元は、あの日を彷彿とさせたのに、俺はその言葉にどうしようもなく喜んでしまって。認められた喜びに固まっている間に赤井さんはアメリカに帰ってしまって。それでも。やはり胸の奥に引っかかりを覚えたまま過ごして二週間。赤井さんは居なくなってしまった。

 降谷さんは何処ででも生きていけると言う。世良は何かあれば知らせると言う。宮野はそんなこと知ったことではないと言う。心配要らないと、誰も彼もが赤井さんを心配していない。

 そんなこと、俺だってわかっている。わかっているから、不安なのだ。赤井さんを知っているなんて、そんなのは俺の思い上がりなのだと、あの日の俺が警告している。

 

 

 

彼の望みはあの日にない




俺は、役目を全うした。してしまった。


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ジョディ・スターリングが信頼する同僚

 シュウがFBIを辞めていた。その上消息不明。国外に出た記録以外、さっぱり足取りが掴めない辺りさすがという他ない。ジェイムズに問い詰めても何処に行ったか聞かされていないと言う。シュウが本気を出せば、FBI総出でも逃げられそうだとゾッとしない話が頭に浮かぶ。

 ありえないとは思うけど、ありえそうなのがなんとも。

 何とか行き先を掴めないかと、FBIのメンバーに片っ端から話を聞いて回る。生まれ育ったイギリスではないかという者、家族が住む日本ではないかという者、放浪の旅に出ているのではないかという者。見事に全く一致しないし、そもそも根拠もない。

 そう、根拠がない。彼がこうするだろうという明確な根っこがない。彼はそういうところがあった。

 物事に執着がなく、目的以外は全部オマケ。私と付き合い始めたのもなんとなくの延長で、愛情はある人だったけど甲斐甲斐しさはあまりなかった。職業柄、お互いが私生活そっちのけだったというものもちろんあるけれど。

 とにかく彼は、己の目的以外への興味はとても薄かった。その代わり、目的への執念は常人の比ではない。理想の捜査官だったと断言できる。彼ほどの逸材は一体あと何年待てばやって来るのか、想像もつかない。

 だからこそ、衝撃的だったのだ。シュウがFBIを辞める未来を私は全く想像していなかった。

 

 可能性は勿論あった。彼は背筋が凍るほどの執念と熱情を持って、組織の壊滅に取り組んでいた。時に内部に潜入し、時にその身を殺したように見せかけて。彼がFBIに入った動機がそもそも組織へ近付く為だったことを思えば、それが成された後にFBIを去ることは考えうる未来だった。

 しかし、それを否定してしまえるほどにシュウはFBIに相応しい人間で、他の生き方など似合わないと思い込める人物だった。

 頭脳明晰、腕っ節も射撃の腕も申し分ない。言葉は少ないが語る以上に悟らせるだけの実力を持っており、判断力にも長けている。上の言うことを聞かないのは玉に瑕だが、それを黙らせるだけの結果を常にもたらしてきた。

 最高の捜査官。歴代で見ても最高峰の捜査官がシュウだった。

 だから、FBIが天職だと誰もが信じていた。シュウですらそう思っていたのだと、少なくとも私はそう思っていた。それが思い違いだったと知った今、私は、彼のことを何も知らないのだと思い知らされるばかりだ。

「ねえ、キャメル。シュウってばどこ行っちゃったのかしらね」

「さあ……。長年組ませてもらってましたが、あの人は、自分のことをあまり話さない人でしたので」

 薄いコーヒーをあおりながら、キャメルは目を伏せた。やはり彼も何も知らないと言う。ただ、私と違うのは、自らが彼を理解していないということをはっきりと自覚している点だろうか。

 私は、赤井さんのことを何も知りませんので。後悔するような声ではなく、キャメルは、とても落ち着いたまま続けた。

「赤井秀一という人間は、きっと、ああいうふうにしか生きられなかったんでしょうね」

 憐れんでいるわけでもなく、悔やんでいるわけでもなく。キャメルはそれだけ言ってコーヒーを飲み干した。

 

 

 

彼の面影すらここにはない




俺は、俺という亡霊を作った。


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アンドレ・キャメルが見つけた彼

 赤井秀一という最高の捜査官を失った。誰に落ち度があったわけでもなく、そうなるべくしてなったのだろうなと、根拠のないまま確信する。彼はそういう人間だった。もっというなら、失ったわけではない。

 彼は役目を果たしたから立ち去ったのだ。彼はFBIに用がなくなったからそこを去っただけ。いつだってそうだ。赤井秀一という男は、果たすべき使命のみに固執していた。組織を壊滅させること、それのみに、固執していた。そう、誰もが思っていたことだろう。それであって、彼という性質に期待した。きっとその後も彼はFBIの柱として力を貸してくれるのだと。

 そんなはずはないと、己以外、誰が知っていたのだろうか。あの、何一つとして望まない性質を、一体誰が信じられるのだろうか。

 彼は、優秀な潜入捜査官だった。上手く深部まで潜り込み、情報を抜き、最重要とされる幹部を捕縛する直前まで差し迫った。

 そして、それを無に帰したのは他でもない己のミスだった。殺されても文句は言えないミスだった。死を覚悟したし、それ以上の罵倒や失望も覚悟した。

 しかし、実際のところそれらは一つもなかった。彼は俺のミスを許した。仕方がない、また機を待つと言って微笑んだ。

 微笑んだのだ、彼は。

 喉から手が出るほどその身柄を望んだ男を前にして、去るしかなかったその時に、彼は微笑んだ。安心しているかのようだった。見間違いだと思いたかったが、自身を責めることしか出来ない俺の背をそっと撫で、彼は言った。

「お前に罪はない。あるとすれば、それは俺の油断だ」

 それはない。彼に落ち度も油断もありはしなかった。それを誰よりも理解している彼であったはずなのに、俺に罪がないという。

 なあ、キャメル。穏やかな顔のまま、彼が放ったのは、今思うと懺悔だったのではないだろうか。

「俺がこうなると、知っていたらどう思う?」

 お前のミスを知っていたぞと詰られたのであれば、どれほど楽だっただろうか。

 彼の顔が怒りに歪み、端正な眉が寄り、薄く口を開けて低く声が発せられたのならば、己は命だって捨てただろう。それほどのことをしでかした。わかっている。死んで償えと言われればそうしたのに。

 彼はどうしようもなく穏やかに、俺のミスを許容した。知っていたと、受け入れた。

 そうして、一人の女性が死んだのに。それも俺のせいだからと、ようやく彼は顔を沈めた。

 荒唐無稽な話だと、何度考えてもそう思う。でも俺は、もうそれ以外の答えが見つけられなかった。

 思い込みは視野を狭めるぞと何度彼に言われたのかわからないが、彼の俯瞰と比べたらなんてことはない。俺ではきっと、気が狂う。起こりうる未来を知り得てしまうなど、人がたどり着いていい場所ではない。神の所業だ。それでいて、心は変わらず人のままなど。

 いったい、どれほどの苦痛を飲み込めばそこに至れるというのだろう。

「赤井秀一という人間は、きっと、ああいうふうにしか生きられなかったんでしょうね」

 躍起になって赤井さんの足取りを追おうとするジョディさんに、極力感情を滲ませないように答える。憐れむなど許されない、悔やむなどお門違い。彼には誰も感情を向けられない。

 なぜなら、誰一人として彼にその片鱗を分け与えられた者など、ここにはいないからだ。

 

 

 

その身に宿る苦難を推し量れない




俺は、結局何がしたかったのだろう。


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風見裕也は興味がない

 赤井が行方不明なのは知ってるな。降谷さんは世間話をするような軽さでそう口にした。もっとも、出てきたワードは全く世間話に相応しくなかったが。

 その件に関しては、自分の耳にも入っていた。赤井捜査官は、良くも悪くも目立つ男だったので。特に小さくなくなった名探偵が事あるごとに、あらゆる手を使って探りを入れてくる。とうとう降谷さんに直接話を持ってきたと聞いた日には、肝が冷えた。

 君はどうしてそう、火のないところに火種を置いて回るのか。自分が言ったところで聞かないのは明白なので、その後の対応はしていない。降谷さんからは、興味ないからの一言で話は終わったと聞いている。

 もちろん、その言葉が嘘なのは考えるまでもない。降谷さんが、赤井捜査官に興味が失せる日など来るはずがないのだから。

 それは、俺の後輩を忘れるのと同義だ。そんな日は来ない。降谷さんが生きている限り、彼は赤井捜査官を気にし続ける。本人に自覚がなかったとしても。

 一種の呪いのようだと思う。しかし、その呪いは、たとえ痛々しいものだとしても、降谷さんを生かしてくれるものだとも理解している。彼にはそういう、錨とか楔のような重石が必要なのだ。それがなければ、きっとどこへともなく飛び去ってしまう。それこそ、赤井捜査官のように。

 そういう意味では、今回の彼の失踪は人ごととは思えない部分があった。燃え尽き症候群ではないが、彼も組織壊滅という重石を失ってどこかに消えてしまったのではないか。妄想甚だしいが、彼を思い浮かべる時は自分の上司がセットになるので、ついそんな考えが頭をよぎる。そんな柔な人間ではないと、わかっているというのに。

「それはもちろん、事実として知ってはいますが」

「どう思う?」

「どう、と言いますと?」

「なんでもいい。君が個人として思ったことを聞きたい」

 俺が赤井捜査官に対して個人的に思うこと。そんなものはほとんどない。優秀だとか、それが過ぎるので嫌味っぽいとか。そんな表面的なことぐらいだ。それ以外は、他の誰かを通して、彼という人間を認識している。

 上司と対等以上に渡り合える人。探偵が信頼を寄せる人。そして、後輩を看取るになってしまった人。

「あいつを、知る人が減るのは、寂しいです」

「風見……」

「でもそれは、赤井捜査官に頼ることではありませんね。失言でした」

「……優しいんだな」

「まさか。彼という個人に、自分は興味が持てないだけです」

 優秀なのだろう。信頼に足る人なのだろう。国のために、他者のために、命を賭して戦える人なのだろう。それは実に素晴らしいことだと、俺はよく知っている。そういう人を心から尊敬する。

 そして、俺が尊敬し命を賭してついていくと決めた人は、今ここにいるこの人だ。同じようでいて全く違う彼のことを、知識の枠を超えて知ることはない。俺はもう、命をベットする相手を決めている。

「もちろん、降谷さんが調べろと仰るなら話は別ですが」

「僕が、そう命じる可能性があると思っているということか?」

「ないとは言い切れませんので」

 デスクに並べられた書類を目の端で捉えながらそう言えば、降谷さんはその中の書類を一枚持ち上げてぴらぴらと振って見せた。入国者リストだった。一人の名前の下に赤線が引かれている。

 書類を受け取りその名前を読む。知っている名前、とは言い難かったが、なるほど、偽装する気もほとんどないらしい。しかし、だからこそかえって気付かないような名前がそこには記載されていた。

「日本に居たんですね」

「厚かましい奴だ」

「降谷さんは彼がお嫌いですか?」

「嫌いだ。胸糞悪い、存在が腹立たしい、癪に触る。好きになれるはずもない」

 立て板に水。つらつらと顰めっ面から放たれるのは嫌悪そのもので、これでよくもまあ新一くんに赤井捜査官に特別固執していないなんて言えたなぁと呆れる。おかげで上司が上司足り得るのなら、自分はそれで問題ないので特に口を出すことはしない。

 一通りの罵詈雑言を吐き出したのち、降谷さんは一つ溜め息を吐いた。

「けど、僕が見ていた赤井は、きっとまぼろしだったんだろうな」

 蜃気楼に消えろと言ってるようなもんだと降谷さんは吐き捨てて、こちらに手を差し出した。促されるままに先ほど渡された入国者リストを返す。赤線を引かれた名前を目でなぞり、嫌いな要素が増えるだけだと嗤った。

「お会いになってみてはどうですか?」

「は?」

「場所も特定していらっしゃるんでしょう?」

「それは……そうだが」

 きっと、新一くんに頼まれたから調べたわけではないはずだ。きっかけは彼だったのかもしれないが、調べると決めたのは降谷さん。どう足掻いたところで、この人はあの人を錨にして生きていくしかない。

 

 

 

彼のことなど俺は興味がない



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憎たらしいほどの青空の果てに

 山道を歩く。嫌な予感がしたのでスーツやら革靴やらを避けたのだが、自分の直感に拍手を送りたい。革靴なんかでこの未舗装の山道を延々歩いてみろ。膝が笑うことは無いだろうが、後悔以上に怒りで震える。

 なんで僕がお前なんかの為にこんな目に遭わなきゃならないんだよ。あっちからすれば理不尽なことかもしれないが、僕からすれば当然の権利だ。お前のせいでこっちは知人や部下からあれこれと要らないお膳立てをさせられているんだぞ。よりにもよって、お前なんかとの。

 東都からそれなりに離れた山村に居るということはわかっていた。わかるまでにそれはそれで無駄に時間がかかったのだが。

 入国者リストで見つけてさえしまえば、ゲートを通った時間を割り出せる。割り出してしまえば、あとは監視カメラの映像と照合。さっくり見つかるだろうと思っていたが全然そんなことはなかった。

 奴はものの見事に素の顔で日本に踏み入り、そのままトイレで変装。顔が変わったところで歩容認証にかけてしまえば一発だろうとタカを括っていたところに、ノーヒットの回答。

 あのクソ野郎、さすが手馴れていた。

 歩幅を変え、姿勢を変え、服装を変え、顔を変え、骨格を変え。お前の本職はなんだと問いただしたくなるような手練手管。潜入中ですらそんな本気を見たことはないんだが? いや、工藤夫人に叩き込まれた技術もあるのだろうが、それは外装の部分だけのはずだ。監視カメラと科学技術をも騙す手段を、持っていたとか信じられないし信じたくない。そういう小細工を息をするようにおこなえる繊細さが、お前なんかにあってたまるか。

