起きたら金髪ケモ耳美少女だったんだが自分の記憶がとんとありません (裏白いきつね)
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起きたらウマ娘

しばらく考えてたらキャラが浮かんできたので初投稿です。

なお思いつきで書いてるので後付け設定やら独自解釈やらでカオス化しそうな上に不定期更新ですよしなに。


 

 その朝はいつもと景色が違っていた。

 いや、違っていたのは世の中ではなく自分なのかもしれなかったが、とにかく()()に気がついたのが今朝眠りから覚めたこの時だった、ということだ。

 

 知らない天井が、そこにあった。

 手を思わずその方向に伸ばすと、身に掛かっている感覚がまるで無かった布団が視野を掠めると同時、頭上から差し込む淡い光に照らされて白い手が現れた。

 

 他人の手にしか見えないそれは、しかし持ち上げている感覚は確かに自分のもので。

 

「細い指だな……」

 

 思わず呟いた声。その声は確かに自分が発したものだったが、聞き慣れたはずのゴロゴロと低く唸る音ではなかった。

 どうも何かがおかしい。

 

 仰向けのまま顔を左右に向けて様子を窺う。左側は壁、そしてその反対側には自分の寝ているものとは別のベッドがもう一つ。ベッドには誰かが眠っているのか掛け布団がこんもりと盛り上がっていて、そのまま頭のあるはずの方へ視線を這わせると、そこには白っぽい髪が横たわっていた。

 

(……誰かいる……というかここ、ホテルか何かか? いやその割に調度品が多いような。それに、髪の色……あれは白髪か?)

 

 隣に眠る誰かを起こしてしまわないよう慎重に視線を配る。目はすっかり覚めきってしまっていた。

 ベッドの間の壁にはカーテンの掛かった窓。その前にはチェストが三つ並べてあって、真ん中一つは白いドア。向かいのベッドのヘッドボードから遙か上には小窓が一つ。先ほど自分の手を照らしていた光はこのカーテンのない小窓から入っていたようで、上目遣いにあごを突き出せば、自分のベッドの方にも同じ小窓。

 

 でも首を上げたそのとき、自分の頭のてっぺんで今まで感じたことのない強い圧迫感を感じると同時、ゴソゴソと大きい衣擦れのような音が耳を満たした。その慣れない感覚に対して反射的に耳に力が入ってさらに響く衣擦れに、自分は堪らず撥ね飛ぶように上体を起こす。

 

 バッ!

 

 上体を起こした勢いで、掛け布団が派手に音を立てて吹っ飛ぶ。そのまま正面のドアに当たってバサリと床に落ちた。

 隣のベッドでも衣擦れが立つ。今の音で同居人(?)が動き出す気配がした。

 

「ん~~~? ドーロちゃん、どうしました?」

 

 まだ眠気のたっぷり残る顔がこちらを窺っていた。隣で眠っていたのはごく淡く白色と見まがうほど薄い水色の髪を伸ばした少女。今、その彼女に『ドーロちゃん』と呼ばれたが、それが俺の名前なのか。

 しかしそんな事より

 

 起き上がった少女の頭の上には尖ったケモ耳があった。思わず目を見張り、俺の視点はそこから外せなくなった。ケモ耳は髪の毛と同色の短い毛で覆われて、付け根が少し絞られている。猫耳だとか狐耳とは違う形、それになんか肉厚な感じがある。

 

「あの。なんだか、目が怖いですよう?」

「え? あ? え?」

 

 怯えと訝しさの混ざる瞳が俺に刺さる。取り繕おうと出した俺の声はやっぱり男のそれではなく、澄んだ響き。

 状況が全然把握できないが、ともかく隣人を起こしてしまったことだけは確かだった。

 

「悪い夢でも見ました?」

「い、いえ。そんなことは」

「そう。よかったあ」

 

 その一言を境にして、瞳に温かさが灯る。

 

「ドーロちゃん、昨日も頑張ってたですものねえ。最近ちょっと頑張りすぎてるんじゃないかって、心配してたんですよ?」

 

 なんとなくおっとりした口調と慈しみすら感じる柔らかな表情。

 なんだかこの人(?)にならいろいろと打ち明け話をしても大丈夫な気がした。尋ねてみたいことはいっぱいある。ここはどこなのか、今はいつなのか、あなたは誰で、俺は何者か、二人同じ部屋で寝泊まりしているのはどういうことか、等々。

 そんなことを考えながらいたせいか、また俺の目つきは険しくなっていたらしい。

 

「ほーら、またドーロちゃん目つきが怖くなってます。どうしました? なにか悩み事とか?」

 

 どうやって尋ねたものかと考えていたら、彼女の方から話を振ってきた。心配そうな表情で少し首を傾げた様子は、言外に頼りにして欲しいオーラを纏っているかのようだ。

 

「……その、こんな事話すと引かれちゃうかも知れないんですけど……」

「ううん、ドーロちゃんのことだから大丈夫ですよ。悩み事ならわたしがなんでも聴いてあげますから」

「実は、お……じゃなかった、私って何者なんでしょう?」

 

 なんでも聴いてあげると言った手前彼女はなんとか平静を保っているようだが、さすがにインパクトが強かったのか次の言葉が出るまで数秒かかった。

 再起動した彼女はさらに困った表情になって、口を開く。

 

「えーと。ドーロちゃんはドーロちゃんですよね?」

「私の名前はドーロって言うんですか。それってフルネーム?」

「あ、フルネームはヴェントドーロですね。というか、ドーロちゃん自分の名前忘れちゃったんですね」

「名前だけじゃないです。あなたのお名前も分からないし、ここがどこで、今はいつで、どうして二人で同じ部屋に寝泊まりしてるのかさえ」

「ええ? それって記憶喪失とかです?」

「分かりません。起きて気がついたらこの部屋で目覚めて。その前はどうしていたのかもさっぱり分からないし」

「なにか覚えていることとかないです?」

「んんー、なんだろう。きんばらはやてって言葉は浮かぶんですけど」

「なにか、それ男の方のお名前みたいですねえ。ドーロちゃんのお知り合いとかなにか?」

「そうじゃないと思うんですけど」

「うううん。困りましたね」

 

 早朝でまだ薄暗い部屋の中、少女が二人ベッドに座って差し向かう。

 人差し指を柔らかそうなほっぺたに押し当てて小首を傾げている目の前の薄青い髪の少女。頭の天辺からピコピコ動く紡錘型の耳を生やして、そして背中の後ろではなにやら長い髪が時折左右に揺れていた。

 良く見るとそれは髪ではなく、腰の下から生えているようだった。

 

「あの。さっきからお尻の方で揺れてる長い髪みたいなのって……」

「え?」

 

 短い返事とともに、その髪のようなものがくるりと彼女のお腹の前に回ってきた。

 

「自由に動くんですね。それに頭の上の尖ったの、それって耳ですよね。本物?」

「えええ? ウマ娘ですからウマ耳とウマ尻尾は……ありますよね?

 というかあ、ドーロちゃんにもあるじゃないですか。ウマ耳とウマ尻尾」

「えっ?」

 

 彼女はそこまで言うと、ベッドサイドの棚から手鏡を取り出して俺に向ける。

 鏡の中には金髪にそのウマ耳とやらを生やした美少女がいた。恐る恐る耳に手を伸ばすと鏡の中の少女も手を伸ばす。耳に手が触れると自分の意志とは関係なく不意に動いた。身体をひねって背中を覗き込むと、これまたきれいな金色の長いしっぽがベッドの上でウエーブを描く。

 驚きで目を見開いたままゆっくりと彼女の方に向き直ると、彼女は口元に指を当てナイショのポーズを取りながら、コクコクと頷き返してきた。

 




(口調の調整ほか若干の修正をしました。物語に影響はありません)


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金の風 銀の波

少し気をよくしたので初投稿です。

多少のストックはありますけれど、基本的に思いつき執筆なので更新は不定期です。


 

 現実に頭が追いつかない。目の前の彼女は自らをウマ娘だと言った。そしてウマ耳とウマ尻尾があるのは当然で、さらに俺にもその両方があった。

 つまり俺もウマ娘、ということで良いのだろうか。というか、そもそもウマ娘とはなんなのか。

 

「あの、ウマ娘って、ナニモノなんですか」

「ウマ娘はウマ娘ですよねえ」

 

 答えになって、いなかった。ウマ娘 is ウマ娘、ということであれば、それは特別な存在というわけではないということか。しかし俺のおぼろげな記憶の中にウマ娘なる生き物は存在しない。しかし『ウマ』という言葉には記憶がある。それは四本足で立つ動物。人間よりも大きく、走れば人間よりもずっと速い。ちょうどウマ耳のような耳を持ち、ウマ尻尾のような尻尾も……。

 そこまで来て、俺はハッと気がついた。ウマ娘の『ウマ』とは、記憶にある動物、すなわち『馬』のことではないかと。

 

「あの、馬という動物は知っていますか?」

「ウマですか? ウマと言えばウマ娘の事ですよね?

 ウマ娘は人間ですよねえ、動物ではないですよ。ウマというだけの動物というのは見たことも聞いたこともありませんねえ。

 むしろウマっていう動物って、どういう生き物なんでしょう?」

 

 馬がいない割に、「ウマ」という言葉はウマ娘として存在する。そしてその容姿に特徴的な耳と尻尾をもった生き物がウマ娘という人間として存在する。

 俺はウマ娘の正体になんとなく気づいてしまった。

 

「馬というのはちょうどウマ娘みたいな耳と尻尾を持った生き物で、四本足で立って、走るとすごく速いんです。体は人間よりずっと大きくて、背中に人間を乗せることができる。

 でも、ここにはいないと言うのならそれは別の世界の生き物というか、そんな感じなのかも知れませんね」

「ウマっていうのはそんななんですね。ウマ娘と同じ耳と尻尾……、ウマ娘も走るとすごく速いんですよ? ヒトとは比べものにならないくらい」

「その、さっきからヒトって言いますけど、ウマ娘とはどう違うんでしょう? ヒトも人間なんですよね?」

「そうですよお。ヒトも人間ですけれど、ウマ耳やウマ尻尾がなくてウマ娘ほど力のない人間のことですよね。もちろん走るのもとても遅いし」

 

 これでようやく飲み込めた。ウマ娘とは記憶にある馬の事。しかしこの世界(?)ではそれは人間の一種として言葉を喋り、手を使い、二本足で歩く。おまけに力もヒトよりあるとなれば、言い方を変えればヒトよりも優れた種族ということになるのだろう。

 

「なるほど、ウマ娘ってすごいんですね。自分もそんな存在なんだって分かると、なにやら誇らしいです」

「そんな大げさに考えるほどのものでもないですよ?

 それにしても、ドーロちゃんはいったいどうしてしまったんでしょうか。まるで人が変わってしまったみたいです」

 

 彼女はそう言うと耳を下げてしゅんと落ち込んでしまった。

 そんな様子を見て、俺もいたたまれない気持ちになる。しかし俺自身もどうしてウマ娘になってしまったのかわからないし、元に戻るやり方も分からない。

 この姿のまま、ヴェントドーロというウマ娘として生きていくしか術がないのは明らかだった。いつまでこの状態が続くのかも分からないが。

 

「……悲しませてしまったみたいですみません。私も急にこういう事になったので、どうしたら良いか分からないんですよね」

「それじゃあなたはドーロちゃんではないと」

「自分がヴェントドーロだと確証できる記憶がないんですよね。もちろん先ほどの『きんばらはやて』が自分の名前だという確証もないですし。

 つまり相変わらず私が誰なのか、私自身全く分からないということで」

「ドーロちゃんであった記憶もなければ、他の誰かだった記憶もないというのなら、少なくともあなたがドーロちゃんじゃないとは確定しないとも考えられませんか」

「……ややこしいですね」

「つまり、やっぱりあなたはドーロちゃんで合っているんじゃないかと。単に記憶喪失なだけではないでしょうか」

「……そうなんでしょうか」

「……そういうことに、しときませんか?」

 

 確かに。

 俺の体は今ヴェントドーロの姿形であって、俺が元々何者であったのかの記憶がない。もちろんドーロの記憶もないけれど、ドーロ以外の誰かなんだと強弁する根拠がないわけで。

 

「……その方が、良さそうですね」

 

 そう伝えると、彼女は明るく微笑んでくれた。その様子は俺の心にとてもよく刺さった。やはり美少女の笑顔というのは色々と効く。

 

「それでですね、あなたのことはどう呼べば良いんでしょう?」

「わたしですか? わたしの名前はオンダルジェントといいます。そうですねえ、ドーロちゃんにはルジェって呼んで欲しいかな」

「ルジェさんですか」

「この際だから呼び捨てはダメですか?」

「ちょっとそれはまだ心が耐えられないので……ルジェさんで勘弁して下さい」

「わかりました。仕方がないですねえ」

 

 なんだか一気に距離を詰められた気配がした。ルジェさんとドーロ、元々の関係がどんなだったか今は知る由もないが、たぶん呼び捨てで呼び合うほど深い関係でなかったことだけは確かだ。うーんルジェさんこれかなりドーロのことが好きだったのだろうか。さすがにそこを突っ込んで問う度胸は俺にはないが。

 

 そういえば、さっきから日本語で喋っているけどお互い名前は横文字のようだ。どうしてなのか少し気になった。

 

「ウマ娘の名前はその魂の持つ名前、と言われているんです。魂は別の世界からやって来てわたしたちウマ娘に定着すると。だからヒトの名前とは体系が違っていて、それが当たり前とも聞きますねえ。

 ちなみにわたしの名前、オンダルジェントは日本語に訳すと『銀の波』という意味なのだそうですよ」

「私の名前の意味はご存じですか?」

「ドーロちゃんのお名前の意味は……えーと、えーと。確か最初の頃に伺ったんだけどー……

 あ、思い出しましたあ。ヴェントドーロは『金の風』という意味でした。わたしとドーロちゃんが今年の春、初めてこのお部屋で出会った時に教えてくれたんですよ」

「……すみません、そんな大切なことまで忘れてしまっていて」

「いえいえ。仕方がないですよう。むしろドーロちゃんの方が急にこんな事になってしまって心細いでしょう?

 でもわたしがいつだって付いていますから。安心して頼って下さいねえ」

 

 そう言って何度目かのニッコリが俺の目の前で炸裂する。

 そんな彼女のゆったりした雰囲気と、よく見ると銀色にも見える髪は、なるほど銀の波と呼ばれるにふさわしく感じた。

 

 それから、今いる場所のことについて尋ねてみた。

 

「ここはトレセン学園と言いますね。正式名称はあ、えーっと。なんでしたっけ。

 誰も正式名称で普段呼ばないから思い出せません。トレセン学園で通じるから良いと思うのだけど」

「そのトレセン学園って、どういう学校なんです?」

「それはあ、レースをするウマ娘を育成する学校ですね。中学生と高校生の年齢のウマ娘を集めて、レースの訓練をするんですよ」

「レースというとどんな感じなんです?」

「この近くだと東京レース場っていう場所があるんですけど、大きな楕円形のコースで、一周は大体2000メートルくらいありますね」

「大きいですね」

「そうですねえ。それで、レースで上位に入ったらそのあとライブをするんです」

「ライブですか?」

「歌って踊るんですよ。G1だと数万人はいる観客の前で」

 

 思っていたよりも大規模かつ予想外のイベントだ。レースは分かる、けれどその後に控えるライブとはなんだろう。上位入着者がライブをするということは、ウマ娘はただ走るだけじゃダメと言うことか。歌って踊るとか、俺がそんな器用なことをできるとは到底思えないのだが。

 

「ドーロちゃんはまだデビュー前だったから、まだまだこれからです。だいじょうぶ、わたしでもできたんですから、ドーロちゃんならもっと上手くやれるはずです」

「いや、私そもそも走れるかどうかすら分かりませんよ?」

「そんな事はないでしょう。ドーロちゃん、模擬レースではいつも連対してたじゃないですか」

「あの、『れんたい』ってなんですか?」

「1着か2着に入るって事ですよお」

 

 それを聞いて軽く驚いた。もしルジェさんの言うことが本当ならば、ドーロは結構有力なウマ娘の一人だったと言うことだ。

 だが今の俺にそんな真似が本当にできるのか?

 

「そうですねえ。それじゃ今からちょっと走ってみませんか?」

「はい?」

 

 突然のお誘いに、俺は目を丸くすることしかできなかった。

 



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初めて走ってみた

 ルジェさんは俺の荒唐無稽な説明を真剣に聞いてくれた。もっと不審に思われるのかと身構えていた俺は多少安堵した。

 ところが最後に想定外の展開が待っていた。

 

「それじゃドーロちゃん、一回わたしと一緒に走って、ドーロちゃんの走りを見せてくれませんかあ?」

「は?」

 

「ドーロちゃんはドーロちゃんなんだから、記憶が無いと言っても走れますよねえ。走りを見せてくれたら多分わたしもっと理解ができると思うんです」

 

 さすがウマ娘である。走ってみたら全ては解決するらしい。なんという脳筋。いや、ウマ娘みんながそうではないと思うのだが、今俺の真正面に腰掛けているこの美麗な薄青色髪をしたウマ娘はその見かけによらず結構な脳筋だったようだ。

 とはいえ翻って自分のことである。俺は走れるのか? と考えると、はて? と首をかしげる心の中の自分がいた。

 

「あ、あの、走るって言っても私、走り方忘れてるかもしれませんよ?」

「ドーロちゃんの走り方はわたしも見て知ってますから。もし前みたいに走れるのならあなたはやっぱりドーロちゃんだなって、お互い納得いくと思うんです」

「いやそれは……そういうもの?」

「そういうものですよお」

「もし、走れなかったなら?」

「走れなくても良いんです。そのときはまた走れるようにトレーニングし直せば良いんです。わたしもそのときはお手伝いしますから」

 

 なんだか丸め込まれている感がなきにしもあらずだが、ここは逆らっても仕方がないし、なにより同室のこの娘にきちんと理解してもらって今後の生活を助けてもらわなければならない。不安はかなりあるが、今走りを見せないという選択肢はなかった。だって俺の目の前でものすごく良い笑顔の圧が凄いことになってるし。

 

 決めたが早いか着替えを進めるルジェさんに対し、俺は開け放した自分のクローゼットの前で佇んでいた。

 

「ドーロちゃん、どうしましたか?」

 

 正直、どれをどう着たら良いのか分からなかった。

 

「いや、どれをどう着替えたら良いんだっけ……って」

「そこからなんですねえ」

 

 彼女に俺のこの様子は想定外だったらしく軽く絶句された。とはいえ面倒見はすこぶる良い娘らしく、嫌な顔一つ見せずに手伝ってくれたので、ちゃっちゃと着替えは進んでジャージ姿の俺ができた。

 

「それじゃトラックに行きましょうか」

 

 寮の昇降所でも着替えの時に見たようなやりとりがあって、俺とルジェさんはようやく練習場の端にたどり着く。

 

「広いですねー」

「あはは、昨日も来てましたよドーロちゃん」

「ごめんなさい。

 そこら辺の記憶もなんかなくってですね」

 

 さしもの彼女もそろそろこれはかなり異常な事態だと気がついてきたらしく、見せる表情に呆れと険しさが入り交じる。

 

「うーんなんか思ったより重症ですねえ。でも走れますよね?」

 

 いやそこで止めるという選択肢はないのか。

 あくまでも走ることは止めないらしい彼女とともに柔軟運動を進める。例によって彼女に教えてもらいながら、だ。こんな調子で俺はまともに走れるのだろうか。

 

 俺のそんな内心には全くお構いなく物事は進んでいく。

 今回はフォームチェックだけだからトラックの最外周を使うと伝えられた。そしてコースの外側をホームストレート中ほどへと並んで歩く。

 

 先に走っている組の数人が、人間の足音とは思えない地響きを立てて二人の横を駆け抜ける。彼女たちが走っているのは芝コース、ここからだと40メートルは離れているはずなのだが。

 地響きも凄いが、走っているウマ娘たちの息づかいもなんとなく感じられる。寮にいるうちからそんな感じはしていたけれど、ウマ耳の感度は人間のそれよりも段違いに良いようだ。

 

「わたしたちは外周のウッドチップの方に行きますね。ああ、そっちも誰か使ってますねえ……、タイムは取らないし端っこの方なら大丈夫でしょうか」

 

 そう言って指さす方向に従って目を向けると、俺たちの進む先には芝の切れ目があった。切れ目の先に茶色いトラックが続いている。

 

「今入った組が前に抜けたらわたしたちの番ですよ。並んで走るからドーロちゃんは内側を、わたしは外側後方を走りながらフォームを見てますからね」

「わかりました。でもちゃんと走れるかどうかわかりませんよ?」

「だいじょうぶですよ。ドーロちゃんだもの。

 

 ……よし、トラック空きましたね」

 

 前の組がスタートしてコーナーへと駆け込んでいく。それを見て俺たちはウッドチップと呼ばれたトラックに入る。

 

「それでは合図を出しますからドーロちゃん、軽く走り始めてみて下さい。後ろから付いていきますから」

 

 彼女の出したスタートの声とともに、俺はジョギングぐらいのペースで走り始める。が、後ろに蹴る足が滑ってしまって思うように前へ進まない。

 そんなに力を入れているつもりはないのだが、どういう訳か盛大に土(この場合は木の破片だが)を飛ばすばかりだ。

 そしてすぐさま彼女からストップが掛かった。

 

「ドーロちゃん、その足運びじゃダメですよ。フォームが崩れててパワーが入りきっていませんし……」

 

 だから走れないって言ったじゃないか、という声をゴクリ飲み込んで。俺は彼女に向き直る。

 真剣に悩んでいる様子で腕を組み、俺の足元をじっと見つめる彼女。ふと気づいた様子で後ろを振り返る。彼女の向いた方に目線を飛ばすと、次の組が走る準備に入っていた。

 

「とりあえずトラックから出ましょうか。コースの外でちょっと練習です」

 

 そう言われて俺は背中を押されるままコース横に出た。

 コース外に出るや否や彼女は小走りに次の組の所へ駆けて行き、二言三言声を掛けたかと思えば置いてあったトンボ片手に戻ってきて俺が荒らしてしまったトラックを均していった。

 お待たせしましたと声が響けば、ただ佇んでいた俺の目の前を二人組のウマ娘達が颯爽と駆け抜けていく。

 

 戻ってきた彼女の面持ちは走り始める前とは違い、重い。

 

「……なんて表現したら良いんでしょう。ウマ娘の走り方じゃないというか……、ああそうです、ヒトの走り方に似てるんですね」

 

 人間の走り方だと言われて、俺はぎょっとする。やはり見る人が見れば分かってしまうのか。

 このままウマ娘として走ることができなければ俺は間違いなくこのトレセン学園から去らねばならないだろう。この身体の主には悪いが。

 

「走り方も忘れちゃったって事でしょうか。うーんどうしたら……」

 

 彼女はそう言って考え込んでしまった。

 




次回はご褒美か罰ゲームか。

([20220719]接続詞などを変更しました。ストーリーに影響はありません)


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早朝のお姫様

一夜にしてお気に入りが40件を超えていました。ありがとうございます。

シチーさんでダートG1蹂躙して育成進めるのすごく楽しい、栗毛専門トレーナーです。


 

 ルジェさんが考えにふけっている間、俺は改めて周りの様子を見回す。時刻はまだ早朝6時過ぎだというのに、熱心な生徒たちが数人、所によっては十人ほど集まってそれぞれにトレーニングに励んでいた。ウマ娘だけの集まりで大人の姿がないところを見るに、いわゆる自主トレってやつか。ルジェさんもそうだが、ウマ娘というのは本当に走ることがなにより優先するようだ。

 翻って俺はどうかというと、彼女みたいになにがなんでも走るという考えにはなっていない。この身体の持ち主、ヴェントドーロがどういう性分だったのかは分からないが、自分の走りに対する感覚は生粋のウマ娘ほどではないと既に自覚できた。

 

「よし、それじゃこうしましょう。まずはドーロちゃんにもう一回走ってもらって、横からそのフォームをわたしがウマホで撮影しますよ。それから今度はドーロちゃんがわたしのフォームを横から撮ってみて?

 見比べたらどこがどう違うか多分分かると思うので」

「あの、撮ってとは言われますけど私、たぶんルジェさんの走るスピードに付いていけないと思いますよ」

「ああ、そうかもしれませんねえ……どうしましょうか」

「だから代わりに走らないで撮りますよ。走ってる横からこうカメラを横に振ればちゃんと撮れると思うし」

「なるほどお。ドーロちゃん頭いいですねえ。それじゃあそういうことでよろしくお願いします」

 

 そうして俺はもう一度彼女の前でへたっぴな走りを披露することに。対する彼女の方は滑るような歩様を見せて、俺とは段違いのスピードで目の前を横切っていった。流し撮りでその姿を追うのも結構大変だ。

 

「撮れました?」

「撮れました。こんな感じですかね」

 

 俺と彼女のビデオを交互に再生して違いを見比べる。スピードの違いもさることながら、スピードの出ている彼女の方が土の巻き上げが少ないことに気がついた。それに全体のフォームも俺よりずっと前傾姿勢が強い。

 

「やっぱりヒトの走り方みたいに見えますね。足の出し方が全然違いますし」

「どこが違います?」

「全部でしょうか」

「あう」

「それじゃ分からないですよね。細かい話になるけれど……」

「聞かせてもらっても?」

「……うーんとですねえ、まず前に出した足の着地が違うくて。ほら、ドーロちゃんはかかとから行ってるでしょう?」

「はい」

「わたしはこう。どちらかと言うと爪先から行くんですよ。そうしないとせっかく蹴りで出したスピードが全部死んじゃうので」

「そうなんですね」

「そうです。だからシューズの蹄鉄も爪先寄りしか付いてないでしょう?」

「ほんとですね。そうか、なんだか走りにくいシューズだなって思ってました」

「かかとを最初にデンと置いちゃうから、そこで土が上がるんですね。それから、最後の蹴りの掛かりが浅いんです、ドーロちゃんは。

 足裏で土を掴むみたいに掻きながら、後ろに蹴り出してみたらいいと思いますよ」

「……わかった、やってみます。っと、ちょっとフォームの練習してみますから、横で見ててもらえます?」

 

 彼女の前で片足ずつ足運びの練習をする。つま先気味に入って着地、そこから蹴りに持って行こうと動かすと、そんなに力は入っていないはずなのにグンッと体が前に持って行かれる。ウマ娘の本当の脚力、その片鱗を体感した瞬間だった。

 イメージとしては片足ずつ前に()()感覚だろうか。

 数回繰り返して足運びのイメージを固める。改めてその様子を撮った動画を彼女に見せてもらうと、なるほど自分で思っているよりも身体は前に傾いていた。

 

「なんとなく掴めた気がします」

「それじゃもう一回走ってみましょうか」

「うん、そうします。時間大丈夫ですか?」

「もうすぐ7時ですね。そろそろ朝食の時間になるので、1本走ったら終わりでしょうか」

 

 周りにいた他のウマ娘達もいつの間にかその数を減らしていた。

 がら空きになったウッドチップコースのスタート地点。先ほどよりも前傾姿勢に構えて、自分のタイミングで駆け出す。最初の蹴りで身体が前に跳ぶ。それを支えるため反対の足を前へ。もちろん、集中は足先に。すっと抵抗なく刺さる蹄鉄の感触から、足首を後方へ返すように次の蹴りへ。足運びの練習の時よりもずっと強い力が体を前に、さらに跳ばす。加速感が凄い。前に出す足が早々に間に合わなくなって、数歩も進まないうちに俺の体は宙を飛んだ。

 

「ドーロちゃん!」

 

 ウッドチップの上で受け身を取って、何度か前転したあと止まった場所でそのまま仰向けになっていたら、すぐさま彼女がすっ飛んできた。

 

「頭から行ったけど怪我してませんか?」

「ああ、だいじょうぶだいじょうぶです。ちょっと足が間に合わなかっただけ」

 

 本当は少し目が回っててすぐに立てそうになかったけど、彼女に心配を掛けるわけにも行かず強がった。心配そうに目を向けて来る中、俺はゆっくりと起き上がった。

 

「ほら大丈夫、立てますよ」

 

 自分では大丈夫と思っていたけれど、体は正直だった。一度は立ったと思った俺の脚だったが、最後背筋を伸ばしたところでふらっと来た。

 

「大丈夫じゃないですよそれ。医務室行きますよお」

 

 彼女は言うが早いか、再び土の上に座り込んでしまった俺の肩と膝を抱え込み、あっという間に校舎に向けて走り始める。

 姫だっこされながら浴びる朝の風は、目の前にある彼女の不安そうな表情とはうらはらに、とても清々しく心地よかった。

 自分の脚でこの風を浴びたいと、そのとき俺は柄にもなくそう思った。

 

 それはそれとして

 

「あの……ルジェさん、お姫様だっこは恥ずかしいんですけど……」

「だめですよ。

 おんぶするよりこの方が揺れないし、運びやすいから辛抱して下さいね」

 

 ルジェさんが駆け抜ける後ろから時々黄色い歓声が湧いて出る。それ、明らかに俺たちに向けて掛けられてるよな。

 




次回、腹減った。

([20220719]ドーロちゃんの口調を中心に多少修正を入れました。物語に影響はありません)


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お腹が空くと地獄

底なし沼って怖いですよね。


 ルジェさんに姫だっこされたまま学園の広い敷地を横断する。

 まだ構内を歩くウマ娘の姿は少ない時間帯だが、俺たちが駆け抜けたところから黄色い歓声が広がっていく。

 

 校舎を繋ぐ渡り廊下を横切り、石像の建っている噴水の前を回り込んで、スロープの先で自動ドアをくぐって運び込まれたのはトレセン学園が誇る医務室だった。校舎からは独立した立派な建物なので、診療所と言った方が良いのかもしれないが。

 

「おはようございます。

 すみませんケガ人ですう!」

 

 ドアをくぐるやルジェさんが大きな声でスタッフを呼んだ。おっとりした喋り口だから緊迫感はやや少ないけど、すぐさま医療スタッフとおぼしきウマ娘が二人現れる。

 

「ウッドチップコースで頭から転んで……」

 

 彼女が俺をだっこしたまま説明を始めると、3人目のスタッフがベッドを引いて出てきた。

 流れるようにそれに乗せられて、看護師が慌ただしく動き回る中ルジェさんの顔が覗き込む。

 

「ドーロちゃん、あとは看護師さんの言うことちゃんと聞いておとなしくね? 担任の先生には伝えておきますから。

 それから、お昼になったら様子を見に来ます。しばらく一人になるけど大丈夫ですよ」

「え、あ、うん。ルジェさん、ご迷惑を掛けます」

「いいんですよ。それより自分の心配、して下さいね」

 

 一声掛けるとルジェさんはすっといなくなる。俺はベッドの上で仰向けに横たわったまま、看護師さんに連れられて検査コースを巡回していった。血液検査に始まって、CT撮影、その他諸々。そして最後は病室に運び込まれた。

 

「検査の結果が出るまで、ここで休んでいて下さいね。なにかあったら枕元のボタンを押して看護師を呼んで下さい」

「はい、わかりました」

 

 と、返事をしたとたん

 

『ぎゅるるるる』

 

 盛大に腹の虫が唸りを上げた。

 

「あらあら、お腹が空きましたね。朝練の後そのまま来てるから、朝食、まだですものね」

 

 ウマ娘の看護師さんが訳知り顔の微笑みを見せつつ、慣れた口調で続ける。

 

「でもごめんなさいね、ちょっとまだ食べてもらうわけにはいかないんですよ。先生のOKが出ないことには。

 だからきついと思うけれど、もう少し辛抱して下さいね」

 

 そんな顔でやんわりと言われてしまってはガマンするしかない。とはいうものの今まで感じたことのないレベルで猛烈な空腹感が襲いかかる。

 あまりの空腹感と慣れない朝練の疲れと先程来の検査から来る疲れにプラスして、今朝早過ぎる時間に目が覚めた代償が今頃になってまとめてのしかかってきて、すでに俺の意識は朦朧としつつあった。

 

「うぅぅ……『ぎゅるるるるるる』」

 

 力の籠もらないうめき声と凶悪な腹の虫の鳴き声が、他に人のいない病室いっぱいに響き渡る。疲れ果てた身体と精神、そしてこの寝心地の良いベッドが眠りへと誘おうとするが、空腹感と腹の虫がそれを絶対許そうとはしない。

 起きていることも眠ることも難しいまま、いつまでこんな責め苦が続くのかと気弱になっていると、扉の向こうから良い匂いが漂ってきた。

 

「ヴェントドーロさんお待たせしました、先生のOKが出ましたから朝ご飯ですよ」

 

 扉が開くと同時に先ほどの看護師さんの明るい声。そして朝ご飯の匂いが病室いっぱいに広がる。その匂いと同時、口の中いっぱいに唾液が充ち満ちた。

 看護師さんが持ってきた朝食は、記憶にある病院食のトレーよりも2倍はある大きなトレーにご飯とおかずが山と積まれていた。どう見ても普通の成人男子が食べる3倍か4倍くらいは量がある。それをウマ娘看護師さんは軽々と持って入ってきたが、ベッドテーブルにドスンと音を立てて置かれた様子から、その量が現実であることを改めて感じた。

 そして俺は看護師に勧められるよりも早く、本能の赴くままうずたかく盛られた丼飯に齧り付いていた。

 

「あらあらよだれが。がっついてますねー、大丈夫ですよご飯は逃げませんからねー。

 えーと食べながらで良いので聞いて下さいね。とりあえず検査からは重大なケガの恐れはなかったそうです。でも転んだということなので念のため、午前中は経過観察になりました。あとで先生から詳しく説明があります。それから、お食事が終わったらナースコールして下さいね。食器はこちらで下げますからね」

 

 俺はその話を聞いてただ頷くのみで、それよりも腹の虫を治めるために必死になっていた。自分でも不思議なくらいだが、とにかく今はご飯のことにしか気が向かない。そしてとても人間の食べる量じゃないと思っていた朝食が、みるみるうちに俺の胃袋に消えていく。食べても食べても満腹感は訪れず、それこそ飲み物のように食べ物が喉を落ちる。

 気がつけばトレーの上には食器だけが残り、そして食べた量に見合うだけの満腹感が得られたかというと……

 

「あ、あれっ? これで腹八分目……くらい? いや、まだそこまで行ってないとか、もしかして?」

 

 俺は、焦った。ウマ娘ってみんなこれだけ毎食食べてるのか?

 だとしたら食費だけでとんでもないことになる。果たして生きていけるのか、それすら心配になるレベルで。そして今や俺自身がそのウマ娘だ。学園の食事も無料って訳じゃないだろうし、ヴェントドーロの経済状態がどんなのだったか急に心配になって落ち着かない。

 落ち着かないままだがやることもない。お腹がある程度満たされたせいか今度は眠気が襲ってきた。ベッドに身を預けて眠る体勢を整えると一気に眠気が襲ってくる。食器を片付けて貰おうと最後に残った力でナースコールを押したまま、俺はとうとう力尽きた。




次回、腹を括れ。


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メイクデビュー制服

謎な構造ってとっても困りますよね、描写しようとすると。


「ドーロちゃん、ドーロちゃん。そろそろ起きて下さいね」

 

 優しい声が夢の中に響く。

 

「起きないとイタズラしちゃいますよう?」

 

 イタズラという言葉に反応して急速に覚醒していく。パチッと視野が明るくなると、目の前には見知った顔。

 

「ああ、やっと起きましたねえ。おはようございます」

「お、おはよう、ござ……ってルジェさん……。

 !

 って事はもうお昼ですかっ!?」

「そうですよお」

「あれ? 病状について先生からお話があるはずじゃ」

「ヴェントドーロさんが気持ちよく眠っていらしたもので、起こすのも申し訳ないかと。どのみち午前中いっぱいは経過観察の予定でしたしね」

 

 声のする方に顔を向けると、白衣に身を包んだ背の高めな男性が立っていた。若い見た目なのにキリッとした感じで、結構な好青年風。

 

「す、すみません……。ぐっすり眠ってしまって」

「いえいえ。ちょっと疲労が溜まっていたようですね。

 それからケガの方ですが、手のひらを少しすりむいたくらいで、頭部やそのほか、特に問題はありませんでしたよ」

「そうですか……ありがとうございます」

「そんなわけですので、もう戻っていただいて結構ですよ」

 

 お医者さんの瞳がメタルフレームの奥からにっこりと微笑んだ。

 

 ルジェさんに手を引かれて医務室を後にする。

 着替えと今日の予定を確かめに戻りましょうかと彼女が言うので、一旦寮に戻ることになった。

 

 医務室に来た時とは違って、自分の足で学園を歩く。

 朝とは異なりすれ違うウマ娘が騒いだりはしない。ただ風に乗って少しばかりひそひそ話をしている気配は伝わってくるが。

 そして俺のウマ耳は敏感にそれらを感じ取って、無意識のまま時折ピク、ピクと声の出所を探している。耳が動くという慣れない感覚が、俺にウマ娘としての自覚を植え付けていくようだ。

 

「そういえばあ、医務室のお医者さんには記憶喪失のこと、尋ねなかったんですねえ?」

「あっ……」

 

 ルジェさんに言われるまですっかりその事を忘れてしまっていた。というか、あんなに顔を近づけて起こされてしまっては、そんな考え程度全部きれいさっぱり吹き飛ぶし。

 それは主にルジェさんのせいですと心の中でだけ悪態を吐いておいた。

 

 そんな事を考えながらも歩みは進み、学園の校門を出て真向かいの寮へとたどり着いた。

 

 朝出かける時には気づかなかったが、玄関口は『美浦寮』と書かれた木の看板が掲げられた少し古風な構え。昇降口でスリッパに履き替えると、やや暗い茶色のロングヘアーを靡かせたウマ娘が腕組みをして待っていた。

 

「あらあ寮長さん、お出迎えありがとうございます」

「ヴェントドーロ、無事に帰ってきたね。医務室に運び込まれたと聞いた時にはキモが冷えたよ。

 ルジェもお役目ごくろうさま」

 

 スマイルで出迎えたウマ娘はこの寮の寮長らしい。しかしやはり俺の記憶には全く浮かばない人物だった。

 

「はい、なんとか無事でした。少し手をすりむいたくらいで」

 

 俺は当たり障りの無いように返しつつ、話を合わせていく。

 

「そうかい。

 ちょっとしたことで学園生活を棒に振っちゃう娘も居るからね。無理は禁物、気をつけておくれよ?」

「はい。肝に銘じます」

「いい返事するねえ。なかなかしっかりした娘じゃないか。困りごとがあったら、なんでもこのイソノルーブルに相談しなよ」

「あらルーブル寮長、ドーロちゃんにはわたしがいますから大丈夫ですよ?」

「ルジェ、お前さんでも悪くはないけどたまに暴走するだろう?

 そうだヴェントドーロ、ルジェは掛かり癖が出ることがあるからね。もしもの時はためらわずにあたしを呼ぶんだよ?」

「寮長う、その言い方は酷いですよう」

 

 そんな掛け合いを交えつつも、ルジェさんと寮長の笑い声が響く。どうやらこの二人はかなり仲が良いようだ。

 だけど寮長の言う『もしもの時』というのが一体何なのか、俺にはちっとも分からなかった。

 

 寮長に愛想笑いを返しつつ、俺はルジェさんと共に自室に戻った。

 

「さて、ジャージは土ぼこりで汚れてしまいましたし一旦脱いでしまいましょう。代わりに制服に着替えましょうねえ」

 

 そう言いつつルジェさんは、俺の方のクローゼットを開いて制服一式を取り出す。そして素早く俺のジャージのファスナーに手を掛けてきた。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい。脱ぐくらいは自分でもできますから」

「分かりましたあ。でも制服はいろいろと作りがややこしいのでわたしがお手伝いしますからね」

 

 俺の申し出に対しあっさりと引き下がったルジェさん。でもベッドに腰掛けて着替えを注視していて、隙あらば手を出そうという意思がありありと浮かんでいた。

 ルジェさんには下着姿を今朝隅々まで見られてしまっていたが、やっぱりまだ恥ずかしい。ジャージの上着は脱いだものの、その次になかなか取りかかろうとしない俺の様子に業を煮やしたのかルジェさんの檄が飛ぶ。

 

「ほらほら手が止まってしまいましたよ。やっぱりわたしが脱がせてあげましょうかあ?」

「いえっ、やります! やらせて下さいっ!」

 

 彼女に任せたら単なる着替えで終わりそうにない予感がする。ここは頑張りどころだヴェントドーロ。

 自分自身に活を入れ、ええいままよと残っていた体操服の上下を共に一気に脱ぎ去った。そして、クローゼットのフックに掛かった自らの制服と対峙する。

 

 トレセン学園の夏制服。

 白を主体にして紫色の切り替えとアクセントが随所に入った、落ち着きを持ちながらも軽快な印象を醸す色柄の、変形セーラーカラーを持つトップ。スカートの腰元に開いた尻尾穴は、それがウマ娘のための服であることを雄弁に物語っている。そしてトップとスカートは背中だけが繋がった謎の構造。一部でも繋がっているのは激しく動いても着崩れしない配慮がされているのだろうけど、どうして普通にワンピースになっていないのか。しかもそのせいで着用の仕方が非常にわかりにくい。勇んで対峙してはみたものの、早々に白旗を掲げてルジェさんの助けを乞うしかなかった。

 

「そうなんですよ。トレセンの制服は難しいんです。上下がつながっているので。

 まずですね、専用のペチコートを穿いて下さいね。これは簡単ですよね。あ、尻尾穴が開いていますから尻尾もちゃんと通すんですよ?

 それから制服の本体なんですけど、これはトップの左側にファスナーが付いているので……まずそれを開いちゃって下さい。そうすると身幅に余裕ができて身体が通るようになります。スカートの方から頭を入れて……そうそう。

 スカートのウエストが実はゴムになっているんですよねえ。全部じゃないんですけれど」

 

 ルジェさんに手伝われるまま、言われるとおりに制服を着込んでいく。フリルペチコート、制服本体、ニーハイソックス、そして尻尾上のリボン。

 

「できましたあ。思った通りです、ドーロちゃんは制服がよく似合いますねえ。金色の髪と尻尾が制服の紫色によく映えていますよ」

 

 こちらが恥ずかしさのあまり穴に隠れたくなるくらいのベタ褒めである。

 

「姿見で見てもらってえ。ほら、かわいい」

 

 ニッコニコに微笑んだルジェさんに後ろから両肩を掴まれてくるりと回れ右。クローゼット扉にはめ込まれた鏡を前にする。

 今朝まだ薄暗い中、手鏡で見たのとは違って今はお昼。レースカーテンの掛かった窓辺から差す柔らかな光を乱反射させて、俺の金色の髪は女神も斯くやというが如く、淡い光をまき散らしていた。

 

「……これが……お……じゃなかった、私?」

 

 ド定番のセリフを自然に紡ぐくらいには、自己採点満点の美少女がいた。

 




次回、ウマ娘の限界に迫る。


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トレセン学園カフェテリア競走 遅めランチ特別

登場人物の言葉遣いに揺れがあるのは、直したんだけど追いついてませんということで。


 着替えが終わってから一息つく暇もなく、今日午後からのカリキュラムを確認しようと自分(?)の勉強机を漁る。

 机の引き出しから通学鞄まで、あちこち調べてみるがそれらしい紙もノートも見つからない。

 

「ドーロちゃん、なにか捜し物でしょうか?」

「今日これからのカリキュラムをですね。まったく覚えてないですからどこかに書いてないかなと」

「うーん、学校の授業とかトレーニングのスケジュールはウマホに専用のアプリがあるはずですよ?

 ドーロちゃんのウマホはどこでしたっけ……ああ、ありました。ベッドの横ですね」

 

 見ると俺のベッドのすぐ横の棚の上に白っぽいスマホが一台、充電コードに繋がれたまま置いてある。

 手に取るとロック画面が表示された。どうやらコードロックか指紋認証のようだ。スマホの裏面に指紋センサーらしき部分があったので、俺は祈る気持ちで人差し指を押し当てる。画面が切り替わって、アイコンが整列した。

 

「良かった、表示された」

 

 どうやら元々のヴェントドーロは指紋認証を使っていたようで助かった。これがコードロックだったら詰んでいただろう。

 件のスケジュールアプリは探すまでもなく画面の真ん中で存在感を放っていたので、迷うことなくタップする。

 今日のスケジュールが表形式で表示された。

 

「えーと、今の時刻が午後1時過ぎで……午後の授業は……1時半から?

 あと30分もないですね……内容は……基礎体力トレ。クラス合同でジムにて筋力トレのローテーションを50分」

「基礎筋力トレなら体操服かジャージで参加ですね。あとジムシューズと……汗を拭くタオルとかくらいで良いはずですよ」

「ですか。

 それから……そのあとはゲート練習とショートトラックで50分。んーと、今日のカリキュラムはそこまでですか」

 

 タイムラインをスライドでスクロールさせるが、それ以上の予定は入っていないようだ。

 ゲート練習とショートトラックはどちらもトラックの内フィールドで行うとのことで、ジャージと蹄鉄シューズを使うとルジェさんが教えてくれた。

 

『きゅるるる』

 

 そしてこのタイミングで俺のお腹はまたしてもスッカラカンになってしまったらしい。今の時点で午後の授業開始まであと15分ほど。お昼を食べるにしても時間がなさ過ぎる。我慢して午後の授業に出るしかないかと思ったら、ルジェさんが予想外に強硬な態度に出た。

 

「ダメですよ。今ドーロちゃんお昼抜いちゃおうとか思ったでしょう?

 そんなことをしたら空腹で倒れちゃいます。きちんと食べてから授業に向かって下さいね」

「でもそれじゃ、授業に遅れてしまいますよ」

「良いんです。ウマ娘、特にレースに出ようとするウマ娘にとってなにより重要なのは健康な身体。それを作るのは十分に足りた栄養なんです。

 トレセン学園に入ると最初に言われることですけれど、レースと、ライブと、お食事。この三つは他の何にも増して優先しなさいと教わるんですから」

「それって」

「だからドーロちゃん、ジムの用具だけ持って下さい。今からすぐに校舎のカフェテリアに向かいますよ。お着替えはジムの更衣室を使えば良いですから。それにわたしもお昼ご飯はまだだったので……実はお腹ぺこぺこだったんですよねえ」

 

 最後の方なにやらルジェさんの表情が少しばかり恍惚としていたような気がするが、きっと気のせいだろうと信じて俺は次の授業の支度を持って寮を出る。前を早足で進むのはもちろんルジェさんだ。その彼女から学園の中は最大でも速歩までと、ゆっくり走りながら、いやウマ娘的には急いで歩きながら説明を受ける。もちろん今朝みたいに誰かが重大なケガをしたとかいう緊急事態は別ですよと補足されたが。それでも走っていて万が一誰かとぶつかったなら、そのときはより速く走っていた方が罰を受けることが多いとも伝えられた。

 

 ゆっくり走っている感覚だったが、意外に早くカフェテリアの入り口にたどり着く。壁の時計を見ると1時20分過ぎ、寮を出てから2分も経っていない。ルジェさんは入り口に山と積まれた大きなトレイを片手にお皿の並ぶ方へと進む。俺もトレイを手に取り彼女に続く。よく見るとそのトレイは今朝医務室で食べた朝食の時と同じ物だ。

 ルジェさんは慣れた手つきでポンポンとおかずの皿を取っていく。どれもこれも大盛りで、男のヒトの大人でも、2皿にご飯とお味噌汁が付けば多分満腹になるんじゃないかという量。それを4皿ほど取っていた。対する俺は料金を気にしながら料理を見ていく。しかしどこにも料金札はなく、だんだんと心配になってきたのでルジェさんにそっと声を掛けた。

 

「あの、ルジェさん? メニューに料金が全然書かれてないんですけど。いったいいくらするんですか? お昼ご飯」

 

 それを聞いた彼女はきょとんと目を丸くしてフリーズしてしまった。俺は変なことを言ったつもりがなかっただけに、その反応は完全に想定外だったのだが、軽く吹き出すのを見て杞憂だったのだと理解した。

 

「ドーロちゃん? さっきわたしの話したことともつながるのですけどお、トレセン学園のお食事はあ、なんと全部無料なのですよう」

 

 そのときのルジェさんの顔は紛れもなく最上の喜色に包まれていたに違いなく。そして俺もトレー片手にガッツポーズを繰り出していた。

 それはそうだ、朝食の時に自分がやたら大食いなことに気がついてから実はずっと心配していたのだ。この身体で生活して行くと毎日の食費だけでいったいいくらかかってしまうのかと。でもその心配がないと分かった今、それまで押さえつけていた俺の腹の虫は完全に解放されることになった。

 




次回、そのおへそを隠せ。

そろそろキャラ設定とかをきっちり作っていかないとまずい展開になってきたので、次の更新から多少不安定になるかもしれません。


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神秘の詰まったおへそ山

ウマ娘は神秘の存在ですけれど、トレセン制服もまた神秘の塊なのです。


 

 後顧の憂いがなくなった俺は料理のレーンを逆走して最初に戻ると、ポンポンと皿を取っていく。朝の時は大体大人の4倍くらいの量だった。それでも腹8分目には全然届かなかったから、俺の胃袋を満腹にしようと思えば少なくとも6倍、あるいは7倍くらいの量が必要になりそうだ。調整はご飯でするとしても、料理の数は10品以上必要になる。そしてトレーの上にピラミッドみたく3段に亘って積み上げられた料理を見たルジェさんは、俺のことをバケモノを見るような目で見てきた。解せぬ。

 

「ドーロちゃんってそんなにたくさん食べる子じゃなかったのに……やっぱり変わってしまったんですねえ……」

 

 テーブルの対面に座ったルジェさんが悲しそうな眼差しを向ける。その視線を気にしながらも俺は朝食の時のように食べ物を喉に流し込み続けていた。どうにも一旦食べ始めると止まらない。実は限界点なんて無いんじゃないかと徐々に心配を募らせながら黙々と口に運んでいたら、全体の9割ほどを食べ尽くしたところで突如箸が鈍った。

 

「……さすがに……ちょっと限界近し、みたいです」

 

 既に食後のお茶を啜るルジェさんに聞かせるでもなくひと言呟く。一応限界点はあったんだと一安心しつつ、箸を一旦置いた。

 

 朝食の時にはなかった満腹感。ここまで食べないとその感覚が起こらないのは自分の身体の事ながら驚異でしかなかった。これほどの量を食べられるということは、裏を返せばこの身体がそれだけ必要とする場面があるということ。それに今後トレーニングが激しくなってくれば、さらに要求量も上がってくるのだろうし。

 その一方で、これだけ食べても制服を着ているはずのお腹周りが窮屈になってこなかった。不思議に思って下を覗き込んでみると、なるほど着替えで悪戦苦闘した制服の謎構造はこのためにあったのかと合点がいく。

 そこにあったのは女の子としては文句なく落第点を貰えそうなボテ腹。トップの裾がまくれ上がり、スカートのゴムは伸びきって、その間の空間ではみ出たまん丸お腹がコンニチワしていた。もちろんおへそも飛び出したまま丸見えで、とてもじゃないけど人には見せられない姿だ。

 時間も押してるのに困った、食べすぎたかと焦っていると、今度は見る間にお腹が萎んで制服に辛うじて隠れるくらいになってしまった。

 

 ウマ娘の神秘をまた一つ実感した瞬間だった。というか、ほぼ一瞬でお腹が凹むとかいったいどうなってるんでしょうかね……。

 

 お腹が落ち着いて人心地付いたところで、さっきルジェさんの漏らした言葉を思い出す。それによると、元々ドーロはこんなに食べる娘ではなかったようだ。

 

「ルジェさん」

「はい、なんでしょうかあ?」

「先ほど私のことを、そんなにたくさん食べる子じゃなかったって言いましたよね?」

「そうですねえ」

「そんなに少なかったんですか? 今は多すぎて逆に困るぐらいなんですけど」

「昨日までのドーロちゃんは、わたしよりちょっと少ないくらいのお食事で満足していましたねえ。わたしが今おかず4品でしたけど、2品ぐらいでしたでしょうか」

「ルジェさんよりだいぶ少ない目ですね」

「ですねえ。でもウマ娘には本格化っていう時期があるんですよ」

「本格化って」

「競走ウマ娘としての成長期のことですねえ。それにさしかかるとトレーニングの効果が何倍にも増えて走力も上がるんですけれど、食欲も何倍にもなる、と」

「もしかすると私もそういう時期になったんじゃなかろうかと?」

「かもしれません」

「だとすると、なにか早めに手を打っておいた方が良いこととか」

「もう本格的なトレーニングを始めた方が良いのかもしれません。トレーナーさんに付くなり、チームに入るなりしてですよね。

 でもトレーナーさんに付いたりチームに入るには選抜レースを走らないといけなくて。ドーロちゃんはそれがまだこれからなので」

「その選抜レースっていつ行われるんでしょうか?」

「えーと、高等部入学の娘向けにはもうそろそろ始まるはずですよ。スケジュールアプリの方に通知が来てる頃じゃなかったでしょうか。

 ドーロちゃんは模擬レースの成績が良かったから、すぐに出走許可が下りると思います」

「許可なんて必要なんですね」

「今日この後の予定みたいに、授業の一環としてのトレーニングがある訳なんですけれど、その教官さんから許可が出ないと選抜レースに出られない決まりなんですよう。

 ある程度基礎的な実力がないとレースに出ても見どころがなく終わってしまって体力を失うだけですし、ケガの心配もありますしねえ」

「そうなんですね……」

「ああ、でもドーロちゃんは走る感覚を取り戻してからの方が良いかも知れませんねえ。今朝の様子だとまだちょっと本調子じゃなかったみたいですし」

「それは確かに。

 んー、どうしたら走れるようになるかなあ」

「練習あるのみでしょうか。わたしもお手伝いしますけれど、普段は早朝ぐらいしかお付き合いできませんし……。そうだ、トレーニングの教官さんに訳を話して見てもらうのが良いと思いますよ」

「個別指導もしてくれるんですか?」

「時間があれば多少ならですね。ずーっとは無理ですけど、ワンポイント程度なら。実際そうやってコツを掴んだ娘もいるんですし」

「ずいぶんと詳しいですね」

「それ、実はわたしもそうでしたので……。っと、いけないもうこんな時間です?」

 

 ルジェさんの驚いた声に壁時計を見ると、時計の針は既に2時前近くになっていた。

 いくら食事が優先と言っても30分以上授業に遅刻していては言い訳も難しいだろう。私は残っていた料理をガガッと掻き込んで食事を終わらせると、ルジェさんと共に食器を片付ける。

 またバケモノを見るような目で見られてしまったけれど。

 

「それじゃあわたしはチームの方でこれからトレーニングなのでえ。ドーロちゃん、また夜に寮で」

「はい、私はジムの授業に行きます。ルジェさん、今日はご迷惑いっぱいおかけして申し訳ありませんでした。大変助かりました」

 

 深々と頭を下げると、私は踵を返してジムへ向かおうと走り出す。

 

「ドーロちゃん! 学内では速歩ですよう!?」

 

 そうだった。

 私は静かに急ぎつつジムを目指す……。ジム……どこだっけ?

 




次回、第三のオンナ。


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先んずれば制す

なんでもそうですけど人に合わせて物事進めるのってストレスですよね。


 

 さんざん道に迷いつつ、やっとの事でジムにたどり着いた。ガラスのドアからこっそり様子を窺ってみると、大勢のウマ娘達がそれぞれトレーニングマシンに張り付いて運動している。どうやら入り口に入ってすぐ右手が更衣室のようなので、なるべく静かにドアを開けて忍び込……めなかった。

 

「ヴェントドーロ。もう体の方は大丈夫なのか?」

 

 ドアを閉めようと後ろを向いたところを背後から声を掛けられた。遅刻を叱られるかもと冷や汗を浮かべながらゆっくりと振り向くと、そこには俺より背の高い、筋肉質なヒトの女性がバインダー片手に立っていた。多分トレーニングの教官だろうと直感する。

 

「あ、はい。ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です……その、午後の準備に手間取ってしまいまして遅刻してしまいました、申し訳ございません」

 

 隙を与えず頭を深々と下げて最敬礼。そして一気にお詫びの言葉を吐き出す。こういう時はこうすべきと脳裏に浮かんだ瞬間に、ドーロの身体は見事な反応をして見せた。流れるような体幹の動作に淀みない滑舌の良さだ。この身体、ルジェさんが言っていた内容から想像していたとおりのハイスペックさだった。

 そんな戸口での様子にトレーニング中のウマ娘達が何人か気づいたらしい。ざわざわと話し声が聞こえてきた。

 

「わかったわかった。もう君が大丈夫なのは十分わかったから顔を上げてくれヴェントドーロ。こんな様子を見せつけられては他の生徒たちが落ち着かない。

 それにもうこんな時間だ、そろそろ基礎トレの時間も終了するし、最後の片付けだけ手伝ってくれるか?」

 

 壁の時計は2時15分を過ぎていた。基礎トレの時間は20分までで、なるほどもう終了の時間だ。

 持ち物を適当にそこら辺の床に置いてどこを手伝おうかとジムの中を見回していたら、近寄ってきた黒髪のウマ娘に声を掛けられた。

 

「ドーロちゃん、倒れたって聞いて心配したよ。もう平気なの?」

 

 例によって見覚えのない娘だ。

 相手がそうであるように、俺も慣れた態度で対応する。

 

「はい。医務室の先生によると何も問題ないと」

「そうなんだ。良かったあ。クラスのみんな朝からずっと心配しててねー。LANEも鳴りっぱなしでね」

「そうだったんですね……皆さんにはご心配おかけしました」

 

 そう言って俺は目の前の彼女にぺこりと頭を下げた。

 

「そんなに畏まらなくってもいいってドーロちゃん。無事でなによりだからね。ほら、他のみんなも同じ」

 

 彼女が手を向けた方を見れば、少し先で固まっていたウマ娘数人がこちらに微笑みを向けている。目立たないくらいに軽く手を振る娘もいた。

 どうやらあれがドーロと仲の良かった一団になるらしい。

 

「次の授業にも出るんだよね?」

「そうですね、もう回復してますしそのつもり」

「良かった。

 あ、授業終わりの礼だね並びに行こ?」

 

 片付けを終えたウマ娘達がジムの中央に集まる。教官へ向け一斉に礼をして基礎トレ授業が終わった。先ほどの黒髪のウマ娘がまた寄ってきて、一緒にトラックへ向かうことになった。

 

「ドーロちゃん、ここの更衣室で着替えちゃえば良いんじゃない?」

 

 制服姿のままジムを後にしようとした俺に、黒髪の彼女が言った。

 

「トラックに出ちゃうと更衣室まで行くの面倒だし。制服入れとくスポーツバッグとかは?」

「あぁ……慌ててたからバッグ置いてきてしまいました……」

「あれ、そうなんだ。んーと私なにか袋とか持ってきてたかなあ」

「あの、寮に戻って着替えてきますよ」

「今からだと間に合わないよ? コンビニ袋で良かったらこれ、使ってよ」

 

 きれいな三角に折りたたまれた白いビニール袋が彼女の手から差し出される。俺はひと言お礼をして、ジムの更衣室で着替え始めた。

 着る時に大変苦労したトレセン制服は脱ぐ時もやっぱり大変だったのだけれど、彼女の手伝いもあってなんとか次の授業時間に間に合った。

 

 トラックの中心には芝で覆われた広場と、本コースよりはかなり小さい楕円形のトラックが備えられていて、本コースを占領するほどでない小規模のトレーニングや特殊なトレーニングをするためのスペースとして用意されている。地下道を通ってそのスペースにたどり着いた俺たちは、灰色の鉄パイプで組み上げられた大きな檻のような建造物と対面した。3メートルはあろうかという高さと10メートル以上はある横幅を持った無機質で非人間的な造形を持つそれに、俺は言い知れない威圧感と恐怖感を持つ。

 多少の恐慌と共に、隣にいるはずの黒髪の娘の様子を窺う。彼女もまた恐怖感を持っているんじゃないかと。だが、俺の予想はあっさり裏切られた。隣にいた彼女は至って平静なたたずまいを見せていたからだ。それがなぜなのかはこの後すぐに分かった。

 

「それでは今からゲート練習をします。前にもやったわね?

 前回の練習後に評価を渡しておいたと思いますが、A評価を貰っていた人のゲート練習は最初の1回だけ。ゲート慣れはしていると判定されているので、あとはスタートダッシュの練習をショートトラックの方で行うこと。B評価だった人はゲート慣れがまだの人なので、A評価組のゲートが終わってから順次練習に入ります」

 

 教官の話を聞いて、そこで気がついた。ドーロのゲート評価はどちらだったのだろうか。

 

 




次回、もし本番なら120単位相当。


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ゲート難出遅れステークス

実際のところあの音に驚かず前に出られるのってすごいなーって思うわけですよ。


 

 組分けは今まさに行われようとしている。しかし俺は自身がどちらの組だったのかを知らない。周りに聞くか教官に尋ねるかしなければと逡巡していると、教官から声が上がる。

 

「それじゃ分かってるとは思うけど名前を読み上げるわよ。呼ばれた者はA組。ゲート横に集合して」

 

 それに応じて、ハイと元気よく揃う生徒の声が響く。そして順番に呼ばれていく中にドーロの名があった。リーゾアラチェートと呼ばれた黒髪の彼女の名も。

 ゲートと呼ばれた檻に近づく。見れば見るほど恐怖感が湧き上がる。なんとか抑えてはいるが、一人でこの場に立っていたなら堪らず逃げ出していただろう。しかしドーロはA組、ゲートを難なくこなせていたはず。ならば俺はどうしてこんなにゲートを怖がるのか。それは俺自身の問題なのか、それともドーロが隠し持っていた何かなのか。

 次の瞬間、総毛が立った。

 

 ダッシャアァン!

