ひょんなことから担当ウマ娘とデートすることになりました【短編集】 (キビタキ)
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役作りのためメジロアルダンとデートすることになりました
「トレーナーさん、実は折り入ってお願いがあるのですが…」
秋のファン感謝祭…すなわち聖蹄祭を二週間後に控えた、ある秋の朝。メジロアルダンは何の前触れもなくそう切り出した。
担当ウマ娘の願いを、担当トレーナーとして聞かないわけにはいかない。二つ返事で承諾し、その内容を尋ねてみると…。
「はい、演劇で主人公の恋人役に選ばれたのですが、その役作りのお手伝いをしていただけないかと思いまして…♪」
両手をぽんと合わせながら、彼女はいつもと変わらない淑やかな笑顔を見せた。
話によれば、聖蹄祭の出し物の一つである演劇の、いわゆるヒロイン役に抜擢されたらしい。だが、その心情がいまいち理解できないということだった。
「台本を何度も読み直しているのですが、上手く感情移入できないのです。特にこの…まだ顔見知り程度だった二人が、街中でばったり出くわして、そのままデートになって仲を深めていくシーン。この時点で既に、恋人役は片思いだったのでしょうか? それとも、ここから想いを寄せ始めたのでしょうか? そういった感情の機微が、この台本からはなかなか読み解けなくて…」
台本を開いてみせ、とつとつと不明点を説明する彼女。そこには台詞だけしかなく、登場人物の表情や仕草といった細かな指示はない。恋人役はこのシーンから主人公に惹かれていく流れのようだが、確かに台詞だけではいまいち分かりにくいようにも思えた。
「ですので、このお話のように、私と実際にデートしていただけませんか?」
難しい顔から一転して、にこにこと微笑みながら彼女は言った。そう、恥ずかしげもなく、あっさりと。
唐突な依頼にたじろぐこちらを知ってか知らずか、彼女はいたずらっぽく続けた。
「百聞は一見に如かず…同じシチュエーションに身を置けば、きっとこの役の心情を理解することができると思うのです。こういったことを頼める身近な殿方も、今はトレーナーさんしかおりません。どうか、お聞き届けいただきたく存じます…」
両手を前に添えての丁寧なお辞儀。担当トレーナーと担当ウマ娘の関係になっても、彼女は名門メジロ家の令嬢らしく、常に気品にあふれていた。
ただ、この時ばかりは少し違った。俯き加減に頭を上げた彼女は、こちらの顔色を伺うようにして物憂げな視線を飛ばしてきたのだ。それはいわゆる、上目遣いといわれる行為。その紫苑色の瞳には、確かに小悪魔が潜んでいるような気がした。
真面目な彼女が見せるはずがないと思っていた所作。その反則的なギャップに打ち勝てるわけもなく、無意識のうちに首を縦に振っていた。
「ふふっ、ご無理を聞いてくださり、ありがとうございます。明日は確かお時間がありましたよね? 本番まであまり余裕もありませんし、明日早速デートするということで段取りいたしましょうか…♪」
そこにあったのは満面の笑み。いや、したり顔というべきだろうか。
つややかな水色の尻尾は、いつになくふわふわと揺れていた。
デートといえるのかは微妙だが、彼女と二人で出かける機会自体はこれまで何度かあった。印象に残っているのは、やはり美術館や観劇といった芸術鑑賞だが、他にはメジロ家のお屋敷や、避暑地である別荘に案内してもらったこともあった。
ただ、いずれも『お出かけ』というよりは、『高貴な外出』と表現すべきもの…いわゆる上流階級の人間が行うイメージがあるものばかりだった。そもそも彼女はメジロ家の令嬢なのだから、当然と言えば当然なのだが。
何にしても、どうにも"浮き世離れした"お出かけばかりだったことは確かだった。そのことは彼女も気にしていたらしく…。
「明日は普通のデートにいたしませんか?」
段取りを決める中で、開口一番に彼女は提案した。
演劇の内容に合わせて…というよりも、彼女自身がそれを望んでいたように、何となく思えた──
翌日の昼。幸いにも秋晴れに覆われた東京都心…その有名な待ち合わせスポットで合流する手筈となっていた。そう、この日のシチュエーションは、昼間の街中という、ごく一般的なデートだった。
ただし、ばったり出会うという場面をできるだけ再現するため、落ち合う時間だけは曖昧にしていた。つまり、待ち合わせ場所でいつやって来るかも分からない担当トレーナーを、彼女は今ひたすら待っているという状況であった。
腕時計をちらりと見て、そろそろと待ち合わせ場所へ向かう。あまり待たせるのも悪いという思いが、自然と足取りを速くしていた。
大勢の人が佇むその場所でも、彼女を見つけるのは容易だった。
一際目を引くロングヘア。それはアクアマリンを彷彿とさせる透き通った水色。世界に一人しかいないのではないか…そう思わせるほどに美しい髪だ。
後ろ姿ではあったが、遠めからでもすぐに彼女だと分かった。
しかし、近づくにつれ違和感が増し、やがて目を疑った。髪色こそ同じだが、ファッションのイメージは大きく違っていたのだ。
いつもならベージュのブラウスに薄紫のミドルスカートといった、いわゆる清楚系の落ち着いた私服なのだが、この日は明らかに違う。ぴっちりとした純白の長袖カットソーに、烏羽色のプリーツミニスカート。もしかすると、スカート丈はあの優美でエレガントな勝負服よりも短いかもしれない。そして、その下で大胆に露出した肌色…日々のトレーニングやレースで見慣れているはずなのに、それはあまりにも眩しく見えた。
彼女の視界に入らないように、側面に回ってみる。可愛らしい手提げカバンを両手で持ちながら、周りをきょろきょろと見回すこともなく、静かに考え事に耽っているようだった。
意を決してそっと話しかける。その声に反応して、振り向きざま、あでやかに舞った水色のそれ。特注の洗髪剤が振りまく清らかな香りは、いつもと同じ安らぎを確かに与えてくれた。
「まぁ、こんなところで…奇遇ですね」
口に手を当て、いかにも偶然の出会いを装う彼女。その表情は思いの外にこやかに見えた。
一方、こちらといえば、彼女の姿を真正面から見て思わずドキッとしていた。服装が違うだけでがらりと変わってしまう印象。上半身のシルエットをこれでもかと強調する純白のそれは、同時にその陰影もはっきりと映し出していた。そこから逃げるように目を逸らした先には、健康的でいてどこかつやっぽい両脚。結局、彼女の顔を真正面から見据えることしかできなかった。
これが彼女のデートにおける"勝負服"なのだろうか。新しい一面を見られた嬉しさと、何ともいえない気恥ずかしさに、これが役作りの練習であることも忘れて、待たせてしまったことへの謝罪を口にしてしまった。すると、すかさず…。
「駄目ですよ、トレーナーさん。私たちはここでばったり出会ったのですから」
少しばかり意地悪っぽく、彼女は首を横に振った。あくまで演劇のシチュエーションに合わせて振る舞わなくてはならないらしい。
わざとらしく咳払いして、今度は予定通り食事に誘った。
「はい、喜んで」
心なしか上機嫌に頬を緩ませながら、それは普段と変わらない淑やかな受け答えだった。
どうやら台詞選びに関しては自由で良いらしい。あくまで大まかな流れと雰囲気を味わうのが目的なのだろう。
台本によれば、恋人役は主人公に食事と遊びに誘われ、存分に楽しんでからお別れすることになる。演劇の中では、ほんの数分で終わるシーンだ。
「私、あまりこういった場所に詳しくなくて…トレーナーさんが選んでくださったお店なら、どこでも構いません」
自信なげに、それでいてうきうきと彼女は言った。
となれば、定番の場所で構わないだろう。いや、むしろその方が喜んでもらえる気がした──
清潔感のある今めかしい店内は、休日ということもあるのか、特にカップルが多く見受けられた。
訪れたのは、"ウマバ"と呼ばれる全国的に有名なカフェ。さすがの彼女も名前こそ知っていたが、入店はこれが初めてだという。
「一度入ってみたいと思っていたのです。コーヒー、紅茶、日本茶…色々と嗜んで参りましたが、このようにカラフルでオシャレな飲み物はなかなかありませんから…」
目をきらきらさせながら感嘆の声を漏らす彼女。視線は一箇所に落ち着かず、ガラスケース、期間限定メニューのポップ、他の客のテーブルと、次々と目移りしているようだった。
「どういたしましょう…これだけ種類が豊富だと、何を頼めば良いか迷ってしまいますね」
注文の順番待ちが徐々に短くなり、いよいよ自分たちの番が回ってくる。どれが気になっているのか尋ねてみると…。
「飲み物はこの期間限定メニューのりんごと梨…どちらかにしようと思うのですが…」