 そうだ。お前という人間には、そんな器用な真似は出来なかった。不器用な人間だっただろう。それこそ、僕が言えたことではないかもしれないが。

「……降谷くん。何をしているんだ、こんなところで」

「お前こそ、蒸発騒ぎを起こしておいて随分と呑気だな。赤井……いや、世良秀一と呼ぶべきか?」

「君は本当に優秀だな」

 シンプルでバレにくいと思ったんだがなぁ。名前を変えて日本に戻ってきた赤井秀一、改め世良秀一は、なんでもないことのようにしれっとそう言った。

 どこがシンプルだ。実に手の込んだ逃走劇だろうが。追い掛けられることを前提に、撒く気満々の行動。空港内とその近場の交通網での動き方なんかはこいつじゃなかったと思うと寒気すら感じる手腕だった。その辺のテロリストに出来る内容ではないと理解してはいるが、されたらと思うとぞっとしない。トイレ内の変装の可能性を考えて、出入り口の顔認証システムの強化を図ろうかと真剣に改善案に盛り込んだくらいだ。

 そういうところも、腹が立つ。息をするように容易く、こいつは自分の人生すらかき消せる。僕はそれが、どうしようもなく不愉快だった。

 顔を思いっきりしかめた僕に、赤井はよく見せた皮肉げな笑みではなく、穏やかな顔を見せた。僕を強いと評した、あの顔だ。なんでもない、一人の男だと錯覚させられる顔だった。

 そんなはずはない。この男が、なんでもない凡夫なのだと、そんなことはあるはずがなかった。死地を歩いた男などいなかったのだと、思いたくはなかった。

「随分と嫌われたな、俺も。まあ当然だが」

「嫌われてるっていうのに、随分と嬉しそうじゃないか」

「嬉しくはないさ。でも、悲しむことでもない」

「興味ないか?」

「いいや。正当な処置に対して、あえて物申すことはないというだけだよ」

 本当に、何も言うつもりもないのだろう。赤井はそれきり黙り込み、僕の方を見て穏やかな顔のまま立っている。僕には、どうしようもなく、不愉快だ。

「こんなところに引きこもって、なんのつもりだ」

「先に聞いたのは俺なんだがな」

「答えろ」

「必要性を感じないな。君にどうこういわれる筋合いもないだろう。その話はすでに終わった。君が感謝を俺に述べた時に、済んだことだ。違うかな?」

「なら、僕だってお前の質問に答える筋合いもない」

「それもそうだな。それじゃあ、話は終わりだ」

 のらりくらりとこいつは逃げる。不愉快だ。全てが不愉快だった。あれほどの男が、どうしたって全てを捨てようとしている。なんでもないような凡夫の顔で。

 今のこいつには覇気がない。執念も、執着も、あの炎で焼かれたというのか。

 ふざけるな。ふざけるなよ、赤井秀一。僕はこんなお前を見るために、あの日、礼を言ったのではない。

 僕がどんな思いで決別を決めたのか、わからないお前ではないだろう。

 呆気に取られたお前は、僕を強いと評したお前は、こんな生き方を選ぶのか。自分を弱いといったその言葉通りに、逃げるように生きるのかよ。

 ふざけるな。

 そんなことを、僕は認めない。許さない。

 僕にそんな権利がないのだとしても、僕は拒絶してやる。お前をなんとしても引き摺り出す。僕の口を開いたのは、明確な悪意と怒りだった。

「こんなみすぼらしく生きていくのが、お前の贖罪なのか!」

 そう言えば、赤井は緩やかに微笑んだ。

「そうか」

 僕の怒りなど素知らぬように、はっきり奴は言ったのだ。

「みすぼらしく見えるのなら、何よりだ」

 そうして赤井は、空を見た。澄んだ空だった。

 そう見えているのなら、何よりだ。独り言のように呟いて、目線は宙をさまよったままだ。誰にそう見られていたいのかなど、聞くまでもなかった。

 

 

 

こんなお前を僕は認めない



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過ちは還らず

 運命という言葉を、信じたわけではなかった。

 

 こうなるべきだとか、こうするべきだとか、そんな言葉はまやかしだ。人は未来を推し量れない。だから、最適解などというものは存在しない。

 結果論から、終わった後から、この時はこうするべきだったというのは非常に馬鹿げている。今後の役に立てば僥倖、そこから文句を並べるというのはあまりにもナンセンスだ。後悔先立たずとは何のためにある言葉なのか、今一度考えるべきだろう。

 人とはすべからく、経験から学ぶ生き物であり、後悔して成長する生き物なのだ。

 そんなことを、物心ついた時からすでに知っていた。俺の人生は二回目だった。

 それでも、やはり、最適解など知らぬはずだと、信じていた。後悔をしても活かせるようにと、俺は、生きてきたつもりだった。

 何故、唐突に理解してしまったのかはわからない。それでも俺はある日、理解した。弟の頭を撫でながら。母と言葉を交わしながら。父の顔を仰ぎ見ながら。

 俺は、俺が何をする人間なのかを知った。知ってしまった、と表現する方が正しいかもしれない。

 そうか、俺は、赤井秀一なのか。

 

 それでも俺は、運命など信じていなかった。信じていなかったからこそ、俺は、努力を積んできたのだ。

 

 彼のようにはなれないだろうと思ったからこそ、俺は武術を、射撃を、あらゆるスキルを進んで習得した。必要だと思ったからでもなければ、彼のようになりたくてそうしたわけではない。ただ、漠然とそうした方が良いと思ったのだ。

 少なくとも、両親は命の危険にさらされる仕事に就いているのは間違いなかったし、弟は俺と同じく荒事が苦手だった。そして、弟は俺と違って本当にただの子供だった。

 消去法だったのだ。俺がああいう行動に出たのは。そして、そうすれば、父が助かる道にずれ込むのではと淡い期待を抱いた。

 俺は、父を率先して救い出す方法を選ばなかった。自信がなかったのだ。当時の俺は、並より少し賢いだけの子供だった。

 そうして生きて、父はいなくなった。

 母はほんの少しだけ動揺して、それでもと俺たちを守る覚悟を決めた。そして愚かな俺は、どうしようもなく後悔した。

 知っていたはずだった。それでも、見殺しにした。その事実だけを、俺は唯一後悔している。

 

 全てはきっと運命ではないのだと、俺は信じたかった。だからこそ、俺は彼には成り得ないながらも彼を果たそうとした。

 

 俺は俺の意思で、彼と同じ人生を辿ることを決めた。

 どう考えても俺では彼には大きく不足している。情熱も執念も自信も実力も、何一つ及ばない。だからこそ、俺が俺の意思で彼の役目を全う出来たなら、それは俺の選んだ道になるはずだと、信じたかった。

 見えない意思で、俺の歩む道を定められているのではないと信じたかった。俺の足場を固めているのが赤井秀一という一つの概念だと、思いたくなかった。

 俺には、今は失われたもう一つの人生があったのだ。それが、全く意味を成さないのだとは、どうしたって認めたくなかった。その選択に後悔はない。だが、愚かだと思う。

 俺が選んだ道には、屍がいくつも並んでいた。人差し指に力を込めるだけで、数え切れない人が死んでいった。任務だからと、仕方のないことだと、理解できたことは一度もない。

 死ななければならない人間などこの世にいないなど、性善説を唱えるつもりは毛頭ない。しかし、俺に殺す権利があるのかと問われれば答えはいつだってノーだった。俺は神でもなければ司法の代理人でもない。一人の凡夫だ。

 その凡夫のスコープ越しは、一度だって外れる気配もなく、吐き気を飲み込む笑みばかりがもれた。

 気が狂いそうだった。

 

 運命などないと、誰かに言ってほしかった。

 

 そうして俺は、潜入捜査官として組織の幹部になっていた。相応しいなと、自嘲する暇もなかった。気を抜いたら一瞬で死ぬような場所だ。スリーマンセルとして組まされていた人間がシロと知っていた分、遥かにマシだったのかもしれないが、向こうは俺をシロとは知らない。結局、精神が擦り切れそうな日々は変わらなかった。

 人を殺して、殺して、殺して、殺す。人を殺せば出世するなど、まるで戦時下のようだと呆れながら、また殺した。スコープを覗いている時だけは、頭を真っ白にすればよかったから気が楽だった。人を殺すのに、思考はいらない。

 情けないことに、一番頭を回すハメになったのは彼女の相手をする時だった。

 組織の幹部の姉であり、ほとんど一般人である彼女はていのいい人質だった。優秀すぎる妹を繋ぎとめておく為の楔。俺が組織に取り入る際に利用した女性でもある。彼女の取り扱いに、俺は一番困った。

 そもそも、女性の扱いに慣れていないのだ。その上、彼女は彼にとってキーパーソンである。

 俺は彼女をどうするか、悩んでいた。このまま行けば、彼女は俺の所為で死ぬ。

 それを今更どうこうする意欲は、俺にはなかった。父を失ったあの日に、俺は自分の至らなさを理解していた。この期に及んで、血縁でもない彼女を救う意欲など湧いてこない。てきとうに付き合って、別れるか。続けるか。

 こんなことを考えているようでは向こうから振ってくるだろうなと自分に呆れている最中、彼を失った。

 

 運命などないのだと、誰も言ってはくれなかった。

 

 俺は、身分を明かした。拳銃を持っていかなかった。

 それなのに、彼は拳銃を所持していた。俺の誘いに乗る前に足音が響いた。彼は自殺した。足音の主は確認するまでもなかった。

 俺はもう、どうすべきかなど考えてはいなかった。ただ、それでも、こうしていたはずだという考えが脳裏に常にこびりついていた。拳銃を奪い、俺が殺したと告げた。幽霊のようだとなじる自身の舌を引き千切ってやりたかった。

 幽霊は俺ではないか。赤井秀一という亡霊に踊らされている幽霊。

 俺はもう、俺自身をどうしようもないほど見失っていた。

 

 これは、運命なのだと、跪いてしまえばきっと、楽になれたのだろう。

 

 彼を喪くし、任務はツーマンセルになった。それでも支障はなかったことが、一層、心臓を握った。きっと俺ですらこうなのだから、と、考えるのはそこまでにしていた。もう、思考する余力すらなかった。

 人を殺したのは初めてではなかった。見殺しにしたのも、父と同じだ。それでも、己の腕一つで届いたかも知れない命を吹き消した現実に打ちのめされていた。彼は、正しく清らかな人間だったから。

 それを、俺は。

「大くん? どうしたの?」

 彼女の声は、いつもより曇っていた。結局、振られることなく関係は続いていて、その日はデートの日だった。彼女が近況を述べて俺が相槌を打つだけの、なんの面白みもない一日。俺が言ってはなんだが、何故こんなのと付き合っているのかと小一時間問いただしてやりたい。もっと他に選択肢はあるだろうに。本当に、俺が言うなという話だが。

 何でもないと返して、空になったカップを取り上げる。いつもの帰る合図だった。言えないようなことがあったのねと、彼女は続けた。

 こういう時、仕事を少なからず知られているというのは話が早くて助かる。彼女は賢明な人間なので、特に掘り下げることはしない。普段は。

 しかし、この日は違ったのだ。彼女は話を切り上げずに、独り言よと前置きして、言葉を発した。

「きっと、大くんのせいじゃないわ」

 何のことだか、さっぱり分からんな。返した台詞は、震えていなかったのか自信がない。確認しようにも、彼女はすでに空の上の住人なので、聞けない。何のつもりで言ったのかも、俺にはもう知るすべがない。顔に出にくいのが取り柄だと自負していたのに、彼女はそんな少しだけ残されていた自尊心さえ叩き潰してしまった。

 思い出すと、笑ってしまう。俺は、一般人のひとりさえ騙せない凡夫なのだと。

 

 運命などないと、俺は知った。

 

 それからというものの俺は、さらに輪をかけて赤井秀一として振る舞った。彼女の口から、同じセリフを聞こうと躍起になったと言ってもいい。そうすれば、赤井秀一と全く同じ未来にたどり着けば、赤井秀一ではない俺は違う未来を掴めるのではと期待したのだ。

 愚かな俺は、あまりにも出遅れて、微かな希望に縋った。そしてそんなものに縋ろうとするから、天罰が下ったのだ。

「大くんのせいじゃないよ」

 彼を喪くした時と同じ言葉を、彼女は俺に送った。断罪のようだった。そんな言葉を聞きたかったわけではない。しかし、俺にはもう、そんな言葉しか聞く資格がないのだと思い知った。

 許された俺は、彼女もまた見殺しにした。最期に送られてきたメールすら、彼女は俺を責めてはくれない。

 

 運命ではない。これは、俺が選んだ過ちだ。



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知っていた

 背筋が震えるほど澄んだ空だった。あそこからは、俺の姿はよく見えるのだろうか。子供のような理論だ、人が死んだら空に行くなど。それでも俺には、もうそれくらいしか縋る道がなかった。

 綺麗な空の下で、俺が殺してきた人たちに見られながら静かに生きる。ここは空気も澄んでいて、都会のような背の高い建物もない。きっと向こうからは、俺の無様な姿がよく見えることだろう。

 そうであればいいと、強く思う。

 何も望まず、許されず、静かに生きる。出来るだけみっともなく。俺が誰より救えなかった二人に見張られながら。そんなことをする人間ではないと知りながら。俺は自己満足にここで生きる。そして、静かに死ぬ。

