SEVEN’s CODE二次創作夢小説【オレンジの片割れ】第二部 (大野 紫咲)
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オレンジの夜明け(前編)

とあるどこかの世界のサービス終了によって、ただの二次創作だったはずの世界が、オレンジの世界になるまでの話。

折角なので、サ終という概念すら二次創作に導入する形にしてみました。ただでは転びません。
本当は番外編扱いの予定だったのですが、思った以上に長くなってしまいましたので、第二部の前日譚的な位置付けとしてここに置いておこうと思います。


 その日は唐突に——何の前触れもなく、やって来た。

 少なくとも、この世界に「住んでいる」存在だと言っても等しい、ボクらにとっては。

 

「セブンスコードの閉園……?」

「閉鎖……と言っても、実際の事態はそれ以上に悪いかもしれないな。

このセブンスコードを根幹から支えている運営団体の一つから、もうこれ以上の援助は出来ないと打ち切りの打診が来た」

 

 ボクを呼び出した二人きりの手狭な面会室で、神妙な顔をしたカシハラが切り出したのは、そんな話だった。

 いい加減、こいつと二人きりのシチュエーションなんて勘弁して欲しいけれど、こいつがわざわざSOATの主要メンバーを集めた集会室じゃなく、この小部屋で話を切り出すということは、よほどな事態だということは把握しているので、何とも言えない。

 まあ、右腕として頼ってくれるのは、悪い気分じゃないけどさ。いい加減、ボクを頼りすぎでしょ。相棒にイサクがいるくせに。

 ボクなしじゃ何もできなくなったって、知らないからな。

 眉を寄せるカシハラを、ボクは壁際に立ったまま睨む。こういう畏まった話だと、向かいに座って聞けとか言われても落ち着かない。

 突然、ここが閉園するかもしれないとか言われて、ボクだって今多少なりとも動揺している。

 

「運営ってことは、スポンサーとか金の問題だけじゃないってことだよね。この都市機能そのものに関わる話だ。そうじゃなきゃ、あんたはわざわざボクをここに呼んだりしない」

「さすが、お前は鋭いな。

機能、空間……ある次元から秘密裏にルートを通して運ばれて来ていた、アップデートの為の資材や情報、人員などが全てストップする。

……というか、『時空間の穴』自体が閉鎖される」

「……? 密航者以外でそんなルートを運営が使ってたなんて初耳なんだけど。ということは?」

「このセブンスコードは、運営側から見て『遺棄された世界軸』に認定された。

——もうこの場所が、どこかの世界と繋がることはない。大野紫咲や、鈴木愛理……彼女らがいる、過去の世界とも。

この世界の外に存在する『主たる世界軸』にとって、ここは棄てられた世界の一部になるってことだ。そして、通路を閉じられたまま廃棄された世界は、そのままゆるやかに消滅する」

 

 カシハラはそう一気に言い切ったが、思ったよりスケールの壮大な話が来て、遠慮なくボクは眉を顰め、思い切り頭を抱えた。

 こんなに脳がオーバーヒートしそうになるのは、捕縛の時以来だ。

 それ、ボクらがどうにかこうにかできる域を、ぶっちゃけ超えてない?

 多次元? 遺棄された世界軸?? セブンスコードが消滅する???

 

「……って、それ、閉鎖とか閉園とかいう騒ぎじゃないだろッッッ! 隕石が降ってきて地球が滅亡しますって言われてるようなもんだぞッ!?!?!?」

「だから、関係者以外には情報統制を敷いて漏らさないようにしているんだ。SOATの隊員にさえもな。

まあ、こんな話出回ったところで、政府の陰謀論か何かと思われて誰にも信じられないのが関の山だろうがな」

「陰謀論に謝れ……ったく、こんな理不尽な世界滅亡聞いた事ないよ」

 

 それに、何より。

 ムラサキやアイリのいる世界ともここが繋がらなくなるって、カシハラはさっきそう言ったか?

 ——もう、二度と会えないのだとしたら。どんな言葉を掛ければいい?

 胸がぎゅうっとなる感覚と同時に、様々な感情が去来する。けれど、限界まで精神力を駆使してそれらの感情論を一旦脇に置いてから、ボクは努めて冷静になりながら尋ねた。

 

「もし彼らに遺棄された場合、具体的にはこの世界に何が起こる? 捨てられても、時空間としてはここは完結してるはずだろ」

「完全に切り離された時空は、過去にも未来にも、空間的にも、ある程度の『果て』がある状態になる。時間の進まない世界で、内側にいるボクらだけでは、進歩や発展を生み出す余地がないからな。

水風船の中身みたいなものだ。そして、酸欠になった水風船の中の人間がどうなっていくかは、想像に難くない。

そもそも、水風船の形を保持する前に、外の奴らの判断で勝手に割られたら、ここは終わりだ」

「……彼らは、なんて?」

「今のところは、積極的な破壊までは検討していないような口振りだった。おそらくここのデータは、外時空で残すつもりなんだろう。

ただ……データを保持したところで、これ以上発展の兆しがないことには変わりない。ここを外と繋ぎ、変革と物語をもたらす者がいなければどうにもならないのに、あとは自分達でなんとかやってくれと、言われてしまった」

 

 それまでもなんとか、運営がこの時空の外から「観測者」の興味関心を引き出し、彼らの支援によって世界を維持してきたのだという。

 嘆息しながら、カシハラはコーヒーの黒い水面を見つめたまま、続けた。

 

「期限は、向こうの西暦時間で2022年6月30日の17時00分。

おそらく当日は、世界の断絶に伴う大規模な時空震が観測されるだろう。……その影響によって僕らがどうなるのかは、ここの設備によるシミュレーションでは見当もつかない」

 

 今、ボクは、ものすごく意地の悪いことを考えていた。

 もしムラサキに、「これからは二度と元の世界に戻れなくなる。自分が元いた世界に帰るか、ボク達とこの世界に残るか、どちらか選んでくれ」と言ったとしたら。

 彼女は、ボクと一緒に残ると、口にするだろうか。

 あれだけ大好きだと豪語していた、ボクの為に。自分が元いた世界のものを、全て捨ててまで。

 なんて。感傷的に過ぎるかな。

 バカバカしい問いだと分かっていても、答えを聞くのはちょっと怖かった。

 そのくらい、あんたの存在がボクの中では大きなものになっていたなんて、なんだか癪だな。

 頭を振って脳みそを切り替えてから、ボクはカシハラにきっと向き直る。ここで折れたら、SOAT隊長の名が廃る。

 

「それで? 我らが総帥は、何も考えてない訳じゃないんでしょ」

「話が早くて助かる。

これでも、セブンスコードの『神』と称される存在だからな。僕も、やれるだけのことはやろうと思っているんだ」

 

 微笑みを浮かべたまま目を閉じたカシハラが、すぅっと息を吸う。

 純白が眩しい特製の隊服を纏ったカシハラが腕を広げると、いくつもの浮遊するデータ群が部屋中いっぱいに現れた。

 セブンスコードを輪切りにした、地図みたいなもの……グラフや何かがいっぱいに書かれたそれを前に、逆光の中、カシハラは真剣な顔でボクを振り返った。

 

「僕は、時空震の起こるその瞬間に、この世界を中にいる存在ごと個別のものとして分離し、別のアクセス可能な異空間へ丸ごと繋げられないかと考えている」

「……。そんなこと、できるの?」

「未来・過去へも大掛かりな干渉をしていたアウロラや、彼女の研究をしていたニレの立場に近い力を手にした今であれば、な」

「だってそれ、あくまでセブンスコードの中で、ってことだよね」

「そうだろうな。たとえば僕が、捕縛の際に過去を繰り返したり、未来へトんだりした過程で、現実に眠るバーチャル世界へ接続されていた僕までもが、時空を移動していたとは思えない。

あくまで、現実世界にいる人間を移動させたり、分離させたりするわけではなく、ここにある意識の話だと思ってくれ。……それでも、ここはセブンスコード。来てくれる者達の、美しい夢を守るための場所だ」

 

 こちらを見る口元に、優しい微笑みが浮かんでる。

 まったく。こいつも、ボクより年下のくせに、ちょっとやそっとこの世界を裏から運営しただけで、立派な口叩くようになって。

 けれど、事実そんな大技ができるのは、カシハラだけとしか思えない。あの「捕縛」の危機と同じだ。肩を竦めたボクは、気を引き締め直してから問い掛けた。

 

「当日……大きな時空震が起こることは、間違いないんだよね」

「そうだ。何せ、世界が一個丸ごと消失するわけだからな。ヨハネには、その時に起こるであろう混乱に備えて、警備を頼みたい。

事情を伏せたまま、いつものメンバーにも警備に当たってもらうが、何が起こるか分からない。用心してかかれよ」

 

 SOAT内部にも極秘の作戦か。少なくとも、ボクの隊内には詳細な情報は伏せて動くことになるだろう。

 他に誰に知らせるべきか、と脳内をざっとリストアップしたところで、思いもよらない声を掛けられ、ボクはひっくり返りそうになった。

 

「それっ、私にもなんとかできない?」

 

 いつの間にか、スライドドアの隙間から覗いたムラサキが、大きなリボンをひょこんと揺らしながら中に入ってきてきた。いつも通りの、ピンクと紫色を基調にした袴姿だ。隣には、リアちゃんまでいる。

 

「ムラサキ!? 聞いて……っ、」

「パートナーでしょ。盗み聞きはよくないと思ったけど、紋で繋がってる以上、ヨハネさんの感情がとてつもなくざわざわしてるの、伝わってくるんだもん。

……ていうか、運営のサービス終了の話は、私もあっちで聞いたし。だからリアちゃんに、匂いで二人の居場所突き止めてもらっちゃった」

「えへへ、すみません……隊長のパートナーの、ご命令でして……」

「パートナーだからって、ボクと職務権限まで同等にしたつもりはないんだけど?」

 

 そう詰りながらも、ボクはどことなく、ほっとした心強い気持ちを感じていた。

 どうにもならない、手の打ちようもなく無力を感じざるを得ない状況下で、この二人の笑顔はどうあったって眩しく感じる。

 思わずカシハラの方を伺ったが、こいつは何食わぬ顔をして唇に笑みを浮かべている。こいつ、さては最初から盗み聞きされてることに気付いてやがったな。

 

「話が早くて助かる。ボクからも二人にそう打診しようと思っていたところだ」

「えへへっ。頼りにしていただき光栄でーす」

「折角ですから、皆さんのことも招集しておきますね!」

「相変わらず仕事が早いねリアちゃん……」

 

 ボクが呆れる暇もなく、それから数時間後には、カシハラがSOATの上級職員を集めて会議を始め、詳細な予定を詰めていったのだった。

 スライドを棒で指差しながら、カシハラが言う。

 

「まだ試作段階だが、時空転移装置の開発は、ミソラ達の研究部署で密かに進めてもらっている。そっちの安定化とプログラムの施行については、ボクの方で何とかするとして……

要となってくるのは、やはりこのセブンスコード内そのものの安定性だ。柱の跡地が、今でもこの時空間を支える根となっている。あそこは、ニレがD.C.システム発動の際にも、空間データの書き換えに使っていた場所だからな。今回も、柱同士を接続して転移装置の一部として使う。

今はエレメントの放出もあり危険を伴うが、そこの警備は……イサク達、頼めるか」

「おうっ! 任しとけっ、相棒!」

「アタシも張り切っちゃうわよお! 久しぶりで腕が鳴るわぁ」

 

 武闘派のイサクとミカに任せておけば、万が一凶暴なエレメントや集合体が出現しても大丈夫そうだ。

 それはそれとして、柱同士はかなり離れているし、同時に周りの状況まで目を配るのは難しそうだ。もし周囲に民間人がいたら危険なんじゃないかと思っていたら、そこはミライ隊長が手を上げてくれた。

 

「街中の民間人の誘導は、私に任せてくれ。どこか一箇所に集めた方が得策か?」

「そうだな。出来るだけ大人数で固まっていた方が、位相をズラす作業自体は、負担が軽減されるが……」

「だったらよ、当日はヴァイス主催で、ヴァイスドームのライブやるってえのはどうよ?」

 

 そう提案したのは、向かいの席に座っていたオージ。相変わらずのハデハデな衣装だけど、今のこいつは、パフォーマーじゃなくてプロデューサーだ。ボクの後を継いで、ハルツィナヴァイスの運営やまとめ役をやってる。

 裏方まで含め、一人で色んな仕事を背負って大変そうだけど、なかなか楽しくやってるらしい。その上、こんな時にはSOATにも力を貸してくれるんだから、やっぱりオージは善人っていうか、根っからのお人好しだ。

 その隣にいたクソガキ、もといソウルも、勢いよく手を挙げた。

 

「あ! だったらオレも警備回りますよ、オージさん。何かあっても、観客席からステージまで、オレのコロンをぶっ飛ばせば一撃なんで!」

「とか言って、お前はソロで出るウルカを観客席から見たいだけだろ〜?」

「う……いいじゃないっすかぁ、別に。そのくらい、クロカゲの同僚権限で許してくださいよ。オレ、SOATじゃないんだし」

「まあ、どっちにしろウルカにも出演依頼はするつもりだったし、いいだろ」

 

 オージにウィンクされ、ソウルの奴はよっしゃと拳を握る。

 真面目に仕事してよね……と思うけど、多少純朴が過ぎるとはいえ、腕は確かだから大丈夫だろう。セブンスコードそのものの仕組みに関して詳しい、ウルカが作戦に入ってくれるのも助かる。

 そわそわとボクの隣で落ち着かない素振りだったムラサキが、着物の腕を上げる。

 

「あのっ! 転移先の時空? って、私がいる世界の近くに、座標をセットしてるんだよね」

「その通りだ。極力ムラサキに負担は掛けないようにするが、向こうに関して知りたい事もあるし、貴女から何件か抽出しておきたいデータもある……協力を頼めるか?」

「うんっ。それはもちろん……だし、ここのセブンスコードや、みんなという『概念』を移行するってことは、転移先の世界でみんなのことを知っててくれる人が多ければ多いほど、安定はするってことだよね?」

「うん……かなり抽象的な話にはなるが、それはあり得るな。今のところ、一番大きな『認知』の鍵となるのはムラサキ、貴女だが、他にも知ってくれている者が増えれば、世界の解像度や強度は上がると思われる」

「そゆことなら、出来るだけ向こうのSNSとかで呟いてみるよ。まあ、私フォロワーがそこまでいるわけじゃないし、ここに興味関心を持ってくれる相手もいないかもしれないけど……少なくとも一人には心当たりあるからさっ! そういう友達には、話してみるから!」

 

 だから頑張ろう、と拳を握って頷くムラサキの言葉に、全員がひとつになる。

 そういうわけで、あくまで公にしない水面化での動きでありながら、作戦は迅速に、それでいて大規模に進んでいった。

 決行日は、世界の断絶が起こる6月30日当日。

 その瞬間に、ムラサキのいる世界に繋がる異世界のサーバーへ、全意識体の分離と移譲を行う。

 サーバー名は仮称で「orange」と名付けられた。

 

 もちろん、限られたSOAT内でも色々な意見が出た。

 分離・切り離しが起こった結果、元いた世界はどうなるのか。

 元の「遺棄された世界軸」から切り離されたボク達は、もはやオリジナルの存在とはいえない、クローンのような物になってしまうのではないか。自分達が本物の自分達であると、どう証明するのか。それこそ、テセウスの船みたいな命題だと思う。

 何も知らないまま、何も考えないまま、何も変わらない世界で、ループした日常を過ごす。本当は、それが一番楽なのかもしれない。

 それでも、この成功するかしないかも不確定なこの作戦に、皆は閉じゆく世界からの脱出を賭けて乗ってくれた。このままでは確実に放棄される、と分かっている場所にじっとして最期を迎えるよりは、やれることは全部やった上で諦められた方がいい。

 それが、ボク達の結論。

 身勝手な我儘と罵られても、本当はそんなのボクらに勝手に決める権利はなかったんだとしても、船は抗うボクらの思いを乗せて、動き出す。

 

*****

 

 世界ごと、異次元へと自分達を跳躍・分離させる。

 そんな並外れた、それこそ神にも等しい大技を成功させるため、SOATの研究所でシミュレーションに励んでいたユイトは、頭からゴーグルを外し装置の席を降りた。

 丁度、お茶を研究員に配っていたリアが話し掛けてくる。

 

「進捗はいかがですか……?」

「イメージトレーニングに近いものだが、今のところミソラが開発した装置も問題なく稼働している。こんなに早く虎の子を使う予定ではなかったと、彼女も言っていたがな。世界が終わってしまうとあっては、これも仕方がない」

「乱用されたら大変なことになってしまいますものね……」

 

 長い時代を生きてきた・則ち時空を隔ててきたと言っても過言ではない不老不死であるアウロラの体細胞をヒントに、時間を跳躍させるに必要なメカニズムをミソラ達は解明したらしいが、その原理自体はユイトもよく分かっていない。

 ただ「とにかくシステム面はあたし達でなんとかするからっ! 総帥は自分のイメージ通りの場所に飛ぶことだけ考えててくれたまへ!」とだけ言われている。(総帥というユイトの呼び名はヨハネが流布させてしまい流行っているらしい)

 

「少し、お休みされてはいかがですか?」

「そうだな。ボク自身が倒れてしまっては、元も子もない」

 

 心配顔のリアは、素直に休憩に入って眉間の間を揉むユイトに、温かいおしぼりを差し出していた。

 

「リアルの世界でも、こうやって目や首筋などを温めると、凝りや疲れに効果があるそうですよ」

「そうか……現実世界の体は、アウロラの肉体だったな。もう随分と帰っていないが」

「たまには、動かしてあげた方がいいかもしれませんね。メンテナンスの手配もしておきますね。他に何か、私にお手伝い出来ることはありませんか?」

 

 細かなことに気がつくリアは、ユイトが何か指示する前に次々と自分からやるべき仕事を見つけ出してくれる。

 その勤勉さに感謝しつつ、ユイトは笑顔で首を振った。

 

「もう十分すぎるくらいだ。榊一人で根詰めすぎるなよ」

「はいっ。私もちゃんと、仕事を分担しますので。とはいえ、いつもとは違う状況下ですから、やはり少し緊張してしまって……」

「無理もないな。ボクだって初めてのことばかりで、緊張していないと言えば嘘になる」

「何か作戦に当たって、特段SOATや市民の皆さんに、意識を促した方がいいことってあるのでしょうか。何も伝えずに気を付けてもらうのは、難しい気もするのですが……」

 

 コンタクトを装備したオッドアイの瞳を眇めながらリアは考え込むが、ユイトはそれにもゆるゆると首を振る。

 

「時空を跳躍する際、安定性を保つのに重要になってくるのは、やはり『自分が自分であること』だからな。

皆が皆らしく、好きに過ごしてもらえるのが一番いい。個々人の意識データのチェックを急げ」

「……! そうですね! 了解いたしました」

 

 そう言って仕事に戻りかけたリアだが、ふと何かを思い出したかのように、とててっとユイトの方へ戻ってくる。

 

「どうした?」

「ひとつ、報告し忘れていたことがありまして。

といっても、これは私の植能といいますか、独自の感覚に基づくものなので、不確実なデータと言えるかもしれませんが……」

「何でもいい。気になったことがあるなら、教えてくれ」

 

 少し躊躇していた様子のリアは、ほっとした表情を浮かべながら、手元のボードの紙を捲る。

 

「不思議なんです……。

ムラサキさん自体は何も専門的なことはされていないのですが、転移予定地となる先の時空間の基幹データが、すべてムラサキさんを中心に集まってきているようなんです」

「何だって?」

 

 リアが纏めた、サーモグラフィーのようなデータ分布図を見ると、確かに今もリアルタイムで、ムラサキの周囲には点状のデータ群が累積している。

 そしてリアの更なる調査によれば、それが本人の意図とは何ら関係もなく、転移地となる新たなデータ空間の構築や安定化に影響を及ぼしているとのことだった。

 

「バタフライエフェクト、というのをご存知ですか?

或いは、日本では『風が吹けば桶屋が儲かる』という諺の方が、有名かもしれませんが」

「蝶の羽ばたきは、やがて旋風を巻き起こす。

小さなアクションやきっかけが次の動きを巻き起こし、それらが連鎖した時、やがては世界を変えるほどに大きな流れに転じることもある例だな。

或いは、当初は全然見当が付かなかった方向へ結果が出ることもある」

「それと同じなんです。データはただのデータなのですが、これに接触した人の士気が上がったり、ある場所の空間工事が、このデータを使ったことで予定外に他のエリアまで拡張して終わってしまった、などということが起きていまして……」

「ムラサキの集めてきたデータは、因果関係に干渉するということか……?」

「可能性はゼロとは言えないです。ただこれも、異空間転移と同じくらい突飛な発想ですから……どこまで確証を持っていいのか」

 

 現実世界じゃとてもあり得ないですよね、と困ったように笑うリアを見て、ユイトは思案する。

 

「やはり彼女は、自分で思っているより重要な、この世界のピースということか……」

 

 転移先に彼女のいる時空を選んだのは偶然だと思っていたが、それにも何かムラサキの意志が働いているのかもしれない。

 だとしても、今はそれを善意と信じて乗るしかない、と考えながらリアと研究施設の廊下を歩いていたユイトは、不意に何かを蹴飛ばして我に返った。

 軽い反射板のようなものが床を滑る。他にも防護服や電動ドリル、ネジや鉄の板など、バーチャルでの空間拡張工事に必要そうなものが、山と置いてあった。水分や飴、菓子などの嗜好品も満載だ。

 研究所の方から特に支給申請があった覚えはないので、ユイトは首を傾げる。

 

「この物資はどうした……?」

「あ……こちらの防護服と工具ですか?

先程、鳩のマスクを被った方がSOATにやって来られて、寄付してくださったんです。

時空間の転移を起こすための作業に、必要ならば使って欲しいと。

ムラサキさんの知り合いだと仰っていました」

「ムラサキの?」

 

 二度驚き、ユイトは眉を上げて瞠目した。

 

「名前を聞いたか?」

「ボランティアなので、名乗るほどの者ではないと。お礼をしたかったのですが、去って行かれてしまいました……。でも、鳩さんが大好きな方のようでしたから、また公園できっと会えると思います。移転作業が上手くいけば、きっと」

 

 頬を綻ばすリアに合わせ、ユイトも微笑む。

 

「ムラサキは『観測者』だったからな。時空の穴があるのなら、他にも彼女の仲間がいるのかもしれない。

何にせよ、緊急事態にはありがたいことだ」

「はいっ。とても助かります。

あと、その方の連れておられたウルカさんが……いつものウルカさんと、違うというか……」

「ウルカ……コニもやって来ていたのか?」

 

 今頃ドームでリハーサルのはずだが、とユイトが首を傾げると、リアは静かに首を振る。

 

「いえ。『その』ウルカさんではなく、まだ自我を取り戻す前のウルカさんのような……。

けれど、私たちが保護したことのある、あの時点のウルカさんとも違っていて……。

同じ人物だということは分かるのですが、匂いが全然違いました。まるで、『ここではない』別の世界を、私たちとは異なる人と出逢って歩んだ、もう一人のウルカさんのように」

 

 リアの感慨深げな言葉に、ユイトは頷いて考える。

 時空の転移と分岐。自分達がやろうとしていることを、他の誰かも既にやってのけたのかもしれない。

 誰かが見る夢の数の分だけ、平行世界は存在する。

 それは恐ろしいことのようにも思えるけれど、今は自分達のいる夢を守るだけだ、という決意も新たに、ユイトは頭を一つ振って顔を上げた。

 

「さあ、ラストスパートだ。僕達の乗ったこの船を、消えてしまうただの箱庭で終わらせたりはしない」

 



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オレンジの夜明け(後編)

ヨハネさん視点からスタート。
あまりにもユイトさんの天然具合が暴走し過ぎてて、カシハラユイトキャラ崩壊注意を注意書きに書くべきか迷うレベル←
でも、私はこのユイトさんとっても好き。


 そして、ムラサキの世界で言う、2022年の6月30日。

 来るべきライブの日。

 

「み・ん・なぁ〜〜っ! 盛り上がってるかァ〜〜ッ!?!?」

 

 ヴァイスに任せるとか言ったくせに、結局はオージもステージに立って、会場は大盛り上がりだ。

 後ろに立つハルツィナヴァイスのメンバー、ろこやはるかも苦笑いしている。

 

「お、オージさん……ここ、クロカゲじゃないですよっ」

「私達のライブなんですから、出番奪わないでください」

「そーだけどっ! 今日の趣旨は『これまでのセブンスコードを振り返る・懐メロ特集』だろ? だったら俺が活躍した時の曲もやんねぇとな。

さっ、パフォーマンスも込みでまだまだいくぜぇ! マーロウ! 〝穿貫〟!」

 

(あ〜あ。ろこの槍と殺陣なんかしちゃって……)

 

 ろこも元SOAT職員で、一応今も何かあった時の為に培養型のマーロウを保持しているから、槍は出せる。

 ツインテールの萌え系キャラなイメージだったろこが、槍を振り回して勇ましく闘う姿に会場が湧く。闘志が沸き立つような勇ましい曲が流れ、それに合わせてはるかも部分再生型のリバーを構え乱入してくる。

 その二人を、やられるフリしながらも軽くあしらっているオージもさすがだ。汗だくなのは追い詰められてるからじゃなく、単にステージライトが暑いからだろう。

 世界が滅ぼうって日まで、この男はアツい。そしてウザい。まあ、そこがいいんだろうけど。

 

 その時、耳のインカムに通信が入った。

 イサクからの連絡だ。

 

『システム発動まで、残り1時間を切った!

そっちは異常ねぇか?』

「ああ。会場は問題ない」

『こっちも、ゴロツキをニ、三人シメたぐらいで問題ないわよ〜。こいつらまで連れてかなきゃいけないのかしら、やンなっちゃう。もう前の世界に置いてっちゃおうかしら』

『楠瀬、不謹慎であるぞ。今データがある市民に関しては皆平等に扱う。それが我々の方針であろう』

『分かってるわよォ。美人隊長は相変わらずお堅いんだからぁ』

 

 次々と仲間から入る通信を耳に、こっちもいつも通りだと思わず唇を緩めた。

 会場の西側の警備を頼んでいたムラサキが、ボクの姿を見掛けて駆け寄ってくる。

 

「おまたせ。でもこんなので本当にいいのかなぁ。私警備員の経験も何もないし、怪しい奴がいるかなんて全然分からないけど」

「他の隊員とも一緒だったでしょ。あんたがいるのはあくまでダブルチェックの意味合いだから」

 

 こっからはボクと一緒だからね、と隣で手を握ると、ムラサキは少し驚いたようにきょとんとボクを見上げながら、笑顔で頷いた。

 成功するとは思っているけど、万が一のため、というやつだ。だって、時空の狭間にムラサキを置いて来ちゃったら大変だし、うん。

 

「ふふ。これで万が一世界が分離せずに隔絶されちゃっても、私元の世界に帰れないね?」

「そうだね? あーあ、あんたもこんな取り返しのつかないところまで来てさ。ボクらに構わずさっさとログアウトしとけば、帰れたのに。今更遅いけどさ」

「分かってたよ。別にそれでもいいかなって、思ってたの」

 

 困らせてやろうと、わざとそう言ったのに。

 そんな返事が返ってきて狼狽えるボクの手を、ムラサキはきゅっと握り返して見上げてくる。右手には、神経修復用の包帯が巻かれたままだ。

 

「まあ、向こうの時空からしたら私は失踪みたいな扱いになるんだろうし、特に生前の荷物とか不始末を押し付けちゃう家族には、申し訳ないことこの上ないけど……友達も哀しむんだろうけど……。

でも、その罪悪感を除けば大した未練なんてないの。仕事もしてないし、社会の歯車的には誰も何も困らない。

私がこのセブンスコードで、リアルには存在しないデータ上の殻だけの存在になったとしても……ヨハネさんは、仲良くしてくれるでしょ?

私は、君と会えない世界なんて嫌だったよ。もう二度と会えないなら、死んじゃえと思うくらいに」

「……」

 

 黒々とした瞳が、ボクを見つめる。

 淡く表情を染めるステージライトに照らされた姿が、本気に見えて怖かった。

 言葉を失ったまま、思わず右頬と髪に触れると、ムラサキは首を傾げながら屈託なく笑ってみせる。

 

「なーんて! ここが消えるのも、私の世界に帰れなくなるのもヤだから、こんな頑張ってんだけどね! 諦めるのはまだ早いよ。

それに、最近ログインできてないみたいだけど、愛理と君を引き離したくないもん」

 

 ぶらん、とボクの手を振って揺らすムラサキに、息を吸い込んで何かを伝えようとした、その時。

 ボクらが耳に入れている通信機から、意外な人物の声が聞こえてきた。

 

『お前たち。持ち場がひと段落ついたら、中央ステージに集まってくれないか』

『ユイトさん? 何かあったんすか?』

『SOATの面々も、PRとして一曲ずつ持ち歌を披露しろとのことだ。ちなみに僕はさっき歌った』

「はあああぁァ!?」

 

 傍受してた全隊員がずっこけそうになる内容だった。

 隊員がステージ出て歌うって、一体何考えてんだ。そんなのリハの段階でも聞いてない。

 案の定、爆笑し出したイサクの張り切ったような返事が聞こえてくる。

 

『おいおい! 何一番いい順番引いてんだよ!? 一曲目が一番緊張しねぇだろ!? 参ったなーっ……てなわけでぇ、オレが二番手に決まりいっと!』

『あーーっ! イサクさんズルいっすよぉ! オレ、ウルカが歌った後で何歌っても映えるワケないじゃないっすか!』

『ユイトの歌……私も聞きたかったな……ぐすっ』

『はわわ、緊張しますぅ……!』

「いやちょっと待ってマジでやるの???」

『仕方ないだろう。個々人の個性があるのは、この世界の安定化にも繋がる。これだけ強者揃いのSOATであれば尚更だ。貢献しないわけにいかない』

「警備はどうすんのさッ!?」

『全員で歌うわけじゃないんだから、交代でやれば事足りるだろ。ヨハネ、お前は隊内外の人気も高いんだから、早く戻って来いよ』

「勝手に決めないでよッッッ!」

 

 あああ、もう。なんて呑気な最高指揮者なんだ、こんな時に。

 ボクの気も知らず、ムラサキはとなりでのんびりと笑っている。

 

「ふふっ、いいじゃん。ヨハネさん、歌って踊っておいでよ。アイドルになるチャンスだよ」

「はぁあ!? あんたまで何呑気なこと言っ……、そうだっ」

 

 ボクは、ムラサキの手を掴んだまま走り出した。

 きらきらしたサイリウムの海を抜け、人並みをかき分けていくボクの背後から、焦ったような声が聞こえる。

 

「えっ、えっ??? ヨハネさんどうしたの!? どこ行くの!?」

(パフォーマンスってことは、さっきのオージみたいに歌だけとは限らないってことだよね。つまり……)

 

 目を白黒させるムラサキを引き摺ったまま、ステージの下段に辿り着いたボクは、丁度そのあたりでイサクを鑑賞し、歌い終わった彼と交代でステージに上がろうとしていたカシハラに、堂々と人差し指を突きつける。

 てかこいつ、また歌おうとしてたのかよ。なんだかんだですげえノリノリじゃん。

 

「おいカシハラ! ここでのパフォーマンスが要るってんなら、ボクらとバトルで勝負しろ!」

「え、ええっ!?!?」

「おおおっと! ここでSOATのヨハネ隊長から、カシハラユイト隊長に宣戦布告だぁ〜〜っ!!! どーなる!?」

 

 悲鳴を上げたムラサキに被せるような形で、すかさずオージが盛り立てる。

 外でのカシハラは、一応重役であることを隠す為に、あくまでただの「隊長」として通っている。丁度いい。今のカシハラはSOATの一隊員に過ぎないんだから、模擬戦の体を取ってこの際ボコボコにしてやる。

 そんなボクの目論みを読めないほどカシハラもバカではないのか、普段には珍しく好戦的に目を細めると、ボクらの方を楽しげに見遣った。

 

「ほう? 面白いな。これでも腕は鈍ってないつもりだが」

「いつまでその余裕ぶっこいた口を叩けるだろうね? 二対一とはいえ、こっちは容赦しないよ?」

「二対一か……戦い慣れしない彼女を庇いながら動くのは、至難の技なんじゃないか? 油断するなよ」

「そっちこそ、ナメ過ぎてステージでコケるなよ。今のうちに靴紐結び直しといた方がいーんじゃない?」

 

 唇の端を吊り上げ、植能を発動させるボクの前で、カシハラも拳銃を構える。

 

膵臓(パンクリアス)!」

角膜(コルニア)!」

 

 音楽と共に、割れんばかりの歓声が降ってくる。ふと見れば、広いステージのあちらこちらではこれに乗じて隊員達の模擬戦が始まっていて、ネイルズやブラッズの派手な火花が上がっていた。

 シールドでカシハラの連射を防ぐ物陰から、ムラサキが呆れたように服の袖を引く。

 

「ちょっとぉ……ヨハネさん、私まだ右手が」

「分かってる。パフォーマンスなんだから、あんたはそこまで本気でやらなくていい。ボクが全部カバーする」

「んなこと言われても、何もしない訳にいかないでしょー! んもう! 子宮(ウーム)!」

 

 キラキラした光がムラサキの手元から放たれて、向かってくる弾丸を包み込む。失速する弾を見て、ボクは目を見開いた。

 

「今の……弾に植能を使ったのッ!?」

「〝催眠〟の作用をね。モノに効くかは微妙だったけど、多少は助けになりそう」

「さすがだね。反撃といくよ」

 

 一曲分を制限時間として、次々と模擬戦の乱舞は続く。

 ミライ隊長はゴールブラダーを花火のように打ち上げて、転がった岩で足元を塞ぎながら撹乱するし、イサクの手榴弾はとにかく衝撃がデカくてこちらがよろめいてしまう程の迫力だ。

 ソウルの煙幕は相変わらず蛍光色で見づらいし、その隙を狙って突っ込んでくるオージの槍を、ムラサキは間一髪で逸らしながら防ぐ。

 もう滅茶苦茶だけど、ボクらは傷だらけになりながらも、背を預け合って闘っていた。

 

「ふふっ。私も参加しちゃおっかなーっ」

「げっ。コニまで……もう、勘弁してよ」

 

 ウルカことコニの放った巨大な水の球が、頭上に迫ってくる。反射でコルニアを纏わせた拳銃を撃ちまくると、ぱあんと弾けた球からは雨のように水滴が注ぎ始めた。コニの持ち歌である綺麗な楽曲のムービーとも連動した演出に、会場が大いに湧く。

 

「うわーっ! きれー!」

「サキ、よそ見しない! 次が来るよ。こっちに避けて」

「はいはーい!」

 

 ぐい、と繋いだまま手を引っ張ると、サキがステップを踏んでボクに引き寄せられる。ワルツを踊るみたいに、ぴったり歩調を合わせて。

 ボクの腕に腕を添わせて擦り寄りながら、袴の下から一歩を踏み出したムラサキが囁く。

 

「ねえ、ヨハネさん。折角なんだからコルニア使ってよ。ヨハネさんのクチュールが揺れるところ、見たい」

「はぁあ? ったく……ま、こんな時くらいサービスしとくのも、悪くはないか。見惚れ過ぎて裾踏まないでよね」

「やったーーーーっ!」

 

 視覚情報を改竄して、隊服の上からクチュールの衣装を登場させると、周囲から歓声が上がった。

 構わずに、ムラサキの手を取って導く。当たりそうになる攻撃を、ムラサキの体を抱き上げてリフトしながら避け、とんっと着地した彼女をくるりと回す。

 ボクも一緒に回った瞬間、丁度舞い上がったクチュールが影になり、こちらに銃を向けていた隊員の動きが一瞬止まる。背を支えられて反らしたムラサキが、すかさず死角から相手を迎撃しつつ、楽しそうに弾ける笑いを漏らした。

 

「あははっ。何これ、たのしー!