入店するなり釘付けになっていたポップ、そこにあったアップルティーラテとペアーミルクティーで決めかねているようだった。確かにどちらも美味しそうで、迷ってしまう気持ちもよく分かる。そういう時は両方とも頼んでしまえばいい。
「えっ、よろしいのですか?」
水色の耳がぴんと逆立ち、彼女は目をぱちくりさせた。
それはこちらの財布の心配をしているのか、摂取カロリーを心配しているのか、そこは分かりかねたが、たまにはこういう贅沢も…と告げると…。
「今日はご無理を言ってお付き合いいただいたのに、贅沢までさせてくださるのですね。ふふっ、ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えさせていただきますね」
胸に手を当て微笑むその姿は、いつになく無邪気に見えた。
お菓子にはガトーショコラを二人分頼んで、向かい合わせに腰を下ろした。
「とても美味しそうですね。りんごの薄紅と梨の浅緑…色の取り合わせも素敵ですし、絵の題材としても素晴らしいように思います」
長い入院生活の中で、いつしか絵を描くことが趣味となっていた彼女。日常の些細な出来事でさえ、芸術的な視点を常に持っていた。
「あら…トレーナーさんは飲み物を頼まれなかったのですか?」
不意に発せられた怪訝の声。頼んだ二つのドリンクが、もし彼女の口に合わなかった時に備えてのことだった。
「申し訳ありません。私のわがままを聞いてもらったばかりに…」
見る見るうちに倒伏する耳。しかし、それは少しの間だけだった。
「…そうだ♪ せっかくですし、半分こいたしませんか?」
いそいそと尻尾を揺らして、彼女は両手をぽんと合わせていた。それは機嫌が良い時によく見せる仕草だった。
こちらのことは気にしなくていいと伝えるも…。
「トレーナーさんの方こそ、気にしなくていいんですよ。私とトレーナーさんの仲ですもの…それに、これはデートなのですから、二人共が楽しまなくては…♪」
そう言い終えるや、浅緑のコップを差し出す彼女。次いで、手前の薄紅を口に運ぶと、目を見開いてすぐさま満足げな感想を述べた。幸いにも、彼女の好みの味だったようだ。その笑顔を見れただけでも、ここを選んで良かったと安堵した。
こういったカジュアルな場でも、彼女は淑女らしく上品に振る舞った。改めてその姿に見惚れながら話に花を咲かせていく。他愛のない会話の中、待ち合わせ場所で思わずその姿に目を疑ってしまったことを告げる。
「ふふ、驚かせてしまったようですね。いつもと異なる趣であることは承知していましたが、演劇の衣装に近いものをと思いまして…」
恥ずかしがる様子もなくそう言ってのけた彼女に、なるほど…と相槌を打つ。そのままの流れで似合っていると付け加えると、少しばかり顔を赤らめながら答えが返ってきた。
「まぁ、そのようなこと…けれど、そう言っていただけて、とても嬉しいです。演劇本番も是非近くでご覧になってくださいね」
ガトーショコラを器用に切り分けながら、彼女は不意を突くように続けた。
「ところで、そろそろ交換いたしませんか?」
何のこと…と、困惑するこちらには目もくれず、その視線は半分くらいに減った浅緑に向けられていた。よく見ると、彼女の持つ薄紅も同じくらいの量だった。
おそるおそるその真意を問う。言わずもがな、彼女の言う半分ことは、そういう意味らしい。
「もしかして…ご無理を申し上げたでしょうか?」
遠慮する理由が本当に分からない…そんな顔で、耳をぴくぴくと上下させる。
「確かにお行儀は悪いかもしれませんけれど…他のカップルの方々もされているようですし、私は平気です。だって、これはデートなのですから…」
すっと差し出される薄紅のコップ。やおらに受け取ると、彼女は可愛らしい小動物でも見るように目を細めてみせた。
所有者の入れ替わったそれを、お互い口に運ぶ。味蕾を心地良く刺激する高貴な味。甘酸っぱいりんごと、淡く穏やかな梨の取り合わせは、意外にも相性抜群に思えた。
同じことを感じていたのか、彼女もこちらを見ながらくすくすと笑っていた──
ウマバを後にしてからは、典型的なデートコースを辿った。ゲームセンター、カラオケ、ショッピングモール…一般的なカップルが真っ先に訪れるであろうそれら。しかし、いずれも彼女とは初めての体験だった。
生まれつき病弱で、深窓の令嬢だった彼女。友人と外に遊びに行くことすら稀であったという。ましてや、トレセン学園に入学してからは怪我による入院もあり、とても悠長にお出かけする時間など無かった。言い換えれば、精神的な余裕が一切無かったのだ。
しかし、今は違う。スカウトされてからはメジロ家の友人だけでなく、クラスメイトとともプライベートで交流を深めているし、学園の食堂で談笑している姿もよく見かけるようになった。
そして、今日のデート…今まで知らなかった姿を何度となく見せてくれた。初めて触れたであろうメダルゲームで大はしゃぎしたり、カラオケルームでダンス付きで持ち歌を披露してくれたり、アパレルショップで普段着ないような服をいくつも試着してみたり…全てが新鮮に感じた。
それはきっと、彼女に対してずっと大人びた印象を持っていたからだ。実際、お姉さん気質のしっかりした性格であるし、トレーニングへのストイックさは並大抵のものではない。
だが、ひとたび街に繰り出せば年相応の女の子になる。演技ではなく、彼女は心から楽しんでいるように見えた。そう、まるで本当のデートのように…。
トゥインクル・シリーズという途轍もなく過酷な舞台に挑みながらも、やはりその本質は年頃の少女なのだと、今更ながらにその当たり前の事実を再認識していた。
淡い街灯に照らされた帰り道。
不意に、秋の夜風が水色のロングヘアを撫でた。毎日入念に手入れしているであろう一本一本が、絹糸のようにさらさらとなびいている。
「どうしても確かめたいことが一つあるのです。最後までお付き合いいただけますか?」
たおやかに舞うそれに手を当てながら、その横顔はとてもリラックスしているようだった。もちろん、断る理由なんてなかった。
帰りの電車がトレセン学園の最寄り駅に着いたのは、空がすっかり紺色に染まり切ってからのことだった。ただ、門限まではまだ時間がある。彼女の提案で、通い慣れた河川敷の土手沿い…契約を結びたての頃に、散歩コースとしてよく訪れたその場所を二人で歩いていた。
「今日は色んなことがありましたね…」
妖しくきらめく星々に向かって、感慨深げにささやく彼女。レースに勝った時よりも嬉しそうな顔をしている…思わずそのことを伝えた。
「あら、そうなのですか? あの瞬間もこの上なく嬉しいはずなのですけれど…でも、今日は本当に楽しかったですから、そう見えても不思議ではないかもしれませんね」
楽しんでもらえたのならそれ以上のことはない。彼女をエスコートした身として、それは最大の賛辞だった。
一方で、そもそもの目的である、恋人役の心情は理解できたのかと問うと…。
「はい、何となくですが…おそらく、恋人役は主人公とばったり会う前から、自分でも気づかないうちに片思いしていたのだと思います。多分…いえ、きっとそうです。そして、即席のデートの中で、その思いが確信に変わった…」
とつとつと、それでいて婉麗に彼女は告げた。役作りのために、無事に自分なりの答えが見つかったようだった。
「ふふ、これで恋人役の心情はばっちりですね。今日の経験を活かして、本番では素晴らしい演技を披露してみせます…♪」
水色の尻尾を軽やかに波打たせて、得意満面に自信をみなぎらせる彼女。そこには確かな安堵感が内包されていた。
充足の余韻に浸る、一拍の静寂。やにわに、彼女はその柔らかな声を響かせた。
「トレーニング以外で、トレーナーさんとこんな時間まで過ごすのも久しぶりですね。何だか…あの日のことを思い出してしまいます…」
あの日とは一体…首を傾げるこちらへと向けられたのは、どんな宝石よりも美しい紫苑色の瞳だった。
「覚えていますか? 美術館で開催された"刹那展"の帰り…私の覚悟を聞いてくださった、あの夜のこと…」
もちろん…と、すぐさま。
選抜レースを見事に走り抜いた彼女と契約を結んだ翌日、案内されたのは様々な芸術家の"遺作"だけを集めた展示会だった。そこに宿るのは刹那の息遣い。彼女は確かに言った。『短くとも。儚くとも。ほんの微かな光跡であろうとも。私は私自身の生きた軌跡を、「今」に一筋、残したいのです』と…。
「あれから、たくさんの"今"がありました。嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも、苦しいことも…いつもトレーナーさんと一緒に。そして、これからもたくさんの"今"が訪れるでしょう。以前の私なら見られなかった未来も、二人でなら掴み取ることができる…あなたという止まり木があるからこそ、私はどこにだって羽ばたいていけるのです」