 それだけが俺の願いだった。誰の手向けにもならない、贖いだ。

 彼が言うように、みすぼらしいというのならこれ以上の言葉はない。俺はそうして、死んでいく。

「みすぼらしく見えるのなら、何よりだ」

 今ここで。もしくは、今まであったどこかの節目で。死んでしまうという選択肢だってあった。しかし、それは選べない。死んでしまうことは簡単だと、死にたくなるほどよく知っている。

 そうして俺は、数えきれない命を奪ってきた。必要な数だけ殺してきた。必要ない分も、殺したかもしれない。もう、とうの昔にわからなくなっている。

 だから、俺は死を選べない。死にたいからこそ、死ぬわけにはいかなかった。俺の命は、俺の望みを叶える為にあってはならない。

「お前の、みすぼらしい姿を見て、誰が喜ぶんだ」

「……誰も、喜ばないだろうな。君だって、そんな趣味はないだろうし」

「じゃあ何のためだ。何のために、お前はこんなところで生きている」

「俺のためだよ。俺はもう、自分のためにしか生きられない」

「こんなところで生きるのが、お前のためになるのか? 違うだろう。お前は、贖罪と言った僕の言葉を否定しなかったな。お前がここで生きると決めたのが贖いのためだというなら、それは」

「彼のためではない。君のためでもない。俺のためだ」

「ふざけるなよ、赤井秀一。何がお前のためだ。僕はそんなこと認めない。ヒロを言い訳にして、こんな」

「俺が許しを乞いたいのは君じゃない」

「死んだ人間じゃあ、お前を許すことすら出来ないだろう!」

「だから、許されなくて構わない。許されたいわけじゃないんだよ、降谷くん。俺は、ここで、静かに、生きたいんだ」

 俺が許されたいのは、今を生きるこの彼ではない。俺が許しを乞うのは、俺が殺してしまった人たちだけ。そしてその人たちは、もう俺に何かを言うことはない。

 責めていないことなどわかっている、許していることも知っている。それでも俺は、全てが終わった今こそ、その言葉を聞きたかった。

 聞けない言葉を永遠に求めながら、俺は虚しく侘しく生きていく。それが、俺に選べるただ一つの、命の使い方だった。

「だから、帰ってくれ。君の嫌いな男は、ここで勝手に生きていくよ」

 彼には悪いことをしたと、思うのはこれで何度目だろうか。そんなことを思える有り難さに、少しだけ俺の心は救われる。

 そうして次には、俺の心だけが救われてしまうことに矛盾を感じる。彼は、唯一無二の存在をなくしているというのに。俺はそれを悔やむことで、悔やめる相手がいるということに救われてしまう。侮辱だった。

 俺は彼が生きていることに安堵して、彼を追い込んだ過去から少しだけ目をそらしてしまう。そんなことは、許されない。

 他の誰が会いに来たとしてもどうとも思わなかっただろうに。どうしてよりにもよって君が来てしまうのだろう。これも、俺への罰なのだろうか。

 帰れと告げて、彼は顔をかすかに前に倒した。長めの前髪に隠れて、彼の表情がわからなくなる。強く握られた拳は震えているが、それがどういう感情から来るものなのか、俺にはわからなかった。ぽつりと、彼が何かを言った。聞き取れなかった俺は、反射的に彼の名前を呼んだ。

「…………るさい」

「降谷くん?」

「うるさいって言ってんだよ!!」

 ゴッ。鈍い音を立てて、震えていた拳が真っ直ぐ頰に飛んできた。とても痛い。何をするんだと抗議するのはお門違いだということだけはわかったので、黙って彼の言葉に耳を傾ける。彼の口からは、懐かしい名前が転がり出た。

「ごちゃごちゃごちゃごちゃ、うるさいんだよ! 隠居か? 隠遁か? 勝手にしろ! お前がどう生きようが僕の知ったことか! けどな、お前がその引き合いに僕の幼馴染たちを利用するって言うなら、話は別だ。ヒロはお前を恨んだりしないし、明美はお前の幸せを呪ったりしない。自己満足に生きるのも結構だが、それを二人のせいにするな!」

 だいたいなぁと、降谷くんの勢いは止まらない。殴られた頬はじんじんと痛むまま、彼の言葉を聞きもらすなと責めてくる。よく聞けと、訴えてくる。明美の名前まで持ち出されて、俺はそれに従うしかない。

 そうか、君は、彼女とも親しかったのか。あの、泥に埋まるような日々の中で、変わらずいた彼女と。

「僕はお前が嫌いなんだよ!」

「……それは知っているが」

「そういうところもだ! ……とにかく、僕はお前が嫌いだが、僕の幼馴染たちはそうじゃない。そして、二人を揃って知っているのはもう、この世に、僕とお前しかいない。わかるか、赤井秀一。お前が罪滅ぼしだとか贖罪だとか言って引きこもるとな、僕の中の大事な二人が生きた証が一つ消えるんだよ。ふざけるなよ。お前には何が何でも真っ当に生きてもらう。僕の幼馴染を、お前の身勝手で消すな!」

「明美も、君の幼馴染だったのか」

「そうだ。僕の大切な友人だった。……そして、僕も、彼女を救えなかった」

「降谷くん、それは」

「違わない。僕だって、明美を助ける道はあったはずだ。でも、出来なかった。力が及ばなかった。ヒロも、僕の不注意で死んだも同じだ。お前だけのせいじゃない」

「でも、君のせいじゃないだろう」

「なら、お前のせいでもないはずだ」

 だったら。

「誰のせいでもないんだよ、赤井」

 そんな言葉は、嘘だった。

「ヒロは、僕の不注意と、お前の油断と、ヒロの決断で死んだ。明美は、僕の力不足と、お前のきっかけと、明美の決断で死んだ。二人とも、決めたのは自分自身だ」

 そうだとしても。

「ヒロは死ぬ直前、僕に連絡を取ってきた。逃げ場はあの世しかない……遺言だな」

 やめてくれ。

「明美は、お前に何か残さなかったか?」

 責めない言葉が、俺の心臓を静かに止める。





大くんへ。
久しぶり、お元気ですか?
私は無謀だけど、賭けに出ます。
これで私も立派に犯罪者です。
大くんとおんなじになりました。
これで、あなたの気持ちが少しはわかるのかな。
今はまだわかりません。
無事に全部終わったら、一度会いたいです。
会って、名前を教えてください。
あなたの名前を呼ばせてください。

P.S.
それと、会ったら告白するので覚悟しといてください。
ずっとあなたが好きです。


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贖い

「知っていたんだ」

 囁くように記憶を吐露する赤井は、もはや別人だった。きっとこれがこいつの正しい姿なのだろうと想像に難くない。牙を抜かれたというよりは、そもそもそんなものを持っていないのだろう。

 明美は、俺を責めたことなど一度もなかった。後悔の滲む声と落ち着いた顔つきで、静かに目を伏せる。身分を偽ったことも、自分を利用したことも、何一つとして責めはしなかった。

 その言葉に、俺はそうだろうなと頷く他ない。僕の見た目に臆せず接してきた二人の内の一人が明美だ。その程度のことで怯む肝っ玉ではない。利用されたことに関しては、腹が立つが、惚れた弱みだろう。その辺はちゃんと女の子してたんだなぁと、死んだ後に見せつけられるとはなんという皮肉だろうか。

 しかし、こんなことを共有できるのは世界でこいつ一人だけなのだから、仕方がない。不愉快ではあるが、嫌悪はなかった。

「明美らしい」

「そうなのか」

「そうだよ」

「俺は責めてほしかった」

「なんでだ」

「……なんでだろうな」

 忘れてしまったよと、赤井は再び空を仰いで、眉尻を下げて笑った。言えないことなのだろうなということは理解した。僕もこいつも、なんでも明け透けに話せるような立場ではない。お互い、一人で墓場に持っていくような秘密も多く抱えていることだろう。だから問い質すようなことはできない。それでも、責められたいという気持ちは、理解できた。

「僕だって、ヒロにお前のせいだと言われたら、楽になれると思うことはある」

「……彼は、そんなことは言わないな」

「わかってるならお前、こんなところまで逃避行するなよ」

 全部自分に跳ね返ってくるぞと肩を殴ってやれば、痛いからやめてくれと悲鳴を上げられた。信じられないことに、荒事は苦手なのだとのたまう始末だ。嘘つけと詰れば、嘘はたくさん吐いてきたなとまた笑った。ムカつくが、信じてやることにしよう。

 僕が目の敵にしてきたあの赤井秀一は、きっともういないのだ。不愉快極まりないことではあるが、このなんでもない凡夫が赤井秀一なのだろう。こんな奴としか、幼馴染の話を出来ないのかと思うと、心底うんざりする。

「で? お前これからどうするんだ? ここに残るとか言いやがったらふん縛って引きずり下ろすからな」

「相変わらず、顔に似合わず過激なことを言うなぁ、君は」

「で? 僕としては国に帰るのを勧めるぞ。国に帰れ」

「命令じゃないか」

「お前が僕の国に居座るなんて腹立たしい」

「ひどいな。ここまでしておいて、真っ当に生きてくのを見届けてくれないのか」

「お前は大丈夫だろ」

 僕の命をヒロが見張っているように、こいつの命は明美が見張っている。元気で生きろ、幸せになれ。その気持ちをもう、赤井は無視できない。そんな無情な男なら、そもそもこんなことにはならないのだ。無情になれないからこそ、きっと完全に前を向いてなど生きられない。

 それでも僕らは、生きてる限り歩くしかない。それをきっと、見守られている。

「明美が見届けてる。下手なことはしないだろ」

「どうだろうな、あの世で見限られているかもしれないぞ?」

「確かめるのはジジイになってからにしろよ」

「俺は明美には会えないよ。彼女は天国、俺は地獄だ」

「全員仲良く地獄だ、安心しろ」

 僕もお前も、ヒロも明美も、天国になど行けはしない。

「だから空なんて眺めるな。無駄だぞ」

 そこに僕らのような人間は行けない。でも、そうか。そうなると、僕はヒロには会えるけど、他の奴らには会えないんだなぁ。

「なるほど、死んだらまた君の顔を拝むということか」

「はあ?」

「仲良く釜茹でされようか、降谷くん」

「一人で死ね」

 あいつらには会えないのに、こいつには地獄でも会うのかよ。最悪だな。絶対に大往生してやる。

 

 

 

そんなお前を僕は知っていく




ここまでで元々短編の一話として扱っていました。続きのもう一話はまた後日、気が向いたら上げます。待てない方はpixivに同じものがあるのでどうぞ。


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はじめましての挨拶を

 知っていたんだ。許しを求めることが間違いだということなど。何故なら、俺はそもそも憎まれてなどいなかったのだから。
 ああいや、違うな。語弊がある。俺が許してほしいと願うような人たちは、俺を決して恨まない。そうだな、こう言うのが正しい。
 俺を呪って死んでいった人たちは、たくさん、山ほどいることだろう。しかし、俺は彼らには許しを求めていない。俺にとって重要ではないからだろうか。身勝手なことだ。自らの手で消しておいて、興味もないなど。
 でも、そうだな。俺はずっとそういう人間だった。自分のやりたいことを見失ってはいたが、それでもことをなしてきたのは自分の意思だった。目を逸らしていただけで、俺は一貫して横暴に振舞ってきた。
 じゃあ、もうそうやって、好きに生きていこうと思うのだ。

 それが、彼女への手向けになるなら。
 俺は、そうしたいと思う。


 数ヶ月ぶりに足を下ろした我が国は、特に何も変わってはいなかった。人の喧騒、煙草の香りに排気ガス、五感へ過剰なまでに語りかける様はすでに懐かしい。

 さて、彼は何も持たない世良秀一に会ってくれるのだろうか。

 そんな軽い気持ちで敷居をまたいだ俺を、彼は快く迎えてくれた。また会える機会をくれたこと、光栄に思うよ、とは随分と大仰ではあったが。

「そんなにかしこまらないでくれ、ジェイムズ」

「いいや。私は、君に謝罪をしなくては」

 何を謝らなければいけないかもわかっていないことが、私の上司としての責任だよ。そういってジェイムズは目を伏せた。

 なるほど、どうやら彼は俺の失踪に思うところがあったらしい。しかしそれは疑う余地もなく誤りだ。俺の行動の元凶は全て俺にあって、彼が背負わなければならない非など一つもない。

 そう言っても、ジェイムズは頑として譲らなかった。すまなかったと、どうしたって頭を下げようとする。

「謝らなければならないことを、わかっていないと言うのなら、頭を上げてくれ、ジェイムズ」

「……私は、君の能力に甘えていた」

「頼ってくれていたんだろう?」

「寄りかかっていたんだよ、過剰に」

「……でもそれは、俺自身が望んだことだ」

「しかしそうするべきではなかった」

 そうしてくれなかったと困るんだと、伝えてしまえば彼は何と言うのだろうか。俺は『俺』という型の中に収まりたくて、そして、それ以上の結果もそれ以下の結果も求めていなくて。変わってしまえばいいと溺れながら、変えてしまう勇気も力も結局なくて。

 そうして、俺は、色んなものを見捨ててきたのに。

 彼はそんな俺を知らずに、すまないと言う。彼が見てきた赤井秀一はやっぱり俺に過ぎなくて、どうしようもなく劣っていて。そういうことをまざまざと見せつけられているような気分になった。

 でも、仕方がない。それが俺なのだから。違うのだと言われることは、仕方がないことで、俺はそれが、嫌ではなかった。

「ジェイムズ」

「私は君の、何を見ていたんだろうな」

「俺が見せたい姿を、見ていてくれたと、そう思うよ」

 彼は、優秀な上司だった。俺という人間を最も上手く活用できたのは、彼以外いないだろう。俺が目指した性質を正しく理解し、それを効率的に誘導する能力に長けていた。人を上手く使う人だ。