 

 前触れなくゲートが全て開いた。金属同士を打ち付けるけたたましい音が耳に刺さる刹那、俺の耳は引き絞られ尻尾が巻き込まれた。

 

「ドーロちゃん。

 ドーロちゃん!? だいじょうぶ?」

 

 黒髪の彼女、リーゾの声で現実に引き戻される。

 

「すごい怯えてたけど。わ、目が真っ赤だよ本当に平気?」

「え、ああ……大丈夫……です。ちょっと驚いただけ……で」

 

 冗談でなくあれは心の底からの恐怖。現実に引き戻されてみれば、そこにあるのは単に開閉するだけの檻、なのだが。

 リーゾが心配げに、俺の様子を上から下まで見ている。

 

「もしかして、まだ体調悪いとか?」

「いえ、それはもうないです。本当に」

「……なら、いいんだけど」

 

 そして、俺のゲート入りする順番がやって来た。

 

 ゲートを見て怖気立(おぞけだ)ってからずっと気が乗らない。正直言えばこんな練習止めておきたいが、模範を見せるA組というドーロの立場では逃げるわけにもいかなかった。やれるだけやってダメなら言い訳も付くかと諦めの気持ちが興る、それにその方が今は良いのかも知れない。俺にはドーロと同じようには走れない現実がある。だがドーロ(彼女)の走りを取り戻さなければ俺に未来はない。常軌を逸した俺の食欲を満たすためにはレースに勝ちまくり、賞金を稼がねば。

 

 両手で頬を叩いて気合いを入れた。周りに居た何人かの生徒がその音に驚いていたが構いやしない。俺は開いたゲート()を睨みつけ、一歩また一歩と押し進む。

 

 ゲート()の内側。とにかく狭い。いや、ウマ娘の体格からしたら余裕はある空間だが、取り囲まれている感覚が大変な重圧で、さらに何かデカい生き物に『食われた』ような錯覚すら感じる。自分の心音が檻に反射し騒々しくて仕方がない。そんな中でも耳が辛うじて捉えた『用意』の合図でスタートを構えた。次の瞬間

 

 ゲートオープンの騒音と同時に足が(すく)んだ。

 

 半呼吸で周りから完全に置いて行かれる。黒髪の彼女(リーゾ)が前に出て、その艶めく黒い尻尾を揺らす。俺は、蹴り足を前に出して、そして、次の足が追いつかず

 

 朝に引き続き盛大に顔から地面に突っ込んだ。

 

「ヴェントドーロ!」

「ウソでしょ、顔から行った!?」

「早く助け起こせ!」

「とりあえずテントへ!」

 

 気がつくと俺はテントの下で簡易ベッドに寝かされていた。左右に目を配ると、横にはリーゾが付いてくれているのが見えた。

 

「ああ、ドーロちゃん気がつきましたかあ」

 

 そしてなぜかルジェさんの声が聞こえた。声の聞こえてきたのは頭の上からだった。上目遣いに顔を上げると彼女の銀髪が目に入った。

 

「え? あ? ルジェ、さん? どうして?」

「トラックの方でチームの併走をしていたんですよ、そうしたら内フィールドが急に騒がしくなるじゃないですか。そこで気がついたんです、ドーロちゃんの授業だったなって。

 それで目を配ったらドーロちゃんが抱えられて運ばれているじゃありませんかあ。大慌てで駆けつけたんですよ」

 

 ルジェさんの瞳で光が揺れる。泣きそうになるくらい心配してくれていたのか。

 

「どうしちゃったんでしょうか、ドーロちゃんは……今朝からやっぱり変ですよ」

 

「……その、ゲートが怖くて、ですね。足が、竦みました」

 

 横から黙って見守っていたリーゾの表情が驚きに変わる。対するルジェさんは眉根を顰めてとても困ったような表情を見せた。

 

「ドーロちゃん、ゲート得意だったよね? どうして?」

 

 声を上げたのはリーゾ。

 

「分からない、です。とにかくゲートを目にした時から怖くて怖くて、仕方がなくて。自分の意識とは違うところから、湧いて出てくる恐怖と、いうか。

 あの檻みたいな形もそうですし、開く時の音も怖くて堪らなくて」

 

 そうやって話をしている間にもゲートの中での記憶が蘇ってくる。再びの恐慌に飲まれそうになるその時、反射的に起きた俺の上体がやさしく受け止められた。鼻をくすぐる甘い香りが意識を現実に引き戻す。

 リーゾの黒髪が眼前を覆っていた。少しくぐもって聞こえる声が胸元から発せられる。

 

「大丈夫だって、言ってたよね。だから安心してたんだよ。

 ねえドーロちゃん、朝から何が起こってるの? 態度もよそよそしいし、言葉遣いも変に丁寧だし。先輩も変だって言うし。

 ……リズにも聞かせて欲しいな。リズにもドーロちゃんの苦しみを分けて欲しいよ。一緒に悩むから……一緒に、ね?」

 

 リズと名乗った黒髪の彼女。その香りが俺の心をすっかりと和らげた。

 後ろから両肩をそっと手が支えてきて、力んでいたものが抜ける。ルジェさんの柔らかな手だ。

 

「……ありがとう、ございます。リズちゃんもルジェさんも。

 授業が終わったらお話ししたいと思います。でも、私もまだ分からないことが多すぎてですね。それでも良いでしょうか?」

 

 黒髪に覆われた長めの耳が揺れた。

 




次回、衆人環視。


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ふえるお世話焼き

顔から行っちゃうと実際の話、ほんとに目から火花が散るんです。ダメージ自体はあんまりなかったりするんだけど。


 

 残りの授業、俺は見学になって、リズちゃんは練習に戻った。

 彼女は名残惜しそうだったが、俺の意識が戻ってしまった上にルジェさんまで付き添っていたのでは、このまま俺のそばにいる理由がなかった。というかルジェさん、ずっとここにいても大丈夫なんですか? チームの方はお咎めないんですか?

 

 簡易ベッドに腰掛けたまま授業の行方を見守った。リズちゃんがショートトラックを周回しながらスタートダッシュの練習を続けている。時折俺の方をちらりちらり気にしてくるが、なんとなく視線が厳しいような気がした。一方でB組の方はゲート練習を続けている。ゲートオープンの金属音が響くたび、俺の耳は後ろにぎゅっと引き絞られ身体がこわばる。それを見かねてルジェさんがそのたびにそーっと耳元を撫でてくれるのだが、そうすると緊張がほぐれて耳はゆっくりと元に戻るを繰り返す。

 結局授業の時間中、俺とルジェさんは終始そんな感じで過ごしていた。だんだんと心に平静さが戻ってきたせいか、端から見ればどう考えてもカップルにしか見えないよなこれ、とか考えるくらいの余裕が授業終わりの方にはできてくるようになった。というか本当にルジェさん、チーム練習行かなくて大丈夫なんですか?

 そんな風にこちら二人が和やかな雰囲気になっていくのとは対照的に、リズちゃんの方は表情がだんだん険しくなっていったのだが。

 

 授業終わりの合図があって全員が集合。ルジェさんを置いて俺も列の方に混ざったが、横に並んできたリズちゃんが大層恨めしげだ。「ドーロちゃんはいちゃいちゃを見せつけすぎだと思うの。みんな引いてたよ」なんて言われてしまった。いや、それは俺のせいじゃないと思うし。

 

 授業終了の礼があって、テントの下で教官に呼ばれた。ルジェさんとリズちゃんが俺の斜め後ろ左右に別れて、三人立ったまま話を聞く。

 

「ヴェントドーロさん、早朝の自主練で転んだと聞いていたけど、医務室のドクターからは授業復帰のOKが出ていたのよね?」

「はい、そうです。走るのに支障はなく、ケガも手のひらをすりむいたぐらいだと」

「ゲートで転んだのは何が起きたのか、分かる範囲で良いので教えてもらえるかしら」

 

 その問いにどう答えるべきかちょっとためらう。俺が後ろに控えるルジェさんに少し目配せをすると、彼女は小さく頷いた。

 

「……突然ゲートの存在が怖くなって仕方がなくなりました。一旦は落ち着いたのですが、何か心の奥の方から湧く恐怖感に再び抗えなくなりました……。それからスタート直後に転んだのは脚が思うように出なかったせいです」

「そうなのね。ゲートの方は心理的なものとしても、今まであなたは難なくクリアできていたはずなのだし急にそんなことになるなんて……」

「それであの、教官にこんなお話をするのは持って行き場が違うのかもしれませんけれど……」

「何かしら? いいわよ、なんでも話してちょうだい」

「……そうですか。

 実は……今朝起きた時から昨日以前の記憶がないんです。同室のルジェ……オンダルジェント先輩の名前はおろか、自分の名前すら忘れていましたし、それに自分がウマ娘で、トレセン学園に在籍していてレースの訓練をしていることも」

 

 そんな突飛な話は誰もが想定外だったろう。教官は目を丸くしたまま二の句が継げずにいる。振り返るとリズちゃんも心配そうにこちらを見つめていた。

 

「走り方も、実は忘れてしまっていました。脚の出し方、蹴り方、なにもかもです。……だからゲート練習の時も足が出ずに転んでしまったんです。

 今朝、ルジェ先輩にそのことを伝えたら一緒に練習してくれていたのですが……医務室に運ばれたのはそのときも転んだせいで」

「……そんな事が起こっていたとはね。その話、他の人には?」

「知っていたのはルジェ先輩だけです。あとは今ここで教官と、リズちゃんですね」

「分かったわ。この件、他の教職員と共有して対処します。ヴェントドーロさん、あなたは走ることをどうか諦めないで」

「……はい。私もそれは諦めたくありません。絶対に」

 

 引退後の食費のため、とはさすがに続けることはできなかったが、この会話でレースを走れるようになるための道筋を掴むきっかけはできたと俺としては感じた。

 

 教官との話が終わって、三人並んで寮に向かう。

 

「長い一日がようやく終わりますねえ」

「朝からあれこれ巻き込んでしまってすみません。ルジェさん」

「気にしなくても良いんですよう。ドーロちゃんのお世話、割と楽しいんですから」

「うえ?」

「リズもドーロちゃんのお世話なら任せて欲しいな。

 先輩の手が回らない時も、リズはそばにいるよ」

「ありがとうございますリズちゃん。助かります」

「寮での生活もトレーニングも、わたしがしっかりお世話しますからねえ。なんと言ったって一年先輩ですからわたしは。だからなんでも頼って下さいねドーロちゃん」

「寮でのお世話ならリズも負けないよ。なんでも頼ってねドーロちゃん」

「ちょ、ちょっと競り合うのやめて下さいお二人とも。というかリズちゃんはもしかして美浦寮なんですか?」

「そうだよ。

 ……ドーロちゃんそういうことも全部忘れちゃったんだね。これはますますお世話がんばらないと……うん」

「あの、お二人ともほどほどにでお願いします。本当に」

 




次回、走れないウマ娘がこの先生きのこるには。


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ヴェントドーロ支援同盟

トライフォースとかデルタフォースとか。

おかげさまで前話更新前後一気にPVが伸びまして、これを書いている時点では二次創作新作日間ランクで28位に浮上しました。ウマ娘のジャンル別ですと日間総合評価で6位。週間で30位まで急浮上。本当にありがとうございます。
読み専期間が半年以上あってルーキー条件に掛からなかったので出足が非常に鈍くて、もうダメかなと思っていたんですけれどね、嬉しいです。


 

「それじゃ、またあとでね」

 

 リズちゃんは同じ美浦寮所属といっても俺たち二人とは別棟だった。寮の昇降口で別れて、俺とルジェさんは連れ立って自室に向かう。

 自室はお昼に探し物をしたそのままで、俺の学習机の周りを中心に散らかっていた。とりあえず手に持っていたコンビニ袋から制服を取り出して丁寧にハンガーに掛けると、その勢いのまま机周りを片付ける。続けて教科書やノートなんかを一冊一冊手にとってざっと目を通しておく。ドーロがこれまでの高等部生活でどんなことをやって来たのか、少しでも知っておきたいと思った。

 ルジェさんはといえばいつの間にか制服に着替え終わっていて、ベッドに腰掛けて俺をじーっと見つめていた。

 

「あの、ルジェさん?」

 

 視線がどうしても気になってしまった。

 

「はい♪ どうしましたかドーロちゃん?」

「さっきからじーっと見つめてますけれど、私に何かおかしな所でもあります?」

「いいえ~♪」

「すごく上機嫌のように見えるんですけど、何か良いことでもありました?」

「ドーロちゃんとまた二人きりになれましたのでえ。それが良いことですねえ」

 

 にっこにっこと満面の笑みを湛えてストレートに来ましたありがとうございます。

 

 どうしてかは分からないが、ルジェさんの俺に対する好きの感情はやや過大なように感じる。リズちゃんが現れてから余計に酷くなったようで、対するリズちゃんもルジェさんに対して対抗心を隠そうとはしていない。このまま俺を巡る二人の争いが激化していったら、そのうち俺は手ひどい仕打ちを受けてしまいそうな予感がする。誰から仕打ちを受けることになるか、までは分からないが。

 

 ルジェさんについては俺の方からどうこうできないので、再びノート類のチェックに戻った。しかしこの教科書の数とノートの内容だ、トレセン学園高等部の学習は科目数内容ともに普通科進学校並にあるのではなかろうか。いや、俺が一般進学校の内容を覚えている訳はなく、ざっと目を通した上での印象に過ぎないが。

 

 そんな事をしていたら、ドアをノックする音が響いた。

 

「リズだよ。おじゃまするねドーロちゃん」

 

 こっちの返事も聞かないうちにドアが開いてリズちゃんが入ってきた。こちらも満面の笑みだ。間違いなく俺がいるからなんだろうな、というのは彼女に聞かずとも察することができた。そして彼女はこちらに顔を向けたまま器用に部屋の中を横断して、俺のベッドにちょこんと腰掛けた。

 左右のベッドでにっこにっこと笑みを満開にした美少女が二人。何も知らなければ非常に絵になるシーンだと思うが、その笑みはこの場にいる三人目、つまり俺のみに100%向けられているのが異常事態だ。どうしてこうなった。

 

 しばらくそのままの態勢で三人動きがなかったが、俺はふと思いついてデスクチェアに座り直した。そして

 

「ちょうど良い具合に三人が部屋に揃ったことですし、今後のことについて打合せとかどうでしょう?

 お二人に聞きたいこともいっぱいありますし。私からのちょっとしたお願いもありますし」

 

 そんな風に話を振ってみた。

 

「ドーロちゃんがわたしたちに聞きたい事ってなんでしょうか……。なんでも答えますよう」

「ドーロちゃんのお願いなら、リズなんでも聞いてあげるね」

 

 断られる心配はなかったが、二人とも前のめり過ぎるのが逆に心配かもしれなかった。

 

「とりあえずですね、今後のことです。

 ご存じの通り私は上手く走れません。このままでは困りますから、どういう風にトレーニングして走れるようにしたら良いのでしょうかと」

「まずは正しいフォームを身に着けるところからだと思いますよう? 今朝も見させていただきましたけれど、付け焼き刃ではダメなのではないかと」

「リズはドーロちゃんの走るフォーム見てないんだけど……そんなにひどいの?」

「幼稚園児でもあそこまで動けないのはなかなかないと思いますねえ。

 デビューのこととかを考えると今から1カ月以内には人並みのフォームにできないと……ドーロちゃんには厳しいかもしれませんけれど、そのう……」

「選抜レースにも出られないから、どんどんデビューが遅れて行っちゃうね。

 でもそんな基礎の基礎から親身に見てくれるコーチって、いるかな?」

「このトレセン学園でも聞いたことはありませんよねえ……私が時間をやりくりして教えるのは吝かではないのですけどお……、やっぱり限度が……。ドーロちゃんのがんばりに賭けるしかないとは思うんですけど、いつ頃物になりますかは……」

「リズもできるだけ練習見てあげるね。リズもまだまだこれからだから、一緒にトレーニングがんばろう」

「ありがとうございます二人とも。早く追いつけるように努力しますよ」

 

 二人の話をまとめると、この年齢でここまで基礎からない状態はウマ娘としては考えられない状況だそうだ。普通は小さい頃から勝手に走り始めるし、周りの友達や大人の走りを見てある程度自然に走り方の基礎が身についていくものらしい。ヒトのようにいつまでも走るのが下手で遅いという風にはならないのがウマ娘という存在なのだとか。だから指導でどうにかするのは難しいかもというのが二人の一致した意見でもあった。

 そうなると、助言を受けながら自らの理解力と勘、そしてドーロの身体が元々持っているポテンシャルを信じて、半ば独学でフォームを作らなければならないのかも知れなかった。

 

「今朝もお伝えしたことですけれど、ドーロちゃんの走り方ってヒトのそれにとてもよく似ているんですよねえ。ウマ娘はパワーがヒトとは全然違うのでえ、あのフォームでは脚が空回りしちゃいますよねって思ったのですよ」

「それであのワンポイント指導だったわけですね」

「そうなんですが、そうしたら今度は脚の回転が追いつかなくなったじゃないですかあ。回転さえ上げることができれば次の段階に上がれるんじゃないかと思えるんですけれど」

「そこでフォームが崩れちゃうと厳しいよね……やっぱりきちんとチェックしながらじゃないと」

「本当にお二人にはなんとお礼をしたものか……」

「ドーロちゃんのお力になれるのならわたしは全然かまわないのですよう」

「リズもね、ドーロちゃんの事ならなんだってお手伝いできるから。

 ……そうだ。ルジェ先輩、先輩とリズで同盟結ぶと良いかもしれないね。ドーロちゃん支援同盟とか、どうかな?」

「そのアイデア、悪くはないですねえ。これからお互いドーロちゃんのことで協調しなくちゃいけないでしょうし。LANEの交換もしておきましょうかあ」

 

 ついさっきまでなんとなく敵対ムードもあったルジェさんとリズちゃんだったが、急展開で仲良くなってしまった。うむむ……これが、女子力なのか? 俺にはとても真似できそうにないムーヴではあった。

 そんな感じで話がまとまったところ、タイミング良くドアがノックされる。顔を見せたのはイソノルーブル寮長。夕食の調理を手伝って欲しいとルジェさんを呼びに来たらしい。ここで今日の会合は一旦終わりを迎え、リズちゃんも自室へと戻っていった。

 

 そして夕食と聞いた俺の腹の虫は、まだその時間までかなりあるはずというのに早くも目を覚ましたらしく、獲物を求めて腹の底で動き始めた。本当にこの胃袋、これからどう付き合っていけば良いのだろうか。




次回、今北産業。


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まだ、分からないことだらけ

今回は短め。
ウマ耳とウマ尻尾があったらとりあえず飽きるまでセルフもふもふしたい。

追記
読者の方からご報告があったのですけど、今日の午前には日間総合ランキング64位に入着していました。これもお読みいただく皆様のおかげです。この場をお借りして御報告と御礼申し上げます。



 

 そういえば寮に戻ってきてから着替えがまだだった。ゲートでスタートに失敗してすっ転び、砂まみれになったジャージ姿のまま今までいたことに気がつく。よく見ると床にはジャージから落ちた砂粒が結構散らばっていて、これは掃除をしないとまずいだろうと思う。しかしその掃除道具もどこにあるのかてんで分からないし、かといってジャージのままでは今も動くたびにポロポロと砂粒の落ちる音が小さく聞こえている。

 

「とりあえず、着替えが先かな」

 

 そう考えてクローゼットの中を漁る。そしてそこで俺は(はた)と悩むことになった。制服を着るべきか、私服を着るべきか。

 ルジェさんは制服に着替えていた。途中で訪れた寮長も制服だったから、寮の中では特に理由のない限り制服を着る決まりでもあるのかも知れない。しかし、だ。今の俺が人の手を借りずにあのやたら複雑な構造のトレセン制服をきちんと着られる自信はまるでない。無理な着方をしたらウマ娘のパワーで破れてしまったりしそうだ。

 

 だから諦めて私服を着ることにした。部屋着だし、良くて寮の中をうろつくくらいだから気張った格好をする必要はないだろう。探っていったらグレーのスウェットパンツと少し厚手で白いプリントTシャツが出てきた。ソックスも探し出してぱぱっと着替えを済ませる。脱いだジャージは洗濯に出したいところだが、洗濯機とかどうなっているのか分からないから、それは後回しにして制服の入っていたコンビニ袋に突っ込んだ。床に散った砂粒は、シャワーブース横に床用ワイパーを発見したのでそれで掃除する。

 

 ここまでの作業を終えてベッド横の目覚まし時計を見ると、午後5時半に少し足りないくらいの時刻だ。夕食が何時から始まるのかは知らないが、食事の香りが届いていないしそれはまだまだ先だと思える。実は腹の虫がさらに目を覚ましつつあって、この調子だとあと1時間もすればまた盛大に唸り声を上げるはずだ。

 

 俺は自分のベッドにゴロンと寝転がった。

 

 疲れる一日だった。早朝、まだ夜も明けきらないうちから目が覚めたのは良いが、そこは知らない場所で知らない自分で知らない同居人で。おまけに性別も人間としての種族も全く変わってしまったという実感だけはある奇妙な状況。昨日までの俺が何者だったのかすら思い出せず、他人の名前を呼ばれる事になって、でもそれは俺だと強制されている。

 そんな一日だったが、なぜかこの身体の有り様にはいつの間にか慣れてしまっていた。いや、朝起きた時から感じた違和感は耳の触感ぐらいなもので、その耳にしたって尻尾にしたって特別な違和感と呼べるようなものは日中少しも感じることはなかった。まるで最初から俺の身体はこれでしたと言われているような。

 

 そっと耳をいじる。

 

 触った瞬間はひんやりしているが、そのうち奥の方から温かさがじんわりと伝わってくる。触られている感覚は確かにあって、作り物ではない自分の耳だとすぐ実感できる。細かい毛の生えた案外と肉厚なそれは、握り込むと硬めの弾力が手のひらを押し戻す。毛並みも相まって触り心地はすこぶる良いのだが、触られている方の感覚としては思ったよりくすぐったいものだ。いきなり触られたら多分結構驚くだろうな、とは思う。そして時折何かに反応して勝手に動くことはあるが、未だ自分の意志で自在に動かしたりはできていない。尻尾にしてもそうだ。そういうところは他人の身体だなと思う、この身体でいる事への違和感はまるでないのに。

 

「俺は一体、……何者……なんだろう……な」

 

 ヴェントドーロというウマ娘なのか……、それとも『きんばらはやて』という名前らしき言葉に何か……関係があるのか。……ゲートを極度に恐れた事にも関係して、あるいは……まだ……何か隠されて…………いるの………………か………………。

 

 §

 

「ドーロちゃん、ドーロちゃん。起きて下さい。晩ご飯の時間ですよう」

 

 聞き慣れたルジェさんの柔らかな声に起こされた。

 




次回、掛かってしまっていますね。


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甘くならない女

3万文字を超えてきてもまだ1日の話が終わらないぐらいスローペースな小説があるらしい……。


 

 いつの間にかすっかり眠っていたらしい。昼に病室で起こされた時と同じように、ルジェさんの優しく微笑んだ顔が目の前に広がっている。

 

『ぐぎゅるんるんるんるん♪』

 

 そして俺の腹はおはようの返事代わりに絶好調の雄叫びを上げた。……心なしか嬉しそうにも聞こえるが。

 ルジェさんが少し離れた隙に素早く起き上がり、ベッドの上で平伏する。

 

「す、すみません。また、私のお腹が……」

「いいんですよう。お腹が鳴るのは元気な証ですからあ。それにお腹の鳴き声も込みでドーロちゃんですし」

 

 そう言って笑顔を絶やさないルジェさん。重くはないけどその愛は分厚すぎです。

 

 その後も小さく鳴き続ける腹を気にしつつ、彼女に付いて寮の食堂に向かう。道すがら、衣服の洗濯のこととか個室の掃除のことを尋ねながら並んで歩いて行った。

 

「お洗濯はですねえ、基本的にはランドリーサービスがあるのでそこに出すんですよう。あ、もちろん寮生は無料ですよ?

 クローゼットの引き出しにランドリーバッグが何枚か入っているので、それにお部屋の番号とお名前を書いてお洗濯したい衣服を入れて口を縛って、お風呂場の脱衣室横にあるランドリー回収口へ差し出すだけです。次の日の朝に回収されて翌々日の午後には食堂のテーブルの上に置かれますから、自分の分を受け取るという訳ですねえ。

 でも急ぎの時とかデリケートな下着とか、ちょっとお願いするのが難しいなっていう衣類は自分でお洗濯できますよ。脱衣室の一角がコインランドリーになっているんです」

 

 ランドリーサービスは一人分ずつ個包装されて返っては来るものの、寮に届く時は人数分がまとめて届くので仕分けなければならない。それはその日当番になった寮生の仕事なのだそうだ。

 

「当番は部屋単位で回ってきますのでえ、そのうちドーロちゃんとわたしも担当する日が来ますよ」

 

 トレセン学園の寮は自治寮なので、寮の運営にまつわる仕事の多くは寮生に割り振られる。ランドリー係だけではなく公共スペースの掃除整頓なんかも回ってくるのだとか。

 個室の掃除はもちろんその部屋に住む人の責任で、掃除機やバケツといった掃除用具とぞうきん、住宅洗剤などのストックは廊下の専用ロッカーにあるという。

 

「あれ? 今日ルジェさんは晩ご飯の調理に呼ばれましたよね? あれも当番なんでしょうか?」

「あれはですねえ、個人的なご依頼なんです、寮長さんの。

 寮の食事は基本的に寮の調理スタッフさんがやってくれるのですけど、それとは別に寮長さんが手料理感のある食事を出したいと希望されていて。

 それで少しばかりですけど調理のできるわたしが寮長さんのお手伝いをするように」

「そうなんですね。ルジェさんの手料理ですかあ」

「ドーロちゃんがお腹空かせてると思って、今日はい~っぱい作っておきましたから。思う存分食べて下さいねえ」

 

 そう言いながら俺の顔を見るルジェさんの顔はとても嬉しそうだった。やはり、愛が厚い。

 

 食堂は既にお腹を空かせた生徒達が三々五々集まってきていて、数人のグループごとに固まって食事を始めていた。俺はルジェさんに案内されるままテーブルの間を縫っていく。すると進行方向になにやら料理と思しき物がうずたかく積まれた一角が現れた。ルジェさんは迷うことなく、予約席と書かれたその一角に向かって歩いて行き、俺を料理の前に座らせた。

 ……いや待って、この料理もしかして俺のために用意されてる?

 

「さあドーロちゃん、ここにある分はみんな食べちゃって良いですからねえ。足りないようならわたしがお代わりを持ってきますからあ」

 

 そう言ってルジェさんは右隣の席に着いた。そして

 

「それじゃあいただきますしましょうかあ。今日のおかずはわたしが精魂込めましたのでえ。ぜひ最初に一口……」

 

 そう言いつつ目の前にあるミートボールの山から一つ箸でつまんで俺の口元に出してきた。

 

「……はい、あーんですよう」

 

 あーん……って、ルジェさんに釣られて口を開こうとしたところで、食堂に広がる異様な雰囲気に気がついた。って、ルジェさんちょおっとまったああああ!?

 彼女の行動ばかり見ていたので気がつかなかったが、その場にいた生徒達の熱視線が俺たち二人に注がれていた。ルジェさんはそれを知ってか知らずか……いや完璧に分かった上でこの行動に出ていると俺の直感が告げる。

 このまま為すがままにされてしまってはいけない。このまま進んでしまったら、先ほど予感した『仕打ち』が俺に降りかかるのも時間の問題になってしまう。なんとかこの場はルジェさんの暴走を止めなければならなかった。

 

「あ、あのルジェさん。一人で食べれますから」

 

 多分こう言っておくのが一番穏当だろう、今のところは。だが彼女も簡単には引き下がらない。

 

「ドーロちゃん手をケガしてるじゃないですかあ。食べにくいでしょうからわたしがお手伝いしてあげますう」

 

 それは事実だけに否定はできないが、しかしお昼はこの手でカフェテリアのご飯を平らげていた。その時には何も言われていなかったし、食事を手伝って貰ったりもなかったから、今それを殊更に強調するのはルジェさんの作戦なのが明白だ。

 その時、ルジェさんにとっては都合の悪い、俺にとっては都合が良いか悪いか判断の付かない声が聞こえた。

 

「ルジェ先輩、ドーロちゃんを独り占めしちゃダメだよ?

 それに、ドーロちゃんがちょっと困ってる」

 

 リズちゃんが料理の載ったトレーを抱えて現れた。




次回、ドン引き。


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別腹は誤差

ちょっと特殊文字タグを使ってみたので、初投稿です。



 

 リズちゃんは俺を挟んでルジェさんと反対側のイスに腰掛ける。

 それを見て、固唾を呑んで見守っていた周りの生徒たちが色めき立った。あちこちでひそひそ話が始まる。

 

 『ヤッバ、バチバチの三角関係じゃん』『真ん中の()って今年の新入生だよねえ』『左に座ってるの、高等部2年のオンダルジェントさんですよね。おっとりしてるように見えて……やっぱりG1入着だから負けん気強~い』『右の()、新入生やんなあ。先輩相手によーやるわあ』『真ん中の、あんな()いたっけ?』『あの()新入生で、こないだまで結構イイ線行ってた()だって。なんか今日はゲート失敗して大コケしてたけど』『キレイな()だとは思うけどさあ……なんての? ちょっともっさい?』『先輩と並ぶと金と銀って感じでキレイだねぇ~』『さらに隣が黒だからあの一角だけなんかカッコイイ』『ていうか、あの量、なに?』

 

 ヒトだったら多分聞こえないような声だが、さすがはウマ耳地獄耳、全部丸聞こえになっている。両隣をそっと窺うと、ルジェさんもリズちゃんもとりあえずは平静を努めていた。

 

 リズちゃん乱入のおかげでルジェさんの攻勢が一旦止んだので、周りの雑音はともかく、これでようやく晩ご飯に集中できそうだ。俺は箸を取るといただきますと一拝、先ほどルジェさんにオススメされたミートボールをまずは頬張った。

 

「わっ、これ、美味しいです」

 

 思わず声が出る。本気で美味しい。「そうでしょう~」と隣から声が掛かるが、そこから俺の箸はもう止まれなかった。

 これでまだ三食目だが、なんかもうこんな調子にも一日で慣れてしまった。満腹になるか料理が空になるまで止まらないこの食欲に。一度このモードに入ると脇目も振らずに食べ続けるというか、周りを見ている余裕がなくなる。半ば体だけが自動的に食べ続けているような、そんな感覚だ。

 この様子が初見になるはずのリズちゃんは多分隣でドン引きしてるだろうななどと考えはするのだけど、だからといって箸は止まらない。周りの生徒もこの食べっぷりには大半ドン引きだろうが、今は何も聞こえずただ黙々と食べる食べる食べ続ける。

 

 気がつくと積まれていた料理はすっかり消え失せていて、残るは鶏の唐揚げただ一個。ぽつんと取り残されたそれとじんわり対峙しつつも、箸が完全に止まった。

 

「ドーロちゃん、満足されましたかあ?」

 

 その訳を知るルジェさんはにこにこ顔。周りの生徒達は案の定ドン引きで、顔を青くしてる娘も多くいる。そして反対側のリズちゃんはというと、ざわめく食堂にはお構いなく平然と食べ続けていた。その様子が気になったので、そのままリズちゃんの観察を続ける。

 確か俺と同時ぐらいに食べ始めたはずで、ルジェさんも同じようにスタートしてそちらの方はもう食べ終わっている。ではリズちゃんの食べるペースが遅いのかというとそうではないように見えた。むしろルジェさんより少し早めペースだ。なのにまだ食べ続けているということは……?

 

「ねえリズちゃん、もしかしてそのトレーの中身って、二回目ですか?」

「うん、そうだよドーロちゃん。よく分かったね?」

「はい……ルジェさんよりも食べるペースがちょっと速いのに、どうしてまだ食べてるんだろうって気になったんですよ」

「えへへ、ドーロちゃんほどじゃないけど、リズもいっぱい食べる方だねって友達にはよく言われるの」

 

 バツの悪そうに少し照れの入った顔を見せるリズちゃん。

 いやいや、人より多めに食べるとは言っても俺みたいに爆食するでなし、見た目優雅だから全然問題ないと思うけど? むしろ小柄な体に潜む意外性みたいなものすら感じてウマ娘として好ましい、まである。

 そんなことを考えながら彼女のことをじっと見ていたものだから、「ド、ドーロちゃん、あんまりじろじろ見ないで、恥ずかしい……」と言って彼女は箸を置いてしまった。

 

「それにしてもドーロちゃん、よく食べるようになったね。前は少ないぐらいだったのに……。わ、すごいお腹だね」

「それがその……、今朝からこんなドカ食いするようになってしまいました」

「例の件と関係ありそうな感じ?」

「分かりませんけど、多分そうじゃないかと」

「そうなんだね……。いよいよ本格化が来てたりするのかな」

「……それも、どうなんでしょうね。そうだと良いのですけど……」

 

 ぽつぽつと話しながらリズちゃんは再び食べ進む。ルジェさんは静かに俺たちの話に耳を傾けていて、最初のように迫ってくる気配はなくなった。食べ終わりが見えてくる頃には俺の腹もすっかりしぼんで、最後に残っていた唐揚げを改めて口に放り込む。

 

「完食しましたねえ」

「なんとか入りました」

「実はお昼よりも量が多かったはずなんですけどねえ」

「えっ!?」

「正確に量ったりはしてませんけどお、わたしがドーロちゃん用として用意したおかずの量は6キロを超えていましたから。それにご飯とお味噌汁合わせたら7キロ近かったんじゃないかと」

 

 その話を聞いてさすがに俺も青ざめる。

 

「……明らかに食べ過ぎですよね、これ」

「一概にそうとも言い切れませんけれど、運動が足りなければ普通に体重が増え過ぎてしまうでしょうねえ……」

「リズ驚いたんだけど、ドーロちゃんさっきまでお腹ぽっこりだったよね。どうしてもうぺったんこになってるの?」

「どうしてって言われてもですね、私もよく分からないんですよ……これ」

「ふわぁ……ウマ娘の神秘だねぇ……」

「ウマ娘がそれを言ってしまうんですか……。それはそれとしてですねえ、食後のデザート、いただきませんか?

 ドーロちゃん、もう入りますよね?」

「……たぶん大丈夫……お腹の方は。でも太りすぎとか話が出てくると心理的に抵抗感があります」

「リズもデザート食べれるよ。ドーロちゃんの場合は誤差の範囲なんじゃないかな」

「……そうですね。少しだけなら、ご、誤差かな?」

 

 そうして三人揃って食器の載ったトレーを抱えて席を立つ。返却口に向かおうとしたら、まだ取り囲んで様子を見ていた生徒達がザザザっと左右に分かれて道ができた。

 

「なんだか偉い人にでもなったみたいだね」

 

 リズちゃんは暢気にそんなことを言うけれど、これは俺の食べっぷりからみんなが警戒してるだけでは。しかしそれを口には出さず、ただ肯定の笑みを浮かべておくだけにした。

 

 ……明日になったらまたとんでもない噂話が流れてるんだろうなあ、これ。




次回、お・ま・ち・か・ね。


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恥ずかしいとか言ってられない

やっとお風呂回です。

昨日誤字訂正を数多くしていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

いや結構見直してるんですけどねえ……やたら誤字が多いです。というかTypoですね。仕事場で打つのは問題ないみたいなんですけど、自宅の方、キーボードのポジションが悪いせいか(などと犯人は訳の分からないことを述べており


 

「このあとお風呂だよね。リズ、ドーロちゃんと一緒に入りたいな」

 

 食堂から談話室につながる通路でそんな言葉が出た。

 

「お、お風呂ですか? ええと……」

 

 お風呂へ一緒に入る、ということはすなわちリズちゃんの一糸纏わぬ姿が俺の目の前に展開される、ということで。自分のをルジェさんの前に曝したのは下着姿までとは言っても恥ずかしかったけど、その時はまあ仕方がないとは思えたのだが……。他人のそれ、となるとなんというか背徳感とかどこか比べちゃって気まずくなりそうだよなとか頭の中でぐるぐる回り始める。

 

「ドーロちゃん? ぼーっとしてるけど、大丈夫?」

 

 リズちゃんの問いかけにハッと気がつく。今の瞬間頭の中ぐるぐるしすぎて意識が飛んでいたようだ。

 

「ドーロちゃん。もしかしたらお風呂の入り方まで忘れちゃってますか?」

「う、うえ?」

 

 ルジェさんにそう言われて、(はた)と考える。

 

「えーと、最初にシャワーで体を流しますよね。そのあと湯船に浸かって……って……もしかし……なくても不正解ですね……これ。お二人の表情見たら分かります、はい。というか個室のシャワーじゃダメですか? ダメですよね……聞くまでもありませんでした」

 

 俺の答えにルジェさんもリズちゃんも既に呆れ顔だ。

 

「これはだめだよね。……ルジェ先輩。徹底的に教育しないといけないんじゃないかな」

「そうですねえ。わたしも全く同意見です」

 

 俺をその場に放置したまま、二人で相談事が始まった。聞き耳を立てれば内容は聞こえるのだが……。どうせこの後実践されるのだしまあいいかとその場では心密かに開き直る。

 二人とも食休みはもう大丈夫そうだということで、この後お風呂道具を持ったら大浴場に即集合となった。そこに俺の意見はないんですか、そうですよね。食休みがもう大丈夫なのは二人と同じだけど。

 

 ドーロのお風呂道具を探すのにまたバタバタがあったのだがそれは置いておいて、三人は今大浴場の脱衣所前にいる。『湯』と大きく書かれた深紅ののれんが空調の風に揺られてゆったりと波打っていた。その景色、当然俺の記憶にはないものだ。

 

「ドーロちゃんはここでの記憶ももちろんないでしょうからあ、わたしの動きを真似る感じで進めましょうかあ」

「はい、よろしくお願いします」

「大丈夫だよ、リズがきちんとお世話するからね」

 

 いや、リズさんのその言い方何か引っかかるというか、……まあいいか。どのみち俺にはもうどうしようもないし。

 

 慣れた足取りでのれんをくぐる二人、その後を追う。

 

「ここが夕方にお話ししていたランドリー回収口ですねえ。それからこちらに並んでいるのがコインランドリーですよ。乾燥機もありますねえ」

 

 ルジェさんが手で示しながら大浴場の説明をしてくれる。

 周りでは下着姿のウマ娘がうろうろ。中には下こそ穿いているがトップにタオルを掛けただけとか、下手するとそれすらない猛者もいて目のやり場に困る。とはいえ同性同種族同士で何を意識するものでもないのが普通なわけで……。そのうちこれも慣れるんだろうなという思いはあれど、それは脳の片隅に追いやっておいて、俺はルジェさんの説明を聞き漏らさないようにするだけだった。

 

「それで、こちらが脱衣所で、あちらの奥がドライヤーのコーナーですね。ロッカーには鍵が付いていますので、脱いだ衣類を入れたら鍵を掛けてほら、リストバンドにしてお風呂場に持って入るんですよ。

 タオルはフェイスタオルとかバスタオルとか、普通の物ならロッカー横に棚があるのでそこから貰ってきて使えば良いですよ。使い終わったタオルはタオル棚の下にバスケットがあるのでそちらに返しますね。もちろん個人持ちのタオルを使うのもありですねえ」

「ふむふむ」

「ドーロちゃん、お風呂上がりのケアとか……ってやっぱりやり方とか忘れてるよね?」

「その言い方だと、体を拭いて髪をドライヤーで乾かすだけではダメなんですよね?」

「そのあたり、お風呂上がりに説明しながらしていきましょうねえ。色々とやり方のコツとかありますし。

 それじゃここらへんで実際にお風呂に入りましょうか」

 

 三人並んでロッカーを使う。ルジェさんは丁寧に脱いだ衣服を畳みながら、リズちゃんは案外ざっぱに脱いだものをロッカーに放り込んでいく。俺も衣服を脱いでロッカーへ。ちゃっちゃと脱いでしまえば却って恥ずかしくないことは、今日のお昼間ルジェさん相手に学習したとおり。

 

 お風呂道具を片手にいよいよ浴室へ。引き戸を開けるとむわっとした湿気が顔に降りかかった。

 

「うわあ、すごい広い」

 

 思わず声が出るくらいに寮のお風呂場は広かった。プールに見まがうほどのサイズで、これまた広く開いた窓辺まで続いている湯船がその中央で俺たちを出迎える。左右を見渡すと幾重にか列を作っている洗い場が並び、その先には木製のドアがあってサウナと書かれている。さらにシャワーブースやミストシャワー、滝のように激しく湯の落ちる打たせ湯なんかもあった。湯船もとにかく広いメインの他、猛烈に泡を吹き出し浸かっている人も流されてるジェットバスや、少し変わったところでは手すりが付いた細長い湯船もあった。他にも小さな湯船がメインを取り囲むように配置され、それぞれに特徴があるようだ。

 

「広いですよねえ。美浦寮だけでこれですからあ。栗東寮の方にもこれと同じ規模で大浴場があるらしいですよお?」

 

 広いのも納得がいく。というのも入浴中のウマ娘、その数が予想していたよりずっと多いのだ。

 

「思っていたよりお風呂に入っている人が多いですね」

「そうですねえ、人数も多いですけどお風呂にかかる時間がどうしても長くなってしまいますからねえ」

「髪を洗って、体を洗って、しっぽも洗わなくちゃいけないからね。一人じゃ洗いきれないから二人以上で入るのが基本かなぁ」

「そうですよねえ。一番大変なのはしっぽですよねえ。後ろに付いてるから見えないですし……でもここは一番きれいにしておきたいんですよね」

「うんうん、リズも同じ気持ちだよ。やっぱりしっぽはいつもつやつやサラサラがいいよねぇ」

 

 そんな二人の会話を聞いていたら、この次の展開がなんとなく読めてきた。たぶん。

 




次回、がんばってもがんばっても動かない。


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ふにゃふにゃ

お風呂回だけで1万文字を遙かに超えて1万5千文字6話分に迫る小説があるらしい……。

ご愛読いただきありがとうございます。ブクマやここすきをいっぱいいただいていて、本当にありがたいお話です。


 

「洗う順番ってふつうは髪からだよね」

「上から洗うのは基本でしょうね。髪から洗って次が体、最後がしっぽ。ふつうはこの順番ですよねえ」

「ドーロちゃん、耳って動かせるのかな?」

 

 リズちゃんの問いに俺は首を横に振る。

 

「物音とかに反応して勝手にピクピク動きますけど、自分の意志で動かすのはまだできませんね」

「そうなんだね。それだと髪を洗う時少し困るかも」

「どうしてです?」

「シャンプーの泡もそうだけど、洗い流す時耳にお湯が入っちゃうよね……」

「頭を下げれば多少マシになるかとは思いますけど、耳の周りを流すときは入ってしまうかも知れませんね」

「動かせるようになるまでは手伝ってあげた方がいいね」

 

 こうしてお風呂タイム本番が始まった。

 まずは髪を洗うところからだが、地肌をしっかり洗おうと手を動かすと確かに耳がすごく邪魔になる。泡が目に入らないように目をぎゅっと瞑り、耳にも入らないようにとおっかなびっくり手を動かす。

 

「想像以上に耳が邪魔ですね、これは」

「耳が立ったままだと頭のてっぺんの辺りに手が届きにくいんですよね。だから耳を寝かせたり絞ったりするんですけど」

 

 なんとか動かすことができないかと耳に意識を集めてみるが、少しばかりぴくりと動くだけでルジェさんみたいにあちらこちらへ自在に動かすことはできない。練習したら動くようになるのだろうか。

 

「耳が動かないと走った時も少し困るんだよ。立てたまま走ると風切り音がすごいの。我慢するか、慣れるかしたらいいんだけど」

「リズちゃんの耳はひときわ大きいから、もしそうなったら大変でしょうねえ」

「ダメだったらイヤーカバーがあるけど、どうしてもカバーを付けられない人もいるし……」

 

 どうやらウマ耳問題は髪を洗う時以外も色々あるらしい。今は良いけど今後走る練習を本格的に始めたら解決しなければならない事がまた増えそうだ。

 手の動かし方をあれこれ悩ませていたら、不意に別の手がわしゃわしゃと耳周りをくすぐってきた。

 

「耳にお湯が入っちゃうのは困るけど、この耳周りをしっかり洗わないと臭っちゃうし。なかなか難しいよね」

 

 リズちゃんの細い指先が耳の周りをていねいに擦っていく。その手つきに合わせてくすぐったいような気持ちいいような安心するような妙な感覚が頭を覆っていった。

 

「あらあら。ドーロちゃんがふにゃふにゃになってしまいました」

「うぇへ?」

「そ、そんなに気持ちよかった? お耳洗うの」

「うぇ?」

 

 先ほどからなんだか眠気が湧いてきてトロトロした感じだ。ウマ耳洗うのってみんなこんなに気持ちいいのか。

 

「あらら。お耳が垂れて来ちゃった」

「ドーロちゃーん、気をしっかり持ってくださいねえ」

「それじゃお湯で流すよ。頭を前に下ろしてくれるかな?」

 

 リズちゃんの手に従って首を下げる。後頭部の方からシャワーが注がれて、耳の後ろを伝って顔にこぼれてくる。

 頭のサイドに溢れたお湯が目元にまで容赦なく流れ込む。耳が目の後ろではないから防波堤になるものがないせいだ。そしてそのおかげでつい今までふにゃっとボケていた頭に活が入る。

 

「うえぇ、目元にお湯と泡がー」

「少しの辛抱だからね、ドーロちゃん少し堪えていてね」

「ふあぁ」

 

 シャワーのお湯がかかるのに反応して耳がピンピン勝手に動く。そのたびにシャワーの角度を変えなきゃならなくて、リズちゃんは大変そうだ。

 

「ごめんねリズちゃん、耳が勝手に動いて止められなくて」

「大丈夫だよ。耳にお湯、入っちゃってないかな?」

「そ、それは大丈夫ー」

 

 思ったよりも長くかかるすすぎが終わってホッと一息。しかし休む暇もなく次の手が頭に乗る。

 

「さ~てドーロちゃん。シャンプーが終わったからコンディショナーの番ですよう」

 

 そう言って今度はルジェさんの手が髪の上を滑る。毛先の方は少し揉み込むような動きも加わって、だんだんと滑る手の抵抗感が消えていく。そして再びすすぎ。

 シャンプーの時とは違って、お湯の流れに沿って髪のまとまっていく感じがした。

 

「耳も流しますからね」

 

 左の耳がきゅっと押さえられてお湯の当たる音が響く。次は右も同じように。そして乾いたタオルが頭の上に乗せられた。

 

「リズより髪が短めだからやっぱり早く終わるね」

 

 またもやリズちゃんに交代したようだ。ふんわりとしたタオルの感触で頭のあちらこちらが押さえられていく。最後に耳を避けるように髪をタオルで巻いて、手が離れた。

 

「はい、できたよ。巻き方もそのうち覚えないとね」

 

 鏡を見ると額の上で結んだタオルが器用に頭を包んでいた。両耳だけがその隙間からピコンと飛び出している。あまりに器用に巻いてあるものだから一体どうなっているのか鏡でじっくり観察していると、ルジェさんとリズちゃんも髪を洗い始めた。

 

 俺はこの間に体を洗うことにした。

 ドーロのお風呂セットに石けんはなく、ボトルが大小7つほど入っている。うち2本はシャンプーとコンディショナーなのは分かった。残りも大きい方はボディソープと印刷されているが……

 

「んー……、この小さい方4本が正体不明ですね」

「それ、たぶんその中の2本はクレンジングと洗顔じゃないかな」

「くれんじんぐ?」

「メイク落としたりする方だよ。洗顔は分かるよね? それより、先に体を洗ったら良いと思う」

「……そうします」

 

 髪を洗うリズちゃんがこちらに聞き耳を立てていて、見ずに俺の独り言に答えてくれた。セットにはちょっと目の粗いタオルも入っている。多分これで身体を洗うのだろう。タオルを濡らしてソープをプッシュして取り、こすり始める。

 

「ドーロちゃん、もう少し泡を立てた方が良いと思いますよ?」

 

 ちょうどルジェさんがコンディショナーに移るところで、俺の方を見て言った。

 

「タオルで直に肌をこすると力加減によっては痛めちゃいます。とはいえウマ娘のお肌はそんなに(やわ)でもないのですけれど、手の力もそれなりにありますからねえ。

 でもなるべく痛めないように、こういうのは日々の積み重ねがものを言うんです」

「シャンプーの時もそうだったけど、泡でやさしく触れていく感じだよ。それじゃ洗った気がしないのなら、仕方ないけど」

 

 二人から言われたのでは逆らうわけにもいかない。俺はソープの付いたタオルを揉みに揉んでもっこもこをたっぷり泡立てた。

 




次回、TSモノとしてはあるまじき。


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ふわふわ

お風呂回も中盤。なんとか毎日更新を維持できています。

またもや誤字修正をいただきました。いつもいつもありがとうございます。




 

 もっこもこに泡立てたソープをボディタオルで肌に伸ばしていく。ふわふわで少し弾力のある手触りは記憶になく新鮮だ。

 タオルは腕から始まって胸元へと進む。今まで敢えて気にはしていなかったけど、つまりそこには女の子ならではのでっぱりがあるわけで。

 

(敢えて見ないように心がけてたんだけどな)

 

 ここに来てどうしたってそれに注目せざるを得なかった。手触りは柔らかくぽちゃっとしてるが、その下は案外硬い。たぶんドーロ自身今まで鍛えていたせいで筋肉があるのだろう。でも

 俺の記憶が朧気で曖昧ということは、この胸をまじまじ見るのも今回が初めてというわけで。そしてその第一印象を正直に語るなら、『邪魔』の一言に尽きた。

 

 もうちょっと自意識がはっきりしていたのならもっと違う感想だったのかもしれない。例えば『これが女の身体かあ、ふんすふんす』とかなんとか。ところが過去の自分に関する記憶が本当に薄いせいで、これだけしっかりサイズのある胸を見ても興奮を起こすような事態に陥らないのだ。たぶん世の男性がこれを聞いたら総ツッコミを受けそうな自信はあったりする。まあ誰に対してとは分からないが、本当にすまないと心の中で謝っておこう。

 しかしだ、自分がこれを見て興奮しないのとは別に、そのサイズ感が適正なのかどうかは先ほどから気にはなっている。俺の胸は標準なのか、そうではないのか。

 俺はもっこもこのあわあわをくまなく延ばしつつ、さりげなく両サイド、つまりルジェさんとリズちゃんのサイズを確認してみた。

 

 ちらっと右隣、ルジェさんの方に視線を配る。さすがに直視はまずいと思うので鏡に映った姿を最小視線で追いかけるだけだが。彼女は既に髪のトリートメントも終えて、水分を取った髪をビニールのキャップみたいなものに収めているところだった。両腕を上げているので肘までの距離で大体の目算を付けると、俺よりもやや大きいんじゃないかという結論が出た。そしてリズちゃんはどうか。

 リズちゃんは身体を洗いはじめていて俺と同じく泡まみれになりつつあった。なのでサイズ感が分かりにくいが、身体のサイズそのものが俺よりも一回り小さい事もあって、どう見てもルジェさんよりはずっと小ぶりのようだ。おそらく俺よりも小さいのではないかと予想が付く。想像の域を出ないが二人の平均よりはやや大きめ、というのが俺のサイズだろうと思われた。

 しかし、このサイズが標準的かどうかは不明だ。サンプルを増やす事もできはしないし、これ以上気にしても始まらない。だからこの件はもうここでお終いにしようと考えていたのだが、ボディ洗いが終わった頃に爆弾が投下された。

 

「ドーロちゃん、あんまり人の胸じろじろ見るのは良くありませんよ」

 

 は? なんでバレてんの?

 

「リズのことも見てたよね? ……その、あんまり自信ないから恥ずかしいな」

 

 アイエエエエ! ナンデ!? ナンデバレテンノ!!??

 

 いや待って、なんでバレてんのホントに。ちらっと見ただけだよ? しかも鏡越しで顔も動かしてなかったはず。君ら超能力者かなにかか? あ、いやウマ娘だったわ二人とも。超能力者みたいなもんかヒトから見たら。いやいやいや、いくらウマ娘でもそんなん分かるわけないでしょ……って、分かっちゃってるんだよなぁ……。

 

「まあ気になる気持ちは分かりますよお。わたしも小さい頃は気にしてた時期がありましたから」

「……そうだったんですね」

「周りの人と比べて違っていたらどうしよう、目立って何か言われたらどうしようとか、悩んでしまうものですからあ」

「うんうん。リズもね、背が低めだから周りが気になっちゃう。けどね、トレセンに入ってからは気にならなくなったよ。

 ここでできたお友だちの中にはリズより背の低い娘もいるけど、みんな走るの強いからね。走ることに集中してるからリズもやらないとって、だからね」

 

 リズちゃんの言葉はシンプルだけど深く心に染みてきた。

 トレセン学園での生活は俺にとってまだ初日だけど、既に優しい友達がいて、ご飯はとても美味しくて、ついつい本分を忘れそうになる。けれどここは走りを磨く場所。少しサボればあっという間に置いて行かれて底辺入りになる厳しい世界なんだって。ルジェさんは一年先輩だからそれは骨身に染みているだろうし、同輩のリズちゃんすらもその事を完全に理解できていることが、今の言葉からはっきり分かる。俺、ヴェントドーロはこの二人よりも遙か後塵を拝する身。明日からは巻き返さなければと改めて決意する。

 

 そうは言っても今はお風呂タイムでのんびりふわふわもこもこなんですけどね。こういうメリハリもきっとレースを勝つためには不可欠なんだろうな。

 

「そうですね、ここは走りを磨く場所です。他人(ひと)と比べる点は走りだけ、ですよね」

「ドーロちゃんがいきなり真面目なこと話してます」

「えっ? 私、いつも真面目ですよ?」

 

「…………」

「…………」

 

「ちょっと! そこで黙りこくらないで下さいよ、お二人ともぉ!?」

「ふふふっ。ドーロちゃんがいると色々飽きないよね」

「本当です。人が変わって面白くなりましたねえ」

「それって誉められてないような」

「いえいえ、誉めているんですよお。ドーロちゃんは元々一徹なところが強かったので、生徒の間では少し怖い人という印象が強かったみたいなのですけど」

「それも今日からは少し柔らかくなったかなぁって」

「少し」

「いえ、だいぶん、でしょうか」

 

 両側から二人の軽い笑い声が漏れる。釣られて俺も声が出た、堪えながらも。

 




次回、いよいよしっぽ洗い。


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しっぽは口よりも

そろそろ気の利いた前書きが書けなくなってきました。


 

 三人揃ってあわあわのもこもこだったのがシャワーでスッキリと洗い流された。

 お風呂セットの中にあった謎の小ボトル4本を二人に見てもらうと、2本はリズちゃんの見立て通りクレンジングと洗顔フォームだった。残る2本はというと

 

「こちらは保湿のスキンミルクですね。えーと、これは濡れていても使えるタイプのようですから、お風呂場から出る前、少し肌の水気を切ったところで使えますね。

 それからこちらは……、しっぽ用のコンディショナーですか。使い方は髪用のと同じみたいです」

「ケア用品っていっぱいありすぎて困るよね」

「そうですねえ。ああそうだドーロちゃん、今はこれで揃っているので大丈夫ですけど、あとあと色々と試したくなったらドライヤーコーナーにいっぱい置いてありますから試してみると良いかもですよ」

「試供品とかちょっと使ってみて合わなかったものとか、持ち寄って集めてあるんだよ。結構みんな使ってるよね」

「肌に合わないとか髪に合わないとかそういうのはしょっちゅうですから。いきなり廃盤になったりしますし」

「販売終了しちゃうのはすごく困るよね」

「そうなんですね。いろいろ大変そうです」

「ドーロちゃんもそのうち人ごとじゃなくなるかもですよ?」

「……心しておきます」

 

 そんな調子でクレンジングと洗顔のレクチャーを受けつつ、いよいよしっぽのお手入れへと進む。

 

「しっぽはですねえ、髪のお手入れと基本は同じなのですけれど、自力でやるのはなかなか難しいんですよねえ。

 髪と違って後ろに付いているものだから思うように行かなくて。だから、ここは二人以上で洗いっこするんですよ」

「洗いっこ」

「うんうん。リズが最初に言っていた二人以上でお風呂に入るっていうのは、しっぽ洗いがあるせいなんだよ」

 

 そう言われて洗い場を見渡せば、なるほどみんなペアで入浴している。三人組は今のところ俺たちだけだ。

 

「でも今日私たちは三人ですよね?」

「うん、だから三人輪になってやるんだよ」

 

 それまで座っていたお風呂イスを動かして、三人輪になるように座り直す。洗い場の壁と壁の間をいっぱいに占領して通路をふさいでしまうことになるが、そこはお互い様らしい。

 

「わたしがドーロちゃんのしっぽを洗いますから、ドーロちゃんはリズちゃんのしっぽをお願いしますね」

「リズはルジェ先輩のしっぽをやるから、よく見ながらやり方を覚えてね」

「しっぽの付け根と裏は敏感ですから、そこを触る時は一声かけてからの方が良いかもしれませんねえ」

「それじゃルジェ先輩、始めますね」

 

 リズちゃんは自らの揃えた膝の上にルジェ先輩のしっぽを横たえさせると、シャワーで丁寧に付け根の方から洗い流していく。青みがかって輝く銀色の長い毛の上を、水滴が弾けて駆け下りる。リズちゃんがしっぽを手で受けながらシャワーを当てていくと、たっぷりお湯を含んだ毛先から水滴が滴り落ちた。

 ルジェさんが髪を洗う時に使っていたシャンプーを手に取り泡立てる。そして、その泡を優しくしっぽの毛になじませていく。

 

「ルジェ先輩、付け根の方やるからね」

「お願いします」

 

 一声掛けたリズちゃんの手がしっぽの付け根に伸びる。軽い力でしっぽを包み込むようにして、しっぽの毛も使ってさらに泡立てていく。よく見るとしっぽは細かく震えていて、何かに耐えているようにも見えた。ルジェさんの表情には力が籠もり、淡紅の頬はお風呂場の熱のせいか。

 そのうちに先の方まで泡で包まれたしっぽが現れると、そこで一息入れて再びお湯が滑った。さらにコンディショナーが続き、とうとう現れたのは先端まで艶やかに青白く輝く銀色のしっぽ。

 

「終わったよ」

 

 リズちゃんが短く伝えると、ルジェさんの上気した頬が振り向く。その目は俺を捉えるが、どこかしらとろんとして夢心地のようにも感じられた。

 

「ルジェ先輩、この様子だとちょっと時間かかりそうだね。ドーロちゃん、先にリズのしっぽを洗ってくれるかなぁ?」

「は、はい。でもルジェさんはこのままで大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。思ったよりもキマっちゃったけど、すぐに戻ってくるよ」

 

 キマるという言い方に引っかかりを感じながらも、俺は膝の上に差し出されたリズちゃんのしっぽを先ほど見たように洗っていく。濡れ羽色に艶めくしっぽが白い泡で塗りつぶされていって、そしてとうとう()()に到達する。

 

「付け根に行きますね」

 

 リズちゃんの返事はないままゆっくりとしっぽの付け根に手を這わせる。こちらもやはりルジェさんと同じように小刻みに震えていた。リズちゃんを驚かせることのないように、あくまでも柔らかな力加減でゆっくりと手を動かす。しっぽの表、裏と泡を広げていくと気がつくことがあった。

 

(しっぽの裏って、毛がないんだな)

 

 普段は表側しか見えないせいで気がつかなかったが、しっぽの裏には毛がなくてつるっとした感覚だ。表との感触の違いに興味が湧いて、ついつい確かめるように手を這わせてしまったのが良くなかった。不意にリズちゃんのしっぽが縦に大きく振られる。

 

「ゔぇっ!?」

 

 ウマ娘のパワーはしっぽといえど強かった。しっぽの毛は鞭のようにしなり、俺の顔面をクリーンヒットした。

 

「えっ!? あっ!! ド、ドーロちゃんっご、ごめんなさいっ!!」

 

 しっぽと共に飛んできたシャンプーの泡が目に鼻に入り込み、一瞬にして目を開けられなければ息も絶え絶えになる。床に手を突いてうずくまると、リズちゃんの「今流すから息止めていてね」の声と同時に顔面にシャワーがかかった。

 ぷはーっと口から息を吐いて、また吸う。顔面の泡は流れたが、鼻の奥はジンジン痛いし目もまだ開けるのはキツい。シャワーのお湯で目をすすぎ、収まるのを待った。

 

「ごめんねドーロちゃん」

「い、いえ。……私がいけないんです、デリケートな所なのに無造作な触り方を……してしまったので。……すみませんリズさん」

「実質初めてだし、仕方がないよ。それより目とか鼻とか無事ならいいんだけど」

 

 と、そこへ謎のダメージから回復したルジェさんが加わった。

 

「リズちゃんのしっぽの続きはわたしがしましょうか。ドーロちゃんはちょっとお休みしてもらって」

 

 そうしてリズちゃんのしっぽ洗いが終わる頃、俺の目はようやく回復し、鼻も少々ひりつきが残るもののなんとか普段通りになった。

 

「すみませんでした。リズちゃんとルジェさんにも大変ご迷惑を」

 

 座ったままではあったが二人に頭を下げた。

 いやウマ娘のしっぽ、敏感すぎやしませんか。それに俺のしっぽ洗い今からされるんだが……ルジェさんみたいになってしまったらどうしよう……不安だ。




次回、覚醒。(ちょっとだけ)


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揉まれるしっぽ

濡れるとものすごく重いんだろうなあとか思いますね。


 

「それじゃドーロちゃん、始めますよう」

 

 ルジェ先輩からかかった言葉に息を呑む。

 先ほどから無駄に緊張しているのは自分でも分かるが、ルジェさんとリズちゃんのこれまでの様子を見るに、自分もなにか変なことになるんじゃないかと不安が募る。なにが恐ろしいかといって、ふにゃふにゃになって痴態を曝すのもそうだが、俺の()が出てしまうことだ。素が出てきた時どんな風になるのか、まるで想像も付かないが。

 

「……よろしく、お願いします」

 

 しかし洗わないという選択はない以上、ここで腹を括る必要があった。しっぽをルジェさんに預け、俺は背筋をピンと伸ばしてそれに備える。

 

「そんなに緊張しなくても大丈夫ですからねえ」

「は、はい。というかですねルジェさん」

「どうしました?」

「このお風呂の工程、毎日やるんですよね?」

「そうですねえ。練習すると汗をかきますし、髪もしっぽも砂ぼこりだらけになりますからね。よっぽど疲れ果ててすっぽかしてしまう以外は基本毎日ですよねえ」

「すっぽかすとどうなります?」

「髪質とかにもよるのでしょうけど、ボサボサになって纏まらなくなりますし。なにより絡んでしまってすごく傷みますねえ。傷むとやっぱりみすぼらしさが出ちゃいますから、普段の見た目もそうですけれど、ライブの見栄えがとても悪くなりますよ」

「ライブの見栄え、ですか」

「走りに、ライブに、食事。この三つは本当に大事ですから」

 

 言葉を交わしつつ、シャワーがしっぽを濡らしていく。そのうちにそれも止まって、ルジェさんの手がしっぽをやさしく包む。

 

「ひゃっ……ぃ」

 

 無意識に声が、上がっ……た。

 まだしっぽの長い毛にしか、ルジェさんの手は触れていないはず、なのに……。ピリピリ……ジンジン……と首の付け根まで響くような……感覚……が()を襲う。

 あぁやっぱり、ダメだこれ。……なんだっけこの……感じ、なんだか昔も味わったことが……あるような。そんな事を辛うじて考えていたら、ジンジンと首の付け根に疼く感覚がもう一度降りていって、今度はお腹の方に響く。力が抜けて、背筋が萎れる。背を丸くして、感覚に耐える。

 

「ルジェ先輩、ちょっと手を止めた方が良いんじゃないかな」

「大丈夫ですよ、ドーロちゃんは以前から反応が少々オーバーなので、これくらいは」

 

 以前からって、今言った。そうか、ルジェさんは俺になる前のドーロにも、しっぽ洗いをしていたはずだ。そのときの感覚をドーロの身体が覚えてると、そういうことなのかも、知れない。

 それにしても、なんでこんなにしっぽだけ、敏感なんだ。もう、息をするのも辛く、なってきた。さすがにこれ以上は、ヤバイ、かも。

 

 これ以上いじられると頭と心臓が持たない。そう感じた俺はルジェさんの手から逃れるべく必死の決意でしっぽを動かそうともがく。

 とにかく、一旦中断、したい。息が上がって声を出せないから、行動で、示さないと。と、そのとき

 

「ああっ、ドーロちゃん。しっぽ動かしちゃいけませんよう」

 

 ルジェさんの焦る声が聞こえた。

 俺の意識が確かに尻尾の先端まで繋がった。それと共にまるで大波に揺られていた小舟のようだった俺の意識が、速やかに凪いでいく。右へ、左へ、しっぽが俺の意思と共に確かに動いていた。

 

「もしかして、ドーロちゃん、今しっぽ意識して動かしてたりする?」

 

 リズちゃんの問いに、まだ息の戻らない俺はただ頷く。お風呂イスの上で背中を丸めたまま、しっぽだけ不規則に左右に動かし続ける。

 

「少々刺激が強かったでしょうか……。少し休憩にしますねえ」

 

 ようやくルジェさんの手が退いた。俺は息を整えながらしっぽを右へ左へ上へと緩やかに振ってみせる。一振りさせるたびに俺としっぽの繋がりが太く、濃くなっていく。大きく振るだけでなく、細かく震わせることもまもなくできるようになった。今までに感じたことのない感覚と意識の持って行き方ではあるけれど、最初からそうであったような自在さに至るまではすぐ。しっぽがこの調子なら、多分耳もすぐに扱えるようになりそうな、そんな予感さえする。

 

「はぁ……やっと落ち着いてきました……。すみませんお二人とも。そろそろ大丈夫です」

「そうですかあ。それじゃちゃっちゃと残りを仕上げてしまいましょうねえ」

 

 今度はしっぽを()()()()()()ぴんと伸ばし、改めてルジェさんに委ねる。再びルジェさんの手に触れられている感覚が上がってくるが、さっきのような敏感さは鳴りを潜めていた。

 

「それでは、付け根に行きますよう」

 

 そう聞いて身構える。しかし今度はそれほどひどい感覚は上がってこない。確かに少々くすぐったいが、それ以上ではなかった。ルジェさんの手つきが良いのか、それとも俺の方があの瞬間から変わってしまったのか定かではないけれど。

 少し首をかしげてルジェさんを窺う。真剣な表情。だけど若干眉が下がっているようにも見えて、なんとなく悲しそうというか物足りなさそうというか。そのまましばらくの間ルジェさんの手がしっぽを弄っていたけど、温かいシャワーが掛かり始めてその時間が終わりを迎えた。

 最後にドライタオルを被せられ、軽く水気が切られてしっぽ洗いはどうにか完了した。

 

「はい、ドーロちゃんおつかれさまでしたあ。終わりましたよう」

「ありがとうございますルジェさん」

「それにしても、急に動かせるようになったんですねえ」

「ですね。最初触られた時は変な感覚でモヤモヤして苦しいぐらいだったんですけど。それを乗り越えたら急に動かせるように。ルジェさんのおかげです」

「いえいえ、どういたしましてえ。でも不思議ですねえ、何かスイッチでも入ってしまったのでしょうかあ」

「そうかも知れません。この流れで耳も動くようにならないかなと期待していますけど」

「それだけしっぽの刺激が強かったってことなのかなぁ?」

「最初訳の分からないぐらい強い刺激だったのは確かですけども。二度目は特にそんな風には感じなくなってしまったんですよね……謎です」

 

 再び三人横並びに座って会話しつつお肌の保湿を抜かりなく済ませると、お風呂セットをきちんと整理していよいよ風呂場を後にする。騒ぎがあったせいでかなり時間が経っていたらしく、周りで入浴していた生徒達の数は目に見えて減っていた。

 




次回、もふもふに自由を!