ほのかな月明かりのような淡く優しい面持ち。それとは対照的に、その両耳はぴくぴくと定め無い。まるで、気恥ずかしさを必死に紛らわそうとしているようだった。
「だから…感謝してもし尽くせないほど、本当に感謝しています。私の覚悟を受け入れてくださったトレーナーさん…もし、あなたに出会えなかったら、私は…」
そっと口をつぐむ彼女。その後に続く言葉は口に出すまでもない…満足げに微笑む彼女の横顔が、その答えだった。
川沿いに果てしなく続く道を、しずしずと横並びに歩く二人。心地良いしじまに、涼やかな微風が吹き抜けていく。歩き慣れたこの場所で、担当ウマ娘と改めて心を通じ合わせられたこと…それはこの上ない幸せだった。
ふと、そういえば…と、出し抜けに切り出す。ここに来る直前、彼女は確かめたいことが一つあると言っていた。それは何かと問いかけるや、口に手を当てふふっと微笑んでみせた彼女。次いで、いそいそと尻尾を揺らめかせながら、その声を上擦らせた。
「そうですね…♪ どうやって確かめようか悩んでいたのですが…決めました」
わずかばかりあったお互いの距離を詰め、彼女はぐっと体を近づけてきた。二人の隙間はもはや風も吹き抜けられないほど。耳打ちのごとく、どこか甘美なささやきが間近で鼓膜を撫でていく。
「私は先ほど、恋人役の心情が理解できたと申しました。それと同時に、どうしても確かめたくなったのです。主人公役は今、どんな思いを抱いているのか…」
意味深に言い終えるや、彼女はおもむろに視線を落とす。その歩調も距離感も変えることなく、静謐な表情をしたまま…。
その時だった。
手に温かな感触が宿る。指と指とが交錯し、瞬く間に絡め取られていく。やがて全てが彼女に包み込まれると、優しく、柔らかく、ほのかに体温が伝う。
突然の出来事に、思わず目を白黒させるしかなかった。ただ、混乱する頭をよそに、自らの手は逃げるでもなく、振り解こうとするでもなく、彼女をすんなりと受け入れ、気がつけば、同じようにぎゅっと握り返していた。彼女の思いを受け止めるため、そして、とめどなくあふれる何かを伝えるために。それはきっと、知らず知らずのうちに育まれていたもの…そのことに気づくのに、大して時間はかからなかった。
おそるおそる彼女の方を向く。そこにあったのは、アップルティーラテのように赤くなった顔。こちらを見上げるようにして、いたずらっぽくはにかんでみせる。
「ふふ…やはり主人公役も、恋人役と同じ気持ちだったのですね…」
耳と尻尾が、共鳴し合うようにふわりと揺らめき、嬉しげに反応する。その満たされた表情は、今まで見てきたどの彼女よりも庇護欲を駆り立てるものだった。
思いがけず高鳴る鼓動。一人の少女としての姿をありありと見せつける彼女に、愛おしさが募っていく。
「トレーナーさん…これからも、どうか私と一緒に…」
手を強く握り返して肯定する。彼女もまた、同じように。
「私たちの未来が…光多きものでありますように…」
彼女はささやく。三女神のようにささやく。穏やかに、そして、淑やかに微笑みながら。
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エラー解決のためミホノブルボンとデートすることになりました
「マスター、一つ相談したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
夏合宿期間の真っ只中…その日のトレーニングを終え、合宿所の休憩室で過ごしていた時のこと。ミホノブルボンは何の前触れもなくそう切り出した。
トレーニングのことかと問うと、彼女はすぐさま首を横に振った。
「カテゴリー上、プライベートな相談です」
見慣れたポーカーフェイスから発せられたのは、やはりいつもと同じ抑揚のない声だった。
普段から自分のことをあまり話さない彼女。トレーニング以外のことで相談してきたのは、覚えている限り、これまで片手の指で数えられるくらいしかない。とはいえ、その内容のほとんどは、触れてしまった電気機器の故障なのだが…。
今回も合宿所の電気ケトルやドライヤーの故障だろうか…そんな風に軽く身構えていたこちらに放たれたのは、あまりにも意外過ぎる言葉だった。
「明日の休日、私とデートしてほしいのです」
寝耳に水。これほどまでに、この状況に似つかわしい表現はないだろう。声にならない声が思いがけず吹き出し、彼女の顔を二度見する。
無表情ながらもどこか精悍な面持ちに、ブルーサファイアのごとく澄んだ青い瞳。それは何度となく見てきた凛々しい姿。そう、嘘偽りとは無縁の、本気の表情だ。
彼女と二人きりで食事や遊びに出かけたことは、これまで何度かある。広義ではそれもデートと言えなくもないのだろうが、彼女の口から直接その言葉が飛び出したのは、間違いなくこれが初めてだった。
「…承諾頂けませんか?」
耳をわずかばかり倒伏させて、彼女は再度尋ねた。
すかさず、デートというのはこれまでのお出かけとは違うのかと問う。
「はい、違います。お出かけではなく、デートを希望します。辞書による表記、"男女が日時を決めて会うこと"です。もちろん、合流から解散まで二人きりです」
恥ずかしげもなくすらすらと言い立てる彼女。周りに誰もいなかったのが救いだった。
どうして急にデートを…と訊く直前、彼女は付け加えるように口を開いた。
「ステップアップエラー…すなわち、伸び悩みの原因を特定したいのです」
ますます意味が分からない。目を白黒させながら、彼女の無機質な顔を見つめ返すことしかできなかった。
確かに彼女の言う通り、最近はトレーニング中も何となく冴えず、どちらかといえば本調子とは言い難い状態だった。夏合宿も終盤…連日の猛暑で夏バテ気味になっているのが原因と考えていた。
だが、彼女が言うにはそうではないらしい。伸び悩みとデートに、一体どんな関係があるというのだろうか。
とはいえ、今日まで根を詰めてトレーニングしてきたことは確かだし、さすがに気分転換も必要な頃合いだ。ゆっくり羽を伸ばす機会として、彼女の望みを聞き入れてあげるのは、トレーナーとして当然のことに思えた。
了承の意を伝えながら頷いた瞬間、天を衝くがごとくぴんと逆立った両耳。赤茶色の尻尾はふわりと舞った。
続けざま、彼女は眉一つ動かさずデートプランを説明した。
「出発時刻は外出可能となる午前八時。場所は合宿所から車で約五十分の距離にある"ウマヶ崎キャンプ場"を提案します。もちろん、キャンプといっても日帰りです。魚釣り、バーベキュー、ハイキングなどのアウトドアを楽しむことが目的となります。ミッション、"マスターとキャンプデート"です」
既に計画を練っていた周到さに思わず舌を巻く。これまでのお出かけは街に繰り出すことがほとんどだったゆえに、新鮮に感じることは間違いない。自然と、明日への期待も高まっていく。
「ご快諾ありがとうございます、マスター。明日はよろしくお願いします」
胸に手を当てながら、淡々と一礼する担当ウマ娘。その真後ろでいそいそと、それは気持ち良さそうに揺れている気がした──
夏合宿期間中、週に一度設けられる休日。厳しいトレーニングから解き放たれた生徒たちは、自由な一日を思い思いに過ごす。
そんな中、担当トレーナーとウマヶ崎キャンプ場に赴いた生徒は、おそらく彼女一人だけだろう。
「マスターのステータス…"わずかな動揺"を確認。私の衣服に何か問題がありますでしょうか?」
出発前、朝一番の挨拶直後。彼女は真顔でそう問いかけていた。
そんなステータスに陥ってしまった原因は、彼女の推察通り、その衣服だ。いわゆるラフで素朴な私服が多かったこれまでとは、明らかに異なるファッションだったのだ。
黒いボウタイのついた薄手の白ブラウスに、やや短めの紺色キュロットスカート。膝上からスニーカーに至る素足には、眩いほどの肌色が広がっている。夏合宿で何度となく見ているはずのそれも、そのコーデによって全く違う印象を受けた。
そもそも、制服を除けばスカート姿を見ることさえ初めてだったし、少なくとも、アウトドアに出かける服装にも見えなかった。
「先輩からファッションの助言を頂いたので、そちらを参考にしました」
耳をぴくぴくさせながら、自信ありげにそう話す彼女。
いつの間にこんな服を用意したのか…思い返せば、前回の休日に買い物に出かけていたが、その時だろうか。
