ムジツさんは今日も無実 (じゃん@論破)
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その1:黒板アート消失事件
第1話「弁護士を呼んでください」


 

 窓から朝の光が差し込んでいる。

 赤いカーテンを透過した光が、色の付いた影で机と床を染めている。

 教室の後ろの黒板は黒々とした光沢を放っている。そこは一面の黒で、何もない。

 

 何も──描かれていない──。

 

 そこにあったはずのものが、すっかり失われていた。

 

 


 

 

 人や物が忙しなく動き続ける大都会と、穏やかな時間が流れる下町との間に、私立伊之泉杜(イノセント)学園は建っていた。幼稚園児から大学生まで、ありとあらゆる年代の子供たちが集うこの学園では、生徒の自主性と自律性が何よりも重んじられていた。自ら考え、自ら行動し、自ら律し、自ら生み出す。その校是の下に、生徒たちは伸び伸びと日々の学園生活を過ごしていた。

 そんな私立伊之泉杜学園の高等部校舎隅に位置する生徒指導室は、息が詰まるような緊張感に包まれていた。目隠し用の衝立があるせいで壁が近く感じて狭苦しい。部屋の中央には1脚の机と、それを挟んで椅子が2脚置かれている。その1脚に、牟児津(むじつ)真白(ましろ)は腰掛けていた。

 肩口で切り揃えたざくろ色の髪を高い位置で2つに結んでいる。白いブラウスの上にベージュのブレザーを重ね、下は濃いベージュのミニスカートを履いている。首元にはレモンイエローのリボンがかけられていた。

 その表情は固く、体は居心地悪そうに強張っている。視線があちこちへ泳いで落ち着きがない。見ている方が疲れそうなほどの緊張は、偏に向かいに座る川路(かわじ)利佳(としよ)が醸し出す威圧感が原因だった。

 

 「もう一度きく」

 

 切れ長の目で牟児津を捉え、川路は短く言った。150cmに満たない牟児津の小さな体がいっそう縮こまる。川路はすらりと伸びた長身を低くかがめ、牟児津の顔を横から覗き込んだ。忙しなく泳いでいた牟児津の目が、横を見ないよう正面に固定される。今にも泣き出しそうだ。

 

 「お前がやったんだな?」

 

 焼きつけるような鋭い眼光が牟児津に突き刺さる。疑問形ではあるが、明らかに結論ありきの質問だった。牟児津は必死に考えた。肯定してはいけない。しかし、ただ否定しても川路は納得しない。どうすればいい?どうにもできない。万事休す──袋の鼠──絶体絶命だ。

 

 「あ、あぇ……!」

 

 やっとの思いで牟児津は声を出せた。ひどい緊張で喉はからからに渇き、声を出そうとしても空吹かしするばかりだった。生唾を飲み、ようやく言葉を発せられた。

 

 「べ……弁護士を……呼んで、ください……」

 

 


 

 

 「というわけで呼ばれて来ました」

 

 衝立で仕切られた生徒指導室に、新しく生徒が呼ばれた。牟児津の隣に用意された椅子に腰掛けた瓜生田(うりゅうだ)李下(りか)は、気の抜けた声を出した。

 平らに整えた前髪と腰まで伸ばした後ろ髪はどちらも艶やかな黒をしている。丸襟のロングブラウスの上からピンクのリボンとベージュのブレザーを着用し、膝下丈のロングスカートを履いている。

 川路は瓜生田を訝しげに観察する。隣の牟児津が、肉食獣を前にした小動物の如く怯えているのに対し、瓜生田からは全く緊張や動揺を感じない。堂々としているようにも見えるが、状況を理解していないようにも見える。

 

 「高等部1年Aクラスの瓜生田です。よろしくお願いします」

 

 軽いお辞儀をしながら瓜生田は名乗った。ひとまず川路は、このおっとりした生徒と、もう一方の怯えている生徒の関係をはっきりさせることにした。

 

 「牟児津との関係は」

 「ムジツさんの、初等部からの幼馴染です。登校も下校も毎日一緒なんですよ」

 「お前は弁護士なのか?」

 「弁護士?そんなわけないですよ。面白いこと仰いますね」

 

 あはは、と瓜生田が笑う。部屋に満ちた張り詰めた空気をぶち壊すようなその態度に、川路は脳が熱くなるのを感じた。だが今のは自分の質問が悪いと反省もした。一介の高校生である目の前の背高女が、弁護士資格など持っているわけがないのだ。

 

 「何をしにきた」

 「ムジツさんに呼ばれたので……先輩、ムジツさんが何かしたとお疑いじゃないですか?」

 「そうだ。こいつは、今朝2年の教室で起きた事件の容疑者としてここにいる」

 「じゃあ私はその疑いを晴らすために呼ばれたんだと思います。そう言う意味では確かに弁護士みたいですよね」

 

 瓜生田がまた笑う。川路がいくら睨みをきかせようと、高圧的に質問しようと、この瓜生田という生徒は何もされていないかの如く受け流してしまう。

 

 「事件の詳細を教えていただけますか?」

 

 それどころか、下級生なら抱くであろう上級生への遠慮や気遣いの類もほとんどないように見えた。瓜生田は、今この場で最も立場が低いはずなのに、今この場で最もリラックスして会話の主導権を握っていた。それを感じながらも、川路は促されるに従った。

 

 「今朝、高等部2年Dクラス教室後ろの黒板に描かれていた絵が消失しているのが発見された。発見者は同クラス生徒だ。この絵は、高等部見学日に向けて教室を飾るために、クラス内の有志によって一週間ほど前から制作されていた」

 「いわゆる黒板アートですね」

 

 高等部見学日と聞いて、瓜生田は少し懐かしさを覚えた。幼稚園から大学まで一貫教育を行っている私立伊之泉杜学園では、高等部進学を控えた中等部生に高等部の授業を見学させる催しがある。ちょうど1年ほど前、瓜生田もその行事に参加した。その行事において高等部生は、中等部生を迎えるために教室を飾るのが恒例となっている。

 

 「その黒板アートが消失しているのを発見した生徒は、教室に入る前、廊下の反対側に走り去る人影を目撃している。その目撃証言に該当する生徒が、牟児津真白だ。こいつは事件があったクラスに在籍していることからも、重要参考人として連れてきた」

 「重要参考人ですか?容疑者みたいな扱いですけど」

 「態度を見ていれば分かる。私と目を合わせようとしないし、何を聞いても答えようとしない。後ろめたいことがある証拠だ」

 「いやあ、ムジツさんは緊張するとだいたいこんな感じになりますから。ところで、ムジツさんが該当する特徴っていうのは?」

 「結んである赤い髪を見たそうだ」

 「なるほど」

 

 瓜生田が横目で牟児津を見る。確かに牟児津の髪は赤いし結んでもいる。目撃証言が確かならば、この小さく縮こまっている哀れな少女を疑うのは無理もないことだろう。瓜生田はさらに問う。

 

 「犯人のだいたいの身長は分からないんですか?その人影がムジツさんだったんなら、身長もそれなりに特徴あったと思いますけど」

 「目撃者は東側の階段から2階に昇り、西側の階段に走り去る人影を見た。牟児津は確かに背は低いが、比較物の少ない廊下ではっきり分かるほどのものではないだろう」

 「だってさ。よかったねムジツさん。そこまで小さくないって」

 「ふざけているのか?」

 「いいえ。いちおう伺っただけです」

 

 牟児津の身長は中学1年生のころから成長をやめており、今なお黒板の上まで手が届かない。普段はさほど気にすることはないが、改めて言われると牟児津は恥ずかしい気分になった。蒼白だった牟児津の顔面に、少しだけ赤色が戻ってきた。

 

 「それじゃあもうひとつ」

 「なんだ」

 「その目撃証言の時間帯とか分かります?」

 「事件の発覚が7時40分ごろだな。発見者が登校してきた時間だ」

 「あ〜なるほどです。それじゃあムジツさんには無理ですね」

 「なに?」

 

 瓜生田は牟児津による犯行をあっさりと否定した。川路の目がぎらりと光って瓜生田を睨みつける。

 

 「どういうことだ」

 「だって、私とムジツさんは今朝一緒に登校してきたんですよ。毎朝ムジツさんが楽しみにしてる『今日のあんこ』を観てからなので、学園に着いたのは8時より後です」

 「……その、『今日のあんこ』というのはなんだ」

 「毎朝やってる5分のミニ番組です。7時55分放送なので、事件が発覚した時間帯だと、ムジツさんは私と一緒に家にいました。そうだよね、ムジツさん」

 

 牟児津はみるみるうちに耳まで赤くしていく。川路は、自分より瓜生田の方がよっぽど牟児津を追い込んでいるのではないかと感じた。

 それはさておき、瓜生田の言うことは川路が得た目撃証言と矛盾する。公平に考えるのなら、第三者である瓜生田の証言は目撃者の証言と同じくらいには信頼できるし、信頼すべきである。もし瓜生田の証言が事実なら、牟児津の容疑は考え直す必要があるだろう。

 

 「それを証明する方法は」

 「証明ですか……番組の内容を言えば証明になりますか?」

 「私はその番組を観ていない」

 

 「あのう」

 

 声が割り込んできた。川路でも瓜生田でも、もちろん牟児津の声でもない。それは、教室を仕切る衝立の向こう側から聞こえてきた。衝立の陰から、おずおずと様子を窺うおかっぱ頭が発した声らしい。衝立によって完全に気配が隠れていたので、そこに人がいたことなど、牟児津と瓜生田は今の今まで全く気付いていなかった。

 

 「どうした、葛飾」

 

 川路に呼ばれ、葛飾(かつしか)こまりは緊張した面持ちで3人の前に姿を現した。くりくりとした大きい目や赤らんだ頬から、全体的に幼い印象を受ける。左の肩には、川路と同じ風紀委員の腕章を付けていた。そして葛飾は、牟児津と瓜生田の顔を順番に見つめたあと、遠慮がちに言った。

 

 「私、観てます。『今日のあんこ』」

 

 牟児津と瓜生田にとってはまさに救世主だった。川路と同じ風紀委員の立場から、牟児津の潔白を証明することができる人物が現れた。いかに牟児津が疑わしいと言えども、身内の証言を疑ってまで牟児津と決めつけることは、川路にもできないだろう。瓜生田はここぞとばかりに、少しだけ声を大きくした。

 

 「そっかあ。じゃあ内容を言い当てたらアリバイ証明になりますね」

 「……牟児津も、それは分かるのか?」

 「!!」

 

 ため息交じりに川路が問う。潔白を証明するチャンスが訪れたというのに牟児津は相変わらず無言で、しかし激しく首を振って肯定する。瓜生田が音頭を取り3人が声を合わせた。

 

 「それじゃあせーので言いましょうね。今日紹介されたお菓子は、せーの──」

 

 「塩瀬庵のどら焼き!」

 

 


 

 

 どら焼きによってアリバイを証明することができた牟児津は、無事に容疑者から参考人へ格下げとなり一旦は解放されることになった。生徒指導室から教室まで戻る間、緊張によって抑圧されていた言葉がとめどなく溢れ出していた。感情と思考がごちゃ混ぜになったそのマシンガントークを、瓜生田はただ笑って受け止めていた。

 

 「うりゅ〜!ありがと〜!怖かったよ〜!」

 「めちゃくちゃ疑われてたねえ、ムジツさん」

 

 牟児津は瓜生田のことをうりゅと呼ぶ。ぶりっ子みたいだと周囲からの評判はすこぶる悪いが、呼び続けてすっかり口に馴染んだため牟児津は頑なに使い続けている。

 一方、瓜生田は牟児津のことをムジツさんと呼ぶ。これは他人行儀に呼んでいるのではなく、イントネーションを含めてのあだ名のようなものだった。“牟児津さん”のイントネーションは本来“手術中”と同じだが、瓜生田が呼ぶそれは“チルドレン”と同じになる。

 

 「なんなのあの人!めちゃくちゃ怖い!目が怖い!っていうか最初から私が犯人って決めつけてね!?あり得ないんですけど!?もうちょっとで泣くところだったわ!あんなの許されんの!?」

 「風紀委員の活動にクレームがあるなら投書したらいいじゃないですか」

 「それは無理!さっきの人に私ってバレたらめちゃくちゃ怖いから!」

 「情けないくらい気が小さいですね」

 「ムジツさんはこうだから」

 

 次から次へと川路への文句が飛び出してくる牟児津に、護送を任された葛飾は呆れていた。本人を前にしているときはまともに反論さえできなかったのに、陰口なら止める隙もないほど溢れ出してくる。本当に情けない。

 一方、護送という名目で見張りを付けているということは、川路はまだ牟児津犯人説を完全には諦めていないということだ。あまりに牟児津が緊張していたことが、川路の目には怪しく映ったらしい。疑う者と疑われる者という関係以上に、牟児津と川路は相容れない性質のようだ。

 

 「瓜生田さん、わざわざ来てもらってありがとうございます。牟児津さんの後で教室まで送りますよ」

 「いえいえ、お気になさらず。葛飾先輩こそ、お昼休みまでお疲れ様です」

 

 客観的に見て、牟児津より一学年下の瓜生田の方が大人びている。単純に牟児津の背が低く瓜生田の背が高いというのもひとつの理由だろう。だが、小心者で半べそをかきながら陰口を叩きまくる牟児津と、社交辞令とはいえ気遣いができて堂々としている瓜生田とでは、後者の方が人間としても大きく見える。冷静に観察するほどに牟児津が情けなくなり、葛飾はもう一度小さくため息を吐いた。

 

 「とにかく、牟児津さんの容疑はいちおう晴れたわけですから安心してくださいね。真相究明に向けて、風紀委員が全力を尽くしますから」

 

 私立伊之泉杜学園はその校訓に則り、校内自治のほとんどを生徒に委任している。校内で起きた事件や事故は基本的に風紀委員会が対応することになり、教師は生徒の手に余る部分について限定的に協力するという形式となっている。したがって、この度起きた事件も風紀委員が対応に当たっている。葛飾にとっては自分のクラスで起きた事件ということもあり、いっそう気合いが入る。

 

 「まあ頑張って。私はもう一気に疲れちゃった。やれやれだよ」

 

 意気込む葛飾に、牟児津は投げ遣りなエールを送った。風紀委員長である川路に未だ疑われているとはいえ、アリバイがある以上は無闇に疑われることはなくなる。それさえ説明すればクラスメイトも納得してくれるはずだ。なぜならそれが覆しようのない事実だからだ。極めて楽観的に、牟児津はそう考えていた。

 そして牟児津はまもなく、自らの考えの甘さを思い知ることになるのだった。



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第2話「どらやき食べたいです」

 

 「説明して。なんでこんなことをしたの」

 「だ……だから、私はやってないんだってば。そんな早い時間に登校してないんだよ。そこの1年生の子と一緒に登校したから証明してくれるよ」

 「なら私が見たのは誰なのよ!赤い髪を結んでる人なんて、このクラスでは牟児津さんしかいないでしょう!」

 「そんなこと言われても私は本当にやってないんだって!」

 

 私立伊之泉杜学園高等部2年Dクラスは、まさに修羅場と化していた。教壇に立たされた牟児津は、クラスメイトからの厳しい視線に晒されていた。怒りの感情を隠さない時園(ときぞの)(あおい)は厳しく牟児津を糾弾し、その隣には同じくクラスメイトの足立(あだち)亜希(あき)が佇んでいた。

 時園は、喋るたびに揺れる空色のポニーテールが活発な印象を与えている生徒だ。しわのないワイシャツを一番上のボタンまで留めてリボンをかけ、七分丈のスカートを履いている。比較的制服の自由度が高い私立伊之泉杜学園では基準とされている格好だった。

 足立はさらさらに梳かされた栗色の髪を肩の下まで伸ばしていた。横に流した前髪と大きな丸眼鏡で目元が見えにくくなっているせいで、隣の時園に比べて控えめな印象を受ける。時園と同じく七分丈のスカートに加えて、こちらはブレザーも着ていた。

 葛飾によれば、時園は黒板アートが消えているのを最初に発見した生徒であり、同時に牟児津らしき人影を目撃した生徒でもある。つまり牟児津が疑われている原因である。もう一方の足立は、件の黒板アートの制作を主導していた生徒である。今回の事件においては、最大の被害者とも言える立場だ。

 

 「それに、私にはその時間のアリバイがあるんだよ。ねえ?葛飾さん」

 「へっ……は、はあ。そうですね。牟児津さんは、今朝放送された『今日のあんこ』の内容を正確に言い当てました。これを観ていたということは、朝8時には自宅にいたということです」

 「そんなもの、そっちの証人っていう1年生の子から聞いてたのかも知れないでしょう。風紀委員はその程度のことでアリバイを認めるの?いい加減な仕事をされると困るのよ!ね、足立さん!」

 「は、はあ……」

 「ええ……そ、そんな……」

 

 頼りにしていた葛飾は時園の反論に対応できず、涙目になって瓜生田の後ろに引っ込んでしまった。自信満々に用意していた切り札を一蹴され、あっという間に丸腰になった牟児津は頭の中が真っ白になった。

 牟児津は甘く考えていた。論理的な説明さえできれば人は納得するものだと。第三者の言葉なら無条件で信じられるだろうと。事実と異なる疑いは必ず晴れるものだと。しかし現実は非情であり、牟児津の想定よりも複雑だった。すなわち、論理は感情の前に無力なのだ。人は信じるべきものを信じるのではなく、信じたいものを信じるということだ。

 自分の体が支えを失い豆腐のごとく崩れていくような感覚に陥り、牟児津は気が遠くなった。ようやく我に

返ったとき、昼休みの終わりのチャイムが自らの敗北を告げるゴングのように鳴り響いているのが聞こえた。

 

 「よーし授業始めるぞー。石純先生は今日お休みだ」

 

 チャイムとともに教室に入ってきたのは、2年Dクラスの副担任を務める大眉(おおまゆ)(つばさ)だった。本来、大眉がDクラスで授業を行うのは午前中だけで、午後の授業は正担任である石純(いしずみ)田一(たいち)が行っている。今日は代打ちで丸一日分の授業を行うことになったそうだ。

 

 「わあ大眉先生。こんにちわ」

 「おう、瓜生田か。お前も早く教室戻れよ」

 「はーい。じゃあムジツさん、またね」

 「よし。それじゃまず単語テストやってくぞー」

 

 クラスの異様な雰囲気を気にも留めず、大眉は無神経に生徒たちを撤収させて席に着かせた。斯くして、牟児津は自分への疑いを一切晴らせないまま、昼休みを終えることとなった。

 午後の授業を、牟児津はこれ以上ないほど居心地の悪い環境で受けていた。実際に牟児津に目を向けていたのはひとつ後ろの席に座っているクラスメイトぐらいだが、牟児津にとってはクラス内の全員が自分を射殺さんばかりの視線を向けているような気がしていた。まるで針の筵で簀巻きにされているようだ。

 終業のホームルームが終わると、一部の生徒は教室の前に集まった。黒板アートがなくなったため、高等部見学日までに教室の飾り付けを考え直す必要があるので、その相談をするのだろう。昨日までは牟児津もその中にいたが、今はとても参加する気にならない。それどころか参加させてももらえないだろう。だが、素知らぬ顔をして帰るのもなんとなく気が引ける。牟児津は逡巡していた。

 

 「どうした牟児津?教室の飾りやらないのか?」

 

 なんとなく帰り支度に手間取っているようなフリをしながら周囲の様子を窺っていた牟児津に、大眉はまたしても無神経に声をかけた。やれるものならやっている。やれないのに帰れないから困っている。それを察してくれ、と牟児津は胸の内で叫びながら、大眉に視線を返した。

 

 「はあ……つばセンさあ、そういうところマジであり得ないわ」

 「なにが」

 「だからさあ──」

 

 新しい飾り付けのアイデアを相談する集団には聞こえないように、なるべく自分が犯人ではないことを強調しつつ、牟児津は昼休みの顛末を大眉に説明した。おおよその事情を理解した大眉は口を()の字に結んでから、特に良いアドバイスも思い付いていない様子でたどたどしく応える。

 

 「まあ、お前がやってないんだったら、行動で示すしかないんじゃないか?」

 「どゆこと?」

 「やっぱり、せっかく作った黒板アートが消されたんだから、みんなだって口で言ってもなかなか納得できないもんだよ。だから、飾り付けのやり直しを一生懸命手伝って行動で示せば、誤解も晴れるんじゃないか?」

 「そもそも手伝わせてもらえないでしょ。空気的に」

 

 はっきり言われてはいないものの、もはや牟児津は時園を中心とした集団──ひいてはこのクラス全体から爪弾きにされてしまっている。一度失った信用を取り戻すには、まず信用を取り戻すために行動することを認めてもらわなければならない。今の牟児津は、スタートラインに立つことすら許されていないのである。

 牟児津は考えていた。このままでは残りの学生生活を、無実の罪を被ったまま過ごす羽目になる。なにがなんでも自分の無実を証明しなければならない。どうすれば論理だけで納得させられない相手を納得させられるのか。どうすれば、絶対に自分は潔白だと証明できるのか。

 

 「あっ──」

 

 そして、牟児津は閃いた。論理にも勝る感情──その感情にも勝る、絶対に疑いようのない証明方法を。

 

 「そうじゃん!」

 

 自分が無実であることは自分が一番よく分かっている。同じように、自分が真犯人であることは真犯人が一番よく分かっているはずだ。つまり、真犯人を見つければいいのだ。真犯人を見つけ全員の前で自白させてしまえば、必然的に自分の無実は証明されたことになる。

 追い詰められた牟児津にとってこの閃きは希望であった。これから数百日と続くはずの平和で快適な学生生活を取り戻すには、それしか方法がないように思えた。その興奮に突き動かされるまま牟児津は立ち上がった。

 

 「お。やる気になったか」

 「違うよ。犯人見つけんの」

 「は?」

 「犯人連れてきて謝らせれば私がやったんじゃないってことになるじゃん」

 「いや、それは風紀委員の仕事だろ?」

 「あの人ら私のこと疑ってんだもん!任せてらんない!」

 

 それだけ言い残して牟児津は教室を飛び出した。大眉が廊下を走らないよう注意する暇もなく、牟児津は赤い髪を揺らして走り去ってしまった。

 取りあえず走り出した牟児津だったが、真犯人に繋がる手掛かりなど持っていない。生徒指導室で川路が事件の概要を説明していたときは緊張でまともに耳が働いていなかったので、内容はほとんど覚えていない。走るほどに名案は希望的観測になり、気付けば単なる無茶な思いつきにまで萎んでしまっていた。興奮が冷めるにつれ足取りも鈍くなり、最後にはとぼとぼと惨めに廊下の隅を歩いていた。それでもその足は、無意識に1年生の教室がある階へと向いていた。こういうときに牟児津が頼れる相手はひとりしかいない。誰よりも心強い一つ年下の幼馴染みだ。

 

 「あれ。ムジツさん。どうしたの」

 

 雨に打たれる捨て犬もかくやという悲壮感を漂わせていた牟児津は、その声を聞いて顔を上げた。目の前には、帰り支度を済ませた瓜生田が心配そうな顔をして立っている。その姿を見た牟児津は、いくらか元気を取り戻した。

 

 「うりゅ……あのさ、昼休みのことなんだけど」

 「ああ。大変だったね」

 「あれさ。どうやって私の無実を証明しようかって考えてて、そんで、真犯人捕まえるのが一番いいんじゃないかって、思ったんだけど。どうかな?」

 「そっかあ。真犯人かあ。それは確かに分かりやすいね」

 「そ、そうだよね!で、あのさ、取りあえず何かしなきゃと思って来たんだけど……どうしたらいいかな?」

 

 我ながら間抜けな質問だ、と牟児津は自嘲気味に笑った。一時の思いつきで後先を考えずに行動し、自分ひとりでは何も決められず年下の幼馴染みに頼るなど、あまりにもみっともない。自分がそう思うのだから、他人が見れば一入だろう。

 だが、そんなみっともなささえ、この幼馴染みは受け入れてくれる。それが瓜生田李下という人間の器の広さであり、甘さであり、牟児津にとっての救いだった。

 

 「じゃあ私も手伝ってあげるよ。ムジツさん困ってるみたいだし。あと面白そうだから」

 「マジ?ありがとう!やっぱり持つべきものはうりゅだ!」

 

 ずぶ濡れの犬はすっかり元気を取り戻し、心強い味方を手に入れることに成功した。斯くして、牟児津と瓜生田は黒板アートを消した真犯人を突き止めるため、行動を開始するのだった。

 

 「よしよし。それじゃあまずはムジツさんのクラスに戻ろうか」

 「えっ!?マジで言ってる?」

 「マジマジ。事件解決のためには、まずどんな事件か知らないといけないからね。川路先輩はざっくりとしか教えてくれなかったし。だからこういうときは現場を調べるのが一番だよ。手掛かりがあるかも知れないし、時園って先輩の話も聞きたいし」

 「いや……それは厳しいと思うよ。私いまクラスで完全にハブられてるもん」

 

 さすがと言うべきか、何をすべきか見当もつかなかった牟児津と違い、瓜生田はすぐに具体的な行動を提案した。しかしそれは、牟児津にとって極めて高いハードルを超えなければならないことだった。グループから追い出されていることに加え、自分で教室を飛び出した手前、どんな顔をして戻ればいいか分からなくなってしまった。牟児津は考え無しの行動をいまいちど後悔した。

 

 「そっかあ。それじゃあ、お昼にいたあの風紀委員の……葛飾先輩だっけ?あの人は残ってる?」

 「風紀委員だし事件のこと調べるために残ってると思うよ」

 「なら、教室のことは葛飾先輩にお願いして、私たちは他のところを調べに行けばいいね」

 「他のところ?」

 「どっちにしても一回ムジツさんの教室に戻らないとだね。ほら行くよ」

 「うげ〜!気が重てえ〜!」

 

 駄々をこねる牟児津を引きずって、瓜生田は牟児津が来た道をずんずんと戻っていく。嫌がりながらも瓜生田の言うことに従うしかない牟児津は、教室の前まで戻って来ても瓜生田の陰に隠れたままだった。

 時園たちは会議の結論が出たらしく、何やら作業をしていた。手元には紙やテープ、糊と鋏が見える。残された時間が少ないため、手軽にできる飾り付けに変更したようだ。それを見た牟児津は、自分に責任はないもののどこか侘しい気分になった。昨日までクラスに満ちていた高等部見学日への期待や高揚感は一切なく、毎年の恒例だから何かしなければならない、という妥協と諦めの混じった義務感だけが残っていた。

 

 「すみませーん。1年Aクラスの瓜生田です。葛飾先輩はいらっしゃいますかー?」

 

 そんな教室に入るのはとても耐えられないと、牟児津は葛飾を呼ぶ役目を瓜生田に押しつけた。自分はクラスが瓜生田に注目している隙に教室に入り、机に残していたスクールバッグを引ったくるように持ち去って再び教室の外に出た。自分のクラスだというのに、完全に不審者の挙動である。

 バッグを手にした牟児津が瓜生田のもとに戻ると、ちょうど葛飾が教室から出て来たところだった。案の定、葛飾は手帳とスマホのカメラを手に、現場の捜査をしていたところだったようだ。

 

 「お忙しいのにお時間頂いてすみません葛飾先輩」

 「いえいえ。その節はどうも瓜生田さん。何か御用ですか?」

 「私じゃなくてムジツさんからお願いがありまして」

 「牟児津さんから?」

 

 牟児津は、瓜生田がそのまま情報提供のお願いをしてくれるものだと思っていたので、いきなり自分に話を振られて肝を冷やした。しかし、元はと言えば牟児津の思いつきによることなのだから、牟児津の口から依頼するのが当然の筋である。瓜生田は何も言わなかったが、表情だけで牟児津にそう語っていた。牟児津は覚悟を決めて、葛飾に頭を下げた。

 

 「いやあの〜、今朝の事件なんだけどさ、私たちも自分で犯人見つけるために色々調べてみようと思ってね」

 「そうなんですか?牟児津さんはいちおう参考人ですし、あんまり不審なことしないでおいた方がいいと思いますけど」

 「めちゃくちゃ疑われてるんだからもうこうするしかないじゃん!ってことだから、色々調べてくれてるそれ、後で私たちにも教えて!」

 「え、ええ……いや、捜査情報をお話しするのはちょっと……」

 「あと時園さんとか足立さんとかに聞き込みもして!私じゃ話もまともにできないから!」

 「いやだからそういうのは……」

 「ね?ね?お願い!マジで一生のお願い!」

 「やっ、ちょっと!こ、こまります〜!」

 

 葛飾がはっきりとは断らないのを良いことに、牟児津はねちっこく葛飾に頼み込む。絡みつくようなその要求に、葛飾はきっぱり断ることもできず承諾することもできずに逡巡する。その様子を見て、牟児津だけでは葛飾の協力を得られないと見た瓜生田が、ささやかに力添えすることにした。そっと葛飾の耳に口を近付ける。

 

 「協力していただけたら、塩瀬庵のどら焼き、奢ってあげますよ。ムジツさんが」

 「ど、どら焼き!?」

 

 その囁きに、葛飾は大きく反応した。実は葛飾は今日一日、ずっとそのどら焼きのことを考えていた。普段なら地方の老舗菓子店の銘菓や都心のデパ地下の高級和菓子など、物理的にも経済的にも高校生には手が出せないような商品が紹介される中で、今日に限っては奇跡的なほど身近で、かつ値段も手頃な商品の紹介だった。しかも都合のいいことに、塩瀬庵なら下校途中に立ち寄れる。

 

 「よおく捏ねたしっとりつぶあんが〜……ほかほか香ばしいふわっふわ生地にはさまれて〜……食べれば口いっぱいに広がるお上品な甘み〜……」

 

 追い討ちとばかりに瓜生田が耳元で囁く。葛飾の心は揺れた。葛飾の今月の小遣いでは買い食いができる余裕はない。瓜生田の提案は千載一遇のチャンスをものにする、まさに甘い囁きだった。美味しいどら焼きへの誘惑と風紀委員としての使命感。天秤にかけるまでもない。葛飾が選ぶ方は決まっていた。

 

 「わっ……かり、ました……!どら焼き食べたいです……!」

 「うそ!?やったー!ありがとう!でもどら焼きって何の話?」

 「はいはい、ありがとうございまーす。それじゃあ教室で調べられることは葛飾先輩にお任せしますね」

 

 勝手に牟児津の名前を使って契約に成功した瓜生田は、余計なことを話される前に2人を引き剥がした。ともかく、これで教室の捜査に費やすはずだった時間で他の場所を調べられる。真犯人の特定に向け、第一歩を踏み出した。

 

 「あっ、で、でも、人には言わないでくださいね!川路先輩にバレたら怒られますから!」

 「分かってるよ。私もあの人に怒られるの二度とゴメンだわ」

 

 近付くだけで気が重くなる教室から離れる大義名分を得た牟児津だが、葛飾の忠告で一気に浮ついた心を落ち着かせた。川路にはバレないようにすると固く誓い、瓜生田とともにさっさと教室を離れた。ぐずぐずしていると今にも教室から時園たちが飛び出してきて、昼休みの続きをさせられそうな気がしてならなかった。

 教室から離れた牟児津だったが、次にどうするべきかのビジョンは相変わらずない。葛飾に協力を仰ぐように提案したのは瓜生田だったし、それ以降の行動を考えているのも瓜生田だ。もはや惨めさも情けなさも恥ずかしげもなく、牟児津は瓜生田に堂々と指示を仰ぐ。

 

 「で、うりゅ!次はどうしよっか!」

 「そうだね。じゃあ……新聞部に行ってみようか」

 「なんで新聞部?」

 「あれ。ムジツさん知らないの?今朝の事件のこと、新聞部が号外配ってるよ」

 「マジで!?」

 「マジで」

 

 そう言って、瓜生田はカバンから折り畳んだ紙を取り出し、牟児津の前で広げて見せた。そこには『2年Dクラス黒板アート消失事件!!』というセンセーショナルな見出しとともに、牟児津の写真が載っていた。重要参考人として風紀委員に連れて行かれたはずが、紙面では既に容疑者として掲載されている。牟児津が知らない間に、この事件は学園中で周知の事実になっているらしい。

 

 「早く言ってよそれ!っていうかなにもらってんのそんなもん!もらうなし!」

 「いやあ、ムジツさんが載ってたからつい。でも号外が刷られてるってことは、新聞部が事件について取材したってことだよね。たぶん川路先輩より優しく教えてくれるよ」

 「ううん……それはそうかも。よし、じゃあ新聞部行こう。あとついでに文句も言ってやる!」

 「お〜、昔のお笑い芸人みたい」

 

 紙一枚でたちまち鼻息が荒くなった牟児津が、己の名誉回復のため新聞部の部室に向けて歩き出した。瓜生田はからからと笑いながらその後を追う。ころころ表情が変わる牟児津は、隣で見ていて実に面白い。今日は特に色々な表情が目まぐるしく変わっていくので、瓜生田にとっては家で過ごすよりよっぽど有意義で愉快な時間だった。

 私立伊之泉杜学園では、生徒は人数さえ揃えば活動内容を問わず自由に部活動を立ち上げることができる。そのため多種多様な部が活動しており、文化系の部活動の部室はほとんどが高等部第4棟──通称、部室棟と呼ばれる建物に集約されていた。新聞部もその部室棟に部室を構えている。放課後は部活動が活発になる時間帯だが、新聞部の部室の前は閑散としていた。

 磨り硝子が嵌め込まれた木製の扉は日に焼けて、部の長い歴史を感じさせる。実際には過去に部長を務めた生徒が趣味で付け替えたもので、新聞部の歴史はそれほど長くない。しかしその扉が見る者に与える印象と廊下まで漏れ出すインクと古新聞の臭いで、そこだけ時間の流れから切り取られたかのような異空間然とした雰囲気を醸し出していた。扉横の壁に掛けられた、毛筆で“新聞部”と書かれた掛札も、その雰囲気作りに一役買っている。

 

 「どうしたのムジツさん」

 

 牟児津は、その扉に張りつく自分の影と睨み合っていた。厳密には背後に立つ瓜生田の影であり、牟児津の影はその中に完全に取り込まれてしまっていた。

 

 「なんか、いざ部室まで来たら緊張してきた……。こっちの方あんまり来たことないし」

 「私が代わりにノックしようか?」

 「い、いや!ここは私がやる!」

 

 文句を言ってやると啖呵を切った手前、この期に及んで瓜生田にバトンタッチするのはいくらなんでも情けなさ過ぎる。ただノックするだけのことを躊躇している時点で、その程度の意地では挽回できないほど情けないのだが、瓜生田は敢えて触れずに暖かく見守る。深呼吸して息を整え、意を決して牟児津は軽く握った拳を振り上げた。

 

 「あでえっ」

 

 その拳より先に、牟児津の鼻頭が扉に触れた。扉が開いたのだ。反射的に間抜けな声が出た。後ろによろめいた牟児津は、つんと痛む鼻を押さえて、開いた扉に目を向けた。

 開いた扉から現れたのは、墨色の長い髪を伸ばした女生徒だった。アイロンをかけたようにぴっちりとセンターで分けた髪が、広い額の両側をなぞっている。力強い大きな目と腕を捲ったワイシャツ姿からは、活発で爽やかそうな印象を受ける。扉の前に人がいるなど微塵も考えない勢いで部室から出て来たかと思うと、牟児津の顔を見て少しだけ眉を吊り上げた。

 

 「おっとすまない。ぶつかったかな?」

 「い、いえ。いや、はい。でも大丈夫です。えっと、ここって新聞部ですよね?」

 「そうだよ。うちになにか用?あいにく、いま人が出払ってるところなんだ」

 「あ〜、そうなんですね。じゃあ……どうしよっかな……」

 「ちょっとお話を伺いたくて来ました。お邪魔してもよろしいでしょうか」

 

 文字通り出鼻を挫かれた牟児津は、今日のところは勘弁してもらおうと帰る雰囲気を出そうとした。すかさず瓜生田がフォローに回り、話が終わるのを避ける。女生徒は考えるような顔をしながらも、まあいいだろうという心の声が聞こえるような表情で頷いてから、2人を部室に招き入れた。

 

 「散らかっていてすまないが、適当な席に座ってくれ。落ちている新聞は気にしないでくれて構わない。どうせボツ記事だ」

 

 部屋に入ると、廊下まで漏れていたインクと古新聞の臭いがいっそう強くなった。カビっぽい臭いまで混じっている。部室の中央には学習机を2列ずつ突き合わせて作った島がいくつか並び、それらを天井まで届く本棚が取り囲んでいる。床は束ねた古新聞やルーズリーフ等が崩れて足の踏み場もなく、人がようやく通れる分だけ踏みしめられて獣道が出来ている。

 2人は適当な椅子を見繕い、ボツの新聞をどかして場所を席を確保した。2人を迎え入れたセンター分けの女生徒は、扉から入って正面奥の部長席に腰掛けた。牟児津の背筋が少し伸びる。

 

 「改めて、私が部長の寺屋成だ。よろしく」

 

 寺屋成(じやなる)令穂(れいほ)は、不必要なほどよく通る声で自己紹介した。

 

 「部長さんでしたか。わざわざお時間頂きましてありがとうございます」

 「ありがとうございます」

 

 こういうときに先に発言するのは、より礼節を弁えている瓜生田の方だった。牟児津は大抵、瓜生田の言ったことを復唱するか同じように頭を下げるかだ。続けて瓜生田が自己紹介を返す。

 

 「私は1年生の瓜生田です。で、こちらが2年生の牟児津さん」

 「瓜生田さんだね。牟児津さんのことは知っているよ。ちょうど今、うちの部員は君に関する号外を配りに出てるところだ」

 「ああ。そうだったんですか。私も頂きました。よく撮れてますよね、このムジツさん」

 「やかましいわっ!」

 

 先ほど見せた号外を瓜生田がもう一度広げて見せる。教室から風紀委員に連れて行かれるときの写真が、紙面いっぱいに引き延ばされて掲載されている。緊張で引き攣った牟児津の顔が、冷や汗まで分かるほど鮮明に記録されていた。牟児津は瓜生田が見せたそれを引ったくり、丸めてポケットに突っ込んだ。もう見たくもない。

 

 「その号外のことでお話があったんです!こんなの配るなんて、私聞いてませんけど!」

 「情報は鮮度が命だ。うちは事後報告、事後確認、事後承諾をモットーにやってるんでね」

 「モラルとかねーのかあんたら!」

 「間違っていたら謝ればいい。社会に出たらそれでは済まないけれど、学生の今はそういう無茶ができる身分だ。そうだろう?学園という社会の縮図の中でも、好き放題やるとどんなことが起こるか身を以て知ることができる。問題ありなら今後は控える。問題ないなら今後も続ける。うちの部員はみんなそうやって、ジャーナリストとして成長していくというわけだ。素晴らしいと思うだろう?」

 「おお、すごい。どう考えても詭弁なのに、こんなに堂々とされているとなんだか理に適ってるような気がしてきますね」

 「当然。これもジャーナリズム精神の実践的学習の一環なんだからね」

 「物は言いようですね。さすが言葉を扱う部の部長をされているだけあります」

 「ありがとう!君は物分かりがいい子だね!」

 「無理問答でもしてんのか?」

 

 意気投合しているのやら皮肉とペテンの応酬をしているのやら、牟児津には2人の会話が成立しているのかすら分からなかった。いずれにせよ責任者である部長がこの調子では、号外を回収させるのは不可能そうだ。そもそも既に学園中に配られているだろうからそんな要求は現実的ではない。部室に入る前から薄々勘付いてはいたことだが、牟児津はようやく当初の予定の1つを諦めることにした。

 こうなると、もう1つの予定こそはきっちり完遂しなければならない。牟児津は一旦会話を仕切り直すため、少々おおげさな咳払いをした。

 

 「実はですね。この号外に載ってる事件について、私たちも調査してるんです」

 「へえ。牟児津さんは重要参考人だろう?調査というのは、何を知ろうとしているのかな?」

 「この事件の真犯人です」

 

 瓜生田に向けられていた寺屋成の目が、牟児津の方を見た。腰を浮かせて姿勢を直し、体を瓜生田から牟児津に向ける。どうやら興味を持たせることはできたらしい。

 

 「真犯人……つまり君は犯人ではないということか?」

 「もちろん。私は無実です」

 「それをどう証明する?」

 「真犯人を見つけて捕まえてくれば、私が犯人じゃないって証明になりますよね」

 「ふふふ。確かにそうだね。真犯人に心当たりはあるのかな?」

 「いいえ、ありません」

 「じゃあ真犯人に繋がる手掛かりや情報は?」

 「それもないです」

 「なにもないね」

 「なにもないんです」

 

 いつの間にか寺屋成の質問に従う会話になっていることに、牟児津は気付いていなかった。しかしいくら寺屋成が質問したところで、牟児津から引き出せる情報は何一つ無い。お互いにとって思惑が外れた、全く意義のない会話だった。それでも、牟児津が会話の勢いに乗って本来の目的である要求を伝えるのには役立っていた。

 

 「だから、今朝の事件について、新聞部で知ってることを全部教えてください」

 「ほう。そう来たか」

 

 交渉も駆け引きもない愚直な要求だった。今の牟児津には相手に交渉を持ちかけられるだけの取引材料が一切ない。おまけに目の前の相手は口が達者そうな上級生だ。あれこれ考えるのは牟児津の不得手とするところでもある。故にこれは敢えてのど真ん中直球勝負ではなく、為す術なしのやけくそ直線豪速球だった。

 そんな球を受けても寺屋成は眉一つ動かさない。牟児津が事件について何一つ知らないことは、今の会話で分かった。その上で、ここまでストレートな要求をされるのは少々意外だったが、それならそれでまだ得られるものはある。

 

 「お願いします!ほら、うりゅも」

 「お願いします」

 

 寺屋成は、少し悩むふりなどして牟児津を焦らす。今の牟児津から引き出せるものは無いが、いずれ得られるものはある。それを得るためには、こちらが相手の要求を飲むハードルは高く、相手がこちらの要求を飲むハードルは低くしておく必要がある。その思惑通りかは定かでないが、牟児津と瓜生田は揃って頭を下げた。

 理想は、牟児津が半ば諦めかけたタイミングで承諾することだ。牟児津の中で互いのハードルの不均衡が最大になったとき、寺屋成は最小のコストで最大の利益を得ることができる。機を見計らって、寺屋成は口を開いた。

 

 「そこまで頼まれては、断るのは非情というものだ。分かったよ」

 「教えてくれるんですか!?」

 「まあ、どのみち明日の学園新聞に載せるつもりだからね。事件について教えることは吝かではないよ」

 「あざーーーっす!」

 「ありがとうございます」

 

 喜びの昂ぶりで感謝の言葉が雑になる牟児津の後に、瓜生田が極めて落ち着いた謝辞を述べた。無事に交渉成立といった雰囲気だが、寺屋成にとってはここからが本番だ。

 

 「ただし、こちらもひとつ頼みを聞いてもらおう」

 「そりゃもう!ビラ配りでも仕分け作業でもなんでもしますよ部長!」

 「それは結構。労働力なら間に合ってる」

 「じゃあなんですか?」

 「特ダネだよ」

 「はい?」

 

 ゴマを擂る牟児津の手が止まる。代わりに、頭の上にはクエスチョンマークがしめじのように生えた。

 

 「我々新聞部にとって、情報とは武器であり、糧であり、通貨のようなものだ。持っている情報を安易に外部に漏らすのは、玄関前に“ご自由にお取りください”と書き添えて財布を置いておくようなものだ。分かるかい?提供するのと同じかそれ以上の情報を、こちらも要求するということだよ」

 

 要するに、情報の対価は情報だということだ。当然と言えば当然だが、今の牟児津たちにとってはそれでは困る。提供できるだけの情報があるなら、こんな芸のない頼み方などせず、駆け引きのひとつでも試みただろう。それがないから、バカ正直に頭を下げるしかなかったのだ。

 

 「でも寺屋成先輩。私たち、新聞部が欲しがるような情報なんて持ってないですよ」

 「ふふふ。そうだろう、今はね。だが心配いらない。私が欲しいのは、君たちがまだ持っていない情報なのだから」

 「……???意味分んないんですけど……???」

 「つまりだね」

 

 背もたれに体を預けていた寺屋成が、その身を起こして机に肘をついた。ガラス玉のような瞳で見つめられると、牟児津は体の奥まで見透かされるような緊張感に襲われた。そして寺屋成は、期待に満ちた声で言う。

 

 「君たちが真犯人を見つけるまでの過程を新聞部が取材させてもらう!もちろん取材した内容は学園新聞に掲載するよ!新聞部の独占連載記事だ!」

 

 大仰な身振り手振りとともに寺屋成は条件を提示した。それは、牟児津にとって思ってもみなかった条件だった。

 

 「しゅ、しゅざい……ですか……?」

 「そっかあ。確かにそれは、私たちがまだ持ってない情報ですね」

 「黒板アート消失事件だけでもなかなかにセンセーショナルだが、その容疑者と目されている生徒が真犯人追及のために動き出す!これはいいぞ!実に興味をそそられる!」

 「い、いやその……取材って言われても私なに話したらいいか分かんないですし……」

 「別に気の利いたトークなど期待していない。単に君たちが事件解決に奮闘する姿を、写真と文字で伝えさせてくれればいい。面白味が必要なら私たちがどうとでもしてあげよう」

 

 自分のような平凡かつ無個性な生徒を取材したところで、何が面白くなるのだろう、と牟児津は訝しむ。この事件における立ち位置は特殊かも知れないが、事件解決に乗り出したのはあくまで思いつきで、風紀委員より先に犯人にたどり着ける保証などない。その懸念は、瓜生田も同じのようだった。

 

 「取材は構いませんが、私たちより風紀委員会が先に犯人を見つけちゃうかも知れないですよ。縦しんば私たちの方が先に見つけられるとしても、どれくらいかかるか分かりませんし」

 「全てノープロブレムだ。なぜなら、私は君たちが真犯人にたどり着くと確信しているからね」

 「それはまたなんで」

 「私の勘はよく当たるんだ」

 

 そう言い切る視線は、一切ぶれていない。寺屋成はなぜか、根拠に乏しく理屈も危ういことほど自信満々に言う。そして、それだけで相手を黙らせてしまうほどの熱量がある。そのエネルギーを真正面から浴びた牟児津と瓜生田は、もはや承諾することしかできなかった。

 

 「よし、では交渉成立だ。お互いの利益のため、共に邁進していこうじゃないか」

 

 陰惨な部室の雰囲気にまるで似つかわしくない爽やかな笑顔で、寺屋成は右手を差し出した。反射的に牟児津も右手を出し、固い握手を交わした。

 寺屋成は大きく頷いたあと、机の引き出しから分厚いファイルを取り出した。『学園内取材録』と題されたそれは、どうやら新聞部がこれまでに行った取材を時期ごとにまとめたものらしい。目にも止まらぬ速さでページをめくる手が、ある箇所で止まる。

 

 「これだな」

 

 寺屋成は無数の書類を束ねるファイルのリングを外し、綴じられていたA4紙を牟児津に差し出した。それは、まさに牟児津たちが求めていた、事件に関する詳細な情報がまとめられたメモ書きだった。

 

 

 ──取材録   記入者:益子 実耶──

 ・事件概要

  高等部2年Dクラスで事件発生。黒板アートが何者かに消される。発見者は同クラス生徒の時園葵。学生生活委員。毎朝1番に登校している。

  黒板アートについて。高等部見学日に向けて準備。クラスの美術部(足立)が提案。クラス内有志が一週間かけて教室後ろの黒板に制作。バラのイラストの予定だった。

 

 ・発見者(時園葵)インタビュー

  ───黒板が消えているのを発見してどう感じました?

  時園:驚きました。昨日下校するときには絶対にあったのに、朝になったら消えてて、わけが分かりませんでした。

  ───犯人らしき人物を見たらしいですね?

  時園:今朝教室に入る前に、廊下の向こう側に走って行く人影を見ました。きっと、犯人だと思います。

  ───なぜそう思いましたか?

  時園:教室のドアが開いていたので、誰かが教室から出て行ったんだと思いました。中には誰もいなかったのにカーテンが閉まってましたし、床がチョークの粉まみれでした。絶対に誰かがいたんだと思って、怖かったです。

  ───犯人の特徴は?

  時園:角を曲がるぎりぎりだったので顔も学年も分かりませんでした。でも髪が赤っぽくて、結んでいたと思います。

  ───犯人に言いたいことは?

  時園:なぜこんなひどいことをしたのか、きちんと説明してください。こそこそ隠れて逃げるなんて卑怯です!正々堂々、ちゃんと出て来て謝ってください!

  了

 

 ・風紀委員(川路委員長)のコメント

  高等部見学日は毎年、中等部・高等部双方にとって多くを学ぶことができる日だ。その日を直前に控えたタイミングでこのような事態が起きたのは、風紀委員としても深刻に受け止めている。準備してきた生徒の心中は察するに余りある。犯人確保及び真相究明に向けて全力を挙げていく所存だ。

 

 ・その他特記事項

  事件が起きた2年Dクラスには、前述の目撃証言に合致する生徒が在籍している。今後、風紀委員が個別に話を聞く予定。

 

 

 「どうかな」

 

 どうかと聞かれれば、十分過ぎるほどの情報だと牟児津は感じた。事件の内容については、生徒指導室で川路が語っていたものとほとんど同じのようだ。ここにはそれに加えて、時園へのインタビューや事件発覚当時の状況まで事細かに書いてある。いま葛飾がクラスで調べていることと重なる部分はあるかも知れないが、先に知ることができたのはありがたい。

 

 「これ、写しを頂いてもいいですか?」

 「いいよ。もう号外に載せているとはいえ、いちおう取扱注意で頼むよ」

 

 先に読み終わった瓜生田がテキパキと寺屋成に話を付ける。ようやく牟児津と瓜生田は真相究明のスタートラインに立ったわけだが、2人は事件解決に大きく近付けたような気がしていた。

 

 「部長、ありがとうございます。なんか本当に真犯人が見つけられそうな気がしてきました」

 「それはよかった。私としても君たちには是非そうしてほしいと思っているよ」

 「今日この後も調べものするつもりなんですけど、部長が密着されるんですか?」

 「いや、私は部室の留守番を頼まれているから、密着はまた明日から人を付けよう。今日の調査結果は、明日の朝にでも報告に来てくれ」

 「情報は鮮度が命だったんじゃないですか?」

 「育てている間は気にしなくていいことだ。それじゃあ、よろしく頼むよ」

 

 爽やかな笑顔と徹底した詭弁で、寺屋成は2人を送り出した。廊下に出ると、この部室を訪れたときに感じていた紙とインクの臭いはもはやなく、すっきりとした外界の空気だけを2人は感じていた。どうやらしばらく中にいたせいで、鼻があの臭いに慣れてしまったらしい。鼻先にこびり付いた臭いを吹き飛ばすように、牟児津は大袈裟に深呼吸した。

 

 「くっせえわ」

 「臭いが髪に浸みちゃうね」

 

 部室から十分に離れたのを見計らって、牟児津と瓜生田はそう言って笑いあった。



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第3話「これって、できんのかな?」

 

 新聞部で事件に関する基本的な情報を得た2人は、次に調査する場所について悩んでいた。現場である教室は牟児津がまともに調べられる状況ではないため葛飾に頼んでいる。新聞部のような、この事件について調べている第三者から得られる情報は、これ以上ないだろう。しかしまだ教室に戻るには早い。どこか他に、事件について調べられる場所はないかと、足を向ける場所を考えていた。

 しばらく思案していると、牟児津の頭に閃きが生まれた。ぽん、と手を叩き、その閃きを言葉にする。

 

 「そうだ!警備室行こう!」

 「なんで?」

 「いちおう、外部犯の可能性も考えておこうと思って。学園外の人が犯人だったら、警備室に来客記録が残ってるはずだよね!」

 「そっかあ。うん、いいと思うよ」

 

 もし外部の人間による犯行だった場合、いよいよ2人だけでは真犯人を捕まえるのは絶望的になるのだが、牟児津は絶対にそこまで考えていないだろう。また、早朝に黒板アートを消すためだけに学園に侵入する変質者がいるかと考えれば、確認するまでもなさそうなことだと瓜生田は思った。それでも、ここで棒立ちになって考え呆けているよりはマシなので、牟児津の案に従って警備室へ聞き込みに行くことにした。

 学園外の人間が校舎に立ち入るには、校門をくぐってから職員・来客用の玄関に入り、警備室で来客記録帳に必要事項を記入する必要がある。職員・来客用の玄関は校門のすぐ正面にあり。警備室からはそこを通るひとりひとりの顔までよく見える。放課後のこの時間は通る人影もまばらで、警備員はのんびりとコーヒーを飲んでいた。

 

 「すいませーん」

 

 来客対応用の小窓を覗き込み、牟児津が中の警備員に声をかけた。分厚い脂肪がマフラーのように首を覆っている中年の男が、牟児津に気付いてガラス戸を開けた。

 

 「はいはい。どうした?」

 「あのですね。ちょっと今日の来客記録を見せてもらいたいんですけど」

 「来客記録?そりゃまたどうして」

 「今朝2年生のクラスであった事件って知ってます?」

 「ああ。知ってるよ。ちょうどその号外を読んでたんだ」

 

 新聞部はこんなところまで号外を配りに来ているのか、と牟児津は呑気に考えていた。だが、そこまで言い切ってからその中年は牟児津の顔に気付いたようで、牟児津はそれを察して小さく声を漏らした。

 

 「なんだ。どこかで見たことあると思ったら号外の子じゃないか。有名人だね」

 「冗談じゃないですよ。風紀委員にはしょっぴかれるし、クラスメイトは冷たいし、新聞部には付きまとわれることになるし……私は無実だっつーの!」

 「よく分からないけど大変そうだね」

 「大変なんですよマジで!」

 「それで、その事件の犯人が外部の人じゃないかと思いまして、確認のために記録を拝見したいんです」

 「ほお、なるほど。面白そうなことしてるね」

 

 今日一日の散々な出来事を思い起こしているうちに興奮してきた牟児津に代わり、冷静な瓜生田が補足を入れる。だいたいの事情を察したのか、中年警備員は特に警戒することもなく来客記録帳を取り出した。

 日付、指名、来校時刻、退校時刻、用務先についてそれぞれ記載欄があり、今日も昼の間に何人か来客があったようだ。だが、事件が起きた早朝の時間帯には記録が残っていなかった。何度繰り返して見ても、書かれている事実は変わらない。外部犯の可能性はあっさりと否定された。

 

 「ありがとうございました」

 

 それだけ言って、2人は早々に警備室での聞き込みを切り上げた。やはり真犯人は、学園内部の人間のようだ。そもそも、まだ生徒がほとんど登校していない早朝に学校を訪れるような怪しい人間など、いるはずがない。考えてみれば当たり前のことをわざわざ確認していたことを痛感した牟児津は、無駄足を踏んですっかり意気消沈していた。

 

 「あーもうわかんねー。誰だよ。誰が犯人なんだよ」

 「投げ遣りになるのが早いよムジツさん。まだ調査始めたばっかりなんだから」

 「でもこれからどうしよう。やっぱ葛飾さんの情報待つしかない?」

 「うーん……教室は風紀委員や新聞部が調べてるはずだから、そこまで重大な手掛かりが今更出て来るとは思えないし……」

 「うああああっ!!詰んだああああっ!!」

 「早いってば」

 

 なかなか思うように捜査が進まず、牟児津は頭を抱えた。まだそうなるには早いと瓜生田は思うが、調べるべきことが思い浮かばないのは瓜生田も同じだった。ひとまず落ち着かせるために何か話をしようと、瓜生田は昼休みから現在までのことを思い返していた。

 そして、まだ牟児津と瓜生田で共有されていない情報があることに気付いた。

 

 「ねえ牟児津さん。そういえばなんだけど、お昼休みに話してた人ってどういう人なの?」

 「んぇ?えーっと……時園さんのこと?」

 「あともうひとり。大人しそうな感じの人」

 「そっちは足立さんかな。なんで?」

 「うーん……なんとなく気になって。なんか、クラスの代表って感じだったから」

 

 本当は牟児津を落ち着かせるために話題を与えただけに過ぎないのだが、それをそのまま言うわけにもいかないので、適当な理由を付ける。牟児津は深く考えず、瓜生田のリクエストに応えて二人の生徒について話すことにした。

 

 「時園さんは学生生活委員で、まあクラスのまとめ役って感じの人だよね。毎朝一番に登校してるらしいし、真面目な人って印象だな」

 「なんか怖い感じの人だったよね?いかにもムジツさんが苦手そうな」

 「いや、いつもは結構優しいんだけどね。でもなんか、高等部見学日をすごい楽しみにしてて、黒板アート作るのもやけに張り切ってたよ。だから消されてショックだったのはあると思う」

 「そっかあ」

 

 時園は、絵が消された黒板を最初に見つけた生徒でもあり、黒板アートの完成を最も待ち望んでいた生徒でもある。教室での様子や新聞部のインタビュー記録を見る限り、その気持ちは本物だったのだろう。その犯人であると思えば、牟児津をあそこまで強く糾弾するのも頷ける。

 

 「足立さんは確か美術部で……うん、大人しい人だから、私もあんまり話したことないな。でも顔に出にくいだけで、消されてショックなのは同じだと思う。足立さんも描いてたし」

 「なんであの人が一緒に前に立ってたのか分かる?」

 「いちおう、黒板アート制作リーダーってことになってたからかな。ある意味一番の被害者って言える人だし、時園さんが立たせたんだと思うよ」

 「なんか迷惑そうだったよね」

 「やっぱ人前に立つのちょっと苦手なのかも……まあ、あの雰囲気の時園さんには逆らえないだろうからしゃーないわ」

 「色々と可哀想だね」

 

 時園に比べて、足立のことを牟児津はよく知らない。クラスの中でも発言力のある学生生活委員と、授業中以外は声を聞くことも少ない大人しい生徒では、印象に差があるのも致し方ない。瓜生田にもなんとなく、牟児津から見た2人がそれぞれどんな生徒なのかのイメージはついた。

 

 「ちなみに描いてたのってどんな絵だったの?」

 「バラの絵だよ。黒板いっぱいに花が描いてあって、その中の1個だけめっちゃすごいの」

 「すごいって何が?」

 「“よ”“う”“こ”“そ”の文字でバラの花を描いてんの。なんか隠し文字?とかってヤツで、気付いたとき声出たわ」

 「へえ。そんなことできるんだ。ちょっと描いてみてよ」

 「よっしゃちょっと紙とペン貸して……って私が描けるわけないじゃん」

 

 軽く仕掛けてみた瓜生田の小ボケにも、牟児津はしっかりつっこんできた。瓜生田の思惑通り、牟児津はいくらか落ち着いたようだ。落ち着けば、次にどう行動すべきか考える余裕が生まれる。やはり教室で起きた事件は教室内の事情について調べる方が真相が見えてきそうだ。教室の外で教室の中のことを調べるには、内情を知っている人物を訪ねる他にない。

 

 「じゃあムジツさん。次に行くところだけど──」

 「すみませーん。ちょっと通りまーす」

 

 瓜生田が次の目的地を決めようとしたその時、背後から声をかけられた。話に夢中になっていたせいで、廊下を塞いでいることに気付かなかった。瓜生田の後ろには、段ボールを抱えた2人の女生徒がいる。胸にかけたリボンはレモンイエローで、瓜生田より1つ上の学年であることを示していた。

 

 「おっと、すみません」

 

 すっ、と壁際に体を寄せて瓜生田は道を空けた。後ろから来た2人組はそこを通り抜けようとする。何の気なしにその顔を見た牟児津が、小さく声を出した。

 

 「あっ!」

 「あっ」

 

 牟児津が声を出したのとほぼ同時に、2人組も同じように声を漏らした。牟児津はとっさに2人組の前に立って道を塞ぐ。ほぼ反射的な行動だった。今この時を逃したら、もうチャンスはないと感じていたからだ。

 

 「ま、まま、待って!ごめん箱根さん!砂野さん!」

 「ちょっと!危ないよ!」

 「ごめん!あの、でも……ちょっと話を、聞いてほし……かったり、聞きたかったり……」

 

 廊下の真ん中で急に立ち塞がられて、2人の抱えている段ボールが落ちそうになる。牟児津は慌ててそれを支えて、立ち止まった2人に頭を下げた。話を聞いてほしいのか聞きたいのか、どちらでもあるだけに、どこから始めればいいか分からない。しかしこの機会を逃したら、クラスメイトとゆっくり話し合えるチャンスは二度と訪れないかも知れない。2人を含めクラスメイトはほぼ全員が、黒板アートを消した犯人は牟児津だと思っている。今でさえまともに話ができるかさえ怪しい。

 

 「ムジツさん?どうしたの?」

 「あっ……えっと、クラスメイトの、箱根さんと、砂野さんだよ。こっちはえっと……幼馴染みで1年生の瓜生田さん」

 「どうもです」

 

 横から瓜生田に声をかけられ、牟児津は我に返った。あまりに唐突過ぎて、流れも前提もない無茶苦茶な紹介になってしまった。全く動揺していない瓜生田に対して、つまようじのようなシルエットの箱根(はこね)(しん)と鏡餅のようなシルエットの砂野(すなの)叶鳥(ととり)は困惑したまま、瓜生田に軽く会釈するに留めた。そして、再び牟児津の方を見る。

 

 「どうしたの牟児津さん。謝る気になったの?」

 「いや、だから私はやってないんだって……本当に」

 「でも時園さんが見たって言ってるし」

 「時園さんの話はそうだけど、見間違いかも知れないじゃん!私はその時間は家にいたんだってば!」

 「ああ。『今日のあんこ』観てるって言ってたわね。私もいつも観てるのよ」

 「私も観てるんですよ。ほっこりした気分になりますよね」

 

 素気ない態度をとる箱根に対し、穏やかな砂野は呑気にテレビの話に食いついた。意図的か否か、瓜生田がさらに乗っかって話の流れを穏やかな方向に持ち込む。ここがチャンスとばかりに、牟児津は『今日のあんこ』の話を畳み掛けた。

 

 「いいよねあれ。今日は近くのお店だったし」

 「そうね。いつもはここから遠かったり高かったりするのにね」

 「たまにデパートでお母さんが買ってきてくれると、もうめっちゃ嬉しくて」

 「分かる〜!むしろ一緒に行って買ってもらったりしてるよ、私」

 「ちょっと、砂野さん。仲良く話してたらまずいって。時園さんが知ったら……」

 「えっ……時園さんに何か言われてるの?」

 「うっ」

 

 小声で言ったつもりが、牟児津にはばっちり聞こえていた。箱根は苦々しい顔をしたが、さほど間をおかず、観念したようにため息を吐いた。変に隠して面倒を増やすよりも、正直に言ってしまった方がいいと判断したのだろう。

 

 「時園さんにね、牟児津さんがきちんと謝るまでは関わらないようにしようって言ったの。見学日の準備もそうだけど、それ以外も色々と。こんな事件起こした人とは……ちょっと、って」

 

 それは、牟児津が最も怖れていたことだった。同時に、そうなることも不思議ではないと感じた。時園は本気で牟児津が犯人だと思っているのだ。クラス一丸となって取り組んでいたものを台無しにしたのだから、クラス一丸となって排除しようとするのは、自然なことに思えた。しかしクラス内のグループから省かれることは、この学園では数少ない、何の部活動や委員会にも所属していない牟児津にとって、人とつながる場所が失われることになる。充実した学園生活を送る上では死活問題である。

 

 「い、いやいやいや!待って!本当に違うから!私じゃないから!」

 「うん。私たちも、実は牟児津さんじゃないんじゃないかって思ってるの」

 「へ?」

 「でも時園さんがあまりにも言うから、なかなか言えなくて」

 「ハブるのとか、ちょっと陰湿だなって思うし」

 

 どうやらこの2人はなんとなく時園に賛同しているだけで、牟児津を怪しいと思っているわけではないらしい。むしろ、自分の考えに固執して暴走気味になっている時園にうんざりしている節もあるようだ。

 しめた、と牟児津は思った。この2人になら、自分の話を聞いてもらえるし、話を聞くこともできそうだと感じた。ここにいるということは葛飾の調査から漏れているだろうから、ここで捕まえておかないと大事な情報を取りこぼしてしまうかも知れないとも感じていた。

 

 「じゃ、じゃあ、あのね、実は私、自分で犯人見つけようと持って色々調べてるんだけど」

 「教室にいないと思ったら、そんなことしてたの?」

 「うん。私が無実だって証明するのに、それが一番手っ取り早いでしょ」

 「そうだけど……行動力ヤバいね」

 「それで、2人が知ってることを教えてほしいんだ。別に誰が犯人かとかじゃなくて、なんか気になったこととかいつもと違うこととか、事件に関係ありそうなことなんでもいいから教えて!」

 

 案の定、牟児津はクラスメイトに呆れられた。どう考えても教室に残って無実を訴えるか飾り付けの準備を手伝う方が信頼を取り戻すには確実に思えるが、牟児津はそうしないことを選んだ。呆れはしたが、そこまで必死になる牟児津の姿は少なからずクラスメイトの胸を打ったようだ。箱根と砂野は顔を見合わせてから話し始めた。

 

 「いつもと違うことって言うと……足立さんかな?」

 「そうだよね」

 「え、足立さん?」

 

 つい先ほど話していた人物の名前が出てきて、牟児津も瓜生田も少し驚いた。牟児津の言う通り、この事件の関係者ということもあって周囲から注目を浴びているらしい。本人の性格を考えると気の毒なことだ。

 

 「足立さん、やっぱり落ち込んでたよね」

 「うん、落ち込んではいた。けど気になるのはそこじゃなくて、ここ最近のことなんだよね」

 「どういうこと?」

 

 牟児津はてっきり、黒板アートが消されてしまって足立が落ち込んでいることを言っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。箱根はより詳しく足立のことを話した。

 

 「一週間くらい前に黒板アートを作りはじめて、足立さんも最初はすごく張り切ってたの。すごい細かいところまで色とか線とか決めてて、私たちも圧倒されちゃうくらい」

 「2人も美術部でしょ?全部足立さんが決めてたの?」

 「完成予想図も足立さんが書いてきたし、毎日出来映えをチェックしてたね。すごい熱意だった」

 「それだけ魂を込めたものが消されちゃあ、そりゃあ落ち込みますよね」

 「う〜ん、でもなんか、そうじゃない気がするんだよね」

 「そうじゃない?というと?」

 「最初は足立さんも一生懸命だったんだけど、なんか最後の方はどんどん勢いがなくなっちゃって……指示が雑になったよね」

 「うん。私も好きに描いていいよって言われた。今までそんなことなかったのに」

 

 どうやら足立は、絵が完成に近付くにつれて情熱を失っていったようだ。絵を描くことに詳しくない牟児津と瓜生田には分からないが、途中で飽きてしまったり思い通りにいかずに悩んだりというのは、よくありそうなことだと感じた。箱根と砂野に聞いてみると、そういうことは考えにくいという。

 

 「足立さん、すごく真面目な人だから」

 

 2人から聞き出せた情報は、それくらいだった。時園が暴走気味なことは、昼休みに少し様子を見ただけで分かったことだ。牟児津は箱根と砂野に深く礼をして道を譲った。警備室で得られる情報はなかったが、思いがけずクラスメイトから話を聞くことはできた。結果的に無駄足にはならなかったということだ。

 

 「よかったねムジツさん。クラスに帰るところがあって」

 「うん。なんかちょっと落ち着いた気がする」

 「そっかあ。じゃあ、次行くところなんだけど、職員室に行ってみない?」

 「職員室?なんで?」

 「いつもと様子が違う人がいたら、先生の方がよく分かるんじゃないかなって思って」

 

 期せずしてクラスメイトから手に入れた情報によって、牟児津と瓜生田は捜査の方向性を得ることができた。次に向かう場所への足取りは、今までになく軽かった。

 職員室は放課後でも人の出入りが多くがやがやとしている。部活動や放課後活動で教師に用がある生徒や、逆に生徒に用がある教師がいて、とにかく誰もじっとしていないのだ。2人が用のある教師が職員室にいるかは分からなかったが、少なくともその足取りを掴むことはできるだろう。いずれにせよ話は聞けるはずだ。そう期待して牟児津は職員室のドアをノックし、中に入った。

 

 「失礼しまーす……ってあれ、つばセンだ」

 「失礼します」

 「おう。牟児津、と瓜生田じゃん。どうした」

 「こんにちわー」

 「教室いなくていいの?」

 「もうすっかり作業に集中してるからな。任せて大丈夫そうだから戻って来たんだ」

 

 まるで友達と話すかのように、牟児津は大眉に遠慮がない。大眉は正担任である石純と比べて若いせいか、なんとなく教室全体から舐められているような雰囲気を感じている。実際、一部の生徒からは舐められている。だがクラス全員、授業は真面目に聞いているので、変に壁を作られるよりはマシ、と考え大眉は敢えて注意せずにいる。

 

 「ふーん。まあいいや。ずみセンいる?」

 

 ずみセンとは、正担任である石純が一部の生徒から呼ばれているあだ名だ。牟児津は悪気なく尋ねたのだが、大眉は少し苦々しい顔をして首を横に振った。

 

 「石純先生は今日お休みだぞ」

 「はっ!?聞いてないんだけど!?」

 「午後の授業のときに言っただろ」

 「ムジツさんそのとき放心状態だったんですよ。でも急にお休みですか?なにか退っ引きならない事情でもあったんですかね」

 「さあな。まあ石純先生も色々大変でいらっしゃるだろうから、お前らあんまり詮索すんなよ」

 「はーい」

 

 今日の牟児津の思惑は悉く上手くいかないようだ。あてにしていた担任教師が、今日に限って休みとは。しかし自分のクラスで大変な事件が起きているのだから、休みだろうと飛んできてもいいのではないか、と牟児津は不満を覚える。しかしいないものは仕方がない。予定していた話は聞けそうにないが、代わりに話を聞ける相手が目の前にいる。

 

 「じゃあ、つばセンでもいいや」

 「失礼だなお前」

 「なんか最近、いつもと違う感じの人いなかった?うちのクラスで」

 「はあ?いつもと違う感じってなあ……いやだから、そもそもお前らはそういうことしなくていいんだよ」

 

 担任の石純ならば、クラス全員の様子を把握しているかも知れないと思っていた。そうすれば、足立の他にも様子のおかしい生徒や、放課後の見学日準備を快く思っていない誰かの様子にも気付いていたかも知れない、と牟児津は考えた。そのため話を聞きに来たのだが、あいにく石純は不在だった。そこで副担任である大眉に同じ質問をしてみたのだった。

 しかし大眉は質問に答えるどころか、牟児津と瓜生田があちこち回って事件の調査をしているらしいこと自体を問題視していた。風紀委員に任せていては自分が疑われるから、牟児津は自分で捜査をすることにしたというのに、それをやめろと言う。

 

 「校内で起きた事件の解決は風紀委員の仕事だろ。もし風紀委員の手に負えなくても教師が手伝うし、お前たちが関わることじゃないんだ。そんなことより、クラスに戻って作業を手伝った方が絶対に良いぞ」

 「いやでも……私めちゃくちゃ疑われてるし……」

 「それなら俺が一緒に行って、手伝わせてもらえるように頼んでやるよ。俺は、黒板消したのはお前じゃないって思ってるよ」

 

 正論に聞こえた。教師として、こういうときにはそう言うべきだという手本のような返答だと思った。それだけに瓜生田は、それが大眉の本心ではないと見抜いていた。ひとまずこの場を済ませようというその場しのぎの言葉だ。

 こういうときに何をすればいいか、瓜生田は心得ている。教師としての大眉を切り崩すことは難しい。それならば、人間としての大眉を切り崩せばいいのだ。瓜生田は牟児津と大眉の間に立ち、牟児津には聞こえないように言った。

 

 「そんなこと言わずに教えてくださいよ。()()()

 

 最後に名前を呼ぶとき、瓜生田は敢えて言い聞かせるような言い方をした。それが何を意味するかは、瓜生田と大眉にはよく分かっている。

 大眉は、大学生時代から瓜生田の姉である瓜生田(うりゅうだ)李子(りこ)と付き合っている。そのころから教師を志していた大眉は、偶然にも恋人の母校である私立伊之泉杜学園に就職し、そして偶然にも恋人の妹である瓜生田李下と出会った。そのきっかけは牟児津なのだが、当の牟児津は大眉と瓜生田の関係性を知らない。これは、瓜生田家と大眉だけが知っている秘密でもあった。

 

 「お、お前……あのなあ」

 「最近、お姉ちゃんとどうですか?母も心配してるんですよね。そろそろ、()()()()()()()なんじゃないかって」

 「い、いやお前……それはその、そういうのはそれぞれの家庭の話であって、生徒が首を突っ込むような話じゃなくてだな」

 「私はお姉ちゃんの妹で、将来は翼さんの義妹になるんですよ。首も肩もつま先も最初から突っ込んでます」

 「そりゃそうかも知れんが……こんなところでそんな話は……」

 「いけずなこと言ってると、翼さんがいじめるってお姉ちゃんに言っちゃうかも知れないですね」

 「いじめてないだろ!やめろよ!」

 

 秘密を利用した瓜生田の脅迫は大眉に非常に良く効く。瓜生田李子は妹に甘く、数年来の恋人に比しても妹のことが愛おしい。したがって、妹から恋人へのクレームはそのまま受け止められてしまう可能性が高い。2人が不幸になることは妹としても望むところではないが、姉に対して強い態度に出られない大眉を強請ることはできる。ここぞというときにだけ使う、瓜生田の切り札だった。

 

 「でもお姉ちゃんはきっと信じますよ」

 「……まあ、李子さんそういうところあるからなあ」

 「ムジツさんの質問に答えてくれるなら、翼さんに優しくしてもらったってポイント稼がせてあげてもいいですよ」

 「いっちょまえに取引なんか持ちかけやがって……!」

 「ダメですか?」

 「答えるに決まってんだろ!」

 

 大眉のこのチョロさが面白くて、瓜生田はつい必要以上に大眉をいじめたくなってしまう。同時に、大眉に教師としてのポリシーをあっさり捨てさせるほどベタ惚れされている姉が、大変誇らしい気分になるのだった。しかしやり過ぎると今度は自分が姉に怒られるので、ほどほどでやめておくのである。その加減も心得たものだった。

 

 「ムジツさん。大眉先生がなんでも聞いてって」

 「やったー!なんで!?」

 「気が変わったみたい」

 

 何がどうなったのか牟児津は知らないまま、大眉が質問に答えてくれるらしいことをよく考えずに喜んでいた。牟児津のこの単純さも、瓜生田は微笑ましく感じていた。

 

 「で、質問は?」

 「さっきも言ったけど、ここ最近でいつもと様子が違ったりおかしかったりした人いなかった?」

 「なんでまたそんなことが気になるんだ」

 「さっき箱根さんと砂野さんに会ってさ、足立さんが最近元気ないって聞いたから」

 「足立が?」

 

 僅かに大眉の声が大きくなった。驚いている、というよりは意外そうにしているという感じだ。それが何を意味しているのか、2人には分からない。ただ、少なくとも大眉は足立の様子には気付いていないらしいことは予想できた。

 

 「つばセンから見てどうだった?」

 「いや……別にそういう感じはしてなかったけどな。箱根と砂野は何か心当たりあるとか言ってたか?」

 「ううん。なんでか分からないってさ」

 「そうか……」

 「大眉先生、生徒のことあんまり見てないんですか?」

 「いや見てるよ。教壇からだと教室の全部がよく見えるんだぞ。牟児津がよく早弁してるのとか」

 「げえっ!?見えてんの!?ってかよくしてねえし!たまにだし!」

 

 質問には答えてもらえたが、代償として牟児津は早弁をバラされてしまった。今までバレていないと思っていたことが実はバレていたと知ったときの焦りと恥ずかしさで、かいたことのない汗が背中を伝うのを感じた。それと同時に、大眉にはきちんと教室全体がよく見えていることが分かった。

 それでも牟児津が望んだ手掛かりは得られなかった。それどころか、先ほど聞いた足立の様子がおかしいという話も、大眉にとっては気付かない程度のことだったらしい。ということは、元気がなくなったというよりは単純に絵に対して飽きたか考え方が変わったということだろうか。考えれば考えるほどわけが分からなくなる。どこまでが正しい情報でどこからが間違った推論なのか、その判断もつかない。

 

 「外れだったみたいだね、ムジツさん」

 「うう〜ん、いい考えだと思ったんだけどな……」

 「もう結構時間経ってるし、一回教室に戻る?葛飾先輩の調査もいい具合になってるんじゃない?」

 「お前ら、葛飾まで巻き込んでんのか。あいつは風紀委員なんだから迷惑かけるなよ」

 「違いますよ。葛飾先輩には、あくまでご自分の意思でご協力いただいてるんです」

 「強いてるヤツの言い方だなそれ」

 

 歩き回って話ばかり聞いていたので、一度整理した方がいいかも知れない。情報が詰まってきて重たく感じる頭を押さえて、牟児津は職員室を後にした。

 瓜生田の言う通り、葛飾が調べた情報も併せて考える必要がありそうだ。これまで聞いた話は事件の周縁をなぞるような情報ばかりで、中心である教室の話が足りていない。日もずいぶん傾いてきて、そろそろ外で活動している部は終わる時間を意識し始めるころだ。今日集めた手掛かりをまとめるためにも、2人は葛飾と合流して話し合うことにした。

 2人が教室に戻ったとき、葛飾は教室で得られた情報を整理しているところだった。風紀委員会に報告するにあたり情報の要不要や軽重をまとめておかなければならず、葛飾はいつもこの作業に手こずっている。戻った2人はさっそく葛飾に声をかけた。

 

 「葛飾先輩、お疲れ様です」

 「あっ。瓜生田さん。お疲れ様です、牟児津さんも」

 「お疲れ。どう?なにか分かった?」

 「おおよそは既に風紀委員が調べたことと重なりますけど、いくつか新しい発見もありますね。お二人も何か分かったことはありますか?」

 「う〜ん、あるようなないような……。取りあえずさ、一旦他んとこ行かない?」

 

 牟児津が教室に入るや否や、葛飾以外のクラスメイトが刺し殺すような視線を向けてきた。箱根の話では無視されると聞いていたが、むしろ強く意識しているのが丸わかりだった。さすがに居心地が悪すぎて、牟児津は葛飾の手を引いて早々と教室を出た。

 

 「どっか別の教室で話そうよ」

 

 自分のクラスだというのに、今の牟児津には一秒と長くいられない息苦しい場所になっていた。他に腰を落ち着けて話せる場所はないかと葛飾に尋ねる。それならと葛飾は、引かれていた手で牟児津の腕を握り返して先を歩き出した。

 葛飾が2人を連れて来たのは、2人にとって見知った教室だった。今朝までは入ったこともなかったが、今では中にある机と椅子の配置までよく知っている。そして、昼頃にはちょうど建物の陰になっていたのに、日が傾いてきた今の時間はモロに西日が差すことを知った。

 

 「生徒指導室(ここ)かい!」

 「ここなら他に人も来ないだろうから、秘密の話をするにはぴったりですね」

 「別に私は秘密の話をするわけじゃありません。捜査情報なので慎重に扱うべきだと思っただけです」

 「今朝はちょうどこの辺りに川路先輩がいて……」

 「うりゅやめて〜〜〜!思い出すだけでお腹痛くなる〜〜〜!」

 

 教室に入った3人はカーテンで陽を遮り、今朝と同じように机と椅子を並べてそれぞれ席に着いた。ちょうど今日の昼休みに牟児津が尋問されていたときの席順で、川路が葛飾に代わった格好になった。狭い教室だが圧迫感は昼休みのときより薄く、やはり川路の眼力があの息苦しさの原因だったのだと、牟児津は改めて感じた。

 葛飾は手帳を開き、教室で調べた情報をまとめるため2人に共有する。教室の捜査を任された葛飾は手始めに、時園が見たという犯人像について深く尋ねたらしい。

 

 「まず時園さんの証言についてですが、犯人が髪を結んでいるのを見たと仰っていましたが、正確には少し違います」

 「え?そこ重要なんですけど!私そのせいで疑われてるんですけど!」

 「まあまあムジツさん、落ち着いて」

 「正確には、犯人が角を曲がって走り去るときに、髪の束がなびくのを見たそうです。ですので、牟児津さんのように小さく束ねているような髪型とは違うかと」

 「おいおいおいおい!そういうの後から言うのアリか!散々人のこと疑っといて!っていうか決めつけてたろ!」

 「でもまあ髪型なんて結び直せばいくらでも変えられますからね」

 「はい。時園さんもそう仰っていました。ちなみに赤っぽい髪色だったことは間違いないようです」

 「赤系の髪の人はムジツさん以外にいないからねえ」

 「それでその後、ドアを開けて教室に入ったら黒板アートが消えていたと」

 

 自分が疑われる原因となった時園の証言が、ここに来て内容が少し変わった。それは牟児津にとって自分の疑いを晴らす絶好のチャンスかと思われた。しかしよく聞いてみれば、誰でもいつでも変えられる髪型に少し違いがあっただけで、一番重要な髪色については相変わらずだった。牟児津は自分の髪を恨めしげに見つめる。

 

 「あと、足立さんにも少しお話を伺いました」

 「なんか、箱根さんと砂野さんは元気がなかったって言ってたけど」

 「でも大眉先生はそんなことないって言ってたよ?」

 「私が見た限りでは、元気がないって感じはしなかったですね。代わりの飾り付け作りはちょっと張り切ってる感じもしましたよ。珍しく髪をあげて腕もまくって」

 「ええ……人によって話違いすぎる……。どういうこと?」

 

 どうにも足立の様子に関しては、証言する人によって内容が全く異なる。落ち込んでいるという声があれば、いつもと変わらないという声もある。はたまたいつもより張り切っているという声も出て来てしまった。足立は意外に気が変わりやすい質なのかも知れない。

 その他に葛飾が集めた手掛かりは、牟児津と瓜生田が既に知っている手掛かりと重なるものばかりだった。教室で直に得られる情報に期待していただけに、2人の落胆は大きいものだった。その後は牟児津と瓜生田が持っている情報を葛飾に共有し、ひとまず手掛かりを葛飾の手帳に書き出した。

 

 「う〜ん……なんじゃこりゃあ!分からん!葛飾さん風紀委員でしょ!こんだけ調べたらなんか分かんないの!?」

 「風紀委員は探偵じゃないんですから、手掛かりからいきなり真相を当てたりしませんって。ちゃんと捜査を続けて、何か知ってる人がいれば話を聞いて、そういう地道な努力の先に解決はあるんです」

 「私の平和な学園生活が脅かされる〜〜〜!時園さんの見間違いであってくれ〜〜〜!」

 「風紀委員としてもお話は何回も聞いてますし、さすがにもう訂正や間違いはないと思います」

 「くそぉ……」

 

 頭を抱えて机に突っ伏した牟児津は、新聞部でもらった時園への取材録を睨み付ける。全てこの証言のせいで、自分はいま大変な目に遭っているのだ。クラス全員に牟児津を無視するように呼びかけるほどのことをしておいて、まさか時園の自作自演ということもないだろう。もはや牟児津は、時園の証言をいかに違う解釈ができないかということを考えていた。

 

 

 ──取材録   記入者:益子 実耶──

 ・事件概要

  高等部2年Dクラスで事件発生。黒板アートが何者かに消される。発見者は同クラス生徒の時園葵。学生生活委員。毎朝1番に登校している。

  黒板アートについて。高等部見学日に向けて準備。クラスの美術部(足立)が提案。クラス内有志が一週間かけて教室後ろの黒板に制作。バラのイラストの予定だった。

 

 ・発見者(時園葵)インタビュー

  ───黒板が消えているのを発見してどう感じました?

  時園:驚きました。昨日下校するときには絶対にあったのに、朝になったら消えてて、わけが分かりませんでした。

  ───犯人らしき人物を見たらしいですね?

  時園:今朝教室に入る前に、廊下の向こう側に走って行く人影を見ました。きっと、犯人だと思います。

  ───なぜそう思いましたか?

  時園:教室のドアが開いていたので、誰かが教室から出て行ったんだと思いました。中には誰もいなかったのにカーテンが閉まってましたし、床がチョークの粉まみれでした。絶対に誰かがいたんだと思って、怖かったです。

  ───犯人の特徴は?

  時園:角を曲がるぎりぎりだったので顔も学年も分かりませんでした。でも髪が赤っぽくて、結んでいたと思います。

  ───犯人に言いたいことは?

  時園:なぜこんなひどいことをしたのか、きちんと説明してください。こそこそ隠れて逃げるなんて卑怯です!正々堂々、ちゃんと出て来て謝ってください!

  了

 

 ・風紀委員(川路委員長)のコメント

  高等部見学日は毎年、中等部・高等部双方にとって多くを学ぶことができる日だ。その日を直前に控えたタイミングでこのような事態が起きたのは、風紀委員としても深刻に受け止めている。準備してきた生徒の心中は察するに余りある。犯人確保及び真相究明に向けて全力を挙げていく所存だ。

 

 ・その他特記事項

  事件が起きた2年Dクラスには、前述の目撃証言に合致する生徒が在籍している。今後、風紀委員が個別に話を聞く予定。

 

 

 「……んぅ?」

 

 牟児津の口から音が漏れた。それは意識して出したものではない。牟児津の意識は声を出すことよりも、手にした文章の違和感に集中していた。一度は読み流したインタビュー記録だったが、改めてそのひとつひとつの意味を考えて読むと、見過ごせない矛盾が潜んでいるような気がした。

 

 「どうしたのムジツさん?何か分かった?」

 「いや分かったとかじゃないけど……なんか、これおかしくない?」

 

 握り締めていた取材録を、瓜生田と葛飾に見えるよう机に広げる。葛飾からボールペンを借り、違和感を覚えた箇所に赤い下線を引いた。視覚的にはっきりと示すことで、牟児津自身にもぼんやりとしていた違和感の形が分かってきたような気がした。

 牟児津が線を引いたのは、時園のインタビュー記録の一部分だった。時園が、走り去る人影が犯人だと断定した理由を述べている箇所の、最初の発言だ。

 

 「ここで時園さん、“教室のドアが開いていた”って言ってるじゃん」

 「それがなにか?」

 「葛飾さん、さっきのメモ見せて」

 

 先ほど葛飾が読み上げた、時園の証言をより詳細に聴取したメモを広げ、取材録の隣に並べる。二つの文章を見比べながら、違和感の在処をダウジングするように指でなぞる。そして、牟児津の指が止まった。

 

 「あ」

 

 その2つの記述が並んだとき、牟児津は違和感の正体が分かった。それほど大袈裟なものではない。その違和感に対する答えは容易に思い付く。

 

 「これだ。葛飾さんが聞いてきた、時園さんが教室に入るときの証言」

 「はあ。ドアを開けて中に入ったそうです」

 「それって変じゃない?なんで時園さんは()()()()()()()()()()()()()()の?」

 「……ああ。そっかあ」

 

 横で聞いていた瓜生田が、牟児津の言いたいことをいち早く察して声を漏らした。未だ頭の上でクエスチョンマークを踊らせている葛飾に、そして違和感を上手く言葉にできない牟児津に分かるよう、瓜生田は牟児津の質問を改めた。

 

 「時園先輩が登校したとき、犯人が逃げたと思われるドアは開いていた。その後、時園先輩はドアを開けて教室に入った。ムジツさんは、2回ドアが開けられてるのがおかしいと思ったんだね」

 「そう!さすがうりゅ!」

 「教室には2つドアがあるじゃないですか。時園さんは教室後ろのドアから入ったんですから、犯人は教室前のドアから出て行ったというだけのことじゃないですか?」

 「いや、普通後ろのドアから出て行くでしょ」

 「はい?」

 

 質問の答えは容易に導けた。教室の出入り口が1つではないことは、同じ学園に通う生徒なら誰でも知っていることだ。しかしだからこそ、牟児津にとってはその後に続く質問の答えが分からなかった。

 

 「ムジツさん。どういうこと?」

 「だって黒板アートは教室の後ろにあったんだから、それを消して逃げようと思ったら、普通後ろのドアから出て行くじゃん?なんでわざわざ黒板からも階段からも遠い前のドアから出てくんだろう、と思って」

 「それは……なんででしょうね?」

 「あとこの、カーテンが閉まってたっていうのもよく分かんないんだよなあ。見つかりたくないならさっと消してさっと逃げればいいのに、なんでこんな余計なことしたんだろ」

 

 まさか偶然にもカーテンが閉められたまま一晩中放置されてしまい、偶然その日に限って事件が起きたというわけでもないだろう。それはあまりにも都合が良すぎる。出来すぎている。そこにはきっと、犯人の意図が絡んでいるという確信が、牟児津にはあった。

 見当もつかなかった真相への道に、一縷の光が差したような気がした。折れる寸前まで叩きのめされていた牟児津の心が、その光に向けて再び勢いを取り戻した。脳の中でぐるぐる巡る思考を、口にして自分に言い聞かせつつ整理していく。

 

 「犯人は黒板アートがあることを知っていた人。朝早く登校してきて、教室に入ってから黒板を消して……カーテンを閉めて……教室の前に移動した?なんのために?」

 

 小さな疑問は簡素な答えで解決する。一対となった疑問と答えは互いにつながり、絡み合って巨大な謎を形作る。どう並べても、どう結びつけても、どう言い換えても、最後には同じ疑問に行き着いて道を塞ぐ。すなわち、“なぜそうしたのか?”への答えが見つからないのだ。

 なぜ犯人は黒板を消してから教室内を移動したのか。なぜ犯人は余計に時間をかけてまでカーテンを閉めたのか。そもそもなぜ犯人は黒板アートを消したのか。具体的で瑣末な疑問から、抽象的で根本的な疑問へ。考えるほどに問題の全容が朧気になっていく。

 

 「考えてばかりいても仕方ないですよ」

 

 その一言で、牟児津の思考が加速を止めた。葛飾は壁にかけられた時計に目をやる。閉校時刻にはまだ早いが、葛飾には今日の調査結果を風紀委員に報告する義務がある。他の2人よりも使える時間には制約があるのだ。

 

 「やっぱり風紀委員に任せてください。牟児津さんが犯人でないことは、私たちがきちんと証明してあげますから」

 「でも委員長が私のこと疑ってんだよ。無理じゃん」

 「アリバイもありますし、きちんと根拠を示してお話しすれば大丈夫です。お二人から頂いた手掛かりは、善意の生徒からの情報提供として報告しておきます」

 「ムジツさん、今日はもうこれくらいでいいんじゃない?」

 

 クラスメイトから風紀委員へ、捜査協力者から一般生徒へ。葛飾が態度を改めると同時に、牟児津と瓜生田の立場もその特殊性を失った。葛飾には背景から浮き上がって見えていた2人の姿が、風紀委員の目に変わることでその他大勢の中に沈んで混ざっていく。そんな風に自分の言葉が力を失っていくことを、牟児津は感じていた。

 

 「じゃあ私は風紀委員室に行きます。手帳を返してください」

 「う、うん」

 

 机に広げていた手帳に、葛飾と牟児津が同時に手を伸ばした。

 

 「あっ」

 

 牟児津から葛飾へ。葛飾から牟児津へ。正反対に働く力を同時に受けた手帳は、そのどちらの手に収まることもなく、机の上を滑って落ちた。パラパラとページがめくれて、隙間から2つの色が飛び出した。

 

 「ごめん葛飾さん」

 「いえ、ごめんなさい牟児津さん。私が拾いますから大丈夫です」

 

 思わず席を立った牟児津を、葛飾は手で制した。床には、葛飾の手帳から飛び出した四角い“黒”がそのまま貼り付いていた。

 

 「葛飾さん。その黒いのなに?」

 「これですか?これは緑シートですよ。参考書の付録です。単語テストの勉強のために、いつも持ち歩いてるんです」

 「普通赤じゃない?」

 「よくある単語帳なら赤でいいけど、教科書の字は消えないでしょ?教科書に赤いマーカー引いて緑シート被せると、こうやって見えなくなるんだよ」

 「ふーん」

 

 瓜生田が取材録の余白にマーカーを引いて実演してみせた。説明した通り、赤地に緑を重ねると黒に見えた。牟児津は普段赤シートしか使わないので、当然のように説明されると、自分が非常識な人間に思えて心がざわつく。

 その話を聞いている間も、葛飾はなかなか頭を上げない。教室の床を覗き込みながら、何かを探しているようだ。

 

 「なにしてんの?」

 「赤シートが見つからないんです〜!この辺に落ちたはずなんですけど……!」

 「カーテンの影に紛れてるんですね。開けますよ」

 

 どうやら葛飾の手帳から飛び出した赤シートは、カーテンが落とす赤い影の中に滑り込んで葛飾の視界から消えたらしい。瓜生田がカーテンを開けると、赤シートはたちまちその境界を明瞭にさせた。まるで、カーテンの影がそこだけ切り取られたかのようだ。

 

 「……お?」

 

 その様子をぼんやり眺めていた牟児津の頭で、一瞬何かが光った。その閃きを逃さないように、牟児津は頭の中で手を伸ばす。たったいま無意識に考えていたことを、意識の上に引きずり出す。

 

 赤シートと緑シート。 消える赤い文字。 赤いマーカー。

  陽の光。 カーテンの影。 色。 赤い色。

 

 「あぁ……。そうかも」

 

 牟児津の頭に生まれた閃きは、赤く光る火となっていた。進むべき先も見えない暗闇ではっきりと道を示す心強い灯火だ。その火に導かれるまま、牟児津はペンを手に取った。忘れてしまわないように、思考をそのまま書き出していく。

 瓜生田と葛飾は、様子のおかしい牟児津を見つめながらも声をかけられずにいた。声をかけさせない雰囲気を、牟児津が発していたからだ。

 ひとしきりペンを走らせてから、牟児津は手を止めた。前のめりになっていた体がふっと脱力し、背もたれに全体重を預ける。

 

 「ムジツさん?」

 「……あのさあ、うりゅ」

 

 しばし天井を眺めたあと、牟児津は体を起こしてから言った。

 

 「これって、できんのかな?」



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第4話「今日も私は無実だった!」

 

 帰宅支度する生徒を焦らせるように、太陽は少しずつ地平線へと下りていく。床に落ちる影が窓枠の形に切り取られている廊下を、葛飾は人を連れて歩いていた。その足取りは慎重である。逸る気持ちを悟られないよう落ち着いて、不安な気持ちを気取られないよう毅然と、それでいて着実に歩を進めていた。

 葛飾は未だに半信半疑だが、牟児津にはこの度の事件の犯人が分かったという。そして、その人物から直接話を聞くため、葛飾はその“犯人”を生徒指導室で待つ牟児津の元に連れて来る役目を任されたのだった。過程を飛ばして結論だけを聞かされた葛飾にとっては、いま後ろを歩いている人物が本当に事件の犯人なのか不安が残っていた。一方、後ろを歩く“犯人”はなぜ呼び出されたのか分からないまま葛飾に続いていた。

 不均一な緊張に包まれた2人は言葉を交わすこともなく、生徒指導室の前まで来て立ち止まった。葛飾がドアを開き、“犯人”を中に促す。

 

 「どうぞ」

 

 葛飾に軽い会釈で応えつつ、“犯人”は教室に入った。夕暮れ時の生徒指導室には低くなった陽が差し込み、部屋は幾何学的な模様で赤と黒に塗り分けられていた。目隠し用の衝立の反対側に回り込むと、牟児津と瓜生田が立っていた。“犯人”は再び会釈した。

 

 「ごめんね。急に呼び出して。まあ座ってよ」

 

 牟児津は“犯人”を椅子に座らせ、自分は机を挟んで反対側に腰かけた。机の上にはまっさらな紙と、赤と黒の2色ボールペンがある。ただならぬ雰囲気に“犯人”は目を細めるが、それ以上の反応はなかった。間合いを計るような堅い沈黙のあと、牟児津が口を開いた。

 

 「今朝、うちの教室の黒板が消されてた事件。知ってるよね?」

 

 “犯人”は小さく頷いた。知っていて当然だ。目の前の人物がしたことなのだから。牟児津は少しずつ、言葉を選びながら、説明するように自分の考えを述べていく。

 

 「みんなは私が犯人だと思ってるみたいだけど、本当はそうじゃないんだよね。だから、あなたには少しでいいから、私の話を聞いてほしくて呼んだんだ」

 「ちょ、ちょっと待ってください牟児津さん。話って、なんの話をするんですか?」

 

 長くなりそうな前置きから始まった牟児津の話に、横から葛飾が割り込んだ。目の前の人物が“犯人”だと言うのなら、それを指摘して認めさせれば終わりではないのか。葛飾はそう考えていた。だが牟児津は、葛飾を落ち着かせるように真剣な顔で返した。

 

 「大事なことだから、ちゃんと順番に話したいんだよ」

 

 それだけ言って、改めて“犯人”と向き合った。葛飾は何がなんだか分からないという顔で、瓜生田は牟児津の言葉を聞き逃すまいと注意して、“犯人”は話の内容を察知したのか緊張した面持ちで、牟児津の話に耳を傾けた。

 

 「そもそも私が疑われてる原因は、時園さんの証言があるから。今朝、教室に入る前に、廊下の奥に走って行く犯人らしい人影を見たっていうヤツね。葛飾さんが詳しい話を聞いたら、人影っていうのは厳密にはちょっと違くって、実際に見たのは赤い髪の色と結んだ髪の束だったそうだよ。だからクラスで特徴が一致してる私が疑われた。だけど、それだけじゃ私が犯人だとは言い切れないんだよ」

 

 “犯人”は黙って話を聞いていた。その視線は、机の上の何も書かれていない紙に落とされている。

 

 「髪が長い人なら髪型なんて自由に変えられるよね。私がこっそり教室に忍び込むなら、むしろいつもと違う髪型にするよ。ちょっとでも誤魔化せるようにさ。じゃあ髪色はどうかって言うと……これは見間違いだと思う」

 「見間違いってそんな!それを言いだしたら証言を聞く意味がなくなります!」

 

 横で聞いていた葛飾は、傍聴者に徹する態度を早々に改めた。完全に正確な証言は理想だとしても、時園の証言は、本人が何度も同じ内容を堂々と証言していたことからも信用に値する。それを見間違いだと切り捨ててしまうのは、牟児津がそれによって疑われているということを差し引いても、ひどく乱暴に聞こえた。しかし、葛飾は既に早合点をしていた。

 

 「犯人の髪は、時園さんには確かに赤く見えたと思う。だけどそれは髪が赤かったんじゃなくて、赤く見える髪だったんじゃないかな」

 「???」

 

 ますます訳が分からなくなり、葛飾は首をひねる。自分ひとりが分からないのかと思いきや、隣で聞いていた瓜生田もいまいち要領を得ていないようだった。しかし牟児津の話を聞いている中でただ1人、“犯人”だけは特に難しい顔をしてはいなかった。

 

 「犯人は逃げる直前に黒板アートを消してるでしょ。絵は黒板いっぱいに描かれてたから、人が来る前に急いで消したんだと思う。そのせいでチョークの粉が大量に舞って、犯人はきっと頭から被ったはずなんだ。バラを描くのに使われた、赤いチョークの粉を」

 「ああ、なるほど」

 「だから犯人の髪の色は必ずしも赤とは限らないと思う。赤い粉を頭から被った犯人を遠くから見れば、赤い髪に見間違えてもおかしくはないと思わない?」

 

 話に聞いていた完成予想図を頭に思い浮かべて、瓜生田は手を叩いた。黒板いっぱいに咲き誇る真っ赤なバラを消せば、確かに赤い粉が大量に舞うだろう。犯人が急いでいたのなら、髪に付いた粉を払い落とす間も惜しんでいただろうことは考えられることだ。時園の証言だけで牟児津が犯人だとする説は、かなり説得力を削がれたように思えた。

 

 「た、確かにそれなら時園さんの証言だけで犯人を絞り込むことは難しくなりますけど……それはむしろ容疑者の特徴が意味を成さなくなった分、犯人究明に関しては後退なのでは?」

 「そうかもね。だけど、時園さんは他にもいろんな証言をしてた。これを見て」

 

 葛飾の疑問は軽くいなし、牟児津は机の下から紙と手帳を取り出した。紙の一部には既に赤い線がいくつか引かれていて、“犯人”の視線は自ずとそこへ誘導される。

 

 「これ、新聞部が時園さんにインタビューしたときの記録と、葛飾さんが時園さんから話を聞いたときのメモなんだけど、この赤線を引いた部分、ちょっとおかしいんだよね」

 

 瓜生田と葛飾にとっては、少し前に聞いたものと同じ内容だった。逆に“犯人”には何がおかしいのか分からないようで、わずかに眉をひそめて牟児津の指先を目で追っていた。

 

 「葛飾さんの聞き取り調査では、時園さんはドアを開けて教室に入ったって言っているでしょ。でも新聞部のインタビューに答えたときは、教室のドアが開いていたとも言ってる。これって矛盾してるっぽいよね?だけど時園さんが犯人でウソを吐いてるんじゃないとしたら、この矛盾に対する説明は1つだ」

 

 牟児津は、用意していた白紙に教室の見取り図を描き始めた。俯瞰から見ていれば、ドアが開いていたり閉まっていたりする矛盾の説明は、容易に思い当たる。“犯人”はその説明に納得している一方、先ほどよりいっそう緊張しているように見えた。“犯人”は、何かに気付いた様子だった。

 

 「時園さんは東側の階段を昇ってきたから、当然教室に入るときは後ろのドアから入るはず。つまり、時園さんが開けたのは後ろのドアで、はじめから開いていたのは教室前のドアだっていうことだ。犯人が逃げるときに開けっ放しにしたんだろうね」

 

 黒板を消してから犯人がたどったであろう逃走経路を、牟児津が矢印で示す。教室後ろの黒板から、教室前のドアを通って西側の階段へ向かう。“犯人”は相変わらず黙ったまま、その軌跡を目で追った。

 

 「でもこれって不自然だよね。犯人は教室後ろの黒板を消したのに、どうして後ろのドアから逃げなかったんだろうって思うじゃん。絶対こっちから逃げた方が速いのに。あと不自然なのはそれだけじゃないよ。時園さんによれば、教室に入ったとき、カーテンが閉まってたんだって。犯人が閉めたんだと思うけど、黒板を消すのに関係ないことをどうしてわざわざやるんだろうって思うよね」

 

 見取り図にカーテンが描き加えられる。証言から状況を再構築し、犯人の行動をたどり、違和感を言葉に換えていく。何も描かれていなかった白紙の上に、徐々に今朝の事件現場が再現されていく。ただ話を聞いていただけの“犯人”は、自分のこめかみを伝う汗に気付いた。

 

 「でも、犯人にとってはきっと、どっちも不自然じゃなかったんだ。犯人は必要だからそうしたはずなんだよ」

 「必要って……ムジツさん、どういうこと?」

 「犯人はそうやって確かめてたんじゃないかな。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 「うぅっ……!」

 

 瓜生田の質問に対する牟児津の答えが、初めて“犯人”に声を出させた。それは牟児津の考えが的中していることの傍証であり、さらに加えて牟児津にある確証を与えた。しかし瓜生田にも葛飾にも、牟児津の言わんとしていることがまだ分からない。

 

 「消したいものって黒板アートのことですか?そんなのカーテン閉めたり教室の前まで移動したりしなくても、消えたのは分かるでしょう?」

 「いや、犯人が消したかったのは、たぶん絵じゃないよ」

 「絵じゃない???いや、黒板アートは絵でしょう???」

 「そうじゃなくてだから……犯人にとってあれはただの絵じゃなかったってこと」

 「ただの絵じゃない……何か、他の意味があったってこと?」

 

 もったいつけた牟児津の言い回しに葛飾は混乱しっぱなしだった。瓜生田はその意味するところを汲み取り、言い方を変えて確認した。それに返す形で、牟児津はその先の推理を話す。

 

 「あの絵にはたぶん、文字が隠されてたんじゃないかな。色や形を変えて絵の中に紛れさせつつ、全体としてなにかメッセージになるように」

 「完成予想図にあった“ようこそ”の字のこと言ってます?それは私も知ってますよ」

 「いいや。それは誰にでも見える隠し文字でしょ。私が言ってるのは、()()()()()()()()の隠し文字だよ」

 「へえ???」

 「1つの絵に、カモフラージュとしての隠し文字と、本当に分からないようにした隠し文字の2つがあったってこと?」

 「うん、そういうこと」

 

 にわかには信じがたいことだった。昨日まで手の込んだ絵だと思っていた黒板アートに、誰も気付かないうちに何らかのメッセージが仕込まれていたなど、荒唐無稽な空想に思えた。だが、それを聞いている“犯人”はその指摘を聞いてますます追い詰められたような顔になっていた。いよいよ牟児津の推理が信憑性を帯びてくる。今度は瓜生田が質問した。

 

 「でもムジツさん。そんなメッセージなんて紛れさせてどうするの?ムジツさんも葛飾先輩も……たぶんクラスの他の人もそれに気付いてないんじゃない?」

 

 瓜生田の指摘は尤もだった。実際に絵を見ていない瓜生田はもちろん、数日に亘って絵の制作過程を見てきた牟児津や葛飾にも、2つめのメッセージが隠されているということは分からなかった、メッセージである以上は誰かに読まれることを前提としているはずなのに、誰にもその存在さえ気付かれないのでは意味がない。

 

 「そりゃ隠しメッセージだからね。いつでも見えたら意味ないじゃん。そのメッセージは“特別な状況”で“特別な人”にだけ見えるように工夫されてたんだと思うよ」

 「“特別な状況”で“特別な人”にだけ見えるメッセージ?黒板に書いた文字が見えたり見えなかったりするってこと?そんなの──あっ」

 「え?え?すみません!私、全然分からないです!」

 

 牟児津の言葉を反復していた瓜生田が閃いた。1つ閃きが生まれると、連鎖するように次々と状況が頭の中に浮かぶ。そして、その最後に浮かぶ疑問は、果たしてそれは可能なのか、だった。そこに至って初めて、瓜生田は一足先にこの結論にたどり着いた牟児津が、その疑問を口にした理由も理解した。それが可能なら、実行できる人物──すなわち犯人は、一人しかいないからだ。

 

 「犯人は、赤シートの仕組みを使ったんだよ」

 

 教室の見取り図を描いた紙と赤シートを持って、牟児津は遂に核心に触れる。赤シートを被せると黒いインクで描かれた見取り図はそのままに、赤いインクで描かれた矢印だけが見えなくなる。その場の全員が、息を呑んでその続きに聞き入る。

 

 「赤シートを通すと赤色の文字や図だけが消えて、逆に緑色や青色は濃く浮かび上がって見える。犯人は、これと同じことを黒板の上でやったんだよ、赤いバラの絵の中に、緑色や青色の文字を隠した。だから普通に見てもバラの絵にしか見えないけど、赤シートを使えばメッセージが読める。そういう仕掛けになってたんだ」

 「で、でも赤シート越しに黒板を見る人なんていない……ですよね?」

 「そうですね。だからメッセージを読むのに必要なのは赤シートじゃなくて、その代わりになるものです」

 「瓜生田さん、もう全部分かってるんですか?」

 「たぶんムジツさんと同じことを考えてると思います。ね、ムジツさん」

 「うん」

 

 短く返事をした牟児津が席を立った。向かいに座る“犯人”は縮こまっているが、牟児津が立ったのは“犯人”を威圧するためではない。ゆっくりした足取りで牟児津は窓際に寄って行き、3人の方へ振り向いて言った。

 

 「このカーテンが、赤シートの代わりだ」

 

 陽の光が差し込む窓をカーテンで覆う。学園全ての教室に取り付けられている、赤い無地のカーテンだ。部屋に差す陽の光が、カーテンを通して赤く染まる。牟児津は、教室の見取り図を描いた紙をその赤の中に置いた。余白が全て赤に染まり、描かれていた赤い線はその中に沈んで見えなくなる。

 

 「うちの教室は、部室棟に反射して差してくる陽がまぶしいから午前中はカーテンを閉めてる。それは、いつも教室の誰かが勝手にやることだ。そして太陽がある程度の高さまで昇れば、自然と後ろの黒板まで陽が差す。だから犯人が何もしなくても、午前中だけは黒板に書かれた2つめのメッセージが見えるようになるんだよ」

 

 葛飾も瓜生田も、ましてや牟児津も、実際に2つめのメッセージが書かれていたかは確認していない。消されてしまった絵を見ることは二度と適わない。それでも、牟児津の言葉は大いに説得力があるように感じた。突拍子のない話でも、それなりの理屈があればいちおうは納得できてしまえた。もはやその先は敢えて説明されなくても察することはできたが、そうしなければならない気がして、葛飾は質問した。

 

 「じゃ……じゃあ、犯人が2つめのメッセージを読ませたかった相手っていうのは……?」

 「午前中、いつでも後ろの黒板を見ることができる人。私たちが背を向けている黒板を見続けることができる人……そんなの、教室を隅々まで見渡せる、先生しかいないよね」

 

 消失した黒板アートに隠された2つめのメッセージ。それは、教室に陽が差しカーテンが閉められる午前中の一部の時間に限り、教壇に立って生徒たちと相対する教師にだけ読むことができる、時間と読み手を限定するトリックによって秘匿されていた。

 しかしそれらが明らかにされた今、メッセージを隠すためのトリックは、逆にその実行犯を特定する決定的な根拠へと変貌していた。ほとんど言葉を発さずに牟児津の話を聞いていた“犯人”は、いよいよ緊張が高まり生唾を飲んだ。

 

 「高等部見学日になったら、秘密のメッセージが中等部の生徒に見られる可能性がある。だから犯人は消さなくちゃいけなかった。黒板アートがなくなっても代わりの飾り付けが間に合う、今日のうちに」

 

 牟児津は、声を荒げることはなく、責め立てることもなく、ただ冷静にその名を呼んだ。

 

 

 「そうだよね?足立さん」

 

 

 栗色の髪が揺れた。椅子に座り視線を落としたまま、足立がゆっくり頷いたのだ。それだけで足立は、今までの話の全てを事実と認めた。一切の反論も弁解もなく、訂正の1つもなく、肯定したのだった。

 

 「……ごめんなさい」

 

 か細い、震えた声だった。聞いている方が罪悪感を覚えるほど哀れな、怯えているような声だった。足立の目から熱いしずくがこぼれ落ちる。牟児津と葛飾はそれを見てぎょっとした。

 

 「牟児津さん、ごめんなさい……!お、怒ってる、よね……。私のせいで、みんなから責められて……!疑われて……!本当に、ごめんなさい……!」

 「わっ!?ご、ごめん!別に泣かせるつもりじゃなくて……!全然、足立さんを責めてるとかじゃないから!」

 「葛飾さんも巻き込んじゃって……ごめんなさい……!こんなに大事になるなんて、思ってなくて……!それで、言い出せなくて……!」

 「えええっ!?い、いや私はそんな謝られることなんて……あ、謝られてもこまります〜!」

 「なんでムジツさんと葛飾先輩が取り乱してるんですか?」

 

 黒板アート消失事件の謎を解き明かしていた生徒指導室は、足立の涙でたちまちに大騒ぎになった。牟児津も葛飾も、反論や弁解は想定していても泣かれることは全く想定していなかった。予想外の出来事にどうしていいか分からず困惑する2人を、瓜生田がなんとか落ち着かせようとする。このままでは足立の話を聞くどころではない。

 そのどたばたを収めたのは、牟児津でも瓜生田でも葛飾でも、況してや足立でもなかった。今まで誰もその存在に気付いていなかった声が、生徒指導室に降ってきた。

 

 「落ち着けお前ら!」

 

 牟児津と葛飾の騒ぎ声がぴたりと止む。4人全員の視線が声の方に向けられた。衝立の向こうに人がいたことなど、4人とも今の今まで全く気付いていなかった。

 衝立の向こう側から姿を現したその人物は、しばし足立と目を合わせたあと、牟児津たちを見た。

 

 「つ、つばセン……?」

 「あとは全部、俺が説明する」

 


 

 いつしか陽は沈み、生徒指導室は赤も黒も全てが暗がりの中に溶けていた。教室の外に人がいないことを確認したついでに、大眉は蛍光灯のスイッチを入れた。たちまち暗がりは部屋の隅に追いやられ、全員の顔が白い光に照らされた。5脚の椅子が並べられ、大眉と足立、牟児津と瓜生田と葛飾の組が机を挟んで向かい合っている。大眉は襟を正してから切り出した。

 

 「まず、教室の黒板を消したのは足立だ。時園が見た人影も、あの絵に隠してあったメッセージも、全部お前の言う通りだ、牟児津。お前マジですごいよ」

 「は、はあ……そりゃどうも」

 

 牟児津は面映ゆい思いがした。自覚していなかったが、事件の犯人を前にして長々と推理を披露するのは、まるで小説に登場する探偵のような行動だった。先ほどまでの自分の行いを振り返って、今さらながらに照れる。

 

 「で、今から話すのは2つ。“なんで足立はそんなことをしたのか”と“黒板に何が書かれていたのか”についてだ。ただしここから先は、この部屋の外で話すのは絶対に禁止だ。約束できるか」

 

 物々しい雰囲気だった。普段の大眉は割とフランクに生徒と接しているだけに、真面目な顔と真剣な声で話されると自然に体は緊張する。おそらく敢えてそうしているのだろう。それだけに、これから聞かされる話の重大さが予想できる。3人とも自然と背筋が伸びた。

 

 「は、はい!」

 

 緊張がそのまま声に乗って葛飾の口から飛び出た。大眉はもう一度足立を見た。足立は何も言わずにハンカチで目元を押さえ、ときどき肩を跳ねさせていた。止めようとしないことを確認した後、大眉は真相を話し始めた。

 

 「まず、なんで隠しメッセージを使ったかの理由についてだ。これはシンプルに、他人に知られたくなかったからだ。おおっぴらに話せることでもないし、職員室に来て俺に直接相談するのも憚られる内容だった。それくらいデリケートな問題だったんだ」

 「そうですか……。でも、メモにして渡すとか電話で相談するとか、名前を伏せたまま相談する方法は他にもあったんじゃないですか?」

 「ああ、そうだな。瓜生田の言う通りだ。けど、このケースの場合はそれも……なんというか、危険だったわけだ」

 「危険?」

 

 3人には大眉の言葉の意味が分からなかった、メモを渡すことの、電話をかけることの、何が危険だというのだろうか。わざわざ大掛かりな仕掛けを使って秘密裏に教師に相談したくらいなのだから、相当にデリケートな問題であろうことは想像に難くない。大眉は、問題の扱いにくさこそが、黒板アートを利用した理由だという。

 

 「で、黒板に隠されてたメッセージの内容についてだが……あー、端的に言えば、足立のご家庭の事情に関することだ」

 「ご家庭の……そ、そうですか」

 

 言い回しから、それ以上は追及させないという大眉の意図が伝わってきた。説明すると言ったものの、大眉は明らかに言葉足らずだった。問題の核心に触れることを避け、誤解も必要以上の情報も与えないように、言葉に気を付けつつ大事なことは誤魔化している。教師としての立場がそうさせていることは、その場の4人とも理解できた。だから牟児津も瓜生田も葛飾も、それ以上詳しいことを聞くつもりはなかった。しかし、ただ1人──足立だけは、それを許さなかった。

 

 

 「不倫……です」

 

 

 一瞬、部屋から音が消えたような気がした。話を聞いていた3人だけでなく、大眉も同時に耳を疑った。いつの間にか足立が顔を上げている。目を丸くする4人を前に、足立は語り始めた。

 

 「母の不倫について、大眉先生に相談しました。母と……石純先生の不倫について」

 「石純……えええええっ!?ず、ずみセン!?」

 「お、おい!?足立!?」

 「いいんです先生。みんなには……特に牟児津さんには全部を話さないと。そうする義務があるんです。しないと不誠実です」

 「そ、そうか……。いや、悪いが俺は立場上、生徒によその家庭の個人情報を話すことはあんまり……」

 「大丈夫です。私が話します。先生にもこれ以上迷惑かけられません」

 

 先ほどまでの可哀想な様がウソのように、足立は毅然としていた。今はしっかりと背筋を伸ばして、目は正面にいる牟児津たちを迷いなく捉えていた。その豹変ぶりのせいか、あるいは打ち明けた事実が衝撃的だっためか、3人は呆気にとられていた。真実は3人が考えていたどんな可能性も超えてくるものだった。

 

 「母は、数ヶ月前から石純先生と不倫してました。私はすぐに気付いて母に関係解消するように言ったんだけど、逆に石純先生にそのことを話されて……学園で石純先生から監視されるようになりました。何かされたわけじゃないけど、家でも学校でも石純先生に見られてるような気がして……!もし学園で2人の関係をバラしたらどうなるか……想像するだけで恐くて……!」

 

 また涙声になってきた足立は、それでも話すことを止めない。対する牟児津と葛飾は、ぽかんと口を開けていた。もはや驚きを通り越した先の何も考えられないパターンも通り過ぎ、なんだか恥ずかしくなった。こんな辛い思いをしている人がすぐそばにいたのに、何も気付かず過ごしていた自分たちが恥ずかしいと、そう感じた。

 

 「ずっと誰かに相談したかった……でも、石純先生がいる前でその話はできない。メモに書いても見つかるかも知れないし、電話だって石純先生が出たらそれで終わり……だから、石純先生にバレない方法で相談するしかなかったんです」

 「それが黒板アートですか?それもかなり綱渡りな気がしますけど」

 「石純先生は朝のホームルームの後は午後にしか教室に来ないし、黒板に陽が差してメッセージが見えるようになるのは2時間目からだったから、バレないと思いました……そもそも黒板アートを提案したのは、そのメッセージを書くためですし」

 「絵の方は、初めからカモフラージュのつもりだったんですね」

 「ああ……だから途中でやる気がなくなっちゃったんだ。メッセージさえ描ければ後は関係ないもんね」

 「クラスのみんなには……申し訳ないと思ってます。でも他の方法じゃバレそうで恐くて……!ほ、本当はもっと早いうちに、もっと良い絵を思いついたことにして描き直すつもりでした。だけど、誰かに気付いてほしくてズルズルと……」

 「そうだったんだ。つばセンはいつ気付いたの?」

 「つい昨日だ。教室で足立から話を聞いたときは半信半疑だったけど、いちおう理事には報告した。そしたら本当に不倫してて、足立の気持ちも考慮して内々に処理してもらうことになった」

 「仕事はやっ!」

 

 たったいま知らされた教師と生徒の親の不倫が、既にほぼ解決されているらしいことに、聞かされる一方の3人は驚くばかりだった。止めどなく溢れる情報の濁流が押し寄せてきて、頭の中は大氾濫している。大騒ぎする脳を落ち着かせるために、取りあえずの結論を出してそれに縋り付く。これ以上はもう処理できる気がしない。

 

 「じゃあともかく、足立さんは秘密を守るために黒板アートを消したってことだよね?それに、その黒板アートでやりたかったことも達成……は、まだこれからだけど、できそうな感じなわけだ」

 「そ、そうですね。でもこんなことになって、本当に申し訳ないと思ってます。黒板を消したことを牟児津さんになすりつけるつもりは本当になくて……でも、私がやったって言ったら、今までのことも全部言わなくちゃいけなくなるような気がして……」

 「まあ、事情が事情ならしょうがないんじゃない?私は、むしろ足立さんの発想と実行力パね〜って思ってるよ」

 「……怒ってないんですか?」

 

 おそるおそる足立が尋ねた。今日は牟児津にとって散々な日だったろうに、その責任がある足立は深く負い目を感じていた。今この場で怒鳴られようと罵られようと仕方がないと思うほどに、足立は牟児津を傷付ける原因を作ったのだ。

 しかし、当の牟児津はひどく落ち着いたものだった。自分の感情を確かめるように視線を上に振った後、からっとした笑顔で言った。

 

 「まあ、ぶっちゃけ最初は真犯人コノヤローって思ってたけど、今の話を聞いたらもうそういう気持ちにならなくってさ。そもそも私が疑われたのって時園さんの見間違いが原因で、それも足立さんがわざとやったことじゃないし、時園さんにも落ち度はないし。そんでそもそもの原因は、ずみセンが不倫したせいなわけだし。なんかもう怒ろうと思っても誰に怒ればいいか分かんないんだわ。だから、足立さんももういいよ」

 

 その言葉で、足立はようやく救われた。自分が傷つかない方法を選んだことが、クラスメイト全員をひどく傷付ける結果となってしまった。それでも、一番の被害者である牟児津にあっさり許されたことで、痛いほど重たかった背中がいくらか軽くなった気がした。さっぱりしたその笑顔が、太陽のように暖かく感じた。

 

 「あ、ありがとう……ございます……!私、牟児津さんにひどいことしたのに……!ごめんなさい……!本当に、ありがとう……!」

 

 足立はまた涙を流した。後悔や緊張による冷たい涙ではない。牟児津への感謝と、背負い続けてきた重荷から解放された喜びに満ちた、熱い涙だった。

 


 

 空には月が昇り、駅のホームは蛍光灯の白い光に照らされていた。これからの時間はちょうど帰宅ラッシュと重なるので、やってくる電車はぎゅうぎゅう詰めだろう。きっとダイヤも乱れて、帰宅にはいつもより時間がかかることだろう。まだ静けさが残るホームで、牟児津、瓜生田、葛飾の3人が並んでベンチに腰掛けていた。

 

 「いや〜〜〜終わった〜〜〜!」

 「ムジツさんお疲れ様。今日は色々すごい1日だったね」

 「うりゅも付き合ってくれてマジありがと〜〜〜!うりゅがいなかったら今日中に終わってなかったわ!」

 「ちゃんと葛飾先輩にもお礼言ってね。たくさん助けていただいたんだから」

 「いえいえ。事件の早期解決ができて、風紀委員としても大助かりです!委員会への報告は大眉先生からしていただけるようなので、ちゃっかり私もお仕事完了です!」

 

 駅のすぐ近くに店を構えている塩瀬庵で牟児津に奢ってもらったどら焼きを頬張りながら、葛飾は嬉しそうに言った。瓜生田が牟児津に無断で交わした約束だったが、無事に無実を証明できて気分を良くした牟児津は財布の紐が緩みきっていたので、特にもめることもなく履行されたのだった。ついでに牟児津は自分と瓜生田の分も買って、ホームで一緒に食べることにした。

 

 「そう言えば、あの後クラスに戻って説明したんだよね?なんて説明したの?」

 「つばセンが上手いことぼかして説明してくれたよ。とにかく犯人は自分なんだって足立さんが必死に謝って、足立さんにも事情があるってことをつばセンが説明してた」

 「誤解は解けた?」

 「うん。時園さんにめっちゃ謝られた」

 「一時は完全にクラスからハブられてたのに、牟児津さんはあっさり許しちゃうんですよ!竹を割ったような性格っていうのは牟児津さんのようなことを言うんですね!見習いたいです!」

 「私には竹を燃やして弾けさせたような性格に思えるけど」

 「それ爆竹じゃねーか!」

 

 クラスメイトへの説明に時間を取られて下校が遅くなってしまったが、そんなことは気にならないくらい、牟児津の心は晴れやかだった。平和で穏やかで快適な学園生活が、また明日からも続いていくのだろう。何の気負いも後ろめたさもなく、逃げ回ることも怯えることもない、理想の学園生活だ。

 

 「そうだムジツさん。明日の朝、新聞部に行って寺屋成先輩に今日のこと話さないと」

 「うわあ、そっか。あ〜、めんどくせ〜……」

 「きっとまた号外が出るよ。今度はムジツさんの活躍を報じる記事になるね」

 「私は別に目立ちたくないからヤなんだよ。まあ……逃げたら逃げたであの人しつこそうだから行くけど」

 「もうひと頑張りですね。お疲れ様です」

 

 明日に残したタスクはあるが、ひとまず今日という日の平和な終わりを喜ぶことにした。3人は一緒にどら焼きを頬張って舌鼓を打った。あっという間に食べきってしまうと、次の1個が欲しくなる。

 電車の遅れを告げる構内放送が聞こえてきた。どうやら列車の到着まで、まだずいぶん時間があるらしい。次の1個を買いに行けそうだ。

 

 「まあ、とにかく一件落着ってことで」

 

 ベンチから立って大きく伸びをした牟児津の目に、広い夜空の粒のような星が映った。ありふれたその景色さえも、今の牟児津には輝いて見える。

 

 「今日も私は無実だった〜〜〜!」

 

 星が瞬く夜空のように晴れやかな気分で、牟児津は宣言した。



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その2:ヒノまる誘拐事件
第1話「やあ、野オポッサムだ」


 

 私立伊之泉杜(イノセント)学園は、充実した教育設備を有する学校法人である。幼稚園部から初等部、中等部、高等部、そして大学までの一貫教育を採用した巨大な組織を形成しており、法人としての財力も相当なものである。各部が有する敷地は一般的な学校に比べて十分過ぎるほど広い。その中のひとつ、高等部だけを見ても、学校としての設備に留まらず、各種運動部が利用する競技場や豊かな花々が咲き誇る植物庭園などをその中に有している。

 そんな広大な学園の中を、牟児津(むじつ)真白(ましろ)は鼻歌交じりに歩いていた。高い位置で2つに結んだざくろ色の髪が一歩ごとに跳ねる。白いブラウスの上にベージュのブレザーを重ね、下は濃いベージュのミニスカートを履き、首元にはレモンイエローのリボンをかけている。

 

 「ご機嫌だね、ムジツさん」

 

 牟児津の隣を歩く瓜生田(うりゅうだ)李下(りか)は、その様子を微笑みつつ見守っていた。鼻歌を歌うほど上機嫌の牟児津に比べると、いくらか落ち着いている。平らに整えた前髪と腰まで伸ばした後ろ髪がさらさらと揺れる。丸襟のロングブラウスの上からピンクのリボンとベージュのブレザーを着用し、膝下丈のロングスカートを履いている。

 

 「いや〜、もう塩瀬庵のあんワッフルがめちゃくちゃ楽しみなんだよ〜!」

 「それ今朝からずっと言ってるね」

 「15時発売で数量限定だから急がないとすぐなくなっちゃうよ」

 「どっかのお店とのコラボなんだよね。テレビで結構よく見るとこ」

 「東京のめっちゃオシャレなワッフル専門店ね!それだけでも美味しそうなのにあんこ挟まってんだよ?もう天才じゃん?」

 

 時刻は15時を少し回った頃。牟児津たちは下校中である。牟児津は今日、毎朝欠かさず観ている『今日のあんこ』で紹介された、東京の有名ワッフル専門店と馴染みの菓子屋のコラボ商品のことばかり考えていた。東京の名店の味を近場で楽しめるとなれば、牟児津のような甘党でなくても買い求めるだろう。今日一日で売り切れ必至のレアものである。

 

 「うりゅにも買ってあげるからね。この前のお礼したいから」

 「やったあ。ありがとうムジツさん」

 

 先日、牟児津はクラスで起きた黒板アート消失事件の犯人だと疑われ、瓜生田に助けを求めた。最終的には牟児津自身が解決したのだが、その過程で牟児津は瓜生田にずいぶん助けられていたのだった。

 校舎の玄関で靴を履き替えて、校門までの長い小径を歩く。玄関から校門までは平坦で、道の両側によく整えられた生垣が並んでいる。生垣は暖かくなると花を咲かせ、盛夏には青々と葉をつけ、そこを通る生徒たちに季節の移ろいを感じさせていた。

 その生垣の一つがガサガサと揺れる。2人が目をやると、小さな茶色が機敏に飛び出した。

 

 「やあ、のら猫だ」

 

 それは三毛猫だった。首輪をつけていない、汚れた体から判断するに野良猫らしい。牟児津がしゃがむと、猫はゆっくり近付いてくる。牟児津にあごを撫でられて気持ちよさそうに喉を鳴らした。

 

 「よしよし、可愛いね」

 

 また一つ生垣がガサガサと揺れる。2人が目をやると、小さな黒色が緩慢に現れた。

 

 「やあ、野だぬきだ」

 

 それはたぬきだった。ずんぐり丸い体に短い手足でのそのそ歩く。自然の多いこの学園では、それほど珍しい生き物ではない。牟児津に撫でられていた猫と入れ替わるように、たぬきは牟児津の手に擦り寄ってきた。

 

 「よしよし、いい子だね」

 

 さらに一つ生垣がガサガサと揺れる。2人が目をやると、小さな白色が軽快に躍り出た。

 

 「やあ、野オポッサムだ。よしよし、賢いね」

 

 白い顔に赤い鼻のオポッサムが、生垣から一直線に牟児津の手を目掛けて走ってきた。丸まっていたたぬきを追い払い、そのまま牟児津の手から肩まで駆け上る。人に慣れているようで、可愛がる牟児津の指先を全く怖がらない。

 そのとき──。

 

 「あっ!!」

 

 突然、背後から声がした。オポッサムだけでなく、牟児津と瓜生田もその声に驚いて身を強張らせた。何事かと振り向くより先に、どやどやと人が押し寄せてくる。行く手を阻むように、逃げ道を塞ぐように、退路を断つように、たちまち2人を取り囲んだ。取り囲む生徒は誰もかれも手に棒や網やカゴを持ち、いかにも何かを捕らえんという装備だった。

 

 「ひえ〜〜〜」

 

 状況を理解する暇はなく、しかし牟児津はとてつもないピンチに陥ったことだけはなんとなく理解した。肩の上にいたオポッサムはいつの間にか逃げ出し、取り囲んでいた生徒たちによって網で捕らえられている。しかし牟児津にはそれを気にしている余裕はなかった。なんと不幸なことか、牟児津らを取り囲んだ人集りの中から、見覚えのある金髪が歩み出て来た。吊り上がった切れ長の目でヘビのように牟児津を睨み付けている。

 

 「お前は……確か、牟児津だったな」

 「ひっ……!」

 「あら〜、川路先輩」

 

 名前を覚えられている、と牟児津は背筋が凍った。川路(かわじ)利佳(としよ)は、伊之泉杜学園の治安維持を担う風紀委員会の長であり、牟児津にとってはトラウマを抱えている天敵でもある。歩み寄ってきた川路は、身をかがめて牟児津の顔を覗き込む。2人の顔がぐっと近くなる。真上から降りてきた川路の手が、牟児津の首根っこを掴む。

 

 「現行犯だ。一緒に来てもらうぞ」

 「……!!」

 「あのう、私は?」

 「お前も来い」

 

 それが牟児津に聞こえていたのかは分からない。なぜ目を付けられたのかも分からず、何が起きたのかも分からず、牟児津は声も出せないほど怯えていた。そして、たったいま歩いてきた下校路を、無抵抗のまま川路によって引き戻されていったのだった。瓜生田はひとまず事態の流れに従い、牟児津の後を追った。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 高等部には様々な部活動があり、文化系の部は一つの建物に部室がまとめられている。通称、部室棟である。その部室棟の南側には、各部活動や特別授業などで利用する様々な建物がある。中でもひときわ目を引くのが、生物部が利用している大小2つの飼育舎だった。ここでは小型から大型までバラエティに富んだ生物を飼育している。小型生物と中型生物が入ったケージを棚に並べて飼育している小飼育舎と、大型生物を一カ所に集めてブースに分け飼育している大飼育舎がある。その両方とも扉にカギがかかっており、部外者が入ることはできない。

 2つの飼育舎からほど近いところに、生物部の部室はあった。壁はなく、日差しや雨から部室を守る(ひさし)が覆い被さり、東屋のような半屋内の空間だった。その空間の中央には大きな理科用の実験台と木を組んだ四角椅子があり、その周りをいくつものアクリルケースが並んだラックが取り囲んでいる。アクリルケースの中では小型の両生類や魚類が飼育されている。そして足下はコンクリートが敷かれているだけの、無骨な空間だ。

 いま、その部室は取調室へと変わっていた。椅子に座らされた牟児津とその隣に立つ瓜生田、真向かいには牟児津へ鋭い視線を向ける川路が腰掛けている。

 

 「お前がやったんだな?」

 

 つい最近も耳にした質問だった。自分は何もしていない、と牟児津は思っているが、何をやってないのか分からない。また何らかの冤罪でこうなっているだろうことは理解できたが、川路からは連れて来られた理由について何一つ語られていない。それは瓜生田も同じで、しかし牟児津よりはいくらか冷静に川路に問うことができた。

 

 「えっと……まず、なんでここに連れて来られたのか、理由を伺いたいのですけど」

 「とぼける気か?」

 「とぼけるも何も、私もムジツさんも、訳も聞かされずにいきなり連れて来られたんです。何か理由があってムジツさんをお疑いなら、その理由を教えていただかないとお答えできません」

 「胸に手を当てて考えろ。さっきの現場を見られてまだ言い逃れができると考えているのか?」

 「さっきの現場……?」

 

 高圧的な川路の態度に、牟児津は緊張ですっかり萎縮してしまい、何も考えられなくなってしまった。小さく震えて青い顔をしつつ、縮こまり下を向いている。外敵に襲われたアルマジロが反射的に丸まるのと同じ、牟児津なりの防御反応だ。アルマジロのそれと異なるのは、敵から身を守る効果があるかないかだけだ。牟児津の場合はもちろん後者である。

 そんな牟児津に代わって、瓜生田が川路の言葉の意味を推し量る。川路が見たであろう牟児津の姿を思い返す。下校路の途中で野生動物に出会い、牟児津がそれを可愛がっていた。するとたちまち取り囲まれて、群衆の中から川路が現れ、牟児津をここまで連れてきた。確か川路はそのとき、現行犯だと言っていた。

 

 「あの動物ですか?」

 「分かり切ったことを」

 「あの……オポッサムでしたっけ?たぶんここの生物部で飼ってて脱走した……いや、犯人がいるっていうなら、連れ去りとかです?」

 「白々しい演技はやめろ」

 「ひどいなあ。少しくらい話を聞いてくれてもいいじゃないですか」

 「私は今日イライラしているんだ。くだらない言い訳に付き合う気はない」

 「言い訳じゃないんですってば。参ったなあ。どう言えば信じてもらえるんだろう……」

 

 前回は目撃証言に基づいた取り調べだったため、牟児津が犯人だと決めつけてはいたものの、まだ弁解の余地があった。しかし今回は、川路によれば現行犯だ。弁明も言い訳も意味がない。川路の考えが勘違いだと納得させなければいけない。瓜生田は悩んだ。

 

 「いい加減に認めろ。こいつが今日の午前中に小飼育舎からオポッサムを誘拐した。調べればいずれ分かることだ」

 「今日の午前中?あの子、今日いなくなったんですか?」

 「正確には、朝には小飼育舎にいるのが確認されていて昼休みに失踪が発覚した。だから連れ去られたのは午前中ということになるな」

 「なるほど……それじゃあムジツさんにはアリバイがありますね」

 「なにっ」

 

 ふと川路の口から飛び出した新しい情報に、瓜生田は活路を見出した。未だ何がどうなっているのかは不明確だが、アリバイを証明できるチャンスが訪れたのは幸運だった。

 

 「ムジツさんは授業と授業の合間はトイレに行く以外に教室を出ないんです。いつもお菓子食べてますから。クラスの人もみんな見てますよ」

 「なんでうりゅ知ってんの……」

 「初等部の頃からずっとそうなんだから知ってるよ」

 

 牟児津はそこで、川路に捕まってから初めて言葉を発した。余計なことを言ったせいで川路に睨まれ、またすぐに口を閉じて丸まってしまった。

 

 「なら昼休みになってすぐ行ったんじゃないのか」

 「ムジツさんは私と一緒にお昼ご飯を食べてましたから。あと、風紀委員の葛飾先輩とご一緒しましたよ」

 「……んん」

 

 残念そうに唸りながら、川路は眉間を押さえた。授業と授業の合間のアリバイは、牟児津のクラスメイトに確認してみなければならない。瓜生田が名前を出した葛飾先輩こと葛飾(かつしか)こまりは、確か牟児津と同じクラスだった。瓜生田が自信を持って言う以上、確認は必要だ。瓜生田は重ねて反論する。

 

 「あのオポッサムは草むらから飛び出してきたところを見つけたんです。ムジツさんの肩に乗ってたのはたまたまです」

 「そんなバカげた偶然を信じろと言うのか」

 「はい。信じてください」

 

 瓜生田の話を聞きながら、川路だけでなく牟児津も馬鹿馬鹿しいと思った。なぜ野良猫と同じノリでオポッサムが出て来たことを不審に思わなかったのか。なぜ安易に近寄って肩に乗せたのか。乗せたというより勝手に乗られたのだが。しかし、何かおかしいと考える時間はあったはずだ。自分の無警戒さと運の悪さに涙が出て来る。

 一方、論理的なアリバイと馬鹿馬鹿しい事実の二段階攻撃を受けた川路は、怒っているのか呆れているのか、しばらく黙り込んでいた。だが、これ以上の尋問は無意味と悟ったのか、深いため息を吐いた。

 

 「アリバイは確認する。だが牟児津がオポッサムを連れていたのは事実だ。その上でお前は牟児津が潔白だと言う。つまりお前たちが言っているのは、誘拐されたオポッサムが()()()()誘拐犯から逃げおおせ、()()()()お前たちの前に現れ、()()()()その場を私たちが見つけた、ということだ」

 「まあ……そうなりますね」

 「そんな豪運だか悪運だか分からんことを易々とは信じられない。少なくとも事が解決するまでは容疑者として付き合ってもらうぞ」

 「ひぃ……そ、そんなぁ……」

 

 それだけ言うと川路は立ち上がった。その勢いの強さに牟児津は驚き跳び上がったが、川路はそのまま教室棟の方へ向かって行ってしまった。おそらく葛飾に牟児津のアリバイを確認しに行ったのだろう。ひとまずその場は解放された牟児津が、空気の漏れた風船のようにへなへなと机に突っ伏す。目尻から涙がこぼれ落ちた。

 

 「あえぇ……どうしてこんなことに……」

 「怖かったね、ムジツさん」

 「うりゅはあんまり怖がってるように見えなかったよ」

 「だって私は疑われてないもん」

 「他人事だと思いやがって!」

 「いやいや他人事じゃないよ。このままだとあんワッフル食べられない」

 「……そうじゃん!!おおおい!!」

 

 時刻はすでに15時半を過ぎていた。まだ売り切れてはいないだろうが、人気店とのコラボ商品でしかも数量限定である。学園内にもライバルは多いだろう。このまま事件が解決しなければ、少なくとも今日は閉校まで残らされることになる。そんな遅い時間ではまず間違いなく売り切れている。

 とはいえ、あんワッフルを買うために一時的にこの場所を離れたとして、それが川路に気付かれればさらに厄介なことになるだろう。下手をすれば逃亡と見なされて明日から学園全体で指名手配され、たちまち捕らえられて生徒指導室行きだ。牟児津が理想とする平和で穏やかな学園生活とは対極の日々を送ることになる。

 

 「やべえ!!え、どうしよ!?どうしようりゅ!!」

 「落ち着いてムジツさん。深呼吸して深呼吸」

 「すぅ〜〜〜……はぁ〜〜〜……すぅ〜〜〜……はぁ〜〜〜……」

 「落ち着いた?」

 「落ち着いた。そんでどうしようりゅ!!あんワッフル売り切れる!!どうしよどうしよ!?」

 「いま落ち着いてたじゃん」

 

 興奮した牟児津をなんとか座らせて、瓜生田は考える。なるべく川路が納得する形で、この場から一刻も早く抜け出す方法は何か。そんなものは一つしかない。

 

 「じゃあムジツさん。解決しちゃおっか」

 「へ?なにを?」

 「川路先輩が言ってた誘拐事件。誘拐って言うからには犯人がいるはずだよね。その人を見つけようよ」

 「……またこの間みたいなことやんのお?」

 「一刻も早く帰るにはそれしかないよ。大丈夫、ムジツさんならできるよ。私も手伝うし」

 

 それはシンプルかつ明白な証明方法、即ち真犯人を見つけることだった。以前、黒板アート消失事件のとき、牟児津は同様に無実の罪で川路に疑われ、その誤解を解くために真犯人を暴いた。まだ記憶に新しいそれは、牟児津にとって決して良い思い出ではない。色々な不運や災難が重なった結果、やむを得ず真犯人を暴いたのだ。

 しかしどうやら、今回も同じようなことをしなくてはならないらしい。牟児津は決して、推理好きが高じて事件に首を突っ込む人間ではないし、親族に高名な探偵がいてその血を受け継いでいるわけでもない。自らの潔白を証明するためとは言え、事件の真相を暴くのは牟児津にとって好きなことでも簡単なことでもないのだ。

 

 「うぐぁ〜〜〜私が何したってんだ〜〜〜!」

 「オポッサム肩に乗せたでしょ」

 

 その代償としてはあまりに重い気がする。それでも牟児津は仕方なく事件解決のために行動を始めることにした。実に不本意で納得がいかないが、やるしかないのだ。

 

 「そうそう、あのオポッサムのせいだ!あいつが肩に乗ったりするから私はこんな目に遭ってるんだ!」

 「誘拐されたって言ってたけど……取りあえず、そのオポッサムが誘拐された現場を見るのがいいかもね。こういうときはまず観察だよ」

 「現場って……どこ?」

 「川路先輩は小飼育舎からって言ってたっけ」

 「よく聞いてるよね、うりゅって」

 「ムジツさんはそれどころじゃなかったもんね」

 

 全くやる気が起きない牟児津に、瓜生田が捜査の方向性を示して促す。川路は容疑者として付き合ってもらうと言っていたが、この場所を離れるなとは言っていない。校外に出るわけにはいかないにしろ、生物部の活動範囲を移動するくらいなら問題はないだろう。牟児津と瓜生田は部室から延びる小径を進み、生物部が多数の生物を飼育している飼育舎へ向かった。



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第2話「知るわけないじゃん……」

 

 小径を進んで最初に現れる小飼育舎は、見た目にもかなり年季の入った木造の小屋だった。趣深いと言えばそうだが、窓がなく妙に背が高いそれは、建てるときに寸法を間違えたのではないかと感じさせる。高い位置に換気用の小窓がひとつだけあり、後は正面の出入り口だけが外と通じているようだ。

 その小屋の入口には若い教師が立っていて、暇そうに辺りを眺めている。どうやら支えてないと勝手に閉まってしまうドアを開けておく仕事をしているようだ。重しでもあれば代わりになりそうなものだが、その教師はぼんやりと空中を眺めるばかりである。癖のかかった髪と大きい鉤鼻が特徴的で、明るめの紺色のスーツがよく似合っている。身長は高い部類に入るのだろう。いかにも女子生徒から人気を集めそうな見た目だ。

 牟児津と瓜生田は、ひとまずその教師に声をかけてみた。おそらく生物部の関係者だろう。

 

 「すみません。中って見ていいですか」

 「んぇ?なに、見学?いま忙しいから後にしてくれないかな」

 「いえ。誘拐事件があったそうなので、それについて調べようと思いまして」

 「なんだ風紀委員か。それだったらまあ、いいかな」

 「ありゃりゃーっす」

 

 なにやらぶっきらぼうな教師だった。しかも、風紀委員なら肩に腕章を付けているはずなのだが、それがない牟児津たちを風紀委員と間違えている。たとえ本当に風紀委員であろうと、腕章を付けていなければ一般生徒と同じ扱いになるのがこの学園のルールだ。つまり牟児津たちを風紀委員と間違え、あまつさえ現場への立ち入りをあっさり認めてしまうなど、この学園の教師ならするはずがない間違いなのだ。しかしそんなことを牟児津たちが馬鹿正直に言うはずもなく、立ち入りが許されたのをいいことに雑なお礼を吐いて中に入った。

 建物の名前は小飼育舎だが、おそらくその面積は標準的なワンルームよりは広い。小屋の壁をなぞるように木製の板が三段に取り付けられ、下から二段目までには様々な大きさのケージが並んでいた。中には動物が入っている。さらに壁の高い位置には鳥小屋が設置され、インテリアのように止まり木や鳥かごが天井からぶら下がっている。入って右手奥には脚立が畳んで置いてあった。三段目にしまってあるエサや道具類を取り出すのに使うのだろう。

 小飼育舎は、徹底して生物を収容することのみに特化した構造になっていた。飼育頭数や飼育種類数の多さにも息を呑むが、2人が息を呑んだ最大の理由は、小屋の中に充満する臭いだった。

 

 「お゛お゛っ!?っっっっせ!!」

 「わっ!こ、これは……すごいね……!」

 

 野太い声をあげて鼻を摘まんだ牟児津に対して、瓜生田は顔をしかめるに留めた。臭いは強烈だが、自分たちから入りたいと言っておいてそれはあんまりだと、外にいる教師の目を気にした。しかし、先ほど声をかけた教師は特に牟児津たちに興味はないのか、あさっての方を向いている。誘拐事件が起きたばかりだというのに、危機感が薄いものである。

 

 「あの〜すいません、誘拐されたオポッサムって、もともとどこにいたんですか?」

 「んー、俺はあんまりよく知らないからさ、生物部の子が戻って来たら聞いてよ」

 「よく知らない……失礼ですけど、生物部の関係者ではないんですか?」

 「顧問だよ。いちおう。この間なったばっかりだから、まだよく知らないんだよね。生物とかあんま興味ないし」

 「そうなんですか?」

 「もともと生物部の顧問ってずみセンだったからさ」

 「ああ」

 

 それだけで瓜生田はなんとなく察した。ずみセンとは“石純(いしずみ)先生”の略であり、牟児津のクラスでかつて担任を務めていた教師のあだ名だ。つい最近、黒板アート消失事件に関係したとある事情によって退職を余儀なくされたのだ。つまりこの優男は、石純に代わって最近採用された教師ということだ。それなら風紀委員に関する事情を知らないのも頷ける。

 

 「八知(やち)先生?」

 

 2人が優男と話していると、小屋の外から声がした。明らかに女子生徒の声だ。八知と呼ばれた優男が振り向くと、そこには三つ編みの少女が立っていた。

 ブレザーの代わりにうす黄色のカーディガンを着ており、膝下まであるスカートと白の靴下、そして土まみれのスニーカーを履いている。手には軍手をはめており、なんらかの作業をしていたらしいことが窺えた。

 

 「その人たちは……風紀委員じゃないみたいですけど、どちら様ですか?」

 「え、風紀委員じゃないの?んーっと、じゃあ分かんない。君らだれ?」

 「ええ……」

 「なんで小屋の中に入れてるんですか?今は生物部が作業中ですよ」

 

 その生徒は川路ほどではないにしろ、いささか気が立っているように思えた。のらりくらりとしている八知という男に比べると、はきはきした動きはいっそう力強く見える。胸に下げた黄緑色のリボンが、彼女が3年生であることを示していた。

 その生徒は小屋にいる2人にずかずかと近付いてきた。このままでは話を聞く前に追い出されそうだと感じたので、瓜生田は先手を打つことにした。

 

 「いきなりすみません。先ほど風紀委員から、生物部で誘拐事件があったと伺いました。その調査をさせていただきたいと思いまして、そちらの……やち先生に入れていただきました。私、1年の瓜生田といいます。こちらは2年の牟児津さんです」

 「どもす……」

 

 出て行く云々を言われるより先に、自己紹介と目的を話した。少しは話が通じる相手なら、お返しに向こうからも自己紹介があるはずだ。それをされなければ、今は話を聞くことは諦めた方がいい。この相手はどちらか、近付いて来るにつれ瓜生田の緊張が高まる。

 

 「あっそう。私は生物部部長の上野です」

 

 無愛想な返事をしながらも、上野(うえの)東子(あずまこ)は名乗った。しかしその目は強い警戒心に満ちている。ひとまず、話は通じる相手のようだ。

 

 「風紀委員でもない生徒がどうして調査なんかする必要があるの。八知先生、部外者は帰してもらわないと困ります」

 「ああ、ごめんごめん。だってまだ誰が誰か分かんないからさあ。風紀委員って言われたら通すでしょ」

 「風紀委員じゃないんです、この人たちは。あなたたちウソ吐いたの?」

 「いいえ。それは勘違いです」

 「そう言ってますけど」

 「そうだっけ?」

 「雑だなあ」

 

 ボケたようなことを言って、八知(やち)初太(ういた)はバツが悪そうに頭を掻いた。それを見た上野は眉間に深い深いしわを刻み、大きなため息を吐いた。どうやら上野の気が立っている理由は、誘拐事件が起きたことだけではないようだ。

 

 「とにかく、悪いけどここにいられたら作業の邪魔になるから出て行って。今日は風紀委員の相手をするだけで精一杯なんだから」

 「あ、じゃあ1つだけいいですか?」

 「マジか」

 

 はっきりと出て行くように言われてなお瓜生田は食い下がる。牟児津はその肝っ玉に感心しつつ、信じられないという目を向けた。これほど明確かつ強烈に拒絶の意を示されると、牟児津ならばもう諾々と従う他にない。余計なことを言って余計に怒られたくないのだ。

 

 「誘拐されたオポッサムって、もともとどこにいたんですか?」

 

 小屋の中を見渡しながら、瓜生田が尋ねた。上野はしばし答えずにいたが、その気まずい沈黙に全く動じない瓜生田を見て、また深いため息を吐いた。どうやら瓜生田の粘り勝ちのようだ。

 

 「正面向かいの壁際の隅よ。そこに脚立があるでしょ。ちょうどその足下」

 「なるほど。ありがとうございました」

 「もういい?」

 「はい。どうも失礼しました。ほら、ムジツさん行こう」

 「え?あ、し、失礼しました!」

 

 丁寧にお辞儀をして去る瓜生田と、逃げ出すようにその後を追う牟児津。小飼育舎から出て行く2人を、上野は最後まで目で追っていた。2人の姿が見えなくなると、小屋の入口で大きなあくびをしている八知を一瞥し、三度目のため息を吐いた。小屋の中の淀んだ空気のように、上野の胸の中はすっきりと晴れない感情で満ち満ちていた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 上野に小飼育舎から追い出されてしまった牟児津と瓜生田は、次にどうするべきかを考えていた。生物部の部員たちは小飼育舎にも部室にもいないので、おそらく大飼育舎にいる。話を聞くためにそこへ向かうべきか。しかしこのまま行ったところで、先ほどの二の舞になるだけだろう。2人とも風紀委員でない上に、牟児津に至っては事件の容疑者である。生物部員にしてみれば、話をするどころか現場に近付かせたくもないだろう。

 

 「うりゅ〜、どうしよ〜」

 「う〜ん、ただでさえムジツさんが容疑者だから話を聞きにくいのに、みんな作業で忙しそうだし……こういうときは」

 「こういうときは?」

 「大眉先生に助けてもらおう」

 「……なんでつばセン?」

 

 つばセンとは、牟児津のクラスで現在担任を務めている大眉(おおまゆ)(つばさ)のことだ。教師としてはまだ若く生徒からナメられがちだが、その分生徒との距離は近く悩みを相談する生徒も何人かいるらしい。そして牟児津と瓜生田にとっては、黒板アート消失事件に関する秘密を共有する間柄だった。

 そして牟児津は知らないが、瓜生田の姉である瓜生田(うりゅうだ)李子(りこ)の恋人でもある。その事実は大眉にとって、恋人の妹である瓜生田李下に対する弱みであった。

 

 「先生が話を聞きに来たら、作業を止めてでも話をしてくれるでしょ」

 「まあそっか。じゃあつばセン連れて来よう!たぶん職員室にいるはず!」

 「ああ。ムジツさんはここにいて」

 「え、なんで」

 「川路先輩が帰ってきたときにいないとマズいでしょ。私はお手洗いに行ってることにしといて。それじゃ」

 「あっ、えっ、やっ、うりゅっ、まっ」

 

 唐突に置いてけぼりにされた牟児津は、引き留める言葉の1つも思い浮かばず、笑顔で去って行く瓜生田にただ手を伸ばすだけだった。そしてその姿が見えなくなった途端に、一刻も早く帰ってきてくれという願いが湧いてきた。もしいま川路が帰ってきたら、牟児津は気絶してしまうかも知れない。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 瓜生田が去った後の生物部部室は静かなものだった。部員はみんな飼育舎の方で作業をしており、川路も今は別の場所にいる。聞こえるのは風にそよぐ草木の葉音と学園そばの道路を通る車の音だけだ。何の疑いもかけられていないきれいな体であれば、気持ちの良い夕方だと感じたかも知れない。しかしいま牟児津の心は、いつ川路が帰ってくるか分からない緊張感と、帰ってきたらどうしようという焦燥感と、早く瓜生田が大眉を連れて帰って来てほしいという期待感とがごちゃ混ぜになっていて、日常のわびさびなど感じている余裕はない。ただ座ってもいられないなので、立ち上がって辺りをうろうろしている。

 

 「あーやべ、落ち着かね。しぬしぬしぬしぬしぬしぬしぬしぬしぬ。緊張でしぬ。ヤバすぎてしぬ。てかもうあの人帰ってくんなし。帰って来るならうりゅにして。うりゅしか帰って来なくていいよもう。うりゅ早くぅ……うりゅぅ……」

 

 震える心のままに言葉を吐いて不安を体外に排出しようとする。しかし泉のように溢れてくる不安に対して閉め損ねた蛇口のような排出速度では間に合っていない。胸の底に沈んだ不安の(おり)を撹拌して薄めるように、辺りをうろつく牟児津の足はどんどん速まっていく。

 部室とされている東屋の庇からはみ出し、周りの砂利道や草むらにまで立ち入る。今の牟児津にとっては不安を紛らわせるために歩き回るのが最優先で、足下のことにまで気を配る余裕がないのだ。とにかく歩き回る。緊張をほぐすため、不安を和らげるため、念仏のように感情を吐き出しながら牟児津は歩く。しかしそれは唐突に止まった。

 

 「うわっ!?」

 

 踏みしめた地面が後ろに滑った。支えを失った牟児津は前のめりに倒れる。受け身をとることもできず、顔面をもろに打ち付けてしまった。

 

 「ぎゃっ」

 

 重たい音と鈍痛が頭に響く。何が起きたか理解するのは一瞬だが、理解したときには遅かった。牟児津はすでに、草むらでうつ伏せに転んでいたのだった。土と雑草が放つこもった臭いが鼻を覆う。髪にも口にも体にも汚れが付いた。緊張で強張っていた体からすっと力が抜けて、牟児津は気怠げに首をもたげた。

 

 「へへっ……やってらんね……」

 

 たった1人で待たされることが不安で仕方なく、独り言をつぶやきながら歩き回っていたら転び、受け身も取れず全身が汚れた。状況を自省して、牟児津は泣きそうなほど自分が情けなくなった。もっと落ち着きのある瓜生田のような人間になりたいとも感じた。

 

 「いたた……もう、なんだよこれ」

 

 体についた土を払って牟児津はゆっくり立ち上がる。自分を転ばせた原因を探るため足下に目をやると、実に明確な原因がそこにあった。

 それはタオルだった。くしゃくしゃに丸まった白いフェイスタオルだ。土に汚れているのは、たったいま牟児津が踏んだせいだけではないようだ。しかしずっと放置されていたにしては汚れが染みていない。妙な汚れ方だった。隅にサインペンで“生物部”と書いてある。どうやらこの部の備品のようだ。

 

 「なにこれ、きたな──お゛っっっごっっっ!!くっせえ!!」

 

 生物部で使用していたことに加え草むらに落ちていたので、手に持っているだけでもかなりの臭いがする。小飼育舎と同じ獣臭の中に、極めて不快な悪臭も混ざっていた。牟児津は拾ったことを後悔し、コンクリートになっている部室の隅に放り捨てた。処分は部の関係者に任せよう。そして今度こそ大人しくしていようと、木製の椅子に腰掛け直した。

 そこへ、小飼育舎の方から八知がやって来た。小屋の扉を開けておく仕事は終わったらしく、何やら冊子をつまらなさそうに眺めている。テーブルにその冊子を置くと、やる気のなさそうな態度で椅子にどっかと腰を下ろした。冊子のタイトルは『生物部活動日誌』だった。どうやら顧問として勉強をしていたようだが、捗っていないようだ。

 腰掛けて一息吐いてから、八知は斜め向かいに座る牟児津に気付いたようだ。

 

 「あ、風紀委員じゃない子」

 「牟児津です」

 「へー」

 

 牟児津が名乗ったとき、たいていの相手がする反応は3パターンに分けられる。珍しい苗字だという感想を述べるか、漢字でどう書くかという質問をするか、その両方かだ。しかしこの八知という男の反応はそのどれでもない。全く興味なさそうに、ぼーっとした目で遠くを眺めていた。おそらく大眉よりも若い、大学を出て数年といったところなのだが、その雰囲気はひどくくたびれている。あまりにもやる気がなさ過ぎてオーラが老けている、と牟児津は感じた。

 

 「さっきそこにタオルが落ちてましたよ」

 「え?タオル?」

 「汚いし臭かったからそこ置いてます」

 

 牟児津が指さした先を八知が見る。くしゃくしゃに丸まったタオルがコンクリートの床に落ちている。八知は立ち上がってそのタオルを拾いに行った。いかにも汚いものを持つように指先でつまんだそれを、八知は気味悪そうに眺めてから、近くの適当なラックの下に詰め込んだ。

 

 「え、なんで?」

 

 牟児津は思わず声が出た。行動の意味が分からなすぎた。

 

 「やだね。汚いタオルって」

 「いや、なんでそんなとこ詰め込むんですか」

 「だってどこにしまっとけばいいか分かんないし」

 「しまうっていうか汚れてんだから、普通に洗濯カゴとかに入れときゃいいんじゃないですか?」

 「洗濯カゴかあ。どこだっけ」

 「知るわけないじゃん……」

 

 なんだこいつ、と口にするのを牟児津はぎりぎりでこらえた。教師以前に大人としてだらしなさ過ぎると感じた。いくら石純の穴埋めで急遽採用されたのだとしても、それを言い訳にしてだらだらすることが許されると思っているのだろうか。この八知という男からは、責任感とか使命感とか、そういったものが一切感じられなかった。

 こういう大人にはならないようにしよう、と牟児津は心に固く誓った。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津が八知に呆れ返っているころ、瓜生田は職員室のドアの前にいた。軽く握った拳でノックする。

 

 「失礼します」

 

 短く言ってドアを開き、入ってすぐのデスクに座っている大眉を見つけた。真剣な顔でパソコンと向かい合い、なにやら試行錯誤している様子だ。どうやら授業で使う教材作りに悪戦苦闘しているらしい。自分の仕事をしているということはつまり、急ぎの仕事はないということだ。瓜生田にとっては好都合である。

 

 「大眉先生、こんにちわ」

 「お、おう。瓜生田。今日はひとりか。どうした?」

 

 集中していた大眉は、急に声をかけられて驚いた。その声が、ここにいるはずのない自分の恋人によく似た声だったからなおさらだ。声のする方を見れば、不敵な笑みを浮かべる瓜生田が覗き込んできている。この時点で大眉はかなり嫌な予感がしていた。一方で、牟児津がいないことも気に掛かっていた。教師としていちおう用件を尋ねるが、何もない方がいいと思っていた。

 

 「実は、大眉先生に折り入ってお願いがありまして」

 「俺に?」

 「簡単に言うと、ムジツさんの潔白を証明するのを手伝ってほしいんです」

 「牟児津?また変な疑いかけられたのか?」

 「そうなんですよ」

 

 自分のクラスの生徒が無実の罪を着せられていると聞いて、大眉は嫌な予感の正体を察した。いつも瓜生田にくっついている牟児津がいない理由も納得したし、瓜生田から説明を聞いて自分に何が求められているのかも完全に理解した。だが、それは大眉にとってはただ時間を食われるだけの面倒事でしかなかった。

 

 「いや〜、そうか。牟児津がな。そりゃ災難だったな」

 「そういうわけなので、大眉先生に来ていただけるだけでとっても助かるんです」

 「本当に俺ついて行くだけなんだろ?俺そんな暇じゃないんだよ」

 「つれないこと言わないでくださいよ。すぐ終わりますから。ね?お願いします、()()()

 

 最後の一押しだけ、瓜生田はささやくように言った。瓜生田が大眉を下の名前で呼ぶのには特別な意味がある。生徒としてではなく、将来の義理の妹として頼み事をするという意味だ。ここで断ると、後で瓜生田は姉にあることないこと告げ口して、大眉は恋人から怒られることになる。なのでこの関係を持ち出されると、大眉は瓜生田に対して従うしかないのだった。

 

 「1時間だけだぞ!」

 「ありがとうございます、()()()()

 

 おそらく話を聞くだけなら30分くらいで済むのだが、大眉は余裕を持って時間を割いてくれた。瓜生田は大眉のそういうところが面白くて、ついからかってしまうのだった。

 せっかく長めに時間をとってもらったので、瓜生田はついでに校舎内で調べられるところは調べておこうと考えた。事件が起きたのも牟児津が捕まったのも校舎の外だが、事件現場となった小飼育舎は、一度校舎に入らないと侵入できないはずだった。

 

 「大眉先生。生物部に行く前に、警備室に寄ってもいいですか?」

 「なんで?」

 「小飼育舎って確か、普段カギがかかってますよね。誘拐犯がカギを借りてたら、警備室のカギ台帳に記録が残ってるかも知れないと思って」

 「そうか。まあいいぞ」

 

 以前もこうして職員室と警備室の間を行き来したような気がして、瓜生田は既視感を覚えた。あのときは警備室が先だったか、職員室が先だったか。そんなことを考えながら、瓜生田は警備室に向かった。

 高等部の校舎には、生徒が使う玄関とは別に、職員・来客用の玄関がある。その玄関から入ってすぐ、校門を監視できる位置にあるのが警備室だった。来客対応や校内警備、遺失物管理、そして校内施設のカギの管理など、様々な業務を担っている。今回、瓜生田はカギの管理について用があった。

 

 「中瀬さん、お疲れ様です」

 

 中にいた警備員──中瀬(なかせ)虎央(とらお)に、大眉が声をかけた。中瀬はコーヒーを飲みながら、新聞部が発行した学園新聞を読んでいた。大眉に声をかけられると、中瀬は丸く小さな目を向けた。

 首元に分厚い脂肪のマフラーをたくわえているその姿は、瓜生田には見覚えがあった。

 

 「大眉先生、お疲れ様です。どうしました?」

 「ちょっとカギ台帳を見せてもらいたくて。えっと……」

 「小飼育舎のカギです」

 

 どこのカギかを思い出そうとする大眉に代わり、瓜生田が後を続けた。

 

 「ふ〜ん……君、前にもここに来たことある?」

 「はい。来校者の帳簿を見せていただきました。その節はお世話になりました」

 「ああ!あの黒板消しちゃった子の友達だ!」

 「消しちゃってないんですけどね」

 

 どうやら牟児津のことは覚えていたようだ。中瀬は納得したようにうんうん頷いた後、小窓に背を向けて警備室内に大声を出した。

 

 「(そく)くん!カギ台帳もってきてくれる?」

 「はい!」

 

 中瀬に負けず劣らずの大声とともに、中瀬と同じ格好をした、しかし中瀬よりはかなり体が引き締まった若い男が現れた。手には紙のファイルを持っており、背表紙に“カギ管理台帳”と記されている。男の胸元には、(そく)篤琉(あつる)と名札がかけられていた。

 きびきびとした動きだが緊張は感じない。真面目に仕事をしようという意思がひしひしと伝わってくる。身振りに気を取られすぎて無意識に目を見開いているせいか、遠くからだと目が飛び出ているように見える。瓜生田は生物部の部室にあった水槽の出目金を思い出した。

 

 「今日の分でよかったですか?」

 「はい。ありがとうございます。ちょっと見せてもらいますね」

 

 束が持って来た台帳を開き、大眉が記録を確かめる。今日小飼育舎のカギが借りられたのは4回だ。朝に顧問の八知が1回、授業時間中に3年生と1年生の生徒が1回ずつ、昼休み直前の時間に部長の上野が1回だった。瓜生田はそれをメモにとる。その他にカギを貸し出した記録はないことも確かめた。

 

 「なるほど、ありがとうございました。あと、ちなみになんですけど」

 「なんでしょう?」

 「警備員の皆さんって、授業時間中はこちらにいらっしゃるんですか?」

 「そうですね、基本的にはここにいて、たまに巡回とかで外に出ることがあります」

 「そのときカギを持ち出すことってあります?」

 「いいえ。不必要にカギを持ち歩くことはありません」

 「じゃあ皆さんは何のカギをお持ちなんですか?」

 「職員用玄関のカギを各自持っています。他のカギはセキュリティの関係から持っていません。校舎を開けるときと閉めるときはマスターキーを使いますが、それは警備室内の金庫にしまってあります」

 

 束がはきはき答えた。カギの管理の仕方を聞く限り、瓜生田が考えていた可能性は捨てられそうだ。すなわち、警備員の中に誘拐犯がいる可能性である。

 束の話もしっかりメモにとり、瓜生田はもう一度お礼を言ってから警備室を後にした。寄り道をした分、それなりの情報は手に入れることができた。だが、早く牟児津のもとに戻らないと、牟児津が心細さのあまり奇行に及んでいるかも知れない、と瓜生田は足早に生物部の部室に向かった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「どうしたのムジツさん」

 

 生物部の部室に戻ってきた瓜生田は、泥で汚れた牟児津が背中を丸めているのを見つけた。どうやら川路はまだ戻ってきていないらしい。

 

 「こけた……」

 「転んじゃったんだ。怪我とかしてない?」

 「だいじょぶ……」

 「そっかあ。シミになるから、帰ったらちゃんと石鹸で洗うんだよ」

 「うん。そうする……」

 「ずっとひとりでここにいたのか?」

 「なんか、途中で八知先生が来たけどまたどっか行った」

 

 ひとりで心細かったせいか、はたまた転んだことの恥ずかしさからか、牟児津はすっかりしょぼくれていた。瓜生田は牟児津を抱えて立たせ、大眉の方を向いて言った。

 

 「じゃあ、大飼育舎に行きましょう。みんなたぶんそこにいます」

 「分かるのか?」

 「さっき小飼育舎からケージを運び出していたので。誘拐があったから場所を移すんじゃないですか?」

 「なるほどな」

 「ほら、ムジツさんもしっかりして。ぐずぐずしてたらあんワッフル売り切れちゃうよ」

 「それはやだ〜〜〜!」

 

 テンションが下がりきった牟児津をなんとか奮い立たせ、すっかり呆れている大眉を促し、瓜生田は2人を引き連れて大飼育舎へ向かった。最年少の瓜生田が指揮を執っていることについて、牟児津も大眉も特に疑問を持たず、諾々と従った。



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第3話「ずらかるぜ!」

 

 大飼育舎は、小飼育舎の右に延びる小径をさらに奥へ進んだ先にあった。近付くだけで牛や馬の存在を感じさせる独特の臭いが漂ってきて、今は小飼育舎から小動物のケージを移動していることもあり、様々な動物の鳴き声も聞こえてくる。扉は閉まっているが、臭いも鳴き声もそれを突き抜けて牟児津たちに届いていた。

 開けた途端に動物が飛び出して来ないかと心配しながら、牟児津はおそるおそる扉を開けた。

 

 「お゛っっ!!くっっっっっ──!!」

 「そんな露骨に臭がっはらひつれいらよムイツさん」

 「うりゅも鼻止めてんじゃん!」

 

 扉を開けた拍子に、こもっていた獣臭が流れ出てきた。牟児津と瓜生田は思わず顔をしかめる。動物は飛び出して来なかったが、牟児津にとってはそれと同じくらい厳しい洗礼だった。

 飼育舎の中はいくつかの区画に仕切られ、そのひとつひとつで大型の動物が飼育されている。入口から見えるだけでも牛や馬、ロバ、豚、山羊など様々だ。その手前には仕切りのない広い空間があり、小飼育舎から運ばれてきたケージがきれいに並べられていた。生物部員と顧問の八知は、そこで作業をしていた。

 約半分の部員たちがケージから別のケージへ動物を移し、残りの部員たちが空いたケージの中を掃除する。移した動物はよく観察して異常がないかをチェックしていく。部員たちの動きはスピーディだ。なおかつ動物を傷付けないよう、ストレスがかからないよう、やさしく丁寧に取り扱っている。八知はケージの掃除を任されている。ひっくり返して中のゴミを落としたり、濡れ布巾でガシガシこすったりする手つきは丁寧とは言えない。素早くはあるが、雑な印象を受ける。

 

 「すみませーん。ちょっとお話を伺いたいんですけど」

 

 作業に集中していた部員たちに、瓜生田が声をかけた。その場にいた全員が手を止めて瓜生田の方を見る。先ほど小飼育舎で会った、部長の上野が立ち上がった。

 

 「あなたたちさっきの……。何か用?」

 

 その目はあからさまに不愉快そうだった。新しい顧問はやる気がなく、昼間には動物が誘拐され、今は作業を邪魔された。部長である彼女は今日だけでかなりストレスが溜まっているのだろう。しかしそれを気遣って引き下がるほど、牟児津たちに余裕はない。

 

 「誘拐事件の真犯人を見つけるために、何人かお話を伺いたいんです」

 「意味が分からないわ」

 「風紀委員はいま、こちらのムジツさんを犯人だと疑ってるんです。でもそれは間違いなので、真犯人を私たちで見つけようと」

 「なんでそんなこと……できるわけないでしょ」

 「できないと私が困るんです!なんでもいいからお話聞かせてください!」

 

 上野は、少しでも答え方を間違えれば会話を打ち切ってしまいそうなほど厳しい態度だった。それに対し牟児津は、答えになっていない答えを返す。上野は呆れたのか驚いたのか、少しだけ目を丸くして、頭を下げる牟児津を見た。そこに、瓜生田に肘で小突かれた大眉が追撃する。

 

 「俺からも頼むよ。自分のクラスの生徒が濡れ衣着せられてるんじゃ見過ごせないし。あと、こう見えて牟児津はそういうの得意なんだ」

 

 教師としての大眉の言葉は、上野にとってそれなりに効果があったようだ。教師にまで頭を下げられては、無碍に断るのも心苦しい気にさせた。そして、その間もずっと頭を下げている牟児津の姿を見て、その必死さが十分に伝わったようだ。

 

 「まあ話くらいなら構わないけど、作業の邪魔はしないでね」

 「はい!ありがとうございます!」

 「あと大声はやめて。動物がびっくりする」

 「あっ、すいません……」

 

 いきなり注意されてしまった。ともかく、牟児津たちはなんとか生物部員に聞き込みすることを許された。上野は許可を出すとすぐに作業に戻ってしまった。聞かれれば話はするが積極的に協力はしないという意思表示だろうか。困った牟児津は瓜生田を見る。ひとまず、今朝から昼休みにかけてカギを借りた人物に、順番に話を聞くことにしよう、と瓜生田が方針を決めた。

 瓜生田のメモによれば、最初にカギを借りたのは顧問の八知だった。ケージ内の掃除をしている八知を大飼育舎の外に呼び、大眉と三人で話を聞く。

 

 「作業中にすみません、八知先生」

 「別にいいですよ。この中めちゃくちゃ臭いし。あとちょうど一服したいところだったんで」

 「いや学園内は禁煙ですから!生徒の前ですよ!」

 「電子タバコっすから火も煙も出ないっすよ」

 「そういう問題じゃねえだろ!」

 

 外に出るやいなや八知は大眉に叱られた。まさか生徒の前でタバコを吸おうとするとは思わず、大眉はうっかり素の言葉遣いが出てしまった。八知は取り出したタバコをしぶしぶ懐にしまい、軽く伸びをして牟児津と瓜生田を見た。

 

 「まあいいか。取りあえず話すればいいんだ?」

 「は、はあ……えっと、誘拐されたオポッサムについて聞きたいんですけど」

 「あ〜、むりむり。そういうのは部員に聞いて。俺なんも知らないから」

 「なんつう無責任な……」

 「分かりました。じゃあ取りあえず、今朝カギを借りたときに何をしたかと、事件が発覚するまでで御存知のことを教えてください」

 

 あまりにもやる気のない八知の態度に、牟児津も大眉も呆れて言葉もなかった。それでも瓜生田だけは、全く動じず聞き取りを続ける。八知もマイペースだが、瓜生田も大概である。

 

 「カギは毎朝借りて飼育舎を開けてるよ。朝のエサやりと体調チェックが必要だから、部員のみんなで当番回してやってんだ。顧問の俺は毎日だけどね」

 「今日の当番はどなたでしたか?」

 「上野さんと、あ〜……旭山(あさひやま)さんと、白浜(しらはま)さん。だったかな。確か。うん」

 「旭山さんと白浜さん……ほうほう」

 

 八知の心許ない話し方に牟児津と大眉は相変わらず呆れ気味だが、瓜生田は興味深げに頷いてメモを取る。どういうわけかと牟児津はそのメモを覗き見て、納得した。いま八知が名前を挙げた部員は、どちらも午前中に個別にカギを借りていた。元から話を聞くつもりではあったが、どうやら詳しく聞く必要がありそうだ。

 

 「朝の部活の間、先生は何を?」

 「こっちの動物のことは分からないけど、部室に水槽あったでしょ。魚のエサやりくらいならできるから、それをやってるよ。後は……まあ、テキトーにぶらぶらしたりぷかぷかしたり」

 「カギを返すのも先生が?」

 「そうだね。今朝もちゃんとカギ閉めて、部室も確認してから返したのに……なんでこうなるんだろうなあ」

 

 我が身に降りかかった不幸に苛立っているのか、八知は頭をがしがしと掻いた。誘拐事件において八知は被害者の立場になるのだろうが、新任とはいえ顧問でカギの管理をしていた以上、責任の一部は負うことになるだろう。赴任早々に気の毒なことではあるが、どうにも同情しきれないのは本人のいい加減さ故だろうか。

 

 「事件を知ったのはいつですか?」

 「昼休みが始まったくらいに部室に行ったとき。そのときはもう上野さんがいて、とにかく来てくれって言うから飼育舎まで来た。そしたらあの……例の動物が消えててさ」

 「なるほど。昼休みが始まったくらいに知って、そこからどうされたんですか?」

 「一回みんなでそこら中を捜したけど、見つからなかったね。放課後には風紀委員も加わって大捜索だよ」

 「それであの大捕物が」

 「こっちはエラい迷惑してるんですよ!」

 「俺だって迷惑してるよ。あーもう、こんなことになるなら顧問なんて引き受けなきゃよかった」

 「アンタ全部言うんだな!教師だろ!大人だろ!生徒の前なんだからちょっとは弁えろよ!」

 「子どもの前なんだから、ウソ偽りなく正直でいた方が良くないっすか」

 「もういい!ちょっとこっち来い!話がある!」

 「うえー」

 

 教師として、大人として、人として、大眉は八知の態度を許せなかったようだ。怒りを隠すこともせず、聞き込みを終えた八知を、そのまま部室の方まで引きずっていった。おそらくこれから先輩教師として説教でもするのだろう。大人が大人に叱られるところはあまりに見るに堪えないので、牟児津も瓜生田も部室へは戻らず、そのまま大飼育舎の前で聞き込みを続けることにした。

 次にカギを借りたのは、3年生の旭山(あさひやま)北美(きたみ)という生徒だった。先ほど八知が名前を挙げていた生徒で、朝の部活動にも参加している。瓜生田が中に入って名前を呼ぶと、ブラシで床を磨く手を止め、そそくさと飼育舎から出て来た。縁の薄い控えめなメガネと顔のそばかすが特徴的で、ピリついていた上野と比べるといくらか大人しそうな印象を受ける。

 

 「どうも。部活中にすみません」

 「それはいいけど……そっちの子」

 「は、はい?なんでしょう?」

 「あなた、風紀委員が誘拐犯だって言ってた子でしょ?あ、でも違うんだっけ?なんであなたがこんなことしてるの?」

 「え〜っとそれには深いワケがありましてですね……あの……」

 「疑いを晴らすには真犯人を見つけるのが一番手っ取り早いので」

 「はあ……」

 

 牟児津が長々話し始めようとしたのを、瓜生田がばっさり切った。こちらの話などどうでもいい。必要なのは、生物部員がどう動いたか、それによっていつ誰ならオポッサムを連れ出すことができたかを調べることだ。

 

 「はい。それじゃあ早速伺いたいんですが、旭山先輩は午前中に飼育舎のカギを借りられてますよね?その理由を聞かせてください」

 「忘れ物を取りに来たの。動物の体調チェックするときにペンが要るから自分のを使ってたんだけど、それを忘れてね。でも小飼育舎には入ってないよ」

 「どういうことですか?」

 「部室にあったから、こっちまで来てないだけ。てっきり飼育舎で落としたと思ってたから借りたけど、結局使わなかったよ」

 

 旭山は記憶をたどるように、視線を上に向けて話した。

 

 「じゃあそのときは、例のオポッサムがいたかどうかは──」

 「ヒノまる、ね」

 「え?」

 「あの子の名前。日の丸弁当みたいな顔してるから、ヒノまるっていうの」

 「ああ、失礼しました。で、ヒノまるちゃんがいたかどうかは見てないんですね。なにかいつもと違う様子とか、怪しい人影を見たとかは」

 「風紀委員にも聞かれたけど、そういうのはないね。授業と授業の間で時間もなかったし、私は部室までしか行ってないから」

 「そうですか……」

 

 旭山の証言を瓜生田がメモに書き留める。牟児津は今日見たオポッサムの顔を思い出していた。確かに、白い顔に鼻の先だけが赤くて、日の丸弁当のような色合いだったと思う。ストレートに日の丸みたいな顔、ではダメなのだろうか、と余計なことを考えていた。

 

 「それで、事件発覚当時のことを教えていただきたいんですが」

 「発覚当時っていうか、ヒノまるがいなくなってたのに気付いたのは東子ちゃん……ああ、部長ね。あの子が最初だよ。私たちより先に来て作業してたみたい」

 「やっぱり部長だから率先して部活に取り組んでるんですね」

 「別に、今日はたまたまそうだっただけじゃない?いつもは私たちと同じくらいに部室に来てるけど」

 

 どうやら第一発見者が部長の上野であることは確からしい。上野は今日の昼休み、いつもより早めに飼育舎を訪れていたようだが、果たしてそれは事件に関係あるのだろうか。疑わしいことは全てメモに残す。

 

 「でも……最近はちょっとピリピリしているんだよね」

 「上野先輩ですか?」

 「そう。なんかいきなり前の顧問の先生が辞めちゃってさ、理由も教えてくれないままだよ?ヤバくない?」

 「そ、そりゃあヤバいっすねえ……」

 

 何がヤバいって、牟児津と瓜生田はその理由を知っている。当事者の話も直に聞いた。前任者である石純が教職を辞したことに牟児津らは直接関係ないにしても、その経緯を知っているだけでなぜか後ろめたい気持ちになった。

 

 「代わりに来た新任の人は若いけどなんかやる気ないし、大変だよ。部長って立場だから責任もあるしさ」

 「普段はあんな感じじゃないんですか?」

 「もっと優しい人だよ。動物とか部員以外にも、さっきみたいな冷たい態度は取らない人だった。だから東子ちゃんをあそこまでイラつかせる今の顧問がヤバいっていうか……だって、ヒノまるがいなくなったっつってもなんかぼーっとして、全然慌てたり焦ったりしてなかったんだよ?めっちゃヤバくない?」

 「あー、でも分かる。なんかそういう感じの人だわ」

 

 上野だけでなく、旭山も顧問の八知には相当不信感を募らせているだ。牟児津がそれに同調する。牟児津は八知と二、三言葉を交わした程度だが、それでもあの男が教師として不出来であることは非常に共感できた。

 その中で唯一、八知に対して特に何の感情も抱いていない瓜生田が、冷静に先ほど八知に尋ね損ねた質問をぶつけた。

 

 「あの、ヒノまるちゃんのことについて聞きたいんですけど」

 「うん。いいよ。ヒノまるはね、東子ちゃんのお気に入りなんだよね。最近は生物部のポスターに写真を載せて、マスコットとして押し出し中だよ」

 「マスコット、ですか」

 「人懐っこいから、誘拐犯とかにもあっさり懐いちゃったりしてたのかな」

 「ああ……」

 

 その人懐っこい性格のせいで、牟児津はこうして巻き込まれているのだった。そう思うと人懐っこい性格も考えものである。

 

 「ヒノまるちゃんはケージの中からいなくなってたんですよね?」

 「そうだね」

 「なんで誘拐だと思ったんですか?」

 「……ん?どういうこと?」

 「いえ、ケージから動物がいなくなってたら、誘拐よりも脱走を考える方が自然かなって思いまして」

 

 牟児津は、頭の中で何も入っていないケージを思い浮かべた。明らかに何かを飼育している痕跡があるが何もおらず、ケージの扉が開いている。中の動物が逃げ出したのか攫われたのかは分からない。だがそれを見ていきなり、攫われたと思うだろうか。牟児津の考えは旭山と同じだった。

 

 「まあ私も、最初は脱走したんじゃないかと思ったよ。でもヒノまるの大きさじゃケージの隙間は通れないし、ケージにも小屋にもカギがかかってんのよ。だから自力で逃げ出せたとは思えないんだよね」

 「なるほど。それで誘拐だと思ったんですね」

 「まあそれを言いだしたのは東子ちゃんよ。私は脱走の可能性もあると思うけどね」

 「上野部長が。なるほど……ありがとうございます」

 

 脱走は、生物部の誰もが最初に考えた可能性だろう。その可能性を考えない根拠があるのかと思って、瓜生田は敢えて尋ねた。部屋とケージの二重のカギは、確かにオポッサムにとっては突破不可能な関門だろう。だとすれば、何者かが手を加えたという考えは納得できる。ひとまず旭山への質問はそこまでで終え、次に話を聞く生徒を呼ぶように頼んで旭山を解放した。旭山はすぐに大飼育舎の中に戻っていき、入れ替わりで3番目にカギを借りた生徒がやってきた。

 次に牟児津と瓜生田の前に立ったのは、背の低い牟児津と比べてもさらに小柄な、ふわふわした雰囲気の1年生だった。制服のサイズが微妙に合っておらず、袖が余っているせいで幼く見える。同い年の瓜生田と並ぶと、互いの大きさと小ささが一層際立った。

 

 「えっと、1年生の白浜(しらはま)西乃(にしの)です。よろしくお願いします」

 

 白浜は、先に話を聞いた八知や旭山とは違い、はきはきと喋って礼儀正しく頭を下げた。それだけで、2人はこの小さな少女に対して好感を抱いた。

 

 「白浜ちゃんかあ。可愛いねえ。ようかん食べる?」

 「ムジツさんおばあちゃんみたい。あんまり人に携帯ようかん勧めない方がいいよ」

 「そんなことないよね?白浜ちゃん」

 「いえ結構です」

 

 自分より小さい相手に思わず庇護欲をくすぐられた牟児津は、手持ちのようかんを勧めた。人肌に温まったようかんは当然のように断られた。

 

 「それじゃあ、二つ教えてほしいんだけど、まず午前中にカギを借りてることについてだけど、なんで借りたか教えて?」

 「えっと……今日は午前中に美術の授業があって、学園内で何でも好きなものをスケッチするっていう課題だったんです。だから、ほくさいちゃんをスケッチしようと思って」

 「ほくさいちゃんっていうのは?」

 「うちで飼ってるウサギです。アメリカンファジーロップっていう種類で、これくらいのサイズのとっても可愛い品種なんですよ。耳がぺたっとしてて、富士山みたいな形してるんです」

 「へー、かわいいんだろうね」

 「そう!可愛いんです!」

 

 白浜が手で末広がりの形を作りながら、楽しそうに話した。そのウサギのことが本当に好きなのだろう。好きなものについて語るその姿は、本人のかもし出す雰囲気も相まって実に癒されるものだった。と思いきや。

 

 「アメリカンファジーロップは飼育しやすさや寿命の長さからペットとして人気なんですけど、一番の魅力はやっぱり人懐っこくて甘えん坊なところですよねえ。慣れると自分から手の下に入ってきて撫でて欲しいアピールするんですよ!こうやって!もうそれが可愛くて可愛くて!」

 「そ、そうなんだ……」

 「ウサギの特徴っていったらやっぱり耳じゃないですかあ。ロップイヤーは耳の通気性が悪いしアメリカンファジーロップは長毛でもあるから定期的にお手入れしてあげなくちゃいけないんですねっ。人間と違って耳のすぐ近くに脳があるのでお手入れも慎重にやらなくちゃいけないから、これってウサギを飼育する上ですごい重要なスキルなんですよ!それで私が綿棒で耳をお掃除してあげると、気持ちよさそうにパタパタ足を動かすんです!もう本当に……!!」

