護法戦記 (ほすほす)
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護法戦記 プロローグ 〜 1話 出会い

※週1〜投稿予定。原神公式フォーラムからの転載作品。書きだめはしてないので、更新できない週があったらごめんなさい!プロット完成済み作品。


 

 

 まえがき

 

 

 璃月に護法夜叉あり。

 

 護法とは、退魔の御業。

 

 夜叉とは岩王帝君に仕えし法力師を指す。

 

 

 かつてこの悠久の地に、五人の護法夜叉がいた。

 

 彼らは護法夜叉の中でもとりわけ力を持ち、人々はこれを護法仙衆夜叉と呼ぶ。

 

 

 その者達とはすなわち、

 

 

 騰蛇大元帥、浮舎、

 

 火鼠大将、応達、

 

 螺巻大将、伐難、

 

 心猿大将、弥怒、

 

 そして金鵬大将、降魔大聖。

 

 

 彼らは岩王帝君のもと一丸となり、その昔、璃月に訪れた大きな災いに立ち向かう。

 

 戦は壮絶を極めたが、彼らはその命すら力と変え、この大地を守り抜いた。

 

 

 現今、我ら璃月人の繁栄は彼らの活躍なくして語れない。

 

 

 もしたまたまこの本を手に取ったあなたが、彼らの名を初めて聞いたのであれば、どうか、本の最後の頁までお付き合い頂きたい。

 

 

 今より綴られる激動の物語が、彼らの生きたこの璃月を誇りとし、あなたの明日を生きる希望とならんことを心より願う。

 

 

 最後に、この本の出版にご協力頂いた万文集舎様、現場取材に加え多大なる援助を頂いた往生堂様と並びにご関係者様方へ心よりの感謝を。

 

 そして岩王帝君亡き今も、璃月のどこかで我々璃月人を見守ってくださる降魔大聖様へ最大限の敬愛を込めて。

 

 著者:平安

 

 

 

 

 

 

 

 

 一話 出会い

 

 

 私の名は平安。

 

 璃月港に住み、普段は書物を書く傍ら、璃沙郊の夜叉様を祀る寺の管理をしている。

 

 幼き頃より、民俗学者であった祖父から護法夜叉の伝説を聞いて育った。

 

 血沸き肉躍る戦いの数々や、その悲壮な結末は私の心を魅了し、大人になった今も護法夜叉に関連する品々には目がない。

 

 秘蔵のコレクションを見たいという方がもしいれば、私は喜んですべてをお見せするだろう。

 

 

 護法夜叉の中でも、私が一番尊敬するのは、『降魔大聖』その人だ。

 

 しかもしかも、私はその昔、降魔大聖ご本人に会ったことがある。

 

 少年のような幼い出で立ちとは裏腹に、瞳に浮かぶ確固たる意志と、積年の悲哀が印象的だった。

 

 ああ、今でもあの時の降魔大聖の姿、仕草、お声が忘れられない。

 

 

 

 ……ただ残念なことに、彼との出会いは決して褒められたものではなかった。

 

 むしろ、私の生涯の恥と言っても過言ではない。

 

 だが、先に皆さまには伝えておきたい。

 

 

 私の取り返すことのできない失敗、そして傷つけてしまった人々への深い謝意と消え去ることのない自責の念。

 

 その懺悔と反省をもって今筆を執っているということを。

 

 

 情けない話だが、かつて私は架空の仙人『掇星攫辰天君』と名を語り、救世救心を掲げ詐欺を働いた。

 

 祖父の収集品の中から見つけた『禁忌滅却の札』の効力を用いて、夜叉のまねごとを始めたのがきっかけだった。

 

 うわさを聞き付けた人々が集まってきた頃には、もう引き返すことはできなかった。

 

 私は夜叉の書物の一説を引用したり、毒とも薬ともならないような言葉を信者へかけながら綱渡りの生活を送る。

 

 

 どこかで、やめなければならないと思っていた。

 

 しかし引き際を決めることができない日々は、ずるずるとどこまでも続いていく。

 

 

 そんな愚かで恥にまみれたどうしようもない私のもとに、突如、転機が訪れたのだ。

 

 その日私は、展望が美しいことで有名な望舒旅館で、体を休めていた。

 

 購入した護法夜叉の本でも読み返そうと手を伸ばしたその時、私は白昼夢に襲われたのである。

 

 瞼を開けるとそこに望舒旅館の客室はなく、見渡す限りの青空と、生い茂る草木が私を囲んでいた。

 

 眼前には金髪の少女と、翡翠を身に纏い、濃緑の髪を風になびかせる少年。

 

 

(な、なにが起こったんだ⁉)

 

 

 私は混乱し、取り乱す。

 

 少年少女はそんな私に、仙人の術式を使って私を呼び出したのだとのたまった。

 

 

(ははん、なるほど。これは夢だな――)

 

 

 私は望舒旅館でいつの間にか眠りにつき、夢を見ているのだと自分を納得させた。

 

 こんな子供たちが自分すら知らない仙人の術式を、扱えるわけがない。

 

 私はいつもそうして来たように『掇星攫辰天君』を名乗り、不敬な態度を改めるよう彼らへ言い渡す。

 

 しかし驚いたことに、彼らはそんな私にあろうことか説教を始めたのだ。

 

 

 私は膨れ上がった自尊心を傷つけられ、激昂した。

 

 夢の中だと思い、気が大きくなっていたのもあったかもしれない。

 

 私が拳を振り上げると、無駄のない動きで少女が私の前に立ちふさがる。

 

 歯止めの利かなくなった私は、拳を思い切り振り抜いた。

 

 

 今でもその時の衝撃は忘れられない。

 

 

 少女の見た目が幼かったため、完全に侮っていた。

 

 次の瞬間お返しと言わんばかりに、目にもとまらぬ剣術と、信じられないほどの威力の拳が雨あられのように私のもとへ降って来たのだ。

 

 

 

 痛かった。

 

 

 

 夢の中なのに、めちゃくちゃ痛かった。

 

 

 

 それもそのはず。

 

 夢だと思ったのは私の勘違いで、彼らは本当に仙人の術を使って私を望舒旅館から遠い地に呼び出していたのだから。

 

 あとで聞けばその少女は渦の魔神オセルが璃月港を襲った時、璃月七星と共に魔神を退治した英雄様ご本人であった。

 

 私のような一般人が敵う相手ではなく、ものの数秒で私は地に頭をこすりつけ降参した。

 

 

 すると戦いを背後で見守っていた緑色の髪をした少年が、その姿には似つかわしくないほどの威厳を纏ったお声で、私を叱咤する。

 

 

 そして私は知った。

 

 

 彼が、彼こそが。

 

 

 私が幼き頃より憧れた、降魔大聖その人であるということを。

 

 

 気が付けば私は、自分の犯した罪さえ忘れて感動に打ちひしがれ、涙を流していた。

 

 頂いたお言葉の一つ一つは、今でも胸に刻まれている。

 

 私は今までの行いをすべて吐き出し、二度とこのようなことをしないと降魔大聖に誓う。

 

 

 降魔大聖から許しを得てふと気付けば、私は望舒旅館で、本に手を伸ばしたまま固まっていた。

 

 腕を見ると英雄様から受けた拳の跡がいくつも残っている。

 

 私は改めて、これが夢ではないことを理解した。

 

 その後私は『禁忌滅却の札』を英雄様にお返しし、騙した人々へ今まで巻き上げたお金をすべてお返しする。

 

 

 足りないお金は借金してその足しにした。

 

 そうすることでしか、罪を償うことができなかったのだ。

 

 

 騙されていた人に真実を語ると、彼らは罵声を口にし、金を受け取ると私を冷たくあしらった。

 

 それも仕方のないこと。

 

 私の身から出た錆だ。

 

 しかし、一部の人は違った。

 

 

「それでも、たとえその言葉が嘘だったとしても、私はあなたに救われた」

 

 

 そんな言葉を、私に掛けてくれたのだ。

 

 ……正直、どんな罵詈雑言よりも、その言葉が一番堪えた。

 

 このような優しく思いやりのある人の心を弄び、私は何を有頂天になっていたのだと。

 

 過去に戻り、自分を思いっきりひっぱたいてやりたかった。

 

 

 降魔大聖の言う通り、このままあの行いを続けていれば、間違いなくこの身は地に落ちていたであろう。

 

 

 謝罪の日々を経た私は心の底より改心し、ひとり旅に出ることにした。

 

 璃月の各地を回り、自分を見つめ直すためだ。

 

 

 私は護法夜叉たちが守った璃月の風を全身に受け、大地のぬくもりを肌で感じ、雨の恵みに感謝を捧げた。

 

 自然と一体となり、自分という存在の小ささ、弱さを実感した。

 

 

 旅も終わりに近づき、私は決意する。

 

 真人間としてこれからは生きていこう、と。

 

 

 

 ちょうどそう心に決めた、あくる日のことだった。

 

 私は夜叉の一人、銅雀様の廃寺を見つけたのだ。

 

 最初、寺かどうかすらわからず素通りするところだった。

 

 それほど寺の状態は悪かった。

 

 屋根は落ち、壁は崩れ、動物の足跡がそこかしこについている。

 

 銅雀様の彫像は苔むしており、昨晩の雨のせいも相まって、その瞳からまるで涙を流されているように見えた。

 

 

 それを目の当たりにした瞬間、まるで雷で撃たれたような衝撃が全身を駆け巡る。

 

 

 同時に直感した。

 

 

 この誰も参拝する者がいなくなった寺こそ、現代の璃月を象徴していると。

 

 岩王帝君は亡くなり、璃月は今や神や仙人ではなく、人が管理する時代である。

 

 だがしかし、人とは元来弱きもの。

 

 私の信者の多くは、人間関係に疲れ、心を病んだ人が大半だった。

 

 たとえ神がいなくとも、人々の心には、支えが必要だ。

 

 その為には、支えたりえる象徴が不可欠である。

 

 私はそれを、かつて璃月を守った夜叉たちに見出した。

 

 

 彼らの生き様や残された言葉は私という邪念を持った存在を超えて、少ない人数ではあるものの、その心を救うことができた。

 

 

 では、それを誠心誠意伝えることができれば――。

 

 

(多くの璃月人が、明日を笑顔で暮らせるに違いない!)

 

 

 そう思えば行動は早かった。

 

 翌日から私は寺の修繕に取り掛かる。

 

 お金も人手も足りなかったが、それは些細なこと。

 

 金銭は別の方法で稼ぎ、人手は時間を掛ければ何とかなる。

 

 そうして孤軍奮闘していたところ、かつて私と拳を交えた英雄様が、寛大なことに手厚く支援して下さった。

【※注記 拳を交えたとはいえ、私の拳はかすりさえしていなかったことを、誤解を防ぐためここに記しておく】

 

 

 うわさを聞き付けた近隣の方々のご助力もあり、ほどなくして寺は見事に生まれ変わった。

 

 その結果、私のような人間が身に余るほどの感謝を告げられ、光栄にも寺の管理を任されることとなる。

 

 

 

 

 少し長くなったが、これが私の来歴だ。

 

 そしてこれから書こうとしているのは、そんな私に起こった、不思議な出来事の数々。

 

 先に述べたように、私は心を入れ替えた。

 

 なので、決して嘘偽りは書かない。

 

 それはこの本に限らず、すべてにおいて一貫する私の信条だ。

 

 なので、信じられないかもしれないが、これから書くことはすべて事実である。

 

 

 

 

 事の発端は、ヤマガラさえずるうららかな昼下がり。

 

 寺に届けられたたった一つの小さな木箱から全てが始まった。

 

 私が寺の掃除をしていると、背後に人の気配を感じ振り返る。

 

 そこには腰の曲がった老婆がひとり、立っていた。

 

 後ろ手に持った袋を差し出しながら、老婆はおもむろに口を開く。

 

 

「家の掃除をしていたら、ちょうど蔵の奥からこんなものが出てきてねぇ。よくわからないが、きっと夜叉様に関わるものだと思って。家で保管しておいても、また埃をかぶって忘れられるだけだから、どうかお祀りしてもらえないだろうか」

 

 

 見れば袋の中には、布で丁寧に包まれた木箱が入っている。

 

 私は礼を言い、袋の中身を受け取ると、老婆は安心した表情を浮かべ去っていく。

 

 その姿を見届けた後、私は早速寺の中でそれを紐解いた。

 

 中から姿を現したのは、埃にまみれた、浅黒く細長い木箱。

 

 こびりついた埃は、布でこすっても簡単には取れそうにない。

 

 

 

 私はため息をついた。

 

 

 

 実は、こういったことは珍しくない。

 

 寺が新しくなり、参拝者が増えるにつれ、時折このようなものが届けられるのだ。

 

 だがその多くは偽物であったり、夜叉とは関係のないものがほとんどである。

 

 夜叉の伝説は今でこそ下火だが、その昔は有名であったが為、多くのまがい物が現存していた。

 

 これもそのうちの一つだろう、と過度な期待はせずに、私は骨董品専用のブラシを用いて慎重に箱を磨いた。

 

 

 おかげで埃のほとんどは落ち、箱に書いてあるかすれた文字もある程度は判別がつくようになる。

 

 だが、どうしても汚れが落ちない箇所があった。

 

 箱の下半分、ちょうど文字の後半にかけて、拭いても擦っても、まるで糊付けでもされたかのように黒い染みの汚れが取れない。

 

 

 不思議に思った私は、薄暗い寺の中から外の日差しの下に出ると、太陽に箱をかざした。

 

 そして次の瞬間、体中の毛が逆立った。

 

 

 

 ――これは汚れなどではない。

 

 

 

 

 

 

 血痕、である。

 

 

 

 

 

 誰かがこの箱の上から、大量の血をこぼしたのだ。

 

 それが文字の上から木箱に染み込み、取れることのない染みとなっている。

 

 幸運なことに太陽の日差しの下であれば、染みの奥に書かれた文字を何とか読むことができた。

 

 埃を取り去った部分と繋げて読めば、それは古い文字で護法夜叉の銘と封印の意を表している。

 

 

 

 脈が速くなり、鼓動がうるさいほど大きくなる。

 

 

 気づけば、箱を持つ手が震えていた。

 

 私の経験が告げている。

 

 

 

 これは、本物である、と。

 

 

 

 そうと気づけば私は早足で寺の中へ戻り、箱を布の上に戻すと手袋をはめた。

 

 日光は骨董品の劣化を早め、指の油は痛みの原因となる。

 

 これが本物の夜叉の遺品だとするならば、私も万全の態勢で開封に臨む必要があったからだ。

 

 私はじわりと、木箱の蓋を持つ手に力を籠める。

 

 存外しっかりした作りなのか、木箱の蓋はその箱が作られた当時と同じように、簡単に開いた。

 

 

 はやる気持ちを押さえ、深呼吸をする。

 

 なにせ、久しぶりに出会った夜叉の遺物である。

 

 いつの間にか額に浮かんでいた汗を袖口で拭い、ゆっくりと蓋をずらすと箱の隣に置いた。

 

 中を覗き込むと、心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われる。

 

 

 

 そこにあったのは、たった一枚の札。

 

 

 

 箱と同じく、札の端にも血がべっとりとついている。

 

 ただ不思議なことに、その血はまるで先ほどつけられたのではないかと見紛う程、鮮やかな紅色をしていた。

 

 あの老婆か誰かが、箱を開けた時につけた血液ではないか。

 

 そんな考えが頭をよぎるが、私はすぐにその考えを否定する。

 

 丁寧に箱の掃除をした私だから分かる。

 

 この箱は数十年、いや、それよりももっと長い間、一度も開けられた形跡はなかった、と。

 

 

「どういうことだ……」

 

 

 思わず、口を突いて出た困惑に私ははっとした。

 

 

 前にも同じことがあったのだ。

 

 

 そう、あれは祖父の遺品を整理していた昔日。

 

 

 私が道を踏み外すきっかけとなった、『禁忌滅却の札』との出会いとまるでそっくりなのである。

 

 

 『禁忌滅却の札』には血痕はなかったが、あの時と同じ感動に、今も打ち震えている。

 

 

 そう考えた途端、全身の血が凍りついた。

 

 

 私は震える手で、箱の蓋を閉じる。

 

 

 

 

 

 トラウマに、なっていたのだ。

 

 

 

 

 『禁忌滅却の札』を中心とした、あの日々が。

 

 

 

(また、私は繰り返してしまうのだろうか……)

 

 

 

 自問自答を何度も繰り返す。

 

 そしてようやく、私は首を横に振った。

 

 

(あの日の私と、今の私は違う!)

 

 

 折れそうになった心を、奮い立たせる。

 

 

 好奇心に身を任せるようなことはしないと、私は降魔大聖に誓ったのだ。

 

 

「……これは然るべき人に見てもらい、もし危険な物であれば、たとえ歴史的価値がどんなに高かろうと破棄しよう」

 

 

 私はため息交じりに、私はそう自分に言い聞かせた。

 

 滅多にお目にかかれない貴重な宝物。

 

 コレクションに加えたいという気持ちを抑えきることは難しい。

 

 であれば、早いところ鑑定してもらい、なかったことにした方がましである。

 

 

 そしてもし、危険なものでなければ。

 

 

 晴れて、寺の宝物殿に収めることができるのだ。

 

 

「よし、やることは決まった」

 

 

 そう自身に活を入れると、私は銅雀様に一礼し、箱を布で包み込み鞄の中へと仕舞った。

 

 降魔大聖に会うことができれば話は早いのだが、奇跡でも起こらない限り再び会うことは難しい。

 

 

 であれば。

 

 

 私は鞄を背負うと、寺の外へと足を運ぶ。

 

 

 目指すは璃月港。

 

 

 私は私の知る、札に詳しい人物のもとを訪れるため、街道をひとり歩き始めたのであった。

 

 



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護法戦記 2話 虚ろな少女

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
手に入れた札怪しい札を持って璃月にやってきた。
ここで、札について詳しい人物に会えればいいのだが……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 私は意気揚々と璃月港へ到着すると、このいわくつきの札を鑑定してもらうため、有識者のもとを訪ねた。

 

 護法夜叉に深いつながりがあるであろうこの札に、何か悪いものが付いていたり、身に余るほどの力が内包されていた場合は、迷わず破棄する。

 

 

 だが、もし、何もなければ。

 

 

 札は厳重に寺の宝物殿へしまい込み、後から描かれた文字の一つ一つを、じっくりゆっくり解読するのだ。

 

 

 そして札が作られた時代と、書いた人物について遠く思いを馳せる。

 

 

 そんな至福の時間が、未来の私のものとなる――。

 

 

 

 

 

 ……はず、だったのに。

 

 

 

 気づけば私の目の前には、拡大鏡を目にはめた厳めしい顔つきの鑑定士……ではなく、年端も行かぬ純粋無垢な幼子がちょこんと座っていた。

 

 見た目から察するに、年は十歳、いや、もっと下だろうか。

 

 儚く散る淡いスミレのような特徴的な色の髪と、頭にひっさげた珍妙な札がそよ風に揺れている。

 

 その目はどこか虚ろで、瞼はあいていても、その瞳には何も映っていないかのような錯覚を覚えた。

 

 

 お互いこうして席に着いてはいるが、彼女は先ほどから一言も口にせず、ただただ空に流れる白い雲をずっと見つめている。

 

 正直、何を考えているのかまったくわからない。

 

 

 掛ける言葉を失ったまま娘の横顔を眺めていると、視界にひらひらと蝶々が割り込んできた。

 

 

「あ……ちょうちょ」

 

 

 ……私は、静かに眉間を指で押さえた。

 

 

 

(どうして、こうなった⁉)

 

 

 

 私はどこで間違えたのだろうか。

 

 何もおかしなことをした記憶はない。

 

 私はこれまでの足跡を思い返してみる。

 

 

 

 寺を出た後、私は璃月港に到着した。

 

 そして早速、骨董品店『希古居』の琳琅さんのもとを訪れたのである。

 

 私の知る中で、こういったものに一番詳しいのは、琳琅さんだ。

 

 降魔大聖のような大物と気軽に連絡を取れるようであれば、苦労しない。

 

 私の持つ人脈など一般人に毛が生えたぐらいで、大したことはないのだ。

 

 

 しかしそのような現実に対し、決して悲観しているわけではない。

 

 彼女がこの札を見て判別がつけばそれでよし。

 

 もしつかなかったとしても、より詳しい人を紹介してくれるはずだからだ。

 

 

 琳琅さんは店内で古い壺を磨いていた。

 

 私に気付き、ぱっといつもの笑顔で迎えてくれる。

 

 

「あら、こんにちは平安さん。今日も護法夜叉に関連する骨董品をお探しですか?」

 

 

「こんにちは、琳琅さん。実は今日は違うんです。少し見てほしいものがありまして」

 

 

 彼女の前に木箱を取り出し、札を見せた。

 

 

「これは……?」

 

 

 私は札を手に入れた経緯を伝え、鑑定を依頼する。

 

 しかし彼女はしばらく札を見つめたのち、ため息をついた。

 

 

「すみません、私には何とも」

 

 

「そうですか……」

 

 

 予想していたとはいえ、残念でなかったかと言えば嘘になる。

 

 だがこんなことで諦める私ではない。

 

 

「大変申し訳ないのですが、もしご存じでしたら、札の鑑定に詳しい方をご紹介いただけませんでしょうか」

 

 

「構いませんよ。平安さんは希古居のお得意様ですから。……そうですね、白朮先生を訪ねてみるのはいかがでしょうか。古く難しい薬の書籍にも明るいですし、呪いやその解呪に関する研究もされていると聞いたことがあります」

 

 

「不卜廬の白朮先生ですか。ありがとうございます。また夜叉関係の骨董品が入荷した際は、手紙等で教えてください。飛んでいきますので」

 

 

 わかりました、と笑顔で手を振る琳琅さんに礼を言い私は希古居を後にする。

 

 

 

 有力な情報が手に入った。

 

 これは大きな収穫だ。

 

 

 彼女の言っていた不卜廬とは、璃月随一の薬舗。

 

 その名を知らない璃月人は恐らくいないだろう。

 

 誰もが一度は、白朮先生の処方するとてつもなく苦い薬を経験したことがあるはずだ。

 

 むろん私も幼少期に飲んだことはある。

 

 たしかにかなりの苦みを感じたが、まあ、私にしてみれば、うむ、耐えられないほどではなかった。

 

 あれから私はかなり健康に気を遣うようになった。

 

 おかげでそれからというもの二度と不卜廬のお世話になっていない。

 

 べつにあの薬が苦手というわけではないということを、ここに記しておく。

 

 

 私は大通りを抜け、美しい池泉庭園を楽しみながら璃月港を北上する。

 

 もう一度通りに出れば、不卜廬へと続く長い階段が目の前に現れた。

 

 私は歴史を感じる石造りの最初の段に、右足を掛ける。

 

 階段を一段、また一段と上るたび、鼻をつんと刺激する夢幻花の香りが強くなっていく。

 

 

 

 やっと最後の段を上り終えれば、鎮座する荘厳な不卜廬の本殿。

 

 周囲にさえぎるものがないため、まるで天に浮かぶ仙人の住処のような錯覚を覚える。

 

 海から吹く潮の香りと、漢方の独特な香りを胸いっぱいに吸い込めば、何とも身が引き締まる気がした。

 

 

 そんな不卜廬の奥から、カラカラ、ゴリゴリとかすかに何かをこすりつけるような軽やかな音。

 

 軒先をくぐり見回せば、書を膝に置き乳鉢で漢方をすりつぶす青年が目に飛び込んできた。

 

 青白い肌の額に、まるで蔓のような深緑の髪が垂れ下がり揺れている。

 

 彼こそがこの薬舗の店主、白朮先生だ。

 

 

 私は笑顔で声をかけた。

 

 

「白朮先生、こんにちは。今日はお顔色がよいですね」

 

 

「おや、ありがとうございます。おかげさまで今日は少し調子が良くて。お薬をお求めですか? お薬の処方は私ではなく、カウンターの桂へ申してください」

 

 

 ニコリと笑みを返し再び書へ目を落とそうとした白朮先生に、私は慌てて首を振る。

 

 

「いえ、そうではないのです。今日ここを訪れたのは、お薬のためではなく、白朮先生とお話をするためなのです」

 

 

 白朮先生はそれを聞くと、乳鉢を持つ手を止め私に顔を向けた。

 

 眼鏡の奥からヘビのように細い瞳孔が、私を見つめ返す。

 

 

「少しの時間なら大丈夫ですが、どんなご用件でしょうか」

 

 

 私は例の箱を開け、札を白朮先生に見せた。

 

 

「希古居の琳琅さんから紹介を受け来ました。私はこの古い札が危険なものか、無害なものか判別がつきません。もし危険な代物であれば、破棄したいと考えています。博識な白朮先生なら見分けがつくのでは、と聞きまして……」

 

 

「ほう、琳琅さんも分からなかったものを私に見てほしいと。ふむ……」

 

 

 白朮先生は一旦けげんな表情を浮かべるが、箱を手に取るとその顔は真剣味を帯びる。

 

 思わず、ごくりと私の喉元が鳴った。

 

 白朮先生は、箱と札を丁寧に隅々まで確認する。

 

 そうして、すべてを見終えると、白朮先生は屈託のない笑顔で、私に言ったのだ。

 

 

「すみません、まったくわかりません」

 

 

「そ、そんな……」

 

 

 予想外だった。

 

 

(まさか、琳琅さんの人脈でもこの札の真実にたどり着けないなんて……)

 

 

 露骨に肩を落とした私に、白朮先生は少し考えこむそぶりを見せ、あ、と手を叩いた。

 

 

「そうだ。私の弟子の七七なら、もしかするとその札について、何かわかるかもしれません」

 

 

「白朮先生、本当ですか⁉」

 

 

「ええ。彼女は古い文字に精通し、効力を持った札すら自作することができます。きっと、私なんかよりよほど頼りになるでしょう。ちょうど、今彼女は北国銀行に届けられたココナッツミルクを取りに行ったばかりです。今からでも追いかければ、遅くはありません」

 

 

「ああ、先生、何とお礼を申せばいいか。貴重な情報、ありがとうございます!」

 

 

「いいえ。これぐらいのこと、気に留めるほどでもありません。それでは、何かありましたら、弊店をごひいきに」

 

 

 白朮先生はフフフと不敵な笑みを浮かべると、眼鏡をくいと得意げに持ち上げ、私を一瞥したのち自分の作業へと戻った。

 

 なぜかざわりと鳥肌が立ったが、恐らく海風となれない匂いにあたりすぎたせいだろう。

 

 私は自分にそう言い聞かせ、礼をしたのち、早足で不卜廬を後にした。

 

 

 

 石段を駆け下り来た道を戻れば、北国銀行は目の前だ。

 

 緋色の柱が入り組んだ立派な建物の三階に、北国銀行璃月支店は入居している。

 

 私は手すりに手をかけ、階段を上ろうとした。

 

 ふと見上げれば、上階から一人の幼い少女が下りてくる途中だった。

 

 私はその姿を見て、思わず息をのむ。

 

 

 その両手は身の丈ほどもある銀色のミルクバレルを抱きしめ、右にフラフラ、左にフラフラしているではないか。

 

 

(こんな小さな子供にあんな重たいものを持たせて、いったい親は何をしているんだ……!)

 

 

 思わずあきれてしまう。

 

 もし転んだりでもしたら、大けがなんてものでは済まない。

 

 ハラハラしながら見つめていると、ちょうど通行人が少女の横を通り過ぎた。

 

 

「おっと」

 

 

 少女がよけようとして、大きく階段の途中でよろめく。

 

 

「危ない!」

 

 

 気が付けば、体が動いていた。

 

 とっさに駆け上がり、ミルクバレルを支えようと手を伸ばす。

 

 が、その手は見事に空を切ったのである。

 

 

「へ?」

 

 

 一瞬訳が分からず、目の端で少女の顔を見る。

 

 見れば少女は眉間にしわを寄せ、私に触らせないようミルクバレルを片手で持ち上げ頭上に引いているではないか。

 

 

(ああ、よかった)

 

 

 私は心の底から安堵する。

 

 あのミルクバレルは空で、重たい荷物を無理やり持たせられている可哀そうな子供は、いなかったんだ、と。

 

 

 少女が片手で持ち上げられる重さであれば、きっと大したことはないはずだ。

 

 安心したはいいものの、身体はすぐには止まらない。

 

 

 私は少女にぶつからないよう身を捻りながら、勢いそのまま階段に頭から突っ込んだ。

 

 派手な音を立て、伸びたカエルのような格好で階段に突っ伏した私。

 

 すると、「あ」と空からかわいらしい声が降ってきて、反射的に見上げる。

 

 

「え?」

 

 

 私の眼前には、少女の手から滑り落ちた、迫り来る銀色の容器。

 

 それが時を止めたかのようにゆっくりと落ちてきて、私の顔に影を落とす。

 

 だが、私は焦らない。

 

 少女が片手で軽々と持ち上がるミルクバレル。

 

 ちょっとぶつけても、大したケガにはなりえない。

 

 こう見えても、璃月を一人旅できるほどには鍛えているのだ。

 

 かすり傷や小さな打撲なんて日常茶飯事。

 

 だから無理によける必要もなければ、腕で受ける必要なんて微塵もない。

 

 このような些事で揺るがぬ強い男であることを、この少女に証明して見せよう。

 

 私はそう思うと、顔に余裕の表情を浮かべ、やや体に力を入れた。

 

 次の瞬間、世界を揺るがすような激しい衝撃と、してはいけない鈍い音が頭蓋全体に響き、私は不覚にも気を失った。

 

 

 

 

「はっ」

 

 

 目を開けると、私は出店のテーブルに座らせられていた。

 

 見上げれば太陽はやや傾いてはいるものの、気を失っていた時間はそこまでたっていないようだ。

 

 

 私は恐る恐る頭に手を伸ばす。

 

 

 間違いなく、視界がぶれるほどの勢いでミルクバレルが頭に降ってきた。 

 

 結構大きなたんこぶができているのではと後頭部を探る。

 

 だがどれだけ探しても、ケガしていると思われる個所は見つからない。

 

 

(私は夢でも見ていたのだろうか……?)

 

 

 不可解なこの状況に、私は眉間にしわを寄せ、首をひねる。

 

 

 と、その時私はやっと目の前に座る少女に気が付いた。

 

 先ほど、ミルクバレルを運んでいた子だ。

 

 ここまで私の体を運んできてくれたのだろうか。

 

 少女は私が目を覚ましたことに気が付いていないのか、はたまた興味がないのか、ぼーっと空を眺めている。

 

 

 記憶が、徐々に鮮明になってきた。

 

 

(そうだ、私は七七という白朮先生の弟子の女性を探して、北国銀行へ向かう途中だったのだ)

 

 

 しまった、と思い私は軽く舌打ちをし、ため息をつく。

 

 さすがにもう目的の女性は北国銀行を離れてしまった後だろう。

 

 私は悔恨の思いで唇をかんだ。

 

 ただそうはいっても、ここまで運んでくれた少女には、とりあえず礼を言わねばならない。

 

 そう思い、私は少女の横顔を改めて眺めた。

 

 するとひらひらと蝶々が舞ってきて、少女の前に置いてある器へとまる。

 

 

「あ……ちょうちょ」

 

 

 私はあまりに呑気なその言葉で、今日一日の疲れがどっと押し寄せてきた。

 

 がっくりと肩を落とす私に、少女はやっと気がつく。

 

 

「あ、起きてる」

 

 

 私は何とか笑顔を作り、言葉を返す。 

 

 紳士的に。

 

 たとえ相手が子供であっても、だ。

 

 

「お嬢さん、私をここまで運んでいただきありがとうございます。いやはや、疲れがたまっていたのでしょうか。ちょっと頭をぶつけた程度で眠ってしまうほどに」

 

 

「ごめんなさい、七七、謝らないといけない。ココナッツミルクがたくさん入った入れ物、落としてしまった」

 

 

「ココナッツミルク……」

 

 

 そう言えば先ほどから、かすかに甘い匂いが漂っている。

 

 

 よく見れば、蝶々が止まっている器には、乳白色の液体が半分ほど入っていた。

 

 

(ん、ココナッツミルク、どこかで聞いた気がするな……)

 

 

 私の思考をさえぎるように、少女は続ける。

 

 

「頭、大丈夫? ちょっとへこんでたけど、七七が治した」

 

 

「ちょっと、って、ええっ? へこんでた⁉ どこが⁉ ここか? それともここか?」

 

 

 私はあわてて頭をわしゃわしゃと探る。

 

 

(新手の冗談だろうか。いや、あの衝撃、きっとこれは冗談ではない! 本当にへこんでたのか⁉ それより、この七七という幼子が私の治療を?)

 

 

 そこまで考えて、私は硬直した。

 

「ん? まてよ、七七、だって?」

 

 

 思わずそう口にすると、少女がうなずく。

 

 

「そう。私は七七。いつもは不卜廬で、白朮先生の手伝いをしてる」

 

 

「き、君が白朮先生の弟子なのかい? こんなに幼いとは……」

 

 

 私が頭を抱えていると、七七はごそごそと手帳を取り出す。

 

 

「念のため、名前、教えて。あとで頭がダメになってたら、お薬つくってもらうから」

 

 

「すごく怖いこと言うね! すまない、名乗るのが遅れてしまった。私は平安だ」

 

 

 七七はうなずくと、さらさらと手帳にメモを取る。

 

 

「へい、あん。あたま、へこんだ。なおしたけど、なおってないかも……よし」

 

 

「いやよくないだろっ」

 

 

 私は勢いに任せ、卓に手を突き立ち上る。

 

 そして少女が書き込んだ手帳を見て、ハッとした。 

 

 そこには、見慣れない古代文字がびっしりと並んでいる。

 

 そのいくつかは、あの護法夜叉の札と酷似していた。

 

 私は頭に上った血が一気に冷めていくのを感じ、夢見心地で口を動かす。

 

 

「あ、あなた様は本当に……白朮先生のお弟子さんなのですね……」

 

 

「七七、さっきからそう言ってる。あれ? 言ったっけ? 七七、あまり記憶力よくない……」

 

 

 少し困った顔でこちらを見つめる少女を見ていると、なんだかとてつもない庇護欲が掻き立てられた。

 

 ついなにか買い与えてしまいそうだ。

 

 私は頭を振り、必死にその耐え難き可愛さに抵抗する。

 

 

(いいや、そうではない! 私の本来の目的を思い出せ!)

 

 

 頭をぶつけたことなど、もはや些細な問題だった。

 

 私は鞄から例の札の箱を取り出し、卓上に置く。

 

 七七はなんだろう、といった様子でしげしげと箱を見つめている。

 

 

「……実は私は七七さんに用があって、北国銀行を訪ねたのです。もし差し支えなければ、見ていただきたいものがあるのです」

 

 

 私はそう告げると、ゆっくりと箱の蓋を開いた。

 



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護法戦記 3話 邂逅

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
偶然手に入れた護法夜叉の札を、私は七七という白朮先生の弟子に見せることになった。
見るからに幼い姿だが、大丈夫だろうか。
そしてこの札は、いったい何なのだろうか。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


「いかがでしょうか……」

 

 

 私は待ちきれず、ついそんな言葉を漏らす。

 

 かれこれ一時間ほど、七七は札とにらめっこをしている。

 

 札に何か危険がないか確認してもらうようお願いすると、七七は快く引き受けてくれた。

 

 

 それはよかった。

 

 

 だが無言無表情で固まられたまま、時間だけが過ぎていくとどうしてもそわそわしてしまう。

 

 こちらもだんだん不安になってくるというものだ。

 

 

 あまり長く座っていると、茶屋の店主の目線も冷たくなってくる。

 

 さすがに申し訳なくなり、私は店主にもう一度茶を注文する。

 

 

 そんなやきもきする時間を待つことさらに半刻。

 

 七七はやっと納得がいったのか静かにうなずいた。

 

 

「大丈夫」

 

 

「ほ、本当ですか?」

 

 

「うん……。とても強い封印。解くためには、札に何か書き足さないとダメ。でもあなたも、七七も、それを知らない。きっと、書いた人しかわからない。お札、すごく古いからきっとその人もういない」

 

 

「な、なるほど」

 

 

 札を見るために椅子の上に立っていた七七は、ココナッツミルクが入った器に体をぶつけないよう気を付けながら腰を下ろした。

 

 

 私は箱に入った札をもう一度見つめなおす。

 

 何かが中に封印された、護法夜叉の札。

 

 びっしりと書かれた文字の奥に潜むのが妖魔なのか、夜叉に関するものなのかはきっともう誰にもわからない。

 

 決して開くことのない鍵のかかったこの宝箱は、私の想像力を掻き立てるには十分すぎるものだった。

 

 

 私は胸いっぱいに空気を吸い込み、七七へ礼を言う。

 

 

「ありがとうございます。おかげで、安心することができました」

 

 

「ん」

 

 

 七七は軽くうなずくと、ココナッツミルクを飲み干し、席を立つ。

 

 脇に置かれていたミルクバレルを持ち上げると、中からゴポンと低い水音が聞こえる。

 

 中になみなみとココナッツミルクが入っている証拠だ。

 

 

 大人でも腰を痛めるであろうその容器を、七七は軽々と担ぎ、踵を返す。

 

 容器の一部にはよく見れば少しだけ、乾きかけの血が付いている。

 

 

(あれが私の頭に降ってきたのか……)

 

 

 私は頭をさすりながら、ぶるっと身震いした。

 

 そんな私を気にもせず、七七はまたふらふらと不卜廬に向かって大通りを歩いていく。

 

 

「すごい怪力だ……」

 

 

 私はそんな月並みな感想を漏らすので精いっぱいだった。

 

 

 小さくなっていく背を見送ると、私は広げていた箱を閉じカバンへと戻す。

 

 すでに西に傾いている日差しがまぶしい。

 

 私もそろそろ帰ろうかと席を立ったその時。

 

 

 背後からコトリ、と物音がした。

 

 なんだろう、となんとなく振り返るが、そこには誰もいないテーブルが二つ並ぶだけ。

 

 

「気のせいか?」

 

 

 そのとき私は物音を立てた何かを探すよりも、自分の頭を疑った。

 

 なにせ、先ほどしこたま強くぶつけたばかりである。 

 

 

「今日は、早く帰って寝るか……」

 

 

 私は店主へモラを渡し、帰路につく。

 

 帰り道、何度か視線を感じて振り返ったが、やはり誰もいない。

 

 

(本当に私の頭は大丈夫だろうか。いよいよ怖くなってきたな……)

 

 

 そう思うと、なんだか調子が悪いような気もしてきた。

 

 私は早足で家にたどり着くと、急いで内側から錠をかける。

 

 どっと疲れが襲ってきた。

 

 

 興奮したり、人探しをしたり、気絶したり、また興奮したり。

 

 今日は本当にいろいろあった。

 

 耐え難い眠気が意識を侵食してくる。

 

 体を拭く余裕もなく私はベッドへ直行すると、そのまま倒れこむようにして眠りについた。

 

 

 

 

          ※

 

 

 

 

 風が、吹いていた。

 

 冷たく乾いた風が、髪をかすかに揺らし、首元を通り過ぎていく。

 

 ゆっくりと私は目を開ける。

 

 そこはとても高い場所だった。

 

 明るくなり始めた空と、眼下には水平線まで続く雲海。

 

 雲からはところどころ、細長い岩山がいくつも頭を出している。

 

 私が立っていたのも、そのいくつかの山のうちの一つであった。

 

 目の前に広がる絶景を、私は腕を組み静かに見つめている。

 

 

「――――!」

 

 

 背後から誰かが私の名を呼んだ。

 

 ゆっくりと振り返れば、そこには四人の影。

 

 その姿を見た途端、胸の奥にじんわりと安心感が広がった。

 

 思わず笑みをこぼし、私は腕をほどくと、影たちのもとへ歩き出す。

 

 うすぼんやりとした視界の中、四人の姿がだんだんとはっきりしてくる。

 

 藤紫の刺青を持つ四本腕の巨漢、燃えるような赤い髪色をした女性、角と長いかぎ爪を持つ少女。

 

 そして、私に背を向けたままの、濃緑の髪をなびかせる少年。

 

 さもそれが当たり前かのように、私は彼らの隣に肩を並べる。

 

 私が隣に立ったことを確認すると、全員がそろって同じ方向を向く。

 

 ちょうど私たちが見つめる先で、朝日が顔を出そうとしていた。

 

 雲を敷き詰めた純白の大地の端が、黄金色にキラリと輝いた。

 

 まばゆい光は私たちを照らし、五つの影が背後へと長く伸びる。

 

 だれかが、掛け声をかけた。

 

 それが四本腕の巨漢なのか、緑髪の少年なのかはわからない。

 

 ただ誰とも知らぬその声と同時に、全員がいっせいに大地を蹴り、躊躇することなく崖から飛び降りる。

 

 厚い雲を抜け、ほぼ垂直の岩肌をすさまじい速度で駆け降りていく。

 

 徐々に近づいてくる、草木生い茂る緑色の地表。

 

 そこには黒い瘴気を纏った、山のような大きさの獣が四つ足で立っていた。

 

 こちらに気付いたのか、獣は身体を持ち上げ、割れんばかりの鳴き声で咆哮する。

 

 びりびりと揺れる空気の中、私は周囲にちらと目をやる。

 

 他の四人と目が合った。

 

 その八つの目は、それぞれが目前に迫る戦いへの歓喜の色を浮かべている。

 

 私は口元へ手をやって、気が付いた。

 

 なんだ、私も笑っているではないか、と――。

 

 

「……はっ!」

 

 

 私は勢いよく寝床から飛び起きた。

 

 見慣れた部屋、見慣れたベッド。

 

 薄暗がりの中両手を見ると、わずかに汗ばんでいる。

 

 どうやら私は夢を見ていたらしい。

 

 

『いい夢は見れたか?』

 

 

 私はその問いに反射的に答える。

 

 

「ああ、すごい夢だった。まるで私が護法夜叉になったような。いや、あの夢に出てきた少年は、見覚えがある。まさか、降魔大聖?」

 

 

『ほう、お主降魔大聖を知っているのか』

 

 

「ええ、前に一度、お会いしたことが、ありま、す……」

 

 

 私はうなじに錆びた歯車でも入っているのではないかと思うくらいぎこちなく、声がした方向へギギギと首を回す。

 

 

『それは、重畳』

 

 

 ベッドの脇には、満足げに頷く長身の男性が腰かけていた。

 

 

「う、うわぁあ‼」

 

 

 私は思わず叫び声をあげ、ベッドの淵まで飛びのくとそのまま勢い余って落下する。

 

 後頭部を思い切り床でぶつけ、目の前に星が飛んだ。

 

 その衝撃で眠気が吹き飛び、昨日の出来事を一気に思い出す。

 

 

(そうだ、私は昨日頭をココナッツミルク容器で思いっきりぶたれたのだった。そうか、やはり頭に異常が。とうとう幻聴だけでなく、幻覚まで見え始めたか。医者に行ったほうがいいな……)

 

 

 私は落ちたままの体勢で天井を見上げ、あごに手を当て考え込む。

 

 そんな私の視界に、男の顔がぬっと現れる。

 

 

 私は口を開けたまま固まってしまった。

 

 

「げ、幻覚とはこんなにもはっきりと見えるものなのだろうか」

 

 

 かすれた声で思わず独り言を漏らすと、大男は腕を組む。

 

 

『失敬な奴だな、お主は。己れはお主の頭の中に広がる夢の住人ではないぞ。まあ、幻の一種だといえば、あながちまちがいではないがな』

 

 

 よくしゃべる幻覚であった。

 

 私は目をぱちくりさせながら、体を起こす。

 

 ベッドに片腕を置いて体を支え、男を見上げる。

 

 立とうとしたが、腰を抜かしてしまい、立てなかったのだ。

 

 

「あなたは……? どうして私の家の中に? 鍵は確かにかけたはずなのに……?」

 

 

 男は私に手のひらを向け首を振った。

 

 

『まてまて。そうことを急ぐな。いっぺんに言われるとさすがの己れも困る。まずは己れから自己紹介しよう』

 

 

 男は低く落ち着いた声でそう言うと、微笑を浮かべる。

 

 

『己れの名は、弥怒。仙衆夜叉だ』

 

 

「は……? 仙衆、夜叉……?」

 

 

 やはり、私はおかしくなってしまったのだろう。

 

 まさか仙衆夜叉の幻覚を見てしまうなど。

 

 いかに私が夜叉にあこがれを抱いているとはいえ、ここまで来ると病的である。

 

 私が口をかっぴらいたまま硬直していると、弥怒と名乗る男が首をかしげる。

 

 

『ん? 仙衆夜叉は知らぬか?』

 

 

「い、いえ、知っているも何も、私は幼少期から夜叉の話には目がなく、降魔大聖ともお会いしたことがありますが……」

 

 

 そこまで言って私はふと違和感を感じる。

 

 彼が言った弥怒、という名は今まで一度も聞いたことがないのだ。

 

 はたして幻覚は私の記憶以外の夜叉を作り出したりするのだろうか。

 

 

「すみませんが、弥怒という名は聞いたことがなく……」

 

 

 私が軽く頭を下げながらそう言うと、男は一瞬目を見開き、笑い声をあげた。

 

 

『はっはっはっは。そうだったな。こちらの名はあまり大っぴらにしていないんだったか。失敬失敬。こちらのほうが、多少は有名だろうか。皆は己れのことを、心猿大将と呼んでいた』

 

 

 どくんと、心臓が跳ねた。

 

 

 私は這うようにして弥怒の横を通り過ぎ、書架へとたどり着くと、積まれた本をなぎ倒し奥から一冊の本を取り出す。

 

 

「も、もしかして、心猿大将とは、この本に描かれた、こちらの方ですか⁉」

 

 

 唾を飛ばしながら、私は本の見開きに描かれた五人の夜叉の一人を指さし弥怒へと見せた。

 

 弥怒は腰をかがめて本へ顔を近づける。

 

 すると挿絵を数秒見つめたのち、腹を抱えて大声で笑いだした。

 

 

『クックック……アッハッハッハッハッハ! なんだこれは! けったいな! ふ、浮舎がこんな立派な服を着こなして……クックッ、こ、降魔大聖が、こんな笑い顔をするわけっ、き、気味が悪いっ』

 

 

 弥怒は涙を浮かべながらヒーヒー言っている。

 

 私は目の前の光景が信じられず、気が付けば床に取り落していた先ほどの本に目を落とす。

 

 そこには仙衆夜叉の名前が並び、五人の立ち姿が威風堂々とした様子で並んでいる。

 

 

 よく見れば確かに彼の言う通りだった。

 

 作者のイメージのみで描かれた降魔大聖は、柔和な笑みを浮かべている。

 

 それは私が見た本物の降魔大聖とは全く異なっていた。

 

 その隣に描かれた心猿大将は、顔に大きな赤い隈取、大きくはだけた服に毛むくじゃらの大男。

 

 

 改めて私は弥怒を見上げる。

 

 大男に違いはないが、その立ち姿はすらっとしていて、知的な雰囲気を醸し出す。

 

 顔には金色の隈取があるものの、目立つほどではない。

 

 ましてや、毛むくじゃらでは全くなかった。

 

 

『いや、笑わせてもらった。人間の間では、仙衆夜叉はなかなか面白い伝わり方をしているな。今は魔神戦争からどれくらいの月日がたった? 岩王帝君は健在か? 降魔大聖と会ったことがあるなら、浮舎はまだ生きているのか?』

 

 

 私は確信する。

 

 この方は、私の幻覚などではない。

 

 伝説の護法仙衆夜叉、心猿大将ご本人だ。

 

 

 呆然とする私の顔の前で、弥怒が手を振る。

 

 

『おい、どうした? 急に呆けて』

 

 

「す、すみません、一度、顔を洗ってきてもいいですか?」

 

 

『おう、構わんぞ』

 

 

 私は何とか心を落ち着かせるため、その場を脱出する道を選んだ。

 

 

 

 ばたばたと洗面台に着くと、勢いよく桶の水を顔にかけた。

 

 朝の冷え切った水が、皮膚を通り抜け頭の芯まで突き抜ける。

 

 

 正直、まだ夢見心地であった。

 

 以前白昼夢を見て、降魔大聖と会ったことがある。

 

 しかしそれほど時を跨がずにこのようなことが二度もあるだろうか。

 

 信じられないという気持ちで頭がいっぱいだった。

 

 

 私は顔を拭き、恐る恐る自室の扉へ手をかける。

 

 未だ弥怒が幻であるという可能性を捨てきれていなかったのだ。

 

 ゆっくりと開いた扉の先には、誰もいないベッドと、昨日しまい忘れていた札の箱が置いてあった。

 

 

(なんだ、やはり私の見た夢だったのか)

 

 

 少し残念な気持ちと安堵の入り交じった胸を抱え、私は部屋へ入る。

 

 

『すまん、これは何と書いてあるのだ?』

 

 

 油断したところに急に声を掛けられ、私は心臓が飛び出そうになった。

 

 

 いた。

 

 消えてなどいなかった。

 

 心猿大将は場所を移動し、私の机の前に立っている。

 

 

「夢じゃ、ないのか……」

 

 

 私は思わずそうこぼすと、弥怒はムッとした表情に変わった。

 

 

『いつまでそんな寝言を唱えているのだ。いいから、これは何と書いてあるのか己れに教えてくれ』

 

 

 有無を言わさぬその態度に、私はあわてて弥怒のそばに駆け寄った。

 

 彼が覗き込んでいたのは、書きかけの原稿。

 

 護法夜叉について、私の知っている知識をもとに書かれたものだ。

 

 もちろん未完成で、数日前から筆は止まっている。

 

 

「こ、これは私が書いている小説です。大変恐縮ですが、護法夜叉についての正しい知識を広めたいと思い、筆を執っております」

 

 

『ふむ、見慣れぬ文字だ。己れが目覚めるまでの間に、文字が変わるほどの年月が経っていたということか?』

 

 

「……そう、だと思います。私の知る限り、夜叉の多くはこの世を去り、岩王帝君までもがついこの間、ご逝去されました」

 

 

『なんだと……?』

 

 

 突然私は、全身の血液が凍り付くような殺気を感じ、蛇に睨まれた蛙のように全く身動きが取れなくなった。

 

 目の前でゆらりと身を起こした弥怒は、ゆっくりとこちらに体を向け、静かに私を見下ろす。

 

 その表情は終始穏やかだったが、瞳には並々たらぬ怒りの炎が燃え滾っていた。

 

 

『誰が、帝君を殺した?』

 

 

 私はごくりと生唾を飲み込んだ。

 



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護法戦記 4話 融合

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
朝目を覚ますと仙衆夜叉の一人、弥怒が私の部屋にいた。
私自身意味が分からなかったが、事実なのだ。
だが、どうやら私は彼の怒りを買ってしまったらしい。
どうすれば、なだめることができるだろうか……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 すさまじい気迫だった。

 

 ただでさえ私より頭一つ分ほど背の高い弥怒が、まるで天井に届きそうなほど大きくなった錯覚すら覚える。

 

 もし弥怒のことを夜叉だと塵ひとつ信じない輩でも、今の彼を見れば大きく縦に首を振っただろう。

 

 

『早く、答えぬか』

 

 

 弥怒は終始落ち着き払ったまま、一歩、また一歩と覆いかぶさるように迫ってくる。

 

 私は浅い呼吸を繰り返し、弥怒から目をそらすこともできず後ずさった。

 

 目の前の巨漢は眉ひとつ動かさずに私を見下ろす。

 

 

 怒鳴りつけられるほうがまだましだ。

 

 底知れぬ静かな恐怖がそこにはあった。

 

 とん、と背中に固い感触が伝わり、私はこれ以上後退することができないことに気が付く。

 

 

『なぜ逃げる。己れはただ聞いているだけだぞ? 答えれてくれればそれでよい』

 

 

 ずいと息がかかりそうなほど弥怒は顔を寄せてくる。

 

 背は壁にビタリと張り付き、手は無意識に握ったり開いたりを繰り返す。

 

 そんなことをしても、意味がないというのに。

 

 

 私の後退をせき止めるこの壁がなければ、きっとわき目もふらず一目散に駆けだしていただろう。

 

 この場から逃げ出したい一心だった。

 

 声すら出せず小刻みに震えていると、弥怒の眉が徐々に吊り上がっていく。

 

 

『沈黙は何も生まぬぞ? んん? もしやお主、何か知っているのか――?』

 

 

 そう言うやいなや、弥怒は私の首元めがけぬっと長い手を伸ばしてきた。

 

 

「ひぃっ!」

 

 

 口から情けない声が飛び出す。

 

 こんな時堂々と対等に受け答えができる度胸があれば、どれほどよかっただろう。

 

 私は自分のふがいなさに後悔を覚えながら、目をぎゅっとつぶる。

 

 

 首を絞められ、天井近くまで吊られると思った。

 

 もしくは胸倉を掴んだまま、壁に何度も背中を打ち付けられると思った。

 

 

 どうやら、私はまた選択肢を誤ったらしい。

 

 以前も降魔大聖、もとい旅人に召喚されたときはこっぴどくひっぱたかれた。

 

 あの時は私が悪事を働いていたのだから仕方ない。

 

 だが今回は何を間違えたのか、どうすれば正解だったのか全く分からない。

 

 ひとつわかっていることは、きっとまた痛いのだろうということだけだった。

 

 私は未来の自分に同情を禁じ得ない。

 

 

 が、しかし。

 

 

 

 

 

 ……おかしい。

 

 

 

 

 

 いくら待っても、なかなか≪その瞬間≫がやってこないのだ。

 

 不思議に思い、私は目を恐る恐る開けてみた。

 

 

 目の前にあった弥怒の目と、私の目がばっちりとあう。

 

 

 あわてて目線を逸らし、そのまま私の目は弥怒の肩から肘、腕と輪郭を伝うように追っていく。

 

 

「うひぃっ!」

 

 

 私はまたしても奇声を上げてしまう。

 

 弥怒の腕から先が私の胸の真ん中に、丸ごと突き刺さっていたからだ。

 

 

 あわてて引き抜こうと私は弥怒の腕を掴もうとしたが、手は触れるすらできずにスカスカと空を切る。

 

 

『……ふむ』

 

 

 弥怒は何かに納得した様子でひとりごちると、腕をゆっくりと引き抜いた。

 

 感触は一切なかったが、自分の胸の中から腕がずるずる出てくる様は見ていて気持ちがいいものではない。

 

 

『やはりな。術式が完全ではなかったか……』

 

 

 ため息交じりに弥怒はそうこぼし、ベッドの方へ目をやった。

 

 つられて見てみると、そこには無造作に置かれた護法夜叉の札。

 

 

 札はうすぼんやりと琥珀色に輝いている。

 

 弥怒は私に向き直ると札を指さし、やや不機嫌そうにに吐き捨てた。

 

 

『おいそこの。お主は己れが怖いのだろう? あの札を破れ。そうすれば己れはすぐに消える。見ての通り己れはお主に危害を加えるどころか、触れることさえできぬ。武器を持つことも、戦うこともできぬ。たとえ岩王帝君の敵を見つけても、指をくわえて見守るのみ。そんなこと、己れが耐えられるわけがない。そんな思いをするくらいならば、消えたほうがましだ。お主も、この悪夢からいともたやすく目覚めようぞ』

 

 

 弥怒は言い切ると書斎棚の前でどかっと胡坐をかき、頬杖をついて目を閉じた。

 

 

「札……夢……、覚める……」

 

 

 うわごとのように弥怒の言葉を繰り返しながら、私は言われるがままふらふらと札へと吸い寄せられた。

 

 ベッドの上でほのかに明暗する金色の札。

 

 私はそれを持ち上げ、ごくりと喉を鳴らした。

 

 

 札はまるで生きているように温かい。

 

 弥怒を見れば、好きにするがよい、といった表情で片目をつぶりこちらを睨んでいる。

 

 私はもう一度、札に目を落とした。

 

 

 ――これを破れば。

 

 

 弥怒は消え、いつもと変わらぬ平穏な毎日が戻ってくる。

 

 手の中にある札は脆く、たやすく破けそうだった。

 

 

(私は、私はどうすればよいのだ……)

 

 

 正直、いろんなことが立て続けに起こりすぎ、もはや何が正解かわからなくなっていた。

 

 こんなことになるとは、夢にも思っていなかったのだ。

 

 私は瞼を閉じ、考え込む。

 

 

 

 脳裏に札と出会ってからの記憶が走馬灯のように蘇った。

 

 

 

 銅雀の寺へ、うららかな日差しと共に届けられた小さな箱。

 

 最初はかすかな期待程度しか持ち合わせていなかった。

 

 私は今回も偽物かもしれない、と自分に言い聞かせ続ける。

 

 期待に裏切られることは、日常茶飯事なのだから。

 

 

 しかし箱の中の札を自分の目で見て、その期待は確信へと変わっていく。

 

 同時に膨らんでいった、札の危険性に対する恐怖。

 

 それも琳琅さん、白朮先生、七七に見てもらうことで拭い去ることができた。

 

 

 そして今朝。

 

 心猿大将、弥怒と名乗る大男が突然現れた。

 

 彼は温和で豪快、そしてまごうことなき伝説の夜叉だった。

 

 そんな彼が、術式の不備に落胆し早くもこの場を去ろうとしている。

 

 

(本当に、それでいいのか……)

 

 

 私は答えを出せず、俯いたまま目を開ける。

 

 ちょうどそこに、一冊の本が開きっぱなしで落ちていた。

 

 描かれていたのは、私の英雄たち。

 

 五人の夜叉の姿がそこにはあった。

 

 それを見た瞬間、心の奥底で何かが燃え上がる。

 

 

(――ああ、そうだ。私は何を迷っているのだ。なにも、迷うことなどないというのに。今も昔も、私の心根は全く変わっていないじゃないか)

 

 

 勝手に口元が緩む。

 

 私はおもむろに口を開いた。

 

 

「心猿大将」

 

 

『……なんだ』

 

 

 私は座り込んでいる弥怒の前まで歩を進め、片膝をつき弥怒と目線を水平にする。

 

 

『フン、別れのあいさつでも思いついたか?』

 

 

「いいえ」

 

 

 私は首を振り、頭を垂れる。

 

 

『……何の真似だ?』

 

 

 やや困惑した弥怒の声が聞こえた。 

 

 

「今私の胸の内を打ち明けるのであれば感恩、感激、感慨無量、といったところでしょうか」

 

 

 面を上げれば、目を見開いた弥怒がそこにいた。

 

 

 私は胸に手を当て訴えかける。

 

 

「鈍い私をどうかお許しください。私はやっと、今になってこの状況を理解し始めたようです」

 

 

 顔を上げたはずみのせいだろうか。

 

 目尻からさっと暖かいものが頬を伝う。

 

 

「札を破るですって? とんでもない。私は幼少期から、ずっと、ずぅっと、あなた方の物語を繰り返し聞いて育ちました。両親の帰りが遅く、ひとり待ち続けた夜だって怖くありませんでした。私の心の中には、いつも英雄たちがいたからです。彼らは悪と戦い、どんなに苦しい戦いでもその身を厭わず果敢に攻め、この大地と人々を守り抜きました。今の私や璃月があるのも、夜叉の皆様のおかげなのです。ですからっ」

 

 

 声に熱を帯びた私とは対照的に、弥怒はすっと目をそらし表情に影を差し込む。

 

 

『……現実は、お主が思うほど、崇高なものではない』

 

 

 私はぶんぶんと首を横に振る。

 

 

「いいえ、たとえどんなことがあったとしても、今私はこうやって生きている。それが、それこそがすべてなのです! なので、もう消えてしまいたいなど言わず、もう少し、もう少しだけでもっ! あなたが触れないのであれば、私の手をお使いください。文字が読めなければ、私が読みましょう。戦いも……できる限りお力となります。ですからっ!」

 

 

 もはや自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。

 

 それでもこの熱い思いだけでも、目の前の恩人へ伝わってくれたらいい。

 

 私はひたすらそう願いつつ弥怒の顔に穴があくほどまっすぐ、力を込めて見つめ続けた。

 

 

『クックック、あっはっはっは!』

 

 

 突然弥怒の豪快な笑い声が響き渡り、私は目をしばたかせる。

 

 

『いやお主、変わった男よの本当に』

 

 

 弥怒は目尻に涙まで浮かべていた。

 

 よくわからなかったが、私もつられてぎこちない笑みを浮かべる。

 

 

『まあ、お主がそう言うかもしれぬとは思っていたが』

 

 

「……へ?」

 

 

 頭が追い付かない。

 

 彼は何を言っているのだろうか。

 

 ポカンと口を開けたままの私を見て、弥怒が謝る。

 

 

『ああ、すまないすまない。己れに予知能力はないし、適当な嘘をついているわけでもない。実はな、先ほどお主の体に腕を通したとき、不思議なことにお主の記憶の断片が己れの頭の中へ流れ込んできたのだ』

 

 

 弥怒は自分の頭を人差し指でトントンと叩く。

 

 

『いやまったく。不完全な術だったが……逆に都合がよいかもしれぬ』

 

 

「……?」

 

 

 訳も分からず私が首をかしげると、弥怒はうんうんと虚空にうなずく。

 

 そして私に向き直ると、満足そうに微笑んだ。

 

 

『しばらくの間、動かずじっとしているがいい』

 

 

 弥怒は四つん這いになり、ぐっと正面から顔を寄せてくる。

 

 私はあわてて立ち上がり、両手を前に出して大きく振った。

 

 

「え? ちょ、ちかい……近いですって!」

 

 

 だが弥怒は聞く耳を持たずか同じように腰を上げ、再びゆっくりとにじり寄ってくる。

 

 先ほどのような、底知れぬ恐怖はない。

 

 だが得体のしれない何かを感じ、うなじがぞくぞくと別の危険を告げていた。

 

 

(あわわわわ、顔が! 近い近い近い近い‼)

 

 

 どんなに腕を前に出しても、すり抜けてしまっては意味がない。

 

 私の手は弥怒の胸を貫通しバタバタとむなしく暴れる。

 

 弥怒の顔はもう目と鼻の先に迫っていた。

 

 

(こ、こんなところで、私のファーストキスがっ!)

 

 

 あわや私は男同士で唇を重ねるという稀有な体験に見舞われようとしていた。

 

 唇と唇の距離は、わずか数センチ。

 

 

(ああ、もうだめだ、終わった)

 

 

 抵抗もむなしく、私はすべてをあきらめ全身から力を抜いた。

 

 

(私にもし子供が生まれたら、私は護法夜叉とキスをしたことがあるんだと、自慢するのだ。――男同士だが……)

 

 

 そんな言葉が、最後に脳内を駆け抜けていった。

 

 

(さよなら、私の初体験……)

 

 

 そう悟りを開いた次の瞬間だった。

 

 唇の代わりに重なる私の額と弥怒の額。

 

 触れることができないはずなのに、額に燃えるような熱を感じた。

 

 

 すると同時に弥怒の体がはじけ、数多の金色の粒子へ変化する。

 

 

 粒子は風に乗せ大地に撒いたもみ殻のように、部屋の隅から隅まで縦横無尽に散らばった。

 

 

「わっ……!」

 

 

 私は思わず声を上げ、そのまま目を見開いた。

 

 

 部屋の中は、まるで小さな星空だった。

 

 

 私はその美しさにただただ目を奪われる。

 

 

 金剛石のように輝く粒子は輝きを増し、壁を、ベッドを、本棚を、机を、そして部屋全体を黄金色へと塗り替えていく。

 

 しばらくすると光の粒たちは私の目の前でゆっくりと旋回をはじめた。

 

 光の奔流が渦を巻き、部屋の中央で光の柱となる。

 

 あまりのまぶしさに私は目も開けていられない。

 

 

 やがて柱の中央へ光は集まると、まばゆい閃光がほとばしった。

 

 

 目を閉じていても、瞼の裏まで真っ白に塗りつぶされる。

 

 

 その閃光を最後に、忽然と光は消えた。

 

 私は閉じた瞼をゆっくりと開く。

 

 部屋に渦巻いていた光の粒はもうそこにはなかった。

 

 代わりに手を伸ばせば届くほどの場所で、夜叉の仮面が一枚だけ、ぽつんと闇の中に浮かんでいたのだった。

 

 

「これは……心猿大将の、仮面……」

 

 

 私が言葉とともに漏らした吐息で仮面はふわりと絹のように揺らぐと、さらさらと細かい砂金となり崩れていく。

 

 黄金の粒はキラキラと輝きながら、音もなく私の胸元に流れ込んできた。

 

 やがて最後の一粒が胸元に消える。

 

 

 幻想的な光景を目の当たりにして、私は何と口にすればいいかすらわからずただ感嘆するばかりであった。

 

 

 ハッと我に返ると、私はカーテンの閉まった部屋の中、ひとり呆然と立ちすくんでいた。

 

 

「今のは……?」

 

 

 夢か現かわからぬまま、私は手に持った札へ目を落とす。

 

 札は先ほどまでうすぼんやりと輝いていたのだが、今はもう初めて見た時と変わらないくすんだ古紙の色へと戻っていた。

 

 

「いったい何が――」

 

 

 口をついて出た言葉と共に、私は弥怒の姿がどこにもないことに今更気が付く。

 

 

 あれほど消えてくれるなと訴えたのに。

 

 私の英雄は、忽然と姿を消してしまった。

 

 別れの挨拶すら交わすこともできずに。

 

 

「弥怒? 弥怒は、どこへ行ってしまったのだ?」

 

 

 私の泣きそうな声が、部屋の中に反響した。

 

 

『ここだ』

 

 

 どこからともなく、低く落ち着いた声が返ってきた。

 

 私は安堵と共にぱっと顔を輝かせ、私の英雄を探した。

 

 見える範囲に姿が見えなかったので勢いよく振り返ると、私は壁に思いきり頭をぶつけた。

 

 鈍い音と同時に、我が家と私の頭の中身が一緒に揺れる。

 

 

「いぎっ!」

 

 

 尻尾を踏まれた猫のような声を上げ、私はうずくまった。

 

 

 最近私は頭をぶつけ過ぎではないだろうか、本当に頭がおかしくなるのではないかと不安がよぎる。

 

 

『はっはっは』

 

 

 再び聞こえる弥怒の声。

 

 声は私の背後ではなく、まるで頭の中から聞こえてくるようであった。

 

 

「な、なんだこれ! き、気味が悪いっ!」

 

 

『まあそう言うでない。これが一番手っ取り早いのだ』

 

 

「ど、どういうことですかっ⁉」

 

 

 頭の中の弥怒の声と会話が成立している。

 

 はたから見れば、薄暗い部屋の中でひとりで喚く狂人だ。

 

 あまりの珍事に私の声は裏返っていた。

 

 弥怒の声は相変わらず落ち着いたまま、私をなだめるように響き続ける。

 

 

『ほう、これは便利な。己れはこの時代の文字や世俗に疎い。だが、お主の記憶を媒介にすれば、直接内容を理解することができるようだ。よかったではないか。お主の言う通り、お主は己れの手足目鼻になれたぞ。……ん、なるほど。璃月七星という者たちが今の璃月を治めているのか。ふむふむ、実に興味深い。うん? これは岩王帝君の葬儀か? まさか本当に崩御されているとは……信じがたい』

 

 

 弥怒が私の記憶をあさるたび、体中にぞわぞわと虫が這うような感覚が走り抜ける。

 

 

「や、やめてくれ! ちょ、ちょっと! 弥怒!」

 

 

『うむ? お主も男ならそのような些細なこと気にするでない。おや? これは先ほどお主が書いていたという書物の断片か?』

 

 

 私はぎくりとした。

 

 机の上の本は未だ書きかけで、数ページも書き終えていない。

 

 スランプで続きを書きあぐねているというのもあった。

 

 しかし筆が止まった一番の原因は、続きを書くのが恥ずかしくなったからだ。

 

 誰かが勝手に読んでも問題ないところまでしか書き終えてないという事実は、私に一種の安心感をもたらしていた。

 

 

 だが頭の中にはその続きがいくらでも転がっている。

 

 推敲すら済んでいないとりとめのない内容を、弥怒はこれ見よがしに朗読していく。

 

 

『なになに? ほほぉ、なかなかの想像力ではないか、お主は』

 

 

 私は顔が一気に熱くなるのを感じた。

 

 

「や、やめろぉ! やめてくれ‼」

 

 

『はっはっはっは! 愉快! 愉快だぞ、お主! こんな傑作、己れは未だかつて読んだことがない! だがなぁ、夢を壊すようで申し訳ないが、残念ながら伐難はお主が想像しているほど、豊満な女性ではなかったぞ』

 

 

「こ、殺してくれぇぇぇえええええ‼」

 

 

 

 私が両手で頭を抱え、床に打ちつけても弥怒は痛くもかゆくもないようだ。

 

 弥怒は人には言えぬ恥ずかしい内容を、次から次へと私の頭の中で見つけては読み聞かせてくる。

 

 

『いやはや、この体も便利なことよ! 己れは名実ともに心の中で騒ぎ立てる大猿、心猿大将となったのだ!』

 

 

「御託はいいので、頼むから大人しくしてくださいぃぃ……」

 

 

『断る!』

 

 

「ああぁぁあぁぁ、なんてことだ……」

 

 

 悲しいかな、部屋の中にはしくしくと泣く私の声だけが、むなしく響き渡る。

 

 

 

 こうして私と護法夜叉の、奇妙な共同生活が幕を開けたのであった。



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護法戦記 5話 小言

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
弥怒と二人……いや。
彼は体を持たず私の頭の中にだけ存在するので、一人半が正しいだろうか。
とにかく彼との共同生活が始まった。
しかし、なかなか慣れないものだな……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


『阿呆、まだ汚れがとれておらぬぞ。よく磨け』

 

 

「……」

 

 

『そこの角、埃があんなにたまっておる。いつから掃除しておらぬのだ?』

 

 

「……」

 

 

『もう掃除は終わりか? 次は何をするのだ』

 

 

「……途中だった本の続きを書く」

 

 

『まだあちこちが汚れておるし、整理もできていないというのにまったく……まあいいだろう』

 

 

「……」

 

 

 

 

『おいお主。手前のページ、二つ目の行。文字を間違えておるぞ』

 

 

「ぐぬぬ……」

 

 

『ううむ、なんだか……これでは話の流れが不自然ではないか? 先ほど消してしまった内容の方がよかったぞ』

 

 

「だーーー‼」

 

 

 私は筆を放り出し、頭をわしゃわしゃとかきむしった。

 

 

『どうした、頭に虱でも湧いたか? そう言えば沐浴はいつ行うのだ』

 

 

「違います! あなた! あなたですよ!」

 

 

『ん? 己れは体がないので常に清潔だぞ?』

 

 

「違う! そうじゃなくてですね!」

 

 

 私は机を両手でバンと叩く。

 

 手の届かぬ頭の中から弥怒のゆったりとした口調が響いてくる。

 

 

『なんだ、言いたいことがあるならはっきり言うといい。己れも昔仲間内で言いたいことを我慢していた時期があったが、あれは体に良くない。心のよどみは業障のように蓄積していき体にまで影響を及ぼすものだ。己れが言いたいように言っているのだから、お主もそうするがいい。あと、敬語はいらぬ。己れはもう護法夜叉でもなければ戦うこともできぬただの幽霊のようなものだからな』

 

 

 ふふんと得意げな弥怒の声。

 

 平時は気にも留めないだろうが、今は私の感情を逆なでしただけだった。

 

 

「じゃあこの際はっきりと言わせてもらう。確かに私はあなたの眼となり手となると誓った。だがこうも小言を頭の中で毎度毎度ぶつけられては生活に支障をきたす。ここは私の家で、掃除も何もかも私のやり方でやらせてもらいたい。すこし気になることがあったとしても多少大目に見てはくれないだろうか! 特に、本を書いているときは‼ 心がよどむ前に私の頭の血管がはちきれそうだ‼」

 

 

『お、おう……』

 

 

 姿は見えなかったが、私の剣幕に弥怒はややたじろいだようだった。

 

 さすがに反省したのか無言になり、私の頭の中に久しぶりの静寂が訪れる。

 

 

「コホン」

 

 

 軽く一つ咳払いすると私は執筆へと戻った。

 

 思わずため息の一つもこぼれるものだ。

 

 実は弥怒に懇願したのはこれが初めてではない。

 

 

 前回は、弥怒に記憶の閲覧禁止を私は言い渡した。

 

 記憶を読まれたときのぞくぞくする感覚があまりに不快だったからだ。

 

 例えるなら高所から飛び降りた時と高熱にうなされた時のぞわっとした感覚をごちゃまぜにしたような感じ。

 

 

 弥怒が私の記憶を覗くたび、それが際限なく波のように押し寄せてくる。

 

 もうほんと、たまったものではない。

 

 

 最初は弥怒もなかなか引かなかったが、私が「このままだと頭がおかしくなって、札を無意識に燃やしてしまうかもしれない」と言ったらやっと承諾した。

 

 

 その少し前まではこの世に未練はないぐらいのことを言っていた弥怒だったが、私の身体を手に入れた途端手のひらをかえすとはなかなか現金な夜叉もいたものだ。

 

 弥怒が静かにしてくれたおかげでそれから数刻の間、私は集中して本を書くことができた。

 

 今までの進行は弥怒に邪魔をされていたのでかなり遅かったが、それを取り戻す勢いで巻き返すことができた。

 

 私は満足して書きかけのページにしおりを挟み本を閉じる。

 

 ぎゅっと疲れた目を押さえ、筆を机上に転がした。

 

 

 窓から夕日が差しこみ床をオレンジ色に染め上げ、遠くからカラスの鳴き声が聞こえた。

 

 昼から始めたつもりだったかが、もうこんな時間だ。

 

 少し集中しすぎたかもしれない。

 

 

 椅子から腰を上げ背伸びをすれば、固まった背中から骨の鳴る音が部屋に響く。

 

 

「さて、と」

 

 

 もう夕餉の時間だ。

 

 私は竈に薪を放り込み、火打石で枯草に火をつける。

 

 息を吹き込めば炎が赤々と燃え上がった。

 

 

 私は脇に掛けてある鍋に甕から水を汲み移す。

 

 鍋を竈の火にかけ、私は納戸に移動し備蓄している食材を吟味した。 

 

 

 うむ、ちょうどいい塩梅の干物の魚と葉野菜があるではないか。

 

 私は今日の献立を魚のスープに決定する。

 

 食材を炊事場のまな板に広げ、棚から取り出した幅広の包丁で具材を刻む。

 

 それらを次々に鍋へと放り込んでいく。

 

 

 ひとり分なのでそう大した量は必要ないし、見た目もそこまで気にしない。

 

 

 いわゆる男料理というものだ。

 

 

 鍋に入らずまな板の上に余った食材は、瓶や甕の中へとしまい込み明日の分へ取っておく。

 

 調理に使った道具を洗っているとぐつぐつと湯が煮立つ音と共に、おいしそうなにおいが漂い始めた。

 

 洗い終えた最後の器の水を切り立てかけると、一通りの準備は終わった。

 

 私はすることがなくなって、竈の前に置いてある小さな椅子に腰掛ける。

 

 

 見れば炎が鍋を包み込んでいた。

 

 ああ、すこし火が強かっただろうか。 

 

 

 火加減を調整するために金箸で薪をつつけば、ふわりと火の粉が舞い踊る。

 

 干物の出汁がスープにいきわたるまでもう少し時間が必要だ。

 

 私は金箸を立てかけ、パチパチと音を立てる薪と揺れる炎をただただぼーっと見つめる。

 

 

 いつもと何一つ変わらぬ光景がそこにはあった。

 

 穏やかで、平凡で、ありきたりな私の日常。

 

 そんな日々に疑問を持ったことなど一度たりともなかったし、むしろそれを望んでいた節すらあった。

 

 

 

 

 ただ、今は。

 

 

 

 なんだかそれがむずがゆい。

 

 私はその理由を知っている。

 

 ずっと一人であると自分に言い聞かせていたが、実際は違う。

 

 

 姿は見えずとも、常に私のそばには常に誰かがいるのだ。

 

 それは今までの私の生活にはなかったことだった。

 

 そして、この状態が不自然なことぐらい、誰にだってわかるはずだ。 

 

 

 私は気が進まなかったが、意を決して口を開いた。

 

 

「なあ、弥怒」

 

 

 パチッと薪が爆ぜる。

 

 

 返事はない。

 

 

「先ほど私は……少し言い過ぎた、かもしれない。多少小うるさいと感じたのは事実だが、こうも静かだと逆に落ち着かないものだな。弥怒を私の身体に招き入れたのは私だ。もう少し我慢すべきはこちらだった」

 

 

 鍋から少し湯が吹きこぼれ、鍋のふちでジュッと音を立てる。

 

 

「だからこんなことを言うのもなんだが……。その、機嫌を直してくれないだろうか」

 

 

『ん? ああ、すまない。何か言ったか? 少し考え事をしていたものでな』

 

 

 いつもと変わらぬ穏やかな口調で、弥怒の声が頭の中で反響する。

 

 

 

 

 どうやら怒っているわけでは、なかったようだ。

 

 私の取り越し苦労と言ったところか。

 

 顔が見えないというのはこうも不便なものだと痛感する。

 

 

「……それならよかった」

 

 

 私は安堵と共にふっと鼻から息を漏らすと、鍋の蓋に手を伸ばす。

 

 蓋を開ければ白い湯気が視界を白く染め、大きく膨らみながら天井へと昇っていく。

 

 湯気が切れた先には、ちょうどいい塩梅に煮詰まれた魚のスープが完成していた。

 

 

 私はふと、弥怒の一言が気になった。

 

 

「先ほどはその、何を考えていたんだ?」

 

 

 私は椀にスープをよそい、食卓へ移動しながら弥怒に尋ねる。

 

 

『ん、ちょっとな。これからのことを考えていた』

 

 

「というと?」

 

 

『お主の記憶を見て、この時代は己れの生きていた頃よりずいぶんと時間がたっていることがわかった』

 

 

 私は席に腰掛け、湯気が立つスープに息を吹きかけながら弥怒の声に耳を傾ける。

 

 

「私にかまわず続けてくれ」

 

 

『うむ。そうだな。しかし、なのだ。現状己れの得た情報はあくまでお主の主観をもとに構成されている。にわかに信じがたい点もあれば納得のいく部分もある。決してお主の記憶を疑っているわけではない。だがそれを考慮したとしてもお主の記憶で見た今の璃月をそのまま受け入れることは私にとって難しい。そこでだ』

 

 

 私はぐっと椀を傾けスープを喉の奥へと流し込むと、食卓に空の椀をコトリと置いた。

 

 

「そこで?」

 

 

『己れに、この時代の璃月を――見せてはくれないだろうか』

 

 

 弥怒の声はいつになく真剣だった。

 

 そこからは確固たる意志が読み取れる。

 

 ただ私はそのあまりにも簡単なお願いに、肩透かしを食らった気分だった。

 

 

 正直もっとハードなものを想像していたからだ。

 

 

「……そんなことをこの数時間、悩んでいたのか?」

 

 

『そんなこととはなんだ』

 

 

 少しムッとした声色が返ってくる。

 

 

「ああ、いや、気を悪くしたのなら謝る。お安い御用だと言いたかったんだ」

 

 

『それを聞いて安心した』

 

 

 私は椅子の背もたれに体を深く預け宙を眺める。

 

 

「もともと弥怒に今の璃月を見せたいと思っていたんだ。あなたたち護法夜叉が守り抜いたこの地がその恩恵を受けたのち、どんな風に発展したかを見せたかった」

 

 

『……そうか』

 

 

 弥怒は少ししんみりした様子で言葉を返す。

 

 私は少し声のトーンを上げて、話題の変更を試みる。

 

 

「本の執筆も片付けもだいぶはかどった。明日は一日、璃月を散策しよう。それでどうだろう」

 

 

『恩に着る』

 

 

 腹ごしらえが済んだからか弥怒の声を聞いて安心したからか、睡魔がどっと襲ってきた。

 

 

「明日も早いし私は寝るとするが、弥怒は私が眠っている間は同じように眠るのか?」

 

 

『己れは精神体のようなものだ。睡眠は必要ない。だがお主が起きるまでは静かにしておくから安心しろ』

 

 

「助かる」

 

 

 私はそう短く返すと竈の薪を金箸で奥へと押しやり、寝ている間に火事にならぬよう軽く水を振った。

 

 そのまま私は倒れこむようにベッドへなだれ込む。

 

 

『いい夢を見るといい』

 

 

 意識を手放す直前、弥怒がそう言ったような気がした。

 

 

 

 

 

        ※

 

 

 

 

 

「ん……」

 

 

 目を開けると、そこは深い竹林だった。

 

 幾本もの高く伸びた竹が日光を遮り、細長くなった木漏れ日が地面の上で揺れている。

 

 私は平たい石の上で胡坐をかき、肘をついて考え事をしていたようだった。

 

 

 体は私の言うことを聞かず、ひとりでに動く。

 

 

 首が勝手に左右を見回すと、竹林が少し開けた一角に誰かがしゃがみこんでいる。

 

 私は石から腰を上げると、ゆったりとした足取りで近づいていく。

 

 

 しゃがみこんでいたのは、背中から四本の腕をはやした大男だった。

 

 その大きな体を小さく丸めて、子供が砂遊びをするかの如く土をひたすらかき集めている。

 

 

 私はその男に何か声をかけたようだった。

 

 自分の声だというのに、よく聞き取れない。

 

 男は私の声に気が付いたのかさっとこちらを振り返る。

 

 私はため息をつきながら、同時に男が作っていたものへ目線を送った。

 

 

 あれは墓、だろうか。

 

 

 ややいびつに盛られた土の上に、小さな石が置かれている。

 

 よく見れば男が作っていたもの以外にも、周囲にはいくつも同じような盛り土があった。

 

 私はもう一度男へと向き直ると、男の体を見て何かに気が付いたのか、突然きょろきょろと周囲を見回し始める。

 

 男はその間、ばつが悪そうに後ろ頭をかいていた。

 

 

 

 私はがっくりと肩を落とし、盛大にため息をつくと片膝をついてしゃがみ込む。

 

 大地へ片手を添えたまま、私は目をつぶった。

 

 すると不思議なことに、掌からいろんな音や振動が伝わってくるではないか。

 

 それは竹の間を通り抜けていく風の音だったり、動物の足音だったり、川のせせらぎだったりと様々。

 

 

 その中で何かがはためくような音をとらえると、私は目を開けて立ち上がった。

 

 

 二言三言男に告げると、男は得心したようにポンと手のひらを打つ。

 

 

 私は目頭を押さえつつ、先ほどの音を感じた方向へと歩き始めた。

 

 

 しばらく竹林を歩いていくと、岩の間からちょろちょろと湧水が湧いている場所へとたどり着く。

 

 見上げればまだ背の低い竹の先に、紫色の羽織が風にあおられぱたぱたと音を立てていた。

 

 それをやや乱暴に掴み取ると、つかつかと私は来た道を戻っていく。

 

 男のいた場所へと戻ると、男は墓を完成させ私の帰りを待っていた。

 

 手に持つ羽織を指さし、何やら私は説教を始めた。

 

 

 

 男は怒られながらも二本の手を腰に手を当て、片手で服を受け取りつつ最後の一本の手で手刀を切り謝罪の意を示す。

 

 

 四本腕があると二つの動作を同時にできるのでさぞ便利だろうと私はぼんやりした思考の中で感心した。

 

 男は四つの腕を器用に操り服の袖に腕を通す。

 

 その時、男が何かに気が付いたようだった。

 

 私もつられて男の目線の先を追う。

 

 

 すると竹林の陰から二人の女性がこちらを見てくすくすと笑っている。

 

 

 先ほど私が目覚めた時に腰掛けていた岩の上には、いつの間にか槍を抱えた緑髪の少年が代わりに座っていた。

 

 

 四本腕の男は何かを取り繕うように腹を抱えて笑いだす。

 

 私はあきれた様子で腕を組んだ。

 

 

 男はひとしきり笑い終えるとそれぞれの顔をじっと見つめていき、最後に私の顔を見た。

 

 そして少し寂し気に先ほどの墓を一瞥すると、おもむろに口を開く。

 

 私の目に狂いがなければ、彼はこう言っていたように思う。

 

「浮生は散り、万般を舎す。さあ行こう、我が兄弟たち」と。

 

 

 

 

 

       ※

 

 

 

 

 

 カーテンの隙間から差す朝日が瞼を照らし、私は眉間にしわを寄せながら目を覚ました。

 

 

 体を起こして目をこすり、周囲を見まわす。

 

 

 開けっ放しの寝室のドアの向こうには昨日食べっぱなしにしてしまった食器と、火が消えた竈が薄暗い中佇んでいた。

 

 

「夢、か」

 

 

 かさついた声で私はぽつりとつぶやく。

 

 このような夢を見るのは二度目だ。

 

 初めては弥怒と出会った日だった。

 

 

 だんだんと輪郭を失っていく夢の中で、大男の口元の動きだけが鮮明に頭に残っていた。

 

 

「浮生は散り、万般を舎す、か……」

 

 

 あの夢は、弥怒の記憶なのだろうか。

 

 あの者たちは、弥怒の仲間たち、伝説の護法仙人なのだろうか。

 

 今でもあの安らかな雰囲気だけがはっきりと感じられ、無性に胸を切なくさせる。

 

 あの場に流れていた空気は勇ましく戦う夜叉のイメージからは程遠い。

 

 彼らはむしろ、ごくありふれた普通の仲のいい……そう、まさに兄弟のようであった。

 

 

『おう、起きたか。どうだ、いい夢は見れたか』

 

 

 私が目覚めたことに気付いた弥怒が声をかけてくる。

 

「いい夢、なのだろうか。私にはよくわからなかったが、どことなく穏やかな夢を見た気がする」

 

 

『それは重畳。顔を洗ってこい。そして昨日の片付けをするのだ。少し冷えるから何か羽織るといい』

 

 

「ふふっ」

 

 

 弥怒の矢継ぎ早に繰り出される言葉に、私は思わず吹き出してしまう。

 

 

『ん? どうかしたか?』

 

 

「いや、何でもない」

 

 

 私はひとりでに上がる口角を指で押さえつつ、ベッドから足を降ろして洗面台へと向かった。

 

 顔を洗い昨日の片付けを終え着替えを済ませる。

 

 まさに今から外に出ようと玄関の扉に手をかけたその時、弥怒の声が頭の中でひときわ大きく響いた。

 

 

 

『さあ、行こう』

 

 

 

 私はその言葉を聞いてドキッとした。

 

 

 夢で見たあの大男の口元がフラッシュバックする。

 

 

 思わず私は動きを一瞬止めてしまう。

 

 

『ん? どうした? 行かないのか?』

 

 

「い、いや大丈夫だ。少しぼーっとしていた」

 

 

『いつまでも寝ぼけていると路肩の石につまずくぞ』

 

 

「……わかったわかった」

 

 

『わかったは一回で十分だ』

 

 

「へいへい」

 

 

『へいも一回だ! おい! 聞いているのか⁉』

 

 

 私は弥怒を軽く流しながら手に力を込め、取っ手をガチャリと回す。

 

 

 開かれた扉の先には朝露に濡れた草木の垣根と、璃月港へと続く小道がまばゆい朝日に照らされてキラキラと輝いていた。



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護法戦記 6話 璃月小路

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
私の頭の中に住んでいる護法夜叉弥怒に現代の璃月を見せるため、私は璃月港へと出発した。
今の璃月を見たら、弥怒は腰を抜かすんじゃないだろうか。
その姿を見られないことだけが、残念で仕方ない……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 穏やかな風がうぐいす色の原野に広がる草葉を撫で、ほのかな潮の香りを運ぶ。

 

 太陽は薄い雲を纏い、柔らかな日差しが雄大な璃月の大地を温める。

 

 私の家から続く小路は別の道と合流するたびに幅が広くなり、やがては璃月港へ続く大通りとなった。

 

 荷車を押す商人や鉱山へ買い付けに行く集団など、通りで人とすれ違う回数がだんだんと増えていく。

 

 まだしばらくは歩く必要があるにもかかわらず、港の賑わいを早くも感じることができた。

 

 

「なあ弥怒よ」

 

 

『なんだ』

 

 

「今こうやって私は弥怒としゃべっているが、周囲に弥怒の声は聞こえないのか?」

 

 

『ああ。聞こえないだろう』

 

 

「ともすれば、私はひとりぶつぶつ呟いている怪しい人物に見られてしまうということか」

 

 

 私はあごに手を当て考える。

 

 今まで気にも留めていなかったが、これは盲点だった。

 

 外に出ることで初めて気づいた問題点である。

 

 

 自宅の中であれば、どれだけ独り言をこぼそうが、叫び声を上げようが誰も咎めない。

 

 しかしこれから向かうは天下の大都会、璃月港だ。

 

 その盛況ぶりはテイワットでも類を見ないと言われている。

 

 私はそんな交易の要ともいえる場所で、狂人として有名にはなりたくない。

 

 

 気をもむ私の心を読んでか、弥怒がゆったりと私をなだめた。

 

 

『気にする必要はない。お主がしゃべらずとも己れと会話することはできる』

 

 

「本当か⁉」

 

 

 突然大声を出したせいで、近くで荷車を引いていた牛が驚いていなないた。

 

 牛の手綱を持つ男が眉をひそめてこちらを睨みつけてくる。

 

 早速やってしまった、と思った。

 

 私はあわてて会釈をし、早足でその場を立ち去る。

 

 

 額に浮かんだ冷汗をぬぐいながら、私はひそひそ声で弥怒に懇願した。

 

 

「おい弥怒、その会話する方法というのを早く教えてくれ。先ほどもそうだが、このまま璃月港に入ると確実にまずいことになる」

 

 

『まあそう慌てるな。男ならもっとこう、どっしりと構えぬか。見よ、空は青く晴れ渡り、大地からは豊かな岩元素を感じる。この時代が豊かである証拠だ。うむ、すばらしい』

 

 

「はぁ……」

 

 

 思わず盛大なため息をついた。

 

 この男、弥怒と私では考え方も、生きていた時代も、時間の感覚も、存在でさえまるで異なる。

 

 確かに彼の言っていることに心から頷き、共感したいという憧れは依然として私の心の内にあった。

 

 なんてったって、彼は仙衆夜叉のひとりなのだから。

 

 

 だがしたいこととできることはまるで違う。

 

 悲しいことに、私の心は弥怒に比べてはるかに打たれ弱く、小心で、人目を気にするものだった。

 

 体も生前の彼のように大きくなく、その辺の鉱夫にさえ喧嘩では勝てないだろう。

 

 身の丈に自分の存在を合わせることは、弱者にとって非常に重要なことだ。

 

 無理をして背伸びをすれば、いずれ痛い目を見る。

 

 それは、私が過去で得た最大の教訓なのだ。

 

 

 いくら私の頭の中に夜叉のような強大な存在がいたとしても、私自身のどこかが変わったり強くなったわけではない。

 

 意味もなく人目に付くような行動を取れば、余計ないざこざを生む。

 

 悪目立ちは避けるべきだ。

 

 

「すまない弥怒。弥怒のように悠然と他人を気にせず景観や人々を観察できれば良いのだが、私にはどうもそれはできそうにない。とはいえ、弥怒と会話ができないと後々困ったことになりかねない。簡単でいいから、口に出さずに弥怒と会話する方法を教えてくれよ」

 

 

『ん、なんだ、しょうがない奴だな』

 

 

 やれやれと言った様子で弥怒は応じてくれた。

 

 なんだろう、弥怒の扱いが少しだけわかってきた気がする。

 

 弥怒は頑固で独特な価値観を持っているが、悪い奴ではない。

 

 やや行き過ぎた点もあるが、なにかと面倒見がいい男なのだ。

 

 なので少しこちらが下手に出れば、それをむげにすることはない。

 

 

『ふむ、そうだな。まあなんだ、心に言いたいことを思い描けばよい』

 

 

「ん? なんだ、そんなことでいいのか?」

 

 

『ああ。試しにやってみるといい』

 

 

 私は立ち止まり、目を閉じて心に言葉を思い浮かべる。

 

 

「……どうだ?」

 

 

『すこし、言葉の輪郭がぼやけているように感じるな。ううむ、そうだな。本を書く時のように、心に文字を浮かべてみよ』

 

 

「本を書く時のように、か」

 

 

 私は再び瞼を閉じると、本を書く時をイメージする。

 

 自然と肩の力が抜け、頭の中にすらすらと文字が浮かんできた。

 

 

(こんな感じだろうか?)