ちなみに、全てが終わった後に聞いた話だが、彼女にデートのアドバイスしてくれた先輩は、彼氏と共通の趣味がアウトドアらしく、キャンプ場へのデートはそこから着想を得たものらしい。そして、それとは別件で、デート時の服装についてもアドバイスを受けていた。もちろん、アウトドアとその服装に関連性はなく、本来別々のものを彼女が取り合わせてしまったため、このようなことになってしまったようだった。
猛暑日が続いているということもあるのか、キャンプ場は思いの外閑散としていた。日帰りではあるものの、せっかく来たからにはとことん楽しむつもりで、ログハウスを借りて過ごすことにした。
「ミッション、"マスターとキャンプデート"を開始します。時間以外の制限なし。マスターと夕刻まで楽しく過ごすこと…内容は以上です」
虚空に向かって高らかに宣言するや、彼女はやにわにこちらへと向き直った。
「マスター、滞在中に何か行いたいことはありますか?」
唐突な問いかけに言葉が見つからず、いや、特に…と応じると…。
「それでは、私の考えたプランを提案します。本日の天気は、午前は曇り時々晴れ、午後からは曇り、低気圧の接近により昨日ほど気温は上がらないそうです。以上のことから、まずは釣り道具一式をレンタルし、渓流にて魚釣りを行います。続いて、広場にてバーベキューを行い、昼食とします。ログハウスで休憩後、運動を兼ねてハイキングへと向かいます。以上の内容でよろしいでしょうか?」
すらすらと、一切途切れることなく説明し終えた彼女。その姿に圧倒され、静かに首を縦に振っていた。
普段、自分からこうしたい、ああしたいと言うことが少ない彼女が、率先してデートプランを立ててくれた。言わずもがな、それはこれまでの彼女からは考えられない意外な一面だったし、その好意は単純に嬉しかった──
楽しい時間というのは、あっという間に過ぎ去っていく。もちろん、それはこのデートも。
アウトドアという、二人にとっての新境地。電子機器の扱いこそ苦手だが、ことアナログな作業に関して、彼女には目を見張るものがあった。
その視界は特殊なモニターにでもなっているのか、川底に潜む魚を瞬時に捉え、精密機械のように繊細な美技で次々と釣り上げていく。この日の釣果は、全て彼女によってもたらされたものだ。
料理の腕も見事なもので、川魚を難なく捌き、バーベキューの準備を瞬時に済ませてみせた。こちらのたどたどしい手つきが、恥ずかしく感じるほどだった。
「マスター、お味はいかがですか?」
辺り一面に漂う香ばしい匂い。ほどよく焼き上がったそれを頬張ると、口内に広がったのは想像通りの味だった。
すかさず美味しいと伝えるや、彼女はそのポーカーフェイスを確かに綻ばせた。
「ステータス…"美味"。完璧な仕上がりです」
同じものを口に運び、平坦な声ながらも豪語する彼女。初めて見たドヤ顔じみたそれに、思わず笑いが込み上げていた。
いつものお出かけと変わらない和やかな雰囲気。違うところをもし挙げるとすれば、いつになく尻尾が盛んに揺れ動いているような…そんな気がすることだった──
葉々の隙間から覗く鈍色の空。
夏といえばやはり海だが、夏合宿で飽きるほどそこで過ごした反動か、木々が鬱蒼と生い茂る山中の方が新鮮味にあふれていた。
登山道を歩む二人の前を、やにわに鳥影が横切った。次いで、それは高い枝に止まり、静かに羽休めを始めたようだった。
「サーチモード起動…あの鳥は"オオルリ"です。スズメ目ヒタキ科オオルリ属に分類されます。繁殖のため四月頃から日本に渡ってくる夏鳥で、さえずりが特に美しいことから、日本三鳴鳥の一つに数えられています」
"ウマペディア"の一文をそのまま引用したような解説。目を凝らすと、鮮やかな瑠璃色が確かに見えた。その美しいさえずりにも期待したが、残念ながら羽繕いに忙しいようだった。
昼食を終え、二人が向かった先は、深緑に埋め尽くされた登山道。登山道といっても、彼女の服装でも全く問題ないほどに舗装されており、むしろそれは遊歩道と呼んでも差し支えないもの。ハイキングと聞いて身構えていたこちらが拍子抜けするほどだった。
「マスター、ハイキングは楽しいですか?」
こちらの思考を感じ取ったのか、彼女は心なしかおそるおそる尋ねていた。
もちろん…と即答する。それは混じり気のない本心。彼女と過ごす時間をつまらないと感じたことなど、ついぞなかった。
「実は…伸び悩みの原因について、お話ししたいことがあります」
いかにも改まった態度で、彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばした。
このデートは、伸び悩みの原因を特定するため、彼女自身が提案したものだ。その真相が今明らかになろうとしている…こちらも神妙な面持ちで応える。
「マスターをデートにお誘いしたのは…」
そこまで言いかけた時だった。
不意に、冷涼な空気が全身をかすめた。それが意味することを、多くの人は経験則で知っている。
大雨が降り出す予兆。しかも、山の天気は特に変わりやすい。気がつけば、オオルリもどこかへと飛び去っていた。
ぽつぽつという雨音が響き始め、その音量は加速度的に増大していく。じきに本降りになることは容易に想像できた。
とりあえずログハウスへ戻ろうか…そう告げて踵を返した時には、微かな雷鳴も耳に届き始めていた。
そこから先は、勝負所のラストコーナーよりも目まぐるしい変転具合だった。幾重にも連なる葉々さえ貫き、容赦なく降り注ぐ大粒の雨。雷光と雷鳴の感覚がどんどんと狭まり、禍々しく迫り来るどす黒い暗雲。
万が一、雷に打たれでもしたら大変だ。豪雨よりも、雷から逃れるために足を動かす。何なら、足が速い彼女には真っ先にでもログハウスへ避難してもらいたかったくらいだった。
しかし、どういうわけか彼女の足取りが重い。大丈夫かと近くで問いかけても、答えは何も返ってこない。あまつさえ、視界を遮るほどの雨と、俯き加減に伏せた顔…その表情すら満足に見えないのだ。少なくとも、彼女が正常でないことだけは間違いなかった。
彼女の腕をしっかりと掴み、必死に下山する。その間、彼女は尻尾をずっと太腿に巻きつけていた──
水の中に飛び込んだのと相違ないくらいびしょびしょになりながら、何とかログハウスへと辿り着く。
中に入るなり、彼女はその場にうずくまるようにして身をかがめた。途中から気になっていたが、それは自らの尻尾を隠すための所作であることに、ようやく気がついた。
窓を打ちつける大量の雨粒。
刹那、一際眩しい閃耀と、地響きのごとき鳴動。それは目と耳、どちらも塞ぎたくなるほどの威力だった。
床にへたり込み、彼女ははっきりと見て取れるほど体を震わせていた。ぺたんと伏せられた両耳と、頭を抱え込むその姿は、まさに恐怖におののく幼子の様相だった。
それを見て、以前彼女が「雷様は尻尾を取り来ます。お父さんからそう教わりました」と話していたことを思い出した。
雷様にへそを取られるという俗説は聞いたことはあるが、尻尾を取られるというのはもちろん初耳だった。雷は高いところに落ちるゆえに、尻尾も低くして身をかがめるべきだという意味があるのかもしれないが。何にせよ、建物の中にさえ入れば一安心だ。
彼女の側に座り、背中をさすりながらもう大丈夫と優しくなだめる。きっと、お父さんがブルボンをおどかすために言った冗談だと、少しでも明るい口調に努めながら。
「違います…マスター。違うんです…」
今まで聞いたことのない弱々しい声が、俯いて何も見えない顔から漏れ聞こえてくる。彼女は別のことを恐れているようだった。
「ミッション失敗です…マスターに楽しんでもらいたかったのに、プラン設計を誤りました。しかも、こんなみっともない姿を見せてしまいました…とても…情けないです…」
そんなことないよ…と、すかさず。
彼女なりに楽しませてくれようと努力してくれたことは本当に嬉しかったし、衣装も含め初めて見るその姿はたまらなく素敵だった。雷を怖がってしまう姿さえ、自分にとって新しい一ページだった。だから落ち込むことなんてない…ありのままの気持ちを彼女へとぶつけた。
その言葉に少しは気持ちが和らいだのか、窮屈そうに隠していた尻尾が、ひょっこり顔を出す。次いで、ゆっくりと頭を上げると、その物憂げな表情は、ほんのりと赤みを帯びているように見えた。
「ありがとうございます…マスター」
雨のせいか、潤んだ瞳で真っ直ぐにこちらを見つめる彼女。びしょ濡れになった赤茶色の髪からは、未だ水滴が垂れている。白い薄手のブラウスはぴっちりと肌にくっつき、健康的なそれをフィルター越しにしどけなく露わにする。そこから透かし見えた二つの膨らみに、思わず恥ずかしさがほとばしり、すぐさま目を逸らす。
彼女のそれが比較的豊かであることはもちろん知っていたが、こんな時に何を考えているのだろうかと、自分が少し嫌になった。