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ゆらゆらふりふり

しっぽが動かせるようになる、ということはセルフもふもふも楽にできるということ……。

昨夜評価を新たに入れていただきました。ブックマークも徐々に増えていますし、感想もいただきましたし、日間ランキング総合の方にも今朝方94位で返り咲いていました。
毎日毎時間、ありがとうございます。


 

 鏡に映る自分のしっぽが楽しい。

 ルジェさんのロングヘアーをドライヤーで乾かしながら、自分のしっぽを右に左にゆらゆら揺らしている。自分の思い通りにしっぽが動くというだけで、お風呂上がりからこちら俺のテンションは爆上がりだ。

 

「ドーロちゃんとっても嬉しそうだね」

「うん」

「やっぱり、しっぽが動くと嬉しいですかあ?」

「うんうん」

「耳も動くようになるといいね」

「うんうんうん」

 

 ルジェさんとリズちゃんが交互に声を掛けてくる。傍から見ても俺の様子はすごく嬉しそうに見えるらしく、その様子を見た二人も嬉しそうで、さっきからこんな調子で三人揃って上機嫌のバラマキ放題だ。

 

「もうこんな事もできるようになりましたからね。これが嬉しくないって言ったらウソになります」

 

 しっぽを大きく曲げてお腹に回す。鏡越しに見える自分のしっぽは照明の光を浴びて黄金色に艶めいていて、我ながらいつまでも見ていたいと思えるほどだ。

 

「しっぽが動かせるようになったから、走りやすくもなるはずですよ」

「へえ。それってどういう理由なんです?」

「レース場には直線だけではなくてカーブもあるでしょう?」

「ですね」

「ウマ娘が全力で走ると時速60キロ以上出ると言われているのですけど。そんなスピードでカーブに突っ込んだらドーロちゃん、どうなると思います?」

「ううーん、遠心力で外に膨らむとか?」

「そうですねえ、正解です。思っているより強い遠心力が掛かるんですよ。ですので体を内に傾けるんですけれど、そうでなくても前傾姿勢で走っているからバランスがとても取りにくいんですよねえ。

 そこで。しっぽの出番というわけですよ。細かな重心のブレを、しっぽの向きを変えることで補正するんですね。もちろん限界はあるのですけれど、もしこれがなかったらもっと上体を起こさないとバランスが取れません。当然スピードも今ほどではなくなる、というわけです」

「うぇぇ……、なんだか難しそうですそれ」

「大丈夫ですよ。ドーロちゃんにはこれまで培ってきた優秀な素地があります。しっぽの動かし方も思い出したんですから、きっとそういう走り方のコツも思い出すはずです」

「……そうでしょうか……」

「リズもそう思うよ。ドーロちゃんは元々、同級の中では強い方から数えた方が早かったんだから」

 

 ルジェさんもリズちゃんも鏡越しに素直な笑顔を贈ってくる。その様を見ていると、なんだか自信が湧いて出るような気がした。

 

「そんな風に言われると自信持ってトレセン生をやっていけそうな気持ちになれますね。

 明日もよろしくお願いします」

 

 俺は二人に向けて頭を垂れる。リズちゃんの「まかせて」という快活な声が響いた。

 

§

 

「じゃあリズはこっちだから。ドーロちゃん、ルジェ先輩、また明日の朝ね」

「うん、それじゃリズちゃん。おやすみなさい」

「おつかれさまでした。おやすみなさい」

 

 濡れ羽色の髪をさらに艶々にさせたリズちゃんがニコニコ顔で別れていった。

 残ったルジェさんと二人、横並びで自室に向かう。

 ルジェさんもお風呂上がりの銀髪から光が零れている。もしかすると俺の髪も今こんな風に光を零しているのか。生憎と自分でそれを確かめる術はないのだが。

 そしてしっぽは相変わらずゆらゆらふりふり揺れている。なんというか嬉しさがまだ尽きずにいて、こうやって訳もなく動かすのが癖になってしまいそうだ。上機嫌、ってこういう事を言うんだろうな。

 いつまでもゆらゆら動いている俺のしっぽにルジェさんも気づいたのか、柔らかに慈しむようなその表情が俺をやんわりと刺してくる。やっぱり美少女の笑顔は色々と効く、効くのだ。

 

 自分たちの部屋に戻り、お風呂セットを片付けて学習机に向かう。ルジェさんも明日の用意をしているのか、背後で物音が続く。俺はスマホのスケジュールアプリで明日の予定を確認しつつ、必要な教科書、ノートなんかをスクールバッグに詰めていった。

 その作業も終わる頃、ルジェさんから声が掛かる。

 

「ねえドーロちゃん。明日の朝練、どうしましょうかあ?」

 

 イスごと振り向くと、同じようにイスに座ってこちらを見つめる彼女がいた。

 

「そうですね、今朝と同じように練習、したいですね。ゲート練習じゃ大コケしましたけど、今朝はもう少しで掴めそうな気がしていたので」

「わかりましたあ。リズちゃんにも来てもらっていいでしょうか?」

「ええ、それはもちろん」

「それじゃ、彼女への連絡はわたしの方からしておきますねえ」

 

 慣れた手つきでスマホが操作されて、すぐにピロンと着信が鳴った。ルジェさん操作速! リズちゃんも返事速いな!?

 

「オーケーだそうです。朝起こしに来てくれるそうですよ?

 ドーロちゃんは彼女に大層好かれていますよねえ……。わたしも負けられません

 

 言葉の後半は聞き取れなかったが、言葉尻からは羨ましい気持ちが漏れているように感じた。




次回、誤解の元。


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いざ二日目

起きたら視界が真っ白って、案外怖いと思うんですよね。

おかげさまで総合日間ランキングに出たり入ったりしています。今朝は57位とか。
本当にありがとうございます。


 

 目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。

 二度目の朝。少しだけ見慣れた部屋の景色……ではなく、目の前は白かった。

 

「うぇ?」

 

 丸みを帯びた形に流れるような白い筋がたくさん。視線を動かすとウマ耳の先端が見えた。これは、たぶんアレだ。

 

「ルジェさん?」

 

 返事はない。耳を澄ませば彼女の寝息がすぅ、すぅと密やかに聞こえてくる。見えていたのはルジェさんの後頭部。どうやら夜のうちに俺のベッドに潜り込んできていたらしい。

 そーっと上体を起こすと全貌が明らかになった。ベッドの通路側にルジェさんが俺と並ぶようにして横になっている。ベッドは至って普通のシングルベッドで特別幅が広いわけでもないのに、よくぞこんな狭いところに滑り込んできたものだと感心した。

 窓際のチェストの上で針を滑らせる目覚まし時計は5時15分少し前を示している。昨夜リズちゃんが起こしに来ると約束した時刻は5時45分。中途半端な時刻だが、ルジェさんによると自室から出てよい時刻がそれなのだそうだ。ただし寮の出入り口自体は55分にならないと解錠されないとも言っていた。つまりどれだけ早起きしても朝練は6時から、これがトレセン学園のルールということ。

 

§

 

『噂では昔々に競争心から朝練ブームが起きてですね。それでみんな我先にとだんだん早起きになってというか……半分徹夜みたいな感じになってしまって、まだ暗いうちからトラックで大勢走ってる事態になったことがあるのだそうですよ。そうしたら授業でみんな居眠りしちゃうし、体調を悪くして普段の練習中に倒れちゃう人がたくさん出ちゃったらしくて』

『それで門限が決められたと』

『わたしが去年先輩から聞いたお話はそういう感じでしたねえ』

 

§

 

 昨夜眠る前にルジェさんからそんな話を聞かされていた。昨日の朝練の様子を見ていても熱心な娘は本当に熱心なのが分かるだけに、ありそうな話ではある。だがそれはそれとしてそろそろルジェさんを起こさないとまずい事になりそうだ。昨日みたいにリズちゃんがドアノック即入をしてきた場合、俺のベッドでルジェさんが一緒に寝ているこの状況は誤解を招くに余りある。

 

「ルジェさーん。起きて下さいよ」

 

 声を掛けつつ肩を揺する。すると声に反応してかルジェさんの左耳が後ろにいる俺の方に向けられて、そのまますーっと上体が起きてきた。

 再び至近距離に白い頭がやって来て、そして両手を挙げてうーんと伸びを一回。その間も俺は彼女と壁に挟まれた位置で逃げ場のないままいるしかなかった。

 伸びをした後もまだぼーっとしているのか動き始めないルジェさん。もう一度呼びかけるとようやく目が覚めてきたのか、こちらに振り向いた。

 

「あー……ドーロちゃん、おはようございます」

「おはよう、ございます……」

 

 どことなくまだぽやっとした眠気の残る表情が、目を合わせたままにへらと笑みに変わる。

 

「……あの、すみませんけど、私このままだと動けないので……」

 

 俺はそこまで口にすると、彼女は何かに気がついたのかハッと真顔に戻り、慌ててベッドから立ち上がった。

 

「あれ、あれれ? わたし、もしかしてドーロちゃんのベッドで眠っていました?」

 

 頬をほんのり赤くして困り顔を見せるルジェさん。

 その通りですよ。どういう訳だか貴女は私のベッドに潜り込んでいたんです。と、ダメ押ししたくなる気持ちをぐっと抑えてシンプルに肯定する。

 

「どうやらそのようですね」

「あ~……そうでした……思い出してきましたあ。

 ごめんなさいドーロちゃん。昨夜お手洗いに起きてしまって、寝惚けていたから戻るところを間違えてしまいました」

 

 首を竦めて耳も倒して赤くなった顔を隠すように背を丸めるルジェさん。

 やっぱりかわいいかよ。

 

「良いんですよ。そういう勘違いはあることですから」

 

 俺も責めるようなことにはしたくなかったし、なにより朝っぱらからこのカワイさを目の当たりにできた幸甚をもうちょっと感じていたかった。

 

「……それにしても、この狭いベッドによく潜り込めましたね」

「よくは覚えていないのですけど、普通に、するっと……すみませんでした」

 

 その告白が自らよほど堪えたのか、彼女はますます縮こまってしまった。ますますかわいいかよ。

 縮こまったまま動かなくなってしまったので、なんか小動物みたいだなとか思っていたらけたたましいベルの音が窓際から耳を突き刺す。

 俺もルジェさんもその大音量に驚いてしっぽが逆立った。

 

 音の源だった目覚まし時計を慌てて止め、二人で文字盤を覗き込む。

 

「あらら、もうこんな時間ですかあ。45分にはリズちゃんがやって来ますよ、急いで支度しませんと」

 

 時間は5時30分だった。

 スイッチを切り替えたように二人ばたばたと動き出す。俺は寝ている間に乱れた髪をささっとブラシで整えて、ルジェさんはいつもの髪型をしてる時間がないからと言って大きなクリップでロングヘアを後ろに止めた。軽く洗顔して、これまた時短ですからと言ってルジェさんから渡されたのは日焼け止め入りの乳液。「朝といえども紫外線はこの季節対策しませんと」と言われつつ、彼女の愛用品をお借りして指示通り顔にぱぱっと叩く。それから上下ジャージに着替えてふうと一息入ったところでドアがノックされる。

 

「ドーロちゃんおはよう!」

 

 またも返事を待たずに元気よく入ってきたのはリズちゃんだ。ひと言ないのはどうしてか、それは今度改めてゆっくり聞いてみることにして。

 

「リズちゃんおはようございます」

 

 なんとか間に合った笑顔で俺は挨拶を返した。さあ、心機一転してヴェントドーロ、今日から自分の走りを取り戻すためにがんばるぞーと気合いを入れ直した。




次回、彼の名は。


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いっぱしのウマ娘らしく元気に

トレセン夏制服を着て夏空の下キャンパスを走り抜ける尾花栗毛のウマ娘……絵になりますねぇ。細かな容姿はまた今度出てきます(予告)

ブクマ、評価戴きありがとうございます。毎日読んでいただく方には感謝しかありません。結局昨日は総合日間ランキング54位を終日維持していたようです。目次UA数も過去4位をマークしまして、良い感じだなーと思ったんですけど、今日は日間も週間も一気にランク外へ沈んでおります。おかげで毎時UA数がすごくフラットに。

本日、仕事の都合で更新が大幅に遅れました。申し訳ございません。


 

「ルジェさん、昨日の動画をまた見せてもらっても?」

 

 スマホを借りて昨日撮った動画を再び見比べる。見比べながらその場で足運びの確認。前傾姿勢を取ってみると、昨夜から動くようになったしっぽがピンと後ろに伸びて、昨日よりもさらに姿勢が前のめりにできるのが分かる。なるほど、こうであれば。

 

「リズが見てる限り、姿勢は良いと思うんだけど」

「昨日は棒立ちでしたからね。私のフォームを見てもらったらだいぶ良くなりました」

「あとは足の回転が追いつけば前に走り出せるかな……っていうところなんですよ。レースをするにはまだまだだと思いますけど。

 ルジェさん、スマホありがとうございました」

 

 少し離れたところで俺は昨日と同じように脚を運ぶ。地面と平行に爪先を出し着地、体重を預けつつ爪先を立てて行き、フィニッシュは後ろへ蹴り抜く。二度三度それを繰り返して脚を出すタイミングを身体に覚え込ませた。行けるかな、と1歩2歩3歩。半ば跳ねるような脚運びでポンポンポンと前に出てみる。

 

「ゆっくりから始めてみたいと思います」

 

 軽く手を上げてそう声を出すとルジェさんが頷いてくれた。昨日と同じウッドチップコースが空くのを待って走り出す。

 今朝はゆっくりから始めて脚の回転を上げていく。昨日に比べると前へ出る感覚は格段に強い。しかし、隣の芝コースを走るウマ娘達にはあっさりと抜かれてしまった。現状で脚の回転は今できる上限に達しているのに、スピードは半分も出ていないようだ。直線が終わりを迎えると俺はそのままコースの外に出た。

 

「ドーロちゃん、どうでしたか? 見ている限りでは昨日よりはかなり脚が回っていたようですけれど」

「今のところあの回転が精一杯ですね。あれ以上になると追いつかない気がしています。

 スピードが他の娘の半分もないですね。まだまだです」

 

 今撮影した映像を見せてもらう。昨日のそれと比べれば遙かに滑らかな動きではあったが、他の娘に比べるとまだぎこちない。ここから1カ月で他と伍を成して走れるようにまでなるのか、いや、ならなければいけないのだが。

 その後もルジェさんやリズちゃんの意見を聞きながら短距離走を繰り返した。徐々に足運びにも慣れてきて前に出るようになっては来ているらしいが、スピードはまだまだだ。

 

「……やっぱり、簡単にはいきませんね」

「リズが見せてもらったのは今日だけだけど、それでもこの短時間でだいぶ変わったよ?」

「そうでしょうか……」

「ええ、ずいぶんと良くなったように感じますよう。ともあれ、今はウマ娘の走りに慣れることが先決なのではないでしょうか。

 毎日少しずつでも走り続けていれば、きっとどんどん良くなります」

 

 二人の表情は一様に明るい。俺が走れるようになると一片の疑問も抱いていない、そんな表情だ。まだまだやるべき事は多いと思うけど、それでも一歩前進できた今日の朝練だったように感じた。

 

『きゅるるる♪』

 

 そして今日も腹の虫が遅めのおはようを伝えてきた。

 

「まあまあ、今日もドーロちゃんのお腹は元気そうですねえ」

「そろそろ7時になるね。今日はここまでかな?」

「そうですね。お二人とも練習に付き合っていただいて、ありがとうございました」

 

 一礼し、三人連れ立って寮へと戻る。今日はこのまま普通に学園生活の一日が過ぎる、この時はそう思っていたのだが。

 

§

 

『高等部1年E2クラスのヴェントドーロさん、直ちに運動系教官室へ来て下さい』

 

 その放送は1限目の授業が終わった休憩時間に流れてきた。

 

「ドーロちゃん……」

「多分、昨日のゲートの件じゃないかと思います」

「リズも一緒に行こうか?」

「それには及びませんよ。大丈夫です」

 

 沈んだ表情を見せるリズさんにスマイルを返すと、クラスメイトの視線を浴びつつ教室を後にする。大丈夫だよと言ってリズちゃんを置いては来たものの、よく考えてみれば俺はその教官室がどこにあるのか知らなかった。どこかに案内図でもないかと探しながら1階へ降りていく。知っている道をたどってエントランスホールにたどり着くと、果たしてそれはあった。

 

「えーと今このエントランスホールがここで、トラックがこちらで、医務室があちらで……運動系教官室は……ここ。

 一旦外に出て左に抜けてトラックの方ですか……よし」

 

 外はすっかり夏の日差しだ。真っ青な空に白い雲。天気はすこぶる良いが、この中を練習で走り続けるのは少し大変かも、とか思いつつ、スカートを(なび)かせ軽めに走って教官室へ向かう。

 今は学園制服のローファーを履いているので練習の時に履いていた蹄鉄シューズとは感覚が全然違う。一言で言えば『柔らかい』。蹄鉄シューズはその名の通り鉄の靴底だったから舗装路の上を走るとすこぶる硬くて衝撃がすごく、とても滑りやすかった。逆に芝やウッドチップといった未舗装の上では明らかにグリップが良く、しかも前に出る。

 こういう所だと普通の靴底の方が断然楽。そんな感想を抱きつつ教官室前にはすぐ着いた。何も考えずに外から回ってきてしまったが、教官室から直接外に繋がる出入り口があったので事なきを得る。

 

 その外出口の方からコンコンコンと3回ノック。そしてそーっとドアを開いて

 

「失礼します! 高等部1年のヴェントドーロです。呼び出しを受けました」

 

 そう言って元気に挨拶した。運動系高校生だから、なんとなくこうした方が良いと感じたからだ。どうしてかは分からないが。

 すると書類に埋もれたデスクの奥で、茶色のウマ耳が2つこちらを窺うのが見えた。すぐに立ち上がって顔が見える。昨日ゲート練習のときに話をした教官だ。

 

「ヴェントドーロさん、呼び立ててすまないわね」

「昨日の件……でしょうか?」

「そうね。その件で進展があったので、その話よ。

 それで……、記憶喪失がある、急にゲート難になった、そして走れなくなった。これらの事柄を教員会議で検討しました。走りたい強い意志は聞かせていただいていたので、それも加味してですね。そこで決まったのは、あなたには医学的な見地から何か故障が起きていないか、しっかりと検査してもらうことになったわ。まずはその結果次第ね」

「そうですか。それで、授業の方は?」

「できる限り今までどおり……って、記憶がないのだったわね。他の生徒と同じように受けられるものは受けてもらいます。大丈夫よね?」

「はい、問題はないと思います。

 走る方は同室と同級の子に見てもらって、今朝から少しずつ朝練しています。走る方はほんの少しですが、マシになったとはその子達から褒めてもらいました」

「そう。朝練はかまわないけれど、やり過ぎは禁物よ。まああなたはトレセン学園以前の履歴を見ても大きなケガはなかったようだから、無理をしなければ大丈夫だとは思うけど」

「そうなんですね。ケガには気をつけます」

 

 教官が言うには昨日のうちに医務室の方と連絡は取り合っていて、確かに運動器の方には問題は見当たらず、その観点からは走ることが可能なようだとの回答を得たという。だが記憶喪失や急に起こったゲート難といった事柄は昨日の検査では掴めておらず、それらに関してはもっと別の角度からの検査が必要だという。

 

「そこで、これから医務室の方に出向いてもらって、そこからは医師の指示に従って検査を受けてもらうわ。医務室に向かえば分かるけど、担当してくれるのは昨日貴女を診察した織田先生よ」

 

 ああ、あの高身長な好青年のドクター。織田さんというのか。

 ともかく今からすぐに医務室に出向いて欲しいとのことだったので、退出の挨拶もそこそこに俺は医務室へと走る。今日の授業に関しては検査のため公休扱いになるから心配しないでとのことだった。

 

「ごめんくださーい。高等部1年のヴェントドーロです」

 

 昨日も訪れた医務室玄関。そこで俺は声を上げた。




次回、ウマ娘の意外な弱点。


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ウマ耳にMRIって軽く地獄だよね

話の成り行きでドーロちゃんに降りかかった災厄……まさかこんな事になるとは思ってもみず。


 

「やあ、おはようございますヴェントドーロさん。よく来て下さいました」

 

 診察室のチェアに座り、メタルフレームメガネの奥から柔和な目で見つめてくる相手。えんじ色のVネックアンダーシャツ(?)の上に白衣を纏って腕まくりをしている好青年。昨日俺がここに運び込まれた時に診察してくれた医務室の先生。胸元で揺れるネームストラップにはこう書いてあった。

 

 織田優翔(ゆうと)

 日本トレーニングセンター学園医務課医長

 医師

 整形外科専門医

 ウマ娘スポーツ医学専門医

 

 俺は先生の前に座り、話を進める。

 

「昨日はありがとうございました。朝早かったのに診察していただきまして」

「いやいや、ウマ娘の肉体のケガは場合によっては一生残る心のケガにもなりかねないからね。そういうことにさせないため、僕たち医務室スタッフがいるので。気軽に訪ねてきてもらって良いんですよ。

 それで、体の方はあれからどこか不調があったとか、そういうことはなかったですか?」

「はい、体の方は順調です。ただ、食欲が凄いことになってます」

「というと?」

「食べ始めると止まらないんです。満腹になるか、ご飯が尽きるかしませんと」

「……それは、ウマ娘なら良くあることでしょう」

「それが、食べる量が異常なほど多いんですよ。普通のウマ娘がどれほど食べるものか分かりませんけど、昨夜の夕ご飯はおかずとご飯合わせて6キロは下りませんでした」

「6キロ以上……ヒトの大人10人前ぐらいを越えてですか……それは確かにウマ娘としても多めだ。それも昨日からですか?」

「昨日からですね。同室の子によると、以前はその彼女よりも食が細かったと聞きました」

「ふむ。そういえば教務スタッフから聞きましたが、君は記憶喪失になったと」

「……そう、ですね。そうなんだろうと思います」

「その言い方ですと自覚はある、と。いつからですか?」

「昨日の朝起きた時からです。目を覚ましたら知らない部屋で、隣に知らない人が寝ていて、その人の頭の上に耳があるので驚いて。そして自分の名前が思い出せませんでした」

「なるほど。自分のいるところが分からない、自分が誰か分からなかった、そういうことですね?

 隣人の頭の上に耳がある事に驚いた、とはどういう事だったのでしょう?」

「その、そんな人間を見た記憶がありませんでしたから」

「つまり、『ウマ娘』を見た記憶がなかった、ウマ娘を知らなかった、ということ?」

「そうですね。ウマ娘とは何か、それすら知りませんでした」

「そうだったんですね」

 

 質問はそこからも続いた。ゲート難を起こした時の状況、走り方を忘れたこと、勉強についてはどうか、他に気になったことはないか、等々。

 根掘り葉掘り聞かれはするのだが、訊き方が上手いのかこちらもスラスラと淀みなく答えていける。

 

「大体のところは分かりました。それでは改めて検査に入らさせてもらいますね。

 昨日はCT撮影でしたが、今日は脳の状態を詳しく見るためMRIで調べます。身体に金属体やペースメーカーとか……って、記憶がないから分からないか。若い競走ウマ娘にペースメーカーはあり得ないだろうし……、少し口の中を見せてもらいますね」

 

 そう言って先生は木のヘラと懐中電灯を使って口の中を見ていく。

 

「歯の治療に金属はないようですね、これなら大丈夫でしょう。

 すみませんがこの書類のここにサインを貰えますか。君は未成年者だから本当なら保護者のサインも必要だけれど、今回は仕方がない」

 

 カタカナでヴェントドーロとサインする。書類を受け取った先生は後ろで控えていたウマ娘看護師さんにそれを渡していた。

 そういえばドーロには親がいるはずだ。だが、それも全く思い出せない。学園にいる間に会う機会は果たしてやってくるのだろうか。会ってどういう反応をされるのか、それを想像すると少し心が痛む。

 

「それでは看護師がMRIに案内するから、ヴェントドーロさんは外の待合でしばらく待っていてもらえるかな」

 

 MRIは昨日入ったCT室の隣だった。強い磁気のため金属パーツのある制服のままでは撮影できないため、更衣ブースで検査着に着替える。終わったらまた制服に替えなければならないが……、一人できちんと着られるだろうか?

 着替えて撮影室に入ると、CTと違って時間がかなり掛かるのと音が凄いのでということで、ウマ耳に耳栓をいくつも詰められる。体も撮影台にがっちりとベルトで固定されて、少々力を入れたくらいでは動けそうになかった。頭も枠のようなもので固定されて準備万端整ったようだ。

 MRIのドーナツ型の本体に押し込められる。圧迫感がすごく、それはCTでも同じ。だがゲート練習の時のような恐慌状態には至らなかった。狭いのは同じだと思うのだが、どうやらあれはゲートだけの問題であるらしかった。

 

 それでは始めますとスピーカーから声が聞こえて、いよいよ撮影に入ったのだが……。

 

『ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ。――』

『――カツン――』

『カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッカッ』

『ビィーン、……ビィーン、……ビィーン、……ビィーン、……ビィーン、……ビィーン、……ビィーン……』

『――』

 

 耳栓をあれだけ詰められていてもウマ耳の感度の前にはほぼ無力。MRIから発せられるブザーのような音が容赦なく脳に突き刺さる。

 しかしそれもちょっと止んだかと思っていたら、本当の地獄はその先だった。

 

『ズドドドドドドドドドドドドドドドヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァガガガガガガガガガガガガガガ!!!』

 

 思わず叫びそうになるところを辛うじて堪える。冗談でなく鼓膜が破れそうだ、いやむしろここで破れてもらった方が楽になれるかもとかイケナイ考えに染まりそうになる。体に力が入って胴体と腕と脚をそれぞれ固定しているベルトがミシミシ軋む。

 もう止めて! 俺のライフはゼロよ! そんな考えが脳裏をよぎる。どこから出てきたセリフか分からないが。

 

 責め苦は永遠に続くんじゃないかという勢いだったが、突如音が止んだ。そして

 

『おつかれさまでした。検査終わりましたのでもうしばらく待って下さいね』

 

 スピーカーから声がすると共に、検査室に人の足音。

 MRIから引き抜かれて拘束が解かれる。耳栓も取り除かれた。看護師さんの声がはっきりと聞こえる。

 

「本当におつかれさまでした。大変でしたね、お耳、大丈夫でした?」

 

 いや大丈夫じゃないが、とは言えず僅かに微笑みを返す。多分それは微笑みではなく疲れ切った表情だったとは思う。

 




次回、ヤバい奴。


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見透かす眼差し

ウマ耳にMRIはやり過ぎた感がありましたが、反省はしてない。
でも他にやりようもないから検査が必要ならやるしかないでしょう。ウマ娘受難の時代かも……。

『先生……MRIはできれば避けられませんか?』『できません』

そんな会話が日々そこかしこの病院で交わされてる気配。

誤字訂正いっぱいいただきました。ありがとうございます。あまりにもあるので穴があったら入りたい。


 

 かなり消耗した様子に見える、とのことだったので昨日と同じ病室に案内されて検査着のままベッドで横になる。

 正直もう二度とMRIはごめんだ。あれに掛かるくらいならまだゲートの方がマシかも知れない、そんな考えに落ちるほど耳へのダメージがすごい。まだ耳の奥でビンビンと響いている感覚がして辛い。自然と力が入ってきて、俺のウマ耳はさっきから絞れたり起きたりを繰り返していた。

 

 ……うーん?

 これ、半分ぐらい自分の意志で動いてるような?

 まさかと思い、まだ爆音の後遺症でクラクラして足取りもおぼつかない中ベッドから降り立ち、病室にある洗面台に両手を突いてもたれかかるように立った。大きな鏡に俺の姿がくっきりと映る。

 金色の毛に包まれた頭の上のウマ耳は、左右にへにょりと垂れていた。

 

 白い反射光が横から差してくる明るい病室、それに照らされた俺、ヴェントドーロの整った顔。

 少しばかり吊り目だがくりっと開き奥二重、まつげが髪と同色に近いせいか目元の感じが少々柔らかく感じられる。瞳は青みがかった緑色で深みがあって、見るからに愛らしい目。髪の色は金色で長さは肩には掛からず丸みを帯びたシルエット、前髪は右手側から流すように分けられていて、これもまた反射光を浴びて柔らかく輝いている。身体の方はだぼっとした水色の検査着で色気もない姿。だがその後ろで上下左右、ふわんふわんとゆっくり揺れる、髪と同色に輝く長いしっぽ。

 衣装はともかく他の部分は控えめに見ても我ながらかなりかわいい。最初に手鏡で見せてもらった時も思ったが、この顔立ちは俺としてはドストライクの美少女だ。

 

 そしてそのドストライクな美少女が、今から自分の意志で耳を動かす。今までどうにも動かなかった俺の耳だが、なんとなく予感がしている。

 今なら動かせるようになると。

 

 へにょりと垂れた耳を両手でそっとつまんで伸ばしてみる。伸ばして垂らしてを何度か繰り返して、力の入る感覚を掴んでいった。次に手のサポートはそのままに、これと思った感覚で力を込める。すると垂れていた耳が少しだけだが伸びる様子が鏡に映った。

 

「うぇ? う、動いた?」

 

 力を抜くとさらに伸びる。垂れると思ったが意外な方向性に少し戸惑う。

 

「うえぇ? 力を抜いたら垂れると思ったけどそうじゃないんですか。これは難しいかも」

 

 少し怪訝な表情になって眉根が寄った。すると今度は前に向かって垂れてくる。そのままさらに眉をひそめて怒ったような顔つきに、すると耳はキレイに外向きの弧を描いて引き絞られた姿になった。

 

(表情に合わせて動く向きがあるみたいだな。これが基本の動き、ということで良いのか?)

 

 百面相をしながらそれに釣られて動く耳。さらに片目だけ閉じたりして顔の半分だけ表情を変えつつ変顔を重ねる。すると片方の耳だけ別の動きを少し見せたりするので、今度は逆もやってみる。そんなことに熱中していたら、ふと鏡に他の人物が写り込んだ。

 

 鏡の中の他人と目が合った。暗めの栗色の髪、それをショートにしたウマ娘がこちらを眠そうな目つきで窺っていた。鈍い紅色をした瞳には光がなく、何を考えているのか推し量ることはできないが、白衣を着ているので生徒ではなさそうだ。

 しばらく目線を合わせていたが、口を開いたのは彼女の方だ。

 

「やぁ、君が……ヴェントドーロ君かい?」

「は、はい。そうですけど……あなたは?」

「私かい? 私はアグネスタキオン。URA総合研究所運動科学研究室所属の研究員をしている。

 今日はなにやら走ることができなくなった上にゲート難を発症したウマ娘が出たと聞いてねぇ……。そこでこうして学園の方に出向いてきたというわけさ。

 それで、君だねぇ? そのウマ娘というのは」

 

 目が怖い。瞳の中に光がないのもそうだが、人の奥底までも見透かそうとする眼力が強い。しかもその視線には狂気すら含まれているように感じて、俺は鏡越しでありながら彼女に恐怖を感じた。

 辛うじて頷くことで彼女の問いに肯定の意を返す。それがやっとだった。

 

「ふぅン、まぁ見た感じ普通のウマ娘のようだが?……いや待てよ。変だねぇ、君には何かウマ娘として決定的に足りていないものがあるような……いや、そうでもないな、単にそれが極小になっているだけか?」

 

 アグネスタキオンと名乗った白衣のウマ娘。彼女は俺の真後ろで腕を組み、片肘で頬杖を突いて視線を外して何かを考え始めた。そんな怪しいウマ娘が真後ろに立ったせいで俺は動くに動けず膠着状態が続く、そのとき病室外の廊下から呼ぶ声がして俺の耳が向く。

 

「おーいタキオン君、どこにいる?」

 

 織田先生の呼び声だった。

 

 その声に反応してタキオン氏は廊下の方を一瞥する。病室の自動ドアが開いて織田先生が入ってきた。

 

「さっそくヴェントドーロさんと接触したのか」

「あァ、ナースに尋ねたらここだと教えてもらったのでねぇ。まぁ彼女とはちょっとばかり挨拶をしただけだよ。その割にえらく警戒されてしまっているようだ」

「彼女は記憶障害があって少々ナイーヴな状況下だからね。それについては先ほどレポートしておいただろう?」

「それは承知しているさ。今回は接触の手順に多少悪い偶然が重なってしまっただけのことだよ。

 そんな訳だよヴェントドーロ君、急に背後に立ってしまい、申し訳なかったね。さぞかし驚いただろうが、どうか気を悪くしないでくれると助かる」

 

 そう言ってタキオン氏は軽く頭を下げる。

 俺も事を荒立てる気はないので、向き直って同じように頭を下げる。

 

「いえ、こちらこそ無礼な態度だったと思います。気がついたら後ろにおられて少々驚いてしまいました。申し訳ありません」

 

 双方が頭を下げて一旦この件はおしまいになった。引き続き俺のベッドで3人、話し合いは続く。

 

「ヴェントドーロさんにはこのあとすぐURA研究所に私たちと向かってもらってですね、そこでさらなる検査をしたいと考えています」

「検査はこの私がすることになるが、織田君もいる。なぁに簡単な検査さ。だが機材がここにはないのでね、研究所の方に出向いてもらう必要があるというわけだ」

 

 URA総合研究所はここトレセン学園の隣の敷地にあるという。広大な学園の敷地を横切ることになるため、俺とタキオン氏はともかくヒトである織田先生の足で移動するのは骨が折れる。そこで3人揃ってクルマで移動することになった。




次回、やっぱり怪しい。


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怪しさ満点

タキオン氏はきれいに見えててもやっぱり本質はタキオン氏なんだよ。(論理ループ)

評価が立て続けに入りました、ありがとうございます。
残念ながら評価平均はついに8を割り込んでオレンジ色の領域に至ってしまいましたが、毎日欠かさずお読み戴いていますことは感謝の極み。


 

 タキオン氏と織田先生の後ろに付いてビルの廊下を歩く。医務室とは違って薄暗く、そこかしこに段ボールが積まれていたり機材が放置されていたりした。人の気配は多少あるものの歩く姿はなく、壁の向こうで何かしている、そんな感じだ。

 

「こちらだ。入りたまえよヴェントドーロ君」

 

 タキオン氏が無機質な鉄の扉を開いた先にあったのはコンクリートの壁に囲まれた小さな一室。その真ん中には無骨なデザインで太いコードがいくつも繋がったイスが一脚。一歩中に入ると横の壁にはガラス窓が嵌められていて、隣の部屋の様子が見えた。

 

「手荷物は入り口のかごの中にでも入れておいてくれたまえ」

 

 タキオン氏がそう言って俺に案内をしてくる間に、織田先生はイスに気を留めることもなくガラス窓の向こうへと去って行った。

 引き続きタキオン氏がこのイスについて説明してくれる。

 

「この一見イスのような機械がこれから君を検査するための装置だ。主に映像や音を流してそれに対する君の脳の反応を見る。君にとって少々刺激の強い内容が流れる可能性はあるが、身体的に危害を加えるようなことはないよ。

 今日はこの装置を使って、君の記憶喪失やゲート難の心理的原因を探ろうという算段さ」

 

 なるほど、簡単な検査というのはこれを使ってやるのかと合点がいく。合点はいったがこの装置そのものと、それからタキオン氏自身がどうにも怪しさ満点なのはいただけない。

 そんな事を思っていても、彼女の解説はこちらの意向にかかわらず続いていた。

 

「……頭部の位置にある半球形の構造には各種のセンサーや映像投写ユニット、スピーカーなどが装備されている。この装置のいわば心臓部、というわけだねぇ。他にも手や足の乗る部分に筋肉の活動量を捉えるセンサーが埋め込まれている。無論脈拍や酸素飽和度など基本的なセンサーも付いていて、常に生体の状態をモニターすることによって生命に危険が及ばないように配慮されているのさ」

 

 タキオン氏の説明を聞きつつ、紹介された装置の各部を目で追いかけていく。説明の大半は訳が分からないが、ともかく高そうな機械であることだけは認識できた。俺はおずおずと手を上げてタキオン氏に問いかける。

 

「あの……」

「なんだねヴェントドーロ君?」

「この機械、すごく高価な物なんじゃないかと思いますけど、その、ウマ娘の力で壊れたりは」

「あぁ、それについては大丈夫だ。強度に関してはウマ娘を考慮して作られているし、被験者の君には悪いが拘束ベルトは併用させてもらう。やはり見せる映像によっては身体の不随意運動が起こる場合はあるからねぇ。事故予防だよ。機器が高価というのはあるが、被験者の受傷防止が主目的だねぇ。それに万が一壊れたとしても、君に修理代の請求が行くことはないよ。

 それではさっそく取りかかろうか。ヴェントドーロ君、装置に腰掛けてくれないか」

 

 タキオン氏が俺の方ににじり寄る。俺はどうにも判断に迷い、ガラス窓の向こうにいる織田先生へ助けを求めて視線を送った。

 それに気がついた先生がこちらの部屋に移ってきた。

 

「ヴェントドーロさん、どうしましたか?」

「……いえ、先生、この装置本当に大丈夫なんでしょうか?」

「ああ、そういうことか。それは大丈夫ですよ。試作段階から私も関わっていますし、これまで実際に多くの被験者でテストを重ねてきました。これまでそれら被験者の心身にダメージが残ったということはありません。

 ですよね? タキオン君」

「織田君の言う通りだよ。

 これまでうちの研究員を中心に延べ100人以上でテスト済みだ。その中にはもちろんウマ娘もいたさ、だがただ一人としてダメージが残った者はいなかった。それは保証しよう」

「……そうですか。そこまでおっしゃるのなら、信じます」

 

 装置に座り、腕や足、胴体をベルトで固定されていく。指先や足先などにもセンサーが被せられて、最後にイスと一体化したヘルメットを被せられた。ヘルメットにはウマ耳の形に合わせた突起が出ていて、顔部分の内側は顎の下まで届くモニター画面になっている。被せられた時既に耳にはクラシック音楽が流されていて、モニター画面にはどこかの景色が映し出されていた。

 ヘルメットが完全に被せられると、視界は上下左右ともこのモニター画面の風景でいっぱいだ。準備が整って検査開始の声が耳に伝わる。指示通り目を瞑ってその時を待つ。

 画面が暗くなり、音楽の調子が変わったせいか眠気がやって来た。

 

 再び気がついた時、俺は見知らぬ景色の中にいた。

 真っ青に晴れた空、所々に浮かぶ白い雲。地面は見渡す限り青々と茂る草。やや高台にいるのか見晴らしが良く、遠くの山々まで見渡すことができる。時折涼やかな風が吹いてきて、濃厚な草の香りがする。なんとなく『おいしそう』みたいな感想が浮かんだ。どうして草を美味しそうと感じるのかは分からなかったが。

 

 俺の身体は何かにもたれかかっているらしかった。それも岩とか木とかではなく温かさと息づかいが背中から伝わってくる。どうやら大きな動物を背にして草の上に直に腰を下ろしている、そんな体勢のようだ。そんな中、顔にバサッと髪の毛が被さってきた。

 

「ぶわっ! な、なんですかこれ!?」

 

 手で慌てて払いのけると、髪の毛はそのまま後ろの方まで引っ込んでいった。引っ込んだ方に顔を向けてまず見えたのは、銀白色に輝く斜面だ。そしてその奥に先ほど被さってきたと思われる長い髪の毛がちらちらと見え隠れしている。その動く様子には見覚えがあった。

 

「まさか、ウマ尻尾?」

「ブルン」

 

 今度は後ろから何かが鼻を鳴らしたような音がした。とっさに振り向くと、そこには大きな鼻の穴。

 

「うわっ!? なになに!?」

 

 驚いた勢いでそのまま立ち上がる。そこにいたのは

 

「……もしかしなくても……馬ですよね」

 

 銀白色の馬が一頭、草の上に座り込んでこちらをじっと見ていた。




次回、うつくしいせかい。



次回27話か、その次28話くらいに至ると多分ストックが切れます。そろそろ絵を描け、とも言われてプレッシャーがきつくなってきてますので、一時的に休載するかも知れません。


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馬のいる世界

イマジナリーでありながら実体感のある世界ってそれもう普通に現実だな?

あとがきにお知らせがあります。


 

「どうしてここに馬がいるんですか?」

 

 馬から目を離せないままそう問いかけた。見つめる俺の目に、その馬もまた見つめ返してくる。

 ふと、そこで気がつく。ああそうだ馬に人の言葉は通じないんだったと。

 でもついさっきは通じるような気がしていた。ごく普通に隣人のような感覚で。

 

 そのうち馬の方が顔を背けてしまった。それでも片方の瞳だけは変わらず俺を追い続けているのだが。

 

 ゆっくりと馬に近づいて(ひざまづ)く。俺を恐れる様子はなく、むしろ近くにいたいと言っているような気がする。そのまま手を鼻の先に持って行くと、その大きな鼻がバフバフと匂いを嗅いで、そして鼻先を擦り付けてくる。その流れで頬に手を持って行くと、とても気持ちよさそうな表情になった。

 

「よしよし。おとなしいですねあなたは。すごく馴れてますけど、私とどこかで会ったことがあります?」

 

 馬はそれには答えず目を細めるだけで、俺はひたすら頬からあごの下を撫で続けた。

 

 そのうちに飽きてきたのか馬の方から手を避ける。もう終わりかなと思ったら、今度は近づいた俺の顔をベロベロと舐めてくる。

 

「うぷぷ。ちょ、ちょっといきなりそれは反則ですよ。嬉しいのは分かりますけど」

 

 馬の大きな舌で舐められては、俺の顔もすぐに濡れてベタベタだ。だが不思議と嫌な気持ちにはならず、目の前の顔からは純粋な嬉しさだけが伝わってくる。

 

「なんとなく気持ちは分かるんですけど、本当になんとなくですね。もっとはっきり分かるようになれる気がしますけど」

 

 ベロベロにも飽きたのか、馬はついに立ち上がる。立ち上がってもスキンシップは止まず、俺の顔、背中へと首を回してじゃれてきた。

 

「本当に懐っこいですねあなたは。あ、女の子だったんですね」

 

 馬が体を返した時にそれと分かった。さらにくるっと旋回して再び頭が近づく。

 俺のウマ耳と彼女のウマ耳が触れ合う。少し力を入れて頭でぐいっと押してきたりもするが、こちらも力負けしないで頭で押し返す。

 

「ウマ娘の力なら押し負けませんね。私もウマ耳持ちですから、もしかしたら仲間だと思ってくれているんでしょうか」

 

 押し合いをしていたら、ぷいと離れた。背中を見せてこちらに顔だけ向けてくる。

 

「……移動します、って事です?」

 

 軽く首が上下に揺れるその仕草はもしかして肯定なのか。言葉が通じてるのかと怪訝に感じつつ彼女の肩口にそっと近づくと、そのまま並んで歩く形になった。

 

 ザクザクとくるぶしまで埋まる程度に伸びた草を分け入って歩く。一体どこに向かっているのか分からないが、緩やかな斜面を下りつつあるのは分かる。

 そのうちに二人とも足早になってきて、とうとう軽く走る形になった。

 

 すぐ隣からダッカッダッカッと重量感のある足音が響く。俺の方は相変わらずザッザッザッザッと草を分ける音。体格の差を強く感じる。走るスピードは互角なのだが。

 そのうち前方に湖が見えてきた。このまま真っ直ぐ進めばすぐに水辺にたどり着いてしまうだろう。それもなんだか面白くないように感じる。

 

 目配せすると彼女も同じ考えなのか、湖に向かっていた進路を左に変えていく。俺も追随して走る。スピードが上がって足音のテンポが変わった。正面から吹き抜ける風がさらに勢いを増すけれど、それは苦しくはなくむしろ心地よい。昨日ルジェさんに姫抱っこされて走った、あの時の感覚が蘇る。やっぱり俺は風を切って走るのが一等好きらしい。

 

 並走する彼女は俺よりもずっと大きい体なのに、軽い自分よりももっと速く走れそうに感じる。それだけのパワーが大きな身体に満ちているのが分かる。このままどこまで出せるのか、彼女と俺自身の限界をちょっと見てみたくなった。

 

 俺はグッと脚に力を込めて前に飛び出した。自然に脚が前に出せるようになっていた。転ぶこともなく加速が付いて、すぐに彼女の姿は視界の端へと飛ぶ。

 

 俺が前に出たことに少し驚いたようだったが、すぐに彼女は付いてきた。むしろ本気を入れた俺のことを励ましてくれているような、そんな気持ちが伝わってくる。

 二人とも大きく息を荒げつつ草原を駆け抜ける。俺にとってこのスピードは、今まで自分の脚では出したことのない領域。トレセン学園のトラックで俺のことを抜いていった彼女たち、そちらの速度域に達しているのが分かる。だが、足はもつれることなく前へと飛び、後ろへと蹴り上がる。隣の彼女もまた全身をバネにして駆ける、駆ける。どちらかが少し前に出れば、もう一人がすぐに追いつく。それを何度も繰り返すうちにどんどんと速度が上がっていって、ついに二人完全に並んだままこれ以上スピードを上げられないところまで来た。

 

 湖の岸辺を右手に見たままそれに沿って駆けていくと、緩やかな右カーブの先に1本の樹が生えていた。あそこがゴールらしい。

 俺も彼女も最後の力を振り絞って樹に向かって走る、跳ぶ、そして最高のスピードで駆け抜けた。

 

 二人並んだままスピードを緩めて、大きな弧を描くようにその樹の根元へ。俺はそのまま草の上へ大の字で寝転がった。

 

「はッ!……はアッ……ぜッ!……カ、ヒュッ!……」

 

 息が切れる。全身の細胞が酸素を欲して大暴れしている。

 

 鼻からだけではとても足りず、口をこれでもかと開いて酸素を取り込むが追いつく気がしない。身体の要求量と口からの供給量とがちょうど拮抗していた。もちろん胸の動悸は今まで経験したことがないくらいのハイビートを保っている。人間のものとは思えないそれを感じつつ、それでもなお意識を保てているウマ娘の身体、その強靱さに舌を巻く。

 むしろいっそ意識を手放せたなら楽になれたのだろうが、しかしこの身体はそれを許してくれない。

 

 彼女もまた息が荒い。鼻が大きく開きブオンブオンと鳴る。だが四本脚で直立しているせいか俺よりもずっと余裕があるように見える。

 しばらくそのまま立っていたが、一足早く落ち着いたのか彼女が俺の顔に鼻先をくっつけてきた。

 

「あなたはもう回復できたんですか。やっぱりお鼻が大きいと違いますね。

 ウマ娘もパワーは馬並みですけど、少し違うんですね。こればっかりはヒト型だから仕方がないのでしょうけど」

 

 俺も多少回復して息が整ってきた。身体を起こして彼女と差し向かう。その瞳から嬉しい気持ちが伝わってきた。

 最初にしたように頬を撫でると、さらに嬉しい気持ちが漏れ溢れてくる。

 

「思ったんですけど、あなたはとっても可愛いですね」

 

 果たしてその可愛いが伝わったのか、彼女はブヒンと一つ、鼻を鳴らして答えてくれた。

 

 すっかり落ち着いた俺は立ち上がった。

 いつの間にか冷たくなった風がまだ上気している頬を撫でる。ふと空を見上げるといつの間にかそれは明るさを失って、紺色へと装いを変えていた。楽しかった時間ももう終わりが近いようだ。

 

 「もうお別れなんですね……。ねえ、また逢えますか?」

 

 その答えは彼女から伝えられることのないまま、世界はどんどん暗転していき、やがて彼女の気配も闇に呑まれてしまった。

 

 また、あのクラシック音楽が聞こえてくる。

 

 世界はいきなり明るくなって、見覚えのある映像が目の前に映し出されていた。

 




次回、世間の反応。

お知らせ

ついにストックが尽きました。ですのでしばらく休載させていただきます。
構想はあるのでフィニッシュへの道筋は付いていますが、個別のイベントがなかなか出てきません。三人娘はどうやら三食一緒に食べてお風呂で洗いっこしてれば幸せらしく、三人の世界から外に出てきてくれないんですよね……。


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戻ってきたカフェテリア競走 別腹杯

別腹の方がメイン、あると思います。

休載している間に温かな感想をいくつかいただきました。お返事はまだですけどすぐに目を通させていただいてます。いつもありがとうございます。
相変わらずストック少なめ進行なんですが、書けたら出していこうかな、と。不定期更新になりますが、よろしくお願いします。

それから、評価がまた増えましてトータル20件になりました。平均値も上昇して少し安心できそうな位置に。好評価いただきありがとうございます。


 

 拘束ベルトが緩められ、繋がっていたコード類も外されて装置から解放された。タキオン氏が何か話しに来るかと思っていたが、特に何もないまま今日の検査は終了となった。データは無事に取れたのだろう。

 

 医務室から検査着のまま来ていた俺には更衣室をあてがわれ、そこで一苦労しながら制服に着替えた。着替えが終わるまで待っていてくれた織田先生と共に、クルマで研究所を後にする。

 またそのうち追加の検査もあるでしょうと先生は言う。先ほどの検査でどういったことが分かるのか見当も付かないが、夢のような世界でまたあの女の子と会えるのなら、断る理由は俺にはなかった。

 駐車場から医務室建物の中を抜け、先生とは別れて玄関から出た。

 

「あっ、ドーロちゃん! やっと出てきたね」

 

 リズちゃんがこの暑い中待っていてくれた。耳と尻尾をピコピコ振りつつ木陰から出て駆け寄ってくる。

 

「もしかしてずっと待っていてくれたんですか? こんなに暑いのに。それに、授業はどうしたんです?」

「授業なら午前中が全部終わったところだよ。ドーロちゃんお腹空かせてるでしょ?」

 

 そういえば研究所を出た辺りからお腹も起きてきたのか少しずつ騒がしくなってきていた。

 

『きゅるきゅるぎゅるん』

 

 いつもの鳴き声が響いた。向かいに立つリズちゃんはその声を聞いて満足げな笑顔を見せている。俺の腹の虫が鳴るのはそんなに嬉しいことなのだろうか……。ともあれお昼を食べに行かないとと彼女が急かすので、二人静かに走って学園のカフェテリアを目指す。

 

 カフェテリアの入り口は既に長蛇の列。この分だと結構待たされそうだが、ちょっとずつ大きくなる腹の声のせいで、周りの生徒達が俺の存在に気づき始めた。俺を中心にして動揺みたいなものが広がっていく。ひそひそと話す声も聞こえてくるが、感度良好動きも良好になった俺の耳はそれらを余さず捉えていた。あんまり良い噂話ではないだろうと腹を括り、目を瞑って聞き耳に集中してみると……

 

『あの娘だよ、美浦寮で寮の夕食一人で全部食べ尽くしたって』『昨日のお昼もここのカフェテリアの料理総ざらえしたって聞いた』『私傍で見てたけどおかずがまるで飲み物だったし』『オグリキャップ先輩の再来だーって騒いでる先輩がいたよ』『走りも凄いらしいね、よく食べるとパワーも凄いんだろうなあ』「ドーロちゃん、列動いたよ?」『高等部入学らしいけど既に模擬レース総ナメだとか聞いた』「あらまあ、ドーロちゃんにリズちゃん、こんな所に並んでたんですかあ」『ぎゅるるるきゅるる♪』『いっ!? なに今の音』「ルジェ先輩……列の前の方から下がってきたけど、いいの?」『おーあそこにいるの噂のヴェントドーロじゃねーか、こりゃ今日のお昼なくなっちまうかも?』「いいんですよ。ドーロちゃんリズちゃんと一緒に食べる方が楽しいですし」『列開いちゃったじゃん前進んでくれないかな』

 

 ん?

 なんか周りの声に交じってルジェさんの声が聞こえてないか?

 

 俺は慌てて目を開く。前にはやや焦った表情のリズちゃんが俺の方を見て何かを訴えてる。時折横にぶれる彼女の視線を追うと、その方向にはルジェさんがにこやかに立っていた。というか列の前がかなり開いてしまって、後ろの方から怨嗟の声が上がっている。とりあえず3人慌てて列を詰めた。

 

「すみません、目を瞑っていたもので列が進んでいるのに気がつきませんでした」

「まあ、ドーロちゃん何か考え事でしょうか?」

「いえ……少し耳を澄まして周りの音を拾っていただけですよ」

 

 言葉に合わせて耳をピコピコ動かしてみる。

 

「わぁっ。ドーロちゃん耳動いてる」

「本当ですねえ。いつの間に治ったんでしょう?」

「えへー。今朝医務室に呼ばれて検査を受けてからです。合間に少し練習していたら動かせるようになりました。

 まだちょっと思うとおりにならないところがありますけど」

「良かったねぇ。リズとっても心配してたんだよ」

「ありがとうございますリズちゃん。でもこれでもう安心です」

 

 リズちゃんが本当に嬉しそうな笑顔を見せる。

 

「あとは走りの方だけですねえ。そちらはさすがにじっくりやるしかないのでしょうけれど」

 

 ルジェさんもいつもの微笑みを見せてくれて、こちらも嬉しそうだ。

 

 そんなやり取りをしていたら、いよいよ俺たちの順番がやって来た。トレーを持って料理を取っていく。腹の虫はさっきからもう待ちきれないのかキャインキャインうるさい。ワンコですかお前は。いや自分のお腹のことだが、なんだか自分以外の動物をお腹で飼ってるみたいな感覚なんだよな。

 そして今日のお昼もトレーの上におかずピラミッドが形成された。昨日は少し多くて一度には食べきれなかったので今日は若干控えめにしたつもりだったが、周りの生徒達にはかなり引かれていた。解せぬ。ルジェさんとリズちゃんはもうすっかり慣れてしまったようで、おかずピラミッドを見ても動じなくなった。リズちゃんが先陣を切って席の確保に向かう。

 

「ドーロちゃん、ルジェ先輩、こっちだよ」

 

 向かい合わせで3人分の席確保に成功したリズちゃんが、少し先のテーブルから大きく手を振っている。

 例によって周りの生徒がすっかり引き払ってしまっていて、そこに至る道筋だけ人のいない空間ができていた。そんなに人をバケモノ扱いしないで欲しいとは思う。ワタシフツウノウマ娘デスヨ?

 三人向かい合わせに着席したものの、会話もそこそこにバクバクと食べる。午後の授業まで時間もあまりない中で、量を食べるウマ娘は大変だ。俺ぐらい流し込むように食べるのならまだしも、リズちゃんなんかは人の倍ほど食べると言っても人の倍食べるのが速いわけではないし。

 食べ始めこそそんな事を考えてはいたものの、気がつくといつも通り一心不乱にご飯を掻き込んでいて、トレーの上が空になると同時に気持ちが落ち着いて正気に戻る。ルジェさんはとうに食べ終わってお茶を片手に俺の方をじっと見つめてにまにま笑顔を隠さないし、リズちゃんはまだ黙々と食事中。そして周りの生徒は俺たちを中心に距離を置く、食事終わりのいつもの光景(5時間ぶり3度目)が展開していた。

 

「ドーロちゃん。午後のご予定はレース授業でしたよね?」

 

 まだスケジュールが頭に入っていない俺は、ポケットからスマホを取り出してスケジュールを確認する。

 

「えーと……、そうですね。午後の時間全部、トラックで走行練習になってます」

「そうすると、わたしも近くにいますねえ。またサポートに出向きますから、フォームチェックとか必要があれば声を掛けて下さいね?」

「え?……あ、ルジェさんのチーム練習もトラックなんですね」

「そうですよ。それから、今日もゲート練習はあるんでしょうか?」

「それは表示されてないので多分ないと思います。でもルジェさん、良いんですか? 昨日もチーム練習放ったらかして私に付きっきりでしたよね?」

「昨日はトラブルがありましたので仕方がありませんでしたし、担当のサブトレーナーさんには同室の娘だからと訳をお話ししたら、快く送り出していただけましたので」

「練習の時、リズと併走しようよ。そうしたらいろいろ見てあげられるよ」

 

 リズちゃんがトレイの上をすっかり空にして、話に加わってきた。

 

「……そうですね。上手く走れなかった時、その方が安心ですよね」

 

 どうやら今回はリズちゃんがメイン、ルジェさんがサブで俺のコーチングをしてくれる流れになりそうだ。

 

 まだ時間が少しあるから甘いものはどうですかとリズちゃんが言い出して、残る二人も同意。俺たちは食後のデザート(別腹)をしっかりいただいてから、午後の授業、チームトレーニングへとそれぞれ出かけていった。

 




次回、兆し。


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トレーナーを凌ぐ

おひさし、待った?

更新が止まっている間に評価が爆増しまして、おかげさまで安心できる圏内に届きました。好評価戴きありがとうございます。


 

 着替えてクラスメイト達の後を追うようにトラックへ出る。隣にはリズちゃんが付き従う。

 

 周りからは昨日よりもやや距離を置かれているような感じがする。昼間あれだけの大コケをして、その上寮の夕食ではあり得ないほどのドカ食いを見せつけてしまえば、そのハチャメチャぶりに危険信号も灯るというものか。

 ただ距離を置かれつつも、俺を見る目には怯えや侮りといったものは感じられない。そこにあるのはむしろ敵意に近い。聞いた話で元々ドーロは実力者だったことへの警戒と、さらにウマ娘2人を常に侍らせて傍目には余裕に映るその態度への妬み。それらが複合して感情を滾らせているように映る。俺としてはそんなに買いかぶられても何も出せませんよ、という心情でしかないのだが。なにせ昔のドーロと今の俺とでは競走能力にとてつもなく差がある。それが世間に知られていないだけで。

 

 コースへ出る前に観客スタンドで練習のミーティングが始まる。昨日と同じウマ娘の教官が声を張り上げている。他にも数人ウマ娘教官達が前で並んでいたが、その並びから少し離れるように立つトレーニングウェア姿の男性も。

 

「え? 織田先生……どうして」

「ドーロちゃん、知ってる男の人?」

「昨日、今日とお世話になった医務室の先生ですよ」

 

 どういうわけか織田先生がいた。ウマ娘ばかりの中に一人だけいる男性はさすがに目立つ。気がついた生徒達から発せられるひそひそ話が漏れ伝わってきた。

 

「……それから……ヴェントドーロ、いますか?」

 

 教官の呼ぶ声がした。

 

「は、はい!?」

 

 まさか呼ばれるとは思っておらず、驚きと共に返事する。

 

「そこにいたわね。このミーティングが終わったら少し残ってちょうだい」

「わ、わかりました」

 

 生徒達の集団がコースに降りていく。俺がリズちゃんと共に留まっていると、教官の方から手招きされた。織田先生もそこで合流する。

 

「リーゾアラチェートは通常練習に入ってもらって構わないのだけど」

 

 俺の傍を離れずにいるリズちゃんを見過ごさず、教官がやんわりと注意する。だが彼女がそんな程度で動くわけはなく、顔をしかめただけだった。いや、教官に向かってそんな態度を臆面もなく見せるのもどうかと思うけど……。ともあれ話を切り替えることにして、最大の疑問点をぶつけてみることにした。

 

「それで、織田先生がここにいるのはどうしてですか?」

「疑問に思うのももっともだね。僕は君の走行フォーム指導をするためここに来たんだよ、ヴェントドーロさん」

 

 え、トレーナーでもない織田先生が俺のフォーム指導とは?