 「し、白浜さん、あのね」

 「それでですね、私のお気に入りのほくさいちゃんはですね…………が…………かわいくて……たまんない……くう…………さらに……もう……すごすぎ……で……はー!…………だきしめて……ねるときも……おフロのときも……でしょ…………すばらし……!……うつくし…………」

 「ひええ……」

 

 いったいどこでスイッチが入ったのか、それとも元からこういう性質なのか、白浜はなぜかお気に入りのウサギについての語りが止まらなくなった。ふわふわした第一印象からは想像できない圧倒的な熱量と勢いに押され、牟児津は瓜生田の後ろに隠れてしまった。

 しばらくして、ようやく語るべきを語り尽くしたのか、あるいは体力が尽きたのか、白浜は落ち着きを取り戻した様子で深呼吸し、語りを止めた。

 

 「ご、ごめんなさい……聞かれてもないのにちょっと喋りすぎました」

 「自覚があるのが余計怖い」

 「まあ……なるほどね。白浜さんの気持ちはよく分かったよ」

 「ありがとうございます。もういいですか?」

 「まだウサギの話しか聞いてないよ!」

 

 危うく勢いに流されて白浜のウサギトークだけを聞かされて終わるところだった。飼育舎に戻ろうとする白浜を引き留めて、瓜生田が改めて質問に戻る。

 

 「えっと……白浜さんがスケッチしに来たとき、ほくさいちゃんは小飼育舎にいたのかな?」

 「はい。カギをお借りして、小飼育舎からほくさいちゃんのケージを部室に持っていって、そこでスケッチしました。じっとしてて欲しいのに、私に構って欲しそうにすり寄ってきちゃってもう……あ、ご、ごめんなさい。またやっちゃった……」

 「うん。危なかったね。えっと……スケッチのとき、ちゃんと飼育舎のカギはかけた?」

 「は、はい!ちゃんとかけました!」

 「そのとき、ヒノまるちゃんのケージは見た?」

 「いいえ……ほくさいちゃんとは離れてますし、ちゃんと見てなかったです」

 「ちぇっ。誘拐された時間が絞れるかと思ったのに」

 「ごめんなさい……」

 「ええあっ!?ご、ごめん!白浜ちゃんは悪くない!泣かないでほら、ようかんあげるから」

 「それは結構です」

 「そう……」

 

 期待が外れた牟児津は口が滑る。それを聞いた白浜は見るからに落ち込んでしまったが、その場に流されない意思の強さは垣間見えた。瓜生田は気を取り直して、発見時の経緯について尋ねる。

 

 「ヒノまるちゃんがいなくなってることに気付いたときのことを教えてくれる?」

 「はい。朝とお昼休みはいつも当番の人が小飼育舎の空気を入れ換えたりご飯をあげたりするんです。今日は私と上野先輩と旭山先輩が当番でした。お昼休みに部室に来たらもう騒ぎになってて、八知先生からヒノまるちゃんがいなくなったのを聞いて……みんなで捜したんですけどいなくて……」

 「その後は?」

 「ヒノまるちゃん以外にいなくなった子がいないか確認して、ひとまずいつもやってる給餌や体調チェックを済ませました。その後はもう1回辺りを捜してから、後のことは八知先生に任せていつもより少し早く教室に戻りました」

 

 旭山の話も合わせてまとめると、生物部は朝と昼休みに生物の世話をする係を当番で回しており、今日は上野と旭山と白浜がその当番だったらしい。そして当番である3人ともが、午前中にそれぞれ個別にカギを借りている。可能性の一つとして考えていた、部外者が授業時間中に小飼育舎に忍び込んで連れ去るという説は薄くなってきたように思えた。

 そして瓜生田は、さらに突っ込んだ質問をした。

 

 「ねえ白浜さん。ヒノまるちゃんが誘拐されたことに心当たりはある?」

 「こ、心当たり?」

 「たくさん動物がいるのに、なんでヒノまるちゃんが誘拐されたのかなって思って」

 

 ヒノまるがいたケージは、飼育舎の出口から一番遠く、かつ脚立の足下にあり持ち出しにくい位置にあった。それにもかかわらず犯人はヒノまるを攫っている。動物を攫うのが目的なら、より連れ出しやすい選択肢はいくつもあった。瓜生田にはどうしてもその点が不思議だった。

 

 「どうでしょう……やっぱりかわいいからですかね?」

 「何か特別な動物だったりしない?」

 「上野部長のお気に入りで、部のマスコットとしてポスターとかに載ってます。だから学園でもそれなりに知ってる方はいると思いますよ」

 「旭山先輩も仰ってたね。他の部員からそれについて何か聞いたりしてない?」

 「みんなそれぞれ“推し”がいて、自分の“推し”をマスコットにしたいんですけど、ヒノまるにはみんな納得してますよ。“推し”を部のマスコットにできるのが部長特権なんですけど、上野部長はきちんと3年生の先輩方の“推し”から投票で決めたんです。今年が最後のチャンスだからって。優しいですよね」

 

 どうやら生物部員は、自分が贔屓にしている生き物については譲れない部分があるようだ。あの厳しい上野にもそんな一面があるのかと思うと、牟児津と瓜生田には意外だった。しかし、にこやかに話す白石からは、上野への遠慮は感じられなかった。どうやら上野が部員に慕われていることは事実らしい。

 

 「ありがとう白浜さん。それじゃあ聞きたいことは聞けたから、上野部長を呼んできてもらえる?」

 「分かりました。調査がんばってください!」

 「いい子だ……」

 

 現状、風紀委員が誘拐犯だと考えているのが牟児津であることを理解しているのかそうでないのか、白浜は牟児津と瓜生田にエールを送って大飼育舎に戻っていった。やる気ゼロな教師や敵意剥き出しの上級生を相手にしてささくれ立っていた牟児津の心が、白浜の無邪気さに優しく撫でつけられたような気がした。

 思いがけない癒しにほんわかしていた牟児津と瓜生田だが、入れ替わりに大飼育舎から出て来た上野の顔を見て再び緊張が走った。小飼育舎で会ったときよりは苛立ちも落ち着いたようだが、相変わらず厳しい表情で2人を見ている。

 

 「部長。お忙しいところすみません」

 「手短にお願いね」

 「はい。それじゃあまず、お昼にカギを借りてからのことを伺いたいんですけど」

 「……そうね。今日は午前中最後の授業が体育で、いつもより早めに終わったの。だから一足先に部室に行ってようと思ってカギを借りたのよ」

 「そのまま小飼育舎に?」

 「ええ。小飼育舎はちゃんとカギがかかってたわ。開けて、手前から順番にご飯をあげたり状態をチェックしたりしていったわ」

 「生き物のお世話って大変なんですね」

 「いつもしてることだし、生き物は好きだから別に大変と思ったことはないわ」

 

 思いの外、上野はすんなりと話をしてくれた。先ほどは何者か分からない牟児津と瓜生田を警戒していたのだろうが、今は事件の真相解明に向け、いちおうは協力すべき立場であると理解を得られたのだろうか。瓜生田が最低限の相槌を打つだけで、上野はすらすらと淀みなくしゃべる。

 

 「それが半分くらい終わってヒノまるのケージを見たら、中が空だったわ。ケージが開いてたからヒノまるが脱走したのかと思って、人を呼ぼうと思って部室に向かったら、ちょうど旭山さんたちが来たから皆に伝えた、って感じね」

 「脱走だと思ったんですか?」

 「そりゃあいきなり誘拐なんて思わないでしょ?さっきも言ったけど小飼育舎はカギがかかってたし、入口以外でヒノまるが出入りできるところなんてないし。普通は脱走したって思うわよ」

 「でも……最初に誘拐だって言いだしたのは部長だと伺ってますが」

 「そうだったかしら。あんまり覚えてないけど、誘拐の可能性を考えたのは本当よ。脱走だとしてもケージのカギをヒノまるが自分で開けられるわけないし。だけど……誘拐だとしてもおかしいわよね」

 「おかしいというのは?」

 「なんでヒノまるなのかが、いくら考えても分からないのよ」

 

 それは、つい先ほど瓜生田が白浜に尋ねたことだった。上野が同じ疑問を持っているということは、小飼育舎の構造やヒノまるについてよく知っている生物部員ですら、ヒノまるを誘拐する理由はないということになる。上野のその言葉を聞いて、2人はますます訳が分からなくなる。

 

 「結局のところ、部長は脱走と誘拐のどちらだとお考えですか?」

 「その質問、意味ある?分かんないけど、風紀委員が誘拐だって言うなら誘拐なんじゃない?」

 「風紀委員が誘拐だって言ったんですか?」

 「そうよ、実際に誘拐犯を捕まえたっていう報告もあったし。まあ、その誘拐犯がいま目の前にいるから、余計に訳分かんないんだけど」

 「だから私は違いますって!」

 

 聞けば聞くほど話がややこしくなっていくような気がした。動物がカギのかかったケージを自力で開けられるはずがないから、外部から人の力が加わっているのはほぼ確実だ。しかし誘拐だとすると、敢えて連れ出しにくいヒノまるを狙う理由が分からない。しかも、牟児津が取り囲まれる直前、ヒノまるは草むらから飛び出してきたのだ。誰かに攫われたのだとしたら、野生のように駆け回っていたのはおかしい。脱走だとしても誘拐だとしても、一連の出来事のどこかに説明できない箇所が生まれてしまう。

 

 「誘拐犯捜そうとしてんのに、そもそも誘拐かどうかも分からないってなんだよ……。脱走だったらこれ、私どうすりゃいいの?」

 「脱走の証拠を見つければ、連れ出したんじゃないってことの説明になるかな」

 「脱走の証拠って?」

 「うーん、分かんない」

 「そりゃないようりゅ〜!助けて〜!」

 「私もう戻っていいかしら?」

 

 話を聞いて前進するどころか余計にこんがらがってしまい、牟児津は頭を抱えた。真犯人を見つければ潔白を証明できると考えていたのに、真犯人の存在すら疑わしくなってきてしまった。どうすればいいか分からず瓜生田に泣きつく牟児津と、泣きつかれながらも呑気に笑う瓜生田。そのやり取りを、上野は冷めた目で見ていた。

 その緩んだ空気を、甲高い金属音が打ち砕いた。大飼育舎の中から大きな音がしたのだ。軽い金属が転がるような音と液体が床に流れ出す音。それらとほぼ同時に部員たちの悲鳴も聞こえた。

 

 「どうしたの!」

 

 上野がとっさに大飼育舎の中に戻る。牟児津と瓜生田は驚いて出遅れたが、上野に続いて大飼育舎に入っていった。

 慌てて駆け込んだが、大飼育舎の中はそれほど深刻な事態は起きていなかった。床に転がった空のバケツと倒れたモップ、そして辺り一帯に黒いシミを作る水たまりがあった。どうやら掃除用に水を汲んできたバケツを誰かが倒してしまったらしい。

 

 「大丈夫?」

 「だ、大丈夫です……!ああっ!」

 

 部員たちが靴を濡らさないように気を付けつつ、ケージが水に浸かってしまわないよう手当たり次第に移動させている。バケツを倒したらしい部員がケージのひとつを見て声をあげた。水をこぼしたにしては大袈裟な、今にも泣き出しそうな顔だ。ケージを持ち上げると、中の動物がぐったりと横たわっていた。

 

 「ヒ、ヒノまるちゃんが……!ヒノまるちゃんがあ……!」

 「うわっ!えっ?も、もしかして……死んじゃった?」

 「ひいいっ!」

 

 そのケージはヒノまるのものだった。中のヒノまるは完全に脱力したように口を開き、中から舌がだらりと垂れている。目は苦悶するように閉じて細くなり、全身から生気が抜けたようだ。牟児津が見たままの感想を口走ると、ケージを持ち上げた部員の目から涙があふれだした。さすがに上野も焦ったようで、部員と一緒にケージを水から離して降ろすと、中からヒノまるを取りだして様子をみた。

 

 「……ふぅ」

 

 しばらくヒノまるをまさぐっていた上野は、ひとつため息を吐いた。無念さなどは感じられず、むしろ安堵しているようにさえ聞こえた。

 

 「安心して。ヒノまるは大丈夫よ」

 「で、でも……こんなにぐったりして」

 「これはね、擬死行動っていうの。死んだふりよ」

 「へ?」

 「へぇ?死んだふり?」

 

 上野はべそをかいている部員に向けて言ったのだが、近くで聞いていた牟児津が上野の言葉を復唱した。

 

 「オポッサムは、身の危険を感じると死んだふりをする習性があるの。きっとバケツの音にびっくりしたのね。特に怪我をしたわけじゃないみたいだけど、大きい音はストレスになるから気を付けましょうね」

 「は、はい。ごめんなさい……」

 「へえ〜、動物って死んだふりとかするんだ」

 「ウサギやタヌキもするよ。狸寝入りって言葉があるでしょ」

 「うりゅはなんでも知ってるなあ」

 

 顧問や部外者には厳しい上野だが、部員に対しては全く厳しい顔をせず、優しく注意するに留めた。旭山が言っていたとおり、牟児津たちが知る厳しい態度は余裕がないからで、本来はこの動物と部員に対して向ける顔が似合う、優しい人間のようだ。

 上野たちはヒノまるをケージに戻すと、こぼれた水が広がらないようにモップで隅に寄せ始めた。牟児津は好奇心から、その隙にこっそりヒノまるのケージに近付く。中のヒノまるは、体を丸めたままぴくりとも動かない。

 

 「うわすげ〜。本当に死んでるみたい」

 「ムジツさん。あんまり近付かない方がいいよ」

 「え──お゛っっっぐっっ!!」

 「オポッサムは死んだふりするとき死臭も出すから」

 「早く言ってよ!」

 

 不意に鼻を襲った悪臭で、牟児津は思わず野太い声を漏らした。声に反応して上野たちが牟児津の方を振り返ったので、慌てて瓜生田のもとに戻って何でもない風を装う。ちらとヒノまるのケージを見ると、すでに何事もなかったかのように動き回っていた。呑気なものである。

 

 「ん〜?どうかしたか」

 「あ、つばセン」

 

 そこへ、説教を終えたらしい大眉が戻って来た。後ろにはげっそりした様子の八知もいる。どうやらかなり叱られたようだ。いい大人が叱られて元気を無くしているところを見て牟児津は少し面白く感じたが、その無礼な感想は上野の声に阻まれて言葉には出せなかった。

 

 「八知先生。部室からタオルをいっぱい持って来てください」

 「ええ?俺たったいま部室から戻ってきたところなんだけど……」

 「すみませんが、お願いします」

 「はいはい。ったくもうしょうがねえな」

 「八知先生」

 「はーい。行ってきます」

 

 戻るやいなや上野の指示を受けて、八知は部室にとんぼ返りした。相変わらずやる気のない態度だが、大眉が名前を呼んで釘を刺すと、背筋を伸ばして小走りで向かって行った。どうやら説教の効果は少しだけあったらしい。走って行く八知の背中を見て、大眉が深い深いため息を吐いた。

 

 「先輩教師ってのも大変だね、つばセン」

 「お前は生意気なこと言うな」

 

 牟児津のにやけた顔に、大眉は疲れがのぞく呆れ顔で返した。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 八知が運んできた大量のタオルで水を拭き取るのを手伝った後、牟児津たちは生物部の部室まで戻ってきた。未だ川路は戻らないので部室を離れない方がよさそうだ。大眉は他の仕事があるということで職員室に帰ってしまった。牟児津と瓜生田は部室の実験机を挟んで向かい合い、集めた情報から手掛かりを見つけ出そうとしていた。

 

 「やっぱり誘拐じゃないのかな……脱走の方が納得できそう」

 「でもうりゅ、動物にはカギ開けらんないよ?」

 「かけ忘れてたっていうのが一番自然な説明かな。誘拐よりはあり得るんじゃない?」

 「ケージはね。でも建物のカギはちゃんとかかってたって部長さん言ってたよ」

 「換気用の小窓は?」

 「網戸あった」

 

 誘拐ではなく脱走という説を推す瓜生田に、牟児津はそれを否定する根拠を投げ返す。犯人がいない脱走よりは、犯人がいる誘拐の方が牟児津にとってはありがたい。しかし脱走の場合と同じくらい、誘拐の場合にも疑問はある。それが説明できない限り真犯人にたどり着くことはおろか、その存在すら証明できない。

 

 「あっ。もし誘拐だったら、あそこにいる動物の1匹くらいは臭い覚えてたりしない?警察犬みたいに臭いで犯人追いかけりゃ見つかったりして!」

 「あれは特別に訓練された犬だからできるんだよ。それにもし臭いを覚えてても……難しいと思うなあ」

 「なんで?」

 「今日の午前中にカギを借りたのは生物部の人だけなんだから、もし誘拐犯がいるんならそれは……」

 「生物部の誰か、ってこと?」

 

 その推理は、初めから頭の中に思い浮かべていて、かつこれまで得た手掛かりから当然に導かれるものだった。カギを開けない限り中の動物を連れ去ることはできない。そのカギは警備室で管理されており、午前中に生物部員たちが頻繁に借りていた。ヒノまるがいなくなったのは午前中なのだから、仮に誘拐犯がいるとするならば、どう考えても疑わしいのはカギを借りた人物、つまり生物部員たちなのだ。

 

 「それから、上野部長が気になること言ってたよね」

 「なんか言ってたっけ?」

 「この事件が誘拐だって言いだしたのは風紀委員だって。なんで風紀委員は誘拐事件だと思ったんだろう」

 「そりゃあ風紀委員は犯人しょっぴくのが仕事だから。犯人がいた方が腕が鳴るってもんでしょ」

 「ムジツさんは風紀委員をなんだと思ってるの」

 

 まさか牟児津の言うような理由で誘拐事件だと判断したわけでもあるまい。そもそも風紀委員が事件の内容について判断することは、基本的にない。風紀委員は、生徒や職員から受けた通報に基づき行動する。捜査初期ならなおさら事件に対する認識は通報の内容に左右される。つまり風紀委員が誘拐事件と判断したのではなく、風紀委員に誘拐事件と伝えた人物がいたと考えられる。問題は、その人物がなぜ失踪ではなく誘拐と通報したかだ。

 

 「ううん……これは、私たちで考えてても仕方ないかもね」

 「え。じゃあどうすんの?」

 「風紀委員に話を聞きに行こう。葛飾先輩なら話してくれそうじゃん」

 「……え、でもこまりちゃんとこって今さ」

 「川路先輩が行ってるはずだね」

 「じゃあ無理じゃん!“無理”が服着て歩いてんじゃん!」

 「だけど、風紀委員が誘拐事件って判断した理由が分かれば、真相に向けて大きく前進って気がしない?」

 「そりゃそうだけど……」

 「大丈夫だって。ムジツさんの潔白は葛飾先輩が証明してくれるから。ここから移動したって、川路先輩が遅いから様子を見に来たって言えばいいんだよ」

 「う〜ん、うりゅが言うなら……でもあの人がキレてきたら守ってよ!?全力で守ってよ!?」

 「うんうん。守る守る」

 

 川路が葛飾に話を聞くため生物部を離れてから、すでにかなりの時間が経っていた。戻ってくる気配すらないことを考えると、何らかの用事ができたのだろう。葛飾と一緒にいるかどうかは分からないが、少なくとも戻って来ない川路を捜しに校舎に入ったと言えば、部室を離れた言い訳にはなる。不安そうにわめく牟児津を連れて、瓜生田は葛飾のもとへと向かった。

 

 「こまりちゃんなら、ホームルームのときに教室を出てったよ。風紀委員活動のためだからホームルーム免除だとか言って」

 

 牟児津の言うことが確かなら、葛飾はもう教室にはいない。風紀委員としての活動のために教室を出たなら、向かうのは風紀委員室だろう。玄関で靴から上履きに履き替えて、階段を上って風紀委員室へと向かう。どんどん近付いて来る川路の気配に牟児津は震え上がるが、瓜生田に腕を引かれているので気持ちとは裏腹に足はどんどん前へ進む。

 伊之泉杜学園には生徒による11の委員会があり、それらの委員長と生徒会長から生徒会本部が組織されている。委員会はそれぞれが専用の執務室を持ち、そこで日常事務や会議などを行っている。基本的に生徒が委員会として活動するときには、一部例外を除きこの執務室にいることが多い。いま、牟児津と瓜生田はそのうちの一つ、風紀委員会室の前までやってきていた。

 いかにも重そうな漆塗りの扉が、蛍光灯の光を受けてつやつやと輝いている。落ち着いた色合いの木目や金ぴかのドアノブがかもし出す高級感が、そのドアを叩こうとする者を威圧するオーラとなってしまっている。しかし瓜生田は全く臆さずそのドアを叩く。それを見た牟児津は自分の心臓が小突かれたかの如く体を震わせた。

 

 「失礼しまーす」

 「はいはーい。どう──あれ、瓜生田さん」

 「あ、葛飾先輩。ちょうどよかった」

 

 瓜生田の呼びかけに応えて出て来たのは、都合のいいことによく見知ったおかっぱ頭だった。くりくりした大きな目の幼顔が重厚なドアの向こうから現れるのは、なんとも違和感を覚える光景だった。

 

 「どうしたんですか?真白さんは……何してるんです?」

 「隠れてんの」

 「……ああ、川路委員長なら生徒会室に行かれましたよ。なんでも緊急会議だとかで」

 「会議ぃ?人のことほったらかして何してんだ!」

 「ムジツさん、また疑われたんですよ」

 「そういえば真白さんのこと聞かれましたね」

 「ちゃんと庇ってくれた?私は犯人じゃないって言ってくれた?」

 「いえ、教室でお菓子を食べてたことと一緒にお昼を食べたことしか言ってません。何の事件かも分からないのに庇えませんよ」

 

 虎の巣穴に無防備で突撃する覚悟で来た牟児津だったが、どうやら川路は席を外しているようだ。それならそれで待ちぼうけを食うことになる自分への伝言などがあってもいいのではないか、と牟児津は頬を膨らませた。そんな暇もないほどの呼び出しだったということだろうか。しかし緊急会議ということはしばらく川路の動きが制限されるということである。牟児津が調査に動いたり逃亡したり身を隠したりするなら今の内だということだ。

 

 「実は葛飾先輩に教えていただきたいことがありまして」

 「なんですか?」

 「生物部のオポッサムがいなくなった事件ありましたよね」

 「ああ。生物部の誘拐事件ですか。オポッサム見つかったそうじゃないですか」

 「そうなんです。ムジツさんったら今度は誘拐犯だと思われてるみたいで」

 「しょうがない人ですね」

 「私が悪いのこれ?」

 

 牟児津にしてみれば完全に濡れ衣を着せられているのだから自分に非はないと思いたいが、どこから来たかも分からないオポッサムを安易に手懐けようとした軽率さは反省すべきであった。それはともかく、今の葛飾との会話で、瓜生田には上野の言葉が真実みを増したように感じた。

 

 「ところでですね、葛飾先輩。いま誘拐事件って仰いました?」

 「え?はい。そうですね。そう聞いてますよ」

 「それは風紀委員の判断ですか?」

 「いえ、風紀委員に誘拐事件として通報があったみたいなんですよ。通報の記録ならいま見られますよ」

 「見せて!なるべく早く!」

 

 緊急会議でしばらく動けないと聞いたものの、川路の縄張りにいるというだけで牟児津は心穏やかでなどいられない。得るべき情報があるならさっさと得て、一刻も早くこの場を去りたいのだった。ただごとでない牟児津の焦りようを察したのか、葛飾は部屋に引っ込んで数秒でファイルを持って来た。風紀委員に寄せられた通報の記録をまとめたものらしい。いつ、どこで、誰が、どんな方法で通報したか、通報を受けた委員は誰か、通報の内容や通報者についてなど細かな事項までびっしり書き込まれていた。

 こんなに情報が詰まった書類を、どこか抜けている葛飾にも書けるのだろうか、と牟児津と瓜生田はどうでもいいことを考えた。

 

 「これです」

 

 そんな無礼なことを考えられているとは夢にも思わず、葛飾はその中のひとつを指さした。日付は今日。時間は昼休みが終わる直前の時間。通報者はひどく慌てた様子で風紀委員室を訪れたようだ。そこには、『誘拐事件。生物部小飼育舎からオポッサム』と記されていた。そして、その通報をしたのが誰なのかもはっきり記録されている。

 

 「ありがとこまりちゃん!これもらうね!」

 「いやダメですよ!大切な記録なんですから!」

 「写しをいただくのは?」

 「通報者保護のために原本も写しも持ち出しは認めていません。委員長の許可があれば別ですけど」

 「じゃあ無理じゃん!“無理”の規則じゃん!」

 「葛飾先輩、そこをなんとか……」

 「こまりちゃんには悪いけどあれもダメこれもダメなんて甘い世界にゃ生きてねえんだよこちとら!」

 「お願いしながら強奪しようとしないでください!こまります〜!」

 

 牟児津が葛飾の腕からファイルを奪おうと引っ張り、横から瓜生田があくまで丁寧に頼み込む。まるで北風と太陽の同時攻撃を受けているような連携に、葛飾はファイルを奪われないよう必死に抵抗した。瓜生田は上級生2人が紙切れ一枚を巡って小競り合いしているのを横目に、懐からスマートフォンを取り出した。そしてそのレンズをファイルに向ける

 ぱしゃり、というシャッター音。途端に動きを止める牟児津と葛飾。そして瓜生田は穏やかに笑って、その画面を見せた。そこには、渦中の通報記録がしっかり収まっていた。

 

 「というわけで葛飾先輩。()()()()()()

 

 その意味を瞬時に理解した牟児津は、掴んでいたファイルを手放し、瓜生田の手を引いて走り出す。

 

 「でかしたうりゅ!ずらかるぜ!」

 「ヘイ親分」

 「ちょ、ちょっと!ダメですよ!委員長にバレたら怒られちゃいます!」

 「ご心配なく〜!用が済んだらちゃんと消します〜!」

 「そうそう!バレるかどうかはこまりちゃん次第ってことで!」

 「そ、そんなあ……こまります〜〜〜!」

 

 廊下の曲がり角を利用して、牟児津と瓜生田はあっという間に葛飾の視界から外れた。このことがバレたら牟児津だけでなく瓜生田、そして葛飾にも間違いなく川路の雷が落ちることだろう。そしてそれは、葛飾が自らの失態を報告することで訪れる未来である。2人は葛飾自身を人質に、まんまと通報記録をせしめることに成功したのだった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 葛飾から通報記録を奪取した2人は、2年Dクラスの教室を訪れ、手に入れた情報を確認していた。通報記録に記された情報には、事件について大きな手掛かりが隠されているはずだ。

 瓜生田が警備室と生物部で得た手掛かりと合わせて、牟児津は関係者の動向を頭の中で整理する。この中の誰かが犯人であれば、どこかにウソが紛れているはずだ。何か矛盾はないか、綻びはないか、ひとつひとつの情報から手掛かりを引き出せるだけ引き出す。

 

 「いつか分かんないけど、午前中にヒノまるが攫われて……昼休みに部長さんが見つけたんだよね」

 「そう。で、白浜さんによると、いつも通りの部活をしてから通報したことになるから、昼休みの終わりごろだね」

 「……ていうかぶっちゃけ、この人めっちゃ怪しいんだけど」

 「うん、私もそう思う」

 

 記録とメモを見比べた牟児津が、事件発覚までを振り返る。風紀委員に誘拐事件だと通報したこの通報者が、どう考えても怪しい。しかしそれは、ヒノまるがいなくなったことを誘拐だと断定しているというだけに過ぎない。それ以外にこの人物を犯人だとする根拠が、2人には浮かんでいなかった。そもそも怪しいと言っても、この人物が悪意を持って誘拐したのか、あるいは過失で逃してしまったのか、具体的な犯行内容すら判明していない。

 

 「昼休み……部長さんは来てて、カギは閉まってた。ケージからヒノまるが消えてて、みんなで捜してから普通に部活をして……その後に通報……した?いや……うん?ちょっと待てよ?」

 

 ふと、何かに気付いた牟児津の動きが止まった。頭の中で情報が飛び交う。関連しあい、渦巻き、交錯する。一瞬のひらめきの後に訪れる情報の混乱で、牟児津の頭の中はたちまち秩序を失い、重要な情報が散逸してしまう。

 

 「ちょっと待てちょっと待て?え〜っと……えっとえっと」

 「どうしたのムジツさん?なにか分かった?」

 「いま考えてるから待って!」

 

 牟児津はカバンからルーズリーフと筆箱を取り出し、いま頭にひらめいたことを走り書きする。そして、それが根拠を伴って言えるかどうか、通報記録と瓜生田のメモを見ながら情報をまとめていく。

 

 「朝、ヒノまるはいた。みんなで世話して教室に戻った。授業中に何回か来てて……部長さんがカギ開けて入ったら、いなくなってた。んでみんなで捜して……一旦教室帰って、通報があって……こうか」

 「それなに?」

 「関係者の動きを時間で並べて表にした。で、えっと……そうか。やっぱおかしい」

 「どこが?」

 「ん〜〜〜、でも一旦確認しときたい!うりゅ、もっかい生物部に聞き込みに行こう!」

 「え。今から?」

 

 瓜生田が時計を見る。それにつられて牟児津も時計を確認した。今まで時計のない場所にいたこともあって気付かなかったが、すでに相当な時間が経っていた。もうじき生徒は部活動を終えて帰宅を始める時間だ。生物部員が帰ってしまう前に、もう一度確認しておきたいことがある。まだ、急げば間に合う時間だ。

 

 「行ける!行こう!つうかもう今日で終わらせたい!」

 「そっかあ。じゃあ行こう」

 

 奮起する牟児津は勢いそのままに立ち上がる。瓜生田は、牟児津が自分の推理に相当自信を持っているらしいことを感じ取り、細かいことは考えず任せることにした。ルーズリーフを引っつかんで教室を飛び出した牟児津の後から、忘れ物のカバンと筆箱を持って瓜生田も生物部に向かった。廊下は、もう夕焼け色に染まっていた。



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第4話「いらない」

 

 まだ日は沈んでいないが、すでに街灯は白い光を放っている。校庭で活動している運動部の威勢の良い声も、もう聞こえて来ない。夜が近付き、学園は一日の終わりを迎えつつあった。飼育舎で活動していた生物部もすでに片付けを終え、帰り支度を済ませていた。

 

 「それでは先生、戸締まりよろしくお願いします。お先に失礼します」

 「へーい。おつかれ」

 

 暗い道をひとりで歩いて帰るのは危険だ。生物部員は防犯のためいつも集団下校し、家が近い者から各々の帰路についていく。部長の上野が飼育舎のカギを八知に預け、お辞儀して先に部室を離れる。それから八知は一度、大飼育舎と小飼育舎のカギがしっかりかかっていることを確認し、再び部室まで戻って来た。剥き出しの配線につながった蛍光灯が、東屋の中を照らしている。

 

 「さて」

 

 周りに人がいないことを確認し、八知は上着のポケットをまさぐった。取り出したるは太い筒状の器具。昼間に吸おうとしたのを大眉に咎められ、今まで我慢していた電子タバコだ。椅子にどっかと腰掛け、再度周囲を見渡してから電源を入れた。ちょろと突き出た先端を口にふくみ、アトマイザーのボタンに指をかける。

 

 

 

 「八知先生!」

 

 

 

 背後から突然声がした。誰もいないと思っていたところに声をかけられ、八知は驚いて電子タバコを落としてしまった。足下に転がったそれを、八知は足で隠しながら素早く手の中にしまい込んだ。慌てて振り向くと、そこには昼間からずっと生物部にいた、赤い髪の生徒が立っていた。

 

 「よかった!まだ帰ってなかった!」

 「キ、キミ、え〜っと……大眉先生と一緒にいたね。風紀委員じゃない──」

 「牟児津!」

 「ああ、そっかそっか」

 

 牟児津は呆れ返った。いくらなんでも人の名前を覚えなさすぎる。それなりに珍しい苗字だという自負がある牟児津にとって、同じ日に同じ人物へ何度も名乗ったのは初めての経験だった。そんなことは今どうでもいいが。

 

 「いま、タバコ吸おうとしてなかった?」

 「ん?なにが?」

 「なにがって……まあいいや。そんなことより、ちょっと聞いてほしいんですけど」

 「……なに」

 

 

 

 「ヒノまるを誘拐した犯人、八知先生だよね?」

 

 

 

 それは、あっさりと口にするには重い言葉だった。牟児津は、今日一日さんざん生物部と風紀委員を巻き込んだ事件の犯人が、目の前の不良教師だと言い放った。その言葉に最も驚いているのは、まさに犯人だと言われた八知本人だった。隠していた電子タバコを、また落としそうになった。

 

 「な、なんで……?」

 「いやあの、違ったらごめんなさい。でもなんか、色々考えてたらもう先生しかいないなって思って」

 

 電子タバコをこっそり懐にしまいつつ、八知は半身になって牟児津を見た。牟児津は東屋の中まで歩を進め、ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。画面には、瓜生田が葛飾の隙を突いて撮影した、今日の事件についての通報記録が映っている。通報者の欄には、八知の名前がはっきりと書いてあった。

 

 「今日の事件を風紀委員に通報したの、先生でしょ。風紀委員で通報記録見ました」

 「あっそう……で?」

 「部長さんたちから聞いた話だと、ヒノまるがいなくなったのが脱走なのか誘拐なのか、昼休みのときはまだはっきりしてなかったらしいじゃないですか。なんで誘拐って通報したんですか?」

 「いや……そりゃあ、ケージにも小屋にもカギかかってたでしょ。動物にカギは開けられないんだから、自力で逃げられないなら誘拐しかないじゃんか」

 「本当に?()()()()()()()()じゃなくて?」

 「……ごめん、ちょっと意味が分かんないな。どういうこと?」

 

 牟児津の言う意味を理解しかねているのか、あるいはシラを切っているのか、八知は首を傾げた。ひるまずに、牟児津は八知の質問を無視して続ける。

 

 「この通報記録によると、八知先生が風紀委員に通報したの、昼休みが終わるギリギリだよね。なんで?」

 「昼休みはここの部活に付き合ってたから」

 「でもそれだとこんなに遅くならないはずなんですよ。だって、今日は部長さん、いつもより早く昼休みの部活を始めたんだから、終わりだっていつもより早かったはずなんです」

 「途中でいなくなった動物捜してたから時間食ったんだよ」

 「さっき、白浜さんに聞いてきました。今日は授業までかなり余裕を持って終わったそうです。もちろん、風紀委員に通報する時間だって余裕でありました」

 「通報する前にも、色々仕事があったんだよ。教師ってのは忙しいんだ」

 「部長さんからヒノまるがいなくなったこと聞いても、そんなに慌ててなかったらしいじゃないですか。でも通報記録にはかなり焦った様子で、って書いてありますよ。この間に何かあったんじゃないですか?」

 「そんなもん、向こうの受け取り方だろ。俺は知らんよ」

 

 八知の言葉が、徐々に苛立ちを含み始める。唐突に生徒から質問攻めにされ、事件の犯人だと問い詰められている。それが図星であれ濡れ衣であれ、心穏やかではいられないだろう。八知は、いつの間にか自分が拳を握っているのに気付いた。

 一方の牟児津は、そんな危うい状況の中にいて極めて冷静だった。落ち着いて状況を把握しているからではない。頭の中で組み立てた論理を忘れないうちに話そうとしているので、焦る余裕もないのだ。八知が自分を睨みつけていることにさえ気付いていなかった。

 

 「あのさ、その……通報記録か?それがどうしたの?確かに俺は風紀委員に通報したし、そこに書いてある通り焦ってるように見えたかも知れないよ。けどそれは他の仕事に追われてたからで、俺があのネズミだかなんだかを連れ出したって根拠にならないじゃんか。言ってること分かるか?」

 「はい。でもこれがきっかけで、八知先生が犯人だっていう根拠に気付けました」

 「あぁ?」

 

 もはや八知は、自分が教師で相手が生徒であることを忘れていた。いまそこにいるのは、偉そうに自分を追及する背の低い女子高生だ。年も離れた、学校も卒業していない、生意気な子どもだ。だんだんと八知の思考が荒っぽくなってきた。それでもまだ、いっぱしの社会人としての理性が八知を踏みとどまらせていた。

 

 「……根拠ってのは……なんだ?」

 「放課後なんですけど、八知先生、私が部室の隅っこに置いといた汚いタオル、そこの隙間に隠そうとしたよね」

 「まだ言ってんのかよ……どこにしまえばいいか分かんないから、一旦しまっとこうとしただけだろ。あの後ちゃんと上野さんに聞いて洗濯物に出したって」

 「タオルをどこにしまえばいいか知らないのに、タオルがどこにしまってあるかは知ってたんだ」

 「はあ?」

 

 見え透いたウソを皮肉で返すような言葉が、八知の神経をますます逆撫でした。体温がふつふつと上がっていくのが分かる。顔が熱くなって冷静になろうとする思考が寸断される。大人としての態度を崩すまいとしていた理性さえ、今は違うことを考えている。どうすれば目の前のやかましい口を黙らせられるか。そればかりだ。

 

 「つばセンに怒られた後、部長さんに言われて水拭く用のタオル持って来てたじゃん。どこにしまってあるか知ってたから、すぐに持って来られたんじゃないの?」

 「……それは……だから、たまたま一発で見つけたんだよ。引き出し開けたら」

 「どこにあるか分かんない人が、初手で引き出し開ける?水拭くだけなら洗濯物でもいいと思うけど」

 「あのさあ。さっきから関係ねえ話してっけど、俺があのネズミだかを誘拐したって根拠の話はどこ行ったのかなあ?細けえことを取り立ててあれもこれも怪しいって言ってたら俺が認めるとでも思ってんの?あんま大人をナメんのはよくねえぞ、なァ?」

 「……じゃあ、言いますよ」

 

 頭に昇った血によって八知の口調が荒くなる。対して落ち着いて見える牟児津も、内心は非常に興奮していた。八知は反論こそしてくるものの、決定的な反証は出してこない。それどころか話を進めるほどに焦ってきている。牟児津は推理を話せば話すほど、それが確証を得ていくを感じていた。

 そして全ての布石は打たれた。いよいよ牟児津は核心に迫る。

 

 「八知先生があのとき、すぐにタオルを持って来られたのは、どこにタオルがしまってあるか知ってたからでしょ?あの部室の近くに落ちてた汚いタオルは、八知先生が使ってそのままにしてたものだったんだよ」

 「なんで俺がタオルなんか──」

 「あれで、ヒノまるを包んでたんでしょ」

 「──あぁ?」

 「オポッサムって、身の危険を感じると死んだふりをするんだって。しかも死臭まで出すんだ。私、飼育舎でそれを嗅いで思ったんです。部室で拾った、あのタオルと同じ臭いがするって」

 

 部室付近で拾った汚いタオルが放つ強烈な臭い。大飼育舎でバケツの音に驚いて擬死行動をとったヒノまるが発した臭い。牟児津はそのどちらも直に体験して覚えていた。だからこそ自信を持って言える。タオルに染み付いた臭いは、ヒノまるが発する死臭に違いないと。

 

 「朝にカギを借りたのは八知先生だから、警備室に返すのも八知先生。ってことは朝ここのカギを閉めたのも八知先生だよね。そのときに、もしかしたらヒノまるのケージを蹴っちゃったりしたんじゃない?そして、それに驚いたヒノまるが死んだふりをした」

 「いや……さすがに死んだふりかどうかくらい分かるだろ……」

 「どうですかね。生物部の部員さんだって本当に死んじゃったと思ってたし、八知先生は生物部の顧問になったばっかで、生物の知識がほとんどないんでしょ。動物が死んだふりなんてすると思ってなかったんじゃない?」

 「……」

 「ヒノまるを死なせたと思った先生は、焦ってヒノまるをケージから出して、タオルに包んで部室の近くに隠した。自分が死なせたんなら大変だから隠そうとしたんじゃない?だから、朝の時点でヒノまるはもう飼育舎の外にいたんだよ」

 

 さっきまで強気の姿勢を崩さなかった八知が、途端に勢いを失った。今は黙って牟児津の話を聞いている。それがいったい何を意味するのか。牟児津にはまだ分からない。推理にはかなりの手応えを感じているが、八知自身が何も語っていない。

 

 「だから部長さんからヒノまるがいなくなったことを聞いても落ち着いていられた。だって、どこにいるかは初めから分かってるんだから。だけど昼休みの活動が終わった後で、思いもしなかったことが起きた。死んだはずのヒノまるが、タオルからいなくなってたんだ」

 「……くぅ……!」

 

 はじめて、八知から苦しそうな声が漏れた。おそらく図星なのだろう。牟児津は続ける。

 

 「死んだふりをしてたヒノまるは、とっくに復活して逃げ出してた。だから今日の放課後に草むらから飛び出してきたんだ。でも本当に死んだと思ってた八知先生は、ヒノまるが逃げるなんて考えもしなかった。だから、そこからもう一回部室の周りを捜したんじゃない?今度は本気で。それで風紀委員に通報するまでに時間がかかったんでしょ」

 「はぁ……!はぁ……!」

 「自分だけは居場所を知ってるつもりだったヒノまるが本当にいなくなった。八知先生にとっては、後に起きた方が本当の事件だった。だから部長さんにヒノまるの失踪を聞かされても落ち着いてられたけど、風紀委員に通報したときは焦ってたんだ」

 「うぅ……!」

 「誘拐だって通報したのも、脱走だと顧問の自分の責任になるから、自分以外の犯人をでっち上げようとしたんじゃない?ほとぼりが冷めたくらいに有耶無耶にするつもりだったんじゃないの?」

 「ぐうっ……うっ……!」

 

 八知は苦悶するような声を漏らす。少しばかり流れる沈黙。八知は大きくため息をついた。焦りも、苛立ちも、混乱も、恥ずかしさも、ありとあらゆる感情を絡め取って体の外へ排出するような、深い深いため息だった。そして、極めて冷静な口調で牟児津に言った。

 

 「……キミ、すごいな。探偵とかに憧れてるクチ?」

 「別に、そんなんじゃないですよ」

 「まあどうでもいいか。まだ誰にも話してないんだったら」

 「え……?」

 

 八知がのろりと立ち上がった。普段は気怠そうに丸めている背中が伸びて、暗がりの中だとやけに大きく不気味に見える。ぎろりと剥いた目は、真っ直ぐ牟児津を捕らえている。ついさっきまでの激昂した雰囲気は鳴りを潜め、妙に静かだ。牟児津は本能的に危険を覚えた。そして気付く。いま、自分はひとりだった。

 

 「どうすりゃ黙るかなあ。暴力は……目立たないとこならワンチャンあるか?あ、家でバレるな。ちっ」

 

 まるでゾンビのような覚束ない歩き方だ。ふらつきながら、八知は少しずつ牟児津に近寄ってくる。自分自身と会話するような小さい声で、ぶつぶつ喋っている。漏れ聞こえてくる言葉はどうも穏やかではない。牟児津の直感が、体に逃げろと信号を発する。しかし同時に、目を逸らしてはいけないとも叫ぶ。後ずさるしかない牟児津に、八知はじりじり迫ってくる。いつの間にか牟児津は部室から離れた暗がりに追い込まれていた。

 

 「やっぱ()()か」

 

 八知の手が牟児津に伸びる。捕まったら終わりだと分かる。しかし体は強張ったままだ。恐怖に駆り立てられ叫びそうになる。

 

 「ひっ……!」

 

 為す術なく、牟児津は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 「おらあああああああああっ!!!」

 「はっ──ぎゃあああっ!?」

 

 突然の怒号。否、それは雄叫びだった。続けて聞こえる八知の悲鳴。重いものが地面に落ちる音が聞こえた。驚いて牟児津は目を開く。暗い中では何が起きたかよく分からない。耳に届く音だけが頼りだ。

 

 「てめえ!うちの生徒になにしやがる!」

 「ぐっ……!い、いててて!」

 「ムジツさん!」

 

 混乱する牟児津のそばで響く怒鳴り声と情けない声。それらの隙間を縫って、その声は牟児津の耳に滑り込んだ。引き寄せられるように、牟児津はその声がした方に駆け出す。すぐに大きな抱擁感にぶつかった。

 

 「ムジツさん大丈夫!?」

 「う……うりゅ〜!ヤバかった〜!ちびるかと思ったあ〜!」

 「もう、だから言ったのに。間に合ってよかったよ」

 

 瓜生田の胸に抱かれた牟児津は、全身で感じる温かさと柔らかさで一気に緊張がほぐれた。代わりにこみあげてきた安堵が目から溢れ出す。今更になって、瓜生田と離れていた間の不安や心細さを思い出し、その存在を確かめるようにしっかり抱きしめた。

 教室から生物部部室に向かう途中、瓜生田はもしもの場合に備えるため大眉を呼びに職員室に立ち寄った。もし本当に八知が犯人なら、犯行を暴かれたとき何をするか分からない。牟児津にその危険を伝えたものの、白浜が帰る前に話を聞かなければと、牟児津は突っ走ってしまったのだった。

 果たして牟児津の推理は正しく、瓜生田の懸念も的中した。八知に追い詰められた牟児津を見つけた途端、大眉は全速力で駆け出し、我が身を顧みない全力のドロップキックをかましたのだった。倒れた八知にすかさず馬乗りになって取り押さえる。大の大人が2人とも服を泥まみれにして取っ組み合う光景に、牟児津と瓜生田はなんとも言えない凄みを感じた。

 

 「ちょっと……!なによこれ……!?」

 

 唖然としていた牟児津と瓜生田は、いつの間にか隣に立っていた上野の声を聞いた。

 瓜生田と別れて生物部部室に向かった牟児津は、校門の近くで生物部員たちを捕まえた。昼休みの部活から通報までに空白の時間があることを確かめるため、白浜に教室に戻った時間を確認したのだ。そしてさっさと去ろうとした牟児津を、今度は上野が引き留めた。上野にしてみれば、これ以上牟児津に部活動を邪魔され続けてはたまらない。犯人ならば認める、犯人でないなら早く風紀委員の誤解を解くように詰め寄った。まさかそこで捕まるとは思っていなかった牟児津は、ヒノまるを誘拐した犯人が分かったとつい口を割ってしまった。それを聞いた上野が牟児津を放っておくはずがなく、八知に気付かれないよう近くで牟児津の推理を聞いていたのだった。

 

 「ぶ、部長さん……!聞いてました?」

 「聞いたわよ。その後のことも見てたし……本当なの?全部、本当のことなの!?」

 「そう、っぽいですね……」

 「なによもう……!なんなのよ!」

 

 上野は頭を抱えた。それも仕方ない。生物部で起きた誘拐事件の犯人は、生物部の顧問だった。なぜそんなことになっているのか。なぜそんなことにならなければいけないのか。部長として、生物部員として、生徒として、上野の心労と苛立ちは限界寸前だった。

 だが、牟児津と瓜生田には何もしてやれない。ここで何を言っても気休めにしかならない。生物部員に落ち度はないにしても、この事件の後始末においては何らかの形で負担がかかるだろう。部長である上野はその責任を負い、なおかつ部員を守らなければならない。犯人を明らかにしたところで、生物部にとってはまだ事件は終わらないのだ。

 

 「牟児津!大丈夫か!」

 「うぇっ!?あっ、は、はい!無事です!」

 「そうか!」

 「な、なん……?おお、まゆさん……?」

 

 大眉のキックが相当こたえたのか、突然のことでまだ混乱しているのか、八知は自分の上にまたがっているのが大眉だということにやっと気付いたらしい。すでに牟児津は離れた場所で瓜生田に保護されている。そしてようやく、八知はおおよその状況を理解した。もはや隠し通すことはおろか、言い訳も立たない。逃れようがないことを悟り、観念して大の字になった。

 

 「ちっ……くしょう……!」

 「ちくしょうじゃねえ!立てこら!」

 「いたたっ……!やり過ぎだって!俺はなんもしてねえだろ!」

 「うるせえ!このまま副理事に報告だ。行け!」

 

 大眉が八知の上から降りて襟首に手を回し、八知をむりやり立たせた。暴れないように、片方の腕を後ろに回して関節をきめている。立ち上がった八知の脇腹には大眉の靴の跡がくっきり残っていて、相当な威力だったことが窺える。牟児津と瓜生田は驚いて顔を見合わせ、そのまま少し笑った。

 

 「牟児津。いちおうお前も関係者だから来てくれ」

 「は、はあ……あ、あの、この人らは?」

 「ああそっか。悪いけど上野さんも来て。いるだけでいいから。瓜生田もいいぞ」

 「じゃあご一緒します〜」

 

 八知を連行するついでに、大眉は一連の出来事を眺めていた牟児津に声をかけた。学園中を騒がせた誘拐事件だけでなく、あろうことか生徒に手を出さんとしていた八知の暴挙について、教師にとって上司にあたる副理事に報告しに行くのだ。勘違いで濡れ衣を着せられ、自らその疑いを晴らしただけでなく、真犯人である八知から直接被害を受けるところだった牟児津は、もはや事件の中心人物のひとりとなっていた。何より事件の真相について、詳しく話を聞くことができるのだ。異例ではあるが、大眉は情報の正確さと迅速さを優先して、牟児津から事の顛末を報告してもらうことにした。当事者である上野と、おまけで瓜生田も付き添うことになった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津の報告は、意外にもあっさり済んだ。ヒノまるが失踪してから発見されるまでの経緯と、八知が真犯人であることの根拠の説明。そしてその後に八知がしようとしたことについての証言をした。生徒の帰りが遅くなることがないようにという配慮のおかげで、牟児津と瓜生田と上野は報告を済ませたら早々に解放された。警備員の(そく)が校門まで付き添い、校門で見送られた。

 理事室を出てからそこまで、3人は終始無言だった。牟児津は今日一日の疲れで何も考えられず、上野はバツが悪そうに2人から目を逸らし、瓜生田はその雰囲気を感じ取って敢えて口を開かずにいた。しかし校門の外まで来て、上野は意を決したようにひとつ息を吐いてから口を開いた。

 

 「牟児津さん」

 「は、はい!?」

 「そんなに怖がらないでよ。いえ……そうじゃないわね」

 

 神妙な気配を感じ取ったのか、牟児津は上野に名前を呼ばれて過剰に驚いた。落ち着きの無さに呆れつつも、上野はしっかり牟児津に向かい合う。そして、頭を下げた。

 

 「ごめんなさい」

 「へ……?」

 「あなたは真剣に事件を解決しようとしてくれてたのに、私はイライラしててちゃんと協力してあげられなかった。ひどいこともたくさん言ったし、大人げなかったわ。そもそも無関係なあなたを巻き込んでしまったことも……本当に、ごめんなさい」

 

 それは、真摯な謝罪の言葉だった。反省を口にし、深々と頭を垂れる姿に、牟児津は目が点になった。まさかいきなり謝られるとは思っておらず、昼間の姿とのギャップもあって、それが謝罪だと理解するのにも少し時間がかかった。ようやく飲み込んだ謝罪の内容は尤もだと感じたが、そこで牟児津はよく考えた。よく考えて、考えて、考えた結果、首をひねった。

 

 「そうですか?」

 「……ん?」

 

 予想だにしない返事をされて、上野は思わず頭を上げた。考え込んで首をひねってばかりいる牟児津の代わりに、後ろに立つ瓜生田に視線で疑問を投げかける。「ごめんなさい」に対して「そうですか?」では会話になっていないのでは、と。しかし、瓜生田は微笑んで肩をすくめるだけだった。

 

 「あの、そうですかっていうのは……どういうこと?」

 「いやあ……実際に話を聞いてメモ取ってたのはうりゅなんでうろ覚えなんですけど、部長さん、ちゃんと私たちに事件のこととか生物部のこと話してくれたじゃないですか。部長さんが部員のみんなの前で協力するって言ってくれたから、白浜ちゃんたちにも話をしてくれたんじゃないですか?」

 「あ……そう、かしら」

 「巻き込まれたってのはそうですけど、巻き込んだのは部長さんじゃなくて風紀委員ですからね。犯人は八知先生だったし、部長さんが謝ることってありますか?」

 「……そ、そう言ってくれるのは、ありがたいんだけど……えぇ?」

 「お昼の部長さんは正直怖かったですけど、部員の人はみんな優しい人だって言ってましたし、今日はイライラしてたんですよね。そりゃあんな人が顧問だったらイライラもするし余裕もなくなりますよ。部長って大変でしょうしね」

 

 なぜこの少女は、完全に巻き込まれた立場にもかかわらず、巻き込んだ側を慮ることができるのだろうか。謂われのない罪で拘束され、怒鳴られ、邪険にされ、危ない目にも遭いかけた。それらを全て許すような、怒るべき相手を庇うようなことが言えるのだろうか。その理由は分からない。もしかしたら本当に何も感じていないのかも知れない。

 あまりに呆気なく許されたことで上野は肩透かしを食らった。相応の覚悟をして頭を下げたはずが、許す許さないの話にすらならないとは思わなかった。もはや考えるのもバカバカしい。一周回って清々しい気分になった。

 

 「そう……ありがとう。本当に、ありがとう」

 「いえいえ。一件落着して私もよかったです。あ、そうだ。イライラしたときとか、私は甘いもの食べて落ち着くようにしてるんですよ。ようかん食べます?」

 

 牟児津はポケットにあった携帯ようかんを差し出す。上野はふっと微笑んだ。その顔は、部員や動物に向けていたものと同じ、優しい表情を浮かべていた。

 

 「いらない」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 上野と別れた後、牟児津と瓜生田は今度こそ帰路に就いた。色々あったせいで下校が遅くなってしまい、ちょうど帰宅ラッシュに重なるくらいの時間になってしまった。

 

 「またこの時間だ〜〜〜!」

 「すっかり遅くなっちゃったねえ」

 「あ〜〜〜めっちゃ疲れた……っていうか報告すんの緊張した!あと助かったようりゅ〜!ありがと〜!」

 「めまぐるしいなあ。でもムジツさんが無事でよかった。次からあんな危ないことしないでね」

 「うん分かった──いや次とかないから!」

 「あはは、そっかあ。そうだといいね」

 

 軽い冗談のつもりで瓜生田は言ったが、牟児津にとってはシャレになっていない。前の事件のときも、その日のうちに解決したものの夜遅くまで学園に残るハメになった。牟児津は、こんな刺激的な日々は望んでいない。平和に、静かに、安全な学園生活を送ることができればそれでいいのだ。今日の放課後はひと時も心安らぐ隙がなかった。こんなことは二度と御免だ。

 

 「まあ次があるかは分かんないけど、危ないことはしちゃダメだよ。大眉先生を連れてくるのが遅かったら、今ごろどうなってたか分かんないんだから」

 「うん、それは本当に気を付け──あああっ!」

 

 そろそろ駅に着こうかというとき、牟児津は急に大きな声を出した。道行く人々の視線を少しばかり集め、牟児津は瓜生田に言った。

 

 「あんワッフルのこと忘れてた!」

 「あ」

 

 駅近くで煌々と光を放っている見慣れた店が視界に入り、牟児津は今日家を出た一番の目的を思い出した。慌ただしい出来事の連続で、今の今まですっかり頭から抜け落ちていた。数量限定売り切れ必至の商品が、帰宅ラッシュも始まりつつあるこの時間に残っているはずがなかった。

 それでも牟児津は思い出してしまった。思い出してしまえば望みをかけたくなるのが人の性である。万が一の可能性に賭けて、牟児津は店に駆け込んだ。自動ドアが開くのを待つ時間さえ惜しい。通い続けてすっかり染みついた、入口から商品棚までの最短経路を進む。ちらほら隙間が目立ち始めている棚の一角に、目を引くポップが掲げられていた。

 

 「あっ……!」

 

 そこに、お目当てのあんワッフルはあった。四角く網目状に焼かれた柔らかなワッフルが二つ重なり、その間にたっぷりの粒あんが詰め込まれている。薄く化粧をするようにまぶされた粉砂糖が高級感を演出している。まさに牟児津が今朝から心待ちにしていたあんワッフルが、たった1つだけ残っていた。もはや奇跡だ。何も考えず牟児津はそれを引っつかんで勘定場に持って行き、素早く支払いを済ませて店の外に出た。考え得る限り最速の買い物を済ませた牟児津を、今まさに店に入ろうとした瓜生田が迎えた。

 

 「早いね。あった?」

 「あ、あった……!一個だけ……!」

 「おお、そっかあ。よかったね」

 

 店に入ってから出るまでの記憶を失ったかのように、牟児津は手にしたあんワッフルを驚いた表情で瓜生田に見せた。手にずっしりと感じる重量感すら幸せに感じられた。今日一日ずっと期待していた菓子が自分の手の中にあるという高揚感。長いようで短いようで最後に異常な伸びを見せた一日を思い返し、牟児津は感慨深げにそれを眺めた後、小さく瓜生田に差し出した。

 

 「……うりゅにあげる」

 「え?」

 

 牟児津の予想外の行動に、瓜生田は小さく驚いた。一日中楽しみにしていて奇跡的に買えた菓子を、大の甘党で、特にあんこには目がない牟児津が人に譲るなど、考えられなかった。

 

 「なんで?今日ずっと食べたかったんでしょ?」

 「この前、色々と助けてもらったお礼するって言ってたから。それに今日だって、うりゅがいなかったら、生物部で話聞いたり風紀委員室行ったりできなかったし。あと最後つばセン呼んでくれてマジで助かったから」

 「そんなの気にしなくていいのに。私はムジツさんが助けてほしいときはいつだって助けてあげるよ」

 「うん、だからその辺も含めて……お礼」

 

 牟児津の言うとおり、今日の事件の情報収集はほとんど瓜生田がした。だがそれは瓜生田が牟児津を助けるために進んでしたことだ。瓜生田は見返りなど求めていない。しかしそれでは牟児津の気が済まないということも、瓜生田は理解していた。

 

 「それじゃあもらおっかな。ありがと、ムジツさん」

 

 差し出されたそれを、瓜生田は快く受け取った。牟児津の手から瓜生田の手へ、幸せの重みが移動した。袋を開けると、ワッフル生地の甘い香りがふわりと漂ってきた。牟児津の腹が鳴る。焦らすように瓜生田はそれを口元に寄せて食べようとする。牟児津はそれを、つい羨ましそうに見つめてしまう。

 そんな牟児津をちらりと見て、瓜生田はいたずらっぽく笑った。そして、そのワッフルを半分に分けた。割れた隙間からこぼれそうなほどのあんこがのぞく。そしてその片方を、先ほどの牟児津と同じように差し出した。

 

 「はい。はんぶんつ」

 「えっ……えっ!?い、いいの!?」

 「ムジツさんが買ったんだから、本当はムジツさんのでしょ。それに、今回は私が集めた情報だけじゃ解決できなかったもの。ムジツさんもお手柄だったから、分け前ははんぶんつってことで」

 「うりゅぅ〜……ありがと〜!」

 

 差し出されるや否や、一も二もなく牟児津はそれを受け取った。先ほど感じていた重みのちょうど半分、ずっしりと中身の詰まった小さな四角が手の中に戻って来た。牟児津は嬉しそうにそれを見つめる。牟児津を見る瓜生田もまた嬉しそうだ。

 2人は、せーのであんワッフルにかぶりついた。ふんわりと軽いワッフル生地は噛むほどにバターの香りが広がって鼻へ抜けていく。まぶしてある粉砂糖は控えめな甘みで生地の味を引き出しつつ、その後に訪れるあんこの邪魔にならないよう絶妙に加減されている。しっかり練られた甘いあんこのなめらかな舌触りが上品さを演出している。

 

 「うんまあ〜〜〜!」

 「おいしいね、ムジツさん」

 「マジで買えて良かった〜〜〜!」

 

 一口食べるごとに広がる幸せ。一噛みするごとにあふれる喜び。口いっぱいにあんワッフルを頬張りながら、2人は次の電車が来るまでたっぷり味わっていた。



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その3:白い忍者泥棒事件
第1話「笑いたきゃ笑えよ」


 

 風はおだやかに吹き抜け、雲はのびのびと漂う。心地良い陽気である。私立伊之泉杜(イノセント)学園高等部校舎の屋上で、牟児津(むじつ) 真白(ましろ)瓜生田(うりゅうだ) 李下(りか)は並んで腰かけていた。

 牟児津は肩口に切り揃えたざくろ色の髪を高い位置で2つに結び、半袖の白いブラウスと濃いベージュのミニスカートを着ている。手にはこぼれそうなほど大きなあんパンを持っていた。

 瓜生田は、艶やかな黒色の髪を眉の高さで平らに切り、後ろは腰まで伸ばしている。七分袖のブラウスの上にピンクのリボンをかけ、膝下丈のロングスカートを履いている。膝の上に包みを開き、お手製の弁当を広げていた。

 

 「いい天気だね。空が広いや」

 「そうだねえ」

 

 今は昼休み。午前の疲れを癒やし、午後に向けて英気を養う時間だ。ほとんどの生徒は昼食を摂り、学友との会話に花を咲かせるだろう。牟児津と瓜生田もその例に漏れず、ゆっくり食事ができる場所を求めて屋上までやって来たのだった。ここは2人の他に誰もいない。この静かな屋上を二人占めしているということが、清々しさをいっそう増しているのかも知れない。今時分は少し暑くなってきて、日陰にいるのがちょうどいいくらいだ。牟児津はあんパンの包みを開けた。自分の顔くらいあるサイズのパンに、大きく口を開けてかぶりつこうとする。

 

 「いただきま──」

 

 

 しかし、その口がパンに届くより早く──ばんっ!と大きな音がした。

 

 

 「うわっ!?」

 

 反射的に音のした方を見る。校舎から屋上に出るためのドアが勢いよく開け放たれた音だ。屋上から校舎の中は、影になっていてよく見えない。誰かがドアを開けたのだろうが、その誰かが見当たらない。どういうことか理解するよりも早く、影の中から()()は飛び出してきた。

 

 「えぇっ!?」

 

 人だ。女の子だ。制服を着た女子生徒だ。()()は弾丸のような、あるいは暴走特急のような速度で──少なくとも牟児津にはそう感じられた──光あふれる屋外へ飛ぶように躍り出る。

 そして、牟児津に飛びかかった。

 

 「うわなんqあwせdrftgyふじこlp!!?」

 「わっ!わわわっ!?」

 

 飛びかかった女子生徒と絡まり合いながら、牟児津は屋上をごろごろ転がった。何がなんだか分からない。とにかく目が回るばかりだ。やっと回転が止まって気が付けば、牟児津は謎の女子生徒に組み伏せられていた。

 

 「ム、ムジツさーーーん!?」

 「うぅん……?」

 

 瓜生田は敏感に危機を察知し、とっさに動線から外れて事なきを得ていた。逃げ遅れた牟児津は頭の痛みを感じつつ目を開く。眼前には、女子生徒の必死の形相があった。

 

 「ひえっ……!?な、なんですか……?」

 「返して」

 「へぇ?」

 「返して!」

 「なにを!?」

 「盗ったもの!返しなさい!」

 「あわわわわわっ」

 

 牟児津はマウンティングされながら頭を揺さぶられる。状況の理解に努めようとする思考が物理的に掻き乱される。牟児津に跨がる女子生徒はやや興奮状態で、自分が揺さぶるせいで牟児津が答えられないことに気付いていない。慌てて瓜生田が止めに入る。

 

 「どうどう。落ち着いてください。それじゃ話せませんよ。ほら、降りて」

 「えっ……?あっ、ちょっと……!」

 

 突然の襲撃を受けた上に脳を揺らされ、牟児津は完全に伸びていた。謎の女子生徒は、瓜生田に肩を触られて初めてその存在に気が付いたらしい。驚いて力が緩んだのを見逃さず、牟児津は這うように逃げ出した。それでもその生徒は牟児津から目を離すまいとしているが、瓜生田に促されるまま一旦牟児津と離れた場所に座らされた。

 

 「ムジツさん。大丈夫?」

 「だいじょぶなわけがない……」

 「ちょっと、いきなり飛びかかったら危ないじゃないですか」

 

 自力で立てないほどに消耗した牟児津を猫のように抱えて、瓜生田は立ち上がった。そのまま瓜生田は腰掛け、牟児津は瓜生田の膝の上にぐったりと背中を丸めて座った。牟児津と引き離されても、その生徒は牟児津を睨み続けている。クセのかかったショートヘアはぶどう色で、太陽光を受けてキラキラと輝いている。半袖のワイシャツと膝上丈のスカートから活動的な印象を受ける。

 

 「なんなんですかいったい。ムジツさんがどうしたっていうんですか」

 「私の……持ち物を盗んだでしょ」

 

 ひとまず状況を整理しようと瓜生田は尋ねた。その答えは、にわかには信じがたいものだった。瓜生田は膝の上でまだ目を回している牟児津を見た。

 

 「盗んだ?ムジツさん、心当たりある?」

 「ないぃ〜……」

 「ないそうですけど」

 「とぼけないで。私は犯人を追いかけてここまで来たの。屋上に向かって行く犯人を見たんだから、そいつが犯人に決まってる」

 

 どうやらこの女子生徒は自分の持ち物を盗まれ、その犯人を追いかけて屋上までやってきたそうだ。だから屋上にいた牟児津が犯人だと主張している。しかし牟児津と瓜生田にしてみれば、その主張はどう考えてもおかしい。

 

 「だけど、屋上にはあなたより前には誰も来てませんよ。私たち2人しかいませんでしたし、私たちは一緒に上がって来たんです。ね、ムジツさん」

 「そ〜……」

 「だったらボディチェックさせて。徹底的に。パンツの中まで」

 「な、なんでそこまでされなきゃいけないんだ!やだよ!」

 「やましいことがないなら断る理由はないはずでしょ」

 「あるわ!めちゃくちゃ言うな!」

 

 女子生徒は一旦は落ち着いた様子だったが、言葉の端々からまだ冷静でないことが窺える。牟児津はその女子生徒が恐ろしくなり、瓜生田の後ろに回り込んで隠れた。どうやらまたしても身に覚えのない罪を被せられてしまったようだ。それを理解するかしないかのうちに、女子生徒は立ち上がって牟児津に詰め寄った。

 

 「とにかく一緒に来てもらうから。風紀委員も呼んであるし、下手なウソついたって無駄だよ」

 「ふ、風紀委員……!?」

 

 風紀委員、その言葉を聞いた牟児津は背筋が凍った。風紀委員が関わるということは、牟児津の天敵であるあの人物が関わるということだ。必死に逃げようと瓜生田を盾にするがあえなく捕まり、牟児津の貧相な力では女子生徒の手を振りほどくこともできなかった。苦し紛れにギリギリ手が届いた瓜生田の服の裾をつかむ。瓜生田はすぐに自分の手で牟児津の手を握り返し、一瞬で片付けた弁当を持って後に続いた。そのまま3人は、手をつないで屋上を後にした。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 突如として謎の女子生徒に連行されることとなった牟児津は、屋上から1階まで引きずり降ろされる。上履きを靴に替える暇もないまま校舎外へ連れ出された。向かうのはグラウンドの方面である。

 牟児津たちが通う私立伊之泉杜学園は、生徒の自主性を重んじるという校是に基づき、生徒の活動には非常に寛容である。そのためいくつもの部活動と同好会が乱立しており、文化系部活動と運動系部活動でそれぞれ別に部室棟が用意されるほどである。しかし同時に、部室を持つことができる部は基本的に、一定の条件を満たした大きな部に限られる。

 運動部の部室棟は陸上部専用の競技場に隣接しており、外観は一般的なアパートのように見える。その中のひとつは扉が開け放たれていて、黄色と黒のしましまのテープが周囲に張り巡らされている。今まさに、風紀委員による現場検証が行われているようだ。

 そしてそこにはもちろん、牟児津がこの学園で最も苦手とする、金髪の風紀委員長が立ち会っていた。3人組の先頭を歩く女子生徒を見つけると、鬼のような顔でその行く手に立ち塞がる。

 

 「今ここは風紀委員が預かっている。部外者は離れていろ」

 

 風紀委員長の川路(かわじ) 利佳(としよ)は、鋭い眼光を女子生徒に向けた。しかし女子生徒の方も全く負けていない。

 

 「通報した木鵺(きぬえ) 仁美(ひとみ)です。屋上で犯人を捕まえてきました」

 「なんだと?」

 

 思いがけない言葉に、思わず川路は眉を吊り上げる。通報者自身が犯人を捕まえてきたなどという報告は初めてだった。そんなことができるなら、呑気に現場検証をしている風紀委員のなんと間抜けなことか。しかし通報した本人である木鵺の目は確信の色を帯びている。いちおうどんな顔か確認しておこうと、川路はその後ろを覗き込んだ。

 一目見て川路はピンと来た。手で顔を隠しているが身長と髪の色で分かる。それにもうひとつ後ろにいるのっぽの生徒にも見覚えがあった。

 

 「牟児津!!また貴様かァ!!」

 「ひええええっ!!」

 「いったいいくつ罪を重ねるつもりだ貴様は!!いい加減にしろ!!」

 「川路先輩、一個もやってないですってば」

 

 短い間にすっかり顔馴染みとなってしまった牟児津と川路だが、お互いへの印象はとんでもなく悪い。とにかく顔を合わせるタイミングとシチュエーションが悪いのだ。川路は牟児津を叱責し、牟児津はべそをかきながら縮こまる。まさに牟児津にとって川路は天敵であった。

 

 「な、なに……?知り合いなの?」

 「色々ありまして。取りあえず、もう逃げられないですし、手を離してくれません?」

 

 予想外の展開に、一転して蚊帳の外になってしまった木鵺がぽかんと口を開ける。ただひとり、落ち着いて全ての状況を俯瞰することができる瓜生田が、これ以上事態をややこしくしないために状況を整理していく。屋上で牟児津が連れて行かれそうになったときから、ここまでの展開はおおよそ予想できていた。

 今回の事件の被害者らしい木鵺は、別の風紀委員から事情聴取を受けることになった。一方、牟児津は川路が直接話を聞くと言って他の風紀委員を追い払ってしまった。もはや専属聴取人である。しかし牟児津だけで話ができるとはとても思えないので、瓜生田も同席することになった。それも既に定番である。

 

 「今度こそ自白させてやるからな、牟児津」

 「ひい……」

 「昼休み、ついさっきだ。お前は陸上部の部室に忍び込み、盗みを働いた。違うか!」

 「あうっ……ああうっ……」

 「金魚か貴様は!!ヒトの言葉を話せ!!」

 「ひえええっ!!」

 

 相変わらず川路の取り調べは高圧的で、牟児津はたちまち小さくなって何もしゃべれなくなってしまった。何を聞かれても口をパクパクさせて、声にならない声を漏らすばかりだ。横で聞いていた瓜生田が、すかさず助け船を出す。

 

 「川路先輩。ムジツさんはそういうのじゃ余計に話せなくなっちゃうんですってば。知ってるでしょう?」

 「……いちいち相手に合わせてやるほど私は甘くない」

 「私たちも、何がなんだか分からないまま連れて来られちゃって困ってるんです。事件のことを教えてくださいよ。盗みがあったんですか?」

 「陸上部部室で窃盗事件だ。犯人は覆面を被って逃走。分かっているのはそれだけだ」

 「覆面?」

 「詳しくは調査中だ」

 「それじゃあ被害者の方については?」

 「……木鵺仁美。陸上部所属の2年生だ。これで気は済んだか」

 

 事件が発生したばかりということもあり、風紀委員でも分かっている情報は少ない。川路は手帳を開くが、ため息交じりにすぐ閉じてしまった。だが、それだけ分かっていれば瓜生田には十分だった。特に、今回は被害者が特殊であった。

 

 「木鵺仁美先輩……有名ですよね。知ってますよ」

 「……またお前は邪魔をするのか」

 「むしろ貢献と言っていただきたいですね」

 

 牟児津は被害者のフルネームを聞いても、被害者のフルネームだなあとしか思わなかった。だがどうやら、瓜生田と川路にとってはそれだけの意味を持つものではないらしい。それを察知して今回も瓜生田の弁護に期待し、自らは固く口を閉ざした。

 

 「木鵺先輩、伊之泉杜学園(うち)の陸上部のエースですよね。この前も全国大会に出場したとかで、立派な垂れ幕がかかってましたね」

 「……ちっ」

 「ムジツさんは屋上にいたところを木鵺先輩に捕まったんです。もしムジツさんが犯人だとしたら、そこまでは捕まってないってことになりますよね」

 

 何を当たり前のことを、と牟児津は瓜生田に不安の眼差しを向ける。しかし瓜生田は任せてくれと言わんばかりに頷く。その態度を裏付けるように、川路は何も言わない。次に瓜生田が言うことが分かっていたからだ。

 

 「現場が部室ってことは、犯人は部室から屋上まで逃げ切ったってことになります。陸上部エースで全国レベル選手の木鵺先輩から。それって、ムジツさんには無理じゃないですか?」

 「木鵺が犯人を発見した時点で、2人の間にはそれなりの距離があったはずだ。それに屋上までは高低差や曲がり角がある複雑な経路をたどる。コースを走る陸上競技とは条件が違う」

 「なら試してみます?」

 

 当然、そうなるだろうと川路は考えていた。状況においては有利な犯人と、能力においては有利な被害者。容疑者が実際に屋上まで逃げられるかどうかは、試してみるのが最も手っ取り早い。そのためには、容疑者を本気で走らせる必要がある。川路は、木鵺を呼んで立ち上がった。怯えている牟児津はその振動にさえ跳び上がるほど驚いた。

 

 「う、うりゅ……?どういう状況?」

 

 終始川路に怯えていた牟児津は、結局のところ話がどういう結論に落ち着いたのかも分かっていなかった。涙目で瓜生田に尋ねる。

 

 「ムジツさんが木鵺先輩とかけっこするの」

 「なんで!?」

 「そしたらムジツさんは犯人じゃないって分かってもらえるから」

 

 やはり状況は分からないが、どうやら走ればいいらしいことだけは理解できた。うりゅが言うなら間違いないだろう、と牟児津は考えることをやめた。怪我をしないよう、入念にストレッチしてその時を待つ。

 やがて、川路は木鵺を連れて戻ってきた。木鵺には、犯人が屋上まで木鵺から逃げ切ったことを踏まえ、その状況を再現検証すると説明してある。屋上には風紀委員がひとり待機して、牟児津が捕まらずに来られるかを確認する。

 

 「おい牟児津」

 

 川路が声をかける。牟児津はすっかりビビリ癖がついてしまい、その声に条件反射で縮こまる。それにはお構いなしに、川路はガンをつけて言う。

 

 「死ぬ気で走れ。少しでも手を抜いたら……分かってるな?」

 「……っ!!ぉひゃあ……!!」

 

 なぜ川路がそこまで自分に本気で走って欲しいのかは分からない。だが少なくとも死ぬ気で走らなければ死ぬような目に遭うことは確定していた。空気が漏れたような声しか出せず、牟児津はガチガチに緊張して陸上部の部室近くにスタンバイした。木鵺はその牟児津が目視できる離れた場所にいる。木鵺が犯人を目撃したときの場所だ。

 スタートの合図は川路の号令だ。よく通る声を響かせて2人に叫ぶ。

 

 「これより、再現実験を始める!私の、“用意、走れ”でスタートだ!いいな!では位置について!」

 

 川路が手を挙げた。牟児津は緊張しながら構えた。号令までのわずかな時間、牟児津は考える。

 なぜ木鵺と競走しなければいけないのか。瓜生田が何を話したのか。木鵺に捕まらずに走り切れるのか。分からないことだらけだ。だが、一つだけ分かることがある。川路は死ぬ気で走れと言った。ならば死ぬ気で走らなければ、否、走り切らなければならない。それはつまり、木鵺に捕まってはならないということだ。絶対に、逃げ切らなければならないのだ。

 

 「用意!」

 

 かくして、牟児津はこの競走への心構えを決めた。それが自らの立場を危ぶませるものだと気付くべくもなく。

 

 「走れェい!!」

 

 振り下ろされる手。同時に轟く川路の咆哮。普段の牟児津なら恐怖に跳び上がって走るどころではなかっただろう。しかし今やそれ以上の恐怖、あるいは強迫観念に囚われていた牟児津は、力強く地面を蹴ってスタートした。ぐんと体が加速する。続けて2歩目を踏み出し、さらに加速する。史上最高の走り出しだ。今なら水の上も走れそうな気さえする。

 部室棟からグラウンドの横を通って渡り廊下に向かう。風紀委員による人払いがされているため、何も気にせず走れる。校内を全力疾走できるのは爽快な気分だった。そのまま渡り廊下から校舎に入───

 

 「わああああああああっ!!」

 

 ───ったところで、牟児津は絶叫した。その拍子に足がもつれ、前につんのめった。支えるものは何もない。

 死ぬ気で走っていた。間違いなく全力で走った。この後の人生ずっと走れなくなっても構わない勢いで走った。にもかかわらず、後ろから両肩を叩かれた。そんなバカな、と心の叫びが脳内に響く。驚きで体が固まった牟児津は、そのまま顔面を床に擦り付けた。土と埃とゴムの味がした。

 

 「はぶええええっ!!」

 

 盛大に転げた牟児津は、しばらく動けなかった。そして床と一体になり、泣いた。あっという間に追いつかれたためでも、転んだ痛みのためでもない。木鵺に捕まったことで、川路に処罰(ころ)されることが確定したからだ。

 

 「だ……大丈夫?ごめん、転ばせるつもりは……」

 「見ないでぇ……!」

 「見るでしょ」

 

 校舎の床に這いつくばったまま、牟児津はいつまでも泣いていた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津が木鵺に捕まった瞬間の叫びは、部室棟にいた川路と瓜生田の耳にも届いていた。あまりに呆気ない結果だ。瓜生田は笑い、川路は眉間のしわを一層深めた。これで牟児津は木鵺から逃げ切れないことが、すなわち犯人ではあり得ないことが証明された。

 

 「どうですか川路先輩。納得されました?」

 「……いや、牟児津が手を抜いた可能性がある以上、確定的なことは言えん」

 「いやあ、本気だと思いますよ。あんな叫んでますし」

 

 姿は見えないが、響いてきた絶叫からは演技のような白々しさは感じられなかった。牟児津が本気で走ったらしいことは、感覚として理解できる。しばらくして、牟児津と木鵺が部室まで戻って来た。牟児津は体の全面を土と埃にまみれさせ、木鵺に肩を借りて現れた。直接現場を見ていない川路と瓜生田も、どうやら牟児津が盛大に転んだらしいことは窺い知れた。

 

 「ぜひぃ……ぜひぃ……」

 「ムジツさん大丈夫?すごい声が聞こえたけど」

 「ぜひぃ……へへ、笑いたきゃ笑えよ……」

 「ほら、ちょっと行ったところでこんな風になってる人が屋上まで逃げ切れるわけないですって」

 

 息も絶え絶えになった牟児津を指して、瓜生田が訴えた。手を抜いた人間の疲れ方ではないし、全力で走ってこの有様なら、牟児津が犯人の条件を満たさないことは明らかである。川路は呆れ半分、苛立ち半分で牟児津を見て、その次に瓜生田に視線を移した。

 

 「お前はどうなんだ」

 「……はい?」

 「屋上にはお前もいたんだろう?お前が犯人という可能性も検証しておくべきだ」

 

 こうなったら徹底的にである。少しでも犯人の可能性がある人物ならば、実際に走らせて検証しておくべきだ。牟児津を走らせた以上、同じく犯人の可能性がある瓜生田も走って確かめるのが筋である。だが瓜生田にも牟児津にも、その結果はやる前から分かり切っていた。

 

 「わ、私はそんな……木鵺先輩から逃げ切るどころか、そもそも屋上まで走りきれないですから」

 「なら試してみるか?」

 

 意趣返しとばかりに、川路は瓜生田の言葉を借りて突きつけた。まずいことになった、と冷や汗をかく瓜生田などお構いなしに、川路は木鵺にもう一度指示して位置につかせた。

 

 「ム、ムジツさん……どうしよ」

 「……やりなよ、うりゅ。私も走らされたんだからさあ」

 

 瓜生田が牟児津に助けを求める。しかし、牟児津は悪い顔をして突き放した。万事休すである。戸惑いつつ、瓜生田は仕方なく部室の前に移動した。

 

 「用意!」

 

 瓜生田と木鵺が身構える。川路が腕を振り下ろした。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「この実験、意味あったんですか?」

 

 木鵺は息を全く乱さず、川路に不満を漏らした。目の前には滝のような汗をかいて地面に伏せる瓜生田がいた。いくらか回復した牟児津がにやけながら背中をさすり、川路はもはや言葉もなかった。まさか、10歩で捕まるとは思わなかった。

 

 「よかったねえうりゅ。犯人じゃないって証明できたねえ」

 「ぜひぃ……ぜひぃ……わ、笑えないよ……!」

 

 瓜生田の走りは、それはひどいものだった。ただの鈍足と呼ぶにもあまりある足の遅さと歪なフォームから繰り出される尺取虫のような走りは、とても見られたものではなかった。その光景を見て牟児津だけが顔を真っ赤にして笑いを堪えていた。

 半ば自棄になっていたとはいえ、川路はさっきまでの自分を反省した。木鵺が牟児津を犯人だと言ったのなら、少なくとも一緒にいたはずの瓜生田は犯人ではないと判断したということなのだ。無駄なことをさせてしまった後悔と自分自身への情けなさで頭がいっぱいになる。川路は、一旦頭を冷やすことにした。

 

 「もういい。分かった」

 

 それだけ言うと、他の風紀委員に指示してその場を引き継ぎ、自分は校舎の中に戻っていった。去り際、何か言いたげに木鵺を睨んだが、結局何も言わなかった。

 

 「えっと……これは、疑いは晴れたっていうことで……?」

 「そんなわけないでしょ。盗んだ犯人じゃなくても、共犯の可能性だってあるんだから」

 「ええ!?」

 

 実験結果からも明らかなとおり、自分たちでは木鵺から逃げ切ることなどできない。それを根拠に、牟児津は今度こそ潔白が証明されたと思い、木鵺に断りを入れて教室に帰ろうとする。しかし木鵺は、まだ牟児津のことを疑っているようだ。そのわけを、木鵺は端的に口にした。

 

 「だってそうでしょ。あんたたちが犯人じゃないなら、私が追いかけてた犯人はどこに消えたっていうの」

 

 そう。木鵺は屋上まで犯人を追ったのだ。しかし牟児津も瓜生田は、木鵺以外に屋上に来た人物を見ていない。屋上にしか逃げ場がない状況であるにもかかわらず、犯人は忽然と姿を消してしまったのだ。その謎が残っている限り、牟児津が何らかの形で事件に関わっている可能性があるというのが、木鵺の主張だ。

 

 「風紀委員は諦めたみたいだけど、犯人が見つかって盗んだものが戻って来るまでは、あんたたちにも付き合ってもらうから」

 「そ、そんなあ……私たちは本当に関係ないのに……」

 「絶対に逃がさないから」

 

 低い声でそう告げ、木鵺は一方的に会話を打ち切った。おそらく学園で最も足が速いであろう木鵺に逃がさないと凄まれるプレッシャーは、牟児津には過ぎたものだった。何も言えなくなった牟児津を一瞥してから、木鵺は足早に去って行った。後には白目を剥いて震える牟児津と、呼吸を整えるのに必死な瓜生田が残された。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津は、はっと我に返った。あまりのプレッシャーに晒されたせいで、しばらく思考を完全に停止させていたようだ。木鵺にロックオン宣言をされてからどれくらいの時間が経ったのだろう。すでに瓜生田は元の調子を取り戻し、牟児津の肩を叩いていた。

 

 「あ、戻って来た」

 「ほあ。うりゅ。え、私いま気絶してた?」

 「気絶っていうか上の空だったよ。大丈夫?」

 「うん……いや、大丈夫じゃないかも」

 

 ぼんやりとした頭で、自分の身に降りかかった災難を思い返す。何がなんだか分からないが窃盗の疑いをかけられ、川路に怒鳴られたり走らされたりした挙句、派手に転倒して顔面を打ち、しまいには絶対に逃げられない相手から追われる羽目になってしまった。この短い時間に何がどうなってこうなったのか、結果以外なにも思い出せなかった。

 茫然とする牟児津の頬を、熱い滴が一筋伝った。

 

 「お腹減ったなあ……」

 「あんパンならあるよ。ムジツさんの。地面には落としてないからね」

 「マジで!?やった!ナイスうりゅ!」

 

 突然襲ってきた不幸の連続のさらに先まで記憶をたどると、牟児津は自分がまだ一口も昼食にありつけていなかったことを思い出した。幸いにも屋上で食べようとしていたあんパンは、瓜生田によって無事なまま回収されていた。自分の元に戻ってきたあんパンに、牟児津は大きな口を開けてかぶりついた。

 

 「ん〜〜〜♡生き返る〜〜〜♡」

 「う〜ん!いい顔です!なるほどなるほど、ムジツ先輩はあんパンに目がない……と」

 「正確にはあんこ好きね」

 「あんこ全般が!なるほど!閃きの秘訣は糖分にあり、ってことですか!」

 「んへえ?」

 

 空腹が満たされていくと他のことに気を配る余裕が生まれる。あんパンをすっかり胃袋に収めると、牟児津は瓜生田以外に誰かその場にいることにようやく気付いた。

 

 「あ、ムジツさんにお客さんだよ」

 

 そう言って瓜生田は、隣で一心不乱にメモを取る少女を示した。

 まず目を引くのはチェック柄の大きなハンチング帽だ。服装は、よくアイロンがかかったワイシャツにサスペンダーで吊した半ズボン、足下はくたびれたローファーを履いている。何を意識しているのか、ブレザーの袖を胸の前で結んで肩にかけている。その少女はメモを取り終わると、腰に下げたポシェットに手帳を突っ込み、ハンチング帽を取った。チョコレート色のボブカットが露わになる。

 

 「初めましてムジツ先輩!!私、この度ムジツ先輩の番記者を務めることになりました、益子(ますこ) 実耶(みや)です!!これから長いお付き合いになりますので、よろしくお願いします!!」

 「声でっけ」

 

 金物同士を打ち鳴らすようなカンカン響く声で、益子は自己紹介した。屋外だというのに牟児津はその声で耳が痛くなった。名前は取りあえず分かったが、何者なのかがいまいち分かっていない。何か聞き慣れない言葉を口走っていたような気もする。

 

 「ばんきしゃ?うりゅ、なにそれ」

 「1人の人にずっと付いて回って取材する記者のことだよ。専属記者ってこと」

 「この子が?私の?なんで?」

 

 益子が言った言葉の意味は分かったが、今度は言ってる意味が分からなくなった。いつの間にか現れたこの少女は、一体全体何を言っているのだろうか?

 

 「あまり自分で言うものではありませんが、何を隠そうこの益子実耶、寺屋成(じやなる)部長の腹心とでも言いましょうか、部長が一番可愛がっている後輩でして!」

 「本当に自分で言うものじゃないね」

 「聞けばムジツ先輩、先日の黒板アート消失事件の折、私が残した取材記録が、真相解明のその一助、なったならぬと立つ噂!ぁこれも何かの(えにし)やと、音に聞こえしムジツ先輩、その番記者の任を拝命した次第!べんべん!」

 「うるせ〜」

 

 益子はひとり盛り上がって、いつの間にか講釈師のような語り口調になっていた。寺屋成とは、牟児津が自分のクラスで起きた事件の容疑者となったときに情報提供をしてくれた、新聞部部長の寺屋成(じやなる) 令穂(れいほ)のことである。確かそのとき、情報提供の見返りに記者を付けるという話をしていたような気がする。それがこの益子か、と牟児津は理解した。

 しかし、牟児津の益子に対する第一印象はあまり好ましいものではなかった。耳に刺さる声だし、無駄にテンションは高いし、何より目立たず静かな学園生活を送りたい牟児津にとって、番記者など最も遠ざけるべき存在だ。それなのに、益子は無遠慮にも頬と頬がくっつきそうなくらい近付いて来る。

 

 「黒板アート消失事件、そして先日のヒノまる誘拐事件、どちらも面目躍如の大活躍と窺っていますよ!後者は記事になる前に握り潰されてしまったのが残念ですが。しかし今日も何やら事件のご様子!風紀委員が慌ただしくしていましたからね!実耶ちゃんのスクープアンテナがビンビンに反応していますよ〜ぉ!ムジツ先輩は今回も謎を解くんですよね?ね?ね?い〜えいえご心配なく!記録は全てこの益子にお任せあれ!ムジツ先輩はいつも通り華麗に謎を解いていただければ、あとは私が脚色に次ぐ脚色で下駄なり厚底ブーツなり履かせて──」

 「うっさいわ!」

 「おぐしっ!」

 

 牟児津はたまらず手が、いや頭が出た。ごづっ、という重い音とともに、益子は牟児津渾身の頭突きを食らって吹っ飛んだ。調子に乗って捲し立てている最中だったが、舌を噛まなかっただけマシである。

 

 「人の気も知らないであーだこーだうるせえ!こっちは身に覚えの無い疑いかけられてうんざりしてんだよ!なにが番記者だ!あんたの三文記事のネタになる気なんかこれっぽっちもないわ!分かったか!」

 「うぅ……ひ、ひっさつ、わざは……頭突き……と。がくっ」

 「分かってない!」

 

 最後の力を振り絞って益子はメモを残し、のびてしまった。思わず頭突きを食らわせてしまったが、このままここに放置しておくわけにもいかない。今まで雨あられとばかりに降り注いでいた言葉の猛連撃がぴたりと止むと、ようやく牟児津は冷静さを取り戻した。ひとまず、牟児津は瓜生田に頼んで益子を抱えてもらい、保健室まで移動することにした。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「んばっ!!」

 

 益子の体が浮き上がった。ぐんと持ち上がった上体がブランケットをめくり、ベッドの下に弾き落とした。すぐさま辺りをきょろきょろと見渡すと、ベッドの上にいる自分と、その横で丸椅子に座っている牟児津と瓜生田を見つけた。

 

 「ムジツ先輩!瓜生田さん!ここは……?」

 「保健室だよ。ムジツさんの頭突きでのびちゃったから、休ませてたんだ。ほらムジツさん。謝って」

 「ごめん……」

 

 最後に覚えているのは、視界を埋め尽くす牟児津の顔面だった。そこから現在まで抜け落ちている記憶を、瓜生田が端的に補足する。並んで座っていた牟児津は、いまいち納得いかなさそうに謝罪を口にした。益子は寝起き間もなくにして、おおよその事態を把握した。

 

 「いえいえ、お気になさらず。取材をしていればこういうこともありますので。それよりもムジツ先輩は私を心配してここまで運んでくれたんですよね?」

 「実際運んだのはうりゅだよ」

 「そうなんですね。ありがとうございます。改めてこれからどうぞよろしくお願いします」

 「本当に番記者をする気なの?」

 「当然です!寺屋成部長が私を信頼して任せてくれたお仕事ですからね!早速今回のこの事件、題して『陸上部の覆面泥棒事件』!解決まで密着させてもらいますよ!」

 「はあ……ん?ちょっと待って。なんであんた犯人が覆面してたってこと知ってんの?それ知ってんのは私かうりゅか木鵺さん、あとは犯人しか……」

 「瓜生田さんに聞きました」

 「言いました」

 「確かな情報筋だなあオイ!」

 

 益子が口を滑らせたのかと思いきや、隣にいる関係者からの情報提供だったらしい。おそらく牟児津が放心していたときにある程度話をしたのだろうが、なぜ瓜生田は見ず知らずの益子に情報提供などしたのだろうか。抗議しようとした牟児津を先に制し、瓜生田は言い聞かせるように話す。

 

 「あのねムジツさん。分かってるとは思うけど、今回もムジツさんは疑われちゃってるの。川路先輩はムジツさんが関わってる事件はなんでもムジツさんから疑い始めるし、木鵺先輩だってあらゆる可能性を考えてるからムジツさんを追いかけてくるよ。状況的には黒板のときとか生物部のときとほぼ同じ。だよね?」

 「やだあ……怖いこと言わないでうりゅ……」

 「じゃあ、どうしなくちゃいけないか分かるよね?どうするの?」

 「……はんにん、みつける」

 「はい、よくできました」

 「幼児みたいですね」

 

 涙目で瓜生田にすがりつく牟児津と、その頭を優しくなでる瓜生田。実際の年齢はおろか同じ高校生であることすら疑わしくなるような光景だったが、益子は笑ってメモ帳にペンを走らせていた。

 状況を考えるに、牟児津は事件に無関係であると木鵺に納得させるには、犯人を捕まえる以外に方法はない。あるいは他の方法もあるかも知れないが、現状は思い浮かばない。そうなれば牟児津と瓜生田がやるべきは、情報収集と推理、そして犯人の特定である。

 

 「そうなったときに、協力してくれる人は多いに越したことはないんだよ。今まで私たちでやってた聞き込みを、益子さんがやってくれたらずいぶん楽になると思わない?」

 「……で、でもそれはこまりちゃんが」

 「この前の生物部のときはかなり綱渡りだったし、葛飾先輩に毎回迷惑をかけられないでしょ?益子さんなら新聞部だから聞き込みは得意だろうし、何より迷惑がかからない。あくまで本人の意思で協力してくれるんだから」

 

 それはそうだ、と牟児津は納得しそうになる。今までの事件では風紀委員が捜査した情報を葛飾伝いに手に入れ、それによって解決してきた。しかし葛飾に協力を頼むということは、天敵である川路の懐に飛び込むようなものだ。それを回避しつつ情報も手に入れられるとなれば、益子の存在を利用しない手はない。万が一、益子が何か問題を起こしたとしても、その責任は新聞部部長である寺屋成のところにいく。牟児津にとってはノーリスクと言っていい。

 

 「本人の意思ってところがブラックな感じしますけど、ちょっとやそっとの危険や面倒は覚悟の上です!ムジツ先輩の推理に協力できるなら望むところです!」

 「ほら、本人もこう言ってるし」

 「うぅん……」

 

牟児津は逡巡する。そして。

 

 「じゃあ……取りあえず今のところは協力者ってことで。よろしく」

 「はい!よろしくお願いします!」

 

 この際だから使えるものはなんでも使っておこう、と牟児津は結論を出した。こんなところで時間を食っている場合ではない。平和な学園生活を取り戻すには、一刻も早く犯人を見つけて潔白を証明しなければならないのだ。

 牟児津と益子が固い握手を交わすのとほぼ同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。ひとまず捜査は放課後に行うことにし、3人は牟児津のクラスで待ち合わせることを決めて保健室を出た。

 教室に戻る道すがら、牟児津は前を歩くおかっぱ頭を見つけた。今日は一段と疲れた様子で背中を丸めている。

 

 「やあやあ、こまりちゃん」

 「あ……真白さん。おつかれさまです……」

 

 葛飾(かつしか) こまりは、声をかけてきた牟児津に視線だけを向けて応えた。どう見ても牟児津より葛飾の方が疲れている。

 

 「どうしたの?」

 「どうもこうもないですよ……。陸上部で窃盗事件って通報があったので、お昼食べてなかったのに駆り出されたんです。しかもいきなり屋上で待機って言われて行ったんですけど結局なにもなく戻されて、その後もずっと陸上部の部室周辺を色々調べてたんですよ……」

 「あ〜……」

 

 瓜生田が提案した実験で屋上に風紀委員が配置されていたらしいが、葛飾がそれだったようだ。1階から屋上までの階段を無駄に往復させられたのだから、とんだ貧乏くじを引いたものである。そのうえ、事件のせいで昼ご飯を食べ損ねたらしい。

 

 「ホントに勘弁してほしいですよ……陸上部との捜査会議も疲れましたし……」

 「捜査会議って、陸上部となに話すの」

 「被害者が陸上部員で現場が陸上部部室だったので、部長さんに事件概要の説明と捜査への協力をお願いしたんです。あまり大きな声では言えないんですけど、部員が犯人の可能性だって──って言わせないでください!これ捜査情報ですから機密事項なんですよ!?」

 「全部自分で言ってるよ」

 「も、もう!この前もその前も、情報漏洩が川路委員長にバレないようにするの大変なんですからね!今回は何も教えてあげません!盗まれたものが未だ不明ってことも内緒です!」

 「……こまりちゃんはきびしいなあ」

 

 何も言うまい、と牟児津は口を閉ざした。同時に、手間が省けたとも思った。放課後にまず調べるべきことが分かった。



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第2話「全部明らかにしてみせます」

 

 瓜生田は頭を捻っていた。放課後、約束していたとおり2年Dクラスを訪ねたというのに、そこに牟児津の姿がなかったのだ。

 

 「おう、瓜生田」

 

 2年Dクラスの担任である大眉(おおまゆ) (つばさ)が、教室内を見渡している瓜生田に声をかけた。

 

 「大眉先生、ムジツさん知りません?」

 「牟児津ならさっき木鵺に連れてかれたぞ。逃げないように監視するとかなんとか言って」

 「はあ。木鵺先輩、本当に逃さないつもりなんだ」

 「あと、瓜生田の前にも牟児津を訪ねてきた子がいたな。1年生だったぞ」

 

 大眉が言っているのは、おそらく益子のことだろう。瓜生田とて寄り道せずに真っ直ぐ来たのに、一足遅れてしまったようだ。木鵺に連れて行かれたということは、おそらく向かう先は陸上部部室だろう。瓜生田は運動部の部室棟へと向かった。

 放課後になれば部活動が始まり、部室棟はその準備をする生徒でごった返す。陸上部の部室も大勢の生徒が出入りしており、瓜生田はその手前で中を覗き込もうとしている益子を見つけた。

 

 「益子さん。来てたんだ」

 「あれれ。瓜生田さん。ムジツ先輩と一緒じゃなかったんですか」

 「うん。私たちより先に木鵺先輩に連れて行かれちゃったみたいだね」

 「そうなんですよ。部室にいると思うんですけど、なかなか様子が分からなくて」

 

 アパートの一室程度の広さがある部室だが、出入口はそれほど広くない。通行の邪魔にならないよう端に避けたままでは、中の様子は窺えない。益子より大きい瓜生田が中を覗こうとするが、それでも牟児津の姿は見えない。2人並んで中を覗き込む姿は、こそこそしているつもりでもひどく目立っていた。

 

 「ちょっとアナタたち!」

 

 行き交う生徒たちを意図せず驚かせていた2人は、背後から飛んできた声に驚かされた。鐘のように甲高く、笛のようによく通り、大太鼓のように力のこもった声だった。とっさに2人は振り向き、そこに立っていた2人に向き合った。

 

 「こそこそと怪しいですわね!そこでいったい何をしているのです!」

 

 ひとりは、手足がすらりと伸びた背の高い生徒だった。この暑いのに白のロングシャツにロングスカートを履いていて、いかにもお嬢様という格好だった。ウェーブした蒼く長い髪を手で撫で払うと、風になびく髪の一本一本がきらきらと光った。

 もうひとりは、隣に立つお嬢様に比べるとかなり地味な印象を受ける丸眼鏡の少女だった。耳の下まで伸びたクリーム色の髪に丸まった背中、穏やかな顔立ち、学園指定の半袖ブラウスにズボンと、大人しい亀の様な印象を与える生徒だった。

 瓜生田も益子も、声の主は直感的に分かった。どう考えても蒼い髪のお嬢様だ。

 

 「あ、怪しくないです!私、新聞部の益子という者で……!」

 「アナタがどこの誰かなんて聞いていませんわ。陸上部に何か御用?」

 「友達が木鵺先輩に連れて行かれまして、こちらにいると思うんですけど」

 「木鵺さん?ふぅん……アナタたち、お昼もここにいらしたのかしら?」

 「はい。連れて行かれた人も一緒でした」

 「へぇ……なるほど」

 

 お嬢様は、木鵺の名前を聞くと何かを考え込む仕草をし、改めて瓜生田と益子をじろじろと眺めた。どうやら昼休みに起きた事件は、既に陸上部の中では周知の事実らしい。しかしお嬢様の、敢えて事件のことを明言しない口振りから察するに、まだ表沙汰にはしていないらしい。

 

 「少しお待ちになって。これからミーティングがあります。アナタたちも参加できるか部長にご相談します」

 

 そう言うと、お嬢様はつかつかと足を鳴らして部室に入っていった。亀のような少女は瓜生田と益子にぺこりとお辞儀して、その後に続いた。なぜお嬢様が2人をミーティングに参加させてくれようとしているのかは分からないが、事件について詳しい話を聞けるチャンスが訪れた。2人はお嬢様に期待して、その場で待った。

 少ししてから、亀の少女が出て来て、短く告げた。

 

 「どうぞ」

 

 どうやら許可が下りたらしい。2人は遠慮がちに部室に入った。

 部室の中は、大勢の部員で埋め尽くされていた。着替え用のロッカーやベンチ、表彰状やトロフィーが飾られた棚が並び、その真ん中に十二畳ほどのスペースがある。大勢の部員が向かうホワイトボードを背にして立つのは、灰桜色の髪を固く結んでポニーテールにした女子生徒と、その隣でいかめしい顔をしている木鵺、そしてガチガチに緊張して冷や汗をかいている牟児津だった。ぴんと糸が張ったような、厳しい静かさだった。

 瓜生田と益子は邪魔にならないよう、部屋の隅に移動して聴衆に混じった。

 

 「では、ミーティングを始める」

 

 2人の後に続いて亀の少女が部室に入り、扉を閉めた。それを確認した後、灰桜髪の女性が切り出した。彼女がこのミーティングを取り仕切る立場にあるらしい。おそらくは部長だろう。

 

 「今日のお昼休みに、部室に不審者が現れた。風紀委員には通報済みだが、犯人はまだ捕まっていない。各自、自分の身の安全や持ち物には十分気を付けるように。また、不必要な混乱を避けるため、風紀委員から発表があるまで部外では他言無用とする」

 「あのぅ、すでに何名か部外の方がいるみたいなんですけど」

 

 灰桜髪の女性の言葉に、部員の中からすっと手が挙がった。深緑色の髪を肩まで下ろした、人懐っこい顔の生徒だ。その質問は想定通りなのか、灰桜髪の女性は考える素振りもなく答える。

 

 「前にいる方は仁美が、出入口にいる2人は音井(おとい)が、それぞれ連れてきた。全員、関係者だそうだ」

 「関係者?不審者と関係があるってことですか?」

 

 どうやら先ほどのお嬢様は、音井というらしい。部外では他言無用の話題を扱うミーティングに瓜生田たちを参加させられるということは、それなりに部長に近い立場なのだろうか。

 

 「詳細は仁美から話してもらう」

 

 自分からは手短に伝え、灰桜髪の女性は木鵺に場所を譲った。木鵺は牟児津と一緒に全員の前に立つ。ただでさえ目立つことが嫌いな牟児津は、そんな場所に立たされて震えが止まらない様子だった。牟児津の気質と事情を知っている瓜生田からすれば、なんとも可哀想な姿である。

 

 「なぜかみんなもう知ってるみたいだけど、お昼の不審者について、私の見たことをそのまま伝えます」

 

 連れてきた牟児津はほったらかしにして、木鵺は自らの目撃情報を語り始めた。てっきり自分の紹介があるものだと思っていた牟児津は、ぎょっとした顔で木鵺を見る。木鵺は正面の一点を見つめて続けた。

 

 「お昼休みに私が部室に来たとき、その不審者はちょうど部室から出て来るところでした。格好は上下ジャージで、顔は白い覆面をしていて分かりませんでした」

 「覆面?とは?」

 「こう、頭と口元を丸ごと覆ってて、目元だけ出してる……忍者がするような覆面を被ってました」

 「ほほう!これは興味深い!『陸上部の覆面泥棒事件』改め、『白い忍者泥棒事件』ってとこですかね!」

 「そこ!静かになさい!私に恥をかかせるつもりですか!」

 「す、すみませ〜ん」

 「もごもご……」

 

 忍者というフレーズに反応して、益子は不謹慎にも大声で面白がった。たちまち音井に注意され、瓜生田が益子の口を塞いで引っ込ませる。ガチガチに緊張していた牟児津だったが、そこでようやく2人の存在に気付いたのか、少しだけ顔の強ばりが緩んだ。

 

 「それで、不審者が私に気付いて逃げ出したので、私もとっさに追いかけました。風紀委員には友達がいたから、その子に電話して通報しました」

 「怪我がなかったからよかったが、次からは人を呼んで、風紀委員か大人に任せるように」

 

 木鵺は灰桜髪の女性の言葉に軽く頭を下げ、続けた。

 

 「不審者が階段で上に逃げたので追いかけました。最終的には教室棟の屋上で、この子を捕まえました」

 「捕まえたって、その子が不審者なの?」

 「私はそう思ってるけど、風紀委員はまだ捜査中ってことにしてる。重要参考人ってくらい」

 「重要参考人というのは、ほぼ容疑者と同義でなくて?風紀委員の捜査を待たずとも、その方のお話を伺うのがよろしいのではなくて?」

 「えぅ」

 

 音井の発言で、全員の視線が牟児津に集まる。無数の視線が自分に注がれるのを感じて、牟児津は小さく声を漏らす。このままでは牟児津が公開尋問にかけられてしまうと感じた瓜生田は、助け船を出すことにした。静かに、しかしよく目立つように手を高く掲げた。

 

 「じゃあ、話を──」

 「待て仁美。……なんでしょう」

 「部外者が発言いいですか?」

 

 牟児津に話させようとした木鵺を、灰桜髪の女性が止めた。そして、部室の隅にいた瓜生田を睨み付ける。牟児津に集まっていた視線が丸ごと瓜生田に注がれる。牟児津さえも驚きとともに瓜生田を見ている。この大勢の中で、部外者でありながら自ら発言するなど、牟児津にはとても考えられなかった。しかし瓜生田は、木鵺の厳しい視線にも、音井の訝しげな視線にも、灰桜髪の女性の冷たい視線にも全く動じず、口を開いた。

 

 「実は、お昼に風紀委員立ち会いの下で実験したんですよねえ。そこのムジツさんが、部室から屋上まで木鵺先輩に捕まらずに逃げ切れるかっていう。結果は屋上どころか、階段にたどり着く前に捕まっちゃいましたけど」

 「だから不審者ではないと?そんなもの、風紀委員の前だからわざと捕まったのかも知れませんわ。何の意味もありません!」

 「どうですかね。少なくとも私は、ムジツさんは本気で走ってたように見えましたよ。木鵺先輩はどう感じられましたか?」

 「……まあ、適当に走ってたようには見えなかったわ」

 「第一、木鵺先輩は全国レベルの陸上選手なんですよね。日頃から運動なんかこれっぽっちもしてないムジツさんが、そんな人から逃げ切れるわけないんですよ。失礼ですけど、この中にいらっしゃる何人が、木鵺先輩から屋上まで逃げ切れる自信がありますか?」

 

 たちまち部室内は静かになった。それは、瓜生田たちが入ってきたときにあった緊張による静かさではなく、誰も発する言葉を見つけられないが故の重い沈黙だった。そしてそれは瓜生田の計算通りだった。ここで逃げ切れる自信があるなどと宣う者がいれば、その人物こそ不審者の正体である可能性が生まれるからだ。きっちり牟児津を庇って部員を黙らせた瓜生田は、しかし感謝の視線を向ける牟児津とは目を合わせない。この後、その感謝を裏切るつもりだからだ。

 

 「つまるところ、ムジツさんは不審者ではないわけです。でも木鵺先輩は、少なくともムジツさんは不審者の関係者だと思っています。このままではムジツさんは謂われのない疑いをかけられて、陸上部の皆さんは本当の不審者を取り逃がすことになります。どちらにとっても損でしかないですよね?ですから、本物の不審者の正体を暴き、全員を納得させた上でこの事件を解決してみせます。そこのムジツさんが」

 「へぃげっ!?」

 

 陸上部員全員の前で、瓜生田はそう宣言した。同時に下ろした手は、部室の反対側にいる牟児津を真っ直ぐ指さしている。それに合わせて全員の視線が動き、牟児津は再び全員の視線にさらされて変な声が出た。思いもよらない瓜生田からの攻撃に、牟児津は為す術なく丸まるしかなかった。

 その瓜生田の宣言に、灰桜髪の女性が異を唱える。

 

 「それは風紀委員の仕事で、あなたたちはただの関係者でしょう。危ないことをするつもりなら止めなさい」

 「ご心配なく。ああ見えて、ムジツさんはそういうの得意なので。ですから木鵺先輩」

 

 瓜生田が木鵺を見た。

 

 「必ず、全部明らかにしてみせます」

 

 それが何を意味する言葉なのか、その場では、瓜生田にしか分からなかった。木鵺はたっぷり数秒の間、瓜生田を睨み続けた。しかしその場では口を開かず、隣にいた牟児津を見て、背中を軽く叩いた。どうやら解放するという意志表示のようだ。牟児津はどうしていいか分からず戸惑っていたが、瓜生田に手招きされると大勢の陸上部の隙間を縫って、あっという間に瓜生田の下まで駆け抜けた。それを見届け、木鵺も下がった。

 

 「では次、今日のメニューについて」

 「は、はいっ」

 

 灰桜髪の女性が進行し、先ほど手を挙げた深緑の髪の生徒が前に出た。

 

 「え〜っと、じゃあ、来週末にある大会に向けて──」

 「ああ。ちょっと待て南良刻(ならとき)。そこの3人。時間をとらせて申し訳ない。もう出てもらって構わない」

 「こちらこそお邪魔しました〜」

 

 灰桜髪の女性が牟児津らに声をかけると、それに合わせて亀の少女が部室のドアを開けた。もうこの事件に関する話は終わりだから出て行けということだろう。牟児津らは促されるまま部室を出た。

 部室棟の近くには陸上部専用の競技場があり、そこには大会の際に関係者や保護者らが観戦するためのスタンド席も用意されている。普段は陸上部の休憩場所や練習中の荷物置き場になっており、部活中でなければ部外者でも入ることができる。瓜生田と益子は部室を出た後そこに向かい、未だ緊張が抜けない牟児津を運んで席に座らせた。

 

 「あわあわわわわあわ……」

 「ムジツさん、大丈夫?」

 「だっ!大丈夫だあ!?どの口が言うんだ!この口か!ぷにっぷにだなコノヤロー!」

 「むごむご。ほひふいへっへ」

 「落ち着いてられっか!なに解決宣言なんかしてんだ!こちとらノミの心臓なんだぞ!びっくりしすぎて口から飛び出したらどうすんだ!」

 「どうどう。ムジツ先輩、ほっぺ掴んだら瓜生田さんがしゃべれません」

 

 緊張の糸が切れた牟児津は、バネのように跳ねて瓜生田に飛びかかった。牟児津にしてみれば、陸上部全員の前での解決宣言は、まさかの瓜生田による裏切りであった。あの場でそんなことをする意味が分からない。ただただ牟児津の肝が冷えるばかりだ。しかし瓜生田は、牟児津に両頬をつままれながらもへらへら笑う。

 

 「ぷはっ。だって、ああでも言わないと陸上部の人たちが協力してくれないでしょ」

 「どゆことだっ」

 「木鵺先輩の言い分のままだと、ムジツさんは重要参考人、というか犯人扱いだったよ。それじゃあ話なんて聞けないしこっちからも話できないでしょ」

 「そうですね。木鵺先輩は部内でも発言力がある人のようですし、あのままだと協力は望めないでしょう」

 「ぐぬぬ……それはそうかも知れないけど……」

 

 瓜生田の説明に益子が頷く。尤もらしい考察に、牟児津も納得せざるを得ない。

 

 「だから私が、ムジツさんは犯人じゃないってことを取りあえずは説明した。でもこれじゃあ、よくてまだ事件の関係者止まり。灰桜髪の人が言ってたみたいに、解決は風紀委員に任せて大人しくしてなさいってなるよね」

 「むん」

 「だから最後に、事件解決してみせるって宣言するの。そしたら、それでムジツさんに期待してくれれば当然話してくれるだろうし、疑ってる人もやれるものならやってみろって気持ちになるから、取りあえず情報はくれるようになるよ」

 「なるほど!まあほとんどの人は後者でしょうけど、少なくとも事件解決を目指す人、と刷り込まれるので、情報は引き出しやすくなるかも知れないですね!瓜生田さんお見事!」

 「お見事じゃない!大ごとだこっちは!私は目立ちたくないっつってんのに!」

 「みんなの前に連れ出された時点で同じだよ」

 「そうですよ。あと今回の件こそ新聞部で記事にするので、悪しからず」

 「悪しかるわ!なんでみんな私を表舞台に引っ張り出すんだ!私は静かに平和に穏やかに過ごしたいだけなのにー!」

 「よしよし」

 

 昼休みの終わり頃は単なる巻き込まれた立場だった牟児津は今や、事件に首を突っ込まざるを得ない立場になっていた。いずれにせよ事件を解決しなければ牟児津の望む平穏な学園生活など訪れないので、すべきことは変わらない。理不尽な事の次第を嘆きながらも、瓜生田に励まされ、益子に囃し立てられ、牟児津は覚悟を決めるのだった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 陸上部の練習が始まると、牟児津たちがいるスタンド席に部員らが次々と荷物を運んできた。練習に使うであろうカラーコーンやハードル、大量のタオルに制汗スプレー、クーラーボックスなど色々だ。ほとんどの生徒は体操着の上から自分の学年と同じ色のゼッケンを着ている。

 その中に交じって、ミーティングで南良刻と呼ばれていた深緑の髪の少女が、特に大きなカゴを抱えてスタンド席にやって来た。先ほどは下ろしていた髪を後ろに結び、学園名と氏名がプリントされた紫色のゼッケンを着ている。

 

 「おっ、さっきの名探偵さん」

 

 牟児津の姿を見つけ、南良刻は明るく声をかけた。名探偵と呼ばれても牟児津は全く嬉しくないのだが、悪意のないその表情にあてられてぎこちない笑みを返した。

 

 「あ……いちおう、牟児津です」

 「へえ、珍しい苗字だね」

 「いやあ……そんな」

 「でも珍しさだったら私も負けてないよ。私は南良刻(ならとき) 梨菜(りな)。南を良く刻む、で南良刻。珍しい苗字同士、よろしくねっ。あと私も2年生だから、敬語じゃなくていいよ」

 

 明朗快活とはこのようなことを言うのだろう、と瓜生田は感じた。さっきの今で、陸上部員にとって牟児津の印象は複雑なものだと思っていたが、南良刻は極めて温かく牟児津を受け入れ、握手まで求めた。木鵺や音井、灰桜髪の女性に比べるととんでもなく優しく映る。牟児津はその温かみに流されるまま握手に応じ、下手くそな作り笑いを浮かべていた。

 

 「へ、へえ……えへへ、すいやせん、ども」

 「そっちの2人は?さっきミーティングにいたね」

 「1年の瓜生田です」

 「同じく1年で新聞部の益子です!」

 「そう。今日はこのまま見学でもしていくの?」

 「不審者についての聞き込みをしようかと。お手すきの時にお話を伺いたいんですが」

 「私でよければ今いいよ。準備しながらになっちゃうけど、練習までは話せるから」

 

 南良刻は話しながらカゴの中の道具を取り出し、てきぱき並べて数を数えていく。その手際を見ているだけであっという間に時間が過ぎてしまいそうになる。瓜生田は、南良刻の明るさに押されてもじもじしている牟児津を脇に置いて、メモ帳を取り出し聞き込みを開始した。

 

 「お昼の不審者事件について、どれくらい御存知ですか?」

 「う〜ん、そうだね。木鵺さんは不審者ってことしか話してなかったけど……でも、泥棒なんだよね?」

 「知ってるんですか?」

 「ミーティングのとき、そっちの子が泥棒事件って言ってたから」

 「あっ」

 

 南良刻に指摘され、益子はそこでようやく気付いた。木鵺が敢えて不審者とオブラートに包んでいたのに、益子は大声で泥棒と明かしてしまっていた。あの場では気付かなかったが、おそらく多くの部員が今回の件について窃盗事件と認識してしまっただろう。

 

 「誰の何が盗まれたのかは分からないけど、たぶん木鵺さんのだよね?でなきゃわざわざ追いかけたりしなよ」

 「う〜ん、鋭い推理……この人、できますね」

 「あんたが余計なこと言うからだろ!」

 「木鵺先輩の持ち物で、何か盗まれるようなものとか、あるいは大事にされているものとか御存知でないですか?」

 「それは……ううん、分かんないなあ。木鵺さん、あんまり物に思い入れあるタイプじゃないと思うし」

 

 牟児津が葛飾に聞いた話では、風紀委員でさえ、未だ何が盗まれたのかは分かっていないらしい。木鵺が明かせばすぐに分かるのにそうしていないということは、何か事情があるのだろうか。まだ牟児津たちは、木鵺という人間について何も知らない。聞き込みの中でそうしたことも分かるのだろうか。

 

 「でも、なにもこんなときに起きなくてもいいのにね」

 「むっ!なにやら意味深ですね!詳しくお願いします!」

 「深い意味はないよ。来週末に陸上大会があるってだけ。まあ……私たち2年生にとっては大事な大会なんだけどね。木鵺さんにとっては、特に」

 

 含みを持った南良刻の発言に益子が食いつく。渦中の牟児津は未だに自分の立ち位置を見つけられず、練習に励む他の陸上部員をぼんやり眺めていた。当事者である牟児津が蚊帳の外になっていることを気にしながらも、南良刻は答える。

 

 「来週末の大会はね、次の部長を決める大会でもあるんだ」

 「ほう!部長を!なるほどなるほど!確かにそれは大事ですね!」

 「といっても大会の記録だけで決まるわけじゃなくて、あくまでそこでの成績も加味して決めるって感じだけどね。でも部長候補の人はもう決まってるから、本番に向けてみんな気合い入ってきてるよ」

 「ふむふむ。つまり、大会で結果を出すのが部長になるための条件の一つ、ということですね」

 「南良刻さんも部長候補なのに、練習しないでいいの?」

 「……え?」

 

 ぽつり、と牟児津がつぶやくように尋ねた。唐突に質問されて驚いた南良刻が牟児津を見ると、相変わらず練習風景を眺めていた。瓜生田たちは不思議そうに顔を見合わせ、代表して瓜生田が尋ねた。

 

 「ムジツさん、なんで南良刻先輩が部長候補だって思うの?」

 「だってみんな学年色のゼッケン付けてるのに、木鵺さんや南良刻さんは違う色だから。他の人たちがみんな準備してるのにその色の人たちだけ先に練習してるの、変だなって思ってたんだよね。でも南良刻さんは準備してるし、なんでかなって思って」

 「そっかあ。ムジツさん、見てただけで分かるんだね」

 「なんとなく?違うかも知んないけど」

 「いや……合ってるよ。うん。紫色のゼッケンの人は部長候補だから、優先的に練習できるの。みんな気を遣ってくれてるんだ。私は……そういうの苦手なの。みんなと一緒に練習したいから」

 

 ほんの数分、ぼんやりと練習風景を眺めていただけの牟児津が突然そんなことを言い出し、ただの昼行灯だと思っていた南良刻は驚いた。牟児津は相変わらず練習風景を眺めているが、瓜生田は少しだけ得意気になって南良刻に視線を戻した。

 

 「ムジツさんはその気になればちゃんとできる人なんですよ。その気になるのが自分でコントロールできないだけで」

 「……それ致命的じゃないの?」

 

 感心半分、呆れ半分で南良刻は再び牟児津を見た。ミーティングでは小さく丸まってガタガタ震え、発した声と言えば瓜生田が解決宣言をしたときの鳴き声だけだった人とは思えない、ひどく落ち着いた雰囲気だった。先ほどから様子を見ていても、どうやら牟児津のハンドルを握っているのは、この瓜生田という生徒らしい。どういう関係性なのか気になってきた。

 

 「でも、これでちょっとは信用していただけたと思います。次は木鵺先輩について伺いたいんですけど、よろしいですか?」

 「木鵺さんかあ……ううん。そうだね。どこから話そうかな」

 「どこから、というと?」

 「木鵺さんのことはよく知ってるつもりなんだけど……最近、よく分からなくなってきちゃってさ」

 「これまた意味深ですね!ぜひ詳しく教えてください!」

 「あの子はね──」

 「あのう。南良刻さん」

 

 木鵺という人間について話そうとした南良刻は、控えめな声に呼ばれてその言葉を止めた。見ると、2年生の学年色ゼッケンを着た亀の少女が、南良刻の側に立っていた。瓜生田も益子も、南良刻もその存在に気付いていなかった。いつの間にそこに立っていたのだろうか。

 

 「そろそろ練習を始めてください。南良刻さんに期待してる人もいるんすから」

 「あ……ああ、ごめん。ありがとう、下亀(したがめ)さん」

 

 下亀と呼ばれたその少女は、立ち上がった南良刻から準備途中の道具を預かり、入れ替わりに準備をし始めた。南良刻に比べると素早いとは言えないが、ゆったりとしつつ流れるような手捌きだった。南良刻はシューズを履き直し、軽く足首を回して準備を整えた。

 

 「そうだ。下亀さん、この子たちに協力してあげて。さっきミーティングに参加してた牟児津さんと、瓜生田ちゃんに益子ちゃん」

 「はあ。私でよければ。よろしくお願いします」

 「こちらこそ、お願いします」

 

 なんともゆったりもったりした、亀の歩みのような喋り方だ。それを聞いて、南良刻は瓜生田たちに笑顔を向けた。

 

 「下亀さんに聞けば、木鵺さんのことよく分かると思うから!それじゃ、がんばってね牟児津さん!」

 

 爽やかにそう言うと、南良刻はトラックに飛び出して練習に加わった。その姿を見送った下亀は、感情の変化に乏しい顔を瓜生田たちに向けた。喋り方や見た目も相まって、なんとも不思議な雰囲気をかもし出す少女である。

 

 「改めて自己紹介すね。下亀(したがめ) リタす。南良刻さんと同じ2年生す」

 「よろしくお願いします」

 「下亀先輩は部長候補ではないんですね?」

 「自分はそんな大した成績は残せてないす。部長候補のメンバーとは比べものにならないすよ。でも走るのは楽しいすから、のんびりやってますよ」

 「つまり、ウサギとカメだったらカメ派ってわけですね!」

 「油断してくれるウサギばっかりならいいんすけどね」

 

 ずけずけと言う益子に下亀は機転を利かせて返し、二人してからからと笑いあう。瓜生田はそんな話を聞きに来たのではないと、いささか強引に話に割って入った。

 

 「下亀先輩は木鵺先輩のことをよく御存知なんですか?」

 「ううん……答えづらい質問すね。よく知ってるっていうのはちょっと気負っちゃうんすけど、木鵺さんと南良刻さんとは中等部から一緒すよ」

 

 木鵺、南良刻、下亀の三人は、中等部から陸上をしている同級生らしい。同学年の牟児津も中等部に通っていたので三人と同級生のはずなのだが、三人とも今日が初対面らしい。それが偶然なのか、牟児津の交友関係が狭いせいなのか、瓜生田は敢えて追及することはしなかった。

 

 「中等部の頃はそうでもなかったんすけど、ここじゃあの2人はライバルなんすよ」

 「ライバル?実力伯仲ってことですか?」

 「ん〜、正直言うとそうじゃないす。陸上選手としてじゃなくて、部長候補としてのライバルす」

 

 そう切り出して、陸上部における木鵺と南良刻の関係性について、下亀は語り始めた。

 

 「来週末に陸上の大会があるんすけど、そこはうちの部にとっては重要な大会なんす」

 「ああ。次の部長が決まる大会ですね!さっき南良刻先輩に聞きました!」

 「さっくり言えばそうす。あっちで練習してる紫ゼッケン着てる人はみんな部長候補す。でも事実上、木鵺さんと南良刻さんの二択って感じすね。実力派の木鵺さんか、人望が厚い南良刻さんか。今んとこ部の中でも真っ二つす。いちおう他のメンバーを推す人もいますけど、少数派すね」

 「ほうほう。ちなみに下亀さんはどちら派ですか?」

 「自分は……無派閥ってことにしといてください。どっちが部長になっても、少なくとも部の約半分の意見は通らないってことすから。簡単には決められないす」

 「難しい問題ですね」

 「ただまあ、先輩の代には木鵺さんを推す人が多いす。結局上の人の意見が強いすから、木鵺さんになるかなーって思ってます」

 「それはまたなんで?」

 「木鵺さんのお姉さんが、前の前の部長なんす。だから今の3年生は、1年生のときにお姉さんにお世話になってるんすよ。部長もそうすから、その影響はあると思いますよ」

 

 もうじき準備が終わり、部長候補以外のメンバーも練習が始められそうな頃合いになってきた。相変わらず周りの様子などお構いなしにトラックで練習に励む木鵺を眺めて、下亀は少し寂しそうな顔をした。

 

 「一番影響受けてるのは、木鵺さん本人すけどね」

 「というと?」

 「木鵺さんは、たぶんお姉さんの存在にプレッシャーを感じてるんじゃないすかね。先生も先輩もみんな、お姉さんを知ってる人にとって木鵺さんは、お姉さんの妹すから」

 「部長になるくらいですから、立派なお姉さんだったんでしょうね。でも木鵺さんは、その人の妹として見られるのがイヤになっちゃったってことですか」

 「自分は分かんないすけど、やっぱり同じこと言われ続けたらうんざりするもんなんじゃないすか。だから、なにがなんでも部長になって、お姉さんと同じところに立ちたいんだと思います。そうすれば、ただの妹じゃなくて部長として見られますから」

 「そういうものかな」

 

 三人の中では唯一姉を持つ瓜生田にも、木鵺の気持ちは理解できていなかった。常に妹としてしか見られないことがイヤになるということに共感はできるが、その先にある部長になってコンプレックスから抜け出すというところまでは思い至らない。それほど木鵺にとって、姉は大きな存在なのだろうか。

 

 「中等部でもそのきらいはあったんすけど、まだ陸上をすること自体が楽しそうでした。高等部に入ってからはやっぱりお姉さんの名前もよく聞くようになりましたし、ますます力が入ってきて……最近は余裕がなくなってるように見えます」

 「大会が近付いてナーバスになってるのかな」

 「最後の追い込みですか。負けられない戦いですもんねこれは!」

 「ううん……少なくとも木鵺さんにとってはそうすね。それで解決するかは別として」

 

 木鵺の、部長という立場に対する思い入れの程は分かった。単に部のトップであるという以上に、木鵺にとっては意味があるようだ。完全な理解には程遠いが、納得はできたという程度だろう。

 

 「まあ、部長であることは一種のステータスですし、それぞれ部長になりたい理由があるのは当然すからね。でも……どうしたって結局最後には競争になっちゃうんすよね」

 

 ため息交じりに、下亀は乾いた笑いをこぼした。

 

 「こういうの、自分は好きじゃないす」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 本格的な練習が始まり、下亀も自分の練習場所に行ってしまった。残された3人は、集めた情報をまとめていた。しかし得られたのは陸上部の内情に関する情報ばかりで、肝心の忍者泥棒事件についての情報はてんで集まらない。

 

 「やっぱり木鵺さん本人に話を聞くのがいいよ」

 

 そう提案する瓜生田だが、木鵺は依然練習中である。他の部員が練習を始めた頃、すでに部長候補のメンバーは相当ハードな練習をこなしていた。数名のメンバーが入れ替わりで休憩に入る中、他のメンバーより遅れて練習を始めた南良刻を除き、木鵺だけは練習続けていた。ただでさえ話を聞きにくそうなのに、このままでは今日一日かけても聞き出すチャンスさえ訪れなさそうだ。

 

 「実際、事件に直接関わってるのは木鵺先輩だけですからね。あの人から詳しい話が聞けない限り、進展はありませんよ」

 「じゃあ話聞こうよ」

 「聞けるかな……まだ全然終わる気配ないけど」

 「いつ終わるか他の方に聞いてみましょうか。すみませ〜ん」

 

 益子が、水分補給を兼ねた休憩を始めた部長候補メンバーに声をかけた。炎天下というほどではないがそれなりに高い気温の中、しっかり練習した部員たちは汗を流し、ゼッケンごと体操着をあおいで蒸れた空気を吐き出している。その中のひとりが、益子の声に反応してすっと立ち上がった。

 

 「なんですの」

 

 それは、瓜生田と益子が陸上部部室の前で会ったあのお嬢様、音井と呼ばれていた生徒だった。益子は、思わず顔を引きつらせた。この生徒は、話すのに少々気を遣う。

 

 「……あ〜」

 「なんですかその、あちゃあみたいな顔は」

 「い、いやとんでもない!ちょっと聞きたいんですけど、木鵺さんっていつ休憩入るんですかね?」

 「入りませんわよ」

 「へ?」

 「あの人は練習を始めたら片付けまで休みませんわ。水分補給くらいはなさいますけど、1分とじっとしていられない方ですの」

 「え、だって、片付けって……何時間ぶっ続けなんですか」

 「平日はまだ短い方です。お休みの日なんて、朝来て夕方帰るまで、お昼の時間以外はぶっ通しです。どうして倒れないのか不思議なくらいですわ」

 

 音井が語ったのは、木鵺の驚異的なスタミナと集中力だった。放課後の時間とはいえ、日が長いいま、部活動の時間は4時間ほどある。休日なら少なくともその倍だ。それだけの時間をぶっ通しで練習し続けるなど、非運動部生活を送ってきた牟児津たちには想像できなかった。

 たまらず牟児津が尋ねた。

 

 「じゃ、じゃあいつになったら木鵺さんに話聞けるの」

 「さあ。少なくとも、今日は諦めた方がよろしいと思いますわよ」

 「大会の後なら時間できますかね?」

 「多少は練習量を減らされると思いますけど、保証はできませんわ」

 「こりゃ長期戦になりそうだね、ムジツさん」

 「助けてくれ〜〜〜!!」

 

 木鵺しか姿を見ていない犯人を突き止めるのに、木鵺から話が聞けないのではどうにもならない。事態の長期化を予感した瓜生田が苦笑いし、牟児津が頭を抱えた。

 

 「そんなことより、アナタ新聞部でしょう?先程から木鵺さん木鵺さんとあの方のことばかり!いいですこと?次の部長になるのはわたくしですの。取材するならそんな事件より、わたくしを取材なさいな!この音井(おとい) 真凛(まりん)を!」

 「うへ〜!やっぱりそういうタイプだった〜!」

 「そういうタイプ、とは?」

 「いやいやあの、変な意味じゃないですよ。へえ。大層自信を持ってらっさる方ってことでやす。うへへ」

 「変なへつらい方だなあ」

 

 面倒臭い気配を感じて、つい益子が口を滑らせた。しかし音井は敢えてそれを流して、咳払いをして改めた。

 

 「次の部長になる自信があるんですね」

 「もちろんです。部室では無用の混乱を避けるために名乗り出ませんでしたが、学園内最速は()()、このわたくしなのですよ!」

 「え、そうなの?」

 「じゃあ忍者の正体じゃん!」

 「失礼な!根拠もなしに軽率なことを言うものではありません!」

 「ひぃっ」

 

 音井が牟児津にぴしゃりと言い放った。尊大な物言いはそういう気質だとして、木鵺より足が速いとまで言い出した。そんなことを言い出せば事件の犯人だと疑われても仕方ないように思うが、部室で瓜生田の挑発に乗らなかったことからも、そうなることは理解しているようだった。

 

 「今のはムジツさんが悪いよね」

 「だ、だって最速って言うから……木鵺さんがエースなんじゃないの?」

 「()()と言ったでしょう。実際に比べたとしても負ける気はしませんが!」

 「どういうことですか?」

 「木鵺さんは専門が短距離走で、わたくしはハードル走です。競技としての違いはありますが、同じ距離で記録にほんの数秒の差しかないなら、ハードル走者の方が実質は速いということになりますでしょう?」

 「そ、そうなの?」

 「ハードル走の方がタイムが伸びる傾向があるからね。まあ言わんとしてることは分からないでもないけど、そもそも比べるものじゃないかな」

 「とはいえ、木鵺さんも実力で部長候補になった方ですわ。彼女から逃げ切るなど容易ではありませんが……あるいは、木鵺さんもお疲れなのでしょう。最近は明らかに根を詰めすぎていますし、周りが見えないほど集中されているようですから」

 

 胸を張って高らかに語る音井に対し、益子は適当にメモを取る振りだけして相槌を打つ。結局のところ数字の上では木鵺の方が速いわけだし、見たところ南良刻ほど人望があるようにも見えない。部長候補である以上、実力は本物のようだが、下亀が言っていたように音井は有力視されてはいないようだ。

 

 「まあともかく、分かりましたね?伊之泉杜学園最速は誰なのか、しっかり覚えておくことです!」

 「はあ……さいですか」

 「興味なさそ〜〜〜」

 「ちょうどいいので音井先輩にもご協力いただけますか?」

 「なんですの」

 「木鵺先輩の持ち物で、盗まれそうなものとか心当たりはありますか?」

 「さて、どうでしょう。なにか大切なものはお持ちだったようですけど、そういうものは誰しもありますから」

 「音井先輩にもあるんですか?」

 「わたくしはこの蒼い髪と美肌が自慢ですのよ!このトレーニングウェアも、UVカットと通気性を兼ね備えた特注品ですわ!ほっほほ!」

 

 さらさらの髪を手で撫で払い、白くきめ細かなロングウェアを見せびらかし、音井は高笑いした。自慢にはなるかも知れないが、盗みようがないものと他人が盗んでもどうしようもないものでは、事件の参考にはならなさそうだ。

 

 「人呼んで“伊之泉杜学園に吹く蒼い風”とはわたくしのことですわ!」

 

 結局音井はその後、練習を再開するまで、いかに自分が次期部長に相応しいかを益子に説明していた。確かにスタミナは木鵺に負けず劣らずあるようだ。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 思いがけず音井に体力を削られた牟児津たちは、それでもまだ解放されずにいた。木鵺が練習を終えるまではこの競技場から一歩たりとも踏み出せないと覚悟していたが、いざ何事もなく時間が過ぎていくのをただ待っていると、たちまち気怠さがこみ上げてきた。

 音井たち部長候補メンバーが再び練習に向かうと、それとは入れ違いに、ミーティングを仕切っていた灰桜髪の女性がスタンド席にやってきた。その隣には、不服そうな顔をした木鵺がいる。どうやら、一向に休もうとしない木鵺を無理矢理休ませるために、灰桜髪の女性が自分の練習を切り上げてまで連れて来たようだ。

 

 「水分をきちんと摂れ。いま倒れたら大会なんて出させないからな」

 「これくらい平気です。時間がないんですから、一本でも多く、一歩でも多く走らなきゃいけないんです」

 「お前を倒れるまで練習させたら、寿美(かずみ)先輩に向ける顔がない」

 「なんで私が、あの人と部長の関係に気を遣わなくちゃいけないんですか……!」

 「仁美。部長になるつもりなら、人間関係に気を遣えるようになっておくべきだ。部長になることはゴールじゃないんだぞ」

 

 牟児津たちからは少し離れたところから、そんな会話が聞こえてきた。木鵺は最後、灰桜髪の女性を睨みつけるだけで、それからは何も言わずに自分のボトルを傾けていた。寿美というのは、会話の流れからしておそらく木鵺の姉の名前だろう。となると灰桜髪の女性はいま3年生で、木鵺の姉に世話になった世代の一人ということだ。部長とも呼ばれている。瓜生田の予想が当たった。

 木鵺はボトルをあおった後、流れる汗をタオルで拭いて、靴を履き直し、再びトラックに飛び出した。本当に水分補給をしただけで、ほんの数秒間の出来事である。部長と呼ばれた灰桜髪の女性は、その後ろ姿を見てため息を吐いた。

 

 「みっともないところを見せた。申し訳ない」

 

 一連の出来事を見守っていた牟児津たちに顔を向けて、部長は言った。聞き耳を立てていたことに気付かれていたことで、牟児津たちはバツが悪そうに口ごもる。部長は相変わらずの鋭い目つきのまま、再度ため息を吐く。

 

 「仁美は頑固なヤツだから……これでも心配してるつもりなんだが」

 「十分伝わってると思いますよ」

 「だといいが……エースとして気負いすぎているのかも知れないな」

 「なんでも次の大会で来年の部長が決まるから躍起になってるとか!他の方々も同じ気持ちでしょうし、バチバチですね!」

 「切磋琢磨するのはいいことだが、少し熱が入りすぎだな。無理をして転ばなければいいんだが」

 

 疲れた様子の部長に、瓜生田が慰めの言葉をかけた。実際のところ、木鵺がどう感じているかなど分からない。しかし瓜生田が見てもその練習量は尋常でないことが分かる。部長が心配するのも当然だ。

 

 「えっと……部長さん?」

 「ああ。家具屋(かぐや)だ。そういえば名前を言ってなかったな」

 

 ようやく牟児津たちは、陸上部部長───家具屋(かぐや) 美咲(みさき)の名前を知ることができた。ついでに瓜生田と益子は家具屋からできるだけ話を聞き出そうとした。

 

 「家具屋先輩ですね。事件のことについて、木鵺さんから何か伺ってますか?」

 「…………いや、仁美が知っている以上のことは知らない。手掛かりになりそうなことはあいつが風紀委員に話しただろう」

 「いやあ、実は私たち、風紀委員とは別に捜査をしてるものですから、情報共有ができないんですよ。お手数なんですけど、お話しいただけません?」

 「悪いな。さっきも見た通り、私とあの子の関係は芳しくない。口を滑らせて余計なトラブルを起こしたりしたくないんだ」

 「そんなあ……」

 

 家具屋の口は、木鵺並みに固かった。事件の早期解決を望んでいるのは家具屋も同じだが、それ以上に木鵺の扱いに難儀しているようだった。部長候補筆頭のエースにもかかわらず、ストイックすぎる性格は人間関係に軋轢を生みやすい。世話になった先輩の妹であることや、他の部長候補らのこともあり、目下最大の悩みの種のようだ。家具屋は申し訳ないとばかりに牟児津たちに手刀を切ると、トラックに戻って行った。

 

 「あーもー、なんなんだよこの部の人たちは」

 「タイミングが悪かったね。部長の座がかかった大会の直前じゃあ、ピリピリもするよ。大きい部活だしね」

 「なんでそんな部長なりたいのかな。面倒なだけだと思うけど」

 「色々特典がありますからね。内申点とか生活評価のプラスは進学にも就職にも有利ですし、面接で話せるエピソードも増えます」

 「か〜、真面目だね〜」

 「部長は部活動なら無条件で公欠出せるし、単位の補助もあるよ。細かいところだと購買とか近所のお店の割引特典なんかも。塩瀬庵も対象だよ」

 「マジで!?それ知らないんだけど!」

 

 伊之泉杜学園で部長になることのメリットは、通常の高校のそれよりも遥かに多い。牟児津は初めから部活動には興味がなかったので知らなかったが、ほとんどの生徒にとっては常識である。だからこそ多くの生徒はそれぞれの部の部長を目指すし、新たに部を立ち上げようとする生徒も多い。結果的に生徒の自主性が育まれるのを促進することになるのである。

 

 「ただ、部として認められるのはそれなりの条件があります。予算や承認される活動規模なんかが部と同好会じゃ全然違いますからね。だから同好会止まりのとこも多いんです」

 

 益子が他人事とばかりに笑った。新聞部も歴史は浅いなりに部室を持てる程度には大きな部だから安泰なのだろう。いずれにせよ牟児津にとってはどうでもいいことである。

 それから牟児津たちは、ただ陸上部の練習を眺めていた。木鵺に、陸上部員たち全員の前で逃がさないと言われてしまったので初めから逃走など考えていなかったが、当の木鵺は牟児津などほったらかしで練習に没頭し、それ以外の部員も練習が始まれば誰も牟児津たちのことなど見ていなかった。

 

 「これ……逃げるチャンスじゃね?」

 「やめときなよ。今日のところは逃げられても、明日もまた逃げ続けられるとは限らないよ」

 「十中八九無理でしょうね!」

 「じゃあなにか!私はこれからずっとこうやって放課後に家でだらだらできる貴重な時間を、意味なく練習を見せられ続けなきゃならないのか!」

 「まあ」

 「やだよ〜〜〜!だったらせめて事件の調査させてくれ〜〜〜!」

 「おっ、とうとうやる気になってきましたか。ムジツ先輩」

 「一日も、いや一刻も早く事件が解決してほしいんだよ!」

 

 自分で事件について調べられるならまだしも、今は誰もいない部室に目を盗んで忍び込むなどすればますます疑われてしまうだろうし、事件に関係する場所を訪ねて回ることも逃げたと思われてはかなわない。それもこれも、木鵺が牟児津を犯人だと疑わないせいでこんなことになっている。とんでもない相手に捕まったものだ。

 

 「風紀委員の方がまだマシだよ……」

 

 頭を抱えてうずくまり、牟児津はごちた。組織で動く風紀委員と違って、木鵺の個人的な行動は理屈で対処できるものではない。感情に訴えかけるか、絶対に覆しようのない理屈を突きつけるしかないのだ。

 

 「そう?」

 「そうだよ。風紀委員だったら、いつもうりゅが上手いこと言って助けてくれるし、川路さんも証拠がなきゃいつまでも拘束なんてできないし。顔が怖いだけの方がまだマシ」

 「そっかあ」

 「問い詰めてくるときのあの鬼……鬼っていうか般若?悪魔?似たようなもんか」

 「ほう……鬼に般若に悪魔、か」

 「ホントそうだよ。よくもまああんなに眉吊り上げて怒れるよね。どういう表情筋してんだか──」

 

 ふ、と頭を上げた牟児津の目が、自分を見下ろすナイフのような吊り目とかち合った。金の毛束がバタバタと風になびき、影を落とす長身が太陽を隠して実際以上の大身丈に見せていた。目の前にいる人物が誰かを知り、牟児津は、

 

 「ひおっ」

 

 と息を呑んだ。そして、

 

 「んぎゃあああああっ!!」

 

 脱兎の如く駆け出し、瓜生田の背後に隠れた。川路は視線でそれを追いながらも、牟児津の発言について追及することはなかった。ただそこにいないかのように、瓜生田と益子に問うた。

 

 「なぜ貴様らがここにいる」

 

 瓜生田は落ち着きながらも、少しだけ牟児津を庇うように手を広げた。

 

 「木鵺先輩が、ムジツさんを犯人だといって無理矢理連れて来たんです。逃げるわけにもいかないので、練習を眺めてました」

 「……そうか。ならもう帰っていいぞ」

 「へぇえ……?」

 

 普段ならここで、瓜生田の発言が本当かどうか疑うか、後ろに引っ込んだ牟児津に詰め寄ってさらに深く事情を聞き出そうとするかなのだが、今の川路は何やらひどく落ち着いていた。よく見れば、何人もの風紀委員を引き連れて来ている。練習中の陸上部員たちが何事かとこちらを見ているので、その中の誰かが呼んだわけでもなさそうだ。いったい何事だというのだろう。

 

 「風紀委員だ!今すぐ練習を止めろ!」

 

 それ以上は牟児津たちに用はないとばかりに、川路は陸上トラックの方に向けて大声を出した。そして風紀委員たちを引き連れてコースを突っ切り、戸惑う陸上部員の中から家具屋を見つけ、何かを話した。

 

 「そんな……!宇西(うさい)先生に話は通したのか!」

 「窃盗は歴とした犯罪だ。今は真相究明を何よりも優先すべきだと仰っていた。部活にも後で顔を出されるだろう。それより、木鵺はどこだ」

 

 しばし、川路と家具屋は睨み合う。二人が無言で見つめ合うと緊張感がトラック全体に広がっていった。先に折れたのは家具屋だった。諦めたようなため息を吐き、そして、風紀委員などお構いなしに練習を続ける木鵺を指差した。

 川路はずかずかと木鵺に近付いていく。そして、走る木鵺の行く手を阻むように正面に立った。驚いた木鵺は慌てて減速し、川路にぶつかる寸前で止まった。

 

 「な、なにあなた!危ないでしょ!どいて!」

 「木鵺仁美、一緒に来てもらうぞ」

 

 短く言葉を交わすと、川路は手を挙げた。それを合図に、木鵺の真横や背後を取り囲んでいた風紀委員たちが飛びかかった。木鵺はいきなり腕を掴まれたことに驚いたのか、はたまた蓄積した疲労のためか、逃げる素振りも見せずあっさり捕まった。そして、抵抗しつつも部室棟の方へと連れて行かれてしまった。一連の出来事に、牟児津たちをはじめ陸上部員たちさえもぽかんと口を開けていた。

 こういうとき一番に動き出すのは、野次馬根性でどんなことにも首を突っ込む質の悪い人間である。今回の場合、それは益子であった。すぐにスタンド席を飛び出して、ざわめく部員たちに混ざり家具屋の言葉を聞く。そして、楽しそうな顔色を隠しきれないまま、走って戻ってきた。

 

 「急展開です!」

 「なに、どうしたの」

 

 「木鵺先輩が狂言の容疑で逮捕されました!」



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第3話「サバ缶」

 

 益子は、陸上部部室の外で聞き耳を立てていた。薄いドアからはときどき川路の怒鳴り声が聞こえてきて、その度にヒステリックに叫ぶ木鵺の声もした。どうやら取り調べはかなり難航しているらしい。

 

 「……なら……か!いっ……ろ!」

 「だ……!……とだって……でしょ!」

 

 これでは何が何やら分からない。ドア越しに聞いているだけでは、盗み聞きをする意味がない。しかし堂々と部室に入っていくわけにもいかない。このままでは牟児津と瓜生田に託された仕事を完遂できない。

 木鵺が連行された後、牟児津たちはどうすればいいかを考えていた。牟児津を逃さないと言った木鵺が、風紀委員に連れて行かれてしまった。容疑者という立場なら、川路は木鵺に容赦しないだろう。しばらくの間、練習はおろか牟児津を見張ることもできない。となれば。

 

 「これ……調査に行くチャンスだね」

 「えっ!?いま!?に、逃げたと思われるんじゃないの……?」

 「木鵺さんの逮捕で陸上部みんなそれどころじゃないよ。それに、木鵺さんが犯人なら牟児津さんを見張る意味もないし」

 「それはそうですね……どうします?私としては、こんなおもし───大変なネタ、逃すわけにはいきません!このとおり、逮捕の瞬間も激写しました!」

 

 益子は自分のスマートフォンの画面を二人に見せた。前から川路に詰め寄られ、後ろから風紀委員に手や肩を掴まれている木鵺の驚愕の表情を、はっきりと捉えていた。なんとも趣味の悪い写真である。

 

 「私、取り調べの取材しに行こうと思いますけど、いいですか?」

 

 そう言いながら今にも飛び出しそうなほど、益子は鼻息を荒くしていた。新聞部としての性なのか、トラブルや厄介事には目がないようだ。牟児津は少し考え、そして益子に指示した。

 

 「よし!あんたはそのまま木鵺さんのとこ行け!私とうりゅは行かない!」

 「え、なんでムジツさん。行こうよ」

 「あの人の取り調べ、人がやられてるの見てもキツそうだから見たくない!」

 「なんて気が小さいんですか」

 「繊細なんだよ!こっちはこっちでアレしとくから、あんたはあんたで情報集めて来て」

 

 川路の取り調べがどんなものになるか容易に想像できた牟児津は、他人がされているときですら、近付くことさえしようとしなかった。ちょうど興味津々の益子がいるので、情報収集はそちらに任せて自分は距離を置くことにした。

 そういうわけで、益子は何がなんでも取り調べの内容を盗み聞きする必要があった。そこで益子は、腰に巻いたポーチをまさぐった。

 新聞部員として日々スクープを追う益子は、ポーチの中に様々な秘密兵器を忍ばせている。取材状況に応じて使うのだが、いずれも一般生徒が持っているべきものではないため、使用にはそれなりのリスクが伴う。しかし今は、そのリスクを背負ってでも情報入手を優先すべき時だと判断した。

 

 「ビールグラス(スーパーヘルイヤー君)〜!」

 

 取り出したるは、100円ショップで購入可能なガラス製のコップだった。それほど上等なものではないうえ、秘密兵器として考えるとなおさら貧相に見える。

 益子はこれの口を部室の壁に押し当て、底に耳を当てがった。壁越しに途切れ途切れでしか聞こえなかった中の声が、まるでその場にいるようにクリアに──とまではいかないが、集中すれば聞き取れる程度には聞こえるようになった。

 

 「どうしても罪を認める気はないようだな」

 「だからウソなんかじゃないって言ってるでしょ!いい加減にしてよ!」

 「いい加減にするのは貴様だ!ウソではないというなら、何を盗まれたのか言ってみろ!」

 「だからっ!それは……!言えないって……!」

 「そんなものが認められるか!犯人を見たのは貴様ひとり!顔も体格も何の特徴も分からない!盗まれたものは教えない!そんなデタラメに付き合うほど風紀委員は暇じゃないんだ!!」

 「デタラメなんかじゃない!!」

 「だったら何度も同じことを言わせるな!盗まれたものは何だ!」

 「なんでもいいでしょ!そんなこと関係ないじゃない!犯人捕まえてよ!」

 「ふざけたことばかり言うな!!」

 

 もはやお互いが興奮しきっていて取り調べの体を成していない。それでも、木鵺が逮捕された理由、すなわち風紀委員が今回の事件を狂言だとした理由ははっきりした。木鵺はどうやら、まだ盗まれたものを明かしていないし、今後も明かすつもりはないらしい。川路の言う通り、これでは何の手掛かりもない。たとえ狂言でないとしても、ただの被害者というにはあまりに捜査に非協力的だ。

 

 「こいつぁ何かウラがありますねえ。ちょっと調べてみますか」

 

 なぜ木鵺が盗まれたものを明かさないのか、そこに事件解決のカギがあると感じた益子は、それを探るため行動を開始した。一度部室棟から競技場に戻る。そこで、スタンド席で緊急のミーティングを開いている家具屋たちを見つけた。メンバーは、部長候補の数名に下亀を加えた幾人かだ。

 

 「どうもどうも!皆さんお揃いで!いよいよ盛り上がって───ああいえ。大変な事態になってきましたね。お疲れ様です」

 「アナタ……どこに行ってましたの!こんなときに!」

 「いやあ。私は新聞部ですから、ちょっくら取材に」

 「牟児津さんと瓜生田ちゃんは?」

 「お二人なら捜査だと思いますが。木鵺さんと風紀委員が同時にいなくなって自由に動けるチャンスなので」

 「そ、捜査?本当に自力で解決する気なんですの?」

 「当然です!それがムジツ先輩ですから!」

 

 どさくさに紛れて逃げたか、まとめて風紀委員に連行されたか、そんなところだろうと思っていた陸上部一同は、牟児津たちが既に事件解決に向けて動き出していることに驚いた。このまま木鵺が犯人になったとして、風紀委員は狂言に惑わされたという汚点がつき、陸上部はエースを失う大損害を被る。唯一、それによって潔白となる牟児津だけが得をするはずだ。それなのに牟児津は、誰よりも早く行動していた。なぜか益子が胸を張る。

 

 「まあ……陸上部としては、もうお前たちを拘束する理由も権限もない。すまないが今は相手をしている場合ではないから───」

 「益子ちゃん!」

 

 家具屋の言葉を遮って、南良刻が声を上げて益子に詰め寄った。心配そうな、縋るような目で益子の手を握り、頭を下げた。周りで見ていた全員と益子が、不意の行動に驚く。

 

 「木鵺さんは、そんなウソ吐く人じゃない……!絶対、何かの間違いなはずなの!」

 「えっ、は、はい。そう、ですよね?」

 「ですが、風紀委員が狂言だと判断したなら、それなりの理由があるのではなくて?」

 「ならその理由が間違いなんだよ!とにかく、木鵺さんは……!今はただ余裕がないだけなのに……!なんでこんなことに……!」

 「落ち着け南良刻」

 

 家具屋が制止するが、南良刻は止まらない。益子は風紀委員ではないのだが、まるで益子に頼めば木鵺が解放されると信じているのかのような、それほど必死の様子だった。

 

 「木鵺さんは……ただ、自分を見てほしいだけなの……!いつも、お姉さんの存在が大きすぎて……先生も、先輩もみんな……あの子の気持ちを分かってくれないから……!」

 「もうやめろ南良刻。この子に言っても仕方がない」

 「自分からもお願いします、益子さん。南良刻さんは、木鵺さんのことを誰よりも心配してるんです。木鵺さんの気持ちとか、無茶しがちなところとか、南良刻さんが一番よく知ってるんす。もし本当に、牟児津さんが木鵺さんを助けることができるなら……自分たちに手伝えることがあるんなら……やらせてほしいす」

 

 必死に訴えていた南良刻は、とうとう涙をこぼし始めた。家具屋が宥めて益子から引き離す。益子は、涙ながらに何かを訴えかけられた経験などなかったため当惑し、ろくに返事もしてやれなかった。だが南良刻の必死の訴えは、益子の心のうちにしばらく忘れていた熱い気持ちが湧き上がらせた。下亀にも頼まれ、益子はいよいよ勢いづいてきた。

 

 「分かりました。微力ながら、私もムジツ先輩に手掛かり集めを任されてます。必ず有益な情報を掴んで、ムジツ先輩にまるっと解決してもらいます!」

 「陸上部としても真相究明はもちろんだが、できれば木鵺の逮捕は誤認であってほしい。できる限り協力させてもらう」

 「まあ、わたくしも。門限があるので長居はできませんが」

 「ほあ……皆さん!ありがとうございます!」

 

 部員たちから話を聞いた限り、陸上部における木鵺の印象はあまり良くなかった。だがいざとなれば部員たちが団結して木鵺を助けようとしている姿を見ると、益子は目頭が熱くなった。

 しかし、益子は知っている。木鵺が頑なに事件について口を閉ざしていることを。それは、部員たちの信頼への裏切りとも取れる態度だ。それだけは絶対に明かすことはできない。言葉に気を付けながら、益子は部員たちに頼んだ。

 

 「そしたら、木鵺さんのカバンを見せてもらっていいですか?」

 「カバンなんか見てどうするんですの?」

 「とにかく手掛かりが残ってそうなものを虱潰しにですよ!」

 「持ってきます!」

 

 いち早く下亀が飛び出し、スタンド席にある部員の荷物の山から、大きなスポーツバッグをひとつ持ってきた。他の部員がストラップや色付きのベルトで飾り立てている中、特にそうした遊びの気配がない、木鵺のイメージをそのまま反映したようなシンプルなバッグだった。

 益子は部員たちが見守る中、カバンを開けて中のものを並べていく。

 

 「教科書と勉強道具一式が入った小さいカバン……なんでカバンの中にカバンが?」

 「木鵺さんは部活中心の生活をしていらっしゃるから、教室には必要最低限のものしか持って行かれないんです。授業を受けるための道具と、お弁当箱ですわね」

 「なるほど……で、これは着替えた制服ですね。ジャージ、あとこの包みは……お弁当箱と水筒。おや、このお弁当、手がつけられてないですね。水筒の方はと……スポドリですか?こっちは結構減ってますね」

 「お昼は事件でごたごたしてたから、食べる暇がなかったんじゃない?スポドリは木鵺さんいつも飲んでるよ。お弁当もそれでいくぐらい」

 「この気温じゃあ、お弁当はもうダメかも知れませんね。もったいない。え〜っと、それからタオルが2枚とビニール袋3つ、お財布、ちいちゃい水筒、あとは汗拭きシート、制汗スプレー、日焼け止め、陸上関係の本。ポケットにヘアゴムと……家の鍵ですかね?こっちのポケットはと……スマホと充電器。むむむ。変哲がないですねえ」

 「だいたいこんなもんじゃないすかね」

 「ん?これは……」

 

 中身をすっかり吐ききったカバンは、布地が力無く垂れてどことなく物寂しく映る。益子は他にも何かないか徹底的に調べていたが、それ以上は何も入っていなかった。

 だが益子は、一番大きな収納スペースについた、小さなポケットに違和感を覚えた。そこからは何も出てこなかったが、ポケットの布地に角張った跡が残っている。底の方に2か所、ちょうど小さな箱を入れたような形だ。

 

 「ちょっと、失礼しますね」

 

 なんとなくその痕跡が気になった益子は、一言断って写真を撮った。いちおう、それ以外のポケットに同じような痕跡が残っていないか調べてみたが、四角い跡が残っているのはそのポケットだけだった。

 

 「……?あのう、益子さん。つかぬことを聞きますけど」

 

 益子が荷物を並べる様子を見ていた下亀が、首を傾げた。

 

 「木鵺さん、何を盗られたんすかね?」

 「へっ!?は、はい!?何がですか!?」

 「いや、見たところ、普通の陸上部員が持ってそうなものは一通りあるんで。貴重品も。木鵺さんが必死に追いかけるほどのものってなんなんだろうと」

 「ああ〜、そ、そうですね。確かに、変ですよね。あはは……ご、ご協力感謝します大変参考になりました私はここらでムジツ先輩んとこに戻りますありがとうございましたそんじゃさいなら!」

 「えっ!?あ、あれっ!?」

 「陸上部から逃げようとはいい度胸ですわね!お待ちなさい!」

 「待て音井!」

 

 都合が悪くなった途端にしどろもどろになり、益子は早口で捲し立てて逃げ出した。すかさず音井が後を追おうとするが、その足を家具屋の言葉が止めた。

 

 「答えられないわけがあるんだ。あの子らは別に仁美を陥れようとしてるわけじゃない」

 「……い、いいんですか?明らかに挙動不審でしたのに」

 「いいんだ。任せておこう」

 

 なぜ益子が逃げ出したか分かっていない部員たちとともに、家具屋は期待を込めて益子の後ろ姿を見送った。木鵺が盗まれたものを明かさないことも、その理由も、家具屋は分かっていた。だが自分が話さなくとも、牟児津たちはきっとこの事態を解決してくれるだろうと、確信めいたものがあった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 木鵺逮捕のどさくさに紛れて、牟児津と瓜生田は競技場を脱出した。牟児津に目を光らせている木鵺と、怪しい動きを見せれば即逮捕しかねない風紀委員。その両方が同時に動けなくなったことは、牟児津には逃げ出すまたとないチャンスだった。しかもただ立ち去るだけでは追手が来るかも知れないので、上手いこと益子を言いくるめて人質として残しておいた。

 

 「よし、もう帰ろう。あとは風紀委員に任せてさ」

 「そういうわけにはいかないよムジツさん。ちゃんと最後まで付き合わないと」

 「だって風紀委員が木鵺さんのウソっつってんだから、もうそれで決着しそうじゃん!これ以上首突っ込むことないって!」

 「風紀委員はそれでよくても、陸上部はよくないよ。木鵺先輩だって納得しないだろうし、ここで逃げたら今度は陸上部全員から追われる羽目になるよ。いいの?」

 「……よくないぃ」

 

 今は逃げ出す絶好のチャンスではあるが、それは明日以降の平穏な学園生活を保証してはくれない。むしろ新たに敵を増やすことになり、牟児津が理想とする平穏な学園生活はいっそう遠ざかっていくだろう。いずれこうした事態になることも、牟児津が逃げ出そうとすることも想定していた瓜生田は、駄々をこねる牟児津の手を引いて歩いていく。

 

 「こうなると思ったからわざわざみんなの前で解決宣言したんだからね。ほら、捜査しに行くよ」

 「捜査ってどこに」

 「屋上。木鵺さんの狂言じゃないなら、犯人は屋上付近で消えたことになるでしょ。だからそこに手掛かりがあるはずだよ」

 「犯人が消えるなんてことあるのかなあ」

 「犯人が忍者なら消えることもあるんじゃない?」

 

 観念した牟児津は瓜生田の後を歩く。未だ解決に兆しが見えない事件を牟児津がぼやき、瓜生田が冗談めかして笑う。しかしその謎を解き明かさない限り、犯人の正体を掴むことはできないのだから、笑い事ではない。屋上まで続く階段を上がりながら、牟児津は瓜生田に重ねて尋ねる。

 

 「っていうかうりゅ、こうなると思ったって言った?木鵺さんが逮捕されるの分かってたの?」

 「逮捕かどうかは分からなかったけど、木鵺先輩が疑われることになるとは思ってたよ」

 「なんで?被害者でしょ?」

 「被害者だからだよ。葛飾先輩が言ってたんでしょ?何が盗まれたのか分かってないって」

 「うん。だから手掛かりが少なくて参ってるって言ってた」

 「普通の被害者だったら、何が盗まれてどこにどうしまってあったか、自分で言うはずだよね。それを敢えて言わないのは、盗まれたこと自体がウソか……」

 「言えない理由があるってことか!でもそんなことある?」

 「たとえば、持つこと自体が問題になるような危険な物とか、持ってることがバレると恥ずかしいものとか、色々あるんじゃない?それでも取り返したい気持ちはあるみたいだから、木鵺先輩にとっては大切なものなんだろうね」

 「なるほどなあ」

 「風紀委員にしてみれば言えない理由があったとしても言ってもらなわくちゃ話にならないから、無理矢理聞き出そうとするか、言えないならウソだと判断して逮捕するか、どっちかになると思ってたよ」

 「すげーうりゅ!賢い!」

 「ムジツさんはもっとすごいことできるでしょ」

 「へあ?」

 

 牟児津は、とぼけているというより間の抜けている声を漏らした。どうやらここ数日の、身の回りで起きた事件を解決したという自覚がないらしい。事件を経て牟児津が得たのは、事件を解決したという自信や達成感ではなく、平和な日常に戻ることが出来たという安心と解放感だけだった。もっと誇ればいいのに、と瓜生田は思うが、目立つことを嫌う牟児津らしくもある、と呆れ半分で笑っていた。

 やがて、二人は屋上まで階段を上がりきる。外に出るドアの手前に踊り場があって、ひとつ下の階段に被さるように防災用品や避難用品等をしまう細長いスペースがある。あまり人が立ち入らないため埃っぽく、節電のため照明も切られている。

 瓜生田は外に出て屋上を見渡した。巨大な貯水槽や転落防止柵など、ごく一般的な屋上設備しかない。昼休みに牟児津と瓜生田が腰掛けていたのは、屋上に入ってすぐ、昼休みには日陰になる辺りだ。屋上まで階段を駆け上がって飛び出せば、すぐにぶつかる位置にいたはずだ。

 

 「うーん」

 

 ざっと眺めただけで手掛かりが掴めるなら、とっくに風紀委員が調べているはずだ。瓜生田はどこかに目星をつけて調べてみようかと思っていたが、思った以上に取っ掛かりがない。やはり犯人は屋上には来ていないのではないか。早くもそんな気になる。

 

 「犯人が屋上に逃げたんなら、私かうりゅが見てるはずだよ。こっちには来てないんじゃない?」

 「そしたら……踊り場の方かな?」

 「ちょっと見てみよ」

 

 牟児津は明るい屋外から暗い屋内に引っ込む。踊り場に置かれた品々はどれも埃を被っていて、触れるのも躊躇われる。中央に道を作るように置かれているので肩をすぼませれば触れずに済む。牟児津は小さい体をさらに小さくして、踊り場の中を調べた。何か手掛かりが残されていないか、スマートフォンのライトを当てて注意深く探る。

 

 「ん〜、めちゃくちゃ埃に跡が残ってる。足跡とかなんか払った跡とか。この箱も動かしたっぽい。すごいな」

 「探偵っぽいことが板についてきたね」

 「嬉しかねえやい」

 

 ライトに照らされた踊り場の埃は、そこに誰かがいたことを実に雄弁に物語っていた。床に落ちた埃の跡、わずかに動かした形跡のある大きな避難はしごの箱、その周辺にある物は一部の埃が軽く払われている。おそらく犯人は、木鵺から逃げてここに身を潜め、避難はしごの陰に隠れてやり過ごしたのだろう。そのとき、服が当たって埃が絡め取られた。ざっとこんなところだろう。

 

 「屋上なんか逃げたらすぐ見つかるし、まあ隠れるよね」

 「おっ、まさに忍法土遁の術だね」

 「楽しそうだなあ、うりゅ」

 「そんなことないよマジメだよ」

 

 おどけて印を結ぶマネをする瓜生田に、牟児津が白い目を向けた。本当に犯人が忍者だとしたら、こんな隠れ方はお粗末過ぎる。犯人はとっさにここに隠れたのだ。牟児津はその場面をイメージした。

 

 「こう来て……こう逃げて来たから、ここでしゃがんで。うん。そうだよな。そしたらこの辺に……」

 「ムジツさん、何してるの?」

 「犯人の動き追ってんの。こっちにこう逃げて、ここにいて、もちろん覆面はしてるけど、そのまま戻るわけないからどっかで外すでしょ。そしたら……あっ!」

 「?」

 

 狭い踊り場の中を、牟児津は足元や周りを見ながらちょこまかと動き回る。どうやら、木鵺から逃げて来た犯人が実際にした動きをトレースしているらしい。それで何が分かるというのか、瓜生田は黙って見守った。冴えているときの牟児津は、余計な口を挟むとたちまちシナプスがこんがらがってショートする。放っておくのが一番だ。

 はたして牟児津は、床に落ちた何かを見つけた。指で摘み上げたそれは、暗がりの中ではよく分からない。瓜生田はその先に目を凝らす。

 

 「なに?」

 「髪の毛!たぶん犯人の!」

 「分かるの?」

 「ここ人が来ないから、埃とか砂はたまってるけど髪の毛はあんまり落ちてないんだよね。それから犯人はここで覆面を取って戻ったはずだから、髪の毛が落ちてる可能性が高い!そうするとこの髪の毛は、犯人につながる重大な手掛かりになるとは思わんかね?うりゅくん」

 「そっかあ。でも、誰のか分かる?」

 「ここじゃ暗くて分かんない。外で見よう」

 

 とんとん拍子に手掛かりを見つけた牟児津は、さっそくその髪を明るい場所で検める。細いながらもさらさらと手触りがよく、強い光の中ではキラキラと光るようだ。何より明るい日の下にさらされたその髪は、それが誰のものかを如実に物語っていた。

 

 「これ……あの人のだよね?」

 「うん。間違いないと思う」

 

 牟児津と瓜生田は顔を見合わせて頷く。二人ともこの髪の毛から同じ人物を連想したようだ。分からないことはまだいくつかある。だが、先に犯人が誰かはっきりした。

 

 「やったねムジツさん。これで忍者の正体が分かったよ」

 「うん。後はあの人が犯人だった証拠を集めて納得させるだけだけど……ううん」

 

 この髪の毛が本当に犯人のものか、犯人のものだとして今日の昼休みに落としたものか、証拠能力の不安は挙げればキリがないが、二人には決定的な証拠に思えた。ともかく牟児津は犯人のを突き止めたのだが、その顔は浮かない。

 

 「でもさあ、うりゅ。この人が犯人だとして……やっぱ、木鵺さんもおかしいよね?」

 「うん?盗まれたものを言わないこと?」

 「それもだし……いま思ったんだけど、なんで木鵺さんは踊り場をスルーしたんだろ?」

 

 屋上から校舎内へと続くドアに目をやり、牟児津は重たい唇を動かした。

 

 「犯人追いかけて来て、屋上にいなかったら普通踊り場見るよね?」

 「……ああ、そうだね。まあ木鵺先輩はムジツさんを犯人だと思ってたけど……私ならいちおう踊り場も確認するかな」

 「だよね。なんか……踊り場があることに気付いてないみたいじゃん?」

 

 階段を上がってくれば、踊り場の存在は当然分かることだ。むしろ暗がりの中に大きな道具が頭を突き出している異様な雰囲気は、屋上へ続くドアよりよっぽど目を引く。牟児津は階段の下から階上を見上げたり、実際に走って上がったりして確かめてみるが、やはり踊り場は視界の端で大きな存在感を放っている。これに気付かないなどということはない。確かめれば確かめるほど分からなくなってくる。

 

 「あー、またこの感じだ。手掛かりがあればあるだけこんがらがるやつ」

 「そうだねえ。他に手掛かりが残ってそうなところってあるかな?」

 「いや……部室?でもあそこは取り調べしてるし……」

 「あっ!いたいた!おーいムジツ先輩!瓜生田さん!」

 

 犯人の正体が分かっても、それ以上に木鵺の行動や態度に謎が多すぎて牟児津は頭を悩ませる。たとえ証拠を集めて犯人を追い詰めたとしても、木鵺の妙な態度を理由に言い逃れられる可能性がある。

 牟児津は本能的に理解していた。人を理屈で追い詰めるには、絶対に覆しようのない根拠と、言い逃れの隙を与えないことが必要なのだと。今はまだ、その隙が大きすぎる。

 そんな、決定的な証拠を手にしながらも足踏みせざるを得ない牟児津と瓜生田のもとに、陸上部から逃げ出した益子がやって来た。

 

 「お疲れ様です!不肖、実耶ちゃん、色々調べて参りましたよ!」

 「ありがとう益子さん。陸上部の方はもういいの?」

 「木鵺先輩が逮捕されたってんでもうてんやわんやですよ。でもね、部長さんも部長候補の皆さんも下亀先輩も、みーんな木鵺さんの潔白を涙ながらに訴えて……なんかこう、胸が熱くなっちゃいましたよ」

 「そう……」

 「気になるものもあったんで見てほしいんですけど」

 

 そう言って益子は、メモ帳とスマートフォンを取り出した。メモ帳には取り調べで聞き取った内容と、木鵺のスポーツバッグの中にあったものの一覧が、スマートフォンにはバッグに覚えた違和感の原因を映した写真がそれぞれ記録されていた。

 

 「いや〜、こんなに込み入った事件は入学して初めてですよ!ジャーナリスト冥利に尽きるってもんです!」

 「なんだろうね、この跡。何かの箱でも入れてたのかな」

 「携帯ようかんとかこんなくらいだよ」

 「それはこの街でムジツさんしか買ってないから」

 「そこまで珍しくねえわ!」

 「こうした些細な写真から真実が明らかになったりするんですよね〜!それにほら、事細かにメモも取りましたよ!デキるジャーナリストってのはこういうことです!」

 「木鵺先輩ってスポーツドリンクでお弁当食べるんだね」

 「米と合わなそ〜。変な好みしてんね」

 「ムジツさんにだけは言われたくないと思うよ」

 「私は甘党なだけで別に変じゃないから!うりゅこそ変でしょ。目玉焼きになにかけんの」

 「サバ缶」

 「そんなやつこの国でうりゅだけだよ!」

 「お姉ちゃんもサバ缶派だもんね」

 「そんなのりこねえがうりゅに合わせてるだけだね!りこねえに感謝しろ!」

 「感謝してますぅー。毎日電話してますぅー」

 「私、置いてけぼり過ぎません?」

 

 集めて来た手掛かりを見て推理が進むことはなく、起きたことと言えば牟児津と瓜生田のしょうもないじゃれあいだった。

 

 「いいですか?木鵺先輩は盗まれたものを頑なに明かさないせいで狂言を疑われてるんです!こんなことしてる間にも事件がそんなオチになっちゃうかも知れないんですよ!いいんですか!?」

 「私は別にそこんとこは困らないけど……」

 「それでも名探偵ですか!」

 「名でも探偵でもねえっつってんだ!」

 「だけど事件解決しないとムジツさんも大変だから、やることは同じだよね」

 「はあ……なんでこの期に及んで木鵺さんのせいで足止め食らってんだか……」

 

 今まで巻き込まれた事件と違って、今回ははっきりした被害者がいる。なのにその被害者が事件解決に非協力的なせいで、今まで以上に苦労を強いられている。ため息を吐きながら、牟児津は益子が写真に収めた木鵺の顔を恨めしそうに見た。風紀委員に拘束されて驚く木鵺が映っている。

 

 「ホントにさあ……勘弁してよ……」

 

 木鵺の手荷物を見る。遊びや余裕を感じない必要最低限の荷物だ。陸上に心血を注ぐストイックさも、スポーツドリンクで弁当を食べる共感しがたい味覚も、自分の考えを曲げようとしない頑固なところも、考えれば考えるほど、木鵺という人間が分かりそうで分からなくなってくる。不自然に見えてくる。

 だから、牟児津はその違和感に気付いた。必要最低限の荷物……本当にそうか?ここにあるものは、本当にそれ以上減らしようのないものか?本当にそれだけで全てを満たしているのか?そんなはずはない。()()()()()()()()()()だ。盗まれたものが欠けているはずなのだ。

 

 「……」

 「ムジツ先輩?」

 「しーっ。いま、ムジツさん集中してるから」

 「えっ?いま?こんなシームレスにスイッチ入ることあります?」

 「ムジツさんはそういう人だから。こっちが察してあげないといけないんだ。赤ちゃんだと思って」

 「やだなあ、こんな赤ちゃん」

 「うるさいなあもう!」

 

 大海原に浮かんだひとつの泡のように、少しでも気を逸らせば見失ってしまいそうな、今にも弾けて消えてしまいそうな、微かなひらめき。牟児津はそれを逃さないよう捕まえて、その正体を探り、手掛かりをかき集める。それが何を意味するのか、何を語るのか、何をその内に秘めているのか。見出した可能性が形を得てつながり、乱雑に散らばっていた意味同士がひとつの論理のもとに整列していく。

 

 「……スポドリ、必要最低限の荷物……じゃあこれは?ポケットの跡と……それは確かめなきゃ。だったらなんの……?」

 

 

 思い出す。今日1日の出来事を全て。

 

 昼休みに屋上で木鵺に飛びかかられたこと。そのとき木鵺はどうしていた?どうして踊り場を見ずに牟児津を犯人と決めつけた?

 

 放課後すぐ木鵺に部室まで連行されたこと。ミーティング中、木鵺はどうしていた?あのとき、なぜ瓜生田を無視しようとした?

 

 競技場で木鵺の練習する姿を眺めていたこと。風紀委員に逮捕されたとき、木鵺はどうしていた?逃げようと思えば逃げられたはずなのに、なぜ逃げる素振りも見せなかった?

 

 なぜ盗まれたものを明かさない?

 なぜ必要最低限の荷物の中に()()がある?

 なぜ学園内最速の足で犯人に追いつけなかった?