ヨハネさんこんなにエスコート上手だったの!?」

「曲もあんたの動きも見知ってるからでしょ」

 

 他の奴ら相手に出来る自信はない。

 ただエスコートされているように見えて、ムラサキもボクと曲に合わせながら地面を蹴ったり、踊ったりしているから成せる技だ。言わないけど。

 

「おおっと! 真紅のクチュールと紫袴の舞が止まらないぞーっ! SOATきっての名コンビ、バトル中に繰り出す技とは思えないくらいの美しさだーッ!」

 

 こっちだって、自分の曲ぐらいは期待に応えないとね。

 容赦なく敵を薙ぎ倒し、懐かしいこのセブンスコードのテーマソングや、しんみり系のバラードなんかにも合わせた演出をムラサキ達と鑑賞していると、信じられないくらいその時はあっという間にやって来た。

 本当に、時空の閉鎖がかかった大作戦じゃなくて、ただのライブのお祭り騒ぎなんじゃないかと勘違いしてしまうくらいの熱狂だ。

 

「みんな、準備はいいー!?」

「僕達と一緒に、新しい世界に飛ぼうよ!」

「みんな一緒に手を繋げば、怖くないですからっ!」

「恐れないで! 一歩を踏み出すの!」

 

 マイクを片手に、手を振り上げる純白のアイドル達。わーっと、会場が沸いた。

 ボクは飛ぶ。

 旧き歴史を置いて、新しい世界へ。

 信じたものと、ボクが選び取ったものと、共に。

 

「10!」「9!」「8!」

 

「ムラサキ……」

「うん」

 

 ステージ下でぎゅっと手に力を入れれば、同じだけ隣から力強く握り返される。

 言い知れない緊張感の中、会場の盛り上がりも最高潮に達しようとしていた。

 

「7!」「6!」「5!」「4!」

 

 減っていく、カウントダウンの数字。

 割れそうなコールの声が、何重にもなって会場に響く。

 

「3!」「2!」「1!」

「ゼロ!!!」

 

 ぱぁん、と花火とクラッカーが一斉に鳴り響く。

 一瞬大きくごごんっと音を立てて、ドームの入れ物全体が揺れるような振動が起こったが、それすらも客には演出の一部と思われたらしい。

 うわぁっ、という人々の歓声と共に、ライトが会場からステージを舐め上げ、ヴァイス版「キミと見た夢」のイントロが鳴り響いた。

 思わずきょろきょろ見回したけど、ボクらの周りには、これといって何の変化もない。

 インカムから、リアちゃんの声が状況を告げてくる。

 

『監視モニター、対象者の意識レベル、都市のバイタル……全てにおいて正常です! 問題ありません!』

『こっちも! まだちょっと周囲の空間が不安定だけど、着地せいこーう! すぐにシステム弄るから、もーちょっとだけお客さん足止めしといてー!』

 

 リアちゃんとミソラの声の明るさから、作戦が成功したことを知る。周囲にいたSOATの隊員達が、周囲の盛り上がりに乗じて一斉に帽子を放り投げた。

 

「やりましたね、隊長!」

「よかったっす!!!」

 

 まだ、状況が信じられない。

 ゆっくりと隣を向くと、ムラサキが泣きそうな顔で見上げてくる。

 

「ヨハネさん……」

 

 一度は消えるんじゃないかと、永久の別れかと覚悟した人は、そこにいた。何も変わらずに、ボクより小柄な背を興奮に揺らしながら。

 

「やったよ。やったね。よかっ……おわぁっ!?」

 

 ムラサキが二の句を継げなくなったのは、他でもないボクが、彼女の体をキツく抱き締めたからだった。

 和服と袴の、少し硬い独特の手触り。髪から漂う匂い。こんなに布を隔てていても、どこか熱く伝わってくる体温と、湿った頬の感触。

 ……あたたかい。何度実感しても信じられないほどに、儚くて脆いぬくもりが、そこにはある。

 舞台の袖に近い暗がりの中で、ムラサキが照れたようにもぞもぞと動く気配がした。

 

「あっ……あの、ヨハネさ……」

「ムラサキ。そこに、ちゃんといる……?」

「う、うん。いるよ。大丈夫だよ」

「まだ……実感が湧かない。あんたと、離れ離れにならなくていいなんて」

 

 抱き締めたまま、踊りまくって髪の乱れた小さな頭を撫で付けると、サキはくすぐったそうに笑って身を寄せてきた。

 

「もぉ。心配性だなぁ。

でも、そうだね。そうだよね……私も嬉しい。何回でも言ってあげるから、安心していいよ。

不安になるなら、いくらでも腕の中にいる。ヨハネさんが信じられるまで、いっぱい」

「サキ……」

「でも……今は少しだけ恥ずかしいかな。みんな見てるし」

「……? わっ!?!? ごっ、ごめん……!!!」

 

 すっかり状況を忘れていた。

 突き放さないように、けど慌ててムラサキの体を引き剥がすと、ステージ下とはいえそこそこの数待機していた隊員達が、示し合わせたように一斉に目を逸らす。

 

「わっ、我々は何も、見てはおりませんので……!」

「ちょっ……!」

「まあまあ。最悪私の植能のせいにしとけばいいでしょ」

 

 そう言ってムラサキは笑うけど、ボクの気持ちをあんたの植能と一緒くたにされるのはな……とぶつぶつボクが呟き始めたところで、カシハラがこっちに向かってくるのが見えた。

 

「もう大丈夫なの?」

「こちらは問題ない。システムも問題なく起動しているし、『この』セブンスコードはこれからも形を変えつつ継続していくだろう」

「いや、そうじゃなくて……それもだけど、結構な負荷が掛かったんだろ。あんたと、外のアウロラの体は」

「多少はな。これから暫くは休みに入ることにするよ。あとは頼んだぞ」

 

 お疲れ、とリアちゃんに付き添われながら手を上げたカシハラは、いつもと同じような表情をしながらも、多少の疲れを滲ませていたようだった。

 まあ、無理もないね。宇宙船を航海に向けて発射させるような、大任務だったんだし。

 

 この後は、カウントダウンライブの体を取って、まだイベントが目白押しになる予定だ。

 ボクはシフト表を確認しながら、観客を無事帰すまでがSOATの仕事だと、いつもの自分に戻って気を引き締めた。

 

*****

 

 オレンジ色の空を投影した夕焼けが、ヴァイスドームの向こう側からこの街を染めている。

 連日催し物が行われるライブ会場も、今はセットをバラし終わってがらんとした状態だ。

 点検や整備に入ったスタッフが、ちらほらと客席や前方に見える。

 その中でボクは、空中のモニターを触りつつ一人伸びをした。

 

「くぁあ……。やっとデータチェック終わった……」

 

 あれから一週間近く。いわば「二度目の捕縛」を逃れた世界は、何事もなかったかのように維持され、続いている。

 ループする気配もないし、この時代の人達に混乱をもたらさないよう秘密裏にではあるが、繋がっているいくつかの多元的な時空から、この世界以外の情報も入ってくる。

 そもそもムラサキがこの世界に現れたことからして、異世界タイムトリップなんて信じられない概念だったけど……今やそれが、当たり前とはいかなくても、たまにはそういう事もあるかな、ぐらいすんなり受け取れる事象と化してしまっていて、ボクは自分に驚き呆れるばかりだった。

 まあ、ここはセブンスコードだし。本人が望めば、何だって叶う世界なんだろう。たとえそれが、外の世界の真実とは、かけ離れていたとしても。

 

「おおーい! ヨーハネさーん!」

 

 夕陽が赤とオレンジのグラデーションに染める階段を、聞き慣れた声が上ってくる。

 踏んづけそうな袴の裾を持ち上げながら、せっせと上ってくるムラサキを、ボクは画面を畳みながら出迎えた。

 

「あ。ごめん。お仕事まだ途中だった?」

「いや。丁度終わったとこ。今日はここのドームに残った時空震の痕跡のチェックと、システムの補修が担当だったから。ついでに、ドームにいた人達の顧客管理も、ここでやろうと思って作業してた。今日は関係者以外立ち入り禁止だから、誰かに覗かれる心配もないしね」

「またすごいとこでお仕事してるんだねぇ……お疲れ様。私も今退勤してきたとこだし、何か甘いものでも飲みに行く?」

「いいね。SOATの近くに、美味いフラペチーノの店がこの間出来たところなんだ」

「おお」

「あ、でも安心してよね。あんたが飲めるように、ちゃんとホットのハーブティーとかもあるし」

「うん……ふふっ」

 

 何故かムラサキは楽しそうに笑って、ボクに凭れ掛かるようにくっついてくる。

 何がおかしいのかと眉を顰めると、サキは首を振ったままボクの腕を取った。

 

「なんか、こういうのいいなぁって思って。

ヨハネさんが、私の好みとか体質を把握して、気を遣ってくれてるのが当たり前になっちゃって。

相手のことを、お互いに分かり合ってるんだな〜って感じ……?

今は当然のようにそうしてるけど、すごく嬉しいし感謝してるの」

「そりゃ、これだけあんたのこと近くで見てたら慣れもするでしょ。1年……?とか、あんたのリアルではそのぐらいの時間かもしれないけど」

「慣れだとしても、私は嬉しいよ〜。ほんとヨハネさんのこと大好き。優しいんだから」

「別にあんたの為じゃなくて、面倒が少なそうな方を最初っから選択してるだけだってば」

 

 そうは言ったけど、この言葉自身に説得力がない。

 だって、誰かとこんな風に親密になることなんて、一番面倒なことのはずなのに。自分のことも、相手のことも分からなくて、ものすごく面倒くさい。

 思わず黙り込んだボクの手を、サキが自分から繋いで握ってくる。

 やたらめったらベタベタしてくるところも、ボクの前ではへらへらしているところも、相変わらずいつものサキだ。そしてそれを、拒否する理由がないくらい当たり前にボクが受け入れてしまっていることも、事実だった。

 慣れ……ただの慣れ、なんだろうか。

 こんなボクのことを、今に至るまで好きだと言い続ける、奇人変人の類。どうせ最初だけでしょと思ってたのに、ここまでくると、さすがにどうしたらいいのか分からなくなる。

 いっそこのまま……なんて、植能やエレメントの事件や、同じ職場で芽生えた絆さえ超えた何かを、ふわふわした気持ちが曖昧なままに期待してしまいそうになる。

 

「あ、見て。一番星だ」

 

 ゆっくりと夜に変わりゆく空を見上げながら、ムラサキが指差した先に灯る光。

 繋いだ手をこのままに、いつまでも隣に居たいと思ってしまうのは、単にカシハラが言っていた、「この世界の鍵」という言葉のせいだけだろうか。

 今回の転移で、ムラサキを中心にデータが展開していたことはボクも知っている。

 もう彼女は、ただの変わり者の「密航者」ではなく、ボクが一方的に守護したいと思っていた対象でもなく、きっとこの世界にとっての「重要人物」になってしまった。

 ボクらの願いが、きっとそう仕立て上げてしまったんだ。

 エレメント絡みの事件を解決していくにつれ、いずれはそうなってもおかしくないと思っていたけれど、今回の件ではっきりとそれを自覚した。

 何か——彼女には、役割がある。この世界の命運を左右する、本人自身も知らないような、大きな役割が。

 そんなものを背負わせたくはなかった、という感情と、これで嫌でもサキはボクらから離れられない、という安堵感で、ざわつく胸を押さえながら、ボクは隣に立つ彼女の名前を呼ぶ。

 

「ねえ、ムラサキ」

「?」

 

 きょとん、と見上げたムラサキの瞳に、ライブの残り香のように、ドームのオレンジ色のライトが映る。

 その目を覗き込みながら、ボクはサキの両肩にそっと手を置いた。

 

「サキ……はっきり言って、こっから先の世界の行く末は、全部あんたにかかってる。

自分では、その自覚が薄いかもしれないけど。あんたは大切な存在なんだ。

ボクとみんなのことを、よろしく頼むよ」

 

 いつになく真剣な声のトーンを、どう思ったのだろう。

 オレンジ色の空に、静かに夜が降ってくる。

 サキはおちゃらけて笑い飛ばす事もなく、ただ微笑を浮かべて、ボクの前で首を傾げてみせた。

 

「それって、この世界にとって大切、ってこと?

それとも……ヨハネさんにとって?」

「っ、野暮な質問しないでよ。そうじゃなきゃ、ここまで必死になるわけないでしょ」

 

 紛れもなくその両方だけど、後者の気持ちがなければ、ここまでの事には至らなかった。

 けれどそれを口に出すには恥ずかしいボクのことを、サキは見透かしているような目で優しく見つめて笑ってから、頷いて両手でボクの手を握る。着物の袖から覗いた腕に、うっすらと蔦模様の紋様が浮き出ていた。

 

「そうだね。もし私が君と逆の立場でも、きっと必死になる。

あまり、自分のことを追い詰めすぎないでね。バディでしょ。背負う時は一緒だよ」

「っ!? なんで……」

「さっきまでそういう顔してた。私だって、『背負わされてる』なんて一方的な被害者意識でそう思ってるわけじゃない。ヨハネさんとだから、この世界のことをもっと愛したいと思ったし、一緒に背負っていこうと思ったの。

時々は、ていうかしょっちゅう、弱くなっちゃうこともあるだろうけど。私のこと、最期まで見捨てないでね」

 

 切なげな瞳が、切り揃えられた前髪の下から覗く。

 改めてよろしく、とムラサキが差し出そうとした手は既にボクの手を握っていたので、ふと考えて、ボクは返事をする代わりに、橙と藍色の混ざり合った空が作る客席の暗がりの中で、そっと顔を近付け、彼女の唇に口付けを落とした。

 

「……っ、え、え」

「誓いの場面では、こういうのの方が適してるんでしょ。多分。契約更新、だね」

「そっ、れは……! 嬉しいけど、大胆すぎるよおぉぉぉ!」

 

 うわーっと両手で顔を覆い隠す彼女の恥じらいの基準が、イマイチよく分からない。

 もっとよっぽど大胆なことを、言ったりやったりしていたくせに。

 このままではティーブレイクを通り越して夕飯の時間になってしまいそうだ。サキの部屋で一緒に食べるのもいいかもな、と思いながら、ボクは触ると熱く感じる彼女の掌を引っ張った。

 

「ううううう」

「どうかした?」

「今、ものすごくヨハネさんにくっ付きたい」

「家に帰ったら散々ベタベタ引っ付けるんだからいいでしょ」

「今がいいのー!」

「ボクが何言ったってあんたは結局くっついてくるじゃん。暑苦しいったらないんだから」

 

 歩きにくい、転ぶといくら文句を言っても、きっと前方のステージに降り切るまで、そしてこのドームを出るまで、彼女は腕に縋って離れたりはしないだろう。

 嘆息して見上げた先に、一番星が光っている。あれは、何ていう星だっけ。有名なものなら、星座早見やプラネタリウムで調べれば分かるかもしれないけど、ボクはそんなに星に詳しくない。

 

「北極星って、北に光ったまま、夜空が動いても位置が変わらない星なんだっけ」

「うん。北斗七星の中にある星だねー。すごく暗くて、わかりづらいんだけど。

昔の船乗りの人たちは、北極星とか北斗星を頼りに航海したって言うよ」

「ふぅん……暗い星なんだったら、あれは違うかな。セブンスコードの街灯りの中でも見えるくらいだし、明るすぎるよね」

「まぁ、それでも目指して漕いでれば何処かしらには辿り着くんじゃない?」

「そんなの航路がめちゃくちゃになるじゃん……」

 

 こんな、歩きながらの他愛もない話でさえ、言うのは癪だけど幸せだと感じる。

 星を見上げながら歩くボクらの行く末は、どこに辿り着くか分からない。順風満帆とは行かないだろうし、座礁するかもしれないし、全然知らない無人島に辿り着いたり、餓えて困ることもあるかもしれない。

 それでも……漕ぎ手のボクからは進む先が夜空のように真っ暗で何も見えなくても、ムラサキがその向かい側で笑っていてくれるなら。二人で、またやっちゃったねと笑い合えるなら。

 たとえどんな航路でも、最後にはまあよかったか、と思えるかもしれない。そうであればいい。

 こんな浮ついた気持ちが、仮初でも平和が続くことを願う気持ちが、ムラサキといることで自分の内側から湧き上がってくる。

 自分がどれほど冷静さを欠いて浮き足立っているかなんて、自分が一番分かっているのに。今すぐこの天に向かって、気持ちを叫んでしまいたくなる。

 

「……ヨハネさん?」

「いや。何でもない」

 

 暫く足を止めて頭上を見上げていたボクを、ムラサキが不思議そうに振り返る。

 一度だけ目を拭ってから、ボクはまた、蛍のように非常灯の灯る通路を、彼女の手を引きながら歩き始めた。

 

*****

 

 真っ暗な、どことも呼ぶ事が出来ないデータ空間の狭間。

 楡舞哉——の名を冠する人工知能は、ゆったりとアンティーク椅子に背をもたせかけたまま、手元のワイングラスの中で赤い液体をゆっくりと回した。

 その表情は、心なしかどこか楽しそうだ。

 

「やれやれ。まさかボクまで巻き込んで転移するなんてねぇ。

新たなセブンスコードの神は、お人好しもいいところだ。

まあ、その方がボクにとってはありがたいけれど」

 

 おかげで社会実験を続けることが出来る、と唇で弧を描きながら、赤ワインを啜る。

 暗がりから、かつりとヒールの音を立てて現れた人物が、ニレに声を掛けた。

 

「……呼んだかしら」

「そろそろ動こうと思うよ。次なるターゲットは、NZ区以東にある山間の集落。

あそこの宗教団体は、君もかつて気に掛けていただろ」

「ええ……貴方に言われて、調査したことがあるわね。興味深いエレメントの反応があったわ」

「あそこの人達の教義や文化は、こっちの研究にとっても打ってつけだった。……さて、どう暴走を促すかな」

 

 くっくっ、と喉で笑い声を漏らすニレを、しかし傍の女性——サヤコは無表情に見つめる。

 

「もう少し、この世界が異空間に定着するのを待ってからにしたらいいんじゃないかしら?」

「完全に安定してしまったら、それはそれで感情の暴走する余地がなくなる。面白くないだろ。

何? キミはいつから、ボクに指図できるほど偉くなったの?」

「……っ、ごめんなさい。思ったことを言っただけ。もう口答えしないわ」

 

 子供にはあるまじき眼光に睨まれ、サヤコが目を伏せる。

 それ以上詰ることもなく、ニレは興味なさげにワイングラスを放る。かしゃん、と軽い音を立てて床に落ちたそれを、ニレは冷たい目で見遣った。

 

「飽きた。片付けて、新しい銘柄でも用意しておいてよ」

「わかったわ」

 

 言われるがままの部下に、勿論礼の言葉などひとつも掛けることはない。

 しゃがみ込んだサヤコのうなじを眺め、踏みつけたい衝動に駆られながら、ニレは部屋を取り囲む実験用の水槽に視線を移した。

 

「適合者……あの集落に居る『彼女』か、それともボクが狙っている『彼女』か。

まあ、世界を丸ごと動かす力を、カシハラくん経由で発動させた時点で、結果は分かっているようなものだけどね。

自然淘汰じゃ、弱き者は強き者に狩られる。キミの活躍を期待してるよ」

 

 椅子の座面から取り出したダーツの矢を、不意にニレは壁際に向かって放った。

 まっすぐ飛んだ矢が、鋭く的を射抜く。

 そこに貼ってあった、二人の女性の写真。そのうち一つの顔は、ムラサキのものだった。




そんなわけで、そこはかとなく次話に繋げていける感じの終わり方にしましたが、未だ右手は不調のため&現状文披31題に参加中のため、執筆開始や執筆ペースはどうなるかわかりません。
こんなに長くなる予定なかったんですけど、でも結局手をギリギリまで酷使出来る限りは、キーボード使って書いちゃうんですよね〜、書きたいだけ。
でもぼちぼちこちらも連載始めていきたいところですね。夏だし(?)


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第二部Prologue
Prologue1 現実


1年半もの間、本当にお待たせしました。
第二部一章、ようやく始動です。今回は、プロローグ的なターン。
本二次創作初登場となる、アウロラ視点からのスタートです。

自らの引き起こした事件と、ユイトとの入れ替わりにより、実質セブンスコードからの「退場」を余儀なくされたアウロラ。そのリアルでの暮らしぶりはというと……?


 

 あの日。

 

 わたしが12ヶ月の休眠から覚醒し、カシハラユイトの体としてこのリアルの世界に生きるようになってから、数ヶ月の日々が経った。

 

 カシハラユイトの家族は、目覚めた人間の中身が自分の子供でなくなった事に、当然驚いた。未だぼんやりと、病院着姿でベッドに座ったまま医者や研究者たちの話を聞いているわたしを見て、嘆いたり、悲しんだりした。

 特に、母親である人間の悲哀は、一際強いもののように感じられた。

 

 生命維持装置に繋がれていたとはいえ、1年近くセブンスコードにログインしっ放しのこの体は、身体機能や筋肉的にもかなりの衰弱が進んでいた。

 今、本来の「わたし」の中にはユイトがいて、その体をシステムとして維持しながらセブンスコードを形作り、永遠の夢の中で生き続けている。これは、「わたし」が持っていた不老不死の体じゃない。

 入院中、酷い倦怠感と疲労に襲われて過ごす度に、わたしはその事をまざまざと実感した。

 眠りたくても、疲労で眠れない夜すらある。思い通りに動かしたくても、骨や関節は言う事を聞かず、ベッドから立ち上がろうとする度膝から崩れ落ちた。こんなことは、今までの体ではあり得ないことだった。

 人間とは、かくも脆い存在かと思い知った。通りで、多くの医者や看護師の庇護が必要なはずだ。

 

 日中、落ち着いて座っていられるようになると、私に関する研究やセブンスコード運営の監査官と呼ばれる人達が、病室に訪れた。わたしは、尋ねられるがままを答えた。

 わたしを増殖する計画のために、ニレが作った悪魔のウイルスとハルツィナのメンバーは消滅し、夢は終わった。既に研究が凍結したわたしを、これ以上必要とする者もいない。そもそも、今のわたしは「わたし」ではない。嘘をついても仕方がなかった。

 聞き慣れない声を喉から震わせ、たどたどしく答えるわたしに、カウンセリングも兼ねているというスタッフは優しく言った。

 

「杉浦さんは、早く君をセブンスコードに帰してあげたいみたいだけどね」

「ユウダイは、研究所を追放されたんじゃないの?」

「彼は、我々が声を掛けてSOATに残ってもらうことにしたよ。殻の修復のスペシャリストである、彼にしか出来ない仕事や研究がある。君がいつでも安定して戻って来られるよう、尽力したいと話していた。

ニレの所業を知っていながら、奴の言う通り奴隷に甘んじていた事は看過し難いが、今や我々はニレの支配を逃れた。これからの働きで、その償いは返してもらうつもりだ」

 

 ユウダイが、わたしのことを未だに気に掛けているというのが不思議だった。

 けれどその言葉通り、一通りの取り調べが終わると、ユウダイは足繁く入院中のわたしを見舞いに訪れた。

 それだけではなかった。コニやヨハネまでもが、わたしに会いに来ていた。

 歩けるようになったら、わたしを連れて行きたい場所があるのだという。

 なぜ、あれだけの事を犯したわたしを、彼らは受け入れようという気になれるのだろう。

 「別に、あんただけが悪かったわけじゃないでしょ」とヨハネがそっぽを向く。

 「私は、終わらないものもあるんだって……アウロラに知ってもらいたかった。

その本当の意味をもっと早く伝えられていたら、こんな事にはなっていなかったのかもしれない。

でも、今からだって遅くはないよね。終わってしまった事から始まることだって、あるんだから」とコニは笑った。

 

 彼らの感情を、どう受け取ればいいのかわからなかった。

 それでも、わたしと好意的に接する人間がいる事を知って、橿原家の面々は少し落ち着いたらしかった。

 不器用に頭を下げるヨハネと、丁寧にお辞儀をするコニが、病室を出て行くのを礼で見送ってから、ユイトの家族が顔を見合わせる。

 そんな日々が過ぎ去ること数週間、カシハラユイトの母親は、父親と並びながら言った。

 

「あのね……」

 

 今まで数え切れない程の人間の醜さや傲慢さに触れて、今更何があっても新鮮味すら感じなくなっていた私にさえ、それは驚きをもたらした。彼らは、私を引き取って、彼ら自身の家に家族として迎えると言う。わたしを取り調べにくる監査官や職員たちとも、その件について話していたらしい。

 そっくりそのまま中身が入れ替わってしまった息子を、中身が違うからと言ってすぐに手放したりはしない程度の情が、彼らにはあるらしかった。

 だとしても、今は息子ではないニセモノのために、そこまでの選択を取れるものだろうか。

 わたしには、人間のことがよくわからなかった。

 

 前の「わたし」とは、体の厚みも重みも違う。

 10センチ以上も高くなった視界と、長い手足の扱いは未だに慣れない。

 退院しても尚、戸惑いながら車に乗った私の肩を抱いて、母親が寄り添った。

 

「当局に預ける手もあったのに、どうしてわたしを?」

「魂というのは、脳や精神にだけ宿るものではないでしょう?

たとえあなたが、今は唯人ではないのだとしても、あなたは私達の……

……まあこれは、自分のお腹を痛めて産んだ人間にしか、わからない感覚でしょうね」

 

 少し疲れたような顔で、彼女は寂しげに微笑んだ。

 家には、銀行員だというユイトの父と、彼の兄と妹が同居していた。

 父親と、大学生だという兄は忙しく不在がちなことが多かったが、彼らは戸惑いながらも、当たり障りなくわたしの居る新たな生活をこなしているように見えた。関わりの密度が高かろうと薄かろうと、家族生活には特に影響ない。そんな淡白な様子が見て取れた。

 代わりに、高校生の妹・人羽(ヒトハ)と、わたしはよく顔を合わせた。

 彼らの意外な順応性について尋ねると、彼女は「う〜ん……まぁ、お兄って昔っから静かな人だったからなぁ」と言った。

 

 そして、わたしがリアルと呼べる世界に暮らし始めてから、一ヶ月ほどが経った。

 

 わたしがセブンスコードに戻るための審査が、遅れているとユウダイに聞いた。

 わたしの今の精神状態や、被験体だった頃に犯した罪を、審査委員会が重く見て慎重を期しているとは聞いていたが、どうやらそれだけではないらしかった。

 セブンスコードで、新たな異変が起きているという。

 終わったはずの悪魔の存在が、再び息を吹き返している。

 植能では対処し切れない、次元を超えた問題が起こっている。

 ユウダイから大まかに聞いたところではそういう話だったが、全容を掴み切れない。

 時空を超える。次元を超える。

 ニレですら、「偽物のセブンスコード」を作って錯覚させる事しか出来なかったそれを、本当に成し遂げてしまう存在がいるとすれば。

 わたしにとってもそれは、興味深い存在だ。「孤独」や「感情」を知らなかった頃に、戻れるかもしれない。

 

 それと同時に、定期的にコニと見舞いに訪れるヨハネの様子が、挙動不審になり始めたのもこの頃だった。

 

 ある時、ヨハネはわたしとコニを、電飾の灯りが眩い夜の街へ連れ出した。あちらこちらで陽気な歌や音楽が聴こえ、雪が降るほど寒い中を、自分の宗派でもない宗教行事を祝っている人間たちが、わたしにとっては不可解だったけれど、コニは楽しそうだった。

 外の屋台で温かいココアを買ったヨハネは、SOATでかなり重大な職務を担っているらしく、白い息を吐きながら自慢げにわたし達の前でその話をしていたが、不意に赤くなったかと思えば怒ったような表情で(ども)る。

 そのうち、クリスマスプレゼントがどうのという話をし始めて、クリスマスプレゼントを贈りたい相手がいるのかと尋ねたら、「違ッ、別にそういう訳じゃないから!!! あんたに心配される筋合いなんかないね!」と必死で否定された。

 コニは、訳知り顔で隣で苦笑している。その表情を見るに、コニとの間に何かがある訳ではなさそうだったけれど、だとしたら尚更不審だ。

 元々わたしに、誰かを好きになるという気持ちはわからない。けれど、ヨハネの反応は、いわゆる恋をしている時の顔なんじゃないかと尋ねたら、コニは否定しなかった。

 コニが言うなら、間違いはないのだろう。あのヨハネが、人間としてどういう相手を好むのか。正直言ってわたしには想像がつかないから、興味深くはあった。絶対に教えてはくれなさそうだったけれど。

 

 そんな風にして、年も明けた。

 初詣に行こう、とわたしを強引に誘い出す人羽に連れられながら、大勢の人でごった返す神社でお参りをした。

 ただ周囲に倣って手を合わせるだけのわたしに、人羽は促す。

 

「ちっちっちっ。違う違う。二礼二拍手一礼でしょ? そのくらいお兄でも知ってるよ〜」

「にれい……?」

「二回頭を下げて、二回手を打って、一回頭を下げるの! ほら、あたしの真似して。ちゃんとお願い事して」

 

 無邪気な人羽の笑顔は、ハルツィナのみんなの笑顔を彷彿とさせる。そういえば丁度あの頃のみんなと、同じくらいの年頃だ。

 社務所で破魔矢とお守りを受け取りに行く人羽について行きながら、わたしは尋ねた。

 

「どうして叶いもしない事を祈ったり、効きもしない物体にお金を払ったりするの」

「ろーらって、お兄みたいな事聞くねぇ。こういうのは気持ちが大事なんだよ?」

「だって、あなた達が神様と信じているものは、代わりに何かをしてくれる訳でもないし、実際には何でもないんでしょう? 御神体だって、ただの鏡や剣じゃない」

「だからこそだよ。最後には自分の力で何とかしなきゃなんない。だから、神様の力を借りて頑張れるように、自分が自分の夢を叶えられるように、お祈りするんでしょ?

とにかくろーらは、こっちに帰って来れないお兄の代わりにいっっぱい楽しんでよねっ!」

 

 参拝を終えた後、送り迎えをしてくれた父親と兄と共に、わたしは帰宅した。

 人間の体というものは、こんな僅かの間人波に揉まれただけで、ここまで疲労を覚えるものだろうか。

 そう思っていたら、夕刻、わたしの額に手を当てた人羽が熱いと騒ぎ出した。

 どうやら、人間の体で言うところのかなり高熱が出ていたようだ。

 夕食のおせちを食べる間もなく、わたしはユイトの部屋の布団に押し込まれた。

 後から白湯と粥を運んできた母親が、心配げに狼狽えていた。

 

「そんなに不安がらなくていい。……人体の勝手はわからないけれど、あなたの子供の体に、ダメージを負わせたままでいる事はしないから。このくらいなら、特に病院での治療を介さなくても元に戻ると思う」

「当たり前じゃない、ただの風邪よ。大仰な子ね」

 

 わたしがそう告げた事で、母親はなぜかかえって気丈さを取り戻したようだった。

 呆れたように笑って額を撫で、枕元に薬を置いてくれた。

 

「人の体って、不便なのね」

「外も寒かったし、慣れない場所へ出て疲れが出たんでしょう。

心配しなくても、おせちは後で持って来てあげるわ」

 

 別に食糧の心配はしていなかったが、食べなければ人の体には栄養を送ることができないのだと思い直した。

 頷いて、電気の消えた部屋でうだるような熱に身を任せたまま、わたしは目を閉じた。




リアルでもヨハネさんが可愛すぎてびっくりなんだけど。
ていうか、ヨハネさんとコニちゃんとアウロラちゃん三人でデートしてる光景、それは絶対に可愛いから俺が見たい…(かわいい)


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Prologue2 奏楽

※本ページのみ、ゲーム「Sky〜星を紡ぐ子どもたち〜」とのクロスオーバー作品となっております。
「AURORAの季節」の内容とネタバレを含みますので、未プレイの方はご注意ください。
また、本作でのAURORAさんの描写は、あくまでゲーム内のイメージを参考としております。
ご本人とは一切関係がございませんことを、ここでお断りしておきます。

ある晩、不思議な夢を見たアウロラ。
夢の中の不思議なコンサート会場で、彼女は自分と同じ名の女性と出逢い……?


 その晩、わたしは不思議な夢を見た。

 

 どこかで、誰かが歌っている。呼ぶように歌う声。

 見渡すとそこに、円型の劇場が広がっていた。見渡す限り、列になった石の座席が織りなすコロシアムのような会場で、無数の光が行き交う。それらは光る線で描かれた壁画の脈打つような光の波だけではなく、観客達自身の放つぼんやりとした燐光だった。

 不思議なことに、観客は人の形をしていない。色とりどりの、てるてる坊主のような姿。歩く者、走るもの、くらげのようにふわふわと浮いているもの、重力から解放されたような動きをするもの……様々な者がいたが、どれも同じ大きさで、人語を話していないことが共通していた。

 

 抽象的で、時代観があまりにも、セブンスコードとは違う世界。

 戸惑いながら見渡していると、ふと声を掛けられた。

 

「ああ、よかった! 間に合ったのね!」

 

 振り向くとそこに、女性が立っていた。

 セパレートの、パンツとタンクトップに分かれた簡素な服を纏った女性。

 どこから現れたのかと首を傾げていると、彼女は思いがけない事を笑顔で話しながら、私の両手を握り締めた。

 

「あなたも、私のコンサートを聴きに来てくれたの?」

「コンサート……? ここは、ライブ会場なの……?」

「ええ、そうよ。丁度今始まるところだったの。あなたも来て!

一緒に、音楽の旅に出掛けましょう」

 

 割れんばかりの歓声の中を、彼女が手を引いて私を誘う。

 全ての重力から解放されたかのように、私の体は軽くなり、妖精を思わせる翼を羽ばたかせた彼女と、私は広々とした空を舞っていた。

 

「あなたは、人間?」

「さぁ……人間とも、そうだったものとも言えるかもしれない。

けれど、魂は不屈よ。あそこで歌を私に捧げてくれる、彼らのように」

 

 見ると、地球儀のようなエネルギー球体の下に、四人の人影が控えていた。

 彼らはどれも、周囲の観客達よりは大柄で、体つきも目鼻立ちもはっきりとしている。

 膝をつき、崇めるように球体の下に控えていた彼らは、彼女の来訪に顔を上げた。

 眩い虹色の光に煌めく、雫のような球体に飛び込みながら、彼女はわたしの手を両手で取って踊り、不思議な歌声をその喉から響かせる。

 

「私の名前は、AURORA。

ようこそ、3732人目の星の子さん。あなたを迎えられて嬉しい」

「AURORA……わたしと、同じ名前……?」

 

 目を見開いたその時、わたしですら経験した事のない程に強い、正体不明のエネルギーの波動が、球体から迸る。

 次の瞬間、わたしは底知れぬ暗闇に引き込まれていた。

 

(ここは……)

 

 先程までとは打って変わって、しんとした闇の中で、波音が打ち寄せる荒寥とした空間にわたしはいた。

 大地の始原。世界の始まる場所。わたしはここを知っている。

 長き時を生きる間に、わたしの記憶からは剥がれ落ちてしまった、星の生まれた頃の形。

 人類などいない。何かを破壊する者も、支配する者もない中、ただ淘汰され巡り巡って、命は流転する。

 

 I was a moving thing

 Before I was a human being

 I was the ice before it melts

 I was the tree before it fell

 

 白く輝く空飛ぶマンタは、舐めるように口を開ける海へと墜落し、天高く枝を伸ばした木々は、闇の植物に蝕まれて朽ち倒れていった。

 自然の営みによって、必然的に行われていたはずのそれは、いつしか人類の叡智と侵略による物にすり替わる。

 亡霊の如く、嵐の海に立っている彼女に、わたしは問い掛けた。

 

「思い出した。人類が今のようにのさばる前、自然が彼の地であるがままに猛威を振るっていた古き時代を。

AURORA……あなたはその時代から、この星の姿を見てきたと言うの?

哀しい、人間達の過ちの繰り返しを」

「確かに、人間は愚かだった……大地の悲鳴に、焼けていく森の苦しみに、私は何度も思いを馳せたわ。

けれど、それだけではない……誰もが今、その嘆きに耳を傾けようとしている。私達一人一人が切実な祈りを抱けば、きっと世界はより良く変わっていく」

 

 その声に合わせるように、周囲に立ち上がった精霊と思しき人物達が祈りを捧げた瞬間、ステージのように巨大な岩が、足元から海上の遥か彼方までわたしを押し上げる。

 雲の真ん中、雷の鳴り響く世界でも、雨に乱れた短髪を顔の横に張り付けながら、彼女は微笑んで歌う。

 幾重にも広がるコーラスの響きが、やがて嵐を沈め、子守唄のような安らぎに変えていった。

 いつの間にか、外部から守るような薄い膜の中に、私たちの世界は包まれている。鳴り響く警鐘も、ここまでは届かない。それでも誰かが……わたしと同じように、大勢の誰かがこの歌声に耳を傾けている気配を、確かに感じる。

 

 Who is listening

 To the sirens singing?

 Take from our world no more

 Take from my world no more …

 

「誰だって、大切なものを奪われたくはないでしょう?

世界に起こっている問題は大きすぎるけれど、皆、心に抱えている想いは同じなはず。

それを伝えたくて、私はこの音楽の旅を組んだのよ。……行きましょう」

 

 再度目を開けた時、わたしは瞬時に、歓声に包まれたライブ会場に戻っていた。

 

「ハロー、フレンズ! 会えてとても嬉しいわ!」

 

 ステージ上から、彼女が手を振るのが見える。

 一体何が起こったのかと、私は不思議な声を上げ続ける周囲の客たちの熱量に圧倒されながら、辺りを見回していた。

 不意に、ランウェイのようなステージを見上げる前方の席に座っていたわたしと、壇上の彼女の瞳が合う。にこっと笑った彼女が、マイクを通して喋っていた。

 

「みんなの顔がよく見える。もっと声を聞かせてちょうだい。

何て可愛らしいのかしら!」

 

 あそこに立っている彼女は、本当にさっきわたしの傍にいた彼女と、同じ人なのだろうか。

 やがて拍手と歓声が少し落ち着くと、彼女はステージ上に、一人の人物を呼んだ。

 最初、わたしと彼女を迎え入れた球体の傍で、そこに跪いていた人物のうちの一人だ。

 導きのままに、拍手に迎えられて登場したその人は、先程束の間の幻の中で見た、抽象的な人影と雰囲気がよく似ている。やはりこの世界で言う、精霊的な何かかもしれない。

 その彼が恭しく差し出したエネルギーの塊に、AURORAは手を翳した。

 

 先程と同じように、エネルギーの奔流がわたし達を飲み込む。

 客席一体に広がったそれは、観客すべてを動物の姿に変えて、新たな世界へと誘った。

 

 理屈はともかく、AURORAは精霊の持つ記憶の力と、自らの持つ歌の力を併せて、わたし達に幻を見せているらしかった。

 けれどそれは時に、本物の記憶よりもリアルなものになり得る。

 海の底、全ての命が生まれし場所へ立ち返って、魚になって泳ぐ観客の群れの間で、光に姿を変えたAURORAが歌い出した。

 やがて海を飛び出した生命は、地上の国を目指す。

 陸を歩くことを知り、人間となり、更に新たな土地を目指して旅をしていく。

 そのキャラバンの様子を、わたし達は鳥となって上空から俯瞰していた。

 

「なぜ、あの人間たちは飽き足らず先を目指すの?

同じ場所に居れば、命を落とすことも仲間を失うこともないのに」

「それでも求めたい場所が……逃れたい地が、彼らにはあるからよ。

そんな姿を見ると、なんと強かでたくましいのかしらと思うの。

あなたにも、きっとあるでしょう? そんな気持ちが」

 

 わたしに?