 

 

『おう、分かりやすくなったぞ』

 

 

(しかし、不思議だな。弥怒は今の時代の璃月文字は読めないのだろう? なぜ、頭の中の文字は読むことができるのだ?)

 

 

『それはなぜだろうな。己れも理由はよく分からぬ。だが恐らく、己れはお主が頭に浮かべた文字を文字として読んでいるのではなく、言葉が持つ固定化された概念を読み取っているのだろう』

 

 

(なんだか難しい話だな)

 

 

 私は目を開けたままでも頭に言葉を浮かべることができたので、訓練もかねて再び歩きはじめる。

『そうだろうか。ふむ、わかりやすいよう試しに、何か食べ物を思い浮かべてみるがいい』

 

 

(これでいいか?)

 

 

 私は頭の中に赤くみずみずしい熟れたリンゴを思い浮かべてみた。

 

 

『おお、甘い匂いがしてきたぞ。果実か? 赤い色だな。そんなに大きくはないな。ふむ、リンゴ、だな?』

 

 

(正解だ)

 

 

『では次に、別の食べ物を言葉で思い浮かべてみよ』

 

 

(わかった)

 

 

 私は頭の中に“モラミート”という文字を浮かべる。

 

 すると弥怒がすぐさま反応した。

 

 

『なんだこれは。モラミート、か。面白い』

 

 

(もうモラミートがなんだか分かったのか?)

 

 

『ああ。イメージだけでは伝わるものが限定されている。しかし、言葉は違う。お主の記憶が言葉に色を付け、イメージはより鮮明に具現化する。今己れの目の前には、まぎれもないモラミートが見えている。だが……』

 

 

 流ちょうにしゃべっていた弥怒は、最後に言葉を濁した。

 

 

(だが、どうしたのだ?)

 

 

『……』

 

 

 弥怒は答えない。

 

 何か考え事をしているのだろうか。

 

 私が自分の頭の中で耳を澄ませるという変わったことをしていると、弥怒がポツリとこぼした。

 

 

『このモラミート、旨いという記憶があるのだが、食べてもあまり味がせぬ……』

 

 

 

「ぷっ、はははははっ」

 

 

 思わず吹き出してしまった。

 

 あまりにしょぼくれた弥怒の声が、面白過ぎたからだ。

 

 慌てて周囲を見回したが幸い人の波は途切れていて、白い目で見られずに済んだ。

 

 

(そりゃそうだ、弥怒)

 

 

『どういうことだ?』

 

 

 弥怒が不服そうに尋ねてきた。

 

 私は小刻みに揺れる腹を抱えながら、頭に言葉を思い描く。

 

 

(モラミートを私が最後に食べたのは、私がまだほんの小さな子供のころ。味なんてとうの昔に忘れてしまっている。子供ながらに旨かったという記憶しか私の中にないのだから、味がはっきりしないのは当然さ)

 

 

『ぬぅ……』

 

 

 とても残念そうな弥怒の声が聞こえてきた。

 

 目じりに浮かんだ笑い涙をぬぐいながら、さすがに私も多少の罪悪感を感じる。

 

 

(なあ、弥怒。そう落ち込むな)

 

 

『そう言われてもな。この旨いという記憶は否が応でも己れの心を昂らせる。それに比べこのような塩気すらない口当たりは、なかなか来るものがあるぞ』

 

 

(だったら、もう一度記憶を上書きすればいいじゃないか)

 

 

『上書き?』

 

 

(簡単なことさ)

 

 

『んん?』

 

 

 いぶかしがる弥怒の声をよそに、私は深呼吸をして鼻から胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。

 

 いつの間にかそよ風の中には、潮の香りだけでなくかすかに香辛料の匂いが加わっていた。

 

 

『おおっ!』

 

 

 弥怒が思わず歓声を上げる。

 

 

 

 私が足をかけた石橋の先に現れたのは、鮮やかな色をした無数の看板とひしめき合う料理店の数々。

 

 店と店のわずかな合間からは海がのぞき、水面がキラキラと日光を反射している。

 

 比較的屋根の低い商店街のさらに先には、朱色をあしらった立派な建築物たちが雲を貫かんと競うようにそびえ立つ。

 

 そのまま空へと目線を上げれば巨大な天空城、群玉閣がこの巨大都市を雲の合間から優雅に見下ろしていた。

 

 

 

『これが、この時代の璃月港、か……』

 

 

 弥怒は息を飲み、そのまま言葉を詰まらせる。

 

 凡人の私には、今弥怒の目が何を見つめているのかわからない。

 

 荘厳な璃月建築に文化の発展を見ているのだろうか。

 

 道行く人々の多さに、人類の進歩を感じているのだろうか。

 

 はたまた広場で野良犬と戯れる子供たちに、この時代の平和を感じているのだろうか。

 

 いずれも正しく、そうではない気もした。

 

 

 きっと弥怒の目には弥怒が生きていた時代の璃月と、目の前の璃月が重なって見えているはずだ。

 

 無理もないだろう。

 

 弥怒からすれば長い眠りについていた期間の記憶はなく、彼の数日前はなん百、何千年前の一日なのだから。

 

 

 私は足元にじゃれついてきた、物欲しそうな目でこちらを見る犬を軽くあしらいながら商店街へと歩を進める。

 

 数えきれないほどの露店が軒を連ねる中、ひときわ賑わいを見せている店へと私は向かった。

 

 その店の外観は、通りにある他の店とあまり変わらない。

 

 むしろ、新しく改装をした店と比べればやや古めかしくも見える。

 

 だがこの店を知らずして、璃月人と名乗ることは許されない。

 

 

 

 店の名を“万民堂”という。

 

 

 

 昼にはまだ早いというのに、十数人ほどの列がすでにできあがっていた。

 

 私はその後ろに並ぶも、店の回転率がいいのか、厨房の手際がいいのかどんどん列ははけていき、あっという間に私の番となる。

 

 

「いらっしゃい! お客さんは中で食べていくかい? それとも持ち帰りで?」

 

 

 店主の卯が元気よく私を迎え入れる。

 

 その笑顔につられ、つい私も頬が緩んだ。

 

 万民堂が璃月の人気店なのは、決してその味だけが理由ではない。

 

 飾り気のない笑顔で気前のいい店主に、手ごろな価格。

 

 もっと高級な食材を使えばいくらでも儲けをだせるはずなのに、万民堂はあえて庶民的な食材にこだわりを見せる。

 

 一見すると家庭でも作ることのできる料理なのに、同じ味を出すことは非常に難しい。

 

 技術に裏付けされた絶妙な味付けは、客の足を再び万民堂へと向かわせるのだ。

 

 多くの人に料理を楽しんでもらいたいという店主の願いから、価格を抑えるために内装は質素なまま。

 

 にもかかわらず実は群玉閣のお偉いさん方でさえ、お忍びでこの店に通っているというのは璃月人なら誰もが知る事実だ。

 

 

「持ち帰りで、モラミートを一つ頼む」

 

 

『っ! そういうことか!』

 

 

 私の注文を聞いて、弥怒が頭の中で声を上げた。

 

 

(ご明察!)

 

 

 そう、味の記憶が薄れたのであれば、その記憶を新しい記憶で上書きすればいいだけのこと。

 

 そうすれば私の頭の中に住む弥怒でも、現代のモラミートの素晴らしい味わいを隅々まで堪能できる。

 

 

『なるほど、名案だ!』

 

 

 モラミートを味わえると知ると、弥怒は上機嫌になった。

 

 

「あいよ、モラミートひとつね! ……あ」

 

 

 注文を受けた卯は何かを思い出した様子で、不意にその動きを止めるとカウンターから身を乗り出し、私に耳打ちしてきた。

 

 

「なあ、お客さん。いつものモラミートと、ちょっと変わったモラミート、どっちがいい?」

 

 

 私が驚いた顔で見返すと、店主はにかっと白い歯を見せた。

 

 

「卯さん、もしかして……!」

 

 

「ああ、そうさ! そのもしかしてだ!」

 

 

「ではもちろん、変わったモラミートの方で!」

 

 

「あいよ‼」

 

 

 暗号のような会話がリズムよく進み、あっという間に注文が済んでしまった。

 

 

『お、おい、大丈夫なのか?』

 

 

 心配性な弥怒が不安げに訪ねてくる。

 

 

(弥怒よ、今回ばかりは私を信用してほしい。めったにないチャンスなんだ)

 

 

『どういうことだ、もっとわかりやすく説明してくれ』

 

 

(この店、万民堂は璃月の名店だ。味は保証する。だがこの万民堂の味は、不定期に超進化を遂げるんだ)

 

 

『まてまて、話が見えない』

 

 

 動揺する弥怒の声を遮るように、卯が厨房へと声を張り上げた。

 

 

「おーい、香菱! 新作の変わったモラミート一丁!」

 

 

「はいはーい!」

 

 

 万民堂の厨房に女の子の明るい声が元気よく響き渡る。

 

 

(万民堂店主の娘さん、天才シェフの香菱ちゃんが今回の旅を終えて厨房に立っているんだよ!)

 

 

 私は勘定を済ませると、あふれ出そうになるよだれを何とか飲み込み期待に胸を膨らませた。

 

 

『なるほど』

 

 

 合点が言った様子で弥怒のほっとした声が聞こえてくる。

 

 ほどなくして厨房の方から、猪肉と香油の芳ばしい匂いが店の外まで漂ってきた。

 

 その香りにつられたのか、私の後ろの列はさらに成長し今や最後尾は広場まで届く勢いだ。

 

 と、万民堂の奥から軽やかな足音がトトトっとこちらへと近づいてくる。

 

 

「おまたせーっ!」

 

 

 黒髪短髪の少女、香菱がカウンターから顔を出した。

 

 店主の卯を押しのける勢いで、香菱は白い包み紙を持つ手を私の目の前まで精いっぱい伸ばす。

 

 ホカホカと湯気の立つ包み紙を受け取ると、途端に腹が音を立てて鳴った。

 

 包み紙を開けてみてみると、それは一見普通のモラミート。

 

 素朴な味わいの璃月の蒸しパン、包子にはぎっしりと具材が挟まれている。

 

 

「お客さん、お客さん、包子の中だけじゃなくって、外側も見てみてよっ」

 

 

「ああ……‼ こ、これはっ‼」

 

 

 包み紙と包子のわずかな隙間から、鮮やかな色彩が光を放つ。

 

 薄い包み紙は太陽の光を透過し、白い包子の表面に塗られたタレを輝かせている。

 

 

「これは……黄金……! 本物のモラと同じ……! 黄金のモラミートだ‼」

 

 

「そうなのっ!」

 

 

 香菱が顔をぱっと輝かせる。

 

 

「これはねっ、スイートフラワーの花粉を使ったタレなの! 砂糖の生成に使われる糖分を多く含んだ花びらと違って、花軸の部分はあまり甘くないから捨てちゃうんだ。でも、栄養はたっぷりだから、何かに使えないかと思って、モラミートのタレにしてみたのっ!」

 

 

 私はゴクリ思わず喉を鳴らす。

 

 

「さすが香菱ちゃん、発想が斜め上だ……。多分今までスイートフラワーの花軸を使った料理なんて、考えられたことすらなかっただろう」

 

 

 私は改めて包み紙を頭上に掲げ、太陽にかざす。

 

 

 本来であれば、モラミートの白い包子の表面には、モラの模様が焼き印される。

 

 そのため白い包子に黒いモラマークというのが一般的なモラミートの見た目である。

 

 だがその焼き印の部分を花粉が混ぜられた黄色いタレで覆うことで、まるで金粉を散りばめた本物のモラのような光沢がモラミートに与えられたのだ。

 

 

「おおっ」

 

「なんだ、黄金のモラミートだと⁉」

 

「なにそれ、すごくおいしそうじゃない!」

 

「ママー、あれほしい!」

 

 

 道行く人々が私の手元で輝くモラミートを見て、ざわめき立つ。

 

 

「はいはーい、並んで並んで! “黄金のモラミート”は数が限られてるから、お早めにねー!」

 

 

 見れば万民堂のカウンターで卯がお鍋をお玉で叩き、周囲の群衆に並ぶよう促している。

 

 “数が限られている”なんてわかりきったべたな売り言葉を使うあたりも、商人が大多数を占めるこの璃月で万民堂が愛される理由の一つかもしれないと私は思った。

 

 

 そう言った愛嬌含めて、璃月人はこの店が好きなのだ。

 

 駆け出しの商人は彼らを羨望の眼差しで見つめ、成り上がった豪商はその姿にかつての自分を思い出す。

 

 

 

 万民堂は璃月の文化を体現している。

 

 どこかの誰かが言ったその言葉は、あまりにもすんなりと人々に受け入れられた。

 

 

『……早く食べてくれないか? 己れもここまで焦らされると、さすがに気になって仕方がない』

 

 

「ああ、悪い悪い。さすがにどんな味か気になるよな。向こうに座るところがあるから、そこで食べよう」

 

 

 話し終えた瞬間、しまった、と私は青ざめた。

 

 ついつい、いつもと同じように言葉に出してしまったのだ。

 

 

「ん? お客さん、今もしかして誰かに話しかけてた?」

 

 

 声の方を見れば、カウンターの奥からくりくりとした二つの眼がこちらをじっと見つめている。

 

 周りを見ても誰一人私の発言など気にしていない中、耳がいいのか勘がいいのか、彼女だけは私の声を聞き分け首をかしげていた。

 

 

「いや、その、ははっ。気にしないでくれ、何かの間違いだ」

 

 

「ふーん、そうなんだ。お客さん、面白いね! 黄金のモラミート、食べたらぜひ感想聞かせてねっ!」

 

 

 香菱はぱっと笑顔に戻ると、弾むような声でそう伝え厨房へと戻っていった。

 

 彼女が私の発言に対しあまり気にしていない様子だったので、私はほっと胸をなでおろす。

 

 胸元に手を当てると、まだドキドキと心臓が激しく鼓動している。

 

 

『なんだ、お主。あの娘に恋でもしたのか?』

 

 

(……おい弥怒)

 

 

『どうした?』

 

 

(あまりしょうもない冗談を言っていると、このモラミート、その辺の子供に食べさせるぞ)

 

 

『……すまぬ』

 

 

 

 私は空腹も相まって、軽い苛立ちを弥怒に隠すことなくぶつけつつ万民堂を後にする。

 

 

 

 

 ちなみにその後、青空の下で港を眺めながら食べた黄金のモラミートは――めちゃくちゃ旨かった。



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護法戦記 7話 港の約束

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
璃月港で私は弥怒と一緒にモラミートを食べた。
万民堂の娘さんの腕前はやはり確かだ。また食べたい。
ん? なんだ、弥怒。
海が見たい、だって?

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


『海が見たい』

 

 

 モラミートを食べ終わりフリースペースのテーブルでくつろいでいると、弥怒が唐突にそんなことを言い出した。

 

 

(構わないが、海は昔からあるだろ? 市場が見たいのか?)

 

 

 露天のテーブルの前を人々がせわしなく行き交う。

 

 

『だめか?』

 

 

(いや、構わないが)

 

 

 私は膨れた腹をさする手を降ろした。

 

 そのまま椅子の背もたれに手をかけ、腰を上げる。

 

 

『感謝する』

 

 

(ああ)

 

 

 この言葉を発しない会話方法もだいぶ慣れてきた。

 

 先ほどの万民堂のようについ言葉に出してしまうことは、避けなければならない。

 

 また奇異な目で見られるのはごめんだ。

 

 椅子をもとの場所へ戻し、札や財布の入った鞄を肩にかける。

 

 メインストリートにひしめく数多の雑踏に、私の足が加わった。

 

 

 通りはくねくねと曲がっているが、商店街から波止場までは一本道だ。

 

 人の数は多いが、晴れ渡った青空とさわやかな潮の香りのおかげで不快感はあまりない。

 

 流れに従って歩いていると、前方からがたがたと石畳を乗り越えて走る荷車の音が近づいてきた。

 

 

「どいてどいてー。危ないよー」

 

 

 夜の仕込み用だろうか。

 

 まだ昼過ぎだというのに、波止場の市場から魚を大量に乗せた荷車が人々をかき分けながら商店街の方へと進んでいく。

 

 

 港と直結しているからこそ、璃月の魚介類は新鮮でうまいと評判だ。

 

 璃月広しと言えど、ここより新鮮な海の幸はなかなかお目にかかれない。

 

 

『賑わっているな』

 

 

 街路の脇を流れる水音と共に弥怒の声が頭に響く。

 

 

(ああ、この道はいつもこんな感じだ。ここに来ると街は生き物なんだって実感するよ。人の体に生気や元素が流れているように、街には人やモラが流れている)

 

 

『いい得て妙だな』

 

 

 それから何度も同じような荷車が背中の方へ去っていき、私の足は市場へと近づいていく。

 

 道を埋め尽くしていた人の頭が一つまた一つと脇へと逸れて行き、やがて港の市場が街路からも見えるほどになった。

 

 

『おお!』

 

 

 弥怒が歓声を上げる。

 

 

 すでに朝の競りは終わっていたが、市場は照り付ける太陽の下でも構わず活況。

 

 軒先に広げられた商品を背に商人たちが声を張り上げている。

 

 市場に売られているものは海鮮に限らない。

 

 璃月港に引き上げられたテイワット中の輸入品がごった返している。

 

 

 最近よく話題に上がるのは長い期間を経て開国を宣言した稲妻の特産品。

 

 鳴草やウミレイシの干物は漢方用、海神の大真珠は装飾用として大変人気だ。

 

 

(どうだ、私は昔の璃月港を知らないが、この盛況ぶりを見ればどの国の観光客も――)

 

『海が、穏やかだ……!』

 

 

 私の言葉をさえぎるように弥怒が感極まった声でそうこぼす。

 

 

(海……ああ、確かに今日は風も強くないが……)

 

 

 私は市場の奥に覗く海へと目をやる。

 

 この時期の海が荒れることは少ない。

 

 波は低く、波止場に泊まる船は緩やかに上下する。

 

 

 おそらく昨日、昨年、いやもっと昔から何も変わっていないぞといった様子で水面はキラリと輝いた。

 

 

(……)

 

 

 きっと弥怒にしかわからぬ何かがあるのだろう。

 

 

 ただ感動に打ち震える弥怒を邪魔するのはなんだか悪い気がして、私は口をつぐんだ。

 

 私は市場と海を見渡せる、造船所近くの資材の山に腰を下ろす。

 

 木造のデッキに柔らかな波が打ち寄せ、心地よい水音を奏でている。

 

 見上げれば澄み切った青空が水平線の彼方まで続いていた。

 

 

 

 

 

『昔、ここも戦場だった』

 

 

 

 

 弥怒は過去を懐かしむような口ぶりで語り始める。

 

 私は空を見上げたまま、その声に耳を傾けた。

 

 

『己れたち護法夜叉は、璃月にはびこる妖魔を倒すために岩王帝君のもと集結した。西に妖魔が現れたと聞けば大地を駆け、東に妖魔ありと聞けば空を駆け馳せ参じた。幾度も大きな戦いを潜り抜けた。ある日、己れたちは岩王帝君に召集を受けた。その時の帝君の声は今も忘れることができない』 

 

 

(どんな話だったんだ?)

 

 

『大きな戦になると岩王帝君は言った。そしてこの戦いを乗り越えれば、璃月に長い平和が訪れるとも。ただ……』

 

 

(ただ?)

 

 

 

 

 

『とても厳しい戦いになる、と』

 

 

 

(……まさか)

 

 

『ああ、そうだ。お主の記憶の中にあったその情報で間違いはない。その後語り継がれることとなる、渦の魔神討伐作戦だ』

 

 

 私はごくりと喉を鳴らした。

 

 

 

 港の喧騒が遠のく。

 

 まるで私の周りの空間だけが切り離されたかのような感覚に襲われる。

 

 尻の下にある資材は太陽の光を浴びてほのかに暖かいにもかかわらず、私の身体は悪寒を感じ冷汗が額から流れた。

 

 

 渦の魔神は私も知っている。

 

 その危険性も、恐怖も。

 

 ほんの少し前のことだ。

 

 

 璃月は岩王帝君の死と同時に、復活した渦の魔神に襲われ壊滅の危機を経験した。

 

 その姿はまさに海の怒りを体現したようだった。

 

 今まで私たちが獲ってきた海の幸の恨みとでもいうように渦の魔神は荒れ狂い、璃月に停泊する船の約半数が何かしらの損害を受けた。

 

 取り繕ってはいるが、見渡せばすぐにわかるだろう。

 

 港の石壁にはまだ補修の済んでいない亀裂がところどころ走っているし、ウッドデッキはところどころが新品の木材でつぎはぎされている。

 

 再建された群玉閣も一回り小さく、以前ほどの大きさではない。

 

 

 厚くどす黒い雲の下、幾本もの巨大な首を持ち上げる渦の魔神オセルの姿は、璃月人に恐怖を刻み込んだ。

 

 

『当時、渦の魔神は無限とも思える海の妖魔を束ね、何度も璃月を襲った。かの魔神の起こした津波はこのあたりの山を軽々と飲み込み、内陸深くまで押し寄せた。波は無差別に、無慈悲に、無感情にすべてのものを奪っていった。大地も、草木も、建物も、人の命も』

 

 

 弥怒は淡々と言葉を続けた。

 

 しかしそれが余計私の想像力を掻き立てた。

 

 天から降り注ぐ大岩のような水の塊が大地を抉り、茶色く濁った濁流が視界を埋め尽くす。

 

 そんなイメージが頭の中で再生された。

 

 

『己れたちは戦った。砂浜で、波の上で、水の中で。多くの夜叉が命を落とした。皆、勇敢だった。誰もがこの璃月の平和を願い、愛する大地のために命を散らした。戦い、戦い、戦い抜いた』

 

 

 頭上でカモメが甲高い声で鳴いていたが、私はそちらへ顔を向けることもなくじっと弥怒の話に耳を傾ける。

 

 

 別にそうしろと言われたわけでもないが、そうしなければならない気がした。

 

 海から押し寄せる魔神の配下と戦い、無残にも波にのまれていく戦士たちの姿が目の前でありありと再現される。

 

 誰もが皆、必死だった。

 

 それらの光景から決して目をそらしてはいけない。

 

 そう、思ったからだ。

 

 

 弥怒は声のトーンをわずかに落とす。

 

 

『だが己れは心猿大将。多くの夜叉を従える者。決して涙など見せてはならない。常に笑みを絶やさず、部下たちの背中を押し、来る日も来る日も戦場へと送り出した。たとえその数が日を跨ぐごとに一つ二つと減っていっても、だ』

 

 

 私はたまらなくなり、瞼を閉じ拳を強く握りしめる。

 

 元来戦とはそういうものだ。

 

 戦いが激しくなればなるほど、双方の被害は甚大になる。

 

 歴史書を見ても、似たような話はどこにでも見受けられた。

 

 だが、書で読むのとそれを経験した人物から当時の状況を口で伝えられるのでは、臨場感がまるで違う。

 背中が汗でぐっしょりと濡れ、服が張り付いていた。

 

 言いようのない不快感を感じながら私は深く息をつく。

 

 

(なんというか、壮絶、だな)

 

 

『そんな言葉で片付けられるほど甘くはなかった。ああ、言葉とは不便なものだ。時として言葉が及ばない状況というものは訪れる。しかし、それを表す適切な言葉はなかなかない。しかし己れはあの戦いで何とかこの札を残すことができ、今こうして穏やかな海を眺めることができた。己れの墓場を死んだ後に見るとは、なんとも不思議な気分である。はっはっは』

 

 

 弥怒は笑ったが、私は笑えなかった。

 

 瞼を開け、海を臨む。

 

 

 相変わらず海は静かで、とても我々に牙を剥くようには見えない。

 

 

(そうか……その戦いで、弥怒も――)

 

 

『ああ。だが、お主の言葉を聞いて安心した。降魔大聖と会ったことがあるのだろう? あやつは生き延びたのか、あの戦いを。他の夜叉はどうなったのだろうか。何か知っているか、お主は』

 

 

 私は目の前に弥怒の姿はないのに、ひとり首を横に振った。

 

 

(いや、夜叉に関する書籍はとても少ない。仙衆夜叉が今どれだけ残っているかは誰もわからないんだ)

 

 

『そうか……残念だ。己れは生前、他の夜叉たちと約束を交わした。……結局、それを守ることはできなかったが。それが、それだけが悔いとして今も強く心に残っている。お主も多少はそのような経験があるだろう?』

 

 

「はっ」

 

 

 私は思わず鼻で笑ってしまう。

 

 

(そんなたいそうなもの、私にはないよ、弥怒。あるのは、破られるべくして破られた約束だけだ。達成されることがないことをわかっていて、私は多くの人と契約を交わし、それを反故にしたのだから)

 

 

『反省したのであれば、気にすることはない。もちろん契約は大切だ。破れば罰を受ける。それは岩王帝君が定めたこの国の基礎であり、璃月を璃月たらしめる最も大切な決まりでもある。だがな、己れは思うのだ。契約とは、努力しなければすぐに破れてしまうもの。それに心血を注ぎ維持しようとする心こそ、岩王帝君が一番愛していたものではないのだろうか、とな』

 

 

(金言、だな)

 

 

 私は苦笑いを浮かべながら、そう頭の中に言の葉を形作る。

 

 弥怒の言葉は、それを実行してきた弥怒だからこそ口にできるものだ。

 

 それがどんなに素晴らしい言葉でも、私ごときが頷いてよいものではなかった。

 

 

(だが私にはその言葉はあまりにもまぶし過ぎる)

 

 

 だからつい、そんな弱音を吐いてしまった。

 

 

『なんだ、弱気だな。女が逃げるぞ』

 

 

(そういう問題じゃないだろ。はあ、自分がみじめになるよ。まあ護法夜叉ご本人と、怪しい物書きとじゃまさに雲泥の差、当たり前の話だが)

 

 

『ふむ、だが契約は守ってもらうぞ』

 

 

(ん? 契約?)

 

 

『ああそうだ。己れの手となり足となり、この世界をどこまでも自由に闊歩させてくれるのであろう?』

 

 

(うぐっ、確かに私はそう言ったが、どこまでも自由にとまでは言っていないぞ)

 

 

『ほう、なるほど。ではあれは契約ではないと』

 

 

(そういわれれば契約に違いないが、その場の勢いというか、なんというか。うん、なんか釈然としないな……)

 

 

『ではこうしよう。きちんと新たな契約を結ぼうではないか。何もしなければ破れてしまう、だが少しの努力で実現可能な新たな契約を。そうすればお主の負担となるまい』

 

 

(いいのか?)

 

 

『いいとも。心猿大将は心が広いことで有名だ』

 

 

 私は自室の片付けで事細かに指定をしてきた弥怒を思い出す。

 

 

(それは誠か?)

 

 

『ええいうるさい、御託を並べるならこっちが勝手に内容を決めるぞ。そうだな、先ほど食べた食べ物、名前は何だったか……』

 

 

(モラミート)

 

 

『そう、それだ。仙衆夜叉は普段人とは異なるものを食すため、料理というものに疎い。だが、食べてみると意外と悪くなかった。なにか、もっとお主がお勧めできるものを教えてくれ』

 

 

(なんだ、そんなことでいいのか。それならすぐに契約を果たせるぞ。待てよ、今頭に思い浮かべる)

 

『まてまてまてまて!』

 

 

 頭の中で弥怒があわてて私を止めにかかる。

 

 

(ん? どうして止めるんだ?)

 

 

『己れは、先ほどのモラミート、だったか。あれと同じように、お主が食べたばかりの、新鮮な記憶で味を楽しみたいのだ。数日前に食べた曖昧な味でごまかされたくはない』

 

 

(ああ、なるほど。そういうことなら早く言ってくれればいいものを)

 

 

『そんな隙など無かったではないか! まったく、お主というものは。で、何を食べさせてくれるのだ?』

 

 

 私はいくつかある候補の中から厳選し、ある食べ物を提案した。

 

 もしかすると弥怒の前にはその食べ物が浮かんでしまっていたかもしれないが、彼がそれに手を付けることはないだろう。

 

 

(杏仁豆腐、だ)

 

 

『ほう、それはどんな……いや、やめておこう』

 

 

(望舒旅館という場所があってな、そこで出される杏仁豆腐が絶品なんだ)

 

 

『そいつは楽しみだ。よし、契約成立だ。お主は己れの手となり足となり、そして舌となってその杏仁豆腐を食すのだ。よいな?』

 

 

(ああ、約束する。一緒に望舒旅館からの絶景を臨みながら、舌鼓を打とうじゃないか)

 

 

 こうして私と弥怒はふたりだけの、もはや口約束と言われればそれまでの、小さな小さな契約を確かに交わしたのだった。

 

 

 

 

 気が付けばだいぶ時間が経っていたようだ。

 

 私は凝り固まった体を背伸びしてほぐし、手にかいていた汗を服の裾でぬぐった。

 

 

(さて、少し日も傾いてきたことだし、他の場所でも見て回ろうって、ん?)

 

 

 私は自分の肩を誰かに叩かれた気がして、振り返った。

 

 

 だが、そこには誰もいない。

 

 

(あれ? おかしいな、さっき確かに肩を叩かれた気がしたんだが……)

 

 

「ばぁっ‼」

「うわぁ‼」

 

 

 突然、目の前に女の子が飛び出してきた。

 

 私はびっくりして飛び上がったものの、資材に足を引っかけ背中から資材の山に倒れこんでしまった。

 

 

「あはははははは、お客さん大げさだねぇ!」

 

 

 転んだ拍子で目に額の汗が入り、ひどく染みる。

 

 うまく目が開けられない。

 

 かすむ景色の中で、少女のシルエットが黒く浮かび上がる。

 

 日はまだ出ているので、陰で少女が黒く見えているわけではない。

 

 彼女の着ている服それ自体が、まるで喪服のように黒いのだ。

 

 

「ほら、私の手を握って」

 

 

 私は目をしばたかせながら伸びてきた手を掴む。

 

 握った掌は小さく、柔らかかった。

 

 

 だが私を引き寄せる力はまるで成人男性のように力強く、気が付けば私は元の場所に立たされていた。

 

 

 目をこすり、私は改めて少女を見た。

 

 背丈は私の肩ほどで、黒の帽子をかぶり、黒のトップスに黒のボトム。

 

 まさに全身黒づくめ。

 

 

 差し色として目についたのは、帽子に差された真っ赤な梅の花。

 

 まるで噂に聞く葬儀屋のような出で立ちだった。

 

 

「あれれ~? その表情だと、もしかして私のことご存じない? あちゃー、まだまだ営業が足りないね、うん、間違いない!」

 

 

 ひとりで会話を進め、腕を組み頷く少女に私はあっけにとられる。

 

 

「す、すみません、どちら様でしょうか……?」

 

 

「よくぞきいてくれましたっ!」

 

 

 少女は指をパチンと鳴らし、くるりと目の前で一回転する。

 

 

 そして声高らかに言い放ったのだ。

 

 

 

 

「私は往生堂七十七代目堂主……胡桃だよっ‼」

 

 

 

 

(誰だ……)

『誰だ……』

 

 

 

 その日、恐らく今までで初めてだろうか。

 

 弥怒の声と私の心の声が寸分たがわず同時に、脳内に響き渡ったのであった。



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護法戦記 8話 勧誘

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
ひょんなきっかけで出会った護法夜叉、弥怒と共に璃月港に来ている。
そこで胡桃と名乗る怪しげな少女が私の前に立ちはだかった。
自身を往生堂七十七代目堂主だという。
……胡散臭い……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


「さあさあ、ここであったが運の尽き……じゃなくって、袖振り合うも他生の縁ってことで、往生堂はただいま絶賛キャンペーン中! そんなタイミングで出会えたあなたは運気も絶好調! あーっと! なんという偶然、こんなところに運試しができるくじ引きセットがっ! せっかくだから、お客さんのその運気、試してみない? ねぇ、ねえ!」

 

 

「お、おう……」

 

 

 突然現れた胡桃と名乗る少女は、帰終機の矢嵐のように言葉を繰り出す。

 

 その剣幕に思わず圧倒される。

 

 目を白黒させているうちに、胡桃は私の目の前に両手で抱えた黒い箱を差し出してきた。

 

 箱の上部には丸い穴が開いていて、胡桃が箱を軽く上下するたびに中からカラカラと木のぶつかり合う音が聞こえてくる。

 

 

「えっと、これって」

 

 

「いいからいいから! さあ早く早く‼」

 

 

 だめだ。

 

 この少女、聞く耳を持たない。

 

 まるで片付けられていない部屋を見つけた弥怒のように、くじを引かなければてこでも動かなそうだ。

 

 

『今何か余計なことを考えてはおらぬか?』

 

 

(なんでもない、弥怒は少し静かにしていてくれ)

 

 

『ぬう』

 

 

 ただでさえ目の前が騒がしいのに、頭の中まで騒がれてはかなわない。

 

 私は早急に弥怒へくぎを刺し、改めて胡桃が持つ箱へ目をやった。

 

 

 上質な木材で作られた、がっしりした箱だ。

 

 いやむしろ、ただがくじ引き用の箱にしてはがっしりしすぎている。

 

 なにより色がまずい。

 

 その箱はまるで夜の闇を思わせるかの如く真っ黒に塗装されていて、なんというか……小さな棺桶のようだった。

 

 

 そっと箱の穴を覗き込むと箱の中はまさに暗黒。

 

 まるで深淵がぽっかり口を開けていて、私の腕を飲み込もうとじっと待ち続けているような錯覚さえ覚える。

 

 

「な、なんだかこの箱、禍々し」

 

「ほいっ!」

 

 

 

「…………へっ⁉」

 

 

 まさに早業だった。

 

 目にもとまらぬ速度で胡桃は箱を片手で持ち直し、空いた手で私の手首を掴む。

 

 そしてまたもやあの怪力で、私の右腕が引き抜けるほどの勢いで引っ張ったかと思うと、一直線に箱の穴へと突っ込んだ。

 

 まばたきをする暇さえ与えてもらえなかった。

 

 あまりの展開の速さに、脳の処理がまるで追い付かない。

 

 

 

 おかしい。

 

 いろいろとおかしい。

 

 

 なんだこの強引な堂主は。

 

 というか、痛い。

 

 ジンジンと指先が遅れて痛みを伝えてくる。

 

 

 すごい勢いで箱に手を突っ込まされたため、中に入っていた木札に私の指先が激突していた。

 

 

 確実に突き指したぞこれ。

 

 

「選んだ?」

 

 

 胡桃は屈託のない笑みを浮かべて小首をかしげる。

 

 

「わかった、わかったから! 手を放して! ちゃんと選ぶから!」

 

 

 私は悲鳴に似た声を上げた。

 

 胡桃が握りしめる手に力が入り始めていたからだ。

 

 正直これ以上状況を悪化させたくなかった私は、自ら彼女の意向に従う意思を示した。

 

 

「じゃあそれを取り出して私に見せて!」

 

 

「わかったよ……うへぇ」

 

 

 木札を取り出して私はさらにげんなりする。

 

 取り出した札は、葬式で使われる木簡のミニチュアバージョンだった。

 

 

『趣味がいいとは言えんな』

 

 

 思わず弥怒の言葉にうなずいてしまう。

 

 

「あれ? どうかした?」

 

 

 すかさず胡桃が顔を覗き込んできた。

 

 

「い、いや、こっちの話だ」

 

 

「ふぅん? まあいいや、出た札を拝借っと。おおっ! これはすごいよ! お客さん‼」

 

 

 胡桃は私から取り上げた札を見て歓声を上げる。

 

 

 ここまでの流れがあったので、あまりいい予感はしなかった。

 

 

 だが、すごいよ、とまで言われるとつい内容が気になってしまうのは私だけだろうか。

 

 分かってはいても、怖いもの見たさも相まって多少の興味がわいてしまった。

 

 

「な、なんて書いてあったんだ?」

 

 

 私はできるだけ声の抑揚を抑えて胡桃に尋ねる。

 

 

「あれれ~? さっきまで興味なさそうだったのに、やっぱり気になっちゃう? 気になるよねぇ! どれどれぇ……うわっ、おめでとう! パンパカパーン! 大当たり~!」

 

 

 胡桃は満面の笑みでファンファーレを口ずさんだ。

 

 

 大当たりと聞くと、なんだか悪い気はしない。

 

 

「大当たりの景品は……お客さんのお葬式がなんと半額! おまけにひとりまでなら追加料金不要! つまり実質七十五パーセントオフっ! さらにさらに! 私が七十七代目堂主ということで、さらに二パーセントオフ! 驚異の七十七パーセント引きだよっ‼」

 

 

 ……前言撤回。

 

 

 少しでも期待した私が馬鹿だった。

 

 

「……えっと、間に合ってます」

 

 

「チッチッチ、甘いねお客さん。人は必ず死ぬんだよ。誰しもが絶対一度は経験するお葬式! 安い方がいいと思わない? ああっ、ちょっと! 行かないで! あ、もしかして安くなったからってお粗末な葬式になることを心配してる? 大丈夫だから! ちゃんと立派なお葬式をあげるから!」

 

 

 私は踵を返し、歩き始めた。

 

 背後で何やらきゃあきゃあと声が聞こえるが、気にしてはいけない。

 

 ああいう手前に関わると余計なことに巻き込まれる。

 

 

 本能がそうささやいていた。

 

 

「ねぇ、まってよ~! 今なら未練がある魂の浄化ツアーもおまけでつけてあげるから~!」

 

 

『……! お主、待ってくれ』

 

 

 唐突に今まで静かにしていた弥怒が私を呼び止めた。

 

 

(どうした、弥怒)

 

 

 私は足を止める。

 

 

「あれ? もしかしてそっちの方に興味あり? ま、まあ、あくまでおまけだからね? 除霊しているところを見てもらうだけで、幽霊が見えるかどうかは、ほ、保証の範囲外だけどねっ?」

 

 

 ツアーの方はあまり自信がないのか、胡桃は急に歯切れが悪くなった。

 

 

『あの娘、往生堂と言ったな。往生堂なら己れも昔耳にしたことがある。なんでも死者と交流する術を持つ葬儀屋がこの国には存在すると』

 

 

(……え? それは本当か?)

 

 

『ああ。間違いない。あの娘が本当に往生堂の七十七代目当主だとすればの話だが』

 

 

 私は振り返り、胡桃を見る。

 

 あはは、と愛想笑いを浮かべる少女からは弥怒が語ったような威厳や歴史は微塵も感じられない。

 

 

「ま、まあ、興味があるんだったらさ、明日の朝往生堂を訪ねてよ。ツアーはちゃんと案内するからねっ! やばい……こんなおまけに興味があるなんて……準備全然してなかった……」

 

 

 最後の方はごにょごにょとよく聞き取れなかったが、“準備全然してなかった”だけはしっかり聞き取れた。

 いや、聞き取れてしまった。

 

 

「そ、それじゃっ」

 

 

 胡桃はこちらが返す挨拶もろくに聞かず、私に背を向けたかと思うと風のように立ち去ってしまった。

 

 

 

 

(なあ弥怒。胡桃を信頼しても大丈夫だろうか)

 

 

『まだ、分からぬ』

 

 

(しかし意外だな。まさか弥怒が葬式に興味があるなんて。今と昔の葬式様式でも比べるつもりか?)

 

 

『まさか。己れが気になったのは、娘の言う未練のある魂、という言葉だ』

 

 

(未練のある魂……)

 

 

 私は思わず弥怒の言葉を反芻する。

 

 

『ああ。己れは多くの戦友を失った。もしかすると、己れが交わした約束を待ち、あの世に旅立てぬ魂があるのではないかと思ってな……』

 

 

(それって、少し前に話していた、夜叉と交わした約束のことか?)

 

 

『……そうだ』

 

 

 弥怒は苦々しげに、歯の間から振り絞るように肯定の意を示した。

 

 私は返す言葉がなかった。

 

 戦場に出る夜叉たちと交わされた、最後の約束。

 

 それがどのような内容なのかは想像もつかない。

 

 だが恐らくそれが果たされなかったからこそ、弥怒は今こうして後悔の念を抱いているのだろう。

 

 そこに私の意思が介在する余地など、どこにもない。

 

 弥怒がどの夜叉との約束を気にしていたのか不謹慎にも気になってしまったが、さすがにそれを聞くのは野暮だと思いとどまった。

 

 

『すまぬが、明日』

 

 

(構わないさ、弥怒)

 

 

『恩に着る』

 

 

(ああ)

 

 

 目線を足元に落とせば、影が長く伸びていることに気が付いた。

 

 振り返れば燃えるような夕焼けが高くそびえる山々を煌々と照らしている。

 

 

(今日はもう遅い。帰ろう)

 

『そうだな』

 

 

 私たちは言葉少なくそう交わした。

 

 

 ややうつむきがちな姿勢でポケットに手を突っ込んだまま、私は波止場から元来た道を戻り始めた。

 

 

 

      ※

 

 

 

 ちょうど璃月港の入り口、石でできた大橋に差し掛かった時だった。

 

 

「あ」

 

 

 少し眠そうな声が前方から聞こえて私は顔を上げる。

 

 

「ん?」

 

 

 見れば山のように積まれた草かごを背負う幼い少女が、ぼーっとこちらを見つめている。

 

 

「おや、あなたはいつぞやの……」

 

 

 少女の手を引いていた青年が、眼鏡をくいと持ち上げた。

 

 

「ああ、白朮先生に七七さんじゃないですか。こんなところで出会うとは。薬草取りの帰りですか?」

 

 

「ええ。ちょうど薬草を切らしていたので、裏手の山まで少し」

 

 

 白朮先生がそう答えた時、海の方から少し強めの潮風が吹いてきた。

 

 

「あぁ……」

 

 

 七七の帽子から垂れ下がっている札が暴れ、小さな手がわたわたしながらそれを追いかける。

 

 ようやく風が収まると、七七は慎重に札の位置を調節した。

 

 

「えっと……すみません。前から気になっていたのですが、七七さんが頭から下げているその札は一体……」

 

 

「ああ、これですか……」

 

 

 白朮先生は軽く七七へ目くばせを送る。

 

 

「ん。別に大丈夫」

 

 

「いいのですか? しゃべっても」

 

 

 七七と白朮先生はなにやら頷きあうと、私に向き直り再び笑顔を浮かべた。

 

 

「すみません、一応彼女に確認しておこうと思いまして。少しショッキングな話なものですから。実は彼女、七七は俗にいうキョンシー、なのです」

 

 

「きょ、キョンシー……。動く死者の兵士と呼ばれる、あのキョンシーですか?」

 

 

「そうです。ですが、七七は普通のキョンシーではありません。御覧の通り自我を持っています。物語や書籍に見受けられるキョンシーは、術者の命令が書かれた勅令札を頭に張り付けなければ行動することすらできません。しかし七七は自分自身に勅令を下すことができる特別なキョンシーです。この札は、彼女が彼女自身に指示をする際に張り付ける勅令札なのです」

 

 

「そ、そうだったんですね。にわかには信じがたいですが、キョンシーであればあの怪力も納得だ……」

 

 

 私は七七と出会ったときに彼女が抱えていたミルクバレルを思い出す。

 

 考えただけで頭に鈍痛がよみがえってきた。

 

 私が記憶の中の古傷に悶える最中、白朮先生は七七を見つめながら首をかしげる。

 

 

「しかし、よかったのですか? 余計なうわさや心配をかけないために、このことはあまり公にはしない方針だったと思いますが」

 

 

「ん、大丈夫」

 

 

 見れば七七はやけに自信満々だった。

 

 

 小さな手を腰に当て、軽く背を反らせて胸を張る。

 

 

「この人……えっと、確か手帳に書いていた。名前……名前……あった。そう。この人は平安。頭が七七のココナッツミルク入れの下敷きになった可哀そうな人。頭へこんでたけど七七が治した。たとえキョンシーのことを言いふらしたとしても、頭がまだ治ってないって言えば、平安の言うこと誰も信じない」

 

 

「さらっとひどいこと言われているのだが」

 

 

 見ればいつも冷静沈着でいそうな白朮先生が、私の頭を見つめながら若干引いている。

 

 

「ご愁傷様」

 

 

 七七は静かに合掌した。

 

 

「ご、誤解です! 私はちゃんとこうしてぴんぴんしてますから! 勝手に可哀そうな目で見るのをやめてください!」

 

 

「へいあん……可哀そうな人」

 

 

「ちょっと! 七七さん変なことメモしないでください! 白朮先生も止めてくださいよ!」

 

 

 私は必死に白朮先生に助けを求めたが、状況が笑いのツボだったのだろうか。

 

 

 白朮先生は口をおさえてプルプル肩を震わせている。

 

 

『可哀そうに』

 

 

(おい弥怒、便乗するな!)

 

 

 私は弥怒に活を入れ、コホン、と咳ばらいをする。

 

 

「すみません、少し熱くなりました。ところで、先ほどの話なのですがその札って人間にも使えたりするのですか? 護身用に一枚あったら便利だなあと思いまして」

 

 

 

 

「だめ」

 

 

 

 七七は首を横に振った。

 

 

「まあ、そうですよね……他人に渡していいものではないですよね」

 

 

 私が肩を落とすと、七七は「うーんと、そうじゃない」と告げた後、再びガサゴソと手帳を取り出しぱらぱらとページをめくる。

 

 

 目当てのページを見つけ、七七はうなずいた。

 

 

「えっと、人間にも使える。でも、札の力に普通の人間、耐えられない。一〇分もすれば、体中の筋肉がちぎれちゃう」

 

 

「聞いた私が軽率でした。以後七七さんの札に興味を持つなどといった行動は一切しないことを約束します」

 

 

「よろしい」

 

 

 私はしゃがみこみ、七七と同じ目線になるとそのままこうべを垂れた。

 

 

『一体何をやっているのだ』

 

 

(いいんだ、弥怒。彼女は私の命の恩人。だから、これでいいんだ……)

 

 

『お主に矜持というものはないのか……』

 

 

 どこか残念そうな弥怒の声が頭の中で聞こえた気がしたが、私はあえて聞こえないふりをした。

 

 

「いやぁ、久しぶりにこれほど笑いました。平安さん、あなたは面白い人ですね」

 

 

「へいあん、可哀そうで面白い」

 

 

「七七さん、それだと少し意味合いが変わってきますので、せめて元のままでお願いします」

 

 

『やれやれ……』

 

 

 その後、七七たちと別れた後から家に着くまでの間ずっと、私は耳にタコができるほど弥怒から矜持について説教を受けたのであった。

 

 



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護法戦記 9話 まどろむ意識

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
璃月港で胡桃という少女に出会った。
なんだか変わった子という印象だったが、明日は何やらツアーに連れて行ってくれるという。
とりあえず今日はもう遅い。家に帰って眠るとしよう。
そういえば、最近夜寝るたびに妙な夢を見るようになった。
やけに現実的というか、まるで弥怒が見聞きしてきた過去を追体験しているような……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 

「なんだ、今日はもう寝るのか」

 

 

 寝支度をしていると、弥怒が怪訝な声色で訪ねてくる。

 

 

「ああ、今日もだいぶ疲れたからな」

 

 

「小説の続きは書かないのか?」

 

 

 一瞬、シーツを整える手が止まった。

 

 

「……ああ」

 

 

 私はやや大げさに掛け布団を持ち上げる。

 

 普段気にすることのない端のほうまでしわを伸ばすと、弥怒に小言を言われる前に照明を落とした。

 

 

「……そうか」

 

 

 やや残念そうな弥怒の声が耳元で聞こえた気がしたが、私は聞こえないふりをしつつ目をつぶった。

 

 弥怒の次の言葉が来た時のためにあれこれ思考を巡らせていたが、弥怒が再び口を開くことはなかった。

 

 私は心の奥に淀みのようなものを感じながら、まどろみの中に沈んでいった。

 

 

 

        ※

 

 

 

「ん……すまぬ。己れは眠っていたのか?」

 

 

 ゆっくりと瞼を開けると、そこは薄暗い寺院のようだった。

 

 むっとした空気が体に重くのしかかり、潮の匂いが鼻にまとわりつく。

 

 

(これは……また弥怒の過去、なのだろうか)

 

 

 相変わらず体の自由は聞かない。

 

 だが以前とは異なり、周囲の音がよく聞こえた。

 

 

「たったの5分ほどです。弥怒殿」

 

 

 か細い女性の声が背後でささやいた。

 

 

「そうか……」

 

 

 弥怒はふっと吐息を吐いて腰を上げる。

 

 

 水を吸った外套が地面をすりながら持ちあがった。

 

 

「すこし、外の様子を見てくる」

 

 

 そう背後の女性へ告げると、弥怒は寺院の中を一瞥すらせず外へと向かう。

 

 寝起きだからか、それとも疲労が蓄積しているのか。

 

 弥怒は湿った板を確かめるようにして一歩、また一歩と踏みしめながら前へと進む。

 

 表へ出ると、ちょうどタイミングが悪いことに、月に雲がかかる。

 

 

 あたりは闇に包まれ、虫の鳴き声だけが微かに聞こえていた。

 

 弥怒はじっと雲が通り過ぎるのを待っている。

 

 ほどなくして雲が去ると、月明かりが野を青白く照らし出した。

 

 

 

(なんだ、この光景は――)

 

 

 私は思わず息をのんだ。

 

 弥怒の目に映し出されたのは、いつもの穏やかな璃月ではなかった。

 

 その様子を一言で表すとすれば、まさに凄惨、である。

 

 草も、木も、すべてが軒並みなぎ倒されていた。

 

 木造の家屋は地に突き立った柱を残したまま、残骸だけが広く散らばっている。

 

 石造りの家屋でさえ、足元から傾いている有様だった。

 

 大地には大蛇が這った後のような跡が残り、海のほうまでずっと続いている。

 

 

(私はもしや、渦の魔神決戦の記憶を見ているのだろうか――)

 

 

 おそらく、いや、間違いなくそうなのだろう。

 

 海からは遠く離れているにもかかわらず、この廃村は潮の匂いで満ちている。

 

 文献には山をも飲み込む大波とあったが、このような内陸まで被害にあっていたことに改めて恐怖を感じた。

 

 

「敵の気配は、ない、な」

 

 

 心底安堵したように弥怒がつぶやく。

 

 ずっと気を張っていたのだろうか。

 

 その声色からは聞きなれぬ疲労の色が見えた。

 

 

 弥怒は寺院の柱に寄りかかると、掌に岩元素を集める。

 

 琥珀色をした岩元素の粒はさらさらと流れるように体を覆っていく。

 

 すると服に付着していた水元素が結晶化反応を起こし、ぼろぼろと外套から剥がれ落ちる。

 

 足元には月明かりに照らされ、キラキラと輝く塩が積もっていた。

 

 弥怒は幾分か軽くなった外套をはたき、塩を完全に落とす。

 

 

 そのまま大きく伸びをすると、肩を回しながら無人の村に背を向けた。

 

 再び寺院の中へ戻ったものの、まばゆい月光にさらされたばかりの目は夜目がきかない。

 

 

 どんなに目を凝らしても闇が広がる。

 

 弥怒は目頭を押さえながら、暗闇に尋ねた。

 

 

「俊新、輝雷はいるか? 戦況を聞きたい。勇火が傷を負ったと聞いたが、戦線には復帰できそうか?」

 

 

 小さな寺院の暗闇に声が反響する。

 

 返事の代わりに、生ぬるい湿気を帯びた風だけが頬を撫でた。

 

 

「弥怒殿」

 

 

 ふいに声が響いた。

 

 最初に聞いた、女性の声だ。

 

 澄んだ声はとても小さかったが、寺院の重たい空気を柔らかな鈴の音のように優しく揺らす。

 

 

 しかしその心地よい耳障りとは裏腹に、続けて音に乗せられた言葉は残酷なものだった。 

 

 

「いつの話……ですか、弥怒殿。弥怒殿のお付きの夜叉たちは……今は海の底。瑶光の浜の東で、その命と引き換えに海魔の大群を道連れにされたでは……ありませんか……」

 

 

「あ、ああ、そうだったな。少し頭がぼんやりしていた。己れとしたことが、情けない」

 

 

 弥怒は女性の声を遮るように口早にそう告げた。

 

 

「あっ、ご、ごめんなさい、弥怒殿」

 

 

 女性の声が急に頼りなく、おどおどとしたものへと変わる。

 

 

「いや、いいんだ、伐難。お主が謝ることではない。ただ……ここ最近の記憶がどうも曖昧だ。状況を教えてくれたら助かる」

 

 

 ごくり、と喉を鳴らす音が闇の中で聞こえた。

 

 弥怒は唇を嚙みながら頭を垂れる。

 

 寺院の入り口から伸びた月明かりが、巨漢の影を石畳に落としていた。

 

 

 ひた、と前方から微かな足音が聞こえる。

 

 

 弥怒が顔を上げると、闇の中から青白い足だけがのぞいていた。

 

 

「弥怒殿」

 

 

「……なんだ」

 

 

「どうか、どうか……。そんな悲しいお顔をされないでください……」

 

 

 伐難と呼ばれた女性は心苦し気にそう告げると、歩を進め月光の中へと姿を現した。

 

 

 幼い、少女だった。

 

 

(ああ、私は彼女を知っている……)

 

 

 いつぞやの夢の中、私は竹林で彼女の姿を見たことがあったのだ。

 

 四本腕の大男と一緒にいた、2人の女性の片割れだ。

 

 しかし、その姿はまるで別人のようだった。

 

 濃紺に染まった二本の角の片方は欠け、胸に抱いた大爪は傷だらけ。

 

 肩に赤黒い染みをにじませた包帯を巻き、整えられていた髪もひどく乱れている。

 

 ただこちらを見つめている潤んだ瞳だけは、あの時と同じようにどこまでも蒼く澄み切っていた。

 

 

「己れは、そんなにひどい顔をしていたか」

 

 

 弥怒が自嘲気味にそう吐き捨てる。

 

 

「ご、ご自身を責めないでください、弥怒殿。弥怒殿は立派です。その……お辛い立場だったと聞いています。み、弥怒殿は戦局を冷静に見極め、誰もがためらう決断を下されました。たった数名の夜叉の命と引き換えに、盤目をひっくり返したのです。が、岩王帝君もすごく評価している……と思います……」

 

 

 最後は聞き取れないほど小さな声になると、伐難は大きな両腕と共に肩を落とした。

 

 

「……そうか、ああ、そうだったな。思い出してきた。はは、こんなに大事なことを忘れてしまうなんて、あいつらに恨み言を言われてしまうな。本人たちが望んだとはいえ、自らに引導を渡した張本人がその事実を忘れるなど、あってはならないことだ。伐難にも申し訳ないことをした。こんな話、したくはなかっただろう。己にこうやって言い聞かせたのは、これが初めてか?」

 

 

 尋ねると、伐難はその目を大きく見開き、口をキュッと結んだ。

 

 

 その様子を見て、弥怒も違和感を感じたのか声色を落とす。

 

 

「教えてくれ、伐難。この話は、俺に何度――いや。違うな。最後にこの話を俺にしたのは、どれくらい前だ?」

 

 

 伐難はその宝石のような瞳に涙をたたえ、のどを震わせながらこう答えた。

 

 

「ご、5分ほど前です……」

 

 

 と。

 

       ※

 

 

「っはあ‼」

 

 

 勢いよく布団をまくり上げ、私は飛び起きた。

 

 心臓が恐ろしいほど早く脈を打ち、肩で呼吸をする。

 

 あれは夢だ、現実ではない、と自分に言い聞かせ何とか平静を取り戻す。

 

 見回すと周囲は闇に包まれていて、まだ朝は来ていないようだった。

 

 手を額に当てると、じっとりと脂汗で濡れている。

 

 気が付けばその手はわずかに震えていた。

 

 両手で腕をさすりながら心を落ち着かようとするも、暗闇のどこかに伐難が潜んでいるような錯覚を感じた。

 

 無心で虚空を見つめていると、脳裏に夢で見た伐難の泣き顔が浮かんでくる。

 

 私はぶるりと身震いした。

 

 気が付けば止まっていた手を再び動かして肌をこする。

 

 どんなに必死に体を温めても、震えが止まらない。

 

 それは夢の最後、弥怒の体に走った戦慄からくるものだった。

 

 

「恐ろしい……」

 

 

 思わずそう口にしていた。

 

 実際何が恐ろしいかすら、私はよく理解していない。

 

 ただあの時感じた底知れぬ恐怖は、今まで私が感じたどんな恐怖よりも深く底知れぬものだった。

 

 

『どうした、ずいぶんとうなされていたな』

 

 

 夢の中で聞いた声が、頭に響く。

 

 わかってはいても、まるで先ほどの夢が続いているような気がして、鼓動が再び早くなる。

 

 

「あ、ああ。少しな。悪い夢を見ていたようだ」

 

 

『ふむ。まあそんなこともあるだろう。……眠れそうか?』

 

 

「いや、少し落ち着きたい。まだ体の震えが止まらないんだ」

 

 

 私はそう返すと、ベッドの脇に置いていたコップに手を伸ばし一息に飲み干した。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 喉を潤した水が、全身へといきわたるのを感じる。

 

 ようやく人心地ついた気分だった。

 

 

『大丈夫か? 気がまぎれる話でもしてやろうか』

 

「ああ、頼む」

 

 

 私は布団に半身を突っ込み、体を起こしたまま瞼を閉じた。

 

 この際、どんな話でもいい。

 

 そう思った。

 

 

『そうだな、あれだ。睡魔大聖の話でもしようか』

 

 

「睡魔大聖?」

 

 

 聞きなれない名前に、私は思わず聞き返す。

 

 

『ああそうだ。睡魔大聖は己れたちの仲間でな。これが面白い奴なのだ』

 

 

「……面白そうだ。詳しく聞かせてくれ」

 

 

『いいだろう。そいつは、あとから夜叉のメンバーに加わった奴でな。岩王帝君がある日、ひょっこりと奴を連れて我々の前に現れたのだ』

 

 

「どんな奴だったんだ?」

 

 

『まあ待て。順番に話してやる。そいつは見た目は少年のような出で立ちでな。とにかく目つきが悪かった。あと、態度もでかい。さすがに岩王帝君に対しては礼節を持っていたが、他の先輩に対する口の利き方がまるでなっていない』

 

 

「ふてぶてしい輩だな」

 

 

『ふふ、そうだろう。だが己れはそうは思わなかった』

 

 

「ほほう、じゃあどう思ったんだ? 私の頼もしい弥怒様は」

 

 

『おい茶化すでない……まあよい。己れはその時こう思ったんだ。ああ、教育のし甲斐がある奴が入ってきたな、と』

 

 

 思わず吹き出してしまった。

 

 弥怒らしい。

 

 これから先その後輩は、毎日のように弥怒に小言を言われるに違いない。

 

 

『しかしなかなか骨のある奴でな。生意気なだけでなく、実力も伴っていた。頭角を現すとあれよあれよという間に仙衆夜叉の一員となったのだ。彼の戦う姿はまさに苛烈という一言がふさわしく、まるで別人のようだった。そこからついた二つ名が、降魔大聖だ』

 

 

「……まさか、あのお方がそんな……」

 

 

『驚いたか? 降魔大聖にもそんな時期があったのだ。だが面白いのはここからだぞ。降魔大聖はひとりで行動するのが好きでな。岩王帝君の招集がかかった時、各地から仙衆夜叉たちが集まってくるのだが、奴はいつも一番最初に到着していた。己れたちはいつも後から着いていた。ある日、集合すると降魔大聖は早く着きすぎていたのか、あろうことか昼寝をしていたのだ』

 

 

「……」

 

 

『しかも何をやっても起きぬのだ。ついにしびれを切らした仲間のひとりが、顔に落書きを始めてな……くくくっ。あやつ、それに気が付かずそのまま岩王帝君と謁見しおったのだ』

 

 

「お、恐れ多すぎる……」

 

 

『岩王帝君は優しいお方だ。あの……くくっ、顔には一切触れることなく集会は終わった。本人がそのことに気が付いたのは、なんと3日後だ! まるで絶雲の唐辛子のように顔を真っ赤にして怒り狂っていたなぁ。その事件がきっかけで、己れたちの中で、降魔大聖をいじるときは睡魔大聖と呼ぶようになったのだ』

 

 

「あの降魔大聖が、睡魔大聖……」

 

 

 降魔大聖の尊顔はいつでも思い出せる。

 

 凛々しくも鋭い目つき、クールな横顔。

 

 そこに間抜けな落書きが残ったままだと考えると、失礼だとわかっていても笑いがこみ上げてくる。

 

 

「ぷっ」

 

 

『あっ、今笑ったな! なるほど、お主も不敬なものだ。よし、これからはお主も同罪だ。ふふふ、まさか千年以上時を超えて共犯者ができるとは、思ってもみなかったぞ』

 

 

「おい弥怒、私はわ、笑ってなどいないぞ!」

 

 

『よいよい、分かっておる。お主が考えていることはよーく分かっておる。己れが今どこにいるか、よく思い出すのだ。ここからだとお主の心の内がはっきりと見えるわ』

 

 

「く、くそっ、もし次に降魔大聖にあった時にどんな顔をすればいいやら」

 

 

『ふっ、その時はすっとぼけて睡魔大聖、と声をかけてみるのも一興だ』

 

 

「そ、そんなことしたら、八つ裂きにされてしまうぞ!」

 

 

『それは己れの知ったことではない』

 

 

「む、無責任にもほどがあるぞ!」

 

 

『いやぁ、何のことだかわからんな。睡魔大聖なんて、知らんなぁ』

 

 

「う、嘘が下手すぎるぞ、弥怒‼」

 

 

 気が付けば、外はわずかに明るくなりかけている。

 

 なんだかんだ言って、弥怒は私に付き合い夜を明かしてくれた。

 

 最後はいつも通り軽い言い合いになってしまったが、お互いに本気ではない。

 

 軽い疲労感を感じながら、私は再び朝まで眠ることにした。

 

 頭まで布団をかぶり目を閉じると、弥怒の穏やかな声が聞こえてくる。

 

 

『もう眠れそうか? 己れへの礼はどうした? ないのか?』

 

 

「余計な知識を植え付けられたのだ。足し引きするとゼロだよ」

 

 

『ほう、言うようになったな』

 

 

「もう寝かせてくれよ、まったく」

 

 

『ふむ、仕方のない奴め』

 

 

 そう捨て台詞を吐いた後、弥怒は静かになった。

 

 弥怒に感謝をしていないわけではない。

 

 ただ少し、抵抗してみたくなっただけだった。

 

 それに弥怒は怒るわけでもなく、いつもと同じように会話が終わる。

 

 そんなやりとりに少しだけ安心感を感じつつ、私は眠りについた。

 

 朝までの短い時間でも、眠っておかなければならない。

 

 なぜなら今日は、あの変わった葬儀屋のツアーに参加する予定なのだから。 



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護法戦記 10話 無妄の丘への旅路1

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
今日は胡桃に連れられて、なんでもお化けが見られるというツアーに参加している。
お客さんという立場で。
だが、おかしいな……。
彼女の「お客さん」に対する態度、ちょっと軽すぎやしないか!?

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 

「ねえねえ」

 

 

「……」

 

 

「ねえねえねえ!」

 

 

「……」

 

 

「おーい、ねえってばぁー」

 

 

「……」

 

 

「むむむ……ほいっ」

 

 

「……? うわぁっ‼ なんだこれ! せ、背中に何かが!」

 

 

「トカゲだよ」

 

 

「なんで⁉」

 

 

「んー、暇だったから」

 

 

「これって、なんちゃらお化けツアーで、私はお客さんだよね⁉」

 

 

 私は服のボタンをはずし、背中で暴れるトカゲを掴もうと体をよじった。

 

 

「そう! その通り! 私にとって、生きている人はみんなお客さんだからね!」

 

 

「え、縁起でもない……」

 

 

 やっと捕まえたトカゲを野に逃がしてやりながら、私は彼女の台詞にげんなりとする。

 

 私は現在、往生堂七十七代目堂主の胡桃が開催するお化けツアーに絶賛参加中だ。

 

 なにやらお化けが見えるかもしれないというツアーで、胡散臭いことこの上ないが、旅費はすべて彼女が持つらしい。

 

 先行投資、などとのたまっていたことを私は忘れない。

 

 そんなわけで、彼女とふたり、目的地まで一泊二日の長旅が始まったのであった。

 

 

「そんなに怖がらなくても大丈夫! 安心して。もし仮に不慮の事故で命を落としても、ちゃあんと私が立派なお葬式をしてあげるから!」

 

 

 ふふん、と得意げな黒ずくめな少女は、合流してからずっとこんなテンションだ。

 

 璃月港を出発したての頃は、物珍しさから多少会話を続けたが、予想以上に体力と精神力が削られる。

 

 

「さっき、しばらく静かに考え事をさせてくれって言ったよね……?」

 

 

「あっれぇ? そんなこと聞いたっけなー……あぁ、ごめんごめん、言った言った! 聞いてました聞いてました! 怒らないで~」

 

 

 じろりとにらみつけると、胡桃はわざとらしくぺろりと舌を出しておどけて見せる。

 

 

「……ったく。怒ってないが、もう少し静かにしていられないのか? まだ会話を終えて数分もたっていないぞ?」

 

 

「だってぇ、せっかくこうやって見ず知らずのふたりが出会って、時間を共にしているんだよ? このかけがえのない時間を大切にしなきゃ。その数分間の間に、山の上から岩が落ちてくるかもしれないし、崖から足を滑らせて谷底に落ちちゃうかもしれない。そしたら二度とお話はできなくなる。ねぇ、そう思わない?」

 

 

「それはそうかもしれないが……」

 

 

 むろん、考え事をさせてほしいといったのは半分本当で半分は方便だ。

 

 考えていたのは、今朝の夢のこと。

 

 あの時感じた恐怖が一体何だったのか、考えても考えても答えが見えない。

 

 この類の考え事は、胡桃が言うように今この場で思考しても仕方がないことなのだろう。

 

 これに関しては胡桃の言ったことは一理ある。

 

 

 だが一方で、少しは静かに景色を楽しみたいという純粋な思いもあった。

 

 以前私は璃月を一人旅して回ったことがある。

 

 その旅は誰とも会話をせず、ただひたすら自然を体に感じる旅であった。

 

 時に寂しさを感じる時もあり、誰かと一緒に旅行ができたら、と思ったことも数知れない。

 

 だがそれが実現した今現在。

 

 ただひたすら感じるのは、ここまで騒がしいのは想定外、の一言だった。

 

 

「はーい、さっきみたいに黙って眉間にしわを寄せて黙々と歩くのは終わりー! ねね、お兄さんたちの話を聞かせてよ!」

 

 

 胡桃はまるで背中に目が付いているかのように、器用に山道を後ろ歩きしながらこちらを見つめて目を輝かせる。

 

 

「いやそんなこと言われても、特段面白い話は持っていないぞ……」

 

 

 私は後ろ頭に手をやり、なにか気の利いた講談師の話でもないかと思考を巡らせる。

 

 

「なんでもいいよ! 身の上話、面白い話、悲しい話、うれしかった話。私の知らない話だったら、何でも楽しめるから!」

 

 

「はは、そう言われると余計に困るなぁ」

 

 

 苦笑いを浮かべつつ、私は思考を巡らせる。

 

 

(何かないかなぁ、なあ、弥怒。弥怒は長く生きているのだから、何か古い講和も知っているんじゃないか?)

 

 

 考えているふりをしながら、私はさりげなく弥怒に尋ねた。

 

 

『おい、お主はつくづく鈍感だな』

 

 

(仕方ないだろ、私はこういう女の子と話をするのが苦手なんだ! 何を話せばいいやら)

 

 

『はぁ、まったく嘆かわしい。それについては後でよくよく教えてやるが、その前に気付くべきことがあるだろう』

 

 

(は?)

 

 

『胡桃との会話を思い出せ。その娘には気をつけろ。どこまで気付いているのか、底が知れん』

 

 

 わけがわからない。

 

 私が何か見落としていたとでも?

 

 いたって普通の会話だったのではないか?

 

 私は首を傾げつつ正面へと顔を上げて、強烈な違和感からぞくりとうなじの毛が総立ちになった。

 

 目が本能的に、違和感の出所を慌てて探しはじめる。

 

 しかし目の前の光景は、先ほどと比べて何も変わったことはない。

 

 変わり映えのしない山道に、こちらを向いて後ろ歩きをする胡桃。

 

 そこで私ははっとした。

 

 先ほどと何も変わっていないからこそ、強烈な違和感を感じたのではないか、と。

 

 そう思った瞬間、割れた水甕から水があふれるかの如く、違和感が明確な形となって私に押し寄せた。

 

 胡桃は先ほどと寸分たがわぬ、張り付いたような笑顔を浮かべたまま、まばたきひとつせずじぃっっと私を見つめていたのだ。

 

 瞬間、私は彼女の放った言葉を思い出した。

 

 そして私の口がまるで答え合わせをするかのように、こう尋ねたのだ。

 

 

「あれ、私の聞き間違いだろうか。さっき、私に向かって、お兄さんた・ち・って、言わなかったか? それって……どういう意味、だろうか?」

 

 

 途端に胡桃の顔がいたずらっぽい笑みに変わり、ニタリと口元がゆがむ。

 

 

「えへへ、やっと気づいてくれたんだ。そう、私は知ってるよ。今、ここにいるのは私と、あなたと。そして実は、もう一人いるってことを」

 

 

 ごくり、と私の喉が大きな音を立てて鳴った。

 

 

『この娘、まさか』

 

 

 弥怒の声に緊張が走る。

 

 

「視えて、いる……のか?」

 

 

 私は驚愕のあまり、目を見開く。

 

 

「そりゃあもちろん、はっきりと……ね? 今も、あなたの後ろに……」

 

 

 息を押し殺したような、演技がかかった声を出しながら胡桃が片手で口元を隠す。

 

 

「うし……ろ……?」

 

 

 胡桃には、私の頭の中にいる弥怒が背後に立っているように見えているのだろうか。

 

 思わず、私は振り返る。

 

 だがもちろんそこに弥怒の姿はなく、今まで歩いてきた山道だけがどこまでも続いている。

 

 

『おい! 馬鹿者! 彼女から目を離すな!』

 

 

 弥怒に活を入れられ、私ははじかれたように正面へ向きなおった。

 

 

「い、いない!」

 

 

 先ほどまで胡桃がいた場所には誰もおらず、木枯らしがびゅうと吹き、周囲の木々がざわざわと葉音を立てる。

 

 私は呼吸をすることも忘れ、少なくなった肺の空気を絞り出すように叫ぶ。

 

 

「弥怒! 胡桃がっ!」

 

 

 うろたえた私は周囲を見回す。

 

 そして再び振り返ったその時――。

 

 真っ赤な瞳とばっちり目が合ったのである。

 

 

「ばあっ‼」

 

 

「うわぁぁぁぁあああああ‼‼」

 

 

 私は驚きのあまり、2mほど後方に飛びのきながら勢いよく尻もちをつく。

 

 

「あははははは、平安さんって、本当に反応がいいよね!」

 

 

「へっ⁉」

 

 

 思わず間抜けな声が口から漏れた。

 

 

「冗談だよ、冗談。ほら、私の手を握って」

 

 

 胡桃が笑い涙を片方の指でぬぐいつつ、もう片方の手を差し伸べてくる。

 

 

「あれ、なんだか前にも同じようなことがあった気がするが」

 

 

 私が伸びてきた手を半目でにらみつけると、胡桃は屈託のない笑顔を返してきた。

 

 

「そうかな? 気のせい気のせい。あんまりいろんなことを気にし過ぎると、寿命が縮むよ?」

 

 

「っ! それは胡桃にとって、願ったりかなったりだろう!」

 

 

「あはっ、それもそうだね! もっと寿命を縮めてみたい? 例えば、気づいているかな? 私があなたの名前を知っていることを」

 

 

「……おい。もうだまされないぞ。それは……これを見たからだろ?」

 

 

 私は鞄から転がった書きかけの原稿を手に取り、砂埃を落とす。

 

 表紙には、著者:平安としっかり書かれている。

 

 

「あれれ、気づかれちゃったか」

 

 

「そう何度もだまされないぞ」

 

 

「おや、おやおや? 2回も驚いて尻もちをついたのに?」

 

 

「あっ、ちゃんと前回のこと覚えているじゃないかっ!」

 

 

「見てみて! ヤマガラが巣を作っているよ! かわいいね!」

 

 

 白々しくも気を逸らそうとする胡桃が、ヤマガラを指さし視線を外す。

 

 私はその隙に、胡桃に気付かれないよう、急いで転がっていた弥怒の札箱を鞄の奥底へ戻した。

 

 好奇心旺盛で、行動の予測がつかない胡桃のことだ。

 

 これを見つけたら質問攻めにあうに違いない。

 

 妙に勘が鋭いというか、底が知れないというか、胡桃は確かに油断ができない人物だった。

 

 

(おい弥怒、取り越し苦労だったな。ただの冗談みたいだったぞ。心配し過ぎってのもよくないものだと思わないか?)