 

 

 「……んん」

 「まとまった?」

 「まとまりは、した。でも根拠がないよ。いくつか調べないと。益子ちゃん」

 「え?あっ、はい!」

 

 いきなり、そして初めて牟児津に名前を呼ばれた益子は、先ほどまでと明らかに雰囲気が違う牟児津の表情に思わず背筋が伸びた。牟児津は特にその様子には触れず、淡々と指示を出す。

 

 「木鵺さんの荷物の中で……これを調べてみて。私の予想も書いといたから、合ってたら連絡して」

 「は、はい!」

 「あと犯人の忍者頭巾についても」

 「わあ……なんかムジツ先輩、ホントに名探偵然としてきましたね!」

 「冗談じゃないってば。いいから、それお願いね」

 「かーしこまりゃーしゃー!」

 「すごい勢い」

 

 牟児津にお使いを頼まれ、益子は階段を転げ落ちるように飛び出していった。瓜生田は、牟児津に尋ねる。

 

 「ムジツさん、私たちはどうするか決めてる?」

 「うん」

 「そっかあ。どうするの?」

 

 牟児津は屋上から、競技場を見下ろした。まだ部活は続いており、部長候補のメンバーも練習を再開していた。牟児津は、()()()()()()ことを確認してから校舎内に戻った。

 

 「()西()先生のとこに行く」



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第4話「勘弁してくれぇ〜〜〜!!」

 

 日は傾き、今日も学園の一日は終わりに近付いていく。木鵺に口を割らせようと執念深く取り調べを続けていた風紀委員だったが、そろそろ時間の限界を迎えようとしていた。木鵺の逮捕は生徒の通報によらない、風紀委員独自の判断によるものだ。逮捕とは言うものの、できることは通報によるそれとは違い、緊急時の風紀維持を目的とした特権的活動はできず、取り調べは停滞していた。未だ頑なに何も認めず、何も語ろうとしない木鵺に、川路は頭を抱えていた。

 その停滞を打ち破るように、部室のドアが勢いよく開かれた。全員が入口に目を向ける。そこに立っていたのは、白い頭を角刈りにした不貞不貞しい顔立ちの男性だった。えらが両側に突き出して輪郭を角張らせ、潰れた鼻と垂れたまぶたが、本人の感情とは無関係に、不機嫌そうな表情に見せている。

 

 「宇西先生……!」

 

 木鵺がつぶやく。それは、陸上部顧問の宇西(うさい) 望人(ぼうと)だった。突然現れた宇西の強面な人相に、風紀委員は身を強ばらせる。唯一、川路だけは落ち着いて、しかし同時に警戒して尋ねた。

 

 「なんでしょうか。今は風紀委員が取り調べ中です」

 「帰んな。もういいだろ」

 「もういいとは?我々は風紀委員として正当な活動の下で取り調べを───」

 「ここでにらめっこしてても解決しねえのは分かってんだろ?俺が諦める理由になってやるってんだよ」

 

 立ち上がった川路の目線は宇西より上にある。それでも、そのがに股男が放つ眼力と有無を言わせない雰囲気、そして川路たちの状況を見抜いている言葉に、川路はたじろいだ。今ならたとえ帰ったとしても、それは諦めたのではなく、教師である宇西に指示されて仕方なく捜査を切り上げたと言うことができる。現実的な落とし所を提示され、川路は木鵺を一瞥し、悔しげに歯を食いしばった。

 

 「今日はもう下校時刻が近い。他の陸上部員の帰りまで遅らせるわけにはいかないので、取り調べはここまでにします。明日以降、授業時間以外の木鵺の身柄は風紀委員で預かりますが、ご承諾いただけますね」

 「構わねえよ。お前らの頓珍漢な言い分に納得するやつが残ってたらな」

 「……ッ!行くぞ!」

 

 最後の抵抗とばかりに、川路はあくまで正式な捜査協力依頼として宇西に確認を取る。だがそれすらも宇西は軽く受け流し、逆に風紀委員の迷走ぶりを笑った。川路は顔を真っ赤にして、他の風紀委員を全員連れて部室を出た。

 残された木鵺は、宇西の顔を呆然と見ていた。宇西以外の人間は一切いなくなってしまった。宇西はのっそり部室の中に入ると、木鵺の正面に立って半目で見下ろした。その顔から、先ほどの薄ら笑いは消えている。

 

 「ばかやろう」

 

 短く、宇西は言った。

 

 「隠して続けられるほど甘かねえっつっただろうが。部も風紀委員も関係ねえ生徒も巻き込んで散々迷惑かけやがって」

 「……すみません」

 「迷惑かけたって自覚があんのか?」

 「はい。自覚は、してます……」

 「その気持ちがあるんなら、話してえことがあるらしいから聞いてやれ」

 「え……?」

 

 

 「木鵺さん。木鵺さんは……私が見えてないんだね」

 

 

 そこにいるはずのない声がした。自分のすぐ近くで。驚き、反射的に声のした方に目を向ける。

 正面に立っている宇西の、すぐ隣。木鵺の斜め向かいに、牟児津が立っていた。その目は確信の色を帯びている。木鵺は声がするまで、そこに牟児津がいることに全く気付いていなかった。それを自覚したとき、木鵺は理解した。牟児津は、敢えてそこに立ったのだと。

 そこは、たとえ正面に目を向けていても、その存在に気付くであろう場所だ。意識しなくても視界の隅に映るはずの場所だ。木鵺が、()()()()()()()()()()()()

 

 「視野が狭まって、正面の限られた範囲しか見えなくなる病気……心因性視野狭窄(きょうさく)っていうんだってね。宇西先生に教えてもらったよ」

 「そんな……!?なんで……!?」

 「俺が話す前からこいつは分かってたよ。俺は答え合わせして正しい病名を教えただけだ」

 「ウ、ウソ……!ウソだ!そんなの、分かるわけ……!」

 「だって木鵺さん。周りが全然見えてなかったから」

 

 当惑する木鵺に、牟児津はあくまで冷静に言う。

 

 「ここでミーティングしたとき、後ろでうりゅが手を挙げたのに、そのまま話し続けようとしたでしょ。わざと無視したのかと思ってたけど、木鵺さんは部室の隅っこにいたうりゅが見えてなかったんだ。だから部長さんに止められて初めて、うりゅが手を挙げたことに気付いた」

 「……!」

 「風紀委員に逮捕されたときもそう。飛び出してきた川路さんにぶつかる寸前まで気付いてなかった。川路さんが真正面に来るまで見えてなかったんでしょ?その後に取り押さえられたときも、周りにいる風紀委員が見えてなかったから、いきなり取り押さえられて驚いた。競技場以外は何があるか分からないから危なくて走れない。だから逃げるに逃げられなかった」

 「うっ……!」

 「犯人を追いかけて屋上まで来たとき、木鵺さんには私しか見えてなかった。だから私を犯人だって決めつけた。本当はそのとき、うりゅも一緒にいたのに。それに屋上のドアのすぐ横にあった踊り場も、見えなかったから気付かなかった。だから木鵺さんは、犯人が屋上にいるはずだって思い込んだんだ。そのとき、横にある踊り場に犯人が隠れてたのに」

 「くうっ……!な、なんで……そんな……!」

 「木鵺さんの荷物を調べさせてもらったよ。勝手なことしてごめん。でも、そのおかげで全部分かった」

 

 牟児津はそう言って、益子から送られてきたポケットの写真と手荷物リストを取り出した。

 

 「木鵺さんの持ち物リストを見て、最初は必要最低限の物しか入ってないんだと思った。でもよく見たら、この小さい水筒の意味が分からなかった。予備にしては小さすぎる、でも木鵺さんが意味なく入れてるとは思えなかった。だからきっとこれは……薬を飲む用の水だよね?」

 「な、なんでそこまで……!?」

 「カバンのポケットに四角い跡が残ってたよ。小さい箱型の物を入れてたような……これ、薬が入ってたんじゃない?」

 

 益子から水筒の中を調べた結果の連絡があったとき、牟児津は一連の推理を確信した。なんでもスポーツドリンクを合わせる木鵺が、敢えて別に水筒を用意する理由。それが予備ではないとするなら、考えられるのはひとつだけ。スポーツドリンクでは合わせられないものを食べるか飲むかするためだ。最も可能性が高いのは、薬だろう。

 

 「そんな……全部、それだけのことで……?」

 「ごめん」

 

 目の病のこと。そのために飲んでいる薬のこと。ひた隠しにしてきたことを全て暴かれ、木鵺は愕然とした。牟児津は、木鵺の秘密を無理矢理暴いたことについて謝罪の言葉を述べる。しかし木鵺は、謝られる意味が分からなかった。全てを暴かれた今、謝るべきは自分だと感じていた。

 

 「なんで、あんたが謝んの……!謝んのは私じゃん……!私が……言わなかったから……!あんたも、部のみんなも……!巻き込んで……!わ、私が……言えば……!」

 「勝手に知ってごめん。木鵺さんは、知られたくなかったんだよね。目のこと。だから、薬を盗られたことを風紀委員にも言えなかったんだよね」

 「うん………………、うん」

 

 ここまで事態が大きくなったのは間違いなく、自分が口を閉ざしていたからだ。秘密を守ろうと躍起になったせいだ。その秘密が暴かれたとき、もはや閉ざした口は役目を失い、途切れ途切れに自責の念を吐き出すことしかできなくなった。涙をこぼし、鼻をすすり、やっとの思いで言葉を吐き出す。固く閉ざしていた心から、とめどなく言葉が溢れ出してくる。

 

 「わ、わたしは……!ただ……まけたく、なくて……!!あの人の、い、いもうとだって……言われるのが…………くやしくて……!!なのに……!それだけなのに……!!」

 「こいつの目の病気はな、心因性っつって精神的なもんに原因がある。自分で自分を追い込みすぎてんだ。しっかり休んでストレスの原因を取り除けば治るんだが、なかなかそうもいかなくてな」

 「お姉さんのこととか大会のこととか、色々重なって余裕がなくなってるんですね」

 

 木鵺は、部長の座に固執していた。それは姉へのコンプレックスや、そこから生まれた焦りや強迫観念に突き動かされていたものだった。その強すぎる感情は同時に、視野狭窄という重い枷を木鵺に与えたのだった。

 牟児津はすすり泣く木鵺の肩にそっと手を置き、そっと尋ねる。

 

 「木鵺さん、もう隠してることはないね?」

 

 木鵺は無言だ。しかし、はっきりと頷いた。

 

 「そしたら、これから私は薬を盗んだ犯人を呼び出す。木鵺さんはどうする?」

 「……わ、たしは……ちゃんと、最後まで付き合う。私は、そうする責任があるから……」

 「うん、分かった」

 

 それを聞いて、牟児津はポケットからスマートフォンを取り出した。調べ物をさせていた益子に連絡し、この後すべきことを伝える。不必要な絵文字だらけの返事を確認し、牟児津たちは犯人がやってくるのを待った。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 陸上部は一日の活動を終えて、片付けを始めている。部長候補のメンバーも、暗くなってから走るのは危険なため片付けを手伝う。そこへ、跳びはねるように軽快な足取りで益子がやって来た。片付けをしている生徒の1人に声をかける。

 

 「すみません!ちょっとお時間いただきたいのですが!」

 

 声をかけられた生徒は、片付けを他の生徒に預け、益子について行く。トラックを離れてスタンド席の横を通り、部室棟の前までやって来た。益子は陸上部部室のドアを開けて、その人物を中へ促す。

 

 「長くなるので、座ってお話ししましょう。ささ、狭いところですがどうぞ──えっ、ああ、私が言うことじゃなかったですね、すみません」

 

 厚かましい態度を指摘され、益子はへらへら笑った。どうにも不自然な様子に、その人物は警戒する。だが、ここで足を止め引き返す理由はない。そうすれば不自然なのは自分の方だ、そう考え、促されるまま部室に入った。その後に続いて益子が部室に入り、ドアを閉めた。かちゃん、とカギがかかる音がした。

 

 「ムジツ先輩!お呼びしました!」

 

 部室から出る唯一の出口を塞いだ益子が、中で待っていた牟児津を呼んだ。ざくろ色の髪を揺らして牟児津は立ち上がる。隣には赤らんだ目を少し見開いている木鵺、反対側の隣には瓜生田がいる。呼び出された人物の真後ろには益子が、そしてすぐ隣では宇西がいかめしい顔をして立っている。

 瞬間に理解し、その人物の全身が汗ばんだ。言い訳も逃走も考える隙を与えず、牟児津が口を開く。

 

 

 

 「昼休み、ここで起きた窃盗事件の犯人、白い忍者の正体はあなただよね。音井さん」

 「……!?」

 

 

 

 確信のこもった指摘に、音井は息を呑んだ。思わず後退りしそうになる足をぐっと堪え、動揺を悟られないように振る舞う。焦ってはいけないと、まだ冷静さの残る頭で考えた。

 

 「なんですのいきなり……?わたくしが、忍者の正体?あの、先ほども申しましたけれど、根拠もなしに人を泥棒扱いするのは感心しませんわよ」

 「根拠ならあるよ。今から、それを聞いてもらう」

 「なんのためにそんなことを……」

 「あなたに、自分が犯人だって認めてもらうためだよ」

 

 冷静に、強気に、平常心を保ちながら、音井は牟児津の指摘をいなす。しかし牟児津もまた、冷静に、強気に、平常心で音井を追及する。音井が意識的に取り乱さないようにしているのに対し、牟児津は取り乱す余裕さえない。どちらの緊張の糸が先に切れるのかは、誰にも分からない。

 

 「音井さん、言ってたよね。比べたことはないけど、足の速さなら木鵺さんにも負けないって」

 「え、ええ……ご本人や宇西先生がいらっしゃる前で申し上げるのは恐縮しますけど、確かに言いましたわ。それがなんですの?」

 「犯人はここから屋上まで、木鵺さんから逃げ切った。陸上部の中でだって、そんなことができる人は限られてるよね」

 「それはそうですが、わたくしはあくまで陸上コースを走る前提でそう申し上げたのであって、段差や曲がり角がある校舎内を走ることなんて、全く想定しておりませんでしたわ。単純な足の速さだけでわたくしが犯人だとおっしゃるつもりなら、申し訳ありませんが、浅はかと言わざるを得ませんわよ」

 「他にもあるよ。犯人は木鵺さんから逃げながら、屋上への階段を上がった。だから木鵺さんは、犯人が屋上に逃げたと思い込んで、そこにいた私を犯人だと勘違いした。だけど本当はそのとき、犯人は屋上手前にある踊り場の、防災用品置き場に隠れてたんだ」

 「何を根拠にそんなことを」

 「防災用品置き場は普段人の出入りがないから、床にも備品にも埃がたまってるんだけど、犯人が逃げ込んだ道と隠れた避難はしごの箱の周りだけ埃がなくなってたんだ。つい最近、誰かがそこを通った証拠になるよね」

 「それが犯人の痕跡だなんて……況してやそれがわたくしであるなんて、どうして言えますの!」

 

 音井が声を荒げる。牟児津はまだ口調を乱さない。少しずつ、少しずつ、均衡が崩れていく。せめぎ合う緊張感の片方が、他方を飲み込んでいく。

 

 「これ、分かる?」

 「……?よく見えませんわ。なんですの?」

 「髪の毛だよ。音井さんの自慢の髪と同じ、蒼い色の」

 「……!」

 

 牟児津が取り出した一本の髪。蛍光灯の光を受け、深い蒼色にきらめいている。それが自分の髪だと気付いた瞬間、音井の顔色は明確に変わった。理性に支配されていた表情筋が、強い感情に引かれて歪む。牟児津はその髪をしまい、さらに追及を続ける。

 

 「犯人はジャージ姿で覆面を被って逃げてたから、木鵺さんをやり過ごした後、覆面を外して着替える必要があった。屋上だと人に見られるかも知れないから、踊り場で着替えるしかなかったんだ。髪の毛が落ちてるってことは、音井さんがそこにいた証拠になるよね?」

 

 そう牟児津が話す間に、音井の顔はたちまち元の平静を装った無表情に戻った。髪の毛の存在は音井をかなり動揺させたようだが、それだけで犯人だと認めるつもりはないようだ。

 

 「確かに証拠になるかも知れませんわね。もしそれが、()()()()()()()()()()()()()()()

 「どういうこと?」

 「青い髪をした方は、この学園には数多くいらっしゃいましてよ!たった一本の髪を見つけた程度で、他のどなたかのものである可能性をどうして無視できるのでしょうか!」

 「こんなに長くて艶のある髪は音井さんくらいだと思うけど。自慢の髪なんでしょ?」

 「お褒めに預かり光栄ですわ名探偵さん!ですが、もしかしたらわたくしと同じくらい髪を大切にされている方がいらっしゃるかも知れません。今は長さが違っていても最近髪を切られたのかも知れません。はたまたそれは人の髪ではなくヘアエクステンションかも知れません。そういった可能性を全て検証されましたの?どうにも先ほどからアナタのお話は、わたくしが犯人であるという結論ありきに聞こえますわよ!」

 

 それは、懸念していたとおりの指摘だった。犯人を特定する証拠として、たった一本の髪の毛では心許ない。特殊な科学捜査ができるならまだしも、一介の女子高生である牟児津がこの短時間でできることなど限られている。今や音井の顔は勝ち誇った笑みにあふれていた。髪の毛の証拠能力を論理的に否定できる理性と、自分を追及する相手に勝利したという感情とが、音井の口角を強く吊り上げていた。

 

 「……犯人はさ」

 「はい?」

 「顔を隠すために覆面をしてたんだよね」

 

 まだ、牟児津は表情を変えない。勝ち誇った笑みを浮かべる音井をじっと見つめている。

 

 「そんなものどうやって用意して、どこに隠したのか、ずっと気になってたんだ」

 

 牟児津が腕を上げる。ゆっくりと、指先で弧を描くように。

 

 「でも、用意する必要も隠す必要もなかった。犯人はそれを、堂々と私たちに見せてたんだ。私たちがそれを、覆面だと思っていなかっただけで」

 

 音も無く、真っ直ぐに、牟児津の指は、音井の胸元を指した。

 

 「そのシャツ。音井さんは犯行当時、それを覆面にしてたんだよね」

 「……は……?なっ……!?」

 「ロングシャツを被った後に袖を後ろで結べば、覆面の代わりになるよね。それに元々がシャツなら犯行後に着ちゃえば、誰もそれが覆面だなんて思わない。でも犯行時は他に着るものがなくなっちゃうから、ジャージを着てたんだよね。制服と違ってジャージなら、みんな同じものを着てるから」

 「な、なにを……!」

 「でもそれは致命的なミスだよ。この暑い時期にロングシャツを着てるのなんて、陸上部では音井さんだけなんだ」

 「うぅっ……!くうぅ……!」

 

 音井の口から声が漏れる。言葉にならない悔しげな声だ。もはや言い逃れる術はないように思えたが、まだ音井の心は折れていない。

 

 「このシャツが……証拠?そんな世迷い言で誰が納得なさいますの?わたくしが!このシャツを覆面にしたという証拠はありますの!?犯人が木鵺さんから逃げ切ったという事実も!アナタが拾ったその髪の毛も!覆面とこのシャツも!どれ一つ犯人がわたくしであることの証明にはなり得ません!そうでしょう!?どれもこれもわたくしにつながるよう恣意的に解釈しているに過ぎないではありませんか!」

 「だけど、全部の証拠につながる人は音井さんしかいない。犯人だっていうには十分な根拠だと思うけど」

 「いいえ!断じて認めませんわそんなこと!だいたい、風紀委員は木鵺さんを取り調べていたのでしょう?彼女に何か後ろ暗いところがあるからそうなったのではなくて!?そんな方の証言を安易に信じることこそ危険だとは思いませんか!?そもそも白い忍者など本当にいたのですか!?」

 「いたよ。証拠が残ってる。なにより、木鵺さんがはっきり見たんだ」

 「()()()()()()!?よくもそんなことをぬけぬけとおっしゃるのですね!目がほとんど見えていないくせに!!」

 

 

 「……ぁ」

 

 

 部室から怒声が消え去る。反響した自分の言葉が耳に入り、音井はその意味と、()()()()()()()を理解した。もはや誰も口を開く必要はなかった。その言葉が音井から出るはずがないのだ。出てしまえばそれは、いくつかの事実を経由して、音井の犯行を決定づけるものになるのだから。

 

 「犯人は木鵺さんのカバンから薬を盗んだ。そんなことをするのは、木鵺さんの病気のことを知ってる人しかいないんだよ」

 

 こうなることを予見していたように、牟児津は落ち着いていた。決定的な根拠を自ら露呈してしまった音井は、部屋中に視線を泳がせる。そこにある全ての視線は自分を向いている。全ての出入口を塞がれている。全ての反論の道は、たったいま自分が潰してしまった。思考を諦めた脳が途端に重たくなっていくのを感じる。折れた膝が冷たい床板を打つ。一言も発さずとも、音井はその全身で物語っていた。自ら犯行を認めてしまったことを。

 牟児津は、苦しそうに顔を歪ませる宇西を見た。

 

 「後は任せます。宇西先生」

 

 宇西はため息を吐き、固く組んでいた腕を解いた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 日の落ちた競技場は薄い闇に覆われ、漂う空気は重く息苦しかった。部長候補のひとりであり、木鵺に比肩する実力を有していた音井が、窃盗事件の犯人として風紀委員に逮捕された。代わりに木鵺は無罪放免となったが、一連の事実は陸上部内に強いショックを与えた。全ての事情を知る宇西から、木鵺の目の病気のことは伏せつつ詳細な経緯が語られ、数名の部員を残しその日は解散となった。

 スタンド席には木鵺と宇西、部長の家具屋、南良刻と下亀、そして牟児津ら3人が残っていた。木鵺は、改めて宇西と家具屋に頭を下げる。

 

 「ご迷惑おかけしました。部長も先生も、私のことを心配してくれてたのに、それを全然分かってなくて……意地張って、本当にすみませんでした」

 「ああ。私も、木鵺には謝らないといけない。正直、お前に少し遠慮していた。お前は才能があるし、自分で努力ができる人間だ。私がその努力に水を差してしまわないか……不安だった。だから、お前がとっくに限界だったことを分かっていながら、きちんと助けてやれなかった」

 「そんな……」

 「家具屋は失敗に対する覚悟がねえ。木鵺は人の話を聞く余裕がねえ。精神が未熟じゃベストパフォーマンスは出せねえんだ。そこんとこ肝に銘じとけ」

 「は、はいっ!」

 「だがまあ、今回のことは俺の監督責任だ。申し訳なかった。こっちでやるべきことはやるから、お前ら、今はとにかく休め。遅くなる前に帰れよ」

 

 互いに謝る家具屋と木鵺をまとめて宇西がまとめて説教し、そして自分もまた謝罪した。最後に暖かい言葉をかけ、宇西は踵を返してスタンド席を降りて行った。このあと、音井がしたことについて始末をつけなければならないのだろう。その足取りは重たそうだ。

 競技場から出る前、部員たちから少し離れた場所にいた牟児津に、宇西は声をかけた。

 

 「今日はうちの部員がずいぶん迷惑をかけた。その上、あんなことまでして始末もつけてもらった。本当に申し訳ない」

 「い、いやあそんな……まあ、はい……」

 「家は遠いのか?俺は今日帰れそうにねえから、他の先生に送ってもらうよう頼んでやるぞ」

 「や、や、そこまでは……」

 「大丈夫ですよ〜。これくらいの時間に帰るのは慣れっこなので。家もすぐですし」

 「そうか。じゃあ……気を付けてな。本当に助かった。ありがとう」

 

 相変わらず不貞不貞しくいかめしい顔つきだが、牟児津に向けるその顔は、ひどく疲れているように見えた。歩いて行く背中を見送り、牟児津たちはこのあと待ち受けているであろう宇西の多忙さに同情した。

 宇西が去って行ったあと、今度は木鵺が牟児津に声をかけてきた。スタンド席にあった荷物を片付け、自分のカバンを提げている。その後ろでは南良刻と下亀が、心配そうな顔を木鵺に向けていた。

 

 「あ、あのさ……」

 

 木鵺はバツが悪そうにうつむいていたが、意を決したように息を吸って牟児津の目を見た。

 

 「……牟児津さん。その、色々と迷惑かけて、本当にごめんなさい。先生に言われたとおり、私、余裕がなかった。周りのみんなが敵に見えて、人に頼ったり信じたりする余裕がなくなってた。そのせいで牟児津さんを巻き込んで、疑って、こんな遅くまで付き合わせちゃって……いくら謝っても足りないと思うけど……本当、ごめんなさい!」

 「や……そ、そんな──」

 「牟児津さん!木鵺さんを責めないであげて!木鵺さんが追い詰められてたのは、私たちにも責任があるから……私たちがもっと相談に乗ってあげられてれば……!」

 「自分たちも一緒に謝ります!だから、木鵺さんを許してあげてください!」

 「い、いや、ちょっと待ってって!別に謝り足りないことないから!私は誤解が解ければそれで良かったんだし!」

 

 木鵺たちの真摯な謝罪に、牟児津は猛烈な後ろめたさを感じた。風紀委員が木鵺を逮捕したとき、自分はそのまま木鵺を身代わりにして逃げようとした。そのくせ事件解決の功労者として頭を下げられることが、申し訳なくて堪らなかったのだ。もちろん、それは牟児津と瓜生田だけの秘密である。

 

 「いや、自分でこんなこと言うのもなんだけど、どんだけ怒られても当然だと思ってる。犯人扱いもしたし、部室にもむりやり連れてきたし、解決するって言ってくれたのにちゃんと協力しなかったし……」

 「うん、確かにそう言われるとぉ……これは私、怒ってもいいような気が……怒ってもいいかも……怒ってもいいのか?いや、怒るとしたら音井さんに怒ればよかったんじゃないか?」

 「ムジツ先輩、なにぶつぶつ言ってるんですか?」

 「いやあ……木鵺さんにも木鵺さんの事情があるわけだし、その原因が木鵺さん自身にあるとしても、なんかそれって木鵺さんに言ってもしょうがないんじゃないかと思ってさ。私だったらそれで怒られても、私だって好きでそうなってねーし!って思うよなあ。それに、なんかここで怒るのってめっちゃかっこ悪くない?どう思う?」

 「いや、私にきかれても……」

 「うりゅ、どう?」

 「どうだろうね。でもムジツさんのそういうところ。私は好きだよ」

 

 怒るべきか怒らないべきか、それを怒られるべき木鵺に尋ねる時点で、既に牟児津は怒ってなどいないことが明らかだった。問いかけられた瓜生田は、質問には肯定も否定も返さず、牟児津が悩むこと自体を肯定した。その回答が余計に牟児津を混乱させたのか、ますます頭を抱えてしまった。

 間が持たなくなった木鵺たちは、牟児津の後ろにいた瓜生田と益子を見て、頭を下げ直した。

 

 「え、えっと……瓜生田さんと益子さんも、巻き込んでごめんなさい!」

 

 いっそ怒鳴られた方が気持ちの整理がつく。非難され責められた方がケジメを付けられる。そう期待して頭を下げた木鵺だが、それも外れた。瓜生田と益子は互いに顔を見合わせ、からっと笑いながら答えた。

 

 「巻き込むだなんてとんでもない!ジャーナリストは自分から事件に巻き込まれに行くものです!むしろこんな特ダネに巡り会えたのはラッキーと言う他ありませんよ!あ、ご心配なく。ちゃんとプライバシー等々には配慮して記事にしますので!」

 「私も全然構いませんよ。初めてのことじゃないですから。それに、全部明らかにするって宣言しちゃいましたからね」

 「人の名前でな!」

 「まあいいじゃん。ムジツさんと私はいつも一緒にいるんだから」

 

 この三人は、とことんまで自分を責め立ててはくれない。なじったり、叱ったり、罵ったりしない。この場限りの安易な清算で終わりにすることを許してはくれない。そんな相手に対して、真に謝罪の意を示す方法など一つしかない。

 それは、変わることだ。過ちを犯した自分を反省して、同じ過ちを繰り返さないことだ。そうすることでしか、この三人にかけた迷惑を清算する方法はない。そうすることでしか、木鵺は今回の事件を乗り越えられない。

 

 「厳しいなあ……」

 

 木鵺は、熱くなる目頭を押さえてつぶやいた。南良刻と下亀は、じゃれ合う牟児津たちを見てぽかんと口を開けているばかりだった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「と、いうのが事の顛末です」

 「陸上部エースに追われ忽然と姿を消した謎の白い忍者……摩訶不思議なそのトリックにはエースが抱えるある秘密が関わっていた……!次期部長の座を巡る陸上部内の人間関係、そして旧友たちの熱い想い……!深まる謎の全てを暴き犯人の正体を白日の下に晒したのは伊之泉杜学園が誇る赤い名探偵!牟児津真白!」

 「いかがでしょう部長!」

 「いいねえ、いいぞ益子くん!早速記事をまとめてくれ!今日の昼休みに発刊だ!」

 「了解です!」

 「いいわけあるか!誰が名探偵だ!」

 

 まだ登校している生徒も少ない朝の学園の中でも、さらに人の少ない文化部部室棟。カビとインクの臭いに包まれた新聞部部室に、牟児津と瓜生田はいた。昨日の白い忍者泥棒事件について、自分ひとりで説明しきる自信がないと、早朝から益子に呼び出されたのだった。

 事件の翌日、益子は聞き取り記録や写真などの資料をまとめ、さらにどこから仕入れたのか新しい情報まで盛り込んだ記事の素案を作ってきた。曰く、音井が事件を起こした動機は、部長候補から木鵺を排除するためだったらしい。部長の座に固執するあまりに事件を起こすなど、牟児津には理解し難かった。

 一連の報告を聞いていた新聞部部長の寺屋成(じやなる) 令穂(れいほ)は、興奮した様子で益子に指示を飛ばす。牟児津がそれに待ったをかけた。

 

 「そんな書き方したら目立つだろ!やめろ!」

 「何を言うんですか!今回の事件もムジツ先輩の活躍で解決したんですよ!2年Dクラスの黒板アート消失事件然り、生物部のヒノまる誘拐事件然り、まさに八面六臂の大活躍ではありませんか!これはもう名探偵と呼んで差し支えないと思いますが?」

 「私はそんなつもりじゃないんだってば!好きで事件に関わってんじゃねえ!」

 「まあまあ、落ち着きたまえ。優れた探偵は自ら事件を呼び寄せるものだ。つまり牟児津くんには探偵の才能があるということさ。そういう意味でも名探偵と呼べるんじゃないかな」

 「認められてない前提から結論を出さないでください。相変わらず寺屋成先輩は油断も隙もないなあ」

 「瓜生田くんこそ、相変わらず耳聡いじゃないか」

 「おかげさまで、先輩のお話はよく聞くように心がけてますので」

 「聞いてるこっちがヒヤヒヤするから冷静に口喧嘩すんの止めてくんね!?」

 

 瓜生田と寺屋成は和やかに笑い合いながら激しい舌戦を繰り広げる。益子は寺屋成からゴーサインが出た勢いでみるみるうちに記事を清書していき、牟児津が記事内容に文句をつけるものの取り付く島もない。原稿用紙の上を滑る益子のペンを払い落とし、記事机にしがみつこうとする益子を羽交い絞めにして妨害する。

 

 「とにかく私は静かに過ごしたいんじゃあ〜〜〜!!名探偵なんて書き立てられてたまるかあ〜〜〜!!」

 「こっちだってこんなドデカいネタつかんどいてボツなんて死んでも御免なんじゃあ〜〜〜!!」

 「がんばれムジツさ〜ん」

 「応援はいいから手伝ってよ!」

 

 陸上部から逃げ回る生活を回避し、平穏な学園生活を取り戻すために事件を解決したのに、そのことを新聞部に持て囃されては本末転倒もいいところだ。名探偵などと書かれることは絶対に避けなければならない。一方の益子もジャーナリスト魂でなんとしてでも今回の一件で紙面を飾りたい。互いに譲れない戦いを見た寺屋成は、一計を案じた。

 

 「牟児津くん。良い機会だからここらで新聞部(うち)との契約についておさらいしようじゃないか」

 「はい?契約?」

 「おあーっ!いきなり離したらあぶらっははあああっ!!」

 「うわ、痛そ」

 

 寺屋成に意識を逸らされた牟児津は、益子をおさえていた腕から力を抜く。途端に益子がすっぽ抜けて、自分の記事机の下に頭から突っ込んでいった。聞くだけで痛そうな音がしたが、寺屋成と牟児津は目も向けない。

 

 「以前、君のクラスで起きた事件を解決するにあたり、君は私と約束したね。こちらから情報提供する代わりに、君の活躍を取材して記事にさせてもらうと」

 「そ、それはあのとき限りの話だったんじゃないんですか」

 「私もそのつもりだったさ。だがさっきの報告を聞く限り、どうやら今回も益子くんの入手した情報が、事件解決を大いに支えたそうじゃないか。部長としては鼻が高い話だね」

 「誰か私を支えてください……目が回っちゃって……」

 「益子さん大丈夫?あ、鼻血」

 

 ふらふら起き上がった益子に瓜生田が肩を貸す。そこらにあった古新聞で垂れてきた鼻血を拭い、また別の古新聞を丸めて鼻に突っ込んだ。

 

 「さて、前にも話したように、新聞部(うち)にとって情報はそれだけで価値を持つものだ。それを渡す以上は、そちらからも情報をもらわなければ割に合わないんだよ。情報の価値は扱う者によって変わるから、交換に値する情報かを計ることは難しい。だが幸いにも私たちの間には()()()()がある。似たようなケースであれば似たような取引をするのが、スマートなやり方だとは思わないかな?」

 「ええ……?えっと……そ、そりゃそうかも知れないけど……」

 「それとも君は、うちの部員が努力の末に手に入れた貴重な情報を、何の対価も支払わず一方的に搾取しようというのか?はっきり言ってそれは困る。うちの活動を根幹から揺るがす横暴と言わざるを得ないよ」

 「い、いやいやいや!なんか話がデカくなってますって!私は別にそんなこと言ってませんから!」

 「そうか。いやあそうかそうか。それを聞いて安心したよ。ということはつまり、今後も取引に応じてくれるということだね?」

 「とり……?え、そんな話してた?」

 「心配することはない。牟児津くんは目立たず静かに過ごしたいのだろう?それを邪魔するつもりはない。名前は出さないようにするし、その他関係者のプライバシーには十分気を付けるとも」

 「……まあ、それはそうしてほしいですけど」

 「よし!では交渉成立だ!さあ手を出して」

 「へ?は、はあ……」

 「はい、いただきましたー!」

 

 淡々と、しかし着実に積み上げていく寺屋成の詭弁に誘導され、いつの間にか牟児津は握手を交わしていた。途端に連続したシャッター音がしたかと思うと、瓜生田に支えられた益子が鼻血を垂らしながらスマートフォンのレンズを向けていた。スマートフォンの中には、寺屋成と牟児津が固い握手を交わす写真が収められていた。

 

 「では改めて牟児津くん。今後とも()()()()()()()()()()()()よろしく頼むよ!」

 「…………はあ?」

 「あ〜あ、やっちゃったねえムジツさん」

 「え?え!?なになになに!?いま私なにしたの!?」

 「早速今後の話だが、引き続き益子くんを番記者として側につけよう。いや礼はいらないよ。いちいち報告に来てもらうのは悪いからね。これはうちからのサービスだ。事件解決のためなら情報提供は惜しまないから、いくらでも使ってやってくれるといい」

 

 まんまと寺屋成にはめられ、牟児津は情報提供の代わりに自身の活躍を記事化することを恒久的に認める業務提携契約を結ばされてしまった。おまけに寺屋成の策略により、契約締結の瞬間を写真に収められている。一連の出来事を眺めていた瓜生田が、何が起きたかを牟児津に説明する。はめられたことを自覚した牟児津は、激しく叫びながら頭を抱えた。

 

 「というわけでムジツ先輩!今後とも末永〜いお付き合いになります!よろしくお願いしますね!」

 「んもぉ〜〜〜!!どいつもこいつもぉ〜〜〜!!勘弁してくれぇ〜〜〜〜〜〜!!」

 

 牟児津の叫びは、部屋の隅に積み重ねられた古新聞の隙間に吸い込まれて消えた。



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その4:大桜連続ポイ捨て事件
第1話「よしなさいよ」


 

 私立伊之泉杜(イノセント)学園には、巨大な桜の樹があった。

 幹は大人が10人手をつないでも囲むには太過ぎて、盛り上がった根はベンチ代わりになるほど頑丈だ。夏は葉を茂らせて日差しを遮り、秋にはカラフルな落ち葉の絨毯を敷く。厳しい冬の寒さを生徒たちと乗り越えて、春には満開の花で門出と入学を祝う。通称『大桜(おおざくら)』と生徒や教師たちに呼ばれている、学園生ならば誰でも知っているシンボルのひとつだ。

 グラウンドの隅、体育館のすぐ近くの場所に、大桜は植わっている。今は緑の葉を大量につけて、風が吹くたびにざわざわと騒がしく音を立てている。その樹は人間に限らず多くの生物を惹きつけ、営巣する鳥や樹液を求める虫たち、リスなどの小動物さえもその恩恵を受けている。その根元、人を支えられる程度には頑丈な根のひとつに、牟児津(むじつ) 真白(ましろ)は腰かけていた。

 高い位置で二つに結んだざくろ色の髪の下から大粒の汗が垂れる。半袖をさらにまくってほぼノースリーブにしたブラウスが、にじんだ汗を吸って肌にまとわりつく。牟児津は周りの目も気にせず、バサバサとベージュのスカートをあおいで、こもった空気を発散させていた。足元には丸々と肥えたゴミ袋が2つ転がっている。

 その牟児津の隣で同じように根っこのベンチに座るのは、空色の髪を結んでポニーテールにし、半袖のワイシャツに七分丈のスカートを履いた時園(ときぞの) (あおい)だった。牟児津と同じように汗だくで、満タンのゴミ袋を2つ持っている。

 

 「よしなさいよ」

 「だってあっちーんだもん」

 

 牟児津のはしたない姿に、時園は苦言を呈する。牟児津はお構いなしにスカートをあおぎ続ける。時園はそれを止めるわけでもなく、ふうとため息を吐いて汗をぬぐった。

 2人はクラスメイトであり、今週のゴミ当番でもあった。ゴミ当番とは、クラスで出たゴミをまとめて集積所に持っていく係で、クラス全員が輪番で務めている。高校の教室から出るゴミなので特別なものはないが、とにかく嵩張る上に量が多い。教室から集積所まで運ぶのは骨が折れる。

 

 「さ、休憩終わり。早く持って行きましょう」

 「待って待って。ちょっともう、さっぱりしたいから」

 「え?」

 

 そう言って、牟児津は懐をまさぐった。何が出てくるのかと思えば、小さな包みだった。半分は透明なビニール、半分は中が透けるほど薄い和紙でできた包みだ。その中には、ひとまわり大きくて透明な球体に包まれた黒い球体がある。どうやら和菓子のようだ。包みも菓子も透明感があるためか、なんとなく涼しげな印象を受ける。

 

 「なにそれ?」

 「塩瀬庵の期間限定新作和菓子『淡月(たんげつ)』だよ」

 「なにその日本刀みたいな名前」

 「かっこよくない?」

 「お菓子っぽくない」

 

 小豆の風味を重視した甘さ控えめのさっぱりしたあんこが、清涼感あふれる透明度の高い寒天に包まれている。あんこ菓子には渋い緑茶と相場が決まっているが、この『淡月』は後味すっきりでお茶がなくても食べられることを目指して制作された。

 というのが牟児津の説明だった。得意気に解説した後、牟児津は慣れた手つきで包みを開き、大口を開けて中身を放り込んだ。先ほどから所作のひとつひとつがはしたない。時園は、ふうんと鼻を鳴らす。

 

 「もうパクパクいけちゃって。気付いたら買い置きなくなってるくらい」

 「牟児津さん、そんなのいつも持ち歩いてるの?」

 「うん。時園さんもいる?」

 「……遠慮しとくわ」

 

 この暑い中で牟児津の懐に入っていた菓子を口にする勇気など、時園は持ち合わせていなかった。牟児津は『淡月』をじっくり味わったあと、よし、と気合いを入れたように立ち上がった。その拍子に『淡月』の包みが地面に転げ落ちる。

 

 「持っていこうか」

 「ええ。あ、落としたわよ」

 「おっと」

 

 時園に指摘されてから気付いたのか、牟児津は自分の足下を見た。ゴミ袋の口を緩め、それを拾おうとしゃがみこむ。

 

 「───ぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 「ん?」

 

 牟児津の動きが止まった。目の前にあるゴミを拾おうとした姿勢のまま、首だけを動かして辺りを見回している。早くゴミを持って行きたい時園は、じれったく感じて声をかける。

 

 「どうしたの牟児津さん?早く行こうよ」

 「なんか来る……!」

 「急になに?」

 「ぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおっ!!!」

 「はっ!?」

 

 気付けば、地響きがすぐ側まで近付いていた。しかもそれは雄叫びを伴っていて、こちらへまっすぐ向かってきている。時園がその存在に気付いたとき、()()は回避不能な距離まで迫ってきていた。

 

 「おおおおおおおおおおおおっ!!!せいそおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

 「どはああああっ!!?」

 

 ぶつかる、と感じた瞬間に目を閉じた。だが()()は牟児津と時園の間を突き抜け、すさまじい土埃を巻き上げながら通り過ぎた。猛烈な風圧とエンジン音、そして雄々しい叫び声に襲われて、時園は大きくよろめく。何が起きたか把握しようとするが、舞い上がる土埃のせいで目がまともに開けられない。にもかかわらず、すぐそばを通過した雄々しい声が土埃の向こうから飛んでくる。

 

 「ついに見つけましたっ!!逃げられませんよっ!!観念なさいっ!!」

 「な、なに……?だれ?」

 「私が誰か?この腕章とっ!!相棒を見てもっ!!同じことが言えますかっ!!」

 「見えないわよ!あなたが巻き上げた土埃のせいで!っていうか牟児津さんの声聞こえないけど大丈夫!?」

 

 声を聞いた限りなんらかのポーズを取っているらしいことは分かるが、それ以上のことは何も分からない。そして声すらも聞こえない牟児津に至っては無事かどうかも分からない。心配して声をかけるが、やはり牟児津からの反応はない。

 やがて土埃はおさまり、時園はやっと正常な視界を取り戻した。

 

 「むっ、牟児津さあああん!!?」

 

 晴れた視界で最初に目に飛び込んできたのは、何がどうなってそうなったのか、頭からゴミ袋に突っ込んで動かなくなっている牟児津の姿だった。ゴミ袋の中身が周囲にぶちまけられていて、なんとも無惨な有様である。時園は慌てて牟児津をゴミ袋から引っ張り出し、体についたゴミを払った。

 

 「ちょっと牟児津さん!?大丈夫!?」

 「なんで私がこんな目に……」

 「あーもう、ひどい。ちょっとあなた!何やってるの!クラスと名前は!」

 

 たった一瞬でとてつもない悲劇に襲われた牟児津を、時園は自分の服が汚れるのも厭わずに抱きかかえ、もう一度根っこのベンチに座らせた。自分のハンカチで牟児津の顔を拭いつつ、突っ込んで来た謎の生徒に誰何する。牟児津の悲惨な様子を目の当たりにしても、その声は変わらずはつらつと答えた。

 

 「正々堂々お答えしましょうっ!!私は1年Bクラスの大村(おおむら) (めぐる)!!環境美化委員ですっ!!そしてこちらは相棒のバキュームくん2nd(エディション)!!」

 「…………ちょっと言いたいことが多すぎて何も言えないわ」

 

 左腕にかけた緑の腕章をきらりと光らせ、その生徒は高らかに名乗った。横に撫でつけた前髪をヘアピンで留め、整髪料で横と後ろの髪をぴっちりと頭の形に沿って固めている。半袖のワイシャツにハーフパンツとスニーカーを履いていて、まるで男子のような出で立ちだ。

 足を大きく開き腰に手を当て、もう片方の手には大きな掃除機の吸引口を持ったノズルを構えている。そのノズルからはホースが伸びて、大村の足下にあるいかついデザインの本体につながっていた。大型バイクさながらのエンジン音が周囲に響き、まるで大村の気迫が大気を震わせているようだ。大村の紹介に呼応するように、その掃除機はいっそう大きくエンジンを吹かした。その音が気付けになったのか、ようやく牟児津がまともに声を発した。

 

 「なっ、なんなんだあんたは!いきなり突っ込んで来て危ないだろ!」

 「それはすみません。少々バキュームくん2nd(エディション)が張り切り過ぎました」

 

 大村が掃除機のエンジンを2度吹かす。

 

 「この通り、お詫びします」

 「ヤンキー腹話術か!ふざけんな!」

 「ふざけてなどいませんっ!!バキュームくん2nd(エディション)は、工学総合研究部が技術の粋を集めてカスタムした、バキュームくん(プロト)を超える先代バキュームくんをさらに超えたスーパー掃除機なんですよっ!!」

 「出て来る単語ひとっつも知らねーわ!バカにしてんのか!」

 

 激昂する牟児津に対し、大村は真面目な顔と大真面目な眼差しで頓珍漢なことを言う。ただならぬ雰囲気を感じた時園は、今にも手が出そうな牟児津をなんとか押さえ込み、大村に話を促した。

 

 「で、結局あなたはなんで私たちに突っ込んできたの。危ないからそんなこと止めなさい」

 「危険は覚悟の上。私はどうしてもそこの環境汚染犯を引っ捕らえなくてはならないのです」

 「かん……?なんだって?」

 「私は現場を押さえたのですっ!!とぼけても無駄ですよっ!!」

 

 大村は、岡っ引きが下手人に十手を向けるように、牟児津に掃除機の吸引口を向けた。

 

 「ここ最近、この大桜の下にゴミをポイ捨てしていた犯人はあなたですっ!!観念なさいっ!!」

 「ええ……なにそれぇ」

 

 大村の口から飛び出す言葉は、いちいち牟児津を混乱させるばかりだった。掃除機の名前やその辺りの云々はどうでもいいとして、大桜の下にゴミのポイ捨てがあったことなど初めて知った。牟児津のリアクションを見ても、おそらく初耳なのだろうということが分かる。

 

 「ゴミのポイ捨てって、ここ学園内よ?しかも大桜の下になんて、そんなことする人いるの?」

 「いるからゴミが落ちていたんでしょうっ!!このところ、ここを通るたびにゴミが捨てられていて私は憤慨しているんですっ!!ただでさえ、美しい学舎を汚すような行為は許せないというのに、よりにもよって環美委(※()()()員の略)のシンボルである大桜の下になんて……これは環境美化委員(うち)への挑戦ですっ!!見過ごすわけにはいきませんっ!!」

 「……牟児津さん、心当たりある?」

 「ないない!わざわざこんなとこに捨てないって!」

 

 大桜があるのは陸上トラックや体育館、グラウンド等に近い敷地の中心部だ。普段から昼休み以外は教室にこもりっきりで、放課後になればすぐ家に帰る牟児津がこんなところまで来る理由など、ゴミ捨て当番にでもならない限りない。大村の言い振りだと相当な頻度で捨てられているらしく、牟児津が犯人だと言うのはかなり無理があるように思えた。しかし大村はなぜか、確信の色を帯びた眼差しを牟児津に向けている。

 

 「あの、大村さん?牟児津さんは心当たりがないらしいけど、どうして牟児津さんが犯人だと思うのかしら?」

 「ついさっき、ゴミを捨てていたでしょうっ!!それが何よりの証拠ですっ!!」

 「ゴミ袋持ったやつがポイ捨てなんかするか!」

 「環境汚染犯の言うことになど聞く耳持ちませんっ。お耳チャックですっ」

 「もう突っ込む気にもならんわ……」

 

 たった一瞬の出来事を根拠に、大村は牟児津がポイ捨ての犯人だと決めつけている。なぜそこまで確信を持てるのかは分からないが、牟児津に向けられた方の疑いは簡単には晴らせなさそうだ。理屈で説明したところで納得するような相手でもないらしい。

 頑固な大村の姿に、時園はかつての自分の姿を重ねていた。相手の言い分には耳を貸さず、自分の導き出した結論を盲目的に信じてしまう。その結論は一見、尤もらしい真実を表しているようにも思える。だが現実はそれほど単純なことばかりではないのだ。自分には考えもつかないことが起きている可能性もある。時園は少し前に、そのことを痛感したばかりだった。そして、そのときも隣には牟児津がいたような気がする。

 

 「牟児津さん……その節は本当にごめんなさい。大変ね」

 「ホントだよ!っていうかウソでしょ!?こんなもらい事故みたいな感じで巻き込まれんの私!?やだーーーっ!」

 「今さら悔やんでももう遅いですよっ!!どう罰してくれましょうかっ!!学園内のゴミ全部拾うまで帰れま1000gか……廊下磨きトライアスロンか……」

 「冗談じゃねーっつーの!私は犯人じゃない!」

 「そんなわけないでしょうっ!!」

 「そんなわけないことないわ!!」

 

 どれだけ大声で訴えても、大村は自分の目で見たことしか信じられない質らしい。全く理解してもらえず誤解を解く兆しすら見えない状況に、牟児津も時園も頭が痛くなってきた。大村はいくらでも相手してやるとばかりに掃除機のエンジンを吹かして応戦する。どちらも引っ込むわけにはいかない膠着状態に陥ったが、意外にも救いの手はすぐに差し伸べられるのだった。

 

 「おぉ〜〜〜い!めぐる〜〜〜ん!はぁ、はぁ……」

 「むっ!遅いですよっ!!もう犯人は私が捕まえてしまいましたっ!!」

 「いや、もう……取りあえず、その人は犯人じゃないからぁ」

 「何を言いますかっ!!みゃーちゃんまでっ!!」

 「へ……あああっ!なんだあんた!もう嗅ぎつけてきたのか!」

 「どっちも一回落ち着いてくださいって……!お願いですから……!」

 「また分かんない子が増えた……」

 「あれ私の番記者」

 「ああ、番記者……ばんきしゃあ?」

 

 へろへろに疲れた声とともに現れたのは、ハンチング帽でチョコレート色のボブカットを覆い、袖を結んだブレザーを肩にかけた1年生だった。牟児津が言うには、益子(ますこ) 実耶(みや)という新聞部の生徒らしい。どうやら牟児津とは陸上部で起きた事件をきっかけに知り合い、そのあと正式に牟児津の番記者として付きまとうことになったという。事件と聞けば持ち前の野次馬根性でどんなところにも飛んでくる益子が現れて、また学園新聞の記事にされる、と牟児津は心穏やかでないようだ。

 

 「めぐるん、一旦落ち着いてって。目にしたことだけが真実じゃないことだってあるんだから」

 「やけに深そうなこと言うわね」

 「ですが、さっき確かにポイ捨てをしていましたよ」

 「だからそれが何かの間違いなの。十中八九。だってムジツ先輩なんだから」

 「なんか失礼そうなこと言われてるわよ、牟児津さん」

 「あながち否定できない……私は私が悔しいよ」

 

 牟児津と時園には一方的に自分の主張をぶつけるばかりだった大村も、益子の話には大人しく耳を傾けている。これまで牟児津が巻き込まれた事件とその経緯を知っている益子にとって、大村が牟児津を犯人だと決めつけていることは、逆に牟児津がまたしても無関係の事件に巻き込まれたのであろうことを意味していた。益子としてはむしろ、そうであってほしいくらいだ。

 

 「一旦落ち着いて整理しよう。起きた事実と自分の主張をごっちゃにしてたら、いつまでも平行線のままだよ」

 「なんであんたはこんなときばっかりまともなこと言うんだ」

 「なんの!これも記事のネタ(ムジツ先輩)のためですから!」

 「やっぱまともじゃねーわ」

 

 にやけた益子の顔は、今回の件も色々脚色してネタにしてやろうという本音が透けて見えるようだった。大村に絡まれていたところを助けてもらった感謝もあるが、また面倒なことに巻き込まれたところを見つかってしまったという憂鬱な気持ちの方が、牟児津の心の大部分を占めている。そんな顔をしていた。

 ひとまずその場は益子の口利きで大村を宥め、牟児津と時園は予定よりだいぶ遅れてゴミ当番の仕事を全うすることができた。大村は他の場所の掃除に向かい、牟児津は一旦解放されることになった。が、明日からのことを思うと気が滅入るばかりだろう。時園は、ただ同情するばかりであった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「ということがあってさあ」

 「そっかあ。また疑われちゃったんだね」

 

 下校の途中、牟児津はため息を吐きながら今日の出来事を話していた。話を聞いていた瓜生田(うりゅうだ) 李下(りか)は、牟児津の巻き込まれ体質を十分理解していたので、さほど驚くこともなく笑って受け入れた。牟児津にしてみれば笑いごとではないのだが、瓜生田はとにかく大らかで何でも受け入れる性格なので、その笑いに悪意がないことも分かっていた。

 牟児津と瓜生田はいつも電車を使って通学するので、校門を出てからは駅に向かう。駅までは長く緩やかな坂道を下る必要があり、その途中で伊之泉杜学園の中等部や初等部の校門の前を通る。授業が終わって真っ先に帰る牟児津は、初等部生や中等部生に交じって帰るのが普通だった。しかし今日はいつもより少し帰りが遅いため、道を歩く学生の姿はまばらだ。

 

 「でも益子さんが来てくれてよかったじゃない。益子さんがいなかったら、きっと今ごろ環美委か風紀委員に捕まって取り調べだったよ」

 「いやいやさすがにそこまでは……なくはない、のか?やべえ……!」

 「明日からは背中に気を付けて過ごさなくちゃねえ、ムジツさん」

 「なんでそんなこと言うの!?やめてよ!」

 「ごめんごめん。でも事が大きくなる前に手を打たないとだよ。もしかしたらそのポイ捨ても、大村さんの勘違いじゃなくて本当に起きてるのかも」

 「わざわざあんなところに捨てる人なんていないと思うけどなあ」

 

 伊之泉杜学園の敷地が密集しているエリアと住宅街を突き抜ける大通りを真っすぐ進み、一度交差点で曲がってアーケード付きの商店街を抜けるのが駅に向かう最短ルートだ。直線が多い地域なので見通しが良く、交通量は多すぎず少なすぎずちょうどよい程度なので、道順が分かりやすく人の目も多い通学路にはうってつけの道のりである。ついでに大通りの脇には、少々立派なお堂を構えたお地蔵様が、日々通りすがる生徒たちを穏やかに見守っている。

 その地蔵堂の前に、二つの人影があった。どちらも白いポロシャツとベージュのスクールパンツを身に着け、大きなランドセルを背負っている。ひとつはベーシックな黒色を、ひとつは鮮やかな緑色をしていた。どちらも男子である。そしてどちらも、地蔵堂の前でしゃがみこんでいる。

 牟児津は、黒いランドセルを背負った方を見て、言った。

 

 「ヒロじゃん。なにしてんの」

 

 ヒロと呼ばれた男子は、その声に反応して顔を上げた。その表情は驚きと気まずさでいっぱいである。顔を見るなり勢いよく立ち上がって後ろによろけ、牟児津と瓜生田から距離を取る。短く刈ったざくろ色の髪から汗が垂れる。

 

 「……!」

 

 牟児津(むじつ) 真尋(まひろ)は姉の質問には答えず、黙って二人を睨みつけた。大方、普段なら家でしか顔を合わせない姉や幼馴染みと通学路で出会ったために、なぜだか気まずさを覚えているのだろう。今の真尋はそんな顔をしている。からかうつもりはなかったが、あまりに焦った様子の弟を見て、牟児津は加虐心が湧いてきた。

 

 「なに黙ってんの。人に言えないことしてたんか」

 「ヒロくん、こんにちわ〜」

 「ん……」

 「なーにうりゅに緊張してんの。生意気な」

 「チッ」

 

 小さく舌打ちしたかと思うと、真尋は隣にいた少年のランドセルを叩いて走り出した。置いて行かれた少年は驚いて立ち上がり、牟児津と瓜生田に軽く会釈する。慌てて会釈したせいで、男子にしては少し長い翡翠色の髪がふんわり揺れた。そして少年は、真尋の後を追いかけて行ってしまった。どたどた走り去って行く二人の後ろ姿を見て、牟児津と瓜生田はにやにや笑い合った。

 

 「ヒロくん緊張してたね〜。可愛いなあ」

 「生意気なだけだよあんなの。一緒にいた子の方が可愛げある」

 「初めて見る子だね。ヒロくんの友達かな?」

 「あいつ学校の話とか全然しないからなあ。あの子のこといじめたりしてないよな」

 「ヒロくんはいい子だからそんなことしないよ。でも私も学校でのヒロくん全然知らなかったから、友達がいるなら一安心だね」

 「うりゅはどういう目であいつを見てんの」

 「贔屓目かなぁ」

 

 牟児津と瓜生田とでは、真尋に対する印象がかなり違うようだ。自分にとっては弟で瓜生田にとっては弟のような隣家の子どもなのだから、印象の違いもさもありなんというものだろう。牟児津はぼんやり考えて納得した。

 5つ年が離れた弟は早めの思春期に突入しており、姉の自分に対しては猛烈に反抗期真っ只中だ。生意気だとは思うが、そういう年頃なのだと思えば仕方ないとも思える。瓜生田やその姉の瓜生田(うりゅうだ) 李子(りこ)を交えて四人で遊んだのも懐かしく、今は姉として生暖かく見守っている。

 

 「にしたって、私はともかくうりゅにあんな態度とるのは許せん!帰ったら姉として叱ってやらないと」

 「別にいいのに。もう6年生でしょ?そういう年頃だって」

 「いーや。ここで言っとかないとあいつは調子に乗る!あと姉らしいところ見せとかないと、私が叱られる。家でめちゃくちゃりこねえとうりゅのこと言われるからね」

 「なにそれ」

 「瓜生田さんところは李子ちゃんも李下ちゃんもしっかりしてるのに、うちのはだらだらしてばっかで……とか!」

 「それはどちらかと言うとムジツさんに問題があるような」

 「だから私がヒロをビシッと叱って姉らしいとこ見せて、真白お姉ちゃんさすがね、って言わせないとなの!あとうりゅ、明日の朝うちに迎えに来たときにそれとなくお母さんにアピっといてね」

 「迎えに来られてる時点でなんともなあ」

 

 弟をダシに自分のポイント稼ぎを目論む牟児津に、瓜生田は白い目を向ける。真尋はまだ幼いから失礼な発言も大目に見られるが、牟児津の卑怯な打算はそれこそ叱られるべきものだ。が、牟児津の企みは往々にして上手くいかないので、瓜生田はそれ以上何も言わなかった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 帰宅してすぐ、牟児津は真尋の部屋に突入した。真尋はあからさまに姉を避けようとしたが、家の中という限られた空間で体格の勝る姉から逃げ続けられるわけもなく、さらに部屋の唯一の出口を塞がれてあっという間に袋の鼠となった。

 

 「うわっ!なんだよ!」

 「ヒロ、ちょっと話があるからそこ座んなさい」

 「はあ?知らねーし!ここおれの部屋なんだから出てけよ!プライバシーだぞ!かってに入んなバーカ!」

 「なにがプライバシーだ。あんただって私の部屋から勝手にマンガ持ってくくせに」

 「はあ?バカじゃん!そんなしょうこねえじゃん!」

 「あんた以外に誰が持ってくってんだ!」

 

 真尋は姉の言うことなど初めから聞く耳持たず大騒ぎし、牟児津は牟児津で売り言葉に買い言葉とばかりにヒートアップしていく。完全に逃げ道を塞がれた真尋は、ゆっくり部屋の反対側に近付いて行く。大きな窓を覆うカーテンの隙間に、真尋の手が伸びる。

 

 「いったん座って話を──あっ!こら!」

 

 一瞬の隙をつき、真尋は窓を開けてベランダに飛び出した。そこまでするとは思っていなかった牟児津は焦って駆け寄る。風で膨らんだカーテンを掴んで開くと、その向こうから姿勢を低くした真尋が飛び出してきた。

 

 「うおっ!?」

 

 無茶な逃げ方をすると思わせて大人を焦らせ、生まれた隙をついてフェイントをかける真尋の得意技、名付けて『無茶フェイント』である。真尋は小学生特有の小柄さと身軽さにより、牟児津の脇を通り過ぎた。が、逃げる真尋のシャツを牟児津がとっさに掴み、真尋は部屋の床に倒れ込んだ。

 

 「ぎゃっ!」

 「ヒロ!無茶フェイントすんなって言ってんだろ!ケガするぞ!」

 「ぎゃーっ!はなせバカ!はなせー!」

 「話を聞けコノヤロー!あんたうりゅに対してあの言葉遣いはなんだ!この前まで散々遊んでもらっといて失礼だぞ!」

 「カンケーねえだろ!つうか李下じゃなくてオメーに言ったんだし!」

 「オメーって誰に向かって言ってんだ!暴れんなこのっ」

 「うあっ!体バツだ!ぼう力反対!」

 「なにをこの聞きかじったことを分かったように使いやがって。生意気だぞっ」

 

 首根っこを掴まれては手足を振り回して暴れ、床に組み伏せてホールドすれば非暴力を唱える。冷静に真尋を叱るつもりだった牟児津も、真尋のテンションにつられてすっかり頭に血が昇っていた。もはや家中を巻き込んだ上へ下への大騒ぎに発展している。そんな牟児津家の姉弟喧嘩の音は、隣家の瓜生田家にも聞こえていた。

 

 「ムジツさんとヒロくん、今日もやってるな〜」

 

 この調子では真尋に説教することはおろか、牟児津自身もまとめて親から説教を食らうのがオチだろうと、瓜生田は近い未来に思いをはせた。果たしてその予想は数時間後、見事に的中したのだった。



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第2話「モロ合法ですっ!!」

 

 翌朝、牟児津は疲れの残る体をベッドから無理やり起き上がらせた。大村に絡まれたことと真尋との姉弟喧嘩の疲れが残っていて、朝からとんでもなく気怠い。しかも今日はいつもより早起きだった。それは、昨晩、益子から連絡を受けたせいである。

 

 「ムジツ先輩!瓜生田さん!明日の朝、みんなが登校して来る前に大桜の下に集合しましょう!」

 

 いつの間にか勝手に作られていたチャットグループの通話で、益子は楽しそうに言った。電話口でも益子の声は耳に刺さってうるさい。

 

 「めぐるんによれば、ポイ捨ては朝と夕方が特に多いそうです。ですから明日の朝、ポイ捨ての現場を見に行きましょう!」

 「んなもん見てどーすんの。私は今日疲れてるんだから一秒でも長く寝たいんだよ」

 「ポイ捨ての現場を押さえれば現行犯逮捕でスピード解決できますよ!そんな幕切れは呆気なさすぎるので、私としては遠慮したいところですが」

 「事件解決に遠慮とかねーよ」

 「今日は既にめぐるんが掃除した後でしたから、どんなゴミが捨てられてるかが分からなかったんですよね。実際に捨てられてるゴミを見れば、真犯人への手掛かりになるかも知れませんよ!」

 「うん。益子さんの言うことも一理あるね」

 「ちょっと、うりゅ」

 

 益子の言うことに瓜生田が同調した。牟児津としてはテスト期間でもないのに早起きなど遠慮したいところだが、どうやら早起きに賛成が多数派になりつつあるようだ。

 

 「ムジツさん、行こうよ。私が起こしてあげるから」

 「んん……まあ、うりゅが来てくれるんなら……え、てか何気にまた私が解決する流れになってない?」

 「そりゃそうですよ!ムジツ先輩、毎日めぐるんとバキュームくんに追い回されたいんですか?」

 「毎日追い回されるようなことなんてしてないんだよ!」

 「ですからそれを証明するんです!では明日に備えて私は早く寝ますおやすみなさい!」

 「勝手だな!」

 「おやすみ〜」

 

 自分からかけてきたにもかかわらず、益子は用件を済ませるとすぐに電話を切ってしまった。瓜生田も交えて約束してしまった以上、起きるにしろ起こされるにしろ早起きは確定してしまった。そのため牟児津は電話を終えた後、すぐにベッドに潜ったのだった。それでも起きてみれば疲れが残っているので、今日一日この疲労感に付き合わなくてはならないのか、と牟児津は目覚めから憂鬱になった。

 いつも通り洗面所に行って顔を洗い、制服に着替えてから髪をいつも通り結び、いつもより少し急ぎめで朝食を済ませた。牟児津が朝食の最後に牛乳を飲み干したのとほぼ同時に、チャットアプリに瓜生田から連絡が入った。もう家の前で待っているらしい。

 

 「うりゅがもう外にいるって。今日はもう行くね」

 「補習?」

 「ちがうっ!友達と約束してんの。いってきまーす」

 

 母には、娘が普段より早起きして出かける理由は分からない。だが、瓜生田が一緒にいるなら何があっても大丈夫だろうと、深く訳をきくことなく送り出した。

 牟児津は、油断すると勝手に落ちてくるまぶたを堪えながら、外で待っていた瓜生田と合流した。

 

 「おはよーうりゅ!お待たせ!」

 「ムジツさんおはよう。よく起きられたね」

 「さすがにうりゅに起こされんのはね……ヒロの手前もあるし」

 「そういえば、昨日ちゃんと叱れた?」

 「分かってて聞かないでよ」

 

 いつもより早い朝の通学路は、行き交う人も車も少なくて、いつもより清々しい気がした。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「マジで捨てられてんじゃん」

 「マジでしたね」

 「それに、思ってたよりひどいよ。これは」

 

 まだ登校する生徒はわずかな朝の学園で、大桜の下に集まった牟児津たちは唖然としていた。昨日大村がきれいに掃除したばかりの樹の周りには、まさにゴミとしか言いようのない物が散乱していた。

 風を受けて転がるビニール袋、口の開いたカラフルなプラ包装、凹んだ空き缶に油の染みた紙袋、果物の皮などの生ゴミもある。どこからどう見ても人が出すゴミである。となればこれらのゴミは自然に集まったものではなく誰かが捨てたものということになり、その人物が意図してこの場所に捨てているということになる。

 つまり、この事件には明確な犯人が存在するということだ。

 

 「こりゃあ大村さんも怒るわ。毎日これじゃああんまりだ」

 「現場の記録は私に任せてください。めぐるんが来る前に写真撮っとかないと」

 「大村さんはまだ来ないの?」

 「毎朝バキュームくんで校内を掃除しているので、そろそろ来るはずですが」

 「バキュームくん……?だれ?」

 「──ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」

 「あ。来ました」

 

 益子が現場の写真を撮っていると、遠くから地響きのような音と雄々しい叫び声が聞こえてきた。牟児津はうるさそうに、瓜生田は何事かと心配そうに、益子はいつものことのように、それぞれ声がする方を見た。朝日を浴びて黒光りする掃除機とともに、力強い眼差しの大村が突っ込んで来た。

 

 「せいそおおおおおおおおおおおっ!!!」

 「わあああっ!?」

 

 昨日のように全員を土埃に巻き込むことはなく、大村は減速して牟児津たちの前で止まった。それでも、初見の瓜生田を驚かせるだけの馬力は出ていた。爆音を轟かせる掃除機がエンジンを吹かし、いつでも再加速できる状態を保っている。瓜生田は驚愕の目でその掃除機を見た。

 

 「すごい、ね……合法?」

 「モロ合法ですっ!!そしておはようございますっ!!」

 「めぐるんおはよう。私たちもさっき来たところ。こりゃあひどいね」

 「毎日これなんですよっ!夕方はともかく、どうやって毎朝捨てているのやら……!」

 「見るな私を」

 

 大村はまだ牟児津を疑っているのか、ぼやきながら視線を投げる。牟児津はそれを敏感に察知して睨み返した。火花を散らす二人をよそに、瓜生田と益子は現場の記録が済んだことを確認してから、ゴミを調べ始めた。

 散らかるゴミは燃えるものと燃えないもの、生ゴミと缶・ビン・ペットボトルなどがごちゃごちゃになっていて、分別の気配など全くない。一ヵ所に寄せるわけでもなく散乱しているのが、まるで木の下にゴミを満遍なく広げようとしているようだった。

 

 「これっていつからなの?」

 「1ヶ月と少し前からですっ!ポイ捨てなんて学園内で初めてでしたから、はっきり覚えていますよっ!それから毎日この有様ですっ!」

 「毎日って、土日も?」

 「ええ。土曜も日曜もですっ!部活があるので学園は開いていますから、もしかしてと思って様子を見に来たんです。案の定でしたっ!」

 「これのためにわざわざ土日に登校してんの?マジ?」

 

 牟児津には信じられなかった。部活動や委員会活動をしている生徒なら休日に登校するのも珍しいことではないのだが、どちらにも所属していない牟児津には休日に自分の意思で登校することなど、この瞬間まで想像できなかった。

 

 「ふむふむ。見たところ食べ物関係のゴミばかりのようですね。誰かここで宴会でも開いたのでしょうか」

 「お花見って時期じゃないよね」

 「時期だったとして、わざわざ高校に忍び込んで夜中に花見するとか酔狂の極みだよ。酒飲む前から酔ってどうすんの」

 「伊之泉杜学園生の心の拠り所である大樹、『大桜』。不届きにもその周囲にゴミをポイ捨てする狼藉者が現れた!人目を盗んで行われる謎の宴会の参加者は果たして……!?この難事件を解決するのは、今回も事件に巻き込まれた我らがムジツ先輩!と。いい感じじゃないですか?」

 「何がだ!勝手に記事にしようとすんな!」

 「えー、でも寺屋成部長と契約しましたよね?握手を以て契約に同意したものとみなしまして、さらに自動更新ですから永久に有効ですよ。あと期間満了前の契約解除は違約損害補償を要求いたしますので──」

 「じゃかあしい!なにをこざかしい利用規約みたいなことをべらべらと!」

 「でもムジツさん、握手した瞬間の写真撮られてるよ」

 「……ぬああっ!ちくしょう!分かったよもう!やりゃいいんでしょやりゃあ!どうせどっかの変態が犯人なんだから、警備員さんに聞けばなんか分かるでしょ!」

 「ああ、それはそうかも」

 

 毎朝学園の門を開けているのは、専属契約している警備員だ。朝は誰よりも早く学園に来て、教師や早起きの生徒たちを迎えている。今朝、牟児津たちが登校してきたときには、見たことのない高齢の警備員が門の前に立って挨拶活動をしていた。教師とは顔馴染みのようだったので、初めて来たわけではないらしい。牟児津たちはその警備員から話を聞くため、警備員室に向かった。

 登校する生徒が増えてくるころ、警備員は校門前での挨拶活動を切り上げて屋内の仕事を始めていた。学園内の施錠された教室を解錠し、警備員室のシャッターを開けて来校者帳簿などを用意し、お茶用のお湯を沸かしている間に玄関の砂や埃を掃除している。ひとつひとつの動きは緩慢でのんびりしているのに、朝の短い時間のうちにそれらをテキパキと効率よく進める様は、警備員としての仕事歴が長いことを感じさせた。そんな朝のルーティンを済ませても、まだ牟児津たちが普段登校する時間にはかなり余裕があった。お茶を淹れて一息ついた老警備員に、大村がはきはきと声をかけた。

 

 「迫武(せこむ)さんっ!おはようございますっ!」

 「ふぁい、おはよう。ああ。大村さん。あれ。今日は友達も一緒?」

 「そんなようなものです。同じクラスの益子さんと、同じ1年生の瓜生田さんと、2年生の牟児津先輩。みなさん、こちらは警備員の迫武さんです」

 「どもっ。はじめまして」

 

 大村に紹介された三人とも、この翁面のような笑顔を浮かべる警備員──迫武(せこむ) 警悟(けいご)とは初対面だったので、揃って会釈した。顎回りに肉を蓄えた中年の警備員と目玉が飛び出て見える若い警備員は知っていたが、この警備員は今まで見たことがなかった。その二人より先に仕事を始めているということは、普段夕方頃には帰宅しているのだろう。

 

 「ちょっとお聞きしたいことがあるんですがよろしいですか」

 「はいよ。どした」

 

 深いしわの刻まれた面長の顔は、孫娘を見るような優しい表情で大村を見つめていた。がっちりした警備員の服を着ているにもかかわらず、漂う雰囲気は緩い。短く言葉を切って話すせいでなんとなくこちらもゆっくり喋らなくてはいけないような気になってくる。大村は慣れているのか、変わらない調子でしゃべり続けた。

 

 「先月から大桜の下に毎日ゴミがポイ捨てされているんです。何か御存知ありませんか」

 「ポイ捨てぇ?大桜ってあそこ?どうやって?」

 「それが分からないから調べてるんですよ。今朝も捨ててありました」

 「ん〜。毎日ちゃんと門は閉めてるし、警備もかかってるからね。誰かが入れば警備会社に連絡が行くはずだよ」

 「つまり外部から侵入してゴミを捨てることは不可能、と」

 「ネコとタヌキが夜桜でも見て宴会してるのかなあ。はっはっは」

 

 夜中に部外者が侵入してゴミを捨てているとなれば警備上の大問題なのにもかかわらず、迫武は能天気に笑った。化猫や化狸の宴会の不始末ならまだかわいいものだが、悪意を持った人間の仕業となれば、ポイ捨てなどという嫌がらせから更にエスカレートしかねない。

 

 「まあ、色々と引き寄せるものだよ。特に人の想いがこもったものは」

 「え……なんですかそれ?大桜ってそういうのあるんですか?」

 「さあどうかなあ。少なくとも僕の時代にはそういうことはなかったなあ」

 

 含みを持った迫武の言葉に、牟児津の心臓がぎゅりりと捻じれる。大桜の歴史は学園より長いという。そうなれば、大桜にまつわるうわさの一つや二つは立っていそうなものだ。学生が集まる場所で語られるうわさと言えば、大抵は陰惨なテーマがつきものである。まさか本当に、あの大桜の下で毎夜妖怪が宴会や運動会を開いているといううわさでもあるのか。そう考えるだけで、牟児津は朝から背筋が寒くなった。

 

 「夜は分かりませんが、夕方にもポイ捨てがありますからね。朝はめぐるんが掃除してますから、そのゴミは確実に朝から夕方にかけて捨てられてますよ。妖怪は寝床でグーグーしてる時間です」

 「そ、そっか……!そうだよね!」

 「そうですよ。それに大桜のうわさって言ったら、そういうのとはちょっと違いますから」

 「……んへ」

 「迫武さん、お時間取らせました!それじゃあ私らはこの辺で失礼します!」

 

 今度は益子の意味深な発言で、牟児津は背筋からつむじまで寒気に貫かれた。その手の話題は聞かないようにしているが、知らないからこそ余計にあれこれ想像してしまう。そんな牟児津を瓜生田が抱え、一行は警備員室から離れて教室棟の休憩スペースに移動した。そろそろ朝のホームルームが始まる時間である。色々考え過ぎて固まってしまった牟児津の体をほぐして、瓜生田が正気に戻す。

 

 「おーいムジツさん。気を確かに」

 「うへっ?た、確かだよ!?ずっと確かですけど!?」

 「ムジツ先輩は妖怪とか怪談が苦手なんですね」

 「別に私が特別苦手なわけじゃないし!そういうのって怖がらせるために作ってあるんだから怖がるのが当然じゃん!社交辞令で怖がってるだけだし!」

 「斬新な強がりですね」

 「強がりかなあ?」

 「どうでもいいんですよそんな話はっ!ともかく迫武さんもポイ捨て事件については何も御存知ないようでしたっ!部外者の犯行の線はなくなりましたから、ますます学園関係者の関与が濃厚になってきたということなんですよっ!事の重大さが分かっていますかっ!」

 

 学園のセキュリティを担う警備員が特に異常を感じていないなら、やはりゴミのポイ捨ては学園内の人物によるものだと考えられる。それはそれで、部外者よりいくらかマシというだけで由々しき問題である。大村はまた掃除機のエンジンをうならせて、じゃれ合う牟児津たちを鎮まらせた。

 

 「ともかくこれで皆さん、ポイ捨てがされていることは分かりましたねっ!」

 「う、うん。分かったよ」

 「でもムジツさんが犯人だっていうのも分からなくなったんじゃない?ムジツさんは今朝、私たちと一緒に来たんだよ。なのにもうゴミは捨ててあったし」

 「今朝あったということは、あれは夜中に捨てられたものです。まだ確定でシロと言えない以上は疑いますのでっ!」

 「疑いだけで暴走掃除機に追いかけ回されちゃたまんねーわ!」

 「ふむ。普段夕方にも捨ててあるなら、今日も夕方までに犯人が捨てにくる可能性はあります。見張りますか!」

 「授業があるのに?」

 「私は窓際の席なので見張れますよ。お二人はいかがです?」

 「うん。私も窓際だから見張れるよ。でも前の方だから、あんまり期待しないでほしいな」

 「私は無理だ。四方八方に人がいる」

 

 益子の提案に対して、瓜生田は手を挙げて牟児津は首を横に振った。大桜は教室からグラウンドや陸上トラックの方を見たときにちょうど手前に立っているので、窓際なら根本付近を監視することができる。しかし、瓜生田は授業中に窓の外へ意識を向けた経験などそうそうないので、役目を果たせるか心配だという。

 

 「では1年生組は監視を、ムジツ先輩は……今朝の現場の写真をシェアしますので、何か気付いたことがあれば放課後に」

 「だりぃ宿題抱えちゃったなあもう」

 

 せめて考えることくらいは続けようと、牟児津は素直に益子から写真を受け取ることにした。今朝の現場を撮影したデータが十数枚送られてきて、様々な角度からゴミを写した写真が牟児津のスマートフォンの画面いっぱいに並んだ。まるで自分の携帯がゴミ箱になったようだ。ここから犯人の手掛かりを得られればいいのだが。牟児津はあまり期待せず、その画像を保存した。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 午前の授業が終わり、昼休みもあっという間に過ぎ、午後の授業から解放されて、牟児津たちは再び大桜の下に集まった。放課してから少し時間が経っており、各部活動は練習を始めている。少し西寄りから差してくる陽を受けて、大桜は丸い影を地面に落としていた。その大きな影の中に、いくつものゴミが沈んでいる。瓜生田たちはその光景を前に、驚きの表情を浮かべていた。

 

 「また捨てられてるね」

 「いったいどういうことでしょう?私たちはずっと監視してたんですよっ!いつの間に捨てられてるんですかっ!」

 

 午前から一日中監視を続けて、瓜生田たちは大桜の下に近付く怪しい人影は見つけられなかったらしい。授業中に校舎からグラウンドの方へ移動する人影があればかなり目立つはずだ。にもかかわらず、三人がかりで監視して違和感の一つもなかったという。しかし、目の前には大桜の下にゴミが散らかる光景が広がっている。いったいいつの間にこんなことになっていたのか、三人ともが自分の目を疑っていた。

 

 「本当にずっと見てたの?」

 「ずっとですよ!ずっと過ぎて何回チョークミサイル食らったと思ってるんですか!」

 「知らんわ」

 「でも確かに、これだけのゴミが捨てられてるなら誰かが見ててもおかしくないはずだよね。それなのにこうなってるのは……ちょっとおかしいな」

 「うりゅが言うならそうか」

 

 誰も目撃していないのなら、誰も大桜の下には近付いていないということではないのだろうか。しかし現実としてゴミは捨てられているので、何者かが三人の監視を掻い潜って捨てたということになる。監視されていることすら気付くことは難しいというのに、それを躱すことなどできるのか。その場にいる全員が頭を悩ませる。

 

 「う〜ん……なんかなあ。そこまでしてここに捨てる意味ってあんのかな」

 「この大桜は学園のシンボルのひとつですっ!この場所を汚すことは学園に対する宣戦布告と言っても──!」

 「それは過言。でもその辺の道端に捨てるよりは事件性を感じさせますよね。何かしらのメッセージがあるのかも知れません。記録しときますね!」

 

 益子は、再び現場を色々な角度から撮影し、その全ての写真を牟児津に送信した。牟児津のカメラロールがどんどんゴミの写真で散らかっていく。授業時間中にスマートフォンを出すわけにもいかず、昼休みにまでゴミの写真を見ていたくなかったため、牟児津は結局その日、まだゴミをきちんと確認しなかった。ゴミの写真というタスクが積み重なっていくのが、牟児津をなんともやるせない気持ちにさせるのだった。

 大村が怒涛の勢いで大桜の下を掃除するのを見届けた後、牟児津たちは帰路に就いた。今日は益子も一緒に下校だ。曰く、新聞部は取材のためなら学園外でも活動することができるらしい。学園が認めているのか新聞部が勝手に言っているのかは判断がつかないが、どちらにせよ牟児津にとっては煩わしいことこの上ない。

 

 「なんで帰り道でまであんたに付きまとわれなきゃならないんだ」

 「いえいえ。私も帰り道がこっちなんですよ。偶然ですね。これって運命じゃないですか?」

 「駅使う人はみんなここ通るよ」

 

 ほどほどの人通りとほどほどの車通り。広がって歩いても大して邪魔にならない程度の広さがある道を、牟児津たちは駅に向かって歩く。そして昨日と同じ、学園生たちを見守るお地蔵様の前に、小学生が二人しゃがみこんでいた。昨日と全く同じそのシチュエーションに、牟児津は眉をひそめ、瓜生田は眉を上げ、益子は二人の眉を読んだ。

 

 「どうしたんですかお二人とも」

 「あそこの黒いランドセルの子、ムジツさんの弟なの」

 「ほう!弟さん!なるほどなるほど!」

 「ヒロ。何やってんのまた」

 

 牟児津の弟と聞いて、益子はお地蔵様の前でしゃがみこむ真尋に好奇の目を向ける。その声に反応して、真尋はまた驚きの表情で振り返った。真尋に興味津々の益子の様子に、別に珍しいものでもないだろうと牟児津は呆れ、真尋とその隣にいる翡翠色の髪の少年に近付いた。

 

 「昨日も今日も、なにこそこそしてんの」

 「っ!」

 「また黙って。悪いことしてないならこそこそしない。人から疑われるよ」

 「ムジツさんはこそこそしてないのに疑われるもんね」

 「うっさい。で、君は?ヒロの友達?」

 「……っ!」

 

 牟児津に尋ねられたその少年は、小さく息を漏らして眉尻を下げた。明らかに困惑している。牟児津は自分が何かしたかと不安になった。まだ声をかけただけだ。

 男子にしては長めの翡翠色の髪と純朴さを感じさせる透き通った瞳が、素直で大人しそうな印象を与える。粗雑で生意気な真尋とは対照的だ。しかし真尋と同じように、その場では一切言葉を発そうとせず、慌てて立ち上がった。そして申し訳なさそうに頭を下げた後、真尋と一緒に逃げるように走り去ってしまった。

 

 「行っちゃった。ムジツ先輩、怖がられてるんじゃないですか?」

 「なにをう。ヒロのやつ、学校で私のことなんて話してんだ。帰ったらとっちめてやる」

 「やめといた方がいいと思うなあ。今はわけもなくお姉ちゃんに反発したいんだよ。そういう年頃なの。だから、何もしなくてもそのうちなんとかなるよ」

 「なんでうりゅにあいつの気持ちが分かんの」

 「私だって妹だもん」

 

 そう言えばそうだったという気持ちと、だからって分かるか?という気持ちが半分ずつ、牟児津の心に湧きあがった。瓜生田とは小さい頃からずっと一緒に遊んでいるが、瓜生田が李子に訳もなく反発していたことなど記憶にない。ずっと仲が良い姉妹だ。

 

 「とにかく、ヒロくんにも友達の子にも、ムジツさんには言えない事情があるってことだよ」

 「でもなあ……隠し事はいいけど、なんか悪いことしてんじゃないかって心配になるんだよなあ」

 「だったら私が聞こうか?」

 「ぅへ?」

 

 瓜生田が手を挙げた。予想だにしなかった提案を聞いて、牟児津は間抜けな声を漏らす。

 

 「ヒロくんと友達がここで何してるのか。ヒロくんも、ムジツさんより私の方が話しやすいかも知れないじゃん」

 「そうかなあ」

 「親密な間柄だからこそ言えないことというものもあります。家族なら尚更ですね。私も、あの子に関してはムジツ先輩より瓜生田さんをぶつけた方がいいと思います!」

 「ほら、益子さんもこう言ってるし」

 「あんたが私ん家の何を知ってんだよ」

 「牟児津家の事情は存じませんが、人から話を引き出す方法は心得ていますよ」

 「んむぬ」

 

 尤もらしく胸を張られると、牟児津は何も言い返せなくなった。益子の言い分はともかく、瓜生田の言うとおり、普段から喧嘩ばかりしている自分よりも、昔から世話になっている瓜生田の方が話しやすいこともあるかも知れない、と考えた。牟児津も、瓜生田の誕生日プレゼントについて内緒で李子に相談したことがあるし、そういうものなのだろう。



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第3話「うへへへ」

 

 学園の最寄り駅で逆方向の電車に乗った益子と別れ、牟児津と瓜生田は自宅前まで戻ってきた。すでに真尋は家にいるはずだ。牟児津が行くと真尋が正直に話さない可能性があるため、牟児津は瓜生田家で待機し、瓜生田だけが真尋を突撃することにした。

 

 「こんにちわあ。お邪魔しまあす」

 

 自室にこもっているはずの真尋には聞こえないよう加減して、瓜生田はあいさつした。おそらくテレビを観ている牟児津の母にも聞こえてはいないだろうが、昔から家ぐるみの付き合いをしている両家にとっては、子供同士の行き来などあいさつの必要もないくらい日常茶飯事となっている。

 見ると、玄関に真尋の靴が脱ぎ捨ててある。確実に家にはいるようだ。瓜生田はそのまま真尋の部屋の前まで忍び足で歩き、ドアを軽くノックした。

 

 「んー?」

 「こんにちわ。李下だよ」

 「りっ、李下!?わわわっ……!な、なに!なんでいんの!?ちょっ、ちょっと待って!」

 「んふっ……久し振りにお話したくって。入っていい?」

 「い、いいけど……?」

 

 ドアの向こうから聞こえてくる真尋の声は、明らかに緊張して慌てていた。家にいるのは母か姉くらいだろうと油断していたのか、部屋の中からどたばた走る音が聞こえてくる。見られたらまずいものでもあったのか、がちゃがちゃと物を仕舞っているようだ。瓜生田はついイジワルをしたくなって、急かすように入室の許可を求める。緊張を隠すようにすました声が返ってきたのを聞いて、瓜生田は口元が緩みそうになるのを堪えつつドアを開けた。

 真尋は勉強机の前に腰かけていて、机の上にはドリルや教科書が広げてあった。手には鉛筆を握っているが、左手である。机の上に広げてある教科書類は教科がバラバラで、スタンドライトが点いていない。ちょうど勉強していたところだった、というアリバイを作り上げたい気持ちがあまりにも見え透いていて、瓜生田はますます緩みそうになる口元に神経を使わなくてはならなかった

 

 「久しぶりじゃん?どう、したの」

 

 真尋のドギマギした表情を見るだけで堪えきれなくなりそうだった。瓜生田は、それを悟られないよう平静を保ちながら、切り出した。

 

 「昨日も今日も学園前で会ったよね。なのに無視されちゃったから、もしかしたら嫌われちゃったのかなって思って」

 「べ、別に?きらいになるとか意味わかんねーじゃん」

 「そうなんだ。よかった」

 

 少なくとも真尋は、瓜生田となら普通に会話をする気はあるようだ。少しの駆け引きはあるかと構えていた瓜生田だったが、そんな必要もないらしい。真尋が姉に素直になれないのは、やはり単純に年頃せいのようだ。そうと分かれば話が早い。瓜生田は色々と聞き出すことにした。

 

 「一緒にいたあの子は友達?」

 「うん。フーリっていうの。遠藤フーリ」

 「珍しい名前だね。どう書くの?」

 「ん」

 

 真尋はノートの端に鉛筆を走らせて、瓜生田に見せた。あの翡翠色の髪の少年は、遠藤(えんどう) 風吏(ふうり)という名前らしい。聞けば、真尋とは今年から同じクラスになって、数か月前に友達になったようだ。どうりで牟児津も瓜生田も見たことがないはずだ。最近は一緒に帰っているらしく、休みの日に遊びに行くほどの仲なのだとか。

 瓜生田は真尋のすぐ隣にしゃがみ込んだ。背の高い瓜生田だが、さすがに膝と腰を折れば、椅子に座った真尋を下から見上げる位置に目線が来る。覗き込まれた真尋は、瓜生田の視線を意識するほどに表情が固くなっていく。

 

 「風吏くんと仲良いんだ?」

 「まあ」

 「それ宿題?」

 「うん」

 「今日帰りになにしてたの?」

 「……」

 「もしも〜し」

 「うるさいなあ!なんでもいいだろ!」

 

 さすがに真尋も簡単には口を割りそうにない。宿題するふりをしているだけだが、明らかに瓜生田の質問を拒絶する意思が感じ取れる。おそらく自分を通じて姉に全てばらされることを危惧しているのだろうと考えた瓜生田は、状況の把握を優先するため、その心配を払拭させることにした。

 

 「ねえヒロくん。なにかムジツさんに言われたくないことがあるなら、私にだけは話してくれない?ムジツさん、ヒロくんのこと心配してるんだよ」

 「だって李下、姉ちゃんに話すじゃん」

 「話さないよ。約束する」

 「……本当?」

 「うへへへ」

 「笑ってんじゃんかよ!」

 

 牟児津には内緒にするという約束を提示した途端、真尋は明確に態度を軟化させた。姉に知られたら恥ずかしいという気持ちと、瓜生田なら信用できるかもという気持ちが顔に表れる。そんな目で真っすぐ見つめられた瓜生田は、ついに口元の緩みに堪えかねて、だらしない笑いを漏らした。真尋に怒られて、すぐにまた表情を取り繕う。約束は本当にするつもりだ。

 

 「ごめんごめん。つい。でも本当に約束するよ。ヒロくんがちゃんと話してくれたら、ムジツさんに心配いらないよって言うだけ」

 

 なるべく平易な言葉を選んで、諭すように真尋を説得する。真尋は少しの間、決断を迷っていた。が、瓜生田の説得を聞き入れたのか、あるいは瓜生田に見つめられ続けることに耐えかねたのか、最後には観念したようだ。約束を守ってくれれば話す、という意志表示のつもりだろう、黙って首を縦に振った。

 

 「ありがとう。それじゃあまず約束ね。はい」

 「……ん」

 

 ちょろ、と差し出された瓜生田の小指と、遠慮がちに差し出された真尋の小指が絡み合う。子どもっぽい仕草に、真尋は照れくさそうに視線を逸らしていた。

 

 「ゆーびきーりげんまん♫うそついたらはりせんぼんのーますっ♫ゆーびきったっ♫」

 「子どもじゃあるまいし」

 「ヒロくんは子どもじゃないもんね。子どもじゃないなら、約束はきちんと守らなきゃね。昨日と今日、あそこで何してたの?」

 

 子どもっぽいと思いつつも、約束する儀式を経たことで、真尋の中にはある種の責任感が生じているはずだ。指切りのために正面を向かせたこともあって真尋はますます緊張しているようだ。瓜生田が改めて質問すると、真尋はもごもごと口を動かす。そしてようやく、絞り出すようにしゃべり出した。

 

 「……お、おまいり、してた」

 「お参り?」

 「通学路にあるから、何回もするのにちょうどいいと思って」

 「何回もしてるの?」

 「うん。フーリが言うには、100回しなきゃいけないんだって。毎日、行きと帰りで1回ずつ」

 「そっかあ。お百度かあ。何をお願いしたの?」

 「……フーリと同じこと」

 「風吏くんは、何をお願いしたの?」

 「……」

 「話してくれないの?」

 「おれは、フーリの願い事が叶いますようにってお願いしただけだから、知らない」

 

 瓜生田は口を尖らせた。出まかせを言っているようには見えない。どうやら真尋は真尋の分かることを正直に話しているらしい。だが、少なくともまだ秘密にしていることがあるはずだ。友達の風吏が何を願っているか知らなければ、その願いが叶うようにと願うはずがない。

 しかし瓜生田に、その内容まで追及する理由はなかった。結局のところ瓜生田が聞くべきは、真尋が通学路で何をしているかだ。お参りをしているだけなら、牟児津が姉として心配するようなことは何もない。

 

 「ふーん、だから通学路では喋ってくれなかったんだね」

 「よく知らないけど、フーリがお参り中はしゃべっちゃダメなんだって」

 「それって、通学路でずっと?」

 「うん。駅に着いてから教室に入るまでと、教室を出てから電車に乗るまで」

 「大変じゃない?」

 「……まあ、ぶっちゃけ」

 

 お百度という参拝方法について、瓜生田はもちろん知っている。参拝中に言葉を発してはいけないというルールがあることも知っているが、それを小学生が50日も継続するつもりでいることが驚きだ。やはり真尋は、遠藤少年が何を願っているか知っているに違いない。友達とはいえ、相手の願い事の内容も知らず1ヶ月以上もそんなことに付き合えるわけがない。

 とはいえ、牟児津が心配するようなことは何もないようだ。真尋と約束したとおり、詳しい内容は伏せたまま、二人について心配することはないと牟児津に伝えることはできる。ひとまずはこんなものだろうと、瓜生田はそこまでにすることにした。

 

 「分かった。話してくれてありがとう。ムジツさんには、ヒロくんは悪いことしてるわけじゃないから心配しなくていいよって伝えるね」

 「ん……そうして」

 「じゃあ私は帰るね」

 「え、帰んの?別にマンガとか読んでていいのに……」

 「ヒロくんが宿題するの邪魔しちゃ悪いから。それじゃあがんばってね。ばいば〜い」

 「あぁ……」

 

 遠回しに引き留めているつもりか、真尋は姉の部屋から勝手に借りてきたマンガに視線を投げる。が、瓜生田は一切気に留めず、ひらひらと手を振って部屋から出て行った。真尋は、やるつもりのなかった宿題をそのままランドセルに戻してしまうのは瓜生田に申し訳ない気がして、ため息交じりに問題を解き始めた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 瓜生田が真尋から話を聞く間、牟児津は瓜生田家でお茶とお菓子を御馳走になっていた。次から次へと出されるお菓子を美味しそうに平らげ、瓜生田が帰って来た時にはお菓子の包みが山盛りになっていた。それは毎度のことなので瓜生田は特に触れず、結論を牟児津に報告した。

 

 「ヒロくんは悪いことしてるわけじゃないから心配しなくていいよ」

 「あっそう……悪いことじゃないなら、何してたの」

 「そりゃあ悪くないことだよ」

 「その悪くないことって具体的になに」

 「具体的には言えないなあ」

 「なんでよ!」

 

 瓜生田が満足気なほくほくした顔で戻ってきたので、牟児津はその報告に期待していた。だが蓋を開けてみれば何一つ具体性がなく、胸にわだかまる不安を解消するに足るものでもなく、ただ瓜生田が楽しんで帰ってきただけだった。話は聞けたらしいので瓜生田がそれを話してくれさえすればいいのだが、そういうわけにはいかないらしい。

 

 「ムジツさんには内緒って約束でヒロくんに話してもらったんだもん。大丈夫だよ。ちゃんと私が全部聞いた上で大丈夫って判断したんだから。ムジツさんが心配するようなことは何もしてないよ」

 「それじゃあうりゅに話を聞いてもらった意味がないじゃん!私が知りたいから代わりに聞いてもらったのに!」

 「でもヒロくんと約束しちゃったからなあ」

 「約束約束って約束がなんだ!約束なんてのァ破るためにあるんだよ!」

 「そんなことないよ?」

 

 真尋に話をさせるために約束は必要だった。牟児津も瓜生田も知らないままでいるより、片方だけでも知っていた方がいい。家族と言えど、隠し事の一つや二つは許容すべきだ。

 瓜生田は牟児津にそう言って聞かせ、ひとまず牟児津は安心していいということを強調した。

 

 「ヒロくんに限って滅多なことはしないから大丈夫だって」

 「……ちくしょう。いつか口を割らせてやるからな」

 「ヒロくんの?」

 「うりゅの」

 「わあ怖い」

 

 すっかり当てが外れた牟児津は、不機嫌そうな半目で瓜生田を睨む。それに対して瓜生田はおどけた調子で応えた。結局、牟児津は瓜生田家で好きに飲み食いして、抱えた不安を一時忘れていただけだった。

 牟児津は家に帰ってから真尋の部屋に突撃しようとも考えたが、昨日と同じことの繰り返しになる上に、真尋から瓜生田に対して不信感を与えるだけなので思いとどまった。すっきりしない心持ちのまま家に帰り、自分の部屋に戻った。

 

 「やれやれ、ったく。わけわかんねー事件に巻き込まれるわ弟は可愛くねーわ。週末だからまだいいようなものを……」

 

 頭の中では大桜のポイ捨て現場と真尋の憎たらしい顔がぐるぐると回り、何もしていないのにストレスばかりが募っていく。部屋でじっとしていても気分が晴れることはないので、シャワーでも浴びてすっきりしようかなどと考える。まだ晩ご飯には早く、牟児津の腹には瓜生田家で平らげたお菓子がたまっているので、その前に済ませてしまうことにした。

 シャワーを浴びて汗を流し、金曜日で張り切っている母親のいつもより少し手が込んだ夕食を別腹に収める。それからしばしソファに寝そべってバラエティ番組を鑑賞していた。牟児津とそう変わらない年代のマジシャンが、テレビでトランプマジックを披露している。トランプの絵柄が変わったり色が変わったり、サインが書かれたカードがあちこちに移動したりするたび、少々大袈裟に驚くタレントたちにつられて、牟児津もすっかり見入っていた。

 番組も終わり、瞼に重みを感じ始めた頃合いでソファから立った。部屋に戻る前に、戸棚にある自分専用のお菓子箱を手に取った。

 

 「ちょっと真白。また寝る前にお菓子食べて、太るわよ」

 「だいじょーぶだいじょーぶ」

 

 竹ひごを編んで作られたバスケット型の容れ物に、同じく竹ひごで作られた専用の蓋が付いている。長年使っているおかげですっかりくたびれてしまっている。

 ここに入っているお菓子は、牟児津が小遣いをやりくりして買った塩瀬庵のあんこ菓子や、瓜生田家や近所でもらったお菓子の余りなどが入っている。今は主に『淡月』がメインだ。さっぱりした清涼感を求めて手を伸ばすが、そこで牟児津は違和感を覚える。

 

 「……ん?」

 

 買い置きしておいた『淡月』は、こんなに少なかっただろうか。美味しいお菓子は自分でも気が付かないうちに食べ進めて、気が付いたときには最後の一つになっていることはよくある。だが、それにしてもペースが速いような気がする。寝る前に食べてしまうクセが付いているのは自覚していたが、それ以外のタイミングでも無意識に食べているのだろうか。さすがの牟児津も、このときばかりは自分の腹の肉付きが気になった。

 

 「よし、あんまり気にしないどこう。ストレスは体によくないっ」

 

 そう自分に言い聞かせ、牟児津はカゴから『淡月』を一つ取って、戸棚に戻した。なるべく都合の悪いことは考えないでいられるのが牟児津の特技だ。今は手の中にある爽やかな甘みを楽しみに、牟児津は自分の部屋へと戻った。

 部屋に入りドアを閉めると、そのタイミングを見計らったかのようにスマートフォンで呼び出しがかかった。

 

 「……ぉげ」

 

 何かと思えば、昨日と同じチャットアプリで益子から電話がかかってきたのだ。学園が休みで丸二日間は解放されると思っていたところに連絡が来たので、ますます牟児津の頭が重たくなる。しかしここで無視すればより面倒な手段で連絡してきかねない。意を決して、牟児津は応答ボタンを押した。

 

 「なに」

 「あっ、出た!遅いですよ!瓜生田さんはすぐ出てくれたのに!」

 「ムジツさんこんばんわ〜」

 「はいはいこんばんわこんばんわ。なに」

 「いえ別になにというわけではないのですが、もしかしたらお二人とも興味があるんじゃないかと思いまして、ちょっとした情報共有を。あ、先に言っておきますけど決して犯罪的なアレとかコレじゃないですからね!ちゃんと関係者の同意を得た上で行った正当なジャーナリスト活動ですから!」

 「その前置きがもう怪しさ満点だよ」

 「あんたが言うジャーナリストって都合が良すぎるから信用ならないんだよ」

 「ぐへーっ!散・々!」

 「うっさい切るぞ」

 「ごめんなさい!切らないで!」

 

 応じるや否や、益子のカンカン声がスマートフォンから部屋中に響き渡った。妙にテンションの高い益子に一抹の不安を抱きながらも、牟児津と瓜生田は益子の話を聞くことにした。わざわざ夜中に電話をかけてくるのだから、何かしら意味があるのだろう。

 

 「実はですね。私、今日ムジツ先輩の弟さんと一緒にいた緑の少年にお話を聞きまして」

 「はあっ!?なんで!?」

 「帰る方向が同じだったんですよ、たまたま。本当にたまたまですからね?」

 「念を押されると却って怪しいなあ」

 「あんたとあの子は直接関係ないんだから話なんかできるわけないでしょ。どうやって近付いたの」

 「同じ電車に乗ってたんですよ、例の子……遠藤風吏さんっていうんですけどね、風吏さんが駅で降りるときに落とし物をしたので、それを拾って届けてあげたんですよ。本当に偶然です。こんなことってあるんですねぇ」

 

 益子の言うことが本当かどうか、二人には判断がつきかねた。事件やトラブルとあらばなんでもかんでも首を突っ込みたがる益子の性分を考えると、通学路で真尋と遠藤少年に興味を持って適当な理由をつけて近付いたという可能性も捨てきれない。それに、そんなに都合よく落とし物などするだろうか。二人は益子の話を黙って聞いていた。

 

 「あれ?もしもーし?聞こえてますか?」

 「聞こえてるよ」

 「いや全然リアクションとかなかったので」

 「あんたの言うこと一言一句聞き漏らさないようにしてんの。場合によっちゃあ週明けの新聞部の一面はあんたになるかも知れないからね」

 「ひえーっ!本当に偶然なんですってば!」

 「それで、落とし物を届けてあげてどうしたの?」

 「ええ。その落とし物というのが重要なんですが、これがなんとですね、うちの大学病院の入館証だったんですよ」

 「ん?病院?」

 

 からかい半分、本気半分で牟児津が益子を脅す。もし益子が興味本位で小学生の後をつけたのだとしたら、それは新聞部どころか本物の新聞に載りかねない事案である。しかし、その後に益子が付け加えた情報で、牟児津と瓜生田の関心は、益子の付きまとい行為から遠藤少年の持ち物に移った。その気配を感じ取ったのか、益子はもう一段階声を高くして続けた。

 

 「伊之泉杜学園の大学部って、医学系の学部だけ一駅隣にありますよね。風吏さんはそこで下車したので私も後を追ったんですよ。で、入館証を落として病院の受付でおろおろしてる彼に、親切で優しい益子お姉さんが落とし物を届けてあげたわけですね。その縁で、彼からお話を聞かせてもらったのです」

 「ちょい待ち。なんで病院の前までついてってんの。入館証落としたのは電車ん中でしょ」

 「……まあいいじゃないですか細かいことは」

 「よかねーよ!」

 「まあまあ。一旦最後まで話を聞いてあげようよ、ムジツさん」

 「ありがとうございます瓜生田さん!ナイスアシスト!」

 「通報はその後でもできるからさ」

 「ごえーっ!」

 

 話せば話すほど自分の立場を危ぶめていく益子を面白がって、瓜生田は全てを話すように促す。牟児津はひとつひとつ突っ込みたい気持ちを堪えて、そこから益子が話しきるまで口を挟まないことを決めた。

 益子の話では、遠藤少年に入館証を届けた後、遠藤少年は病院の中へ入っていき、益子は待合室で帰りを待っていたらしい。そして、待合室に戻ってきた遠藤少年から色々と話を聞いた。そこで知った情報を二人に共有するために連絡したらしい。

 

 「どうやら、風吏さんのお父さんがあそこに入院しているようなのです。それも数か月前から。で、風吏さんは毎日下校途中に病院へお見舞いに寄っていると。健気ないい子ですよね。それで近々お父さんが大きな手術を受けられて、その手術次第で今月退院できるかどうかが変わると。だから最近は授業にも集中できず、お父さんの心配ばかりしているそうです。なんとかしてあげたいと思いますよね?ですから私はジュースをおごってあげました。私にできるのはそれくらいですから。そしてまた礼儀正しい子なんですよ。ムジツ先輩の弟さんはいいお友達を持ってますよこれ」

 「うん、もういいよ益子さん。だいたい分かったから」

 

 本来の話からずれてきた頃合いで、瓜生田が益子のマシンガントークを止めた。要するに、真尋の友人であるところの遠藤少年は、父親が大学病院に入院しており、大きな手術を控えている。そして遠藤少年はそれが心配で気が気でない状態ということだ。それを聞いた瓜生田は、何か納得したようにふんふんと相槌を打っている。やはり真尋からそれに関するような話を聞いていたようだ。そして牟児津は、自分がどんなに頑張っても得られなかっただろう情報をあっさり手に入れてきたことで、改めて益子の情報収集能力の有用さを思い知ったのだった。

 

 「まあヒロの友達が良い子だってのは良いんだけど、なんでそれを私らに話したいの。お父さんのこととか、めちゃくちゃ個人情報じゃん」

 「ムジツ先輩の不安を少しでも和らげられるんじゃないかと思いまして。弟さんと風吏さんが、あの下校路で何をしていたかのヒントになりませんか?」

 「ええ……う〜ん」

 

 牟児津は、昨日と今日の下校路を思い返した。真尋も遠藤少年も、途中にある地蔵堂の前にしゃがみこみ、声をかけたら無言で走り去ってしまった。地蔵堂の前でしゃがみこんでいる理由は、益子の話を聞けばなんとなく想像がつくが、無言で逃げていく理由が分からない。家では喧嘩しつつもしゃべるので、無視をしているというよりあの場でしゃべることを避けているように思える。友達の前で恥ずかしいというのとも違う。それなら遠藤少年はしゃべれるはずだ。礼儀正しいというなら、あいさつのひとつもするだろう。

 

 「わっかんねぇ……」

 「ありゃ。さすがのムジツ先輩もまだ手掛かりが足りませんか」

 「私はヒロが悪いことしてるわけじゃないならなんでもいいんだって」

 

 二人が通学路で何をしているかは分からないが、それでも悪いことでないなら牟児津がこれ以上詮索する必要はない。その点については瓜生田のお墨付きであるから、信じていいだろう。

 

 「ただでさえ妙ちくりんな事件に巻き込まれてんだから、これ以上の厄介事は御免だよ」

 「そういえば大桜のポイ捨て事件もありましたね。その後いかがです?」

 「イカがもタコがもないよ。ヒロのことが気になってそれどころじゃなかったっての」

 「ムジツさんね、ヒロくんとケンカばっかしてるけど、本当はすごく心配してるんだよ」

 「いいお姉さんですねえ。うらやましい」

 「とにかくこの土日は誰がなんと言おうと休ませてもらうから。益子ちゃんも、大村さんからの呼出とか私に取り次がないでよね」

 「ええ、もちろんです!この土日でゆっくり推理してください!その分、月曜日には華麗な推理劇を期待していますので!」

 「休ませろっつってんの」

 

 貴重な休みの日まで使って事件に関わるつもりなど、牟児津にはない。平和な学園生活が脅かされるというのなら、せめて平和な休日を過ごさせてほしいものだ。面倒な期待をかけてくる益子にそれだけ伝え、牟児津は通話を切った。部屋に響いていた声が止んで、夜の静かさが戻ってきた。牟児津はごちゃごちゃして重たくなった頭をすっきりさせるため、『淡月』に手を伸ばした。

 

 「う〜ん……」

 

 半分がビニール、半分が和紙でできた個性的な包みを開ける。やはりさっきカゴに入っていた『淡月』の数は、どう考えても少なすぎる、と牟児津は改めて思う。自分で食べたというのなら、この違和感は一体なんだろう。小さなもやもやが色々な形をとって頭の中に散らかるようだ。散らかると言えば、益子から送られてきたゴミの写真をまだ一度もちゃんと見ていなかった。

 『淡月』を口に放り込み、牟児津はスマートフォンを開いて写真を開く。ポイ捨て現場の全体を写した写真、ひとつひとつのゴミにクローズアップした写真、妙なアングルから写した映え写真など、どれもこれもゴミの写真ばかりだ。こんなものを眺めて何が分かるのかと思いつつ、散らかった頭の中を仕分けていくように、牟児津は画面をスワイプし続けた。

 

 「…………んん?」

 

 めくってもめくってもゴミの写真ばかり。こうして見るとゴミと言えど撮り方によってはそれなりに写真映えするものだ、と関係ないことにまで思考が及んでしまうほど、牟児津は無心で写真を眺めていた。2秒見つめてスワイプ、2秒見つめてスワイプを繰り返していたその手が、ぴくりと反応する。何かを見つけた脳が、反射的に流れ作業を止めた。

 

 「んん……んなバカな?」

 

 益子から送られてきた写真のうちのたった一枚、それもピントを合わせているゴミの遥か後ろに見切れている、ピンぼけしたゴミの形。なんとなくの大きさと色ぐらいしか判別できないそのシルエットでも、牟児津の注意を惹くには十分だった。

 そのゴミが何か、牟児津には心当たりがある。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 翌朝、牟児津は休日だというのに早起きした。とは言っても何かをするために早起きしたのではない。早起きした牟児津はひたすら部屋で聞き耳を立てて待機していた。二度寝してしまいそうになるのを堪えていると、やがて隣の部屋から真尋が起きてくる音がした。小学生は休日こそ早起きをする生き物だ。あっという間に顔を洗い朝食を摂って服を着替え荷支度を整えた真尋は、目を覚ましてから30分と経たずに家を飛び出した。

 

 「いってきまーす!」

 

 牟児津の部屋の窓から、家を出て駅の方へ走っていく真尋の姿が見えた。牟児津はこのために早起きしたのだ。普段だったらまだ寝ている時間なのだが、真尋が今日この休みに出掛けるであろうことを予想し、わざわざ貴重な睡眠時間を削ったのだ。

 

 「行ったよ。よろしく」

 

 駅に向かう真尋の姿を確認した後、牟児津はスマートフォンに語りかける。もちろんそれは電話をかけているのであり、電話の相手はこの手の情報収集に打って付けの知り合い、すなわち益子であった。

 

 「ムジツ先輩は来ないんですか?」

 「私は忙しいから、あんたに任せる。しっかり何してるか突き止めてきてよ!」

 「昨日はあれだけ不審者扱いしたのに、都合がいいですね。まあこれも番記者の仕事ですから、精一杯やらせていただきますが!」

 

 電話口の益子は、休日の早朝から牟児津に顎で使われているというのに、やけに張り切っている。益子が働けば働くほど、牟児津は新聞部で記事にされることを断れないという契約になっているのも理由の一つだが、単純に怪しげな事件に飛び込んで行くことにワクワクしているのだ。しかしそんなことは牟児津にとってどうでもよく、益子にしっかり尾行を頼んだ後、朝食をたらふく食べてベッドに潜り二度寝を始めた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 益子家の最寄り駅は、学園から見て牟児津たちの家とは電車で逆方向にある。真尋が乗るであろう電車の時刻はすでに調べてある。牟児津の予想では、真尋は学園の最寄り駅に来るはずだ。益子は先回りして駅で真尋を待ち伏せするため、いつもの格好で家を飛び出した。

 電車がやってくる時間ちょうどに駅に着き、普段より空いている休日の電車に飛び乗った。学園の最寄り駅までは10分ほどかかる。その間は特にやることがないので、なんとなく窓の外や乗客の様子を窺って暇を潰す。

 

 「……おやっ」

 

 ふと、車両の反対側に目を遣った益子は、見覚えのある少年の顔を見つけた。学園の制服ではなくTシャツに半ズボン、そしてリュックサックを背負って頭に帽子を被った遠藤少年が、ドアの窓から見える景色を眺めていた。その姿を見て声をかけようと思った次の瞬間、益子の野次馬根性(ジャーナリズム)が頭の中で警報を鳴らした。

 

 ──彼の名前は遠藤風吏、小学6年生。ムジツ先輩の弟であるヒロさんのご学友でもある。こんな朝早い電車に小学生がひとりで乗るのはただ事ではない。遠方に行くような出で立ちには見えないから、おそらく友達と遊びにでも行くのだろう。ちょうど彼の友達であるヒロさんも電車で出掛けている最中……つまり彼らはこれから一緒に行動する可能性が高い!!であればここは話しかけずにこっそり尾行するのがベスト!!(0.03秒)──

 

 というわけで、益子は声をかけるのを止め、遠藤少年をついでに尾行することにした。今回は牟児津からの依頼があってしていることなので、仮に問題になっても牟児津も巻き添えにできる。できたからと言って何も良くないのだが、益子にはそれがなんとも心強いことに感じた。

 ほどなくして電車は学園の最寄り駅に着く。遠藤少年の事情を知っていた益子は、そのひとつ手前の駅で降りる可能性も考えていたが、それは杞憂に終わった。駅に着いた遠藤少年はスマートフォンを少し操作した後、ホームのベンチに腰掛けて一息吐いた。電話をしたわけではないなら、誰かにメールかチャットでもしたのだろう。

 

 「きっとヒロさんに到着の連絡をしたんですね。ふむふむ……次に来るのがヒロさんの乗った電車だから、ホームでお迎えしようと。なんて礼儀正しい子なんでしょう。ますます好感が持てますね」

 

 ホームに設置された自動販売機の陰から様子を窺いつつ、益子は遠藤少年の行動をメモ帳に記録していく。傍から見れば完全に事案なのだが、幸か不幸かホームにはほとんど人がおらず、そんな益子を咎める者はいなかった。

 やがて反対側の電車が到着し、真尋が降車してきた。ぴったり遠藤少年が座るベンチの真正面のドアである。

 

 「おろろ?なんでしょうかね……?」

 

 果たして牟児津の予想通り、そして益子の見込み通り、真尋と遠藤少年は学園の最寄り駅で待ち合わせをしていた。休日に遊びに行くほど仲が良いのはいいことだが、顔を合わせた二人は一切言葉を交わさない。代わりにお互いが自分のスマートフォンを操作している。微かにチャットアプリの通知音がひたすら鳴り続けるのが聞こえる。どうやら二人とも、言葉を交わす代わりにチャットアプリで会話しているらしい。

 

 「なんとこれは奇っ怪な!Z世代も来るところまで来たということですか……おっと」

 

 この奇妙な行動をメモに記していると、二人は話すことを話し終えたのか移動し始めた。益子は慌てて、しかし二人に勘付かれないよう距離を取ってその後を追いかけた。改札を出て駅正面の商店街を通り抜け、大きな交差点を曲がって大通り沿いに歩いて行く。まさしく、毎朝通っている学園への道だ。二人とも学園に用があるのだろうか。

 

 「初等部に部活はありませんし、制服じゃないから補講というわけでもなさそうですねっと」

 

 休日の通学路を歩いて行く二人を遠巻きにつけながら、益子は逐一様子をメモに残す。お互いに一切言葉を発さず、わざわざ立ち止まってチャットをする以外に、二人の行動に不審な点は見つけられない。さすがにカメラを構えるのは周囲の目が憚られるので、風景を撮るように装って二人の様子を撮影する。まるで探偵にでもなったような気分だが、自分はあくまでジャーナリストだと、益子は自分に言い聞かせる。

 

 「おやおや。学園までは……行かないようですね」

 

 大通りから分岐する長く緩やかな坂道に、二人は入っていった。その先にあるのは学園の敷地だけだ。しかし二人はそのまま校門まで行くわけではなかった。通学路の途中に建っている、少々立派なお堂を構えたお地蔵様の前で立ち止まった。

 そこで真尋は肩掛けカバンを、遠藤少年はリュックサックをそれぞれ開いた。中をまさぐって何かを取りだすと、それをお堂の中に供えた。通行の邪魔になっていないかをよく確認した後、二度礼をし、二度柏手を打ち、じっと固まった。昨日の下校中に牟児津たちと目撃した様子が、そこにそのまま再現された。

 

 「お参りですか。お休みの日にこんなところまでお参りに来るとは……あのお地蔵さん、何か曰くありましたっけね?」

 

 小学生がわざわざ友人と示し合わせてまでお参りに来るほど、ここのお地蔵様は有名なわけではない。学園生ならば存在は知ってはいるだろうが、特別ここでなければならない理由が益子には分からなかった。しかし何にせよ、二人が休日に家を出た理由はこれで分かった。牟児津からの指示では、目的地の様子もきちんと写真に撮って来るようにとのことだったので、益子は電柱の陰からこっそり写真を撮った。

 

 「こりゃあ、いよいよ不審者ですよ。もし捕まったら、ムジツ先輩にきっちり庇ってもらわないといけませんね。およっ」

 

 益子は冷静に自分の行いを振り返って、その怪しさに自分で笑えてきた。牟児津が弟を心配する気持ちは分からなくもないが、ここまでするほどのことだったのだろうかと、今更ながら使い走られたことにため息が漏れた。そうして油断した隙に、お参りを終えた真尋と遠藤少年が坂道を下って近付いて来ていた。とっさに電柱を利用して身を隠し、去って行く二人の背中を見送った。

 

 「ふう。危ないところでした。さてと、いちおうお堂の写真も撮っておきましょうか。ムジツ先輩ったら心配症なんですからもう」

 

 益子は地蔵堂の正面に回り込み、その中がよく見えるように低い位置でカメラを構えた。お堂の奥に佇むお地蔵様は柔らかな微笑みを湛え、手前にはたったいま二人の少年が供えたものがちょんと鎮座していた。ひとつはぷっくりと膨らんで食欲をくすぐる色をしたミカン。もう一つは清涼感たっぷりの上品な包みが特徴的な和菓子だった。益子の指がシャッターを押し込み、その光景をしっかりと捉えた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「というようなわけで、それから後は普通に友達と遊ぶ小学生という感じでしたね」

 「ふーん、なるほど」

 「ふーんって、ムジツ先輩がつけてこいって言ったんじゃないですか!もっとリアクションしてくださいよ!」

 

 その日の夕方、益子は一日真尋を追跡した結果の報告を牟児津にしていた。それを聞いていた牟児津は、益子から送られてきた弟の一日を追い続けた写真を眺めつつ思考を巡らせていた。自分の弟の隠し撮り写真なんか欲しくもないが、その中に望んだ一枚はしっかり含まれていた。

 

 「なるほどね。これがあるってことは……つまりそういうことか」

 「なにがそういうことなんですか?」

 「……でも、そっから先は……ううん」

 「ムジツ先輩?もしもーし!」

 

 益子の声など聞こえないほど、牟児津は頭を全力で回転させていた。今日の益子が撮った写真は決定的だ。これで抱えていた謎のほとんどは解明されたと言っていい。しかし、根本的な謎がまだ残っている。真尋の行動を追跡するだけでは、全てを明らかにすることはできなかった。

 牟児津は、いま自分が解決すべき事件について思い出す。高等部の敷地の真ん中に立つ大桜。その根元に散らかる大量のゴミ。朝昼夕を問わず常に捨てられ続け、授業中監視を続けてもその姿は見つけられなかった。大村によれば1ヶ月ほど前からそれは続いている。外部から人が立ち入ったわけでもない。大桜の下には……ベンチになるほどの根。大人10人でも囲みきれない巨大な幹。茂った葉と咲き誇る花、巡る季節と生命の営みをその身に引き受ける大樹。

 

 「……可能性が、あるとすれば」

 「はい?」

 「益子ちゃん。大村さんの連絡先知ってるよね?」

 「めぐるんですか?もちろん知ってますよ……おっ?もしかして、分かったんですか?大桜連続ポイ捨て事件の犯人!」

 

 期待の高まりにつられて益子の声が大きくなる。しかしいまの牟児津は、その程度では思考が乱れないほど集中していた。忘れないように自分の推理をメモに残し、最後に益子に告げた。

 

 「……明日、それを確かめる。みんなで大桜まで行くよ」

 

 興奮した益子に、関係者を同じ時間に集めるよう指示を出して、牟児津は電話を切った。そして明日に備え、牟児津は事件解決に必要な準備をして、ベッドに入った。



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第4話「いいってことよ」

 

 益子からの報告を受けて一夜明けた次の日の朝、牟児津は昨日と同じように早起きした。同様に早起きしている真尋の様子を窺いつつ、身だしなみと朝食、荷支度を終わらせ、いつでも出発できる体勢を整える。やがて真尋は、昨日とほぼ同じ時間に家を出た。

 

 「いってきまーす!」

 

 それを聞いた牟児津は、すぐに自分も玄関に走っていった。そしてある程度真尋が家から離れるのを待ってから、自分も家を出た。

 

 「いってきます」

 

 緊張の表れか、または真尋に気付かれないように忍ぶ気持ちが表れたのか、牟児津はこっそりと声をかけた。家を出て早速、同じようにこっそり家を出て来た瓜生田と鉢合わせた。昨日の夜のうちに事情を話しておいたので、瓜生田とは目配せだけしてすぐに真尋の後を追いかけ始めた。

 いつも通っている駅で、いつもと同じようにやってくる電車に乗る。真尋が電車に乗ったことを確認して、牟児津と瓜生田も隣の車両に乗り込んだ。ここからなら、尾行されていると知らなければ気付きようがない。

 

 「なんだかスパイごっこみたいでワクワクするね、ムジツさん」

 「いい気なもんだよ、うりゅは」

 

 気を紛らわせようと敢えて言っているのか、それとも悪気無く天然で言っているのか、呑気な瓜生田に牟児津は呆れる。牟児津は今から自分の弟とその友達を泳がせて、謎解きの舞台まで連れて行こうとしている。自分も巻き込まれた立場だが、さらに身内を巻き込むというのはなんとも心苦しいものだった。

 しばらくして電車は、学園の最寄り駅に到着した。電車を降りると、真尋はドアの正面で待っていた遠藤少年とチャットで会話して、すぐに改札に向かった。牟児津と瓜生田は、遠藤少年を尾行していた益子と合流し、あいさつもそこそこに移動を開始した。

 

 「やっぱり無言だね」

 「なんなんだいったい。気持ち悪い」

 「昨日、お参りをした後は普通にしゃべってたんですけどね。何かそういう儀式でしょうか」

 

 益子の話によれば、大村は既に学園の掃除をしているらしい。今朝もゴミは落ちていたそうで、朝から相当腹を立てているとの話だ。大村はいつでも腹を立てているのでそれは問題ないが、今日でその怒りん坊ともおさらばできるのだと思えば、尾行にも一層気合いが入る。

 商店街を行く小学生二人の後を、女子高校生3人がこそこそつけていくのはなんとも珍妙な様だった。朝で人通りが少ないお陰で誰にも咎められずに尾行できたのが幸いである。真尋と遠藤少年は交差点を曲がり、大通りを抜けて緩い坂道に入る。そして話にあったように、途中にある地蔵堂の前でしゃがみ込んだ。二人の姿を確認すると、牟児津は瓜生田と益子とともに、二人を取り囲むような位置に回り込んだ。懸命に拝む二人が気付かないうちに、三人は一気に距離を詰めた。

 

 「……ん?ぎゃああっ!?」

 「えっ!?わあっ!?えっ……?えっ!?」

 「はーい、大人しくしてね二人とも」

 

 拝み終わったのか違和感に気付いたのか、真尋が顔をあげて振り向くと、そこには牟児津と瓜生田と益子が壁のように立ち塞がっていた。驚きのあまり声を出した真尋につられて、遠藤少年も驚きの声をあげる。すかさず瓜生田が二人を抱きかかえ、あっという間に捕まえてしまった。

 

 「り、李下!?なんだよ!」

 「まあまあ落ち着いてヒロくん。こうしないとヒロくんすぐ逃げちゃうでしょ」

 「ふぐぅ」

 

 瓜生田に思いっきり抱きかかえられて、暴れすぎた真尋は早々に体力が果ててだらりと手足を投げ出してしまった。一方の遠藤少年は未だ事態を把握しきれていないようで、不安げに牟児津たちの顔を見ていた。状況を説明するため、牟児津が遠藤少年に目線を合わせて話しかける。

 

 「風吏くん、いきなりごめんね。私のこと覚えてる?」

 「っ!っ!」

 

 遠藤少年は、黙って首を縦に振った。その表情は少し申し訳なさそうだ。

 

 「よかった。それで、今ヒロと二人でここにお参りしてたでしょ。それで少し、私たちに付き合ってほしいんだ」

 「???」

 

 明らかに遠藤少年の顔色が悪くなり、困惑の表情になっていく。突然こんなことになれば誰でもそうなるだろう。疲れ果てた真尋を瓜生田が押さえたまましゃがませ、牟児津は二人に説明を始めた。

 高等部にある大樹、大桜の根元にゴミが捨てられる事件が発生したこと。その容疑者として牟児津が疑われていること。また、真尋と遠藤少年が休日も毎日ここにお参りしていることを、益子を使って明らかにしたこと。

 これまでの経緯を、なるべく二人に分かりやすいように語っていく。そして最後に牟児津は、自分の考えを付け加えた。

 

 「それでね。このお地蔵様と、大桜のポイ捨て事件、これがもしかしたら関係してるんじゃないかって思うんだ」

 「へえ、そうなの?」

 「私もいま初めて聞きました!ムジツ先輩、どういうことですか?」

 「大桜まで行こう。そこにきっと、答えがある」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「遅いですっ!いったいどこで何をしていたのですかっ!」

 「ごめんごめん。ちょっと通学路で小学生を二人ほど捕まえてて」

 「何をしていたのですかっ!?」

 「安心してよ。こっちはヒロくん、ムジツさんの弟。でこっちは風吏くん、ヒロくんのお友達。どっちも初等部の子だよ」

 「はあ。どうも初めまして」

 「……」

 

 真尋と遠藤少年を連れて、三人は高等部の門をくぐって大桜の下までやってきた。休日も部活動があるため校門は開かれており、自習スペースも解放されていて学園生なら自由に入ることができる。大村は今日も朝から学園内を掃除していたようで、すっかり聞き慣れた掃除機のエンジン音が相変わらず空気を振動させている。

 ようやく関係者が全員揃い、牟児津は大桜の下に立って全員に正対した。一度に全員の視線を受けることになったが、うち二人は子どもで、うち二人は見慣れた顔である。さほど緊張することもなく、推理を披露し始めた。

 

 「大村さん、わざわざお休みの日までありがとう。ようやく、一連のポイ捨て事件の犯人が分かったよ」

 「誰なんですかっ!その不届き者はっ!」

 

 推理モードになった牟児津の心は穏やかで、いつもほど頭の中はいっぱいいっぱいではなかった。

 

 「1ヶ月くらい前からほぼ毎日ゴミが捨てられてるこの事件は、実はそんなに難しいことじゃなかったんだよ。難しく感じてたのは、私たちが的外れな証拠ばっか集めてたからだ」

 「どういうこと?」

 「たとえば、犯人はどうやってここにゴミを捨ててるのか。私たちは一日ここを監視して犯人を見つけようとしてたから、本当に犯人がゴミを捨ててる現場に気付けなかったんだ」

 「んん?んんん?なんだかよく分かりません。監視していたから気付けなかった?」

 「あとは大村さんが気にしてた、どうしてこの場所を選んで捨ててるのか。これもそう。別にここである必要なんかないんだよ。たまたまゴミを捨てる場所がここっていうだけ。でもそれは、ある意味でここにしかならない理由なんだ」

 「ええいっ!訳が分かりません!一体全体何がどうなってこうなっているというのですか!犯人は誰で、なぜここにゴミを捨てているのですかっ!」

 

 牟児津の言葉は益子たちの頭をますます混乱させるばかりだった。持って回った言い方では結局誰にも真相が伝わらない。牟児津は手を動かした。この事件の犯人を示すため、人差し指を構えている。

 

 「一連のポイ捨て事件。姿を見せず、毎日毎日1ヶ月もの間ここにゴミを捨てていた犯人は……!」

 

 牟児津の指が伸びた。それが事件の犯人を指し示す。真っ直ぐ、真っ直ぐ、頭上に向かって。

 

 

 

 「カラスだよ」

 

 

 

 大桜の樹から、ひらりと何かが落ちてくる。それは木漏れ日の光を受けてきらきらときらめくようで、光が透けて景色に溶けるようだった。牟児津は目の前に落ちたそれを拾い上げる。半分がビニールで半分が和紙のその包みを広げて、それが何かをはっきりと検めた。

 

 「カ……カラスぅ?」

 「ムジツさん、それって……」

 「うん。やっぱり、それで正しかった」

 

 今この瞬間まで、牟児津は自分の推理が正しいのか、確証が持てていなかった。状況から積み上げた推理は整合性がとれているように見えても、必ずしも事実を表しているとは限らない。そこに必要なのは物的証拠、これ以上ないほど明確な根拠なのだ。

 

 「ど、どういうことか説明してくださいっ!カラスが犯人だなんて言われても……納得できませんっ!」

 「うん。分かったよ。それじゃあまず、どうしてここにゴミが捨てられるようになったのか、その理由からだ」

 

 なおも声を上げる大村に、牟児津は冷静に対応する。もはや牟児津には一連の出来事の全てが手に取るように分かっていた。それをそのまま話すだけのことに、慌てる必要はない。

 

 「大桜はこれだけの大きさだから、色んな生き物が巣を作ってるんだ。もちろんその中にはカラスもいる。巣を作ったカラスは、あちこちから持ち帰ってきた食べ物を巣の中で食べて、そして食べかすを巣から蹴り落とす」

 「そうすると……それが大桜の周りに落ちたゴミになるってこと?」

 「カラスはなんでも食べるからね。だからゴミの種類に統一性がなかった。でも食べ物に関係するゴミっていうことだけは共通してたよね」

 「し、しかしですっ!」

 

 大村が異議を唱えた。

 

 「カラスなんて以前からずっといましたっ!ですがここにゴミがポイ捨てされるようになったのは1ヶ月ほど前からのことですっ!それまではきれいなものでしたよっ!」

 「確かに、この辺りはカラス対策でゴミ捨て場にネットをかけたり、カラス除けを設置したり、色々対策してるよね。だからあんなにたくさんのゴミは出ないと思うけど……」

 「そうだね。ゴミ捨て場から出るものには、カラスも手を付けられないと思うよ。でもそうじゃないとしたら?」

 「そうじゃない……ああ!まさかですけどムジツ先輩!」

 「うん。ここのカラスは覚えたんだよ。通学路にある地蔵堂、それと似た場所なら、ネットもカラス除けもなく食べ物が手に入るって」

 

 地蔵堂の前に供えられたお菓子や果物を思い返して、益子が声を出した。学園生にとっては通学路の地蔵堂がすぐに思い付くが、カラスの行動範囲ならこの街一帯にある地蔵堂や道祖神、神社などのお供え物を全て食べ漁ることができるだろう。そして可食部と一緒に運ばれてきた非可食部は、さっさと巣から蹴落とされてしまうということだ。

 

 「でもどうしてカラスは、急にそんなことを覚えたんだろう?学習するにしたってきっかけがないと」

 「きっかけならあったよ。ちょうど1ヶ月くらい前、地蔵堂に食べ物が置かれるきっかけが」

 「……」

 「もう分かってるんでしょ。ヒロ、風吏くん」

 「……っ!」

 

 牟児津の指摘で、二人はほぼ同時に肩を跳ねさせた。カラスが地蔵堂に食べ物があると学習するきっかけ、ちょうど1ヶ月ほど前、それだけ情報があれば誰でも分かる。それが、当事者ならばなおさらのことだ。

 

 「あんたたちがあの地蔵堂にお供えをし始めたのが、このポイ捨て事件の原因だよ」

 「くうっ……!」

 「ど、どういうことですか……?この子たちが、ポイ捨て事件の原因とは……?私にも分かるように説明してくださいっ!」

 

 唯一事情を知らない大村が、今度は怒りではなく懇願するような声をあげた。どんどん進んで行く話について行けず、もはや聞き役に徹するしかない。

 

 「それは……」

 「……ぼ、ぼくがっ……!」

 

 牟児津の言葉が遮られた。瑞々しい若葉を思わせるあどけない声だった。

 

 「僕が、始めたんです……!僕のお父さんがもうすぐ手術で……!上手くいきますようにって、おねがいして……!だから、僕が原因なんです!」

 「ち、ちがうぞ!いやちがくないけど……おれもやった!フーリのおねがいごとが叶いますようにって、おれもいっしょにお参りしてた!おれも原因なんだ!」

 

 遠藤少年が初めて言葉を発した。それにつられるように、真尋もまた声をあげる。お互いがお互いを庇うように自分の責任を主張する。牟児津は二人の行いを“原因”と言ったが、かと言ってポイ捨ての責任を二人に追及するというのは無理がある。

 

 「二人とも、そんなに焦らなくても大丈夫だよ。ムジツさんは別に、二人を責めてるわけじゃないから」

 「え……」

 「要するに大村さん、この事件に犯人なんていないんだよ。カラスは別にポイ捨てをしようと思ってしたわけじゃない。むしろポイ捨てだとも思ってない。ただ生きてるだけなんだ。ヒロと風吏くんだって、まさかお供え物がそんなことになるなんて予想できない。ただ純粋にお参りしてただけなの」

 「し、しかしですね……そもそもここに落ちているゴミがお供え物のゴミだという証拠がないでしょう。たまたまタイミングが被っただけかも知れないじゃないですか」

 「そう言うと思ったよ」

 

 待ってましたとばかりに、牟児津は先ほど落ちてきたゴミを見せた。半分がビニール、半分が和紙になった包みには、大きく黒い線が引かれている。ずたずたになった袋を整えてみれば、黒い線が示す意味もはっきりと分かる。そこには大きく、“ムジツ”と書かれていた。

 

 「こ、これは……?」

 「いま話した可能性に、昨日の夜に気付いてね。準備しておいたんだよ」

 「準備というと?」

 「この包み、『淡月』っていうお菓子の袋で、私がストックしてるものなんだ。でもそれが最近、やけに早いペースで減ってたから不思議に思ってたの。で、昨日益子ちゃんにヒロを尾行してもらったら、ヒロがこれを地蔵堂にお供えしてるところを見つけた。だから、もし本当に地蔵堂のお供え物がここにポイ捨てされてるなら、区別できるようにしておこうと思って名前を書いといたの。ヒロ、あんたまんまとこれを持っていってくれやがったな」

 

 益子が送ってきたゴミの写真に映り込んだ『淡月』の包み。異様なペースで減っていく自分のストック。そして真尋のお供え物。場所も時間もばらばらに起きている事件の全てを『淡月』がつなげていることに気付いた牟児津は、このお菓子がもともと自分の物であったという証拠を準備していたのだった。

 事件解決の根拠になったとはいえ、自分で買ったお菓子を勝手に持って行かれたことは別の問題である。牟児津は瓜生田に頭を撫でられる真尋をキッと睨み付けた。真尋は少し膨れて言う。

 

 「……だって、お供え物なんて自分で買えねーもん」

 「ったく。普通に言えば分けてあげるじゃんよ。こそこそ人のもん盗むとか一番しょうもないやり方すんな!」

 「……」

 「ヒロくん。ちゃんとムジツさん謝んないとダメだよ?」

 「……めんさい」

 「なんだ()()()()って!ちゃんと謝れ生意気坊主!」

 「うわっ!ごっ……ごめ、ん……んなさぃ……」

 「うん、よく謝れました。ムジツさん、いいんじゃない?」

 「まあ……じゃあうりゅの顔に免じて今までのことは許してやらあ」

 

 なんとも肩透かしな結末に呆気にとられている大村は放っておいて、牟児津は真尋に詰め寄る。多感な時期の真尋にとっては、姉に謝るということすら恥ずかしく感じられて、素直に言葉を出せなくなってしまう。それでも瓜生田に促され、やっとの思いで真尋は姉に謝罪した。

 しかしここで真尋は気付いた。普段は駅と教室の間をお参りの道として言葉を喋らずにいたが、今はそのどちらにも辿り着いていない。それにも関わらず、二人とも遠慮なく喋ってしまっている。

 

 「あああっ!お、おいフーリ!言葉……!」

 「もういいよ、ヒロ。ありがとう。今まで、僕に付き合ってくれて」

 「え。だって……いいのかよ?お前のお父さんは……?」

 「大丈夫。どっちみち、分かんないからさ。どうなるかなんて……お医者さんしだいだよ……」

 

 それは明らかに、遠藤少年の強がりだった。真尋より早く、自分が喋ってしまったことに気付いた遠藤少年は、自分に言い聞かせるようにそう言った。しかしその手はカタカタと震えていて、どう見ても大丈夫ではない。結果的にポイ捨てを誘発することになってしまったとはいえ、遠藤少年には何の罪もない。ただ純粋に父親の快復を祈っていただけだ。なんとかしてあげたいと牟児津は思うが、なんと声をかけてやるのが正解か分からず、踏み出しあぐねていた。

 その状況に一歩踏み込んだのは、それまで真尋たちを押さえつつ話を聞くことに徹していた瓜生田だった。瓜生田は、二人の横にしゃがみこみ、優しくその頭を撫でて問うた。

 

 「風吏くん。ヒロくん。お参りで一番大切なことって、なんだと思う?」

 「?」

 

 瓜生田の問掛けに、二人ともきょとんとしている。

 

 「お参りの方法って色々あるよね。同じ場所でも人によってお参りの仕方は違う。どれが正しくてどれが間違いなんてなくて、みんな正しい。なんでだと思う?」

 「……分かんねえよ」

 「それはね、その人が一番強くお願い事ができる方法が、その人にとって一番正しい方法だからだよ。風吏くんとヒロくんは、毎日欠かさずあのお地蔵様にお参りしてたんだよね。私はそれだけでもすごいことだと思うな」

 「で、でも、しゃべっちゃダメなんじゃ……」

 「お参り中ずっとしゃべらないのってどう?大変だった?」

 「……うん」

 「そうだよね。普通はついしゃべっちゃいそうになるよね。でも君たちはずっとそれを守ってきた。それは、君たちの気持ちがそれだけ強かったってことなんだよ。喋っちゃいけないってルールを守れるくらい強い気持ちでお参りができたのなら、その気持ちはきっと本物なんだよ」

 「う、うん……」

 「だから、もししゃべっちゃっても大丈夫。風吏くんもヒロくんも、本物の気持ちを持って、本当に叶ってほしいと思ってお願いしたことなら、きっとお地蔵様も聞き届けてくれるよ」

 

 真尋と遠藤少年の頭を優しく撫でながら、瓜生田は諭すように話す。自分のしたことがもたらした結果と、お参りの途中にしゃべってしまったことでひどく動揺していた遠藤少年だったが、瓜生田の話を聞いて少しずつ落ち着きを取り戻してきた。父親の手術が上手くいくかどうか。今はまだ神のみぞ知ることであるが、先ほどまでより安心して考えられるようになったようだ。

 

 「ヒロくんも、風吏くんのために一緒に頑張ったね。えらいえらい」

 「んん……」

 「大村さんも、納得したよね。このゴミは誰のせいっていうわけでもない。自然に出てくるもののひとつってこと」

 「……ええ、まあ、誰にも責任がないことは分かりました。どうやら私も冷静ではなかったようです」

 

 そう言うと、大村は牟児津に正対し、真っ直ぐその目を見つめた。牟児津の心臓がぎゅっと縮んだ。

 

 「牟児津先輩。あらぬ疑いをかけてしまって大変申し訳ありませんでした」

 「お、おおう……いいってことよ」

 

 ドギマギしたまま応対したので、自分でも何を言っているかよく分からないまま、牟児津は大村をあっさり許してしまった。大村はその次に真尋と遠藤少年を見た。見下ろされる形になり、二人の心臓もぎゅっと縮む。

 

 「お二人とも、その純粋な心持ちは素晴らしいものです。ですがひとつお願いがあります。次からは、包みを剥いてお供えするように」

 「わ、分かりました……」

 

 咎めることはせず、ただゴミが出ないよう工夫することだけを求めて、大村はそれ以上二人の行いに口を出すことはなかった。牟児津も瓜生田も益子も、大村は掃除機に取り憑かれた掃除狂いかと思っていたので、意外にも大人の対応をしたことに驚いた。

 

 「そうだ。せっかくだから、帰りにみんなでもう一回お願いしに行こうか」

 「賛成ですっ!その前に、ここの掃除を手伝ってくださいね」

 「あーもう、貴重な休日をヒロなんかのために……」

 「ムジツ先輩はヒロさんが心配だったんですよね。お姉さんは大変です」

 

 不満を口にしながらも、事態が一件落着したことと真尋の友人を想う気持ちを知って、牟児津は一安心していた。大村は正体の見えない犯人によるポイ捨てから、遠藤少年はプレッシャーになっていたお参りのルールから解放され、憑き物が落ちたようにさっぱりとした顔をしていた。その後、全員で大村の指示のもと大桜の下を掃除した。そして帰りに、全員でお地蔵様に、遠藤少年の父親の手術の成功を祈った。

 それだけでなんとなく、全てが上手くいくような気になってくるのだった。



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その5:図書館蔵書持ち去り事件
第1話「ぐうの音も出ない!!」


 

 ──ねえ。もし自分の運命を知ることができたら、どうする?

 

 「なんで……?なんでそんなひどいこと言うんですか!?」

 「事実でしょ。私はもう、終わりにしなくちゃいけないの。こんなこと」

 

 ──『運命辞典』って知ってる?この学園のどこかにあるんだって。

 ──そこにはね、その人の運命が書かれてるの。いつどこで生まれて、いつ誰と結ばれて……いつどうやって死ぬかまで。

 

 「止めはしない。ただ、その選択を後悔しないようにすることだ」

 「ど、どうして……止めないんですか……!?どうして……!」

 

 ──『運命辞典』は絶対なんだよ。破っても燃やしても、そこに書いてある運命は変えられない。だってそれは運命だから。

 

 「いずれこうなるだろうと思っていた。私たちは、こうなる運命だったのさ」

 「運命って……バカなこと、言わないでください」

 

 ──だから、もし『運命辞典』を見つけても、開けない方がいいよ。だって自分の運命のすべてを知って生きてくのって……。

 

 「それじゃあね。私たちは、楽しかったよ」

 「……」

 

 ──死んでるようなものじゃない?

 

 「さようなら」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津(むじつ) 真白(ましろ)は縮こまっていた。額に汗がにじみ激しく目が泳ぐ。これは牟児津の悪癖のひとつだ。人に見つめられることが苦手な牟児津にとって、真正面から人と相対することはもはや苦痛だ。自分が責められている状況なら、なおさらである。

 むんとした表情で牟児津を見下ろすのは、牟児津とは十年来の幼馴染みである瓜生田(うりゅうだ) 李下(りか)だ。日頃浮かべている間の抜けた微笑みはそこになく、真一文字に結んだ口と逆八の字に傾いた眉で、分かりやすく怒りの表情をしていた。同年代と比べ抜きんでて高い背が、今の牟児津にはさらに大きく感じられる。そして今日はいつもの格好に加えて、左肩に黄色の腕章をつけていた。

 

 「……う、うりゅ?なに、怒ってんの?」

 「むん」

 「そ、そんなに怖い顔しないでよ。あ、ようかん食べる?」

 「むんん」

 「ひぃ……」

 

 携帯ようかんが余計に機嫌を損ねさせたのか、瓜生田はいっそう眉に角度をつける。人の眉はここまで急角度になるのか、と牟児津はどうでもいいことが気になった。ある種の現実逃避かも知れない。そうやって油断していたので、瓜生田がいきなり口を開いたことに驚いてしまった。

 

 「あのね、ムジツさん」

 「っ!ひゃいっ!」

 「3ヶ月前から、図書室の本が借りっぱなしになってるんだ」

 「ほぇ……本?」

 「それも、ムジツさんの名前で」

 「……な、なんで?」

 「それが分からないから、こうして聞きに来てるんじゃない。知ってることは?」

 「な、なんも知らない、です……」

 「本当に?」

 「本当に本当!私が図書室なんて行く人間に見える!?」

 

 瓜生田はじっと牟児津の顔を見つめる。自分の潔白を叫ぶ牟児津の目には、縋りつくような必死さが浮かんでいた。ウソを吐いているようには見えないし、記憶が曖昧なわけでもなさそうだ。はっきりと自分の無実を確信した上で、牟児津は瓜生田に訴えていた。

 瓜生田は、ひとつため息を吐いて表情を緩ませた。風船がしぼむように、牟児津が感じていた威圧感も同時に消え去っていく。

 

 「だよねえ。困ったなあ」

 「な、なに……?どしたの?」

 「いや、私もムジツさんが本を持って行っちゃったなんて思ってないけど、万が一ムジツさんが犯人だったら叱らなくちゃと思ってたら……なんか緊張しちゃって」

 「あれが緊張……?」

 

 風紀委員の取り調べでも緊張していなかった瓜生田が、まさか自分に対して緊張するなど、牟児津には考えられなかった。そして瓜生田が緊張すると、妙な威圧感をかもし出すということも、このとき初めて知った。傍迷惑なものだと呆れもした。

 

 「でもね、本当にムジツさんの名前で、3ヶ月前に本が借りられてるんだよ。直接は知らなくても、何か心当たりとかない?」

 「心当たりっつってもなあ……ううん」

 「取りあえず一緒に図書室に来てよ。私も仕事あるし」

 「どっちみちうりゅが帰る時間まで待つけどさ……図書委員って何時に終わるの」

 「図書室の閉館が17時で、そのあと掃除と片付けに30分くらいかな」

 

 牟児津は時計を見た。あと1時間と少しくらいである。自分への疑いは晴れたのだから、瓜生田の仕事が終わるくらいに帰れるだろう、と考え、瓜生田に従って図書室へ向かった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 図書委員の主な仕事は学園図書室の管理・運営業務である。大学部に本館を置く伊之泉杜学園図書館は、全国の私立校でも有数の蔵書数を誇る、伊之泉杜学園の自慢の一つであった。瓜生田ら高等部生が担当しているのは、図書館の高等部分室である。

 

 「阿丹部(あにべ)先輩、糸氏(いとうじ)先輩。ムジツさんを連れてきましたあ」

 

 図書室の手前にある図書準備室のドアをノックしてから開け、瓜生田は中にいる二人に声をかけた。

 阿丹部(あにべ) 沙兎(さと)は、ワゴンに乗せた本を棚に戻している途中であった。紫紺色の髪を耳の下まで伸ばした猫背の生徒だ。毛先にクセがあるせいで首の周りだけ髪が膨らんでいる。フリルのついたヘアバンドや首から下げた数珠のような首飾り、木製の四角いイヤリングなど、かなり奇抜に着飾っている。

 糸氏(いとうじ) 斗々(とと)は、本に積もった埃をはたきで払っていた。薄暗い図書準備室でも白く光る分厚い丸眼鏡をかけた、センター分けのひょろ長い生徒だった。スカートの下にストッキングを履いており、眼鏡の隙間から覗く切れ長の目と長いまつ毛が印象的だった。

 

 「ご苦労様。その子が牟児津さん?」

 

 暗がりの奥から、糸氏が眼鏡を光らせて応じた。

 

 「はい。今日の仕事が終わるまで、取りあえず思い出したことがあったら教えてもらおうと思って」

 「そうなんだ。うん、いいと思うよ。待っててね、イスとお茶用意するから」

 

 本の日焼けを防ぐため、図書準備室は常にブラインドが閉められている。作業するときはミニテーブルに設置された電気スタンドを点けるのだが、今はそこに牟児津を座らせて、阿丹部がポットとティーカップを持ってきてお茶を出した。

 

 「本当は飲食禁止なんだけど……でも、李下のお客さんだから、特別にね」

 「あ、いえ、はあ、すんません……ども……」

 

 牟児津は初対面の阿丹部に緊張して、ティーカップに紅茶を注ぐ阿丹部の手元に視線を注ぐ。阿丹部は阿丹部でカップに集中しているのか、牟児津の方を一切見ようとしない。お互いに相手から目を逸らしているようだった。

 

 「じゃあ……まあ、飲みながらでいいから、いくつか聞いてもいい?」

 「私が聞こうか?沙兎は……あんまり得意じゃないだろう」

 「ああ……すみません」

 「だったら私が聞きますよ。ムジツさんは初対面の人が苦手なんです。阿丹部先輩ほどじゃないですけど」

 「んん……なんかごめんね、李下」

 

 どうやら阿丹部は、派手に着飾っている割になかなか奥手らしい。ろくに目も合わせられないのは牟児津も同じなので、少しだけ親近感が湧いた。阿丹部と交代して、瓜生田が牟児津の前に座る。薄暗い部屋で電気スタンドの灯りに顔を照らされて、古い警察ドラマの取り調ベシーンを彷彿とさせるシチュエーションだった。

 

 「全部吐いて楽になっちゃいなよ」

 「言いたいだけだろそれ!私はやってないんだってば!」

 「ムジツさんは、ここ3ヶ月で図書室に来た覚えはある?」

 「授業以外では来ないなあ」

 「お二人とも、ムジツさんみたいのが来たら目立つから、見てたら覚えてそうですけど?」

 「みたいのってなんだ」

 「うちに赤い髪の人は少ないから。どうですか糸氏先輩」

 「ふぅん、私はカウンターにいるときはだいたいぼうっとしているから……分からないなあ」

 「そうですか。残念」

 「それでいいのか図書委員」

 

 牟児津は図書室にめったに来ないから分からないが、図書委員としてカウンターにいるのだから何かしらの仕事があるはずだ。来た生徒の顔を覚えていないのはまだしも、ぼうっとしているなどそんな明け透けに言っていいのだろうか。当の糸氏は、変わらず眼鏡を光らせてきりっとした表情を崩さない。真面目なのか抜けているのか分からない。

 

 「というか、本を借りるときに本人確認くらいするんじゃないの?」

 「昔はそうだったみたいだけど、今は自動貸出機があるから、人と顔を合わせなくても、貸出も返却も、取り寄せもできたりするの。すっごく……便利だよね」

 「へ?そうなの?」

 「それでも学生カードが必要だけどね。入学したときにもらったでしょ?あれについてる二次元バーコードを読み取って、いつ誰が何を借りたのか、パソコンで確認できるようになってるの」

 「ほえ〜、図書委員もハイテク化してるんだなあ」

 「だからね。ムジツさんの名前で本が借りられてるってことは、少なくともムジツさんの学生カードが使われたってことになるんだよ」

 「うぬん……でも、私は本当に借りてないんだよ……」

 「記録を見てみたらどうだ?何か思い出すかも知れない」

 

 学生カードは、伊之泉杜学園の生徒がひとり一枚持っている身分証明書のことだ。氏名や生年月日や顔写真のほか、学園が個人情報にアクセスするための二次元バーコードも記載されている。個人情報満載な上に、再発行に時間もお金もかかるので、多くの生徒は貴重品と一緒に肌身離さず持っている。故に、学生カードを使用する自動貸出機の記録は信頼できるものなのだった。

 牟児津は図書室のカウンター内に移動し、そこで貸出の記録を確認することにした。パソコンの操作は図書委員しかできないので、瓜生田がマウスを握った。

 

 「これが、期限超過の未返却本をチェックするシステム。うちは貸出期間が最長1ヶ月だから、毎月これで、返ってきてない本を調べるの。ここに今日の日付を入れると……ほら出た」

 「真っ赤!」

 「赤いところが期限超過してる本ね。ここにほら、ムジツさんの名前があるでしょ」

 

 瓜生田の指した箇所には、確かに牟児津の名前がある。そして借りた本のタイトルは、『伊之泉杜学園史』──伊之泉杜学園の創立から現在までの歴史をまとめた本である。

 

 「こんなん、私が借りるわけないじゃん……」

 「私もそう思ったけど、実際ムジツさんの名前で借りられてるし」

 「何か思い出したことはない?学生カードを人に貸したとか」

 「いやあ、貸した覚えは……あっ」

 

 牟児津はあることを思い出した。図書室を訪れた記憶は相変わらずない。学生カードを他人に貸すなど、この学園では家のカギを他人に渡すようなものだ。あり得ない。だが、他人が牟児津の学生カードを使用できた心当たりなら、牟児津にはあった。

 

 「そういえば、私3ヶ月くらい前に学生カード失くしたわ」

 「ウ、ウソ!?カードなくしたって……!?それ、めちゃくちゃ大変……だよ?」

 「いや、もう返ってきてるんですよ。ホームルームのときにつばセンが持ってきてくれて」

 「詳しく聞かせて」

 

 学生カードの紛失は、学園生にとって一大事である。にもかかわらず、牟児津はなんでもないことのように話す。阿丹部も糸氏も、その話を初めて聞いた瓜生田も、牟児津を呆れた目で見た。それに気付かないまま牟児津は、少しおぼろげな記憶をたどり始めた。

 

 「なんかつばセンの話だと、落とし物として届けられてたんだって。いつ落としたのか分かんないんだけど、つばセンのとこまで回ってきたから、ホームルームのときに返すつもりで一旦預かってたらしいよ。もう落とすなよってめっちゃ言われたから覚えてる」

 「……妙だね」

 「な、なにがですか?」

 「学生カードには名前も生年月日も顔写真もある。牟児津さんと同じ学年の生徒に聞けば簡単に本人を捜し出せるはずだ。なんで直接届けずに、落とし物として届けたんだろう?」

 「ああ……確かにそうですね」

 「ねえねえムジツさん、糸氏先輩にお株を奪われちゃうよ」

 「何の話だ」

 「はいはーい、糸氏先輩。もしその拾い主がムジツさんのカードで本を借りてたら、ムジツさんに直接返さないと思いまーす」

 「なるほど。一理あるね」

 「でも李下、それって結構重大な校則違反になるんだけど……?」

 「そうですね。あとその場合、貸した方も罪に問われる可能性があったりして」

 「え゛」

 

 瓜生田の発言で、牟児津の頭に鬼の風紀委員長の顔が浮かんだ。想像するだけで体が震えるほど、牟児津は彼女が苦手だった。あの鬼に追われることになるのは、牟児津にとって最悪な未来予想図だった。それだけはなんとしても避けたい。

 

 「や、やだようりゅ!なんで私が校則違反したことになんの!?違うって!本なんか借りてないし誰にもカード貸してないよ!」

 「ど、どうしたの牟児津さん。そんなに慌てて」

 「ムジツさんはここ最近、風紀委員に色々とお世話になってるんです」

 「常習犯ってこと?」

 「言い方が悪い!世話になんかなってない!むしろ嫌いだ!すぐ私を捕まえようとする!」

 「やっぱり常習犯ってことじゃないの?」

 「ぎゃーっ!!スマホ出した!!やめて〜!!通報しないで〜!!」

 「静かにしなさい。ここ図書室だよ」

 

 機械に記録されている以上、少なくとも牟児津のカードが利用されていることは確実だ。本人が使っていないなら、紛失したタイミングで他人に使われている可能性が濃厚だ。牟児津自身が罪に問われるかどうかは分からないが、校則違反に関わっているなら放ってはおけない。

 

 「取りあえず、大眉(おおまゆ)先生に聞いてみたら?学生カードの落とし物なんて滅多にないし、たぶん覚えてるんじゃない?」

 「そんなんで犯人分かるのかなあ」

 「ムジツさんのカードが使われたのは確実なんだから、戻ってきた経路を逆にたどれば、持ち去り犯が突き止められるかも知れないよ。それに、今はそれしか手がかりがないんだから」

 「李下も行って来たら?ここは私がやっておくからさ」

 「え。でも糸氏先輩、今日当番じゃないですよね。ムジツさんの顔を確認してもらうためにお呼びしただけなんですから、そこまでしてもらわなくても」

 「いいのいいの。内部進学組はこの時期もヒマなんだから」

 「そうですか?じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」

 

 牟児津ひとりだけでは不安だと、初対面の糸氏もなんとなく感じ取ったのだろう。厚意から瓜生田に付添いを勧め、残っていた図書委員の仕事を請け負った。瓜生田は自分の腕章を外して糸氏に貸し、パソコンの画面を写真に撮って日付や本の名前を控え、聞き込みに行く準備を整えた。牟児津は、また面倒なことに巻き込まれてしまった憂いをため息に乗せて吐いた。

 

 「それじゃあ行ってきまあす。ひと段落したら報告に戻ってきますね」

 「二人とも、なるべく早く帰ってきてね。もう糸氏先輩ぼうっとしてるから」

 「おい、やる気ないぞあの人」

 「ゆるいのが図書委員の味だから。さ、大眉先生のところまでレッツゴー」

 「お〜」

 

 牟児津は極めて気が乗らないが、自分の学生カードが他人に利用されたとあってはやるしかない。このまま大眉に話を聞いて解決すればいい、と、あり得るはずもない展開に一縷の望みをかけて、牟児津は職員室に向かった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 放課後の職員室では、教師が自分の机で各自の仕事に励んでいた。響き渡る電話のコール音、扉を開けると漂うコーヒーの匂い、せわしなく動き回る大人たち。牟児津たちにはまだ縁遠い、『職場』という雰囲気がその部屋には満ちていた。

 大眉(おおまゆ) (つばさ)のデスクは入口そばだ。コーヒーを片手に、書類の山の隙間でパソコンと向かい合っていた。

 

 「っすー、つばセン。今いい?」

 

 牟児津に声をかけられた大眉は小さく肩を跳ねさせた。牟児津の無礼な挨拶に驚いたのではなく、牟児津と常に一緒にいるであろう瓜生田の気配を感じて驚いたのだ。大眉は、瓜生田に弱かった。

 

 「あのなあ牟児津。職員室入るときはノックして失礼しますだろ。あと、職員室では敬語だ。もう高2だろ。子どもじゃないんだからしっかりしろよ」

 「私とつばセンの仲じゃん、細かいこと気にしない気にしない」

 「人見知りのお前が、普段できてないのに初対面の人相手にちゃんとした礼儀を尽くせるわけないだろ」

 「うん。まさに今そんな場面を見てきましたよ」

 「うりゅ余計なこと言うなし!」

 「ああ……やっぱ瓜生田もいるんだ」

 「すみませんね、います」

 「いや別にいいんだけど……で、今日はどうした?」

 

 牟児津と瓜生田にとって大層は、また大眉にとって牟児津と瓜生田は、他の生徒や教師とは少し違う関係性になりつつあった。特に瓜生田と大眉は、瓜生田の姉である瓜生田(うりゅうだ) 李子(りこ)を巡って、瓜生田が一方的に大眉の弱みを握っている状態だった。それを利用して事件の解決を手伝わせたりできる、便利な協力者なのだ。

 二人がそろって大眉を訪ねてくるときは、たいてい碌でもないことに巻き込まれているか、これから巻き起こるかのどちらかだ。その結果、牟児津の身に危険が迫ったこともあるので、大眉としても見過ごしておけない。いちおう話を聞くことにした。

 

 「あのさ、3ヶ月くらい前に、つばセンが私の学生カード返してくれたときあったじゃん?」

 「ああ。あったな。えっ、まさかまた失くした?」

 「違う違う。あのとき私のカードが落とし物として届けられたって言ってたなあと思って、だれが届けたのか覚えてる?」

 「……なんでそんなこと、今さら知りたいんだ?」

 「へ」

 「3日前の授業の内容もちゃんと覚えてないくせに、3ヶ月前の落とし物のことなんてお前が覚えてるわけないだろ。なんでいきなりそんなこと知りたがるんだ。またなんかあったんだろ」

 「あちゃあ。大眉先生、結構鋭いですね」

 「くっ、正直ナメてた……」

 「そういうの本人の前で言うなよ」

 

 牟児津だけでなく瓜生田も、落とし物の情報くらいすんなり教えてくれると思っていた。しかし、これまで牟児津が巻き込まれた事件に2度も関わり、うち1回では危険な場面に出くわしたのだ。すんなりと情報を与えるには、牟児津と瓜生田の周りでは何が起こるか分からなさすぎて危険だ。

 とはいえ牟児津は牟児津で、図書室で見聞きしたことをそのまますべて話してしまうわけにはいかない。学生カードの紛失で済んでいた話が不正利用にまで発展してしまえば、不正利用した犯人だけでなく牟児津まで風紀委員の世話になる可能性が出てくる。大眉にバレれば間違いなく風紀委員にも話が行くので、ここで止めておくしかなかった。

 

 「まあ、何もないわけじゃないですけど……絶対にご迷惑はおかけしないので、取りあえず教えてもらえませんか?()()()()()

 「うっ……!?」

 「?」

 

 牟児津の後ろから、瓜生田が手を合わせてお願いするポーズをとる。だが、最後に付け加えた言葉で、大眉はその真意を汲み取った。瓜生田は牟児津と違い礼儀がなっている生徒なので、教師のことを下の名前で呼ぶことはまずない。しかし大眉に限って言えば、瓜生田の姉の恋人、ひいては将来の義兄にあたるということで、その関係性を強調するときは下の名前で呼ぶようにしていた。

 要するに瓜生田が大眉を下の名前で呼ぶのは、姉にあることないこと吹き込まれたくなければ言うことを聞け、という脅し文句に等しい。模範生である瓜生田が、唯一教師に牙を剥く瞬間である。大眉には、そのときの瓜生田の頭には角が生えているように見える。

 

 「ね?お願いします。穏便に済ませたいでしょう?」

 「くうっ……!穏便じゃない頼み方してるくせに……!」

 「教えてくれないんですか?」

 「教えざるを得ないだろ!」

 「わあい。ありがとうございます、()()()()。やったねムジツさん」

 「え?お、おおう。やったやった!なんでだろ!」

 

 瓜生田と大眉の関係を、牟児津は知らない。隠しているのではなく、なんとなく話すタイミングがないまま現在に至っているのだ。牟児津にしてみれば、大眉は瓜生田の言うことだけは素直に受け入れているように見えるのだった。だからといって、そこに特別な関係があるとは思わない。単純に瓜生田が成績優秀な生徒だからだろう、と的外れな結論で納得している。

 

 「そんで、誰が私の学生カード持ってきたの?」

 「いや……落とし物は普通、警備室で保管してるんだぞ。職員室に持ってきても警備室に持って行くように伝える」

 「え、そうなの?」

 「確実に持ち主が分かってて、授業とかホームルームで直接本人に渡せる場合は受け取るし、警備室から返却するよう依頼されるな。で、牟児津の学生カードは警備室から回ってきたんだ」

 「じゃあつばセンに聞いても意味ないじゃん!早く言ってよ!」

 「お前らがなんか隠してるからだろ!」

 「まあまあ。ともかく次に行くところが決まったじゃない。大眉先生、ありがとうございました」

 「あっ、こら!何するつもりか教えろ!」

 「図書委員の仕事です〜!」

 

 必要な手掛かりを手に入れたら、瓜生田は牟児津を抱えてさっさと職員室から出て行ってしまった。何を考えているか分からない二人に大眉の心配と不安は募るばかりだ。しかしいくら二人のことが心配でも、大眉は目の前の仕事をしなければならない。結局その日は牟児津たちの訪問で余計な心配が増えたため、思うように仕事を進められなかった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津と瓜生田は、大眉から得た手掛かりを頼りに警備室を訪れた。放課後の時間帯、警備室には中瀬(なかせ) 虎雄(とらお)という中年の警備員と、(そく) 篤琉(あつる)という青年の警備員がいる。中瀬はいつも警備室の窓口前に座って、学園新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる、恰幅の良い男だった。今日もその場所で学園新聞を読んでいた。

 

 「中瀬さん。こんにちわあ」

 「おっ、来たな。名探偵コンビ」

 「なんですかそれ」

 「学園新聞に書いてあるよ。色々な事件を解決して回ってる二人組がいるって。名前は書いてないけど、僕はピンと来たね。黒板を消しちゃったあの子たちだって」

 「消してないって言ってるのに」

 「てかそれ書いたの益子ちゃんだろ!やろ〜!また勝手にそんな書き方しやがって!」

 「で、今日はどうしたの。また来校者帳簿でも見る?それともカギ帳簿?」

 「楽しそうですね。こっちはえらい目に遭ってるっつーのに」

 「この時間帯は来客もなくてひま……もとい、ゆっくりできるからね。なんでも見てってよ」

 「馴染みの店か」

 「じゃあ拾得物預り帳簿を見せてもらえますか?3ヶ月前のなんですけど」

 「よしきた」

 

 すっかり顔馴染みになった二人を温かく迎え、中瀬は自ら帳簿を探しに部屋の奥に引っ込んだ。3ヶ月前の帳簿が残っているか少し不安だったが、どうやら中瀬には心当たりがあるらしい。少し待つと、薄いファイルを持った中瀬が戻ってきた。拾得物預り帳簿は使われることが少ないので、数ヶ月分が1冊にまとまっているらしい。3ヶ月前の帳簿も、きちんと残っていた。

 

 「学生カード……あっ!あった!……へぁん?」」

 

 帳簿には、落とし物と届け主、届けた日と拾った場所等を記録する欄があった。落とし物欄に書かれた学生カードの文字を発見し、届け主の名前を確認する。名前の欄にははっきり、“黒縁眼鏡 黒マント”と書かれていた。牟児津の口から間の抜けた声が出た。

 

 「なんですかこれ?名前が書いてないじゃないですか」

 「ああ、これね。このときね、届け主の子が帳簿を書く前にいなくなっちゃったんだよ」

 「はあ?なんじゃそりゃ?」

 「落とし物です、としか言わなかったから名前も分からないし。まああれだ、名乗る程の者じゃありません、ってことだよ。たぶん」

 「これはその人の特徴ですか?」

 「うん。いちおうね。もし必要になったらと思って書いておいたんだ。まさか本当に必要になるとは思わなかったけど」

 「名前くらい聞いといてよ!学生カードなんて他人に拾われたら何されるか分かんないじゃん!」

 「いや落とさないようにしなよ」

 「んんおぉ〜〜〜!!ぐうの音も出ない!!」

 「一撃で論破されるんだから言わなきゃいいのに」

 

 瓜生田は考える。大眉から話を聞いたときは、必ずしも学生カードの届け主が犯人だとは思っていなかった。むしろ、不要になったカードを律義に届ける理由など、犯人にはないはずだ。しかし中瀬の話を聞く限り、その届け主の行動は実に怪しい。本当に犯人か、何か他の理由があるのか。いずれにせよ、その人物には話を聞かなければならないだろう。

 

 「黒縁眼鏡はともかく、マントって肩にかけるあれですか?」

 「そうそう。あ、でも短かったなあ。胸とか肘くらいの高さまでしかなかったよ」

 「マントっていうよりケープですね。他に何か特徴はありませんでしたか?」

 「すぐにいなくなっちゃったから、覚えてるのはこれぐらいかな。こういう格好の子はあんまり見たことないから、捜せば見つかるんじゃない?」

 「だってさ、ムジツさん。今日はもう帰ってる人もいるから、明日の朝とかに捜してみようか」

 「足使うしかないんか……結局……」

 

 中瀬への聞き込みで得た情報を、瓜生田がメモに取る。犯人の特定には至らなかったが、大きな手掛かりを得ることができた。これだけ情報があれば届け主までたどり着くことも難しくない。気付けばずいぶん時間が経っていたので、瓜生田は一旦図書室に戻ることを提案した。手がかりを得たにもかかわらず、牟児津は沈んだ顔をしていた。

 

 「ま〜た長引きそうだこれ……」

 

 不吉な予感がしたのか、うんざりした様子でぼやくのだった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「あっ李下。おかえり。どうだった?」

 「どうもです。ぼちぼちってとこですね」

 

 二人が図書室に戻ると、阿丹部が気付いて声をかけた。糸氏は相変わらずぼうっとして、図書室の天井付近を眺めて口を半開きにしていた。阿丹部は今日の分の委員会活動日誌を書いているようだ。そろそろ閉館時刻である。

 

 「やっぱり不正利用の可能性が高いですね。ムジツさんの名前で本を借りた人の名前までは分かりませんでした。でも手掛かりはばっちりです」

 「そう……まあ、よかったね」

 「まだぼうっとしてるよこの人。生きてんのか?」

 「イタズラしちゃダメだよムジツさん。それより阿丹部先輩、不正利用者の手掛かりです。犯人は黒縁眼鏡をかけていて、肩から黒いケープを羽織っているようです。思い当たる人はいますか?」

 「ケ、ケープ?……え、ええと……ちょっと、分かんないなあ」

 「ケー……プ……?ケー……ぶわっ!思い出した!」

 「おぎゃあっ!?」

 「わっ、突然」

 

 ぼうっとしていた糸氏が、犯人の特徴を聞いて声をあげた。ぴくりとも動かない状態から急に跳び上がったので、間近で顔を覗き込んでいた牟児津は驚いてひっくり返ってしまった。そんな牟児津には気付いていないようで、糸氏は何かを思い返そうと、視線を上へ投げていた。

 

 「黒いケープを羽織った黒縁眼鏡の生徒……うん、覚えてる。この日だったかは分からないが、図書室で見かけたことがある」

 「マジすか!?な、名前とか分かりません!?」

 「名前は分からない。けど確か、学年色のリボンが……ピンク色だったと思う」

 「じゃあ1年生だ!でもって、うりゅに心当たりがないなら、Aクラス以外だ!」

 「おお。一気に絞られたね」

 

 糸氏の記憶を信じるならば、候補となる学年とクラスがぐんと減った。ケープを羽織った生徒など何人もいるとは思えないので、おそらく糸氏の記憶にあるその生徒が、牟児津の学生カードの届け主で間違いないだろう。一気に事件解決に近づいた気がして、牟児津は興奮気味になる。

 あとはその人物を突き止めて、借りた本を返させればいいだけだ。簡単なことじゃないか。明日の朝には解決しそうだ。一時はどうなることかと思ったが、これで穏やかな週末を過ごすことができる。牟児津はそう考えて安堵し、それ以上考えることをやめた。

 犯人がなぜ、他人のカードを使ってまで本を借りたのか。その理由が一切謎のままであることなど、牟児津も瓜生田も、そのときは全く気付いていなかった。



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第2話「その手があったか……!」

 

 運命の数字が導くところ   あなたの過去はそこにある

 終わらない時の子守歌    今のあなたは聞いている

 並んだ星々 空の(しるべ)      あなたの未来を見届ける

 三つの印はあなたのしもべ  司る時を捧げれば

 たどった指が知っている   あなたの運命がどこにあるか

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 翌朝、牟児津は瓜生田と一緒にいた。糸氏の話によれば、牟児津の学生カードを不正利用し、図書館の蔵書を持ち去ったと思われる犯人は1年生だ。特徴的な恰好をしていることも分かったので、あとは虱潰しに聞き込みをしていくだけだ。おおよその生徒が登校してきただろう頃合いに、牟児津は行動を開始した。まずはBクラスからだ。軽くドアをノックして、中にいた適当な生徒に声をかける。

 

 「おはようございます。ちょっと話を──」

 「おはようございまーす!あれあれ?ムジツ先輩に瓜生田さん!朝からいったいどうしたんですか?あ、もしかして事件ですか?またムジツ先輩が何かに巻き込まれたんですか?お知らせに来たんですか?ご自分から報告に来ていただけるなんて、私も信頼されてきた証ってことですかね?いや〜照れちゃ──あっぶねッ!!」

 

 牟児津は捲し立てて来るその目と鼻の先で扉を勢いよく閉めた。よりにもよって、一番面倒くさい相手に声をかけてしまった。あわや鼻と口がドアギロチンにかけられるところだった益子(ますこ) 実耶(みや)は、ゆっくりドアを開け、金属同士をぶつけるようなカンカン声を響かせながら抗議した。

 

 「ちょっと!危ないじゃないですか!ジャーナリストへの暴力は報道の自由の侵害ですよ!」

 「な、なんであんたがここに……」

 「なんでって、そりゃ自分のクラスですからいてもおかしくないでしょう!私だって朝のホームルームくらいちゃんと出席しますよ!」

 「朝は帽子被ってないんだね。ブレザーもちゃんと着てる」

 「あれは私なりの勝負服スタイルですからね。こう見えても私、TPOを考えて行動できるんですよ」

 「人の迷惑を考えてくれ。朝っぱらから声でかくてうるさい」

 「こりゃ失礼!」

 「それがうるさい!」

 

 いつも被っているハンチング帽を脱いでチョコレート色のボブカットを露わにし、いつも肩にかけて袖を結んでいるジャケットに腕を通している。見慣れた格好と違ううえに後ろ姿だったこともあって、牟児津は顔を見るまでそれが益子だと気付かなかったのだ。気付いていれば、自分から声などかけたりしない。絶対に。

 

 「ムジツさん、益子さんなら知ってるかもよ」

 「あ、そっか。ちょっと人を捜してるんだけど、このクラスにいるか聞きたいんだよ」

 「ほうほう。どなたですか?」

 「黒縁眼鏡をかけてて、制服の上から黒いケープを被ってる子」

 「ああ、それなら“べーりん”しかいませんね」

 「べーりん?」

 「はい。このクラスの子ですよ。黒縁眼鏡に黒いケープ、黒い髪に黒い靴下と黒尽くしの“べーりん”です!でもお肌は色白です」

 「ど、どの子!?」

 「もう登校してきてるはずですけど……ありょ?席にいませんね。だいたいいつも席で本を読んでるんですが」

 

 益子がきょろきょろと教室を見渡す。牟児津と瓜生田も中を覗いてみるが、黒尽くしの生徒など見当たらない。そうでなくてもケープなど着ていればよく目立つだろうに、どこにも見つけられなかった。

 

 「消えちゃいました」

 「消えちゃいましたってあんた、手品じゃあるまいしどっかにいるはずでしょ」

 「うむむ」

 

 こめかみをぽりぽり掻きながら、益子が首をかしげた。そのとき──

 

 「おお!ベーりん!おはようございますっ!教室から出るなんて珍しいっ!どうしたんですかそんなにコソコソしてっ!」

 「ひああっ!ちょ、ちょっとやめて!」

 

 益子に負けないほど大きな声が廊下から聞こえてきた。何事かと思えば、マイ掃除機をつれて溌剌とした声をあげる大村(おおむら) (めぐる)と、大村を制するように手の平を向ける小さな生徒がいた。

 肩の下くらいまでまっすぐ伸びた絵の具のように黒い髪と、肩から背中の上半分ほどを覆う黒っぽいケープが、朝の廊下ではよく目立つ。

 

 「ああっ!黒ケープの子!」

 「うあっ!?ひゃあああっ!」

 「逃げた!追っかけるぞうりゅ!」

 「えっ、あっ、ま、待ってムジツさん!廊下は走っちゃダメだよ!」

 「待てぃそこのまっくろくろすけ!」

 

 思わず牟児津が声をあげた。それに反応して振り返った顔には、黒縁の眼鏡がかかっている。間違いない、“ベーりん”だ。牟児津と瓜生田の姿を見るや否や、“ベーりん”は慌てて二人から逃げ出した。すかさず牟児津はその後を追いかける。瓜生田の忠告など耳に入るわけもなく、“ベーりん”と牟児津は廊下の向こうに消えていった。

 

 「行っちゃった……クラスが分かったんだから追いかけなくてもいいのに」

 「なんなんですかいったい?ああ、瓜生田さん。おはようございます。先日はどうも」

 「大村さんおはよう。さっきの人、“ベーりん”?」

 「はい。辺杁(べいり) 有朱(ありす)さん、すなわち“べーりん”です。牟児津先輩はどうしてベーりんを追って行ったのですか?」

 「色々あってね」

 「ほほう?事件(ネタ)の気配がしますね。詳しく教えてください!」

 「あはは……まあ、いっか。実はね──」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「待てええええい!!」

 「ひいいいいいっ!!」

 

 校舎の中を北へ南へ上へ下へ、教室棟から部室棟まで縦横無尽に逃げる辺杁を牟児津は追いかけていた。牟児津は決して足の遅い生徒ではないが、辺杁もなかなか負けてはいない。直線で距離を縮める牟児津に対し、辺杁は階段や曲がり角を利用して牟児津との距離を広げる。つかず離れずの逃走劇が続く中、辺杁は再び角を曲がった。牟児津はぐんと加速する。

 

 「んぬごああああっ!!逃がすかああああっ!!」

 

 曲がるたびに減速などしていてはいつまで経っても追いつけない。牟児津は意を決して、ノーブレーキで角に突っ込んだ。外側に踏み出した足で強く床を蹴り、体の進む向きを強引に捻じ曲げる。スピードを殺さずそのまま角を曲がりさらに加速して──。

 

 

 「おべえっ!!」

 「どうあっ!?」

 

 

 牟児津は全力を出した。全力を出して角を曲がった。()()()()()()()()()に全力を出した。その先に人がいる可能性など、況してやそれが誰かなど、まったく考えていなかった。

 強い衝撃によって牟児津はずっこける。ぶつかった相手もろとも床に倒れこみ、顔面が廊下を這った。鈍い痛みが顔全体を覆いつくし、思考が数秒止まる。目に飛び込んでくる情報を整理し、理解するまでに時間がかかった。

 

 「ぐう……ふぁあ、はっ!?あっ……!」

 「くっ……!む、むじ、つ……!!きさまッ、どういうつもりだァ……!!」

 

 細長い手足。鮮やかな金髪。ナイフで切ったように鋭い目。苦しそうな冷たい声。床に倒れこんでなお、牟児津を睨みつける執念深さ。情報をひとつひとつ理解するにつれ、牟児津は冷たい針で体を貫かれたような感覚がした。

 それは牟児津の天敵──伊之泉杜学園高等部生徒会本部風紀委員長、川路(かわじ) 利佳(としよ)であった。川路が起き上がろうとしたのを理解して、牟児津は絶叫した。

 

 「ぎゃああああああっ!!」

 「まっ……!!待たんかああああっ!!」

 

 牟児津は脱兎の如く逃げだした。出遅れた川路がすかさずその後を追いかける。

 

 「あああああああっ!!助けてえええええっ!!」

 「牟児津キサマあああっ!!この私にタックルしてくるとはいい度胸だ!!そんなに指導室のイスが恋しいか!!いいだろう!!尻が座面に癒着するまで座らせてやるわあああああっ!!」

 「ひええええええっ!!」

 

 そのまま牟児津は、授業が始まるまで校内を逃げ回り続けた。もはや辺杁のことなど頭の片隅にさえなかった。ただただ、鬼のような形相の川路から逃げることだけに思考のすべてを費やしていた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 昼休み、クラスにいては川路に捕まってしまうと考え、牟児津はすぐに教室を抜け出した。昼休みなら辺杁も教室にいるかも知れないと考え、牟児津は再び1年Bクラスを訪れた。しかし辺杁は見当たらない。牟児津の顔を見た益子が、すぐに駆け寄ってきた。

 

 「ムジツせーんぱいっ。べーりんならいませんよ。授業が終わったら一目散に出て行っちゃいました」

 「考えることは同じか……」

 

 牟児津は肩を落とした。朝の一件で、牟児津は完全に辺杁に警戒されてしまった。その上、牟児津は今日、二度と川路に遭遇してはならないという制約の中で動かなければならない。どうしたものか考え込む牟児津に、益子がひとつ提案した。

 

 「ベーりんを追いかけるのはやめた方がいいですよ、先輩。どうせ上手くいきっこないんですから」

 「でも私はどうしても、あの子を捕まえて話をしないといけないの」

 「はいはい、聞いてますよ。学生カードを勝手に使われたそうじゃないですか。そのせいで図書委員から目をつけられて、また事件に巻き込まれてるとか!いやはや、先輩の巻き込まれっぷりはもはや才能ですね。うらやましい!」

 「……さてはうりゅだな。おしゃべりめ」

 「あ、ちなみにベーりんはあだ名で、名前は辺杁有朱です。で、そんなことよりムジツせんぱぁい。瓜生田さんとお二人では手が足りなくて大変でしょう?ねえねえ?人手が必要じゃありませんかぁん?」

 「変な声出すな!キモい!」

 「べーりんは逃げ足が速い上に警戒心が強いので、お二人じゃどうやっても先に逃げられちゃいます。そ・こ・で、ベーりんに警戒されてないこの私がべーりんを捕まえておきますよ?どうします?実耶ちゃんのこと頼っちゃいます?」

 「ぐぬぬ……!!せ、背に腹は代えられないか……!!」

 「ではでは!ドンと任せてください!その代わり、契約のことはお忘れなきように!」

 

 新聞部員である益子は、牟児津が巻き込まれた事件の解決に協力しつつ、同時に番記者として取材もしている。情報提供などの見返りとしてその活躍を新聞部で記事にするという契約を、半ば強引に結んでいるのだ。牟児津としてはなるべく益子に協力されたくはないのだが、辺杁を捕まえるために仕方なくその申し出を受けることにした。

 そして放課後、昼休みと同じように教室を素早く飛び出した牟児津は、まず瓜生田のいる1年Aクラスに駆け込み、昼休みに益子と話したことを瓜生田に伝えた。そして絶対に辺杁を確保するべく、教室にある二つの出口を牟児津と瓜生田で塞ぐ作戦を立てた。

 

 「もし逃がしても、私がデカい声出して教室の前に追いやるから、うりゅが捕まえて」

 「マタギがシカ狩るのと同じやり方」

 「いくよっ!!」

 

 Bクラス教室の後ろのドアに牟児津が立ち、瓜生田が前のドアに立つ。呼吸を整えた牟児津は、わざと大きい音を立てて教室に飛び込んだ。その目に、驚いて固まった黒いクレヨンが見えた。

 

 「とったああっ!!」

 

 辺杁に向かって牟児津が跳んだ。完全に退路を断たれた辺杁が席を立とうとする。すかさずその腕を益子が掴んだ。

 

 「えっ!?ちょっ……何して──!?」

 「許せべーりん!これも記事のためだ!」

 「わあああああああああああああっ!!?」

 「ぶぅおっぐっ!!?」

 

 周りは机と椅子に囲まれている。腕を押さえられ退路もない。突っ込んできた牟児津を受け止めることも、受け身を取ることもできず、辺杁は真正面から牟児津の突進を食らった。

 

 「んぐふっ!!お、おおおっ……!!」

 「み、みんな大丈夫!?」

 「ぐおおっ……!今日はよくぶつかる日だ……!」

 「ベーりん生きてる?」

 「な、な、なんなの……?なんなの本当?」

 

 もみくちゃになった三人に瓜生田が駆け寄る。衝突した拍子に互いの手足が絡まって身動きが取れなくなっていた。瓜生田がそれを丁寧にほどき、ようやく解放された牟児津と益子は、辺杁を取り囲んで逃げ道をふさいだ。追い詰められた辺杁が、きつく益子を睨みつける。

 

 「みゃーちゃん、裏切ったな!」

 「裏切るもなにも私ははじめから面白いネタの味方だよ。べーりんよりムジツ先輩方を助けた方が面白くなると判断しただけ」

 「くうっ……!これだから新聞部は……!」

 「辺杁ちゃん、だよね?」

 「うっ!」

 

 益子は胸を張るが、要するにネタのためなら友人を売ることも辞さないというだけのことだ。あだ名で呼び合うほどの仲でもあっさり差し出すのだから、益子のジャーナリズム精神の強さとこれまで買ったであろう恨みが相当なものであることが分かる。

 辺杁が落ち着くのを待ってから、牟児津は辺杁に目線を合わせて話しかけた。教室に飛び込んできたときの荒ぶり方は鳴りを潜め、今は声の調子も落ち着いている。瓜生田と益子はピンと来た。今の牟児津は少しだけ推理モードだ。

 

 「どうして私から逃げるの?」

 「べ、別に私は、牟児津先輩から逃げてるわけじゃ……!」

 「私の名前、知ってるんだね?」

 「……へ?」

 「さっき教室に入ってから、誰も私の名前は言ってないよ。なんで私の名前が牟児津だって分かったの?」

 「へぁ」

 「私の学生カードを見たから知ってるんだよね?3ヶ月くらい前、警備室に私の学生カードを届けたの、辺杁ちゃんでしょ。そのとき私のカードで本を借りたんじゃない?だから、私の顔を見てすぐに逃げ出した。カードを勝手に使ったのがバレたと思ったから」

 「あひぁ……!はわわ……!」

 「違うかな?」

 「ムジツさん。このリアクションで違うってことはないよ」

 「さっきの今でこのムジツ先輩の落ち着き方はビビりますよねえ。あ、この人は本気で怒ると冷静になるタイプなんだなって思いますよ」

 「別に怒ってるわけじゃないけど」

 「ご、ごめんなさいぃ!!出来心なんです!!」

 

 淡々と語りかける牟児津は、本人が意識しないうちに辺杁に威圧感を与えていた。気圧された辺杁は言い訳のひとつも浮かばないようで、その場で額を床につけた。きれいにまとまった見事な土下座である。まさかそこまで唐突かつ強烈な謝罪をされると思っていなかった牟児津たちは、一様に目を丸くした。

 

 「本当にごめんなさい!先輩にご迷惑をおかけするつもりはなかったんです!ただ、少しだけ……必要だったから……!魔が差したんです!」

 「ちょ、ちょ、ちょっと待って、待ってってば。あの、落ち着いて、だから、私は別にそんな、ええっと」

 「ムジツさんこそ落ち着いてよ」

 「うわー、クラスメイトが知り合いに土下座してるのって、見る方もなかなかキツいですね……」

 「と、取りあえず、頭上げて?順番に話してくれればいいから」

 「順番に……何をお話しすれば……?」

 「色々あるからなあ。何から聞けばいいんだ」

 「ムジツ先輩!ここから先は私と瓜生田さんに任せてください!」

 

 益子は土下座していた辺杁を椅子に座らせ、近くの適当な椅子を持ってきて牟児津と瓜生田の席を作った。顔を上げた辺杁は目の周りが赤らんでいて、涙が黒縁眼鏡のレンズに当たって落ちた。完全に観念した顔だ。3ヶ月前のことでこれほど追いつめられるということは、辺杁の中でかなり印象に残っているらしい。もしかしたら、他人の学生カードを使った罪の意識に苛まれていたのだろうか。

 

 「まず、警備室に学生カードを届けたのはベーりんなんだよね?」

 「うん……私が持って行った」

 「名前を言わなかったのは、自分が届けたってバレるから?」

 「そう。もしかしたら先輩が取りに来て、私に盗られたってバレるかもって思ったら、怖くなっちゃって……」

 「学生カードを盗ったの?どうやって?」

 「えっと……」

 

 3ヶ月前、辺杁は悩んでいた。とある理由から、図書室で本を借りる必要があった。しかし一人で借りられるのは3冊が限度だ。なのに辺杁は4冊目を借りなくてはならなかった。どうしても4冊そろえる必要があった。どうすればいいのか、悩んでいたのだ。

 

 「そんなときに……ふと、2年生の教室を見たら、机の上に学生カードが出てるのが見えたんです。中は誰もいなくて……移動教室だったんだと思います」

 「机の上にカードが?なんで?」

 「多分なんかに使ってそのままにしてたのかなあ。学生番号とか見て、出しっぱなしにしてたのかも」

 「いくらなんでも不用心すぎるよムジツさん。そりゃ盗られるよ」

 「それで……」

 

 学生カードがもう一枚あれば、4冊目を借りることはできる。しかし他人のカードを勝手に使ったことがバレれば、厳しい処分は免れない。だが、もしすぐに本を借りて元のように戻せば、バレないのではないか?そんな邪な閃きが脳を支配していった。倫理観や良心などの()()()()()()は、()()()()()()()()()()()()という暴論によって悉く駆逐されていった。

 気付けば、辺杁はカードを盗んで駆け出していた。そのまま図書室に向かうのではなく、自分のクラスに戻ってしまった。目の前にあるものを拾う。ただそれだけの動作に想像を絶するエネルギーを費やしてしまい、無意識に気を落ち着かせようとしていた。

 

 「それでその日の放課後、図書室に行きました。本を借りて、カードを返そうと思いました。でも……どこの教室から取ったのかが分からなくなっちゃって……私、夢中だったから……!」

 「それで、警備室に届けたんだね」

 「べーりんは律儀だなあ。私だったらその辺に捨てるよ。届け出ておいて名前を言わない方がよっぽど怪しいもん」

 「そ、その手があったか……!」

 「変なこと教えんなバカ!」

 「あれ?でも、本を借りたときに使った学生カードがないと、本を返せないよね?」

 「う、うん……それは、家に帰ってから気付いた。返すに返せなくなっちゃったなって……」

 「な、なんつう後先考えなさだ……」

 

 辺杁の話を聞いた牟児津は呆れ果てた。衝動的に学生カードを盗み、返すことを考えず本を借り、警備室でも自分の行動の不自然さに気付かず、巡り巡って先ほどの土下座である。勢いで突っ走る癖があるのは牟児津も同じだが、さすがにここまでひどくはない、と自分では思っている。

 

 「なんていうか……不器用だね、辺杁ちゃんって」

 「ムジツさんだって、学生カードがどれくらい大切なものか分かってる?机の上に放置なんて絶対ダメだよ。辺杁さんも悪いことしたけど、ムジツさんもだいぶ悪い!」

 「私も!?」

 「そうですよねえ。この情報化社会に自分の個人情報をその辺に放置って……それはないですよ」

 「いやだって……」

 「現にこうやって巻き込まれてるわけじゃん」

 「ぐう」

 「ぐうの音が出るくらい何も言えないみたいですね」

 

 昨日に引き続き、牟児津はまたしても自分の不用心さを論破されてしまった。最低限必要な防犯意識を持たないと被害者になることもできないと、牟児津は身に染みて感じたのだった。そんな後輩二人に論破される牟児津の姿は、辺杁にはさぞかし間抜けに映っただろう。泣きべそをかいていた辺杁は、いつの間にか小さく笑っていた。それに気付いた牟児津はますます恥ずかしくなったが、辺杁が落ち着いたことに安心もした。

 

 「ムジツ先輩、笑われてますよ」

 「あっ、ご、ごめんなさい」

 「いいよいいよ。私はとにかく、辺杁ちゃんが本を返してさえくれればいいんだから」

 「えっ……」

 「そうだね。辺杁さん、その本はいま持ってるの?」

 「家にあるけど……でも、ごめんなさい、まだ返せないんです」

 「か、返せない、とは?」

 「まだ……その、用が済んでないから……」

 「読み途中ってこと?3ヶ月も?」

 「そりゃ困るよ!私が借りっぱなしにしてることになってるんだから!」

 「ご、ごめんなさい!でも、本当に返せないんです!返すわけにはいかないんです!」

 「一旦ムジツさんに返してもらって、その後で辺杁さんが借り直すってことはできないの?」

 「私はもう限度いっぱいまで借りてますから……」

 「なんだよそれ!」

 「ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!」

 

 辺杁は何度も謝りながら頭を下げるが、決して本を返すことに同意はしなかった。本さえ返してもらえば牟児津はきれいな体になれるというのに、辺杁はどうしてもできないという。それでは、牟児津にとってこの事件は解決したことにならない。

 

 「ねえ、辺杁さん」

 

 赤べこのようになっていた辺杁が、瓜生田に呼ばれて動きを止めた。瓜生田が辺杁に一歩踏み込もうとしているのを、全員が感じた。

 

 「そこまでして、どうしてその本が必要なの?その本で、辺杁さんは何をしようとしてるの?」

 

 辺杁が息を呑んだのが分かった。今の質問は明らかに、辺杁にとって重大な内容に触れるものだ。辺杁が敢えて言及を避けていた、“本を借りた目的”に踏み込んだ質問だった。既に辺杁は、三人に隠し事をし続ける自信を失っていた。あきらめを含んだため息を吐き、辺杁は答えた。

 

 「わ、私は……オカ研を救いたいんです……!」

 「ん……?なに?」

 「少し、長くなりますけど……聞いてもらえますか?」

 

 そう切り出して、辺杁は話し始めた。カードの不正利用をしてまで本を借りた理由と、その目的を。

 

 「私、こう見えてオカ研──あ、オカルト研究部に所属してるんです。結構由緒ある部活で……多いときには、10人以上の部員がいたんですよ。でもどんどん部員が減ってきて……今は、たった2人になっちゃったんです」

 「2人?部活動の構成要件は部員3人以上のはずだよ?」

 「……いろいろあったんです。それで、来年度までに新入部員を入れて部員を3人以上にしないと、同好会に落とされて部室を追い出されちゃうんです。あ、でも、それは別にいいんですっ。だけどその……そもそも部会として活動できないかも知れなくて……。そろそろ実定の時期じゃないですか」

 「ジッテー?」

 「活動()()期報告書、略して実定です。すべての部と同好会が提出を義務付けられている書類ですよ。未提出だったり内容が不十分だったりすると、活動実態なしと見做されて解体させられちゃうんです。ちなみにこれを導入したのは現生徒会副会長です。テスト期間も容赦なく提出を求めるし、部は同好会に比べて査定が厳しいので、既に色んな部会が解体されてるんですよ。私は副会長の陰謀だとニラんでますが」

 「それは分かんないけど……とにかく、その実定です」

 「へー、全然知らなかった」

 「つまり、オカ研は次の実定を出せそうになくてピンチってこと?」

 「そ、そうです。さすが……話が早くて助かります」

 

 新聞部に所属している益子は当然として、瓜生田も学園生としてそれくらいの知識は持っていた。知らなかったのは牟児津だけだ。道理で、テスト期間中も部活で忙しそうにしている生徒がいたわけだ、と牟児津は納得した。

 

 「でもそんなん、普段の活動を書くだけじゃないの?出せないなんてことある?」

 「うちは普段、部室でオカルト談議してるくらいですから。たまに実践的なこともしますけど、ほぼ遊びみたいなものですし。なんとか騙し騙しやってきたのももう限界で……」

 「う〜ん、ベーりんには悪いけど、そりゃ解体されて然るべきでしょ。むしろ耐えてる方だよ」

 「そ、そんな!確かに他の人には下らないことに見えるかも知れないけど、でも私たちにとっては……大切な居場所なんです……!」

 「まあいいよ。で、それと本を借りるのがどう関係すんの?」

 「あ、そ、それがですね」

 

 話が逸れてきたのを牟児津が修正した。オカルト研究部の実情など、牟児津にはどうでもいいことだ。それが辺杁の行動に関係していることは分かったが、まだ具体的な理由が分からない。

 

 「とにかく私は、実定を作って、せめて同好会としてはオカ研を続けたいんです。だから、そこに書ける活動実績が必要なんです。そのためには、あの本が必要なんです」

 「オカ研の実績のために、学園史の本が必要なの?もしかしてあの本って曰く付き?」

 「い、いわく……!?」

 「……みなさん、『運命辞典』って知ってますか?」

 「運命辞典?知らないなあ」

 「私もです。ムジツ先輩は?」

 「うりゅが知らないことを私が知ってるわけないじゃん」

 「これ、伊之泉杜学園(うち)の高等部に伝わる七不思議のひとつなんです」

 「なっ!?ななっ……!?」

 

 七不思議と聞いて、牟児津の顔がたちまち青くなった。オカルト研究部の名前が出たときから嫌な予感がしていたが、どうやら的中してしまったらしい。牟児津はすぐさま立ち上がった。

 

 「わあもうこんな時間。うちのお花にお水をあげなくちゃいけないからもう帰らないとお」

 「ダメぇー。はい、一緒に聞こうねー」

 「おあーっ!!はなせえええっ!!」

 「ベーりん、続けていいよ」

 「ぎゃあああっ!!はなすなあああっ!!やだあああっ!!」

 「だ、大丈夫ですか……?」

 「だいじょぶだいじょぶ。社交辞令で怖がってるだけだから」

 

 わざとらしい言い方で理由を付けて、牟児津は逃げ出そうとした。その腰を瓜生田が抱え、自分の膝の上に引き寄せてがっちり固定した。牟児津は叫んで暴れるが、チャイルドシートに座る子どものように無力だった。ただ事でない様子に辺杁はヒき気味になるが、他の二人は聞く気まんまんなので話すことにした。