 耳に囁きかけた彼女が、草花の揺れる大地を風の如く吹き渡り、眼下の人間達を鼓舞するように歌い上げた。

 

 そう……わたしは、わたしを受け入れてくれる場所を求めていた。

 人間はどれも、わたし程長くは生きられず、別れの度に絶望をもたらした。

 あれほど同じであるかもしれないと期待したユウダイも、ハルツィナの彼女達すら、わたしの前では不動でいられず、変わっていった。後に残るのは落胆だけ。

 

(逃げ出したい……ここから。確かにそう呼ぶにふさわしい、近しい気持ちなのかもしれない)

 

 Take me home where I belong

 I got no other place to go

 Now take me home

 Take me home where I belong

 I can’t take it anymore …

 

 わたしにとって「家」と呼べるものは、存在し得ない。

 だって誰も、最後までは私の傍に居てくれないから。

 誰にも理解されないこの気持ちを、人類が持つことなどあり得るのだろうか。

 いくら同種と言われても信じ難く、彼らとわたしの間に歴然とした壁が立ちはだかる。

 けれど、そんな彼らに慈しみを持って歌うAURORAの心にだけは、偽りはないのだろうと感じた。そう思うほどの歌声だった。

 

 再びライブ会場に戻ってきた時の彼女は、深緑色の衣装に変わっていた。

 輪唱する大勢の観客達を連れた彼女は、精霊の力でわたし達を今度はクラゲの姿に変え、深い森の中へとダイブする。

 誰の手も加えられていない、今や絶滅した生物が身を捩らせて雲海から飛び上がっては姿を現す、太古の森。

 そこの鉱脈に、確かに息づく人間達の姿があった。

 

「この頃の人間達は、きっと資源を使う事を覚えたのね。

後でそれが、自分たちの身を滅ぼすことも知らずに」

「ええ、そうね……未知への探究心は、それが不幸へと導いてしまう事もある。

けれど、誰かと手を取って、共に働いたり得たものを分け合う姿や、必要以上の自然を破壊しないようにと共存する姿は、とても美しいの。

誰もが魂の内に秘めている煌めきと、それはとても似ている。本来のあるべき姿よ。

そんな心を忘れなければ、思いやりを忘れなければ……たとえ困難や悲惨な災禍に見舞れても、互いに磐石となって内側の美しい世界を守れるはず」

 

 歌声しか聴こえていないのに、彼女が隣で喋り掛けてくるようだった。

 なぜそんなにも、人間を無条件に信じていられるのだろう。

 彼らは醜い。彼らは争いをする。彼らは、いずれ……

 今は共に自然の美しさを寿ぎ喜ぶ彼らを、わたしはどこか冷めた目で見守った。

 

 次にわたしと観客の目の前に降り立った時、彼女は珊瑚色のワンピースを纏っていた。

 会場を、白く輝くマンタが舞っている。これも古代の生物だろうか。

 次に精霊が持って来た記憶を解放した時、わたし達はそんなマンタになって空を滑空していた。

 人類の文明は、かなりの程度まで発展を覚えたようだ。

 石積みで作られた、古い遺跡の間を飛び交うマンタの群れを、不意に砲声が襲った。

 なす術もなく、繰り出された網に捕まるマンタ達。檻の囲いに入れられた姿を見て、わたしは人類の意図を知った。

 

「元々自然の生きていた場所を壊すに飽き足らず、そこに住んでいた生き物までも自分達のために利用しようと言うのね」

「ええ……国や領土が出来上がるにつれ、争いは起こった。

言葉なき生き物は、人に向かって主張する事ができない。拒絶する事も、逃げ出す事も……卑劣な搾取に、声一つ上げず耐え忍ぶしかない。

それでも彼らは、決して希望を失わなかった。虎視眈々と、巡ってくるチャンスを待ち望んでいたの」

 

 そんな生物の強かさを、彼女は声に乗せ、赤焼けた空の上で歌う。

 檻を破壊し、人の手も何も届かない彼方へ飛び去っていく、マンタ達。

 高い物見櫓の上でそれを見送りながら、風に髪を靡かせてAURORAは言った。

 

「人間も、同じ。全てが搾取する側の人間ではなかった。

大きな力に踏みつけられ、支配されながら、それでも息を潜めるようにして生きてきた人達がいたのよ。

人間を否定する事は、そんな名もなき声達が懸命に生きる姿を、否定する事にもなる」

「それでも、愚かでしょう。わかっていながら、結局は強気に従い抵抗もできない運命に、何の意味があるというの」

 

 悔しそうに唇を噛む彼女の頬が、戦火なのか夕陽なのかわからない色に染まっていた。

 

「それでも、私は……儚い存在に手を差し伸べる事を、諦めたくないの。

誰かが希望を持ち続けなければ、この世界から光は永遠に失われてしまうから」

 

 暗転と共に、モスグリーンのパンツの衣装に身を包んだ彼女が、ステージに立つ。

 何かの証のように、腕に印を付けたAURORAは、毅然とした表情でわたし達を誘った。

 

「もっと歌って。決して離れないように……私達のひとりひとりが繋がっていると、忘れることがないように」

 

 そうして、最後の精霊がステージ上にエネルギー体を捧げにやって来る。

 次に光に包まれて訪れた場所は、鳥に変化したわたし達の群れを巻き込む、台風の目のような場所だった。

 穏やかな雲海が、曲調の変化と共に暗く染まり、鋭い稲妻がわたし達を引き裂く。

 

「あの青い光は……人類の争いや猜疑心、怒りや憎しみの象徴?」

「私達の負の遺産が、巻き起こしたものよ。

既に抑え切れないくらいに膨れ上がり、地上の楽園を失墜させてしまった」

 

 厳粛な歌声が鳴り響き、巻き込まれて暗く深い渦に、光と共に落ちていく。

 鳥の翼はもぎ取られ、頼りない一羽の蝶の羽に変わっていた。

 舐めるように冷たい青い光の先、人類の戦火の痕跡が見える。

 鉾を構えるもの。鋭い矢をつがえて胸や胴を射るもの。倒れ伏す兵士達。

 兵器として利用されたマンタはその身を鋭い銛で貫かれていた。

 守る者、戦う者。何を目的としているのかすら忘れ、欲望のまま、血肉を求めて争い合う。

 ああ、これだ。これが私の知っている、人類の姿だ。

 先程まで見ていた美しい世界の反動か、思いもがけず、それはわたしに落胆をもたらした。もう人間に期待する事など、何もないと思っていたのに。

 

「言ったでしょう。最後はこうなるって」

 

 何もかもが消え失せた、墓場のような荒涼地帯を前に、わたしとAURORAは立っている。

 地面に横たわるのは、死骸と残骸のみ。(つわもの)共の成れの果て、命という命が尽き果てた、焦げ臭いだけの荒れ果てた大地。

 木々の恵みも美しい自然も、もはや見当たらない。人類が自らそれを選んだからだ。

 争うことも、それを肯定する事も否定する事も、離れた場所で見て見ぬフリする事も、すべてがこの結果を招いた。人類総出の連帯責任。飢えて苦しむのも、嘆き悲しむのも当然の報いだと思う。

 けれど、わたしと違って、AURORAはなぜか悲しそうだった。

 どうしてなのだろうか。わたしと同じで、もう飽きるほど、人類の過ちの歴史など見ているはずなのに。

 

「なぜ、あなたには痛める心があるの?」

 

 どうしてもわからない。

 首を傾げるわたしの手を黙って引くと、AURORAは蝶となって、同じ景色の延々と続く大地を翔んだ。

 変わり映えのない風景が続くだけかと思ったが、違っていた。

 命を落とした子を抱え上げ、嘆き悲しむ母親がいる。

 怪我で倒れ伏し、うずくまる事しかできずに、息を続ける者がいる。

 打ちひしがれながら、そっとその肩に手を回し、寄り添う者がいる。

 そして、朝日の差し込む瓦礫の山の傍で、無邪気に遊ぶ子供の姿がある。

 笑い声を上げた子供達は、手を取り合って走り回ったかと思うと、蝶に姿を変えた。

 光を振り撒いて戯れていた蝶の群れは、やがてマンタに変わり、暖かい光を人々の頭上にもたらしていく。

 

「わかるかしら。命は受け継がれ、次の世代に続いていく。

過ちは、何度も繰り返してしまうかもしれない。人間は脆いものだから。

それでも私達は、争いの火種までをも持ち越させたりはしない。

誰もが争いの醜さ・恐ろしさを知り、理不尽を被る怒りや辛さに耐え……それでもそれを他人には向けまいと、懸命に自分と戦っている。

私はそんな彼らのよき友であり、味方でありたいの。最後に命尽き果てる、その時まで……」

 

 微かに涙を滲ませるAURORAの姿が、朝日に溶けるように消えていく。

 息を飲んだわたしの目の前に、彼女は再び立ち上がった。

 新たに昇った太陽を背負う、巨大な母たる精霊として。

 

「さあ、みんな。こちらへいらっしゃい」

 

 喜ぶように翔んでいく蝶やマンタや鳥の群れが、一斉に彼女へと向かう。

 襞のドレスに妖精の羽を背負い、慈しみ深い表情でそれを抱き止めた彼女は、光を放ちながら言った。

 

「罪を背負うもの、産声を上げるもの、今こそ行きましょう、天空へ。

私が、みんなを導く光になるわ」

 

 瞬きほどの時間に、目の前の光景は一変した。

 生き物たちは皆一斉に、翼の生えた子供達の姿へと変わっていた。

 笑うように愉快な音色が、一斉に広がる空へハーモニーを奏でる。

 子供たちは不思議なその声で歌いながら、時には手を繋ぎ、列をなし、じゃれつくように飛び交って、AURORAの後を追いながら星群煌めく銀河へと辿り着いた。

 眩い星屑の中を、光に向かって翼の生えた子供たちが飛んでいく。その姿はまるで、星を楽器に音を紡いでいるかのようにも見える。

 

「この地上に転生する時、この世界を生き直す時。

そこから何度も、私達の世界は始まる。

さあ、一人一人の星の子どもたちと、彼らに降り注ぐ愛に祝福を!」

 

 光のトンネルを抜けて、流れ星のように地上へと突っ切った時。

 気が付けば、わたしは観客席にいて、最後の曲のイントロを耳にしていた。

 同じように気が付いた周囲の観客達が、一斉に宙へと飛び立つ。ぶつかるのもお構いなしに、一心不乱にその歓びを表現しようと、音に乗って小さな姿が湧き立った。

 そんな観客の姿が豆粒に見えるほどに巨大なアウロラが、会場の上空を旋回している。

 

「大丈夫よ。みんなは一人ぼっちじゃない。

私がいつもここにいる。居場所であり続ける。

一人の力は小さくとも、繋がれば大きな力になる。

私たちを脅かす暗闇から、私たちはお互いに守り合えるの」

 

 抱き締めるような動きをした彼女に、周りの観客ごと一気に吸い上げられて、空へ放り投げられる。

 楽しげな歓声と興奮に包まれながら、わたしは歌のエネルギーを感じた。

 

(これは……? 歌そのものの力だけじゃない。

彼女の歌を聴いた人達の、想いの力が波動となって……?)

 

 あの時。最後にユイトと心を通わせた時ぶりの衝動が、心を揺さぶった。

 あんな感覚は、初めてだと思った。けれど、本当は初めてなんかじゃなかった。

 音楽を聴く度に、わたしの心に巻き起こる情動、変化。

 それが人間の言う「感情」と呼ばれるものかはわからないけれど、確かに胸が熱くなった。AURORAの持つ引力に、強く優しい光に惹かれていく。

 優雅に舞う、慈悲深き巨人のような彼女に、翼の生えた小さな子供の姿のような者たちは、何度も放り上げられては楽しげに鳴いた。赤、青、緑、橙、黄、紫、藍、目すら覆い尽くす紙吹雪のような量の観客達が、氷の張られたコンサート会場の上空を、縦横無尽に舞っている。まるで無秩序な光景なのに、どこか心が踊らされる。

 

(……久しぶりの、感覚)

 

 愚かしいとわかっているのに、人類を信頼しようと錯覚させられてしまった時の、あの感じだ。わたしにはとても受け入れられない、到底理解できない彼らのことを、全客席を凱旋しながら歌う彼女は、どこまでも自分の内側に留めようとする。

 

I hunt the grounds for empathy

And hate the way it hides from me

Of care and thirst I have become

You have a home in my queendom

You have a home in my queendom

You have a place in my queendom

You have a home

 

 「私はいつでもあなたたちを気にかけ、共感を求めて狩りをする。どうか目の前から姿を消さないで欲しい、居場所はここにあるから」と……あの繰り返す歴史を見ても、何故彼女は、そんなにも優しく気高くいられるのか、わたしには疑問だった。

 サビに向かって張り上げられる声とコーラスに導かれるように、会場の盛り上がりは頂点に達する。笑っている者も、泣いている者もいる。それら全部を、愛しむように抱きしめながら、AURORAは最後に言った。

 

「忘れないで。私たちの光は、常に共にあるということを……」

 

 囁き声が耳元で響いた瞬間、暗転を挟み、気がつけばわたしは元いた座席に座っていた。

 思わず辺りを見回す。先ほどまでの光景が嘘のように、同じく大量の座席に揃って着席していた観客たちは、余韻もひとしおといった様子で、思い思いに席を立ったり、鳴き交わしたりしている様子だった。

 

「ねえ、どうだった?」

 

 気がつけば、雪と氷に覆われたステージを背景にして、AURORAが目の前に立っている。先ほどまで見せていた荘厳さや神々しさとは違って、ただ人の姿をして降り立っている彼女は、無邪気な少女のようだ。

 その差異に驚きを覚えながらも、わたしは立ち上がって彼女のことを見つめ返した。遠く耳に響く、会場の足音と言葉にならないさざめきが、どこか心地よかった。

 

「そうね……。わたしは、あなたのようにはなれないと思う。人を信じることができないし、善意で総括できる存在であるとも思わない」

「うん……そう思うあなたの気持ちも、きっと正しいと思う」

「それでも、あなたはわたしを責めないの?」

「だって、私はあなたに言うことを聞かせたいわけじゃないもの。意見の違いも、相入れないところも、恐れず抱きしめること。私とあなたは同じ名前だけれど、同じ存在じゃない。あなたと私が違うのは、当たり前のこと。人間を受け入れることができないあなたの気持ちも、紛れもなく本当の気持ちでしょう。私は、あなたに会えて嬉しかった」

 

 彼女の声は、歌が乗せられていない時でさえ心地よく、それでいて可憐だった。

 だんだんと世界が白んで遠ざかり、夢の終わりを伝えてくる。

 その直前に、光を背負った影が(やわら)な手でわたしを握った。

 

「でも、これだけは忘れないで、アウロラ。あなたは一人じゃない……たとえ同じ時を過ごせなくなっても、あなたの記憶に、魂に、遺る想いがある。これからのあなたは、限りある命の中で、きっとそれを知っていくわ」

「AURORA……わたしは、あなたにはなれない。だから、わたしの方法で試そうと思う。本当に、人類とは救われるに足る存在かどうか。もう一度、信じるチャンスがあるかどうかを、わたしはこの目で確かめるの」

「……お行きなさい。それが本当に、あなた自身をも変える切欠になるのならば。その試練の先に光があることを、あなたの幸せを、私はいつでもここから祈っている」

 

 眩い光に遮られて、その表情は見えない。

 気が付けば、わたしは朝の光がカーテンの隙間から差し込む自室にいた。

 

「……」

 

 シンプルな照明が嵌められた現代的な天井が、薄明るく光っている。

 最後に、AURORAはどんな表情であの言葉を言ったのだろう。ただ、百の言葉よりも万の文字よりも、彼女の紡ぐ音がわたしを揺さぶった。

 音。音楽。わたしの居場所は、やはりあそこしかない。

 光に続く道だろうと、破滅の道だろうと、わたしにはそこに舞い戻るしか手がない。そう決心させるに、あの音楽は十分だった。

 

 それから、数日後の早朝のこと。

 バックパックに最低限の着替えと荷物だけを詰め、階下に降りる際に通り過ぎた人羽の部屋を覗き込めば、妹はぐっすりと布団の中で寝入っていた。高校生らしい、布団を跳ね除けた健全な寝相と寝息だ。そんな姿にやや愛着を覚える程度には、この家には世話になっている。心配も、迷惑も掛けるのだと思う。

 

「……それでも、わたしとあなた達とは、違うから」

 

 庭の木の木漏れ日が落ちる階段で、わたしはそっと呟いた。

 わたしは、戻らなければならない。わたしという存在を見極めるために。そして、本当にわたしが彼らをもう一度信じられるのか、「人として」その手を取り合うことができるのかを、確かめるために。そこに、彼女らを巻き込む必要はない。わたしは、わたしだけでいい。

 

 施錠した合鍵をそっとポストに入れて、わたしは夜の明けきらぬ街を駆け出した。




AURORAの季節、本当によかったですよね。
この時に交わした「AURORAとアウロラのコラボがあったらエモいよなあ」という会話がきっかけで、「オレンジの片割れ」本編に、今までどう扱っていいかわからなかったアウロラを出演させる筋道が立ったので、とてもよかったと思っています。

余談ですが、本当は全部の曲の歌詞を入れたかったものの、JASRACで使用許可が出ている楽曲が「Exhale Inhale」と「Queendom」の二曲しかなく、この二つの歌詞しか使えませんでした…。
でも全曲いい曲なので、気になる方は「Sky:Concert in the Light」のアルバムを聴いてください(熱い布教)


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Prologue3 脱走

数日後、ユイトの元に届いた恐るべき知らせとは。
そして、ある少女とある少女の小さな出逢いが、物語の歯車を大きく動かしていく。

二部プロローグは、これにて完結です。
次話からはようやく、第一章のスタートです。


 その日、僕はいつものように、SOAT内にあるコントロールルームで、セブンスコードのシステム全体の監視と調整に努めていた。

 サーバーを「orange」に移設してからというものの、研究チームや隊員たちの尽力もあって今の所大きな問題は生じていないが、ムラサキの植能・子宮(ウーム)やエレメント絡みの問題もまだ解決していないし、やるべきことは山積している。

 

 過去から時間と空間を超えてこのセブンスコードにやって来た「密航者」ムラサキは、僕らのことやセブンスコードの歴史を過去から観測して知っている「観測者」でもあった。

 住んでいる時代や文化の違いはあるとはいえ、エレメントに憑依された者に引き起こされる事件を解決するためという協力関係で、今、彼女はSOATに所属し、パートナーのヨハネと共に街の見回りや戦闘行動の鎮圧といった任務に当たってくれている。

 セブンスコードにおける彼女の体には、「淫紋」と呼ばれる刺青のような謎の紋様があり、それを基盤として展開される植能・子宮(ウーム)が備わっている。これはもともと、僕らが戦闘用の特殊能力として持っている植能——いわゆるアウロラの主要植能にはなかったもので、研究員のミソラと協力しながらその全貌を解き明かすのも、今の彼女の仕事となっていた。

 エレメント——捕縛が解除されて間もなく、セブンスコードの社会を騒がせるようになったそれは、どうやら捕縛の時に建っていた柱の跡地を中心に発生する物質らしいということはわかっているが、その具体的な性質や有害性などは、まだまだ未知数だ。今、セブンスコード内で発生する犯罪の多くは、現体制に反発を持つ勢力の他に、このエレメントに取り憑かれた人間が暴走して引き起こしている。暴走した人間はエレメントによって人とも思われない強大な力を有し、体が変形したり変質したり巨大化したりと、化け物じみた戦闘力を持って無差別に周囲に危害を加えてしまうため、植能を使って対抗するしか今の所方法がない。そして厄介なことに、このエレメントは人間だけではなく動物にも作用すること、そしてエレメント自体が人型に擬態している例もあることが、一連の事件では明らかになった。

 多くの者は、体内のエレメントが弱体化し体から紋様が消えると同時に記憶を失ってしまい、暴走の経緯が詳しく判明した事件は今の所少ないが、レポートを読む限り、憑依された者の何かしらの強い感情が関わっていると見て間違いなさそうだ。

 以前セブンスコードにあった「柱」は、七つの大罪に纏わる悪魔と、それに取り憑かれたハルツィナのメンバーに支配されていた。つまり、その七つの罪……色欲、傲慢、強欲、暴食、嫉妬、怠惰、憤怒に関わる強い想いを持ちうる人間が狙われるのではないか、というのが僕らの予想だった。けれど、感情という目に見えない指標が当てはまる人間は無数にいるため、事前に暴走を防ぐ手段はほぼ皆無に等しい。こちらの捜査網を嘲笑うかのように、狙い撃ちで暴走者が集団発生する事例もあり、規則性を掴むのは未だに難しい状況だ。

 そしてここまで来ると、エレメントの収集・悪用に関しては何者かが裏で糸を引いているとしか思えず、SOATではこれについても現状捜査本部の立ち上げを急いでいる。

 先日の保護シェルター襲撃といい、怪電波ジャックといい、何かとSOATが後手に回ることが多く、市民の信用問題にも関わってくるため頭の痛い日々だった。

 

 それに、ここ最近は特に、SOATの失態を(あげつら)い痛い場所を突くようにして、とある団体の活動が活発化してきている。元々、反体制勢力とはいえそこまで過激に運営に楯突いているようなイメージはなかったのだが、各地や街中のデモが、時には周辺住民に危害を及ぼしているという報告もあり、要注意団体として直近の会議でも注意を促したところだ。

 巷に聞く噂では、この団体がエレメントの入手や利用に関わっているという話もある。実際、電波ジャックの事件では、彼らが街中で流した怪電波が原因で街中の電波障害が起こり、雷のエレメントに憑かれた鳥の暴走を促していた。

 僕たち運営でさえ把握し切れていない謎の物質であるエレメントを、どう制御し何に使おうとしているのか、その解明を急がなくてはならない。

 

 それに加えて、日々のシステム管理と通常業務だ。

 やるべきことが三つも四つもあると、いくらリアルで無限に生産可能な体細胞を持つ僕とはいえ、頭がパンクしそうになる。アウロラと魂が入れ替わった、捕縛後の僕の肉体——不死身の力を持つ女性型の肉体は、この世界の外ではコードで電脳世界に接続されたまま、眠り続けている。老いることも朽ちることもないため、セブンスコードのシステムが健在な限り、僕はこの世界に永遠に存在できるわけだが、それはそれとして、実際の僕……中身としてのカシハラユイトは、20年ばかり生きただけの、ただの人間だ。

 

「まあ、ただの隊員だった時の方が、気楽ではあったよな」

 

 ここでこうやって、世界と人類の行方を見守ることも、自分で選んだことだから後悔はしていないけれど、そもそも会社で働くどころか大学すら行ったことはないし、苦戦したり慣れないことが多いのは見逃してくれないかと、誰にともなく言い訳したくなる日もある。

 会議で提案しなければならない資料の作成は、今リアがやってくれているはずだ。時間まで、僕は少しでも今わかっている報告内容のまとめを……と重い腕をキーボードに向かって伸ばした瞬間、隊内の専用回線の通知音が鳴った。

 重要性の低い要件や事務関連のことは、秘書担当の隊員やリア達に任せているため、僕に直接連絡をしてくる時点で、ろくでもない案件なのはほぼ間違いない。こんな時に誰が……と気が重くなりながら通話に出て、聞こえてきた声で更に一段階げんなりした。

 

『お兄! お兄お兄お兄! 大変なの〜〜〜〜! 大変っ!!!』

「人羽……お前、社内の専用回線に掛けてくるってことは、よっぽどの用事なんだろうな? 頼むから、小遣いを前借りさせろとか喚かないでくれよ?」

『むぅ……あれは発売日のちょっと前に、思いがけずお小遣い足りなくなっちゃっただけなんだってば。それなら普通に携帯に掛けるしっ! ていうか、今回は本当にちゃんとした用なんだってば!』

 

 騒がしい声は、妹の人羽(ヒトハ)からの電話だった。

 社内回線にしろ私用の携帯にしろ、兄に小遣いをせびるのを止めてくれと思いながら、僕はインカムから聞こえてくる音声に手で頭を押さえたのだが、次に聞こえてきた言葉でますます意味がわからなくなった。

 

『あのね、お兄がいなくなっちゃったの(・・・・・・・・・・・・・)!』

「……はあ????? 人羽、お前本当に頭でも打ったのか?

僕が家にいないのは、最初から……」

 

 呆れながらそこまで口にして、自分の全身から血の気が引くのがわかった。

 人羽の言う重大案件が、ようやく身に染みて伝わってきた気がした。

 

「なっ……もしかして、そっちの僕(・・・・・)がいなくなったってことか?」

『そうだって最初から言ってるじゃん! お兄……えーい、面倒臭いからろーらって呼ぶけど、あの子がいなくなっちゃったの! 今朝、ベッドを覗いたらもぬけの殻で……手紙も何も残ってなかったけど、とにかく探してもどこにもいないんだよぉ』

 

 既に機関に連絡はしたが、兄も両親も、途方に暮れているらしい。

 僕と入れ替わったアウロラは、元々の僕——カシハラユイトの肉体に入って、リアルにある僕の家と家族の元、生活をしていた。僕の体である以上、もう不老不死の力はないし、アウロラは寿命が来ればその命尽きる、ただの人間に等しい。中身は幾星霜を生きてきた魂とはいえ、彼女はもう、一人で生き続ける苦しみにこれ以上耐え続けなくていい。そう思い、僕は彼女とニレの目論見通り、僕自身が「アウロラ」になることを受け入れた。

 そうして、アウロラは「普通の人間」としての生を手に入れたわけだが……まさか、脱走するとは思わなかった。

 元々は政府の研究材料であり、その管理下で何度か殺傷事件をも起こしたことがあったアウロラだが、責任能力の有無を指摘され、その件に関しては不問とされている。今は専門機関の保護観察を受けながらも、人羽たちの元で特に問題を起こさず生活を営んでいると聞いていた。セブンスコードへの立ち入りを禁止されたが故に、どこか張り合いがなくなってぼーっとしているようにも見えると人羽は言っていたが、居心地が悪そうな素振りは見る限りなかったという。たまに人間の体や生活に興味を示すこともあったらしく、馴染めるのは時間の問題ではないかと思っていたのだ。

 

 アウロラ。叶ったんじゃないのか。

 何が目的だ。何がしたい。

 君は、この世界では終わりをずっと望んでいた。これ以上、何を望む。

 急な知らせに焦っていた僕に、人羽が躊躇いがちに言った。

 

『あのさ、お兄……ちょっと、気になることがあるんだけど。でも、ろーらが逃げた事とは関係ないかなぁ。別にあたし、SOATの隊員でもないし、お兄みたくよくわかんない難しい仕事考えてるわけでもないし……』

「何だ。どんな小さいことでもいい、言ってみてくれ」

 

 勢い込んで尋ねた僕に、人羽はやや驚きを示すような沈黙を挟んできた。

 今は非常事態というのもあるが、前の僕はそこまで進んで家族と関わりたがる性格ではなかったから、自分の何気ない言葉を兄に必要とされるという経験が、人羽には新鮮だったのかもしれない。僕の求めに応じて、人羽は素直に口を開いた。

 

『うーん、じゃあ。あのね、いなくなったろーらの部屋に何かないか探してたら、机にさ、このCD乗ってたの。何日か前に、あたしが貸してあげたやつ。今写真送るね。音楽聴く時、ろーらっていつもスマホだから、CD貸してくれって言われてびっくりしちゃってさあ』

 

 手元にあった私用のスマホのメッセージアプリが鳴り、僕は画面を開いた。外国人の歌手らしき抽象的なデザインのジャケットが映し出される。商品ページをそのままスクリーンショットして転送してきたようだ。

 

『もしかして、これを聴いてから出て行ったのかなぁって。まあ、だから何って言われたら、あたしもよくわかんないけど……』

「ふむ……。アウロラ自身、音楽とは深く共鳴する作用を持っていた。研究の過程でも、その感情の変化や動きと、音楽との関連性は指摘されていたからな。彼女は感情というものを上手く解さなかったが、音楽を聴いた時には脳波にその変化が……」

『んー、詳しい説明はどーでもいいけど、とりあえず役に立ちそうならお兄にも音源貸したげるから聴いといて! あーでも、お兄って研究所で寝てるからCDの受け取りとかムリなんだっけ? めんどくさっ。じゃーそっちのドライブに送るから! 容量とか通信費とか、全部そっち持ちでよろ〜』

 

 遠慮なく会話をぶった切った人羽は、喋るだけ喋って一方的に通話を切った。思わず閉口する。こういう、天真爛漫でマイペースなところが昔から苦手だが、そういう妹なので仕方がない。むしろ、SOATで知り合ったアクの濃いメンバー達と比べれば、人羽の方が幾分マシなのではと思えてくるぐらいだ。

 

「僕も、成長したな……」

 

 妙な点で、別に感じたくもなかった成長を自分に感じてしまった僕は、ため息で頭を振りながら、隊内に連絡するべく再度通信機を手に取ったのだった。

 

*****

 

 草原を、風が吹き渡っている。

 牧場の柵のようなものが張り巡らされ、萌葱色の草木が、緑の絨毯のようにそよいでいた。牧場と違うのはその柵の中を、牛や羊のみならず、草食恐竜達が悠々と闊歩しているところだ。

 ここは、セブンスコードの何処かにあり、何処でもない世界。

 柵の上に座り、たんぽぽの綿毛を吹いて飛ばしていた少女は、牧歌的な衣装を身に纏っている。長い金髪を顔の横でひとまとまりに編んで垂らし、くすんだ緑色の瞳は、光に霞む青空の下の地平をぼんやりと見つめていた。

 

「……」

 

 年頃の娘、という風合いだが、見た目の年より幼なげに見えるのは、その御伽話のような格子柄のワンピース故か、それとも額の広い童顔故か。そんな彼女を、牧草の匂いを運んでくる風にも負けぬ声で呼ぶ人物があった。

 

「ユミリ! そろそろお祈りと見回りの時間だよ。そんなところで風に晒されてないで、早いとここっちへおいで」

「おばさま。もうそんなに時間が経ってたかしら? 私まだ、あっちのエリアの子たちにおやつあげてないのに」

「餌やりぐらいは、他の者がいくらでもやるさ。あんたは、あんたにしか出来ない仕事がいくらでもあるんだから」

「ええ、そうね。粕毛(かすげ)村の子達、少しは良くなったかしら。この間、治してはあげたんだけど」

 

 柔らかく鈴の鳴るような音色で言葉を転がした少女は、おばさま、と呼んだ年配の女性について、土をならしてできた小道を歩き始めた。小高い丘に生えた枝を伸ばす大樹が、ざわざわと緑色の葉を揺らす。少女は木陰の下で、ぽつりと隣の女性に問いかけた。

 

「……ねえ、おばさま。私が天意に従い、この世のすべてを統べる巫女って本当なの?」

「何を今更。お疑いになるでないよ。あんたは間違いなく、天に選ばれた子なんだから。お前の授かった能力も、お前の存在そのものも、それを証明している。あんたは間違いなく特別な子だ。こんな穴倉に隠れるような生活だけども、ここにいる限り、あんたはこの王国の王になれる」

 

 ユミリとは違い、和風の袴衣装を身に付けた女性は誇らしげだが、ユミリは口をとがらせて俯いたまま、微かに呟いた。

 

「でも私、たまには国の外に出て、外の世界で遊べるお友達が欲しいけどな……」

「うん?」

「なんでもないっ。それより、今度の作戦はいつ? 早く、シキおじさまのところに会いに行きたい」

「ああ、そうだね……(くず)撫子(なでしこ)の人間の働きによるかねぇ。こちらのことは知らせていないが、あの階級も今内部で勢力が分裂していて、シキ一人では統率が難しいとかいう話だ。そんな危険な場に、わざわざお前が出る必要はないんだよ。組織に必要な仕事なら、お前が内部の人間に与える『加護』だけでどうとでもなる」

「やだーっ! だって、民は皆、王国の繁栄を願っているのでしょう。王国のために、巫女である人間が前に出るのは当然じゃないの」

 

 責任感を前面に出すフリをしてはいるが、実際のところユミリを駆り立てているのは、外の世界への好奇心であった。巫女として大事に護られているユミリは、滅多にこの王国の外側——セブンスコードの都市には出してもらえない。外出も遊びに行くことも禁じられ、この広大な大地で、村人や自然や動植物を相手にすることだけを許されていた。民は皆優しく、その生活にも何ら不便はなかったが、ユミリはつまらなかったのだ。同い年の友人もほぼいない、年配者や年上の者ばかりが集う村での生活で、何の刺激もないことが。

 そんなユミリが唯一外へ出られるのは、叔父のシキや仲間たちの「仕事」の手伝いだった。大抵は言われた通りのことをするだけで、その機密も具体的な内容もユミリは知る由もないが、自分の力で喜んでもらえるのがユミリは嬉しかった。何より、ほんのわずかな時間だけでも、滅多に見られない建造物の群れや人々の格好や様子を見ることができるのが、ユミリには新鮮なのだ。

 それを顔に出せばまた過保護な叔母にどう止められるかわからないので、一生懸命背伸びして大人っぽい理屈を捏ねようとする。けれど、叔母の隣を歩いていたユミリは、次の足を一歩踏み出した瞬間に、大人の姿から背の低い子供姿に変わっていた。服装は変わっていないが、幼く変貌した自身にユミリはわーっと声を上げる。

 困ったように苦笑を浮かべた叔母は、優しくユミリの頭を撫でた。

 

「ま、何はともあれ、その奇妙なバグはどうにかしないとね。村の者は皆わかってるからいいようなものの、集会や儀式に出ている時にそれじゃ、示しがつかないよ」

「わかってるもんっ! ユミリが小さい頃からある不具合なんだから、しょうがないでしょ!? 今のは、ちょっと失敗しただけだし! 私さえしっかりしてれば、何とかなるしっ……!」

「はいはい」

 

 ここが電脳世界である以上致し方ないとはいえ、何のきっかけもなしに見た目が時々変わってしまうのは、少々困る。けれどもユミリには、何となくだがその規則性がわかっていた。子供じみた感性が活発化してしまうと、勝手に体が子供の姿に縮んでしまうようなのだ。

 子供化しても中身は変わらないとはいえ、ユミリだって成人を越した乙女だ。この姿になる度に、いつまでも子供扱いされて叔母や村の皆に可愛がられてばかりいるのは、嫌な気分ではないが、少々複雑なものがあった。

 やれやれ、と自然に戻るのを待ちながら丘から下る小道を歩いていると、風に乗って不意に歌声のようなものが聴こえてきた。

 

「……?」

 

 不思議に思って振り返るが、叔母が立ち止まる気配はない。自分にしか聴こえていなかったようだ。

 

「気の、せいかな……」

 

 木々のざわめきを、歌声と聞き間違えたのかもしれない。ここに咲く草花や木々は、常日頃から四六時中歌っているようなものだ。そう思って足を動かし続けた時、今度ははっきりと、耳元で声が聞こえた。

 

『ねえ。「トクベツ」って呼ばれるのって、窮屈じゃない?』

「!」

 

 驚いて、思わず足を止めてしまう。耳元で囁かれたようだったのに、傍には大樹の他には何もない。小さな花を揺らす木々に、ユミリは向き直った。

 

「あなたが話しかけてきたの?」

『わたしは、あなたの内側にいる。最初は、見ているだけだった。けれど、あなたはわたしと同じ……とても、似ているから』

 

 語りかけてきた声は、今度はユミリの脳内で響いた。

 初めて聞くはずなのに、どこかとても懐かしさを感じる声だ。そんな涼やかな響きを持った女性の声音が、ひどくユミリの心をざわつかせる。なぜだろう、まるで出逢うべくして出逢ったというように、これが運命の出逢いだったというように、ユミリの胸が生まれて初めて経験するどきどきで、高鳴っていく。

 

「あなたは……誰? どうして私の中にいるの?」

『わたしは……』

「ユミリー! 何のんびりしてるんだい、早くおいで!」

 

 叔母の声に引き戻され、はっと現実に帰った時には、もう声は聞こえなくなっていた。

 

「はぁい!」

 

 返事をし、靴で土を蹴って駆け出しながら、ユミリには不思議な声との接触が、これで終わるとは思えなかった。否、思いたくなかった。

 

(不思議な人。私と同い年くらいの人の声で、でもどこか寂しそうな……どうして、私に声を掛けてくれたの? 私にできること、何かある?)

 

 返事がないと分かっていても、風を全身で受けて走りながら、知らず知らずのうちに問い掛けてしまう。刺激の少ない土地に生きてきた自分の、ようやくできた小さな秘密。明るい顔で光に向かって走りながら、ユミリはこの秘密をできる限り守り育てていきたいと、この時密かに決心していた。 




あのさ
人羽ちゃんめっちゃ可愛くない?(余談)
彼女は、私の頭に出てきた瞬間から、ユイトの呼び方が「お兄」でした。
私的にイチオシメンバーなのですよ…今後も出てきてくれないかな…とちょっと考えている…


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第一章
1-1 改修


2月のある日、SOAT本部にて、内装や外装のリフォーム計画を立てているリア達。
そこに現れたムラサキの取った不思議な行動の真意は…?


