海のフルーフ (矢田悠進)
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第1章 サメのフルーフ
1.あなたの名前は?
私がフルーフと目を合わせてしまって……そして言葉を交わしたあの日は、10月の初めの方だったと思う。
私、
もうとっくに海水浴の季節は終わっていて、海の中はもちろん、砂浜にも誰一人いないのが当たり前だ。
しかしその日は違っていた。ほとんど沈んだ太陽の放つ赤い光を浴びて、岩場に座り込む一人の少女が見られた。
私は少女に近づいていった。儚げな背中に惹かれたのか、ただ人がいたことに嬉しくなってしまっただけなのか、とにかく私は足場の悪い砂浜や岩場をゆっくりと歩いて少女のもとへ行った。
小高い岩の塊に腰かける彼女を見上げて、私は息を飲んだ。
尾ひれ。お尻の上から伸びるにょろっとしたソレは上半分は濃い灰色、下側は白く、先端は三日月の形をしている。これは、サメの尾ひれだ!
しかも一輪の白い花がくっついている。あれはなんの花だ?
恐る恐る視線を上へと移動させていく。サンダル、ミニスカート、スポーツウェア……ミニスカートは短パンに変えた方が海で遊びやすいのではないか……しかしそれは今重要ではない……私はとうとう顔を見た。
綺麗な横顔であった。高い鼻。引き締まったあご。物憂げに海を見つめる細い目は、西日より鮮やかな赤の瞳を宿していた。
だがその美しさが霞んでしまうほど強烈な存在が、彼女の首から上を支配していた。頭部にぐるぐる巻き付けられた包帯は、その巻き方から察するに少女自身で巻いたのだろう。そしてそれは怪我のために巻かれたのではない。額から生える「唐辛子」の根本を押さえつけるように巻かれている。唐辛子だ。彼女の額には大きな唐辛子が生えていて、右目を隠すように真っ赤な実がだらりと垂れている。——後からわかったことだが、尾ひれの白い花の正体は唐辛子の花だった。
私が彼女を見つめていたのはわずか数秒であったが、数年かかっても処理しきれないのではないかと思うほど、彼女には未知が詰め込まれていた。私は彼女に釘付けになってしまったので、この後こちらを振り向いた彼女とぴったり目が合うのは当然のことであった。その時初めて、彼女は左目が赤く、右目が青いオッドアイだと気づいた。
「あら? この季節、この時間に海に来るなんて、珍しいニンゲンね」
静かな、それでいて耳までまっすぐに届く声だった。うるさくないのに、心が洗われるような気分にさせてくれる穏やかな波の音と同じ優しさがあった。
「えっと、季節関係なく海好きでして仕事終わりなのでこんな時間なんですう……」
私の声は無駄に大きく響き渡る。私と彼女しかいないこの海辺より、和太鼓が鳴り響き大勢の人が集まる夏祭りなんかがお似合いだろう。
「私はフルーフ。あなたの名前は?」
「……イチムラ、アオです!!」
風が吹く。彼女の青みがかった灰色の長髪がなびく。私のショートカットも微かに揺れる。これが私とフルーフの出会いだった。
誤字あったらごめんなさい
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2.私はホホジロザメなの
「よっ」
フルーフは座っていた岩からアオの隣に飛び降りた。
「せっかくだし少しおしゃべりに付き合ってくれない?」
「えっと」
アオは腕時計に目をやる。この後の予定などはないのでそんなことをする必要はないのだが、目の前の少女から視線を外して冷静になりたかった。
「いいですよ!」
「決まりね。ねえ、アオって呼んでいい?」
「はい!」
「……緊張してる? 当たり前よね、こんな化け物が相手では」
「そんなことないです!」
アオは食い気味に否定した。確かにフルーフは奇怪な見た目だが、化け物とは思えなかった。
「うん、緊張してないし、化け物ではないと思います! フルーフさん可愛いから!」
