趣味 (音翔カノン)
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趣味

さっき出したばかりのグラスが空になる。中身の水は食道ではなく、武治の長髪を伝って床に落ちていた。

またか、と武治は思う。

酒が入るといつもこうだ。先程から怒鳴り散らしている台詞には全くもって文脈というものが感じられず、とにかく家財を散らかして暴れ回り、まさに癇癪と呼ぶに差し支えない様相だった。

はじめのうちは、お前は間抜けだ無能だとこちらへの人格否定を繰り返すが、ある程度酔いが回ると泣きが入る。そうすればあとは放置して寝るまで待てば良い。それまでは何を言われても黙って話を聞き流し、頷き、謝罪し、ご機嫌をとってやる。

罵倒されるのは素面のときも同じことだ。

散々無能だなどと怒鳴られても、武治はそこまで気にしていなかった。少なくとも本人は気にしていないつもりだ。

武治には、一対一で父に勝てる自負があった。自分より下の相手に何を言われたところで、気に留めることはない。…と、考えている時点で、父の言葉が武治の思考に十分影響を及ぼしていることは明白だが、武治はそれを認めない。

父に「無能だ」と言われたことを間に受けているわけではない。勝てる自負があるのは本当だ。

ではなぜそうしないのか。

一度完膚なきまでに叩きのめしてしまえば、父も萎縮して自分に危害を加えてこなくなるかもしれない。

しかし武治はそうしない。自分より格段に弱い相手なのに、罵倒されても水をかけられても殴られても反抗しない。ただ体に痣を増やしている。父が酔って眠ったあとに、壊された家財の破片を集めて捨てて、自分の指が切れていることにも気付かぬふりで、父に都合の良いように過ごしている。

 

武治は父に怯えていた。

できないことがあるとすぐに殴られた。小さいうちはよく泣いたが、母が首を括って死んだときから、泣き方さえ忘れたようだった。

「こんなこともできなくてどうする」「俺の息子だろう」「お前が無能だと俺が恥をかく」「こんな調子では人前に出せん」「腕が折れても止めるな」「口答えするなら舌を落としてやる」

過激なこともよく言った。そして実際にやる男だった。

武治の右腕には、前腕から指先にかけて大きなケロイドがある。父につけられたものだ。

あの日は特に機嫌が悪かった。上手くやらねばと思うほど心は乱れ、指先が震え、失敗するたびに父の平手が飛んできた。

業を煮やした父が持ち出したのは湯を沸かしたばかりの薬缶だった。これから何が起こるかを察した幼い武治の顔が真っ青に染まる。泣き叫んで謝罪したが無駄だった。腕に当たって落ちた湯がばたばたと音を立ててカーペットに落ちた。一瞬の痛みはあったが、その後は痛覚が馬鹿になったようで何も感じなかった。ただ生理的な涙が溢れ、肺に残った空気を全て喉から押し出して悲鳴をあげていた。

背が伸びるたび、雨が降るたび、指で触れるたび引きつれて痛みを生じるその傷跡が、未だに武治をあの頃に縛り付けている。

 

ようやく酔い潰れた父をベッドに押し込んだ武治は、水をかけられて冷えた体を温めるためにシャワールームに向かった。

 

また別の日。

酔った父が突っ伏して泣き出したタイミングで部屋を出る。父が寝たらあとは花瓶を片付けて、本もしまっておかなくては。それから濡れたカーペットを干して、机を置き直して、ダメになった書類を確認して、空いた酒瓶を捨てて、それから、それから、それから。

 

「真知子」

 

またその名前か。

泣き出すといつもその名前を呼んでいる。お前が死なせたくせに。仏壇の手入れもしたことはない。昔から全部全部母さんに俺に押し付けて、甘い蜜だけ啜って、幸せな記憶に縋り付いてそうして生きている。お前が愛したのは母さんじゃない、ただ自分に都合のいい存在だろう。誰だってよかったくせに、唯一の人みたいに母さんの名前を呼ぶな。お前が殺したんだ。

 

ガラスの割れる音が、武治の思考を中断させる。

泣き出してからの父はものを壊すことも少ない。何かあっただろうかと中を覗くと、割れた酒瓶が目に入る。どうやら叩き割ったのではなく、机から落ちて割れたようだ。

それから、ツンとくるような異臭が鼻をさす。

父が吐いたようだった。父は倒れこみ、喉からごぼごぼと音を立てている。この状態で放置すれば、吐瀉物が喉に詰まって窒息死してしまう。

 

早く助け起こすべきだな。

 

部屋に入り、父に近づきながらどこか他人事のように武治は思う。ように、ではなく、本当に他人事だったかもしれない。

武治は笑っていた。

酸素不足で痙攣する肢体を見て、声も出せず必死に手を伸ばして助けを求める父と目を合わせて、武治はうっそりと笑っていた。

ふ、と声が漏れる。

一度漏れてしまうともう堪え切れない。堰を切ったようにげらげらと笑い出す。部屋に充満した異臭も高揚感を引き立たせるスパイスにしかならなかった。



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