 

 「『運命辞典』は、それを開く人の運命すべてが書いてある本です。この世に生まれてから消えてなくなるまで、どこで何をするか、誰と出会うか、どう生きていくか……それらはすべて運命で決まっていて、『運命辞典』には全てが書いてあるんです。そんな本が、この学園には隠されている。そういう話です」

 「ほほう。いかにもオカルトって感じですね。興味深い」

 「運命は変えられないので、それを開くことは自分の未来全てを知るっていうことです。中には『運命辞典』を開いたせいで、自分の運命に絶望して発狂した人とか、運命に逆らおうとして命を落とした人とか……そういう派生した話もありますね」

 「あわ、あわわわわ……」

 「七不思議について調べれば活動実績として書けると思ったので、『運命辞典』の話の真実を調べて、結果を書こうと思ってるんです」

 「真実?七不思議に真実なんてあるの?」

 「私なりに色々この話を調べました。そしたら、『運命辞典』を見つける方法っていうのが分かって、それには図書室にある本が必要らしくて……それで……」

 「それで今に至るってわけか……うん、なるほど。確かに、さっき話してくれたことと矛盾はないね」

 

 瓜生田と益子は全く怖さを感じなかったが、牟児津は瓜生田の膝の上でカタカタ震えて下唇をぶるぶる震わせていた。牟児津はこの手の話を避け続ける人生を送ってきたせいで、大したことない話でも怯えるようになってしまった。

 

 「要するに、ベーりんは『運命辞典』をまだ見つけてないから、その手掛かりである本を返すわけにはいかない。ムジツ先輩は本を返してもらわないと、持ち去り犯の濡れ衣を着せられたままで困る。こういうわけですね!」

 「状況は分かったけど私にどうしろってんだよ!クッソ怖え話まで聞かされて、結局なにも変わってないじゃん!いいから早いとこ本返してよ!」

 「ごめんなさいっ!」

 「ごめんなさいじゃなくて!本当に!」

 「じゃあ、ムジツさんも手伝ってあげたら?『運命辞典』探し」

 

 瓜生田の提案で、会話が唐突にぶった切られた。益子は、この事件にもう一つ展開を作るため布石を打った。それを察知した瓜生田がすぐさま便乗し、最も合理的かつ早急に事態の解決を図ったうえで提案した。目的の異なる二人の連携により、互いに相反する牟児津と辺杁の利害が強引に一致させられた。

 

 「それはいいですね!ベーりんは『運命辞典』を見つければ実定を作れてハッピー!ムジツ先輩は無事に本を返して疑いを晴らしてハッピー!ついでに私もいいネタ取れてハッピー!三方円満ハッピー曼荼羅の完成です!」

 「え……で、でも、私、これ以上、先輩に迷惑かけるなんて……」

 「でも辺杁さんはひとりで頑張って3ヶ月も悩んでるんでしょ?私たちが手伝えばもっと早く見つかるよきっと」

 「いやなんで私がそんなことまでしなきゃならないんだ!オカルトなんて一番関わりたくないわ!」

 「まあまあムジツさん」

 

 案の定、牟児津は瓜生田の提案に異を唱える。瓜生田はすかさず牟児津の口を押さえ、耳元でこっそりと囁く。

 

 「実際問題、本は辺杁さんが持ってるんだよ。家にあるんじゃむりやり取り返すなんてできないし、協力して早く用を済ませてもらえば、辺杁さんの方から返してくれるよ。それが一番いいと思わない?」

 「ぐぬぬ……尤もなことばっか言いやがってぇ……!」

 「尤もなこと言って怒られることなんてないよ」

 「でぇいもう!わあったよやるよ!やりゃあいいんでしょ!」

 

 本を取り返さなくてはならない一方、オカルトに自ら関わっていかなければならない状況で、牟児津はジレンマに陥る。ひとりで悩んでいても答えが出ることはないので、瓜生田が痛いほどの正論で背中を押した。牟児津が瓜生田の説得を突っぱねられるわけもなく、結局は瓜生田の提案通り、辺杁に協力することを決めた。

 

 「その代わり手伝うのは土日だけ!月曜日になったら問答無用で本は返してもらうよ!いいね!?」

 「あ……ありがとうございます……?」

 「あーちくしょう!また貴重な休みがつぶされる!」

 「いいでしょ。どうせ家でだらだらしながらお菓子食べてるだけなんだから」

 「学校でだらだらしながらお菓子が食べられるか!普段できないことするんだから私にとっては貴重な休みだ!」

 

 文句を言いつつ、牟児津は協力を約束した。オカルトなど近寄りたくもない人間が手伝ったところでプラスになるとは思えなかったが、瓜生田と益子もついて来るので、ある程度のことは期待できるだろう。いずれにせよ、遅くとも月曜日には本を返すという条件を付けたので、いましばらくの我慢だと、牟児津は自分に言い聞かせた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津たちが協力する条件としてもう一つ、瓜生田が提案したことがあった。それは、辺杁がしたことをオカルト研究部にしっかり告白することであった。

 

 「やったことはやったこととして、きちんと謝らないといけないと思うな」

 

 辺杁によれば、カードの不正利用はおろか、実績作りのために行動していることさえ、部内では話していないらしい。今後のことを考えるなら、辺杁がきちんと自分の罪を認め、すべての事情を話したうえで部としての意思決定をするべきだと、瓜生田は言うのだった。牟児津は正直なところ面倒に感じていたが、やけに瓜生田が厳しく言うので、余計な口を挟まずに従うことにした。

 オカルト研究部の部室は、例によって部室棟にある。夕方になると窓の外に植わっている生け垣の影で薄暗くなる、1階の奥まった場所だ。新聞部とは違う、なんとなく陰気な雰囲気と匂いを感じた。

 

 「うぇ〜、薄気味悪いところだなあ。こんなとこに部室作らなくてもいいのに」

 「いまは部員が私と部長の2人だけです。あの、うちの部長はちょっと……ミステリアスな人なので、一連の説明は私からしますね」

 「2人だけ?でも、話し声がするよ」

 「本当ですね。交信でもしてるのかな……?」

 「私もう全部聞かなかったことにするわ」

 

 薄暗くなってきた廊下を、部室からこぼれた光が薄ぼんやりと照らしている。半端に閉められたドアの隙間から漏れてくるのは、2人の人物の話し声だ。ひとりは少し大人っぽい落ち着いた声で、もうひとりはどことなく間の抜けた、水に浮かんだ泡のような声だ。冗談か本気か分からないことを呟いて、辺杁がドアを開けた。

 部室には二人の人物がいた。二人ともいきなりドアを開けられたことに驚いた様子で、部屋に入ってきた辺杁たちに目を向ける。すぐに片方が、ふにゃっとした笑みを見せた。

 

 「やあ辺杁君。ずいぶん遅かったねぇ」

 

 ふわふわと揺れる水風船のような、何とも言えない不思議な雰囲気を持つ人物が、部室の真ん中に敷かれた畳の上で笑った。頭からはみ出るほど大きな帽子を被り、その隙間からみかん色の前髪がはみ出ている。眠たそうに半分閉じた目の上に薄い丸眼鏡をかけていて、制服の上から半分手が埋まるほどオーバーサイズのローブを着ていた。畳の上を四つん這いで移動するせいで、余った裾が十二単のように引きずられている。

 

 「今日はお客さんが見えてるよ。こちらはオカ研OGの虚須(うろす) 美珠(みたま)先輩。ごあいさつして」

 「あ、ど、どうも……はじめまして」

 「はじめまして。あなたがオカ研の未来を担うアリスちゃんね!お話は聞いてるよ〜!がんばってね!イノ学オカ研の期待の星!」

 「うっく、はあ」

 

 虚須は、さっぱりとした清楚な服に身を包み、灰白色の髪をシニヨンにしてまとめていた。きらきらした目で辺杁に近付くと、暑苦しいほどの激励の言葉とともに肩を叩いた。だぼだぼの服装で畳の上をはいはいする隣の人物と比べると、実に爽やかで快活そうな印象を受ける。

 

 「んでぇ、そちらは?」

 「あ、は、はい。こちらは、2年生の牟児津先輩です」

 「ども」

 「ムジツ?ああ、あなたが牟児津真白さん?」

 「へ?あ、はあ……そうですけど」

 

 牟児津の名前を聞くや、虚須は辺杁に向けていた視線をそのまま牟児津に移した。まさか自分に食いついてくるとは思っていなかった牟児津は、ぎょっとしてその目を見つめ返し、すぐ逸らした。

 

 「あ、あと……こっちが瓜生田さん。こっちが同じクラスの……益子さんです」

 「よろしくお願いします」

 「よっす、どうも」

 「瓜生田ちゃんに益子ちゃんね。よろしく!みんなはもしかして、オカ研の入部希望者!?」

 「美珠先輩、落ち着いてください」

 「あ、みなさん。あそこで眠たそうにしてるのが、今のオカ研の部長の、冨良場(ふらば)先輩です」

 「冨良場(ふらば) (つき)ですぅ。よろしくねぇ」

 

 虚須は、牟児津たちひとりひとりを品定めするように見つめては勝手にテンションを上げている。辺杁は、戸惑いつつも牟児津たちとオカルト研究部を互いに紹介する。冨良場は、ただマイペースに笑って手を振っている。それぞれがそれぞれのしたいことをして、それらが一切絡み合っていない。どこから整理していけばいいのか分からず、牟児津は何も言えなかった。

 

 「大学の先輩にまで名前が知られてるなんて。有名になったね、ムジツさん」

 「うっそだろ……!恥ずかしい……!」

 「取りあえず、一回座ります?」

 「ああ、ごめんね!OGが出しゃばっちゃって!ウチは隅っこにいるから、あとはみんなで、ね。若い者同士でやっちゃって」

 「美珠先輩。そういうのが一番やりにくいんですよぉ。知ってるでしょ」

 「ほらほら部長、ちゃんとお客さんの相手してあげて」

 

 虚須はひとりで散々楽しそうにした後、部室の端に寄って座り込んだ。悪い人ではないが、面倒臭い人だと牟児津は感じた。

 先ほどより少し静かになった部室に、辺杁はパイプ椅子を並べた。部室の真ん中に敷かれた畳とその後ろの祭壇のような造形物の正面に、辺杁を含んだ牟児津たち四人が向き合う配置だ。冨良場は四つん這いのまま、辺杁が連れてきた三人の顔をじっと見つめた。途中、「ふぅん」や「へぇ」と言って頷いたり、後ろを覗き込んだりするので、牟児津はそのたび小さく震えていた。何をしているか分からないので気味が悪い。

 そしてひと通り()終わると、冨良場は腰を下ろして落ち着いた。

 

 「……ふう、みっともないところを見せたね。あの人は他人にムチャ振りとダル絡みをするのが趣味なんだ」

 

 いやな趣味だ、と感じたものの、牟児津は寸でで口に出すのを堪えた。本人がすぐそばにいることを忘れていた。虚須がそこにいないかのように冨良場は言うが、小さな仕返しのつもりなのだろう。

 

 「まあそんなことはどうでもいいや。君たちはこんな辺鄙な場所まで、どういった用で来たのかな?」

 「……実は、部長にお話ししないといけないことがありまして」

 「うん?」

 

 一呼吸おいてから、辺杁は一連の出来事を冨良場に打ち明けた。オカルト研究部を存続させるための実績作りに向け行動していたこと。その中で牟児津の学生カードを盗んで不正に利用したこと。牟児津たちにそれを暴かれ、色々あって協力してもらうことになったこと。迷惑をかけたことのケジメとして全てを冨良場に打ち明けていること。

 辺杁の話を、冨良場はただ頷いて聞いていた。驚きや叱責や申し訳なさは見せず、ただただ辺杁が話すことをそのまま受け止めていた。

 

 「以上、です。本当に、すみませんでした……!」

 「うんうん。そうだったんだねぇ。よぉく分かったよ」

 

 現在に至るまでを話しきった辺杁は、最後にもう一度頭を下げて話を終えた。それを見て、冨良場は今まで座っていた畳の上に立ち上がった。立って初めて分かったが、3年生にしては少し背が低いずんぐりした体型だった。

 

 「牟児津君、瓜生田君、益子君。うちの部員が大変な迷惑をかけたね。部長として謝罪する。申し訳なかった」

 「い、いえいえそんな……」

 「ムジツ先輩はこんなん慣れっこなので、なんとも思ってませんよ!」

 「うっさいあんたは!でもまあ、そこまで大層なことじゃないですから」

 「いいや。わたしが言うのもなんだが、大層なことだよこれは。学生カードの不正利用、しかもそれが盗み取ったものとなれば、直ちに風紀委員か教師に通報するべきだ。部長として、先輩として、あるいは学園生としてはね」

 「ふ、風紀委員……!?」

 

 風紀委員と聞いて、牟児津が冷や汗をかいた。もういい加減、昼にあった事件のほとぼりも冷める頃だろう。冷めていても、川路が牟児津の顔を見れば再燃するかも知れない。風紀委員に連絡されるのは、牟児津としても避けたいことだった。

 

 「でも……どうやら君たちも、風紀委員と関わるのは困るようだ。協力して内々に処理するのが互いの利になると判断したから、ここまでやって来た。そういう理解でいいかな?」

 「むぐっ……!」

 「そんなところです。ムジツさんは風紀委員長が苦手なんです」

 「ははは、川路君は怖いからね」

 

 さっき三人を観察したときに何かを理解したのか、あるいは何かが()えたのか、冨良場は鋭く状況を把握しつつ、相変わらずふにゃふにゃ笑った。

 

 「辺杁君の件は本当に申し訳ないと思っている。ただ、ここでわたしが床に頭をつけて謝罪したり彼女を叱責したりすることは、君たちの望むところではないことも理解した。君たちは結局、辺杁君が借りた本を早く返してほしい。それに尽きるのだろう?」

 「めちゃくちゃ理解が早いですね!こちらとしてはありがたい限りですが……話がトントン拍子に進み過ぎているような」

 「安心していいよ益子君。わたしはれいほと違って、情報に対価は求めない。そうでなくても君たちは、我がオカ研を救おうとしてくれてるのだからね。むしろこちらが対価を支払う側だ」

 「寺屋成(じやなる)部長のことご存知なんですか?」

 「クラスメイトだからね。それでなくても彼女は3年生では有名人だよ」

 

 寺屋成(じやなる) 令穂(れいほ)の名前を聞いて、牟児津は新聞部長である詭弁家の顔を思い出した。益子を牟児津のもとに派遣している張本人で、牟児津の平穏で目立たない学園生活を脅かす目下最大の原因の一つである。オカルト研究部の部長が彼女を下の名前で呼び捨てるほどの仲だということも意外だった。水風船のようにとらえどころのない冨良場と、ダンプカーのように他人の事情にずけずけ踏み込んでくる寺屋成は、果たして気が合うのだろうか。

 

 「ところで辺杁君。君は何の七不思議について調べようとしているんだい?」

 「……『運命辞典』です」

 「えっ……!?」

 

 声を漏らしたのは、部屋の隅に収まっていた虚須だった。黙って辺杁の話を聞いていたので、牟児津たちはすっかりその存在を忘れていた。虚須は、激しく目を泳がせた後、牟児津と辺杁、そして冨良場を見て、立ち上がった。

 

 「ウ、ウチ、もう帰るね。ツキちゃんがきちんと部長やれてるとこ見れたし……あんまり長居しちゃ悪いから……!」

 「……そうですか。お疲れ様です」

 「うん。それじゃ。アリスちゃん頑張ってね!」

 「あ、ありがとうございます」

 

 先ほどまでのテンションはどこへやら、ぎこちない言葉と動きのまま、虚須は部室から出て行ってしまった。最後に辺杁に明るい言葉をかけてはいるものの、どう考えても不審だ。初対面の牟児津たちでさえ、様子がおかしいとしか思えなかった。

 

 「気にしない方がいい」

 

 冨良場が言った。

 

 「昔からああいう人なんだ」

 「虚須先輩がどうというより、『運命辞典』に何かあるように感じましたけど」

 「そう見えるかな」

 「明らかにその名前を聞いてから態度が変わってましたから。何かあるんですか?」

 

 瓜生田の問いかけに、冨良場はすぐには答えない。異様な雰囲気を感じ取った牟児津が、瓜生田と冨良場の顔を交互に見て、また怯える。

 

 「知名度が低いとは言え七不思議のひとつだ。それなりのことはあるよ。ただしそれを調べるのは、これから君たちがすることなんじゃないかな?」

 「そ、そうです」

 「ならいずれ分かるさ。今わたしが全てを話してしまったら、実定に書く話がなくなってしまうだろう?」

 「え、部長さんって、『運命辞典』の全てを話せるくらい知ってんですか?」

 「まあね」

 

 さすが部長と言うべきか、牟児津たちは聞いたことさえなかった『運命辞典』について、冨良場は熟知していた。その中身を聞くことはできないが、どうやら本当に『運命辞典』の話は存在するらしいことが分かった。もしかしたら、虚須も冨良場と同じくらい知っているのかも知れない。だとしたら、二人の態度の違いは何が原因だろうか。瓜生田は考えるが、この場で答えは出ない。

 

 「ありがとう辺杁君。君は、わたしにはもったいないくらい部活思いの後輩だ」

 「いえそんな……私はただ、オカ研が、ずっと続けばいいなと、思って……」

 「うんうん」

 

 優しく、慈しむように笑い、冨良場は辺杁の頭を撫でる。ひとしきり辺杁を労うと、冨良場は辺杁に、今日の部活として部室奥の整理を頼んだ。ひとりでは大変なので、益子が手伝いを申し出た。残された牟児津と瓜生田はまた、先ほどまでの部長然とした雰囲気がすっかり消えた冨良場に見つめられていた。

 

 「きっと」

 

 なんの脈絡もなく、冨良場が切り出した。

 

 「君たちがここに来たのは、何かの運命かも知れないね」

 「はあ……運命ですか」

 「まあ、そうだったらいいなと思っただけだよ。辺杁君の嬉しそうな顔を久し振りに見た」

 「『運命辞典』を見つけるのに一歩前進しましたからね。部がなくなっちゃうのは悲しいですし、希望が見えたんですよ」

 「……ああ、その通りだ」

 

 しばし沈黙が流れる。冨良場は、瓜生田の言葉を噛み締める様に、じっと顔を伏せていた。

 

 「牟児津君、瓜生田君。重ねて迷惑をかけるようなことを言うが、どうか辺杁君を助けてあげてほしい。彼女にとってこの部は……とても大きな意味を持っているんだ」

 「意味?」

 「辺杁ちゃんは居場所って言ってましたけど、それだけじゃないんですか?」

 「居場所か……ああ、そうだね。()()()()()の居場所だ。彼女は、どうしてもこの部を失うわけにはいかないんだ」

 「本当に、ここが好きなんですね」

 

 そして、冨良場は真剣な表情で言う。

 

 「『運命辞典』を見つけた後も、彼女には試練が待っているはずだ。そのときわたしに何かできるかは分からない。でも君たちなら、彼女を助けることができるはずだ。勝手な頼みだとは思うが……せめて彼女のことを、これからも気に懸けてあげてはくれないか?」

 「試練って……なんですかそれ?部長さんが助けられないんじゃ、私たちはなおさら何もできないですよ。『運命辞典』ってそういうものなんですか?」

 「……」

 

 抽象的で、曖昧で、捉えどころがない。冨良場の話はどうにも要領を得なかった。牟児津が尋ねても、冨良場は少し黙った後に同じことを言うのだった。

 

 「それを言っては、実定に書けなくなってしまうだろう?」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津、瓜生田、益子はオカルト研究部で辺杁と別れた。週末に辺杁の家に集まって『運命辞典』を探し出す手伝いをする約束を取り付け、事態は一歩前進した。三人はその手応えを感じながら、その足で図書室に向かった。もともと図書室の本を持ち去った犯人だと疑われている牟児津に、今の状況を図書委員に報告しておくべきだと、瓜生田が助言したのだった。

 図書室には今日も阿丹部と糸氏がいた。本当は瓜生田も当番だったのだが、持ち去られた本を取り返す特命を受けているので通常業務を免除されているのだった。糸氏は瓜生田の代理である。

 

 「ただいま戻りましたあ」

 「どもです」

 「あっ、李下と、牟児津さん、と……?」

 「益子実耶、ムジツ先輩の番記者です!お気遣いなく!」

 「そ、そう。図書室だから、あんま大きな声出さないでね」

 「糸氏せんぱ〜い。戻りましたよ〜」

 「ふがっ?お、おう。李下。首尾はどうだ」

 「順調ですよ。来週には本を取り戻せそうです」

 「ほう、そうか。それは何よりだ」

 

 瓜生田は自信たっぷりに言った。まだ本を取り返せていないのに、もう取り返したような気になってそんなことを言うのは瓜生田らしくない。奪還の目途が立ってよほど嬉しいのだろう。

 

 「結局、例の黒ケープが犯人だったのか?」

 「そうです。でもその人にも事情があって、追い詰められた末に魔が差したっていう感じでした。ムジツさんもちょっと悪かったですし」

 「そこまで正直に言わなくていいじゃん」

 「私たちは本が戻ってくればなんでもいい。しかし、あんな渋い本をよく3ヶ月もかけて読む気になるな」

 「『運命辞典』っていうのを探すために必要だそうですよ。高等部のうわさらしいんですけど、ご存知ですか?」

 「運命辞典?」

 

 その言葉を聞いた途端、何か空気が変わったのを牟児津は感じた。オカルト研究部の二人も、図書委員も、『運命辞典』の名前を聞いた人はみんな、それぞれ違いはあれど何らかの反応をする。冨良場は知名度の低い話だと言っていたが、本当なのだろうか。

 そういえば、知名度が低いはずの『運命辞典』の話を、辺杁はどうやって知ったのだろう。

 

 「何か御存知なんですか?」

 「いや……知らないな。たぶん。全然ピンと来る記憶がない」

 「私もそんな感じ……かなあ」

 「ふぅむ。ただ知らないという感じではありませんね。聞いたけど忘れているのかも知れませんよ」

 「1年生の頃に七不思議か何かが流行ったような気がするが……分からんなあ」

 「糸氏先輩が1年生ってことは、2年前ですか」

 「そういうのって語り継がれていくものだから、誰かが話してるのを聞いたとかはあるかも知れないかな……」

 「なんかキナ臭くなってきましたねぇ、ムジツ先輩。犯人を見つけたのに事件が解決しないなんて、今までにないパターンですよ。こりゃあ学園新聞が分厚くなりますねえ!」

 「あんただけ楽しそうだな」

 「あんまり危ないことしないでよね。なんか変だし、あんまり深入りしない方がいいんじゃない?」

 「大丈夫です。本がお役御免になれば、後はあっちにお任せですから。私たちはその前段階をちょっと手伝うだけです」

 「な、ならいいんだけど……」

 「ムジツさん。明日、ちゃんと朝起きてね」

 「ん〜……まあ、努力する」

 

 『運命辞典』が何なのか。どうやって見つけるのか。昨日までは知りもしなかった学園の七不思議に、牟児津たちは立ち向かうことになってしまった。その先で本当に『運命辞典』を見つけられるのか。その後は?冨良場によれば辺杁に試練が訪れるらしい。そのとき、牟児津たちは果たして何ができるのか。

 分からないことだらけだった。なぜこんなことに巻き込まれているのか。不用心は罪だが、ここまで面倒なことになるほど重い罪だろうか。牟児津は心の底から今の状況を憂いた。そして、もっと防犯意識を持とうと心に誓った。

 明日は休日返上で、『運命辞典』探しのため辺杁の家を訪ねる。瓜生田家以外を訪ねるなど久し振りなので、牟児津はその夜、少し緊張して寝床に入った。



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第3話「正体を突き止める」

 

 土曜日、世間は休日である。牟児津は朝から瓜生田に叩き起こされ、電車に乗って見たこともない駅に連れて来られていた。電車を降りるまで寝惚け半分だったため、気が付いたら到着していた。改札を出て、左右に伸びる通路の真ん中に牟児津と瓜生田は立っていた。

 

 「どこ?」

 「辺杁さん家の最寄り駅。ここから益子さんが案内してくれるはずなんだけど、まだ来てないのかな」

 「いますよ」

 「オッッッ──ぎぁ!!」

 

 急に背後から声がして、牟児津は遅れて悲鳴が出るほど驚いた。振り向けば、益子がいたずらっぽい笑顔を浮かべていた。いつものハンチング帽とワイシャツ、制服の代わりに紅葉色のジャケットを着ている。

 

 「びっくりしたあ。いつの間に後ろにいたの?」

 「電車内で偶然見つけたので、こっそり後をつけてみました。これもジャーナリストの必須スキルの一つです」

 「ただのストーキングだろ!びっくりし過ぎて心臓裏返ったらどうすんだ!」

 「そういう仕組みになってないから大丈夫だよ。それより益子さん、素敵なジャケットだね」

 「ありがとうございます!瓜生田さんこそ今日は大人っぽくて素敵ですよ!ムジ……はい、それじゃあべーりん家に参りましょう!」

 「なんか言えよ」

 

 ファッションチェックもそこそこに、益子は二人を案内し始めた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 駅を出て住宅街に入ると、益子はずんずん進んでいく。土地勘のない人間にとっては、戸建て住宅が立ち並ぶエリアは方向感覚が狂って迷路のように感じた。益子と逸れたらこの迷路から出られない気がして、ぴったり後ろをついていく。ほどなくして、益子は立ち止まった。

 

 「ここです。こちらがベーりん邸です!」

 「邸って別に辺杁さんが建てたわけじゃないでしょ」

 「べーりんとは辺杁の転訛したものですから、間違いではないでしょう」

 「あだ名は個人を指すものなんだから、ベーりん邸だとやっぱりおかしいよ」

 「マジでどうでもいいから早く入ろうよ」

 

 益子の背中を牟児津がそっと押した。牟児津たちが訪ねて来ることは辺杁から家族に話してあるはずだが、ほぼ初対面の相手の家のチャイムを鳴らす度胸など、牟児津にはなかった。急かされた益子がチャイムを鳴らす。インターフォンの向こう側から、女性の声がした。

 

 「はい。辺杁です」

 「あ、どうもおばさん。同じクラスの益子です。ベーりんいますか?」

 「あらぁ、みゃーちゃん。はいはい、ちょっと待ってね……」

 

 受話器が置かれるくぐもった音の後、ドアの向こうで辺杁を呼ぶ声が薄く聞こえた。ドタバタ階段を駆け下りる音がして、ドアが勢いよく開く。相変わらずの黒縁眼鏡に地味なトレーナーを着た辺杁が、三人を出迎えた。

 

 「お、お、お待たせ……!早いね……!」

 「そう?こんなもんだよ。ムジツ先輩と瓜生田さんも来てくれたよ」

 「あっ……ど、どうも……!」

 「どーも」

 「こんにちわあ。今日はよろしくね」

 

 牟児津がやる気なく、瓜生田がのんびりと、それぞれ辺杁にあいさつした。早速三人は家に上がる。玄関には、先ほどインターフォンに出た女性が待っていた。目元がよく似ているので、それが辺杁の母親だとすぐに分かった。

 

 「まあまあ、こんなにお友達が来るなんてねえ。うちの子がいつもお世話になってます」

 「お母さんやめてよっ!みゃーちゃん、先に部屋に行ってて」

 「おじゃましまーす」

 「お菓子持って行かせるから、ちょっと待っててね」

 「おかし……!」

 

 あまり母親と同級生たちに会話してほしくないのか、辺杁は三人を部屋へ促して母親から引き離した。牟児津は、辺杁母の去り際の言葉に期待を持ち、瓜生田の後に続いて階段を上った。階段を上った先にはドアが2枚あり、正面が辺杁の部屋、右手が両親の寝室のようだ。益子は正面のドアを開けて、辺杁の部屋に入った。

 

 「うおーっ!すごいですね!磨きがかかってます!」

 「わっ……え、すご」

 「ひぇ〜」

 

 部屋の中を見た三人は、一様に目を丸くした。ありふれた一般住宅の中に、まるで遊園地のアトラクションのような部屋が現れた。血のような赤色のカーテンと歪んで育った観葉植物が窓から入る光を遮り、朝なのに蛍光灯の光がないと薄暗い。床には巨大な魔方陣が描かれた絨毯が敷いてあり、木製の本棚が壁沿いに並び、同じく木製の巨大な事務机が部屋の中央に鎮座している。

 収められている本はどれも怪しげなタイトルや装丁のものばかりだ。さらに、燭台ごと壁に埋め込んだような蝋燭型の照明器具、壁中に貼り付けられた怪しげな呪文や不気味な生物を象ったシール類、髑髏やランタンや鉄鍋を模したインテリアが部屋中に散りばめられていて、どこに目を向けても世界観の綻びがない。唯一あるとすれば、スマートフォンの充電コードくらいだろうか。

 

 「すっ……ごい、ね。本の中に入っちゃったみたい」

 「こんな部屋で寝てんのか……マジか……」

 「ベーりんのお父さんがマルチデザインコーディネートアドバイザーなんですよ。小さい頃から色々とわがままを聞いてもらって、結果こうなってるみたいです」

 「なんだその仕事」

 「あっ!」

 「ぎゃっ!?ど、どうしたうりゅ!?」

 「これ、うちの図書室の本!ムジツさんの名前で借りられてるやつだ!」

 「マジで!?」

 

 事務机の上に置かれた、色がくすみ日に焼けボロボロになった本を見て、瓜生田が声をあげた。背表紙には学園が保有することを示すラベルが貼られており、表紙の裏には掠れてはいるものの、高等部図書室の印が捺してあった。

 

 「これ持って帰ったら終了じゃね?」

 「ここまで来てそれはないよムジツさん。私だって持って帰りたいけど、辺杁さんともオカルト研究部の人たちとも約束したんだから」

 「そうですよ!こんなところまできて引き返したら記事にならないじゃないですか!」

 「冗談なのに……」

 

 瓜生田と益子に同時に諫められて、牟児津はしゅんとしてしまった。冗談とは言うが、もし二人が賛成したら本当にそうするつもりでもあった。もちろん、そんなことは口が裂けても言わない。

 すぐに階段を上がってくる音がして、部屋のドアが開いた。四人分の飲み物と菓子を持ってきた辺杁が、事務机の上にそれらを乗せた。

 

 「あっ……それ、あの、む、牟児津先輩のカードで借りた……」

 「うん。そうだね。ようやく現物を確認できて一安心したよ。汚れや破損はないみたいだね」

 「はい……あ、で、でもよかったです……」

 「なにが?」

 

 辺杁は、申し訳なさそうに言った。

 

 「それを見たら、持って帰って終わりだって言われちゃうかもって、ちょっとだけ……不安だったんです……」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 辺杁が両親の寝室からローテーブルを持ってきて、4人でそれを囲った。お茶とジュースが1本ずつと、皿いっぱいに盛られたお菓子を中央に置く。

 

 「これがオレンジピール入り。こっちは抹茶味。あと紅茶の葉を混ぜたやつと、これはプレーン」

 「すごっ……これ、お母さんが作ったの?」

 「う、うん……うちのお母さん、お菓子作るの好きだから……」

 「手作りのラングドシャって初めて見たかも」

 「味は私が保証します!あとベーりんのお母さんはサービス精神旺盛ですから、リクエストすればここにない味も作ってくれますよ!」

 「あんこ入りも?」

 「あんこは……あったかな。こしあんをバターや生クリームと一緒に挟んで食べたら美味しいですよね……」

 「たのもう!」

 「そんな道場破りみたいなリクエストって」

 「ほ、本題に入っていいですか……?」

 

 走り始める前から脱線する会話をぶった切り、辺杁はスマートフォンをテーブルに出した。三人ともそれを覗き込むが、何も表示されていない。

 

 「ベーりんどした?スマホがどうかしたん?」

 「……『運命辞典』の、見つけ方です」

 「スマホが?」

 「いや、スマホじゃなくて……えっと、見つけ方を調べてくれた人がいて……」

 「調べてくれた人?」

 「ちょっと……み、みなさんに話すか、迷ったんですけど……話さないと、先に進まないと思って」

 「別に隠すことないのに」

 

 そして辺杁は、スマホを手元に戻して何らかの操作をする。迷いのない指運びから、その操作に慣れているのが分かる。きっと何度も同じ操作をしたのだろう。次に辺杁がスマホの画面を見せたとき、そこには真っ黒な背景におどろおどろしいフォントで、“伊之泉杜学園裏サイト”と書かれていた。

 

 「な、なにこれ?」

 「学園の裏サイトです。ご存知ないですか?」

 「知らないけど……」

 「裏サイトっていうものは知ってるけど、うちにもあったのは知らなかったなあ」

 「存在は知ってたけど、実物を見るのは初めて。こういうところの情報はあんまりアテにならないからねぇ……」

 

 問いかけに対する答えは、見事に三者三様だった。辺杁は、一番知識のない牟児津に合わせて説明した。

 

 「裏サイトとは、通常の検索方法とかではたどり着けないウェブページのことです。専ら、特定の学校に関する掲示板サイトのことを指します。だいたいが非公式で、その学校への愚痴や文句、噂話や怪談みたいな、表では話しづらいテーマがメインですね」

 「なにそれ……合法?」

 「合法ですよ……たぶん。少なくとも、伊之泉杜学園(うち)の場合は学園が認知してますから」

 「え?そうなの?じゃあ裏サイトじゃなくない?」

 「工学総合研究部が実験的に作ったサイトだそうです。当時の工総研が活動の正当性をアピールするためだったとかなんとか。でもうちって、生徒の自由度かなり高いじゃないですか。だから……敢えてここに書くほどの不満ってなくて……サイト自体、あんまり活発にならなかったんです。学園としても、そんなサイトを規制する必要はないから、放置してるみたいです……」

 「裏サイトって言うほどのダークさはないんだね」

 「で、でもいちおう、アングラな話題もあったりするんです。私、ここで学園にまつわる怪談とかを集めるのが好きで……よく見てたんです」

 「よう見るわそんなの」

 「それで……そこで知ったんです。『運命辞典』のこと」

 「おん?」

 「……その人は、“ササカ”と、名乗ってます」

 

 サイトを見せつつ、辺杁は学園の裏サイトを通じて知り合った“ササカ”という人物、そして『運命辞典』の話を知った経緯について話し始めた。

 辺杁は日ごろから、裏サイトで怪談やオカルトに関する情報を集めることを趣味としており、そこで知った情報をオカルト研究部で話したりしていた。オカルト研究部で提出する実定の内容に困っていた辺杁は、裏サイトの情報を頼りに学園の噂などを調査して実績とすることを考えた。そして裏サイトに情報提供の依頼を書き込むと、すぐに返事が来た。そこで語られた噂話が『運命辞典』だった。辺杁はその書き込みの情報を手掛かりに『運命辞典』を見つけ出すことを決め、たびたび同サイトで助言を求めたという。その、『運命辞典』の話を最初に辺杁に語ったり、相談を受けたりしていた人物というのが、“ササカ”らしい。

 

 「それであの、一昨日の夜……いつもは、私から連絡して、“ササカ”さんが返事するって感じでやってたんですけど……珍しく、“ササカ”さんから連絡してきて……えっと、き、気をつけろって……」

 「気を付けろ?なにに?」

 「よく……分かりませんでした。でも、とにかく、私のしようとしてることが、邪魔されるって……。そしたら次の日、牟児津先輩が私を訪ねてきて……」

 「おお、すごい。当たってるじゃん」

 「それで……私、牟児津先輩の顔を見たとき、学生カードのことと、“ササカ”さんの忠告を思い出して……捕まったらダメだと、思っちゃって逃げちゃいました……」

 「なるほど。自分のしたことがバレたっていう理由だけじゃなかったのか。でもこれは分からなくても仕方ないですよ。ムジツ先輩、ドンマイです」

 「ちょいちょいあんたは私を探偵だと思ってる節があるな。違うぞ?いい加減覚えろ?」

 「もう、マジギレやめてくださいよ〜」

 「どんなメンタルしてんだ?」

 「あ、辺杁さん。気にしなくていいから続けて続けて」

 「気になりますよ!ケンカしないでください!」

 

 牟児津にガンを飛ばされても益子はへらへら笑う。瓜生田はそれを無視して辺杁に話を促す。オカルト研究部の上級生はみんなマイペースなのでいつも部室はカオスな空間だったが、今もたいがいだ。仕方なく瓜生田が二人の顔を押さえて引き離し、改めて話を聞く体勢を整えた。

 

 「だからそれで……えっと、なんだっけ?」

 「ベーりんが“ササカ”からの予言を思い出して、ムジツ先輩から逃げたところまで」

 「ああ、そう。うん。そうだわ。だから……とにかく、『運命辞典』の話は“ササカ”さんから聞いて知りました。私はずっと、“ササカ”さんの言うとおりに『運命辞典』を捜してきました」

 「ふ〜ん……なるほどね」

 「ムジツさんの学生カードを使ったのは?」

 「そ、それは、気の迷いっていうか……サ、“ササカ”さんが指示したわけじゃないです……」

 「でも、4冊以上本を借りる必要があったんだ」

 「そ、そうなの!えっと……取りあえず、これを見て」

 

 辺杁はスマートフォンの画面を素早く指でタッチし、自分が建てたスレッドを開いた。学園に関する噂話や怪談、言い伝えなどを募集するものだ。辺杁の書き込みが一番に表示されている。そのすぐ下、二番目に書き込んだ人物のハンドルネーム欄には、“ササカ”と表示されていた。辺杁の話にあった人物だ。三人はスレッドの書き込みを追いながら、辺杁と“ササカ”のやり取りを振り返っていく。

 

 「『運命辞典』……確かに、“ササカ”の方から話し始めてるね」

 「内容もべーりんが言っていたことそのままです!」

 「いや、私が“ササカ”さんの内容をそのまま言ってるだけだから……」

 「なんか背景色のせいかな……めちゃくちゃ胡散臭いんだけど。本当に信頼できんの?この“ササカ”って人」

 「裏サイトにアクセスするには、工総研が管理してるURLとパスワードが必要なんです……。だから、少なくとも学園生であることは間違いありません。それに、この噂を知ってる人は少ないんです。きっと……“ササカ”さんも、オカルトが好きな人なんですよ」

 「ああ、そうそう。それなんだけど、本当にこの話ってマイナーなの?」

 「はい。自分で言うのもなんですけど、私それなりにオカルトには詳しいつもりでした。でも『運命辞典』の話は“ササカ”さんから聞いて初めて知りました。冨良場部長や虚須先輩もご存知でしたから、“ササカ”さんが出まかせを言っているわけじゃないことも分かります。つまり、私でも知らないくらい語り手の少ない噂っていうことになります」

 「ふぅん」

 「そもそも高等部に七不思議があるっていうことすら知られてないのに、その中のひとつなんて知られてなくて当たり前です。それでも、確実に存在はするんです。私たちの知らない場所、知らない文化、知らない世界……もしかしたら目に見えないし音も聞こえないかも知れない。それでも、確かにそこにある。それを探究するんです。それって、オカルトの本質じゃないですか?」

 「いや、熱く語ってくれてるところ本当ごめん。マジで分からん」

 「ロマンは分かるけどね。私も宇宙人は否定しない派だよ」

 「うんん」

 

 牟児津はうなった。辺杁のオカルト語りに感心したわけではなく、なんとなくすっきりしない気持ち悪さを感じていたからだ。喉に何か詰まったような、はっきりしない不快感だ。

 

 「あと『運命辞典』について知ってる人は、それについて語ることを避けるようです。昨日の先輩方がまさにその通りです」

 「ああ、確かに。虚須先輩なんて、名前を聞いた途端に出て行っちゃったね」

 「ほうほう。『運命辞典』を知る者は『運命辞典』について語りたがらない、つまり語ることが何かしらの不利益になり得るからですかね?ありそうなのは……呪われるとか?」

 「ひぃっ!?」

 「ですから、『運命辞典』についての情報が、今のところ“ササカ”さんからしか得られないんです。信頼できるかどうかなんて言ってられません」

 「焦ってるのは分かるけど、きちんと情報は取捨選択しないといけないよ。まあ、これに関してはもう遅いか」

 「で、ここからです。『運命辞典』を見つけるには3つのステップがあります。“ササカ”さんがそれについて説明してくれてます」

 

 スレッドの続きを指さして辺杁が言う。三人は再び辺杁のスマートフォンを覗き込んだ。

 

 「まず、4冊の本を用意します。1冊は伊之泉杜学園の歴史についてまとめた本です」

 「なんでそんなもんが必要なんだ」

 「『運命辞典』は学園のどこかにあるんです。最終的にこの本が、その場所を示してくれるんです」

 「細かいところを突っ込んでたらキリがないですよ、ムジツ先輩」

 「分かったよ。最後まで聞くよ」

 「ありがとうございます。それで、“ササカ”さんは『運命辞典』に纏わるこんな詩を教えてくれました」

 

 

── 運命の数字が導くところ   あなたの過去はそこにある

   終わらない時の子守歌    今のあなたは聞いている

   並んだ星々 空の(しるべ)      あなたの未来を見届ける

   三つの印はあなたのしもべ  司る時を捧げれば

   たどった指が知っている   あなたの運命がどこにあるか ──

 

 

 三人にはちんぷんかんぷんだった。何やらオカルトめいた言葉が散りばめられているが、具体的な意味はさっぱり分からない。辺杁によれば、『運命辞典』を見つけるには、この詩が示す三冊の本を集める必要があるらしい。

 

 「ここに書かれているのはそれぞれ、人の過去・現在・未来を示す本です」

 

 辺杁が説明する。

 

 「最初の一節。運命の数字とは、運命数──つまり自分の生年月日を全部足し合わせた数のことです。それが導くところなので、運命数番目の書架の、運命数番目の段の左から運命数番目の本。これがその人の過去を示す本です」

 「なんで過去?」

 「誰にとっても生まれた日は過去でしょう」

 「ん、おおう」

 

 筋が通っているようないないような気がすることでも、当然だという顔で言われると、牟児津は受け入れざるを得なかった。益子の言うとおり切り込めばキリがないので、ひとまずここは飲み込んでおく。

 

 「次に『終わらない時の子守歌 今のあなたは聞いている』ですが、これは現在を示す本です。時の子守歌とは、時計の針の音です、それを聞いているということは、その時計に一番近い場所にある本こそが、現在を示す本になります」

 「……はい」

 「そして未来を示す本──『並んだ星々 空の標 あなたの未来を見届ける』は、占星術に関する本を意味します。星の輝きや並びは未来を示すものとして、古来から学問として研究されているくらいです。オカルト的にも大きな意味があります」

 「そっかあ」

 「……ここまでは、私でも分かりました。問題はこの先です」

 

 正直、三人には辺杁の言う“ここまで”も分からない。“ササカ”の書き込みにも似たようなことが書いてあるので、辺杁の解釈はおそらく正しいのだろう。しかしどうにも『運命辞典』というのは、オカルトに詳しくないと見つけることができない代物のようだ。

 

 「『三つの印はあなたのしもべ 司る時を捧げれば たどった指が知っている あなたの運命がどこにあるか』。これがいったいどういう行為を指すのか……“ササカ”さんにも聞いてるんですが、いつでもすぐ返信が来るわけではないので……」

 「え、私たちにこの意味を考えてくれってこと?」

 「はあ……そうですけど……」

 「ええ……?」

 

 牟児津は思わず頭を抱えた。気が乗らない、近寄りたくない、前提知識もないの三重苦である。こんな状態でこの詩が意味するところを正しく解釈することなど、可能とは思えない。

 

 「あったまいてえ〜〜〜!」

 「落ち着いてムジツさん。ほら、ラングドシャ食べて」

 「ぐぅ〜〜〜!んまぐ……うん、うまい」

 「すぐに詩の意味は分からないよ。私たちは辺杁さんみたいにオカルトに詳しいわけじゃないし。辺杁さんなりに解釈しようとはしたの?」

 「したけど……上手くまとまらなくて……」

 「ちょっと教えてくれる?」

 

 そう言って、瓜生田は詩の内容を紙に書き出し、それについて辺杁がどのように解釈したか、オカルト的にどのような意味を持つかについてを教わりだした。興味も持てない牟児津はそれを横目に見ながら、辺杁母特製ラングドシャをもりもり食べ続けた。

 

 「瓜生田さん、今からオカルトを勉強するつもりですかね?」

 「うりゅなら大丈夫でしょ」

 「いやあ……瓜生田さんは勉強できるとは思いますけど、さすがに付け焼き刃が過ぎません?」

 「でも、いつもテスト前は教科書読んで私に教えてくれたりするよ。数学とか英語とか」

 「そうなんですか!?すごっ!?というか瓜生田さんに教わってるんですか!?ムジツ先輩はプライドとかないんですか!?」

 「なんで?」

 

 益子は驚いた。もはや牟児津が、瓜生田に物を教わることになんの違和感も抱いていないことに。瓜生田も瓜生田で自分の勉強があるだろうに、一学年上の内容を教科書だけで理解し、あまつさえ人に教えるなど、どれほどの能力と時間をかけているのか。そもそもなぜ瓜生田が牟児津のためにそこまでするのか、その答えに考えが及ばず理解できなかった。

 

 「ムジツ先輩、瓜生田さんにあんまり迷惑かけちゃいけませんよ」

 「いやあんたが言うな」

 

 呆れた視線を投げかける益子に、牟児津は冷めた視線を返した。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 辺杁から小一時間ほどレクチャーを受けた瓜生田は、独自に詩の内容を理解しようとしていた。少し読んで解釈しては辺杁と相談し、詩が示す内容を牟児津たちにも分かりやすい言葉に書き換えていく。瓜生田の呑み込みの早さと理解力、応用力の高さに最も驚いたのは辺杁だった。自分が持っている知識を与えたはずなのに、瓜生田は辺杁の予想を超えて詩に新しい解釈を加えていった。

 

 「すごい……!瓜生田さんって、昔オカルトやってたりした?」

 「しないよ。ムジツさんがそういうの得意じゃないから、私もなんとなく興味を持たなかったんだ」

 「そう、なんだ……」

 「で、ここなんだけど、こういう解釈はどうかな?3と1っていう分け方に意味がありそう」

 「3か……三角形はオカルト的に結構重要な意味を持ってるよ。ピラミッドとか、三位一体とか、プロビデンスの目とか」

 「最終的に学園史の本が在り処を示すっていうことは、学園の中の一箇所を示すってことだよね。指が知ってるっていうのは指で探る、こうパラパラ捲っていくってことじゃない?」

 「す、すごい……!じゃあ、過去・現在・未来の本をそれぞれ正三角形の頂点に配置して、その中心で学園史の本をめくれば……もしかしたら……!」

 「時を捧げるっていう部分の解釈はどうだろう?抽象的だけど、捧げるっていうのはそこまで深い意味はなさそうだね。単純に開けばいいのかな。だとしたら時ってなんだろう」

 「それぞれの本が司る時間、過去・現在・未来のことだよ。たぶん、過去の本は運命数のページ、未来の本は私の星座のページだと思う。現在は……今日の日付とか?」

 「もうちょっと神秘性が必要かもね。前後の文脈からしても」

 「うりゅが向こう側に行っちゃう……」

 「いやいや、こっち側にもいますよ。こっち側と向こう側を反復横跳びしてるみたいですね」

 「すげー。現実だと全然できないのに」

 

 そして、辺杁と瓜生田による詩の読解が完了した。それが本当に正しいという保証はないが、現時点で可能な限り解釈を凝らした。その結果、『運命辞典』の在り処を見つけるためには、ある儀式が必要であると判明した。

 

 「まず北に現在の本を置いて、そこから正三角形になるように過去と未来の本を配置して。過去の本が南西側、未来の本が南東側。魔方陣は絨毯で代用しよう」

 「この絨毯すっごい便利だね。ちょっと儀式したいときに書かなくていいんだ」

 「ちょっと儀式したいときっていつだよ」

 「そしたらそれぞれで開くページがあるから、三人で開いて押さえててください。まず過去の本が……」

 

 辺杁が、魔方陣の描かれた絨毯の上でテキパキ準備を進めて、牟児津たちにも指示を出す。ラングドシャでお腹がいっぱいになった牟児津たちも、辺杁の指示通りに本を開いたり押さえたりして準備する。牟児津と益子は何をしているのかさえ分からないが、意見できる知識もないので、何も考えず従った。

 そして準備が整った。部屋の中央には辺杁。それを三方から囲む牟児津、瓜生田、益子。四人はそれぞれ指定された本を床に置き、特定のページを開いている。ただでさえ暗い部屋の窓をふさぎ、照明を薄暗くして雰囲気を作る。辺杁は、これも儀式には必要なことなのだという。

 

 「では、私が呪文を唱えながらページをめくっていきます。解釈が正しければ、どこかで自然に指が止まるはずです。『運命辞典』はきっとそこにあります」

 「……あのさ、今更なんだけど聞いていい?」

 「はい。なんですか牟児津先輩」

 「もし間違ってたらどうなんの?」

 「さあ……それは儀式で得られる効用の程度によります。このくらいの儀式だったら、そこまで大きなことにはならないでしょうが……いちおう藁人形(みがわり)要ります?」

 「あああキモいッ!!でも要る!!」

 

 儀式が始まった。辺杁は学園史の本を持ち、ぶつぶつ呪文を唱え始めた。薄暗い部屋で怪しげな儀式をしながらだと、意味不明な呪文にも尤もらしさを感じてくる。牟児津にはそれが恐ろしかった。

 辺杁が学園史を床に置き、閉じた状態からゆっくりと指でそれをなぞっていく。目を閉じて苦しそうな表情をしている。この儀式が本当に魔術的な力を持っているようにも感じた。さすがの瓜生田と益子も、辺杁の尋常でない様子に不安な顔をした。ページをなぞりめくっていくその動作がしばらく続く。暗い部屋では時間の流れさえも狂わされるようだ。

 ──そして、儀式は唐突に終わった。辺杁が呪文を唱えるのを止めたのだ。

 

 「……?べ、べーりん……?大丈夫……?」

 「……っ!」

 

 特に何かが起きたとは思えなかった。魔方陣が光り出したり、部屋が揺れてガタガタと音を立てたり、天気が変わって雷が落ちたり、空想の中のようなことは何も起きなかった。

 しかし、辺杁は学園史のある1ページを開いたまま固まっていた。三人はおそるおそる、そのページを背後から覗き込む。

 

 「みなさん……!儀式は……成功しました!」

 「え?」

 「ここです!『運命辞典』はここにあるんです!指が、指がすっとここで止まったんです!本当に、私は何もしていないのに!まるで導かれるように、指がこのページを示したんです!奇跡です!」

 

 辺杁は興奮していた。自然に指が止まったと言われても、牟児津たちにはよく分からない。しかし跳び上がるほど喜んでいる辺杁に水を差すこともできず、牟児津たちはその様子を見守っていた。

 

 「じゃあ、詩の読解はこれで合ってたってこと?」

 「はい!瓜生田さん、ありがとうございます!」

 「じゃあ、後はべーりんが『運命辞典』を見つけて実定を書けばオカ研は助かるってこと?」

 「うん!『運命辞典』がどんなものか分からないけど……取りあえず、活動したって言えるよ!」

 「じゃあ、うん……まあ、なんか、よかったね。おめでと」

 「ありがとうございます!」

 

 あまりに辺杁が喜んでいるので、特に言うことのない牟児津もひとまず祝福しておいた。

 

 「で、『運命辞典』はどこにあったの?」

 「ここは……特別教室棟3F図書準備室……!配架棚まで書いてある……!」

 「図書準備室?」

 

 牟児津は首を傾げた。あの薄暗くて本がびっしり並んだ場所なら、確かに怪しげな本の1冊や2冊は置いてあっても不思議ではない。だが、牟児津が抱いた感想はそれだけではなかった。ここに来て、話がまた図書室に戻ってきた。牟児津は、なんらかの意図を感じて気味が悪かった。

 

 「図書準備室なら、うりゅがよく出入りしてるよね。なんか心当たりないの?」

 「うーん、あそこはたくさん本があって広くて暗くて、あんまり一冊一冊を注意して見たことはないからなあ」

 「つまり、怪しい本を隠すならうってつけの場所ってことですね!どうします?早速見つけに行きますか!図書室なら休日も開放されてますよ!」

 「ううん。見つけるのは月曜日にする」

 「ありゃ。べーりん、気にならないの?」

 「『運命辞典』を見つけるときは……冨良場部長も一緒に来て欲しいから。オカルト研究部の活動だもん。オカルト研究部の……全員で、ちゃんとしないと」

 「ふむ。まあ、べーりんがそうしたいなら」

 

 益子は事を急ごうと興奮していたが、辺杁はそうでもなかった。『運命辞典』の在処が分かってしまえば、後はその場所に行って確認するだけだ。そのときは冨良場も一緒に。それが辺杁のこだわりだった。

 

 「じゃあ学園史はもう返してもらってもいいかな?」

 「いちおう、月曜日までは待ってもらえますか?ちゃんと返しますけど、もしものときのために持っておきたいので」

 「もしものときって?」

 「さあ……何が起きるか分からないのがオカルトですから」

 「そういうものなのかな」

 「そういうものなんですよ」

 「じゃあさ。ちょっと見せてもらっていい?」

 

 用が済んだ本を瓜生田が回収しようとするが、辺杁は念のためまだ本を持っておきたいらしい。月曜日までは協力すると約束していたので、瓜生田は待つことにした。ひとり、どうしても気持ち悪さが消えない牟児津は、学園史の本を辺杁から預かる。辺杁は、空いたグラスを片付けて部屋を出た。

 

 「ムジツ先輩、どうかしました?何か気になることでも?」

 「……辺杁ちゃんは、本をなぞってる指が止まったって言ってたけど、なんかおかしくてさ」

 「おかしいって、何が?あっ──!」

 

 牟児津が、学園史を閉じた。せっかく辺杁が探し当てたページが、数百の分厚い紙の束に消えてしまった。

 

 「ちょっ、何してるんですかムジツ先輩!べーりんがせっかく見つけてくれたのに!」

 「……」

 

 牟児津は、先ほどの辺杁と同じように、しかし黙ったまま、学園史の本を指でなぞり始めた。小気味よくパラパラとページがめくられていき、分厚い紙束が徐々に減っていく。その様子を、瓜生田と益子は心配そうに見ていた。牟児津が何をやっているのか分からない。

 そして、牟児津の指が止まった。絶え間なく続いていたページの波がぴたりと止まる。開かれたページは、ついさっき、牟児津が紙の束の中に消したのと同じページだった。

 

 「あれ?おんなじですね」

 「う〜ん……やっぱり、なんか違う」

 「何が?」

 「うりゅもやってみて」

 

 促されるまま、瓜生田も同じように本を閉じ、最初のページから指でなぞってペラペラめくっていく。そして開いたのは、また同じページだった。益子がやっても同じ。背表紙からやっても同じ。どうやっても、何度やっても同じページに行き着くのだ。

 

 「……どういうことですかね?」

 「儀式なんて関係なく、誰がどうやってもここが開くようになってるってこと?」

 「たぶん。これさ、外に出てる栞紐が2本あるけど、もう1本めちゃくちゃ細いのがここに挟んであるんだよ。だからここのページだけちょっと浮いてて、めくってくとここで止まるようになってる」

 「あっ!本当だ!白くて分かりにくいですけど、確かにあります!」

 「なんでこんな細い栞紐があるんだろう?それもこのページに」

 「いや……ううん、なんとなく……誰かがここに挟んだって気がする」

 「意図してこのページを開かせた誰かがいると?」

 「……分からん。でも、なんかおかしいと思わない?」

 

 上手く言葉にできない気持ち悪さと、頭の中でまとまらない違和感を、牟児津はなんとか言葉にして二人に話す。

 

 「なんか学園の七不思議って言う割に、『運命辞典』と学園の関係が薄い気がするんだよな。学園史を使ってなんとかこじつけてるような……そもそもこの儀式だって、3冊しか本を借りられないのに4冊の本を必要としてるのがおかしい。ひとりじゃできないようになってるんだよ。学園史なんて普段誰も借りないものだから、何か仕掛けをするならちょうどいいし」

 「おっ?おっ?やっぱりムジツ先輩は探偵してるときの方が生き生きしてますね!で、つまるところどうなるんですか?」

 「……『運命辞典』なんて七不思議、本当にあんのかな?この話も、儀式も、情報の出所は全部……同じ人だ……!」

 「“ササカ”だね」

 「辺杁ちゃんは“ササカ”って人を信じてるみたいだけど、なんだか怪しいよなあ……」

 

 学園史の本の仕掛けを発見した途端、牟児津はこれまで恐れていた『運命辞典』の話や儀式が、一気に不可思議さを失ったように思えた。状況を俯瞰して見れば、辺杁は丸っきり“ササカ”の指示するままに動かされている。牟児津の学生カードを盗んだことは辺杁の判断だが、そもそもひとりでは不可能な儀式が設定されていることに違和感を覚えた。

 牟児津は考える。噂話から儀式から、一連のことは全て“ササカ”が指示したことだ。“ササカ”に何らかの目的があって、辺杁を操っているのかも知れない。だが『運命辞典』の話をしたところで、“ササカ”に何の得があるというのか。“ササカ”は一体何者なのか。

 

 「このこと、べーりんに話しますか?」

 「……いや、もしかしたらまだ何かあるかも知れない。内緒にしておこう」

 

 『運命辞典』を見つけた後も、辺杁に何らかの試練が訪れると冨良場が言っていた。少なくとも冨良場は『運命辞典』が何か、その話や儀式について知っているはずだ。それなら、『運命辞典』を見つけた後に起きることも──もしかしたら、“ササカ”の正体も知っているかも知れない。

 

 「なんだか急に本気になったね、ムジツさん」

 「元をたどれば“ササカ”ってやつのせいでこっちは巻き込まれてんだ。こそこそするのも気に入らん!文句言ってやる!」

 「思ったより小さい目的でしたね」

 「うっさい!休日だって潰されてんだぞ!」

 

 そのとき、階段を上ってくる音がした。辺杁が戻って来たのだ。

 

 「や、やばい!これ元に戻さないと!」

 「二人ともくつろげ!」

 「くつろげ!?」

 

 急いで三人は学園史を元の場所に戻して、何事もなかったかのように床に寝そべった。ドアが開き、辺杁が新しいお茶を持って来た。

 

 「みなさん、お疲れ様でした。今日はとても助かりました」

 「いやあ、なんのなんの。ところで辺杁ちゃん、今日はこの後どうするの?」

 「学園史の本はまだ持っておきますけど、占星術の本は大学部で借りたので、それを返しに行こうかと」

 「大学の図書館でも本借りられんの?」

 「冊数の制限は変わらないけど、学生カードがあればどこでも借りられるよ。私もたまに本館で借りたりするし」

 「瓜生田さんの学力の底が知れませんね……せっかくですから、私たちも行きましょう!」

 「え?私らも?」

 「どうせ帰り道なんだし、行こうよムジツさん。たまにはマンガ以外の本も読まないと」

 

 平日は大学部生で混み合うので、高等部の生徒が大学部の図書館を使うなら休日が良い、というのは一部の生徒にとっては常識だった。当然そんなことなど知らない牟児津は、瓜生田と益子に腕を引かれ、辺杁が大学部で借りた本を返しに行くのに付き合うことになった。

 

 「お母さん、行ってきま〜す」

 「お邪魔しましたあ」

 「あら。みんなもう帰るの?ムジツちゃんだっけ?あんこのラングドシャも作ってあげようと思ったのに」

 「やっぱまだ残らん?」

 「それはまた今度もらいます!大学部に用事があるので!」

 

 非常に強く後ろ髪を引かれる思いで、牟児津は辺杁家を後にした。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 辺杁家から駅まで戻って再び電車に乗り、少し揺られてすぐ学園の最寄り駅に着いた。大学部は高等部と接しているが、入口が高等部から敷地を挟んで反対側にある。いつもの通学路から大きく外れ、商店街の先にある交差点を真っ直ぐ進む。緩やかな坂道を一番上まで登ったところに、大学部の校門はあった。

 休日の昼過ぎだというのに行き交う人は多く、サークル活動や勉強のため訪れる学生が多いようだ。ほとんどの生徒は近くの住宅街に家があるか、駅の反対側にある一人暮らし用マンションに住んでいるので、いつでも足を伸ばしやすいのが伊之泉杜学園大学部の特徴でもある。

 

 「うへ〜、私、大学部なんて初めて来た」

 「一緒に学園祭行ったでしょ」

 「あのときとはノリが違うから初めてみたいなもんだよ」

 「私も初めてです。広いですね〜!伊之泉杜学園はどこもたいがい広いですけど、ここは一入ですね!」

 「うっかりすると迷子になっちゃうから……はぐれないようにしてね。図書館はこっちです」

 「あっちから良い匂いがする……」

 「ほらムジツさん、手つなぐよ」

 「本当にちっちゃい子みたいですね」

 

 なぜかぽつんと出店している屋台や、謎の道具を使って演舞を繰り広げる集団、アカペラで歌うグループに、何らかのコスプレをしている人々など、高等部に負けず劣らず大学部も学生の活動は広く自由が認められているようだった。それでもキャンパス内が荒れていないのは、自治機能がしっかり働いているからなのだろう。

 

 「あった、あそこが入口だよ」

 「うおーっ!すげーっ!」

 

 辺杁の案内で一行は、建物の奥に隠れて見えなかったガラス張りの建物の前までやって来た。建物の四隅にレンガ造りの巨大な柱が建ち、その間は全てガラス張りになっていて、椅子に腰掛けて本を読む人や勉強している人の姿が外からでも見える。エントランスホールは吹き抜け構造になっており、学生カードをかざして入る自動改札機が並んでいた。牟児津がその建物の姿に圧倒されている間にも、ひっきりなしに人の波が寄せては返していく。

 

 「みんな、学生カードはあるよね。これで入れるから」

 「うちの学園にこんなのがあるなんて……10年以上通ってるのに知らなかった……」

 「何年か前に改築されたんだけど、その前はその前でステキだったんだよ。壁の彫刻がゴシックな感じで」

 「何年か前って……うりゅ、中等部のときからここ通ってたの?」

 「ううん。初等部から」

 「ひえ〜〜〜!」

 「図書館だから静かにしてくださいね」

 

 図書館の造りにも、幼馴染みの知られざる一面にも牟児津は舌を巻きっ放しだった。辺杁に注意されて大人しくなった牟児津たちは、学生カードで改札を通過し、中へと入っていった。

 分厚い壁でエントランスホールと仕切られた建物は、一歩踏み入れた途端に周囲の雑音が消えたような気がした。温かみのあるレンガと木でできた内装と落ち着いた色合いのカーペットがあらゆる音を吸収し、蛍光灯の光さえも包み込まれるような優しさを感じさせた。窓から差し込む光は柔らかく、整頓された本棚やカウンターの奥で働く司書の洗練された姿は、大学という牟児津たちの日常のワンランク上にある品格を見せつけていた。

 

 「おおっ……!これが、大学……!」

 「の、図書館ですよ。いいですね、この雰囲気。おしゃれで清楚で」

 「大学部では、返却はカウンターを使います。自動返却機もありますけど、カウンターで返すと次に借りたい本が予約できたりして便利なんです」

 「私もそれよくやる。使いこなしてるなあ」

 

 辺杁は返却カウンターの中央に置かれた発行機から整理券を切り取り、ランプが付いたカウンターに向かった。牟児津たちも一緒について行き、カウンターに座った司書に返却する本と学生証を差し出す。

 

 「これ、返却お願いします」

 

 そう言って辺杁が差し出した本を、若い司書は受け取った。

 

 「うん?あっ……アリスちゃん?牟児津ちゃんも!」

 「ふへぇ?……あ!オカ研の先輩!」

 「えっ?う、虚須先輩?」

 

 カウンターに座っていたのは、部室で冨良場と話していた虚須だった。昨日と同じように髪をシニヨンにまとめていたが、メガネをかけていたこととスーツだったことで、ずいぶん印象が違っていた。

 

 「どうしたのみんなして!ここ大学部だよ?」

 「あ、あのえっと……ちょっと、本を返しに来ただけで……」

 「そうなんだ。よく来るの?」

 「私はたまに……瓜生田さんはよく使われてるみたいです……」

 

 辺杁は、虚須に『運命辞典』のことは話さなかった。部室でその名前を聞いたときはひどく動揺していたので、牟児津たちも口にはしないようにしていた。それよりも気になるのは、なぜ虚須がここにいるかだ。

 

 「虚須先輩って、確か大学部1年生じゃありませんでした?」

 「うん、そうだよ。学生協働って言って、有志で図書館のお仕事を手伝ってるんだ。私、将来はこういう仕事したいと思ってるから」

 「へえ……ステキですね」

 「ありがとう!まあでも、今は高等部の図書委員と変わらないっぽいけどね。館内の見回りとか、本を戻したり清掃したり、学園中で期限超過してる本のチェックとか」

 「変わらないですね」

 「アリスちゃんは大丈夫かな〜?お、ちゃんと期限守ってるね。感心感心。誰かさんとは違うなあ?」

 「いや私じゃないっつうのに……まあ、いいや。月曜には解決するから」

 

 にやにやしながら見てくる虚須に、牟児津は眉をひそめた。まさかここに来てまでそれを蒸し返されるとは思わなかった。しかしあと少し待てば解決するのだから、いまは辛抱だ。

 

 「はい。それじゃ返却手続きもOKね。ちなみに次に借りたい本はある?」

 「いえ……今のところは」

 「この後は?もうちょっとここにいるの?」

 「少し本を読んで帰ろうかと思います。あの……虚須先輩も、お休みの日までお疲れ様です」

 「あははっ、アリスちゃんこそ、実定頑張ってね。それじゃあみんな、バイバイ」

 「ありがとうございました〜」

 

 明るくて爽やかだ。スーツを着ていても虚須の人柄で堅い印象になっていない。牟児津たちにはそれが、とても大人びてかっこよく見えた。

 その後、瓜生田と辺杁で牟児津と益子に図書館を案内し、益子は数々の記録や文献に目を輝かせていた。辺杁も気になっていた本を読み耽ったり、瓜生田は新しく本を何冊か借りたりした。途中から牟児津はふかふかの椅子に埋まって眠っていた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 図書館を出て、一行は帰宅するため駅に向かった。辺杁と益子、牟児津と瓜生田の二組がそれぞれ反対方向の電車に乗って別れ、家路に着いた。長い一日だったような気がしたが、時刻はまだ夕方である。普段家でごろごろしている牟児津はだらけ足りない気がして、自分用のお菓子カゴからお気に入りのお菓子を一つとって部屋に戻った。

 

 「あー、疲れた。でもおかげで月曜日には万事解決だ」

 

 月曜に辺杁が学園史を持って来て牟児津に返す。それを牟児津が図書室に返却すれば終わる。今回の事件はそれだけで済む話だったのだ。思えばずいぶん遠回りをしたような気がする。『運命辞典』がどうのこうのというのは、そもそも牟児津には無関係な話なのだ。

 

 「……」

 

 それでよかった、何の問題もないはずだ。それなのに、牟児津はなぜか気持ち悪さを抱えていた。午前中に辺杁の家で感じた気持ち悪さと同じだ。何かが引っかかる。何か釈然としない。『運命辞典』のうわさから今に至るまで、ずっと何者かが姿を見せないまま、自分たちを見つめているような気がしてならない。

 辺杁の家に向かう道の奥に。辺杁の部屋の窓に。駅で電車を待つ列の背後に。図書館の雑踏の中に。ありとあらゆる場所で、自分たちの行動が把握されているような。牟児津はずっとそんな不気味さを感じていた。

 

 「うぅ……」

 

 不気味だ。この不気味さの正体をはっきりさせないと。背後に何者かの影が立っているような、言い知れない恐怖が付きまとってくる。後ろを振り返るのもいちいち怯えてしまう。牟児津は、この不気味さを解消することにした。それはつまり、『運命辞典』にまつわる気味の悪い謎を解明することだ。

 早速、牟児津はチャットアプリで瓜生田と益子に電話をかけた。

 

 「もしもし、うりゅに益子ちゃん?急にごめん」

 「ムジツ先輩からかけていただけるなんて珍しい!何かありました?」

 「どしたの?怖くて寝れなくなっちゃった?」

 「子どもか私は!そうじゃなくて、『運命辞典』の話のこと。なんかこのまま月曜日になって本を返しても気持ち悪いから、ちゃんと解決しときたいと思って」

 「ちゃんと解決、というと?」

 

 形を得ない不気味さを解消するには、解消できる具体的な謎を以てその感覚を捉えなければならない。牟児津は、いま最も不気味に感じているそれを言葉にした。

 

 「……“ササカ”の正体を突き止める」



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第4話「ひどい顔してるよ」

 

 「もういいだろう」

 

 短く、冷たい言い方だった。その声は、私が意味を理解するより先に、胸を強く締めつけた。

 

 「もういいって、なにが?」

 「いつまでもオカルトの話ばかりしていたら、みんなに気味悪がられるぞ」

 「……ど、どうして?みんな気持ち悪いなんて思ってないよ」

 

 イヤな感じだった。頭を支配した悪い予感を振り払おうとして声が大きくなる。私の肩に、後ろから手が置かれた。ねっとりとへばり付くようで気持ち悪い。

 

 「いい友達を持ったわね。でも、ありもしない話ばかりしてても、お友達も退屈でしょう?それにね、これからもそんな人ばかりとは限らないのよ」

 「なんで……なんで急にそんなこと言うの……?」

 「もう高2だろ。子どもじゃないんだからしっかりしろ。いつまでもそんな話ばかりしてないで現実のことを考えなさい」

 「そうよ。将来のこととか、きちんと考えているの?」

 

 今まで感じたことのない感覚だった。自分の全てが否定されているような、地面が音を立てて崩れていくような、信頼していたものが失われてしまった……そんな絶望感。

 

 「なんで……?」

 

 言葉を絞り出した。それに引きずられるようにして、湧き上がってくる感情が言葉になって吐き出される。

 

 「なんでそんなこと言うの……!?いきなりそんなこと言われても……分かんないよ……!パパもママも、ずっと私の話聞いてくれてたじゃん!どうして急にそんなこと言うの!?オカルトが好きじゃいけないの!?みんながどう思ってるかじゃないでしょ!?パパとママが気持ち悪いから止めてって言えばいいじゃん!どうして好きな気持ちを否定されなくちゃいけないの!?好きなものを好きって言うのがそんなにいけないこと!?だったら私の気持ちはどうなるのッ!!」

 

 気が付いたら、私は部屋に閉じこもっていた。泣いて、喚いて、怒って、叫んだ。自分の趣味が人と違うことなんて、自分が一番よく分かってる。それでも、二人は私の話を笑って聞いてくれてた。友達だってそうだ。だけど……もし、二人の言うとおりだったら……?友達もみんな、本当は心の中で私のことを気持ち悪いって思ってたら……?

 

 私はただ……オカルトが好きなだけなのに。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 週明けの月曜日が訪れる。牟児津はいつもの朝と同じように、身支度を整えて玄関を出た。普段は重く感じる学園へ向かう足が、今日は輪をかけて重く感じられた。

 土曜の夜、瓜生田と益子と通話しながら啖呵を切った手前、今日は絶対に“ササカ”の正体を暴き、事態を解決させなくてはならない。ここ最近、推理して人を追い詰めるときはその場のテンションで押し通しているが、今回はがっつり組み立てて一晩寝かせた論理をぶつけることになる。準備した分、緊張も一入だった。

 

 「ムジツさん、おはよう。顔青いけど大丈夫?」

 「だ、だだだ、だいじょうぶなわけない……!ああもう、くそっ。なんでこんなこと……!」

 「ムジツさんが言ったんじゃない」

 「そうだけど……普通に月曜日のテンションでやるのは無理がある……!」

 「どっちにしろ、辺杁さんは今日、『運命辞典』を見つけるつもりなんだからダメだよ。冨良場先輩と益子さんも誘って放課後に行くらしいから、それまでの間に心の整理付けとかないとね」

 「うおおお〜〜〜っ!!腹いてぇ〜〜〜っ!!」

 

 極限まで緊張したまま、牟児津は登校した。十年来の幼馴染みである瓜生田でも、なかなかお目にかかれないレベルの緊張だ。さすがに心配になってくるが、朝から電車の中で整腸剤代わりにあんこ飴を食べていたので、心配するのを止めた。こんな人のお腹が痛くなるのは自然の摂理だと思った。

 やがて電車は学園の最寄り駅に到着し、二人は学園に向かう。道中で益子と辺杁に出会った。

 

 「ムジツ先輩!瓜生田さん!おはようございます!」

 「お、おはようございます……!」

 「ああ、二人ともおはよう」

 「お〜〜っす……」

 「ムジツ先輩、具合悪そうですね。緊張ですか?」

 「うん」

 「な、なんの緊張ですか……?」

 「『運命辞典』が見つかると思うと緊張してきちゃったんだって。辺杁さんもそうじゃない?」

 「私は……はい、緊張も少しありますけど、やっぱりわくわくしてきてます。いよいよなんだなって思ったら……」

 

 “ササカ”の正体を暴こうとしていることは、辺杁には隠している。少なくとも辺杁は“ササカ”を信頼しているし、図書準備室が『運命辞典』の在り処だと確信していることも、とどのつまりは“ササカ”への信頼で成り立っている。今ここでその気勢を削ぐことは、あまりにも酷だ。

 

 「いいですか?べーりんは私と冨良場先輩でマークしておきますから、お二人は“ササカ”を突き止めてください。何かあったら連絡します」

 「わあってらい、もう……やるっきゃないんだからやるよ。あ〜、いてて」

 

 牟児津は、半ばやけくそ気味に益子に応えた。辺杁が『運命辞典』にたどり着いた後で何が起きるかは分からない。試練があろうと冨良場と益子に任せるしかない。自分たちはこの事件の終結に向けて動き出してしまっているのだ。

 学園に着くと牟児津は他の三人と別れ、教室に着くなり荷物を置いてトイレに向かった。クラスメイトにひどく心配されたが、細かい話をするのも面倒なので、心配ないとだけ返事をした。ほどなくして授業が始まる。そうなればたちまち時間は過ぎていった。あっという間に昼休みになり、そして放課後が訪れた。

 

 「もう一回確認しますよ」

 

 辺杁が冨良場を呼びに行っているうちに、益子は牟児津たちと今後の動きを打ち合わせる。益子はオカルト研究部二人と『運命辞典』を見つけ、そこで何が起きたかを牟児津たちに知らせる。牟児津たちは“ササカ”の正体を突き止め、辺杁が『運命辞典』を見つけた後に起きるであろう試練について情報を聞き出す。事が終われば辺杁が借りた本を返却して一件落着だ。

 

 「それじゃ、手筈通りに」

 「了解しました!そちらも抜かりなく!」

 

 力強く敬礼した益子は、ぴょうと廊下の向こうへ飛んでいった。牟児津と瓜生田はその後ろ姿を見送った後、“ササカ”のいる教室へ向かった。事前に瓜生田から、放課後に相談があるので残ってほしいと伝えてあった。

 1年生のフロアから階段を上る。ほとんどの生徒が部活に向かった後の閑散とした廊下を進み、その教室の前に着いた。中から人の気配はほとんどしない。おそらく“ササカ”は一人で残っているのだろう。軽くノックし、瓜生田が先に入った。

 

 「失礼します」

 

 教室の中は、やはり人気がなかった。そこにひとり取り残されたように、その人は席に座っていた。待っている時間を潰すためか、教科書とノートを開いてペンを握っている。教室に入ってきた瓜生田に気付いて、ペンを走らせる手が止まった。

 

 「李下。急にどうしたの?」

 「お待たせしてすみません。お時間いただきましてありがとうございます、先輩」

 

 ぬっと教室に入ってくる瓜生田の長身が大きな影を床に落とす。本人の意図しない威圧感に気圧されて、その人は座ったまま少し背を反らせた。

 

 「実は……ご相談っていうのは、ウソなんです。ごめんなさい」

 「ん?」

 

 小さい声がした。困惑の声だ。瓜生田は続けて言う。

 

 「お話があるんです。私じゃなくて、ムジツさんから」

 「──うわッ!?」

 

 瓜生田が手のひらで後ろを指した。途端に背後に気配を感じ上体だけで振り向く。そこには、神妙な顔つきの牟児津が立っていた。気配すら感じなかった存在に驚き、思わず立ち上がった。真っ直ぐに見つめると牟児津が見つめ返してくる。思わず目を逸らした。

 

 「いきなりごめんなさい。ちょっと、話を聞いて欲しくて。私の学生カードで借りられた本が、そのまま持ち去さられた事件……その原因について」

 「げ、原因……?」

 

 怪訝な表情をする目の前の相手を、しかし逃がさないように牟児津は出入口との動線を塞ぐ。後ろには体格で大きく有利な瓜生田がいる。現状、その生徒に逃げ場はなかった。

 

 

 

 「あなたが、“ササカ”なんでしょ?」

 「────ッ!!?」

 

 

 

 始めに、牟児津は結論をぶつけた。それさえ伝えれば、“ササカ”は今の状況を把握できる。自分が追い詰められているという状況を。

 

 「私のカードを使って本を持ち去ったのは、1年生の辺杁有朱っていう子だった。その子は今日、その本を返すつもりなんだけど……他人のカードを使ってまで本を借りた理由とか、いきさつを聞いたよ」

 「……」

 「その子は『運命辞典』を探すために4冊以上の本が必要だったから、カードの不正利用までした。そして4冊以上本を借りる必要があったのは、ある人物から指示があったから。その人は学園の裏サイトで、“ササカ”と名乗ってる。そして──」

 

 “ササカ”は困惑していた。なぜ自分の正体が分かったのか。どうやって知ったのか。それに、牟児津たちがどうするつもりなのか。話し続ける牟児津の一挙手一投足を警戒して、身を強張らせる。

 牟児津は、“ササカ”が平常心に戻ることを待つような気配りはできなかった。昨夜のことを思い出しつつ、授業中何度も反復した言葉を続けなくてはならないのだ。

 

 

 ─────昨夜─────

 

 「……“ササカ”の正体を突き止める」

 

 牟児津の力強い宣言が、電話口の向こうにいた瓜生田と益子を驚かせた。しかしすぐそれに呼応するように、二人も牟児津に続けて声をあげる。

 

 「出たーっ!ムジツ先輩、本格的推理モードですね!そうと決まれば不肖実耶ちゃん、全身全霊でお手伝いいたしますよ!」

 「私も。それじゃあ取りあえず、いま分かってることから整理してみようか?」

 「うん、まず、“ササカ”について分かってること」

 

 牟児津はメモ取りのために広げたルーズリーフに書き込み、それを都度写真に撮ってチャットルームに送っていく。

 

 「学園の裏サイトで『運命辞典』の話や儀式の方法を辺杁ちゃんに話したのが“ササカ”だ。裏サイトを使ってるから、学園生であることは間違いない」

 「もっと言えば、裏サイトを使ってるのは高等部生だけですね。URLとパスワードを知ってるのは工総研だけですし、3年毎に更新してますから」

 「『運命辞典』の話を知ってるのは、辺杁ちゃん以外のオカルト研究部の2人。冨良場さんと虚須さんだ」

 「虚須先輩はOGだから、学園生で言えば冨良場先輩しか該当しないね。でも……冨良場先輩が“ササカ”っていうのは、なんかしっくり来ない気がしない?」

 「うん。実定に書くことが目的なら、わざわざ正体を隠して教える必要がないよね。“ササカ”として辺杁ちゃんに話を吹き込むなら、本人の前で『運命辞典』を知ってるなんて言わない方が絶対にいいし」

 「別人だと印象付けたかったのでは?冨良場先輩は、何らかの理由で自分とは無関係にベーりんを『運命辞典』に導きたかったとか!」

 「それでもやっぱり……自分が『運命辞典』をよく知ってることを敢えて言う意味がないよ。私はむしろ……他の選択肢の方があり得ると思う」

 「他というと?」

 

 ────────────

 

 

 「“ササカ”は、()オカルト研究部員です」

 「──ッ!なっ……なん、で……!?」

 

 “ササカ”が息を呑んだ。その反応が意味するところは明白だった。牟児津はさらに畳みかける。

 

 「辺杁ちゃんも部長さんも言っていました。オカルト研究部はいま、部員が二人しかいないって。でもそれだと、部を名乗れないはずなんです。そういう決まりですから」

 

 

 ────────────

 

 「“ササカ”が元オカ研部員って根拠は……なんか、部の決まりについて益子ちゃんが何か言ってたよね?なんだっけ?」

 

 部の決まりごとについて牟児津に尋ねられた益子が、得意気に答える。

 

 「学園では部の成立要件として、年度当初に部員が3名以上在籍していること、というものがあります。オカ研がいま部として存在しているなら、少なくとも4月には3人以上の部員がいたはずなんです!ベーりんも来年度には同好会落ちしてしまうと言っていましたから、これは確実です」

 「そっかあ。そうなると、その辞めた部員が、“ササカ”として辺杁さんに『運命辞典』の話を吹き込んだってこと?」

 「うん。『運命辞典』は知名度が低いって冨良場さんも言ってたけど、オカ研部員なら知っててもおかしくないでしょ。辞めた手前、面と向かって話すのは気まずいから、裏サイトを使って話したんじゃないかな」

 「でも、辺杁さんは実定に書く活動実績がなくて困ってたからオカルト話を募集したんでしょ?辞めた部のことをそこまで気にするものかな?」

 「……少なくとも“ササカ”は、辺杁ちゃんに『運命辞典』を見つけてもらおうと手を尽くしてたはずだよ」

 

 ────────────

 

 

 「あなたは辺杁ちゃんに『運命辞典』を見つけて欲しかった。だから元部員であることを隠して、裏サイトで“ササカ”を名乗って辺杁ちゃんに『運命辞典』の話を教えた」

 「バカなこと……そんな証拠がどこに──!」

 「私とうりゅが学園史を借りた1年生を探しに行く前日、“ササカ”は辺杁ちゃんに忠告していました。辺杁ちゃんの邪魔をしに来る人がいる、気を付けろって」

 「うっ……!」

 

 反論しようとした“ササカ”の言葉を遮るように、牟児津は推理を述べる。推理は核心に迫ってきていた。この忠告が牟児津たちに知られてしまったことは、“ササカ”にとって想定外だった。この証拠は、決定的と言える。

 

 「私たちが1年生の教室に行くことを前日に知ってたのは、私とうりゅ、それから一緒にいた阿丹部さんと糸氏さんしかいない」

 「だ、だったら……!」

 

 再び牟児津は、“ササカ”の反論を遮った。

 

 

 ────────────

 

 「べーりんに忠告ができたのは阿丹部先輩か糸氏先輩……どちらかが“ササカ”ということですね。目星は付いてるんですか?」

 「う〜ん……二人とも『運命辞典』のことは知らないって言ってたけど、どっちかはウソだったのかな」

 「私たちにベーりんとの内通がバレないように、知らないふりをしたんですね!図書委員にもかかわらず本の持ち去り犯を擁護するとは……!よほどの事情がありそうです!取材のしがいがありますねぃ!」

 「その二人で、最近部を辞めたとか、うりゅ知らない?」

 「ん〜……阿丹部先輩はあんまり自分のことしゃべる人じゃないからなあ。糸氏先輩は普段一緒のシフトになることないし……ごめんね。分かんないや」

 「いやいや!可能性とはいえ、“ササカ”の正体を二人にまで絞れたんですよ!これはすごいことです!もはや解決は目前と言っても良いでしょう!」

 

 もどかしい、と牟児津は呟いた。“ササカ”の行動から、その正体を二人にまで絞れた。元オカルト研究部員ということも分かったが、頼みの瓜生田からその手の情報が得られないのでは、今は役に立たない情報だ。

 

 「でも私には、どっちかが“ササカ”なんて思えないなあ。二人とも真面目に仕事してるよ。糸氏先輩だって私の代わりにカウンターに入ってくれたし、阿丹部先輩も期限超過のチェックとか返却された本の配架とか地味で時間がかかること、積極的にやってくれるし……」

 「甘いですね、瓜生田さん。悪いことしてる人は心理的に、他で良いことをして帳尻を合わせようとするんです。つまり良いことをしている人は裏で悪いことをしてるんです」

 「それ、寺屋成先輩のマネ?真の命題の逆は必ずしも真じゃないよ。数学でやったでしょ」

 「バレましたか」

 「……うりゅ、それホント?」

 

 話の軸がブレにブレた二人の会話に、牟児津が割って入った。電話口の向こうで、瓜生田は少しきょとんとした。そして、口を尖らせつつ言う。

 

 「ムジツさん。論理と集合は1年生の単元だよ。ちゃんと復習しないから定着しないし、こうやって益子さんに騙されそうに──」

 「違う!その前!」

 「え?良いことしてる人は心理的にどうこうって──」

 「もっと前!分かってよ!っていうか分かってるでしょ!」

 「糸氏先輩がカウンター代わってくれたこととか、阿丹部先輩が真面目に仕事してること?」

 「それさ──」

 

 ────────────

 

 

 「辺杁ちゃんに忠告したことだけじゃ、阿丹部さんと糸氏さんのどっちが“ササカ”かは分からなかった。でも、最後のヒントをうりゅが教えてくれた。“ササカ”は辺杁ちゃんが『運命辞典』を見つけることを望んでいた。だから──」

 

 散々シミュレーションしたお陰で、牟児津には“ササカ”の心情がすっかり分かっていた。どんな反論をしてくるか、どう言い逃れをしようとするか。それを封じるように論理を組み上げた。そして最後に、決定的な根拠を加える。要石のように、全ての論理を支える根拠を。

 

 「──だからあなたは、本の返却期限が過ぎてるのを、1度見逃したんだ」

 「ひ──ッ!!」

 

 それはトドメの一撃のように“ササカ”を貫いた。そこまで指摘されることを“ササカ”は全く想定していなかった。バレるはずがなかった。思わず声を漏らしてしまうほど、“ササカ”は動揺した。

 

 「図書委員は毎月1回、期限を過ぎても返却されてない本をチェックするんだってね。この前はうりゅがチェックして、そのとき学園史の返却期限が過ぎてることに気付いた。でも、辺杁ちゃんがあの本を借りたのは3ヶ月前。そうすると、今日までの間に最低2回はチェックに引っかかるはずなんだよ」

 「ううっ……!くっ……!」

 「うりゅが見つけたときが2回目のチェック。その前、つまり先月のチェックの時点で、あの本は返却期限が過ぎてたはずだ。だけどそれを指摘してしまえば、学園史は辺杁ちゃんから没収される。そうなったら『運命辞典』を見つけられなくなる。だから先月のチェックを担当したあなたは、敢えてそれを見逃したんだ!」

 「ううううっ……!」

 

 頭を抱えて苦しそうな声を漏らす“ササカ”は、もはや反論も言い逃れもしようとしない。牟児津が言う根拠を覆す言い訳も思い付かない。逃げ場もない。

 

 「たぶんあなたは、最初から全部分かってたんでしょ!私と図書準備室で会ったときから、学園史は私が借りたんじゃないって!本当に学園史を借りたのが誰なのか。『運命辞典』の話も、辺杁ちゃんの目的も、オカルト研究部のことも!全部!」

 「はぁ……!はぁ……!ま、待って……!」

 「私は、本当のことを教えてほしいだけ。なんでこんなことをしたのか。なんで辺杁ちゃんのためにそこまでするのか……」

 

 牟児津の推理に打ち拉がれて、“ササカ”は浅い呼吸をする。最後に牟児津は、短く名前を呼んだ。

 

 

 

 「ねえ、教えてよ。“ササカ”……いや、阿丹部さん」

 

 

 

 阿丹部はいつの間にか、その場にへたり込んでいた。椅子を掴んで上体を支えるのがやっとだ。牟児津の推理が正しく、もはや誤魔化す気力さえないことが全身に表れていた。

 

 「先輩、ごめんなさい。いきなりでびっくりしましたよね。ひとまず座ってください」

 「あ、あんたたち……!ちょっと……!分かったから……!」

 

 尻餅をついていた阿丹部を、瓜生田が抱え上げて椅子に座らせる。牟児津よりも大きくて重い体を感じながら、落ち着かせるように背中をさすった。

 いきなり追い詰められ、裏で暗躍していた全ての行いを暴かれた挙げ句、優しく扱われるのだから、阿丹部の心境はゴミ箱をひっくり返したように収拾がつかなくなっていた。水を飲み、深呼吸して息を整え、牟児津たちと膝を突き合わせて、ようやく落ち着きを取り戻した。

 

 「あのねぇ……いきなり隠してたこと丸ごと指摘されて全部話せと言われても、何から話していいか分からないっての」

 「ご、ごめんなさい……」

 「ムジツさんは勢いで推理するから、余裕がないんですよ。すみません」

 「勢いの推理で全部当てられた私の立場はどうなるのよ……」

 「重ね重ねすみません」

 「はあ……まあ、うん。でも全部バレてるんだよね。牟児津さんが推理したとおりだわ」

 「本当に阿丹部先輩って、元オカルト研究部だったんですか?初めて聞きましたけど」

 「そういう話題が好きじゃない人もいるから、外では言わないようにしてたのよ」

 

 何か吹っ切れたような、後ろ暗さのない話し方だった。考えてみれば、阿丹部がしたのは“ササカ”として辺杁に噂を吹き込んだことぐらいで、そこに何ら規則違反や不道徳的なことはない。牟児津の学生カードを盗んだのは辺杁が勝手にしたことだし、部を辞めたからと言ってその部員と接触することは全く問題ない。

 だが、牟児津にとってはそう簡単に済む話ではない。自分がこんなことに巻き込まれているのは、結局元をたどれば阿丹部が原因なのだ。なぜそんなことをしたのか、そのせいで自分がどんな目に遭ってるのか、分からせて文句を言いたい。

 

 「でも私は阿丹部さんに文句が言いたい!なんで裏サイトなんか使って辺杁ちゃんに『運命辞典』の話を吹き込んだのか!見つけ方だって、どう考えても貸出上限に引っかかるから一人じゃできないじゃん!その対処法とかも教えてあげりゃいいのに!」

 「それは……」

 「そもそもそんなに辺杁ちゃんに『運命辞典』を見つけて欲しいなら、直接伝えればいい話だ!元部員なんだったら顔見知りなんでしょ!」

 「……直接なんて、無理よ」

 

 阿丹部の表情は、どこか物憂げだった。拒んでいるのではない。諦めているように見えた。

 

 「私、オカ研を辞めてるんだよ?それも、アリスちゃんと月先輩にひどいこと言って。どんな顔してまたオカルトの話なんてすればいいのよ。それにアリスちゃんだって、もう私の言うことなんか聞いてくれないよ」

 「ひどいことって……何かトラブルでもあったんですか?」

 「ううん。二人は何も悪くない。悪いのは私だけ」

 

 肩を落とし、脱力して項垂れる。阿丹部沙兎という存在が儚く消えていくようだった。全てを諦めて空気に溶けていくような、そんな絶望感が伝わってきた。

 

 「私ね、オカルト好きなの、辞めたんだ。家の……両親に、気持ち悪いって言われて」

 「え?」

 「ひどいよね。月先輩もアリスちゃんも関係ないの。ただパパとママが、オカルトなんて趣味気持ち悪いって一回言っただけで……なんか、私の趣味を知ってる友達もみんな、本当は気持ち悪がってるのかなって」

 「そんなことないですよ。うちの学園に限って人の趣味を気持ち悪がる人なんているわけないです」

 「基本お互い様だしなあ」

 「普通に考えたらね。でも……普通じゃなかったのかなあ。なんか、誰も信じられなくなっちゃってさ……だったら、いっそオカルトから離れるのが一番良いのかなって」

 「それで退部を?」

 「うん。でもそのときに、アリスちゃんとちょっと揉めたの。ケンカ別れみたいになっちゃって……でも、オカ研でこれから実定を作るぞってタイミングだったのを後で思い出したの。月先輩は部の形にこだわってないけど、アリスちゃんのこと考えたら、少しでも長く部でいた方がいいと思って……裏サイトで、アドバイスとかしてたんだ」

 「だから直接言うのは無理だと……確かに気まずいですもんね」

 「あの子、なにか言ってた?私のこと」

 「いいえ。訳あって部員が二人しかいないってことしか聞いてなかったです」

 「……それでよく私までたどり着いたよね、あなたたち」

 「はい、ムジツさんはすごいんです」

 

 光のない目、土気色の顔、どこか虚しい薄ら笑いで、阿丹部は語る。部を離れた理由と、“ササカ”として辺杁をサポートしていた理由。阿丹部は阿丹部なりに悩み、苦しんで、ケジメをつけようとしていたのだ。『運命辞典』を教えたわけも、正体を隠していたわけも、話を聞けばすんなり理解できた。大袈裟な真相などなかったのだ。そこには、ごくありふれたトラブルしかなかった。

 

 「でも、辺杁ちゃんが『運命辞典』を見つけても……結局、辺杁ちゃんが阿丹部さんに感謝することはないんじゃない?『運命辞典』の話を教えてくれたのは“ササカ”で、辺杁ちゃんにとって“ササカ”と阿丹部さんは別人なんだから」

 「私は別に、アリスちゃんに感謝されたいわけじゃないから。私が出て行ったことのケジメをきちんと付けてないとと思っただけ。それに……その、手紙も、書いたし」

 「手紙?」

 「謝罪っていうか……ケンカ別れしたままなのは、やっぱりすっきりしないから、せめて謝罪の言葉くらいは伝えようと思って、『運命辞典』に挟んであるんだよね」

 

 不健康な阿丹部の肌に、少しだけ赤みが戻った。どうやら手紙を書いていることを暴露したことに照れているようだ。不本意かつ勝手な理由で部を離れたことに対する謝罪。それは確かに、すべきことだと思える。本人でさえそう思っているのなら、やるべきだ。

 だが、牟児津は納得がいかなかった。この問題に対して牟児津は、どうしても口を挟まずにはいられなかった。

 

 「じゃあ阿丹部さんは……自分の口で言おうとは思わないの?」

 「へ?」

 「辺杁ちゃんにも部長さんにも、自分で直接謝ろうとは思わないのって!」

 

 突然、牟児津は立ち上がった。怒鳴られた阿丹部も、隣にいた瓜生田も、驚いた顔をする。だが牟児津は一切気にしない。推理していたときよりも興奮していた。阿丹部は驚きながらも、質問に答える。

 

 「だ、だから……私はアリスちゃんとはケンカ別れしてるし、オカ研が大変なときに辞めたんだよ?いまさらどんな顔して二人に会えばいいか──」

 「そんなのは阿丹部さんの問題でしょッ!」

 「え……?」

 「どんな顔して会えばいいって、そのまんまの顔で行きゃあいいじゃん!いま阿丹部さん、ひどい顔してるよ!顔色悪いし口は半開きだし、髪はボサボサで目も暗い!ぶっちゃけめっちゃ怖い!怖いけど今のその顔を見せてあげればいいじゃん!阿丹部さんだって阿丹部さんなりに悩んで、苦労して、大変な思いしたんでしょ!?ばっちり顔に出てるよ!」

 「いや……!あの……!」

 「それとも阿丹部さんは二人におめかしして会おうっての!?彼氏か!あの二人は、辛い気持ちを隠して会わなきゃいけないような関係なの!?違うでしょ!阿丹部さんが平気な顔してのこのこ謝りに行ったって、それこそ許してくれるわけないよ!辺杁ちゃんやオカ研のためにめちゃくちゃ色んなことをしてきましたって顔で謝りに行けばいいじゃん!手紙なんかで謝られたって、そんなの阿丹部さんが一方的に気持ちを清算するだけでしょ!自分だけすっきりしようとするなんて卑怯だ!辺杁ちゃんだって阿丹部さんに言いたいことがあるはずだよ!その機会を奪うなよ!そんなことしたら、辺杁ちゃんの気持ちはどうなるの!」

 「……ッ!」

 

 まるで嵐のようだった。次から次へと飛び出てくる言葉の猛攻に、阿丹部は圧倒された。豪速球の正論を立て続けにぶつけられ続けた。そして牟児津に指摘されるまで、阿丹部は全く気付いていなかった。今までの自分の行動が、辺杁の気持ちを一切考えていなかったことに。

 『運命辞典』の話を吹き込んだことも、辺杁を誘導したことも、牟児津の接近を教えたり本の返却期限超過を見逃したりしたことも、全て辺杁のためだと言いつつ、本当はそうではなかった。辺杁が『運命辞典』を見つけて、そこに挟んだ手紙を読んでくれれば、このわだかまりは解消される。そう信じてきた。オカルト研究部のため、辺杁のためとは言っていたが、全ては自分のためだった。

 

 「……」

 「ム、ムジツさん……?どうしたの?そんなに怒る人じゃないでしょ」

 「ごめん!なんか、ホント阿丹部さんには悪いけど、めっちゃムカついた。自分勝手なことしてんのに人のためとかなんとか言って正当化してるの、私ムリだわ!自分のためなら自分のためってはっきり言え!自分が誰のために何をやってんのか、それも分かってないようじゃマジでダメだと思う!」

 「どうどう。それはそう思うけど言い過ぎだよ。阿丹部先輩だってそんなこと──」

 「──ホント、ダメだよ。私は……ダメだ」

 

 なんとかフォローを入れようとした瓜生田の言葉は、阿丹部の湿った声に遮られた。俯いた阿丹部の紫紺色の髪の奥から、キラキラと雫が落ちる。

 

 「……牟児津さんの言うとおりだよ。結局私は……人とぶつかるのが怖いんだ」

 

 依然、牟児津は厳しい表情を崩さない。瓜生田は、はらはらしながら二人の様子を見守っていた。

 

 「私は私の好きなことをするって、両親に胸を張って言うこともできない。オカルト趣味を気持ち悪いと思ってるか、友達に聞くこともできない。勝手な理由で辞めてごめんなさいって、たった一言伝えることもできない……散々アリスちゃんを振り回しておいて、自分だけは救われようとしてる」

 「どうするの?まだ今なら、辺杁ちゃんは冨良場さんと一緒に図書室にいるはずだよ」

 

 牟児津は阿丹部に提示した。おそらくこの機を逃したら、阿丹部がオカ研の二人と和解するチャンスは巡ってこないだろう。未だ踏ん切りが付かない阿丹部は、赤く腫らした目で牟児津に問いかける。

 

 「……行ってあげた方がいいのかなぁ」

 「このまま行かないで終わらせるのはズルいよ」

 「その方が、月先輩もアリスちゃんも喜ぶのかなぁ」

 「喜ばれようなんて思ってちゃダメなんだよ」

 「行けば私は……変われるのかなぁ」

 「私は、阿丹部さんが変わるために行けって言ってるんじゃないよ」

 

 無責任な迷いも、保身めいた覚悟も、なけなしの希望も、牟児津に悉く一蹴される。誰のために、何のために、阿丹部は謝りに行くのか。それを自分で理解しないと、その先の謝罪には意味がこもらない。

 阿丹部はおもむろに立ち上がった。耳や首に下げたアクセサリーが音を立てる。荷物も持たず、ゆっくりと机の間を抜けて、教室の扉に向かって行く。

 

 「私、行くよ。とにかく今は、二人に会って謝らないと意味がない。少なくともそれだけは分かるから……」

 

 走るでもなく、慌てるでもなく、ふらふらした足取りで、阿丹部は教室を出て行った。牟児津と瓜生田は、二人きりになった教室でその姿を見送った。

 

 「大丈夫かなあ」

 「……私、ちょっと言い過ぎた?」

 「そう言ってるじゃん。ていうか急に素面に戻らないでよ。ああびっくりし。ムジツさんが本気で怒ってるとこなんて久し振りに見た」

 「いやこの頃は結構本気で怒ってんだけど?」

 「そういうのじゃなくて、人のために怒ってるとこ。自分のためだったら年中怒ってるよね」

 「年中は怒ってねーよ!」

 

 ともかく、これでひとまずこの一件は落ち着くだろう。阿丹部の謝罪が上手くいくかどうかは分からない。辺杁がそれを許してくれるかも、それは本人たちの問題だ。これで牟児津は本を返してきれいな体になり、巻き込まれた遠因である“ササカ”本人にも言いたいことを言えてスッキリした。後は益子からの連絡を待って辺杁から本を受け取ればいい。

 

 「──おっと、益子ちゃんだ」

 

 牟児津のスマートフォンが震えた。取り出して画面を見れば、益子からの連絡だった。どうやら向こうは『運命辞典』を見つけたらしい。推理と説教に夢中で、いつの間にか結構な時間が経過していることに驚いた。牟児津は画面をタッチして通話を始める。

 

 「もしもし益子ちゃん?おつかれ」

 「あっ!ももも、もしもしもしもし!?ム、ム、ムジツ先輩ですか!?」

 「どったの。そんなお手本みたいに慌てて」

 

 電話口から聞こえた益子の声は、普段の様子からは考えられないほど慌てふためいていた。ただ事ではない様子を察知した牟児津は、すぐさまスピーカーに切り替えて瓜生田にも聞かせた。

 

 「あの、あの大変なんです!大変なんですよう!」

 「落ち着いてよ。何があったの」

 

 

 

 「『運命辞典』が盗まれましたッ!!」

 

 

 

 「………………はあぁ?」

 

 自分はこんなに間抜けな声が出るのか、と牟児津の冷静な部分が感心した。その後も益子は、とにかく図書室まで来てくれと言うばかりで、電話でそれ以上のことは聞けなかった。



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第5話「自分が良いと思ったことをしな」

 

 「『運命辞典』が盗まれましたッ!!」

 

 益子の声が図書準備室に響き渡った。その後、このままでは話にならないと判断した瓜生田によって電話が切られた。牟児津と瓜生田が図書室に来るらしいので、静けさを取り戻した図書準備室で、益子は待った。

 

 「ど、どういうことだ……?そんな、バカな……!」

 「べーりん!どうなってるの!『運命辞典』はここにあるんじゃなかったの!?」

 「……」

 「辺杁君?どうした?」

 

 図書準備室には、益子と辺杁、冨良場の三人がいた。“ササカ”に教えられたとおり、学園史に書かれた図書準備室の指定の棚の指定の場所の前に、三人はいる。普段この部屋に入る図書委員でも滅多に手を触れない棚の最奥部。そこに『運命辞典』はあるはずだった。しかし、ちょうどそこだけ、本が抜き取られていた。何もない空っぽの空間を前にして、益子は慌て、冨良場は狼狽え、辺杁はスマートフォンを見つめていた。

 

 「べーりん?その……えっと、い、いまからムジツ先輩たちが来るから、そしたらひとまず部室に戻って……!」

 「……冨良場部長」

 

 背を向けたまま、不気味なほど落ち着いた声で辺杁は言った。名前を呼ばれた冨良場は、ただならぬ辺杁の様子に背筋が伸びる。

 

 「な、なんだい……?」

 「……“ササカ”って、御存知ですか?」

 「サ、“ササカ”……!?」

 「べ、べーりん?いきなりどうしたの?それは……」

 「私……すごい体験しちゃったかもしれません!」

 「はい?」

 

 てっきり落ち込んでいるのかと思われていた辺杁は、二人の予想と裏腹に目を輝かせて振り返った。予想外の態度を前にして、二人の頭の上でクエスチョンマークが輪になって踊る。辺杁は冨良場に自分のスマートフォンの画面を見せつける。それは、辺杁が“ササカ”から『運命辞典』の話を聞いたスレッドだ。

 

 「これ見てください!私、“ササカ”と話してるんです!部長には言ってなかったんですけど、『運命辞典』の話はこの人から教えてもらいました!」

 「あ、ああ、そうだったのか……じゃあこの“ササカ”っていう人は……」

 「はい!()()()()()()()()()()()()です!」

 「ん?」

 「ど、どゆことべーりん?」

 「これ見てください!」

 

 非常に興奮しているが、辺杁の言葉は要領を得ない。たまらず益子が尋ねると、辺杁は別のスレッドに画面を切り替えて見せてきた。益子がタイトルを読み上げる。

 

 「【交信した人限定】“ササカ”について話し合いましょう〜part4〜……えーっと、なにこれ?」

 「私いままで、この“ササカ”から教えてもらった通りに『運命辞典』を捜して来たんです。でも見つからなかった……そんなもの、存在してなかったんです。初めは混乱しましたけど、もう一回“ササカ”の言ってることを確認しようと思って裏サイトにアクセスしたら、ここに招待されてたんです!」

 「うんうん。それで?」

 「実は“ササカ”は、学園の裏サイトにだけ現れる存在しない生徒だったんです!裏サイトでオカルトや恐怖体験にまつわる話をするスレッドに現れて、架空の七不思議を教えてくるんです!それで、そこから生まれた七不思議をみんなが信じると、本当にその怪異が起きるっていう!でも、“ササカ”の話を信じた誰かがその真偽を確かめると、ウソだと分かってその七不思議も消えちゃうそうで……!だから私、知らない間に“ササカ”が作った『運命辞典』の話を解消してたんです!」

 「情報量多っ。現実と虚構とオカルトのレイヤーを行ったり来たりし過ぎていまいち意味が……」

 「つまり、架空の怪異を産み出す怪異に接触して、偶然それに対処してしまったということかな?」

 「そうです!」

 「おおう、冨良場先輩の理解力すご……ってええ!?“ササカ”は怪異!?いや、“ササカ”はだって……!」

 「この掲示板にはそういう人が集まって、“ササカ”の語った怪異や対処法などについて語り合ってるんです!私、本物の怪異に触れるの初めてです!」

 

 益子は、何がなんだか分からなかった。“ササカ”の正体は阿丹部のはずである。昨日の晩、牟児津がそう推理したのだ。仮に阿丹部でなかったとしても、少なくとも怪異であるはずがない。その証拠に、この学園で最もその手の話に詳しいであろう冨良場も、辺杁の話に怪訝な顔をしている。

 しかし辺杁は『運命辞典』が見つからなかったことで、その怪しげな話をすっかり信じ込んでしまっていた。

 

 「なるほど……ううむ。とにかく辺杁君。君の目的は何かな?」

 「へ。えっと……『運命辞典』を見つける……のは実定のためか。実定を提出することです」

 「そうだね。“ササカ”の話は気になるけれど、それを実定に書くには情報も準備も足りない。取りあえず、次に提出する実定は『運命辞典』について書いておくのがいいんじゃないかな?」

 「そ、そうですね!すみません、私ちょっと、興奮してて……!」

 「まあ仕方ない。はい、部室の鍵を預けるから、一度戻って冷静になってきなさい。ついでに実定の原稿も作っておいてくれたまえ」

 「は、はい!分かりました!」

 

 辺杁に考えさせる隙を与えず質問と指示を出し、冨良場はあっという間に辺杁を落ち着かせて図書準備室から出て行かせた。益子はそれをぽかんと口を開けて見ているだけだった。冨良場は辺杁を見送った後に、ふうとため息を吐いて益子に向き直った。

 

 「見ての通りだ。辺杁君は情熱が人一倍あるのはいいことなんだが……ものを疑うということが苦手な子だ」

 「電子掲示板を使う上で致命的なリテラシーの無さですねぇ……」

 「益子君、きみはこれについてどう思う?」

 「ううん……まず前提なんですが、『運命辞典』は本当にあるんですよね?」

 「ある。確かにここにあったはずだ」

 

 冨良場は断言した。辺杁がいない今、ウソで取り繕う意味はない。つまり『運命辞典』は本当に存在するのだ。

 

 「それがないのは……盗まれたっていうことですよね?」

 「ああ。『運命辞典』と知ってか知らずか、誰かが持ち去ってしまったようだ。そして、狙い澄ましたかのようなタイミングで“ササカ”が七不思議だというスレッド……」

 「そんな七不思議あるんですか?」

 「私は聞いたことがない。仮に本当にそんな七不思議が存在したとしても……その“ササカ”が『運命辞典』の話をすることはないはずだ。なぜなら『運命辞典』は──いや、これは牟児津君たちが到着してから話すとしよう」

 

 意味深な間をおいて、冨良場はそれ以上話すことを止めた。重要そうな情報を前にお預けを食らい、益子は腹が鳴った気がした。冨良場はそのまま、牟児津たちが図書室に駆けつけるまでじっと考え込んでいた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 図書室に来た牟児津と瓜生田は、広いテーブルを確保していた益子と冨良場に合流した。先に図書室に向かったはずの阿丹部は来ていない。おそらく途中で、部室に走って行く辺杁を見つけ、その後を追ったのだろうと考えた。行方の分からない阿丹部より、今は急展開への対処だ。

 

 「“ササカ”が怪異?何言ってんのアンタ」

 「私だってそう思ってるわけじゃないですよ!べーりんがそう言ってたんです!」

 「でも“ササカ”は阿丹部先輩でしょ?本人だってそう言ってたよ」

 「やはりそうだったか……」

 「あっ、部長さん、実はですね。えっと……“ササカ”の正体は元オカ研の阿丹部さんで、『運命辞典』の話も阿丹部さんが……」

 「分かってるよ。阿丹部君が、辺杁君を助けてくれていたんだろう?」

 「え……知ってたんですか?」

 「“ササカ”というのは、昔から阿丹部君が使っていたハンドルネームだ。それに『運命辞典』の話を知っているのは、今の学園内だとほぼオカ研部員しかいない。私が教えてないのに辺杁君が知っていたのなら、阿丹部君以外に教えられる人はいない」

 「じゃ、じゃあ最初に部室にお邪魔したときにはもう?」

 「だいたいのことは分かっていたさ」

 「言ってくださいよ!」

 「言うこともできたが……それは阿丹部君に申し訳なくてね」

 

 冨良場は手刀で小さく詫びた。だが結果的にはそれでよかったのかも知れない。あの場で“ササカ”の正体が阿丹部だとバラしていたら、辺杁はここまで『運命辞典』に深く関わってはいなかったし、阿丹部が一歩踏み出すこともなかっただろう。

 

 「冨良場先輩。結局、『運命辞典』ってなんなんですか?七不思議なのに実在するって……何か曰く付きの本だったりとかするんですか?」

 「……もう、言ってしまってもいいか。いや、言うべきだな」

 

 瓜生田の質問に、冨良場は少しだけ笑った。どこか寂しげで、どこか嬉しげで、その表情の真意は分からない。

 

 「『運命辞典』というのはね……かつてオカルト研究部が創作した噂話なんだ」

 「ええっ!?な、なんですとぉ!?」

 「そもそも高等部に七不思議なんてものはない。大桜や丑三つ鏡などに関する怪談はそれぞれ存在するが、体系的にまとめられたものもないし、七つも存在しない」

 「今なんか別に知らなくてもいい情報が交じってたような」

 「『運命辞典』はね、いわば実験だよ。学校の怪談は、全国どこの学校にも存在する定番の噂だ。その噂がどういった広がり方をするか、時間経過でどれほど広がっていくかを検証するために、数年前のオカルト研究部が創作して広めた怪談だ」

 「社会実験ってわけですね。興味深いです」

 「噂を聞いて、実際に見つける方法を試した人は、本当に『運命辞典』を見つけられるようにした。学園史の本に栞紐を挟んで細工したり、それらしい詩を作ったり、特定の場所に本を仕込んだりして。もちろん、その詳細は代々オカルト研究部員には受け継がれていた。毎年、噂の広がり具合を記録して部の活動とするために。辺杁君にはこれから教えようと思っていたところだったんだけど──まさか阿丹部君に先を越されてしまうとはね」

 「じゃあ、『運命辞典』そのものもオカ研が用意してたんですか?」

 「ああそうさ。と言っても、単に真相と実験の目的、それからその後の協力依頼を書いた小さな冊子だけどね。たどり着いた人が日付と名前を書けるようになっている。そうすれば、どれくらいの人がたどり着いたのか一目瞭然だしね」

 「はえ〜、観光地の駅みたい」

 

 冨良場の語る『運命辞典』の真相に、牟児津は肩透かしを食らった気分だった。自分の運命が分かるとかいうのは、全て怪談や噂としての演出だったのだ。結局は、それを探し、見つけることにこそ意味があった。

 

 「『運命辞典』の話を知っててそれを盗めるのは……阿丹部先輩ですかね?」

 「まさか!阿丹部先輩は辺杁さんとオカルト研究部を守るために……守るっていう目的のために、色々手を尽くしてたんだよ!それを自分で台無しになんてしないって!」

 「加えて、辺杁君に新たに接触した嘘の七不思議を語る人物……裏サイトは同じIPアドレスでは同じハンドルネームしか使えないから、阿丹部君ではないことは確かだ」

 「ううむ……謎ここに深まれり、って感じですねぇ」

 「……そお?」

 

 悩む三人に、牟児津の声が投げ込まれた。三人とも、あまりに気の抜けた牟児津の声に、逆に呆気にとられた。

 

 「な、なんだい?その軽々しい言い方は……私は、かなり重大な事態だと思っているんだが」

 「いえあの、すいません。でも、犯人なんて決まってるじゃないですか」

 「え!?ほ、ほ、ほんとうですかムジツ先輩!?そんなスピード解決なんてあります!?」

 「だって、どう考えても『運命辞典』を盗める人なんて限られてるし……あとたぶん、さっき辺杁ちゃんを招待したっていう人、その人が犯人ですよ」

 「それは……タイミング的にそうかなって思うけど、でもそんな確証ある?」

 「うん。取りあえず……うりゅと益子ちゃん、一緒に行く?」

 「ど、どこに……?」

 「犯人のとこ」

 「そんなコンビニみたいに……行くけど」

 

 まるで瓜生田たちの方が察しが悪い、と言わんばかりの態度で、牟児津はすっと席を立った。瓜生田と益子は指示されるまま牟児津と一緒に席を立ち、残された冨良場に牟児津が言った。

 

 「部長さん。たぶん今頃、阿丹部さんと辺杁ちゃんがぶつかってるころだと思います。このままだと大変なことになると思うので、なんとか取り持ってください」

 「い、いや牟児津君、あの……」

 「それじゃ、なるべく急ぎますから!よろしくお願いします!」

 

 今、阿丹部は“ササカ”としての行いや退部したことについて、辺杁に謝罪しようと部室に向かっている。辺杁は“ササカ”という新しい七不思議の登場に興奮して、部室で実定の原稿作成に勤しんでいる。ただでさえケンカ別れしたこの二人がぶつかれば、混乱と関係の悪化は避けられない。部長としてそれは見過ごせない。冨良場はため息交じりにぼやいた。

 

 「私はこんな役回りばかりか……」

 

 とうとう部員でもない後輩にまで無茶振りをされて、自嘲気味に笑った。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 ついて行くる瓜生田と益子などお構いなしに、牟児津はずんずん歩いていく。校門を出て高等部の敷地の外に出ると、普段の下校路とは逆に坂道を登っていき、敷地を挟んだ裏手側にぐるりと回りこんだ。

 

 「ねえムジツさん。この道がどこに続いてるか分かってる?」

 「分かってるよ」

 「こっちに犯人がいるっていうことは、正直私にはひとりしか浮かんでないんですが……」

 「うん。考えてるとおりだよ」

 

 歩きながら瓜生田と益子が牟児津に質問し、牟児津はさらに先を歩きながら答える。そして夕方で人の出入りが活発になりつつある正門にたどり着き、牟児津は断言した。

 

 

 

 「『運命辞典』を盗んだのは虚須さんだ」

 

 

 

 高等部の制服を着たままなので、大学生の中ではよく目立つ。しかし牟児津はそれすら気にせず、下校しようとする人の流れに逆らって構内に入っていく。あまりに注目を浴びるので、瓜生田と益子の方が俯いてしまうくらいだ。

 

 「ム、ムジツさん!ちょっと、速いよ!目立ってるって!」

 「んなこと言ってられないよ。辺杁ちゃんと阿丹部さんが仲直りするチャンスは、今しかないんだから」

 「うひょ〜!まさかとうとう大学部にまで入り込むとは!ムジツ先輩、一生ついて行きます!」

 「面白がってる場合じゃないと思うけど……」

 「うりゅ。図書館ってどっちだっけ?」

 「覚えてないなら先に行かないでよ……案内するから、教えて」

 「何を?」

 「なんで虚須先輩が犯人って言えるのか」

 

 大きな道の真ん中で進むべき方向を失った牟児津は、真剣な表情のまま瓜生田に案内を頼む。瓜生田も、牟児津のいまいちしまらないところにはもう慣れているので、すぐさま牟児津の手を引いて歩きだした。

 

 「虚須さんは去年までオカ研にいたんだから、『運命辞典』の真相は知ってるはず。大学部生でも警備室を通れば高等部には入れるし、高等部の図書室は土日も開放されてるから、たぶん休みのうちに盗んだんだと思う」

 「なんで虚須先輩がそんなことするの」

 「……理由は分からない。でも狙ったように裏サイトでウソの七不思議を吹き込むなんて、辺杁ちゃんの行動を知ってないとできない。私たちはやってないし、部長さんはその場にいたから、スマホをいじったらすぐに分かる。阿丹部さんは“ササカ”でしか書き込みができないから、当てはまるのは虚須さんだけだ」

 「で、でも裏サイトは高等部生しか書き込めないはずでは!?虚須先輩は大学部生ですよ!」

 「パスワードは3年に1回変更されるんでしょ。そしたら、大学部生だって最高で3年生までは使えるじゃん」

 「……あっ、ホントですね」

 「後で工総研に教えてあげないとだね。そういうのは毎年変えなきゃ」

 

 瓜生田の案内でいくつかの建物の間を抜け、ガラス張りの図書館までたどり着く。帰りに本を借りようとして詰めかけた大学部生の波で、入口の改札ゲートはひどく混んでいた。

 

 「でもムジツ先輩。確かに虚須先輩は怪しいですが、裏サイトの書き込みは決定的な証拠たりえないのでは?結局のところ誰が書き込んだのかは分からないです」

 「他にも証拠はあるよ。昨日の晩、“ササカ”が阿丹部さんだっていう根拠をうりゅに聞いたでしょ」

 「毎月の未返却チェックのこと?」

 「うん。この前ここに来たときに、虚須さんが言ってたでしょ。大学部では学園全体の本をチェックしてるって。それなら──」

 「──虚須先輩もムジツさんの期限超過を見過ごしている……!それも先月と今月の二度……!」

 「学園史が『運命辞典』を捜すのに必要だっていうのは分かってたはずだから、たぶん虚須さんも気付いてたんだよ。誰かが『運命辞典』を捜してることに」

 「なるほど!」

 「あっ……だからか!」

 

 瓜生田が声を上げた。

 

 「オカ研の部室で虚須先輩にお会いしたとき、初対面のはずなのにムジツさんを知ってたみたいだったの……!チェック画面でムジツさんの名前を見てたからだったんだ!」

 「なあんだ。大学部まで名前が轟いてたわけじゃないんですね」

 

 ようやく列が進んで、三人は学生カードをかざして改札を通る。中に入ると雑踏は足元のマットに吸収されて、途端に静かになった。牟児津は返却カウンターの方へ足早に近寄り、虚須の姿を探す。

 いた。今日もカウンターで利用者の対応をしている。牟児津は整理券を取り、前に並んだ利用者たちを虚須がさばくのを待った。順番が回ってくる少し前に、虚須には気付かれていたようだ。にこやかに手を振る虚須に、牟児津はどういう顔を返せばいいものか悩み、微妙な顔をして待っていた。そしてようやく、牟児津たちの番号が呼ばれた。

 

 「やあ三人とも。どうしたの今日は」

 「虚須さん、今すぐオカ研に行って謝ってください。『運命辞典』を返してください。阿丹部さんと辺杁ちゃんが仲直りするには、これが最後のチャンスなんです」

 「………………へぇ?」

 「いやいやムジツさん!いくらなんでもいきなり過ぎだよ!」

 「さっき順を追って説明できてたじゃないですか!相手が犯人だからって結論でぶっ叩けばいいわけじゃないんですよ!」

 「え?あっ、えっと……は、犯人?『運命辞典』って……え、なんで?なんで知ってんの……?仲直りって……?」

 「あのっ、すみません!ちゃんと説明します!」

 

 瓜生田も益子も忘れていたが、牟児津は冷静かつ論理的に思考しているように見えるときほど余裕がない。人の視線が苦手で目立つことを嫌っているのに大学部生の中を突っ切ってこられたのは、それを気にする余裕すらなかったからだ。虚須を前にした牟児津は、これまで話した推理を前提にした結論をいきなりぶつけるから、犯人である虚須にとってはひどく不親切だった。

 きょとんとする虚須に、瓜生田と益子が慌てて頭を下げて、再度説明する。牟児津がいかにして虚須を犯人だと特定したか。阿丹部と辺杁に何があったか。オカルト研究部でいま何が起きているか。自分たちが何のためにここに来たか。全てを。

 

 「──というわけで、虚須先輩が『運命辞典』を持って行かないと、オカ研は今度こそおしまいなんです!実定どころか、壊滅しちゃうんです!それでもいいんですか!」

 「……うそ。あの手紙……そんな大事なものだったの……!?う、うちはてっきりサトちゃんのいたずらか何かだと……」

 「阿丹部先輩が退部されたの、御存知なかったんですか?」

 「この前いなかったのは気になったけど、まさか辞めてるなんて……え?じゃあ、もしこのままアリスちゃんとサトちゃんが仲直りできなかったら……オカ研は……?」

 「おそらく、消滅でしょうね。来年同好会になっても辺杁さんは続けるでしょうが、1人の同好会が3年以上続くことはありません」

 「……!」

 

 二人の説明を聞き、虚須はみるみる顔が青くなっていった。そこでようやく虚須は、自分のしたことの重大さを認識したらしい。少しだけ虚須は葛藤したようだったが、すぐに近くの図書館司書に体調が悪いと言って仕事を切り上げた。

 『運命辞典』はカバンに入れてあり、挟んである阿丹部の手紙もそのままらしい。阿丹部たちがいる場所を確認すると、虚須は牟児津たちがついて行けないほどのスピードで駆けだした。牟児津たちは、来た時と同じように瓜生田に案内されつつその後を追った。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 オカルト研究部の部室は、痛いほどの緊張感に包まれていた。部屋の隅にある机には、書きかけの活動実績定期報告書がある。その前に座る辺杁は、部室の入口に立つ阿丹部に冷たい視線を向けていた。

 阿丹部はやっとの思いで部室までたどり着いた。そのせいか、あるいは緊張で落ち着かないのか、浅く短い呼吸を繰り返している。その隣には、牟児津から無茶を言われて部室に急行した冨良場がいた。にらみ合う二人の間に立って、どう仲を取り持ったものか考えあぐねている。

 先に口を開いたのは、辺杁だった。

 

 「何の用ですか」

 「あ、あの……その……『運命辞典』の、ことなんだけど……」

 「は?」

 「ご、ごめんなさい!あのっ、“ササカ”は私なの!私が、辺杁ちゃんに『運命辞典』を見つけてほしくて……!」

 「……何言ってんですか?あなたが“ササカ”?意味が分かりません」

 「い、いや辺杁君!“ササカ”は──!」

 「部長と私にあんなこと言っておいて、よく顔を出せましたね。オカルトなんてバカみたいなこと、もう辞めるんじゃなかったんですか?今さら来て、“ササカ”がどうとか『運命辞典』がどうとか、ありもしない話で誤魔化すつもりですか?神経を疑います」

 「あ、ありもしない、話って……?」

 「あなたは“ササカ”じゃありません。『運命辞典』も実在しません。帰ってください」

 

 いま、辺杁と阿丹部には決定的な認識の齟齬がある。阿丹部は、辺杁が『運命辞典』を手に入れたと思っている。まさか盗まれたなど夢にも思っていない。一方の辺杁は、『運命辞典』は架空の七不思議で、“ササカ”こそが七不思議のひとつだと思っている。“ササカ”がオカルト上の存在である限り、今回の話に阿丹部が関与する余地はない。辺杁にとって阿丹部の訪問は、何の脈絡もないことなのだ。

 

 「ち、違うんだ辺杁君。阿丹部君は決してそんなつもりで言ってるんじゃあない。それに君は大きな勘違いをしている」

 「冨良場部長だって同じようなものじゃないですか。『運命辞典』なんて話、本当はないのに、私に気を遣って知ってる風を装ったんですよね?この人と一緒になって私をバカにしてたんじゃないですか?」

 「ちょ、ちょっとアリスちゃん!月先輩まで疑うの!?私のことはいいけど、月先輩はそんなことする人じゃないでしょ!」

 「偉そうにしないでください!もうあなたはオカ研じゃないんです!」

 「落ち着きたまえよ君たち。まずお互いの認識をすり合わせないことにはどうにもこうにも──」

 「私は!ただ──!」

 

 謝りたい。勝手に退部したこと。二人の好きなオカルトを侮辱したこと。辺杁を騙していたこと。独り善がりで卑怯な謝罪をしてしまったこと。全てを、ただ謝りたいだけだった。言い合いになることなんて望んでいない。喉につかえた謝罪の言葉を、阿丹部はなんとかして吐き出そうとする。少しずつ、少しずつ言葉にする。

 

 「ただ……!あ、ああ……!ご、ご、ごめ──!」

 

 

 

 「みんなごめえええええええええええええええんっ!!!」

 

 

 

 狭い部室に、謝罪の言葉が轟いた。勢いよく開かれたドアの向こうから、雷のように空気を震わせる力強い声が部屋に飛び込んできた。

 自分の言葉ではない謝罪。突然飛び込んできた謝罪。思いがけない人物からの謝罪。その場にいた三人全員、誰の発言かを理解するのに時間がかかった。スーツ姿のまま汗だくで呼吸を乱した虚須が、さらに畳みかける。

 

 「アリスちゃんごめん!『運命辞典』を盗んだの私なの!裏サイトで“ササカ”のスレに招待したのも私!でもあれはウソなの!“ササカ”なんて七不思議はなくて、私が自分のしたことを誤魔化すために作った話なの!」

 「え……えっ……?」

 「サトちゃんごめん!私、“ササカ”の名前も『運命辞典』もあなたから奪った!サトちゃんがどれだけ悩んでるか、どれだけ苦しかったか全然知らなくて……とんでもないことしちゃった!これ、本物の『運命辞典』!ちゃんと手紙もあるから!本当にごめん!」

 「えっ、あの……み、美珠先輩……?なんで……?」

 「ツキちゃんごめん!オカ研がこんなことになってるなんて知らなかったから、部長だからってツキちゃんに全部任せてムチャ振りして、しかも私が自分勝手にそれを引っ掻き回して……私、最低な先輩だ!」

 「いやあの……えっと、先輩が……えぇ?」

 「サトちゃんもアリスちゃんもケンカしないで!サトちゃんはただ謝りたいだけなの!アリスちゃんだって本当はサトちゃんのことを待ってたの!ほんっと!私が余計なことしたからめちゃくちゃになっちゃってるだけなの!みんな本当ごめん!!」

 

 一息で言い切ると、虚須は肺の空気を全て出し切ったように、しおしおとその場に崩れ落ちた。ぜぇぜぇ濁った深呼吸をする虚須を前にして、オカルト研究部の面々は一人残らず──

 

 「……ひぇ」

 「えぇ……?」

 「ど、どゆこと……ですか……?」

 

 ──ドン引きしていた。準備も前提も心構えもなく嵐のような謝罪を受けると、人はただ引くことしかできないのだった。

 いち早く我に返ったのは阿丹部だった。虚須のハチャメチャさは阿丹部も知るところであり、それに付き合うより自分の目的を達成するのが先決だと判断した。改めて辺杁に向き直り、まだ虚須に目を奪われている辺杁に近づいて、正面に立った。

 

 「……!」

 

 それに気付いた辺杁と目が合う。人の目を見ると緊張する。反射的に逸らしてしまいそうになるのをぐっとこらえ、阿丹部はそのまま深く頭を下げた。

 

 「アリスちゃん。本当に、ごめんなさい」

 

 雷雨のような虚須の謝罪とは違う。深く、鋭く、辺杁の胸に刺さっていくような、ストレートな謝罪。だからこそ、混乱していた辺杁の頭にも染み込んでいった。

 

 「退部するとき、二人にひどいことを言ったの、すごく後悔してる。私が人と向き合おうとしなかったから……自分の言いたいことを言う勇気がなかったから……心にもないことを言って二人を傷つけた。しかもそれを、手紙なんかで謝ろうとした。アリスちゃんの気持ちを考えようとしないで、自分だけすっきりしようとしてた。本当に、ごめんなさい」

 

 言おうとしても言えなかった言葉が、今は流れる様に出てくる。自分より慌てている人間を見て冷静になったせいだろうか。阿丹部は言いたいことを言えた。一番伝えたいことを、一番伝えたい相手に。

 それを正面から受けた辺杁は、阿丹部の頭を見ていた。手紙が何のことかは分からない。さっき虚須がそんなことを言っていたような気がする。しかしそれより前に、退部するときのあの言葉は、阿丹部の本心ではなかった。阿丹部はずっとそれを後悔していた。オカルトが──オカルト研究部が嫌いになったわけではなかった。

 

 「……なんですか、それ」

 

 辺杁の声がした。阿丹部が頭を上げる。そこには、目から大粒の涙をこぼす辺杁がいた。眼鏡に落ちた涙が滑り落ちて、膝の上で固く握った拳に降っていく。

 

 「さ、さと、さとせんぱいは……オカルトが、きらいになったんじゃ……!私たちが……気持ちわるいからやめたんじゃ……ないん、ですね……!」

 

 泣きながら、途切れ途切れになりながら、辺杁が言葉をこぼす。嬉しさ、後悔、安堵が混ざった気持ちを吐き出す。阿丹部は、再び強く頭を下げた。

 辺杁も同じだったのだ。オカルト趣味を周りから気味悪がられることに怯えていた。他の誰でもない、阿丹部自身がそう思わせてしまっていた。ますます阿丹部の後悔の念は強くなった。同時に、辺杁と同じ気持ちを分かち合えたことに感極まっていた

 

 「ごめん……!ごめんね……アリスちゃん……!」

 「はい……!わ、わたし、でも、さとせんぱいが……かえってくるかもって……ちょっと、だけ、思ってました……。ごめんなさい……!来て、くれたとき……さと、せんぱいが、ここに来たの、すごく……う、うれしかったのに……!」

 

 互いに謝る二人のわだかまりは、熱い涙でゆるやかに溶けていった。人と向き合うことができなかったばかりに、自分の言いたいことを素直に言えなかったばかりに、二人は辛く険しい遠回りをしてしまっていた。二人の行く道はこのときようやく、再び交わった。

 

 「ぐすん……。いいわね、青春って感じで」

 「美珠先輩。牟児津君たちに言われてここに来たんでしょう。後で詳しいお話を聞かせてもらいます。まあ、美珠先輩がめちゃくちゃで余計なことをするのは昔からなので、わたしは慣れっこです。けど、二人にはまたきちんと謝ってくださいね」

 「はい……」

 「それと……わたしも今回のことで、部の在り方を考え直しました」

 「うん?」

 「わたしたちに必要なのは部室じゃないってことです。元部長の前でこんなことを言うのは申し訳ないですが……」

 「……いいよ。今はツキちゃんたちの世代だもん。生徒の好きにやるのが伊之泉杜学園(ここ)の校是でしょ。自分が良いと思ったことをしな」

 「はい。ありがとうございます」

 

 抱き合う二人を見ながら、冨良場は決意した。前々から考えてはいたことだ。これが良い契機かもしれない。

 斯くして、オカルト研究部四代と図書委員の一部を巻き込んだ、『図書館蔵書持ち去り事件』は決着した。牟児津たちが部室に戻ってくるころには、オカルト研究部全員が、この事件の全ての真相を知り、互いの行いについて謝罪し、許しあった後だった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津はゴキゲンだった。机の上には、高級そうなお菓子の缶と甘ったるいミルクコーヒーの2Lボトルがあった。缶の中は、ラングドシャやフィナンシェ、カップケーキに焼きメレンゲなどが詰まっている。そのどれもが小豆色に染まり、彩られている。

 

 「よかったねえ、ムジツさん。しばらくお菓子に困らないね」

 「いや〜、こんなにもらっちゃうとなんか悪い気がしてくるなあ。っていうか調子に乗って結構な無茶言ったのに、完璧に応えてくれるとか、辺杁ちゃんのお母さんマジ神だわ」

 「それくらいムジツ先輩に感謝してるってことですよ。むしろムジツ先輩はこれをドンと受け取るくらいの度量がないといけません!」

 

 食べるどころか持ち帰るのも骨が折れそうな大量のお菓子と飲み物は、どちらも辺杁が牟児津に感謝の印として渡したものだった。オカルト研究部の事件から一夜明け、解決に大きく寄与した牟児津への感謝の証として、辺杁が母に頼んで作ってもらったものだそうだ。辺杁の情熱もさることながら、娘のために一晩でこれを用意してしまえる辺杁母もすごい。

 

 「そういえば、阿丹部先輩から聞いたんだけどね。オカ研、同好会にするんだって」

 「えっ!?そうなんですか!?せっかく実定のネタもできて阿丹部先輩も部に戻って、これからってときなのに!」

 「部の形が残ってると三人ともそこにこだわっちゃって、自分が本当にやりたいことにブレーキかけちゃうと思ったんだって。同好会なら実定の基準も緩いし、人数制限もないし、好きにオカルト談議ができるだろうって」

 「結局、必要なのは部室じゃなくてみんなで集まれる場所ってワケか。そんならどこでもいいもんね」

 「うぬぬ……!学園の部会のほとんどが、喉から千手観音が出るほど欲しい部室を手放してしまうとは……!もったいない!」

 「あんたんとこは立派な部室あるんだからいいでしょ」

 「そろそろ手狭になってきたので、新聞部の倉庫にでもできないものでしょうか」

 「そっちの方がもったいないよ」

 

 牟児津は早速、辺杁母の手作りお菓子をほおばりながら甘いミルクコーヒーで流し込んでいく。部に所属したことがない牟児津には、冨良場の決断がどれほどの意味を持つかは分からない。だが、オカルト研究部にとって良い道を選んだのなら、それは結構なことである。瓜生田の話では、阿丹部もあれから両親と話し合うことができたようで、牟児津に感謝しているようだ。それを聞くだけで牟児津は、勢い説教してしまった昨日の自分に少しだけ自信が持てるような気がした。

 

 「あと虚須先輩。やっぱり『運命辞典』のことレポートに書くんだって」

 「あっそ。なんでもいいけど、大学生って大変なんだなあ」

 

 牟児津の推理で唯一曖昧なままになっていた、虚須が『運命辞典』を盗んだ動機についても、昨日の時点で決着がついていた。

 虚須は大学に提出するレポートで、オカルト研究部で社会実験を行っていた『運命辞典』について書こうと考えていた。しかしオカルト研究部に顔を出した日に、辺杁が『運命辞典』を見つけた暁には実定に書こうとしていることを知り、真相が明るみになって七不思議としての『運命辞典』が失われてしまうことを避けるために犯行に及んだ。

 レポートを書いたら本は戻すつもりだったらしいが、いずれオカルト研究部を担っていくだろう辺杁が『運命辞典』の真相を知らなければ、実験が立ち消えになってしまうというところまで考えが至らなかったのだという。つくづく浅はかなことをしたと、虚須は深く反省していた。

 

 「そこまでしないとレポートのネタがないって、大学であの人なんの勉強してんの?」

 「学生協働とかもあって忙しかったから、余裕がなかったんだよきっと」

 「結局のところ、『運命辞典』も“ササカ”も、架空の七不思議だったわけですか……本当にうちに七不思議なんてあるんですかねえ?」

 「いいよそんなの、なくて」

 「あ、七不思議かどうかは分からないけど、この前の件で思い出した話ならあるよ。ムジツさん、大桜の下に何が埋まってるか知ってる?実はね──」

 「わああああああっ!!!やめいやめいやめい!!!聞きたくないーーーっ!!」

 「ムジ先輩ビビりすぎですって……もむ。おいしいですねこれ!」

 「もぐもぐ。辺杁さんのお母さんすごーい!私も頼めばよかった!それでえっと、どこまで話したっけ?あ、そうそう。真夜中に大桜の下で校歌を歌うと──」

 「あああ食われてる!でも耳外したら怖い!食われてる!怖い!食われてる!うりゅ食い過ぎ!」

 

 ぎゃいぎゃい騒ぎながらも、牟児津は目の前で摘まれていくお菓子をただ眺めることしかできなかった。事件を解決したお礼の菓子が減るにつれて、この日のことも牟児津の中では思い出となっていくのだろう。小さな自信と新しい友を得た、美しい思い出として──

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 ──などという風に終わりはしなかった。しばらくの後、この事件を発端に牟児津は、学園のほぼ全てを敵に回すことになるのだが、それはまた別のお話。



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その6:“蒼海ノア”降板事件
第1話「じゃあ真白さんですね」


 

 「あれ、真白さん。残ってお勉強ですか」

 

 ある放課後、葛飾(かつしか) こまりは、珍しく居残り勉強をしている牟児津(むじつ) 真白(ましろ)を見つけた。牟児津は眉をこれでもかというくらいにひそめて、赤いシートを被せた単語帳を睨みつけていた。二つに結んだざくろ色の髪をガシガシかいて、うんざりしながら答える。

 

 「うりゅが委員会だから、終わるまで英単語の勉強しててだって。そろそろ単語テストに合格しないと、お母さんに言いつけるって」

 「ははあ、それで。瓜生田さんはしっかりしてますね」

 「いやひどくない?お母さんにチクられたらマジでヤバいよ。塩瀬庵の新作お菓子もあるってのに!」

 

 牟児津はカバンからチラシを取り出して、葛飾の鼻先に突きつけた。一面にでかでかと掲載されているのは、食欲をそそる黄金色に輝く饅頭だ。くどいほどの広告装飾と宣伝文句が散りばめられて、商品を押し出そうという商魂を強く感じる。

 

 「わっ、金ぴか」

 「期間限定・数量限定の黄金饅頭!去年はお小遣いなくて買えなかったんだよね。一年待ったんだから!こんなん食べなきゃウソでしょ!」

 「美味しそうですねぇ。でも、もう発売されてますよ。間に合うんですか?」

 「次のお小遣い日ならギリ。開店ダッシュすればいける、はず!」

 「そのためには単語テストで合格点を取らないといけないと」

 「マジでさぁ……本当に、今のままじゃ小遣いカットじゃ済まないかも。返上まである勢いだよ」

 「自分でそう思うってことはよっぽどですね。ちなみに先週の単語テストは20点中何点だったんですか」

 

 牟児津は人さし指を一本立てた。

 

 「さすがに0点じゃなかったんですね」

 

 まあ範囲も20単語でしたけど、と言いそうになったのを、葛飾はすんでのところで堪えた。

 

 「全部同じの書いたら1個当たった」

 「実質0点じゃないですか。むしろよく丸もらえましたね」

 

 いくらなんでもひどすぎる。が、それも仕方ないと言えば仕方ないのかも知れない。牟児津は、この学園で起きる色々な事件に、なぜかやたらと巻き込まれる。葛飾が知っているだけでも3つの事件で容疑者になり、その全てを解決して自らの疑いを晴らしてきた。いずれもその日のうちに解決したものの、近頃は休みの日まで事件解決のために奔走しているらしいから、単語テストの勉強どころではないのだろう。

 それでも、牟児津と一緒に事件に巻き込まれている1年生の瓜生田(うりゅうだ) 李下(りか)は、聞いた話では学年トップクラスの成績を維持しているらしい。それを考えると、単純に牟児津が勉強を怠けているだけなのかもしれない。

 

 「瓜生田さんの委員会が終わるまで勉強してれば、少なくとも実力で1点は取れるようになりますよ」

 「こまりちゃん。さすがに志が低過ぎる」

 

 本当は1点も取れる気がしていないのを、せめて希望が持てるように盛ったつもりだった。志が低いとは言うが、単語の勉強をしながら菓子を食べている姿からは、いまいち本気さが伝わらない。

 牟児津の今日のおやつは、チラシに乗っていた黄金色の饅頭とは似ても似つかない、焼き印の入った一口サイズの団子だ。それを、1ページめくるごとに食べている。見開き1ページの単語を覚えるのにどれだけ糖分を必要としているのか。

 

 「なに食べてるんですか?」

 「これはやっすい黒糖団子。30個入り200円(税別)」

 「ひとつ頂いても良いですか?」

 「いいよ」

 「ありがとうございます。はもぅ……あ、おいしい」

 

 口に放り込むと、ほんのり黒糖のまろやかな甘みを感じた。値段の割に美味しい。確かに、食べれば勉強を頑張れろうと思えるくらい、優しい甘さに溢れていた。しかし牟児津の進捗は芳しくないようだ。そんな絶望的な状況を打ち砕くように、牟児津のスマートフォンが震えて音を立てた。瓜生田からの連絡だった。まだ終わるには早いが、暇なので図書室で一緒に勉強しようという誘いだった。

 

 「ゆるいですねえ、図書委員。いいなあ」

 「風紀委員はこういうのとは真逆っだよね」

 「本当ですよ。今の委員長は特に厳しいですから、命令には絶対服従です。逆らえません」

 「同情するよ。じゃ、私は図書室行くわ」

 

 牟児津は荷物を持って教室を出た。まだ部活が始まったばかりで、グラウンドからは活気のある声が聞こえてくる。空き教室では、部室を持たない部や同好会が自由に活動していて、廊下を歩いているだけで文化祭のような賑やかさだ。

 教室棟から渡り廊下を通って、特別教室棟に移る。瓜生田が待つ図書室や職員室など、教室以外の学園生活に必要な部屋が集まった建物だ。牟児津がいる階には、生徒会室や各委員会の執務室などがある。

 

 「イットサウンズほにゃらら……ほにゃららに聞こえる。イットルックスほにゃらら……ほにゃららに見える」

 

 牟児津は図書室までの時間も無駄にすまいと、単語帳を見ながら歩いていた。さながら二宮金次郎である。のろのろ歩いていた牟児津の前方で、扉の開く音がした。生徒会室しかないこの場所で扉が開くのが珍しく、牟児津はつい前方を見て、思わず足を止めた。

 生徒会室から現れたのは、美しい金髪を首の後ろで結んでまとめ、細い足がスカートの下から床まですらりと伸びるスタイルの良い生徒だった。ナイフで切ったような鋭い目と全身にまとうオーラが、全方位に威圧感を放っている。伊之泉杜学園風紀委員長にして牟児津の天敵、川路(かわじ) 利佳(としよ)その人であった。

 

 「あヒ……」

 「んっ?」

 

 川路が牟児津に流し目をくれる。全身の血流が止まったような気がした。学園生の中にはこれで興奮する人もいるらしい。奇特な趣味を持つ人がいるものだ。牟児津には心臓が破裂するようにも、硬直して停止するようにも、いずれにせよ体に悪い影響しか感じない。その眼に捉えられた牟児津は、しかしいくらか落ち着いていた。今日はまだ何もしていない。何もしなければ川路が追いかけてくることはない。刺激せず落ち着いて対処すれば危険はないはずだ。

 

 「あっ……す……」

 

 そうして牟児津は、野猿と同じ対処法で川路をやり過ごそうとした。通り過ぎざまに軽く会釈をして、そそくさとその場を立ち去ろうとする。が、

 

 「おい待て」

 

 呼吸を止めて一秒。川路は真剣な眼をした。そこから何も言えなくなった牟児津。次の瞬間──。

 

 「待て牟児津!!待てえええっ!!!」

 「ぎゃああああああっ!!!なんで!!?なんで追っかけてくるのォオオオオオオッ!!?」

 

 牟児津と川路は同じ方向に全力で駆け出していた。

 

 「逃げるな!!話を聞けっ!!聞かんかあああっ!!!」

 「ど゛う゛し゛て゛な゛ん゛だ゛よ゛お゛お゛お゛!゛!゛!゛」

 

 絶叫しながら牟児津は逃げた。すさまじい足音を轟かせ、二人は廊下の奥へと消えていってしまった。

 

 「あら……利佳さんがお叫びになっていらっしゃいますわ。どうなさったのでしょう?」

 「ムジツって聞こえたぞ。さっき言ってたムジツじゃねえか?」

 「ふうん……あはっ!She looks interesting(おもしろそうね)!」

 

 生徒会室の奥から、生徒会本部員の面々がその様子を眺めていた。

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!」

 

 川路から逃げ回って、牟児津は図書室からどんどん遠ざかっていく。気が付けば学園中をぐるりと回って、自分の教室の近くまで戻って来ていた。教室の前に差し掛かると、牟児津は葛飾と再会した。

 

 「きゃあっ!?ど、どうしたんですか真白さん?そんなオモチャみたいな声出して」

 「助けてこまりちゃん!鬼が……鬼が来る!」

 「鬼っ!?」

 「葛飾あああっ!!」

 「あっ!おに──じゃなくて川路委員長!」

 「そいつを捕まえろぉ!!」

 

 葛飾は瞬時に状況を把握した。また牟児津が何かをやらかして、あるいは何かの犯人だと疑われて川路に追いかけられる羽目になったのだろう。自分はそこに鉢合わせてしまったわけだ。そうなれば、やることは一つである。すぐさま葛飾は持っていた荷物を廊下の隅に投げ、牟児津を後ろから羽交い締めにした。

 

 「おぎゃあっ!!?な、な、なにしてんのこまりちゃん!!?」

 「すみません真白さん。私たち風紀委員は……委員長の命令には絶対服従。逆らえないんです」

 「裏切り者ォ!!」

 「同情します」

 「同情するなら腕ほどけぇ!!」

 

 葛飾を振りほどこうと牟児津は暴れる。だが、少なからず人を取り押さえる心得のある葛飾相手には、悲しいほどに無意味な抵抗だった。川路がようやく追いついてきた頃には、牟児津は疲れ切ってぐったりとしていた。葛飾は、今度は何があったのか、何か風紀委員としてすべきことがあるかを、その場で川路に尋ねる。しかし川路は、

 

 「風紀委員としてすることはない。ご苦労だった」

 

 とだけ言って、そのまま牟児津を連れて特別教室棟の方へ行ってしまった。

 

 「?」

 

 風紀委員としてすることがないなら、クラスメイトを裏切ってまで命令に従った意味はあったのだろうか。自分は今、本当に牟児津を捕まえるべきだったのだろうか。廊下の隅にうっちゃられた荷物を拾い上げ、葛飾はもやもやした気持ちを抱えたまま玄関へ向かおうとして──踏み出したその足を戻した。そして、特別教室棟に足を向けた。

 

 

 〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津が連れてこられたのは、生徒指導室でもなければ風紀委員室でもなかった。風紀委員室と同じ階の廊下を、さらに少し奥まで進んだところにある、妙な扉の前だ。

 スモークのかかった分厚いガラスの奥は黒く、ドアの縁が鏡のように景色を反射してきらびやかに見える。ドアノブは黒い革でぐるぐる巻きに保護され、触るのもためらわれる雰囲気だ。風紀委員室が重役室のような威圧感を放っているのに対し、ここは高校生が入ってはいけない店のようないかがわしさを醸し出している。こんなものが学園内にあっていいのか。つくづく牟児津は、この学園の特殊さに呆れてため息が漏れた。

 

 「旗日(はたび)!連れて来たぞ!」

 「Welcome(ようこそ)!トシヨ〜〜〜!!」

 「もがっ!?」

 

 川路がドアを開けるや否や、黒いカーテンの向こうから勢いよく人が飛び出してきた。牟児津はそれに驚く暇さえ与えられず、両手を広げたその人物の胸の中に埋もれていた。何がなんだか分からない。

 

 「あら……どうしたの。お礼にハグしてあげようと思ったのに」

 「いらん。とっととこいつを受け取れ」

 「シャイなんだからもう!あ、この子がムジツさんね」

 「はぶはぶはぶ」

 

 どうやら牟児津は、飛び出してきた人物と距離を取るため川路の身代わりに押し付けられたようだ。会話を聞いている限り、どうやら川路とは親しい仲のようだが、ハグとはまた恐れ入った。牟児津には、川路が誰かと抱き合っているところなど全く想像がつかない。首根っこを掴んでいた川路の手が離され、牟児津は両脇を支えられてようやくその人物と相対した。

 

 「ハァイ、はじめまして。広報委員長の旗日(はたび) (よる)よ。Nice to meet you(よろしくね)」

 「えっ、あっ……?あの、む、牟児津真白です……ミートゥー?」

 「あはっ!あなたカワイイわね!」

 「へっ?はうぎゃっ!?」

 

 星を閉じ込めたようにキラキラ輝く瞳、銀河を被っているような色合いのウェーブヘア、陽気に跳びはねるような声と、季節感のない半袖のシャツに紺色のネクタイを締め、下はミニスカートだ。一目見て牟児津は、それが自分の理解できる範疇を外れた人間なのだと直感した。おまけに中身が絞り出されそうなほどハグが熱く力強い。牟児津の体がおかしな方向に曲がる。川路は、

 

 「ハグ魔め」

 

 と吐き捨て、その場を立ち去った。牟児津は苦しみに呻き声をあげながら、黒いドアの奥へ連れ去られていった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 旗日に抱えられたまま黒いカーテンをくぐった先は、およそ高校の中とは思えない部屋だった。

 

 「さあムジツちゃん!紹介するわ!ここが学園の顔!伊之泉杜学園高等部広報委員会よ!」

 

 部屋の中央にはいくつもの事務机が並んでいた。大型モニターや大量の本、ファイル、片付けられていないゴミ類が机の上を埋め尽くしている。壁沿いには事務戸棚が並び、他にはインテリアとして大きなのっぽの古時計と、同じくのっぽの観葉植物が置かれている。空気清浄機が大きな音を立てて稼働しているにもかかわらず、部屋の中に滞留して淀んだ人熱(ひといき)れとパソコンの放射熱によって温められた嫌な臭いが消しきれていない。

 しかしこの部屋で最も目を引くのは、部屋の奥にあるひときわ上等な事務机と革張りの椅子──おそらく委員長席だろう──、その横に立つスタンドパネルだ。全体的に青っぽい色調にまとめられたCGキャラクターが描かれており、全身を大きく使った独特のポーズをしていた。明らかにこの空間から浮いていて、その異質さが薄気味悪い。

 居並ぶ面々は誰も彼もパソコンの画面を食い入るように見つめ、青白い肌をしていたり目元に大きなくまを作ったりしていて、いかにも不健康そうだった。ここでは、極端に陽気な旗日の方が異分子だった。

 

 「ハァイEveryone(みんな)!ムジツちゃんが来てくれたわ!これでもう大丈夫よ!」

 

 びっくりするほど無反応だった。場違いに明るい旗日の声が、誰にも届かずむなしく響いた。それでも旗日は満足げだ。

 

 「あはっ!みんな歓迎してくれてるわ!」

 「なにがどう見えてんだあんたは!恥かかすなよ!」

 「Don't be shy!恥ずかしがることなんてないわ。きっとこれから楽しいことがたくさん待ってるんだから!ムジツちゃんにはワクワクする気持ちだけあればいいの!」

 「はあ……?」

 「ほら、そこのあなたも隠れてないで出てきなさい!Come out(出てらっしゃい)!」

 「へっ?ひゃあああっ!?」

 「えっ!?こまりちゃん!?」

 

 旗日は牟児津を抱えたまま、脚で黒カーテンをまくり上げた。きれいな上段蹴りの軌道の下で、突然のことに瞬きすらできなかった葛飾が悲鳴を上げる。その姿に最も驚いたのは牟児津だった。

 

 「な、な、なんで……!?わ、わかっ……!」

 「あら、トシヨのところの子ね!ふむふむ……あはっ!あなたもちょっとカワイイわね!」

 「なんでこまりちゃんがいんの?」

 「ま、真白さんが連れてかれた理由を確かめなくちゃと思って、こっそり潜り込んだんです……。あの、今どういう状況ですか?」

 「いや私も分かんないんだよ……何にも説明されてないし」

 「これから説明するわ!ちょうどいいからあなた──コマリちゃんね?コマリちゃんもこっちに来なさい!ユーリ!おもてなしして!」

 「はあ……はいはい」

 

 ハッスルしている旗日とは対照的に、牟児津も葛飾も状況が呑み込めず困惑している。そして広報委員は全員がゾンビのような顔色だ。不気味なほどの温度差である。唯一名前を呼ばれた生徒だけは、若干の疲れを見せつつも席を立ってキビキビと動き始めた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津と葛飾は、旗日に連れられて部屋の隅にある会議用のスペースに移動した。旗日は二人を席に座らせると、わざわざ委員長席の隣にあったスタンドパネルを会議スペースに持ち込もうとし始め、引っかかった髪の部分を通そうと四苦八苦していた。その間に、先ほど旗日に名前を呼ばれた生徒が牟児津と葛飾にそれぞれお茶を出した。短い髪と整った顔立ちが目を引き、濃いアイシャドーと真っ赤な口紅を塗った気の強そうな生徒だった。

 

 「悪いな。アレはああいう子だから、もうちょっと付き合ってほしい」

 「はあ……あの、あれはいったい……?」

 「んん……取りあえず、話を聞いてやってくれ。その後でちゃんと説明する」

 

 そう言って、短髪の生徒は会議スペースの隅に立ち、旗日の準備が整うのを待った。何も聞けない雰囲気の中、牟児津と葛飾は旗日の動きをじっと見ていた。ようやくパネルを運び終わると、旗日はさっきのテンションを維持したまま声を張り上げる。

 

 「ムジツちゃん!あなたみたいなカワイイ子が彼女だったらいいのにね!」

 「はあ?」

 「ワタシはいつだってあなたを待ってるのよ!不満があるなら遠慮なく言ってちょうだい!改善するわ!少なくともあなたがワタシから逃げなくちゃいけない理由なんてひとつもないのよ!」

 「マジでなに言ってんだあ?」

 「あの……旗日先輩。先輩と真白さんは、いったいどういう関係なんですか?」

 「だから本当のことを話してちょうだい。あなたは彼女なの?それとも彼女じゃないの?」

 「なるほどな〜、人の話聞かないタイプか」

 

 牟児津は早々に旗日との意思疎通をあきらめた。自分の話が終わるまで一切の横槍を受け付けない鋼の意思を感じ、隅に立っている短髪の生徒に目で助けを求めた。それを察知してか、あるいはもっと前からこの展開を予想していたのか、短髪の生徒は旗日の横に並んで話し始めた。

 

 「いきなりでびっくりしているだろう。今からちゃんと説明するから、安心してほしい」

 「はあ……お願いします」

 

 その生徒は淡々と言って、横にあったキャスター付きのホワイトボードを正面まで転がした。マーカーを使って図解しつつ、今の状況と牟児津が連れて来られた理由を説明し始めた。

 

 「まず、この人は広報委員長の旗日夜。テンションが高いのと何言ってるか分からないのは、今すぐにはどうしようもない。こういう生き物だと思ってあきらめてほしい」

 「初っ端からあきらめろなんて説明があるか」

 「魚を陸に揚げても歩けないのと同じだ。黙れと言っても黙れないし、話を聞けと言っても聞けないんだ」

 「ノンノン。トビハゼという魚は干潟を跳ね歩くのよ。鰓呼吸と肺呼吸を両方可能にすることで陸上での活動能力を得たハイギョという魚もいるわ。生き物の多様性は無限の可能性を秘めているってことね」

 「すいません、あきらめます」

 

 牟児津はすぐに前言撤回した。

 

 「私は副委員長の黄泉(よみ) 裕里(ゆうり)だ。基本的に委員会の実務は私がまとめている」

 「はあ、さぞかし大変でしょうね」

 「牟児津さん。いきなり川路に追いかけられてびっくりしただろう。怖い思いをさせたのは申し訳ない」

 「いやホント怖かったですけど……なんで広報委員が謝るんですか?」

 「実は、川路に牟児津さんを探すよう依頼したのは広報委員(うち)なんだ」

 「川路委員長にですか?風紀委員にではなくて?」

 「機密性の高い内容でな。今日の生徒会本部会議で、夜から川路に伝えてもらったんだ。まさかこんなに早く連れて来られるとは思っていなかった」

 「奇跡的な間の悪さだったわけですね」

 

 それで突然追いかけられたのか、と牟児津は納得した。さすがに理由もなしに追いかけ回される筋合いはない。だとしてもあんな形相で追いかけることないのに、と心の中でぼやいた。

 

 「ですが、なぜ広報委員会が真白さんを探してたんですか?」

 「うん。それが……」

 「あなたに“蒼海(そうみ) ノア”になってほしいからよ!ムジツちゃん!」

 「……あぁん?」

 

 牟児津の口から、思わず柄の悪い声が出た。せっかく黄泉が順を追って説明してくれているのに、旗日の説明になってない説明のせいでまたこんがらがる。だが、旗日は気にせず続ける。

 

 「いま一番フレッシュで勢いのあるVirtual streamer(ヴァーチャルストリーマー)!そして伊之泉杜学園の広告塔!清楚可憐な小動物系大和撫子!配信すればオヒネリハリケーンを巻き起こす!そんなハイパーカワイイ“蒼海ノア”ちゃんになってほしいのよ!」

 「……では説明する」

 「お願いします」

 

 旗日の説明ではやっぱりさっぱり分からないので、改めて黄泉が説明する。牟児津たちも初めから旗日の話は聞き流していた。

 

 「うちの委員会では、伊之泉杜学園全体の広報を担当してる。特に夜は学園外への広報に力を入れてて、その一環でVストリーマーを製作した。それがこの“蒼海ノア”だ」

 「製作したあ?」

 

 旗日が持ち込んだパネルを指さして、黄泉が言った。Vストリーマーとは、インターネット上に動画を投稿し広告収入を得ているストリーマーと呼ばれる人々の中でも、3Dアバターを使い匿名で活動している人々だ。この頃はテレビや街中でもよく目にするようになってきたので、さすがの牟児津でも知っている。

 

 「工学総合研究部に3Dアバターと動画素材の製作を依頼した。動画編集は広報委員で行っている。特別予算を組んだ一大プロジェクトだ」

 「全然知らなかった……」

 「蒼海ノアは既に学園の広報動画に出演し、SNS上でも評価を得て学園内外にファンを作っている」

 「ワタシがデザインしたのよ!すごいでしょ!カワイイでしょ!」

 「文字通り自画自賛だな」

 「幸い、委員の中に動画編集の心得がある者がいたから動画は作成できているが……夜の発案する企画量と内容に人員が追い付いていないのが現状だ」

 「ははあ、それであのゾンビ軍団の出来上がりってわけですね」

 「夜に無理してついて行こうとするからああなるんだ。後で休ませないと……」

 「黄泉先輩が一番疲れてらっしゃるんじゃないですか?」

 「私はもう慣れた」

 

 聞けば聞くほど旗日の無茶苦茶っぷり明らかになる。無限の体力と尽きないテンションを持ち、しかもそれに対する自覚がない。おまけに行動の全てに悪意がないから余計に始末に負えない。黄泉が副委員長としてなんとか手綱を握り、委員たちのケアをしているから成り立っているのだという。

 

 「で、そんなブラック委員会が私に何の用ですか?」

 「実は、蒼海ノアで今後も色々な企画を立ち上げているんだが……先日、急に降板を宣言されてしまった」

 「えっ?」

 「多くのVストリーマーと同様、蒼海ノアも名前や顔を明かしていない。私たちにもな。連絡は全てメールで行っていたんだが、唐突に蒼海ノアを辞めると連絡があったんだ。いきなりのことで原因も何も分からないが、どうにも向こうの意思は固そうでな」

 「あの、ひとついいですか?」

 

 黄泉の話の途中だったが、葛飾が遠慮がちに手を挙げた。

 

 「なんだ?」

 「動画素材は工総研が製作してるんですよね?そのメールでやり取りしてる人というのはいったい……?」

 「ああ。声優担当だ」

 「声優?」

 「工総研で用意できるのはパソコン上で完結するものだけらしい。だから動画上の蒼海ノアにあてる声は、うちで用意しなければならない……というより、夜の趣味で用意することになった。そして校内で声優を募集して、オーディションを行った結果、現在の担当に決まった。我々もその正体は知らないが、いつも音声データを送ってもらっている」

 「ええ……なんじゃそりゃ……」

 

 よくそんな正体不明の人物の音声を学園の広報に使うな、と牟児津も葛飾も呆れた。一大プロジェクトという割にところどころ杜撰なのは、おそらく旗日の猛烈なプッシュによって杜撰なまま進めざるを得なかったのだろう。

 

 「なんとか説得は続けているが難航している。そこで、万が一に供えて代役を任せられる人を探していて──」

 「You are singled out(あなたに白羽の矢が立ったってワケよ)!ムジツちゃん!」

 

 旗日がなんと言ったのか、牟児津には聞き取れなかった。しかしニュアンスで分かる。つまり、牟児津に学園の広告塔をやれと言っているわけだ。それもインターネット上となれば、その対象はおよそ全世界に及ぶだろう活動をさせようとしているのだ。

 

 「───ぃ」

 

 あまりに大きすぎる話で言葉が出なかった。そんなもの、目立つとか目立たないとかの話ではない。想像することもできないほど騒々しい世界に上空から突き落とされたような気分だ。

 

 「イヤイヤイヤ!!意味分かんなすぎるって!!はあ!?あんたら頭おかしいんか!?なんだVストリーマーとか!そんなことするわけないだろ!!」

 「思っていた以上に拒絶するんだな」

 「真白さんは目立つことが嫌いなんです。Vストリーマーなんて逆立ちしても無理ですよ」

 「そうなのか?学園一の名探偵と学園新聞に書いてあったから、満更でもないと思っていたんだが」

 「そうよ!レイホのとこの新聞には載ってあげてたじゃない!」

 「それは益子(バッキャロウ)が勝手に載せてんだッ!!」

 「照れちゃってもう!この前の『図書館蔵書持ち去り事件』はシビれたわよ!大学部にまで乗り込んだんだから知名度はばっちり!Vストリーマーデビューまでしたらこの勢いでテッペン取れるわ!」

 「なんのテッペンだ!絶対ヤだ!そもそも私が代役やったってすぐバレるだろ!」

 「いや。むしろ私たちは、蒼海ノアの正体が牟児津さんである可能性すら考えていた」

 「はァーーーッン!?」

 

 全力で拒絶する牟児津に、あくまで黄泉は冷静に返し、手元の書類に目を落とす。どうやら蒼海ノアに関する資料らしい。

 

 「まず、蒼海ノアは学園内部の者であることは確定している。応募は校内でしかしていないからな」

 「ということは、学園生の誰かっていうことですか」

 「生徒とは限らないが、少なくともその可能性が最も高いと考えている」

 「いや私じゃないって!そんなの他にやってそうな人なんて山ほどいるでしょ!」

 「ただな、夜が言うには、蒼海ノアは甘いお菓子に目がないらしい」

 「じゃあ真白さんですね」

 「おいっ!」

 「だって真白さん、登校してきてまずお菓子。お昼ご飯の後にもお菓子。放課後も自分へのご褒美とか言ってまたお菓子食べてるじゃないですか。家に帰ってからも食べてるんでしょう?好き過ぎですし食べ過ぎなんですよ」

 「いやフツーだって!他の人もそれくらい食べてるって!」

 「他に手掛かりはあるんですか?」

 「他か。自分の体にコンプレックスがあるという情報もあるな」

 「じゃあ真白さんじゃないですか」

 「なんでだよ!コンプレックスなんかねえわ!」

 「え?なんでないんですか?」

 「どういう意味だ!」

 「あとは自称だが、周りを巻き込むほどの不幸体質らしい」

 「じゃあ真白さんですって」

 「おいおいおいおい!!」

 「今まさに発揮されてますよ、不幸体質。今までだってそうじゃないですか」

 「これは不幸とは違うだろ!違う、よね?違うんじゃないかと思う!」

 「あはっ!あなたたちおもしろーい!」

 

 牟児津は一つも納得できないが、葛飾が聞いても蒼海ノアの特徴は牟児津にも当てはまっているように思えた。目立つことを何よりも嫌うという、決定的な性格の齟齬さえ知らなければ、牟児津が蒼海ノアの正体だと考えるのも無理からぬように思う。

 

 「とはいうものの、実際に牟児津さんが蒼海ノアかどうかは問題ではない。要は二代目蒼海ノアの声優をしてほしいということなんだ」

 「いや無茶ですって!」

 「大丈夫よ!あなた、蒼海ノアと声がよく似てるわ!ミヤコに頼めば、蒼海ノアそっくりに編集できる!なによりカワイイもの!もしムジツちゃんが望むなら顔出しデビューだってできるわよきっと!」

 「したかねえっつってんだ話聞け!」

 

 どうにも旗日と牟児津の間には壊滅的な価値観の違いがあるようだ。それをさて置いても、広報委員の強引なやり方には葛飾も眉をひそめる。それほど追い詰められているということでもあるだろうが、あまりに自分都合が過ぎる。特に旗日が問題だ。委員長の権力を笠に着てやりたい放題である。

 

 「普通に考えて、代役探すより元々やってた人を捜し出して直接説得する方がいいでしょうが!」

 「それは我々も考えたが、蒼海ノアのイメージが悪くなるから、あまり外部に漏らしたくない話でもあって……知っているのは広報委員と生徒会本部員くらいか」

 「もし本物がやっぱりやると言ってきたらどうするんですか?」

 「もちろん受け入れる。それにストックや時間稼ぎの案があるから、すぐに決めてもらう必要はない。遅くとも再来週までに本物の蒼海ノアが戻らなければ、本当に牟児津さんに代役をお願いすることになる」

 「勘弁してくれってマジで。いきなりVストリーマーやれなんて言われても……」

 「いえ真白さん。まだ希望は残ってます」

 「へぇん?」

 

 大騒ぎする牟児津とは対照的に、葛飾は落ち着いていた。そして、ここから牟児津が助かる可能性をひとつ提示する。

 

 「再来週までに、本物の蒼海ノアを見つけるんです。少なくとも正体が分かれば、どうして辞めるなんて言い出したのかも分かりますし、もしかしたら考え直させられるかも知れません」

 「そ、そうか……!それなら……え、それ私がやんの?」

 「他に誰がやるっていうんですか。広報委員はあの有様ですし、生徒会本部になんて頼めませんよ」

 「っっっだそりゃ!!!」

 「あはっ!Good idea(妙案)ね!ムジツちゃんの華麗な推理も見られるし、広報委員としては最終的に蒼海ノアの中の人も確保できる、サイッコーよ!」

 「サイッテーだ!なんで私がそんなことしなきゃならないんだ!」

 「たぶんこの状況なら瓜生田さんもそう言うと思いますよ。巻き込まれちゃったものはしょうがないです」

 「ぐっ……!本当に言いそうなんだよなあ……!」

 

 牟児津と10年来の幼馴染みである瓜生田は、牟児津が様々な事件に巻き込まれては苦節の末に解決するのを見て楽しんでいる節がある。今ここにいたらおそらく、葛飾と同じ提案をしただろう。違うのは、言葉だけで牟児津を納得させることができるかどうかだ。葛飾にはできない。

 

 「仕方ない。想定した状況とは少し違うが、最終手段だ」

 「え」

 

 苦渋の決断とばかりの表情で、黄泉が会議テーブルの下を手で探る。何か大層なものでも取り出すのかと思い、牟児津と葛飾は身構えた。

 

 「牟児津さん。甘いもの好きのあなたなら分かるだろう」

 

 テーブルの上に箱が置かれる。混じりけのない上品な薄紫色の紙でできた、いかにも高級そうな菓子箱だ。結ばれた縮緬のリボンをほどき、そっと蓋を開く。蛍光灯の光を反射して輝く、金色の包み紙が整列していた。それが何か、葛飾にも分かった。

 

 「それは……!お、黄金饅頭……!なんでそれを……!?」

 「ふふふ……期間限定・数量限定の高級和菓子、あなたの行きつけである塩瀬庵の名物だ。どうだ?少しは私たちの話を聞く気になったんじゃないか?」

 「ぐうっ……!」

 「この饅頭の賞味期限が切れる今週末まで、蒼海ノア捜索に協力する。もし見つからなければ牟児津さんが二代目蒼海ノアになる。それを約束してくれたらこれを譲ろう。さあどうする!牟児津さん!」

 「うううっ……!ひ、卑怯な手を……!」

 「でも真白さん、今度自分でそれを買う予定なんですよ。単語テストの勉強を頑張って合格すれば自分の力で買えるんですから、それじゃ交渉になら──」

 「乗った!!」

 「乗るんですかっ!?」

 

 ギラギラした饅頭の光に文字通り目が眩み、牟児津は黄泉と固い握手を交わした。わずかな可能性に賭けて単語テストの勉強を頑張るよりも、目の前の甘美な誘惑に飛びつくのが牟児津という人間である。牟児津の中では単語テストの勉強をするより、蒼海ノアになる可能性を背負う方がマシということだ。葛飾は牟児津の勉強嫌いっぷりに心底呆れた。

 

 「蒼海ノアの声優担当を連れてくる、あるいは牟児津さんが二代目蒼海ノアをやると決める。どちらかを満たせば黄金饅頭を譲る。期限は今週末だ。それ以上は黄金饅頭が待てない。広報委員が持つ情報は可能な限り提供するから、必要な情報はなんでも言ってくれ。交渉成立ということでいいな?」

 「くっそ……!」

 

 悔し気につぶやく牟児津だが、目は常に金色の影を映している。隣に座っていた葛飾は白い目でその横顔を見つめ、牟児津に同情していた気持ちをすっかり捨ててしまった。牟児津は不幸体質というよりも、後先考えずに生きているだけだった。そういう意味でも、やはり蒼海ノアではないのは明らかだ。

 

 「ねえ、こまりちゃん」

 「はい?」

 「こまりちゃんは、なんで風紀委員になったんだっけ」

 「えっ……わ、私みたいなのでも、困ってる誰かを、助けられたら……って思った……ので……」

 「私、困ってんだけど」

 「……いやあ、それはちょっと」

 「おらぁ!!逃がさねえぞ!!こうなりゃ地獄まで道連れだ!!」

 「きゃあああっ!?こ、こまります〜〜〜!!」

 

 逃げようとした葛飾を、牟児津は教室前での意趣返しとばかりに押さえつけて確保した。葛飾には、黄泉の買収に応じた時点で牟児津に対する同情の念は消えてしまっていた。だが牟児津は、ひとりでこの難局に立ち向かう気などさらさらなかった。なんなら買収に応じることを決めた瞬間から、葛飾を道連れにしてやろうとさえ考えていた。

 

 「仲良いわねあなたたち。コマリちゃんも一緒にデビューする?」

 「その大物プロデューサーみたいなノリなんなんだ」

 「実際、夜の企画は受けが良いんだ。能力のある厄介者ほど手に負えないものはない」

 「もうユーリったら!褒めても顔から火しか出ないわよ!」

 「うざ」

 「わ、私は風紀委員の仕事があるので……すみません」

 「あはっ、そうね。トシヨのとこの子にちょっかいかけたら怒られちゃうわね」

 「怒られればいいのに」

 

 なぜ旗日のような人間が委員長になれているのか、その理由はひとえに広報委員としての有能さ故らしい。黄泉もうんざりした様子ではいるものの、なんだかんだで旗日のために委員会をまとめているので、そういうことなのだろう。



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第2話「小説の真似事ですよ」

 

 牟児津と葛飾は蒼海ノアの情報を集めるため、広報委員に聞き込みすることにした。旗日が出てくるとややこしくなるので、代わりに黄泉が委員に協力を呼び掛けてくれるらしい。二人は黄泉と一緒に会議用スペースを出て、デスクで作業をしている委員らの前に立つ。まだほとんどの委員は気付いていない。黄泉が手を叩いた。

 

 「はい全体周知〜!前見る!」

 

 その声に合わせて、それぞれ作業していた委員たちが手を止めて黄泉の方に体を向けた。旗日の号令とは違う、委員会らしい整然とした動きだ。ただひとりだけ、その号令に気付かず作業を続けている委員がいる。慌てた様子で、隣に座った委員が肩を叩いて耳を指さす。どうやらイヤホンを付けていたらしい。

 

 「えっ!!!?なに!!!?ああっ!!!すませんすません!!!」

 「うっせ!!」

 「ああ、うっかりしてた!んはは!」

 

 チューニングの甘い弦を弾いたような声が委員室に響く。大声で笑いながら、その委員は改めて黄泉に体を向けた。

 

 「こちら、牟児津真白さんと、風紀委員の葛飾こまりさんだ。蒼海ノアの捜索に協力してくれることになった。今週末までに見つからなければ牟児津さんに代役もお願いする。手掛かりを求められたら協力するように!」

 

 やはり旗日とは違う、端的かつ明快な説明と指示だ。それを聞いた委員たちの返事も、ゾンビとは思えないほど明瞭だった。そして黄泉がもう一度手を叩くと、全員すぐさま仕事に戻った。

 

 「号令出す人が変わるだけでこんなに違うのか……」

 「広報委員ってよく分かりませんね……」

 「蒼海ノアに関する仕事を担当しているのは向こうの3人だ。その他のことも協力は惜しまないが、まずはあの3人から話を聞いてくれ」

 「何から何まで分かりやすい。なんでこの人が委員長じゃないんだ」

 

 今まで関わったどんな生徒よりも協力的な黄泉の姿に、牟児津は感動した。そもそも事件に巻き込まれたくないのだが、せめて黄泉のような人間がどんな場所にもいてくれれば話が早いのに、と思った。

 二人は言われたとおり、蒼海ノアプロジェクトチームの3人を訪ねた。まずは、えんじ色のベレー帽を被った生徒に話しかけた。マッシュルームカットが大きく横に膨らんだような髪型をしている。眼鏡がずれてなぜ落ちないのか不思議な位置にあり、明るいブラウンのカーディガンの袖が余っていて指先しか見えない。だらしなく垂れたまぶたが半分覆った目には不健康そうな()()ができていて、光が宿っていない。

 

 「あのぅ、すみません。ちょっとお話を伺ってもよろしいでしょうか……?」

 「……ふげっ?はっ、あ、ああ……はい……?なん、でしょう?」

 「だ、大丈夫ですか?」

 「はい……ぐぅ……えっ?ああ……大丈夫ですよぉ」

 「大丈夫じゃなさそう……」

 

 うつらうつらと船を漕ぎながら、要領を得ない返事をしてくる。どうやら尋常でないほど眠たいようだ。こんな状態で話が聞けるのか不安になってくる。不健康な笑顔を浮かべられると胸がひどく痛む。早く楽にしてあげなければいけないような気がした。

 

 「あ、あの、こちら蒼海ノアプロジェクトチームで合ってますか?お話聞かせていただきたいんですけど」

 「ああ……そちら、牟児津さんですね。学園新聞で……特しゅぶぅ……うぐっ、ふん……特集、されてましたねえ……」

 「へっ?し、知ってんの?」

 「こおほおいーん……んむむ、にゃっ、ああ。こ、広報委員としてぇ……有名な人はみぃんな、チェックして、ます……。なんか……写しぃん、より、ぼやけて……る……?」

 「寝ぼけてんだそりゃ」

 「あ、私……蛍恵(ほたえ) (みやこ)、です。2年……生です……ふがっ、よ、よろしく……」

 「よろしくお願いします……」

 

 夢うつつで自己紹介をされたのは初めてだった。蛍恵はこの状態にもかかわらずパソコン上にいくつかのウインドウを開き、メールを打ったり外部SNSをチェックしたり、動画編集らしいことまでしている。よく見れば、デスクの上は大量のブラックコーヒーの空き缶が並んでおり、頬にはマウスパッドの跡がある。牟児津も葛飾も、細部に気付けば気付くほど引いていく。

 

 「よ、よくその状態でお仕事できますね」

 「はあ……まだ、まだですよ……旗日委員長は……もっと頑張ってます、から……」

 「すごいなあ。よくあの人のためにそこまで頑張る気になるわ」

 「真白さんなんて、旗日先輩のときどき話す英語も分からないのに」

 「わかっ──らないけど……!」

 「委員長は、帰国子女だから……口癖なんですよ。英語が。ステキです……よね……」

 「真白さん、旗日先輩に英語教わったらどうです?次の単語テストは合格できるかも知れませんよ」

 「あれに頼るくらいなら自分でやるわ!」

 

 その単語テストを頑張る必要はもうないのだ。蒼海ノアを見つけさえすれば、牟児津は平穏な日常と黄金饅頭の両方を手に入れることができる。そうなれば小遣いの返上など些細な問題だ。

 

 「あ〜……すやぁ……はっ、ふあ、えっと……プロジェクトチームのみんな……を、紹介……しますね……。あさひさ〜ん、まいせんぱ〜い」

 

 蛍恵が、デスクを挟んで反対側にいる二人に声をかけた。しかし、声が届いていないのか、どちらも微動だにしない。よく見ると、ひとりは先ほど大声を出したイヤホンの生徒で、もうひとりはちらちらと目だけをこちらに向けて様子を窺っている。見るからに癖が強そうで、牟児津と葛飾は既に声をかけることに気怠さを感じていた。

 

 「まい先輩?あさひさんのイヤホン取ってあげてくださいよぉ」

 「あっ…………ご、ごめん…………ね…………」

 

 蛍恵に指示されて、気の弱そうな声を出した生徒は隣に座るイヤホンの生徒の肩を叩いた。

 

 「どわっ!!?」

 「わあっ!?」

 「えっ?あ、な、なに?ああ、イヤホンか!んはは!またやっちった!ごめんごめん!」

 

 イヤホンの生徒は、肩を叩かれると同時に衝撃波が生じるほどの大声を出した。葛飾はそれをモロに受けてひっくり返り、牟児津はよろめいた。どうやら先ほどの蛍恵の呼びかけは、本当に聞こえていなかったらしい。

 

 「紹介しますねぇ。あの……ふぅ、大声出してる方が……2年生でぇ、記事の編集……担当の、一ツ木(ひとつぎ) (あさひ)さん……。でぇ、マスクの方が……3年生でぇ、撮影担当……日比(ひび) 真衣(まい)先輩です……ふがあ」

 

 一ツ木は細く長いツインテールを伸ばし、その先に球状の髪飾りをつけている。スカートにもかかわらず椅子の上で胡坐をかき、ワイシャツを雑にまくってるせいで袖が潰れている。デスクの上は眠気覚ましのサワーグミやガムの包みで特に汚れている。全体的にガサツでだらしない印象を受けた。

 日比は口から鼻までを大きなマスクで覆い、そのうえ前髪が長いため顔のほとんどが隠れてしまっていた。高身長の割に背中が曲がっていて自信なさげに見える。ほとんど見えていない目を明後日の方向に向けているので、よっぽど人が苦手なのだろう。肩からかけたブランケットの端を握っている。デスクの上にはエナジードリンクの空き缶が転がっているが、まだ片付いている方だ。

 チームとして機能しているのか不安になる面子だった。

 

 「……大丈夫ですか?」

 「なにがですかぁ?」

 「ああいえ、すみません。なんでもないです」

 

 それは余計な心配であり、大きなお世話だ。たとえ大丈夫でなくても葛飾には何もしてやれない。

 

 「蒼海ノアについて聞きたいんだっけか?具体的に何が知りたいわけ?」

 「何がっていうか、まず蒼海ノアがどんな人かも分かんないんだけど……」

 「…………じゃ、あ…………動画…………観たら…………?」

 「そっすね!あたしのパソコンで観っか!デュアルモニターだから片っぽ貸すよ!」

 「ふわぁ……私、仕事にもどりまぁすねぇ」

 「あの、余計なお世話かも知れないですけど、蛍恵さん寝た方がいいですよ。ひどいくまです」

 「えへへ……そうですよねぇ……。でもなんかぁ……きもち、よくてぇ……。ずっと寝てないと……あたま、ふわ〜ってしてきてぇ……んふふふふ……!」

 「やばいって!寝かさないと死ぬって!」

 「ほ、ほた、蛍恵さん…………何徹、中…………?」

 「べぇ」

 「ほらもう!存在しない数字言ってんじゃん!」

 「ヨルせんぱーい。みゃーこがまた限界でーす」

 「OK!ほーらミヤコ!あたたかいミルクよ!こっちおいで!」

 「ミルク……ミルク……」

 

 一ツ木が旗日を呼ぶと、会議スペースからマグカップを持った旗日が飛び出してきた。本当にホットミルクを用意しているようで、ほんのり甘いミルクの香りにつられて、蛍恵はよろよろと旗日の方に歩いて行った。旗日はそのまま蛍恵を部屋の隅にあるソファまで誘導し、ミルクを飲ませた後、優しく横たわらせた。たちまち寝息を立て始めた蛍恵の頭をそっと撫でる。

 

 「おおよしよし、ミヤコはがんばりやさんでカワイイわね。白いおひげも付けちゃって、ふふっ」

 「私らはなにを見せられてんだ」

 「ほ…………蛍恵さん…………が、がんばり、すぎ…………な、子…………だから…………」

 「家でも広報委員の仕事してるらしいぞ。ヨルせんぱいに褒められるためっつってた。ようやるわ」

 「で、でも…………しあわせ、そう…………。委員長が…………ね、ねか、しつけて…………くれるから…………」

 「将来ヤバいのに捕まる素質あるな」

 「早く動画観ましょうよ」

 「んっしゃ。じゃああたしにバトンタッチだ。こっち来な」

 

 葛飾が急かすと、一ツ木が二人に手招きした。動画投稿サイトにアクセスして学園の名前で検索すると、すぐに様々な動画が出てきた。広報委員会以外にも動画投稿で活動している部などがあるようだが、検索結果の上位は全て蒼海ノアが占めていた。学園の広告塔というのは本当のようで、初等部から大学部まで学園を様々な角度から紹介している。牟児津は胃がギリリと痛んだ。リアルな規模感を知ると余計にプレッシャーになる。

 

 「一番人気はやっぱ学園内のスポットを紹介する動画だなあ。内容が分かりやすくて外部から興味を持たれやすい。特に初等部にガキ入れようとしてる親がよく観んだわ!大学部の学食と購買のおすすめメニュー紹介とか、高等部の部活動紹介もまた再生数増えてんね!」

 「入学試験の過去問解説とか委員会活動の紹介……結構マジメな内容もあるんですね」

 「職員公募に卒業生インタビュー……校歌斉唱?観たいか?」

 「歌ってみた動画ってのァ鉄板だから取りあえずやっとくんだ。まァ初めはこんなとこだわな。いきなり流行曲歌ったってその辺の有象無象に埋もれるだけだし」

 「ひ、一ツ木…………さん…………もう、ちょっと…………お、ぎょうぎ、よくして…………」

 

 いつの間にか、一ツ木はスカートの中に手を突っ込んで股ぐらを掻いていた。口の悪さといい行儀云々以前の問題である。日比に注意されても、一ツ木は笑うだけで直す素振りも見せない。日比が不甲斐ないのか、一ツ木の素行が悪すぎるのか、葛飾には判断がつかなかった。

 ほとんどの動画は学園に焦点を当てたもので、蒼海ノア自身にスポットを当てた動画は少ない。ほぼ唯一と言っていい蒼海ノアメインの動画は、最初に投稿された自己紹介動画だった。一ツ木がそれを再生する。

 

 

 ──画面の前のみなさーん、初めまして!私立伊之泉杜学園公式チャンネルへようこそ!──

 

 

 電子音が印象的なテクノポップミュージックをBGMに、学園の風景写真を背景に映して、近未来風のエフェクトや効果音を付けながら、蒼海ノアが笑顔で自己紹介する。Vストリーマーと聞いて牟児津がイメージしたような、飛んだり跳ねたり叫んだり踊ったりする激しさはない。あくまで公式チャンネルのアンバサダーという姿勢を崩さない、淑やかかつ愛想の良い性格だった。

 

 「すげ……これ、本当に声以外の全部、工総研が創ったの?」

 「そだよ。すごいっしょ。工総研も色々頑張ってくれてんだ。演劇部とかアニ研とかも協力してくれてるし」

 「本当に色んな部が関わってるんですね」

 「知れば知るほど胃が痛くなってくる……」

 「なんで…………黒糖団子、たべ、てるの…………?」

 「声優の方との連絡の記録はありますか?」

 「あるよ。けどここに表示されてる学内メアドはダミーだ。学籍番号がデタラメだし、検索しても該当生徒はいない」

 「そこまでして正体を隠すなんて……何か事情があるんですかね?」

 「ほ、ほか、の…………Vスト、リーマーも…………同、じような感じ、だよ…………?あと…………い、い、委員長…………に、バレたく、ないとか…………あるかも…………」

 「た、確かに……あの愛情表現を生身で受けるのはキツイですね……」

 「とりまこれまでのメール全部出力して渡すわ。けどこれクッソ内部情報だから取扱注意な」

 「セキュリティがザル過ぎる」

 