 だからこそだろうか。彼は人の上に立つ人間として、俺に負い目を感じている。

 ツケが回ってきたのだなと、そう思う。俺が重ねてきた罪のツケ。それならば、払うのは俺でなくてはならない。そうして生きていくことを、俺は今、望んでいる。

「ジェイムズ。俺は、あなたにとって役に立つ人間だっただろうか?」

「君は、途方もなく優秀な捜査官だよ」

「そうか。それだけで、充分だ。俺は報われるよ」

 俺は果たしたいことを果たし、疲れて、逃げたけど。

 それでも俺を、赤井秀一になりきれなかった俺を、認めてくれるのなら。惜しんでくれるのなら。それだけで、俺は果報者だと思えるのだ。

 すっと右手を差し出して、俺は笑う。ジェイムズは目をまたたかせて固まる。そうだな、確かにあなたの知る赤井秀一という人間はこんなことはしないだろう。だから、どうか、この手を取ってほしい。

「改めて、俺は世良秀一だ。好きに呼んでくれて構わない」

「……ジェイムズ・ブラックだ。気が向いたら、いつでも帰ってきてくれ、秀一くん」

 重ねられた手にはシワが刻まれ、彼の生きてきた時間の長さを感じさせられた。それでも、彼の手のひらは大きく、力強く、あたたかい。紛れもなく、俺を支えてくれていた手だった。

 辛くとも、苦しくとも、心が折れそうでも、それでも俺が歩いてこれたのは、自分の力ではなかったのだと。俺は改めて、思い知る。

 どうしようもなく、気分がいい。




ここから後編です。


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吹けば飛ぶような軽さで

 ジェイムズと別れて、あてもなくふらふらと町並みを眺めて歩き回る。しばらく見納めになると思えば、なんとなく、哀愁のようなものを感じる気がするが、たぶん気の所為だろう。

 俺はこの国に対して、執着はあったが愛情はなかった。せいせいするとまでは思わないが、縁が切れる安堵は間違いなくある。だからこそ、日本に逃げたのだから。

 気ままに放浪していると、シュウ! と聞き慣れた声に呼ばれた。振り返れば、遠くの方から懐かしい金髪の女性が人を掻き分けて、凄まじい速さでこちらへ迫ってくるのがわかる。

 ジェイムズから聞いたのか。フットワークの軽さはさすがだなと、笑いながら手を振れば、呑気に手なんて振ってるんじゃないわよと、ハイタッチの要領ではたき落とされた。手のひらがじんじんと痛むが、それで彼女の気が済むなら安いものなので特に不満は口にしない。

「やあ、ジョディ。久しぶりだな」

「久しぶり、じゃないわよ! 今までどこにいたの?!」

「日本にな」

「あか、赤井しゃん……!」

「キャメルも。久しぶりだな、元気か?」

「あ、元気です、ジョディさんも、私も、元気でやってます……赤井さんは、赤井さん……」

「ちょっとキャメル、あなた泣いてるの?!」

「はは、本当に元気そうだ」

「シュウは笑ってんじゃないわよ!!」

 追ってやってきたキャメルは顔を合わせるなりぼろぼろと泣き出してしまい、それを笑えばジョディに肩を殴られた。なかなか痛い。胸ぐらを掴まれながら前後に揺すられ、どういうつもりだと詰問される。その隣でキャメルは四つん這いになって泣いている。

 周りから見たらすごい絵面だろうなと思わず笑えば、だから笑ってんじゃないと襟元を絞められた。息がつまる。物理的に。

「ぐ……ジョディ……。少し、手を……」

「は?」

「……なんでも、ない」

 腹の底をなぞるような低い声で問われ、俺の返事は一つしかない。仕方がない。因果応報、自業自得、身から出た錆。要するに俺のせいであって、そうされて当然であって、そうしてくれる方が俺にとってもありがたい。

 なんだか語弊がありそうだが、被虐嗜好という意味ではないと誰でもない誰かに心の中で言い訳をする。

「日本にいたって言ったわね? 何しに?」

「何をってわけじゃない、隠居だよ」

「隠居ォ? あなたが? FBIをやめて? どうやって生活するのよ?」

「貯えはあるし、選り好みしなければ日本は仕事がある国だ」

「そういう意味じゃなくて、」

「いいじゃないですか、ジョディさん。赤井さん、一緒に食事でもどうですか? もうアメリカでは暮らさないんでしょう?」

「ああ、日本で暮らすつもりだ」

 キャメルの制止を受けて、ジョディの拘束が解かれる。襟元を整えながら拠点を移すことを伝えれば、彼は顔を緩ませて小さく頷いた。

 よかったです、と。こぼれるようにもたらされた言葉に、俺は答えを持っていない。良いわけがないのだから。俺は骨の髄まで、彼という性質を利用した。

 彼の名前を呼ぼうと口を開いて、喉を止める。言ったところで何になるのだと囁く俺もいれば、何を言ったところでと呆れる俺もいる。全くもってその通りなので、結局、キャメルの名前を呼ぶことができない。

 そもそも、一体何を言うというのか。皮肉なことに、彼が誰にもこぼせないだろうという驕りのもと、俺は自分の欠片を晒したことすらある。お前のミスを知っていたなど、よくもまあ言えたものだ。つくづく、俺という人間は完璧には程遠くて嫌になる。

 赤井さんと、キャメルが俺を呼ぶ。なんだと簡素に問い返せば、彼はまた顔を緩ませた。喜んでいるように見えて俺は戸惑う。そんな戸惑いを、彼はなおのこと歓迎しているように見えた。

「遊びに行ってもいいですか?」

「えっ」

「……ああ、いつでも」

 住む場所が決まったら連絡すると答えれば、ジョディが家も決めずに移住したのかとまた声を荒げた。今度は呆れているらしい。

 もう勝手にしろと手を広げて、手帳に何かを書き込んでから千切って手渡された。番号の羅列とアルファベット。どうやら、彼女の連絡先らしい。少しだけ見覚えがあるのは、私用で連絡を取り合う仲であった時期もあるからだろうか。ジョディにならい、キャメルも自身の連絡先を書き込んで俺に渡す。

 連絡手段は全て手放してしまったし、その時データも同様に消去していたのでありがたい。改めて、連絡ツールを入手したらまた知らせることを約束して、受け取った紙をなくさないよう懐にしまった。

「電話もメールもないの? 今までどこで生きてたのよ、山奥?」

「さすがだな」

「えっ、嘘。冗談でしょう……?」

「赤井さんなら狩猟で食べていけそうですけどね」

「ははは」

「否定しなさいよ……」

 二枚の不揃いなメモ。今、俺と彼らを繋ぐものはそれしかない。薄っぺらく、どうしようもなく軽い。吹けば飛ぶようなその身軽さに、俺は感謝しなくてはならない。

 もう縛り付けるものはなく、のしかかるような使命もなく。それでも、彼らは俺という人間と繋がっていようとしてくれるのだから。

 



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新たな門出

 アメリカでの滞在時間はそれほど長くならなかった。あの国に興味や思い入れがないわけではない。ただ、義務としての感情があまりにも強く、あそこで落ち着いて過ごすということがどうしたって出来ないのだ。尻叩きに合っているような心持ちで過ごさざるを得ない。

 もっとも、そのおかげでジョディやキャメルと別れた後、古巣にきちんと顔を見せようという気になったのだが。

 挨拶がわりに背中を叩くのさえやめてくれるのなら、いつでも足を運ぼうと思える程度には息がしやすい。なんだかんだと、十年近くあそこを拠点として生きてきたのだから当然といえば当然なのだが、自分が思っていた以上に住処として認めていたことには単純に驚いた。その辺り、俺は割り切りが出来ない性質なんだなと少し笑えた。

 関われば関わった分、情は移るし記憶は重なる。積み重なれば、その厚さは確実に俺自身に影響を与える。歪ませようと、歪ませまいと必死だった俺をさらにずらしていたのだと、思い返せば無駄なあがきの多いこと。馬鹿なことだと笑ってしまえるのは、いくらか心に余裕ができた証拠だと思うことにしよう。

 遠ざかる母国の一つを見下ろして、誰に伝えるでもない別れと感謝を。さようなら、ありがとう。俺がここに根を張ったのは間違いではあったかもしれないが、失ったものの方が多かったかもしれないが、それでも。

 今の俺があるのはこの国のおかげだと、そう言えるように精一杯努めようと。そんなことを思える程度には、この国と人を愛していたのだと、俺は気付くのがいつも遅い。

 

 約半日のフライトを終え日本に降り立つと、驚いたことに風見くんがいた。部下と思わしき数名と、何やら辺りを見回して心許なそうだ。スーツを着たガタイのいい男の集団が、忙しなく辺りを伺う様が周りに与える影響を少しは考えた方がいい。それなりの人混みの中で、少しどころではなく周囲から浮いている。

 これは、降谷くんに怒られるんじゃないか……?

 お節介とは知りつつも、遠巻きに見る人混みをかき分けて彼らに近付く。風見くん、と声を発せば、勢いよくこちらに振り向いて、指でさされたかと思いきや、彼は叫んだ。

「確保ー!」

「「はい!!」」

 そうして抵抗する間も無く両脇を固められ、引き摺られるようにして俺は空港から連れ去られた。遠巻きに見られるなんてものではなかったとだけ言っておく。

 

 引き摺られ押し込められた先は、空港のスタッフルームの一室なのだろう。奥まったその部屋は手入れは行き届いているらしかったが、人通りの無さと物の少なさと合わさってどことなく雰囲気が不気味だ。

 されるがままに足を動かし続けていたが、ここが目的地だというのならもう口を動かしても許されるだろうか。風見くん。先ほどとほとんど変わらないトーンで呼び掛ければ、彼は数秒沈黙したのち、ハッとしたように肩を揺らして流れるように床に座り込んだ。いわゆる、土下座だ。

 申し訳ございません。くぐもった声に応えるように、拘束されていた両腕の自由が戻ってくる。土下座が三つに増えた。あまり人目を気にするたちではないが、流石に目に毒だ。誰にも見られていないのは理解しているが、風見くんがいるという事実がそれを半分ほど否定する。

「風見くん、もういい。気にしてないから顔を上げてくれ。君たちも」

「いえ、本当に、面目次第もない……」

「降谷くんの指示だろう? 日本人は勤勉だからな」

「…………なんともお答えしづらく」

「そうか。それなら何も言わなくていいさ。俺はどうすればいい? ここで待てばいいのか?」

「赤井さん……!」

「僕の部下を懐柔するな」

「やあ。このくらいで風見くんは俺にほだされたりしないさ」

「どうだかな」

「ひえ」

「かわいそうだろう」

「うちの教育方針に口出しするな!」

「パワハラは感心しないぞ」

「お前が山下りたと思ったらそのまま出国したからだろうが! 一度戻るならそう言え!」

 なんだ、心配してくれたのかと笑えば、無言で殴りかかられた。もちろん素直に殴られる意味もないので軽く躱す。

「僕がお前の心配だと?」

「入国者リストを見て先回りして風見くんを寄越すくらいだ。心配じゃないのか?」

「死なないように見張りだ!」

「そうか。優しいな君も。その分は今後彼らに回してやってくれ」

「そもそもお前に回していた分はない!」

 胸ぐらを掴みなかなかの剣幕で迫ってくる降谷くんに、なぜか俺ではなく風見くんたちが震え始めた。怒りの矛先がいつ飛んでくるのかと怯えているのだろうか、可哀想に。今思うと、先ほどの奇行もこの上司からの圧のせいなのだろうなと、あまりにも不憫に思う。

 繰り返して降谷くんに苦言を呈してもよかったのだが、彼は俺から言われるとますます厳しくしそうでもある。天邪鬼だから。もっとも、俺が言えたことでもないのだが。

「それで? 君は俺になんの用だ? まさか完全な私用でもないだろう?」

「……お前に仕事の斡旋をしてやる」

「……警察沙汰はお断りしたいんだが」

「安心しろ。飲食店のキッチンホールスタッフだ」

「なるほど、安室くんの穴埋めか。わざわざ俺にお鉢が回るということは、事後処理が完了していないのかな?」

「ええ、ええ! この国は何をするにも申請が要る国なものでね!!」

「律儀な国だな」

「お前らが緩すぎるだけだ!」

 これ以上は何を言っても火に油を注ぐだけになりそうだったので、話を切り上げて承ろうとだけ答える。やけに素直だなと不愉快そうに顔を歪めた降谷くんも、なかなかどうして素直だなと思う。言わぬが花、俺はこういう性質だとだけ答えておいた。

 とりあえず、これで食い扶持は確保できた。貯えはたんまりあるが、浪費していくだけではさすがに一生分は足りなかったので渡りに船だ。

 そしてさらにありがたいことに、住居の手配もしてくれるそうだ。出来るだけ手狭な家を所望すると、何を勘繰ったのか降谷くんはみすぼらしい家は却下するぞと息巻いた。山籠りに無言出国した俺にもまあ非はあるのだが、どうやら彼はとことん俺を疑っているらしい。

「考えすぎだよ」

「はっ。前科二犯がなにを」

「広い部屋だと掃除が大変だろう? だから狭い方がいいんだ」

「は?」

「俺は人並み程度しか家事スキルはない。そういえば、キッチンスタッフも出来るかどうか怪しいな」

「それでよく承ろうとか言えたなお前!!」

「人より覚えはいいぞ」

「そういう話じゃない!」

 まあなんとかなるだろうと笑えば、なんとかさせてやると返事が来たのでどうやらなんとかなるらしい。降谷くんが言うのだから、たぶんなんとかなるだろう。

 