 その疑念が俺の顔に出てしまったのだろう、教官がすかさずフォローを入れた。

 

「実は織田先生はウマ娘の運動器研究では日本でも屈指の方なのよ。ウマ娘スポーツ医学専門医資格も所持していらっしゃるけど、ご専門はウマ娘の走行フォームについて、でしたよね、先生?」

「はは、面と向かってそんな紹介を受けると少し恥ずかしいけどね。確かに、専門はウマ娘の走行フォームと脚部故障との関係性についてですね」

 

 本来であればウマ娘のトレーニングは資格を持った教官かトレーナーが専任するのだが、今回は俺の治療を兼ねるという名目を付けて織田先生が担当することになったという。

 

「学園はご存じの通り人手不足で、手の空いたトレーナーも教官もいないんだ。でもヴェントドーロ君の治療と指導は僕が責任を持ってさせてもらうから、心配しないで欲しい」

 

 そう言って眼鏡の奥が優しく笑った。

 その自然なかっこよさに俺は一瞬フリーズしてしまう。

 

 ……いや、これ純粋なウマ娘なら一発で沈んでしまうんじゃないか? 今の俺はまだ男としての自意識が多少残っているので事なきを得たようだが……。そう思って視線を配ると、先生の横にいた教官が挙動不審になりかかっていた……。選りに選って教官がですか、ダメじゃん。……リズちゃんは……、ちょっと目を見張っていたがなんとか無事だったようだ、さすが。

 

 ともあれ、俺は織田先生監督の下でクラスメイトとは別メニューで練習を始めることになった。ちなみにリズちゃんはやっぱり俺の方にくっついている。

 

『ドーロちゃんはまだちょっと普段の生活も危なっかしいところがあるんだよ。だからリズがお世話しないとダメなの』

 

 そんなことを言ったら織田先生がOKを出してしまったからだ。先生も大概チョロかったよ……。

 俺たち3人はコースではなく内フィールドへと向かった。昨日ゲート練習をした場所のさらに隣で、小さく柵で囲われていた。

 

「さて、ヴェントドーロ君。聞くところによると朝練で多少走ってはいるそうだね。今どんな感じになっているか、見せてもらっても?」

「分かりました。柵に沿って軽く走れば良いですか?」

「そうだね、お願いするよ」

 

 いきなり走ろうとするところをリズちゃんに止められて、ウォーミングアップから始める。いくら毎日のように走っていて体がある程度できてると言っても、準備運動もなしでは故障の元だよと(たしな)められた。

 先生もまったく同意見らしく

 

「基礎的な部分もごっそり抜け落ちているようだね……記憶障害は考えていたよりも重篤かもしれない。リズさんに付いてきてもらって正解だったようだ」

 

 柔和だった先生の表情が厳しくなる。それと共に纏う雰囲気ががらりと変わって、何事も見逃すまいとする刺すような視線を感じるようになった。

 ピリッと引き締まった雰囲気の中、リズちゃんの手を借りつつ粛々とアップを行っていく。そろそろ良いかなという彼女の声で、いよいよ走りを見せることになった。

 

 今日のフィールドは昨日のゲート練習の場所よりも二回りは狭く、スピードが出せない。そこで俺は先生の指示の下、フィールド柵のすぐ内側を周回しながらスタートダッシュだけを繰り返す。

 自分でも意外だったが、今朝よりも地面を掴むことができているように感じた。狭い場所なのでこれ以上前には出られないが、遮るもののないコース上であればもっともっとできそうな手応えを感じる。

 

 そんなことを考えつつ数度回ったところで先生からストップが掛かった。

 

「そうですね。言われていたほど乱れてはいないのかな、という印象です。思った以上に地面を掴めている様子ですし。ヴェントドーロさん自身はどう感じていますか?」

「私のことはドーロでいいですよ、先生。

 ……それでどういう感じか、ですか……昨日、それから今朝と比べてもかなり走れそうな感じです。こうなる前の元々がどんな走りだったか私には分からないので、元通りになったかどうかまでは分からないですけど」

 

 もっと広いところで試してみたいですね。と先生がコースを見回す。ちょうど内側のダートコースが空いていたようで、俺たちはそちらへ移動することになった。

 




次回、望外の出来。


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脚を取り戻せ

このまままた毎日更新の軌道に復帰できると良いのですがっ。

評価をまた2件も入れていただいていました。好評価、ありがとうございます。


 

 コース下の地下道をくぐって、2つあるうちで内側のダートコースへ向かう。3人連れ立って歩きながら先生がリズちゃんにも何か尋ねているようだ。初日の様子はルジェさんが詳しいです、とか会話している。地上へのスロープを上ればそこはもうコースのすぐ脇だ。

 白い柵で区切られた幅10メートル以上はあるダートコース。コースの外側半分には所々進路を遮るようにハードルが設けられ、白く日差しを照り返す砂には規則正しい箒目がどこまでも続いていた。外側の柵を越えてすぐ隣のコースではクラスメイト達が時折駆け抜ける。あちらもダートコースのようで砂煙が上がっていた。

 

「15分ほど空き時間があったので予約を入れておきました。時間はあまりないですからちゃっちゃと見ていきましょう。

 このコースは障害レース練習用でもあるので所々に障害が配置されていますが、内ラチ寄りの幅5メートルくらいはパスできるように障害がありません。今回ドーロさんに走ってもらうのはこの障害のない内ラチ沿いです」

 

 コース全長は1200メートルもあっていきなり1周するのは大変なのと、あまり遠くに行かれても観察できないということで、直線部分の約300メートルを往復することになった。さらにリズちゃんが併走して、何かトラブルがあった時すぐ助けてもらうことに。

 

「最初からフルスピード出そうと思わないで下さい。まず最初の1往復は脚の調子を見つつ抜き気味に走ってもらえますか」

「リズがペース作ろうか?」

「そうですね、できるのならその方が良いでしょう。1000メートル90秒ぐらいからとして……300メートル直線で30秒切るくらいでしょうか?」

「すごく遅いね。でも、初めはそれぐらいで良いのかな?」

「ドーロさんの様子次第ですけどね。楽に付いて来られているようならペースは上げてもらっても構いませんよ」

 

 こうして、俺にとって初めてのコース実走が始まった。俺とリズちゃんは4コーナー終わりの地点に立つ。先生は直線中ほどに陣取った。

 

「ドーロちゃん、リズが先行してペースを作るから付いてきてね。戻りの方は多少前に出ても良いよ。リズは一定のペースで走るから。

 スタートはドーロちゃんにお願い」

 

 分かりましたと一言返し、俺の方からカウントダウンしていよいよスタートする。

 

 ゼロと同時、蹴り脚に力を入れて前に出る。先生に言われていたとおり最初は軽めにややゆっくりと。すぐにリズちゃんが右前に出て半歩先を行く。今回は彼女を抜かないようにスピードを合わせていく。

 

 ややゆっくり、とは言ったが300メートルを30秒そこそこで走り抜くスピードだ。それは言い換えれば100メートル10秒弱ということでもあって、最速のヒトがようやく出せるスピードをウマ娘は軽いランニング程度の感覚で出してしまう。そして俺も今やそちら側(ウマ娘)の一員として走っているわけで……、昨日からもう既に何度も走っているせいかスピードの感覚が麻痺し始めている。実際のところ、今走っているこのスピードはえらく()()

 いや、遅く感じてしまう一番の原因は多分、あの夢の世界での出来事のせいだ。あそこで俺は何にも縛られることなく自らの最高速を出して駆けた確かな経験が、記憶がある。

 脚捌き、上体の振り、しっぽのバランス、他無意識なまま行われた走りのための様々。ドーロの身体に染み込んでいたそれら走りの記憶が、あの限界に迫った併走によって俺の経験として刻まれた。だから先ほどのスタートダッシュも、そして今この併走も、今朝までとは比べものにならないほど身体が自然に動く。

 それ故この程度のスピードなら、一定速度になってしまえばそれを維持する力は必要なかった。むしろ迂闊に蹴り足を強めると前に飛び出してしまう。既に気をつけなくても自然に踏み込みは入るけれど、その一方でつま先の掛かり具合に神経を使う。掛かりが深ければ蹴り足が強くなりすぎるからだ。一歩踏み出すたび深すぎず、浅すぎずの微妙なコントロールが要求されて、地味に頭を使う。

 規則正しい歩調で先生の前を駆ける。ちらりと見えた顔つきは真剣そのものだが、困ったような表情はしていない。どうやら俺の走行フォームは今のところ問題ないようだ。

 

 そんな事を考えつつ走っていたら、すぐに直線の終わりがやって来た。速度を緩めて揃って回れ右、再びスタートするため並んだところで、もっと速くても全然大丈夫そうだねとリズちゃんに言われる。俺は黙って頷き返した。

 今度はリズちゃんが音頭を取って戻りがスタートした。先ほどよりもピッチが上がり、やや離される。だがこちらも走れるようになっているのですぐに追いついて並ぶ。真横に見えたリズちゃんの口元が嬉しそうだ。

 1回目以上に早く直線が終わった。少し息が荒れたが大したことはなさそうだ。リズちゃんに至っては普段と全く変わりなく、本当に走り終えた直後なのか分からないほどだ。

 

「この調子ならコース一周しても大丈夫そうだね? それにドーロちゃん、もうすっかり走りを取り戻してるように見えるよ」

「そんなによく走れていますか?」

「うん。今朝と比べても見違えるぐらい良くなったと思う。だから、もっと走ってみよ?」

 

 改めて先生の下へと向かい、コースを一周したいと申し出る。先生としてもこれだけ調子を戻しているのなら全力に近いところを見てみたいと思っていたらしく、あっさりと許可が下りた。

 

「ドーロちゃんはどこまで出せそう?」

 

 スタート前の打合せ、リズちゃんが話を振ってきた。その問いは俺の考えの及ばなかったことで、どう答えたら良いか分からず口ごもる。

 

「コースが狭いから無茶すると危ないとは思うんだよ。でもね、リズはドーロちゃんの全力を一度見てみたいな」

「思い切り走ってみて欲しいということですか?」

「そう、そういうことだよ。でもコースに障害ハードルがあるから、4コーナー出口は外に膨らむと危ないと思う」

「じゃあそこだけ気をつけて走るとして、あとは……出せるだけ?」

「そうだね。リズも負けないように走るよ、だからドーロちゃんも本気でお願い。リズのわがままだけど……」

「良いんですよ。私もどこまで行けるか試してみたかったですし」

 

 リズちゃんの表情はすごく嬉しそうだったが、その瞳には闘争の炎が確かに宿っていた。

 




次回、一騎打ち。


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ダート1200メートル左回り バ場状態良

やっとドーロちゃんがレースらしいレースを走ります。

評価をまた入れていただきました。それから温かい感想も。いつもいつもありがとうございます。



 

 「それでは僕がスターターをします。距離はこのダート1200メートル左回り一周で。無理はしない程度に全力出してもらっても結構ですから。

 ……それでは、……よーい……スタート!」

 

 今日一番脚に力を込めて蹴り飛ぶ。ダンッ! と頭一つリズちゃんより前に出た。そのまま脚に任せて加速していく。最初の150メートルを抜けて第1コーナーにさしかかったところでリズちゃんが左内に来た。

 黒い髪を靡かせた小柄な身体がするりと脇に入り込み、内ラチに寄りたい俺の進路を微妙に邪魔する。俺の方は夢で併走した記憶を頼りに、速度を維持して並んだままコーナーに突っ込んでいく。初めてのコーナリング。しかもこんな高速でというのは夢の中で経験しただけだ。果たして上手く行くのか、という疑念はあった。だがそれと同時にきっと上手く行くとも感じた。そして感じていた通り、俺の脚捌きは乱れのない円弧を砂に残して身体を前に運び続ける。

 遠心力なのか砂を掴む足が外に滑る感覚はある。しかしそれもコントロールできていて、不安を感じることなくコーナーを進む。むしろ内側へ入り込んだリズちゃんの方が遠心力と折り合いを付けるのに苦労しているのか、やや苦しそうだ。

 2コーナー出口が見えた。コース幅がなくオーバースピードは危険を伴うが、構わず徐々に脚を入れていく。外に膨らみながら加速していって、バックストレートに入る頃には再び俺がリードする。そのまま直線に入ってさらに加速。ついにリズちゃんが視界の端に消えた。感覚では夢で見せたラストスパートのまだ7割か、8割のパワー。足元が夢で走った短い草地ではなく砂で滑るというのもあって、3コーナーが待ち受ける中ではこのスピードが限界だろうか。そのスピードを維持するべくコーナーはやや大回りにターンする。

 3コーナーで無理に切り込んでも脚に負担が掛かるだけ、それよりも4コーナー出口をいかにコンパクトにターンするかが最後に待ち受ける難関だった。最終直線外側には障害ハードルが設置されている。4コーナーで膨らむとそこへダイブすることになってしまうが、だからと言ってスピードを落とすこともできない。そこで内側を空けたまま4コーナーへ突入し、強くなった遠心力に逆らって徐々に内側へ入り込む。結構なスピードを維持したまま身体には相応以上の負荷が掛かっているのか息は苦しくなりつつある。コーナー出口が見えた。今のラインに沿えば障害にダイブする事はないと確信する。ここでもう一押し脚を入れ、直線に向いたところで再び黒い影が迫った。

 残り100メートル、それまで視界にいなかった黒い影が外からぬっと現れてそのまま前に出た。気づいた瞬間にこちらも脚を入れる事ができて最小限の差を付けられるだけで済んだが、そこから追いつくことができない。加速は続けているが双方共伸びに欠け、残り50メートルをそのままの差で駆け抜けた。

 

 徐々にスピードを落としつつ直線終わりまで進み、一旦止まってから先生のいる場所までゆるく走って戻る。息はそれなりに上がってはいるが、動けなくなるほどではない。隣を進むリズちゃんも多少息は荒いがまだまだ余裕の残る様子だった。

 

「ドーロちゃん、速くなったね。追いつくの大変だったよ」

 

 リズちゃんが上気させた頬を向けて嬉しそうに言う。

 

「何か掴めたかなっていう感じはしています」

 

 俺も自然と笑みを浮かべていた。

 

 §

 

「タイムは1分16秒3でした。クビ差くらいですか。レース本番と見ては遅めですが、とても昨日走れなかったウマ娘のタイムじゃないですねこれは。むしろコースが狭くて思い切って走れなかったのではないですか?」

 

 織田先生が二人にストップウォッチを見せながら問いかける。俺たち二人は顔を見合わせ頷き合った。

 

「そうですね。4コーナー出口外に障害ハードルがあったので。走る前に二人で話したんですけど、4コーナー出口は膨らまないように気をつけようと打合せはしていました」

「そうですか。ならもう少し上振れする見込みもありますね。リズさんはどうですか? ドーロさんの走り方で何か気になった点とかは?」

「2コーナーのコーナリング、とても綺麗でした。本当にドーロちゃんなのかなって。こんな事言うとドーロちゃんに失礼なんだけど……、今朝まではそこまでできてなかったから、それと比べてだけど……。そのまま直線で置いて行かれそうになったから、少し焦っちゃった」

 

 少し困ったような笑顔を見せるリズちゃん。彼女から見ても俺の走りはかなり取り戻したように映っていたようだ。

 

 そのあと近くのベンチに腰掛けて、織田先生直々に脚の触診を行った。多少の疲れはあるものの筋肉も関節の状態も良好、通常のアフターケアを行っておくように指示される。

 

「脚に問題はありませんね。走るのも大丈夫そうなので僕の方は今日これで終わりますが、授業は隣のダートコースでまだ続いているのでそちらへ合流して下さい。教官への詳しい報告は僕の方からしておくので、ドーロさんは簡単で良いですよ。それから記憶障害の方ですが、またお呼びだてすると思いますので、そのときはよろしく」

「わかりました」

 

 地下道で先生と別れてリズちゃんと二人スロープを上がる。その先には狭いコース間通路にひしめくクラスメイトと教官の姿があった。

 教官が俺たちに気づいた。

 

「ヴェントドーロ、リーゾアラチェート。織田先生の方は終わりましたか」

 

 その場にいた生徒達から矢のような視線が集まる。みんな練習で真剣になっているせいで誰の目も気迫が違う。そのプレッシャーをいなしつつ教官に返事をした。

 

「はい。そのまま通常練習に復帰しても大丈夫と言われました」

「そうですか。……ではヴェントドーロは2班へ合流してちょうだい。リーゾアラチェートも自分の班へ復帰するように」

 

 俺とリズちゃんとは別の班だった。別れる時、リズちゃんが名残惜しげに小さく手を振っていた。その時近くにいた一部の生徒からは溜息とも付かない声が聞こえたのだが……何かあったのだろうか?

 

 授業の練習はダートコース左回り1600メートル。

 班別担当の副教官が遅れて合流した俺のために、改めて今日のトレーニングの説明をしてくれた。それによると次のようだ。

 

 班ごとの併走トレーニング、2班は俺を含めて6名。スタート後から2コーナー出口までは各自位置取りを意識しつつペース走行。バックストレートに入ったら全力加速して3コーナーまで維持、そのまま3コーナーに入り、スピードを維持しつつコースアウトしないように留意。400メートルのハロン棒、つまり第4コーナー入り口に到達したら減速し、直線に入ったところで襲歩を止めクールダウンしつつ、100メートルの補助ハロン棒脇からコース外へ退出する。タイム計測はなしという内容だった。

 

 話を聞くうち再び視線の集まる感覚がして見回すと、少し離れたところに5人のウマ娘が集まってこちらを窺い見ていた。副教官に耳打ちして確かめると、彼女たちが2班のメンバーだそうだ。やや壁のあるようにも感じた彼女たちに対し思うところがあり、俺は近くに歩み寄った。

 

「あの、ご存じだとは思いますがヴェントドーロです。昨日からいろいろご迷惑とご心配を掛けてすみませんでした。……その、もう知っているかも知れませんが記憶喪失に掛かってしまったようで、クラスメイトのことも思い出せないんです。初めましてに近いのですけど、今後もよろしくお願いします」

 

 頭を下げてお詫びがてらの挨拶。これから共に過ごし切磋する間柄だ。昨日あれだけの騒ぎを起こして何もなしでは彼女たちは納得できないだろうし、それは俺も同じだった。

 

「顔を上げてよトドちゃん」

 

 一番近くにいた良く日に焼けた濃茶色髪の娘が声を掛けてきた。しかし……トドちゃん、とは?

 

「元気そうで良かったよ。昨日大コケしてからクラスの皆、結構心配してたからね。

 それでさ、もう大丈夫なの? 体の方とか」

「は、はい。医務室の先生にはもう普通に走っても大丈夫ですと太鼓判を押されました」

 

 そうしたら目の前の彼女がプッと吹き出した。何がおかしかったのか理解できずに首を傾げると

 

「ごめんごめん、太鼓判ってそんな古めの言い方久しぶりに聞いたから。今までのトドちゃんとのギャップが、ね。……そうかぁ、すこーし変わっちゃったかもね、トドちゃん。でもまぁ元気ならヨシっ! おいで、一緒に走るよ!」

 

 そう言って彼女は俺の肩に腕を回して2班の輪の中に引き込んだ。……いや……それは良いんだけどトドちゃんって……なに?

 




次回、トドとは。


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1年E2組第2班

ウマ娘の名前いちいち考えるのは辛いので原作のモブ娘ちゃんたちのお名前借りていきます。

日々感想を頂いております、ありがとうございます。
昨日の日間目次UA数がこの小説中では歴代2位に。おかげさまで日間総合に返り咲いたりとか嬉しいことはいろいろありました。今朝になったら二次総合でも圏外に転落してるのはいつもの景色ではあるんですけどね。
本当にアップダウンが激しい作品です。

今回はかなり短めです。
書いてたら長くなったので次の33話と分割したんですが、こっちが短くなってしまった。


 

 声を掛けてくれた彼女は、コースを走る順番待ちで休憩している間に同じ2班のメンバー紹介をしてくれた。

 

「アタシの名前はレプリケーションね、この班の中じゃプリ子って呼ばれてる。

 そんで隣にいる金髪の娘がテトラビブロス、テトラっていつも呼んでる。その隣の赤い髪の娘がシャープアトラクト、彼女はアトラって呼んでやって。それから……」

 

 残る2人は端の方から、前髪ぱっつんで黒っぽい赤髪ツインお下げのサンガリアス、リアちゃん。それから灰色髪ポニーテールのアウトスタンドギグ、トスたん。と紹介された。俺を含めて全部で6人、それが第2班の陣容だった。

 

「この第2班の6人は主に中距離得意な子が集められてるんだ。大体2000メートル前後かな。逃げ得意な娘がいないから、併走すると先行のアタシか、今までだとトドちゃんがハナを取ってたね」

「……はなを取るっていうのは……?」

「あー、そこから説明しないとダメかあ。ハナを取るっていうのは先頭を走るって事ね。

 だから大体の場合はアタシとトドちゃんが最初から先頭に立って走ってく。次が差しのトスたんとテトラ、一番後ろはリアちゃんとアトラがごちゃごちゃやってること多いね」

「ごちゃごちゃって、相変わらずなんか雑な理解で押し切ろうとしてない? プリ子は」

 声を上げたのはアトラちゃんだ。それにリアちゃんが同調する。

「そうだそうだー。置いて行かれたら大変だし、抜け出せないと意味ないから位置取り難しいんだぞー、うちらはー」

「いやいや、分かってる、分かってるからーアトラたちが難しいのはー。でも前走ってるから後ろの様子とかあんまりわかんないからね。気がついたら隣にいるし、こっちはラストの緊張感半端ないんだから」

 

 そんな感じで俺以外がわちゃわちゃやりとりを始めた。なんかすごく仲が良いなあとか微笑ましく見守っていたら、テトラと呼ばれた金髪の娘が俺に話しかけてきた。

 

「ねーねートドちゃーん、今日は普段通り前で走れる感じですかー?」

「うぇ? ええと、普段通りっていうのが分かりませんけど、走るのはできると思いますよ。

 先ほどもリズちゃんと併走していましたけど、私が前に出る感じで走っていましたから」

「そうですかー。ならー、だいじょうぶかなー」

「なにか気になることでも?」

「んー普段ねー、トドちゃん基準にして追ってるからねー。動きが変わってたら困るなー、なんてー」

「はあ……、そうなんですね……、はは……」

 

 なんとなく天然が入っている気配のするテトラちゃんのトークに巻き込まれつつ苦笑いを見せていたら、さらに横から割り込む声がする。

 

「こらテトラ、トドちゃん困ってるでしょうに」

「えー? でもこれ大事なことだよー?」

「そもそもそれアンタにとって、でしょうに。先行ウマ娘を差しウマ娘に合わさせてどうするつもりよ。

 逃げと先行の展開に合わせつつ、隙を突いてゴール板を奪いに行くのが差しウマ娘の矜持ってもんでしょうに」

 

 テトラちゃんを諫めるように話に加わってきたのは、灰色の髪が良く揺れるトスたんだった。

 

「トドちゃん、テトラの言うこととか真に受けちゃいけないよ? アンタはアンタの走りをすれば良いんだから」

「は、はい。心得ます」

 

「よっし、そろそろアタシたちの番が来るよ。みんな、準備はできてるかい? それじゃ次の枠順決めようか」

 

 それまでなんとなく緩い雰囲気が漂っていた2班だったが、プリ子ちゃんの一声で様相が変わる。みんな一様に目から闘争心を沸き立たせていた。練習でもレースとなれば締まるもの。なんだかんだみんなウマ娘なのだ。

 

 ここで言う枠順というのはスタートラインに並ぶ時の順番だった。今日の練習ではゲートは使わないので、内ラチからの立ち順を決めるだけだ。

 始まったのは6人がかりのじゃんけん大会だった。ルールは勝ち抜けで、勝った順に好きな枠順を選べる。俺は2番目に勝ち抜けて1枠になった。以下、2枠アトラちゃん、3枠プリ子ちゃん、4枠テトラちゃん、5枠トスたん、6枠リアちゃんの順番。

 

 最内からのスタート。最短距離でコーナーに向かうことのできるそのポジションは先行が有利。だがプリ子ちゃん辺りが被せて来たら前に出ることができず当然不利になる。スタートが最重要だと、俺のまだレース慣れしてない頭でもそれぐらいのことは分かった。

 初めての多人数建てレース。練習とはいえ他の5人の気迫が(みなぎ)っているのを感じる。各自スタートの構え。息を合わせてその時を待つ。全員の動きが止まる。

 

「さぁトドちゃん、いつもの脚、見せておくれよ」

 

 プリ子ちゃんがボソリと声を掛けてすぐ、副教官の合図で練習レースは始まった。

 




次回、ウマ娘的アオハル。


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ラスト2ハロン地点

お盆進行、というわけではないですが、なかなか執筆が前に進まない局面があって昨日はお休みでした。

なんかもうちょっと前書きに書こうと思ってたことがあったはずなんですが忘れちゃいましたね。よくある。


 

 「さぁトドちゃん、いつもの脚、見せておくれよ」

 

 プリ子ちゃんが声を掛けてすぐ、副教官の合図で練習レースは始まった。

 

 声かけに気を取られた。ほんの僅かとはいえ出遅れる。時間にしたらコンマ1桁とかだろうけどウマ娘の能力を舐めてはいけない、スタート直後の差は10メートル近い最後方となった。

 和気藹々、なんて思っていた自分が甘かった。まだトレーナーも付いていない者同士ドングリの背比べかも知れないが、来たるべきその時に自らが真っ先に選ばれるため、既に激しい競争は始まっていた。

 気を引き締めて前に注目する。駆け引きとか俺にできるとは思わないが、それでも事前にあれだけ煽りとも取れる期待を向けられていた事実は揺るがない。ドーロの能力は決して低くない、それはこの2日間で俺が一番実感しているし、周りから受ける評価もそうだ。だから、ともかく前方5人に追いつくところから始める。レースは未だ1コーナー中間、まだまだこれから。

 2コーナーに入るところで差し追込の4人に追いついた。先行得意と言っていたプリ子ちゃんはそのさらに前、かなり突出した位置取りでもうすぐ2コーナー出口が近い。直線からは全員総力戦、だからここでこの4人の前には出たい。だけど。

 その4人がほぼ横並びで、目の前に壁を作っていたとしたら。

 

 正直ここまでされるか、という悔しさが湧いた。逆に言えばそれだけ警戒されているということでもある。それはそれで光栄なことだが今ここでやられるのは正直参ってしまう。ともあれコーナー途中で大外から壁を乗り越えるのはいくらなんでもキツすぎる。それに、他人から一目置かれる立場であるなら能力は遜色ないということ。追いかけてくる差し追込の娘たち相手に、ドーロはゴール前でも互角に競えるということだ。だから、今はこの壁の後ろで臥薪嘗胆を決め込むしかない。とりあえずそう腹を据えて4人の直後を追走していく。

 

 2コーナー出口、一足先にコーナーを切り抜けたプリ子ちゃんの蹴り飛ばす砂煙が高く上がる。それを合図に後ろ4人も動き出す。目の前でドッと砂が上がり、それを全身に浴びながら前進する。顔に直撃こそしなかったが吸い込む空気は一気に砂臭くなった。

 さて内から抜けるか外から巻くか、それとも真ん中を突っ切るか、前4人の動きを見ながら追走を続ける。脚はまだまだ余裕あり、負担にならない程度に左右のブレを作って隙間を探す。人数は少ないから突破さえできればあとは最大加速で抜ければOK、そこまで予定を組み立て隙を窺う。

 とにかくプリ子ちゃんには追いつきたい。なぜだかそんな意気だけはある。視界の左をカッ飛んでいく残り800ハロン棒、そこでテトラちゃんが前に出て後ろ3人もやや崩れ、壁が2人並びに小さくなった。

 ここしかなかった。

 脚を一気に入れしんがり外側リアちゃんを最短距離で捕まえて、そのまま回転を上げて抜き去る。完全に正攻法のやり方だが、ドーロの脚は俺の意思通りの働きを見せる。プリ子ちゃんはもう3コーナー入り口目前だ、ここで追いつかなければもう間に合わない!

 それは焦りかそれとも負けず嫌いか、先行する目標に向けて全速の脚。一段と低く、低く跳ぶ。残り600メートルを超え最高速のままアウトからコーナー突入、目指すはプリ子ちゃんのイン側へ。強まる遠心力相手につま先が、くるぶしが、膝が限界を叫ぶ。だが、ここで追いつけなくては。

 

「おおおおおおおおおっ!」

 

 人間、必死になると自然と声が出る。その声に気づいたのだろう、プリ子ちゃんの顔が俺を振り向いて、そしてにやっと笑った。そのまま彼女のスピードが緩んで、そしてあっという間に右側後方へ飛び去った。

 

 なにが起きたか、分からなかった。彼女がわざと力を抜いたようにしか見えなかった。頭の中をクエスチョンマークが埋め尽くさんとした時に、4コーナーの終わりが見えてようやく気がついた。

 

(ああ、スピード緩めなきゃ……。そうか、追い抜く直前が3コーナー終わりだった)

 

 脚から力を抜くとスピードは一気に落ちる。そしてそのままコーナー出口で停まってしまった。溜めていた息が大きく吐き出される。

 

「っひゅ~~~~~~っ。んっかっはっ、はっ、はっ……ごふ」

 

 膝に手を置いて息を整える。口の中がジャリ付いた。

 2班のみんなが歩きでぼちぼちと追い越していくのが分かるが、切れた息がなかなか戻らず前へと踏み出せない。そこへ肩にポンと手が置かれた。

 

「ナイスファイト。トドちゃん」

 

 プリ子ちゃんの声だった。そこにあったのは蔑むような意思ではなく、ただ素直な賛辞。

 

「肩貸しなよ、連れてってあげるよ」

 

 返事のできないまま肩を担がれてコースから出た。通路の両側をクラスメイトが埋める中、2班の待機位置までそのまま歩く。途中出走間際のリズちゃんが心配していたので、にっこりスマイルを返して軽く手を振っておいた。

 待機場所では他の4人が待っていた。みんなが柔らかい表情を見せる様は、さっき紹介を受けた時とまるで同じ。

 

「いやー、一気にぶち抜かれちゃった。トドちゃんはやっぱトドちゃんだわー」

「前より切れ味良くなってない? 誰よ、今なら大スランプだから一泡吹かせられるはずとか言ってたの」

「はいー、それテトラでーす。だってさー、あんな大コケ見せられちゃーそー思うのも無理ないよねー?」

「同意はするけど納得いかないし。ねえトドちゃん、昨日の大コケって演技じゃないんだよね?」

 

 5人の視線が集まった。うぇ、みんなやっぱり真剣になると目力が怖い。半端なく気圧されながらもどうにかこうにか答えた。

 

「あの、昨日のは演技なんかじゃないです。

 ……本当に本気でゲートが怖くて……。今日はゲートがなかったから大丈夫でしたけど、……あったらおそらく走れませんでした」

 

 俺に集まった10の瞳が点になった。

 




次回、凛と響く。


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Ondargento

リズちゃんのカラー絵を描きました。目次の方に貼り付けてます。前描いたのは一旦下げてます。ドーロちゃんとルジェさんは……もうちょっと待って。


 

「どうしたって言うのさ、トドちゃんゲートは得意中の得意だったはずだよね?」

 

 俺のゲート難は本気の本物だと彼女たちに伝えたとたん、プリ子ちゃんの不思議そうな声が返ってきた。他の4人も驚きから腑に落ちないと言いたげな表情に変わってこちらを覗き込む。

 

「……どうして、っていうのは自分でも分からないんです。とにかくゲートを見ただけでも心の底の方から恐怖が湧いてくるというか。

 ……前は得意な方だったっていうのはリズちゃんからも聞いてます。でも、ダメなんですよ、今はもう」

 

 俺だってあんな恐慌状態は二度と経験したくない。でも原因が分からない今その治し方も分からないし、治らなければレースに出ることだって適わない。

 あの時の様子を思い出すと今でも冷や汗が出るほどだが、俯いてなんとか堪えている。

 

「……その表情から察するに、なんかとんでもなく重い話になりそうだね……、拙いこと訊いちまったか」

 

 まさにプリ子ちゃんが今指摘した通りで、この件は暗い話にしかなりようがなかった。2班の全員が重苦しい空気に包まれる――

 

「ドーロちゃんのゲート難はきっと治りますよ。いえ、治してみせるんです」

 

 6人が一様に沈みきろうとしたその時、凛とした声が響く。俺も2班の皆もその出所に顔を向けた。

 

「オ、オンダルジェント……先輩……?」

 

 そこには普段とは少し違う引き締まった表情でこちらを見つめるルジェさんの姿があった。そして意外なことにプリ子ちゃんの態度にどこか(うやうや)しさが現れる。

 

「……ルジェさん」

 

 そう呟いた俺の顔を見るなり、ルジェさんの表情がいつもの柔らかさに戻った。

 

「遅くなっちゃいました。ごめんなさいねドーロちゃん」

 

 両手を顔の前で合わせてごめんねのポーズ。さっき一瞬とはいえ厳しい表情を見せていたのと同じ人とは思えない可愛さをふりまいて、その瞳は俺だけを捉えて2班の輪に加わった。

 ルジェさんが俺の隣に立つ。彼女の探る左手がそっと俺の右手を握ってきた。温かいそれが、ざわついていた心を徐々に落ち着けていく。……いや、それはすごくありがたいのだがルジェさん、人前でラヴを隠そうともしないのはどうしてですかね?

 

 どうやら2班の皆も異変に気がついたらしく、俺とルジェさんの絡まった手元に視線が集まっているのが分かる。そして一番の挙動不審に陥っていたのがプリ子ちゃんだった。

 彼女の顔は火が出そうに真っ赤だ。

 

「あっ、あっ、あのっ、先輩ッ!

 先輩はっ!……その……トド…じゃなかった…ヴェントドーロっさんとっ、い、いったいどんなご関係で!?」

 

 直立不動のまままくし立てるプリ子ちゃん。その姿は明らかに動揺していて、なおかつ俺とルジェさんの関係を盛大に勘違いしてるというか、疑っているというか。

 俺とルジェさんは寮で同室、ご飯とお風呂をご一緒するだけの仲だぞ? ……って、あれ、自分で言っていてちょっとこれは既に一線越えつつあるのでは? でもご飯とお風呂はリズちゃんもいるからセーフだよな、多分。

 というか今はまだ授業中だ。ルジェさんは部外者だしプリ子は大声を出してしまったものだから、騒ぎに気づいた2班以外の生徒と副教官が何事かとこちらを注視し始めてしまった。さらに悪いことに授業の主任教官が騒ぎを聞きつけこちらに向かってくる。

 

「そこ! なにを騒いでいますか!」

 

 怒気をはらんだ教官の大声には鍛えられたウマ娘から発せられる威圧がそのまま乗っているのか、俺たち2班はおろか教官との間にいた他の生徒達の身すら縮こまらせる。皆一様に耳をすぼめてしっぽを巻き込み嵐が過ぎ去るのを待つ中、ルジェさんだけは耳をピンと立て、泰然として構えたままいた。

 

「あなたは……オンダルジェントではないですか。2年生のあなたがどうしてここにいるのです」

「はい、ヴェントドーロさんの様子を見に来ました。昨日あのようなことがあったばかりですので」

「なるほど。それは殊勝なことですが、この時間あなたはチーム練習中では?」

「練習は休憩中なんです。ヴェントドーロさんの様子も見る限り大丈夫なようですから、すぐに退去いたしますので」

 

 ルジェさんがそこまで話すと、教官は授業の妨げにはならないようにと一言残し、踵を返して指導席に戻っていく。やれやれと胸をなで下ろす2班の面々だったが、一人まだ納得できてない人がいた。プリ子ちゃんだ。

 いつの間にか俺に目線が向けられていた。そしてかなりの敵意も。その様子に気がついたトスたんが、そっと俺に耳打ちしてきた。

 

「プリ子はさぁ、そこのオンダルジェント先輩を密かにお慕いしてるのさ。同じ高等部入学組で同じティアラ路線、そして中等部入学組の強い連中と肩を並べてティアラを争ってる。だからね」

「それが私に敵意を向けてくるのとどう関係が?」

「鈍いねぇ。そんな先輩に対してアンタが急接近してるわけだろ今。だからさ、嫉妬よ嫉妬」

 

 トスたんはそう言うが、どちらかと言えば急接近しているのはルジェさんの方だと思う。しかしとてもじゃないがそんな事を今ここで口走るわけにもいかず、俺はただ沈黙を守ってプリ子ちゃんの怨嗟を一身に浴びるしかなかった。まだルジェさんがこの場にいるから彼女が飛びかかってきたりしないだけだろうが、正直この状況は辛すぎる。

 するとプリ子ちゃんは俺を睨め付けたまま、ゆらり一歩、二歩とこちらに向かって歩みを進めて来る。そしてついに鼻先が触れ合うほどの近さで対峙した。まだルジェさんが俺の隣にいるのだが、それはもうこの際どうでも良いらしい。

 

「トド、アタシと勝負しな」

 

 ある程度予想はできていたが、なにもそんな事を今ここで言い出さなくて良いんじゃなかろうか。

 今のセリフはルジェさんにも聞こえていたはずで、何か反応はあるのかなと隣にいる彼女をちらっと窺い見てみたが、ニコニコといつもの微笑みを返すばかりだった。

 

 そうでした、ルジェさんはこう見えても結構脳筋なのだ。だから走って解決しよう(要約)というプリ子ちゃんの今回の申し出、ルジェさんからすれば至極当たり前の展開ではある。

 こうして誰も止めてくれないことが確定したので、俺とプリ子ちゃんの第2ラウンドはつつがなく執り行われることになった。……いや今授業中なんだけど、勝手にそんな事していいの?

 




次回、死力の果て。


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雌雄

お盆休みも昨日で終わって今日から通常営業。今年も5連休戴きましたけど、なんかチャンミ育成しかやってなかったような……(執筆もしてたよ! 絵もラフだけど久しぶりに描いたしね)

もしかするとプリ子の口調が合ってないかも。見逃していただけると幸い。


 

「まぁ一応授業中ではあるからな、レースの距離とかはそれに倣うことにする。ゴールラインは3コーナー出口の400ハロン棒な。但しそこまではアタシとアンタのタイマン勝負だ。スタートからゴールまで全力で頼むわ」

「プリ子ー、うちら後方組はどうしたら良いのさー?」

「あァ? 悪いが今回は後方待機で頼むわ。そりゃ最終局面で絡んできてもらっても構わねえけどさ、トドとアタシに追いつければの話だけどな?」

 

 打ち合わせというほどでもない打ち合わせが終わって、また先ほどと同じように枠順をじゃんけんで決める。今回は1枠にプリ子ちゃん、5枠に俺となった。そしていよいよ2班の走行順が回ってくる。

 

「ドーロちゃん、いいですか?」

 

 それまで静かに様子を見ているだけだったルジェさんから声が掛かった。

 

「わたしはドーロちゃんが負けるとは欠片も思っていませんけれど、一つだけ。1200メートルもない短距離ですから、スタートが遅れたら取り返すのは大変です。だから集中して、前だけを見て。

 わたしはいつだってドーロちゃんの味方ですからね。気負いすぎずに今出せる全てを出したら、あなたは勝ちます、きっと」

 

 ポンと背中を軽く押されて、俺はスタートラインに並ぶ。

 

 ダートを掻き、足場を固める。視線は最短ルートを示す、第1コーナー。聴覚を研ぎ澄まし、集中を高める。世界の音が、薄れる。かすかに漏れる副教官の呼吸だけを捉え、発せられるスタートの息、今。

 

 今できる最高の飛び出しをこなせた手応えはあった。スターターとの呼吸も多分合った。プリ子ちゃんの出足は気になるが、今は自分の走りに集中する方が先だ。

 1コーナーの角に向かって一直線、遮二無二脚を回転させる。1400のハロン棒を突き抜けて間もなくコーナー、そこでようやく視線を左に寄せた。

 

 隣に、真横に、鬼の形相で走るプリ子()がいた。

 

 そのまま並んでコーナーに入る。前に行かせたら俺の負けが確定してしまう。プリ子より半歩でも前へ出るべく脚に力をさらに込めて回転させる。今日3度目となる本気の走りで既に疲れはピークに近いが、それでもやらねばならなかった。しかしなかなか前に出られない。確定的なリードは得られず一進一退の攻防が続く。

 2コーナーに入っても横並びのまま駆ける。膠着状態の二人、お互いに全く譲らないまま全速で駆け続けついに直線へと躍り出た。スタートから既に600メートル、ここまで全力を維持したまま駆けてきた。正直なところ既に息が上がって意地だけで前に進む力を維持しているが、隣を走るプリ子もそれは似たようなものなのか、彼女の表情には俺と同様焦燥感溢れた疲れが見て取れる。

 無理もない、お互いにこのコースをもう何周かしている。俺はこれで全力の3回目、彼女は何回走ったのか知らないが午後になってずっと走っていたはずだ。

 800のハロン棒を通過。脚は回しているはずだが、さっき走った時のように後ろへ飛び去っていく速さは見えない。それでもプリ子が相変わらず俺の横にいるということは、つまり二人とも既に一杯一杯だった。客観的にはまだまだ結構なスピードが出ているであろう辺り、お互いさすがはウマ娘と言えそうだが、3コーナーに至ってついに変化が訪れる。

 

 後方から複数の足音が響いてくる。

 気配に気づいて二人同時に振り返る。すぐ背後に後方組4人が団子になって猛追していた。

 

 このままでは彼女たちが先着してしまう。

 

 既に上がらなくなった脚に活を入れて無理矢理前に出ようともがく。プリ子も同じで必死に脚を漕ぐが、お互い速度は全く乗らない。既に酸素不足で意識も怪しくなってきた中、狭まる視界に400のハロン棒が映る。そこで気が抜けたのか彼女がズルッと後方に下がり、勝負ありと思った束の間、外から赤い髪が一気に捲って先頭を駆け抜けた。続く3人にも相次いで追い抜かれ、そこで脚が続かなくなった俺は身を投げ出すようにダートを転がった。

 

 §

 

 気が付くと白い天井だった。目の焦点が合わないせいではっきりとは分からないが、見覚えのあるような、ないような天井。そして目の前にはルジェさんの悲しそうな表情と、これまた今にも泣き出しそうなリズちゃんの顔が頭を突き合わせた格好で並んでいた。

 

「気がついた?」

「目は開きましたね。ドーロちゃん、聞こえていますか?」

 

 ルジェさんの問いかけに肯定を返すべく、ゆっくりと1回瞬きをする。顔に温かい水滴がポタポタッと落ちた。

 

「ドーロちゃん……、無茶、しすぎだよ」

 

 リズちゃんはまだ何か言いたげだったが、それきり口を(つぐ)んでしまった。だがその表情は悲しみと嬉しさが混ざって、とても苦しそうに見えた。対するルジェさんの表情もまた、苦い。

 どうやらまたベッドの上らしかった。徐々に視力が戻ってきて周りの物もはっきりと見えるようになると、今度こそ見覚えのある天井。ここは間違いなく医務室の病室だ。横たわった俺を左右から覗き込むように二人が付き添っていてくれた。

 

「……すみません。また転んだんですね、私」

「……謝らなければならないのはわたしの方ですよ。わたしがレースの直前にあんなことを言って煽らなければ」

 

 努めて抑制した声と苦悩を額に刻み耳を大きく下げる様子から、静かな猛りを隠せていないルジェさんの自責の念が痛いほど伝わってくる。でも勝負に乗ってしまったのは俺の責任。決してルジェさんのせいではない。

 

「……ルジェさん、それは違います。プリ子ちゃんの挑発に乗って勝負を受けてしまった私が先ですから。ルジェさんはそんな私にアドバイスをくれた……、ただ、それだけなんです。

 あのアドバイスは嬉しかったですよ。あれがあったから頑張れたようなものです」

 

 そう伝えて薄く笑みを浮かべてみたが、却ってそれが心の重石となってしまったのか、彼女は俺から顔を背けてしまった。

 

 3人沈黙する時間が束の間、流れた。

 その沈黙を破ったのは病室のドアが開く音。カーテンで遮られていて見えないが、誰が入ってきたのかはすぐに知れた。

 

「ドーロさん? 大丈夫ですか?」

 

 織田先生の声がした。

 




次回、抱っこは回避。


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闘い終わって日が暮れて

プリ子カワイソース……。

好評価をまた戴きました。ありがとうございます。なんとか2日更新ペースを維持していますが、また辛くなるかも……一応2話分くらいのストックを維持できてはいるのですが。


 

 織田先生を前にして、今日もお騒がせしてすみませんと頭を下げた。先生は笑っていたけれど、わずか2日の間に2度も3度もここを利用する生徒はそうはいないだろう。

 こちら3人の沈み方とは対照的に、明るい雰囲気の先生から当時の状況を聞かされた。プリ子ちゃんとの競走、ゴールに設定していた400ハロン棒を過ぎてすぐに俺は足をもつれさせ、走っていたスピードのままダートに転がったという。

 自分で思っていた以上にスピードは落ちてしまっており、ゴロゴロと勢いよく転がった訳ではなかったそうで、コロンと1回転余りしただけだったらしい。なので目立ったケガはしておらず体力枯渇による一時的な意識不明という診断を受け、病室で回復を待っていたのが現在の状況だった。ただ、既に脚の筋肉痛が酷くはある。

 

「脚の方は筋肉痛ですね。普通に走れるようになったと言って急に使いすぎましたね。2日くらいは激しい運動を避けるようにして下さい。あとあまり揉まない方が良いでしょうね、揉み返しで余計痛むと思うので。

 それからお薬も出しておきますよ。湿布と塗り薬、どちらがいいですか?」

「湿布はちょっと……目立つので止めておきます」

「では塗り薬で。塗りやすいスチックにしておきますね……そうそう、話は変わりますが、今日抱えてきてくれたのはリズさんでしたね」

 

 は?

 いやそんな情報必要ですか? あ、リズちゃんのてっぺんから湯気が立ってる。

 

「そういえばプリ子ちゃんはどうなったんでしょう? 一緒に競走していたレプリケーションさんは?」

 

 これにはルジェさんが答えてくれた。

 

「レプリケーションさんの方も体力を使い果たしていましたよ。でも彼女は転んでもいませんでしたし、普通に走り終えたようですね」

 

 静かに坦々と答えるルジェさんの表情が今まで見たことのないくらい塩だ。おまけに刺さるくらい冷たい波動が漏れている気配がする。これは憧れの人相手にプリ子ちゃんが大いにやらかしてしまった感が半端ない。心の中でプリ子ちゃんに合掌していたら、織田先生から帰宅許可をいただいた。

 

「無事意識も戻られましたし、筋肉疲労以外には特に問題はなさそうですので今日は帰寮してもらっても大丈夫ですよ。お薬はナースステーションに用意してもらっていますから、帰りに受け取っていって下さいね」

「ありがとうございます。昨日今日と重ね重ねご迷惑おかけしました」

 

 俺がベッドの上で上体だけ起こした姿で再び頭を深々と下げると、先生はお礼なんて良いんですよといつもの調子を見せた。

 

 §

 

「……いたた……、腿上げすぎると結構痛みます……、いたっ」

「リズが支えようか?」

「いえそこまでは。大丈夫ですよ」

「それともまたわたしが抱っこしていきましょうか?」

「いやっ、ルジェさんほんとそれだけは勘弁して下さい」

 

 外はまだ明るい時間帯だった、とはいえ授業はとっくに終わっている時間。例によってルジェさんの練習は大丈夫だったのか尋ねてみると。

 

「ドーロちゃんより大事なことなんてありませんから」

 

 あ……ハイ、尋ねるだけムダでしたね。

 ……ホントに大丈夫なのかな??

 

 よくよく話を聞いてみると、年間予定としてはオークスが終わったところ。次の目標レースは9月頭まで間が開くそうで、7月からの2カ月間は夏合宿があるけれど、6月頭のこの時期はややゆったりとしたスケジュールなのだそう。

 

「シニア級を走る方々はもうすぐ宝塚記念ですから、追い込みの真っ最中ですけれど」

 

 そう静かに話すルジェさんの横顔は、なにか遠くを見ているようなそんな顔つきだった。

 

 寮へ戻る前に、リズちゃんの案内で運動系教官室に立ち寄った。先ほどの授業で主任教官だった先生から事情聴取を受けなければならないらしい。

 

「失礼します。高等部1年E2組のヴェントドーロです」

 

 すっかり慣れた教官室、そしていつもの位置から茶色のウマ耳がぴょこんと出迎える。昨日今日とお世話になった教官だ。

 よくお世話になるからそろそろ名前を確認しといた方が良いのかも知れない。

 

「来たわね。ヴェントドーロ、ケガはどうでしたか?」

「筋肉疲労はかなり残っていますが、ケガはなく大丈夫と織田先生が」

「そう、それなら良かったわ。こっちの相談室に来てもらえるかしら? 付き添いの二人も入ってちょうだい。先ほどの経緯を聞くわ」

 

 コンクリートの壁に囲まれた6畳ほどの個室に通された。ドアもしっかりと厚みがあって、閉めると耳が少し圧迫感を感じるくらいに音が遮断されていた。

 

「あら? 耳が少し絞られてきているわね。なにか恐れている?」

「いえそんなことは。この部屋がすごく静かだから、ですかね」

「ああ、この部屋は相談室ですからね。ウマ娘の聴力だとパーティション程度では聞かれてしまうので」

 

 気づかないうち耳に力が入っていたらしい。両手を添えて耳を揉みほぐす。

 

「面白いことをするわね。耳を手で揉むなんて」

「思うように動かないことがあってですね……あれこれ忘れていることが多すぎなんです」

「そう……まだまだ大変そうね。まあそちらに3人、座ってちょうだい」

 

 聴取の内容は、最後のトラック練習が始まる前に何が起きていたか、に絞られた。リズちゃんはその時俺の位置からは離れていて顛末を知らない。俺は当事者で、ルジェさんはちょうど隣にいたので一部始終を伝えることになった。

 

「つまり、レプリケーションが急に勝負を持ちかけてきたということね?」

「はい、勝負は400のハロン棒までの1200メートルと言っていました。でもすぐ直前まで彼女のドーロちゃんに対する態度は、どちらかと言えば好意的であったように思えたのですが」

「なにか変わった様子とか、あった?」

「生徒が騒いだので先生が注意をしに来ましたよね? あの騒ぎの発端がレプリケーションさんでした。わたしに対する問いかけでしたが……その……あまりにも大声で急でしたので、それで近くにいた生徒が驚いて騒いだのです」

「なるほど……。その、問いかけの内容は覚えていますか?」

 

 ルジェさんがそこで言い淀む。自身の事だけに話しづらそうだ。

 

「あの、それについては私が良いですか?」

「良いわよヴェントドーロ」

「あの時のプリ子ちゃんが問いかけた内容は、ルジェ先輩と私の関係性についてでした。『どういうご関係ですか?』と、それだけではありましたけど。ただルジェ先輩が言われた通り、かなり大声でしたので」

「急に大声が出たので周囲が驚いてざわついたということ?」

「そうですね。なにか思い詰めたような雰囲気もあったので、それが周りに伝わったのかも知れません」

 

 さすがにトスたんに耳打ちされた内容をここで話すことはできなかった。既にルジェさんはプリ子に敵意を抱いているのは間違いなく、それをここで出せば火に油を注ぐ結果になりそうだった。

 だからそれ以上ここで話す内容はなくなって、事情聴取は終わりを迎えた。

 




次回、ウマ娘の義務。


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ウマ娘にお風呂は義務です

感想戴いております。お返事できてませんけどきちんと読んでいますよ。カラメマシは結構ドカンと来ますね。
リッキーちゃんお迎えできました。やはり必要なのは不退転の決意だったよ。そんなことは17年前アリンに惚れた時に分かっていたはずだったのですが。


 

 長い一日が終わってようやく帰寮の途に就いた。

 正直身も心もクタクタなのだがそれはまだ良い。それはまだ良いのだが、波瀾万丈すぎてもうこれ以上大変な日は来ないだろうと思ってた昨日の自分を責めたい。2日目は初日以上に大変になるとか普通思わないよなあ。なにより想定外だったのは2日連続で医務室のお世話になったこと。おかげで看護師さんたちにも顔をしっかり覚えられてしまったような気がする。明日からはお世話にならないようにしたい、とは思うもののこればっかりは何が起こるか分からないし。せめてこれ以上ケガのないように過ごしたいものだ。本気で。

 二人に両脇から支えられるように歩を進めながらそんな事をつらつらと思ったりしていたら、いつの間にか寮の昇降口に到着していた。

 

「それじゃ大浴場で集合だね。ドーロちゃん、ルジェ先輩、またあとでね」

 

 寮の昇降口で別れてリズちゃんは自室へと急いで行った。俺たちも自室へと向かう。

 学校の荷物を片付けて、お風呂セットの用意をする。

 

「ルジェさん、お風呂上がりは何を着たら良いでしょうか?」

「今日は晩ご飯の前にお風呂へ入りますからねえ。お風呂上がりは汗も残りますし、部屋着で良いと思いますよ」

「昨日少し気になっていたんですけど、寮にいる時の衣服になにか決まり事とかあるんですか?」

「いいえ、特に決まりはありませんよ。でも学園で寮以外の敷地に入る時は決まりがありますねえ。そこでは制服か指定のジャージか体操服、もしくは勝負服を着る決まりですから」

「ということは、学園の敷地に出向く予定のないときは何を着ていても良いと?」

「そういうことになりますね。でも学園の外に外出するときにも制服を着て出かける人は多いです。レース観戦や参加で移動する時は制服指定が決まりですし、決まりはなくても近所に買い物に行くときとか。

 トレセン生は制服が身分証明みたいな部分はありますから。着ていた方が色々便利といいますか、お得な場面が多いといいますか」

「そういうものなんですね。制服が身分証の代わりですか……」

 

 確かにこんな特徴のある外観を持った制服なんて、他にあるとは思えない。

 有り余るパワーを受け止めつつ走る妨げをしないしなやかな生地、お腹いっぱい食べてもはち切れない伸縮性、それでいてウマ娘の可愛さを十二分に表現するための配色や小物パーツの見え方にまでこだわったデザイン。ハンガーに掛けた自分の制服を改めてしげしげと観察してみると、ウマ娘の存在も不思議だが、それに負けず劣らずこの制服も相当に不思議なシロモノだと思えてくる。

 

「そろそろ行きましょうかあ」

 

 ルジェさんに促されて大浴場へ向かう。かなり傾いてきたとはいえまだ陽の残る時間帯、授業は終わっても生徒の多くはまだまだトレーニング中のせいか、更衣室はガラガラに空いていた。

 

「さすがにまだガラガラですね」

「そうですねえ」

 

「あっドーロちゃん、ルジェ先輩、こっちだよ」

 

 リズちゃんが先に来ていた。

 3人並んで砂で汚れたジャージ、体操服、下着と順番に脱いでいって、浴室に入る準備を万端整える。昨日から脱衣所、更衣室、寮室と何回も人前で服の脱ぎ着をしているので、早くも裸に対する抵抗感がなくなっている。そうでなくてもトレセン生は忙しいのだ、いちいちい恥ずかしがっていては詰まりに詰まったスケジュールが進まない。

 服を脱ぐとき何気なくしっぽが体の前に回り込んだ。なんとなく昨日よりも毛がキラキラしているような?

 その様子が気になったので回したしっぽを手に持って顔に近づける。

 

「しっぽの毛になにかキラキラした物が?」

 

 キラキラを摘まむように指をしっぽの上で滑らせる。指を開いて見てみると、キラキラは細かな砂粒だった。

 

「ダートの砂粒ですよそれ。あんまり強く摘まんで引っ張ると、毛が傷んでしまいますねえ」

「今日は午後の間中コースに出てたし、ドーロちゃんお砂思いっきり被ってたもんね。しっぽもだけど、髪も肌も砂まみれだからしっかり流しておかないとダメだよ?」

 

 言われてみれば顔も腕もなんとなくざらついた感じだ。見ると腕の肌にもキラキラがこびり付いていた。

 これは毎日きちんとお風呂に入らないといけないヤツだ。

 

「外での活動が多いですからねえ。あっという間にあちこち砂埃まみれになってしまいます」

「砂汚れが残ってると、そこから毛玉ができちゃったりするんだよ。毛玉の処理を後からするのは大変だから、ならないようにする方が大事だね」

 

 そんな感じで始まった今日のお風呂タイム。最初に手を付けたのはしっぽの櫛梳きだった。もちろん自分でやるのではなく、ルジェさんがご自慢の櫛を持ち出して丁寧にしっぽの先から解してくれる。時々軽く引っかかっては引っ張られる感覚はするものの、ほとんど汚れていないのか、それともルジェさんの手さばきが上手なのか痛みを感じる瞬間はなかった。

 

「そう言えばですよルジェさん」

「どうしました? ドーロちゃん」

「昨日もこんな風に洗いっこしていましたし、周りでお風呂に入っていた他の子も洗いっこしていましたよね。ウマ娘って洗いっこが好きなんでしょうか?」

「そうですねえ。言われてみれば今までお風呂に一人で入った事は数えるほどしかなかったかも知れません」

「そうなんですか……、あれ? 実家ではどうしていたんです?」

「自宅にいるときは母親とか妹と一緒に入りますよ。小さい頃から母と一緒に入るのが普通でしたから、妹とも自然に……。誰かと一緒を特に疑問に思ったことはないですねえ」

「ウマ娘が他の娘のしっぽを洗ったりするのは親愛の表れだって、リズは昔、ママから聞いたことがあるよ」

「ああ、確かにそうかも知れませんねえ。それなりに好いている方相手でないと、しようという気にはなりませんし」

「……そういうものなんですね」

 

 結論としては、ウマ娘は洗いっこをするものらしい。むしろ洗いっこをさせて下さいレベルになることもあるそうだ。翻って自分にそこまでの気持ちが芽生えているかといえば……、まだお返しにやってあげるレベルを脱していないような気がした。

 いや、ルジェさんのこともリズちゃんのことも好きには違いないのだが。そういう根底の部分で俺はウマ娘ではないように感じる。今後時間が経つにつれて変わっていくのだろうとは思うが。

 

 ルジェさんの櫛が徐々に尻尾の付け根の方に近づいてきた。今まではしっぽの毛だけの部分を梳いてもらっていたが、いよいよしっぽ本体のある部分にまで届きつつある。そのせいか昨日感じていたようなむずむずした感じが背中を伝って頭に届くようになってきた。このまま進むとまたまずいのでは?

 




次回、限界に挑む。


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櫛梳き

話がまだ2日目途中なのホントどうにかしたいと思いつつ。でもお風呂と食事は外してはいけないと心の中の誰かが叫ぶんです。


 

 まずい、マズイ、拙い。

 なんとなく嫌な予感がする。昨日はされるがままになるしかなくて、結果かなりの痴態を曝してしまったわけだが今日は違う。しっぽはもう自在に動く。ルジェさんの櫛梳きから逃れるのは容易(たやす)いだろう。

 だがウマ娘は洗いっこするものという先の会話と、今も思い出す昨日のルジェさんがなにかに耐えていた様子。あとドーロは元々しっぽが敏感だったというルジェさんの発言。しっぽ洗いが苦手であっても耐えなければならない、そんな強迫観念が頭をよぎる。

 

 さり……さり……と毛を梳く音と共に、櫛先がしっぽの皮膚に当たる感覚。それはやっぱり鋭く脳天を突いてくる。けれど逃げ出すことはせず、昨日と同じくされるがままになってしまった。違うのはその感覚がまだ耐えられる範囲で収まっているということ。とはいえ気を抜けばやっぱり同じ結末が待っているのは確実で、今日もそのなんとも言えない感覚に対して俺は全身全霊で耐えている。耳には力が入りまくって絞りきっているのが分かるし、しっぽの方も細かく震えている。そしてなお拙いことにこの後本番のシャンプーがまだ待っているのだ。

 

 そのうちに櫛梳きが終わった。なんとか耐えきったと安堵したのも束の間、今度は俺がルジェさんのしっぽを梳く番だ。リズちゃんのしっぽはルジェさんが梳くことになった。二人とも俺のように砂を被ったりはしていないそうなので、軽くで大丈夫だと思いますよ、とはルジェさんの弁だったが。

 櫛梳きですっかり荒れてしまった息をゆっくり整えながら、こちらもまたゆっくりと、ルジェさんの銀に輝くしっぽを梳いていく。あらかじめ言われていた通り、砂っ気は感じられなかった。でもその代わり青みのある銀色に輝く毛並みが昨日にも増して美しい。先端の方から、徐々に付け根へ。梳き櫛は抵抗感のないまま滑っていく。3人とも無言のまま櫛梳きタイムは続くが、先ほどから俺のしっぽも誰かにいじられている感触がある。視線をずらすとリズちゃんがしっぽの先の毛で遊んでいた。

 少し手を止めてしっぽを軽くふわん、ふわんと動かしてみる。リズちゃんがその動きに合わせて手を伸ばして捕まえに行く。その動きも表情もすごくかわいい。なんかこう、小動物的なかわいさというやつ? そのうちに両手でしっぽをハシッと捕まえられてしまう。少しジタジタと動かして脱出を図ってみたが放してくれないので、俺はルジェさんのしっぽに再び集中する。

 櫛が付け根に近づいた。それまでほとんど動きのなかったしっぽがピクッと震える。やっぱりルジェさんも敏感だ。櫛通りは相変わらず滑らかなので、なるべく刺激を与えないように軽く梳いていく。そのまま付け根まで梳き終わったので声を掛けると、それはするりと俺の手を離れて行った。

 

 そこから後は昨日と同じく頭の方から順番に洗っていく。

 

「耳は前に倒すのが良いんですか、それとも後ろに絞ります?」

「そこは横ですよねえ。リズちゃんはどうですか?」

「リズは前かな。あっ、でも前の方洗う時は後ろに絞るよね」

「だそうですよ」

 

 要は耳にお湯が入らなければなんでも良いらしい。

 耳を前、横、後ろと倒して頭を洗う。耳の付け根もしっかり洗う。ルジェさんの手が出てこないところ見ると、傍目にも危なげなくできているようだ。

 シャワーで泡を流す。流しながら耳の向きを前横後ろと変えていくが、真っ直ぐ上からシャワーを浴びる分には耳が寝てさえいればどの向きにしてもお湯は入らない。問題は耳自身に隠れてしまう付け根ぐらいだろうか。その耳の付け根を流すのはどうしたら良いか正解が分からなかったので、まだ髪を洗っているルジェさんのやり方を見て覚えることにした。

 

 ルジェさんの髪は腰の上ぐらいまで長さがあるので傍目で見ていても洗うのが大変そうだ。シャワーを止めてじーっと見ていたら反対側の隣にいたリズちゃんから声が掛かる。

 

「ドーロちゃん、どうしたの?」

「いえ、耳の付け根をシャワーで流すの、どうやったら良いのかなと」

「あぁそうだね、少し怖いよね。リズはこうやってるんだよ」

 

 そう言って早速実演してくれた。シャワーを右手に持って近くから右耳の周りにお湯を掛けていく。どうしてもお湯が顔に掛かるので右目だけ閉じていたりと少し大変そうだ。耳穴の近くは左手を添えながら髪の間に残る泡をていねいに落としていく。

 

「こんな感じかな。耳の中に泡が残ってるといけないから、最後は濡れタオルで拭き取るんだよ」

 

 ていねいに教えてもらったので見様見真似でとりあえずやってみた。耳の中まで生えている毛のおかげで、少しぐらいシャワーが耳穴の方に掛かっても、奥までお湯が入ってくることはないのが分かる。右の耳、左の耳と交互に手を替えて流していく。だんだんと慣れて来るとギリギリを攻めてみたくもなるもので、いい気になって流していたら何かの拍子にゴバッと水の音がして左耳の音が籠もってしまった。

 

「うえぇ……、やってしまった……」

 

 何事も過ぎたるは及ばざるが如し。ぴぴぴぴっと耳を振ってみるがそんな程度で奥に入ったお湯が飛ぶわけもなく。

 ドライヤーコーナーに綿棒があるからそれで吸い取ると良いよとはリズちゃんから教えてもらったけど、ルジェさんの洗髪がちょうど終わったのでそれも後回し。3人揃って泡モコになって体を洗い終え、いよいよ本日もしっぽ洗いの時間がやってくる。

 

「なんだか緊張します。さっき櫛で梳いてもらってる時もしっぽ本体に触れられると危なかったですから」

「危ないって、昨日みたいなふにゃふにゃになっちゃうって事?」

「……ありのまま言ってしまうと……、そういう事ですね」

 

 リズちゃんのストレートな物言いのせいで俺の方が恥ずかしくなる。あー、昨日の痴態を思い出しただけで妙な気分になりそうだ。

 でもルジェさんもなにかに耐えてるような雰囲気だったし、ウマ娘はみんなしっぽ洗いの時は多かれ少なかれあんな感じになってしまうのかもしれない。

 それに先ほどの櫛梳きではなんとか耐えられた。昨日も最後の方はいじられても平気だったし、強烈に疼くような感覚はもうやってこないのかもと、希望を胸にしてしっぽ洗いに臨んだ。




ストック尽きたので次回予告はありません。


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ちっとも慣れてなんてなかった

ストックのないまま突き進みます。

ドーロちゃんの食べる量を再検討していました。とりあえず多少の齟齬はあったもののおおむね合ってるのでこのまま行くことに。


 

 結論から言おう。さっき『しっぽ洗いはもう大丈夫』なんて言ってた自分がいたな? あれは幻覚だった。

 

 体洗いと同様に泡もこもこで臨んだしっぽ洗い。少し刺さるような感触があった櫛梳きとは違い、ひたすら柔らかく撫でられる感触が続くそれはやっぱり耐えがたかったのだ。しかもだ、昨日のルジェさんよりも今日のリズちゃんの方が……上手い。……なにが、とは申せません、が……ぁ。

 

「や、やっぱり……ダメです……うぅ」

「えっ、逃げちゃダメだよドーロちゃん。まだまだだからねっ、がんばって」

 

 いや、がんばってと言われましても、ですね。その、リズちゃんの指先なんでこんなに絶妙なんだ。……いやっ、まだこれっ、しっぽ本体の先の……ほうっ……なのに。

 

 全身を震わせながら、ジンジンと脳天を、下腹を攻めてくる感覚に耐える。辛うじてしっぽを伸ばしたまま保ってはいるが、身体の方はとっくの昔に逃げだそうと藻掻いてる。それを理性で押さえつけていたのだが、その理性も既に怪しい。

 

「くは……っぁむっ……うぅ……」

 

 お風呂イスの上で身体を折りたたんで感覚に耐える。顔を膝の間に(うず)めて声が漏れないように。

 

「もう少しだからねっ」

 

 リズちゃんが掛けてくれる声がする。その直後にもう一段強い刺激が突き刺さった。

 

「……!