「……ふふっ、あなた面白いね。あっちのベンチに移動しましょうか」
ここらは海岸線に沿って舗装された道路が伸びている。その道路と砂浜の境界にいくつか設置されたベンチをフルーフは指差していた。
アオとフルーフは砂の感触を足の裏に感じながらベンチに向かう。先を歩くフルーフの尾ひれがゆらゆら左右に揺れているのを、後に続くアオはついじっと見てしまった。見ているうちに、彼女に対する恐怖とか異物感は無くなった。アオの常識の中に、フルーフという存在はすっかり溶け込んでしまった。
二人はベンチに腰かける。わずかに砂が乗っているせいで、ざらついていた。わずかな沈黙の後、最初に口を開いたのはフルーフだった。
「私ね、元は魚なの」
「魚なんだね! じゃあサメさん!?」
「すんなり信じてくれるのね……。あなたすごいわ。私はホホジロザメなの」
「ホホジロザメかあ〜! サメの妖精で唐辛子がオマケか、唐辛子の妖精でサメがオマケか気になってたんだけどサメの……ホホジロザメの妖精なんだね?」
「そんなふうに思ってたの……? ただ、妖精ではないわ。唐辛子がオマケなのは正解だけど。アオは人魚姫って知ってる?」
「童話の人魚姫? もちろん知ってるよ」
「そう、その童話を知った私は……人魚姫のように人間になりたいと思ってしまって、海の底の魔女に会いに行ったの」
「魔女!? 魔女って誰!」
「魔女は魔女よ……海の奥深くで魔法を研究している存在よ。それで、私は魔女のところへ行って『人間にしてくれ』ってお願いしたの。そうしてこの姿になったのよ」
「……じゃあフルーフは妖精じゃなくて人間ってこと?」
「そうね。一応……」
アオはフルーフを、フルーフは自分自身を改めて眺める。そこそこ人間、そこそこ魚、そして残りは唐辛子……。
「この唐辛子は、飾りじゃなくて本物よ。本当に生えてくるの。これは魔女にやられたのよ! 人間の体を手に入れるだけじゃなくて、『体から唐辛子が生えてくる魔法』をかけられたに違いないわ」
「体から唐辛子……」
何のための魔法なのか全く分からないが、確かにフルーフを見る限りそう言い表すしかない。
「どうしようもないイタズラよね。特にこの、おでこから生えてくるやつは成長も速くて痛みもするのよ。こうやって包帯を巻いておくと少しはマシになるんだけどね……完全に押さえつけるように巻いてたのに隙間から飛び出してくるのはなんでなのよ〜!」
よほど腹立たしいのか、唐辛子のこととなるとテンションが高いなと、アオは思った。
日が完全に沈み、辺りが一段と暗くなる。
「さて、今日はこの辺にしましょうか」
フルーフは勢いよくベンチから立ち上がる。アオもあわせてゆっくりと腰を上げた。
「また会いましょ」
「……うん! またね!」
フルーフが最初にいた岩場の方に向かって去っていくのをしばらく見送って、アオも自宅へと急いだ。
アオは、フルーフがどこに住んでいるか気になって、その日はなかなか寝つけなかった。
「人間だから陸? ちょっとサメが残ってるから海? むむむ…………」
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3.がおー
次の日は土曜日だった。天気は快晴。
アオはフルーフのことが忘れられなかった。また会いたい。もっと話を聞いてみたい。アオは海へ出かけた。時計の針は10時を指していた。
20分ほど歩いて海岸沿いの道路まで来たアオは、フルーフを探しながら砂浜へと足を踏み入れる。昨日フルーフがいた岩肌の上には何もなかった。
「そう簡単には見つからないか……」
落ち着いて考えれば、あの不可思議な見た目の存在が人目につくところでうろちょろしているはずがない。そもそも、あれは幻だったのかも……。アオがぼんやりと昨日のことの全てを疑い始めたその時、
「しゃーーーくっ!」
「うわっ、わっ、わああ!!」