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喜びという名の傲慢

 

「秀吉」

 僕を呼んだのは兄だった。いなくなったはずの、兄さん。

 久しぶりだなと微笑んで、立ちすくむ僕を見て悲しそうな顔をした。すまないなと、頭を撫でた手は一番古い記憶の通り変わらず優しくて、一番新しい記憶の通り、傷跡だらけだった。

「にいさん」

「すまない。俺のわがままで、お前を傷つけたな」

 許してくれとは決して言わない兄さんは、僕の背中を優しく叩いた。促されるまま兄さんにもたれ掛かると、密着した部分からとくとくと、心臓の音が伝わってくる。肩越しに見たコンクリートが、これ以上ないほど歪んで、僕は、強く兄さんにしがみついた。

「にいさん」

「ああ、なんだ」

「にいさん」

 肌触りのいいコートを、皺くちゃにして握りしめる。精一杯の力を込めて、兄さんの鼓動を肌から聞く。僕の心臓の音がうるさくて、兄さんの音が消えるようだった。

 うるさい、静かにしろよ。歯を食いしばって息を止めると、再び優しく背中を叩かれた。大丈夫だと、穏やかな兄さんの声が鼓膜を撫でる。

「もう、どこにも行かないさ」

 俺が言っても、信用ないかもしれないがと。付け加えるように笑った兄さんに、僕は、そんなことはないと叫びたいのに、声が出ない。うわ言のように兄さんと、呼ぶことしかできない。

 こんなことを言いたいわけじゃないのに。もっと伝えたい言葉があるはずなのに。会えた喜びも、生きていてくれた安堵も、僕の声帯は形作ってくれない。

「にいさん、」

「ああ、お前の兄さんだよ」

 額を肩に押し付けると、視界を遮るレンズがぱたぱたと濡れた。雫はそのまま伝って、地面を染めるが、僕はそれを正しく認識できない。目の前が霞んで、額をぐりぐりと押し付ける。ありがとうと、礼を言う兄さんの言葉にかぶりを振る。お礼なんて要らない。僕は、僕は。兄さんが大好きだから。

 嗚咽を漏らすしか能がなくなってしまった喉の代わりに、僕は力一杯兄さんに抱きつく。どうか僕の想いが届きますようにと、頭を柔く撫でる手は、ゆるゆると僕の言葉を汲んでくれた。

「ただいま、秀吉」

 おかえり、おかえりなさい、兄さん。また会えて嬉しいと、言葉すら出せない僕を許してほしい。

 とくとくと、どちらのものかわからない心臓の音が、胸を打つ。あの時は生きていてさえくれればいいなんて、殊勝な願いを抱いたのに。もうそんな小さな望みだけでは満足できそうにもない。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 肩に顔を埋めて静かに泣く秀吉の背中を、とんとんとリズミカルに叩く。ああ、こんな風に弟に触れるのはいったい何年ぶりだろうか。昔はよく、寝付けないとシーツにくるまる秀吉に、早く寝ろと言いながら胸の辺りを同じようにたたいてやったような気がするのに。

 それは遠い昔のようでもあるし、昨日のことのようにも思える。大切で穏やかな時間。俺の記憶。緩やかな、たゆたうような人生を、疑うことすらなかったあの日々を、俺は生涯忘れないだろう。

 奪われた理不尽と、自ら捨てた傲慢と、意思を持って奪った不条理を、俺はこうして埋めていく。誰に許される為でもなく、俺自身がそう望んだままに。

 ほどなくして秀吉は落ち着いたようで、体を離しながら眼鏡を外し、乱暴に目元を拭った。小洒落たハンカチでそれを代わってやれたならよかったのだが、生憎とここ最近はほぼ身一つで移動するほどの身軽さだ。俺に出来ることといえば、赤くなるからと言葉で制してやることぐらいだった。大したことないからと秀吉は気にした様子もなく、眼鏡を掛け直して口を開いた。

「兄さん、日本で暮らすの?」

 まだ少しだけ不安そうに言葉を発する秀吉は、俺が犯した罪の形そのもので。許しを乞うまいと決めていた俺は努めて安心できるように、緩やかに笑ってそれに答えた。

「ああ、そうするつもりだ」

「家は? FBIは辞めちゃったの? 仕事は?」

「近くのアパートに引っ越す予定だ。FBIは辞めた。仕事は知人が紹介してくれるらしいから、それに甘えようと思う」

「……兄さん、日本に友達いたの?」

「少しだけな」

「そっか。よかった」

 彼を友人と呼んでいいかは置いておくとして、秀吉はいくらか安心したようで目元を赤くしたまま微笑んだ。泣かせるようことはもうしないが、泣かせた事実は消えない。それを俺は、一生忘れてはならない。

 加えて、罪滅ぼしだと思わせてもならない。全ては俺がしたいからそうするのだと、生きたいように生き、やりたいようにやる。そうして、立派でなくともまともに生きていく。

 もう何も捨ててはならない。多くを拾って、手から溢れることがあろうとも、抱えて生きてかなければならない。

 今まで捨ててきた全てが、すでに取り返しのつかないことは理解している。俺の行為に何の意味もない可能性だってある。それでも。

 無駄かもしれないなと思いながらも、俺が望む通りに努めればいいという幸福を、俺は今更ながら噛み締めている。長らく忘れていたが、生きていくとはこういうことなのだ。

 

 捨ててきた高慢を、今、俺は取り戻そう。



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愛する人のために

 二番目の息子が連れて来たのは、一番目の息子だった。

 久しぶりと、気まずそうに笑ったのは長男坊のバカ息子。何も告げず、何も語らず、何も残さず。煙のように立ち消えた、秀一だった。

「母さん! 兄さんだよ! 帰ってきたんだ!」

 目元を赤くして、幸せそうに笑った秀吉は、しっかりと秀一の手を握ったまま反対の腕でしがみついている。帰ってきたと言いながら、全くもって信頼していないのが見て取れる。それとも、二度と離さないという決意の表れなのだろうか。

 どちらにせよ、その喜ぶ姿に嘘偽りはない。そこまで見て、ようやく現実なのだと信頼できた。秀一が、帰ってきたのか。

 名実ともに夫を失い、かつての柔さを取り戻したような息子も失った。あの子にはきっと辛い日々だったのだろうと理解しつつも、終わった安堵に身を任せたいと望むのならば邪魔をしてはならぬと己を律して、せめて、どこかで生きていてくれるのならばと。そうして手放したあの子が、今、目の前にいる。

「母さん、ただいま」

「……何故、戻った?」

「真っ当に生きようと思って」

「そうか」

 素早く二人に歩み寄り、秀吉を引き剥がす。かすかに不満気な顔を見せたが、なんとなしに触れるべきではないと察したのだろう。少し後ろに下がり、顔は不安気に揺れた。

 弟から解放された秀一は、微動だにすることもなくその場に立っていた。真っ直ぐにこちらを見て、緩やかに微笑んでいる。その笑みの中に多分な謝罪が含まれているのは、聞くまでもなく確認するべきことでもなかった。

「真っ当に生きよう、と言ったな」

「ああ」

「義務で戻ってきたのなら、それは間違いだ。今すぐやめろ」

「義務ではないさ。俺がそうしたいと思っている」

「嘘をつくな」

「本当だよ、母さん」

「もういい、もういいんだ秀一。もういいから」

 恐ろしかった。かつてのように柔く笑む息子が、今は恐ろしい。ここに立っていることが怖い。消え去った時、命を自ら捨てるようなことだけはないとそう思ったからこそ、私はそれを許容した。

 優しい子だ。多くを殺して、罪の意識から死ぬことだけは選ぶまいとそう確信していたから、私は消えたあの子が生きていると信じることができた。私の側にいなくても、どこかできっと生きているだろうと。

 夫の死を、根拠がない間は保留できた時と同じような心持ちで、見ないふりができると。そう、思った。

 でも今は違う。この子は今、私の目の前にいる。削れた心をさらに削り、己を殺して立っているとしか思えない。そんなことをすれば、いつか、取り返しのつかないことになるような気がした。

 恐ろしかった。手の届くところで息子を失うのだけは、どう足掻いても耐えられそうにない。やめてほしい。もうこれ以上、誰かを亡くすのは嫌だった。

「母さん、聞いてくれ」

 そっと慈しむように私の手を取る秀一。チェスが得意で、本を読むのが好きで、スクールの子たちから一目置かれていた自慢の息子。足が速くても自慢をせずに、喧嘩から逃げることばかりに活かしていた頃からは想像もできないくらいに、タコと傷で凹凸が出来ている。

 こうなるまでに、どれほどの傷を負ったのだろうか。身体だけではなく心にも、耐え難い苦難があったはずだ。それを結局、私は母でありながら察してやることも防いでやることもできずに、自身を追い詰める様をただただ外から眺めていた。情けない。あるまじきことだった。

「俺は、見捨ててはいけない人を見捨てた。三人いて……俺にとって、とても重要な人だった」

 その三人が誰なのか、終始口にすることはなかった。かすかに顔を上に向けて、秀一は間違えたと笑った。その三人は、空にはいないらしい。そのまま秀一は地面を見下ろし、愛おしそうに微笑んだ。

「みんな、地獄にいるらしい。それで、俺も地獄へ行く」

「兄さんはそんなとこ行かないよ!」

「行くんだよ、秀吉。俺はそれほどまでに許されないことを多くしてきた」

 押し黙る秀吉を責めることもなく、かと言って自虐というには優しすぎる声で秀一は繰り返す。俺は地獄へ行くのだと。そこで、見捨ててきた人に会うのだと。

「その時に、恥じた人生を見せるわけにはいかないんだ。だから俺は、望んで真っ当に生きていこうと、そう決めた」

「それが、義務だと言っているんだ。わからないのか?」

「母さんなら分かると思うけど」

 こともなげに伝えられた言葉には、嘘のかけらも虚栄もないことを、私は誰よりも知っている。

「俺は愛する人たちへ報いることを、喜びはすれど義務だと思うことなんてない」

 ああ、本当に。私の愛する自慢の息子が帰ってきたのだと、溢れ出る喜びをこらえる術など私にはなかった。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 しとどに濡れる胸の中の母さんは、記憶の中より比べようもなく小さい。こうして最後に触れた時はまだ俺の方が小さくて、何より、母さんはまだ母さんだった。父さんの代わりを果たすと決めた時、一体どんな気持ちだったのだろう。それは俺が、周りを見捨てると発した日のことだった。

 あの頃は上手くやれる自信もなく、かと言って、父さんを失った後になにも知らぬ身のまま家族を守る自信もなかった。俺はただ、最低限として残った家族が無事であるよう務めたに過ぎない。こうして動けば家族は無事であると、知っていた通りに進んでほしかった。家族以外は全て見捨ててしまえばいいのだと。そうやって割り切ったつもりでいたのに。

 結局俺は、何一つ満足に果たせず、どっちつかずのまま足掻いた結果が今だった。家族を苦しめ、泣かせ、いったいどの口が守るなどと言えたのだろう。みっともないほどにただのお笑い種だ。

 しかし、だからこそ。俺は努力したいと強く願える。

 泣かせることしか出来なかった俺はもう終わりだ。裏切ることしか出来なかった俺はもう終わり。腕の中に収めることができる、命あるこの人たちを、俺は生涯愛していこう。

 





 俺は赤井秀一という皮を脱ぎ捨て、赤井秀一という凡夫として生きていく。近しいかすかな人たちを愛し、慈しみ、守り、生きていく。
 そこにお前はいないけれど、それでも俺は生きていこう。
 ああでも、わからない。
 今になってもまだわからない。

 俺はお前を愛していたのだろうか。


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ポアロにて

 

 はじめましてと頭を下げずに微笑んだのは、緑の目が特徴的な背の高い男性だった。

 安室さんも随分とスタイルがいいと思っていたけれど、その人はさらに上をいった。なんというか、安室さんと比べるとよりがっしりとしていて、より男性らしい。正直ちょっとときめいた。

「安室くんから話は聞いているだろうか?」

「……あ、はい! ちょうどお仕事を探しているからと。ええと、外国の方? なんですよね?」

「ああ。でも日本人の血も入っているし、言葉に不自由はない」

 世良秀一と名乗ったその人は、安室さんの知人で真純ちゃんのお兄さんだという。確かに、目元が似ている。穏やかそうな印象が強くて、よくよく見てみないと気が付かないけれど。

「榎本梓と言います。バイトの件、引き受けてくださってありがとうございます。ほんとうにマスターがそろそろ倒れそうで……」

「安室くんは有能だったろうからなぁ。彼の穴を埋めるには程遠いだろうが、精一杯努めるつもりではある。よろしく頼むよ」

 本業が軌道に乗り、やむなくポアロのバイトを辞めることになった安室さん。申し訳なさそうに後に入ってくれそうな人を探してはみると言っていたが、正直、本当に探してくれるとは思っていなかった。有能だけど、唐突にズボラになるところもあったし。こう言ってはアレだけど、シフトに関してはことさらルーズだったので、本当にあわよくば、くらいにしか思っていなかったのに。

 まさかの安室さんを超える美青年がくるとか、まったく、本当に、想像を軽く超えてきた。

 少しだけドギマギしながらも、オープン前の店内に案内してエプロンを着けてもらう。早速仕事を覚えてもらわなくては。安室さんはいなくなったけど、安室さんのおかげで定着したお客様は残っている。女子高生だけは同時に来なくなったけど、料理が美味しいという評判で通ってくれているお客様をがっかりさせるわけにはいかない。