 内部情報と言いつつ一ツ木は、旗日はおろか黄泉にすら確認を取らず、蒼海ノアとのメールの記録を全てプリントアウトした。これまで少なくない数の動画を制作しているため、印刷した紙の束はかなりの量になってしまった。これを持って行動するのは骨が折れる。

 

 「まァ、あたしはムジッちゃんがノアやってもいいと思うけどね。実際、声似てるし」

 「冗談じゃない!私は目立ちたくないの!」

 「で、でもいまの、蒼海ノアも…………だ、だれが、やってるか…………分かんない、し…………」

 「私はもう広報委員にバレてるんですよ」

 「なんでそんな目立ちたくないわけ?有名になりゃチヤホヤされるし、学園外に名前が知られりゃモテるかもよ」

 「そういうのマジで興味ないの。静かに平和に、美味しいお菓子食べてゆっくりできるのが幸せなんだ、私は」

 「ふーん、悟ってんねェ」

 

 一ツ木がずけずけと尋ねるので気付いたが、葛飾は、牟児津がここまで目立つことを嫌う理由を知らなかった。今も、ただ目立つことに興味がないという理由で済ませようとしている。それは一ツ木が言ったことを否定しているだけで、牟児津が穏やかに暮らしたい理由にはなっていない。それが意図したことなのか、たまたまなのか、葛飾には判断がつきかねた。

 

 「他になんか手掛かりとかないの?直接やり取りしてるんなら、外には出てない情報とか持ってんでしょ」

 「ん〜、マイせんぱいどっすか?」

 「わ、私は…………よく、分かん、ない…………」

 「あたしらメールは見れっけど、実際にやり取りしてんのはみゃーこだからね。いま寝てっから、細かいことはまた明日にしてくんない?」

 「今日はもう起きられないんですか?」

 「あのくま見て叩き起こせんの?こまっちゃんけっこー鬼畜だね」

 「あ、いやそんなつもりじゃ……」

 「んはは!どっちみち今日はまともにしゃべれねーよ!明日になったらマシになってるハズだから!」

 「授業時間どうしてたんだ」

 

 そう言う一ツ木も隣にいる日比も、顔色が良いとは言えない。この委員会にいる生徒は、旗日も含めて働き過ぎなのだ。日比によればそれは蒼海ノアが突然降板を宣言したことも影響しているそうだが、元々そういう組織の体質なのだろう。いっそこれをきっかけに、一週間活動を停止してみたらマシになるんじゃないかと思うほど、問題だらけの委員会だった。

 

 「真白さん、また明日来ましょう」

 「はあ……しゃーないか」

 

 ソファですやすやと寝息を立てる蛍恵を起こすのも忍びなく、今日のところは簡単な手掛かりを手に入れたところで引き下がった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「ということがありまして」

 「そっかあ。それでムジツさんがこんな前衛的な顔に」

 「う゛り゛ゅ゛う゛〜゛〜゛〜゛!゛!゛な゛ん゛ど゛が゛じ゛で゛ぇ゛〜゛〜゛〜゛!゛!゛」

 「そんなにしがみついても、私のお腹にふしぎなポッケはないよ」

 

 広報委員室を出た二人は、瓜生田を頼るため図書室に直行した。瓜生田は二人より一学年下の後輩だが、牟児津が困ったとき大いに力になってくれる、頼れる後輩である。今は図書委員会の仕事があるため、図書準備室内で二人から事情を聴いているところだ。

 

 「また厄介なことに巻き込まれちゃったねムジツさん。よく飽きないね」

 「こちとら好きで巻き込まれてんじゃねえや!!」

 「ちょっと牟児津さん、隣が図書室なんだから静かにしてよ」

 「あ、ご、ごめんなさい……」

 

 瓜生田に全力でつっこむと、図書準備室で仕事をしていた阿丹部(あにべ) 沙兎(さと)に注意されてしまった。阿丹部は瓜生田と同じ図書委員で、牟児津たちと同じ2年生である。つい先日、所属するオカルト研究部(現オカルト研究同好会)を中心に起きた事件で、牟児津に大きく助けられたところだった。

 

 「大変そうだけど、なんかあったの?」

 「実はムジツさんが、広報委員から蒼海ノアの声優をやってほしいって頼まれてまして」

 「蒼海ノア……ああ、あのVストリーマーね。大変ねえいろいろ巻き込まれて」

 「ホントだよ。だいたい私には向いてないんだって」

 「確かに牟児津さんとはキャラ違い過ぎるか……」

 「そこじゃないよ?」

 「元の声優担当の人の手掛かりはありますか?」

 「広報委員会で過去のメールの記録を頂いてきました。後は広報委員の副委員長から伺った蒼海ノアの特徴くらいです。これがまた真白さんとよく似てまして」

 「いや似てないってば」

 「甘いもの好きで、自分の体にコンプレックスがあって、周りを巻き込む不幸体質だそうです」

 「おお〜、確かにムジツさんっぽいけどちょっと違いますね」

 「ほーれ見ろ!うりゅは私のことよく分かってんだ。よしうりゅ!言ったれ言ったれ!」

 「ムジツさんの巻き込まれ体質で不幸になるのはムジツさんだけです。周りはむしろ助けられるくらいですから、そこだけ違います」

 「そこじゃない!コンプレックスなんかないから!」

 「え、ないの?」

 「そのリアクションもういいわ!」

 

 散々つっこみまくった牟児津は、そのまま瓜生田の膝の上でぐったりしてしまった。瓜生田には十分伝わっているが、他の二人にはいまいち牟児津の必死さが理解されていないようだ。

 

 「ムジツさんを助けるのは(やぶさ)かじゃないけど、委員会の仕事があるからなあ。今日はヘルプで来られる人もいないし」

 「そしたら、これ取扱注意って言われてるんですけど、瓜生田さんにお渡ししてもいいですか」

 「えっ、私なんかが持っちゃっていいんですか?」

 「きっと、瓜生田さんの方が私たちより有効に活用できると思うので」

 「そうそう!なんかこういう何気ないメールから犯人を絞るやつあるじゃん!リングファイルみたいなやつ!」

 「プロファイリング?」

 「そうそれ!やってやって!」

 「手品みたいに言うなあ。いちおうやってみるけど、あんまり期待しないでね」

 「やれることはやれるんだ……李下ってどこでそういうスキル身に着けんの」

 「やだなあ。小説の真似事ですよ」

 

 へらへらと笑いつつ、瓜生田は葛飾から受け取った紙の束を数え、でたらめになっていた順番を揃えてクリップで仕分けた。話をしながら片手間にそんなことをやってのけるので、その場にいる3人とも、瓜生田なら本当にプロファイリングできてしまいそうな気になってきた。

 

 「蒼海ノアの声を当ててる人──長いからノアさんって呼ぼうか、ノアさんについて何かわかったら連絡するね」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 ノアさんについて瓜生田がプロファイリングをしている間、牟児津と葛飾は情報を足で稼ぐことにした。

 

 「結局、私たちにはこういう方法しかないんですよ。面倒くさそうな顔しないでください」

 「でも、どこをどう調べたらいいか分かんないし」

 「だから足を動かすんじゃないですか。地道な努力を足掛かりにして事件の手掛かりを見つけるんです」

 「無駄なんじゃないかってことが気掛かりだよ」

 

 とにかく蒼海ノアについて聞き込みをしていくしかないと、二人は自分たちのクラスに戻った。ほとんどの生徒は部活動や委員会活動に出てしまっている。残っているのは数名だった。葛飾はそのうち、教室の掃除をしていた時園(ときぞの) (あおい)に声をかけた。

 

 「時園さん。少しお時間いいですか」

 「え……なに?また何か厄介事に巻き込まれたの?」

 「よく分かりましたね」

 「牟児津さんの顔を見れば分かるわよ。もう2回見たから」

 

 振り返った葛飾は、この世のあらゆる理不尽を憎むような牟児津の顔を見た。こうも厄介事が次から次へと舞い込んでくれば、そんな顔になるのも仕方ない。ただ幸いなことに、このクラスにいるほぼ全員が、牟児津は厄介事に巻き込まれやすいということを理解していた。

 

 「分かることしか話してあげられないわよ」

 「それでも構いません!むしろ、分かることだけ教えてほしいんです!」

 「いや葛飾さん、必死過ぎて怖いから。落ち着いてよ」

 「あっ、ご、ごめんなさい……。あの、蒼海ノアについて、知ってることを教えていただきたいんです」

 「ノア?ああ、動画のアレね」

 

 どうやら時園は名前を聞いただけで、広報動画に出演しているキャラクターだと理解したらしい。牟児津と葛飾が知らなかっただけで、やはりそれなりの知名度はあるようだ。

 

 「知ってることと言っても、普通にうちの学園の宣伝キャラクターっていうだけじゃないの?」

 「なんというか、こう……もっとパーソナルな部分とか、個人情報とかは」

 「ええ……設定ってこと?それなら広報委員会に聞けばいいんじゃないの?」

 「設定とかじゃないんですけどあの……」

 

 巻き込まれた事件についての言及を避けようと慎重になるあまり、葛飾の質問は要領を得ない。しびれを切らした牟児津が交代する。

 

 「時園さん、蒼海ノアの声ってうちの生徒がやってるって知ってる?」

 「ああ、そうね。校内で募集してたし、学生生活委員も応募の呼びかけに動員されたから覚えてる」

 「誰がやってるかとか知らない?」

 「そこまでは知らないわね。それこそ広報委員に聞けばいいじゃない」

 「うーん、正論だ」

 「あ、でも」

 

 時園が、何かを思い出して手を叩いた。

 

 「確か応募数が振るわなくて、それなのに応募者にオーディションしたっていう強気な決め方だったって話は聞いたわ」

 「そうだったんですか?」

 「いちおう学園外部に向けたものだし、面白半分で応募してきたような人とか、能力と熱意のバランスが合わない人とか、そういうのはお断りしようってことだったんでしょ。当然といえば当然だけど……ちょっと敬遠されちゃってたわね」

 「こだわりですかね。旗日先輩の」

 「そう。旗日先輩のテンションと企画について行けるっていうのも応募条件だったから、余計に少なかった」

 

 それが最も大きな障害になっていたのだと、牟児津と葛飾はなんとなく察した。ともかく、蒼海ノアの声優に応募した生徒は相当少ないようだ。

 

 「応募した人って知らない?」

 「ひとりうちのクラスにもいるわよ。最終的に辞退したらしいけど」

 「えっ!?だ、だれですか!?」

 「ん〜……ま、いいか。本人も普通に言ってたし」

 

 時園は、いちおう教室にいる他の生徒に聞こえないように少し声をひそめて、二人のその名前を告げた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「んがっふっ!……へあ?あれ。私、寝ちゃってましたあ……?」

 「おう!おはようみゃーこ!」

 

 広報委員室のソファで、蛍恵は目を覚ました。牟児津たちの前で自己紹介もそこそこに寝入ってから、1時間ほど熟睡した後の覚醒だった。未だ睡眠不足の頭はぼんやりと靄がかかったように思考がはっきりせず、脳の中心がズキズキと痛む。一ツ木の無遠慮な大声が脳の髄まで響いた。

 

 「ごめんなさぁい」

 「蛍恵。お前は働き過ぎだ。ちゃんと自分を労ることも良い仕事のためには必要だぞ」

 「えぇ〜、でもいっぱい働くのはいいことだと思いますよ〜?旗日委員長は毎朝一番に来て毎日最後までバリバリやってるじゃないですか〜」

 「お前は夜じゃない。無理をしても体を壊すだけだ」

 「ぶぅ……旗日いいんちょ〜、ふくいんちょ〜がいじめます〜」

 「大丈夫ミヤコ!?ユーリ!ミヤコは頑張り屋さんの良い子なんだから怒っちゃダメよ!あ、分かった!きっと嫉妬してるのね!ミヤコがワタシによしよしされるのが羨ましいんだわ!もう!素直じゃないんだから!こっちいらっしゃい!まとめてよしよししてあげる!」

 

 黄泉は眉間をおさえた。蛍恵は旗日に憧れを抱いている。それはいい。しかしその憧れが強すぎるあまり、旗日のためと無理をするきらいがある。もともとそれほど器用ではなく、人より体力があるわけでもないのは、不健康そうな目の周りのくまを見れば明らかだ。それでも旗日について行こうとすることは、決して蛍恵のためにならないと感じていた。それもこれも、旗日が蛍恵を特に褒めちぎって甘やかすことに問題がある。広報委員会は旗日がいてこそ成り立つが、同じく旗日がいるために機能不全を起こしている。

 

 「購買に猿ぐつわはあったかな」

 「何する気よ!?」

 「濡れタオルが…………か、代わりになる…………けど…………」

 「そういや結束バンドも余ってたっけなァ」

 「着々と!!ごめんごめん!静かにする静かにする!もう、みんな怖いわねミヤコ……。ワタシ、委員長として尊敬されてないのかしら……」

 「ふわぁ、私は委員長のこと尊敬してますし、よしよしもされたいですよ〜」

 「あーもうカワイイわねミヤコは!よしよしよしよし!!」

 「アイマスクと耳栓も準備しておけ」

 「ひぇーっ!」

 「ところでぇ、さっきの方たちはどこ行っちゃったんですかぁ?」

 

 拘束具を持った一ツ木に追い詰められる旗日を尻目に、蛍恵は寝る前までいた牟児津と葛飾の行方を気にする。何か大事なことを聞いたような、そんな気がしていた。

 

 「あの二人なら、蒼海ノアの正体を捜しに出た」

 「どっか行かれたんですねえ」

 「見つからなければ牟児津さんが二代目を務めるから、牟児津さんの声を今の声に似せるための作業が増える。今の蛍恵にさらにタスクを増やすのは心苦しいが……」

 「はぁ……そうなんですねぇ……じゃあ、見つかるとぉ、いいですねぇ。ぐぅ……」

 

 自分で自分が何を言っているのかはっきりしない。なんだかまだ寝惚けているようだ。上手く考えがまとまらない。蛍恵は、もうひと眠りしてから考えることにした。

 

 「蛍恵さん…………相当です、ね…………」

 「身を粉にすることを美徳と思っているやつが上に行くと下は苦労する。蛍恵が後輩を持つ前に、今の働き方を変えなければ……」

 「せ、責任重大…………」



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第3話「うりゅにかかればこんなもんよ」

 

 美術室は沈黙している。誰もが次の言葉を探し、誰かが口を開いてくれることを待っている。その沈黙に重い責任を感じている牟児津と葛飾は、険しい顔で砂野(すなの) 叶鳥(ととり)を見ていた。

 

 「こんな感じなんだけど」

 

 少し火照った体を落ち着かせるように深呼吸をした後、砂野は言った。いくつもの彫像や絵画に囲まれたモデル台の上だと、その鏡餅のような体格は妙におさまりが良く見える。

 

 「……めっちゃ……いいよ」

 「ッ!?」

 

 無責任な発言をした牟児津に、葛飾が視線で異を唱える。しかし葛飾が見た牟児津の表情は、相当な覚悟を決めたものだった。このおべっかを墓まで持って行く覚悟だ。

 時園から蒼海ノアの声優オーディションに関する手掛かりを得た二人は、美術室で部活動に勤しんでいた砂野を訪ねた。かつて蒼海ノアの声優に応募したという砂野に、牟児津が軽い気持ちでどんな風に演じたのかを尋ねたのだ。おもむろにモデル台に上った砂野は、他の部員の目も気にせず、自分の思う蒼海ノアを演じたのだった。その結果、牟児津たちはモアイ像のような表情になっている。

 

 「でしょ?旗日先輩もいいって言ってくれたんだけど、ちょっと条件が合わなくてお断りしちゃった」

 「じょ、条件……?」

 「色々あったわ。家で録音できる環境があるかとか、広報委員会との打ち合わせに必ず出席することとか。あと早口言葉10個連続噛まずに言えるかとか」

 

 それは遠回しに断られているだけなのでは、と二人とも思って言わなかった。

 

 「あと、学園祭のときは広報委員のブースにずっといることっていうのがね……部活もあるし色々楽しみたいから、そこが約束できなくて」

 「それ、学園生のほとんどに断られるのでは?」

 「私もそう言ったの。そうしたら、どうしても席を外す場合は声のパターンをいくつか録っておいて、工総研で合成する方法を考えてるって言われたの。でも、こういうのって生だからこその良さがあるじゃない?私、そういうこだわり捨てたくなくて」

 「チッ」

 「なんで舌打ちしたの!?」

 「あっ、ご、ごめん!全然、ヘンな意味じゃないから!シンプルなやつシンプルなやつ!」

 「シンプルな舌打ちが一番怖いんだけど!」

 

 牟児津は思わず苛立ちを形にしてしまった。正直、砂野には演技のえの字も語ってほしくない。だが、ようやく掴んだわずかな手掛かりである。これを逃してしまえばまた一から聞き込みのやり直しなので、どうしても砂野の機嫌を損ねることだけは避けなければならない。

 

 「真白さん。これ絶対お断りの意味で言うやつですよ」

 「んなこと分かってんの。ちょっとでも手掛かり欲しいんだから、砂野さんをいい気にさせて色々話してもらえばいいじゃん。演技のことも別に敢えて言うことないでしょ」

 「あそこまでひどいと自覚させてあげなきゃ可哀想な気もします……」

 「そのうち勝手に気付くから私たちが言う必要ないよ」

 「こそこそ話されるとすごい心がざわつくんだけど」

 「す、すみません……」

 「砂野さん、他に提示された条件とかある?」

 「色々あったわよ。リストで渡されたから、それ見る?」

 「リストにするほどの条件をその場で……!?」

 

 砂野はモデル台を降りて、カバンから紙を取り出した。“蒼海ノアは、伊之泉杜学園全体を代表するものであるため、活動においては以下の条件を撤底して遵守すること。”という始まりで、全部で10個ほどの条件が羅列してある。砂野が言っていた学園祭時の行動制限に始まり、自宅に録音環境があることや公私を問わない類似活動の禁止など、学生の有志活動にしてはいささか厳しすぎるようなものばかりだった。

 

 「これは……まるで労務契約ですね。こんなのクリアできる人いるんですか?」

 「いたんでしょ。うん、この条件でやってる人がいるんだよな……すごいな。一緒にオーディション受けた人とか知らない?」

 「演劇部の人とか声楽部の人もいたけど、結局みんな条件が合わなかったらしいわよ」

 「演劇部も声楽部も……?」

 

 それを聞いて、牟児津はリストが少し重くなったように感じた。砂野の言うことが本当なら、声優としての仕事を全うできる能力がある人物にも、この条件は与えられていたらしい。そうなると、このリストは単に遠まわしな不合格通知ではないのかも知れない。本当にこの条件に合う人物でないと困る事情が、広報委員会にあったのだろうか。

 

 「でも広報委員も無茶言うわよね。まあ今にして思えば、蒼海ノアやらなくてよかったと思ってるし」

 「どうして?」

 「だっていま蒼海ノアめっちゃ炎上してるじゃない。巻き込まれなくてよかったわ」

 「炎上してんの?広報委員じゃそんなこと言ってなかったけど」

 「そうなの?まあ自分のとこの看板娘だし、敢えて言うことないでしょ。でも動画のコメント欄とか見てると、結構好き放題言われてるわよ」

 「ぜ、全然見てなかった……」

 

 一ツ木に動画を見せてもらったときは、動画の内容ばかりに気を取られていて、コメント欄やその他を気にしている場合ではなかった。砂野が言うには、蒼海ノアの出演当初は、肯定意見も否定意見も様々にあったらしい。次第におおむね受け入れられるようになってきてはいるが、最近は否定意見が多くなっているらしい。

 

 「いるのよね。些細なことをあげつらって粘着する人。暇なのよきっと」

 「もしかしたらそれが原因で……」

 「ん?なにが?」

 「あっ、いいえ!なんでもないです!貴重なお話ありがとうございました!あ、これいただいても?」

 「別にいいよ。私はいらないから捨てちゃっていいし」

 

 危うく事件について口を滑らせるところだった。牟児津と葛飾は不審がられないよう取り繕って、さっさと美術室から退散した。得られた手掛かりは、オーディションで配られた声優を担当する上での条件リストだけだ。しかし、それ以上の情報を牟児津たちは手にした。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 カウンターでひとり、瓜生田は葛飾から貰ったメールの束を睨んでいた。印刷されたメールの文章に、赤のボールペンで色々な記号や言葉を書き込んでいく。傍らにはプロファイリングの参考資料にしているのか、いくつかの分厚い本が積み重なっていた。図書室内の巡回から戻ってきた阿丹部は、瓜生田の様子に半ば呆れながら声をかけた。

 

 「めっちゃガチでやってるじゃん……」

 「すみません阿丹部先輩。お仕事ほとんど押し付けちゃって」

 「別にいいよ。李下ってなんでもできるんだね。この前も、アリスちゃんからちょっとオカルトを教わっただけで、詩の暗号を解いちゃったらしいじゃん」

 「先生が良かったんですよ」

 

 阿丹部への気配りも謙遜もしながら、目と手は止まらず動き続けている。聞いた話だと運動はからっきしらしいが、机に座れば瓜生田の器用さと万能さは目を見張るものがある。特にそれが牟児津のためとなれば、他の何を置いても最優先で100%全力を出し切るという。

 

 「何か分かった?」

 「……気になる点はありますね」

 「あるんだ。すごっ」

 「ノアさんから送られてくるメールなんですけど、送信時刻がどれもピッタリ00秒なんです」

 「なんそれ。どゆこと」

 「メールを送る時間帯はバラバラなので、送信時刻そのものに意味はなさそうです。学園生なら授業や部活でどうしてもメールできない時間帯があるはずですが、敢えてその時間に重ねて送られてるということは、おそらく予約送信機能を使っています」

 「ふーん。そーなん」

 「メールの送信時刻をバラつかせることで正体がバレないようにしてる……逆に言うと、メールをすぐに送信したら送信時刻で正体がバレるってこと?予約送信はパソコンでもスマホでもできるから……文字を打った時間が分かれば……」

 「こわっ」

 

 牟児津と葛飾には期待し過ぎないよう言っていた割に、メールを睨む瓜生田の眼差しは真剣だった。普段の瓜生田は、どんな激務の中でも朗らかに微笑み、のらりくらりと仕事を(こな)してはいつの間にか時間を作って本を読んでいる優秀な生徒だ。だからこそ必死の形相を見せる今の姿は、阿丹部には異様に映った。

 

 「んん……私はあんまり強く言えないけど、頑張るのもほどほどにね。今はいいけど、片付けだけは手伝ってほしいかな」

 「ありがとうございます、阿丹部先輩」

 

 おそらく瓜生田は、牟児津のために牟児津の見ていないところでこれくらいの努力は当然にしているのだろう。そうでなければメールの束を受け取ったときに、あんな風に謙遜はできない。

 それが何であれ、本来すべきことを投げうってでも全身全霊でやらなければならないことというのは、阿丹部にも多少の覚えがあった。なので図書委員の仕事そっちのけでメールに赤ペンを走らせる瓜生田を止めることはできなかった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 砂野から話を聞いた後、牟児津と葛飾は中庭で動画を見ていた。広報委員会が制作している、蒼海ノアを起用した学園の紹介動画である。広報委員室で観たときは動画の内容ばかりに気を取られていたが、そのコメント欄やその他SNSでの評判等を調べてみると、おおむね砂野から聞いたとおりのことが書かれていた。

 

 「こりゃひどい。言いたい放題だな」

 「いくらバーチャルだからって……あまりに下品です。読んでられません」

 「無理して読まなくてもいいよ。だいたい事情が分かったから」

 

 動画のコメント欄は好意的なコメントが多くを占めていた。おそらくネガティブなものや過激なコメントは、システムや広報委員会によって検閲されているのだろう。しかしそれらの手が及ばない外部SNSでは、動画の内容はおろか蒼海ノア自身についても散々な言われようだった。

 学園のPRにVストリーマーを起用すること自体に不快感を示すものから、蒼海ノアの容姿や性格についての罵詈雑言、要領を得ない主観的な評価に、声優担当や広報委員に向けた品性を疑う下劣な発言まで、様々だった。真面目にひとつひとつのコメントを読んでしまった葛飾は、真面目にひとつひとつのコメントに憤慨し、その内容に当てられて具合が悪くなってしまった。

 

 「動画を見る限り、こんなことを言われる筋合いなんてないじゃないですか。これじゃあんまりです。言ってはなんですけど、ノアさんが嫌になって降板したくなってもおかしくないですよ」

 「うん……っていうか私が代わりにやるのもヤなんだけど……」

 「あっ、ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」

 「いいよ。やんないから。絶対正体を突き止める……でも、それだけじゃ解決しないよねこれ」

 「まあ……でも、こういうのって私たちがどうにかできる問題でもないですよ」

 「んぐう」

 

 最も激しく誹謗中傷が飛び交っていた時期はすでに過ぎているようだが、それでも今日この日にも新たな中傷コメントは密やかに増えている。結局のところ蒼海ノアはただの的に過ぎず、中傷の文面からは伊之泉杜学園に対する妬みや僻みを感じる。本質はそこなのだ。大きな学園であるが故に、伊之泉杜学園は常にそういった批判の矢面に立たされることも少なくない。だからこそ広報委員会は蒼海ノアを使ったPRでイメージアップを図ったのだが、それが裏目に出てしまっている。

 

 「……でもさ。ちょいちょい出て来てるこれって、砂野さんが言ってたことだよね」

 「ええ、たぶん」

 

 多くの投稿は中身のない文字の羅列に見える。しかしいくつかの投稿の中に共通している、“ヤラセ起用”という言葉が、牟児津には引っかかった。

 

 「だいたい何のことかは分かるけど、詳しいことがどこにも書いてないなあ。みんな雰囲気で言ってんじゃないの」

 「そうかも知れないですけど……でも、待ってください。もしこれが砂野さんのおっしゃってた起用の条件だとして、それが外部に漏れてるのってどういうことでしょう」

 「誰かがその話を外でしたってことだよね……ううん、この手の情報収集が得意なやつを一人知ってるけど……あんまり手を借りたくないんだよなあ」

 

 牟児津の頭に、いつも自分に付きまとう番記者の顔が浮かんだ。一言助けを求めれば、求めた以上の手掛かりを持って駆けつけてくるだろう。その点については信用できる。しかし対価としてまた自分が無理やり目立たせられてしまうのである。蒼海ノアと絡んでの喧伝などされれば、ますます平穏な生活が脅かされてしまう。

 牟児津はぶんぶんと頭を振って、浮かんだ顔をかき消した。

 

 「ちょっと自分で調べてみるか。えっと……や、ら、せ、き、よ、うっと」

 

 このくらいの調べ物は自分でやった方がいい。そう考えて、牟児津はスマートフォンでヤラセ起用について検索した。簡単に検索しただけでも、事件の概要や反響についてまとめたページがヒットした。思いの外、あっさり情報が手に入った。

 

 「あれ。こんな簡単なことなの」

 「今の時代、スマホがあればなんでも調べられますからね。便利ですけど、それすらやりたくない人たちもいるんですよ」

 「持ち腐れてんな〜。まあいいやそんなの。えっと、ヤラセ起用とは……」

 

 解説ページの内容に沿って、二人は少しずつヤラセ起用とその反響についてを知った。どうやらヤラセ起用の炎上は、蒼海ノアのオーディションに参加したというある生徒が、オーディションで渡された起用条件リストの写真をアップした投稿に端を発するらしい。参加前に条件の存在は一切知らされず、またその内容が非常に厳しいことで、オーディション自体が形式的なものではないかと疑う投稿である。生徒の自主性を重んじる伊之泉杜学園において、それを踏みにじるようなオーディションの在り方には当然批判が集中し、さらにそれが蒼海ノアにも飛び火したそうだ。

 

 「でもこれ、情報源が分からないですよ。普通こういうのって、出典なり原因の投稿のリンクなりを付けるものじゃないですか?」

 「そうなの?あんま知らないけど……あっ」

 

 葛飾の疑問に対する答えは、すぐに見つかった。そのページの最後の部分、ソース情報がリストアップされたところに注釈が付けてある。その注釈には、はっきり書かれていた。

 

 ──発端となった投稿は伊之泉杜学園生専用サイトに投稿されているため、リンクを貼ることはできませんでした──

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「で、戻ってきたのね」

 「益子(ますこ)さんに頼めばいいのに」

 「やだよ!目立つ!」

 「もったいないですよね。私も学園新聞で取り上げられるような活躍がしたいです」

 「ホント、譲りたいくらいだよ」

 

 牟児津と葛飾は、ヤラセ起用事件についてさらに詳しいことを調べるため、図書室に戻ってきた。図書室に事件に関する資料があるわけではなく、炎上の発端となった投稿を確認する術を持っている人物を頼って来たのだ。すなわち、阿丹部である。

 

 「この学園生専用サイトって、例の裏サイトのことだよね!阿丹部さん慣れてるでしょ?探してくんない?」

 「まあ、いちおう調べてはみるけど……牟児津さんだってアクセスできるんだから探してみたら?パスワード教えてあげるよ」

 「ごめん!でも私が直接こういうのにかかわったら、絶対もっとろくでもないことに巻き込まれる!自信がある!」

 「卑屈な自信だなあ。でもそれは私も思います。ただでさえこの有様なんですから、藪蛇にしかなりませんよ」

 「苦労してるのね、あなたたち」

 

 牟児津に懇願された阿丹部は、学園の裏サイトにアクセスして該当する投稿を探し始めた。その間、牟児津は瓜生田に、メールから分かったことを教えてもらう。

 

 「ごめんねムジツさん。そんなに大したことは分からなかった。やっぱり見様見真似じゃプロファイリングはできないよ」

 「うりゅに運動以外でできないことなんてあんの!?」

 「いっぱいあるよ。できることしかできないの」

 「できることだけか〜」

 「なんて中身のない会話……」

 「一個だけ気になったのは、メールの送信時刻だね。全部ぴったり00秒に送信されてる」

 「ふえ〜、几帳面な方なんですね」

 「そうかも知れませんけど、私はたぶん予約送信機能を使ってるんだと思います。時間になると予め作っておいたメールを自動で送ってくれる機能で、分単位までしか設定できませんから、必ず送信時刻が00秒になるんです」

 「そんな機能あんの?」

 「やり取りを初めた頃のメールで、一部文字化けしてるところがあるでしょ。こういうのは使われてる文字コードのズレが原因だから、そこからメールの相手が使ってるキャリアを突き止めて、契約プランを調べてみた。どのプランでも予約送信機能は標準搭載されてるから、ノアさんはほぼ確実に予約送信機能を使って送ってるってことが言える」

 「めっちゃ調べるじゃん。キャリアの契約プランまで?」

 「まあ、いちおうね」

 

 事も無げに瓜生田は言うが、この短い時間に一つでもメールの不自然な点に気付いて、その裏付けをはっきりと言える手掛かりを見つけてくるなど、そう簡単なことではない。牟児津と葛飾は二人がかりであちこち巡った結果、いま阿丹部に手掛かりを見つけてもらうよう頼んでいるところなのだ。葛飾は風紀委員として不甲斐なく思えてくるが、対照的に牟児津は得意げだ。瓜生田の努力を自分のことのように威張っている。

 

 「ま、うりゅにかかればこんなもんよ」

 「ご自分の手柄で胸を張ってください。みじめです」

 「誰がみじめだ!」

 「お二人は、何か見つけたんですか?」

 「いちおう、クラスメイトから蒼海ノアのオーディションの話を聞いて、実際にオーディションに参加された方からヤラセ起用の原因になった条件リストを入手しました」

 

 葛飾が、砂野から譲り受けた条件リストを瓜生田に見せた。しばらくリストを見ていた瓜生田は、おもむろに持っていた赤ペンを紙に走らせた。

 

 「えっ?」

 「んっ?」

 「あっ……。つ、ついさっきまでの勢いで……すみません。気になって赤入れちゃいました」

 

 どうやらしばらく集中していたことで瓜生田も疲れているらしい。自然な流れでリストに修正の赤を入れてしまった。瓜生田の顔も同じくらい赤くなる。

 

 「うりゅがうっかりミスするなんて珍しいね。何が気になったの」

 「ちょっと誤字があったからつい……」

 「誤字?そんなのあったかなあ」

 「これ。“以下の条件を撤底して遵守すること。”って部分。“撤底”じゃなくて、“徹底”が正しい表記だよ」

 「細け〜。ニュアンスで分かるでしょ」

 「気になっちゃうんだよね、こういうの」

 「むしろ気付けなかった私たちのみじめさがいっそう増した気がします……」

 

 牟児津も葛飾も、さらに言えば砂野もこの誤字には気付いていなかった。瓜生田が斜め読みで気付いた誤字を、何度も熟読していた自分が何度もスルーしていたことに、葛飾は非常にショックを受けた。

 

 「そう落ち込まないでください、葛飾先輩」

 「うう……」

 「牟児津さん。見つけたよ。ヤラセ起用の発端になったスレと書き込み」

 「おおっ!ありがとう!さっすが阿丹部さん!」

 

 葛飾が瓜生田との能力の差に打ちひしがれている間に、阿丹部が問題の投稿を見つけた。牟児津はすぐに阿丹部のそばに駆け寄って、スマートフォンを見せてもらう。そんな牟児津の背中を見て葛飾は、人の力を頼ることができる牟児津を羨ましく感じた。

 葛飾は、人の力を頼るのが苦手だった。人を頼り、宛てにし、任せて、手間と時間をとり、迷惑をかけてしまうことを恐れていた。人に迷惑をかけてしまうくらいなら、自分が人一倍頑張って解決できればいいという考えになってしまう。しかし葛飾には、人に頼らない分を補うだけの能力もない。だから風紀委員でも活躍できず、うだつが上がらないままなのだ。

 今日の放課後の短い時間で、それを痛いほどに感じていた。

 

 「こまりちゃん?なにしてんの?」

 「へっ……あ、いえなんでもないです」

 「裏サイト見ないの?」

 「み、見ます!」

 

 ぐるぐると落ち込んでいく思考を、牟児津のあっけらかんとした声でぶった切られた。ついマイナス思考になってしまうのも自分のよくないところだと自覚している。今はその暗い考えを振り切って、クラスメイトであり友達である牟児津の助けられるよう一生懸命になるしかない。

 葛飾は牟児津と一緒に阿丹部のスマートフォンを覗き込んだ。件のスレッドは、『蒼海ノアについて語るスレpart5』というタイトルで、かなりの数の書き込みがあったようだ。既に書き込み数が上限に達し、新たな書き込みができなくなっている。

 

 「ヤラセ起用の告発はこの書き込み。ご丁寧に写真付きで投稿してるよ」

 

 阿丹部の言うとおり、起用条件の全体が映るように撮影された写真とともに、オーディションで初めて条件が言い渡されたこと、そしてオーディション自体の正当性について疑問を投げかける投稿だった。投稿そのものは当然の感情として理解できるが、それ以降の書き込みの盛り上がり方や、それが外部ネットに波及していく流れには、牟児津と葛飾は恐怖すら覚えた。あまりに速く、あまりに過激で、あまりに感情的だった。

 

 「ひえ〜……めちゃくちゃ炎上してる。こっわ」

 「実際のところ、ノアさんがヤラセで起用されたのか、条件も込みで合格したのかは分かんないわ。でも世間的にはヤラセで確定してるみたいな言われ方ね」

 「ねえ阿丹部さん。この画面ってスクショしてもらえない?」

 「えっ。スクショってできるのかな……」

 「そんなことしなくても、私がアクセスしていつでも見せてあげるよ」

 「ううん。うりゅにこんなワケわからんサイトにアクセスしてほしくない。ウイルスとかあったらやだもん」

 「……ま、やってみるけど。そこまで警戒しなきゃいけないサイトでもないわよ。工総研のセキュリティはちゃんとしてるんだから」

 「そのコーソーケンってのもいまいち信用できん!なんか怪しい響きがする!」

 「考えすぎだと思うけどなあ」

 

 ともかく牟児津は、蒼海ノアのヤラセ起用疑惑の情報源にたどり着いた。阿丹部からスクリーンショットの画像を受け取ったところで、図書室の閉館時刻が迫ってきていることに気付いた。もうじき下校時間である。

 

 「いつの間にかずいぶん時間が経ってたのね。今日はここまでにしたら?」

 「うん……まあ、ちょうどキリもいいし」

 「明日また、広報委員会を訪ねてみましょう。今日の成果を報告しておいた方がいいですし、蛍恵さんのお話も聞きたいです。瓜生田さん。メール見ていただいてありがとうございました」

 「大したことはできませんでしたけど。あ、これお返ししますね」

 「助かりました」

 

 川路に追いかけ回されたのがはるか昔に感じられる。あれから旗日のテンションに付き合わされ、組織として危険な状態の広報委員に重責を担わされ、いろいろあっていくつかの手掛かりを手に入れた。牟児津は確かな手応えを感じていた。おそらく蒼海ノアの正体を突き止める手掛かりは、すでに集まっている。

 しかし、まだ分からないことがある。もうひとり、突き止めなければならない人物がいるはずだ。その正体が、今の牟児津にはまだ分からなかった。



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第4話「恋は盲目なんて」

 

 翌日、牟児津と葛飾は、蒼海ノアについて調べて分かったことを報告するのと、昨日早々に寝落ちして話を聞けなかった蛍恵から詳しい話を聞くため、広報委員室に向かった。いかがわしい雰囲気のある委員室の扉を、牟児津が軽くノックする。向こう側にその音が聞こえているのかすら怪しいが、それほど待たずに扉は開かれた。現れたのは、ヤジロベエ型の頭をした一ツ木だ。

 

 「あっ、あっ、あんたら……!よ、よく来たな……!?」

 「あの、ちょっと昨日までの調査結果のご報告と、蛍恵さんにお話を伺おうかと思いまして……いま、お邪魔でしたか?」

 「邪魔っていうか、あン?取りあえず……まァ、じゃあ、入りな」

 「?」

 

 いちおう部屋には通されたが、何やら一ツ木の様子がおかしい。牟児津を見るなり困惑の表情を浮かべている。何やら嫌な気配を察知した牟児津はすぐさま回れ右しようとしたが、襟を葛飾に掴まれて部屋の中に引きずられていった。

 

 「ここまで来て帰るなんてダメですよ真白さん」

 「ろくでもない予感しかしねぇ〜〜〜!!いやだ〜〜〜!!」

 

 一ツ木に案内されて委員室の中まで入ると、相変わらずこもった空気の嫌な臭いが鼻先に纏わりついてきた。ゾンビのように仕事を続ける委員たちは、入って来た牟児津を一様にじろじろと見つめ、委員長席の前に立った旗日と黄泉は、難しい顔をしている。何があったのか、それを尋ねる必要性を、牟児津は感じていなかった。すっかり人が自分に向ける敵意に敏感になってしまった。自分が疑われていることを肌で感じ取った。

 

 「ど、どうしたんですか皆さん?やっぱりお邪魔でしたか?」

 

 まだ疑念を肌で感じ取る訓練ができていない葛飾が、間抜けにも尋ねた。少しだけ、旗日の口からため息のようなものが漏れた気がする。あのハイテンションな旗日がこうなってしまうとは、よほどのことだろう。

 

 「……話をしよう」

 

 黄泉はあくまで冷静だった。

 

 「は、話、と言いますと?」

 「牟児津さん。君のこれまでの活躍は、私たちも聞き及んでいる。広報委員としては、その上で蒼海ノアの捜索を依頼したつもりだ。だから……ただひとつの根拠を持って頭ごなしに責め立てることはしたくないのだが……」

 「えっ」

 「はっきりさせよう。君が、蒼海ノアの炎上事件の発端なのかどうか」

 「えええっ!?え、炎上事件の発端!?」

 「はあ……だから入りたくなかったんだ……!またこんなことなるじゃん……」

 

 表情から、空気感から、前置きから、牟児津が察知した嫌な予感は正しかった。あろうことか、牟児津は広報委員会から、蒼海ノアを炎上させた犯人だと思われているらしい。葛飾はそんなことを言われるとは全く予想していなかったので、驚いて大声をあげてしまった。対する牟児津は、あくまで旗日も黄泉も盲目的に牟児津が犯人だと考えないようにしていることに、ありがたみさえ感じていた。今までのパターンなら問答無用で風紀委員に突き出されている。あるいはこの部屋で川路に待ち伏せされていたかも知れない。

 

 「その根拠ってのはいったいなんなんですか?」

 「蛍恵」

 「はぁい」

 

 黄泉が合図すると、蛍恵は部屋の隅に設置された床置き式スクリーンを持ち上げ、プロジェクターの蓋を開けた。日比が部屋を暗くし、スクリーンの画像が鮮明に浮き上がる。あらかじめこうなることを予測していたかのような準備の良さだ。

 映し出されたのは外部SNSの投稿で、写真が添付されたごく普通の投稿だ。

 

 「これは、あるアカウントから投稿されたものだ。投稿は昨夜20時過ぎ。内容は見ての通りだ」

 

 

 ──単語テストめっちゃ低かった(;´Д`)

   親にもバレておこづかいピンチ!

   甘いもの食べてべんきょうがんばるぞ!──

 

 

 「まあ、普通の投稿ですね」

 「問題は添付されている写真だ。個人情報にあたる部分は投稿者によって隠されているが、頭のシルエットが映り込んでいる」

 

 長い指示棒を使って、黄泉がプレゼンテーションのように写真を解説する。映っているのは牟児津たちも受けた英単語テストのようで、親切なことに伊之泉杜学園のシンボルも点数も、これ見よがしに残されている。氏名欄や持ち物に書いた名前はスタンプで目隠しをしているにもかかわらずだ。

 

 「昨日の話では、英単語テストに苦労していたらしいじゃないか。まさにこの投稿にある内容と一致する。それにこの結んだ髪の形といい髪の色といい、牟児津さんとよく似ているようだが、どうだろう?」

 「いやあ、どうっすかねぇ。自分じゃあんまり意識したことないんで……」

 「そのアカウントがなんなんですか!それが真白さんのアカウントだったら、どうだっていうんですか!」

 「……言わずもがなとは思うが、いちおう説明しよう」

 

 プロジェクターに映した画像が横にスライドして、新しい画像が映し出される。それは、先ほどと同じアカウントによる、写真付きの投稿だった。その文字と画像が、全てを物語っていた。

 

 「この画像は、工総研が運営している学園の裏サイトのスクリーンショットだ。蒼海ノアのヤラセ起用疑惑──彼女について調べたのなら知っているだろう──そのきっかけとなった裏サイトの投稿を、わざわざスクリーンショットを撮って学園外部に漏らした。それがこのアカウントだ」

 「えっ……じゃ、じゃあ……!」

 「さっきの投稿が牟児津さんのものだと言うことは、この投稿も牟児津さんのものということになる。すなわち、蒼海ノアが学園外で炎上している件についての発端ということになる!」

 「ひえええっ!ま、真白さんなんてことを!」

 「違うわ!私じゃない!そもそも私はそんなSNSやってないよ!」

 「今時そんな時代遅れな人がいるわけないじゃないですか!」

 「時代遅れで悪かったな!」

 

 黄泉の説明で、葛飾はすっかり牟児津が炎上事件の発端だと信じ切ってしまっていた。確かに、黄泉の説明にウソや誤りはないのだろう。だとしても、こうも簡単に友人を疑ってしまう騙されやすさに、牟児津は葛飾が心配になってしまった。しかし今は他人の心配をしている場合ではない。

 “蒼海ノアは、伊之泉杜学園全体を代表するものであるため、活動においては以下の条件を徹底して遵守すること。”──投稿に添付されている画像は、確かに阿丹部が見せてくれた裏サイトの投稿と一字一句同じだ。そしてもう一枚、最初に表示された投稿についても、広報委員会が牟児津のものだと考えてしまってもおかしくない。しかしだからこその違和感を、牟児津は口にする。

 

 「あの、これは私が疑われてるから言うわけじゃないんですけど……」

 「なにかな。反論も弁解も抗議も、きちんと聞くよ」

 「はあ……えっと、なんかこれ露骨過ぎません?」

 「えっ」

 

 黄泉はもう少し論理的なものを期待していただろうに、牟児津が口にしたのはそんなざっくばらんな感想だった。

 

 「普通、写真撮るときに、こんな影とか髪が見切れてるのなんて撮り直しません?名前は見えないようにしてるのに学園のシンボルが残ってるのもあからさま過ぎるし、なんか、“これは牟児津真白の投稿です!”って言ってるみたいじゃないですか」

 「ほう。なら牟児津さんは、これをどう説明する?」

 「……私に、炎上事件の責任を押し付けようとしてる。タイミングも考えたら、私に蒼海ノアを突き止められると困る人が邪魔しに来てるっていう感じがしますね」

 「ど…………どういう、こと…………かな…………?」

 

 スクリーンに映し出された二つの画像。昨日集めた蒼海ノアに関する情報、中でも不自然なほど厳しい起用条件とそれに端を発する炎上事件。今朝になってその疑惑が牟児津に向いている状況。

 牟児津は考える。蒼海ノアの正体はおそらく昨日集めた情報だけで判断できる。目星もついている。問題は炎上事件の発端だ。その正体は──。

 

 「……うん、うん。そうだよな。だから……たぶん」

 「ま、真白さん……?」

 「副委員長さん」

 

 牟児津が黄泉の顔を真っ直ぐに見る。部屋に入って来たときの緊張はすでに消え失せ、すっかり落ち着いて冷静な思考を取り戻した。真相の気配を捉えたときに切り替わる、牟児津の推理モードだ。その状態に気付いた葛飾は、牟児津の邪魔をしないよう後ろに下がった。牟児津がこの状態のとき、すでに犯人は近くにいるのだ。

 

 「分かりました。蒼海ノアの正体も、炎上事件の発端の正体も」

 「なにっ……?」

 「分かったって……いま?こんな急に分かるものなの?」

 「なんか、ひらめきました」

 「ひらめきってオイオイ!ムジッちゃん状況分かってんのか?デマカセ言ってこの場をやり過ごそうって風にしか聞こえねェって!」

 「どうする、夜」

 「聞きましょう!ムジツちゃんの推理……こんなチャンスないわ!ユーリ!Now is the time(録音開始)!」

 「……そう言うと思った」

 

 牟児津の推理モードを察知して、旗日はそれまでの難しい表情を一気に晴れやかに変えた。そして黄泉はレコーダーをセットして、牟児津の話を待つ。既に余裕を失っていた牟児津は、録音が開始されたことは耳に入っていたが認識できず、そのまま反対の耳から垂れ流しになっていた。

 

 「蒼海ノアの正体ですけど、昨日うりゅが……あ、私の幼馴染みが、蒼海ノアとのメールを分析してて気付いたことがあります」

 「えっ!?それ取扱注意っつったよな!?なに部外者に見せてんの!?」

 「印刷して渡す方が悪いと思います」

 「蒼海ノアから送られてきたメールは、どれも送信時刻の秒数が00秒になってました。これは、予約送信機能っていうのを使ったせいだそうです」

 「ほう……一ツ木のセキュリティ義務違反は一旦さて置くとして、予約送信というのは?」

 「指定した時刻に、作っておいたメールを自動で送る機能です。蒼海ノアはこれを使って、実際にメールを打った時間をあやふやにさせてました」

 「んぐぅ……うん?それぇ、あんま意味……なくないっ、ですかぁ……?メールできる……時間ってぇ……みんなぁ、同じです……よぉ」

 「そうね。むしろこれは……」

 「そう。蒼海ノアは自分の正体を隠すために、送信時刻をバラつかせました。でも逆にそうすることが、自分の正体を絞り込むことになってるんです。メールをそのまま送ったとして、送信時刻から正体を割り出せる可能性があるのは広報委員会──中でも蒼海ノアプロジェクトチームのメンバーだけです」

 「えっ……マ、マジ?」

 「つまり蒼海ノアは、プロジェクトチームに近しい人──それかチームメンバー本人です」

 

 りん、と空気の張り詰める音がした。その場にいる全員が息を呑む。捜し続けていた蒼海ノアの正体が、自分たちの隣にいる人物かも知れないという可能性。誰も顔を知らないのだから、当然その可能性は以前から存在していた。だが、誰もそれを考えてはいなかった。蒼海ノアが敢えてメールでやり取りする理由を、誰も真剣には考えていなかったのだ。

 

 「マ……ジ、かよ?えっ、だ、だれが……!?」

 「蒼海ノアの特徴は、以前聞いたとおりです。甘いもの好きで、体にコンプレックスがあって、不幸体質です」

 「そ、それで…………分かる、の…………?」

 「コンプレックスがあるかどうか、不幸体質かどうかは分かりません。でも、甘いものが好きな人なら分かります」

 

 目の前に並んだプロジェクトチームの3人に正対し、牟児津は指を持ち上げた。その指が向く先に、蒼海ノアがいる。誰もがその動きを注視していた。

 

 「それは──」

 

 緩く突き出された人さし指で、その正体を指し示した。

 

 

 「日比さん。あなたです」

 「……ひっ!?」

 

 

 真正面から、牟児津は日比に指を向けた。それを受けた日比は、小さく悲鳴を漏らす。全員の視線が一斉に注がれる。そのほとんどは驚愕の表情を浮かべていた。

 

 「なにっ!?ひ、日比だと……!?」

 「あなたは自分の正体を隠して蒼海ノアを演じた。そして自分がその場にいないときにだけメールが届くことで正体がバレることを恐れて、予約送信機能を使った。そうでしょう!」

 「ううっ、ああっ…………あ、あのっ…………わたしその、あぅ…………!えっと…………!」

 

 人前で話すことに慣れていないのか、日比はまともに喋れないほど口ごもる。明らかに異常な動揺を見せているが、しかし同時にその有様でストリーマーなどできるのか、その場の誰もが──牟児津でさえ──疑問に思った。

 

 「ちょっ、待てよムジッちゃん!言っちゃなんだけど、マイせんぱいにストリーマーは無理だぜ!?今でさえこれなんだから!」

 「だけど、蒼海ノアの手掛かりに当てはまる人は日比さんしかいないよ」

 「どうしてマイが蒼海ノアだと思うの?聞かせてちょうだい!」

 「……蒼海ノアのヤラセ起用疑惑ですけど、それはこの条件リストの厳しさが原因です」

 「あ、ああ……そうだが、それが理由か?」

 「この条件を全部クリアできる人って、実質的に広報委員だけですよね。だから蒼海ノアは広報委員の中の誰かだと思ったんです」

 「確かにその条件は厳しすぎた。だが私たちは譲歩したぞ。録音によって対応もすると」

 「メールによれば、蒼海ノア自身がその必要はないと答えてます。必要ならいつでも最新の音源を提供するとも言ってます。だから結局、この条件を蒼海ノアはそのまま受け入れてるんです」

 「それで?だとしても、チームメンバーの中からさらにマイが正体だと言うには根拠が足らないんじゃない?」

 「はい。でもこの3人の中で、甘いもの好きなのは日比さんだけです」

 「なぜ言い切れる?」

 

 牟児津がそのまま、プロジェクトチームのデスクに視線を移す。他全員の視線も、それにつられてごちゃごちゃと片付かないデスクに移った。

 

 「他の二人は、眠気覚ましにエナジードリンクを飲んでないんです。蛍恵さんはブラックコーヒー、一ツ木さんはカゲキックスです。甘いもの好きなら、甘く味付けされてるエナジードリンクを飲むと思うんですよね」

 「たまたまじゃないのか?甘いもの好きと言っても、常に甘いものだけ食べているわけじゃないだろう」

 「まだあります。日比さんは、昨日私がここでお団子を食べたとき、それが黒糖団子だって言い当ててました。焼き印以外に見分ける方法なんてないのに、一目でそれが分かったんです。相当な甘いもの好き、それも塩瀬庵のファンじゃないと分からないことです」

 「あ、あの…………それ、は…………匂いが、した、から…………黒糖の…………!」

 「私は一口で食べました!匂いなんてするはずありません!だいたい匂ったとして、こんな濁った空気でいっぱいのくっさい部屋で和菓子の繊細な匂いが分かるわけないでしょう!しかも日比さんは鼻までマスクしてるじゃないですか!」

 「ひいっ!ご、ごめんなさい!」

 「どこで声荒げてんだよ」

 

 大声を出した牟児津に怯えて、日比は頭を抱えてしまった。しかし周囲は、牟児津の話に納得していた。本当に日比が蒼海ノアなのか、押し黙った日比の次の発言を全員が待つ。息苦しいほどの沈黙の中、日比が周囲の様子を窺いながら、ゆっくりと顔を上げた。

 

 「…………あ、あの…………ごっ、んぐっ」

 

 緊張してうまくしゃべれない。日比は喉を鳴らして生唾を呑んだ。

 

 「ごめん…………なさい…………えと、か、かぁっ、かく、してて…………」

 「隠しててって……えっ、じゃあ……マイ、認めるの?」

 「は、はい…………。あの、わ、私…………そ、蒼海ノア…………してます…………!」

 

 衝撃的な告白であった。広報委員全員が、まさか本当に日比が蒼海ノアの正体だとは思っていなかった。牟児津の話を聞き、納得し、本人の反応を見てもまだ、あまりに差がありすぎる二人の姿が重ならずに信じ切れていなかった。

 

 「あ、あの…………わ、私…………人前だと、その…………無理、ですけど、ああうっ、えと…………カ、カメラとか、ひとり、でなら…………なんとか…………」

 「本当に……そうなのか?いや、牟児津さんの推理は、納得できるんだが……あまりに違い過ぎて……」

 「ワタシは信じるわ」

 「い、委員長……ほ、本気ですかぁ……?」

 

 いち早く、旗日はその事実を受け入れた。

 

 「マイが勇気を出して告白してくれたんだもの。信じる以外に何もできないでしょ」

 「あっ…………ありがとう…………ご、ざいます…………」

 「でもどうして正体を隠していたの?マイはワタシたちのこと、信じられなかった?」

 「そっ、そんなこと!ない…………あの、ただ…………は、はずかしくて…………。それ、に…………ノ、ノアちゃんと私じゃ…………キャラ、違いすぎて…………言ったら、あう、その…………げ、幻滅、される…………かな、って…………」

 「幻滅なんてしないわよ!むしろステキよ!私たちの知ってるマイと、ノアを演じてるカワイイマイ!そのギャップ!そういうのワタシ好きよ!」

 「そ、そう言って…………もら、えるなら…………よかった…………です」

 

 旗日が率先して日比を受け入れたことで、他の委員たちも徐々にその事実を現実のこととして理解し始めた。それは意外な事実ではあったが、難色を示す者はいない。少なくとも日比は、これまで蒼海ノアとして活動して広報委員会に多大な貢献をしてきた。委員としての仕事に加えて、家では蒼海ノアとして音声ファイルを作成する仕事をしていたのだ。責め立てる者などいない。

 

 「マジっすか……キャラもっすけど、声とか全然違うから気付かなかった」

 「声は…………あの、ソフトとか、で…………調整した、ら、なんとでも…………」

 「ううん……正直、収録風景にものすごく興味がある。見たい」

 「ああう、ご、ごめん…………人がいると…………ちょっと…………」

 「大丈夫!音声は聞いてるから、マイが楽しんでやってたのは伝わってるわ!それぞれがベストパフォーマンスを発揮できるやり方が一番なんだから、気にしないでちょうだい!」

 「は、はい…………」

 

 日比は耳まで真っ赤になって、うつむきブランケットの端を握ってもじもじしている。牟児津に全て暴かれてしまったとはいえ、秘密を打ち明けるのに相当な覚悟を要したはずだ。周囲に温かく受け入れられて、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。

 が、その落ち着きを一言で破壊するのが、旗日という人間だった。

 

 「で、どうして辞めるなんて言い出したの?」

 「うくっ…………!?あうぅ、そ、それは…………!」

 「蒼海ノアをやるのは楽しかったのよね?これからもたくさん楽しい企画を用意してるのに、どうして辞めちゃうの?ワタシはマイに、これからもノアを続けてほしいの!」

 「あ、で、でも…………わ、私、じゃあ…………めい、わく…………だから…………!」

 「迷惑なんてしてないわ!」

 「ち、違うん、です…………!そのぉ…………炎上、してて…………!私の…………声とか…………しゃべり、方…………変、だから…………」

 

 日比は責任を感じていた。蒼海ノアとして活動を始めて間もなく、ネット上では賛否両論が噴き出した。学園が新しい挑戦をすることに肯定的な意見もあれば、教育機関としての在り方を問う否定的な意見もあった。表立って活動する以上、評価がついて回るのは仕方がない。その点は日比も覚悟していたし受け入れていた。

 しかしヤラセ起用疑惑が発覚すると、蒼海ノアへの否定意見が多くを占めるようになってきた。中でも日比は、声やしゃべり方、演技の仕方に関する否定意見が目に付くようになってしまい、徐々に自信を失くしていた。

 加えて、ヤラセ起用疑惑に端を発する学園や広報委員への中傷コメントを見て、日比はますます落ち込んでいった。自分への攻撃はまだ耐えられるが、学園への攻撃は耐え難いほど苦しかった。それに責任を感じた日比は、遂に自ら蒼海ノアから身を引くことで事態を収拾しようと考えたのだった。

 

 「わ、私は…………学園が、す、好き…………!私の、せいで…………学園まで、ひどい、こと…………言われるの、嫌、だから…………!」

 「そんな!あれは日比先輩のせいじゃないです!あんなの気にしちゃいけません!」

 「でも…………!」

 「そうよ。マイの演技はPerfect(完璧)だわ。マイのことを悪く言う人より、マイの演技を楽しんで、待ってくれてる人の方がたくさんいるのよ」

 「ああううっ…………」

 「そう簡単な問題でもないだろう」

 

 励まそうとする旗日や葛飾に対し、黄泉は冷静に言った。

 

 「多くは便乗しているだけだろう。だが賛辞も批判も、多少の本音が紛れているものだ。どれが本音か分からない中では必然、敵は大きく見える」

 「よ、要するに?」

 「気にするなと言っても気になるものだ。炎上しているのは事実なのだから」

 「そうです。それに……これは推理とかじゃなくて私の予想なんですけど、蒼海ノアを炎上させた犯人の目的は、声優の降板なんだと思います」

 「なにっ?」

 「犯人……そ、そうだ!ノアの正体だけじゃなくて、炎上事件の発端も分かったって話だった!忘れてた!」

 

 話の軌道が元に戻った。牟児津が暴くのは蒼海ノアの正体だけではない。学園の裏サイトに条件リストの存在を告発し、その写真を外部SNSに投稿し、蒼海ノアとそのオーディションの炎上を仕掛けた犯人もだ。牟児津は、苦々しい顔をした犯人を見た。

 

 「先に言っておきます。その犯人も、この広報委員会の中にいます」

 「んだとォ!?何を根拠に言ってんだ!」

 「起用条件リストの写真です」

 「んん?」

 

 プロジェクターで投影された投稿画像の前に、牟児津が立つ。その手には、砂野から手に入れた起用条件リストがある。牟児津は写真のリストと手に持ったリストの二つを並べ、全員に示した。

 

 「この投稿にあるリストは、実際に配られたリストじゃないんです。おそらく、オーディションの後、犯人がこの投稿のために印刷したものなんだと思います」

 「なんでぇ、そんなことが分かるんですかぁ……?」

 

 牟児津は、手に持ったリストの一点を指した。昨日、瓜生田に見せたときに赤ペンで囲まれた部分だ。

 

 「配られたリストには漢字の間違いがあったんです。でもこの投稿の同じ文章では正しい字に直ってます。印刷してある字を直せるのは、これを作った人、つまり広報委員しかいません」

 「あっ!本当だ!」

 

 葛飾は、また自分が何も気付いていなかったことに気付いた。瓜生田が赤ペンを入れた“撤底”の誤字が、写真だと“徹底”に直っている。ペンで上書きしたのではなく、印刷自体が直っているのは、かなり大きな意味を持つ手掛かりだ。

 牟児津がそれを指摘すると、広報委員の中から遠慮がちに手が上がった。

 

 「あっ、そ、それなんだが……」

 

 手を挙げたのは、黄泉だった。

 

 「すまない。その字を直したのは私だ」

 「えっ……?ふ、ふくいいんちょう……?」

 「オーディションの後で誤字に気付いて、広報委員としてあるまじきことだと思ってつい直してしまった……。い、いやしかし、私は誓ってそんな投稿はしていないぞ!」

 「はい。副委員長さんじゃありません。だってこの誤字に気付いてたんなら、直したものをわざわざ投稿しません。自分から容疑者を絞り込むだけですから」

 

 犯人が焦りながら歯ぎしりしている。徐々に自分が追い込まれていることを感じ取り、どうするべきか戸惑っている。牟児津の目は決して犯人を逃がさず、さらに追い込んでいく。

 

 「犯人は誤字に気付かなかった。だから直されてることにも気付かずこの写真を投稿して、大きなヒントを残してしまったんです。そしてもう一つの投稿で、犯人が誰か分かります」

 「あの、ムジツちゃんのシルエットが写った写真?」

 「はい」

 

 もう一枚の投稿が、スクリーンに映し出される。写真に写ったシルエットとスクリーンに落ちた牟児津のシルエットはそっくりだった。そのままコピーしたかのような正確さが、却って不自然さを醸している。

 

 「この投稿は、明らかに私に罪を着せるために作られてます。でも、ひとつだけ決定的に違う場所が……ここです」

 

 牟児津が指さした。投稿した写真に写り込んだ、スタンプで目隠しされていない、英単語テストの点数──3点という数字を。その意味に、葛飾だけが気付いた。

 

 「あっ……」

 「この単語テスト、私は3点なんか取ってません。だからこれは──」

 「そうですよ!真白さんは卑怯な手を使ってやっと1点取れるような人なのに、3点取って低かったなんてこと言えません!絶対に!」

 「……」

 

 葛飾が間の抜けた沈黙を連れて来た。広報委員全員が“マジかこいつ”の感情を視線に乗せて牟児津に向ける。推理で頭がいっぱいとはいえ、その視線を一身に受けた牟児津はさすがに赤面した。そして余計なことを言うなと葛飾を睨みつけ、雑念で推理を忘れる前に話を戻した。

 

 「と、とにかく私はこんな点数取らないんです!だからこれは私のじゃないけど、犯人は私が英語苦手なことを知ってこんな投稿をしたんです!」

 「いや苦手ってレベルじゃねェぞムジッちゃん!ノー勉でもそれはねェって!」

 「だから犯人は、私が英語苦手なことを知ってる広報委員!!そんなのひとりしかいません!!そうでしょう!!蛍恵さん!!」

 「ふぇぅ」

 

 一ツ木の非難を強引に突破しながら、牟児津は犯人の名前を呼んだ。広報委員は信じられないほど成績が悪い牟児津と、信じられないほど意外な犯人の正体に、どちらを見ればいいのか分からず首を左右に振り回していた

 

 「な、なんで私なんですかぁ……?」

 「私が英語苦手だってことを話したのは蛍恵さんだけだからだよ」

 「いや……だ、だってその場にはぁ……まい先輩もぉ、あさひさんもいたでしょう?」

 「日比さんは蒼海ノアだよ。自分で炎上させる意味がない。一ツ木さんはその話をしたときはイヤホンを着けてて、肩を叩かれるまで気付かないくらいだった。私たちの会話を聞くことなんてできないんだよ!」

 「あう……あうあう……!」

 「そういえば、起用にあたって条件を付けようと言い出したのは蛍恵だったな」

 「そ、そうなんですか?」

 「興味本位で来られても選ぶのが煩雑になるからと言っていたが……はじめから炎上させるつもりだったのか?」

 「そんなぁ……そんなこと、あるわけないじゃないですかぁ……!わ、私はただ……!」

 

 そこから先の言葉を、蛍恵は口に出せなかった。突き刺さるような周囲の視線に、自分の言葉など何の力も持たないと直感的に感じ取った。一ツ木の驚愕の視線、日比の怯えるような視線、黄泉の疑いの視線、そして旗日の悲しそうな視線。助けを求めて目を泳がせるたび、ひとりひとりと目が合うたび、他人の感情が流れ込んでくるようだった。蛍恵はそのまま、へなへなと(くずお)れた。

 

 「あうぐぅ……ふぐっ……」

 

 牟児津の推理を覆す力はない。言い逃れできる証拠もない。残された謎は何もない。完全な手詰まりに陥って、蛍恵は眠気も覚めた。このまま気絶するように眠って、全て夢になってしまえばいいのに。現実はそう簡単には逃がしてくれなかった。

 

 「ミヤコ……話してちょうだい」

 「あう」

 

 旗日が向ける悲しみの感情が何よりも突き刺さる。そんな表情をさせているのが、他でもない自分であることが、蛍恵には最も耐え難いことだった。

 

 「だ、だってぇ……!や、やりたかった、から……!」

 「うん?」

 「私……私が……!やりたかった、から……!蒼海ノアは私がやりたかったから!!」

 

 蛍恵は力強く言い放った。だがそれは、子犬が吠えるようにか弱くて、子供のわがままのように幼い主張だ。

 

 「旗日委員長が頑張ってデザインしてくれて、期待して、夢中になってるプロジェクトなんですもん!私が声優をやりたかったですよ!そのために無茶苦茶な条件まで作って、なんとか出来レースのオーディションまで開いたのに!」

 「な、なに言ってんだみゃーこオイ?自分が何言ってっか分かってンのか?」

 「それなのに結局どこの誰かも分かんない人に決まっちゃって!だから降ろすために炎上だってさせたのに!そしたら私が代わりにやれると思ったのに!なんで牟児津さんなんですか!どうして私じゃダメなんですか!」

 「え、えっと……?蛍恵さんは、メールの相手が日比先輩だっていうことは……?」

 「そんなの分かるわけないじゃないですか。分かってたら代わってくださいって直接言いましたよ」

 「ええ……?」

 

 一度決壊したダムは全ての水を吐き出すまで止まらない。蛍恵が抑え込んでいた感情も、牟児津の推理によって壁に穴を開けられ、本人さえ意識しないうちに次から次へと流れ出てくる。

 

 「……そう、そんなにミヤコは、ノアの声優をやりたかったのね」

 「はい……」

 「それじゃあ次の質問。どうしてそこまでノアの声優にこだわるの?」

 「うう、だ、だって……それは……」

 

 旗日の質問に、蛍恵はちらと旗日を見つめ返した。激しい感情の怒涛の後だと、ひどく落ち着いて見えるほどもじもじしている。不気味なほどの緩急だった。

 

 「声優をやったら、委員長にもっと褒めてもらえるじゃないですか……!」

 「……………………え?」

 「私は委員長に褒めてもらいたいんです……!委員長に頑張ったわねって褒められて、委員長にカワイイわねって抱きしめられて、委員長が淹れてくれたホットミルクを飲んで委員長によしよしされながら委員長の膝枕で寝て委員長の夢を見て目を開いて一番に委員長の顔を見たいんですッ!!私は広報委員会も旗日委員長も大好きですし尊敬してるからッ!!」

 

 なぜか牟児津は口の中が甘ったるくなった。これほど巨大で妄執的な愛情表現は初めて見た。追い詰められた末とはいえ、これほどの感情を真正面から人にぶつけている様に、ひどく精神を揺さぶられた気がした。だが変質的とは思わない。昨日の蛍恵と旗日はだいたい今言ったようなことをしていたから。

 当の旗日は、目を丸くして蛍恵を見つめ返していた。

 

 「いつも頑張れば頑張るほど委員長は褒めてくれるのに、最近は蒼海ノアにお熱じゃないですか……ちょっとならいいですけど、スタンドパネル持ち込んだりいつも蒼海ノアの話をしたり……。そんなの、私だって我慢できなくなってついかまってちゃんしたくなったりもしますよ」

 

 蛍恵がしたことはかまってちゃんと言えるレベルのことではないのだが、その認識のずれは旗日への巨大な愛情による盲目さ故だろうか。蒼海ノアの声優をするために蒼海ノアを炎上させるという矛盾した行いも、今の話を聞いた上でならなんとか理解できる。

 

 「結局のところ、蛍恵、お前は……蒼海ノアに嫉妬していたということか?だから、自分が蒼海ノアになって夜の気を引こうとしたのか?」

 「ヤですよ副委員長。二次元キャラに嫉妬なんてするわけないじゃないですか。私は、委員としての仕事っぷりをもっともっと評価してほしいだけです」

 「なるほど、こりゃ重症だ」

 

 一ツ木たちは一様に嘆息した。蛍恵は自分の感情をはっきり自覚しているわりに、自分の行為についてはその本質や影響を全く考えていない。蒼海ノアにまつわる一連の作為は全て、蒼海ノアに成り代わる、ひいては旗日の目を自分に向けさせるために行われたことだった。世間の蒼海ノアに対する評価やそれに伴う広報委員の仕事への影響、自分に向ける以外の旗日の感情さえも、一切興味の埒外にある。

 そんな蛍恵の想いをぶつけられた旗日の表情は真剣だった。昨日見せていた奔放で騒々しい姿は鳴りを潜め、上級生らしい顔つきになっていた。

 

 「恋は盲目なんて、シェイクスピアもよく言ったものね」

 「はい?」

 「ミヤコ、あなたは恋をしてるのよ」

 「恋ってそんな……!私はそんな不潔な感情なんて委員長に対して持ってないですよ……!」

 「ええそう、ワタシじゃないわ。ミヤコが恋してるのは、()()()()()()()()()よ」

 「……んへぇ?」

 

 旗日は毅然と言い放った。蛍恵の上気した顔が冷える。

 

 「ワタシは、きちんと仕事を頑張った人はきちんと評価しているつもりよ。たとえミヤコがノアの声優をしてなくても、あなたのことはいつも見ていたわ。だからもしミヤコが正しいやり方でノアの声優を勝ち取ろうとすれば、ワタシはきちんと判断した。でも、あなたはそうしなかった。それがワタシは残念なの」

 「えっ……?えっ……?」

 「人を引きずり落とすやり方で成り代わっても、ワタシはきっとあなたが演じるノアを愛せなかった。あなたが思っているほど、人は単純じゃないの」

 

 (くずお)れた蛍恵に旗日が近寄る。瞳が鏡になるほど肉薄すると、蛍恵の熱い吐息を頬で感じた。熱を帯びた瞳を覗き込む旗日の眼差しは冷たい。

 

 「あなたは蒼海ノアになんてなれない。絶対に」

 「ひゃ、はふひっ……!」

 

 声にならない声を漏らして、蛍恵はそのまま固まった。旗日の眼差しに凍えたのか、あるいは脳がオーバーヒートしたか、いずれにせよもはや自力では何もできない状態だった。

 

 「コマリちゃん。トシヨを呼んできてくれる?」

 「へっ……は、はい!」

 

 ただ黙って見守っていた葛飾は、旗日の求めに応じて委員室を飛び出した。まもなく葛飾は川路を連れてやってきた。旗日から事の顛末を聞くと、川路はパーティションからはみ出ている牟児津の赤い髪を一瞥し、蛍恵を連れて葛飾とともに部屋を出た。

 川路がいなくなったことを確認し、牟児津はおそるおそる隠れ場所からまろび出る。

 

 「あ、あのぅ……川路さん、もういないですかね?」

 「さっきまでと全然態度違うな!?めっちゃ堂々としてたじゃんか!」

 「いやあ、あの……ちょっと、色々あって」

 

 葛飾が飛び出すや否や、牟児津は川路が来ることを察して会議スペースに飛び込んで身を隠したのだった。たった今、正体を隠していた二人の広報委員の全てを暴いた名探偵から、川路に怯える小動物のように一瞬で姿を変え、ほとんどの委員は牟児津が隠れたことに気付いていなかった。

 気まずそうに出て来た牟児津に、バツの悪そうな顔をした黄泉が声をかけた。

 

 「牟児津さん……その、なんと言えばいいか……。いや、まずは、ありがとう。依頼を完遂したどころか、内部の問題まで解決してもらって……広報委員会として、本当に感謝する」

 「あ、いや別にその、あっ、そうっすかね?はぁ……蛍恵さんのことは、ちょっと気になったから考えただけのことなんで、そんなそんな……」

 「まさか、蒼海ノアも炎上を仕掛けた者も広報委員内部の人間だとは……知らなかったとはいえ、こんなことに巻き込んでしまって本当に申し訳ない」

 「あのぅ……わ、私は別に、蛍恵さんをあの鬼に──川路さんに引き渡すまではしなくてもって思ったんすけどね……?」

 「そういうわけにはいかないわムジツちゃん。これはケジメよ」

 

 真摯に感謝と謝罪の言葉を述べる黄泉の後ろから、旗日が牟児津に近寄って来た。蛍恵に向けた表情とは違うものの、いまだ真剣な顔をしている。

 

 「ミヤコのしたことは学園内で済む問題じゃない。それにマイもひどく傷ついてるわ。たとえ炎上の件が決着してマイがミヤコを許したとしても、それだけで済む話じゃないの」

 「そ、そうなんですか?」

 「責任っていうのはそういうものよ」

 

 そういうものなのか、と牟児津はあやふやに納得した。だが旗日は、その場でクビを宣告する権限があるにも関わらず、蛍恵にそうは言わなかった。それは旗日の甘さだろうか。あるいは蛍恵に与えられた最後の猶予だろうか。その真意は牟児津には分からない。ハイテンションなときと真剣なときの二面性を見ると、牟児津には旗日が、底の見えない恐ろしい人物に思えてきた。

 

 「ムジツちゃん。広報委員会のトラブルに巻き込んでしまって本当にごめんなさい。ミヤコを叱った後にこんなこと言うのも恥ずかしいけれど……ワタシ、ちっともみんなのことが見えてなかったわね。ムジツちゃんが挙げた手掛かりは、全部ワタシも知ることができたものなのに」

 「はあ。まあ、私は別に、これで解決するならいいですよ」

 「あはっ、優しいのね。いつかワタシが個人的にお礼させてもらうわ。けどその前に……ユーリ、約束のもの」

 「ああ。牟児津さん。これを」

 

 旗日に促された黄泉が、部屋の奥から手提げ袋を持ってきた。中には、牟児津が楽しみにしていた黄金饅頭が入っている。

 

 「本当ならこれ以上のものを渡したいくらいだが、今はこれしかない。後日また教室まで持って行くから、今はこれを受け取ってくれないか」

 

 旗日といい黄泉といい、牟児津には二人が過剰に感謝し過ぎているような気がしていた。事件を解決したこと以上に、牟児津を巻き込んでしまったことへの申し訳なさや、委員会の責任者としての立場がそうさせているような気がして、牟児津はなんとなく薄ら寒さを感じた。

 そして差し出された黄金饅頭にも、食べたいと思う反面、受け取りづらさを覚えた。果たしてこの事件を解決した報酬として、この饅頭を美味しく食べられるのだろうか。牟児津にはそんな気が全くしなかった。

 

 「……いやっ、なんか、いいです」

 「んっ?」

 「べ、別にこれがいらないとか怒ってるとかいうわけじゃないですよ!?でもなんか……いまは、受け取れる気がしないっていうか……もらっちゃ悪い気がするっていうか……」

 「そんなことないわ。約束だもの。受け取って頂戴」

 「い、いいです!すんません!あのっ……そう!これ私、自分で買おうと思ってたんです!」

 「ちょっ、ムジッちゃん!?おいおい!なんで逃げるんだよ!?」

 

 にじり寄ってくる旗日と黄泉をかわし、牟児津は一目散に委員室の出口に向かう。本当のことを言えば、黄金饅頭は喉から手が出るほど欲しい。しかし、今はそれから逃げなければならない気がした。上手く言語化できないもやもやした気持ちが、黄金饅頭に纏わりついているような気がしてならないのだ。

 

 「やっぱりそういうのは自分の力で買って食べるのが正しいと思うんすよね!っつうわけで私はこれで!あっ、ちゃんとこの件は秘密にしますし、私マジでちっとも怒ったりとかしてないですから!んじゃども!おつかれっした!」

 

 早口で気遣いと労いの捨て台詞を吐き、牟児津は委員室を出てドアを閉めた。金具のはまる音がした瞬間、外のすがすがしい空気が肺の奥の熱をこそぎ取っていった。まるでそのドアが世界を隔てているようだ。

 こちらの世界は明るくて、すがすがしくて、嫌なことなど何も起きていないかのように静かだった。今更になって牟児津は、黄金饅頭への名残惜しさがこみ上げてきた。明日、黄泉が新たにお菓子を持ってきたら受け取ってしまうかも知れない。自分の意思の弱さは自分が一番よくわかっている。

 

 「……勉強しよ」

 

 今は、据え膳を拒んだこの覚悟の火を絶やさないようにと、自分自身を奮い立たせた。覚悟を形に変えるため、その足は昨日の続きをたどるように、図書室に向けて進みだした。



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その7:部室のカギ争奪騒動事件
第1話「アイドルかよ」


 

 なんでもない穏やかな日だった。午前の授業は退屈だったが、それもいつも通りだ。昼休みにまったりと昼食を摂った後はずっと机に体を預けてのんびりとしていた。午後の授業が始まるまでまだ時間がある。先にトイレを済ませておこうと、牟児津(むじつ) 真白(ましろ)は席を立った。

 席を外していたのはほんの数分だったが、牟児津がクラスに戻ったとき、空気がまるで変わっていた。砂糖水の雨でも降ったかのような、ほのかに甘い匂いが漂っていて、クラスメイトたちの顔はどことなく蕩けている。

 

 「どったの?」

 

 誰に言うともなく、牟児津は問いかけた。返事をしたのは、普段の凛とした顔つきがすっかり崩れて落書きのようになった、時園(ときぞの) (あおい)だった。

 

 「た、田中(たなか)副会長がいらしたのよ……ステキだったわぁ……」

 

 顔だけでなく声も蕩けている。うっとりした表情で薄く頬を紅潮させているのは、恋する乙女ようだ。副会長と聞けば、さすがの牟児津も誰のことか分かった。ここで言う副会長は、高等部生徒会の副会長だ。だが牟児津は、その詳しい人となりは知らない。

 

 「ふーん。副会長ってどんな人だっけ」

 「伊之泉杜学園高等部生徒会本部副会長兼学生生活委員長、田中(田中) 光希(みつき)先輩よ!!知らないとは言わせないわよ!!」

 「ひえっ」

 

 不用意な牟児津の発言は、時園をはじめ多くのクラスメイトの蕩けた顔を敵意に満ちた顔に変えた。時園が捲し立てた副会長の肩書きも、牟児津にはその半分も理解できなかった。掴みかかられるような勢いで詰め寄られた牟児津は、近くにいた葛飾(かつしか) こまりに目で助けを求める。

 

 「あの、真白さん。高等部には生徒会本部と十一委員会があることはご存知ですか」

 「そりゃさすがに」

 

 正直なところ、牟児津は委員会が11もあるのは知らなかったが、小さい見栄を張った。

 

 「生徒の自主性を重んじることを是とする伊之泉杜学園(うち)では、より生徒に近い位置にいるという理由で、学園本体より生徒会の方が実質的に学生生活全体を取り仕切り、管理する立場にあるんです。中でも高等部では生徒が精神的に成熟しているということで、各委員会の長と生徒会長及び副会長から成る生徒会本部は絶大な影響力を持っています」

 「なんだそのマンガみたいな権力構図」

 「実際そうなってるんだから仕方ないじゃない。活動内容がほぼ警察と変わらない風紀委員なんかが良い例よ」

 「で、田中先輩はその生徒会本部の副会長と学生生活委員長を兼務されている方なんです。普通は片方だけでも、相当な激務で学業との両立は難しいと言われているにもかかわらずです」

 「そんなん大人がやればいいと思う」

 「大人の影響を極力少なくして、学生の自主性や自律性を育てるのが伊之泉杜学園の校風なのよ。初等部から通ってるなら分かってるでしょ」

 「んまあ……」

 

 正直、分かってなかった。

 

 「学生委(()()()員の略)といえば時園さんも所属してらっしゃいますけど、学生生活全般に関する総合的な管理運営──特に部や同好会の活動を中心に雑務を担当しています。真白さんに分かるように言うなら、なんでもやるってことです」

 「わあ分かりやすい、ってバカにすんな!それくらい分かるわ!」

 「だから副会長がされてるのはただの兼務じゃないのよ!この学園全体を実質的に運営していく生徒会本部の副会長と、学生生活の全てを管轄する学生生活委員の長を同時に務めてらっしゃるの!総理大臣と大統領を同時にやるくらいすごいことなのよ!」

 「それを国でやったら独裁になるんじゃね?」

 「一般生徒や部会の上にある委員会の、さらに上にあるのが生徒会本部ですから、具体的な実務を担当しているという意味では、事実上この学園で最大の影響力を持ってると言っていいですね」

 「あっそう……そんなラスボスみたいな人がなんだってうちのクラスに」

 

 時園と葛飾の口から田中副会長という人物の傑物ぶりが語られるほど、牟児津の中でそのイメージがどんどん巨大になっていった。ただでさえ激務の役職を二つ兼任しているとか、事実上の学園内最高権力者とか、そんな浮世離れした話は牟児津には関係のない話だ。なるべくそういった人物とは関わらないように生活してきたのだ。

 だから牟児津はすでに嫌な予感がしていた。そんな女傑が何の意味もなくこのクラスを訪ねるはずがない。何か用があって来たに違いないが、その相手が自分ではないかと戦々恐々している。しかし、それは杞憂だった。

 

 「なんか鯖井(さばい)さんに御用だったみたいよ。うらやましいわよねぇ……田中副会長と直にお話できて、あまつさえあんな激励のお言葉をいただけるなんて……!私も副会長とお話してみたいわ……」

 「同じ委員会なら話す機会くらいあるんじゃないの」

 「バカ言わないで!ただでさえお忙しいのに、私みたいな末席の者のために副会長の貴重なお時間を頂戴するなんてことできるわけないでしょ!」

 「感情が難しいなあ」

 

 副会長ともなると、風紀委員長や広報委員長など、あの一癖も二癖もある面々をまとめる立場だ。相当な人徳者なのだろう。時園はじめクラス全体が蕩けてしまうのも、さもありなんというものだ。そんな人物がわざわざ出向く用事とはいったい何なのか、牟児津は少しだけ興味があった。わが身のこととして考えるとこんなに胃の痛むことはないが、他人事だと思うとたちまち面白そうなゴシップに感じられるから不思議だ。いつも引っ付いてくる番記者の野次馬根性を笑えない。

 

 「そんな貴重な時間を使わせた鯖井さんっていったい……何やらかしたんだろ」

 「嬉しそうですね真白さん」

 「そんなことないよ」

 「いつも自分がやらかしてるから、人の失敗が嬉しくなっちゃったんじゃないの」

 「私は一回もやらかしてない!」

 

 牟児津が自分の席に戻ると、ちょうど噂の鯖井(さばい) (はる)がそこに陣取っていた。どうやら牟児津の真後ろの席に座る(むろ) 皐月(さつき)に用があるらしい。室の机を挟んで、二人は何やら話し込んでいた。鯖井に席を譲って貰うついでに、牟児津は二人の会話に交ざってみる。

 

 「鯖井さん、室さん。何の話してんの?」

 「おっ?牟児津さんもサバゲーに興味ある?」

 「サバゲー?」

 「そう!サバイバルゲーム!面白いよ!こうやって銃を構えてさ、撃ち合うの!」

 「……いやあ、私はあんまり」

 「やってみたら考え変わるって!室さんもさ、土曜日行こうよ!」

 「私、運動苦手だから」

 

 どうやら鯖井は、室をサバイバルゲームに誘っていたらしい。一緒にゲームをすることより、最終目的は鯖井が会長を務めるサバイバルゲーム同好会に入会させようという魂胆だろう。室は軽音楽部に入部していたはずだが、ほとんど顔を出していない幽霊部員だそうだ。兼部しても問題ないと考えたのだろう。この学園では、常にどこかで弱小部会による勧誘がなされている。どこも生き残るのに必死なのだ。

 

 「そんなことより、さっきなんか副会長さんが来たらしいじゃん。何の話だったの?」

 「別になんでもいいでしょ。牟児津さんには分からないことだよ」

 「実定に不備あったって。だから戻し」

 「ちょっと!」

 「へぇ〜。わざわざ来るなんて、ちょうど暇だったんかな?」

 「ついでだってよ?」

 「なんで言うかなあもう!恥ずかしい!」

 「どうせクラス中に知られてるのに。でもラッキーだったじゃん。みんなの憧れ副会長さんとお話できて」

 「確かに集会以外で会うの初めてだったけど、別に私はそこまでだし……むしろ会長の方がよくね?なんか、シャッて感じしてるじゃん」

 「それは同意」

 「ふーん」

 

 牟児津には会長の顔も、シャッて感じも分からなかった。鯖井の言うとおり、全校集会や行事以外で生徒会長や副会長に遭うことはほとんどない。常に何かの仕事を抱えていて、その他大勢の生徒たちとは別の場所にいることが多いからだ。なので牟児津のような、顔もろくに覚えていない生徒も僅かながらいる。また時園に怒られたくないので、牟児津はその部分については口を閉ざしておいた。

 そしてチャイムが鳴る。午後の授業が始まり、また退屈な時間が訪れた。牟児津は満腹感が呼び寄せた睡魔と戦い、抗い、逆らい、そして敗れた。ぐうすか眠っていると、いつの間にか授業は終わっていてHRが始まる時間になっていた。

 

 「ふがっ?」

 

 HR開始のチャイムの音が普段よりも大きく、腹の底にまで響いて牟児津は目を覚ました。いつもと違う鐘の音が聞こえるだけで、教室全体に緊張が走る。何か緊急事態でも起きたのか。全員がスピーカーから流れてくる次の言葉を待った。

 

 「こちらは生徒会です。全校生徒の皆さん。大切なお話がありますので、ただちに大講堂に集合してください。繰り返します。ただちに大講堂に集合してください」

 「副会長だわ」

 

 隣の席の時園がつぶやいた。スピーカーから聞こえてきた甘ったるい上品な声は、どうやら件の副会長のものらしい。大切な話とは何か。副会長が全校生徒を集めさせるほどの用事とはいったいなんなのか、牟児津には想像もつかない。しかし放送があったからには、生徒たちは動かなければならない。教師には事前に伝えられていたのか、担任の大眉(おおまゆ) (つばさ)は冷静にクラスを引率した。

 

 「よーし行くぞ。トイレとかのときはちゃんと言えよ」

 「デリカシーね〜。モテないぞつばセン」

 「やかましい」

 

 緊張で物々しい空気に覆われた教室棟の中を、牟児津は大眉に軽口を叩きつつ移動した。突然の呼び出しにも関わらず生徒たちの列はほとんど乱れず、さほど時間をかけず大講堂に全校生徒が集まった。

 既に全員分のパイプ椅子が並べられており、正面の講壇へ近い順に1年生から3年生の区分けがされている。2年生の席からは、1年生の席の中で頭一つ飛び出した背の高い生徒の後ろ姿がよく見える。牟児津の10年来の幼馴染みの、瓜生田(うりゅうだ) 李下(りか)だ。牟児津はその姿が視界に入っているだけで、なんだか心強い気になっていた。

 生徒らの不安げな話し声が講堂の壁に響き、言語が雑音になって耳に届く。そのざわつきなど聞こえていないかのように、講壇にひとりの生徒があがった。その姿を現した瞬間、講堂を包んでいたざわつきは一瞬のうちに消え去った。

 その生徒は、マイクの前に立った。

 

 「皆さん。ご機嫌よう」

 

 教室で聞いた、あの甘ったるい声だ。講壇に登る段階から一言目を発するまで、その動きは洗練され一切の無駄がなかった。輝く桃色の髪には全く乱れがなく、きれいな軌道を描いて後頭部から腰の下まで流れ落ちている。清楚に着こなした制服の上からでも分かる抜群のプロポーションと、上品な所作を指先まで張り巡らせる凛々しいほどの精神力、そして少女漫画から飛び出してきたかのように円らな両眼。

 離れた場所からでも分かる。クラス中が夢中になってしまうのも納得してしまうほど、その姿は魅力的に映った。この人と同じ学園に通っているという事実だけで、胸が激しく高鳴ってしまうほどだった。そうなってしまっている自分に気付いたとき、牟児津は顔が赤くなるのを感じた。

 

 「生徒会本部副会長の田中です。本日ここには、学生生活委員長として立っております」

 

 田中(たなか) 光希(みつき)が薄く微笑む。講堂中が桃色のため息を吐いたのが分かった。

 

 「この度は急に御呼立てにもかかわらずお集まり頂き、誠にありがとうございます。どうしても皆様にお伝えしなくてはならないことが起きてしまいました」

 

 ただ軽く会釈をしただけだった。それなのに、まるで田中が間近にいるかのように、教室に漂っていた残り香と同じ匂いがした気がした。はっとして周りを見ると、クラスメイトのほとんどはうっとりしている。田中の魅力は強烈だった。もはや精神攻撃に匹敵するレベルだ。

 

 「先日」

 

 少しだけ、田中の声色が変わった。相変わらず品性を感じさせるものではあったが、とろけるような甘さの代わりに、堅牢な鉄塊のような重さを感じさせた。ふにゃふにゃにふやけた生徒たちの心には、冷たい鉛を押しつけられたように感じた。

 

 「とある部が部室を引き払い、一件の空き部室ができました。既に引越作業は完了しており、そこは現在完全な空室です」

 

 講堂が大きくざわついた。部室棟に空室が生まれることなど、めったにないことだ。そこに部室を構える部は、いずれも優秀な部員や実績に富み、少なくとも数年間は部の継続が安泰であるという認識が、学園内にはある。しかし必ずしもそういった部ばかりではないことを、牟児津をはじめ数名の生徒はよくわかっていた。

 

 「空き部室の受入先は未定となっておりますので、部屋の鍵は学生生活委員室で保管しておりました。で、ですが……」

 

 田中が、突然口ごもった。講堂中が生唾を呑み、次の言葉を待つ。

 

 「そ、その鍵を……紛失いたしました。誠に申し訳ございません!」

 

 再び田中が頭を下げた。先ほどと同じ香りは漂ってこなかった。その代わり、一段と大きなざわめきが講堂を埋め尽くした。部室棟に空き教室が生じ、その鍵を事もあろうに紛失し、生徒会副会長が表に立って謝罪している。いずれも珍事中の珍事、前代未聞の出来事の連続である。

 

 「本日は活動実績定期報告書の提出〆切だったため、人の出入りが頻繁にありました。常に委員が在室している必要がございましたが……つい、わたくしがお部屋を空けてしまい、部屋に戻ったときには鍵がなくなっておりまして……!皆様がわたくしを信用して鍵の管理をお任せて頂いていたのに、なんとお詫びを申し上げれば良いか……!」

 「委員長は悪くないです!仕方ないですよ!」

 「そうですそうです!」

 「泣かないでー!」

 「アイドルかよ」

 

 さめざめと涙を流す田中の哀れな姿に耐えかねて、講堂のあちこちから慰めや励ましの声が飛ぶ。こんな全校集会があるか、と牟児津は逆に冷静になってしまったが、どうやら多くの生徒は田中に同情しているらしい。

 

 「温かいお言葉、感謝に堪えません。ですがこれは学生生活委員会──否、わたくしの失態です。謹んでここにお詫びを申し上げます」

 

 要するに、委員室で保管していた部室の鍵を失くしたという話だ。鍵の紛失は確かに一大事だが、牟児津にはあまり実感がわかなかった。学内施設の管理は生徒会と教師側で完結する話であり、全校生徒を呼び出すほどの大騒ぎなのだろうか。

 田中が生徒を集めさせた理由は、すぐに分かった。

 

 「鍵が既に複製されている可能性を考慮し、当該部室の鍵は学生生活委員会の予算で更新を行います。しかしわたくしは……お尋ね申したいのです」

 「な〜に〜?」

 「アイドルじゃん」

 

 もはや講堂は田中の涙によって完全に緊張の糸が切られ、その発言のひとつひとつにリアクションを返す場となっていた。恐ろしく支配的な田中の魅力と、あっさりそれに流されている周囲に、牟児津は半ば呆れていた。

 

 「いま鍵をお持ちの方、どなたかは存じませんが、どうかその鍵をわたくしにお返し願います!そのまま鍵をお持ちになることはあなたの為になりません!今でしたらまだ間に合います!何卒、ご自分でお申し出ください!」

 

 悲痛な叫び、そして完全な静寂が訪れる。瞳を潤ませ、声を震わせ、懸命に放った田中の叫びは、講堂の壁を虚しく叩くだけに終わった。数秒の間をおき、田中は残念そうに俯き、そして再び口を開いた。

 

 「……残念です。一時の気の迷いはどなた様もあるもの。清らかな心でありたいのなら、その迷いを濯ぐのは今でしたのに」

 

 その声色は、聞く者の心を痛くなるほどに締め付けた。まるでそれが自分に向けられたものであるかのように、田中の言葉はいちいち人の心を揺さぶる。だからこそ、次の発言で、弛緩しきった講堂の空気が再び引き締められた。

 

 「それでは、学生生活委員長として強硬手段を執らせて頂きます」

 

 雲行きが変わってきた、と牟児津は肝が冷える気がした。ついさっき涙ながらに叫んでいた田中の表情は、今や力強い決意と若干の興奮に満ちている。初めに見せた淑やかで愛くるしい表情といい、いくつの顔を持っているのか分からなくなってくる。

 

 「本日16時半ちょうど、わたくしは学生生活委員室にてお待ちしております。そこに、件の部室の鍵をお持ちください。お持ちいただいた暁には、学生生活委員長権限で、現在空室となっている部室、その新しい鍵と交換いたします」

 

 再び、水を打ったような静寂。続けて押し寄せてくるどよめき。田中が何を言っているのか、誰もが理解しかねた。鍵を持って来た人物に空き部室を譲り渡すという宣言。それは、鍵を盗んだ者にとって得しかないのでは。しかし徐々に、講堂は田中の意図を理解し始めた。

 

 「いま鍵をお持ちになっている方でなくても結構です。指定の時刻に鍵をお持ちになった方ならどなたでも、わたくしは交換に応じます。皆様、部室をお求めでしょう?」

 「ほ、欲しいですー!」

 「部室!夢にまで見た部室のチャンスだ!」

 「鍵を持ってるのはどいつだ!見つけてふん縛れ!」

 

 興奮と熱狂。津波のように押し寄せたその感情の変化に、牟児津はついていけずただ飲まれて耳を塞いだ。見れば多くの生徒は席を立ち、拳を振り上げている。

 

 「皆様、お気持ちはお察ししますが、どうか伊之泉杜学園に通う淑女としての自覚を忘れずに。危険行為や校則違反はなさらないよう、くれぐれもお願いいたしますね」

 「うおおおおおっ!!」

 「これのどこが淑女だよ」

 「わたくしからは以上です。では皆様、ご機嫌よう」

 

 激しく高揚する講堂を残して、田中はそそくさと講壇から降りて姿を消した。後に残ったのは、部室を獲得する千載一遇のチャンスに興奮した部室を持たない部会に所属する生徒たちと、その熱に当てられて同様に興奮している生徒たちだった。それについていけない牟児津は、終わったなら早く教室に戻りたい一心で、耳を塞いで座っていた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「副会長さんってすごいな……。あんなライブみたいな全校集会なんてあるんだね」

 「今日の副会長は特別すごかったわね。いっぱいファンサしてくれてたわ」

 「なんだ副会長のファンサって」

 

 全校集会から戻った教室は、大盛り上がりのライブ後のような熱気に包まれていた。壇上で涙を流すだけでここまで人々の心を動かす田中のカリスマ性に、牟児津は若干引いていた。強烈な魅力も、ここまで来ると一周回って気持ちが悪い。

 改めてHRが始まり、田中が話した部室の鍵の件についての詳細がプリントで配られた。鍵は、円盤の持ち手に学園のシンボルが彫られた真鍮製のものだそうだ。隣の教室からも色めき立った生徒たちの雄たけびが聞こえてくるが、牟児津にとってはどうでもいいことだ。プリントを雑にカバンに押し込むと、ぐしゃりと潰れる感触がした。

 そして放課後が訪れる。牟児津はいつものように1年生の教室へ向かい、同じくHRを終えて出てきた幼馴染みの瓜生田と合流する。瓜生田の後から、部室の鍵を狙って目の色を変えた生徒たちが濁流のように教室から飛び出した。

 

 「お待たせ、ムジツさん」

 「おおう……すごい迫力。これみんな鍵探してんの?」

 「というより、鍵を盗んだ犯人かなあ。いちおう聞くけど、ムジツさんじゃないよね?」

 「んなわけないでしょ」

 「そっかあ。あはは、そんなわけないか」

 「冗談キツイようりゅ!ったくもう!はっはっは!」

 「そっかあ。ははははは……いちおう荷物チェックする?」

 「……する」

 

 何も言わずとも、二人は互いの考えていることが分かった。牟児津にそんな大それたことができるわけがない。そんなことをしても牟児津には何のメリットもない。そういうときに限って牟児津はあらぬ疑いをかけられるのだ。そんなことを何度も経験していると、絶対に大丈夫だと分かっていることでも改めて確認せずにはいられなくなる。牟児津は瓜生田のクラスに入り、その辺の椅子を借りて瓜生田の机に荷物を置いた。中にあるものを手探りで取り出し、ひとつずつ並べていく。

 

 「筆箱、お弁当箱、水筒、おやつでしょ。あと財布、ケータイ、おやつ、家の鍵、学生カード、バッテリー、おやつ……この辺は貴重品。あとはおやつと教科書とプリントとおやつくらいだよ」

 「また底の方にぐしゃぐしゃに詰め込んで。ちゃんと見せないとおばさん困るでしょ。ほら、のばしてあげるから出して」

 「もう……はい、教科書とプリント。あとおやつ」

 「おやつはもういいよ」

 

 牟児津のカバンから出てくるものは、ごく普通の女子高生のカバンには当然入っているであろうものばかりだった。怪しいものや疑われるようなもの、ましてや真鍮製の鍵など入っているはずが──。

 

 「え、なにこれ」

 

 安心しかけた牟児津の神経に、瓜生田が言葉を突き刺した。ぐしゃぐしゃに潰したプリントを広げた中に、きらりと光る金属がある。その色はどう見ても黄色っぽく、まるで真鍮のような輝きをした、ちょうど鍵ぐらいの大きさの物だった。

 

 「は?は?は?いやまさか……ちょっと、え?なに?」

 

 摘み上げてみると、それはまさに真鍮製の鍵だった。持ち手が円盤で、そこに学園のシンボルが彫られている。シンプルな造りで、持ち手の穴に空き部室の教室番号が書かれたタグが針金で括り付けられている。ちょうど、瓜生田が広げたプリントに載っている件の鍵の写真と全く同じだった。

 

 「お゛お゛ッ!!」

 

 それらが同一だと理解するや否や、牟児津は出したことのない声とともに鍵をポケットにしまった。自分のものにしたいわけではない。これを持っていることが瓜生田以外にバレたら何が起きるかを想像し、身を守るために隠したのだ。案の定、牟児津の叫びに反応して数名が二人を見るが、瓜生田がなんとか取り繕った。牟児津は全身から噴き出した嫌な汗が制服に染み込んでいくのを感じていた。

 

 「な、な、な、な、なんであんのなんであんの!?う、う、う、うそでしょ!?」

 「落ち着いてムジツさん。こんなことだろうと思って荷物チェックしたんじゃない」

 「こんなことだろうとは思ってないよ!?なんで学生委員室からなくなった鍵がこんなところにあんの!?」

 「私に聞かれても……ムジツさんこそ、心当たりはないの?」

 「こ、こ、こいつが心当たりのある人間の汗かい」

 「う〜ん、これはウソを吐いてるわけじゃなさそうだね」

 「どーーーしよ!?どーーーしよ!?」

 「パッキャラマドらないでよ。普通に返せばいいんじゃない?」

 「いやでも返すったってうりゅあんた、副会長さんは16時半に持って来いって」

 「それは部室が欲しい人の話でしょ。ムジツさんは部室なんていらないんだから、返した上で辞退しちゃえば解決じゃない。少なくとも学生委には鍵を受け取らない理由はないんだし」

 「あ……そ、そっか……うりゅ頭良い」

 「どういたしまして」

 

 周囲に怪しまれないようなるべく声を潜めて牟児津は慌て、瓜生田がそれを冷静に宥める。牟児津が鍵を持っている理由は謎だが、返してしまえば争奪戦に巻き込まれることはなくなる。盗んだ疑いをかけられるかも知れないが、それはまた別の話だ。少なくとも今日一日、朝も昼休みも牟児津にはアリバイがあった。瓜生田とクラスメイトたちがその証人だ。

 教室に入る前とは打って変わって、牟児津はドアを開けるのにも慎重になってしまい、却って挙動不審になっていた。鍵は誰にも見られず失くさないよう、ブレザーの内ポケットにしまっておいた。荒ぶる心臓の鼓動で鍵が跳ねるようだった。



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第2話「君たち二人だけではない」

 

 学生生活委員室前の廊下は、大勢の生徒でごった返していた。田中により部室争奪戦が宣言された影響か、ほとんどは部室の獲得を狙う部や同好会の生徒らしく、どことなく殺気立っているような気がする。風紀委員の腕章をつけた生徒が廊下の両側に並び、暴徒化しないようになんとか押さえつけている状態だ。

 

 「えらいことになってる」

 「みんな部室が欲しいんだねえ。よくオカ研は手放したよ」

 「ああ、あの部屋か」

 

 瓜生田の言葉で、牟児津はようやく渦中の部室が誰のものだったのかを理解した。先日、オカルト研究部は同好会に看板を変えると同時に、必要なくなった部室を引き払ったのだった。部室棟の隅にある日の当たらない部屋だ。あんなところでも、多くの生徒にとっては欲しても得難い部室なのだ。

 

 「やっぱあの部長さんなに考えてっか分かんないや。こうなることまで考えてなかったのか?」

 「まあ、オカ研には関係ない話だからね」

 

 群衆の最後部で話し込む二人は、しかしどのように委員室に入って鍵を返したものか考えていた。まず委員室にたどり着くまでが大変だ。もしいま鍵を持っていることがバレたら……、という考えを牟児津は振り払った。考えただけで現実になりそうな気がする。

 そんな二人の後ろから、突然やかましい声が飛んできた。金属同士をぶつけるようなカンカン声だ。

 

 「あれ?どうしましたかお二人さん!こんなところで奇遇ですね!」

 「げっ」

 

 声の主は、チョコレート色の頭にハンチング帽を乗せ、プレザーの袖を胸の前で結び肩にかけ、ぼろぼろの手帳と回し慣れたペンをそれぞれ手に持った、益子(ますこ) 実耶(みや)だった。新聞部に所属する1年生で、牟児津の番記者として事件があればいつでも付きまとってくる。

 

 「益子さん。どうしたのこんなところで」

 「お忘れですか?私は新聞部ですよ!ムジツ先輩の番記者としての仕事もありますが、普通の記者活動もするのです!いやあ、先ほどの田中先輩は素晴らしい扇動(アジテーション)っぷりでしたね!あっという間に学園中が熱狂の渦に飲み込まれてしまいました!しかし妙ですね。この手の催しなら学園祭実行委員が黙ってないはずです。それに田中先輩は部会活動には厳しい方針を持っているはずですが……空室を抱えるよりはマシということでしょうかね。まあその辺もろもろも込みで、学生委を取材しに来たわけですよ!だけど来てみてあらびっくり!あそこに見える赤い髪と背高のっぽは、我が学園が誇る名探偵コンビのムジツ先輩と瓜生田さんじゃありませんか!お二人とも部室になど興味なさそうなのにおられるということは、何やら大変な事件(面白いネタ)の予感がするぞ!と実耶ちゃんアンテナにビビッと来たわけです!はい!」

 「なっがいこと喋る」

 「じゃあ益子さんも学生委に用なんだ。でもこの人混みだから、どうやって委員室に入ろうか困ってたところなんだ」

 「ちなみにどういった御用で?」

 「……どうしよっか、ムジツさん」

 「教えたら絶対面倒なことになるでしょ……」

 「ちなみに報道の自由を振りかざしてゴネれば、強引に委員室に入ることができますよ。それができるのは崇高な報道者精神(ジャーナリズム)を持った生徒に限られますが。私とか!」

 「あんたが持ってんのは野次馬根性(ジャーナリズム)だろ」

 「でもこの人混みを突破することはできるってよ」

 「ううん……」

 

 悩ましいところである。益子に事情を話せばそれは必ず学園新聞の記事にされる。目立つことを嫌う牟児津にとって、できることならそれは避けたい。しかし益子の力を借りれば事態はすぐに解決するだろう。

 

 「益子ちゃんさ」

 「はい!」

 「ぜっっっっったいに人に言わないでよ?」

 「もちろんです!絶対に言いません!」

 「……不安だけどもうしょうがない。あのね、実はさっき副会長さんが言ってた部室のことなんだけど」

 「例のオカ研の部室ですよね。いや〜、あのときのムジツ先輩の推理は鮮やかでした!」

 「そんなんどうでもいいんだよ。部室の鍵が問題で……あの、あるんだよね、ここに」

 「ムジツ先輩の心の中にですか?」

 「違う!胸ポケット!」

 「……えええっ!?なぜ!?」

 

 益子は目が飛び出るほど驚いた。いまや学園中がそれを巡って混乱に陥っている、この騒動の原因となる鍵を、まさか部室に何の興味も持たない牟児津が持っているとは思わなかった。

 

 「ム、ム、ムジツ先輩の胸ポケットに、田中先輩がおっしゃってたあの部室の鍵があるっていうことですか!?新しい部室の鍵と交換できる、学園中の生徒が喉から手が出るほど欲しがってる例の鍵がですかぁ!?」

 「うるさい!!なんでそんな説明口調なんだよ!!」

 「あっ……ちゃあ」

 

 声を潜めて話していたのに、いつの間にか牟児津も益子も大声になっていた。その会話は廊下の壁に天井に床に響き、委員室に詰めかける大勢の生徒の耳に、その雑踏をすり抜けて届いた。ヒートアップした二人を止めるタイミングを掴めなかった瓜生田は、小さく声を漏らして額を打った。

 

 「ふ、二人とも……そんな大声で話したら……」

 「あ」

 「うん?ムジツ先輩、また何かやっちゃいました?」

 「あんたのせいだぞこの疫病神!!」

 「うわーんひどい!」

 

 牟児津は背後から猛烈な殺気を感じた。額を打った瓜生田の後ろ、学生生活委員室に押しかけていた生徒たちの目が牟児津へ一斉に注がれる。らんらんと光るその目はさながら猛獣で、さしずめ牟児津は野に放たれたか弱いウリ坊である。

 

 「ひっ!」

 「あいつが鍵を持ってるのか!」

 「捕まえろ!ひっ捕らえて鍵を出させるんだ!」

 「身包み剥いだれ!!」

 「ぎゃああああああああああああッ!!!たすけてえええええええええッ!!!」

 「あっ、ムジツさうわわわわっ!ああ〜〜〜!!」

 「う、瓜生田さんが群衆に轢かれた……」

 

 身の危険を感じた牟児津が走り出す。それとほぼ同時に、猛獣の群れもその後を追って走り出した。牟児津を追おうとして逃げ遅れた瓜生田が、後ろからきた群衆にもみくちゃにされてその波に消えた。一足先に回避していた益子は、床を揺らしながら移動していく生徒たちの群れをやり過ごし、過ぎ去った後にはその後ろ姿を眺めていた。

 

 「うっ……なんで私がこんな目に……」

 「珍しいですね。瓜生田さんがそんな感じになるなんて」

 「そ、そんなことよりムジツさんがまたとんでもないことになっちゃったよ……えっと、ちょっと何がどうなってるのか……」

 「一旦、うちの部室来ます?すでに部室を持ってるところは今回の騒動には基本無関係ですから、部室棟は比較的落ち着いてますよ」

 「う、うん……そうする……」

 

 倒され、踏まれ、ぼろぼろにされてしまった瓜生田は、普段の冷静に状況を俯瞰した思考ができなくなっていた。益子に引き起こされ、体についた埃を払いながら、一休みするため新聞部の部室に向かった。逃げて行った牟児津を追いかけることなど早々に諦め、なんとか牟児津を助ける方法を考えることにした。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「んああああああああああああッ!!!」

 

 牟児津は校内を走り回っていた。教室棟を走れば教室から飛び出してくる追手に行く手を阻まれて特別教室棟に逃げ込み、特別教室棟を走れば四方八方から襲ってくる追手をかわして教室棟に逃げ込み、ただひたすら全速力で走りまくった。とっさに階段裏の物置に隠れると、追手が階段を上っていく音が聞こえた。どうやら上手く撒いたようだ。

 

 「ぜぇ……ぜぇ……!もうやだ……!なんでこんな……ひぃ……ひぃ……!」

 

 はじめは十数人だった追手が、気付けば数十人になっていた。この部室の鍵を狙っているのは、学園中にある部室を持たない部や同好会に所属している生徒たちだ。具体的な数は分からないが、それはこの学園のほとんどを占めるだろう。つまり牟児津はいま、学園のほぼ全てを敵に回している状態なのだ。ひとりでその事実を噛み締めると、いっそう心細くなる。

 

 「益子(あの野郎)……絶対許さん……!というかこれ、マジでどうしたら……?」

 

 暗くて狭くて寒い場所にじっとしていると、全力疾走で熱を帯びた体が徐々に冷めてきて、頭は正常な思考を取り戻してくる。追手が狙っているのは牟児津自身ではなく、胸ポケットにある鍵だ。これさえ自分から引き離してしまえば追われる理由はなくなる。ただその辺に捨てるだけではダメだ。自分の手を離れたことをはっきりと示さなければならない。

 いっそ誰かに渡してしまおうか。それはダメだ。渡した相手は鍵を持っていることを隠して、牟児津を囮に使うに違いない。さっきの猛追を見て、表立って鍵を手に入れたと言える人はいないだろう。

 当初の予定通り、学生生活委員室に届ければいいのではないか。さっきは人混みで入れなかったが、今なら逆に空いているかも知れない。逃げる過程でずいぶん遠くまで来てしまったが、逆に来た道をたどれば敵の目を掻い潜って進めるかも知れない。牟児津は胸ポケットから鍵を取り出し、もしものときはすぐ投げ捨てられるよう手に握った。金属の固い感触が憎たらしい。

 

 「よしっ」

 

 覚悟を決めて階段裏から飛び出す。学生生活委員室に向けて一歩踏み出し──。

 

 「いたぞ!!捕まえろォ!!」

 「あこれ無理だッ!!!なああああああああああッ!!!」

 「逃げたぞ追ええええッ!!!」

 

 踏み出した足を反動にして、牟児津は学生生活委員室とは反対方向に走りだした。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「よく来たね。まあ、ゆっくり休んでいくといいよ」

 

 新聞部部長の寺屋成(じやなる) 令穂(れいほ)は、瓜生田に席を勧めた。カビとホコリでむせ返るような新聞部の部室内では、ゆっくりしていればいるほど喉にダメージが蓄積されていくような気がした。瓜生田は上着を脱いで、ついた土やホコリを払った。部室は、今更その程度で床が汚れたなどと言える状態ではない。

 

 「ゆっくりしてる場合じゃないんです。ムジツさんはまた大変な目に遭ってるんですよ」

 「聞いているさ。まさか牟児津くんが鍵を持っているとはね。どうやって手に入れたんだろう?」

 「いつの間にかカバンに入ってたんです。危うく気付かないで帰るところでした」

 「ふむ。今回もただ事ではなさそうですね。この前は仲間外れにされましたから、今回は徹底的にいかせてもらいますよ!」

 「頼もしいね。しかし敵は全校生徒だ。君たち二人でどう太刀打ちするつもりなのかな?」

 「全校生徒じゃありません。既に部室を持っていたり部室を必要としていない部の生徒や、部に所属してない生徒は今回の騒動には関係ありません。だいたい……8〜9割くらいです」

 「十分多いさ。牟児津くんがひとりで逃げ切るのが絶望的と言える程度にはね」

 

 今こうしている間にも、牟児津はおそらく校内を駆けずり回っているだろう。どうにかして助けなくては。しかし瓜生田は牟児津に追いつくことはおろか、一緒に逃げることさえできないくらいには体力がない。

 部室獲得のまたとないチャンスに沸き立つ学園生、しかも田中によって焚きつけられた群衆を説得するのは簡単なことではない。すでに極度の興奮状態になって暴徒化した生徒もいる。

 

 「……君らしくもないな、瓜生田くん」

 「え?」

 

 思いがけず名前を呼ばれた瓜生田が寺屋成を見る。肘を机について身を乗り出したその表情は、絵に描いたようなしたり顔だった。

 

 「この程度の詭弁を見破れないと張り合いがないじゃないか。正しくない前提に基づくから正しくない状況に見えるんだ」

 「正しくない前提……?」

 「ああそうだ」

 

 詭弁家は、いつもより少しだけ機嫌よく言った。

 

 「敵は全校生徒ではない。そして、牟児津くんの味方もまた、君たち二人だけではない」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「ぜぇ……ぜぇ……」

 

 牟児津は、草むらの陰に隠れていた。校舎内はどこにいても人の目があるため、すぐに見つかってしまう。校庭のような見晴らしの良いところにいては格好の的だ。こうして身をひそめるしかない。ときどき自分を捜しまわっている生徒が目の前を通り過ぎていき、そのたびに牟児津は心細い気持ちになっていく。まるで世界中が敵になったような心細さだ。

 

 「泣きそう……」

 

 そうこぼしても心細さは埋まらず、むしろ言葉にして自覚することでいっそう辛くなり、本当に涙がちょちょ切れてくる。噂が広まったのか、最初より駆け回っている人数が多くなり、すでに暴れすぎたため風紀委員に連行された生徒も出始めているらしい。生徒たちによる自主的な検問も行われ、まさに牟児津は逃亡犯さながらであった。

 

 「私は何もやってねえっつうの。全部こいつのせいだ……!この辺に捨てていけばなんとかなるんじゃないか……いっそわざと風紀委員にでも捕まってみるか?窃盗容疑で指導室送りになったら、そこまでは追ってこられないだろ」

 

 隣にストッパーとなる瓜生田がいないと、冷静でない牟児津の思考はどんどん暴走していく。ポケットにしまっていた鍵を取出し、恨めしそうに睨む。しかしそれだけでは何も変わらず、雑草と土の匂いにまみれて閉門の時間を待ち、わざと警備員に発見されて脱出するしか方法が残されていない。

 

 「くそ〜!益子ちゃんが余計なこと言わなきゃ今頃こんなことには……!恨むぞ……!」

 

 憎々し気に牟児津がつぶやく。また誰かの気配が近付いてきた。身をかがめ、周囲を見渡し警戒する。目立つ赤い髪も、深い緑の中に入ってしまえば見つからなくなる。気配はどんどん近付いてくる。見つかっていないはずなのに、まるで誰かの息遣いが聞こえてくるようだった。いや、実際に聞こえている。

 

 「えっ!?」

 「ッ!!」

 

 牟児津は反射的に飛び退いた。いつの間にか隣に()()いた。それは人のような大きさだったが、手も腕も顔も体も、頭の先から足の端まで、一切がもじゃもじゃの緑に覆われていた。緑の怪物である。もじゃもじゃは牟児津に手を伸ばすと、持っていた鍵を覆いつくして奪い取った。

 

 「あっ!」

 

 飛び退いた拍子にバランスを崩した牟児津はしりもちをつく。もじゃもじゃの怪物はそんな牟児津にはお構いなしに、もじゃもじゃの体のまま草むらから飛び出した。植物に擬態していたその恰好は、日のあたるコンクリート上を走っていると滑稽なほど目立つ。どたどたと走り去っていくそれを追いかけることもできず、牟児津は一瞬にして鍵を失い背中に泥をつけた。

 

 「はっ!?な、なに今の……!?バケモン!?もじゃもじゃのバケモン!?ってか鍵!なんだあいつ!」

 

 追いかけようと牟児津は草むらから飛び出す。しかしもじゃもじゃの化け物はどこかへ去ってしまい、ただ自分の身をさらすだけだった。たちまち校舎の窓から牟児津を目撃した生徒たちが、校舎の外まで追いかけてき始めた。

 

 「げえーーーっ!?」

 「いたぞ!!捕まえろ!!」

 「ち、違う違う!持ってない!もじゃもじゃに奪われた!あっちあっち!」

 「囲め囲め!」

 「うおおおっ!!」

 

 草むらから飛び出した牟児津はたちまちの内に取り囲まれた。もはや牟児津が鍵を持っているかなど考えていない。まず牟児津を捕まえてから鍵を探すつもりだ。このままではただ捕まって袋叩きにされるだけでは済まない。身包みを剥がされてしまう勢いだ。窮地に陥った牟児津に、群衆から甲高い声が飛び出す。

 

 「かかれエエエッ!!」

 「ヒャッハー!部室はうちのもんだー!」

 「た、助けてェ〜〜〜!!」

 

 飛び出した生徒の手が牟児津に伸びる。逃げ道はない。なす術もない。もはやこれまでか。牟児津は覚悟して目を閉じた。

 

 

 「うげぇっ!?な、なんだぁ!?」

 

 

 体に何も触れない。聞こえるのは飛び出した生徒の苦しそうな声。それに続く困惑の叫び。群衆がどよめいている。状況が分からない。牟児津はゆっくり瞼を開き、目の前で何が起きているかを確かめた。

 

 「おひっ!?」

 

 その光景に、牟児津はその場の誰よりもうろたえた。牟児津に掴みかかろうとした生徒は視界の端に転がっている。目の前にあるのは大きな背中だ。牟児津に向けられていた視線をかっさらうような、美しい金髪にすらりと伸びた足のシルエット。顔を見ずとも、牟児津にはそれが誰か分かる。この学園で牟児津が誰よりも恐れている、天敵の姿だ。

 

 「ふ、風紀委員長だあああっ!?」

 「やばいっ!み、みんな逃げろ!包囲される!」

 「もう遅い」

 

 ざわつく群衆に、川路(かわじ) 利佳(としよ)が冷たく言い放つ。牟児津を取り囲んでいた群衆は既に、さらに外側から風紀委員たちに取り囲まれていた。

 

 「貴様ら全員、騒乱罪で逮捕だ!!風紀委員!!一人も逃がすなァ!!」

 「ぎゃあああっ!!」

 

 牟児津を追い詰めていた群衆は、一転して風紀委員に追い詰められる立場になってしまった。その中心にいる牟児津は、至近距離で川路の咆哮を聞き反射的に耳を塞いでしまった。川路は牟児津の方を向かず、ただ確保されていく群衆を見つめていた。そんな中、牟児津のもとに葛飾がやってきた。

 

 「真白さん!今のうちに逃げてください!」

 「こ、こまりちゃん……!?あの、こりゃ一体……?」

 「詳しいお話は後です!とにかく今は、教室に向かってください!時園さんたちにご協力をお願いしておきましたので!」

 

 なにがなんだか分からないが、とにかく牟児津は風紀委員の乱入によって助けられたようだ。ちらと川路の顔を見るが、変わらず一点を見つめ続けている。まるで牟児津を見ないようにしているようだ。いちおう、牟児津は立ち去り際に一言かけておいた。

 

 「あ、あの……ありがとうございました。助けてもらって?」

 

 その言葉にも、川路は何の反応も示さなかった。もたもたしてまた怒られてもかなわないので、牟児津はそのまま自分の教室に向けて駆け出した。その後ろを追いかけてくる者は誰もいない。少しだけ落ち着くことができた。

 落ち着くと、ポケットの中でスマートフォンが震えていることに気付く余裕も生まれた。着信名は瓜生田だ。すぐさま牟児津は応答する。

 

 「もしもしうりゅ!?」

 「あっ、出た!ムジツさん大丈夫?いまどこにいるの?」

 「全然大丈夫じゃないよ〜!今こまりちゃんに助けてもらって教室向かってるとこ!ってか聞いて!鍵盗られた!」

 「鍵を盗られたって、だれに?」

 「なんか草むらに隠れてたらいつの間にか隣にもじゃもじゃのバケモンがいて、鍵盗って逃げてった……」

 「夢の話?」

 「現実だよ!」

 

 瓜生田に現状を話した後、反対に牟児津は瓜生田と益子の動きを聞かされた。いま二人は新聞部の部室にいて、これから牟児津を助けるために行動を開始するところだった。瓜生田は牟児津と合流を、益子は鍵を盗んだ真犯人についての情報収集をするつもりだった。真犯人の方はともかく、たとえ運動面で期待できることがなくても、瓜生田が傍にいるだけで牟児津は安心する。

 そして牟児津の話を聞いた瓜生田は、牟児津と合流する前にもじゃもじゃの正体について手掛かりを集めてから向かうと言う。どうやら瓜生田にはそのあてがあるようだ。

 

 「それじゃ、もじゃもじゃの人はこっちでなんとかするから、とにかくムジツさんは教室で大人しく隠れてて」

 「うりゅありがと〜!助けて〜〜〜!」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 葛飾に言われたとおり、牟児津は自分の教室にやって来た。その間も何人かの追手に追い回されたものの、それほど時間はかからなかった。教室に飛び込んでドアを閉めると、牟児津の姿を目にしたクラスメイトたちが、わっと駆け寄ってきた。

 

 「む、牟児津さん!大丈夫!?あなたいま学園中の噂になってるわよ!?」

 「うぅん……だろうね……」

 「よくあの数の人たちから逃げてこられましたね。すごい」

 「やっぱ牟児津さん足腰鍛えられてるからサバゲー向いてるんじゃない?」

 「勘弁してよ……」

 

 ひとまず自分の席に座り、牟児津は一息ついた。ここまでほぼ走りっぱなしで、ろくに休憩のタイミングもなかった。水筒から流れ込んでくる冷たい飲み物が、のどを通って腹に落ちるのを感じた。腰を下ろすとどっと疲れが襲ってきた。牟児津は、呆れた顔の時園と、心配そうな顔をした足立(あだち) 亜紀(あき)に尋ねる。

 

 「ちなみに、噂って?」

 「学生委員室から鍵を盗んだ犯人は牟児津さんで、牟児津さんを捕まえて副会長に引き渡せば部室がもらえるんじゃないかって。鍵のあるなしはもう関係ないわね。鍵も牟児津さんが持ってるとか他の人が持ってるとか、噂が入り混じってるわ」

 「私が鍵を持ってたのだけは本当だよ。もう誰かに盗られちゃったけど」

 「本当に持ってたんですか……?なんで?」

 「いつの間にかカバンに入ってたんだよ。本当だよ?」

 「そんなことあるわけない……と言いたいけれど、牟児津さんだったらなくなさそうなのよね。今はもう持ってないのね?」

 「なんか、もじゃもじゃの人に盗られた」

 「も、もじゃもじゃ?」

 「枝とか葉っぱでできた、なんか、もじゃもじゃの人」

 「夢の話?」

 「現実だってのに!」

 

 牟児津の伝え方が悪いのか、どうにも現実のこととして受け取ってもらえない。あんなに体中に植物がまとわりついた人間など見たことがないので、それも仕方ないのかも知れない。ともかく牟児津は、鍵がいつの間にかカバンに入っていたこと、学園中を逃げ回って風紀委員に助けられ、瓜生田と連絡を取りつつようやく教室まで逃げてきたことを伝えた。教室中が、牟児津に対する同情の念でいっぱいになる。

 

 「なんで風紀委員が牟児津さんを助けるんだろう?葛飾さんがお願いしたのかな?」

 「川路先輩がそれくらいで動くとは思えないけど……むしろ学園中で部室が欲しい部会の生徒が大暴れしてるから、取り締まりの一環なんじゃない?」

 「私を追っかけてる人だけじゃないんだ」

 「まだ牟児津さんが持ってるとか、他の部会が持ってるとか、どこそこに落ちてるのを見たとか、もう何が本当で何が嘘かって感じよね。だから牟児津さんとは関係ないところでも衝突が起きてるわよ。そういうのも風紀委員は取り締まらなくちゃいけないから大変よね」

 

 時園の話が本当なら、風紀委員が牟児津を助けたのは偶然だったのだろうか。だが学園の各所で騒ぎが起きているなら、あれだけの人数を一か所に集めるのは得策ではないはずだ。牟児津には川路の真意が分からない。結局、助けられたのは事実なので知らなくてもいいのだが。

 

 「牟児津さん、スマホ鳴ってますよ」

 「んっ、うりゅだ!」

 

 足立に指摘されて、牟児津はすぐに応答した。

 

 「もしもしムジツさん?教室着いた?」

 「うん。取りあえずね……うりゅは?今どこ?」

 「生物部の部室。ムジツさんの言ってたもじゃもじゃが何なのか分かったよ」

 「マジで!?はやっ!すごっ!」

 「どうしたの?」

 「か、鍵を盗ったもじゃもじゃが分かったって!」

 「もう!?本当に!?早すぎねえ!?」

 「もしもしうりゅ?それ本当に私が見たもじゃもじゃかな?」

 「うん、間違いないよ。ムジツさんが鍵を盗られた辺りを大村(おおむら)さんが掃除してたら、学園には生えてない植物の葉っぱがあったのを見つけてくれたんだ。それから、生物部で飼育してるわんちゃんが草むらに変なもじゃもじゃが捨てられてるのを見つけたって白浜(しらはま)さんから連絡があって、葉っぱを照合したら一致したんだ」

 「すげー!うりゅすげー!」

 「私じゃないよ。大村さんも白浜さんも、ムジツさんが大変なことになってるって言ったら協力してくれたんだ。これはムジツさんの力だよ」

 「ほへ……」

 

 自分はただ追い回されて逃げていただけなのだが、瓜生田にそんなことを言われて牟児津は虚を突かれたような気分になった。きっとその二人は、先に瓜生田や益子が連絡してくれていたから、不審なことをすぐに報告してくれたんだろう。自分は何もしていないのに自分の手柄のように言われて、牟児津は一瞬脳が混乱した。それを察したのか、瓜生田がくすくす笑って続ける。

 

 「とにかく、私はこれからもじゃもじゃを持ってそっちに行くよ。ちょっと時間はかかるかも知れないけど、待っててね」

 「う、うん!待ってる!」

 

 電話を切った牟児津は、これから瓜生田が来るという安心感から力が抜け、椅子にもたれ崩れた。どうやら一安心らしいということが周りにも伝わり、少しだけ教室の空気が弛緩した。

 

 「ど、どういう状況なの?」

 「うりゅがもじゃもじゃを持ってこっちに来てくれるって。取りあえず私は、明日の夕方までなるべく教室にいてやり過ごすことにするよ」

 「いや、たぶんだけど、瓜生田さん?がこっちに来るのって、牟児津さんから鍵を盗った犯人を見つけてもらうためなんじゃ……?」

 「そんなことしたって私に得がないじゃん。鍵取り返したらまた追いかけられるし」

 「それはそうだけど」

 

 鍵を盗んだ犯人だという疑いはいずれ晴らさなければならないかも知れないが、鍵の争奪戦に関しては既に他の誰かが鍵を持っているなら、今日の16時半になれば全て終わる。今はひとまずそれまで逃げ切ることが大事で、自分から鍵を奪った人物がどこの誰であろうと関係ないのだ。

 

 「あーくそ、なんでまた私はこんなことに巻き込まれてんだ」

 

 ため息とともにぼやきを口にし、牟児津は自分のカバンを見た。机の横に吊るしてあるカバンは、だらしなく口を開いて垂れ下がっている。なぜこんなところに鍵があったのかがさっぱり分からない。学生生活委員室から鍵を盗んだのはこのクラスの人間なのだろうか?だとしても、なぜ牟児津にその罪を着せる必要があったのか。鍵を持っていなければ意味がないのに。

 

 「結局考えてる」

 

 後ろの席に座った(むろ)が、考え込む牟児津の顔を覗き込んでつぶやいた。指摘された牟児津は、大きく頭を振って思考を中断した。どうやら最近は色々な事件に巻き込まれて、ついあれこれ考えてしまう癖が付いたらしい。

 

 「そろそろ葛飾さん戻ってくるくらいかな?ちょっと見て来ようか」

 「気を付けてね鯖井さん。牟児津さんを匿ってることがバレたら、ここもおしまいよ」

 「はいはーい」

 

 鯖井が、外の様子を窺いに教室の外に出た。風紀委員による規制はまだ続いているが、葛飾は一旦教室に戻ってくると言っていた。大捕り物も終わっているだろうし、戻ってきてもおかしくない頃合いだが、まだやって来ない。戻ってきたら、なぜ風紀委員が牟児津を庇ったのか聞こうと思っていたのに。

 そのとき、ドアが勢いよく開いた。

 

 「ヤバい!!牟児津さん逃げて!!」

 「えっ!?」

 「教室にいるのバレた!!」

 「なにやってんだあんたあ!!」

 「いたぞ捕まえろっ!!風紀委員が来る前にカタ付けろおおおっ!!」

 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

 

 ものの数秒で鯖井は血相を変えて戻って来た。教室内に叫んだ鯖井の後ろから、牟児津を捕まえんとする群衆が教室になだれ込んできた。たちまちクラスを埋め尽くし、しかし牟児津は小さい体を活かして机の下に潜り込んでかわす。同じようにとっさに机の下に隠れた室と目が合った。

 

 「うおっ!?な、なにしてんの室さん……!?」

 「こっち。逃がしたげる」

 「お、おお……ありがとう……」

 「どこ行った!!探せ探せ!!」

 「ちょっと!人の教室で好き勝手しないでよ!出て行きなさい!」

 「砂野さん!箱根さん!牟児津さんを守るよ!」

 「おーっ!」

 「牟児津さーんどこー!?」

 「ちょっと鯖井さん!足踏んでるから!」

 「なんだこれ戦争か?」

 「みんな分かってる。牟児津さんはこういうのに巻き込まれる人なんだって。だから、助けてあげるって決めたの。黒板アートのとき、みんなひどいことしたから」

 「そんな前のこと……もう気にしなくていいのに」

 

 頭の上から聞こえてくる雑踏と、それに対する時園や足立の勇ましい声。雄叫びも悲鳴も()(どき)も、足を踏み鳴らしながら人と人がぶつかり合う音とともに机の下まで響いてくる。室に案内されて、牟児津は教室後ろのドアからこっそりクラスの外に出た。

 

 「私はここまで。牟児津さん。逃げ切ってね」

 「なんかますます事が大きくなってる気がする……室さんはどうするの?」

 「私も、足止めくらいできる」

 「だから戦争かって!そこまですることないから!」

 「行って!早く!」

 「あーもう行かなきゃ空気読めないやつだと思われる!みんなシチュエーションに酔い過ぎだろ!」

 「逃げたぞ追えー!」

 

 クラスメイトの手引きで、牟児津はなんとか教室を脱出した。教室ははちきれんばかりに人がもみくちゃになり、たった今助けてくれた室の姿は人波に消えていた。風紀委員といいクラスメイトといい、牟児津はただ逃げているだけなのに周りの人がどんどん巻き込まれて、ますます捕まるわけにはいかなくなっていく。もはや目立つ目立たないどころの騒ぎではなくなってきているが、それでも追手は来るので逃げなければならない。牟児津は再び絶叫しながら校内を駆け巡る。



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第3話「私たちに任せて」

 

 牟児津が追手から逃げて校内を走り回っている頃、そして瓜生田がもじゃもじゃを持って牟児津の元へ向かっている頃、益子はのんびりとお茶を飲んでいた。ただ休憩しているのではない。今回の騒動の遠因であり、部室の代わりに適当な教室に集まってオカルト談議をしている元オカルト研究部の3人を尋ねたのだった。

 

 「今日は一段と校内が賑やかだね。牟児津君にしてみればたまったものじゃないが」

 「これほどの騒動になってしまうと、逆に新聞部では何を報じればいいのか分からなくなってしまうんですよ。中心にはムジツ先輩がいますけど、田中先輩の大号令や学園各所での騒動も美味しいネタなので。どうにかひとつにまとまってくれないものでしょうか」

 「そんなみゃーちゃんにばっかり都合の良いことなんてあるわけないでしょ。で、私たちに何の用?」

 「その田中先輩についてお伺いしたくて。冨良場(ふらば)先輩は何か御存知なんじゃないですか?」

 「ふふ……さて、どうかな」

 「そうですよ。冨良場部長は1,2年生と田中先輩と同じクラスだったんでしょう?」

 「ははは、れいほと違ってずいぶん直接的だね、君は」

 

 オカルト研究同好会会長の冨良場(ふらば) (つき)はふにゃふにゃと笑う。なぜ益子に過去のクラスまで調べられているのか、阿丹部(あにべ) 沙兎(さと)辺杁(べいり) 有朱(ありす)は、他人事ながら不気味に感じた。

 生徒会副会長にして学生生活委員長、今回の騒動に至っては被害者であり火付け役という、なにがなんだか分からない立場にいる田中は、多くの生徒にとっては雲の上の存在だ。3年の同級生であっても、会話したことすらない生徒も多い。その中で、2年間同じクラスだった冨良場は貴重な情報源なのだ。

 

 「田中君は、そうだな……1年生のときから生徒会を目指して活動していたね。熱心な委員長タイプの子だと思ったものだよ。学生委員として、見事な働きぶりだった」

 「そんなのは分かってますよ。私が知りたいのは、もっと裏の部分です」

 「裏、というと?」

 「阿丹部先輩もベーりんも、裏サイトをよく使ってるなら知ってますよね?田中先輩の噂」

 「ああ、あれ?デマでしょ」

 「私もデマだと思う。あんなの伊之泉杜学園(うち)でできるわけないでしょ。校是に真っ向から背くじゃない」

 

 田中の噂、というだけで、その場にいる全員に何の話をしているのかすぐに伝わった。学生として、人間として完成している田中だが、それ故に裏サイトのような場所では勝手な妄想や噂話が垂れ流しになっている。その中で最も有名なものだ。

 

 「みゃーちゃんらしくもない。裏サイトのデマなんて信じる子じゃないでしょ」

 「ええそうです。でも田中先輩の動きを見ていれば、案外その噂もバカにできないんですよ。今回の件だってそうです。だから冨良場先輩に、過去の田中先輩のことを伺いたいんです」

 「んん……そうだねえ。私は彼女と親しい間柄ではなかったから、そこまでのことは分からないかなあ……。うん、でも彼女のあの目は……よおく覚えているよ」

 

 冨良場は遠くを眺める様な目をして、過去を振り返った。どうやら益子がまだ知らないことを冨良場は話してくれそうだ。もう少し情報を引き出すのを試みてみようという気になってくる。そのあたりの駆け引きは、益子より上手いのだろう。

 

 「ちょっと冨良場先輩。駆け引きなんかしてる場合じゃないんですって。やめてくださいよ」

 「ふふ、ごめんごめん。牟児津君には大きな恩があるからね。知ってることは話すよ」

 「でも、そもそもそんなこと知ってどうするつもり?それが牟児津さんの助けになるの?」

 「ふっふっふ……もちろんです。だってこの事件──」

 

 益子は不敵に笑う。

 

 「ムジツ先輩は最後に、田中先輩と対決することにさせ──もとい、なりますから」

 「うわあ……牟児津さん可哀想……」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 校内を走る牟児津の足は限界を迎えつつあった。追手は劇的に少なくなったものの、立ち止まればすぐに捕まってしまうくらいにはまだ数がいる。交代で追いかけてくる向こうに対し、牟児津の体は一つだ。いい加減に休まないとどこかで倒れてしまう。牟児津は近くに隠れられる場所を探した。

 

 「あっ……」

 

 視界の中に、ひとつだけ希望が見えた。この学園でいま、牟児津が自分のクラス以外に唯一身を寄せられそうな場所。そこに飛び込んで助かるかどうかは賭けだ。だが少なくとも、追手を撒くことはできるはずだ。もはやリスクなど考えている場合ではない。牟児津は意を決してそこに飛び込んだ。

 すぐさま追手はその後を追う。牟児津が飛び込んだ教室のドアは固く閉ざされていた。入り口を取り囲み逃げ道を失くす。

 

 「おーい!出てこーい!」

 

 追手のひとりが声をあげる。ドアは閉まったままだ。

 

 「出てこなきゃこっちから行くぞ!よーしみんなとっ──ホォ!?」

 

 そう言い切るより先にドアが開いた。そして、追手たちは絶句した。現れたのは赤い髪の小さい牟児津ではなく、美しい金髪で射殺すような目の川路だった。追手たち全員の背筋がキンキンに凍る。

 

 「なんだ。自主でもしに来たか?」

 「ひ、ひえええっ!!撤収!!撤収ゥーーーッ!!」

 

 川路がひと睨みしただけで、猫の子一匹逃がさない勢いの包囲網は粉々になって追手たちは消え去った。生徒指導室の前から人がいなくなり、川路はふんと鼻を鳴らしてドアを閉めた。

 

 「この私を人払いに使うとはいい度胸だな、牟児津」

 「さっせんしたあああっ!!」

 

 入口から室内を振り返った川路の目に、きれいにまとまった土下座をする牟児津が飛び込んできた。突然絶叫しながら生徒指導室に飛び込んできたかと思えば、追われているから助けてくれと懇願してくる。必死に助けを求める生徒を(ないがし)ろにするわけにもいかず、渋々川路が出て追い払ったのだ。

 牟児津は牟児津で、下手をすれば自分が追い出されかねない状況だったが、一度風紀委員には助けられているので、もしかしたらと一縷の望みに賭けて駆け込んだ。牟児津は賭けに勝ったのだ。

 

 「びっくりしましたよ。いきなり真白さんが飛びこんできて」

 「逮捕者の調書を作っていたのにとんだ邪魔が入った」

 「お仕事の邪魔してすいません!でも、今日は風紀委員がなんか助けてくれたっぽいから、頼っていいのかなって!」

 「頼るのは当然だ。我々は学園の風紀を維持するためにある。たとえ貴様があらゆる事件で容疑者になっていようが、善良な一般学生なら保護する。そういう仕事だ」

 「あ……あ、ありがとうございます……。でも、あの……私、例のあの鍵、ホントに持ってたんですけど……?」

 「田中のところから盗んだのか?」

 「いやいやいやいや!滅相もない!!」

 「……今は鍵を盗んだ事件の捜査に割ける人手がない。まずは学園の各地で暴れているバカ共を抑え込むのが優先だ。貴様が真犯人でないなら、今はそれ以上のことは聞かん」

 

 牟児津は、初めて川路とまともに会話したような気がした。普段の川路はいつも牟児津が事件の犯人だと疑うばかりで牟児津は萎縮して何も話せないし、瓜生田が口八丁手八丁でなんとか疑いをかわしている。それが、今は牟児津を保護対象とさえ言っている。何か心境の変化があったのか、あるいはこの騒動がそうさせているのか。

 ともかく、風紀委員が牟児津を守っていることは確実らしい。一旦は生徒指導室に匿ってもらい、休みながら牟児津は葛飾に教室での出来事を話した。クラスメイトの協力を得ることはできたが、もはや教室すら安全な場所ではなくなっていた。

 

 「そ、そんな……」

 「なぜ牟児津がクラスにいることがバレた?大声でも出したか」

 「え……い、いやあそんなことは……なんでですかね……?」

 「教室に入るところを見られてたのならもっと早く突入されている。それに貴様が教室に向かったのは、風紀委員が追手を一斉逮捕した直後だ。牟児津が教室にいるという情報が広まってからすぐに教室を埋め尽くすほどの人間が集まるとは思えん」

 「ど、どういうことっすか……?」

 「そのクラスに裏切り者がいるな」

 「はああっ!?う、裏切り者ォ!?」

 

 牟児津の話を聞いた葛飾ではなく、横で聞いていた川路が独自の推理を話す。推理というより、当たり前のことを話しているような、自信たっぷりな態度だ。風紀委員長として学園の秩序を守る立場にあるためか、牟児津の話の不審な点にいち早く気付き、結論を出した。

 

 「そ、そんなことあるわけないです!臆測でそんなこと言わないでください委員長!」

 「私は臆測など話さない。牟児津が教室に入ってから突入までの時間、その半端さに不釣り合いなほどの大人数、牟児津が教室にいることを知っている人間……どう考えても手引きした奴がいなければおかしい」

 「で、でも川路さんって、いつも私が犯人だって……あっ、すんませんすんませんなんでもないです」

 「……まあ、想定外が起きるのが現場だからな」

 「……」

 

 つまらないことを言った牟児津を睨みつけ、川路は言い訳めいたことをつぶやく。気まずい沈黙を掻き消すように、川路が再び口を開いた。

 

 「牟児津、お前はどう思う?おかしいとは思わないか?」

 「はい?ど、どういうことっすか……?」

 「田中の行動について、不可解なことばかりだと思うだろう」

 「ふ、不可解ってぇと?何のことですか……?」

 「部室の鍵をこそ泥に盗まれるような場所に放置、委員室を無人にする凡ミス、生徒を煽るような鍵争奪戦の宣言、しかもそれらを全てひとりで決めている。どう考えてもおかしい。奴のやることにしては荒すぎる」

 「ほぁ」

 

 川路が顎を撫でながら、田中の疑わしい点を挙げていく。川路にしてみれば同級生であり、同僚であり、上司のような存在でもある。あろうことか川路は、その田中の行動に不信感を抱いている。生徒会本部のメンバー同士がどんな関係か、牟児津には知る由もないことだ。ただ言葉にならない間抜けな返事を返すことしかできない。

 

 「この騒動、そして鍵が盗まれたという話……何か裏があるはずだ」

 「裏というと……?田中副会長が何かを企んでいるということですか?」

 「奴は無能じゃない。自分の行動がどういう影響をもたらすか分からないはずがない。であれば、この無秩序な騒ぎを引き起こしたのにも、必ず奴なりの理由がある。それを……貴様が探るんだ、牟児津」

 「ほげえっ!?な、なんで私!?」

 「風紀委員は騒動の鎮圧で手一杯だ。たとえ騒動がなかったとしても、明確な根拠もなしに田中を捜査できん。だが、いち生徒である貴様が勝手に動く分には何も制限されることはない」

 「い、いやそりゃ風紀委員の都合で私に何のメリットも……」

 

 予惣だにしない角度から川路に命令された牟児津は、心臓が飛び出るほど驚いた。川路とまともに会話しているこの状況ですら、緊張で脳の変な部分が凝りそうだというのに。風紀委員には助けられているが、生徒会副会長の思惑を探るなどという特命ミッションを請けるほどの度胸はない。

 だが、横で聞いていた葛飾はよく分かっていた。川路の命令は絶対だ。そして風紀委員の力を悪用すれば、生徒ひとりを強請ることなど簡単なことだ。

 

 「そう言えば、貴様は委員室から盗まれたという件の鍵を持っていたんだったな」

 「んぇ?」

 「今すぐ捜査する余裕はないが、重要参考人として身柄を拘束することくらいはできるんだぞ。私に協力して自ら犯人でないことを証明するなら、今は見逃してやろう」

 「きょ、脅迫だ!風紀委員がそんなことしていいのか!」

 「司法取引は立派な制度だ」

 「私は無実だ!」

 「証明されない無実に意味などない」

 「くおおっ……!こ、これが権力の横暴か……!」

 「少なくとも私は今日二度も貴様を助けた。一度くらい協力してもバチは当たらんだろう」

 

 冤罪は何度となく吹っ掛けられたが、と言いかけて牟児津はやめた。また睨まれるし、それを差し引いても今のこの状況で風紀委員を敵に回すようなことは避けなければならない。そして言葉を飲み込んだことで、牟児津の敗北も決定した。これ以上押し問答を続けたところで事態は変わらない。どちらにせよ、鍵を盗んだ犯人だという疑いは晴らさなくてはならないのだ。なぜこんなにも自分は弱い立場に追い込まれるのか、牟児津はつくづく自分の不幸な運命を呪った。

 

 「で、でも期待しないでくださいよっ!思ってたのと違うから逮捕とか、ナシですからね!」

 「……まあいいだろう」

 

 下手を打てば逮捕どころでは済まないかも知れないが、と言いかけて、川路も言葉を飲んだ。それを伝えてしまったら、牟児津はまた尻込みして面倒くさくなる。それにいざとなればこの約束を破ってでも牟児津を逮捕して、田中の追及をかわさせてやればいい。無茶を強いた責任くらいは取るつもりでいた。そのためには、ここは守る気のない約束をしておくのも方便というものだ。

 こうして牟児津と川路は、この騒動に関して田中の思惑を探る協定を秘密裏に結んだ。ちょうどそのタイミングを見計らったかのように、牟児津のスマートフォンが音を立てた。着信は益子からだ。

 

 「電話か」

 「は、はい。そうですけど」

 「スピーカーにしろ。ただし、私がいることは言うな」

 「な、なんでぇ……?」

 「協力関係にあるのだから、透明性の確保は重要だ。早く出ないと切れるぞ」

 

 牟児津には川路の考えていることが分からなかった。単にまだ牟児津が鍵を盗んだ犯人である可能性を考えて、通信内容を把握しておきたいだけではないのか。しかし色々考えている余裕はない。牟児津は電話に応答し、言われたとおりスピーカー通話に切り替えた。

 

 「も、もしもし?」

 「もしもーし。ムジツ先輩おつかれさまですー」

 

 益子のカンカン声が進路指導室に響く。川路と葛飾が少しだけ眉をひそめた。

 

 「ま、益子ちゃん?どうしたの?」

 「ムジツ先輩こそスピーカーでお話してどうしたんですか。周りに音聞こえて大丈夫です?」

 

 面倒なときに限って面倒な部分に気付く。つくづく益子は厄介だ。

 

 「い、いいから早く話してよ!」

 「はあ、まあいっか。いま私オカ研と一緒にいるんで、合流しませんか?瓜生田さんも教室に先輩がいなかったから、一旦こっち来るそうですよ」

 「な、なんでオカ研?うりゅが行くなら行くけど」

 「ふふふ……喜んで聞いてください」

 

 益子の不敵な笑いで、嫌な予感が牟児津の全身を駆け巡った。そして、得てしてその予感は当たるものだ。

 

 「ムジツ先輩、私と一緒に田中先輩の裏の顔を暴きましょう!」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 渡りに船とはこのことか、あるいは泣きっ面に蜂か。益子からの電話は牟児津にとって最悪のタイミングで最悪の内容だった。すぐ傍で聞いていた川路にしてみればこんなに都合の良いことはない。そしてどちらの立場も分かる葛飾は、ただただ牟児津に同情するばかりだった。

 その後、牟児津はとにかく瓜生田と合流するために、益子とオカルト研究同好会が待つ特別教室棟の空き教室に向かった。既に各所で風紀委員が暴徒化した生徒の鎮圧にあたっていたため、そこまでの道のりは案外楽なものだった。

 空き教室はカーテンで窓を覆い、電気を消してスマートフォンのライトを天井に当てて代えの灯りとしていた。オカルト研究同好会の雰囲気作りのためだったが、牟児津にとっては身を隠すのに打ってつけで、そこだけは助かった。そして牟児津は、数時間ぶりに瓜生田、益子との再会を果たした。

 

 「うりゅ〜〜〜!!怖かったよ〜〜〜!!」

 「ひとりで頑張ったねムジツさん。よしよし」

 「まさかあの川路先輩がムジツ先輩を助けるとは。なかなかアツいじゃないですか」

 「逆に面倒事が一個増えたよ……っていうかどっちもあんたのせいだからな!何してくれてんだ!」

 「そんなあ。鍵持ってたのは先輩ですし、さっきの電話の前に川路先輩から同じこと指示されてたんでしょ?私のせいじゃないですよ!」

 「どっちもあんたが輪をかけて面倒なことにしてんだよ!」

 「まあまあ。落ち着いてムジツさん。いつものことじゃない」

 「瓜生田さんナイスフォロー!」

 「フォローだったかなあ?」

 

 ようやく瓜生田とともに一息つくことができ、牟児津はいくらか疲れが吹き飛んだ。そして、牟児津が置かれている状況と、今後すべきことについて整理することにした。色々なことが同時に起きていて、牟児津の思考回路はショート寸前だ。

 

 「まず、今のムジツさんがどういう立場なのか」

 

 音頭をとったのは瓜生田だ。疲弊しきった牟児津は瓜生田の膝の上で横になり、だらしなく肢体を投げだした姿をさらしていた。

 

 「学生委員室から無くなったっていう空き部室の鍵が、今日の放課後の時点でムジツさんのカバンに入ってた。それをムジツさんと益子さんが大声で話したせいで、学園中からムジツさんは追いかけられてる」

 「賞金首みたいでカッコいいですね!二つ名は『濡れ衣のムジツ』!なんてどうでしょう!」

 「しばくぞ!」

 「その上、その鍵を謎のもじゃもじゃに奪われて、ムジツさんは持ってもない鍵を巡って追われることになった。う〜ん、他人事みたいな言い方だけど、さすがに可哀想だね」

 「もじゃもじゃ……イエティかなんかですかね?」

 「いや、いまはオカルトの時間じゃないわよアリスちゃん」

 「もじゃもじゃの正体は後に話すとして、もう一つ。ムジツさんは風紀委員の川路先輩から、田中先輩が今回の騒動を起こした真意について調べるように依頼されてる」

 「依頼なんて生易しいもんじゃなかったよ!脅迫だったよ!」

 「川路君らしいねえ」

 

 簡単にまとめると、牟児津が置かれた状況の悲惨さがよく分かった。3つの事件でそれぞれ、容疑者になり、被害者になり、捜査員もさせられている。まるで牟児津自身が事件を吸い寄せているようだ。さすがの益子もこれには同情を禁じ得ず、牟児津に優しい言葉をかける。

 

 「安心してくださいムジツ先輩。私たちが全力で支えますから」

 「ま、益子ちゃん……」

 「全部終わったら、特集号も組みますね」

 「んなこったろうと思ったよ。もう勝手にすればいいさ」

 

 これほどの大騒動になって、もはや新聞沙汰にするなという方が無理だ。牟児津はすでにそこはあきらめていた。山積みになった問題を前にして、冨良場が口を開く。

 

 「さてと、整理できたところで、ひとつひとつ処理していこうじゃあないか」

 「部長、解決できるんですか?」

 「解決するのは私じゃなくて牟児津君さ。私たちは手掛かりを提供するだけだ」

 「そうでした。もじゃもじゃの正体を持ってきたんです」

 「おうっ」

 

 膝に乗っていた牟児津を横に転がして瓜生田が立ち上がった。空き教室の机の下から、背の高い瓜生田の体すら覆ってしまうほど大きな緑の塊が現れた。それはいくつもの植物が絡み合って人のような形をしていた。まるで植物でできた毛皮だ。葉の隙間から見える迷彩模様に、人の顔に当たる部分は口を開いたように黒い空間があった。巨大な葉と蔦の化け物が突然現れて、牟児津と辺杁は小さく悲鳴をあげた。

 

 「な、なんですかそれぇ!?こわっ!」

 「生物部部室の近くに落ちてたんだ。ムジツさんが見たもじゃもじゃってこれ?」

 「そ、それだそれ!間違いないよ!」

 「そっかあ。じゃあ犯人も分かるかもね」

 

 草木に囲まれた場所と違って、室内だとその異形さが際立ってかなり印象が違って見える。だが間近で見たときの驚きでその姿は強く瞼に焼き付いている。夢に出てきそうなほどだ。だから牟児津には、それが記憶の中のもじゃもじゃと同一のものだという確信があった。

 

 「それなんなの?」

 「これは、いわゆるギリースーツですね。ムジツさんが見たときみたいに、植物に紛れて身を隠すために着る服です」

 「な、なんでそんなもんが学園に落ちてんの……?」

 「ギリースーツを使うのは森や自然に溶け込む必要がある職業の人ですから、たとえばハンターとかスナイパーとかですね。あとはサバイバルゲームなんかでも使われたりします」

 「サ、サバイバルゲーム?」

 

 あまり耳馴染みのない言葉だが、牟児津は最近それを聞いた気がする。どこで聞いたのか思い出そうと必死で過去の記憶を探る。

 

 「……サバイバルゲーム、サバゲー?鍵を奪ったってことは……部室が欲しい人、つまり……部か同好会に入ってる人で……。なんでギリースーツなんて……身を隠すだけじゃないのか……?」

 「悩んでますね。いつもならそろそろ犯人に行きつくのに」

 「さすがに疲れてるからね」

 「ふひぃ」

 

 瓜生田の見つけてきた手掛かりは大きかった。しかし、ひたすら走り回ったことによる疲れとそれによって混乱した記憶で、牟児津は普段より思考力が落ちていた。

 

 「他に手掛かりはあるのかい?」

 「私が見つけられたのはこれだけです。暴徒化した生徒を鎮めるために風紀委員があちこちにいて、なかなか自由に動けなくて」

 「私も検問に引っかかって大変でした。瓜生田さんは委員会だからいいですけど、部活生への当たりは強かったですよ」

 「風紀委員……」

 

 学園中を巻き込んだ騒動になれば、風紀委員が出動するのは当然だろう。それだけ大きな事件があったから、川路は牟児津が鍵を持っていたことへの疑いを一旦は見逃してくれた。そういえば、川路が何か言っていた。川路は──。

 

 「あっ」

 

 ごちゃごちゃに混乱した脳の中で、断片的に浮遊していた記憶のピースがかっちりと嵌まる。一度つながった記憶は関連する記憶を取り込んで雪だるま式に大きくなっていき、ひとつのシナリオを作り上げていく。少なくとも牟児津がこれまで見聞きしたことなら、このシナリオはあり得ると言える。確証と言えるものはない。だが、確証を作ることなら──その方法はある。

 

 「おっ!?ムジツ先輩!鍵を奪った犯人分かりました!?」

 「うん。たぶん。でもまあ、それが分かったところで別に……その人を詰めてもそんなに意味ないっていうか」

 「そうだねえ。鍵は取り返せるかも知れないけれど、最初に戻るだけだ」

 「奪った人が鍵を持ってるって噂を流すのは?そしたら私は狙われなくなるんじゃない?」

 「ただでさえ誰それが持ってるって噂が混在している状況だから期待はできないかなあ。それより、田中先輩が今回の騒動を起こした意図を考えるのはどう?」

 「え、なんで?」

 「そもそもムジツさんが追いかけられてるのは、田中先輩が鍵の争奪戦なんか仕掛けたからでしょ。その意図が分かれば、もしかしたらこの騒動ごと終わらせられるかもよ?」

 「そ、そんなことできるかなあ……?」

 「できるかできないかじゃない!やることに意味があるんですよ先輩!」

 「あんたはそう仕向けたいだけだろ!」

 「でも、川路くんにどやされたくはないだろう?」

 「はむ」

 

 冨良場の一言で牟児津は選択肢を失った。自分から厄介事に突っ込んでいくようで気乗りしないが、放っておけば川路が何を言うか分からない。やるしかないのだ。とはいえ、田中の情報など牟児津は知らない。今日の全校集会で改めて顔と名前を認識したくらいだ。それだけでも冗談かと思うくらい魅力的な人物だということは分かったが、川路や益子はとにかくその裏の顔を仄めかす。そして今回の騒動は、田中が生徒たちの心を煽ったことで起きた。ただの噂話に過ぎないと一蹴するには、少し思い当たる節が多い気がした。

 

 「でも私、田中さんのことなんも知らんよ」

 「そのあたりは大丈夫です!ムジツ先輩と瓜生田さんが到着するまでに、私とオカ研で田中先輩に関する噂話を整理しておきましたので!」

 「準備がいいなあ」

 

 益子は机を集めて作った台の上に模造紙を広げた。夏休みの自由研究のように、そこには田中の基本情報や経歴、噂話や考察などが書き込まれていた。二人が合流するまでの短い時間でよくここまでまとめたものだ。

 

 「では発表します」

 「よく出来てるのが憎たらしいな〜」

 「まず、田中先輩の基本情報から。フルネームは田中光希、高等部3年生で学生生活委員長兼生徒会副会長です。1年生の頃から学生委として精力的に活動していて、昨年は2年生にして副会長を務めていました。成績は常に学年首位、運動も努力を欠かさず優秀で、おまけに眉目秀麗、品行方正で生徒会の激務をこなしつつそれらを一切鼻にかけない、まさに完璧超人!学園生全員の憧れの的です!」

 「まあ、なんとなくそれは分かったよ。全校集会でも存在感すごかったし」

 「すごい人だよね。みんなが好きになっちゃうのも分かるよ」

 「はい!私もそう思います!でもこういう人にこそ、えげつない顔の一つや二つあって然るべきだとは思いませんか?その方が面白いですし!」

 「ゲスいなあ」

 「いやいや。下衆の勘繰りと一笑に付すには、少々気になることがあってね」

 

 冨良場がいつの間にか持っていた指示棒で噂話についてまとめた部分を指した。

 

 「まず、これは3年生の間では有名な話だが……田中君は大の部会嫌いなんだ」

 「部会嫌い、というと?」

 「この学園に多く存在する部や同好会、その数は延べ一千に達するとも言われていた。全国クラスの実力を持つ生徒がいる部や、研究活動だったり地域活動だったりで学園運営に貢献している同好会も多くある。一方で、活動実態がなく名前だけの部、生徒の個人的な趣味活動の範疇に収まっている同好会、その他生まれては消える小さな部会を、彼女はひどく嫌っているんだよ」

 「なんでまた」

 「さあね。学生委員長である今なら、そんな有象無象の部会は業務を煩雑にするだけという理由で説明できる。だが……田中君の部会嫌いは入学当時からだった」

 

 昔のことを思い出すように、冨良場は視線を上に投げた。その目には、2年前、冨良場たちが高等部に入学した生徒たちに向けたガイダンスの光景が映っていた。シラバスや校内施設の紹介が終わり、会の最後には部会紹介の時間が設けられていた。様々な部会の代表者たちが壇上に上がり、代わる代わる自分たちの活動を紹介し、勧誘の呼びかけをしていた。

 

 「わたしはたまたま彼女の近くにいたんだが……いやあ、あの目は怖かったねえ」

 「というと?」

 「そうだねえ。まるで何年もかけて探し続けた親の仇を見つけたときのような……ひどく冷たくて、憎しみの込もった目だった。今でも信じがたいよ。彼女があんな目をするなんて」

 「そ、それはでも、部長の印象ですよね……?」

 「もちろんさ。だけどその顔を見たのはわたしだけじゃない。数人とはいえ、みんな同じような印象を持っていたんだ」

 「そうだとしても、印象だけで部会嫌いと言ってしまうのは乱暴な気がします」

 

 この中に3年生は冨良場しかいない。当時の田中の目を見た人物となると、学園でも数人だ。そんなごく一部に限った話では、たとえ異口同音にその印象を訴えたところで、信ぴょう性は薄い。阿丹部や瓜生田の指摘は尤もだ。

 しかしその場には、そんな僅かな印象さえも武器にして、望む結論に誘導する印象操作人(プロフェッショナル)もいる。益子がふふんと鼻を鳴らした。

 

 「ですが、そうした事実があったという前提に立って、今度は田中先輩の経歴を振り返ってみましょう!」

 「もう事実になってるし……」

 「まず1年生のころ!学生生活委員に就任します!それではここでクエスチョン!なぜ田中先輩は数ある委員会の中で、学生委を選んだと思いますか?瓜生田さん!」

 「え、私?えっと……さっきの話を前提とするなら、部会に対して監督権を持つのが学生委だったから、かな?」

 「正解です!」

 「勝手に判定までしてる!なんの証拠もないんでしょ!?」

 「ふっふっふ。ベーりん、ジャーナリストの世界にはこんな言葉があるんだよ──証拠は()()()()して見つければいい!」

 「ダブルミーニングだね」

 「かたっぽ犯罪じゃねーか」

 「田中先輩は1年生のころから、模範的な生徒として委員会活動に勤しんできました。そしてその活動が認められ、翌年は2年生にして同委員会副委員長に就任するという異例の人事を達成!さあ続いて冨良場先輩にクエスチョン!副委員長に就任した田中先輩が行った、最も大きな仕事とは!」

 「わあ、わたしに来るとは思わなかった。う〜んそうだなあ。全ての部会に対して、活動実績定期報告書の提出を義務付けたことだ」

 「はい正解!」

 

 興奮してきた益子が、田中のこれまでの実績に関する記述を叩いた。かつて辺杁が牟児津と図書委員を巻き込んだ事件を引き起こした際に原因のひとつとなった、部会の活動実績を記載して報告するための書類だ。

 

 「通称“実定”の導入により、名簿上のみ存在している部会や個人の趣味活動しかしていなかった部会は悉く駆逐されていきました!それだけでなく、その様式や内容は厳しく審査され、期限までに完全なものを提出できなかった部会にはペナルティが与えられるように!弱小部会は実定作りに時間を取られて本来の活動が疎かになり、義務感による活動は部会からの人離れを招きました!そして活動も人手もなくなればますます実定に書くことがなくなるという悪循環!結果、半年足らずで学園内の部会の4割以上が消滅していました!」

 「いや、なんか悪しざまに言ってるけど、要は前のオカ研みたいに活動実態がなかったり、部として成立してなかったりした部が減らされてったってことでしょ?そりゃあ……可哀想だとは思うけど、学園からしたら当然のことなんじゃないの?」

 「意外と辛辣ね牟児津さん……って、私が言えた立場でもないか」

 「もちろん、こうした部会の大淘汰によって、学園の部会関係の支出は1〜2割ほど削減されたようです。田中先輩の活動には一定の成果があったと言えます。ですが無駄な部会を淘汰するのが目的だったなら、なぜ今回の騒動を引き起こしたのでしょうか!」

 「な、なになに?どういうこと?」

 

 益子の指は田中の活動実績からスライドし、今回の騒動とその考察に関する部分に移っていた。ここまでは、噂なり印象なり確実性に疑いが残るものの、一定の説得力を持っていた。しかしここから先は、もはや完全に益子の考察、それも田中の裏の顔をすっぱ抜ければスクープになって面白いというバイアスのかかった考察だ。かなり恣意的な解釈がされていると思って聞くべきだ。

 

 「今回、田中先輩は鍵を持ってきた生徒に部室を与えると明言しています。部会嫌いの田中先輩が、実績も何も関係なく部室を与えるなんてあり得ないことです!?なぜそんなことをするのか……こんなの裏に意図がないとあり得ないじゃないですか!」

 「部会嫌いって前提を疑いはしないんだ?」

 「ううん……でも、確かに川路さんもそんなこと言ってた。こんな大混乱が起きるのなんてちょっと考えれば分かるのに、あまりにも考えなし過ぎる。何か理由があるはずだって」

 「私が思うに、はじめから田中先輩に部室を渡すつもりなんてないんじゃないですかね。そうやって鍵を持ってきた適当な部会に、鍵を盗んだ犯人の濡れ衣を着せて潰そうとしてるとか」

 「なんでそんな回りくどいことを」

 「最終的に鍵を持ってくるのは、人手が潤沢で統率が取れて結束が固い、しかし優秀な成績を修めている部会には及ばない部会である可能性が高いです。なぜなら優秀な部会はすでに部室を持っていますからね、今回の騒動に加わる意味がありません。すなわち、田中先輩にとって邪魔であり、かつ力のある部会を犯人だとできるわけですよ」

 「な、なるほど。理に適ってる……気がする」

 「……うん」

 

 益子の推理は、全て益子の勝手な推測に過ぎないという点を除けば、それなりに納得できるもののように聞こえた。だが全て詭弁だ。益子が推理した田中の意図は、田中が部会嫌いで何かにつけて部会を潰したがっているという前提に基づくものだ。それは、2年前に冨良場が感じた印象を根拠としている。それを補強するような田中の実績の話も、部会嫌いの根拠と実定を導入した理由が循環していて、確固たるものはない。

 

 「つまり田中先輩は、鍵が盗まれた事件を利用して、自分にとって厄介な部会を一つ潰そうとこの騒動を起こしたのですよ!それがこの騒動の真意!そして田中先輩の裏の顔です!」

 「……うぅん、いや、あ〜……だよな?そこ、が……ほったらかしだよ」

 「どうですかムジツ先輩!私の推理!」

 「おっ……おおっ……!?いや、まさか……でも、可能性は……」

 「ムジツ先輩!?聞いてますか!?もしもーし!」

 「益子さん、いまこれ推理モード」

 「えっ、いま私が推理したのに……」

 

 自分の推理を完全にスルーされたと思い、益子はしょんとした。しかし牟児津が推理モードになったのは、益子の推理を聞いたからである。詭弁で、根拠薄弱で、穴だらけの推理だったが、だからこそその穴を塞ぐ真実が、牟児津には見えた気がした。一度そのひらめきを得てしまえば、後は益子の推理をベースに次々と論理を組み立てていくだけだ。

 今回は考えることが多い。体も疲れている。脳内を情報が駆け巡るほどに茹だるような熱が生じる。指一本動かしていないのに息が切れる。仮定に仮定を重ね、詭弁を屁理屈に昇華し、がらんどうの推理を仕立て上げる。最も肝心な証拠を欠いた、綱渡りの論理だ。それでも牟児津は、この推理を()ててしまってはいけない気がした。これは、牟児津にしかできない推理だ。

 

 「ぶへぇっ」

 「わっ!ム、ムジツさん!?大丈夫!?」

 

 全ての推理が組みあがったとき、牟児津は破裂したように息を吐いて倒れた。もともとしゃがんでいたので転がった程度のものだが、それでも瓜生田は心配して傍に寄る。呼吸が乱れてはいるものの、意識ははっきりしている。そしてその目は真っ直ぐだ。

 

 「……うりゅ。行こう」

 「行こうって、どこに?」

 「まず、うちの教室。私から鍵を奪った人を捕まえる」

 「え?でもそれじゃあ根本的な解決にならないよ?」

 「うん。だけど必要なんだ」

 

 牟児津はのそのそと起き上がり、台の上に広がった模造紙を見た。写真の田中と目が合う。

 

 「その人がいないと、田中さんを追い詰められない」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 時刻は16時を回り、外は薄暗くなりつつあった。ほとんどの生徒が田中の宣言した時間を意識し始め、徐々に鍵を諦める生徒たちも出始めた。しかしなおも校内では生徒同士の衝突が起きているため、2年Dクラスの生徒たちは教室で牟児津の帰還を待っていた。カバンが教室に残されていたので、最後に必ず戻ってくるはずだ。そのときに無事に下校させるために待っていたのだ。

 そして、教室の扉が開く。そこには牟児津が立っていた。再びクラスメイトが、牟児津の周りにわっと駆け寄る。

 

 「牟児津さん!だ、大丈夫だった!?葛飾さんから聞いたけど、あの後も大変だったんでしょ!?」

 「う、うん……でも、大丈夫だよ。時園さんも足立さんも室さんも、みんなありがとう。助かったよ」

 「ううん。私は、少しでも牟児津さんの力になれたなら……よかった」

 「牟児津さん!もう今日は帰っちゃいなよ!今なら人も少なくてチャンスだからさ!」

 「……いや、そういうわけにはいかないよ」

 

 その一言で、クラスメイトたちは静まり返った。その言葉が、語勢が、声色が、普段の牟児津からは想像できないほど力強かった。葛飾と足立だけは知っていた。今の牟児津は、何かを確信している。隠された真実に至ったときに見せる顔をしていた。

 

 「少なくとも私は、学生委員室から鍵を盗んだ犯人だって疑いを晴らさなくちゃいけない。今日中に終わらせないとそれを証明するチャンスがなくなるんだ」

 「そ、そっか……でも、どうやって証明するの?もうこんな時間だし、目途があるの?」

 「あるよ。それには、ある人の協力が必要だ」

 「……ど、どなたですか?」

 

 牟児津を中心に、クラスメイトたちは互いを見やる。牟児津の言い方からは、その協力者が単に牟児津を助けてくれる人という意味ではないように感じた。

 

 「それは、この子が知ってるよ」

 「この子?」

 「こんばんわあ。お邪魔しまあす」

 「あれ、瓜生田さん……と?」

 

 牟児津の後から教室に入って来たのは、緊張した雰囲気に似つかわしくない間の抜けた挨拶をする瓜生田だった。さらに加えて、その足元には黒っぽい毛むくじゃらがいた。ピンと立った耳に、人懐っこく笑う口元、つぶらな瞳と突き出た鼻。雑種犬だった。

 

 「犬?」

 「この子は生物部で飼ってる……ええと、なんて言ったっけ」

 「チップだよ」

 「そう。チップくん」

 

 愛嬌のある顔をしているチップは、こんな状況でなければクラス中から可愛がられていただろう。しかし今は、なぜ牟児津がチップを連れて来たのか分からず、クラスメイトたちは次の言葉を緊張した面持ちで待った。

 

 「チップくん、よろしく」

 

 瓜生田がチップの首輪を外し、牟児津が軽く背中を叩く。するとチップは、ひくひくと鼻を動かして歩き出した。せわしなく首を動かしながら、クラスメイトたちの足の間をするすると抜けて匂いをたどっていく。全員が固唾を呑んで見守るなか、チップは不意に立ち止まった。

 

 「えっ?ちょっ……きゃあっ!」

 

 まるで飼い主に甘えるように、チップは立ち上がってその生徒に寄り掛かった。突然のことで受け止め切れなかったその生徒は、よろめいて人だかりの中から漏れ出る。こんな状況では否が応でも視線を集めてしまう。牟児津はその生徒を指さした。

 

 

 「やっぱりあなたなんだね。鯖井さん」

 

 

 鯖井は青い顔で牟児津を見た。

 

 「あなたが、私から鍵を奪ったもじゃもじゃの正体。そしてこのクラスに私が隠れてることをバラした。そうだよね」

 「ッ!!」

 「えええっ!?か、鍵を奪ったって……ええっ!?」

 

 クラス中がざわめいた。牟児津の言うことの意味を理解しかねる者も、鯖井と牟児津を交互に見る者も、何が起きているか分からない。突然矢面に立たされた鯖井は言葉に詰まり、牟児津の追及を許してしまう。

 

 「私が鍵を持って逃げて草むらに隠れてたときに、鯖井さんはもじゃもじゃの服で近付いて鍵を奪い取った。その後、そのもじゃもじゃの服を脱いで草むらに隠して、何も知らないふりして教室に戻って来たんだ。クラスのみんなに交じって私を助けるふりして、時間になるまで教室で待つために」

 「な、なんでそれが鯖井さんって言えるの?」

 「私に近づくときに着てたもじゃもじゃの服──あれ、ギリースーツって言って、ハンターの人とか軍人とか……あとはサバイバルゲームで使ったりするものだ。サバイバルゲーム同好会の鯖井さんなら、持っててもおかしくないよね?」

 「……ッ!」

 「服は後から回収するつもりだったんだろうけど、先にチップが見つけて、生物部に回収された。それをうりゅがここに持ってくるっていう話を知った鯖井さんは焦っただろうね。ギリースーツが届いたら、一発で自分が犯人だってバレる。それを有耶無耶にして避けるために、外から人を呼んだんだ。私が教室にいるって密告でもしたんじゃない?」

 「うっ……!くっ……!」

 「ギリースーツの持ち主が本当に鯖井さんかどうか、私には分からない。だけど、チップなら同じ臭いの持ち主を見つけてくれる。今みたいにね。だからあのもじゃもじゃの正体は、鯖井さんでしかないんだよ!」

 

 既に、クラス中の視線が鯖井に突き刺さっていた。牟児津に対して、クラスに対して裏切りを働いた鯖井を見る目は厳しい。いくら言い訳を並べ立てたところで、チップの反応だけはどうしても誤魔化せない。もはや完全な手詰まりか、と言えば、そうではない。

 

 「くそっ!」

 「あっ!逃げた!」

 

 鯖井にはまだ逃げるという道がある。鍵はまだ自分が持っているのだ。このまま時間まで逃げ切り、学生生活委員室へ鍵を持って行けば、念願の部室を手に入れることができる。目的は達成できるのだ。鯖井はわき目も降らず教室を飛び出し、廊下を走りだした。

 

 「ちょっ……!待ちなさい!」

 「ま、真白さん!早く追いかけないと!」

 「大丈夫だよ」

 

 飛び出した鯖井の後を追って、時園と葛飾が教室の外に顔を出す。しかし鯖井が逃げた奥の廊下には、なぜかうずくまっている葡萄色の髪の生徒がいた。その隣には、益子が満面の笑みで手を挙げている。

 

 「出た!お願いします木鶴(きぬえ)先輩!」

 「うん、いつでもいいよ」

 「ッ!」

 

 鯖井は、直感的にその場で切り返した。このまま逃げても捕まる。そう感じて、反対方向に再び全速力で駆け出す。二人の距離はおよそ100mばかり。陸上部エースの木鵺(きぬえ) 仁美(ひとみ)にしてみれば、無いも同然だ。

 

 「よーい!どん!」

 

 益子の声が届くが早いか。はたまた益子が手を振り切るのが早いか。合図と同時に木鶴は発射(かけだ)した。ミサイルのような速さで一直線に鯖井を追い、葛飾が驚いて瞬きした後には、すでに鯖井の肩に手を触れていた。

 

 「おあああああっ!!?べべべべっべっ!!?」

 「うそおっ!?」

 

 文字通り瞬く間に木鵺に捕まった鯖井は、かつての牟児津のように顔で廊下を拭いた。それを確認すると、益子が廊下の反対側から駆け寄ってきて、牟児津たちは教室から廊下に出た。

 

 「ひぇ〜!さすが、学園最速の名は伊達じゃないですね!おっそろし〜!」

 「別に大したことじゃないけど。こんなんでいいの?」

 「そりゃあもう大助かりですよ!ね、ムジツ先輩!」

 「うん。ありがとう木鵺さん」

 「……まあ、牟児津さんにはお世話になったし。ていうか、また巻き込まれてるんだね」

 

 一瞬のこととはいえ廊下を端から端まで走ったのに、木鵺は息一つ乱さない。それどころか、牟児津の境遇に同情を示す余裕まである。その間に葛飾が、木鵺から鯖井を預かって拘束した。最後に残された悪あがきも空しく、鯖井はたちまちお縄となった。

 

 「ぐふぅ」

 「鯖井さん……クラスメイトにこんなことさせないでくださいよ!なんで裏切ったりしたんですか!」

 「くうっ……!あ、あんたたちには分かんないよ!()()()の気持ちなんて!」

 「な、なんですって!」

 「委員会には立派な委員会室があるじゃん!陸上部だって美術部だって生物部だって……みんな部室を持って好きに活動できてるじゃん!そんな人たちに私たちの気持ちが分かってたまるか!拠り所のない私たちの気持ちが!」

 

 葛飾に拘束されたまま鯖井は叫んだ。力強く向けられたのは敵意、そして羨望だった。ここにいる者のほとんどは、部会や委員会の活動をする場所に困っていない。委員会にも、人数の多い大型の部活にも、どちらにも所属していない牟児津にも、鯖井の気持ちを真に理解することはできないという。

 

 「伊之泉杜学園(うち)は部会活動が盛んで、だから自分の好きな部会を自由に設立できた!なのに実際は、実定を出さないとすぐに部会登録は取り消されるし、同好会のままじゃろくに予算が下りなくてまともに活動できないし、部員が少ないといつまでも部に上がれないし……こんなの自由じゃないよ!」

 「それは……でもしょうがないじゃないですか!そういう決まりなんです!やりたいことを好きにするには、やりたくないこともやらなくちゃいけないんです!自由と無秩序は違うんです!」

 「……ううっ。わ、私……怖くなっちゃったんだよ……!2年生になったとき……1年間、私は何をしてたんだって……。実定の提出に追われて、大好きなサバゲーもろくにできなくて、勉強もテストもあるし、それで気が付いたら……1年経ってた……。せっかく同好会も作ったのに……このままじゃ私、高等部でなにもできないって……なんの思い出もないまま卒業しちゃうって……」

 「……」

 

 いつの間にか鯖井の声は熱く湿っていた。葛飾に押さえつけられながら、崩れていく表情を見せないよう顔を伏せる。胸の内に抑え込んでいた不安を口にして、ますますそれが大きくなってしまったようだ。クラスメイトの中にも、鯖井の言葉に共感して瞳を潤ませている者がいる。

 きっと、今日牟児津を追いかけてきた群衆もみんな、同じような気持ちだったのだろう。部室を持たない弱小部会にとって、この争奪戦は単なるイベントではない。自分たちが学園で活動したという証──居場所を手に入れるための、生存闘争なのだ。躍起にもなるし、裏切りをも辞さずとも仕方ない。

 

 「部室さえ……部室さえ手に入れれば、私たちは安心できる……。ひとりで使うつもりなんてないよ……!同じように部室に困ってる人たちを集めて、仮の部を作るんだ……!みんなが自由に活動して、自由に部室を使えるような、そんな部を作るんだ……!鍵は渡さない!あの部屋は、()()()の部室にするんだ!!」

 「そ、そんなの……学生生活委員が認めるわけないでしょ!部会名と活動実態の乖離は厳重指導対象よ!」

 「そうでもしないと!!こうしてる今も、この学園で誰かが部会の継続を諦めてる!!その人たちを救えない!!」

 

 日が暮れる学園からは人影が少なくなっていた。あれだけ大挙して押し寄せてきていた鍵を狙う群衆は、もうすっかり勢いを失っている。今日、部室を手に入れるチャンスを諦めて下校した生徒はどれくらいいただろうか。明日以降、その生徒たちは今日までと同じように息苦しい部会で活動できるだろうか。降って湧いた希望が手をすり抜けて消えていった。そんな失意の中、また同じ希望を信じていられるだろうか。

 今日の騒動で、いったい何人の生徒が心を揺さぶられただろう。何人の生徒が心を痛め、何人の生徒が心を折られただろう。涙を流す鯖井の傍に、牟児津はそっとしゃがんだ。無言で葛飾に手をほどかせ、鯖井を解放した。

 

 「……?」

 「鯖井さん。鍵は返さなくていいよ。元から私は部室が欲しいわけじゃないんだ」

 「えっ……で、でも……私、牟児津さんのこと、裏切って……!」

 「いいよ。っていうか別に、裏切りなんて思ってないよ。鯖井さんがなんでそこまでして鍵が欲しかったのかも分かったし、理由があるんなら怒らないよ」

 「な、なんで……そんな……!そんなの……お、怒ってくれた方がマシだよ……!そんなこと言われたら……私……!」

 「えっ、ええ……?お、怒った方がいいのこれ?」

 「無理して怒ることないと思うよ。でもまあ、鯖井先輩の気持ちも分かりますよね」

 「分かります、すごく」

 「めっちゃ分かる」

 「なんで!?」

 

 足立も木鵺も、瓜生田の言葉に同意を示す。牟児津は、自分の平和な学園生活の脅威にならないと判断した相手はとことん許してしまう。それは大らかであるとも言え、他人に興味がないとも言える。

 その場で許してしまうと、相手が自分のしたことを反省し、罪を償って自分自身を許せるようになる時間を奪うことになってしまう。そうしてきたからこそ今日、足立と木鵺は自分の部活動をも差し置いて牟児津を助けているのだ。かつてその機会すら与えられなかった償いを、少しでもするために。

 

 「そういうわけですから、ムジツ先輩はもっとずけずけ言っていいんです!むしろずけずけ言うべきなんです!それが鯖井先輩のためにもなるんですから!」

 「うぅん……じゃ、じゃあ、元々頼むつもりだったんだけどさ。鯖井さんにちょっとやってほしいことがあるんだよね」

 「ぐすっ……な、なに?」

 

 そして牟児津は、鯖井に耳打ちする。今日はまだ終わらない。まだ、牟児津が学生委員室から鍵を盗んだ容疑は晴らされていない。その疑いを晴らすためには、鯖井の協力が不可欠だったのだ。他の誰でもない、鯖井にしかできないことだ。

 

 「その鍵を、学生委員室の田中さんのところに持って行ってほしい。そしたら後は、私たちに任せて」



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第4話「証明してごらんあそばせ」

 

 約束の時間が迫る16時25分、学園内はずいぶん静かになっていた。多くの生徒はすでに下校し、最後まで鍵を手に入れようと足掻く部会も僅かばかりだ。

 物が片付けられて整然としている学生生活委員室は、まるでこの学園の理事室のようだった。漆塗りの艶やかな木製机が部屋の奥に置かれ、委員長の名札が立てられていた。それより少しスケールダウンした高級そうな事務机が部屋の両側に3つずつ並び、部屋の中央には応接用のガラステーブルとソファが構えている。委員長席の後ろには大きな旗が校旗と交差して飾られており、ガラス戸のついた戸棚にはトロフィーや盾、賞状が丁寧に並べられている。絨毯は中央に人ひとり分にワインレッドのラインが引かれ、両縁をなぞる金の刺繍以外は一面カーキ色に染まっていた

 田中(たなか) 光希(みつき)は、委員長席でペンを走らせながら待っていた。鍵の争奪戦に勝利し、その証を持って現れる者を。約束の時間はもうすぐ、いま取り掛かっている仕事がひと段落するのもその時間。完璧な時間調整で、1秒たりとも無駄にしないスケジューリングのはずだった。

 

 「!」

 

 時刻は27分。まだ約束の時間までは3分もある。だというのに、委員室のドアをノックする音がした。委員ではない。委員には特殊なノックの方法を伝えてある。それ以外でこの時間に扉を叩く者などひとりだ。つまり、約束の時間より早く鍵を持って現れた者がいるのだ。

 

 「どうぞ」

 

 短く返すと、扉はゆっくり開かれた。暖かい部屋の空気が外に流れ、冷たい廊下の空気が足元になだれ込む。その向こうから遠慮がちに現れたのは、体の全面を埃と土で汚した生徒だった。目元と鼻が赤らんでいる。鍵を巡ってずいぶんと争い、駆けずり回ったのだろう。

 田中は微笑んだ。汚れた生徒は扉を閉め、入口近くに立ったままお辞儀した。

 

 「あ、あの……約束の時間には早いですけど……もう、私以外に人がいなくて……いいかなって」

 「まあまあ。そんなにお顔もお召し物も汚れてしまって、お可哀想に。そちらにお手拭きがあります。どうぞお使いになって」

 「は、はあ……ありがとうございます」

 

 田中は保温機を手のひらで示し、生徒に汚れた顔を拭かせた。そうしている間にも、手元のペンは止まらない。

 

 「お名前とクラスをお聞かせくださる?」

 「さ、鯖井(さばい) (はる)です。2年Dクラスです」

 「春さん……ああ、ごめんなさい。今日のお昼にお話ししたばかりでしたね。確かサバイバルゲーム同好会の」

 「いえいえいえ!そんなそんな……!副会長いそがしいですし、名前なんていちいち覚えてらんないすよね……いくらでも名乗りますから……!」

 「ふふふ。サバイバルゲームというのは、とても刺激的でスリリングなスポーツと伺っています。春さんは同好会としての活動を楽しんでいらっしゃいますか?」

 「は、はあ……いやあ、あまり頻繁には……。あ、で、でも楽しいですよ!モデルガンを撃ったりするのは気持ちいですし!」

 「それは何よりです」

 

 田中のペンが止まった。それと同時に、壁にかけられた振り子時計から音楽が流れる。伊之泉杜学園の校歌だ。16時30分。約束の時刻になった。鯖井は緊張で口の中がカラカラになる。田中は、薄く微笑んだまま口を開く。

 

 「春さん。鍵をこちらへ」

 「は、はい!」

 

 田中が、机の上に置かれたフェルトの敷かれたトレイを指し示す。鯖井は手が戦慄(わなな)くのを押さえながら、ポケットから鍵を取り出し、そこに置いた。極度の緊張のせいか、鯖井は田中に近づいたのに、再び入口近くまで下がってしまう。

 

 「どうか緊張なさらないで。いくつか質問をさせていただきますので、正直にお答えください」

 「……はい」

 「春さんは、こちらをどのようにお手にされたのでしょうか」

 「あ、あの、同じクラスの、牟児津さんっていう子から……か、掠め取りました」

 「なるほど。その方はお怪我なされていませんか」

 「だ、大丈夫です。怪我はしてません」

 「そう……安心しました」

 

 鍵を手に取り、田中はそれを注意深く見つめる。まるで鍵を鑑定しているようだ。鯖井は、田中の質問に正直に答えた。ウソを吐く理由もないが、仮に理由があったとしても下手なウソは田中に通じない。そう感じさせる迫力があった。全校集会のときに見せた柔和で可憐な印象は感じない。

 しばらく鑑定と質問が続いた後、田中は鍵をトレイに戻した。そして、鯖井を見た。その目は、突き刺さるように鋭かった。

 

 「春さん。残念です」

 「へ?」

 「これはわたくしがお持ち頂くよう申し上げた鍵ではありません。偽物です」

 「……はあああっ!?」

 