そして、そんな一瞬な所作さえ、彼女はやはり見逃してくれなかった。
「マスターの顔に赤みを確認…雨による免疫力低下、それに伴う発熱の可能性があります。体温を確かめさせてください…」
距離、時間、風速…レースに重要なそれらを寸分の狂いなく計測できる彼女。実は温度も手で触れただけで測ることができる。
こちらの額に手を当てようと腕を伸ばしてきた、その瞬間。
「…!?」
目をくらませるほどの閃光と、耳をつんざく迅雷。それは今日一番の轟音だった。
一瞬の出来事に理解が追いつかない。視覚と聴覚が失われ、平衡感覚を麻痺させる。
どれくらい経った頃だろう。気がつけば、彼女はこちらに全身を預けるようにもたれかかっていた。こちらの服を、まるで幼子がその小さな手で袖を引く時のように、か弱く握りしめながら。
「マスター…怖いです…」
彼女の微弱な体温が、濡れた衣服を通じてほのかに伝わってくる。もちろん、彼女とこんなにも体を寄せ合ったことは一度たりともない。どきどきと胸を突き破らんとするほどの脈拍が、体温をも巻き込んで確かに上昇していく気がした。
しかし、今はそれに浸っている場合ではない。どうすれば彼女の恐怖を拭ってあげられるだろうかと、慌てて知恵を絞る。
容赦ないどしゃ降りが、ざあざあと地鳴りのような音を立てている。さらには、絶え間なく不意打ちを仕掛けてくる瞬間的な爆音。黙ったままでいれば、その荒波に飲み込まれてしまいそうだった。
何か言葉を発さなければ…その思いが脳内を駆け巡った時、ぱっと口にしていた言葉。そう、ハイキングの途中、思いがけず途切れてしまった話の続き。どうしてデートに誘ってくれたの…と。
やがて、胸元で小さな声がした。
「ステータス、"心拍数のエラー"…その原因を突き止めたかったのです…」
初めて聞いたその言葉を、思わずオウム返しのように問い返す。
すると、いかにも彼女らしい論理的な答えが、そこには待っていた。
「マスターの近くにいると、心拍数が上昇する現象のことです…一般的に、胸のざわつきと表現されます。トレーニング中、なぜかマスターのことばかり思考してしまい…集中力が欠け、練習効率が落ちるのです。原因は全く分りません…最近は、近くにいなくてもマスターのことばかり考え、その状態に陥ってしまいます…」
彼女が話している最中にも、とめどなく襲いかかる雷音。その度に言葉は途切れ、こちらを掴む手がぎゅっと力を増す。それでも、彼女はとつとつと続けた。
「それだけではありません…胸の奥が疼いて、苦しくなる時があるのです。マスターが他の生徒と話しているのを見かけた時は、特にです…こちらもずっと頭に残り続けて、練習効率を下げる要因になっています。一体どう対処すれば良いのか…内在するメモリーにも、ナレッジにも、リファレンスマニュアルにも、解決策は見つかりませんでした…」
水分を含んだ尻尾が、どこか息苦しそうに揺らめく。
出し抜けに、彼女は昔のことを口にした。
「マスターが私に初めてアドバイスしてくれた…あの夜のことを覚えていますか…?」
迷うことなく頷く。それは決して忘れることなどできない、彼女と踏み出した第一歩だった。
元々別のトレーナーにスカウトされていた彼女。それはスプリンターとしての才を見出されてのことだったが、彼女の真の夢はクラシック三冠…路線変更をそのトレーナーに納得させるため、当時無謀ともいえた二千メートルをへとへとになりながら駆けていた。しかし、そんな無茶が上手くいくはずもなく、そのままでは怪我を負いかねない状態だった。そんな彼女に長い距離を走るアドバイスをしたのが、彼女と仲を深めるきっかけだったのだ。
「あの時、私にとってマスターは…バグのような存在でした。契約済みの私の前に突然現れ、毎晩のように門限ぎりぎりまで指導をする…普通に考えれば、何の得にもならない行為です…」
とても放っておけなかったから…と、あの頃を振り返りながら答える。
それは結果として、前任のトレーナーと契約を解除した彼女と、改めてクラシック三冠を目指す礎となった。
「マスターと契約した時から…いえ、あの夜から、極微量ではありますが、胸のざわつきを感じていました。それまでメモリー内のどこにも存在しなかった、カテゴライズ不可の感情です。それは日に日に大きくなり、ついにはトレーニングに支障をきたすまで膨れ上がりました。その原因は全くの不明ですが…マスターとの物理的な距離及び他者の排他に相関性が認められたため、今回のデートを提案したのです。マスターと二人きりで楽しく過ごせば、その原因が分かるのではないかと…」
全身を弛緩させ、こちらにもたれかかったままの彼女。毒りんごを口にしてしまった白雪姫のような…そんな雰囲気さえ漂わせて、それでもこちらを真っ直ぐに見上げていた。
今日のデートで、その答えは見つかったのかと…そっと尋ねてみる。
「…残念ながら、まだ分りません。ですが…これまでで最も大きな胸のざわつきを、今感じています。とても…止みそうにありません…」
どこか苦しそうに、それでいて心地良さそうに…どちらも内包した表情で彼女は言う。
ここまで聞いて、その答えが分からないほど無粋ではない。それと同時に、気恥ずかしさがどこからともなく込み上げてくる。そんな風に思ってくれていた彼女が急に愛おしく思えてきて、瞬く間に顔が火照っていく。
だが、今はトレーナーとして…いや、一人の男として、彼女を導かなければならない。
意を決して、片手を彼女の背中に回し、もう片方で濡れた頭を撫でながら、優しく抱擁する。
途端、赤茶色のそれが、ぶおんと音を立てる勢いで波打った。
これで胸のざわつきはどうなっただろう…そう問いかけるや、彼女はこちらの胸に耳をあてがうようにして顔をうずめた。
「はい…先ほどよりも二十パーセント増大し、最高記録を更新…いえ、さらなる上昇を感知。私だけでなく、マスターも…」
彼女のか細いささやきが直接胸に響く。
今自分が感じているものと同じものが、彼女の心にも宿っている…それだけで嬉しくてたまらなかった。
胸がざわつく原因、そして、心拍数が上昇した理由、それはお互い同じなのだと告げる。
それは何ですかと、おそるおそる顔を上げて、儚げな面持ちで訴えかけてくる彼女。
真実をはっきりと伝える。そう、それは相手を愛おしく思う心。決してエラーでもバグでもない、特別な人に対して抱く、ごく自然な感情がそうさせているのだと…。
わずかばかりフリーズした後、彼女はどこか恥ずかしげに眉を八の字にした。
「了解です…それが胸のざわつきの正体なのですね。どうすれば、それをコントロールすることができますか…?」
ぴくぴくと、答えを求めて小刻みに揺れる両耳。
庇護欲を駆り立てるその上目遣いに、鼓動がまた強さを増していく。
それはどんなトレーニングより、どんな走り方のコツより、どんなレースの駆け引きより、教えるのが難しいことに思えた。
一拍の逡巡を経て、制御する必要なんてない…と、つぶやく。それはきっと、これからどんどん強く、大きくなるに違いないからだ。呑み込んで、受け入れて、身を任せて…その方が、ずっと楽になる…そう伝えながら、彼女を抱き寄せる力をぐっと強めた。
目の前にある瞬きが、息遣いが、耳の震えが、まざまざと彼女の機微を伝えてくる。そこにあったのは、普段の無機質で平坦な様子からは考えられない、あどけなく純真な少女の姿だった。
エラーの正体を知ったことに安堵したのか、彼女の体の震えはいつの間にか止まっていた。もうトレーニングに支障は出ないだろうか…その質問に、彼女はやおら頬を緩ませた。
「はい、大丈夫です…」
再び顔をうずめる彼女。こちらを握る手に力を込めながら、ゆっくりと。
「マスターと私…同じ気持ちであることが分かりましたから。とても…心地良いです…」
肌を通じて伝うお互いの鼓動。二人は寄り添ったまま体温を確かめ合う。
彼女の頭を撫でる度、尻尾はゆらゆらと定め無く舞った。もう、雷なんて怖くなかった。
不意に訪れていたしじま。あんなにも激しかった雷雨は、気づかぬうちに遥か彼方へと消え去っていた。その残滓張りつく窓辺からは、いつしか眩い陽光が差し込んでいた。
「マスター…」
胸の中で、彼女はそっとささやいた。それは、とても小さく、穏やかな声だった。
「現在のステータス…"幸せ"です…」
雨上がりのつぼみが天に向かって花開くがごとく、しずしずと顔を上げた彼女。
透き通るような青い瞳に、紅潮した頬…それはまさに、窓辺の日差しのような微笑みだった。
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湖畔の別荘でメジロブライトとデートすることになりました