 

 

 年の離れた少女にこうも手玉に取られて、虫の居所が悪かった私は弥怒にからんだ。

 

 

『ん? 何のことだ?』

 

 

(なっ⁉ とぼけるな、弥怒! 弥怒が気をつけろなんて心配するからこうなったんだぞ!)

 

 

『ああ、彼女のことか。いつまでその話をしておる。いくら彼女に霊感があったとて、己れが見えるとは限るまい。見えたとて、特に問題もない。何をそんなに焦っているのだ』

 

 

 ひょうひょうとしている弥怒の声を聞いて、私は思い出した。

 

 そうだ。

 

 この夜叉は、降魔大聖が顔に落書きをされているのを横で見ていて、3日間放置させ、さらにそれを笑い話にするような男なのだ。

 

 

(弥怒……図ったな‼)

 

 

『さあ、何のことやら。それよりも、彼女についていかなくてよいのか? 山道ももう終わりだぞ』

 

 

 悔しさに奥歯を鳴らしながら前を向けば、胡桃は勝手に先へと進んでおり、遠くでこちらを振り返り手を振っていた。

 

 その後ろには広大な帰離原の平野が続いており、はるか遠くに望舒旅館がうっすらと見える。

 

 澄み渡った青空と、うぐいす色の大草原のコントラストが目に染みた。

 

 

「くそっ」

 

 

 目に涙が浮かんだのは、風で砂埃が入ったからだ。

 

 決してふたりがかりで、寄ってたかってからかわれたためではない。

 

 断じて、そんなことはないのである。

 

 

 こんな調子で、我々の一日目の旅路は中継地点の望舒旅館まで、ゆるゆると続いたのであった。



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護法戦記 11話 無妄の丘への旅路2

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
今日は胡桃に連れられて、なんでもお化けが見られるというツアーに参加している。
目的地までの中継地、望舒旅館にたどり着いた。
道中ストレスフルだったせいもあって、酒が驚くほどうまい。
いやぁ、楽しくて仕方がない。
ん、誰だその男は。鍾離? 客卿? ふぅん……??

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 望舒旅館までの道のりは散々だった。

 

 胡桃の奇想天外な質問が絶え間なく投げかけられ、それに応えようと頭を回そうとするも、弥怒が邪魔をしてくる。

 

 かと思えば胡桃は突然立ち止まり遠くをぼうっと眺め出す。

 

 どうしたんだ、と聞いても「おやおや? もしかして私のことすっごく気になっちゃってる? えー? どうしよっかなー? 教えてあげよっかなー」などと絶妙にうざい返しをされるので結局私が疲れるだけだった。

 

 だからだろうか、くたくたになって望舒旅館に着いたあと、勢いよく飲み干した酒はこの世で一番うまいんじゃないかとさえ思えたのである。

 

 

「ぷっは~‼ 生き返る!」

 

 

 口元についた酒をぬぐいながら、心の底からそう叫ぶ。

 

 

『おい、羽目を外し過ぎるなよ』

 

 

 などと、弥怒が何やら小言を言っているがお構いなしだ。

 

 さんざん道中おもちゃにされたのだ。

 

 酒を飲まなきゃやってられない。

 

 

(別にいいだろ、ここの支払いは往生堂が持ってくれるんだ。私の懐は痛まない)

 

 

『そういう問題ではなくてだな、お主が酒を飲みすぎると……』

 

 

「はーい、お待ちどうさま! 旅館の厨房を借りてこの往生堂七十七代目堂主が、自らの手で作ったメインディッシュだよっ!」

 

 

 私が酒を勢いよくあおっているところへ、胡桃が大皿を抱えてやってきた。

 

 

「おぉ、豪勢だな! いいじゃないかいいじゃないか! はっはっはっは! 一体何の料理なんだ?」

 

 

「知りたい? 気になる? 食べてみたい?」

 

 

「あたりまえだろ! なあ早く教えてくれよ!」

 

 

「へ、平安さんお酒飲むとキャラ変わるね……」

 

 

 なぜか胡桃はやや引いている様子。

 

 彼女の表情を見て私は気が付いた。

 

 なんだ、こちらが受け身でいたからダメだったのか。

 

 勢いに任せてぐいぐい行けば、胡桃のからかいなんて気にする必要などなかったのだ。

 

 私は何杯目かわからぬ杯をぐいと飲み干す。

 

 

『おい、それくらいにしておけ』

 

 

「あん? 余計なお世話だ、いつもいつも小言ばっかり言いたい放題で」

 

 

 体が熱い。

 

 頭がふわふわして、妙に調子がいい。

 

 

「わ、私何も言ってないけど……」

 

 

 苦笑いを浮かべる胡桃。

 

 その顔を見て、昼間のうっぷんが晴れた気がした。

 

 実に爽快だ。

 

 

『お、お主が飲みすぎると、お、己れまでもが……くぅ、屈辱だ……』

 

 

 なんだかよくわからないが、頭の中で弥怒が悔しがっているようだ。

 

 より気分がいい。

 

 非常に上機嫌になった私は、もう愉快でたまらなかった。

 

 

「ひっく、せっかく堂主様が作ってくれたんだ、どれどれ」

 

 

 私はふらつく体をテーブルで支えながら、大皿に手を伸ばす。

 

 

「これは……なんて料理だ? 私の目がおかしいのか、なんだかうっすら湯気が幽霊の形をしているような……」

 

 

 思いついたことをそのまま口にしただけだったが、その台詞に思いのほか胡桃が食いついてきた。

 

 

「おおっ! よく気が付いたね! わかるかなー、このこだわり! 一番大事なのは火加減なんだ、湯気がこの形になるように、うまーく温度調節するから大変なんだよ!」

 

 

「すごいじゃないか! なんて料理名だ?」

 

 

「ふふん、その名も、幽々大行軍!」

 

 

「なるほど、このマツタケに顔が刻んであって、湯気の親幽霊がたくさんの子幽霊を従えているわけだ!」

 

 

「すごいすごい! 平安さん名探偵になれるよ! そうなの、家族道ずれの大行軍だよ‼」

 

 

「いやぁ、新しい才能が開花しそうだ、あっはっはっは!」

 

 

 酒も進めば会話も弾む。

 

 こんなうまい酒を飲んだのはいつぶりだろうか。

 

 

 ただひとり、頭の中の弥怒だけが『なぜ……こうも波長が合っているのだ……げ、解せぬ……』と、苦し気につぶやく。

 

 

 その後、宴会は望舒旅館の他の客も巻き込み、散々どんちゃん騒ぎを繰り返した。

 

 やがて私の卓が、空の酒瓶でいっぱいになった頃。

 

 ひとり、ふたりと、騒いでいた客たちが静かに席を立ち始める。

 

 気が付けば、食堂には胡桃と私だけが残っていた。

 

 

「平安さん、寝なくて大丈夫なの? 明日も早いよー?」

 

 

「だ、だひじょうぶらって。まら飲めるかりゃ」

 

 

「うっ、酒臭っ! さっきからずっとそればっかり。はぁ、めんど……いやぁ、困っちゃったなぁ。鍾離さんも後から合流するって言ってたのに、まだ来ないし」

 

 

「んあ? しょうり? 誰だぁ?」

 

 

「往生堂の客卿だよ! 鍾離さんは博識で私より謎の多い人なんだって……聞いてないよね、平安さん」

 

 

 胡桃がはぁ、と小さくため息をつく。

 

 冷たい風が吹いてきて、私はぶるりと体を震わせた。

 

 

「ぁあ、すこし、お手洗いにいってくらぁ」

 

 

 それを聞いた胡桃は、しゅっと背筋を正したかと思うと、満面の笑みを浮かべる。

 

 

「そっかそっか! じゃあ私も今日は部屋に戻るから、平安さんも早く寝るんだよっ! おやすみー‼」

 

 

「ふえ?」

 

 

 私が顔を上げたころには、胡桃の姿はもうそこにはなかった。

 

 この場を離脱する口実を与えてしまったか。

 

 まあ、それはそれでいいだろう。

 

 私はひとりでそう納得しつつ、緩慢な動作で席を立つ。

 

 あっちにふらふら、こっちにふらふらしながら、私は何とか便所にたどり着き用を足した。

 

 そして扉を開けた時、困ったことに気が付いた。

 

 

「ありぇ、どっちだっけ?」

 

 

 便所から出ると、通路が二手に分かれていて、どっちが客室だったか記憶が定かでない。

 

 少しの間逡巡したが、考えてわかることとわからないことがある。

 

 まあどっちでもいいか、と私は来た道と反対の通路へ足を踏み入れた。

 

 酔っぱらいの行動力とは恐ろしいものだ。

 

 そのまままっすぐ薄暗い廊下を歩いていくと、上に向かう階段に突き当たる。

 

 

「んん? 客室は確か下の方、でも階段は上向き。んー、まぁ、いいか」

 

 

 いやはや、酒は本当に恐ろしい。

 

 判断力は極限まで低下し、私は訳も分からず階段をよたよたと上っていく。

 

 

「おおっ、いい景色」

 

 

 階段を上がりきると、望舒旅館の最上階にたどり着いた。

 

 どうやら正規の道ではなく、従業員用の通路を通ってきたようだ。

 

 掃除道具などの向こうに、展望台が見える。

 

 あそこのほうがもっと見晴らしがいいに違いない。

 

 私はそう思いつつ、床に置かれたちりとりなどを跨ぎつつ、壁沿いに展望台へ向かう。

 

 その時だった。

 

 どこかで聞いたことのある声が風に運ばれてやってくる。

 

 

「……この地を守り百余年。勝手に離れたことはありません。無名夜叉の件だけは、どうか帝君のお赦しを」

 

 

(ん、誰かいるのか? これは、誰だろう、どこかで聞いたことのある声。思い出せない……)

 

 

 酔いがいよいよ回り、頭がずきずきと痛む。

 

 私は頭を押さえたまま、その場に座り込んだ。

 

 世界がぐるぐると回っている。

 

 見上げると満天の星空が私を見下ろしていた。

 

 

「ああ、綺麗だなぁ」

 

 

 星はいい。

 

 眺めていると、嫌なことも辛いことも、すべてを忘れることができる。

 

 頭の痛みは残念ながらそのままだったが、私は地べたに腰を据えたまま、空を見続けた。

 

 どれくらいそのままそうしていただろうか。

 

 不意に空へ巨大な影がかかった。

 

 私は眉間にしわを寄せる。

 

 なんだ、これでは星が見えないではないか。

 

 

「おい、星が見えないぞ」

 

 

 思ったことを一言一句たがわず漏らせば、奇妙なことに、空まで声が届いたのか雲がすっと動く。

 

 

「すまない、酔いつぶれていたようだったので、様子を見に来ただけだ。邪魔して悪かった」

 

 

 雲は動くどころか、返事すら返してくるではないか。

 

 

「おぉ? 雲が、しゃべった?」

 

 

 私が首をかしげると、雲はくすりと笑う。

 

 

「ふむ、やはり相当酔っているな。どれ、このままだと風邪をひく。俺が客室まで送っていこう」

 

 

 雲が手を差し伸べてきて、私はようやくそれが人だということに気が付いた。

 

 

「あっ、これは失敬。その、助かる。客室までの道が分からなくなっていたところなのだ」

 

 

「それは大変だ。ふむ……。そうだな。御仁、名前をうかがってもよろしいか? 旅館の主人に聞いてみよう」

 

 

「私は、平安だ」

 

 

 平安、と聞いて目の前の人物は考えるように口元に手を当てる。

 

 

「ふむ、平安殿。もしや、貴方は堂主のツアー参加者ではないだろうか?」

 

 

「えっ、なぜそれを?」

 

 

 初めて会ったその人物は、私が胡桃のツアーに参加したことをぴたりと言い当てたのだった。

 

 

 私は目を見開き驚く。

 

 

「いや、驚かせて悪かった。単純に俺がその話を堂主本人から聞いていたのだ。申し遅れてすまない。俺は鍾離。ただの鍾離だ。今は往生堂の客卿などをさせてもらっている」

 

 

 山間から顔を出した月明かりが、望舒旅館を照らし出す。

 

 私の目の前には精悍な顔つきをした丈夫が、口元に笑みをたたえて握手を求めていた。

 

 

「こ、こちらこそよろしく頼む。いえ、頼みます」

 

 

 汗ばんだ手を慌てて裾で拭き、私は鍾離の手を握った。

 

 なぜか、この人には敬語でしゃべらないといけない。

 

 そんなプレッシャーを感じながら。

 

 

「っ!」

 

 

 私の手を握った瞬間、鍾離の顔がこわばる。

 

 

「ん?」

 

 

 私が不思議に思い覗き込むと、鍾離は静かに首を振った。

 

 

「いや、何でもない。少し、古い友人のことが頭によぎっただけだ」

 

 

 そうつぶやくと鍾離は口をつぐみ、少し悲しげな表情を浮かべたまま、夜空を見上げた。

 

 

「は、はぁ……?」

 

 

 私はよくわからなかったが、とりあえず相槌だけ返すと、つられて頭上に目をやる。

 

 月明かりのせいで先ほどまでより星の数は減っていたが、それでもなお望舒旅館から望む星の海は美しかった。

 

 

「うまく、いかぬものだな」

 

 

「ええ……そうですね……」

 

 

 私は景観に圧倒され、たいして意味のない言葉を機械のように返す。

 

 

「信じる道が正しいとがむしゃらに走り続け、ようやく落ちつけると思い腰を据えて一息つけば、今まで見て見ぬふりをしていた過去の粗が余計に見えるようになってしまった。しかし、それらはもう過ぎたこと。今更俺が介入することもできない」

 

 

「……いろいろ、あったんですね」

 

 

「ああ。そうだ。いろいろ、あった。そして、もう手心を加える術もないのが現状だ。このような時、俺は思うのだ。普通なら、このような状況でどうするべきなのだろうかと」

 

 

 なにやら、いつの間にか難しい話になってしまっていた。

 

 私は相変わらず世界がぐわんぐわんとしていたので、ほとんど話の内容は頭に入ってきていない。

 

 だが、鍾離が過去にいろいろあって、なんだか悩んでいることぐらいは分かった。

 

 私は話を聞いていないやつだと思われるのも嫌だったので、取り繕うように適当に言葉を並べる。

 

 

「よくわかりませんが、鍾離さんはいろいろと頑張ったんでしょう? だったらいいじゃないですか。過去のことは過去のこと。今は今。今したいことをするのが、人間ってもんでしょう」

 

 

「今したいことを、する……ふむ」

 

 

「鍾離さんは難しく考えすぎなんですよ、きっと。私たちは神様じゃあない。ちっぽけな人間で、使えるのは自分の両腕だけ。手が届く範囲で、その時できることをすればいいんじゃないでしょうか……なあんて、酔っぱらいの戯言ですがね、あはは」

 

 

 私は柄にもないことを口走ったので、照れ隠しも兼ねて愛想笑いを浮かべた。

 

 それに対し、鍾離はにっこりとほほ笑む。

 

 

「ふむ。なかなか面白い答えだった。礼を言う、平安。今夜の出来事を、きっと俺はこの先、岩が風ですり減ったとしても、忘れることはないだろう。さあ、厄介な風がいよいよ冷たくなってきた。堂主が取っていた部屋は知っている。私の部屋の隣だ。約束通り、案内しよう」

 

 

 鍾離はくるりと踵を返し、歩き出す。

 

 後ろ頭に束ねた髪が風に揺れている。

 

 白銀の月光に照らされたその後ろ姿は、まるで絵画のように美しかった。

 

 男が惚れる男とは、彼のような人物を言うのだろうか。

 

 

「ん? 行かないのか?」

 

 

 同性にもかかわらず私が見とれていると、鍾離が足を止め、肩越しにこちらをちらと見る。

 

 

「あ、ああ、行きます、行きます」

 

 

 私はあわてて鍾離の後に続いた。

 

 そのまま彼の背中についていくと、ほどなくして自室にたどり着く。

 

 鍾離と軽くあいさつを交わし、私たちはそれぞれの部屋へと別れた。

 

 部屋に入ったあと、私は服を着替えるのも忘れてベッドに突っ伏す。

 

 眠気がどっと押し寄せてきたかと思うと、私は即座に眠りの沼へと落ちていった。

 

 

 

 

 ……そして私は、また、あの夢を見ることになる。

 

 遥か遠い過去の、もうどうすることも、変えることもできない、物語の続きを。



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護法戦記 12話 無妄の丘への旅路3

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
胡桃に連れられて、お化けが見られるというツアーに参加した。
初日の夕食は望舒旅館で宴会となり、私はかなりハイペースで酒をあおってしまった。
いつの間に眠っていたのだろうか。
気が付けば私は、どこともわからない砂浜に立っていた。
聞きなれた声が聞こえてくる。
これはもしや、あの夢の続きなのだろうか……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 波の音が聞こえる。

 

 穏やかで、心が安らぐような柔らかい音色。

 

 体は軽く、音がするたびにゆらゆらと揺れる。

 

 まるで、風に揺られる馬尾のように、私は体をその音色に預け続けた。

 

 

「ん、ここは……」

 

 

 そこへ突然低い男性の声が割り込んできて、空気が大きく揺さぶられる。

 

 

(なんだ、気持ちよく人がくつろいでいたのに)

 

 

 私は瞼を開けようとして気が付いた。

 

 瞼がないのだ。

 

 瞼だけではない。

 

 目もないし、腕もない。

 

 おおよそ、身体というものを私は持っていなかった。

 

 その事実にやや驚いたものの、特に気にすることもなく受け入れはじめている自分がいる。

 

 不安は、不思議となかった。 

 

 なぜなら意識を少し集中すれば、目はなくとも周囲の情景がそのまま浮かんできたからだ。

 

 体はないのに、音が聞こえ目が見える。

 

 奇妙な体験だった。

 

 

 見回すと、そこは波が打ち寄せる遠浅の浜辺。

 

 水平線が白み始めているあたり、夜明け前だろうか。

 

 あたりはまだ薄暗く、波の音が規則正しく響くのみ。

 

 人気のない砂浜に、ふたつの影があった。

 

 そのひとつが大きく伸びをして立ち上がる。

 

 

「ふっ……あぁ、よく寝た。伐難、教えてくれ。戦況はどうなっている?」

 

 

 その声は、私が目覚める前に聞いた声と同じだった。

 

 なぜか私はその声に親近感を覚える。

 

 まるで毎日耳元で聞いていたようなその声。

 

 

(あの声は確か……)

 

 

 だんだん意識がはっきりしてくる。

 

 そう、そうだ。

 

 この声は、弥怒の声だ。

 

 でもおかしい。

 

 なぜ弥怒が外に出ているのだ?

 

 私の頭の中にいたはずでは?

 

 それにここは……、まさかあの夢の中なのだろうか。

 

 私がそんなことを考えていると、もうひとつの影がもぞもぞと動き出す。

 

 

「み、弥怒殿……。今回は、どこまで覚えているのですか?」

 

 

 弥怒の動きがぴたりと止まる。

 

 

「ぬ……、そうか。また、己れは記憶を失っていたのか……」

 

 

 うなだれる弥怒に、座ったままの影が優しく語り掛けた。

 

 

「大丈夫です。何度でも、伐難が教えてあげます。弥怒殿が忘れるたびに、一から何度でも。ふふっ」

 

 

「いや、さすがにそれは悪い。それに一からはさすがに必要ないぞ。己れは伐難のことを覚えているし、記憶がないのは最近のことばかりだ。特に伐難のことは忘れようにも忘れるはずなどない。あんな強烈な記憶、どれほど業障に蝕まれようとも、魂にこびりついて消しても消えぬわ」

 

 

「う……」

 

 

 弥怒の影が誇らしげに胸を張ると、伐難は逆に膝を抱いて小さくなった。

 

「そ、その、弥怒殿はどこまで覚えているのですか? ほ、ほら、普通は昔の記憶ほど曖昧になるはず……です」

 

 

「なんだ、己れを試しているのか? いいだろう。あの日、招集に顔を出さなかった伐難を心配して、己れはあの法螺貝の家を訪ねた。ああ、今でも覚えている。晴れ渡る空、青い海、白い砂浜に、フジツボのついた大きな法螺貝。だが、近づけば近づくほど、まるで空気がよどんでいるような、そんな感覚を覚えたものだ。不思議に思い、法螺貝の入り口まで来ると中から人の気配を感じる。己れは伐難がそこにいたことに安堵すると同時に、鼻は強烈な異臭を訴えていた」

 

 

「す、ストップ、ストップです! み、弥怒殿、やめてください! あ、あれは仕方なかったのです! 朝起きたら扉があかなくなっていて、外に出ようにも出られなかったんです!」

 

 

「ほう。ではその状態から救い出した己れによくそのような弁解ができたものだな。あれは伐難が自室の片付けをめんどくさがり、ため込んだゴミが扉につっかえていただけではなかったか?」

 

 

「――‼ そ、それは……」

 

 

「さらに言うと、その扉を無理やりこじ開け、空腹で動けなくなった伐難をゴミ溜めから救出し、翌朝になるまで部屋を片付けてやったのはどこのどいつだ?」

 

 

「ふぐっ……、み、弥怒殿ですぅ……」

 

 

 伐難はすでに、涙声になっていた。

 

 

「うむ。わかればよいのだ」

 

 

 満足そうに弥怒はうなずく。

 

 

「ひ、ひどいですぅ。ば、伐難は弥怒殿が忘れても、何度だって教えてあげると言いました。なのに、弥怒殿はそうやって伐難をいじめるのです……。伐難がお片付けが苦手で、ついいろんなものをため込んでしまうのをわかっていらっしゃるのに……」

 

 

 伐難はすんすんと鼻を鳴らした。

 

 もとより小さくなっていた伐難の影だったが、気が付けばその大きさはさらに小さくなっているように見える。

 

 

「馬鹿者」

 

 

 弥怒は、笑っていた。

 

 

「だから、あの時約束したではないか」

 

 

 その言葉を聞いて、伐難がゆっくりと首を持ち上げる。

 

 

「弥怒殿……、もしや……覚えていてくださったのですか……?」

 

 

 弱々しく尋ねる伐難の声を、一笑に付した後、弥怒は付け加えた。

 

 

「当たり前だ。この戦いが終わったら、また伐難の家を片付けに行ってやる、と確かに約束したぞ」

 

 

 ひときわ大きな波が音を立てて砂浜を駆けのぼり、空気を混ぜる音を響かせながら遠ざかっていく。

 

 その音が次の波にかき消されるまで、ふたりの間にはゆったりとした静寂が流れた。

 

 やがて、伐難がおもむろにその小さな唇を開く。

 

 

「……伐難は、今とっても嬉しいのです。ここのところずっと、戦いが続いていました。たった今、この瞬間でさえつかの間の休息にすぎません。でも、伐難はさっきまでより、ずっと元気です。心の中でぐるぐると螺旋を描いていた黒いもやもやも、今はだいぶましになりました。ふふっ」

 

 

 弾むような伐難の声を聞いて、弥怒はやや口ごもりながらもたしなめる。

 

 

「今のどこに喜ぶようなところがあるというのだ。まったく、恥ずかしいと思わないのか。伐難も立派な仙衆夜叉の一人だ。だのにも拘わらず、部屋の片付けすら他人任せなど、他の夜叉たちに知られたらどうするつもりなのだ」

 

 

「大丈夫、なのです。そうなる前に、弥怒殿が片付けてくれます。伐難が得意なことは、この頭の触角でお魚を探して捕まえること。そして、この大爪で岩王帝君に歯向かうもの、璃月にあだなすものを切り裂くこと。お片付けは守備範囲外です。苦手なものは、苦手なのです」

 

 

 ふふん、と今度は伐難が胸を張る番だった。

 

 弥怒はやれやれと頭を抱える。

 

 

「なぜこうもその一点だけは、自信たっぷりなのだ、伐難よ」

 

 

「ふふっ、弥怒殿。なぜだかわかりますか? あの時、弥怒殿はもうひとつ、伐難と約束をしてくれました。だから、伐難は伐難の苦手で頭がぐるぐるすることはありません」

 

 

 弥怒はそれを聞き、やや恥ずかしそうに頭をかいた。

 

 

「ほ、他に約束などしただろうか?」

 

 

「しました。ちゃんとしました。伐難は他の仙衆夜叉たちに比べて目はあまりよくありませんが、人の耳よりよく聞こえる触角を持っています。伐難が何かを聞き漏らすことなどありえません」

 

 

「ぐ……」

 

 

 腕を組んだ弥怒が、やや悔し気に喉から声を漏らす。

 

 

「さあさあ弥怒殿。伐難の恥ずかしいことを覚えていたのですから、最後まで覚えていることを言うのです。このままでは、伐難は恥ずかしくて戦いに行くことすらできません」

 

 

「ぬぅ……た、確かに約束した……」

 

 

「何を、です?」

 

 

「その……また部屋が散らかったら呼べばよい、片付けにいってやると」

 

 

「ぶー、ダメです! 大事なところがまるでお魚の浮袋みたいにすっからかんです! もう一度、もう一度やりなおし、です!」

 

 

「ぐっ……! し、仕方ないやつだな……。はぁ。なぜ己れがこんな目に」

 

 

「いいから早く言うのです!」

 

 

「わかった、わかった! ああ、確かに言った。また部屋が散らかったらいつでも呼べばよい、どんな時でも片付けに行ってやる、とな!」

 

 

「正解、ですっ!」

 

 

 やけくそになりやや乱暴に吐き捨てた弥怒に対し、伐難は今にも飛び跳ねそうな声で応えた。

 

 ちょうどその時、水平線から朝日が顔をのぞかせる。

 

 まばゆい光が水面を輝かせ、砂浜を明るく照らし出した。

 

 相変わらず人気のない砂浜で光を浴びるふたつの影。

 

 片方は背を向け、やや気恥ずかしそうに空を仰ぎ、片方は満足げに太陽を見て目を細めている。

 

 

「もう時間、です」

 

 

 先ほどまでとは打って変わり、感情を殺した声が短く砂浜に響いた。

 

 

「ああ。状況を教えてくれ」

 

 

 弥怒が振り返ると、もうその顔にはいつもの穏やかさはない。

 

 ピリピリとした緊張は大気にまで満ちていた。

 

 

「現在、妖魔の大群が南南西より接近中。伐難の部隊は陽動を担当、大方の妖魔をこの場所に引き付けます。その間に弥怒殿は陸路で迂回し、敵の本陣へ接近。単身で乗り込み指揮官クラスの妖魔へ遊撃を開始してください。指揮系統の混乱に乗じて、伐難の部隊は戦線を離脱、弥怒殿に合流し一気に畳みかけます」

 

 

「わかった。だが、陽動をすべて任せて大丈夫か? 伐難の部隊も、そう多くは残っておるまい」

 

 

 伐難はふるふると首を振った。

 

 

「大丈夫です。伐難の索敵能力は、仙衆夜叉の中でも随一。おまけにこの場所には水が多いです。地は伐難に味方しています。安心して任せてください」

 

 

「無茶はするなよ」

 

 

「心配いりません。さ、時間がありません。弥怒殿も早く支度を」

 

 

 伐難はそう促すと、準備運動を始める。

 

 弥怒は何かを言おうとしたが、ためらったのち、言葉を飲み込んだ。

 

 その代わりといった様子で懐へ手を伸ばすと、小さな琥珀色の結晶を取り出した。

 

 

「伐難。これを、持っていけ」

 

 

 放り投げられた指先ほどの結晶は、伐難の背中めがけて飛んでいく。

 

 すると伐難は振り向くことさえせず、大爪の先端で器用にそれをキャッチした。

 

 

「これは……?」

 

 

 伐難が結晶を太陽にかざすと、それはキラリと輝き伐難の蒼い瞳に黄金色の光を落とす。

 

 

「それは吸障石。ある程度の業障を、内部に封じ込める封印を施した岩元素の結晶だ。気休め程度にしかならないだろうが、ないよりもましだ。身につけておくといい」

 

 

「……ありがとう、弥怒殿。弥怒殿はやはり、伐難に優しい」

 

 

「なっ、そういうわけではない! 己れはただ、同じ仙衆夜叉としてだな!」

 

 

「ふふっ」

 

 

 くどくどと繰り返される弥怒の小言をさらりと聞き流しつつ、伐難は胸元の紐に吸障石を愛おしそうに縛り付ける。

 

 

「……聞いているのか?」

 

 

「ちゃんと聞いているのです。伐難の触角は、どんな音でも聞き漏らしませんから」

 

 

「まったく……」

 

 

 腕を組みながら肩をすくめる弥怒。

 

 

 しかし、弥怒に笑みを投げかけていた伐難の表情が一気に強張った。

 

 

「弥怒殿」

 

 

「……ああ」

 

 

 弥怒もその緊張を察したのか、うなずいたかと思うと、身を低くし構える伐難を背にはじかれるように走り出す。

 

 

「死ぬなよ!」

 

 

「弥怒殿もお気をつけて!」

 

 

 背後から聞こえた伐難の声に、弥怒はもう振り返らなかった。

 

 しばらく弥怒が走り続けていると、複数の影が前方からこちらへと猛スピードで向かってくる。

 

 すれ違う瞬間、弥怒が小さく口を動かした。

 

 

「伐難を頼んだぞ」

 

 

「御意」

 

 

 その一瞬で意思の疎通が図られ、次の瞬間には影たちは伐難のいる浜の方角、弥怒のはるか後方へと走り去っていった。

 

 彼らはおそらく、伐難の率いる部隊の夜叉たちなのだろう。

 

 数えたところ10をわずかに超えるほど。

 

 

「当初100を優に超える斥候部隊を有した伐難隊も、今や精鋭を残すばかり、か」

 

 

 風の中で、弥怒が寂しそうにそうこぼした。

 

 弥怒は岩元素で足場を作り出し、岩山を走るように駆け上がっていく。

 

 その速度はあまりに早く、私は追いかけるので必死だった。

 

 だが、岩山には未だ朝もやがかかっており、弥怒の姿は霧の中でどんどん遠くなってしまう。

 

 まってくれ、と叫ぼうとしても、のどがないため声も出ない。

 

 私はただひたすら、霧の中を追いかけて、追いかけて、追いかけて――。

 

 

 

 はっと目が覚めた時には、私は昨日の服を着た状態のまま、望舒旅館のベッドに横たわっていたのであった。

 

 



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護法戦記 13話 無妄の丘への旅路4

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
胡桃に連れられて、お化けが見られるというツアーの途中、私は望舒旅館で宴会で飲みすぎてしまったようだ。
おかげで妙な夢を見た。
とはいっても、今まで何度も見た夢の続きであったが。
頭がやけに痛い。
二日酔いがかなりひどいな。
考えなければならないことはたくさんあるというのに。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 私はのろのろと起き上がり、ベッドの上に胡坐をかく。

 

 窓の外からは、柔らかな朝の光と、小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 

 普段であれば、訪れたさわやかな今日の始まりに、大きく背伸びの一つでもしたことだろう。

 

 だが今の私は、まるでそんな気分にはなれない。

 

 ただ純粋に、私には今朝の夢を整理する時間が必要であった。

 

 体はどうしようもないほど眠さを訴え、頭は二日酔いでずきずきと痛む。

 

 しかし、思考は自分でも驚くほど澄み切っていた。

 

 

 夢で印象的だったのは、やはり前回の夢でも現れた仙衆夜叉の一人、伐難。

 

 見た目は可憐な少女だった。

 

 華奢でどこか危なっかしく、庇護欲を掻き立てる幼い容姿。

 

 そんな伐難と、大男である弥怒の逢瀬。

 

 身長の差だけで言うと、子供一人分くらいは優にある。

 

 ただ、こういうことを私が言うのもなんだが、その。

 

 

 

 ……いい雰囲気だった、と思う。

 

 

 そもそも仙人たちの年齢は見た目で推し量ることなど不可能。

 

 あの降魔大聖でさえ、少年のような出で立ちである。

 

 たとえ見た目が少女だとしても、その精神は私など遥かに及ばないほど高い次元にあるかもしれないのだ。

 

 だから二人がそういった関係に発展したとしても、何らおかしなことではないのだ。

 

 

 いや違うな、と私は考えなおす。

 

 

 よくよく思い返せば、私が思うほど二人の距離は縮まっていなかったのではないだろうか。

 

 弥怒もなんだか伐難の前ではぎこちないというか、いつもの弥怒ではなかった気もした。

 

 そう考えると、だんだんと気恥ずかしくなってくると同時に罪悪感が芽生えてくる。

 

 不可抗力だったとはいえ、あまり私が見てはいけない光景だったのかもしれない。

 

 私は弥怒に対し、少し申し訳ない気持ちになった。

 

 

「いや、そうじゃなくてだな……」

 

 

 締め付けるような痛みが頭を走り抜け、脳が思考を放棄しかけたところを私は無理やり引き戻す。

 

 

 まだ、考えなければいけないことが残っているのだ。

 

 弥怒たちの会話の中には、気になる点が散見される。

 

 業障という聞きなれない言葉や、ひどくなっていく弥怒の物忘れだ。

 

 前回の夢でもその兆候はあった。

 

 ただ私はそれを何かの間違いか、私のように頭を強く打ったのかもしれないと思っていた。

 

 しかし、あの症状はどうやら継続しているらしい。

 

 今の弥怒には全くそのような症状は見られず、私よりも記憶力はいいとすら思える。

 

 おそらく戦いで受けた傷かなにか、身体的な要因であのような状態になってしまったのだろう。

 

 

 気になったのはそれだけではない。

 

 今回の夢は、前回とは大きく異なる点があった。

 

 弥怒と私の精神体が分離していたのである。

 

 今までは弥怒の身体を使い、直接世界を見ているようだった。

 

 弥怒の感情や見たものがダイレクトに伝わり、目が覚めた時はその余韻すら感じていた。

 

 前回などはその典型で、気持ちを持ち直すのが大変だったくらいだ。

 

 それが一変、まるで夢の世界に自分という存在があたかもそこにあるかのような感覚だった。

 

 今こうして冷静に思考を回せるのも、夢の中で弥怒と体が分かれていた恩恵が大きいだろう。

 

 

「何かが、今までと違う……?」

 

 

 私は首をかしげながら、小さく独り言を漏らした。

 

 

『何が違うのだ?』

 

「うわあああっ‼」

 

 

 突然耳元で弥怒の声が聞こえたため、私は盛大に取り乱す。

 

 

『おい、声がでかい。やめろ本当に。頭に響く』

 

 

 少し苛立たし気な弥怒の声。

 

 同時に鋭い痛みが思い出したかのように頭蓋に走り、私はこめかみをぎゅっと押さえる。

 

 

「す、すまない……いてて。さすがに飲みすぎたな……」

 

 

 頭の中で巨大な銅鑼を打ち鳴らされているようだった。

 

 しばらく痛みに耐え、痛みが和らいできたところでふと、素朴な疑問が浮かびあがった。

 

 私は呼吸を整えつつ、それを弥怒にぶつけてみる。

 

 

「その、なんだ。私が二日酔いなのはわかるが、どうして――弥怒もそんなに苦しそうなんだ……?」

 

 

 それを聞くやいなや、弥怒は決壊した堰のようにまくし立てて来た。

 

 

『お主と言う奴は……! 当たり前だ! 己れとお主は体を共有している! 昨晩も告げようとしたが、まったく聞く耳持たずで考えなしに杯をあけおって。己れの身体であればあの程度の酒量などどうってことはない。しかしな。お主の身体は驚くほど! 圧倒的に! 恐ろしく酒に弱いっ! あんなに酔うたのは初めてだ! おかげで酒を飲み始めてからの記憶がほとんどないではないか! だから飲みすぎるなと言ったのだ‼』

 

 

 堰なんてかわいらしいものではなかった。

 

 これではまるで嵐の後に増水した川の濁流である。

 

 頭の中で弥怒の小言はわんわんと響きまくった。

 

 声がでかいのは一体どっちだ。

 

 あまりのうるささにめまいすら覚える。

 

 このままではかなわないので、私は弥怒が次の小言を言う前に、無理やり遮り割って入った。

 

 

「すまない! すまなかった! だからやめてくれ! 頭の中で直に騒がれると、余計に……」

 

 

 が、それも時すでに遅し。

 

 案の定足元から崩れ落ちるほど、猛烈な頭痛が天から降ってきたのであった。

 

 

「うぅ……」

『うぅ……』

 

 

 床の上に横たわり、ベッドの端を片手で掴みつつ、私たちは二人揃えて情けないうめき声を上げる。

 

 私はベッドの横板に頭をこすりつけたまま、たっぷり数十秒ほど痛みとせめぎ合う。

 

 そのままでの体勢で波が引いてくれるのを、私はひたすら待ち続けた。

 

 やがて頭痛と耳鳴りが消えてくると、遠くから厨房の奏でる金属音と朝食をとる人々のざわめきが微かに聞こえてくる。

 

 口を開けるまで痛みが引いたので、私はすかさず弥怒に提案した。

 

 

「と、とりあえず一時休戦だ。厨房へ行き、何か酔い覚ましにいいものを口にせねば」

『あ、ああ。そうしよう……』

 

 

 同じ体を共有しているがゆえに、見事に意見が一致する。

 

 私は這うようにして部屋の角にたどり着くと、壁面に体重を預けたまま、よたよたとした足取りで自分の部屋を後にした。

 

 

 食堂へたどり着くと、胡桃がちょうど朝食を取り終えたところだった。

 

 こちらに気付くと立ち上がり、手を振ってくる。

 

 

「あっ、平安さんおっはよー! どうだった? よく眠れた? それとも金縛りにでもあったかな?」

 

 

 投げかけられた声量の大きさに、私は一瞬気を失いそうになった。

 

 

「んん……胡桃、あまり大きな声はやめてくれ……。あとそのテンションは今の私には少々辛い……」

 

 

 私はふやけてくたくたになった昆布のように、テーブルの椅子へともたれかかる。

 

 座り込むと、もう一歩も動ける気がしなかった。

 

 この際少々不安だが、彼女に助けを求めるほかはない。

 

 

「すまない胡桃、おかゆを私の代わりに頼んではもらえないだろうか……」

 

 

「あはは、いいよ! いいよ平安さん! 飲み過ぎたんだよねぇ! ああ、そういう不摂生な生活は、往生堂ポイントがすごく高いよ!」

 

 

「嫌なポイントだな……」

 

 

 私は気の利いた返事を返すこともできず、瞼の上に手を置いて天井を仰いだ。

 

 

「仕方ないなぁ。あっ、そうだ! 私が往生堂特製の、おかゆ揚げを作ってあげようか!」

 

 

「名前がもう不摂生だ。どう考えても二日酔いの朝に食べる物の名前じゃない。そもそも揚げ物とおかゆは共存しないだろ……。どんな食感なんだよ……」

 

 

「んー、ギトギトのべちょべちょ?」

 

 

「うん、おねがいだ。普通のおかゆを頼む」

 

 

 私は念を押してそう頼むと、やや不服そうにしながらも胡桃は厨房へ向かい、給仕におかゆを頼んでくれた。

 

 

 ほどなくして体格のいい男が、湯気の立つおかゆ皿を運んでくる。

 

「へい、おまちどう。なんだ、昨日の威勢はどこにいったんだ、兄ちゃん。ああすまない、大丈夫、そのままでいい。無理はするな。自分のペースでいいから、ゆっくりこいつを食べて、元気出してくれよな」

 

 

 慌てて背筋を正そうとしたところを男に止められた。

 

 私は軽く手を振り首だけで会釈をした後、テーブルに置かれたおかゆに目線を投げた。

 

 生成色のやや濁ったスープに、純白の米粒が浮かんでいる。

 

 ふわりと浮かぶ絹のような蒸気を吸い込むと、炊き立てのお米の香りが胸いっぱいに広がった。

 

 かさついていたはずの口元に、思わずよだれが滴りそうになる。

 

 私は重い上半身をなんとか持ち上げ、椅子を引いておかゆと向かいあう。

 

 見れば見るほど、旨そうなおかゆだった。

 

 頭の上から、先ほど聞いたばかりの声が再び降ってくる。

 

 

「どうだ、元気が出て来たか? 旨そうだろう。宵の深酒と早朝のおかゆはセットだからな」

 

 

 再び隣に現れた給仕の男性は、おかゆ皿の隣に水滴のついたグラスをコン、と置いた。

 

 思わず顔を上げると、男はにっと笑う。

 

 

「今朝早くに山から汲んできた水に、夕暮れの実を軽く絞って風味付けしてある。サービスだ。染みるぞ」

「これは……ありがたい」

 

 

 まだ火傷しそうなほどアツアツのおかゆを食べる前に、私は頂いた夕暮れ水を口に運んだ。

 

 常温よりわずかに冷えた山麓の水が、すぅっと乾いたのどを潤す。

 

 いったん腹に流れ込んだ水は、まるで乾いた大地にしみこむように、ゆっくりと体の隅々まで染みわたる。

 

 

 染みるとは、いい得て妙だった。

 

 

 少し遅れて夕暮れの実独特の、まったりとしたまろやかな香りが後を引く。

 

 

「これは……うまいな……!」

 

 

「へへっ、だろっ? ほれほれ、おかゆも冷めないうちに食べてみな」

 

 

 私は促されるまま、おかゆを匙で救い上げ、吐息で熱を冷ます。

 

 よく冷めたことを確認し、恐る恐るおかゆをすすってみた。

 

 

「ほっほっ」

 

 

 とろみのあるスープはまだ奥の方が冷え切っておらず、私は残っていた熱を冷ますため、あわてて口の中でおかゆを転がす。

 

 

「……!」

 

 

 だがすぐに私は気づいた。

 

 その絶妙な塩加減、雑味のないスープ。

 

 そして舌の上でホロホロと崩れる柔らかい米粒。

 

 

「ああっ! うまい……」

 

 

 自然とそんな言葉が口元からこぼれてしまった。

 

「はっはっは、それを聞くためにここでわざわざ待ってたんだ。おかゆのおかわりは無料だよ。ゆっくりしていってくれよな」

 

 

 そう言うと男は厨房へと戻っていく。

 

 

 もしかすると、彼は給仕ではなくこの望舒旅館の料理長だったのかもしれない。

 

 私はそんなことを考えつつ男の背中を見送った。

 

 その間も、手は休むことなく皿と口とを往復し続けていたのだが。

 

 結局私はその後おかゆを2杯おかわりし、なんとか昨晩のダメージから立ち直ることができたのだ。

 

 

 

 戻ってきた胡桃だけが「ああ、平安さんの顔に血色が戻っていく……。せっかくの往生堂ポイントが……」と、残念がっていた。

 

 

 

 

      ※

 

 

 

 

『――先ほどの粥、見事だったな』

 

 

(ああ、あれはうまかった。本当にうまかった)

 

 

 あれから私たちは望舒旅館を出発し、胡桃の言う無妄の丘という場所を目指して、荻花洲の水源を歩き続けていた。

 

 群生した馬尾が湖面に広がり、紫黄のまだらが打ち寄せる波のように揺れている。

 

 後方を見渡せば、モンドとの国境である巨大な石門が薄もやに包まれながらも、雄大に晴天を突き上げる。

 

 

『なあ、お主よ。身体が限界を感じるほど疲れているとき、人はあんなに食い物を旨いと感じられるのだな。料理などあまり興味がなかったゆえ、まったくの無知であった。……私もあのような食事を振る舞えば、よかったのであろうか。たとえ逆境の戦況とて、あれを食えば跳ね返せるかもしれぬ。お主もそうは思わぬか?』

 

 

(えっ⁉ あ、ああ)

 

 

 風景を眺めていた私は、弥怒の“戦況”という言葉につい過剰反応してしまった。

 

 一瞬昨晩の夢の風景が脳裏をかすめる。

 

 

『んんっ? なんだ。なにか己れに隠し事か?』

 

 

(い、いや別に、なにもないさ)

 

 

『真か……?』

 

 

(本当だ)

 

 

 弥怒と伐難の夢を見たなど、本人に言えるはずもなかった。

 

 

『……怪しいな』

 

 

 弥怒の疑いはより深くなってしまったようだった。

 

 怪しい、怪しくない、と意味をなさない押し問答がそのあとも続き、まるでらちが明かない。

 

 いつもより執拗に聞いてくる弥怒を振り切るように、私は前方を行く胡桃へ声をかけた。

 

 

「ふ、胡桃。前から気になっていたんだが、その服の花、綺麗だな!」

 

 

「……」

 

 

 

 

 ずんずんと前を歩いていた胡桃がぴたりと足を止める。

 

 

「え?」

 

 

 胡桃にぶつかりそうになり、私は急ブレーキを余儀なくされた。

 

 今までも胡桃という少女は、空を見上げたかと思うと突然方向を変えて崖に駆け上がったり、急にスキップや側転を始めたりと非常に自由であった。

 

 だから他の人が見れば、こうやって急に立ち止まった胡桃を見て、ああ、また何か変な遊びを思いついたんだな、と思うに違いない。

 

 

 

 だが少しの間だとしても、昨日からずっと隣で胡桃を見ていた私の本能は、何かが違うと訴えていた。

 

 

(しまった、弥怒に気を取られ余計なことを口走ったか)

 

 

 どうやら私は、とんでもない藪蛇をつついて出してしまったらしい。

 

 なぜそう思えたのかというと、答えは至極簡単。

 

 胡桃は私の普通の呼びかけ程度では、決して自らの足を止めることはないのである。

 

 

「……本当に、そう思う?」

 

 

 平坦な声が胡桃の背中越しに聞こえた。

 

 

「え? ああ、もちろん。白くてきれいな花だ。まるで……」

 

 

 そこまで口にして、私は目線を落とす。

 

 ひざ下まで伸びた長い外套。

 

 乳白色の刺繍で丁寧に縫い付けられた白い花弁。

 

 改めてその黒いキャンバスに咲き誇る花を見て、背筋に戦慄が走った。

 

 

 

 私は大きな過ちを犯していたのだ。

 

 

 

 一瞬にして、全身の血が凍る。

 

 私は改めて自分の観察眼のなさにあきれ果てる。

 

 同時に護法夜叉以外の事柄へあまりに無頓着であった、と後悔の念が胸中に渦巻いた。

 

 

 

 胡桃の漆黒の外套の裾に刺繍されていたのは、白く、美しい、【彼岸花】だったのである。

 

 

 

 私は言葉を失った。

 

 璃月人であれば、だれでも、恐らく子供でもその花の意味を知っているであろう。

 

 それほどまでに、白の彼岸花とはある意味有名な花であった。

 

 

「ほんとうに、そう思う?」

 

 

 胡桃が抑揚のない声で、再び尋ねてくる。

 

 私はごくりとつばを飲み込んだ。

 

 いつの間にか雲が日を遮り、周囲は薄暗くなっていた。

 

 薄手だと肌寒さを感じるほどなのに、私の額からは玉のような汗が噴き出している。

 

 

 それもそのはず。

 

 その花の意味を、私もよく知っているのだから。

 

 

「……ああ」

 

 

 やっとのことで、私は胡桃へ短い返事をする。

 

 胡桃はそれを聞いても身じろぎひとつせず、ゆっくり静かに、こちらを振り返った。

 

 

 

 

 彼女の口が、形を変える。

 私も、この花が好きなの、と。

 

 

 

 

 はしゃぐわけでも、興奮するわけでも、喜ぶわけでもなく。

 

 ただただ、胡桃には似つかわしくないほど真剣な表情を浮かべながら。

 

 私はというと、彼女の目を見ながら、ただうなずくことしかできなかった。

 

 

 

 周囲の草むらから、カエルたちの鳴き声がやけに大きく聞こえてくる。

 

 まるで、無神経な私を責め立てているように。

 

 

 

 白い彼岸花の葉は、花が咲いた後に現れる。

 

 他の花とは違い、花と葉が時を同じくしてこの世界に現れることはない。

 

 その様子を見て、璃月の歌人はこの花に、とある花言葉を授けた。

 

 

「そう言ってくれる人、なかなかいないから、とっても嬉しいよ」

 

 

 まるで道端の花の周りで舞う蝶々の羽音の様に、胡桃の声は透き通っていて、風に溶けていく。

 

 なのにその言葉は風と共に去ってはくれず、私の胸元に残り、幾本かの針を心の臓に突き立てた。

 

 

 

 胡桃の口元がわずかにほほ笑む。

 

 

 

 白の彼岸花の花言葉は――。

 

 

 

 

 

【決して会うことのできない、最愛の人】である。



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護法戦記 14話 無妄の丘への旅路5

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
胡桃に連れられて、お化けが見られるというツアーの目的地は目と鼻の先。
さっき胡桃には失礼なことを言ってしまった気がする。
気にしてるかなぁ。
やっぱり謝ったほうがいいかなぁ。
え、そんなことよりも、胡桃の昔話を聞かないか、だって――?

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 天気は一向に回復せず、分厚い雲ははるか遠くに臨む慶雲頂まで続いている。

 

 昼間だというのに、薄暗い中を私たちは道なりに進んでいく。

 

 

 あれから胡桃とは一度も口をきいていない。

 

 私に向かって軽く微笑んだ後くるりと踵を返し、一度もこちらを振り返るそぶりもみせない。

 

 言葉をかけるタイミングを失った私は、声をかける勇気もないままズルズルとここまで歩いてきてしまった。

 

 

『なにか、言わなくてもいいのか?』

 

 

 しびれを切らしたのか、弥怒が私に問いかける。

 

 

(今もちょうど、なんて声をかければいいかを考えていたところだ)

 

 

 嘘ではない。

 

 本当のことだ。

 

 ただ先ほどからずっと、しっくりくる言葉が見つからないだけなのだから。

 

 

『やれやれ。声をかけるのが先か、目的地に着くのが先か』

 

(う、うるさいなぁ……)

 

 

 私は木の根に足元を取られながら、心の中で毒づく。

 

 どうしても思考に力を注ぎすぎると、足元が留守になる。

 

 気を配るべきことが多すぎて、私の頭はパンクしそうだった。

 

 

 そんな私を見限ったのか、あきれたのか。

 

 弥怒はあきらめて話題を変えてくる。

 

 

『しかしなんだ。この辺りは廃村か?』

 

(あ、ああ。言われてみれば……)

 

 

 見回してみると、この辺りにはかつて集落があったのか、到底人が住めそうにないあばら家がちらほらと見受けられる。

 

 風がひとたび吹けば、ほとんど崩れ落ちている草ぶきの屋根たちが、かさかさと音を立てた。

 

 土に埋もれかけた石垣の隅には、ぼろぼろに錆びた農具が集められており、二度と戻らない主人を静かに待ち続けている。

 

 

『だんだんと雰囲気が出て来たな』

 

 

(そうだな。ただなんだか……)

 

 

『うむ、なんだ?』

 

 

(なんだか、悲しい感じがするよ)

 

 

『……そうだな』

 

 

 そんな会話をしながら、私は黒服の少女を追いかけた。

 

 よく目を凝らさなければわからないほど雑草に覆われた石畳を、胡桃はまるで見えているかのように踏み外すこともなく進んでいく。

 

 風景に気を取られ、歩調が鈍るとすぐに距離を離されてしまうため、私は時折小走りになる必要があった。

 

 

 村を抜け林に差し掛かると、木々の間にちらほらと古い切り株がのぞく。

 

 かつて、あの村では林業が営まれていたのだと思う。

 

 切り株はその名残にちがいない。

 

 その昔多くの人が行き交い、整備されていたはずの道も今は獣道同然だ。

 

 

 人の営みの栄枯盛衰に感傷を受けつつ、私は胡桃の目的地がもう近くにせまっているのだと肌で感じた。

 

 

(このままでは、やっぱりよくないよな)

 

 

 せめて目的地に到着する前に、と、幾度目かの小走りで胡桃に近寄った際、私は声をかけようと息を吸い込んだ。

 

 しかしなんともタイミングが悪く、かけるはずだった言葉は、胡桃に先を越されてしまう。 

 

 

「あのさ、私ね」

 

「え? あ、ああ、なんだ?」

 

 

「この仕事……往生堂のことなんだけど、結構気に入ってるんだ。他の人はさ、縁起悪いーとか、薄気味悪い―とか、いろいろ言うんだけどね。私はほんとに全然気にしてない」

 

 

「……誰かがやらないといけない仕事だもんな」

 

 

 私は胡桃に合わせて相槌を打ったつもりだったが、胡桃は首を横に振った。

 

 

「ううん、そういうんじゃなくてさ。……そうだね。平安さんにちゃんと話してなかったよね。ええと、確かここらへんに……あったあった」

 

 

 胡桃は言い淀んだ後、何か思いついたように草むらをガサゴソとあさり始めた。

 

 かき分けた先にあったのは、黒いベンチ。

 

 胡桃はそこに腰掛け、私の後ろを指さす。

 

 

「そこらへんにも、あったはずだよ」

 

 

 言われるがまま振り返ると、同じく草むらから黒い角がのぞいていた。

 

 ほこりを払い腰を下ろすと、確かに座るにちょうどいい。

 

 しばらく歩き続けていたので、ここで休憩と言ったところだろうか。

 

 道を挟んだ向かい側で、胡桃は片足を抱き、まるで懐かしむように微笑むと語り始めた。

 

 

「私が子供のころの話なんだけどね……。当時、往生堂は七十五代目堂主が運営していたんだ。そう、私のお爺さんにあたる人。私はその人のことが大好きだったんだ――」

 

 

 

 

     ※

 

 

 

 

「胡じい!」

 

 

 私が背中に声をかけると、その人は必ず膝をつき、大きな体を丸め込み私と目線を合わせてくれた。

 

 

「何度も言っているだろう、わしも桃ちゃんも、同じ胡という姓だ。胡じいは他の人が呼ぶ呼び方なんじゃよ」

 

 

「えー、でも、そっちの方が、すっごくかっこいいよっ」

 

 

「ほほほ、なら桃ちゃんの好きなように呼ぶといい。それで? その胡じいに何の用かな?」

 

 

「あのね! あのね! えっと――、おんぶして!」

 

 

 私は胡じいがいいぞと許可する前に、山のような背中を勝手に登り始める。

 

 

「おお、おぉ。桃ちゃんは元気がいいの。ほれ」

 

 

 幼くまだ自分の力だけではその巨体を登り切れない私を、胡じいはごつごつした片手で持ち上げ首元まで運んでくれた。

 

 

「立って!」

 

 

「分かった、分かった。いくぞ、しっかりとつかまっているんじゃぞ」

 

 

 一度ぐらりと世界が大きく揺れたかと思うと、次の瞬間、私はまるで鳥のように世界を見渡せた。

 

 いつもより遠くがはっきりと見え、普段は見ることすらできない、大人の頭のてっぺんが足より下にある。

 

 私は胡じいの背中から見える景色が好きだった。

 

 

「あれ! あれ!」

 

 

「なんじゃ、なんじゃ、桃ちゃん。あれじゃわからん、指をさしてくれ」

 

 

 言われるがまま、私は無邪気に指をさす。

 

 

「あの人、なんであんなに泣いてるの?」

 

 

 私の指さした先には棺桶に縋りつき、わんわんと泣き叫ぶ女性がいた。

 

 

 

 

 そう。

 

 

 

 

 そこは、葬儀場だった。

 

 

 

 往生堂を代々継いでいる胡家では、葬儀は日常の風景。

 

 人の死は特段珍しいものでもなく、天から雨が降るように定期的に訪れるもの。

 

 そんな風に、当時は考えていたの。

 

 

 もちろん、泣いている家族はめずらしくなかった。

 

 むしろ、泣いているのが当たり前なぐらい。

 

 でも家族でも何でもないただの参列者の人が、家族よりも激しく泣き叫んでるのを見て、私は純粋に理由がわからなかった。

 

 

「あぁ、あれはの。そうじゃなぁ……」

 

 

 私が両手を置く、大きな固い帽子の下で胡じいは考え込む。

 

 

 少し時間をおいて「ちょっと桃ちゃんには難しいかもしれないが」と前置きしてから胡じいはやさしく教えてくれた。

 

 

 泣いている人が、亡くなった人の婚約者だったこと。

 

 来月には結婚式を控えていたこと。

 

 そして亡くなった理由が、その結婚式の資金繰りのために無理をして働き、高所から足を滑らせてしまったことが原因だということを。

 

 

「ふぅん……」

 

 

 私は自分で言うのもなんだけど、同年代の子たちより、よく周りが見えていた方だと思うんだ。

 

 だからその時の話も、私は小さな頭で理解していたつもりだった。

 

 泣いている人の理由と関係性が整理できた私は、すぐにそのことから興味を失う。

 

 そんなことよりも、私のことを子ども扱いせずに、ちゃんと難しいことでも教えてくれる大好きな胡じいのことで頭がいっぱいになっていたんだ。

 

 胡じいのそばでは、私はいつも大人の一員になれた気がした。

 

 そういうところが、子供であるということに気が付いたのは、ずっとずっと後のこと。

 

 

 あの頃は、ほんとうに毎日が楽しくて。

 

 

 

 

 自分を取り巻く世界でさえも、いつかは変わっていくということをきちんと理解していなかったの。

 

 

 

「よく見ておくんじゃよ、桃ちゃん」

 

 

 

 胡じいは葬儀を始める前、必ずそう言って私の頭を大きな手で撫でてくれた。

 

 

「うん!」

 

 

 私は大きくうなずく。

 

 その時の胡じいの目は、どんな日でも同じように優しかった。

 

 たとえ屋根の上で逆立ちして叱られた日も、胡じいの大切な茶器にカエルを詰めて怒鳴られた日も。

 

 

 

 

 そんな私の大好きな胡じいが病に倒れたのは、私が十三歳の時だった。

 

 お医者さんに診てもらった時に言われたのは、この状態で生きていることが不思議だということ。

 

 もう長くはないということ。

 

 

 胡家は騒然とした。

 

 往生堂を切り盛りしていたのは胡じいだけで、他の人はみな別の仕事がある。

 

 誰が往生堂を継ぐのか。

 

 誰が胡じいの葬儀をするのか。

 

 

 大人たちが仮面をかぶってしょうもない押し付け合いをしている間に、私は胡じいの病室にこっそり忍び込んだの。

 

 

「こら、胡桃! ここはふざけていい場所じゃない!」

 

 

 親戚のおばさんが私を叱りつける。

 

 私はそれを聞こえないふりして、胡じいに駆け寄った。

 

 胡じいが追いかけてくるおばさんを片手で制する。

 

 

「まあ、そう言いなさんな。おいで、桃ちゃん」

 

 

 抱き寄せられた大きな手からは、少しだけツンとした薬の匂いがした。

 

 

「ねえねえ、胡じい」

 

「なんだね、桃ちゃん」

 

 

 私は胡じいの腕の中で、心の内で思っていたことを、そのまま口にする。

 

 

 

 

 

「胡じいは――死ぬの?」

 

 

 

 

 

 その言葉を口にした瞬間。

 

 周囲が嫌な感じでざわつくのを背中で感じた。

 

 また、何か私に言っている。

 

 それは聞きなれた言葉もあったし、初めて聞く言葉もあった。

 

 私を褒めている言葉でないことぐらいは容易に想像がつくよね。

 

 

 でも、その質問は私にとってすっごく大事なことだったから、ちゃんと聞かないといけないって思ったの。

 

 

 

 だからたとえ誰が何と言おうと、私はじっと胡じいの目を見つめ続けた。

 

 

「……」

 

 

 胡じいは、そんな私の目を何も言わず見つめ返す。

 

 そしてゆっくりと胡じいのひげが動いたかと思うと、胡じいは目を細めて、こう言ったの。

 

 

 

「ああ、そうだよ。胡じいは、死ぬ」

 

 

 

 私はその言葉をしっかりと全身で受け止め、目をそらさずうなずいた。

 

 

 

「そっか。じゃあ、胡じいのお葬式は、私がしてあげるね!」

 

 

 それを聞いた胡じいの目が、見る見るうちに大きく見開かれる。

 

 

「おぉ……、おお! そうか、そうか! わしの葬儀を桃ちゃんがあげてくれるのか! それは嬉しいのう! そうじゃな、だったら盛大な葬儀がよいな! 往生堂七十五代目堂主の葬儀じゃ。そんじょそこらの葬儀と一緒は嫌じゃ。うんと立派なのがよい! 霓裳花は萩花洲のきれいな水辺に咲いているひざ丈以上のもので、線香は瑠璃袋の夜露と花粉を固めたものじゃないと嫌じゃ。ほかにもいろいろとそろえるべきものがある。桃ちゃんが往生堂をいずれ継ぐのであれば、それらをひとりでやり遂げねばならん。本当に、できるかの?」

 

 

 私は間髪入れずに言葉を返す。

 

 

「できるよ。胡じい。うんと、立派なお葬式にしてあげるから、安心して大丈夫――って、うわわっ!」

 

 

 突然目の前が真っ暗になって、私は驚いた。

 

 暗闇の向こうから。胡じいの演技がかった声が聞こえてくる。

 

 

「この帽子は法力を持っていて、邪気を払い、平和を守護するものじゃ。葬儀を執り行えないわしが持っていても仕方ない。これは桃ちゃんに譲ろう」

 

 

 私は自分の顔がすっぽり胡じいの帽子に覆われていることに気が付き、つばを持ち上げようとしたんだけど、胡じいの大きな手が邪魔をして一向に持ち上がらない。

 

 

 うんうん、としばらくもがいていると、急にふっと帽子が軽くなる。

 

 

 恐る恐る帽子を持ち上げると、胡じいは、満面の笑みを浮かべていた。

 

 

 だから、私も安心して、笑った。

 

 

 

 周りの大人たちはあとからあとから、本当に大丈夫なのかとか、大変な仕事だぞ、とかいろいろ言ってきた。

 

 でもどの顔もみんな安堵の感情を隠していたのが、子供の私でもすぐに分かったよ。

 

 その時の私は、もう大人だとか、子供だとか、何を言われようがもう気にも留めていなかった。

 

 すべきことが、やり遂げねばならないことがちゃんと分かっていたから。

 

 それからというもの、私は小さい頃と同じように往生堂で毎日寝泊まりを始めた。

 

 時折思い出したかのように遠出しては、葬儀に必要な材料をひとつ、またひとつとそろえていく。

 

 毎晩遅くまで文献を調べ、葬儀の手順を繰り返す。

 

 眠気で倒れそうになったら棺桶で眠る。

 

 そして夜が明ける前に目を覚まし、再び調べ物を再開する。

 

 胡じいとすら一度も会わず、私は生活のすべてをこれから執り行う葬儀へと集中させた。

 

 

 

 すべては、胡じいの求める葬儀を行うため。

 

 

 そうやって1か月ほどたったころだったと思う。

 

 入手困難と呼ばれる多くの素材が目の前に勢ぞろいし、私が略式の一切を除いた葬儀の神髄を頭に叩き込んだ晩の翌朝。

 

 

 

 

 

 私は胡じいが息を引き取ったと、知った。

 

 

 

 

 

 遅れてやってきて、激しく往生堂の戸を叩いた親戚のおばさんは、私を見てぎょっとする。

 

 彼女の目に映ったのは、小ぶりな胡じいの帽子をかぶった、齢13の女の子。

 

 それもすべての準備を整え、うやうやしく頭を下げた私が、待ち構えていたのだから。

 

 

「この度は、ご愁傷さまでした」

 

 

「あ、あなた! お爺さんのところに一度も顔を出さずにこんなところで!」

 

 

「胡じいはそのことについて、なにか言っていましたか?」

 

 

「い、いえ、それは……」

 

 

「それなら問題有りません。胡じいの遺言通り、これより往生堂七十五代目堂主の葬儀手続きに入らせていただきます」

 

 

 私はあっけにとられたおばさんへ軽く微笑むと、横を通り過ぎ往生堂の表に出た。

 

 数日ぶりの外の空気は、冷たく澄み切っていて、気持ちがぐっと引き締まる。

 

 

「……よしっ!」

 

 

 私は朝日に向かって気合を入れ、いつもと変わらぬ足取りで胡家へと向かった。

 

 胡家に着くと、誰しもがどうすればいいかわからず、胡じいを囲んでただただうろたえている。

 

 私は人ごみをかき分け、胡じいの前に立つ。

 

 誰かが私に声をかけようとして、別の人に止められる。

 

 その人は改めて私の服装を見て、私が何をしようとしているか、理解したようだった。

 

 

 私が着用していたのは、私が今着ているのと同じ、往生堂の正装。

 

 葬儀を執り行う者の装束だったのだから。

 

 

 周囲の理解と協力を得て、私は胡じいの遺体の処置を始める。

 

 私の倍以上の背丈の大人たちに指示を飛ばし、着々と葬儀の準備を整えていく。

 

 どれだけ慌ただしくとも、決して間違えることのないよう、正確に。

 

 

 

 やがて日が落ち再び日がのぼり、翌日の夕刻になるころ。

 

 ようやく葬儀の会場も整い、あとは葬儀を行うだけとなっていた。

 

 

 私は葬儀開始までの待ち時間、はじめて休憩をとることができたの。

 

 一息ついて、気が緩んだからなのかな。

 

 

「胡じい……」

 

 

 ふいに口からこぼれた胡じいの名前。

 

 とにかく必死で、駆け抜けたこの二日間。

 

 

 目まぐるしく動き回る最中、胡じいの大きかった身体が風船がしぼんだようにやせ細っていたのを見た。

 

 ぴったりのサイズで頼んだ棺桶だったのに、少し、両側に隙間があいてしまった。

 

 

 まばたきをするたびに、その光景が離れない。

 

 

 私は首を横に振り、大きく深呼吸する。

 

 

 時計を見ると、葬儀の時間まで、あと数分。

 

 私は改めて、自分に問いかける。

 

 果たして、きちんとできるだろうか、と。

 

 この日のためにずっと準備をしてきた。

 

 毎夜毎夜、ひとりで練習を重ねてきた。

 

 なのに、どうしても緊張で胸の奥が震える。

 

 

 

 私は胡じいからもらった帽子を深くかぶり、息を止めて目をつぶった。

 

 震えが止まるよう、強く、強く、強くーー。

 

 

 

 

 どれくらいそうしていただろう。

 

 いよいよ息が苦しくなって、私は我慢の限界を迎える。

 

 

 

 目を開け勢いよく空気を吸い込んだ、その時。

 

 

 

 

 顔の前を、一匹の蝶々が通り過ぎた。

 

 

 

 同時に、耳元で懐かしい声が聞こえてくる。

 

 

『よく見ておくんじゃよ、桃ちゃん』

 

 

 はっとして振り返るも、そこには誰もいない。

 

 再び前をむけば、先ほどの蝶が葬儀の会場を横切り、ひらりひらりと舞っていく。

 

 

 やがて蝶は胡じいの棺桶の上までやってくると、棺桶の端に止まって羽を休める。

 

 

 

 その瞬間、私の中でなにかが熱く激しく燃え上がったのを感じた。

 

 

 

 私は誰に向かって言うでもなく、その激情を深く深く抑え込みながら、言の葉を風に乗せて送り出す。

 

 

「よく見ておいてね、胡じい」

 

 

 その一言は私の精神を一気に深い集中へと引きずり込み、二日間の疲れも嘘のように吹き飛ばす。

 

 

 会場に目を向ければ何を、どの手順で、どのように行えばいいかがすべて分かった。

 

 物心ついたときからどんな日も、どんな時も、胡じいが笑って見せてくれた数えきれないほどの葬儀。

 

 

 

 

 そのすべては、この瞬間のために。

 

 

 

 

 私はすぅ、と長く静かに息を吸い込む。

 

 先ほどまで会場の至る所で聞こえていたひそひそ声が、空気が変わったことを察してぴたりと止む。

 

 葬儀会場から、音という音が消え去った。

 

 誰もが固唾をのんで視線を私に集中させる。

 

 

 ある人は不安そうに。

 

 ある人は眉間にしわを寄せて。

 

 

 時が止まったような錯覚さえ覚えるその会場から、棺桶に止まっていた蝶が、ひっそりと、静かに羽ばたいた。

 

 同時に私は、厳かに宣言する。

 

 

 

 

 

「これより、胡家が往生堂七十五代目堂主の、葬儀を執り行う――」

 と。

 

 



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護法戦記 15話 無妄の丘への旅路6

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
胡桃に連れられて、お化けが見られるというツアーの目的地は目と鼻の先。
黒いベンチに腰掛け、私と弥怒は胡桃の思い出話に耳を傾ける。
それは、胡桃が初めて葬儀を行った日の話。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 

 無二無三とは、まさにあの時のような状態のことを指すんだと思う。

 

 過度な集中状態は、時間の感覚を麻痺させる。

 

 気が付くと、あんなに緊張していたはずの胡じいの葬儀は、いつの間にか終わっていた。

 

 周囲の話し声やざわめきが戻ってきて、私はやっと状況を理解し始める。

 

 

 準備期間にして一ヶ月。

 

 

 寝る間も惜しんで挑んだ葬儀は、ものの数刻であっけなく幕を閉じた。

 

 放心している私の元へ、大勢の大人たちがぞろぞろとやってくる。

 

 

「いやあ、あんなに立派な葬儀は初めて見た!」

 

「往生堂も安泰だ。なんてったって、こんなに優秀な後継者がいるのだから」

 

「胡桃、いつの間にあれほどの葬儀ができるようになっていたんだ⁉」

 

「珍奇な娘だと思っていたが、これほどの才能を隠し持っていたとは!」

 

 

 誰もが興奮した様子で、頬を上気させながら唾を飛ばしている。

 

 生返事を繰り返しながら、私は目の前の光景をまるで他人事の様に感じていた。

 

 

 実感が、ない。

 

 

 葬儀を終えたという、実感が。

 

 

 本当に終わったのかどうかすら、よくわからない。

 

 胸の奥でもやもやした気持ちがぐるぐると渦を巻く。

 

 

 私の反応が芳しくなかったからか、ただ興奮が冷めたのか、用事を思い出したのか。

 

 それぞれの理由なんてわかったもんじゃないが、大人たちはふらりふらりと葬儀場を離れ始める。

 

 やがて片付けを行う往生堂の従業員数名と、私だけがぽつんと会場に残されてしまった。

 

 

 私は自分の手を見つめる。

 

 ――この手で。

 

 この両手で、やり遂げたのだ。

 

 胡じいの葬儀を。

 

 あの日、約束したとおりに。

 

 

 私は自分自身に何度も何度も言い聞かせる。

 

 

 霓裳花は萩花洲のきれいな水辺に咲いている特上品を使った。

 

 線香は瑠璃袋の夜露と花粉を固めたものを、過剰なほど大盤振る舞いした。

 

 死者へ送る服は質素ながらも質の良い絹を使い、寸分たがわぬ方位の邪気を祓った。

 

 

「でも、本当にうまく、できたのかな……」

 

 

 私は誰にも聞こえないように、小さくつぶやく。

 

 興味のない大人たちの評価なんて、どうでもいい。

 

 どれだけ褒められても、どれだけ持ち上げられても、満足なんてできるはずがなかった。

 

 だって、立派なお葬式をしてあげると約束した相手は、たった一人だけなのだから。

 

 

「……わからない。わからないよ。胡じい」

 

 

 顔を上げると、頭上には満点の星空が広がっている。

 

 いつもの私であれば、その美しさに惹かれて歓声のひとつでもあげただろう。

 

 でもその時の私はそんな夜空でさえ、空虚なものに感じて仕方がなかった。

 

 無我夢中に、一心不乱に、猪突猛進に走ってきたが故に、目的地を通り過ぎた今、胸に広がるこの気持ちをどうすればいいのかさえ分からなかった。

 

 

「胡桃!」

 

 

 会場の入り口から、誰かが私を呼んでいた。

 

 

「まだこんなところにいたのかい? 今日は疲れただろうから、うちに来て泊まりな」

 

 

 声のする方を見れば、親戚のおばさんが駆け寄ってくる。

 

 

「さ、おいで。いろいろ思うところはあるだろうけどさ。とりあえず今日は早く寝るんだよ」

 

 

 おばさんは返事も聞かずに私の手を握ると、すたすたと歩きはじめる。

 

 私は特に抗うわけでもなく、そのままおばさんに手を引かれるまま、会場を後にした。

 

 

 親戚の家におじゃました私は、軽い夜食を取らせてもらい、身体を清め、客室の寝床に着く。

 

 そのすべてがまるで夢を見ているかのように過ぎていき、自分という存在を少し離れたところから眺めているような錯覚さえ覚えた。

 

 久々のベッドは、そんな私の身体をふかふかの綿で包み込む。

 

 そうすることで、やっと自分の輪郭がここにあることがわかった。

 

 

 丸2日もずっと起きていたので、いつもだったら毛布を被った瞬間に眠りに落ちていてもおかしくない。

 

 でもその時はどんなに体勢を変えてみても、柵を飛び越えるスライムの数を数えてみても、眠気という眠気をまるで感じなかった。

 

 私は目を開けて、寝返りを打つ。

 

 シーツに広がった自分の髪からは、ほのかに線香の匂いがした。

 

 その瞬間、私は眠れない理由をようやく理解する。

 

 

「そっか。まだ、私の中で終わってなかったんだ。胡じいのお葬式」

 

 

 そうつぶやいた自分の声を聞くと、心のもやが、わずかだが晴れたような気がしてくる。

 

 そうと決まれば、話は早い。

 

 

 私は毛布を蹴飛ばし、ピョンとベッドから飛び降りる。

 

 寝息を立てるおばさんたちの寝室を横切ると、こっそり家を抜け出した。

 

 夜店で数日分の食料を買いだめ、携行鞄に詰めていく。

 

 

 水平線が少しだけ明るくなり始めた早朝。

 

 多くの人が寝静まる時間でも、璃月港は眠らない。

 

 街のはずれにやってくれば、商人たちの隊列が荷物をたずさえ、出発しようとしているところだった。

 

 

「ちょっとちょっと、待って待って〜」

 

 

 私が声をかけると、商人の一人がこちらをみて驚いた。

 

 

「こんな時間に、子供が一体何の用だ?」

 

 

「この商隊、石門を抜けてモンドに向かうんだよね? モラを払うから、お願いっ! 途中まで乗せてって!」

 

 

 私は両手を頭の上で合わせ、舌をぺろりとだした。

 

 

「いやいや、こっちも重量ギリギリまでスライム気球に乗せて荷物を運ぶんだ。これ以上乗せたら流石に、重量オーバーだよ」

 

 

 私はそれを聞き、少し怒ったふりをする。

 

 

「あ、ひどい! まるで私がすごく重いみたいな言い方! 子供ひとり分くらい、大丈夫だって! 私とっても身軽なんだから。それにほら、これぐらいはあるからさ……」

 

 

 ちらり、とモラ袋の中を見せると、男の目つきが商人のそれに変わった。

 

 

「ま、まあ、そうだな。スライム気球の調子が悪くなったら、降りてもらう。それでもいいなら、好きにするといい」 

 

 

「やった! おじさん優しいね!」

 

 

「お、おじさんじゃねぇ!」

 

 

 背後から不服そうな声が聞こえたが、私はそれを軽く受け流し、荷物と荷物の間に体を滑り込ませた。

 

 

「おうい、何ぐずぐずしてんだ。おいていくぞ!」

 

 

 前方より、商隊の仲間が声を張り上げる。

 

 

「あ、ああ、今から行く! スライム気球の調整をしてたんだ!」

 

 

 先ほどの男は気球の背後から顔を出しつつそう叫ぶと、勢いよく気球のレバーを下す。

 

 ぽんぽんとリズムよい音を立てながら、気球が風元素を吐き出し始める。

 

 やがて軽い浮遊感と共に気球は大地を離れ、前進を始めた。

 

 

「やっぱりちょっと重い気がするなぁ……」

 

 

 小声でそんな泣き言が聞こえてくるが、乗ったもん勝ち後の祭り。

 

 石門までの優雅な旅が始まった。

 

 

 私は荷物に背を預け、帽子で顔を覆い隠す。

 

 暗闇の中、胡じいのことを思い出す。

 

 

『なんじゃと? 幽霊が見えるじゃと?』

 

 

 あまりおおっぴろけにしていない私の秘密を明かしたとき、胡じいの目は真ん丸になり声が盛大に裏返る。

 

 何度か知り合いにこの秘密を打ち明けたことはあったが、誰ひとりまともに取り合いはしなかった。

 

 胡じいはしばらく固まっていたが、すぐに優しい表情を浮かべる。

 

 その時私は思った。

 

 ああ、胡じいでさえも、本気で信じてはくれなかったな、って。

 

 でも、胡じいは思いがけない言葉を私にかける。

 

 

『よい目を、持っているな、桃ちゃんは』

 

 

 

 はっとした。 

 

 

 

 自分が変わっていて、人と違うことは知っていた。

 

 それを幼いながらに理解していたし、受け入れてもいた。

 

 だけど、そんな風に褒められたのは、初めてだった。

 

 胡じいは笑いながら言う。

 

 

『そうじゃなぁ、わしが死んだあと、ボケて璃月港をさまよっていたら、活を入れてくれよ桃ちゃん。最近物忘れがひどくて、不安だったんじゃ。生きているうちは誰かが声をかけてくれるが、死んだあとは分からんからな。訳も分からずさまよい続けるのは嫌じゃ。これは桃ちゃんにしか、頼めん仕事じゃな』

 

 

 言葉の一つ一つに、胡じいの優しさがあふれていた。

 

 

「胡じい……」

 

 

 思い出すたび、胸元がじーんと熱くなる。

 

 スライム気球の揺れはまるでゆりかごの様に穏やかだった。

 

 ここ数日の疲れがどっと押し寄せたかと思うと、私はいつの間にか眠りについていた。

 

 

 

 

     ※

 

 

 

 

「ほ、本当にこんなところでいいのかい?」

 

 

 再三にわたって商人の男が私に確認する。

 

 

「うん、大丈夫。昔一回来たことがあるから」

 

 

 私はそう言うとモラの詰まった袋を男に押し付けた。

 

 男は納得いかない表情を浮かべていたが、出発時と同じように商隊の仲間から呼ばれると、しぶしぶといった様子でモンドへと向かっていく。

 

 

 気づくと一日と半分近く眠っていた。

 

 出発したのが早朝で、無妄の丘の前に着いたのはほぼ夜ふけ。

 

 こんな人気のない場所に子供を置き去りにするなど、たとえ本人たっての希望だとしても、正気の沙汰ではない。

 

 

 おぼろ月の下、薄暗闇でカラスがぎゃあぎゃあと羽ばたく。

 

 普通の子供であれば、あまりの恐怖に立ちすくんでしまったとしても責めることはできない。 

 

 私の目の前にある光景を絵で見ただけで、夜厠に行けなくなる子もいるだろう。

 

 それほどおどろおどろしく、不気味な場所だった。

 

 

「おー、あははっ、集まってる集まってる!」

 

 

 そんな場所で、私は喜びに胸を躍らせる。

 

 他の人には見えなくとも、私にはよく見えた。

 

 璃月港から押し寄せた、魂だけの、人の波。

 

 それはまるで大勢の人でにぎわう、璃月港の商店街のようだった。

 

 

 誰もがのっぺりとした表情を浮かべ、何も語らず歩いていく。

 

 私は嬉しくなって駆けだすと、どんどん幽霊たちを追い越していった。

 

 そしてくるりと振り返り、しばらく後ろ歩きで進んでいく。

 

 こうすれば、歩いている幽霊たちの顔がよく見えるのだ。

 

 残念ながら胡じいの顔はそこにはなかったが、問題ない。

 

 彼らが向かう先、無妄の丘のさらに奥、往生堂が代々管理しているあの世とこの世の狭間には、もうしばらく距離があるのだから。

 

 

 大丈夫、大丈夫。

 

 

 そう言い聞かせ自分を奮い立たせる。

 

 走っては振り返り、走っては振り返った。

 

 でも何度振り返っても、胡じいの姿は見つからない。

 

 

 大丈夫、大丈夫。

 

 

 いつしか顔から笑みは消え、喜びに満ちていた胸はざわざわと嫌な感じに騒いでいた。

 

 百を超えるほど同じ動作を繰り返し、私はとうとう立ち止まる。

 

 もう振り返って後ろ歩きなんて、しない。

 

 したくても、できなかったから。

 

 とうとう、境界までたどり着いてしまっていた。

 

 

「あ、あははっ」

 

 

 笑う。

 

 

 無理やり口角を上げ、笑う。

 

 

「胡じい、きっとボケて道を間違えちゃったんだろうね! 私より先に出発して、私に追い越されちゃうなんて」

 

 

 何人かの幽霊が、不思議な顔をして私を覗き込む。

 