 思いもよらない田中の発言に、鯖井は大声を出す。そんなことはお構いなしとばかりに、田中は立ち上がってガラス戸を開けて、中から天秤を取り出した。シンプルながらも上品な装飾が施された、いかにも高級そうな天秤だ。そこに、鯖井が持ってきた鍵と、委員会室の鍵を、それぞれ左右の皿に乗せた。鯖井の持っていた鍵が大きく沈む。

 

 「えっ……!?」

 「この学園の鍵は偽造や複製を防ぐため、様々な工夫が施されています。たとえば、鍵の重さは全て等しく製造されています。ところがご覧のとおり、この鍵は明らかに重いようです。よく出来てはいますが、残念ながらこれを認めるわけには参りません」

 「んなバカな!!そ、そんなはずは……だってそれは確かに……!!」

 「申し訳ありませんが、春さん、鍵が偽造されていると分かった以上、あなた自身についても今一度考え直さなくてはなりません」

 「は……?わ、私……?」

 「この部屋から鍵を盗んだ犯人、春さんがその方ではないと、今ここで証明できますか?」

 「なっ、なっ、なにを……!?」

 「あなたがこの部屋から鍵を盗み去った。そしてわたくしのお願いをお聞きになったあなたは、偽物の鍵を用意してわたくしに返却し、鍵が更新される前に本物の鍵を使って空き部室を占拠しようとした。それを否定できますか?」

 「い、いやいやいや!そんなことするわけないじゃないですか!っていうか、私は鍵を盗んだりなんかしてないですよ!」

 「先ほど牟児津さんという方から掠め取ったとおっしゃいました。それも立派な窃盗です。それが事実であろうとなかろうと、あなた自身が自らを、窃盗をする人間だと告白しているのです。悲しいことですが、疑わざるを得ません」

 「そ、そんな……!」

 「今この場では否定も肯定もなさらなくても結構。調べれば分かることです。あなたの制服のポケット、学園カバン、机の中、どこであろうと痕跡があれば必ずそれは見つかります。あなたが犯人ではないと仰るのなら、堂々となさっていればいいのです」

 「あ……?ああ……?」

 

 息つく暇もないほどの密度。付け入る隙もないほどの固さ。理解の追いつかない鯖井の脳は田中の言葉に押しつぶされた。もはや何も考えられない。何がどうなっているのか分からない。田中は鯖井に近付き、その肩を叩いた。その手は優しく、鯖井は、田中が触れている部分以外は五感が失われてしまったような感じがした。そして、扉の方に鯖井の体を向けさせた。

 

 「申し訳ありません、春さん。ですがこれは大きな問題です。粛々と対処しなくてはなりません。ご理解ください」

 

 田中は扉を開き、鯖井の背中を軽く押した。手が離れてしまうと、鯖井は全身の力が抜けて前につんのめった。崖から突き落とされるような虚無感。頼みの綱を切り離されるような絶望感。鯖井は受け身を取ることさえ忘れていた。

 一瞬、体が浮いたような気がした後、鯖井は温かい体に抱き留められた。

 

 「?」

 

 委員室の扉の前には、背の高い生徒が立っていた。艶やかな黒髪を真っ直ぐ降ろした、3年生と肩を並べるほど大きな1年生だ。鯖井を受け止めたのはその生徒だ。

 その隣に、ざくろ色の髪をした背の低い2年生が立っていた。その目は真っ直ぐ田中を見つめている。

 

 「この委員室から鍵を盗んだのは鯖井さんじゃありません。犯人は──!」

 

 その指は、真っ直ぐ室内を指さした。

 

 「副会長さん。あなたです」

 

 牟児津(むじつ) 真白(ましろ)は、自分の心音が強すぎて自分の声が聞こえなかった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 学生委員室内には、振り子時計が規則正しく時を刻む音だけが響く。委員長席に座った田中と、応接用のソファに腰かける牟児津と瓜生田、そして鯖井。外はすっかり暗くなっていたが、委員室の明かりは煌々と灯っている。

 

 「先ほどのお話ですが」

 

 唐突に田中が口を開いた。その声に、牟児津と鯖井はびくっと肩を跳ねさせる。落ち着いているのは瓜生田だけだ。

 

 「牟児津真白さん──真白さんとお呼びしても?」

 「……はあ」

 「そちらは、図書委員の瓜生田李下さんですね。李下さんとお呼びしてよろしいですか?」

 「もちろんです」

 「ありがとうございます。それで真白さん?先ほどお部屋の入口で仰ったことですが……虚を突かれたと申しますか、あまりに突然のことでしたので聞き漏らしてしまいました。恐縮ですが、もう一度、()()()()()仰ってくださいませ」

 

 田中は念を押すように言った。表情はにこやかだが、声色には明らかに牟児津への圧がこもっている。

 

 「この委員室から鍵を盗んだのは鯖井さんじゃありません。犯人は副会長さんです」

 「!」

 

 牟児津は単純に繰り返した。そうしろと田中が言ったからだ。そして全身に押し寄せる痛いほどの圧力は、はち切れんほどにがなる心臓の鼓動で相殺されて感じていなかった。それでも田中は眉一つ動かさず、あくまで穏やかに続けた。

 

 「空き部室の鍵を私が盗んだと、そう仰いますの?」

 「はい。副会長さん以外にあり得ません」

 「真白さん。これはとても大きな問題です。どのようにしてその結論に至ったのかは存じませんが、軽々に口にすべきではないことですよ」

 「分かってます」

 「……」

 

 あくまで冷静に。穏やかに。諭すように。田中は牟児津に語りかける。一方の牟児津も決して引かず、淡々と応じる。我を忘れるほどの緊張下にあるおかげで、牟児津は田中とまともに話せている。普段の牟児津なら、最初に圧をかけられた時点で降参していた。

 

 「そう。そこまで仰るのなら、わたくしとしても聞き流すことはできません。本当によろしいのですね?」

 「……はい」

 

 牟児津の返事を確認し、田中は小さく息を吐いた。誰にも気付かれないほど小さなため息だ。そして、それまで見せていたにこやかな表情を止めた。今も微笑んではいるが、それは全く別の表情だ。盾突く者を嗤うような、刃向かう者を嘲るような、そんな冷笑だった。

 差し出した手は美しいほど白い。そんな何気ない仕草さえ優雅だ。傍から見る者が抱くのはそんな感想だ。だがその手とその表情を向けられた者には、とてつもないプレッシャーがかかる。

 

 「どうぞ。証明してごらんあそばせ」

 

 もはや撤回は許さない。完全な証明でなければ認めない。決着をつけるまで絶対に逃がさない。牟児津たちにはそう聞こえた。

 

 「それじゃあまず、副会長がどうして今回の騒動を起こしたのかをお話しします。いいですか?」

 「ご自由にお話いただいて構いませんよ。必要があれば質問にもお答えします」

 「ありがとうございます。えっと……まず、ある人から副会長さんについて聞きました」

 

 いきなり不安な出だしだが、牟児津は川路の名前を出すかどうかを迷った結果、出さないことにした。ここで名前を出すことがどういう意味を持つか、はっきりとしたことは分からないが、不用意なことを言えば川路の立場が危うくなることは確かだった。なるべく迷惑はかけたくない。

 

 「今日の鍵争奪戦はおかしいことだらけだそうです。まず争奪戦の実施は、副会長さんが独断で決めたことだそうですね。普通こういうことをするなら、生徒会に掛け合うものじゃないですか?」

 「各委員長には、自らの業務管轄の範疇において生徒会の決議なしで決定する専決権という権限が与えられております。部室の管理は学生生活委員の管轄ですので、わたくしが専決いたしましたの」

 「うりゅ、そうなの?」

 「うん、そういう決まりはあるよ。だから委員長の影響力は大きいんだ。ちなみに、専決取消請求権っていうのもあるけどね」

 「李下さんはお詳しいのですね」

 「恐縮です」

 

 牟児津は瓜生田に確認した。単純に知らなかったというのも理由のひとつだが、校則や委員会規則に詳しい人物がいるとアピールすることで、田中にでたらめを言わせないよう牽制すある意味もある。どれほど意味があるか分からないが、まずは手筈通りに話を進める。

 

 「その人はこうも言ってました。副会長さんなら、その決定がどんな影響を出すか分からないはずがないって。部室を獲得するチャンスを鍵の奪い合いなんかで手に入れさせたら、学園中が大混乱になるって、副会長さんに予測できないはずがないんです」

 「まあまあ。高くご評価頂いて光栄ですが、残念ながらその方は私を買い被っていらっしゃいます。わたくしも所詮は一介の高校生ですよ。思慮の浅いばかりに不測の混乱を招くこともあります」

 「予想できなかったってことですか?」

 「お恥ずかしながら」

 「じゃあ、次は私の疑問です」

 

 深入りを避け、牟児津は話題を変える。ひとつの疑問を突き詰めても、田中はのらりくらりと追及をかわしてしまう。田中を突き崩すのに必要なのは多角的な攻撃だ。これまでの疑問点をひとつひとつつなげて、田中への疑いを複雑化させていかなければいけない。

 

 「どうして争奪戦をする必要があったんでしょうか」

 「……失礼、質問を理解するのが難しいので、もう少し詳しくお尋ねくださいますか?」

 「この争奪戦は、最終的に盗まれた鍵を副会長が回収するために実施したことになっています。でも、本当にそうする必要があったんですか?部室を餌にすれば犯人が鍵を持ってやってくると、本気で思ってるんですか?」

 「まあ、争奪戦や餌なんて粗野な表現はなさらないでください。わたくしは、確実に鍵を回収することに加え、部室を持てない部会の皆さんにチャンスをお示ししたまでです。学園としても、空室のままにしているよりどなたかにご活用頂く方が合理的ですから。結果的には争奪戦の様相を呈してしまいましたが、犯人でない方であれば鍵を持参することへの心理的障害が軽いと判断したので、そのような形式を採用しました」

 「ですからおかしいですよ。そんなことをする前に、もっと確実に鍵を回収する方法があるじゃないですか」

 「なんでしょう?」

 「今日の全校集会の前の時点で、オカ研が部室を引き払ったことを知ってるのはほんの一部の生徒だけでした。全校集会で副会長がそれを発表したとき、めちゃくちゃどよめいてたじゃないですか。あれが証拠です」

 「そうですね」

 「部室に空きができてることを知らなければ、その鍵を盗み出すことを考えることすらできないんです。だから鍵を盗み出せたのは、空き部室の鍵が委員室で保管されてることを知ってる人たち……20人かそこらしかいません。その人たちを個別に捜査すればいいじゃないですか。どうしてそうしなかったんですか?」

 「個別捜査には時間がかかります。少なくとも今日中に完了させることはできません。その間に盗んだ鍵をご自宅にでも持ち帰られてしまえば、回収が非常に困難になります。今日、この学園から鍵を出さずに回収することを考えれば、個別捜査は適しません」

 「でも今日のやり方だと、オカ研とか委員とか、部室争奪戦に参加する意味のない生徒が鍵を持ってたら同じことじゃないですか。そもそも委員が盗んだ可能性は考えないんですか?」

 「な、なんてことを……!」

 

 学生生活委員が鍵を盗んだ──牟児津の発言に田中は面食らった、ような反応を示した。状況だけを考えれば当然疑うべき可能性だ。しかしこの状況で、それを学生生活委員長である田中に対して、部外者である牟児津が指摘するのは、少々意味が変わってくる。

 それでも田中はすぐに冷静さを()()()()、考えるような仕草をしつつ再び牟児津を促した。

 

 「すみません。状況が状況ですから、語勢が強まるのは仕方がありませんね。今の暴言は聞かなかったことにします。ですが真白さんも、ここからはお言葉にお気を付けください」

 「……じゃあ次は、副会長さんの同級生に聞いた話です」

 

 牟児津はあっさり話題を変えたが、瓜生田は静かに奥歯を噛んだ。牟児津の指摘を暴言と言い換え、自分への疑いを寛容な態度で誤魔化し、さらにそれ以上の追及を封じ込んだ。演技があからさまに感じるのは、自分たちが疑いの目で見ているからだろうか。

 

 「3年生の間では、副会長さんは部会嫌いで有名だそうですね」

 「そういう噂は存じております。ですがあくまで噂に過ぎません。何の根拠もないことです」

 「そうですか?私は本当だと思います」

 「なぜでしょう」

 「副会長さんは2年生のころ、学生委員の副委員長になったんですよね。そしてそのときに、今の部会に関するルールを作ったとか」

 「ええ、そうですね」

 「全ての部会に活動実績定期報告書の提出を義務付けたり、部の設立に人数制限を作ったり、同好会の予算を削ったり……どれもこれも、部会の活動を厳しく制限するものばかりじじゃないですか。結果、副会長さんの就任前と後とでは、高等部の部会数が全然違います。副会長さんは、弱小部会を潰すためにこんな制度を作ったんじゃないですか?」

 「人聞きの悪いことを仰らないでください。わたくしはあくまで、学園生の皆様が公正かつ自由に部会活動を行えるようなルール作りをしたに過ぎません」

 「でも明らかにこのルールのせいで消えた部会がいくつもあるのは事実です。そして、この結果を副会長さんが予測できなかったわけがない」

 「……」

 「本当は全部分かってたんじゃないですか?今日だってそうです。鍵を巡って争った部会の人たちは風紀委員に逮捕されました。鍵を諦めて下校した人たちは、明日からの部会活動に対する心を折られてます。鯖井さんだって、部室どころか鍵を盗んだ犯人にされかけてます。誰一人得をした人はいないんです。去年のルール作りも今日の騒動も、副会長さんが主導して、最終的にたくさんの部会が活動停止に追い込まれる結果になってるんです。副会長さんは、部室を持つことができない弱小部会を徹底的に減らすために、今日の騒動を引き起こしたんじゃないんですか」

 

 牟児津は思い起こしていた。追い込まれて悪事に手を染めた辺杁の葛藤を。部室を手に入れるまでもう少しのところで捕らえられた鯖井の無念を。田中には聞こえていないし見えてもいない。この学園で部会活動をする生徒たちの苦労も、迷いも決断も。今それをぶつけられるのは牟児津しかいない。

 しかしその声は容易には届かない。田中は依然として涼しい顔で牟児津の追及を受け止め、煽るように笑う。

 

 「それで?今日のことが私の意図したことで、その目的が真白さんの仰る通りだったとして、なんですの?それと私が鍵を盗んだこととは、どう関係しますの?」

 「認めはしないんですか」

 「まさか。ですが真白さんが、それを前提としてお話しされることを妨げることは致しません」

 

 まだ話の途中だろうということだ。田中はひとつひとつの推理について判断を下すことはしない。木を見て森を見なければ、気付かないうちに相手のペースに取り込まれるだけだ。逆に牟児津の推理が長く大きくなるほど、些細な綻びをひとつ指摘するだけで、推理全体の信憑性を堕とすことができる。瓜生田には田中の意図が分かっていた。分かっていて何もできなかった。

 

 「じゃあ、今までのことを踏まえての話ですけど……副会長さんは、おかしいと思わないんですか?」

 「なにがでしょう?」

 「さっき副会長さんは、鯖井さんの鍵が偽物だと証明しました。だったら、どうして本物の鍵を持った人は現れないんですか」

 「……あっ」

 

 声を漏らしたのは鯖井だ。魂が抜けたようにソファに座り込み、牟児津と田中の静かな対決を右から左へ聞き流していた。しかしようやく、鯖井にも理解できる範囲の話になってきて気付かされた。確かに、本物の鍵は今、どこの誰が持っているのか。

 

 「鍵を盗むことを考えられたのは数人。その中で、今日の騒動を受けてもまだ鍵を持ち続けることにメリットがある人はいません。どういう目的であれ、さっさと用を済ませて返しちゃえばいい話です。なのに、その人は一向に現れない。なぜなんでしょう」

 「さあ。物を窃取した経験はございませんので、わたくしにその方のお気持ちは何とも」

 「本当に鍵は盗まれたんですか?」

 

 ひくと田中の口元が歪んだ。ほんの僅か、ともすれば気のせいかと思うほどの刹那の間のことだ。しかしこれまで能面のようだった田中の顔に、初めて意図しない表情が生まれた気がした。

 

 「今日の昼休み、副会長さんは鯖井さんを訪ねてうちのクラスに来たらしいじゃないですか。そのとき何をしに来て、何をしたのか、聞いてもいいですか」

 「……そちらの春さんが提出なさった活動実績定期報告書に不備がありましたので、修正して頂こうと思い、ご返却に伺いました。春さんはお席に座っていらっしゃいましたから、そちらまで参りまして、返却と、併せて激励のお言葉を差し上げました」

 「鯖井さん。間違いない?」

 「へっ?う、うん。そうだね。間違いない……」

 「つまり、鯖井さんに実定を返すためだけに、副会長さんはうちのクラスまで来たってことです。でも副会長さんは、学生委員長と副会長を兼任しててめちゃくちゃ激務だそうじゃないですか。実定の返却なんて委員にさせればいいのに、なんでわざわざ自分でしようと思ったんですか?」

 「たまたまお仕事に隙間ができましたので、たまには皆さんとの触れ合いも必要かと……いえ失礼、建前はやめましょう」

 

 流れるように吐いた言葉を急に切り、田中は頭を振った。そして少しだけ今までより柔和な言葉と笑顔を晒した。まるで、これが本当の表情だと主張するように。

 

 「気分転換です。ずっと委員室にこもって仕事をしていると、たまには訳もなく外を出歩きたくなるんです。長時間の着座は業務効率を低下させますので。実はこのお部屋に一人のときは、歩き回りながらお仕事したりしているんですのよ」

 

 こんなときでなければ、それは少しだけ恥ずかしい秘密を告白するいじらしい姿に映ったかも知れない。しかし今は、田中の本性を覆い隠す仮面のひとつを外させたことを意味するに過ぎない。

 

 「気分転換だけのために、鍵もかけずに委員室を空けたんですか?実定を鯖井さんに返すためだけに、忙しい時間を割いて気分転換をしたと、本気でそう言うつもりですか?」

 「ふふふ。私のほんの気まぐれまで、あなたに否定できて?」

 「その外出に別の意図があることを証明すれば否定できます。副会長さんは、ただ鯖井さんを訪ねてうちのクラスに来たんじゃない。放課後に鍵争奪戦を起こすために来たんだ」

 「否定には相応の根拠が必要ですのよ」

 「根拠はあります。ついさっき見つかりました」

 

 わざとらしく笑う田中だが、目元は一切笑っていない。柔らかく優しい眼差しを直視すると、包み込まれて囚われてしまいそうな深淵を感じる。田中は優秀だ。学業も運動も人の心を操ることも、牟児津より遥かに有能だ。しかしだからこそ、そこには弱みが生まれる。全てを知っているつもりでいるという慢心だ。

 唯一、牟児津が知っていて田中は知らない事実がある。田中を突き崩すチャンスはそこにある。

 

 「副会長さん。その鍵を最初に見つけたのは、私たちなんです。その鍵が見つかったのは、私のカバンの中です」

 「……はい?」

 

 初めて、田中が聞き返した。どれだけ牟児津が推理を話しても、どれだけ揺さぶっても、どれだけ追及しても一切動じなかった田中が、たった一つの事実を理解できなかった。やはり、ここが田中の弱点だった。

 

 「その鍵は、今日の放課後、私がカバンをひっくり返して見つけたんです。委員室から盗まれた鍵がどうしてそんなところにあったと思いますか?ちなみに私のアリバイは、クラスのみんなが証明してくれます」

 「そんな……ことが?」

 「意外ですか?そうですよね。だって副会長さんは、()()()()()()()()()()()()()()ですもんね」

 「!」

 「えっ……!?な、なに?どういうこと?」

 

 思わず鯖井が声をあげる。一体何がどういうことなのか、まだ理解できない。田中の顔はいつの間にか笑顔が薄れ、机に置かれていた手が持上がり肘をついていた。しきりに親指が動いているのが見える。

 

 「副会長さんはさっき、昼休みにうちのクラスまで来て、席に座ってた鯖井さんに実定を返したって言ってましたよね。だけどそのとき鯖井さんが座っていた席は、鯖井さんの席じゃなかったんです」

 「あっ……!ああっ……!!そ、そうだ……!!」

 「副会長さんが来たとき、鯖井さんは私の席に座ってた。だから副会長さんは、そこが鯖井さんの席だと勘違いした。そして、鯖井さんのカバンだと思い込んだ私のカバンに、隠し持った鍵を入れた。鍵争奪戦の引き金にするための、偽物の鍵を!」

 「!」

 「鯖井さんを選んだのは、本当に偶然かも知れません。だけど、その鯖井さんが座っていた場所に副会長さんは来た。そこにかかっていた私のカバンに鍵が入っていた。しかもその鍵は偽物だった。副会長さんなら鍵を持ち出すことができたし、鍵の偽物だっていつでも作ることができた。何もかも偶然というにはできすぎです!全ては空き部室を餌に自作自演で争奪戦を煽って、この学園から弱小部会を一気に削減するため──そんなことができるのは副会長さん、この学園であなただけだ!」

 「……」

 

 沈黙。窒息しそうなほど空気が重い。小さな音が聞こえる。何かをこすり合わせるような、乾いた音。田中は俯いている。その親指は激しく動いていた。親指の爪をもう片方の親指でひたすらこすっている。その音だけが、委員室に小さくこだまする。決して大きくないのに、全ての壁と天井から響いてくるような、威圧感のある音だ。

 

 「……根拠は、ありますか?」

 「空き部室の鍵を元々しまっていた場所を教えてください。本物の鍵は今、そこにあるはずです」

 「そう、ですか」

 

 音が止んだ。再びの沈黙。そして、田中が顔を上げると、牟児津たちは戦慄した。また田中の表情が変わった。それは、仮面の微笑みでも、慢心による冷笑でもない。勝利を確信した、どこまでもおぞましい笑みだ。

 田中は不意に席を立ち、鍵専用の戸棚に近付いた。中には手前にスライドする板が縦向きに並んでいる。そのうちの一つを引き出すと、面に取り付けられたいくつものフックのひとつひとつに、それぞれ鍵がぶら下がっていた。その中のひとつ、空き部室の番号が記されたフックに、鍵はかかっていなかった。

 

 「……!」

 「ご苦労様でした、真白さん。そして……わたくしの()()()()認めましょう」

 「……?落ち度?」

 「ええ、認めざるを得ません。わたくしが、鍵をお持ちいただければ部室を渡すなどと言ってしまったばかりに、このような事態を引き起こしてしまいました。結果的に皆様のお気持ちを傷つけてしまい、自らの至らなさに忸怩(じくじ)たる思いでいっぱいです。申し訳ありませんでした」

 「そんな……!そんな逃げ方は卑怯です!」

 

 声を荒げるべきではないと、頭では理解していた。自分が何を言おうとも田中を追い詰めることはできないと、冷静に考えて分かっていた。しかし瓜生田は叫ばずには、立ち上がらずにはいられなかった。田中が自分の()()()()()を認めて謝罪する、たったそれだけのことでこれまでの牟児津の追及が全てなかったことにされるのが、我慢ならなかった。

 

 「きちんとムジツさんの指摘に向き合ってください!田中先輩は部会を一斉に削減するために、空き部室の鍵を無断で複製した挙句、盗まれたと学園全体に狂言を働いて生徒の感情を煽ったと言ってるんです!判断ミスなんて言ったところで、部会の人たちはひとつも救われないんですよ!自分の責任から逃げないでください!」

 「お気持ちはお察し致します。ですが、わたくしは初めに申しました。証明してごらんあそばせ、と。真白さんの指摘には証拠が不足しています。証拠のない指摘を証明とは申しません」

 「なんっ……そ、それは……!詭弁です……!そんなものは悪魔の証明です!」

 「それに挑んだのはあなた方です。わたくしに責任から逃げるなと仰るなら、あなた方こそご自分の発言に責任を持ちなさい」

 

 田中は毅然と言い放つ。推理が綱渡りだったことなど、牟児津が一番よく分かっていた。2年前の同級生の印象に始まり、田中の実績が残した結果という間接的な状況証拠や憶測によるバイアスがかかった言動の解釈、どれもこれも抽象的ではっきりと証明することのできない根拠ばかりだった。唯一の物的証拠であった本物の鍵がそこにないのなら、牟児津の推理を支えるものは実質的に何もないのと同じだ。田中が鍵戸棚を開いたとき、牟児津は賭けに負けたのだ。

 

 「とはいえ、今回の件の責任は全てわたくしにあります。後日、学園により然るべき処分が下されるでしょう。お三方のこともお名前は伏せて報告致します。よろしいですね」

 「……ちょ、ちょっと待ってください!え?じゃあ、私はどうなるんですか!?さっきの鍵を盗んだ云々って話は……!?」

 「その件については何も変わりありません。少なくともここにあるはずの鍵を持ち去った人物が存在することは確かなのですから、捜査は行われます」

 「そんなあ……!」

 

 放心していた鯖井は我に返った。牟児津が田中の真意を暴いて打ち負かせば、自分への追及はなくなるはずだった。しかしそれに失敗したということは、鍵泥棒の疑いは残っているということだ。そうなれば部室云々どころか、同好会活動すらできなくなりかねない。

 

 「これらは学生生活委員長としての専決による決定です。あなた方に取消の権限はありません。話は以上です。既に下校時刻を過ぎていますので、速やかに下校なさい」

 「ま、待ってください!それじゃあ私は……!私は何のためにこんな……!」

 「そうです!これはあまりに横暴です!納得できません!」

 「わたくしは下校を指示しました。これ以上の滞在は不退去罪にあたる可能性があります。重ねて申しますが、この指示はわたくしが委員長として決定したものです。それに従わないというのであればこの学園から──!」

 

 

 「WAIT A(ちょおっと待) MOMENT(ったあああっ)!!!」

 

 

 声が轟く。力強くて明朗な、波動を伴う大声だ。その波動は田中の言葉を遮り、瓜生田と鯖井の抗議を止め、委員室内の注意を一手に引きつけた。委員室の扉は開かれていた。叩き開かれたのだ。

 暗い廊下に委員室の光があふれる。その光を受けてなびく髪は美しく銀河のようで、輝く瞳は星空をはめ込んだようだ。混沌とした委員室内を浄化するような底抜けの明るさと煌めくオーラが、極限まで緊張していた牟児津の心をほぐした。

 

 「あっ……ああっ……?」

 「ミツキ!あなたの専決を取り消させに来たわ!」

 

 広報委員会委員長、旗日(はたび) (よる)は堂々宣言した。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

──私立伊之泉杜学園高等部生徒会本部規則の抜粋──

 

『委員長の専決に係る規則』

  (目的)

 第一条 この規則は、伊之泉杜学園高等部生徒会本部の委員長が行う専決に関し必要な事項を定めることにより、業務の組織的かつ能率的な事務処理を図ることを目的とする。

 

  (専決権)

 第二条 各委員長は、特別の場合を除き、所属する委員会の業務に係る意思決定について専決することができる。

 二 前項規定による決定の責任は、専決を行った委員長及び専決に関わった委員長にのみ及ぶものとする。

 

  (専決取消請求権)

 第三条 専決の取消は、生徒会長または生徒会副会長の宣言を以て決定する。

 二 各委員長は、以下に定める場合において、生徒会長または生徒会副会長に専決の取消を請求することができる。

  ア 専決を行った委員長及び専決に関わった委員長より多数の委員長による取消請求の支持

  イ 専決を行った委員長及び専決に関わった委員長を除く全ての委員長による取消請求の支持

 三 専決の取消は、当該専決が行われてから7開校日以内に請求されなければならない。

 四 前項規定により取消請求があった場合、請求を受けた生徒会長または生徒会副会長は、速やかに専決の取消または請求の棄却を裁決し、宣言しなければならない。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 旗日の乱入により、学生生活委員室は数秒前とはまるで状況が変わっていた。田中は学生生活委員長として圧倒的優位な立場で、牟児津の指摘を一蹴し強制退去させようとしていた。そこへ、広報委員長として田中と同等の権限を有する旗目が現れたことで、牟児津たちに強力な後ろ盾が生まれた。

 

 「こんな時間になんですか。ノックもせずに闖入(ちんにゅう)するなんて無礼ですよ」

 「ノックならもちろんしたわ!ヒートアップしていたみたいだから、聞こえるように少し強めに叩いたのよ。そのままドアが開いてしまったことなんてちっぽけな問題よね」

 「それは“押し入る”と言うのです。とにかく今はお帰りになってください。わたくしはこちらの方々と大切なお話をしていたのです」

 「話はまだ終わっていないのかしら?」

 「いいえ。もう終わりました」

 「ならワタシたちがいても問題ないわね!ハァイ、ムジツちゃん。ステキな夜にステキなヨルが助けに来たわよ」

 「あ、ああ……どうも……」

 

 空気を読まず明るく振る舞う旗日が牟児津にウインクする。牟児津はどうリアクションしていいか分からず、中途半端な笑顔を返した。そして旗日は瓜生田と鯖井の顔を順番に見た後、再び田中に向き合った。人を威圧する田中の笑顔も、とことんまでポジティブな旗日にはあまり効いていないらしい。旗日のフィルターを通せば笑顔は全て肯定的な意味合いになるのだ。

 

 「一連の話は聞かせてもらったわ!ミツキ、あなたとんでもないことしてくれたわね!おかげでワタシのカワイイ委員が何人か巻き込まれてしまったのよ!ただでさえ過労で疲れてるのに、ケガでもしたら仕事にならなくなっちゃうじゃない!」

 

 自覚があるなら休ませればいいのに、と牟児津は思って言わなかった。

 

 「そもそも部会の大量削減なんて、伊之泉杜学園(うち)の理念に真っ向から背く横暴よ!部活紹介は“蒼海ノア”の紹介動画でも目玉なの!それをなくすなんてナンセンス!マジであり得ない(NO WAY)!しかもあなた今、ムジツちゃんたちに何を言おうとしたの!?そんなことワタシが絶対に許さないわよ!」

 

 押し寄せる波濤の如く、旗日の言葉はみるみる内にその迫力を増していった。横で聞いていた牟児津たちすら、その言葉の力強さに気圧されていた。直接それを向けられている田中に動揺した様子はない。しかし、明らかに牟児津たちを相手にしていたときとは違い、警戒心をあらわにしていた。

 ひとしきり喋った後、旗日は田中を真っ直ぐに指さし、再び堂々たる宣言をした。

 

 「ミツキ!今日あなたが行った専決に対して、広報委員長の権限において取消を請求するわ!」

 

 おお、と瓜生田が声を漏らした。まさかこの土壇場になって、他の委員長が現れるなど予測していなかった。さらには牟児津に味方し、田中に対して専決取消の請求まですることなんて。そんな瓜生田の熱視線を感じ取ったのか、旗日は得意げにふふんと鼻を鳴らす。

 指さされた田中は、不愉快そうにその指先を見つめる。しかしまだ余裕の態度は崩れない。旗日の取消請求は、まだ何の力も持たないからだ。

 

 「ふふふ、夜さん。ちょうどこちらに、生徒会本部規則にお詳しい瓜生田李下さんがいらっしゃいます。お伺いを立ててみてはいかがかしら」

 「うん?」

 「李下さん。委員長による専決取消請求権の発動要件を覚えていらっしますか?」

 「……ッ!」

 

 当然、瓜生田は覚えている。専決取消の請求には、その専決をした委員長と関わった委員長より多くの委員長による支持が必要だ。今の場合は、少なくとももう一人の委員長による支持がなければ旗日の請求は要件を満たさず成立しない。

 田中は、それを敢えて瓜生田の口から言わせようとしている。田中が言うよりも公正で、牟児津たちが認めざるを得ない人物の口から。その悪辣さに瓜生田は寒気がした。だが旗日は一顧だにしない。

 

 「あはっ!そんなこと訊くまでもないわ!当然分かっているもの!ねえ?」

 「!」

 

 旗日は振り返らず背後に語り掛ける。開放されたドアが廊下に落とす影の中から、彼女は現れた。一日一回出会うことさえ、牟児津にとっては心臓に悪い。今日はこれで三度目になる。それでもまだ牟児津の心臓が停止しないのは、今日だけはその顔に怯える必要がないからだろうか。

 その生徒はすらりと伸びた美脚で委員室の絨毯を踏み潰し、堂々たる態度で旗日の隣に並び立つ。

 

 「風紀委員長の権限において、旗日の取消請求を支持する」

 「……まあ」

 

 川路(かわじ) 利佳(としよ)は短く言い切った。田中は小さく声を漏らす。

 

 「利佳さんまで……?理由をお聞かせ願います」

 「私は貴様を信用していないからだ」

 「まあまあ。風紀を守るべき風紀委員長であるあなたが、個人的な感情でこんな大それたことをするなんて。思ってもみませんでしたわ」

 「なぜ鍵の盗難を風紀委員に報告しなかった。牟児津の言う通り、貴様の独断でこんな騒動を起こす前に風紀委員に任せるべきだ。そして貴様ほど能力がある人間なら、自分の発言に伴う影響は当然分かっていたはずだ。争奪戦の発生が予想できたのなら、専決する前に私に相談すべきだった。貴様は学園内で起きた盗難事件の通報を怠り、自らの影響力を考慮せず当然にすべき相談をも怠った。いったい貴様の何を信用しろと言うのだ」

 「……」

 

 おそらく田中は、他の委員長を相手するつもりはなかったのだろう。牟児津たちより旗日と川路の言葉は少ないが、明らかに田中は追い込まれつつある。そもそも二人とも、牟児津たちとは立っている土俵が違う。委員長としての権限など牟児津たちにはない。武器を持っていないのだから、初めから戦いにすらなっていなかった。川路と旗日による糾弾を目の当たりにして、牟児津はそう感じた。

 田中が親指をこする。まるで田中の焦りと苛立ちを表すように。その指は強く、速く、熱く、同じ動きを繰り返す。

 

 「いちおうお尋ねしますが、取消を請求する専決とは具体的には何を指すのでしょう?」

 「盗難された鍵に関する捜査権の発動、争奪戦の開催決定及び部室使用権の譲渡だ。他にあるか、旗日」

 「ついでにそこの子たちへの個別捜査権と下校命令もね!」

 「……承知いたしました。決まりですから仕方ありません」

 

 指が止まった。深く、深く息を吸った後、田中はため息を交えてそう言った。しかしそれは諦めではない。

 

 「それでは、田中学生生活委員長による専決について、旗日広報委員長及び川路風紀委員長より取消請求がありました。生徒会副会長の権限において、裁決を下します」

 「……えっ!?な、なにそれ!?副会長さんが決めんの!?」

 「そんなんアリ!?」

 「バカな。そんな主張が通るわけないだろう」

 「お黙りなさい。本来ならば会長に諮るべきですが、本日会長は不在にしていらっしゃいます。()()()()()()()()()()()()()()()、生徒会副会長として私が代理で裁決を行います!」

 「そんな……!」

 

 誰が聞いても無茶苦茶だった。だが、規則上は成立し得る。もはや田中にとってこれは最終手段だ。まさか委員長による専決取消の請求までされるとは考えていなかった。しかし万が一、あり得ないほど僅かな可能性が現実になったら──。そんなときのために用意していた切り札を使わされた。そうなった時点で、既に勝敗は決しているにもかかわらず。

 田中が口を開き、裁決を下──。

 

 

 「いいえ田中さん。代理には及びません」

 

 

 その言葉は部屋の中央から聞こえた。全員の耳に同時に響き、そのとき全員が同時にその姿を認識した。まるで今この瞬間、何もない空間からその場に現れたようだった。一切の物音を立てず、一切の視線をかわしつつ、一切の存在感を消し去って、いつの間にか部屋に入ってきていた。

 やわらかな白い手袋が、興奮した田中の手に重なった。対峙する川路と旗日に向き合い、田中を庇うように、その生徒は立っていた。雪のように白い髪と透き通った湖のように碧い瞳は、その姿を認識した後も、気を抜けば見失ってしまいそうな儚さをまとっていた。

 

 「生徒会長の権限において裁決を下します。取消請求を認容し、田中学生生活委員長による専決の取消を宣言します」

 「……ッ!!」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 生徒会長は簡潔に述べた。その言葉が持つ力に釣り合わないほど簡潔に。その言葉を理解するのと、その存在が誰なのか認識するのと、ほぼ同時だった。

 

 「か、会長……!?」

 「せ、せせせ、生徒会長ォオオオッ!!?あわあわわわ……ぶくぶく」

 「鯖井さーーーん!?ウソでしょ!?気絶した!!って生徒会長!?この人が!?」

 「……し、失礼ですよ!指を下げなさい!」

 「ひぃ」

 「驚かせてしまって申し訳ない。そちらの方はソファに寝かせておしぼりで汗を拭いてあげてください。すぐに良くなりますよ」

 「えっ、あ、は、はあ……そう、します。うりゅ、鯖井さん寝かせて」

 「う、うん……」

 

 生徒会長は牟児津の非礼は全く意に介さず、牟児津と瓜生田に鯖井に対する適切な処置を指示した。せかせか動く牟児津たちを優しく見守る姿と先ほど発した言葉に、旗日は驚きよりも喜びが勝った。

 

 「あはっ!専決の取消を宣言します、だって!やったわねトシヨ!ムジツちゃんたち助かるわ!」

 「抱きつくな。それと私は自分の委員会を守るために支持しただけだ。牟児津は関係ない」

 「どういうこと?」

 「今日だけで逮捕者が百人以上出た。そいつら全員に事情聴取して処罰するなど人手がいくらあっても足らん。だが田中の専決が取消されれば、不正確な情報により暴動を指嗾(しそう)されたとして減刑が可能だ。つまり我々の負担が減る」

 「えっ!仕事を減らすなんて発想、ワタシなかった……!」

 「黄泉は苦労しているだろうな」

 

 飛びつこうとした旗日の顔面を押さえつけて川路が距離を取る。ただひとり、この部屋で納得のいかない顔をしている田中は、自分の前に立つ生徒会長の背中を睨みつけていた。そんな視線は一切気にせず、生徒会長は鯖井を看病する牟児津たちに近付いた。

 

 「うひっ」

 「こうして顔を合わせるのは初めてですね。牟児津真白さん」

 「……はっ、ひぅ?」

 「(よう)は高等部の生徒会長をしております、藤井(ふじい) 美博(みひろ)と申します」

 「よ、よう……?」

 「この度は田中がお騒がせを致しました。特に牟児津さんには、様々ご迷惑とご心配をおかけしました。お疲れになったでしょうし、怖い思いもされたことでしょう。田中に代わり、深くお詫び申し上げます」

 「ひえぇ……」

 

 藤井は牟児津より視線を低くするため、床に片膝をついた。そして牟児津の手を取り、恭しく(こうべ)を垂れる。間近に寄ると、(たお)やかな花を思わせる香りが牟児津の鼻に飛び込んできた。

 上から下までしわ一つない整った服装。ワイシャツとジャケットの間にはべストを着込み、首元にはクロスタイをかけている。右肩に光る金色の腕章と手首から先を覆うシルクの手袋。身に着けるひとつひとつすら気品を感じさせ、幻のように儚げなのに強烈な存在感を与えていた。

 

 「此度の件に係る処分については、(よう)にお任せいただけないでしょうか。必ずや、御納得いただけるように致します」

 「は、はあ……え、でも……?」

 「大丈夫よムジツちゃん!」

 

 不安げな牟児津に、旗日が声をかける。

 

 「ミヒロは必ずあなたを助けてくれるし、あなたのお友達も助けてくれる!そういう人よ!」

 

 何の根拠もない言葉だが、旗日の明るさがその言葉に説得力を持たせていた。藤井は田中の専決を取消した。立場上は田中と同じ生徒会本部だが、今は牟児津たちの味方をしてくれている。それなら、信じていいのかも知れない。そう思った。

 

 「わ、私は……平和で静かで、ゆるい毎日を過ごしたいだけなんです。あと、私に関わったせいで、鯖井さんたちが可哀想なことになったりしたら……すごく嫌です。だから、それさえ約束してくれるなら……」

 「はい、お約束します」

 「それなら……うりゅはどう思う?」

 「私は……ムジツさんがいいなら、言うことはないよ」

 「じゃ、じゃあ、そんな感じで」

 「はい。ありがとうございます。ああ、そうだ。こちらを」

 

 藤井に真正面から見つめられると、川路とは違う意味で心臓に悪い気がした。まともに目も合わせられなかったが、牟児津は藤井を信用することにした。

 ふっと笑って立ち上がろうとした藤井は、おもむろに制服の内ポケットから袱紗(ふくさ)を取り出し、牟児津に差し出した。何を意味しているのか分からず、牟児津は袱紗と藤井と瓜生田を順番に見やる。藤井は再び笑った。

 

 「どうぞ。疲れの取れる入浴剤やアイマスクが入っています。お納めください」

 「いやいやいや!こんな高そうなのもらえないです!」

 「銀座の高級老舗和菓子屋のネットショップで使える商品引換券も同封しております」

 「謹んで頂戴つかまつりますぁ!!」

 「はやっ!?ワタシのときは受け取ってくれなかったのに!?」

 「状況とモノが違うんでぇ……!」

 「川路さん。皆さんを校門までお連れしてください。下校時刻を過ぎていますので、川路さんもそのままご帰宅くださって結構です。お疲れ様でございました」

 「……承知した」

 

 藤井に指示されると、川路は素直に従った。普段は人に指示を飛ばしてばかりの川路のそんな姿が珍しく、牟児津は目を丸くした。しかしそこで、瓜生田が気付く。

 

 「あれ、でも鯖井さんがまだ戻ってきてないですよ」

 「ご心配なく。あと3つ数えてください」

 「んえ。3、2、1──」

 「はうっ!?」

 「うおおおっ!?なに!?手品!?」

 

 牟児津が数えると、それを聞いていたかのように鯖井が息を吹き返した。寸分違わぬ見立てに、牟児津も瓜生田も驚いて気絶しそうになる。鯖井は自分がなぜソファに寝そべっているのか分からず、周りをきょろきょろ見回していた。

 

 「え、えっと……?どういう状況?」

 「鯖井さん。どうかご安心を。(よう)があなたを守ります」

 「はわ……」

 「旗日さん。お帰りの道中で鯖井さんに事情をご説明頂けますか。これから(よう)は、田中さんとお話がございますので」

 「もちろんよ(Of course)!それじゃあみんな!ワタシとトシヨについてきて!」

 

 目覚めて早々に藤井の強烈な笑顔にさらされた鯖井は、すっかり顔が上気してしまった。牟児津と瓜生田はそんな鯖井を担ぎ上げて、旗日らと一緒に委員室を後にした。見送っている間、委員室の扉が閉まるまで、藤井は牟児津たちに深く礼をし続けていた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「わたくしを守ったおつもりですか?」

 

 二人きりになった学生生活委員室に、田中の冷たい声が響いた。

 

 「どう思われますか?」

 「わたくしが質問しているのです。答えなさい」

 「……はい。お守りしました。これ以上は、あなたの手に余ると判断しました」

 「手に余るとはどういうことですか」

 

 高圧的な田中の物言いに、しかし藤井は笑顔を絶やさない。それどころか、まるで謝罪するように頭を下げて言う。

 

 「牟児津様らお三方だけであれば、強引に捻じ伏せることも可能でした。しかし旗日様と川路様が現れてしまった。彼女らが牟児津様に(くみ)したことで、あなたひとりでは対処しきれなくなった。故に、助けに入りました」

 「副会長としての権限を以てすれば、委員長2人などどうにでもなります」

 「畏れながら、副会長としての権限を使わざるを得なくなった時点で、あなたの敗北と言えるのではないでしょうか」

 「なっ……!?」

 「あなたは、あくまで学生生活委員長として彼女方と対決していました。しかし最後にあなたは副会長の権限を行使しようとした。それは明確な越権行為です。たとえあなたにその権限があるとしても、勝負の前提を破棄することは敗北も同義と言えます」

 「いつ誰が勝負なんてしたのです!よくもそんないい加減なことを!」

 

 藤井が委員長席に近付く。天秤に乗せられた偽物の鍵をつまみ上げた。

 

 「いいえ。これは勝負でした。あなたは何者かがこうしてあなたを糾弾に現れることに備え、勝利のためにあらゆる手を尽くしていた。だからこそ──」

 

 藤井がポケットに手を入れる。抜き出したものを、空いた天秤の皿に載せた。ゆっくりとその両腕が動きだし、机面と平行になった。

 

 「(よう)に本物の鍵を預けたのです」

 

 天秤の皿には、学園のシンボルが刻まれた真鍮製の鍵がある。田中は天秤が釣り合った事実に驚きはしなかった。藤井がそれを持っていることにも驚きはなかった。全て分かっていたことだからだ。

 何も言えない。何かを口にすれば、敗北を認めてしまいそうだ。ただただ唇を噛んで悔しさに耐えていた。その悔しさすらも敗北の証左であるように感じられる。

 

 「手段と目的を混同しないようお気を付けを。あなたの目的は、部会の削減などではないはずだ」

 「……当然です。分かっています」

 「それなら、部室ひとつに拘泥(こうでい)することもないでしょう。肩の力を抜いて考えれば良いのです。こんな風に」

 

 すっと藤井が手のひらで委員室のドアを示す。それを合図にしたかのように、ドアを叩く音がした。扉の向こうに誰かがいる。

 

 「?」

 「どうぞ」

 

 田中に代わって藤井が応えた。ドアが開かれ、おそるおそる中を覗く鹿撃ち帽が現れた。

 

 「あ、あのぅ……実定、まだ間にあ──でええっ!?せ、生徒会長!?」

 「遅くまで残ってお作りくださったんですね。ありがとうございます。確かに、受理いたしました」

 「ちょっと!それはわたくしの仕事です!」

 「ちょうど良いところにいらっしゃいました。こちらをどうぞ」

 「へ……?な、なにこれ……?」

 「空き部室の鍵です。差し上げますので、どうぞご自由にお使いください」

 「……はあ?な、なんで?えっうそ!?マジで!?やったあ!!やったやったわーい!!」

 「何をしているんですか!」

 

 活動実績定期報告書を受け取った藤井は、それと交換するように本物の鍵をその生徒に渡してしまった。突然のことに驚いていたが、その生徒は大喜びして帰って行った。藤井は改めて田中に向き直る。

 

 「より良い学園作りのため、そして生徒の自主性を育むためには、彼女らを温かく見守ることも必要です。大丈夫です。この部会に部室を与えるのが相応しいか否か、すぐに分かりますよ」

 

 穏やかに、そして確信を持った顔でそう言われ、田中はまた言葉を失った。何も根拠のないことを自信たっぷりに言って、結果その通りになる。藤井の言動はいつも予想がつかなくて、にもかかわらず正しい。

 

 「そうですね。会長の直感は、今まで間違ったことがありませんもの」

 

 ふつふつと煮え滾る腹を抱え、精いっぱいの皮肉な笑顔で田中は言った。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「なんでダメなんですか!!」

 

 益子が部長席を叩いた。机の上には、益子が勢いのままに(したた)めた記事の原稿がある。鍵の盗難から牟児津と田中の対決、そして生徒会長の乱入に至るまで、今回の事件の全てが書かれていた。

 牟児津と瓜生田は、昨日の事件とその結末を報告するため新聞部を訪れた。そこで、寺屋成ともめる益子を見つけたのだ。寺屋成は、席に座って目を閉じている。

 

 「こんなビッグニュース、一刻も早く伝えるべきです!!昨日の今日で学園中の興味は最高潮!!増刷に次ぐ増刷は間違いありませんよ!!」

 「な、なになに?どしたの益子ちゃん?」

 「あっ!ムジツ先輩!瓜生田さん!おはようございます!いや部長が、昨日のことは記事にしちゃダメだって言うんですよ!お二人からもなんか言ってください!」

 「えっ!?マジで!?記事にしないの!?ぁざーーーっす!!」

 「さすがにあれはね〜」

 「ちょっとお!ここは私を援護する流れでしょ!」

 「そんな流れはない!!」

 

 益子の当ては外れた。牟児津にしてみれば、登校した時点ですでに記事にされていても仕方ないと思っていたが、意外なことに寺屋成がストップをかけていたようだ。どう足掻いても避けられないと思っていたことを避けるチャンスが訪れ、ご機嫌に頭を下げた。

 寺屋成は益子を落ち着かせるため席に座らせ、牟児津たちにも適当な椅子を勧めた。そして、理由を端的に述べた。

 

 「時期尚早だよ、益子くん」

 「ジキショーソー?」

 「確かにセンセーショナルなネタだし、これが頒布されれば高等部だけでなく学園全体で一大牟児津旋風を巻き起こすことができるだろう。新聞部としては願ってもないことだ」

 「人の名前を勝手に旋風にするな」

 「台風みたい」

 「しかし同時にこれは、田中くんの敗北を報せるものでもある。そんなことをしたら、我が部はどうなる?彼女は学生委員長であり副会長でもある。何より強かだ。今回、牟児津くんが曲がりなりにも勝利できたのは、旗日君と川路君に助けられて、さらに生徒会長の取成しがあったからこそなんだろう?」

 「そうですよ!激熱じゃないですか!」

 「激熱だがこんなものはすぐに冷める。第一、新聞部には何の後ろ盾もないんだ。今これを記事にしても、田中くんに握り潰されて新聞部に圧力がかかるだけだ。部の登録抹消も辞さないだろう。すなわち廃部だ」

 「マ、マジで?懲りるとかないんかあの人……?」

 

 冷静に分析する寺屋成の顔は、いつもの詭弁家の顔とは違う、真剣な表情だった。忘れていたが、寺屋成は田中や川路たちとは違い、学園に無数にある部のひとつをまとめる立場に過ぎない。できることも守れることも、彼女たちに比べれば遥かに狭く少ない。理由さえあれば、田中が新聞部を廃部にすることなど簡単なのだろう。

 

 「しかし、今回の件で逮捕された部会への処罰はごく軽いもので済んだし、廃部を余儀なくされた部会は0だ。牟児津くんは田中くんの思惑を阻止したと言えるだろう。誇っていい」

 「誇らなきゃダメですか……?」

 「聞いたことない日本語を使わないでくれ。せめて我々だけでも君のしたことを称えないともったいないじゃないか」

 「はあ、そう」

 「でも寺屋成部長!それはつまり、公権力に忖度して報道の自由が脅かされてることになりませんか!?いいんですかそんなことで!メディアは真実を報道すべきです!」

 「駅前にいる人みたいなこと言うなあ」

 「もちろんさ。だからこそ時期尚早だと言ったんだ」

 「まだ早い……いつかは報道するってことですか?情報は鮮度が命って前におっしゃってたじゃないですか」

 

 瓜生田の問いに寺屋成は不敵に笑う。ちっちっち、と指を振って、また詭弁家の顔を覗かせた。

 

 「ワインは樽の中で熟成させることで、より香りと味に深みが増すんだよ」

 「未成年にも分かる喩えにしてくださいよ」

 「味噌は樽の中で熟成させることで、より香りと味に深みが増すんだよ」

 「分かるけどおしゃれじゃね〜」

 「要するに、今このネタは寝かせておくのが吉だ。既に似たような噂は流れているし、敢えて我々が報じなくても田中くんの信用にヒビは入る。今は発行してしまうより発酵させておく方が得策だ」

 「上手いこと言いますね。都合の良いこと言ってるようにも聞こえますけど、一理はあるかも」

 「そもそも田中くんの闇はこんなものじゃない。今回の事件だって、彼女にしてみればゴミ箱にちり紙を投げ入れてみたようなものだ。失敗したところで大勢に影響はない」

 「そうなんですか!?あんな大騒ぎだったのに!?」

 「彼女自身は一演技して部屋で待っていただけだからね。思いがけず熱くなってしまったのは彼女のミスだが、それも生徒会長によってフォローされた」

 

 結局、牟児津は田中に勝利したのか敗北したのか、田中の思い通りになったのかならなかったのか、よく分からない。部会の削減や鯖井への追及は避けられたものの、目論見が外れたところで田中は何も失ってはいない。とんでもないことに巻き込まれた割に、最後には何事もなかったかのように元通りだ。牟児津はそれに、なんとなく物寂しさのような感情を覚えた。

 

 「というわけで、益子くんが書いてくれたこの記事は保留だ。契約では協力するごとに記事にするという話だったが、今回は面白い話が聞けたからサービスしておこう」

 「わあ。いずれ記事にするつもりなのに、まるで免除したみたいに言ってる」

 「おやおや。やっぱり瓜生田くんは(さか)しいな。ははは」

 「あはは」

 「いっつも最後これがこえ〜んだよな」

 

 寺屋成の詭弁を瓜生田がすぐに見抜いて指摘する。初めはバチバチに火花を散らしていた気がしたのに、今ではお決まりの流れのようになっている。しかし二人とも目が笑ってない笑顔をするので、傍から見ている牟児津は背筋が寒くなるのだった。

 

 「サービスと言えば、ムジツ先輩、生徒会長から何もらったんですか?」

 「なんかいい匂いのする入浴剤とあったかいアイマスクと、あと和菓子屋の商品券と……なんか他にもいろいろ」

 「いろいろ?」

 「スキンケア用品とか観劇チケットとか、とにかく薄くて良いものがたくさん」

 「あれにそんな入ってたんだ。すごいね」

 「なんか悪い気がしてきた。もらい過ぎじゃないかな?」

 「返すのも失礼だから気にしないでおいた方がいい。さあ、そろそろ朝のHRの時間だ。部室を閉めるから君たちも行きたまえ」

 「はい。お邪魔しました〜」

 「失礼します〜!ムジツ先輩、今日はどんな事件が起きると思いますか?」

 「なんで起きる前提だ!起きねーよ!」

 

 寺屋成に促されて三人は部室を出た。牟児津は階段を上って2年生のフロアに行く。教室が近付いてくると少し緊張してきた。一晩経って鯖井は昨日の事件から立ち直れただろうか。クラスメイトは鯖井のことを受け入れてくれているだろうか。

 元通りだと思っていた学園の風景が、昨日までとは少し違って見える。自分を助けてくれた人たちは、自分が救いたい人を許してくれているだろうか。不安な気持ちはあるが、牟児津は急ぎ足で自分の教室に向かった。事件を通じて牟児津は、たくさんの人が自分を助けてくれることを知った。そして自分にとって理想的な学園生活を送るためにリスクを冒す人たちが多くいることも知った。その中で、自分だけ問題に向き合わずにいることはできないと、強く感じたのだった。



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その8:演劇部監禁事件
第1話「住む世界が違うって感じ」


 

 牟児津(むじつ) 真白(ましろ) は圧倒されていた。いくつもの円柱と直線で構成された、シンプルかつスタイリッシュな建造物。そこに足を踏み入れることに畏れを感じてしまっていた。ここは、日常を過ごしている街とは格が違う。思わずそう感じてしまった。

 牟児津は、電車を乗り継いで隣街までやって来ていた。複数の路線が入線するターミナル駅は、人の流れが複雑に入り組み、ビルは見上げれば首が痛くなるほど高くそびえている。駅前に出れば巨大なロータリーにいくつものバスがやって来ては出て行き、その度に大勢の人が駅の外と中を行き来する。

 幼馴染みである瓜生田(うりゅうだ) 李下(りか)の案内がなければ、目的地にたどり付くこともできなかっただろう。人より視線が低い牟児津は、人混みが苦手だった。油断すれば、もまれ踏まれて全く意図しない場所まで運ばれていってしまう。今日も、瓜生田の手を離さないようついて行くのに精一杯で、ここまでの道順など全く覚えていなかった。

 

 「でっけぇ〜……」

 「うちの県で一番大きな劇場だからね。写真撮っとく?」

 「撮っとこ撮っとこ」

 

 出不精な牟児津にとって、隣街の劇場まで足を運ぶなど滅多にない経験だった。瓜生田に記念写真を撮ってもらった後、カバンからチケットを取り出して、何度も時間と場所に間違いがないことを確認した。

 先日、学園中を巻き込む大騒動の中心にいた牟児津は、なんだかんだあって生徒会長である藤井(ふじい) 美博(みひろ)から、お詫びとしていくつかの品を贈られた。その中の1つに、この観劇チケットがあったのだ。ペアチケットだったこともあり、一人ではとても観に行けないと思い、瓜生田に頼み込んで一緒に来てもらったのだった。

 

 「うりゅが来てくれてよかったよ。私ひとりだったら絶対ここまで来られなかった」

 「うん。私も、まさかムジツさんから劇に誘われるなんて思わなかった。なんか嬉しかったよ」

 「まあ……せっかくもらったチケットだし。こういうとこ初めてだけど、経験しといて損はないかなって」

 

 建物の入口近くまで来ると、一点の曇りもないガラスの入口から中の様子が見える。派手過ぎず地味すぎないシャンデリアや、ショーケースに入った何らかの美術品。赤い絨毯の上には柔らかそうなソファや観葉植物が配置され、シックな漆塗りのカウンターの中で、身なりの良いスタッフがきびきびと働いている。ときどき中に入っていく賓客たちは小綺麗に着飾り、いかにも上流階級という雰囲気の人ばかりだった。牟児津は一張羅である制服を着てきたが、激しく見劣りしている気がしてならない。

 

 「制服でよかったのかなあ」

 「学生なんだから制服で十分だよ。でもリボンくらいは礼式用のにすればよかったね」

 「そ、そうなの!?うち出るときに言ってよ!」

 「てっきり持って来てるものだと思って」

 「私がそんな用意できる人間か?」

 「できないかあ。そうだよね。ごめんね」

 

 そこで牟児津は初めて、瓜生田の胸元のリボンがいつものピンク色とは違うことに気付いた。途端に、自分がつけているレモンイエローのリボンが非常に場違いな、礼を欠いたものに思えてくるから不思議だ。

 

 「別に式典ってわけじゃないし、うちの演劇部が主催だからいつもの制服で問題ないよ」

 「え?これうちの部活が場所借りてやってんの?」

 「そうだよ。ほら」

 

 そう言って瓜生田が指さしたのは、正面の入口から少し離れた場所にある、植木で目隠しがされた辺りだ。おそらく備品などを移動するときに使う搬入口だろう。大きなトラックとその搬入口の間を、作業着を着た人々が忙しなく往復している。そこには、大きな花の飾りが見えた。垂れ幕に、『伊之泉杜学園演劇部 御中』と書いてある。

 

 「本当だ」

 「さすがに学園有数の大規模部活ともなると、これくらいのこともできるようになるんだね」

 「すげ〜……なんか、全然住む世界が違うって感じ」

 

 牟児津たちが眺めている間も、次々と荷物が劇場へと運び込まれていく。見れば牟児津たちとそう変わらない年の少女も働いているようだ。アルバイトだろうか。それにしては髪の色が明るい青リンゴのような色をしている。

 

 「みどりちゃん!さっき別の現場の応援頼まれたから、昼休憩後回しにしてくれる!?ここの現場はまた別のチームに頼むから!」

 「えええっ!?そ、そんな!困ります!いきなり言われても……!」

 

 首の絞まった鶏のような、甲高くしゃがれた声で少女は叫んだ。

 

 「ごめんな!もう受けちまったから!コンビニで何でも奢っちゃるから勘弁してね!」

 「なんだか大変そうだね」

 「同年代のああいう姿を見ると、なんかこう、ちょっと心がざわってなるんだよなあ」

 「ちょっと分かる」

 

 額に汗かいて働くその少女を遠巻きに眺めながら、牟児津と瓜生田はなんとなく手を合わせたい気持ちになった。日々の暮らしを支えてくれている人々の中に、同年代の同性がいるという事実が、とてもありがたいものに感じられた。

 

 「それじゃあ、中に入ろっか。ムジツさん」

 「うん……でもなんか、やっぱ不安だなあ。怒られたりしない?」

 「大丈夫だって。うちの学園の生徒も観に来てるみたいだし、そんなに気にしない気にしない」

 「そうなの?結構遠いよ、ここ」

 「あそこにいるよ」

 

 また瓜生田が指差した先を見ると、牟児津たちと同じ学園の制服を着た一団がいた。全員が一様に大きなバッグを携え、しきりに劇場やポスターの写真を撮っていた。知り合いではないが、同じ格好をした集団を目にしたことで、牟児津の心はいくらか落ち着きを取り戻した。

 

 「あの人たちも金平糖が目当てなのかな」

 

 牟児津が本気でそんなことを言うので、瓜生田は小さく笑った。劇場に来る人々の目的は、そこで劇なり映像なりを鑑賞することだろう。今回の劇で入場者全員に配られる高級金平糖も目当ての1つかも知れないが、それを主目的とするのは今日この場では牟児津くらいのものだろう。

 

 「金平糖のために来る人はいないと思うよ」

 「いやいやうりゅ。今日の金平糖を舐めちゃいけないよ」

 「金平糖は舐めるものでしょ」

 「そうじゃなくて、今日配られるのは老舗高級金平糖専門店が、ここで配るためだけに卸してる非売品の金平糖なんだよ!日本中どこに行ってどれだけお金積んでも買えない、そういう代物なの!分かる!?」

 「うんうん、分かる分かる。分かるからそんなに大きい声出さないで。恥ずかしいから」

 

 瓜生田に指摘されて、牟児津は慌てて口を抑えて周りを見回した。劇の上演時間が近付いているせいか、先ほどまで行き交っていた身なりの良い賓客たちの姿はもうほとんどない。さっき見た制服の生徒たちの姿もない。それに気付いた二人は、慌てて建物の中に入った。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 建物に入ると、なんとなく上品な空気で満たされている気がした。二人はなんとなく背筋が伸び、なんとなくゆっくり動かなければならないような気がした。カバンを肩にかけ直すのにも、顔にかかった髪を払うのにも、歩くのにすらいちいち神経を使う。早くも牟児津は、息苦しさで音を上げる寸前だった。

 

 「客席の受付は……あちら?」

 「なにその喋り方」

 「なんか上品にしないといけない気がして……」

 「ムジツさんはそのままがいいんだから気負わなくていいんだよ」

 「そ、そっか。って、うりゅもつま先歩きしてんじゃん」

 「なんか足音立てちゃいけない気がして……」

 「じゅうたんめっちゃフカフカだから普通に歩いても音しないよ」

 「あ、そっかあ」

 

 そんな調子で二人はなんとかエスカレーターに乗り、客席受付まで移動した。受付にチケットを見せると、そこでは改札せずそのまま4階席まで上がるよう案内された。

 思い切って瓜生田が尋ねてみると、牟児津が持っているチケットは関係者用のものなので、関係者席へ案内するとのことだった。牟児津と瓜生田はぽかんとしたまま、上階行きのエスカレーターで運ばれていった。

 

 「か、か、関係者席……?なんで……?」

 「もともと生徒会長が持ってたものだし、そういうこともあるのかもよ」

 「だったら言っといて欲しかった!っていうか関係者用のチケットを人に譲るやつがあるか!なに考えてんだあの人!?」

 「上の人が考えることは分からないねえ」

 

 劇場内は、階層がそのまま装飾のランクを示すように、階が上がるほど絢爛になっていった。上がるにつれて、壁や天井の飾り、手すりの素材、展示されている絵画、スタッフの服装など、あらゆるものが洗練されていく。もしこれが階段だったら、牟児津はあまりのハイソサエティオーラにやられて、途中で1階まで転げ落ちていただろう。

 しかしエスカレーターは牟児津の意思とは無関係にその体を押し上げていく。上がれば上がるほど、牟児津は自分がここにいることが申し訳なくなってきた。

 

 「う、う、うりゅぅ……。このじゅうたん、踏んでも大丈夫?怒られない?」

 「売り物でもないのに踏んで怒られる絨毯なんてないよ」

 

 エスカレーターを降りたそこは、吹き抜けのホールを取り囲む細い廊下と、建物の奥に続く廊下だけの小さな空間だった。無駄のない動きで巡回しているスタッフに瓜生田がチケットを見せると、関係者専用の受付まで丁寧に案内してくれた。

 廊下を奥に進むと、劇場に続く大きな扉がある。その手前には小さな丸い部屋があり、柔らかそうなソファがいくつか並んでいた。部屋には受付があり、牟児津はそこでようやくお目当ての金平糖を手に入れることができた。

 

 「帰る?」

 「いやいやいや、それはさすがに失礼だって」

 「だって関係者ってことは、私たちよりずっと……なんかこう、すごい人も来るんでしょ?そんな人たちと一緒に劇なんか観てらんないよ」

 「おや!これはこれはお二人さん!こんなところで奇遇ですねえ!」

 「はっ!?」

 

 目的を果たしたことで気持ちが緩んだのか、牟児津は受付から先に進むことを躊躇っていた。そんな牟児津の背中に、こんなところで聞こえるはずのない声が、突然降りかかった。金属同士を打ち鳴らすようなカンカン声だ。まさかと思って振り向くと、そこにいたのは見慣れた少女だった。

 

 「えっ?ま、益子(ますこ)さん?」

 「まさか学園から離れたこんなところで出会うとは思ってもみませんでした!しかも関係者席でなんて!」

 

 牟児津たちと同じ制服に身を包み、首には礼式用のネクタイを締め、普段被っているハンチング帽を取ってチョコレート色の髪を露わにしていた。牟児津の番記者こと、益子(ますこ) 実耶(みや)だ。受付でもらったであろう金平糖を、無造作に頬張ってはバリバリと噛み砕いている。

 

 「な、な、なんであんたがここにいるんだ!」

 「なんでってそりゃあ関係者用のチケットを持ってるからですよ。こう見えても私はハイソな人間なので」

 「こんなに見え透いたウソでも堂々と話されるとちょっとそんな気がしてくるな」

 「確実に寺屋成(じやなる)先輩の悪い影響を受けてるね」

 「やだなあ、軽いジョークじゃないですか」

 

 大いに驚く二人に対し、益子は見せびらかすようにチケットを揺らす。もちろんこのチケットは、益子が関係者として入手したものではない。

 本来、今日この場所に来るはずだったのは、三人が通う伊之泉杜学園の生徒会長、副会長及び広報委員長の三名だった。しかし先の二名分のチケットは藤井が牟児津に譲ったため、牟児津と瓜生田が代わりにやって来た。

 先に起きた事件の後処理のため、広報委員長である旗日(はたび) (よる)も都合が合わなくなり、チケットを手放すことになった。そのチケットは、旗日の友人であり新聞部部長の寺屋成(じやなる) 令穂(れいほ)へと渡り、最後に益子がそれをねだりにねだって、根負けした寺屋成から譲ってもらったのだった。

 

 「藤井先輩のお詫びの品の中にチケットがありましたからね。今日ここに来ることは分かっていましたよ。だから実耶ちゃんの膨大な人脈と豊富な人望を使って同じチケットを手に入れたわけですよ。ま、番記者なら当然です」

 「一歩間違えたらストーカーだぞ」

 「何をおっしゃいますか!ムジツ先輩あるところに事件あり!事件あればムジツ先輩の活躍あり!って言うでしょう!」

 「そんなこと言ってんのあんただけだよ!」

 「二人ともお願いだからお行儀よくして。恥ずかしい」

 

 場の雰囲気を全く意に介さずいつも通りのテンションで話す益子につられて、つい牟児津もいつも通りのテンションで応じてしまい、知らぬ内に声が大きくなってしまっていた。瓜生田に冷や水を浴びせられて我に返り、途端にしおしおと委縮した。対する益子は、それすらも笑って受け流し、食べきった金平糖の包みをくしゃくしゃに丸めてポケットに詰め込んだ。緊張感らしきものが全くない。

 

 「ムジツ先輩は内弁慶ですねえ」

 「気後れしてるだけだよ。いいからもう席に着こう」

 「あ、私なんか、ト──お手洗いに行きたい」

 「だから駅で済ませておいてって言ったのに。きっと混んでるよ」

 「トイレならここ出て左ですよ。私はさっき行きましたけど、遊園地のアトラクションくらい並んでました」

 「やっべ!行ってくる!」

 

 開演まで時間はあるもののゆっくりしている余裕はない。牟児津は来た道を引き返して、益子に教えられたトイレへ向かった。益子が行ったときよりは列も解消されているだろう、という淡い期待とともに。

 しかしその期待は簡単に打ち砕かれた。案内に従ってたどり着いたトイレの前は、淑女たちが列をなしていた。すぐさま牟児津はその横を通り過ぎ、階段を使って下の階のトイレに向かった。しかし上階ほど席数が少なく人も少ないのだから、下れば下るほど列が長くなっていくのが当然である。

 

 「うわわわわっ!」

 

 行く先々で長い行列を見ると、焦りはどんどん募っていく。こんなことなら最初から4階の列に並んでいればよかった、と後悔してももう遅い。時間が許しても牟児津の体が許してくれないところまで来ている。階段を降りに降りて地下まで来てしまい、そこでようやく牟児津は列のないトイレを発見した。何やら地上階とは雰囲気が違うが、そんなことは気にしていられない。

 

 「ままよ!」

 

 色々なものをかなぐり捨てて、牟児津はトイレに飛び込んだ。中は無人で、清潔なトイレが待ってましたとばかりに自動で便座の蓋を開く。牟児津は、なんとか尊厳を損なわずに済んだ。

 

 「助かったあ〜。でもなんか、えらい遠くまで来ちゃったな」

 

 手を洗ってトイレから出ると、ようやく地下階の雰囲気に気を配る余裕ができた。華美な装飾と上品な空気に満ちた地上階とは違い、地下はつるんとした白い金属材の壁に取り囲まれた無機質な空間だった。その空間の中に一箇所だけ、大小さまざまな花飾りで彩られた区画がある。遠くからでも分かる円形に並んだ花飾り、祝い花だった。建物に入る前に見かけたものと同じだ。

 

 「ってゆっくり見物してる場合じゃない!急いで戻らないと!」

 

 大きな施設の地下空間はなんとなく冒険心がくすぐられるものがあるが、今の牟児津にそんな時間はない。4階まではエスカレーターを使ってもそれなりに時間がかかる。牟児津は、ついさっき降りてきた階段を急いで駆け上がって地上に出た。

 

 「えっとえっと、エスカレーターは──」

 

 エスカレーターを探して視線を回したとき、視線の先で星が弾けた──ように見えた。

 

 その人は星を纏っていた。

 

 小さな星が降り注ぐ場所に、物憂げな表情で佇んでいた。

 

 スローモーションように感じる刹那。牟児津の視線に呼応するように、その女性は視線を投げ返した。

 

 心臓が搾り上げられる感覚がした。その視線に捕まった瞬間、魔法のように体の自由が奪われた。

 

 「ぇ」

 

 自分の声が空気を震わせた瞬間、魔法が解けた。緩やかだった時間は再び流れ出し、体が自由を取り戻した。そこに舞う星々は、正体が金平糖だと気付かれるや、たちまち地に墜ちた。それでもなお、魔法などかけずとも、その中心に立つ女性の美しさは何も変わらなかった。

 

 「今日もダメだったか……」

 「ええ……?」

 「おや、どうしたのかな。お嬢さん。困っているのかい?」

 「いや……どっちかって言うとそっちの方が困ってそうなんですけど」

 「僕が?困ってなどいないさ。ただ、今日も自分の運命に勝てなかった。それだけのことさ」

 「はあ」

 

 整った顔立ち、中性的な声色、すらりと伸びた手足、長いまつ毛。体を構成するあらゆる要素が目に入るたび、牟児津は痺れるような感覚がした。スマートな立ち姿や言葉は男性のような頼もしさを感じるのに、顔かたちや声色には女性のような優しさを感じる。そしてそのいずれもが、人を惹きつける魔性を秘めていた。

 

 「ああ、もったいない。楽しみにしていたのに」

 

 そう言いながら、女性は地に墜ちた星屑を拾い始めた。いや、床にぶちまけた金平糖を片付けているだけだ。そんな何気ない所作でさえ美しく形容してしまいたくなる人だった。そんな人が床に這いつくばっている姿を目の当たりにし、牟児津はなぜか居たたまれなくなり、ポケットに手を突っ込んだ。

 

 「あ、あの……金平糖じゃないですけど、あんこ飴なら持ってます」

 「あんこ飴?それはどういうお菓子なんだい?」

 「あんこの周りを飴で薄くコーティングしてるんです。口に入れたら飴がサクッとして、あんこがむにっとして美味しいですよ」

 「……ほう」

 「ひとついります?」

 「くれるのかい?なんて優しい女性(ひと)なんだ君は!」

 「ひゃっ」

 

 電車に乗るとき、酔い止め代わりに食べているあんこ飴をひとつ差し出した。それをもらえると分かった瞬間、その女性は飛びつくように牟児津の手を両手で握った。一瞬だけひやりと冷たい感覚がしたが、すぐにその手のきめ細かさと柔らかさで温度など忘れてしまった。

 

 「優しいついでで申し訳ないが、君にひとつ頼みがあるんだ」

 「え、な、なんですか」

 「その包みを開けて、僕に食べさせてくれないか?」

 「なんで?」

 

 牟児津は、思わず真っ直ぐに聞き返した。真剣な眼差しと蠱惑的な声色でそんな意味の分からないことを言われると思っていなかった。

 

 「僕はその……あまり物の扱いが得意じゃないんだ。特にお菓子の包みは、接着が強かったり複雑に捻ってあったりして、とても太刀打ちできない。今もこうして金平糖を台無しにしてしまったところさ」

 「不器用にもほどがある」

 「こちら側のどこからでも切れます、という表示がされている袋さえ、まともに開けられないんだ!僕は!」

 「それはみんなそうだから大丈夫です」

 

 牟児津は足元に落ちた金平糖を見て言った。金平糖の包装は、包み紙を捻って紐で縛ってあるだけだ。紐をほどけば自然と開く作りになっているのに、こんなに景気よくぶちまけられる仕組みが分からない。

 しかしどうやらその言葉に嘘はないらしいので、牟児津はあんこ飴の包みを開けてやった。

 

 「あーん」

 

 いつの間にか、女性は口を開けて受け入れ準備万端になっていた。なぜか目まで閉じている。初対面の相手にここまで気を許してしまう無警戒さが、他人ながら心配になる。これほどの美人にこれほど無防備なことをされ、牟児津は心の中になにやら(やま)しいものがむらむらと湧いてきてしまうのを感じた。

 とはいえそれを実行に移す度胸など牟児津にあるわけもなく、素直にあんこ飴を口の中に放り込んだ。

 

 「もむ。うん。うん。こ、これは美味しい!とろけるような甘さの飴が、軽く心地よい歯ざわりを残してあっという間に消えてしまった!その後からねっとりむっちりしたあんこが現れて、甘さの中にも確かな豆の味をもたらしてくれる!なんて美味しいんだ!こんなに美味しいものを知らずに生きていたなんて!」

 「大袈裟すぎない……?」

 「ありがとう!君のおかげで僕の世界はまたひとつ豊かになった!」

 「うわ、わわ、どう、いた、しま、して、ええ、ええ」

 

 よほど感動したのか、女性は牟児津の手を握って激しく上下に振る。まさかあんこ飴ひとつでこんなに喜ばれると思っておらず、牟児津は訳が分からないまま振り回されていた。

 ひとしきり振り回されたとき、どこからともなく鈴の音が響いた。実物の鈴ではなく、スマートフォンのアラームだったようだ。女性はポケットからスマートフォンを取り出してアラームを止める。

 

 「おっと。もうこんな時間か」

 「えっ。おあっ!やっべ!もう劇始まるじゃん!」

 

 いつの間にかずいぶん時間が経っていて、開演まで5分を切っていた。急いで4階まで上がって席に戻るには心許ない時間だ。

 

 「楽しい時間だったよ。ありがとう。ああそうだ。僕がここで金平糖をバラ撒いてしまったことは、秘密にしていてくれないか?」

 「な、なんでですか……?」

 「僕は立場上、イメージを守ることが大切なんだ。こんな格好悪い姿、あまり知られたくないからね」

 「はあ……まあ、言わないですけど」

 「ありがとう。では最後に君の名前を聞かせてくれないか」

 「えっ、あ、はあ、牟児津です」

 「下の名前(ファーストネーム)は?」

 「ま、真白……」

 「真白……美しい名前だね」

 「いや、はあ。そんなことより、もう劇始まりますよ」

 「そうだね。真白クンが今日の劇を楽しんでくれると、僕も嬉しいよ」

 

 足音も立てず、女性は牟児津がたったいま駆け上がってきた階段の前に立って、小さく手を振った。

 

 「それではまた。劇場で会おう。真白クン」

 「えっ?あの、そっちトイレしかない──」

 

 牟児津が止める間もなく、その麗人は颯爽と階段を駆け下りて行ってしまった。地下に客席などないはずなのに。だが牟児津はその後を追いかけることは諦めて、自分の席を目指した。エスカレーターを1段飛ばしで駆け上がり、受付に半券を見せて小部屋へ入り、客席に飛び込んだ。時間ぎりぎりである。

 劇場内は既に暗くなっており、ステージ上だけが煌々と照らされていた。関係者席はシアターホールの壁際に設置されたギャラリー席で、人数分のゆったり座れるリクライニングシートとサイドテーブルが用意されている他に、余計なものは何もない。牟児津が飛び込んだとき、益子はサービスのアイスティーをあおっていた。

 

 「間に合ったあ〜〜〜!!」

 「おお、ギリギリでしたねムジツ先輩。お疲れ様です」

 「くぅ〜〜〜!余裕こかれるとめっちゃムカつく!」

 「戻ってこないからどうしようかと思ったよ。どこまで行ってたの?」

 「地下のトイレまで……」

 「都合8階分の猛ダッシュですか。いい運動になりましたね」

 「態度悪いなアンタさっきから!なに調子乗ってんだ!」

 

 牟児津は自分の席に座り、背もたれを目いっぱい倒して寝転がった。もはや劇をゆったり観ていられる状態ではない。サービスのオレンジジュースを瓜生田がとっておいてくれたので、牟児津はすぐにそれを空にしてのどを潤した。

 

 「っぷは〜〜〜!うっめっ!」

 「本当はここに藤井先輩が座るはずだったんだと思うと、なんかこう、椅子が可哀想に思えてくるね」

 「瓜生田さんの席には田中(たなか)先輩が、私の席には旗日先輩が座る予定でしたから、みんな同じようなもんですよ」

 「ってかここ舞台遠くない?これじゃ顔も分かんないよ」

 「サイドテーブルにオペラグラスがあるでしょ。これで見るんだよ」

 「ふ〜ん、最前列の方が絶対いいのに」

 

 備え付けの小さな双眼鏡を覗き込むと、舞台の上がよく見えた。その代わり視界が狭い。トイレが遠ければ舞台も遠く、高いチケットなのに制約が多いことに疑問を覚えつつも、ジュースが飲み放題であることに牟児津は満足していた。

 ほどなくして開演のブザーが鳴り、牟児津は背もたれを上げて座り直した。さすがに大の字で劇を観るほど礼儀知らずではない。



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第2話「犯人はこの中にいる」

 

  牟児津には芸術が分からない。絵の巧拙はなんとなく分かるが、美術的絵画になると何が良くて何が良くないのかさっぱり分からない。彫刻品はどれも『そういう形の置物』でしかないし、音楽や演劇に至っては良し悪しを判断する尺度すら持ち合わせていない。

 そんな牟児津でも、目の前で繰り広げられているものが素晴らしいということは、頭ではなく心臓で感じ取れた。気が付けば背もたれから体を浮かし、前のめりになって劇に見入っていった。

 

 「あ」

 

 つい、しかし極力小さな声で牟児津は呟いた。舞台の上でまばゆい笑顔を見せるその顔には見覚えがあった。バイオリンのような美しい旋律を、小鳥が踊るように軽やかに歌う少女がいた。それは、いつも牟児津の隣の席に座っているクラスメイトの顔だった。

 

 「宝谷(ほうたに)さんだ」

 

 牟児津の言葉に誰も気付かないまま、舞台は次々場面を変えて進んでいく。華やかな音楽と照明の演出、何より演者による魂のこもった舞台は、それが仮初めの物語であることを忘れさせる説得力があった。まるで本当にその場で人々が生きているかのような没入感さえあった。

 そして、一段と力強い音楽が鳴り響く。劇場全体が震えた。観客は直感で理解する。この劇の主役が登場すると。

 その姿が現れたとき、明らかに空気が変わった。五感の全てがその姿に集中し、それ以外の何も感じられなくなった。きらびやかな衣装に身を包み、あらん限りのライトを浴び、高らかに歌を歌いながら、彼女は現れた。その顔立ちを目にした牟児津は、

 

 「……あっ?あああっ!?」

 

 声を抑えきれなかった。すぐに口元を押さえる。しかし周りには瓜生田と益子しかいない。二人とも舞台上の人物よりも、声をあげた牟児津の方を気にしていた。

 

 「ムジツさん、大丈夫?」

 「ご……ごめん。なんでもない」

 「なんでもないはずないでしょう。どうしたんですか」

 「いや……あの人、さっき会った人だ」

 「えっ、本当ですか?あれ、(おおとり)先輩ですよ?」

 

 もう一度オペラグラスを覗いて、その顔を確かめる。服装は違うし化粧もしているが、間違いない。長いまつ毛ときめ細かな肌、中性的な顔立ち、自信にあふれた表情、髪型も髪色も、先ほどトイレの帰りに出会った人物に間違いなかった。

 

 「あの人、出演者だったんだ……」

 「なに言ってんですか!あの人、うちの演劇部の部長ですよ?学園で(おおとり)先輩を知らないなんてとんでもないことです!非学園生の烙印を押されても文句言えません!」

 「さすがに言うよ、文句は」

 「ファンが多いからね。演劇部の部長でプリマドンナ。男役が得意で顔も声も立ち居振る舞いもかっこいいから、ついたあだ名が“学園(プリンス)(・デ・)王子様(イノセント)”、(おおとり) 蕃花(はんな)先輩だよ」

 「なんだってうちの学園はそういう大袈裟な人たちばっかいるんだ」

 「ムジツ先輩もたいがい大袈裟な方だと思いますけど」

 

 また益子がオーバーに言っているのかと思いきや、冷静な見方ができる瓜生田でさえそんなことを言っている。もしかして本当に、自分以外の学園生全員が知っている人物なのだろうか。だとしたら1階でのやり取りも、鳳を知っている学園生からしてみればとんでもないことだったのでは。牟児津はそこまで考えて、嫌な汗をかいた。

 

 「瓜生田さん。本当に……ほんっとうに、ムジツ先輩のことよく見ていてくださいね。いつか悪い人に騙されますよ」

 「もっと物を知ろうね、ムジツさん」

 「さすがにぐうの音も出ない」

 

 非学園生の誹りは過剰だとしても、これほど大きな劇場を借りられる部活の部長にして主演級の人を知らないのはさすがに世間知らずが過ぎると、牟児津は反省した。つい先日も、自分が通う学園の生徒会長や副会長の顔も思い出せなかったことがあった。今度、学園の公式紹介動画でも観てみようと、ぼんやり考えた。

 牟児津たちが鳳について話している間にも劇は進み、いくつかの休憩や楽器演奏などの幕間を経て、ついにクライマックスへと差し掛かった。鳳演じる主人公が世界の果てを目指して冒険し、幾多の苦難や人々との出会いを通じて成長していくという物語だ。最後に主人公は、世界の真実が隠されているという部屋の鍵を壊し、その中で眠る自分自身を見つけた。今までのことは全て、果てしない冒険に心を踊らせる主人公が見ていた夢だったという結末だ。なんとも尻すぼみな筋書きも、鳳を初めとする演者たちの素晴らしい演技と、巧みな光や音の演出によって荘厳な物語へと昇華され、やがて舞台は大団円を迎えた。

 

 「ブラボーッ!!」

 

 暗転の後、演者たちが舞台に並び、笑顔で手を振る。感動してこれでもかと拍手を送るのは益子だけではない。劇場全体に、まさしく万雷の拍手が鳴り響いている。ゆっくりと緞帳(どんちょう)が下りるまでの間、下りきってもなお、喝采は止まなかった。終演を告げるブザーが鳴り、劇場内が明るくなってようやく、喝采は感動のざわめきへと変わった。

 

 「いやあ〜素晴らしかったですね!さすが鳳先輩!圧巻の演技でした!」

 「すごかった。うん、なにがすごいか分かんないけど、なんかこう、来るものがあった」

 「てっきりムジツさんは途中で寝ちゃうかと思ったよ」

 「さすがにあんなすごいの見せられたら寝てらんないよ」

 

 興奮冷めやらぬ様子で、益子が鼻息荒く舞台の感想を牟児津と瓜生田にぶちまける。その気持ちが共有できているからこそ、いつもはうるさく感じる益子のカンカン声も、今の二人には全く気にならない。サービスのドリンクが空になり、中の氷が全て溶けきっても、益子の胸は高鳴っていた。

 

 「こりゃあ良い経験になった。帰ってヒロに自慢しよ」

 「いやいやなに言ってるんですか。まだ帰っちゃダメですよ。ていうか帰れませんよ?」

 「え、なんで?」

 

 席を立とうとする牟児津と瓜生田に、益子が眉を吊り上げて言った。

 

 「校外公演では、演劇部の幹部部員と招待客で、劇の後に集合写真を撮るのが慣習なんですよ」

 「そうなの?私も知らない」

 「まあ演劇部や生徒会に関わってないとあまり知らないでしょうね。あとはまあ、詳しいファンなら知ってるかも知れませんが」

 「え?てことは私たち、さっきの人たちと写真撮んの?」

 「もちろん!いや〜いいですね!これで私たちも“学園(プリンス)(・デ・)王子様(イノセント)”とお近づきですよ!」

 「……やっべ。私、鳳さんのこと全然知らないのに」

 

 色々と思うことはあった。藤井はこのことを知っていてチケットを譲ったのだろうか。なぜなんの説明もせずに、こんなプレミアチケットを譲ってきたのだろう。ありがた迷惑も甚だしい。おかげで良いものは観られたが、今の何も知らない状態で鳳に会ったらとんでもないことになる。知らないだけで非学園生扱いだ。鳳に失礼を働こうものなら、演劇部員から袋叩きにされかねない。

 

 「益子ちゃん!鳳さんのことできるだけ教えて!取りあえず演劇部からボッコボコにされない程度に!」

 「ボッコボコかは分からないけど、私も聞きたいな。演劇部のことあまり知らないから」

 「おお!瓜生田さんにも知識マウント取れるとあっては教えざるを得ませんね!ふふん、いいでしょう!教えてあげますよあることないこと!」

 「あることだけでいいよ」

 

 こうなることを予想していたのか、あるいはこの機に乗じて演劇部を取材するつもりでいたのか、益子はカバンからいつものメモ帳を取り出した。何か起きたときにすぐ取材ができるよう、演劇部の主要メンバーについての情報は細かくリサーチしてきたのだという。そんなモチベーションでここに来ているのは益子くらいだろう。

 

 「えーっと、鳳蕃花先輩。入学は幼等部で、以来ずっと学園生で、初等部の頃から演劇に打ち込んでます。ちなみに演劇部の現副部長とは幼馴染みだそうです。通称“学園(プリンス)(・デ・)王子様(イノセント)”と呼ばれていて、学園の内外を問わず多くのファンを抱えています。演技や歌の才能はもちろん、端正な顔立ちと透明感のある低音が特徴で男性もしくは男性的な役柄を得意としています。男装の麗人ってヤツですね。そのため学園の内外問わず女性人気が高いです」

 「確かに、今日も女性のお客さんが多かったね」

 「演劇部はもともと人気が高くて部員数も多い主要部活のひとつですが、鳳先輩が入部してからは年間収支が過去最大の黒字を更新し続けています。偏に鳳先輩の人気と、その実力を遺憾なく発揮させる演出や脚本の支えがあってこそでしょう」

 「なんで微妙に上から目線だ」

 「日頃の学園生活に関してだと……実は情報が少ないんですよね。人気者ですから、いつもファンや部員がガードについてて、聞き込みで情報収集してもファンの贔屓目がありますから、なかなか正確な情報ってのを見分けるのが難しくて」

 「益子さんがそんなこと言うなんて珍しいね。有名人だしガードが固いのは分かるけど、普通そこまでするかな?」

 「はい!そこなんですけど、実はある噂がありましてですねえ」

 「なんだか誘導された気がするなあ」

 

 瓜生田の疑問を待ち望んでいたかのように、益子は大きな声で応じた。

 

 「2年前、鳳先輩が1年生の頃ですね。当時から大注目されていた鳳先輩ですが、とあるトラブルに巻き込まれてしまいました。これがまたなんとも重大なトラブルなんですが」

 「きいてほしそうだからきくけど、とあるトラブルってなに」

 「よくぞきいてくれました!な、な、なんと、鳳先輩の盗撮写真が学園内で売買されていたんですよ!」

 「めんどくせ〜。でなに?盗撮写真?」

 「授業を受けている姿や登下校中の姿、体育や昼休み、部活動や公演の舞台裏まで!様々な場面の鳳先輩を盗み撮りしたデータの売買記録が、学園の裏サイトから発見されたんです。単なるうわさかと思いきや風紀委員や教師までもが動き、盗撮犯とデータを買った生徒が特定されて厳しく罰せられたようです」

 「ふぅん。人気者ってのも大変だね」

 「それにしても、2年も前のことをよく調べたね」

 「今日これを観に行くと言ったら、寺屋成部長その他先輩諸氏から口を揃えてこの話をされました!相当大きな衝撃だったようですよ。当時の学園新聞の記録も見ましたが、もうそれ一色で」

 「インパクトはあるけど、口揃えて他人のデリケートな話を吹き込む新聞部の上級生が最悪だな」

 

 あまり詳しいことまでは分からなかったが、とにかく鳳は学園中が羨む人気者ということが分かった。それと、おそらくは触れられたくない事件の話も事前に知ることができた。万が一にでも踏んでしまったら体が吹き飛んでしまいかねない地雷だ。その存在を知れたのは大きい。

 鳳についてある程度の知識を得て、牟児津が自分の中で情報を整理したタイミングで、廊下につながる扉が開いた。その奥から、二人の女性が姿を現した。

 

 「あら?」

 

 ひとりは、線の細い儚げな印象を与える女性だった。ダークブラウンの髪を編み込んでまとめ、不思議そうな顔で長い指を自分の頬に這わせていた。つぶらな瞳と眉尻の下がった顔つきが、まるでアンティークドールのようだ。

 もうひとりは、比較的気が強そうに見える。うなじで切りそろえた髪の下を刈り上げてツーブロックにしており、吊り上がり気味の目が牟児津の天敵に近い雰囲気をかもし出していた。

 先に声を発したのはアンティークドールの方だった。

 

 「こちらは関係者席ですよ。席をお間違えではありませんか?」

 「あっ、い、いや私たち、あの」

 「チケットならありますよ。私たち、藤井先輩からチケットを譲って頂いて来ました」

 

 現れた二人は、この劇場の荘厳かつ絢爛な雰囲気と完璧に馴染んでいた。上品で、洗練されていて、美麗だった。相対する牟児津が、改めて自分が場違いな人間であることを自覚して萎縮してしまうくらいには。口がきけなくなった牟児津に代わり、瓜生田が説明した。

 

 「ということは、生徒会長方の代理というのは皆様のことですか?」

 「だ、代理?いやそんな話はひとつも……」

 「はいはいはいそうです!生徒会長以下三役の代理で来ましたです!」

 

 牟児津が余計なことを口走る前に、益子が大声で同意した。これは益子にとって、鳳に近付くまたとないチャンスである。みすみす逃すようなミスはしたくないのだ。そして当然のことながら、牟児津と瓜生田は正当にチケットを譲られてここに来ている。代理という話は聞いていないが、益子が言っていた関係者席の特典に関するだろうことは想像がついた。

 

 「うぅん。どうして藤井さんは来てくださらないのかしら……いえ、ごめんなさい。チケットをお持ちだからこそこちらにお座りになっているのですものね。失礼致しました」

 

 その女性は恭しく頭を下げた。なんだか分からないが、牟児津たちも合わせて頭を下げる。上げたままなのはツーブロックの女性だけだ。

 

 「私は演劇部副部長の樹月(いつき) 日向(ひなた)です。こちらは学年長の加賀美(かがみ)です」

 「加賀美(かがみ) 星那(せいな)です」

 「は、はあ……ご丁寧にどうも」

 「お名前を頂戴します。生徒会長の代理の方から」

 「会長の代理はこっちの人です」

 「へぁッ!?」

 

 牟児津は瓜生田からのキラーパスを完全に取りこぼし、宇宙ヒーローのような声を出した。慌てふためいて瓜生田を見るも、樹月と加賀美から注がれる視線のプレッシャーに耐えきれず、大人しく流れに身を任せることにした。

 

 「あっ、む、牟児津真白です」

 「瓜生田李下、1年Aクラスで図書委員です」

 「1年Bクラスの益子実耶です!新聞部でーす!」

 「あっ、私は2年Dクラス……す」

 「牟児津さん。瓜生田さん。益子さんですね。承知しました」

 

 身を任せた結果、ひどく不格好な自己紹介になってしまった。樹月も加賀美も、それに関しては全くのノーリアクションである。却って辛い。

 樹月は再び恭しく頭を下げた後、じっと牟児津の顔を見つめ続けた。

 

 「な、なにか……?」

 「牟児津さん。失礼ですが、どこかでお会いしたことはありませんか?お名前を伺ったことがあるように思いますが」

 「樹月副部長。お話は楽屋で。部長がお待ちですので、参りましょう」

 「ああ、そうですね。ありがとうございます加賀美さん。それでは皆さん、鳳の元までご案内致します。こちらへどうぞ」

 

 加賀美に促されて、樹月は長い指でゆるりと廊下の奥を示した。牟児津たちは荷物を持って立ち上がり、樹月と加賀美に案内されて廊下に出た。まだ多くの客が1階のロビーにおり、グッズを売っている売店は大混雑している様子だった。牟児津たちはその人波を見下ろしながら、壁と同化した扉を開いて関係者専用のエレベーターホールに出た。そのまま一気に地下1階まで降りていく。

 

 「ああ、もしかして」

 

 エレベーターが降下している間、樹月が不意に口を開いた。

 

 「牟児津さんってもしかして、『黒板アート消失事件』の?」

 「え゛っ」

 「あとは、『図書館蔵書持ち去り事件』とか、この前の『部室のカギ争奪騒動事件』のときは田中副会長さんを論破して部室使用の権利をもぎ取ったとか」

 「尾ひれどころじゃないうわさが広がってる!違いますよ!あっ、えっとでも、違わないかも知れないですけど、論破はしてないです!部室ももらってないですし!」

 「やっぱり、学園新聞で見たあの牟児津さんね。そういえば、益子さんは新聞部でしたね」

 「はい!毎度ご購読ありがとうございまーす!私はムジツ先輩の番記者をしてて、いまおっしゃった後ろ二つの事件の記事は私が書いたんですよ!論破したとはさすがに書けませんでしたけど」

 「あんなカストリ新聞、読まない方がいいですよ」

 「書きぶりが面白いからつい読んじゃうのよ。私、脚本を担当してるから、ああいう事件からインスピレーションを得たりすることもあるのね。だから事実かどうかはあんまり重要じゃないの」

 「あれ?もしかしていま私の記事ディスられてます?」

 

 まさかこんなハイソなオーラ漂う上級生が、益子の三文記事を読んで自分を知っているなど、牟児津は思いもしなかった。なぜか実態とかけ離れた脚色がされていたが、樹月に顔と名前を知られていたことが、牟児津にはなんだかこそばゆく感じられた。目立つことは嫌いだが、人に知られることはそんなに悪い気はしない。

 エレベーターが停止して扉が開く。華美な装飾にあふれた地上階と違い、地下階は無機質な金属の壁と天井に囲まれた味気ない空間だった。劇の開演前に牟児津がトイレを求めて駆け込んだ廊下と同じだ。それどころか、正面にある祝い花で彩られた扉を見るに、同じ場所のようだ。

 

 「演者用のスペースはずいぶん殺風景ですね。祝い花が逆に寒々しく見えます」

 「演者はあくまでホスト側。地上階の装飾はゲスト用のものだから、ここにはいらないのよ」

 

 地上階と違い、一歩進むごとに足音が廊下に響く。上品な所作の樹月と加賀美でさえも、小さい足音を響かせていた。

 部屋の入口の前には大きな祝い花や鉢に入った花束が所狭しと並び、その辺りだけほんのりと甘い花の香りが漂っていた。入口の前に花があるというより、花の中に部屋の入口が隠されているようにさえ見えた。

 

 「牟児津さん。そちらの花束をお持ちください」

 「へ?な、なんで……?」

 「そちらは生徒会長からのお祝いのお花です。公演の際には、生徒会長から部長に花束を手渡していただく慣習です。本日は代理の牟児津さんからお渡しください」

 「はあ……そすか」

 

 言われるがまま、牟児津は生徒会長名義で贈られた花束を抱えた。藤井の白い肌を思わせる、慎ましくも美しい花だった。抱えて初めて分かったが、見た目よりもずっしりと重い。こんな重たいものを渡されても困るだろうと思うのは、花束を贈った本人ではないからだろうか。

 樹月は花の中に分け入って、扉を軽く叩く。両開きの扉には、『伊之泉杜学園演劇部 幹部生御一同様』という札がかけてあった。

 

 「どうぞ」

 

 扉の向こうから聞こえたのは、劇場内に響き渡っていたあの声だった。樹月はその声を聴いてから扉を開いた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 中は、想像していたよりずっと広かった。ケータリングと言うのだろうか、様々な軽食や飲み物がテーブルの上いっぱいに並べられていた。その横にはペダル式のごみ箱が3つ並び、トイレや洗面台まで用意されている。壁沿いには照明付きの化粧台がいくつも並んでおり、ドライヤーやハンドタオルも完備してある。奥にはウォークインクローゼットが2つ見える。ひとつは衣装用、ひとつは私服用らしい。さらには、休憩用に、床より一段高くなった畳のスペースがあり、座布団や枕も積んである。

 しかしこの部屋で最も目を引くのは、部屋の中央にあるミニテーブルとセットの小さな椅子に腰かけ、長い足を組んで笑顔で紅茶を飲んでいる、鳳の姿だった。

 

 「おっと。生徒会長がお越しになったようだ。君たち、すまないが──んん?」

 

 入室した牟児津の顔を見て、鳳は目を丸くした。その戸惑いを感じ取ったのか、部屋にいた他の部員たちも、一斉に入口へ視線を送る。鳳の他には、全部で五人いた。大きな荷物を抱えて鳳の近くにいる三人──劇場の入口で見た生徒たちだ──と、舞台に上がっていた衣装のまま畳に寝そべっている女性、そして部屋の奥で菓子を食べている、舞台には現れなかった女性だ。

 

 「日向、彼女たちは?」

 「会長方の代理です。こちら、生徒会長代理の牟児津真白さんと、副会長代理の瓜生田李下さん、広報委員長代理の益子実耶さんです」

 「ど、ども……その節は」

 「なんと!君は僕にあんこ飴を恵んでくれた真白クンじゃないか!まさかこんなにも早く再会できるだなんて!これは運命だ!はは!君と僕は、何か強い力で惹かれ合ってのかも知れない!まるで太陽と月のように!」

 「それを言うなら地球と月ですよ」

 「ありがとう小雪(こゆき)クン。そう、つまりはそういうことさ!おいで、真白クン。あんこ飴のお礼をしなくてはいけない。瓜生田クンと益子クンも、どうぞゆっくりしていくといい。君たちは大切な賓客(ゲスト)だ。この僕を救ってくれた真白クンの友人なら、僕の友人と言っても過言じゃない」

 「あははっ、さすがに過言じゃないですか?」

 

 鳳に手招きされた牟児津は、部屋のあちこちから注がれる視線を浴びながら椅子に腰掛けた。大荷物を抱えた三人はなんとなくそこから離れ、瓜生田たちと入れ替わるように入口近くまで移動した。瓜生田たちは牟児津同様、鳳の側に椅子を用意されてそこに腰掛けた。

 その様子に興味を持ったのか、畳の上に寝そべっていた女性は跳ね起きて近付いてきた。

 

 「やっほマッシー!ねえねえ。あなたたち、マッシーの友達?」

 「えっ、マ、マッシー?」

 

 その女性は、舞台上で軽やかに歌い踊っていた人だ。畳に寝ていたので衣装にしわができ、顔の化粧が畳の模様に剥がれている。しかし大きな目と天真爛漫な表情は、そんな些細なことなど気にならないほど輝いて見えた。

 

 「真白だからマッシー、って緋宙(ひそら)しか呼んでないけど。たぶんね。あなたたちも学園生なんでしょ?あなた、もしかしてうりゅ?マッシーがよく話してる子だよね。めっちゃ背ぇ高いね!」

 「ありがとうございます〜」

 「バレーとかバスケとかやってる感じ?あ、でも運動できないんだっけ?マッシーがそんなこと言ってたような。まあなんでもいっか。そっちの子は?」

 「私は新聞部の益子です!ムジツ先輩の番記者をしてます!」

 「バンキシャってなにー?でも新聞部ってことはあれじゃん、マッシーに付きまとってるっていう子か。へー。こんなとこまでついてきてんだからよっぽどだね!あ、自己紹介まだだった!マッシーとおんなじクラスの宝谷(ほうたに) 緋宙(ひそら)でーす。よろー♫」

 

 初対面の相手によくここまで捲し立てられるものだと、瓜生田と益子は感心した。ひとりで話しては自己完結して、たまに質問を投げたかと思えばまた話しだす。自己紹介もそこそこに、宝谷はようやく一息ついた。話し終わったということだろうか。

 

 「ってか、なんで生徒会長じゃなくてマッシーが来てんの?マッシーでそんなすごい人だっけ?なんか最近は有名人らしいし、副会長を言い負かして部室をぶん取ったってうわさも聞くけど、それでなんで生徒会長の代わりになれるわけ?すごくね?もしかして生徒会に顔が利いたりとかすんのかな。うわー、うちのクラスすっげーの抱えちゃった!」

 

 全然話し終わってなかった。ほとんど独り言のようなものだったが、瓜生田と益子はなんとなく相槌を打って、話を聞いている意思表示をしていた。初めの質問に答えてしまったことで、会話を中断させること申し訳なさを感じてしまう。益子にさえそう思わせるほど、宝谷からは無邪気のオーラが溢れていた。

 

 「ふふふ、緋宙クン。それくらいにしておきたまえ。彼女たちも困っているだろう」

 「えー、まだ聞きたいことあるのに」

 「まだ小雪(こゆき)クンも、彼女たちも紹介しなくちゃいけないんだ。いい子にしていてくれるね?」

 「んふっ、はーい」

 

 鳳が人差し指を口元にあててウインクする。こういうキザな仕草を自然とできるのが、王子様と呼ばれている由縁なのだろう。牟児津は状況に戸惑いながらもそう感じた。

 

 「改めて、僕は演劇部部長の鳳蕃花だ。よろしく。麗しき淑女(レディ)たち」

 「ぽ〜……」

 「益子さん、見惚れてないで握手しないと」

 「あっ、す、すみません」

 「日向と星那クンの自己紹介は済んでいるね?さて、他にも僕の大切な友人たちを紹介しよう。小雪(こゆき)クン」

 「はい、部長」

 

 鳳に呼ばれて、奥で菓子を食べていた女性が立ち上がった。鳳を王子様、樹月をアンティークドールとするなら、彼女は大和撫子だった。着ているのは牟児津たちと同じ学園の制服なのだが、たおやかな表情や控えめで優しい所作は、和服が似合うだろうと思わせる雰囲気を醸し出していた。

 

 「彼女は、僕たち演劇部員にとっては最も重要な役割を担う演技指導監督、吉永(よしなが) 小雪(こゆき)クンだ。僕と同じ3年生だけど、僕よりずっとしっかりしているよ」

 「初めまして、吉永と申します。どうぞよしなに」

 「ど、ども……」

 

 深々とした吉永の礼に、牟児津は無意識に体が硬くなった。

 

 「吉永センパイのパパとママって、有名な俳優なんですよね!」

 「ほう?そうなんですか!」

 「皆様が御存知かはどうか──」

 

 そんな前置きから飛び出した名前は、牟児津でもよく知っているほどの超有名俳優夫妻の名前だった。平日のゴールデンタイムで放送されているドラマにも出演している、大ベテランだ。

 夫は、持ち前の強面と低くドスの効いた声で、渋くて迫力のある役柄が多い。妻は美魔女とも呼ばれる妖艶な魅力を漂わせたクールな女性で、寡黙でミステリアスな役を得意としている。いずれも芸能界の重鎮であり、バラエティには出演しない、芝居にストイックな俳優として知られている。

 

 「めちゃくちゃ有名人じゃないですか!謙遜が逆に嫌みに聞こえるくらいに!」

 「でっしょー?だから吉永センパイの指導って、めっちゃ分かりやすいしめっちゃ身になるんだけど、レベル高くてさ!もう大変!ヤバい!鬼!」

 「宝谷さん?」

 「くけっ」

 

 それ以上、牟児津たちは宝谷の言葉を聞くことはなかった。吉永が一度名前を呼んだだけで、宝谷は鶏のような声を出して黙ってしまった。天真爛漫だった表情はすっかり青ざめてしまっている。

 

 「口は災いの元、ということだね。本当に、真剣なときの彼女には僕も頭が上がらないよ」

 「おほほ。ちょっと失礼します。宝谷さんに()()()しないと」

 「ほどほどにしてあげてくれ。それでは、彼女たちも紹介しておこう」

 

 そう言うと鳳は立ち上がって、牟児津たちが来るより前に話していた三人の生徒たちを招き寄せた。

 

 「彼女たちは、僕のファンクラブさ」

 「ファンクラブ?そんなのも作ってんですか」

 「同好会だよ。演劇部と直接の関係はない、独立した部会さ。それでも、公演の度に楽屋挨拶特典のチケットを手に入れてくれるから、すっかり顔馴染みさ」

 

 一列に並んだ三人は、一様に牟児津のことを見ている。それは睨むような視線であったり、不思議がるような視線であったり、物珍しそうな視線だったり、様々だった。そしてそのどの視線にも、牟児津はそう思われる心当たりがなかった。

 

 「順番に紹介しよう。こちらから、3年生の出町(でまち) 浮杏(ふあん)クン」

 「よろしくね!」

 「2年生の曳木(ひいき) 絵子(えこ)クン」

 「……す」

 「1年生の徳井(とくい) (さき)クンだ」

 「どうぞよろしくお願いします」

 「はあ……」

 

 出町は、頭の上で2つに結んだ桃色の髪がカニのハサミのように見えた。上級生だが、気さくな感じで手を振ってくれる。よく見ると、抱えたカバンには演劇部関係のグッズがこれでもかと詰まっていた。相当な鳳ファンであることが窺える。

 曳木は、ヤマアラシのように尖った髪の毛とチェック柄のカーディガン、そして牟児津を睨みつける刺々しい視線が何より目立った。口数は少なく声も低い。どう見ても牟児津に不信感、あるいは敵意を持っている目だ。牟児津は、いかにも厄介そうだと感じた。

 徳井は三人の中で一番背が低く、目元に髪がかかっていてよく見えない。前が見えているのか心配になる。最年少であることも相まって、なんとなく恐縮しているような印象を受けた。荷物も三人の中では一番小さい。

 

 「みんな、こちらは生徒会長代理で、僕の恩人の牟児津真白クンだ。これから仲良くしてくれたまえ」

 「こ、これから?」

 「そうさ。今後も藤井クンの代わりにあいさつに来てくれるんだろう?歓迎するよ!」

 「ち、違いますよ!今回だけ!たまたま!」

 「そう……なのか。残念だ」

 「へっ?」

 

 それは、社交辞令や鳳のキザったらしさから出た言葉とは違うように思えた。表情も、声色も、仕草も、演じていると言えばそうかも知れないが、牟児津にはなぜか、それが偽りだとは感じられなかった。

 

 「それじゃあ、真白クンから花束を受け取るのも最初で最後というわけだ。そう思うと、特別な経験のように思えるよ」

 「はあ」

 「ムジツ先輩!これすごいことですからね!本当は生徒会長にならないとできない体験なんですからね!心してくださいよ!」

 「分かった分かったよ」

 

 やけに鼻息を荒くする益子に詰められて、牟児津は困惑しつつも、さっさと鳳に花束を渡して帰ろうと思った。これ以上この部屋にいても、ファンクラブからは変な視線を向けられ、鳳のキザな仕草を見せつけられながら、宝谷に弄り倒されるだけだ。

 牟児津は鳳にエスコートされて、写真写りが良いように白い壁の正面で鳳と向かい合った。そして、教えてもらったとおりの所作で、花束を鳳に手渡した。

 

 「今回の公演も大盛況、満員御礼、おめでとうございます」

 

 これも、たったいま頭に叩き込んだ形式的な祝辞だ。

 

 「ありがとうございます。それでは……いつもはしないけれど」

 「んえ?」

 「生徒会長代理の役目をしっかり果たした真白クンへ。僕から花を一輪、プレゼントしよう」

 

 それは聞いていない。周りの演劇部員も目を丸くしている。どうやら鳳のアドリブらしい。そんなことをしていいのか、という牟児津のつっこみは形になることなく、鳳は受け取った花束の中から一輪の花を摘まみ、そして引き抜く。

 

 「あっ」

 

 牟児津の目の前で、花火が弾けた──ように感じた。真っ白な、音も熱もない、比喩でもなんでもない花が舞う。似たような光景を最近見た気がする。

 しかし、明確に違うものがあった。弾けた花束の中から現れた、白い炸裂に似つかわしくない、黒い塊。それは白い花が舞う中を、床へと最短距離で墜ちていく。ごとっ、という鈍い音とともに、それは牟児津たちの眼前に横たわった。

 

 「えっ?」

 「な、なに──?」

 「カメラだ!隠しカメラ!」

 「ッ!!」

 

 誰かの声が響く。出町だ。床に落ちたそれの正体を叫んだ。

 次に動いたのは樹月、そして吉永だった。樹月は鳳とカメラの間に立ちはだかり、すぐさま鳳を下げてカメラから距離を取らせる。吉永はカメラを拾い上げ、そのレンズを床に伏せた。牟児津たちが、何かが起きた、と頭で理解したとき、その行動は既に終わっていた。

 

 「な、なんですか!?なにが──!?」

 「取り押さえろ宝谷!そいつを!」

 「はあっ!?ちょ、い、意味が分かんないよ!」

 「ならどけ!私が捕まえる!」

 「えっ?えっ?わわわっ!ま、まってまって!何がなんだか……!」

 

 状況が理解できないまま、牟児津は背後から加賀美に羽交い締めにされた。近くにいた宝谷に目で助けを求めるも、宝谷は軽いパニックになっていて全然目が合わない。そうしている間にも、3年生たちは各々が為すべき行動を的確に進めて行く。

 

 「蕃花!大丈夫!?花粉は!?トゲは!?かぶれとか、なんともない!?」

 「う、うん……!なんとも……!」

 「宝谷さん!1階に行って劇場のスタッフを呼んできて!すぐに!」

 「うええっ!?は、はい──はっ?」

 

 吉永に指示され、宝谷はようやく我に返った。そして指示通りスタッフを呼ぶため部屋を出ようとした。

 が、出られなかった。部屋の扉の前で、宝谷は呆然としていた。明らかに様子がおかしい。たまらず出町が駆け寄る。

 

 「宝谷さん!大丈夫!?」

 「あ、あの……これ、どういうことですか……?意味が……!」

 「えっ……!?」

 

 その扉には、鍵がかけられていた。

 両開きの扉の取っ手をつなぐように、太い金属の棒が貫いていた。正面に小さな鍵穴が1つだけある、スミレ色に塗り潰された頑丈な錠前。それが、この部屋唯一の出口を、完全に封鎖していた。

 出町は調べる。鍵がかかっているのか。何かの間違いで外れないか。本物の鍵なのか。それは疑いようのないくらい頑丈な錠前であり、いくら揺すってもビクともしない。であるからして、当然、扉を開くこともできない。

 

 「あ、あの……扉に鍵がかかってて、出られません!」

 「はあっ!?ちょっ、何言ってんですか!?そんなバカなこと──!」

 

 出町の信じがたい発言は、しかしすぐに全員にとって揺るぎない事実へと変じた。それを前にした一同は青ざめる。この部屋に閉じ込められたという現実に、体の芯が凍えるような悪寒が走る。

 

 「どうしてこんなものが……!?いつの間に!」

 「ちょっとアンタ!どういうことだよ!」

 「いてててっ!し、知らないって!ちょ、外れる……!」

 「加賀美さん。もう結構、離して差し上げて」

 「えっ、で、でも」

 「離しなさい。まずは、落ち着いて。冷静になることです」

 「……くっ」

 

 樹月に諭され、加賀美は牟児津をキツく睨んだ後、そっと手を離した。牟児津は反動でふらふらと歩き、瓜生田に受け止められた。後ろに回された腕が痛む。

 

 「皆さん、いきなり大きな声を出して申し訳ありません。驚かれたでしょう」

 「い、いったい何が……?いま、どういう状況ですか……?」

 

 楽屋の中に混乱が広がっていく一方で、樹月たち3年生はあくまで冷静だった。まるで、こうなることを予測していたかのような、適切かつ迅速な行動だ。だからこそ、今の状況とその危険性を理解するのも早い。

 

 「まず、生徒会長から贈られた花束の中から、隠しカメラが見つかりました」

 「か、隠しカメラ……?なんでそんなものが……?」

 「残念ながら、こういったことは往々にしてあります。ですが、まさか生徒会長の花束に仕掛けられているとは……」

 「ひ、日向!真白クンは違うぞ!そんなことをする人じゃあない!」

 「それはこれから判断することよ、蕃花」

 

 瓜生田と益子にとっては、その前に花束が急に弾け飛んだことへの説明も欲しいところだった。が、それは当然のこととして受け入れる空気になっており、とても口を挟めなかった。

 

 「次に、部屋の唯一の出口が、なぜか施錠されています。開けるには錠前に対応した鍵が必要です」

 「なら鍵は?」

 

 曳木のその言葉に、答える者はいなかった。誰も名乗り出ない。それが何を意味するのか、それだけはすぐに全員が理解した。

 

 「いや……外に助けを求めることはできませんか?電話で他の演劇部員の方を呼ぶとか。劇場のスタッフでも」

 「それは難しいんじゃないかしら」

 

 最悪の可能性を誰かが口にする前に、瓜生田が解決の糸口を探る。またしても牟児津が疑われる状況になってしまったからには、とにかく今は事態の混乱を避けるのが最優先だ。牟児津が自力で解決するにしろそうでないにしろ、隠しカメラと鍵の両方を同時に対処することはできない。

 だが、瓜生田の提案は吉永に一蹴された。

 

 「ここ、地下でしょう?電波が通じないの。だから電話やチャットで人を呼び出すことができないのね。それにこの楽屋は、私たち幹部生専用。一般生は入室を許可されていないので、よほどの用がない限りは近付くこともしないわ」

 「よほどの用に期待するのは?」

 「どうでしょう。私は演劇部に入って3年目になりますけど、一般生としてここに来たことはありませんし、一般生を迎えた経験もありません」

 「つまり望み薄ってことですね!う〜ん、これは詰んだかも知れないですねえ」

 「つ、詰んだというのは……わ、わたしたち、出られないということですかあ!?」

 

 徳井が悲鳴をあげた。悲鳴をあげたいのは牟児津も同じだが、ここでパニックになっても仕方がない。それに、詰んだというのは間違っている。この状況で詰むことなどあり得ない。必ず脱出の手立ては残されているはずなのだ。

 

 「い、いやちょっと待って!」

 「なんだい真白クン。人を呼ぶ手段があるのかい?」

 「そうじゃなくて……この鍵、内側にかかってるじゃないですか。ってことは、鍵をかけた人もこの部屋の中にいるってことですよね?だったら、その人は鍵を持ってるんじゃないですか?」

 「え……い、いやでもマッシー……それってさ」

 「う、うん……」

 

 同時に全員が気付いた。否、気付いてはいた。だがその事実を改めて認識したとき、再び悪寒が走った。ただひとり、益子だけは、面白くなってきたと言わんばかりにメモ帳とペンを取り出した。

 そして牟児津は、まさかこの台詞を口にするときが来るなどと思っていなかった。しかし気付けば、自然と口が動いていた。

 

 「犯人はこの中にいる。っていうことです」



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第3話「自重しろ自重を!」

 

  牟児津は自分の発言を後悔していた。内容は事実だからまだいい。この状況であんな言い方をしてしまったことがまずかった。無意識に名探偵然とした言い回しをしてしまったことで、完全に益子のジャーナリスト根性に火を点けてしまった。さらにこの場には、日頃から牟児津が厄介事に巻き込まれては解決していると知っている樹月と宝谷、そしてなぜかあんこ飴ひとつですっかり牟児津に懐いてしまった鳳がいた。自分を支持する人間が多すぎる。

 

 「おっ、おおっ……!真白クン!それはまさか……君がこの事件を解決するという宣言か!?」

 「えっ、いや」

 「そうですよ!ムジツ先輩はこういう状況に慣れっこなんですから!まあクローズドは初めてですが、なんとかしてくれるでしょう!」

 「無責任なこと言うなバカ!このバカ!」

 「いや待て!そもそも一番怪しいのはアンタじゃないか!なに探偵面してるんだ!」

 

 牟児津に期待の眼差しが集まりつつある流れに、加賀美が待ったをかけた。花束の中からカメラが現れたとき、真っ先に牟児津を拘束しに動いたのが加賀美だった。その目は猜疑心に満ちている。そして、ファンクラブの曳木と徳井も同じ考えのようだった。

 

 「鳳部長!よく考えてください!花束の中に隠しカメラがあったんですよ!そいつが持ち込んだ花束だ!明らかに怪しいじゃないですか!」

 「そ、それは……確かにそうだが」

 「そいつはきっと、隠しカメラが入った花束を鳳部長に渡すために来たんだ!2年生の、それもDクラスの生徒が生徒会長の代理なんてどう考えてもおかしい!きっと汚い手を使ったに決まってる!」

 「あわわっ」

 「出口に鍵をかけたのだってそうだ!ここに鳳部長を閉じ込めて、何か企んでるんだ!そうだろ!」

 「待ちなさい、加賀美さん」

 

 ヒートアップしていく加賀美だが、樹月の一言でその追及はぴたりと止まった。まさに水を打ったような静けさが訪れる。

 

 「少なくとも鍵に関して、牟児津さんを疑うのは道理に悖ります。そうですね?」

 「えっ……?そ、そなの?」

 「はい。ムジツさんに鍵をかけられるタイミングはありませんでした」

 

 樹月の言葉に便乗して、戸惑う牟児津に代わり瓜生田が一歩前に出た。

 

 「私たちはこの部屋に入ってすぐ、鳳先輩の側に招かれました。そこでお話した後、花束贈呈に移ったんです。その間、出口の近くにはファンクラブの皆さんか演劇部のどなたかが常にいらっしゃいました。ムジツさんはこの部屋に入ってから、扉に近付いてさえいません。鍵をかけるタイミングなんてありませんよ」

 「へ、部屋に入ったときにかけたのかも知れないだろ!」

 「ムジツさんは、樹月先輩と加賀美先輩に先導していただいている、すぐ後ろにいたじゃないですか。入ってすぐを鍵をかけたら、私や益子さんはこの部屋には入れていません」

 「そーだそーだ!いいですよ瓜生田さん!もっと言ったりましょう!」

 「煽んなって!」

 「くっ……!」

 

 冷静に、論理的に、瓜生田は牟児津が鍵をかけた犯人ではあり得ない根拠を述べる。感情的な加賀美の追及は、瓜生田の言葉の前では説得力に欠けるように感じられた。悔しげに歯噛みする加賀美は、樹月に視線を投げかける。鋭くも弱々しい、悲壮な視線だ。

 

 「私も瓜生田さんと同意見です。加賀美さん。迅速に動くことも大切ですが、まずは落ち着いて状況を見極めなければいけません。学年長としての資質を疑われてしまいますよ」

 「……はい、すみません」

 

 加賀美の追及が止むと、同じく牟児津を疑っていた曳木と徳井も視線を外した。しかし、牟児津への疑惑が全て晴れたわけではない。むしろ、鍵より隠しカメラ問題の方が牟児津にとっては重大だ。それが隠されていた花束は、間違いなく牟児津がこの部屋に持ち込み、鳳に手渡したものだからだ。

 

 「ただ、隠しカメラの件については、詳しいお話を聞かなければいけません。ご承諾いただけますね、牟児津さん」

 「は、はい……」

 「いや、待ってください。そっちが先ですか?」

 

 加賀美に向けたそれと同様の厳しい視線を、樹月が牟児津に向ける。そこに口を挟んだのは、曳木だった。よくこの樹月に口を挟めるな、と牟児津は他人事ながら戦慄した。

 

 「隠しカメラは確かに問題です。でも、ここから出ることの方が優先じゃないですか?」

 「わ、わたしもそう思います!この中に鍵をかけた犯人がいるのでしょう!?わたし、恐ろしいです……!」

 「ううん。えーこ。さっちゃん。悪いけど、隠しカメラの方が重要だよ」

 「えっ……!?ファン先輩……!?」

 

 ファンクラブの異論を収めたのは、ファンクラブ会長の出町だった。それは、決して樹月に忖度して話を合わせているのではない。出口にかかった鍵よりも花束から現れた隠しカメラの方が先に解決すべき問題だと、確信している様子だった。

 牟児津には疑問だった。普通に考えて、隠しカメラはそれが見つかった時点で役割を終えている。壊すなりバッテリーを抜くなりして無力化してしまえば、それ以上カメラによる被害は生じない。しかし部屋から出られないのは、鍵を外して扉を開放するまではずっと被害の真っ只中だ。牟児津たちはいま、正体不明の犯人とともに監禁状態にあるのだ。

 

 「ではまず、はっきりさせましょう。このカメラはいったい誰のものなのか」

 

 それでも、樹月を初めとした一部の生徒、この部屋にいる3年生たちは揃って、鍵よりもカメラの存在を危険視しているようだった。それが一体なぜなのか、牟児津の頭の中でその疑問が反響していた。

 

 「盗撮犯じゃないですか?普通に考えて」

 「……!」

 「おい1年生。当たり前のことを言うな。その盗撮犯が誰かを明らかにしようと、樹月副部長はおっしゃってるんだ」

 「いや、明らかにするもなにもないでしょう。少なくとも3年生の先輩方にしてみれば、盗撮犯なんて決まり切ってるんじゃないですか?」

 「はあ?何をわけの分からないことを──!」

 「ど、どうしてそれを……知っているんだ……!?」

 

 益子が口にした言葉に、鳳が強く反応する。怒る加賀美とは違う、戦慄した表情だ。

 

 「私は新聞部員ですからね!過去の大きな事件はだいたい頭に入っていますよ!鳳先輩は1年生の頃、かなり大規模な盗撮の被害に遭っていましたね。学園内で写真を売りさばかれるほどに!」

 「ッ!?しゃ、写真……だと!?」

 「はああッ!?そ、そうなの!?緋宙知らないんだけど!?初耳!」

 「そりゃそうですよ。その後、この事件については箝口令が敷かれたようですからね。伊之泉杜学園でまさかの不祥事!生徒が生徒を盗み撮りした上に学園内で違法な売買をしていたとあれば!そりゃあもう!」

 「そんなことまで……!」

 

 おそらくその箝口令はまだ生きている。にもかかわらず、益子は閉鎖空間であるのをいいことに、ペラペラと事件の詳細を語る。牟児津と瓜生田は先に聞いていたし、おそらく今の3年生には周知の事実だ。しかしそれ以外の1、2年生にとって、その話は衝撃的だった。鳳がそんな被害に遭っていたことは知らされていなかったし、何より盗撮という内容は、いま目の前に横たわっている問題とリンクしている。

 

 「かくして、その盗撮犯は厳しく罰せられたとのことです。めでたしめでたしですね」

 「口を慎め!何がめでたいんだ!」

 「鳳センパイ……今の、本当ですか?」

 「……あ、ああ。本当だ。驚いたな……!まさか、1年生でこの話を知っている人がいるなんて」

 「人の口に戸は立てられないんですねえ」

 「で、ですが!それは2年も前の話では!?そちらのカメラがその方のものかどうかなんて分かりません!」

 「徳井さんのおっしゃる通りです。仮にその前提があったとしても、今回の事件と関係あるかなんて」

 「だったら、なんで皆さん、そんなに怯えてるんですか?」

 「……!」

 

 鳳の過去の盗撮被害があったとして、なお目の前のカメラ問題は何も解決していない。過去の盗撮犯のものにしろ、そうでないにしろ、判断する材料が何もないのだ。が、牟児津にはそうは思えなかった。何よりも、鳳たちの態度を見る限りは。

 

 「盗撮犯の話、実は私とうりゅは、先に益子ちゃんから聞いてました。それでも隠しカメラが出て来たとき、私たちは何がなんだか分かりませんでした。それでも、3年生の皆さんは素早く動いてました。演劇部の3人だけじゃなく、出町さんまで。もしかしたら……カメラが隠されてる可能性を考えてたんじゃないですか?」

 「な、なにを……!」

 「盗撮犯がまた何かしてくるかも知れない。この2年間、みなさんはずっとそれを警戒してたんじゃないですか?だから、とっさの事にすぐ対応できた」

 「……!」

 「私が怪しいっていうのも分かります。だけど3年生の皆さんにとっては、もっと怪しい人が他にいる。違いますか?」

 

 鳳たちは黙りこくってしまった。牟児津の追及を否定することができなかった。ただ、否定できないだけで、それ以外の可能性を追及することまでできなくなったわけではない。

 

 「だけど……それは牟児津が犯人ではないという根拠にはなりません。仮にカメラが牟児津のものでなかったとしても、その盗撮犯との共犯とも言い切れないはずです」

 「ぐぬぬ……そ、それはそうだけど……」

 「かがみんひっどーい!マッシーがそんなことするわけないじゃん!クラスじゃ名探偵なんだよ!」

 「そんなこと、アタシには関係ない」

 

 先ほどより落ち着いた加賀美が、チャンスとばかりに牟児津への疑いを強調する。確かに牟児津は、自分以外にも怪しい人物がいると言っただけで、自身の潔白を示してはいない。共犯の可能性まで出されてしまっては、もはや無実の証明はかなり難しくなってしまった。

 

 「あの、加賀美先輩。ムジツさんは今日、藤井先輩からチケットを頂いてたまたま来たんです。お花の中にカメラを仕込むタイミングなんてありませんよ」

 「どうだか。劇場に来るのが早かったとか、劇が始まる前に長時間席を立ったとか、チャンスはあったんじゃないか?」

 「あっ……そういえば」

 「おおおおい!しっかりしろうりゅ!私がそんなことするわけないでしょ!」

 「えとえと……うぅん。ダメかも」

 「うりゅ〜〜〜!!」

 「んもう。しょうがないですねえお二人とも。こういうときのために、私こと実耶ちゃんがいるんじゃないですか。吉永先輩。そのカメラ、ちょっと見せてもらってもいいですか?」

 「え?はあ……」

 

 加賀美に追い詰められる牟児津と、それを庇おうと頭をひねる瓜生田。何もできずに頭を抱える二人を横目に、益子が吉永からカメラを預かって型番や設定を調べる。そして何かを見つけたのか、にっこり笑った。

 

 「確認する方法ありますよ!このカメラの持ち主!」

 「へっ?」

 「な、なんだと!?」

 

 全員の注目をしっかり集め、益子は自分のスマートフォンを取り出した。

 

 「このカメラ、登録したスマホやパソコンと無線で通信してデータのやり取りができるんですよ。だから撮った写真をすぐに転送できる優れものなんですね!」

 「まあ、今時のカメラならだいたい付いてる機能でしょうね」

 「だったら気になりません?このカメラ、どのスマホやパソコンと通信してるのか……!」

 「わ、分かるのか!?」

 「こういうのは一度接続した機器を記憶して、自動で接続するようになっています。だから、いま全員のスマホを取り出して、このカメラとつながっているかどうかを確かめればいいんです!」

 

 なるほど、と聞いている全員が思った。確かに、このカメラを仕掛けた犯人なら、どうにかして撮影した写真なり動画なりを自分の手元に収める手段が必要なはずだ。それは後から回収するのかも知れないし、リアルタイムで送信しているのかも知れない。いずれにせよ、カメラと他の機器を接続しなければならない。接続を記憶した機器は、いかなる状況でも、空気を読まず接続する。

 いち早く、牟児津は自分のスマートフォンを取り出した。一刻も早く潔白を証明してこの状況を変えたい。そんな思いから、いの一番にカメラとの接続を試した。当然、何の反応もしない。

 

 「ふむ。接続しませんね。どうやらムジツ先輩のカメラではないようです!セーフ!」

 「っしゃ!セーフだって!これで信じてくれる!?加賀美さん!」

 「……いや、まだだ!アンタのじゃないからって、アンタが盗撮犯とつながってないとも限らないだろ!チャットの履歴を見せろ!」

 「うええっ!?そ、そこまで!?」

 「なんだ。見せられないものでもあるのか」

 「うう……分かったよ、見せるよ。見せればいいんでしょ。恥ずかしいけど」

 

 なおも加賀美に疑われる牟児津は、カメラとの接続履歴がないことを確かめられたばかりか、チャットアプリや通話記録などの連絡手段を徹底的に調べられた。今時珍しくSNSの類をほとんど使っていないことに驚かれはしたが、結局どこからも怪しいやり取りは出て来ず、加賀美は再び悔しげな顔で牟児津にスマートフォンを返した。

 

 「ちっ」

 「つまり、これで牟児津さんはこのカメラを仕掛けた犯人ではないし、2年前の盗撮犯とも一切関わりがないということが言えるのね」

 「初めからずっとそう言ってますよ!」

 「じゃあいったい誰が……」

 「ちょっと待ってよかがみん」

 

 牟児津の潔白が証明され、加賀美は不機嫌な態度を隠そうともせず、自分の椅子に座ろうとした。しかし、それを宝谷が引き留めた。初めに見せた天真爛漫な表情とは違う、真剣な表情だった。宝谷がこんな顔をするのは珍しい。

 

 「なんだ」

 「散々マッシーのこと疑っといて、何もないの?結局マッシーは犯人でもなんでもなかったじゃん。言うことあるでしょ」

 「怪しまれるようなことをするからだ。誰だって疑うだろ」

 「それでいいの?言うべきことは」

 「……くっ……!おい牟児津!」

 「ひゃい!?」

 「…………疑って悪かった」

 「あ、はい……あの、大丈夫です。全然。ホントに」

 

 顔を真っ赤にして、目線を合わせたり外したりを繰り返しながら、歯の隙間から絞り出すように、加賀美は謝罪の言葉を口にした。人から疑われることにすっかり慣れていた牟児津にとっては、その悔しげな謝罪はむしろ、謎の罪悪感を湧き上がらせるものでしかなかった。それでも、それを言わせた宝谷は満足げに加賀美の頭を撫で、キツい張り手で払われていた。

 

 「ごめんねマッシー!かがみんって鳳センパイの強火オタクだから、今回みたいなのすっごい許せないんだと思うんだ!でもこう、まっしぐらなだけなの!悪気があるわけじゃないから許してあげて!」

 「い、いや全然いいよ……私だって逆の立場だったら疑ってただろうし、宝谷さんに謝ってもらわなくても」

 「たはーっ!やっぱ場数踏んでる人間はデッカいね〜!あ、そうだ!せっかくだし、かがみんもスマホ出してよ!」

 「は?なんで私が」

 「このカメラと接続するかどうか確認!あと、盗撮犯って人とのやり取りがないか。全員の分やるんでしょ?マッシーだけ確認するなんていじめてるみたいで可哀想じゃん!あ、鳳センパイも一応」

 「はあっ!!?」

 「はい、みゃーちゃん。緋宙のスマホ。勝手にいじっていいよ」

 「どーもですー。じゃあ、ちょいと失礼して」

 

 宝谷は率先して自分のスマートフォンを差し出した。こうなると、加賀美や3年生たちもそれに続かざるを得ない。宝谷のあまりの無邪気さを前にすると、スマートフォンでの確認を渋ることが自らの疑わしさを強めることになると、何も言わずとも理解できた。

 ひとり、またひとりと自分のスマートフォンを取り出して、カメラに自動接続されるかどうか、カメラロールや通話記録などに異常がないかを、お互いに確認できるよう見せ合う。

 ただひとり、吉永を除いて。

 

 「うん?どうした、小雪クン?」

 「い、いや……なんでもありません。あの、地下なのでスマホが使えなくて……」

 「機器の接続は外部との通信不要ですよ。それ以外も履歴を見るだけだからマナーモードでもできます」

 「あ、あの……そうなんだけど……」

 「吉永センパイ?」

 

 明らかに様子がおかしい。スマートフォンが使えないと言う割に、それを取り出してさえいない。先ほどまでとはまるで態度が違い、そこに余裕や冷静さは見られない。誰がどう見ても、吉永は動揺していた。

 

 「吉永さん?どうしたんですか。変な記録がないことが分かればいいんですから、全部見せる必要はないですよ。恥ずかしいかも知れませんけど、お願いします」

 「あ、あの……そうではなくて……!」

 「むむっ!」

 

 牟児津の横で、益子がいかにも嬉しそうな声を出した。何か、人の弱みを見つけてそれに飛び込もうとするときの声だ。

 

 「吉永せんぱぁい?いけませんねえ。ひとりだけスマホを見せないなんて、いかにも何か隠すべきものがありますって態度じゃないですかあ!このとおり、私たちは何もありませんでした!白です!吉永先輩だけですよ!まだ確認してないのは!」

 「くっ……!」

 「おい1年生。誰に向かって口をきいてる。吉永監督がこんな卑劣なことをするわけがないだろ。気にしないでください監督。もともと演劇部員がカメラを仕掛ける理由なんて──」

 「それは違うよかがみん!そういういい加減な判断しないために見せっこしたんでしょ!吉永センパイにもしっかり見せてもらうよ!」

 「ううっ……!」

 

 益子だけではない。ファンクラブも、同じ演劇部員も、吉永に向ける目は徐々に疑念に染まりつつあった。それは吉永も納得できる。誰だってそうなるだろう。しかし、それでも吉永はスマートフォンを見せようとはしなかった。

 

 「ご、ごめんなさい!どうしても、見せられない……!」

 「そ、それは……まさか、吉永さん!」

 「ち、違うよ!私は盗撮なんかしてない!()()()とも関係ない!だけど……そうなんだけど……!」

 「せめて見せられない理由だけでも仰ってもらえませんか?」

 「……ごめんなさい」

 

 瓜生田の質問にも吉永は答えない。見せられない理由を言えば、それは見せているのと同じことだ。頼まれようと疑われようと、吉永は頑として譲らない。しかし、そんな態度が許されるはずがなかった。

 

 「吉永さん。1年生の頃から切磋琢磨してきたあなたを疑いたくありません。手荒な真似をしますが、甘んじて受け入れてください」

 「そうですよセンパイ!ナントカはカントカにウンタラです!」

 「何が言いたいのか分かりません!」

 「ええい問答無用!見せてもらいますよ!とりゃー!」

 「ひゃああっ!?」

 

 にじり寄った宝谷が奇声とともに吉永に飛びかかった。加賀美は止めようとするも間に合わず、宝谷は吉永の体をまさぐる。ジャケットからスカートまであらゆるポケットに手を突っ込まれ、とうとうスマートフォンを奪われてしまった。油断して顔認証まで許してしまい、吉永のスマートフォンはあっという間にセキュリティを突破されてしまった。

 

 「あっ、ああ!」

 「すみません吉永センパイ。さ〜てどれどれ……なあんだ。何も隠すようなことないじゃないですか」

 「本当?ちょっと見せて宝谷さん──あ」

 

 スマホを奪われた吉永は、その場にへたり込んでしまった。宝谷に全身を触られたことで力が抜けたのか、はたまた中身を見られたことに絶望したのか。いずれにせよ、樹月にははっきりと分かった。吉永がなぜ頑なにスマートフォンを見せようとしなかったのか。

 

 「ど、どうした日向……?まさか、本当に小雪クンが……?」

 

 鳳の問いかけに、樹月は笑顔で応えた。

 

 「ううん。違うわ。吉永さんは盗撮犯じゃない。その証拠に、カメラと接続されないわ」

 

 感情を必死に押し殺している、不自然な笑顔だ。牟児津にはその笑顔が恐ろしく感じられた。まるで人形のようだ。

 

 「いや、だったらあんな必死になって隠す意味が分からないんですけど」

 「普通よ普通。そうよね、宝谷さん」

 「はい!普通にパパやママと仲良く写ってる写真とか、スタンプ爆撃家族グループチャットとかばっかりでしたよ!」

 「……言ってしまうのね、それを」

 「へえ?」

 

 全員の頭にクエスチョンマークが生えた。樹月は人形の顔のまま、宝谷を見て──否、睨んでいた。当の宝谷は何が起きたか分からないという顔で間抜けに樹月に視線を投げ返し、吉永は顔を真っ赤にしてうずくまっていた。

 

 「パパとママって……吉永先輩のご両親のことですか?あの超シブくて仕事に真面目で舞台あいさつでも滅多に笑わないあのパパさんと!?クールで知的でミステリアスで、大人の女性の象徴みたいなあのママさんですか!?」

 「あの二人が、仲良く家族写真!?スタンプ爆撃グループチャットォ!?全っ然イメージと違う!!」

 「説明しないでいいからあ!!」

 

 益子と加賀美が叫ぶ。ははあ、と牟児津はなんとなく理解した。牟児津は詳しいことまで知らないが、吉永の両親はどちらも有名俳優だ。片や強面の激渋俳優、片やクールでミステリアスな女優。その二人が、娘と仲良く写真に収まっていたり、グループチャットでスタンプを連打していたりというのは、イメージとかけ離れているように感じた。

 つまりはそういうことだ。吉永は、俳優としての両親のイメージを損なわないために、写真やチャットの履歴を隠そうとしていたのだ。俳優はイメージが大切だという鳳の言葉を、牟児津はぼんやり思い出していた。

 

 「あ、あの、どうか……!どうかこのことは秘密に……!こんなことでお父さんとお母さんに迷惑かけたら、私……私……!」

 「いや、そんな頭下げなくても大丈夫ですよ。誰にも言いませんから」

 「そこの1年生!メモを取るな!」

 「ひょっ!?バレたあ!!」

 「益子さん。それはさすがにダメだよ。私たちは吉永先輩を傷つけたいわけじゃないんだから」

 「ちぇ〜っ。まあ学園関係ないですし、記事にできないか……」

 

 加賀美に指摘されて益子が飛び上がった拍子に、瓜生田がメモとペンを取り上げた。深々と頭を下げる吉永を前にして、よくそんな無慈悲なことができるものだ、と牟児津は呆れ返った。

 それよりも、これで吉永も盗撮犯とは無関係だと分かった。どうやらこの部屋の中に、盗撮犯やその関係者はいないと考えてよさそうだ。つまりこのカメラは、重大な問題であると同時に、今は解決できない問題にもなった。なんとも気持ちの悪い決着だが、これ以上はどうしようもない。

 

 「吉永さん。疑って本当にごめんなさい。こんなことになるとは思ってなかったの」

 「あ〜、怖かった。盗撮犯まで一緒に閉じこもってたらどうしようかと思ったわ」

 

 樹月はうずくまった吉永を立ち上がらせてスマホを返し、休憩スペースの畳に座らせた。この短時間で精神的にかなり消耗したのか、そのまま隅の方に寄ってじっとしてしまった。出町が安堵の言葉を吐いたのを区切れ目に、なんとなくカメラの一件は幕を閉じた雰囲気になった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「それでは、カメラより先に、あの鍵を解決しなくてはいけなくなりましたね」

 「普通そっちが優先だって」

 

 牟児津は改めて錠前を観察してみる。装飾の少ないシンプルな造りで、どこか古くさい雰囲気を感じる。むらなくスミレ色に塗られているのも不思議だった。

 

 「こんな変な錠前、どこから持って来たんだろ」

 「変な錠前とはなんだ!あなた、今日の舞台観てなかったの!?」

 「うぎゃっ!?」

 

 錠前を調べようと手を伸ばしたら、突然背後から声をかけられ、牟児津は驚いてひっくり返った。瓜生田も驚いたが、少し眉を上げただけで穏やかに振り向いた。声をかけたのはファンクラブ会長の出町だった。カニのハサミのようになった髪が幼さを感じさせ、年上なのだがあまり年上に感じられない。

 出町は牟児津とドアの間に体をねじ込み、錠前を手に取って力強く解説を始めた。

 

 「これは今日の舞台に登場した、鳳さん演じる主人公の肉体が閉じ込められていた部屋の錠前よ!肉体から離れた心が、無限に広がる世界を渡り歩いて成長していく。だけどそれは全て一夜の夢。空想する力の果てしなさをドラマチックに描いたステキな脚本よね!」

 「そ、その錠前がなんでここに……?」

 「舞台のセットなんじゃないんですか?」

 「そんなわけないでしょ。これは物販よ」

 「物販?」

 「オリジナルグッズのこと。演劇部は公演の物販で、物語の重要アイテムや、キービジュアルのクリアファルとかを売って収益を得ているのよ。これは錠前と鍵のセットね。もちろん私も買ったわ」

 「女子校の部活の発表会で錠前を売るなんてことがあんのか」

 「あるんだねえ。そんなことも」

 「ファンならひととおりのグッズは買って当然よ!どれもこれも鳳さんや演劇部の素晴らしさを伝える、愛の篭もったグッズなんだから!」

 「愛、ねえ……」

 

 そう言って出町は、抱えていた大きなカバンから、扉にかけてあるのと同じ錠前と鍵のセットを取り出した。鍵を穴に挿し込んで回すと、金属の擦れる耳に痛い音がして、錠前は口を開けた。つまり、この錠前と鍵が対応する1セットであり、扉にかかっている錠前はこの鍵で開けられない、ということだ。

 

 「あ、じゃあその大きなカバンも、物販でたくさん買うために?」

 「そ!今回は買えないのもあったけど、おおよそコンプしたわね。古参ファンとしてはそれくらいしないとね!」

 「お金とか大変じゃないですか?」

 「そんなの大した問題じゃないわ!推し活で大事なのは“お気持ち”よ!」

 「お金じゃん」

 

  出町の足元には、パンパンに荷物が詰まったカバンが転がっている。今日の公演で購入したグッズだけではなく、これまでに収集した分も持ってきているようだ。他のファンクラブメンバーも同様に大荷物を抱えているので、おそらく同じようなものなのだろう。それほどまでに何かに夢中になれるということが、牟児津には縁遠く感じられた。

 

 「よく分からないね」

 「ムジツさんだって、塩瀬庵の新作買うためなら早起きするしいくらでも奮発するでしょ。そういうことだよ」

 「よく分かったわ」

 「みんな何かのオタクなのよ。誰の言葉だったかしらね」

 

 瓜生田の説明で、牟児津は一発でしっくりきた。つまり、好きなもののためならなんなりと、ということだ。それが甘いあんこ菓子か、演劇部のスターかだけの違いだ。

 

 「今日はどんなのを買われたんですか?」

 「そうね。クリアファイルももちろん買ったし、トレーディングアクリルチャームのBOX、Tシャツにボールペンにマステ、それから……」

 「めっちゃある!そしてめっちゃ紫!」

 「スミレ色よ。演劇部のイメージカラーなの。あなたたち、そんなことも知らないで今日観に来たの?逆にすごいわね」

 「は、はあ、ども。すんません」

 「謝ることないわ。鳳さんは有名人だし演劇部も大きい部活だから、逆にそこまで知識を入れずに観られるのって貴重なことなのよ。初めての感動っていうのは格別なんだから。羨ましいわ」

 「あ、よかった。面倒じゃない方のオタクだった」

 

 部屋に入ってからというもの、牟児津はとことん疑われたり激しく怒られたりして、心が荒みつつあった。そんな心のささくれを、出町の気さくな性格が撫でつけてくれるようだった。

 

 「ま、鍵をいくら調べても開いてくれるわけじゃないわ」

 

 錠前を触りながら、出町が言った。

 

 「開けるには鍵が必要で、それを持ってるのは犯人のはず。だから私は、みんなの荷物を検査するべきだと思うの。牟児津さんはどう思う?」

 「へっ?あ、そ、そうですね。確かに、荷物検査はやっといた方がいいかと」

 「そうよね!よかった!牟児津さんが賛成してくれるなら心強いわ!」

 「な、なんでですか?」

 「だって、学園の名探偵なんでしょ?いくら私がファンクラブの会長でも、所詮は一介のファンだし、演劇部の皆さんの荷物を漁りたいって下心から言ってると思われたら困るもの。牟児津さんってその辺のことずけずけ言ってくれそうだし、味方になってくれると助かるわ!」

 「味方っていうか別に……」

 「でも確かに、荷物検査はやっとくべきだよね。みなさーん、ちょっといいですか?」

 

 犯人も一緒に閉じ込められているということは、何らか脱出の手段を用意しているに違いない。秘密の抜け道や隠し扉などという大袈裟なものではなく、単純に錠前に対応した鍵がこの部屋のどこかにあるはずだ。おそらく犯人が隠し持っている。逆に言えば、錠前に対応した鍵を持っている人物が鍵をかけた犯人だと言うこともできる。上手くいけば、荷物検査をするだけで犯人を特定することが可能だ。

 早速、瓜生田が全員に声をかけた。牟児津の名前を借りて、荷物検査を実施しようと提案したのだった。

 

 「バカな!荷物検査より先に部屋の中を探した方がいいに決まってる!」

 「え」

 

 自分の案でもないのに、牟児津は加賀美に真っ向から反対された。困惑して瓜生田と出町を見るが、二人とも目を逸らしてしまう。誰もこの状態の加賀美に怒られたくないのだ。いつの間にか牟児津は矢面に立たされていた。これでは出町にいいように利用されただけだ。

 

 「荷物検査なんて、閉じ込められて最初にやってもおかしくないことだ。そんなことでボロが出るような犯人なら、初めからこんな大それたことはしない。むしろこの部屋のどこかに隠す方が、見つかっても誰の仕業か分かりにくい。狡猾な犯人の考えそうなことじゃないか」

 「一理ある」

 「えーこ!?なんであなた加賀美さんの味方なの!?」

 「……牟児津が気に入らない、から?」

 「めっちゃ個人的な理由じゃない!」

 

 どうやら曳木は、加賀美ほど露骨でないにしても、まだ牟児津のことを疑っているようだ。結局、鍵をかけた犯人を見つけないことには、牟児津が二人の疑念から逃れることはできないらしい。ひとまず流れに身を任せるため、牟児津は加賀美の案に従った。いちおう、部屋を調べた後に荷物検査もやるという約束をしておいた。

 部屋を調べるにあたり、11人全員で同じ場所を調べるのは効率が悪いので、班に分かれることになった。音頭を取ったのは樹月だ。

 

 「それではまず、5つの班に分かれます。班には演劇部員を必ず含めてください」

 「なんで?」

 「普通に考えて、私たちかファンクラブのどちらかに犯人がいるからですよ。演劇部員がこんなことする理由がありません」

 「なるぅ……」

 

 牟児津の疑問は益子の耳打ちによってすぐ解消された。樹月が演劇部員であることを差し引いても、部外の人間が犯人であると考えるのが普通だ。犯人の目的は分からないが、部内の人間が同じ部の人間をこの部屋に閉じ込める可能性は低い。可能性が低いことは、ひとまず考えない方が事態を把握しやすい。

 

 「せっかくだから鳳センパイはファンクラブの誰かと組んじゃえば?出町センパイとか!」

 「キアッ!?い、いや私がそんな、そんな一緒になんて……!私たち、そういうのと違いますから!」

 「そういうのってなに」

 「『鳳ファンクラブの掟』第一条〜〜〜!ファンとしての距離感を保つべし!」

 「全然分からん」

 「ファンで居続けるため、演者の方とは一定の距離を置くべき、ということです。近付き過ぎて親密になるとファンではなくなり、不都合も出てしまうので」

 「というわけで鳳先輩。何卒あっちの人たちと」

 「好きすぎて逆に突っぱねるんだ。難儀なこったなあ」

 

 出町たちは鳳と班を組むことを拒絶した。よかれと思って提案した宝谷が申し訳なさを感じるほど強く。牟児津には、そんな出町たちの理屈が全く理解できなかった。自分が他人にあんこを勧められたら、一切迷わず受け取るのに。

 

 「それじゃあ僕は、真白クンと──」

 「私も勘弁してください!もう加賀美さんと曳木さんからの視線に耐えられないですから!」

 「そ、そう……じゃあ、瓜生田クン。いいかな?」

 「はい喜んでー」

 

 牟児津は鳳のファンではないが、これ以上一緒にいると加賀美たちの敵意を煽るだけなので、鳳の誘いを食い気味に断った。鳳はあからさまにしょんぼりしてしまったが、自分の身を守るためにはやむを得ない。

 結局、牟児津は演劇部で唯一知り合いの宝谷と、それ以外のメンバーは益子やファンクラブと一緒に部屋中で鍵を探し回ることになった。広い部屋といえど五組に分かれて探すには狭く、それぞれが担当する範囲で鍵を隠せそうな場所は少ない。

 牟児津と宝谷は、化粧台とテーブルセット及びその周辺を担当した。

 

 「よーしマッシー!緋宙たちで鍵見つけちゃおう!気合入れて探そうね!」

 「う〜ん、ぶっちゃけ私は荷物検査の方が意味あると思うし、あんまり期待できないって言うか、宝谷さんみたく前向きになれないんだよね……」

 「探すだけ探してみよって。ほら、たとえばこういうテーブルの下とか」

 

 宝谷はテーブルの下に潜り込んで仰向けに寝転がった。背中はべったり床についている。

 

 「ゴミ箱の中とか下とか」

 

 宝谷はテーブルや化粧台の上に置かれた小さいゴミ箱の中をひっくり返して、ゴミをひとつひとつめる。菓子の包み紙や化粧に使ったティッシュなどもお構いなしだ。

 

 「鏡の裏の隙間とか盲点っぽくない?」

 

 化粧台の上に膝乗りになって壁にを押付け、化粧台の照明に目を焼かれながら鏡の裏側に目を凝らす。鍵の捜索に一直線な宝谷を、牟児津は、ようやるわ、という視線で見ていた。

 

 「めっちゃ調べるじゃん」

 「そりゃそうでしょ!マッシー出たくないの?」

 「出たいよ。けど犯人だったら、もっと違うところに隠すと思うんだよね」

 「どういうこと?」

 「なんというか……あんまり込み入った隠し方をしない、んじゃないかな?だって、最後にはここから出たいはずだから、やっぱり自分で隠し持ってるのかな……?でもボディチェックとか普通するのは想像つくはず。だから、見つかりにくい、けど見つかりにく過ぎないような……」

 「何言ってんの?」

 

 牟児津は、小さな気付きや直感から考えを深めていく。もし犯人ならどうするか。鍵を自分で隠し持つか、それともどこか別の場所に隠すか。それぞれ、何が最善か。そう思考していったとき、果たして自分の捜査方法は適切なのか。数え切れないほどの疑問を、ひとつひとつ検証していく。

 

 「最終的には、犯人もここを出て行くことになる」

 「うんうん」

 「そのときに、鍵を隠し持ってたら……こっそり開けておいて、何かのタイミングでそれに気付いてもらうのを待つか……」

 「じれったい話だね」

 「どこか別の場所に隠すとして、簡単に見つけられない場所だと、鍵を回収するときに怪しまれる、よね?」

 「……あ、そっか。変なことしないと取れない場所に隠してたら、その変なことでバレちゃう」

 「だからたぶん、もっとシンプルところに隠してるんだよ」

 「でもそれ、どこ?」

 「……」

 

 それが分からないと意味がない。それが分かれば苦労しない。二つの言葉が同時に牟児津の口から飛び出そうになり、ぶつかって対消滅した。こうして頭の中で考えているより、宝谷のように体を動かした方がマシかも知れない。なんだかいつもより不安が大きい。自分のしていることに意味があるのかが分からない。答えに近付いている気がしない。何の手応えも感じない。粘つく水の中で、必死に手足をばたつかせて進もうとしているような、漠然とした無力感と不安感。一体どうすれば、何をすればいいのだろう。

 そう考えている間にも、宝谷は手と目を動かして担当する範囲を隈無く探す。しかし結局、なんの成果も得られなかったようだ。

 

 「あ〜ん!ないよ〜!もう緋宙疲れた〜〜〜!!」

 「あっ、ご、ごめん宝谷さん。なんか全部押しつけちゃったみたいで」

 「いいよ。マッシーは体動かすより考える方が得意でしょ。名探偵だもんね」

 「だから違うってのに……」

 「あっはは〜」

 

 牟児津が頭の中でぐるぐる考えている間に、宝谷や他の班はそれぞれ担当した場所の捜索を終えていた。そして何も見つからなかったのは、他の班も同じだった。何も出て来ない。鍵やそれに近いもの、何か怪しげなものなど、一切。

 

 「僕たちはケータリングのテーブルと洗面台の周辺を調べた。瓜生田クンの考察はすごいよ!もし犯人が長髪だったら、髪で鍵を吊して排水口に隠すんじゃないかと!結局そこにはなかったけれどね。しかしなかなか面白いトリックだ。日向、次の舞台の参考にしたらどうだい」

 「呑気なこと言わないで。あ、私たちはゴミ箱と休憩スペースの畳の裏を調べました。同じく何もありませんでした」

 「私は……何もしてないわ。私は……」

 「あ、あの。私と吉永さんは入口付近とミニテーブルを調べました。何も変なものはなかったです」

 「私はクローゼットの中を。衣装のポケットまで調べましたが、出て来たのは宝谷がポケットに突っ込んでいたゴミばかり……!」

 「あ、ごめーん。えっとねー、緋宙とマッシーは化粧台と打ち合わせ用テーブルの辺りを調べました。なーんもなかったけど」

 

 演劇部の面々と、放心している吉永の代理で出町が、それぞれの結果を報告する。明るく振る舞う鳳や宝谷とは対照的に、加賀美は悔しげに歯を噛む。そんな加賀美に、牟児津はおそるおそる声をかけた。

 

 「じゃ、じゃあ加賀美さん。約束通り、次は荷物検査を……」

 「ボッ、ボディチェックだ!」

 「へ」

 「部屋になかったのなら犯人が持っているはずだ!肌身離さず、自分の手元に!ボディチェックで洗い出す!」

 「ひええっ」

 

 もはや鳳や樹月に確認することもしない。加賀美は圧倒的な大声と力強さで荷物検査の約束を有耶無耶にし、強引にボディチェックを宣言した。約束が違うので牟児津はさすがに文句を言いたくなったが、荷物検査を優先させるほどの理由がないことに加え、加賀美の威圧に抗えるほどの度胸があるわけもなく、言われるがまますごすごと引き下がった。

 

 「ちなみに吉永センパイのボディチェックはさっきついでに済ませました!スマホ以外なんにもなかったでーす」

 「はは……」

 「可哀想にねえ」

 「では、ボディチェックは私と樹月先輩でやりましょう。徹底的にやりますよ」

 「えー?樹月センパイはともかく、なんでかがみんなの!」

 「公明正大な検査のためだ。演劇部員以外はまだ信用する根拠がない」

 「公明正大……かなあ」

 

 演劇部員を棚上げしている時点で公明正大とは程遠いのだが、逆に牟児津や出町たちがボディチェックをすると言い出したところで、それはそれで怪しい。何よりここは演劇部の縄張りなので、加賀美の言葉には一定の説得力を感じた。

 こうして、牟児津たちはボディチェックを受けることになった。女子しかいないとはいえ、さすがに全員の前で下着姿になるのはいかがなものかと声が上がった。そこで、一人ずつウォークインクローゼットを更衣室代わりに、樹月または加賀美がボディチェックすることになった。

 

 「うぅ……せ、せめて私は樹月さんに」

 「牟児津!アンタはこっち!アタシが徹底的にやるから!」

 「ぎょえーっ!た、助けてうりゅ〜!」

 「加賀美先輩、お手柔らかにお願いしますね」

 「ぎゃあああっ!!」

 

 瓜生田が笑顔で手を振る。牟児津は加賀美に手を引かれ、抵抗むなしくクローゼットの中に引きずり込まれた。そして徹底的という言葉どおり、上着やスカートはもちろん、シャツや下着や口の中まで、物を隠せそうなところは隅々まで調べつくされた。

 結局、牟児津からはなにも出てこず、加賀美は顔を真っ赤にしながらも牟児津を解放した。疲れ切った牟児津と入れ替わりで、今度は瓜生田がチェックを受ける番になった。

 

 「加賀美さん。徹底的に調べてやって」

 「ひどいなあムジツさん。私を疑ってるの?」

 「さっきの仕返しだよ!疑ってるわけないだろ!」

 「早く来い」

 

 舌を出して瓜生田を見送った後、牟児津はやれやれとため息を吐いて椅子に腰かけた。ちょっとした経験になるからと思って来てみれば、とんでもないことに巻き込まれた。こんなことなら家にいればよかった。ゆっくりとあんこ菓子でも食べながら、マンガを読んだり音楽を聴いたりして平和に一日過ごせたのに。そんな後悔ばかりが募っていく。

 

 「真白クン。隣いいかい?」

 「へっ?あ、はい。ど、どうぞ」

 

 そんな牟児津に、鳳が声をかけた。樹月によるボディチェックを済ませた鳳は、舞台の上に立っていた衣装から制服に着替えていた。優雅に牟児津の隣に腰かけ、手に持ったケータリングの菓子袋を牟児津に見せる。あっ、と思った牟児津が弾け飛ぶ菓子に備えて身構えると、鳳が申し訳なさそうに言った。

 

 「すまないが、また開けてくれないか」

 「あ、焦ったあ……さっきとまた同じことするかと思いました」

 「ははは、同じ日に同じ失敗はしないさ。それに、ファンの前だからね」

 「金平糖と花束で同じ失敗してたでしょうに。ていうか、もうそんなこと言ってる場合じゃないんじゃないですか?」

 

 呆れ気味に牟児津は言った。呆れてはいたが、言葉に深い意味はない。会話の中の、何気ないほんの一言だ。しかし、鳳にとっては違ったようだ。

 

 「演者はね、常に演じていなければいけないんだよ」

 

 その言葉は演者としての意識の高さを表す言葉に聞こえた。しかしそれを口にしている鳳の表情を見ると、どうやらそういう意味ではないらしい。制服に着替えた今も、鳳は舞台上でのキャラクターを演じ続けている。その表情や言葉の中に物寂しさのようなものを、牟児津は垣間見たような気がした。

 

 「演劇部って大変なんですね。普通の部活より責任重大っていうか、評価されるっていうか」

 「学園でも歴史の長い部活だからね。それに、半端なことをして評判が悪くなれば、田中クンに怒られてしまう」

 「田中って、副会長の田中さんですか?」

 「そうさ。田中クンと、それに会長の藤井クンも心配するだろう。ここだけの話、僕は少し、彼女たちが苦手でね」

 「得意な人の方が少なさそうですけど」

 「そうでもないさ。みんな彼女たちのことが好きなんだ。学園に限って言えば、僕にも負けないくらい人気だよ」

 「自分で言うか」

 

 先ほどの寂しげな表情はもうない。そんなものは忘れてしまったかのように、なんとなく晴れやかな表情に見える。

 

 「彼女たちは何もかも完璧な人間だろう?あの姿を見ていると、自分がいかに不完全な人間かを思い知らされるようで……正直、少し辛いんだ。菓子袋ひとつ開けられないこんな僕に、いったい何ができるんだって」

 「えっ、めちゃくちゃネガティブ」

 「意外かい?そうだろうね。これは僕の本心だからさ。舞台上にいる僕は決してこんなことは言わない。言ってはならない」

 「な、なんで言っちゃうんですか。私に」

 「真白クンは僕のファンじゃないんだろう?」

 「面と向かって言われると答えに困るなあ。でもまあ、あっちの人たちに比べれば」

 

 牟児津は出町たちを一瞥して言った。

 

 「だからだよ。ファンには、こんな弱気なことを聞かせられないだろう?かと言って、演劇部のみんなにも言えないんだ。演劇部の部長は、誰よりも清く、正しく、美しく、そして強くあらねばならないからね」

 「部長って大変なんですね」

 「真白クンはそのどちらでもない、数少ない僕の友人だ。だから真白クンにしか言わないんだよ、こんなことは」

 「ほあ」

 

 牟児津は、初めて鳳に会ったときの、体が硬直した感覚を思い出した。心臓が締め上げられるようで、息が詰まりそうで、魔法にかかったような感覚とはあのことだろうと思った。

 そして今も、まさにその感覚がした。ステージでスポットライトを浴び、きらびやかな衣装と荘厳な音楽の中、全身を使って物語を表現する男装の麗人。そんな人が、誰にも見せない弱い部分を少しだけ覗かせた、そんな儚く、色っぽく、愛おしく、そしてか弱い姿に、牟児津は危うく魅了されるところだった。

 

 「っぶね!なんですかいきなり!」

 「おや。困らせてしまったかな」

 「そうやって何人の生徒をオトしてきたんだあんたは!その結果があの強火ファンだろ!自重しろ自重を!」

 「なぜ僕は怒られているんだろうか?」

 

 ただでさえ曳木と加賀美から敵視されている中で、さらに鳳と親密になるのは危険でしかない。何より本人にその辺りの自覚がないから余計に始末が悪い。この部屋に鍵をかけた犯人も見付けなくてはいけないのに。牟児津はいったい何と戦っているのか分からなくなってきた。

 明らかに牟児津よりも短い時間で、瓜生田はクローゼットから出て来た。やはり公明正大とは口だけで、加賀美は明確に牟児津を疑っている。もはや疑っているというより単純に嫌っていると言った方が正しいのかも知れない。何がなんでも牟児津の後ろ暗い点を探そうと躍起になっているようだ。

 それも限界が訪れた。どれだけ調べても、牟児津はおろか誰からも怪しい点は見つからない。この楽屋は出口に鍵がかかっている以外に不審な点はないし、ボディチェックの結果、誰も鍵を持っていないことが分かった。

 

 「くっ……!ううっ……!!うううっ……!!どうして……!!」

 「加賀美さん、大丈夫?」

 「だ、大丈夫です……!ですが、鍵は……いったいどこに……!?」

 「……すまない。星那クン」

 「えっ!?」

 

 苛立ちと悔しさが極まったのか、あるいは周囲を振り回していることに責任を感じたのか。加賀美は顔を真っ赤にして床に倒れ伏した。なにを勝手に追い詰められているのか、と周囲の目は冷ややかだが、鳳だけは悲しげな目をして、その肩に手を置いた。なぜか謝罪の言葉とともに。

 

 「僕のせいだ。君が必死になってしまっているのは、僕のせいなんだ。そうだろう?」

 「お、鳳部長……」

 「君が中等部の頃から僕に憧れているのは知っている。こんな状況になっても僕を助けようと必死になってくれているのを、痛いほどに感じているよ。だからこそ、君の傷つく姿を、もう僕は見たくないんだ。僕が魅力的なばかりに、誰かが破滅していくところなんて……もう僕はうんざりなんだ!」

 「いい話だね」

 「いい話かなあ?」

 

 かなりナルシシズムにまみれた鳳の一人語りは、しかし加賀美には相当深く刺さったようだった。加賀美は拳を固く握り、床を殴った。まるでそこだけ舞台上であるかのように、鳳は芝居がかった動きで優しく加賀美を抱き寄せた。

 

 「安心したまえ。君のしたことは無駄ではない。この楽屋にも、みんなのポケットにも、鍵がないことは分かった。もう鍵の在処は分かったようなものじゃないか」

 「ほ、本当ですか……!?」

 「本当だとも。そうだろう、真白クン」

 「ぎええっ!?こ、ここでなんで私!?めっちゃ睨まれてんですけど!」

 「君の進言通り、荷物検査を執り行おう!あの忌まわしき錠前を解き放つ救いの鍵は、その中にある!」

 「…………に、にもつ…………けんさ………………?」

 

 伸びやかに、しなやかに、高らかに、鳳は荷物検査を宣言した。当然、部屋の捜索の後に行う約束だったのでやるべきなのだが、加賀美はその言葉を聞いた途端、真っ赤にしていた顔をさっと青ざめさせた。

 

 「中には見られたくないものを持っている人もいるかも知れない。だがそこは、僕の美しさに免じて許してくれ」

 「すごい自信ですねー。もはやナルシストでもないですよ」

 「ちょ、ちょちょ、ちょっと……!待ってください!に、荷物検査、だけは……!」

 「え?」

 

 明らかに加賀美の様子が一変した。それまでの高圧的で粗暴な態度は見る陰もなく、何かに怯えるような顔をして、全員から距離を取った。自分のカバンを抱え、背中に回してその姿さえ見せないようにする。

 

 「かがみん?ど、どうしたの?」

 「近寄るな!ア、アタシの荷物は何もおかしいところなんてない!鍵なんて持ってない!だから……!」

 「加賀美さん?部屋の捜索を提案したときから思ってたんだけど」

 「な、なんだ!」

 「なんで荷物検査を怖がってんの?」

 「ううっ……!?な、なにを……!?」

 

 牟児津の指摘で、加賀美は息を呑んだ。ついさっきまでされるがままだった牟児津が、今は鋭く尖った槍で加賀美の核心を突いてくる。こうなった牟児津には何一つ隠し事はできないという、プレッシャーのようなものを感じた。

 そして誰がどう見ても、加賀美は何かを隠している。あからさま過ぎて、それが演技なのではないかと思えるほどに。だがこれは演技ではない。加賀美は、荷物を調べられることを極端に恐れていた。

 

 「ア、ア、アタシは何もやましいものなんて持ってない!だから調べる必要なんてないんだ!」

 「いやいやいやいや、そりゃ無理ですよ、加賀美先輩。そんなんで誰がハイそうですかって言いますか」

 「う、うるさい1年生!関係ないヤツは黙ってろ!」

 「私も言いたいことありますよ。あれだけムジツさんのことを疑っておいて、自分だけは言葉だけで許してもらおうなんていうのは虫が良すぎます」

 「そうだそうだ!こちとらひん剥かれたんだぞ!」

 「ひん剥かれたんだ……かがみん、そりゃ文句言えないよ」

 「うっ……くっ……!」

 

 これまでの仕打ちをここで返すとばかりに、牟児津たちは加賀美を部屋の隅に追い詰める。あるいは、すんなり荷物検査を受け入れていれば、こんなことにはなっていなかったかも知れない。先走って反発してしまったがために、却って加賀美は全員から疑いの目を向けられることになってしまった。

 

 「失礼しますね」

 「あっ!こ、こら……!やめろ!」

 「助太刀しますよ瓜生田さん!」

 「緋宙も!かがみん往生際悪いよ!」

 

 荷物を守るあまりすっかり小さくまとまってしまった加賀美の上から、瓜生田が荷物を掴んで持ち上げる。必死に取り戻そうと加賀美は荷物を引っ張り返し、宝谷や益子が瓜生田に加勢する。まるで三人がかりで加賀美をいじめているような構図になってしまっているが、あまりに加賀美の態度が怪しすぎて周りは誰も止めない。

 そして不意に、荷物の口を留める金具が勢いよく外れた。

 

 「あっ!」

 

 荷物の口が大きく開いて、加賀美と瓜生田、どちらも急に相手の力が抜けたかのような感覚に陥る。すぐさま襲い来る、互いの力が合わさった強い衝撃。思わず二人とも手を離してしまい、荷物は回転して中身を全てぶちまけながら、部屋の中央に転がった。

 こぼれ出て来たものは、全体的にスミレ色に染まっていた。演劇部に関係するものがイメージカラーで統一されているのは当然だが、中には鳳の姿がプリントされたクリアファイルやフェイスタオル、ポスターなども紛れていた。

 

 「こ、これは……!」

 「過去の公演の物販……それも鳳先輩のお顔が写っているものばかりですね……!」

 「加賀美さんも鳳先輩の強火オタク。ファンならこれくらい普通」

 「あ、ああ……!ちょ、ちょっと!何するんだ!は、恥ずかしいんだからやめろ!」

 

 ファンクラブのメンバーが、転がった品々を拾い上げては鑑定していく。どうやらいずれも、演劇部が過去の公演で販売したものらしい。そういえば加賀美も鳳のファンだった。演劇部員ながらこっそり買うことを恥ずかしく感じる気持ちは分からないでもない。だが、加賀美はただ恥ずかしいだけの理由で荷物検査を拒んでいたのだろうか。

 牟児津にそんな疑問が浮かぶ中、加賀美は慌ててグッズをかき集め始めた。

 

 「ああもう恥ずかしい!鳳部長の前でこんな姿を見られたら、これから合わせる顔がないだろ!いい加減に──」

 「ん、なんだこれ」

 

 牟児津の足下に、一冊のノートがページを開いて墜ちていた。それは、スミレ色に染まった他のグッズとは明らかに違う。しかし特別異質なものというわけではない、ただの大学ノートだ。これも加賀美の集めたグッズの一つなのだろうか。

 何の気なしに、牟児津はそれを拾った。

 

 「……は?え?これって……!?」

 

 そのノートは、スクラップブックとして使われていた。画一的な罫線を無視して、ピンクや紫、水色に黄色、緑など色鮮やかな蛍光ペンで枠が描かれ、その中に写真が収まっている。表紙をめくって最初に目に飛び込んでくるその写真は、やはりと言うか、案の定と言うか、鳳の姿を写した写真だった。

 しかしその姿は、今よりも若干幼さを感じる。まだ今より背が低く、顔立ちもなんとなく丸みを帯びている気がした。どう見ても、現在の姿とは違う。

 

 「ううっ!?そ、それは……!」

 「加賀美さん。これ……鳳さんだよね?たぶん、2年前の」

 「えっ……!?2年、前……!?」

 「み、見せなさい!」

 

 それが本当に2年前の姿か、牟児津には定かではない。しかし今の鳳と違うことは確かだ。飛び出してきた樹月と吉永がその写真を目にした途端、はっと口を抑えた。どうやら間違いないようだ。写っている鳳の姿、全くカメラを意識していない表情、不自然に低い画角。

 これは間違いなく、隠し撮りされた写真だった。

 

 「……か、加賀美……さん……!?あ、あなた……どうしてこんな写真を……!」

 「ちっ、違う……!違います……!知らなかったんです!」

 

 驚愕の視線を向ける樹月と吉永に、加賀美は必死の表情で訴えた。

 

 「鳳先輩が盗撮被害に遭っていたなんて……ついさっきまで知らなかったんです!2年前は進級試験の勉強が忙しくて、学内で何が起こってるかあまり知らなくて……!だ、だからその写真も、たまたまっていうか、盗撮写真とは思わずに……!信じてください!」

 「荷物検査を拒んだのは、これを隠すためね。どうして正直に言わなかったの」

 「……こ、怖くて……!鳳部長や先輩方に……け、軽蔑されるんじゃないかと……!盗撮だって知ってたら……そんな写真、絶対に……!」

 

 とうとう、加賀美は涙を堪えきれなくなった。恐れか、恥ずかしさか、あるいは情けなさか。一滴溢れた涙は次の涙の呼び水となり、そこからは際限が無い。止めどなく溢れてくる涙で顔を濡らし、加賀美はその場に膝を突いた。

 

 「ごめんなさい……!信じてください……!お願いします……!」

 

 牟児津を追い詰めていたときの気勢はすっかり削ぎ落とされ、そこにはただ謝ることしかできない、か弱い少女がいるだけだった。冷静に見れば盗撮だと簡単に分かりそうな写真でも、鳳への憧れが強すぎるあまり、盲目になってしまっていたようだ。

 

 「当時の盗撮写真は学内だけで売買されていたはずよ。どうやってこれを手に入れたの?」

 「が、学園の食堂にある掲示板で……封筒に入れたお金と交換しました。相手との連絡も同じ方法で……。いま思えば、変なやり方だったと思います」

 「そのとき思いなよ!?どう考えても変じゃん!かがみん、鳳センパイが絡むとポンコツなんだから注意しなきゃ!」

 「う、うるさい……!だれがポンコツだ……!」

 

 涙ながらに宝谷を睨みつける加賀美を見ると、これ以上責めるのは酷のような気がしてくる。盗撮写真だと分かっていれば、見つかりやすい1ページ目に貼り付けないだろうし、何より不用意に持ち出さず部屋にしまっておくだろう。どうやら本当に、ついさっき盗撮被害の話を聞いて初めて、これが盗撮写真であることに気付いたようだ。

 すっかり弱々しくなってしまった加賀美は吉永に慰められつつ、畳の休憩スペースの隅に寄って縮こまってしまった。それを見るのは今日二度目だ。



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第4話「忘れてないでしょう?」

 

 加賀美の告白の後、全員分の荷物を調べたが鍵は見つからなかった。加賀美のあまりの変貌ぶりで忘れていたが、部屋中を探しても、ボディチェックをしても、荷物検査をしても鍵が見つからないという状況に気付いたとき、牟児津はさすがにぞっとした。

 

 「ほ、ほんとうに……どこにも見つからないわね」

 「ど、どういうことなんでしょう?鍵をかけた方は……いったい、どういうつもりで……?」

 「ムジツ先輩。そろそろ何か分かりませんか?いい加減部屋の中だけじゃ動きがなくて、記事にもしづらいですよ。変な暴露ばっかりされるし」

 「私はあんたの三文記事のために事件解決してるんじゃないんだよ!」

 「まあまあ。でも、本格的に考えないとまずいんじゃないかな」

 「とは言ってもねえ……う〜ん……」

 

 こういうとき、牟児津は振り返る。これまでの事件の経緯。発生から、現在までの流れ。全員の発言。見たもの。聞いたもの。全てを。どこに解決へのヒントが隠れているか分からない。

 

 「……ん」

 「ムジツさん?」

 

  その中で少しだけ気になっていたことがあった。違和感と呼ぶにも足らない、些細な引っかかり。わざわざそれに突っ込むのは性格が悪いかも知れない。粗を探して、重箱の隅を突いて、揚げ足を取るようなことかも知れない。その程度のものだった。だが、何もないよりマシだ。

 

 「ちょ、ちょっと。ムジツ先輩?どうしたんですか?」

 「あの……」

 

 だから、牟児津は確かめた。それが本当にただの些事なのか。それとも、犯人がうっかり溢してしまった言葉なのか。

 

 「どうして“閉じこもってる”って言ったんですか?」

 「……え?」

 

 そう問いかける牟児津の目は据わっていた。急に近付いてきた牟児津に意味不明な質問をされて、あるいはその質問の意味を理解していたせいだろうか。

 出町浮杏は、言葉に詰まった。

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 「ど、どうしたの牟児津さん……?なんて?」

 「すみません。大したことじゃないんですけど、なんか気になって。なんで出町さんは、この楽屋から出られないことを“閉じこもってる”って言ったのかなって」

 「そんなこと、言ったかな?」

 「はい。言ってました。私たちの中に盗撮犯はいないって結論になったとき、盗撮犯まで一緒に閉じこもってたら、って」

 

 それを聞いていた周囲の全員が呆気にとられた。出町が本当にそんなことを言ったのかなど、誰も覚えていなかった。しかし牟児津の言葉には、なぜだか強い説得力があった。牟児津がそう言うのなら、おそらくそうなのだろう。そう感じさせる力強さがあった。確信めいていると言ってもいい。

 

 「あ〜、言葉の綾というか、言い間違いかな?閉じ込められてるって言いたかったんだよ、きっと」

 「そうですか……。じゃあ、“入口”は?」

 「は?」

 「他のみんなは、あの扉のことを“出口”と言ってました。でも出町さんだけは“入口”って言ってましたよ。今の私たちにとって、あの扉は出て行くための扉のはずです。なんで出町さんは、入るための扉だと思ったんですか?」

 「い、いやいや……それこそ言葉の綾でしょ!扉はあそこにしかないんだから、出口でも入口でもあるってことでしょ!」

 「同じものではありますけど……なんかこう、捉え方の違いというか、感覚の違いみたいなものを感じるんですよね」

 「はあ?」

 

 出町はたまらず、目で周りに助けを求める。牟児津の意味不明な質問攻めを不気味に感じていた。しかし瓜生田と益子は止めに入らない。牟児津が少しずつ推理モードになっていると気付いているからだ。手掛かりが少ない中で、ようやく牟児津がこの状態になったのだ。ここで止めてしまうわけにはいかない。

 

 「“閉じ込められてる”人と、“閉じこもってる”人。“出口を塞がれてる”人と、“入口を塞いでいる”人。なんかこれ、“勝手に鍵をかけられてる”人と、“自分で鍵をかけてる”人の違いじゃないですか?」

 「な、何を言ってるのあなたさっきから……!?意味が分かんないって……!」

 「部屋をみんなで捜索したときもずっと扉の近くにいたみたいですし、私が鍵に触ろうとしたら止めてましたよね。最初に鍵を見つけたときにも、一番に鍵を調べてました。誰よりも錠前に触ってるんです、出町さんは」

 「そっ……そんなのたまたまでしょ!」

 「それなら、そこをどいてくれませんか?」

 「……!」

 

 簡単なことだ。そこから一歩横に移動すればいい。そして、牟児津に好きなだけ触らせてやればいい。背後に隠した錠前を。そうすれば出町への疑いは晴れる。やたらと錠前に触っていたことは、ただの偶然、牟児津の気のせいだと切って捨てることができる。

 しかし、出町はそうしなかった。そこに根が生えたように、一歩たりとも動かない。

 

 「ファン先輩……?どう、されたのですか……?」

 「どうして錠前に触りたいの?」

 「え」

 「確かに、私はみんなより錠前を気にしていたかも知れないわね。偶然とはいえ、不自然に見えたかも知れないわ。だけど、だからと言っていま牟児津さんが錠前を触る理由はなに?あなたが鍵をかけた犯人で、また何か細工をしないとも限らないでしょ?」

 「私が鍵をかけた犯人じゃないことは、最初に説明しましたよ。もう一度言いましょうか?」

 「……っ!」

 「出町さん、私が代わりに言いましょうか?そこをどかない──いや、他人に錠前を触らせたくない理由」

 「な、な、なに、を……!」

 

 冷静な牟児津の言葉が、今の出町には恐ろしく感じられた。得体の知れないものを相手にしているような、心の内の全てを見透かされているような居心地の悪さ。牟児津の口が次にどんな言葉を発するか。それが分かるからこそ、出町は体が震えた。

 

 

 「そこに鍵があるんでしょう。この部屋から出るための」

 

 

 「はっ!?」

 「え!?か、鍵が……!?」

 

 牟児津の言葉を聞き、全員が立ち上がる。もはや手掛かりさえ失い、半ば絶望していたところに降ってきた牟児津の言葉。根拠も信憑性も抜きに、誰もがそれに縋り付きたくなってしまう。

 

 「ずっと考えてたんです。11人の人が詰め込まれるには少し狭いこの楽屋の、どこに鍵を隠せばバレないか。自分で持ってたって荷物や部屋の中に隠したって、これだけの人数がいたらいつかはバレます。それで思い付いたんです。誰も探さない場所に隠せばいいんだって」

 「だ、誰も探さない場所……?」

 「錠前です。私たちをこの部屋に閉じ込めてる錠前に、まさか鍵がセットでぶら下げてあるなんて、そんなこと普通考えないじゃないですか」

 「い、いやしかし……どこからどう見てもその錠前に鍵はささっていないようだけど……?」

 「表じゃなくて、裏側ですよ。この錠前、装飾が少ないから裏面が真っ平らでしょ。しかも演劇部のイメージカラーで塗り潰されてる。物販で売ってる同じ色のマステで上から貼り付ければ、見た目ではまず気付きません。でもそれだと、裏面を触られたらすぐにバレる。だからその錠前を誰にも触らせたくなかったんです」

 「……!」

 

 まるで、実際にその細工をしているところを目の当たりにしたかのような、自信たっぷりな説明だった。それらは全て、この部屋の中で、全員が目にし、聞いたものだけで説明されていた。

 錠前の色。出町の荷物にあったスミレ色のマスキングテープ。些細な言葉の違い。鍵に触れた頻度。それらひとつひとつに大した意味はない。ほんの些細な違和感を出発点とする、牟児津の必死の仮説と瞬間的な推理力によって、初めて隠された意味を発揮する。

 畳みかけるような牟児津の追及を前に、出町は反論さえできなかった。牟児津の推理は、ただの言いがかり程度の違和感から一つの論理へと進化していく。一方で出町が反論するために持っている言葉は、それこそ説得力にかけるものばかりだった。

 

 「そ、そんなの……全部牟児津さんの妄想じゃない!根拠がない!私が鍵をかけたっていう根拠が!」

 「ファン先輩?ウ、ウソですよね……?だって、こんなこと……!」

 「私が扉に鍵をかけたところを見たの!?私がテープで鍵を隠したところを見たの!?この鍵が私のだって、どうしてあなたに言い切れるのよ!そんな証拠がどこにあるっていうのよ!」

 

 出町は激昂する。それが、濡れ衣を着せられた者の必死の言葉なのか、あるいは真実を見抜かれた犯人の悪足掻きなのか、周りで見ている瓜生田たちにはまだ判断が付かない。牟児津でさえ、確信は得ているものの、確証はまだない。しかしそれがどこにあるのかは知っていた。

 

 「証拠は……私は持っていません」

 「っ!?ム、ムジツさん!それではただの──!」

 「そ、そうよ!証拠がないんじゃ全部ただの言いがかりじゃない……!」

 「証拠を持ってるのはあなた自身です。出町さん」

 「…………へえ?」

 

 牟児津が、真っ直ぐ指をさす。

 

 「今日、劇場の売店でもらったレシートを見せてください。そこに書いてあるんじゃないですか?鍵と錠前のセット、2つ分って」

 

 出町は完全に硬直した。まるで魔法にかけられたようだった。反論も、弁解も、言い逃れもできない。ただ、不意打ちのような形で全てを暴かれたことに、愕然としていた。何がきっかけなのか、何を間違えたのか、何がいけなかったのか。一切分からないまま、自分の全てを見透かされたような感覚。

 数分にも感じたほんの数秒の後、出町はそこに崩れ落ちた。これを見るのは、今日三度目だ。

 

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

 

 「あった!」

 

 錠前の裏から、錠前と同じ色のテープで覆い隠された鍵が見つかった。それを挿し込んで回すと、錠前は呆気ないほど簡単に開いた。鍵がかかっていることに気付いてから数時間、普段の公演ならとっくに撤収している時間だ。中にいた牟児津たちには、それよりも遥かに長い時間に思えた。

 いつでも外に出られる。その事実だけで、牟児津たちはとてつもない自由を感じた。そして、扉を開けようと牟児津が手を伸ばす。

 

 「ちょ、ちょっと待って!!」

 

 全員の前に出町が立ち塞がった。全てを明らかにされて放心していたが、鍵の開く音で我に返ったようだ。一度完全に打ちのめされたことで開き直ったのか、その目は力強く光っていた。

 

 「な、なんですか!もうあなたは犯人だとバレたんですよ!これ以上、何があるというんですか!」

 「お願い……!まだ、出ないで……!こんなんじゃ、全然足りない……!()()()は……これくらいじゃ諦めない……!」

 「あいつ?」

 「お願いよ鳳さん……!忘れてないでしょう?」

 

 出町の目はまだ死んでいない。その目は、演劇部の3年生たちを見ていた。その視線だけで、3人は理解した。出町がなぜ、こんなことをしたのか。

 

 「ま、まさか……いるのか!?この劇場に……()()()()()が!」

 「……はい。私は、この目で見ました」

 「うそ……!?そ、そんなわけないわ!だって……!あの子は劇場に入れないはずよ!」

 「え?みどり?」

 「みどりというのはもしかして……野須(のす) みどりですか?」

 「!」

 

 益子の口から飛び出した名前を聞いて、鳳たちは驚いた。牟児津たち2年生以下にとっては何のことか分からない。だが話の流れから察するに、それが2年前の事件に関わっていることは明らかだった。

 

 「野須さんは……2年前、蕃花の盗撮写真を校内で売買していた人よ」

 「えっ!?じゃ、じゃあ、盗撮犯……!?」

 「その件で学園から重い処分が下されて、後に自主退学したと聞いているわ。今どこで何をしてるか分からないけれど……この劇場に来てるなんて……!」

 「し、しかし……その、彼女はチケットを買えないはずだろう?それに、もし何らかの方法で手に入れても、彼女は……出入禁止になっているんだろう?」

 「観客としてじゃありません……!あいつ、運送業者の格好をしてました。この劇場に大道具やお花を運んでる業者の中に、あいつがいるんです!」

 「う、運送業者……そんなところから……!」

 「……んん?」

 

 3年生たちは一様に青い顔をしていた。牟児津たちに当時のことは分からないが、加賀美が持っていた盗撮写真や隠しカメラの存在に気付いたときの反応を見れば、野須という人間が、鳳にどれほどの恐怖を与えたかは窺い知れた。既に学園を去っている人間が、2年もの時を経て、また盗撮をしに来ている。鳳たちにしてみれば恐怖以外の何物でもない。

 

 「たぶん、会長の花にカメラを仕掛けたのもあいつ……!もしかしたら他の花にも仕掛けてあるかも知れない!あいつが運送業者に紛れて荷物を運び出すまで、間違っても鳳さんたちに会わせたくないんです!今度は隠しカメラじゃ済まないかも知れない!すれ違い様にポケットに何か入れられるかも知れない!あの子、私や演劇部のこと逆恨みしてたから……もっと危険なことだってするかも知れない!私は……!そ、それが……怖くて……!もしも、万が一のことが、あったら……!」

 

 扉の前で、出町は必死に叫ぶ。まだ今は出るべきではない。野須が運送業者に紛れているなら、運搬スケジュールに従ってしか行動できない。時間になれば野須は劇場を去り、少なくとも直接鳳たちと会う危険はなくなる。出町はそのために、鳳たちを野須から守るために、扉に鍵をかけたのだという。

 乱暴なやり方だが、それが一番確実だった。ただ説得して部屋の中にいるだけでは、野須はあらゆる手段を使って入り込んで来る。扉に付属している鍵くらい開けてくるのだ。だから、出町は自分が新しく鍵をかけるしかなかった。

 そうして楽屋の中は、また膠着状態に陥りかけた。物質的な鍵は一切取り外されたが、今は野須への恐怖という精神的な鍵が、固く扉を閉ざしていた。

 

 「……ア、アタシ、様子を見てきます!」

 「えっ……?」

 

 名乗りを上げたのは加賀美だった。

 

 「その野須って人の狙いは、鳳部長なんでしょ。そいつはアタシの顔なんて知らないだろうし……何より、この写真、突き返してやらないと」

 「な、何言ってんの!危ないわよ!」

 「かがみんが行くなら緋宙も行くよ!ひとりで行かせらんないもん!」

 「あ、あなたたち……!」

 「あのぅ」

 

 今にも部屋を飛び出さん勢いの加賀美と宝谷に、牟児津が声をかけた。極めて遠慮がちかつ、申し訳なさそうに。気が逸っている二人は無言で振り向き、次の言葉を待った。そして、牟児津は目線を逸らして告げる。

 

 「たぶんその人、今日はもういないですよ」

 「………………んぇ?」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 牟児津たちは、劇場の前にいた運送業者について話した。そこで見かけた、特徴的な声と髪型をした、年の近い女性の運び手について。牟児津がその詳細を語るにつれ、出町はどんどん目を丸くしていき、最後には顔を真っ赤にして、へなへなとその場で尻餅をついた。

 

 「だ、大丈夫ですか……?」

 「……ま、間違い、ない……!それ、野須だ……!」

 「ああ、やっぱり」

 「話だけで分かるんですか?」

 「分かるわ。出町さんと野須さんは、もともとファンクラブの同期だもの」

 「顔見知りだったの!?」

 「じゃあ……私の、心配は……?この、鍵……私の、取り越し苦労だった……ってこと?」

 「そう、なりますね」

 

 花束の中から現れたカメラは、持ち主が離れすぎてどこにも接続されていない、ただの置物と化していた。出町が鳳たちを守るため扉にかけた錠前は、既に失せている危険に怯えた出町の独り相撲だった。そしてその事実を知っていた牟児津たちは、最後の最後まで、その事実に気付くことができなかった。

 なんとも間抜けな結末だった。この数時間、楽屋の中で繰り広げられた疑心暗鬼と推理劇は、全て空回りに終わった。それは、相手を想う少女の気持ちが暴走して見せた虚ろな夢のような、そんな終幕(オチ)だった。

 

 「……益子ちゃん。これ、記事になる?」

 「う〜〜〜ん……どうでしょう。さすがにここで諸悪の根源たる野須さんがどっか行っちゃったっていうのは……でもそれがないと意味分からないですし……捏造(つく)っちゃおっかな」

 「やめといた方がいいよ。今の3年生が知ってるってことは、田中先輩や藤井先輩も知ってるんだから。学園新聞が廃刊になっちゃうよ」

 「ですよねえ……」

 

 さすがの益子も、こんな竜頭蛇尾な話は記事にすることはできないと判断し、そっとメモ帳を閉じた。箝口令が敷かれるほどのセンシティブな事件で、捏造やいい加減なゴシップ記事を書くようなリスクを冒して、得られるものは少ない。何より部長の寺屋成が許さないだろう。

 うなだれる出町に、誰もなんと声をかけたものか困り果てていた。慰めたい気持ちもなくはないが、出町は長時間に亘る軟禁事件の犯人でもある。被害者が犯人を慰めるというのも妙な話だ。

 が、そんな細かい理屈など蹴っ飛ばして、目の前にうなだれる少女あれば行って慰めてやる、を地で行く王子様が、ここにはいた。

 

 「何を悲しむことがあるんだい!出町クン!」

 「へっ……?」

 

 まるで踊るように、楽しげな音楽に乗せてステップを踏むように、軽やかな旋律に合わせて舞うように、鳳は出町の前に飛び出して、跪いた。

 

 「驚いたよ。まさか君が、こんなにも僕のことを考えていてくれただなんて」

 「あ、あの……鳳さん……!私、とんでもないこと……!」

 「ああ、とんでもない。とんでもないね。君の心、僕の魅力に惑うその心は、とんでもなく美しい!」

 「あ?」

 

 言っていることの意味が分からなさすぎて、関係ない牟児津の口から声が漏れた。

 

 「君は僕たちを閉じ込めたんじゃない。外にいるみどりクンの脅威から僕たちを守ってくれていたんだ。たとえ事実として、みどりクンの姿がそこになかったとしても、悪意から誰かを守ろうという心……それはつまり愛!その美しさにはひとすくいの濁りもない!そうだろう?」

 「ひゃっ……はひっ……!?」

 「君の大いなる愛の前では、みどりクンがここにいたかどうかなんてちっぽけな問題だ。それに、君は最後の最後まで、みどりクンがいることを自分からは打ち明けなかった。それは、あの事件を思い出して、僕が恐怖におののくことがないようにするためだろう。それもまた、僕への愛!君の気持ち、しかと受け止めたよ」

 「お、鳳さん……!」

 

 四つん這いになって地に伏せる出町。その正面で片膝を突き、キザな言葉を振りまきながらその顎を持ち上げる鳳。至近距離で、真正面から鳳に直視された出町は、それまでの複雑な感情などすっ飛んだかのように、桃色のオーラを放つほどメロメロになっていた。

 

 「なにを見せられてんだ私たちは」

 「帰る?」

 「帰りましょうか……」

 

 ファンクラブは出町を魅了する鳳の姿に夢中になっていた。鳳以外の演劇部員たちは、数時間遅れでようやく舞台の片付けや部員とのミーティングを開始し、慌ただしく動き始めていた。牟児津たちはすっかり放ったらかしになり、事件が円満に解決したという達成感も微妙にないまま、劇場を後にした。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 「なんか、こう……貴重な経験になったね」

 「貴重というか……なんか、うん。貴重、だね」

 「たまには芸術鑑賞というのも悪くないんじゃないですか?ムジツ先輩!」

 「この経験を芸術鑑賞と言うのは無理だろ!っていうか来なきゃ良かったわ!全然話聞かされてないし!会長さんに文句言ってやる!」

 「本人がいないところだと口が大きくなるんだから、ムジツさんは」

 「お〜〜〜い!マッシー!」

 「ん」

 

 駅に向かって歩く三人の後ろから、宝谷が追いかけてきた。何事かと思えば、手には何かの紙切れを持っている。

 

 「いつの間にか帰っちゃったから焦ったよ。ってか、なんかごめんね、今日。変なことに巻き込んじゃって」

 「宝谷さんは悪くないよ。で、どうしたの?」

 「うん。今日は色々助けてもらっちゃったからって、鳳センパイからこれ預かってきた。是非もらってくれだって」

 「こ、これは……」

 「次回の公演の招待チケット!関係者席で楽屋挨拶特典と劇場の喫茶店でコーヒーか紅茶いっぱい無料クーポン付き!めっちゃレアなんだからありがた〜くもらってよね!」

 

 宝谷は満面の笑みだ。これが鳳ファンクラブのメンバーだったり、学園の大多数の生徒だったのなら、跳び上がって喜ぶようなものなのだろう。だが、今の牟児津にとっては、これはもはやチケットの形をした疫病神にしか見えなかった。たまらず牟児津は逃げ出した。

 

 「も、もう舞台鑑賞なんてこりごりだァ〜〜〜!!」

 「あっ!マ、マッシー!?なんで逃げんの!」

 「すみません宝谷先輩。ムジツさんもう怖がっちゃってるみたいなので、そちらは丁重にお断りします。それでは」

 「あ、せっかくだから私は──」

 「ほら益子さんも。行こう」

 「ああああああっ!!お宝チケットオオオッ!!」

 

 ちょっとした巡り合わせの末に訪れた舞台鑑賞でさえ、牟児津は事件に巻き込まれてしまった。もはや自分はこういう運命なのか。そんなことはない、と信じたい。今日のことは忘れてしまおう。それこそ、覚めてしまえば全てなかったことになる、悪い夢のように。



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その9:愛の猫誘拐事件
第1話「推理を始めよう」


 

 暗がりに光が落ちた。人ひとり分の、小さな明かりだ。無地の白い壁に背を向けた少女の姿が照らし出される。

 亜麻色の鹿撃帽を目深に被り、隙間から山吹色の髪が覗く。足元まで覆うインバネスコートの下には伊之泉杜学園指定のワイシャツを着て、サスペンダーでロングパンツを吊り下げていた。右手には煙をくゆらせるパイプを、左手には大きな虫眼鏡を持っている。

 

「真実はいつでも一つだけだ。さあ、推理を始めよう」

 

 少女はキメ顔でそう言った。虫眼鏡で覗き込んだ先には、不安に満ちた表情を浮かべる少女が2人、片方は大きな猫を抱えている。そしてもう1人、鹿撃帽の少女に向けてライトを向ける、ゴスロリファッションの少女もいた。

 

「も、もう犯人が分かったんですか?」

「すごい!さすが伊之泉杜学園の名探偵!」

「ふっふっふ。なあに、これしき、初歩的なことだよ」

 

 鹿撃帽のつばを摘みながら少女は笑う。その目には確信の炎が宿っていた。

 

「犯行当時、現場には2匹の猫がいた。しかし攫われたのは1匹だけだ。このことから、犯人は初めから標的を絞っていたことが分かる。つまりそれは、犯人の狙いすらも推察できることを意味する」

「す、すごい洞察力……!現場を見ただけで犯人の狙いが分かるなんて……!」

「2匹の猫のうち、攫われた1匹は血統書付きの純血種、残された1匹は雑種。もはや語るべくもあるまい。犯人の狙いは、希少な血統を持つ猫を攫い、闇ルートに流して大金を得ることだったのだ!」

「……」

 

 堂々たる断定。誇らしげに胸を張る。しかし聴衆は冷めていた。猫を抱えていない方が、遠慮がちに手を挙げた。

 

「あ、あのう。うちのコールは別に純血でもなければ血統書もついてないですけど……」

「なにっ……違うのか?」

「なんかすみません」

「そ、そうか。いや、そういうこともある。気に病むことはないぞ」

「はあ……」

 

 なぜ自分がフォローされた感じになっているか、手を挙げた少女は小首をかしげるが、それ以上は追及しない。鹿撃帽の少女はすぐさま推理を修正する。

 

「失礼。どうやら第二の推理を採用すべきのようだ」

「真実はひとつだったのでは……」

「……金が目的でないとなると考えられる可能性は一つ。犯人は、コールちゃんを攫うほかなかったのだ」

「と、言うと?」

 

 気のせいだろうか、いくつかの言葉を無視されたように思えたが、聴衆は推理の続きを聞くことを優先する。自信満々に意味深な言い回しをされると、その先が気になってしまう。

 

「コールちゃんには、他の猫にはない唯一無二の特徴があった。そうだね?」

「は、はい!」

「コールちゃんは、手を、あ〜、こう、このように体の下に折り曲げて座ったときに、この、ここんところに……」

「香箱座りです」

「そう。コーバコズワリをしたとき、胸の辺りにハートマークが浮かび上がるのだ。これは彼女の特別な毛並みによるものだ」

「コールは男の子ですよ」

「……要するに、彼は胸にハートを抱く特別な猫──いわば愛の猫だったのだ!」

「言い直した!間違いはすぐに正す姿勢!謙虚ですね!」

 

 香箱座りの名前が出てこず実演しようとしたり、教えられても発音が覚束なかったり、披露すればするほど推理の粗が目立ち始めた。それでもなお、推理は続けられる。

 

「これともう一つ、現場の周辺に咲いていた花の花びらが散っていたことに、君たちは気付いていただろうか?これも真実を導く重要な証拠だ」

「花びらがですかあ?」

「ハートマークを持つ猫、そして花びらだけが散った花……これらに共通するのはたった一つ。すなわち、『恋愛』だ!」

「あっ……!ああっ!」

「現場の花は、おそらく犯人が花占いをして自らの恋の行く末を占ったのだろう。しかし残念ながら、それは上手くいかなかった。

 悩んだ犯人はふと、キャリーケージに入ったコール君の胸元にハートマークを見つける。これは恋愛成就のご利益があるに違いない!そう感じた犯人は、すぐさまキャリーケージを破り、コール君を連れ去った!