「トレーナーさま〜、実はお頼みしたいことがあるのですけれど〜」
特に変わり映えのない、ある春の夜。その日のトレーニングを終え、メジロブライトは何の前触れもなくそう切り出した。
にこにこと可愛らしい笑顔と、自由気ままに上下する耳は、これまで何度となく見た姿だ。
「先日竣工しましたメジロ家の別荘に、一緒に来ていただけないかと思いまして〜♪」
いそいそと、その場に落ち着かず、彼女はぴょんぴょんと飛び跳ねながら言った。それもそのはず、トレーニング終わりのストレッチ真っ最中なのだ。
「今度お披露目会を兼ねて招待されましたの。せっかくですし、トレーナーさまもご一緒しませんか〜?」
柔軟な四肢を気持ち良さそうに屈伸させつつ、こちらの顔色を伺う彼女。もちろん、誘ってくれたのは嬉しかったが、メジロ家ではない自分がそのような特別な会に参加して良いものか悩んでしまう。
即座の返答に窮している間に、彼女はうんと大きく背伸びをした。
「のびのび〜…えぇと、次のストレッチは何でしたかしら〜…? そう、思い出しましたわ。トレーナーさまが『一緒に行きたい』と仰ってくれる、魔法のストレッチですわ〜」
不意に突拍子もないことを言い出したかと思えば、くるくると優雅に回転し始めた彼女。
褐色のロングヘアと尻尾が遠心力に身を任せ、たおやかに舞う。こちらにちらちらと視線を飛ばして、その一言を待っているようだった。
どの辺りが魔法なのかは分かりかねたが、何としても連れていきたいという思いだけは確かに伝わってきた。
おそるおそる一緒に行きたいと告げると、彼女は両手を高く掲げて万歳のポーズ。
「わぁ〜い♪」
あどけないふんわりとした歓喜の声が、学園のトラックでのどかに響いていた──
お披露目会当日の朝。学園の正門に、もうじきメジロ家御用達のハイヤーが到着する予定だ。というわけで、正門前で待ち合わせているのだが…生来のんびり屋気質の彼女、プライベートなことに関しては約束の時間に遅れるのが常だった。
「お待たせいたしましたわ〜」
ふと、背中を打ったのは、聞き慣れたあのゆるふわボイス。意外にもこの日は五分前行動だった。
ようやく時間を守れるようになったのだと感心しながら、さっと振り返る。だが、そこにあった姿に、思いがけず目が点になった。
涼しげなノースリーブの膝丈ワンピース。それも、上半身のライン…くびれ辺りまではっきりと分かるタイトなワンピースだ。加えて、そのカラーはエレガントな漆黒。肩からかけた純白のカバンと健康的な白い肌との対比も相まって、鮮烈な印象を見る者に与える。普段見せるパステルカラーの淑やかなお嬢様風スタイルとは、明らかに一線を画していた。
「おはようございます、トレーナーさま。どうかされましたか〜?」
浅葱色の日傘を差しての優雅な登場。衣服が変わっても、彼女のまとう空気は、相も変わらずまったりとしていた。
「この服ですか? トレーナーさまとのデートですもの、とびっきりの物を着て参りましたの〜♪」
"デート"という言葉に思わず戸惑う。彼女の口からそんな言葉が出たのは初めてだった。もちろん、これまで二人きりで遊びに出かけたことは何度もあったが…。
「あら、お伝えするのをすっかり忘れておりましたわね〜。今日のお披露目会の出席者はわたくしたちだけですのよ〜。トレーナーさまとのデート、楽しみですわ〜♪」
日傘の中で、彼女の無邪気な笑みがあふれている。こちらもつられて幸せな気分になるくらいに。
「それより、どうですか〜、このブラックワンピース。なかなかおしゃれでしょう〜?」
ふわりと一回転してみせる彼女。つややかな太腿が一瞬だけ露わになる。
見慣れないファッションということもあるのだろうが、とても新鮮で素敵に思えた。
「ふふっ、ありがとうございます〜♪」
頬をこれ以上なく緩ませて、彼女はゆったりとしたステップを刻み始めた。ダンスレッスンで鍛えた足さばきは、今日も流麗で華やかだった。
「ふわ〜り♪ ふわ〜り♪ 喜びの舞ですわ〜♪」
いつでもどこでもマイペースな彼女。その姿を見る度、心はいつもほっこりとした──
「もう三日後ですわね」
別荘に到着する少し前、ハイヤーの後部座席でのこと。彼女は唐突にそんなことを口走った。
わずかに開いた窓からは、森の匂いを含んだ微風が流れ込んでいる。
「選抜レースのことですわ。トレーナーさまも、ついにチームをお組みになられますものね」
それは一週間ほど前、急遽取り決めたことだった。
彼女をスカウトしたのは三年前。そう、まだ駆け出しだった頃だ。当時は右も左も分からない新米トレーナー…複数のウマ娘を担当するなど考えられない時期だ。しかし、あれから様々な経験を積み、余裕も出てきた。トレーナーの責務として、より多くの生徒を輝かせなければならない。だからこそ、今度の選抜レースで新しい娘と契約することに決めた。当然、そのことは彼女にも打ち明けていて、「トレーナーさまにとって、とても良いことだと思いますわ。生徒の導き手として、大変素晴らしい志ですもの…」と答えてくれた。
流れ行く緑色の景色を見やりながら、彼女は独り言のようにささやいた。
「わたくしにも、チームメイトができますのよね…」
どことなく寂しげな様子にも、うとうととまどろんでいるようにも、どちらにも見えた彼女。その両耳はぴくぴくと、何かを求めているような気がした──
一時間ほどの旅路を経て辿り着いたその場所。
山々に囲まれた湖のすぐ側に建てられたそれは、モダン且つ西洋風の木造建築。メジロ家のお屋敷とまではいかないが、その荘厳な佇まいは見る者に感嘆の溜め息をつかせるのに十分だった。
「それでは早速、お散歩に参りましょうか〜」
ハイヤーから降りるや、彼女は日傘を広げながら言った。
意表を突かれ、思わず首を傾げる。てっきり別荘の中に入るのだと思っていたが、彼女いわく、建物はもちろんだが、その周辺のロケーションも素敵なのだという。
「うふふ、ランチも用意していますわ〜。景色の良い場所でお弁当を広げましょうね〜♪」
肩からかけたカバンをさすりながら、その足は颯爽と湖畔へと歩み始めていた。
「トレーナーさま〜、早く参りましょう〜」
十メートルほど向こうで催促の声が飛ぶ。彼女が率先して前を歩きたがることに驚きを覚えながら、そろそろとその後を追った。
綺麗に整備された遊歩道。それは湖を一周するように敷かれているらしい。
澄み渡る青空に、綿菓子のような雲がぽつりぽつり。春のぽかぽか陽気に自然と気分も晴れ、心が癒されていく。
「ふんふふ〜ん♪ ら〜らら〜♪」
彼女の鼻歌がとめどなく流れてくる。日傘の中の表情は、大層ご機嫌なものに違いない。
「と〜ってものどかで、美しい湖ですわね〜」
唐突に歌が終わり、ひょっこりと顔を覗かせた彼女。
その視線の先で、コバルトブルーの水面が静かに揺れていた。
そして、ランチタイムは唐突に。
彼女が何かに誘われるように赴いた先は、芝色をした小高い野原。
「ここなら湖を見渡せますわ〜」
彼女の言う通り、お弁当を広げるには最高の場所に思えた。
お弁当箱の中身はサンドイッチ、卵焼き、ソーセージ、にんじんサラダといった定番メニュー。
「わたくしが手作りして参りましたの〜。いつもお世話になっているトレーナーさまに、ぜひ召し上がっていただきたくて〜♪」
両手をぽんと合わせて、彼女は得意満面に微笑んでみせた。
次いで、いただきますと言い終えたタイミング。
「あら…わたくしとしたことが、食器を一人分しか持ってきていませんでしたわ〜」
口に手を当てて、それは何となくわざとらしい口調。
食器がないとなると、サンドイッチはともかく、他のものは難儀するかもしれない。
「そうだ♪ トレーナーさまの分は、わたくしが食べさせて差し上げますわ〜」
特に考える素振りもなく、流れるように彼女はそんな提案をした。
普段から状況を飲み込むのに時間がかかる彼女。それゆえ、その機転の利かせっぷりは幾分不自然に見えたが…。
それを訝しがる猶予も与えないかのように、彼女は唯一のフォークを卵焼きに刺し、ゆっくりとこちらの口元へと運んだ。
「トレーナーさま、あ〜〜〜ん」
もはや拒否権などない。それを頬張る以外の選択肢はどこにもないようだった。もちろん、嫌な気などせず、むしろ嬉しいくらいだが。
彼女の好意に甘えつつ、手作りランチをのんびりと堪能する。愛情という調味料を振りかけているのか、どれも絶品に感じられた。
「ふふっ♪ トレーナーさまに喜んでいただけて、わたくし何だか、胸がすっごくふわふわいたしますわ〜♪」
美味しいと告げる度、彼女は天真爛漫な子供のように喜んでいた──
「まぁ、トレーナーさま、あちらをご覧になって。大きなにんじんが浮かんでいますわ〜」