「ちなみに、料理は出来ますか?」

「安室くんに基礎は叩き込んでもらったから、レシピがあれば簡単なものなら作れると思う」

「アフターケアすごい……」

 試しにと、安室さんが残していった伝説のレシピの一つ、ハムサンドを作ってもらうことにする。ありがたいことに、この料理に必要なのは一手間だけなので難しい技術は要らない。

 レシピを受け取った世良さんは、これは作り方も覚えているぞとにこやかに蒸し器の準備に入った。どうやら本当に覚えているらしい。シャキシャキのレタスと隠し味のお味噌が、すでに懐かしくなりつつある顔を思い出させた。

 舌鼓を打ちながら、色々とすごい人だったなぁと改めてしみじみしてしまった。なんというか、台風の目って感じの人だった。

「美味しそうに食べてもらえると、張り合いがあるな」

「あ! すみません! つい……」

「謝ることではない。安室くんは採点が厳しくてな、いつもしかめ面でしか食べてくれなかったんだ」

「えっ」

「まあ彼は俺のことが嫌いだからなぁ」

「えっ?!」

 色々と衝撃的なことを立て続けに話されて、処理が追いつかないままにコーヒーを差し出される。淹れるときにさらっと蒸らしたんだけど、すでに一般的に求められる基準をクリアしてるの、なんなんだろう。イケメンはなんでも出来ないといけないのだろうか。

「美味しい……。教えることがすでにほとんどない気がします……」

「褒められると気分がいいな。キッチンスキルは安室くんから及第点はもらっているから、安心してほしい。でもホールには立つなと言われてしまってな……」

「なんでですか?」

「敬語が喋れないんだ」

「割と致命的ですね」

「日本人はかたすぎる」

「うーん、グローバリゼーションってこういうことなのかしら……?」

 何はともあれ、猫の手も借りたいと思っていたところに舞い込んだのが、猫どころか経験者クラスのスキル持ちだったことは素直に喜ばしいわけで。細かいところは目を瞑ることにしよう。

 人として問題なさそうならなんとかなるでしょう。今はともかく、マスターの心が折れるのを阻止するのが先決だ。

「改めまして。よろしくお願いしますね、世良さん」

「よろしく。梓さん」

「……さん付けは出来るんですね?」

「安室くんがそう呼んでたから移ってしまったよ」

 ちなみにこの人、事情は知らないけれど、最近までは世良と名乗っていなかったらしく。特に店が忙しいときに苗字で呼びかけても一向に反応してくれなかったので、悲しきかな、とんでもないイケメンを下の名前で呼ぶという苦行を強いられることになるのだけど、この時の私はまだそれを知らない。

 



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思い出はオムライスから

 

 頬骨に関節がぶつかる感触がした。それなりに痛かったが、まあそれなりだ。やせ我慢というには弱々しくて、無痛というには悪意がこもっている。しかし、ここは一応、痛がっておいた方がいいだろう。向こうもそうなるように手を出してきたのだろうし、それらしく呻いたことで、焦るなり罪悪感を覚えるなりで退散してくれるのならそれでいい。

 そういうわけなので、出来れば真純が大人しく握りこぶしを震わせている間に退散してはくれまいか。可愛い妹が激昂するさまなど見ないに越したことはないのだ。

 しかし、そんな俺の願いは余りにも儚く。男たちは痛がる俺を見て尊大になってしまったし、頭に血がのぼるのは真純だけで済みそうにない。

 しくじったなぁ。事態の沈静化を願ってしおらしく頬を抑えるに留めたのに、どうやら見掛け倒しで叩きのめせるという自信を抱かせてしまったらしい。喧嘩が苦手などと、口にするのではなかった。勘弁してほしい。荒事は本当に苦手だというのに。

「おまえら、よくも!」

 今にも殴りかかりそうな真純を、怯えて震えていると勘違いでもしているのか。男たちは陳腐な台詞とともに真純のその腕を取った。そしてその腕を、俺は強く握った。

 折れない程度に調整するのは、なかなか骨が折れるな、なんて。矛盾しているようでしていない。つまらない言葉遊びで心の中を落ち着かせる。痛みを訴えながら安い挑発を吐く男の声に、そのまま乗っかってはいけない。問題を起こすと日本はとても面倒なのだ。

「喧嘩は苦手だと、何度言わせるんだ。お前らの程度に合わせなきゃならない、こっちの身にもなれ」

 背筋を伸ばして、指に力を込め、出来るだけ低い声で威圧する。俺より頭一つ分は低いだろう身長はなかなか日本人らしい高さだが、そのサイズ通り、どうか慎ましく生きてほしい。血気盛んは結構だが、身の程知らずは身を滅ぼす。

 手の中で骨が軋む。おっと、力を入れすぎた。慌てて力を緩めると、腕はするりと逃げていく。因みに、真純の腕はとっくに解放されていて、俺の後ろで大人しくしている。女の子らしくあれとは言わないが、もう少しくらいは殊勝に生きてくれると、兄としては心が穏やかで済むのだが。真純にそれは酷か。

「失礼、少し力を込めすぎた」

「ひっ」

「まあ、スマートじゃないエスコートをした報いだと思ってくれ。俺を殴ったことは、不問にしよう」

 笑ってそう言えば、男たちは蜘蛛の子を散らすが如く、逃げ去った。去り際が潔いのがせめてもの救いだなぁと、背中にいる妹を振り返ると、それはもうぶすくれた顔をしていたので、今日は厄日だなとため息を飲んだ。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 吉兄は言う。兄さんはそういう人だからと。

 ママは言う。秀一だから仕方がないと。

 二人は言う。真純にはわからないかもしれないけどと。

 それが、ボクはたまらなく嫌だった。

 

「なんでやられっぱなしだったんだよ! あんな奴ら、秀兄なら簡単に返り討ちにできるだろ!」

 蘭くんと園子くんを家まで送って、秀兄と並んで家に帰る。ホテル暮らしはようやく終わって、ボクの家はふつうの一軒家になった。ママと二人、こじんまりした家。

 充分すぎる広さだけど、それでもやはり広く感じる一軒家に、秀兄は住んでくれないという。親元で甘えるにはさすがに歳を取りすぎたと笑って、ママは愚息の世話は慣れているがと煽った。秀兄は柔らかく微笑んで、何も答えることはなく、結局ママが先に折れた。決めたことを覆す奴ではないなと、ママも微笑んだ。

 ボクには、それがわからない。

 家族なのに一緒に住めない理由だってわからないし、それを良しとする理由もわからない。そしてなにより、そんな風に笑う秀兄がわからない。

 ボクが見てきた秀兄は、そんな笑い方をしない。強くて格好良くて、黙って殴られたりなんかしない。突っかかったボクを叱りもしないで許したりしない。全然違う。そう思ってしまうことが、どうしようもなく嫌だった。

「俺はあんまり喧嘩が得意じゃないんだよ、真純」

「でも、強いじゃないか」

「強さと好き嫌いは別だろう?」

「それは、そうかもしれないけど」

「真純は、強い俺の方がいいか?」

「……わからない」

 わからない。秀兄がわからない。ほとんど会ったことがなかった兄が、わからなかった。

 ボクが初めて秀兄に会ったあの日。ママと殴り合いの喧嘩をして目に痣を作って、ボクのことをほとんど見ていなかった。魔法使いに笑った。仏頂面で喧嘩が強くて、頭が切れてシャーロキアンで。ボクは兄を心の底からカッコいいと思った。憧れた。そんな兄は、すぐにまたどこかへ行ってしまったけど。

 次に会ったとき、兄は会ってはいけない人だった。スコッチと呼ばれていた彼は、秀兄をどう思っていたのだろうか。

 コードを教えてくれた彼が、きっともうこの世にいないのだろうことだけは、ボクにもわかっていた。どうしてそうなってしまったのかはわからない。秀兄がそれに無関係でないことだけは、なんとなくわかる。

 カッコいい兄は、彼が死んだとき何を思ったのだろう。優しい人を失って、心を痛めたりしたのだろうか。

 そもそも秀兄は、人を亡くして、心を痛めたりするのだろうか。無感情ではないだろう。どちらかと言えばボクの兄であるのだし、激情型のはずだ。それは血筋なので仕方がない。

 吉兄はよく、僕はおとなしいよなんて言ってくるけど、おとなしいだけの人は七冠なんて達成できるはずもない。吉兄だって、血が沸騰すれば周りなんて目に入らない、穏便な激情型なのだ。

 話が逸れたが、ともかく。悲しんだか惜しんだか、怒りに震えたかなにか。感じたはずなのだ。でもやっぱり、ボクにはその感情を当てられない。

「わからないよ。だってボク、妹なのに、秀兄のこと何も知らないんだ」

 わからない。ボクが今まで見てきた兄は、一体なんだったのだろう。夢か幻だったのだろうかと、何度も考えては、紛れもなく現実だったとかぶりを振る。そしてボクの考えを肯定するように、ボクより秀兄とながく生きてきたママと吉兄が言うのだ。あれはあれで、間違いなく秀兄だったと。少し悲しい目をして、そんなことを言うから。

 ボクは、苦しくなる。何も知らないボクを肯定されると、どうしようもなく息苦しい。

「知らなくていいんだって、そんな風に言われてるみたいで、ボクは、寂しい」

「……真純」

「家族なのに、一緒に暮らせないし」

「そうだな。俺が断ったから」

「ママはそれでもいいみたいな反応するし」

「三十超えた息子が親と同居も、ちょっと、アレだろう」

「世間体なんて気にしないと思ってた!」

「お前はもう少しだけ気にしろ」

 これでは子供の癇癪だとわかっているが、もう勢いがしぼむことはない。言ってしまったと少しだけ後悔が戻ってくるが、それ以上に溜まった鬱憤の方が大きくて。理性は濁流に飲まれるようにかき消えて、そのまま涙の栓もどこかにさらった。

 ボロボロと子供のように泣き喚きながら、ボクは言う。同じことを何度も言う。一緒に暮らせないのは寂しくて、知らないなんて仲間ハズレは悲しくて、それを許容されることはもっとも苦しかった。だってそんなの、家族じゃないみたいで。

 一緒に暮らしていなくてもボクを心配してくれていたあの秀兄が嘘になってしまう気がして、ボクは何が本当かわからない。きっと優しいんだろう。きっと穏やかなんだろう。ママと吉兄がいう秀兄が本当なんだろうと、思えば思うほど全てが嘘の思い出になっていく。ボクにとっては、あのかすかな記憶だけが秀兄なのに。

「真純」

「なんだよぉ」

「真純も泣くんだなぁ」

「誰のせいだと思ってるんだ」

「すまない。快活なイメージしかなかったから」

 鼻をすんすん鳴らしながらべそをかいていると、秀兄の大きな手がそろりとボクの目元に伸びてきた。硬い皮膚を持つ親指で弱々しく涙を拭われて、ああ、秀兄は二人が言うようにこういう人なのだといやでも理解する。頬に当たる指の付け根が潰れたタコでさらに硬い。

 そうして、こうなるまでにどれほど自分を歪めたのだろうと悲しくなる。ボクはそれを強要した一人なので、なおさらだった。

 二、三度秀兄の親指がまぶたの上を往復して、真純ともう一度名前を呼ばれた。頬を両手で包まれたまま目を開けて顔を上げると、秀兄はそれはもう嬉しそうに微笑んでいる。こっちは泣いてるんだけど。

「ごめんな、真純。俺は真純のことを、何も知らないから」

「それは」

「真純も、俺のことを知らないよな」

「……うん」

「大きくなったなぁ」

「いつと比べてるんだよ」

「真純が生まれる前とだよ」

 母さんのお腹の中にいた時と、海に出かけた時と、電車で追いかけてきた時。

「俺は、それしか真純を知らない」

「一回は生まれてもいないじゃないか」

「そうだな。だから、真純が俺を知らなくても仕方がない」

「それはやだ」

「俺だって知らないままは御免だ。可愛い妹だからな」

「えっ」

「知らないことは知っていけばいいだけだ。案外簡単だよ。さぁ、真純。何が食べたい? 少しだけ料理が出来るようになったんだ。母さんや秀吉も呼んでご飯にしよう。二人とも俺が料理なんてしたら目をむくぞ」

「えっえっ?」

「包丁で割ったら半熟卵が流れてくるオムライスもようやく作れるようになってな、見ててくれ」

 さあ二人を呼んでくれと言われるままに、電話でママと吉兄を呼ぶ。なんと言って呼んだかはボク自身忘れてしまった。あんまりにも秀兄のノリが想像より斜め上で、たぶんついていけてなかったんだなと後になって思う。なんなら呼び出されたママと吉兄もよくわかってなかった。

 ボクにわかったのは、ママと吉兄にも秀兄について知らないことはあるということと、秀兄がボクをオムライスで宥められる可能性があるくらい子供っぽいと思っている可能性があるということだけだった。オムライスは美味しかった。

 



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穏やかに生きている

 

「世良が、半熟卵がなかなか成功しなくて意固地になってたのを見て色々目が覚めたって言ってましたよ」

 白けた顔を見せながら、コーヒーを飲みにやってきた新一くんは手元のストローでほとんど黒色の液体をかき混ぜた。カラカラとグラスに氷がぶつかる音が耳に心地いい。今日はよく晴れたあたたかい日で、彼が飲んでいるものと同じアイスコーヒーがよく売れる。

「ははは。あの時より成功率は上がったぞ。食べていくか?」

「結構です」

「遠慮しないで、俺の奢りだ」

「秀一さんすぐに誰彼かまわず知人に奢るのやめてください、バイト代から引かれてるんですよ?」

「その分また稼げばいいだろう?」

「バイト代もらう気ありますか?」

「もらえたらありがたいなぁ」

「う〜〜〜ん、この人大丈夫なのかしら……安室さんとは別の意味ですごいわ……」

「気をもむだけ無駄ですよ梓さん」

 考えたってわからないことはあるんだと、とても平成のシャーロック・ホームズとは思えない発言をした新一くんは、慣れた手つきでスマホを操作しながらストローを咥えている。行儀が悪いとは思ったが、彼ももう高校生。喉に突き刺さるような事故には繋がらないだろうと信じて、放置する。