 すべてはそう!自らの恋を叶えるため!」

「おおおっ!」

「お、おお……?」

 

 聴衆の反応は見事に二分された。抱えた猫を落としそうになるほど興奮する者と、なんとか納得しようとするも疑念が隠し切れない者。ゴスロリの少女は、変わらず寡黙な照明係に徹する。勢いづいてきた鹿撃帽の少女はさらに捲し立てる。

 

「すなわち猫を攫った犯人は、叶わぬ恋に焦がれるいじらしき少女であると同時に、わが身可愛さに目の前の猫に手を出してしまった哀れな少女でもある!」

「すげーっ!」

「いや、あの……見た目で分かる手掛かりとかは……?」

「心配無用。私には既に、犯人が分かっている」

「マ、マジで!?誰ですか!?」

「現場周辺は花が散っている一方、芝生はほとんど潰れていなかった。また、キャリーケージは地面に置かれていた。このことから、犯人は芝生を踏んでも潰さないほど体重が軽く、また背が低い人物であることが分かる」

「ふんふん!」

「そして何よりキャリーケージを切り裂いた刃物!普通の人間が刃物など持ち歩いているはずがない。私のような探偵でもない限りね!」

「え?じゃあ犯人は……」

「いやいや、私は違うよ。なぜなら私は、すこぶる動物に好かれない!猫など抱えようものなら顔中ひっかき傷だらけになってしまうよ!ハッハッハ!はあ……」

「可哀想に」

「落ち込むなら自分で言わなきゃいいのにね」

「まあとにかく、探偵というものは日頃から危険に備える必要がある。名探偵を名乗るからには刃物を携帯していてもおかしくないということだ。

 すなわち、この学園で自分を名探偵などと嘯いて、何らかの手で新聞部を買収し偽りの名声を誇り、私が得るべき称賛を掠め取っているあのいけ好かない偽物野郎に違いない……!」

「なんか私怨が混じってません……?」

 

 ひとしきり推理を披露すると、ゴスロリ少女はライトを消し、部屋の明かりを点けた。鹿撃帽の少女はコートを翻し、部屋の扉に手をかけて叫ぶ。

 

「さあ行くぞ!真の名探偵が誰なのか分からせてやる!首を洗って待っているがいい!牟児津(むじつ) 真白(ましろ)!」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「であっくし!!」

「汚いなあ。口押さえてよ」

「ずずっ……ごめん。ありがと」

 

 肌に触れる空気の冷たさは和らぎ、暖かく過ごしやすい季節の近付きを感じる頃だった。新しい生命循環の始まりである季節となれば、盛大なくしゃみも出るというものだ。牟児津(むじつ) 真白(ましろ)は鼻を啜った。すかさず瓜生田(うりゅうだ) 李下(りか)がポケットティッシュを差し出す。

 

「誰かムジツさんの噂してるのかも」

「なにそれ」

「知らない?人に噂されるとくしゃみが出るって。1回出たら良い噂、2回出たら悪い噂、3回出たら惚れられて、4回出たらそれは風邪」

「初めて聞いた。じゃあ良い噂されてるのか……ばっふぁい!!」

「あ、いま悪い噂になった」

「そんなにばっさり切り替わるの」

「もう出さないでよね。風邪になったら困っちゃうから」

 

 他愛ない雑談をしながら、二人は校門への道を歩いていく。授業が終わってすぐに下校できるのは久し振りだった。今日は一日何のトラブルにも巻き込まれずに過ごせた。そんな穏やかな一日に相応しい品を、牟児津は帰り道で買うと心に決めていた。

 

「季節の変わり目で、あったかくなってきたねえ。今日も一日ずっと日が出てたし、気持ち良いね」

「こんな日には、塩瀬庵の桜餅でも食べて部屋でごろごろするに限る」

「気温関係ないじゃん」

「あったかくならないと桜餅出ないでしょ。三色団子とかよもぎ餅とか、あとあんパンに乗せる桜の漬物も。春ってのはそういう季節だよ。それに!」

 

 牟児津は、さながら講談師のように手を叩いた。

 

「この時期、塩瀬庵には『春爛漫』っていう春の和菓子詰め合わせセットが出るんだよ!いま言ったお菓子はもちろん、セットの中にしかない練り切りとか最中とか!さすがに今のお小遣いじゃ手が出せないけど……とにかくそういうことなの!」

「そっかあ。春はおいしい季節だね」

「そう。春はおいしい季節なの!」

 

 牟児津の熱弁を右から左へ聞き流しながら、こういう人のことを花より団子というのだろうなあ、と瓜生田はぼんやり考えていた。そして毎年、夏にも秋にも冬にも同じことを言っている気がする。牟児津の記憶は3ヶ月に1回リセットされるのだろうか。

 そんなバカバカしい考えも、まだ少し冷たい春の風に乗ってどこかへ吹き飛ばされていくようだった。空には雲一つなく、よく晴れた清々しい陽気だ。瓜生田はその晴れ渡った空を見上げて──巻き上がる土埃を目にした。

 

「えっ?」

「……ぉぉぉぉぉぉぉ!!」

「こ、この声と地響きは……!!」

「せいそおおおおおおおおおおおっ!!!」

「ごあああっ!!?」

 

 いち早く危機を察知した牟児津だが、防御姿勢をとる前にそれは突撃してきた。牟児津と瓜生田に激突する前に急ブレーキをかけて、まさに寸前でそれは停止した。土埃で視界が覆われ、収まるまで数秒の間、二人は口も開けなかった。

 

「おおっ!これはこれは牟児津先輩と瓜生田さん!こんにちわ!良い天気ですね!」

 

 土埃などお構いなしとばかりに、奥から溌剌とした声が聞こえてきた。この唐突で粘膜に刺激の強い登場の仕方に、牟児津と瓜生田は覚えがあった。

 出すところに出せば摘発されかねない強力な掃除機で学園中を内も外もなく走り回る、暴走清掃車(クレイジークリーナー)こと大村(おおむら) (めぐる)だ。

 

「アンタのせいで良い天気が台無しだよ!加減しろって前に言っただろ!ゲッホゲッホ!」

「これは失敬!バキューム君2ndE(エディション)が張り切り過ぎました」

 

 大村は掃除機のエンジンを軽く2回吹かした。

 

「この通り、謝っております」

「もういいわ治安悪い腹話術!」

「いつもより掃除に気合いが入ってるね。どうしたの?」

「そうでした!聞いてください!そしてよければこの許されざる事件の解決にご協力ください!」

「えぇ……?事件……?」

「露骨に嫌そうな顔!」

 

 ようやく土埃が収まり、牟児津と瓜生田は大村の姿をまともに見ることができた。いつもの軽装に加えて首にスカーフを巻いており、大きめのビニール袋とトングを腰に下げていた。ビニール袋は重たそうに地面に向けて垂れ下がっている。

 事件と聞いて面倒なことになりそうな雰囲気を察した牟児津が、顔だけで大村を拒絶しようとする。しかし大村は一切遠慮せず話し始めた。

 

「実はですね、今朝、私はいつものように学園中を完璧に掃除していたんですよ。そりゃあもう完璧でしたね。こんな穏やかで暖かいよく晴れた小春日和は、清潔な始まりが相応しいですからね」

「間違ったことは言ってないね」

「掃除を終わらせてバキューム君2ndE(エディション)を委員室に片付け、私は教室に戻ろうとしました。そのとき!!」

「急にうっせ」

「窓から見てしまったのです!!私が完璧に掃除したはずの中庭に!!な、中庭に!!なんと!!糞が!!」

「ふん?」

「いったいどこのどいつがこんなことをと!!すぐに行って片付けてやらなければと!!あんな清潔とは最も程遠い汚物のような存在……否!汚物そのもの!!

 と思ったのですが、始業時間が迫ってきており、私は唇を噛みながら教室に戻ったわけです」

「汚い話だなあ」

 

 大袈裟なほどの身振り手振りを交えて、大村は胸に湛えた怒りを表現する。牟児津と瓜生田にしてみれば、いきなり土埃を浴びせられた上に糞の話まで聞かされて、たまったものではない。しかし大村はさらに熱を上げていく。

 

「そして昼休み!私はすぐさま委員室に飛んでいき、バキューム君2ndE(エディション)を手にして中庭に出たのです!!

 するとどうでしょう!!窓から見たものだけでなく、探せば探すほどあちこちに糞があるではないですか!!私はもう頭が爆発するかと思いましたよ!!」

「たぶん学園理事でもそこまで怒らないと思うよ」

「これはもはや事件です!何者かがこの学園を動物の糞で汚そうとしているのです!許すまじ!」

「おお、ウンチの被害だけに憤慨してるね」

「んっ!瓜生田さん!なんですかそれは!」

「流してくれていいよ」

「なるほど!ウンチだけに!」

「汚い大喜利すんな!」

 

 その後の大村の話を要約すると、学園中に動物の糞をバラ撒く犯人を見つけて成敗するために、今日は閉校時刻ギリギリまで清掃を続けるつもりらしい。腰に下げたビニール袋は清掃と証拠品集めを兼ねた糞袋なのだとか。よくそこまで掃除に情熱を燃やせるものだ、と牟児津は呆れ果てた。

 

「なので、牟児津先輩と瓜生田さんも何か手掛かりがあれば情報提供をお願いします!」

「それはいいけど、その……拾い集めたりは手伝わないよ」

「はい!この事件は、私の環美委としてのプライドをかけて清掃した上で犯人を突き止めて見せます!待っていてください!」

「そこまで興味ないけどうん……まあ、分かったよ。がんばって」

「それでは!おおおおおおっ!!せいそおおおおおおっ!!!」

 

 びしっ、と敬礼した後、大村は現れたときと同じように土埃を巻き上げて去って行った。動物の糞など、牟児津も瓜生田も見ていない。中庭に行く用事がないので見る機会もなかったが、それだけ大村が隈無く掃除しているということでもある。不器用ではた迷惑だが、仕事はしっかり熟す人間だ。だからこそ、委員会内でもある程度放任されているのだろう。環境美化委員自体が緩い委員会であるというのもあるが。

 

「あ〜あ、お菓子でも食べようと思ってたのに、汚い話されて食欲が失せた」

「ウンが悪かったね」

「もういいよ。ツボったの?」

「ちょっと」

 

 こんな話はもう忘れようと、牟児津は体に付いた土埃を払って伸びをした。気分をリセットして、もう一度春の和菓子を楽しむモードに気持ちを切り替える。それを見た瓜生田も、同じように髪や体についた土埃を払って伸びをして、晴れた空を見上げた。そして瓜生田は──

 

 

 ──自分の目を疑った。

 

 

「牟児津真白ォォオオオッ!!」

「へっ──だあああっ!!?」

「うわあああっ!!?ムジツさあああんっ!!?」

「ダバらしゃゴろふげひげッ!!」

 

 まさに青天の霹靂だった。ただし降って来たのは雷ではない。亜麻色の人間だ。地面と成す入射角が、明らかに人が跳びあがって届く高さを超えている。それは瓜生田の目の前、ちょうど牟児津の上に降ってきて、二人で一つの塊になりながら転がって道を横切り、生垣の中に突っ込んだ。あまりの唐突な出来事に、瓜生田は悲鳴をあげることしかできない。

 

「だ、だ、大丈夫!?ちょっ……ええっ!?」

 

 いつもは冷静な瓜生田も、さすがに空から人が降ってくると落ち着いていられない。慌てつつもなんとか牟児津を助けようと、生垣から飛び出した足を引っ張る。が、中で引っかかっているのか全く出てこない。

 

「いだだだだ痛い痛い痛い!!うりゅ痛い!!」

「ご、ごめん!えっ、ムジツさん大丈夫なの!?」

「ハッハッハ!遂に捕まえたぞう牟児津真白!貴様もいよいよ“天狗の大騒ぎ”だ!」

「はあ?なにを……えっ!?なにこれ!?縛られてんだけど!?」

「縛られてるの!?こっちからだと全然見えないよ!あともうひとりは誰!?」

 

 草木を掻き分けようとするも、しっかりと根を張った低緑樹に瓜生田の貧相な腕力ではまるで歯が立たない。牟児津はどうやら動きを制限されているらしく、もうひとつ聞こえる謎の声は生垣の中にいることを全く意に介していない様子だった。なぜ意に介せずにいられるのか不思議で仕方ない。困り果てた瓜生田が、いよいよ風紀委員に通報しようかとスマートフォンを取り出したとき、駆け寄る人の声がした。

 

「すみませ〜〜〜ん!瓜生田様〜〜〜!」

 

 瓜生田はその声に聞き覚えがあった。振り向くと、3人の生徒が駆け寄ってくるのが見えた。その先頭にいる薄紫の髪の生徒を、瓜生田はよく知っている。見間違えようもない、クラスメイトの顔だ。

 顔には眉の上まで囲む大きな丸眼鏡をかけ、丸く整えた艶のある髪にボンネットで華やかに飾っている。学園指定のブラウスとロングスカートは、フリルやレースをあしらったり針金で膨らみを加えられたりと好き放題に改造されている。ゴシック小説の中から飛び出してきたような出で立ちだった。

 

「はあ、はあ……す、すみません。人が降って来ませんでしたか?」

 

 羽村(はねむら) 知恩(ちおん)は息を切らしながら尋ねた。

 

「えっ……う、うん。そこの生垣に突っ込んでったけど」

「その人、私の先輩で……あっ、取りあえず、お二人を助け出しましょう」

「そ、そうだね。ありがとう」

「私たちもお手伝いします!」

 

 羽村と一緒に走って来た2人の女子生徒も、牟児津たちの救出に力を貸した。どちらも瓜生田は初対面だったが、すすんで生垣の中に分け入っていくのを見て自己紹介など不要と判断した。4人で力を合わせ、ようやく牟児津ともう1人を引きずり出すことができた。

 言っていたとおり、牟児津は手を縛られていた。左右の手首を軸に8の字にタコ糸が結ばれており、自力での脱出が困難であることは一目見て分かった。体中についた葉を瓜生田に払ってもらい、さらに羽村が瓜生田に貸したカッターでタコ糸を切り外してもらった。こうなることを予想していたような準備の良さに、牟児津も瓜生田も驚いた。

 そしてもう1人、牟児津と一緒に生垣に突っ込んだ少女は、救出された後も、羽村の制止もきかず牟児津に掴みかかろうとしていた。せっかく結んだタコ糸を外されたことが不満なようだ。

 

「ぬおおおっ!!なぜ止めるのかねワトソン君!!目の前に犯人がいるんだぞ!!」

「決めつけは良くないですよ。少なくとも、犯人だと断じるには緻密な観察が必要です。ホームズならそうします」

「むっ、そ、そうか?確かにそうかも知れない……。よし、では観察だ」

「な、なんだなんだ?なんなんだ?」

 

 牟児津とともに現れたのは、山吹色の髪に亜麻色の鹿撃帽を被り、同じく亜麻色のインバネスコートを着た少女だった。まさしく探偵のステレオタイプそのままの格好だ。激しく暴れていたが、羽村に諭されると途端に大人しくなり、大きな虫眼鏡で牟児津をじろじろと観察し始めた。

 逆に牟児津がその少女に対して感じたことは2つだ。1つはいかにも探偵らしいということ。もう1つは、改めて見てみると驚くほどに背が低いことだった。牟児津もたいがい背が低い方だが、その牟児津よりも明らかに小さい。小学生の中に混じっていても見分けがつかないだろう。

 

「な、なんなんだあんたは!いきなり空から降ってきたり人のこと縛ったり!風紀委員を呼ぶぞ!」

「風紀委員?ハッハッハ!呼びたければ呼ぶがいい!私に言わせれば、あんなのは出世競争に囚われて目の前の事件が見えていない“トリゴウの衆”だ!」

「ホームズ、“烏合の衆”です」

「そうだとも!現にお前を追い詰めているのは風紀委員ではなく、この私じゃないか!」

「知らんよ!誰なんだよ!」

「ふっ、悪人に名乗る趣味はないが、きかれたからには答えてやろう」

 

 小さな探偵は、懐からパイプを取り出してポーズを決めた。すぐさま羽村が帽子やコートについた葉っぱを払い、身だしなみを整えさせた。

 

「頭脳明晰にして勇猛果敢!唸る灰色の脳細胞!轟く英名果て知らず!学園で唯一にして最高の名探偵!伊之泉杜学園のホームズとは私のことだ!」

「誰だ!そんな異名知らんわ!」

「探偵同好会会長で3年生の家逗(いえず) 詩愛呂(しあろ)さんです。私は同副会長の羽村知恩と申します」

 

 家逗の高らかな自己紹介の後、羽村が改めて落ち着いた紹介をした。意外なことに、家逗は牟児津よりも年上だった。高等部全員を背の順に並べたら、きっと腰に手を当てているに違いないのに。

 そして探偵同好会という団体名を聞いて、牟児津はうんざりした。まさかと考える。

 

「探偵同好会……あの、もしかしてなんですけど」

「なんだ」

「最近、部室を手に入れたりしました?」

「なっ!?なぜそれを……!?まさか、あの部屋に隠しカメラや盗聴器が仕掛けられていたというのか!ぐぬぬ!先回りでマークされていたとは……敵ながら恐るべし!牟児津真白!」

「するかそんなこと!」

「どうしてお分かりになったんですか?」

 

 牟児津がおそるおそる投げかけた質問に、家逗はやや大げさなほどに驚いた。斜め上の妄想をされてしまっているようだが、どうやら図星らしい。不思議がる羽村に、牟児津は頭を抱えながら答えた。

 

「この前のカギ争奪騒動の直後からずっと、私が田中(たなか)さんを論破して部室使用の権利を分捕ったとか名探偵って名乗ってるとか噂されてるんだよ!私は論破なんかしてないし部室も使ってないのになんでそんな噂が流れてんのかと思ったら……あんたが犯人か!」

「失敬な!私は正当に部室使用権を譲渡されたのだ!それも田中氏ではなく、藤井(ふじい)氏から直接だ!つまり学園公認ということになる!ハッハッハ!参ったか!」

「どうでしょう。藤井先輩って、なに考えてるかよく分からないところありますから」

「つまり、身に覚えのない噂の出どころが探偵同好会(われわれ)だと、団体名を聞いただけで推測したわけですね。素晴らしい洞察力と仮説能力です」

「なんかちょっと上からだな、あの子」

 

 先日の事件以来、牟児津は自分に関する大仰な噂をいくつか耳にしていた。田中と直接対決したのは事実だが、結果は自分の敗北だと感じている。そもそも部室の権利など手に入れていないし、実際に使ってもいない。なので田中を論破したなど、ましてや部室使用権を強奪したなどという噂が流れるはずがなかった。

 しかし実際に部室が使われていて、おまけにそこが探偵同好会など名乗っているのなら、そんな噂が生まれるのもいちおうは納得できる。それでも無関係な自分に結び付けられるのは迷惑この上ないが。

 

「探偵同好会を設立して苦節2年……!ようやく優秀な助手にもめぐり逢い、念願の部室も手に入れたんだ!遂に学園のホームズここにありと堂々宣言できる時が来たと思えば!この私を差し置いて名探偵を名乗る不埒な輩がいるというではないか!いくら心の広い私と言えど、さすがに我慢ならない!」

「あんたの心の広さ知らないよ」

「バスケットコートくらいですかね」

「心にしては狭そう」

「とにかく、紛い物が大手を振って都路を闊歩し、真正の名探偵たる私が日陰を行くのは道理に反する!というわけで私はあの渡り廊下から果敢なダイブを決め、諸悪の根源たる牟児津真白を確保することに成功したと。こういうわけだ」

「ダ、ダイブ……!?あそこから!?」

 

 家逗が指さした先、2階の渡り廊下の窓がひとつ開放されていた。瓜生田の目の前に降って来た角度から考えても、どうやらあそこから飛び出したらしい。とんでもなく危険な行為だ。打ち所が悪ければ怪我では済まない。牟児津と瓜生田はそれに気付いたとき、同時に背筋がひやりとした。

 

「申し訳ありません。うちのホームズが無茶を……お怪我はありませんか」

「それもっと早く言って!怪我はないけど!」

「ムジツさんが頑丈でよかったよ。でも、危ないからもうさせないでね」

「よく聞かせておきます」

「ワトソン君!なぜ牟児津真白に頭を下げているのかね!」

「あの、さっきから気になってたんだけど、ホームズとワトソンっていうのは?」

「なりきりというか、ニックネームのようなものです。家は英語でホームなので、家逗はホームズ。羽はワとも読み、羽と村でワトソン。ということです」

「苦しい駄洒落だなあ」

 

 羽村がそれぞれの呼び名の由来を説明する。要するにシャーロックホームズごっこをしているのだ。臆面もなく話す羽村の姿を見て、牟児津は聞いている方が恥ずかしいような気さえした。

 

「もういいよ!いきなり飛びかかって来たかと思ったら縛られてニセ探偵扱いされてフルネームで何度も呼びやがって!こちとら名探偵なんて呼ばれて持て囃されるのなんざ願い下げなんじゃい!誉れなんて欲しけりゃくれてやるからそれ持って部室でもどこでもさっさと行っちまえコノヤロー!」

「なにをぅ!紛い物のくせに大きな口を叩いてまくし立てるな!お前が名探偵を名乗っていることもそうだが、それ以外にも用があるんだ!」

「まだ何かあるの?」

「はい……というより、むしろここからが本題です」

 

 羽村が申し訳なさそうに頭を垂れる。牟児津への急襲からノンストップで続いている家逗のワンマンショーは、まだまだこれからだそうだ。さすがに瓜生田もため息を漏らした。

 

「今朝から昼休みにかけて行われた猫攫いについてだが──」

「ね、猫攫い?」

「ホームズ、先に依頼人方を御紹介しておいた方が分かりやすいです」

「わ、分かっている!今しようとしていたところだ!君たち、こちらへ来なさい!」

 

 羽村が進言しなければ、絶対に忘れ去っていただろう。そう思いつつ、牟児津は敢えて言わなかった。家逗に招かれて、羽村と一緒に現れた2人の少女が並んだ。胸につけているリボンはどちらも、瓜生田や羽村と同じピンク色だ。すなわち、1年生である。

 

「記念すべき、探偵同好会部室が部室を開いて最初の依頼人だ。リボンの彼女が猫同好会会長の似安(にやす) こばん君」

「ど、どうも」

「半袖の彼女が同副会長の富綴(とむとじ) 絵梨(えり)君」

「にゃろ〜っす♫」

 

 似安は、鳶色の髪によく映えるピンクのリボンを耳の上で結んだ、うつむき加減な少女だった。富綴は対照的に、活発な印象を与える半袖のシャツにミニスカートとニーソックス、はねた髪が猫の耳のようになっている少女だった。独特で軽薄な挨拶までしている。

 一見、共通点が少なく見える2人組だったが、同じクラスで同じ同好会とのことだった。なかなかに深い間柄なのだろう。

 

「彼女らは私に解決を依頼した。似安君の愛猫であるコール君が、今朝から昼休みの間にかけて忽然と姿を消した事件について!」

「はあ」

「なんか似たような話が前にもあったような」

「私はこれが誘拐事件であることを突き止め、さらにその犯人をも特定した。それがすなわちお前だ!牟児津真白!」

「この流れも前と同じだよ。どうするムジツさん」

「どうもこうもあるか!私は知らん!言いがかりだ!」

「そんなわけないだろ!」

「そんなわけないことないわ!」

「家逗先輩に伺いたいんですが、どうしてムジツさんが犯人だと思われたんですか?」

「私は探偵だ。推理したに決まっているだろう」

「ホームズ。その推理を聞かせてほしいということです」

「そうかそうか。聞きたいか。では聞かせてやろう」

 

 家逗は得意げにうなずき、嬉しさを隠し切れていない、にやついた顔を見せた。犯人(だと家逗が思っている牟児津)の前で自分の推理を披露できるのが、相当嬉しいようだ。

 そこから家逗は朗々と持論を展開させた。現場で集めた証拠や姿を消した猫の特徴、そこから牟児津の存在にたどり着くまでの道筋、全てお見通しだと言わんばかりの自信満々な態度だった。それを聞いていた牟児津と瓜生田は、家逗越しに羽村の顔を見る。まさか本気でこんな推理を信じているのか、という訴えである。羽村は小さく肩を竦めて応じた。

 

「……というわけだ。どうだ、一分の隙もない完璧な推理だろう」

「隙だらけだわ!本当の犯人だってそれじゃ納得しないよ!」

「なにをぅ!どこが隙だらけだと言うんだ!」

「言っていいの?」

「え。なにその確認。こわっ」

 

 すっ、と急に落ち着いた牟児津の声色に、家逗が少し身構えた。いつもは疑われてもろくに言い訳もできない牟児津だが、あまりにも隙だらけ過ぎる家逗の推理には落ち着いて反論することができた。

 

「まず、犯人を特定する根拠が全然足りてないのに、個人的な恨みで私が犯人だって言ってるのがもう、根本的に間違ってるよね。間違ってるっていうか、推理になってない?」

「ふんっ、証拠など捕まえてからいくらでも見つかる。そいつが犯人なら必ず何かしらあるに違いないからな」

「すごい冤罪を生みそう」

「その前の犯人の動機に関しても、猫の胸にハートマークがあるっていうところから連想したことであって、犯人がそう考えてた根拠も全然ないでしょ。動機があって犯行があったんじゃなくて、犯行の辻褄が合うように動機を考えてるって、順序が逆じゃん。というかそもそも、動機なんて推理する必要ある?よっぽどはっきりしてるならまだしも、人の頭の中を言い当てるなんて私は無理だと思うけど。

 だいたいキャリーケージの中で座ってる猫を正面から見るって、背が低いどころか地面にほぼ寝そべった状態にならないと見えないでしょ。なんかそこも、その猫の特徴に頼りすぎっていうか……それからいくら私でも芝を踏めば跡が残るし、花占いするときに花を摘まないで花びらだけ抜く人なんていないだろうし、ちょっと適当過ぎるんじゃない?

 なんて言うかもう全体的に無茶苦茶で、私憎しで推理がねじ曲がったっていうより、そもそも家逗さんの観察力とか推理力とか根本的な部分が──」

「牟児津様、どうかそこまでに」

 

 止まらない牟児津の追及に、羽村がストップをかけた。気付くと、牟児津と瓜生田の前で胸を張っていた家逗は、いつの間にか羽村にしがみついていた。ドレスのようなスカートに顔をうずめていて表情は分からないが、ときどき肩が小さく跳ねている。

 

「うっ……!うぐぐうっ……!ワ、ワトソンくぅん……あいつすごい言ってくるぅ……!」

「ホームズがただの家逗になってしまいます」

「ご、ごめん……」

 

 いちおう確認はしたのに、という気持ちさえ消えてしまうほど、家逗は惨めだった。推理の粗を指摘しただけで、まさか泣くとは思っていなかった。家逗は案外、繊細な少女のようだ。先ほどまでの高慢な態度はあくまで、彼女なりにキャラクターになりきったものなのだろう。しかしここまで傷つきやすいならあんな挑発をしなければいいのに、と牟児津は思った。

 

「可愛い人だねえ」

「すっごい面倒臭い人だよ」

 

 傍観者の立場にいる瓜生田が呑気なことを言う。目下、これ以上ないほど鬱陶しい絡み方をされている牟児津には、そんな感情は全く湧いていない。

 

「うぐぐっ……!ま、まあいい……!部室を開いて最初の事件だ。成果を急ぐあまり、多少拙速になってしまった部分があることは否めない!それを目敏く見抜いて指摘してくるとは、なかなかやるな!牟児津真白!」

「年上の人が精いっぱい見栄を張ってるとこ見るの辛い……目の周り赤いし」

「うるさい見るな!」

 

 必死の虚勢では隠し切れない涙を、家逗が袖でガシガシ拭う。まるで子どもだ。湿った袖から突き出た指で牟児津をさし、家逗は叫ぶ。

 

「あくまで自分は犯人ではないと言い張るんだな!それならこちらにも考えがある!」

「もう帰っていいですか?」

「いや帰るな帰るな帰るな!見ろこっちを!」

「見るなって言ったじゃん……」

「適宜見ろ!いやそうじゃない!曲がりなりにも探偵を名乗るのなら、自分の潔白は自分で証明することだ!」

「名乗ったことなんか一度もないってのに!」

 

 牟児津の言葉は無視し、家逗は懐から軍手を取り出し、丸めたまま牟児津に投げつけた。

 

「あぶねっ!なんだよ!」

「探偵として決闘を申し込む!どちらが先に猫を連れて戻るか、正々堂々勝負だ!」

「軍手は何の関係があるんだよ!」

「決闘を申し込むときは相手に手袋を投げるっていう作法があるんだよ。もっと優雅なはずなんだけどなあ」

「どこが優雅だ!工事現場の小競り合いか!」

「フーッ!フーッ!」

「ホームズ、一度落ち着いてください」

 

 こんな状況でも瓜生田と羽村は冷静だ。喚き合う家逗と牟児津を二人で引き離し、互いの代理として話し合う。

 

「こんなことになっちゃったけど、どうする羽村さん?」

「どうするもこうするも、ホームズは言い出したら聞きません。ですがその……率直に、先ほどの推理をどう思われました?」

「だいたいムジツさんが言ってた通りだね。破綻云々以前に、論理の形になってない」

「おっしゃる通りです。しかし残念ながら、ホームズは事件解決への熱意()()()人一倍あるのです。私も、せっかく探偵同好会にいただいた依頼を途中で投げ出すのも忍びなく……。ですから、ぜひ牟児津様にお力添えいただきたいのが正直なところです」

「う〜ん、そうだねえ。ムジツさんは押せばイケる人だけど、塩瀬庵のレアお菓子とかで釣ればもっとモチベーション引き出せるよ。同好会なら、ちょっとは予算があるでしょ」

「……?差し出がましいようですが、瓜生田様は牟児津様をお守りする立場では?牟児津様はあまり前向きではないようにお見受けしますが」

「えへへ。私は、探偵としてのムジツさんも好きだからね」

 

 瓜生田はニヨリと笑った。軽薄なウソを吐いているようにも、いたずらめいた悪巧みをしているようにも見える。

 

「まあ任せてよ」

 

 そう言って、瓜生田は牟児津の元に戻った。羽村に瓜生田の真意は分からなかったが、取りあえず同好会費の残額は確認しておこうと思った。

 瓜生田は転がった軍手を拾い上げて、牟児津に差し出した。決闘を受けろという意味だ。牟児津もその意味は理解したようで、ぶんぶんと首を振って拒絶する。しかし瓜生田は譲らない。

 

「ムジツさん、ここで決闘を受けないと後がひどいよ」

「なんでさ」

「もう家逗先輩に見つかっちゃったから。羽村さんが言うには、言いだしたら聞かないんだってさ。この決闘だって、早いところ決着つけないといつまで続くか分かんないよ」

「いくら続いたって私には関係ないじゃん!ていうか猫くらいそのうち見つかるでしょ!」

「さっきの推理を聞いてそんなこと言える?」

「……言えません」

「だよね。それに家逗先輩はともかく、似安さんたちが困ってるのは事実だから、人助けだと思って」

「で、でも……これ以上あの人に構ってもろくなことにならなさそうだし……」

「そっかあ。残念だなあ」

「なにが」

「探偵同好会に協力してくれたら、謝礼が出せるってよ」

「しゃ、謝礼?お金ってこと?」

「やだなあ。さすがに学園の公費を渡せるわけないじゃない。でも、買ったおやつを感謝の印にあげるっていうことはできるんだよ。たとえば……塩瀬庵の『春爛漫』とか」

「のった!!」

「はい言質」

 

 牟児津は、瓜生田が何を言いたいかを理解した。理解した上で、もはや迷うべくもなかった。手の届かない和菓子詰合せが手に入るのなら、たとえ面倒な上級生に絡まれようと、欲しくもない名誉を被ろうと屁でもない。

 言った瞬間に後悔したが、瓜生田ははっきりその言葉を聞き届けた。そのまま羽村と家逗にその言葉は伝えられる。

 

「喜んで決闘を受けるそうです」

「ハッハッハ!伊達に名探偵を名乗ってはいないというわけか!その心意気やよし!」

「ありがとうございます牟児津様。瓜生田様も、助かりました」

「ああああああっ!!私のバカあああっ!!」

 

 かくしてここに、激しく情熱とライバル心を燃やす自称名探偵と、極めて不本意ながら欲望に負けた他称名探偵との間で、伊之泉杜学園における真の名探偵を決める決闘が行われることになったのだった。



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第2話「見守ってあげてください」

 

 牟児津と瓜生田は、探偵同好会の部室を訪れていた。部室棟の隅にある目立たない場所で、以前はオカルト研究部の部室だった場所だ。中は非常に物が少なく、教室で使われている机と椅子のセットを3組向かい合わせて応接用の机としており、あとは本棚代わりのカラーボックスとハンガーラックが1つずつ、動物を運ぶためのキャリーケージが2つと、机の上の古臭いスタンドライトくらいしかなかった。

 

「うへえ質素」

「失礼だよ、ムジツさん」

「部室を構えて1週間ほどですので、見窄らしいのはご容赦を」

 

 全員が席に着き、牟児津と瓜生田、探偵同好会と猫同好会、合計6人が、ようやく1つの机で膝を突き合わせた。改めて事件の内容を整理し、牟児津が家逗と足並みを揃えられるよう情報共有するのが目的だ。

 猫同好会の似安が、改めて自己紹介して語り始めた。

 

「今日のお昼休みに、うちの猫がいなくなってしまったんです。絵梨ちゃんに手伝ってもらってあちこち探したのに見つからなくて……そうしたら、絵梨ちゃんにこちらを紹介してもらって、ご相談したんです」

「富綴さん、よく探偵同好会を知ってたね」

「ウチもこの部室狙ってたんで!いや〜まさか牟児津先輩を探してて風紀委員に逮捕されるとは思ってなかったですよ」

「アンタあのとき追いかけて来てたのか!こっちはアンタらのせいで大変だったんだぞ!」

「にゃはは〜、まあいいじゃないですかそんなこと。それより事件でしょ事件」

 

 つい先日の悲惨な一日を思い出し、牟児津は声を荒げた。それを前にしても、富綴は椅子の前足を浮かせてからからと笑う。富綴以外にもこの部室を狙っていた生徒は多く、またそのほとんどは鍵を持った牟児津を追いかけ回していたので、探偵同好会と牟児津が頭の中で結びつくのは無理もないことだ、と瓜生田は思った。

 似安は話しづらそうに、事件についての続きを話した。

 

「猫同好会は、猫を可愛がったり猫と遊んだりすることを活動内容としています。でも部室がないので、昼間は生物部の部室近くにキャリーケージを置かせてもらってます。今日もそこに迎えに行ったら……」

「いなかったんだね。脱走した可能性は?」

「ケージは猫が引っ掻いても破れにくい素材だったので、自分で出たっていうのはないと思います」

()()()っていうのは?」

「え?」

「破れにくい素材()()()って、もう破けちゃったみたいな感じがするんだけど」

「おおっ!すごい牟児津先輩!当たってる!」

「ご明察です牟児津様。似安様の愛猫、コール君のケージは破られていました。これは、外部から人の手が加えられた証左です。すなわち、この事件には明確な犯人が存在するということです」

「ははあ。こりゃあ、いつかの生物部の事件とは違うね、ムジツさん」

「……ヤなこと思い出しちゃったな」

 

 似たような場所で起きた似たような事件を、牟児津は経験していた。動物が連れ去られた点や事件発覚のタイミングがよく似ているが、あのときは単なる脱走か誘拐かの判別が付きづらかった。今回は明確に犯人がいるというので、また危険な目に遭わないかと心配になった。

 

「現場は屋外なので、敷地に入れさえすれば誰でも犯行は可能でした。が、警備室に確認しましたところ、本日は外部からの来校者はありませんでした。つまり、犯人は学園内にいることになります。本日は既に放課後なので帰宅しているかも知れませんが」

「でもケージはあるんだよね?猫を抱えて下校してたらさすがに目立つと思うけど」

「どこかに閉じ込めておくなど、手元に置かずとも拘束する手段はあります。牟児津様は犯行動機まで深く考察される方ではないと存じますので、考えるべき問題は、Who do(だれが)ne it(したか)How don(どのように)e it(したか)です」

「なんて?」

「誰が犯人で、どうやって連れ去ったかってことだよ」

「どうやっても何も、ケージを破って猫連れてったんじゃないの?」

「それがそう単純な話じゃないんですよね〜!だから探偵を頼ったわけですけど!ね!」

 

 どうにも、猫同好会の間でも事件に対する認識は違うようだ。愛猫が行方知れずになってしまった似安は気分が沈み気味だが、富綴は家逗や牟児津の推理を聞くのを楽しみにしているような能天気さだ。

 明るく尋ねた富綴に対し、家逗は何も答えない。ずっと俯いたままだ。

 

「……ホームズ?」

「んぐぅ……」

 

 問いかけに、小さいいびきが返ってきた。

 

「申し訳ありません。ホームズは話に入り込むタイミングを掴めず寝てしまったようです」

「ウソだろオイ!?あんな張り切ってたのに!?」

「じっとしているのが苦手なんです。おおよそ事案の共有は済みましたので、次は現場の調査をしてみましょう。我々が調べた結果も、実物を見てご説明した方が分かりやすいかと思います」

「そうだね。じゃあお願い」

「起きてくださいホームズ。現場に行きますよ」

「ふガッ……も、もう飲み込めないよ……」

「独特な夢だなあ」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 続いて、牟児津と瓜生田は猫が姿を消した現場にやって来た。いつかも訪れた、生物部の部室のすぐ隣だ。コンクリートが敷かれた四角形のエリアに屋根だけがついた東屋が生物部の部室であり、その東側に芝生が敷かれている。東屋の屋根が芝生にはみ出したその真下が、例のキャリーケージが置かれていた場所だそうだ。キャリーケージは犯人に盗まれる可能性を考慮し、午後は探偵同好会の部室に保管していた。似安と富綴がそれぞれの分を持って来て、元の場所に置いた。

 牟児津たちが現場を訪れたとき、ちょうど生物部がミーティングをしているところだった。部員たちの前で司会をしている生物部の部長と牟児津の目が、はたと合う。牟児津は気まずそうに会釈した。

 

「あら、牟児津さんに瓜生田さん。珍しいわね。どうしたの」

 

 上野(うえの) 東子(あずまこ)は気さくに声をかけた。以前の事件で牟児津を強く疑ったことで、牟児津はなんとなく気まずく思われているのだろうと思ったが、全然そんなことはなかった。以前はお気に入りの飼育生物が被害にあったことでピリピリしていたが、本来は優しく柔和な性格だ。

 

「ご無沙汰してます、上野先輩。実はまた事件に巻き込まれまして」

「もしかして猫同好会の?」

「御存知なんですか?」

「知ってるもなにも、ずっと家逗さんがこの辺りをちょろちょろしてて気になってたの。猫同好会の猫ちゃんがいなくなった事件の捜査だって言って、飼育舎まで調べられたのよ」

「それは災難でしたね」

「毎朝部室の前まで来て大声であいさつしてくるし、生き物がびっくりするからやめてほしいのよね」

「大変ですねえ」

 

 どうやら家逗は、事件が起きる前から生物部とは顔見知りだったようだ。好印象を抱かれていないらしいのは可哀想だが、昼休みだけで現場の捜査をおおよそ済ませられたのは、生物部の協力もあってのことだったのだろう。決して嫌われているわけではないようだ。

 

「良い探偵は人心掌握もお手の物なのだよ。協力者は多ければ多いほど良いからね」

「掌握してるとは思えない言われようだけど?」

「毎朝あいさつするのは良い習慣だと思いますよ。ムジツさんも見習ったら?」

「早起きしたくね〜」

「あの、現場の説明させてもらってもいいですか?」

「こばんの話を聞け〜〜〜!」

 

 しっかり目を覚まして元の調子に戻った家逗は、得意げに胸を張った。家逗の押し掛け捜査を明らかに迷惑がっている生物部が、家逗には心を掌握した協力者に映っているらしい。傍迷惑なほどポジティブだ。

 関係ない話で盛り上がる3人の注意を引いて、富綴が強引に軌道修正した。家逗の捜査によって分かったことを共有するという話だった。似安は、生物部の部室横の芝生の上に2つ並んだキャリーケージのうち、部室から遠い方を指した。

 

「コールのいたケージは、こうして置いてありました。ケージ側面の網目が破かれてて、たぶんここからコールを引っ張り出したんじゃないかと」

 

 キャリーケージの側面には、無理やり破いたような荒い裂け目が開いていた。試しに瓜生田は無事な方の網目を引っ張ってみたが、人の手でも簡単には裂けそうにない。

 

「確かに、これを猫が自分で破いたとは思えないね」

「でも猫が出るにはちょっと小さいんじゃない?」

「いやいや!猫ってびっくりするくらい狭いところからでも、にゃるりん♪と出て行けちゃうんですから!猫ってね、液体なんですよ!」

「実際、これくらいの裂け目があれば出て行けます」

「ふ〜ん」

 

 牟児津はキャリーケージをしげしげと眺める。網目も生地も黒くて分かりづらいが、破れた網目がどうにも気になる。力任せに裂いたような破れ方をしているところと、そうは見えないところがある。その違いは何か。まだ答えは見えそうにない。

 キャリーケージは化繊の布製で、全体的にメッシュになっている。出入口はかまぼこ型をしており、チャックを引けば簡単に開くようになっている。もちろん、猫が自分でチャックを引くことはできない。妙な裂け目以外にキャリーケージに不審な点はなく、またもう片方のキャリーケージは全く無事だった。

 

「その他、ホームズの捜査で判明した点をいくつかご説明しますね」

「うん。お願い」

 

 似安の説明が終わり、続いて羽村が革の手帳を取り出した。いつも牟児津にくっついてくる番記者が使っている物より上等で、家逗の探偵衣装や羽村のゴシックな服装によく似合う。

 

「現場において不自然なのは2点。ひとつは、ケージ周辺の芝がほとんど潰れていないことです」

「庭園部の手入れが行き届いてるってことじゃないの?」

「いえ。事件が今朝から昼休みまでに発生したのであれば、庭園部が整備する暇はありません。生物部の皆様は芝を踏まないよう気を付けていますが、犯人までそうする理由が不明です」

「まあ確かに。猫攫うのにそんなこと気にしてられないよね」

「でも、犯人が庭園部だったら、整備道具を持って攫いに来たとかもありそうじゃない?」

「その可能性を否定するのが、ふたつめの不審点です。こちらにご注目ください」

 

 羽村は芝生を踏まないように注意しながら、その中の一点を指さした。牟児津と瓜生田もまた、芝生を潰してしまわないよう足下に注意しながら、羽村が示した点を覗き込んだ。緑の細い葉の中から、先が丸く太い茎が一本生えている。

 

「なにこれ?つくし?」

「こちらは名もない花です。おそらく学名はあるので名前は付けてあげられません」

「いいよ付けなくて。でもこれ、花びらがないよ?」

「それが不審点なのです。この周辺にある花のいくつかが、花びらが散った状態で生えていたのです。正確には、茎や()()に異常はないのに花びらだけが散っているのです」

「変なの」

「犯人が犯行後に芝の整備をしたのなら、このように不自然な花を残しはしないでしょう。すなわち、事後に整備された可能性は否定されます。以上が探偵同好会の持っている手掛かりの全て……ああ、いえ。1点、改めてお伝えすることがあります」

「なに?」

「攫われたコール君はぶち猫だそうです。いわゆる香箱座りをすると、胸の前にハートマークが浮かび上がる特徴があります」

「はあ、そう」

 

 理路整然とした羽村の説明は、家逗の推理よりもよっぽど頭に入りやすかった。おかげで牟児津と瓜生田は、事件と現場に関する基本的な事柄は把握することができた。羽村が真剣に、似安が不安げに、富綴が期待の眼差しで、牟児津の顔を見る。

 

「……な、なに?」

「いかがでしょう、牟児津様。なにかお分かりになりましたか?」

「い、いや、えっと……た、確かに猫が勝手に脱走したんじゃないらしいことは分かったけど、犯人とかはまだなんも……」

「そ、そんなあ……」

「まあまあ安心してよ。ムジツさんはエンジンかかるまで時間が要るタイプだから。一旦かかっちゃえば頼もしいよ」

「すみません。期待のあまり性急になってしまいました。追加捜査にもご協力いたしますので、ごゆっくりお考えください」

「それはそれでプレッシャーかかるなあ……やるけどさ」

 

 共有された情報は瓜生田がメモに取っている。牟児津がすべきことは、現場の追加捜査や手掛かりから推理されることの検証だ。いつもは自分への疑いを晴らすために捜査しているので緊張感があるが、羽村や猫同好会の期待が圧し掛かっていると思うと、普段よりプレッシャーを強く感じる。牟児津は辺りを見回して、改めて現場におかしなところがないかを考える。

 遠くに家逗の背中が見えた。口を挟んで来ないと思ったら、珍しい蝶を追いかけて現場から離れたところまで行ってしまっていたようだ。牟児津は激しく重圧を感じているというのに良い気なものだ。大物ではあるのかも知れない。

 

「ちなみに、コール君、だっけ?写真かなんかある?あと攫われてない方の猫についても知りたい」

「あっ、はい。写真があります。攫われてないのは絵梨ちゃん家の子で……」

「この猫です!ほ〜ら、ちゃっぱ。ごあいさつしな」

 

 ふと気になって牟児津が尋ねた。2匹いるうちの1匹が攫われたということは、2匹の違いが何らかの手掛かりになるかも知れない。似安がスマートフォンで写真を探している間、富綴が大きな猫を抱きかかえて見せた。

 全身がくすんだ色のまだら模様に覆われた、見るからに肉付きの良い猫だ。下膨れた顔がふてぶてしい。富綴が撫でても揺すっても何の反応もしない。

 

「わあ可愛い。ちゃっぱ君って言うの?」

「女の子だから、ちゃんですね。家だとおじさんみたいな寛ぎ方するんですよ。可愛いでしょ!」

「大人しい子だね。よしよし」

「大人しすぎて運動不足気味ですけどねえ、見ての通り」

 

 ぶすっとちゃっぱが鼻を鳴らした。富綴の言うことを理解しているようなタイミングだ。それとほぼ同時に、似安がコールの写真を見つけたようだ。スマートフォンの画面いっぱいに写真を映し出して牟児津たちに見せてきた。

 体格は一般的な猫と同じで、白い毛並みに黒のぶち模様があるのが特徴だった。どの写真も撮影している似安にすり寄っているものやオモチャに飛びかかっている写真ばかりで、かなり活発な猫という印象を受けた。

 

「躍動感がすごいね」

「うわ、この写真すご。猫パンチの真正面じゃん」

「遊びたがりでやんちゃな子なんです。知らない人に触られて大人しくしてるような子じゃないのに……」

「ほう!ということは、犯人は猫の扱いに慣れている人物ということになるな!」

「ぎゃあっ!?急に戻って来た!!」

「おかえりなさい、ホームズ。先ほど牟児津様方への情報共有が済んだところです」

「そうかご苦労。さあ、では牟児津真白!お前の推理を聞かせてもらおうか!一体だれが、この『愛の猫誘拐事件』の犯人なのか!そして攫われたコール君はどこにいるのか!」

「いつの間にそんな大層な事件名を付けていたのですか?」

「探偵同好会の活動記録として事件簿を作るんだ。1ページ目の事件でもあるし、引きのあるタイトルの方が良いだろう。さあ聞かせてみろ!」

「そんなすぐに結論出ないって!もうちょっと調べさせてよ!」

「フンッ、甘いな。私はこれだけの証拠から犯人を特定したというのに」

「それさっきのヘッポコ推理だろ!」

「へ、ヘッポコ……!?ヘッポコって……!ワトソンくぅん……!」

「いけません牟児津様。ホームズは推理を貶されることが何よりもこたえるのです。あまり強い言葉を使われませんように」

「ヘッポコってそんな強い言葉か?」

 

 人が話してるのに眠りこけたかと思えば、目を離した隙に蝶を追いかけていなくなり、ちょっとしたことで泣いて羽村に縋りついた。小学生でももう少し節操のある子はいる。赤ん坊のようだ。

 家逗のことは羽村に任せて放っておいて、牟児津と瓜生田は現場を詳しく調べることにした。家逗が集めた手掛かりは現場のほとんどを説明していたが、それだけでは家逗のヘッポコ推理と変わらない有様になってしまう。つまり観察と考察が足りないのだ。たとえば、犯人が猫を連れ去った方法についての考察だ。

 

「犯人はケージを破って、そこからコール君を引きずり出して連れ去った。ってことになるよね」

「うん。ケージは残ってるからね」

「芝生に足跡が付いてないってことは、生物部の部室から手を伸ばしたのかな」

「そっかあ。そっちからなら芝生を踏まずにケージに手が届くね」

「でも……うん。変だよな、やっぱ」

「変だねえ」

「普通ケージごと持ってくよね?」

「私もそうだと思う。絶対そっちの方が運びやすいし」

 

 牟児津と瓜生田は揃って首を傾げた。猫がいなくなっているのは事実で、キャリーケージが破られているのも事実だ。しかし、その2つが1つにまとまろうとすると、どうしても具合の悪いところが出てくる。頭の中で犯行の情景を思い描くと、犯人の手際が悪すぎて焦れったくなってくる。

 

「芝生に足跡を付けようとしなかったのは、よっぽど靴の形が特徴的なのかな」

「そんな靴あるかな?それを気にするなら違う靴履いてくるでしょ。上履きだってあるし」

「……なんか犯人ってさあ……ああでも、網目は破かれてるんだよなあ」

 

 推理が進むような気がして、また元に戻る。いくつかの手掛かりはつながって1つの結論へと収束していくが、その和を乱す動かぬ証拠がある。裂けたキャリーケージの網目だ。生地は内側から猫が引っ掻いて破けるような強度ではなく、人の手でも破るのは難しい。何らかの道具が使われたことは明らかであり、そうである以上はキャリーケージから猫を連れ出した犯人がいるはずなのだ。

 考えても考えても思考は堂々巡りになる。しかし、牟児津には経験があった。まさにこの場所で、半分誘拐で半分脱走の事件を解決したことがある。つまり、事件とは変化し得るものなのだ。

 

「だから今回もそうなんじゃない?犯人はケージからコール君を出すところまでは上手くいってたけど、その後で逃げ出しちゃったとか」

「だとしてもケージを破く理由にはならないんじゃない?それこそケージごと持って行っちゃえばいい話だし。あと芝生を避ける理由もないよ」

「むぐ」

「ヒノまるのときと似てるけど、あのときヒノまるは保護された後だったでしょ。今回はまだコール君が行方知れずだから、半分誘拐で半分脱走だとしても分かることはないよ」

「むぐぐ」

「それに犯人がちゃっぱちゃんじゃなくてコール君を狙った理由も分からないよね。生物部の部室から手を伸ばすくらいならちゃっぱちゃんの方を連れ去るだろうし。敢えてコール君を連れ去るのには意味があったんじゃないかな」

「むがぐぐ」

「ほっほーう!どうした牟児津真白!苦戦しているようじゃないか!どうやらお前より瓜生田君の方が優秀なようだな!名探偵の名を返上したらどうだ?ん?」

「うっさい!考えてんだからあっち行っとけヘッポコ!」

「うわーっ!ワトソン君!あいつまたヘッポコって言った!」

「牟児津様。二度目ですよ」

「ああもうごめんて!ちょっと、考えたいからひとりにして!」

 

 思いつく推理は瓜生田に悉く却下される。家逗ではないが、牟児津もだんだんと自分の推理に反論されることに気が滅入ってきた。しかもときどき家逗が茶々を入れて来て思考がぶつ切りになる。推理に集中できる環境に身を置くため、離れた場所にあるベンチに腰掛けた。ちょうど生物部の部室の真東にあり、部室に背を向ける格好だ。余計なものや目に刺さる西日が視界に入らず、思考に集中することができる。

 まずは、キャリーケージが現場に残されていた理由について考える。

 

「なんで犯人はケージごと持って行かなかったんだ?重くて持ち上がらなかった?でも猫をそのまま抱えて行くより絶対に楽だよな……。猫を抱えられるなら重さは問題ないだろうし。ケージの中だとコール君とちゃっぱちゃんの区別が付かなかった?いや、覗けばいいよな……」

 

 可能性を挙げて否定する。また可能性を挙げて、また否定する。繰り返していくほどに、キャリーケージをそこに残す理由が思い浮かばなくなってくる。突き詰めていけば可能性は2つだけが残る。つまり、残していかざるを得なかったか、残していくことに意味があるか、だ。

 

「犯人にとって大切なのはケージで、コール君の方が邪魔だった?それこそケージを持ってくよな。だいたい、普通にケージを開けて連れ出さないでわざわざ破いてるのもおかしい」

 

 そのまま牟児津の思考は、コールを連れ去った方法に移行する。いずれの場合にも、ここは同じく問題になる。

 

「コール君だけを連れ去るにしたって、ケージの口を開けて連れ出せば簡単なのに、なんで横を破いたんだ?どっちにしたって誰かが連れ去ったってことは分かるから、敢えてそんなことをする意味なんて……いやがらせ?だったらちゃっぱちゃんのケージにもなんかされてるよな。されてないってことは……でも2人は同じクラスだし、そんなタイミングないはず」

 

 脳裏に富綴犯人説がよぎり、すぐに消え去った。似安と富綴は同じクラスで朝から行動を共にしていた。授業と授業の合間の短い時間では生物部の部室と教室を行き来するのに不十分であることは、以前の事件の経験で知っていた。故に、富綴に犯行は不可能だ。さすがに似安の前で何かキャリーケージに細工をすればバレるだろう。何より、似安に探偵同好会への相談を勧めたのは富綴だ。家逗の実力はさておき、犯人ならば問題を大事にはしたくないはずだ。

 

「破く理由……じゃなくて、破けた理由……?」

 

 頭の中で犯行当時の現場を思い浮かべる。生物部の部室の横に芝生が広がり、キャリーケージが2つ並んでいる。犯人は芝に足跡が付かないように生物部の部室から手を伸ばして──。

 

「いや、ここが絶対おかしい。そんなことする意味がない」

 

 破けたケージという証拠を敢えて現場に残している以上、犯人に自分の存在を隠す意図はない。だとすれば、芝生に足跡が付くことを気にしていたとは考えられない。そうなれば、生物部の部室から手を伸ばしたという推理は根拠を失う。

 では、犯人はどうやって芝生に足跡を付けず、キャリーケージを破いたのか。破けた面は生物部の部室から見て反対側になる。少なくとも、芝生を超えて手を加えたことは明白だ。ならその方法は何か。なぜ敢えてそんなことをしたのか。

 

「……意味ないなあ」

 

 あらゆる可能性、あらゆる推理、あらゆる犯行動機が、その結論に収束する。現場の状況や証拠から読み取れる犯人の行動は、いずれも意図が感じられない。そこまでする意味を感じない。いちいち行動がちぐはぐで、無意味な出来事の連続で、猫がいなくなったというだけの事実を不可解にしている。

 

「あ〜〜〜もう分かんない!うりゅに助けてもらおうかな……」

 

 ひとりで考えても答えは出てこなさそうだ。牟児津は頭をガシガシ掻いて、複雑化していく自分の考えを瓜生田に話してまとめてもらおうと思い、腰を浮かせた。

 

「あぇ」

 

 ベンチから立ち上がると、違和感を覚えた。その正体を牟児津は直感した。足元を見る。

 

「……んああ?」

 

 網膜に飛び込む情報。

 

 強く激しい衝撃。

 

 火花のように炸裂したそれは、牟児津の脳内を駆け巡る。シナプスからシナプスへ、情報が形を変え、強度を増しながら形を成していく。記憶が正しければ、推測が正しければ、これがどのような事件なのかがはっきりする。

 牟児津はそのまま現場に戻った。瓜生田を頼るためではない。降って湧いた──もとい()()()湧いたひらめきを確証に変えるために行動したのだ。

 

「おっ、戻って来たな。そろそろ聞かせてもらうぞ牟児津真白!この事件、いったい──!」

「ちょっとごめん。どいてて」

「わっ、な、なんだあ?」

 

 今の牟児津に余裕はない。ひらめきが消えないうちに推理を確固たるものにするため、1秒たりとも無駄にできないのだ。立ちふさがる家逗をかわし、芝生を踏まないよう生物部の部室側から、コールが入っていたキャリーケージを拾い上げる。破けた網目を元の形になるよう、なぞりながら合わせていく。

 

「おい何をしている牟児津真白!決闘はどうした!ケージをいくら見てもそこに猫はいないぞ!」

「家逗先輩、静かに。いまムジツさんは推理モードです」

「な、なに?推理モード?」

「推理の道筋が閃いて、検証して推理と言える形にするため必死になってる状態です。話しかけないで、見守ってあげててください」

「必死なのか、あれは」

「うかうかしてるとひらめきを忘れちゃうので」

 

 様子のおかしい牟児津に詰め寄ろうとする家逗を、瓜生田が制した。この状態の牟児津を初めて見る人は、たいてい急な態度の変化に戸惑う。そこをフォローするのも瓜生田の大切な仕事だ。幸い、家逗以外の3人はなんとなく牟児津を邪魔しないでおこうと空気を読んだ。

 そうしている間にも、牟児津は真相に近付いていく。左右に割れた裂け目はぴったり合う。そして最後の一点。そこだけは、裂け目がその形のまま合わさることはなかった。

 

「これは……?もしかして……」

 

 

 ケージが置かれていた方角を見る。

 

 ケージの置かれていた場所、向き、そしてそれらの位置関係、犯行が行われた時間帯──

 

 ──犯行が可能だった人物。

 

 

「ムジツさん、分かった?」

「……あとちょっと。一旦、上野さんに話聞いてくる」

「そっかあ。いってらっしゃ〜い」

「おひとりで行かせて大丈夫ですか?」

「ああいうときのムジツさんは大丈夫だよ。上野先輩もよく分かってるしね」

 

 真相を解き明かす最後の1ピースを握っているのは、おそらく生物部部長の上野だ。牟児津は部室から小径を通って、飼育舎で作業をしている生物部を訪ねた。そこで上野といくつかの言葉を交わす。

 牟児津のひらめきは、確信へと変わった。



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第3話「あんたのせいだろ!」

 

「うぅん……」

 

 牟児津は悩んでいた。上野から得た最後の手掛かりは、頭の中にある推理に説得力を持たせている。おそらくこれで間違いないだろう。しかし、これでは事件を解決できない。そもそも牟児津たちがすべきなのは、こんなことではないはずだ。この段階になってようやく、牟児津はそのことに気付いた。

 

「やい牟児津真白!いい加減にしろ!私との決闘を無視する気か!」

「おかえりなさいませ、牟児津様。推理の方はいかがでしょうか」

「いやあ、まあ、うん……」

「なんだ。当てが外れて途方に暮れているのか?ハッハッハ!やはり名探偵と名乗っていても口だけだな!引っ込みがつかなくなって決闘を受けたものの、ろくな言い訳も思い浮かばず困り果てたのだろう!初めから素直に罪を認めて、学園の名探偵の座を私に譲り渡せばそんなことには──!」

「うっさいなあもう!猫が逃げたのはあんたのせいだろ!」

「……はあ?」

 

 耳元で激しくまくし立てる家逗に、牟児津は思わず怒鳴った。途端に家逗の言葉が止まり、息が漏れるような戸惑いだけが返って来た。牟児津はとっさに口を塞いだがもう遅い。

 

「あっ。いや……違くて、違くないけど、それは重要じゃないっていうか……」

「ムジツさん、どういうこと?」

「猫が逃げた……誘拐ではないということですか?それがホームズのせいとは?」

「何を言い出すかと思えば、苦し紛れにも程がある!なぜ私に責任があるなどと言われなければいけないのだ!」

「くうっ……!あ、あの、家逗さんと羽村さん。怒らないで……あと泣かないで聞いてよ?」

「えっ。なにその確認。こわっ」

 

 今はそんな場合ではないが、もはやこれを引っ込めるわけにはいかなくなった。猫同好会の2人も、驚きと期待の眼差しを向けている。もはや牟児津は自分の推理を披露する他なくなった。披露したところで、事件解決には一歩も進展しないというのに。

 

「改めて言いますけど、コール君は誘拐されたんじゃない。これはただの脱走だよ。んで、コール君が脱走する原因を作ったのは、家逗さんだ」

「なにをぅ!」

「落ち着いて、ホームズ。決闘である以上、牟児津様の推理も最後まで聞くべきです」

「むん」

 

 早速怒って飛びかかろうとした家逗を、羽村が押さえて座らせた。牟児津は続ける。

 

「まずこれが脱走事件だと思った理由。家逗さんが集めた手掛かりのとおり、現場の芝生には足跡が付いてなかった。もし誘拐犯がいたなら、生物部の部室側から手を伸ばしたりしてコール君を連れ去ったことになる。でも、それなら普通ケージごと持って行くはずでしょ。わざわざ剥き出しの猫を連れて歩く方が目立つし、何より運びづらい」

「それはそうですね。我々もそこは疑問でした」

「そんなもの、事件の発覚を遅らせるためだろう!コール君だけを連れ去れば、見た目にはケージが2つ並んでいて変化がない。事件発覚が遅れればそれだけコール君を隠す時間の余裕が生まれる!」

「でもそれだったらケージを破かないでしょ。猫が出るには小さいと思ったけど、さすがに見た目で破れてることは分かるよ。というかそもそも、中にいる猫を出すだけなら普通にケージの入り口を開ければいい。側面の網目を破く理由なんて、犯人にはないんだよ」

「おお!確かに言われればそうですね!」

「仮にコール君を連れ去った誘拐犯なんてものがいたとしても、その人の行動はいちいち意味不明すぎる。芝生に足跡を付けない慎重さはあるのに、無意味にケージを破いたりコール君だけを抱えて連れて行ったり……なんというか、一貫性がない」

「じゃあ、いったいなんでそんなことを?」

「だから、初めから誘拐犯なんていないんだよ。これは、偶然破けたケージの隙間からコール君が逃げ出した。ただそれだけの事件だったんだ」

 

 牟児津は断言した。この事件に犯人などいないと。これは偶然起きた出来事で、そこに誰の悪意も入り込んでなどいないと。それが、牟児津にできるせめてものフォローだ。

 

「コール君がひとりでにケージの裂け目から外に出て脱走した。だから芝生に誰の足跡もついてないんだ。花が散ってるのは、たぶんコール君のせいだよ。あの花に留まるちょうちょに反応して、引っ掻いたり猫パンチしたり遊んでるうちに散らしちゃったんだと思う」

「そんなバカな!」

 

 しかし、まさにフォローされるべき犯人である家逗が叫ぶ。

 

「あのケージは素材こそ柔らかいがしっかりした造りをしているぞ!特別古いものでもないのに、勝手に破けるなんてことがあってたまるか!だいたい、偶然などというものは説明になっていない!それは考えの放棄だ!」

「いや、偶然だよ。確かにケージが全く自然に破けたとは言えない。でも、破くつもりがないのに破いてしまったなら、偶然って言えるんじゃない?」

「お、お前は……何を言っているんだ?」

 

 牟児津は、置いてあるキャリーケージを拾い、裂け目が全員に見えるように横に倒した。無理やり引き裂いたような形の網目をなぞりながら合わせていく。

 

「この裂け目、ほとんどの部分は左右の網目がぴったりくっ付くように裂けてるでしょ。無理に破いたとしても、縫い合わせれば元通りになる」

「そりゃあそうでしょう!破くってそういうことですもん!」

「だけど、ここだけはそうじゃない」

 

 当然だ、という全員の気持ちを富綴が代弁する。しかし、牟児津が指さした箇所を見ると、そんな言葉はもう出てこなくなる。ぴったり合わさっていた網の切れ目が、そこだけはいびつに歪んでいた。繊維が縮み、形が崩れ、いくつかの小さな塊に寄り集まっている。左右をくっつけても元の形に戻らないことは明白だ。

 

「網目が溶けてるんだよ」

「と、溶けてる……?」

「普通なら破けない網目が破けてるのは、この部分が溶けたことで千切れて、他の部分に力がかかるようになったせいだ。だから、もしこの事件に犯人がいるとするなら、それはここが溶ける原因を作った人だ」

「網目って、これプラスチックだよね?それが溶けるってことは──」

「特殊な薬品か!?」

「火……いや、正確には熱でしょうか」

「そうだね。犯人はこの部分を熱して、ケージの網に穴を作った。もろくなった網をコール君が破いて、そのまま外に逃げ出した。そういうことだよ」

 

 発想が出来の悪いミステリを抜け出せない家逗を無視して、羽村が正解を返す。家逗は無視されたことを誤魔化すように大声で笑った。

 

「ハッハッハ!これは傑作だ!ということはだ、牟児津真白!犯人はこの網目をピンポイントに熱してしまい、うっかりコール君の脱走を許してしまったと、お前は言うのか!まるで意図したかのような偶然だな!そんな間抜けいたらぜひ顔を拝んでみたいものだな!」

「ホームズ、もうその辺にしておいた方が」

「いやいやワトソン君!こんな“コッコケコー”な推理は笑ってやらないと可哀想じゃないか!ハッハッハ!」

「牟児津様の推理は“荒唐無稽”ではありません。これ以上は本当に、恥ずかしいので」

「なにを恥ずかしがることがある!」

「牟児津様の推理が正しければ、その間抜けはホームズですので」

 

 高らかに笑う家逗は、自分が犯人だと指摘されていたことすら忘れてしまったのか、羽村の発言で大いに目を丸くした。驚きのあまり言葉も失ってしまったのか、無言のまま他の面々の顔を見る。瓜生田も気まずそうな苦笑いを浮かべている。既に真相にたどり着いたようだ。

 

「上野さんに聞いたよ。家逗さんは毎朝ここに来て生物部にあいさつしてるらしいね。そしてそのとき、そこのベンチに座って一休みしてるんだとか」

「い、いや……そんなことは……」

「はい。ホームズは毎朝、学園中を歩いて事件がないか調べるのが日課です。ここはよく日が当たって日向ぼっこに最適なので、ホームズのお気に入りの休憩場所です」

「おいワトソン君!余計なことを言うな!」

「今朝もそうだったんでしょ?そこのベンチに座って日向ぼっこをしていた。当然、今と同じ格好で」

「ま、待て……!いや、そんな……まさか……!」

「今朝、この場所は全てが一直線に並んでたんだ。生物部の部室、芝生、その上にちゃっぱちゃんのケージと、コール君のケージ。さらに東側には家逗さんが座ってるベンチ。そして、そのもっと奥には昇ってたよね──太陽」

 

 家逗の脳内に、朝の情景がフラッシュバックする。東の空に昇った太陽が降らせる、暖かい朝の日差し。まさに牟児津が示すベンチに座って日向ぼっこをしていた。そのとき、確かに今と同じ格好をしていた。同じ服を着て、同じ帽子を被って、同じ靴を履いて、同じ物を手に持っていた。

 

「うっ、おおお……!」

「家逗さんが今と同じ格好をしてたんなら、そのときも持ってたはずだよね?そのでっかい虫眼鏡」

「ぐっ……!」

「東から差した太陽光は、ベンチに座ってた家逗さんの虫眼鏡を通過して一箇所に集まる。それが偶然、コール君のケージの上だったんだ」

「うぐぐっ……!うぐぐぐぐうつ……!」

「だから、これは全部偶然なんだ。偶然ここに置かれたケージに、偶然虫眼鏡の焦点が合って、偶然そこからコール君が網を破いて逃げ出した。敢えて、この事件に犯人がいるとするなら……それは家逗さんしかいないんだよ」

 

 まるで雷に打たれたように、家逗はその場で固まった後、膝から崩れ落ちた。頭は熱を帯びるほどに空転する。先ほどの意趣返しに推理の粗を突いてやろうと。しかし何も思い浮かばない。今朝、自分がここで日向ぼっこをしていたのは事実だ。そのときにケージが置かれていたのも、似安たちの証言を信じれば事実だ。虫眼鏡の焦点がケージに合っていたかは確かめようがないが、ケージの一部が熱で溶けているのは事実だ。否定しようとすればするほど、それが覆しようのない事実であることを突きつけられる。

 

「おおおっ!ま、まさか探偵が犯人だったなんて……!そしてそれを別の探偵が解き明かすなんて!こんなドラマチックなことがあるんですか!」

「ドラマチック、かな……?」

「だから言ったでしょう、ホームズ。恥ずかしいことになるって」

「くっ……!うううっ……!わああああんっ!!」

「うわっ」

 

 羽村がそばに寄ると、家逗は大声をあげて泣き出した。あまりに大きな声だったので、牟児津は驚いて耳を塞いだ。羽村は家逗を抱きしめて、自分の制服でその泣き顔を隠す。家逗は何の言い訳も反駁もせず、ただ泣くばかりだった。これまで牟児津が追及した犯人は、程度の差こそあれ、多くはその推理を否定するなどの抵抗を見せてきた。家逗はそれが一切ない代わりに、感情の爆発力が凄まじい。

 

「ああああんっ!!ごべんだざあああああっ!!」

「子どもの泣き方だよ。可愛い人だねえ」

「見た目が小さいからまだ見られるけど、年上だと思うと結構キツいよ」

「皆様、家逗はこの通り、罪を認めて謝罪しています。私からも皆様に謝罪します。こんな事件を起こしてしまい、巻き込んでしまって申し訳ありませんでした」

「いや、羽村さんが謝ることはないと思うけど」

「保護監督者としての責務です」

「保護監督者なんだ」

 

 確かに、今の状態は完全に羽村が保護者で家逗が被保護者だ。実際の年齢や会長と副会長の立場などどうでもよくなるくらいに、2人にはそれが似合っていた。本人たちがいいならいいのだろう。敢えて牟児津は突っ込むことをしなかった。

 こうして家逗は自らの犯行、もとい失態を暴かれ、全ての真相は明らかになった。

 が、事件はまだ何も解決していない。

 

「私から申し上げるのもなんですが、牟児津様、今のお話は事件の解決にはほとんど寄与しないものかと」

 

 家逗をあやしながら、羽村が核心に触れる。猫同好会からの依頼は、消えた猫を連れ戻すことだ。キャリーケージを破って逃がした犯人を突き止めることも事件解決の一環だったかも知れないが、それだけで解決とはならない。そして、ここからは推理ではどうにもならない領域になる。

 

「そうなんだよね……誘拐なら犯人がコール君の居場所を知ってるんだけど、これただの脱走だから、いよいよどこにいるかはコール君次第ってことに……」

「そ、そんな!それじゃあコールは……戻って来ないんですか!?」

「そりゃないですよ!せっかく探偵同好会を頼ったのに!なんとか見つけてくださいよ!お願いします!」

「何か、コール君が行きそうな場所の手掛かりとかないの?」

「ちょうちょを追いかけて脱走してしまうくらい好奇心旺盛なので、興味の向くままどこまでもとしか……」

「参ったなあ……あっ」

 

 困り果てた牟児津に、再びひらめきが訪れる。ガシガシ頭を掻いて下を向くと同時に思い出した。そもそも事件の真相に気付くきっかけもこれだった。牟児津は、瓜生田に言う。

 

「大村さんを探そう!」

「え?大村さん?」

「大村さん……環境美化委員の大村廻様ですか?」

「うん。家逗さんが飛びかかってくる前に、今日はやけに動物の糞があちこちに落ちてて掃除が大変だって大村さんが話してたんだ。たぶんそれってコール君のことじゃない?」

「あの子ホント……ちゃんと決まった場所でするように言ってるのに……」

 

 大村との会話を思い出し、牟児津はコールを探す手掛かりをそこに見出した。似安は顔を真っ赤にしながらも、光明が見えたことに希望を持たずにいられない。

 

「ムジツさん、よく思い出したね」

「うん。さっきベンチのとこで猫の糞ふんじゃって思い出した」

「あっ……そう。猫糞じゃったんだ」

「汚い大喜利すんなって」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 日が傾く中、牟児津たちは大村の姿を探した。今日はコールが学園中に撒き散らした糞を掃除するため、閉校時刻ギリギリまで残ると言っていた。しかしそれは同時に、大村があの暴走掃除機で学園中を移動していることにもなる。自分たちより遥かに速いスピードで不規則に移動する大村を探し出すのは困難だった。方々を巡った末に、牟児津は生物部部室前のベンチまで戻って来て、そこへ倒れるように座り込んだ。

 

「ぜぇ……!ぜぇ……!全然いねえ……!どこ行ったんだあの子……!」

 

 休憩していた牟児津の元に、猫同好会の2人と探偵同好会の2人も戻って来た。家逗はまたもや目を真っ赤に腫らして鼻をすすり、羽村に手を引かれてなんとかついてきていた。もはや完全に足手まといである。

 

「どう?見つかった?」

「いいえ。大村様ならどちらにいてもよく目立つと思うのですが」

「どうしよう……だんだん暗くなってきた……!コール……!」

 

 陽が延びてきたとはいえ閉校時刻頃はまだ暗い。タイムリミットが近付くにつれて視界は明るさを失い、反対に焦りは募っていく。せめて今日のうちに手掛かりを見つけないと、本格的にコールを連れ戻すのは不可能になってくる。しかし、牟児津たちに打てる手立てはない。困り果てて頭を抱えそうになったとき、空から声が降って来た。

 

「ムジツさーーーん!」

 

 それは瓜生田の声だ。全員が声のする方を見る。オレンジ色から青色へのグラデーションが美しい空の中、屋上の縁から身を乗り出して手を横に振る瓜生田がいた。

 

「うりゅだ!どしたのーーー!?」

「大村さんいたよーーー!!」

「マジで!?どこーーー!?屋上ーーー!?」

 

 牟児津の問いかけに、瓜生田は縦に手を振って応えた。

 

「下ーーー!!気を付けてーーー!!」

「んぇ?」

 

 瓜生田の言葉を理解するより先に、牟児津の横を爆音が過ぎ去った。続けざまに突風が顔面を襲う。

 

「待たんかああああああッ!!!」

「だわあああっ!!?おぼああああっ!!?」

「にゃあああっ!?なんだなんだなんだあああっ!?」

「あ、あれは!バキューム君2ndE(エディション)!大村様です!」

「コール!」

「えっ」

「いま、コールが大村さんに追いかけられてた!コール!」

「ちょっ、こばん!?待ってよーーー!」

「待って待って待って。色々いっぺんに起こりすぎて何が何だか……!」

「探していた猫がいたんだ!行くぞワトソン君!」

「はい!牟児津様もお遅れなきよう!」

「えええっ!?」

 

 大声をあげながら現れた大村は、いくつかの展開といくつかのツッコミどころをもたらして、一瞬のうちに去ってしまった。飛び出した似安を追いかけて富綴が、事態をいち早く理解した家逗と羽村がその後に続き、牟児津は訳も分からないうちにその後を追っていた。

 同じころ、瓜生田は大声を出した疲労から、屋上から降りる階段の途中で力尽きていた。



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第4話「やるしかないではないか!」

 

 出遅れた探偵同好会の2人と牟児津は、似安と富綴、そして大村が立ち止まっているところを見つけた。3人は大きな木の根元に集まっており、一様に上を見上げている。

 

「どうしたんだ君たち!」

「むっ、なんですかあなたたち……おお!牟児津先輩ではありませんか!まだ帰ってなかったんですか。こちらの方々は?お知り合いですか?」

「はあ、はあ……!お、大村さん……!ひぃ、あの、猫……!」

「瓜生田さんがいないとは珍しいこともあるものですね。また何かに巻き込まれたんです?」

「聞いて話を……」

「コール!降りて来て!コール!」

「へ」

 

 疲れ果てたところに全力ダッシュを強いられ、牟児津は既に疲労の限界を迎えていた。そこに、似安の叫ぶような声が聞こえてくる。まさかと思い木の上を見ると、やや薄暗い中でも判別できる、白と黒のぶち模様の猫が枝の先で丸まっていた。体にあるハートマークの模様がよく分かる。

 木の枝は建物の2階か、それよりもう少し高い。どう考えても手が届く高さではないし、大村の掃除機のノズルも届かない。

 

「そうだ先輩!あの猫めが糞害の犯人でした!現場を押さえ、ここで会ったが百年目とばかりに追いかけ回していたら、あそこまで逃げてしまったんです!牟児津先輩!学園美化活動に協力すると思って、なんとかとっ捕まえてください!」

「私ゃ消防団か!できるか!先生か誰か呼んできてよ!」

「お願いします牟児津先輩!あのままでは怪我をしてしまいます!なんとかコールを助けてください!」

「い、いやだから私には無理だって。木登りなんてできないし、あんな高いところ……」

 

 ようやく見つけたコールは、手の届かない高さで立ち往生していた。身軽な猫とはいえ、あの高さから落ちて万が一のことがあるかと思うと、似安の心配も尤もだ。だが牟児津にはどうすることもできない。高所の猫を捕らえるのは、推理で犯人を突き止めるのとはわけが違う。

 そうしている間にも陽は傾き、世界は夜へと向かっていく。困り果てた牟児津たちを背に、少女は一歩踏み出した。

 

「これを持っていろワトソン君!」

「えっ……!?ホ、ホームズ!?何をする気ですか!」

「でりゃあああっ!!」

 

 鹿撃帽とインバネスコートを羽村に預け、ワイシャツにサスペンダー姿になった家逗が、木の幹にしがみついた。そのまま勢いに任せ、よじよじと木を登っていく。体が小さいため登るスピードは速くないが、その分軽いので一定のリズムを崩さず少しずつ登っていける。

 

「ホームズ!危険です!降りてきてください!」

「家逗さんやめときなって!いま先生呼んでくるから!落ちたらケガするよ!」

「くっ……!ううっ……!ハッ……!ハッハッハ!ハッハッハッハ!」

「な〜んで笑ってんですかあ?」

 

 ついにおかしくなったか、と牟児津たちは不安がる。しかし、家逗は強気な表情を牟児津たちに向けて応えた。

 

「どうやら決闘は私の勝ちのようだな!牟児津真白!言っただろう!どちらが先に()()()()()()()()勝負だと!私の失態を詳らかにして得意げになっていたようだが、結局それでは依頼を全うしたことにはならん!これが本物の探偵というものだ!よおく見ておけ!」

「まだそんなこと言ってんのかアンタ!マジでケガする前に降りて来いって!」

「お待ちください、牟児津様」

「えっ!?は、羽村さん……!?」

 

 どう見てもただの強がりだった。この期に及んで決闘の勝ち負けなど、牟児津にとってはどうでもいいことだ。だが、少なくとも家逗にとってはそうではなかった。

 

「そもそも……!そう、そもそもだ!これは私が受けた依頼じゃないか!猫を探して欲しいと依頼され、任せておきなさいと請け負ったんだ!話を聞いて現場を捜査し、推理の末に犯人を突き止めた!

 しかし蓋を開けてみればどうだ!推理はヘッポコ!捜査は不十分!挙句の果てに事件の犯人は私自身ときた!何が決闘……何が名探偵だ……!私ひとりが周りに迷惑をかけてばかりじゃないか!似安君と富綴君の期待を裏切り、牟児津真白と瓜生田君を巻き込み、生物部に迷惑をかけ、ワトソン君の手を煩わせてばかりだ!

 それでもようやく……ようやく目の前にコール君が現れたんだ!ようやく、私が活躍できるときが訪れたんだ!」

 

 木にしがみつき、足を滑らせて少しずり落ち、なんとか持ちこたえてさらに登る。服が木に引っかかってほつれ、必死にしがみついた手はぼろぼろになる。それでも家逗は登ることを止めない。

 

「たとえ彼を捕まえることができたとしても、それで私のしたことが許されるわけじゃない!ただ自分の失態の後始末をしているだけだ!先輩として、探偵として、君たちに見せられる背中なんてありやしない!

 でも……!でもそれすらできないのでは……!自分のしたことの責任も取らせてもらえないようでは……あまりにも情けないじゃないか!あまりにも惨めじゃないか!」

「そりゃそうかも知れないけど……!でもそんな無茶までしなくても……!」

「この事件が真に解決するそのときに、私は名探偵だと胸を張って言いたい!私が解決したのだと笑いたい!そのためには無茶のひとつやふたつしないと私は私を許せない!ならば声が震えるほど怖かろうと!涙で目の前もろくに見えずとも!手と足が限界まで痛もうと!やるしかないではないか!」

 

 牟児津たちは固唾を呑んで見守る。叫びながら、涙をこぼしながら登っていく家逗から、目を離すことができなかった。上級生として、探偵として、家逗が必死になっている姿を、無視することも邪魔することもできなかった。

 そしてやっと、家逗はコールのいる枝まで登り切った。太い枝にまたがると、家逗は改めてその高さを実感した。下から見上げるより上から見下ろす方が、はるかに恐怖感が増す。

 

「ううっ……!コ、コール君!今から助けに行く!そこでじっとしていなさい!」

「うわあっ……!マジでえ……!?」

 

 家逗は、枝の先で丸まっているコールに呼び掛けた。コールは枝の先から動かない。枝にまたがったまま、少しずつ家逗は前に出る。太い枝は家逗ひとりが乗ったところでびくともしない。だがバランスを崩してしまえば家逗は真っ逆さまだろう。下が土とはいえ、下手をすれば大怪我は免れない。家逗は自分自身に言い聞かせる。

 

「だ、大丈夫だ……!大丈夫……!これだけ太い樹なら風にも強い!私は軽いから大丈夫だ!ううっ」

 

 進むほどに、両足で感じる枝の太さは明確に変化していく。中ごろまで進むと、幹の近くでは感じなかった些細な枝の揺れすらも敏感に感じ取れてしまう。枝が小さく上下に振れるたびに、体全体が押上げられては落ちる感覚がする。高さと揺れの相乗効果で恐怖は数倍に膨らむ。まだしっかりと太い枝も、根元に比べるとか細く心許ないものに感じる。そして時間が経つほどに鮮明になる、転落の想像。これ以上先へ進むべきではないと本能が拒絶する。

 

「んぐぐっ……!ふぅーーーっ!!くおおおっ!!」

 

 自分を奮い立たせるため、家逗は大声を出す。少しずつ、しかし着実に、家逗は枝の先端に近付いていく。もはやいつ落ちてもおかしくないほど、家逗は疲弊しきっていた。もはや似安は見ていられず目を伏せてしまっている。大村は大慌てで教師を呼びに行った。富綴は青ざめた顔で耳を塞いで俯いている。牟児津と羽村だけが、家逗が前に進む姿を見ていた。もう少し、手を伸ばせばあと数センチでコールに届くところまで、家逗はやって来た。

 

「コール君、こっちに来なさい……!大丈夫だ……!」

 

 恐怖を堪え、可能な限り優しい声色で、家逗はコールに呼び掛けた。

 しかしコールは応じない。それどころか激しく家逗を拒絶し、爪を剥いてその手を叩いた。

 

「っく!」

「あっ!ホ、ホームズ!」

「ええっ!?めちゃくちゃ気性荒いじゃんあの子!」

「いいえ……おそらく、ホームズだからです。ホームズは、特別動物に懐かれないのです」

「じゃあ相性最悪じゃん!もっと早く言ってよ!」

「ホームズの熱い想いに胸を打たれて……失念していました……」

「ヤバいヤバいヤバい!泣いてる場合じゃないから羽村さん!ハンカチしまって!」

 

 もう既に手が届くところまで近付いている。それなのに、家逗の体質が災いしコールは全く近付こうとしない。もどかしい気持ちは焦りになり、判断力を鈍らせる。このまま枝の上で睨みあっていても、先に家逗の体力が尽きて落ちてしまうだけだ。

 それならいっそ……と家逗の脳細胞が喚き立てる。大量の興奮剤と脳内麻薬が分泌され、理性と判断力を犠牲にして不安と恐怖を掻き消す。心臓が激しく鳴り響き呼吸が荒くなる。湧き出す全能感と多幸感。もはや家逗には、救出成功の運命しかなかった。体が自由になる。

 誰かが気付く間もなく、家逗は枝から跳ね上がり、コールに飛びかかった。

 

「あ──」

 

 スローモーションのように流れる時間。コールは突然のことに動けず、家逗の両手がその体を掴む。激しい達成感と幸福感が手のひらから脳の奥、そして全身に伝わる。体が地面へ落ちていくことすらも忘れるほどの高揚。家逗はただ、捕まえたコールをしっかり抱きしめていた。

 

「だああああああああっ!!!」

 

 一瞬の判断ミスが取り返しのつかない事態を招く。逆に、一瞬の適切な判断が取り返しのつかない事態を防ぐこともある。今の牟児津は後者だった。家逗とコールの落下地点に、考えもなく飛び込んだ。小さいとはいえ、落ちてくる人間と猫1匹を受け止められるのか。受け身を取って衝撃を逃がせるか。そもそも飛び込んだところで間に合うのか。そんなことは一切思考の埒外にあった。ただ、飛び出さなければいけないと感じた瞬間、行動は既に終わっていた。自分の背中を突き飛ばしたようだ。

 

「ダバらしゃゴろふげひげッ!!」

 

 落ちてきた家逗と飛び込んだ牟児津。2人はひとかたまりになりながら勢いのまま転がり、近くの樹に衝突して動きを止めた。牟児津は思いきり後頭部を打ち、視界に星が瞬いた。すぐさま羽村たちが駆け寄る。

 

「ホ!ホームズ!牟児津様!大丈夫ですか!ど、どど、どなたか保健委員を!富綴様!」

「は、はい!」

「コール!コールは!?」

 

 ずたぼろになった牟児津と家逗を見て、羽村は顔面蒼白になる。すぐさま富綴に指示して保健委員に連絡を取り、2人の安否を確かめるため近寄る。

 

「う〜〜〜ん…………ふがっ、あえ、わ、私…………何を……?」

「いたたたたたたたたっ!!痛い痛い痛い!!っぷあ!!」

「ぎゃあっ!いてえ!!?」

 

 牟児津が我に返るのと、家逗の悲鳴が聞こえるのはほぼ同時だった。何かが2人の体の間で暴れ、周囲を引っ掻き回しながら外に飛び出した。すかさず似安がそれを受け止める。コールだ。

 

「コール!ああっ!コール!」

「コール?と、ということは……ホームズ……!」

「くっ……ふっ、ハハ……!い、いらい……たっ、せい……だ……!」

「ホームズ……!」

 

 顔をひっかき傷だらけにした家逗が微笑んだ。強い恐怖が消えきらず半分は引きつり、傷だらけで力ない、今にも消えそうな笑顔だ。だが羽村には、いつもの尊大な張りぼての笑顔よりもまぶしい笑顔に感じられた。羽村は涙で顔を濡らしながら、優しく家逗を抱きしめた。

 

「……ぐへえ」

 

 その隣で、牟児津は本当に力尽きて気を失った。

 同じころ、瓜生田は階段の上り下りで疲れ果て、昇降口前で真っ白に燃え尽きていた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 事件を解決した後の探偵同好会の部室は、キャリーケージがなくなったことで一層寂しく感じられた。そんな質素な部室で、ホームズこと家逗詩愛呂は怒っていた。机にはその日の学園新聞が広げられており、一面で『愛の猫誘拐事件』が取り扱われていた。大きく掲載された写真には、戻って来たコールを抱きしめる似安の笑顔が写っていた。その奥に、顔が判別できない程度にピントがぼかされた牟児津と、家逗を抱きしめる羽村の後ろ姿があった。

 

「許せん!これではまるで牟児津真白が事件を解決したような書き方じゃないか!」

 

 見出しの後に続く記事には、こう続いていた。

 

 

 ──────

 

 『名探偵』が学園で起きた事件をまたも解決へと導いた。昨日の昼休み、似安氏(1−C、猫同好会会長)の愛猫コール君が忽然と姿を消す事件が発覚した。我らが名探偵──牟児津氏は、その事件に隠された複雑怪奇な謎を華麗に暴き、その真相を解明したのだ。現場に記者が駆け付けたとき、牟児津氏は己を顧みない勇敢な行動のため気を失っており、その後ただちに保健委員に搬送されたため、残念ながら取材することはできなかった。保健委員関係者によると、牟児津氏はその日の閉校までには意識を取り戻し、無事帰路に就いたとのことだ。以降は現場に居合わせた数名の生徒が、当時の状況を振り返り、その鮮やかな推理劇の様子を語った証言を元に記述するものである。

 

 ──────

 

 

「仕方ありません。学園新聞はどこよりも早く牟児津様に注目していましたし、番記者までつけるほど牟児津様寄りのメディアですから。ホームズのことも書いてありますよ」

 

 羽村は水筒の蓋に注いだ紅茶を家逗に差し出し、学園新聞の隅を指さした。長々と書かれた牟児津を称賛する記事に比べて、たった2行きりの少ない言葉で、こう書いてあった。

 

 

 ──────

 

 なお、本事件の解決には探偵同好会が大きく助力しているということが、取材の結果判明した。 『名探偵』にライバル出現となるか。今後に期待する。 (益子(ますこ) 実耶(みや)

 

 ──────

 

 

「誰がライバルだ!!ついでみたいな書き方をするな!!というか取材の結果判明したじゃなくて直接取材に来い!!なに人伝に聞いて済ませてるんだ!!あと猫を連れ戻したのは私なんだから助力じゃなくてメインに書くべきだろ!!」

「こればかりは私に言われても。これを書いた記者の方に言ってください」

「くそぉ〜〜〜!こっちは顔中ひっかき傷だらけにまでなったというのにぃ〜〜〜!」

「むしろ木から落ちた時点では無事だったことが驚きです。頑丈な体に産んでくださったご両親に感謝してください」

「その日にした!」

「受け止めてくださった牟児津様にもですよ」

「ぐぬぬ……ひ、ひとつ“借り”としておく……!」

 

 それが今の家逗にできる最大限の譲歩だった。牟児津の無謀な飛び込みがなければ、家逗は頭から地面に突っ込んでいて、おそらく無事では済まなかった。その点については心から感謝しているが、素直にそれを口にするのは、学園新聞の扱いを踏まえると悔しすぎて不可能だった。

 

「そんなに悔しがらなくてもいいじゃないですか。念願の学園新聞デビューですし、写真にも写っていますよ」

「足だけじゃないか!こんなのではデビューしたと言えん!ノーカン!ノーカン!」

「自分に厳しい姿勢は素晴らしいと思います」

 

 家逗は満足していないが、探偵同好会の名前が学園新聞に、それも注目度の高い牟児津関連の記事に掲載されたのは、今後の活動で多少なりとも有利に働くだろうことを、羽村は感じていた。その意味でも、今回の事件では牟児津に借りを作りっぱなしだ。このまま上手く家逗の手綱を握って牟児津と協力するよう仕向ければ、探偵同好会の名前をさらに知らしめることができる、と羽村は密かに企んでいた。それは、家逗の悲願を叶えるために必要なステップだ。そのためなら羽村は、あらゆる手を尽くすつもりだった。

 そんな秘めたる思いを紅茶とともに飲み下し、羽村は学園新聞を読み始めた。家逗は紅茶をぐいと飲み干し、今日も牟児津への激しい対抗意識を燃え上がらせるのだった。

 

「この借りはいつか返してやる!待っていろよ牟児津真白ォ!!」



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その10:英単語テストカンニング事件
第1話「ついにやったか」


 

 ついにやったか──クラス中の心の声が聞こえてくるようだった。

 責めるわけでもない。なじるわけでもない。ただただ冷たく、憐れむような視線。四方八方から突き刺さる針の中心で、牟児津(むじつ)はただ震えていた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 空調に整えられた快適な空気が室内に満ちる。心地よい疲労感が体中に染み渡る。勢いよくファンを回すノートパソコンが熱を帯びる。職員室を構成するあらゆる要素が、大眉(おおまゆ) (つばさ)を気絶のような睡眠へと誘っていた。

 

「──ぐがっ……んっ、おおっ、寝てた……」

 

 眠りが浅いうちは、自分のいびきで意識が表層へ呼び戻される。大眉はマグカップに残ったブラックコーヒーをあおり、眠気に強く抵抗した。

 

「げほっ!えっほ!」

 

 寝惚けながら流し込んだコーヒーが少し気道に入った。抑えきれない生体反応が、図らずも大眉に眠気を忘れさせる。

 窓の外に目を向ける。もう明るい。この日、大眉は積もりに積もった仕事を片付けるため、夜通しパソコンを睨んでいた。特別難しい仕事でもなければ数が多いわけでもないのだが、大眉は要領が悪かった。デスクの上に大量のファイルや文書が重なって、今にも崩れそうだ。

 

「……あ。今日のテスト印刷しねえと」

 

 今日は、大眉が担任を務めるクラスで簡易な英単語テストが実施される日だった。専用のソフトを使えば、20問程度の単語テストは簡単に作成可能だ。手慣れた操作で、大眉はクラスの人数分の答案用紙と模範解答を印刷する。

 大眉は席を立った。

 

「っとと……」

 

 立ち上がると目の前がぶわっと暗くなる。頭を振ると脳が揺さぶられて鈍痛が起きる。ふらふらと覚束ない足取りでデスクの隙間を抜け、プリンターが吐き出した紙束を手に取った。

 

「あ」

 

 空けておくべき解答欄に答えが印刷されていた。模範解答を2回印刷してしまったようだ。慣れていると思って油断していたせいで確認を怠った。

 

「はぁ──あいてっ!あっ!」

 

 席に戻る途中、足をデスクの角にぶつけてしまった。骨まで響く激痛。手に持っていた物を思わず投げだした。数十枚の紙が床に広がる。

 

「くっ……うっ……!」

 

 模範解答を2回印刷した失敗よりも、誰もいない職員室で残業に勤しむ孤独よりも、実際に足に走る痛みが大眉にとっては辛かった。もうじき教職員の始業時刻である。少しでも体を休めようと、大眉は印刷し直したテスト用紙を茶封筒に入れ、それを枕にデスクで眠った。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 時園(ときぞの) (あおい)はうんざりしていた。ため息で単語帳のページがめくれそうになるのを、牟児津(むじつ) 真白(ましろ)の手が押さえた。なぜ牟児津の物覚えがこんなにも悪いのか、普段の活躍を思うと不思議で仕方なかった。

 今日、牟児津のクラスでは朝のHRで英単語テストが行われる。20個の英単語を和訳する簡単なものだ。牟児津はこのテストの成績が非常に悪かった。コツコツ勉強するということをしないため、いつも直前に詰め込もうとして間に合わず、ハチャメチャな答案を作って0点を食らうということを繰り返している。

 そんな牟児津が、今日に限っては必死の形相で、教えてほしいと時園に泣きついてきた。訳を聞くと、今日のテストで満点を取らないと小遣いをカットされてしまうのだとか。0点回避でなく満点を条件としているところから、牟児津の両親の怒りが伝わってくる。それでも全く懲りず直前まで勉強しない上、当日の朝までテスト範囲を勘違いしていたという信じられない牟児津の為体(ていたらく)に、時園は心の底から呆れ果てた。

 

「覚えたわね?じゃあこれは?」

「……分かりません」

「じゃあ、1個前のこれはどう?」

「うっ……分かりません」

「……これは?」

「……わ、分かりません」

「視力検査じゃないんだから、分かりませんじゃなくて何か答えなさいよ」

「覚えたのをどれか言えば当たるかも知れないですから、何か答えた方がいいですよ!」

 

 クエスチョンマークがエノキのように牟児津の頭に生える。横で一緒に勉強していた葛飾(かつしか) こまりが懸命に応援するも、牟児津は糸が切れた人形のように机に突っ伏してしまった。

 

「無理だよ〜!20個もいっぺんに単語覚えるなんてできるかフツー!?」

「毎日ちょっとずつ覚えていけばいっぺんに覚えなくていいのよ。ていうか、この単語分からなくて教科書の英文読めるの?」

「買ってすぐうりゅに日本語訳書き込んでもらったから、そっち読んでる」

「わざわざ教科書の意味失くすことを瓜生田(うりゅうだ)ちゃんにさせないの!……あの子、2年生の教科書読めたの?入学してすぐの頃に?」

瓜生田(うりゅうだ)さんなら読めるでしょうね〜」

「そりゃ読めるよ!うりゅだもん!」

 

 葛飾は苦笑いし、牟児津はなぜか胸を張る。胸を張るべきは、高校の授業が始まるより前に2年生の教科書を問題なく読めた瓜生田(うりゅうだ) 李下(りか)の方だろう。

 瓜生田は、牟児津の幼馴染みである優秀な1年生だ。おおよそこのクラスの全員がそう認識している。以前から牟児津は瓜生田のことをよく話していたし、何人かは直接言葉も交わしていた。礼儀正しく、物腰柔らかで、子供っぽい牟児津を支えている頼れる後輩だ。

 しかしそんな優秀な後輩も、単語テストは助けてくれない。その時間、瓜生田は自分のクラスにいなければならないのだ。

 

「情けないこと言ってないで、せめて1点でも取れるようになりなさい」

「1点じゃ意味ないんだって!満点だよ満点!時園さぁん、こまりちゃぁん……なんか裏技とかないのぉ〜?」

「ゲームじゃないんですから」

「裏技なんかあるわけないでしょ。こういうのは毎日コツコツ努力して積み重ねるのが大事なのよ」

「毎日コツコツ努力しないでも積み重ねられる方法を教えてよ〜」

「ダメな小学生みたいなこと言いますね」

「もう……仕方ないわね。急場しのぎは好きじゃないんだけど、奥の手を教えてあげるわ」

「おおっ!いいじゃんいいじゃんあるんじゃん!」

 

 牟児津があまりにも必死で、あまりにも物覚えが悪いので、時園は非常に不本意ながらも、最終手段に打って出た。

 牟児津らが使っている単語帳は、掲載されている英単語に通し番号が振ってあり、テスト範囲はこの番号で指示される。時園が提案したのは、番号の小さい順に日本語訳だけを覚える方法だ。つまり、英単語は一切覚えなくてもいい。

 

「単語の通し番号は問題に載ってるから、覚えた順番通り埋めて行けば満点取れるわ。日本語だけだったら20個くらいなんとか覚えられるでしょ」

「なーるほど!あったまいー!」

「……確かに覚えやすいですけど、これ何の意味もないんじゃないですか?」

「ないわよ。テストの意味がなくなるし何一つ学びにならないからこの方法イヤなんだけど……牟児津さんだしね」

「なにそれ、どういうこと?」

「いいのよ気にしないで。覚えた?じゃあチェックするから単語帳閉じて」

 

 ほんの1分ほど覚える時間をとって、時園は先ほどと同じ指差し確認でチェックを始めた。さっきは1つも答えられなかった牟児津だったが、今度はおおよそ半分に答えることができた。

 

「すげー!一気に10個覚えられた!あと半分よゆーだわ!」

「これはひどい」

「でしょ?」

 

 興奮する牟児津に対して、時園と葛飾は白い目を向けた。

 思わず時園の口からため息が漏れる。こういう浅はかな手段を使い続けた結果、時園は2年生のクラス替えテストで散々な点数をとり、結果として学年成績最下位のDクラスに押し込められてしまったのだ。付け焼き刃をしても鈍刀は鈍刀に過ぎないことを、時園は身をもって知っていた。

 

「葛飾さんは?もう大丈夫なの?」

「はい、ばっちりです。私も時園さんと同じコツコツタイプですから。英和も和英もどんとこいです」

「でもこまりちゃん、あんまり定期テストとか成績良いイメージないよ。なんで?」

「いやあ、あの、ケアレスミスが多くて。えへへ。漢字を書き間違えてたり、解答用紙を表裏間違えてたり、名前を書き忘れたり……」

「見直ししないの?」

「見直ししてミスが見つかると焦っちゃって、それが次のミスを引き起こして、それがまた別のミスにつながって……という感じです」

「不器用ねえ」

 

 葛飾は照れ臭そうに笑った。生来の真面目な性格のおかげで、葛飾はコツコツ努力することをさして苦に感じない。毎日、できることや分かることが少しずつ増えていくのは喜びであるし、それ自体が次へのモチベーションになる。

 しかし葛飾は器用さと冷静さに欠けていた。英単語の意味の理解は完璧なのに、答案という形に落とし込もうとするとなぜか必ずミスをする。本質的には習得できているのに、それを形式的に示すことが苦手だった。おかげで葛飾は本来の実力を発揮できないまま、Dクラスに甘んじている。

 そんなわけで、時園と葛飾は純粋な学力なら上位のクラスにも食い込める、潜在的優等生であった。その2人に指南された牟児津は、すっかり余裕綽々の態度で自席に戻った。

 

「あ、そうだ。時園さんシャーペン貸して」

「なんでよ。自分のがあるでしょ」

「ぶっ壊れちゃって5回ノックしても1回しか芯が出ないんだよ〜!ほら!」

 

 牟児津は時園の目の前で、ペンを連続でノックする。1、2、3、4、5……芯が繰り出されたのはそのうちの1回だけだ。ハズレの4回はどれも、足を踏み外したような間抜けな音がした。

 

「そんなの使ってないで買い直しなさいな。購買に新しいのが売ってるじゃない」

「だって小遣いカットされちゃったし……おやつ買ったら全然残んないし……」

「糖分に脳みそ支配されてるんじゃないのあなた。悪いけど、人に貸せるシャーペンは持ってないわよ」

「くそ〜!じゃあごめんだけどめちゃくちゃノックするからうるさがらないでよね!(むろ)さんも!宝谷(ほうたに)さんも!大間(おおま)さんも!ごめんね!」

 

 牟児津は、前後左右の全員に実演しながら一声ずつかけた。後ろの席の(むろ) 皐月(さつき)は無言のサムズアップで応え、正面の大間(おおま) 眞流々(まるる)は振り返って丸く微笑み、右隣の宝谷(ほうたに) 緋宙(ひそら)は俯いたまま「ほぅ」と小さくつぶやいた。

 

「え?どったの宝谷さん?全然元気ないじゃん」

「うぅ……マッシ〜……!緋宙ね……演劇部やめちゃうかも……!」

「はっ!?な、なんで!?」

 

 思いがけない発言に、牟児津だけでなくその奥にいた時園も、大間も室も驚愕の表情を浮かべた。

 演劇部といえば、多種多様な部が林立するこの学園でも有数の大型部活で、宝谷はその中の幹部生、すなわち次期部長候補にも等しいエリートだった。それでなくても、いつも前向きで楽観的な宝谷がそんなネガティブな発言をするというだけで、大事件を予感させる。

 

「パパがね……今日の単語テストで満点取らないと、いい加減塾に入れるって言うの……。緋宙があんまりにも家で勉強しないから。でもそんなことしたら演劇部行ける時間なくなっちゃうよ〜!」

「な、なんだってー!?大変じゃん!」

「勉強すればいいと思う」

「だって部活で疲れてるのに家でまで勉強なんてやりたくないじゃん!ね!マッシー!」

「そうだそうだ!」

「牟児津さん、帰宅部でしょ?」

「同じ演劇部でも加賀美(かがみ)さんはしっかり勉強してるんでしょ。宝谷さんの自業自得じゃない」

「ぶへぇ〜〜〜ん!」

 

 時園の冷たい言葉に、宝谷はたまらず不細工な泣き声をあげた。牟児津は宝谷の舞台を見たことがあるが、そのときの宝谷は心の底から楽しそうに踊り、歌い、演技をしていた。それが奪われかねないとあれば、深刻にならざるを得ないというものだ。誰に問題があるかなどという面倒なことは問題ではない。

 

「自業自得なんて残酷なこと言わないでよ!宝谷さんだって頑張ってるんだよ!ほら、宝谷さんの単語帳見てよ。こんなにキレイ!」

「使ってないからキレイなんでしょ」

「物持ちがいいだけだもん!中等部で買ったシャーペンだってまだ使ってるし!マッシーとおそろ〜!」

「おそろ〜!」

「なんなんのよ」

 

 現実逃避なのか、短い時間に詰め込み過ぎてハイになっているのか、牟児津と宝谷は時園にウザ絡みをする。そんなことをしていても時間の無駄にしかならない。まるでさっきまでの自分を見ているような気分になった牟児津は、宝谷に救いの手を差し伸べることにした。

 

「よっしゃ、そんな可哀想な宝谷さんに、私が秘伝の裏技を教えてあげよう」

「えっ!?マジで!?やったー!マッシー超優しい!神じゃん!」

「それさっき私が教えたやつでしょ!それに頼っちゃダメよ!戻れなくなるわ!」

「1回だけ!1回だけだから!」

「そうやってみんな悪循環に飲み込まれていくのよ!」

「単語テストの話ですよね?」

 

 加熱していく会話が危険な領域に踏み込み始めたところで、教室の扉が開いた。大量のプリントや教本が詰まったカバンを肩に提げ、眠たそうに目をこすりながら、担任の大眉が入って来た。

 

「ほ〜い、HR始めるぞ〜席着け〜」

「げっ!もう来た!つばセンゆっくりでいいよ!」

「俺がゆっくりしても時間はゆっくりにならねえだろ。いいから出欠取るぞ。席着け」

 

 重たそうなカバンを教卓に置き、大眉は点呼を始めた。牟児津は後半まで呼ばれないので、それまで単語帳を穴が開くほど見つめる。ひとつでも多くの日本語訳を覚えようと、テスト用紙が配られるギリギリまでそうしていた。

 

「牟児津さん、どうぞ」

「ひぇ〜〜〜!も、もうちょっとだけ待って大間さん!お願いだから!」

「カンニングになっちゃう前にしまいなさいね。はいどうぞ」

「おぎゃ〜〜〜っ!」

 

 追い詰められた牟児津が悲鳴をあげる。大間から丸く回って来たテスト用紙が視界に映る前に、単語帳を閉じて机の横に提げたカバンに叩き込んだ。ギリギリ、カンニングにはなっていない。必死な牟児津の様子を見て、大間は丸く笑う。

 

「大丈夫よ。なんとかなるわ」

「や、やるしかないか……」

「早くテストよこせ」

「ああ、ごめんなさい」

 

 室に背中をつつかれ、牟児津はテスト用紙を回した。頭の中では、叩き込んでまだ整理がついていない日本語訳が渦巻いている。全員にテスト用紙が行き渡り、少し間を置いてチャイムが鳴った。それを合図に、牟児津はテスト用紙をひっくり返した。



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第2話「カンペ?」

 

「──ッ!!」

 

 テストは始まった。頭の中で飛び交う番号と日本語訳の塊を、牟児津は極めて小さい声で反芻しながら、順番に解答用紙を埋めていく。その目には数字しか映っていない。番号と解答欄の間にある謎のアルファベットの羅列など、牟児津にとっては何の意味も成さない。

 つい数秒前に覚えたものは、次の数秒が経つ頃には忘れ去られていた。牟児津の脳内における英単語の命はカゲロウより儚い。その僅かな間に、牟児津は日本語訳を文字として目の前に残す。

 

「あっ」

 

 焦りすぎて、牟児津は消しゴムを落としてしまった。すかさず手を挙げて大眉に拾ってもらうようアピールする。大眉は、緩慢な動きで机の間を縫って牟児津の席の近くまで寄ってくる。なんとなくふらふらしていて、足取りは覚束ない。

 

「っとっと──あいてっ!」

「うあっ!」

 

 ただでさえアンバランスな足取りの上、机の間は狭く、引っかけたカバンを避けながら進むのは繊細なバランス感覚が必要だ。そしてこの日の大眉は寝不足だった。大間の丸いカバンに足を引っかけ、大きくバランスを崩した拍子に、牟児津と宝谷の机に体の各所をぶつけて倒れ込んでしまった。

 

「ちょ、ちょっとつばセン!何してんの!」

「ってえ……す、すまん二人とも大丈夫か?」

「先生こそ大丈夫?」

「あ、ああ……えっと、消しゴムだっけ?」

「もうペンもテスト用紙も全部落ちたよ」

 

 大眉が派手に転げたせいで、床には文具と解答用紙が散らばっていた。慌ててそれらを拾い、牟児津と宝谷の机に返す。

 覚えた端から忘れていく牟児津にとって、このアクシデントは大きなロスだ。残りの解答を忘れる前に、急いで空欄を埋める。事故に巻き込まれた宝谷も激しくシャーペンを叩いて必死になっている。事故に巻き込まれなかった一つ前の席の大間はまるまると余裕の様子だ。

 そして、再びチャイムが鳴った。

 

「はいやめ。隣と交換して採点しろ〜。答え配るぞ〜」

 

 いつもは分からなさ過ぎて長く感じていたテスト時間が、今日はほんの数秒のことに感じられた。大眉が転んでロスになった時間分も延長されたようだが、それでも牟児津はギリギリだった。時園と答案を交換して、回って来た模範解答を基に採点する。時園はやはり高得点だ。ちら、と時園の顔色を窺うと、訝しむように目を見開いていた。

 

「えっ……?ええっ……?」

「こわいよ!採点しながら変な声出さないでよ!」

「いや、牟児津さんこれ……」

「ひぇ〜〜〜!!」

 

 牟児津は恐ろしくて耳を塞いでいた。興奮した様子の時園に肩を叩かれ、自分の答案を返される。丸がある。それだけでも牟児津にしてみれば上出来だった。丸はテスト用紙の全面に及び、数えてみれば全部で20個あった。

 

「満点よ!!」

「……へ」

「すっご!やればできるんじゃないの牟児津さん!」

「はへ……マジでえ!?」

 

 戻って来た答案を何度も見返す。模範解答と見比べて時園の採点ミスではないことをよく確かめた。正真正銘、牟児津がつかみ取った満点答案である。思わず牟児津は立ち上がって答案を掲げた。時園が付けてくれた花丸が、蛍光灯の光に透けて鮮明に映る。

 

「やったああああああっ!!満点だああああああっ!!」

「よかったね牟児津さん」

「おー」

 

 雄叫びをあげる牟児津に、大間は丸い祝福を、室は簡素な拍手を、時園は複雑な笑みを贈った。直前まで1単語も覚えられていなかった牟児津が満点を獲得したのは、誰にとっても意外な出来事だった。そして、その隣に座る宝谷もまた、自分の答案を見て震えていた。

 

「マッシー!」

「んえ」

「やったよ!緋宙も満点!満点だー!!」

「宝谷さんも?やったー!!」

「やればできるじゃんかお前ら。毎回これくらい取ってくれればなあ……」

 

 過剰なほどに喜ぶ牟児津と宝谷に、クラス中が祝福ムードになる。たかが単語テストではあるが、それぞれに満点を取らなければいけない理由があった。このテストの点数は、2人の今後の学園生活を大きく左右するものだった。だからこそ、2人とも直前まで必死になっていたのだ。

 

「まあ座れ座れ。回収するぞ」

「あ〜、よかった。これで一安心だ」

「ね。高得点取ると嬉しいでしょ。次からも頑張れるわね、牟児津さん」

「うん。いい覚え方も教わったし」

「だからそれに頼っちゃダメなんだって」

 

 案の定、急場しのぎの覚え方に味を占めた牟児津は、次からも同じ方法で乗り切るつもり満々だった。牟児津があまりに必死だったので時園はつい教えてしまったが、この日何度目か分からない後悔の味を改めて噛み締めた。

 答案の回収が終わり、朝の授業が始まる。1日の始まりに満点を取ると、自然と授業にも前向きな気分になる。牟児津は机の中から教科書とノートを出し、シャーペンをノックした。芯が出てこない。

 

「んっ、使い切ったかな」

 

 軽く振ってみたが中から何の音もしなかった。芯が入っていないようだ。筆箱から補充用の芯を取り出す。ペンのキャップと消しゴムを外す。

 

「おっ?」

「ん?」

 

 外した拍子に、何かが零れ落ちた。それは牟児津の腕をすり抜けて椅子の下に落ち、驚いた牟児津はそれを蹴飛ばしてしまう。後ろの席で見ていた室がそれに気付き、転がったそれを拾い上げる。

 

「落としたよ。なにこれ」

「ああ、ありがと。なんだろ……」

「……え」

 

 それは、細長い紙だった。かろうじて文字が書き込めるほど小さく切り取ったものを、さらに丸めてシャープペンシルの中に入れてあった。自然に開いたそれに書かれた文字が、室の目に飛び込んでくる。

 数字とアルファベットの羅列、そして日本語。(ほど)かれていく紙に記された、走り書きの軌跡。それはついさっきまで目にしていた、テストの解答だった。

 

「これ……カンペ?」

「はっ!?」

 

 ポツと漏れた室の言葉が波紋のように教室に広がる。その言葉が、意味が、衝撃が、小さな波紋から波濤へと変わる。

 

「テストの答え書いてある」

 

 熱に浮かされた後の教室の空気は、その言葉で一気に氷点下に変わる。状況が理解されていくにつれて、牟児津は体が動かなくなっていった。

 ついにやったか──クラス中の心の声が聞こえてくるようだった。

 責めるわけでもない。なじるわけでもない。ただただ冷たく、憐れむような視線。四方八方から突き刺さる針の中心で、牟児津はただ震えていた。



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第3話「異議あり!」

 

 2年Dクラスは3つに分かれ、混沌を極めていた。

 

「牟児津さんは、テスト直前まであんなに必死だったのよ。採点の後の喜び方も、ズルした人の態度じゃないわ」

「そうだよ!それに、牟児津さんは良い人だよ!カンニングなんて卑怯なことするはずない!」

「そーだそーだ!マッシーはやってない!なんかの間違いだ!」

 

 時園、足立(あだち)、宝谷らを中心とした擁護派が叫ぶ。

 

「全然覚えられないからとうとうやっちゃったんだろ!認めちゃえよ!」

「今回のテストは何がなんでも満点取りたかったんでしょ?魔が差したとかじゃないの?」

「ギルティ」

 

 鯖井(さばい)箱根(はこね)、室らを擁する追及派が糾弾する。

 

「私もうどうでもいいんだけど、葛飾さん風紀委員でしょ。どう思う?」

「わ、私は……真白さんのことは、友達として信じてあげたいです。でも、目の前の事実はとても疑わしいので……大間さんは?」

「現場を見たわけじゃないからなんとも。困ったわねえ」

 

 砂野(すなの)、葛飾、大間らどちらの陣営にも属さない中立派は、穏やかに両陣営の対決の行く末を眺めていた。既に授業が始まっている時間だが、大眉はさっさと隅に追いやられてしまっていた。教室はまさしく法廷の様相を呈している。

 そして、その騒ぎの中心にいる牟児津は、真っ二つに分かれた擁護派と追及派の間に立たされて、双方から弁護と糾弾のシャワーを浴びていた。

 

「毎度毎度0点の人がいきなり満点取れるなんて、どう考えてもおかしいだろ!やけくそになってカンペ作ったんだよ!甘い物のためならなんでもするって噂だぞ!」

「なんでもはやらないよ!やれることだけ!」

「カンニングは十分やれることだろ!」

「あのね鯖井さん、ただでさえ牟児津さんは何もしてなくても疑われるような人なのよ。自分からこんなことしたら損しかないでしょ。可哀想な人なんだから」

「時園さんそれフォローになってない!」

「はいはーい。そもそも時園さんの意見って、牟児津さんが必死になってたとか可哀想な人だとか、全部主観じゃないですかー?そんなの説得力ありませーん」

「だったら聞くけど、鯖井さんはどうして牟児津さんを責めるの。どうせこの前、部室が手に入らなかった腹いせでしょ」

「……それの何が悪いんですかー?」

「主観どころか私怨じゃないの!よっぽど説得力ないわよ!」

「はい論点すり替えー。詭弁乙〜」

「さ、鯖井さん。あくまで論議なので、相手を煽るのはちょっと、控えた方が……。あと、今は真白さんがカンニングをしたかどうかですから」

「いや葛飾、授業させてくれよ」

「裁判中なので、すみません」

「授業時間中なんだよなあ」

 

 ぼやく大眉を葛飾が制した。いちおう教師の面目があるため授業をする姿勢だけは見せるも、本気でこの裁判を止めるつもりはない。葛飾が裁判長役をしてクラスが議論を交わしている隙に、仮眠でもとってしまおうと考えていた。何より、牟児津がカンニングしていたか否かによらず、カンニングペーパーは間違いなく存在している。それだけで問題であることには違いない。

 

「ちょっと葛飾さん!」

「ひゃい!?」

「こういうときのための風紀委員でしょ!この裁判取り仕切ってよ!」

「い、いや、風紀委員は学園内の風紀と治安の維持が活動目的で、クラス内での問題に関する話し合いをまとめるのは学生生活委員の仕事なんですけど……」

「じゃあ私は中立な立場で話せないから葛飾さんに委任します!これでいいでしょ!」

「こ、こまります〜〜〜!」

「葛飾さんは牟児津さんと仲良いんだから中立じゃないでしょ!」

「じゃあ誰が──あ、先生やってください」

「えっ!?俺!?」

「他に誰がいるんですか。この中で一番中立なのは大眉先生です。裁判長役やってください」

「なんで授業はさせないのに教壇には立たせるんだ。教師の生殺しだぞ」

「カンニング問題を見過ごす方が教師としてあるまじき姿だと思います!」

「んん……そりゃそうだ」

 

 あっさり言いくるめられ、大眉は牟児津のカンニング疑惑についての裁判を取り仕切ることになってしまった。教師としてこんなことをしてていいのかという葛藤もあるが、さっきまでの自分の考えもたいがいだ。それなら何をしてても同じようなものである。

 

「そしたら取りあえず、両方とも座れ。ひとりずつ喋らないと話し合いにならないだろ。あと牟児津の話も聞いてやれ。みんな知ってると思うけど、牟児津はこういうのに巻き込まれやすいんだ」

 

 大眉は教壇に立ち、牟児津を挟んで向かい合う擁護派と追及派を席に着かせた。中立派の葛飾たちは教室の後ろの方にまとまり、まさに法廷と同じ配置になる。中央に立たされた牟児津は、自分が中心にいながら置いてけぼりにされている状況に、ただガチガチに緊張して棒立ちしているしかなかった。

 

「じゃあ取りあえず牟児津。いちおう聞くけどカンニングしたか?」

「するわけないでしょ!私は無実だ!」

「それじゃあ室が拾ったカンペについて、なんか分かることあるか?」

「何も知らないよ。シャーペンの中に入ってて、芯入れようと思ったら転げ出て来たの」

「お前が入れたんじゃないのか?」

「入れてない入れてない!」

 

 牟児津はすっぽ抜けそうな勢いで首を振る。似たような状況で実際に潔白だったことが今まで何度もあった。だから今回も潔白なんだろう、と大眉は思った。ただ、万が一ということがある。いかに牟児津がカンニングする度胸もない小心者であることが分かっていても、本人の言葉だけでは100%の決断が下せない。

 

「牟児津がカンニングしたのを見たっていう人はいるか」

「いたらその場で指摘してると思います」

「じゃあ、最初に牟児津のカンニングを疑った人は誰だったっけか」

「それは私」

 

 追及派の席から、室の小さな手が上がった。その場に座ったまま、室はそのときの様子を語る。

 

「牟児津さんの席から紙きれが転がって来た。拾ってあげたらカンペだった。処分しようとしてうっかり落としたんじゃない?」

「異議あり!最後の部分は室さんの考えで、実際に見たことじゃないでーす!」

「む」

「宝谷、喋るときは手挙げろ。ただまあ言ってることは正しいな。後半はさておき、前半について牟児津は異論ないか?」

「それはまあ……そうだけど」

 

 牟児津が持っていたシャーペンからカンニングペーパーが転がり出て来た、これは紛れもない事実だ。牟児津も認めざるを得ない。しかし同時に、それを入れたのは自分ではないことも証明しなければいけない。入れてない物が出てくることなどあり得るのか。マジシャンでもあるまいし、牟児津にそんなことはできない。

 

「牟児津さんのシャーペンから出て来たんだから、それは牟児津さんが入れたものでしょ」

「いや待って。室さん、本当にそのカンペ、今日のテスト範囲だった?」

「間違いない。見てもいいよ」

 

 室は、くしゃくしゃに丸まった紙を時園に渡した。極めて小さい字がびっしりと書き込まれており、時園はスマートフォンのレンズを通して拡大しないと読めなかった。それでようやく、書かれていた英単語がテスト範囲に合致していることを確認できた。

 

「なるほど、確かに一致してるわね。いちおう葛飾さんと大眉先生も確認してください。公平性を担保しないと」

「どうだ!これで牟児津さんは間違いなく黒よね黒!真っ黒よ!」

「牟児津真っ黒」

「やかましいわっ!」

 

 時園から証拠品を認める言葉が出たことで、追求派は確かな手応えを感じていた。しかし時園は全く動じていない。

 

「残念だけど、これはむしろ牟児津さんへの疑いを軽くするものよ。そうでしょ、葛飾さん」

「え、ええ……そう思います」

「なんでよ!」

「牟児津さんは、今朝まで単語テストの範囲を勘違いしていたのよ」

「……マジで?」

「マジよ」

 

 時園がため息交じりに言った。定期的に行われる単語テストの範囲を当日の朝まで勘違いしていたという事実が、何よりも牟児津の勉強習慣のなさを表していた。その状態から満点を獲得したのは見事と言わざるを得ないが、追及派からしてみれば不正があった可能性をより疑う要素にもなる。そして牟児津にしてみれば、ただの恥の上塗りにしかならない事実だった。

 

「もともと英語ができたわけでもないのに、範囲もまともに覚えてない人がいきなり満点取れるなんて、やっぱり怪しいと思ってしまうんだけど……」

「でもそんな人はカンペなんか作れないよ!作っても全然違う範囲になっちゃう!」

「それは確かにそうねえ」

「い、いやそれでも、だったらカンペ以外の不正の可能性は──!」

「鯖井」

 

 追及を深めようとした鯖井の言葉を大眉が制した。

 

「それ以上は根拠も証拠もないだろ。ただの中傷になる」

「す、すいません……」

「でも、このカンペが牟児津さんの机から落ちて来たのは事実なんでしょ?牟児津さんが作ったものじゃないなら、なんで牟児津さんが持ってたのよ?」

「そ、それは……分からないけど」

「作ってなくても、持ってた時点でギルティ。ピストルと同じ」

「喩えが物騒すぎますぅ!」

「でも室さんの言う通りだよ!牟児津さんがカンペを持ってたことは事実なんだから、有罪には違いない!」

「も、持ってたのはそうだけど……でも私のじゃないよ!作ってもないものを持ってたって意味分かんないでしょ!」

「こっちだって意味分かんないわよ!なんで持ってたのよ牟児津さん!」

「分かんないって!気付いたらシャーペンの中に入ってたんだもん!」

「そんなわけあるか!」

「そんなわけあるかって私だって思ってるよ!」

 

 追及派は時園の弁護に対応するため、カンニングペーパーを作ったことよりも、その所持自体が問題だと論点を転換させる。所持していたことについては、擁護派も牟児津本人も含め、誰一人否定する者はいない。なぜ牟児津が自分のものでないカンニングペーパーを持っていたのかを説明できなければ、非常に不利な戦いを強いられることになってしまう。

 

「シャー芯と間違えて入れちゃったとか、そんなことはないの?」

「さすがの牟児津さんでも紙と芯は間違えないと思うよ……」

「足立さん、さすがのってなに?」

「もともとシャーペンに入ってたとか、そんなことはないですかね?」

「最初からカンペが仕込まれたシャーペンってなに?しかもピンポイントに今日の単語テストの範囲って」

「だいたい私がそれを──あ」

「え?」

 

 中立派の席から、葛飾が間抜けな発言を飛ばした。今日のテストのカンニングペーパーが最初から入っていたシャープペンなどあるはずがない。と、牟児津以外の全員が考えた。しかし牟児津だけは、その一言に何か引っかかりを覚えた。そして短い声を漏らしたまま、締まりのない顔で天井をぼんやり眺める。しばらくそんな時間が続き、牟児津が視線を正面に向けた。戻って来たようだ。

 

「ちょっと、私のシャーペン触ってもいい?」

「え、うん、まあいいけど」

 

 大眉に許可を得て、牟児津は自分の席に戻り、置いてあったシャーペンを拾い上げる。中に物が入っている感覚はない。ここにカンニングペーパーを仕込んだ人物が、仕込みの空間を確保するため芯を除いたのだろうことが分かる。そして牟児津は、全員に見えるように、ペンを握った手を前に差し出した。

 

「な、なにしてんの?」

「これ、私のシャーペンじゃないかも知んない」

「……はあ?」

「今、自分の席から持ってきたじゃん!」

「うん。だけど、私の席にあるからって、私のシャーペンだとは言い切れないでしょ」

「牟児津さん……それはちょっと、さすがに苦しいんじゃないかしら……?」

「往生際()悪い」

「そういうことじゃなくて」

 

 そこで、葛飾だけはピンと来た。今の牟児津は、先ほどまでとは打って変わって、妙に落ち着いている。これは頭の中で何らかの辻褄が合い、どうにかこうにか結論を導くことができたとき、極度の緊張と焦りと冷静な思考によって表情筋を操る余裕がなくなった状態──通称『推理モード』だ。

 

「何か理由があるんですね!真白さん!」

「ちょっと葛飾さん。あんな言い訳なんか聞く必要ないでしょ」

「真白さんはいま、すごい状態なんです!きちんと説明を聞けば、ただの言い訳には聞こえませんから!」

「あの人いますごい状態なの?」

「分かりにくくてすいません!」

「なんでこまちーが謝ってんの?」

 

 結論だけを先に言ったせいで、牟児津の主張は全く受け入れられない。しかし葛飾には、その結論に行きつく過程があることが分かっていたので、必死に牟児津をフォローする。普段から一緒にいる瓜生田は、こんなことをしているのか、という気分になった。

 

「室さん。私、テストの前に言ったよね。私のシャーペンが壊れちゃってるって」

「そうだっけ」

「間違いなく言ってたわ。私にも宝谷さんにも、大間さんにも言ってたもの」

「私のシャーペンは、なんか1回分解して戻したら壊れちゃって、5回ノックしても1回しか芯が出てこなくなっちゃったの」

「何やってんだ」

「戻せてない」

「買い替えなさいよ」

「それはそうだけどまず前提として受け止めて!ともかく、これが私のシャーペンなら、いま5回ノックしても1回しか芯が出てこないはず!見てて!」

 

 前後左右から飛び交う非難に声を上げ、牟児津はシャーペンを掲げた。先からはまだ芯が出ていない。そしてキャップに親指がかかっている様子がよく見える。

 1、2、3、4、5──牟児津の指が5回押し込まれた。その機構は5回の乾いた音を発し、反対の穴から細長い芯を5回に分けて繰り出した。間違いなく5回ともだ。

 

「もう1回やろうか」

 

 再び牟児津は5回ノックする。それに合わせて5回芯が繰り出される。何度やっても同じだった。牟児津は少しだけ安堵の表情を浮かべ、追及派の席を向いて言った。

 

「10回ノックして10回とも出た。このシャーペンはまともだ。つまり、私のシャーペンじゃない」

「お前は何を言ってるんだ」

「それが普通のシャーペンだろ!それだけで牟児津さんのものじゃないなんて根拠になるか!」

「異議あり!十分根拠になるわ!少なくとも室さん!あなたは確認してるはずよ!テストが始まる前、牟児津さんのシャーペンが全然まともに働いてないところを!」

「うぐう」

「異議あり!予備のシャーペンだったかも知れないぞ!壊れてる何も入ってないシャーペンと、まともに動くカンペを入れたシャーペンを持っておいて、テスト前と後ですり替えれば──!」

「異議あり!こうやって裁判沙汰になるなんて思ってなければ、わざわざそんな準備はしてこないわ!そして牟児津さんがそこまで用意周到じゃないことは、当日の朝までテスト範囲を勘違いしてたことからも明らかよ!」

「ぐわあっ!」

「やればやるほど牟児津さんの名誉が傷つけられていってるような……」

 

 足立は頭を抱えた。牟児津が無罪であることを主張すると、なぜか牟児津のだらしなさを指摘することになってしまっている。時園と宝谷はその辺りへの躊躇が全くないが、足立はいまいち口に出すことが憚られた。結局、自分たちも牟児津という人間の味方になれてはいないような気がした。

 

「えーっと、結局のところ、そのまともなシャーペンは牟児津のものじゃないんだな?」

「そうだよ。そうなるとだから、ここに入ってたカンぺも私のものじゃなくて、このペンの本来の持ち主が入れたものってことになる」

「本来の持ち主?誰だそれ」

「当然、私と同じシャーペンを持ってた人だよ」

「それが誰かってことを聞いてるんだけど」

「それは……」

 

 鯖井の質問に答えるため、牟児津は脳を全力で回転させた。ペンが自分のものではないということを閃いたのまではいいものの、その後のことを全く考えていなかった。やはり自分の潔白を説明するだけでは納得されない。本来いま牟児津がいる立場にいるべき人物を指摘しなければ、自分に向けられた疑いからは完全に逃れられないということを、牟児津はこのとき改めて痛感した。

 

「そのシャーペンは、昔うちの中等部の購買で売ってたものだ。よそでは手に入らないし、高校生になってそれを使い続けてる人は少ない。牟児津さん以外にそんなもの使ってる人がいるのか!」

「……くうっ」

 

 記憶の中を過去へ全力疾走する。なぜ自分のものではないペンが自分の手の中にあるのか。なぜ自分のペンは自分の手の中にないのか。そしてなぜそれに今まで気付かなかったのか。牟児津は考える。理由は単純で、それが同じ型式のペンだからだ。では、自分のペンはどこへ行ったのか。

 裁判中の記憶。室にカンニングを告発されたときの記憶。テスト中の記憶。テスト前の記憶。遡っていく記憶の途中に、牟児津はその影を見つけた。いま手に持っているペンと同じもの──そのものとすら言えるものを。

 

「あ……あった」

「あァン?また何か言い訳する気か?」

「い、いるよ!私と同じシャーペン使ってる人!」

「へあっ!?」

 

 鯖井にプレッシャーをかけられて、牟児津はとっさに指さした。記憶の中に残っていた自分と同じペンを使っている人物に向けて。その指が向かうのは、あろうことか、牟児津を追及していた鯖井たちの反対側──牟児津を弁護している生徒たちの席だった。そのうちのひとり、いきなり議論の俎上に連れ出された宝谷は、驚愕の表情で牟児津を見ていた。

 

「宝谷さん……!宝谷さんの使ってるペン、確か私と同じだった!」

 

 鯖井も、時園も、大眉も、葛飾も、そして誰より、そんな破れかぶれで罪をなすりつけるように指をさされた宝谷も、目を丸くしていた。窮地に追い込まれたときの牟児津は、なぜか急激に脳細胞が活性化して、ウルトラCのような推理を披露することがある。

 しかし今の牟児津は、どう見ても苦し紛れの言い訳を並べ立てて、味方すら利用して罪を逃れようと足掻いているようにしか見えない。

 

「この教室で、これとおんなじペン使ってるのは、たぶん私と宝谷さんだけ。これが私のじゃないんだったら、宝谷さんのものってことになるよ!逆に、宝谷さんが持ってるペンを確認してよ!ノックしてまともに動かなかったら私のだから!」

「ひ、ひどい!いくら追い込まれてると言っても、自分の味方をしてくれてる宝谷さんに罪をなすりつけるなんて!」

「あんまりです真白さん!それは宝谷さんがカンニングを企図していたってことにもなるんですよ!苦し紛れだからってそんなのってないです!」

「宝谷さんも何か言っていいのよ」

「一旦落ち着けお前ら!宝谷!お前はどう思うんだ!本当に使ってるシャーペンは同じなのか!?」

 

 先ほどとは毛色の違う、心の底からの非難が牟児津に注がれる。すっかり推理モードから素面に戻った牟児津は、四方八方から飛んでくる非難の嵐に心が挫けそうになっていた。教室を宥めようと大眉が声を大にして非難を止めさせ、宝谷に尋ねた。驚きの表情のまま固まっていた宝谷は、大眉の問いで我に返ったのか、少し戸惑いながらも答えた。

 

「……う、うん。緋宙も、マッシーが持ってるのと同じシャーペン使ってるよ」

「えっ!?」

 

 てっきり否定されるものだと思っていた牟児津は、あっさりと認めた宝谷に思わず声を出してしまった。自分で指摘しておいてそんな態度もどうかとさえ思う。

 まるで舞台の上にいるように、教室中の注目を浴びた宝谷は、粛々と自分の席に戻り、使っていたシャーペンを持って戻ってきた。牟児津が先日の舞台で目にした天真爛漫な姿とはまるで違う、淑やかで落ち着いた立ち居振る舞いだった。

 

「ほ、ほんとに?」

「もしかして宝谷さん!そのシャーペン……!」

「……うんっ」

 

 宝谷が握るペンは、牟児津が持つ物と全く同じデザインだった。見比べてみて初めて傷や色褪せ方の違いが分かる程度で、難易度が突き抜けた間違い探しのようだ。

 宝谷が教室中を緊張させているのか、教室中の緊張が宝谷を固くしているのか。真剣な眼差しで、宝谷は握ったペンの蓋に親指をかける。ぐっと力を込めた。

 1、2、3、4、5──規則正しい間隔で、宝谷の手の中から音がする。軽いプラスチックが上滑りするような、小さな金属を非力に打ち付け合うような、頼りない音だ。4度聞こえたその音の後で、カチッと軽快な音が鳴った。喉の引っ掛かりが落ちたような気がした。ペンの先からは、黒々しい芯が僅かに顔を覗かせていた。

 

「ごめんねマッシー。そのシャーペン、緋宙のだったみたい」



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第4話「待った!」

 

 2年Dクラスで、授業時間を潰して行われているカンニング疑惑事件の裁判は急展開を迎えていた。

 英単語テストで奇跡の満点を獲得した牟児津真白は、シャープペンシルの中からカンニングペーパーが見つかったことでカンニングの疑いをかけられてしまった。教室は牟児津を中心に擁護派、追及派、中立派の3つに別れ、牟児津のカンニング疑惑について議論を交わし始める。その中で牟児津は、自らのシャープペンシルが宝谷のものとすり替わっていると主張する。荒唐無稽なデマカセと思われた主張だったが、それを立証したのは当の宝谷だった。

 そして今、法廷の被告人席に当たる位置には、事件の渦中にいる牟児津と、擁護派から重要参考人へと立場を変えた宝谷が立っていた。裁判長役でありクラス担任である大眉は、頭を抱えた。

 

「要するに」

 

 ざわつく教室を静まらせ、大眉は状況を整理する。

 

「牟児津が持ってたシャーペンは宝谷のもので、宝谷が持ってたシャーペンは牟児津のものだったってことでいいか?」

「うん、そうだよ」

「牟児津がカンニング疑惑をかけられたのは、シャーペンの中からカンペが見つかったからだ。これもいいな?」

「……うん」

「ってことはだ。そのカンペは、牟児津が持ってた宝谷のシャーペンから出て来たことになる。カンペのことは身に覚えがないっていう牟児津の証言を採用するなら、それを入れたのは宝谷ってことになる。その辺はどう考えてる」

「……カンペを入れたのも、作ったのも、緋宙がやりました」

「はあっ!?」

 

 追及派の席から、鯖井の困惑した叫び声があがった。散々疑っていた牟児津ではなく、その牟児津を擁護していた宝谷の口から、自白に等しい言葉が飛び出した。驚いたのは追及派だけでなく、牟児津を含めたクラス全体も同様だ。

 

「ほ、宝谷お前……!カンニングしたってことか……!?」

「違います!カンニングはできなかった」

「んえ」

「そりゃそうですよ。宝谷さんが入れたカンペは牟児津さんが持ってたんだから。できるわけないわ」

「あ、そっか」

「でも、カンペを作って入れたのは本当。そのせいでマッシーが疑われることになっちゃって……ホントごめん」

「い、いやごめんって言うか……なんでいきなり自白しちゃったの?自分で言うのもなんだけど、さっきの感じだったら普通に誤魔化せてたと思うけど」

「マッシーに言われたらきちんと白状するって決めてたから。でも緋宙から先に言っちゃうのはなんかもったいない気がして……マッシーのカッコいいとこ、もう1回見てみたかったから」

「なんじゃそりゃ!みんなの勢いが怖くて言うに言えなかったとかじゃないんかい!」

「緋宙そういうのヘーキだから。2年生から演劇部入る肝っ玉ナメちゃいけないよっ!」

「図太いのねえ」

「じゃあ宝谷さん、最初から全部分かってたのに黙ってたの!?クラス中巻き込んでるのに!?」

「みんなには悪いと思ってるよ。でもマッシーがカンニングしたかも知れないってことを大ごとにしたのはハルちんたちじゃん。もしカンペが見つかったのが緋宙のペンからだったとしても、ここまではしてなかったんじゃない?」

「ぐっぬぇい……」

 

 意外にも理路整然と反論する宝谷に、追及派は歯の隙間から呻き声をこぼすことしかできなかった。仮に牟児津と宝谷の立場が変わっていたら、自分たちの態度が違っていたことも否めない。鯖井にしてみればこの裁判は、カンニング罪の追及よりも、牟児津への八つ当たりの意味合いの方が強いのだ。

 

「勘弁してよ……こっちはまた変な疑いかけられて、胃がねじ切れるかと思ったよ」

「マッシーなら大丈夫だと思ったんだ」

「……あの、ちょっといいですか?本題に戻る、というか、本題そのものの話なんですけど」

 

 追及派も擁護派も、もはや語る言葉を持たなかった。宝谷の告白によって間接的に牟児津は潔白だと証明されたようなものだ。もはや追及の余地はないし、擁護するべくもない。その中で、この話の着地点を探していた葛飾が、おずおずと手を挙げた。

 

「真白さんは、シャーペンの中にカンペが入ってることに気付かなかったから、カンニングなんて考えもしなかったんですよね?」

「そうだよ!ずっと私はそう言ってるよ!」

「で、そのカンペを入れた宝谷さんは、カンペが真白さんの元に行ってしまったので、カンニングしようにもできなかったんですよね?」

「うん。でも緋宙は途中でペンを開けたりしなかったよ!マッシーが疑われてやっと思い出したくらいなんだから!」

「ということは……そもそも誰もカンニングなんてしてないってことになるのでは」

「……まあ、そうなるよな。うん」

 

 葛飾の言葉で、ようやく教室中の全員に着地点が見えて来た。大眉もその結論に納得したし、何より少しでも授業をしたかった。

 

「それじゃあみんな、もう気が済んだな?牟児津はカンニングなんてしてない。宝谷も準備はしたが実際にカンニングしたわけじゃない。これで終わりだ。いいな?」

「異論ありません」

「ぐぐぐ……い、異論ないです」

 

 擁護派、追及派ともに矛を下げ、裁判は結了を迎え──。

 

「待ったあ!!」

「えっ」

 

 無音のガベルが振り下ろされる寸前に、弾けるような大声が法廷(クラス)に轟いた。それは追及派の悪足掻きではなかった。擁護派の反訴ではなかった。中立派の野次ではなかった。他でもない、被告人である牟児津からの告発だった。

 

「まだ1個だけ言いたいことがあるぞ!この際だから最後まで付き合ってもらうよ!」

「なんだよ。もうお前の潔白は証明されたんだからいいだろ」

「いーや!今のままだと気持ち悪いから言う!絶対言う!」

「授業時間削りたいだけじゃないの?」

「そんっ……そんなことはない!」

「ちょっと思ってたんですね」

 

 もはやこれ以上は蛇足とばかりに時園から野次が飛ぶ。牟児津は、それもいいかも知れないと思いつつ、本当に言いたいことを声高に叫んだ。

 

「そもそもなんで私のシャーペンと宝谷さんのシャーペンがすり替わってたのか!それをはっきりさせないと解決にならないでしょ!」

「……言われてみればそうかも。確かに、なんで緋宙のシャーペンがマッシーのシャーペンになってたんだろ」

「どうせそそっかしい牟児津さんが間違えたんじゃないの」

「私じゃないよ!」

「じゃあ宝谷さん?」

「それも違う」

 

 またしても牟児津の主張は頓珍漢に聞こえた。しかし、その主張を軽々に非難する者はいない。先ほども同じようなことを言っていて、それは事実を言い当てていた。追い込まれた牟児津の鋭さを、全員が肝に銘じていた。ただひとり、気が逸っていた大眉だけが、牟児津に食ってかかる。

 

「じゃあ他に誰が間違えるんだよ。お前たちのシャーペンだろ」

「あんただよつばセン!」

「うえっ?」

 

 食ってかかったら思わぬカウンターを食らった。大眉は間抜けな声を出して、向けられた牟児津の指の先を見た。

 

「つばセン、テスト中にフラフラして私と宝谷さんの机の上のもの全部ひっくり返したでしょ!すぐ拾ってくれたけど、そのとき特に確かめずに返したろ!答案は名前が書いてあるから間違えない。でも何も書いてないシャーペンはそこで入れ替わったんだ!」

「ああ、あのときね。確かに、入れ替わるとしたらその時しかないわ」

「びっくりしたわよねえ」

「あ……マ、マジか?」

「マジだよ!テスト直前はちゃんと自分のシャーペン持ってるってさっき言っただろ!だったら入れ替わったのはテスト中しかない!テスト中に入れ替わるタイミングはその時しかない!だからとどのつまり!」

 

 牟児津が被告人席から吠える。

 

「私が疑われたのも!こんな裁判をする羽目になったのも!めちゃくちゃ無駄な時間使ったのも!全部つばセンのせいなんだよ!」

「うおおおっ!?いてえっ!?」

 

 叫びながら牟児津が大眉に詰め寄る。教壇を挟んで後ろに仰け反った大眉は、後頭部を思いっきり黒板に打ち付けてしまった。その拍子にバランスを崩して、そのまましりもちをついた。なんとも情けない姿である。

 

「分かったかコノヤロー!人をこんな目に遭わせてくれて!なんとか言ってみろ!」

「……す、すまん」

「分かればいいんだよ!」

「いいのかよ。全然許さないテンションだろそれ」

「別に、もう目的達成したから」

「は?」

 

 あっさり引き下がった牟児津が、にやりと口角を上げて大眉を見た。その答えは、ほぼ同時に聞こえて来たチャイムの音で分かった。授業時間が終わってしまった。

 

「お前……」

「冤罪で裁判されたんだから、これくらいはねえ?」

「牟児津さん……あなたってホントに……」

「あははっ、マッシーせこーいっ」

 

 大眉はぴったり授業ができないところまで時間稼ぎをされ、そのせいで背中をチョークの粉まみれにされた。しかし自分の不注意が原因でこんなことになったというのも反論できず、ため息を吐いて牟児津に謝ることしかできなかった。

 

「ほら裁判長、さっさと締めて」

「分かったよもう。えーっと、授業潰してすまなかった。牟児津も余計な疑いかけられて、申し訳ない。授業の進度は俺がなんとかする」

「さっさと終われー!」

「うるさいなあ。そんじゃあ、まああれだ。牟児津は無罪放免。あ、宝谷はちょっと職員室来い。お前は普通にカンニング未遂だから課題追加な」

「ちぇ〜っ」

 

 大眉の謝罪により、被告人が裁判長を告発した前代未聞の裁判は幕を閉じた。擁護派は牟児津の無罪を勝ち取って互いに健闘を称え、追及派は追及派でそこまで牟児津の罪を責めたいわけではなかったので普通に納得し、中立派は授業が1つ潰れたことで次回以降ペースアップするだろうことを予感して憂鬱になっていた。

 そして後日、牟児津は今回と同じ手法で単語テストを乗り切ろうとするも、単語帳を家に忘れる大失態を犯したことで散々な目に遭った。



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その11:女神の祝福事件
第1話「犯人、アテかもせえへん」


 

 ——足りない。

 

 会場を埋め尽くすほどの喝采でも、この物足りなさは補えない。

 

 ——味気ない。

 

 あふれるほどの畏敬と羨望の眼差しを浴びても、この飢えは満たされない。

 

 ——つまらない。

 

 言葉を尽くした栄誉も賛美も、この退屈を紛らわせてはくれない。

 

 そんなに難しいことではないはずだ。

 

 誰もが分かってくれるはずだ。

 

 求めるのはただひとつ。

 

 この錆びついた心が震えるほどの、色を失った脳が沸き立つほどの、冷めきった情熱が再び燃え上がるほどの、“謎”。ただそれだけだ。それだけを求め続けた。飽きて飽きて、飽きることにも飽きるほど。ひたすら、それだけを。

 

 だから、私がそれに気付いたのはきっと必然だったんだ。私以外がそのことに気付くのは不可能だったはずだ。だとすれば、あれは運命だったのかもしれない。今まで特別意識したことのない言葉が、自分のことになると、急に輝きだすのが不思議だった。運命を前に、ちょっとした障害なんて問題にならなかった。少しだけ面白いと思ったけれど、そのときはもっと魅力的なものに夢中だった。

 

「だからさ」

 

 一旦、言葉を止めた。目の前で走っていたペンが止まる。うーん、なんて言おうか……うん、こう書かせよう。

 

「あれは本来そういうものなんですよ。面白くないですか?」

 

 退屈しのぎにはなったかもね、なんて。思わず顔が綻んだ。ペンは動きを止めて、しばらくそのままだった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

私立伊之泉杜学園の高等部校舎の東端に、生徒指導室は位置している。その中は今、息が詰まるような緊張感に包まれていた。目隠し用の衝立があるせいで壁が近く感じて狭苦しい。部屋の中央には1台の机と、それを挟んで椅子が2脚置かれている。その1脚に、牟児津(むじつ) 真白(ましろ)は腰掛けていた。

 両手を膝の上で固く握り、脚をぴったり揃えて座面の裏に沿わせていた。見開かれた目は正面ではなく、何もない机の上を凝視している。

 

「お前がやったのか?」

 

 川路(かわじ) 利佳(としよ)は牟児津の顔を覗き込んだ。牟児津よりも更に大きく目を見開いて、相手を押しつぶすような眼光を浴びせかけた。不用意なことを口走ればただでは済まない、とでも言うようだった。牟児津にとって川路の圧迫聴取は何度目かになるが、一切慣れることなく、毎回新鮮にビビり散らかしていた。今回も例に漏れず、緊張のあまり口をパクパクさせて、滝のような汗を流すばかりだ。

 

「川路先輩。それじゃムジツさんは喋れないんですって」

 

 てんで話にならない牟児津を見かねて、隣に座っていた瓜生田(うりゅうだ) 李下(りか)が口を開いた。瓜生田は、牟児津とは物心つく前からの幼馴染みである。牟児津より1つ年下でありながら、牟児津より遥かにしっかりしている、頼れる後輩だ。

 

「まず、どうしてムジツさんがここに連れて来られたのかをご説明頂かないと、お答えのしようがありません。何度もお伝えしてますよね」

「同じやり取りにうんざりしているのはお互い様だ。なぜ毎度毎度、事件が起きるたびにこいつは私の前に現れる。いっそ捜査妨害で立件してやろうか」

「目撃証言や状況がムジツさんを疑うに足るものなら、それも仕方ないと思いますよ。運が悪いとしか説明できませんし。でも、疑った理由さえ教えてもらえないんじゃ、何について話せばいいかも分からないですか」

「こちらにも事情というものがある。今回はとにかく手当たり次第なんだ」

「ムジツさんの活躍はお耳に入ってますよね。どういう事件か教えていただければ、もしかしたらムジツさんがお力になれるかも」

 

 冗談じゃない、と牟児津は頭飲ん赤で叫んだ。牟児津が望むのは、平和で平穏で平凡な学園生活だ。学園内で起きた事件に巻き込まれるのも、ましてや自ら首を突っ込むなど御免だ。危険で面倒で目立ってしまう。その上、事件解決に貢献したとなれば、また学園新聞の紙面を賑わせてしまう。それは牟児津の理想とは程遠い事態だ。

 ——しばし、川路は逡巡する。そして。

 

「……あー、風紀委員は——」

 

 歯切れ悪く切り出した。

 

「『赤い宝石』を持った生徒を捜している」

「『赤い宝石』?」

「直径3㎝ほどの丸い宝石だ。いま捜査している事件の重要参考人が、それを持っているそうだ。校門で所持品検査をしていたのもそのためだ。あんなもので見つかるようなら苦労せんが」

「ははあ。それで葛飾(かつしか)先輩が、ムジツさんの持ってたあんこ玉を『赤い宝石』と勘違いして通報したんですね」

「朝から学園カバンに生菓子を入れてる奴がいるなどと普通思うか!?紛らわしいことをするな!」

「そんなこと言われても」

「通報を受けて駆けつけてみればまたこいつだ。私だってハズレくじを引いたような気分だ。まったく……どいつもこいつも」

 

 今朝方、学園の校門では風紀委員による所持品検査が行われていた。校門で一度人が貯まるため、学園前の坂道から駅の近くまで生徒による行列ができていた。

 そんなときに限って、牟児津は午後のおやつ用にと駅前の塩瀬庵であんこ玉を買っていた。色とりどりのボール状あんこを寒天で包んだものだ。そんな紛らわしいものを持っていたせいで、牟児津は無事に検査に引っ掛かり、こうして取り調べを受ける羽目になったのだった。

 何かひとつ違えば平和に一日を過ごせただろうに、致命的な運の悪さだ、と牟児津は自分の運命を嘆いた。それはそれとして、牟児津は気になったことを口にせずにいられなかった。

 

「あ、あのぅ……」

「なんだ」

「ひっ」

「睨まないでください、先輩。ムジツさんが委縮しちゃうじゃないですか」

「睨んだつもりはない」

 

 ようやく声を発した牟児津は、川路の眼光に射抜かれて、挙げた手をあっさり引っ込めた。何か言いたげな様子を察して川路は視線を逸らし、牟児津に話させるよう顎で瓜生田を促した。瓜生田は牟児津の背中をさすって落ち着かせる。

 

「ムジツさん、何を言いたかったの?」

「あ……えっと、風紀委員以外にどこが事件の捜査なんかしてるのかな……とか」

「……ん?なんだと?」

「風紀委員だけで捜査してるわけじゃないんですよね。そんなことあるんだなあって」

「あ〜……私は、そんなことを言ったか?」

「えっ、ど、どうすかね」

「言ってないですよ」

 

 牟児津の言葉で、川路は少しだけ目を丸くしてから、小さく舌打ちした。後頭部でキツく結って整えた金髪をガシガシ掻き、椅子の背もたれに身を預けた。

 

「ならなぜそう思う」

「え、だってさっき手当たり次第って言ってたし、あんこ玉と間違えるくらいざっくりした手掛かりしかないんだなって。あと、そういう手掛かりが曖昧な状況とか、所持品検査とか、川路さんがあんまり納得してない感じがして……他の委員会とかとの兼ね合いで、仕方なくそうしてるのかなって……思いました」

「頭が痛くなるな。田中(たなか)はこんな気分だったのか」

「ムジツさんはこういう人ですから。ぜひ期待してお話しください」

 

 何の気なしに発した言葉から、伝えるつもりのなかった事実を言い当てられ、川路は頭痛を覚えた。牟児津は、以前は取調べ中にまともな言葉を発することもできない小心者だったはずだ。ここ最近、立て続けに色々な事件に巻き込まれたことで、少なからず精神的にたくましくなったらしい。

 図らずも牟児津の成長を目の当たりにしたが、それと事件について話すことは関係ない。川路の態度は変わらない。

 

「私の一存で話すべきことじゃない」

 

 そう言って、川路は腕を組んだ。

 

「牟児津の言う通り、この事件に関わっているのは風紀委員だけではない。話すなら、磯手(いそて)に話を通さなければならない」

磯手(いそて)……会計委員長の?」

 

 なぜですか?と瓜生田が尋ねるより先に、指導室の扉が勢いよく開かれた。突然のことに牟児津は座った姿勢のまま椅子から飛び上がった。転げ落ちて椅子の裏に隠れた牟児津は頭を少し覗かせて、瓜生田は体ごと、川路は視線だけを、それぞれ扉の方に向けた。

 扉を動かす音は力強いが、勢いのまま壁に叩きつけることはなく、そっと閉めた。ヒールが床を叩く明瞭でキレの良い音が規則正しいテンポで聞こえたかと思うと、その生徒は目隠しにした衝立の裏から現れた。

 

「邪魔する」

 

 逆三角形のメガネ越しの鋭い眼光が、部屋にいた全員の顔を順番に捉えた。長くない髪をさらにヘアゴムで1つにまとめ、うなじの上で小さく結んでいる。飾り気のない簡素なブラウスのボタンを一番上まで留め、しわひとつないロングパンツが足首まで覆っていた。胸ポケットには黒と赤のペンと物差しが覗いている。

 ファイルを抱えた左腕に光る橙色の腕章が、伊之泉杜学園に11ある委員会の一つ、会計委員会に所属する生徒であることを示している。現れたのはその委員会の長、磯手(いそて) 沙良妃(さらひ)その人であった。

 

「ここに牟児津真白がいると聞いて来た 髪が赤い方だな?」

 

 ギリギリ聞き取れるくらいの早口だった。磯手は短く確認し、事態が飲み込めずあわあわと口を動かしている牟児津を見た。突然入って来た磯手に、川路は驚くでもなく、追い出すでもなく、黙って首肯した。

 

「……とても田中(たなか)副会長に一泡吹かせた人間には見えないな 隣の奴の方がまだ見込みがありそうだ」

「お前が牟児津に何の用だというんだ」

「少し興味があった 生徒会本部会議に名前が挙がる生徒なら知っておいて無駄はないだろう」

「え、なんで私の名前挙がってんのぉ……?」

 

 ますます平穏から遠ざかりそうな事実がひとつ明らかになったところで、磯手は瓜生田からの熱視線に気付いたのか、怪訝そうな表情で視線を隣に移した。

 

「磯手先輩ですよね?私、1年Aクラスで図書委員の瓜生田李下と申します」

「そうか 用件は」

「実は、ムジツさんはいま川路先輩から取り調べを受けてるんですけど、何の事件で疑いをかけられてるか教えてもらえなくて、正直困ってるんです。

 今回の事件は会計委員会も一枚噛んでるんだとか。もし事件の概要だけでも教えて頂けたら、分かることはお伝えできますし、できる限り協力もするつもりです。こう見えてもムジツさんは色んな事件を解決してきた実績があるんですよ!