 でも彼らと私は赤の他人。

 

 幽霊たちは怪訝な表情を浮かべるも、また無表情になったかと思うと再び歩き始め、境界の向こうへと消えていく。

 

 

「待っててあげるよ、胡じい。こんなこともあっろっうっかっとっ! じゃじゃーん! 非常食~!」

 

 

 私は空元気を振り絞り、言葉通り場違いな明るさで、モラミートを掲げ、そのまま口にほおばった。

 

 ぺろりと口の周りに着いたソースをなめながらも、目線は常に幽霊たちを見つめている。

 

 その時にはもう、気づいていた。

 

 

 なんだかんだ自分に言い訳をしながらも、私が願っていたことはただ一つ。

 

 

 

 

 もう一度。

 

 

 

 

 もう一度だけ。

 

 胡じいに、ただ、会いたかったのだ。

 

 

 

 だから、私は待つ。

 

 どれだけの幽霊が目の前を通り過ぎても。

 

 

 

 待つ。

 

 たとえ夜が明け、太陽が昇ろうとも。

 

 

 

 待つ。

 

 また日がのぼり、持ってきた食料が少なくなってきても。

 

 

 

 待つ。

 

 目がしょぼくれて、気を抜けば舟をこいでしまいそうになったとしても。

 

 

 

 眠気を振り払うように、私は時々大声で叫んだ。

 

 

「胡じい! 胡じーい!」

 

 

 幽霊の人ごみからはくすくすと嘲笑の笑い声が聞こえてくる。

 

 

「バカな娘だな、胡じいがここにいるわけないだろ。こんな所まで探しに来るとは、さては正気を失ったか?」

 

 

 どこかで見たことのある顔をした幽霊が、あきれ顔でそんな言葉を残していく。

 

 もしかすると、彼とは生前、胡じいと一緒に会ったことがあるのかもしれない。

 

 だが、他人に興味がなかった私は、その顔が誰なのかすら思い出せなかった。

 

 向こうも私に大して情がなかったのか、そのまま振り返らずに境界の向こうへと消えていく。

 

 

「っ! ふんっ!」

 

 

 私はどかっと地べたに胡坐をかき、再び幽霊の行列をにらみつける。

 

 胡じいを見つけるまで、ここに居座ることを心に決めたのだから。

 

 

 

 

 ……。

 

 …………。

 

 ………………。

 

 

「はうあっ!」

 

 

 私は奇声と共に勢いよく飛び上がった。

 

 

「い、いけない! ね、寝ちゃってた! 胡じい! 胡じいっ! どうしよう、寝てる間に行っちゃったかな……⁉」

 

 

 どれくらい気を失っていたのだろうか。

 

 時間の感覚はとうにない。

 

 寝入ったのが昼なのか、夜なのかさえわからくなっていた。

 

 スカートや上着、頬までもを土で汚し泥だらけになった私を、幽霊たちがくすくすとあざ嗤う。

 

 私はなんだか無性に悔しくなり、唇を強く噛み締める。

 

 こうなったらやけ食いだ、と袋に手を突っ込み気が付いた。

 

 空の袋に手を突っ込んだのは、今回が初めてではないことに。

 

 私は途端に空腹を感じ、へなへなと力なく地べたへ座り込んだ。

 

 

「あ、あれ?」

 

 

 手でいくらこすっても、視界がかすむ。

 

 

 パチパチとまばたきをしていると、それを見ていた幽霊の老夫婦が私の目の前へとやってきた。

 

 

「お前さん、胡桃かい?」

 

 

 私は頷く。

 

 やはり、どこかで見たことのある顔だった。

 

 だが、思い出すことはできない。

 

 

 老夫婦からはあきれや意地悪な感じは全くせず、表情は穏やかな笑みをたたえていた。

 

 この人たちは、悪い人ではない。

 

 直感的に、そう感じた。

 

 

 だが、それがどうしたというのさ。

 

 私がすることは、先ほどまでと何も変わらない。

 

 頬杖をつき、私は幽霊の列に視線を戻す。

 

 

「その頑固な性格は胡じいとそっくりじゃな。残念じゃが、歴代の往生堂堂主は決してこんな所で止まったりはせんよ。彼らは堂々と生き、堂々と悔いなく去るのじゃ。じゃから帰れ、お前がいるべき場所へ」

 

 

 私は胡じいという言葉を聞くと、途端に元気が湧いてきて、力強く首を横に振る。

 

 

「嫌だ」

 

 

 夫人は悲し気な、少し困った表情を浮かべた。

 

 老いた主人は、やれやれと言った様子でため息をつくと、片膝をつき、私と目線を合わせてくる。

 

 わたしはとっさに目線を逸らした。

 

 

「胡桃よ。なぜそうも強情を張る。お前さんもわかっているのじゃろう。何が気に食わんのだ」

 

 

 私は拳を強く握りしめる。

 

 

「んん?」

 

 

 老人が顔を無理やり覗き込んできたので、私はあごを引き、目が合わないように帽子を深くかぶる。

 

 空腹と疲労でヘロヘロになりながらも、とっさにとった抵抗の姿勢のつもりだった。

 

 

 

 帽子の中は、やっぱり、暗闇が広がっている。

 

 

 

 その瞬間、私のとった行動が大きな間違いであったと後悔したが、もう、遅かった。

 

 

 もうろうとする意識の中、夢か幻覚か、あの時の胡じいの声が蘇ってくる。

 

 

『この帽子は法力を持っていて、邪気を払い、平和を守護するものじゃ。葬儀を執り行えないわしが持っていても仕方ない。これは桃ちゃんに譲ろう』

 

 

 力任せに押さえつけられた帽子を上げると、胡じいの笑顔がそこにある。

 

 それが、胡じいと最後に交わした言葉だった。

 

 鼻の奥が、ツンと痛みを訴える。

 

 

 

 

「……かった」

 

 

 

 

 私は老人に向かって口を動かすも、ぎゅっと縮こまった肺が言うことを聞かず、うまく声が出てこない。 

 

 

「ふむ、よく聞こえんわい」

 

 

 もう一度、私は震える胸を無理やり膨らませ、声を振り絞る。

 

 

 

「もっと、お喋りしたかった」

 

 

「……」

 

 

 今度は老人が黙る番だった。

 

 しかし一度決壊した口は私の言うことを聞かず、心の底に押し込んでいた思いをとめどなくあふれさせる。

 

 

「もっと、遊びたかった。もっといろいろ教えてほしかった。もっと……私を見ていてほしかった! あれが最後の言葉なんて、納得できない‼ でも胡じいの約束を守るためにはこうするしかなかった‼ 私は、私はっ‼ ちゃんとひとりで葬儀ができたことを、胡じいに、褒めてもらいたかった……」

 

 

 そこまで言い切ると、私は奥歯を食いしばる。

 

 もうそれだけで、精いっぱいだった。

 

 老人はふっと笑う。

 

 

「そうやって泣き顔を隠すところも、胡じいとそっくりじゃとは。まったく、かなわんのう。……なあ、胡桃や。お前さんと胡じいがどんな言葉を最後に交わしたのかは、私たちにはわからん。だがな、胡桃。よくよく思い出してみなさい。それが本当に、胡じいと最後に交わした言葉なのか?」

 

 

 私には老人が何を言っているのか、わからなかった。

 

 胡じいと最後にしゃべったのは、帽子をもらった日で間違いはない。

 

 あれから顔を合わせることもなく、葬儀の準備に追われていたのだから。

 

 私は帽子が落ちそうなくらい、強くうなずく。

 

 

「そんなはずはない」

 

 

 老人は穏やかな声で、私を否定する。

 

 

「だって、私、胡じいとは、それから会ってないもん……」

 

 

 私も負けじと言い返す。

 

 

「ふふふっ」

 

「なんで笑うのっ!」

 

 

 思わず両手で持ち上げた帽子を胸に抱き寄せ、私は老人に食ってかかる。

 

 そうしてやっと、気が付いた。

 

 老人が浮かべた口元の笑みとは対照的に、その瞳は澄み切っていて、真剣そのものだということに。

 

 

「っ!」

 

 

 短く息をのむと、まるで心臓をわしづかみにされたような錯覚を覚える。

 

 もう目を逸らすことは、できなかった。

 

 老人の口が、ゆっくりと動く。

 

 

「もう一度問う。胡桃や。胡じいと会ったのは、それが最後なのか? それが胡じいと最後に交わした言葉なのか?」

 

 

 その言葉には、魔力がこもっているようだった。

 

 

 ――私は、間違っていない。

 

 

 頭はそう叫んでいるのに、心のどこかで激しくそれを否定している自分がいる。

 

 まるで体の内側を見透かされているような気がして、私は目の前の老人に恐怖すら感じた。

 

 

 

「……本当に?」

 

 

 

 ごくりと生唾を飲み込み、小さくうなずく。

 

 

 

 

「そんなはずはない。なぜなら、胡じいの葬儀を行ったのは、他の誰でもない、お前さんなのだろう?」

 

 

 

 

 

 一瞬、心臓の鼓動が止まった。

 

 

 

 

 

 無意識に鍵をかけいていた記憶の扉が、音もなく開かれる。

 

 それはまるで一瞬で過ぎ去ったと思っていた、葬儀の最中の記憶だった。

 

 

『よく見ておるよ、桃ちゃん』 

 

 

 確かにあの時、聞こえていた。

 

 狂おしいほど愛しい声。

 

 陽だまりのようなあたたかい空気。

 

 葬儀の最中、私はずっと、胡じいのあの優しいまなざしで見守られていた。

 

 

 どうして、忘れてしまっていたのだろう。

 

 どうして、なかったことにしてしまったのだろう。

 

 なにかが胸の奥で、熱く、熱く、燃え盛る。

 

 

 

『桃ちゃん、……ありがとう』

 

 

 

 確かに聞こえた胡じいの最後の言葉。

 

 あの場にいた誰よりも、私はちゃんと胡じいとお別れができていたはずなのに。

 

 どうして私はこんなにも、物分かりが悪いふりをしているのだろう。

 

 とめどなく流れる涙は、熱を帯びたまま頬を伝い、胡じいのくれた帽子に幾度となく滴り落ちる。

 

 

「その帽子、大事にするんじゃぞ」

 

 

 老人の言葉ではっと我に返ると、老夫婦の姿はもう、境界の向こうへと消えかけていた。

 

 私はごしごしと目をこすり、あわてて立ち上がると深く礼をする。

 

 彼らが胡じいとどんな関係だったかは、今もわからない。

 

 でも、私にとても大切なことを思い出させてくれた。

 

 顔を上げた時には、すでに彼らの背中はそこにはなく、境界だけがぼんやりとあやしく光をたたえている。

 

 

 私は大きく伸びをして、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

 

 もう、大丈夫――。

 

 足元にあった空っぽの袋を持ち上げ、私は笑顔で踵を返す。

 

 極限までお腹がすいて、今にも倒れそうなくらい疲れ切っているのに、私はスキップで無妄の丘を降りていく。

 

 

 来た時は月光に照らされていた薄暗い道も、気が付けば早朝の日差しに輝いていた。

 

 



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護法戦記 16話 未知の感覚

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
胡桃の過去の話を聞き、感銘を受けた私は胡桃と和解することができた。
そもそも私が気を使い過ぎていただけだったようだ。
……しかし、この空間。
なかなかどうして、素晴らしい。
このままずっとここにいたいとすら感じる。
なあ弥怒。
弥怒もこちら側へはやく来ればいいものを。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


「それがちょうどここ、平安さんが今いる無妄の丘なの。その後私は璃月港に帰って、この服に花の刺繍を入れた。この花は、私がちゃんと胡じいを送り出すことができた証。そしてこれから先も葬儀屋として、旅立つ人を同じように見送り続けるという私の誓い」

 

 

 胡桃はそう言いながら服の裾を持ち上げ、私に見せてくれた。

 

 不吉と悲しみの象徴、白い彼岸花。

 

 胡桃の服の上で、その花は誇らしげに咲き誇っていた。

 

 

「若いのに……偉いな」

 

 

 私はそんな平凡な言葉しか口にすることができず、語彙力の少なさを情けなく思う。

 

 天を仰げば、いつの間にか雲の間からは光が差し、うっそうとした森に光の柱を伸ばしている。

 

 

「はは、私とは大違いだ」

 

 

 自嘲しながら、私は胡桃に肩をすくめて見せた。

 

 胡桃は両手を前にぶんぶん振っておどけて見せる。

 

 

「そんなつもりで話したわけじゃないから、安心して! ちょっと長話になっちゃったけど、平安さんのこと、全然気にしてないって言いたかったの。あと、心配しなくてもお客さんのプライベートに深入りするつもりはないから、私の話をしたからって平安さんの過去を根掘り葉掘り聞いたりしないよ!」

 

 

 言い終わると、胡桃は黒いベンチに腰掛けたまま、両手と両足をぐっと伸ばす。

 

 

「うーん、気持ちがいいねぇ。この場所にしては不自然なくらい。よし、じゃあ平安さん」

 

 

 胡桃がぴょんとベンチを飛び降り道の真ん中に立つ。

 

 

「そろそろ出発か」

 

 

 私も肩に鞄をかけなおし、お尻をはたいて立ち上がる。

 

 すると胡桃は私を見て、首を横に振った。

 

 

「え?」

 

 

 てっきり話も終わり、出発するものだと思っていた私は首を傾げる。

 

 どうしたのだろう。

 

 行かないのだろうか。

 

 目的地は目の前だというのに?

 

 胡桃が言っていた、境界と言う場所まで案内してくれるのではなかったのだろうか。

 

 話の流れだと、そんな風に思えたのだが。

 

 

 戸惑う私を見てうんうんとうなずき、胡桃は声高らかに宣言する。

 

 

「平安さん、こーれーかーらー、寝るよっ‼」

 

「……はい?」

 

 

 胡桃はこれでもかと、満面の笑みを浮かべていた。

 

 私の脳は突然状況にそぐわぬ一言を受けて、混乱を極める。

 

 

「ええっと、胡桃。今から、お化けツアー再開じゃなかったのか? 寝るって、ここ森の道の真ん中だぞ? 近くに宿も見当たらないし、それにまだ真昼間だ。一体どういう……」

 

 

「チッチッチッチ、残念平安さん、違うんだな~」

 

 

 リズムに合わせて胡桃が人差し指を振る。

 

 その姿は妙に小憎たらしく、先ほどまでは胡桃のことを尊敬すらしていたのに、なぜだか今は無性に腹が立つ。

 

 

(なあ弥怒)

 

 

『なんだ』

 

 

(私が間違っているのか? 私の常識が、おかしいと言われているような気がしてならないのだが)

 

 

 弥怒は退屈そうにあくびをすると、ため息をついた。

 

 

『愚か者。小娘に遊ばれているのだ。お主は。その程度で一喜一憂するなど、修業が足らん』

 

(うぐっ)

 

 

 苛立ちが顔にも出てしまっていたのだろうか。

 

 胡桃は私を見て、ニマニマと笑っていた。

 

 

「おやぁ? おやおやぁ? 状況が理解できなくって、そーんなに悔しかった? じゃあ特別にヒントをあげよっか? 今から私が何をしようとしているか、平安さんにはわっかるっかなぁ~って、ごめんごめん、怒らないで―!」

 

 

 私が腕を組み調子に乗る胡桃を睨みつけると、胡桃は私の背中をパンパンと叩き、横から顔を覗き込んでくる。

 

 眉がぴくぴくと勝手に動く。

 

 私は胡桃に気付かれないように、それを必死に押さえつけようと努力した。

 

 ああ、我慢だ平安。

 

 私は大人、私は大人だ。

 

 

『嘆かわしい』

 

(う、うるさい!)

 

 

 おかしい。

 

 なぜいつもこうなるのだ。

 

 なぜ私ばかりが責められる流れに。

 

 考えるのも馬鹿らしくなり、私はがっくりと肩を落とした。

 

 

「はぁ、で、これからどうするんだ胡桃。こんなところで地べたに横になるのはごめんだぞ」

 

 

「そこは安心してもらって大丈夫! 私は今回のツアーの開催者、平安さんはお客さん。お客さんにそんな待遇はできないよ!」

 

 

「じゃあ、どうするっていうんだ」

 

 

「ふふん、こうするのっ」

 

 

 胡桃は得意げに笑うと、先ほど腰かけていたベンチを藪の中から力任せに引きずり出す。

 

 ベンチは思ったよりも大きく、その全長はちょうど上に大人が一人寝転がってもまだ足りるほどであった。

 

 

「って、これ、ベンチじゃなくって……」

 

 

 私は絶句する。

 

 

「ん? 平安さんはこれをベンチだと思ってたの? 罰当たりだなー。これは正真正銘、本物の棺桶! 平安さんが座ってたのも、同じくちゃんと本物だよ? 私がちゃんと保証する。必要であれば、往生堂マークの保証書を発行したって構わないよっ!」

 

 

「いやいやいやいや! なんてものに座らせるんだ! というより、座るよう指示したのは胡桃だろう! なんでこんなところに棺桶がふたつも!」

 

「私が運んだから?」

 

「どこからっ⁉」

 

「璃月港から」

 

「なぜっ⁉」

 

「んーなんとなく?」

 

「……っ‼」

 

 

 

 

 だめだ。

 

 

 胡桃のペースで会話していると、だんだん頭が痛くなってきた。

 

 私がこめかみを押さえていると、パチパチパチと手を叩く音が聞こえてくる。

 

 

「いいよっ! いいよ平安さん! そのリアクション最高だよっ! こんな面白いお客さん久しぶりだよ!」

 

「……」

 

 

 私は知っている。

 

 ここで胡桃にかみついたところで、どうせもてあそばれるだけなのだと。

 

 私は胡桃の気を引かぬよう、極めて冷静なふりをしつつ言葉を返す。

 

 

「……それで。これが棺桶なのはわかった。まさかお化けツアーを銘打っておいて、棺桶の死体を見せるなんてことはさすがにしないだろう。一体、何が目的なんだ?」

 

 

「えへへっ、そんなことしないよ! 確かにその案はちょっと興味惹かれる内容だったけど、不正解。ね、平安さんもそっちの棺桶引っ張り出して、開けてみてよ! そしたらわかるって」

 

 

 胡桃に促されるまま、私は先ほど自分が腰かけていた黒い箱にしぶしぶ手をかける。

 

 箱は思ったよりも重く、私は胡桃ほど軽々と引き出すことができずに、ずりずりと音を立てながらやっとのことで草むらから引き出せた。

 

 

 肩で息をする私に、胡桃が「ほらほら開けてみて」と楽しげに笑う。

 

 蓋の金具を外し天板にぐっと力を込めると、蓋は音もなく持ち上がった。

 

 

「うわぁ……」

 

 

 私は中を見てげんなりした。

 

 今までで一番疲れた瞬間だったかもしれない。

 

 対照的に、胡桃は鼻息を荒くして目を輝かせる。

 

 

「どお⁉ これすごいでしょ? 往生堂が開発した、最新携帯式寝具! 名付けて【そのまま往生Doセット】!」

 

 

「見た目も名前もえらく不穏だな⁉」

 

 

「まあまあそう言わずに、ちょっと横になってみてよ! きっと違いがわかるから!」

 

 

 棺桶へ私の身体を押し込もうと、胡桃の両手がにじり寄る。

 

 私はあわててその手を振り払った。

 

 

「な、何と比べた時の違いだ!」

 

 

「それはもちろん、普通の棺桶だよ!」

 

 

「いや、普通の棺桶でも寝たことなんてないぞ!」

 

 

「あー、そうか。なるほどなるほど。平安さんの家には棺桶がなかったんだね。うんうん、でも大丈夫! 人生の最後にはきっと入ることができるし、その時に思うよ! 『ああ、あの時に使った往生堂印の携帯式寝具、そのまま往生Doセットの寝心地、よかったなぁ……』って!」

 

 

「そんなこと思うかっ! って、そもそも棺桶に入っているときには私は死んでしまってるだろう! どうやって寝心地を検証するというんだ!」

 

 

「あっ、確かに! な、なんてことっ! 私としたことが、一生の不覚っ! 幽霊になったら、ベッドの感触が分からない……! この製品にそんな欠点があったなんて!」

 

 

「むしろ欠点だらけだぞ!」

 

 

 まるでツッコミが追い付かなかった。

 

 天才となんちゃらは紙一重と言ったものだが、胡桃は何というか、その類なのだろう。

 

 

「ああ、頭が痛い……」

 

 

 私が眉間をぎゅっと押さえた瞬間だった。

 

「えい」

 

 胸元に軽い衝撃。

 

 棺桶のふちで、もつれる足。

 

 崩れる姿勢、傾く視界。

 

 驚きに目を見開けば、胡桃がペロッと舌を出し、両手をゴメンネと突き合わせる。

 

 

「いでっ!」

 

 

 私はきれいに棺桶の中へ尻もちをついた。

 

 胡桃が私の足を目にもとまらぬ速さで棺桶の中へしまい込む。

 

 その動きは手馴れていて、流れるように洗練されている。

 

 なんだか、すごく嫌だった。

 

 

「一名様、ご案内~!」

 

 

 バタンと、目の前で閉まる棺桶の蓋。

 

 私はあっけにとられ、開いた口がふさがらない。

 

 昼間の明るさから一転、私は闇の中に閉ざされたのであった。

 

 慌てて蓋を持ち上げようと腕に力を込めるが、蓋はびくともしない。

 

 

「おい! 冗談が過ぎるぞ、胡桃! 早くここから出してくれ!」

 

 

 ドンドンと蓋を叩くも、やたら頑丈な作りで棺桶はびくともしない。

 

 その上棺桶の中が狭いため、思ったように力も入らなかった。

 

 力づくではどうにもならないことを悟り、私は胡桃に交渉を試みる。

 

 

「なぁ胡桃、私が悪かった! ふざけているのならやめてほしい。こんなところで今から寝るなんて、考えられない! もっといい場所が探せばあるはずだ。お願いだ、胡桃!」

 

 

 すると棺桶の真上から、くぐもった胡桃の声が聞こえてくる。

 

 

「こんなところってどんなところ?」

 

 

 どうやら棺桶の上に、胡桃が座っているらしい。

 

 そりゃあ開かないわけだ。

 

 私は怒鳴りつけたくなるのをこらえつつ、胡桃の質問に答える。

 

 

「どんなって、そりゃあ、真っ暗で、狭くて。それに……首周りはちょうどいい高さで、妙に腰のカーブにフィットした形状になっていて、ふわふわした毛布のような内装材が体を包み込み、狭さが逆にちょうどいい。そしてわずかに香る線香の匂いが、心を落ち着かせてくる。こんな、こんな……!」

 

 

 私は闇の中でぎりぎりと奥歯を噛み締める。

 

 

『どうした、大丈夫か?』

 

 

 さすがの弥怒も心配そうに尋ねて来た。

 

 思わず私は弥怒の言葉に縋りつく。

 

 

(どうしよう、どうしよう弥怒!)

 

 

『なんだ、どこか痛むのか? それとも、閉所恐怖症でも発症したか?』

 

 

 私は誰も見ていないのに、首を大きく横に振る。

 

 

(違うんだ弥怒。違うんだ……。こんなの、絶対間違ってる! こんな、こんな棺桶がっ! 私が今まで寝たことがあるどんなベッドよりも、心地よいと感じられるだなんて……っ‼)

 

 

 体はもうほぼほぼ屈服しかけている。

 

 何とか理性で踏みとどまってはいるが、全身から伝わる「快適」のサインが、グラグラと私の感情を揺さぶっていた。

 

 

 

 

『……阿呆が。心配して損した』

 

 

(弥怒ぅぅ! 一度、一度でいいから寝てみろ! あ、そうだ。私の感覚を共有すればいいじゃないか。ほら、今の感覚をもとに頭の中に棺桶を想像してやったぞ! 入れ、入ってみるんだ弥怒!)

 

 

『断るっ‼』

 

 

 なぜだ。

 

 なぜこの悔しさと心地よさのハーモニーを誰もわかってくれないんだ。

 

 もう理性は吹き飛び、心がぐしゃぐしゃになりかけていた。

 

 再び棺桶の上から、楽し気な胡桃の声が降ってくる。

 

 

「あははっ! 詳細なレビューありがとっ! 今度紙に書いて、実際に寝てみたお客様の声として紹介させてもらうね!」

 

 

「うぎぎ……」

 

 

 反論したくてもできない。

 

 こんな野ざらしの棺桶が、望舒旅館のベッドより寝心地がいいだなんて、誰が想像できようか。

 

 

「平安さん、ちょっと今は幽霊が少ないみたい。さすがに真昼間じゃ、雰囲気も出ないでしょ? 歩き回っても疲れちゃうから、とりあえず棺桶で夜までお昼寝しようよ。目が覚めたら驚くよ? きっと世界が変わってるから。そしたら、そこからが正真正銘、“未練がある魂の浄化ツアー”の始まりだよっ!」

 

 

 ザリ、と胡桃の靴が砂を踏みしめる音が耳元で聞こえた。

 

 もう棺桶の上からは退いてくれたらしい。

 

 腕を持ち上げて天井を軽く押すと、開いた蓋の隙間から一筋の光が差した。

 

 暗さに目が慣れていたので、差し込んだ光源はやけに眩しく感じられ、私は眉間にしわを寄せつつ手を離す。

 

 再び棺桶の中は光の届かぬ世界となり、無性に心が落ち着いた。

 

 

『出ないのか?』

 

 

 弥怒が訪ねてきたが、私はいや、と頭に言葉を形作る。

 

(もうどうにでもなれだ。別に出たければいつでも出られる。胡桃の言う通り、こんな何もない場所じゃひとりですることもない)

 

 

『お主が良いのであれば、それで良いが』

 

 

 弥怒はあまりこの状況に納得していないのか、やや不満気だ。

 

 そう思うのであれば、私が頭の中に作ってやった棺桶に入ってみればいいものを。

 

 世界が変わるぞ。

 

 

「あ、平安さーん、言い忘れてたけど、肩のあたりに小さな引き戸があるから、開けておいてね! それ開けて寝ないと、息苦しくなってきて、本当に往生堂行きになっちゃうよー!」

 

 

 少し離れたところ、胡桃の棺桶の方向からそんな忠告が聞こえてくる。

 

 私は言われるがまま肩のあたりを探ってみると、小さな突起があったのでそれを引いてみる。

 

 開いた窓には細い糸が格子状に組んであり、風を通しつつ虫の侵入を防いでくれるようだった。

 

 窓の位置も絶妙で、やや高い位置にあるため雨が降ったとしてもそこから浸水するようなことはなさそうだ。

 

 腹立たしくも、窓には日よけが設けられているため、入ってくる明かりで眠りが妨げられることはない。

 

 

「形が棺桶でなければ、いや、形にさえ目をつぶれば……」

 

 

『おい、これを買うなどと言い出してくれるなよ』

 

 

 揺らぐ私の心を見透かしてか、弥怒が釘を刺してくる。

 

 

(別に、値段によっては考えてもいいなんて、思っていないさ。人目につかない室内であれば、ありかもしれないなどと、考えるはずもない)

 

 

『お主、心の声がだだ漏れだぞ……』

 

 

 かくして、胡桃のお化けツアーの行軍は一時中断、夜を待つことになったのである。

 

 

 

 

「夜まで寝る、か……」

 

 

 私は闇に向かってぽつりと独り言をつぶやく。

 

 

『ん? どうかしたか?』

 

 

(いや、大したことじゃない。それより弥怒。今夜はこのツアーのメインイベントになりそうだ。もともとこのツアーに参加したいと言い出したのは、弥怒だろう。出発前に言っていた、弥怒の約束を待ち、あの世に旅立てぬ魂の話、私はまだ覚えているよ。それで、だな。つかぬ事を聞くようで悪いが……弥怒の言うその魂に、弥怒は思い当たる人物がいるのだろうか?)

 

 

 そう尋ねながら、私の心臓の鼓動はだんだんと緊張で大きくなっていく。

 

 実は旅の途中もずっと気になっていた。

 

 弥怒が会おうとしている、その人物。

 

 気にするなと言うほうが無理がある。

 

 目的地を前にして、今尋ねたとて不自然ではないだろう。

 

 

『ああ、そのことか。お主に話してはいなかったな。話すほどのことではないかと思っていたが、知りたいか?』

 

 

 私は弥怒に気付かれぬよう、努めて冷静なふりをする。

 

 

(ま、まあ、ここまで来たのだからな。ちょっと気になっている)

 

 

 嘘だ。

 

 正直めちゃくちゃ気になっている。

 

 

『うむ。まあよいだろう。お主には今回付き合ってもらったのだからな。知る権利はあるだろう』

 

 

 そう言うと弥怒は言葉を選んでいるのだろうか、しばらくの間考え込む。

 

 棺桶の中は途端に静かになり、私の息遣いと高鳴る心臓の音だけが響いている。

 

 私は手に汗を握りつつ、弥怒の言葉を待ち続けた。

 

 

 ようやく、弥怒が口を開く。

 

 

『その、だな。己れが命を終える前、約束を交わしたままになった者がいる。その者とは、苦楽を共にした戦友であった。お主の部屋で本の挿絵を見て、後世でその姿が誤って伝わっていることを知った。残念ながら、その者も戦乱の中で命を落としたのではないかと思っている』

 

 

 私はごくりと生唾を飲み込んだ。

 

 弥怒は懐かしむような声で続ける。

 

 

『その者の存在自体は、お主も知っておるだろう。かつてその索敵能力で戦局を見定め、果敢に攻めたかと思えば一気に引いて敵をおびき出す。彼女は策略に優れるだけでなく、その透き通った尖爪は敵を切り裂くと同時に、敵軍の最中、勝利への道をも切り開く』

 

 

 

 思わず、私は息をするのも忘れて弥怒の言葉に聞き入る。

 

 

 

 弥怒が会いたいと願う人物とは、まさか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『その人物とは、螺巻大将と呼ばれし仙衆夜叉がひとり、――伐難のことである』

 

 

 

 ひゅっと喉元から短く空気を吸い込む音がした。

 

 

 闇の中に、少女の笑顔が浮かび上がる。

 

 

 

 その瞳は私が夢で見た時と同じように、どこまでも蒼く、透き通っていた。



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護法戦記 17話 土砂降りの夜に

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
棺桶の中は居心地がよく、いつの間にか私は眠ってしまっていた。
伐難のことを一生懸命話してくれた弥怒には悪いと思っている。
ん?
これは、夢、だろうか。
なんだか見覚えのある景色だ。

……雨が、降っている。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 薄暗がりの中、私は目を覚ます。

 

 体が浮いているような、不思議な感覚。

 

 この感覚を私は知っている。

 

 また、夢を見ているのだろう。

 

 ということは、私は弥怒との話の途中で寝てしまったのか。

 

 

 あれから棺桶の中で、弥怒は伐難について語ってくれた。

 

 伐難が巻貝の家に住んでいること。

 

 多くの部下を従え遊撃を指揮することもあれば、少数精鋭で敵陣に乗り込み情報を入手する斥候としての一面もあること。

 

 やや内気であったが、仲間思いな夜叉であったこと。

 

 そのほとんどは夢で見た内容と一致していた。

 

 しかし、すでに知っていることを話されることほど眠りを誘発するものはなく、私はついうとうとして眠ってしまったようだ。

 

 

(起きたら弥怒に怒られるかなぁ)

 

 

 私がそんなことを考えながら、周囲へと意識を向ける。

 

 

 

 雨が、激しく降っている。

 

 分厚い雲は太陽を完全に隠し、今が朝なのか昼なのか、はたまた夕刻に近づいているのかさえ分からない。

 

 雷鳴がとどろき、あたりはまばゆい閃光に包まれる。

 

 続けて、空気を揺るがすほどの轟音が響き渡った。

 

 

 ほどなくして、雨音が周囲に戻ってくる。

 

 私はまるで幽霊のごとく浮遊しているというのに、生身の体の癖が抜けずに思わず縮こまる。

 

 縮こまるとはいっても、身体はないので気持ちの上での話だが。

 

 

 恐々と私が天気の様子を窺っていると、背後で盛大に雷が落ちる。

 

 正確にはそれは雷霆ではなく、誰かが感情に任せて放った、怒号であった。

 

 

「なぜ、己れを謀った‼ 伐難は何を考えている‼ たとえ部下とて、返答次第では許さぬぞ、王深ッ‼」

 

 

 声のする方へ意識を向けると、土砂降りの中、白むふたつの人影が見えてきた。

 

 ひとりは長身の大男で、腕を組んで仁王立ちしている。

 

 そしてもうひとりは、片方の腕を押さえ顔に苦悶の表情を浮かべながら膝をついていた。

 

 再び雷が落ち、ふたりの姿が青白く鮮明に浮かび上がる。

 

 

 そこにいたのは怒りに瞳を燃やす弥怒と、以前の夢の終り際にすれ違った、伐難の部下であった。

 

 

(この夢は、前回の夢の続きなのか⁉)

 

 

 今までの夢は大きく場面が変わり、時間もかなり間隔があったように思える。

 

 しかし、今回の夢は前回の夢からさほど時間が経っていないようだった。

 

 異なるのは、伐難の部下、王深がぼろぼろになっているという点だけである。

 

 

(あの後、伐難の部隊に何かがあったのか……?)

 

 

 私が少ない情報から分析をしていると、王深が顔を上げ、歯の間から絞り出すように進言した。

 

 

「恐れ多くも、弥怒殿。これは我らが大将たっての御命令。決して曲げるわけにはいきません。どうか、どうかお聞き入れください。この通りですっ‼」

 

 

 体中から雨水を滴らせながら、王深はひれ伏す。

 

 

「断る! 断じて、断るッ‼ 貴様は、この心猿大将に戦場を前にして、尻尾を巻いて逃げろと申すのか!? そんなこと、受け入れられるはずもなかろうッ‼」

 

 

 弥怒はその身を大きくかがめて腰を落とすと、うつむく王深のあごを力任せに持ち上げ、今にも食らいつきそうな勢いで無理やり目を合わせる。

 

 王深は今にも、泣き出しそうであった。

 

 

「答えよ、王深。貴様らの部隊に何があった。なぜ伐難は嘘をついて己れを戦場から遠ざけた!? 己れがいくら潜伏し待ち続けても、敵の大将はおろか妖魔一匹たりともやってこないではないか! 伐難の索敵や情報は信頼を寄せるに値するものだ。彼女の働きがなければ、夜叉たちの被害はより多く、己れとてこの激しい戦乱を生き延びられたかどうかも危うい。だがな、王深。このような……このような屈辱を受けたのは初めてだ‼ 仙衆夜叉の名を持ちながら戦いからつまはじきにされた上、今度は逃げろだと? ……ならばこの怒り、どこにぶつけてくれようか‼」

 

 

 弥怒の怒りに岩元素が共鳴し、大地が震える。

 

 私はその姿に恐怖した。

 

 こんなにも怒りをあらわにした弥怒を、私は知らない。

 

 その剣幕はその場にいるすべてのものを、縮み上がらせるに十分な迫力を持っていた。

 

 

「……心中、お察し申し上げます……弥怒殿。ですが、ですが……どうか……」

 

「まだ言うか、貴様ッ‼」

 

 

 王深の目からは涙が零れ落ち、声は聞き取れないほど震えている。

 

 だというのに、決してその心は折れてはおらず、うわごとのように同じ言葉を繰り返す。

 

 

「……っ! 話にならん!」

 

 

 弥怒は乱雑に王深のあごから手を離すと、鼻息荒く立ち上がった。

 

 

「どこへ行かれるというのですか!」

 

 

 王深もあわてて立ち上がる。

 

 

「決まっておろう! 伐難と合流し、問いただす。もしも窮地に陥っているようであれば、救い出した後問いただす!」

 

 

 ずんずんと歩き出した弥怒の前に、王深は回り込んで立ちふさがった。

 

 

「だめです、弥怒殿。ここを通すわけにはいきません。ここを通るのであれば、私を倒してからお通りください。ですが、私はたとえこの命尽きようとも、弥怒殿を通さぬと誓っておりますゆえ、どうぞ、お覚悟を」

 

 

 王深の目は座っており、肩で息をする体からはわずかに湯気がのぼり立つ。

 

 暗がりの中でもその瞳は爛々と輝いており、その横顔はまるで飢えた獣。

 

 いつでも飛び掛かれるよう身を低くしたその立ち姿は、彼の言葉が決して嘘偽りでないことを物語っていた。

 

 

 弥怒もその足を止め、両者はごうごうと音を立てる雨の中、言葉もなく睨みあう。

 

 

 

 

 時間にして、おおよそ30秒ほど見つめ合った頃だろうか。

 

 弥怒はふうっと漏らしたため息と共に、体から力を抜いた。

 

 途端、両者の間にあった張り詰めた緊張の糸が、ふっと緩む。

 

 

「ぷはぁっ、はあっ、はあっ!」

 

 

 脂汗を吹き出しながら、王深がまるで今まで息を止めていたかのように呼吸を荒げる。

 

 弥怒は先ほどまでの怒りを潜め、柔らかく王深に語り掛けた。

 

 

「王深。お主の剣はどうした。ん? 先ほどから動かぬその右腕、健を痛めたのであろう? 少なくともお主に己れの足止めは不可能だ。たとえお主が全快であったとしても、己れはいともたやすくここを通り抜けることができる。お主の気概はよくわかった。だからもう休め、王深。あとは己れに任せろ。命を、粗末にするでない」

 

 

 弥怒は腕を押さえ立ちふさがる王深の肩へ、ぽん、と手を置くと、そのままゆらりと通り過ぎる。

 

 その軽い衝撃が傷に触ったのか、弥怒の言葉が王深の心に響いたのかはわからない。

 

 だが、その一瞬、王深は何かをこらえるように目をぎゅっとつぶった。

 

 

 そして彼がハッと我に返った時。

 

 

 すでに弥怒ははるか後方で、その速度をぐんぐんと上げていた。

 

 

「お、お待ちくださいっ! あっ!」

 

 

 追いかけようとした王深の足がもつれる。

 

 王深はそのまま、水たまりの上で盛大に転んだ。

 

 

「ぐっ、み、弥怒殿、行っては、なりませぬ……!」

 

 

 泥だらけになりながらも、王深は立ち上がろうと、まだ動く腕を大地に突き立てて身を起こす。

 

 すると負傷したもう片方の腕が、だらりと宙に垂れ下がった。

 

 

 傷口が開いたのか、じわりと袖に血がにじむ。

 

 

「くそっ!」

 

 

 王深は袖を引き裂くと、肩口でまとめて腕を縛った。

 

 応急処置を自ら施した王深は、再び弥怒を追いかけようと立ち上がる。

 

 しかし血を失い過ぎたのか、疲労が限界を迎えたのか、その足取りはまるでおぼつかない。

 

 

 ぶらぶらと垂れ下がった両手を揺らしながら、視点の定まらぬ目でふらりふらりと歩いていく。

 

 やがて王深はせりあがった木の根につまずくと、ばったりと倒れ、そのまま気を失ってしまった。

 

 

 彼が目を覚ます様子はなく、身体はピクリとも動かない。

 

 

(気の毒だが、私にはどうすることもできない……)

 

 

 このまま、彼をおいていくほかはないだろう。

 

 雨は血と泥で汚れた王深の腕の傷口を洗い流していく。

 

 止血がうまくいっているからだろうか。

 

 不幸中の幸いか、もう王深の腕の傷口からは、絶えず血が流れ続けるといったことはなかった。

 

 多少安心した私は、後ろ髪を引かれる思いで、彼をおいたまま弥怒が走り去った方向へと向かい始める。

 

 

 

 視界は最悪だったが、弥怒を追いかけるのは簡単だった。

 

 ぬかるんだ大地には、しっかりと大きな足跡が等間隔で並んでいる。

 

 私はひたすら、雨の中を進んだ。

 

 弥怒の足取りは、迷うことなく、まっすぐと進んでいく。

 

 

 右足、左足、右足、左足。

 

 

 足跡は大地を激しく抉っており、弥怒の焦りが手に取るようにわかった。

 

 

 私は無心に足跡を追いかける。

 

 

 そうしている、つもりだった。

 

 

 

 だが意に反するように、私の移動速度は遅くなっていき、やがて完全にその動きを止めてしまう。

 

 

(なぜ立ち止まるのだ、平安。前に進め。弥怒を追いかけろ、平安!)

 

 

 そうやって自分を鼓舞しても、だめだった。

 

 理由は嫌と言うほど、頭では理解している。

 

 

 私は――。

 

 

 私は心の底から、戸惑っていたのだ。

 

 この夢の続きを見るのか、見ないのか。

 

 今までは興味本位で追いかけていたこの夢。

 

 だが今は、そんな興味が吹き飛ぶほど、大きなざわめきを胸に感じている。

 

 

 

 それは雨で洗い流された、王深の傷跡を見た瞬間から始まっていた。

 

 最初に王深を見た時、痛みに腕を押さえていると思っていた。

 

 恐らく、弥怒も同じように考えたはずだ。

 

 しかしよくよく考えてみると、不自然だった。

 

 彼はどんな状況でも、腕から手を離さなかったのだ。

 

 弥怒にこうべを垂れる時も、怒鳴りつけられている間も、自分よりはるかに強大な者に相対する状況でも。

 

 

 しかし弥怒が立ち去った後、彼はあっけなくも傷口から手を放す。

 

 まるで、痛みなど気にしてはいなかったといった様子で。

 

 

(そう、彼はまるで、弥怒に傷口を見せないように、隠していたのではないか?)

 

 

 ゴロゴロと雲の中で雷がうなり声をあげる。

 

 雨あしは一向に弱まらず、むしろその激しさを増していた。

 

 

 

 私は今一度、思い返す。

 

 気絶し、伸びきった王深の、腕の傷口を。

 

 それは鋭利な刃物のようなもので切り裂かれた傷跡だった。

 

 

 特徴的だったのは、その数。

 

 

 等間隔に並んだ4本の裂傷。

 

 

 それはまるで――大きな爪で引き裂かれたような、傷であった。

 

 

(なんだか、とてつもなく嫌な予感がする)

 

 

 見下ろせば、水たまりが雨で激しく波打っていた。

 

 

 揺れる水面を見つめていると、波紋と波紋の合間に、一瞬弥怒の横顔が浮かぶ。

 

 

(……やはり、行かなければ)

 

 

 空を覆うような漠然とした不安は、私の背中を強く押す。

 

 恐怖と不安がせめぎ合い、わずかではあったが、不安が恐怖に打ち勝った。

 

 なぜかは分からない。

 

 だが、見届けなければならない気がした。

 

 

 

 突如私の前に現れた、口うるさくも温かい、かつての英雄の行く末を。

 

 私は再び前進する。

 

 降りしきる横殴りの雨が、弥怒の足跡を消してしまうその前に。

 

 

 

    ※

 

 

 

 

 思いが強くなればなるほど、私はぐんぐんと速度を上げていく。

 

 到底生身の足では追いつけないほど早く、私は森を抜け崖を降り弥怒を追いかける。

 

 やがてたどり着いたのは、いつか見た砂浜だった。

 

 一目見ただけで壮絶な戦いがあったことがうかがえる。

 

 油が撒かれているのか、雨の中だというのにところどころで炎がくすぶっていた。

 

 その間を埋め尽くすように、魔物の死体が数え切れぬほど転がっている。

 

 私はそれらを避けるようにして、慎重に進んでいく。

 

 

 開けた視界は戦場を見渡すのに十分で、ここまで来れば、目と鼻の先に弥怒の背中が見えていた。

 

 私はわずかな安堵を感じつつ、弥怒の隣へと一息に駆けつける。

 

 

 先ほどから、弥怒は微動だにしていない。

 

 私は不思議に思い、顔を覗き込んで、驚いた。

 

 浅い呼吸を繰り返しながら、固まっている弥怒。

 

 血の気が引いた弥怒の顔はわずかに青白く、目は驚愕に見開かれていた。

 

 

「何を……何をしているのだ、伐難……」

 

 

 かすれるような声で、弥怒がつぶやく。

 

 尋常ではないその様子からは、絶望の色が濃厚に感じられた。

 

 私は恐る恐る、弥怒の目線の先へと意識を移す。

 

 

 うずたかく積まれた魔物の死骸。

 

 山の上には、見覚えのある背丈の、華奢な少女が立っていた。

 

 青く美しい文様が描かれた仮面が、ゆっくりとこちらを振り向く。

 

 そしてそのまま、その長い爪で貫いていた獲物を、まるで腕に着いた汚れを振り払うかのように、弥怒の前へと投げてよこした。

 

 

 

 ばしゃり、とむなしく響く音。

 

 

 

 動かぬ黒い塊が、目の前に転がっていた。

 

 弥怒は信じがたいといった様子で、ふるふると首を横に振りながら、一歩後方へとあとずさる。

 

 薄暗がりの中、動かぬその塊は、人の形をしていた。

 

 

 雷が空を駆け、周囲を明るく照らし出す。

 

 私は思わず息をのんだ。

 

 

 弥怒の足元に転がっていたのは、同じく仮面をかぶった、夜叉のひとりであった。

 

 身を横たえた夜叉はすでにこと切れており、開いたままの瞼が閉じられる様子はない。

 

 

 ふたりの間で、雨音だけが激しく騒ぎ立てる。

 

 

 先に口を開いたのは、蒼い爪を赤く濡らした少女の方だった。

 

 

「誰?」

 

 

 短く放たれた言葉は、私の知っている少女のものとは思えぬほど、冷酷で、機械的で。

 

 まるで別人のようだった。

 

 いや、別人であってほしいと、私は願った。

 

 

「己れが、わからないのか? 伐難……?」

 

 

 動揺を隠しきれないといった様子で、弥怒が少女へ問いかける。

 

 すると、少女は軽く舌打ちで返す。

 

 

「……偽物っ!」

 

 

 刹那、少女は跳躍し、弥怒めがけて一直線に襲い掛かった。

 

 

「馬鹿者っ!」

 

 

 弥怒は両掌を突き合わせ、岩元素の障壁をとっさに張り巡らす。

 

 まばたきする間もなく、少女は距離を詰め、その鋭い爪を振り上げた。

 

 ギャリ、と耳障りな音が空気を揺らす。

 

 

 一撃で仕留められなかったことを理解した少女は、素早く後退。

 

 気が付けば、ふたりの距離は元通りになっていた。

 

 まるで先ほどの攻防がなかったかのように。

 

 しかし弥怒の障壁を見ると、それが幻ではなかったことが私にもわかる。

 

 そこには4本の傷跡が、深く、鋭く残されていたからだ。

 

 

「己れだ! 心猿大将の弥怒だ。正気を取り戻せ、伐難ッ!」

 

 

 弥怒が雨に負けじと、声を張り上げる。

 

 だが、少女は答えない。

 

 押し黙ったまま腕をゆらゆら揺らし、爪の先をカチカチと鳴らしている。

 

 その姿からは、底のしれぬ狂気を感じさせた。

 

 

「おい、聞こえているのか、伐難! 己れたちが争う理由など、どこにもない! 目を覚ませ! もう妖魔はここにはいない!」

 

 

 それを聞いてか聞かずか、少女はゆらりと片腕を持ち上げ、弥怒を指さす。

 

 そしてもう片方の手で、仮面をわずかにずらした。

 

 その隙間からのぞく顔は間違いなく、この前の夢で見た仙衆夜叉、伐難の横顔。

 

 しかしその瞳は、まるで嵐で泡立つ海のごとく、深く、昏く濁っている。

 

 

「お前が弥怒殿の偽物でないと、伐難にどうやって証明するつもりなの」

 

 

 鈴の音のような澄んだ声が、明確な殺意を持って戦場に響き渡る。

 

 

「どうしたというのだ、伐難。業障の影響が、そこまで……? いやそんなはずは。そうだ、吸障石、吸障石はどうした、伐難!」

 

 

 伐難ははっと何かを思い出したかのように、胸元から紐につながれた石を取り出す。

 

 

「なんと……」

 

 

 弥怒が言葉を失う。

 

 

 伐難の吸障石はかつての輝きを失い、禍々しさを感じるほど黒く、闇の色に染められていた。

 

 弥怒ははっと何かに気付いた様子で、戦場を見渡す。

 

 つられて私も周囲へと気を配ると、すぐにある事に気が付いた。

 

 

 

 

 同じなのだ。

 

 

 

 

 魚のような魔物も、骸骨のような犬の魔物も、すべて。

 

 等しく、鋭利な何かで貫かれ絶命していた。

 

 

 目線を戻すと、伐難は黒くなった石をそそくさと隠すように胸元に戻すと、こちらを仮面の隙間から威嚇する。

 

 弥怒はわしゃわしゃと髪をかき上げ、やり場のない気持ちを吐き捨てるように大地へとぶつけた。

 

 

「伐難よ、まさか、ここにいるすべての魔物の業障を、その身一つに……! なぜそのようなことを! 馬鹿なッ!」

 

 

「うるさい、うるさい! さっきから弥怒殿の真似をして! 嫌な魔物! 伐難の知っている声で現れて、油断した隙をついてくる。あと少しで、さっき伐難もやられるところだった。だから、もう伐難は油断しない!」

 

 

 伐難は苦悶の表情を浮かべつつ、頭を振り乱す。

 

 

(まさか、敵と味方が分からなくなっているのか!?)

 

 

 信じがたい二人のやりとりを前にして、私は伐難の状態を理解する。

 

 伐難は仮面をかぶりなおすと、その小さな身からあふれんばかりの殺気が膨れ上がる。

 

 

(このままではまずいぞ、弥怒! なんとか、なんとかならないのか!)

 

 

 私の声掛けに答えるように、弥怒は伐難へ語り掛けた。

 

 

「待て伐難。話し合おう! 何とかして己れが本物であることを証明して見せる! だから、何でもいい! 己れと伐難しかわからない質問を投げてくれ!」

 

 

 それを聞いた伐難の動きがわずかに止まった。

 

 

(弥怒の言葉を聞いて、ためらって、いるのか……?)

 

 

 伐難はうめきながら、角の根元を両手で押さえる。

 

 

「うぅ、弥怒殿の声がする。でも、カタチがよくわからない……。大きいのか、小さいのか、伐難にはわからない……! 伐難の大事な角、壊れてしまった! もともと悪い伐難の目だけじゃ、もう何もわからない。弥怒殿の、弥怒殿の声が、いろんなところから聞こえる。怖い、怖い、怖い……。でも……」

 

 

 伐難は迷いの末、何かを決心した様子で顔を上げる。

 

 そして、はっきりと言い切った。

 

 

「この質問に答えられたら、伐難は、信じる。いえ、ちゃんと信じます。たとえ今目の前にいるのが、妖魔だとしても、愚かな伐難がその選択で殺されたとしても、後悔はしません」

 

 

 それを聞いて、絶望を浮かべていた弥怒の顔が、ぱっと明るくなった。

 

 

「あぁ、ああっ! 安心してくれ、伐難! 己れは、本物だ! どんな質問にでも、答えてやるぞ!」

 

 

 少女は小さく、コクリとうなずいた。

 

 

「わかりました。では……」

 

 

 伐難は少し恥ずかしそうに、仮面を脱ぐ。

 

 光のないその瞳は、正面をまっすぐに見据えた。

 

 そこに、本物の弥怒がいることも知らずに。

 

 

 

 雨音が、遠のいていく。

 

 

 

 わずかに頬を染めた少女の小さな唇が、そっと、動いた。

 

 

「あの日、伐難が法螺貝に閉じ込められた日。伐難にしてくれた約束の言葉を、もう一度……もう一度、言ってください」

 

 

 弥怒は笑った。

 

 

「なんだ、そんなことでよいのか。そんなもの、いともたやすい」

 

 

 少女は頷くと、長い爪を胸元で組み、まるで祈るように返事を待つ。

 

 よく見れば、その手はわずかに震えていた。

 

 

 

 長い、長い静寂が訪れる。

 

 

 

 まるで永遠ともとれるような、時間が続いていく。

 

 

 

 もし生身の身体でその光景を見ていたら、息が詰まって気を失っていたことだろう。

 

 

 

 それほど長い時間が、目の前で無情にも過ぎていく。

 

 

 

 

 

 それはむしろ、あまりに長すぎた。

 

 

 焦らされた私は、苛立ちを募らせる。

 

 

(何をしているんだ、弥怒! 伐難が待っているだろ! 恥ずかしがってないでさっさと言えばいいものを!)

 

 

 私はもどかしさから、思わず弥怒を睨みつけた。

 

 そして私は、自分の勘違いと、楽観視していた自分を激しく呪う。

 

 

 

 弥怒は、言わなかったのではない。

 

 言えなかったのだ。

 

 

 額から玉のような汗を流し、口を開けたまま固まる弥怒。

 

 その目は激しく左右に揺れながら、必死に記憶をたどっている。

 

 

(おいまさか……嘘だ……。嘘だと、言ってくれ……)

 

 

 私の心が、まるで冷水を流し込まれたように冷たくなっていくのを感じた。

 

 

「弥怒……殿……?」

 

 

 伐難が、不安げに首をかしげる。

 

 

「ま、まて、伐難。大丈夫だ、大丈夫。もう、そこまで出かかっている。あと少し、あと少しでいい! 己れに、時間をくれ、伐難! 覚えている、覚えているんだ。大事な約束をした。とても大事な約束をしたことは、覚えているんだ! わかってくれ、伐難っ‼」

 

「うぐっ!」

 

 

 弥怒の荒げた声が、角を痛めた伐難に襲い掛かる。

 

 伐難は頭を抱えて、背中を丸めた。

 

 

「ああ、すまない伐難。少し声が大きかったな。謝る……」

 

 

 そう告げた弥怒の声は、わずかに上ずっていた。

 

 

 伐難は、ゆっくりと顔を上げる。

 

 その顔を見て、弥怒がはっと息をのむ。

 

 

 

 それは、状況を好転させる最後の機会が、両手の隙間から零れ落ちたことを確定させた瞬間であった。

 

 

 

 

 

 少女の昏い瞳から、一筋の涙が頬を伝う。

 

 

 

「よく……わかりました。伐難は、伐難は……もう、ひとりきり。きっと、弥怒殿の声も、伐難の迷いが生み出した幻聴です。弥怒殿は、いつも伐難の気持ちをわかってくれました。だから、王深に伝えた伐難の思いもわかってくれて、この場所からちゃんと離れてくださったはず。だから……お前は、弥怒殿の声を出す、偽物っ! 伐難を苦しめて、嗤う嫌な魔物! 伐難は、伐難は、お前を許さないっ!」

 

 

「まてっ、伐難!」

 

 

 

 弥怒の声は、仮面で涙を覆う少女には、もう、届かなかった。

 

 

 

「なぜだ! なぜ己れは、思い出せない! くそっ! くそっ‼ 仲間と……伐難と、戦うしか、ないのかっ……!」

 

 

 弥怒は眉間にしわを寄せ、苦し気に言葉を絞り出す。

 

 対し伐難は身を低く構え、宣言する。

 

 

「伐難は、妖魔を絶対逃がさない。璃月の平和は仙衆夜叉の伐難が、この爪で必ず守り抜くのです!」

 

 

「ええい! 己れの名は弥怒! 仙衆夜叉が一人、心猿大将だ! 己れが何とかこの手で、正気に戻してやる! だから少しの間だけでいい、耐えてくれ、伐難!」

 

 

 掛け声は、生気のない戦場に悲しく響き渡る。

 

 浜辺で睨みあう、たったふたりの仙衆夜叉。

 

 

 

 稲光が暗闇にほとばしる。

 

 互いの足が、音もなく大地を蹴った。



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護法戦記 18話 すれ違う思い

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
弥怒と伐難の望まぬ戦いが幕を開けた。
視覚と聴覚を奪われ、錯乱する伐難。
弥怒よ、頼む。
この状況を打破できるのは、弥怒しかいないのだ。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 

 伐難が腕を大きく振りかぶり、横に薙いだ。

 

 ヒルチャールほどの大きさがある大爪は、薄く、鋭い。

 

 切り裂かれた雨水の水滴が、鏡のような切断面を見せながら大地へと落ちていく。 

 

 まさに、一撃一撃が必殺。

 

 

 伐難は嵐のような連撃を繰り出す。

 

 生身の人間であったならひとたまりもないだろう。

 

 たとえ弥怒であっても、まともに受ければかすり傷では決して済まないはずだ。

 

 

 

 ただ――。

 

 

 

 あくまでも、それが命中すれば、の話である。

 

 

 

 先ほどから伐難の攻撃は、弥怒にかすりもしていなかった。

 

 少しでも範囲を広く取ろうと腕を伸ばすも、鋭利な風切り音だけがむなしく響き渡る。

 

 見当違いの方向へ飛び掛かり、空を切った爪が切り裂くのは水に濡れた大地のみ。

 

 

 

 弥怒は回避に徹していた。

 

 音を立てないように気を配りつつ、常に移動を続けている。

 

 

 決して小さくはない弥怒の巨体。

 

 それでも戦場は、余りあるほど広いのだ。

 

 弥怒は徐々に伐難から距離を取り、大きな魔物の死骸を背に身をひそめた。

 

 

 伐難は弥怒が自分と相対しているのか、隠れているのかすらわかっていない。

 

 無我夢中に、無秩序に。

 

 かまいたちのごとく、自らの周囲をひたすら切り裂き続ける。

 

 その姿を例えるならば、目を失い暴走する遺跡重機ですら生ぬるい。

 

 

 物陰に隠れた弥怒は右手を持ち上げ、周囲の岩元素を掌に集中させ始めた。

 

 背後では、伐難の絶叫が重なり、こだまする。

 

 不安と恐怖、そして殺意に満ちたその声は、聞いているだけで心が締め付けられた。

 

 私に耳をふさぐ両手があれば、間違いなくふさいでいただろう。

 

 誰もいない砂浜で狂ったように暴れまわる伐難は、まるで舞台の上でひとり、踊り狂う人形のようにも見えた。

 

 もはやこれは、戦いと呼べるものではない。

 

 

「くそう! くそう! どこだ魔物! 伐難はここにいる!」

 

 

 泣きが混ざった金切り声の挑発も、弥怒には意味をなさない。

 

 なぜなら、そもそも弥怒は伐難へ攻撃を仕掛けていく理由がないのだから。

 

 弥怒はその様子を横目で見ながら、少し悲しげにつぶやいた。

 

 

「伐難よ。最初の一撃で己れを仕留められなかったのは、お主にとってさぞかし口惜しかったことだろう」

 

 

 私は弥怒の目線の先を見て、はたと気付く。

 

 

 ここに至るまでの魔物の死骸や油炎は、決して無意味に配置されていたわけではなかった。

 

 よくよく見ればすべての通路は、弥怒が最初に立っていた場所へと誘導するように作られているではないか。

 

 

(そうか、そうだったのか……)

 

 

 この場所は。

 

 この砂浜全体が。

 

 

 視覚と聴覚を乱された伐難が辛うじて狙い撃ちができるよう、作り出された苦し紛れの罠だったのだ。

 

 

 それを理解した途端、私は伐難に激しく同情した。

 

 暗闇の中、敵も味方もわからずに戦い続ける狂った戦士。

 

 増援もなく、危険な戦場にただひとり取り残された、孤独な少女。

 

 

(弥怒よ、後生だ。伐難を、螺巻大将を、どうにか救ってあげてくれ……! これは弥怒にしか、できないことなんだ……)

 

 

 私は心の底から強く願う。

 

 だが、聞こえてきたのは、弥怒の吐き捨てるような怒声だった。 

 

 

「くそっ‼」

 

 

 弥怒は青筋の立った左手で額を押さえ、自身の右手を睨みつける。

 

 

「もう一度だ!」

 

 

 再び弥怒が右手に力を込めると、岩元素が集まり始める。

 

 

 やがてそれは顔の大きさほどの8面体の結晶となるも、完成間近で全体にひびが走り、ガラガラと崩れてしまう。

 

 

「そんなっ! 馬鹿なっ‼」

 

 

 弥怒は激しく嘆きつつも、あきらめずに同じ行為を繰り返す。

 

 しかし何度繰り返そうとも、8面体が完成することはなかった。

 

 

「ならば!」

 

 

 弥怒は素早く片手で印を組む。

 

 すると、見覚えのある面が弥怒の前へと現れた。

 

 

(あれは、私が弥怒と出会った日に見た、心猿大将の面……!)

 

 

 ふわりと浮かんだ面を掴み取り、弥怒は顔面へ装着する。

 

 周囲の岩元素が反応し、弥怒を中心に地響きがまるで波紋のように広がった。

 

 

(すごい元素力だ……!)

 

 

 空間すら揺らすほどの力が、弥怒の周りで渦巻いている。

 

 

(これなら……!)

 

 

「……っ!」

 

 

 乾いた、破裂音。

 

 私は一瞬、何が起こったのか、わからなかった。

 

 目の前にあったのは、弥怒の信じられないといった様子の顔と、宙を舞う岩の破片。

 

 夜叉の仮面が、砕け散っていた。

 

 

「そん、な……」

 

 

 点のようになった弥怒の目が、焦点を失い揺れている。

 

 力を思い通り使えぬ自身に、明らかに平静さを欠いていた。

 

 弥怒のその姿を見て、私ははっきりと理解する。

 

 なぜ伐難が、弥怒を戦場から遠ざけたのかを。

 

 

 弥怒はもう――。

 

 

 夜叉として戦うことすらできぬほどに、弱体化していたのだ。

 

 

 その事実を自分で認識することすら、できぬほどに。

 

 弥怒は絶望のあまり、震える両手を凝視したまま膝から崩れ落ちた。

 

 

 見上げるほどの長身が小石のごとく身を丸め、頭を抱えてうずくまり額を砂浜にこすりつける。

 

 

(なんと……、なんと残酷な……!)

 

 

 こんなことが、あっていいはずもない。

 

 私は天を仰ぐ。

 

 万事休すとは、このことだろうか。

 

 伐難も、弥怒も、互いに決定打を失っている。

 

 それはこの膠着状態が、脱出不可能な迷宮と化したことを意味していた。

 

 

「己れはっ、己れはどうすればいいっ! どうすれば!」

 

 

 弥怒が濡れた砂を握りしめるも、指の間をすり抜けた泥がぼたぼたと零れ落ちるだけだった。

 

 

 目は血走り、弥怒が強くかみしめた唇からは血が滴る。

 

 その怒りは、どこに向かっているのか私には想像すらできなかった。

 

 

 仲間を蝕む業障か、思い通りにいかぬ自分自身か。

 

 それとも、自分たちをこの状況に追いやった、運命か。

 

 あるいは、その全てだったかもしれない。

 

 

 私はやるせない思いと共に、弥怒をただただ見下ろすことしか、できなかった。

 

 

 

 

 その時、だった。

 

 

 風向きが変わった。

 

 

 戦場でくすぶっていた油の上の炎が、逆の方向へと身をひるがえす。

 

 雨足が弱まり、山から吹き下ろす風が土の香りを運んだ。

 

 雷鳴が遠ざかり、雲の合間からわずかだが、光が差しこむ。

 

 弥怒の顔が、水たまりに反射した月光で照らされる。

 

 

「っ!」

 

 

 途端、弥怒が身を固くした。

 

 目線の先には、銀色に輝く細い糸がふわりと舞っている。

 

 

「まずいっ!」

 

 

 弥怒が慌てて身を起こす。

 

 

(だめだ! 弥怒っ!)

 

 

 私の心の声が、悲鳴を上げる。

 

 

 しかし、弥怒が自分のとった行動が悪手だと気づいた時には、すでに遅かった。

 

 弥怒は起き上がった先に浮遊していたもう一本の銀糸に、運悪くも触れてしまったのだ。

 

 

 

 同時に、サッと弥怒の頭上に影が差す。

 

 

 

「やっと……見つけたっ!」

 

 

 

 見上げた先には、魔物の死骸の上に凛と立つ、儺面を纏った戦乙女。

 

 少女の輪郭は月明かりで白銀に輝き、絵画のような美しい姿は、もはや神々しくも感じさせられただろう。

 

 まるで振り子のように振られている、死神の鎌にも似た巨大な爪さえなければ。

 

 

「くっ」

 

 

 弥怒は糸を振り払い、大きく飛び退く。

 

 しかし、伐難は余裕の声色だった。

 

 

「お前は、伐難に時間を与えすぎた。大雨に海。この地は、伐難に味方する。伐難は水元素をこっそりたくさん飲み込んだ。もう、逃がさない」

 

 

 そう言うと、伐難はくるりと旋回し、自身の背丈ほどもある水の玉を頭上に打ち上げる。

 

 伐難の触角と水の糸で繋がったその水球は、横に大きくつぶれたかと思うと勢いよく回転を始めた。

 

 巨大な渦となった球体より細く伸ばされた無数の水糸が、螺旋を描きながら戦場全体へと広がっていく。

 

 

 その中の数本が、逃れようと身をよじる弥怒に絡みついた。

 

 絡みつく糸と糸は次々に束ねられ、やがて太い鎖の姿へと変わっていく。

 

 

 弥怒が右腕の鎖を振り払おうとも、今度は鎖が左手に。

 

 左手を引けば、今度は足にといった形で、水はその姿を柔軟に変えながらも決して弥怒を離さない。

 

 そしてその鎖の先は、伐難の触角へとつながっていた。

 

 

「魔物、もう終わり。この戦いは伐難が勝つ。狙いが定まれば、この爪はお前の心の臓を貫くまで、ずっと追いかけ続ける!」

 

 

 言うが早いか、伐難は勢いよく大地を蹴りあげた。

 

 砂が大きく爆ぜる。

 

 弥怒はそれを見て、鎖を振り払う動作を止め、防御の姿勢を取った。

 

 左手を前に、右手を隠すようにして。

 

 その右手を見た時、思わず私は喜びに胸が躍った。

 

 弥怒は、まだ、あきらめていなかったのだ。

 

 よくみれば、小さな8面体が、弥怒の掌で形作られているではないか。

 

 しかし悔しいことに、その結晶は先ほどまで弥怒が作ろうとしていたものと比べるととても小さく、頼りない。

 

 

 正面へと意識をむければ、目と鼻の先に伐難が迫っている。

 

 私はそれを見て一気に血の気が引き、喜んでいる場合ではないと悟った。

 

 

(ば、馬鹿弥怒! 先に伐難の攻撃を避けることに集中しろ! 力を制御できない今、もし防ぎきれなかったら!)

 

 

 私の心配をよそに、弥怒は優しく笑う。

 

 

「来い、伐難。もし防ぎきれなかったとしても、その時はその時だ」

 

 

(やめろ弥怒……そんな、馬鹿な考えはやめてくれっ!)

 

 

 私のそんな思いをよそに、時は止まることも、逆行することもなく無情に過ぎていく。

 

 伐難は大きく体を反らせながら跳躍し、両手を後方へと振りかぶると、音を置き去りにする速度で振り下ろした。

 

 対する弥怒は、左手のみでその攻撃を受け切ろうとしている。

 

 いくら弥怒の腕が常人よりも太く大きいとはいえ、伐難の爪と比べれば大剣と小枝だった。

 

 

(ああっ、終わりだっ!)

 

 

 目を閉じたくなるような惨状が、私の脳裏をかすめた。

 

 

 しかし体のない私に目を閉じるという選択肢は与えられていない。

 

 

 見届けるしかないのだ。

 

 この戦いの結末を。

 

 

 

 やがて、その瞬間は訪れた。

 

 

 

 それも、私の想像を超えた形で。

 

 

 

 

 

 

 ぐしゃり、と、何かがつぶれたような嫌な音が、聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 派手に吹き飛ばされ、大地を転がる人の影。

 

 私の目の前には、信じがたい光景が広がっていた。

 

 

「なんと……」

 

 

 弥怒の左腕が、巨大化していたのだ。

 

 

 否。

 

 

 腕が巨大化しているのではなく、腕から生えた岩の棘が、腕全体を覆いつくしている。

 

 弥怒の表情を見る限り、それは弥怒の意図とは異なる元素の働きであるとすぐに分かった。

 

 

 ハッとした弥怒が、吹き飛ばされた伐難へと視線を向ける。

 

 

 魔物の死骸を押しのけて、少女はゆらりと立ち上がった。

 

 

 仮面の一部は割れ、脇腹には血が滲んでいる。

 

 だが、欠けた仮面の下からのぞく口元は、笑っていた。

 

 

「ケホッ、なかなか、やるな……。でも……まだ鎖は繋がってる!」

 

 

 伐難は、再び疾走する。

 

 先ほどよりも早く、より鋭く。

 

 しかし、その爪は弥怒の懐まで決して届かない。

 

 

 制御のきかない弥怒の岩元素は、防御しようとすればするほど過剰に反応し、襲い来る伐難をはじき返す。

 

 

 何度も、何度も。

 

 

 途中から、私がどれだけやめてくれと請い願っても。

 

 

 鈍器で殴られるような音が、幾度となく砂浜に響きわたる。

 

 

 限界を迎えたのは、決して私だけではなかった。

 

 

「伐難! もうやめるのだ! もう、お主に勝ち目はない! それ以上の攻撃は無意味! 己れは、己れは……! この手でお主を傷つけたくはない、伐難!」

 

 

 弥怒が、声を張りあげる。

 

 その瞳には、わずかに涙が浮かんでいた。

 

 異形と化した左手には、折れた伐難の爪の先と、血痕がまだらに残っている。

 

 

 ぶるぶると震える右手には、小さな8面体が3つだけ。

 

 先ほど弥怒が作ろうとしていた大きなものには、到底及ばない大きさだ。

 

 弥怒が何をしようとしているかは分からなかったが、それを成すためには、まだまだ時間が必要なことくらい、私にも理解できた。

 

 

 それでも伐難は、爪を大地に突き立て、身を起こす。

 

 動かぬ左腕をだらりと垂らし、流れる血汗をぬぐいつつ、震える足で立ち上がる。

 

 

「伐難が……伐難がここで諦めたら、だめ、だから。魔物を、食い止めないと……人が死ぬ。たくさん、死ぬ! 晩御飯を楽しみにしている子供も、子供の帰りを待っている母親も。魚を釣り上げて、家族の喜ぶ顔を想像しながら帰る父親も、みんな、みんな、死んでしまうっ! 伐難は、伐難には! 戦うための力がある! 伐難は、夜叉! 岩王帝君から、戦うための命を受けた、誇り高き仙衆夜叉、だからっ! 絶対に、諦めない! 伐難は死ぬまで、璃月のために、人々のために、戦う! 妖魔なんかに伐難は! 負けないッッ‼」

 

 

 まるで自分を、鼓舞するように。

 

 動かぬ体を、叱りつけるように。

 

 伐難は、声を枯らして叫んだ。

 

 仮面を失った少女が顔を上げる。

 

 虚ろな瞳は、大義に燃えていた。

 

 

 その雄々しい姿に、私は圧倒される。

 

 

 たとえその炎に身が焼かれようとも、彼女は一歩たりとも引きはしないだろう。

 

 その身に余るほどの重圧と責任を、まるで当たり前のように背負いつつ、孤独な少女は割れた爪を肩口に構える。

 

 仙人とは言えど、伐難の体は見るからに限界を超えていた。

 

 

 彼女は弥怒と戦う以前から、すでに連戦に連戦を重ね、憔悴しきっている。

 

 

 目と触角は呪いのような業障で覆われ、精神も限界に近いはず。

 

 それでも何とか敵へと繋いだ鎖だけは決して途切れさせぬよう、強い意志で未だ太く維持し続けている。

 

 わずかにほほ笑むその可憐な横顔には、死の影が濃厚に浮かんでいた。

 

 

「伐難は、ぜったいに、お前を、倒す……!」

 

 

 最後の力を振り絞るようにそう宣言すると、彼女の触角から伸びた鎖の先がぐにゃりと形を変える。

 

 腕を縛っていた環が見る見るうちに大きくなり、うずを巻くように弥怒の体にまとわりつく。

 

 循環する水の奔流は、弥怒の体を、その動きを、より強く拘束した。

 

 

「これで――!」

 

 

 伐難がとどめを刺さんと、ぐっと足に力を入れた、その時だった。

 

 

「あっはっはっはっはっはぁ!」

 

 

 場違いなほど、明るい笑い声が、大気を揺らす。

 

 

「っ!」

 

 

 伐難が警戒し、その足を止める。

 

 見れば、弥怒が大口を開けて笑っていた。

 

 その姿は状況が状況なだけに、あまりに不気味だった。

 

 

「いやはや、伐難よ。その意気やよし! さすがは仙衆夜叉だ! 己れの相手に、相応しい! このような形でお主と相対するのは不本意だが、夜叉に戦うなとはまったくもって道理が通らん。もう、よい。お主を傷つけぬようにだの、力を制御しようだの、戦う相手に気を遣うのは、もう面倒だ」

 

 

 信じられない言葉を、耳にした。

 

 ぞくりと、悪寒が駆け抜ける。

 

 あれほどに聡明で用心深い弥怒らしからぬ台詞。

 

 先ほどまでの苦しげな表情は消え去り、その顔には悦びが隠しきれていない。

 

 

 私はこのような弥怒の顔を、見たくはなかった。

 

 

(弥怒が、壊れてしまった――)

 

 

 そう、直感した。

 

 

 極限の戦場。

 

 消耗に消耗を繰り返した二人の夜叉。

 

 業障に蝕まれ、片や記憶をなくし、片や感覚を奪われた戦士たち。

 

 

 どちらかが狂っても、おかしくはなかった。

 

 

 いいや、どちらも、もうとうの昔に狂っていたのだ。

 

 

 護法夜叉は、私の想像していたような、純一無雑な英雄ではなかった。

 

 彼らは血にまみれ、泥を啜り、その身を呪いに落としながら戦う、狂気の守護者。

 

 

 私は、出会った頃の弥怒を思い出す。

 

 

 

『……現実は、お主が思うほど、崇高なものではない』

 

 

 

 弥怒は少し悲し気に、そうつぶやいた。

 

 

 その時の私は、弥怒や夜叉たちのことを、何一つ理解していなかった。

 

 彼が抱える過去も、夜叉と言う存在が背負った責任も、業も。

 

 

 体を拘束された弥怒が吠える。

 

 

「かかってこい、伐難ッ! 己れは逃げも隠れもせぬ! 全身全霊でかかってこい! こちらも全力で臨もうぞ! それでこそ、夜叉と言うもの‼ どちらが勝ち、どちらが破れようが関係ない! 戦いの中にその身があることこそ、至上の喜び! さぁ、さぁ! 楽しい楽しい、戦いだ‼」

 

 

 張り上げた弥怒の声量は、まるで海の向こうまで届かんばかり。

 

 伐難は片目をつぶりその美しい顔を苦しみに歪めつつ、弥怒を強く睨みつける。

 

 弥怒はまとわりつく渦潮をものともせず、先ほどまで隠していた右腕を高く掲げた。

 

 5つ目の欠片が生成され、ぐるぐると手の中で回転を始める。

 

 

 いったいどれほどの元素力が込められているのだろうか。

 

 

 欠片を中心に岩元素の力場が形成され、小石や砂、弥怒の服の装飾品が浮かび上がる。

 

 

「来い……伐難ッ!」

 

 

 歯をむき出して嗤う弥怒。

 

 伐難は深呼吸すると、キッと表情を硬くする。

 

 揺れていた鎖の形状が安定し、弥怒にまとわりつく渦の流れがより強くなった。

 

 

「この一撃が、最期。伐難のすべてを、この一撃に込める。伐難は一本の鋭い剣。魔を滅する、岩王帝君の剣!」

 

 

 伐難はそう叫ぶと、ぐいと頭を大きく振る。

 

 

「っ!」

 

 

 触角から伸びた鎖が大きく波打ち、弥怒の体が宙を舞う。

 

 

「はぁッ‼」

 

 

 短く掛け声をあげて、伐難が跳躍する。

 

 そのまま空中で鎖を掴み引いたかと思うと、すさまじい速度で弥怒へと飛び掛かった。

 

 

 

 

 まるで強弓から放たれた矢のごとく、速く、疾く。

 

 

 

 

 鋭い爪の切っ先が大気を切り裂き弥怒へと迫る。

 

 

 

「詰めが甘いな、伐難よ」

 

 

 あと少しで届くと思われたその時、弥怒が笑いをこらえながら言を吐く。

 

 いつの間にか弥怒の体を覆う渦は、岩元素の力場によって巻き上げられた砂を含み、薄茶色に染められていた。

 

 

 水に紛れた砂の粒たちが、弥怒の言葉を合図に水流とは逆回転を始める。

 

 途端に勢いを失った渦が、はじけ飛ぶ。

 

 わずかに驚愕した伐難だったが、歯を食いしばり、腕を先へ先へと伸ばして来る。

 

 

 

 刹那、弥怒の右手と伐難の右爪が、交差した。

 

 

 

 衝突したふたりは、きりもみしながら大地へと叩きつけられる。

 

 衝撃に土砂が巻き上げられ、茶色い雨となりあたり一面に降り注いだ。

 

 

(み、弥怒っ!)

 

 

 遅れて轟音が響き渡り、大地が揺れる。

 

 

 やがて最後の砂の一粒が砂浜へと落ち切った時。

 

 

 

 

 私は静かに息をのむ。

 

 

 

 

 

 戦場に最後まで立っていたのは――弥怒であった。 



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護法戦記 19話 さざ波と法螺貝

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
激しい攻防が止み、最後に立っていたのは弥怒だった。
これで本当に……よかったのだろうか。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 弥怒の人影が、微かに動く。

 

 その腕の中には、青と黒、まだら模様に染まった少女がひとり。

 

 

(弥怒っ! 何を……!)

 

 

 私は心の中で叫ぶ。

 

 その少女は危険だ、早く離れろと。

 

 

 しかし私は目を見張る。

 

 先ほどまでと、少女の様子が違うことに。

 

 

 弥怒の右手にあったはずの5つの結晶が、伐難の頭上でゆっくりと旋回していた。

 

 結晶は明滅を繰り返しながら、少しづつ黒く染まっていく。

 

 対照的に、伐難の触角は鮮やかな蒼を取り戻していった。

 

 

 私ははっと思い出す。

 

 弥怒が伐難と戦う前に宣言した、あの言葉を。

 

 

『己れが何とかこの手で、正気に戻してやる! だから少しの間だけでいい、耐えてくれ、伐難!』

 

 

 心猿大将の名のもと、弥怒は確かにそう言い切った。

 

 

(まさか、弥怒は……)

 

 

 私がふたりへと視線を戻すと、弥怒が閉じていた瞼をゆっくりと開けた。

 

 右手は伐難の頭に置かれ、優しく髪を撫で続ける。

 

 穏やかな、目だった。

 

 

 一時は狂気に身を任せたように見えた、大将の名を冠する大男。

 

 だが、それは私の誤りであった。

 

 弥怒は一貫して、伐難を救うための戦いを、ずっと続けていたのだ。

 

 彼にとっての戦いとはすなわち。

 

 

(伐難を、正気に、戻す……)

 

 

 私は弥怒の言葉を胸の奥で繰り返す。

 

 それは、伐難を倒すための戦いではなかった。

 

 

 弥怒の右腕は結晶と同じように、指先から順に闇色へと染まっていく。

 

 それでも、弥怒は手を離さなかった。

 

 やがて限界を迎えた石にひびが走り、音もなく砂へと変わる。

 

 同時に伐難の胸に揺れていた結晶も壊れ、あふれた黒いもやは行き場をなくし、弥怒の体へと吸い込まれていった。

 

 

 伐難が、ゆっくりと顔を上げる。

 

 瞳からは濁りが消え去っていて、透き通った眼には空の星々が輝いていた。

 

 

「これは……。吸瘴石? 弥怒殿の……?」

 

 

 まばたきを繰り返しながら、伐難がつぶやく。

 

 つぶらな瞳には、先ほどまでの激しい怒りや不安は、微塵も感じられない。

 

 

 私は雷に打たれたような衝撃を覚えた。

 

 勝ったのだ。

 

 弥怒は、勝ったのだ!