彼女が見やった先…大きな窓の向こうには、夕焼けに照らされた細長い二等辺三角形の雲。その周りには橙色に覆い尽くされた大空があり、さらにその下には同じ色の湖が広がっている。それらを臨みながらの晩餐は、とても風情にあふれていた。
別荘内のダイニングルームは学園の教室三つ分くらい広く、その特等席を二人で貸し切り状態。最高の食事と景色を同時に堪能することできた。
しかも、テーブルに並べられた料理は、全て彼女が調理したものだという。川魚のムニエル、鴨のロースト、山菜の天ぷらなど…どれも手がかかっている。
「あら、わたくしとてメジロの娘ですもの〜。どんなお料理でもお茶の子さいさいですわ〜」
得意げに言い放って、彼女は再び雄大な景色に視線を送った。
(本当はシェフが横についていましたけれど〜…)
心の中の声が、おそらく無意識に外へと漏れ出ていた。これは特に珍しいことではなく、彼女自身気づいていない癖の一つだった。
デザートのさくらんぼゼリーに舌鼓を打っていた最中、不意を突くように発せられたのは、あまりにも突飛な質問だった。
「トレーナーさまは、意中の女性はいらっしゃいますの〜?」
あわや、さくらんぼの種が吹き出しそうになる。にこにこと、目を細めながら答えを待つ彼女がそこにはいた。
しばらく考えて、今は特にいないと伝える。学園に赴任してからは多忙の毎日。職場に年齢の近い女性こそいれど、とても色恋沙汰に発展する余裕なんてなかった。
「まぁ、そうだったのですね〜。うふふ、でも何となく存じていましたわ〜。忙しない毎日を送っておられることは、わたくしが一番知っていますもの。少し意地悪な質問でしたわね。でも、もしお付き合いなさるなら、やはり料理上手な女性がよろしいですわよね〜」
彼女らしからぬマシンガントーク。いかにもご機嫌そうに、すらすらと。
その真後ろで、褐色のそれはいつになくふわふわと波打っていた──
「ほわぁ…黄金色のお煎餅みたいですわ〜」
ベランダにもさもさと足を踏み入れた彼女は、開口一番、絶妙な例えで夜空に浮かぶ天体に目を奪われていた。
頭上一面に敷かれた紺色の絨毯。鏡面のごとく淡黄色の光をたたえる湖。それらを一望できるベランダで、彼女と二人、他愛のない話に花を咲かせていく。
ほのかな月明かりのせいか、すっかり見慣れたと思っていたワンピース姿も、心なしか大人びてあでやかに見えた。
「トレーナーさま、今日のデートはお楽しみいただけましたか〜?」
もちろん…と、迷いなく首を縦に振る。
彼女の可愛らしい姿に癒やされたし、何より数々の美味しい手料理が嬉しかった。
「わたくしも、トレーナーさまと一緒に過ごせて楽しかったですわ〜。あ〜んなに美味しそうに召し上がってくださって…ふふっ、これ以上の幸せはありませんもの〜♪」
耳も尻尾も嬉しげに震わせて、彼女は手の平同士をぽんと合わせた。
「そうそう♪ 先ほど良いことを思いつきまして〜。毎週ここに遊びに来るというのはいかがですか〜?」
何も憚ることなく彼女は言った。
さすがに毎週は行き過ぎだと思うが、数ヶ月に一度くらいならちょうど良い息抜きになるかもしれない。その時は新しいチームメイトも誘おうか…と、口にした時、彼女はあからさまに言葉を詰まらせた。
「えぇと、そのぉ…そうですわね。その方がたくさんの方に喜んでいただけますわよね」
彼女お得意の泰然自若…とはどこか異なる悄然とした雰囲気が漂う。それをかき消すように、彼女はこつこつと軽快な足音を立てて、ベランダの奥の方へとスキップした。
「トレーナーさま、どうかそこにお立ちになってくださいまし…♪」
手すりのすぐ側に陣取って、彼女は淑やかな所作で手招きする。そのエレガントな衣装と相まって、どこか魔女のような妖しささえ感じられた。
誘われるまま、目で合図された場所に直立する。そこは彼女から一メートルと離れていない、手すりの真横。
特に何かが起こるでもなく、彼女は優しげな眼差しを湖へと向けた。
「少し…寒くなって参りましたわね」
露出した両腕をさすりながら、彼女はぶるぶると震え出した。それも、明らかに演技だと分かる大げさな動きで。
その行動の意図が読めず、立ち尽くすしかできないこちらを、彼女は何度もちら見する。何かを待っていることは確かなようだが…。
考えてもなお、これだという答えが出ず、部屋の中に戻ろうかと提案する。
途端、彼女の両耳がぺたんと折れ曲がった。
「おかしいですわね〜。ライアンお姉さまのお話では、ここで上着を羽織らせてくれるはずなのですけれど〜…」
人差し指を口元に当て、腑に落ちない様子の彼女。それは誰の耳にも届く声量だった。
「はわわ…! わたくしとしたことが、うっかり口を滑らせてしまいましたわ〜…」
いつもなら焦りと無縁の彼女が、珍しくおたおたしている。何だか申し訳なく思えてきて、さっきの言葉は聞こえなかった振りをした。
「まぁ、そうなのですか。てっきり聞こえていたものと勘違いしておりました〜」
ほっと一息ついて、こういう時はしっかり地に足をつけて臨んだ方が良いと、それとなくアドバイスする。
「仰る通りですわね。慌てず、騒がず、まったりと〜。ふみふみ〜」
謎の動きで軽やかに足元を踏みしめる彼女。毎度のことながら、こうやって真に受けるところはいつ見ても可愛らしい。
しばらくして、ようやく準備が整ったのか、彼女はこちらに無垢な視線を送った。
(えぇと…この後わたくしは、トレーナーさまの手に触れて…)
その独白は心の中だけでつぶやいているつもりに違いないが、上の空に漏れるそれははっきりと聞き取れていた。
「トレーナーさま、あちらをご覧になってくださいまし。綺麗なお星様がたっくさんですわ〜」
こちらの真横へ歩み寄り、手すりに手を置いて湖の方へと向き直る彼女。こちらを…いや、正確にはこちらの手をひっきりなしにちら見しながら。
おそらく同じように手すりに手を置いてほしかったのだとは思うが、彼女の視線が逆に気になり過ぎて、突っ立ったままそうだねと相槌を打つことしかできなかった。
(あら…これも失敗してしまいましたわ…えぇと、この場合どうすれば良いのでしょう…)
耳がぴくぴく、尻尾がふわふわ、定め無く揺れ動いている。
(そろ〜り、そろ〜り)
さらに距離を詰めてきた彼女。こちらにもたれかかるように肩を寄せた…ところまではよかったものの…。
「あっ、あわわ〜」
バランスを崩し、転倒こそしなかったが、勢い余って盛大にたたらを踏んだ。
「もぉ〜、全く上手くいきませんわ…やはり、わたくしは何とも思われていないのですわね…」
ここまで上機嫌だった彼女が、あからさまにしょげた顔を見せる。少しのことでは全く動じないのに、この時ばかりは確かに参っているようだった。
「トレーナーさま、申し訳ございません。わたくしのせいで興が醒めてしまいましたわね…」
ついには謝り出す始末。先ほどからの不思議な挙動に加え、今日の彼女はどこかおかしい。
さすがに放っておけず、何があったのか事情を問い質した。
「それは…」
意味深に言い淀んで、彼女はこちらから目を逸らした。
「ライアンお姉さまから、素敵な少女漫画を読ませていただきましたの。すっかりそのお話に魅せられてしまって、その…真似事をしたかったのですわ…」
胸に手を当て、目をつむって、童話の語り聞かせのごとく、彼女はそのストーリーを綴っていく。
「真夜中の湖畔に、主人公と王子様が二人きりで佇んでいますの。二人はとっても仲良しで…寒そうに腕をさする主人公に、王子様はそっと上着を被せますの。湖を臨む二人の手がそっと触れ合って、そのまま肩を寄せて、二人は…お月様に永遠を誓い合いますの…」
言い終えて、そっと開かれたまぶた。こちらの世界に引き戻されたその表情は、いつになく儚げだった。
「本当に…憧れてしまうほど素敵な情景で、そうなったら嬉しいと心から思っていましたわ。でも…現実は上手くいかないものですわね〜…♪」
ふっと、わざとらしく微笑んでみせた彼女。それがいつものおとぼけではなく、強がりなのだということはすぐに察した。
単に少女漫画の真似事をしたかっただけではないだろう。きっと、他に何か思うところがあるのだ。それくらいのことはさすがに分かる。伊達に三年間も一緒にはいないのだ。
胸に秘めた本当の思いが何なのか、優しく問いかける。彼女のブラウンの瞳を、じっと見つめて。
やがて彼女はしゅんとした顔を浮かべ、観念したように打ち明けた。
「…トレーナーさまが他の娘をスカウトされると聞いて、焦りましたの。もう、わたくしだけを見てくださる時間は終わってしまうのだと…ですから、ライアンお姉さまとドーベルに、どうやってわたくしの気持ちをトレーナーさまにお伝えしたら良いか、相談しましたの。今日のプランは、お二人が考えてくれたものですわ…」