 だけど川路先輩がおっしゃるには、事件の内容は川路先輩の一存で話すべきでないそうなんです。磯手先輩にお話を通さないといけないということだったので、丁度良い機会ですから、お話を伺ってもよろしいですか?」

 

 流れるように、瓜生田は状況説明から磯手へのお願いまでをさっと話した。瓜生田が話している間、磯手は瞬き一つせずに瓜生田を睨み続けた。そして話が終わるやノータイムで、指を3本立てた右手を瓜生田に突き付けた。

 

(ひとつ)、用件はと訊かれたら用件だけを答え無駄口をきくな (ひとつ)、私はこの世の何より無駄が嫌いだ (ひとつ)、事件について私から話す必要はない 以上」

「はあ……すみません」

「話す必要がないというのはどういうことだ」

「これから全校集会で藤井(ふじい)会長が話す それを伝えに来た」

「なに?」

 

 わざわざそこまですることか、という言葉を川路は飲みこんだ。それを磯手に訊いても仕方がない。それに、藤井のすることには必ずそれなりの理由がある。そもそも風紀委員はこの事件について、牟児津の言うとおり、捜査を支持されている立場だ。ただ使われる立場というのは癇に障るが、事件の性質上、捜査を会計委員会が主導するのは仕方がない。

 

「委員長自ら伝えに来るとは、会計委員は使いも出せないようだな」

「ついでに牟児津の顔を確認しに来た 同じことを無駄に二度言わせるな」

「ひぃ……」

 

 せめてもの嫌味を吐いた川路に対し、磯手はまたもノータイムで嫌味を返した。牟児津から見れば川路と磯手は雰囲気が似ているが、どうやら2人の仲は良好とは言い難いようだ。磯手が自分の名前を口にするたびに、牟児津は肝が冷える思いだった。

 

「既に他の生徒は移動を始めている 時間を無駄にするな お前たちも講堂に迎え 川路は私と来い」

「いつからお前は私に指示できる立場になった?風紀委員は決して下働きではない。それくらい分かっておけ」

「うりゅ、うりゅ、早く行こう。行こうったら」

「そだね。それじゃあお先に失礼します〜」

 

 磯手と川路の言葉の応酬は、一言一言が相手に撃ちこむ弾丸のようだった。傍にいた牟児津にとってはその全てが流れ弾のように心臓を痛くさせる。瓜生田の陰に隠れつつさっさと指導室を出て、そのまま講堂へと向かった。朝からこの調子では、今日はまた騒がしい一日になりそうだ。牟児津の諦念にまみれた頭は、そんな考えに囚われてしまった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「あ、真白さん。お疲れ様です。大丈夫でした?」

「大丈夫なわけあるか!なんで私は毎度毎度こうも面倒ごとに巻き込まれるんだ!今朝は特にひどかった!あんこ玉と宝石を間違えるやつがあるか!このやろ!こまりちゃんのせいだぞ!」

「わーんごめんなさい!って、宝石?なんのことですか?」

「え?」

 

 講堂には全校生徒が学年とクラスごとに整列して集まっていた。牟児津は瓜生田と別れて自分のクラスに合流すると、勘違いした当人である同じクラスの葛飾(かつしか) こまりに噛み付いた。葛飾はいきなり襲い掛かられて慌てるが、牟児津が何を言っているかは分かっていない様子だった。突然の全校集会で講堂内はざわついており、その会話は周囲にほとんど聞こえていなかった。

 

「宝石の話、知らないの?」

「知らないって言うか、え?今回の事件に関係あるんですか?」

「ええ……?だって川路さんが……ああもうめんどくせ。いいや、もうすぐ藤井さんから説明があるから」

「へっ、藤井って、藤井会長ですか?わざわざ会長が出て来られるんですか?」

「私もよく知らない。磯手さんが言ってた」

「い、磯手先輩!?……真白さんってホント、なんでそんなに人徳あるんですか。そんなたくさんの生徒会本部の先輩方と仲良くしてる人、3年生にもいらっしゃらないですよ」

「仲良くはしてない!!」

 

 羨みのこもった葛飾の言葉を牟児津は全力で否定した。確かに関わりは多いが、決して仲良くはない。少なくとも牟児津にとって生徒会本部のメンバーと関わるのは面倒事の種でしかない。

 ひとりひとりの声は大きくなくとも、それが百人以上の規模になれば、広い講堂を埋め尽くすざわめきになる。この学園でそのざわめきを鎮めることは簡単だ。大声を張り上げる必要も、無言の威圧をかける必要もない。ただひとり、その生徒が舞台に上がれば十分だった。

 講堂に設置された舞台の袖から、その生徒は音もなく現れた。白い髪に白い肌、透き通った湖のような碧の瞳は、舞台から離れた場所にもその輝きが届くほどの美しさだった。その生徒が姿を現した瞬間、講堂中は言葉を忘れたように静まり返った。

 壇上に用意されたマイクに向かい、伊之泉杜学園生徒会長——藤井(ふじい) 美博(みひろ)は口を開いた。

 

「全校生徒の皆様、おはようございます。生徒会長の藤井です」

 

 鈴が鳴るような透明感のある声が、眼差しが、聴衆らを包んでいた緊張を一気に弛緩させた。甘ったるいめろめろした空気と、冬の朝のような凜とした空気が綯い交ぜになった不思議な雰囲気があちこちから漂ってくる。講堂を一瞬のうちに甘い緊張感で満たした藤井は、そのまま続けた。

 

「急な招集に応じて頂き、皆様そして先生方に謝意を申し上げます。朝ですので手短に参りましょう。本招集の目的は2つです。すなわち——」

 

 簡単なあいさつの後、藤井は両の人差し指を自分の左右に立てた。

 

「喜ばしいお知らせと」

 

 藤井が右手を上に開く。

 

「喜ばしからざるお知らせです」

 

 藤井が左手を上に開く。

 澄んだ声と流れるようなその所作に魅了された聴衆は、すっかり藤井の言葉に耳を傾け、一挙手一投足を注視させられていた。

 

「先ずは、喜ばしからざるお知らせから」

 

 その言葉を合図に、舞台の上手(かみて)からプロジェクターが運び込まれた。藤井の背後からするすると降りて来たスクリーンに、プロジェクターが光を投じる。そこに映し出されたのは、学園内のとある場所だった。

 それまで藤井に注目していた聴衆の視線は、今度は映像に釘付けになった。

 

「皆様ご存知のことと思います。こちらは高等部理事室正面に設置されている像——『アテナの真心』——そのライブ映像です」

 

 それは、大まかに捉えると角の丸い立方体の彫像である。正面には穏やかに微笑む女神の顔が、それ以外の面には衣のしわや羽の1枚1枚が、装飾具としての植物は葉脈まで細かに彫られている、精緻の限りが尽くされた黄金の像だ。頑強なガラスケース内で、紫のクッションの上に安置されている。ガラスケースは縦長で飾り気のない台座の上に設置され、開閉部は南京錠で施錠されていた。

 多くの学園生にとって、それは見慣れたものであった。高等部理事室は特別棟にある一室で、理事室自体に用事がある生徒は滅多にいないが、その前を通り過ぎることはよくある。そのとき『アテナの真心』像の前も通り過ぎている。

 今の問題はそこではない。女神像は普段、穏やかかつ静かに、その前を通り過ぎる生徒たちを見守っている。だが、今は見たことのない光の明滅を繰り返していた。多くの生徒は、飾り気がないと思っていた台座の正面が、電光掲示板になっていることをそのとき初めて知った。そして今、そこには妙なメッセージが表示されている。

 “Congratula(おめで)tion(とう)You did it(やったね)!”と

 

「御覧の通り、アテナ像は目下、謎のメッセージを表示しています」

 

 呆気にとられる聴衆の意識を、藤井が再び自分に向けさせる。

 

「この件に関し、高等部理事からご指示を賜りました。委細省略致しますが、理事からのご指示の下、(よう)から会計委員会及び風紀委員会に捜査命令を発しております。今朝方行われていた所持品検査も(よう)の指示によるものです。驚かせてしまい申し訳ありません。皆様におかれましては、事件解決までの措置についてご容赦いただくとともに、ご協力をお願い申し上げます」

「えっ?それだけ?」

 

 思わず、しかし小さく牟児津はつぶやいた。宝石云々も周知されるものだと思い込んでいたので、藤井が頭を下げてあっさり話し終えたことが意外だった。速やかにプロジェクターは目を閉じ、スクリーンは藤井の頭上に引き上げていった。この流れるような進行から、この話についてこれ以上話すことはしないという藤井の意思さえ感じ取れる気がした。

 

「では次に、喜ばしいお知らせです。こちらは、直近の大会等で入賞実績を残した部会を表彰するものです」

 

 藤井が進行すると、舞台の上手から表彰状をお盆に乗せた生徒が現れ、マイクと入れ替わりに壇に置いた。その生徒に続いて、幾人かの生徒が舞台袖から一列になって出て来た。ある生徒は黄色い歓声を全身で浴び、ある生徒は聴衆に手を振り返し、ある生徒は緊張した面持ちで居並んでいた。

 

「この度、表彰状を授与する生徒は4名です」

 

 スタンドから外したマイクを手に持ち、藤井が手のひらで4人を示す。

 

「皆様から見て左から順にご紹介いたします。まずはパズル研究部1年生、半路(はんじ) (にこり)さん。彼女は、先日行われた全国高校パズル選手権大会個人の部で優勝なさいました。その卓越した思考能力と判断力、そして不撓不屈の精神をここに表彰します!」

 

 4人の中で最も異彩を放っていた生徒が一番に紹介された。舞台上にいる生徒の中では抜きんでて背が低い。舞台に上がっているにもかかわらずウインドブレーカーに体操着の短パンを履いている。片足に体重を預けて立って顎は尊大に高く上げ、邪魔そうな前髪を右手でいじり、もう片方の手はポケットに突っ込んでいた。どう見ても表彰されるような生徒ではない。が、その生徒は名前を呼ばれると小さく顎を前に突き出した。どうやらお辞儀のつもりらしい。見ている方が冷や汗をかくほど態度が悪い。

 藤井は気にせず続ける。

 

「続いて、陸上部2年生、木鵺(きぬえ) 仁美(ひとみ)さん。毎年本校の陸上部が参加している陸上記録大会で自己ベストを記録し、同時に大会記録を更新されました。日々の弛まぬ努力及び自律の精神に裏打ちされた素晴らしい功績を表彰します!」

 

 紹介と拍手を浴びた木鵺は、舞台の上で照れ臭そうにお辞儀した。以前の事件で木鵺と知り合っていた牟児津は、無事に大会に出場できたことを知り、他人事ながらほっとした。

 

「次に、落語研究部3年生、岩尾(いわお) 椎菜(しいな)さん。部の活動を通じ、落語家として多くの寄席に出演され、本校の文化貢献に大きく寄与して頂きました。また以前より女子高生落語家として広く知られ、学園の広報面でも多大なご協力を頂いております。岩尾さんの熱心な文化活動と数多くの栄誉を表彰します!」

「ど〜も〜。おおきに〜」

 

 地味な緑色の着物を着た背の高い生徒が、締まりのない笑顔で手を振る。他の3人に比べると一番緊張感がなく、藤井にも気安く言葉を返す。どうやら学園内に収まらない有名人らしいが、世間知らずの牟児津はやはり知らなかった。

 

「最後に、本校演劇部を代表して、部長の(おおとり) 蕃花(はんな)さんを表彰致します。つい先日行われた校外公演はもちろん、1年を通じて行われる全国各地での公演を今年度も成功裡に収められました。部長の鳳さんを筆頭に部員の方々の優れた演技、効果的な光と音の演出、素晴らしい脚本等、部としての団結力の上に成る誉れ高き成果を表彰します!」

「ありがとう藤井クン!みんなありがとう!」

 

 鳳が舞台上でポーズを決めると、まるでスポットライトで照らされたように、ひと際輝いて見えた。一部の女子から悲鳴にも似た黄色い歓声が上がり、鳳はキザに微笑んだ。こちらも以前の事件で知り合っていた牟児津は、よくやるわ、と冷めた目で見ていた。

 表彰を受ける生徒らの紹介の後、儀礼めいた表彰状の授与式は手短に終わった。最後に全校生徒からの一際大きな拍手が講堂を埋め尽くし、藤井に導かれて生徒たちも舞台袖へと去っていった。

 ただ、ひとりを残して。

 

「あれっ」

 

 藤井が示した2つの話題が終わり、集会も解散かと思ったところで、舞台上にはひとり、表彰状を畳んで懐にしまった岩尾が残っていた。かぶりつきから差し出された座布団を手に取ると、そのまま舞台の中央に敷き、腰かけた。

 

「え〜、こないに大層な表彰を藤井ちゃんから受けまして、アテには勿体無いなあと思う気持ちが3割、嬉しいなあ頑張ってよかったなあと思う気持ちが3割、照れ臭いなあ思う気持ちが3割、そんなところでございます。今日の仕事はこれで終わりやしもう帰ったろ〜いう気持ちがもう1割ですね。んなはは……まあ帰れまへんけどね。授業あるし」

「おい岩尾!何をしている!下がれ!」

 

 何やら軽妙な語り口で岩尾はさらさらと話し始めた。座布団の上に正座して、帯に差した扇子を取り出し手拭いを膝に置き、さながら高座に上がった落語家だった。舞台袖から川路の声が響くが、止めに入ろうとしたところを藤井が制した。

 

「お待ちなさい、川路さん。伊之泉杜学園の校是はなんですか」

「なにっ」

「生徒の自主性をこそ重んじるべきです。岩尾さんのしていることが真に不要なことなら、それは全校生徒の皆様が自然に示すものです」

 

 そう言って藤井は聴衆に目を向ける。戸惑いこそすれ、誰ひとり岩尾の話に耳を貸さない者はいない。むしろそこにいる全員が、舞台上に視線と耳を釘付けにされていた。

 

「藤井ちゃんおおきにねえ。いやしかし川路ちゃんはこわいなあ。あんな顔真っ赤っかにして口ぐわぁ〜開けて、金魚やないねんから。……あとでしばかれるかな?まあええわ。なんぼしばかれても、また草生やすんがアテら芸人の仕事ですから。

 上手いこと言うでしょ?これでもアテ、落研の部長してますさかいに、こんなんよう言いますねん。ああ、ちなみにさっき藤井ちゃんが言わはった岩尾っちゅうのは本名で、寄席では芸名で出てますねん。もう2年以上前、アテが落研に入部したとき、当時の部長から頂戴したありがた〜いありがた〜いお名前です。字を申しますから皆さん手のひらに書いてみてください。

 まずお祭りで着る法被に、お池の蓮、“高”という字の下の口を“丁”の字に変えた亭を書きますね。それからストーブを焚くのに使う灯油です。これで、法被蓮亭(はっぴばすてい) 灯油(とうゆ)と読みます。変な名前でしょ。せやからアテ聞きましてん。

 『なんでこんなおかしな名前つけはるんですか?』『そらあんた、今日が誕生日やからやないの』『いや、アテの誕生日は今日と違たかなあ思いますけど』『何言うてんの、あんたのちゃうよ』『あ、ほな部長さんのですかね。こらまたおめでとうございます』『私ともちゃうよ』『ほなどなたの誕生日ですの』『うちの犬や』

 ほんまにあのボケ……なんて思ったこともありませんよ。ありがた〜い、大事に大事にせなあかん名前です。大切に使わせてもうてます。ですから皆さん気軽に、灯油ちゃんって呼んでくださいね。お願いしますよ。

 さて、まあ〜皆さんどないでっか。長いこと座ってお尻は疲れておまへんか。楽にしてくださいよ。ちょっと一席お付合い頂きたいなあ思いましてね。まあ、他愛のないアホな話です。この頃はぁ、なんやどこぞの黒板が消されたぁやの、真っ白な忍者が出たぁやの、部室のカギがのうなったぁやの、何かと賑やかで退屈しまへんなぁ。今度はキンキラキンの女神像がおかしなったんやて。ほんまに、けったいなことばかり起きる学園ですわ。ただまあ、お化けや妖怪が悪さしてるわけでもなしに、こないな事件の裏には必ず犯人ゆうもんがいてますわな。

 犯人だけならまだしも近頃は探偵もいるなんて噂をよう小耳に挟みます。事件あるところに探偵あり、マンガやドラマの定番ですねえ。そういうときに、多くの方は探偵を応援しはると思います。けどね、アテは違うんです。別に犯人を応援してるわけやないですよ?探偵がこわいんですわ。探偵いう仕事はぁ、なんやちょっとでも怪しいなあ思たら、重箱の隅を突っつくような意地のわる〜い質問しよるでしょ。あと死体なんかもべたべた触ったりするでしよ。あとは推理するときに独り言ぶつぶつ言うたり。いきなりあちこちにチョークで計算式書いたり。しまいには犯人に向かって、お前はああしてこうしてあの人を殺しよったんやー!って。そんなん想像してるお前がこわいわ。そんな風に思ってしまいます。

 まあ、犯人がこわい。探偵がこわい。風紀委員がこわい。人それぞれでございます。他人の感覚っちゅうもんはわからんものです。世の中には、なんでそんなもんがこわいねんと思うようなことを言うもんもおりまして——しっかし暑いなァ。夏ってのァどうしてこんなに暑いんだろうねぇ。お天道さんも毎日毎日昇って来ねェでたまにゃ休んだりしねェのかい——」

 

 テンポよく、しかし聞き取りやすく、灯油の話は続いた。藤井が壇上にいた時間よりもはるかに長く、だがその長さを感じさせない軽快な話しぶりは、全校集会をゲリラ寄席に変えた。突然の一席に戸惑っていた生徒たちも、灯油の語り口で次第に緊張を解されていき、大きく口を開けて笑う者も現れた。

 

「あっ——あった……ひとつだけ……!ああ!あったあった。ひとつだけど〜〜〜してもこわくてたまらねェもんが。へへへ、ほうら見てみろ。人間なァ誰にでもこえェもんの1つや2つあるもんなんだよ。こわいもののねえヤツなんかいてたまるかい。で、何がこえんだ?あ、あの……あれだほら。あ、アンこをな?こう、く、く、包んで蒸したホレ……。なんだいそりゃ、まんじゅうかい?あああ言わないでェン!あ〜もう名前を聞くのもこえェんだおれァ!」

 

 威勢のいい男。気の弱い男。お気楽な男。強面で寡黙な男。灯油はそれらを声色と話し口調、表情、仕草、視線……あらゆる方法を使って演じ分ける。次から次へ登場人物と場面が転換していく様は、全てをひとりで演じているとは思えない情景の広がりを感じさせた。気が付けば、話はサゲに差し掛かっていた。

 

「——今は熱いお茶が一杯こわい」

 

 講堂に笑いが広がる。何人かが始めた拍手が次第に伝播し、講堂中を包む喝采へと変わった。灯油はにやりと笑って頭を上げる。

 

「え〜、もうじき全日本学生寄席大会いうのがありまして、落研はそれに向けて毎日毎晩稽古を頑張っております。濃い〜お茶は出まへんけど、興味のある人は遊びに来てくれたらと思います。今日は皆さんほんまにありがとうございました〜。ほな、またね〜」

 

 気さくに手を振りながら、灯油は座布団を持って舞台袖に去って行った。結局、全校生徒が一席まるまるを聞いてしまった。

 予定より大幅に延びた全校集会は既に朝いちばんの授業時間の半分ほどに食い込んでおり、そこから解散して教室に生徒が戻るころには次の授業が始まる直前だった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「ムジツさん、落研の部室に行ってみようよ」

「なんでよ」

 

 午前の授業が終わり、牟児津は一緒に昼食を摂るため瓜生田のいる教室を訪ねた。顔を合わせるや否や、瓜生田は唐突な提案をした。誘うなら食堂か購買だろうと牟児津は思うが、瓜生田の目的は昼食を摂ることではなかった。

 

「今朝の灯油先輩の話聞いてたでしょ?あれ、たぶん灯油先輩なりのSOSだよ」

「いやいや、普通に落語しただけでしょ。それでも十分意味分かんないけど」

「そう、意味が分からないの。なんで灯油先輩はあの場で落語を披露する必要があったのか。きっと意味があるはずだよ」

「そうかなあ。まあ意味があったとして、なんで落研に行きたくなるの」

「灯油先輩が探偵を求めてるから。これはもうムジツさんが行かなきゃ誰が行くって感じだよね」

「……うりゅ、ヘンな電波でも受信した?大丈夫?」

「もう、スイッチ入らないと察しが悪いなあ」

 

 なかなか牟児津が理解しないことにやきもきしながら、瓜生田は順を追って説明することにした。

 

「噺に入る前に、前段のおしゃべりがあったでしょ。そこで灯油先輩は、探偵がこわいってことを言ってたじゃん」

「言ってたね。でもあれは噺に入るための前口上っていうか、冗談みたいなもんでしょ」

「でも、探偵がこわいっていう部分は必要じゃなかったよ。普通に犯人がこわいって話から入ってもいいのに、わざわざそれを挟んだのには、きっと意味がある」

「それが、探偵を求めてるってこと?」

「そうだよ。探偵がこわいって話から「まんじゅうこわい』に入ったでしょ。つまりその前段の話でも、“こわい”は“好き”とか“ほしい”って意味になるんだよ」

「う〜ん……うりゅが言うならそうかも知んないな。けど……」

「けど?」

「それでもなんで私が行かなきゃいけないの。別に私、探偵じゃないし」

「まだそんなこと言ってるの?ムジツさんはもう立派に探偵なんだよ。自信持って」

「自信ないわけじゃなくて探偵になんかなりたくないってんだよ!」

 

 牟児津の抗議も空しく、その小さな体は瓜生田にひょいと抱えられた。体力のない瓜生田でも、牟児津を抱え上げて運ぶのはお手のものだ。

 

「わーっ!なにすんだ!」

「ほら、危ないから暴れないの。困ってる人がいたら助けてあげるのが、力を持つ人の責任なんだよ」

「そんな責任負わされるほどの力なんか持っちゃいね〜〜〜!」

 

 ばたばた暴れる牟児津を、瓜生田はえっちらおっちら部室棟まで連行した。はじめは抵抗していた牟児津も、次第に無力感からぐったりと項垂れて、落語研究部の部室前に着いたときにはすっかり大人しくなっていた。

 落語研究部は学園創設まもなくから続く歴史の深い部で、部室は部室棟3階の角部屋という一等地を確保している。歴史の長さ故か、あるいは部の雰囲気作りのためか、部屋の入口は障子になっており、履物を脱ぐための簀子(すのこ)が用意されていた。障子の紙を透けて光が漏れており、中からは人の気配がする。どうやら部員が在室しているらしい。

 

「なんだこりゃあ」

「一休さんみたいだね。落研らしい」

 

 障子を開けて声をかければ、灯油が探偵を呼んでいるという瓜生田の考えが正しいかは簡単に検証できる。しかし障子に貼られた一枚の紙がそれを妨げていた。どうにも無視できない位置に、どうにも無視できない一文が書かれていた。牟児津は戸惑いの声を、瓜生田は乾いた笑いを漏らした。

 

「“このとひらくべからず”だってよ。開けるなってことだ。きっと落語の稽古で忙しいから部外者は来るなって意味だよ」

「まさか。灯油先輩は遊びに来てねっておっしゃってたよ」

「来てねって言っといてこれはおかしいでしょ!」

「おかしいよ。だからこれは、とんちで開けてみろってこと。ムジツさんは試されてるんだよ。灯油先輩が求めた探偵として相応しい資質があるかをさ」

「なんで試されなきゃいけないんだ!こっちは初めから乗り気じゃないんだよ!」

「でも困ったね。橋なら真ん中を通ればいいけど、戸は開かないと入れないからなあ」

「ね、うりゅ。もう諦めて帰ろ。お昼食べよ」

 

 面倒なことに巻き込まれる前に諦めさせたい牟児津は、瓜生田の袖を引っ張って退散を促す。それでも瓜生田はびくともせず、障子に貼られた一文を睨み続けていた。しばらく頭の中で格闘するが、糸口すらつかめない。瓜生田は決して頭の悪い生徒ではなかったが、頭の柔らかさが必要ななぞなぞは得意ではなかった。

 そうして落語研究部の部室前でとんちと戦っていると。

 

「ふはーっはっはっは!困っているようだな牟児津真白!」

 

 瓜生田にとっては心強い、牟児津にとっては更なる面倒を呼びそうな応援が現れた。その声は、部室棟の廊下の隅から隅まで響き渡るほど過剰に大きかった。

 

「どうやらお前より私の方が優れた探偵であることを示す絶好の機会のようだ!そこをどけい!」

「ホームズ、廊下ではお静かに」

「げっ」

「びっくりしたぁ……家逗(いえず)先輩と羽村(はねむら)さんじゃないですか」

 

 高らかな笑い声に驚いて、牟児津と瓜生田は同時に飛びあがった。振り向いた先には、えんじ色のインバネスコートに身を包んだ家逗(いえず) 詩愛呂(しあろ)と、ゴスロリ風に改造した制服を着た羽村(はねむら) 知恩(ちおん)が立っていた。

 学園きっての名探偵を自称する家逗は、様々な事件を解決して名声を高めている牟児津に一方的にライバル意識を燃やしている。羽村はそんな家逗の傍について手綱を握る役だ。流されるまま事件に巻き込まれて仕方なく解決している牟児津は、家逗も羽村も厄介事を運んでくる2人組としか認識していなかった。

 

「お二人がこちらにいらっしゃるということは、やはり灯油様のお話には探偵募集のメッセージが込められていたということですね」

「羽村さんもそう思ったの?なぁんだ、抜け駆けしたつもりだったのに」

「え、どゆこと」

「ムジツさんがいち早く灯油先輩のメッセージに気付いて力になってあげたら、探偵同好会にリードを取れるでしょ。逆もまた然りってことだよ」

「はっはっは!そんな姑息な手段で我々を出し抜こうとは、考えが甘いのだよ!」

「姑息の使い方が違います、ホームズ」

「なんで私の周りはこんなんばっかなんだ!誰が好き好んで事件に首突っ込むんだよ!もう勘弁してくれ〜〜〜!!」

 

 探偵同好会が現れたことで場が一気にやかましくなる。灯油の話からメッセージを感じ取ったのが瓜生田だけではないことで、この先に入ると面倒ごとに巻き込まれる可能性がかなり大きくなった。たまらず牟児津は頭を抱えて叫ぶ。が、勘弁してくれる者はひとりもいない。

 

「それで、君たちは部室の前で何をしていたのかね?怖じ気づいたか?」

「入口の障子にこんな貼り紙がしてあって、どう言って入ろうか困っていたんです」

「なに?」

 

 家逗は大きな虫眼鏡を取り出すと、障子に貼りだされた紙を大袈裟に覗き込んだ。この虫眼鏡のせいで散々な目にあったというのに、性懲りもなく携帯しているようだ。家逗にとっては喉元すぎて忘れた熱さよりも、探偵らしくあることの方が重要らしい。

 

「“このとひらくべからず”……ふむ、なるほど。実に興味深い謎だ。これを解かなければ障子は開かないということだな」

「開かないことはないですけど、灯油先輩が探偵を呼び寄せたってことを考えると、力試し的な意味で貼りだされてるんだと思います」

「よろしい。ではさっそく中に入るとしよう」

「えっ?話聞いてた?」

「灯油君!入るぞ!」

 

 牟児津が制止しようとするのも聞かず、家逗は上履きを脱いで簀子に上がり、障子を思いっきり開いた。枠と柱が衝突して気持ちの良い音がし、それと同時に室内全ての視線が出入り口に集まる。堂々たる仁王立ちの家逗は、一同驚愕の様子を満足げに眺めていた。

 そんな家逗のちょうど真正面に、細い目をさらに細めて鎮座する着物姿の生徒がいた。今朝の集会で唐突な一席を披露した緑色の着物の落語家、落語研究部部長の法被蓮亭灯油であった。目を丸くする部員らと違い、余裕の笑みを浮かべて家逗を正視していた。

 

「なんや、しゃろ子やないの。枠が傷むからそない強う開けんといてえな」

「すまないね。知っての通り、私は謎を前にすると興奮を抑えきれない質なのだ。つい力が入ってしまった」

「さよか。で、入ってきたいうことは、障子のとんちは解けたいうことやんな?聞かせてもらおか」

「もちろんだとも」

 

 部室の外から覗いていた牟児津は、一日に二度も上級生同士の睨み合いを前にして、胃の痛みが腸を下って具合が悪くなって来た。磯手と川路に比べればどちらも刺々しさはないものの、灯油からは油断ならない雰囲気が感じられた。家逗の無鉄砲さで空気が弛んでいることが救いになるくらいだ。

 

「君はあの文章を“この戸開くべからず”と読ませたかったようだが、それなら敢えてひらがなで書く必要はない。つまりこれは、異なる読み方をしてみせよ、という問題だと捉えられる」

「そりゃそうでしょ。わざわざ言うことか?」

「しっ。ホームズのとんちを最後まで聞いてあげてください」

「この問題が、集まった有象無象の探偵気取りから本物の探偵を選抜する目的なのだとしたら、当然その意図が問題の中にも含まれていると考えるべきだ。すなわち、謎を解いた上で大いなる謎に挑む探偵としての胆力を問うたものになるはずだ!そう!あの文章は“この問ひ楽べからず”、この問題は楽ではないぞという警告文と読める!」

「へえ」

「謎が解けた上で簡単ではない問題に挑む、まさに真の探偵に相応しい者こそこの戸を開くべし、という問題なのだ!どうだ参ったか!」

「……微妙じゃない?」

「とんちっていうかとんちんかんじゃん」

 

 朗々と家逗は自説を展開する。対する灯油は家逗に指をさされても身じろぎひとつしない。後ろで聞いていた牟児津たちは一様に首を傾げた。家逗の取って付けたような主張では納得感が薄い。フォロワーである羽村でさえため息を吐く始末だ。

 しかし、灯油は不敵な笑みをいっそう深めた。

 

「ま、ええやろ。しゃろ子にしては上手いこと言えたんちゃう?」

「ふふっ。なに、初歩的なことだ、(クラスメイト)よ」

「ホームズ、そのレベルで胸を張らないでください。恥ずかしいです」

「自分ら一番乗りやしサービスしとくわ。ささ、後ろの子ぉらも入りぃな。弁当はあるか?ない?ほな待ちや。園泊用の備蓄があったやろ。吹逸(すいいつ)!」

「は、はい!」

「お邪魔します」

 

 どうやら家逗のやっつけとんちは灯油に受け入れられたらしい。指示を受けた部員が奥へ引っ込んでいる間に、牟児津たちは灯油に招かれて落語研究会の部室に上がった。

 部室は全体的に和風にまとめられていた。床は廊下より一段高い畳敷きになっていて、部屋の奥にはさらにもう一段高くした高座が設けられていた。灯油をはじめとして多くの部員が勢揃いしており、全員が色とりどりの、しかし決して派手すぎない着物を着ていた。壁際には公衆浴場の脱衣所のような棚が並び、畳まれた屏風や()()()や見台が隅の方に片付けられていた。

 

「正直あんまり期待してへんかってん。2組も来てくれたんは僥倖やわ。狭いところやけどゆっくりしてってや」

「灯油姐さん。こちら、おにぎりです」

「はいご苦労さん。自分らお昼まだなんやろ?食べよし」

「ありがとうございます。いただきます」

「なんでこんなにおにぎりがあんの」

「もうじき大会やから学園に泊まって稽古すんねん。今の時期は文化系の大会が集中しとるし、文化部はだいたい園泊しとんのちゃう?まあそういうわけやから晩飯の準備はしとかんとな。ああ、ええのええの。またうちの若いもん使いに出すだけやから、遠慮せんと食べぇな。ん?園泊許可?ちゃあんと田中ちゃんに話通してるで?当ったり前やないの!勝手に泊まったらブチ怒らせて可愛い田中ちゃんの顔に小皺ができてまうよ!んなっはっは!……まあ、落研は実績もあるし由緒正しい部やから、事後申請でもなんとかなるんよ他の部ではそうはいかんやろなぁ」

「もぐ……前置きは結構だ!昼休みは短いぞ。我々を呼び寄せた理由を話したまえ」

「一口で食いよった!ほんまおもろい子ぉやなあ、しゃろ子!」

 

 よく喋る人だ、と牟児津は既に気疲れしていた。一方的に話されるのは、相手が話終わるタイミングが分からなくて疲れる。かと言って牟児津もあまり自分から話すタイプではない。こういう話したがりのタイプの人間は、牟児津には上手な扱い方が分からない。

 家逗は待ちきれないといった様子で、手のひらほどの大きさのおにぎりを一口で飲み込んだ後、本題を促した。灯油はひとしきり笑った後、すっと落ち着いて静まり返った。

 

「せやな。はよ話さんとな。そっちの赤髪の子ぉは牟児津ちゃんやろ?学園新聞でよう見る顔や」

「え、あ、はあ、ども」

「ここに来たっちゅうことは、アテの目的もなんとなく察しがついてるんやと思う。実は、あんたたちに解決してほしい事件があんねん」

「ふふ、そうこなくてはな!」

 

 鬱陶しいほどよく喋っていた灯油が、急に静かな喋り方に切り替えた。それだけで牟児津は、ここから先の話は今までと違って真剣に聞かなければならないと感じさせられた。どことなく灯油の纏う雰囲気も怪しげになったような気がする。

 

「で、その事件なんやけどな——」

 

 灯油がようやく本題に入ろうとしたまさにそのとき。

 

「おじゃッしまァッ!!こちらにムジツ先輩は来てませんでしょうか!?」

「おぎゃあっ!?」

 

 牟児津の背後から耳障りな大声とともに障子が勢いよく開かれた。木の枠と柱がぶつかる威勢の良い音、金属同士を打ち鳴らすようなカンカン声、ガサツに畳を踏みつけるどかどかいう足音、そんな不意の大音声の嵐で、部室内は一気にひっくり返った。

 

「おおっ!いたいた!やっぱり落研に来てましたか!先輩のクラスにも瓜生田さんのクラスにもいないからどこ行ったかと思えば!」

「あ〜、びっくりした。どうしたの益子(ますこ)さん?」

 

 現れたのは、ジャケットの袖を胸の前で結んで肩にかけ、チョコレート色の髪にハンチング帽を被り、腰に下げたポシェットからは分厚い手帳が覗く、活発な新聞記者だった。新聞部に所属し、牟児津の番記者を務めて事件のたびに何かと付き纏ってくる、益子(ますこ) 実耶(みや)である。

 

「今回の事件に関してムジツ先輩を取材させてもらおうと思って捜してたんですよ!どうせまた巻き込まれてるんでしょう?とぼけても無駄ですよ!今朝方、風紀委員に連行されるムジツ先輩を目撃したという証言を多数確認していますからね!」

「あんた引っ掻き回すだけだからヤなんだよ……」

「まあそう言わずに!さあさあ!捜査に行きましょうよ!」

「待ちい」

 

 ひっくり返った牟児津の脇を持って、益子が部室の外へ連れ出そうとする。しかしそれは、灯油の冷たい一言で止められた。

 

「あんた、寺屋成ちゃんとこの子ぉやんな?牟児津ちゃんはいまアテと話してんねんで?」

「おっと!これはこれは灯油先輩!お噂はかねがね!ってお話中でしたか。これは失礼!ではお話が終わるまでここで待たせてもらいます!」

「ただで待つっちゅうんはあかんな、ルール違反や」

「なんですと!?報道の自由への挑戦ですか!」

「立場が悪くなるとすぐそういうこと言う」

「そこの入口の貼り紙、見たやろ?」

 

 灯油は、話の邪魔をされたことよりも、益子が貼り紙を無視して入ってきたことを注意していた。落語研究部の部室に入る以上は自分のルールに従わなければ、入室を認めるわけにはいかない。

 

「ルールを守るんやったら別にかめへんよ。けど、アテを納得させる答えが出せへんねやったら、そのときは出て行ってもらうで」

「勝手なことを!あくまで私は新聞記者として報道の自由を行使させていただきますよ!正義のジャーナリズムは全てに優越するのです!貼り紙など問題になりません!」

「貼り紙の文字はこうや。ひらがなで“このとひらくべからず”。ほな、なんで自分は入ってきたんや?」

「ハッ!馬鹿馬鹿しいですね!」

「馬鹿馬鹿しいとは何事や」

「だってそうでしょう!そんなものは()()()()です!」

 

 益子はそう言い切ると、ふんと鼻息荒く居直った。3年生相手によくこんなでかい態度が取れるな、と牟児津は冷や汗が止まらなかった。が、灯油は束の間の沈黙の後。

 

「んはっ——んなっはっはっは!!」

 

 破顔一笑——大声で笑った。牟児津らはぽかんとした顔で、益子は得意げに、そして他の落研部員たちは呆れと感心が半分ずつ混じった表情で灯油と益子を見比べていた。

 

「はっはっは!こりゃ一本とられてもうたなあ!益子ちゃんやったか?待っててええよ。というかこっち来て一緒に話聞きぃな」

「おっ、ありがとうございまーす!じゃ、お言葉に甘えて!」

「なんなんだこいつら」

「芸人という人種の考えはいつも分からん。この私の灰色の脳細胞を以てしても理解し難い」

「少なくとも益子様はホームズよりとんちが利いてましたよ」

「ふんっ、とんちは探偵のすることではない!」

 

 益子はあっという間に灯油に気に入られ、瓜生田の隣に敷かれた座布団に招かれて飛び乗った。昼休みも残り時間が少なくなり、ここらが頃合いと考えた灯油は入り口の貼り紙を剥がすよう指示し、目の前に並んだ5人に向けて話し始めた。

 

「えーっと、さっきはどこまで話したかなあ?ああ、解決してほしい事件があるっちゅう話やったな。そうそう。しゃろ子と牟児津ちゃん、それに益子ちゃんも新聞部やったら情報収集できるやろ?せやからもう調べ始めてるかも知れへんけどな、解決してほしい事件いうんが、例の——」

「さては『女神の祝福事件』ですね!藤井先輩がおっしゃってた!」

「……さすがやね、益子ちゃん。せやけど、噺家の話に割って入るんはご法度やで。大人しぃしといてな?」

「こりゃ失礼!」

「あんたマジで怖いもの知らずだね……」

 

 先ほど部屋に突入してきた益子に向けていた顰めっ面ではなく、やんわり注意した灯油の顔は微笑んでいた。それが却って迫力を増していたのだが、益子は舌を出し自分の頭を軽く叩いて反省の意を示した。肝が据わっているどころか、心臓に太めの毛が生えているのではなかろうか。牟児津は手汗でスカート越しに膝を湿らせながら思った。

 

「さて。『女神の祝福事件』いうお題目は知らんけど、藤井ちゃんが言うてた事件てところはおうとる。理事室前のあのけったいな像がピカピカ光っとる事件。あれなんやけどな——」

 

 一拍、灯油は間を置いた。そして——。

 

「あの犯人、アテかもせえへんのよ!んなっはっはっは!」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「……なんだって?」

 

 大笑いする灯油に、ようやく家逗が尋ねた。他の4人は言葉の意味が分からず、笑う灯油に負けず劣らずの大きく口を開けてその顔を見ていた。

 

「女神像が妙な音と光を発している事件——益子様の言葉をお借りして『女神の祝福事件』と申しますが——その犯人が灯油様というのは……どういうことでしょうか?」

「ああ、心配せんでもきちんと説明するさかいに、ちょっと待ってな。吹逸(すいいつ)、こっちおいで」

「はい」

 

 灯油は自分の隣の(ござ)を叩いて、近くにいた部員を呼び寄せた。水色の着物に身を包んだ部員が、しなやかな所作でちょこんと収まった。学年色の入ったリボンや上履きはないが、その小柄さや灯油と並んだときに感じる雰囲気の洗練され具合の差から、1年生であろうことが感じられた。

 

「落語研究部1年生、矢住(やすみ) (あい)——高座名を江暮屋(えくれや) 吹逸(すいいつ)と申します。以後お見知り置きを」

「なんだ、アイちゃんじゃないですか。何か事件に関わってるんですか?」

「まあ聞きぃな。実はな、あの女神像が光ってるんが分かったんは今朝やろ?他の部もやろうけど、落語研究部(うち)は昨日の晩から今朝まで園泊しててんな。んで、昨日の夜中に……な〜んかあの辺うろうろしたような気がすんねんな」

「何言ってんだこの人?」

「たぶん夜中やったしお腹もいっぱいやったから、眠たかったんやろなあ。なんとな〜くふらふら校内を歩いてて、あの辺であるもんを拾たような気ぃすんねん」

「あるもの、とは?」

「練り切りくらいの大きさで、まんまるで、木苺みたいに真っ赤っかな宝石や!」

「な、なんだってぇ!?」

 

 灯油が拾ったものを聞いて、牟児津は飛び上がった。同じように瓜生田も驚いて、細長い目を丸くした。その場にいる他の全員は、なぜ2人がそんなに驚いているのか分からないが、ともかく灯油の話の続きを聞くことにした。牟児津と瓜生田も、すぐに、いっそう灯油の話を食い入るように聞き始めた。

 

「そんでな、キレイやな〜思てそのまま持って帰ったような気がすんねんけど……そっからどうしたか分かれへんねん」

「わ、わからないというと?」

「なんていうかね、こう……夢現やねん。持って帰ったような気もするし持って帰ってへんような気もするし、はっきりと覚えてへんのよ」

「はあ……浅見を申しますが、持って帰っていらっしゃるなら、落研の何方かが御存知なのでは?」

「せやんなあ?じゃあ落研部員(うちの)に訊いたら、知らん言いよんねん」

「じゃあ気のせいなんじゃないか?」

「ん〜、せやけど夢にしてはやけに現実味があるっちゅうかねえ。ただの夢やとも思えへんねんけどなあ」

「なんなんだ。はっきりしない奴だな。いくら私が名探偵と言っても、君の夢の中でしか起きていない事件は解決のしようがないぞ」

 

 判然としない灯油の態度に家逗が腹を立て始めた。

 

「依頼者が何か秘密を抱えているのもミステリの王道だが、君は違う。自分が犯人なのか。犯人でないならどう関係しているのか。そもそも関係者なのか。それすら判然としない。酔っぱらいが管を巻いているのと何が違うのだ」

「うちの部長はこの通り、落語は一流でも他がちゃらんぽらんな人間なんです。話半分で聞いておくのがよろしいかと」

「言うやないか吹逸。落語なんて全部作り話やねんから、即興で嘘八百並べ立てられるアテみたいな人間こそ向いてんねんで。あんたは真面目すぎるのがあかんわ」

「ほどほどに勉強させてもらいます。嘘と落語は違いますけど」

「ほんまに、手のかかる後輩を持つと先輩は大変やで。悔しかったらアテを驚かせる大ボラでも吹いてみぃ。でけへんやろけどなぁ」

「あのう、そうすると先ほどのお話は嘘ということになるのでは……?」

「ちゃうねんちゃうねん。そっちは嘘とちゃうねん。ああもうややこいなあ。要はね、アテははっきりした答えが欲しいねん。アテが例の事件の犯人なんか、ちゃうんか。しゃろ子でも牟児津ちゃんでもええから、事件をはよ解決してくれたら、それもはっきりするやろ?」

「ちなみに、風紀委員にそのお話はされてますか?」

「してへんよ。ほんまにアテが犯人なんやったら、そんときはきちんとケジメ付けるつもりや。けどアテが犯人やなかったら勘違いでしてへんことをしたぁ言うて捕まるん、めっちゃアホやん?」

「なんなんだこいつは」

 

 人を呼んでおいて好き放題なことを言う。自分がどう事件と関わっているのかもはっきりとしない。犯人なら責任は取るが、そうでないなら損はしたくないと言う。家逗はすっかり、灯油の話を聞く気を失っていた。『アテナの真心』に関する事件なら聞かないでもないが、こんな形で関わるのは納得がいかない。

 

「んで、しゃろ子。アテの頼み受けてくれる?」

「断る!探偵は便利屋ではない!確証はなくとも思い当たることがあるなら風紀委員に伝えるのが善良な市民のあるべき姿だ!」

「なんや、つれないなぁ。ほな牟児津ちゃんは?」

「おい牟児津真白。探偵として忠告しておいてやる。こんな灯油君の戯言に付き合うことはないぞ。赤い宝石の件が事実だとしても、事件に関係している保証はない。こんな馬鹿げた話は——」

「……絶対解決できるって保証はできないですけど、それでもいいなら。私も、もう関わっちゃってるんで」

「なにっ!?」

 

 家逗の忠告は完全に受け流し、牟児津は灯油の頼みをすんなり受け入れた。ここで断っても、どうせ磯手と川路から『赤い宝石』の件を伝えられ、他の生徒より深く事件に関わっているのだ。そして何より、自分と瓜生田の知っている手掛かりに照らし合わせれば、灯油の話は真実であると考えられる。

 

「ほんまに!?ありがとう!めっちゃ助かるわ!」

「おおっ!ムジツ先輩、珍しくやる気ですね!」

「本気か牟児津真白!?こんな話を真に受けるのか!?」

「別に、この事件が解決しないと私も困る……ってだけ。どうせ逃げられないしさ」

「ほうほう!ということはこの事件、ムジツ先輩の単独捜査になるということでよろしいですか?探偵同好会の方々はこの依頼を断るようですから!」

「ん待てぃ!誰が断ると言った!やるやる!やるに決まってるだろう!」

「なんやのしゃろ子。さっき自分、断る言うたで」

「ライバルの牟児津真白がやると言っているのに、私が指をくわえて見ているわけにはいかないだろう!むしろそっちがその気なら、この事件で夫婦(めおと)を決してやろうではないか!」

「決するのは夫婦ではなく雌雄です。ともかく、牟児津様がお受けになるなら受けるということですね」

「……灯油君の依頼を受けるわけじゃない。牟児津真白との決着を付けるだけだ」

「アテはなんでもかめへんよ。事件が解決すんねやったら同じことや」

 

 牟児津は既に事件に関わってしまっている諦念から。家逗は激しく燃え盛る対抗意識から。それぞれ灯油の依頼を受けることになった。また珍妙な事態に巻き込まれてしまったと牟児津は頭を抱える。これが、ただの珍奇な事件で済まないことなど、まだ知る由もなかった。



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第2話「後輩は大変だよね」

 

(これまでのあらすじ)

 私立伊之泉杜学園の理事室前に設置されている黄金の女神像『アテナの真心』が、ある日突然、まばゆい光と共に謎の祝福のメッセージを発するという事件が起きた。ひょんなことから犯人だと疑われてしまった牟児津(むじつ)と幼馴染の瓜生田(うりゅうだ)は、風紀委員長の川路(かわじ)と会計委員長の磯手(いそて)から、事件の犯人の手掛かりとして“『赤い宝石』を持っている生徒”の情報を得る。

 その後、事件の手掛かりを求めて落語研究部を訪れた牟児津と瓜生田は、部長の法被蓮亭(はっぴばすてい) 灯油(とうゆ)から『女神の祝福』事件を解決するよう依頼を受ける。灯油は『赤い宝石』を拾ったという朧げな記憶があり、自分が事件に関係しているかをはっきりさせたいのだと言う。

 もはや事件からは逃げられないと諦めた牟児津は、共に灯油から話を聞いた、新聞部員の益子(ますこ)や探偵同好会の家逗(いえず)羽村(はねむら)らと捜査に乗り出すのだった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 灯油からひととおりの話を聞いた牟児津たちは、昼休みが終わる前に教室に戻るため、落語研究部の部室を後にした。道中、羽村が口を開く。

 

「牟児津様、今回は共同捜査を御提案したいのですが、お受け頂けますでしょうか」

「共同捜査?」

「はい。この度の事件、猫探しの時とは訳が違います。まずは何よりも情報収集が必要と存じます。双方バラバラに手掛かりを集めるより、協力して情報共有や連携を図るのが得策ではないでしょうか。私たちには信頼のおける情報源もございます」

「ほおーぅ!その信頼のおける情報源って、新聞部の私や学園中に渡るムジツ先輩の人脈に比肩するんでしょうかねえ!?」

「ぐえ」

 

 羽村の提案に真っ先に反応したのは益子だった。握手を求めようとした羽村と牟児津の間に割って入り、にこやかに、しかし敵意剥き出しの言い方で羽村を牽制する。

 

「なんだよあんた!邪魔してくんなよ!」

「落ち着いてくださいムジツ先輩。共同捜査と言えば聞こえはいいですが、これは私たちに圧倒的に不利な提案なんですよ」

「そうなの?なんで?」

「情報共有なんて言いますけどね、ムジツ先輩には既に信頼のおける情報源がたくさんあるんですよ!私だっていますし、その気になれば川路先輩に情報提供をお願いすることもできます!

 片や、この人が言う情報源なんて本当に信用できるか分からないじゃないですか!よしんば情報源として真っ当なものであったとしても、私たちがそこを頼る意味はないんです!

 いいですか?要するにこれは、協力の体をとった一方的な情報の搾取なんですよ!まったく質が悪いですね〜!ムジツ先輩の脇の甘さにつけ込んで甘い汁を啜ろうとするなんて甘い考え、本人はともかく、瓜生田さんと私には通用しませんよ!」

「そんな甘ったるいことを言われるなんて心外です。私は打算などなく、ただ純粋にご協力を申し出ただけですのに。なにより牟児津様がお望みの早期解決に向けても最適なご提案かと存じますが」

 

 びしっ、と音がしそうなほど勢いよく、益子は羽村を指さした。益子の言う通り、確かにその協力体制は牟児津にとってメリットが少ないようにも感じる。灯油の話を聞いていた際の反応を見ても、探偵同好会は『赤い宝石』のことを知らないと考えていい。一方的に有力な手掛かりを与えるだけになってしまえば、家逗に出し抜かれる可能性を増やすだけだ。

 益子の指摘は正しく、完璧だった。牟児津は探偵同好会との競争意識に燃えている、という前提の齟齬さえなければ。

 

「騙されちゃいけませんよムジツ先輩!この人は学園最多発行部数を誇るうちの学園新聞を信用しない情報隠者(じょうじゃく)なんです!そんな人の言うことなんかこれっぽっ——!」

「いいよ。協力しよう」

「まだ私しゃべってます!!」

 

 怒涛の勢いで捲し立てる益子を一刀両断し、牟児津はあっさり羽村と握手を交わした。牟児津にしてみれば、早く終わるなら誰が事件を解決させようと構わないのだ。むしろ家逗の手柄になった方が、自分が目立たなくなるので助かる。

 ということで、羽村の真意など関係なく、ましてや益子の羽村に対するヘイトなど心底どうでもよく、牟児津はただ事件を早く終わらせることだけを目的に、探偵同好会と手を組むことを選んだ。

 

「ダメだよ益子さん。ムジツさんは功名心とかない人なんだから、もっと実益で訴えないと」

「ないにも程があります!ちょっとくらい揺れてもいいでしょうに!」

「とはいえ、今は手掛かりが少なすぎる。最終的に私が勝利することには違いないが、まずは共同捜査ということで手を貸してやろうではないか」

「ん〜〜〜!私たちの方が圧倒的に有利なはずだったのに、なぜか上から言われてますよ!悔しい!」

「あんたはこの件を独占スクープしたいだけだろ。どっちが解決したっていいじゃん」

「なに言ってんですか!私はムジツ先輩のファンなんですから贔屓するのは当たり前じゃないですか!」

 

 そこまで真っ直ぐファンだと言われると、さすがの牟児津も面映くなる。それが本心なのか煽ているのかはさておき、益子が探偵同好会と——正確には羽村と——距離を置きたがっているのは本当らしい。当の羽村は特に意識していないようなので、一方的に敵意を抱いているだけのようだ。

 

「共同捜査するなら分担を決めないとだね。まずは情報収集だけど、探偵同好会の情報源って?」

「風紀委員に知り合いがおりますので、そちらを当たってみようと思います。ホームズの古い友人ですので、信頼が置けます」

「風紀委員?じゃあ、私たちは風紀委員に話聞きに行かなくていいってことか!やった!ナイス羽村ちゃん!」

「私の友人なんだから私を褒めろ!いや敵に褒められても嬉しくないからいい!あ、今は敵じゃなかった!」

「騒がしい人ですね、まったく」

 

 そこから瓜生田と羽村による話し合いの結果、探偵同好会は風紀委員のツテをたどって捜査状況や現時点で分かっていることの聞き込みを、牟児津たちは会計委員会やその他関係者へ女神像についての聞き込みを担当することになった。牟児津たちの分量が多いのは、人手や人脈の差によるものである。

 また、今日一日は双方とも聞き込みによる情報収集に集中し、最後に集まって情報共有をした後にその時点で分かることを整理。明日以降の捜査につなげるという計画だ。もはや数日掛かりが前提となっているが、関係者が多いことや事件の全容が見えないことから、長引くことを予想して一旦のスケジュールとした。家逗の“探偵としての勘”も長くなるだろうと言っているらしい。

 

「では、今回は健闘を祈るぞ。牟児津真白。精々駆け回ることだな!はっはっは!」

「この人、協力関係だって分かってないんじゃないの」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「さてワトソン君!早速、風紀委員室に乗り込もうではないか!」

「待ってくださいホームズ。乗り込むのはさすがに迷惑です。そもそも私たちは宛てがあるだけで、本当にそこで手掛かりを得られるかどうかは分からないんですよ」

「なあに、彼女らに頼めば、きっとまた有力な手掛かりを教えてくれるはずだ!」

 

 放課後が訪れ、羽村はチャイムが鳴ると同時に教室を飛び出し、家逗のいる教室に向かった。準備万端で待ち構えていた家逗は、意気揚々で羽村を先導する。牟児津が苦手とする風紀委員に宛てがあるため、まずは風紀委員室で捜査状況についての聞き込みをするつもりだ。期待を高めるだけ高めて外れたときに落胆することがないよう、羽村が気持ち程度の予防線を張る。家逗はそんなことも気にせず、廊下の真ん中を大股で歩いていった。

 風紀委員室の重厚な扉を前にしても、家逗は全く臆さない。牟児津であればその雰囲気だけで萎縮していたはずだ。その自信たっぷりの態度だけは一級品である。家逗は扉を強く叩いた。

 

「い、今開けます〜!」

 

 家逗の呼びかけにすぐ応じて、漆塗りの扉はゆっくりと開いた。奥から現れたのは、おかっぱ頭にくりくりとした丸い目、赤らんだ幼い顔の風紀委員だった。牟児津のクラスメイトである、葛飾こまりだ。

 

「はいはい。どうされました?」

「私だ。グレグスン君かレストレード君はいるかね?」

「は……?グ?えっと、どちら様ですか?」

「なにっ」

「すみません。私たちは探偵同好会の者です。3年生の呉薬(くれぐす)様か、鳥堂(とりどう)様はいらっしゃいますか?」

「はあ。おふたりならおりますけど、何の御用でしょう」

「例の事件について、私が少々助言をしてあげようと思ってね。詳しい話を聞きに来た」

「こちらの言うことはお気になさらないでください。おふたりに少々……お話ししたいことがありまして」

「ええ……?」

「難しいことはない。ホームズが来た、と言えば分かるだろう」

 

 葛飾は、要領を得ない家逗の言葉と理路整然としながらもはっきりしない羽村の態度に、なにやら嫌な予感がした。ちょうど以前、牟児津と瓜生田が事件に関する重要な手掛かりを掠め取りに来たときのような、厄介な感じだ。

 このまま応対していても埒が開かないと思い、一度引っ込んで件の2人に、言われたことをそのまま伝えてみる。

 

「あのう、呉薬(くれぐす)先輩。鳥堂(とりどう)先輩。なんか、ホームズとかいうおかしな人が来てるんですが」

「うげ、シアロじゃん。ウチはいないって言っといて」

「げえ、シアロかよ。アタシもいないことにして」

「そ、そんなあ。こまります〜!」

 

 頼った先輩二人に揃って居留守を使われ、葛飾の眉尻が限界まで下がった。あの話が通じそうにない厄介な人の相手をしなければならないのか、と一瞬で心の底からうんざりした。が、葛飾や二人が思う以上に、家逗は厄介な客だった。

 

「グレグスン君にレストレード君いないのか!?なんだいるじゃないか!私が来たらすぐに出て来なさい!」

「わわわっ!ちょ、ちょっと!勝手に入ってこないでください!こまります〜!」

「困ることはないぞ。私は彼女たちに用があるだけなんだ。さあそう遠慮せずに、話を聞かせなさい」

「わ〜!ちょ、ちょっと待って!分かった分かった!行くよ!行くから椅子引っ張んなって!」

「うちの会長がお騒がせしてすみません……もうすぐ済みますので」

「済んだらいいって話じゃないですよ!」

 

 無遠慮に委員室内へと乗り込んできた家逗は、真っ直ぐ二人の席に近付いていき、キャスター付きの椅子ごと部屋の外に連れ出そうとした。

 ネイルの手入れをしていた呉薬(くれぐす) 永久(とわ)は、肉付きの良い手でデスクの端を掴んで必死に耐えた。せめて今やり途中の指を終わらせないと気持ちが悪い。なんとか家逗に手を離してもらい、手早く終わらせるため亜麻色の髪を後ろで結って気合を入れた。

 つけまつ毛を貼り付けようとしていた鳥堂(とりどう) 鈴寿(れいじゅ)は、引っ張られた勢いでつけまつ毛を落としてしまった。素早く椅子から飛び降りてねずみのように机の下に潜り込み、少し貧血気味の黒い瞳で落とし物を探した。

 二人とも突然の襲撃にもかかわらず迅速に対処し、ため息を吐きつつも家逗に従って部屋から出て行くことにした。

 

「では二人を少々借りるよ。諸君、邪魔したね」

「本当ですよ」

 

 家逗は二人を風紀委員室の外へ連れ出した。二人は、全く気乗りしないという態度を隠そうともせず、その後ろをどなどなついて行った。最後に羽村が深々とお辞儀して扉を閉め、嵐が通過した後のように散らかった二人のデスクの周りを、葛飾たち残った委員が片付ける羽目になった。

 空き教室は部室を持たない部会が使用していたので、家逗たちは少し足を伸ばして探偵同好会の部室にやって来た。部室を構えて間もないせいで中は物が少なく、4人分の椅子さえやっと用意できたという有様だった。しかし呉薬と鳥堂にとっては、家逗が探偵同好会を発足したばかりの頃から念願だった部室ということもあり、興味を惹かれずにはいられなかった。

 

「マジで部室もらったんだ……ヤバ」

「よかったねシアロ。あんた1年のときからずっと、部室ほしい部室ほしいって言ってたもんね」

「ほんとそれ。羽村ちゃんが入ってくれたときも言ったけど、もっと感謝しなきゃだよ」

「うるさいな。感謝なら毎日している。そんなことより、事件の話を聞かせたまえ」

「お二人ともどうぞ。購買のお茶ですが」

「ありがと〜羽村ちゃん」

 

 しげしげと部屋の中を見て回る二人に、家逗は待ちきれないという態度で席を勧める。羽村は購買で買って来たペットボトルのお茶を二人の席に置き、それとなく席に座るよう誘導した。二人とも、渋い顔をして席に着いた。

 

「聞かせたまえって、シアロが聞きたいんでしょ。別に私たちは知らせる必要ないもん」

「そうそう。それに関係ない人に情報漏らしたりしたら、川路にめっちゃ怒られるし」

「川路君など怖いものか!そう言えばさっき私の応対をした彼女は新人か?どうも私のことを知らなかったらしい。何度も捜査に協力しているこの私を知らないとは、君たちはきちんと内部で情報共有できているのかね?」

「葛飾ちゃんは去年からずっといたよ。あんたのことはわざわざ教える必要なかったから教えてないだけだし。そもそもあんた協力って言っていっつも引っ掻き回すじゃん」

「なっ……!グレグスン君もレストレード君も、事件が早く解決するならそれに越したことはないだろう!」

「あとそのあだ名さあ、ウチらだけのときはいいけど、みんなの前で呼ばれるとはずいからやめてくんね?」

「羽村ちゃんだって、シアロのことホームズって呼ばされてかわいそうじゃん」

「いえ、私はこれが楽しいので」

 

 事件に関する話を聞くどころか、まさかの同級生から説教を食らう事態になってしまった。思いがけない展開かと思いきや、羽村はある程度こうなることを想定していた。突然委員室まで押しかけて引っ張り出した上に自分都合の話ばかりすれば、誰だって怒るに決まっている。

 羽村が高等部に進級するより前、家逗は1年生の頃から風紀委員会にちょっかいをかけていた。同級生の風紀委員とは皆、腐れ縁の仲だった。その頃から学園の名探偵としてひとり活動していた家逗は、呉薬と鳥堂を特に気に入り、何かに付けてやれ面白い事件の話はないか、やれ捜査に協力してやろうと声をかけていたのだった。そんな関係も3年目に突入し、呉薬と鳥堂にとっては家逗に対する心配もあって、つい言葉が厳しくなってしまう。

 それを受け入れるだけの余裕など、家逗にはないのに。

 

「うぅ……そ、そこまで言わなくても……」

「え゛っ」

「は?な、泣いてる……?」

「泣゛い゛て゛な゛い゛!゛!゛」 

「泣いてるよ!全部の文字に濁点ついてる声してるもん!」

「わ、私はただ……良かれと思って協力しているのに……!あだ名だって……カッコいいと思って……親しみを込めて呼んでるのに……!」

「あーあ、泣いちゃいました。こうなるとホームズは面倒ですよ」

「羽村ちゃん落ち着きすぎじゃない?自分とこの先輩がこんななってたら普通もっと焦ると思うけど」

「ホームズはこういう人じゃないですか」

「まあそうだけど」

「うわああああん!!ひどいやひどいやあああん!!」

 

 小さい体から大きな声を出し、とめどなく涙を流して子供のように喚く。それでいて全く平常心でいる羽村も異常だ。この家逗を宥められるのは自分たちしかいない。呉薬も鳥堂もそう感じさせられた。

 

「あ〜、ご、ごめんごめん。言いすぎた言いすぎた。ちょっとこう……ほら、ウチら1年のころから友達だから、シアロが見栄張って部室が手に入ったって言ったのかなとか、色々……心配しちゃって、つい。ね?トリ」

「うん、そう!シアロってちょっと頑張りすぎるところとかあるから、無理させちゃいけないなって!でもそこがシアロのいいところだから!大事にしてこ!ね?」

「うぐぅ……ズだ……」

「え?」

「私は、ホームズだ……。ホームズと、呼んでほしい……」

「……ホ、ホームズだね。うん、ホームズだよあんた」

「おふたりとも必死ですね」

 

 駄々をこねる同級生を宥めるという、どちらが恥ずかしいのか分からないことをさせられて、呉薬も鳥堂も顔を真っ赤にしつつ、家逗の言いなりになった。隣で見ている羽村にしてみれば面白い同級生トリオである。

 これもまた子供のようにぱったり泣き止んだ家逗は、改めて事件の捜査状況について二人に質問した。もうこれ以上振り回されたくない二人は、さっさと話せることを話して解放してもらうことを選択した。黙っておけば、川路にバレることもない。

 

「えっとじゃあ……まず、事件の詳細からだけど、概要は今朝の集会で会長さんが話したとおりだよ。理事室前の女神像が、今朝から妙なメッセージを出してるってことだけ。それ以外に害はないし、他に関連する事件なんかもない」

「取りあえず風紀委員としては、事件に関して知ってる人を探すために所持品検査を始めたって感じだね。あと、この件は会計委員会と連携して捜査してるよ」

「なぜ会計委員会が?」

「あの女神像、卒業生からの寄贈品なんだって。その辺の取扱いは会計委員会がやってるから、そのせいじゃない?盗まれたとか壊されたとかならともかく、ワケわかんないメッセージが出たってんだから、会計委員会も調べることがあるんだろうって。川路が言ってた」

 

 改めて聞いても妙な事件である。いったい誰が何の目的で、女神像をそんな状態にしたのだろうか。

 家逗は質問を続ける。

 

「ふむ。では例の女神像について分かっていることは?」

「なんも」

「なんも?」

「そう、なんも」

「なんもというと」

「なんもはなんもだよ。ゼロってこと」

「どういうことだ。君たちは風紀委員だろう?女神像は今回の事件の中心だ。それについて、何ひとつ分かっていないとはどういう了見だ」

「分かってないっていうか、教えてくれないんだって。会計委員会が」

「詳しくお話しいただいてもよろしいですか?」

 

 呉薬と鳥堂はお互いの顔を見合わせて、どう言おうかと目だけで打ち合わせた。が、どうもこうも、言い方はひとつしかない。鳥堂が口を開いた。

 

「なんか今回、上同士で揉めてるっぽいんだよね。会計委員長の磯手は、詳しい調査は会計委員会がやるから、風紀委員は情報収集に徹しろって言ってるらしい。んで川路は、風紀委員会は会計委員会の手下じゃないって怒ってるみたいで」

「ふんっ、くだらないプライドを持つからそういうことになるんだ。俗物たちめ」

「あんたが言うな」

「どうして会計委員会は、そんなに女神像の情報を出し惜しみするのでしょう?寄贈品ならある程度の情報は持っているはずですから、知らないということはないと思いますが」

「でもねえ……それもちょっと怪しいよ」

「とおっしゃいますと?」

 

 話を聞けば聞くほど濃くなっていくきな臭さに、羽村は興味をそそられずにはいられなかった。一方の家逗は、ややこしい人間関係のあれこれを理解する気がおきず、既に半分ほど集中が削がれていた。もはや呉薬と鳥堂は噂話を話す勢いで、聞かれてないことまでどんどん話してしまいたくなっており、家逗に代わって羽村がそれに耳を傾けていた。

 

「変なメッセージが表示されてるのは女神像の台座の方なんだよね。で、その台座も寄贈品なんだってさ。あの女神像は、台座もガラスケースも南京錠も含めてひとつの寄贈品なの」

「ほうほう」

「ってなるとだよ。台座に謎のメッセージが表示されたのは、もともと台座に備わってた機能なんじゃないかってことになるじゃん?」

「確かにそうですね。さすがに、誰にも気付かれないうちに、元から無い設備を新しく取り付けるのは不可能かと」

「じゃあその機能があることがいつ分かったかっていうと、事件が起きた時なわけ。つまり、会計委員会は寄贈品のことを十分に調べられてなかったってことになるわけ!」

「1個そんなことがあると、他の寄贈品や学園の備品についても会計委員会はちゃんと管理できてるのかって疑問が出てくるの。それって単純にすごい仕事増えることになるし、何よりこれは磯手の落ち度って話になるよね」

「お二人とも楽しそうですね。お話は理解できます」

「だから磯手は、会計委員会がそんな見落としをしてたって事実を有耶無耶にするために、あとそのフラストレーションの捌け口に、風紀委員に当たってるんじゃないかって話だよ」

「話のスケールが急激に萎んだような……磯手様の八つ当たりの件はお気の毒ですが、私としては女神像のお話をもっと詳しく聞きたいのですが」

「全ての不可能を除外して最後に残ったものが如何に奇妙なことであってもそれが真実となる、シャーロキアンなら肝に銘じておくべき言葉だよ、ワトソン君」

「今が使いどきではないという点を除けばまさにその通りです、ホームズ」

「羽村ちゃんって家逗にめっちゃ甘いよね」

 

 呉薬と鳥堂の話に覚えていた違和感の正体が、単なる磯手のプライドの問題に帰する。それは可能性として考えられるものの、羽村にはあまりに受け入れ難い、言ってしまえばみみっちい話だった。あくまで2人が知っている事実から導いた仮説に過ぎないが、今ある事実だけで考えれば尤もらしくも思えた。

 

「女神像のことを知りたきゃ会計委員会に聞きに行くしかないよ。アタシらが知ってんのは、とにかく風紀委員会はほとんど何も知らされてないってこと。川路でさえアタシらに全部は話してないと思うよ」

「そんなこと、分かるものなのですか?」

「分かるよ。だって今朝やってた所持品検査だって、基準ガバガバだもん」

「そうだ!あの所持品検査のことがずっと気になっていたんだ!君たちは何を探していたんだ?」

「まじで聞いてよ!検査の基準めっちゃガバいんだよ!?」

 

 もはやほとんど2人の愚痴になっていたが、家逗と羽村にとってはそれも情報にはなるので真剣に聞く。

 

「“手のひらに収まるサイズで、赤くて、丸いもの”。これが所持品検査の摘発対象なの!ガバすぎん!?」

「手のひらに収まるサイズで……赤くて、丸い?」

「なんそれって感じじゃない?せめて物の名前で言えっての。スーパーボールとかヘアゴムの飾りとか塩瀬庵の和菓子とか、なんでも当てはまるじゃんこんなの」

「和菓子は流石にいきすぎだけどさ、ひどくない?」

「……」

 

 馬鹿馬鹿しい、と一笑に付す2人だが、家逗と羽村にとっては馬鹿馬鹿しい話とは思えなかった。確かにその条件に当てはまるものは数多くありそうだが、事件に関係するもので2人は、手のひらに収まるサイズで赤くて丸いものを知っている。これは、偶然の一致ではないだろう。

 

「なるほど……うむ。有用な手掛かりが得られた。でかしたぞグレグスン君!レストレード君!」

「ん。なんか色々話したらスッキリしたわ。鬱憤溜まってたんだね、ウチら」

「ふたりが真剣に聞くからつい話し過ぎちゃった。あ、ちなみに今回のこと、川路には内緒にしといてね。怒られたくないから」

「もちろんです」

 

 家逗にしてみれば思い通り、羽村にしてみれば殊の外、2人からは大いに情報を得られた。牟児津たちがどんな風に聞き込みをしてくるか分からないが、少なくとも引け目を感じる必要はなさそうだ。羽村はひとまず胸を撫で下ろした。

 

「お忙しいところ、貴重なお話ありがとうございました」

「うん。羽村ちゃん、シアロをしっかり見ててあげてね。何かやらかしそうになったらいつでも呼んで」

「シアロの呼び出しはウザいけど、羽村ちゃんだったらすぐ駆けつけるから」

「ありがとうございます。そうします」

「なんだその扱いの差は!私だってやるときはしっかりやるんだからな!この事件でだって驚かせてやるぞ!」

「期待しないで待ってるわ〜」

 

 出されたお茶のペットボトルをちゃっかり持って、2人は風紀委員室に戻るため部室を出た。部室の扉が閉まると、家逗と羽村は部費で買った巨大な壁掛けホワイトボードの前に立って、得た手掛かりを精査し始めた。本当は雰囲気重視でコルクボードを家逗が羽村にねだったのだが、実用性から羽村が独断でホワイトボードに変更して購入したものだ。マグネットを買う予算がないので、家逗が初等部生の頃に使っていたマグネット入りの算数セットを代わりに使っている。

 

「ふふふ……!やはりあの2人を当たってよかった。彼女たちはいつも私に新しい手掛かりと素晴らしい気付きを与えてくれる」

「本物のホームズにとってのグレグスン警部とレストレード警部よりも評価していますね。おふたりにとっても光栄なことでしょう」

「それにこれだけの手掛かりがあれば、胸を張って灯油君に捜査報告ができるというものだ!牟児津真白の驚く顔が目に浮かぶようだ!うん!気分が良い!」

「よかったですね、ホームズ」

 

 走り書きとは思えない羽村の整った字の手書きメモと、高校生が描いたとは思えない家逗の稚拙なイラストのメモがホワイトボードに並ぶ。女神像に関する事実、会計委員会と風紀委員会の軋轢、そして疑惑。それらをまとめたボードを羽村がスマートフォンで写真に収め、ひとまずこの日の情報収集はひと段落した。

 牟児津たちと約束した時間までは、まだ余裕がある。このペースなら、情報収集にもう1ヶ所回れそうだ。

 

「せっかくだから本物の女神像を見に行こう!手掛かりは現場に落ちているものだぞ!」

「しかし今は会計委員会による立入規制が敷かれているはずです。あまり目立った行動をするのは、今後の捜査に差し障りが出るかと」

「構わん。解決に手を貸してやろうというのだから、ありがたがられこそすれ疎まれる筋合いはない」

「向こうにしてみれば大いにあると思いますが……」

「さあ行くぞワトソン君!」

 

 コスプレ用の軽いステッキを持って、家逗は楽しそうに部室を飛び出した。羽村は、会計委員会に怒られたとき用の言い訳を頭の中で練りながらその後に続いた。

 家逗が怒られて半べそをかくまで、5分を切っていた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「うへぇ〜〜〜ん!」

 

 家逗が半べそをかかされる数分前、牟児津は一足先に全べそをかかされていた。牟児津たちは事件の渦中にある女神像を一目確かめようと、合流して真っ先に現場に向かっていたのだった。

 案の定、会計委員会による立入規制が敷かれていたところ、牟児津は遠巻きに眺めてざっくりした雰囲気を掴もうとしていた。が、益子は無遠慮かつ不躾にその規制を突破しようと試みたため、見張りに立っていた会計委員を怒らせた。その流れでなぜか牟児津と瓜生田も巻き込まれ、3人揃ってどやされる羽目になったのだった。

 

「なんで私が怒られなきゃならないんだよ〜〜〜!もうやだ〜〜〜!」

「益子さん、もうちょっと丁寧に取材してよ。私たち関係ないのに怒られちゃったよ」

「いやあ〜すみません。よく見てみるとあの女神像、なかなか面白い形してるなあと思いまして。なにぶん、私が高等部に来る前からあるものですから、敢えて取材することもなくてですね」

「分かるよ。あんな金ピカなのに、最初から当たり前みたいに置いてあると、なんか風景の一部になっちゃって流しちゃうみたいな」

「年上が泣いてんだからどっちかは見ろ!」

「ムジツさんが人に泣かされるなんてしょっちゅうだから」

「ムジツ先輩は泣き顔がキメ顔みたいなところありますから」

「こいつら……!」

 

 見張りに追い払われながらも、益子はちゃっかりスマートフォンで女神像の周囲を写真に収めていた。変わらず表示されている祝福のメッセージ。ガラスケースの中で紫の座布団の上に鎮座する四角い女神像。ガラスケースと台座をつなぐ南京錠は壁との隙間に挟まっている。どうやらガラスケースは取り外せるようだが、鍵がないとどうにもならない。

 物は試しと思ってきてみたが、結果、苦い思い出を刻むだけで終わってしまった。

 

「さて、どこを捜査に行きましょうかね」

「そもそもあの女神像って誰のものなの?」

「学園のものだから、会計委員会が管理してるはずだよ。今朝も磯手先輩が事件に関わってるって話をしてたし」

「ん?お二人とも、磯手先輩とお話なさったんですか?それも今朝?」

「……後で話すよ、そのことは」

「なるほど。まあその辺りも磯手先輩に突撃取材(ダイレクトアタック)すれば分かるでしょう!善は急げです!」

「あっ!ちょっと益子ちゃん!」

 

 聞くことも聞かず、益子はテンションに突き動かされるまま会計委員室に走って行った。まだそこに行くとも決めていないのだが、牟児津と瓜生田は仕方なくその後を追って歩いていく。と思いきや、すぐに益子は打ち拉がれたようなしわくちゃ顔になって戻ってきた。

 

「留守でした……」

「忙しいなあ」

「見張りの方に聞けば、どこに行ったか分かりませんかね?」

「やだよ、さっきの今で。めちゃくちゃ怒られたのに」

「私もちょっと……。あの方と相性悪いみたいで。瓜生田さん、お願いできますか?」

「しょうがないなあ。私だって怒られたんだから、期待しないでよね」

 

 牟児津と益子はここぞとばかりに瓜生田を頼った。3人の中では一番交渉ごとに長けていて、かつ背も高いのでナメられにくいのが瓜生田の強みだ。2人が陰ながら見守る中、瓜生田は見張りに立っている委員に声をかけた。

 

「すみません。ちょっとお伺いしたことが」

「さっきの今でなんだ!よく質問なんかできるなお前!」

「えへへ。あのですね、私たち、磯手先輩にお聞きしたいことがあるんですけど、どちらに行かれたかご存知ありません?」

「な、なに!?磯手委員長!?お前本当に図太い神経してるな!委員長級の生徒にそう簡単に会えると思うな!ましてや質問なんて、身の程を弁えろ!」

「そうですか……あ、でも委員長の行き先とか、いま何をされてるかさえ分かればいいんです。ダメですか?」

「教えてたまるか。教師や風紀委員ならともかく、得体の知れないお前たちに教えることなんてない」

「そうですか……あ、じゃああの、会計委員の方がどこにいらっしゃるかとかでもいいんです。さっき委員室にお邪魔したらお留守だったので」

「ん?普通の委員?」

「磯手先輩にお会いするなんて無理言ってすみません。とにかく、会計委員会の方にお聞きしたいことがあって」

「そ、そうなのか?う〜ん……まあ、委員長には会わせられないが、普通の委員のいる場所なら」

「本当ですか!?ありがとうございます!」

 

 白々しいとさえ思える瓜生田の交渉術は、しかし見事にうまくいったようだった。無事に他の会計委員の居場所を聞き出すことに成功した。そして得意げな顔で帰ってきて、力強くブイサインした。

 

「どんなもんだ」

「お見事です瓜生田さん。譲歩のふりをして本来の目的を達成する常套手段ですね」

「えへへ。意外と上手くいくもんだね」

「うりゅがどんどん悪い知識を身につけていく……ダメだようりゅ!益子(こんなの)の真似しちゃ!」

「ムジツさん。人を指差さない」

「ぬぐぅ」

 

 注意したつもりが注意し返されてしまった。何かと上手くいかないもやもやを抱えたまま、瓜生田が聞き出した会計委員らのいる場所に、牟児津は移動することにした。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 会計委員らが仕事をしているのは、講堂の地下にある大倉庫だった。広大な敷地を持つこの学園は、その運営に必要な備品や購入した物品を整理して保管しておくために、専用の倉庫を設けている。限られた敷地の中で広い場所を用意するのに、全校生徒を収容できる面積を有する講堂の地下は打ってつけだった。

 本来、地下の大倉庫に入るときは生徒会に申請して承認を得たうえで警備室から鍵を借り、かつ教師の随行がなければならない。しかしいま、鍵は会計委員会が借りている。中で作業をしているため入口につながる階段は開放されていた。委員会活動の特例として、教師の随行も不要だ。当然、牟児津たちが勝手に入るのは校則違反になる。

 

「私、初めて入るよ。こんなところ」

「私も。普通に学園生活を送ってたらまず入らないところだよ」

「学園祭の準備期間になると出入りが激しくなりますね。今日みたいなことはかなり珍しいです。今のうちに潜り込んで色々調べちゃいましょう」

「いっつも思うんだけど、こういう捜査とかしようとするとルールとか守ってらんないんだよなあ」

「ひどい気付きだね」

 

 階段は校舎のものと同じだが、壁の材質や照明の明るさ、何よりそこに満ちている空気が違う。非日常的な雰囲気を感じ取って、牟児津はぞわぞわ、瓜生田はハラハラ、益子はワクワクしていた。会計委員総出で仕事をしているためか入口は見張りもおらず、牟児津たちはすんなり中に入ることができた。

 大倉庫の空気はひんやりと冷たく、少し埃っぽい。コンクリートでできた窓のない空間で、普段人が立ち入らない場所なら、だいたい同じような空気を感じるだろう。広いだけあって音がよく響き、天井から降り注ぐ照明の灯りは校舎で使われているものより力強い。

 大倉庫は講堂と同じかそれ以上の面積を有していて、天井は瓜生田がめいっぱい背伸びして手を伸ばしてもその3分の1に満たないほど高い。とてつもない大容積の空間だが、それでも3人は広いとは感じなかった。おそらく、入ってすぐ目の前から部屋の奥深くまで、金網で仕切られた独房のような空間と、その間にあるすれ違うのも苦労する狭い通路で埋め尽くされていたからだ。しかも独房の中には物がこれでもかと詰め込まれていて、通路にはバインダーを持って何かを数える会計委員たちがぎゅうぎゅうにひしめいていた。

 

「うわ〜……でっけ」

「すごいね。これ全部が学園の備品なんだ」

「天井高いですね〜!あの上に地面があるとすると、ここって地下何階なんでしょう!?」

 

 初めて入る大倉庫に、ビビっていた牟児津でさえ興奮が隠しきれない。金網の向こうにある備品は、古い机や椅子、長テーブル、持ち運び用の黒板にグラウンドで使うラインマーカー、テニスのネットなど多岐にわたる。これらを全て会計委員が、人の目と手で数えて管理しているというのだから大変だ。普通の生徒は知らない学園の裏側を覗いたような気分になって、ちょっとだけわくわくする。

 が、そのわくわくも、長くは続かなかった。

 

「ちょ、ちょっと!誰ですかあなたたち!」

 

 倉庫中に響く声で、牟児津たちは思いっきり注意された。アニメのキャラクターから聞こえてくるような、キャミキャミした可愛らしい声だ。

 ずかずか近付いてくるジャージ姿の生徒の胸にネームプレートが光る。“1年Dクラス 朝治(ちょうじ) 里逢(りあ)”と刻まれており、わざわざ名乗らなくてもどこの誰かがすぐに分かるようになっていた。

 

「今ここは会計委員以外立ち入り禁止ですよ!入口にAバリ(※A型バリケードの略)があったでしょ!」

「え?そんなのなかったよ?」

「ウソです!ちゃんと私がこれ立てといたんですから!ほらこれ!この文字を読んでください!」

「関係者以外立入禁止」

「でしょ!?意味わかりますよね!?だったらどうして……ど〜〜〜してAバリがここにあるのかな〜〜〜!?」

「立て忘れてたんだねえ」

「……い、いや!今からでも!今からでもあなたたちを追い出して入口に置いておけば最初からあったのと同じです!」

「うわあ、雑な帳尻合わせだ。会計委員がそういうことしていいの?」

「あなたたちは怒った委員長の怖さを知らないからそんなこと言えるんです!いいから出て行ってください!私のために!」

 

 朝治はひとしきりドタバタ騒いだ後、虎柄のバリケードで牟児津たちを倉庫の外に押し出そうとした。汚れたバリケードが制服に付くのを嫌って、3人ともがみるみる階段の方へ押し返されていく。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!私たちはお話を伺いに来ただけです!磯手先輩はいらっしゃらないんですか!?」

「えっ!?い、委員長!?ど、どこ!?」

「いや探してるのは私たちなんだけど」

「よ、よくもだましたアアア!!」

「騙してないから落ち着いてって。磯手さんいないの?」

「委員長は理事とのお話に行かれました!お忙しいんですから、わざわざこんなところまでいらっしゃいません!いらっしゃらないよね?」

「来てほしくなさそう。理事って、学園理事?なんでそんな人に」

「私が知る必要のないことを知るのは無駄ですから、教えられてません!」

「なんか息苦しそうな委員会ですねえ」

 

 どうやらまだ朝治は落ち着ききっていないらしく、益子の質問にも頓珍漢な答えを返す。看板でぐいぐい押し込んで来たかと思えば、肘を明後日の方に向けて腕時計を覗き込み、さらに汗を飛ばした。

 

「ああもう!こんなことしてる場合じゃないのに!時間までに仕事を終わらせないと先輩に怒られる!」

「怒られてばっかりなんだね」

「同情するなら出てってください!私は急ぐので仕事に戻りますが、入ってきちゃダメですからね!絶対ですからね!」

「フってます?」

「フってません!言いましたからね!」

 

 階段まで牟児津たちを押し返し、目の前にバリケードをどんと立てた。慌てて仕事に戻ったせいで、牟児津たちを排除することも立て看板を立て直しに行くことも中途半端に終わってしまっていることに気付いていない。普段から磯手や他の先輩に仕事の雑さを怒られているのだろうなあ、と牟児津は同情まじりの視線でその背中を見送った。

 

「取り付く島もないよ。どうする?」

「どうって、帰る理由がありますか?障害はありませんよ」

「目の前に看板があるでしょ。入っちゃダメだって」

「ダメと言われてすごすご引き下がるようなら探偵も探偵助手も番記者もやってませんよ!それに仕事の邪魔さえしなければ文句はないでしょう!」

「わあ身軽」

 

 益子は階段を少し昇ってから、ひょいとバリケードを飛び越えた。瓜生田はそんなことをしたら絶対に怪我をすると分かっていたので、スカートをたくし上げて跨いだ。牟児津はそのどちらもできないので、反対側から瓜生田に抱えてもらってバリケードを越えた。

 

「さて。磯手先輩がいないんなら、せめて女神像の基本的なことくらいは教えてもらいたいよね」

「さっきの朝治さんに聞きに行きましょう。他の方のところに行ったら、私たちの侵入を許したことがバレて迷惑がかかりますから!」

「人の迷惑を気にする奴はここで帰るんだよ」

 

 さらに朝治を怒らせそうだが、この広い倉庫ではどこに何人の人間がいるか分からない。手っ取り早く人を見つけるには、朝治の後を追うのが最も確実だ。牟児津たちは金網の隙間に消えた朝治の後を追った。

 バリケードに書かれた文字は、誰もいない階段に向かって虚しく警告を発し続けていた。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「椅子が……10脚ここにあって、11、12、13、14、15、16、17……」

「すみません。今何時でしょう?」

「えっと、16時です。17、18、19……」

「ところで朝治さんはおいくつですか?」

「16歳です。17、18、……あれ?数が合わない……えっと、15、16、17……」

「4×4は?」

「16、17、……ってちょっと!なんであなたたちがいるんですか!邪魔しないでください!」

「さっそく邪魔してんじゃんか!話聞き出す気あんのかアンタ!」

「ほぶしっ!」

 

 真面目に椅子を数えていた朝治の後ろから、益子が茶々を入れて混乱させる。邪魔さえしなければ、という話でバリケードを越えてきたのに、初っ端から思いっきり邪魔をしている。朝治と牟児津に頭を前後からしばかれて、益子はくぐもった声を漏らした。

 

「出て行ってくださいって私言いましたけど!?え、言いましたよね?Aバリ……置きました、よね?」

「警告ガン無視し過ぎて不安にならせてんじゃん!ごめんごめん!ちゃんと言ってたしバリケードも置いてたよ。心配しなくても大丈夫だから」

「よかったあ……いやよかないですよ!だったらなんで入って来てるんですか!?頭おかしいんですか!?」

「ごめんなさい朝治さん。私たち、ひとつ知りたいことがあるだけなんです。教えてもらったらすぐに帰りますから」

「なんなんですかもう……勘弁してくださいよ。ただでさえ私、仕事が遅くていつも怒られてるのに……」

 

 益子の暴挙のせいで、朝治はすっかり頭を抱えてしまった。さすがにこうなると3人とも無理やり倉庫内に入ってきたことに後ろめたさを感じ、さっさと退散しなくてはならないと感じ始めた。とはいえ3人も洒落や遊びで情報収集をしているわけではない。せめて最低限の目的だけは果たしてから出ていくつもりだった。

 

「今朝、藤井先輩からお話があった女神像のことを教えてほしいんです。簡単なことでもいいので」

「アレですか?アレは……卒業生からの寄贈品ですよ」

「あのへんてこりんな金ピカ像が?うちの卒業生らはどんなセンスしてんだ……」

「いえ、確か個人からのものです」

「え、個人の?」

「はい。寄贈品のリストの寄贈元のところに個人名が載っていました。同窓会からじゃないんだなあ、って思ったので印象に残ってます」

「その人の名前とかって覚えてます?」

「えっと……確か、カタカナでエルネって名前だったと思います」

「珍しい名前だなあ。最近の人っぽいね」

「はい。3、4期前の卒業生でした」

「ってことは、世代的には大学部生か卒業したばっかりの人か……そんな人があんな金ピカの像を個人で寄贈するって、おかしくない?」

「おかしいとは思いますけど、私たちにそれを詮索する理由はありませんから。さ、もういいでしょう。私は仕事をするんですから、もう構わないでください」

 

 観念した朝治からは、思いがけない角度からの情報が次々に出てきた。女神像の正体は分からないものの、それが卒業生からの寄贈品であり、寄贈主の名前とおおよその年齢も分かった。そう遠くない世代なら、牟児津たちにはある程度追跡するツテがある。

 朝治にはすげなく背中を向けられたが、思った以上の手掛かりを得ることはできた。この手掛かりを元にさらに手広く情報を集められそうだ。牟児津たちは朝治に深く感謝して、ようやく倉庫を出ていくことにした。戻るついでに、階段下に立てかけられたバリケードを外の入口前まで持ち上げてやった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 瓜生田はメッセージアプリを閉じた。あまり期待し過ぎないようにしていたのだが、やはり心のどこかでは大いに期待していたのかも知れない。

 

「お姉ちゃん、分からないって」

「しょうがないよ。世代的にはりこねえと被らないし」

「オカ研から虚須(うろす)先輩にきいてくれているそうです!先輩ならワンチャン世代被ってるので、もしかしたらがありますよ!」

「内部進学してたら本人に会えるかも知れないしね。そっちは一旦、虚須(うろす)先輩に任せておこうか」

 

 会計委員の朝治から得た手掛かりを元に、牟児津たちはエルネという卒業生について情報を集め始めた。3〜4年前の卒業生では牟児津たちと直接の関わりはないが、同じく卒業生である瓜生田の姉の瓜生田(うりゅうだ) 李子(りこ)や、元オカルト研究部部長で現在大学部1年生の虚須(うろす) 美珠(みたま)なら何か知っているかもと、可能な限り手を広げて情報を集める。

 とはいえ李子の方は早々に可能性が潰え、虚須もまた完全に同世代ではないだけにどちらかと言えば望み薄である。そうなれば、結局は自分たちの足で稼ぐしかない。

 

「せめてその人が所属してた部活とかが分かればなあ。昔の生徒名簿とか卒業文集とかさ」

「その辺りを管轄してるのは学生生活委員ですね。同窓会もです。田中先輩に直談判でもしに行きますか?」

「あんたどんだけ肝座ってんだよ!絶対断られるし絶対いやだわ!」

「じゃあ、理事室前まで戻ってみる?もしかしたら磯手先輩がいらっしゃるかも知れないよ」

「え〜……またあの見張りの人に怒られるからヤダよ」

「あれもヤダこれもヤダって、ムジツ先輩はそういう消極的なところがいけません!安楽椅子探偵というのも魅力的ですが、あれは出不精だから引きこもってるわけじゃなくて、並大抵の事件では出るまでもないという卓越した頭脳を表すスタイルのひとつでして——」

「何言ってっか分かんないけど、取りあえず的外れなこと言ってるのだけは分かる」

「あっ、じゃあさ」

 

 無駄な講釈を垂れる益子はさておき、瓜生田が提案する。

 

「ちょっと可能性は低いけど、図書室に行けば、もしかしたらエルネさんのことが分かるかも知れないよ」

「へ?どういうことですか?」

「その人、本でも出してるの?」

「まあまあ。それは行ってのお楽しみ。どうする?行く?」

「行こう!理事とか田中さんに突撃するより100倍マシだ!」

 

 瓜生田の提案で、牟児津たちの次の行き先は図書室に決まった。瓜生田が何を考えてそれを提案したかは分からないが、図書委員である瓜生田なら何かしらの宛てがあるのだろう。3人はそこからまっすぐ図書室に向かった。

 学園の図書室の隣には、書架に並べきれない本や、高価で丁重な扱いが必要な本などを所蔵しておくための図書準備室がある。本来は図書委員しか入れない場所だが、委員である瓜生田がこっそり牟児津と益子をそこに招き入れた。

 ブラインドで陽が遮られている室内はほこりっぽく、あまり出し入れがされていなさそうな本棚は近くを通るだけで埃が舞う。その中で瓜生田は、ひとつの大きな段ボールに歩み寄った。ひとりではとても運び出せないので、3人で力を合わせて作業用スペース近くまで持ってくる。中を開くと、分厚いアルバムのような本が大量に背表紙を向けていた。

 

「瓜生田さん、なんですかこれ?」

「これは、学園生が公式大会で打ち立てた記録とか、入賞実績とかを記録した本だよ。ちょうど今朝表彰されてた人たちも、ここに実績と名前が載るんだ。この箱がちょうど3〜4年前の分だから、もしかしたらエルネさんの名前も載ってるかも」

「そうか!そしたらエルネさんが所属していた部活とか、どんな人かが分かるかも知れませんね!」

「そしたらエルネさんがいた部活に話を聞きに行って、んで女神像について聞き込みして……なんか、えらく遠回りしてるような気がするんだけど」

「仕方ないよ。まだ手掛かりが少ないんだから。一歩ずつでも確実に前進する方法をとらないと」

「とほほ……」

「あとエルネさんがどんな人か分からない以上、ここに名前が載ってない可能性もあるからね」

「ほ……」

 

 本は一冊一冊が分厚く、しかもそれが複数の別冊に分かれている。運動部の巻、文化部の巻、同好会の巻1巻、同2巻……その中から、エルネという名前しか分からない人物を探し出すのは途方もない作業に思えた。まるで浜辺の砂から一粒の小豆を探し出すようだ。その上、それら全てが無駄に終わる可能性すらあるのだという。

 

「これは途方もない作業ですね。やっぱり突撃取材をした方がいいんじゃないですか?」

「私は無茶して怒られるくらいなら暗い部屋で地味な作業してた方がいい」

「内側に直向きですねえ」

 

 それから、3人は黙々と本のページをめくる作業に入った。ほこりっぽくて暗く狭い室内に、ただ紙面を指でなぞる乾いた音と、ページをめくる薄く軽い音、たまに漏れるため息の音だけが、生まれてはすぐに消える。

 もともと始める時間が遅かったせいで、探偵同好会との待ち合わせ時間までに調べられた分量は、全体の1割にも満たない。それでも閉校時刻は迫ってくるので、牟児津たちはほどほどで切り上げた。明日もここで調べものか、と思うと益子は気が滅入った。

 

「やっぱり、ムジツ先輩にこういう地道な捜査は似合いませんよ!これは私や瓜生田さんの仕事ですから、先輩はもっとスマートにですね——」

「いやいや。こういう地道な捜査こそムジツさんに似合うよ。追い込まれて必死に頑張ってるときこそムジツさんは輝くんだから」

「私の解釈で論争すんな」

 

 今日分かったことは、渦中の女神像は、エルネという卒業生からの寄贈品であるということくらいだった。短い捜査時間ではこれくらいで十分だろう。牟児津は自分で自分に甘めの合格点を出した。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「以上が、今日のところ私たちが調べた結果です。明日も先輩方からの情報を待ちつつ、図書準備室でエルネさんの手掛かりを探るところからです」

「なるほどなあ。ま、名探偵いうてなんでもかんでも簡単に分かったら苦労せんわな。よう調べてくれたね、ありがとう」

 

 探偵同好会と合流し、互いの捜査結果を共有するついでに灯油への捜査報告もするため、一同は再び落研の部室に集合した。他の部員が稽古に励む中、灯油は真剣に瓜生田の話に耳を傾けていた。

 あまり進展がなかった牟児津たちと違い、探偵同好会は風紀委員のツテをたどって多くの情報を集めてきた。牟児津たちが集めた情報と重なる点はあるものの、女神像に関して牟児津たちより深い情報を持ってきていたし、磯手が理事と何らかの話をしていることや、赤い宝石に関する手掛かりも得てきていた。ほんの何時間かの間に、探偵同好会は牟児津たちと同じ以上の手掛かりを集めてきたのだ。

 

「以上が、探偵同好会の調査結果です」

「ご苦労だワトソン君。どうかね?あくまで客観的な評価として、どうやら我々の方が数多くの有益な手掛かりを集めてきたようだ。何か言いたいことはあるかね、牟児津真白」

「いや別に……」

「“お・み・そ・れ・し・ま・し・た”だ!ほら!さん、はい!」

「言わないよ?」

「ええやんええやん。自分ら次の寄席で前説の漫才でもさせたろか?」

「冗談はよせ」

「んなっはっは!よせって!」

「エルネ様のことは確かに調べる必要がありそうです。我々は明日以降さらに聞き込みを続けようと考えていましたが、人員が必要ならお手伝いに参りましょうか」

「おっ!さすが、さっそく私たちの手柄を横取りするチャンスを嗅ぎつけたようですね!そんな見え透いた方便じゃムジツ先輩は騙せてもこの実耶ちゃんは騙せませんよ!」

「これが方便に聞こえるのは、益子様が普段から方便を使われているからでは?」

「ここが捜査本部とは思えないまとまりのなさだなあ」

 

 捜査結果で牟児津にマウントをとる家逗と、その家逗が不意に発した駄洒落で笑い転げる灯油。そしてバチバチに火花を散らす羽村と益子。情報共有はできたが整理がまだできていないし、明日以降の捜査の方針も立てられていない。各々が好き勝手にしている様子を、瓜生田は一歩引いた視点から見て、やれやれとため息を吐いた。

 

「あの……すみません。うちの姐さんが巻き込んでしまって」

 

 牟児津たちを見守る瓜生田に、部員のひとりが話しかけてきた。昼休みに灯油の隣に並んで座っていた1年生の部員だ。瓜生田はなんとか名前を思い出す。確か、吹逸といったはずだ。

 

「えっと、吹逸さんで合ってたっけ?」

「はい。江暮屋 吹逸と申します。芸名は灯油姐さんに付けていただきました」

「落研の人はみんな面白い名前だね。お菓子が好きなの?」

「ええ……そのようなところです」

「そっかあ」

「あの。瓜生田さんからみて、どうでしょう。この度の事件。本当に姐さんが犯人なのでしょうか」

「う〜ん、それはまだ分からないなあ。私は少なくとも、何らかの形で事件に関わってはいると思うけどね。もしかしたら巻き込まれただけだったりして」

「それなら……いいんですが」

 

 不安そうな顔をして吹逸はうつむく。自分が慕っている先輩が、もしかしたら事件の犯人になってしまうかも知れないと思うと気が気でないのだろう。瓜生田はその気持ちを察して、励ます意味で軽口を叩いた。

 

「手のかかる先輩を持つと、後輩は大変だよね」

「……本当に、おっしゃる通りです」



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第3話「いっそ潰れてしまった方が」

 

(これまでのあらすじ)

 学園内にある黄金の女神像『アテナの真心』が突然謎の祝福メッセージを発するという事件が起きた。犯人だと疑われてしまった牟児津(むじつ)は、自らを事件の犯人かもしれないと言う落語研究部部長、法被蓮亭(はっぴばすてい) 灯油(とうゆ)から真相解明を依頼され、幼馴染の瓜生田(うりゅうだ)や番記者の益子(ますこ)、探偵同好会らと共に捜査を開始した。

 捜査の中で牟児津たちは、黄金の女神像を寄贈した謎の卒業生、女神像を管理する会計委員長 磯手(いそて)と学園理事の関係、複数人の口から語られる“赤い宝石”などの手掛かりを得る。翌日からはそれらを踏まえた捜査を行おうとミーティングをしている最中、瓜生田は落語研究部員の江暮屋(えくれや) 吹逸(すいいつ)と、気苦労の耐えない後輩同士、心を通わせ合うのだった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 翌朝、牟児津は疲れていた。前日は登校から下校までが瞬く間に過ぎたような気がして、まだ何があったかを自分の中で整理できていなかった。覚えているのは、とんでもなく面倒なことに巻き込まれたということだけだ。だが問題ない。その辺りの情報を整理して覚えていてくれる、優秀な幼馴染がいる。

 その幼馴染は、牟児津が聞きたくもない前日までの捜査状況や手掛かりを整理した話を、学園に向かう電車の中でおさらいしてくる。おかげで牟児津は、今日も朝からバリバリの探偵活動を余儀なくされるのであった。

 

「取りあえず今日は、昨日の続きで図書準備室に行って、エルネさんの手掛かりを探るところからだね。チャンスがあったら磯手先輩に女神像のことを詳しく聞きたいね」

「どっちか家逗さんたちに任せようよ。私あんまり磯手さんと話したくないっていうか……苦手っていうか……」

「ムジツさんが苦手じゃない生徒会の先輩なんている?」

「……いねえ〜」

 

 電車は学園の最寄駅に到着する。牟児津が望むと望まざるとに関わらず、時間は進む。今日もまた疲れるのだろう。憂鬱だ。こんなときは、いきつけの和菓子屋に寄って朝から甘いものを食べるに限る。

 改札から出て正面の商店街に続く学園への道から少し外れて、左手にある塩瀬庵に向かう。今日は何を食べようか、と考えていた牟児津の前で、自動ドアが早めに開いた。

 

「あれェえええっ!!?牟児津ちゃんやんかァ!!おはようさあああん!!」

「ぎゃあっ!?」

 

 全く唐突に、牟児津は耳の穴から脳のてっぺんまで直通で響くような大声に襲われた。声と喋り方で誰かはすぐに分かる。そんなことより、覆い被さってくるその体を避けることに脳のリソースを費やすべきだった。

 

「危ないっ!」

「ケーッ!」

「おあああああっ!!あだあああっ!!」

「ね、姐さん!?あっ……あ、瓜生田さん……!お、おはようございます」

「おはよう、吹逸さん」

 

 身がこわばって動けなくなった牟児津の後ろ襟を、瓜生田がとっさに引っ張った。喉を締められた鶏のような声を出して、牟児津は倒れてくる灯油の下から間一髪のところで抜け出した。下敷きになるはずだった牟児津がいなくなったことで、灯油は顔面から地面に突っ込んでいった。

 

「んなっはっはっ!いったあ!!めっちゃ顔打った!あっかん!噺抜けてもうた!」

「な、な、なんなんだ!なんだ朝から!」

「おお牟児津ちゃあん!姐さんが可愛がったるさかい近う寄りいな!ちっこくて可愛らしいなあ!あ、しゃろ子のが小さいな」

「なんかキモい!マジでなに!?」

「灯油先輩、大丈夫ですか?おでこ赤くなってますよ」

「なんや自分たわけたこと言いなや!どこが赤いねん!赤ないやろ!吹逸!姐さん赤ないやんなあ!?」

「姐さんもうやめてください!大人しく帰りましょう!」

「アホぬかせ!帰るか!そもそもや吹逸!自分が昨日言うたんやろ!もうお菓子作りませんて!あんたの差し入れアテめっちゃ好っきゃのに!そんなんやからわざわざ買いに来てんねやないか!何のために吹逸って名前付けた思てんねん!」

「ご、ご迷惑おかけしました!失礼します!」

「えっ?ひとりで大丈夫?」

「はい!それでは」

 

 朝から謎にハイテンションな灯油は、笑ったり怒ったり感情が目まぐるしく変化する。どうも顔が赤いのは地面にぶつけただけのせいではないような気がする。が、それを追及するより先に吹逸に肩を担がれ、連れて行かれてしまった。どうやら吹逸の方は普段通りらしい。

 

「んっ。忘れよう」

 

 牟児津は考えることを諦めた。この学園の人間は誰も彼も、少し油断すると奇行に走る傾向にある。いまの灯油だって、何らかの気の迷いかなにかでああなったのだろう。そう雑に結論付けて、牟児津は塩瀬庵に入った。

 

「今日は素まんじゅうにしよっかな」

「ムジツさんがあんこ入りじゃないお菓子買うなんて珍しいね。やっぱ疲れてる?」

「携帯羊羹に合わせるのにあんこはいらないでしょ」

「そっかあ。そうだねえ」

 

 牟児津は、真っ白でふわふわな、自分の顔くらいある生地だけのまんじゅうを買った。片手で器用に携帯羊羹の包みを剥いて、片手にまんじゅう、片手に羊羹を持って食べながら学園に向かう。

 

「おまんじゅうふわふわだね。ちょっとちょうだい」

「千切っていいよ」

「ん。おいしい。すごい風味があるね。何か混ざってるの?」

「むぐむぐぐ」

「飲み込んでから喋りなよ。はい、お茶」

 

 瓜生田に水筒を傾けてもらい、牟児津は口の中を空にして答えた。

 

「お酒で蒸してるんだって」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 校門へ続く坂道には、長い列ができていた。昨日に引き続き行われている所持品検査の影響で、人流が滞っているようだ。牟児津は至極面倒臭いと思いながらも、仕方なくその最後尾についた。これで始業に遅れても遅刻にならないよな?とせせこましいことを考えながら、まんじゅうをおかずに羊羹ををぺろりと平らげた。

 

「今日は疑われるようなもの持ってきてないよね?」

「もちろん。もうあんな目に遭うのはゴメンだよ」

「いいや!遭ってもらうぞ牟児津真白!」

「わあっ!?」

 

 今度は背後から降りかかってきた大声に驚き、牟児津は坂道の上まで届く悲鳴をあげた。こちらの声の主は見ずとも分かる。

 

「あ、家逗先輩と羽村さん」

「おはようございます。申し訳ありませんが牟児津様、尾行させていただきました」

「へぇっ!?び、びこう!?」

「うむ!探偵といえば推理の次に尾行だからな!早起きして駅で待ち伏せた甲斐があったというものだ!」

「じゃあムジツさんが塩瀬庵でおまんじゅう買ってるとこも見られてたの?」

「なんで恥ずかしいことみたいに言うの?」

「もちろん見ていたとも!まんじゅうと羊羹を持ってアホ丸出しで商店街を通っていたところもな!」

「誰がアホ丸出しだ!」

「なんで尾行を?この列と関係あるんですか?」

「いかにも!」

 

 話している間にもじわじわ進んでいく列に置いていかれないよう、家逗がちまちま歩きながら大袈裟にポーズを決める。

 

「昨日の捜査状況からして、やはり解決には川路君や磯手君に直接聞き込みするのが近道だと判断した。確実に彼女らに接触するには、やはりケツに飛び込むしかない!」

「虎穴のことです」

「ひどい間違い方だ」

「そこで私は朝の所持品検査を利用することにした!敵の罠を逆に利用してやったのだ!」

「敵じゃない罠じゃない」

「というわけで、今日の検査ではわざと引っかかるぞ。そのために家から例の宝石っぽい物も持ってきた。そしてお前にも付き合ってもらうぞ!牟児津真白!」

「なんでだ!やだよ!」

「我々は川路様や磯手様と協力して事件解決に当たったことがなく、事件についてお話を伺うにあたっての信頼関係がありません。おふたりはお知り合いだと伺いましたので、ぜひお力添えいただこうかと思いまして」

「やるならそっちだけでやってよ!あのふたり仲悪くて一緒にいるこっちがハラハラしるんだよ!」

「やはりよくご存知のようで」

 

 ぴったり牟児津と瓜生田の後ろにつき、探偵同好会はふたりをマークしていた。列から抜けて後ろについても、同じことをされるだけで意味がない。牟児津はなすすべもなく、ただ列が進むのに身を任せるしかなかった。そうこうしている内に、背後で自分を陥れようと企てている悪徳探偵らと共に、検査場まで進んでしまった。

 こうなったら、と手早く検査を済ませて逃げようと、牟児津は自らカバンの中を開いて見せた。幸い置き勉の甲斐あって荷物が少ないので、中をひっくり返される心配もない。猛ダッシュで逃げようとする牟児津の後ろから、家逗たちの声が聞こえてくる。

 

「あっ!こ、これは——!」

「いや違うぞ。これはお前たちが探している赤くて丸くて手のひらサイズのものなんかではないんだぞ」

「怪しい奴め!こっちに来い!お前もだ!」

「あーっ!すみません牟児津様!バレてしまいましたー!私たちのすぐ前に並んでいた赤い髪の牟児津様ー!」

「なにっ!おいそこの!止まれ!誰か捕まえろ!」

「ひえーっ!勘弁してくれー!」

 

 風紀委員も連日の捜査で疲れているのか、家逗と羽村の三文芝居で見事に騙され、探偵同好会の思惑は成功した。こんなので思い通りに動かされる風紀委員もどうなんだ、と思いながら、牟児津は2日連続で生徒指導室行きになった。

 生徒指導室では川路が待ち受けており、検査に引っかかった生徒を順番に処理していた。部屋に入ってきた牟児津の顔を見た瞬間、さすがの川路も呆れた顔をした。そしてその後に続く家逗たちを見て、とうとう頭を抱えた。

 

「……今度はなんだ。いまは昨日の事件以外に構っている暇はない」

「ども……すいません。あの、私じゃなくて、こっちの人らが用あるみたいで……」

「やあ川路君!こうして話すのは久し振りだな!」

「家逗……探偵ごっこは結構だが、風紀委員の活動を妨害するなと何度言えば分かる」

「何を言うかと思えば!グレグスン君とレストレード君が私を頼っているんだ。私を頼って情報提供をしてくれる友人を無碍にするわけにはいかないだろう?」

「なんでも自分に都合よく解釈する癖も治せと2年前から言っているはずだぞ!貴様が首を突っ込まなければもっと早く解決した事件がいくつあると思ってるんだ!」

「逆だよ。他の事件は私が出るまでもなかっただけだ。それに、たらればを言っても仕方ないことだよ。君も真相を追い求める者なら、未来に目を向けたまえ」

「牟児津ゥ……!貴様、よりにもよってなぜこいつを連れてきた……!」

「こ、こんな理不尽なことあるぅ……?」

 

 相変わらずの人を射殺しかねない視線はそのままに、しかし川路はひどい頭痛に悩まされていた。3年生の風紀委員にとって、家逗は1年生の頃から頭痛の種だった。あまりに煩わしかったので、川路は家逗の相手を、特に気に入られていた呉薬や鳥堂に相手を任せていた。そのため、今こうして直接話すと、全く会話にならないストレスで頭がおかしくなりそうだった。

 それだけが理由の全てではないが、とにかく川路は家逗が嫌いだった。苦手で煩わしくて迷惑な、要注意人物だった。

 

「家逗先輩が、敢えて所持品検査に引っ掛かれば川路先輩や磯手先輩とお話しできるんじゃないかと考えられて、私たちは巻き込まれたんです」

「お前たちは毎日何かに巻き込まれないと気が済まないのか?」

「巻き込まれてるだけなんで毎日気が気じゃないです……」

「磯手君はどこかね?」

「知るか」

「そうか。なら川路君でも構わないから知っていることを教えてもらおう。君たちが探している“赤い宝石”とは、いったいなんなんだ?」

「ん?……おい牟児津!貴様なぜ宝石のことをこいつに話した!」

「うひえええっ!!」

 

 家逗の問いには答えず、川路は机を叩いて牟児津に怒鳴った。驚いて飛び上がった牟児津は、そのまま瓜生田の後ろに逃げ隠れてしまう。川路の問いに答えたのは、それまで沈黙を保っていた羽村だった。

 

「川路様。畏れながら、ホームズは自力で宝石の手掛かりにたどり着いております。我々は牟児津様の口から宝石という言葉を聞いたことはございません」

「なにっ!?ん?ホー……なんだ貴様は!」

「ホームズ、もとい家逗会長が設立した探偵同好会で副会長を務めております。1年Aクラスの羽村知恩と申します。ワトソンとお呼びください」

「ワ、ワトソン……!?そういうごっこ遊びを止めろと言ってるんだ!いい年して恥ずかしくないのか!いやそうじゃない!自力で宝石にたどり着くだと!?家逗だぞ!?」

「ふふっ、それが謎であるならいずれ私に解かれるのだ。不思議なことではなかろう」

「宝石のことを知っているのはここにいる人間以外では生徒会本部員か理事か、そうでなければ犯人くらいだ!このポンコツ探偵にそんな手掛かりを見つけることなどできるか!」

「うわーっ!?ポンコツだと!?言ったなこのシュ——!!」

「黙れ!!」

 

 再び川路が机を叩いた。今度はさすがの瓜生田も少し肩を跳ねさせた。が、家逗と羽村は微動だにしない。羽村が落ち着いているのはともかく、家逗も平然としているのは牟児津にとって意外だった。家逗は川路を全く恐れていないようだ。

 

「もういい!貴様らが私たちの探している人物でないことは明白だ!今すぐ出ていかないと捜査妨害で即刻懲罰にするぞ!これ以上は時間の無駄だ!」

「無駄と言ったな なら私の話を聞け」

「ひぃァ!」

 

 突然、その場にいないはずの人物の声がしたため、牟児津はまた飛び上がるほど驚いた。今日は朝から何回驚かされているのか分からない。

 扉を開ける音は強く、しかし痛まないように丁寧に閉めて現れたのは、まさに話題に上がっていた磯手だった。相変わらず几帳面な格好に小気味良い足音と、一切の無駄を許さない厳格な雰囲気を醸している。今日は肩に大きな紙を巻いたものを担いでいる。

 

「なるほど関係者揃い踏みというわけだ 川路に用があったがもののついでだ 牟児津と家逗にも同じものをくれてやる」

「なにっ!?おい待て!捜査情報を一般生徒に漏らすのか!」

「私は目的が果たせれば手段は問わない 犯人を見つけられるなら風紀委員も一般生徒も同じようなことだ」

「なんで朝イチから喧嘩腰なんだよこの人たちは……」

「お前たちのことだから女神像の正体について探っているのだろう うちの委員が噂していたから今日からはある程度のことなら話していいと通達しておいた それと工学総合研究部に依頼していた女神像のX線検査が完了し内部構造とその機能が明らかになった」

「情報量多いですね〜。X線検査なんて高校生ができるものなんですか?」

「無駄話はしない これはその検査結果だ」

 

 捲し立てるような早口で用件を話し、磯手は大きな図面を机の上に広げた。様々な角度から女神像の構造と機能を示した図が描かれており、複数の机をつなげないとはみ出してしまうほどの大きさなのに細部が細かくてよく分からないほど緻密に描写されている。

 

「これは機密だ 今ここで覚えろ」

「無茶苦茶言うな!こんなんちょっとやそっとで覚えられたらDクラスになんていないよ!」

「はい。おおよそ把握しました」

「早っ!?」

「さすがだなワトソン君!優秀だ!磯手君、もう下げていいぞ」

「もういいのか」

「ワトソン君が覚えてさえいれば私が記憶する必要はないからな。これ以上は牟児津真白にヒントを与えるだけだ」

「アンタまだそんなこと言ってんのか!共同捜査はどうしたんだよ!」

「ご安心を。後ほど詳細はお伝えします。情報共有を目的としたギヴ&テイクの関係ですので」

「つまりそれに値する別の情報と交換ってことだね。ズルいなあ」

 

 羽村と瓜生田の会話を、牟児津と家逗はぽかんと流し聞きしていた。事情を知らない川路と磯手は始めから聞いていなかった。十分に図面を読み込んだと判断すると、磯手はさっさとそれを巻いて取り払ってしまった。

 

「そういうわけだ 引き続き“赤い宝石”を持った生徒の捜索に励むよう」

「あっ……ちょ、ちょっと!」

「ムジツさん、どこ行くの」

「いや、なんか、一旦磯手さんに聞いとかなきゃいけないことがあって」

 

 磯手は部屋を出て行ってしまった。謎の図面を見せるだけ見せて、多くを語らずに行ってしまった。牟児津は、何かに突き動かされるようにその後を追いかけた。瓜生田がその後を追う。家逗と羽村は牟児津の行動の意味が分からず、そのまま部屋に留まった。

 廊下を出ると、磯手はギリギリ徒歩と呼べる速さでかなり先へ行ってしまっていた。廊下を走ってはいけないが、牟児津は全力でその後を追った。今を逃すと、次いつ顔を見られるか分からない。そして瓜生田はその牟児津についていけず、廊下の隅で息を荒げていた。

 

「磯手さん!」

「用件は歩きながら話せ」

 

 牟児津が声をかけても、磯手は一瞥すらせず歩き続けながら言った。足の長い磯手の早足は牟児津には小走りくらいのペースになる。

 

「足はやっ……!あ、あのっ……!えと……げっ!うりゅいねえ!あ、あのぅ」

「私は無駄が何よりも嫌いだ 用がないなら呼び止めるな」

「止まってないし!じゃなくて、用はあります!あっとその……私、さっきの図面がなんなのか、分かんないんですけど、でも、ああそうじゃなくて……!い、磯手さんは……!磯手さんっていうか、なんで磯手さんが理事さんの代わりに人探ししてるんですか!?」

 

 小気味良いリズムが止んだ。急に足を止めた磯手の横を、牟児津が通り過ぎて正面の壁にぶつかる。

 

「おげぁっ!?」

「……なんだと?」

「くそぅ……厄日だ……」

「なぜお前が理事との話を知っている……!?誰から聞いた……!?」

「あ、やっぱそうなんだ。いや別に誰からも聞いてないですけど」

「ならなぜ……!?」

「だって、磯手さんにとってもう事件は解決したも同然じゃないですか」

「どういうことだ」

 

 のそりと牟児津は起き上がって、磯手と相対する。常に忙しなく動き回っている磯手が、今は牟児津の目の前で仁王立ちしている。川路ほどではないが威圧感もある。それでも、牟児津は尋ねずにはいられない。頭の中を無秩序に飛び回る疑問と情報で脳がはち切れそうだった。少しでも吐き出さないとこれ以上は何も考えられない。

 

「私は図面に何が書いてあったかなんてちっとも分かりませんでした。でも、女神像の中身が分かったんですよね?工総研に頼んだんならたぶん機械なんでしょうけど——だったらもう、あの訳のわからないメッセージと光を出さないようにすればいいだけじゃないですか。

 会計委員会は物を管理する委員会でしょう。だったら、構造が分かった時点で、女神像の異常を止める手段が分かった時点で、もう事件解決じゃないですか」

「質問に答えろ なぜ私と理事の話をお前が言い当てられるんだ」

「だから、磯手さんにとってはほとんど解決したような事件なのに、まだ風紀委員——ましてや一般生徒の私たちを頼るなんておかしいじゃないですか。それって、女神像のメッセージを止めるより大事な目的があるからでしょう。

 磯手さんはそれを言っています。“赤い宝石”を持った生徒です。正直そこもまだ全然意味分かんないですけど……会計委員会がその人を探す理由ってなくないですか?だったら、磯手さんじゃなくて、他の誰かに頼まれて探してるんだろうなって。磯手さん、最近よく理事と話してるそうじゃないですか」

「……なるほどな 田中副会長が一泡吹かせられるわけだ」

「え」

「泡を吹かせるだけで参ったと言わせないツメの甘さもよく分かった その推理をするなら図面をよく理解するだけでなく“赤い宝石”についてもっと調べるべきだ そもそもその宝石も我々が管理する学園の備品であることを忘れるな」

「学園の備品なんですか?昨日はそんな話してなかったですよ」

「そうだ この件に関してお前はまだまだ知らないことがある まずはそれを知ることだ」

「はあ……」

「図面は機密情報だ コピーやデータを渡すわけにはいかない 家逗の後輩にでも話を聞くことだ」

 

 再び磯手は歩きだし、牟児津の横をすり抜けて行ってしまった。牟児津は、多少整理できると思っていた情報が全く整理できず、しかも磯手にはまだまだ知らないことがあると言われてしまい、余計に混乱していた。

 収穫がなかったわけではない。とっさに牟児津が磯手に話した内容は、少なくとも磯手の足を止める程度には的中しているようだ。磯手は理事に頼まれて、“赤い宝石”を持った生徒を探している。そうすると今度は、なぜ理事が一生徒を探しているのか、それが問題になる。

 昨日より格段に重たくなった頭を抱えて、牟児津は来た道を戻った。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 その日の昼休み、牟児津は探偵同好会の部室で昼食を摂っていた。昨日の捜査状況と今朝の出来事を踏まえ、改めて放課後の行動を精査するためのミーティングである。すっかり真面目に事件に取り組んでいることを、自分を俯瞰する自分に冷笑されながら、牟児津は菓子パンを頬張る。

 

「おやおやおやおや!こんなところに学園新聞が!情報隠者(じょうじゃく)がようやくまともに世間を知るようになりましたか!いやあ涙ぐましい成長ですね!」

 

 なぜか話を聞きつけた益子も加わって、大きな声で羽村に嫌味を言う。他の4人はそれを完全に無視して情報共有する。

 

「羽村さん、図面の内容どれくらい覚えてる?」

「簡単にですが、忘れないうちに大まかな内容をメモしたものと、見たままの図面を描いてみました。細部にはあまり自信がないので、正確性には疑問が残りますが」

「仕方ないよ。ちょっとしか見せてくれなかったんだもん。それで、その図面は?」

「厚かましいお願いを申しますが、我々は情報共有のためにおふたりを会食にお誘いしましたので、牟児津様方からも何か情報を共有していただきたいのですが」

「やっぱりそうなるかあ。協力ってなんだっけ」

 

 自信がないと言いつつもしっかり情報的アドバンテージは主張してくる羽村に、瓜生田は眉尻を下げた。すかさず益子が会話に飛び込んでくる。

 

「だから言ったでしょう!羽村(この人)は狡いんですよ!慇懃な態度をとってますけど、腹の底では自分たちの利益になることを第一に考える悪女なんですよ!」

「別に悪いとは思わないよ……っていうかアンタがなんで羽村さんを目の敵にしてんのか分かんないんだけど」

「クラスで学園新聞のネガキャンしてるんですよこの人ァ!」

「ネガキャンだなんてそんな。私はただお友達と、『学園新聞は扇動主義(センセーショナリズム)に溺れたメディアですから、あまり真に受けすぎない方がいいですよ』というお話をしていただけですのに」

「合ってんじゃん」

扇動主義(センセーショナリズム)で何が悪い!」

「開き直ってんじゃん」

「Aクラスでは学園新聞あんまり回ってないから、羽村さんの話は実際効果あったかもね」

「報道の自由の侵害です!言論統制です!メディアリテラシー!プロパガンダ!報道しない自由!」

「情報の受け手にも選ぶ権利はあるだろ」

「昼休みが終わってしまうぞ君たち。磯手君じゃないが、無駄話はそれくらいにしたまえよ」

 

 微妙に気にかかっていた羽村と益子の関わりは、ただ益子が因縁をつけているだけのことだった。しょうもな、と一蹴して、牟児津はこれからどうしようか考える。探偵同好会に、磯手と今朝話したことを伝えるべきか。磯手には図面をよく理解しろと言われているので、羽村が持っている情報は欲しい。だが、磯手が人探しをしていることは羽村なら気付いているだろうし、そこから理事に依頼されていることを想像していてもおかしくない。考えるほど自分の持っている情報が大したことないように思えてしまう。

 

「ねえうりゅ。これどうかな?」

「なになに?」

 

 少なくとも瓜生田には話していいだろう、と牟児津は耳打ちで瓜生田に磯手との話を伝える。磯手の目的が人探しであること。それは理事から頼まれたものであること。“赤い宝石”は学園の備品であること。その3つだ。

 瓜生田はふんふんと聞きながら頷き、少し大袈裟に驚いてみせたりする。向かい合って弁当を食べている家逗と羽村の反応を伺いながら、瓜生田は少し考えてから口を開いた。

 

「要するに、家逗先輩と羽村さんが知らない情報を教えてあげればいいんだよね」

「もちろんだ。ま、そんなものがあればの話だがな!」

「ありますよ。磯手先輩の本当の目的と、私たちが見落としていたことについての情報が」

「なに?本当の目的?」

「“赤い宝石”を見つけることでは?」

「え、あ、まあ、そう、なのかな?」

「ムジツさん、違うでしょ。その辺りも含めて私たちから話せることがあるんだけど、それじゃダメ?」

「……いえ、結構です。お互い持っているものを見せ合いましょう」

 

 羽村の予想は、牟児津が考えていたものとは少し違った。確かに“赤い宝石”が学園の備品なら、磯手が“赤い宝石”を持った生徒を探しているというのはおかしなことではない。備品が持ち去られたなら会計委員会が回収すべきだからだ。しかし、磯手の反応からするに、宝石そのものよりもそれを持った人物こそが重要であるように思えた。

 瓜生田はその話を、牟児津よりもずっと理路整然に話した。益子はそれを横で聞いて必死にメモを取り、家逗と羽村は興味深げに聞いていた。羽村の目的と“赤い宝石”について、昨日は深く考える余裕がなかった。今日になってそれが一気に深まるとは思ってもみなかったのだ。

 

「ふむ。つまりこの事件には、高等部の学園理事も一枚噛んでいるということだな?面白くなってきたではないか。伊之泉杜学園全体を巻き込んだ壮大な事件ということに——!」

「それにしては起きてる事象が小さ過ぎますね。それより、なぜ理事は生徒会本部に働きかけず、磯手様に直接指示を出されているのでしょう」

「“赤い宝石”というのも私は気になるぞ。まさに灯油君の話にあった通りのものじゃないか!しかし磯手君と川路君はそれを知っているようだったが、我々が話を聞いた風紀委員には、宝石とは知らされていなかったぞ!情報に階層が設けられている……いったいどういうことだ?」

「知らせていい情報と知らせてはならない情報がある……いえ、むしろほとんどの情報は知らせてはいけなくて、直接捜索にあたる風紀委員ですら曖昧にぼかされた情報しか知らされていない。それなのに、事件が起きたことそのものは機密ではない……」

「訳がわからないですね。理事は本当に犯人を見つける気があるんですか?」

「さあ、どうだろうね。そこはこれから考えることだと思うよ」

 

 学園理事まで登場し、事件のスケールが大きくなってきたことに家逗は興奮してくる。牟児津としてはまた人が増えて、何がどうなっているのかさっぱり分からない。どこから整理していけばいいのやら、お手上げ状態だ。

 

「ありがとうございました。それでは私どもの方からも図面の情報を」

「もたついて昼休みが終わっちゃったからまた放課後、なんてことはやめてよね」

「……もちろんです。どうぞ、こちらになります」

 

 益子ほどではないが、瓜生田もよく分かっていた。羽村は狡い女だ。最終的に情報は共有するが、それまでの過程について取り決めはない。探偵同好会が朝に入手した情報を、牟児津たちには放課後まで隠し通すことができれば、それは大きなアドバンテージになる。しかもそこに牟児津から得た情報まで加われば、牟児津たちが図面を見てあれこれ考えている間に一歩も二歩もリードできる。

 というシナリオを描いていたかどうかは分からないが、それが可能な状況であったことは確かだ。なので瓜生田は釘を刺して、自分たちを出し抜こうとするのを防いだ。羽村は後ろめたさを隠すようにメガネを光らせ、おとなしく図面を提供した。

 

「機械には詳しくないので用語や記号の意味は分かりませんでしたが、女神像のおおよその内部構造は把握しました。そして、それらの機能も」

「再現率たっか!いや知らないけど、だいたいこんな感じだったよ!羽村さんすっご!あと絵うま!」

「どうだ!私の助手は優秀だろう!」

「ここに、私たちが風紀委員から聞き込みで得た情報を加えると、このようになります」

 

 磯手の図面と違い、羽村のものはルーズリーフに描き込んだスケッチのようなものだった。しかし、女神像がいったい何でどんな働きがあるのかが簡潔に示され、牟児津たちにとっては磯手の図面よりもすっきりしていて分かりやすいものになっていた。

 

「女神像の下にある台座は、モニターが備え付けられた重量センサーになっています。そこから配線が延びてモニターに接続されているので、何らかの重量を感知してあのメッセージが表示されている可能性があります」

「防犯用じゃないの?女神像が持っていかれたらアラームが鳴るとか」

「それだとスピーカーではなくモニターという点が不合理です。それに、現在女神像はきちんと台座の上に収まっていますが、モニターは作動しています。つまりこのセンサーが感知しているのは女神像ではないものの重さかと」

「女神像じゃないのもの?」

 

 広げた図面を、益子が真上から写真を撮る。本物の図面ではないが手掛かりとしてはかなり重要だ。羽村は気にせず続ける。

 

「もう一点気になるのは、女神像本体です。もともと立方体に近いおかしな形をしていますが、図面ではいくつかのパーツが組み合わさってできた複雑な構造をしていることが分かりました。驚くべきことに、女神像本体に留め具の類は使用されていないことも記述されていました」

「すごいね。設計した人のこだわりかな?」

「最も気にすべき点は、この中心部。女神像の中には、謎の空間が存在しています。ここはX線検査でも何も見つからなかったようなので、おそらく()()()空っぽなのでしょう」

「現在はってことは……元々は何か入ってたってこと?」

「はい。おそらく」

 

 なんとなく、その場にいる全員が理解し始めてきた。この女神像がいったい何で、ここから導かれることがなんなのか。

 

「ってことはつまり……女神像は元々中に何かが入ってて、今はそれがなくなった。台座の重量センサーはそれを感知するためのもので、だから今はメッセージが表示されてる。そのなくなったものって……」

「はい。女神像本体の大きさからして、この空間に収まるものはそう大きくありません。ちょうど、手のひらに収まるくらいのサイズのものでしょう。我々が知っている中で、その大きさのものといえば」

「“赤い宝石”……?」

 

 さっきの今だからこの結論にたどり着いたのだろうか。本当は全然関係ないのに、立て続けに話したことで、偶然の一致が説得力を持ってしまったのだろうか。そうとは思えない。どちらも磯手から出てきた情報だ。磯手は“赤い宝石”を持った生徒を探していて、女神像の中には“赤い宝石”が収まる程度の空間がある。女神像は卒業生からの寄贈品なので磯手が長を務める会計委員会が管理するものだ。全ての情報がつながる。

 

「磯手先輩が探しているこの事件の犯人は、“赤い宝石”を女神像の中から持ち去った人ってこと?じゃあやっぱ、“赤い宝石”を取り戻すために探してるってことかな?」

「それなら風紀委員に宝石の情報も伝えているはずです。その点を伏せるということは、女神像の中に宝石があったという事実そのものを隠したいのだと思います」

「だからあくまで表向きには、女神像にいたずらした生徒を探すというスタンスなんですね。女神像内部にあったはずの“赤い宝石”を持っていること自体が、何よりの動かぬ証拠となるわけです!」

「そうなると理事がその生徒を探しているという話にも一応の説明はつくな。女神像は理事のお気に入りだったそうだ。おそらく“赤い宝石”のことも理事は知っているのだろう。つまりこれ以上秘密が漏れる危険を排除するために、会計委員会に極秘捜索を依頼したのだ!」

「私たちまでバレてるのに極秘もなにもあったもんじゃないな……」

 

 情報が寄り集まって、ひとつの結論へとつながる道になる。その結論さえ、より大きな謎を解き明かすための手掛かりに過ぎない。だが少なくとも前進していることは、全員が実感していた。

 ある程度の整理はできた。磯手は——学園理事は、女神像から“赤い宝石”を取り出した人物を秘密裏に探している。その目的はまだ分からないが、施錠された女神像から物を取り去ったのだから、少なくとも褒めるために探しているわけではないだろう。ほとんどの者はひとまずその結論で納得しているが、牟児津は違った。もし罰するために探しているのなら、犯人のしたことが罰される行為なら、女神像がなぜ犯人を祝福しているのかを説明できないからだ。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「ムジツ先輩!私たちも聞き込みとかに行きましょうよ!こんなとこで本読んでる場合じゃないですって!」

「これも大事な捜査だから。それに、エルネさんのことはまだ何も分かってないんだよ。そこを突き止めれば、探偵同好会にリードできる」

「別にあの人らとの対決はどうでもいいんだよ。結局、犯人が“赤い宝石”をどうやって取り出したのかが分かんなきゃ、手掛かりも見つけにいけないでしょ」

「そりゃそうですけど、そのために女神像の寄贈主の手掛かりを探すって、遠回りじゃないですか?」

「昨日私がそれ言ったんだよ」

「急がば回れって言うでしょ。がんばろ、益子さん」

 

 益子がぶつくさこぼす文句はスルーして、牟児津は昨日中途半端なところで終わっていた過去の学園の入賞記録を眺めていた。

 昼休みのミーティングで、女神像と“赤い宝石”の関係はよく分かった。しかし犯人は、厳重に鍵のかかった女神像の、さらに内部にある宝石を抜き取ったということになる。そんな魔法のようなことがあり得るわけもなく、女神像にはまだ何か仕掛けがあるはずだと考えた。そこで、女神像を寄贈したエルネという卒業生を当たれば、女神像についてより詳しいことが分かるはずだと思い、再び図書準備室にやって来た。

 

「まーた来たわね牟児津さん。本当に何か憑いてるんじゃないの」

 

 読み終わった記録を整理して片付けているのは、オカルト研究同好会副会長兼図書委員の阿丹部(あにべ) 沙兎(さと)だ。仕事の邪魔になるので牟児津たちに(たむろ)されるのは普通に迷惑だった。過去の事件で牟児津に救われたとはいえ、迷惑そうな態度を隠すほどよそよそしくする必要もなかった。

 

「やめてよ!阿丹部さんがそういうこと言うと洒落にならないんだよ!」

(つき)先輩に聞いてみよっかな〜」

「すみません先輩。今日中に読み切っちゃうので」

「まあいいけど。あ、そうだ。美珠(みたま)先輩から連絡あったよ。エルネさんの手掛かり見つけたって」

「本当ですか!?」

「大学部の研究ゼミに入ってて、そこの名簿で名前を見つけたんだって。えっとね……フルネームは石川(いしかわ) エルネ。工学部工学科に進学してて、ゼミでは数理工学を専攻してるみたいね」

「知らん学問が出てきた」

「詳しい研究テーマとかは分かりませんか?」

「ごめんなさい。そこから先は美珠先輩にはちんぷんかんぷんらしいわ。あの人、根っからの文系脳だから」

「そこまでで私はちんぷかんぷんだよ」

 

 ひとまずエルネとう人物のフルネームと大学の専攻が分かった。それがヒントになるかはさておき、フルネームが分かれば多少なりとも探しやすくなりそうだ。それでも地味かつ終わりの見えない作業には変わりない。すっかり目が疲れてきた益子は、大きく伸びをして寝転がった。

 

「益子さん、汚いよ」

「記者は汚れてなんぼです」

「汚れ仕事ってこと?」

「汚れるくらい足で情報集めるってことですよ。私はこういうみっちり読み込むようなのは性に合いません。やっぱり歩き回って聞き込みするのがいいです」

「じゃあ家逗先輩たちのお手伝いしてくる?」

「羽村さんに協力するのは癪なので独自にやってきます!ついでに新聞部のアーカイブでエルネさんの情報も集めてきますよ!」

「そっちも読み込む作業になると思うけど……」

 

 常に騒がしい益子に、じっと座って作業させるのは酷だったかも知れない。そう思った瓜生田は、半端に残った記録冊子を引き継いで、益子を外に行かせた。家逗と羽村が外で捜査をしているので、こちらも一箇所に留まっているよりは捜査の手を広げるべきだと考えた。

 さっそく益子は図書準備室を飛び出した。記録冊子を読み込むのはきついのに新聞はきつくないのだろうか、というツッコミも聞かないまま。

 瓜生田は益子から引き継いだ冊子を一枚めくって、小さく笑った。

 

「どったの、うりゅ」

「ううん。益子さん、もうちょっとだったのになって」

「?」

「あったよ。石川エルネ」

「マジで!?」

 

 益子が開いていたページから、たった一枚紙をめくった次のページ。そこに、石川エルネの名前があった。写真に映っているのはひとりの少女で、ブラウスにロングスカートとヒール付きの靴を履いた淑やかな出立だった。不思議な紋様の額に入った賞状を持って笑顔で映っており、背後には『全国高校パズル選手権』の文字が踊る。どうやらこの大会で入賞したらしい。

 

「この人が石川エルネ?なんか清楚な人だね」

「入賞によせてのコメントも書いてあるよ」

 

——この入賞を機に、私の学園内でもパズルの面白さや奥深さを伝えていけたらと思います。差し当たって、まずはパズル研究同好会を設立し、1年後には部に昇格させたいと思います。——

 

「すっげえ向上心。部つくるって言うのは簡単だけど、1年でできんの?」

「今の校則だと無理だけど昔はできたんじゃない?ほら、田中先輩って部会嫌いだから。今の条件だと、まずは同好会から2年以上活動して、色々条件を満たせば昇格できたはず」

「あっそう……」

「でも実際、今はパズル研究部があるわけだし、この人は有言実行してるってことだよ。すごいよね」

「パズ研か……うん、パズ研……」

 

 何か思い当たることがあるのか、牟児津はしばらく考え込んだ。ようやく石川エルネの手掛かりを得た。大学部に所属しているなら直接会いに行くこともできるが、おそらく忙しくてなかなか難しいだろう。それよりも手近で確実に話が聞けるパズル研究部に話を聞きに行く方が良い。

 

「よし、ちょっと話聞きに行ってみよう」

「また前進したね。行こう」

「ちょっと待ちなさい」

 

 立ち上がった牟児津の襟と瓜生田の袖を、阿丹部が後ろから摘んだ。

 

「読んだら片す」

「あっ、はい」

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 パズル研究部は、図書準備室で見た記録のとおり、歴史の浅い部活である。それなりの部員数とそれなりの実績があるため部としての活動に問題はないが、新参なので部室を持たない。従って多くの部員は、空き教室でち寄ったパズルを解き合うなどして活動している。そのためその日の活動場所は毎日変わり、今日は2年Dクラスで活動中だった。

 

大間(おおま)さん」

「うん?まあ牟児津さん。どうしたの?忘れ物?」

 

 大間(おおま) 眞流々(まるる)はいつもの席に丸く座って、丸い指で丸いルービックキューブを回していた。いくつかの机をつなげて大きなテーブルにし、そこに部員たちが各自持ち寄ったパズルや自作のパズルを並べて、解いては改善点や解法について話し合ったり、模造紙に訳のわからない計算式を書いたりしていた。

 部員たちは自分のしていることに集中していて、牟児津たちに気付いたのは声をかけられた大間と、その隣にいる何人かだけだ。

 

「部活中にごめん。ちょっと聞きたいことがあって」

「あら。もしかして例の女神像の事件?また巻き込まれたのね。かわいそうに」

「うん、そうなんだけど……手元見てないのに回して大丈夫?」

「ああいいのよ。これはもうパターンで解けるところまで来たから。はい、完成」

 

 声をかけてきた牟児津の方に丸く振り向き、丸い会話に丸い花を咲かせながらも、手元は素早く丸くルービックキューブを揃えていく。不揃いだった色がまるまるうちに組みを変え向きを変え、同じ色が同じ箇所に集まった球体に戻った。若干年増感のある丸い笑顔で、大間は牟児津にそのキューブを丸く手渡した。

 

「……すげ。大間さんってパズル強いんだ」

「強くないわよ。こんなの覚えれば誰だってできるの。新しいパズルになると全然解けないし、最短手数を突き詰めるのも苦手なのよ。ただ、パズルをしてる間は集中できて、解けると楽しいから続けてるのよね」

「ふーん、すごいね。それより、話しても大丈夫?」

「いいわよ。ちょっとゴメンねニコリちゃん。一旦他のやってて」

「ぅす」

 

 牟児津と話すため、大間は丸椅子から立ち上がった。去り際に隣のウインドブレーカーの少女に丸く声をかけると、少女は小さく会釈のような動きをした。確か昨日、舞台上で藤井に表彰されていた生徒だ。飾り気のないヘアピンで分けた前髪をぴったり留めていて、レモン色で透明感のある瞳がよく見える。

 

「あの子もパズ研?なんか格好とか不良っぽいよ。浮いてない?」

「半路さんだよ。私同じクラスなんだ」

「うそっ!?Aクラスなの!?あの感じで!?」

「やだわもう。ニコリちゃんは良い子よ。ちょっと愛想は悪いけど、礼儀正しいしパズルも強いし、何より新しいもの好きだからこっちが出した課題をどんどん解いてくのよ。可愛いんだから」

「そうなんだ……」

「設立して3年か4年なのに、パズ研はずいぶん人が多いですね」

「そうね。やっぱり初代部長の石川先輩がすごかったからかしら。去年私が入部したときは、3年生の先輩方はすごい熱量だったわ。石川先輩みたいになるんだって」

「今は大人しい感じだけど?」

「きっと石川先輩のことを知ってる人が抜けちゃったからね。でも、今年は期待のニュースターが来てくれたから、きっとまた盛り上がるわ」

「半路さんですね」

「そう。よく知ってるわね」

「昨日、壇上で藤井先輩に表彰されてましたから」

「あ〜そういえば。でもなんか、今日雰囲気違くない?なんか、昨日より明るく見える」

「そう?いつもと同じファッションだと思うけれど」

 

 パズル研究部から離れた教室の隅で、牟児津と瓜生田は大間から丸まった話を聞く。あまり期待していたわけではないが、現在のパズル研究部に石川を直接知る人物はいなかった。女神像のことを尋ねても、石川が寄贈したものであることは大間もまるっと知っていたが、それ以上のことはまるで聞き出せなかった。

 その代わり、いかに石川がパズル好きとしてこの学園に影響を与えたか。いかに後身を育ててパズル研究部を設立するまでに苦労があったか。いかに半路が入部してきてくれて助かっているか。などの話をまるまる聞かされた。

 

「今でもパズル研究部は実力主義だから、より難しいパズルを解く人とか、最短手数で鮮やかに解く人とか、色んなアプローチでみんな頑張ってるのよ。そこにいくとニコリちゃんはそのどれもトップクラスだからすごいわよね。ルービックキューブなんか4秒以内には解いちゃうのよ」

「よっ……!?いや無理でしょ!構造的に!」

「それができちゃうのよね。私なんか40秒は欲しいもの」

「十分すごいって」

「他に石川先輩について知ってることなどありませんか?どんな些細なことでも構いません」

「そうねえ……そういえば、パズル研究部(うち)では毎月自作のパズルを作って発表するっていう部内行事があるんだけど、それは石川さんが始めたって言われてるわね」

「へえ」

「大抵は数独とかクロスワードパズルとか、印刷してできるものなのね。でも石川さんは工作にこだわってたらしいわ。自分で秘密箱とか作ってきてたのよ」

「なんそれ」

「決まった手順でフタや部品を動かさないと開かない小物入れのことよ。箱根の寄木細工が有名ね。いまはどこの文化部もそうだけど、うちも園泊してるのね。楽しいわよ〜、みんなでパズルを解きあって夜更かしするの」

「ふ〜ん」

 

 牟児津にはそれがいかに人並外れたことか分からなかったが、瓜生田はぽかんと口を開けていた。高校生が趣味で作れるようなものではないのだが、1年で同好会を設立した上で部に昇格させた女傑ならばあり得るのかも知れないとも思った。部室がないせいであまり目立たない部活だが、パズル研究部は実はかなり優秀な部活なのではないだろうか。少なくとも、探偵同好会よりは部室を持つに相応しいだろう。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 今日という一日があっという間に過ぎていく。その日に分かったことはその日のうちに落語研究部の部室で稽古をしている灯油のところへ報告に行く。何か新しく思い出したことがあるかも知れないし、進捗を探偵同好会も交えて共有することで、より捜査を進展させられる可能性があるからだ。牟児津に言わせれば、さっさと終わらせたいからだ。

 牟児津たちは落語研究部の障子を開ける。まだ灯油たちは稽古をしていて、ひと段落するのを待つことになった。それまでに探偵同好会と益子もやってきた。浮かない表情を見る限り、どちらも大した手掛かりは得られなかったようだ。牟児津は少しだけニヤついた。

 

「なんだそのにやけ顔は」

「別に」

「いや〜ごめんやで。アテもはよ相手してあげたいんやけど、こっちはこっちで大会が近付いとるさかいに手ぇ抜かれへんねや。他のもんに代わりにやらしたってもええねんけど、やっぱり自分の弟子は可愛いもんやで。自分が他のもんに任しといても、つい口が出てまうねん。今日は報告だけかいな。ん、ほなちゃっちゃと済まそか」

 

 立板に水とばかりに回る口で、灯油はどんどん話を進める。それを見た牟児津には気になることがあったが、まずは今日一日の報告を優先することにした。

 今日は朝から色々あった。まず探偵同好会の策略により2日連続で朝から川路と磯手に詰められたこと。そこから女神像の構造と赤い宝石との関係までが推理できた。しかしそこから放課後の捜査になると探偵同好会は進展がなく、益子も大した手掛かりは集められなかった。2組の報告を聞き、瓜生田はむんす、と得意げに鼻を鳴らした。

 

「瓜生田様、どうされましたか」

「なんか言いたげやな。おもろい話でもあるん?」

「2組とも残念でしたね。特に益子さん。あとちょっと粘ってたらお手柄だったのにね」

「どういうことですか!」

「私たちは図書準備室で、女神像を寄贈したというエルネさんの手掛かりを、過去の部会の入賞実績から探していました。途中で益子さんが痺れを切らして足で情報を稼ぎに行ったんですが……その直後に、エルネさんの手掛かりを見つけました!」

「なんですとー!?」

「それも、益子さんが直前まで見てたページのすぐ次で」

「ななななんですとー!?」

「諦めちゃダメってことだね。捜査の基本は根気よく、だよ」

「ふぐぬえい……それ、今からでも私の手柄ってことになりません?」

「なりません」

「根性が浅ましすぎる」

 

 そこから瓜生田は、エルネのフルネームやパズル研究部創設の経緯、パズル研究部を訪ねて聞き取った手掛かりについて話した。話を聞きながら、益子は終始悔しそうに歯を噛んでいた。探偵同好会はその報告をつまらなさそうに、しかし重要な手掛かりであることには変わらないので羽村が逐次メモを取りながら聞いていた。

 話が終わるまで、灯油は座布団の上で正座し背筋をピンと立たせたまま微動だにせず、真剣に報告を聞いていた。

 

「報告は以上です。今ある情報から考えるに、灯油先輩がおっしゃっていた赤い宝石は実在するものと考えられます。そしてそれは、女神像の中にあったものかと」

「なるほどなあ。つまりあれは夢やなかったってことか」

「そうとも言い切れないのでは?もし本当に灯油様が赤い宝石を手にしたのなら、何らかの方法で女神像の中から取り出したはずです。その方法がお分かりでないなら、偶然の一致ということも考えられます」

「何らかの方法って言われてもねえ……アテは落ちてるもん拾っただけやし」

「宝石がその辺に落ちててたまるか!思い出せ!何かあったはずだそのとき!それさえ立証できれば我々の勝利だ!」

「まだそんなこと言ってんのか」

「んんん……あかん。なんぼ考えても思い出せる気がせぇへん」

 

 ある程度の謎の答えが見えてきた。女神像の正体と赤い宝石との関係。そこから導き出される推論は、灯油の危惧したことが的中していたことを示している。しかしまだ決定的な証拠がない。その推論を成立させるための事実は曖昧なままだし、赤い宝石が今どこにあるのかも分かっていない。

 

「な〜んかふわふわしてんねんなあ。現実感がないっちゅうか、なんとなくでしか覚えてないような。ちょうど今朝もそんな感じやったわ」

「今朝?そういえば灯油先輩、塩瀬庵から出てこられたときにムジツさんと鉢合わせましたね」

「え?そうやったっけ?なんかちっこいカニみたいなんを可愛がったような気はするけども」

「そりゃ私だよ!誰がカニだ!」

「さよか。なんやアテは赤くてちっこいもんに縁があるなあ。んなっはっはっは」

 

 要領を得ないことを言って、灯油はケタケタ笑う。その日の朝に起きた割と衝撃的な出来事なのに、灯油の中ではもうそんな曖昧な記憶になっているのか、と牟児津は呆れ果てた。

 

「姐さん、そろそろ稽古を再開しないと時間が……」

「んん?なんや吹逸、他の子ぉに見てもらい言うたやろ」

「はい。ですけども……やっぱり姐さんに見てもらうのが一番稽古になると思いまして」

「ンハーーーッ!可愛らしいこと言うなあこの子はもう!そこまで言われたら姐さん構わへんわけにいかんやないの!むちゅーっ!」

「うええっ。ね、姐さん。着付けが、乱れますから……!」

「可愛がり方が激しいなあ」

「そういうわけやから、アテもなんか思い出せへんか気張ってみるさかい、自分らも今日は帰りぃ。お疲れさん」

 

 静かに近寄ってきた吹逸が、灯油にもみくちゃにされながら灯油を稽古へと引き戻す。簡単にあしらわれたような気がして釈然としないが、牟児津たちは閉校時刻の前に部室を後にした。落語研究部は今日も泊まりで稽古をするようだ。いつ家に帰っているのやら。

 まだ閉校まで少しだけ時間があったので、牟児津たちは探偵同好会の部室に移動して、明日からどうするかを話し合うことにした。牟児津の直感では事件の収束も近い。あとは決定的な証拠と、赤い宝石の行方を突き止めさえすれば、事件の全容が明らかになるはずだ。

 

「灯油君が宝石を持ち去ったのは間違いないだろう。そうなると、今は灯油君が宝石を持っているはずだが」

「持っていたら見せてると思いますけどね!本人も記憶が曖昧だそうですから、もう手元にないんじゃないですか?」

「では、いったいどこに?」

「それが分かったら苦労しないよ……。風紀委員と会計委員が総動員で探して見つからないんだよ」

「朝の所持品検査をすり抜けるのは至難の業です。おそらくは学園の中のどこかに隠してあると思われます」

「灯油さんが持って帰ってから、また誰かが隠したってこと?なんでそんなことを」

「横取りでもしようとしたのではないか?手のひらサイズの宝石ともなれば相当な価値があるだろう」

「学園の中に隠したままじゃ価値のあるなしも意味ないですね」

「そもそもその宝石が女神像の中にあったとして、灯油様がどうやって取り出したのかがわからなければ……」

「結局、灯油君の思い出し待ちになるのか……もはやそれは探偵の仕事ではないと思うのだが」

 

 5つの頭脳が集まって議論を交わす。赤い宝石の行方、それを取り出した方法、灯油の記憶、そのどれもが今の5人にはどうしようもない結論に落ち着いてしまう。明日になっても灯油が何かを思い出す保証はないし、仮に思い出しても時間が経てば経つほどその記憶の説得力は落ちてしまう。

 どうにかして、灯油の記憶以外からアプローチしなければならない。赤い宝石を女神像から取り出す方法は何か。赤い宝石は今どこにあるのか。灯油はどこまで事件に関わっているのか。何かヒントがないか、必死に探る。

 そんな最中、益子のスマートフォンが鳴った。

 

「——っ、ちょっと失礼」

 

 急な電話で、益子は席を立った。それを機に、行き詰まった議論に疲れた4人は休憩することにした。羽村が購買で買ってきたペットボトルの茶をカップに入れて全員に出し、家逗は上体をべろんと机に寝そべらせ、瓜生田は自分の家と牟児津の家に、帰りが遅くなることを連絡していた。牟児津はやることもなく、椅子を傾けて暇を持て余していた。

 その時だった。

 

「えっ!?はい!すぐ行きます!」

「どわっ!?ぐえええっ!!」

「わわわっ!」

 

 いきなりの大声に驚いて、牟児津は後頭部から床に落ちた。その拍子にせっかく入れてもらった茶を床にこぼしてしまった。

 

「大変です大変!皆さん一大事!」

「ぐへえ、びしょびしょだ。もうたくさん、やな感じ」

「ムジツさん。先に拭き掃除」

「はっはっは!なんと悲惨!赤っ恥!」

「おふたりさん、ほぼ同じ。ホームズも前にしていました」

「それで。益子さん、何の用事?」

「虚須先輩から連絡がありまして!大学部で石川エルネさんと接触したそうです!いま、構内の喫茶店でお話を聞いていると!」

 

 華麗な連携で牟児津が汚した床をきれいにし、益子の話に全員で耳を傾ける。石川エルネ——事件の渦中にある女神像を寄贈した人物で、パズル研究部の創設者だ。間違いなく今回の事件において、重要な示唆を与えてくれるはずの人物だ。それがいま、大学部にいるというのだ。

 

「すぐに向かうぞ!ワトソン君!」

「ほらムジツさんも起きて。目から星飛ばしてる場合じゃないよ」

「星が飛散、つむじ無事?」

「もういいから」

 

 高等部の閉校時刻が近いということは、大学部の講義もほとんどない時間帯ということだ。高等部と大学部は出入口が学園の敷地を挟んで真反対にある。5人は急いで身支度を整え、部室を飛び出した。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 薄暗くなりつつある坂道を、5人は行き交う学生や車に気を付けながら全速力で走った。大学部の正門はすでに半分が閉じられて、正門横の小さな隙間から人々が出入りしている。牟児津たちはそこを突破し、益子の案内で構内にある喫茶店へと向かった。

 店内に客の姿はほとんどなく、入ってすぐのボックスシートに座った2人の女子大生はすぐに見つかった。

 灰白色の髪を今日はポニーテールにし、セミフォーマルな格好で熱心にノートを取っているのは、元オカルト研究部(当時)部長の虚須(うろす) 美珠(みたま)だ。それと向かい合う形で、上品に笑う大人っぽい女性が座っていた。それが石川エルネだと、一眼見て分かった。

 2、3時間前にアルバムで見た姿をちょうどそのまま成長させた、清楚で淑やかなお嬢様という雰囲気の人だ。着ている服の柄が幾何学的なこと以外は、高等部の頃と変わっていないように見える。

 

「虚須さん!」

 

 牟児津が呼びかけた。それに反応して、虚須はぱっと顔を上げて牟児津たちを見つけた。大きく手を振って、ロングシートに置いた荷物を壁に押し付け、2人分程度の隙間を作る。向かい合うお嬢様も、虚須に倣って牟児津たちの方に目をやった。

 

「うわーっ!牟児津ちゃん!瓜生田ちゃん!益子ちゃん!久しぶり!来てくれてありがとう!」

「ぜひ……ぜひ……!」

「瓜生田ちゃん、大丈夫?お水飲む?」

「うりゅはそっち座って休んでて」

「あははっ、虚須さんの後輩ってとっても賑やかね」

「いやまあ直の後輩じゃないんですけど……まあいっか。座って座って」

 

 閉店時刻が近付く中での新しい来客に、喫茶店の店員は目を丸くしていた。そんなこともお構いなしに、牟児津たちはボックスシートに座って石川と向かい合う。面と向かってようやく、牟児津は相手が全く自分のことを知らないのだと気付いた。昨日からずっと名前を聞いていたせいで、なんとなく知り合い程度の関係だと勘違いしていた。

 

「石川先輩、こちらがお話ししていた牟児津ちゃんと益子ちゃん、あっちで困憊してるのが瓜生田ちゃんです」

「瓜生田さんは大丈夫なの?」

「バテてるだけなんで大丈夫です。それより、今は石川さんの話を聞きたくて」

「あと、そっちのふたりは?私も初対面だよね」

「伊之泉杜学園が誇る灰色の脳細胞!学園のホームズとは私のことだ!よろしく頼むぞ先輩方!」

「すみません。探偵同好会会長の家逗です。私は副会長の羽村と申します」

「あー、なんかもうキャラの感じ分かったわ。うん、オッケー」

 

 初対面の大学生の先輩ふたりを前に、家逗はいつもと全く同じ調子で尊大な自己紹介をした。もはや牟児津は感心してしまった。幸い、虚須は苦笑いしながら受け流すだけにとどめ、石川も面白がっている様子だった。両先輩の寛大な心に頭が下がるばかりだ。

 

「それで、『アテナの真心』についてでしたね」

「そう!そうなんです!実はあの像が急に——!」

「大丈夫よ牟児津ちゃん。その辺の話は、益子ちゃんから聞いて私が伝えておいたから。石川先輩も、聞きたいことがあればなんでも答えてくれるって」

「ええ……有能……」

「なんで有能なことに引かれなくちゃいけないんですか!いいでしょ!」

「あまり時間がないから、今のうちに質問してくださいね」

 

 突然連絡を受けて走ってきたため、5人とも何を聞けばいいか整理ができていなかった。とにかく今のうちに聞けることは全て聞いておかなければと、あれこれ頭の中で考える。そうするほどにこんがらがっていくのをなんとか整理し、まずは羽村が質問をぶつける。

 

「あの女神像は石川様が寄贈されたものと伺っています。こういう言い方は適切でないかもしれませんが……どういった目的で寄贈されたのでしょうか」

「目的ですか。そうですね。あまり教えすぎると意味がなくなっちゃうのですけど。でもそうねえ……みなさん賢いから言ってしまっても構わないでしょう。一言で表すなら、()()()()()です」

 

 石川はいたずらっぽく笑って言った。淑やかなお嬢様という顔立ちの中に、幼稚な悪巧みをする子供のような表情が見え隠れする。

 

「ご存じかと思いますが、私パズルが得意なんです。全国大会で優勝して部を創設する程度には」

「自分で言うかねそれを!」

「パズル研究同好会を設立したのが2年生のときなので、今年で5年目でしょうか?部になったばかりですしまだまだ歴史も浅いので、実績らしい実績も少ないと思います。ですがせっかく創った部には長続きしてほしいものでしょう?そのためには実績も必要ですし、初めのうちは入り用で部費のやりくりも大変なんです。だからそういったの問題を一気に解決する名案を思いつきましたの」

「その入りで本当に名案だったことってないと思う」

「とっても難しいパズルを解いたらお金が手に入るシステムにすれば良いのでは?と!」

「そら見たことか」

「私、パズルを解くのも好きですけど創るのも好きなんです。ですから工総研出身のお友達に協力していただいて、私ができる限界まで仕掛けを詰め込んだ最高のパズルを創りました!それが『アテナの真心』なんです!」

「パズル……?あれパズルなんですか?」

「はい。詳しいことまでは言えませんけど、きちんと解けるようになってます!パズ研の子が見たらきっと気付くはずです」

「妙な形の像だとは思っていたが、まさかパズルとは……。しかし、あれはガラスケースで防護されていた上に鍵がかかっていたはずだぞ」

「ああ、あれは錠前だけでキーは造っていません」

「なんでそんなことすんの!?」

「パズル研究部の次世代を担うのであれば、南京錠くらいキーなしで解錠できなくては。在学中は後輩にもそういった指導をしてきたつもりですし」

「この人、鍵のことをパズルだと思ってる」

「新手のサイコパス?」

 

 散々な言われようはスルーしつつ、石川はカバンからタブレットを取り出した。画像フォルダをタップすると、画面いっぱいに複雑な数式や図形が書き込まれた画像が表示された。ちょうど今朝方、生徒指導室で磯手に見せられた図面がこんな感じだった。内容を正確に覚えていた羽村だけは、それよりもさらに細かく正確に描写されているらしいことが分かった。

 

「これが図面です。細かいことは難しいでしょうからざっくり言いますと、このパズルを解くと中にある赤い宝石『アテナの愛』が手に入ります。アステリズムの入った綺麗な宝石ですよ」

「アス……?なんすか?」

「宝石の表面に、交差する光の筋が現れる効果のことです。星の光のようで素敵ですよ」

「そんなこと、磯手君も川路君も言ってなかったぞ」

「直接見たことがない人でないと知る術はあまりないでしょうね。どなたでも知っているようなものでもありませんし」

「私たちに話しちゃってよかったんですかそれ!?学園新聞に載せちゃいますよ!?」

「お困りのようでしたので。私としても、あれが原因で無関係の後輩方を混乱させるのは本意ではありませんから。さすがに新聞に取り上げるのはご勘弁願いたいです。せっかくお小遣いをはたいて創った像が無意味になってしまいますから」

「なんかもう突っ込んだら長くなりそうだからスルーするけどだいぶ常識外れってことは分かった」

 

 聞き逃せない一言が聞こえたような気がするが、牟児津は聞き流すことにした。いちいち拾っていたら閉校時刻を過ぎてしまいそうだ。

 

「ふむふむ。つまり、その女神像がパズルだということに気付いた上で解くことができた子は、その宝石を手に入れることができる。パズル研究部の子ならそれができるはずだから、寄贈という体で後輩に()()したわけですね」

「少し訂正させてください。パズル研究部の子ならそれができるはずと言うよりも……それくらいのこともできないでパズル研究部を名乗るのなら、資金難でもなんでもいっそ潰れてしまった方が潔いと思っている。という方が正確です」

「こっっっわ」

 

 どう考えても、卒業生からの寄贈品がパズルであることを見抜いて鍵をピッキングし、その上パズルの全国大会で優勝するような人間が創ったパズルを解くのが、()()()()()()()()で済むわけがない。ふわふわした雰囲気で上品な仕草にもかかわらず、この石川エルネという人物はどこか恐ろしさを秘めていた。

 

「解けたという報告がないまま寄贈から1年が経過したときにはとてもガッカリして、残念なことだと思いました。ですがとうとう解かれたという知らせを受けて、とても嬉しかったです」

「じゃあ、その宝石を持っている人物に心当たりは……?」

「さあ……パズル研究部の子なら可能性はありますけど、それ以外の人でもあれが解けさえすれば手に入れられるので。それに、私は今の代の子たちのことはさっぱりですからなんとも」

「ですよねー」

「でも、少なくとも誰かには解かれたようで良かったです。あの宝石もお気に入りのコレクションだったので、ぜひとも戻って来ることを願っています」

「ど、どういうことでしょうか?」

「理事にはお話を通してあるんです。あの宝石を持って理事のところまで来た生徒がいたら、そのときの鑑定額を部なり委員会なりに割り振るようにと。生徒の才能の発掘のためと言ったら快くお受けいただきました」

「マジでイカレた奴しかいねえなうちの学園は!」

「でもそれ、パズル解いた人は知りようがないですよね?」

「だから理事室の前に置いてるんです。挑む生徒がいたら理事がすぐに確認できるように。夜中のうちに解かれるのは想定外でしたので、センサーカメラでも付けておけばよかったです」

「このぶっ飛んだ人の想定を超えて来る犯人って何者……?」

 

 後進の育成という名目でありながら、実際はパズル狂いの自己満足のような目的で制作・設置された女神像。正体を知りながら受け入れた理事も、それを解いてしまった犯人も、誰も彼も牟児津の理解の埒外にいた。短い時間の会話だったが、牟児津は結局ツッコミで疲れてしまった。

 やはり現在の赤い宝石の在処と、女神像のパズルを解いた犯人は牟児津たちでなんとか見つけるしかなさそうだ。しかし、女神像の正体と宝石についてはおおよそ理解できた。石川がそういった目的で創ったものならば、あの祝福メッセージの意味も分かる。あれはつまり、字面通り石川から後輩への祝福メッセージだった。

 

「ちなみに聞きたいのだが、いいかね?」

「ええ。なんでも」

「その宝石の価値というのは、だいたいで構わないが、どれくらいになる?」

「そうですね。正確な額は鑑定士の先生にお訊きするのが良いと思いますが、父が落札したときはええっと……あのときのレートでだいたい、6億と——」

「うん、結構」

 

 飛んだ先を聞く気も失せた。とんでもない額だ。それが、学園のどこかで誰かが隠し持っていると考えるだけで、それを探せと言われているだけで、牟児津たちは地に足がつかないような不安感に襲われた。

 

「さて、短い間で申し訳ありませんが、門限が迫ってきました。高等部の皆さんは帰りが遅くなるとお家の方が心配されますよ。もう暗いですから、ご自宅までお送り()()()()。ええっと、虚須さんも含めて6台ですね」

「あ、私と牟児津さんはお隣なので一緒で結構です」

「うりゅ。もっと言うべきことあると思うんだわ」

 

 結局その後、牟児津たちは正門の前に待機していた5台の車にそれぞれ乗って、各自の自宅まで送り届けられた。ピカピカに磨かれたボディにふかふかのシートで、オレンジジュースのサービスまで付いていた。牟児津は傷や汚れをどこか付けやしないかと片時も落ち着かず、味のしないジュースをちびちび飲んだ。

 色々と言いたいことを抑え込み、考えたいことをいちいちかき乱され、大学部では全く集中して考えられなかった。牟児津は、家に帰ってようやく部屋でひとりになって考える時間が生まれた。頭の中にある情報をノートに書き留め、それをぼんやり眺めて頭の中を整理していく。しかしそれも長くは続かなかった。ベッドの上で考えていた牟児津は、いつの間にか寝息をたて始めてしまった。その日はもうヘトヘトだった。



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第4話「邪魔そうだね」

 

(これまでのあらすじ)

 学園内にある黄金の女神像『アテナの真心』が、ある日謎の祝福メッセージを発するという事件が起きた。犯人だと疑われてしまった牟児津(むじつ)は、落語研究部部長、法被蓮亭(はっぴばすてい) 灯油(とうゆ)から真相解明を依頼された。

 灯油の奇行や探偵同好会の陰謀に巻き込まれてヘトヘトになりつつも、牟児津はいくつもの委員会や部会の生徒たちからなんとか情報をかき集め、女神像を寄贈した卒業生、石川(いしかわ) エルネにたどり着く。運良く石川と接触するチャンスを得た牟児津たちは、彼女の口から女神像の正体、“赤い宝石”との関係、それを寄贈した目的を知らされる。一度に多くの謎の答えを手に入れた牟児津は、情報過多で疲弊した頭を抱えたまま帰宅した。一晩経って牟児津は、遂に事件の真相に迫るのだった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「んにゃ」

 

 ぱ、と目を覚ました。眠気は一切後を引かない。どうやら熟睡できたようだ。泥がまとわりついたようだった頭も体もすっかり軽くなった。いつもより早起きだった。今から出かける準備をしたら早すぎるくらいだ。

 時間ができたのでスマートフォンを開く。チャットアプリを起動して、瓜生田や益子と、今回の事件のため探偵同好会も加えた『捜査本部』というチャットルームを開いた。ここには、捜査によって得られた情報が逐次共有される。恥ずかしいからと何度ルーム名を変えても家逗がしつこく戻すので、なるべく人に見られないようなときに覗いている。昨日の夜、牟児津たちが集めた手掛かりを瓜生田が、その後に羽村と益子が互いに競うようにして、石川から聞き取った話を共有していた。

 

「ん〜」

 

 寝起きの頭は冴えていた。寝落ち直前の記憶を考え直し、チャットルームで共有された情報を加えれば、ほとんど真相は明らかになったも同然だった。あとはその確証さえあればいい。その方法を考えていた。相手に無理に言わせたのでは証拠にならない。自分からボロを出すように仕向けさせなければ。

 そして牟児津は、益子との個別チャットで連絡した。牟児津の望むものさえ手に入れば、おそらく何らかの反応が得られるはずだ。朝も早いというのにメッセージにはすぐ既読の印が付き、元気の良い返事が返って来た。

 

「ん?」

 

 溌剌とした返事のすぐ後に、益子は但し書きを添えて来た。どうやら大急ぎで登校しなければならない用事があるらしい。益子が忙しいときは、たいてい面倒ごとが起きているときだ。それが誰にとっての面倒ごとかは分からないが、これ以上新しく事件に巻き込まれたくない牟児津は、短く「了解」の文字だけを残して会話を打ち切った。

 

「……今日、決めるかあ」

 

 決められるかどうか。自分がどれくらい緊張に耐えられるかと、指摘される人物の体調次第だ。病欠でもされたらどうにもならない。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「大事件ですよ大事件!昨日までの事件に輪をかけて大事件です!」

 

 朝、学園の最寄駅で降りた牟児津たちを、益子が改札の前で待ち構えていた。傍には探偵同好会の姿もあり、わざわざ呼び止めて待っていたらしい。羽村と不仲だったのではないか、とつっこみたくなったが、朝から長話を聞く気はなかったので牟児津は流した。

 

「なにもう」

「大変なんです大変!たいへんたいへんたいへんたいへんたい!」

「うるさい落ち着け!」

「実はですね」

「うわっ!急に落ち着くな!」

「ずっとこの調子だ。いったい全体なんだというのだね」

「実は一昨日から学園中を騒がせている例の女神像なんですが……」

「女神像?今度はどうしたの?中から小仏さんでも出てきた?」

「なんですかそれは!違います!実はあの女神像が一晩のうちに、キレイさっぱり元通りになってるんです!」

「元通り?元通りってなに?」

「あのメッセージも出てないし光の点滅もない、完全に沈黙しちゃったんです!」

「なんだと!?」

 

 散々大騒ぎして、益子はようやく本題を話した。一晩のうちに女神像が元通りになった。いま学園はそのことでおおわらわになっているらしい。ジャーナリストを自負する益子も、連絡を受けて朝早くから飛んできたのだと言う。

 

「とかく人騒がせな像ですね。しかし、これは事件が収束したということになるのでは?会計委員と風紀委員はなんと?」

「女神像に変化があったということは誰かが手を加えたことに他ならない。これは会計委員と風紀委員に対する挑発だ!と鼻息を荒くしています」

「そっかあ」

「そりゃ、あの人らには逆効果だろうなあ」

「……ん?おい牟児津真白」

 

 ぽつ、と牟児津がつぶやいた言葉を、家逗が耳聡く拾う。朝で頭が冴えているのは牟児津だけではなかった。

 

「逆効果、とはどういうことだ」

「なにが?」

「それではまるで、この度の女神像の沈黙は、誰かがこの事態を収束させるためにしたことだと言っているようなものではないか。なぜお前にそんなことが分かる?」

「ホ、ホームズ……!そんな洞察ができるようになったのですね……!成長しましたね……!」

「馬鹿にするな!で、どうなんだ牟児津真白!」

「実際、犯人がそういう目的でやったんだと思うよ。だって女神像が元通りになったってことは、赤い宝石が中に戻ったってことでしょ。宝石を持ってたってことも、あの女神像(パズル)をもう一回解いたってことも、犯人がやったって理由になるよ」

「ムジツさん、今日は朝から推理モードみたいです」

「やけに落ち着いていると思ったら!ということは、今日で事件解決ですね!」

 

 家逗の指摘を特に意外にも感じず、牟児津は淡々と返した。女神像の正体を知っているか否かで、今日の事件の印象は大きく変わってくる。あの像は、石川が後輩に出題したパズルに過ぎないのだ。それが再び沈黙したということは、解かれる前の状態に戻ったというだけのこと。そんなことができるのは、パズルを作った石川本人か、それを解いて仕組みを理解した犯人しかいない。

 

「つまり、犯人は今日登校してきてるんだね。それが分かっただけでもよかった」

「ぬぅ!手柄の独り占めはさせんぞ!犯人は誰なんだ!言え!」

「ホームズ。それを言ってしまうと、もはや探偵は名乗れないかと」

「益子ちゃん、言ってたもの用意できた?」

「ばっちりです!さっきチャットに貼りましたよ!」

「よし、ありがとう」

 

 十分だ、とばかりに牟児津は歩き出した。牟児津の頭の中が分からない瓜生田たちは、互いに顔を見合わせて首をかしげ、それから後に続いた。とにかく牟児津は今日、この事件に終止符を打つつもりらしい。わくわくする瓜生田と益子、怪訝そうにする家逗と羽村を連れて、牟児津は学園の門をくぐった。今日は風紀委員の所持品検査は行われていなかった。それどころではないのだろう。

 牟児津は上履きに履き替えると、荷物も置かないまま教室棟から特別教室棟に足を進めた。牟児津がどこへ向かおうとしているか理解した一行は、しかしまだ誰が犯人で、何が起きているかまでは理解が及ばずにいた。目的地が近づくほどに早足になっていく牟児津は、今にも走り出しそうになるのを瓜生田に制されて、ぎりぎり指摘されない程度の小走りで廊下を進んだ。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 やはりと言うか、案の定、牟児津の行き先は落語研究部の部室だった。もしかしたら女神像を確認しに行くかとも思っていたが、苦手な風紀委員が警備しているであろう場所に牟児津が自分から近付くわけがない。牟児津は障子になぞかけが貼ってないことを確認して、それを素早く開いた。

 

「おはようございます!」

「うおっ!?なんやびっくりしたあ、牟児津ちゃんやないの。おはよう。朝からどないしたん」

「実はお話が——」

「すみません、いま姐さんは稽古でお忙しいんです。放課後ならお時間作れますので、今はご勘弁ください」

「ごめんね吹逸さん。ムジツさんこうなったらきかないから。すぐ終わるからね」

「そういう問題では——!」

「まあまあええやないの吹逸。稽古なら後でもできるがな。この子らに事件の調査頼んだんはアテやで。話くらい聞かな不義理やんか。まあ座り」

 

 部室の中では、泊まり稽古をしていた灯油と吹逸がいた。他の部員らは昨晩、さすがに連泊が続き過ぎたため家に帰ってしまっていたらしい。そんな中でも稽古を続けるとは、この二人の落語にかける情熱は本物らしい。それゆえか、突入してきた牟児津たちを、吹逸はすげなく追い出そうとする。しかし瓜生田と灯油に説得され、牟児津たちは畳に上がらせてもらえた。

 灯油、吹逸と相対して5人は正座する。たちまち部室内は厳粛な雰囲気に変わる。ただ正座をして向かい合うだけで、こんなにも心が改まるものなのか、と牟児津は自分の緊張が高まっていくのを感じていた。

 

「で、話って?」

「結論を出しに来ました。灯油さんが女神像の一件に関わっているかどうか」

「さよか。出しに来たいうんはどういうことや?結論はまだ出てへんのかいな」

「これから出します。その前に、ひとつ確認させてください」

「ええよ。なに?」

 

 そう言うと、牟児津はポケットからスマートフォンを取り出した。そして、あらかじめ保存しておいた、益子から送られて来た写真を画面いっぱいに表示させる。

 

「実は私たち、灯油さんが拾ったって言う赤い宝石を、一度もちゃんと見たことがないんです。なので聞きたいんですけど、この写真の宝石で合ってますか?」

「んん?」

「あっ……」

 

 灯油と吹逸はその写真を覗き込む。小さな声が漏れた。牟児津のスマートフォンに映し出されていたのは、丸く、手のひらくらいの大きさで、赤い宝石の写真だ。そして。

 

「こんなんちゃうよ」

 

 灯油は答えた。分かっていた。灯油はそう答えるであろうと、牟児津は予想していた。しかし他の4人にとっては思いがけない答えだった。牟児津が見せた写真は間違いなく、石川が女神像の中に隠した宝石のはずだ。他の誰でもない、石川が寄越した写真なのだから間違いない。それにもかかわらず、灯油は首を傾げる。

 

「な、なにを言うか!灯油君!それは間違いなく『アテナの愛』のはずだ!君が拾った宝石はそれに間違いないし、それ以外に宝石なんかありはしないのだぞ!」

「いやそんなん言われてもやね。アテが拾ったんは真っ赤な宝石やで?こんな模様あれへんかったよ」

「も、模様……?」

「灯油さんは嘘を吐いてないよ。灯油さんには、これが真っ赤な宝石に見えてたんだ」

「……あっ。光、ですか?」

 

 羽村が気付いた。要領を得ない家逗はまだ混乱しているが、瓜生田も、益子も、なんとなく察しはついたようだ。

 

「灯油さん。まずあなたが宝石を拾った気がするという話ですけど、それは間違いなく事実だと思います」

「ほんまに!?ああやっぱそうなんやあ」

「あの晩に拾ったという宝石は、これで間違いないです。でも灯油さんは、こんな宝石拾ってないと言う。それはそうです。この模様は、そのとき灯油さんには見えてなかったはずですから」

「見えてない……?なんや、模様が出たり消えたりするんかいな」

「昨日、この宝石の元の持ち主に話を聞きました。この模様は、宝石に光を当てると現れるものだそうです。灯油さんがこれを拾ったのって、夜の学園の廊下ですよね?」

「せやで。ああ、せやからあれか。暗い場所やったから見えへんかったってことやね?」

「その通りです」

「ま、待ってください!」

 

 物分かりのいい灯油には説明がトントン拍子で進む。それにストップをかけたのは、隣で話を聞いていた吹逸だった。

 

「姐さんはそんな宝石は知らないと仰ってるじゃないですか!それで話はおしまいじゃないんですか!?どうして姐さんが宝石を拾ったことは間違いないんですか!それを説明してくださいよ!」

「……説明していいの?それで吹逸さんは、後悔しないね?」

「ど、どういうことですか!」

「……だって吹逸さん——ああもう、後で別に話すつもりだったのに——ずっと隠してきたんでしょ。自分のせいで灯油さんが事件に巻き込まれたってことを」

「っ!」

 

 上手い躱し方が分からず、牟児津は頭にあることをそのまま口にした。これをこの場で言ってしまうのは、吹逸がしてきたことを無駄にすることで、灯油にとっても知らされない方が良かったことで、誰の得にもならない。それでも、言うしかなかった。

 

「吹逸さんは、分かってたんだよね。灯油さんが宝石を拾ったことも。その宝石を間違って認識してることも。灯油さんの記憶が曖昧な理由も」

「な、なんとお!?まさか事件の黒幕がこんなところに!?」

「く、黒幕なんて……!うちは、た、ただ……!」

「もちろん。吹逸さんは黒幕なんかじゃないよ。ただ先輩を守ろうとしただけなんだよね」

「ど、どういうこっちゃ?吹逸、自分なにしたんや?」

「……」

 

 苦しそうに吹逸が空気を漏らす音だけがした。自分の口から言わせるのは無理そうだと、牟児津は代わって説明することにした。

 

「灯油さん、昨日の朝のこと覚えてます?」

「昨日の朝?なんや……道端にカニが落ちてて」

「それ私です。カニじゃなくて」

「ああ、牟児津ちゃんか!せやったせやった!あかんわもう、昨日のこともぼや〜っとしとる」

「そうでしょう。昨日の朝、灯油さんは酔っ払ってたんですから」

「なにぃっ!?酔っ払ってたぁ!?と、ととと灯油君!お前というやつはあ!」

「なに言うてんの牟児津ちゃん!?ちゃうてちゃうて!昨日は酒なんか飲んでへんよ!」

「昨日()?」

 

 とんでもない牟児津の発言に、場は騒然とする。しかし現にその場を見た瓜生田は、あの灯油の奇行は酒に酔ってでもないと説明が付かない気がした。むしろごく自然な説明だとさえ感じた。

 

「昨日、塩瀬庵では酒蒸しまんじゅうを作ってたんだよ。お店の中はうっすらお酒の匂いがしてた。灯油さんはそれを嗅いで酔っ払ったんだ。灯油さんは極端にお酒に弱いんだよ」

「そ、そんなの分からないじゃないですか!」

「保健室に行けばアルコールパッチテストがあるはずだよ。それに、灯油先輩のご両親やご親族にお酒を飲まれる方はいらっしゃいますか?」

「いいや……うちは誰も飲まへんな。強ないとは聞いたことあるけど」

「なら十分考えられるよ」

「牟児津様と瓜生田様はなんともなかったのですよね?その程度のアルコールで酩酊してしまうとは……」

 

 突飛な推理だが、証拠を示そうと思えば手段はある。牟児津の話の荒い部分は瓜生田が補足した。今はとりあえず牟児津の推理が正しいと仮定して、最後まで話を聞くことが先決だと灯油も判断し、そのまま耳を傾ける。

 

「そして事件の日。その日も灯油さんは酔っ払ってた。だから昨日の朝と同じように記憶が曖昧だし、暗いところで拾ったとはいえ宝石の特徴に気付かないなんてことが起きたんだ」

「しかし例の事件が起きたのは夜だし、灯油君が宝石を拾ったのも夜だぞ!朝に和菓子屋で酔うことはあっても、夜の学園でどう酔うというんだ!まさか、本当に酒盛りを……!?」

「するか!アホぬかせ!」

「もちろん、そこにはお酒なんてなかった。でも、灯油さんはほんの少しのお酒で酔う体質だ。だから、食べた物の中にお酒が入ってたんだよ」

「……っ!」

「吹逸さん。お菓子作りが得意なのに、事件の日からは作らなくなっちゃったんだよね?その日、何を作ったか、どんな材料を使ったか、教えてくれる?」

 

 そこでようやく、瓜生田たちの頭に散らばっていた点同士が線でつながった。ずっと、牟児津が何の話をしているか分からなかったが、その意味が分かった。

 その日、吹逸が差し入れに作ったお菓子に、酒が使われていたのだ。本来なら酔うことなどない微量のアルコールが、灯油にだけはしっかり作用してしまった。そして灯油は酔っ払ってしまった。

 

「バ、バターサンド……です。ラムレーズン入りの……」

「そっか。ありがとう、教えてくれて」

 

 観念したという顔だった。そこまで暴かれていて、もはや隠し通すことはできないと諦めた。

 

「灯油さんが拾って来た宝石は、そのまま吹逸さんに渡ったんじゃない?灯油さんが持ってればそもそも自分の記憶を疑う理由がないし、事の次第を知ってる吹逸さんが持ってる方が隠すのに都合いいしね」

「で、でも姐さんは悪くないんです!うちが……うちが余計なもの作って来さえしなければ……!」

「大丈夫、分かってるよ。灯油さんだって素面じゃなかったんだ。風紀委員がどこまで聞いてくれるか分からないけど、事故みたいなものなんだから」

「いやしかし、気の毒だが、拾った宝石を届けなかったことも、事件に関わる重大な手掛かりを隠蔽し続けたことは言い逃れできないのではないか?」

「すみません、姐さん。うちのせいで……!」

「何があんたのせいやねん。ようやったな吹逸、大したもんやで。()()()()()()()()()

「……へぇ?」

 

 吹逸は顔を上げた。灯油に頭を叩かれた。折檻とは違う、労をねぎらうような優しい力加減だった。

 

「あんたは落語にかける情熱は十分やけど、真面目すぎていまいち話し方が嘘っぽくなってまうんがもったいないとこやねん。せやから、アテ日頃から言うてたやんな。アテを驚かすような嘘のひとつでも吐いてみぃ、て」

「は」

「まさかそんなことやったとは思えへんかったで!あんた、嘘吐くんうまなったやんか!それもアテのために?びっくりしたで!まるで『芝浜』や!師匠の教え方が上手かったんやろなあ!んなっはっは!」

「あ、あの……?姐さん?怒らないんですか?うちはずっと……姐さんを騙してて……」

「せやから、アテが騙せぇ言うたんやで?怒るわけないやんか。なあ?しゃろ子も聞いてたやろ?アテが吹逸に嘘吐けぇ言うたん」

「えっ、ん、ぬぬ……どうだったか……」

「はい。灯油様ははっきりそうおっしゃっていました」

「私も聞きましたあ」

 

 察しの悪い家逗に代わり、羽村と瓜生田が灯油を援護する。落語の修行で嘘を吐けということと、言うべきことを隠すのは違うことではないのか、と家逗は何がなんだか分からなかった。

 

「そういうわけや。風紀委員にはアテが話つけに行く。牟児津ちゃん、しゃろ子、他のみんなも、面倒かけたね。ありがとう」

「いいんですか?こんなこと公になったら、落研が大変なことになるんじゃないですか?」

「やったことはしゃあない。黙ってても解決せえへんことはあるもんや。物事がはっきりしたんやったら、潔う名乗り出るんが女や」

「お〜かっこい〜!よっ!いぶし銀!男前!」

「女やっちゅうねん」

 

 もともと、はっきりしない自分の記憶の真偽を牟児津たちに判断してもらうという話だった。記憶が正しく、まさに今起きている事件に関係していると分かった以上、灯油が次にすることは決まっていた。責任を取る覚悟はとうの昔にできていた。

 

「あの、余計なことを申すようですが、風紀委員に名乗り出たら宝石のことも間違いなく聞かれると思います。灯油様が宝石について曖昧なことをおっしゃると、冗談と思われて取り合ってもらえないかと」

「ほんまや!忘れてた!吹逸、宝石持ってきい」

「えっ……それは、いや……」

「どうしたん?」

「灯油さん。ここに宝石はありません。もう元の場所に戻ってます」

「は?なんでよ?吹逸が持ってんちゃうの?」

 

 灯油たちは、その宝石がいったい何なのかを知らない。女神像の異変に関係していることまでは分かっても、どう関係しているかまでは想像の及ぶべくもないことだ。

 牟児津は、ところどころを瓜生田に補足してもらいながら、なるべく簡潔に宝石と女神像の関係、女神像の正体とそれが設置されている意味を2人に説明した。吹逸は目を丸くし、灯油は感心したような顔で聞いていた。

 

「そういうわけで、あの宝石はいま、女神像の中にあります」

「ふぅん……そうやったんか。人の想いっちゅうんは変わらんもんやね」

「会計委員と風紀委員が宝石を持ってる人を探してたのは、それが女神像を解いた人だと考えてるからです。でも実際は違った。いちおう聞くけど、吹逸さん、あの女神像(パズル)解ける?」

「そ、そそそそんな!滅相もない!うちなんかにそんな複雑なこと……!」

「そうだよね」

「そうだよねって自分、そしたらなんや、アテが川路ちゃんとこ行ってもアホや思われて終いやないの。それはかなわんで」

「そう。だから吹逸さんに教えてほしいんだ」

「へ……」

「吹逸さんが持ってた宝石が女神像の中にある。でも吹逸さんは女神像を解けない。なら、いるはずだよね。昨日の夜から今朝の間に、隠してた宝石を預けた人……その人がこの事件の犯人だよ」

「……っ!」

 

 吹逸は、もはや恐怖さえ感じた。なぜ牟児津には全て分かるのだろう。いや、今までの話を聞けば、それくらいのことを想像するの自然なことだ。それなのに、まるで牟児津は全て見ていたかのように、当たり前かのように、吹逸が口にしていないことを言い当ててくる。それが恐ろしかった。

 

「そ、それは……約束、したんです……!」

「うん?」

「あの宝石を渡せば……事件を収めてくれるって。それで、うち、藁にも縋る思いで、お願いしたんです。その代わり……他言無用って」

「ほう、なるほど。それで易々と宝石を渡してしまったのか。結果、こんな事態になってしまっているがな」

「うぅ……」

「つまりその人のことは教えられないってことだね。そういうことなら、もう聞かないよ」

「えっ?ムジツさん、いいの?」

「うん。でもこれから行くところだけは伝えておこうかな」

「?」

 

 厳しい言葉を投げかける家逗と違い、牟児津はやけに吹逸に寛容だった。無理に話をさせても辛くさせるだけではあるが、妙な優しさが益子たちは気持ち悪くて、少し引いた気持ちで話を聞いていた。

 最後に牟児津は、立ち上がりながらひとつだけ吹逸に言った。これから自分たちが向かう場所を。それを聞いた吹逸は、なぜそれを、とでも言わんばかりに目を丸くした。

 

「目は口ほどに物を言う、だね」

 

 らしくもないことを言い、牟児津は落語研究部の部室を後にした。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 退屈していた。長い長い退屈だ。本当はそれほど時間は経っていないのに、私にはまだ日が沈んでないのが不思議なくらいの感覚だった。

 別に部活が楽しくないわけじゃない。先輩はみんな優しくて、つまらない私の話を笑顔で聞いてくれる。お菓子もくれるし。それでも、できることなら私はもっと前に入学すべきだったと思う。この部を作った人なら……あれを作ったあの人なら、私の退屈を紛れさせてくれたかも知れない。そんなことを考えて、込み上げてくるあくびを堪えもせずに吐き出した。

 

「眠たい?簡単過ぎたね」

「いえ……別に」

 

 正直、簡単過ぎたなんてどころじゃなかった。分かりきってる答えをただ指差すだけのような、赤ん坊向けのなぞなぞを出されてるような気分だ。だけど、それを口にしてしまうと、ここにさえいられなくなってしまうことも分かりきってる。だから敢えてそんなことは言わない。

 とにかく退屈だった。今朝までは少し興奮することがあったけど、それも終わってみればそれだけのことだった。もうあそこから私にたどり着くことはできないし、そもそも私が関わってる可能性すら、あの人たちは考えられない。劇的なことなんてどうせ起きっこない。想定内の毎日に、想定内の出来事だけが繰り返される。この先、私の人生はきっとそんなことの連続なんだろう。

 だから、きっとそのせいだ。

 

「見つけた!ちょっとごめん!」

 

 突然現れた()()()が眩しく見えたのは。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

「見つけた!ちょっとごめん!」

 

 廊下から特別教室棟の空き教室に(たむろ)しているパズル研究部を見つけたとき、牟児津はほぼ無意識に扉を開けていた。驚きの視線が集まるのも構わず、牟児津はずかずかと中に入って、その肩を叩いた。

 

「あなたでしょ。女神像を解いた犯人!」

「……は」

 

 あまりに突然のできごとで、誰もその言葉の意味を理解できなかった。一緒に教室に入って来た瓜生田たちでさえ、その言葉の意味は分かってもなぜ確信を持ってそう言えるのかまでは分かっていなかった。その意味が分かっていたのは、牟児津と、その眼差しを至近距離で浴びている、事件の犯人——半路(はんじ) (にこり)だけだった。

 

「え……だれ?」

「あ、ごめん。えっと……」

「ちょっと牟児津さん?いきなり入って来てどうしたの。びっくりしたわ」

「あっ、大間さん。ごめん。ちょっと半路ちゃん借りるね」

「え、あら……行っちゃった」

 

 大間に丸く声をかけられ、牟児津は急に冷静になった。朝の短い自由時間の間に事を済ませようとして、細かい説明をすっ飛ばしていた。牟児津は焦っていた。とにかく他の部員が大勢いる前でその事実を指摘するのはまずいと考え、半路を連れて教室を飛び出した。すでに犯人だと言ってしまっているのだが、そんなことはすっかり忘れていた。

 牟児津は半路の手を引いて、あまり人が来ない廊下の隅まで移動した。ここなら多少の話し声はよそに聞こえない。改めて、牟児津は半路と正対する。

 

「いきなりごめん。でも、半路ちゃんに本当のことを聞きたくて」

「いや、だから誰なんすか。急にこんなとこ連れて来て、なんなんすか」

「ごめんね半路さん。この人、ムジツさんっていう2年の先輩。女神像の事件のことで半路さんにお話があるんだって」

「いや、あんたもだれ」

「私は同じクラスの瓜生田だよ」

「あ、そうなんだ。ごめん。知らなかった」

「同じクラスで知らないことなんてあります!?あ、私は新聞部の益子です!」

「そしてこの私が!学園の名探偵ことホ——」

「まあ、どうでもいいっすけど。で、女神像の事件がなんすか。私には関係ないでしょ」

「聞きたまえ!」

 

 大仰で長くなりそうな家逗の自己紹介は強制スキップして、半路は顎を上げて牟児津を睨んだ。目にかかった前髪を邪魔そうにいじりつつ、もう片方の手をポケットに突っ込んで気だるそうにし、なんとも不遜極まりない。普段の牟児津ならその威圧感だけで瓜生田の後ろに引っ込んでしまうところだが、今は推理モードでビビる余裕もない。

 

「関係なくないよ。3日前、あなたが女神像を解いて中の宝石を取り出した。そして今朝、その宝石をまた女神像の中に戻した。どういうつもりでそんなことをしたのか分からないけど、そのせいでたくさんの人が動いてる。知らんぷりなんてしちゃダメだよ」

「へえ……それって、説明できます?」」

 

 半路は軽く笑って言う。かなり挑発的な態度だ。牟児津と半路の緊張が高まる。その緊張は後ろにいる瓜生田たちにも伝わり、全員の言葉数を少なくする。沈黙を破ったのは牟児津だった。

 

「あの女神像は、パズル研究部を創った先輩が寄贈した超複雑なパズルになってる。あれを解くことができるのは、その人と同じくらいのパズルの才能がある人だけだ。そういう目的で造られてる」

「それが私ですか」

「半路ちゃんはこの前、藤井さんから表彰されてたよね。全国大会で入賞したとか。それだけの実力があれば、あれを解くことだってできるんじゃない?」

「どうですかね。いくら私でも見たことないパズルは解けないんで」

「それに今朝、女神像は元通りになってた。夜中のうちに、誰かがもう一度女神像を解いたんだ。パズ研は園泊してたんでしょ?」

「泊まってたのはパズル研究部(うち)だけじゃないですよ。今日だって事件が起きた日だって、たくさんの部が園泊してます」

「園泊中、部の活動は部室や空き教室に限定されてる。ほとんどの部は部室があるけど、パズ研は部室がない。夜の学園を自由に動ける人はそんなにいないよ」

「だからって、それで私が犯人って言うのは乱暴じゃないですか?」

 

 牟児津の投げた指摘を半路がはたき落とす。返す刀で半路が反論すれば牟児津はそれを一蹴する。言葉を撃ち合っているだけなのに、瓜生田たちには、二人が激しく鍔迫り合っているように見えた。推理モードの牟児津は冷静に見えて頭の中はいっぱいいっぱいだ。対する半路はどこか余裕そうで、退屈そうで、ため息さえ吐いているような気がした。前髪をいじる手を止め、半路は冷たい目で言った。

 

「もういいですか?次の大会もあるんで、練習したいんですけど」

「待ちたまえ!」

「待たないですよ。決定的な証拠でも持って出直してきてください。そしたら神妙にしますよ」

 

 そう言うと、半路は踵を返した。もはやこれ以上は時間の無駄、退屈なだけだと見限った。

 しかし、牟児津はひと呼吸置いて、半路の求めるものを突き出した。教室に戻ろうとした半路の背に、決定的な証拠を叩きつけた。

 

「……半路ちゃん」

「なんですか。いい加減に——」

「前髪、邪魔そうだね」

 

 ぴた、と半路の足が止まった。何がその足を止めたのか、瓜生田たちにはまだ分からない。だが、牟児津は確実に、それを決定的な証拠として半路に突きつけた。そして半路も、呼応するように振り向いた。目にかかった髪の隙間から、少し丸くなった目が覗く。

 

「この前、舞台で表彰されてるときもそうしてた。今日も、ずっといじってる。どっちも女神像に変化があった日だ。女神像が解かれた日、半路ちゃんは前髪をいじってるんだよ」

「ああ……そうか、くっそ、しまった」

「えっ?えっ?あ、あのう先輩、それがどう今回の事件に関係あるんでしょうか……?」

 

 牟児津は確かな手応えを感じていた。半路は少し考えて納得し、顔を顰めた。2人だけで通じ合っていることに我慢できず、益子がそこに口を挟んだ。この張り詰めた空気に入っていく度胸に家逗も羽村ももはや呆れ果てた。

 益子の質問を聞いてか聞かずか、牟児津は続ける。

 

「大間さんから聞いたよ。半路ちゃん、普段はヘアピンしてるんだってね。昨日は付けてたよね」

「……はい」

「前髪が邪魔ならヘアピンで留めればいい。なのにそうしてないのは、ヘアピンが使えなくなったからじゃない?」

「ど、どういうことですか?」

「女神像はそれ自体がパズルになってるけど、それに挑む前にもう一つ、解かなきゃいけないパズルがある。ガラスケースについてる南京錠だ」

「——ああっ!そ、そうか!」

 

 ひと足先に気付いた羽村が悔しげな声をあげた。気付くべきだった。牟児津とほぼ同じ手掛かりを手にしていながら、そのことに気付かなかった。気付いてさえいれば、もっと早くこの結論にたどり着いたかも知れないのに。

 

「あの南京錠を開けるための鍵はない。ピッキングして開けるしかないんだ。事件の起きた日も今日も、犯人はピッキングに細長い金属が必要だった。だから、自分が身につけてるものを使ったんだ。その代わり、歪んだそれは本来の使い方ができなくなった。だから半路ちゃんは、2日ともヘアピンを着けてないんだ」

「な、なるほどーっ!あの欠陥みたいな鍵が、よもやそんなヒントになるとは!?」

「なんなら、風紀委員に所持品検査でもしてもらう?今日も持ってるはずだよ。ガタガタに歪んだヘアピンを」

「……ん。あ〜、そうですね」

 

 少し考える素振りを見せてから、半路はポケットに突っ込んだ手を出した。その手には、歪な形に折り曲げられた、シンプルなデザインのヘアピンが握られていた。牟児津の話がなければ、それはただの歪んだヘアピンにしか見えない。だが今は、それ以上の意味を持つものに思えた。

 半路は、いたずらっぽく笑ってそれを見せつけた。

 

「これで開けにいく方が、もっと確実な証拠になりますよ」

「開き直って開き直す提案してきた!?」

「そこまでしなくていいよ。もう半路ちゃんは認めてるんだし」

「まあ、そこを言い当てられちゃうとさすがに。所持品検査なんかされたらこれは隠せないし、それにその感じだと落研にも行ったんでしょう?そこまでされちゃ詰んでますよ」

「ぬう……妙に潔いじゃないか。何かまだ裏があるんじゃないかね」

「あるわけないでしょ。私はただパズルを解いただけ。いきなり訳わかんない人が現れたのに驚いて宝石を落っことしただけなのに、まさかこんなことになるとは思わなかったですけどね」

 

 訳のわからない人とは、灯油のことだろう。そのとき灯油は吹逸の作ったお菓子で酔っ払っていたはずだ。夜の校舎であれと鉢合わせたら確かに驚くだろう。

 自ら決定的な証拠を見せつけ、宣言通り半路は自分の罪を認めた。それでも慇懃な態度に変わりはないが、先ほどまでの高圧的な雰囲気は感じられない。いたずらがバレてバツが悪そうにする子供のようだった。

 

「別に、学園をこんなに混乱させてやろうなんて思ってなかったんですよ。ただ退屈してたもんで」

「退屈?退屈してたから事件を起こしたとでも言うつもりか!」

「やばいタイプのサイコ犯罪者じゃないですか!」

「サイコな上にやばいとか、散々な言われようだな。こんなことになるなんて思ってなかったって言ったでしょ。ただ、あの女神像がパズルみたいだったから、暇つぶしに解いてみようと思っただけ」

「ちょ、ちょっと待ってください。あれがパズルだと気付いたんですか?見ただけで?」

「あんな変な形と無駄な装飾してあったら疑うでしょ。からくり箱と同じですよ。あとはまあ……パズルプレーヤーとしての直感的な」

「すごい人は感覚が違うんだなあ」

 

 瓜生田は感心していたが、益子も家逗も羽村も呆気に取られていた。自分たちは石川から聞かされるまでそれがパズルになっていると気付かなかった。磯手が持って来た図面を見てさえ、考えもしなかったのだ。それをガラスケース越しに見ただけで正体を見抜き、あまつさえ暇つぶし程度で解いてしまう半路の感覚は、もはや想像を絶する域にあった。

 牟児津は役目を終えたことで気が抜け、完全に脱力して瓜生田に抱えられていた。ついさっきまでとのあまりの違いに、半路は同一人物だということにすら一瞬気付かなかった。

 

「その人……なんだっけ。ムジッさん?」

「ムジツさん」

「ムジッさん」

「まあ好きに呼んであげたらいいよ」

「ほとぼりが冷めるまで黙ってようと思ったけど、こんな速攻でバレるんじゃダメだね。風紀委員には自分で行くよ。リューさんも心配しなくていいよ」

「リューさんって私のこと?」

「そうだよ。気安いかな」

「気にしないよ。クラスメイトなんだから」

「それもそっか。くふふっ」

 

 自分の行いを全て暴かれたというのに、半路は笑っていた。開き直ったというのもあるが、最初の不遜な態度は消え失せて、どこか清々しい顔になっていた。

 

「それじゃあねムジッさん。ちょっと面白かった。また遊ぼうね」

 

 再び半路は背を向ける。その足は教室ではなく、風紀委員室に向かうのだろう。クラスメイトとはいえあまり話したことのない瓜生田でも、いまの半路はなぜか信頼できた。

 

「お、おい牟児津真白!いいのかね!あれをそのままにしておいたら逃げるかも知れないぞ!」

「逃げたって意味ないでしょ……私たちの前ではっきり認めてるんだし、証拠もある」

「それを処分されたら……」

「どっちみち、徹底的に半路さんの周辺を探れば、吹逸さんに行き当たります。吹逸さんは隠し事ができない人ですから、同じことですよ」

「っと!こんなことしてる場合じゃないです!私も半路さんについていかないと!3日に渡り学園を騒がせた『女神の祝福事件』がまさかの電撃解決!その裏にはやっぱりこの人!我らが名探偵、牟児津真白!夕刊の見出しはこれで決まりですね!」

「またそんな野暮なことを……行ってしまいました」

「益子さんに野暮を指摘することもまた野暮だよ」

 

 これによって、事件の謎は全て明らかになった。半路は宣言どおり、牟児津たちの前から立ち去ったその足で風紀委員室に向かった。すぐさま川路と磯手が飛んできて、半路は厳しい取り調べを受けることになった。同じように風紀委員室を訪れていた灯油も一緒に取り調べを受け、事件の全容を説明して川路と磯手の頭を大いに抱えさせることになった。

 牟児津は教室に入るや否や、葛飾や大間から事の次第を詰問され、さらに面白がった他のクラスメイトたちも巻き込んで大騒ぎとなった。なんとか灯油や半路のことは伏せつつ事件のことを話すも、その日は疲れ果てて授業中に爆睡することになった。

 

 

 〜〜〜〜〜〜

 

 

 昼休みに緊急の全校集会が開かれ、藤井の口から事件解決が宣言されると、学園新聞の夕刊はこれまでにないほどの発行部数を記録した。改めて学園の有名人になってしまった牟児津は、人目を避けるために瓜生田の陰に隠れて帰路に着いた。なんとか最寄駅前までやってきて、大きなため息を吐いた。

 

「どうしたのムジツさん。事件を解決したのに浮かない顔して」

「事件を解決したせいで私は見世物になった気分だよ。ただ巻き込まれたからしゃーなしにやってるだけだってのに」

「ただ巻き込まれただけでも、最後まできっちりやり切るのがムジツさんのいいところじゃない」

「ぐわ〜〜〜!明日からどんな顔して登校すりゃいいんだ〜〜〜!」

「普通は半路さんとかが思うことなんだけどなあ。まあまあ、頑張ったご褒美に、たまには私がお菓子買ってあげるよ。何がいい?」

「マジで!?やったー!なんにしよっかな〜」

 

 なぜか牟児津は、事件を解決するほどブルーになる。学園新聞で有名になるのがそんなに嫌か、と瓜生田は改めて牟児津の日陰主義をもったいなく感じた。

 巻き込まれていないだけで、学園のどこかでは日々何らかの事件が起きているのだろう。もし牟児津が能動的にそれらに関わるようになれば、と考えて、あり得ないことだとすぐに考えを捨てた。かれこれ十数年、牟児津と一緒に育ってきて理解している。そんなことになるわけがないし、牟児津のキャパシティーを考えてもきっと耐えられないだろう。今のままがちょうどいいのだ。

 

「酒蒸しまんじゅうも美味しかったけど、また新作出てないかなあ。あとはあんこ玉とか……ん」

 

 うきうきで塩瀬庵に入ろうとした牟児津は、店の前で足を止めた。急な態度の変化に、瓜生田は心配気味に顔を覗き込む。

 牟児津は、その場で回れ右した。

 

「どうしたの?」

「……よそう。また疑われる」



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