突然大声と共に背中を叩かれ、アオは思わず悲鳴をあげる。女々しい声など出せないので、小刻みで不審な叫びになってしまったが。
「フルーフ……!」
「あっはは! びっくりした? がおー」
フルーフは爪を立てて両の手を目線の高さまで持ってきて、得意げな顔でそう言った。サメらしさのようなものをアピールしているのかもしれないが、やはりその姿はほとんど人間だった。
「朝からどうしたの?」
「フルーフともっと話したくてきちゃった!」
「私と? ……ふーん」
「この街の海にキミみたいな素敵な子がいたなんて知らなかったからワクワクしちゃって。どうして今まで気づかなかったんだろう!」
「それは私が上手く隠れてるからよ」
「昨日も今日もこんなに簡単に会えてるのに?」
「昨日は油断してたの……今日は、あなたこんなところまで歩いてきて簡単だなんてやっぱり面白いのね」
アオはそう言われてまわりを見る。砂浜の端だった。実は、海岸沿いの道路から砂浜に行くには階段を降りる必要がある。道路は海より5メートルほど高いところにあるのだ。そして、アオは階段から最も離れた所まで歩いて来ていた。海水浴の季節でもないし、そもそもこの浜辺は遊ぶ場所としては使われておらず近隣住民しか立ち入らない。
「うわ! もう端の方だ! 確かにこの辺まで来る人はいないよね」
「そうよ。人がいるのは向こうの階段の近くだけ。昨日は私がニンゲンのゾーンに近づきすぎたとするなら、今日はあなたが自然のゾーンまで来てるわ」
バシャ、バシャと波は絶えない。ここでもし溺れれば……誰にも気づいてもらえないだろう。
「まあいいわ。せっかく来てくれたんだし、私のこと、もっと知ってもらおうかな」
フルーフは上の道路と下の砂浜を隔てる壁沿いで何かごそごそと探し始める。
「ふふーん」
フルーフは半分砂に埋もれていたぼろぼろの缶を持ち上げる。
「これ、私の持ち物入れ。拾い物だけどね」
「へ〜。お菓子の缶かな」
フルーフは四角い缶を開ける。そして中から取り出したのは、ハサミだった。
「しゃきーん」
「は、ハサミ!? 何するの?」
「唐辛子を切るわ」
フルーフは躊躇なく、額の唐辛子を根本から切断した。ストンと落ちる唐辛子の実に、アオは叫ぶ。
「わーー!!」
「大丈夫よ。髪の毛と一緒で、唐辛子の部分は切っても痛くないの」
「……そうなんだ。収穫、できるんだね」
フルーフは頭頂部から生えている短い葉や、尾ひれの花など魔法の唐辛子を切り落としていった。
「……スッキリしたね」
それを聞いてフルーフはニヤリと笑う。
「ふふ。もっとスッキリできるわよ。……ふんっ!」
フルーフは全身に力を入れる。すると、ぼしゅん!と煙が上がって、フルーフの尾ひれが消えた。
「わあ! ひれが消えちゃった……!」
「じゃじゃーん。サメのパーツも引っ込めることができるのよ。集中力がいるから、普段はヒレつきで過ごしてるけど」
唐辛子を切り落とし、尾ひれを隠したフルーフはアオに言う。
「さ、出かけましょ」
「どこに?」
「……ニンゲンの街っ!」
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4.私は地上の肉を食うわっ
アオはフルーフと海を離れて町の方へ戻り、小さなレストランに入った。
「バレなかったね」
「もちろんよ。どこに人外要素が残ってるっていうの」
案内された席に向かい合わせに座りながら、こそこそと言い合う。
フルーフは海から離れないと思っていたのでお出かけに誘われて驚いたが、聞けば時々町まで繰り出すらしい。
「何食べる?」
「アオは?」
「ナポリタンかな。おっちゃんのナポリタン小さい頃から好きなんだ〜」
フルーフは厨房の方をチラッと見る。初老の男性が慣れた手つきで料理をしている。店員はもう一人いて、厨房の人物と同じくらいの年の女性が注文をとったり料理を運んだりしている。
「2人は夫婦なの。このお店は私が子供の頃からあって、お気に入りなんだ」