 

 敵を倒すという戦いそのものや夜叉としての存在意義、伐難を傷つける自身の守りをかなぐり捨て、最後に弥怒は勝利を手にしたのだ。

 

 

「気が付いたか。よかった」

 

 

 弥怒が、優しく笑う。

 

 その頬は、右腕から侵食してきた漆黒の呪いで黒く染まり、飛び散った自分の血でぬらぬらと濡れていた。

 

 伐難がその姿を見て取り乱す。

 

 

「弥怒殿? 本物の、弥怒殿……? 嘘っ! それでは今まで戦っていたのは……‼ ば、伐難は、なんということをっ……!」

 

 

 うろたえる伐難を見て、弥怒は微笑んだ。

 

 

「弥怒と言うのか、私の名は」

 

 

 伐難は弾かれたように、弥怒の顔を見た。

 

 潤んだ瞳で、目元に涙を浮かべながら。

 

 少女は彼の広い胸へと縋りつく。

 

 

「はいっ、間違いありません……! あなたは弥怒殿、心猿大将の……弥怒殿です! 情に厚くて、義理堅くて、璃月を愛する仙衆夜叉。いつも仲間を心配し、小言ばっかりだと言われながらも、みんなに愛されている、弥怒殿です! 本当はとても優しくて、ずぼらな伐難を見捨てずに大事にしてくれた、伐難の敬愛する、夜叉の弥怒殿ですっ‼ たとえ弥怒殿がご自身のことを覚えていなくとも、伐難は、仙衆夜叉のみんなは、璃月の人々は……あなたのことを、覚えています……!」

 

 

 少女の瞳からは涙があふれ落ちる。

 

 同時に、弥怒の背中がじわりと朱色に染まりはじめた。

 

 

「そうかそうか。それだとまるで、己れは英雄ではないか。ゴホッゴホッ……しかしそうだとすると、己れはなぜ……」

 

 

 激しくせき込んだ弥怒は、口元をとっさに右手で押さえる。

 

 その手を開けば、黒く染まった掌に、紅色の花が咲いていた。

 

 一瞬目を見張った弥怒は、何かに気が付くと、安堵したように伐難へと微笑んだ。

 

 

「ああ、そうか……理解した。お主は、己れを止めてくれたのだな。魔に落ちた、醜い己れを」

 

 

 伐難は弥怒の言葉の意味を理解できなかったのか、わずかに固まった後、小さく、とても小さくふるふると首を横に振った。

 

 左手は軽く弥怒の右手に添えられ、何かを伝えようと瞳は訴える。

 

 しかし言葉を紡ぐはずの唇は小刻みに震え、大粒の涙だけが、何度も何度も頬を流れ落ちた。

 

 弥怒は伐難の左手を見て、悲し気に眉間へしわを寄せる。

 

 その爪の数本は途中で折れ、残った爪も傷だらけで、根元にはわずかに血が滲んでいた。

 

 

「すまない。己はお主を、こんなにも傷つけてしまったようだ」

 

 

 伐難が唇を強く噛み締めながら、今度は激しく首を横に振る。

 

 

 弥怒は左手で伐難の背をゆっくりとさすりながら、空を見上げた。

 

 

「お主の名は、伐難と、いうのか?」

 

 

 涙と泥と、血に汚れた顔を弥怒の胸にうずめ、伐難は声を振り絞る。

 

 

「はい……伐難……です! 螺巻大将っ、ぐすっ、仙衆、夜叉の伐難ですっ! 伐難……です……」

 

 

 その声は消え入るように小さく、頼りないものだったが、確かに弥怒の両耳へと届いた。

 

 

「そうか。辛い、役目を……押し付けたな。心より礼を言う、伐難よ。ありが……とう……」

 

 

 途切れかけた言葉を最後に、弥怒の体がぐらりと揺らいだ。

 

 まるで時の止まったような世界の中で、巨大な影がゆっくりと倒れていく。

 

 

 

 

「あっ……」

 

 

 

 

 伐難が弥怒を支えようと、弥怒の胸元に隠れていた右手を伸ばした。

 

 

 爪の先から肘のあたりまで、べっとりと血で赤く染まった、その右腕を。

 

 

 

 

 右腕はむなしく空を切り、弥怒は音を立てて大地に体を横たえる。

 

 砂浜と潮だまりが、鮮やかに色づいていく。

 

 

 

 

「ああ、ああっ!」

 

 

 

 

 がたがたと震えながら両手で顔を覆う伐難。

 

 カチカチとぶつかる度に鳴る蒼い刃が、たとえ絹のような肌を傷つけていたとしても、そんなことはもはや気にすら留めていなかった。

 

 伐難はひざから崩れ落ち、投げ出された両手を、目を見開いて見つめ続ける。

 

 

「伐難はなんてことを。伐難はなんてことを……っ!」

 

 

 おおよそ悲鳴と判別のつかぬ叫び声が、海岸に響き渡る。

 

 わなわなと震える口からは、言葉にならぬ嗚咽が、とめどなく流れる。

 

 傷ついた頬を伝った血交じりの涙は、白い砂浜に黒い斑点をいくつも形作る。 

 

 時折せき込みながら荒い呼吸を続ける少女の姿を、私は直視することができなかった。

 

 月明かりに照らされた弥怒の横顔は、まるで微笑んでいるかのように穏やかだった。 

 

 

 

 伐難は泣きはらした面を上げ、周囲を見渡す。

 

 

「……」

 

 

 そこにいたのは弥怒だけではない。

 

 魔物の死骸に紛れ、伐難の部下たちの無残な姿が、月光の下、ありありと照らされていた。

 

 伐難の長いまつ毛についた涙の粒が、青白い光を浴びて冷たく輝いた。

 

 なんとか呼吸を整えた伐難は、わずかに赤くなった瞼をゆっくりと閉じる。

 

 

 そのまま青色と赤色の腕を強く胸に寄せ、夜空に向かって語り掛けた。

 

 

「……弥怒殿。聞こえて、おりますか……? 伐難はその昔、弥怒殿と約束をしました。弥怒殿はもう覚えていらっしゃらないでしょう。それに、思い出していただいたとしても、弥怒殿にとっては、ただの些細な口約束だったかもしれません。それでも……それでも伐難にとっては、とってもとっても嬉しくて、温かい約束……でした。……ですが、もうその約束を弥怒殿が守る必要はありません。伐難は、やってはいけないことをした、悪い夜叉です。たとえ業障にとらわれていたとはいえ、味方に、手をかけてしまいました。王深、李軒に、周林まで……! それだけに飽き足らず、伐難は、伐難はっ……‼ 伐難の心の中にある法螺貝の、一番奥に隠していた大事な大事な宝物でさえ、自らの爪で壊してしまったのです‼」

 

 

 こらえきれなかった感情が、少女の目から、口からとめどなくあふれ続けた。

 

 それに応えるものはひとりもなく、浜辺には波の音だけがむなしく響き渡る。

 

 

 天に浮かぶ満月を見つめながら、伐難はぎこちなく笑顔を作った。

 

 

「安心してください、弥怒殿。伐難は約束なんてなくても、大丈夫。整理するのは苦手でも、全部洗い流してしまうのは簡単です。伐難は、うれしかったことも、悲しかったことも、楽しかったことも、辛かったことも、良い思い出も、悪い思い出も、大事な約束も全部、全部、全部――ちゃんと、お片付けします」

 

 

 そう言い切ると、伐難は俯き、付け加えるように小さくこぼした。

 

 

「それが、伐難の、最後の戦い」

 

 

 ゆらりと立ち上がる伐難。

 

 ぶるりと一度大きく身を振るい、身体についた砂を落とす。

 

 そのまま爪と爪を交差させ、勢いよく振り払った。

 

 かけていた刃が研ぎ澄まされ、月光がキラリと反射する。

 

 口は一文字に結ばれ、目は水平線の先を見つめていた。

 

 その瞳にはもう、迷いも、悲しみも、怒りさえも浮かんでいない。

 

 ただそこにあったのは、覚悟を決めた強い意志のみ。

 

 

「今、伐難は魔物を見つけました。とても強くて、悪い魔物です。その魔物は、いるだけで璃月に大きな被害をもたらします。大丈夫です。伐難は、負けません。この爪は……魔物の心の臓を貫くまで、ずっと追いかけ続け……必ず魔物を倒します。弥怒殿のかたきは、螺巻大将の伐難が、必ず取ります。ですから、弥怒殿」

 

 

 伐難は、大きく息を吸い込み、ぴたりと動きを止める。

 

 そして、明るく、しかし短く言い放つ。

 

 まるでこれから楽しみにしていた魚釣りにでも行くように。

 

 星々の間に自分の星座を見つけた時のように。

 

 

「さようならっ」

 

 

 伐難はそのまま弥怒を振り返ることなく、ゆっくりと歩き始めた。

 

 その進む先は、誰もない波打ち際。

 

 魔物を見つけたと言ったにもかかわらず、伐難には急ぐ様子も、あわてる様子もない。

 

 ただじっと、黒く深い海の向こうを見つめ続けている。

 

 その背中からは強い拒絶が感じられ、そばに誰一人寄せつけぬほどの何かを感じた。

 

 

 少女が立つ砂浜には、彼女を害するものはひとりとしておらず、波の音と風の音のほかには、何も聞こえない。

 

 私の目の前に広がるのは、月夜に佇む少女の影とどこまでも続く昏い海とが織りなす、幻想的な光景。

 

 まるで以前見た夢と同じように、静まり返った美しい浜辺。

 

 

 

 

 少女は横顔がちらりと肩口にのぞく程度に軽く首を動かすと、ぽつりとつぶやいた。

 

 

 

 

 

「伐難は、弥怒殿を。深く、深く……お慕い申しておりました」

 

 

 

 私は彼女の姿を、沈痛な思いでただ見守ることしか、できなかった。

 

 

 

 

 ※

 

 

 

 

 朝日が、昇る。

 

 夜にどのような惨劇が、悲劇が、届かぬ思いが波に流されていこうとも、無情にも太陽は世界を明るく照らし出す。

 

 心にぽっかりと穴が開いた私の前を、ひとりの男が息を切らして横切った。

 

 

「弥怒殿っ! 弥怒殿っ!」

 

 

 王深だった。

 

 膝をつき、まだ動く方の手で弥怒の体を揺さぶる。

 

 すると、血の気の引いた弥怒の瞼が微かに動いた。

 

 

「……己れは……ゲホッゲホッ! 気を失っていたのか……」

 

 

 開いた弥怒の虚ろな目に、生気はない。

 

 王深は弥怒が息を吹き返したことに一瞬喜びの表情を浮かべるも、弥怒の口からこぼれる血と胸に空いた穴を見て青くなる。

 

 

「ああ、弥怒殿……なんてことだ……」

 

 

 頭を抱える王深に、弥怒が息も絶え絶えに尋ねる。

 

 

「そこの人よ……すまぬが教えてくれ。ここに、少女がいたはずだ。夜叉の少女だ。名前は……よく、思い出せぬ。だが、己れにとって、とても大切な者だったと思う。己れの目はもうよく見えぬのだ。己れの代わりに、探してはくれぬか……?」

 

 

 王深はそれを聞くと、はじかれるように顔を上げ、あたりを見回す。

 

 開けた浜辺に、立っている者は見当たらない。

 

 目に入るのは、体を横たえた魔物たちの死骸ばかりであった。

 

 がしかし、不安げに周囲を窺っていた王深の目が波打ち際を見た瞬間、くぎ付けになる。

 

 瞼は大きく開かれ、喉の奥からは短くかすれた音だけがわずかに漏れた。

 

 

「どう……したのだ。少女は、いたのか……?」

 

 

 王深は、口角を上げる。

 

 

「ええ……ええ! 見つけました。我らが大将、伐難様のお姿を、この目で確かに」

 

 

「少女は、達者か……?」

 

 

 弥怒のかさつく唇から出た質問に、王深の目が泳ぐ。

 

 しかしすぐに笑顔を取り戻すと、口惜し気に語った。

 

 

「……残念ながら弥怒殿。大将は、大将は……。弥怒殿や我々、そして璃月を守るため、最後まで魔と戦ったようです。私が見る限り、その……相打ちとなったようです……」

 

 

「それは、まことか」

 

 

 弥怒の声に悲しみの色が混ざる。

 

 王深はあわてて付け加えた。

 

 

「はい、弥怒殿。ですが、彼女は戦いの中で死ぬことができました。それはまさに、夜叉の誉れ。そうですね、私が間違っていました。大将は……伐難様は、打ち勝ったのです。強大な敵に一歩も引かず、その強く優しいお心をもってして、魔の力に、打ち勝ったのですっ……!」

 

 

 その声は朝日で澄み渡る青空の様に晴れ晴れとしており、やけに明るい。

 

 流れる涙を決して弥怒に悟られぬよう、王深は口元の笑みを絶やさなかった。

 

 私はただ茫然と、そんな王深の姿を見続ける。

 

 その時、潮風が滴る王深の涙をかすめ取り、弥怒の額へと運んだ。

 

 

「もしやお主、泣いているのか……?」

 

 

 ハッとした王深は、ごしごしと涙をぬぐう。

 

 

「ち、違います。これは安堵の涙です。魔は、滅されました。うれしいのです。とてもうれしいのです。心の底から、喜んでいるのです。決して、悲しくて泣いているのではありません」

 

 

 それを聞いた弥怒の表情が、ふっと緩んだ。

 

 

「そうか、よかった……」

 

 

「はい。ですから弥怒殿も、ご安心してお休みください」

 

 

 王深がそう伝えると、弥怒は軽くうなずく。

 

 

「ああ、そうだな……。だがまだ己れにはやることが残っている」

 

 

 そう言いながら、ゆっくりと腕を持ち上げた。

 

 岩元素が、急速に周囲から集められていく。

 

 途端、私の視界が揺らぎ始めた。

 

 

(な、何だ⁉)

 

 

 私の視点は急に定まらなくなり、制御を失う。

 

 体が、弥怒の手のひらへと吸い寄せられていく。

 

 

(うわぁぁああああ!?)

 

 

 身構え、目をつぶったつもりだったが、特に痛みなどを感じることもなく。

 

 気が付けば私は、弥怒の掌の上で、王深を見上げていた。

 

 

 王深の目は驚きに見開かれている。

 

 すぐ隣で、弥怒の低い声が響いた。

 

 

「お主、これを大事に保管してくれ。己れの魂の一部を汚れた肉体から分離し、ここら一帯の岩元素と共に封じ込めたものだ」

 

 

 王深が私の身体を軽々と持ち上げ、まじまじと見つめる。

 

 

「これは……札、ですか」

 

 

「そうだ。それは未完成の札だ。これから長い時を経て、札は大地より岩元素を吸収し続ける。そしていつか、この璃月に災いが降りかかるとき。この札は必ず夜叉たちの力となろう。よく覚えてはいないが、こうせねばならぬと己れの心が強く訴えておる。恐らく、じきに滅びるこの呪われた身体では、果たすことのできぬ大切な約束でもあったのであろう」

 

 

 王深は、何度も何度も、深くうなずいた。

 

 

「はい……はい! 必ずや! この札、決して妖魔の手に渡らぬよう、我が一族が責任をもって保管いたします!」

 

 

「頼んだ、ぞ……」

 

 

「はい。弥怒殿っ……」

 

 

 札となった私を先ほどまで支えていた弥怒の右腕が、ゆっくりと指先から砂となり、微笑みを浮かべたままの頬にはひびが走る。

 

 

「……っ!」

 

 

 王深は私を強く抱き、背を丸めて弥怒に覆いかぶさった。

 

 私は王深の腕の隙間より、ぽたりぽたりと落ちる水滴を見る。

 

 弥怒に落ちた小さな雫は、その頬を伝うことなく、黒い染みとなる。

 

 

 

 もうそこには弥怒と言う男はいなかった。

 

 

 

 あるのは、心猿大将の姿をした、ただの砂の彫像。

 

 王深は、涙声を奥歯の隙間から振り絞る。

 

 

「伐難様、弥怒殿。私は、決して忘れません。その身を顧みず、妖魔と、業障と最後まで戦い抜き、相打ちとなった勇敢な護法夜叉たちのことを。決して、決して……」

 

 

 私と王深を、さざ波の音が包み込む。

 

 

 彼と私しか知る者のいない、夜叉たちの壮絶な戦いは、朝日の中、静かに幕を閉じたのであった。

 

 

 

 

 意識が薄れていき、視界がぼやけていく。

 

 世界と私の境界があいまいになり、音も聞こえなくなる。

 

 それは、何度も経験したことがある感覚だった。

 

 こうして私は、夜叉たちの長く儚い夢に、別れを告げたのである。

 

 

 

 

 瞼を開ければもうそこは、暗く虫の音が響く、棺桶の中であった。



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護法戦記 20話 思いがけない刺客

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
目が覚めると、そこは棺桶の仲だった。
ああ、落ち着く……。
私は夢の余韻に酔いながら、様々なできごとを思い出す。
でも、そろそろ棺桶から出ないとな……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 あまりの衝撃を受けると人は涙すら流すことができない。

 

 それを今、私は実感していた。

 

 

 夢で見たありとあらゆる光景が、目に焼き付いて離れない。

 

 そもそも、今まで見てきた夢の数々は、あまりにリアルすぎたのだ。

 

 まるでほんの少し前に、本当に目の前で起こった出来事のようにさえ感じられる。

 

 普通の夢のように、目が覚めてから記憶がぼやけることもない。

 

 むしろ頭がさえてくればくるほど、余計に情景がはっきりとしてくる。

 

 

 

 もう辛くて仕方がなかった。

 

 

 

 いくつか前の夢では弥怒と同調するようなこともあったが、もし今回がそうであったなら私が正気を保てていたかどうかすら危うい。

 

 胸が張り裂けそうなこの思いを、叫び声にして吐き出せたらどれだけ楽だろうか。

 

 だがそんなことをしても、意味がないことは自分でもよくわかっていた。

 

 

 私はぼーっとしながら、体の脇に寄せていた鞄の中より札の入っていた木箱を取り出す。

 

 固くて乾いた木の感触が、手から伝わってくる。

 

 たとえ闇の中で、その色や形がわからずとも問題はない。

 

 私の網膜には初めてこの箱と出会った時の映像が、色褪せることなく残っているのだから。

 

 手で輪郭を確かめれば、箱の姿が浮かび上がる。

 

 

 古ぼけた木箱。

 

 残っていた血痕。

 

 箱を開ければ、中には鮮やかな血がそのまま残る札がある。

 

 

 恐らく、札についていたのはあの時の弥怒の血だ。

 

 箱についていた血は、急いで札を収めた王深のものか、あるいはふたりの血が混じったものか。

 

 外側までは封印が届いていなかったのであろう。

 

 だから、箱の血痕だけが黒い染みとなっていたのだ。

 

 そして、札の封印はまだ生きている。

 

 封印が解けない限り、どれだけの年月を経たとしても当時と同じ状態を保ち続けるのだ。

 

 私は手探りのままふたを開け、中をのぞいてみる。

 

 もう札は最初に見た時のように黄金色に光ってはいない。

 

 少し埃っぽい匂いが、私の鼻孔をくすぐった。

 

 

「お前の、記憶だったんだな……」

 

 

 札を前にすれば、蘇る。

 

 今まで繰り返し見て来た、護法夜叉たちの姿。

 

 それはきっと、大地の記憶。

 

 あるいは弥怒の服についていた、たった一粒の砂粒だったのかもしれない。

 

 岩元素は常に心猿大将と共にあり、共に生き、その最期でさえも札に形を変えて見守り続けた。

 

 なぜ私にあのような夢をこの札が見せたのかは、いまだにわからない。

 

 もしかするとただ私がこの札を肌身離さず持っていたから、影響を受けただけなのかもしれない。

 

 

 たとえ、たとえそうだったとしても。

 

 

 この札は幾星霜の時を超えて、弥怒の魂と夜叉たちの物語を私の元まで運んでくれた。

 

 そう思うと、何か熱いものが胸からこみあげてくる。

 

 この札や箱が、とてつもなく大切なもののように感じられた。

 

 私は札を箱に戻すと、そっと胸元に抱き寄せる。

 

 

 呼吸をするたびに、肺が震えた。

 

 そうすることでやっと、私は自分が今どんな感情をもちあわせているのかをおぼろげに理解することができたのである。

 

 

 ――わたしは、怖かったのだ。

 

 

 何もかもが。

 

 

 夜叉の戦いも、業障も、妖魔の死骸も、誰かの死も。

 

 

 どれも私の日常からはかけ離れており、刺激があまりに強すぎた。

 

 夢の中でなければ、卒倒していたに違いない。

 

 ひとつの感情を整理すると、私は自分の中にまた別の感情があることに気が付く。

 

 嬉しさと、切なさである。

 

 この札に出会い、弥怒と、伐難と、夜叉たちを知ることができた、喜び。

 

 同時にその物語が、変えることのできない惨劇であった、悲しみ。

 

 私はその一つ一つを、ゆっくり、ゆっくりと噛み締めていく。

 

 

 そして最後に、私は思い至る。

 

 

 どれほど感情を揺さぶられようと、脳が焼ききれるほどの思いがあふれようと。

 

 夢で見た世界の美しさと、残酷さと、夜叉たちのまぶしいほどの生きざまに、私がどうしようもなく心惹かれてしまっているという事実に。

 

 

 私はしばらくの間、棺桶の中から出ることもせず、そのままじっと暗闇を見つめていた。

 

 

 

 

 

『末期だな』

 

 

「ああ」

 

 

 私は頭に響いてきた弥怒の声に生返事を返す。

 

 

『とうとう心細さのあまり、ただの木箱にすらすがるとは』

 

 

「ああ」

 

 

『幽霊が急に現れたとしても、その箱は穂をむしり取られた馬尾ほども役に立たぬぞ』

 

 

「ああ」

 

 

『おい、聞いておるのか? お主は!』

 

 

「ああ」

 

 

『おい! 平安っ‼』

 

 

「うわっ!?」

 

 

 名前を呼ばれて私は我に返った。

 

 

「な、なんだ、こっちの弥怒か……」

 

 

『あっちもこっちもないわ! いつまでお主は寝ぼけておるのだ! だいたい、人の話の途中で寝てしまいおって! 失礼にもほどがあると思わぬのか?』

 

 

 弥怒がぎゃんぎゃんと頭の中で騒ぎ立てる。

 

 いつもなら、「うるさい!」とか、「わかった、わかった!」と聞き流すのだが、この時の私は弥怒の小言が妙に心に沁みてきて、思わず涙ぐむ。

 

 

「あぁ、弥怒だなぁ……」

 

 

 胸がジーンと熱くなり、私はもう一度、箱を抱きしめる。

 

 

『気色悪いっ‼ やめろっ‼ 己れの名を呼びながら箱を抱きしめるな! 鳥肌が立つ‼』

 

 

「そんなこと言うなよ弥怒。私と弥怒の仲だろう?」

 

 

『し、信じられん……。己れは今心の底から、お主の頭から出られぬことを後悔しているぞ……』

 

 

 珍しくも今回、私は弥怒に言い負けなかった。

 

 このような勝利の仕方は、本望ではなかったが。

 

 

「なあ弥怒」

 

 

『なんだ』

 

 

 私はずびっと鼻をすすって、弥怒に尋ねた。

 

 

「寝る前の話の続きだが、ここに来た目的はその、伐難に会うためなんだよな」

 

 

『……そうだ。まあ、そればかしではないがな。他の夜叉たちにも、もしかしたら会えるかもしれぬと思ったのだ。己れが戦火の中無責任にも交わした約束を、今もなお待ち続けている者がいるのであれば、謝りたくてな』

 

 

 弥怒は小さくため息をつく。

 

 

「弥怒は、悪くないよ」

 

 

 自然とそんな言葉が私の口をついて出る。

 

 夜叉たちはそれぞれが必死に戦っていた。

 

 弥怒も、伐難も、王深も。

 

 夢で見なかった場所にいた、顔も名前も知らない夜叉たちだって、きっと。

 

 

『なんだ、知ったような口を利くではないか』

 

 

 鼻で笑いながらも、弥怒はちょっぴり嬉しそうだった。

 

 私は心の中でこの大男もかわいいところがあるじゃないか、とほっこりしつつ胸の奥にチクリと小さな痛みを覚える。

 

 あの時代、彼らを心の底から褒め称えるものはどれほどいたのだろうなどと、余計な考えが頭をよぎったせいだ。

 

 

 私は自分に言い聞かせる。

 

 弥怒たちは、そんなもののために戦っていたわけではないと。

 

 英雄でさえ手の届かぬその崇高な精神をもってして、夜叉たちはこの愛すべき大地を守り抜いたのだ。

 

 彼らが歩いた道は決して日の当たる道ではなかったが、その足跡は私の心と体を震わせる。

 

 

「ははっ、何でも知っているぞ。私は。なんてったって、璃月一の護法夜叉ファンを自負しているからな。文献だって、たくさんあるんだ」

 

 

『その割には、お主の書いた小説はかなりお粗末なできだったがな』

 

 

「むっ。あれはその、私の技量の問題だ」

 

 

『物は言いようだな』

 

 

 私はいつものように弥怒と軽口をたたき合いながら、心では別のことを考えていた。

 

 思い返せば子供のころ、私はよく護法夜叉の真似をして広場を駆けまわった。

 

 祖父の聞かせてくれる夜叉たちの話に目を輝かせ、心はもう彼らになり切っていた。

 

 そんな子供の夢から覚めきれぬまま、大人になったのが今の私だ。

 

 挙句の果てに降魔大聖にまで迷惑をかけ、醜態をさらした。

 

 

(敵わないな、彼らには。護法夜叉は私のような者が、出来心で真似していいような存在ではない。過去の私の考えがいかに間違っていたか、つくづく実感させられるよ、弥怒……)

 

 

 そもそもこうやって弥怒と普通に会話をすることすら、おこがましいというものだ。

 

 

「ふふっ」

 

 

『なんだ、急に笑いおって。罵倒されるのが癖にでもなったのか? そうなったらいよいよ末期だぞ』

 

 

「いいや、なんでもない、なんでも」

 

 

 私は胸元の木箱を鞄の中へと戻しながら、妄想する。

 

 弥怒は私の頭の中で、今どんな顔をしているのだろう、と。

 

 また気色悪いと思って眉間にしわを寄せているのだろうか。

 

 それとも、私の心情をはかりかねて怪訝な面持ちをしているのだろうか。

 

 いいや、違うな。

 

 きっと弥怒のことだ。

 

 なんだかんだ言って、私のことを心配しているのだろう。

 

 こんな私に、気を使う価値などないというのに。

 

 

 

「もう外は、夜だろうか?」

 

 

 

 そう口にしながら、私は棺桶の通気口をのぞきこむ。

 

 外はうっすらと月明かりに照らされていた。

 

 

『恐らくな。そろそろ、出てもよいのではないか?』

 

 

 私は手をぐっと伸ばし、棺桶の蓋を押し上げる。

 

 蝶番がギギギと、後を引くようなおどろおどろしい鳴き声を上げた。

 

 この棺桶、ベッドとしてもちゃんとしているが、しっかりとそういうところだけは棺桶なのである。

 往生堂の謎のこだわりに、私は感動すら覚えた。

 

 

 私は身を起こすと久しぶりに外の空気を、胸いっぱいに吸い込む。

 

 夜の森を通り抜けるしっとりとした風が心地いい。

 

 空を見上げれば、薄く張った障子紙のような雲の奥に月が朧げに輝いている。

 

 普段であれば気にも留めないような景色だったが、あんな夢を見た後だ。

 

 そのどれもが美しく感じられてしまう。

 

 私はだいぶ感傷的になっていた。

 

 

 本当は一日中布団をかぶって寝ていたい。

 

 心はとうに疲れ切っていた。

 

 だが、そうも言ってられないだろう。

 

 私の意思なんかより、弥怒が優先だ。

 

 生前は言葉通り身を粉にして璃月に尽くしてきたのだから、少しぐらいのわがまま、私が聞かずしてどうする。

 

 

「えーっと、胡桃は起きているか……?」

 

 

 私は首を振り、道の向こう側へと目線を送った。

 

 しかしそこには、蓋が開いた棺桶がひとつだけ。

 

 胡桃の姿は見当たらない。

 

 

「あれ、もう起きていたのか。一体どこに――」

 

 

 私はそこで口をつぐむ。

 

 厳密には、そこから先を口にすることができなかったのだ。

 

 理由は簡単だ。

 

 私の首筋に、ひやりとするなにかがそっと押しあてられていたのだから。

 

 実際にこのような場面に出くわしたことは一回もなかったが、私の置かれていた状況は小説で何度も見たことのあるものだった。

 

 だからだろうか。

 

 首にあてられた何かを、私が理解するまでさほど時間はかからなかった。

 

 

『……やられたな』

 

 

 弥怒が、軽く舌打ちをする。

 

 今自分が置かれている状況を説明するのは簡単だ。

 

 だが、決して受け入れたくはなかった。

 

 

「どういうことだ、胡桃……!」

 

 

 私の肩口には真っ赤な槍の穂先が、静かに添えられていた。

 

 

 

 

 

「おはよう、平安さん」

 

 

 

 

 

 背後から聞こえる、聞き覚えのある少女の声。

 

 一か八かでその名を呼んだが、まさか本当に槍を押し当てているのが胡桃だと知り、私は動揺を隠せない。

 

 野党か何かであればよかったのに、と思った。

 

 いやそれもだいぶ困った状況には変わりないのだが。

 

 それでもこの場所で唯一頼れる存在の胡桃に、裏切られるよりかはましと言えるだろう。

 

 

 胡桃が返してきた声は平たんで、まるで感情というものがこもっていなかった。

 

 彼女の中身が別人にすり替わったのかと、疑ってしまうほどに。

 

 

 私は自分の身に降りかかった不幸を呪った。

 

 なぜこうも、私の心に追い打ちをかけるようにトラブルは重なってくるのだろうと。

 

 そう思わずにはいられなかったのだ。

 

 夜叉たちの衝撃的な夢を見たせいで、すでに私の心はぼろぼろだったのだから。

 

 

「……その、胡桃。これがツアーの演出なら、心臓に悪いからやめてもらえないか? 私はお化けを見に来たのであって、お化けになるつもりはさらさらないのだから」

 

 

「ふふふっ、あはははははっ」

 

 

 胡桃が声を上げて笑う。

 

 それでも、槍の切っ先は微動だにしない。

 

 

「な、何が可笑しかったんだ? そんな変なこと、私は言ったか?」

 

 

 そう尋ねると胡桃はからかうような口調で、信じられないことを口走ったのだった。

 

 

「そりゃあ、おかしいよ。だってまるで、平安さんみたいなことを言うんだもの」

 

 

「は……? なにを、私は平安だぞ……?」

 

 

 呆けた声を上げると、頭の中で弥怒が緊張した様子で私にささやく。

 

 

『気をつけろ、恐らく彼女はもう……』

 

 

 弥怒をまるでさえぎるように、胡桃が言葉を重ねた。

 

 

「もう、そんな演技しなくていいんだよ、平安さんにとり憑いた、弥怒さん……?」

 

 

 胡桃の口から出てくるはずもないその名前に私は驚き、つい余計な一言を漏らしてしまう。

 

 

「な、なぜそれを!?」

 

 

『馬鹿者ッ!』

 

 

 弥怒に怒鳴られ、私ははっとする。

 

 

 

 

 まずい。

 

 まずすぎる。

 

 

 

 すべての歯車が、ぴったりとはまり、私の意図せぬ方向へ向かって回り始めている気がした。

 

 私は槍で首筋を切らぬよう、気を付けながらゆっくりと後ろを振り向く。

 

 そこには、口の端を舌でぺろりと舐める漆黒の少女がいた。

 

 

「えへへへっ、大正解って顔、してるね……?」

 

 

 いや、してない。

 

 絶対してないぞ、私は。

 

 この顔は、この子は一体何を言ってるのだろうって顔だ。

 

 

 だが、そんなことを彼女に言ったところでどうなるのだろう。

 

 私は今、刃物で脅されているのだ。

 

 この状況を変えなければ、私は逃げることも身動きすることさえできない。

 

 

『なんとか、彼女を説得するのだ!』

 

 

(そんな無茶な!)

 

 

 そう弥怒に頭の中で言い返したところで、私は自分の大きな過ちにやっと気が付いた。

 

 

(あれ? 私は、いつから弥怒と普通に会話をしていた……?)

 

 

 そうだ。

 

 なにをしていたのだ、私は。

 

 

 弥怒と会話をするときは今もそうしているように、頭の中に言葉を文字で思い浮かべて会話をしていたではないか。

 

 

(なぜ、私は先ほどまで声に出して弥怒と会話をしてしまっていたのだ……!)

 

 

 それはつまり、棺桶の外まで私の声が丸聞こえだったということ。

 

 私は想像する。

 

 暗い森の中、棺桶から響き続ける男の独り言。

 

 

 

 不審だ。

 

 不審すぎる。

 

 

 

 私が胡桃であっても、同じ行動をとったかもしれない。

 

 しかし、そんなことは今どうでもいい。

 

 目下の問題として、何とかして胡桃の誤解を解かなければ。

 

 私は胡桃を説得しようと試みた。

 

 

「胡桃、君は誤解している。私はその、恥ずかしながら、ひとりごとをいう癖があってだな。弥怒と言うのは、私が考えた空想上の存在なんだ。そう、私は本を書いているから、なかなかその癖が外でも抜けなくってな、あはは。そ、そうだ、璃月の私の家に、書きかけの小説があるんだ。それを見てもらえれば、私が言っていることが嘘ではないと証明できるはずだ。だから、胡桃、そのおっかない槍をどうか下ろしてはくれないだろうか?」

 

 

 ここまで来れば恥も外聞も関係ない。

 

 ありとあらゆるものを使って、胡桃の警戒を解くしかないのだ。

 

 

 

(どうだ……?)

 

 

 私は胡桃の顔色を窺う。

 

 胡桃は私の言葉を聞いて少しの間きょとんとしていたが、にやりといたずらっぽい笑みを浮かべる。

 

 

「今は、平安さん? それとも、まだまだ弥怒さん? まあ、どっちでもいいや。ちょっと行き違いがあったみたいだから正しておくね」

 

 

 胡桃は腰をかがめると、私の前に顔を持ってくる。

 

 そして槍を持つ手と反対の手を口元に当てながら、今までとは比べ物にならない爆弾発言を繰り出したのだった。

 

 

「実はね、ずっと前から私、平安さんのことも、その鞄に隠し持ってるお札のことも、ぜんぶぜーんぶ知ってたんだ」

 

 

「はぇ……?」

 

 

 あまりの驚きに変な声が出てしまった。

 

 

「ま、まさか、ここに来る途中で……? それとも望舒旅館で私の荷物を漁ったのか……?」

 

 

 胡桃はゆっくりと首を横に振る。

 

 

「いやいやいやいや。もっと、も~っと前だよ。教えてほしい? じゃあ、教えてあげるね。そ・れ・は――」

 

 

 耳元で、胡桃がささやく。

 

 

 もったいつけたように、今まで隠していた秘密を打ち明けたくて仕方がないように。

 

 

 私はそれを聞くやいなや戦慄が走り、背筋が凍りついた。

 

 

 同時に、文字通り心臓が一気に縮みあがる。

 

 

 

 

 

「……平安さんが、七七ちゃんにお札を見せた時から、だよ」



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護法戦記 21話 胡蝶の羽音

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
首筋に感じる金属の冷ややかな感触。
まずい。
まずすぎる状況だ。
まさか、胡桃に私が脅されるような日が来ようとは……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


「う、うわぁぁぁああ‼」

 

 

 私は首に刃物を押し当てられていることすら忘れ、腕をヒルチャールのように振り回しながら胡桃から少しでも離れようとする。

 

 が、あまりに取り乱していたからか、足がもつれ、五体投地の姿勢で盛大に転がった。

 

 何とか体を起こしながら振り返ると、胡桃がゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 

 

「ひぃぃいい!」

 

 

 立ち上がろうとしても、腰が抜けて立てやしない。

 

 私は座った状態のまま手だけを使ってばたばたと後退するも、そんな恰好で逃げられるわけがなかった。

 

 

「もー……、平安さんったら危ないなぁ。私が槍を引いていなかったらそれだけのケガじゃすまなかったよ?」

 

 

「え……」

 

 

 胡桃の視線の先をたどり、あわてて手を当ててみると、首からぬるりとした感触。

 

 急いで見れば、掌には引き伸ばしたような赤い色。

 

 わずかではあったが首筋の薄皮を負傷し、少し血が流れていた。

 

 心拍数が上がり、呼吸が荒くなる。

 

 

「な、何が目的なんだ! わ、私は金なんて持ってないぞ! こここ、ここで私を殺しても、何の意味もないんだぞっ!」

 

 

 私は鞄を胸に抱きしめながら、必死に訴えかける。

 

 胡桃はクスリと笑った。

 

 

「やだなぁ、平安さん。私はそんなことしないよ。これは真っ当なツアーの一部。というか、本題と言ってもいいかな?」

 

 

「へ……?」

 

 

「だから、ツアーだよ。忘れちゃった? このツアーの名前を」

 

 

「このツアーの名前……?」

 

 

「そう、未練がある魂の浄化ツアー」

 

 

「未練がある……ま、まさか」

 

 

 私は目を見張った。

 

 意味深すぎる彼女の発言は、最悪の状況を如実に物語っている。

 

 まさか胡桃は、はなから――弥怒が目的だったというのか!?

 

 あまりの衝撃に口をあけ放った私を見て、胡桃が盛大にファンファーレを告げる。

 

 

「パンパカパーン! お見事! そう、このツアーの目的は、平安さん。あなたをとり憑いた幽霊から助けることだったんだよ」

 

 

「う、嘘だ! 弥怒は私にとり憑いた幽霊なんかじゃない!」

 

 

 私の叫び声に起こされたカラスが、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てた。

 

 普段であれば驚き身をすくめる私もそれどころではなく、ただひたすら胡桃の眼をまっすぐに見つめ返す。

 

 胡桃は妖艶な微笑みを浮かべる。

 

 

「ほんとうに、そうかなぁ?」

 

 

「……!」

 

 

 思わず、鞄を抱く手に力が入った。

 

 そんなはずはない。

 

 弥怒がただの幽霊で、私にとり憑いているなんて、そんなの出まかせだ。

 

 

 私の弥怒の関係はもっとこう、レベルが高いというか、なんというか。

 

 とにかく、そんな低俗なものではないはずなのだ。

 

 私は自分に言い聞かせるように、精いっぱいの語彙をかき集め、心の中で胡桃に反論する。

 

 

 

 私の語彙力が追い付かなくなり始めたその時。

 

 眉間に力いっぱいの皺を寄せていた私は、ふと気が付く。

 

 そうだ。

 

 簡単なことじゃないか。

 

 わからないことは、弥怒本人に聞けば良いのだ。

 

 なぜそんなことすら思いつかなかったのかと唇を噛み締めながらも、私は嬉々として頭の中にいる夜叉へと尋ねる。

 

 

(弥怒! 絶対違うよな? 弥怒は幽霊で、私にとり憑いてるなんてそんなわけないよな。私たちの関係はもっとこう、夜叉の秘術的な何かで……)

 

 

『知らぬ。己れにはそのあたりのことはよくわからぬ。お主の中に入ったのも、何となくできそうだと感じたからやったまでのこと。己れに聞かれても、わからぬものはわからぬ』

 

 

 返ってきたのは、想像の斜め上。

 

 明確な拒絶の言葉だった。

 

 すがる思いで伸ばした腕をはねのけられたような感覚が胸中に広がる。 

 

 見上げれば、胡桃は目を細めて狼狽する私をじっと見つめていた。

 

 

「じ、じゃあ、弥怒が幽霊だっていう根拠を教えてくれ!」

 

 

 私はやり場のない不安を、今度は胡桃にぶつける。

 

 すると、待っていましたとばかりに、胡桃が口を開いた。

 

 

「仕方がないなぁ。それじゃあ聞くけど、最近食べる量が急に増えたり、減ったりしたことない?」

 

 

 私は言われた言葉を口の中で反芻しながら、思い当たる記憶を探る。

 

 確かに、以前に比べて食欲は増えている気がした。

 

 自宅で飯をよそうときも、港でモラミートを食べた時も、望舒旅館で飲み食いした時も、普段よりも量は多かった。

 

 食欲が増えたというよりも、食べ物がよりうまく感じられるといったほうが正しいだろう。

 

 

 結果的に食べる量は増えている。

 

 

「……」

 

 

 私は押し黙ったまま、胡桃を見返した。

 

 少女は構わずに続ける。

 

 

「今まで聞こえなかった声が聞こえたり、ましてやその声と会話が成立したりしてない?」

 

 

 

 ……してる。

 

 

 

「枕元に人影を感じたことは?」

 

 

 ……ある。

 

 人影なんて程度じゃすまされない。

 

 がっつり見えていた。

 

 

「あとは……」

 

 

 胡桃はあごをつんと出し、人差し指を口元にあてて考えるそぶりを見せる。

 

 そしてあっ、と、何かを思い出すといたずらっぽい笑みを浮かべたまま、横目で私を見下ろした。

 

 

「そうそう、言い忘れてた。もしかして最近、変な夢を見る、とか……?」

 

 

 ひゅっと自分の喉の奥から息を飲み込む音がした。

 

 冷汗が噴き出し、火照っていた頬の温度が急激に下がる。

 

 

「見たことのない景色が夢に出てきたり、あったこともない人が現れたり――」

 

 

「……」

 

 

「心が苦しくなったり、悲しくなったりしていない?」

 

 

「……」

 

 

「えへへっ、図星って顔しているね」

 

 

 私は気が付けばひざ元に転がっている石ころと雑草を、呆然と見つめていた。

 

 

 思い当たる節が多すぎる。

 

 

 弥怒が「そんな話己れは聞いていないぞ」と何やら叫んでいるが、その声すらやけに遠く感じられた。

 

 

 胡桃は槍を下すと、諭すような口調で私に語り掛ける。

 

 

「平安さん……。それってとっても危険な状態なの。そうやって死者との同調がどんどん進むと、夢と現実が曖昧になってきて、自分が本当の自分なのか幽霊なのかがわからなくなる」

 

 

「……その先は、どうなるんだ」

 

 

 思考の止まった体を置き去りに、感情を失ったかすれ声が歯と歯の間を通り抜けた。

 

 胡桃は小さく、だが強い意志のこもった声でぴしゃりと言い放った。

 

 

 

 

「とっても、不幸なことになるよ」

 

 

 

 

「そんな……」

 

 

 

 体中から力が抜け、前のめりに倒れそうになる。

 

 私は両手を大地につき何とか体を支えた。

 

 肩から鞄のベルトがずり落ちて、どさりと隣で音を立てる。

 

 

「今さっき見た夢はどうだった? 幽霊の気持ちが直接伝わってきて、苦しかったでしょ? もう……我慢しなくていいんだよ、平安さん」

 

 

『気をしっかり持て! 平安! そうなのか⁉ 本当にそうだったのか⁉』

 

 

 弥怒の声がぐわんぐわんと響き、私の脳が機械的に夢の記憶の再生を始めた。

 

 絶望の吐息を背中の近くに感じつつ、私は頭に浮かぶ映像を必死に追っていく。

 

 

 そして最近の夢に差し掛かった時、一点だけ、胡桃の説明とは異なる点を見つけた。

 

 私は勢いよく顔を上げ、胡桃に訴えかける。

 

 

「ち、違う! 違うぞ! 確かに胡桃の言う通り当てはまることが多かったが、最近の夢は違う。夢の中で、私と弥怒は分離していた。私と言う存在が確かに存在し、まるで傍観者の様に弥怒と世界を見ていただけだ!」

 

 

 胡桃はそれを聞いて首をわずかにかしげる。

 

 

「あれ? おかしいな。症状が進行すれば、精神と幽霊の同化が進んでいくはずなんだけど……。んー、やっぱり普通とはちょっと違う部分があるのかな」

 

 

 むむむと悩む胡桃を見て、私はかすかな希望を感じた。

 

 もしかすると、胡桃の診断に誤りがあるかもしれない。

 

 弥怒は、そんな悪い幽霊じゃないのかもしれないと。

 

 私はわずかに顔を輝かせ、喜びをかみしめる。

 

 

 が、しかし。

 

 

「まあいいや。とりあえず、その札を私に渡して」

 

 

 天使のような笑顔を私に向けた胡桃。

 

 私にとっては、それはまさに死神の宣告。

 

 胡桃はまっすぐ私のカバンを指さした。

 

 

「札って……」

 

 

 私は思わず、肩から伸びるベルトを両手で握りしめる。

 

 

「そう。その平安さんが大事に大事にしている鞄に入っているお札。それを燃やせば、きっと全部終わるから」

 

 

「この札を、燃やす……?」

 

 

 信じられない言葉が、耳の中で反響した。

 

 

 弥怒が死の間際に残した札。

 

 伐難の思いや、散った夜叉たちの記憶が残る札。

 

 王深の一族がずっと守り続けてきた、この札を、燃やす……だって?

 

 

 ふつふつとした怒りが、腹の底から湧いてくる。

 

 だが同時に、胡桃の「不幸なことになるよ」という言葉が頭の中で渦を巻く。

 

 そのふたつが胸元でぶつかり合い、激しくせめぎ合った。

 

 

 

 究極の二択である。

 

 

 

 わが身可愛さに、数百年の思いを捨て去るか。

 

 弥怒たち夜叉のため、私の人生を捧げるか。

 

 

 この場でそれを判断しろと言うのは、あまりに酷じゃないか。

 

 

 私が決めかねて瞼をぎゅっと閉じた時、弥怒の穏やかな声が頭に響く。

 

 

『……よいぞ』

 

 

(弥怒……? 何を言っているんだ……?)

 

 

『己れのことは気にするな。人には人の世、死者には死者の世がある』

 

 

(ば、ばかなことを! わ、私は知っているんだ。夢で、見たんだ。弥怒たちの戦いも、夜叉の役目も、……伐難との別れや、弥怒の最後も)

 

 

『ではなおさら、己れに構うな』

 

 

 まるで軽く笑みを含んだような弥怒の言い草に、私の心はかき乱される。

 

 

(そしたら! 他の夜叉たちとの約束は……!)

 

 

『そのようなこと、お主が気にすることではない』

 

 

 弥怒の口調は優しかったが、その言葉は私の胸に深く突き刺さった。

 

 

(そん……な……)

 

 

「さ、それを渡して」

 

 

 胡桃が一歩こちらへ踏み出してきて、璃月港で転んだ時と同じように、手を差し伸べてくる。

 

 

 あの柔らかく小さな手を握れば、こんな悩みからも解放される。

 

 すべてを忘れて、私は私の日常に戻ることができるのだ。

 

 その提案は、確かに魅力的だった。

 

 私は鞄に手を伸ばし、古ぼけた木箱へと手を伸ばす。

 

 取り出した木箱を見ると、手に入れてから今までの思い出が駆け巡る。

 

 

 これを渡せば――すべてが終わる。

 

 

 引きつった笑みが、強張った頬の筋肉を震わせた。

 

 

 

 

 

 

「は、ははっ、い、嫌だ……」

 

 

 

 

 

 

「っ‼」

 

 

 

 胡桃の表情が一気に険しくなる。

 

 

「この札は、渡せない。弥怒はすごいんだ。本当にすごいんだ。ずっとずっと戦ってきて、それでもなお約束を守るためにここにいる。私にできることは少ないかもしれないけれど、少しでも力になりたいんだ……!」

 

 

『平安……』

 

 

 私は泣き出しそうになりながら、頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出していく。

 

 まるで、大切なおもちゃを取り上げられそうになった子供の様に。

 

 

「だからっ!」

 

 

 勢いよく顔を上げ、胡桃を見たその瞬間だった。

 

 

「ふーん。そっか。ほいっ」

 

 

 カーン、と森に響く乾いた音。

 

 

 びゅん、と回転する胡桃の槍。

 

 

「あ」

 

『馬鹿者っ……』

 

 

 手元を見ればそこには何もなく、見上げると木箱は頭上高くへと巻き上げられていた。

 

 一拍置いて、カランカランと、むなしい音を立てながら転がる木箱の蓋と箱。

 

 

 私は四つん這いになりながら、胡桃より先にそれらを回収する。

 

 

『平安』

 

 

(なんだ! 弥怒!)

 

 

 平静を失った私は弥怒にかみつく。

 

 だが私の頭の中には、弥怒の諦念したような声だけが響いた。

 

 

『もう、遅い』

 

 

 私ははっとして箱の中へと目をやる。

 

 そこにあったはずの札はなく、箱はもぬけの殻。

 

 

「よっと」

 

 

 声がする方を見上げれば、ひらひらと空から落ちて来た札を、胡桃が華麗な跳躍と共にキャッチしたところだった。 

 

 片膝をついて着地した胡桃は、パンパンと土埃をはたき落とし、私にウインクを飛ばす。

 

 

「ごめんね平安さん。でもこれが私の仕事なんだ。生と死の境は、あいまいにしちゃいけないの。胡じいの話、ちゃんと聞いてくれたよね。だったら、平安さんもわかるでしょ?」

 

 

 私はこぶしを握り締める。

 

 

「胡桃、君は最初から、そのために……!」

 

 

「ごめんね」

 

 

 少し寂し気にそう告げた胡桃は、札を持ち上げ、月明りに透かして眺めた。

 

 

(すまない、弥怒。私は、私のような凡人では、札を守り切ることすらできなかった。すまない、本当に、すまない)

 

 

『よいのだ、平安。よいのだ。すべては天命によって導かれる。これが己れの運命だったのだ』

 

 

(そんな……)

 

 

 私の手から木箱がすり抜け、地面に転がる。

 

 その隣を、私は拳骨で力任せに殴りつけた。

 

 

「ちくしょうっ!」

 

 

 こぶしに痛みが走り、手を持ち上げる。

 

 地面には、見えるか見えないかの微かなへこみ。

 

 

 それは私の無力さを象徴しているようにも見えた。

 

 悔しさに、視界が滲む。

 

 

 なぜ。

 

 

 なぜ私はこうもダメなのだ。

 

 

 何を取っても、たいして成果を上げられない。

 

 挙句の果てに、大切な札まで取り上げられる。

 

 

 

 私の自己嫌悪が最高潮に達した、その時だった。

 

 

「これは……」

 

 

 胡桃のわずかに驚いたような声。

 

 その声を聞いてか、木々がざわめき立つ。

 

 

「……へ?」

 

 

 顔を袖でぬぐい見上げれば、胡桃が苛立たし気に札を見つめていた。

 

 

 こちらの視線に気が付くと、不満げに頬を膨らませる。

 

 

「……前言撤回。もう、この札を燃やすだけじゃダメみたい」

 

 

「ど、どういうことだ」

 

 

 私は目を白黒させた。

 

 胡桃は口をとがらせる。

 

 

「もう、この札に幽霊の魂は入っていない。すっからかんの空っぽ。七七ちゃんと話をしてる時に、こっそりのぞき見した時は札に強い魂を感じたから、もしかしてと思ったけど。ことは私が思っている以上に深刻みたいだね」

 

 

「どういうことだ⁉」

 

 

「もう、幽霊は平安さんと同化し始めているってこと。ここからは、強硬手段で行くしかない」

 

 

 札を胸元にしまい込み、両手で槍を構えた胡桃を私は慌てて両手で制する。

 

 

「まってくれ! 胡桃! ど、どうするつもりだ」

 

 

 

 胡桃がペロリと唇を濡らすと、胡桃の周囲に陽炎が立ち上り始めた。

 

 黒い靴が一歩前に出るごとに、少女の足元で草木が勢いよく燃え上がる。

 

 パチパチと木々の間を反響する、乾いた枝の爆ぜる音。

 

 次々に舞い上がる火の粉は、少女を取り囲むと、羽ばたく炎蝶へと姿を変えた。

 

 

「ちょっと平安さんには悪いけど、我慢してね。弥怒さん、聞こえてる? 早くその体から離れないと、ふたりまとめて串刺しになっちゃうよ」

 

 

「胡桃さん……? めちゃくちゃ怖いこと言ってるけど、聞き間違いじゃないよな……?」

 

 

 私が冗談交じりに尋ねても、胡桃はその歩みを一切緩めない。

 

 

「えへへっ。じゃあ……いくよっ!」

 

 

 胡桃が大地を勢い良く蹴飛ばすのと、私が転びそうになりながらも脱兎の様に逃げだしたのは、ほぼ同時だった。

 

 



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護法戦記 22話 真夜中の逃亡

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
奴は暗闇から私を見つめている。
その赤い瞳が月光に照らされたとき、静かな森に誰かの叫び声が響き渡るのだ。
そう、それは――私の声。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 草木や羽虫すら寝静まる夜の森が、時折オレンジ色に照らされる。

 

 木々の間から漏れだす熱気は、正確に私の足取りを追ってきていた。

 

 

『気をつけろ! 右からくるぞ!』

 

 

「ほい!」

 

 

「うわっ!」

 

 

 とっさにしゃがんだ頭の上を、炎の柱が通り過ぎる。

 

 

「あちっ!」

 

 

 髪の毛が焦がされるのは、これで何度目だろう。

 

 ぱたぱたと頭をはたいて火を消しながら、私は再び走りだす。

 

 まるで目印のない森の中を、無我夢中で駆け抜ける。

 

 もうどこをどうやって走っているのかすらわからなかった。

 

 だというのに、胡桃は私の足取りをまるで透視しているかの如く追いかけてくる。

 

 

 ただ単調に後ろから追いかけてくるわけではない。

 

 正面で待ち伏せしたり、岩の陰から飛び出たりと、同じ登場の仕方はないのではないかと思えるくらい様々な方法で胡桃は私を追ってきた。

 

 

「意外と素早いね! どこまで逃げられるかなー?」

 

 

 まるで鬼ごっこでもしているかのような呑気な台詞が森に響き渡る。

 

 しかし足を止めるわけにはいかない。

 

 口調はふざけていても、襲ってくる槍は確実に私の急所を狙っていた。

 

 

「はーっ! はーっ!」

 

 

 体全体が、悲鳴を上げている。

 

 脇腹が激しく痛み、私は木を背に休憩をはさむ。

 

 

『まだか⁉』

 

 

(ま、待ってくれ、弥怒……。槍に刺される前に、肺が焼けて死んでしまいそうだ)

 

 

『大丈夫だ。人はそれしきでは死なん。さあ、走れ!』

 

 

(む、無茶だ……)

 

 

 私が震える膝を叱咤し、どちらへ行こうかと顔を上げたその時だった。

 

 がさり、と頭上から葉を揺らす音が聞こえ、何かが私の目の前にぶら下がる。

 

 それは、さかさまになった人の顔。

 

 

「逃げても無駄だよ?」

 

 

「ぎゃぁああああ!」

 

 

 叫ぶよりも先に足が出ていた。

 

 

 蜘蛛の巣が顔に張り付き、ぬかるみで足が泥だらけになっても私は足を止めない。

 

 これは私がお化けツアーで求めていた恐怖とは明らかに違う。

 

 私はもっとこう、心理的なヒヤッとしたやつを楽しみにしていた。

 

 まさかこんな物理的な恐怖に心臓がバクバク音を立てる未来など、まるで想定していなかった。

 

 

『おい、先ほどから同じ場所をぐるぐる回っておるぞ!』

 

 

(そう思うなら道案内してくれよ!)

 

 

『その必要はない。このような低木の森、星を見ながら木の上を走れば、なんてことはない』

 

 

(んなことできるかっ‼)

 

 

 ここまで全速力で走っていると、弥怒との会話にすらエネルギーを割きたくなかった。

 

 もう、限界が近い。

 

 私は小さな沢を見つけ、近くの岩壁に身を寄せる。

 

 人一人が通れるほどの洞窟に体を押し込み、その陰から周囲の様子を窺う。

 

 土の香りに包まれながら、私は息を殺してじっと待つ。

 

 

 しばらく待ち続けても胡桃は現れなかった。

 

 

「撒いた……か?」

 

 

 額から際限なく落ちてくる汗をぬぐいつつ、私は安堵のため息をつく。

 

 すると、後ろから誰かに肩を叩かれた。

 

 

「なんだ私は今忙し――」

 

 

「ばあっ!」

 

 

「ああぁぁぁぁあああああああ!!!」

 

 

 森に野太い絶叫がこだました。

 

 穴からはい出した私の目の前に、鋭利な切っ先がつきつけられる。

 

 胡桃はあきれたようにため息をつく。

 

 

「ねぇ、ここをどこだと思ってるの? 平安さんが隠れている場所なんて、すぐにわかっちゃうんだよ?」

 

 

「ど、どうして……」

 

 

「ん? そんなの聞けばいいだけだよ。どっちに行ったの、ってね」

 

 

 にやり、と笑った胡桃の顔が、青白く照らされた。

 

 私はその光源に目をやり、ぎょっとする。

 

 人魂だ。

 

 青白い炎がふよふよと宙に浮かんでいる。

 

 ひとつだけではない。

 

 何十という数の人魂が、私と胡桃を中心に集まってきているではないか。

 

 私はまばたきするのも忘れて、周囲を見回す。

 

 

「あわ、あわわわわわ」

 

 

 体が震え、いうことを聞かない。

 

 

『おい、しっかりしろ、平安!』

 

 

「む、無理だ、に、逃げられない‼」

 

 

『あきらめるな! さあ立て‼』

 

 

「無茶言うなよ、もう、身体に力が――」

 

 

 がちがちと歯を鳴らしながら、匍匐前進で私は逃げる。

 

 がしかし、私のか弱い心ははとうに折れかけていた。

 

 むしろ、よく持った方だと思う。

 

 

「はい、もう追いかけっこはおしまい。これで遠慮なく……ふたりそろってお葬式ができるね……? お代は……親族の方たちから頂こうかな……?」

 

 

 じりじりと迫ってくる胡桃に私は手を振り乱し牽制する。

 

 

「く、来るなっ」

 

 

 わかっている。

 

 こんなことをしても、武器を前にすればまるで意味がないことくらい。

 

 私は心身ともに、絶望の色に染まっていた。 

 

 胡桃はふっと軽く笑うと、槍を構える。

 

 

『おい、平安! 構えろ! 来るぞ‼』

 

 

「も、もうダメだッ!」

 

 

『平安ッ‼』

 

 

 弥怒の怒号と同時に、胡桃のしなやかな腕から槍が飛び出す。

 

 

 周囲には木も岩も何もなく、逃げも隠れもできない。

 

 もはや、一巻の終わりだった。

 

 

 私はただ、痛いのは嫌だ、痛いのは嫌だと頭の中で祈りつつ、両手で顔を覆った。

 

 両目をぎゅっと強くつぶり、私は身体を固くする。

 

 

 

 

 しかし待てども待てども、槍が私の体を串刺しにする痛みは、やってこなかった。

 

 私は恐る恐る、目を開ける。

 

 

 

 そこには、眉をひそめ、苦虫を嚙み潰したような胡桃の顔。

 

 伸ばされた腕、あと少しで届きそうな槍の穂先。

 

 

 

 だが胡桃がどれだけ力任せに押そうとも、槍がそれ以上先に進むことはなかった。

 

 

 

 なぜならそこには――黄金色に輝く障壁が立ちふさがっていたからだ。

 

 

「こ、これはっ!」

 

 

 驚いた私の目が、自分の右腕を見てさらに大きく開かれる。

 

 

「なっ⁉」

 

 

 腕が、光っている。

 

 弥怒の札を初めてみた時と同じように、私の右腕が輝いていたのだ。

 

 

(み、弥怒! 何かしたのか!?)

 

 

 とっさに私は、この状況を作り出せるであろう人物に問いかける。

 

 

『あ、ああ。ま、まさかこれほどに岩元素がお主の体をよく通るとは……』

 

 

 珍しくも弥怒ですら動揺している。

 

 

 視線を戻せば、胡桃は歯を食いしばり、さらに火力を増していた。

 

 足元の草は完全に灰となり、黒い煙をブスブスと上げている。

 

 周囲を舞う蝶の数も格段に増え、森が赤々と照らし出された。

 

 それでも私と胡桃の間に張られた薄い膜は、びくともしない。

 

 

「くっ」

 

 

 とうとう胡桃はあきらめたのか、槍を引く。

 

 びゅんと槍が大きく振り払われた後には、穂先を覆っていた火炎も、舞っていた蝶も幻の様に姿を消した。

 

 あたりは静寂を取り戻し、人魂の青白い光だけがゆらゆらと揺れている。

 

 

「まさか、神の目もないのに、元素力を使うなんて……」

 

 

 胡桃は大きくため息をついた。

 

 

「やっぱり仙人の幽霊は、私じゃダメかぁ……」

 

 

 申し訳ないほどに肩を落とす胡桃。

 

 

(なんだかよくわからないが、助かった、弥怒)

 

 

 未だ淡い光を残す腕を見て、私は思い出したかのように弥怒へ礼を言った。

 

 

『ああ、それは構わぬが、妙だな』

 

 

 弥怒は上の空で訝しがっている。

 

 

(どうしたんだ?)

 

 

『その、だな。最初にお主の体に入った時、お主の体は普通の体だった。ここまでの共鳴が起こるなど、考えすらしなかったものだ。しかし、ここに来るまでの途中、急に岩元素がお主になじむような感覚があった。そうだな、望舒旅館に止まる前と後ではまるで違う。お主、己れが酔いつぶれている間に、何か変な物でも食したか?』

 

 

 そんなことを聞かれても、私もあの時同じように酔いつぶれていたのだ。

 

 わかるはずもない。

 

 右手の光は徐々に収まっていき、今はもう掌がほんのり光を放つだけとなる。

 

 手のひらをくるくると裏返してみても、特に光っている以外変わった様子はない。

 

 私は弥怒と同様に、うーん、と首を傾げた。

 

 

「あのー、いいかな?」

 

 

 見れば、胡桃がこちらをジトッとした目で見つめている。

 

 

「おい、私は自分から棺桶に入るようなことは決してしないぞ!」 

 

 

 私は身構えるも、胡桃は肩をすくめる。

 

 

「もうそっちはあきらめたよ。はぁ」

 

 

 それを聞いて、私はほっとした。

 

 

「じゃあ……!」

 

 

 あきれめてくれるのか、と言いかけたところで、胡桃は槍を置き手近な石に腰掛ける。

 

 

「こうなったら最後の手段。お話をしよう」

 

 

 だめだ。

 

 全然諦めていなかった。

 

 だが、話し合いなら大歓迎だ。

 

 こぶしとこぶしのやり取りは、苦手だからだ。

 

 あ、いや、拳と槍か。

 

 今考えても、明らかに不公平である。

 

 私は嘆息し、目頭を指で押さえつけた。

 

 

「話し会いで何とかなるなら、最初からそうしてくれよ……」

 

 

「まあまあ、まあまあ。で、私の用があるのは、平安さんじゃなくって……その中にいる弥怒さんの方」

 

 

『ぬ?』

 

 

 呼ばれて弥怒が反応する。

 

 胡桃は先ほどまでと打って変わり、真剣な表情で訪ねてくる。

 

「弥怒さん、あなたは本当はこうなるかもしれないとわかっていたんじゃない?」

 

 

『……』

 

 

 弥怒は押し黙った。

 

 ん?

 

 どういうことだ?

 

 私は軽く混乱した。

 

 こうなること?

 

 胡桃に襲われるってことか?

 

 弥怒が、わかっていた?

 

 まさか。

 

 私を置き去りにして、会話は進む。

 

 

「なんでそんなリスクを冒してまで、ここまで来ようと思ったの」

 

 

『おい、平安。すまぬが、通訳をしてくれ』

 

 

(あ、ああ……)

 

 

 訳が分からなかったが、私はとりあえず弥怒に従い、弥怒の言葉をそのまま胡桃へと伝える。

 

 

「その昔、伐難と言う仙人がいた。伐難や他の夜叉たちが未練を残していたらと思い、ここまで来た」

 

 

 胡桃はそれを聞いて、わずかに表情を曇らせ、あごに手を当てる。

 

 

「伐難、ね」

 

 

 しばしの沈黙。

 

 まるで何かを知っているそぶりの胡桃を、私と弥怒は固唾をのんで見守った。

 

 やがて胡桃は大きく深呼吸すると、何かを決意したように小さくうなずく。

 

 

「あんまりお客さんの個人情報を話すのはよくないことなんだけど、今回は仕方ないか。うん」

 

 

 そしてこちらへと向き直ると、私の目をまっすぐ見つめてきた。

 

 正確には、私の瞳の奥にいる、弥怒を見つめていたんだと思う。

 

 

「あのね、弥怒さん」

 

 

「なんだ」

 

 

「もし私が、その伐難って子を知ってるって言ったら、考えを変えてくれる?」

 

 

『何だと⁉』

 

 

 私は通訳することも忘れ、驚嘆した。

 

 胡桃が、伐難を知っているだって?

 

 そんなはずは。

 

 数百年以上前の話だぞ。

 

 

『とりあえず、話を聞こう。おい、平安』

 

 

 弥怒に促され、私は弥怒の言葉を伝える。

 

 

「とりあえず、話を聞くと言っている」

 

 

「わかった」

 

 

 胡桃は目を閉じ、何かを思い出すように考え込むと、ゆっくりと語り始めた。

 

 

 

「その子と出会ったのは、私が往生堂を継いで、間もない頃だった――」



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護法戦記 23話 仙衆夜叉、伐難

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
胡桃が語り始めるは、遠い過去……ではなく、つい最近の話。
往生堂に鍾離という男が、やってきた日の話だった。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 

「ねえ、あなたは、あっちに行かないの?」

 

 

 私は境界の向こうを指さす。

 

 

「きっと、こんな暗くて寂しい場所にいるより、ずっといいよ! 胡じいも、歴代往生堂堂主も、みんな向こうで歓迎してくれるよ!」

 

 

 精いっぱい励ましたつもりだったが、その子はまるで聞く耳をもたない。

 

 それは無妄の丘の境界近く。

 

 じめじめした沼地の隅っこで、膝を抱えて泣いている女の子を見つけたのは、私が七十七代目堂主を継ぎ葬儀にも慣れ始めていたある日のことだった。

 

 

 一目見てその子が他の幽霊たちと明らかに違うとわかった。

 

 頭に生えた角、鉤爪のような両腕。

 

 最初は私も警戒して恐る恐る遠目で見ることしかできなかった。

 

 璃月の海灯祭りで遠目に仙人の姿を見たことはあったが、仙人の幽霊は彼女が初めてだったから。

 

 

 無妄の丘に通い続けて、気づいたことがある。

 

 それは無妄の丘に滞在する幽霊の顔ぶれが、来るたびに変わっているということ。

 

 すぐに境界の向こうへと旅立てる幽霊もいれば、現世での記憶を懐かしみ、数日間その場に滞在する幽霊もいる。

 

 

 だから私ははじめ、彼女も後者の幽霊だと思って、見守ることにした。

 

 でもどれだけ日にちを重ねても、その子が沼の淵から動くことはなかった。

 

 

 少女はいつもじっと真っ黒な水面を見つめては、涙をぽろぽろとこぼしている。

 

 とうとういたたまれなくなった私は、勇気を振り絞って声をかけてみることにした。

 

 

 

 けれど、どれだけ話しかけたり、励ましたり、脅かしたりしても、彼女に私の声は届かなかった。

 

 やがて私は、彼女に声をかけるのをやめた。

 

 

 あきらめたわけじゃない。

 

 もっと、別の方法じゃないとダメなんだって気づいただけ。

 

 それからというもの、この場所を訪れるたび、彼女の様子を見て帰るのが私の習慣になった。

 

 

 ほら、たとえ言葉はなくっても、誰かが気にしてくれてるって思うだけで、気が楽になったりするでしょ?

 

 そうやって月日が過ぎていった。

 

 

 

 私も暇を見繕っては仙人の葬儀について研究を重ね、何かできることはないかってあの手この手を試してみた。

 

 でも仙人の葬儀は、人と違ってとても難しい。

 

 語り掛ける言葉もそうだけど、方位もお供え物も完璧じゃないとダメ。

 

 おまけに、その仙人が納得できるような葬儀じゃないと、意味がない。

 

 ただでさえ長寿の仙人の葬儀なんて、文献はおろか、石碑すら残っていない始末。

 

 だから私は、往生堂の名を背負っているにもかかわらず、ずっと自分の力不足を感じていた。

 

 

 ――つい最近までは。

 

 

 ある日の昼下がり、私が往生堂の前のベンチで空を眺めていた時。

 

 とある人物が、私に声をかけて来た。

 

 

「すまないが、一つ尋ねてもよいだろうか」

 

 

「え、なになに? 私に用事? もしかしてお仕事の依頼かな? んー、でも、あなたは見る限り、髪もお肌もツヤツヤしていて、見るからに健康そう……。あ、もしかして、ご親戚に不幸があった感じだったりして?」

 

 

 その男性は精悍な顔つきをわずかに顰めつつ、眉間を押さえて私を制した。

 

 

「まて……。少々行き違いがあったと思われる。俺はただ、貴女が何をしているのか聞きたかっただけだ」

 

 

「あー……。そっか、そっか。うん。私はただこうやって空に浮かぶ雲を眺めつつ、往生堂の流行りそうな宣伝文句をぼーっと考えていただけ」

 

 

「ほう」

 

 

 男は興味深そうにうなずいた。

 

 そんな興味を持たれるようなことをしていた覚えはないけれど、男はさらに聞いてくる。

 

 

「往生堂、と言ったか。さもすれば、貴女はそこの関係者か?」

 

 

 そこまで他人様からお膳立てされたら、名乗らないわけにはいかないじゃない。

 

 私はベンチから立ち上がると、いつものように自己紹介する。

 

 

「よくぞ聞いてくれましたっ! 私が往生堂七十七代目堂主、胡桃だよっ! それで? あなたのお名前は?」

 

 

「そうか。貴女が当代の堂主か。ふむ。紹介が遅れた。俺は鍾離という。ただの鍾離だ」

 

 

「えーっと、そうやって念を押すと逆に怪しまれたりしない?」

 

 

 鍾離はわずかに考えるそぶりを見せ、納得したようにうなずいた。

 

 

「確かに堂主の言う通りだ。ただの鍾離は、余計だった。次からは気を付けるとしよう」

 

 

「……私もよく変わってるって言われるけど、鍾離さんもなかなかだね……」

 

 

 伝わったのか伝わらなかったのか、鍾離さんは少し首を傾げる。

 

 そして何か思いついたように立ち上がると私に提案してきた。

 

 

「俺は今、特にすることがない。暇を持て余しているとも言う。もしよろしければ、堂主の手伝いなどできないだろうか」

 

 

「あー、うん。お気持ちは嬉しいけど……。往生堂の宣伝はやっぱり堂主の私がしなきゃ、だめだと思うんだ」

 

 

 鍾離さんはふんふんと感心したようにうなずき、こう続けた。

 

 

「なるほど。さすがは往生堂の現堂主だ。元来、往生堂とは医術をその根幹に据えた名家の裏の顔。そこには、命を扱う重圧と責任が常に付きまとう。たとえ宣伝ひとつとはいえ、他人に任せっぱなしとなるとその本質から外れてしまうだろう。堂主の考えは、実に理にかなったものだ」

 

 

 私は鍾離さんの博学多識に舌を巻く。

 

 

 往生堂は瘴気を蓄積させた夜叉たちの亡骸を、炎で浄化する儀式の中から生まれた。

 

 炎は疫病や病魔を祓い、死したものが今を生きる人々を脅かさないよう、明確な境界線を照らし出す。

 

 それらを担っていたのが、当時の医療を担っていた胡家の面々だった……らしい。

 

 往生堂や胡家がその昔、医術で大成していたことなんて、今じゃ誰も覚えてなんかいない。

 

 私でさえ胡じいの昔話を頼りに、往生堂の書架の奥から見つけた文献を読んでいなければ、鍾離さんの話が何のことだかわからなかったと思う。

 

 

「す、すごい! そんなこと、どこで知ったの!?」

 

 

 俄然私は鍾離という人物に興味がわいた。

 

 鍾離さんは少し困ったように頭を掻くと「ただ、記憶力がいいだけだ」と謙遜する。

 

 でもその姿が逆に、鍾離という人物の有能さを物語っていた。

 

 

 私はその時ピンとひらめいた。

 

 

 この人なら知っているかもしれない、と。

 

 

 私が堂主になってから、ずっと頭の片隅で引っかかっていた、ある問題を解決するための糸口を。

 

 

「ねぇ、鍾離さん、私からも一つ聞いていいかな?」

 

 

「……聞こう」

 

 

「仙人の葬儀について、もしかして、詳しかったり……する?」

 

 

 仙人、と聞いて鍾離の目がわずかに見開かれる。

 

 その瞬間、私は直感した。

 

 この人は何かを知っている。

 

 鍾離さんはなぜか私の視線から目を逸らし、申し訳なさそうな顔をする。

 

 

「いや、すまない。俺は特に仙人の葬儀について詳しいわけではない。各地を旅する中で、聞きかじった伝承や保管されていた古い本を読んだだけだ。だが――」

 

 

 そこまで言うと、鍾離さんは私に向き直り、はっきりとこう告げた。

 

 

「今璃月で仙人の葬儀について、一番知識を持っているのは俺だろう」

 

 

 と。

 

 

 私はもう胸のワクワクを止めることができず、鍾離さんが言い終わる前に口を開く。

 

 

「じゃあさ、往生堂で働いてみない、鍾離さん! あなたみたいな人を往生堂はずっと探していました! ええ! そうですとも! 往生堂はいいですよ~! アットホームな事務所(まるで自宅のように)! 寒い冬もあたたかい作業環境(焚き上げが主な理由)! そして何よりもお客様とのハートフルなやり取り(生身の方とも死者の方とも)! きちんと賃金をお支払いするうえ、業務に関わることならなんでも経費で落とせちゃいます! さあ、一緒に漆黒の扉を叩いてみませんか⁉」

 

 

「堂主、俺は……」

 

 

 鍾離さんは何かを言おうとしていたが、私は鍾離さんの両手を握りしめ、ぶんぶんと縦に振った。

 

 

「大丈夫大丈夫! 初めては誰にでもありますから! 一歩ずつ、一歩ずつ。手取り足取り教えます! 半年もすれば誰が見ても納得の、当たり前のことが当たり前にできる、一人前の従業員へと自然に育つカリキュラム(仮)をご用意していますから!」

 

 

 その瞬間、鍾離さんが雷に打たれたように硬直した。

 

 口元では、ぶつぶつと「当たり前のことが、当たり前にできる……」と繰り返している。

 

 私は鍾離さんの背中をぽん、と叩く。

 

 目の前には、往生堂の真っ黒な扉。

 

 鍾離さんが考え事をしているうちに、往生堂の前まで引っ張ってきていたのだ。

 

 戸を開けると、ギギギ、と蝶番も心地よく歓迎のあいさつを鍾離さんへ送る。

 

 

「ようこそ、往生堂へ……」

 

 

 私は往生堂の中へ一歩踏み出した鍾離さんの耳元でそうささやくと、そっと、背中で扉を閉めたのだった。

 

 

「ふむ。なかなか悪くない作りだ。だがどうしたことか、少しめまいを感じる。どこかに座って、ゆっくりと茶でも飲めないだろうか」

 

 

「それじゃま、その辺に座っちゃってて。お茶準備するから」

 

 

 私は鍾離さんを窓際の接客テーブルに座らせて、茶を入れた。

 

 茶を啜って一息ついた鍾離さんは、私に尋ねる。

 

 

「堂主。堂主はなぜ、仙人の葬儀について知りたいと?」

 

 

 私も鍾離さんの対面に腰掛けると、今までのいきさつを説明した。

 

 

 堂主になった後、出会った無妄の丘の女の子のこと。

 

 仙人の葬儀についての文献があまりに少ないこと。

 

 鍾離さんであれば、それらを解決できるかもしれないというところまで。

 

 

 話を聞き終わると、鍾離さんはズズ、と器に残った最後の一口を飲み干した。

 

 

「……俺は確かに知識として仙人の葬儀について知っている。だが、俺は葬儀屋ではない。俺がたとえ今まで目にした仙人の葬儀の方法が間違っていたとしても、口を一切挟まなかったのは役割が違うと考えていたからだ。人はそれぞれ異なる役割を持つ。漁師には魚を捕る役割が、商人には商品を流通させる役割がある。両者の役割を急に入れ替えた場合、経済は混乱し、下手すれば暴動すら起こりえるだろう」

 

 

 私は話半分で鍾離さんの話を聞き流し、深くうなずいて見せる。

 

 

「私もそう思うよ。でも安心して。鍾離さんはもう、往生堂の客卿。仙人の葬儀は、鍾離さんの役割だよ」

 

 

「なんだと? 客卿? 初耳だが……」

 

 

「そうでしょうね。今決めたもの」

 

 

「……よいのか?」

 

 

「いいの。堂主である私が決めたから」

 

 

「……フッ、いいだろう。面白い」

 

 

 私は鍾離さんへと手を差し伸べる。

 

 

「それじゃ」

 

 

「契約、成立だな」

 

 

 こうして、往生堂に新しい従業員がひとり増えることになった。

 

 

 握手を済ませた鍾離さんは、椅子を引いて立ち上がる。

 

 

「では、行こうか」

 

 

「おおー! 鍾離さんって、結構フットワーク軽いね! 話しぶりからして中身はお爺さんみたいだって思ったけど、意外や意外、もしかして結構動ける人?」

 

 

「……」

 

 

 天井を仰ぎつつ、眉間に皺を寄せる鍾離さん。

 

 

 鍾離さんは私のテンションが上がれば上がるほど、なぜか頭痛を感じる特異体質を持った人だと知ったのは、それからしばらく経ってからのこと。

 

 

 なにはともあれ、私と鍾離さんは身支度を整えて無妄の丘へと向かった。

 

 荷車にふたつの棺桶を並べ、私と鍾離さんは街道沿いに進んでいく。

 

 棺桶は現地でベッドとしても機能するし、葬儀の衣装や道具を雨風から守る点でも役に立つ。

 

 無妄の丘にたどり着くと、私と鍾離さんは女の子のもとへと向かった。

 

 

 その日は、あいにくの雨。

 

 

 私と鍾離さんは外套のフードを深くかぶり、森の中を進んでいく。

 

 やがて境界にたどり着くと、その女の子は、前と変わらぬ場所に佇んでいた。

 

 私がその子のもとへと向かおうとすると、鍾離さんが手を前に出して私を止めた。

 

 

「少し、私に任せてはくれないだろうか」

 

 

 私はうなずき、鍾離さんの背中にぴったりとついていく。

 

 近づくにつれ、女の子のすすり泣く声が聞こえてくる。

 

 女の子の前に立つと鍾離さんはフードを取り、片膝をついた。

 

 ただ何かを言うわけでもなく、じっと鍾離さんは少女を見つめる。

 

 

 

 

 それからどれくらいたったろう。

 

 

 

 3時間、4時間、いや、もっとかもしれない。

 

 風邪をひくんじゃないかという私の心配をよそに、鍾離さんはずぶぬれになりながらも、その場から一切動かない。

 

 

 とうとう私がしびれを切らして、声をかけようとした、その時だった。

 

 

 鍾離さんが、やっと口を開く。

 

 

「そなたを高名な仙人とお見受けして、ひとつ尋ねる。そなたの名は、なんという」

 

 

 少女は先ほどと変わらず、泣き続ける。

 

 だけど、確かに私は聞いた。

 

 油断していれば泣き声と判別のつかないほど、小さく弱々しい声。

 

 

 

 

 彼女が「伐難」と自分の名を答える声を。

 

 

 

 

 少女が答えを返したことに驚いた私は、鍾離さんの顔を見た。

 

 相変わらず鍾離さんは伐難を見つめたまま。

 

 表情も、真剣なまなざしも変わらない。

 

 

「伐難。いや、伐難殿。少し、触れるぞ」

 

 

 鍾離さんが手を伸ばすと同時に、外套の腰のあたりがふわりと黄色い光を帯びる。

 

 その時初めて、私は鍾離さんが神の目を持っていることに気が付いた。

 

 ほのかに岩元素を帯びた左手が、伐難の頭に乗せられ、ゆっくりと動かされる。

 

 幽霊は実体がないから、触れることはもちろんできないけど、鍾離さんの手はまるで本当に伐難の頭をなでているように見えた。

 

 

 それからまた、長い時間が過ぎていく。

 

 

 

 鍾離さんは根気強く、少女の頭を撫で続けた。

 

 

 何度も、何度も。

 

 

 すると驚くことに、伐難の涙が止まり、初めて彼女が顔を上げた。

 

 こちらを向いた彼女の瞳は美しく、まるでサファイヤのように透き通っている。

 

 

 しかし、なぜか鍾離さんの顔を見ると、顔をくしゃくしゃにしてまた泣き始めてしまった。

 

 

 先ほどまでの静かな泣き声ではなく、まるで取り乱したかのように号泣する。

 

 

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 

 伐難と名乗った少女は、初めて会ったばかりの鍾離さんにひたすら謝り続けた。

 

 鍾離さんは、ゆっくりと首を横に振る。

 

 

 そして泣きじゃくる彼女に、低く、落ち着いた声で語り掛けた。

 

 

「伐難殿。俺は鍾離という。貴女が深い悲しみの底にいることは理解した。きっと、さぞかし辛い思いをしてきたのだろう」

 

 

 伐難は鍾離さんが話し始めると、謝るのをやめ大粒の涙を流しながらも必死でその声に頷く。

 

 

 鍾離さんもそれに合わせて頷き、言葉を続ける。

 

 

「何があったのか、詳しいことは俺にはわからない。だが、ひとつ確かなことがある。伐難殿は、よく頑張った」

 

 

 雨足が弱まり、雲の間から月明かりが差し込む。

 

 白銀の光を帯びた伐難の瞳が、きらりと輝いた。

 

 

「一介の凡人に過ぎない俺だが、ここからは不敬を恐れずに言わせていただく。伐難よ、すべてを許そう。貴女を縛る契約は、すでに朽ち果てた。友の待つ世界へ、旅立つがよい」

 

 

 

 伐難はそれを聞くと、俯き、小さくうなずいた。

 

 

 空はすっかり晴れ上がり雲間には星が瞬いているというのに、伐難の膝の上にはぼろぼろと水滴が零れ落ちた。

 

 

 夜雨の後であたりはすっかりと冷え込んでいたというのに、少女の周りは、まるで暖炉の前に立っているみたいにあたたかかった。

 

 

 私はふたりの様子を見て安心し、そのまま踵を返すと、ひとり葬儀の準備に取り掛かる。

 

 途中から鍾離さんも加わり、式の準備は着々と進んだ。

 

 やがて、こじんまりとしてはいるが、立派な式場が完成する。

 

 私は鍾離さんと繰り返し式の順序を共有した。

 

 鍾離さんは本当に記憶力がよく、一度話せばほとんどのことを理解してくれた。

 

 伐難の涙もそのころには止まっていて、式場の真ん中で色とりどりの花に囲まれつつ、落ち着かない様子でちょこんと座っている。

 

 鍾離さんが、私に尋ねて来た。

 

 

「堂主。仙人の葬儀は、様々な条件が重ならないと執り行えない。もうすぐ朝日が昇る。今回の場合、その瞬間が最も葬儀に適した時間だ。疲れているところ悪いが、力を貸してはもらえないだろうか」

 

 

「気にしないで。徹夜は慣れてるし、これくらいどうってことない。なんてったって私は、往生堂七十七代目の堂主だからね!」

 

 

「フッ、さすがは我らが堂主だ」

 

 

 鍾離さんが軽く笑えば、山の稜線が輝き始める。

 

 ふたりでその光に目を細めつつ、うなずき合う。

 

 

「では、始めよう」

 

 

 私たちはそろって漆黒の葬儀服を景気よく羽織り、決められた配置につく。

 

 

 今回の葬儀は話し合いの結果、鍾離さんに任せることにした。

 

 