 ……っあ、っは……ぁ……っ!」

 

 意識がホワイトアウトする。全ての感覚が遠くに消え去って、そこにあるのは自らの拍動と呼吸だけ。その韻律もついさっきまでの昂ぶりが幻であるかのように凪ぐ。

 

 そこに再び波を起こしたのはリズちゃんの声だった。

 

「ドーロちゃん、終わったよ。結構辛そうだったけど大丈夫?」

 

 ハッと気がつく。俺は相変わらず膝の間に顔を埋めたままでいた。息はすっかり落ち着いていたが、今一度入れて身体を起こし振り向く。

 少しばかり心配そうな顔を向けたリズちゃんがいた。

 

「もう大丈夫……ですよ」

 

 多分微笑み返すことができた、と思う。息は落ち着いていても身体は大層疲れていて、俺としては微笑んでいたつもりでも、なんとなく身体からのフィードバックがいつもより希薄なせいだ。そのまま視線を落とすとすっかり泡の落とされた俺のしっぽ。リズちゃんの膝の上で伸びているそれを自分の意志を込めてゆるりと巻き取った。

 

§

 

 大きな湯船にどーんと浸かる。俺を真ん中にして右にルジェさん左にリズさん。3人並んで湯船の縁に頭をもたせかけていた。

 

「ん~~~~~~っ。やっぱり広いお風呂は最高です」

 

 両の手を組んでぐいーんと背中を上に伸ばす。

 

「あらあら、昨日はシャワーで良いですか? なんて言っていたのにえらく変わりましたねえ」

「むう。それは言わないで下さいよ」

 

 昨日は恥ずかしさが先に立ってしまって、女の子と一緒にお風呂とかとてもじゃないけど俺の何かが耐えられる気がしなかったが、わずか1日にしてもう馴れてしまった。必要以上に敏感だったしっぽのせいで、なにもかも吹っ飛んでしまったというのが大きいが。

 それにしても、昨日にも増してこのお風呂は心地よい。(ぬる)めのお湯が疲れ切って火照った身体に染みていく。目を瞑ったらそのまま眠ってしまいそうだ。実際先ほどから、二人の会話は聞こえていてもその内容が全然頭に入ってこない。気が抜けたら湯船に沈んでしまいそうだなと思っていたら、いつの間にかそのまま落ちていた。

 

 目覚めるとそこは更衣室だった。視界を時折白い物がゆっくりひらひらと舞って、そのたびに優しい風が頬を撫でていく。

 そのひらひらを目で追いかけていくと透き通るような白い手が現れて、さらにその先には少し赤らめた頬のルジェさんが穏やかな表情を作っていた。ルジェさんの視線は少し先の方にあって、俺が目を開いたのには気づいてない風だ。

 

「あの、ルジェさん?」

 

 声に反応してひらひらがぴたり止まった。それは白い団扇(うちわ)で、その影からルジェさんの微笑みがこちらを窺う。

 

「ああ、ドーロちゃん起きましたかあ」

「あの、私どうなったんですか?」

「湯船で眠っちゃったんですよう。そのまま沈んじゃいそうだったので、リズちゃんと二人で引っ張り起こしてここまで運んできたんです」

 

 ルジェさんの表情はあくまでも柔らかく微笑むだけだったが、昨日今日と何度目かのやらかしに、俺の頬はまたもや火が出そうなくらい熱くなる。

 

「す……すみません。なんかもう何度も何度もやらかしてしまって」

「今日のドーロちゃんは大活躍でしたからねえ。疲れているのですし、これくらいはやらかしなんかじゃありませんよ。

 それにこうやってお世話できるのでわたしは嬉しいんです」

 

 今日何度目かになるルジェさんの優しい笑顔が咲く。菩薩って言葉はきっと彼女のためにあるんだろうなと、その姿はそんなことを思わせてくれる。

 

「顔が火照っていますねえ。まだ暑そうですからもうしばらく(あお)いでおきますねえ」

 

 再び団扇がひらひらと舞い始めた。

 いや、熱くなったのはルジェさんのせいですからね。そう吐き出したい思いをぐっと堪えて、横たわったまま降り注がれるそよ風を堪能する。

 日中の疲れも相まってそのまま蕩けていたら、近づく影がもう一人。

 

「あっ、ドーロちゃん起きたね」

 

 リズちゃんだった。

 横になったまま返事するのも不躾だとは思ったものの、そよそよと絶妙な加減で火照りを冷ましてくれる涼しさには抗えず、転がったままお詫びを口にした。

 

「リズちゃん。またもやお騒がせを……」

「気にしなくていいよ。ドーロちゃんあれだけ頑張ったんだからね」

 

 そう言って見せる笑顔。こちらもまたルジェさんに勝るとも劣らない美しさだ。

 美少女3人、お風呂場の更衣室で湯上がりの一時をまったり過ごしていたら、子犬の鳴き声のような音が響いた。

 

『きゅぅ~ん。きゅるる~ん♪』

 

 ま た あ な た(腹 の 虫) で す か 。

 

 これで6度目になる腹の虫の自己主張。猛獣のように唸る時もあれば、今みたいに甘えた風な声を出すこともある。

 俺自身の意思とはあまり関係ない振る舞いを見せるそれは、やっぱり別の生き物なんじゃないかと思えたりもする。俺からすれば前触れなく急に割り込んで来られるし、いざ食事となれば身体の主導権を握られてしまうようで恐ろしさを感じる場面もあるわけだが、ルジェさんとリズさんにかかればそんな腹の虫も俺の可愛い一面らしく。

 

「まあ、本人は疲れていてもお腹は元気そうですねえ」

「早く食べたいって甘えてるみたいな声だね」

 

 などと暢気なものだ。

 ともあれ腹の虫が鳴いたら空腹感が湧き出てきた。今晩ももうすぐ夕食の時間が始まる。

 




次回、そのウマ娘の名は。


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美浦寮食リステッド競走 夕餉賞

GIRLS' LEGEND U 完全版がどうしても手に入りません。人類にはまだ過ぎた楽曲なのか?(自分の育成が下手なだけ)


 

「今日はどんなメニューがあるのかな?」

「リズちゃんの好きなものが出ていると良いですねえ」

『ぐきゅるるん。きゅるきゅ』

「まあまあ。ドーロちゃんもメニューが気になりますか? あなたはなんでもよく食べる優等生ですから、今日もたっぷり食べられると良いですねえ」

「いえあのルジェさん、私の腹の虫と会話しないで」

 

 お風呂から上がって一度寮室に戻り荷物を置いた後、再び食堂に繰り出した。

 お腹は数歩歩くたびにぎゅるぎゅるきゅるきゅるとうるさい。

 

 昨日より少し早い時間帯だったが、食堂には既に行列ができていた。昨日は行列なんてなかったはずだ。

 疑問に感じつつ列に並ぼうとすると、既に並んでいた一人が俺に気がついて声を上げた。

 

「……暴食……の、(きみ)……?」

 

 その声がきっかけとなってその場にいたウマ娘全員から視線が集まった。耳を澄ますまでもなく、そこかしこから噂をする声が漏れ聞こえてくる。

 

「ヤッバ、ヴェントドーロ来たよ……」「……うわー、早めに来といて正解だったわー」「後から来た()らはこりゃご愁傷様だねぇ。食べるもの残るかぁ?」「今日は何人前平らげるつもりなんだろ?」「聞いた? 今日のランチタイムも中々のもんだったって」「聞いた聞いた、トレーにうずたかく盛って、目を離した隙に空になってたって」「カフェテリアは食い気全開のがどれだけ来ても大丈夫だって聞いたことはあるけど、ここ寮食だよ? 限界ってあるよね?」「多分対処はしてるんじゃね? 知らんけど」

 

 相変わらず中々の言われようではある。たかだか普通のウマ娘の食事4人前の量食べるだけなのだが。

 

「大丈夫ですよドーロちゃん、昨日のうちに寮食の主任さんにお願いしておきました。すごくたくさん食べる子が一人増えたので、と」

 

 なるほど、普段から寮食の厨房に出入りしているルジェさんならではの解決策だ。でもそこでひとつ気がついた。

 

「今日は料理を作りに行かなくて良いんです?」

 

 そういえばもう夕食時だというのに、ルジェさんは俺と一緒に食べる方に並んでいる。てっきり今日も料理を作りに行くものと思っていたのだが。

 

「寮長さんからお願いされているのは週に1回か2回ぐらいなんです。毎日お手伝いできるほど、わたしも時間があるわけではないですから」

「なるほど。それもそうですよね」

 

 寮食は学園カフェテリアと同じく、専任の調理担当者がいてカフェテリア同等の美味しい食事を提供してくれる。カフェテリアと違って寮のみんなが同じ定食メニューを基本に食べるのだが、その内容は日替わりで飽きることは滅多にないのだとか。

 

「それでも時々生徒が料理を作るんですよね、ルジェさんみたいに。それってどういう意味合いなんですか」

「寮長さんが言うには、寮食の料理が完璧すぎて逆に物足りなくなってくるとか。それからやっぱり家庭料理の味付けじゃないんですよねえ。プロの料理なので安定感はあるのですけれど。整いすぎている、といいますか」

 

 確かに外食は美味しいけれど、メニューが変わっても毎日となると飽きてくるのは確かだ。もちろんカフェテリアも寮食も、ウマ娘の健康に配慮して栄養バランスも味付けも注意が行き届いているので普通の外食とは同じではないそうだが。

 

「それからもうひとつ。生徒の中には料理が趣味だったり、実家でいつも作っていた子がいますから。そういった人たちが腕を鈍らせないために志願してやっているという側面はあるんです」

 

 その視点はルジェさんに言われるまで気がつかなかった。俺は素直に感嘆の意を漏らす。

 

「そう言うわたしもその志願した一人なんですよ、実は」

 

 寮長に調理をお願いされつつ志願もしていたと聞き、昨日のミートボールの味を思い出す。確かに絶妙な火加減でたっぷりと美味しい肉汁を封じ込めたあの大ぶりなミートボール、ルジェさんの料理の腕はかなりのものだと確信できる。そしてそんな想像を巡らせていたら、お腹の虫がグゴゴゴゴと怒りに満ちた叫びを上げた。

 破滅的な鳴き声を辺りに響かせて、そしてその音のせいで他の生徒からは目立って距離を置かれる中、俺たちが料理を取る順番がやって来た。

 

「おや、ルジェントちゃんじゃない。いつも手伝ってくれてありがとうね」

「いえいえ、こちらこそお邪魔ばっかりでえ」

 

 料理を盛り付ける係のお姉さん、というには少々妙齢のヒト女性が親しげにルジェさんへ声を掛けてきた。

 

「この子が昨日言っていたドーロちゃんなんですよう」

「あらあこの金髪の子がそうなのね。スラッとしていて人の何倍も食べる子には見えないわねえ」

「いえいえ、それがそれが。昨日もあれだけ盛り付けたお食事を全部一人であっという間に食べきってしまいましたあ」

「きれいめな子なのに……、人は見かけによらないものよねえ」

 

 どうやらこのお姉さん()がルジェさんの言っていた主任さんのようだが、そのまま世間話モードに突入してしまった。配膳窓口はいくつもあるので列が滞るということはなかったが、話が盛り上がるルジェさんとお姉さんを尻目に、食事を受け取って流れていく他の生徒から受ける好奇の目が痛い。

 リズちゃんは先に食事を受け取って席を探しに行ってしまったし、ルジェさんはこんな調子なので一緒に立っている俺にもなかなか食事がやってこない。ずーっと待てをさせられているような状況に、ついに腹の虫の怒りが頂点に達した。

 

『う゛う゛う゛ぐぎゅるぎゅぎゅごごごぎゅん!』

 

 ひときわ大きく怒気を含んで吠えた腹の虫。その声は寮食一帯に響き渡り、その怒気に当てられたのか騒がしかった寮食中が一瞬で静まりかえる。ある者は料理に目を凝らせたままフリーズし、またある者はこちらに目を奪われたまま顔を歪めていた。

 向き直ると怯えたような表情を見せた主任さんがいた。その後に控えていた別のお姉さんからおずおずと差し出されたのは、食べ物で満載になった二段重ねの特別なトレー。どうやらこれが今夜の夕食らしかった。

 トレーを軽々と抱えてリズちゃんの待つテーブルへと進む。昨日と同じく向かう先へと人垣が割れて行く。

 

 箸を手にいただきますと一拝して、今日も注目を浴びつつ晩ご飯タイムが始まった。

 




次回、レジェンド級。


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呼び出された

この週末はGIRLS' LEGEND U 完全版が出せない出せないと大騒動しておりました。

結局無事に出たんですが、執筆はまったく進まず。次回更新が危ういです。


 

 3日目の朝はなにやら重い感じで目が覚めた。何かが俺の上に乗っている。

 

 部屋の明かりは全て消されているが、小窓から見える外の空はうっすらと明るさを帯びた群青色だ。その色は今がまだ夜明け前な事を教えてくれている。

 またルジェさんがベッドに潜り込んできているのかなと思いつつ視線を下の方に向けるが、乗っかっているのがなんなのか微妙に見ることができない。それではと顔を横に向けて隣のベッドを見やると……

 

(あれ? ルジェさんのベッド、布団が盛り上がってる……)

 

 では、今確かに俺の体の上には結構な重みが掛かっているのだが、その原因はいったい何か?

 ……まぁなんとなく分かってはいるのだが、これがオカルトの類でなければ。

 

 幸いにしてウマ娘のパワーで抱きつかれているわけではなく単に乗っかられていただけだったので、その誰かを起こさないよう慎重に掛け布団から体を引き抜く。さすがに少し動いたので、その時だけはなにやらムニャムニャ寝言を言っていたようだが。

 そしてようやく乗っかっていたモノの全貌が明らかになった。予想通り、リズちゃんだ。だがこれ、実はあんまり良くはないことだ。一昨日の夜に三人で話していて出てきた話では、消灯時間を過ぎてから翌朝の外出可能時間までの間、自室から出ているのは寮則違反になってしまう。この違反にはちゃんと罰則があるので、この事が寮長にでもバレれば騒動になるだろう。だからこそ昨日は朝練前にその外出可能時間まで彼女は自室で待っていた訳なのだが。

 

「どうしたものでしょうか、この状況……」

 

 いつの間にかリズちゃんにベッドの真ん中を占拠され、すっかり寝る場所がなくなってしまった。チェストの上に置いてある目覚まし時計の針はようやく4時半を回ったところで、夏至の近いこの季節でもまだまだ空は暗さが勝っている時間。もちろん寮室から出られるのはあと1時間以上も後だ。

 

 それにしてもなぜリズちゃんがこの部屋で眠っているのか。

 確か昨夜は夕食が終わったあとで3人揃ってこの部屋に集まっていて、いくらか話をしているうちにだんだん眠たくなったのだ。ベッドに腰掛けて話を聞いているところから記憶がないので、多分俺はそこで眠ってしまったのだと思う。

 

「つまり、リズちゃんは私が眠ったあとも自室に戻らなかったということですね」

 

 俺のことを好きなのは良いのだが、規則を破ってまで傍にいようとするのは拙いだろう。とはいえ対するルジェさんの俺への態度も少々、というかかなり熱心ではあるから、そこら辺もリズちゃんが焦る要因なのだろうが。俺としては既にどちらも大切なお友だちで、どちらかに絞れと言われてもすごく困る話ではある。

 

「できれば3人このまま仲良く行けたら一番なんですけどねえ」

 

 床に腰を下ろしてベッドにもたれた。目を閉じて一昨日のこと、昨日のことを思い出しているうち、俺は再び眠りに落ちた。

 

 §

 

「ドーロちゃん、ドーロちゃん。起きて下さいね」

 

 身体を揺すられて目が覚める。ベッドにもたれかかったまま二度寝してしまったようだ。

 

「……あれ? リズちゃんがいない……」

 

 薄目を開けると俺のベッドで眠っていたはずのリズちゃんがいなくなっていた。それに、部屋は既にかなり明るくなっていた。

 

「リズちゃんは自室に戻りましたよお。ドーロちゃんも起きて下さいねえ、もう朝ご飯の時間ですから」

 

 ルジェさんのその言葉に慌てて目覚まし時計を見た。午前7時半。言われる通りの時間になっていた。いっぺんに目が覚めて立ち上がる。

 

「すみませんルジェさん、朝練すっぽかしてしまいました」

「良いんですよ、昨日はすごくお疲れでしたから。それに、もうちゃんと走れるようにもなったんですから焦る必要もなくなりましたし」

 

 朝一番から慈母の笑顔が満開だった。彼女に促されるように俺は身支度を整えて、腹の虫に急かされるように寮食へ向かう。

 寮食では妙にツヤツヤ顔のリズちゃんと、例の2段トレーに山盛りの朝食が待っていた。

 

 §

 

 それは例によっていきなりではあったが、昨日の呼び出しに比べれば穏当にやって来た。

 

「ねえ、このクラスにヴェントドーロって人がいると思うんだけど。どこに座ってるのかな?」

 

 教室の戸口で手近な生徒に声を掛けていたのは背の高めな黒鹿毛のウマ娘。頭に白い小さなシルクハットを乗せていた。

 教室の視線がそのウマ娘に集まって、ざわつきが起こる。

 

 教室の比較的奥に位置する俺の席からも、その様子は良く見えた。隣に来ていたリズちゃんに尋ねる。

 

「私を探しに来てる? あれ、どなたでしょうか?」

「あの人はミスターシービー先輩だよ。クラシック三冠達成した」

「クラシック三冠……けっこう凄い?」

「凄いもなにも、学園が始まって以来3人目って聞いたよ。リズたちよりも大分年上のはずなんだけど、特別にまだここの生徒でいるんだって」

 

 ドーロの記憶があれば他の生徒たち同様に挙動不審になっていたかもしれないが、今の俺ではクラシック三冠と言われてもどうもピンとこない。いや、三冠王って言い方もあるぐらいだからなんとなくすごいとは思えるが。

 そんなことを考えているうちに、そのシービー先輩が俺の前に立った。

 

「やあ、キミがヴェントドーロだね?」

 

 にこやかに笑みを浮かべてはいるが、目は笑っていない。隠しきれないなにかが彼女の瞳の奥で燻っているのを感じる。

 こういう時は、こちらもできるだけ穏当に話を進めるべき、そう心に浮かんでくる。

 彼女の瞳を見上げて、静かに答えた。

 

「はい。私がヴェントドーロですけれど、何かご用でしたか?」

「ウチの会長さんがキミと話をしたいって言うんだ。今から来てもらっても良いかな?」

「……」

「……」

 

 教室は俺のアクションを待ち構えて静まりかえった。そこへ切り込むように言葉を発する。

 

「……分かりました。案内していただけますか?」

「良かった、断られちゃったらどうしようかと思ってたんだよね。それじゃ、ついてきて?」

 

 そう言ってにっこりと笑うと、踵を返し教室の外へと向かうシービー先輩。

 

 続いて立ち上がった俺を心配そうに見るリズちゃんに、大丈夫ですから、と一言残して先輩の後を追う。

 俺の知らない大先輩の登場に未だ静まりかえる教室は、もう遙か後方へと去った。

 




次回、差し向かい


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面談

まさかカイチョーのありがたい締めの一言を頂くためだけにこれだけ時間がかかるとは……。


 

 その部屋は学園の中央棟3階にあった。

 ノックもそこそこにシービー先輩がドアノブに手を掛ける。

 

「やっほールドルフー、おまちかねの彼女、連れてきたよ」

 

 先輩に右手を引かれて部屋に押し込められた。

 その部屋の窓辺に設えられた大きなデスクの向こう、景色が一望できる大きな窓の前に立つ影。

 

「シービー、ドアはノックして欲しいといつも言っているだろう?」

 

 ルドルフと呼ばれたその影から発せられた落ち着いて大人びた声が、俺と先輩を出迎えた。

 

「まあまあ。

 それじゃお使いのお役目は果たしたから、アタシはこれでね」

 

 そう言って先輩はウインクを一つ俺に向けて飛ばすと、あっという間にドアから出て行ってしまった。

 俺は一人取り残されて所在なく立ち(すく)む。

 窓の前に立つルドルフは逆光のせいでよく見えないが、シルエットから俺と同じくらいの背丈を持つウマ娘、髪はロングで、茶系だと分かる。

 

「ようこそヴェントドーロ。今日は急に呼び立てて申し訳なかったね」

「……」

「まあ、立ち話もなんだ。そちらのソファーに腰掛けてくれないか」

 

 彼女は窓辺から動き出し、3人掛けのソファーを俺に勧めてきた。そして自身はテーブルを挟んで俺の正面に座る。

 

「おそらくは初めましてだね、私の名前はシンボリルドルフ。ここトレセン学園の生徒会長を拝命している者だ」

 

 堂々とした態度に柔らかな物腰と礼儀正しい話し方。できるだけソフトな感じを装おうとしているのだが、シービー先輩と同じく内に滾る何かを隠すことができきっていないように感じられた。怒らせると怖そうだなと感じつつ、俺もできるだけ友好的な物腰で対応していく。

 

「そうですね。初めまして、シンボリルドルフ先輩。私は高等部1年E2組のヴェントドーロです。

 ……それで、その生徒会長さんが私にどんなご用なのですか?」

「いや、記憶喪失になってしまって走れなくなってしまったウマ娘がいると噂で聞いてね。それで教務に確認を取ったら君の名前が出てきた、ということだ。急にそんな事態に陥ってしまえば生活することも大変だろう? 生徒会として何かサポートできないものだろうかと考えているのだが、まずは本人の意見を聞くべきだろうと、そういう意図さ」

 

 なるほど、話の筋は分からないでもない。でもなぜ生徒会という生徒全体の利益を追求すべき組織が、俺という一生徒だけに肩入れしようとしているのか。

 

「……あの、どうして私一人にそこまでするのでしょう? 生徒会とは生徒全体の利益を考える組織ではないのですか?」

「……君の言うことは(もっと)もだ、生徒会が公平であるべきだということは理解しているよ。だが私はこうも考えているんだ、一人のウマ娘すら救えずに、ウマ娘誰もが幸福になる世界を作ることなどできないとね」

「ウマ娘誰もが幸福になる。……それはどういう意味なのでしょうか?」

 

 ルドルフはしばらくの間、目を窓に泳がせる。なにやら思案しているようだった。

 

「……言葉通り、の意味なのだがね。不安や悲しみ、怒りなどなく皆が安寧に過ごせるようにということ。

 無論、困難なことだとは重々承知しているよ。幸福の意味や形がそれぞれのウマ娘によって異なることも知悉している。……だが、それでも私はそれを希求して止まないんだ」

 

 それはやたらと崇高な理念だと思った。その一方で誰もが幸福になるなどというのは現実として無理だと思える。だがそれでもやろうとする気概を見せることが、この手の政治的な舞台では意味があるのだろう。

 

「これは単に私の自己満足なのかもしれない。しかし知ってしまった以上は手を差し伸べたいんだ。そんな理由だけでは不足かな?」

 

 おそらく彼女の申し出を今断ったとしても、彼女は他の形で俺への関わりを持とうとするだろう。そしてそれはもっと厄介な事態を招くのかもしれない。あっさりとそう思えるほど、彼女の瞳に宿る情念は強かった。

 

「……分かりました。ですが生徒会長ともあろうあなたが一生徒の私に直接関わるのはやはり少し問題があるのではないかと。

 えこひいきと捉えられてしまってはあなたにも、私にもあまり良い結果をもたらさないのでは?」

「そうだね。それは君の懸念するとおりだ。……ふむ、事は案外と慎重さを要求されるのかもしれないな」

「それに、私は既に学園の中で悪目立ちしています。そこにシンボリルドルフ会長が絡むとなれば、なおさら」

「悪目立ちか……。一体何をしでかしたんだ? 記憶喪失と走行不能になっただけではないのか?」

 

 そこで俺はこの2日で起きたことを簡潔に彼女に伝えた。並外れた大食いの部分ではさすがに驚いた風だったが、思ったよりも平静を保てていたようだ。

 

「つまり走る方についてはもうほぼ問題ないと理解して良いのだね」

「そうですね。人に伍して走ることはできているのでそこは大丈夫かと」

「しかし、ゲート難が酷い、と」

「まだ一度しか試していませんが、その後も記憶のフラッシュバックが起こるほどですから相当悪いのかと。どうすれば治るのか見当が付きません」

「……心の奥底から湧き起こる、抗えないほどの恐怖……か。

 ……わかった。私はそれの改善に力を尽くそう。治療目的とあれば異議を唱える者もいまい。それに君本人の努力だけではどうこうできない事柄のような予感もする」

「ありがとうございます」

 

 ソファーに座ったまま頭を垂れる。話ももうこれで終わりかなと思ったが、会長はまだ何かあるようだ。

 真剣な表情から一転、口元に笑みが含まれた。

 

「……ふふっ、それにしてもオグリキャップの再来とは。

 食べる姿がそれだけ異様だったのだろうし、君がどれほどの実力者として周りの目に映っているか分かるな」

「いえ、実力者だなんて。そんな事はないですよ」

「いやいや、模擬レースでは敵なしだったと耳にしている。君のメイクデビューが今から楽しみだよ。是非とも『行くで! メイクデビュー』と自信を持って臨んでほしいものだね」

「……はあ、できればそうありたいです」

 

 俺が抑えた調子で答えると、会長の目がどことなく寂しげに映った。




次回、伝説の指定席


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トドと呼ばれるのは

本当ならまたお昼ご飯を食べに行くところだったんですけどね。その前にちょっとリズちゃんとお話ししてたら妙に長くなってしまった……。



 

 最後に生徒会長が見せた寂しげな表情を気にしつつ、生徒会室から辞去した。来た時と同じように静かに走って自分の教室へ。当然まだ授業中で、俺は後ろ扉からこっそりと席に戻りたかったのだが。

 

「ヴェントドーロさん、授業が終わったら事情を」

「はい、わかりました……」

 

 まあ普通に先生に見つかるわけで。

 

 授業が終わってから改めて、帰り際の先生に呼ばれて教壇へと上がる。正直に生徒会長に呼ばれた事を話したら、何のお咎めもなく即刻解放された。というか生徒会長だから仕方ない、みたいな言われ方をしたのには内心驚く。おかげで面倒なことにはならずに済んだとはいえ、生徒会長の立場が学園の中では相当高い、もしかすると先生よりも高い位置づけなのかもと思えた。

 

「ドーロちゃん、生徒会長さんに呼ばれて何話してきたの?」

 

 リズちゃんが傍に寄ってきた。

 

「記憶喪失のこととか、走れるようになったこととか。あと、ゲート難のことですね。

 現状の確認がしたかったみたいです」

「そうなんだ。ドーロちゃんのこと、もう会長さんにまで伝わってるんだね」

「一昨日のうちから聞こえていたみたいですよ? それで色々と調べていたらしいです」

 

 あまりに早い噂話の伝わり具合に、リズちゃんも少々驚き気味だ。

 

「会長さんってあのシンボリルドルフさんだよね?

 入学式の時にお話ししてたの見たぐらいだけど、なんだか怖そうな人だなぁって。ドーロちゃん、怖くなかった?」

「最初は……少し。でも話してみたら怖いというよりも全てに真面目で、どうしても硬い話し方になってしまうようです。

 あと、生徒会長をするぐらいだからレースも強いんでしょうけれど、そのせいか気迫が常に漏れていると言いますか。多分そのせいで恐ろしく感じてしまうのかと」

「うーん、強いのは強いよね。無敗でクラシック三冠取ったとか、シニア1年目が終わるまでに7冠取ったとか聞いたよ」

「無敗で……ですか。それは凄いです」

 

 これは俺の方が驚いた。シービー先輩のクラシック三冠には多少すごいと思ったが、さらに上がすぐ傍にいた。

 なるほど、ルドルフ会長がシービー先輩を使い走りに寄こすわけだ。とはいえ会長と先輩双方の態度はお互いが仲の良い友達みたいな感じだったが。

 

 そのままリズちゃんと話していたら、横から割り込む声があった。

 

「なあトド。生徒会長に呼ばれてなに言われたのさ、騒ぎを起こすなとか?」

 

 プリ子だった。喋り方がえらく乱暴に聞こえる。昨日のタイマン勝負の直前からその話し口は治っていないままだ。

 

「……そんな事は言われていませんよ。ただ私の状況確認をされただけです、記憶喪失とか、走れるのかとか、ゲート難とか」

「そっかぁ……で、それだけか?」

「それだけですよ」

 

 実際には支援をすると明言されたわけだがプリ子に教える筋合いはないし、変な漏れ方をして会長に迷惑が掛かるのも困る。それに話をしただけで実際に何かが動き出しているわけではないのだし。

 それで話が終わって離れていくのかと思っていたら、まだ何か喋り足りなさそうにしている。様子を窺っていたらボソボソと言葉が聞こえてきた。

 

「……あとはゲート難だよなぁ……。

 ……なぁ、そっちの方は見込みあんのか?」

 

 意外な問いかけだった。無茶な勝負をふっかけてきた彼女から、心配されるように尋ねられるとは思ってもみなかった。単純に気にしてくれているのか、それとも何か裏があるのか。

 

「うーん。治る見込みは……ない、ですね。治し方が分かりませんし。でもどうしてそんな事を?」

「いやぁ、トドがちゃんと走れてくれないとアタシが困るからさ」

 

 どういうことだろう?

 話の繋がりが読めずに困った顔を見せていると、彼女は続けていく。

 

「アタシさぁ、競り合ってくれる相手がいないとレースでイマイチ気が乗らないっていうかさ」

「テトラちゃんとかトスたんとかいるじゃないですか」

「アイツらは差しだろ? 最後でようやく競り合ってくるからさ、それじゃ遅いんだよなぁ。なんていうか、道中の競り合いがないとペースが掴めねえっていうか燃えねぇっていうか、な?」

「な? って言われても……はあ……、それで同じ先行型の私がいないとダメと」

「そうそう、そう言うこと。やっぱトドは話が早くて助かるわ。記憶喪失になったって言っても、そういうとこは変わんないんだな」

 

 ルジェさんと一緒にいるとヤキモチを焼いて強引に絡みに来るくせに、練習の時は俺がいないとダメとか。

 なんとなく面倒くさそうというか、調子が良いというか、これじゃ良いように使われてるだけみたいだなとかそんな事を考えつつ。向こうのペースに乗せられてまた変な方向に話が進むのは嫌なので、なるべく穏やかに話を進める。

 

「まあ同じ2班なんですから、練習に付き合うのは(やぶさ)かじゃありませんよ。でもですね……」

「でも、なに?」

「昨日みたいによく分からない勝負に巻き込まれるのはあれきりにして欲しいです」

 

 ここは強めに言っておいた方が良いだろう。俺はキッとプリ子を上目遣いに睨みつける。

 さすがに昨日はやり過ぎたと思ってはいるのか、彼女は視線を外して多少はすまなさそうな表情を見せた。

 

「それからもう一つ」

「今度はなに」

「トドって呼ぶのは止めて欲しいです。大体なんでトドなんですか。私は海の動物じゃないんですから」

「…………」

「…………」

 

 そうして再び睨み合った。だが今日はこちらが優勢のはずだ。

 

「……あー、うー……。そっか、記憶喪失だもんなぁ……」

 

 そう零しながら軽く頭を掻くプリ子。記憶喪失とトド呼ばわりにどういう関係があるのか分からず首を傾げていると、想像も付かない方向に話が展開した。

 

「いやさ、トドっていうのは半分はアンタが言い出したことだったんだけどな」

「うぇ?」

「2班の最初の練習の時さ、ヴェントドーロとかドーロって呼ぶのは言いにくいからどうにかなんないかって話になってさ。

 そしたらアンタが言い出したんだよ、二文字取って、トドでもドロでも好きなように呼べば良いって。だから2班の連中は皆アンタをトドって呼ぶだろ?」

 

 あまりの展開に思わずリズちゃんと顔を見合わせた。アイコンタクトで『知ってた?』と送ると、ふるふると首が横に振られる。

 

「そりゃーリズは知らないさ、これは2班の中だけの決め事だしな。でもまぁアンタはこの事を覚えてなかったんだろ? だからトド呼びは嫌だって言うなら今からでも別のに変えるだけさ」

 

 確かに思い起こせば昨日2班の皆は俺のことをトドと呼んでいた。皆にそう呼ばれて、なにか疎外感みたいなものすら感じていたが実態は逆だったのか。だとすれば自分が思い込みを捨てれば良いだけだ。

 

「どうする? なんて呼べばいい?」

 

 プリ子が迫る。

 だが俺としても由来を知ってしまえば何のことはない。答えはひとつ。

 

「トドで良いですよ。私がそれで呼ぶようにお願いしたわけですよね、昔に。でしたらそう呼んでもらうのが正しいと思います」

「でも、トドは嫌いなんだろ?」

「ついさっきまでは。今はもう好きになりました」

「ハァ?」

「2班の皆が一様にトドと呼ぶから、申し合わせてなにか企んでいたのかと思っていただけですよ。それは大きな誤解だったことがさっき分かったので。だからトドで良いです」

「何だよそれ、アタシらそんなに信用なかったのかよ」

「信用なくなったのはプリ子ちゃんだけですよ。それはあの訳の分からない勝負に巻き込んできたせいです」

「ぐッ……」

 

 ギリッと歯の鳴る音が、プリ子の歪んだ口元から聞こえてきそうだった。

 

「……まぁ、トドがそれで良いって言うんならアタシも文句ねえよ。

 ……昨日は無茶な勝負仕掛けて悪かった

 

 目を逸らしつつボソリ呟いた謝罪の言葉、俺のウマ耳は漏らさず聞き取った。

 まあ悪い娘じゃないと思うんだけどね、プリ子は。色々と掛かり気味なだけで。

 




次回こそ、伝説の指定席。


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プラチナシート

更新が一回飛んでしまいました。割烹にも書きましたが、主にモデルナのせい。
今回のお話もお腹の虫が主役。


 

 4限目の授業開始と共にプリ子は自席に戻っていき、その後は何事もなく授業の最後まで進んだ、かに見えたが。

 

『く~~~~ん。きゅるきゅるきゅる。く~~~~ん』

 

 例によって腹の虫だ。

 

「誰かが盛大にお腹を空かせていますね。あと10分だからがんばって。ほら、ざわつかないで授業に集中!」

 

 先生は誰の虫が鳴いているのかまでは判別できないようだったが、クラスのみんなにはバレバレだ。後ろの方の席に陣取る俺からは、ちらちらとこちらの様子を窺う他の生徒達の様子が丸見えだった。

 

『キーンコンカーンコー……』

『きゅ~んきゅんぎゅ~んぎゅん♪』

 

 チャイムに合わせて鳴く我が腹の虫。(しま)いには先生まで失笑しつつ教室を後にする始末だ。今度はさすがに出所が分かったらしい。

 本当に俺の腹の中には別の生き物が入ってるんじゃないだろうか。織田先生やタキオン氏あたりがこのことを知ったらまた食いついてきそうなネタではある。

 

「ドーロちゃん、お昼ご飯行こ?」

『ぎゅんぎゅんっ』

「……はいはい」

 

 パタパタと速歩(はやあし)でカフェテリアに向かうE2組御一行の群れ。当然他のクラスの面々もどんどん合流してくるわけで。目的地はまだ遙か先だというのに前に進めなくなってしまった。

 

「わぁ、今日は混んでるね」

「そうですねえ」

 

 昨日に比べると相当手前で渋滞に巻き込まれてしまった。カフェテリアの入り口が全く見えない位置で、あとどれぐらいでたどり着けるのか見当も付かない。仕方がないので列の流れに身を任せ、隣のリズちゃんとお話ししながら徐々に前へと進んでいく。時折腹の虫がご飯はまだかと声を上げるものの、周りは皆同じクラスの生徒ばかりなので動じる者がいない。時間は掛かったものの昨日と比べればずっと平穏無事にカフェテリアへ到達できた。

 

『きゅん♪ きゅん♪ きゅん♪ きゅん♪』

 

「お腹の虫さん、絶好調だね」

「ようやくご飯にありつけますからね」

「そういえば今日はルジェ先輩がいないね」

「まあ学年が違うわけですし、そうそうタイミングが合うものでもないでしょう」

 

 トレーを片手に料理のコーナーに入ろうとする。

 

「あ! あなた! 今トレーを取った尾花栗毛のお嬢さん! あなたヴェントドーロさんで良かった?」

 

 するとそこで厨房の方から突然声を掛けられた。

 驚いてそちらに振り向くと、調理係のお姉さん(おばちゃん)が手招きしている。

 

「私がヴェントドーロですけれど……何か?」

 

 呼びつけてきた彼女に近づく。

 

「右耳に緑の飾りよね、ああ良かったやっと見つけたわ。実はあなたのトレーは特別なものを使うようにって上から言われててね」

 

 そう言って彼女が取り出したのは昨晩寮でも見た二段重ねの特別トレーだった。

 

「すごくたくさん食べるから、ちょっとでも取りに動く回数を減らせるようにって」

「はあ……どうも、ありがとうございます……」

「おかわりもたくさんしてもらって構わないから、いっぱい食べてちょうだいね。ウマ娘は食べないと!」

 

 そう言って目を細めて軽くガッツポーズを見せるお姉さん(おばちゃん)。その福々しいお顔に、俺の方も少しばかり気分が晴れやかになる。

 その後はいつものように料理を山盛りに取っていく。こんな時にウマ娘パワーはありがたいが、前が見えないほど山積みになった食事を載せてもビクともしないこの特別トレーの強度も相当なものだ。そして例によって周りの生徒達の視線が痛い。

 食事を取れるだけ取って席を探しに行こうとしたら、先ほどのお姉さん(おばちゃん)がまた出てきて声を掛けてきた。

 

 「あのね、度々(たびたび)で申し訳ないんだけど、お席の方も指定があるのよ。隣の黒鹿毛のお嬢さんはお友達? ならご一緒についてきてもらえる?」

 

 リズちゃんと顔を見合わせて不思議に思いつつ、ウマ娘で混み合うカフェテリアの中をお姉さん(おばちゃん)の後を付いて縫って進む。やって来たのは配膳エリアからもそんなに遠くないが、柱の陰に隠れて静けさを保った窓際で景色の良い席だ。テーブルの真ん中には予約席と書いた金属製の銀色をした札が陣取っていた。よく見るとテーブルもここだけは特別なようだ。他の席と比べて頑丈そうな作りに見える。

 

「ここですよ」

「こんな良い場所があったなんて、リズ初めて知ったよ」

「私もですよ。料理からも近いし、でも周りからは本当に目立ちませんね」

「そうでしょうとも。この席はね、昔オグリキャップさんのために用意した特別な席なの」

「えっ? あのオグリキャップさんに?」

「オグリさんはとてもたくさん食べるので有名だったでしょう? 初めは他の生徒さんと同じ席で食べていたのだけど、そのうちに料理の重みでテーブルにガタが出るようになっちゃって」

 

 思ってもみなかった話に、リズちゃんと二人再び顔を見合わせた。

 

「オグリさんが卒業されてからはこの席も一般開放していたのだけど、今日からはヴェントドーロさん専用よ。もちろんお友達と一緒に使ってもらうのは一向に構わないから」

 

 予約席の札は置いたままにしておいてと最後に言い残して、お姉さん(おばちゃん)は業務に戻っていった。

 

「驚いたね、あのオグリさん専用のテーブルだなんて」

「それを私に使わせてくれるというのは……。ありがたいことですけど、なんだか複雑な気持ちです。

 それじゃいただきましょうか」

「いただきます」

 

 軽く言葉を交わしたら、二人とも無言になって食事に集中する。喋っていては時間内に食べ終わらないのと、一度食べ始めると食べ切るまで止まらない俺の食欲のせいだ。

 とはいえ既に3日目、ガツガツと口を動かしつつも周りの気配に耳を向ける余裕は少し出てきていて、途中でリズちゃんがおかわりを取りに行くのが分かったし、これまでのように遠巻きにするギャラリーがほぼいない事も分かる。

 ウマ耳の聴覚ひとつで他との距離感まで測れるというのは驚きつつも、人気(ひとけ)のない静けさの中、今までで一番落ち着いて食事をいただくことができた。

 

 食べ終えてもルジェさんは結局現れなかったが、その代わりいつの間にかLANEにメッセージが届いていた。

 

<ドーロちゃん、どこでお昼食べてるんですかあ? )

[カフェテリアの隅まで捜しても見つかりませんよう )

<もう諦めて今日は一人で食べますねえ。しくしく )

 

 ルジェさんもカフェテリアに来ていたようだが、とうとう俺を見つけることはできなかったようだ。どうやらこのテーブルの目立たなさは格別らしい。

 




次回、雌伏していた者たち。


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選抜レースに向けて

毎回感想を複数、そして好評価も新たに入れていただきまして評価の赤バーを維持できているのは本当にありがたいお話です。今後も若干不安定更新ですが懸命に続けていきたいと思います。


 

 今日の午後はトラックでの練習はなく、前半が目前に迫りつつあるという選抜レースの事前説明会、後半はジムで筋力トレーニングという内容だ。説明会は普段の教室ではなく大講義室で行われる、聞くところによると他のクラスとも合同らしい。

 講義室の入り口で出欠確認と資料を受け取り、空いている席へ。クラス毎に大きく区割りされているだけでどこに座るかまでは指定されていないが、既に後ろの方は空きがない。2班の連中は抜け目なく後ろの方で固まっていて、テトラちゃんが俺を見つけて手を振っている。俺はリズちゃんと二人横に並んで、まだ空きのあったE2組エリアの真ん中辺りに腰を据えた。

 

「大半の人は入学式でも見たことあるけど、一番入り口に近い方は知らない人ばかりだね」

 

 リズちゃんがそんな事を零す。そこで改めて資料と共に渡された席割表に目を通すと、入り口に近い辺りはDクラスと書いてある。

 

「Dクラスだそうですね。どういうクラスなんでしょう」

 

 すると俺たちのすぐ後ろに座っていた黒髪の娘が教えてくれた。

 

「Dクラスっていうのは中等部入学の人たちだよ。本格化が遅かったりとかで選抜レースがまだの子たちだね」

「詳しいね」

「小学校で同級だった友達がDにいるんだ。同じクラスの子らと走っても、なかなか勝てないっていっつもぼやいてる」

「そうなんですね」

「中等部からの子らってさ、小さい頃からクラブ入ったりして走りを鍛えてる子が多いんだよね。だから根性とか技みたいなメンタルは持ってるわけ。

 私たちと同じ時期に選抜レース走るからって、同じレベルだって思ってるとダメかもね。彼女らに本格化が来たらフィジカルが一気に伸び始めるから、そしたら元からあるメンタルと合わせてあっという間に上の方へ行っちゃうんだろうね。

 私たちももっと頑張らないとね。私も友達には負けたくないし」

「……」

「……」

 

 教えてくれてありがとうとひと言残して、俺とリズちゃんは再び前を向く。説明会が始まろうとしていた。

 

 それは想像もしていなかったハードな話だった。いや、実のところこの3日はそれどころではなかっただけだ。

 黒髪の子は軽い調子で話してくれたけど、現実としてそれに相対するのは紛れもなく今この場にいる俺たち、気を引き締めて掛からなくてはいけない。

 

 昨日や一昨日の授業練習にDクラスは参加していなかった。走行練習は各人の得意距離や走力を考慮して班が組まれていると聞く。そんな授業練習にDクラスが混ざっていなかったということは、DとEの差は俺たちが想像しているよりも既に開きがあるのだろう。

 

 そんな事に気づいてヤバいと感じるよりも、負けていられない、と思った。それは自分でも意外なほど自然に出てきた想いだ。強いと思われる者相手に臆することなく闘志が湧いて出る様子は、どことなく違和感がありながら、自分の意志として納得もある。矛盾を感じながらも腑に落ちているというなんとも不思議な思考の渦が、俺の脳内をぐるぐる回っていた。

 

 説明会は静かに進んで行く。このレースは学業で言ったら期末テストみたいなものだが、その成績が与える影響は期末テストなど比べものにならないほど重要だ。だからこの場にいる生徒は皆真剣そのものだ。レースで競り負けるのはまだ良い、それは自分の力不足だから。でもその他の部分で失格ということにでもなったら悔やんでも悔やみきれない。

 レースに参加する際の登録方法から服装、シューズのレギュレーションまで、各人に配られた資料とスクリーンに大写しにされたプロジェクター両方を使って説明は続いた。

 

 1時間弱に亘ってみっちり詰め込まれた説明会が終わった。申し込みの締切はこの週末を挟んだ月曜日のお昼まで。レースの本番は来週末金曜日と伝えられた。

 申し込みに必要な項目は参加希望するバ場の種類と距離、そしてもちろん自分の所属と名前だけというシンプルさ。

 だが困るのは俺の場合、これまでの記憶がないせいで自分の適性がほとんど分からないことだ。2班で一緒に走ったプリ子ちゃんたちが言っていた事によれば俺の適性は中距離らしいが、細かなところは分からない。関わりのあった人たちの意見を聞きながら最終決定するのが良さそうに思える。

 

§

 

「え? アンタの適性バ場と距離だって?」

 

 ジムトレーニングが終わった後、多分一番良く俺の走りを知っていると思われるプリ子ちゃんに訊ねてみた。だが表情は芳しくない。

 

「んー、まぁ確かに普段練習では一番近くで見ちゃいるけどさ……、正直ざっくりとしかわかんないよなぁ……」

「2班は2000メートルくらいが適性で集められてると以前聞きましたが……」

「……入学して最初にあった適性試走の話なんだよ、それ」

 

 彼女が言うにはその試走ではまず芝とダートでそれぞれ800メートル走って、どちらが向きそうか、それとも両方なのかを調べたという。そしてより有利そうな方で今度は1600を走り、距離適性を見たのだという。

 

「で、結局アタシとかアンタとか、あと2班の連中は芝の1600以上だろうって事で集められたわけさ」

「なるほど……そういうことがあったんですね。あれ? でもリズちゃんはどうして班が違うんでしょう」

「リズの場合は経験のあるなしがさらに加味されてるんじゃねえかな。ホラ、あの子は学外クラブで走ってた経験あるって聞いたし、その時から2000以上走ってたって話だからさ」

 

 プリ子ちゃんの話によれば、本格化が来る前はステイヤー適性……長距離の適性があったとしてもあまり長距離を走ることはないそうだ。身体ができていないうちに無理をすると故障が多くなるからだそうで、さらに

 

「クラブで走ってたって事と今の走りっぷりを見るに、本来ならリズは中等部からトレセンにいてもおかしくはないはずなんだけどな。詳しいことは聞いたことないから滅多なことは言えないが……、もしかしたら小学校の時にケガでもしてるのかもな。いや、これ本人には絶対言うなよ?」

 

 言いません言いませんと慌てて確約すると満足げな表情を見せたプリ子ちゃん。最後に「いっぺん教官に相談してみるのが良いんじゃねえか?」と残して彼女は去って行った。

 

 意外なところでリズちゃんの過去を知ってしまったが、俺の適性を知るという仕事はまだ終わっていなかった。

 




次回、大ダメージ。


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『また』

先週末の更新後に評価をすごくたくさん入れていただきまして、評価平均が押し上がりました。赤バーが少し危ない情勢でしたが、これでまた安心できる領域に。
いつもお読みいただき感想もいただき、そして好評価。本当にありがとうございます。

あとがきに少し状況報告があります。

【更新情報】

9月21日に今話の内容に追加しました。部分としては前半段落で教官とドーロちゃんが会話している辺りになります。


 

「あなたの適性?

 ああ、そうね。記憶がないから自分がどれくらい走れているのか分からないものね」

 

 プリ子ちゃんと話した後、俺はすぐさま運動系教官室へと向かった。そこで面倒を見てもらっているトラック練習の主任教官に話を聞いてもらった。

 

「えーと、あなたの今までの記録……記録……と」

 

 教官は手元のノートパソコンでキーを打つ。画面が切り替わってなにやら細かな表が表示された。左上には俺の顔写真も貼り付けられている。どうやら俺の走行成績が一覧になっているようだった。

 

「えーと、入学したてだからまだあんまり記録らしい記録もないのよね……。入学の時の資料も見た方が良いかしらね」

 

 さらにマウス操作で画面が変わる。今度は長文がずらずらと書き込まれていた。

 教官は画面を読みつつそのまま固まってしまった。双方無言のまましばし時が経つ。

 

「……これを見るとあなたは一般中学出身だからあまり詳しい過去の記録はないわね。地元のクラブには入っていたようだけど……記録もマイルが1点……2点しか提出されていないし。ほとんど参考にはならないわね、これじゃ」

「選抜レースの登録、どうしたら良いでしょう?」

 

 教官は表示された俺の情報を閉じて向き直る。

 

「入学した後すぐに行われた適性試走で、あなたは芝の中距離に適性があると判断されたわ。そしてその後の練習走行でも、2班や他のクラスの中距離班のウマ娘と比べて遜色ないタイムは出ているわね」

「つまり中距離で走ってみたら良いのではないかと?」

「そういうことね。具体的には普段一番よく走っている2000が良いのでは? もし他の距離が気になるのなら……そうね、マイルにも希望を出しておけば良いんじゃないかしら。同じ日とはいえ時間を置いて2本走る程度ならそこまで負担にはならないでしょうし」

 

 例年複数の距離を走る子は多くいるという。もちろん選抜レース当日、体力や走力に不足を起こさないことが前提条件にはなるが。

 それから、と教官は続けた。

 

「……芝かダートかと言われれば、やはり芝の方が良いでしょうね。それは足の使い方を見れば確定的なので迷うことはありませんよ。

 ……ただ、問題はゲートね」

「……やっぱり選抜レースではゲートを使うんですね?」

 

 走ることはできるようになった。走力も同級生と比べて遜色はなくなった。なのでひとたび走り始めればボロ負けという恥ずべき事態にはならないだろう。

 それは教官も同じ考えのようだったが、やはり問題はゲート難だ。

 

「実は、不安材料がなければ選抜レースでも上位に食い込めるだろうと教務の方では事前評価されていたの。その上で今回発症したゲート難と記憶喪失。これは不慮の事態だからあなたに責はないと教務では認識していて、だから医務と協働して治療と問題解決に当たっているのはあなたも知っている通りね。

 これら二つの症状は関連しているのではないかとの見立てもあるから、積極的に対策を打って、できるだけ早く解決へと導けるようにする手はずになっているの。

 でも織田先生からのレポートでは、記憶喪失については時間が掛かりそうだとの回答を得ているわ。一方でゲート難の方は情動をコントロールしつつ訓練を重ねれば、短期間である程度の改善が見られるのではないかと回答を得てもいる」

 

 教官はそこで一息入れ、もう一度俺の顔を見ながら話を続ける。

 

「今回の選抜レースを逃すと次は9月の予定。そうなればメイクデビューはもっと遅れて秋の終わり頃になるかもしれない。あなたの実力から言って、それはあまりにも遅いと言わざるを得ないわね。

 そこで授業日程としては選抜レースまで残り4日しかないけど、その間あなたにはゲート特訓をして貰うことになったわ。担当は織田先生。先だってと同じように治療名目で取り組んでもらう予定よ。完全に治るには至らないでしょうけど、出遅れ程度に収まればレースで成績を残すことも適うでしょう。

 あとはあなた次第なのだけど、……やるわよね?」

 

 一も二もなかった。ここまでお膳立てをしてもらってなお引き下がってしまっては、デビューすら遠のいた上に退学までちらつく。俺は間髪を入れずに頷いて承諾の意を表した。

 正直不安は大いにあるが負けてはいられない、他人にも、自分にも。

 

 応諾した俺に対して教官は満足げだ。そして芝の2000と1600、この場で申し込みを済ませても問題ないと教官は言ってくれたが。

 

「まだ時間があるので出走登録は週末、友達とも話して考えます」

 

 と答えてその場を辞した。

 

 §

 

 思案をしつつ寮に戻ると、ルジェさんが先に帰ってきていた。でもなにやら様子がおかしい。

 

「ルジェさん、ただいま帰りました……って、どこか体調でも悪いんですか?」

 

 彼女は俺のベッドの上で制服を着たまま枕を抱えて丸まって横たわっていた。声を掛けても動きがなかったが、そっと近づいて覗き込んでみると起きているのは分かる。手を額に当ててみるが熱はなさそうだ。離れる手を追いかけるように、それまで焦点の合っていなかった視線が俺を捉えた。

 その途端、ガバッと起き上がって俺の顔をじっと見つめてくる。

 なんとなく目が潤んでいるようにも見えた。

 

 ルジェさんの両手がぺたぺたわさわさと俺の顔を(まさぐ)る。突飛すぎるその行動に俺はなすがままにされるのみだったが、さらに勢いよく抱きつかれて後ろに倒れそうになる。

 

「ドーロちゃん、いましたぁ~~~~~! 良かったですう~~~~~」

「うえぇぇ? ど、どうしちゃったんですかルジェさん!?」

 

 ベッドの上から抱きつかれる形になって、しゃがんだ姿勢の俺にそのままルジェさんの体重が掛かる。普通だったら後ろに倒れるか腰が終わるところを支えきるのはさすがにウマ娘の体幹だった。

 絶妙なバランスを保ったまま、首元ですんすん鼻を啜るルジェさんを支えて数分。ゆっくりとバランスをベッドの方に押し戻し、もう一度彼女をベッドの上に正座させる。でも彼女は抱きついたまま放してくれなかった。

 

「……どうしちゃったのかもう一度尋ねても?」

 

 静かにそうお願いすると、ようやく首に回った力が緩んだ。そしてベッドの上と下からお互いお見合いになる。

 

「……どこかに消えちゃったのかと思いましたあ……。探しても探しても見つからなくてえ……、気配も感じられなくてえ……」

 

 ぽつりぽつりと答えてくれる彼女の目はすっかり泣き腫らしてしまっていて、耳も今まで見たことのないほどしょんぼりと垂れてしまっている。

 普段見せているお姉さん然とした風格はすっかりどこかに消えてしまっていて、今はなんだか親とはぐれた幼い女の子のようにしか見えなかった。

 

 やはりLANEで送られてきていた通り、お昼ご飯時にやや遅れてカフェテリア入りした彼女は、トレー片手に俺を探してくれていたのだそうだ。でもいつもなら近くにいれば気配を感じられるのに、今日だけはそれもなくてカフェテリアの中をうろうろ彷徨(さまよ)い歩く羽目になったのだという。

 

「どうしてあんなに淋しく悲しく感じたのかは分からないんですよね……。()()逢えなくなるんじゃないかってそんなことばかり考えてしまって。

 おかしいですよねえ、『()()』だなんて」

 

 『また』という部分に引っかかりを感じる。だが彼女の言う通り俺とルジェさんが出会ったのはこのトレセンが初めてのはずだ。考えても何かに思い当たる節はなく、彼女がそう思ったことは一旦置いておくことになった。

 話をするうちにルジェさんも落ち着いてきて、いつものように耳がピンと立ってきた。

 

「……そのお話ですとLANEを送った時間、ドーロちゃんもカフェテリアにいたんですよねえ?」

「ルジェさんからのトークに気がついたのは食べ終えてからですけどね。リズちゃんと一緒にお昼を戴いていました。……そうだ、今日は特別なテーブルで食べていたんですよ」

「……特別な、テーブル、ですかあ?」

「なんでもオグリキャップさん専用だったテーブルとか聞きました。カフェテリアのお姉さんに案内されたんです、今日からここがあなたの専用席ですと言って」

「そんな席があったんですねえ……1年以上カフェテリアを使っていましたけど、気がつきませんでしたねえ」

「場所はカフェテリアの真ん中辺りの窓辺でした。窓際に柱が立っている所ですよ。柱の陰になっていたせいか、今日は静かに食事ができました」

「……うーん? その近くなら今日何度も探し歩いた場所ですけどねえ……、どうして分からなかったのでしょうか」

 

 その時ルジェさんの学習机で着信音が鳴った。LANEのようだ。

 ベッドから降りてスマホを手に取ったルジェさんが、何かに気づいたのか慌てて身だしなみを整え始める。

 

「今日は晩ご飯のお手伝いする日だったんですよう。少し遅刻してしまいましたあ。

 用意ができたらドーロちゃんをお迎えに上がりますからねえ」

 

 慌てつつもどこかのんびりとした物言い。ルジェさんはすっかり調子を戻したようだった。

 




次回、作戦会議。

前書きでも触れましたが、ここから年末に掛けて自分自身の予定のお話です。
ぶっちゃけますと、絵の方をそろそろ始めないといけない時期にさしかかりました。仕上げるのに案外時間がかかるんですよねぇ。まずアイデア出しから始まって、構図を練って線画を仕上げて、それを取り込んで色塗り……。
年末はイベントも多いです、ハロウィンにクリスマスそして年始と毎年定例の絵ネタイベント目白押し。特にクリスマスと年始は1週間も開いてないので両方用意するとなると地獄が待ってます。とはいえ今年もハロウィンはなしかな……この連載もありますしね。その代わりクリスマスを早めに仕上げて余裕を持って本命の年賀絵に取りかかりたい……。毎年同じこと言ってるのでそう上手くはいかないですが。

つまり何が言いたいかって、絵のせいで小説が遅れ気味になりますよ、ということです。毎回速攻でお読みいただいている方には大変申し訳ないのですが。


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美浦寮食重賞競走 逃げ場なし記念

ストックゼロのままギリギリの低空飛行……。



 

 ルジェさんが寮食の厨房に向かった後、やや間があってリズちゃんが訪れた。例によってノック即インなのはそろそろ治してもらった方が良いかもだが。

 

「ドーロちゃん。さっき食堂の方に向かってルジェさんが急いでたけど」

「今晩の食事はルジェさんお手製の一品が出るらしいですよ。調理に遅刻しそうだったので慌てていました」

「そうなんだ。

 ルジェさんのお料理かぁ、こないだのミートボール、大きくってジューシーで美味しかったなぁ」

「あれはお勧めされただけのことはありましたね」

「今日は何が出るんだろうね?」

「何が出されるか聞いてないんですよ」

「楽しみだねー」

 

 そんな他愛もないやりとりで始まる夕食前の一時。今日の授業は難しかったとか、お風呂は夕食の後ですよねとかそんな流れの話になって、とうとう選抜レースの話になった。

 

「……実は悩んでいるんですよね、選抜レース」

「そうなんだね。ちゃんと走れるのか、とかそんな感じ?」

「走る方はリズちゃんと併走して自信が付きました。だから自分の中では問題ないんですが……、距離をどれにしたら良いかとか、芝とダートどちらを選べば良いかとか……ですね。ところでリズちゃんはどの距離を走るんでしょう?」

「え、リズ? リズはね、2000メートルと2400メートルかな。もちろん芝の方ね。小学校の頃から長めが得意だからね」

「2400……選抜レースの最長距離ですね」

「うん。5班の4人はみんな同じ感じで希望を出すって言ってたね」

「5班は長距離得意な子が多いんですね」

「そうだね。リズもだけど、みんなトレセンに来る前からクラブで走ってた子ばかりだね。

 ……それでドーロちゃんは希望とか、あるの?」

「……うーん。希望と言いますか……教官の所へ相談しに行ったんですよ、自分では何が得意か分からなかったので。そうしたら2000と1600が良いのではないですかと教えてもらいました」

「そうなんだね。……うん、リズもそう思うよ。あとね、先行で走るのがドーロちゃんには合ってるような気がする」

「先行……レースを走る時の戦術ですね」

「そう。昨日一緒に走った感じだとゴール前でリズが追い抜いた後そのまま差し返されなかったから、末脚はそんなにないのかなって……。あの時はまだ本調子じゃなかった分を差し引いて、それからプリ子ちゃんたちと走ってた様子も足してね。そちらを見てると前目の差しでも良いのかもしれないけど、安全策なら先行かなぁって」

 

 リズの見た感じだけだからあんまり参考にはならないかも知れないけどと彼女は言うけれど、自分の得意も何も分からない今の状況ではとてもありがたい助言だった。選抜レースは芝の2000と1600を先行で走る。大体固まってきたように思えたけれど、もう1人意見を聞いておきたい人がいる。

 

§

 

「ドーロちゃん起きてますかあ? 晩ご飯の用意ができましたよう」

 

『きゅいぃ~~』

 

 ルジェさんが寮室に戻ってきて晩ご飯を告げられた途端、腹の虫が返事した。

 

「あらあら。もうお腹の虫さんが起きてましたかあ。もうすぐですからねえ♪」

『きゅいっ!』

「あら? リズちゃんが来ていたんですねえ。何をお話ししていたんですか?」

「選抜レースのことですね。来週の金曜日に走るんですよ」

「まあっ。いよいよ選抜レースなんですねえ。そうですかあ、6月ももう中旬になりますものねえ。

 ……わたしが走ってからもう1年経つんですねえ……時の流れは速いですねえ……」

「ルジェさんも今頃だったんですか。お話聞かせてもらっても?」

「そうですねえ……それは構いませんけど『ぎゅぃぎゅぃ』……まあ、お腹の虫さんがもう待ちきれないみたいですねえ。先に晩ご飯にしましょうかあ」

 

 ……腹の虫はもうすっかり仲良しメンバーの4人目になっているみたいにしか見えない。しかもルジェさんとリズちゃんからの扱いはどうかすると俺自身に対するよりも良いのかも?