 冬明けにはまだ遠く、リアルの世界では大寒波が襲来しているが、セブンスコードの中にいる人間にとって、そんな寒さは何の関係もない。時折、天候の操作で雪がちらついたりすることもあるものの、それはあくまで演出のためで、日差し的には小春日和と言って遜色ないような穏やかな陽光が降り注ぐ中、そんな光が届きもしないSOAT本部のオフィス内で、リアは隊員達の意見を聞きながら、丁度オフィス内設備の見回りを行っているところだった。

 

「もう少し窓ガラスを増やして、南に面したエリア以外にも、太陽の光が入るようにした方がいいかもですねぇ……」

「そうですね。オフィスそのものにも透明感がある程度ないと、中で何をしているかわからなくて不安、という声も市民から寄せられていますし……」

「けど、暗い方が落ち着くっていう隊員の声もあるのが難しいとこっすよねぇ」

「地下エリアや一階や寮には、従来通り遮光設備のあるエリアも作りましょうか。あとは、うちの研究所は日当たりがいいですから、そちらの設備も参考にしつつ、自動シャッターやカーテンも入れて、どちらの要望も少しずつ叶えられるように……」

 

 隊員達からも定評のある柔軟な発想で、手元のパッドを操作して次々に必要資材の見積もりを入力していたリアは、ふと倉庫に続く階段のあたりに人影を発見した。言わずと知れた袴姿、普段の所内では事務仕事に従事していることの多いムラサキが、ことりを肩に連れ、きょろきょろとフロアを見渡している。不思議そうに見守る隊員たちの傍に立ててあったサンプル用のカーテンを手に取ってみたり、かと思えば休憩用エリアでコーヒーを出食するカウンターの中に立ち入ってみたり、かと思えば天井のハッチを見上げてみたりと、明らかに挙動不審だった。

 リアが目をぱちぱちと瞬かせながら、問いかける。

 

「えっと……ムラサキ、さん? どうかされましたか?」

「ん〜、ちょっと待ってね。今、真剣勝負っていうか、訓練の最中で」

 

 ますます頭の上をハテナでいっぱいにする隊員たちの前で、ムラサキは小さく指笛を鳴らす。合図を受けたことりが、ぱさりと翼をはためかせてムラサキの頭上まで飛び上がった。

 

「ね、ことりちゃん。どっちがいいと思う? 天井裏と、テーブルの下」

「ぴっ」

「やっぱ挑戦だよね? ことりちゃんがいれば何とかなるもんねっ」

 

 差し出した手の上に着地したことりに向かって、ムラサキは念じるように目を閉じた。

 

子宮(ウーム)。ことりちゃんの、帯電の力を引き出して」

「ぴー!」

 

 にわかに周囲が眩しくなり、ぱちぱちっと音を立てたかと思うと、ことりの体が光を纏って輝き出した。

 そのままことりは真上へ飛び上がり、ハッチの持ち手に器用に逆さ吊りになったかと思うと、嘴をその隙間に突っ込む。天井裏へ続くハッチは、普段は安全のためにセキュリティロックが掛かっているはずだが、ことりの流す微弱な電流がハッキングの役割を果たしたのか、扉は天井の奥へ向かってぱたりと開いた。

 

「よし!」

「ぴぃっ」

「ごめんね、重いけど、ちょっとだけお願い」

 

 あんぐりと口を開ける隊員たちの前で、ムラサキは両手を上へ差し伸べる。

 再びぱちっと電流が走ったかと思うと、ことりはサギくらいの大きさに巨大化していた。そのまんまバサバサと翼をはためかせ、脚を掴んだムラサキを天井付近まで運んでいく。真剣そのものの表情のムラサキだが、鳥に吊られている人間の図というのは、側から見ると実にシュールで、リアでさえ一瞬注意を忘れてしまうほどであった。

 

「む、ムラサキさんっ!? 危ないですよ!?」

「だいじょおぶ! いくよ! いち、にの、さんっ……!」

「ぴーっ!」

 

 楽しげな声をあげたことりが、ぶおんっと勢いよく脚を振ったかと思うと、空中ブランコのようにムラサキを天井裏へ押し上げる。器用にくるりと後方宙返りをするように一回転したムラサキは、その小柄さもあって、天井奥へと鮮やかに姿を消した。直後にどんがっしゃんと、やたら痛々しい音はしたが。

 

「だ、大丈夫ですか……?」

「うう、いたた……。受け身に電撃はあんまり使えないなぁ。一時的な痛みを緩和するぐらいの効果はありそうだけど……。すみません皆様、お騒がせいたしました」

 

 風船が萎むようにして元のサイズに縮んだことりが、天井裏から見下ろすムラサキのところへ、ぱたぱたと楽しげに飛んでいく。頬擦りしてくるその頭を指先で軽く撫でてから、ムラサキは「いけない、早く隠れなきゃ」と思い出したように言いながら、ぱたりと天井の扉を元通りに閉めて塞いだのだった。

 

「なんだったんでしょう……?」

「さあ……」

 

 何が何やらさっぱりわからず、共に首をかしげるリアと隊員一同だったが、その理由は間もなく明らかとなった。

 

「あんた達、このあたりでムラサキ見なかった?」

 

 このフロアの廊下から続く階段を上ってきたヨハネが、こちらに向かってくるや否や、リア達を見てそう尋ねたのである。

 

「ええと……」

 

 当然、先ほどリアも隊員達もムラサキが隠れるところは目にしているが、「隠れようとしている」ということは本人的にはヨハネから身を隠したいと思っているわけで、それを馬鹿正直に伝えるべきか、あるいはムラサキの行動の意図を汲んで黙っておくべきかを皆が悩んでいるあたりで、当惑した様子を察したヨハネが、やれやれとため息をついた。

 

「わかった。その様子じゃ、このフロアにいるのは間違いなさそうだね」

「ええと、ヨハネさん……?」

「大丈夫。どこに居るかまでは言わなくていい。どこに居るかを当てるのは、ボクの仕事だから」

 

 意味深長な台詞に皆が首を傾げていると、ヨハネはすらりと三本の指先を伸ばすと、閉じた左目の傍に当てがった。小さな呟きが、辛うじて側のリアの耳には届いた。

 

角膜(コルニア)。対象の痕跡を辿れ」

 

 開いた左目が、煌々とマゼンタの鮮やかな光を放っている。

 所内での植能の使用は別段禁じられていないが、真っ向勝負や模擬戦でもしない限りはあまり使う機会もなく、その様子に皆が驚いている中で、ヨハネはスコープのように左目の視界を通しながら、フロアを隅々まで観察した。

 先ほどムラサキが立ち入っていたカウンターの内部やカーテンの傍、自販機の裏側などを、ほぼムラサキと同じ動線で、ゆっくりと歩きながら辿っていくヨハネ。しかしやがて、天井裏に繋がる扉の真下までくると、ピタリと足を止めて、見上げながら低く呟きを漏らした。

 

「……ここか」

 

 発信機の電波を拾う追跡機の類を持っているわけでもないのに、なぜヨハネは居場所がわかったのかと、隊員たちは顔を見合わせて目をぱちぱちさせるばかりだ。しかし、ことりと違って天井裏に上がる手段を持たないヨハネが、ため息をついて周囲を見回しているあたりで、一人の察しのいい隊員が申し出た。

 

「あ、あの、隊長! 脚立なら俺が! (ボーン)、骨格を形成!」

 

 あっと気が付いたように、他の隊員も次々と申し出て協力してくれる。

 (ボーン)血液(ブラッズ)(ネイルズ)と同じく下位植能であり、あくまで骨ぐみを作るための機能なので、一人分の力では多少ぐらついたり崩れたりしやすいものの、数人分の力で固めれば梯子や脚立くらいの強度にはなる。リアと共に整備箇所や点検箇所を確認する必要があったため、この植能の扱いが得意な隊員が集められていたのだ。

 

「悪いね、みんな……」

 

 支えてもらった脚立に危なっかしい足取りで恐縮しつつ乗りながら、ヨハネが天井裏に続く扉をごとっと跳ね上げる。そこから顔を入れたヨハネが、天井裏の内側に向かって怒鳴った。

 

「ちょっと、サキ。他の隊員に手間と迷惑が掛かるような場所に隠れないでくれる? みんな今手伝ってくれてんだから」

「えええーーーーっ!?!?!? うそぉ!? なんでわかったの!? 嘘でしょぉ!?」

 

 驚き声と悲鳴を上げるムラサキに、脚立を支える隊員たちは思わず顔を見合ってくすくすと笑ってしまった。声だけでその表情が手に取るように見える。

 ことりの脚を掴み、ふわっと舞い降りるように地面に着地して戻ってきたムラサキは、むぅっと不服そうに唇を尖らせて、得意げな顔のヨハネを睨んでいた。

 

「信っじらんない……天井裏だよ? 人が隠れるとか思わないじゃん普通」

「その『普通』の固定概念を取り払って考えることが、捜査では重要なんだ。何にせよ、ボクの植能があればすぐ辿れたけどね」

「ううーーっ……! これで私の全敗じゃん! こんなに頑張って隠れ場所見つけて隠れてんのに! ていうかそっちは植能あるんだからズルい!」

「悔しかったら、そっちこそ自分の植能でボクを撹乱するぐらいしてみなよ」

 

 わやわや騒ぐムラサキを苦笑して眺めながら、リアはようやく、落ち着いて二人に尋ねる気配を得たのだった。

 

「ええっと……お二人は、かくれんぼをされていたのですか……?」

「うん、そう。ごめんね、みんなが一生懸命仕事してるのに、遊んでるみたいだったよね……」

「それはボクも失念してた。一応、使われてないフロアを借り切って予約したつもりだったんだけど……まさかリアちゃん達がいたなんて」

「ああ、いえ! ここは、今日前倒しで業者さんに来ていただけることになったので、急遽打ち合わせに使っただけなんです! 他のフロアが空いてなかっただけで……なので気にされないでください」

 

 いつまでも業務を長引かせるわけにはいかないので、リアもヨハネも傍にいた隊員たちは解散させたが、皆サンプル品を持って引き上げながらも、どこか三人の会話を聞きたそうにそわそわしていたのだった。

 そんな隊員たちを手を振って見送りながら、ヨハネはカウンターの内側でコーヒーメーカーのコーヒーを淹れつつ、リアに説明した。

 

「これは、その……ボクとムラサキの、植能の技能を伸ばすための訓練なんだ」

「お二人は、ムラサキさんのお体の紋様を、共有されているのですよね?」

「うん、そう。紋はムラサキの子宮(ウーム)由来だから、ボクは今、角膜(コルニア)の他に子宮(ウーム)の力や作用を借り受けることができる。……ってのが、研究所のミソラの見立てなんだけど」

 

 黒い液体をポットから注ぎ、やや疲れたようにカップを傾けるヨハネの傍にぴとっとくっついたムラサキが、自分もカップを手にしながら、やや遠慮がちにヨハネの隊服の裾から見える褐色の指先を握った。

 植能を使ったりダメージや疲労が溜まったりすると、子宮(ウーム)の紋を持つ者同士は、互いに触れ合うことでそれを軽減したり分け合ったりすることができる。今のコルニアの発動でやや疲労気味だったヨハネを見て、自然と出た行動だ。最初の頃は人前で手を繋ぐな何だとぎゃあぎゃあ煩かったヨハネも、このくらいでは今は何も言わない。むしろ、いつでもムラサキに触れられるようにと、手袋を外している時の方が多いくらいだ。

 そんな様子を微笑ましく思いながらも口には出さずに、リアは話の続きを聞いていた。

 

「どうもこれが曲者っていうか……ウームの力を、同じようにボクがそのまんま使えるって訳じゃないみたいでね」

「まぁ、今わかっている段階で、ウームの力って『魅了』と『帯電』だけなんだけどね……。あとは、これら複数の能力を持つのに必要な『保持力』か」

「帯電……? ことりさんの件で覚醒したのって、たしか『催眠』だったのでは……?」

「あ、リアちゃんにまだ言ってなかったんだっけ。

ソラの研究所で詳しく解析したらね、催眠の効果だと思ってたやつは、眠気を催す作用があるわけじゃなくて、どうも微弱な電流が流れてるらしいのね」

「サキじゃ、元々の体力が少ないし体質も能力に合ってないから、戦闘で使うには力が足りないらしいんだ。すっごい弱いから、どうもそれが電流を流す低周波治療機みたいな作用を起こして、心地よくなったり眠くなったりするんじゃないかって」

「そ、そんなことあるんですね……」

 

 ムラサキがマッサージ機になっているところを想像したリアは、思わず笑い出しそうになりながらもなんとか必死で堪えていた。便利な能力だが、疲れが癒されるとなると、最終的に敵には得しかないかもしれない。

 その感情を読んだように、小さく笑ったムラサキが人差し指でことりの頭を撫でる。

 

「ま、私じゃ上手く使えないんだけど、暴走の時に、ことりちゃんの体にも雷紋のプログラムが組み込まれてしまったらしくてね。もうすっかり構成に組み込まれてるから、私と同じで引き剥がせないんだって。エレメント自体は私が倒して吸収したから、もうことりが暴走することはないんだけど、私が都度上手くこの子に力を渡してあげることができたら、ね、この通り」

「ぴーっ」

 

 翼を広げたことりが、ばちばちっとシンクや一帯のテーブル席にまで届きそうなほどの電撃を放つ。確かに、これならかなりの高威力になりそうだ。

 

「わぁっ! ことりさん、すごいです!」

「まぁ、まだ制御が下手っぴなんだけどね……だから、私とことりで今練習中」

「ぴっぴっ」

「なるほど。それでさっき、ことりさんが電流を流してハッチを開けたり、大きく膨らんだりできたんですね」

 

 リアは感心したように、何度も頷いている。

 コーヒーを淹れたついでに立ち飲みをしていたヨハネが、思い出したようにテーブルの方に座ったので、ムラサキもリアの向かい側に腰を下ろした。もうだいぶ疲労感は軽減されたようだ。

 

「それで……ボクの方は、コルニアをもっと強化できないかって考えてる。

ミソラの話じゃ、この紋を通して、ボクらの植能は互いの体を行き来しているんじゃないかって話だった。だからってウームの力をボクがそのまま使うにはまだ難しいけど、サキの植能の力が、コルニアに何かしらの変質を及ぼしてることは確かだ。

杉浦達の手も借りて詳しく調べてもらったら、元々の主要植能のデータにはなかった、未知のアップデートが起こってることがわかってね。

ボクはこの力を、〈コルニア・改〉って呼んでる」

「コルニア・改……」

 

 目を丸くして呟くリアが、先程の人払いの意味を理解する。

 未知の力で未だ解明されていない部分が多いのもさながら、もしこれが新たな戦闘手段となるのなら、出来るだけ手の内は伏せておいた方がいい。ユイトが一連の事件を鑑みて、SOAT内での裏切り者の存在を危惧している状況であればなおさらだ。

 

「まだ、実際に何ができるかは手探りで試してるんだけどね……。

でも、今わかってる範囲としては、幻覚の作用が前と比べてちょっと強くなった気がする。前は姿くらいしか変えられなかったけど、今は声まで変えられるんだ。適用範囲が増えたっていうのかな。

あと、大きな変化としては……植能の痕跡が、見えるようになったことだね」

「え? それって……」

 

 ぱちぱちと目を瞬かせるリアに、ヨハネは頷いてみせた。

 

「リアちゃんの、嗅覚(オルファクトリー)と似てるかも。もっともボクの場合は、匂いじゃなくて視覚的に植能が見える、って感じだけどね。オーラみたいに、使った後の色がもやもやしてるっていうか……まだ見えるのは微かだし、上手く言えないんだけど」

 

 思わず両手を叩きながら、リアは感動しているようだ。

 

「すごいです! だったらこれで、敵の追跡もできるようになりますね!」

「ただ、相手が植能を発動してくれないと見えないんだけどね。おまけに植能によって、痕跡の残留時間が長いものとか短いものとか、見えやすいものとか見えにくいものとか、差が大きいし……。

しかも、〈コルニア・改〉自体も言ってみればブーストみたいなものだから、効果時間が短いって問題もある。解決すべきことは山積みだよ。

とりあえず、紋で繋がってるウームの痕跡は一番ボクにとっては追いやすいから、今はサキに付き合ってもらって練習してるんだ。いずれは、他の隊員にも協力してもらおうと思ってる。ま、かくれんぼは流石に子供っぽいって、ボクも言ったんだけど」

「なるほど。そういうことだったんですね」

「えー! いいじゃんかくれんぼ! 楽しいし練習になるし、一石二鳥だよ?」

「あんたは普通に楽しんでるだけじゃん。それでもまだ、時々は見えづらくなるし……」

 

 先程の様子を見ている限り、まだ辿るにはある程度の慣れや時間が必要なようだ。

 渋い顔をするヨハネの前で、空のコーヒーカップを手にしたムラサキが、先に元の世界への帰宅準備をしようと、元気よく立ち上がりながら振り向く。その顔は、所内の人工的な光に照らされても暖かく見えるほど、太陽のような満面の笑顔だった。

 

「ええ〜っ? 自信ないの? ヨハネさんは、とーっても優秀な隊長さんなんでしょ? どこに居たって必ず見つけてくれるんでしょ? だいじょーぶだよ。だって、今まで所内のどこに隠れたって、ヨハネさん絶対見つけてくれたじゃん。だから、私信じてるよ」

「ふん。当たり前でしょ。あんたに励まされるまでもないよ。あんたみたいな騒がしい上に植能も派手なヤツ、世界中どこに居たって、ボクはすぐ探し出してやるんだから」

 

 休憩コーナーから一歩外に踏み出したムラサキは、強がって大口を叩いたヨハネの答えに驚き、そして口元にはにかんだような笑みを浮かべてから、たったと楽しげに廊下の向こうへ駆けて行ったのだった。

 

「……ふふっ。なんだか、熱烈な愛の告白みたいですね」

「……え? ちょっ、勘弁してよリアちゃん! そういうのじゃないんだから!」

 

 口元に手を当てて楽しげに笑うリアの前で、ヨハネは今更のようにコーヒーを溢しそうになりながら、慌てた赤い顔で弁解したのだった。



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1-2 運搬

ヨハネとのかくれんぼ訓練中、来客者らしき少女と出会ったムラサキ。
その雰囲気に不思議なものを覚えながらも、シーツの中に隠れるムラサキだったが……?


 それから数日後の、ある日のことだった。

 例の訓練中、私はいつも通り、隠れ場所を探して所内をうろついていた。

 今日の対象フロアは、トイレとお風呂場以外の一階全域だ。

 ことりを肩に乗せ、所内から寮へと続く渡り廊下をたったと袴で歩きながら、私は上機嫌だった。外から差してくるお天気の日差しもいい感じだ。

 

(『一階』だから寮もアリ……なんて言ったら、ヨハネさんに怒られちゃうかなぁ。でもどうせ、ここを歩いたのもぜーんぶ痕跡で見えちゃうんだろうし、あんまり意味ないと思うけど)

 

 さすがに個室に隠れるのはセコいからやる気はないが、ちょっとした盲点ぐらいは突けないだろうか、と思う。けれど、本当にどこに隠れていたって見つかってしまうのだ。植能の気配が漏れなさそうな防火扉の内側にいても、隊服に変装してオフィスの人達の中に紛れてみても。いっそこれなら、と思い、紋伝いにヨハネさんの力を奪ってコルニアで一瞬だけ別人に変身してみても、すれ違ったその瞬間に腕をがっと掴まえられてお縄になる。

 勝った方が喫茶店で奢ろう、なんて子供じみたルールを設けてはみたけれど、今の所私の全敗で、カフェの向かいの席で得意そうにヨハネさんが口に運ぶジンジャーチャイは、すべて私の奢りだった。私の方はといえば、いつもぶすっと頬杖を突いて、自分の豆乳ラテを啜るばかりだ。仕事終わりに一緒にお茶できる時間があるのは素敵だけれど、せめて一杯ぐらい奢らせてみたい。

 

「……一体、どんな風に見えてるんだろ」

 

 廊下の中ごろで足を止めた私は、ふと呟いて振り返り、歩いてきた道を見た。

 もちろん、足跡も何も残ってない。

 私の植能は相手を魅了させることが主な作用だから、ヨハネさんに言わせれば、発動させていなくても常に私の体表から少しずつ漏れてはいるらしいが、当然私にはそれが見えない。そんなに一目見てどこにいるかわかるくらい、目を引く鮮やかな色をしているのかと思うと、ちょっとドキドキする。

 一体、どんな色で、どんな形をしていたら、あの子をここまで迷わずに導くことができるのだろう。一体、ヨハネさんの目に映る私は、どんな——

 

「……って、別に植能に由来するオーラなんだから、私とは関係ないけどね!?」

 

 まるでヨハネさんが私自身を追って来てくれているような錯覚をしたのが恥ずかしくなって、思わずぶんぶんと熱くなった頭を振った。ことりが不思議そうに見上げてくる。

 

「ぴ?」

「なんでもないっ。さー、いこ!」

 

 勢いよく声を掛けて、私は寮の棟の廊下で、隠れ場所を探した。

 ランドリールームに入ってすぐ、中の設備をことりと一緒に物色する。

 

「洗濯機の中……はさすがに危ないよね。いくら私が小さくても、さすがに入れるような大きさじゃなさそうだし……掃除ロッカー? ギリ入れそうだけどちょっと安直かな。通風口は、この間天井裏に隠れて見つかったばっかりだし……」

 

 欲を言えば、あんまり着物が汚れなくて汚くなさそうなところがいい。

 腕組みをして考えてから、私は他の場所も探そうと思い、ランドリールームの外に出た。共用施設で隠れられそうな場所といえば、あとは厨房や倉庫、ベランダぐらいか。貯水槽や駐車場あたりも、あまり使われていないからアリかもしれない。

 そう思って廊下を歩いていたら、ふと寮室に続く角のあたりを、何かがぱたぱたっと走って横切っていった。

 

「……?」

 

 一瞬でよく見えなかったが、子供の人影に見えた。ほんのわずかに視界を横切っただけでそこまで印象に残ったのが逆に不思議だが、背の低さに加え、見事な金髪が目を引いたので、そこまで動体視力がよくない私でも、外国人の子供らしいとわかったわけだ。

 不穏な気配こそ感じなかったものの、土のエレメントがシェルターに気付いたら侵入していた一件のせいもあって、見慣れないものや足音には妙に敏感になってしまう。もしかしたら気のせいだったかもしれないし……と確認するような気持ちで、私は人影の消えた角を曲がった。

 

「わあっ」

 

 可愛らしい声を上げて、出会い頭にぶつかり掛けたふわふわ金髪の女の子が、ぺたりと尻餅をついた。女の子……といっても、多分見た目は20そこそこって感じだ。絵本に出てきそうなバスケットを持って、腰の絞ったワンピースにエプロンドレスをつけて、なんだかおとぎ話に出てくるお嬢様と言った風合い。なんて、観察してる場合じゃなかった。

 

「ごっ、ごめんなさい! 大丈夫?」

「ええ、少し驚いただけ……このぐらいで尻餅なんて、まったく自分のどんくささが嫌になっちゃうわね」

「そんな。私が注意せずに飛び出したのがいけないんだし」

 

 慌てて差し出した私の手を、柔らかくてふにっとした掌が握る。ミルクみたいに真っ白な肌をしたその子は、立ち上がると私よりずっと背が高かった。まあ、大抵の人は私より背が高いんだけどね。女性の平均身長くらいはあるだろうか。

 おっとりと首を傾げてみせるその子の双眼が、渋みのある緑色にきらりと輝いた。慌てて誤魔化すように、私は問い掛ける。

 

「あ、えっと〜……関係者の方……ですか?」

「ええ。叔父がSOATに勤めていて、届け物を頼まれたの。ここって、関係者の身内や知り合いの立ち入りまで、禁止してるわけじゃないわよね?」

「あ、うん! ご、ごめんね、変なこと聞いちゃって……最近色々と物騒だから、何となく聞いちゃっただけで、別にあなたが怪しいとかそういうわけじゃ」

 

 気分を害しただろうかとあわあわしていたら、その子は髪と同じようにふんわりとした雰囲気を纏いながら、くすくすと可笑しそうに笑った。

 

「いいの。変なこと聞くなぁって、思っただけ。別に怒ってないわ」

「ならよかった……あ、ねえ、さっきこのあたりで小さい子が走ってくのを見たような気がしたんだけど、もしかして、その子もあなたの知り合い?」

 

 そう尋ねると、彼女は丸い瞳を驚いたように見開いた。その直後、じじっとノイズのようなものが視界に走り、目の前の彼女が一瞬縮んだように見えて、私は瞼を擦る。けれど、次に手をどけた時には、さっきと同じエプロンドレス姿の女の子が、そこには立っているだけだった。

 

「え……あ、あれ? なんか今……さっき走ってた子とあなたが、そっくりに見えて」

「ふふっ。本当に可笑しな人。私がそんな小さな子供に見えるの?」

「えええ! いやいや、そういうわけじゃないんだけど……ええ、でも、私の見間違い……?」

 

 それにしては結構はっきり見えたように思ったのだが、いかんせん一瞬の出来事だから自信がない。別に怪しい人じゃないならこれ以上拘留する必要もないし、どうしたものかと思っていたら、彼女は何故か目に愛しげな色を浮かべて、私に向かい微笑んだ。

 

「ねえ。あなたの名前は? なんて言うの?」

「え? あっ、私はムラサキ。大野紫咲。一応ここの職員……かな?」

 

 そう言って、私は懐に挟んであった、桜の花びら型の名刺を取り出した。桜の紋章付きの、五枚の花びら形にカットした紙に印刷してもらった、ピンク色の名刺。一応は隊の名刺を作ってあげると言われたので張り切って注文したら、特殊印刷は手間と時間が掛かるとかヨハネさんにぶーぶー文句を言われたが、私がSOATの名刺を渡す機会なんて一年に10回もあるとは思えないので、そのくらいの我儘は聞いて欲しい。

 小さな名刺を両手の指で持った彼女は、それを珍しげに眺めるようにしながら、再び驚いたようだった。

 

「職員さんだったのね。制服じゃなかったから、あなたも寮に住んでる人の家族なのかなって思ってた」

「あはは、紛らわしいよね。まぁこれには色々とあって……」

 

 色々も何も、私が好きだから勝手に着ているだけである。淫紋を隠すだけなら、SOATの隊服があれば十分なわけで。

 

「それで? SOATの隊員さんは、こんなところで何してるの?」

「えっと、その、かくれんぼ……?」

「まぁ、楽しそう! 私も混ざりたいな」

「えっ!? だ、だめだよ! 私と一緒にいたら100%見つかるかくれんぼだし、見つかっちゃったら奢り確定だよ」

 

 職務中にかくれんぼをしている事に対するツッコミがもうちょっとあってもいいのではないかと、自分で言っておきながら私は思ったけど、この子は純粋に自分もかくれんぼをしたいとわくわくしているようだ。ちょっと浮世離れしてる子かもしれない。けれど彼女は、残念そうにため息をつくと肩を落とした。

 

「でも、私すぐ帰らなきゃいけなくて……混ざりたくても、今は一緒に遊べないわね」

「そ、そっか。急いでるのに引き留めてごめんなさい。えーと……」

「私、ユミリ。ユミリっていうの。ねえ、ムラサキ。また私を見つけてね」

 

 無邪気ににこっと笑うと、ユミリと名乗った女の子は、どこか楽しそうに長いスカートの裾を翻して、出口の方へ向かい廊下を駆けていった。見た目の割にすばしっこいようで、あっという間にその姿は見えなくなる。

 

「なんか不思議な子だったなぁ。あれまで私の幻覚ってわけじゃないよね……?」

「ぴーい」

 

 袖から着物の内側に潜り込んで隠れていたことりが、ひょっこり胸元から顔を出す。不思議だね、と言っているように小さな頭を傾げていた。

 考えたいことは色々あるが……今はそんな場合じゃない。あの子との会話で、ずいぶん時間を食ってしまった。さっさと隠れないと、ヨハネさんに追い付かれてしまう。そう思っていた私は、廊下の端に設置されたランドリーカートにふと目を止めた。

 

「おっ、これいいんじゃない?」

 

 車輪と取っ手がついた青色の布製のカートは、洗濯用のシーツや布団が入れられるようにかなり大きく造ってあるので、私なら楽に入ることができる。洗濯を共用のランドリーサービスで纏めて依頼している隊員や、ゲスト向けの部屋に宿泊を伴う来客があった時に、清掃員がリネンを入れるためのカートだ。後でスタッフが回収して、クリーニング担当の業者まで運んでいく。

 中を覗くと、おあつらえ向きに何枚か白いシーツが放り込まれていた。これを頭から被っていれば、簡単にはバレなさそうだ。

 

(よし……ここに隠れよう)

 

 ことりと一緒にカートの中に入って寝転ぶと、私は全身が見えないようにシーツの下へ隠れた。これなら、布団か何かが入って嵩張っているように見えるだろう。よくよく考えたら、誰かの使用済みシーツの下に隠れているってなかなかにアレな状況だが、元々セブンスコードはそんなに衛生的に不潔にならない環境設定になってるし、別に臭くないし。

 

「なんか、隠れ家みたいで楽しいね」

「ぴぴっ」

 

 ふわふわのことりが、頭に毛を擦り付けてくるのが気持ちいい。そうやって、少しの間だけ隠れているつもりだったのだが、なかなか来ないヨハネさんを待つ間、ハンモックのようになった内側で横になっていたらついついうとうととしてしまって、私は眠りこけてしまった。

 

 それから、どのくらいの時間が経っただろうか。

 

(……んん?)

 

 ふと、私は振動で目を覚ました。ごとっ、ごとっと聞き慣れた音で規則正しい振動が伝わってくる。カートが、廊下や段差を車輪で越えていく音だ。

 

(んんん!? 誰か動かしてる!?)

 

 思わず焦ったが、ヨハネさんならここで動いたら隠れてることがバレ……いや、むしろバレてるから運んでるのでは? それにしても、私を運んでどこに行くつもりなのだろう。私が寝ていることを察して、部屋まで運んでくれるつもりなのか。いや、もしかしたらみんなの前に運んで、我見つけたりと衆人環視に晒すつもりなのでは。

 しばらく様子を伺っていたが、カートが止まる気配はない。乗っている時間からして、カートを押している主は、とっくに寮の廊下を渡り終えてしまっている気がする。そう思う私の予想を裏付けるかのように、車輪の振動音がゴゴンと一段階硬いものへと変わった。シーツ越しに眩しい日差しが降ってくる。これは、建物の外のアスファルトを走っているようだ。

 

(ちょっと待って!? じゃあヨハネさんに見つかる前に、業者さんに回収されて運ばれちゃってる!?)

 

 予想していなかったわけではないが、本当に起こるとは考えもしなかった事態だ。

 まさかこのまま洗濯機に放り込まれることはないだろうけど、あまりに居た堪れなかった。ここで顔を出そうと、後で発見されようと驚かせてしまうことは間違いないだろうけど、せめて運んでいる時に驚かせて事故が起こるよりはよかろうと、私はカートの中で大人しくしていることを決めたのだった。かくれんぼで隠れ場所探してるうちに寝ちゃいましたとか、後でめっちゃ怒られるかもしれない。全部自分が悪いんだけど、怖い。

 

(うう、やらかしちゃったなぁ……)

 

 ことりと一緒に反省モードに入る私だったが、まだガラガラと駐車場らしき場所を突っ切っていく音を聞いているうちに、ふと思い直した。

 ……業者さんだとしても、おかしい。小柄な女とはいえ、私だって人体の構成分相応の重さは持っているわけで、そんなものがカートの中に入っていたら、運ぶ前に明らかに重いと気がつくはずだ。どんなに嵩張っていようと、量的にこれはどう考えてもシーツとか布団の重さじゃないだろう。

 

(てことは、人が入ってるとわかってて、運んでる……?)

 

 今更ながら、ぞっと寒気がしてきた。このカートを押している主は、一体何者なのか。何の意図があって、私を外に運び出そうとしているのか。そうこうしているうちに、カートがぴたりと止まった。

 

(……!)

 

 どきりとして身を強張らせた私の上から、思いの外シーツは静かに、するすると外された。木陰から刺してくる光が眩しくて、目が眩む。なんとか光に目を慣らして、かろうじて逆光の中に捉えたその黒っぽい影は、私が予想だにしなかった人物だった。

 

「見つけたわ、ムラサキ。こんなところに隠れてるなんて、よっぽどラッキーじゃないと攫って来れなかったでしょうけど。今度は、私とかくれんぼしてくれるかしら?」

 

 うっすらと笑みを浮かべた、大人びた顔つきに、私は声を上げた。

 

「サヤコ、さん……?」

 

 呆然としながら身を起こすものの、それ以上動けなかった。

 私の目の前には、黒い銃口が突きつけられていたから。

 

「さあ。大人しく、私と一緒に来てもらうわよ」

 

 クリーニングの職員の制服と帽子を着用していても、なお妖艶な色気を纏って振り撒くサヤコさんは、冷たい笑みを唇の端に浮かべたまま、無慈悲にそう告げたのだった。



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1-3 誘拐

ムラサキがSOATから消えたと知り、大混乱のヨハネとSOATだったが、ヨハネは隊長として、冷静に隊員達に指示を下しながら捜査の手を進める。
そして……


「はあァァァッ!?!? ムラサキがいなくなったってッ!?」

 

 一斉にオフィスで仕事中の隊員たちが振り返るのにも構わずボクがそう叫んだのは、その日の午後のことだった。

 いつもの訓練中、ムラサキを探している途中で、ちょっとしたトラブルに見舞われたボクは足を止めていた。印刷機が壊れたとか、そういう些細な理由だったと思う。呼び止めた隊員たちの手助けをして、かくれんぼ(と呼ぶのは不覚だが)の再開が少し遅れてしまい、再び彼女の後を追い始めた時には、植能の痕跡はかなり薄くなっていた。

 逆に、難易度的には丁度いいかもしれない。そう思ったものの、辿れたのは寮の洗濯室までで、そこから先の行方がいくら探してもとんとわからない。

 ムラサキの携帯に何回連絡しても返事はなく、まさかここ最近負け越しなのを根に持って勝手に帰ってしまったのでは、とボクはいささか憮然としながら仕事に戻ろうとしたんだけど、少し時間を置いて冷静になれば、彼女がそんなことをする人じゃないことはすぐにわかる。ああも子どもっぽく見えて、意外と感情の機微には繊細な大人なんだってことを、ボクは知ってる。

 

(まさか、何かあった……?)

 

 あまり信じたくはない事態だったが、念には念を入れて、待機中の班を全稼働してSOATの敷地内の捜索に当たることにした。ボクだけでは見落としている場所も他の人なら気付くかもしれないし、たった一人の人数のためにこれだけの人員を割いて、見つからないというのは考えにくい。どこか隙間に挟まって動けなくなっていたというような、そんな迷子の飼い猫みたいな笑える結末であることを期待して……散らばっていた各班の班長から聞いた結果は、無慈悲なものだった。

 ムラサキは、どこにも見つからなかった。SOAT本部内の、どこにも。

 

「念の為、詰所の方にも連絡を取っているんですが、今のところどこからも見つかったという報告は……」

「くそっ、一体どこへ……!」

 

 いよいよもって、事態がきな臭くなってきた。

 ムラサキが持っている子宮(ウーム)の力を保護したいと考えているのが、何も自分たちだけだとは限らない。今までに何度か起こった事件で、エレメントに憑かれた者、もしくはエレメント本体は、執拗にムラサキを襲ってきている。その理由はわからないが、まだ誰も所持したことのない珍しい主要植能を、狙っている勢力がいても不思議じゃない。

 事務方に出入場の記録を調べてもらったところ、ムラサキがログアウトした形跡はなかったらしい。つまり、システムエラーでない限り、彼女はまだこの世界のどこかにいる。判断するには早急かもしれないが、もし彼女が自分から姿を消したのでないとすれば……

 

「……誘拐、の線があり得るよね」

「なっ……こんな時間帯に白昼堂々と、ですかっ!?」

「昼間だから、っていうのは逆に犯人にとっては有利かも。こんな明るい時間帯に誘拐なんて、想定しなさすぎて誰も気付かないだろうっていう盲点を突ける手があるんだとしたら、警備も楽にすり抜けられるかもしれない」

 

 顎に手を当てて呟いたボクの傍で、仲間の隊員たちは不安げな顔を見合わせる。

 とりあえずカシハラ達に連絡は入れたけど、実働部隊としてはボクが中心になって動くことになるだろう。一応、今のところ人一人が消えただけで、街中で重大事件が起きたという知らせも入っていない。

 まずはコントロールルームに行き、定番ながら監視カメラの映像をチェックした。既に監視と下調べを行ってくれていた隊員たちの話では、怪しげな者は映っていなかったという。

 

「ま、そりゃそうか……見るからに怪しいですって主張してるような見た目の奴がカメラに映ったら、その時点で普通に気付くよね。訪問客や業者の、通行許可証の記録は残ってる?」

「はい。基本は事前に申請があった者しか通れませんから、正門と裏門からの入場時に、ネットでの申請内容と発行した許可証の照らし合わせを行っています。今日、現時間までに通行した者は、皆身元がはっきりしていました」

「てことは、外部からの人間にも怪しい者はいなかったってワケか……」

 

 進展なしか、と顎を引いて黙考していると、薄暗いコントロールルームに着信音が鳴り響いた。敷地内を捜索していたミカからの全体通信だ。

 

「どうした? ミカ」

『ねえ、ちょっと。妙なモノがあるのよ。これ見てくれる?』

 

 音声通話がビデオ通話に切り替わり、コントロールルームの大型スクリーンに、映像が映し出される。建物の際の雑草と土、それに白壁が映っていた。寮の外壁の一部だろうということはわかったが、その他に取り立てて変わったところはない。

 

「妙なモノだって? 一体どこに……」

 

 そう言い掛けて、ズームされたカメラの映像にボクは目を細めた。

 かなりズームしないと分からない程度の、微かな違和感。モノではなく、じぐざぐと線を引いたような微かな痕が、壁に残っていた。輪郭自体がかなりぐしゃぐしゃとして判別しにくいが、線で囲まれている大きさは、丁度動物か子どもが通れる程度だ。たこ糸ぐらいの細さの線で、色もほぼ壁に同化してしまっているので、よほど目を凝らさないとわからないだろう。

 

「なんだ、これ? 壁の模様の一部とかじゃなくて?」

『アタシもそう思ったけど……なーんか引っかかるのよ。叩いてみた感じだけど、ここだけどうも脆くなってるっていうか?』

「それホントか?」

 

 見た方が早い、と言わんばかりに、グローブを付けたミカの拳が、ノックするように線の境目を叩く。すると、構造物の異常が発生している時にだけ現れる、プリズムのようなノイズとエラー画面が、叩いた箇所に浮かび上がった。

 

『エラーコードはA11468……これも妙ね。これ、キャッシュが溜まりすぎて動作不良の時に出てくるエラーじゃなかった? 大体は自動ドアとか認証システムとか、容量の溜まりやすい場所に出てくるモンでしょ? こんなところに出るなんておかしいのよ。

おまけにこのノイズの出具合、多分だけど見た目からじゃ分かんないぐらいボロッボロにされてるわ。とりあえず、一旦調査チームを寄越してもらえる?』

「わかった。すぐに行かせるから」

 

 壁に残った謎の形跡。ムラサキの誘拐の件と関係あるのかは分からないが、人手を割いた方がいいと、ボクの直感がそう告げていた。

 今の報告を受けて、ボクはセキュリティ担当の隊員に尋ねる。

 

「ムラサキが最後に確認されたのは、寮の中だった。万が一、あの壁に穴が開けられていた場合……その時は、寮のセキュリティチェックを通過しなくても、不審な人物が出入りできるってことだよね?」

「え、ええ。けれど、システムの外壁や構造物に損傷を与えた場合、すぐにこちらのアラートが鳴って損害箇所の特定もできますし、あっという間にバレちゃいますよ。たとえ穴を開けられるだけの技術を持っていたとしても、犯人は一体どうやって、我々に感知されずにそんなことを……」

「ううむ……」

 

 脆くなっていたというミカの報告から、こっそり壁に穴を開けられている線を疑ったのだけれど、謎が謎を呼ぶばかりだ。

 

(それに、たしかあの穴の大きさは、動物か子どもが通れるぐらい……人一人を運ぶには、どう考えても小さすぎる。だったらいっそ、怪しまれずにムラサキを敷地の外まで運ぶ方法を先に考えてみるか)

 

 視点を切り替えて、ボクは考え続ける。

 今、とっさにムラサキが気絶して攫われた前提で考えてしまったけど、もしムラサキに意識がある状態なんだとしたら、たとえば彼女を脅して着替えさせ、目立たないような服装に変装させて、連れを装いながら外に出ることも可能なわけだ。なんせ、ムラサキの袴は目立ちすぎる。

 ……変装? ふと、頭に中に光が瞬いた気がした。

 

「ねえ。そういえば、今日来た業者の具体的な種類って?」

「ああ、はい。今出しますね。事務用品の納入が一件、カーテンの業者とリフォーム業者、それにガラスの専門業者が一件ずつ……」

「通用口を通った時の、監視カメラのアップの写真、出せる? 彼らが制服を着てるかどうかを見たい」

「制服、ですか……?」

「あと、寮と研究室の方に来てた業者も、できれば」

 

 まあ、寮に来てる担当業者なんて飲食物か清掃関連か設備点検が主だろうし、そんな人間が何か怪しげなことを企んでいるとも思えないけど、念の為にというやつだ。調べられるところは、重箱の隅をつつくようにして徹底的に調べ上げる。

 軽快なキーボードと電子音と共に、次々とモニターに上がる写真を、ボクらは手分けして眺めた。

 事務用品とリフォーム関係の業者は、みんな男物のスーツだった。低身長のムラサキが着こなすには無理がある。パンの納品に来ていた業者も、白い帽子と割烹着の姿だったが、着ている人間の体格が随分とムラサキと違っているから、これを着せても不自然な感じになるだろう。あとは……

 

「隊長。このクリーニング業者も、制服を着ているようです」

「クリーニング業者?」

「うちの寮のリネンとか洗濯物を、纏めて担当してくれてるとこですよ。ほら、この」

 

 一枚の写真が、画面に大写しになる。業務用の軽バンを運転する人間が、そこに映っていた。

 たしかにこの制服、見たことあるような気がするが、寮で仮眠する時はだいたいくたくたに疲れ果ててるから、誰が寮の維持管理に関わってくれているか、まともに気に留めたこともなかった。背中にロゴの入った青いブルゾンのようなパーカーと、帽子を目深に被った顔を眺める。ハンドルを握る手と上半身を見る限り、すらりとした体格だが、髪は纏めてパーカーの内側に入れ込んでいるようで、この画像だけだと男か女か判別はつかない。

 

「ふぅん……? ちょっと、守衛室の警備員に話を聞いてみてもいいかな」

 

 すぐさま通話を繋いでくれた隊員から、ボクは端末を受け取る。よく寮の外に出る時に挨拶を交わす、恰幅のいいおじさん警備員が電話に出た。

 

「もしもし? あのクリーニング業者って、いつも決まった曜日とか時間に来てるの?」

『ええ。普段はもう少し早い時間なんですよ。時々ここに寄って立ち話をするんで、よく覚えてます。けど、今週は新人研修の都合で一時間遅れさせてくれって、急に電話があって。許可証の内容に齟齬はなかったんで、通しましたけどね』

「新人研修?」

『今日来たのも、その新人さんって子だったんですよ。搬入口や洗濯室の場所なんかを聞かれてね。洗濯物のカートを押してるところもここから見えたんで、ちゃんと仕事はしてたと思いますよ』

 

