東京喰種[unison] (You create)
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#1[驟雨]
何の前触れもなしに突然降り始めた大雨が、都会のアスファルトやコンクリートに覆われた地面を強く叩く。思わず耳を塞いでしまいたくなるほどの騒々しい雨音が、この世界全ての音をかき消してしまうかのような勢いで響いている、光さえ見えない夜。
そんな果て無き暗闇の中に、一人の青年の姿があった。
「はあっ、はあっ……」
青年は闇の中をただひたすらに走っていた。そのさまはまるで何かを探しているかのようであり、また何かから逃げているかのようでもあった。
(大丈夫、きっと大丈夫だ……。あそこには、アイツらが残っているはず……)
混濁する意識の中、目的の場所に近づけば近づくほどに聞こえてくるのは何者かの怒号や騒音。おそらく周囲ではまだ誰かが戦いを続けているのだろう。次第に音の方からもこちらへと近づいてくる。
「チッ、奴らはいったいどこに行った!?」
「おそらくまだそこまで遠くには行ってないだろう、追うぞ!」
「ああ……。――おいっ、誰だ!?」
その手にアタッシュケースと“得体の知れない武器”を持つ、白いスーツを着た集団と鉢合わせてしまう。刹那、彼らを見た青年の心臓が早鐘を打つ。決して抗うことのできない、理性を凌駕した本能が囁きかけてくる。
――何をためらう必要がある? 迷う必要はない、さぁ……さぁっ!!
(そうだ、別にこの人たちでもいいじゃないか……。――違うッ!! 駄目だ駄目だ駄目だ!)
自身の頭の中から聞こえてくるその甘美な囁きに正気を失いそうになる。だがすんでのところで踏みとどまり、何とか“その欲求”を押し殺すことに成功する。
「まさか……生存者か! 君、大丈夫だったかい?」
スーツの集団が駆け寄ってくる。しかし、これ以上この場にて足止めを食らうわけにはいかない。青年はおよそ人とは思えないほどの驚異的な跳躍力で、彼らの頭上を飛び越える。
「な――」
彼らは青年がとった行動に呆気に取られ、ほんの一瞬動きが止まってしまう。その隙をついて、青年は疾風のごとき速度でさらに先へと進んでいった。
――ほどなくして青年は目的の場所にたどり着く。その目の前にある光景は、まさに地獄と呼ぶにふさわしいものであった。血と泥と降り続ける雨が混ざったそれはどす黒い赤色をしており、そこにはかつて人だった“なにか”が無数に浮いている。文字通りの血の海。想像を絶するほどの激しい殺し合いが行われたのだろう。
雨はまだその勢いを殺さずに降り続いている。絶えず降り注ぐそれは、青年の身体を、頭を冷やし、彼に平常心を取り戻させつつあった。
「はあっ、はあっ……、動くな! 貴様は何者だ!?」
先ほどのスーツの集団が青年に追いついた。青年の速さゆえにかなり距離が開いていたはずなのだが、その彼はこの惨状を前にかなり長い時間立ち尽くしたままでいたらしい。
「…………」
次の瞬間、今まで激しく降っていた大雨がぴたりと止む。雨雲が去り、隠されていた月の光がスポットライトのように、青年を中心に周囲を照らす。
都会の路地に一陣の風が舞い込み、青年が着ているコートのフードがめくられる。その下にはまるで血に染まったかのような“赤い髪”。月下に映えるそれは、風になびいて怪しく揺れている。
騒々しい雨音も吹き荒ぶ夜風も消え、新たにしんとした静寂が夜の闇を支配する。それを切り裂くかのように、この場に放たれた一言。
「――――腹、減ったな」
青年はその言葉を最後に、意識を手放した。
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#2[記憶]
『どうして!? 今日は――』
闇の中から声が聞こえてくる。
『――、あなたは私たちの希望よ。いつの日か必ず、この世界をより良いものに変えられるわ』
『――と――を忘れないでくれ。お前は誰よりも強く、誰よりも優しい、俺たちの自慢の――』
再び何者かの声が闇に響く。しかし、雑音のようなものが入ってところどころうまく声が聞き取れない。それに声の主の姿も見えない。
『生まれた……! 生まれたよ、――! 元気な男の子だ!』
『ふふっ。ほんとう、かわいい男の子ね。どうかこの子の人生が、幸せでいっぱいになりますように』
依然として声の正体はわからない。だが、どこか懐かしい感じがする。
『……名前、呼んであげようよ!』
『そうね。私たちの大切なこども、あなたの名前は――』
その言葉を最後に、闇が晴れて眩い光が差し込んでくる。
「…………ん」
目を開けると、そこには見たことがないほどに真っ白な天井があった。首だけを動かして周りの様子を確認してみれば、ここがなにかの部屋で、自分以外に誰一人としていないということがわかった。それと同時に、自分がベッドに寝かされているということにも。
(ここは……どこだ? それに……なんで?)