 発言から察するに、彼もどうやら俺の変わりように色々と考えを巡らせたらしい。家族以外はおおよそ彼のように何があったのかと訝しむか、特に深くつっこまずに受け入れるかのどちらかなので、その反応が目新しいということもない。

 特に彼は、真実を暴くのが仕事であり使命でもある探偵だ。探らずにはいられないのだろう。その点に関しては探られて痛い腹があるわけでもないので、答えられることには全て答えてきたが、その結果、彼は考えたところで仕方がないという結論に至ったのだろう。

 正直なところ、その決断は俺にとって意外であった。言葉を選ばずに言えば、もっと問答無用で古傷までまさぐってくるイメージがあった。もっとも、そうされたところで俺の古傷は彼には開けないので、構うことでもないのだが。

「あんなに根掘り葉掘り聞いてきた口から出る台詞とは思えないな」

「FBI辞めてフリーター生活選んだ人に言われたくない」

「FBI?!」

「その前に山籠りしたらしいし」

「山籠り?!」

「俺の赤井さん像はもうめちゃくちゃ……考えるだけ無駄……」

「君は俺に夢でも見ていたのか?」

「……けっこう見てた」

「それは光栄だ」

「FBIと山籠りってなに? え? 秀一さんが辞めたのってFBIなんですか? え? FBIって山籠りするの?」

「ははは」

「はははじゃないんですけど!?」

 一人で何人分も騒ぎ立てる梓さんを放置して、客が帰ったばかりのテーブルを片す。日本人の大半は必要以上に荒らさないので助かる。過剰に綺麗に使いすぎのような気がしなくもないが、こちらとしては仕事が減るのだから素直に感謝しておこう。

 カラカラと、ドアベルが鳴る。いらっしゃいませと顔をそちらに向ければ、見慣れた赤茶色の髪が揺れていた。新一くんとは異なる制服に身を包んだ志保だった。

 工藤くんと、落ち着いた声が彼を呼ぶ。どうした? と、こちらも落ち着き払った様子で彼女に応え、自身のとなりのカウンター席へと促す。するりと足がカウンターと椅子の足の間に収まって、アイスコーヒーひとつお願いしますと梓さんに告げた。

「こんにちは」

「ええ、こんにちは」

 空いたグラスやお手拭きの残骸をトレーの上に詰め込み、カウンターの中に戻る。水出しコーヒーをグラスに注ぐ梓さんの隣で洗い物をしながら、手元に降り注ぐ水柱に目を落とした。食洗機を使うのは繁忙時だけなので、客が一組しかいない今、カウンターから離れるにもこの洗い物が終わってからでないと理由がつけられない。

 手早く片し、志保のもとにアイスコーヒーが届けられる頃、ちょうど蛇口を捻ることができた。柔らかいタオルに二、三度手を押し付けて、買い出しに名乗りをあげる。

「じゃあこれ、お願いしますね」

「承った」

 エプロンを外し、カラカラと、先程聞いたより大きなドアベルの音を背中に受けながら、店を出る。そのあと、二人がどのような会話をしていたのかはわからない。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 露骨だなと、行儀悪くストローを口に咥えたまま話す工藤くんに、行儀が悪いわよと真っ先に言ってしまったのは最早くせみたいなものだった。

 それなりに長く、幼い友人たちに囲まれて生活していたせいで、躾みたいな台詞がすぐに口をついて出てきてしまう。その度に彼は懐かしそうに少しだけほころんで、わりーわりーと、ちっとも悪びれずに謝罪するのだ。

 今日もその通りの会話が続いて、ストローはグラスへと帰っていく。私は、露骨だと言った彼の言葉へは応えないまま、そのまま本題に入った。

「これ、この間の」

「おっ! さすが宮野」

「さすがじゃないわよ。こういうことやめたら?」

「オメーも気になるだろ?」

「別に」

「いとこなんだろ?」

「らしいわね」

「らしいって……」

 スクールバッグから小型のノートパソコンを取り出して、そのまま彼に見せびらかしていたUSBを差し込む。出てきたファイルはひとつだけ。赤井秀一が世良秀一になった経緯だった。あの人はそのあたり、特に隠すつもりもなかったようで、手続きの詳細もその後の行動もあっさりと見つかった。

 例の作戦のちょうど終わり頃、改名の手続きを完了させ、同時進行でFBIの退職手続きの申請と受理がおこなわれた。作戦自体は日本での決行となったので、一度アメリカに帰国。そのままとんぼ返りする形で日本に入国。改名手続きが完了していたため、その頃にはすでに赤井秀一から世良秀一へと名前を改めている。これにより上手く追跡をかわし、そのまま東北の山中に拠点を移した。

 それより後は、誰もが知る通りだ。降谷さんが山から引き摺り下ろして、その足でアメリカに飛び立ち、数日経たずに戻ってきて、ポアロでバイトを始めた。

 どうやら、安室透がいなくなったことによる榎本さんへの影響を鑑みた結果、護衛のようなものが必要だろうと判断されたらしく、あの人はそれを引き受けたようだ。彼の今の収入は、バイト代ではなく公安の協力者としての部分が大きい。

「うーん、本人に聞いた内容と一緒だな」

「そりゃそうでしょ。あの人が嘘をつくメリットがないもの」

「信用してんだな」

「疑うことに意味がないだけよ」

「あのなぁ、オメーがそういう態度だから赤井さんもああなんじゃねーの?」

「あの人、日本に来てからはずっとあんな感じよ。当たり障りなくっていうのかしら」

「話したりしねーのか?」

「世良さんとは少し話すようになったけど、それくらいね」

「そっちのが意外だな……」

 あの人が帰国してからしばらく、世良さんはよく落ち込んでいた。兄が兄だと思えないようなことを言って、そんな風に思う自分を恥じたり、悔いたりしていた。しかし、それもついこの間までのことだ。

 彼女も結局、工藤くんのように考えたって仕方がないと変なこだわりをやめて、気軽そうに笑うようになった。過去は過去と割り切る強さを垣間見た私は、なんとも言葉が出なかった。

 私は結局、あの人に一番聞きたかったことが未だに聞けずにいる。

「工藤くん。あの人から何か、お姉ちゃんの話って聞いたことある?」

「……流石にねーよ。俺から聞ける話題でもねーし」

「そうよね」

 さすがにそのレベルの倫理観はあるようで安心したわとコーヒーを細いストローから吸う。白いストローの中を、濃い茶色の液体が登ってくるのを視線で追いかけながら、すこし乾いた口の中を潤した。

 喉を鳴らして、食道を冷たい液体が落ちていくのを感じながらもう一口。冷えていく胃の中のように頭も冷えてくれればいいのにと思いながら、胃に飲み物を送り込む。

 こんなこと、冷静じゃない時に聞こうものなら、下手をすれば翌日には新聞の一面に載る。返答次第では私はそれこそ手段を問わないだろう。

 あの人は、お姉ちゃんを愛していたのだろうか、なんて。

 それ自体を結局一度も疑えないまま、あの人は穏やかに緩やかに日々を過ごし始めていた。それを私自身、憎らしく思っているのか、安堵しているのか。それもまた、いくら考えてもわからない。

 それならば聞けばいいのだと、そんなことは理解している。それでも、聞くのが怖かった。否定されると思ったわけではない。拒絶されると考えたこともない。

 それでも。あの穏やかな人が、その様に相応しく生きていくというところに、要らぬ波風を立ててしまうのではと恐れている。だって、お姉ちゃんはそんなことを望まないから。それでも。それでも。

 愛してくれていたのならば、傷を引きずって生きてほしいと望んでしまう私がずっといるのだ。そんなこと、どうしたって言えなかった。

 



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花を贈る

 

 月に一度だけ花を手向ける。色鮮やかなみずみずしい花を、季節の花を。

 幾度と繰り返せば花屋も慣れたもので、今日は品種改良で生まれた新種の薔薇を勧められた。桜のような色合いが、日本人らしくて好ましいと思ったのでそのまま購入したのだが、今になって薔薇を贈るなど余りにも滑稽で少しだけ笑ってしまう。

 しかも、このあと俺が持ち帰って部屋の花瓶にさすのだと思うとなおのことだ。一人暮らしの寂しい我が家の色味は、この月に一度の手土産くらいもので、そろそろまともに雑貨も揃えておかないと、ふとした時の来訪で問い詰められそうだ。

 俺としては、ほとんどない物欲に従っているだけなので、心配しなくとも平気なのだが、それをいうには今までの行動が問題だったので素直に口をつぐむとする。

 線香ではなくディフューザーを。慎ましやかな花ではなく艶やかな花を。彼女が好むかどうかも定かでないまま、贈り続ける。品々を添えられる石が何も言わないのをいいことに、やりたいようにやる。俺が望むままに動く。

 俺を好いてくれたその気持ちに、報いる方法も分からぬままに。

「あなただったのね。まあ、他に足繁く通ってくれる人もいないけれど」

「おはよう、志保。早起きだな」

「おはよう。誰かさんがいつもこそこそ月命日にお参りしてるって、お節介なお巡りさんが教えてくれたから」

 知らないフリをするのも、どうかと思ったのよ。一度言葉を区切って、志保は控えめにあくびをこぼした。あいも変わらず朝に弱いらしい。その歳から夜更かしばかりだと十年と経たずに後悔しそうなものなのだが、それこそお節介な上に人によってはセクハラだ。

 気安い空気をわざわざぶち壊すこともあるまいと、お節介なお巡りさんのことを考えながら言葉をもらす。

「降谷くんはお人好しだからなぁ」

「あなたがそれを言う?」

「俺のはただの自己満足さ」

「降谷さんも同じでしょう。知らなければ、私は今日ここには来ないもの」

「そうか。呼び出してくれてもよかったんだがなぁ」

「ここで話をしたかったの」

「明美の前で?」

「そう。お姉ちゃんの前で」

 明美の墓前で、志保は聞く。明美のことをどう思っていたのかと。いまさら嘘偽りを重ねて誤魔化すつもりなど毛頭ないのだが、これを明美に言うのかと思うと、さすがに喉が重かった。

 わからないと、正直に答えた俺に対して、志保は憤るわけでもなく同じ言葉をおうむ返しした。少しだけ上がる語尾に、意味を咀嚼しきれない戸惑いを感じる。

 それもそうだろう。見殺しにしておいて、その相手への気持ちの形も定かでないなど。しかし、俺にはそう答える他なかった。俺は、明美への気持ちが、わからないのだ。

「今から話すことは、夢物語だと思ってくれて構わない」

 少しだけ前置きをして、俺はとうとう口にする。昔は、未来に起こることが少しだけわかったということを。何度も何度も繰り返し夢見ては、父が死ぬことも、母が薬を飲むことも、明美を見捨てることも、志保が死のうとも死に切れなかったことも、全て知り得ていた。

 そうして知り得た上で、俺は父を助けなかったし、母を守らなかったし、明美を死なせたし、志保を放置した。全ては、見た夢の通りにする為に。

 そういう意味で言えば、俺が明美に抱いた感情は、まさしく、死んでほしいという一言に尽きる。ただただ、俺は明美に死んでほしかった。

 俺を責めて、言わなければわからないのかと詰ってほしかった。見放す俺を追及してほしかった。今でもそうしてくれないかと願っているし、どうしてそうしてくれなかったのかと考えてしまう。

 もっとも、その疑問への答えは俺自身が持っているので、揺らぎようがないのだが。俺はどうしたって赤井秀一にはなれなかった。

 俺は彼ほど有能ではなく、そして突き抜けた野望も抱けなかった。父が死ぬ時も、その無念を晴らすことより残った家族の心身の方が大切であったし、真実を追い求める快感にも酔えなかった。

 俺は彼ほど勇敢ではなく、そうでありながら彼以上に利己主義であった。俺は結局、我が身の可愛さに日和見を貫いただけ。あらゆるものを自分を中心として天秤にかけては、傾く方に、夢見の方に指針を示した。

「あなたは、お姉ちゃんに死んでほしかったの?」

「……ああ、そうだ。明美が死ぬことを、俺は強く望んだ」

 そう言えば、志保はあやすように笑った。

「嘘ばっかり」

 あなたのこと、正直者だと思っていたのだけどと志保は言う。そうして一つ間をあけて、そうじゃないわねとまた笑った。

「わからないって、そういうこと」

「どういうことだ?」

「鈍いのねってことよ」

「まあ、とろくさいところがあるのは認めるが」

「やだ。世良さんが予想の斜め後ろからくるって言ってたけど、ほんとね。お姉ちゃんが可哀想」

「……どういう文脈だ」

「あなたはきっと、お姉ちゃんがどれだけあなたのこと好きだったのか、一生気付かないんでしょうね」

「おい、志保」

「質問はその答えが出た後にするわ」

「……何を聞くんだ?」

 志保は笑う。優しく笑う。許すように、仕方がないのだとほだすように、笑うのだ。

「お姉ちゃんのこと、愛してたかどうか。いつか答えを聞かせてちょうだい」

 志保の顔は、どうしようもなく似ている。

 責めてくれない明美と、いやになるほど重なった。

 



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確かな悼みを

 

 相談したいことがある。そう言われて勇んで兄さんの職場に足を運べば、なんというか、けっこうな惨事が広がっていた。

 店は繁盛しているなんてものではなく、お昼時ということを差し引いても大混雑していて。それを兄さんはまあ手慣れた様子でさばいていくのだけども、終始心ここにあらずといった感じにアンニュイなため息なんかを意味深についたりするものだから、言葉を選ばず言えば、まあ、結構な数の女性にすごく騒がれていた。