 申請書類の名前を見ると、たしかに過去のデータにあった男性の名前が、今日の分だけ別人の名前に変わっていた。新島(ニイジマ)八重子(ヤエコ)

 つまり、あの監視カメラの映像に映っていたのは、女性ということか。通話を切りながら、ボクは傍にいた隊員に、半分独り言を言うようにして尋ねかけた。

 

「……この人間が、例のクリーニング業者に本当に在籍してるかどうか確かめる方法って、ある?」

「へ? そ、それは、業者に直接問い合わせればすぐわかると思いますが……」

「じゃあ、電話して聞いてみて。それから、今日本当に、SOATを担当してる社員が会社を時間通りに出発したのか、その後無事に戻ってきたのか、確認して欲しい」

 

 端末を渡しながら、真剣に問いかけたボクの表情と声音に押されたようにして、驚き顔の隊員がこくこくと頷く。

 それからふと、会話の一端を思い出したボクは、もどかしいような気持ちでもう一度守衛室に電話を掛け、勢い込むように尋ねた。

 

「さっき、洗濯物を運んでるところ見たって言ったよね!? どんな感じなの?」

『ええ……? どんな……と言われましても、特に変わったところはないですよ。専用のカートに乗せて、それをバンに移して運ぶだけです』

「カート……じゃあ、そのカートをバンに乗せるところ見た!?」

『え!? いやあ、すみません。こっちも仕事があるもんで、ずっと凝視してるわけじゃないですから、今日直接確かめたわけでは……』

「そ、そっか」

『ああ、それに、カートは直接バンには乗せないですよ、隊長さん』

 

 年配の警備員は、電話口のボクにのんびりした口調でそう教えてくれた。

 

『乗せるのは洗濯物の中身だけで、カートはうちの敷地に返すんです。何せ、あれはうちの備品じゃなくてクリーニングの業者から一括で借りてるもんなんで、下手に敷地内から出したり入れたりすると、数が合わずに遺失物扱いになることがあって。うちも業者も管理が面倒なんでね、あんまり使いたがらないんですよ』

「……! じゃあ、そのカートは敷地内の運搬にしか使わないんだね?」

『ええ。よっぽど大掛かりな洗い物が出りゃあトラックに乗せてカートごと運ぶこともありますが、そんなのは年に一度見るか見ないかって感じなんでね。普段の洗濯量だったら、多少多くても余裕で乗りますよ。業者の方も、前そんな風に話していたと思います』

「ありがと! それだけ分かれば十分だよ!」

 

 ボクに奇妙な質問をされた挙句に感謝され、目を白黒させながら困惑する警備員の表情が目に浮かぶようで気の毒だったが、今は気に掛けている余裕はない。

 ボクは大声で、固唾を飲んで待機中の隊員達に尋ね掛けた。

 

「ねえ! 寮の洗濯物のカートって、どんなやつ!? どのくらいの大きさかわかる?」

「え、ええ!? よ、よくホテルで見るような奴っていうか……」

「そ、そうですねぇ、その複合機くらいの大きさはあると思いますけど……なんなら、直接見に行かれます? 寮の備品置きに、予備のがあったはずですから。廊下にも、まだ何個か設置してるはずですし」

「わかった。じゃあボクはそれを確かめに行く。君たちは事務担当に連絡して、例の業者からいくつカートを借用してるか調べてくれない? 現物と数が合ってるかどうかを、調べて欲しいんだ」

「……! 了解!」

 

 さすが、SOATだけあって頭の回転も早い。みんなボクの言いたいことが何となくわかったようで、ハッとした後一斉に担当箇所へ散らばっていく。

 ボクは、隊員たちの後についてコントロールルームを飛び出し、寮へと駆け出した。

 他の隊員達には寮の上層階のカートを数えてもらうことにして、ボクは案内された一階の備品置き場に残っていたカートを、改めて観察しながらしゃがみ込んだ。青い布地を張られた本体に、金属製の骨組みに、車輪が四つ。よく病院とかホテルとかで目にする、おなじみのランドリーカートだ。幅も奥行きも高さも、人一人が十分隠れられる。

 それを確認したところで、上の階にいた隊員たちが、バタバタと駆け込んでくる。

 

「隊長! 先程事務方のデータと照合したのですが、カート一台、紛失してることがわかりました! おそらく一階の分です!」

「みんなよくやった! これであとは……」

 

 その時。折しもいいタイミングで、通話の着信音が鳴る。さっき、クリーニング店への確認を頼んだ隊員だった。電話に出た途端、興奮したような声が喋り掛けてくる。

 

『隊長、ビンゴです! 新島なんて社員は、あの会社に存在してません! おまけに、今朝いつものルートを通って洗濯物の回収に出て行ったはずの社員が、一人戻って来てないそうです! SOATに来る前に回収に寄った他の施設では姿が確認されているそうなんで、おそらくSOATに立ち寄る前後で姿を消したのかと……!』

「短時間でよくここまで調べてくれた。ありがとう」

 

 沸き立つ隊員達に囲まれながら、ボクは一度落ち着いて深呼吸する。今更のように、額の下に汗が滲み出てくるのを感じた。

 

「これで、ムラサキが消えたルートとカラクリは掴めた。問題は、その後どこに行ったかだけど……」

『すぐ、交通管理局に連絡して街中の監視カメラを調べさせます。業者に聞いてバンのナンバーさえ割り出せれば、居所はすぐ掴めるはずです』

「向こうが他の盗難車に乗り換えてなければいいけどね。助かるよ」

 

 通話を切って、再びコントロールルームへと戻りながら、ボクはボクで居所を探すための手掛かりになるものはないかと考える。もし後手を取ってしまっていたら、車本体は見つかっても、ムラサキ達がそこにいるとは限らない。それに、おそらく犯人に襲われて制服を奪われたであろう、本物の社員の行方も探さなければ。

 そしてボクはふと、廊下の途中で立ち止まった。

 

「あれ……ことりは?」

 

 一緒に来た隊員たちも、不思議そうに周囲を見渡す。

 いつもこんな事態には、やかましくする事こそなかれ、ぴったりとボクの傍を離れずについて来そうな鳥の姿が、今日はどこにも見当たらない。たしか、ムラサキと一緒に……

 

「……待てよ。もしことりがムラサキと一緒にいるなら、まだ手はある」

 

 コントロールルームの自動ドアを開けながら、ボクは呟いた。けれど、それを使うには、ある程度の賭けに出るしかない。

 ムラサキが身に付けているであろうSOATの身分証には、発信機なんてついてないし、もし犯人と一緒なら、無理に植能を使おうとするのも危険が迫るだろう。たとえ使ったとしても、どこにいるかもわからないような状況で、ボクがその痕跡を辿るなんてこと……

 

——「大丈夫だよ。 どこに居たって、必ず見つけてくれるんでしょ?」

 

 今更のように、彼女の悪戯っぽい笑顔が脳裏に浮かんで、ボクは唇を噛む。

 絶対。絶対見つけ出す。

 だから、もう少しだけ、待っていてくれ。

 そんな思いを胸に、ボクは俯きそうになっていた顔を上げた。



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1-4 茶会

ことりと共に、サヤコに誘拐されたムラサキ。
その行き先は意外な場所で……?

一方、ムラサキの機転でその居場所を察知したヨハネ達は、現場へと急行する。
確保まであと一歩かと思われたが……


 

「大人しく、私と一緒に来てもらうわよ」

「ぴるるるるるる」

 

 私の着物の袖の下で、ぱちぱちと羽毛を弾けさせて威嚇することりを、サヤコさんが目を細めて見つめる。私は、そっとことりに首を振って嗜めた。

 

「ことり。逆らっちゃ駄目。あなたまで危険な目に遭わせたくない」

「ぴるッ」

「その子、あなたが前に喫茶店に連れて来てた、暴走したことがあるとかいう鳥よね。今は何の力もないんでしょう? 可哀想だし、大人しくしてるんなら冥土の土産くらいになら連れて来てくれてもいいわ」

 

 そう言って、サヤコさんが不敵な笑みを漏らしながら銃口を避ける。

 私は、ランドリーカートの内側で彼女を見上げながら思案した。

 

(ことりが訓練で私の植能を扱えるようになってきていることは、サヤコさんにはまだバレてない、はず……。私が直接植能で倒すことはできなくても、連れて行けばチャンスはあるかもしれない)

 

 巨大化させるか、電撃での攻撃になるか。私もことりもまだ植能の扱いが下手くそだし、不意を突くにしても、いちかばちか賭けに出ることになるだろう。それでも、戦力が多いに越したことはない。何より、独りじゃなくて道連れがいることの心強さは、何より半端ない。

 私は、しおらしく不安げな少女のフリを装ってことりを抱き抱えた。

 

「わかった……私が大人しくさせておくから。ことり、一緒に来てくれる?」

「ぴぃっ」

 

 小さく返事をしたことりの目が、あいわかったというようにキラキラしている。まるで本物のぬいぐるみだ。私の意図したところを速攻で汲んだらしい。マジで賢いな、この子。

 

「ふん。わかったならいいわ。このまま乗せていくわよ、あなたがここで外に出たら人目につくから」

 

 その細腕とは思えない力で、サヤコさんが私が入ったカートをそれごとバンのトランクに押し上げる。車のドアが閉まってから、何気なくカードから顔を出し、前の座席を覗き込んで仰天した。下着姿で腕と足を縛られた男の人が、口を布で塞がれて気絶したまま、転がっていたからだ。

 サヤコさんが、業者の制服姿のまま、運転席に乗り込んできて車のキーを回す。

 

「……もしかして、この人の制服と車を奪ったの?」

「ええ。敷地内に侵入するためにね。 今のSOATはあらかじめ許可が通った人間しか入れないから、SOATに公認されて定期的に出入りしている業者が、一番なりすましやすかった。業者へのハッキングと申請書類の改竄までしておいたおかげで、入り込むのは容易だったわね」

 

 サヤコさんは、帽子の下の目でミラーをちらりと一瞥してから言った。

 

「頭、ぶつけたくなければ大人しく座っておいた方がいいわよ。いくらその中に入っているとはいえ、シートベルトなんて付いてないんだから」

「……? うん」

 

 大人しく、シーツの上に腰を下ろしながらも、私は首を傾げた。

 相変わらず、冷たく突き放したように見えてどこかが優しい人だ。これから攫ってどうこうしようという人間の身の上を、案じたりするだろうか。それとも、生きた状態の私が必要で、殺すつもりまではないとか?

 

 そうこうしているうちにバンはセブンスコードの市街を走り、見覚えのある信号を何個か超えて、路上の駐車場に停まった。

 サヤコさんは運転席から後部座席に移動すると、男が気絶しているのをいいことに、こちらへ目を光らせながらも手早く普段の服に着替えてから、後ろへ回ってトランクの扉を開けた。危なっかしく出ようとして転がり落ちかける私の手を、呆れたように掴んでくれる。

 

「降りるわよ」

「どこへ……?」

 

 私を誘拐して身代金とか要求する気なら、相当人里離れた人気のない倉庫とかだろうと思ったのだが……車の中から見ていた通り、まだ思いっきし街中だ。

 きょろきょろした私の腕を掴んで横断歩道をさっそうと歩くサヤコさんの前方に、見覚えのあるファンシーな看板が見えてきた。

 

「え……え? ここって、もしかして前にサヤコさんのお誕生日に一緒に来たとこ?」

 

 どういうつもりだと目を白黒させるものの、サヤコさんは私の疑問に一切答えることなく、ずかずかと店の中に入り、テラス席でアフタヌーンティーセットを注文する。

 テーブルクロスの下で銃口を突き付けられながら、目の前には絢爛豪華なケーキとサンドイッチが並び、そして優美な陶磁器に注がれた甘い香りの紅茶が注がれるという、とんでもない状況が発生してしまった。

 

「あ、あの……ええと……?」

「死ぬ前に、最後の晩餐を味わう時間くらい取らせてあげるわ。一応は厚意よ」

「私今から殺されるの!?!?」

 

 それにしては、周囲にはのどかにお茶をして談笑する人たち、外は小春日和と言っていい麗かな日差し、街道の木漏れ日やテラスのパラソルの裾は優しく揺れて、全然緊張感ないんだけど。

 サヤコさんは露出したセクシーな脚を組んで、優雅に金縁のティーカップのお茶を啜っているが、私は全然そんな場合じゃない。せめて誰かがこの状況を見て通報してくれれば……いや、袴姿の女が外にいるぐらいで通報する人はいないか……

 きゅっとしてしまった自分の胃に物を入れる余裕がない代わりに、私はぶーっと毛を膨らますことりの前へちぎったサンドイッチを投げながら、サヤコさんに問い掛けた。

 

「あの……なんで殺されなくちゃいけないのか、聞いてもいい?」

「私の雇い主にとって、あなたが邪魔な人間だと判断したからよ。言ったでしょ。私はあの人の配下。あの人の望む通りに動くのが私の喜びだし、他の選択肢はない」

「……それって、サヤコさん本人の意思なの?」

「当然じゃない」

 

 そう呟いた瞳に、微かな揺らぎが映ったように見えたけど、それは一瞬で消え失せた。

 何とも言えない気持ちで、その黒ずくめの姿を観察しながら、私はおそるおそる口を開く。

 

「その雇い主って、もしかしてニレのこと?」

「どうして、あなたがそれを知っているの?」

 

 こちらを睨むサヤコさんの目つきがキツくなる。

 慌てて私は言い訳するように目を泳がせた。

 

「あ〜、えっと……ほら、私ちょっと変わってるっていうか、人より色んなことを知ってて……サヤコさんとニレが親しくしてたのも、捕縛の時に仲間だったのも、まぁ知ってるっていうか」

「やっぱり、ニレがあなたを危険因子とみなしたことに間違いはなかったようね」

「うわ〜ん! だからってどうこうしようって訳じゃないんだってば! 私はこっちでみんなと楽しく過ごせたらそれでよくって、敵に回らないんならニレなんてどうでもいいし!」

「あの人の存在を軽んじようっていうの?」

「どうしろと!?」

 

 恋愛ゲーでヤンデレ彼女に何言っても殺されるみたいな詰みの選択肢に立たされて、どうしたらいいかわからない主人公の気分だった。

 私は仕方なく紅茶で喉を潤してから、切り口を変えて別の質問をすることにする。全然味がしない。こんな高級茶葉、マジでもっと楽しいシチュエーションで味わいたかった。

 

「ニレは……エレメントと私の関係について、何か掴んでるの?」

「詳しくは知らないわ。でも、ある程度の繋がりがあると感じてはいるようね。あの人は、エレメントの力を欲してる。今までに起こった暴走事件を通して、大きなエレメントの力をその身に宿したあなたは、ニレに対抗する脅威になり得る。だから、私はあなたを消すことにしたのよ」

「街中で人や動物が、エレメントに憑かれて暴走した事件も、もしかして全部ニレの差し金?」

「あの人のやる事に間違いはないわ。この世界の人間達の本質を、影から見物し分析するのが、あの人の趣味みたいなもの。世間を引っ掻きまわすのに、エレメントはちょうどいい材料だったのよ。そうして生まれた負の感情を、更なるエネルギーに変えていく……

その目的までは、私は知らない。でも、何か考えがあるはず。そこまでついて行った者でないと、あの人に目を見て名前を呼んでもらう資格なんて、ない。その時まで、私は……」

 

 その表情が次第に必死に、痛々しく見えて、私は自分が殺される身でありながら、どうしてもサヤコさんのことを憎らしくは思えないことに気が付いた。私の視線をどう受け取ったのか、彼女は慌てて冷たい顔に戻りながら、空になったカップをソーサーに戻す。

 

「だから、これは私の独断と偏見。あの人の障害となるものは、私が先に排除する。ニレの邪魔をする者は許さない。たとえ、あなたであっても」

「……」

 

 どうあっても、考え方を変えてくれるつもりはないのかな。

 もし本気で私がサヤコさんに抵抗しようとすれば、植能を使っての戦闘は避けられないだろう。それでもゲームの中では、サヤコさんと組んだ事もある身の上なのだ。彼女にその記憶はないかもしれないけど、勝てるか負けるかはともかく、私はそんな相手に進んで武器を振いたくはない。それに、折角この世界に来てから、風俗の店員としてとはいえ私を指名して気に入ってくれたり、作戦に協力してくれたり、こんな風に一緒に喫茶店に出かけたり、少しずつ仲良くなれたところだったのに。

 悲しそうに俯いた私をどう思ってか、サヤコさんは少し慌てた顔で突き放すように言った。

 

「そんな顔をしないでくれる? 確かに、気の毒だったわ。具体的な算段もなしに、とりあえず侵入した私が、偶然あなたを見つけ出さなきゃ、こんな事にはなってないだろうしね」

「……? それさっきも言ってたけど、私があそこに隠れてることを、最初から知ってて狙ったんじゃないの?」

 

「大体の位置はわかってたのよ。あなたが私にくれたストラップ。あれに、発信機を仕掛けさせてもらったわ」

「えっ!? そんなのいつ……って、あ、」

 

 いつも何も、サヤコさんにあのストラップを渡したのは、サヤコさんの誕生日に一緒にお茶会した時が最初で最後だ。帰り道、お揃いなら私の分も見せてくれと言われて、サヤコさんの手にスマホごと根付けを委ねて、それで……

 

「まさかあの一瞬で!? 高等すぎない!?」

「自分の持ち物を警戒しないあなたが甘っちょろいのよ。おかげであなたの動向は筒抜けだったわ」

「う、うう……」

 

 SOAT隊員ムラサキ、一生の不覚。いや、本当は正職員じゃないけど。

 それにしても、お誕生日にお揃いにしようと贈ったものが原因で、私の分のストラップがそんな風に使われていたなんて。しかも、それを渡した喫茶店で、同じ人と今度は命を脅かされながらお茶をしているというのは、あまりにも皮肉に満ちた現状だ。

 情けなさに、紫袴の上で両手の拳をぎゅっと握りながら俯く私に構わず、サヤコさんは話を続けた。

 

「それでも、警備に厳しいSOATに侵入してあなたを攫うのは、至難の業だった。けれど、『こんなところに侵入されるなんてありえない』というくらいセキュリティが固められている場所なら、逆に正規の手段さえ踏んでしまえば、隙も必ず生まれるでしょう。

さすがにあの発信機の精度じゃ、建物内での正確な位置まではわからないし、まず潜入して、寮内の偵察や行動パターンの分析くらい出来ればと思っていたの。そしたら、偶然あなたと誰かが話してる声が廊下の向こうから聞こえたのよ。若い女だったかしら」

(! ユミリちゃんだ……!)

 

 偶然会って、私が話した女の子。ちょっと風変わりだったけど、彼女はただの来客だと言っていたはずだ。サヤコさんにも会っていたことに驚いていると、彼女はミニパフェの上に乗っていたチェリーを、人差し指と親指で摘んで持ち上げた。

 

「いくら清掃員の格好とはいえ、長々と同じ場所に止まるのは目立つから、後でその女がこちらへ向かって来た時に、貴女の部屋を担当する係員のフリを装って聞いたら、話してたのは貴女だって教えてくれたわ。『彼女かくれんぼの途中だって言ってたから、きっとあのカートのあたりに隠れてるんじゃないかしら』って、居場所まであっさりね。まぁ、その子も当てずっぽうだったんでしょうけど、カートを押したら案の定重いじゃない。それで、これだったら回りくどいことをしなくても目的が達成できると思ったのよ」

 

 どうやらユミリちゃんと会話したのが仇になってしまっていたらしく、私は頭を抱える。まあ、あの子に悪気はないし、寮の客が道端で会ったクリーニング屋を侵入者と見抜けないのも無理はないし……。

 色々と悪いタイミングが重なってしまったなぁ、と虚に皿の上のチーズケーキをつついていたら、不意にことりが、大仰な仕草で机の上に躍り出てきたかと思ったら、ぱったり倒れてしまった。自然、私とサヤコさんの視線がそっちに向く。

 

「ぴよっ」

「あれ……大丈夫?」

 

 頭から倒れ込んだままぴくりとも動かない。が、私の方を見ようとするつぶらな片目が、ぱちぱちっと瞬きした。……なるほど、そういうことか。

 

「ごめん、サヤコさん……この子、充電してきていい?」

「充電?」

「例の事件があってから、この子の主食って電気なんだよね。だから、バッテリー切れを起こしてるのかも。でも、私の携帯はこっそり連絡取られるかもしれないから使って欲しくないんでしょ? 充電コードがあれば、あっちの充電スポットが使えるし」

 

 電源を切ったスマホからコードを抜いて、私は喫茶店のレンガ壁のあたりに連なっている、公衆電話のようなスペースを指差す。店や公園など、セブンスコードの随所に設置してある公共の充電スタンドだ。もちろん通話や、ワープなども使える。

 

「ね、お願い。一緒に居られないのは不安だから」

「……いいけど、ここからだとすぐ撃てる距離よ。妙な真似はしようと思わないことね」

「大丈夫。電気を拝借すればいいだけなら、スタンドの画面に触る必要もないから」

 

 警戒しながらテーブルクロスの下で銃を構えるサヤコさんの前で、私は緊張しながらぐったりしたことりを抱き上げ、充電スタンドに向かった。さりげなく、一番左側のサヤコさんから見やすい位置にあるスタンドの前に立つ。

 もちろん、電気がないとことりが動けないなんて大嘘だ。人間と同じように飲んだり食べたりするし、第一セブンスコードの動物にエサは必要ない。それでも、実際にことりがエレメントに憑かれ、巨大化したという現実を目の当たりにし、その事実を共有したからこそ、「あるかもしれない」でこの嘘は通用するかと思ったのだ。一つ目の賭けは、成功した。二つ目の賭けは、ことりに掛かっている。

 

「ことり、大丈夫?」

 

 体を撫でて心配するフリをしながら、私はコードの先端を充電器に繋ぎ、もう片方を嘴に咥えさせた。ことりが電気を食らうのは嘘ではないので、これで万が一の時のためのエネルギーをチャージしてもらえるというのに加えて、それとは別に、私には大きな役目がある。

 まだ、試験運用の段階だとミソラ達も言っていた。でも、これに賭けるしかない。

 背後から鋭いサヤコさんの視線を感じるが、私の手元を見ることができても、私の唇の動きまでは読めないはずだ。ぱちぱちと小さく発光する羽毛を撫でながら、私は小声で呟いた。

 

「——子宮(ウーム)。対象を“帯電”」

 

 程なくして戻って私を、サヤコさんはどこか変な顔で見つめている。その気持ちが手に取るように明らかだったので、思わず私は苦笑して首を傾げた。

 

「どうしたの。私が逃げると思った?」

「その可能性を一番に念頭に置いてたのよ。……本当に充電しただけだったの?」

「そうだって言ったじゃん。私のために最後の晩餐を用意してくれるって言うなら、せめて、心を安らげてくれる存在と一緒に居させてよ」

 

 何とも言えない表情でじっとこちらを見つめるサヤコさんの目には、私はどう映っただろう。諦めているように見えただろうか。

 確かに、この場で出来る事はもう何もない。怪しげな動きをすれば即撃たれてしまうし、もう打つ手がないと思えば私だって大人しくしている。——ただし、本当にやれることを全部やり尽くした後で、だ。

 意識を取り戻した(フリをする)ことりをひと撫でし、ようやく落ち着いてダージリンの紅茶を一口啜ってから、私はSOATに無事信号が届いていることを祈った。

 

***** 

 

「隊長! 出ました! 発信器の反応です!」

 

 一人の隊員の声に、にわかに沸き立つSOATのコントロールルーム。モニターの前にいたヨハネは、思わずガタッと立ち上がって鋭い目で画面を見上げた。

 

「場所は!」

「ET地区の大通り沿いにある喫茶店です!奴ら、あんな目立つところに……! 急行します!」

「隊長! こちらも、同じ地区で袴の女性と彼女を連れた女の目撃証言が確認されました! 待機班と共に包囲に向かいます!」

「ボクもすぐに行く。エレメントに関わる者なら、相手はどんな武器を携帯しているかもわからない。十分に気を付けろ!」

 

 言うなり風のように身を翻し、マガジンの装填状態を確認しながら、制服のマントを翻したヨハネが廊下を歩く。それに随行しながら、同じように出撃の準備を整えていた若い隊員が嬉々として言った。

 

「隊長、例の訓練の成果、上手く出ましたね!」

「ああ。特定の周波でウームの“帯電”を使って植能を放つと、こちらにだけ発信源が通知される、発信器としての仕組み……ことり自身を発信器にするって発案を最初ミソラに聞いた時は驚いたけど、まさかこんなところで役に立つなんてね」

 

 まだ実用段階ではないと聞いていたが、いちかばちかに賭けて、ヨハネはコントロールルームから岩のように動かず信号を待っていた。街中の捜索は、とっくにSOATの隊員がやってくれている。今、自分一人が捜索の戦力に加わったところで、大した違いはない。植能を辿れる《コルニア・改》の力は、本当にムラサキが近くにいるとわかった時まで温存しておかなければ。そう判断して、掌に食い込んだ爪で血が滲みそうなほど、逸る気持ちを抑えながら指揮官に徹した結果だった。

 

「信号を拾うシステムも、完成していたみたいでよかったです!」

「それに関しては後方支援の賜物だから、研究チームに感謝するしかないね……けど、植能を使った発信機能が使えるのは、まだあの信号を発する一瞬の間だけだ。おそらく、わずかな隙を突いてムラサキが使ったんだろう。この間に犯人に移動されたらひとたまりもない。急ぐぞ」

「了解ですっ!」

 

 SOAT内にある爆速の通信機器を使って、ヨハネを交えた隊員が一塊になりET地区へワープで急行する。突然街中に出現したSOATに何事かと道を空ける人々の群れの中、ヨハネは左目に力を込めて植能を発動させた。

 

「《コルニア・改》! ムラサキの植能を辿れ!」

 

 視界の中に浮かび上がる、ピンク色のもや。今まで線や点状にしか見えなかったそれが、たった今そこに人がいたかのように影となって現れ、ヨハネは息を飲む。

 

「この見え方……! おそらく、ここから移動してそんなに時間は経っていない! 行こう!」

 

 アスファルトの上を移動していくピンクの影を、迷いない足取りで追っていく。その袴の靡き方、リボンの影形まで、ヨハネにははっきりと輪郭が見えていた。訓練の時にも、こんな見え方をしたことはない。まるで、ヨハネの気持ちに植能が応えて幻を見せているかのようだった。

 

(なんだかボクは、初めて会った時からあんたを追ってばっかりな気がする)

 

 好きで追っているわけでもないのに、気がつくと目の前から居なくなっているから、追い掛けざるを得なくて。本当に世話の焼ける。

 そんな事を思いながらも、ヨハネは心に奇妙な気持ちが去来しているのを、自分でも認めていた。

 

(この姿を追ってムラサキの手をふん捕まえる事ができるのは、ボクだけだ。他の誰にも、彼女を捕まえさせはしない)

 

 全体で捜査を行なっている以上そんな事も言っていられないのだが、そういう話ではない。味方への牽制なのか、犯人への嫉妬なのか、自分でもよくわからない苛立ちを抱えながらヨハネが走っていたその時。

 前方の道路に、見慣れた袴姿のムラサキと、誘拐犯の女が躍り出てくるのが見えた。

 

*****

 

 ことりと植能を使い、秘密の信号を送ってからややあってのこと。

 もうアフタヌーンティーも終盤に差し掛かり、これが終わったらいよいよ殺されるのかと、涼しいサヤコさんの顔を眺めながら暗澹とした気持ちでお茶を傾けた時だった。

 不意に、通りが何やら騒がしくなる気配を感じた。サヤコさんや喫茶店の他の人も、不思議そうに視線を送る。

 と、この真昼間ではよく目立つ軍隊さながらのSOAT制服姿の隊員達が、一斉に各々武器を構えて通りを突っ切ってくるところが見えた。

 

「そこの女、神妙にしろッ! 既に調べはついている! 我々の隊員を隊内から誘拐した罪で、お前を拘束・連行するぞ!」

 

 思わぬ大部隊に、慌てて道を空ける通行人の群れと、それに紛れるようにテラス席から退去していく客達。サヤコさんも、慌てたように立ち上がって私の腕を掴んだ。

 

「っ、思ったより到着が早いわね……どうしてここが」

(ん? 『思ったより』?)

 

 まるで到着を想定していたみたいなその言い草に引っ掛かりながらも、私はサヤコさんに手を引っ張られ、袴で足をもつれさせそうになりながらも走った。にしても、神妙にしろって随分古い名乗り文句だな。時代劇かよ。

 丁度、店を出たところで先頭にいた隊長らしき人物と鉢合わせそうになったものの、サヤコさんは躊躇なく、羽交締めにした私の頭に銃口を突き付ける。

 

「これが見えないかしら。下手に手出しして、この女がどうなっても知らないわよ」

「くっ……無駄な抵抗だ。これだけの人数に包囲されて、逃げ切れると思うなよ!」

(こんな大々的に突入して来なければ、もうちょっと簡単に捕まえられたんじゃないかと思うんだけどなあ)

 

 豊満な胸にがっしりと後頭部を押し付けられ、背が低いので爪先立ちで半分浮くようになりながら、私は状況に似合わず呑気なことを考えてしまっていた。SOATのみんなは優秀で、治安維持部隊としても働きようは申し分ないが、たまに熱血漢なところが玉に瑕である。普通に、先にお店を包囲してどこからも逃げ場をなくしてから、そっと忍び寄って取り押さえとかした方が、楽に捕まえられたんじゃないだろうか。助けてもらっている身の上で言うのも何だけど。にしても、私一人のためにこれだけ多くの隊員が動いてくれてるってことの方が驚きだ。

 冷ややかな笑みを浮かべたサヤコさんが、唇をつり上げる。

 

「まあ、あんた達が束になってかかってきたところで無駄でしょうけど。私の腎臓(キドニー)で、いくらでも無力化してあげるわ」

「ぐっ……!」

 

 密かに隊長を援護しようとしていた隊員も、悔しげな表情を浮かべる。そうだった。サヤコさんの植能である腎臓(キドニー)は、あらゆる植能の力を濾過して無力化してしまう力を持っているのだ。植能の力を込めた弾をいくら発砲したところで、効果はないだろう。増血型の肝臓(リバー)の剣や、培養型の骨髄(マーロウ)の槍を取り出した隊員達も、歯噛みしてこちらを取り囲むだけだ。

 一定の距離を置きつつ、銃を抜け目なく向ける隊長格の男と睨み合いをしていたその時、遥か後方から更なる新手が現れる。他の地区から来たと思われる、別部隊のみなさん。と、そこに並走しながら現れた見覚えのある背格好に、思わず目を見開いた。どんな格好をしていても見間違えようのない姿に、滲んだ涙が溢れそうになる。

 

「……ヨハネさん」

 

 思わず呟いた瞬間、はっとしてサヤコさんが私の視線の先を見た。ヨハネさんも、それと同時に私を拘束している人物の正体に気が付いたようだ。

 

「サヤコ……ッ!? てめぇ……っ」

 

 思わず言葉尻が荒れるほどに、憤怒の形相になるヨハネさん。一方のサヤコさんは動揺したように見えたが、その表情を打ち消すようにして走ってくるヨハネさん達を睨む。

 

「ここじゃ分が悪いわね。場所を変えましょ」

 

 次の瞬間、手榴弾のような丸い球を、地面に打ち付けるサヤコさん。もうもうとした橙色の土煙が上がり、一斉に咳き込む私と隊のみんな。

 

「ごほ、ごほっ……! これ……」

(土のエレメントの気配……!?)

 

 一度対峙した事があるからなのか、感覚でわかる。だとしたらこれは、ただの煙幕ではなく、あのヤマノケみたいな何らかの効果がある武器の可能性が高い。

 

「みんな! 吸っちゃ駄目っ……!」

 

 私の言葉は、サヤコさんに片手で口を塞がれたことで途切れた。私の居所を知らせないためか、それとも、私に煙を吸わせないようにしてくれたのか。

 そうこうするうちに、この煙幕弾がただの目眩しではなかったことを、私は知る事になる。ただし、武器ではなかった。私とサヤコさんの体が、地面にずぶずぶと沈み始めたのだ。

 

「……!?!?!?」

 

 コンクリートだったはずの地面がぐにゃりと波打ち、足元に暗く深い穴が空いている。その中に、私は私を抱いたサヤコさんごと、一瞬にして吸い込まれていったのだった。

 

*****

 

「ごほっ、げほ……ッ、おい、みんな……ッ!」

 

 ガスには煙幕と催涙作用があったようだが、毒素が含まれている感じではない。涙に滲む視界を拭ってボクが呼びかけると、同じように腰を折って咳き込んでいた隊員達が、一斉にあたりを見回す。

 

「あいつッ、この短時間で一体どこへ……!?」

 

 この地区を調査してくれていた隊員と、自分の植能のおかげで、あそこの道端に停めてある車から、ムラサキの痕跡がこの店まで線上に続いていることはわかっていた。おそらく、クリーニング業者のバンを逃走用にそのまま使ったのだ。だというのに、煙が晴れた後も車は変わらず鎮座していた。サヤコのムラサキの姿も、忽然と消えているというのに。

 

「コルニア! 頼む、コルニア! ムラサキの痕跡を……ぐっ……!」

 

 火花の散るような痛みに襲われて、視界がぐにゃりと揺らぎ、ボクは膝をつく。稼働時間の限界だったようだ。ついさっきまで目と鼻の先まで掴め掛かっていたサキの痕跡が、目の前からすぅっ……と消えていく。暗闇に景色が吸い込まれていくような視界に、平衡感覚を失ってボクは顔から地面に倒れ込んだ。

 

「くそ……くそ……ッ!」

 

 あと一歩だったのに。慌てて駆け寄ってくれた隊員の目も憚らず、ボクは思わず拳を地面に叩き付けた。まさか、サヤコが絡んでいたなんて。あいつは、先の捕縛の時にニレと共に警察に連行されたはずだ。当然ログインも出来ないはずで、さっき見たあいつがサヤコ本人なのか、それともあいつに成りすました別人なのかはわからないけれど、一度はセブンスコードを騒がせた元凶にもなったあの顔を、忘れられる訳がない。同時に、嫌な予感で胸の奥がざわざわする。

 

「ことりの、反応は……?」

「信号、消えました……半径1km以内の象限に、反応ありません」

 

 力なく、隊員の声が答える。

 また、遠ざかってしまった。固く握り締めた掌は、縋るように地面の砂を掴むだけで、手掛かりの一つすらその中には残らない。

 

「ムラサキ……」

 

 膝を立てて、体勢を立て直す。額の汗を拭いながら、ボクは徐々に野次馬の戻りつつある、何の変哲もないセブンスコード大通りを見渡した。



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1-5 如月

サヤコの放った煙幕の力で、見知らぬ電脳空間に落ちてしまったムラサキ。
そこには、明らかに異質な空間が広がっていて…?