 それはそれで腹の主としては少々歯がゆい気持ちになった。

 

 寮食に到着すると一目で分かる予約席が設えてあった。そしてまだ早めの時間帯で生徒も少ないのに、明らかにその場所からみんな距離を取っているのが分かる。でもよく見るとテーブルの様子が昨日とは違っていた。

 

「あの……ルジェさん? トレーが増えていませんか?」

 

 例の二段重ねの特別トレー、なぜか今日はそれが2枚もテーブルの上に出されていたのだ。しかも両方に料理が積まれていた。

 

「昨日の様子を見ていてですねえ、二段でも料理が積み上がりすぎて少々危なっかしいと主任さんが2枚目を用意して下さったんですよ。

 その代わり1枚のトレーに載せている料理の量は半分ぐらいになっていますから」

 

 確かに料理の山自体は少しばかり低くなった気がする。とはいうものの全体の量が多いことには変わりがないので、料理の並ぶ裾野が広がっただけではあるが。

 そして3人揃って着席。ごく自然に右側にはルジェさん、左側には素早く料理を取ってきたリズちゃんが並んだ。それぞれがお箸を取り、俺のトレーから一口分つまんで口元に差し出される。

 

「「はい、召し上がれ」」

 

 何もそんなところでハモらなくてもとは思った。

 

 今日のメインは柔らか大ぶりポークロースのスタミナ焼きとビッグスイートにんじんのグラッセグリル盛り合わせ。放たれる香りが食欲を大いに刺激するのか、実は先ほどから腹の虫が大暴れしていたりする。しかし視界に広がる料理の向こうでは寮生みんながこちらをじっと見ているせいで、左右から差し出されたおかずを前に次の一歩がどうしても踏めない。このまま差し出されたおかずを食べるのか、食べないのか。食べるにしても左右どちらからか。考えたところで良い結論なんて出ないことがわかりきっているこの問題を前に、独り凍り付く。

 

 その瞬間を待ちわびる、寮生たちと俺の両サイドに陣取る2人。膠着状態は永遠に続くかと思われたが、実際のところは1分も保たずに俺が折れるしかなかった。この場を収めるための唯一の解、それを実行すれば俺の評価は如何(いか)なる形にか確定するのだろう。おそらくそれは俺にとっては最も穏やかならざる結末をもたらすはずだ。

 

 不退転の決意を持って迎えた2人の箸先。それはまだ口元には遠く届かない。俺は彼女たちの腕を左右両方の手でそれぞれ軽く掴んで口元に引き寄せる。

 固唾を呑む音が聞こえそうなほど静まりかえった寮食の中で、俺は両方の箸を同時に咥えた。

 

 その瞬間悲鳴にも似た歓声が寮食を大きく震わせる。

 そして、そんな喧噪などお構いなしに腹の虫は豪食へと突入していった。

 




次回未定。


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経験者現る

どうにも話の続きが書けなくなってお休みしました。申し訳ありません。

それから、今後レースが増えてくるのでリズドロルジェさんに2班メンバー以外にもネームドが出てくる流れに多分なるだろうと思うので、そこら辺をどうすれば良いか未だに悩んでいるシルバーウィーク。

思いつきのまま進めてきた報いが今ここに。


 

 3人並んで湯船の縁に背中を預け、今宵もまた(ぬる)めの湯に疲れを溶け込ませている。まだ3回目の大浴場だがこの巨大な湯船と高い天井、そして肌当たりの良いお湯は本当に身も心も安まる。

 今回のしっぽ洗いもやっぱり一悶着あった。どうも俺はしっぽが他2人よりも敏感のようだ。ルジェさんによると元のドーロ並の敏感さに戻っているらしいが、これが俺自身の普通なのだとすれば少し心配になるレベルだ。不意に触られたらいつでもどこでも腰砕けになってしまいそうで危険極まりない。

 

「服を着ている時は一番敏感な付け根は服の中ですからあ、そんなに心配しなくても大丈夫ですよう?」

 

 今までのところは確かにそうだ、服がしっぽに擦れて変な気持ちになったことはないし。これからもそうだと本当に良いのだが。

 そんな心配事はさておき、良い塩梅のお湯にのんびり浸かっていると全てを忘れてしまいそうになる。だが、俺にはルジェさんに聞いておきたいことがある。

 

「そうだ、ルジェさんに聞いておきたいことがあったんです」

「はい。なんでしょうドーロちゃん?」

「私の選抜レース、どの距離で出たら良いと思います?」

 

 俺の問いにルジェさんはちょっとの間上目遣いで考えている様子だったが、答えはすぐに返ってきた。

 

「やっぱり中距離がメインなんじゃないでしょうかあ。今回なら2000メートル、ですよねえ。あとは最高速度が少し苦しいかもですけれどマイルですか。芝とダート、どちらも行けそうですけどどちらかといえば芝、なんじゃないかと思います。

 やっぱり足の使い方ですよねえ。つま先から滑らかに着地して、蹴りはあまり立てずに後ろへ送っていくような感じに見えますから」

「なるほどです。教官にも尋ねてみたんですけど今のルジェさんとほぼ同じ見立てでした。リズちゃんも同じ見立てで」

「まだ本格化が弱いみたいですし、今後パワーが付いてきたらだんだんと変わっていくと思いますけどねえ」

 

 教官、リズちゃんに続いてルジェさんも同じ見立て。メインは芝の2000、サブで1600ということで良いようだ。

 だがルジェさんは引き続いて心配そうに声を掛けてくれた。

 

「……でも、確か選抜レースではスターティングゲートを使いますよねえ。どうなんでしょう?」

「それについては解決策が出てきたので……、続きの話は寮室に戻ってからしますね」

 

 ルジェさんがやや腑に落ちないと言った表情でこちらを注視する。

 ゲート難の解決策は他の人に聞かれて誤解を受けても困る内容だ。だからルジェさんには心の中でひたすら謝りつつ、話をこちらから切り上げるしかなかった。

 

 そうこうする内に身体が温まって額から汗が垂れてきた。そろそろ上がりましょうと声を掛け、3人連れ立って浴場から出た。

 

「ふぅぅ~、涼しいね~」

 

 少し長めに浸かっていたせいか、リズちゃんの肌がいつにも増して赤く火照っている。汗もたっぷり出ていて体を洗った意味がなくなりそうなくらいだ。あまりにも汗が噴き出してくるせいか、ちょっと冷やしてくるねと一言残してリズちゃんはクーラーの前まで行ってしまった。残された俺とルジェさんはいつものようにお風呂上がりのケアを始める。

 この3日で分かったのは、ウマ娘はみんな暑がりだということ。俺もその例に漏れずで走った後は汗だくになる。お風呂の湯船が(ぬる)めなのも暑がりで汗っかきのウマ娘のために調整されている道理だが、それでも暑い季節にさしかかっているせいか結構汗が出る。

 今もリズちゃんほどではないけど、俺もルジェさんもその肌は汗でしっとりだ。

 

「ウマ娘ってみんな汗っかきですよね」

「そうですよねえ。夏場とかもう大変ですけれど、よく食べてよく運動しているから身体の代謝が良いんでしょうねえ。

 それに汗をかきすぎるとレースに出るとき困り事も増えてしまうのですよねえ……」

 

 汗かきがレースで困る、と言われてもピンと来なかった。それが顔に出ていたせいか、ルジェさんは続けて説明してくれる。

 

「G2までのレースなら良いんですけど、G1レースは出走するときに必ずメイクしなければならないんですよねえ。

 汗っかきだとメイクが崩れちゃって大変なことになるんですよう。わたしも先輩方から教えてもらってウォータープルーフとか色々試してなんとか抑えてますけど、それでもダメな人がいますから。そういう人は本当に大変そうです」

 

 なんだかその場で経験した事のように話すルジェさん。

 他にもG1レースでは髪やしっぽのセットも特別なのだそうで。

 

「前日までに自分でもきれいに整えてはおくのですけど、当日はメイクアップ専門の方が控え室の方にまでいらして完璧に仕上げてくれるんです。名の通った家の人だと専属がいたりするらしいですよ」

 

 メイクのことはまだ分からないことだらけだが、レース場にまで専属の人が来るというのは凄いことだと分かる。

 そんな凄いことをしている名家とはなんなのか、興味が出たので聞いてみると。

 

「有力なウマ娘が多く生まれる一族、みたいなものが確かにあるんだそうですよ。そういう所のウマ娘というのは名前の一部がその一族の名になっていることが多いそうです。そうですねえ、一番の名家と言えば『メジロ』とか。ここはすごいお金持ちでもあるので、先ほどの専属メイクさんのお話もそのメジロ家のお話ですね」

「そうなんですね」

「多く生まれる一族と言っても、親やその子供がみんな名ウマ娘というわけでもないらしいですけどね。親戚筋も含めて名ウマ娘が多くいるというお話だそうです」

 

 そこまで話が進んだところで、俺はあることに気がついた。

 

「……そういうお話ができるっていうことは……、ルジェさんって実はもうG1を走ったことがあるんですか?」

 

 その問い掛けが届いたとたん、彼女はちょっと驚いたような表情を見せた。

 

「まあっ、どうして分かっちゃったんですか? わたし、自分が出走してただなんて一言も喋ってませんよ」

「……いえ、その話しぶりはどう考えてもルジェさん自身が経験者じゃないと……」

「えぇ~、そうなんですかあ……? おかしいなあ」

 

 いや天然か。あ、天然だったわこの娘。そんなことを考えつつさらに話を聞いてみると、実はかなりすごい戦歴を持っていた。

 

「ひのふの……えーと、G1は3戦ですね」

 

 指折り数えたそれは、なんでもない事のようにあっさりと暴露される。

 さすがにこの3日で多少の知識が付いたので、俺でもレースのグレードくらいは分かるようになった。G1と言えば最高峰のレース。選びに選び抜かれた18人ほどが頂点を賭けて挑む競走だと。

 それをルジェさんは3回も出ているという。普段ののんびりした姿しかほとんど知らない俺にとって、それはまさに青天の霹靂とも呼べる事柄だった。

 




次回、たぶんゲートの特訓。


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友達(?)の輪

長らくお待たせしていました。ようやくストックが少しずつ貯まってきたので更新です。ドーロちゃんもようやくレースに向かって進出開始。


 

 ルジェさんのG1レース参加歴の話が出て少しばかり騒がしくなった3人。ここで目立つのもどうかということで続きのお話はお互い寮室でと、リズちゃんも混ざって消灯時刻まで俺の寮室で過ごすことになった。

 

「それにしてもG1を3回も……ですか」

「えへへ……実はあ、そうなんですよう。あ、でもでもまだ勝ててはいませんからね? やっぱりなかなか難しいです。G1レースで勝つのは」

 

 いやいや、出走できるだけで十分すぎると思うのだが。でも出走できるようになったらなったで是非にも勝ちたいとなる気持ちはこの俺でも分かるようになりつつある。そして難しいですと零したルジェさんの表情はいつになく真剣だ。そんな表情もリズちゃんからの問い掛けにすぐ柔らかく戻るのだが。

 

「先輩はティアラ路線だよね?」

「そうですねえ、今年のティアラ路線は有力なウマ娘がわたしの他にも3人いて激戦です。実は美浦寮長をしてるイソノルーブルさんもその一人なんですよう」

「ルジェさん含めて4人ですか……多いですね」

「寮長さんが頭ひとつ抜けていますかねえ。あとはスカーレットブーケちゃんとシスタートウショウちゃんですね。ブーケちゃんとシスターちゃんはどちらも中等部なのですけど……パワフルなレースをしますよ」

「……中等部……、ということは私より2年くらいは年下なんですよね。でもルジェさんと肩を並べてG1で競えるんですか……この年齢で1年違えば体力とかかなり違うと思うんですけど、本当にウマ娘って不思議です」

「ブーケちゃんとかわたしより背が高いですからねえ、ドーロちゃんぐらいあるのかなあ?」

「それで中等部なの? すごいなぁ……身長少し分けてくれないかなぁ……」

 

 何かリズちゃんの心の叫びが聞こえたような気もする。けど、彼女の背丈はそんなやたらと低くないと思う。もっと小さい娘が高等部にだっていたのは見かけたし。

 その一方でルジェさんは女子としては普通の背丈だろうか、胸のボリュームは結構良い方だと思うが。

 

 ルジェさんが言うには今名前が上がったウマ娘の他にも今後競り合いそうなライバルはまだまだいるそうで、ティアラ路線の最終戦、10月の秋華賞に向けてしっかりトレーニングを積まなければと言葉にも力が籠もる。さらにこの夏は合宿での特訓を予定しているのだとか。

 

「去年はチームに加入してすぐだったので参加できなかったんですよね。なんでもトレセン学園から離れて海の近くに宿舎を借りて、チームのみんなで泊まり込みして特訓するのだそうです……。

 楽しみにはしていたのですけれど……でも……今はドーロちゃんがいますし……行かなくてもいいかなって」

 

 そう言って心底残念そうに俺のことを見つめてくる。いや、そこはトレーニング優先でしょうと心の中でツッコミを入れるが、どうもルジェさんとしては俺から離れたくはないらしい。

 彼女をそこまで思い切らせるだけの何が俺にあるのか分からないが、そこはちゃんとトレーニングに向かって欲しい。そこであまり気は乗らなかったが、

 

「ルジェさん。合宿よりも私と一緒の方が良いのは分からなくもないですけど、私はルジェさんが秋華賞を勝つところを見たいです」

 

 そう言って強請(ねだ)るような目を向けてルジェさんを見つめてみた。するとやや驚いたような表情が返ってきて、そしてすぐ真剣な面持ちになった。

 

「……見たい、ですか?」

「見たい、です」

 

 俺も負けじと真剣な表情を繕って畳み掛ける。

 しばらくの間にらめっこが続いたが、そのうちにルジェさんの目線が外れ、天井を見たり、俺を見たり、壁を見たりとせわしなく動く。どうやら相当悩んでいるらしい。そしてとうとう、

 

「だめですう、選べませえん……ドーロちゃんのお願いには全身全霊で応えたいのですけど……離れたくない気持ちも同じぐらい強くてえ……」

 

 と、泣きそうな声を漏らして膝を抱えて突っ伏してしまった。

 リズちゃんがその背中を柔らかな手つきであやしてくれていたが、復活してくる様子が全く現れない。消灯時間が刻一刻と近づく中、やや強引だがここで話すはずだったもう一つの話題に持ち込んだ。

 

「それでですね、話は変わるんですけど私のゲート難のことです。

 教官に選抜レースの事を()きに行ったときに分かったことなんですが、どうも月曜日から短期でゲート特訓を入れてもらえるようです」

 

 さすがにこの話題は予想していなかったのか、二人の視線が集まる。

 

「変に話が広まって依怙贔屓(えこひいき)と取られかねなかったので、この話を脱衣所では話せなかったんですよ」

「それは、そうだよね。トレーナーも付いていないのに一人だけ特別メニューなんて」

「しかも選抜レース対策ですからね。ゲートが苦手な()は他にもいるはずですし」

「でも教官は手一杯のはずですから……誰が指導に付いてくれるんでしょうか? まさかドーロちゃん一人だけで練習するはずもないでしょうし……」

「それはですね、昨日走法を見てもらっていた医務室の織田先生です。走法を見てもらったときもそうだったのですが、治療という名目でゲート特訓をするということに」

「織田先生かぁ。うん、あの人なら大丈夫じゃないかな」

「医務室の織田先生? あれ? なんだか聞き覚えがありますねえ……んーと」

 

 ルジェさんと織田先生には直接の面識は俺の知る範囲ではまだないはずだ。

 昨日の練習の時にリズちゃんがルジェさんのことを先生に伝えていたのは知っているが、この様子だとまだ連絡は取っていなかったようだった。

 

 まだ悩んでいる様子を見せるルジェさんを尻目に、教官から聞いた特訓に至った経緯を二人にも話していく。

 リズちゃんからは、「それだけ期待されてるってすごいね」なんてお褒めの言葉をいただいてしまったし、ルジェさんからも、「早くシニアに上がってきて欲しいですう」などと期待の眼差しを向けられた。いやルジェさん、あなたまだクラシック級ですよね、再来年の話を夏の前から話してたら鬼が笑いますよ?

 

 と、そのとき、ルジェさんが声を上げた。

 

「あっ、思い出しましたあ!」

 

 寮室なので隣近所に響かないように控えめではあったが、周りが静かな分それでも十分に響き渡って、リズちゃんと俺のしっぽがビクンと跳ね上がる。

 

「ルジェさん? 何を思いだしたんです?」

「織田先生ですよ、ドーロちゃん」

「へ?」

「どこかで聞いた名前だなって考えてたんですよう。そしたら今思い出しました。その先生、わたしのトレーナーさんとお知り合いです」

「うぇぇ?」

 

 なんでそこが繋がるのか分からなかったが、トレセン学園の中は広いようで狭いと思った。

 




次回、なれそめ。


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ジェットコースターな話

久しぶりに予定通り金曜更新です。
この勢いが保てると良いのですが。


 

 織田先生のことを思い出してパッと一瞬だけ明るくなったルジェさんが一転、今度はやや話し辛そうに話を続けてくれる。

 

「わたしのトレーナーさんはチーム<カペラ>のサブトレーナーなんですけれど、わたしの前にもう一人担当ウマ娘がいらっしゃるんですね。その方は一昨年からトレーナーさんと一緒に走っていて、わたしは去年そこに加わることになったんです……」

 

 ルジェさんが醸し出す重い雰囲気に俺とリズちゃんは呑まれそうになりながらも、なんとか持ちこたえて次の言葉を待った。

 

「先輩はジュニアG1でも好走していて、クラシック級でも活躍するだろうと目されていた方でした。事実わたしがチームに加わった去年の6月までに、皐月賞で1勝を挙げていたほどですから最有望株だったのは間違いないんです。けれど……。

 ……あれは菊花賞でした。皐月の1冠を持って臨んだ菊花賞で、先輩は2周目の3コーナー出口で故障してしまったんです……。幸い、取り返しが付かなくなるほどの大ケガではありませんでしたが」

 

 重い雰囲気には訳がやはりあった。

 ウマ娘に故障はつきもの。この数日の間にそんな話を俺に関わった人から幾度も聞かされて、やや食傷気味になっていた。だが実体験の話となるととりわけ重みが違う。

 それは隣にいるリズちゃんも感じているようで、真剣に耳を傾けている。

 

「……それでですね、先輩の治療とトレーニングの助言に()かれたのが医務の織田先生だった訳なんです。

 わたしのトレーナーさんと織田先生の関係はそこで始まって、以来先輩のケガが完治した5月頭まで続きました」

 

 完治したと聞いて場の雰囲気がやや軽くなった。でもそれからどうなったのか。

 

「あっ、なんだか重いお話になってしまいましたかあ? 大丈夫ですよ、その先輩は先週の安田記念が復帰戦で4着に入りましたからあ」

 

 それまでの重い雰囲気から一転して嬉しいお話に。ルジェさんの話しぶりにすっかり振り回された俺とリズちゃんは、ここで笑って良いものか判断を付けかねたまま顔を見合わせるしかなかった。

 当のルジェさんは破顔一笑。ひとり嬉しさを晴天の太陽みたいに部屋一面にまき散らしているのだが。

 

「とまあ、織田先生との関わりについてはこんなお話なんですよ。そうですかあ、ドーロちゃんも先生のお世話になってるんですねえ……。

 っと、そうですよ。織田先生が関わっているのなら、わたしのトレーナーさんにもドーロちゃんのことを相談してみましょう」

「うぇ? あ? は?」

「だから、ドーロちゃんの事をうちのトレーナーさんにもお願いしてみますって言ったんですよう」

 

 ルジェさんがいつものようにニコニコ顔で押し通してくる。

 

 いやいや、確かに織田先生とルジェさんのトレーナーは話の上では繋がったけど、ルジェさんの先輩の治療(それ)俺の特訓(これ)とは別の話では?

 話の渦中にいる俺ですらこの展開にはついて行けていない。リズちゃんに至っては俺とルジェさんを交互に見るのをさっきから機械的に繰り返すのみだ。

 

「今日はもう遅いですから、連絡するのは明日にしますね。トレーナーさんはきっと大丈夫です」

「あ、あの、ルジェさん。申し出はありがたいですけど……その、選抜レース前のウマ娘がトレーナーと接触しても良いものなんでしょうか?」

「問題ありませんよ?」

「あ、ないんですか」

 

 それは意外だった。わざわざ選抜レースなんて開催するものだから、普段からトレーナーと未選抜ウマ娘の接触は禁止されているものと思っていたのだが。

 

「実際にわたしのトレーナーさんから聞いた話ですから間違いはないと思いますけど、トレーナーさん方はわたしたちウマ娘が学園に入学した日から有力()がいないか目を光らせていますからね。選抜レース前はおおっぴらにスカウト活動できないというだけで、偶然何かの接触からやり取りが始まるなんていうのは実は結構ある事だと、わたしのトレーナーさんも話に出てきた先輩さんも言っていましたし」

「それじゃ偶然を装ってトレーナーさんに接触したりとか、それか逆にトレーナーさんから接触してきたりとか?」

「そこまで必死な人はもちろん少ないでしょうけれど……、ないとは言えませんよねえ。でもトレーナーさんも実績が欲しいですから、有能なところをウマ娘の方から示さないと契約までは進まないんじゃないでしょうか」

 

 結局は実力次第。やはりここはトレセン学園、実力の勝るウマ娘だけが上に昇れる場所なのだ。

 

 その夜はそこで消灯時間を迎え、リズちゃんは名残惜しそうに自分の部屋に戻っていった。

 そして俺とルジェさんもベッドに潜り込み、どちらからともなくおやすみなさいと声を交わした。明かりを消すと夢路を辿るまではあっという間だった。

 

 §

 

 翌朝、窓ガラスに雨の当たる音で目覚めた。カーテンの裾をそっと捲って外の様子を確かめると、ザアザアと音を立てて外の歩道に雨粒が打ち付けられているのが見える。

 今日は土曜日で学園の授業はなし、自主トレもこの激しい雨ではお休みだ。程なくしてルジェさんも目を覚ましてきた。

 

「ルジェさん、おはようございます」

「おふぁよふございますう……、……うぅ~ん……、すごい雨音ですねえ……」

「音で起きてしまいましたか」

「ですねえ。この様子だと今日のチーム練習は室内だけでしょうかねえ……。

 わ、トレーナーさん早起き過ぎです。もう今日のリスケLANEが届いてます」

 

 伸びをした勢いで窓辺の棚に置いてあったスマホを手に取るや否や、すぐにルジェさんの驚いた声が聞こえた。

 

「トレーナーさん、お仕事熱心なのは良いのですけど、夜寝てないんじゃないかって時々心配になるんですよねえ」

「そんなに忙しそうなんですか?」

「バタバタ走り回っているわけではないのですけど、トレーニングを見ている間はもちろん私や先輩に付きっきりですし、チームで割り振られたお仕事もありますし。

 その上わたしたちのトレーニングが終わった後もチームハウスで色々と作業をしていて。……一度消灯時間直前にこっそり見に行ってみたことがあるんですけど、明らかに消灯時間後にまで何かやってらっしゃるんですよね」

「それは……、確かに少し心配になりますね」

「でしょう? だから一度お願いしたこともあるんですよ、先輩と一緒に。きちんと休んで下さい、でないとわたしたちが逆に心配になってしまいますって。そうしたら、『心配を掛けてしまってすまない。でも、君たちの見ていないところでちゃんと休んでいるから大丈夫だ』って言うんですけど……」

「どう見ても休んでいないと?」

「そうとしか思えないんですよねえ……。時々汗のニオイが気になることもありますし……。ウマ娘って鼻が良いから分かっちゃうんですよねえ」

 

 人の汗の臭いは確かに気にはなるけれど、担当ウマ娘にそれを逐一チェックされてしまうトレーナーという職業はなかなか大変だなと感じた。

 

 そんな事を考えているうちにルジェさんは俺のことをLANEでそのトレーナーさんに伝えたらしく、ニコニコ顔だ。

 

「面会の件、オーケーだそうですよ。朝ご飯の後、私と一緒にチームハウスに来て欲しいそうです」

 




次回、まだ足りない。


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美浦寮食オープン競走 空櫃ステークス

ドーロちゃんのファンアートをいただきました。嬉しいですねえ。目次の方に貼り付けてあります。

描いていただきましたのは、小説『どぼめじろう先生』でお馴染みの稗田之蛙さま
なんでも直筆の絵とAI処理を幾度も重ねて完成されたそうです。小説に絵にAIと多芸であらせられますね。
大変結構なイラストを頂き、ありがとうございました。


 

「朝ご飯を食べた後準備を整えたら、わたしはトレーナーさんの所に向かいます。ドーロちゃんも一緒に来て下さいねえ、トレーナーさんに紹介しますので」

「『きゅぃっ』……わかりました」

 

 真っ先に返事をしたのは腹の虫。外は大雨だが今日も美浦寮には朝食の時間がやって来た。

 

「あっ、ドーロちゃんおはよう~。えへへ……」

 

 寮食への道中、リズちゃんが待っていた。朝からニコニコと上機嫌の様子だ。

 寮食の入り口で列に並ぶ。今日は土曜日で授業がないせいか、平日よりもややのんびりした雰囲気だ。授業のある日は始業時間に合わせなければならなくて、ちょっとした戦争みたいになっていたのだが。

 トレーを片手に配膳係の前にたどり着くと、例によって特製トレーのお出ましだ。いつものお姉さんに替わってお(ひつ)が丸ごと載ったそれを手渡してきたのは、生徒よりちょっと年上に見えるウマ娘の配膳係だった。

 

「ヴェントドーロさんですよね。主任からの言付けで、今日から朝のご飯はお櫃で出させて欲しいと」

 

 2段になったいつものトレー。上段にはお櫃がドンと乗っかって、その隣には空の丼とお新香とか海苔とか納豆とかが積み重なっていて、下段にはこれまた大きな丼鉢に山盛り野菜マシマシのお味噌汁。それから丸っと一本物の卵焼きが数本と焼き魚、さらに煮野菜の大鉢まで。

 朝食なのでさすがにトレーは一つだが、ウマ娘分量でもたっぷり2~3人前はあるそれを掲げて歩く。リズちゃんを先頭に席を探すと例によって道が開いて行くが、混んでいないこともあってすんなりと席が決まった。いつものように3人並んで席に着こうとすると、今朝はそこに混ざってくる声。

 

「おはようさんだよ。お三方、元気にやってるかい?」

 

 顔を上げるとそこにいたのは寮長のイソノルーブルさんだった。

 

「あらまあ寮長さん、おはようございますう。食堂(こちら)の方でお目にかかるのは珍しいですねえ」

「そうだねぇ。ルジェとはいつも厨房(キッチン)の方だしな」

 

 朝食のトレーを抱えた寮長さんは、ここ空いてるかいと尋ねて俺の前に陣取った。

 

「いやぁ~、たっぷり食べるのは聞いちゃいたけどさ、改めて間近で見るととんでもない量だねぇこりゃ。

 そりゃルジェが目の色変えて調理に没頭するわけだよねえ。想い人には美味しい物いっぱい食べて欲しいもんなあ」

「寮長さあん。そのお話はしないでいただけますう?」

 

 声に振り向くとルジェさんが少し頬を膨らませて抗議の姿勢だ。ただ本気で止めて欲しいようでもなかったが。そして背後からはリズちゃんからなにやら闘志めいたものがじわじわと届いてくるのを感じる。想い人と聞いてスイッチが入ってしまったのだろうか。

 寮長とルジェさんの話は寮長がほぼ一方的にルジェさんをいじる形で進む。内容はまあ……俺とのことらしいがよく分からない。しかしそれと共に俺の両サイドからの()が増してくるので、挟まれる形になる俺はだんだんと居づらくなってくるし、なにより腹の虫がそろそろ黙っていなかった。

 

『ぐぉろろrrrr……』

 

「おっと。ヴェントドーロの腹の虫がそろそろ我慢しきれなくなってきた感じだねぇ。話し込んでしまって悪かったね、それじゃ食べようか」

「リズがご飯よそうね」

 

 ルジェさんが手を伸ばしかけたお櫃にリズちゃんが機先を制して取り付いた。行き場をなくしたルジェさんの手が空を切るが、そこは1年先輩の余裕を見せてか素直に引き下がる。そして朝食が始まったのだが……。

 

 白いご飯が山と盛られた丼、それを2口3口で空にしてテーブルへ。間髪入れずおかずに手が伸び、返す勢いで味噌汁を吸い込む。そして再び丼に手を掛けると綺麗になくなっていたはずのご飯は再び山盛りに。それと同時に隣のリズちゃんがなにやら大騒動になっている気配もするが、そっちの方まで気が回らずにひたすら食事を掻き込む作業は続く。

 箸を付けるたびにゴソッゴソッと音を立てるように減っていくおかず。味噌汁の具も大根やにんじんと言った根野菜が汁の上に盛大に山盛りになっていたものが掻き消えていく。焼き魚は骨のない切り身なのが助かるが、これも一度に2切れ3切れと消え既に影もない。お新香だってご飯と共にいつの間にか消滅していって、とうとう丼に白いご飯がよそわれなくなったとき、俺の箸も止まった。

 

 間髪を入れず控えめにコトリと目の前に置かれた湯飲みを手に取り、それまでとは打って変わってゆっくりとした動作で熱いお茶を啜り込む。『はぁぁ~~』と溜息を漏らして辺りを見回せば、ニコニコ顔で俺を見ているルジェさんと、逆側はすっかり空になったお櫃の前でしゃもじ片手にぐったりしているリズちゃんの姿。そして正面では座ったまま顔を引きつらせてドン引きになっている寮長。

 

「……なぁヴェントドーロ」

「なんでしょうか?」

「お前さんのその腹どうなってるんだい。あれだけあった食事の数々、10分そこらで全部平らげて全然膨れてこないじゃないか」

「いえ、膨れてますよ?」

 

 寮長の疑問に答えるべく、その場で立ち上がって部屋着の裾を捲り上げようとする。

 

「! いやいや! 見せなくていい!

 あたしが言いたいのは食べた分量に対してその様子は釣り合わないだろうと言うことさ」

「はあ……、私もよく分からないんですよねこれ。自分のお腹ですけれど」

 

 なんとも間抜けな回答だが分からない物は仕方ない。やれやれといった風情で(かぶり)を振りつつ、「ウマ娘の中でもとりわけあんたは神秘だねぇ」と言葉を残して寮長がようやく自らの朝食に取りかかる。ルジェさんも、ぐったりしていたリズちゃんもいつの間にか食べ始めていて、今度は俺だけが取り残されたような形に。そんな俺が手持ちぶさたにお茶を啜っていると突然。

 

『……ぎゅぎゅ?』

 

 腹の虫が何かを訴えた。その声に反応して3人の箸が一斉に止まって、驚愕の色に染まった6つの視線が俺の腹に注がれる。

 

「……まだ、足りてないんでしょうか、ね?」

 

 湯飲み片手に引きつった照れ笑いを披露する他なかった。

 




次回、未知ではない遭遇


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接近遭遇

動きそうで動かないようでやっぱり動いてる、そんなお話。


 

 みんなの朝食も無事終わり、それぞれが自室へと向かう。俺は着替えたらルジェさんと共に彼女のトレーナーのところへと赴く事になっているのだが。

 

「ルジェさん。トレーナーさんに会うのに何を着ていけば良いと思います?」

 

 話をするだけなら制服でも良いだろうが、走りを見たいと言われそうならジャージが良いのだろうし。それならジャージで行けばどちらにも対応できて良いようにも思えるが、何かトレーナー欲しさにがっついてるように見えてしまうのも癪に感じる。なかなか面倒くさい思考回路に嵌まってしまったと自分でも感じていると、一足早く着替えを終えたルジェさんがスポーツバッグ片手に答えてくれた。

 

「そうですねえ、今日は大雨ですから走りを見せて欲しいとは言われないと思いますけど……、チームハウスに行くまでで濡れちゃいそうですから制服というのも……。

 結局、ジャージで良いのではないでしょうか」

 

 という、現実的な答えが返ってきた。なるほど、濡れるからジャージという理由は腑に落ちた。

 

 §

 

 傘を片手に寮の昇降口を出た。朝目覚めた時ほどの激しい降りではなかったが、それでもしっかりと雨音の立つ降りが続いている。水たまりを避けながら、3色の傘が舗道を歩く。

 

「こんな大雨なのに、リズちゃんまで来ていただかなくても」

「ううん、大丈夫だよ。リズはドーロちゃんのお世話係だからね」

「ルジェさん。リズちゃんが一緒でも良かったんでしょうか?」

「問題ないと思いますよう」

「ですか」

 

 悩んでいたのは俺だけ、ということで結論が出てしまった。なんとなくまだ釈然としないが、ルジェさんが良いと言うのなら多分良いのだろう。

 

 先頭を歩くルジェさんにくっついて進んでいくと、校舎の裏手でトラックからもほど近いエリアに鉄筋コンクリートの建物群が見えてきた。ルジェさんは迷うことなくその一つに進む。昇降口を土足のまま入り、階段を上がって2階へ。そこには『カペラ』と書かれた引き戸があった。

 

「ここがチーム<カペラ>のチームハウスですよ。いつもはチームメイトの人たちや他のトレーナーさん方もいて活気があるのですけど。

 今日は雨のせいか、まだどなたもいらっしゃらないみたいですねえ」

 

 戸の前で簡単に説明してくれたルジェさんだったが、特にノックもないままどんどん中へと進んでいく。俺とリズちゃんは初めて目にするチームハウスの様子に目を奪われたまま、おずおずと踏み込んでいった。入り口は前室になっていて奥にもう一つ引き戸がある、思っていたよりも重厚な造りだ。リズちゃんが2つめの戸を閉めると、外の雨音は聞こえなくなった。

 

「このお部屋はミーティングルームですねえ。チームメイトは普段このお部屋に集まって、お話ししたり打ち合わせをしたり。時にはパーティーを開いたりもするんですよ」

「パーティ、ですか?」

「そうです。先輩方の祝勝会ですとか。あとは、クリスマスパーティーとか」

「クリスマスまで」

「いいなぁ、楽しそう」

「楽しいですよ」

 

 説明をしてくれながらニコニコと笑顔を見せるルジェさんは本当に楽しそうで、チーム<カペラ>は普段からとても良い雰囲気で仲良くやっている様子なのが感じられた。

 そのミーティングルームの片隅には優勝トロフィーやレース名を記した大きなタペストリーが所狭しと掲げられたガラス戸棚があって、このチームに所属してきた先達(せんだつ)の足跡が誇らしげに飾られている。そうかと思えば多分生徒の私物なのだろう、テレビの前に置かれたソファーには大小様々なぬいぐるみが積まれていたりもする。ホワイトボードは半分ぐらい落書きで埋まっていたりもするし、個人の名前と『おやつ箱 専用 触るな』と書かれた段ボール箱が置いてあったり、机の上にはファッション誌なのか煌びやかな表紙の雑誌が数冊無造作に残されていたりもする。

 

 手近なイスの上に持っていたスポーツバッグを置いて、ルジェさんが奥のドアの前へと進んだ。

 

「この奥がトレーナーさんのお部屋ですよ」

 

 ルジェさんがドアをコンコンとノックする。

 

「ルジェです。白埜(しろの)トレーナーさん、ドーロちゃんも一緒に来ました。もう一人付き添いもいますがよろしいですか?」

 

 ルジェさんの落ち着いた声が俺たちしかいない室内に響く。すると少し間があって、ドアの向こうからややくぐもった声がする。

 

「どうぞ、みんな入って下さい」

 

 失礼しますとドアを開けてトレーナー室に入る。事務机が壁際に5つ並ぶ中、真ん中の席でその人は俺たちが来るのを待っていた。

 

「朝早くからお役目すまないね、ルジェント」

「いえいえ、トレーナーさんもきちんとお休みになって下さいね? 夜明けと同時のLANEなんて、(ろく)に眠ってないと白状してるようなものですよ」

「ははは、相変わらず厳しいね。いや、今朝は雨音で目が覚めてしまってね」

「まあ、トレーナーさんもですか」

「大雨だと慌てて屋内練習場を抑えて……」

 

「……それで、その尾花の()がヴェントドーロさん?」

「そうです。彼女がお話しした……」

 

 ルジェさんの小言に苦笑いを返す横顔。白埜と呼ばれたその男性に対して、俺はなぜか既視感を覚えた。しかし、どこで見かけたのか。

 どこかで会った? いや、少なくともこの3日の間でこの人を見たこともない。

 ドーロの記憶? それはもっとないだろう。この人よりももっと身近なルジェさんのことすら思い出せなかったのだし。

 

「……ちゃん? ドーロちゃん!」

「うぇっ!?」

 

 ルジェさんの呼び声でハッと我に返った。どうやら思案に暮れてしまって、トレーナーさんの呼びかけに答えられなかったようだ。

 

「す、すみません。少し考え事をしていました」

 

 頭を掻きつつ首を垂れる。

 トレーナーさんは優しく眼を細めたままこちらを向いていた。

 

「チームハウスとかトレーナーとか初めてだろうからね。少し緊張してしまったかな?」

「い、いえ。そんな事もないのですけど」

「なら良かった。

 改めて自己紹介しようか。私は白埜和良(しろのかずよし)、このチーム<カペラ>でサブトレーナーをしています。担当は今のところ2人、そこのオンダルジェントさんともう一人、高等部3年でシニア級の生徒を受け持っています」

 

 白埜和良と自ら名乗ったトレーナー。

 

 フルネームを聞いてやはり思う。この人とはどこかで()()()()()と。

 

 だが、それがいつどこでなのか思い出せないまま、俺は挨拶を交わす。

 

「ヴェントドーロと言います。今回はお忙しい中お時間を作っていただいてありがとうございます」

 

 改めてぺこりと頭を下げる。

 

「その後にいる黒鹿毛の方は……」

「あ、あのっ。リーゾアラチェートです……。ドーロちゃんの付き添いをしてます」

「そうですか。これも何かの縁かな。よろしく」

 

 こうして、俺と白埜トレーナーとのファーストコンタクトは果たされた。

 




次回、一緒じゃダメですか。


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三位一体

ここすきがいつの間にか結構増えておりまして、未だにあの一覧表の見方全然分からないんですけど、どうやら右端の数字が連打された数っぽい。
……12とか11とかあるよ?

熱烈応援エール確かに受け取りました。これからもがんばって書いていきます(なお激遅進行)。


 

「実はね、ヴェントドーロさんのことは教務と医務の両方から話を聞かされているんだ」

 

 開口一番もたらされたのは驚きだった。

 俺はもちろんルジェさんもリズちゃんも、その場にいたトレーナー以外の3人全員が顔を見合わせるほどには。

 

「教務の方からは事実関係だけだけどトレーナー陣に対する一斉通知があったし、医務の方は医師の織田先生から直々にね」

「織田先生、ですか」

「それは……、もしかしなくてもハク先輩絡みで、でしょうか?」

「そうだね。ルジェントの言うとおり、ハクタイセイのリハビリトレーニングが非常に上手くいった手腕を買われたようだ。

 ……その様子だとヴェントドーロさんは織田先生のことを知っているのかい?」

「はい。3日前に記憶喪失と、おそらくそれが原因で走れなくなってしまっていたので、その治療を兼ねた指導を先生にはしていただいています」

「そうなんだね。それで経過はどんな感じかな?」

「走る方はほぼ治りました。クラスメイトに遅れることなくトレセンのダートコースを1周走りきれるようにはなっています。……ただ……」

「ただ?」

「記憶喪失と、あとゲート難がまだです、多分」

「多分というのは?」

「記憶喪失後のゲート経験が1回しかないので、治っているのかどうか分からないのです」

 

 トレーナーは手を(おとがい)に添えて目を伏せた。どうやら思案しているようだ。

 

「織田先生から来たのは、少々難しいことになったウマ娘がいるから手を貸してくれないかというお願いだったんだ。それが昨日の夕方で、昨日は他にも昼の内に教務から連絡が来て、そうしたら今度は夜になってルジェントから本人に会って欲しいとLANEが届いた。

 急に話が複数から飛び込んできたものだから少々面食らっていたけど……、今ここでその全てが繋がったというわけだね」

 

 彼はそのままの体勢でここまでの経緯をつらつらと語り始める。その終わり、瞳は俺を見据えて鋭く刺さった。だがその鋭さも一瞬だけ。

 

「……すみません。なにやら色々と大事になってるみたいで」

 

 俺が詫びている間に、その瞳はすぐに温和な光に戻っていた。

 

「いやいや、君がそんなに恐縮することはないよ。

 さてそれで。ゲート難については何か方策を織田先生から聞いているのかな?」

「そうですね。織田先生ではなく教官の方からですけど、週明けの月曜日から木曜日までの4日間、ゲートの特訓をすることに。

 担当は織田先生にという話は伺っています」

「……木曜日まで……そうか、来週末は選抜レースだったね」

「そうです。この機会を逃すと夏休み明けまで選抜レースがないので、デビューが遅くなりすぎるだろうと教官からは言われました。

 なので少しでもゲート難を解消して下さいと」

 

 彼の眉が訝しげに皺を寄せた。

 

「うーん……、教務がそこまでするのは今まで聞いたことがないね」

「そうなんですか?」

「授業については教務の担当だけど、特定の生徒を特別扱いすることはないのが通例だよ。もちろん不得手があれば補習や課外授業を設定して対応することはあるけども……、それにしたって普通はグループ練習が精一杯だね」

 

 ひとりだけ特別メニューというのは前例のないこと。トレーナーはそう強調する。俺から考えられるとすれば生徒会長の差し金くらいしかないが、それは憶測に過ぎない。それに会長との話を内密にしておくことは俺の方から申し出たことで、ここでそれを明かすのは筋違いだとも思った。

 

「……どうしたものかな……そうだ、一度僕の方から織田先生に特訓の詳細を尋ねてみよう。何か分かったら連絡するから、ヴェントドーロさん、LANE登録をお願いしてもいいかな?」

「それは構いませんけれど……良いんですか? トレーナーさんお忙しいのでは」

「まぁ忙しいのはそうだけど……。三方からそれぞれ話がやって来て、ここで収束した。そこには何か運命のようなものがあるんじゃないかと思うんだ。

 ……だけど少し時期が悪いかな、これは」

「というと?」

「選抜レース直前だからね」

 

 白埜(しろの)トレーナーが言うには、トレーナーが直接俺に助言を下すのは選抜レース直前というこの時期、他の生徒から俺がどう思われるか懸念があるということだった。

 

「これがもう少し前だったら少々のことは問題なかったのだろうけど……、今はみんなピリピリしている時期だからね。いらない刺激は避けたいね。まぁその辺も絡めて織田先生と話を詰めてみるよ」

 

 よろしくお願いしますと一礼した後、トレーナーとLANE登録を交わす。それで俺の話は一旦終わりになった。

 続けてルジェさんのトレーニングの話に移ったのだが。

 

「さて、ヴェントドーロさんの件はとりあえず終わりだ。

 ルジェント、お待たせしたね。今日のトレーニングスケジュールの詳細を渡しておくからこれでお願いするよ」

「わかりました。

 ……あのー、トレーナーさん。今日のトレーニングってわたしひとりでしたよね?」

「そうだね、ハクは安田記念の疲れがまだ残ってるからお休みだし。他のメンバーは別メニューだしね」

「それじゃ、ドーロちゃんと一緒にトレーニングしちゃいけませんか?」

「うぇぇ? ルジェさん、私ですか?」

 

 前触れもなく巻き込まれて目を剥いていると、渋い表情をしたトレーナーさんからダメ出しされた。

 

「ルジェント~? それはダメだよ、ヴェントドーロさんはチームメンバーじゃないんだから」

「ええ~? ダメなんですかあ? 一人で屋内トレって淋しいじゃありませんかあ」

「トレーナー付きの()じゃないと施設での自主トレは禁止だよ。それに彼女は選抜レースを控えて本人も周りも微妙な時期なんだから無茶を言わない。

 さあ時間も押してしまってるし、トレーニング行ってきなさい」

「はあい……」

 

 心底残念そうで未練がましい表情をまき散らしつつ、ルジェさんは重い足取りでトレーナールームから去って行った。ドアが開いたときにミーティングルームから話し声が聞こえたので、他のチームメイトも徐々に集まってきているようだ。

 これ以上長居も無用だと思って帰ろうとすると、白埜トレーナーがリズちゃんを呼び止めた。

 

「ところで、リーゾアラチェートさんは普段何を? ヴェントドーロさんの付き添いだと聞いたけども」

「リズはドーロちゃんのクラスメイトなの。ドーロちゃんは普段の生活とか練習とかで忘れてしまったことが多いのでサポートしてるの」

「なるほど、同じクラスということは君も競走ウマ娘なんだね。それじゃ選抜レースが近いよね? サポートだけじゃなくて自分の練習もちゃんとできてるかい?」

「うん、それは大丈夫」

「なら結構だね。選抜レースの走りっぷりを楽しみにしておくよ」

 

 ニコッと笑ったリズちゃんに対して、トレーナーも笑みを返した。

 

「トレーナーさんも見に来るの?」

「もちろんさ。ああでも、僕はサブトレだからね、誰をこのチームに招き入れるのかまでは決められないんだ。上に推薦はできるけど」

「リズはね、ドーロちゃんと一緒のチームがいいなって。だから選抜レース、がんばるよ」

「そうか、その願いが叶うといいね」

 

 今度こそさよならを伝えて、俺たち二人は<カペラ>のチームハウスを後にする。

 ミーティングルームには3人ほどウマ娘がいてこちらを窺っていたけれど、特に何を言われる事もなかった。

 




次回、とんち娘。


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とんち姫

ストックがまるでない状態で進めているので、執筆が頓挫すると途端に定期更新がままならなくなります。
現在も次話を執筆中ですが……果たして金曜日に間に合うのか。(この話は水曜日更新)
スカーレットの絡みが見たくてマーちゃんをお迎えできましたが、公式でここまでやっちゃうのなら二次でも相当掘り込んだ事書いても(描いて)大丈夫だな、なんて感想を抱いてました。


 

 チームハウスに来た時と同じように、傘を並べてリズちゃんと共に寮に戻った。

 雨はまだ降り続いていたがかなり弱くなってきていて、遠くの空には明るさも見えて来た。ところが戻ってきたのは良いものの、今日の予定は全くの空白だ。

 

 土曜日だから授業はないし、チームに所属していない身では練習場が自由に使えないのでダメ。外は止みつつあるとは言ってもまだ雨だから、走りに出るのも少し憚られる。

 つまり授業の予習復習をして選抜レースの登録をしてしまえば、今日明日はやることが全然なかった。

 

 例によって寮室まで一緒に来てしまったリズちゃんに訊ねてみる。

 

「ねえリズちゃん、選抜レースの登録はもう済ませました?」

「うん、昨日のうちにもう送ったよ。芝の2000と2400だね」

「じゃあ私ももう決めてしまいましょう」

 

 スマホを操作して学園アプリを起動する。トップページの真ん中に『選抜レース登録』と派手に書かれた赤いアイコンがすぐ見つかった。タップして注意事項を読む。

 この登録フォームから登録できるのは来週末の選抜レースに限られることや、月曜日の〆切時刻以降は出走レースの変更はできないこと。但しレースの出走取り消しはレース前日までできること。その他、適正に見合わない出走登録はしないこと等々と書かれた諸注意をスクロールさせて行った先、ページの一番下に登録フォーム本体が見えてきた。

 リズちゃんが隣に来てスマホを覗き込む。

 

「フォームの一番上にクラスとドーロちゃんの名前があるのを確認してね、それからレースの日付も間違いがないか見てね。少し下にスクロールさせるとレース選択が出るよ」

 

 リズちゃんの言うとおり、さらにスクロールさせていくと選択ボックスが現れた。ボックスは4つあるので最大4レースまではエントリーできるようだった。

 

「これね、最大で4レースまで登録できるらしいけど、そんなことする人っているのかなぁ?」

「どうなんでしょう。なかなかスカウトされないと、焦って無茶をする人も出てきそうな気がします」

「そんなことをしても余計に決まらないってリズは思うんだけど」

「あるいはどんなレースでも1着取れるって自信のある人とか」

「それは……もしかしたら、あるかも?」

 

 そんなバケモノみたいな人がいるとも思えなかったが、ここは日本中から猛者が集まるトレセン学園だ。年度によってはそういうウマ娘が現れることもあるのかも知れない。

 

 出走登録はここまで来るともう悩むこともなく、芝の1600メートルと2000メートルをそれぞれ選択。リズちゃんが見守る中、確認画面で決定をタップしてエントリーが完了した。

 

「完了と……、これでいいですね」

「ドーロちゃんは芝のマイルと2000だね。2000で一緒に走れるといいね」

「それではどちらか一人しかスカウトされないかも知れませんよ?」

「あっ」

 

 もちろんそんな事はないのだろうけど、1着の方がスカウトされやすいのは明らかだろう。それに別の組になったところで、他のウマ娘が1着になってしまえば結局は同じ事。だから俺たちのやるべき事はひとつだけだ。

 

「ふふっ、冗談ですよ。でも組が一緒でもそうじゃなくても全力で走る、これだけは変わらない事かと」

「そうだね。じゃないとスカウトされるなんて夢のまた夢だよね」

 

 お互い頑張ろうとエールを交わす。

 

 おそらくリズちゃんには一発でスカウトが来そうな予感がする。対する俺はどうかといえばゲート次第の部分が大きいし、走りの方にしたって道中の駆け引きとか取り戻せていないことは山盛りだ。どう考えても俺の方がスカウトの来ない確率は高い。『お互い』とは言ったものの、頑張らなければならないのはむしろ俺の方だった。

 

『ピロン』

 

 そんな事を考えているとLANEの着信があった。さっそく白埜トレーナーからかと思ったら、相手はルジェさんだった。

 

<ドーロちゃん、やっぱりジムに来られませんかあ? )

[今日は仲のいい人が誰もいないんですよう)

[淋しいですう)

 

 別れてからまだ30分も経っていないのにと軽くショックを受けつつ、リズちゃんにも見せて考えを聞いてみる。

 

「やっぱり行ってあげた方が良いんでしょうか?」

「でもチームに所属してないウマ娘は練習場使用禁止だよね……」

「ですよねえ……、うーん」

 

 しばらく向かい合って悩んでいたが、そうだと言ってリズちゃんが何かに気づいたようだ。

 

「練習しちゃいけないってトレーナーさんに言われたよね?」

「そう……言われましたよね」

「じゃぁ、練習しなければ良いんじゃないかな?」

「うぇ?」

「見学って形だったら叱られないかも」

「そうか、そうかも知れませんね。服もジャージじゃなくて制服にして」

「そうそう」

 

 頓智(とんち)みたいな話だが、確かに『練習はダメ』と言われたものの『入ってはダメ』とまでは言われていなかった。気がついたリズちゃんには感謝だ。

 それならばと、まずはルジェさんに今から行きますとLANEを返し、返信を待つ間に制服へと着替えを始める。リズちゃんの手伝いで素早く着替え終わると、ちょうどのタイミングでLANEが返ってきた。

 

<来てくれるんですね! )

[レッグプレスしながら待ってますねえ )

 

 文面から明らかにウキウキしている様子が浮かんでくる。湧いて出る苦笑を堪えつつ寮の昇降口へ急ぐと雨は既に止んでいて、雲の切れ間が青く覗いていた。

 照り返す水溜まりを右へ左へと避けつつ、ジムの建物へ速歩(はやあし)で駆ける。玄関で靴を脱ぎ、奥へ。壁際に並んだマシンの一角で黙々と汗を流す彼女がいた。

 

 上下に動くマシンの(おもり)は相当な大きさで、彼女が驚いて脚を痛めないように、俺はゆっくり目立つようにそのマシンに近づく。

 

「ルジェさん」

 

 錘が下がったタイミングで声をかけた。ピッと銀色の耳が動き正確にこちらを捉えるとともに、目が合う。

 

「ドーロちゃん!」

 

 俺を呼ぶその声は結構大きく響いた。思わず人差し指を唇に当てて、静かにしましょうとジェスチャーを送る。ルジェさんは手のひらを口に当てて、しまったと目を丸くした。

 レッグプレスに腰掛けたままアワアワしているルジェさん、大声を出してしまったことが相当恥ずかしかったのか見るからに冷静さを欠いている。かわいいかよ。

 

 周りでトレーニングしていたウマ娘たちは皆集中していたせいか大した騒ぎにもならず、俺とリズちゃんはルジェさんとすんなり合流した。

 

「遅くなってすみません。リズちゃんが知恵を出してくれたおかげです」

「知恵?」

「うん。トレーナーさんはね、『練習場を使った自主練はダメ』って言ったけど、『練習場に入っちゃダメ』って言わなかったよねって」

「あっ、言われてみればそうでしたねえ」

「だからこうして制服を着て、見学者という体でいる分には大丈夫だろうと」

 

 その目論見(もくろみ)は見事に当たり、その場にいる誰からも俺たち2人が咎められることはなかった。もちろんトレーニングをしているルジェさんの手伝いをちょこちょこと差し挟んで、サポート役として振る舞ったりはしていたが。

 

 ジムトレーニングはマシンを使う。その負荷を切り替えたりポジション調整したりを一人でやるのは案外手間が掛かるものだと分かった。特にウマ娘のトレーニングともなると錘の重さひとつにしても100キロの単位が普通に出てくるので、ちょっとした操作ミスが大ケガに繋がりかねなかった。中には一見してどう使うのか分からないマシンもあったりして勉強になる。

 

 見学のつもりで来ていたのが、いつしか時間を忘れてサポートに、会話にと熱が入っていた。そんな熱中した時間をいつもの声が遮る。

 

『きゅ、きゅ、きゅ、きゅぅぅん』

 

 まるで時報みたいな鳴き声がひときわ大きく響いて、俺たちの話し声では振り向きもしなかった周りのウマ娘が一斉にこちらを見た。集中した視線が恥ずかしくなり顔を伏せると、ルジェさんからの一言が助け船になる。

 

「まあまあ、今日もお腹の虫さんは元気ですねえ。12時でちょうどトレーニングも終わりですし、お昼食べに行きましょうかあ」

 

 もうお昼? と驚いて辺りを見回すと、確かに壁の掛け時計は真上を少し過ぎた時分に届いていた。

 




次回、濡れたしっぽ


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しっぽ仕上げ職人

忙しくていつもの時間に更新できませんでした。

感想いただきました、ありがとうございます。心の糧ですねえ。

今回も腹の虫が暴走気味……。


 

「一旦寮に戻って汗を流して着替えてから、学園のカフェテリアに行きましょうね」

 

 ルジェさんの提案に残る2人も同意して、3人連れ立ってすっかり晴れ上がった空の下を歩く。6月の太陽はほぼ真上。その光線に熱せられて湿気をたっぷり含んだ空気が水たまりの残る地面からむわっと立ち上る。不快指数がすごくて思わず声が出る。

 

「なんだかすごく蒸し暑いですね……1歩足を出すたびに体に重りが乗るような」

 

 ルジェさんリズちゃん共々それには同意してくれる。

 

「この季節は仕方がありませんよねえ。夏のレースではむしろ雨が降ってくれた方が楽までありますし。

 ヒトは濡れるのを嫌う傾向にありますけど、ウマ娘……少なくとも競走ウマ娘は濡れるのが案外平気というか、走ると暑くなるので雨の方が涼しくてかえって調子が上がるというか」

「そうなんですね」

「バ場は晴れた方が走りやすいけど、リズも暑いのは苦手かな」

 

 2人とも同じ意見で一致する。体温が高いせいもあってウマ娘は暑いのが苦手だが、寒い分には平気という話になった。

 

「レースでG1に出ると勝負服を着るわけなんですけど、結構際どいデザインで肌の露出が多めだからよく聞かれるんですよね。『寒くないですか』って。でも全然平気で」

「勝負服は分からないけど、リズは雪の降る中でも半袖ハーフパンツで走ってたなぁ」

「それ、寒い寒くないの前に肌がしもやけになったりしませんか」

「うん、だから冬場は肘とか踵とかほっぺとか、あちこち真っ赤にしてたね」

 

 手とか顔とか真っ赤で痛々しいけど元気いっぱいのちびリズちゃん……想像するとこれまたかわいい気配しかしない。いやそんなことよりも、問題は今この熔けそうなほどの熱気で。

 一度噤んでしまった口は3人とも再び開くことはなく、そこからは無言のまま寮まで歩いて行った。

 

 §

 

 昼間は寮の大浴場がまだ使えないので、この時間帯に汗を流すには寮室備え付けのシャワーブースを使うのだとか。そんなわけでルジェさんはさっそくシャワーに籠もって水音を響かせ始めた。俺とリズちゃんはその間寮室で待機する。

 

「そういえばさっきリズちゃんは、小さい頃冬でも半袖で走り回ってたって話してましたよね」

「そうだよ。リズはね、小学校に上がる前からクラブに入ってたの」

 

 プリ子が前に言っていた、リズちゃんはクラブに入って走っていたと。それが小学校より前からだったのは初めて聞いた話だ。

 

「家は埼玉なんだよ。すぐ近くに大きな川があって、堤防の下がウマ娘専用レーンだったからいつも走ってたの。

 レーンはどこまでも続いてたから、隣の隣の町まで走っちゃったことがあってね。おうちに帰ったらもう日が沈んで真っ暗で、ママに叱られちゃった」

 

 えへへ、とばつの悪そうな表情を見せるリズちゃんだったが、それは取りも直さず小学生のうちから何十キロも走れていたという話な訳で。スピードはともかくとして、その破格なスタミナがあれば長めの距離が得意なのも頷ける。対する俺の方は小さい頃のことや実家の事など、まだなにひとつ思い出すことはできないままでいる。

 

 リズちゃんの昔話を意外なタイミングで聞けて感心していると、石けんの香りを靡かせてシャワーブースからルジェさんが出てきた。

 

「ふう、さっぱりしましたあ。ドーロちゃん、すみませんけれどしっぽを乾かすの手伝ってもらってもいいですかあ?」

 

 二つ返事でチェストからドライヤーを取り出し、構える。

 ルジェさんにはデスクチェアーに反対向きに座ってもらって、まだ湿り気の残るしっぽをこちらに垂らしてもらう。反対側ではベッドに腰掛けたリズちゃんと向かい合ってなにやらおしゃべりが始まった。

 

 渡されたしっぽオイルをしっかり馴染ませてからドライヤーで乾かしていく。

 丁寧に乾かすこと10分あまり。あらかた乾いたところでブラシを取り出し軽く梳いていく。梳いた先から艶々でまとまりのあるしっぽの毛並みが表れて、きらきらと銀色に輝くルジェさんの美しいしっぽが復活していく。

 

「できましたよ」

 

 声をかけた途端、銀色のしっぽがスルッと抵抗感なく俺の手から離れて巻き取られていく。振り向き気味にしっぽを確認するルジェさんの表情は満足げだ。

 

「ありがとうございましたあ。もう手慣れたものですねえ」

「そうですか? まだまだおそるおそる梳いているんですけど」

「すごくお上手でしたあ。今度から全部ドーロちゃんに仕上げて欲しいぐらいですねえ」

 

 予想外に褒めちぎられてしまって恐縮してしまう。続いてリズちゃんも仕上げ希望に名乗りを上げてきたので、次のお風呂タイムからはなかなか大変なことになりそうだ。

 

 そうこうするうちにルジェさんも制服に着替え終わって学園カフェテリアに向けて再出発となった。時計の針は午後1時を迎えていた。

 

「お昼から結構時間経っちゃったけど、お腹の虫さんは静かに待ってたね」

 

 リズちゃんが冷静なツッコミを見せた。言われてみればこの1時間ほどは腹の虫が一声も上げていなかった。ところが。

 

「ドーロちゃんのお腹の虫さんは賢いですねえ」

『きゅぃきゅぃ!』

「うえぇ? ルジェさんには返事!?」

 

 思わず声を張り上げてしまった。これはまずいかなと思いリズちゃんの方に目配せすると、少し悲しそうな表情が垣間見える。

 そうでなくても最近の腹の虫はルジェさんに懐いてきているように感じられる。晩ご飯でルジェさんの手料理を2回も食べているせいなのか、他に理由があるのかは分からないが。

 今の状況で俺が取り繕ってもリズちゃんが機嫌を直すかどうかは疑問が残る。なんとか腹の虫自身がフォローしてくれないかと気を揉んでいると、動きがあった。

 

『ぎゅいぎゅいぎゅ、ぎゅるりるきゅっきゅ』

「え? リズにも褒めて欲しいの?」

「うぇ!? リズちゃんと会話してる!? ていうか腹の虫が何言ってるか分かるんですか?」

「うーん? なんとなく伝わってきた、感じ?」

「うぇぇ……私には分かりませんよ……どういう事ですかそれ」

 

 こうなるともはや完全に俺とは別個の生き物としか思えなくなってくる。一体全体俺の腹の中はどうなってしまっているのだろう。

 




次回、カフェテリアの真ん中で叫ぶ。


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カフェテリア競走プレオープン特別 葉隠ステークス

月曜日の更新に間に合いませんでした……。(これを出したのは水曜日)

相変わらずあっちへふらふらこっちにふらふらと寄り道ばかりしている3人です。


 

 土曜日のカフェテリアは学園の授業がなく、午後1時を回ってお昼を完全に過ぎてしまったこともあってかガラガラだった。鼻をくすぐる食べ物の良い香りに反応して、腹の虫が野太い声を発して蠢き始める。

 ここまでの道中では腹の虫はすこぶる上機嫌で、1歩歩くたびにきゅんきゅんぴいぴいとかわいい声を出していたはずなのだが、やはり食欲は本能なのか食べ物を目の前にすると()が出るようだ。

 

 配膳係のお姉さんに声を掛けて特別トレーを受け取る。そのまま配食コーナーに進んでいつものように料理を積んでいった。最後はご飯と汁物のコーナーだが、ここでも朝食に引き続いてお櫃が出てきた。どうやらこれからずっとこういう出され方をするようだ。

 

「お姉さん、予約席を使わせてもらって良いんですよね?」

「ヴェントドーロさんね? はいそうですよ、場所は分かりますか?」

「あの円い柱の陰でしたよね、窓際の」

「そうそう。その様子なら大丈夫そうね。スタッフでも時々迷うので、あそこは」

 

 カフェテリアの真ん中なのにスタッフさんでも迷う場所というのはどうなのか。やはりなにか不思議な力でも働いているようにしか思えない。

 

「それじゃルジェさん、リズちゃん、参りましょうか。迷うといけないので私にしっかり付いてきて下さい」

 

 普段ならリズちゃんが先頭を切って進むところだが、それでは目的の席にたどり着けなさそうな予感がしたので今回は俺が先陣を切って進む。トレーに乗せた料理の山で前が見づらいが、周りに人がいないせいでなんとかぶつからずに切り抜けた。最初はやはり少ないながらも他の生徒達の注目を集めていて、噂する声も聞こえていたのだが、予約席に到着したときにはその声も聞こえなくなっていた。

 

「着きました。ここです」

 

 振り返って2人が無事に付いてきているのを確かめて声を掛ける。直後にトレーをテーブルにドカンと置いたが、頑丈なそれは(きし)む音一つなく支えきった。続いてリズちゃん、ルジェさんが席に着く。

 

「……こんな場所、カフェテリアにありましたっけ?」

「私もスタッフさんに連れられて来るまで意識したことはなかった場所なんです。でも、あるんですよね確かに」

「ここね、本当に静かだし景色も良いし、お代わりも取りに行きやすいんだよ。すごく良い場所なの」

 

 キョロキョロと辺りを窺うルジェさん。その視線の先を追いかけてみるけど、先ほどまで俺たちに注目していた生徒の姿はなく、平穏なカフェテリアの光景が広がるのみだった。

 

「潮が引くみたいに周りから人の気配が消えましたね……カフェテリアの真ん中なのに、静かな森にいるみたい。でもこれならゆっくりとお食事を楽しめそうですねえ。ここ数日は周りが騒がしすぎて落ち着きませんでしたから」

 

 このところ食事のたびに起こっていた狂騒にはルジェさんも思うところがあったらしい。確かに食事のたびに周りは大騒動で注目を浴びせてくる。食事中は没頭して周りが見えなくなる俺はともかく、普通に食事をしているだけのルジェさんやリズちゃんからすれば周りが気になって仕方のない状況だ。それでも俺と一緒に食事を楽しもうと色々努力を重ねてくれているわけで、二人には本当に頭が上がらない。

 寮にはこんな場所がないから仕方がないが、カフェテリアだけででも静かに食事できる空間と時間が得られるのは助かる。あとは一心不乱に食べ尽くすまで止まらない俺の食べ方だけがもう少しおとなしくならないものか。

 

 そんなことを思っていたら、ルジェさんが何かに気づいたのか急に立ち上がって人を呼んだ。

 

「あっ、ハクせんぱーい!」

 

 手を伸ばして振る。それは彼女にしては珍しい行動で、視線の先には連れ立って談笑しながら歩く2人のウマ娘の姿があった。1人は焦げ茶色の髪を左サイドで一つ結わえにしている少し背が高めのウマ娘。その隣にはシルバーグレイの髪を肩の上で切りそろえた、先の1人よりは背が低めのウマ娘。そのどちらかが同じチームで白埜(しろの)トレーナーに指導されているハクタイセイさんなのだろう。

 ルジェさんの声が十分届く距離だと思ったのだが、2人はそれに気づくことなくカフェテリアを去って行ってしまった。

 

 残されたのは困惑した顔を見せるルジェさん。

 この場所は目立たない場所で見つかりにくいとは俺も感じていたが、こちらから声を出しても外の相手に届かないのは想定外だった。

 テーブルになにか仕掛けでもあるのか、それとも場所柄なのか。考えてもその謎は解けそうにない。

 

「きっとお話に夢中だったんですよ」

「……そう、ですよね」

「うん、あの様子ならたぶんそうだよ」

『ぎゅぎゅぅ』

「お腹の虫さんまで慰めてくれるんですね、やっぱりあなたはドーロちゃんに似て優しい子です。

 ごめんなさい。遅くなりましたね、それじゃいただきましょうか」

 

 両手を合わせていただきます。その直後からいつものように腹の虫が暴食の限りを尽くす、もはや普段通りと言って良い食事シーンが始まった。

 いやルジェさん普通に腹の虫と会話してたけど、それやっぱり何かおかしいから。

 

 §

 

 ランチを食べ終わってデザート(別腹)タイム。良く晴れた土曜日の午後、俺とリズちゃんは予定なし、ルジェさんもなしということで、ここ数日の内では一番のんびりとした時間が過ぎていく。

 

「周りの注目を浴びずにお食事できるのはやっぱり良いですねえ」

「……すみません……うちのお腹のせいで」

「ドーロちゃんが謝ることなんてことないんですよ。こういうのは見に来て騒いでる方がダメなんですから」

 

 紅茶を傾けながらルジェさんが静かに語る。リズちゃんはルジェさんの語りにうんうんと頷き返す。

 

 既に食後のケーキ(別腹)は3人とも5皿目に突入。とっくにカロリーを気にしないといけない領域にいるのではなかろうかとも思うが、誰一人としてそんな素振りを見せてはいなかった。デビュー前の2人はともかく、ルジェさんとか本当に大丈夫だろうか。というか他人の心配する前に自分の体重かとも思う。お風呂のたびに量ってはいるものの、今のところ増える気配はない。あれだけ食べたものがどこに消えているのか本当に謎だ。