次に頭に浮かんだのは素朴な疑問。自分はいったいどこにいるのだろうか、なぜこんなところで寝ていたのだろうか。考えようにもなぜか頭がうまく働かない。しかし。
(ここでじっとしているわけにもいかないよな……)
そう思って身体を起こし、ベッドから降りようとしたのだが――。
「――あれっ?」
次の瞬間、ベッドから床へと盛大に転がり落ちる。理由はわからないが身体をうまく動かすことができなかった。またも疑問に思い、目に見える範囲で自分の身体を確認する。そこには骨と皮だけとまではいかないが、かなり細くなっている自分の腕があった。立ち上がろうとしてみても、腕だけではなく全身に力が入らない。
しばらくどうしたものかと考えていると、部屋の外からかなりの急ぎ足でこちらへ向かってくる誰かの足音が聞こえてくる。先ほどベッドから落ちたときの音が思いのほか外まで響いたのだろうか。やがて足音は部屋の前で止まり、勢いよくドアが開けられる。
「え、嘘……。先生! 赤い髪のあの子が、彼が目を覚ましました!」
扉を開けた女性は、まるで信じられないものを見たかのように一言つぶやき、誰かを呼びに急いで部屋の外に出て行ってしまった。床に倒れたままの“赤い髪”の青年は起こしてもらえると期待していたのだが、自分を放置したままどこかへ行ってしまった女性を見て、うまく動かせない肩を落とす。
今の女性が看護師のような恰好をしていたことと、「先生」なる人物を呼んでいたことから、青年は自分が病院にいるのではないかと推測する。それにしてもどうして病院に、いったいいつから、などといった新たな疑問が次々浮かび、それについて考えていた青年だが、直後に最も重要で最も大きな疑問が襲い掛かってくる。
「そういえば俺って……誰だ?」
「彼が目を覚ましたって、本当かい!?」
「はいっ! たしかに起きて動いていました!」
先ほどの女性が、眼鏡をかけた初老の男性と共に青年がいる部屋へと走っていく。その尋常じゃないまでの興奮具合に、廊下をすれ違う人々はみな困惑している。やがて青年の部屋の前に着き、ドアを開けた二人の目の前には、床に倒れつつもこちらをじっと見つめる一人の青年の姿があった。
「君! 大丈夫かい!?」
「あ、忘れてた! ごめんなさい!」
そう言うと二人は青年の身体を支え、ベッドに寝させる。
「あの――」
「ああっ、点滴器が! それに――……いや、その様子だと心配なさそうだね。とにかく、今目が覚めたばかりだろう、水を飲むといい」
男性は部屋にある冷蔵庫からペットボトルを取り出し、蓋を開けて青年に飲ませた。10秒を過ぎたあたりで青年が苦しそうにしたため、慌てて口から離す。
「おっと、すまない」
「……はあ、ベッドの上で溺死するかと思いました。それよりも、ここは病院……ですよね? 俺はどうしてここで寝ていたんですか? それに俺は誰ですか?」
「なんと……。君は何も覚えていないのかい? あの日のことや、君自身が誰なのかも」
「あの日のこと? ……いや、さっぱりわかりません。でも自分の名前なら覚えてます。それよりも、俺はいったいいつからここにいるんですか?」
青年のその言葉を聞いて、目の前の二人は表情を曇らせる。これから彼に伝える真実はあまりにも残酷であった。目覚めたばかりで混乱しているだろう今、教えてよいのだろうか。しかしいずれは伝えなければいけない。男性は意を決して口を開いた。
「……君は5年前に、とある事件に巻き込まれたんだ。こちらが保護したときにはすでに昏睡状態で、すぐにこの病院に運び込まれたのだが、決して意識を取り戻すことはなかった。……今日までは」
「…………え、5年!?」
男性の口から語られたそれは青年にとってあまりにも衝撃的なものであった。まさか5年間も寝ていたとは。どおりで身体がうまく動かないわけだ。それでもまだ生きていられたということが信じられないくらいだ。
「そういえば先ほど、名前は憶えていると言っていたね。なんて名前だい?」
男性が名前を問いてくる。自分でも不思議だが、今までのことをほとんど忘れてしまっているのにもかかわらず、名前だけは憶えていた。
「セキ、です。漢字はたしか……“隻眼”の『隻』」
その名を言った途端、二人の表情が複雑なものになる。もしかして記憶を失う前はとんでもない犯罪者かなにかだったのだろうか、と邪推してしまう。
「……苗字はないのかい?」
「わかりません。そもそも今言った名前が苗字なのか名前なのかも……」
二人の表情が元に戻る。とりあえずなにかの疑いは晴れたようなので、青年は内心ほっとした。それにしてもどうして名前だけは憶えていたのだろうか。……おそらくとても大切にしていた名前なのだろう。きっと家族もいたに違いない。なんだかとっても申し訳ないことをしてしまったな、なんてことを考えていると――。