「うぐ……い、たた……?」

 

 気付けば硬い場所に盛大に尻餅をついていて、私は袴のプリーツを摩りながら立ち上がった。ものすごい高所から落下したような気もするし、その割には怪我も何もしていないから、ぬるっとした滑り台を滑り落ちただけのような気もする。

 それにしても、随分と深い階層まで降りてきてしまったようだ。セブンスコードには、運営の管理区域を超えた空間——俗に言う「裏世界」と呼ばれる場所が存在する。その性質は様々だが、管理区域のすぐ外側にあるメンテナンス用のエリアから、さらに深層にあるデジタルの理を超えて不可解な事象が発生するエリアまであり、運営もその全てを把握しているわけではないらしい。

 生ぬるい風が吹く辺りを見渡してみた感じ、正規のエリアから近い場所にいるとは思えない。昼間の街だったはずの風景が、夜空と山に囲まれているし、下は乾いた土と砂利と落ち葉だ。さっきまでいたセブンスコードの都市部に、わざわざこんな歩きづらい場所を運営が作るとは思えない。明らかに異質な空間だった。

 そこまで考えてから、私は慌てて相棒の姿を探した。ひょっこり袖の下から顔を出したことりを抱き上げて、無事を確認する。

 

「よ、よかったぁ、潰しちゃったかと思ったよ……!大丈夫?」

「ぴるるっ」

 

 元気そうに羽をぱたぱたさせることりの姿に安心していると、背後で足音が聞こえた。私を拘束していたはずのサヤコさんは、ブーツ姿のまま辺りを偵察しているようだ。

 

「……随分と深い場所まで落ちたみたいね。ここじゃ、外部からの信号も届きやしない。まあでも、邪魔が入らないという意味では都合がいいかしら」

「さっきの手榴弾みたいなやつ、なんだったの?」

「土のエレメントの地面を破壊させる力を利用して作った、撹乱と同時に使用者をテレポートさせる機能のある煙幕よ。テレポートと言っても、自分で飛べる場所を選べるわけじゃないから、運任せだけれど。ニレの率いる組織が作ったものよ。そんな事よりも」

 

 短いパンツのポケットやベルトのあちこちを探ったサヤコさんは、肩をすくめた。

 

「さっき落ちてきた反動で、銃を落としたみたい。あの隊員を脅すのに、手に持ちっぱなしだったから無理もないわね」

「! やったぁ! ってことは、今のサヤコさんには私は殺せないってこと!? 私もしかして助かった!?」

 

 思わず飛び跳ねそうになりながら言うと、サヤコさんは呆れたような目を向ける。

 

「その通りだけど、あなた正気で言ってるの? こんな何が出て来るかもわからない、下手したら永久に閉じ込められたままのエリアで、外部との連絡も取れずに丸腰のまま私と二人きりでいるって事なのよ?」

「う、うおー……それを聞くと、事態が好転したとも悪くなったとも言い難いような」

 

 そろそろと周囲の様子を伺うと、何やらおどろおどろしい雰囲気だ。そんなに強風が吹いているわけでもないのに森がざわざわ鳴っているし、空気が澱んでいるような感じがする。よく耳を澄ませば、遠くからは呻き声や呟き声の合唱みたいなものが絶えず聞こえていて……とにかく、できる事ならば一秒でも早く立ち去りたい場所だった。ことりも、さっきから怯えてずっと私の懐から出て来ない。

 獣の遠吠えのようなものが俄に近くで聞こえ、さっきまで殺されそうになっていた事も忘れて、私は思わずサヤコさんにぴとっとくっついた。

 

「な、なんでセブンスコードの裏世界に、こんな心霊スポットみたいな場所があるのお……!」

「それこそ、人間がログインする際に意識の端から切り落とされた、余剰な思念の情報の蓄積だとか、エレメントの漂う場所が異空間化したとか、色々言われているわね。まさかこんな深い場所まで落ちるとは、私も思っていなかったわ。せいぜい、廃線のチューブにくらいまで潜り込めればいいと思っていたのに」

「じゃ、じゃあじゃあ、せめてそこまで帰れないの!? っていうか一緒に帰ろう!?!? サヤコさんだって、どの道そこまでは帰れないと困るでしょう!? そこまで休戦協定っていうか、殺す殺さないの話はなし! ね!? いい!?」

「あなたねえ……」

 

 有無を言わせない勢いで必死で迫ると、サヤコさんはいいとも悪いとも言わなかったが、複雑な表情で顎を引いて、先に立つと歩き出した。せっかく私を殺したとしても、ニレの元へ帰れないのは恐らく彼女にとってデメリットに違いない。薄気味悪さから、友達として過ごしていた時と同じように思わずサヤコさんと手を繋いだが、ひんやりとした指先は、私を振り払うことはしなかった。掌の中心に、微かな熱を感じる。

 砂利道を歩いていくと、周りを囲んでいた木々から切れ目が見えて、ふもとあたりに駅舎らしい建物があるのが見えた。人の気配はないが、そこが唯一の光源なので、ひとまずはそこに向かって歩くことにする。

 しきりに野犬が遠くで吠えるような声や、何かの叫び声に怯えながらも、私はどうにか気を紛らわそうと、サヤコさんに世間話を振っていた。

 

「す、すごい場所だね、ここ。ド田舎の山中みたいな」

「私のいた寒村とも、大差ないわね。ちょっと車で走ればこんなものだわ」

「そういえばサヤコさんって、家の人の起こした事件に巻き込まれて……だっけ。都会に出てきたのは。ごめん、無神経な言い方だったかな」

「今更突っ込む気も起きないけど、あなた本当に何でも知っているのね。人のプライベートに関わる無粋なことまで」

「なんでもは知らないよ。……犯罪者の子供ってだけで居場所がなくなって、ずっと辛い思いをしてきたんだ、って事しか」

 

 そう呟いて、思わず私は俯いた。

 ゲーム内で見たサヤコさんに関する記録では、美容室を営んでいた彼女の母親は、客との金銭トラブルが原因で犯罪行為に及んだのだという。叔母に引き取られて都市部に出た後も、犯罪者の娘という周囲が身勝手に刻み付けたレッテルは、サヤコさんに苦労を強いるだけでなく、深い暗闇を残した。

 口火を切ってしまったものはどうしようもないので、私は覚えていることを躊躇いながらもぽつりと問い直す。

 

「東京の専門学校で資格取って就職したって書いてあったけど、『上京してから家賃をどうやって稼いだかは知らない方がいい』って言ってたのは、やっぱり……」

「リアルの世界にいた頃から、体を明け渡すなんて、当たり前だったの。穢れた金がなきゃ、まともに生活費すら稼ぐことは出来なかった。どちらにしよ、そんな仕事に携わる奴の気持ちなんて、恵まれたあなたには関係ない話でしょうけど」

「私だって、女の子と寝てたよ。この世界でだけだけど。まあでも、サヤコさんの人生の辛さに比べたら、私のそれなんて重みが違うよね」

「……」

 

 あなたなんかにわかる訳がないと責められるかと思ったけど、サヤコさんが口を開く前に、私たちは道を抜けて、古ぼけた建物の前に辿り着いていた。

 構造から見ると、やはり駅舎のようだが……木製の外壁はペンキが剥がれてボロボロになっているし、屋根も雨晒しで今にも崩れ落ちそうだし、改札にももちろん人気はない。それなのに、ホームや入り口の蛍光灯だけはぽつりと灯っているのが、かえって不気味だった。

 入り口の上あたりにある風雨に晒された看板には、かろうじて「やみ駅」と読める看板がある。私は、足を止めて見上げながら思わず息を呑んだ。

 

「ここ、もしかしたら……」

「何か心当たりがあるの?」

「いや、心当たりってほど役に立つ情報でもないと思うけど……。サヤコさん、きさらぎ駅って知ってる?」

「話の触りくらいは……でもそれって、都市伝説の話よね?」

 

 無言で私は頷く。某掲示板のスレッドへの書き込みが元になっている、フィクションなのか事実だったのかも未だに判然としない、都市伝説の一つだ。そして、これまた誰かの創作かもしれないが、あの話には色々と追加要素がある。

 

「きさらぎ駅の前後の駅が、たしかやみ駅とかたす駅だったと思うんだけど……」

 

 きさらぎ駅にある看板の前後の駅名が「やみ」と「かたす」だったという目撃証言があるのだ。もちろん、本当かどうかはわからないけれど。

 

「だからさ、もしかしたら、ここから電車に乗れば……」

 

 私の言葉を裏付けるように、遠くから微かに電車の走る音が聞こえてくる。おそるおそる無人の改札からホームの中に進むと、確かに右手から、電車らしき灯りが近付いてくるのが見えた。驚いたように、サヤコさんがマスカラで彩られた目を走行音の方に向ける。

 

「でも……きさらぎ駅の話だって、主人公が助かったという内容ではないでしょう? ここから先に行ったところで、助かる保証はないわよ」

「それはそうだね。かといって、やみ駅に関しちゃ私はきさらぎ駅以上に情報を知らないし、ましてやかたす駅の先は本格的に異界に行っちゃうのかと思うと……どうも降りる先は、きさらぎ駅しかないように思うんだけど」

 

 滑り込むように、煌々と明るい電車がホームへ停車した。よく地方鉄道で走っているような二両編成だが、人間の代わりにぼやけた影のような透けた乗客が、ちらほらと間を空けて座っている。がたりと音がして、自動扉が左右に開いた。

 

「……行こう」

 

 このままここに残っていても仕方がないし、もしこの列車を逃したら、次にいつ移動手段がやって来るのかもわからない。悪手かどうかは行ってみてからでないと分からないが、もしこの電脳空間が都市伝説を元にしているのなら、そのお話の中のどこかに、現実世界に繋がるヒントがあるかもしれない。

 手を引いてステップを跨ぐと、サヤコさんは素直に私について来た。手を握る力が、微かに強くなる。

 

「大丈夫だよ。何の力もないけど、私がついてるから」

「っ、別に怖がってるわけじゃないわよ! それに武器も持ってないあなたじゃ、足手纏いになるだけじゃない」

 

 そんな風に強がってみせるサヤコさんは、私について隣に座った後も、手を離す気配はなかった。ドアが閉まり、ごとごとと音を立てて列車がホームから走り出す。懐かしさを感じる、田舎の電車に特有の揺れだ。どうも田園っぽい景色のところを走っているらしいということは辛うじてわかるが、時折電線や踏切らしいものが見えるほか、相変わらず周囲は真っ暗で、まったく見覚えのない場所だった。

 

「一駅の間って、どのくらいなんだろうね。見た感じトイレの付いてる車両じゃないから、あんまり長い間乗ってなくてもいいとは思うんだけど」

「わからないわよ。ワンマン車両でも、寒村じゃ終着駅まで1時間2時間平気で走り続けてることだってあるじゃない」

「そうなんだよなあ……私も通勤に使ってたからわかるよ」

 

 さすがに二人で窓の外を凝視していて停車駅を見逃すという事態はないと思うが、どうしても緊張が走ってしまう。それでも揺れに身を任せながらこんな話をしていると、こんな不気味な空間ですら、まるで学校帰りの友達と下校中一緒に喋っているかのような感覚を覚えるのだった。友達と最後に電車に乗ったのって、いつだっただろう。通学に限定するなら、中学生の頃ぶりくらいかもしれない。

 ふとサヤコさんが、さっきの話の続きを振るように、隣に座ったまま問い掛けた。

 

「ねえ。あなたは何のために、わざわざ私たちみたいな、裏側の人間がいる世界に飛び込んだの?」

「なんのため……うーんと、自分が恵まれてると思わないようにするため……?」

「何であなたが、そんな事を気にするの? 与えられた環境がどれほど幸せか、分かっているの? そこからはみ出さずにいれば、何も失うことはないじゃない。ただまっすぐに生きているだけで、愛してもらえて、守ってもらえて。あなたみたいに愛嬌がある人は、そっちの方が苦労はないでしょう? なんでわざわざ」

 

 サヤコさんには、解せないらしい。私がサヤコさんや、かつてクロカゲにいたソウルくんやウルカちゃん達みたいな、アンダーグラウンドの人間と関わりを持とうとする事が。

 興味本位と言ったら、怒られるだろうか。私にとってのその動機は、あまりにも自己満足的で、身勝手が過ぎている。それでも、正直に考えられるだけの言葉を、私は考えて口に出した。

 

「そうかもしれない。はみ出さずに、綺麗なものだけ見ていれば、一生幸せで居られるのかもしれないし、見ようとしたって上部のほんのちょびっとしか、見ることは出来ないのかもしれない。それでも現実を見たようなつもりになって、勝手に他者を哀れんで、結局はどうしようもないんだって割り切りながら、偽善者ヅラしてる人もいるのかもしれない。世の中のほとんどは、そういう人だと思う」

 

 電車は、スピードを落とさずに走り続けている。周囲でぼそぼそと聞き取れない独り言を漏らす、人ならざる影たちの差し掛ける不安に負けないようにと、私は顔を上げて、向かいのガラス窓に反射した自分を見つめた。

 

「でも、私は……そういう人間には、なりたくないの。んな事言って、気付いたら私も『そっち側』の人間なんだろうし、実際には『違う世界』の人との間の溝は、埋まらないままなんだろうね。私が境界線のこっち側から何を声高に物申したって、向こう側の人には何も届かないんだってことも、わかってる。ただの利口ぶったナルシストなのかもしれない。……それでも、考えることだけはやめたくないの。考え続けていることさえ止めたら、本当に終わりになってしまうような気がするから」

 

 そこまで話し終えた時、ちょうど電車が速度を下げたことに気が付いて、私たちは進行方向を見つめた。何度か分岐点を乗り越えるような振動があり、先程と大差ないおんぼろな木造の駅の前で、電車は止まった。古ぼけた看板に「きさらぎ」の文字がある。

 

「降りよう!」

 

 慌てて手を引いて電車を駆け降りる。間もなく背後でドアが閉まり、再び何事もなかったかのように去っていく電車を見送ってため息を吐いている間に、サヤコさんはぽつりと私の隣でこう漏らした。

 

「……あなたって、つくづく変な人よね」

「えっ! そっ、そう?」

 

 顔まで変になっていたので、本当に不思議だったのだと思う。真面目に色々語り過ぎたかと恥ずかしくなったけど、何故か仰ぎ見たサヤコさんの横顔は、ほんの少し笑っていた。

 

 とりあえずホームに降り立ち、私はきさらぎ駅の周囲を睨むように見渡した。

 駅舎は、地面こそコンクリートで出来ていたものの、看板はサビだらけで、壁にある時刻表も案の定ボロボロになっており読めなかった。

 無人の改札の外には、電柱にくくりつけられた蛍光灯が、今にも消えそうにちかちかしているだけで、あまり周囲の様子は伺えない。けれど、風の中に微かな草の香りがする。暗闇の中に目を凝らせば、どんよりとした雲のかかった夜空の下に、辛うじて山の稜線が見えるような見えないような。民家一つなく人っこ一人の気配もないところが、どう考えても異質な気配を醸し出していた。

 ことりも、困ったように私の髪の中に隠れておろおろしている。

 

「っていうか、こんな緊急事態だから言ってみるけど、一回携帯電話見てみない?」

「やむを得ないわね」

 

 望み薄ではあったが、私達はホームのベンチに座ってそれぞれのスマホに電源を入れ、お互いに画面を覗き合った。圏外。ネットも電話も、もちろん繋がらない。

 

「都市伝説じゃSNSなら辛うじて繋がったみたいな話だったけど……それもダメかぁ」

「よっぽど深層に落ちてしまったんだとしたら、望み薄でしょうけど……まさかニレの通信もここまで届かないなんて」

 

 不意に、どんどこと場違いな祭り囃子みたいな音が聞こえてきて、サヤコさんはびくっとしながら私にくっついた。完全に無意識なんだろうけど、さっきから可愛いなこの人。

 

「な、何、この音……」

「あ〜……そういえば都市伝説じゃ、巻き込まれた人は線路を歩いて帰ろうとしたんだっけ? それでトンネルの方に歩いて行ったら、太鼓と鈴の音みたいのがどんどん近付いてきたとか、何とか……」

 

 砂利の敷かれた線路の向こう側に、確かにトンネルが見える。ここに来るまでにトンネルを通ってきたかどうかはあまり記憶がないが、あそこを抜ければいいんだろうか。黒黒と口を開けているトンネルは、灯りらしきものも見えず、正直進んで入りたくはない。

 

「そもそも、都市伝説の通りに動くのは最後助からなかったと思うんだけど、それでいいのか……? でも、ここから駅を出て山中散策して生き残れる気はもっとしないし……」

「ム、ムラサキ、あれ……」

 

 震え声のサヤコさんが、私の肩を揺する。その尋常じゃない怯え方は、私の知ってるサヤコさんではまず見られないものなので、珍しいなと思いながら振り向くと——線路に、農業用の帽子らしきものを被った、片足のおじいさんが立ってこっちを見ていた。

 

「線路を歩くと、危ないよぉ」

「ぎゃああああああああっ!?!?」

 

 たとえ女子二人が揃っていたところで、本気の緊急事態に可愛らしい悲鳴を上げるなんてどだい無理な話である。

 すーっ……と滑るようにホームに近付いてくるので、私達は仕方なく、軌道へ降りておじいさんとは間反対のトンネルの方に向けて走り出した。駅の外に逃げたいところだが、土地勘も情報もなく視界も悪い場所で逃げ惑うのは危険すぎる。線路だって危険なことには変わりないが、少なくともトンネルがある以上行き止まりってことはあり得ないだろう。

 

「な、なんで私がこんな目に……っ」

「文句なら、こんな下層階まで落っことす兵器を作ったニレに言えばー!?!?」

 

 ぜえぜえ言いながら走ってから振り向くと、もうおじいさんの姿は消えていた。けれど、駅に戻ってまた同じ目に遭うのかと思うと、あそこに戻る気にもなれない。

 

「片足のおじいさん……都市伝説では、主人公が線路を歩いてたら、危ないよって警告してくる人だっけ。片足しかないのに、体重も掛けずにまっすぐ立ってたのが逆に不気味だったね……ていうか、線路に降りる前に出てきたけど」

「やっぱり何が何でも、こちらに行かせたいのかしら」

「まあ、ホラーゲームでも、基本幽霊が出てくる方角が正解だからなぁ……うう、行きたくないよお」

 

 ひょおひょおとトンネルを抜けてくる風は生ぬるいのに、足元にそれが当たった瞬間、ぶるっと体が震えた。けれど、背後から迫ってくる笛太鼓や鈴の音が、ガンガンとトンネルの壁に反響して、私たちの足を止めさせてくれない。後ろを振り返るのも恐ろしい思いに駆られながら、私たちは一気に暗闇の中へと駆け込んだ。しばらく歩いていると、嘘のようにやかましい音色が遠ざかって静かになる。

 

「……いなくなった、みたいね」

「うん。それに、出口はちゃんとあるみたい……向こうが明るいから」

 

 トンネルの内側にこそ灯りがないものの、出口の形はここからでもぽっかりと半円型に見えるので、多少遠いが歩いて出ることはできるらしい。

 足元を石に取られて転ばぬよう、発光して灯りの代わりを務めてくれたことりを連れながら、私たちはゆっくり先へと歩いた。

 ホラー的にこんな時のトンネルほど不気味なものはないが、一応出口は見えているし、ことりとサヤコさんがいるのも相まって、心持ちは幾分さっきより軽い。それに、私の知っている都市伝説では、トンネルの中にいる間に何か危険なことが起きたという記述があった記憶はないので、ここは貴重な安全圏かもしれない。

 手こそ繋いでいないものの、思いっきり腕を掴んで私の体に肩を寄せていたサヤコさんが、私に尋ねた。

 

「それで、この後はどうなるの……?」

「トンネルを抜けた先に親切な人がいて、車に乗せてホテルまで送ってくれるって言い出すの。けどその人はホテルじゃなくて山奥の方にどんどん車を走らせて、妙な独り言を呟きながら段々様子がおかしくなってって、主人公は隙を見て逃げようと思うって書き込みを残して以来、その消息を絶った……って話だったかな。まあ、だから、その車に乗ったら異界に連れ去られて助からなかった、って解釈なんだけど」

「じゃあ……そこからは私たちが、自力で何とかするしかないってことね」

「そういうこと。とにかく、ここを出たら、話し掛けてくる人間とは話もしないし取り合わない。あとは……そうだっ」

 

 そういえば一個、帰る方法を思い出した。

 急に勢いよく立ち止まった私を、サヤコさんが驚いたように見下ろす。

 

「サヤコさん、煙草吸ってたよね!? ライターとか持ってない!? たしか、きさらぎ駅の世界で火を起こしたり煙を出すものを持ってると、元の世界に帰れるって説があるんだよ。だからもし、何かそのへんの草とか紙にでも引火できたら……」

「残念だけど……車の中に置いて来ちゃったから、今は持ち合わせがないわ。発火させる類の武器も、ここへ落ちる時に落としてきてしまったみたいだから、他に何か火を起こせそうな物もないし」

「そ、そっか」

 

 まあ、そう都合良く火を起こせるものを日頃持ち歩いてる方が珍しいし、ワンチャンもしあればって感じだったから、別に問題はない。

 それなのに、サヤコさんは私に叱られたようにして、怯えた様子で肩を縮めた。

 

「ごめんなさい」

「どっ、どうして謝るの!? 謝らないで。サヤコさん何も悪いことなんてしてないよ」

 

 思わず手を伸ばしてその黒髪に触れると、一瞬びくっとした後に、サヤコさんは戸惑いながら、反応を伺うような表情で私に撫でられていた。

 この顔色の伺い方。私にも身に覚えがある。何か大人の気に入ることを言わなければ、機嫌を損ねたら自分の居場所はなくなってしまう。そう思って、自分が本当に悪いかどうかなど考えずに、ただ相手のために頭を下げる、怯えた犬のような瞳。

 確かに私の誘拐は悪いことだが、たまたま脱出の意図口になるライターの持ち合わせがなかったくらいで、そこまで怯えられる筋合いはない。

 

(もしかして……ニレに与した後も、もしかしたらその前からも、ずっと)

 

 こんな風に、怯えて生きてきたのかもしれない。誰かの顔色を伺うのが癖になっている。普段どれだけ対象を踏み付けにして自信ありげな態度を取っていたとしても、その本性は、こういう恐怖の中では姿を現すものだ。

 思わず私は、安心させるように微笑んで——そして、ずっと考えてきたことを言った。

 

「……ねえ。サヤコさんってさ。本当は私のこと、そんなに殺したいって思ってないでしょう」

「ッ……!?」

 

 その反応が答えだと断じたくなるほどに表情を揺るがせたサヤコさんは、一瞬で私と距離を取りながら、トンネルの出口を背に私を睨む。高いヒールで砂利を踏む音が響いた。

 

「な、何言ってるのよ……こんな場所に居るからって、動揺させるつもり? そんなわけ、」

「だって、あなたは私を攫ってから、私を袴姿のまま連れ回してたよね。しかもあんな大通りで。目立たないように潜伏するなら、私をあの制服なり、他の私服なり別の格好に着替えさせた方が、絶対に好都合なはずなのに、事もあろうに攫った時の格好のまま、通りから丸見えの席をお茶する場所に選んだ。本当は、誰かに見つけて止めて欲しかったからじゃないの?」

「……」

 

 そう。攫われてからずっと、思っていたことだ。でも、彼女が素直に認めるはずはないと思ったから、いつこの理屈を突き付けるかは迷ったけれど、今なら私の心が届くかもしれないと、そう思った。背筋を伸ばしたまま、私は孤高の彼女を見つめる。

 

「あの時だって、『思ったより』到着が早かった、って言った。あのまんまあそこに居たら、多かれ少なかれSOATに発見される事を想定してたってことだよね。私を殺すだけのつもりならお茶会なんてしてる暇はないはずだし、何よりニレの為なら、あなたはもっと冷酷に賢く立ち回れる。サヤコさん、本当はすごく優秀な人なんだから」

「あ……あなたに、何がわかるって言うのよッ!」

 

 激しく叫び立てるサヤコさんの表情が、苦しげに歪んでいた。

 私の動向を探るためにSOATに侵入する計画を立て、その手筈を整えて一人で実行できるだけの行動力のある人が、間抜けなはずはないのだ。こんなに長々と私を連れ回す意味がどこにもない。連れ回す行為自体に計画性がないのだとすれば、これは彼女にとっての躊躇いに他ならない。

 殺してしまうだけなら、攫ったあの時点でも、車の中でも、なんなら隊員の目の前でもよかったはずだ。セブンスコードでは、殻さえ破壊してしまえば死体など残らないのだから。その後彼女は捕まるかもしれないが、いずれにせよ目的は達成されるし、ニレのために目的さえ遂げられるなら、躊躇するような彼女ではないだろう。

 それなのに、そうしなかったのは。

 

「こ、来ないでったら!」

 

 涙の滲む目で、とっさに拾い上げた線路の傍の尖った鉄屑を、必死に振り回すサヤコさん。私を殺しに来たはずなのに、これじゃ私が彼女を追い詰めているみたいだ。

 ことりがまたしても警戒してぶわーっと膨らみながら毛を立てるが、私はつかつかと歩み寄ると、鋭い鉄片を翳したままの彼女の背の高い体を、真正面から両腕に抱き締めた。こんな現実離れした場所にいても、体の温もりと心臓の鼓動だけは正直に、リアルの世界と寸分違わず、その存在を伝えてくるし伝えられる。私はここにいるよ、と。

 

「ッ……!」

「知ってるよ。サヤコさんは、本当はそんなことを出来る人じゃないでしょ。……哀しいって、誰かに見つけて欲しいって、本当は泣いてる。ニレの命令じゃなきゃ、誰かを傷付けるような真似だって、本当はしたくないはず。カッコいいけど優しいもん、サヤコさん。私知ってる」

「……ムラ、サキ」

「あなたは、本体の意識がログアウトしても、この世界に取り残されてしまった、サヤコさんの本当の心でしょ」

 

 刺されたら、一応は痛いんだよな。バーチャルにいるから、死にはしないかもしれないけど。

 でも、彼女にはこれ以上私に危害を加える気はなさそうだというのが、私にはわかっていた。からん、と鉄の塊が震えた手から落ちる。

 私に縋り付く彼女の、アイラインとマスカラで真っ黒に縁取られた綺麗な目から、嗚咽と共に涙が零れ落ちた。その背中を摩っていると、サヤコさんは私に身を任せたままで、ぽつりと言葉を漏らした。

 

「私は……ニレと同じ存在よ。あの人のオリジナルが生み出した、人工知能の一つ。バックアップが作動しなかった時のために、予備で作られていた」

「……! そんなものが……? ってことは、あなたはセブンスコードにしか存在できない、人間じゃない存在……?」

「概ね、そういったところね。あの人は、私を元のサヤコとそっくり同じにトレースして作り上げた。見た目も、記憶も、思考回路も。今頃本物のサヤコは、悪魔の影響で精神崩壊した後に警察に捕まって、刑務所から出ては来れないでしょうからね。

でも……私にはもうわからない。私は、椎名(シイナ)鞘子(サヤコ)本人とは違う。私が何を経験し感じたところで、きっとサヤコならばこう感じて考えただろうと思ったところで、リアルの世界に生きるオリジナルのサヤコには、何の関係もない。……でも、私はあなたに出逢ってしまった。知ってしまったのよ、この世界に、あなたのような人間も居るってことを」

 

 そっと身体を引き離したサヤコさんが、両肩に手を添えたままで私の顔を覗く。

 

「だから……どうしたらいいかわからない。あなたの言う通り、私はあなたを手に掛けたくはないわ。与えられた偽物の心でも、ニレの配下にある以上どうしようもない宿命だと知ってはいても、もし私にあなたという友人が、もっと早くに出来ていたならと……何度も想像が頭を過ってしまう」

「だったら、その気持ちに従っていいんじゃないかな。あなたはあなただもの」

「でも……」

「それに、あなたは偽者(ニセモノ)なんかじゃないよ。私に(・・)とっての(・・・・)椎名(・・)鞘子(・・)()あなた(・・・)だから(・・・)

 

 はっとしたように、その頬を涙が伝う。

 求められて生まれた存在では、なかったかもしれない。ただ道具のように扱われる為だけに、バックアップとして残されたのかもしれない。でも、私にとってのサヤコさんは道具じゃない。ニセモノでもない。

 こうやって涙を流して、目の前の誰かのために葛藤できる人間だ。それが作り上げられた心でも、オリジナルの鞘子さん本人とは違ったとしても、私の目の前にいて、一緒にケーキを食べてくれて、困った時には助けてくれて、怖い時には寄り添ってくれるサヤコさんは、紛れもなく私の友達なのだから。

 いつの間にか、私の気持ちに呼応するように、ことりが飛んできてサヤコさんの肩に止まっていた。女の子のように泣きじゃくるサヤコさんを、私はしばらくの間、その場で抱き締めていたのだった。

 

 しばらくして涙が落ち着いてから、サヤコさんは汚れを気にするように、しきりに手で顔周りを擦りながら隣を歩いていた。こんな事態だし、別にメイクの事なんて気にしなくていいと思うけど、メイクがなかったとしても、サヤコさんの素顔は十分綺麗だ。

 少し鼻をぐずつかせながら、サヤコさんが言った。

 

「それにしても、妙に冷静だし呑気だと思ったら、最初からあなたには私の本心なんてお見通しだったって訳ね」

「いや、友達に銃突き付けられて冷静でいられるはずないでしょ……普通にずっと血の気が引いてたよ。もしかして攫うフリして私の味方になろうとしてくれてるんじゃないかっていうのも、本当は殺したくなんてないんじゃないかっていうのも、私の希望的観測でしかなかったわけだし」

 

 何をしてでも殺されたくなかったというのが本心だが、それと同等かそれ以上に、サヤコさんとは普通に友達になりたかったし、友達でいたかった。それが実現するかは、とりあえず表の世界に帰ってからどうするかによるのだろうが、何にせよ早くここから脱出しなければ。トンネルの出口まではあと少しだ。今の所、変わったところはない。

 

「ねえ」

 

 ひとしきり大泣きした後のサヤコさんは、啜り上げた鼻を鳴らし、目尻の涙を拭ってから、隣を歩く私に唐突にこう問い掛けた。

 

「あなた、ヨハネを落とすつもりなの?」

「落とすって……いや言い方……うんでもまあ、そうだね……そういうことになるのかな」

 

 言わなくても、ここまで付き合いがあれば、おそらく私の気持ちはサヤコさんにバレバレだったことだろう。鋭い人だし。

 複雑な面持ちで頷くと、サヤコさんはふぅん、と声を出しながらそっぽを向く。

 

「ま、ニセモノのニレしか居ない世界で、今更どうこうしようと私には関係のない事だけど……恋敵をどうにかして貰えるのなら、私としては願ったりだわ」

「……? ……あー、なるほど」

 

 そういえば、「捕縛」の時のサヤコさんって、あんまりにもニレが(そして、情報を集める必要上とはいえ、ニレの体に憑いたユイトまでが)ヨハネの居所を求めて執心してるもんだから、すっごい焼き餅焼いてたんだっけ。

 

「でも、はっきり言ってヨハネは難しいと思うわよ」

 

 何となくその答えは予想していたので、私は苦笑しながら振り返って応える。

 

「だよね。全っ然簡単には人のこと信用しそうにない子だもんなぁ」

「あの子が信用してるのはお金だけよ。綺麗なのは見た目だけで、がめついし、性格悪いし。本当に、ニレはどこが良かったのかしら、あんな子」

「まぁまぁ。それだけでもないかもしれないよ? ヨハネさんって、変に情に厚いとこがあるから。その辺も、もしかしたらニレの琴線に引っ掛かったのかもね」

「ふぅん。あなたも、ヨハネの強かさやそういう優しさが気に入ってるってわけ。私みたいな卑屈な人間には、いくら努力しても勝ち目はないってことね」

 

 隣でつまらなそうに、小石を蹴るサヤコさん。

 私は思わず、足を止めてぽかんとサヤコさんの顔を見返してしまった。

 

「……なんか、その言い方だと、私にサヤコさんのことを好きになって欲しい、みたいに聞こえるんだけど?」

「! や、やだ、勘違いしないで。どうせあの子みたいな人間しか、社会で愛される価値はないんだって思っただけよ。……私、なんでこんな事言ったのかしら。どうかしてたわ」

 

 サヤコさんは大慌てで手を振って否定するも、ちょっと頬が赤いし、言い方の割にはあまり険があるようには聞こえない。拗ねてる女の子みたいだ。思わず私は、ニレの愚鈍さを思いながら盛大なため息を吐かざるを得なかった。

 

「はあああああ。こーんな一途にずっと傍に居てもらってんのに、この可愛さに気付かないなんて、ニレは目玉が腐り落ちてるか、脳みそが深刻なバグを起こしてるか、どっちかに違いないな」

「ちょっと。いくらあなたとはいえ、そこまでニレの悪口なんか……って、な、何それ。どういうこと……? わ、私が可愛い? 何かの冗談でしょ?」

 

 最初はキツく私を睨んだサヤコさんは、言ってることの意味が分かったのか、途中でさっき以上に真っ赤になって慌て始めた。面白がってる場合じゃないんだけど、なんか面白い。ふふ、と笑ってから、もう一度傍に寄ってその肩をぽんぽんと叩いてしまう。

 

「心配しなくても、私はちゃんとサヤコさんのこと好きだし、可愛いと思ってるよ」

「!?!?!? ば、馬鹿言わないで……私はねぇ! あんた達のこと、陥れようとしたのよ!?」

 

 思わず裏返りかけた声のサヤコさんと共に、私たちは気が付けばトンネルの出口まで辿り着いていた。

 おそるおそる顔を出すが、外は相変わらず線路が続いているばかりで、周りの景色も森や山が多く、変わり映えがない。まさかループしてるなんてことはないだろうな……と思いながらも、私が腕組みして周囲の様子を伺っていると、ふと私の袖を引いたサヤコさんが、向かい合ったまま、真剣な顔で言った。

 

「ムラサキ、さっき火を起こす方法はないかって私に聞いたわね。……さっき、あなたと話をしていて思いついたことがあるのよ。一つだけ、あるにはあるわ」

「ほんと!?」

「でも、それにはあなたの身体に負担を強いることになる。その方法は……」

 

 躊躇いながら、サヤコさんがそこまで言い掛けた時だった。

 

「人の使役物でありながら、主人を無視するなんていい度胸だよねぇ。感動のワンシーンなんだろうけど、ボク、自分を除け者にされるのが大嫌いなんだ」

 

 ゲームの中では散々聴き慣れていた、冷徹で高慢な少年の声が、その場に響いた。



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1-6 叛逆

サヤコとムラサキの前に、突如として立ちはだかるニレ。
状況は劣勢で、彼の言いなりになるしか脱出の手立てはないと思われたが……?


「やっとの事おでましかい? こっちはとうの昔に待ちくたびれたっていうのに、わざわざ連れ戻しに来てやったボクを待たせるなんて、いいご身分だね」

「あなたは……!」

 

 隣にいたサヤコさんが反射的に体を硬くするのを感じ取って、私は手で制しながら思わず一歩前に出た。

 ひらりと、廃車のような車の屋根からボンネットに、ひらりと舞い降りた少年の姿がある。オーバーサイズのフーディーを羽織った、銀髪に冷たい目をした天使と見紛うばかりの美少年は、しかし私のよく知る顔だった。もちろん、その本性も含めて。

 

「あなたは……ニレ、でいいのかな?」

「うん。それでいいよ。体細胞や性格や行動様式をコピーした、限りなく元のあいつに近い存在、と言うのが正確なところだけどね。さっき、そこの人形がそうキミに漏らしたんだから、知っているだろう?」

「!? トンネルの中での会話も、聞いて……!?」

「でも、この(・・)ボクに名付ける者なんていないし。そもそもボクの存在は誰にも知れ渡ってすらいない。

だったら、キミにとってはニレと、そう呼ぶのが自然だろう? ムラサキ。キミとこうして直接出逢うのは、この世界では初めてだね」

 

 神のような仰々しさで手を広げ、どこか恍惚としたようなその表情に、気持ち悪さを覚えながらも、私はニレの方を見上げつつ睨んだ。っていうか、精神性まで本体のものをコピーした人工知能なんだったら、こいつの中身は30そこそこのオッサンってことでしょ。普通に気持ちが悪い。まあ、もうすぐ30歳になるのに可愛こぶってヨハネさんにお熱を上げてる私が言えたことでは全くないけど、少なくともこっちはパートナーとしての同意がある上で成り立ってる関係だ。

 

(もし、ニレが持ってた植能もこのニレにコピーされてるんだとしたら……ストマクやパルスも、こいつの手元にあるってこと?)

 

 (ストマク)は、あらゆる植能の中で唯一、攻撃された際の「痛み」を引き起こす、厄介な弓矢型の植能だ。脈動(パルス)も、触れただけで活動を強制的に停止させられる、なかなかセコい植能。スタンさせられている間に襲われれば、危険なことに変わりはない。

 サヤコさんの腎臓(キドニー)で濾過する? でもキドニーは、相手の植能を無効化することはできても、攻撃技を持つ植能じゃない。防ぐことはできても、反撃の手段にはならない。私の子宮(ウーム)の新技も……安易にぶっ放すよりはギリギリまで取っておいた方がいいだろうし、もしコントロールが乱れて外したりしようもんなら、無駄に敵に手の内を晒しただけで終わってしまう。

 だとしたら……会話で気を逸らしてる間に、なんとか脱出を試みるしかないのか?

 というか、そもそもどこなんだ、ここは。

 そう思ってふと辺りの様子を伺った私は、さっきまで汚い色で塗り潰されていた空と、鉄道路線の変化に気が付いた。ところどころにじじっとノイズが走ったかと思うと、ぐにゃりと景色が歪み、山が見えていたはずの場所に、窓のようにぽっかり空間が開く。まるでこっちにある景色が表の絵で、それが剥がれて下にあった絵が出てきたかのように見えたそれは、一応は知っている場所だった。

 私より先に、サヤコさんがその異変に反応して叫ぶ。

 

「これは……廃線になったチューブの跡?」

「そう。ここは丁度、上の階層……表のセブンスコードと、裏世界の比較的浅い地下階層との境目。そこのバカな人形が変なところまで落ちてくれたお陰で探すのに苦労したよ。でもキミ達が自力でこっちに浮上して来ようとしているのを感じたから、ここで待つ事にしたんだ。この車さえあれば、都市伝説通り、ボクの領域へ主人公を攫えるからね」

 

 スニーカーの爪先でニレがとんとん、とボンネットを叩くと、蔦の絡んだ廃車だと思っていたそれは、瞬く間にエンジン音を鳴らしてヘッドライトを点灯させた。おんぼろに見えるが、動くのに支障はないらしい。

 つまり、たとえ攫われるフリでも何でもして、一旦その車に乗ってしまえば、表の世界に帰る算段はつくということだろうか。

 ニレが、車の上から私に向かって、優雅な仕草で手を差し出す。

 

「さあ、おいで、ムラサキ。キミはボクの貴重な実験体だからね。あんな凡庸な俗人どものいる場所にいるより、ボクがもっともっと刺激的な世界を見せてあげる。ボクに協力してくれたら、勿論キミを丁重に扱うし、キミの仲間にも手荒な真似はしないと約束しよう」

「それ絶対こっちが聞きたくないお願いされるやつだし、そう言って人質を手荒に扱わなかった人間多分いないよね?」

 

 何がおかしいのか、煌々としたレトロな灯りに背後から照らされながら、ニレはくつくつと楽しそうに笑っている。

 ハリセンボンのように膨れていることりを袖の内側に隠しながら、私は顎を引いて考える。

 

「……腹立つけど、今はあいつの言うこと聞くしかないのかな。あの車に乗らなきゃ出られないんだったら、とりあえず二人で乗って、表に近い場所にさえ行ってしまえば、ことりで運転手を気絶させて車をこじ開けるなり脱出のチャンスがあるかも……」

 

 小声でサヤコさんに言って一歩を踏み出した時。力強く必死に袖を引く感触が、私を引き留めた。

 

「ダメよ! ニレの言う『領域』は、表の世界のどこにも属さない、彼の支配下にある裏世界……! あそこまで行ってしまえば、あなたは絶対元の世界には……うっ!」

 

 それと同時に、針のような細い矢が飛んで来て、私の手を掴んだサヤコさんの手の甲に次々と突き刺さる。血を流してもなお、力の入らない手で私を尚も離そうとせずにいてくれるサヤコさんの手元に、更に小型のボウガンを向けようとするニレの攻撃を、私はとっさに着物の袖で防ぎながら振り返って叫んだ。

 

「ちょっと! 何すんの!?!?!? 自分の仲間に……」

「お喋りが過ぎるんだよ、この役立たずの人形は。ま、ここで殺すつもりだったから、いくら喋ろうともう意味はないけどね。この空間こそ、コイツの死に場所に相応しい」

「え……」

 

 冷たい眼光が、衝撃の表情を浮かべるサヤコさんの方へ、ちらりと射止めるように向いた。

 

「大体、ボクが『確保』して来いって言ったキミに、もう少しで手を上げるところだった。こっちは傷一つなく手に入れたいと言ってる目的物を、勝手に拉致った挙句殺そうとしたんだよ? そんな無能は要らない。ボクに使役されるだけの所有物の分際で、ボクの指示ひとつまともに聞けない、ただ中途半端に心を身に付けただけの、低級なロボット以下のガラクタだ。キミには失望したよ、椎名鞘子。オリジナルの代から、キミは本当に無能で、ボクの足を引っ張るばかりの無駄な存在だ」

「な……に言って……」

 

 一瞬、頭が真っ白になった。それってつまり、サヤコさんが私を殺そうとした独断行動も全てわかっていた上で、彼女を傷つけ処分するためだけに、ここまで泳がせていたってことか。

 あまりの言い様に思わず絶句してしまった私の前に、いつの間にか自動車から飛び降りたニレがいて、サヤコさんの眼前にボウガンの弓を突き付けていた。

 私も衝撃的だったが、仮にも慕っていた相手にこんな風に悪様に罵られて、サヤコさんの心境はいかほどのものだったろう。言葉を忘れたように見開いたその瞳から、滲んで溢れ出した涙が、うつむいた黒髪の下で頬の上を滑っていた。

 

「ご……ごめんなさい。あなたの役に、立ちたくて」

「キミの自己判断ってさぁ、本当に要らないお節介だよね。誰が大野紫咲を殺して来いなんてキミに頼んだ?こっちの意図を汲めないどころか、こっちの害になる事しかしでかせない無能なカスは、ボクの陣営には要らないんだよ」

「ぐっ……!」

 

 もはやボウガンの照準すら合わせず、その小さな手からは考えられない怪力でサヤコさんの首を掴んで締め上げたニレは、目の前の蛮行とは遠くかけ離れたにっこりとした顔を私に向けながら、晴れやかに微笑んでみせた。

 

「ああ、ごめんね、ムラサキ。すぐに始末するからさ。キミは二人でって思ってたみたいだけど、あの車に二人は乗せてやれないんだよ。乗るのはキミ一人だけ。こんな役立たずは、ここで処分して置いていこう。気にしなくていいよ、所詮こんな劣化版しか生み出せないコピーを、わざわざボクの技能を総結集してもう一度生み出そうなんて気にも慣れないし、ボクの助手にはもっと適した人形が……」

「う…………うっせーーーー!!!!!! サヤコさんを離せやこのボケが!!!!」

 

 叫ぶと同時に、グーパンが出ていた。パーじゃなくて。

 人の顔なんてリアルでも殴った事ないけど、柔らかな頬にボゴっといい音が響いた気がした。ボウガンの矢の先に毒でも塗ってあったらとか、こっちには武器がないのにとか一瞬思ったけど、そんな事は今の言葉を最後まで聞きもしないうちから、頭から消し飛んでしまっていた。

 膝を折ったまま咳き込んで噎せるサヤコさんの前に、今度こそ堂々と立ちはだかってから、私は地面に放り出されてぽかんとしたニレを見下ろす。

 

「さっきから聞いてりゃふざけんな!!! 人のことをガラクタだのカスだの、もう仲間なんて意識微塵もないんだろうけど、仮にも仲間だった人間にここまで一生懸命献身的に支えてもらっといて、もっと他に言うことあるでしょうが!?