 生涯職には困らないだろう美丈夫な兄に遠い目をしつつ、僕は大人しく隅っこの方でそのざわめきが収まるのを待つ。

 淹れてくれたコーヒーがとても美味しくて、甘いクリームをふんだんに使われたパンケーキによくあっている。舌鼓を打っていれば待つ時間はそんなに苦ではない。

 そもそも、兄さんが僕に相談したいなんて言ってくれたのだから待つ時間すらも嬉しさでそわそわして仕方がなかったのだけども、ともかく。ほとぼりが冷めるには結局四時間ほどかかってしまい、ようやく兄さんが一息つけるようになった頃には、もはや夕方に差し掛かるような時間になっていた。

「すまないな、随分と待たせた」

「いいよ。コーヒーもケーキも美味しかったし」

「最近なぜかやたらと混むんだ……」

「あ、自覚ないんだ?」

「? なにがだ?」

「ううん、別に。それでこそ兄さんって感じ。……で、どうしたの? 改まって相談って」

「秀吉、おまえ、由美タンのどこがすきだ?」

「えっ全部だけど……なんの話?」

「志保にな」

「ああ、志保ちゃん。なに言われたの?」

「明美のことを愛してたかどうか聞かれたんだが」

「……うん」

「俺にはわからなくて、答えられなかったんだ。というか明美に限らず、異性をそういう意味で見たことがあるのかどうかも、わからなくなってな」

「うん」

「身近にそういう話を聞けそうなのが秀吉くらいしかいなかった」

「そう……。まずは友達作ろうね、兄さん……」

 そう言いながらも、僕も友人に関してはあまり人のことを言えないことを思い出しつつ、コーヒーを一口すする。鼻を抜ける香りが心地よくて、器用なのか不器用なのかわからない兄さんに少しだけ笑ってしまう。

 志保ちゃんと明美さんのことは、おおよそだけ話を聞いていた。母さんと同じ薬を飲んでいたこと、隠れて生きていたこと、明美さんと兄さんが付き合っていたこと、明美さんが死んでしまったこと。

 きっと僕が知らなくていいことを除いたら、これだけしか伝えられなかったんだろうということはわかっている。だから僕もそれ以上のことを聞いたりはしない。だから知り得た中で、僕は兄さんの悩みをひもとかなければならない。

 まず、なぜ志保ちゃんは兄さんにそんなことを聞いたのか。付き合っていたのだから、ふつうに考えたら兄さんは明美さんのことがすきだったはずだ。聞くまでもない。だけど、聞かずにはいられなかった。

 それはつまり、ふつうに付き合っていたというわけではない、ということになる。そうなると、どうだろう。兄さんは好きでもない相手と付き合っていたことになり、そして、その相手は今、この世にいない。

 もしかして、それすらも兄さんのせいだとすれば。

 志保ちゃんの疑問はもっともだ。血を分けた姉は、付き合っていた相手のせいで命を落とした。ならばせめて、愛してくれていればと願う。真っ当な感情だ。

 僕としては、到底信じられる話ではないのだけど、あの頃の兄さんを思えば否定することもできない。やりかねないという危うさは充分にあった。でも、それでも、兄さんは兄さんだ。

「こう言ったらあれなんだけど」

「なんだ?」

「愛してたよって、取り繕っておこうとは思わなかったの?」

「……ただでさえ、不誠実だったんだ。これ以上それを重ねるわけにはいかない」

「そっか」

 じゃあ、兄さんはきっと、明美さんのことをこの上なく愛していたんだろうね。僕は確信を持ってそう言った。どうしてわかるのかと目を丸くする兄さんに、僕は笑ってしまう。どうしたって笑えない結果だったけど、少しでも兄さんが楽になればいいと、僕の願望に沿った笑顔で、言う。

「兄さんは、万人に優しい人ではないから」

 だからきっと、死んでなお心を砕くというのなら。きっと明美さんのことを愛していたのだろう。そしてそれに気が付けないというのなら。きっと、それに気が付くこと自体が、兄さんにとって辛いことなのだろう。

 でも、それでも知りたいと願うのなら、僕は、できるだけ苦痛を取り除いて伝えてあげたいと、そう思う。

「故人に想いを馳せている時点で、きっと、言い表せないほどの感情は、あったと思うよ」

 喉に流し込んだコーヒーは冷めていて、舌に広がる苦味は美味しいとは形容しがたかった。

 





 簡単なことに気付いてしまえば、あとは全て芋づる式に明らかになる。
 俺はわからなかったわけではなく、わかりたくなかっただけだ。認めてしまえば、取り返しがつかない、だけではなくなる。
 俺は自分の選択で、見捨ててはいけないものを見捨てたと、改めて思い知ることになる。守らなければならない人を、見殺しにしたと。突きつけられる。
 笑えない。どうしたって笑えない。笑えないのに、もはや、俺は己の愚かさに嗤うしかない。


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償い

 

 線香の煙が立ちのぼる。そのすぐ隣をまた別の煙が追いかけるようにのぼっていく。肺を汚すこれを、明美の前で吐き出したことはなかった。気を遣っているていを醸し出せるのならと、居ないところでは率先して吸っていたのだが、そもそもこれを美味いと思ったことはない。彼のような演出ができればと、俺にとっては服を着るような行為とほぼ同義だった。

 全て、全て。俺は欺いて生きてきた。

 彼のようになりたかったわけではない。彼のように生きたかったわけでもない。俺はひたすら、彼から逸脱した自分が起こすイレギュラーが怖かった。俺自身を、何よりも恐れていた。

 一つのミスで全てを瓦解させるのではと、守れるはずのものすら取りこぼしてしまうのではないかと。だから、自分を殺してしまいたかった。

 赤井秀一ではない俺のことなど、見つけてほしくなどなかったのに。

「お前は、いつも、俺を見ていたんだな」

 墓石は何も言わない。変わらずぷかぷかと白檀の香りを吐き出し続けている。風が吹けばたゆたって、俺が吐き出す紫煙と混ざりそのまま空に溶けていった。

 明美はもう、どこにもいない。

「俺は……、俺は、世良秀一。それが俺の名前だ」

 声はもう、どこにも届かない。

 

✳︎✳︎✳︎

 

 カラコロとドアベルが鳴る。いらっしゃいませと男の声が柔らかく、少しだけ低く、あたりに響く。

 空いた席へと、言われるよりも早くやってきた二人は前へ進む。見慣れない組み合わせに、少しだけ顔をほころばせた男に一瞥して、カウンター席の一番奥、もっともキッチンがよく見える席に引き寄せられるようにして足を進める。

 こんにちはと、すれ違いざまに挨拶を交わす。答える声も、微笑んで返す。こんにちは。

 少し日が傾いた今の時間には、三人の他には誰もいない。

 手慣れた様子で、男はコーヒーを注ぎ始める。まだまだ陽気が勝る今日この頃、差し出されたアイスコーヒーに、二人はもちろん文句をこぼすこともなく口をつける。傾いたグラスになみなみ注がれたコーヒーは、二人の喉を潤した。蒸らしたほどではない、ほのかなコーヒーの香りが鼻を通り抜ける。

 とても静かな、明朝のような静けさの中、キッチンが手際よく料理を生み出す音だけがわずかに騒がしい、パチパチと油が跳ねる音がして、香ばしいベーコンの匂いが周りに広がる。

 何を作っているのかと、やってきた片方が男に尋ねる。その返事は卵がフライパンに落とされた音でかき消されたが、じゅうじゅうと焼きあがる目玉焼きは言葉以上に雄弁に己の存在を主張している。なんだか朝食みたいねと、もう片方は笑った。

「この間の答えだが」

 コトリと二人の前に、二人前のベーコンエッグとこんがり焼かれたトーストが差し出される。半熟に焼き上げられた卵はつやつやと輝いていて、フォークで割ればとろりと中身をさらけ出すのが見て取れる。不要な油を除かれたベーコンに濃厚な黄身がかかれば、えも言われぬ美味しさをもたらしてくれることだろう。

 返事をするべきは、志保ではないよな。自分用にと焼いたトーストをざくりと齧りながら、男は言った。カウンター席では、並んだ二人が各々、トーストにバターやジャムを塗っている。男の言葉に耳を傾けながら、思い思いにそれを食事と共に咀嚼して、飲み込む。

 胃に落ちたものが溶かされ、体に吸われるように、男の言葉は二人の胸にするっと解けた。

「俺が死んだら、地獄で彼女に伝えよう」

 そう。一人は静かにそれだけこぼして、バターが塗られたトーストで皿にとろけた黄身を掬った。

 そっか。もう一人もカリカリのベーコンを奥歯で嚙み潰しながら、からりと笑った。

「ありがとう、二人とも」

 おかげで俺は、生きてゆけるよ。男はいつだか流した涙などなかったかのように、とびきり綺麗に笑った。悲しいことなど何もないのだと、明るく笑った。ある意味全て嘘だったが、それが男にとっての手向けだった。愛した女への、想いだ。

 そしてそれは、誰にも伝えられることはない。

 





 地獄で君に愛をうたおう。


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エピローグ

ここだけpixivからではなく物理版からの再録です。
ささやかな書き下ろしでしたが、当時手に取って下さった方々、ありがとうございます。


 

 動機は不純そのものだった。顔がいい店員さんがいるからと、同僚に勧められたのが始まりだ。目の保養という名目で通い始めた喫茶店は、言葉通りに見目の良い男女の店員さんが切り盛りしていた。

 きっかけは不純の一言だったけれど、通い続けた理由に顔はあまり関係ない。食べたご飯が美味しかった、出されたコーヒーが美味しかった。それだけ。ある意味では、さらに煩悩に近づいた欲求に従い私はその店に長く通うことになった。

 しばらく通ううちに、男性の方は辞めてしまったらしく、私にとっては有難いことに若々しい客層も合わせるようにどこかに消えた。料理は変わらず美味しいままだったが、手の込んでいただろうメニューのいくつかがなくなってしまい、少しだけ落ち込んだ。

 絶対に口に出すことはないが、作れる人が限られているメニューに入れ込むものではないなとため息をついたのは、一度や二度ではない。

 とろけたクリームが美味しかったケーキに思いを馳せつつ、相変わらずの味を約束してくれているコーヒーを飲む日々を送っていると、お店には新しい店員さんが増えた。ここの店は顔採用なのだろうかと、一瞬だけ胡乱な目を向けてしまったのは致し方がないことだと思う。

 新しくやってきたその人は、以前いた店員さんと系統は異なるが、やはり目を見張るような美形だった。誰に伝えることでもないが、スタッフの顔面偏差値リレーが大変なことになっていて、一人で勝手に女性の店員さんの心の平穏を祈った。顔のいい男は、いつだって周りの女性が勝手に火種にするのである。

 新しく入った店員さんは、以前いた人とほど万能ということはなかった。……こういうとかなりの語弊を生みそうだが、思い返すと前の人がひたすらおかしかっただけな気もする。

 文字通り、客の目線から見て彼はなんでもできた。写真は嫌いなようだったが、あの外見とあのモテ具合だ。そこは察するにあまりある。それ以外は、本当に弱点などなかった。クレーム対応から魅惑の新規メニューまで……思い出したらまた少し悲しくなってきたが、ともかく。

 それと比べてしまうのは少々評価が厳しくなるが、やはり見劣りしてしまうところはある。目に見えて上達しているようなので、今後に期待したい。

 そんな私の胃袋からの欲求はさておき、繰り返すが新しい店員さんも見目は大層優れている。ので、当然の帰結とも言えるが、いわゆる固定客のような層がまた出来た。しかも、年齢層的には本気と書いてガチと読みそうな方々からの支持である。

 一度、昼ドラのような一方的な愛憎劇を目の当たりにした時は、自分がホストクラブにでも迷い込んだのかと思った。美醜に優れることはいいことばかりではないのだと悟り、親に感謝した。普通って素晴らしくて、平凡って尊い。

 ちなみに、その昼ドラの山場回のごとく一歩間違えれば死人でもできそうだった場面を鎮めたのは、彼の言葉だった。

「異性の好み? ……そうだな、黒髪で、芯が強くて、妹思いで……。死んだ後も地獄から見守っててくれるような、そういう人が好きだな」

 頭の茹ったその女性もさすがに理解したようで、その日以降見かけることはなくなった。以来、固定客は健在であるがあそこまで激しい層はいなくなった。

 故人には勝てないと悟ったのだろう。賢明な判断だと思う。あんなに優しい声色で、亡くした相手を愛しているのだと言外に伝えられてなお食い下がる気力があるのなら、いっそ別のことに向けたほうがいい。

 私には理解できない。あんなに心穏やかに語れる気持ちも、なんてことはないかのように過ごせる気持ちも。そして、理解できない幸福に感謝する。それだけだ。

「ああ、いらっしゃい。今日は食事かな? それともデザート?」

「こんにちは、ショートケーキまだありますか?」

「もちろん。好きな席で待っててくれ」

 あとコーヒーもお願いしますと、キッチンに向かう背中に頼めば、親指と人差し指で輪っかを作った左手が返事をくれた。指ですらどことなく色気があって、すごいなぁと同情してしまう。私としては、その麗しい指でよりよいメニューを開発してくれたら嬉しく思う。

 それくらいの、なんでもない悩みに唸っててくれたらいいなぁと、今後に期待して、そんなちっぽけな願いを抱いてしまうのだ。

 




本を見ながら直接打ち込んだけどついつい色々手直ししてしまいました。お付き合いくださりありがとうございました。


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