 私はそれを適宜補佐していく形だ。

 

 早朝の薄もやの中、全員がじっとその時を待ち続ける。

 

 ほどなくして朝日が山間から顔を出す。

 

 

 青白かった世界が琥珀色に染まり、ふたりの影だけがさっと長く伸びた。

 

 鍾離さんはすぅと息を吸い込み、深く、丁寧に礼をする。

 

 合わせて伐難も深々と頭を下げた。

 

 鍾離さんは顔を上げると、厳粛な声で、静かに言葉を紡ぎ出す。

 

 

 

 

「これより、仙衆夜叉、伐難の葬儀を執り行う」

 

 と。



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護法戦記 24話 霊魂の向かう先

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
伐難の葬儀の話を、胡桃から聞いた。
これでよかったのだろうか。
そんな問いかけをするも、答えなどない。
過去のことは事実として受け入れるほかはない。

弥怒は、どんな思いでこの話を聞いているのだろうか……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


「鍾離さんと私が葬儀を終えると、蒼い目をした少女は、彼女を縛り付けていた水辺から離れ、境界へと向かった。どれほどの時間をそこで過ごしていたのかは、私にはわからない。でも彼女はやっと、決心できたんだと思う」

 

 

 風も吹いていないのに、人魂の炎たちがわずかに揺らいだ。

 

 まるで胡桃の物語に、幽霊たちでさえ心が動かされたようだった。

 

 胡桃の淡々とした語り口調はやけに真実味を帯びていて、私のいる場所が舞台であることも相まってか、情景がありありと浮かんだ。

 

 

 一度森の奥、その先にある境界の方へと目線を送った胡桃は、私に向き直ると終わりが近づいた仙衆夜叉の少女の話を、穏やかに続ける。

 

 

「伐難は境界の向こうに旅立つ直前で、少しためらうように立ち止まった。そして振り返ると、私と鍾離さんに言った。もし、この先、私を訪ねる御方がいたら、伝えてほしいことがある、と」

 

 

 胡桃は首を肩に預けながら、瞳をこちらへと向けて微笑む。

 

 私と、私の中にいる弥怒に語り掛けるように。

 

 軽く私がうなずくと、胡桃も同じように返し、伐難の最後の言葉を弥怒へと伝えた。

 

 

「伐難は先に、向こうへ旅立ちます。行く先で大きな法螺貝を見つけたら、そこであなたを待っています。うんと散らかして待ってます、って。」

 

 

 それを聞いた途端、私の右の目から何かあたたかいものが頬を伝った。

 

 

 手を当てて気が付いた。

 

 

 泣いているのだと。

 

 

 私ではない。

 

 

 私の中で、誰かが、泣いている。

 

 

(弥怒……)

 

 

『……なんでもない。気にするな……』

 

 

 感情を押し殺したような弥怒の声に反し、涙は立て続けに流れ落ちる。

 

 私も胡桃も、何も言うことはできなかった。

 

 弥怒のことを思うと、胸が苦しくなるというものだ。

 

 ほどなくして落ち着いたのか、弥怒が私に尋ねて来た。

 

 

『……胡桃に聞いてはくれないか。彼女は最後、どんな様子だったかを』

 

 

 私は弥怒の言葉を胡桃に通訳する。

 

 胡桃は少し寂しげに笑った。

 

 

「笑ってたよ、彼女。泣いてた時は気が付かなかったけど、とってもきれいな子だった。私もあの子の笑顔が見れて、よかったと心の底から思ったよ」

 

 

『そうか……。そうか……』

 

 

「……」

 

 

 

 

 こういう時、何と声をかければいいのだろうか。

 

 

 

 慰めるのも、なんだか浅はかで嫌だった。

 

 かといって、同情するのも違う。

 

 

 結局、何も声をかけられないまま、時間だけが過ぎていった。

 

 

『胡桃に礼を、言ってくれ。あと、鍾離殿にも伝えてほしいと』

 

 

 私は弥怒に言われると慌てて胡桃に礼を告げる。

 

 

 突然のことに胡桃は目をぱちくりとさせたが、わかったよ、と短く答えた。

 

 

 無妄の丘は再び静けさを取り戻し、私と胡桃の間には何とも言えない空気が漂う。

 

 

 私は俯き目線を落とした。

 

 胡桃と対峙しておきながらも、わずかな疎外感を感じている私がいた。

 

 彼女と弥怒は実際に伐難と会い、言葉を交わしている。

 

 では私はどうだろうか。

 

 ただ弥怒の過去を夢で見ただけ。

 

 それも遠巻きに見ていただけだ。

 

 まるで野次馬が見物するかのように。

 

 この場にいる私だけが、伐難とは何の関係性もないのである。

 

 ふたりの間に私という不純物が存在することが、少しだけ申し訳なかった。

 

 

 ちょうどその時、私の視界の端で自分の影がふらりと揺らいだ。

 

 顔を上げれば、人魂たちがひとつ、ふたつと森の奥へと移動を始めているではないか。

 

 ふっと満足そうな笑みを浮かべた胡桃が見守る中、人魂たちは木々の向こうへと去っていく。

 

 まるで胡桃の話を聞き届け、それぞれが同じように、何かを決心したようにも見えた。

 

 私がその幻想的な光景を口を開けて眺めていると、胡桃が岩から腰を上げる。

 

 

「弥怒さん」

 

 

 胡桃は私の前にやってきて、目の高さを合わせるようにしゃがみ込んだ。

 

 

「あなたが彼女の、伐難が思っていた人かどうかは私にはわからない。だけど、もし話を聞いて気が変わったなら、私たち往生堂に任せて。ちゃんと、送ってあげるから」

 

 

 私は胡桃の熱い目線に対し、聞こえて来た弥怒の言葉をそのまま伝える。

 

 

「考えておく、だって」

 

 

 それを聞いて胡桃はがっくりと肩を落とし、大きくため息をついた。

 

 

「はぁ~、やっぱりダメかー。鍾離さんみたいにうまくはいかないなー。何が違うんだろ。声? 身長?」

 

 

「し、身長は関係ないんじゃないかな……」

 

 

「どっちにしたって同じだよ。納得してもらえないんじゃ、どうしようもない。あー、もう! 鍾離さんってば、肝心な時にいないんだから!」

 

 

 胡桃は頬を膨らませて、プンスカ怒っている。

 

 私は恐る恐る尋ねた。

 

 

「その、じゃあ鍾離さんは今どこに……?」

 

 

「んー、たぶん今頃璃月港に戻ってるんじゃないかな。望舒旅館で合流した後、今日はここまで一緒に来る予定だったんだけどね。朝になって急に、堂主殿、葬儀に必要な要の品を忘れてしまった、それと外せない用事も思い出したので、あとは堂主に任せる、なんて言って、さっさと帰っちゃったのよ。はぁ……」

 

 

 胡桃は盛大なため息をもう一度つくと、地面に転がっていた槍を拾い上げ肩に担ぐ。

 

 そしてそのまま私の目の前を横切った。

 

 

「どこへ行くんだ?」

 

 

 私が尋ねると、胡桃は心底うんざりした表情で振り返る。

 

 

「どこって、帰るのよ。往生堂に。目的が果たせないなら、ここにいたって仕方ないでしょ。それに――」

 

 

 そこまで言うと、胡桃は言葉を詰まらせる。

 

 あごに手を当てぐるりと周囲を見渡し、ひとしきり考え込んだのち眉間に皺を寄せた。

 

 

「ちょっと、変なんだよね……」

 

 

 立て続けに変なことが起こりまくっている私からすれば、もう何が変で何が変じゃないのか分かったものではなかったが、とりあえず胡桃に聞き返す。

 

 

「……なにが?」

 

 

 胡桃は私の方を見ながら口元に手を当て、うーん、と唸った後、腕を組む。

 

 

「見てわからない……か。そうだよね。えっとね、少なすぎるの。幽霊が。本当ならこの時間の無妄の丘は、璃月港の大通りと間違えるぐらい幽霊でごった返しているはずなんだけど」

 

 

「えぇ……」

 

 

 それを聞いて、私はげんなりした。

 

 つい先ほど、あれだけの数の人魂に囲まれたことでさえ、生まれて初めてだったのだ。

 

 胡桃の話したとおりだとすると、たまたま運がよかったのかあの数で済んだということだろう。

 

 もし何かが違っていれば、私は幽霊の人ごみの中に埋もれていたかもしれない。

 

 

 ……間違いなくトラウマ確定である。

 

 

「ここに来るまでも、幽霊が道から外れて別の方向へ向かっていくのを何度か見たの。それも、ぜんぶ同じ方向に向かって」

 

 

 唇を噛む胡桃。

 

 

 私はそれを聞いてはっとした。

 

 

 道中胡桃がふいに立ち止まり、景色を眺めていたのは、はぐれた幽霊の姿を見ていたからだったのではないか、と。

 

 だとすれば、胡桃の奇妙な立ち回りにも説明が付く。

 

 

 

 

 ……7割程度だが。

 

 

 私は胡桃が見つめていた方角を思い出そうと記憶をたどった。

 

 確かそのほとんどは、南西の方角だった気がする。

 

 

「その先に、何かあるのか?」

 

 

 私の問いかけに胡桃は首を横に振った。

 

 

「わからない。でも、葬儀屋として見過ごすわけにもいかない。退屈しのぎにはなるけど、今回の件はなんだか厄介なにおいがプンプンするんだよね……」

 

 

 あー、やだやだ、と肩をすくめて見せた胡桃は、踵を返し再び歩き出す。

 

 そして、あ、と何かを思い出したかのように立ち止まると、振り返ってこう付け足した。

 

 

「平安さん、ツアーはもう終わりだから、ここで解散。弥怒さんがついているし元素力も使えるんだから、帰り道は大丈夫でしょ。ただ、気を付けてね。神の目をもたない人に、元素がどんな影響を及ぼすか、わからないんだから」

 

 

 ふふっといたずらっぽい笑みを浮かべた後、胡桃は薄暗い木々の影の中へ消えていく。

 

 もうヤバい! と思ったら、往生堂に一本予約の連絡入れてねー、と、手をひらひらさせながら。

 

 

「……行ってしまったな」

 

 

『ああ』

 

 

 私は胡桃が去っていった後の暗がりを、呆然と見つめる。

 

 ふわりと冷気を感じそちらへと目をやると、私の隣、目と鼻の先を人魂がかすめていた。

 

 びくりと肩を震わせて、私は飛びのく。

 

 いろんなことが起こりすぎて麻痺しかけていたが、真夜中の森で、人魂の通り道に立っているなんて正気の沙汰じゃない。

 

 

(私たちも、帰ろう。できるだけ、早く)

 

 

 口に出してしまえば、勘違いした幽霊を連れてきてしまうかもしれないと思い、私は頭の中で言葉を発した。

 

 

『そう、だな……』

 

 

 少し名残惜しそうにする弥怒だったが、ほどなくして本人の方から、行こう、と促されたので、私は無妄の丘を降りることにした。

 

 

 

 勘を頼りに森を抜け、来た道を戻り望舒旅館へたどり着く頃には、日が高く昇っていた。

 

 

(さすがに腹が減った。望舒旅館で何か食べよう)

 

 

 ちょうど昼時までにここまでたどり着けて良かったと私は軽く安堵する。

 

 弥怒はあれからずっと黙っているし、ひとりで無妄の丘をさまよい続けるのは本当に怖かった。

 

 

 やれやれとため息交じりに望舒旅館へ近づくと、何やら様子がおかしい。

 

 旅館前の広場にある掲示板の周りに、人だかりができている。

 

 私は不思議に思い、その前で足を止めた。

 

 

「珍しいこともあるもんだなぁ」

 

 

 取り巻きの一人が、そうつぶやく。

 

 掲示板までの人の垣根は厚く、背伸びしても字が小さくて読めない。

 

 人を押しのけていくほどの勇気もなかったので、私は隣にいた男に尋ねてみることにした。

 

 

「すみません、今来たばかりなのですが、何かあったのですか?」

 

 

 先ほどまで首をかしげていたその男は、私に気が付くと、親指で掲示板を指し示す。

 

 

「いやぁ、何でも望舒旅館が、本日は休館なんだと。俺は今まで何度もここを利用してきたが、こんなことは初めてだぁ。なんかあったのかなぁ」

 

 

「そんな……ここで昼食を取ろうと思っていたのに……」

 

 

 私はここ数日の疲れがどっと押し寄せてくる感覚を覚えた。

 

 その様子を見ていた男は、うんうんとうなずく。

 

 

「わかるぜ、あんちゃん。ここは行商人たちにとっても、オアシスみたいな場所だからなぁ。ここの杏仁豆腐を食べれば、疲れも吹っ飛ぶって言うのによぉ。ま、こんなこともたまにはあるさ。そっちで簡易的な調理場なら解放されているから、今日ばっかしは自分で作るこったな。まあここに来るような奴の料理の腕は、ただが知れてるってもんだ。次の街まで、ちゃんとした飯はお預けだな」

 

 

 男の指さした方を見れば、携行式の竈が数台並んでおり、自由にお使いくださいと書かれた紙が張られていた。

 

 商売に目ざとい者たちが、その近くでござを敷き、食材を並べて売っている。

 

 私は男に軽く会釈すると、露店へ向かった。

 

 

 売られている食材自体は新鮮で問題なかったが、璃月港で見る価格よりも1割から2割ほど高い。

 

 とはいえこの近くで店などやっているはずもなく、私は仕方なくやや割高な魚肉と米麺、キンギョソウを購入する。

 

 

 私は使用されていない竈を使わせてもらい、魚肉の焼麺を作って食べた。

 

 

 味は、いたって普通。

 

 

 そりゃそうだ、私が普段調理し、食べているものなのだから。

 

 私が人心地ついたころには、だいぶあたりの気温も上がっていた。

 

 少し汗ばむので、私は両手の袖をまくる。

 

 

 右手の袖に手をかけた時、やや戸惑った。

 

 胡桃の槍を止めるほどの元素力が、この腕を通ったのだ。

 

 元素を取り込みすぎると体に良くないという話は私も聞いたことがある。

 

 特に、スライムを好んで食べていた者がお腹を壊した、とか、霧氷花を齧って病院に運ばれた、だのと言ったうわさ話ばかりだが。

 

 袖を思い切ってまくり上げてみれば、特にあざや変調はない。

 

 私は人知れず少しほっとする。

 

 そのままテーブルの脇に置いてあった、誰かが入れたやかんの茶を拝借し、私は手元の椀にそそいだ。

 

 

 ほんのり黄味がかった刈安色の茶はさっぱりとしていて、口直しにはちょうどよい。

 

 

 もうしばらく休憩してから出発しようかと、ぼんやり帰路の算段を立てているとき、先ほど掲示板の前にいた男がテーブルの向かいに座った。

 

 

「よう、また会ったな、あんちゃん。ここ、いいかい?」

 

 

「あ、ああ」

 

 

 男が持っていた皿の中には、微妙に焦げている目玉焼きが3枚ほど重ねられていた。

 

 本当に料理は得意ではないらしい。

 

 男はあまり行儀がいいとはいえない食べ方で目玉焼きを頬張ると、こちらを見ながらわずかに目を細めた。

 

 服装からして、璃月のどこかの商会に属する商人なのだろう。

 

 ただ、お世辞にも儲かっていそうな身なりではなかった。

 

 

「あんちゃん、その椀、貸してくれねぇか」

 

 

 男に言われるがまま、私は自分が飲み干した椀を男へと差し出す。

 

 へへへ、と下卑た笑いを浮かべながら、男は椀をゆすぐこともなく、茶を注ぐとぐいとあおった。

 

 椀自体は旅館の借り物なので、私の物というわけではない。

 

 だから、男が私の使いかけを使おうが全く構わないのだが……。

 

 私はこういうタイプの、馴れ馴れしい人間があまり得意ではなかった。

 

 

 席を移るわけでもなく立つわけでもなく、私は気まずさを紛らわすために、男を視界に入れないよう注意しながら水辺の景色を眺める。

 

 

 がしかし。

 

 

 

「なあ、あんちゃん」

 

 

 ……やはり、男は声をかけて来た。

 

 なんだかそんな流れになる気がしていた。

 

 ほかにも空いている席があるにもかかわらず、私の正面に座ったのは私に用があるからだ。

 

 あまり関わり合いになりたくなかったが、仕方ない。

 

 

「なんですか?」

 

 

 私は感情を表に出さないよう気を付けながら、平静を装い聞き返す。

 

 

「ひひ、ちょっとな。実はよ、俺は璃月の石商なんだ。だが、ちょっと商売がうまくいかなくてな。なんでもモンドの果実は結構実入りがいいと聞いたんで、こっちのほうまで足を延ばしてきたんだが……」

 

 

 そこまで言うと、男は声を落としてひそひそ声になる。

 

 

「あちらでの仕入れを考えると、ちょいとばかし懐が寒くてな」

 

 

 ああ、モラの無心か、と私は直感した。

 

 今までも望舒旅館で何度かこのような場面に出くわしたことがある。

 

 彼らは望舒旅館に泊まるモラも惜しいため、大抵旅館の近くにテントを張り野宿するのだ。

 

 その中でも食事すら旅館でとれないもの、食事だけは旅館で食べる者と二分される。

 

 なにはともあれ望舒旅館の表では、こういう輩に絡まれることは珍しくはないというわけだ。

 

 旅行に慣れた人々は口をそろえて同じことを言う。

 

 返答に困ったときは、きっちりと断ることが大切だ、と。

 

 私もそれにならい、できるだけ物腰柔らかに断ることにした。

 

 

「すまない。実は私自身もそこまで裕福というわけではない。残念だが、こちらも手持ちが心細いんだ」

 

 

 男はにたりと口元を歪めると、鼻で笑った。

 

 

「まあまあそう言わず。なにもタダでモラをもらおうってわけじゃない。情報を売りたいんだ、俺は」

 

 

「……情報?」

 

 

 男はうなずく。

 

 

「ああそうだ。ちょっとした儲け話さ。途中までは無料だ。もし続きが聞きたくなったら、500モラでいい。どうだ?」

 

 

 私は少し考えた。

 

 途中までは無料と聞けば、害はないように思える。

 

 金額も、ただが知れている。

 

 正直胡散臭いので、あまり相手にしたくはないが、こちらも今食べ終わったばかりで席を立つには早すぎる。

 

 

 私は仕方なく、首を縦に振った。

 

 

「へっへっへ、まいど」

 

 

「まだ、買うとは決まってないぞ」

 

 

「ああ、ああ。構わねぇ構わねぇ。ほいじゃあ、俺の持ってる情報を途中までおすそ分けだ。こいつを知れば、璃月港じゃちょっと有名人、いやもしかすると、うまくやれば一儲けできるかもしれねぇ」

 

 

 男は少し興奮した様子で語り始めた。

 

 その語り口はとてもこの商売を始めたばかりとは思えぬ身の入りよう。

 

 恐らく、こうやって観光客や暇を持て余した商人に話をして日銭を稼いでいるのだろう。

 

 石商というのも、なんだか怪しいくらいだ。

 

 

 なんにせよ、私は話半分で男の話に耳を貸すことに決めた。

 

 

「前置きが長い話は苦手なんです。本題に入ってもらえませんか」

 

 

 ため息交じりにそう告げると、男は少しむっとするもすぐに表情を元に戻し、演技がかった声色で尋ねてくる。

 

 

「なあ、あんちゃん。あんちゃんは……幽霊を見たことあるかい?」

 

 

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 

 

 思わず、私は聞き返してしまう。

 

 タイミングが悪すぎたのだ。

 

 先ほどまでこの世ならざる者たちに囲まれていた私は、この手の話にどうしても反応してしまう。

 

 

 しまったと思った時には、もう遅かった。

 

 

 男は私のやや驚いた顔を見て、にやりと笑う。

 

 

「実はなぁ、俺は見ちまったんだよ、ここに来る途中に。ひとりの幽霊じゃねぇ。何人もの幽霊が、列をなして歩いていく姿をな」

 

 

 私はごくりと喉を鳴らす。

 

 

 もしかすると、胡桃が言っていた、南西に向かった幽霊たちなのだろうか。

 

 

「気に、なるかい……?」

 

 

 男はニタニタと欠けた歯を見せながら、こちらの顔色を窺っている。

 

 その時、私はあることを思い出していた。

 

 それは、夢の中、弥怒が死に際に言った一言。

 

 

 

 ――この璃月に災いが降りかかるとき。この札は必ず夜叉たちの力となろう。

 

 

 

 弥怒は確かにそう言った。

 

 

 私の背中を、ゾクゾクと悪寒が這いあがってくる。

 

 今まで閉まっていることなど一度たりともなかった望舒旅館の、突然の休館。

 

 本来向かうべき境界へ向かわずに、はぐれた幽霊たち。

 

 弥怒がこの現代に、長い眠りから目覚めた意味。

 

 私の頭の中を一見つながりのない出来事が、ぐるぐると回る。

 

 まるで、すべての事柄は連続しているとでも言いたげに。

 

 私はそんな妄想を振り払おうと顔を横に振る。

 

 

 男は相変わらず嫌な笑みを浮かべていて、続き、聞きたいかい? と手のひらをこちらに向けて差し伸べて来た。 

 

 続きは金を払え、ということだろう。

 

 私は男の掌をじっと見つめる。

 

 

 男の手は皮張っていて青白く、あまり健康そうには見えなかった。

 

 

 そのせいか、私の脳裏に男の言っていた情景がぼんやりと浮かんでくる。

 

 人気のない道を、列をなして歩いていく無数の幽霊たち。

 

 誰も何も言わないのに、示し合わせたかのように同じ方向へと進んでいく。

 

 その先には、何かおぞましいものがあるように感じられてしかたなかった。

 

 気が付くと私は、懐から500モラを取り出し、男に手渡していた。

 

 

「へへ、まいどあり」

 

 

 男は低い声でそうつぶやくと、語り始めた。

 

 

 彼が出くわした、不気味な体験談を。

 

 



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護法戦記 25話 卑屈な凡人

私は平安。璃月のしがない物書きだ。
怪しい石商にわずかだがモラを払い、話を聞くことにした。
胡散臭い男だが、なぜか親近感を感じる。
なぜだろう。
彼の話す情報に、果たして価値はあるのだろうか。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 

「ここ最近のことだ。言っとくがこいつは本当の話さ。俺はあの日、璃月港でちょいとばかしいい商売の話を聞いたんだ。なんでも青墟浦に宝盗団が隠したどえらい量の石珀が眠ってるらしいってな。へへ、あんちゃんも男ならこの類の話を聞いたらワクワクするだろ……? まあ安心するといい。この話はガセだった。そんなうまい話、そこらへんに転がってる方が不思議なもんさ。だが俺は青墟浦に向かった。なぜだと思う?」

 

 

 私は静かに首を横に振る。

 

 男はへへっと笑い、手に持つ箸の先端を私に向けた。

 

 

「商売だよ商売。そういった話に引っかかるのは命知らずで脳みそが足りない連中ばかりってもんさ。そういう奴らはたいてい準備なんてしやしねぇ。目的地についたはいいものの、あれやこれや足りないものに気が付くのさ。そこに商機があるってもんさ。俺は石を詰めるための麻袋を荷車に一杯と、一袋分の石珀を購入して青墟浦に向かった」

 

 

「石珀を探しに行くのに、石珀を買っていくのですか?」

 

 

「まあまあ、話は最後まで聴くもんだぜ、あんちゃん」

 

 

 楊枝で歯を掃除しながら、男はもったいぶる。

 

 私はなかなか進まない話にイライラしながらも、気づけば男の話に聞き入っていた。

 

 

「俺は夜が明ける前に青墟浦にたどり着くと、少し手前の街道に店を広げた。太陽が真上に来る頃にはちらほらと話を聞きつけたお馬鹿さんどもが集まってきたさ。そこで俺は言うんだ。俺は石商だ。璃月港で例の話を聞きつけて袋を大量に買ってきたが、運悪く足をくじいてしまった。おかげで遺跡の奥を見る前に引き返す羽目になってしまった。損した分を取り返すためにも、この麻袋をお前たちに売りたいってな。奴らはホイホイ買っていったさ。奴らの目線は俺の荷車にくぎ付けだった。わざと口を緩めたひとつの袋には、ぎっしりと石珀がはいっているからな。おいおい、そんな怖い顔をするなよ。俺は別に、誰かをだましたわけじゃないぜ。ただ奴らが勝手に、俺が自分で買った石珀を遺跡で見つけたものだって勘違いしただけだ」

 

 

 私は男の顔に少し嫌気がさして、小さくため息をついた。

 

 こういった輩は璃月では珍しくない。

 

 彼らのような人間は詐欺まがいの商売を繰り返すし、だまされる人間も後を絶たない。

 

 その構図は痛いほどよく理解できた。

 

 なぜなら、一昔前は私もこの男と同じ側に立っていたのだから。

 

 いや、完全な詐欺だった分、私の方がこの男よりもたちが悪かったかもしれない。

 

 

「面白いのはここからだ。案の定、何も見つけられなかった男たちが空っぽの麻袋をもって、とぼとぼと帰ってきた。その姿を見て、俺はいかにも慈悲深そうな声色でこう声をかけるのさ。おお、どうしたんだ、見つからなかったのか石珀は。そうか……。もしかしたら俺が取ってきたこの石が最後だったのかもしれないな。まさか、そんなはずは……ってな。それを聞いた相手が多少苛立ったところを見計らい、俺はこう言うのさ。なあ、お前たち。手ぶらで帰るのもなんだから、一つ、商売をしないかって調子でな」

 

 

 男は声のトーンを落とし、ひそひそ声になる。

 

 

「奴らに俺はこう言うのさ。俺の石珀をまずは買え。そして袋と一緒に璃月港に持ち帰るんだ。そして何も知らなそうなやつにこう声をかけろ。とある場所で石珀が大量に手に入るうわさを聞いて行ってみた。すると、俺でもこの石珀を手に入れることができた。袋いっぱいに石珀を詰めていた奴も見た、とな。そうするとそいつはこう尋ねてくる。それはどこだ、とな。そうすればこう言ってやるといい。ただで情報は出せねぇ。せめて、石珀二つ分ぐらいの情報量はもらわねぇとってな。そうすりゃあ、今お前が俺から買う石珀一つ分、行きしがら買った麻袋分を足してもおつりがくる。あとはお前が聞いた噂話通り話してやりゃあいいってな」

 

 

 誰も嘘をついていねぇし、勝手に勘違いした奴が悪い、そうだろ、と男は肩をすくめて見せた。

 

 確かに間違ってはいない。

 

 その通りだ。

 

 だが……。

 

 

『下種だな』

 

 

(……そう、だな)

 

 

 弥怒の声に強く返すことのできない自分が情けない。

 

 だが、目の前の男が完全な善人でないことは間違いのない事実だ。

 

 とはいえ、千岩軍に突き出すことも難しい。

 

 彼らは、悪に染まるか染まらないかのぎりぎりの境界線を見極める知恵だけは働くのだ。

 

 つい、私は表情を曇らせる。

 

 男はわざとらしく、おどけた調子で両腕をさすった。

 

 

「おお怖い怖い、まあまあ、気持ちはわかるさ。こんな話、あまり聞きたいもんじゃねぇだろ。胸糞悪いってのもよくわかる。だが安心してくれ。うまい事やろうとした悪い奴には天罰が下るってもんだ」

 

 

 そう言うと男は急にしおらしくなり、大きく肩を落とした。

 

 

「ん? うまいことモラをせしめたんじゃなかったんですか?」

 

 

 私の問いかけに男は小さくうなずくが、その表情は浮かない。

 

 

「ああ、商売自体はうまくいったさ。俺は麻袋と石珀の代わりにモラがぎっしり入った小袋を荷車に積み、鼻歌を歌いながら璃月港へと向かった。このやり方であと2、3日は荒稼ぎできると思ったからだ。だが、そうは問屋が卸さなかったんだ。あれはちょうど、太陽が西の山に沈み、お月様がのぼりはじめた頃だった」

 

 

 男の声色が、先ほどまでと打って変わって、真剣なものへと変わった。

 

 見れば、その瞳が微かに揺れている。

 

 まるで恐怖を感じているかのように。

 

 私はごくりとつばを飲み込んだ。

 

 

「そのとき、街道には俺一人だけだった。他には誰もいやしねぇ。月と、風になびく馬尾と、岸壁に揺れる瑠璃袋。な、風流なもんだろ? いつもならな。だがその時の俺はなんだか胸元がざわついて仕方がなかった。商売がうまくいきすぎて怖いとかそういった類じゃねぇ。もっとなにか、おどろおどろしい気配を感じていたんだ。そしてとうとう、俺は見つけてしまった」

 

 

 男は冷汗を額ににじませながら、身を乗り出す。

 

 

「人魂だよ」

 

 

 ざわり、と体中の毛が逆立つのを感じた。

 

 男はそんな私を気にも留めず話を続ける。

 

 

「この目ではっきり見た。街道の真ん中で、ポツンと青白い火の玉が浮いているんだ。最初は見間違いかと思って何度も目をこすった。でもそいつは間違いなくそこにいたんだ。それどころか、こっちに向かってゆらゆらと近づいてくるじゃねぇか。俺はあわてて荷車を道の脇に止め、草むらに身を隠した。草をかき分けて様子を探った俺は、今度こそ腰を抜かしてしまった。人魂はひとつじゃなかったんだ。最初の人魂を先頭に、うじゃうじゃうじゃうじゃ、人魂の大行進さ。開いた口がふさがらなかった俺は、まるで夢でも見ているのかと思ったよ。そうしてしばらく人魂の群れをただただ茫然と眺めていると、その瞬間はやってきた。そうさ、俺が悔やんでも悔やみきれない、最悪の瞬間。そいつは荷車の方からやってきた。そうさ、麻のこすれる小さな音だよ。きちんと縛っていなかったモラ袋から、あと少しでモラがこぼれそうになっていたんだ」

 

 

 男はしかめっ面で頭を抱えた。

 

 

「なんでもっとしっかり縛ってなかったんだって俺は俺自身を殴りたかったよ。でももう後の祭りさ。モラ袋からこぼれたモラが転がり、派手な音を立てて地面に落ちたんだ。あの時のことを俺は忘れられねぇ。人魂には前も後ろもねぇはずなのに、確かに俺は感じたんだ。数十、いや、数百の人間の目線ってやつを」

 

 

 ぶるり、と体を震わせて男は目をつぶる。 

 

 先ほど同じような経験をしてきた私は何とも言えない同情のようなものを男に感じた。

 

 いたたまれなくなって注いであげた茶の椀を、男は礼も言わずに飲み干す。

 

 顔の汗を手でぬぐいつつ、男は話を締めくくる。

 

 

「俺はそういうわけでモラも荷車もおいて一目散に逃げて来たのさ。おかげで商売は大損さ。手持ちもほとんどなくなってしまった」

 

 

 なるほど、と私は納得した。

 

 この男がこの望舒旅館で、なぜこんなあこぎな商売をしているのかがよく分かった。

 

 

「それで? 結局売りたい情報ってのは、何だったんですか?」

 

 

 男は当時のことを思い出すのに夢中で本題を忘れてしまっていたのか、私の言葉にはっとする。

 

 

「あ、ああ。情報ってのは、俺の稼いだモラが、まだ青墟浦に置きっぱなしってこととだ」

 

 

 私は眉間に皺を寄せる。

 

 そんな何日も前に置き去りにされた街道沿いのモラなんて、誰かに拾われているに決まっている。

 

 万が一残っていたとしても、その確率は非常に低いだろう。

 

 男は私の表情を見て慌てて付け足した。

 

 

「ま、まてまて。そうだ、こうすればいい。あんちゃんは、このお化けの話を他の奴に話せばいいんだ。モラの話はついででいい。それで、情報料でいくらかもらえばいいんだ。そうだな、あの幽霊たちの向かっていった方角を考えると……今頃は層岩巨淵ぐらいにはついているんじゃないか? 多分そこに行けば、たくさんの幽霊が見られるぜってな。どうだ?」

 

 

 男の表情はいつの間にか、あのうさん臭いニタニタ顔に戻っていた。

 

 腰を抜かすほどの恐怖体験をしたというのにも関わらず、懲りないものだ。

 

 私は男の肝の据わりっぷりに舌を巻きつつ、首を横に振った。

 

 

「申し訳ありませんが、私はあなたと同じことをするつもりはありません。この話も信じられるかどうか定かではないですし」

 

 

 私は席を立ちながら男に告げる。

 

 

「あまり他国で璃月の品位を落とすようなことはしないでくださいね」

 

 

 男は一瞬キツネにつままれたような顔をした後、鼻白みながらも私に捨て台詞を投げて返す。

 

 

「へん、まあそうくるとは大方予想はついていたがよ。だがな、あんちゃん。この話は作り話じゃねぇぞ。俺は紛らわしい話は大好きだが、嘘は好んでつかねぇ。まあ、信じるも信じないもあんちゃん次第だがな。はっ、せいぜい気を付けて旅しなよ、あんちゃん」

 

 

 私は振り返ると、片手をあげた。

 

 

「そちらも。ちゃんとした商売の方でうまくいくことを願ってますよ」

 

 

 男が最後、どんな顔をしていたのか、私は知らない。

 

 もう会うこともないであろう男をテーブルに残し、私は望舒旅館を後にした。

 

 

 

 

 

 

 空は晴れ渡り、心地よい風が吹いている。

 

 腹に入った飯が体全体にいきわたり、活力に満ちていた。

 

 少し休憩したので、足取りもだいぶ軽い。

 

 この調子だと、夜までには璃月港に到着できるだろう。

 

 私は鼻から空気を勢いよく吸い込むと、肺の中を新鮮な空気で満たした。

 

 そうだ。

 

 璃月港についたら、まずは洗濯をしよう。

 

 うん、それがいい。

 

 この服は汗と泥でだいぶ汚れてしまっている。

 

 胡桃から逃げ回ったせいで、ところどころ枝が刺さって穴が開き、ほつれも見られる。

 

 裁縫仕事は苦手だが、残念ながら頼む相手はいない。

 

 自分で取り繕うしかないだろう。

 

 

『平安』

 

 

 そうだ、服を直すのであれば、糸や生地がいる。

 

 明日は璃月の市場で、買い物をしようか。

 

 いやそうとなると、新しく服を新調してもいいかもしれない。

 

 しばらく、服は買っていなかったからなぁ。

 

 思い切って、今の服とは違った色の服を買ってみるのはどうだろう。

 

 

『おい、平安』

 

 

(…………なんだよ。弥怒)

 

 

 私はぶっきらぼうに言葉を返す。

 

 本音を言うと、しばらく弥怒を無視したい気持ちが強かった。

 

 だからあえて、自分の気持ちが弥怒の方へ向かないよう、別のことを考え続けていた。

 

 なぜなら――。

 

 

『ひとつ、頼みがあるのだが』

 

 

 これまでの流れを考えると、弥怒がこう切り出してくるのは、火を見るよりも明らかだったからだ。

 

 璃月港にモラミートを食べに行くときも、胡桃のお化けツアーに参加するときもそうだった。

 

 弥怒が何かを頼んでくる雰囲気を予測することは、もう難しいことじゃない。

 

 

 しかし、だ。

 

 

『先ほどの男が言っていた、層岩巨淵が気になるのだが少し――』

 

 

「嫌だ!」

 

 

 私は自分の声量に驚く。

 

 あまりにもはっきりと叫んでしまったため、あわてて周囲を見回したほどだ。

 

 幸い、誰も周りにはいなかった。

 

 私は軽く胸をなでおろす。

 

 

『っ……』

 

 

 弥怒はひどく驚いたようで、話そうとしていた言葉を飲み込んでしまった。

 

 チクリと胸元に痛みを感じる。

 

 だが、私はその痛みにすら、無視を決め込むことを決めていた。

 

 今回、私は大いに懲りたのだ。

 

 こんな旅になるなんて、想像すらしていなかった。

 

 ちょっとした日々の刺激として、お化けを胡桃の背中越しに見る程度だと考えていた。

 

 ましてや、命の危険を感じたり、夜の森を走り回るなんて想像だにしていなかった。

 

 

 私が目を落とせばそこには、広げた手に豆ひとつない、太くも無く、細くもないごく一般的な両腕。

 

 その腕に昨晩胡桃から身を守った時の輝きと、夢の中で弥怒が息を引き取った時の黒い痣が重なった。

 

 

 

 神の目をもたない人に、元素がどんな影響を及ぼすか、わからないんだから――。

 

 

 

 別れ際に胡桃が口にした言葉が、耳にこびりついて離れない。

 

 

(なあ、弥怒)

 

 

 押し黙る弥怒に私は語り掛ける。

 

 

(私は、確かに言った。できる限り、弥怒の力になると)

 

 

『……』

 

 

(だがそれは、あくまで私にできる範囲での話だ)

 

 

『わかっている、だから、少し見に行くだけで構わない』

 

 

(いいや、何もわかっていない‼)

 

 

 私は歯を食いしばり、拳を強く握りしめた。

 

 

(今回のお化けツアーはどうだ? あんな風に追いかけまわされることを、弥怒は予想していたっていうのか?)

 

 

『……ぬぅ』

 

 

(さっきからヒリヒリ痛む膝の擦り傷も、この服の破れも想像していたっていうのか⁉ あそこで本当に胡桃の槍が刺さっていたら、弥怒は責任を取ってくれていたのか⁉)

 

 

『…………』

 

 

 弥怒は押し黙ってしまった。

 

 黒い靄のようなものが私の心に昏い影を落とす。

 

 八つ当たりだって言うのは、自分でもよくわかっていた。

 

 だからこそ、膨らんでいく怒りが自分でも制御しきれない。

 

 

 

 

 ああ、小さい。

 

 

 あまりにも小さい。

 

 

 

 

 私という人間は、矮小でひ弱で臆病で、卑しくずるいのだ。

 

 こうやって弥怒が言い返さないことをわかった上で責め立てる、嫌な奴なのだ。

 

 

 

 嫌いだ。

 

 

 

 自分という人間が嫌いだ。

 

 

 

 あの望舒旅館にいた男と私は、何も変わらない。

 

 人が見れば、少し距離を置きたいと思ってしまう人種なのだ。

 

 聖人君主のような弥怒や、どこまでも透き通った水のように純粋な伐難や、闇を振り払いながらも前を向き進んでいく胡桃とは、根本的に異なる。

 

 つまり私は。

 

 

 

 私は――。

 

 

 

 

 

 ダメな、奴なのだ。

 

 

 

 

 ああそうさ、屑と言われれば受け入れよう。

 

 そんな奴が、自分の身を守って何が悪い。

 

 

 おのれ可愛さに、大きな役目を背負った弥怒を困らせて何が悪い。

 

 弥怒が指し示す先にある、得体のしれない恐怖から逃げて何が悪い。

 

 危険から身を遠ざけ、コソコソと隠れて何が悪い。

 

 いままでもそうやって、生きて来たじゃないか。

 

 

 

 私は。

 

 私のような人間は。

 

 

 英雄にも、夜叉にも、勇敢な人という称号にさえも手が届かない。

 

 手を伸ばすことすら、怖くてできないのだから。

 

 

 

 

「……家に、帰る」

 

 

 私はそう短く告げて、先ほどまでより大股で歩いた。

 

 誰もいないというのに、背中に痛いほど視線を感じた。

 

 それは弥怒の視線か、境界の向こうの伐難の視線か。

 

 はたまた、札を守り抜いた王深の視線か。

 

 いや、自分自身の良心が放つ視線だったのかもしれない。

 

 

 私はそれらをまるで振り払うかのように、俯きながら前へ前へと進んだ。

 

 やがて日が落ち、月明りの中を相も変わらず私は無言で歩き続ける。

 

 

 

 ぐつぐつと腹の底で何かが煮えたぎっていた。

 

 

 それをぶちまけることもできず、抑え込むこともできず、ただずっともやもやとした気持ちを抱えたまま時間だけが過ぎていく。

 

 やっとの思いでたどり着いた璃月港の明かりを見た時でさえ、私の心は髪の毛一本たりとも動かされることはなかった。

 



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護法戦記 26話 護法戦記

護法戦記 26話 護法戦記

私は平安。

私は、もう――迷わない。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 窓から差し込む光に、目が覚めた。

 

 シンと静まり返った寝室。

 

 聞こえるのは自分の動きに合わせた衣擦れ音だけ。

 

 

 こんな孤独感を感じる朝は、いつぶりだろうか。

 

 

 私は布団をめくりあげ、ベッドから足を下す。

 

 舞い上がった塵が、朝日に照らされてキラキラと輝いていた。

 

 ベッドの脇には、傷だらけになってしまった私の鞄が横たわっている。

 

 私はそこから目線を外し、ゆっくりと部屋を見回す。

 

 

 机には書きかけの小説。

 

 サイドテーブルにはしおりが挟まった読みかけの本。

 

 煤で汚れた暖炉と、椅子の背もたれには脱ぎっぱなしの上着。

 

 

 ああ、そうか。

 

 

 私は――。

 

 

「帰って、来たんだな」

 

 

 ぽつりとつぶやいた言葉は誰に届くわけでもなく、朝の少し冷えた空気へ緩やかに溶けていく。

 

 体の節々が少し痛む。

 

 昨日までの日々が、夢ではなかったのだとぼんやりと感じる。

 

 夢、という言葉が頭に浮かび、私は「あ」と小さく声を漏らした。

 

 

 そうだ。

 

 そういえば。

 

 今朝は、夢を見なかった――。

 

 

 なぜだかわからないが、胸が震えた。

 

 目が覚めて来たのも相まってか、浮遊感が消え、地にしっかりと足がついていることを実感する。

 

 

「あぁ……」

 

 

 声にならない音を喉の奥からこぼしつつ、心の底から安堵した。

 

 ここ最近ずっと夢に縛られていた自分に、やっと気が付いたのだ。

 

 私は両手で顔を覆う。

 

 そうやって暗闇を感じると、今でも思い出す。

 

 はっきりと、鮮明に。

 

 私の記憶に消えない傷跡の如く刻まれるほど、あの夢たちは私の心に重くのしかかっていたのだ。

 

 

 大きくため息をつきながら、掌をあごの下まで滑らせる。

 

 指先にちくちくと、伸び始めた髭が触った。

 

 

「……顔を洗おう」

 

 

 私はふう、と軽く息を吐き立ち上がる。

 

 

 

 私の平凡でありきたりで、平和な一日が幕を開けた。

 

 

 

 顔を洗い、干してあったタオルで水気を拭きとる。

 

 鏡を見ながら歯を磨く。

 

 そんな当たり前の行動一つ一つが、なぜだか特別なことのように感じられた。

 

 私はそれらを噛み締めながら、口をゆすぎ、髪をかき上げる。

 

 いつもと同じように、鏡の前に置いてある剃刀を手に髭を剃った。

 

 

「痛っ!」

 

 

 剃り終わる直前、手を滑らせてしまった。

 

 あご下に走った爪の先ほどの細い線が赤く染まり、ぷっくりと血の玉が膨らむ。

 

 私は鼻を軽く鳴らし、剃刀を洗った手で、傷口を乱暴に拭った。

 

 まだかすかに血が滲んではいるものの、大したケガではない。

 

 私はあごの皮膚を軽く伸ばしたり縮めたりした後、もう血が止まったのを確認し、さっと水で洗い流して洗面台を後にした。

 

 軽く朝食を済ませ、私は自室の机に座る。

 

 目の前には、書きかけの小説「護法夜叉英雄伝」が広げられたままだ。

 

 何日かそのまま放置していたせいか、少し埃をかぶっている。

 

 私はふっと息を吹きかけ、埃を手で払い原稿をたたんだ。

 

 今日は、こちらには用がない。

 

 私は身をかがめると机の下から4、5冊ずつの束に縛られた本を取り出し、机の上に置いた。

 

 布で丁寧にそれらを包み、壁に掛けてある竹籠へとしまい込む。

 

 竹籠は肩から腕を通せるようになっていて、私はこれを背負って璃月港に向かうのだ。

 

 

 私は竹籠を背負いかけたところで腕を止めた。

 

 

「おっと、いけないいけない」

 

 

 そう繰り返しながら、私は本棚に立てかけてあった仮面へと手を伸ばす。

 

 どこかの土産で買った、儺面。

 

 これを見るたびに身が引き締まる。

 

 二度と同じ過ちを犯してはならないと、心の中で三度ほど唱えた。

 

 大きく息を吸って吐けば、少しが気が楽になる。

 

 こうでもしなければ、いつ自分が再び過ちを犯してしまうのではないかと、ふとした瞬間不安になるのだ。

 

 それほど私の心はなびきやすく、決意が脆いことなんて自分が一番知っている。

 

 私はベッド脇の鞄を持ち上げ仮面を中へと放り込んだ。

 

 

 カツン、と木がぶつかる音が中から聞こえる。

 

 

 私は鞄の中身を確認することすらせず、肩からベルトをぶら下げた。

 

 切れていた部分を乱雑に糸で縫ったところから、キチキチと音が鳴る。

 

 途中で切れてしまわないか少し心配になったが、その時はその時だ。

 

 私は先ほどの竹籠を背負うと、靴を履きなおし、踵を鳴らす。

 

 玄関のかんぬきを外し、軽く押せば、璃月港に続く小路がどこまでも続いていた。

 

 

 私は家に向かって小さく「いってきます」とつぶやき向き直ると、ゆったりとした足取りで歩き始めた。

 

 

 

 

       ※

 

 

 

 

「あら、平安じゃない。今回はずいぶんと時間がかかったねぇ」

 

 

 万文集舎の店主である紀芳が目を丸くする。

 

 

「すみません、少し立て込んでいたもので」

 

 

 私が軽く会釈をすると、紀芳はじろりと私を横目でにらんだ。

 

 

「さては、女の子のお尻を追いかけてたんじゃないだろうね」

 

 

 紀芳の冗談に、私は愛想笑いを返す。

 

 

「あはは、そんな甲斐性、私にはないですよ。はいこれ、依頼されていた分です」

 

 

 私は背中の籠を下ろし、中の本たちを店主へと受け渡す。

 

 

「7、8、9……うん、これで全部ね。助かるわほんとに。しっかり天日干ししたはずなんだけどねぇ。どんなに乾かしたつもりでも、古本に虫はつきものね。また虫食いがひどくなった本がまとまったら、修理お願いね」

 

 

「はい、いつでも喜んで」

 

 

 私は店主から駄賃のモラを受け取り、財布へとしまった。

 

 

「それと、なんですが。あのう……」

 

 

 もじもじと私が言いにくそうにしていると、紀芳は少し目を細める。

 

 

「ああ、あの本のことね」

 

 

 彼女が視線を向けたさきを追えば、陳列された本の隅っこに、それはあった。

 

 ため息交じりに紀芳は首を横に振る。

 

 

「まだ、売れてないよ」

 

 

「そう、ですか……」

 

 

「せっかく自費出版してくれたところ悪いけど、もうこれで一月になる。もう一月様子を見てあげるけど、それでもだめなら、引き取ってもらうしかないね。こっちも生活が懸かってるから、スペースは有効活用したいのよ」

 

 

「……お心遣い、感謝します」

 

 

 私は深々と頭を下げる。

 

 店主はいいのよ、と笑って返した。

 

 

 なんとも言えない気まずい空気が流れる。

 

 

 するとちょうどいいところに、棚を見ていた客のひとりが一冊の本を片手に、カウンターへと近づいてきた。

 

 

「では、これで」

 

 

「ええ。また――ああ、いらっしゃい、あら、この前の本の続きですか? あなたもその本に、すっかりはまっちゃったのね――」

 

 

 背中で先ほどまでとは打って変ったような軽やかな紀芳の声を聞きつつ、私は万文集舎を離れた。

 

 

 大丈夫だ。

 

 いつものこと。

 

 こういった扱いには、もう慣れた。

 

 

 

 私は心の中でそう言い聞かせながら、ため息を一つつく。

 

 

 

 するとちょうど、向かいの建物に続く連絡橋を渡り終えたぐらいだろうか。

 

 若々しい声が私を呼び留めた。

 

 

「ねぇ、もしかしてあの本を書いたのは、貴殿かな?」

 

 

 声のする方へ目をやると橋の欄干に腰掛けた身なりの良い少年が、本を片手に私を上目遣いで見上げていた。

 

 

「えっと、君は?」

 

 

 私が尋ねると少年は広げていた本を片手でぱたんと閉じ、軽く微笑む。

 

 

「僕かい? 名乗るほどの者じゃないよ。それより、あの小説さ。一応、万文集舎に並んだ新作には必ず目を通すようにしているんだ」

 

 

「あ、ああ、それはどうも」

 

 

 私は少年のあまりにも堂に入った語り口に、ややたじろぐ。

 

 

「いち読者からの感想なんだけど、伝えても構わないかい?」

 

 

 キリッとした眉に、くりくりとした目をした少年はずいと顔を寄せて来た。

 

 

「か、感想ならどんなものでも嬉しいが……」

 

 

「なるほど」

 

 

 少年は少しあごに手を当てつつ、ちらとこちらを見、「率直に言うと」と前置きした上でバッサリと言い切った。

 

 

 

 

「面白くはなかった」

 

 

 

 

「うっ」

 

 

 子供は時に残酷だ。

 

 思ったことを歯に衣着せず、そのまま口にする。

 

 だがこの少年の言葉からは、そういった子供じみた幼稚さを感じられなかった。

 

 まるで書籍に造詣の深い、編集者のような重みを感じる。

 

 

「でもそれには理由がある」

 

 

 少年は人差し指をピンと立て、口角を上げた。

 

 

「理由……?」

 

 

 私が首をかしげると、少年は手に持っていた本の角を私の胸にとん、と押し当て、こう付け足す。

 

 

「きっと、どこかで取り繕おうとしているんじゃないかな。全体を通してそう感じた。もっと自分をさらけ出せば、貴殿の小説はもっと面白くなる」

 

 

「は、はあ……」

 

 

「楽しみにしてるよ、平安さん」

 

 

 少年はそう私に告げると、颯爽と去っていった。

 

 その背中が見えなくなって、ようやく私は我に返る。

 

 

 

「あ、名前……」

 

 

 

 少年は確かに、私の名前を最後に告げた。

 

 

 ほんとうに私の本を手に取り、読んでくれたのだろう。

 

 自分の作品にちゃんと読者がいると考えると、こそばゆい気持ちと喜びがこみ上げてくる。

 

 

 だが、それも長くは続かなかった。

 

 

 少年の口から飛び出した辛らつな言葉がよみがえる。

 

 

「ははっ……。前作がまるで売れず、次回作のめども立っていないというのにな……」

 

 

 私は自嘲気味に笑うと、万文集舎の雑務で得たモラをポケットの中で遊ばせつつ、璃月の大通りへと続く階段を踏みしめるように降りて行った。

 

 

 ぶらぶらと歩いていると、腹が音を立てて鳴る。

 

 

「……腹ごしらえでもするか」

 

 

 人の流れに身を任せつつ、私は商店街へと向かう。

 

 まだ昼前だというのに、万民堂の前にはもうすでに列ができ始めていた。

 

 とはいえ、万民堂のことだ。

 

 十名ぐらいの列であれば、すぐに掃けていくだろう。

 

 私は何を考えるでもなく、ただぼーっと前に並ぶ客の後頭部を眺め続ける。

 

 

 すると港の方からごとごとと石畳を鳴らしながら、荷車と弾む息が近づいてきた。

 

 

「ごめんねー! 通るよー!」

 

 

 見れば万民堂の看板娘兼天才シェフ、香菱が鮮魚を山のように乗せた荷車を押しながら、こちらへと向かってくるではないか。

 

 

「おう香菱! ご苦労様っ!」

 

 

 厨房で鉄鍋を振りつつ、店主の卯が威勢の良い声を上げる。

 

 

「ただいまお父さん! って、あ!」

 

 

 香菱が私の顔を見て、顔を輝かせた。

 

 

「久しぶりー! ひとり言のお兄さん!」

 

 

「なんて覚え方だ!」

 

 

 大衆の面前でその呼び方はないだろう。

 

 私は少し赤面しつつ、訂正をくわえる。

 

 

「前来た時のあれは、ひとり言じゃないっ!」

 

 

「ふーん、そうなんだね!」

 

 

 にこっと眩しい笑顔で香菱は笑い、厨房の中へと食材を搬入する。

 

 たぬきのような動物が、魚をくわえたまま上機嫌な様子で彼女の後に続いた。

 

 前に並んだ人がチ虎魚焼きを受け取り列から離れると、私が先頭になる。

 

 

「お客さん、ご注文は?」

 

 

「モラミートを一つで」

 

 

「あいよ! 香菱、モラミート頼めるか? 今持ち帰りの調理で手が離せないんだ!」

 

 

「はいはーい!」

 

 

 店の奥からはつらつとした声が響く。

 

 私はポケットの中から数枚のモラを取り出し、店のカウンターへと置く。

 

 ほどなくして白い湯気の立ち昇る、モラミートの包み紙を持った香菱が現れた。

 

 

「お待ちどおさまっ!」

 

 

 その姿を見て、私はちょっと困惑する。

 

 

「えっと、すまない、モラミートは一つしか頼んでいないのだが……」

 

 

 香菱は両手に持ったモラミートを私に差し出す。

 

 

「しーっ! お父さんに聞こえちゃうでしょ! これは私からのサービスだよ!」

 

 

「そんな、悪いよ」

 

 

「いいのいいの! だって、お兄さん、とっても落ち込んだ顔してるもん。前に見た時とは大違い。もしかして、友達と喧嘩しちゃったとか?」

 

 

 その言葉に私は思わず顔を強張らせる。

 

 ん? と首をかしげる香菱と目が合った。

 

 

「あ、ああ、まあ、そんなところだ……」

 

 

「じゃあ、このモラミートはその友達と一緒に食べて! おいしいご飯を一緒に食べたら、きっと仲直りできるよ!」

 

 

 私は胸元に押し付けられた二つのモラミートを、勢いに押されるがまま受け取った。

 

 

「まいどありー!」

 

 

 大きく手を振る香菱に礼を言い、私はとぼとぼと歩き出す。

 

 両手に持ったモラミートから、じんわりと熱が伝わってくる。

 

 

「はは……困ったな」

 

 

 私はそのまま街道を進み、フリースペースのベンチを見つけて腰掛ける。

 

 

 包み紙を開けると、そこには以前万民堂で注文した黄金のモラミートが入っていた。

 

 すでにメニュー入りし看板を掲げられた黄金のモラミートは、数十モラ普通のモラミートより高かったはず。

 

 

「卯に怒られるぞ、香菱」

 

 

 私はふっとひとりで笑いながら、スイートフラワーの香り立つモラミートを頬張った。

 

 ふかふかの饅頭に歯を沈ませると、奥から熱気と共に肉汁とソースがあふれ出す。

 

 ハフハフと口の中の熱気を覚ましつつ、再び黄金色に輝くモラミートへかぶりつく。

 

 私はぺろりとひとつ目のモラミートを食べ終えると、もうひとつのモラミートへと目をやった。

 

 

 腹にこのモラミートを詰め込む余裕はまだまだある。

 

 

 だが、私は食べるのを躊躇した。

 

 

 散々迷った挙句、私は鞄を開け、モラミートをしまい込む。

 

 なんとなく、まだ食べなくてもいいような気がした。

 

 

 

 ただ、それだけ。

 

 それだけだ。

 

 

 

 私はテーブルに置いてあった楊枝を口にくわえ、後ろ頭に手を組み椅子の背もたれに体を預ける。

 

 そのまま食べたモラミートが腹にこなれるまで、通りの人々の往来を呆けたように見つめ続けた。

 

 

 

 昼時になり、あたりが騒がしくなり始めたところで私は席を立った。

 

 

 あまり占領していると他の人に悪いだろう。

 

 

「さて、と」

 

 

 私は大きく伸びをして、足元に置いてあった竹籠を背負った。

 

 今日はまだすることが残っている。

 

 

「行くか」

 

 

 そうひとり言をこぼし、私は歩き出す。

 

 商店街を抜け、広場を通り過ぎ、石橋を超えていく。

 

 向かう先は、私の管理する銅雀の寺院。

 

 

 璃月港からはやや距離のある天衡山の麓へ到着したのは、3時間ほどたった後だった。

 

 

 とはいえ誰かを待たせているわけでもないので、休憩をはさみながらの道中である。

 

 なので特段疲れるほどの距離ではない。

 

 

 私は竹籠を入り口の柱のそばへ下ろし、礼をしてから寺院へ入る。

 

 門扉は常に開かれているため風が吹き込むのか、数日あけるとそこかしこに細かい砂埃が付いていた。

 

 私は慣れた手つきで清掃を始める。

 

 

 掃除はいい。

 

 寺院の貯蔵品を磨いているときだけは、本当の意味での無心になれる。

 

 自分の家はあまり片付いていないのに、こういった場所に来るとなぜか襟を正される気がして、掃除をする手に力が入るものだ。

 

 

 清掃を終えると、私は備え付けの線香に火をつけ、銅雀に手を合わせた。

 

 これで一通り、やることは終わったと言えよう。

 

 

 一段落ついたので、湯を沸かし茶を入れた。

 

 私が自分用に買ってきた茶なので大した品質のものではなかったが、腰を落ち着けてのどを潤せば、心は安らぐ。

 

 

 外を眺めれば璃月の雄大な山々が、夕日で朱色に染まっていた。

 

 自然が織りなす絶景を臨みつつ、私はゆったりと茶をすする。

 

 鳥たちのさえずりに耳を傾ければ、時の流れが、より緩やかに感じられた。

 

 私にとっては、今この瞬間が一番、充実した時間だ。

 

 

 巨万の富があるわけでもなく、贅を尽くした美食に舌鼓を打つわけでもない。

 

 この大地から与えられる美しい光景に目を細め、ただただため息をこぼすだけ。

 

 心躍るような冒険も、命を懸けるような戦いも、湧き上がるような生の実感も、必要ない。

 

 

 

 これで、十分なのだ。

 

 

 

 私のような凡人には。

 

 

 

 なにも、必要ない――。

 

 

 

 そう思うと、急にギュっと胸が締め付けられる思いがした。

 

 私は思わず、壁に立てかけていた肩下げ鞄へと視線を送る。

 

 昨晩の自分の言葉が脳裏をよぎった。

 

 

 

 

「しばらく、ひとりにしてくれ、弥怒」

 

 

 

 

 そう告げると、弥怒は短く一言、『わかった』とだけ答えた。

 

 

 

 もちろん完全にひとりになることなど不可能だ。

 

 今も弥怒は私の頭の中にいる。

 

 だが今日だけは、弥怒の小言に邪魔されず、自分を見つめなおしたかったのだ。

 

 私に何が必要で、私自身どうしたいのか。

 

 それを、見極めたかった。

 

 

 

 私は杯が空になったのに気が付き、急須を再び傾ける。

 

 ゆるりと昇る湯気を鼻から吸い込みつつ、私は程よい熱を体に染みこませた。

 

 じわりと、言葉にできない諦めのような感情が胸元に広がる。

 

 今日一日を思い出し振り返ってみれば、よりいっそうその思いは強くなった。

 

 

 うだつの上がらない、無名の物書き。

 

 

 しゃかりきに何かへ取り組むわけでもなく、ただ漫然と日々を過ごしていく。

 

 きっとそうやって、何かを掴み取ることなく、私という人間の人生は終わりを迎えるのだ。

 

 

 夢は夢。

 

 現実は現実。

 

 なんてことはない、当たり前の話だ。

 

 このような考えの凡人に、大事など成せるはずもない。

 

 誰からも認められず、ただ時間とともに朽ちていく。

 

 それが私には、お似合いだ。

 

 そう自分に言い聞かせると、なんだか踏ん切りがついたような気がして、ふふっと乾いた笑い声が口から漏れた。

 

 

 杯に残った茶をぐいとあおり、私は腰を上げる。

 

 そろそろ片づけをして、家に帰らねば。

 

 夕食を食べ、明日に備えよう。

 

 いつもと同じ平坦で、変わり映えのしない、だがやることだけはちょうどよくある、そんな日々が私を待っているのだから。

 

 

 

 そう思った、その時だった。

 

 

 

 

 コンコン、と寺院の入り口で、木をノックする軽い音。

 

 来客だろうか、と顔を上げ、私は身を固くした。

 

 そこに立っていたのは、ピシッと整えられた制服に、綺麗に磨かれた槍を持つ、精悍な顔つきの男。

 

 

 

 千岩軍だ――。

 

 

 

 何か悪いことをしていたわけでもないのに、急に動悸がした。

 

 こんな辺境の寺院に、いったい千岩軍が何の用だろう。

 

 私は訝しがりながら、恐る恐る返事を返した。

 

 

「……はい、おります。どうされましたでしょうか」

 

 

 顔色を窺うように覗き込むと、男は白い歯を見せて笑った。

 

 

「そうかしこまらずとも良いですよ。ここには誰かを捕まえに来たわけではないですから」

 

 

 それを聞いて、私はほっと胸をなでおろす。

 

 

「もしや、あなたが平安さんですか?」

 

 

「は、はい。間違いありませんが……」

 

 

 名前を呼ばれるとドキッとした。

 

 

 千岩軍に名が知られるようなことが、私にはあっただろうか。

 

 

 

 

 

 ……ありすぎる。

 

 しかもよくない方向で。

 

 

 きっと私を捕まえないにしろ、あまりよくない話なのだろうと、私は腹をくくった。

 

 ここまで来られては、私にはなす術もない。

 

 

 詐欺の被害者たちには誠心誠意尽くしてきたつもりだが、過去を消すことはできない。

 

 何かしらの処罰があるのであれば、謹んでお受けしよう。

 

 

 そう思って顔を上げたが千岩軍の男の口から飛び出してきた言葉は、私が予想だにしていないものだった。

 

 

 

 

「璃月七星より、平安さん個人への報奨金と、寺院維持のための資金援助が認可されましたので、ご報告に上がりました」

 

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 

 私は耳を疑い、目を白黒させる。

 

 報奨金?

 

 資金援助?

 

 璃月七星から?

 

 一体何の話だろう。

 

 驚きのあまり固まった私に、男は話を続ける。

 

 

「璃月では現在、人と仙人に関わる文化財保護の方策が進められています。岩王帝君亡き今、璃月という国をより盤石にするため、天権の凝光様と玉衡の刻晴様は璃月の観光資源へと目を付けられました。テイワット最大の商業都市である璃月港には、毎日他国の商業船がなん百と往来します。彼らは港に宿泊し長旅の疲れをいやすでしょう。次の仕入れを行うまでの間、周辺地域へ観光に赴かれることも少なくありません。その期間、璃月の素晴らしい歴史的な文化財に触れていただき、思い出を自国に持ち帰ってもらうことができれば、旅の話を聞いた次の顧客を港へと呼び寄せることができるでしょう。計画の実現には長い時間が必要ですが、未来の璃月にとって必要なことです。そういうわけで、今回の話が持ち上がりました」

 

 

 

 ただひたすらうなずくことしかできなかった私は、かすれた声で何とか言葉を返す。

 

 

「私のような者が、そんな栄誉を受け取ってもよいのでしょうか……。私の過去は、他人様が聞けば眉間に皺を寄せるものばかりです」

 

 

 相手が千岩軍であることも忘れて、私は自分の身の上をつい話してしまう。

 

 男はそれを聞くと腰元より手帳を取り出し、ぱらぱらとめくってふむ、と首を傾げた。

 

 

「平安さんのおっしゃられる過去というものを私は存じ上げませんが、平安さんが過去になにかしらの契約を破ったという申し立ては、今のところありません。平安さん。ここは商売の街です。誰にだって、失敗はつきものですよ。大切なのは、過去がどうであったではなく、今がどうであるか、です」

 

 

 私は急に胸の奥から何か熱いものがこみあげてきて、言葉を失う。

 

 みぞおちで結んでいた拳に、思わず力が入った。

 

 

「平安さんが私財を投げうって、璃月の失われかけた寺院を復興した話は璃月七星の建設と土地管理を担う、玉衡の刻晴様を通じて何度も群玉閣へと上げられました。璃月七星ではこのエピソードをモデルケースとし、各地の遺跡や廃寺の復興に力を入れていく所存です。平安さんの名前は、その筆頭にしっかりと記録されていますよ」

 

 

「私の名が、璃月七星の帳簿に……?」

 

 

 男は深くうなずく。

 

 

「ええ。帳簿は群玉閣で編纂され、今後永久保管されていきます。平安さん。あなたは、璃月の悠久たる歴史に、その名を残したのです」

 

 

 ふいに温かい何かが頬を伝った。

 

 

 私が。

 

 

 私のような人間の名が。

 

 

 この璃月に残り続けるなど、夢にも思ったことはなかった。

 

 

 身に余る光栄に、まるで理解が追い付かない。

 

 

 同時にあふれ出る感情の波を抑えつける手段も、理由も思いつかなかなかった。

 

 

 

「平安さん、今まで大変だったことでしょう。もう大丈夫です。この寺院は認可を受けました。千岩軍共々、しっかりと支援させていただきます」

 

 

「はい、はい……!」

 

 

 目頭を押さえ震える私の背中を、男は優しくさすってくれた。

 

 

「私も実は、とても嬉しいんです」

 

 

 千岩軍の男は、先ほどまでの優しい口調にやや熱を帯びさせながら続ける。

 

 

「この寺院のことは、前から知っていました。夜叉銅雀を祀る寺。かつて璃月を守り抜いた夜叉の偉業を称える文化財は、驚くほど少ない」

 

 

 私ははっとして涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

 

 

「せ、千岩軍は、夜叉たちの過去の行いを、知っているのですか⁉」

 

 

 男はゆっくりと首を横に振った。

 

 

「いいえ、夜叉については私が個人的に見聞きしたことがすべてです。とはいえ、大したことは私も知ってはいませんが」

 

 

「その話を、伺っても……?」

 

 

 尋ねると、男は照れくさそうに笑った。

 

 

「私の名は王大と言います。嘘か本当かはわかりませんが、私の先祖は夜叉のひとりだったそうです。名を王深と言います。私は曽祖父からその話を聞き、そのことをずっと誇りに思って生きてきました。かつての夜叉たちのように、この国を守りたい。そんな思いから、私は千岩軍へと志願したのです」

 

 

 王は遠くを見つめるような目を潤ませる。

 

 その姿を見て、私は感嘆のため息を漏らした。

 

 

 私の記憶にある、点と点がつながり一本の線になったような感覚を覚える。

 

 

 

「あなたは……私よりもずっと素晴らしい。その王深という人物は間違いなく素晴らしい夜叉だ……いや、そうに違いない。きっと私なんかより、あなたが選ばれるべきだった。私は千岩軍であるあなたのように、何かを守れたことは一度もない。行動に移せるということは、称賛されるべきです」

 

 

 王はやめてくださいよ、と顔の前で手を振った。

 

 よく見れば、目じりに少し涙を浮かべている。

 

 そのまま王は、まっすぐ私の目を見つめると、シャキッと姿勢を正し敬礼をした。

 

 

「守る、という意味では、私と平安さんは同士です。私は民を、平安さんは文化を。どちらに上も下もありません。民も文化も、璃月には決して欠かすことのできないものですから。報奨金や認可に関わる書類は後日お渡しに参ります。それでは璃月を守る同士へ、尊敬と深い感謝の意を込めて。千岩牢固、揺るぎない!」

 

 

 私はただ黙って、震える唇を噛み締めつつ、深々と頭を下げることしかできなかった。

 

 日が陰り、薄紫色に染まる空の下を王は去っていく。

 

 

 その姿が丘の向こうに消えて見えなくなっても、私はじっと熱いまなざしで見つめ続けた。

 

 

 

 

 なにかが、私の中で燃えている。

 

 

 

 それが何かわからぬまま、私は帰り支度をして帰路につく。

 

 腹の底でゆらゆらと揺れるその炎は時間が経っても消えることはなかった。

 

 自宅に着き、夕食を終え、身体を拭いて床についても、その炎は消えるどころか、より激しさを増すばかりだ。

 

 ただ一日の疲れもあり目を閉じればすぐに眠気がやってきて、私がまどろみに沈むまで、さほど時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 その日、私は夢を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 なんてことはない、普通の夢だ。

 

 私の背丈は低く、本の山の中をかき分けながら、誰かの名前を呼んでいた。

 

 不安の波が押し寄せて来た時、積まれた本と本の間から、皺だらけの手が差し伸べられる。

 

 私は安堵と共に笑顔を浮かべ、迷うことなくその手を取った。

 

 手に引き寄せられるまま、胸元に飛び込み顔を上げると、そこには生前の祖父の顔があった。

 

 祖父はにっこりと微笑むと、私を胡坐の上に座らせ、目の前で一冊の本を開く。

 

 

 その本の挿絵には、5人のシルエットが描かれていた。

 

 私が指をさすと、祖父は頷き、語り始める。

 

 それは昔、私が何度も祖父にねだり、読み聞かせてもらった夜叉たちの英雄譚。

 

 私は目を輝かせ、英雄たちの戦いに思いをはせる。

 

 しかし、話がクライマックスに突入した時、ふいに祖父の声が止んだ。

 

 不思議に思い振り返ると、もうそこに祖父はいない。

 

 

 きょろきょろとあたりを見回した後、自分の手を見つめれば、いつの間にか大人の体になっているではないか。

 

 

 不思議に思いつつ、顔を上げれば、誰かが遠くに立っている。

 

 

 

 風に琥珀色の外套をなびかせ、腕を組みこちらに背を向ける長身の丈夫。

 

 

 

 どくんと、胸が跳ねた。

 

 

 私は、彼の名を、知っている気がする。

 

 立ち上がり、一歩、足を踏み出してみた。

 

 ジャリ、と足元から砂が鳴る音が鳴り響く。

 

 それでも男は振り向かない。

 

 もう一歩、そしてまた、もう一歩。

 

 歩みは少しずつ早くなり、気が付けば走っていた。

 

 それでも男の背は遠く、手を伸ばしても届かない。

 

 

 手や足では、だめなのだと、私は悟る。

 

 なにか、なにか言わなければならない。

 

 だが、何を言えばいいのかわからない。

 

 胸をかきむしりたくなるほどのもどかしさを抱えたまま、私は大きく息を吸い、叫んだ。

 

 

 

「――‼」

 

 

 

 口から飛び出したのはきっと、彼の名前。

 

 男はやっと気が付いたのか、組んでいた腕を下ろし、こちらへと体を向けて――。

 

 

 

 はっと目を開ければ、朝だった。

 

 

 

 シンと静まり返った寝室。

 

 ゆっくりと身を起こせば、聞こえてくるのは自分の動きに合わせた衣擦れ音だけ。

 

 私は布団をめくりあげ、ベッドから足を下す。

 

 舞い上がった塵が、朝日に照らされてキラキラと輝いていた。

 

 ベッドの脇には、傷だらけの鞄が横たわっている。

 

 部屋を見回せば、机には書きかけの小説。

 

 サイドテーブルにはしおりが挟まった読みかけの本。

 

 煤で汚れた暖炉と、椅子の背もたれには脱ぎっぱなしの上着。

 

 

 

 

 私は大きく深呼吸をして、頭の中で語り掛けた。

 

 

 

(弥怒、聞こえているか?)