無能無能って、それあんたが自分の思う通りに動かせない人間を勝手に無能呼ばわりしてるだけでしょ!? 部下が上司の言うこと聞かないのは、上に立つ人間が無能だからじゃん! 本当にカスで無能なのはそっちだよ!」

「ムラサキ……」

 

 もう、完全にブチ切れた。

 涙目で私を見上げながら立ち上がったサヤコさんの肩を、私は背が低いながらも、強引にぎゅっと抱き寄せてニレに言い放つ。

 

「そんなに要らない要らないって言うんなら、私がサヤコさんもらうからね!? そっちが要らないんなら文句はないでしょう!? あんたとの雇用関係も主従関係も今日っきり、これからはあたしの傍で味方についてもらうから!」

「むっ、ムラサキ……!?」

「もう、あんたのところになんかサヤコさんを帰らせない。そっちも裏切り者を体よく始末できてWin-Winでしょ!? だったらあたしに寄越しなさい! そんでもって、絶対二人でこっから出てってやる!」

 

 目を白黒させながら、涙を拭くのも忘れて私の傍であわあわしているサヤコさんが、何だか可愛かった。でも私は本気だ。

 あまりに開き直った決死の交渉をどう思ったのか、土を払って立ち上がってからも、ニレはまだどこか呆然としていたが、やがて壊れたように笑い出した。

 

「ははは……あっはっは……! そんな、人にも道具にもなり損なった出来損ないを欲しいだなんて……キミ、やっぱり面白いよ。ボクが狙うだけの価値はあるな」

「だから、出来損ないとか言うな!」

「ふふ……いいよ。それ(・・)はキミにあげる。元々、抜かれて困るほどの情報は渡してないし。……まぁ、そもそもここから生きて出られたら、の話だけどね?」

 

 そう言って、ギラリとした目で笑うニレに、思わず一歩後ずさったその時。

 不意に服の内側から投げられた閃光弾に、目が眩んだ。袖で覆った顔を上げると、さっきまであった車とニレの姿は、忽然と消えている。

 唖然とした私たちのいる、グラグラと崩壊しかけた不気味な空間に、犬の遠吠えとニレの高らかな声が響き渡った。

 

『もう、きさらぎ駅への迎えの車はない。代わりにボクの『迎え犬』を大量に放っておいてあげたよ。奴らのウロウロする山中で、せいぜい息絶えるまで彷徨うがいい!

ああ、勿論ムラサキの事は、ちゃんとヤバくなる前に迎えに行ってあげるから安心していいよ。それまで、出口を求めてその女とボロボロになりながら絶望する顔を、ボクはここでゆっくり見物させてもらうからさ』

「っ、趣味の悪い……!」

 

 どこまで気色悪いんだと思ったが、悪態を吐いている暇はなさそうだ。

 さっきまで山の遠くから聞こえてきていた鳴き声が、すぐ近くの茂みまで迫っている。暗がりに血に飢えた獣らしい光を湛えた目がいくつも灯り、こちらを伺いながら、じりじりと距離を詰めてくるのだ。

 バチバチと毛を膨らませて応戦する気満々のことりの傍で、私は警戒を張り巡らせながら、サヤコさんに叫ぶように問いかけた。

 

「サヤコさん、この怪異のこと何か知ってる!? 送り犬みたいな奴!?」

「ニレのデータベースで見た事がある……いわゆる送り犬の亜種よ。ただ、その逸話にも土地柄による特色があって、送り犬は人を守ることもあるとされているけど、迎え犬は人を襲うものだって、たしかそう書いてあったわ!」

「なるほど……戦闘特化の野犬かぁ。ちょっと面倒そうだねぇ」

 

 唸り声を上げ、涎を垂らしながら牙を唇の端から剥き出した野犬の群れが、じりじりと私たちを中心に近寄ってくる。大きさはあくまで中型犬程度とはいえ、随分と凶暴そうだ。

 

「噛まれるとマズいとかは……?」

「毒や狂犬病みたいなウイルスの類はなかったはず……でも、肉体も器官も普通の犬よりは発達しているから、噛まれたら軽いケガでは済まないでしょうね」

「だよねぇ……」

 

 私も、できれば噛まれたくはない。

 ことりが放った電撃に釣られ、それを追うように野犬の群れは走って行くが、獲物を見失うことはないようで、すぐに抜け目なくこちらへと戻ってくる。

 

(てことは、植能には反応するのか……)

 

 ことりの電撃は、私のウームと体の淫紋が起こす相乗作用のうちの一つだ。

 だとしたら、植能での攻撃は有効かもしれない。そうこうしているうちに、空に開いた窓から見えていた、外側の廃線の光景が、徐々にぼやけて小さくなり始めた。

 

「……! 向こうの世界との境目が閉じかけてる!?」

「ねえ、ムラサキ。ここの世界の気配が強くなってきてるってことは、あの犬は深層階の……きさらぎ駅側の世界に属する存在ってことじゃないかしら」

「たしかに、あの窓から見える階層にはいなかったね。ってことは、やっぱりこの世界を都市伝説に則って破綻させるしか、脱出する方法はないって事になるけど……」

 

 でも、車はニレが乗り逃げしてしまったし。だったらあとは、火……

 

(ん? そういえば、さっきサヤコさん、火を起こす方法があるって言ってたような)

 

 ふとそう思い出して見上げると、サヤコさんも同じ事を考えていたのか、真剣な眼差しで私の両肩を掴み、ぐっとかがみ込んだ。大人っぽい香水の匂いと、睫毛の長い憂いを帯びた綺麗な顔が急に近付いて、思わず心臓が跳ね上がる。

 

「わっ。さ、サヤコさん?」

「ごめんなさい……時間がないから、後で説明するわ。私には、これしか思いつかないのよ。……私を信じてくれたあなたに、全てを託すわ」

「サヤコさん……」

 

 氷の張ったような、黒く磨き上げられた瞳に見惚れていたせいで、理解が一瞬遅れた。

 気が付いたら、真っ赤なルージュを塗った大人っぽい唇に、私は自分の唇を奪われていた。

 

(……〜〜〜〜〜〜!?!?!?!? え、え!?!?)

 

 想定外の衝撃で、頭が殴られたようだった。

 やかましく唸り立てる野犬の声と、焦げた煙のような匂いと、それとはあまりにミスマッチな唇の艶かしい感触で、頭がパニックになる。

 

(ちょ、ちょっと待って。私なんでサヤコさんにキスされてるの?あまりの絶望的な状況に、サヤコさんヤケ起こしちゃった???)

 

 と、とりあえず元の世界に戻ったらいっぱいしていいから、今は諦めないで何とか頑張って考えてみよう!?!? と思いながらも、この他人を魅了する植能を持つ体は厄介なもので、いかなる状況下であろうと、気が付けば自分も相手も夢中になる程の甘い刺激が、全身を支配している。

 

「ふっ……ん……、サヤコ、っ、さ……」

 

 ふわりと甘い唇に応えるように口を開くと、やや急いた舌先が捩じ込まれて、器用に私の舌を絡め取っていく。そろそろ脚に力が入らなくなる、と思いながら、思わずその腕にぎゅっとしがみついた時、漏れた吐息の隙間から、サヤコさんが舌先に乗せて飴のような何かを差し出したのがわかった。

 

(何……?)

 

 口に入れられたそれを、疑問を挟む余地もなく、うっかり飲み込んでしまう。

 糸の引いた口先を離して、サヤコさんは崩れ落ちる私を抱き止めた。

 

「い、今のな……う゛っっ……! あっつ……っ!」

 

 直後、腰にじりっと、焼けるような酷い熱さを覚えて私は膝をついた。

 目の前が真っ赤になり、全身が炎の赤い光に包まれる。けれどそれは、焼けるような熱さではなかった。体感、インフルエンザでふらついている程度の熱だろうか。しょっちゅう体調を崩して熱を出している私からすれば、しんどいけど何てことはない。

 それより問題は……腰についた巨大なリボンのように膨れ上がる、幾本もの頭。威嚇するように唸りをあげたそれは、鞭のようにしなって私の前側に突進する。

 

(たしか、腰のあたりには、蛇の淫紋が入ってたはず……?)

 

 まだ、この紋様が司るウームの力は発動してなかったはずだ。

 何の作用か知らないが、それが顕現したのだろうか……と思っていたら、次の瞬間地面を抉るような衝撃と土煙が発生して、私は面食らった。

 

『な……っ!?』

 

 この場にいないニレですら、衝撃を受けたような声音を、闇に侵された空間の奥深くから思わず漏らしていた。初めて彼の声に、恐れのようなものが浮かんだのを私は聞き取った。

 

『サヤコ、お前まさか……っ、本体のデータからコピー出来た植能は一つだけだったはず……何故お前が!』

「私がこれを内側に飼っていることまでは、あなたも知らなかったでしょう。もしもの時のために、最後の手段として取っておいたのよ。まさかこんな形で使う羽目になるなんて、思いもしなかったけれど」

『貴様ァ……!』

 

 満足げに唇の端を上げたサヤコさんは、姿も見えないというのに憎々しげに吐き捨てたニレに向かって挑発的な表情を浮かべる。

 その開き直ったような強気な表情に、思わず息を飲むほど見惚れながらも、私は訳がわからないまま、土煙と共に現れて野犬を圧倒した主を見つめた。

 私の腰の淫紋は、蛇の模様のはずだった。先の細くなった尾は私の腰に繋がっているが、細長かったはずの体には棘の如く強固な鱗に覆われた胴体があり、四本の足が生えて大地を踏み締め、牙の生えた口を開けて炎を吐き出しながら威嚇している。

 燃え上がるトサカと飛び出た丸いギョロギョロした目玉を冠するそれは、どこからどう見ても、蛇ではなくトカゲだった。

 黒く細い瞳孔が、私達に応えるようにこちらを見る。目が合って、その神々しい輝きに息を呑みながら、私は呟いた。

 

「この子は……もしかして、サラマンダー……?」

「火を司るトカゲとして有名ね。蛇とも竜とも呼ばれるけれど。あなたの刺青が蛇だったのを思い出して試してみたわ。相性はまずまずだったようね」

『そん、な……ボクが認めるとでも思うのかいッ!? 植能同士の融合など、聞いた事がない! そんッな下等生物の持つ植能が……よりにもよってアドリナルが、出来損ないごときの策でお前の手に渡るなどッ!』

「アドリナル……融合……!? 待ってっ、じゃあこれは、サヤコさんの植能と、私の植能の力……!?」

 

 副腎(アドリナル)——捕縛時においてはアウロラを暴走させるきっかけとなった、サヤコさんのみに与えられていた虎の子の植能だ。あの時のアドリナルは、ニレを殺された怒りでサヤコさんが衝動的に発動させたものだった。

 けれど、捕縛が解決したこの世界にアウロラはもういない。暴走させる相手がいないのだから、アドリナルが存在する必要もない。まさかこのサヤコさんが、持っていても意味のないはずの植能までコピーして隠し持っているなんて、ニレにも想定外だったのだろう。

 憤慨して怒鳴り散らすニレにも、もうサヤコさんは怯える様子を見せなかった。火の粉の舞う中、さっきとは反対に私の前に立ち、しっかりと上を見上げながら凛とした表情で、決意に満ちた目をサヤコさんは天に向ける。

 

「私はもう、あなたなんか怖くない。

確かに、『本物の』サヤコなら、あなたに歯向かうなんて事しないでしょうね。

けれど……ムラサキは()を必要としてくれた。『作り上げられた』偽物の私にすら、人間として生きる意味を与えてくれた。

だから、闘うわ。あなたに支配されるという最大の恐怖に、私は打ち勝ってみせる」

 

 オレンジ色の炎を反射した長い黒髪が、吹き渡る風に靡く。

 その横顔は、私が今まで見てきたどんなサヤコさんよりも、頼もしいものだった。



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1-7 炎舞

サヤコとの植能の融合により、新たな力を目覚めさせたムラサキ。
しかし、その後も絶体絶命のピンチが次々と二人を襲う。

※本ページには、犬との戦闘というストーリー上犬への暴力的な描写が含まれます。
(バーチャルの犬なのでリアルなものではないです)
苦手な方はご注意ください。


「サヤコさん……すごい、すごいよ」

 

 よく見たら、私を庇うように立つ脚が微かに震えている。これまで長い間自分を支配してきた恐れに反旗を翻すような真似は、どれ程勇気が要っただろう。きっとニレも、サヤコさん自身も想定していなかった叛逆。並大抵の力で出来る事ではない。

 彼女は、自分の意思で「変えた」のだ。その瞬間をまざまざと目の前で見届けた私は、えも言われぬ感情で胸の奥がいっぱいになって——それに応えるように、火竜の纏った炎がぶわりと膨らんだ。

 

「いける……私達二人なら、負ける気なんてしないね!」

 

 電光石火のごとく、雷を纏って突進したことりの後に、私も続いた。

 袖へと燃え移った熱くはない不思議な炎が、衣の色を変える。渦巻く炎を纏って振袖のようになった着物の腕を、怯んだ野犬の前に飛び出して思いっきり振ると、狂ったように唸りを上げていた犬たちは、光に目が眩んだのか、それとも火の粉が振りかかったのか、悲鳴を上げて退散した。

 神職にも神楽にも微塵も造詣がないけど、微かに聞こえてくる笛太鼓に合わせて身に纏った炎を振り捨てていると、まるで巫女舞でもしているかのようだ。サラマンダーは背中の硬い鱗が身を守っているおかげで、野犬に噛み付かれてもそれを意にも介さず、強力な火炎放射で周囲を焼き尽くしていた。炎に囲まれた舞台でブーツの脚を踏み鳴らすと、それだけでテンションが上がってくる。

 

「おらおらー! どっか行k……ひゃあ!」

「キドニー! 濾過しなさい!」

 

 不意に炎の中から捨て身で飛び出してきた犬が、私に襲いかかった。金色に目を光らせ、体毛がピンクっぽい赤に燃えている犬は、さながらライオンのようだ。

 驚き、尻餅をつきそうな私の腕を掴んで背後に放りながら、サヤコさんがご自慢の鞭を綺麗に獲物へと打ち付ける。私の身から掬った炎を乗せた鞭の威力にやられた犬は、きゃいんきゃいんと吠えながら業火の中に消えていった。

 

「ありがとサヤコさん! ナイスアシスト!」

「まったく、調子に乗りすぎよ、あなたは」

 

 呆れながらも、サヤコさんは口元に微笑みさえ浮かべながら、私に手を差し出す。

 やがて、火の燃え移った茂みの真ん中がじわじわと口を開けて、見覚えのある風景を映し出した。見えているのは茂みの向こう側にあるはずの地面や山ではなく、明らかに別の空間だ。そこだけ、山野ではなく現代ちっくな鈍い光を放っている。

 

「廃線のチューブの中だ……!」

「あそこね。行きましょう!」

 

 私の手を取ったサヤコさんが、異空間の境目に向かって走り出した。地面を蹴りながら、境界線を潜り抜ける寸前。歯軋りしそうなニレの、呪わしい声が降り掛かる。

 

『バカめ……逃がさない。ボクが支配した空間から、そう簡単に出られると思ってるのか? チューブは、今は使われてない廃線なんだ。上層へ続く出口に辿り着く前に、終わりのない迷路で嬲り殺してあげるよ……!』

「うわ……っ!?」

 

 足元の地面がぐにゃりと歪んだ瞬間、バランスを崩してそこにいた犬の死骸を踏ん付けてしまい、靴底に熱を感じた。先を飛んでいたことりが、慌てて私のところへ戻ってくる。

 サヤコさんとも手を繋いでいたので、はぐれずには済んだが、浮遊感の後に地下鉄の路線内へと着地する直前、辺りの景色がまた揺れて、怪しげな配色へと変わっていく。眩暈がして、私はサヤコさんの体に寄り掛かってから、ようやく目を開けた。

 

「着いた……の……?」

「ええ。でも、まだニレの干渉する裏世界の領域を、完全には脱せていないみたい」

 

 硬い地面のコンクリートも、線路の跡も、薄く光るトンネルのような壁と通路も、私が見た「捕縛」での記憶通りだ。——そこかしこから犬の遠吠えが聞こえることと、目の前の線路が連結器でうじゃうじゃ枝分かれしていることを除けば。

 

「なんじゃこりゃあああああああ!?!?!?」

「ここの……チューブの空間を、エレメントの力で歪めているのよ。私達を迷わせて、外の世界に続く正しい道と出口へ行かせないつもりだわ」

「地下鉄が迷路化してるってこと……? そんな殺生な……」

 

 トホホという気分で、私は目先のあり得ない本数に分かれ続けるトンネルを見つめた。さっきのおどろおどろしい空間が廃村系ホラーだとしたら、こっちはゾンビ映画みたいな不気味さがある。トンネルの上部や横側を走るパイプ管から、どかどかっと動物の走るような音、鼻息や鳴き声が絶え間なく聞こえていて、私は身を竦ませた。

 

「こ、これじゃどっから襲われるかわからないよ〜!」

「落ち着いて。送り犬や迎え犬の習性は、本来、山を歩く人間を目的地までつけ回して送り届ける事だから、歯向かわなければ危害は加えて来ないはずよ。

……少し、整理しましょう。私が見た情報では確か……道中で転んでしまうとたちまち襲われるけれど、転んでも座り込むフリをしたり、わざとらしく声を出して休憩する素振りを見せれば、襲われないって。それに、迎え犬は高い位置からこちらを観察していて、現れる時は必ず頭上を飛び越えて前に回り込む習性があったはずよ」

「うわあああ裏切り者助かる! 情報サンクス! ってことは、とりあえず頭上に注意して、あとは転ばないように気を付ければいいんだね?」

 

 とりあえず、大人しく出口を探している分には、こちらに首を突っ込んで来ないと信じたい。

 サヤコさんが肩を抱いてくれたおかげで気分が落ち着いたので、私は顔を上げて、地下迷宮のようなチューブを見渡した。

 

「直角とか斜めとか、線路にしてはあり得ない向きで曲がってるね……。しかもなんか、普通に階段があったり、真上を走ったりしてるところがあるみたいなんだけど……本当に迷路じゃん」

「逆に、地下鉄にはあり得ないような構成の道が出て来なくなったら、現実の地上階に近付いたって事になるのかしら。私達の知ってるチューブの『どこか』に出るまで、歩いて探し続けるしかないわね」

「うう……いっそのこと、さっきのサラマンダーちゃんの爆発で、どかーんっと天井ごと吹き飛ばせない? 地面で爆発が起きれば、地上にいる誰かが気付いてくれるかも」

「それはアリでしょうけど、あまり深層部でやっても意味がないわよ。確実に表の世界との境目だって分かるところでやらないと……それにあなたも、あまり乱発しないで体力は取っておいた方がいいでしょう。さっきは辛そうに見えたし、本当は途中で止めようと思ったのよ」

「! あはは、ありがとう……」

 

 さすがというか、元々繊細で人の顔色に敏感な人なのだろう。植能の発動に伴う身体的な怠さまでバレていたとは驚いたが、気遣わしげに首筋に手を当ててくれるサヤコさんに私は感謝した。

 

「まだ少し熱いわ。……ニレから特殊性は聞いていたけれど、やっぱりその植能を発動させるには負荷がかかるのね。その上私のアドリナルまで渡してしまったせいで、余計に……」

「大丈夫だよ。サヤコさんが気にしないで。むしろ、これがなかったらあの場を乗り切れなかったんだから。でも、そうだね、今はサヤちゃんを召喚するのはやめて温存しとこう。ここの壁を、外の世界に向けて打ち破れるほどの怪力を持ってるのは、今の所この子だけみたいだし」

「……何、そのサヤちゃんって」

「あ、ほら、サラマンダーだからサラちゃんにしよっかな? って思ったんだけど、サヤコさんとこのアドリナルで生まれたから、サヤコさんの名前入れてた方がいいかなぁって思って、サヤちゃん」

「まったく、もう……こんな時に、あなたって本当に呑気なんだから」

 

 どうしようもないな、という表情を浮かべながらも、サヤコさんは疑いようもなく笑っていた。その笑顔に安心しながら、私は気を取り直してサヤコさんの手をぎゅっと握り、迷路の先を見つめる。

 

「ここから出たら、もう一回二人でデート行こっ。ニレの話とかエレメントの話とか、関係なく。ほんっとーに、ただただお茶しに来た友達として。あのケーキとサンドイッチ、すっごく美味しかったのに全然味わからなかったんだもん。ことりだってずーっと不機嫌な顔してたし」

「でも、私はきっとSOATに捕まるでしょう?」

「ぐ……それはそうだけど、協力するって言ったら、一日くらいはユイトが出してくれるかも……も、もしダメだったら私、アフタヌーンティー持って牢屋に行くから!」

「ふふ。ありがと。その気持ちだけでも今は十分よ」

 

 こちらを向いたサヤコさんが、ネオンライトに照らされた色白な顔で微笑んでみせる。

 サヤコさんの口からありがとう、なんて、私が覗いた事のある過去のセブンスコードの映像では、見たことも聞いたこともなかった。こんなに可愛い顔で笑うんだ。危険な状況下にあることも忘れて、思わず見惚れてしまうくらい、無邪気で可憐な顔だった。

 けれど、平穏な時間は長くは続かなかったようで——頭の上をひゅっと影が飛び抜けたかと思うと、前方にずざっと足音をさせながら回り込み、唸りを上げる犬達が現れた。

 

「ひゃっ!?!?!?」

「ウグルルルルル」

「ギャオーン!」

 

 その反響する吠え声に呼び寄せられたのか、枝分かれしたトンネルの入り口からも、ぞろぞろと別の犬が現れて、警戒するように毛を逆立てている。今にも一触即発という感じだ。

 足を止めたまま、犬たちを刺激しないようにと、私達はくるりと後ろを向いて小声でひそひそと言い合った。

 

「な、なんで〜!?!? こっちからは積極的に襲うような真似はしてないのに……!」

「忘れてたわ……。『転んだ人間を一斉に襲う』習性があるのなら、それはこちらが転ぶまで悠長に待ってなんてくれないでしょうね。何が何でも、こちらに体当たりして転ばせようとする個体がいても不思議じゃない」

 

 思わず溜息を吐いて頭を振るサヤコさん。確かにその通りだ。お尻を後ろに下げ、今にも弾丸のようにこちらへ向かって来ようとする犬達を見て、私は必死で考える。

 数匹はサヤコさんの鞭で撃退できるとして、さすがに全部は無理だろう。最後の最後、出口破壊用にサラマンダーを温存しておく意味でも、アドリナルをここで使い過ぎるのは得策ではない。

 

(でも……ちょっと待って。サラマンダーがアドリナルとウームの融合ってことは、私の植能だけで扱える力が、まだ残ってる?)

 

 〝魅了〟の力も、催眠改め〝帯電〟の力もそうだった。植能は、どこにあるかを自覚して命じなければ使えない。淫紋を経由して植能を発動する私にも、模様ごとに異なる力があり、それを『覚醒』できれば意図して使うことができるのだと、ミソラが言っていた。

 ただ、私にもそれが何なのかわからない以上、自分の頭で考えて定義づけるしかないのだが。暴走したことりを抑えようと、とっさに催眠の力を引き出した時のように。

 

「ムラサキ! 背後からも追ってきてるみたい……退路を絶たれたわね」

「嘘!? しかもあいつら、なんか今までの犬よりおっきくないっ!?」

 

 大きいし、雰囲気がどことなく野犬のそれとは違う。なんだか神々しいというか……毛も犬よりふさふさだし、大柄なフォルムだし、耳が縦にぴんと高く立った、背筋を伸ばした立ち姿が、頭上のパイプ管に佇んでこちらを見下ろしている。その影が、俄かに喉を反らして遠吠えを上げた。

 

「アオオオオオオオン!」

 

 それはそれは、トンネル全体がビリビリと震えるような——恐ろしくて私もサヤコさんも、野犬の群れでさえも凍りついてしまうような吠え声だった。長らくこの地上で生きてきた生物の本能に、遺伝子に、芯から恐れを植え付けるような、野生味溢れる咆哮。

 

「こ……これ、は、犬じゃなく、狼……?」

「キャイン、キャインッッ」

 

 幸か不幸か、目の前にいた犬達は完全に恐れをなして、私達のことなど忘れたかのように、一目散にトンネルの先へと散っていく。私達も、パイプからしゅたりと飛び降りてこちらへ向かって来る狼に追われるようにして、慌てて奥へと駆け出した。

 

「や、やだなにあれ! 迎え犬と送り犬の次は送り狼〜!?」

「そうらしいわね……。本当に、次から次へとよく考えつくわ」

 

 けれど、不思議なことに、狼の方は近付いてくるだけで襲ってくる気配がないのだった。ひたひたっ、と足音がして慌てて走ると、少し距離を空けてついてくる。もういなくなったか……と思うと上のパイプから足音がしたり、暗闇の中で目が光っていたり、近くで遠吠えがしたり。

 そのくせ迎え犬達のように直接眼前に姿を現すこともなく、ただただ、こちらが忘れた頃について来ている事をふと思い出させるかのように、その存在をアピールしてくるのだ。これはこれで不気味だった。

 水の流れる下水道のような場所に出て、少し息を切らしながら、私は背後を振り返る。

 

「襲われないのはありがたいけど、何がしたいんだろう……?」

「野生の狼って元々、自分の縄張りの中に侵入して来た者を、その外に出るまで尾け回す習性があるらしいわね。ただ歩いている分には、監視して縄張りの境まで付いてくるだけだって。送り狼の慣用句も、その習性が元になってるらしいわよ」

「へえ〜。サヤコさん詳しいね?」

「暇な時によく読んでたのよ、動物図鑑。そうすれば、誰とも話さないで済むし」

 

 確かにその通りかもしれないが、図鑑を読んで暇を潰すサヤコさんは何か可愛い。

 随分と深そうな排水溝を、黒い水がどうどうと流れている。水が落ちてくる方角が上層に近いだろうと思い、溝を尻目に流れへ逆らいながら通路を進んでいると、ちょろちょろ水を垂れ流す土管の中に、今度は唸りながらこちらを睨む金色の目が見えた。

 

「ウウウウウ」

「今度はこっちかあ……前門の虎、後門の狼って言うけど、これじゃ前門の犬、後門の狼だよ〜」

「どっちも犬科だけれどね。それにしても、ここは場所が悪いわ。左側は飛び込めば水だし、右側の通路に逃げれたらいいけれど……」

 

 もちろんそこも、犬達に塞がれている。かといって、あの狼達に出くわす事を考えれば、後戻りする気も起きない。

 

「も〜〜っ、結局闘うしかないのぉ?!」

 

 さっきまでの怠さがまだ引いた訳でもないし、いい加減にして欲しいと思いながら、私は鞭を使って敵をいなすサヤコさんと背中合わせで、ウームの植能を発動させた。

 おあつらえ向きに足元に落ちていた木の棒を掴み、植能を纏わせながら思いっきり振り回す。

 

「ウーム!対象を魅力!」

「キドニー! 濾過よ!」

「ぴーっ!」

 

 ことりが電撃を飛ばして応戦してくれているおかげで、通路の中はかなり明るい。それに合わせて、私も足元から拾い上げた棒を、取ってこいをするように通路の奥へ放った。案の定、魅了の植能に惹かれた犬が棒切れを追いかけ始めて、群れの統制が乱れる。

 

「うっ、ソフトボール投げ9mの私じゃさすがにこれ以上遠くには……」

「私に任せて」

「ぴよっ」

 

 サヤコさんの鞭がしなやかにうねり、拾い上げた棒を投げ飛ばす。さらにそこへ、ことりが羽ばたいた事による追い風が加わって、そのへんに散らばる瓦礫や小石が、植能の気配を孕んだまま一気に群れに襲いかかる。それに釣られた犬達がトンネル道のうちの一本へと走り去り、通路の入り口が空いた。

 

「よし、今のうち……!」

 

 丸く口を開けた入り口へと一気に駆け寄ったその時。

 今まで慌てていて起きなかったのが逆に不思議なくらいだが、通路の段差に足を掛けた瞬間、私は袴の裾を踏ん付けて盛大にすっ転んだ。

 運悪く、通路の前方にはまだ別の群れが控えていたようで、パイプの上からも唸り声と共に影が飛んでくる。

 

「……やば」

 

 少し先を走っていたサヤコさんとことりとの間に、割り込まれてしまった。慌てた顔でサヤコさんが振り返り、提灯のように発光したことりが気を引こうと飛び回るが、犬達の視線は私の方に集中している。

 でも、これは逆にチャンスかもしれない。今のうちに、二人だけでも……

 

「何してるの、ムラサキ! 早くこっちに……!」

「サヤコさん、大声出しちゃダメ!」

 

 思わず怒鳴ってしまったのも無理はないが、音に反応した犬達が、サヤコさん達の方を一斉にぐりっと向く。その足が動き出す前に、ふと右手に触れた硬いものに気がつくと、私はそれを意を決して握り締めた。全身を、ぞわりと植能の力が覆う。

 

「ウーム! 対象を魅了!」

 

 私とサヤコさん達の間にいる群れが邪魔だ。少なくとも、どちらか片側に寄せてしまいたい。

 前方と後方に獲物の気配がある事で、犬の群れに一瞬の間迷いが生じる。その間に、私は駆け出した。

 

「ウグルッ」

「でやあああああっ!」

 

 当然の如く、光る目がぎょろっと私の方を向く。行かすまいと飛び出した目の前の犬に向かって、私はさっき拾った大きめの木切れを——振り上げたつもりだった。でも何だか、思ったより軽い。あれっと思った瞬間、殴り倒したつもりだったのに、殴った衝撃はこの手に返って来なかった。それどころか、棒は犬の肉体に突っかえることすらなく——上から下に、カーテンを引き裂くように真っ二つにしてしまったのだ。

 

「えっ……?」

 

 電脳体特有のプリズムとノイズを散らして、一寸前まで私に牙を剥こうとしていた犬の姿が消える。サヤコさんも飛び散る光の向こうで驚いた顔をしているが、今は状況を把握している場合じゃない。

 

「うわあっ!」

 

 間髪入れずに右側から襲ってきた犬に驚いて、反射的に右手を振り払う。

 握っていたものを一薙ぎした途端、線を引くように斬られた犬達が断末魔を上げながら、煙となって消えていく。

 

「む、ムラサキ、あなたの手のそれ、一体どこで……?」

「なっ、なになに……?」

 

 どこも何も、さっきからこの通路にところどころ落ちてる、廃材同然の棒切れじゃないのか、これ。

 でも何か……とっさに握ったから意識してなかったけど、角張った木材とは違って、嫌に手に馴染む。まるで最初から、握って振るために作られていたみたいに。

 

「なっ……何これ……!?!?!!」

 

 右手から腕にかけて、炎のように立ち上る赤々とした光に面食らった。さっきから毛を逆立てた犬達の体表が時々発光するのが見えているが、それと同じ色。何よりびっくりなのは、その手に握られていたのが、鈍色に光るご立派な西洋風の剣だった事だ。ナックルガードと柄がついた、細身のサーベルのような剣。薄暗がりの中だからか、刀身は赤黒く見える。

 でも、じっくり観察してる暇はなかった。まだ、私の後方から迫ってくる犬達が残っている。

 ことりが照らしてくれた道の先に二叉路があり、右側の道の先に狼の尾が一瞬揺れるのを認めた私は反射的に左へと曲がった。

 階段を上がりながら、息を切らしたサヤコさんが声を上げる。

 

「上には向かってるみたいだけど、どの道あいつらを一旦引き剥がさないことには、ゆっくり道を選んでる暇もないわね……!」

「だよね!行き止まりまで追い込まれたらマズい……!」

 

 今の所、道はどこかへ繋がっているのでそんな気配はなかったが、可能性はゼロではないだろう。さっきみたいに、逃げにくい場所で囲まれるのもよろしくない。

 

「こうなったら……」

 

 この階段を利用してやろう、と思った私は、登り切った場所で剣を逆手に構えた。そのとき。

 

「きゃああっ!?」

「サヤコさんっ!?」

 

 背後にしか敵はいないと思っていた私は、うっかり油断した。再び現れた広い地下鉄の線路らしき道にも、うようよと犬が放たれている。さすがは「迎え犬」の名前通り、執拗で先回りに長けたエレメントの怪物だ。

 そのうちの一匹が前へ飛び出して来たのを見て、私はとっさにサヤコさんを背中で押しやるようにしながら、左腕でぞろりと牙の並んだ口をガードした。

 

「ぐ……っ!?!?」

 

 バーチャルの世界だからか想像ほどは痛くないけど、血の噴き出す感覚と筋肉や骨の粉砕音が、シンプルに気持ち悪い。絵面がグロいし怖すぎる。たとえ痛覚を感じる神経を全部抜かれていたとしても、視覚情報だけで頭が激痛を錯覚しそうだ。

 けど、ここまで格好付けておいて、今更引き上がるわけにいかない。返り血を浴びたサヤコさんを背後に庇いながら、にやりと私は涙目で口角を持ち上げる。

 

「……肉を切らせて骨を断つ、ってね!」

 

 その瞬間、私に躊躇はなかった。

 腕に噛み付いた犬へ、思いっきり剣の柄で一撃を食らわせる。

 きゃひん、と鳴いた犬は丁度階段の入り口あたりに吹き飛ばされ、私達を追って登ってきた犬の群れに激突し、そのまま連鎖的に階段を転がり落ちていった。

 ぜえぜえと暗くなる視界で息を切らし、私も脚を引き摺って体勢を立て直す。が、こちらが何かするまでもなく、前方に残っていた犬の動きがぴたりと止まった。

 尻尾を股の間に入れながら、群れ全体が何かに怯えている。またしても狼が接近中かと思ったが、鳴き声が遠くに聞こえるだけで姿はないし、そもそも私を見て怯えているような。

 

(何……? っていうか、そもそも私、剣なんてどこから……)

 

 状況が状況なので全く突っ込まないでいたけど、何でいきなりこんな都合よく、勇者のお助けアイテム的なものが落ちていたのかが、全くわからない。

 子宮(ウーム)の植能は、他の植能と違って目に見える武器には顕現しない。剣を出す力なんてなかったと思うんだけど。

 そう思ってふと手元を見ようとした私は、血の滴る腕の背後から、ちろちろと細長い何かが舌を出していることに気が付いた。

 

(っ! !!!??!?!??)