フルーフにそう語るアオの表情は明るい。なるほど、夫婦で営まれる町の料理店ということか。納得してフルーフはメニューに目を落とす。アオと同じナポリタンでもいいが……。
「私、ハンバーグで」
「ハンバーグ好きなの?」
「肉よ。私は地上の肉を食うわっ」
「ニンゲンの体」は味覚も内臓もしっかり人間だ。魚として生きているのでは味わえない肉や野菜が堪能できる。
「じゃあ決まりだね。おばちゃーん!」
アオが呼ぶと、「おばちゃん」はすぐ来てくれた。
「アオちゃんこんにちはー。そっちの子はお友達?」
「そうだよー! 注文良いかな?」
「はいどうぞー」
「ナポリタンとハンバーグセット一つずつお願い」
「はーい。ちょっと待っててねー」
おばちゃんがおじちゃんに注文を伝えると、おじちゃんは早速作り出す。フライパンの熱い音が、フルーフの食欲を誘った。
料理を待っている間、フルーフはしばらく窓の外を眺めていた。穏やかな時間の流れが、胸の奥につかえていた言葉を声にする助けをした。
「ねえアオ」
「なあに?」
「アオは、どうしてそんなに簡単に、私の言うことや……私そのものを信じてくれるの?」
きいてしまった。ずっと気になっていた。これについては、案外そういうものだと納得させたい自分がいた。アオが我にかえりフルーフを怖がることを恐れる自分もいた。アオの口から信じてもらっていることをハッキリと聞きたい自分もいた。この質問は、フルーフにとって大きな意味のあるものだった。
「うーーん。うーーーん? フルーフが魔法の女の子だってこと?」
「……まあ、間違ってないかしら」
「……私ね、生まれた時からこの町に住んでるんだけどね。あれは5歳くらいの時かな……人魚を見たの」
「人魚……?」
「そうだよ。誰に話しても信じてもらえなかったけどね。海を眺めてたら、上半分は人のカタチ、下半分は魚のカタチの、人魚としか言いようがない生き物が飛び跳ねたのを見たんだ……! 水面から飛び出して、すぐもぐってしまったけど、シルエットがすごく綺麗だったのはハッキリ覚えてるの」
「それって」
「うん。フルーフとおんなじ魔法の子だったのかもね。私はあの時見たことが現実のことだって信じてるんだ。だからフルーフ」
アオはテーブルの上に無造作に投げ出されたフルーフの左手を両手で握る。
「私はフルーフに会う前から、フルーフのこと信じてたってこと!」
「……!」
彼女の眩しさにどぎまぎして、フルーフは窓の外に目を逸らす。
青い空が飛び込んでくる。遠くに青い海がキラキラと輝いている。青が美しいということを、フルーフは悟った。
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5.多分、サメに戻る薬なのよ
「おお! おいしそ〜!」
目の前に運ばれてきたハンバーグプレートを見てフルーフはよだれをたらす。
「ふふ、いただきます!」
「ゥンまああ〜〜いっ!」
がっつくフルーフは子供のようで可愛らしい。
「フルーフ、お肉好きなんだ」
「当たり前でしょ! 人間の体を得たってことは人間の舌を得たってことよ。これは人間の味覚を得たってことなの。サメのままじゃ味わうことなんてなかった絶品よ!!」
「なるほど……」
高速で動くフルーフの手と口を眺めながらアオもナポリタンに手をつける。
「うま……」
慣れ親しんだ味だが、一生飽きない自信がある。
二人はあっという間に料理をたいらげてしまった。
*
アオとフルーフは腹ごなしにだらだらと散歩をしていたが、やがて海辺に戻ってきた。フルーフが波のある方へサクサクと歩いて行くので、アオも後をついていった。
波に足が濡らされるギリギリのところでフルーフは立ち止まり、振り返った。
「ね、もう一つ魔法を見せてあげる」
そう言って、フルーフは上着のポケットから小瓶を取り出す。中には真珠が一粒入っていた。