 

 

『なんだ』

 

 

 ひざの上に置いていた手を握りしめ、感情を言葉に、言葉を文字にして頭に浮かべていく。

 

 

(ありがとう。もう、大丈夫だ)

 

 

『………………そうか』

 

 

 少し安堵の混じったような弥怒の声を聞いて、私の決意はかたまった。

 

 

 私は勢いよくベッドから飛び出すと、机の上にあった執筆途中の原稿をわしづかみにする。

 

 

 そして、それらを力任せに――引き裂いた。

 

 

『お、おい! どうした⁉』

 

 

 弥怒が慌てた様子でもお構いなしに、紙を何度も何度も裂いて、細かな紙片へと変えていく。

 

 腕の中いっぱいになった紙くずを抱えて窓を開けると、炊事場の開けっ放しだった窓から今開けた窓まで、一本の風の通り道ができ上がる。

 

 

 背後から流れ始めた強く吹く風に、私は腕の中の紙片をありったけの力でぶちまけた。

 

 まるで花吹雪のように舞う白い切れ端は、澄み切った青空の向こうへ、どこまでも遠く飛んで行く。

 

 

 それをしっかり見送った後、私は窓を閉めることもなく机にかじりつくと、白紙の原稿を新しく取り出した。

 

 瓶の蓋を開け、毛筆にこれでもかと墨を染みこませる。

 

 勢いよく筆を引き上げると、墨汁が机に飛び散った。

 

 そんな些細な飛沫には目もくれず、私は原稿にでかでかと文字を書きなぐる。

 

 

 

「できた……‼」

 

 

 

 両手で持ち上げた紙に大きく踊るのは、新しい小説の表題。

 

 

『護法……戦記……』

 

 

 弥怒が頭の中で文字を読み上げた。

 

 私はかつてないほど晴れやかな気分と共に言い放つ。

 

 

「新しい小説を思いついたんだ。今までの作り話とはわけが違う。私の持てるすべてを吐き出した、ノンフィクション小説だ! 夜叉たちの織りなす珠玉の物語を、この手で最後まで、書ききってやる‼」

 

 

『……っ‼』

 

 

 驚く弥怒に、私は恥ずかしくて言いづらかった言葉を、勢いに任せて言うことにした。

 

 何もストレートに言う必要はない。

 

 私がずるい人間だというのは、私が一番知っている。

 

 それでもかまわない。

 

 大切なのは、過去ではなく、今。

 

 そして、行動と、結果がすべてを物語るのだ。

 

 

「舞台は璃月の極西、層岩巨淵! さあ、これから忙しくなるぞ、弥怒! なんせ、いい小説を書くためには、ロケハンが欠かせないからな‼」

 

 

『平安……っ‼』

 

 

 私は鼻を鳴らしつつ、胸を張る。

 

 

「弥怒に付き合ってばかりってのは、やはりよくないぞ。対等じゃない。だから今回は、私に付き合ってもらう! 弥怒が行きたいから行くのではない。私が行きたいから、層岩巨淵へ向かうのだ‼ あと、そうだな――」

 

 

 やはり、少し照れくさいが、これはきちんと言葉にすべきだ。

 

 

 そう思い、私は一拍あけて、口を開いた。

 

 

「だからえっと、一昨日のこととか、いろいろとその……すまん! 悪かった‼」

 

 

 誰もいない壁に向かって、私は勢いよく頭を下げる。

 

 数秒間の沈黙。

 

 そのあとには、豪快な笑い声が頭の中に響いていた。

 

 

『あっはっはっはっはっは‼ よい! よいぞ、平安‼ 己れはこれっぽっちも憤怒しておらぬが、あえて言おう! お主を許す! 平安‼』

 

 

「そう言ってくれると思っていたよ、弥怒。そうと決まれば、準備をしよう! あ、あと、私にできる範囲で何かをするというのは、変わらないからな!」

 

 

 念を押すと、弥怒は笑いながら肯定する。

 

 

『ああ、構わないとも。もとよりそのつもりだ。協力、心より感謝する!』

 

 

 私はむっとして言い返した。

 

 

「協力じゃない。私がしたいことをしているだけだ」

 

 

『ぬ……。お主……少し頑固になってないか……?』

 

 

「誰かさんの頑固がうつったんだよ!」

 

 

『はて、誰のことだ?』

 

 

「頭の中に居候する誰かさんのことだよっ‼」

 

 

 他愛のないやりとりを繰り返しつつ、私はタイトルだけの原稿を折りたたみ、鞄へとしまい込む。

 

 

 みれば、鞄の中には昨日食べ損ねたモラミートがそのまま残っていた。

 

 私はそれを、朝食代わりに口に押し込む。

 

 冷え切ってはいたものの、モラミートはやっぱりおいしかった。

 

 薄暗く湿っぽかった部屋を、乾いた風が心地よく通り抜ける。

 

 支度を終えた私は、流れる風をひとしきり浴びた後、窓を閉め、錠をかけた。

 

 他の戸締りも確認し、玄関の扉を勢いよく開ける。

 

 

「いってきます!」

 

 

 今度は腹の底からはっきりと、わが家に声を響かせる。

 

 私は閉じた扉に踵を返し、一歩目を踏み出した。

 

 目指すは遥か西の、層岩巨淵。

 

 幽霊だろうが、何だろうが、関係ない。

 

 

 すべてを糧にして、小説に落とし込み、描き切ってやる。

 

 決意を胸に私は自分の両足を、前へ前へと力強く押し進めた。

 

 



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護法戦記 27話 後ろ姿

私は平安。護法戦記という小説を執筆している。

取材のため、私は弥怒と層岩巨淵を目指し街道を歩き続けている。
景色を楽しむのもいいものだが、こうも手持無沙汰ではな。
そうだ、ずっと聞こうと思っていたあれを、弥怒に聞いてみるとするか。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 

「なあ弥怒」

 

 

『なんだ平安』

 

 

 晴天の下街道沿いに歩きながら、私は弥怒にずっと気になっていたことを尋ねてみた。

 

 

「言いたくなかったら別に流してくれても構わないんだが、伐難以外の仙衆夜叉について、教えてくれないか?」

 

 

 弥怒は快諾する。

 

 

『構わんぞ。己れのことを気遣う必要はない。何が知りたいのだ』

 

 

 全部、と言いいところだが、そう来られると弥怒も困るだろう。

 

 私は少し悩んだ末、各々どういった特徴があるのかを聞いてみることにした。

 

 

『うむ……。誰から話そうか。そうだな。まずは騰蛇太元帥、浮舎から話していくとしよう』

 

 

「す、少し待ってくれ、控えさせてほしい」

 

 

 私は慌てて鞄から原稿用紙を取り出し、筆を構える。

 

 

『……よいか?』

 

 

「ああ、頼む」

 

 

 コホン、と咳払いをひとつしてから、弥怒は語り始めた。

 

 

『騰蛇太元帥浮舎は、仙衆夜叉の中でも腕の立つ男だった。性格は豪快奔放。人一倍情に厚く、民草のことを誰よりも大切にしていた。四つの腕を持つ巨漢で、妖魔必滅を誓いとしていたな。闇討ち、奇襲を得意とし、幻影を用いて戦う。奴の繰り出す掌打は地を裂き、滝を割った。それらを幻と織り交ぜ、妖魔を確実に死の淵へと追い詰めるのだ。奴との組手は非常にやりづらかったのを覚えている。実体かと思えば幻。幻かと思えば実体。数十を超える拳に襲われたときは、さすがにそのほとんどが幻かと思い、守りを一部に集中させたが失敗だった。実際はその逆。すべてが実体を持つ、高濃度に凝縮された雷元素の塊だったのだ。あれは痛かった……』

 

 

「な、なるほど……」

 

 

 こうやって弥怒に取材したのは、覚えている限り初めてだったかもしれない。

 

 もっと早く聞けばよかった、と思い、いや、それは違うなと考え直した。

 

 これまで弥怒と過ごした日々が、ここまで弥怒を饒舌にしたのだ。

 

 ちょっぴり嬉しかったので、私はそうに違いないと勝手に結論付けた。

 

 

『……次の仙衆夜叉の説明に移ってもよいか?』

 

 

「あ、ああ……よし、書き終えた。続けてくれ」

 

 

『うむ。次はそうだな。浮舎にべったりだった応達のことでも話そうか』

 

 

「応達……」

 

 

 私が繰り返すと、弥怒がそうだ、と相槌を打つ。

 

 

『応達は火鼠大将と呼ばれていた。仙衆夜叉の中でも、特に体術に秀でた夜叉であった』

 

 

 原稿の端まで書ききってしまったので、私は鞄から新しい紙を追加した。

 

 こちらを気遣い、少し待ってくれた弥怒は私の準備が整ったのを確認し、続きを話し始める。

 

 

『彼女の武を一言で表すのであれば、つむじ風に舞う柳の葉。ひらひらと舞いつつ、敵を剣で鋭く切り伏せる』

 

 

「ほう。華麗な夜叉もいたものだ」

 

 

『いや、違う。その逆だ』

 

 

 弥怒はため息交じりに私の言葉を否定した。

 

 

『応達は、仙衆夜叉の中でも、一番苛烈な性格をしていた。普段は温厚で淑やかなのだが、こと戦闘になると勝気な性格があらわになる。なかなか極端な特徴を持った夜叉でな。彼女の武術は大したものだったが、腕力は仙衆夜叉たちの誰よりも弱かった。人間の夜叉にすら、力比べで負けることがあったぐらいだ』

 

 

「い、意外だな……」

 

 

 てっきり、仙衆夜叉はすべてにおいて人に勝っているとばかり思っていたので、私は驚きを隠せない。

『だがそれは、平時の間だけだ。彼女に流れる血は、大気に触れると灼熱の炎と化す。燃え上がる炎元素は彼女の鎧と化し、応達の脆弱な筋力を外殻から補助した』

 

 

「つまり……追い詰められ傷を負えば追うほど、強さを増すということか」

 

 

『その解釈に誤りはない。負けず嫌いな彼女は、戦いの最中いつも怒っていた。まだ足りない、まだ足りないと。始動が遅い応達を助けるため、常に精鋭たちが部隊につけられた。その事実も、プライドの高い彼女にとっては足かせだったのであろう。とはいえ、全身に炎を纏った応達は、まさに怒りの具現とも言うべき無双の強さを誇ったものだ』

 

 

「すごい……。今まで想像で描いていた夜叉たちの姿が、こうも鮮明になる日が来るとは」

 

 

 私が舌を巻くと、弥怒は鼻で笑う。

 

 

『当たり前だ。己れが直接目で見た情報を話しているのだからな。なんだ、お主は夢で見たのではなかったのか』

 

 

 弥怒に指摘され、私はやや口ごもりながら言い訳をする。

 

 

「み、見たのは見たが、主に伐難についてだ。いや、最初の方に見た夢には、他の夜叉も出てきていたか……? と、とにかく続けてくれよ」

 

 

『む、まあよい。それでは応達の最期については、知らないのだな』

 

 

 私は歩きながら、こくりと頷いた。

 

 

『どうする? 話してもよいが、あまり心地よい話ではないぞ』

 

 

「大丈夫だ。教えてくれ」

 

 

 私ははっきりとそう告げた。

 

 伐難の夢を見て、夜叉たちがどのような戦いに身を捧げたのかは、おおよそ理解できている。

 

 その結末が、決して諸手を上げて喜べることでないことも、分かっている。

 

 

 

 それでも、私は知りたかった。

 

 

 

 生粋の夜叉収集家としての渇望がないと言えば嘘になる。

 

 

 しかし私が一番知りたかったのは、私の頭の中にいる男がどのような仲間と共に生き、何を感じたのかだった。

 

 

 弥怒は少し考えこんだのち、言葉を選びながら確かめるように語りだす。

 

 

『応達は先ほど述べた通り、難儀な体質を持っていた。傷を負いながら戦うため、業障を持つ妖魔と戦うといった点では、一番影響が早く出るのも致し方なかっただろう。応達は晩年、戦い以外の場でも癇癪を起しやすくなっていた。他人に突っかかり、よく喧嘩をするようになる。それを諫めることができたのは、彼女が慕っていた浮舎だけだった。だからだろうか。己れも彼女のことを、浮舎に任せっきりになっていた。癇癪が日に日にひどくなっていても、こと戦闘においては問題ない。むしろ、多少冷静さを欠いた彼女の方が、より敵を制圧する時間も早かった。だからこそ、己れは気づけなかったのだ。……彼女の心が、すでに擦り切れてしまっていることに』

 

 

 気づけば、メモを取る手は止まり、私は弥怒の話に聞き入ってしまっていた。

 

 淡々と語られる応達の話は、悲哀の色を濃く孕んでいる。

 

 私には、そう感じられた。

 

 

 だからこそ、集中を切らすことができない。

 

 

 私は弥怒の放つ一言一句を、脳髄に焼き印のように刻み込んでいく。

 

 

『ついに、その日は訪れた。己れはその夜、焚火の音に紛れて、初めて応達と浮舎が野営地で喧嘩している声を聞いた。浮舎が応達の出陣を許さず、応達がそれに食って掛かっているようだった。かなり長い時間口喧嘩をしていたはずだ。己れは聞き耳を立てるのも悪いと思い、離れた木陰で体を休めることにした。ほどなくして顔を上げると、ふいと己れの目の前を、話を終えた応達が顔を引きつらせて横切っていった。どこへ行くのだと手を伸ばそうとしたが、背後から浮舎に止められた。己れ達二人を置いて、応達の背中が遠ざかっていく。彼女が去った後には、焦げ付いたような香りだけが残されていた。……それが、己れが見た、応達の最後の姿である』

 

 

「……それで、終わりなのか……?」

 

 

 あまりにもあっけない幕切れに、私は肩透かしを食らった。

 

 弥怒は苛立たし気に、己れが直接聞いた話はな、と付け加える。

 

 その怒りは、他でもない弥怒自身に向けられているようであった。

 

 

 恐る恐るなぜ浮舎を振り切って止めなかったのか、と私が聞けば、仕方がなかったのだ、と悔しがる弥怒の声。

 

 聞けば、仙衆夜叉たちは基本的に別行動らしい。

 

 よほど多くの妖魔の軍勢か、強大な敵でない限り、各個撃破を主とした首領の集まり。

 

 戦場は一つではなく、それぞれに持ち場があるのだ。

 

 

 戦場に赴く夜叉を止められるのは、岩王帝君より人員采配の任を負った浮舎のみである。

 

 浮舎でさえ止められなかった応達を、弥怒が止めれば、浮舎の面子を潰すことになりかねない。

 

 そう聞けば、私も黙るよりほかはなかった。

 

 

 しばらく私も弥怒も沈黙したまま、景色だけが横目に流れていく。

 

 銅雀の寺を通り過ぎ、青墟浦までの道のりを半分ほど進んだあたりで、やっと弥怒がため息と共に口を開いた。

 

 

『ここからは応達の部下や近くで戦っていた夜叉から聞いた話なのだが』と前置きした上で。

 

 

 私は再び耳を傾ける。

 

 

『応達は己れたちと別れた後、戦場に到着し開戦するや否や、部下たちを振り切り敵陣にたったひとりで突っ込んでいったらしい。火柱を上げる彼女に、多くの妖魔が群がった。その様子はまるで、飛んで火にいる夏の虫のようだったとある者は言った。しかし、そのような戦い方で、長く持つはずもない。最後には彼女の怒りに満ちた絶叫が、敵味方入り乱れる戦場に長く、長くこだましていたという』

 

 

「それは……壮絶、だな……」

 

 

 弥怒はため息をつきながら補足する。

 

 

『己れが思うに、応達は負けたくなかったのだろう。妖魔に、業障に、自分自身に。そして同じくらい、必要とされたかったのだろう。浮舎や、岩王帝君に』

 

 

 聞きながら頷く私は、もう手記を取ることすらしなかった。

 

 そんなもの、必要ない。

 

 

 記憶が鮮烈であればあるほど、忘れたくても忘れられないものだ。

 

 

 伐難の夢に続き、弥怒の口から語られる応達の話もまた、私の心を大きく揺さぶるものだった。

 

 

『最期の戦いに、応達がどのような思いで向かったのか、その心中は誰にもわからない。いや、もしかすると彼女と一番多くの時間を過ごした浮舎にだけは、分かっていたのかもしれない。己れはあの野営の夜を今でも鮮明に覚えている。焚火に照らされた、あれほど悲しい表情をした浮舎の横顔は、以前にも以後にも、己は見たことがない』

 

 

「…………そうだったのか。弥怒、話してくれてありがとう」

 

 

『礼には及ばん』

 

 

 私は思いのほかずっしりと重たい話を聞いてしまったため、気持ちを整理するためにも道端の木陰に腰を下ろすことにした。

 

 休憩もはさまず夢中で歩き続けた足と、キリキリと痛む胃が悲鳴を上げていた。

 

 私は大きく深呼吸し、心を落ち着かせる。

 

 

 

 見渡せば水源豊かな璃沙郊の景観は美しく、街道から臨める湖面は太陽の光を受けきらめき立つ。

 

 水辺では三匹のヤマガラが、気持ちよさそうに水浴びをしていた。

 

 そよ風が草木を撫で、木漏れ日がゆらゆらと揺れている。

 

 そのあまりにのどかな光景は、時の残酷さというものを嫌というほどに物語っていた。

 

 

 心地よい微風に火照った体を覚ましつつ、私は物思いにふける。

 

 この地はたとえ過去にどれほど大きな戦いがあっても、どれほど誰かが深く悲しんでも、その全てを飲み込み沈黙する。

 

 忘却は慰めともとれるが、墓石のような冷たさも大地は同時に合わせ持つ。

 

 そんな無常の地の上で、我々璃月人は脈々と生をつないでいるのだ、と。

 

 

「応達も……どこかで伐難のようにさまよっているだろうか」

 

 

 服の裾をあおり風を送りながら、ぼんやりと弥怒に尋ねてみた。

 

 

『それはないだろう』

 

 

 弥怒ははっきりと言い切る。

 

 

『応達のあの性格だ。そうやって自分の弱みをさらけ出すことを、誰よりも嫌悪するだろう。もし仮に生を終えた後も怒っているのであれば、肩で風を切って境界の向こうへと旅立っただろうな』

 

 

 ふっと笑う弥怒の声を聞いて、私は少し安堵した。

 

 聞くだけでも辛い話だったので、心配無用と言われていながらもちょっぴり弥怒のことが気がかりだったのだ。

 

 

『続きを話すか? 浮舎、応達ときて、伐難は既に知っているだろう。残るはあの生意気な降魔大聖についてだが――』

 

 

 弥怒がそう言いかけたところで、私たちがやって来た方向から人の声が近づいてくる。

 

 

(……誰か来るようだ)

 

 

『うむ。行商人か?』

 

 

 弥怒の見立て通り、歩いて来たのは璃月商人風のふたり組。

 

 歩いている男がひとり、空の荷車を引く男がひとり。

 

 

 ちょうど私の目の前に差し掛かったところで、荷車を引いていた男が座る私に気付き、声をかけて来た。

 

 

「おっ、いいところに木陰があるじゃあないか。隣、いいかな?」

 

 

 肩にかけた手拭いで汗を拭きとりつつ、男は私に笑いかける。

 

 

「もちろん構わないさ」

 

 

 私が快く返すと、もうひとりの男が眉間に皺を寄せた。

 

 

「おい、さっき休憩したばかりだろう。このままじゃいつになっても青墟浦にたどり着けないぞ。誰かに先を越されたらどうするんだ。ただでさえあの稲妻人に絡まれて時間をロスしたんだ。多少無理をしてでも先を急ぐぞ」

 

 

「えー……」

 

 

 座り込もうとしていた男が、目に見えて肩を落とした。

 

 私は彼らの話を聞いていると、何かにピンと来る。

 

 彼らの荷物と青墟浦というキーワードは、どこかで、聞いたことのある話だったからだ。

 

 

「その、あなた方はもしや、青墟浦の石珀の話を、誰かから聞いたのではないでしょうか」

 

 

 それを聞いて、男ふたりは同時に顔を見合わせる。

 

 先ほどまで苛立っていた男が、目を白黒させながら私に聞き返す。

 

 

「ま、まさか、あんたも同業者か……?」

 

 

「ち、違う、違う」

 

 

 私は首を大きく横に振り、誤解を解くために、望舒旅館で会った男の話を彼らに伝えた。

 

 初めは訝しがっていた男たちだったが、被害者を増やし続ける手練手管を事細かに伝えると納得せざるを得なかったようだ。

 

 目に見えて顔に疲労感をにじませた男たちは、へなへなと地べたに座り込む。

 

 

「だから言っただろう、兄ちゃん。そんなうまい話はないって」

 

 

「う、うるせいやい」

 

 

 弟からなじられた兄らしき男は、わずかに涙声だった。

 

 ショックから立ち直れそうにない兄を差し置き、弟の方は私へにこやかに笑いかける。

 

 

「教えてくれてありがとう。これ以上無理をして何もなかったら、俺もだいぶショックを受けていたと思うよ。感謝する。早とちりしがちな兄にとっては、今回の件はいい薬になっただろうね」

 

 

「ケッ」

 

 

 背後で歯ぎしりする兄を弟はまあまあと諫め、額を流れ落ちた汗を袖でぬぐった。

 

 

「ごめんね。今日はいろいろうまくいかなかったから、兄も気が立っているんだ」

 

 

「それは、さっき言っていた稲妻人のことか?」

 

 

 男はコクコクと頷く。

 

 

「そう。朝港で会った稲妻人は、今日稲妻に向けて出港するところだったみたいなんだけど、それが角の生えた大男でねぇ。このまま璃月から帰ったら、荒瀧派? の名が廃っちまう、だとかなんだとかひとりでぶつぶつ言ってたね。どうやら土産もなしに手ぶらで稲妻に帰るのが嫌だったみたいだ。ちょうどその目の前でうちの兄が石珀の話を大声でしたもんだからさ。それを聞いた稲妻人が俺たちの間に割って入って来ると、俺たちについて行くって聞かなくって。そこからは取り分をどうするかで兄と稲妻人の大喧嘩さ。ほんと、その時は弱ったよ」

 

 

「それは……なんというか、災難だったな……」

 

 

 私が慰めると、男はやれやれと言った様子でため息をついた。

 

 

「まあ、向こうさんの連れの女の子がしっかりしていて助かったよ。後からやって来てすぐに状況を理解し、手に抱えていたモラミートをお詫びとして俺たちにくれたかと思ったら、角の生えた男の耳を引っ張って、鮮やかに船の方へと引きずっていったよ。あれは手馴れてるね。で、男はもちろん抗議していたけど、女の子にお尻を蹴飛ばされると、急にしおらしくなって、船に乗り込んで行ったっけなぁ。いやぁ、稲妻の女性は強いね……」

 

 

 苦笑いする男に私は相槌を打つ。

 

 

「なるほど。朝からなかなか濃い異文化交流をしてきたんだな」

 

 

「まったくだよ」

 

 

 ふう、と一息ついた男は、小首をかしげながら私に向き直った。

 

 

「それで? そっちは誰かに騙されたんじゃなきゃ、なんてったってこんなところに? ひとり旅でもしているのかい?」

 

 

「いや、そういうわけではないのだが、ちょっと層岩巨淵に取材をしに行こうと思ってね」

 

 

 私は少し気恥ずかしかったが、鞄から筆と原稿を取り出し男に見せる。

 

 男は感心した様子で、ほぉ、とあごに手を当てた。

 

 すると、男の背後から先ほどまで黙って聞いていた兄が、声を投げて寄こす。

 

 

「おい、今あんた、層岩巨淵にいくっつったか?」

 

 

 見れば、男の目がギラリと光る。

 

 その剣幕に圧され、私はややたじろいだ。

 

 

「あ、ああ。何か、問題でも?」

 

 

 男はペッと行儀悪くも唾を吐き捨てると、たしなめるように私へ忠告した。

 

 

「その稲妻人の男が言ってたぜ。層岩巨淵で、つい先日大きな落盤事故があったってな。あいつもそれに巻き込まれたクチだそうだ。あんな辺鄙な場所にいくなんて、馬鹿がやることさ。やめとけやめとけ」

 

 

 私は男の態度にややムッとしたが、弟の方が耳打ちをしてきて、「口は悪いけど、一応あれでも心配してるんだ」と聞くと、怒りはすぐに収まった。

 

 

「忠告、感謝するよ。ただ、私も落盤があるような場所へ行くつもりはない。ちょっと景色を目に焼き付けてくるだけさ」

 

 

 それを聞きやや心配そうな目をした弟だったが、早くも荷車の方へと歩き出した兄から催促されると、重い腰を持ち上げる。

 

 

「じ、じゃあ、気を付けてね」

 

 

 弟の方が最後に私に向かって手を振ると、ふたりは荷車をゴロゴロと鳴らしながら来た道を戻っていった。

 

 

(弥怒、どう思う?)

 

 

『わからぬ。だが、何かが起こっている可能性は十分にあるな』

 

 

 私も同意し頷いた。

 

 

(落盤、大丈夫だろうか?)

 

 

『己れを誰だと思っている。岩の声には、人間よりもはるかに敏感だ。安全は保障してくれよう』

 

 

(ははっ、頼もしいな。さて、じゃあ私たちも行くとするか)

 

 

 腰についた落ち葉を払い、私は立ち上がると大きく伸びをする。

 

 しばらく休憩ができたので、だいぶ体も楽になった。

 

 

 西の方角へ目を凝らせば、うっすらと巨大な石の柱が幾本も斜めにそそり立ち、青天を衝き上げる。

 

 ここから見るだけでもその大きさは、目を見張るものがあった。

 

 私は一度ぶるりと武者震いをする。

 

 

『なんだ、怖気づいたのか?』

 

 

(まさか。言ってろ)

 

 

 弥怒と軽口をたたき合いながら、私は再び街道を意気揚々と歩き始める。

 

 

 

 その先で何が私たちを待ち受けているかすら知らずに――。

 

 



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護法戦記 28話 影

私は平安。護法戦記という小説を執筆している。

取材のため、私は弥怒と層岩巨淵にやってきた。
とてつもなく大変な道のりだったが、まあ何とか頂上までやってこれた。
休憩したいのもやまやまだが、早くこの辺りを見て回らないとな。
帰り道のことは、もう考えたくもない……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 

「んぎぎぎ……! ぷはぁっ! はぁっはぁっ」

 

 

 何とかよじ登った岩山の頂上で、大の字になって寝転ぶ。

 

 ギラギラと照り付ける太陽に伸ばした右手は、土で汚れていた。

 

 荒い呼吸を繰り返しながら、額に浮かんだ汗を袖口でぬぐう。

 

 ふう、とひと息ついたのも束の間。

 

 強い風が吹き砂埃が巻き上げられると、油断していた私へ何ともまあ見事に降ってきた。

 

 

「うえっ! ぺっぺっ」

 

 

 慌てて体を起こし、口の中の砂利を吐き出す。

 

 愚かしいことに、ずいぶん前から私はこの過ちを何度も繰り返している。

 

 おかげで全身砂まみれだ。

 

 

「休憩したところばっかり狙わなくたっていいじゃないか……」

 

 

 ため息交じりにまくっていた袖を下ろすと、さらさらと内側から溜まっていた砂が零れ落ちる。

 

 

『……その、平安。本当に、よかったのか?』

 

 

 いつになく申し訳なさそうな弥怒の声が頭の中で響いた。

 

 

「だからいいって言ってるだろ。私が来たくて、ここにいるんだ」

 

 

『しかしな……。やはり申し訳ない。まさかこの場所が禁域に指定されていようとは。お主がここへ来たがらなかった理由もよくよく分かった。己れは、本当に知らなかったのだ』

 

 

「なんだ、いつになく言い訳がましいじゃないか」

 

 

『……』

 

 

 ちょっとした冗談のつもりだったが、弥怒は黙り込んでしまった。

 

 少しイヤミが過ぎただろうか。

 

 まあ確かに弥怒の言う通り、ここに来るまで大変だことは間違いではない。

 

 何度も何度も、壁にぶち当たったのだから。

 

 まず手始めに、街道沿いに進んでいると道は千岩軍によって大々的に封鎖されていた。

 

 物々しい雰囲気だったが、これは想定の範囲であったとだけ言っておこう。

 

 

 層岩巨淵は璃月の国境近くにあるため、群玉閣の目も届きづらい。

 

 宝盗団も多く出没すると聞く。

 

 関係者以外立ち入り禁止、というのもうなずける警備だ。

 

 私は大きく迂回し、岩壁伝いに層岩巨淵へ侵入するルートを選ぶことにした。

 

 層岩巨淵は非常に巨大な壁を周囲に形成する地形だが、突破が難しいわけではない。

 

 モンドのドラゴンスパインのように崖がまっすぐにそそり立っているわけではなく、斜めに突き立ちとぐろを巻いているのだ。

 

 つまりその流れに沿って登りさえすれば、時間はかかるが踏破は可能。

 

 予想していなかったことと言えば、私の体力のなさぐらいだろうか。

 

 

 なんにせよそんなわけで、私は何時間もかけてやっと層岩巨淵が織りなすカルデラの頂点までたどり着いたというわけだ。

 

 少しくらい休憩させてほしいと思う気持ちもわかってほしい。

 

 砂埃が付いたままの口元からは苦笑が漏れる。

 

 

「はは、こんなところ千岩軍に見つかったら、注意だけじゃすまないかもな」

 

 

 そう口ではつぶやいたとて、腹のうちは決まっている。

 

 これは愚痴なんかじゃない。

 

 思ったより大変で、心が折れそうで、泣き言を言わないとやってられないなんてことは、決してなかったとだけ約束しよう。

 

 

 ……たぶん。

 

 

 とまあそんなわけで、今私は普段想像もつかないような場所に立っていた。

 

 頬を叩き気合を入れ、改めてぐるりと周囲を見渡すと眼下に広がるはまさに絶景。

 

 植生の違う層岩巨淵の内側と、今まで歩いてきた璃月港へ続く街道が、ここからだとどちらも一望することができる。

 

 璃月の大地が持つ2面性を私は目に焼き付けた。

 

 

 来ないという選択肢を取っていたら、こんな景色を見ることは、一生なかったかもしれない。

 

 この壮大な景色を見て、胸が震えないものはいないだろう。

 

 私をこれほどまでに感動させたのは、何も景色だけが理由ではないと思う。

 

 この光景はひとりで見たとしても、きっと面白くはなかったはずだ。

 

 絵描きが描いた絵画を見た時とさほど変わらぬ反応をしたに違いない。

 

 これは、得難い体験を弥怒と共有していると思えばこその喜びなのだ。

 

 それが目に映るすべてをより特別なものにしているに違いない。

 

 私は澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 

「なんと言うか、こんなに気持ちがいいのは、久しぶりだ。だから、それでいいじゃないか。うん。それでいいんだ」

 

 

 ややわざとらしく自分に言い聞かせてみるが、弥怒は反応すら寄こさない。

 

 

『……』

 

 

「なんだ。いつになく不服そうだな」

 

 

 私が口を尖らせると、やっと言葉が返ってくる。

 

 

『……そういうわけでは。いや、うむ……』

 

 

 なんだか張り合いのない会話だった。

 

 こうもいつもの切れ味がないと、どこか居心地の悪さを感じる。

 

 弥怒はこの場所に来てからずっとこの調子だ。

 

 調子が狂うったらありゃしない。

 

 私たちのちぐはぐ具合など、お構いなしにもう一度強い風が前から吹いてくる。

 

 風は体を突き抜け、青空へと消えていった。

 

 ロケーション的には、最高の場所なんだけどなぁ。

 

 仕切り直しに大きく背伸びをする。

 

 

「さてさて。ここからは下り坂だな……って、ん?」

 

 

 崖下を覗き込んだちょうどその時。

 

 私の目に、不思議なものが写り込んだ。

 

 

 赤、青、紫……。

 

 

 小さな斑点のようなものが、採掘口付近にいくつも散らばっている。

 

 

「おい弥怒、見えるか?」

 

 

『ん……いや、ここからではよく見えぬな。だが何かがある。気をつけろ、平安。何かあれば、すぐに逃げるのだぞ』

 

 

「はいはい」

 

 

『ぬう……』

 

 

 弥怒が次の句を言う前に、私は崖を滑り降りる。

 

 こんな時でも心配性は健在だ。

 

 しかも若干いつもより念を押してくる。

 

 この場所に危険があるかもしれないというのは、重々承知しているつもりだ。

 

 そんなこと、来る前からわかっていたはず。

 

 弥怒の小言にまともに取り合えば、一日などあっという間に過ぎてしまうだろう。

 

 夜になると、危険度は高まる。

 

 何より、私が怖い。

 

 先を急いで損はないはずだ。

 

 

 一つ目の岸壁を滑り降りた先には、また同じような岸壁が佇んでいる。

 

 層岩巨淵の名にふさわしく、岩が何層にも連なっているのだ。

 

 地道に一段ずつ降りていくしかないだろう。

 

 層岩巨淵は巨大なクレーターのような地形で、中心地までかなりの距離がある。

 

 そこまでたどり着くためには、幾度も急な岩場を降りていく必要があった。

 

 私は細心の注意を払いつつ、岸壁の傾斜に沿うように、一段、また一段と壁面を下っていく。

 

 昇降機をいくつか経由し、やっと炭鉱の入り口までたどり着いた。

 

 

「これは……!」

 

 

 思わず絶句した。

 

 

 そこにあったのは、おびただしい数のトリックフラワーの死骸、死骸、死骸……。

 

 

『面妖な……』

 

 

「確かに、気味が悪い」

 

 

 トリックフラワーは群生している場合でも、3、4匹いればいい方だ。

 

 これほどの数が集まっているところなど、見たことがない。

 

 

 

 仮に誰かがここに集めたとて、その理由は?

 

 

 

 何のために?

 

 

 

『平安! ボーっとするな!』

 

 

 鋭い弥怒の声が私を現実へ引き戻した。

 

 

「……‼」

 

 

 振り返るより早く、視界へ影が差す。

 

 首筋がぞくりと危険を訴える。

 

 私は素早くしゃがみ込み、前方の空間へと飛び込んだ。

 

 砂地に転がる私の視界の端に、鮮やかな紫色の触手がちらつく。

 

 舞い上がった砂埃に身を隠しつつ、受け身を取り即座に起き上がる。

 

 そして先ほどまで自分がいた場所に佇む、荒っぽい訪問者へとにらみを利かせた。

 

 雷元素を纏うトリックフラワーだ。

 

 

「警戒していてよかったよ。まだ生きている個体もいたんだな」

 

 

 ちらと退路を確認しつつ、身を引き締める。

 

 

 

 大丈夫だ。

 

 

 

 不意打ちさえ避けきれば、決して逃げ切れない相手ではない。

 

 トリックフラワーは首をかしげると、足元に獲物がいないことに気が付き、わなわなと震えだした。

 

 怒っているのだろうか。

 

 魔物の気持ちは私にはわからない。

 

 

 砂埃が薄くなり、トリックフラワーもやっとこちらへ気がつくと、頭の葉を逆立てた。

 

 そのままくるりとその場で一回転し、バチバチと小さな雷で威嚇を始める。

 

 それはトリックフラワー種特有の、次の攻撃へつなげる有名な予備動作だった。

 

 

『今だ! 走れ、平安ッ!』

 

 

 弥怒の掛け声とともに、踵を返す。

 

 トリックフラワーは大技を放とうと元素を収集するのに必死で、まだこちらの動きに気付いていない。

 

 

 元来、それほど目が良い魔物ではないのだ。

 

 

 私は全速力で駆けだした。

 

 周囲に目をやれば身の丈ほどある岩が所狭しと並んでいる。

 

 落ち着け平安。

 

 いくらでも身を隠す場所はある。

 

 少し距離を取り、縮こまっていればいいだけなのだ。

 

 そうすれば、トリックフラワーも私の姿を見失うだろう。

 

 走っているとふと前方に、私の肩ほどの高さの岩があった。

 

 

 好都合だ。

 

 

「よっと」

 

 

 岩肌に手をかけ、勢いそのままに飛び越える。

 

 向こう側へ着地すれば、あとは身を低くして移動すればいい。

 

 そう考えていた。

 

 が、次の瞬間。

 

 

 私は事態を甘く見過ぎていたことを、後悔することとなる。

 

 

「なっ⁉」

 

 

 着地した目と鼻の先には、赤と水色の鮮やかな球根たち。

 

 仲がよろしいことに、着地音に反応して一緒にこちらを振り返る。

 

 背後に1体、前方に2体。

 

 大丈夫だ。

 

 

 まだ慌てず冷静に対処すればいい。

 

 

 私は着地と同時に足裏から駆け上ってくるしびれを叱咤しつつ急旋回。

 

 岩と岩の隙間をかき分けるように進み、追っ手を振り切ろうと必死に走る。

 

 だが、開けた場所へと飛び出したが最後、足が、たたらを踏んだ。

 

 

 

「くそ、こっちもか!」

 

 

 通路の先で飛び出した広場には、また1匹、別のトリックフラワーが待ち伏せていた。

 

 ぎり、と奥歯を噛み締めながら背後に目をやるが、時すでに遅し。

 

 わらわらと4匹の球根たちが、わさわさと葉音を立てながらうごめいている。

 

 退路は既にふさがれていた。

 

 

『まずいぞ。囲まれている』

 

 

「わかってる。わかってるさ」

 

 

 精いっぱい口に余裕を含んだつもりだったが、声色はわずかに上ずっている。

 

 

 

 

「……なあ弥怒」

 

 

 

『なんだ』

 

 

「少し、手伝ってもらえたり……しないか?」

 

 

 頭に響く深いため息とあきれ声。

 

 

『平安。相手は羽虫のような存在だぞ? もう少し粘れないものか?』

 

 

「だー! 仕方ないだろ! 私はこいつらを駆除しようとして、火傷したり指先凍らされた苦い思い出しかないんだ!」

 

 

『まったく……そんな調子では、先が思いやられるな……』

 

 

「おいおい、御託はいいから早くしてくれ‼ もう背中のあたりがビリビリして来たぞ! おい弥怒――」

 

 

 とうとう我慢できずに大声を上げたその時だった。

 

 

 

 眼前をサッと黒い影が横切る。

 

 

『むっ?』

 

 

「なんだ⁉︎」

 

 

 土煙と共に踊る赤褐色の髪に、ほのかに鼻孔をくすぐる線香の匂い。

 

 一拍遅れて空気を焼き切るような熱風が、まつ毛の先をチリチリと焦がした。

 

 黒い帽子に、梅の花。

 

 黒装束の槍使い。

 

 私はその出で立ちに見覚えがあった。

 

 

「も、もしかして――胡桃か⁉」

 

 

「気を付けて平安さん! こいつら、普通のトリックフラワーじゃないから!」

 

 

 息継ぎもせずに言い切った胡桃めがけて、ピュンピュンとしなる触手が襲い掛かる。

 

 胡桃はくるくると槍を器用に振り回し、襲い来る触手を片っ端から跳ね返していく。

 

 その度に、異様なほど甲高い金属音が周囲に響き渡った。

 

 

(私の聞き間違いか……? 触手と槍がぶつかり合った時の音、まるで鉄でできた鎖か何かを叩いているみたいじゃないか……)

 

 

『うむ。多少質量があるようだな。今まで逃げに徹していて、命拾いしたらしい。あれをまともに食らえば、お主の体だと骨折どころじゃすまぬ』

 

 

(えぇ……嘘だろ……)

 

 

 改めて前を向けば、あの飄々とした胡桃が、爪の先ほどもふざけることなく戦っている。

 

 それだけで敵が決してか弱い小物ではないということが、痛いほど私にも伝わった。

 

 とはいえ、相手は所詮植物。

 

 

 胡桃の槍さばきに次第についてこれなくなり、じりじりと距離は縮まっていく。

 

 トリックフラワーたちが、息を合わせたようにすべての触手を持ち上げたその時。

 

 しなやかに伸びた足が、大地を強く蹴飛ばした。

 

 

「たぁっ!」

 

 

 渾身の一薙ぎが、胡桃を中心に集まっていたトリックフラワーを順番に捉え、火花を散らし四方八方へと吹き飛ばす。

 

 まるで鉄塊でもはじいたかのような音が連続して反響した。

 

 激しく岩に叩きつけられたトリックフラワーたちは球根をしぼませると、やがて動かなくなる。

 

 

「くっ!」

 

 

 胡桃は肩で息をしながら地に膝をつき、疲労困憊と言った様子でこちらへと顔を向けた。

 

 

 双眸の下には、深いクマが刻まれている。

 

 

「平安さん逃げて。ここ、普通じゃない。幽霊を追いかけてやって来たけど、ここの魔物、集まった幽霊の怨念を取り込んで、信っじられないくらい強くなってるの」  

 

 

 照り付ける太陽に顔をしかめる彼女の姿をよく見れば、服の至る所にほつれや破れ、泥や魔物の血液がべったりとこびりついていた。

 

 

「まさか――、ここに散らばっている魔物の死骸は全部胡桃が……? それにそのクマ……あの日から、一睡もしていないなんて言わないよな⁉」

 

 

 胡桃はゆっくりと首を横に振る。

 

「そんなことはどうだっていい。早くここから離れて。お願い」

 

 

 訴えかける彼女の瞳に嘘はない。

 

 

 周囲は静寂を取り戻していたが、次いつまた奴らに襲われるかわかったものではない。

 

 ここら辺が、潮時だろうか。

 

 層岩巨淵にやって来てまだそれほど時間はたっていないが、撤収するほかないようだ。

 

 

「わかった」

 

 

 私はため息交じりに頷くと、胡桃に手を差し出す。

 

 

「一緒にここを出よう、胡桃。ここの正規の入り口付近には、千岩軍の駐屯地があるはずだ。そこで異常を伝えて助けを求めるんだ。きっと何とかしてくれる」

 

 

 そう誘ってはみたものの、胡桃は動かなかった。

 

 座り込んだままの姿勢で、胸元にきゅっと槍を引き寄せる。

 

 帽子で影になった表情は、ここからではよく見えない。

 

 堂主の維持と言うやつだろうか。

 

 だがそんなものこだわっていては、彼女の身が持たないことは明白。

 

 やはり誰かが引きずってでも強情な彼女を止めなくては。

 

 

「な、そうしよう?」

 

 

 私は胡桃に向かって、一歩踏み出そうとした。

 

 が、しかし。

 

 私の体はビタリと、全身に杭でも打ち付けられたように固まってしまった。

 

 

 頭の理解が追い付かず、は、と小さく声をこぼす。

 

 脳内に低い声が響いた。

 

 

『……平安』

 

 

 やや遅れて、体の芯から冷え切るような寒気が背中から全身を貫く。

 

 

『まずいことになった』

 

 

 胡桃が、ゆっくりと手を帽子に掛け、持ち上げる。

 

 その表情は見たことがないほど、強張っていた。

 

 目は驚愕に見開かれ、浅い呼吸を繰り返している。

 

 何かが、いるのだ。

 

 私の、後ろに。

 

 とてつもなく嫌な予感がした。

 

 ゆっくりと首だけを静かに動かし、振り返ってみる。

 

 

 

 目の端が、何かをとらえた。

 

 ここから2,30メートルほど先。

 

 

 

 そいつは、いた。

 

 

 

 降り注ぐ太陽の下、不自然に浮かんだ黒い影。

 

 私は瞬きを繰り返し、もう一度同じ場所へと目をやる。

 

 間違いない。

 

 人影だ。

 

 だが、確実に人ではない。

 

 それだけは、鈍感な私でもすぐに分かった。

 

 揺らいでいるのだ。

 

 輪郭が。

 

 

 影の輪郭がゆらゆらと揺らぐことなど、人の影だとすれば絶対にありえない。

 

 

 しかもそれが地面に投影されているのではなく、向こうが透けて見えないほどの密度をもって、空中に浮かんでいるのだ。

 

 

 魔物か、あるいは幽霊か。

 

 

 ただそんな魔物の話は、生まれてこの方聞いたことがないし、幽霊だとすれば胡桃があんな表情をするはずもない。

 

 

 胸元のざわつきが最高潮に達した時、その答えが静かに降ってきた。

 

 

『魔神の、残滓』 

 

 

 思わず、口の中で同じ言葉を繰り返す。

 

 その言葉自体は、以前弥怒から聞いたことがあった。

 

 人の怨念など比ではない、怨嗟の塊。

 

 大地を蝕む、凝縮された負のエネルギー。

 

 それが、魔神の残滓というものらしい。

 

 

「嘘……、食べてる……」

 

 

 胡桃が背後で息をのむ。

 

 

 眼前で行われている光景が、信じられないとでも言いたげに。

 

 そう、私たちの目の前に現れた人影は、食事をしていたのだ。

 

 

 うろの様な大きな口を開け、トリックフラワーの死骸をむさぼるように取り込んでいく。

 

 こちらで見ている私たちに見せつけるかのように。

 

 

『平安、胡桃を連れて、早く逃げろ……今すぐにだ!』

 

 

 私は弥怒の焦った声を、初めて聞いた。

 

 いつもと立場が逆転している。

 

 弥怒は私がどれだけ取り乱しても、一定以上の冷静さを保っていた。

 

 

 だが今は違う。

 

 

 この場にいる誰よりも、弥怒が一番取り乱している。

 

 それがどれほど恐ろしいことか、私は考えたくもなかった。

 

 

「……胡桃、どうやら弥怒によると、かなりまずい相手らしい。ここはいったん撤退して――」

 

 

 小声でそうささやきながら、肩越しに振り返った私は、目を疑った。

 

 

 

 

 胡桃が、忽然とその姿を消していたのだ。

 

 

 

「なっ⁉」

 

 

 慌てて周囲に目線を走らせる。

 

 おかしい、さっきまでここにいたはずなのに。

 

 

『愚かな……!』

 

 

 脳内に響く弥怒の声と、大地を揺るがすほどの振動が襲ってきたのはほぼ同時だった。

 

 続けて、腹の底まで震わせるような、轟音。

 

 顔を向ければそこには、黒い影に槍を振り下ろした胡桃の姿があった。

 

 槍の穂先は、すんでのところで影から伸びた細い腕のようなものに阻まれている。

 

 

 

 気がつけば火炎の蝶が、あたり一面に舞っていた。

 

 火の粉を纏う羽ばたきは、決して始めてはならない戦いの火蓋が、勢いよく切り落とされたことを如実に物語っている。

 

 

 私はごくりと、唾を飲み込んだ。



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護法戦記 29話 一閃

私は平安。護法戦記という小説を執筆している。

取材のため、私は弥怒と層岩巨淵にやってきた。
突如現れた魔神の残滓に、胡桃が戦いを挑んでしまった。
弥怒は逃げろというが、トリックフラワーだらけのこの場所を一人で切り抜けるのは少々不安だ。
なんとか、胡桃に戦いを中断してもらわないと……。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


「かっっっっったいなぁ! もう!」

 

 

 まるで鉄柱でも叩いているのではないかと錯覚する音が、層岩巨淵にこだまする。

 

 胡桃の猛攻に影は最初に数回被弾するもかすり傷。

 

 徐々に動きを覚えているのか、その回数は目に見えて減っていき、もはや完全に見切られていた。

 

 ガードの隙を突く作戦から一転、胡桃は勇ましいことにそのガード上から叩き切る方向へ舵を切る。

 

 しかし、異様なほどの硬度を誇るその触腕に、槍の刃は通らない。

 

 

『止めさせろ、平安!』

 

 

 脳内で弥怒の怒号が響き渡る。

 

 

(さっきから何度も叫んでいるだろ! 胡桃は聞く耳を持たない!)

 

 

『それでも何とかするのだ! このままでは共倒れだぞ!』

 

 

(しかし、相手は反撃する気配がない。もしかしたら何かのきっかけで倒せたりはしないのか?)

 

 

 私は素朴な疑問を弥怒に投げかける。

 

 確かに相手は固い。

 

 だが、見る限り大きな脅威は感じられない。

 

 反撃をしてこないのであれば、ここいらに散らばるトリックフラワーたちを食べられてしまう前に、倒しきってしまうほうがいいのではないか。

 

 胡桃の戦闘を見ているうちに、私の考えはそちら側へと寄っていた。

 

 

『愚か者‼ 夜叉ではないお主たちは、魔神の残滓の恐ろしさをまるでわかっていない! 確かにやつらは単体では空中に漂う毒ガスのようなものだ。だがな平安。やつらは物体や思念にとりつき、時には肉体さえも自ら形作る。それがどういう意味か分かっておるのか!』

 

 

(……つまり、どういうことなんだ?)

 

 

『あやつが取り込んだものを、思い出してみるがいい!』

 

 

(トリックフラワーか?)

 

 

『違う! トリックフラワーが強化されていた理由を思い出すのだ!』

 

 

 私ははっとした。

 

 そうだ。

 

 影が取り込んでいるのは、トリックフラワーだけじゃない。

 

 トリックフラワーの中にある、幽霊の魂――。

 

 

 私は思わず顔を上げ、影を見る。

 

 その瞬間、胸元が大きくざわついた。

 

 ほんの一瞬。

 

 ごくわずかな時間だが、影の中に、人の顔のようなものが浮かんだ気がした

 

 その顔は、苦悶の表情にゆがめられている。

 

 

『莫大な負のエネルギーに、怨念や無念の心を持った人の魂。掛け合わせとしてこれ以上厄介なものはない! やつはまだ生まれたばかりの赤子。やつの中で情報の統合が完全に終わる前に、避難すべきだ! いくら己れとて、今の状態では二人同時に守ることはできぬぞ! もう時間がない‼』

 

 

 さすがに事の重大さを理解した私は、慌てて胡桃に呼びかける。

 

 

「胡桃! 早く逃げよう! 弥怒に聞いたが、そいつはかなりまずい相手らしい! 幽霊の魂を取り込んで、どんどん賢くなっている! 逃げるなら今しかないんだ‼」

 

 

 ギィン、と槍の横振りを弾かれた胡桃は、その反動を使いくるくると回転しながら私の目の前に着地する。

 

 私の胸中に安堵が広がった。

 

 

「よし、今すぐここを――」

 

 

「逃げるなら一人で逃げてよ、平安さん」

 

 

「なっ⁉」

 

 

 あろうことか、私の言葉をさえぎり彼女の口から飛び出してきたのは、明確な否定の言葉だった。

 

 

「なんでだ、胡桃! 危ないって言っているじゃないか!」

 

 

 驚きとなぜ、という疑問。

 

 切迫した状況のせいでつい、私の語調も強くなる。

 

 胡桃は横目でこちらをキッと睨んだ。

 

 その瞳は、普段の胡桃からは想像もつかないほど鋭い。

 

 

「目の前で苦しんでいる魂たちがいる。本来境界の向こうへと旅立つはずだった魂たちが、助けを求めてる! 私が! 今ここで引いたら! あの影の中にいる幽霊たちの気持ちはどうなるか考えたことある⁉ 呼び出されて、取り込まれて、暗くて怖いところに閉じ込められて、誰かに助けを求めながら今にも泣きそうな幽霊たちを、放っておけない! 私は、往生堂七十七代目堂主の胡桃。私の目の色が黒いうちは、あんな死を冒涜するようなまね、絶対に……ぜっっったいに許さないッ‼」

 

 

 言い終わる前に、胡桃は大地を蹴り飛ばし、槍を大檀上に構える。

 

 

「はぁぁぁぁああああ‼」

 

 

 すさまじい気迫と共に放たれた一振りは、影の触腕とぶつかり、激しく七色の火花を散らした。

 

 そのまま止まることなく、目にも止まらぬ連撃が息継ぎなく繰り出される。

 

 

「弥怒、だめだ! 胡桃は意地でもここを離れないつもりだ!」

 

 

 影と胡桃の戦いから目を逸らせないまま、私は声を張り上げる。

 

 しかし、弥怒の返事はない。

 

 

「聞こえているのか! 弥怒‼ 私は、どうすればいい⁉」

 

 

『平安』

 

 

 やけに落ち着いた弥怒の声が頭に響いた。

 

 そのゆったりとした口調に、思わず苛立つ。

 

 

「おい、もったいぶるな! 緊急事態なんだろ⁉ 何か策を一緒に考えてくれ! このままじゃ……」

 

 

『平安、よく聞け』

 

 

「~っ‼ なんなんだ!」

 

 

 

 

 

『――もう、遅い』

 

 

「………………え?」

 

 

 

 

 頭が真っ白になった。

 

 今、弥怒は何と言った?

 

 

 理解が追い付かない最中、ひときわ大きな金属音が前方からやってくる。

 

 

 反射的にそちらへと顔を向けた時、私の目は点になった。

 

 

 

 青空高く、何かが舞っている。

 

 

 

 棒状の物体が、激しく乱回転していた。

 

 

 その形状には見覚えがある。

 

 

 

「胡桃の……槍……」

 

 

 思わず息をのんだ次の瞬間。

 

 血肉を引き裂く鈍い音が、戦場に響き渡る。

 

 

 見れば、空中で大きく体をのけぞらせた胡桃の体が、血潮を吹いていた。

 

 

「胡桃ッ‼」

 

 

 私が叫ぶのと、降ってきた槍が地に落ち甲高い音を立てたのはほぼ同時だった。

 

 胡桃は一拍遅れて地面に叩きつけられ、ゴロゴロと砂利の上を転がる。

 

 

「おいっ!」

 

 

『馬鹿者! 近づくな!』

 

 

「うるさい! 今それどころじゃないだろ!」

 

 

 頭に血が上り冷静さを失った私は、弥怒の制止を振り切りうつぶせに倒れる胡桃へ向かって駆け出した。

 

 走り寄る途中、視界の中で胡桃はぐぐっと体を起こす。

 

 

 よかった、まだ生きている!

 

 

 その事実にほっと胸をなでおろすも束の間。

 

 私は目に飛び込んできた光景に言葉を失う。

 

 

 胡桃が倒れていたはずの場所には、べっとりと赤黒い血液が、胡桃の服の皺すら写すように広がっていた。

 

 

「胡桃っ!」

 

 

 駆け寄ると胡桃は焦点の合わない眼で笑っていた。

 

 

「えへへ……邪魔しないでね。今めちゃくちゃにハイだから……」

 

 

「馬鹿言うな! こんな、こんな状態で戦うと死んでしまうぞ!」

 

 

 胡桃は浅い呼吸を繰り返しながら、とろんとした声で答える。

 

 

「大丈夫だよぉ、平安さん。ちゃんと、視えてるから……」

 

 

「見えてるって……なにが……」

 

 

 私が見守る中、胡桃はゆらりと立ち上がる。

 

 

「ごめんね、その辺に転がってる槍を私に取ってくれない? 視界がぼうっとしていて」

 

 

「おい! さっきと言ってることが真逆だぞ! 全然見えてないじゃないか!」

 

 

「視えてるよ……生と死の境目が。私は境界近くに長くいすぎたせいか、時々視えちゃうの。私自身が瀕死の重傷を負った時なんて特に、ね。そしてその天秤にかかっているのは私の命だけじゃない。敵と私、どちらかが必ず、境界の向こう側へ落ちるの。でも安心して。火炎の蝶には治癒の力がある。へまをしなければ私が死ぬことはないから……」

 

 

「しかし――」

 

 

「いいから早くッ‼」

 

 

 突然放たれた一喝に、肩がびくりと跳ねる。

 

 胡桃の血走った両目は、本気だった。

 

 その剣幕に圧され、私は足元にあった槍を胡桃に手渡す。

 

 

「へへ……ありがと」

 

 

 胡桃は一度こちらへ振り向き、乾いた血を頬につけたまま、弱々しく微笑んだ。

 

 

「胡桃……」

 

 

「安心して。私は、負けない」

 

 

 私に背を向けた胡桃は、触腕を鞭のように振り回す影へと向き直る。

 

 そしてそのまま、身を低く構えた。

 

 

「離れてて……」

 

 

 言われるがまま数歩後ずさると、私は胡桃の空気が先ほどまでと明らかに違うことに気が付く。

 

 彼女の周囲を陽炎が覆いつくし、ゆらゆらと揺れる空気の向こうで、小さな舌がぺろりと顔を出す。

 

 手に握る槍は赤熱し、白い蒸気がもうもうと立ち上っている。

 

 

(なんて熱量だ……!)

 

 

 胡桃の周囲に生えていた雑草たちが一斉に炭化し、白煙と共に風に舞った。

 

 背中にある神の瞳がひときわ強く輝いたかと思った次の瞬間。

 

 

 

 

 胡桃の姿が、大きくブレた。

 

 

 

 

 あとに残された大量の火の粉が、音を立てて弾け飛ぶ。

 

 目にもとまらぬ速度で戦場を疾走する胡桃に向かって、触腕が何度も襲い掛かる。

 

 しかしそれらは胡桃の速度に追いつけずに空振りし、地面に細長い傷跡をつけることしか叶わない。

 

 

「ぁぁぁああああああッ‼」

 

 

 岩の間を垂直に駆け、影の懐にもぐりこんだ胡桃。

 

 勢いそのままに大きく振りかぶった槍を薙ぎ払う。

 

 刹那、触腕と槍が戦場を交差した。

 

 ザン、と軽い衝撃波が空気を揺らす。

 

 両足を八の字に開き急停止した胡桃の背後には、平坦な切断面を見せながら回転する大量の岩石と、影の上半身。

 

 あの一瞬で胡桃は、周囲一帯の岩ごと、影を切り伏せて見せたのだ。

 

 

 

「やった……!」

 

 

 私が喉の奥からかすれた声を出したと同時に轟音が鳴り響き、大量の砂埃が爆風と共に押し寄せてくる。

 

 

「ぶっ」

 

 

 慌てて両腕を交差するも、頬を焼き切るような熱風が勢いよく通り過ぎて行く。

 

 音と風が止んだ後には、白っぽい砂埃が厚く舞っていた。

 

 

「胡桃っ!」

 

 

 声を上げるが、煙幕の向こうから返事はない。

 

 私は咳き込みながら、口に袖を当てて最後に胡桃が立っていた場所まで勘を頼りに歩いていく。

 

 

 一面砂色に染まった世界の中で、瓦礫の間に咲いた小さな梅の花が、わずかに動いた。

 

 

 胡桃の帽子に取り付けられた、彼女のトレードマークともいえる梅の枝の先端だ!

 

 私は駆け寄り、積もった瓦礫を持ち上げ放り投げる。

 

 

「大丈夫かっ! 胡桃ッ!」

 

 

「ケホッ、ケホッ! だ、大丈夫よ……。この通りぴんぴんしてるって……」

 

 

 体に積もった石や砂を払い落とすのもおっくうと言った様子で、這い出てきた胡桃がゆっくりと体を持ち上げる。

 

 肩口から腰まで斜めに走る傷口は火炎の蝶で覆われており、治癒が進んでいることがわかった。

 

 

「よ、よかった、無事だったんだな!」

 

 

「まあね……。私は往生堂七十七代目堂主、胡桃だよ……。当たり前でしょ……って言いたいところだけど、さすがにもう、眠さのげんか……い……」

 

 

 槍を支えに立ち上がろうとした胡桃の体が、ぐらりと崩れた。

 

 私は慌てて手を伸ばし、彼女を受け止める。

 

 その体は信じられないほど軽かった。

 

 

「この体のどこに、これほどの力を……」

 

 

 私は改めて戦場を見渡す。

 

 まるで巨人が暴れ回ったかの如く荒れた大地に、バターのように切られた岩たち。

 

 以前胡桃に無妄の丘で追われたことがあったが、あの時はまるで本気を出していなかったのだと今更ながら理解する。

 

 腕の中でもう寝息を立て始めた少女へ、私は改めて心より感謝を告げた。

 

 彼女は言葉の通り、全身全霊をもってして、逆境を覆し窮地を脱して見せたのだ。

 

 

「はは……こうやって寝顔を見ると普通の女の子なのにな。彼女はすごいよ。なぁ弥怒」

 

 

 興奮冷めやまぬ中、弥怒に共感を求めたが、頭の中はシンと静まり返っている。

 

 

「……弥怒?」

 

 

 再び尋ねた私は、何やら嫌な予感が胸元をよぎるのを感じた。

 

 慌てて顔を上げてみる。

 

 砂埃が晴れた先には、上半身と下半身に分かれた影の体。

 

 目を凝らしてもピクリとも動かない。

 

 

「あ、焦らせるなよ、弥怒。影はちゃんと倒した。それに、これだけ派手に暴れたんだ。トリックフラワーもびっくりして近づいてこないさ」

 

 

 砂の混じった冷汗が額から滑り落ち、やけどを負った頬に沁みると、微かな痛みを伝えてくる。

 

 何を不安がっているのだは私は。

 

 何も問題ない、そうだろ?

 

 自分自身にそう言い聞かせ、無理やり心を落ち着かせる。

 

 深呼吸を繰り返していると、弥怒がようやく口を開いた。

 

 

『すまない。考え事をしていた』

 

 

「は、はは。焦ったぞ、弥怒。心臓に悪いからそういうのはよしてくれ」

 

 

『すまない。だが、平安よ。やはり、すぐにここを離れたほうがいい。何やら嫌な予感がする』

 

 

 これにはひどく賛成だった。

 

 私は静かに頷く。

 

 

「そうだな。なんだかここは不気味だ」

 

 

『それもそうだが、何かが引っかかるのだ。去る前に一つ頼みがある。あの影の方を、もう一度よく見てはくれぬか』

 

 

「ここから見るだけなら……」

 

 

 私は弥怒に言われた通り、影の死体へと目を凝らす。

 

 影の体は先ほどと同じ場所に変わらず横たわっている。

 

 

『……』

 

 

 弥怒は押し黙ったまま、何やら考え込んでいた。

 

 

「ちょっと、どうしたんだよ」

 

 

 不安に胸を突き動かされ、思わず口が勝手に動く。

 

 そして、返ってきた言葉に私は戦慄を覚えた。

 

 

『言ったはずだ。魔神の残滓そのものに、実体はないと』

 

 

 聞いた瞬間、まさか、と、私は首がねじ切れんばかりの勢いで影の死体へ振り返る。

 

 影は胡桃の槍を防ぎ、岩と共に切断された。

 

 それは実体を伴う影だったからこそできた芸当。

 

 弥怒の話が正しければ、おかしな話である。

 

 

「なぜ影に実体があったのか、という話か?」

 

 

 私が影から目を逸らさぬまま聞き返すと、弥怒は否定する。

 

 

『そうではない。魔神の残滓が実体化すること自体は珍しいことではない。やつらのエネルギーをもってすれば、受肉することは当然可能だ。膨大なリソースと引き換えにな。だが、そうなるとすれば疑問が残る。やつはなぜ、こうも小さく戦いに不利な人影の形状で実体化したのか、という話だ』

 

 

「言われてみれば……」

 

 

 影の体から伸びていた触腕の数は二本。

 

 人間の腕を鞭に変えたような腕の数がもっと多ければ、胡桃は更に苦しかっただろう。

 

 もっと大きな体躯をしていれば、懐にもぐりこまれることもなかっただろう。

 

 私の喉がごくりと音を立てた。

 

 

『平安、少しだけでいい。もう少し近くで影の死体を観察してくれ。何かがおかしい。安心しろ、異変があれば己れがすぐさま障壁を張る』

 

 

「……わかった」

 

 

 正直腰が引けたが、私は胡桃の槍を両手で握りしめ、影の上半身へと近づく。

 

 砂をかぶったそれは、焦げた胸元の切断面をあらわにしつつ、触腕をだらりと伸ばしたまま横たわっている。

 

 目立って特筆すべき点は見当たらない。

 

 

「どうだ?」

 

 

『うむ。こちらは問題ない。あちらも頼む』

 

 

 少し離れた場所で倒れていた下半身へ私は目線を送った。

 

 あちらも上半身と同じように、沈黙したままだ。

 

 私は警戒を怠らぬよう、槍の穂先を影の上半身と下半身へ交互に向けながら慎重に歩を進めた。

 

 下半身には、切り離された部分を除きやはり目立った外傷はない。

 

 ひざ下の部分は降ってきた瓦礫に覆われている。

 

 

『平安』

 

 

「あ、ああ」

 

 

 私は槍の先端を使って、影の足に乗っていたいくつかの石を、脇へと転がす。

 

 そこにあったのは、やはり、傷ひとつない影の足だった。

 

 異常は見当たらない。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 妙な緊張が解け、額から汗が噴き出した。

 

 

『こちらも変わった所はないらしいな……ふむ』

 

 

「じ、寿命が縮むよ……」

 

 

 はあ、と大きにため息をついた私の目に、何かが映った。

 

 少し顔を近づけてみると、それは細い糸のようだった。

 

 糸くずのようなものが、影のふくらはぎあたりからすうっと地面に向かって伸びている。

 

 影の毛だとすると、ここだけ一本生えているというのは変だ。

 

 そもそも、つるりとした影の体表に、毛が生えているのもなんだか滑稽に感じる。

 

 

「ゴミか何かか?」

 

 

 私は何の気なしに、槍を伸ばし、その糸を払おうと刃を当てた。

 

 わずかな手ごたえが槍越しに伝わる。

 

 プチン、と小さく糸が切れる音。

 

 が、次の瞬間、私は自分の目を疑った。

 

 

 影の体が小さな泡状に散ったかと思うと、さらに細かな黒い砂塵へと姿を変え、風の中へと消えてしまったのだ。

 

 

「え?」

 

 

 何が起こったのか分からず、ただただ口をパクパクと上下させる。

 

 

『おい! 何をした!』

 

 

 弥怒はその焦りを隠さない。

 

 

「わ、分からない! 影の足から伸びる糸のようなものを切ったら、消えてしまった!」

 

 

『その糸の切った先はどこだ!』

 

 

 私は慌てて目線を下ろした。

 

 そしてそれを見た時、心臓が止まるかと思った。

 

 いや、間違いなく、わずかではあるが止まっていたと思う。

 

 それほど、衝撃的だったのだ。

 

 

 そこには、切ったはずの黒い糸が、うねうねと生き物のように動いているではないか。

 

 

 糸はまるで細いミミズか何かのようにしばらくのたうち回ると、しゅるりとその先の地面へと潜っていった。

 

 

 あとには、言われないとわからないほどの小さな穴だけが残されている。

 

 

「一体……」

 

 

 あっけにとられたまま、私が顔を上げると、先ほどまであったはずの上半身が忽然と姿を消している。

 

 

 周囲を慌てて見回しても、どこにも見当たらない。

 

 

「おい弥怒、何が起こっているんだ!」

 

 

 恐怖で震えた声が、岩間に何度もこだました。

 

 

 なんだかとてつもなく事態が不味い方向へと進んでいる気がして、大地に立っている感覚さえもおぼつかない。

 

 

 すると、頭の中でパチンと指を鳴らす音が聞こえる。

 

 

『そうか、そういうことか! してやられた‼』

 

 

 ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえそうなほど怒りをにじませた弥怒の声。

 

 

「何か分かったのか⁉」

 

 

 ほぼ悲鳴のような声を上げると、弥怒は『落ち着いて聞け平安』と前置きし続ける。

 

 

『やつは死んでいない。あの影は恐らく、人の魂を効率よく吸収するいわば指先のようなものだ。本体は恐らく、この地面の下にいる。今すぐ、即座に! 胡桃を抱えてここを離れるのだ! やつが目覚めてしまう前に‼』

 

 

「わかった‼」

 

 

 私は大きく頷くと、倒れている胡桃のもとへ駆け寄る。

 

 槍を鞄のベルトに括り付け、胡桃を両手で抱き上げた。

 

 

『経路は最短距離でこの場所を離れられる道を選べ! 誰に見つかろうと関係はない。もし声をかけられれば、その者にも避難するよう強く命じろ!』

 

 

「ああ!」

 

 

 私は、層岩巨淵のカルデラを見上げる。

 

 ここから一番近い脱出口は、千岩軍が警備する正門関所だ。

 

 この際、もうお咎めや侵入罪なんてものは関係ない。

 

 命あっての物種だ。

 

 私は早速その方角へ向かって走り出した。

 

 

 胡桃を抱えたままなので、全速力とまではいかないが、私の出せる最大限の速度で足を前へ前へ出し続ける。

 

 一つ目の昇降機が、岩の間から姿を現した。

 

 

「あれに乗れば……」

 

 

 昇降機のロープを目で追い、これからたどる道筋を確認する。

 

 あと二つほど昇降機を経由すれば、正門へとたどり着く。

 

 ここへ来るときは整備もされていない道なき道を進んできたが、普段工夫たちが使っているこの道を使えば、すぐに脱出できそうだ。

 

 切迫した状況ではあるが、希望が見えて来た。

 

 

「よし!」

 

 

 私が喜びをにじませ、顔を正面に戻したその時だった。

 

 今から使う予定だった昇降機が、目の前で激しい音を立てて瓦解する。

 

 続けて、大きな地揺れ。

 

 

「わわ! なんだっ⁉」

 

 

 思わず片膝をついた私を、耳をふさぎたくなるような轟音が襲った。

 

 先ほどまで昇降機があった場所から、巨大な塔が大地に亀裂を走らせながら天に向かって伸びていく。

 

 かと思えば、背後からいくつも同じような音が聞こえてくるではないか。

 

 振り返ろうとした瞬間、私は周囲がやけに暗くなっていることに気が付いた。

 

 見上げても、空には雲一つ存在しない。

 

 なにかが、私の後ろで太陽を遮っているのだ。

 

 私はぶるぶると体を震わせながら、ゆっくりと背後を確認する。

 

 そこにあったのは、先ほどまでとは一変した、層岩巨淵の姿。

 

 すり鉢状の大地からは先ほどと同じような塔がいくつもいくつも生えている。

 

 その中央には、天を覆うほどの巨大な花弁。

 

 こいつの分厚い花びらが、太陽を隠していたのだ。

 

  爆炎樹など比ではない、空高く見上げるほどの植物に、私はただただ圧倒される。

 

 スンと鼻を鳴らすと、血生臭い鉄の匂いが、周囲に漂っていることに気が付いた。

 

 見れば各所に生えた塔に、いつの間にか毒々しい見た目の黄色い花がいくつも咲いているではないか。

 

 

 塔だけではない。

 

 大地から、岩から、壁面から、小さな結晶がぽつぽつと斑点のように突き出したかと思うと、それはまるで生きているかの如く成長し、花や葉を形作る。

 

 気が付けば、層岩巨淵は広大な花畑の様相を呈していた。

 

 

『呆けている暇はないぞ! 平安! 早く脱出するのだ!』

 

 

「だが弥怒、昇降機が!」

 

 

 訴えに対し、返ってきた言葉に私は耳を疑う。

 

 

『馬鹿者! 壁を這ってでも逃げるのだ!』

 

 

「おい……それではこの子はどうなる!」

 

 

 私が目線を下ろすと、胡桃が腕の中で苦し気に小さく声を漏らした。

 

 胡桃がいなければ、私はトリックフラワーや影に襲われ、今頃無事では済まなかったかもしれない。

 

 そんな彼女を、このままここに置いていくなんて……、私にはできない。

 

 

『非情になれ、平安! 戦場に犠牲はつきものだ!』

 

 

「ら、らしくないぞ弥怒! 夜叉であるお前が、なんでそんなことを口にするんだ!」

 

 

 繰り返される信じがたい言動の数々。

 

 激しく動揺した私に、歯の間から絞り出すような声が降ってくる。

 

 

『お主を守ると、誓ったからだ‼』

 

 

 私は、はっとした。

 

 そうだ。

 

 

 自分なんかより、弥怒の方が何倍も歯がゆいのだ。

 

 目に映るすべてを救い、なん百年、何千年と戦ってきた仙衆夜叉。

 

 多くの人々を妖魔から救い、璃月を守り続けてきた英雄。

 

 だが今は、目の前で傷ついた民の一人すら、切り捨てざるを得ない体たらく。

 

 

 ――悔しくないはずがないじゃないか!

 

 

 だが、彼はそんな自分の使命感や、夜叉としてあるべき姿をかなぐり捨ててまで今、私の身を案じているのだ。

 

 軽く交わしただけの、口約束を守るがために。

 

 影と戦い始めてからというものの、何度忠告を繰り返してものれんに腕押しな、この大馬鹿者の凡人がために。

 

 

『っ‼ 伏せろ平安!』

 

 

「――っ!」

 

 

 つい考え事に集中してしまった私は、わずかに一秒ほど、反応が遅れた。

 

 近くの昇降機から伸びた塔が、大きくしなり、目の前へと振り下ろされる。

 

 まるで炎スライム樽の山でも吹き飛ばしたかのような爆音が鼓膜をつんざき、砂埃を含んだ突風と瓦礫の雨あられが私と胡桃へ襲い掛かった。

 

 

「わぶっ‼」

 

 

 嵐のような暴風に吹き飛ばされながらとっさに目をつぶるも、いくつかの小石が信じられないほどの速度で頬をかすめていった。

 

 

「があっ!」

 

 

 地面に叩きつけられた私の傍らに、胡桃と、ベルトから外れた槍が激しく転がる。

 

 

「胡桃!」

 

 

 うつぶせになった彼女を抱き起すと、頬に擦り傷を負っている以外、新たに怪我が増えている様子はない。

 

 ほっと胸をなでおろすも束の間、先ほど振り下ろされた大きな塔がぐにゃりとしなると、今度は横薙ぎにこちらへと迫ってくる。

 

 ゴウッっと低く風を唸らせながら、とてつもない質量が視界全体を覆う。

 

 

「だ、だめだ! 逃げられな――」

 

 

 とっさに胡桃を突き飛ばした次の瞬間、目の前に琥珀色の障壁が姿を現す。

 

 同時に視界が激しく揺れ、突如世界が暗転した。

 

 突然暗闇に包まれた私は、何が起こったのかすら理解できない。

 

 が、まばゆい光を感じたかと思うと、目の前に丸い窓のような穴がぽっかりと開いた。

 

 向こう側には、先ほどまで見ていた奇怪な黄色い花畑が広がっている。

 

 

「な、何が……!」

 

 

 そう言いかけたところで、再び世界が漆黒に染まる。

 

 

『ぐうぅぅぅうううう‼』

 

 

 頭に響く、腹から振り絞るような苦悶に満ちた声。

 

 周囲からビシバシと固い岩に亀裂が入る音が聞こえる。

 

 再び目の前に層岩巨淵の光景が現れた時、穴は大きく崩れていた。

 

 そこで私は自分の置かれている状況を初めて理解する。

 

 私の体は塔のような触手に薙ぎ払われ、層岩巨淵の壁面にめり込んでいるのだと。

 

 未だこの体が形を保っているのは、弥怒が障壁を展開してくれているからだと。

 

 そして今、岩壁ごと、触腕で何度も殴られているのだと。

 

 再び鼓膜を破るような音が周囲に響き渡り、目の前の穴が触腕で完全にふさがれる。

 

 次に触腕が持ち上げられた時、私の体と障壁は岸壁から半分以上露出していた。

 

 私は眼前の光景に、思わず息をのむ。

 

 

「嘘……だよな……?」

 

 

 私の目線は黄色い花の咲き乱れる大地でも、突き飛ばされ岩の合間で難を逃れた胡桃でも、ぼろぼろと崩れゆく周囲の岩壁でもなく、弥怒が張ってくれた障壁へとくぎ付けになる。

 

 そこにはわずかではあるが、ごくごく小さな、亀裂が走っていたのだ。

 

 

『平安……限界が近い……! はやく、逃げろ……!』

 

 

「そんな、どうやって――うわっ!」

 

 

 無慈悲に振り下ろされる触腕。

 

 移動しようと立ち上がり、逃げ出そうとするも再度触腕に押しつぶされる。

 

 質量が、攻撃範囲が、襲い来る面積が、あまりに広すぎるのだ。

 

 気が付けば弥怒が張ってくれた障壁は、その全体がヒビで覆われていた。

 

 目の前で、触腕が大きく振りかぶる。

 

 

『まずいぞ、平安避けろッ! 次の障壁が、間に合わぬ‼』

 

 

 そんなことを相手が構うはずもなく、次の触腕の一撃が、無慈悲な音を立て勢いよく振り下ろされる。

 

 

 

 

 私は生まれて初めて、走馬灯というものを見た。



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護法戦記 30話 決意

私は平安。護法戦記という小説を執筆している。

取材のため、私は弥怒と層岩巨淵にやってきた。
が、突如現れた巨大な花の怪物。
胡桃は倒れ、迫る巨大な触腕が、私の頭上に影を落とす。
弥怒の障壁ももう持たない。
誰か、誰か助けてくれ――。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 ぎゅっとつぶった瞼。

 

 意味はないのに顔を覆いつつ握りしめた拳。

 

 しかし、障壁を割る音も、四肢を引き裂くような衝撃も、待てども待てどもやってこない。

 

 

 ふわり、と荻花洲の馬尾を揺らすような、穏やかで爽やかな風が冷汗の伝った首筋を優しく包む。

 

 私は恐る恐る固く閉じた片目を開けてみた。

 

 

 

 そこにあったのは、少年の後ろ姿。

 

 

 槍を携え、砂埃混じる黒風に深緑の後ろ髪をなびかせている。

 

 

 くるくると旋回させた槍の柄が大地を打つと、触腕を貫いていた大地から伸びる無数の槍や檄がスウッと大気に溶けていく。

 

 

 支えを失った穴だらけの触腕が地響きを立てて大地に叩きつけられたところで、私は我に返った。

 

 

『おお……』

 

 

 状況が整理しきれていない頭の中で、弥怒の喉を震わせるような声が響き渡る。

 

 血の気が引いた指の先に、じわりと熱が広がり、自分が生きていることを実感し始める中、視界の中で少年が振り返った。

 

 

「何をしている、凡人。さっさと失せろ」

 

 

 端的で飾らない言葉遣い。

 

 首にぶら下げた宝珠に、鋭い目つき、射るような金色の瞳。

 

 

「降魔……大聖……」 

 

 

 へなへなと地べたに座り込むと、緑髪の少年は私には目もくれず、槍の穂先で気絶した胡桃を指し示す。

 

 

「凡人、さっさとあそこで伸びている往生堂の娘を連れて、ここを離れろ」

 

 

 視線を降魔大聖に戻すと、彼はいつの間にか手に儺面を持っていた。

 

 そのままわずかに俯くと、静かに仮面を装着する。

 

 かと思うと、私に背を向け短く「早くしろ」とだけ残し忽然と姿を消してしまった。

 

 

 あとには微かに砂粒を集めるだけのつむじ風が、降魔大聖がいたはずの場所に残っている。

 

 

『よもやこの目であやつの姿を見ることができるとは。いや、己れの目ではないな。お主の目だ。それでも構わぬ。本当に、生きていたのだ……』

 

 

 遠くで金属が激しくぶつかり合う音の合唱が始まった。

 

 目を凝らすと層岩巨淵の中心部で、巨花の蔓鞭が踊り狂っている。

 

 小さく爆ぜる花火のように、花の周囲で火花が飛び散るあたり、おそらく降魔大聖があそこで戦っているのだろう。

 

 

「……ここから離れよう」

 

 

『ああ! あとのことは降魔大聖に任せるといい。奴も仙衆夜叉のひとり。あれしきの妖魔に後れを取ることはないだろう』

 

 

 私は触腕が暴れ回り大きく抉れた地形を滑り降りると、未だ岩の隙間で気を失っている胡桃の肩を担いだ。

 

 昇降機のひとつは潰されてしまったが、触腕が崖を崩してくれたおかげで、歩きにくいものの上に登ることはできる。

 

 胡桃もろとも転ばぬよう、足元に気を付けながら一歩、また一歩と足を進める。

 

 やっとの思いで崖を登り切り二つ目の昇降機へと到着した私は、レバーを操作して荷台のロープを巻き上げた。

 

 

 このまま進めば、関所は目と鼻の先だ。

 

 私は額に浮かんだ玉のような汗を袖で拭い去る。

 

 少女とはいえ、人をひとり担いでの登山は、なかなかこたえた。

 

 ひざが悲鳴を上げ、かくかくと笑っているが、それももう少しの辛抱だ。

 

 私はずり落ちかけていた胡桃の肩をもう一度担ぎなおし、顔を上げる。

 

 ちょうど、昇降機がロープを巻き切り、崖上の大地が私の眼前に広がった、その時だった。

 

 

 

 絶えず続いていた鋭く短い金属音に紛れて、パキン、と水晶が割れるような澄んだ音が鳴り響く。

 

 それがやけに耳に残り、思わず振り返る。

 

 嫌な、予感がした。

 

 

「……!」

 

 

 遥か遠く、ここからだと米粒ほどの大きさにしか見えないが、確かに私の瞳はその姿をとらえる。

 

 花が振り回す何本もの触手を一本の槍で受け止める、降魔大聖を。

 

 仮面を失い、苦悶に表情を歪めて歯を食いしばる、裸の横顔を。

 

 嫌な予感が、早くも的中してしまった。

 

 頭の中で弥怒が食って掛かるように声を荒げる。

 

 

『馬鹿な! 早すぎる! こんなにも早く儺面を維持できなくなるなど、ありえん……。まさか、手負いなのか……』

 

 

 降魔大聖は明らかにその動きの精彩を欠き、私の肉眼でもその姿を追えるようになる。

 

 対し触手はその速度を緩めるどころか、さらにその本数を増やし攻勢を増していく。

 

 明らかに防戦一方であった。

 

 

「……っ!」

 

 

 私は断腸の思いで、戦場に背を向ける。

 

 

『……それでいい。それでいいのだ。平安。お主は、己れ達が守るべき、璃月の一市民。お主の腕の中にいる少女と合わせて二人の命。それを守れただけでも、夜叉の誉れ』

 

 

 どこか諦念したような弥怒の声が頭に響く。

 

 私は棒のようになった足をただひたすら惰性に任せて進めながら、自分自身に問いただす。

 

 これでいいのだろうか、と。

 

 答えは出ぬまま、気が付くと私は千岩軍の関所の前に立っていた。

 

 

「お、おい! ここで何をやっている! 層岩巨淵は立ち入り禁止だと知らないのか! それに……」

 

 

 守衛の兵士は私を見ると駆け寄って来て、怒号を飛ばす。

 

 そしてごくりとつばを飲み込みながら、私の背後に広がった光景へ怯えた表情で目を泳がせた。

 

 

「と、とにかく! ここは危険だ! ん、その娘は……」

 

 

 やっと胡桃の存在に気が付いたのか、兵士は目を見開く。

 

 彼もこの状況下で、気が動転しているのだろう。

 

 

「どうしたんだ、その子は……? け、ケガしてるじゃないか!」

 

 

 別の兵士も駆けつけてくると、胡桃を私の腕から抱き取り詰所へと運んでいく。

 

 

「では、私はこれで……」

 

 

 正直、疲れ果てていた。

 

 慣れていない登山に、死にかけるような体験。

 

 さらに人を担いで斜面を登るなんて、運動不足な私にとっては重労働だ。

 

 その上、ここにいると自分の無力さに苛まされる。

 

 どんな形であれ、私は弥怒を降魔大聖に引き合わせることができたのだ。

 

 もうそれでいいじゃないか。

 

 油の刺さっていない蝶番のようになった関節を無理やり動かし、私はその場を後にしようと歩き出す。

 

 が、しかし、千岩軍の兵士のひとりが、私の腕を掴んだ。

 

 

「待て。お前、ここで何をしていた。あの花はなんだ。何が起こっている! 知っていることをすべて話してもらうぞ!」

 

 

 顔を上げると、そこには顔を真っ赤にした兵士の姿があった。

 

 

「すみません。勝手に入ったことは謝ります。でも、何も知らないんです。本当に」

 

 

「いいや、お前は嘘をついている! 俺にはわかるぞ! さっさとついてくるんだ!」

 

 

 厄介な兵士に捕まってしまった。

 

 深いため息が漏れる。

 

 

「わかった」

 

 

 私は観念し、首を縦に振った。

 

 もう、いろいろと面倒だ。

 

 

 私は兵士に乱暴な手つきで引かれるまま、詰所の方へとよろよろと向かっていく。

 

 

 

 すると背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。

 

 

 

 

「あなたはもしかして……平安殿、ですか……?」

 

 

 

 

 振り返るとそこには、驚きに目を見開く、ひとりの千岩軍兵士がいた。

 

 

「王大さん、ですか……?」

 

 

 その立ち姿、声色は、いつぞや銅雀寺を尋ねてきた王大その人である。

 

 

 王大はハッと我を取り戻すと、私の手を引っ張る兵士に対し、強い口調で言い放つ。

 

 

「その方を解放しなさい」

 

 

「王所長、しかし……」

 

 

「身柄は私が保証します。早く、その手を放しなさい」

 

 

「はっ!」

 

 

 有無を言わせないぴしゃりとした言葉に、先ほどまで怒っていた兵士はピンと背筋を伸ばし、敬礼をするとその場を去っていく。

 

 私が掴まれていた手首をさすっていると、王が私の顔を覗き込んできた。

 

 

「平安さん、どうされたんですか、こんな場所で……。ボロボロじゃないですか……!」

 

 

「違うんです、王さん。違うんです。私はいいんです」

 

 

 見上げると、王は私の顔を見て心配そうに眉間に皺を寄せる。

 

 

「なんて、顔をしてるんですか……」

 

 

 言われて初めて気が付いた。

 

 私は、そんなにひどい顔をしていたのだろうか。

 

 もう一度私は、王に顔を向ける。

 

 王のつぶらな瞳に映る男は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。

 

 

「なにが、あったんですか」

 

 

 私はこれまであったことを伝えようと口を開き、そのまま固まった。

 

 

 

 

 何を、言えばよいのだろう。

 

 

 

 

 頭が、真っ白になった。

 

 弥怒のことを話そうか。

 

 いや、信じてもらえるか疑問が残る。

 

 降魔大聖のことを話そうか。

 

 話したところで、彼ら駐屯地の千岩軍の数で、あの化け物に敵うのだろうか。

 

 そんな考えばかりがぐるぐるととぐろを巻く。

 

 結局私は何と答えてよいかわからず、俯いてしまう。

 

 

 

 王には、私のことを認めてくれた王には、きちんと答えてあげたかった。

 

 何があって、今誰が必死に戦っているのかを、何から何まで。

 

 だが、言葉は喉元まで出かかっているのに、上手くそれを伝えることができない。

 

 

 どこまで話していいのか。

 

 話したところで、状況が本当に変わるのか。

 

 

 同じ言葉が何度も胸中で渦を巻き、私のこめかみは強く痛みを訴える。

 

 何度も口開き、言葉を絞り出そうとしても、何ひとつ出てこない。

 

 やるせない気持ちは、ただ意味もなくパクパクと開閉される唇の先を震わせた。

 

 せめてと思い、目で私の心中を訴えようとしても、王は困ったように瞼を瞬くばかり。

 

 きっと今、私はテイワットで一番情けない顔をしているのだろう。

 

 

 小説家が、聞いてあきれる。

 

 

 サッと涙が頬を伝い、私は再び視線を大地に落とす。

 

 ぽろぽろと落ちた雫が、大地に黒い染みを作った。

 

 これでは何も伝わらない。

 

 理解のあるはずの、王にさえも、状況を教えられない。

 

 

 あまりに矮小な自分が悔しくて、私はうう、と言葉にならない声を歯の間から絞り出す。

 

 これではせっかく誤解を解こうとしてくれた王に申し訳ない。

 

 気持ちが落ち着き、ちゃんと受け答えができるようになるまで、拘留されても致し方ないだろう。

 

 体中の血液の温度が、どんどん下がっていく錯覚を覚えた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 背中に、そっと添えられた手から、じわりとぬくもりを感じる。

 

 

 

 

 

 驚き顔を上げると、そこには私と同じように、瞳を潤ませた王の顔があった。

 

 

「平安さん。私には何があったのか、何が今層岩巨淵で起こっているのか、皆目見当もつきません。ですが、平安さんがひとり苦しみ、戦っていたことだけは分かります。ええ、分かりますとも!」

 

 

 私は王が差し伸べたもう一つの手に両手を添えると、もう我慢が聞かず、決壊したように泣き崩れた。

 

 

 本当は、護法戦記をかき上げるために層岩巨淵に来たなんて、嘘だ。

 

 

 弥怒に恩返しがしたくて、でもそれを面と向かって伝えるのが恥ずかしくて、取り繕っただけだ。

 

 

 何のとりえもない私に、夢の中とはいえ憧れていた夜叉たちと触れ合う時間を与え、姿が見えなくとも日常を共有させてくれたこの奇跡に、ほんの少しでも報いたかっただけなのだ。

 

 

 だが事実はどうだ。

 

 トリックフラワーに襲われ、化け物に襲われて守られ、万全ではない降魔大聖に足止めをさせた。

 

 きっと、一番悔しい思いをしているのは弥怒であるはずなのに、それをくみ取ることも、肩代わりすることもできなかった。

 

 

 私はただ、ただ――。

 

 

「平安さん」

 

 

「はい……」

 

 

 かけられる声に、私は嗚咽まみれの返事。

 

 顔を見ることはできなかったが、王は私の背をさすりながら、ゆっくりと熱のこもった口調で語り掛ける。

 

 

「平安さん、きっと何かやりたいことがあるのでしょう。でも、恐らくそれは平安さんにとってとても難しいこと。そんなときは、どうか無理をなさらないでください。私では平安さんのお力になれないかもしれません。ですが、平安さんの信頼する方、例えば、親しい友人にでも、その思いを伝えられてみてください。例え現実を変えることは困難だとしても、平安さんの気持ちを汲み取り、理解してくれるはずです」

 

 

「王……さん……」

 

 

 私は強くうなずき、王の手を強く握りしめた。

 

 

「いいんです、それで。いいんです」

 

 

 層岩巨淵には、相変わらず激しい戦闘を告げる音が響いている。

 

 時間は、もう残されていない。

 

 私は王の肩を借りつつ立ち上がると、ごしごしと汚れた顔を拭った。

 

 大きく深呼吸を繰り返し、淀んだ肺を新しい空気で洗い流す。

 

 

「王さん。ありがとうございます。少し、少しだけで構いません。ひとりにして頂けますか」

 

 

「もちろんです、平安さん」

 

 

 私は深く礼をすると、王のもとを離れ、人気のない岩陰に腰を下ろした。

 

 

(弥怒、聞こえるか)

 

 

『平安、気負うことはない。お主には、何の責もないのだ』

 

 

 ここに来てもそんな言葉をかけてくる弥怒に、私は苦笑しながら首を横に振る。

 

 

(弥怒。いい機会だ。少し、話をしよう)

 

 

『構わぬ。己れに言いたいことがあれば、文句でも罵倒でも何でもぶつけるといい』

 

 

(違うんだ、弥怒)

 

 

 私はもう一度だけ大きく息を吸い込むと、勢いよく吐き出し、決意を固める。

 

 

(一つ、願いを聞いてくれないか)

 

 

『己れにできることなら、聞こう』

 

 

(降魔大聖を、層岩巨淵を――璃月を救っては、くれないだろうか)

 

 

『――‼』

 

 

 弥怒が息をのむ音が聞こえた気がした。

 

 

『しかし! それではお主の体を危険にさらすことになるのだぞ! この場所へは、取材のために来たのであろう! 己れに気を遣うな。お主には、お主の人生がある。それを奪う権利は、己れにはない!』

 

 

(違うんだ、弥怒)

 

 

 私は弥怒の優しさを、否定する。

 

 そして今までで一番強い意志を持って、頭の中に文字を起こしていく。

 

 

(私は考えていたのだ。英雄に、なりたいと。それも、私が子供のころからだ。その稚拙な願いを抱え込んだまま、何者にもなれずこの年までのうのうと生きてきた。夜叉に、憧れていたんだ。例えその身を血と罪に染めようとも、この大地を守るその姿に心酔していたのだ。弥怒。お前との出会いは、偶然だったのかもしれない。王深の一族が守り抜いた札が、王大ではなく私のもとへとやってきたのは、何かの間違いだったのかもしれない。でも、私はおかげで、他の何にも代えがたい経験をすることができた。その全ては、私の中で輝き、未来永劫色褪せることはないだろう。だから、弥怒)

 

 

 私は一拍置き、口の中のつばを飲み込む。

 

 そして、いつか何かがあった時に、弥怒へ伝えようとずっと温めていたこの言葉を、一言一句間違えることなく、頭の中へと丁寧に丁寧に浮かべていく。

 

 

 

 

(私の体を、使え、弥怒)

 

 

 

 

 

『何を言い出すんだ、平安……!』

 

 

 動揺する弥怒へ、私は軽く笑いながら鼻を鳴らす。

 

 

(ずっと考えていたことなんだ。それも、王大が銅雀寺のことを正式に璃月の文化財として認めてくれたその時からだ)

 

 

『そうだ、平安。お主には寺を守るという大事な役目があるだろう! こんなところで己れに身を預けるなど、愚の骨頂だぞ!』

 

 

 私は首をゆっくりと横に振る。

 

 

(違うぞ、弥怒。逆だ。もう私がいなくとも、あの寺は安泰だ。あの寺は私以外の誰かが、守ってくれるようになったのだ。つまり、私を縛り付けるものは、もうこの世界にはない)

 

 

『気でもやったか! 平安! それを人は自暴自棄というのだ!』

 

 

(弥怒。落ち着け。私は冷静だ。よく考えた末の結論だ。早まったわけではない。弥怒、私は分かったのだ。弥怒や伐難、降魔大聖や他の夜叉たち、そして岩王帝君。そして璃月七星や王大らは、その立場や重い責任を常に背負って生きている。それに対し、私は何の責任もない。立場も、風が吹けばどこかへ飛んで行くような弱いものだ)

 

 

『ああ、そうだ。だから、お主がその責任を負う必要はない。考え直せ、平安!』

 

 

(弥怒、最後まで聞いてくれ。責任は、これからも負うつもりはないさ。でもな、弥怒。私は立場や責任がないからこそ、この身は自由なんだ)

 

 

『……』

 

 

 弥怒が静かに聞いていることを確認しながら、私はゆっくりと言の葉を紡ぎ続ける。

 

 

(その自由は、誰のためにあると思う? 私は、自分のためにあると思う。そして私は、その自由を使って、たったひとりの友を、助けたいんだ)

 

 

『その友とは、誰のことだ』

 

 

(決まっているだろう。弥怒、お前のことだよ)

 

 

『……‼ なにを、何を言っているのだ……平安。己れ達が過ごした時間は、己れが生前過ごしてきた時間からすれば、星の瞬き程度のわずかな時間。己れからしたら、たったそれだけなのだぞ!』

(それでも! 弥怒は私を何度も助けてくれた! しょうもないことで喧嘩して、同じ飯を食い、共に旅行だってした。何より、私自身が弥怒のことを心の底から、友だと思っているんだ! こればっかりは、絶対に譲らないぞ! 弥怒!)