「彼が目を覚ましたというのは、本当かい?」
親しみやすそうな顔をした人が、新たに部屋に入ってきた。
「わ、和修局長!?」
そう呼ばれたその人は、先に部屋にいた二人に軽く会釈すると、ベッドの上で横になっている青年――隻の隣に立ち。
「初めまして。隻くん、だったかな? 私は〔CCG〕局長の和修吉時という者だ。よろしく」
柔らかそうな笑顔を浮かべ、そう言った。
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#3[新名]
「初めまして。隻くん、だったかな? 私は〔CCG〕局長の和修吉時という者だ。よろしく」
そう自己紹介した男、和修は、柔らかそうな笑みを浮かべて隻を見る。
「……あ、ご親切にどうも、隻といいます。こちらこそよろしく……お願いします?」
突然現れた和修という男に、隻は困惑しながら挨拶を返す。先ほど「私共はこれにて失礼します……」と言いながら足早に部屋を出ていった二人の様子に、局長という肩書。彼はどこかの偉い人なのだろうか。
「ところで、その……和修さんは、俺にどういったご用件で?」
「いや、君がようやく目を覚ましたと聞いて、様子を見に来たんだ。それ以外にも、君にはいくつか聞きたいことがあったから、それを聞きにね」
「聞きたいこと、ですか? でも俺、自分のことすら全然覚えていないんですよ。質問に答えられるかどうか……」
「別に難しいことを聞くわけじゃない、安心して大丈夫だ。そうだね……まずは一つ目の質問だ。君は、“喰種”という存在に聞き覚えがあるかい?」
“喰種”――この世にはびこる絶対悪であり、人と同じ姿形を持ちながら、人を喰らうおぞましき存在。彼らは己の欲望のまま、なんの罪もない人々を殺めてその血肉を啜る。
そしてそれらを駆逐するために誕生したプロフェッショナルが、和修らが所属するCommission of Counter Ghoul、通称〔CCG〕である。
「“喰種”……人を食べる人……。聞き覚えがあるような、ないような……」
隻は失った記憶の中から、その存在を思い出そうとする。なんとなく知っているような気がするのだが、いまいち要領がつかめない。
――実際は何も聞かされていないのにもかかわらず、「“喰種”が人を食べる」ということを自然と口に出した時点で知っているということになるのだが、そのことに気づく隻ではなかった。
「ふむ、そうか……。それでは二つ目だが、君が憶えていないものと、憶えていることを教えてくれないかい?」
隻はまたも深く考える。彼が憶えているのは「隻」という自身の名前、そのほかには漢字や数字、「赤信号では止まり、青信号では進む」、などといった世間一般の常識くらいである。必然的に、それ以外はすべて忘れているということになる。
そうやって考えていると、突然彼の頭の中にとある景色が浮かび上がってきた。
「雨……」
「ん?」
「あの日、雨が降っていた……。その前も、そのさらに前も……」
思考の海に沈みかけていく中、隻は自分が彼からの質問に答えられていないことに気づく。
「……あ、すいません。二つ目の質問ですが、憶えているのは自分の名前と一般常識くらいで、忘れているのはそれ以外のすべて……です」
「……思ったよりも深刻だな。自分の家族のことや、それまで何をして生きていたのかもわからないのかい?」
「はい」
それを聞いた和修は顎に手を当て、何かを考え始めた。そして数分ほど考えたのち、再び口を開いた。
「……先ほど説明と思うが、君は5年間も昏睡状態にあった。その間にも私たちは君の身元を調べたのだが、何一つ手掛かりは得られなかった。それでいて君自身にも過去の記憶がないときた。未成年時に保護された以上、孤児という扱いにはなるのだろうが、君自身は年齢でいえば既に成人した大人になっている。つまり、この5年間での医療費などの支払い義務が生じるというわけだ」
彼からいきなり繰り出されたそんな話題に、隻は思わず顔を引きつらせる。自分が5年間も昏睡状態にあったという事実だけでも既にお腹いっぱいだというのに、次に宣告されたのは医療費の支払い義務、それも5年間分。当然払えるはずがない。もしかしたらあてがあるのかもしれないが、戸籍もなければ保険に加入してもいない自分に全額払うことはやはり不可能だろう。
そもそも過去が思い出せないくせに、どうしてこうした知識だけはすらすらと頭に浮かんでくるのだろうか。
「あの……、和修さん? 俺、一生かけても払える気がしないんですけど……」
そう返すことで精いっぱいの隻に、和修は彼の目を見て問いかける。