 

 その5皿目もそろそろ終わりに近づいた頃、ルジェさんがとある提案を口にした。

 

「レースを見に行ってみませんか?」

 




次回、本物を見る。


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ヒト前に出た日

ちょっとしたフレーズに悩む日々です。おかげで更新は遅れがちに。
感想いただきました本当にありがとうございます。心の糧ですねえ。


 

「ドーロちゃんはまだ本物のレースを見たことがないでしょう? 練習を必死の思いで走ったとしても、やっぱり本番のレースとは全然違うんです。

 今までのドーロちゃんであればこれまでの積み重ねから分かることだったのかもしれませんけれど、今のドーロちゃんはその積み重ねがありませんから。なので選抜レースで選ばれた先にどんな世界が待っているのか、少しでも感じておいて欲しくて」

 

 本番のレースでは、一緒に走るウマ娘たちの本気が練習とは比べものにならないとルジェさんは言う。10何人が一緒に走り、勝つのはそのうちたった一人だけ。勝たなければ上には上がれないし、上がれなければすぐに走る機会を奪われてしまう。

 

「わたしやドーロちゃんたちがいるのは、そういう慈悲のない世界なんです。

 ……でもそんな世界だからこそ、その中に生きるわたしたち一人一人は輝けるんでしょうね」

 

 急に深いお話になってしまって面食らいましたよね。と言ってルジェさんは恐縮していたが、『勝つために走れ、走るために勝て』というシンプルなメッセージは確かに感じられた。濃密に過ぎていったこの数日のせいで忘れかかっていたが、俺は走って、勝って、稼がねばならない。この腹の虫がいる限り。

 

 §

 

 トレセン学園の近くには東京レース場がある。つい先日も簡単にルジェさんから伝えられていたが、訪れるのはこれが初めてだった。いや、記憶を失う前にも訪れていたのかもしれないが。

 学園の正門から出てウマ娘の足で道なりに進んで約10分。木々に囲まれた道の先に、空中を横切る通路が見えてきた。

 

「前を横切る通路の辺りがレース場正門ですよ」

 

 近づくにつれて歩道を歩く人の数も徐々に増えてくるが、その多くはウマ娘ではなくヒトだ。毎週土曜、日曜日はレースの日で、今月は東京レース場で開催される週が続くと説明を受ける。今日は大きなレースのない日だそうだが、それでも歩道の上は人を避けないとすれ違えないくらいに混んでいた。

 

「トレセン生は入場無料なんですよ。この制服がフリーパスみたいなものですね」

 

 ルジェさんはそう話しつつ入場門をくぐる。確かに警備のヒトに止められることもなくすんなりと場内に入ることができた。できたのだが。

 

「ルジェさん。なんとなくなんですけど私たちに周りの視線が集まっていませんか?」

「そうですよ。トレセンの制服を着ていますからね」

 

 事も無げにルジェさんは言うが、通りすがりの人からだけとはいえこれだけ注目を浴びることがなかったので気になって仕方がない。

 リズちゃんはと言えば俺よりは慣れている様子だが、それでも普段より歩き方がぎこちなく見える。多分少し緊張しているに違いない。

 よく見るとこちらをちらちら見てはひそひそ話をしているグループがいたりする。そっと聞き耳を立ててみるが雑踏に紛れてしまってその声を上手く拾うことはできなかった。

 

 ルジェさんを先頭にさらに進む。

 場内放送がなにやらがなり立てていて耳障りに感じる中、石畳で敷き詰められた広い広い広場を横断して通路を降りる。降りた先ではこれまた広いホールを通り抜けてずんずん奥へ。ガラス戸を押し開けて出た先には陽を浴びて輝く芝で覆われたレーストラックが待っていた。

 

「……広い……そしてきれい」

 

 学園の練習トラックよりもずっと広いフィールド。コース幅にしても学園の倍はあるだろうか。ホームストレートの長さといったら果てしないし、結構な急坂もある。そしてなにより、雨上がりから日光に蒸されて立ち上る、芝の芳醇な青い香り。それはすごく濃厚で心地よく感じられた。

 

 まだ隙間の残るヒトの群れを避けつつ、客席の最前列へ。フェンスと外ラチによって隔てられたどこまでも続く青いフィールドは、タキオン氏の研究室で見たあの夢の世界を思い起こさせるには十分すぎた。

 

 走りたい。この心地よい平原をどこまでも、思うままに。

 

 そんな想いを浮かべつつ隣を窺うと、そこに立っていたのはルジェさんではなくあの銀馬だった。

 

 驚いて瞬きをすれば、そこには普段と変わりなく微笑むルジェさんの姿。

 

「どうかしましたか?」

 

 普段どおりの優しい声が、俺を現実世界へと急速に引き戻す。

 

「……いえ、なんでも……。私もいつかここを走るんですね、とか考えていました」

「そうですねえ。間違いなく走るでしょうねえ」

「リズはドーロちゃんと一緒に走れるかなぁ?」

「同級だし得意距離が近いですから、きっとありますよ」

「わたしとは?」

「私がシニアになったら多分? ……あっでも、ルジェさんは多分その頃もうG1がメインですよね」

「ドーロちゃんがG1ウマ娘になっていれば良いんですよ?」

「うぇぇ? まだデビューどころかトレーナーすら決まってないのに、そんな。気が早すぎますよ」

「ドーロちゃんならきっとなれるよ。リズはそう思う」

「リズちゃんまで……」

 

 両方からG1ウマ娘、G1ウマ娘と囃し立てられてだんだんと恥ずかしくなってくる。褒め殺しですかそれ。期待値が高いのは分かるけどちょっと早まり過ぎじゃありませんかね。

 

 そんな感じでわちゃわちゃしていたら突然、場内放送から音楽が響き渡る。音に驚いてその出所を探して振り向くと、見上げるほどに(そび)える観戦スタンドの付け根に開いた出口から、人波がどんどんと俺たちのいる方に吐き出されてきていた。

 

「人がみんなこちらに来ますよ」

「パドックが終わって、本場入場ですね」

 

 場内アナウンスでは次のレースに出走するウマ娘の紹介が読み上げられていく。そのたびに一人、また一人と俺たちの目の前にある地下通路の出口から体操服姿のウマ娘が歩いて出てきた。彼女らを先導するのは男性の着るコートのような衣装を着たウマ娘が2人。出走する全員が芝の上に出たところで横一列になり、観客席に向けて一礼した。そのとたんに客席から湧き上がる拍手の嵐と雷鳴のような歓声が耳を突き刺す。あまりのうるささに思わず目を瞑り耳を絞ってしまったが、その隙に出走ウマ娘たちはスタンド前から消えてしまっていた。

 

「出走する()たちはどこに行ったんでしょう?」

「次のレースはマイルですから、向こう正面のスタート地点に行ってしまいましたね」

 

 その答えにコースを見回すと、まさに2コーナーの辺りを何人かのウマ娘たちが軽い足取りで向こう正面に向けて駆けているのが見えた。しかしそれもすぐ目の前の巨大モニターの陰に隠れてしまう。スタート地点はちょうどこのモニターの裏側になるらしく、直接スタートの瞬間を見ることはできないようだ。その代わりスタート地点の様子はそのモニターに大写しにされて、はっきりと様子が分かる。モニターの右端には『東京9R』の文字が光っていた。

 

 モニターにはスターティングゲートとその前で思い思いにアップを続けるウマ娘たちの姿が映し出される。屈伸運動をする娘、その場で旋回している娘、そしてじっと何かを考えている娘。一人一人の細かな表情までは分からないが、それでもモニター越しにそれぞれの気迫が伝わってくる。

 

「今日の第9レースはプレオープンの特別レースですね」

「プレオープン?」

「勝ち数が足りてなくて、まだ重賞レースに出走できないクラスの()たちが走るレースの事だよ」

「条件戦、とも言うのですけれど、デビューからの通算で勝ち数が3回以下の()だけが出られるレースの事ですね。

 このレースは1勝クラスと言いますから、メイクデビューか未勝利戦で1勝上げた()が走るんですねえ」

「それでもこれだけの人たちが応援に」

「そうですよ。

 ドーロちゃん。ウマ娘は()()()()()()()()()()()()と言われますけど、デビュー戦を勝っただけの娘でもここにあるこれだけの想いをその両肩に乗せて走るんですね。そしてその想いは本当にわたしたちの力になるんですよ。その事はどうか忘れないで」

 

『想いを力に変えて走る』

 

 ルジェさんの残したそのフレーズが耳にこびり付いて離れない。ファンファーレが鳴り響いた。

 




次回、輝きの一部始終。


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その、輝きの一部始終

本作初の実況回なので、初投稿です。

さすがにゼロから書くのは無理だと思ったので、本物の実況から文字起こししたものを参考にしつつアプリ実況風になるように加筆入れて仕上げてます。なのでウマ娘アプリ実況よりは『原作』の実況に近い感じに。


 

 ファンファーレが鳴り響く中、モニターの中の彼女たちが徐々にゲートに向けて歩み始める。

 それと時を同じく、場内には実況アナウンスが流れ始めた。観客席からはまたもや拍手が湧き起こる。

 

『さぁ、本日の第9レースはプレオープンの1勝クラス、八丈島特別。芝の1600メートル戦。

 天候は晴れですが、未明からの大雨がまだ残っていまして芝のコンディションは重のまま。たった今ファンファーレが響いて発走時刻となりました』

『ダートの方はまだ不良ですからね。芝も相当重いんじゃないですかね』

 

『足元を気にすることもなく12人のウマ娘たちがスムーズな枠入りを見せていますが……少し嫌っているのは……2番ハイリアリストか。促されて今ゲートイン。

 そのあとはまたスムーズな枠入りが続きます。最後に残るのは12番のソーンチップス』

 

 12番のゼッケンを付けた焦げ茶色の髪をした背の高めなウマ娘がゲートの近くで他のゲート入りを待っていた。

 インコース側2番のウマ娘はやや足元を気にする素振りだったが、それも束の間のことで結局はすんなりと収まる。それを見て12番が動き出し、全員がゲートの中へ。

 

『ソーンチップスが12番に収まって。ゲートインが終わりました。体勢完了』

 

 スタートの瞬間、沸いていた観客席もこの時ばかりは一度静まりその時を待った。

 

 モニターに映るゲートで赤ランプが灯り、その直後ゲートが開いて12人が一瞬で弾け出た。

 遅れて耳に届いたその音は思っていたよりも軽く乾いた破裂音で。引き続いて伝わってくるのは24本の脚が奏でる地響きだ。

 

『スタートしました! 揃ったスタート』

 

 自分がゲートに潜るのはダメでも、こうして他人が潜っているのを見ている分には大丈夫だ。その違いは一体どこにあるのだろう。

 

『――好スタート好ダッシュで3番テイクアナザーワンがハナを切りますが、交わして8番のアイザッキーが外側から出て行きます。早くも1身のリード。

 2番手に9番ジャドプラーテ上がってきました。その内側7番のクラウテミスが3番手に付けて。並ぶ一番人気5番ポルカステップと位置取り争いの様相。その(うしろ)も差がなくインコーナーを3番テイクアナザーワンはここに収まって。外は10番のシャウトマイネームが続き前を窺う体勢か。そして1身差、4番キャンピングが中団の中ほどで前を阻まれているぞ――』

 

 マイル戦ということで駆け引きの場はあまり多そうではない。スタート直後の位置取り争いが終われば後は長い長い最終直線でのパワー比べになる予感がした。

 

「10番がいい位置ですねえ」

「そうなんですか?」

「外目ですけれど追い出されているわけでもありません。脚が残ればきっちり抜けられるんじゃないでしょうか。

 でも東京の直線はとんでもなく長いですからねえ……」

 

『――4番は少し苦しい展開です。ここから巻き返せれば良いのですが』

 

 前をふさがれた4番が逃げ道を探して左右を窺っている。だが出ることは叶わないようでそのままの位置で追走していく。

 自分がこういう状況ならどうしたら良いか考える。他人のレースを見ることがとても勉強になる。

 

『――1200を切りました。1身開いて11番のサーティサンズ追走。最内から1番のフェローメイト中段の内側を行く、その集団に6番のモエザンエニシングが続きます。位置取り争いは一段落付いたか?

 先頭はやや固まって、後ろはやや伸びた隊形で3コーナーカーブを回って行きます1000メートル切りました。ここまでのタイムは36秒ほど』

 

『やはり重いですね、後半厳しい展開になるかもしれません』

 

『6番から2身開いて12番ソーンチップスはしんがりから2番目の位置。最後方は2番ハイリアリストです。3、4コーナー中間地点にかかります』

 

『そろそろ仕掛けどころですね』

 

 激しい先行争いになった序盤と打って変わって、3コーナーは坦々と過ぎていった。だがよく見るとみんな内ラチからは距離を置いて走っているように見える。

 

「イン側、空いてますよね?」

「こちらで見ているよりも芝の状態が相当悪いんでしょうねえ」

「ああ、なるほど。荒れた場に突っ込んでもスピードが下がって走りにくいだけ、と」

「そういう事ですねえ」

 

『――8番のアイザッキーが変わらず先頭をキープして1身のリード。9番ジャドプラーテ2番手につけ1身半差とちょっと開いたか。

 4番キャンピングが集団の中3番手に上がってくる。5番ポルカステップと2人並んでいます。さらに外おっつけながら7番のクラウテミス。第4コーナー大外は10番のシャウトマイネームがじわり進出していきます。最内からは1番のフェローメイト空いた内を突いて前に迫ろうとする。

 第4コーナーから直線コースへ向かいました。逃げます8番アイザッキー先頭! 内を開けて加速する態勢。その外9番ジャドプラーテ2番手で追いかける!』

 

『皆荒れた内を嫌ってますが1番が勝負に出ましたね。しかし今日は内も外も相当パワーが必要です』

 

『――さぁ最終コーナーを抜け各団子のまま府中の坂に挑みます! 先頭はアイザッキーこのまま逃げ切れるか!?

 最内を狙って3番テイクアナザーワン坂の上りで追いついて追い比べ! 外は7番のクラウテミスだ!

 っここで一番外から10番シャウトマイネームが一気に伸びた! 速いっ! 集団をまとめて交わして先頭に代わって残り200をまもなく迎えようとする! 10番のシャウトマイネームが先頭! 強い! 完全に抜けて独走態勢だ!』

 

 集団が4コーナーを回って直線へ。地響きはいよいよ大きくなってこちらに迫ってくる。坂を駆け上がってラスト200メートル、全身泥まみれになりながらも尽きせぬ闘志をその表情に、脚に、全身に漲らせ、12人のウマ娘が突っ込んでくる。

 その迫力か、それとも想いの強さか、フェンス越しにただ見ているだけな私の背中を遠慮なく逆撫でしていく何かがあった。

 

 ぞわりとした悪寒のようなプレッシャーが目前を次々と猛スピードで横切る。

 

『――2番手は7番のクラウテミス! そして内から食い下がっている8番のアイザッキー粘る! さらに3番のテイクアナザーワン! これら2着争いに6番モエザンエニシングも加わってくるがもう一息か。

 先頭10番のシャウトマイネーム、リードをキープしたまま今ゴールイン!

 2着は7番クラウテミス、3着は3番、テイクアナザーワン! 結果の確定まで今しばらくお待ち下さい!』

 

 スタンドの大歓声に迎えられてトップスピードでゴールを駆け抜けたウマ娘たちは、そのまま1コーナーを抜け2コーナーまでも駆けていった。

 

 1着を獲ったのは10番のシャウトマイネーム。黒く艶のある長いしっぽを揺らす彼女の後ろ姿は、1コーナー終わりの遠くにあっても大きな存在感を感じさせていた。




次回、答え合わせ。


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ファンの力

次回、お風呂回を挟もうかどうしようかかなり悩んでます。

好評価いっぱいいただきました、ありがとうございます。しばらくなかったので嬉しいですね。あと誤字訂正も。反映できる分は反映しています。ご指摘、ありがとうございました。


 

「どうでした? ドーロちゃん」

 

 まだ背中に重さが残る中、ルジェさんが問いかける。

 俺はすぐには答えられずに言葉を探す。だが上手い言葉も見つからず、出たのは月並みな一言だけ。

 

「……凄かった、ですね……」

 

 ルジェさんはそれには続かず、ただにこやかな笑みをこちらに向けるだけだった。そこにリズちゃんが割り込んだ。

 

「1着の()、気迫が他より断然違ったよね」

「そうですねえ。どの娘もこのレースに賭ける想いは強かったと思いますけれど、1着の娘はとりわけ強かったように感じますねえ」

「……あのですね、12人がゴールに突っ込んでくるとき背中がぞわりと震えました。お二人もそんな悪寒というか、感じたりしましたか?」

 

 俺の要領を得ない質問にリズちゃんが悩む。対するルジェさんは思い当たる節があるのかすぐに答えが返ってきた。

 

「悪寒ではないですけれど、感じるものはありました。10番の娘が特に強かったように感じられましたねえ。私の場合は尻尾を掴まれるような感覚なのですけれど」

「そういうことならリズも感じたよ。頭を押さえつけられるみたいな感じ」

 

 やはり大なり小なり、何か感じるところはあるようだ。

 

「レースに出走すると、よりはっきり感じられると思いますよ。それは他のウマ娘の闘気というか、殺気というべきものかと思いますねえ。G1レースともなるとお互いが凄い気を発していますから。だから自分も出していかないと押し負けますよねえ。むしろそれくらい闘気を出せるようにならないと、G1では勝てないのかも知れません」

 

 ルジェさんは既にクラシック級として桜花賞、オークスと2つのG1レースを戦ってきた。ジュニア級でも阪神ジュベナイルフィリーズを走っていると聞いたので、延べて3回ものG1出走経験者だ。そんな彼女が伝えてくれる心得は説得力が違う。

 だが、今の俺から闘気など出せるのだろうか。

 

「ドーロちゃんのお顔が難しくなってる……」

「おそらく闘気とか出せるのか心配になっているんじゃないでしょうかあ」

「うぇっ!? そ、そうですか?」

 

 全くルジェさんの言う通りなので図星を指されて挙動不審になる。すっかり狼狽(うろた)えているとさらにルジェさんから指南が伝えられた。

 

「あんまり特別なことではないんですよう? ウマ娘の闘気なんて単純なものです。『先頭を走りたい』とか、『勝ちたい』といった類のものですからねえ。

 でも、そんな単純な想いをとにかく限界まで強くして強くして、そして突き抜けさせることなんですよ。大事なのはそういう限界を突破する気概の部分ですねえ」

 

 なるほど分からないが?

 

 なおも難しい顔をしていたのか、再びリズちゃんから「まだ難しい顔してる」とツッコミを受けた。

 

「走り続けて他のウマ娘と競り合い続けていればそのうち分かりますよ。それに一昨日の練習レースの時、確かにドーロちゃんの気迫を感じることはできましたし」

 

 一昨日といえばプリ子と競い合ったときのことだ。俺自身としてはとにかくプリ子に追いつき追い越せと焦るばかりだった記憶しかないのだが、ルジェさんの感じ方では少々違っていたらしい。

 

「それじゃ、今度はパドックの方に行ってみましょうかあ。もう次に出走する娘が出てきているはずですよ」

 

 ルジェさんによれば、1つレースが終わるとすぐに次のレースのパドックが始まって、それが終わると本馬場入場そしてスタート。こうやって大体30分くらいのサイクルでレース開催日は過ぎていくのだそうだ。

 

「ああもう下は人で埋まってしまっていますねえ、上から見下ろしましょう。3階へ行きますねえ」

 

 エスカレーターに乗って3階へと上がる。エスカレーターは上りも下りも人で溢れていて、おまけにここでも下りのエスカレーターからは人目が絶えない。注目を浴びる理由は分かったが、だからといってすぐさま適応できるはずもなく居心地の悪さは相変わらずだ。

 

 上がった3階は2階に比べて多少空いているかなという程度で混雑が続く。エスカレーターから降りてそのさらに先、大きなガラス戸から外に出るとそこは広いバルコニーで、そこそこ混雑はしていたものの前に出ることができた。フェンスまでたどり着くと眼下には角の取れた長方形をした大きな広場が見える。場内放送は相変わらずがなり立てている。辺りの喧噪も相まって耳を寝かせていると、どうやら出走するウマ娘の紹介をしているように聞こえて来た。

 

「この下の広場がパドックですよ。出走前にウマ娘がファンの方にお披露目する場所ですねえ」

 

 四角い楕円形の一番奥が一段高くステージのようになっていて、放送で名前が呼ばれるたびにその奥から1人ずつウマ娘が出てきてポーズを取る。中には羽織っていたジャージの上着を豪快に投げ飛ばす者もいて、1人現れるたびに観客からは歓声が沸き起こっていた。

 

「次の第10レースは先ほどと同じくプレオープン戦ですけれど、こちらは2勝クラスの短距離ダート戦ですねえ」

 

 紹介されたウマ娘の数は16人。1人呼ばれるたびにその前の娘はステージから降りて、レーストラックのように色分けされたフィールドを所定の位置までゆっくりと進む。出走する全員が出揃ってフィールドに降り立ったところで、その16人が左回りに歩き始めた。

 パドックでの大きな声や物音は耳の良いウマ娘の集中を削ぐという理由で禁止されているようだが、それでもあちこちからウマ娘の名前を呼ぶ声が聞こえ、どうやらそれに応えて手を振りつつ歩いているようだ。

 

「ああやってファンからの応援に応えているんですねえ。トラックに出てしまうと距離が遠くなります。ファンとウマ娘が一番近くなる場所、それがこのパドックというステージなんですよう。

 応援してくれるファンの方はかけがえのないものです。わたしにもたくさんのファンの方が付いて下さっていますけれど、いつも力をもらってばっかりで。……ちゃんとお返しできていれば良いのですけれど……あんまり自信は、いつまでたってもありませんねえ……」

「先輩はさっき、ウマ娘は想いを力に変えて走るって言ったよね? それはファンの想い?」

「それだけではもちろんありませんよ。自らの想いが中心に来て、そしてトレーナーさんの想い、親の想い、チームメイトの想い。でもファンの方々の想いは数が多い分、1つになったときはものすごく強く後押ししてくれるんです。

 レース本番で挫けそうになっても、観客席から伝わってくる想いの強さが脚を支えてくれるんですよ。わたし自身レースの回数はそれほど多くないですけれど、それでも最終直線でいつもどれほどの力をいただいているか……。本当にありがたいことですよ」

 

 しみじみと語るルジェさん。まだクラシック級とはいえ大レースをいくつも戦って来た彼女の言葉は静かに、しかししっかりと俺の心に刻まれる。隣で話を聞くリズちゃんもまたルジェさんの一言一言に頷いていた。

 

 §

 

 11レースのリザルトが出るのを待って見学を終えた俺たちは、まだ帰る人影もまばらなレース場正門をくぐって学園への帰り道に就いた。来たときと同じようにルジェさんが先頭に立ち、3人縦に並んでウマ娘レーンを軽快に駆け上がる。すっかり晴れ上がった6月の太陽はまだまだ高く、10分ほどの駆足だったが寮の正門をくぐる頃にはしっかりと汗を掻いていた。

 

 




次回、お風呂にしようか週末すっ飛ばしてゲート特訓にしようかかなり悩んでるので未定です。

[10月27日午前10時]アンケート締めました。
スタートではお風呂とゲート直行がほぼ互角の勝負だったんですが、時を追うに連れてじわじわとお風呂が票を重ねてゲートの倍ほどの人気に。
と言うわけでお風呂回を書きますが……明日の更新にはちょっと間に合わないかも。


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制服も身体もお洗濯タイム

お待たせしました第60話です。

稗田之蛙さんからまたもやドーロちゃんのファンアートいただいたので目次に貼り付けてます。どうぞご覧下さい。稗田之蛙さん、いつもありがとうございます。


 

 寮に帰り着いたのは午後4時を15分ほど回ったあたり。6月の日差しと気温、そして未だ重くのしかかるような湿度のせいで、レース場から駆け足でやって来た俺たち3人の顔は玉の汗だ。

 

「リズ、早くお風呂に入りたいなぁ」

「寮のお風呂は5時オープンですからねえ」

「……そうだよね。うぅ~ん」

「このままだと制服が汗染みになってしまいますし、襟だけでも洗濯しましょうか、みんなで」

「この襟、外せたんですか?」

「夏服も冬服も、学園の制服は襟を外して洗えるようになってるんですよ。冬でも汗かきなウマ娘に対応しているんでしょうねえ」

 

 とりあえずお風呂セットと制服の襟だけ持って、お風呂場の隣の洗濯室へ集合となった。もちろん服は部屋着に着替えた上でだ。

 

 §

 

「外した襟の首元に洗剤の原液をかけてですねえ……」

 

 ルジェさんが手際よく襟洗いの実演をしていく。

 まずは首元の一番汗を吸っていた部分に液体洗剤の原液を塗りつけてしばらく放置。残る2人が同じように自分たちの襟に洗剤を塗るところを見届けてから、今度は持参した柄付きブラシで洗剤を塗った場所を軽く擦っていった。表裏と擦ったところで洗い桶に水を張って洗剤を一垂(ひとた)らし、その中へ3人一緒に襟を漬け込んで作業は一旦終わりとなった。

 

「漬け置きしている間にお風呂にしましょうか。上がってきてから襟洗いの続きをしますねえ」

 

 ブラシをチャック袋にしまいながらルジェさんが言う。

 そのまま脱衣所へと向かったが、すっかりおなじみの場所になった大浴場は、ほぼ一番風呂ということもあってかこれまでで一番空いていた。

 

 §

 

 お風呂場で3人輪になってしっぽを梳き合いながら会話する。

 

「今日はいつにも増して人が少ないですね」

「土曜日ですからねえ」

「土曜日だから?」

 

 土曜日とお風呂場の空いていることに何の関係があるのか分からず押し黙っていると、リズちゃんが答えらしきものを出してきた。

 

「もしかして、レースがあることと関係してる?」

「そうですねえ、リズちゃん正解です。

 毎週土曜日と日曜日はレースのある日なんですけれど、レースは東京だけじゃありません。少なくとも2カ所のレース場で行われるんですけど……」

「東京は近所ですけれど、他のレース場は遠いと?」

「ドーロちゃん、その通りです。トレセン学園の母体になっているURAは全国に10カ所のレース場を持っているのですけど、北は北海道の札幌から南は九州小倉まであるんですね」

「それじゃ、そんな遠くでレースがある人は泊まりがけだよね」

「その通りですねえ。しかも1日で行われるレースは12レースで、最小でも5人から。最大で18人出走します。そのうえ土日を連続出走する娘はいませんから――」

「平均で10人ずつ出走するとしても1レース場で1日120人、2日で240人……大移動ですね」

「そうなんです。しかも今週は東京と阪神、函館の3カ所開催なので合わせて700人以上のウマ娘が学園から(おもむ)いている訳ですね」

「美浦寮と栗東寮の二手に分かれているから、その半分としても350人……。それではお風呂場が閑散としているのも当たり前と」

 

 トレセン学園に在籍している現役ウマ娘は2000人ほどいると聞いた。東京レース場での出走組は寮から通うとしても他の2カ所での出走組は泊まりがけだろうから、今現在500人近くが学園からいなくなっている勘定だ。だから寮にいる人数も普段の4分の3ほどとなるわけで、なんとなく寮全体が静かになっているのは決して気のせいではなかった。

 

 そんな感じで話に花を咲かせていたらしっぽ梳きも終わって、いよいよ洗髪から身体洗い、しっぽ洗いへと続く時間がやって来た。

 

「耳は慣れましたけど、どうもしっぽ洗いはまだ苦手です……」

「今日はリズがしっぽ洗ってあげるね」

「ぅぇぇ……リズちゃんの手つきは絶妙すぎるんですよね……、思い出しただけでもう変な感じが戻ってきます」

 

 毎日ルジェさんとリズちゃんが交互にしっぽ洗いをしてくれる。これでもう4回目になるわけだがリズちゃんが容赦ない。とにかく手つきが絶妙で、敏感なツボを押さえまくってくれるのだ。そんな心配をよそに、とうとうしっぽ洗いが始まってしまった。

 

「……ふゎ……ぁっ……!」

 

 まだまだしっぽ洗いは序盤も序盤。本体からは遙か遠くの毛だけを洗ってもらっているのにどういう訳だか変な声が漏れてしまう。

 

「あれぇ? まだ先端を少しいじっただけなのに……ドーロちゃん、また敏感になってる?」

 

 それと同時に俺の手が止まってしまうので、ルジェさんから激励の声が届く。

 

「ドーロちゃんっ、まだまだですよう! がんばって手を動かして下さいねえ」

 

 いや、洗う手が止まってしまったのは申し訳ないけど、これは不可抗力ってヤツでっぇぇぇ~~。

 

 言葉を返す(いとま)もなくリズちゃんの手が攻め上がってくる。俺の見せる反応には構っていないのか、それとも反応を楽しんでいるのか分からないが、こちらの都合は完全無視でとうとうしっぽ本体に手がかかった。

 

「ひゃぅっ!」

 

 その瞬間にしっぽごと背中が仰け反った。そしてすぐに腰から力が抜けて、お風呂イスに座ったまま前にへにゃへにゃと崩れてしまった。

 ところがそんな事になってもリズちゃんの攻めは止まるところを知らない。俺が動けなくなったことを幸いに、しっぽへの攻勢はさらに激しさを増してくるようだ。

 しっぽの表から裏へとリズちゃんの指先が伸びる。柔らかくしっぽを包む泡の感触と共に滑る指先が時折しっぽ本体に触れるたび、そこを起点にしてじわんぐわんと感覚が上がってくる。しっぽにはもう力が入れられない。だからリズちゃんがあちらこちらへと遊ぶようにしっぽを摘まんで動かすのにも抵抗できずになすがままだ。それでも身体は無意識に抵抗するのかだんだん息が切れてくる。そこから先はもう記憶も曖昧だ。

 

 結局それから大して時間を費やさないうちに俺はまたしても沈没してしまったようで、ルジェさんの優しい声で起こされた。

 

「うぇぇぇ……またリズちゃんにやられてしまいました……」

「あらあら。ドーロちゃんがしっぽ弱いのは重症ですねえ」

 

 ルジェさんの膝によよよと泣きつく俺の頭を、彼女は優しく触れていてくれる。この先もリズちゃんの手に掛かったら最後、お風呂に入るたびに俺の尊厳は崩れ去ってしまうのかと思うとどうにもいたたまれない。それに最も恐れるべきは、この感覚を身体が覚えてしまうことだ。今はリズちゃん以外の手ではこんな事態は起こらないが、この先どうなるかは分からない。徐々に冷静さを取り戻してきた頭でそんな事を考えてしまうと、言いようのない恐怖感がこみ上げてくる。

 

「責任、取って下さいね。もし私がどうにかなっちゃったら」

 

 思わずジト目でリズちゃんに文句を言ったら、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。

 

「ドーロちゃんならいつでも大歓迎だよ?」

 

 いやそれ、真顔で答えないでもらえますか。笑ってるより怖いから。ほら、ルジェさんからも妙な波動が出てる気がするし。

 




次回、しっぽ仕上げるよ。


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汗も疲れも闘気も洗い流して

大変長らくお待たせしました。ようやく61話の公開です。


 

 すったもんだありながらも終わったお風呂タイム。リズちゃんの電撃発言が飛び出したそれは微妙な雰囲気を3人の間に残したままだ。特にルジェさんが心中穏やかではない様子で、今も無言のまましっぽ仕上げを俺から受けているが、なんとなく不穏な雰囲気がその身から滲み出ているように感じられる。

 その雰囲気に当てられてしまったのか、リズちゃんも無言のまま髪をドライヤーで乾かしているし、鏡の奥に映る他のウマ娘たちもどことなく動きがぎこちない。

 どういう訳かルジェさんから放たれる怒気は俺にはそれほど効いていないようで、周りのウマ娘に比べれば自由に動けている。

 

 そんなピリピリとした雰囲気の中、しっぽを仕上げつつルジェさんに声を掛けた。

 

「あの~……、ルジェさん?」

「はい。なんでしょうドーロちゃん」

「こんな事をお願いできるとも思えないんですけれど……、そろそろ怒気は引っ込めませんか?」

 

 俺がそうお願いすると、鏡に映ったルジェさんの眉根にしわが寄る。

 

「……そろそろ止めたいとは思っているのですけどお……」

「……けど?」

「お恥ずかしい話、実は止められなくてえ」

「えっ?」

 

 そう言ってルジェさんは両手で顔を覆って俯いてしまった。まさかのまさかな話で、思わず俺とリズちゃんは顔を見合わせてしまう。

 とにかくいつまでもこの怒気がダダ漏れでは周りが大迷惑なのは間違いない。今の話を聞いて動きが止まっていたリズちゃんにも声をかけて、超特急で3人のしっぽ仕上げを終わらせる事にした。

 

「リズがドーロちゃんのしっぽ仕上げやってあげるね。急がないとだねっ」

 

 先ほどまでの沈鬱な様子はどこかに吹っ飛んだようで、すっかり普段の調子を取り戻したリズちゃんがテキパキと俺のしっぽを仕上げにかかってくれる。対する俺の方はもう少しだけ残っていたルジェさんの仕上げを手早く済ませると、体勢を移してリズちゃんのしっぽ仕上げへと進んだ。

 

「襟を引き上げてきますね」

 

 しっぽ仕上げが終わってフリーになったルジェさんが洗濯場の方へと去って行く。すると周りで硬い表情をしていた他のウマ娘たちが皆一様に安堵した様子を見せるようになった。俺もそれまで感じていた軽いプレッシャーはいつの間にか消え去っていて、ルジェさんの怒気の強さを改めて認識する。やはりG1出走者ともなるとこうも違うのだと。

 

 リズちゃんのしっぽ仕上げが終わった頃合いで、ルジェさんが戻ってきた。手には3枚の襟もいっしょだ。

 

「おまたせしましたあ。襟もできましたしお部屋に戻りましょうかあ」

 

 普段通りのにこやかさを纏ったルジェさんからは、もうプレッシャーを感じることはなかった。

 

「襟のアイロンがけをしていたらだんだん落ち着いてきました。リズちゃん、さっきはすみませんでした。怖がらせてしまって」

「リズもごめんなさい、調子に乗り過ぎちゃったから。先輩にも、ドーロちゃんにも」

「私は大丈夫ですよリズちゃん。ルジェさんも落ち着いたみたいで良かったです」

 

 3人顔を寄せ合うと笑みがこぼれた。不穏な雰囲気になってしまって一時はどうなってしまうのかと不安だったが、なんとか元の平穏な雰囲気に戻ることができたようだ。

 元はと言えば俺のしっぽがいつもより敏感すぎたのが原因だが、今日はどういう訳かリズちゃんが暴走気味だったし、それに対するルジェさんの態度も過熱気味だった。3人ともが普段とは少しずつ違う状態だったせいで起きたこの事件、一体何がそうさせたのか。思い当たるのはレースを観戦している間、出走していたウマ娘の闘気に当たっていたことくらいだが。果たしてそれが答えなのかは、落ち着いた頃合いを見計らって2人ともに尋ねてみようと思った。

 

 それじゃお部屋に戻りましょうかとルジェさんが音頭を取って、俺たちは脱衣所を後にした。道すがらすれ違う()たちは皆お風呂セットを抱えていて、ここからが入浴タイムのピークを迎えるようだ。そして寮食の近くを通りかかると、そちらの方からは特徴のあるスパイシーで美味しそうな香りが漂ってきていた。

 

『きゅ?』

 

 香りに釣られて腹の虫が起きてきた。だがまだ自重しているらしく、それ以上騒ぐこともなく寮食前を通り過ぎる。

 

「今日の晩ご飯はカレーでしょうか?」

「確かそうだったと思いますよ。土曜日にカレーライスは割と多い献立ですねえ」

「そうなんですか」

「土曜日曜はレースがありますから、寮食で食べる()が少なめなんです。それもあってキッチン担当も平日より人数を減らしているんですよねえ。だから手間の掛からない献立が増えるんですよ。

 あっ、でも他のおかずもちゃんとありますよう。カレーだけじゃ栄養が偏っちゃいますし」

「今日はどんなカレーかなぁ。先々週のお野菜たっぷりシーフードカレーは美味しかったなぁ」

「あれは良かったですねえ。わたしは確か2回お替わりしちゃったんですよねえ」

「リズは4回かな。ホタテがいっぱい入っててお口が幸せだったなぁ」

 

 カレーの話を切っ掛けに、ルジェさんとリズちゃんが寮の献立談義に花を咲かせる。過去の記憶がないせいで話について行くことができない俺は、それを微笑ましく横から見ているだけだ。これから3人で過ごす時間が伸びるうち、こういった話にも自然に加わることができるようになっていくのだろう。

 

 弾んだ話し声が夕暮れの迫る廊下を寮室へと進んでいく。しかし次の角を曲がれば到着というところでそれはパタッと止んでしまった。

 なにかに気付いたリズちゃんが少し驚いた様子で辺りをきょろきょろと見回している。

 

「あれっ? こんな所まで来ちゃってた」

「ふふっ、お話が弾んでしまいましたねえ」

「自分のお部屋に戻らないとだけど……。このあとの予定は晩ご飯食べる、で良いんだよね?」

「そうですねえ……今何時でしたっけ」

 

 そう言いながら部屋着のポケットを探るルジェさん。それより早くリズちゃんがスマホを取り出した。

 

「えっと……6時40分過ぎだね」

「もう食堂が開いてますねえ。それでは荷物を置いたら食堂に集合ということで」

「わかった。それじゃ食堂でねドーロちゃん、ルジェ先輩、またあとで」

 

 軽く手を振って踵を返し、パタパタと軽快な足音を立ててリズちゃんは去って行った。

 

「さて、私たちもお部屋に戻って出直しましょうか」

 

 その問いに俺は黙って頷きを返す。すると。

 

『きゅいぃ~』

 

 今まで黙っていた腹の虫が返事をした。どうやら腹の虫は今日も絶好調。このあと食堂でどんな光景が待っているのか、今から心配になった。

 




次回、飲み物


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美浦寮食オープン競走 わんこ杯

感想、ブクマ登録、評価点、ここすき。高評価いただきありがとうございます。いつも励みになってます。不定期更新なのが申し訳ないです。

というわけで書き上がっているので次出しますね。
今回はいつもより大分長いです。(と言っても倍もない)

タイトル出オチ感が半端ないですが……果たしてどう決着するのか。


 

「で、どうしてこういうことになるんですか……」

『ぎゅぎゅきゅぃ?』

 

 お盆のようなサイズのカレー皿を前に、俺は呟く。腹の虫も呟く。

 

「仕方がないよ。ドーロちゃんの食べる量をいっぺんに盛れるお皿がないって言うし」

「ドーロちゃんのペースに付いていけるか心配ですけど……がんばりますねえ」

 

 場所はおなじみ美浦寮食、テーブルも昨日と同じ場所。そしていつもより人数が少ないとは言うものの、見た感じそんなに減ってないんじゃないかとしか思えない数で俺たちを取り囲むギャラリー。学園カフェテリアでは落ち着いて食事を取れる場所を得られたが、寮にそんな便利な場所はなく……さらに普段と違ってルジェさんとリズちゃんが給仕をしようと俺の両サイドでその時を待ち構えている。となれば俺の食事風景にそろそろ慣れてきたはずの美浦寮生も、これから何が始まるのかと興味津々になるのは頷けるわけで。

 しかしその給仕の内容というのに問題があった。

 

 俺の右側に立つのはリズちゃんだ。今朝も握っていたやや大ぶりなしゃもじを右手に、そして山盛りのご飯で蓋が閉まっていないお櫃を左脇に抱え込んで準備万端の構え。対する左側で踏み台の上に立つのはルジェさん。こちらは大ぶりなおたまを右手に持ち、テーブルの上には鈍く光る寸胴鍋。鍋の中身は今日のメインディッシュ、カレーだ。

 対する俺の方は首から紙エプロンをぶら下げてカレールウからの防御態勢を整えてある。腕カバーも嵌めていて完全防御の構えだ。

 

「今日のカレーはベーシックにポークカレーですけど、具にはにんじんがたっぷり入ってとっても濃厚に仕上がっていますよ。早速始めましょうかあと言いたいところなのですが……」

「なのですが?」『きゅう?』

「ドーロちゃんは一度食べ始めると食べ物が無くなるまで止まらないのでえ、今日は最初にサラダを一山食べておいて下さいねえ。栄養バランスは大切ですからね」

『ぎゅぎゅ』

 

 そう言ってルジェさんが寸胴の陰から取り出してきたのは、大鉢に山盛りのサラダと一口大にカットされたトンカツの山だった。

 

「トンカツの方はこちらに置いておきますから、ドーロちゃんはカレーと一緒に戴いちゃって下さいねえ」

『きゅっきゅ』

 

 要するに今日の晩ご飯はカツカレー、ということのようだ。

 

 衆人環視の中、差し出されたサラダにそっとフォークを差し込むと、あとはまたいつもの通り一心不乱に目の前の全てを掻き込む光景が広がる。

 美味(うま)い。

 ドレッシングが掛かっているとはいってもそんなものは表面だけで、大鉢の中身はひたすら味のない生野菜の塊のはず。だが、そのみずみずしさとしゃきしゃきとした歯ごたえと、そしてなによりも噛むたびに立ち上る自然な甘味と青い香りが堪らなく美味(うま)い。生の野菜がこんなに美味く感じるのは初めての体験だ。

 その一方で薄らとした記憶の底が、俺は元々野菜が好きな方ではなかったはずだと囁く。ウマ娘になって味覚が変わってしまったのか、それとも元々ドーロが野菜好きなのか。

 

 そういえば昼に初めて東京レース場の芝で覆われたトラックを目の当たりにしたとき、風に乗って香る芝の青い匂いをとても心地よく感じていたことを思い出す。さらに言えば一昨日の検査の時、夢の世界で見た一面の草原に対して出た最初の感想だってそうだ。あの時は青々と茂る草を見て、事もあろうに『おいしそう』と感じてしまったのだから。

 

 自分の身体がウマ娘のそれであろうとも、地面に生えた草を美味しそうだと感じたのはさすがに変だと気がつく。だがそれもそこまでだった、大鉢は俺の見ている前でその時ちょうど空っぽになった。しかし、まだ食べ足りない。

 

 大鉢が空っぽになると同時に俺の手も止まる。間髪を入れずにルジェさんの手が伸びてきたが、俺はその手から遠ざけるように大鉢を抱えて引き戻す。その先には驚いた表情のルジェさんがいた。

 

「野菜のおかわり、ありませんか?」

 

 大鉢を抱えたまま上目遣いにルジェさんに訴える。見開かれた彼女の瞳が縦に揺れた。

 抱えた大鉢をそっと彼女に向けて差し出した。

 

 §

 

 ルジェさんが新しい野菜サラダを持ってくるまでの間、カツを一口ずつ口に放り込みながら待つ。ふと見るとお櫃としゃもじを抱えたまま、リズちゃんがこちらを凝視して固まっていた。

 

「リズちゃん、どうしたんですか?」

「えっ? あっ、あのね、ドーロちゃんの様子がいつもと違うなって。

 食事中こんなに落ち着いて食べてるの初めてだなぁって」

「……言われてみればそうですね」

「自覚、無かったんだね……。でもどうしてだろう?」

「わかりません。もしかすると野菜を食べて底入れしたせいかも」

「おなかちゃんの様子はどうかなぁ?」

「おなかちゃん?……あぁ、腹の虫のことですか……。うーん、今のところ動く気配はないみたいですけれ『きゅぅん。きゅ~?』ど」

「そうなんだ、お野菜が入って少し落ち着いたんだね」

「うぇぇ? また会話して『きゅっきゅきゅ、ぎゅう』るっ?」

「お野菜おいしいからもっとちょうだい。だって」

「そうなんですか? 確かに私も野菜サラダがもっと欲しいとは思ってましたけど」

 

 そこにルジェさんが野菜で溢れそうになった大鉢を抱えて現れた。最初の量よりもさらにうずたかく盛られているように見えるのは気のせい……ではなさそうだ。

 

「お待たせしましたあ~。お野菜ですよう。最初のよりも多めに盛り上げてきましたあ」

『きゅっきゅっきゅぅ~♪』

「おなかの虫さん、よく待てましたねえ~。さあさあ召し上がれえ」

 

 ドカンと大鉢が目の前に据えられる。と同時に伸びたのは俺のフォークだ。

 

「――ドーロちゃんドレッシングは――、って、要らないみたいですねえ」

 

 2皿目のサラダをドレッシングなしで、もしゃもしゃしゃくしゃくと食べ進む。ルジェさんが何か言っていたような気もするがお構いなしだ。

 程なく2皿目のサラダも食べ尽くして、再び空っぽの大鉢が残された。

 

「それじゃあいよいよカレー本番に進みますよう」

 

 大鉢が片付けられてカレー皿が再び据えられる。フォークをスプーンに持ち替えてカレーがよそわれるのを待っていたが、リズちゃんの方からご飯がよそわれた途端、スプーンを持つ手が動いてしまった。

 それは明らかなフライングだった。俺自身もそうだが、ルジェさんとリズちゃん、そして周りを取り囲むギャラリーからも落胆の溜息が聞こえたような気がした。しかしそんな周囲の思いとは無関係に手は動く。しゃもじ1杯分のご飯は1口でかき消えてしまった。

 ゴックンと飲み込んで、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……あはは……、やってしまいました。手が勝手に動いてしまいました」

 

 空いた方の手で頭を掻きつつ照れ笑いを見せる。どういう訳だかギャラリーからぱらぱらと拍手を受けた。

 

「お腹の虫さんが待ちきれなかったですかあ……。どうしましょうねえ」

 

 ルジェさんが困り顔を見せ、リズちゃんはお櫃をテーブルに戻して急遽作戦会議になった。再びカツを一口ずつ放り込んでいる横で2人がこしょこしょと相談している。

 

「目の前に出しちゃうとすぐ食らいついちゃうね」

「ご飯とカレールウを同時に出せると良いのですけど……」

「ルウがドーロちゃんのお顔にかかっちゃわないかな?」

「お皿と顔が結構近いですよねえ。やっぱり少し危ないでしょうか」

「それにルウがお皿に残ったままご飯を投入できないよ。カレーが飛んで服が汚れちゃうかも」

「エプロンを着けていても不測の事態が起こるかもですねよえ。うううん、困りましたねえ……」 

「……うーん……そうだ、お皿ごと交換する手はどうかな?」

「あらかじめ別のお皿にご飯とルウを盛っておいて――」

「1つめのお皿が空いたらすぐ交換するの。それなら大盛りにできる分、時間稼ぎになるし――」

「お顔にルウがかかる心配も、服に飛ぶ心配もないというわけですねえ」

「そういうことだよ」

「良いアイデアですねえ。それじゃあお皿の追加を取ってきますねえ」

 

 ルジェさんが再びキッチンへと向かう。リズちゃんが「待たせちゃってごめんね」と恐縮しているのに対して腹の虫がきゅっきゅと機嫌良く返事しているのを聞きながら、カツを一口ずつ放り込む手は止めない。

 ぽいぽいと調子よくカツを放り込んでいたら、ルジェさんがお皿を抱えて戻ってきた。

 

「2枚借りてきましたあ。最初のと合わせて3枚ありますから、これで給仕が間に合わないなんて事はないはずです」

 

 バンバンと大皿がテーブルの上に広げられ、カレーを盛り上げる作業が始まった。改めて強くなるカレーの香りを受けて、腹の虫が野太い声を上げ始める。俺の口の中も溢れた唾液でいっぱいだ。大盛りサラダを2皿平らげたばかりだというのに、まったくカレーの魔力は恐ろしい。

 山盛りカレーライスが3皿並んだところでこっちのカツがちょうど品切れになって、とうとう今日の晩ご飯第2ラウンドが始まった。

 

 よく“カレーは飲み物”などと揶揄して言う向きがあるが、今日の晩飯はまさにそんな感じだ。一応一口ずつスプーンで掬ってはいるのでそこまで飲み物感が強いわけではないが、おかずと違ってしっかり噛む必要のない分吸い込まれるように腹へと流れ込んでいく。皿を担ぎ上げればさらに速くはなるだろうが、それではさすがに年頃のウマ娘が見せて良い絵面にはならないだろうと、妙なところで理性を保ちつつどんどんカレーライスを流し込んでいく。

 思っていたよりも時間を掛けて1皿目を食べ終わる。間髪を入れずに次の皿に取り替えられて、またカレーを吸い込んでいく。

 2皿目になってスプーン運びのコツを掴めたようで、1皿目よりも早く食べ終わる。すかさず3皿目が目の前に出てくるが、次の皿は果たして間に合うのだろうか。すぐ隣でルジェさんとリズちゃんがお代わりの盛り上げに苦闘している様子がそれとなく伝わってきた。

 4皿目はなんとか間に合った。リズちゃんの手が皿を取り替えている間にも、ルジェさんが5皿目と格闘している。お皿だけでも相当な重量があるところに山盛りのご飯とカレールウだ、総重量が一体何キロになっているのか想像したくもない。しかしそんな馬鹿みたいな量にも関わらず俺の腹は全部吸い込んでいく。そしてとうとうその時はやって来た。

 

 ぎりぎり間に合った6皿目に突入して半分ほど食べ終わった辺りでスプーンがぴたりと止まる。

 その様子にギャラリーからは「おぉ」と嘆息が漏れ、リズちゃんがそれに気付き、そしてルジェさんも7皿目を盛り付ける手を止めた。

 

「ドーロちゃん、もう終わりですか?」

 

 ルジェさんが優しく尋ねるが、もう俺のスプーンはピクリとも動かないし腹の虫も沈黙を保ったままだ。どうやら今夜の食事はここまでのようだった。

 

「どうやら、げぷ、そうみたいですね……」

 

 大きく膨らんだ腹を見下ろしながらそう答えると、寮食は拍手の音で満たされる。

 

「あの……、残ってしまった分、どうしましょうか?」

「わたしがいただきますからドーロちゃんは心配しなくて良いんですよう?」

 

 そのセリフを耳敏く聞きつけたギャラリーから悲鳴が上がる。

 いやいやいや、食べ残しを出さないのは立派な心がけだがルジェさん。それ、俺の食べ残しですよ? 色々大丈夫? いや大丈夫じゃないが。

 と、そこへ違う方角からツッコミが入った。

 

「リズがいただくよ。食べ物は残しちゃいけないからね」

 

 そのセリフにさらなる悲鳴とどよめきが湧く。

 お風呂に続いてまたもやバトルになるのかと俺は緊張したが、直後2人同時に穏当な提案が発せられた。

 

「「それじゃ、半分こで」」

 

 バトルが起こらなかったのは良いが、この2人一体どこまで俺のことが大好きなのか。

 

 でもこれ、あきらかに間接キスってヤツでは? 違うのか?

 




次回、まったりのんびり。あと、いろいろ聞きたいこと


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鏡の向こう

大変お待たせいたしました。
1年以上ぶりに投稿再開です。

今のところストックは10話分ほどあります。各話の分量は3000文字弱。
本当は選抜レースの終わりまで書いてから出したかったのですが、それを待っていると年を越してしまいそうでしたので……

お話は寮食の夕食でわんこカレーが終わったあと。3人が寮の談話室でお話を始めるところからリスタートです。


「今後カレーの時はあらかじめ何杯出すか決めてからにしましょう」

 

 ルジェさんとリズちゃん2人の晩ご飯も終わり、談話室で3人車座になってのんびりと食後のひとときを過ごしていた。

 そこで提案したのは俺だ。食べ残しはいけない事と言っても、2人に残りを処分してもらうのは心が痛む。今日は仕方がなかったとしても、今後再びあんなことをしてもらうわけには行かなかった。

 

「でもドーロちゃんがどれだけ食べるか分からないよね?」

「この4日の間でも食べる量が徐々に増えてる気はするんですよねえ。いえ、本当に気のせいかもしれませんけど」

「足りてなかったらその時改めておかわりすれば良いだけの話ですし、なによりお二人に食べ残しを処理してもらうのはさすがに心が痛みます」

「えっ? リズは全然問題ないよ?」

「わたしもですよう。ドーロちゃんのものなら全然平気ですから」

 

 ケロッとした顔で言い放つ2人。いや何てことを言うんだふたりとも。周りで聞き耳立ててる他の娘たちが凍り付いてますよ?

 

「いえあの。お二人は良いかもしれませんけれど……その、私が気にするので……。それに」

「それに……なんでしょうか?」

 

 きょとんとする2人に向けて、耳を貸して欲しいとジェスチャーする。俺の口元に寄ってきた2人の耳に極々小さな声を届ける。

 

「私の食べ残し処理って、それ他の人から見たら……、か、間接キスってやつじゃないですか?」

 

 こしょこしょと囁いて、そのまま元の体勢にゆるりと戻る。恥ずかしさのあまり頬が火照るのを感じつつ、2人に目配せした。したのだが。

 2人とも、『何言ってるのかわからない』とでも言いたげにきょとんとした表情を返してくるだけだった。

 

「……どうしてそこでリアクションがないんですか……」

 

 あまりの塩い様子にこちらまで真顔になってしまう。そんな俺を見て何か思い当たったのか2人が顔を見合わせると、お互いにクスッと笑ってルジェさんが口を開く。

 

「だってドーロちゃんなら間接でも直接でも……、良いんですよ?」

 

 ルジェさんの横で頷きを返すリズちゃん。あきらかに2人とも意見一致を見ている様子だが、それを見た俺は宇宙猫に陥ってしまった。

 いや、遠巻きにこちらの様子を伺っていた他の娘たちも固まっていたから大体同じか。とにかく目の前のダメな2人以外、この場にいたウマ娘はそのとき全員宇宙猫だった、と思う。

 

 そのままこの場にいても辺りの雰囲気がどんどん妙になる未来しか見えなかった。俺は2人に声を掛けて、早々に寮室へと戻ることにした。

 3人連れ立って寮室へと歩いて戻る。

 

 お風呂は済んだ、晩ご飯も済んだ、明日は日曜日で授業もトレーニングもない、その前夜。てんやわんやの大騒ぎが続いた今週が終わりを告げようとしている。

 

「……なんだか、一気に疲れが襲ってきました」

 

 俺はそう零して、寮室へ戻ってきた勢いのまま自分のベッドへ身を投げ出した。

 そのまましばらく伏せっていたが、そんな俺の様子をお向かいのベッドからじっと見ていたルジェさんと、すぐ横のデスクチェアからはリズちゃんの声がかかる。

 

「……今週は、色々起こりすぎましたからねえ。

 いいんですよ? そのまま眠ってしまっても。後のことはわたしがやっておきますからあ」

「リズもいるからね。ドーロちゃんはなにも気にしなくて良いんだよ」

 

 優しく語りかけてくれるルジェさんの声。なんとなく癒やしの波動みたいなものをそこに感じつつウトウトするうちに、俺の意識は闇に沈んだ。

 

 §

 

 気がつくと辺りの景色は一変していた、しかし見覚えのある景色。なだらかに起伏する草原が一面に広がっていた。

 

(ここは? ああ、あの時の草原ですね。また、銀色の彼女に逢えるのでしょうか)

 

 そんなことを考えつつ、遥かに見えた見覚えのある湖に向かって歩き始めた。

 

 前と同じく、くるぶしまですっぽりと埋まる草丈の中を、今日は独り分け入って歩いて行く。ザクザクと響く草ずれの音に混じって、時折風の吹き抜けるノイズが耳を揺らす。どこかから彼女の足音が聞こえてくるんじゃないかと耳をそばだてるけれど、聞こえるのは自らが立てる草の音と、風の音だけ。

 

 前を向いて一歩一歩進む。けれど、湖が近づいてくる様子は一向に見られない。

 

(さっきからかなり歩いたと思うのですけど、湖が全然近づきませんね。そういえば、前の時は途中から走りましたっけ)

 

 今回は併走してくれる彼女はいない。そして、急いで湖に向かう理由もない。どれだけの時間がかかるか分からないけれど、ペースを崩さず歩き続けた。

 

 体感で30分以上歩いただろうか。俺はとうとう湖の畔にまでたどり着いた。遙かに見える対岸にはゴールの木が1本、すっくと立っている。

 ここで向きを変えて以前とは逆に、湖の岸に沿って水面を左手に見ながら歩き続けた。

 

(全体の形はきれいな楕円形なんですよね)

 

 ゴールの樹へと緩やかに左カーブして続く岸辺。そのラインは滑らかな弧線を描く。その弧線の頂点で立ち止まって、改めて全景を見渡した。

 自分の足音が消え、風の吹く音だけが耳に残る。だがその一方で湖には波紋ひとつ立たず、鏡のような水面が広がっていた。

 

 感じる明らかな違和感。

 

 それは夢の中だからという納得はあるものの、それでもさざ波ひとつ起きない水面には違和感が拭えなかった。

 俺は静かに水を湛える岸辺に、そろそろと近づいて膝を折る。

 そっと指先を水面に浸すと小さな波紋が広がり、ひんやりと感じたそれは普通の水に違いなかった。

 

 だが水面を覗き込んだ顔は、この数日ですっかり見慣れたヴェントドーロの顔ではなかった。

 

 金色に輝く(たてがみ)を靡かせた、栗毛の馬がこちらを見つめていた。

 



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第64話 悲痛なさけび

1年ぶりにリスタートしまして不定期更新しますとお伝えしたものの、ストックの方10話ほどありますので読まれ具合を見つつ週1くらいで更新できればなどと殊勝なことを申しておりまして。


 

「はっ、はっ、はァっ――」

 

 まだ心臓がバクバクとのたうち回っている。

 

 飛び跳ねるように目覚めた場所は普段どおりに静まる自分のベッドの上。カーテン越しに感じる外の明るさは、既に朝を迎えていることを教えてくれる。1日の始まる前、未だ静かに眠る寮の中で、ただ俺一人だけが息を荒げていた。

 

「はっ、はっ……、はぁ……」

 

 徐々に息が整ってくる。

 目を落とすといつもと変わらない自分の両手。それをじっと見ているうちに周りを見渡す余裕が生まれた。ゆっくりと顔を振れば、隣のベッドから覗くのは銀白の髪と耳、そしてしっぽ。

 

 いつもどおりそこに在るルジェさんを見つけて、ようやく俺の気持ちも落ち着いた。

 落ち着くにつれて、今後は夢の内容が気になり始める。

 

(あの、最後に見えた顔……、見た目は確かに馬でしたけど。あれは誰なんでしょう?)