 

 危うく、右手に握ったままの剣を取り落すところだった。

 腰から幾本もの黒い頭が――蛇の頭が、まるで帯飾りか羽根のように広がって、白い眼を光らせながら犬に向かって牙を向いている。

 生々しい鱗の光沢に、間近で蛇を見慣れていない私は思わずぞわりと肌が粟立ったけれど、さっきまでこんなものいなかったし、腰から生えているということは、私が出したに違いない。私が動くと、蛇もそれに合わせてついてくるのだ。

 まさかと思っておそるおそる右手をよーく見れば、それは剣ではなく、剣を象った蛇だった。柄の方にも何匹かいて、私の手から離れないように、まるで柄自体が意志を持っているようにして、私の手にぎっちりと巻き付いている。

 

「な、なんかわかんないけど、これで倒せってこと……?」

 

 後ずさりながらも、犬達のうなり声は酷くなるばかりだ。サヤコさんは、もはや妖しげな形態と化してしまった私の袴の帯あたりを眺めて慄きつつも、なんとか一生懸命頭を働かせようとしてくれているようだった。

 

「何で急に、こんな……?これ、あなたの植能なの?」

「う、うん。でも、新しくウームの力が発動するには、エレメントの力を紋の内側に封印してるのが条件だって、ソラが確か言って……」

 

 確かに何匹かはここの犬達を討伐したが、それらしい奴はいただろうかとふと思い返し、話しているうちに私は思い出した。

 

「そういえばさっき私、この地下通路に移動してくる直前に、迎え犬の死骸を踏んで……」

 

 あの時、靴の裏が焦げるように熱くなった気配がした。実際に靴がダメージを受けたような形跡はなかったから不思議に思っていたのだけど、あれがエレメントだったのだとしたら。

 

「この犬達は炎のエレメントで作られていて、あの時その力を、私が淫紋の中に吸収してたってこと?」

 

 不意に、腰のあたりがずんと重くなるのを感じた。

 じゃあこれが、新たな子宮(ウーム)の力の『覚醒』の準備が整ったということか。サラマンダーになった時は思いっきり火を吹いたけれど、この子達にもそれに似た力があるんだろうか。

 けど、そもそもこの蛇たち、何をしてくれるかもよくわからないのに、いきなりこれを使って倒せとか、初見殺しにもほどがあるだろう。剣を出せるのは確かに強いが、武術の経験もない人間にこれを使って敵を倒せというのは、いくらなんでも無茶振りが過ぎる。もっと何か、他の——

 

(メドゥーサだったら、相手の動きを止められるんだろうけど……)

 

 もしそうなら、今頃目が合っている犬たちは私もろとも石化しているはずだ。そもそも石化の能力は、ミライさんと被っちゃうし。

 蛇にまつわる特性と、この植能に共通しそうな点を必死で考える。前回と同じなら、私が意図的に、無理矢理にでもこじつけて見つけなければ、紋の能力は発動しないはずだ。

 

(目……目を惹く……そうだ)

 

 ふと思いついたことを試すべく、私はよろつく足で、蛇を纏わせながらふらふらと移動してみた。地下道の左側へ動くと、犬たちの視線も追って来る。右側へ寄ると、今度はその場を動かないままこちらを目で追っている。

 それだけだと野生の習性で片付けられるかもしれないので、私は腰にいた蛇の一匹に目配せをすると、配管を伝って傍の溝から顔を出してもらった。

 途端、犬たちは我先にと言わんばかりに、一匹の蛇へ吠えたて、互いを踏みつけるのも構わず押し合いへし合い噛み付こうとした。目の前に、もっと沢山の蛇を伴った私がいるにも関わらず。

 

(やっぱり)

 

 腕から流れる血が酷くて、もうそんなに体力が持ちそうにない。

 私は飛び退るように一旦通路の後ろへ下がると、心配そうに支えてくれたサヤコさんに告げた。

 

「サヤコさん……渡しちゃったって言ってたけど、さっきみたいに私の炎を経由すれば、アドリナルの植能をサヤコさんも使える?」

「え? え、ええ……私が直接触れたり、この鞭を使えば多分……でも、どうして?」

「私が囮になるから、その隙に、あいつらの横を抜けて先に行って。挟み撃ちしよう」

「何言って……! だいたい、あんなに沢山いるのに、私だけ無事で済むわけないでしょう!? そのためだけに、あなたが犠牲になるなんて……!」

「大丈夫、少なくとも、サヤコさんだけは安全に向こう側に行けるようにする。私のことは……最悪、ことりと一緒にその後で助けを呼んでくれればいい。あいつら絶対に、私にしか(・・・・)襲い掛かって来ないから」

 

 私の推測が正しければ。私の決めつけた能力が正しければ。

 不安そうにのぞき込む彼女の背を、私はとんと押した。

 

「どのみち、ここを抜けなきゃ帰れないでしょ。生き残ってやろうよ」

 

 そう言うと、ようやく決心を固めたように、サヤコさんはまっすぐに前を向いた。本来のひたむきさと強さが、その瞳に輝きを宿している。いい目だ。

 深く息を吐いて、私は血の湧き出る腕を押さえながら一歩前へ出た。右手に握っていた剣が、するすると元の蛇の形に戻っていく。これからやる事に、剣は必要ない。ただ、私が囮になりさえすれば。

 血の匂いが興奮を沸き立てるのか、辺りに散らばった犬達は皆獰猛そうな鼻息を漏らしている。サヤコさんが走り抜ける隙間さえ、ここに作れたら。

 

子宮(ウーム)——執着心に“着火”!」

 

 腰に背負っていた蛇達が、一斉に松明のような赤い炎を灯した瞬間。気が狂ったような唸り声を上げて、犬達が弾丸の如くこちらへ走って来た。食いつこうとする頭を、身をくねらせた蛇達がその身でガードする。叩き落とし、噛みつき、地面へ組み伏せる。繭のように身を丸めて、私を守ってくれた蛇もいた。

 でもさすがに、そこまでの芸当が出来る大きな蛇は、私の体に入っていた紋様の数と同じ、六匹だけ。小さな蛇達も頑張ってくれているけど、次々と食いちぎられ、泥のように地面に投げ捨てられていく。私に敵の牙が届くまで、長くは持たない。火事の最中にいるかのような、炎の熱が熱い。耳が潰れそうな鳴き声の轟音と、ガチガチ鳴る牙の音に怯えながら、私は細目を開けて道の向こうを見据えた。

 

(もう少し……道の先にいた奴らを、全員こっちに惹きつけるまで)

 

 遠くから駆けてくる獣の足音が、コンクリートに反響する。あの道の先は、今までになく明るかった。もうかなり出口に近い場所にいるはずなのだ。だったらここで、始末をつけてやる。

 ぶわりと熱風を顔に感じ、喉ごと火傷しそうになりながら息を吸い込んだ時。私が叫ぶより先に、サヤコさんが動いた。

 

「まったく、合図が遅すぎるわよ。私をもっと頼りなさい!」

 

 助走をつけて私の背中にばんっと手をつき、踏み台代わりに炎を切り裂いて飛び越したサヤコさんは、体操選手のように華麗に一回転しながら、鞭を取り出す。

 

「アドリナル! 闘争を惹起(じゃっき)! 燃やし尽くしなさい!」

 

 完全なる奇襲に、犬達は虚を衝かれたようだった。振り返ってそちらを反撃する暇もなく、サヤコさんの炎を纏った鞭が猛然と襲い掛かる。天から降ってきた不死鳥のように鞭を踊らせたサヤコさんは、その一撃で集まっていた犬達を消し去った。じゅうっという音と共に、辺りに煙の匂いが充満する。

 

「す、ごい……ふふ、やった……っ」

「ムラサキ!」

 

 崩れ落ちそうになる私を、サヤコさんが駆け寄ってきて支える。辛うじて地面に激突は避けられたが、もうフラフラだ。なんとか自分の植能だけは扱えたけど、アドリナルを使ってここから脱出するより先に、私の方が力尽きるかもしれない。

 足には転んだ以上の怪我はしていなかったけれど、サヤコさんは間髪を容れずに私をおぶって立ち上がった。ふらつくとわかると、一旦私を下ろしてヒールを脱ぎ捨て、裸足になってまで私を背負おうとする。

 

「いいよ……私、重いし……それにサヤコさん、怪我しちゃう……」

「バカ言わないで。あなたを置いて行けるはずないでしょう。これでも元SOATよ。あなた一人救えないでどうするのよ……っ」

 

 想像だにしなかった答えに目を見開いていると、掛け声を上げてサヤコさんが私を持ち上げる。心配そうにことりが飛ぶ羽音が、確かに顔の両側で聞こえていた。

 危機は去ったかに思えたが、さっきは遠かった狼の遠吠えが、パイプ管の上あたりで響き渡る。

 

「ウオオオオオン……」

「ぐずぐずしてると、またあいつらが来るわね……迎え犬と送り狼、両方に挟み撃ちでもされたら厄介だわ。行きましょう」

 

 瓦礫の少ない場所を選んで、サヤコさんが剥き出しの線路の脇に作られた非常用通路を歩き出す。ことりは鳴きながら先を飛んで、サヤコさんがゴミやガラスを踏まないように、教えてくれているらしかった。

 反響する音を頼りに、サヤコさんは道を選んで進んでいく。時々足を止めて、鳴き声のしない方角を選んでいるようだ。トンネルの内部は、手入れもされていないオンボロな真っ暗のトンネルから、高速道路のトンネル程度には明るくなってきて、もう目と鼻の先まで元の世界が近付いてきたのを感じる。

 息を呑むような間を置いてから、サヤコさんが言った。

 

「ここ……見覚えがある。ニレがこの先の空間にまで手出ししていなければ、チューブの駅まではもう少しのはずよ」

「ほんと?」

「ええ。まだ枝分かれは続いてるけど、方角的には合っていると思う。廃線だから今はバリケードで塞がれているでしょうけど、ターミナルに続く地下道の入り口まで行って破壊すれば、表に出られるはずだわ」

「そっか、よかった……」

 

 安堵感と共に襲ってくる眠気と闘いつつ、細いけれども意外にしっかりしたサヤコさんの背中に両手を回してしがみ付きながら、私はふと呟いた。

 

「……ね、サヤコさん。一個、クイズ出してもいい?」

「は、はぁ!? こんな重傷の時に何言ってるのよ!?!? 大人しくなさい!」

「あるホラーゲームの中に幽霊Aがいて、さらにその先には、より強力な幽霊Bが出現する地点がある。プレイヤーに身を守る手段はなく、触れたら即死。どちらの幽霊が来ても逃げるしかないけど、幽霊Aには一時回避の技やアイテムが効き、一定の距離を空ければプレイヤーを見失うのに対して、幽霊Bには全く何も効かないし、どこにいてもプレイヤーを見失わずに必ず追いかけて来る。明らかにBの方が危険度は高いし、出さずに済むなら出さずに通り過ぎた方がいい」

「ね、ねえ、ムラサキ? 何言って……」

「ところが、あるプレイヤーは幽霊Aを退けることなく、それどころか敢えて幽霊Bを出現させた上で、セーブポイントまで脱出に成功した。それは何故か?」

「……」

 

 私が無意味にこんな事を羅列するはずはないと思ったのか、サヤコさんは沈黙して考え始めた。そして、私の求める答えに辿り着いたようだった。

 

「ムラサキ……まさか」

「ね。上手くいけば、一回も襲われずに済むと思わない?」

 

 あたりの風景は随分と現代的になってきたが、遠吠えや足音はそこかしこから追ってくる。敢えてそちらに向かわないようにしていたサヤコさんは、とある方角へと足取りを変えた。

 それを合図に、私は目を閉じたままことりを呼ぶ。

 

「……ことり」

「ぴぃ?」

「多分、もうすぐ電波が届く階層に出られると思うの。あなた一匹なら、犬達のいないところを上手く飛んで、出られると思うから……先へ飛んで、ヨハネさんに知らせてきて。ちょっとでもSOATの探知機があなたを拾えば、居場所を見つける手掛かりになるはず……でも、無理しちゃだめだからね。危なくなったら、すぐに戻ってきて」

「! ぴぃっ!」

 

 ぱさぱさと元気よく羽音をさせて、ことりが遠ざかる気配がした。私がこんな状態では、あの子にこれ以上植能の力は分けてあげられない。けれど、あの子が纏った微弱な電波が少しでも地表に届けば、役に立つはずだ。

 心配そうに顔を上げて、サヤコさんが呟いた。

 

「あんなに小さいのに、無事でここを抜けてくれるかしら、あの子」

「きっと平気だよ。それに……それに、大丈夫。ヨハネさんなら絶対、私たちを見つけてくれるから」

 

 もうずっと、たったの一日なのに、何年も長い間会ってないような気さえする。

 ヨハネさん。……ヨハネさん。

 大丈夫。絶対、世界中どこにいても探し出してくれるって、やくそくしたから。

 だから、おねがい。

 どうかおねがい。私のことをみつけて。

 暗くなっていく視界の中で、私は手に持っていたものを、祈るように強く強く握り締めた。



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1-8 桜花

ムラサキを捜索中のヨハネ達。
ミライからの情報を得て、次々に隊員が飲まれる地下トンネルの内部へとヨハネも侵入する。

一方で、負傷したムラサキを背負いながら異空間の出口を探すサヤコは、何とか表の階層へ近い出入り口へと辿り着いた。
しかしそこで、意外な人物と出会い……?


「ねぇっ、まだ見つからないのッ!?!?」

「申し訳ありませんっ、市中をくまなく捜索しているのですが、あれ以来どこにも反応が……!」

 

 傍の隊員に思わず声を荒げてしまった自分自身に苛立って、ボクは強く自分の隊服に包まれた太腿を抓った。

 他人を罵る以前に、罵られるべきなのはボクの方じゃないか。あんな……あんなにあっさり、目の前からサヤコとムラサキを逃しておいて。挙げ句の果て、消えてから2時間経っても、まだ見つけられないとか。自分の愚鈍さにウンザリする。

 あれだけムラサキの植能なら見間違えるはずがない、みたいな事を言っておきながら、この足でどれだけ近辺を走り回っても、痕跡ひとつ見つけられないのだった。あの煙幕にどんな効果があったにしろ、そこまで遠くに行っているはずがないと思ったのに、ここまでくまなく探しても見つからないとは。

 もし、市中を遥かに超えるテレポート能力でも、あの煙幕弾にあったのだとしたら。このセブンスコードという電脳空間は、公式でテレポートを使う事もできるわけで、ちょっとその機能をハッキングしてパクリでもすれば、不可能ってことはないはずだ。さすがに一人の足が捜索できる範囲内には限界があるし、それまでムラサキが無事でいてくれるかどうか。

 

(……いや。気弱な事を考えてちゃダメだ)

 

 諦めるな、櫟夜翰。

 ぶるりと強く頭を振って、イヤな想像を思いっきり追い払う。

 「諦める」の語源は、一説には「明らめる」だ。まだこの目に映せる真実がある限り、ボクは——

 もう一度探しに行こうと仮設テントを出かけたその時、隊員の一人が声を上げた。

 

「隊長!!! レーダーに反応がっ!」

「ホントッ!?!?」

 

 思いっきり、傍の机をバンッと叩きながらボクは駆け寄った。

 サキの植能は、コルニアが使えるボク以外の人間には見えない。ということは、このレーダーが拾った反応は、サキから植能の力を与えられて放電と電波操作の訓練を積んだ、ことりの物に違いなかった。

 

「あいつら、一体どこに……って、ここの近くなのッ!?」

「そんな。このエリアは、ついさっきも捜索済みのはずです!」

 

 ボク自ら率いる隊に、こんな簡単な場所を見逃すような落ち度があるとも思えない。眉を顰めてことりの点を見つめているうちに、その画面にはノイズが走り、セブンスコードの地図上の座標を次々に点滅して移動していく。不可解な現象に、ボクは思わず声を上げた。

 

「どういうことッ? こんな短時間で、一瞬で移動する手段なんてあるわけ……!」

「ワープでしょうか……? それにしても、あまりにも急すぎます。都市のワープ機能では、あり得ない速度と頻度で座標が……このノイズも気に掛かります」

「クヌギ隊長! カタギリ隊長から緊急通信が!」

 

 隊員から差し出された無線機を、即座に受け取る。凛とした声が聞こえてきた。

 

『クヌギか。先程観測チームが、都市のバイタルに大きな動きを観測した』

「何だって!? 今まで落ち着いてたんじゃ……」

『ああ、捕縛以降はさしたる乱れもなかった。それが今、捕縛の発生当初か、それ以上の強さで波長を乱している。発生源をそちらの端末に送るぞ』

 

 送られてきた添付ファイルを、ボクと隊員が腕時計型の端末で一斉に開く。手の甲に現れた地図に、ボクらは息を呑んだ。

 

「ここって……チューブの沿線上!?」

『ああ、そうだ。丁度、ムラサキの消えたあたりから環状のチューブに沿って、大きな乱れの発生点がぐるりと輪を描くように配置されている。だが、そちらに何か目立って大きな変化はないんだな?』

「捜索中に、エレメント絡みの不可思議な現象は起きてなかったと思うけど……ッそうだっ、そこの君! ミライ隊長の地図を、探知機の画面に同期させてみて!」

「了解です!」

 

 現在進行形で乱れている、ことりの発信源が次々と現れ続ける画面に、環状に色を塗られた地図がレイヤー状に重なる。点が現れる場所は、色を塗られた範囲内にぴったり収まっていた。画面を見上げたまま、思わず唾を飛ばしそうな勢いで叫ぶ。

 

「わかった……わかったよミライ隊長! 地下だ! この下にムラサキ達がいる!」

『何だと!? そうか……廃線で誰もいないチューブを、逃走経路に使ったのか』

「でも、画面の表示がおかしい……この乱れ方の感じ、エレメントか何かの影響で、チューブに空間的な歪みが起きてる可能性がある。それが原因で、都市のバイタルにも乱れが起きてるんだと思う。ボクは今から、隊員達と近くのターミナルに向かってみるから」

『わかった、こちらでも調べてみよう。十分気をつけるようにな』

 

 通信を切り、ボクらは手近な隊を分担させて、各柱の跡地でもある廃線の駅、ターミナルへと向かった。各ハルツィナ達が司っていた七本の柱は、元はこのセブンスコードを環状に巡る地下トラム、チューブの駅だった場所だ。柱の跡地は立ち入り禁止になっているので、当然チューブの入り口も、地下へ続く階段も封鎖されている。

 とりあえず、大通りからほど近かったCS座標にある、強欲の柱跡のターミナルへと到着。そのバリケードを打ち破って突入したボクらは、階段を駆け降りようとしてすぐに足を止める羽目になった。

 

「な、なんだあ……!?」

「これは……」

 

 隊員達が声を上げるのも無理はない。

 水銀のように波打つ、明らかに異空間の入り口とわかる境界が、ぽっかりと階段の先に口を開けていたからだ。

 唖然としている間に、次々と他の隊から連絡が入った。

 

『隊長! FY地点の色欲の柱跡に到着しましたが、地下の様子がおかしくて……!』

『JX地点の傲慢の柱跡ですが、こちらも同様です! 反応を感知したものの、すぐに消えてしまい……』

『うわっ!? なんだこいつらっ、野良犬の群れが溢れて……こちらMU地点です、応援を!』

「ちょっと待ってッ! みんな、合図があるまで突入を……もしもし!?」

『こ……ちら、憤怒……JR……地点ですっ、隊長、注意を……廃線の中が、まるで迷路……っ』

 

 ざーざーという音声の乱れの後にぶつっ、と音を立てて、最後に聞こえた隊の通信が切れる。敵の力を甘く見た自分の計画の浅はかさに、ボクは頭を抱えた。

 

「これじゃ、ミイラ取りがミイラじゃないか……」

「隊長、どうします……?」

「……仕方ない。もう何人かはこの空間の向こうに行ってしまったようだし、先に進んでみよう。でも何人かはここに残って。状況を本部に知らせるんだ。あと、危険だから周辺住民をここに近寄らせないように。支部と、各ターミナルで待機してる隊員達とも連携を取って」

「は、はいっ! 隊長も、どうかお気を付けて……!」

 

 内部の状態がわからない以上、あまり大勢の戦力を連れて行って帰れなくなるのも問題なので、ボクは二人だけ隊員を引き連れて、慎重に銀色の水面の内側へ歩みを進ませた。得体の知れない感触が気持ち悪いけど、この先にムラサキがいると思ったら、怖がってもいられない。

 目を開けると、ただの地下鉄の線路だったはずのチューブには、異様な光景が広がっていた。まるで蔦のように、縦横無尽に線路が張り巡らされている。今は倒壊してしまっているけど、かつて「捕縛」で柱の覚醒時に訪れた、各柱の内部の状況とほとんど変わらない。

 

「なんでこんなことに……これもサヤコのせいなのか……? 通信状況はどう?」

「この膜の傍にいれば、辛うじて音声は届くようですが、電波が悪いですね……ノイズが酷くて、通信もほとんど使い物になりません」

「でも、届くってことは、一応本部から見失うことはないってことだよね。じゃあ、君はここで待機。外との通信が途絶えないように、機器の状況をチェックして、出入り口を確保しておいて。危なくなったら、拳銃の発砲音で知らせること。一人でできる?」

「はいっ、もちろんです! 隊長は安心して、探索に行かれてください!」

 

 頼もしく敬礼を返してくれた隊員に頷き、ボクはもう一人を連れて奥へと歩き出した。

 

「さっき犬がどうとか言ってたけど、獣がいるのかな……?」

「かもしれないっすね……自分、田舎のばーちゃんちが牧場なんで、家畜とか犬とか色々飼ってるんすけど、どうにもここ、漂ってくる匂いが獣臭いっすよ」

「なるほどね……何がどうしてそうなってるのかはさておき、闘う備えだけはしておいた方がいいってことか」

 

 本当に、このセブンスコードで何をしでかしたらそうなるのか、犯人を捕まえて具に問い詰めたい気持ちだ。動物園でもないのに、なんでこんな、脱走した危険動物の捕獲任務みたいな仕事をやらなきゃいけないんだか。両手で予断なく拳銃を構えながら、ボクは溜め息を吐いた。

 

(ムラサキ……無事だといいけど)

 

 人懐っこい野良犬みたいな可愛らしい動物だったらいいが、もしそうじゃなかったら。

 自然と歩調を早めたその時、ついて来ていた若手の隊員が声を上げた。

 

「あ!」

「どうした?」

「今一瞬、探知機にことりさんの反応が……と思ったけど、すぐに消えたっす……」

 

 しょぼんとした彼が見せた画面には、確かに何も映っていない。すると、覗き込んでいる間にも、またぴかっと一瞬画面が光る。隊員がボクの目の前で叫んだ。

 

「あ! さっきはこの辺だったのに、なんで?」

「どうも場所が掴みづらいな……この先の電脳空間が、入り組んでるのかもしれない。反応があるってことは、近くにはいると思うんだけど。あまり離れると元の道がわからなくなる可能性もあるし、君には一旦ここで待機してもらう」

「ええっ!? けど、入り組んでるってことは、隊長はもっと深い場所に潜るって事っしょ!? ムラサキさんを探してる間に、隊長の方が迷子になっちゃうかもしれないじゃないっすか!?」

「ここまではほぼ一本道だから、君がここに立っていてくれさえすれば、合図が聞こえなくなることはないと思うけど、念のためこの端を持ってて。もしムラサキを見つけたら、ワイヤーを辿って戻るから。……もしこの生き物みたいな迷路が、原型を留めてくれてたら、だけど」

 

 腰に付けたワイヤーガンの先端を隊員に託すボクの目の前で、ぐにゃぐにゃと周囲の風景が蛇みたいに歪んで、また元通りになる。相当空間が不安定なようだ。いつ来た道が迷路と化すかもわからないし、急いだ方がいいかもしれない。

 

「ここなら、見えるかも……〈コルニア・改〉! ムラサキの痕跡を辿れ!」

 

 じっと目を凝らすけれど、微かに地響きが聞こえる地下道に自分の声が吸い込まれていくばかりで、植能のオーラは見えない。思わずボクは歯噛みした。

 

「クソ、これでもダメか……」

「ん? なんだ、これ」

 

 独り言のような隊員の声が聞こえて、ボクは目眩を起こしそうな左目の植能を一度解除してから、そちらに視線を移した。何かが風に流れてくるのを、その隊員は走って地面から摘んで拾い上げ、しげしげと眺める。

 

「こんな灰色っぽい空間なのに、異様に綺麗なのが目を引いてつい拾っちゃったんすけど……花びら? なんでこんなところに」

 

 訝しげに首を傾げる隊員の手元を覗こうと一歩を踏み出した瞬間、自分の真横からも、それと同じものが、ひらり、ひらりと舞っていくのが見えた。思わずボクは、爪先立って手で一片(ひとひら)掴み取る。

 

「これは……」

 

 グローブを外し、ボクは目を細めながら、褐色の指先で慎重にそれを摘んだ。確かに、ぱっと見は花びらと似ている。リアルでも見かけたことがある。多分桜の花だ。

 でも、直に触れて気が付いたが、材質は明らかに花じゃない。植物よりもずっと頑丈だし、その割にはくしゃくしゃとして、Vの字に切れ目が入った花びらの両縁が、千切られたようにギザギザだ。頭をふと、鮮明な既視感が過った。

 

「これ……どこかで……」

 

 最近、それも本当にごく最近、どこかで見たような気がする。思い出せ。

 片手で頭を叩いて記憶を辿ろうとした次の瞬間、思い出すよりも先に、頭の中にふわりと声が蘇った。

 

『え〜。ちょっとくらい贅沢したっていいでしょ? どうせ何枚も配るもんじゃなし。折角作れるなら、とびっきり可愛いデザインのにしてみたいじゃない。どう? 似合ってる?』

 

 かくれんぼを始める前、SOATの印刷機の前でのやり取り。

 あの時、ムラサキが恥ずかしげに、でもちょっと誇らしげに、その手に持っていたもの。あれは……

 

「ムラサキの名刺!!!」

 

 頭が爆発するような衝撃を受けて叫んだボクの隣で、隊員がビクッと体を震わせたが、構っていられなかった。

 そうだ。ムラサキの名刺だ。あんなバカみたいに凝った名刺、忘れようがない。裏返してよく見ると、文字が書いてある。拾ってみた他の破片も同様だった。五枚の花びら型の桜の名刺を、一枚ずつの欠片に千切って落としながら歩いてるんだ。おそらく、ボクに道標を知らせるために!

 

「てことは、この花びらの流れてくる方向を辿れば……」

 

 一度息を大きく吸い込んで目を閉じ、ボクはもう一度、左角膜(相棒)に命じた。

 

「〈コルニア・改〉。ムラサキの居場所を、辿ってくれ……!」

 

 途端、視界が薄紫と桃色にぶわっと染まる。ライトアップされた夜桜の下にいるかのような大量の花びらが、一斉に通路の奥から舞った。

 

(ああ……これだ)

 

 思わず導かれるように、ふらりと歩き出した。香りはしないのに、匂い立つように、あるいはボクの伸ばした指先で遊ぶように、ちらちらと舞って降ってくる、美しい花弁。あんたの頬みたいにすぐぱっぱと赤くなって、人の手をすり抜けてばっかの悪戯者で、そのくせ儚げな、あんたにそっくりの桜の花。

 拾い集める破片が手に触れる分、目に見える花びらの数も多くなる。多分、あんたがずっと握っていたから、汗と一緒に植能が染み付いていたんだろう。

 

 ねえ、ムラサキ。知ってる?

 前に、なんで居場所がわかるのかって、ボクに聞いたことあったよね。

 コルニア・改で見える植能の痕跡の見え方は、人によって違っている。はっきりと見えないこともある。

 でも、あんたの痕跡は——あんたの子宮(ウーム)は、桜の花なんだ。

 行くとこ隠れるとこ、全部桜の花びらが落ちてる。うっかり植能を切り忘れると、見つけたあんたの頭上に満開の花と花びらが幾つも舞っていて、あんまり綺麗で見てらんないから、思わずそっぽを向くぐらい。

 そりゃ、わかるに決まってるでしょ。あんたの傍に、いつもひらひら舞ってるんだもの。それが、ボクの傍にいる間は殊更ものすごく増えてるなんて、それが何でなのかなんて、あまりに野暮で、気付いた時はどうしたらいいかわからなかった。

 でも——これだけは言える。あんたの痕跡を、見間違えるはずがない。絶対に、この花びらの導く先へ、辿り着いてみせるから。だから、もう少しだけ待っていて。

 

 もう、道標になった名刺の花びらと、植能の花びらの見分けがつかないくらいに、コンクリートの上は白っぽい花だらけで道筋がよく見える。その中にふと、桜桃(さくらんぼ)のような色の濃い花びらを見つけ、舞い降りて来たのを何気なく手に取ったボクは、思わず背筋が寒くなり、心臓をぎゅっと掴まれたように苦しくなった。紙の色じゃない。指にべったりと貼り付いたそれは、血で湿って赤くなっていたのだった。しかもまだ乾いてない。

 まだ誰の血かはわからないと、ボクは頭の片隅で冷静に判断を下す。でも、もし名刺の持ち主であるムラサキ自身が千切って投げていたのだとしたら、これはムラサキの血でまず間違い無いだろう。他にも、次から次へと血のついた花びらが流れてくる。……怪我をしてるのか?

 

「……急げ」

 

 一秒でも早く追い付けるようにと、ボクは力強く風を切って走り出した。

 

*****

 

「……その、名刺を? いつの間に」

 

 目を見開いたサヤコにおんぶされながら、紫咲は震える指で、小さな紙片を風に泳がせる。指先から離れた桜の花びらが、ひらひらと道に落ちた。

 

「へへっ、この世界に落ちた時から、ちょっとずつね……そんなに枚数ないから、一枚ずつはさすがに無理だったけど、千切れば増えるし……へへ……ヘンゼルとグレーテル、みたいでしょ」

 

 気が付かなかった、とサヤコが呟く。

 か細い息を吐くムラサキを背負いながらも、二人はムラサキが提案した作戦のおかげで、襲われる事なく無事に迷路を終盤まで脱出できていた。

 

「ウオオ〜〜ン……」

「もう、ほとんど狼の鳴き声しか聞こえなくなったわね……これで、空間の境目に当たる出口までは大丈夫でしょう」

 

 どこかほっとしたように、顔を上げたサヤコが息を吐く。

 ムラサキの示した作戦。それは「敢えて送り狼の声がする方角へ逃げながら進む」というものだった。

 

『迎え犬は必ず襲って来るけど、送り狼は危害さえ加えなきゃ、縄張りに入った奴が出て行くのを見守ってるだけ、なんだよね? その上、迎え犬は送り狼を怖がってる』

『まさか……送り狼達に、私たちを守らせようって言うの?』

『そゆこと。確かに、引き返せば送り狼だって私達を襲って来るかもしれないけど、逆に言えば送り狼が私達に張り付いている間、迎え犬は私達に手が出せない。

……さっきのクイズの答えは「幽霊Bがフィールド中で最強である代わりに、Bがフィールドに出ている間、Aを含む他の幽霊は絶対に(・・・)出て来れないから」、だよ』

 

 サヤコの背中で、悪寒に震えながら息を吐き出したムラサキの言葉通り、狼の遠吠えに守られている間は、犬が近寄って来る気配は微塵もなかった。

 確かに強力なモンスターがいれば命の危険に晒されるが、そのモンスターがいる事で他の種が牽制されるのを利用すれば、その他大勢の雑魚からは楽に身を守ることができる。

 やがて、縄張りの際まで付いたのだろう。追いかけて来た狼達が、ある連結器の根元で揃って一列に座ったまま、動かなくなった。

 

「……ここまでのようね」

「サヤコさん、お礼、言って……」

「は、はぁ!?」

「送り狼は、その性質で旅人の安全を守ってくれることもあるんだって……だから、ちゃんとお礼すれば、そのまま帰って、くれるはずだから……」

 

 こんな状況で何を言うかと思ったが、ここまで都市伝説と妖怪に踊らされている手前、軽視することもできない。それに、ムラサキが言っている事は、サヤコが事前にデータベースで読んだ内容とも同じだ。

 仕方なく狼の群れに向き合うと、サヤコはしっかりとムラサキを落とさぬよう背負ったままで、腰から頭を下げた。

 

「お見送りありがとう。あなた達のお陰で助かりました。もう十分よ」

「……くぅん」

 

 ややあって小さく鼻を鳴らすと、リーダー格の狼が身を翻す。それに続いて、他の狼達も砂利を踏みながら次々立ち去っていった。呆気に取られるサヤコが、その姿を見送る。

 

「ほ、本当に、いなくなった……」

「よかった。それにしても、うう……おなか、すいちゃったね……アフタヌーンティーのドーナツ……早く食べたいなぁ……」

「わかったから、暫く黙りなさい。まったく、幾らそろそろ血が止まる頃とはいえ、喋るだけでそれなりに体力は……」

 

 そう言い掛けたサヤコが、地上らしき場所へ続く階段の手前で一旦ムラサキを下ろし、そしてその朱色の着物の袖から想定外に広がる血のシミに、蒼白になりながら呟いた。

 

「うそ……なんで……どうして出血が止まらないの……!? ここはセブンスコードでしょ!? 時間経過で、殻にはある程度傷の修復プログラムが働くはずなのにっ、止まるどころか酷くなってるなんて……!?」

「お、おち、ついて……私の殻は、たぶん、人とは違うから……生理だってあるし……いたいのも、あるし……多分、その……せいで……」

 

 徐々に声が小さくなるムラサキは、横たわった硬い線路の上ですっと目を閉じていた。

 

「なんか……ここ……ひんやりして、きもちい……から、ねむく……」

「寝ちゃダメよ?! こんなところで寝る奴は死ぬって相場が決まってるんだから! ちょっとムラサキ! 私との約束はどうするのよ?!」

 

 半分泣き声で涙を飛ばしながらサヤコが身を揺するが、いかほどの効果もない。むしろ揺することで出血を酷くしてしまう気がして、すぐにその手を止めた。サヤコの背に凭れている間に、腕から胸にまでべったり染み付いてしまった血痕を見ながら、サヤコは取り乱しつつも考える。

 

「何かがおかしい……大怪我とはいえ、噛まれたのは片腕だけ……それなのに、そこからの出血量が正常範囲を超えてるのはどうして? ニレだって、開発段階でこんなおかしなプログラムは……」

 

 必死でムラサキの上腕を縛り直し、それでもなお滲んでくる血を見て、サヤコははっと手を止めた。

 

「……そういえば、あの時」

 

 怪我をする前と、普段のムラサキとの大きな違い。異様な高揚状態にあった。サヤコが口移しで与えた植能によるものだ。

 アドリナル——副腎から発せられるアドレナリンは、神経興奮時に分泌されるホルモン。むろん、心拍数や血圧を上昇させることもある。

 

「……わ、わたしの、せい」

 

 震えながら、後ずさってずるりと座り込んだサヤコの脚から、力が失われた。伸ばした手で触れたムラサキの掌は熱く、手首の血管はこの怪我にも関わらず異様な速さでどくどくと脈打っていた。道理でムラサキが苦しそうなはずだ。 

 このままでは、いくら傷口や怪我の程度が小さいとはいえ、絶え間ない放熱による体力の低下と失血で死に至るだろう。

 

「……私のせいで、大切な人が、また」

 

 瞳が、絶望の涙に濡れていく。

 その時だ。サヤコの腰のあたりを、硬い何かがつつく感触がある。はっとして、サヤコは脇を見ながら飛び退いた。

 紫咲の腰から伸びた蛇のうちの一匹が、そこにトグロを巻きながら、しっかりしろとばかりに舌を出している。

 他の黒い蛇達はもうぼんやりとした影程度にしか見えないが、その個体はなぜか唯一白色で、まだはっきりとした形を保ちながら、ルビーのような赤い瞳をサヤコに向けていた。子宮(ウーム)の中にいる蛇達の、総括役みたいなものなのかもしれない。

 

「しゃーっ」

「あ、あなたは、ムラサキの……? ……そう。そうよね。私がこんなところで、何もせず馬鹿みたいに泣いてる場合じゃないわ。ムラサキと生き残るって、約束したんだから」

 

 手の甲で乱暴に涙を拭って、強い光をその目に湛えながらサヤコは立ち上がる。その手に巻きついてきた白蛇に、サヤコは自ずと話しかけていた。

 

「お願い……私はあの子じゃないけれど、力を貸してくれる?」

「しゅ〜っ」

 

 サヤコの元に一時的にアドリナルを運んできた蛇が、その意志に応えるようにして、巻きついた右腕ごと剣の形に変わる。

 炎を纏わせたその腕を、サヤコは階段の入り口を塞ぐ壁に向かって、一気に振り上げた。

 

「アドリナル……闘争を惹起!」

 

 せめて、これ以上の植能の負荷は、ムラサキではなく自分に返ってくるといい。

 そう思って壁に向かいサヤコの刺し貫いた剣先から、凄まじい勢いで炎の爆発が起こり、瓦礫が飛び散った。

 じわじわと、コンクリートの壁が変色し、元の世界の色へと切り替わっていく。異空間が解除された証だ。

 

「今の爆発で、誰か気付いてくれれば……とりあえず、ムラサキを運び出さないと……っ!」

 

 右足に走った激痛に、サヤコが顔を歪める。炎を浴びたコンクリートの欠片が裸足の足に当たって、怪我をしていたらしい。髪も部分部分焼け焦げている。

 

「しっかりしなさい、私……無理をすれば運べない事なんてない。一刻も早く……」

 

 痛みに耐えながらムラサキの体を動かそうとしたところで、不意にかつーん、かつーん……と通路の奥から聞こえてくる足音に、サヤコははっと身を強ばらせた。

 動物の足音ではない。人の立てる音だ。またもやニレの追手かと全身から脂汗が吹き出しそうになったが、明らかにこれは女性物のヒールの音。小柄な少年の殻を持つニレは、ヒールは履かない。

 精一杯、ボロボロの身でムラサキを守るように立ちはだかったサヤコは、暗い通路から光の差す出入り口へ現れた影を見て、驚愕のあまり息を飲んだ。

 

「あなたは……ッ、一体どうしてここに!?!?」

 

 真紅のクチュールに、妖艶な褐色肌の立ち姿。かつてニレの心を奪い続けた恋敵でもあり、現在はムラサキのパートナー兼SOAT隊長でもある人間の姿がそこにあった。

 不遜な目つきで、見下すようにヨハネが言う。

 

「あんたらの位置の補足に手間取ったんだけど、爆発音が聞こえたからね」

「それにしては、随分余裕のある登場だったじゃない。何してたのよ? 今の今まで」

「犯罪者であるあんたが、文句を言う筋合いなんてあるわけ?」

 

 ぐっと息を詰まらせたサヤコの脚先に、屈んだヨハネが素早くテープを巻く。驚いたサヤコを跪いて見上げながら、その冷静な瞳をヨハネは瞬かせた。

 

「気休め程度にしかならないけど。このすぐ上にSOATの分隊が待機してる。あんたが走って呼びに行った方が早い」

「でも……ッ」

「その足じゃ人間を背負って立つのは難しい。それに、どの道ここじゃ通信環境が悪いんでしょ。ボクがここに残る。あんたは早く、助けを呼んできて。多少の応急処置なら、ボクができるから」

「く……ッ」

 

 ムラサキを一人残すのが心配ではあったが、冷静に考えればサヤコ一人で走った方が助けを呼ぶのは早いだろうし、そう言われて指示に従わない理由もない。

 負傷した片脚を引き摺りながら、サヤコが線路脇を離れて階段を上がる。瓦礫だらけの階段は、段も残らないほどぼこぼこしている箇所もあり、確かに人を連れて進むのは難しい場所だった。

 その姿を見送り、ヨハネはムラサキの脇に立つ。

 

「……さて」

「うう……」

 

 どこか冷徹にも見える瞳でムラサキを見下ろしていたヨハネ——らしき人物は、すぐ側にしゃがみ込むと、いとも簡単にそのクチュールの裾を割いて、新たにムラサキの腕へ止血の処理を行った。ヨハネ本人は高い高いと事あるごとに大騒ぎしていたはずの服だが、意にも介していないようだ。

 

「あんたを連れ帰れないなら、死なないようにしろっていう上の指示なんだ。まあ、この後駆け付けるボク(・・)の率いる部隊から逃げ切るのは、さすがに厳しいだろうし……それにどちらにせよ、ボクもあんたには恩がある。死なせるわけにはいかない」

 

 呟きながら、ヨハネはムラサキの体をかえして全身の傷をチェックしていく。その際、背中でざわざわと動いている植能の蛇達に気付くと、彼は小さく呟いた。

 

「サヤコ……アドリナルと融合した植能が、暴走状態にあるのか」

 

 やや迷ったような表情をしていたが、ヨハネは身を屈めて慎重に顔を寄せると、ムラサキの青ざめた唇にそっと口付ける。ややあって、太ももから這い出るように、一匹の蛇の紋様が彼の体に滲み出た。

 

「粘膜接触による譲渡……引き剥がせたのは一匹だけか。まあ、七匹全部持ってるよりは多少マシだろう」

「うう……」

 

 熱に魘されて苦しそうなムラサキが、一通りの処置を施されてなお、小さく呻きを上げていた。

 小さく眉を跳ね上げて、ヨハネは困惑気味にその様子を見ていたが、やがておそるおそる手を伸ばして、軽くとんとんと、ムラサキの肩を叩き始めた。

 

「大丈夫……大丈夫だよ」

 

 それは、全然大丈夫には聞こえない、ものの見事な棒読みだった。感情のわからないロボットが、人に指示されてやっているかのような挙動。やっている本人が一番戸惑っている様子が見て取れる。

 しかしムラサキは、その声に反応したかのように、ほんの少し苦悶の表情を和らげた。呼吸が心なしか穏やかになり、ヨハネは驚きの表情を浮かべる。

 

「……へえ。あんたの真似してただけなのに、ホントに効くんだ」

 

 そこへ通路の上方から、連なった足音が幾つも聞こえて来てこだまし始めた。

 

「隊長、こちらです! 煙と爆発音が!」

「お願い、急いで……!」

「そんな事言われなくてもわかってるってばッ!」

 

 聞き慣れた自分と同じ声に、ヨハネは小さく顔を綻ばせる。そして、破れたクチュールを闇の中でばさりと翻した。

 

「君は……誰……?」

 

 微かに響いた声に、立ち去ろうとしていたヨハネは思わず足を止めて振り返る。気力を振り絞って目を開けたムラサキが、ぼんやりした瞳でこちらを見つめていた。あの様子では、はっきりと姿も見えていないだろう。

 そう判断し、ヨハネは暗闇の中にその身を忍ばせるように歩きながら、独りで呟いていた。

 

「これは、再来月(・・・)のお礼。

……じゃあね、ムラサキ。あんたの未来(・・)で、また会おう」

 

 ルージュを引いた弧のような唇が、闇に妖しく浮かぶ。

 直後に突入した隊員達が認めたのは、倒れ伏すムラサキの姿ばかりで、直前までそこにいた()をその視界に入れることが出来た者は、誰一人いなかった。



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