「真珠?」
「そう見えるでしょ。でもこれが魔法のアイテムなのよ」
続けてフルーフはまだしていない魔法の話を始めた。
「深海の魔女に会った時、三つの薬をもらったわ。そのうちニ錠はその場で飲んで、最後の一錠は今ここに。一つは私の願い通りの人間になる薬。二つ目がきっと、唐辛子が生える薬だったんでしょうね。三つ目は、海に帰ってくる時はこれを飲んで戻って来いって言われたの。多分、サメに戻る薬なのよ」
「サメに戻る薬……そっか、薬なんだね、それ」
アオは改めて小瓶の真珠に目をやる。たしかに、飲もうと思えば飲み込めそうだ。
「私ね、毎日考えてた。これを飲んで海に戻るかどうか。唐辛子のことがあるから、魔女のところに戻って文句を言わなきゃいけないんでしょうね。でもそれより、結局人間になりきれてないことが悔しいの。私は人間でもサメでもない、半端な化け物……」
「そんなこと言わないでよ!」
アオが話を遮って叫ぶ。
「半端な化け物だなんて自分を卑下しちゃ悲しいよ! フルーフは人間でもあってサメでもある、オンリーワンな生き物だよ!」
「……! その言葉、覚えておきなさいよ? それに、話にはまだ続きがあるの。私、アオと会って初めて人間になって良かったって心から思ったのよ。まだ2日しか会ってないけどね、これから楽しくなるかもって思ったの。だから、だからその……とりあえずこれはいらない!」
フルーフは感情が抑えきれなくなって、サメに戻る薬だというのが入った小瓶を、海に投げ捨ててしまった。
「わああ! フルーフ!? 捨てちゃっていいの!?」
「いいのいいの。当分海には戻らないって決めたから! そのかわり、アオ」
「なに?」
「……これからも友達でいてくれる?」
「……! もちろんっ!」
* 第1章「サメのフルーフ」完 *
第2章「イカの護衛はイカが?」(仮題)
お楽しみに
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第2章 イカの護衛はイカが?
6.私と一緒に住まない……?
2章はこの1話しかないので読まずに一章だけで完結と思っていただくことを推奨します!
先のデートから1週間、アオはフルーフに会いに行かなかった。
家中の整理整頓に時間を使っていたのだ。もともとぐちゃぐちゃしていたわけではないが、2DKの空間はすっかり片付いた。寝室に使っていた部屋はそのまま、もう一つの部屋は雑多に物を置いていたのでそこを重点的にやっつけた。おかげでその部屋は空っぽも同然である。
「私一人で住むならワンルームで良かったな……ま、いいか」
アオは一通り家の中を見渡して、特に問題ないことを確認すると外に出た。
*
「フルーフ〜!」
アオは砂浜の隅まで駆けていく。人がなかなか進入しないためフルーフが私物を隠しているゾーンだ。今日もフルーフはそこにいた。
「あらアオ。こんにちは」
「うん! こんにちは〜」
フルーフの挨拶は丁寧たな、とアオは思う。
「今日はお仕事ないの?」
「うん、日曜日だから」
「そっか、日曜日」
フルーフは木の枝で砂浜に「日」と書く。
「かんじぃ〜」
「フルーフ、漢字もわかるんだ。さすがだね」
フルーフはつづけて「よ」「う」「日」と書き連ねていく。「曜」は分からないようだ。
「フルーフさ、」
「なあに?」
アオは深く息を吸う。
「なになに?」
「私と一緒に住まない……?」
「……わお、急ね」
「はは……だよね……」
ここ砂浜の端にはフルーフの私物のようなものが散らばっている。前回ここに来た時に確信した。フルーフは、最もシンプルに言い表すなら、ホームレスなのだ。海から上がってきた時の持ち物はどれほどだったのだろう。今では服や唐辛子収穫のハサミなど、人間のモノをたくさん集めたようだが、それでもさすがに「家」だけは入手できていないと見える。それに気づいたアオは、慈悲やボランティア精神などではなく、ただ好奇心と欲で、フルーフを連れ帰りたくなってしまった。