 

 

『ばかなことを……』

 

 

 ぐらりと口調が揺らいだ弥怒に、私は今が機だと追い打ちをかける。

 

 

「私は本音を話したぞ! 弥怒! 次はお前の番だ! お前はどうしたい⁉ このまま降魔大聖をおいて、璃月港に帰りたいのか!? それとも、小説の英雄のように、すべてを救い、夜叉としての役目を果たしたいのか、どっちだ! 弥怒‼」

 

 

『己れは……』

 

 

「言いたいことがあるなら、はっきりと言え! 弥怒! いや、心猿大将‼」

 

 

『平安……!』

 

 

 気が付くと、大声で叫んでいた。

 

 肩で息をしながら、私の心は青空のように晴れ渡っている。

 

 熱くなった頬を高原の風が撫でていく。

 

 私は呼吸を整えながら、じっと弥怒の答えを待った。

 

 おおよそ、たっぷり三十秒ぐらい無言を貫いた弥怒が、やっと口を開く。

 

 

『己れは、認識を改める必要があるようだ』

 

 

「ほう、言ってみろ」

 

 

『己れは、どこかお主のことを侮っていた。いや、凡人のひとりだと思っていた。神の目も持たず、鍛錬しているわけでもなく、書で名を馳せるわけでもない。だが、それは間違いだった』

 

 

 ごくり、と喉が鳴る。

 

 胸の奥から湧き上がる熱い思いを押しとどめ、私はただひたすら弥怒の言葉に耳を傾ける。

 

 

『平安、いや、違うな。“友”よ、その思い、確かに受け取った。己れと共に、戦ってはくれないだろうか。妖魔を滅し、降魔大聖を救い、璃月に平和をもたらすために‼』

 

 

「その言葉を、待っていた‼」

 

 

 私は爪が食い込むほど、拳を強く握りしめる。

 

 世界が、揺れていた。

 

 

 

 いや、違う。

 

 

 

 私自身が、感動に打ち震えているのだ。

 

 火は、既にくべられた。

 

 あとはその火を消すことなく、強く、強く燃え上がらせるのみ。

 

 私は心地よい緊張を感じつつ、弥怒に尋ねる。

 

 

「弥怒よ、私は何をすればいい」

 

 

 弥怒は心底楽しそうに言い放つ。

 

 

『友よ、札を取り出せ。封印されたすべての力を、今ここで、解き放つ!』

 

 

 砂埃を巻き上げる頸風が、勢いよく背後から吹き抜ける。

 

 

 私は手のひらを濡らす汗を裾で拭うと、肩に下げていた鞄のベルトへ手をかけた。



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護法戦記 31話 覚醒

私は平安。護法戦記という小説を執筆している。


弥怒の言われるがまま、私は札を取り出す。
この札は、この危機的状況を覆す逆転の一手になるのだろうか。
私は不安を抱えながら、札に手をかざした。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。



 地べたに置いた箱の蓋を開けると、くすんだ色をした札が日の光を浴びる。

 

 

「これで、どうすればいい?」

 

 

『右手をかざしてみよ。お主の右手は、己れの岩元素をよく通す。掌越しに、札を操作する』

 

 

「こうか?」

 

 

 私は片膝をつき、札の上に手を置いた。

 

 

『そのまま、動くでないぞ』

 

 

「わかった」

 

 

 返事をするやいなや、肩から腕にかけてほのかに熱を感じる何かが流れ始める。

 

 札に目をやると、うす茶けた羊皮紙のような紙が、徐々に光を帯びていく。

 

 

「おお……!」

 

 

 数秒後目の前には、弥怒と出会った時と同じ、かつての輝きを取り戻した札が姿を現す。

 

 手をどかそうとすると、弥怒が私に注意する。

 

 

『まだ動くな。ここからなのだ』

 

 

 私は改めて掌を札に押し当て、じっと札の様子を見守ることにした。

 

 

『これをこうして、うむ、やはりそうか。あれはあの術式の応用、造作もない』

 

 

 なにやら頭の中でぶつぶつと聞こえる弥怒の独り言。

 

 と、札の文字がゆらゆらと揺らぎ始める。

 

 

「……!」

 

 

 歪んだ文字はぐにゃりと形を変え、わずかに浮かび上がると配置をひゅんひゅんと変えていく。

 

 やがて配置が終わり、文字の足りない部分に新たな線が引かれた時、弥怒は私に手を放すよう伝えた。

 

 そこにあったのは、荒っぽい字体がびっしりと書かれた、一枚の札。

 

 

「これは……どこかで……」

 

 

 完全に一致しないにせよ、文字の構成にはどこか見覚えがあった。

 

 私は札、札、札……と自分の記憶をたどっていく。

 

 

 ――思い出した!

 

 

 かつて見た光景が、私の脳裏にありありと映し出される。

 

 完成した札は、白朮先生の弟子、七七が付けていた頭の札とそっくりな書体なのだ。

 

 頭に弥怒の得意げな声がこだまする。

 

 

『ふふん、お主もこれに見覚えがあるであろう?』

 

 

「……ああ! 間違いない。七七さんの札にとてもよく似ている。だが、いつの間にこんな芸当を」

 

 

『なに、ただの古い仙術の応用だ。基本さえ理解していれば、真似することは容易い』

 

 

「しかし、なぜ、こんなものを?」

 

 

『肝心なところで鈍感だな、お主は』

 

 

「言ってくれるな。時間も惜しいから、さっさと教えてくれよ」

 

 

『む……そうだったな。コホン、今からお主には、生ける屍となって戦ってもらう。ただし、屍となるのはその意識のみ。まあなんだ。頭の中にいる己れの立場とお主の立場が入れ替わるととらえてもらって構わぬ』

 

 

「な、なるほど」

 

 

 とりあえず、私の体を弥怒が直接操作するということだけは分かったので、うなずいてみせる。

 

 

『だが、身体に直接貼り付けるとなると、非常に負荷が大きい。というわけでだ。お主、鞄の中にちょうど良いものが入っているだろう。それを出してみよ』

 

 

「ちょうどいいものって……」

 

 

 私は鞄の中をのぞいてみる。

 

 そこにあったのは、かつて私が人をだまし、詐欺を働いたときの戒めの仮面。

 

 手に取ってみれば、いつでもあの黒歴史が呼び起こされる。

 

 

「これを使うのか……?」

 

 

『不満か?』

 

 

「いや、構わない。弥怒がこれを必要とするのであれば、喜んで再び使おう。私はあれから寺を修繕し、弥怒と出会い、短くとも濃い時間を過ごした。同じ仮面をかぶったとて、もうあの時の私ではない」

『そうだ。人も、大地もその速度に違いはあれど、移ろい前へ前へと進んでいく。例え過去に縛られたとて、縛られた者は気づかぬだけで同じ場所に立っているわけではないのだ』

 

 

「確かにな……」

 

 

 私はしみじみと仮面を見つめる。

 

 改めてみると、なかなか滑稽な表情をした仮面だ。

 

 よくもまあこの仮面で夜叉を名乗れたものだと、思わず吹き出してしまいそうになる。

 

 いまいち締まらないが、それが私だ。

 

 甘んじて受け入れるとしよう。

 

 私は仮面を顔に装着し、札を手に持ち上げる。

 

 

『あとは、その札を仮面の額に張り付け、こう唱えるのだ――』

 

 

 私は繰り返される弥怒の言葉を、口の中で反芻し、脳の皺に刻み込む。

 

 

『準備はよいか?』

 

 

「ああ、いつでもいけるぞ」

 

 

『それでは、いくぞ!』

 

 

 私は片手で札を押さえつつ、目を見開く。

 

 大きく息を吸い込み、頭に浮かべた文字を弥怒と共に頭から読み上げた。

 

 

「千岩万水、天壌無窮。天下静謐が大義は我にあり。業を背負い刃となりて、魔を滅せすべし。急急如律令!」

『千岩万水、天壌無窮。天下静謐が大義は我にあり。業を背負い刃となりて、魔を滅せすべし。急急如律令!』

 

 

 ふたりの声がきれいに重なり、世界に響く。

 

 読み上げる途中から、視界がまばゆく輝き始めた。

 

 額に吸い付いた札の先端が、激しい岩元素の炎に燃えているのだ。

 

 高鳴る胸の鼓動を感じながら、私は一言一句間違えぬよう呪文を唱えていく。

 

 最後の一文字を読み上げた瞬間、私の意識はぷっつりと途絶えた。

 

 

 

 

 

『ん……ここは……』

 

 

 気が付くと、私は明るいとも暗いともつかない空間に、自分の体をたゆたわせていた。

 

 光源はないのに、自分の周囲だけがぼんやりと明るく、遠くなればなるほど闇が広がっている。

 

 

「気が付いたか」

 

 

 空間全体に響く私の声。

 

 意識を前方へ向けると、正面に仮面越しの視界が映った。

 

 不思議な感覚だ。

 

 自分が見ている光景をさらに外側から見ている感覚。

 

 まるで水面に映る景色を眺めているようだった。

 

 

『私の声でしゃべっているのは……弥怒か?』

 

 

「いかにも」

 

 

 視界が勝手に下へと動き、私の掌が映し出される。

 

 両手は開いたり握ったりを繰り返す。

 

 

「ふむ。まずまずの体だ。しかし、久しぶりに吸う生の空気はうまいな」

 

 

 視界は空を見上げた。

 

 

『なるほど。これが弥怒の言っていた、立場が入れ替わるというやつか。今まで弥怒はこうやって私の中から世界を見ていたんだな』

 

 

「ああそうだ。なかなか興味深い経験であろう。と、こうして遊んでいる場合ではないな」

 

 

 弥怒は私の荷物をまとめると歩き始める。

 

 

『私の体なのに、私以外の人が操っているはなかなか不思議な感覚だな』

 

 

「うむ。そう何度も人が生を終えるまで体験できるものではないだろうな」

 

 

 少し歩けば、先ほど王を待たせていた関所へとたどり着く。

 

 岩に腰掛けていた王は、弥怒の足音を聞いて腰を上げ振り返る。

 

 

「平安さん、もう大丈夫ですか……って、仮面……?」

 

 

 眉の端を下げ、こちらを心配するような表情が途端に曇る。

 

 それはそうだろう。

 

 ほんの少し前まで、泣いていた男が仮面をかぶって堂々と姿を現したのだ。

 

 困惑するのも仕方がない。

 

 

「道を開けよ、王」

 

 

 私のいる空間に響く、堂々たる声。

 

 王は「えっ?」と聞き返してきた。

 

 聞こえてくる声は自分と同じ声なのに、まるで別人のようだ。

 

 いや、実際別人がしゃべっているのだが。

 

 

『って、ちょっと待て弥怒! 王さんは私のことを私だと思っているんだぞ! 変なこと言うなよ!』

 

 

「気にするでない」

 

 

『おい! それは私に向かって言っているのか? 王さんに向かって言っているのか? どっちなんだ! おい弥怒!』

 

 

 精いっぱい苦情を述べてみるが、弥怒は返事を返さない。

 

 そこで私は気が付いた。

 

 私は弥怒と脳内で会話する術を身に着けたが、弥怒はそうではない。

 

 弥怒が私に返事をすれば、余計状況がややこしくなると。

 

 結局私は弥怒の行動を見守るしかないのだ。

 

 ひやひやすることこの上ない。

 

 

「は、はあ?」

 

 

 王は訝しがりながら後ずさる。

 

 そのままずんずんと歩を進める私の体。

 

 

「あ、ちょっと、平安さん? そっちは危険ですよ!」

 

 

 慌てた王の声と足音が背後に迫ってくる。

 

 

「そうだ」

 

 

 何かに気が付いた様子の弥怒は、足を止めて振り返った。

 

 

 そして手に持っていた荷物を、王へと差し出す。

 

 

「これを預かってはもらえぬか。お主であれば、平安も信頼しているだろう」

 

 

 胸元に押し付けられた鞄に手を伸ばした王は、ゆっくりと顔を上げる。

 

 

「あの……もしかして、あなたは平安さんではない……?」

 

 

 混乱した声色ながら、鋭くも真実を突く王。

 

 対し、弥怒は余裕を持った口調で答える。

 

 

「そうとも言えるが、そうではないとも言える。ただ、お主たちは黙ってみているがいい。ここからは、夜叉の世界。手出しは無用」

 

 

「ど、どういうことですか⁉」

 

 

「ふん、見ていれば、分かる」

 

 

 弥怒は踵を返し、大地を汚す禍々しい巨花を見下ろした。

 

 そして背後に王を残したまま、眼前で手印を組む。

 

 

「平安よ、見るがいい。これが正真正銘、心猿大将の戦いだ。――滅妖、儺舞!」

 

 

 突然、大地が震えた。

 

 舞い上がる砂土が体を中心に渦を巻き、仮面へと集まってくる。

 

 仮面の次は首、肩、腕、腹と続いていき、やがて砂嵐が収まると視界が晴れた。

 

 

「あ、あなたは……!」

 

 

 背後から驚きに満ちた王の声が聞こえてくる。

 

 肩越しにわずかに振り返ると、目を瞬かせ口をパクパクさせる王の顔があった。

 

 その瞳には立派な老猿を模した儺面を被り、琥珀色に染まったローブをはためかせる男の姿が映っている。

 

 

「王よ」

 

 

「はっ!」

 

 

 かけられた声に、王はとっさに直立不動の体勢となる。

 

 

「お主の先祖、王深は立派な夜叉であった。心猿大将の己れが保証しよう。今この場所に己れが立っていられるのも、奴の功績である。その誇りを胸に刻み、これからもお主の職務に励むとよい」

 

 

 ゆったりとした私の声とは対照的に、王の目は見開かれ、私の鞄を持つ手はぶるぶると震えだす。

 

 

「は、はい!」

 

 

「うむ」

 

 

 弥怒は満足そうにうなずくと、顔を正面へと戻す。

 

 そしてすぅと息を静かに吸い込むと、低く響く声で言い放った。

 

 

「……猿写心鏡!」

 

 

 言葉と同時に、身にまとうローブが形を変える。

 

 それはさらさらとした砂に戻ると、私の体にぴったりと密着し、ぎちぎちと締め上げていく。

 

 

『熱っ!』

 

 

 私は自分のいる空間の気温が、急激に上昇するのを感じて身をすくめる。

 

 頭の中の空間が熱くなるとは一体どういうことだろうか、と私は混乱を隠せない。

 

 

 

 何もない空間に突如表れた、熱源。

 

 思わず顔を向けると同時に、私の顔は驚愕に染まった。

 

 そこにいたのは、仮面を被った、ひとりの女夜叉。

 

 すらりとした肢体に、鋭い剣を携えている。

 

 火炎のようにうねる髪が印象的だった。

 

 その夜叉がわずかにこちらを向くと、仮面の奥の瞳と目が合った。

 

 

 深紅に燃えさかる瞳は、憤怒に満ちている。

 

 

『まさか、あなたは――』

 

 

 その答えは、他でもない弥怒の口から放たれる。

 

 

「火鼠大将、応達。お主の鎧、借りさせてもらうぞ!」

 

 

 私の本体にまとわりついた細かい砂は、まるで筋肉のように筋を描いて盛り上がる。

 

 キラキラと光を浴びて輝く周囲の砂粒は、立ち上る陽炎にも見えた。

 

 それはまるで、砂で模した応達の炎鎧。

 

 

 

「行くぞ――」

 

 

 

 弥怒はぐっと身を低くしたかと思うと、大地を思いっきり蹴飛ばした。

 

 瞬間、大地が爆ぜる。

 

 視界が大きく揺さぶられたかと思うと、あんなに遠かった敵の姿が、一気に大きくなる。

 

 その脚力に私は開いた口がふさがらなかった。

 

 関所から今立っている地点までで、もう半分以上も距離を詰めてしまったのだ。

 

 突然現れた獲物に周囲の触腕たちが反応し、私めがけて襲い掛かる。

 

 が、私の体は踊るような滑らかな動きでそれらをかい潜っていく。

 

 

「安心しろ、平安。お主の体はこの己れ、心猿大将の名に懸けて傷ひとつつけさせやせぬ!」

 

 

 暴れ狂う触腕の波を抜けた先には、青い空が広がっていた。

 

 空中に跳躍した私の体がくるくると舞うように回転し、音を立てずに着地する。

 

 見れば、いつの間にか右手には岩で作られた無骨な剣が握られていた。

 

 背後に響くすさまじい轟音。

 

 続けて唸るような地響きを体幹で感じる。

 

 ちらり、と弥怒が振り返れば、ばらばらに刻まれた触腕たちが無残な姿で転がっていた。

 

 まるで息を乱す様子もない弥怒。

 

 私は自分の体がこの光景を作り出したとはにわかに信じられなかった。

 

 頭の中で驚嘆する私に、弥怒はゆったりと語り始める。

 

 

「かつて、この地の山深くに、老いた仙猿がいた。その猿は、非常に好奇心が強く、時折山へ訪れる人に対し興味を持った。始めは言葉を真似た。次に、服装、容姿を真似てみた。そして満足のいったところで、その成果を試すべく老猿は人前にその姿を現した。だが、結果は散々であった。ただただ気味悪がられ、人の子に逃げられてしまったのだ。そこで老猿は過ちに気が付いた。ただ、動きや言動を真似するだけではだめなのだと。本当に真似をすべきは表面ではなく、その者が持つ本質、つまり魂なのだと。平安よ。己れは本を書いたことはないが、真似をすることに関しては他の追随を許さぬ。よって、一つ助言を授けよう」

 

 

 私はごくりと喉を鳴らした。

 

 隣へと目を向ければ、応達もこちらへ振り向く。

 

 あれほど怒っていた応達の目は、優しく微笑んでいるように見えた。

 

 空間全体に、弥怒の芯を持った声が反響する。

 

 

「心を鏡のように平定し、人物の魂を写し出せ。さすれば文字の上であろうが、演劇の舞台であろうが、描いた人物は命を得、やがて自然と動き出す」

 

 

 弥怒はゆったりと散歩でもするように歩きながら、襲ってくる触腕を一つ、また一つと切り伏せていく。

『ああ……。その言葉、心に刻むよ』

 

 

 私は胸に手を当て偉大な友人が放った、私だけに向けられた言葉の数々を噛み締める。

 

 ちょうどその時、周囲に鳴り響いていた激しい金属音が途切れた。

 

 弥怒が顔を上げると、頭上高くに打ち上げられた人影が、こちらへ向かって勢いそのままに落ちてくる。

 

 剣を大地に突き立て両手を広げ、弥怒は降ってきた人物を受け止めた。

 

 

「ぐっ……!」

 

 

 傷だらけになった降魔大聖の顔から、仮面の最後のひとかけらが崩れ落ちる。

 

 弥怒は少年の青白い顔に影を落とし、わずかではあるが仮面越しに笑顔を送った。

 

 次の瞬間、苦痛に歪んでいたはずの双眸が、これでもかと大きく開かれる。

 

 

「お前は……!」

 

 

「待たせたな、降魔大聖。かつてお主と交わした古き約束、果たしに来たぞ」

 

 

「まさか……弥怒、弥怒……なの……か……」

 

 

 焦点の定まらなくなった目が泳いだかと思うと、降魔大聖は意識を手放す。

 

 がくり、と腕を垂らした降魔大聖。

 

 包帯が巻かれた腕からは、もうもうと黒い業障の霧があふれている。

 

 

「よくぞ、こんな状態になるまで戦った。あとは、己れに任せるといい」

 

 

 歯の間から絞り出すようにそうつぶやくと、弥怒は降魔大聖を岩陰に寝かせ、半開きのままだった瞼をそっと閉じる。

 

 

 そのままこぶしを握り締め、仲間を痛めつけた花の魔物を見上げると、憎々し気に声を張り上げる。

 

 

「やってくれたな、妖魔ぁ……!」

 

 

 弥怒は立ち上がり先ほど突き立てた剣の場所まで戻ると、勢いよく引き抜いて切っ先で花弁の中央を捉える。

 

 

「大地に仇なす者よ。血海に……沈むがよいッ‼」

 

 

 怒りに満ちた言葉が届いたのか、花は標的をこちらに定める。

 

 細い鞭のような大量の触手が、空気を切り裂きながらこちらへと向かってきた。

 

 

「戦いの、始まりだ――」

 

 

 面の中で、私の口角がわずかに上がる。

 

 

 額にぶら下がり風に揺れる札は、五分の一がすでに焼失していた――。

 

 



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護法戦記 32話 それはまるで服を着替えるように

私は平安。護法戦記という小説を執筆している。

応達の衣を模した鎧をまとい、妖魔と対峙する弥怒。
手負いとはいえ、降魔大聖ほどの夜叉を追い詰めた敵に、どう打って出るのが正解か――。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 

 鞭のようにしなやかな触手が、縦横無尽に降り注ぐ。

 

 一見無茶苦茶に振られているように見えるが、決してそうではない。

 

数十といった数の触手は一切絡まることなく、縦、横、斜めからやってきて、弥怒がはじき返しても再び襲ってくる。

 

 そこからはトリックフラワーをはるかに超える知性がかいま見え、一撃一撃には溢れんばかりの殺意が込められていた。

 

 まさに、息もつかせぬ攻防だ。

 

 普通の璃月人であれば、一呼吸する間もなくずたずたに切り刻まれていただろう。

 

 

 そう、普通の璃月人であれば。

 

 

 だが戦っているのは、百戦錬磨の夜叉。

 

 さらに身にまとう応達の姿を模した砂の鎧は、十分以上に素体である私の体の能力を引き上げ、巨大な化け物と渡り合うことを可能にする。

 

 いやむしろ、押し勝ってすらいた。

 

 弥怒は襲い来る触手を受け流したり、切り払ったりを繰り返しながら、徐々にその間合いを詰めていく。

 

 

 驚いたのは、戦況を俯瞰する弥怒の目線だ。

 

 私はてっきり、敵の攻撃に合わせて素早く視線を動かすものだとばかり考えていた。

 

 しかしそれは誤りで、弥怒の視界はほぼ動かず、敵を正面からじっと見据えている。

 

 にもかかわらず、打ち漏らす触手は一本たりともない。

 

 

『すごい……。敵の攻撃が全部見えているのか?』

 

 

「当たり前だ。こいつは特に分かりやすい部類。触手の生えている根本の動きと――」

 

 

 しゃべりながら横に飛ぶ弥怒のすぐ横を、背後からあの巨大な触腕がかすめて地面を抉った。弥怒は振り返りざまにそれを一刀で切り上げる。

 

 

「大地の震動を注意深く観察していれば、一撃を食らうことはない」

 

 

 楽し気な弥怒の声が仮面の内側で響くのとは対照的に、眼前の妖花は怒りに打ち震えていた。

 

 先ほどまで一方的に降魔大聖をいたぶっていたとこらから一転。

 

 突然現れた別の羽虫は、捉えられないどころか、こちらと対等に打ち合ってくる。

 

 さらに自分よりはるかに小さな相手は、まだ余裕を見せているのだ。

 

 妖魔と言えど、フラストレーションは溜まるのだろう。

 

 攻撃はより激しさを増していく。

 

 しかし、同時にその動きは精彩を欠き、より直線的になっていった。

 

 

「いいぞ……怒れ怒れ、もっと怒れ」

 

 

 弥怒はもはや目に映らぬほど速度を増した触手を、時にはわざと大振りに、時にはステップを踏むかのように避けて敵を挑発する。

 

 人語を喋らぬ敵にもかかわらず、怒り狂っているのが丸わかりであった。

 

 

「次で仕留める」

 

 

 弥怒が私にだけ聞こえるよう、ぼそりと小さくつぶやいた。

 

 それとほぼ同時に、左右両側から触手の大振りが迫ってくる。

 

 弥怒はわずかにかがむと、いつでも動けるように足腰に力を溜めた。

 

 あと少しで攻撃が直撃する次の瞬間。

 

 

 

 触手が軌道を変えた。

 

 

 クンッと斜め上へと振り上げられた触手。

 

 宙に飛び上がった砂の鎧めがけてさらに加速。

 

 そのまま音を置き去りにする速度をもってして、鎧を盛大な破裂音と共に粉砕した。

 

 そう、まさに、砂の鎧だけを。

 

 

「かかったな」

 

 

 弥怒はフン、と鼻を鳴らす。

 

 四散する鎧を背に、巨花の懐、茎の根元に迫ると、まるで何事もなかったかのように弥怒は剣を振りかざす。

 

 傍から見ていた私は、その一か八かの作戦に、口から生気がすべて抜けてしまいそうだった。

 

 こんなやりとりは、命がいくらあっても足りないと感じてしまう。

 

 あの瞬間、弥怒は飛び上がるふりをして、自身はさらに深くしゃがみ込み、一気に前進。

 

 おとりとして半身の鎧を宙に浮かべて花の注意を引いたのだ。

 

 小細工をしたとは言え、二分の一の賭けに変わりはない。

 

 そんな私の心情を露と知らず、弥怒は得意げに息巻いた。

 

 

「服も纏えぬその体では鎧を脱ぎ捨てるなど、理解できぬ芸当だろう?」

 

 

 言葉と共に、鎧を失った上半身を補うように、下半身の鎧の砂が流れるように剣を持つ腕へと流れ、筋力を強化する。

 

 花は鎧だった砂が散りじりになり、やっと自分が敵を仕留め損ねたことに気が付くと、周囲を異様なほどの速度で見回すと、こちらの姿を視界にとらえる。

 

 腹に迫った刃を見て、触手が間に合わないと踏んだ花は、せめて避けようと身をくねらせた。

 

 だが残念なことに、花であるが故、その根元は動くことが叶わない。

 

 胴が、がら空きだった。

 

 

「ぬんッ!」

 

 

 相手が防御や攻撃に転じるよりも早く、弥怒の剣が大気を切り裂いた。

 

 その切っ先は花の茎へとまっすぐに刃を滑らせていき、そして――。

 

 

 

 戦場に甲高い音が響き渡った。

 

 

 

 見開かれる弥怒の目の前で、砕け散った剣の刃が、数十の欠片となりくるくると舞っている。

 

 

「ぐっ!」

 

 

 私の体の筋力を補うためだろう。

 

 まさに、全身を使った一太刀であった。

 

 故に、その反動も全身に返ってくる。

 

 折れた剣の先から始まった反動は手を伝い、肘を伝い、肩を伝播すると全身を激しく揺らした。

 

 一瞬、ほんの一瞬であったが、弥怒の視界が、ブレる。

 

 

 だからだろうか。

 

 反応が、遅れてしまった。

 

 振れる世界の中で、何かがしたから飛び掛かって来る。

 

 やっと明瞭な視界を取り戻したときには、それは弥怒の右頬をかすめて振りぬかれた後だった。

 

 見ればそれは、大木のような茎の根元に潜んでいた、短く、だが鋭い先端を持つ今までとは違う触手。

 

 まさに、意表を突かれた瞬間だった。

 

 

「……ぬっ‼」

 

 

 弥怒は大きく後退し、距離を取る。

 

 が、しかし、時はすでに遅かった。

 

 引き離した距離の、ちょうど敵との中間地点。

 

 そこへ向かって空から一本、刃折れの剣が降ってきて、音を立てて転がる。

 

 柄を握る、腕を付けたままで。

 

 

「……ッ! ……ッ!」

 

 

 花はそれを見るや否や、声にならない喜びで体全体を震わせた。

 

 

『腕が……! 弥怒! 大丈夫か‼』

 

 

 私自身に痛みはない。

 

 恐らく、それらはすべて弥怒が受けているに違いない。

 

 かなりの大けがだ。

 

 継続戦闘ができるかすら怪しいのではないか。

 

 私は妖魔の狡猾ぶりにただぞっとする。

 

 この瞬間を、ずっと待っていたのだろうか。

 

 

「命拾い、したな」

 

 

 弥怒のまだ余裕のある声を聞いて、わずかではあるがほっとした。

 

 

『ああ、片腕だけで済んでよかった……』

 

 

 私は身震いしながらそう答える。

 

 すると、意外な言葉が弥怒から放たれた。

 

 

「ん? お主は何を言っている。命拾いしたのは、己れではない。奴の方だ。お主の体、筋力でなければ、今頃奴は根元からバッサリと切り伏せられていただろう。にも関わらず、四本ある腕のうち、ただが一本を切り落とした程度でぬか喜びするとは。知能の低さに反吐が出る」

 

 

 話の途中で、私は違和感を覚えた。

 

 

 

 今、弥怒は何と言った?

 

 

 

 腕が、四本だって?

 

 

 

 その瞬間、背後に誰かの気配を感じた。

 

 

 

 慌てて振り向くと、そこには――。

 

 

 

 

 応達とは異なる、別の人物が仁王立ちしているではないか。

 

 

 優に私の背を越える、見上げるほどの巨体。

 

 鍛えあげられた屈強な体躯。

 

 そして何よりも、半裸の上半身からは、四つの腕が生えている。

 

 

『あ、あなたは――』

 

 

 私が言いきる前に、弥怒がその答えをよこしてきた。

 

 

「あぁ、浮舎よ。やはり腕の数が多いというのは、羨ましい。腕が倍という事は、作業の速度も倍速。倍の数服を仕立てられていれば、浮舎が袖を通したくなるような服もその中にあったかもしれないというのに」

 

 

 私は思わずその迫力に息をのむ。

 

 

『騰蛇太元帥、浮舎……』

 

 

 その名を聞いた大男は、ゆっくりと、だが満足そうにうなずいた。

 

 ハッと我に返った私は、再び外の世界へと意識を向ける。

 

 太陽に照らされた自身の影は、切り落とされた腕を除く3本の腕を背負っていた。

 

 

『じゃ、じゃああの腕は……』

 

 

 私は固唾をのんで戦況を見守る。

 

 弥怒は増えた腕を鳴らすかの如くそれぞれを回し、大きく伸びをした。

 

 そして、まるで準備運動が終わったとでも言いたげに口を開く。

 

 

「妖魔よ。残念な知らせだが……」

 

 

 ちら、と弥怒が歩きながら、折れた剣へと視線を投げる。

 

 それらは風が吹き付けると、さらさらと全て砂へと変わった。

 

 

「刈り取ったと喜ぶその腕は、ただの砂影だ」

 

 

「……ッ!」

 

 

 花はよほど驚いたのか、花弁の中央にある巨大な眼球の瞳孔が、一瞬キュッと小さくなる。

 

 

『は、はは……!』

 

 

 気が付けば私の口元からは、笑みがこぼれていた。

 

 切られた腕は、岩元素が収束すると再び元通りに再生する。

 

 なんて多芸なのだ、この弥怒という男は!

 

 

「昔瞬きをする間もなく、十を超える面を入れ替えるという芸者と会ったことがある。それを真似てみたのだが、どうだ、上手くいったか?」

 

 

 感心する私の心を読んだのか、弥怒はくっくっと笑いながら、ひとりおどける。

 

 

『お、おい、弥怒。油断するなよ!』

 

 

「己れを誰だと思っている。心配せずとも、もう……片が付くっ!」

 

 

 言うより早く、弥怒は地を駆ける。

 

 花を中心に弧を描くように旋回しながら、弥怒は右手で手印を結んだ。

 

 すると弥怒の通った場所から次々に、巨大な掌の形をした岩がぼこぼこと作られると、敵めがけて飛んでいく。

 

 

「……ッ!」

 

 

 突然の飛び道具に面食らいながらも、妖魔は決してひるまない。

 

 それがどうしたとでも言いたげに、触手を目いっぱいふりかぶると、勢いよく薙ぎ払う。

 

 ひと薙ぎで、今まで飛ばした掌岩を粉砕するつもりだ。

 

 が、一つ目の掌岩へ触手が接触した瞬間。

 

 轟音と共に、岩が大量の砂埃をまき散らしながら爆発する。

 

 

「ふはは! 浮舎の掌打と違い、己れの岩は全て実体だ。喜べ妖魔!」

 

 

 優勢なのは悪くない。

 

 悪くないのだが、なんというか。

 

 弥怒、遊び過ぎではないか?

 

 背後で浮舎も笑いをこらえるように身を震わせている。

 

 何となく予想はしていたが、今確信に変わった。

 

 夜叉たちは、なんだかんだ言って、戦いが大好きな人種なのだと。

 

 

「うおっ!」

 

 

 妖魔がまき散らした砂塵が、視界を覆うほどの煙幕となって、弥怒に襲い掛かる。

 

 視界は砂色一色となってしまった。

 

 弥怒と視界を共有している私が見えないのだから、弥怒も間違いなく見えていないはずだ。

 

 

『おい、弥怒、前が見えないぞ! 大丈夫か!』

 

 

 声をかけるが、突然返事がなくなった。

 

 相変わらず、視界が晴れる様子はない。

 

 今、どこにいる?

 

 あの花は、どの方向にいるんだ?

 

 

『どうしたというのだ……』

 

 

 振り返って浮舎に尋ねてみても、肩をすくめるばかり。

 

 そんな対応をされると、嫌でも疑問と不安が胸元で渦を巻き始める。

 

 夜叉の戦いに口出しは無用だ。

 

 そんなことは分かっている。

 

 それでも弥怒が心配で、言葉を掛けずにはいられない。

 

 

『弥怒、聞こえて――』

 

 

 言葉は途中で止まった。

 

 いや、止められたといったほうが、正しい。

 

 ヒタ、と固く冷たい何かが、私の口を軽くふさいでいるのだ。

 

 反射的に顔を下ろすとそれは、私の背後から伸ばされた、長い鉤爪の先端。

 

 

 

 

 

 

 

 ドクン、と心臓が跳ねた。

 

 

 

 

 私は、この爪を、以前にも見たことがある――。

 

 

 

 驚きと共に、ゆっくりと視線を横へと向ければそこには。

 

 

 透き通るような蒼が視界を埋め尽くし、穏やかな海に似た瞳がこちらを見つめながら、ニコッと微笑を浮かべる。

 

 

『伐……難……』

 

 

 再びその姿を拝めるとは、考えたこともなかった。

 

 目の前の現実を夢ではないかと疑ってしまう。

 

 

 

 呆然と立ち尽くす私を見てくすくすと伐難はひとしきり笑った。

 

 そして私の方をポン、と優しく叩いた後。

 

 

 

 少女はいつの間にか手に持っていた儺面で、顔を覆う。

 

 

 

 仮面の位置を調節しながらこちらへ一度うなずきかけると、伐難は正面を指さした。

 

 

 弥怒のことも忘れて見入ってしまっていた私は、いかんいかんと振り返る。

 

 するとそこには、砂色から一変、青空が広がっていた。

 

 まるで空に向かって落ちていくような錯覚すら覚える。

 

 が、それも長くは続かず、くるりと視界が反転すると、眼下には煙幕に包まれた、層岩巨淵と採掘口が映った。

 

 

「っはぁ! 待たせたな平安!」

 

 

 突如響き渡る弥怒の声。

 

 私は安堵と共に友の名を呼んだ。

 

 

『弥怒!』

 

 

 威勢のいい声を聞いて、私は胸をなでおろす。

 

 冷静になって弥怒の視界に向き直ると、採掘用の巻き上げ機の先端が煙の中から顔を出していることに気がついた。

 

 そこで私は初めて、合点がいく。

 

 

『そうか、煙の中を移動して、巻き上げ機から跳躍を……!』

 

 

 弥怒は軽くうなずく。

 

 

「そうだ。あの状況を逆手に取って奴の上を取るために、どうしても音を立てるわけにはいかなくてな。不安だったか?」

 

 

『ああ、不安だったさ!』

 

 

 私は笑いながら胸中を恥ずかしげもなくぶちまける。

 

 

『友の安否を心配して何が悪い!』

 

 

「おっと、そう来られては何も言い返せんな。この状況下でお主に一本取られるとは思ってもみなかったぞ、平安。だがそんな不安とも、もうお別れだ。見よ!」

 

 

 弥怒が自由落下の始まった方向へと顔を向けると、煙幕に紛れ、狼狽する花の妖魔の姿がうっすらと浮かび上がる。

 

 その姿がどんどん大きくなっていったところで、ようやく花は上空を舞う影に気づき、首を持ち上げた。

 

 

 

 

 視線が、交差する。

 

 

 

 

「かかってこい妖魔ァッ!」

 

 

 弥怒が吠えた。

 

 それに応えるかの如く、触手が煙幕を勢いよく突き抜けて、こちらへと向かってくる。

 

 弥怒は空中で構えた姿勢を崩さず、懐かし気につぶやいた。

 

 

「やっと研ぎ終わったぞ。まったく、時間がかかって仕方ない。なんせこの爪はどんな鉱石よりも硬く、鋭くなければならないのだから。なあ、そうだろう? 伐難」

 

 

 ふと私が隣を見ると、少女は仮面の下でクスリと笑う。

 

 すると同時に浮舎の腕にヒビが入り、ぼろぼろと風の中で崩れ去った。

 

 その下から現れたのは、見るからに立派な黄金色に輝く大爪。

 

 

 

 弥怒は下から襲ってきた触手へ向かって、研ぎたての爪を腕ごと軽く振るった。

 

 するとあれほど硬かったはずの触手は、まるでバターを着るかの如く細切れとなる。

 

 

『なんて切れ味だ!』

 

 

 思わず声を上げてしまった。

 

 隣で伐難が腰に手を当て胸を張っているが、今は何も言わないでおこう。

 

 

 そんな私たちのやり取りを知ってか知らずか、弥怒は楽し気に風の中で宣告する。

 

 

「伐難は、一本の鋭い剣――!」

 

 

 すると私の隣で、伐難が恥ずかしそうに続きを小声で口ずさむ。

 

 

(――魔を滅する、岩王帝君の剣)

 

 

 それを聞いていると、なぜか私まで胸が熱くなる。

 

 すかさずこちらを見た伐難が、コクリとうなずいてくれた。

 

 私はいてもたってもいられなくなり、伐難と共に合掌する。

 

 

 

 

 

 続きは、示し合わせなくても、分かっている!

 

 

 

 

(『伐難は、妖魔を絶対に逃さないッッ‼』)

 

「はぁぁぁぁぁあああああああああッ‼」

 

 

 三人の思いを重ねるように、弥怒は雄叫びを上げながら切っても切っても沸いてくる触手を、がむしゃらにことごとく切り伏せていく。

 

 その勢いに妖魔もまずいと悟ったのだろうか。

 

 後先考えずに、幾重にも触手を絡み合わせ、巨大なドーム状の盾を形成した。

 

 攻撃を捨て、守りに徹したということだろう。

 

 

 しかし――。

 

 

 

「甘いっ‼」

 

 

 弥怒が左手を振るえば、それらの筋は断ち切られ、ばらばらと散っていく。

 

 弥怒の爪の前に、妖魔は最後の守りも失った。

 

 壁を抜けると、眼前には視界を覆うほどの巨大な花。

 

 その中央で、逃げ惑うようにぎょろぎょろと動く目玉が、こちらに気づいて動きを止める。

 

 

 水晶玉のようなその表面に一瞬、陽光を浴びた尖爪がきらりと輝いた。

 

 

 

 

 

 

「――螺貫如彗」

 

 

 それはまるで、鏡のように凪いだ海面に映り込む、夜空の流れ星が滑り落ちる時のような、あまりにも静かな一撃。

 

 するりと急所を切り裂いた爪には、妖魔の血一滴すらついていない。

 

 あまりにも自然体で、すれ違うような美しき一閃。

 

 それは主を失った貝殻を人知れず浜辺から連れ去るさざ波の如く、穏やかに妖魔の命をその巨体から抉り取ったのだった。



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護法戦記 33話 復活

私は平安。護法戦記という小説を執筆している。

倒したはずの妖魔。これで終わりだと、信じて疑わなかった。
しかし巨大な花は蘇り、璃月の大地に襲い掛かる。
対峙するは、仙衆夜叉、弥怒ひとり。
……だけでは、ない。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 音もなく着地した後、遅れて響き渡る轟音。

 

 核となる瞳を両断された妖魔は、その身を岩場に横たえ沈黙した。

 

 

『すごい……』

 

 

 おおよそ言葉を失った私は、溢れる喜びに思わずにやけてしまう。

 

 あんな体の何倍もある敵を、わが身ひとつで屠ったのだ。

 

 これに心躍らぬ男は璃月広しと言えどいないといえよう。 

 

 

 見れば、仮面に揺られる札は、まだ三分の一を残している。

 

 圧倒的勝利であった。

 

 

『やった、やったぞ、弥怒!』

 

 

 私は興奮に打ち震えながら、身を乗り出した。

 

 弥怒は静かに、妖魔を切り裂いた右手を持ち上げ、じっと見つめる。

 

 そして一つ、小さな舌打ちをしたのだった。

 

 

「仕留め損ねたか」

 

『……え?』

 

 

 私は耳を疑う。目の前の情報とギャップが大きすぎて、頭の処理が追い付かない。

 

 確かに妖魔を倒したのではなかったのか。

 

 弥怒は顔を上げ、未だ横たわる巨大な花を見据える。

 

 

 すると、切り裂かれた花の中央、巨大な眼球の裂け目からだらりと、黒々とした液体の塊が地面に落ちた。

 

 

『……っ‼』

 

 

 その姿に、私は見覚えがあった。

 

 層岩巨淵が姿を変える前、胡桃が命を懸けて戦ったあの黒い影そのものだったからだ。

 

 粘度を持った黒い水たまりは、見る見るうちに歪な人の形に姿を変えていく。

 

 

 しかし肩から袈裟懸けに切り裂かれた傷は残ったまま。

 

 それを修復すべく、いくつもの水泡が傷の内側から溢れてきた。

 

 黒い泡はどれも苦悶を浮かべた人の顔のようで、見ているだけでもぞっとする。

 

 

『弥怒、早くとどめを!』

 

 

 私は焦りと恐怖に染められた叫び声をあげた。

 

 だが、弥怒は動かない。

 

 

「ならぬ。よく見よ、平安。業瘴の濃度が高すぎる。これが己れの体であれば突っ込んで引導を渡したものの、今はお主からの借り物。友の身を危険にさらすことはできぬ」

 

『でもっ……』

 

 

 私は唇をかみしめながら黒い影を睨みつけた。

 

 今、私の体の主導権は弥怒にある。

 

 彼がそう判断したのであれば、悔しくも私はそれを見届けることしかできない。

 

 

 目の前で黒い霧を吐き出しながら影はその身を肥大化させていく。

 

 やがて周囲に散った業瘴を吸い込み、風船のように巨大化したかと思うと、一気にその体積を縮めて元の大きさに戻ってしまった。

 

 猛攻をかいくぐりつけたはずの致命傷は、完全にふさがっている。

 

 

『ああっ……!』

 

 

 私は振り絞るような声と共に、嘆息した。

 

 今までの努力が、全て無駄になってしまったのか。

 

 やるせなさが全身に広がる。

 

 

「平安、そんな声を出すな。安心しろ」

 

 

 対照的なことに、弥怒はまだ余裕の声色を響かせた。

 

 

「見るがいい。取り繕ってはいるが、決して奴も万全ではない様子だぞ」

 

 

 私はハッとして、黒い影に目を凝らした。

 

 一見すると元通りに見えた黒い影だが、その表面が時折波打ち、体が揺らいでいる。

 

 

「もう一息だ、平安」

 

 

 ゆっくりと安心させるような弥怒の声に、私はうなずいた。

 

 夜叉は妖魔退治の専門家だ。

 

 私のような素人とは経験が違う。

 

 絶望に染まっていた心に、安堵と活力がみなぎってくるのを感じた。

 

 

 影はぐにゃりと変形し、大きく跳躍する。

 

 そして再び、巨花の眼球にできた裂け目へと飛び込んだ。

 

 影が入った眼球は一度その色を漆黒に変えたかと思うとぐらりと揺れ、まるで熟れた実が落ちるようにべちゃりと大地に落ちて潰れた。

 

 ひとたび風が吹けば、潰れた眼球はさらさらと風になり散っていく。

 

 

 その代わりに、花の根元部分に新しい瞳が形成された。

 

 その部分を覆うように、何重にも触手がまとわりついていく。

 

 触手の表面は層を重ねる度に見る見るうちに硬化していき、気が付けば瞳があった部分は幹に作られた瘤のようになってしまった。

 

 

「奴め、視覚を捨てたか……っ!」

 

 

 弥怒はそこで初めて、苛立ちをあらわにする。

 

 私の記憶では、あの幹は相当固かったはずだ。

 

 弥怒の造った剣が通らないほどに。

 

 

 それが何重にも重ねられているとなると、その防御は尋常ならざるものだ。

 

 まさに鉄壁と言える。

 

 私は妖魔のずる賢さに、改めて舌を巻いた。

 

 こちらの攻撃力に対し、まるで高度な知性を持っているかの如く対策を打ってきたのだ。

 

 

 うなだれていた花は再びその身を持ち上げる。

 

 同時に層岩巨淵全体に生えていた触腕が、ズルズルと地面の中へと戻っていく。

 

 そして花を中心に大量の触手がまるで噴水のように出現したかと思うと、縦横無尽に振り回し始めたのだった。

 

 無差別に繰り出される触手の大振りは岩を割り、大地を切り裂く。

 

 音速を超えた職種の先端が、乾いた音を無数に響かせる。

 

 

「くっ!」

 

 

 弥怒は触手をかいくぐりながら気を失って倒ていた降魔大聖へと駆け寄ると、肩に担いで大きく後退した。

 

 離れた場所から見れば、その光景の異様さが鮮明に伝わってくる。

 

 まるで近寄るなとばかりに、振り回される触手。

 

 目が見えてないが故の、手数に頼った守りの姿勢。

 

 まるで籠城しているかのようだった。

 

 相手は攻めてこないものの、こちらには札の時間制限がある。

 

 非常にやりづらいという事だけは明白だった。

 

 降魔大聖を下ろした弥怒も、腕を組んで妖魔を睨みつける。

 

 

「ふむ……」

 

『どうするんだ、弥怒。また、さっきの技を使って攻め込むのか?』

 

 

 顎に手を当てて考え込む弥怒。

 

 私は彼が口を開くのを、じっと待ち続けた。

 

 

「いいや、もっといい手があるではないか」

 

 

 弥怒は仮面の下で笑う。

 

 私はその言葉に胸が躍った。

 

 まだ策がある。

 

 それだけで、こんな状況下でも不思議と勇気が湧いてくるものだ。

 

 それほど弥怒の言葉には、確かな重さと安心感があった。

 

 

(やはり、弥怒はただ者ではない! 心猿大将の名は伊達じゃないんだ!)

 

 

 そんな彼と共に戦えることを、私はこっそり誇りに思った。

 

 弥怒は大きく息を吸い込むと、天へと声を張り上げる。

 

 

「いつまで寝ているのだ、睡魔大聖! 璃月の危機に昼寝とは、随分と偉くなったものだな!」

 

 

 その声は層岩巨淵全体に響き渡り、岩の間でこだまする。

 

 こだまする声がやっと収まったその時。

 

 背後から衣擦れの音が聞こえてきた。

 

 

「……誰が、睡魔大聖だ……!」

 

 

 やや若さを残した精悍な声が、背後から聞こえる。

 

 弥怒は得意げにその声の主をたしなめた。

 

 

「名は体を表すというではないか。寝ている者にその名を与えて何が悪い」

 

 

「貴様が、なぜその呼び方を知っている……! その呼び方をするものは、かつての仲間のみ……!?」

 

 

 そこで初めて、降魔大聖のはっと息をのむ音が聞こえた。

 

 弥怒は儺面を肩越しに軽く後方へと向ける。

 

 

 

 

 

「……約束を果たしに来たぞ、魈」

 

 

「我の見間違いではなく、本当に弥怒、なのか……!?」

 

 

「ふん、まだ寝ぼけているのか。仕方のないやつだ。さっさと立て。妖魔は待ってくれぬぞ」

 

 

「……どうやって蘇ったかは知らないが、我にそんな口の利き方をする男は知る限りひとりしかいない。……この死にぞこないが」

 

 

「はっ、その傷だらけの体でよく言えたものだ」

 

 

「フン、口の減らない猿め」

 

 

 私は聞いていて、ひやひやした。

 

 このふたりは、同じ仙衆夜叉の仲間ではないのだろうか。

 

 憎まれ口をたたき合う様子は、まるで喧嘩でもしているようだった。

 

 

『大丈夫なのか……?』

 

 

 一抹の不安が胸によぎる。

 

 そんな私の肩を、細く柔らかい手が優しく叩いた。

 

 振り向けば、伐難が仮面からわずかに素顔をのぞかせながら、人差し指を立てて口に当てている。

 

 その背後では夜叉の面々が、各々肩をすくめたり、クスクス笑ったりしているではないか。

 

 

 ――心配無用、ということらしい。

 

 

 前方に視線を戻すと、魈が槍を杖代わりにして弥怒の隣まで歩いて来た。

 

 

「それで、奴をどうやって仕留めるつもりだ」

 

 

 魈はこちらに顔を向けることすらせず、まっすぐ暴れ狂う妖魔を見据える。

 

 

「満身創痍のところ悪いが、あれをやる」

 

 

「なっ! 約束が違うぞ! 窮地に助太刀すると言ったのは貴様だろう!」

 

 

「あいにく己れには時間も元素力も足りなくてな。許せ、魈」

 

 

「……チッ」

 

 

 舌打ちと共に、魈は槍を肩に担ぎ姿勢を低くする。

 

 弥怒も同時に足幅を広げて地面を踏みしめた。

 

 

「合わせられるか? お主のその体で」

 

 

「御託はいい。貴様こそ、前回は千年以上前だからと手元を狂わせるな」

 

 

「はっ、笑止‼」

 

 

 だんだんと息のあって来る会話を、私は胸を熱くさせながらただ見守っていた。

 

 背後の夜叉たちが静かに仮面で顔を隠せば、弥怒の周囲で岩元素が大気を揺らす。

 

 それに合わせるかの如く、魈も面を被り槍を握り締めた。

 

 

 砂埃とつむじ風。

 

 

 伝説の夜叉ふたりは、無言で崖上から妖魔を見下ろす。

 

 顔は見えなくても、わかっていた。

 

 きっとこのふたりは戦いを前にして。

 

 

 

 ――私と同じように、笑っているはずだ。

 

 




某小説の公募の執筆があり、投稿遅くなりました!
少しづつですが更新してまいります!

まずは肩慣らしとして。


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護法戦記 34話 仙衆夜叉、弥怒

私は平安。璃月のしがない小説家だ。



私には……胸を張って誇れる、友がいた。



――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


「破ッ」

 

 

 疾風と共に降魔大聖が大地を蹴った。

 

 常人では考えられぬほど高く跳びあがった後、巻き上げられた気流を受けて更に上空へと飛んでいく。

 

 一方弥怒は応達の鎧を半身に纏い、人の体ほどの大きさの岩を持ち上げると、頭上へ向けて放り投げた。

 

 降魔大聖が落下するよりも早く足元まで届いた岩を足場に、緑風はさらに高く跳躍する。

 

 

「ぬんッ!」

 

 

 弥怒の右手から伸びた鋭い爪が岩石を切り裂く。

 

 手頃な大きさとなった岩を、背中から伸びた残りの3本の腕が交互に投擲し続けた。

 

 玉切れを知らない投石器のように繰り出された石塊は、寸分たがわず降魔大聖の向かう先へと飛んでいく。

 

 風を纏いし夜叉は空を駆け上がるように天高く昇っていく。

 

 

「平安、降魔大聖にも、仙衆夜叉としての呼び名があることを知っているな?」

 

 

『ああ、知っている。睡魔大聖だろ?』

 

 

「はっ、お主もそんな冗談を口にするようになるとは」

 

 

『すまない、金鵬大将、だったよな』

 

 

「そうだ。だが、己れはその名に対して、やや納得がいかない」

 

 

『ほう、なんでまた』

 

 

「金鵬とは、名の如く金色の大鳥、鳳凰のことを指す。だが奴を見てみろ。翠玉の服を纏う華奢な少年だ。鶯ぐらいがちょうどいい」

 

 

『はは、弥怒は手厳しいな』

 

 

「ふん、奴の名は己れが与えた衣に由来するのだ。平安よ、その目に刻むがよい。お主が本当の意味での金鵬夜叉を知る、最後の人間となるのだ」

 

 

 弥怒が最後の岩を放り投げた先、ちょうど妖魔の頭上遥か高い場所で降魔大聖がくるりと身を翻す。

 

 そしてやはりタイミングよく届いた岩の下に身をくぐらせ、今度は天に向かって岩石を蹴り飛ばした。

 

 雷のような速度で垂直落下を始めた降魔大聖。

 

 

「ハァッ‼」

 

 

 弥怒は左手で印を結び、残り僅かな岩元素を呼び起こす。

 

 すると降魔大聖を中心に、金色の障壁が顕現した。

 

 ドーム状に作られた障壁は、そのあまりの速度ゆえに徐々に形を変えていく。

 

 ひしゃげた障壁の端からはまるで彗星のように岩元素の粒子がたなびき、蒼穹に琥珀色の筋を残す。

 

 その姿はまるで、鳳凰が大翼を広げて尾をたなびかせるが如し。

 

 

『これが、金鵬……』

 

 

「そうだ。妖魔がどれほど守りに徹しようとも関係ない。岩元素の盾と風元素の鉾、互いに相いれない元素同士。だからこそ、己れたちは互いの全力をぶつけられるのだ!」

 

 

 降魔大聖は妖魔の振り回す触手の圏内まで到達する。

 

 舞い降りた金色の鳥に、髪の毛すら通さぬほどの猛攻が襲い掛かった。

 

 

「ぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおッ‼」

 

 

 弥怒の雄叫びと共に、大地が揺れ、空気が震える。

 

 降魔大聖を包む障壁が、さらに一段階厚みを増した。

 

 触手は幾度となく鳳凰に牙をむくがあまりの速度と硬さによって、そのすべてが弾かれ、千切られ、蹂躙されていく。

 

 

 

 刹那、降魔大聖の槍が太陽の光を浴びてキラリと一際強く輝いた。

 

 

 

 弥怒は4本の腕を胸の前で組み、自身へも障壁を展開。

 

 同時に光を放つ金鵬の嘴は音もなく巨大な花の頂点に突きささる。

 

 そのまま勢いを緩めることなく、光は幹の内部を一直線に貫いていく。

 

 閃光が、大地へ到達する直前。

 

 

 弥怒が小さく、口を動かした。

 

 

 

「衝撃に、備えよ――」

 

 

 

 それはまさに、一瞬の出来事。

 

 花の根元、幹の内側に籠っていた核が破壊されると同時に、四方八方へと弾け飛ぶ巨大な妖花。

 

 その場を中心に地面へ亀裂が走り、衝撃波によりめくりあげられる地殻。

 

 爆風と岩石の波が、壁となって迫り来る。

 

 

「ぐっ!」

 

 

 障壁が激しく揺らぐが、弥怒の後押しによって何とか形状を保ち続けた。

 

 周囲は砂塵の激流に飲まれ、様子を伺うことすらできない。

 

 

『や、やりすぎだぞっ!』

 

 

「はっはっはっはっは! 愉快なり‼」

 

 

 抗議をぶつけても、弥怒はどこ吹く風。

 

 やはり夜叉は夜叉だ。

 

 何から何まで規格外。

 

 戦いを心の底から楽しんでいるとしか思えなかった。

 

 

 遅れて耳をつんざくほどの爆音が轟き、空からは雨のように岩が降り注ぐ。

 

 もう無茶苦茶だ。

 

 

『ぷっ、あはははははっ!』

 

 

「おう、笑え笑え! 勝利は笑顔で祝わねばならんからな! はっはっはっはっは!」

 

 

 そうして私たちは視界が晴れるまで、しばしの間障壁の中で笑い声を響かせたのだった。

 

 

 

 

 

 

「それで、弥怒。今まで何をしていた」

 

 

 砂埃が晴れた後、私たちと降魔大聖は再び向かい合っていた。

 

 ジト目の降魔大聖がこちらを睨みつける。

 

 

「うむ。まあ、色々あってな。今はこうしてこやつ、平安という者の体を借りて、ここに立っている」

 

 

「フン、てっきりどこかの戦場でくたばっていたとばかり思っていたが、こうして再び相まみえようとは……」

 

 

 降魔大聖はかつての日々を思い出したのだろうか。

 

 目を伏せると、少し表情を曇らせた。

 

 それに構わず、弥怒は突き抜けるほど明るい声を弾ませる。

 

 

「礼を言うぞ、魈。我ら亡き後、よくぞ璃月を守り続けてくれた! それが夜叉の務めとはいえ、感謝する!」

 

 

「なにも特別なことはしていない。昔と何一つ、な。西に妖魔あれば切り裂き、東に妖魔あれば屠り殺す。ただそれだけだ。……いや、変わったことなら、あるかも……しれないな……」

 

 

 降魔大聖はこちらをちらと見た後、自分の両手に目を落とす。

 

 かすかに震える、二つの掌。

 

 こちらから見える彼の小さな体は傷だらけで、肩に巻いた包帯には血が滲み、業瘴の黒いもやがわずかではあるが漏れ出している。

 

 少し悲し気に笑う彼に、先程大立ち回りをした金鵬大将の面影はない。

 

 

「我は、最後の仙衆夜叉となってしまった。業瘴に蝕まれ、時折正気を失うことも珍しくない。夢か現か分からぬまま槍を振るい、気が付けば血だまりの上に立っているのだ」

 

 

「魈……」

 

 

「ついこの間も、積年の疲労がたたったのだろう。もうこれでいいと、ちょうどこの場所で、楽な道を選ぼうとしてしまった。……ギリギリのところで命を救って頂き、こうしてのうのうと無駄口を叩いているのだがな」

 

 

 自嘲気味に笑う少年に、私は胸を打たれる。

 

 仙衆夜叉たちの壮絶な生き様は、弥怒と過ごす時間の中で嫌というほど目の当たりにしてきた。

 

 決して私たちのようなか弱い人間に耐えうるものではない重い責任。

 

 痛みと悲哀に満ちたその生涯。

 

 あまりに、酷な運命だ。

 

 

 弥怒はその姿を見つめた後、仮面の下でふっと笑うと、ゆっくりと口を開く。

 

 

「魈よ。お主は昔、鼻で笑っていたが、どうだ? 最近は人間の着る服に興味は持ったか?」

 

 

 あまりに突拍子もない内容に意表を突かれ、降魔大聖はきょとんとする。

 

 

「服……? いや。凡人の生活に入れ込むようなことなど、我は……」

 

 

「ほほう。やはり、時間は仙人をも変える、か。随分と丸くなったものだな。魈。己れの記憶が正しければ、このような話題、答えるまでもなく、聞く価値もないと切り捨てていたではないか」

 

 

「……」

 

 

 降魔大聖は黙ったまま俯いた。

 

 その瞳には、迷いのようなものが見て取れる。

 

 満足そうにその横顔を見つめて、弥怒は続けた。

 

 

「魈よ。人里には衣替え、という言葉があってな。季節の変わり目に、衣服を気温に適したものへと変えるのだ。脆弱な人間たちと違い、己れ達にはまるで必要のないことだ。だが、興味本位で、一度試してみたことがあってな。不思議なことに衣服を変えると、少しだけ気持ちが晴れやかになったのだ。衣を変える前の己れと、変えた後の己れは何一つ変わっていないにもかかわらず、だ」

 

 

「……何が言いたい」

 

 

「つまりだな、たとえ仙人であっても、環境が変わったのであれば衣替えをすべきなのだ。それは衣服だけに限らない。考え方、身の振り方、そして取り巻く仲間も、な」

 

 

 最後のひと言を聞いた瞬間、降魔大聖は弾かれたように顔を上げた。

 

 こちらを切なげな表情でに見つめて歯を食いしばる美少年。

 

 まるで喉元まで出かかった言葉を、押し殺しているかのようだった。

 

 

 

 

 

「よいのだ、魈。過去に縛られるな。己れ達とは、死後の世界でいずれ会えるだろう。だが、お主は生きている。今しか繋ぐことのできぬ縁を――」

 

 

 

 

 

 そこで弥怒の言葉は、何の脈絡もなく、突然、ぶつりと途切れた。

 

 

 

 

 支えを失った仮面が、乾いた音を立てて地面に転がった。

 

 

 

 

 岩元素で作られた老猿の面は真っ二つに割れ、奥からは私の面がのぞいている。

 

 

 

 

 

 額の札は――燃え尽きていた。

 

 

 

 

 

 驚きに目を見開き、顔を上げた降魔大聖の瞳には、涙にぬれた私の顔が映り込む。

 

 私は、弥怒が伝え損ねた言葉を伝えるために、震える唇を必死に動かした。

 

 

「魈! 今しか、繋ぐことの、できぬ縁をっ! 無駄に、するな…………っ!」

 

 

 その言葉は、確かに私の意思で紡がれた。

 

 だが、それがどうしたというのだ。

 

 考えなくともわかる。

 

 弥怒が言おうとしていたことなど、手に取るように。

 

 それだけ私は、これまでの旅路で彼と濃密な時間を過ごしてきたのだ。

 

 いきなり弥怒が私の頭に住むようになり、初めは窮屈に感じた。

 

 小言をわめかれ、喧嘩だって何度もした。

 

 同じ釜の飯を食い、旅をして、過去を、痛みを共有した。

 

 本音を語り合い、彼と、彼の仲間と、つい先ほどまで共に戦ってきたのだ。

 

 

 ぼやける視界の中、降魔大聖がぽつりとつぶやく。

 

 

「……その言葉は、お前のものか。それとも…………。いや、いい」

 

 

 私の鼻をすする音が、無機質な岩場で反響する。

 

 もう何度頭の中へ語り掛けようとも、返ってくる声はひとつもなかった。

 

 いずれ来る別れが分かっていたとしても、私の心はそれに耐えられるほどできてはいない。

 

 璃月の荒涼とした大地は、必死に抑え込もうとも漏れてしまう私の嗚咽ですら、静かに受け止め続けたのだった。

 

 

 

 

 

 降魔大聖が妖魔を打倒し、私たちのもとへと戻ってくる少し前。

 

 障壁の中で砂埃が収まるのを待つ間のことだった。

 

 最期に放った合技があまりに高威力すぎて、ふたりして腹を抱えて笑った後。

 

 弥怒はいつになく改まって私の名を呼んだのだった。

 

 

『急になんだ、改まって』

 

 

「いや、これだけは伝えておかねばと思ってな」

 

 

 胸が、ざわめいていた。

 

 よぎるこの先の結末の想像をかき消すように、私はあえて明るく振舞う。

 

 

『どうした。戦いに勝って、生身の体で酒でもあおりたくなったか?』

 

 

「ふん、そのようなこと、もはやどうでもよい。なぜなら己れは……心の底から、満足したからだ」

 

 

 弥怒はおもむろに仮面を外し、空を見上げる。

 

 わずかに晴れた砂塵の合間から、青空がのぞいていた。

 

 弥怒はフッと笑みを浮かべ、仮面へと視線を落とす。

 

 額の札はほとんどが燃え尽きていて、わずかな切れ端が小さくくすぶっている。

 

 

『ははっ、そうか……それは…………よかった。よかった……』

 

 

 私はその光景を視界に収めつつ、引きつった口元で、それだけを返す。

 

 弥怒は愛おし気に、面の頬を撫でた。

 

 私の面を上から岩元素で覆い、老猿をかたどった儺面。

 

 その表面には、幾本もの細かいヒビが走っていた。

 

 弥怒は吹きすさぶ砂嵐の中、穏やかに語る。

 

 

「礼を言いたいのだ。平安」

 

 

『……』

 

 

「お主は眠りから覚めた己れに、生まれ変わった璃月港を見せてくれた。モラミートの味を、教えてくれた。伐難の最期を、知る機会を与えてくれた。璃月を、守らせてくれた。戦友との……約束を果たさせてくれた」

 

 

『…………』

 

 

「感謝しても、しきれぬ。札を拾ってくれたのがお主で良かったと、今なら確信を持って言える。やはり、お主でなければ駄目だったのだ。平安」

 

 

『……っ!』

 

 

 名を呼ばれても、言葉が出ない。

 

 

 物書きを名乗っているというのに、なんと嘆かわしい。

 

 それでも、このこみ上げてくる熱い何かを、私はどうしても言葉にすることができなかった。

 

 代わりに出てきたのは、取り繕うようなありあわせの、凡庸な返答。

 

 

『そ、そんなこと……言うなよ、弥怒。ほら、約束なら、私たちにも残っているじゃないか。望舒旅館の杏仁豆腐だ。前訪れたときは機を逃したが、きっとこれから向かえば、食べられるはずだ。とろけるような口どけ、幸福に包まれるような優しい甘さ。どうだ、弥怒も食べたくなってきただろう? だから――』

 

 

 

 

「すまない、平安」

 

 

 

 

 弥怒は少し寂しそうに、私の言葉を遮った。

 

 

 

「その契約は、果たせそうに………………ない」

 

 

『そんな……』

 

 

 

 頭では、分かっている。

 

 分かっていたとも。

 

 あれほどの元素力を酷使して戦ったのだ。

 

 弥怒の魂は岩元素を媒体として、札に宿っていたもの。

 

 私の中に入り込んでいた彼の魂と元素は、札と共に今、燃え尽きようとしている。

 

 

 残された時間は、あまりに短すぎた。

 

 

 弥怒はややバツが悪そうに、後ろ頭をかく。

 

 

「あまり褒められたことではないがな。この璃月の地で契約を反故にしたにももかかわらず、己れは恥ずかしげもなく、都合良くもお主にさらに契約を……。いや、友として、重ねて頼みごとを、しようとしている」

 

 

 私はあらん限りの力で首を横に振った。

 

 

『何を今更水臭いことを言っているんだ! 契約を果たせなかったのは私も同じだ。何でも、言ってくれ、弥怒! 友達じゃないか!』

 

 

 弥怒は軽くうなずくと、腕を持ち上げて、仮面で再び顔を覆う。

 

 

「ありがとう、友よ。では一つだけ、お主に頼もう。……魈を、降魔大聖を、見守ってはくれないだろうか。奴は孤独に慣れすぎた。きっと、己れが山里の人々に感じた温もりが、彼には必要だ。だから平安。奴をそばで見てやってくれ。夜叉としてではなく、ただの…………友として。己れを見てくれていた時と、同じように」

 

 

「ああ……、ああっ! 約束する! 彼が私を認めてくれるかは定かではないが、それでも私は、彼を友として見守ると誓う! 誓うとも! それが友の願いとあらばなおさらだ!」

 

 

「フッ、頼んだぞ、平安」

『任せろ……弥怒っ!』

 

 

 砂埃はもうすでにかなり晴れてきており、薄茶色のベールの向こうから、槍を持った少年が現れる。

 

 

 

 

 それが、私と弥怒の交わした、最後の言葉だった。



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護法戦記 35話 本を閉じた後に

私は平安。璃月のしがない小説家だ。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


 岩間を通り抜ける風が甲高くか細い音を響かせる。

 

 まるで歴史の影に消えた英雄との別れを惜しむかの如く、大地が哭いていた。

 

 私は白い砂埃が薄く積もった地面にうずくまり、仮面から剥がれた砂の欠片を抱き寄せる。

 

 妖魔の猛攻を耐え切ったはずの応達の鎧。

 

 今はもう岩元素が抜け切ってしまったためか、欠片は指先で触れるだけでいとも容易く崩れてしまう。

 

 

「あぁっ……」

 

 

 私がわずかに漏らした吐息は欠片たちの崩壊に拍車をかけ、それらはまるで示し合わせたかのように一斉にその原型を失った。

 

 

「……名残惜しいか」

 

 

 凛々しくも優しい声が私を包み込む。

 

 静かに首を横に振り、涙に濡れた顔を上げた。

 

 降魔大聖は横顔を私に向け、わずかに顎を引いたまま地に突き立てた槍を握りしめる。

 

 胸が張り裂けそうなのは私だけではない。

 

 そう思った。

 

 

 風も、大地も、かつての戦友でさえ、別れの痛みを隠そうとはしていなかった。

 

 

 決して歴史の表舞台に立つことのなかった1人の夜叉は――。

 

(愛されて、いたのだな……)

 

 

 そう思うと、なんだかすっと胸が軽くなった気がした。

 

 見上げれば、見事な青空が広がっている。

 

 白雲が尾を引き、まるで層岩巨淵の崖壁に波が打ち寄せているように見えた。

 

 

(弥怒を、私はちゃんと見送れただろうか。いや、あの弥怒のことだ。私が心配せずとも、真っ直ぐ自分の進むべき道を進んでいくのだろう)

 

 

 自然と口元に笑みがこぼれる。

 

 層岩巨淵特有の勁風が吹き砂埃を巻き上げたかと思うと、私と降魔大聖が見守る中空の彼方へ消えていく。

 

 大きく深呼吸をして目を落とせば、もう仮面の周りに砂は一粒たりとも残っていなかった。

 

 その代わりに、何か小さな結晶のようなものが、仮面のそばで輝いている。

 

 

「これは……」

 

 

 私が小首を傾げながらそれを拾い上げると、降魔大聖がフッと小さく微笑んだ。

 

「弥怒は余程貴様のことを気に入っていたのだな。それは奴が作った岩元素の結晶、吸瘴石だ。妖魔を退け、業瘴をその内側に封じる。身につけておけば、末代までその身を守ってくれるだろう」

 

 

 傷を負った最後の仙衆夜叉は突き立てた槍を持ち上げ、少しよろめきながら私に背を向ける。

 

 

「ま、待ってくれ!」

 

 

 私はあわてて、不遜にも降魔大聖の衣服の端を掴んだ。

 

 

「近づくな! 我の身は業瘴に飲まれている。神の目をもつ者でさえ蝕まれる強い呪いだ。ましてや通常の人間には猛毒となる!」

 

 

「いや、私は大丈夫だ! 確かに神の目を私は持たない。だが、降魔大聖が今先程言ったように、私は業瘴から守られている。石が、弥怒の遺したこの吸瘴石が、あるのだから!」

 

 

 降魔大聖は肩越しに振り返り、私を見ると微かに目を細める。

 

 

「その石を無駄にするな。そのような使い方をするには惜しい代物だ。なぜならもう、作り直すことはできないのだからな」

 

 

「そんなこと、わかっている! わかった上で言っているんだ。行かないでくれ、降魔大聖。いや、魈! 私は弥怒と約束したのだ。あなたを一人にしないと! 孤軍奮闘する戦友を、友として支えてほしいと!」

 

 

 私の必死な訴えかけに、降魔大聖はチッと小さく舌打ちをし、服を勢いよく引き寄せる。

 

 掴んでいたはずの布は指の間からすり抜けた。

 

 

「そんな……」

 

 

 胸中に寂しさ悔しさが一瞬で広がる。

 

 脳裏に浮かんだのは、弥怒の顔だった。

 

 

(だめだ。弥怒と約束したんだ。例えここで降魔大聖に断られたとしても、何日、何ヶ月、何年経ってでも――)

 

 

 私が立ち上がったその時。

 

 降魔大聖がぼそりと小さくつぶやいた。

 

 

 

「……勝手に、しろ……」

 

 

 

「っ! 魈っ……‼︎」

 

 

 私は喜びを噛み締めつつ、彼の華奢な背中へ駆け寄ろうとした。

 

 が、その背はぐらりと揺れたかと思うと、力無く前のめりに倒れ込む。

 

 

 彼に蓄積したダメージが、許容値を超えていたのだ。

 

 

「おい、しっかり――!」

 

 

 私が叫び終わるより早く、小さな影が岩の間をくぐり抜け降魔大聖の下に滑り込む。

 

 遅れてやってきた風に砂埃が舞い、色褪せた札がはためいた。

 

 

「七七さん!」

 

 

「ん……」

 

 

 微睡んだ眼をこちらへと軽く向け、幼子は小さく首を傾げる。

 

 その両腕はしっかりと降魔大聖を支えていた。

 

 さすがは怪力持ち。

 

 私はホッと胸を撫で下ろした。

 

 

 

「七七さん、お久しぶりです。ありがとう、助かった……」

 

 

「えっと……ん……、七七、覚えてる。あなたは……」

 

 

「おおっ! とうとうちゃんと私の事を覚えてくれたんだな!」

 

 

「うん。あなたは……そう。頭が残念な平安……」

 

 

「んんっ! それだと違う意味になってしまう! 確かに誇れたものは持っていないが、もうちょっと言葉を選んでいただきたい!」

 

 

「……? 残念な、平安……?」

 

 

「一番大事な部分が抜け落ちてしまった!」

 

 

 私が頭を抱えていると、岩陰から軽く咳き込む音が聞こえた。

 

 

「七七、どうしたんですか。患者さんを見つけたんですか」

 

 

「白朮先生!」

 

 

 青白い顔を覗かせたのは、不卜廬の名医、白朮だった。

 

 普段はこんな璃月のはずれまで来ることなど無いはずだ。

 

 なぜこんなところに、と私が言いかけた時、答えは空から降ってきた。

 

 

 

「とうっ! ――シュタッ!」

 

 

 

 音もなく着地したにもかかわらず、自ら効果音を付け足す謎の少女。

 

 風にはためく黒衣に白の彼岸花。

 

 帽子のつばを持ち上げて、ニカっと笑みを浮かべたのは、王大のもとで看病を受けていた胡桃だった。

 

 

「胡桃! もう傷は大丈夫なのか⁉︎」

 

 

 真っ先に心配すべきは、妖魔にうけた大怪我だ。

 

 本来、数ヶ月以上床に伏せてもおかしくない容体だったはず。

 

 

「まさか、白朮先生の秘薬で……」

 

 

 私が白朮へとそのまま目線を送れば、当の本人はやや困り顔で肩をすくめる。

 

 

「いいえ、私は千岩軍より重篤な患者がいると聞きやってきたまでです。彼女の傷はもう塞がっていたので、通常の軟膏を処方したまで。そんな都合の良い秘薬など、持ち合わせてはいませんよ」

 

 

「あの傷が塞がっていただって⁉︎」

 

 

 驚いて胡桃の方へと振り向くが、そこには彼女の姿はなく。

 

 

「あれれ〜? 気になるぅ? 乙女のひ・み・つ」

 

 

 突然背後より寄せられた唇が、吐息と共に私の耳元でささやいた。

 

 

「うわぁっ! って、おい。胡桃ぉ……!」

 

 

「いひひひひひっ」

 

 

 口元を隠していたずらっぽく笑う彼女を見る限り、どうやら壮健なご様子。

 

 呆れて空いた口が塞がらない中、降魔大聖を持ち上げた七七が、白朮に駆け寄る。

 

 

「千岩軍から聞いた重篤な患者とは、おそらくこの人物彼ことでしょう。七七」

 

 

「……ん。治療、必要。七七が運んで帰る」

 

 

 七七は頷くと私たちに別れの言葉も告げず、降魔大聖の足を引きずりながら層岩巨淵の関所へ向かって歩き出す。

 

 白朮はくるりとこちらへと振り返ると、うやうやしく一礼して七七に続いた。

 

 その場に残されたのは、私と胡桃の二人のみ。

 

 私は地面に転がっていた面を拾い上げる。

 

 珍妙な表情をした私の儺面は、まるで何事も無かったの如く白い歯を見せて笑っている。

 

 握りしめていたもう片方の手を開けば、光をたたえる吸瘴石が輝いていた。

 

 

「ちゃんと、お別れできたんだね」

 

 

 その輝きに目を奪われていると、胡桃がつま先で小石をいじりながら、ひどく落ち着いた声で呟く。

 

 それほど大きな声では無かったはずだが、その言葉は私の胸の奥、心の底までじんわりと響いた。

 

 

「往生堂は、お呼びでない?」

 

 

「……ああ」

 

 

 吸瘴石を見つめたまま、私はそう短く答えた。

 

 

「……ふーん、そっか」

 

 

 胡桃は淡々とした声で返事をすると、小石を蹴飛ばし、層岩巨淵の大穴を振り返る。

 

 私もつられて顔をそちらへと向けた。

 

 層岩巨淵はあれほどのことがあったというのに、まるで何事も無かったかのように以前と変わらず、その大穴を口のようにポッカリと浮かべたまま佇んでいる。

 

 

 さまざまなことがあった。

 

 

 多くの人の思いがあった。

 

 だがそれを知る者は、そう多くは無い。

 

 

 不意に、頭の中に今書きかけの小説のタイトルが浮かんだ。

 

 

 なぜだかはわからないが、どうしようもなく、その続きが書きたくなった。

 

 

「私たちも、帰ろっか」

 

 

「……ああ!」

 

 

 頷いた私の心はどこまでも澄み渡っていて、もう下を向いても涙がこぼれることはなかった。

 

 鞄に儺面と吸瘴石をしまい込み、私は前を向いて歩き出す。

 

 その横を後ろ手に回した胡桃がトットットッと小気味良い足取りで追い越すと、少し先で肩越しにこちらをチラと確認する。

 

 私は口元に軽く笑みを浮かべながら、彼女の後を追いかけた。

 

 層岩巨淵を後にし、胡桃と二人で街道を進んでいく。

 

 辿ってきた足跡をひとつづつ、思い返しながら私は歩き続けた。

 

 私たちの帰りを待っていてくれたのは、まばゆい夕陽に照らされた我らが都。

 

 以前よりほんのちょっとだけ寂しくなった、璃月港の街並みであった。

 

 

 

 (完)

 

 

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「……ありがとうございます。しかし、本当にいいのでしょうか。今回の護法戦記、こんないい場所に並べてくださって」

 

 

 私はサンプルとしていただいた製本済みの【護法戦記】を閉じると、万文集舎の店主、紀芳の顔をのぞき込む。

 

 

「まあね、前回よりも少しはよくかけてるってのもあるし、今回はスポンサーさんもたっくさんいることだしねぇ。あなた、商売の才能あるかもよ」

 

 

「いえいえ、そんなご冗談を。本当にありがたいことだと思っています。私の力など、微々たるもので」

 

 

 そう言いながら、私は【護法戦記】巻末の広告欄を開いて目を落とす。

 

 そこには、出資してくれた組織や企業が、こぞって広告を並べていた。

 

「あなたの大切な人を送ります。伝統を重んじた方法で、あるいは見たこともないような斬新な方法で。この本を読んだと伝えていただければ、2人目以降、衝撃の80%オフ――! 〜往生堂〜」

 

 

「巷で話題の新作点心! ほっかほかのモラミートに、トローリ黄金のソースを加えて。あなたの舌に新食感を届けます! 秘密の合言葉、『スイートフラワー』と伝えていただければ、通常のモラミートを黄金のモラミートにグレードアップ! ぜひお友達と一緒にお越しください。〜万民食堂〜」

 

 

「馬尾と葦がたなびく水滸にて、極上の休息を。そうだ、望舒旅館に行こう。〜望舒旅館〜」

 

 

「民を守り、大地を後世へ繋ぐ。今、あなたの力が必要です。一緒にこの国を守り抜こう! 千岩牢固、揺るぎない! 〜千岩軍採用本部〜」

 

 

 と、このような具合で作中に登場した施設や商店などが、広告掲載という形で私の本へ出資してくれたのだ。

 

 その話を聞いた時は、まさに寝耳に水だった。

 

 書店でも前作のように隅に陳列されるのではなく、売れ筋商品の隣に並べていただくという破格の対応。

「ノンフィクションっていうところがなけりゃ、もうちょっと売上は伸びると思うんだけどねぇ。もうちょっと売れた時に、また刷ってあげるからさ、修正する気は無いの?」

 

 

 私は首を横に振った。

 

 この本の内容は、紛れもない事実だ。

 

 

 誰にも知られることのない、璃月の守護者たちを、絵空物語として売り出すつもりは毛頭無かった。

 例えそんな馬鹿なと笑われ、狂人だと指をさされたとしても、私はこの方針だけは決して変えはしない。

「フィクションだったら、結構いい線行くと思うんだけど……」

 

 

 残念そうに首を捻る店主に愛想笑いを返し、私はサンプルを鞄にしまい込む。

 

 それでは、とその場を後にして踵を返した私の胸元には、数珠に繋がれた琥珀色の結晶が躍っていた。



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