「そこで、だ。隻くん、最後の質問だが……」
男は今まで浮かべていた笑みを抑え、真面目な表情へと変える。それは今まで会話していた“和修”としての顔ではなく、〔CCG〕局長である“和修吉時”としての顔であった。
「私たちと共に、〔CCG〕で働いてみないかい?」
その日の夜、和修に〔CCG〕に勧誘された隻は、ベッドの上で今日起こった出来事を整理していた。和修が帰った後、隻が目覚めたということが病院内で広まり、多くの人が病室に押しかけてきたのだ。彼らから自分が眠っていた間のことをいろいろと教えてもらえたことは幸いだったが、何しろ5年間分であったために情報量が多く、目覚めたばかりの彼の頭にはきついものがあった。
(〔CCG〕で働く、か……)
和修は〔CCG〕について隻に軽く説明したあと、『5日後に答えを聞きにまた来るよ』と言っていた。それと同時に『もし〔CCG〕に来てくれるのなら、ある程度の生活は保障しよう』とも。当然〔CCG〕の仕事が安全ではないということは理解できたが、隻にとって“生活の保障”という言葉はとても甘い響きであった。ついでに新たな戸籍まで用意してくれるのだとか。既に隻には断る理由は存在しない。とりあえず生活するあては見つかりそうだ、と安心してふと見た窓の外の世界には、夜なのに眼が眩むほどに明るい東京の街があった。
目覚めたときはまだ昼過ぎ頃であったが、気づけばもう夜になっていた。今日はとても疲れた、もう寝ようと思ったところで、ある不安が頭をよぎる。
「俺、明日も起きられるのかな……?」
次に目が覚めたらさらに5年後でした、なんてことが起こるかもしれないし、もしそうなってしまってはせっかくのチャンスを逃してしまう。たしかに眠るのは少し怖いが、恐れていても仕方がない。なにより、そんなことを考え続けるほどの体力すら、今の隻には残っていなかった。
――数分後、暗い部屋の中では一人の寝息だけが聞こえていた。
それから4日後、病室のベッドの上には漢字辞典を読む隻の姿があった。
彼は目覚めた翌日からその日の新聞や雑誌を持ってきてもらい、それらを読んで今の世の中について学ぶという生活を送っていた。5年ぶりの社会にいきなり出たら困惑するに違いないだろう。……まだ頻繁に身体を動かすことができないため、それくらいしかすることがなかったというのもあるが。
彼は今、漢字辞典にて自分に合いそうな漢字を探していた。というのも前に部屋に来た先生に、『いつまでも名前が「隻」だけでは不便だろう』と言われたからである。たしかにこれから社会に出るにあたって名前は必要不可欠であるだろうし、彼自身も名前が欲しいと考えていたところであった。
このことを和修に伝えたところ、名前に関してはこちらで自由に決めていいと返ってきた。そのため、今に至るまでありとあらゆる書籍を読み漁っていたのだが――
「いいの見つかんないなあ……」
といった状況である。これまでにいくつかは良さそうな漢字を見つけられたのだが、いずれも自分の中で没となっている。このままでは埒が明かないと感じた隻は、読んでいた漢字辞典を側に置いて新たに別の本を読み始める。
(ん?)
突然、本のページをめくっていた彼の手が止まった。今読んでいる本の題名は、『世界の偉人・名言集』。そこにあった一つの言葉に目が釘付けとなる。
「力強い勇気は、万人の心を打つ……」
正確には、“勇気”と“心”という言葉に思うものがあった。ありふれている言葉のはずだが、自分にとってはどうしてか特別な言葉であるかのように感じられた。
すぐさま辞書を開き、その二つの意味を調べる。ノートを開いてペンを取り、その二つの漢字を組み合わせたものを書き留めて、
「――よし、これに決めた!」
「やあ、調子はどうかな隻くん? 前よりも動けるようにはなったと聞いたんだが」
「はい、それなりには動けるようになりました」
隻が目覚めてから5日後の昼、約束通りに和修が再び病室に来た。
「……では、君の答えをきかせてくれないか?」
和修が真剣な表情で隻に問いかける。それに対して隻は、
「はい。俺を〔CCG〕で働かせてください!」
今までで一番大きい声での返事で返した。和修は一瞬驚きの表情をしたが、すぐにいつもの柔らかそうな笑顔に戻した。
「わかった、歓迎しよう隻くん。改めて、私は〔CCG〕局長の和修吉時だ。これからよろしく。それでは、君の新たな名前を教えてくれ」
「はい! 俺の名前は今日から隻
どちらが先だっただろうか、二人はお互いに手を差し出して固い握手を交わす。
ここに隻の、隻
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