「フルーフが家にいてくれたら、楽しそうだなって、思っちゃって……」
「なにもごもごしてるの? あなたらしくないわね。まさか、さすがに非常識なこと言っちゃったー、とか思ってる?」
「……はい」
「……ならなんで言ったのよ〜」
「口に出してから、じわじわ後悔が……」
「まあいいわ。ニンゲンからしたら私なんて非常識の塊だしね」
「あっはは……」
「住むわ」
「……!?」
「住まわせてよ、アオのおうち」
「ほ、ほんと!? いいの!?」
「そのかわり私、な〜んにもしないただのサメよ? いっぱい食べるペットよ?」
「んーいいのいいの。一人は飽きた頃だから!」
*
荷物をまとめたフルーフを、アオは自宅まで案内した。住宅街の一角にあるアパートの一階だ。
「ここだよ!」
アオは鍵を開ける。
「どうぞ」
「お邪魔しますわ」
「靴はここで脱いでねー」
「これが……玄関! わああ! これが、家!!」
フルーフはアオハウスを見渡す。そんなに広くないが、人の家というものを見たことがないフルーフには新鮮である。
「手前はご覧の通り食卓とキッチンです。正面の部屋が私が使ってるところで、隣のお部屋はフルーフが自由に使っていいよ。片付けといたから! それと私の部屋の手前の扉がおトイレ! そのまた隣が洗面所とお風呂!」
「ひ、一部屋も使っていいの?」
「いいよいいよ、元から使ってなかったから」
「ふふっ、今めっちゃ嬉しい」
フルーフは割り振られた部屋に飛び込む。
「すごい快適! やはり人の体には人の家!」
ぼふん、と外を歩くのに隠していた尾ひれが姿を表す。
「そう言いながらサメの体が半分出てるぞ〜?」
「半々くらいが一番楽ちんなの〜」
「フルーフ用の合鍵を作らなきゃね〜。フルーフを閉じ込めたいわけじゃないからさ。あ、あとひとつだけ注意して欲しいのはあんまりはしゃがないでね。壁、薄いから」
「お隣さんにご迷惑ってわけね。わかったわ」
「フルーフは大人しそうだし、多分大丈夫だろうけどね」
「そうねえ……まあ声とか動きは静かな方かな。……そうだ、聞いてよ。ちょうどこの前アオとご飯食べた後くらいから変なやつにつきまとわれるようになってね」
「なにそれストーカー!?」
「ちょちょ、落ち着いて。アオの方がうるさくしそうで心配ね……。ストーカーっていうのは否定できないけど、私と同じ海の仲間なのよ」
「海の……」
「そうよ。なんでもそいつが言うには……」
ピンポーン。呼び鈴がなる。ここのものだ。
「ん? 郵便かな……古いアパートだからドア開けないと誰か分かんないんだよね〜」
不用心にもアオはそのままドアを開ける。海街でのんびり育ったアオは基本的に楽天家である。
「はいは〜い。おや?」
そこには、一人の女の子が立っていた。フルーフより少し背は低いだろうか、三人で比べるとアオが一番高い。低いところで結ばれた長い銀髪のツインテールと、ダークグレーの瞳は、明らかに日本人のものではない。身を包んでいる焦茶のローブが浮世離れしている印象を与える。
「どちら様かな?」
「ニンゲンのお方!? こちらに他に誰かいらっしゃいませんか?」
「ええ?……いないよ?」
「どうしたのアオー?」
「ちょい!」
相手は少女とはいえ怪しいのでフルーフの存在を誤魔化そうとしたが、本人がのこのこ出てきてしまう。
「いるじゃないですか!」
「なー! アンタは! アオ、こいつよ! こいつが海から来たストーカー!」
「ええ!?」
少女はにこにこ笑顔で
「フルーフ様! 身の危険を感じておりませんか? わたくしの護衛はイカがでしょう!!」
「アンタに追われる今が身の危険だよ!!!」
「まってこの子だれ!!!!」
「わたくしはヴィイと申します! イカのヴィイです!」
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