 

 ちらっと見えただけの姿だったが鮮明に思い出されるそれ。水鏡に映っていても眩く輝いていた金色のたてがみ、明るい茶色の体毛、そして頭の天辺から伸びるウマ耳。

 

(なんとなく見覚えのあるような感じがするんですよね……)

 

 ベッドの上で考えを巡らせているうち目が冴えてくる。ふと目を向けた目覚まし時計は5時半を回っていた。今日も学園の1日が始まろうとしている。6時になったらトラックに出てひとっ走りして、考えをまとめようと思い立つ。

 俺は物音を立てないようにベッドから降りて身支度を始めた。

 

 6時5分前。普段通り寮玄関の鍵が開き、それとともに少なくない数のウマ娘がトラックへ向け駆け出す。俺もそれに混じって軽い足運びで駆ける。程なくトラックに到着すると、アップを始めた。

 

 6月も前半が終わろうとしている。昨日の雨こそ止んだが、梅雨まっただ中の空は曇。湿気を濃厚に帯びた空気が辺りを包み込む。

 一昨日リズちゃんに教えてもらった通り念入りに身体を解していたら、こちらを伺う視線を拾った。

 

 それは俺のことをやや遠巻きに見ているジャージ姿のウマ娘――シルバーグレイの髪を肩までの長さでサイド分けのボブカットにして、右の耳に赤い蝶結びの飾りを付けた――から発せられていた。昨日のお昼、カフェテリアでルジェさんが声を掛けたけど気付かれなかった2人連れのうち1人、その彼女だ。

 

 その彼女が歩み寄るなり俺の名を呼んだ。

 

「おはよう。あなたがヴェントドーロさん?」

「は、はい。そうですけど……あなたは?」

「あー、ごめんごめん。まずは名乗らなきゃね。私はハクタイセイ、あなたと寮で同室のルジェントと同じチームに所属してる」

「ハクタイセイさん……、白埜(しろの)トレーナーさんのチームですよね。お話はかねがね伺ってます」

「え、そうなの? ルジェントが何か変なこと喋ってない?」

「大丈夫ですよ、って。あっ、安田記念での掲示板復帰、おめでとうございます」

「ありゃぁ、もしかして脚のことまで伝わっちゃってる? そっかぁ……でも、うん、ありがとうね。ほんとは優勝したかったけどね。それでも、去年のことを思えば上々だよね」

 

 そう言って苦笑いを見せるハクタイセイさん。見たところはつらつとした雰囲気を持つ芦毛のウマ娘だ。だけど取り立てて俺とは関係がないはずなのに、どうして近づいてきたのか。

 

「あの、それで私になにか用事でしょうか?」

「あっいや、用事……ってほどじゃないんだけどね。たまたま見かけたから」

「たまたま?」

「そう……たまたまなんだけど……。いや、実は最近ルジェントがあなたのことばっかり話してるから、どんな()なんだろうって気にはなってたんだ」

「うぇぇ、ルジェ先輩が? いったい何を……」

 

 アップもそっちのけで話を聞いてみると、俺のことがすごく気になってとか、カッコいいんですよとか、放っておけなくてとか、そんな惚気話(のろけばなし)としか思えないような内容がポンポン飛び出てくる。黙って聞いているうちにこちらが恥ずかしくなってくる始末だ。

 

「……あの? 顔、赤いよ? だいじょうぶ? 熱あったりしない?」

「うぇっ!? あぇっ!? だっ、だいじょうぶでっしゅっ!」

 

 ……舌噛んだ。

 

 立ったまま俯いて悶絶している俺を心配して介抱してくれるハクタイセイさん。

 俺はといえば舌に受けたダメージが抜けずに、手を口元に当てたまま動けなくなった。

 

 それにしても、ルジェさんはハク先輩にいったい何をどれだけ吹き込んでいるんだか。

 

 これはあとでルジェさんを問い詰めないととか考えていると、ポケットに突っ込んだスマホからLANEの着信音が鳴った。

 ゴソゴソとスマホを取り出してロックを解除するや否や、目に飛び込んできたのは悲痛な心の叫び。

 

<ドーロちゃあああああん。どこですかあああああ。またいなくなるなんて聞いていませんよおおおおお)

 

 明らかにルジェさんからのメッセージ、しかも俺がいないせいでまたもや恐慌状態に陥っているらしかった。

 これは急いで寮に戻った方が良いのだろうかと考えあぐねていたら、ハク先輩の声が聞こえた。

 

「それ、ルジェントから?」

「え? あ、はい、そうですね」

 

 スマホをかざしてハク先輩に見せる。途端に彼女は表情を曇らせた。

 

「……ルジェントって、あなたの前だといつもこんな感じなの?」

「私が黙っていなくなるのが怖いみたいで……一緒にいるときはすごくしっかりした方なんですけど」

「私の前じゃ自立して実力もあるように見えるんだけど……人は見かけによらないって、この事かな。

 去年私がケガで苦しんでたときは率先して助けてくれたし。おかげで復帰も叶ったし。……なんか、クラシックに上がって変わっちゃったみたいだ」

「そうなんですね……。やっぱり、私のせいでルジェ先輩がおかしくなちゃってるんでしょうか」

「それは、どういう事?」

 

 それから俺はハク先輩に問われるまま、自分が記憶喪失だということや、ここ数日ルジェさんが面倒を良く見てくれる反面で、情緒不安定気味な事を話す。

 

「聞いた感じじゃ面倒見の良いところとか、私の時と全然変わらないみたいだ。ただ、あなたが見えなくなると、かぁ……、うーん?」

 

 二人で考え込んでいたら、またしてもLANEが鳴る。ハク先輩に急かされるように、俺はルジェさんの待つ寮室へと急いだ。

 

 §

 

「ルジェさん! ごめんなさい大丈夫ですか!?」

 

 俺は入室するなり彼女に向かって平身低頭するのみだった。

 



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第65話 週末のご予定

切りの良さそうなところで止めたので、今回はちょっと短めです。


 

「ドーロちゃん、なんだか箸の進みが遅いね。何かあった?」

 

 日曜日の寮食、朝食の時間。俺はもうすっかり日常になった2段重ね特別トレーを前に箸を動かしていた。

 テーブルを挟んだ向かいではいつものようにリズちゃんがご飯を食べていて、俺に話しかけてくる。

 そしてその隣では、普段の温和な表情とは打って変わってムスッとした雰囲気を隠そうとしていないルジェさんが、これまた無言のまま朝食を口に運んでいた。

 

 事の顛末を話すとルジェさんに聞こえてしまって、また怖いことになってしまいそうだった。だからリズちゃんの問いかけにはあえて答えずに黙々と朝食を戴いていたのだが。

 

「ルジェ先輩も怖い顔したままだし、2人ともさっきから変だよ? もしかして……喧嘩しちゃった?」

 

 リズちゃんの指摘が気に障ったのか、ルジェさんの箸がピタリと止まる。その剣呑な気配を感じて俺も箸を止め、トレーの陰に隠れて様子を伺った。次の瞬間、ルジェさんから放たれた怒気が俺のしっぽを逆立てる。それと同時にリズちゃんの尻尾も逆立ったが、すぐにそれは霧消して、後に残ったのは耳を垂らしてしゅんと萎んだ表情のルジェさん。

 

「……あの、先輩。だいじょうぶ?」

 

 素早く立ち直ってきたリズちゃんがおそるおそるルジェさんに声を掛けた。

 だがルジェさんは変わらず萎んだまま、それでもぽつりと漏らされた小さな声を俺のウマ耳は掴み取る。

 

「……わたしは、悲しいんです――」

 

 怒っているのかと思ったらそうではないらしい。トレーの陰から出た俺も、リズちゃんも、次の一言を聞き漏らすまいと耳を澄ませる。

 

「あんなにお願いしたから、もう大丈夫だって信じていたんですよ? それなのに、目が覚めたらお部屋にだあれもいなくて、お布団もきちんと畳まれていて、まるでドーロちゃんがもう帰ってこないみたいな様子で――」

 

 そこまで呟くと、ルジェさんの目から光る粒が落ちた。

 

 それを見て咄嗟にルジェさんへと寄り添うリズちゃん。そして俺は向かいの席に座っていることもあって出遅れてしまい、座ったまま2人の様子を眺めていることしかできなかったのだが。

 

「ねぇねぇ、なんか泣いてない?」「泣いてる、よね? オンダルジェント先輩」「ヤバい、例の娘とうとうルジェント先輩のこと、泣かしちゃってる」「アカンねぇ、あれはアカンですよ」「なに? 別れ話とか?」「暴食の君がルジェント先輩と別れ話ってマジ?」「イヤイヤ、まだそうと決まったわけじゃないでしょ」

 

 好き勝手漏らす外野の声。

 俺は静かに席を立ってルジェさんの下へ近づくとそのまま床へ膝を突き、俯いているルジェさんに顔を近づけた。その行動に辺りがやや(どよ)めきに包まれたがそれもすぐ収まり、寮食の空間は固唾を飲んで次の展開を待つのみになった。

 

 静まった空間で、俯いたままでいるルジェさんの唇が言葉を紡ぎはじめる。

 

「ドーロちゃん?」

「は、はい」

「罪滅ぼし……という訳じゃありませんけれども、今日1日わたしと一緒にいてくれませんか?」

「それって」

「言葉どおりの意味ですよう。今日はこれから夜眠るまでの間、ドーロちゃんはわたしの目の届く場所にずっといて下さい。

 それで今朝のことは水に流しますう。

 あ、もちろん明日の朝いなくなってた、なんていうのはもうやめて下さいねえ」

 

 いつの間にかルジェさんの顔はこちらを向いていた。普段どおりの、柔らかな笑みを湛えて。

 だが、その瞳は笑ってなんかいなかった。

 

(あ、これ逆らったらヤバいヤツ)

 

 §

 

 その後いつものように衆人環視の中で朝食を無事(?)に済ませた俺たち3人。今は俺の寮室に集まっている状況になった。

 というかルジェさん、リズちゃんが一緒にいるのは問題ないんですか? 問題ない? アッハイ。

 

「リズちゃんは恋敵と言うよりも恋仲間ですからねえ。それに2人ともドーロちゃんのお世話をしたいのが優先ですからあ」

「先輩の言う通りだよ。今はまずドーロちゃんのお世話が先だよね、恋もあるけどそれはあとで」

 

 ……ということらしい。

 

 なにか釈然としないものを感じつつも、俺を巡って2人が仲違いすることはないようなのが安心材料か。

 

「それでルジェさん、今日は何か予定があるんでしょうか?」

「ん~、これと言ってないんですよねえ。そろそろお部屋のお掃除しようかななんて考えていましたけれど」

「普段も週末になるとお掃除するんでしょうか?」

「別に週末に限っているわけじゃありませんけれど、レースがなければ土日は結構時間がありますから。やっぱりその時にお掃除お洗濯を済ませちゃう事が多いですねえ」

 

 聞くとリズちゃんのお部屋の掃除も今週はまだらしい。まず俺の寮室、その後はリズちゃんの寮室を順番に掃除して回ることになった。

 



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第66話 やっと二人

日常回が続きます……というかこの小説日常回しかやってないような?


 

 そういえばと、気になっていたことを思い出す。洗面所の水回りをぞうきんで拭き上げながら尋ねてみた。

 

「そういえばですよ、リズちゃん?」

「ん、なあに?」

「この後リズちゃんのお部屋も掃除するじゃないですか。リズちゃんの同室ってどんな方なんでしょう? 私が会ったことはないですよね?」

「ええとね、プライムシーズンっていう高等部2年の先輩だよ。ドーロちゃんはまだだね」

「ああ、プライムちゃんなんですねえ」

「ルジェさん、知ってるんですか?」

「はい。同じ教室ですからあ」

「そうだったんですね」

 

 リズちゃんが続けて言うにはあまり周りに頓着しない性格らしく、俺の部屋に入り浸っているリズちゃんを咎めるような様子は特にないらしい。

 

「……というか、入り浸っている自覚はあったんですね」

 

 そうツッコんでみると、リズちゃんの目が挙動不審に泳いでいった。分かっちゃいるけど止められないって事ですかね、これは。

 その様子を見て、彼女が俺の方にべったりくっついてしまっている事をプライム先輩に謝っておくべきかと、俺は真剣に考え始めた。

 

「それじゃあリズちゃんのお部屋を掃除しに参りましょうか」

 

 それから程なくして掃除も終わり、次はリズちゃんの部屋へおじゃまする段になった。ついでにシーツや枕カバーも洗ってしまおうと言うことになって、俺たちはそこそこ多めの荷物を抱えて移動する。

 

「リズちゃんもシーツ洗いますよねえ?」

「そうだね。あっ、プライム先輩に聞いておかないと。友達がお掃除しに入りますけど大丈夫ですかって」

 

 リズちゃんの荷物を俺が受け持って、彼女は歩きながらLANEを送る。すぐに返答が来た。

 

「お掃除はリズに任せるって」

 

 プライム先輩はどうやら朝から出かけたらしく、今は不在。掃除してくれるお返しに、機会があったら何かお礼するよと返事があった。

 

 §

 

 初めて訪れるリズちゃんの寮室は俺たちとは別の棟の3階にあった。他の部屋と変わりなく飾り気のないドアを開けると、目に飛び込んできたのは水色と黄色できれいに二分された室内。俺たち2人よりも先に入ったリズちゃんは迷うことなく黄色の方へと進んでいって、そのままの勢いでシーツをえいっと剥ぎ取った。

 その案外雑な行われように俺があっけにとられていると、彼女は隣のベッドにも手を伸ばし、あっという間に2組の枕カバーとシーツを手にしてこちらに寄ってきた。

 

「とりあえず、先にお洗濯しちゃった方が良いよね?」

「そうですねえ、大物洗いは数が限られますし」

 

 そんなわけで4人分のシーツと枕カバーを銘々に抱えて、リズちゃんの寮室から取って返すように階段を降りる俺たち。行く先は大浴場隣のランドリーコーナーで、先日入ることのなかった奥の方へと歩みを進める。こちらの方は脱衣室に近いエリアよりも二回りほど大きな洗濯機と乾燥機が並んでいた。

 

「よかった、まだ洗濯機空いてるね」

「そうですねえ、これなら早めにお洗濯を終われそうですねえ」

 

 ぽいぽいテキパキと慣れた手つきで洗濯機へ放り込まれるシーツたち。洗い上がりまで30分ちょっとと表示された。

 するといつの間にかそちらに行っていたリズちゃんが、洗濯室の更に奥の引き戸から顔を出す。

 

「乾燥室もまだ空いてるよ」

「そうですか、なら早く終われそうですねえ」

 

 シーツも枕カバーも乾燥機に掛けるとシワだらけになってしまうので、奥の乾燥室を使って干すのだそうだ。

 そうして洗濯している間にリズちゃんの寮室を掃除するため通路を戻る。

 

 掃除そのものは先ほど俺の寮室でやっていたことと変わりない。ここでもぞうきん片手に水回りを拭き上げ終えたところで、ルジェさんから声がかかった。

 

「もうそろそろお洗濯ができている頃合いですよう」

 

 リズちゃんはもうちょっと片付けを続けたいと言うので、俺とルジェさんだけでシーツの乾燥に赴いた。

 

 ルジェさんが前に出て、俺が斜め後ろを付いて歩く。

 はじめは無言で歩いていたのだが、階段を降り始めた辺りで彼女が不意にくすっと笑いを溢した。

 

「何がおかしいんです?」

 

 俺が声を掛けると行き足が止まった。

 

「いえ、ようやく二人きりになれたなあって。ちょっと嬉しくてですねえ」

 

 そう呟いて振り返った顔は喜色を見せ輝く。

 

「今週に入ってドーロちゃんは時の人になってしまいましたからねえ。絡んでくる人も急に増えてしまいましたし。

 それでなんだかわたしだけ置いて行かれてしまったような気持ちになってしまって……。そんな事はないのに、だめですねえ」

 

 嬉しそうな表情は崩さないまま、でもルジェさんの声色はなんとなく寂しそうに響いた。

 

「でも今日はこうやってドーロちゃんを独り占めです。少しだけ、ですけれど」

 

 そうして今度こそ満面の笑みが咲く。

 くるっと回れ右をして鼻歌も飛び出したルジェさんを先頭に、再び歩き始めた。

 

 耳と尻尾を揺らしながら歩くルジェさん。上機嫌が溢れて出ているようなその背中を追いながらゆったり歩いていると、なんだかこちらも気分がほぐれてくる。

 時折振られる会話に答えつつ進んでいくと、いつの間にかランドリーコーナーに到着した。

 

 「さて、ちゃっちゃと干してしまいましょうねえ」

 

 そうルジェさんが言って洗濯機から取り出されたシーツたち。

 4人分もあって水を吸って結構重いはずなのに思ったほど重さを感じないのはウマ娘パワーのせいか。

 

 パンパンと大きな音を立てて両手で叩かれ軽くシワを伸ばされたシーツが、ルジェさんの手で次々と物干し竿に掛けられていく。

 その手つきは慣れたもので、あっという間に4本の竿それぞれにシーツが並んだ。

 

「うふふ、カラフルでお花畑みたいですねえ」

「ピンクに白に、黄色、水色」

「チューリップのお歌みたいですねえ」

「あかしろきいろ、でしたっけ」

「そう、それですよう」

 

 無事に洗濯物を干し終わって満足げなルジェさんの表情だ。

 



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第67話 馬の姿

お正月早々大事件が頻発しています。被害に遭われた方々の今後に幸あらんことを祈らずには居れません。


 

 掃除はあらかた終わりましたし、せっかく2人になれたのですからとルジェさんに誘われて、談話室の奥でしばしの休憩タイムになった。

 日曜日の午前。朝食時間帯も終わって時計はもう10時近くになる。寮生の皆は出払っているのか、他に人気(ひとけ)のない談話室で、俺とルジェさんは二人きりになった。

 そしてその会話は気負うところを感じさせず、滑らかに始まる。

 

「ドーロちゃん、もう怒ったり悲しんだりしませんから訳だけ聞かせてもらえませんかあ?

 今朝はどうしたんでしょうか、1人でこっそり出かけるなんてえ」

 

 彼女の柔らかで真っ直ぐな眼差しが俺の心を見透かすように見つめてきた。

 

 訳を聞かせると言ってもそれは今朝見た夢の話をするだけ……ではあるが、あの夢で最後に出てきたのは紛れもなく馬の顔だったわけで。馬という生き物を知らないルジェさんにどれだけ理解してもらえるのか。正直に話したところで夢の話だし、よく分からないこととして終わってしまうだけなのではないかと、話す前からすこしピントの外れた心配が湧いてくる。

 

 しかし彼女の双眸からは真剣にこちらの話を聞きたいという願いが伝わってくる。その一途さに押し出されるように、俺の口から言葉が零れ始めた。

 

「……すこし夢見が悪くて、目が……覚めちゃったんですよね。それで、その夢の意味を走りながら考えてみようかと思って」

 

 そこまで言って、少し言葉を切った。わずかに頷く彼女の瞳がその先を促す。

 

「夢の中で私は草原に立っていたんです。くるぶしの長さぐらいに揃った草で一面に覆われていて、遠くに見える湖に向かって緩やかに下っている、そんな広い広い草原。

 他に何もないので、私はその湖に向かって歩いて行ったんです。

 

 畔に着いたときに、風はあるのに水鏡みたいに静かな水面に違和感があって、ふと、覗き込んでみたんです」

 

 ここからは先ほど懸念した夢の核心に触れる。俺は一息区切ってルジェさんの表情に変わりのないことを確かめると、少し話の方向性を変えて続けた。

 

「……それで、ルジェさん。私が記憶喪失になった朝のこと、覚えていますか?」

「え? ええと、色々ありすぎてどの辺りのことだったか分かりませんねえ」

「一番最初のところですかね。ウマ耳とか、ウマ尻尾を見て私が驚いていた辺り」

「ああ。そういえばありましたねえ。耳としっぽを見て大層驚かれていましたあ」

「その時、馬っていう動物のお話をしたと思うんですよ、覚えていますか?」

「確か……こことは別の世界にいるウマ耳とウマ尻尾を持った動物だと、言っていましたよねえ。それがドーロちゃんの見た夢の話と、なにか関係があるんですかあ?」

「……その湖の水鏡に映ったのが、馬の顔だったんです」

「ウマの顔……ですかあ?

 

 ……うーん、それって……ドーロちゃんのお顔そのままって事ですよねえ?」

 

 そんなルジェさんの一言に、俺はうっと詰まる。どうしてそういう理解になるのかと一瞬考えて、ああそうか、ルジェさんは『動物としての馬』の事をまだよく知らなかったのだったと改めて気がついた。ここでは『(ウマ)』といえばすなわち『ウマ娘』の事を指すのだと。

 

「あ、いえ『ウマ娘』の事ではなくてですね、私の知っている動物の『馬』の顔が見えた、っていうことなんです」

「はあ……。それって、動物だからやっぱり毛むくじゃらなんですよねえ?

 ドーロちゃんのお顔で毛むくじゃらなのは……、それはやっぱり、ショッキングでしたよねえ」

 

 それを聞いて、俺は多分(にが)い表情を見せたに違いない。そしてその変化に気付いたのだろう彼女は、それまで真剣な、でも感情的にはニュートラルな表情で俺の言葉に耳を傾けていたが、ここで眉根にしわを寄せた。

 

 そこで双方ともに押し黙る時間があって、次に口を開いたのは俺。

 

「……私の言う『馬』について、もう少し詳しく説明しないとだめですね。

 えーと、なにか書く物は……」

「たしか電話機のところにメモ用の筆記具があったかと思いますよう」

 

 そう言ってルジェさんが指差した方向にあったのは、なんだか懐かしい形をしたダイヤル式電話機だった。しかも、受話器が妙に長い気がする。

 その電話機の下、ちょっとしたスペースにはわら半紙が無造作に積まれていて、ペンもそこに納められていた。

 俺は受話器の長さを気にしつつも、紙を数枚と、ちょっと先の丸くなりかけた鉛筆を手にルジェさんの下へと戻る。そして俺の見た馬の顔を紙に描きながらルジェさんに説明を始めた。

 

「私が夢で見たのは正面顔だったので、確かこういう感じです」

 

 そう伝えつつ鉛筆を走らせるが、俺の絵力(えぢから)でどれほど伝わるだろうかと心配になる。だが、俺の手はそんな懸念を余所に自分でも意外なほど順調に馬の顔型を形作っていった。

 そうして時間も掛からず描き上がったウマの正面顔、それを覗き込む俺とルジェさん。

 

「……なんて言うんでしょうか、とても愛嬌のあるお顔ですねえ。すごく縦に長い……。それから頭の天辺に……ウマ娘と同じ形のお耳が付いていて、少し髪の毛もあるんですかあ。

 

 うふふ。愛嬌はありますけれど、確かにこれが急に目の前に出てきたら驚きますう」

 

 そう言ってルジェさんはクスクスと笑い出してしまった。

 どこがツボに入ってしまったのか分からなかったが、俺は言葉を続けながら次に横からの全身像を描く。それはまるで今見て来たかのようにサラサラと描き出された。

 

「それでですね、全身を描くとこんな感じになるんですね」

「なるほどお。首が長くて、髪の毛が首筋にずぅっと伸びているんですねえ。それでお尻には尻尾。これは確かにウマ娘と同じ尻尾ですねえ。それに、すごく太い……トモでしょうかあ。これだけの太腿があればずいぶんと速く走れそうですよねえ。

 でも不思議ですねえ。これで角があれば鹿と言っても良いのでしょうけれど。角はないんですよねえ?」

「角のある子はいませんね。あと分かりにくいかも知れませんが、足の先がですね、ちょうど私たちの履くシューズみたいに丸いんですよ」

「蹄鉄シューズの事でしょうかあ? あの蹄鉄みたいな丸みが付いているって事でしょうかあ?」

「そうです、その通り」

 

 そうして最後にヒトとのサイズ差を描こうと思ったのだが、馬の姿は上手に描けたのに人の姿は線がのたくって上手く描けない。仕方なく棒人間で大体のサイズを描き出した。

 

「それは……?」

「人です」

「あら、まあ。おウマさんに比べたら随分とぞんざいな」

「なぜだか上手く描けないんです……」

 

 まあまあ誰にでも得手不得手はありますからあとルジェさんに慰められたが、どうして馬だけは上手に描けるのか、その謎は晴れないままだった。俺の中だけの事ではあったが。

 

「あっ、こっちにいたんだね。そろそろ1時間ぐらい経つよ」

 

 聞き慣れたリズちゃんの声が談話室の入り口から届いた。

 



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第68話 金色原(こんじきはら)に吹く風は

ある程度の書き貯めマージンを取って話を進めようとか、そういう感じなので不定期です。
どうも今話からしばらくの間は1話が短めらしい。


 

「なかなか戻ってこないからどうしたのかと思っちゃった」

「ごめんなさいねえリズちゃん。ドーロちゃんのお話を伺っていたものですからあ」

 

 こちらに近づいてきたリズちゃんがルジェさんに声を掛けたあと、そのまま俺の座っている長椅子のもう一方の端に腰掛けた。

 

「ん、この絵は何かなぁ?」

「それはドーロちゃんが。今朝の夢で見たんだそうですよう」

 

 リズちゃんが俺の描いた絵を手に取って眺めた。途端に緩む口元。

 

「なんだか愛嬌あるね。これ動物さんの顔だよね?」

「ウマって言うそうですよう」

「ウマ? ウマ娘じゃなくて?」

 

 頷くルジェさんを横目に、リズちゃんは俺の絵を改めてしげしげと見つめ始めた。

 

「見れば見るほど優しそうな雰囲気が伝わってくるね。まるでドーロちゃん本人みたい」

「うえぇ? まるで私みたいって、それ本気ですか」

 

 ニッコリと笑みを向けてこくりと頷くリズちゃんだった。

 

「こっちの絵は全身像なのかな? 耳がリズ達ウマ娘みたいなんだね、それから尻尾もだね。ドーロちゃんって絵、実は上手いんだね。

 ……で、この丸書いて棒は?」

 

 やはりリズちゃんは冷静だ、そこにツッコミが入るとは。その丸棒の正体を知っている俺とルジェさんは思わずグッと言い留まった。

 そんな事とはつゆも知らないリズちゃんは興味深そうに俺たちの答えを待っているのだが。

 

 ルジェさんと目が合った。やはりここはドーロちゃんが、とでも言いたげだ。

 確かに描いたのは俺だし、観念してぼそり呟いた。

 

「それ……一応人のつもりなんです」

 

 その時リズちゃんが見せた驚愕の表情、しばらく忘れられないものになった。

 

 §

 

「――で、この丸棒が人の大きさなんだね――」

「うぇぇっ、改めて声に出さないで下さい。馬の絵とレベルが違いすぎて恥ずかしいです」

「これだけ大きかったら足は速いだろうし、人を乗せて走れそうだよね。

 一度一緒に走ってみたいなぁ……、あっでもドーロちゃんの夢の中のお話だったよね」

 

 馬の絵を見ながら、割とポジティブな反応を返し続けているリズちゃんがそこにいた。顔に愛嬌があるだとか、走るのが速そうだとか、ウマ娘らしい感想が連なる。

 この絵を見せて2人から拒否感みたいな物は感じられず、俺としてはひとまずホッとした。

 

「でも、ドーロちゃんはどこでこんな動物を知ったんだろうね?」

「……」

 

 その理由は俺にも分かる訳がない。誰かに教わったとか、そんな記憶はまるで持っていないのだから。

 リズちゃんの疑問に答えられず俺が困っていると、ルジェさんが助け船を出してくれた。

 

「ドーロちゃん、あの朝に人の名前のような言葉を言っていましたよねえ」

「きんばらはやて、でしょうか?」

「それです。そのきんばらさんの事、何か思い出したりは」

「いえ、まだなにも」

「そうですかあ……」

 

 俺のすげない返答に、ルジェさんの耳もしょぼんと垂れ下がってしまった。

 

 やや沈痛な雰囲気になってしまったその場でまだ考えを巡らせていたのはリズちゃんだった。俺の頭をじーっと見ながら考えている。

 そして何かを思いついて、ぼそっと呟いた。

 

「きんばら……きん、ばら……、金色の……、原っぱ?」

「リズちゃん?」

「金色の……原っぱ」

 

 ルジェさんも俺の頭を見つめて言葉を繰り返す。

 双方から集中する視線を受けて俺はたじろいだ。

 

「わっ、私の頭で連想しないで下さいよ。

 ……確かに、髪の毛は明るい金色ですけれど」

 

 ワタワタと頭を手で隠しつつ長椅子の背に沈み込む。しかし2人の双眸はじっと俺の頭の天辺に注がれ続け、居たたまれなくなった俺は前にたたんだ耳と一緒に頭を抱えたまま、視線を避けるように身をよじることしかできなかった。

 

「先輩、金色の原っぱに……、はやてってなんだろう?」

「はやて……聞いたことはありますねえ。国語の時間……、それとも理科か社会でしたでしょうかあ」

「こういう時こそウマホで調べると良いんだよね。えーと」

 

 リズちゃんの手元からタタッとタップする音が聞こえた。

 

「はやて。急に速く吹く風のこと。はやてかぜ、はやち、とも言う。だって」

「風の名前なんですねえ。……金色の原っぱに急に吹く速い風……金色……風……金の風?

 ……って、あっ!」

 

 何かに気づいたらしいルジェさんの声に驚いて、俺はがばっと身を起こして彼女を見た。

 俺を凝視するルジェさんの瞳と目が合う。

 とても驚いた様子で目一杯見開かれたそれを、俺は初めて見た。

 

「……ヴェント・ドーロ」

「先輩? ドーロちゃんが何か?」

「ヴェントドーロですよリズちゃん。金の風って」

 

 まだ疑問符を浮かべた表情を見せるリズちゃんを余所に、ルジェさんが説明を始める。

 

「わたしが寮のお部屋で初めてドーロちゃんと会ったとき、彼女はこう言ったんです。『あたしはヴェントドーロって言います。名前の意味は、イタリア語で金の風って事らしいです』と」

「金の風……ヴェントドーロ。金色の原っぱと速く吹く風……、繋がってる、よね。それって」

 



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第69話 美浦寮食プレオープン競走 ホームメイド杯 その1

タイトル長っ!


 

「でも、きんばらはやてというのが誰かの名前だとして。いったい誰の名前なんでしょう?」

「ドーロちゃんのパパとか? 男の人の名前っぽいよね」

「ドーロちゃんのお父様のお名前って――」

「……すみません、覚えていないんです」

「――ですよねえ」

 

 結局、きんばらはやて=金の風=ヴェントドーロというところまで辿り着いただけで、それ以上話の進展は望めなくなった。

 いや、むしろドーロの中にいる俺という存在が一体何者なのか、俺自身余計に理解しづらくなったとも思える。もっともこんな事を考えているのは俺だけで、他の2人は俺のことをドーロ本人だと信じ切っているはずだ。

 

 ともあれ時刻もお昼に近づいて、談話室に他の生徒がちらほらと現れるようになってきた。

 なんとなくそれ以上話を続けるのも憚られた俺たちは、早くも乾燥の終わった洗濯物を取り込んで寮室へと戻って行った。

 

 §

 

「さて、お昼はどうしましょうかあ」

 

 ベッドにシーツを敷き終えたルジェさんがそんな事を口にする。するとお昼というワードに反応したのか、朝食の後からずっと静かだった腹の虫が目覚めた。

 

『うぎゅ?』

「おなかちゃん、起きた?」

『きゅいきゅ』

 

 またもやリズちゃんが腹の虫と会話を始めたが、俺ももう慣れた。ただルジェさんの言い方が気になったので尋ねてみる。

 

「寮食じゃだめなんです?」

「お昼は寮食では用意されていないんですよう」

「あ、そうなんですね。では学園のカフェテリアで?」

「それも日曜日は開いていないんですよねえ」

『ぎゅぇぇ~?』

「あ、おなかちゃんがショック受けてる……」

 

 いやリズちゃんなんで腹の虫の感情まで読めるんですか……、とはいえ寮食もカフェテリアも開いて無いと聞いて俺も少々驚いた。

 

「うぇ……もしかして今日はランチ難民になっちゃうんでしょうか」

「寮のキッチンは開いているので、自分で何か作って食べるか……あとは外へ食べに出るか、ですねえ」

「外……ですか……」

 

 外食と聞いて心配になった。

 腹の虫を満足させるだけの食事量、果たしてそれを賄えるだけ料理を出してくれるお店があるのか。それにもしお店があったとしても、一体お金がいくら掛かってしまうのか。

 

『きゅぅぅぅぅ……』

 

 突然のお昼ご飯危機に、腹の虫もすっかり消沈してしまったように鳴いている。

 俺はといえば心配のあまりよほど情けない顔をしていたのか、ルジェさんが見かねて提案してくれた。

 

「ドーロちゃん、外でのお食事はまだ不安ですかあ?」

 

 優しい問いかけに、俺は軽く頷く。

 

「ですよねえ。それじゃわたしが用意しましょうかあ」

「うぇぇっ!? そんなの悪いですよ」『ぎゅぃきゅぃ』

「でも、お昼抜きって訳にはいかないでしょう?」

『ぐきゅぅぅ……』「それは、そうなんですけど……」

「材料は自由に使って良いものが寮食のキッチンに常備されていますし、それにわたしの作るお料理を、もっとドーロちゃんに食べて欲しいので」

 

 ニッコリと目の前で微笑むルジェさん。あなたは慈母なのか? 聖女なのか? あ、両方か。この際俺に対して想いが重いのは脇に置いておくとして。

 

「リズもがんばって作るよ。だからおなかちゃんはいっぱい食べてね」

『きゅきゅきゅぃっ』

 

 リズちゃんは俺ではなく腹の虫に話しかけていた。

 

 §

 

 さっそく寮食の隣にある生徒用キッチンへと向かった。

 そこは生徒用とはされているが、複数人が同時に調理できるようにかなり広いスペースで、コンロや水回りといった調理に必須の設備が数組並べられていた。

 その一角では実際に数人の生徒がお昼ご飯を作っている様子だ。

 

「さてえ。まずは在庫の確認からでしょうかあ」

 

 慣れた様子でルジェさんが冷蔵庫の中身を確認していく。その間にルジェさんからの指示をあらかじめ受けていたリズちゃんが食品庫で野菜類を物色中だ。そして。

 

「鶏のもも肉8枚、タマネギ12個、ピーマン20個……」

「……にんじん12本に、キャベツが5玉と……先輩、あとは?」

「ご飯は3人分で3升もあればとりあえず足りるでしょうかあ?」

「ドーロちゃんがそれで足りるかどうか分からないけど、お野菜もあるし……。リズは4合くらい食べるかな、先輩は?」

「良いところ2合ぐらいでしょうかねえ」

「作るのはチキンライスでいいんだよね?」

「そうですねえ、あとはキャベツとにんじんを刻んでキュウリとトマトを添えて簡単にサラダを作るとしてえ……少しスープも作っておきましょうかあ」

「シメジとマイタケでコンソメスープでも作る?」

「いいですねえ。刻んだベーコンといっしょにちょっと炒めて香ばしくしましょうかあ」

 

 野菜切るのを手伝いますと伝えたにもかかわらず、ルジェさんとリズちゃんの2人でちゃっちゃと下ごしらえが進んでいく。

 いつもやってもらってばかりだし、俺も今のうちから多少は調理ができるようになっておかないとと思っていたのだが。どうやら2人は俺のことを徹底的に甘やかす気満々だ。

 

 仕方がないのでキッチンからほど近い食堂の席に座り込み、2人の様子をのんびり眺めることにした。

 

『ぎゅっきゅぅ♪ ぎゅっきゅぅ♪』

 

 先に昼ご飯を作り始めていた他の娘たちも調理が進んで、美味しそうな香りが寮食に広がる。その香りにつられるように、腹の虫が鳴き声の調子を段々上げてきた。俺も空腹感が増してくると共に、食事が楽しみになってくる。

 

「おまえは欲望に素直だよねえ、腹の虫」

『きゅっ♪』

 

 何気なく呟いたつもりだったが、腹の虫から返事があった。なんとなく俺の言葉を肯定されたような気配がした。

 



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第70話 美浦寮食プレオープン競走 ホームメイド杯 その2

やっぱりサブタイ長いな?
そして本文は短い。


 

 他の娘たちが一人また一人と昼食を作り上げてキッチンを後にしていく。その一方で俺たちの方はまだまだこれからが本番だ。

 さっきまで包丁片手に野菜を刻んでいたルジェさんが、今はもう細かく刻んだ鶏肉とタマネギを中華鍋で炒め始めていた。

 

「どうせご飯を炊くところから始めなくちゃいけないので、今回のメインは炊き込みチキンライスですよう」

 

 ルジェさんの説明によるとチキンライスには2通りあって、ご飯を具材と共に炒めて味を付けるものと、今回のように具材とお米を炊きあげて作るものがあるのだそうだ。

 

「炊き込みチキンライスはお肉の旨味がご飯に移って、炒める方とはひと味もふた味も違うんです。でもお肉を先に炒めているのはお肉の旨味を引き出す為なんですよう」

 

 そんな風に説明しながら中華鍋が振るわれる。3升分のお米に見合う具材の量だけに今にも鍋から飛び出しそうだが、まったく溢れたりしないのはさすがの腕前だ。

 ちなみに中華鍋で炒めているのは具材の量が多すぎるからフライパンじゃ無理、らしい。

 ちゃんと中華鍋用のコンロまで設えてあるのは設備が整いすぎかもしれないが。

 

 手際よく進む調理。炒められていた鶏肉とタマネギは大きな炊飯器の中に、これまた細切れになったにんじんピーマンお米と共に収まって、その上からたっぷりのトマトケチャップ、そしてブイヨンとバターが乗っかって、いよいよ炊飯が始まる。

 

「それじゃあスイッチオンですう」

 

 明らかにウキウキしているルジェさんがスイッチを入れる。炊飯器は見たこともないくらい巨大で、まさに業務用といった出で立ちだ。お米と具材を全て飲み込んでも釜の7分目ぐらいにしか届いていなかったのには少々驚きを隠せなかった。

 チチチチっと火花の散る音の直後にゴッと火の点く音がする。大きい分だけ火力も強力だ。

 

「炊きあがるまで30分くらいでしょうかあ。その間にサラダとスープを作ってしまいましょうねえ」

 

 そう言って取り出してきたのはまな板サイズの大きなスライサー。その様子をじっと見ていたら、ルジェさんの右手がちょいちょいと俺を呼んだ。

 

「どうしました?」

「ドーロちゃんが何かやりたそうな目でこちらを見つめていましたのでえ」

 

 スライサーを手渡されつつ流れていくルジェさんの視線を追いかけてみると、その先には調理台の上にゴロゴロ転がるキャベツの山。どうやらあれを千切りにしましょうということらしい。そのままルジェさんがやり方を見せてくれた。

 

「一番外の葉っぱはとりあえず剥がしてしまいましょうねえ。次に水道で軽く洗ったら縦に真っ二つですよう♪」

 

 軽妙な雰囲気を醸し出しつつ、ルジェさんは大ぶりな四角い包丁でキャベツをばっさり両断してしまった。

 

「芯の付け根は少し硬いので、千切りキャベツの時は三角に切り取ってしまって……、これで準備はオーケーですよう」

 

 そこで何かを探し始めてキョロキョロと辺りを見回す。そして。

 

「ドーロちゃん、すみませんがあそこの棚の上の方にしまってあるステンレスのボールを出してもらって良いですかあ? 一番大きなので」

「これですか?」

「そうですそうですう。

 それじゃ、このボールの上にスライサーを乗せてえ、それでキャベツを――こう」

 

 ひっくり返したら俺の頭がすっぽり隠れてしまいそうなくらい大きなステンレスボール。それをルジェさんに渡すと、彼女は軽く水洗いしてからスライサーを上に乗せ、半分に割ったキャベツをカット面の方からスライスし始めた。

 右手が行き来するたびに、シャッ、シャッと軽い音を立てて削れていくキャベツ。はらはらとボウルに舞い落ちるそれは、空気を孕んでふんわりと柔らかく盛り上がっていった。

 

「手を切らないように、最後の方は気をつけて下さいねえ」

 

 最後にそれだけアドバイスをくれると、ルジェさんは次の仕事に移っていった。

 ルジェさんから教わった通りに調理を進める。思っていたよりも楽に早くキャベツの千切りはできあがっていった。

 

『ぐぎゅぎゅぎゅ』

 

 無心にスライサーを操っていたら腹の虫が何かを訴えてきた。それと同時にケチャップの香りが鼻をくすぐる。

 その香りを受けて手を止めると、さらに腹の虫が何かを叫んだ。

 

『ぎゅぎぎゅぎぎゅぎぎぎ』

「あらまぁ。お腹の虫さんが待ちきれなくなってしまいましたかあ。ごめんなさい、炊きあがるまでもう少しかかるんですよお」

 

 コンロの前で両手鍋を相手にしているルジェさんがこちらを見てすまなさそうに答えた。

 

『きゅきゅぅ……』

 

 それを聞いて納得したのか、腹の虫は小さく声を上げるとまた静かになる。

 俺は再びスライサーに向き直って、最後のキャベツを千切りにしていく。

 

 それも終わって辺りを見回すと、リズちゃんもスライサーで何かを削っていた。オレンジ色をしたそれは多分にんじんだ。

 その様子を覗き込んでいると、リズちゃんが教えてくれた。

 

「ニンジンをドレッシングで和えて、キャベツと一緒にサラダにしようと思って。

 そういえばドーロちゃんも調理してたけど、つまみ食いしなかったね」

 

 リズちゃんにそう指摘されてようやく気付く。

 昨日の晩ご飯時なんかは、ほとんど味の付いていないキャベツの千切りをもしゃもしゃバクバクと喰らっていたのだ。だから自分で作った千切りキャベツを途中で食べ始めていてもおかしくはないはずだった。

 

「言われてみれば……」

「昨日の晩ご飯の時でも落ち着いてトンカツ食べたりしていたし、おなかちゃんの様子が変わってきてるよね」

『きゅ?』

「うん、おなかちゃんがだんだん優しくなってきてるねって。そんな話だよ」

『きゅぃきゅ~』

 

 自分の意志とは無関係に腹の虫が活動しているのは相変わらずだったが、腹の虫にわずかながら変化が起こっているのは明らかなようだった。

 



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第71話 美浦寮食プレオープン競走 ホームメイド杯 その3

ちょっとお昼ごはんを調理していただけなのに。


 巨大ボールにうずたかく山盛りになったニンジンとキャベツのサラダができあがり、寸胴鍋ではキノコスープがなみなみと満ちている。

 サイドメニューがそうやって一通り仕上がった頃、炊飯器のスイッチがバチンと音を立てて切れた。どうやら炊きあがったようだ。

 

「ちょうどチキンライスも炊きあがりましたあ。お腹の虫ちゃん、お待たせしましたねえ。

 それじゃドーロちゃん、配膳はわたしたちがしますからあ。ドーロちゃんはお席で待っていて下さいねえ……って、まあまあ。こんなにギャラリーが」

 

 ルジェさんが驚いた声を上げた。何事かと思って見回せば、キッチンから食堂に面したカウンターで何人もの生徒が鈴生りになってこちらを伺っている。ちょっとの間カウンターを挟んで無言でお見合い状態になったが、時を待たずに生徒の一人が声を上げた。

 

「ねぇねぇルジェント、すごく良い匂いだけど何作ってんの?」

「ああ、カイゼルちゃんじゃないですかあ。実はお昼ご飯にチキンライスを炊いたんですよう」

「チキンライスを……炊くの? 炒めるんじゃなくて?」

「そうですう。ほら、見てみますかあ?」

 

 そう言ってルジェさんが手招きすると、カイゼルと呼ばれた芦毛ロングの娘がキッチンに入ってきた。

 ルジェさんが炊飯器の蓋を取ると、それまでも香っていたチキンライスの匂いがさらに強烈に広がる。

 

 『うっはぁ、い~い匂い』『あ、ダメだこの香りはオレに効く』『しくったー、お昼少なめにしとけば良かった、食べてみたいけどもう入らんし』『ひとくち味見、できないかな?』『一口食べたら止まらない自信あるわ~あれ』

 

 鈴生りになった生徒たちから溜息が漏れた。

 

『ヴ・ヴ・ヴ……』

 

 腹の虫も今まで聞いたことのない鳴き声を漏らしている。

 幸い周りに聞こえてはいないようなので、まだ自重しているようだ。いつまでこのお預け状態に耐えられるかまでは分からないが。

 

 カイゼルさんを入れた俺たち4人で炊飯器を覗き込むと、湯気の底にはキラキラと艶やかな照りを纏ったオレンジ色のご飯……ではなく、それをびっしりと覆った具材が見えた。ご飯そのものは具材の隙間にチラチラと見えるだけだ。

 いつの間にか特大しゃもじをその手に握りしめて踏み台に上ったリズちゃんが、「それじゃ混ぜちゃうね」と一言残してしゃもじをご飯の中に差し入れる。

 リズちゃんの手によってテンポ良く返されていくチキンライスは、返されるたびにぼわっぼわっと湯気を吐き出す。吐き出された湯気が爆ぜる度、キッチンはさらに強烈なチキンライスの香りで満たされた。

 

『グギョォぉぉぉぉぉぉ……』

 

 それと同時、ひときわ大きく腹の虫が雄叫びを上げた。

 

 俺の意志とは無関係に視界が移動し始める。

 一歩、また一歩と徐々に近づいてくる炊飯器。

 その前に陣取るルジェさんとカイゼルさんを押しのけ、そのまま両手は炊飯器の中へ届こうとしていたその時。

 

 眼前に飛んできた何かに当たって、俺はそのまま真後ろへもんどり打った。

 

 §

 

【リズ視点】

 

 おしゃもじを右手に構え、炊飯器一杯に炊きあがったチキンライスを底の方から返していく。湯気が当たっておでこが熱いけれど、同時に濃密な香りが鼻を満たしてくれる。

 テンポ良くおしゃもじを動かしていたら、背後から獣の雄叫びが聞こえた。

 

『グギョォぉぉぉぉぉぉ……』

 

 何が起こったのか分からないまま振り向いた途端おしゃもじに重い手応えが響いて、その先の床ではドーロちゃんが倒れ伏していた。

 

「ドーロちゃんっ、大丈夫っ!?」

 

 そう声を出すのが精一杯だった。

 

 §

 

【ルジェ視点】

 

「ドーロちゃんっ、大丈夫っ!?」

 

 背後からなにかに押しのけられてよろめいたと思ったら、ガツンと鈍い音が大きく響いてリズちゃんの鋭い声が聞こえたんです。

 咄嗟に声の出どころを見たら、踏み台の上にはおしゃもじ片手に戦慄(わなな)いているリズちゃんが立っていて。そしてその視線の先、床には横向きに倒れたドーロちゃんの姿が!

 

 慌ててドーロちゃんを抱き起こすと意識はあるようでしたが、少しぼうっとしています。

 それに額にはなにかが当たったようで、四角い形の赤い痕が残っています。でもそれ以上のケガをしている様子はありません。

 

 間をおかずにリズちゃんも駆け寄ってきました。リズちゃんの顔は真っ青になっていました。

 

 ギャラリーの誰かが呼んでくれたのでしょう、寮長のルーブルちゃんがそばまで来てくれました。

 

「どうしよう、リズのせいだ」

「大丈夫ですよ、ケガは無いようですし」

「でも、頭とか打ってるんじゃ……」

「ルジェント、ドーロのやつどうしたんだい?」

「どうやら顔になにかが当たって転んじゃったみたいでえ。ほら、額のところが赤くなっているでしょう?」

「ホントだ、こりゃぁ痛々しいねえ。それで頭とか脚とか大丈夫だったのかい?」

 

 ルーブルちゃんはそのままドーロちゃんに声を掛けて正気を確かめようとしています。ギャラリーの娘から渡された濡れタオルを赤い額に宛がうと、ドーロちゃんのかわいい声が上がりました。

 

「うぇっ! 冷たっ!?」

 



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第72話 美浦寮食プレオープン競走 ホームメイド杯 その4

だから不定期更新だって言ってるじゃないですか。

ついにオルフェーヴルがウマ娘世界に降臨されましたね、とりあえずカードガチャ頑張るぞ。
オルフェが降りてくるまでにドーロちゃん話もっと進めておきたかった……(もう遅い


「うぇっ! 冷たっ!?」

 

 顔に被った冷たさが俺の意識を呼び覚ます。ルジェさんを正面に、リズちゃんと、それからイソノルーブル寮長までもが俺の顔を間近から覗き込んでいた。と認識できた途端。

 

「うわあぁぁぁん! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! リズのせいだ、リズのせいでドーロちゃんがケガしちゃった!」

 

 がっちりと抱きついて来て、リズちゃんが泣き声を張り上げた。

 身動きが取れないままルジェさんの方に視線を移すと、こちらはいつもと変わらない落ち着いた様子で静かに頷き返す。リズちゃんが落ち着くまでこのままでいましょうと伝えたいようだ。

 

 初めこそわんわんと泣いていたリズちゃんだったが、そのうちにすんすんと啜り上げる程度に落ち着いてきた。

 頃合いと見たルジェさんが彼女の両肩に手をかけて、俺からゆっくりと引きはがす。すると波が引くようにするすると、ホールドしていた腕が離れていく。

 

 リズちゃんは床に座り込んだまま俯いていたが、俺は静かにお礼を述べた。

 

「リズちゃん、ありがとうございます」

 

 ぴくりと彼女の長い耳が反応する。

 

「もう少しで熱々のご飯に両手を突っ込むところだったんですよ。

 私の身体はあのとき腹の虫に自由を奪われていたので。寸前で止めてくれたリズちゃんは私を助けてくれた英雄なんです。

 だから、もう泣かないで下さい」

 

 リズちゃんが顔を上げる。泣き腫らした目じりにはまだ涙が溜まり、興奮の残る頬は紅潮していた。

 

「で、でもっ。ドーロちゃんのおでこをケガさせちゃったのはリズのおしゃもじのせいで――」

「そのしゃもじが私を止めてくれたんです。だからリズちゃんが手に持っていたそれはさしずめ……、英雄の聖剣?」

 

 俺は彼女の気を静めようと、努めて温和な表情を作る。

 交わす言葉一言ごとに、リズちゃんの様子は普段通りへと回復を見せた。

 

「それは、さすがに大げさじゃないかな……」

「そうでしょうか?

 

 ……そうだ、銘でも書いておきましょうか。“聖剣 リズのしゃもじ”」

「それは恥ずかしすぎるから止めてー! もう、ドーロちゃんのいじわるっ」

 

 怒ったような困ったような笑ったような複雑な表情。そんなリズちゃんの両眼には普段通りの強さが戻っていた。

 

「ふふ、冗談です。でもやっと笑ってくれましたね」

「あ、えっ? あれれ……え、えへへへ……」

 

 俺の指摘に一瞬だけ目を見開いたが、すぐに視線を外してはにかんだ。

 

「私はもう大丈夫です。ルジェさん、遅くなりましたけどお昼にしましょう」

「そうですねえ。それじゃすぐ用意しますねえ」

「それから、チキンライスを寮の皆さんにも少し分けてあげたいんですが……良いですか?」

 

 おずおずと尋ねると、ルジェさんはすぐこちらの意図を酌んでにっこりと微笑みを返してくれた。

 

 その場にいた寮生の数だけご飯茶碗を出してきて、チキンライスを取り分ける。皆食べたがっていたし、なにより騒ぎを起こしてしまったお詫びも兼ねてだ。

 茶碗を用意する俺の隣でリズちゃんがよそっていく。それを寮長さんがお盆に載せて配膳していった。そして最後に大きなお盆みたいなお皿山盛りに俺の分が盛り付けられて、いよいよお昼ご飯の始まりが告げられた。

 

「「「「「「「いただきま~す」」」」」」」

 

 寮長さんの音頭で唱和する。と、同時に俺はいつも通り猛然と食べ始める。

 腹の虫が欲しているのはあるが、俺自身も食べたいという衝動を強く感じながらチキンライスを、サラダを、スープをと食べ進む。

 

 このチキンライスはルジェさんが言っていた通り旨味が濃い。チキンの風味もさることながら、そこにたっぷりと加えられたバターのコクとトマトの旨味が合わさった上に、米粒一つ一つにまんべんなくそれらが染み込んでいて一口ごとに脳を揺さぶる。その米粒はまだ少しばかりの歯ごたえが残っていて、噛みしめるごとにトマトとはまた違う米ならではの秘やかな甘味が後追いで口の中に広がった。

 今度機会があったらまたルジェさんに作ってもらおう。そんな事を考えているうちにお皿が空になってしまった。

 

 カランと乾いた音を立ててスプーンが大皿の上を踊る。一口二口残ったスープを手に持ったカップからゆっくりと啜って、今日のランチは終わった。

 

「満足できましたかあ?」

 

 向かいに座っていたルジェさんがニコニコ顔で問いかける。

 

「ええ。今までで一番美味しいごはんだったかも知れません」

「それは嬉しいですう」

「また作って戴けますか」

「ドーロちゃんが欲しいのなら、いくらでも」

 

 ルジェさんが満足げな笑顔を見せた。その隣に座っているリズちゃんも、もうすっかりいつもの調子に戻ったようでニコニコと穏やかに微笑んでいた。

 




進行が遅くて各方面をすごくヤキモキさせております。次回からようやくゲート特訓始まりますよー。


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第73話 The GATE #1

また中断すると思った?

なんとか踏みとどまりました。
3月4月5月は忙しいんじゃよ……主にウマ娘描かねばならんでの。


 

 週が明け月曜日。いよいよ選抜レースウィークに入った。

 早朝自主練に出る生徒の数は前の週と比べても明らかに多くなり、みんな最終調整に余念がない。

 

 日中、教室の様子もこれまでとは違ってどことなく緊張感の漂う雰囲気だ。

 もちろん2班の連中もそんな緊張感を色濃く漂わせて午後の全体練習に臨んでいた。

 

 そして俺だ。

 

「最初はゲートくぐりから始めましょう。ドーロさん、今はまだ大丈夫ですか?」

「は、はいなんとか」

 

 織田先生付き添いの下、一人特別メニューでの練習となった。

 練習トラックの内側にある角バ場。そこには5人建て用の練習用スターティングゲートが据え付けられていた。

 今はまだ遠巻きに眺めているだけだ。とりあえず心身に変調は起こっていなかった。

 

「まずは慣れるところからです。後ろからだけでなく、前からでも横からでも好きな方向から見て触って確かめて下さい。

 横を付いて一緒に歩きますから。ダメなら立ち止まって。大丈夫、僕が傍に必ずいます」

「はい……」

 

 先生は優しくそう言ってくれるが、ゲートを怖れる理由が自分でも分からないのだ。気にしすぎると余計危ないのは分かるが、意識せずにいられるほど俺のメンタルも強くないわけで。

 じっとゲートを見据えつつ一歩二歩と近づくにつれて、心拍がどんどん上がっていく。10歩も進まないうちに先生からストップが掛かった。

 

「ちょっと止まりましょう、心拍が上がりすぎてる。ゲートから目を離して僕の方を見て下さい――

 そうです、そこでゆっくり息を吐いて――ゆっくり吸って」

 

 左手首に巻かれたセンサーを介して、織田先生の持つ端末に俺の心拍の変化が送られていた。先生はそれを確認しつつ俺の隣にぴったりと寄り添って歩調を合わせていたのだ。

 

「――少し落ち着いてきたかな。ドーロさん、今ゲートに近づきながらなにか考えていたり思い出したりしましたか?」

 

 そう先生に尋ねられたが、俺としてはそんな覚えはなかった。とにかく近づくにつれて勝手に身体が緊張を覚えていったのだ。

 

「いえ、思い出したりとかは何も。近づくにつれて勝手に心拍が上がっていったようです」

「ふむ、やはり深層心理に何かがあるのかな。ゲートに触れるまで近づくことができれば解決の糸口もありそうですが、今の状況では少し難しいか」

 

 それから先生の指示で距離を詰めないままゲートの周りをぐるりと歩いて回ったり、先生に手を引かれてゲートを見ないように後ろ向きに近づいたりと、俺の反応を確かめる動きを色々と試してみた。

 その中で一番効果があったのは後ろ向きに近づくことだった。どうやら視界にさえ入らなければ大丈夫なようだ。ただそれもゲートに触れる前までのこと。ゲートに触れた途端心拍は飛び上がってしまう。

 

「どうやら見えていなければなんとかなるみたいですね。でもゲートの存在を覚知してしまうとやはりダメと」

「……なんだか、すみません」

「いやいや、それだけドーロさんのこの問題は根深いということです。じっくりと改善を目指していかないといけません。幸いあと4日ありますし、焦るにはまだ早い」

 

 その後も色々と手を変え品を変えて、ゲートに近づく訓練が続いた。

 最終的には目隠しをして誘導されてゲート内に収まるところまで辿(たど)り着けはしたのだが、ゲートの後ろ扉を閉める金属音が響いた途端に、開け放たれたままの前扉から逃げ出してしまった。

 

「……すみません……」

「いや、2時間程度でここまでできたのですから大きな進歩ですよ。あとは音に対する反応をどうにかできればスタートは切れるでしょう。それに――」

「それに?」

「この反応を上手く使えばスタートが早くなるかも知れない」

「それはさすがに……そう上手く、いくとも思えないんですが」

 

 俺の気弱さとは逆に、織田先生は満足げに話した。

 結局その日の特訓はそこまでで終わった。明日の午後も天候が良ければ今日と同様に特訓を行いますと告げて、織田先生は医務室へと戻っていった。

 

 別メニューでトラック練習を続けていたクラスメイトの下に戻る。真っ先に駆けつけたのはやはりリズちゃん、そしてプリ子。

 俺のことがよほど具合悪そうに見えていたのか、駆け寄ってきたリズちゃんの表情が優れない。対するプリ子はいつも通り飄々としたものだ。

 

「ドーロちゃん、顔色悪いよ? どこか具合悪くなったりしてない?」

「大丈夫ですよ。ちょっと精神的に疲れただけです。先生には大きく進歩したと誉められました」

「トド、どうだい選抜レース、出られそうか?」

「まだちょっと分からないですね。先生には誉められましたが」

 

 しばし休憩を挟んでから、クラスの練習に合流して何本かダートでマイルを走る。2班のメンバーは普段通りの対応で、流石に先日のようなレースを吹っ掛けられることはなかったが、それなりに絡まれてそれなりに力の籠もった併走になった。

 最初の周回こそ脚が伸びなかったがそれもすぐになくなって、2周目からはプリ子と抜きつ抜かれつを演じるほどには回復していた。

 

「どうやら脚には影響ないみたいだな、安心したぜ。あとはゲートだけだが、まあトドのことだしなんとかなるんだろ?」

 

 インターバルのひととき、プリ子はあっけらかんとそう言う。織田先生も進歩ありとは言ってくれたが、俺自身の手応えはそう芳しいとは思えなかった。

 

 練習が終わり、寮に帰って夕食の時間。精神的な疲れのせいで食事が入らない……なんて事はなく、いつも通りの爆食模様だったのが幸いと言って良いものか。

 

 §

 

 2日目の特訓が始まった。

 

 角バ場で待ち構えていたのは織田先生の他、研究所のスタッフさん2人。

 初日と同じように目隠しをして、織田先生に手を引かれながらゲートをくぐる。何度か行ううちになんとなくゲートの位置が分かってくるせいか、その地点に近づくと脚が重くなる。そんな脚を意志の力でねじ伏せて歩くうち、ふと先生の行き足が止まった。

 

「先生?」

 

 急に立ち止まった事を不審に思い声を掛けてみるが返答はなく、それどころか焦る俺を置いて先生の手が離れてしまう。

 俺は目隠しされた暗闇の中に一人残されてしまった。

 

 先生の足音は聞こえなかったのでまだ傍にいるはずだが、声を掛けても返事はないまま。どういう意図があるのか分からず、俺はその場に立ち竦む。

 不安感が増してきて心悸が上がる。目隠しを外す勇気も出せないまま焦っていると手に触れるものがあって、先生の声が隣からかかった。

 

「進みますよ」

 

 再び手を引かれて歩き始める。するとあれほど早鐘を打っていた心臓はすっと落ち着いて、不安感もどこかに行ってしまった。

 そのうちに先生はまたふと立ち止まっては俺1人その場に置かれ、いくらかの間を取ったあと再び手を取って歩く。

 そんな事を何度も繰り返すうちに、どこにゲートがあるのか段々と分からなくなってきて、1人で置いておかれても平穏を保てるようになってきた。

 

 何度目かの立ち止まり。先生に手を引かれたまま、真後ろでカチャンと金具の音が発せられた。とたんに心拍が上がりしっぽも逆立ったが、手を繋いだままであるせいかすぐに平穏を取り戻した。と思った矢先。

 

「目隠しを取りますよ」

 

 ちょっと待って下さいと言う暇もないまま、目の前がパッと明るくなる。目の前に見えたのは角バ場の柵で、キョロキョロ振り返ってみれば、先ほどの金属音の源と思われるゲートマシンは遙か後方だった。

 

「この位置は予想外でしたか?」

 

 二の句が継げず、こくりと頷いた。

 それでは続けましょうと、再び目隠しをされる。

 そしてぐるぐると引き回されては立ち止まり金属音、そして目隠しを取っての位置確認。

 ゲートを操作しているのは織田先生が連れてきた研究所スタッフで、データを取りながら特訓を手伝ってくれているようだった。

 

 そんなことを何度も繰り返すうちに、金属音を聞いてもさほど驚かなくなった。

 




次回、また“あの世界”へ。


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第74話 黒い風

この黒い奴、喋るぞ!?


 

(……あれ? ここはどこでしょうか?)

 

 気がつくと俺は街の景色の中をゆっくりと前に進んでいた。自らの足は動いていない。そしてなにかに腰掛けたまま、規則正しく上下に揺れる景色が後ろへと流れ去る。

 

(しかも普段より視点がずっと、高いような?)

 

 不審に思い足元を見下ろすと、黒い毛むくじゃらの背中に跨がっていた。その先にはこれまた黒い髪が連なって生えていて、更にその先には一対の馬耳が見える。

 どういう訳か分からないが、俺は馬の背中に跨がって歩いているようだ。

 そして俺の両手には今騎乗している馬のハミへと続く手綱が握られていて、両足はぶらんと下ろされていた。

 

 ガードレールの向こうに歩道を挟んでガラス張りのお店らしき建物が見える。

 その中は暗く、ガラスは鏡のように俺たちの姿を映し出していた。

 

 黒鹿毛の立派な馬体と、その上にちょこんと乗っかる金髪尾花栗毛の見慣れた姿。

 ウマ娘と馬が同居するこの場所は、あの夢の世界の中だと理解するのはすぐだった。

 

 黒鹿毛さんは俺を乗せたままトコトコと街中を歩いている。更にどういう訳か俺たちの前後には自動車が詰めていて、常歩(ウォーク)で進む馬と同じ速度で進んでいる。

 状況を整理すると、渋滞の続く街中で俺は馬に乗って車道を進んでいるという事のようだ。

 

(あぶみ)に足が掛かってないのはちょっと危ないですよねえ)

 

 俺は落ち着いて足元を探るが鐙が見つからない。馬が足を止めた時に覗き込むと、鐙の位置は脇腹ではなくもっと上だ。

 

(鐙がこんな高いところに? 鞍も薄型だけど……これは調教用ですね。んんん?)

 

 はて、とその時に気がついた。どうして俺に馬具の知識があるのか。

 それに馬の扱い方も分かる気がしている。

 今は前後を車に挟まれて自由に走れない状況だが、それがなくなればきっと思うようにこの子を走らせられる確信がある。そして

 

(結構はっきりとこの子の気持ち、伝わってくるんですよね)

 

 先ほどから前後を車に挟まれて歩いたり止まったり。あまり手綱を繰らなくても、この子の意志で進んでいるのが分かる。その一方で思うように走れないことが原因の欲求不満が強く伝わって来ていた。

 

「もっとスピード出して走りたいですよね。分かりますよ、でもここじゃダメですからね。

 なんとか考えてみますから、もうちょっと辛抱して下さいね」

 

 毛に覆われた首筋をポンポンと叩きながら、耳元でそう言葉を伝える。すると俺の言葉を理解して、苛立つ気持ちが少し収まるのを感じる。

 やはりこの子とはちゃんと意思疎通ができている。

 

 そうやって時々あやしながら歩いていたら段々と渋滞が酷くなり、ついに車列が動かなくなってしまった。

 

「とうとう止まってしまいました。困りましたね……あなたもそろそろ限界ですね、あんまり気は進みませんが……」

 

 車列はすっかり止まってしまって遙か彼方まで渋滞している。その一方で広めに取られた路肩はこの子が走っても余裕のある幅でその先へと続いていた。

 

 俺は手綱を繰って路肩へとこの子を導く。そして徐々に速度を上げていく。

 最初は車の陰から何かが飛び出してこないか注意を払いながら走っていたが、夢の世界なのだから邪魔する者が出てくるでもなく、気がつけば襲歩(ギャロップ)で疾走していた。

 

 甲高い足音を蹴立てて前進していく。どんどん車列を追い越していくうち、今のこの景色に既視感を覚えるようになってきた。そしてほんの少しの記憶も。

 

(この先、確か何かあったはず)

 

 朧気に危機感を覚え始める。手綱を引き速度を緩めようとするが、従順だった黒鹿毛さんはどういう訳かここに来て言うことを聞いてくれない。

 居並ぶクルマが背の高いトラックだらけになって視界も悪くなってきた。今横から何かが飛び出してきても、それを避けることはできそうにない。

 彼方に車列の切れ目が見えた。それはあっという間に近づいてきて、あともう少しで届く瞬間

 

 切れ目の陰から大型トラックがゆっくりと姿を現した

 

 咄嗟に手綱を思いっきり引っ張る

 

 だがそれは今まで感じたこともないような重さで抵抗して

 

 そうするうちにもトラックの横腹は刻一刻と近づいてきて

 

 まるでゲートのようにも見えるトラックのサイドバンパーがあんぐりと口を開けたように見えて

 

 俺の身体はそのままこわばって

 

 衝突したはずの時刻

 

 俺の視界は青空のただ中にあった。

 

 バンッ!! っと響いた大きな打撃音が俺の意識を引き戻す。

 見ると黒鹿毛さんはあの大型トラックの荷台に一蹴り入れて、俺と一緒に空中に躍り出たところだった。

 

(こんな高いところから落ちたら、この子の脚が砕けてしまう!)

 

 近づくアスファルトを凝視したまま、俺は祈る気持ちで馬の首元にしがみつく。

 衝撃を覚悟して耳を引き絞ったが、意に反して聞こえたのは軽やかに着地を決めた蹄鉄のトレモロと路面を擦る音。

 そして行き脚はようやく止まり、静寂の中バフバフと馬の鼻息だけが聞こえた。

 

 顔を上げる。噴き出す汗で濡れた逞しい首筋が見える。

 ブルブルと2度3度首を振ると、『どうだい上手く躱しただろ?』と、黒鹿毛さんが振り向いて目を合わせてきた。

 

「躱したと言うか、かなり強引でしたけど。でも、無事で良かった。ありがとうございます、助けてくれて」

 

 そう言ってしっとりと濡れる首元を何度も何度も撫でてあげた。

 

『今のアンタならこれくらいできるさ』

 

 息を切らせつつも、黒鹿毛さんはそう伝えてくる。

 

「そうでしょうか?」

 

『怖がることは何もないさ。自信持ちな』

 

 励ましてくれる気持ちが、熱いほど強く伝わってくる。

 

『さ、もうちょっと走るぜ』

 

「え、どこへ?」

 

『家だよ』

 

 そう伝えて、黒鹿毛さんは再び走り始める。今度は先ほどとは違って蹄鉄の音を軽快に響かせ速歩(トロット)で進んでいく。

 道路を埋めていた車はいつの間にか全て消え失せていて、夏草に覆われた野原の中に延びる一本道を、2人だけで駆けていく。

 

 なんとなく懐かしい気持ちにさせる風景が流れていく。この景色にも見覚えがあった。

 遠い遠い記憶の底に沈んでいた景色。それがゆっくりと浮上する。どこで見た景色かまでは思い出せなかったけれど。

 

 どれだけ進んだだろうか。一本道の先に見えてきたのは平屋の大きな建物。近づくと立派な塀で囲まれていた。

 黒鹿毛さんはその塀の中へと迷わずに入っていき、水場まで来たところでついに止まった。

 

「ここですか?」

 

 そう問いかけると首を上下に振った。『正解』と伝わってきて、その背中から降りた。

 鞍を外して馬房脇の鞍掛に掛けておく。

 黒鹿毛さんはしばらく水を飲んでいたが、満足したのかこちらの方にやって来て

 

『今日はありがとな、一緒に走ってくれて。久しぶりに乗せたが、やっぱり上手いな』

 

 と伝えてきた。

 

「待って下さい、久しぶりって、やっぱりってどういう事でしょうか?」

 

 聞き捨てならない言葉に焦って聞き返したが、その直後に視界はすっと暗闇に包まれてしまった。

 

 そして耳には聞き覚えのあるクラシック音楽が流れてきて、目にはどこかの風景画像が映る。

 

 そうだ、特訓3日目の今日は雨が降ったせいでゲート特訓の代わりに研究所で検査を受けていたのだ。

 無機質なグレーで塗られた研究室の壁が俺の帰還を出迎えてくれた。

 




次回、その考えは断固拒否。


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