なるほど…と納得する。二人は確か少女漫画が好きだったはず。このどこかドラマチックなロケーションやシチュエーションは、二人の考えた筋書きだったというわけだ。のんびり屋の彼女にしては積極的というか、出来すぎた展開に思えたのは、やはり気のせいではなかったのだ。
しかし、それは言い換えれば、このデートには彼女の思いの丈が全て詰まっているということだった。
マイペースで、おっとりして、そよ風に身を任せる野花のような彼女が、まさかそこまでして思いを伝えようとしたなんて…そのことに、ただただ驚きが隠せなかった。
少し一人にさせてほしい…そう告げて、穏やかな湖面に目を落とす。
「分かりましたわ…」
しずしずとその場を去っていく彼女。今にも泣き出してしまいそうな、そんな雰囲気をまとわせて。
それからしばらくの間、物思いに耽っていた。
前のめりに手すりへともたれかかり、助けを求めるように満月を見やる。今度の選抜レースのことを、考え直すべきなのか…。
その時だった。
不意に、後ろからそっと二つの手が伸びてきた。それは華奢な白い腕。こちらをふんわりと包み込み、優しく抱きついてくる。
背中にほんのりと伝う温もり。次いで、静かな声が脊椎を通じて体全体に駆け巡った。
「トレーナーさま…一生のお願いですわ…どうか、わたくしだけをずっと見ていてほしいんですの…」
とても彼女のものとは思えないか弱い声。顔を見ずとも、その瞳に浮かぶものが容易に感じ取れた。
「わたくし、もっと勝てるように必死に努力しますわ…! トレーナーさまが望むなら、どんなトレーニングだってこなします…! ですから…どうか見捨てないでくださいまし…」
ぎゅっと、しがみつく力を強める彼女。突然の出来事に大きく揺らぐ、この心を必死に繋ぎ止めるように。
ここ最近、彼女の成績は不振だった。いつも一着を期待されながら、入着止まりになることが多くなっていたのだ。
だが、それは彼女の責任ではない。レースの高速化に伴い、彼女の走行スタイルがトゥインクル・シリーズ全体の環境にそぐわなくなってきているだけだった。決して、勝てなくなった彼女に愛想が尽きたり、見限ったつもりはこれっぽっちもない。
今回、新しい娘のスカウトを決めたのは、彼女が心身共に成長し、しっかり結果を残してきたからこそ。新しいメンバーが加わってもチームの先輩としてやっていけると、心から信頼してのことだった。
しかし、肝心の彼女の気持ちをちゃんと擦り合わせていなかったのは事実だった。この話を伝えた時、彼女はおっとりとした笑顔の下で、相当なショックを受けていたに違いない。けれど、その異変に全く気づくことができなかった。ただただ、そのことが情けなくて仕方なかった。
今思えば、トレーナーとしての責務にこだわるあまり、変化を急ぎ過ぎていたのかもしれない。よく相談しないまま進めようとしたことが、あまりにも愚かに思えてくる。のんびりと構えることの大切さを、彼女は幾度となく教えてくれたというのに…。
謝りたい…その一念に動かされ、彼女の腕を優しく手に取り、そっと解こうとする。
「駄目ですわ…! トレーナーさま…今はまだ…その…こんなはしたない顔、とても見せられませんもの…」
彼女の力がさらに増す。けれど、目と目を合わせず謝るなんて、そんな不誠実なことなどできはしない。
何とか彼女を落ち着かせようと、思いつくまま質問を投げかける。後ろから抱きついたのは、プラン通りだったのかと…。
「いいえ、違いますわ。これは…体が勝手に動いてしまったんですの。トレーナーさまが、どこか遠くへ行ってしまわれるような…そんな気がして…」
とつとつと、彼女はその思いを吐露していく。本心からの行動だったことが、とても嬉しかった。
ありがとう…その一言を静かに伝える。そして、ちゃんと謝りたい…ありのままの姿が見たい…と。
再び彼女の腕に触れて、やおら引き離す。彼女は何も言わなかったし、抵抗もしなかった。
振り返った先にあったのは、目と顔を真っ赤にして、少しばかり顔を背ける彼女。目尻に浮かぶ雫は、もう何度も頬を伝い落ちた後のようだった。
泣かせてごめん…と、何度も頭を下げる。気持ちをきちんと考えていなかったことも、深く反省した。それでも、彼女の沈んだ面持ちは変わらなかった。
いつの間にか訪れていた重苦しい静寂。それを破ったのは、意外にも彼女の方だった。
「トレーナーさま…わたくしも、わがままが過ぎていることはよく存じていますわ。ベテラントレーナーが複数の生徒を担当に持つのは、ごく自然なことですもの。それはもう、お止めできないこと…よく理解しております。ですから…」
覚悟を決めた瞳が、そこにはあった。メジロ家の令嬢…その誇りとプライドを秘めた、たくましいブラウンの双眸だった。
だが、その光はまぶたによって永遠に隠されてしまった。そして、一筋の雫が、彼女の頬にありありと透明を描いていく。
ふと、涼やかな夜風が褐色のロングヘアをふわりと揺らした。見ただけで彼女のものと分かる、少し癖の強い美しい髪の毛。とても良い香りがする、誰よりもつややかな髪だ。
「えっ…トレーナーさま…?」
はっと目を見開いた彼女の口から、戸惑いと驚きの入り混じった声が漏れる。
まぶたを閉じたままだった彼女に、そっと上着を被せてあげたのだ。
目を白黒させる彼女の片手を取り、優しくこちらへと引き寄せる。白く小さな手は、ずっと握りしめていたいほど柔らかく、ほのかに温かかった。
二人の眼前に広がるのは、浩々たる明媚な光景。星々が散りばめられた幻想的なカーペットに、それをくっきりと映し出すミッドナイトブルーの鏡…改めてその美しさに息を呑む。
「とっても…綺麗ですわ…」
彼女の愛くるしい声が、鼓膜を優しく撫でていく。彼女の望みを叶えてあげたい…そんな気持ちが胸いっぱいにあふれてくる。
意を決して、選抜レースのある日だけど…と、切り出す。
「…?」
きょとんとした顔がこちらを見上げている。
彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて、ためらうことなく告げる。また二人きりでここに来よう…と。
しばらくの間、彼女はぽかんとしていた。けれど、それはやがて笑顔に変わる。何度となく見てきた、あの可愛らしく純真な微笑みに。
「ほわぁ…それは…それは本当ですの?」
すぐさま頷くと、今度は見る見るうちに顔をくしゃくしゃにして…。
「わぁ…トレーナーさま…トレーナーさま…」
母親と再会した迷子のように、こちらへと抱きついていた。
よしよしと、背中をさすりながら彼女の全てを受け止める。
「喜んで…喜んでご一緒いたしますわ…」
体をこちらに預けたまま、嬉しさを帯びた涙声を、彼女は何度も響かせていた。
「わたくし、誓いますわ…トレーナーさまと…ずっと…永遠に…」
胸元で、ふわふわと揺れる両耳。
彼女お気に入りの洗髪剤の、とても良い香りがした。
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ツーショット写真撮影のためメジロドーベルとデートすることになりました
「トレーナー、ちょっと頼みたいことがあるんだけど、いい…?」
クリスマスを明日に控えた、寒々とした昼休み。しんと静まり返った校舎裏で、メジロドーベルは何の前触れもなくそう切り出した。
折り入って話があるということで呼び出された、人気のないこの場所。右手人差し指にダークブラウンのロングヘアをくるくると巻きつけつつ、彼女はどこか虚空を見つめながら口を開いた。
「勘違いしないで聞いてほしいんだけどさ…明日は特に予定無いって言ってたよね?」
言い終えてもなお、こちらを見ようとしない彼女。垂直に逆立った耳はぴくぴくと定め無い。
顔が赤いだの、恥ずかしそうだの、その事実を少しでも茶化したらこっぴどく叱られてしまうことは、重々承知している。彼女の言った"勘違いしないで"とは、いわゆる"そういうこと"ではないという念押しなのだから。
彼女の真意はどうあれ、幸運というべきか、残念というべきか、その日の予定は未だに空っぽだった。
「良かった…まだ空いてたんだ。それじゃあ、これからアタシが言うことに絶対ビックリしないでよ。頼みたいことっていうのはさ…」
辺りをきょろきょろと見渡して、誰もいないことを確認する彼女。次いで、もじもじと上目遣いにも似た所作でこちらを見やった。
「アタシと、その…デート…してほしいんだよね…」
思わず目が点になり、困惑の声が漏れる。"勘違いしないで"とは一体何だったのか…そんな表情で彼女を見つめ返してしまった。
間髪入れず、怒気を含んだ慌て声が炸裂する。
「だ・か・ら!! 勘違いしないでって言ったでしょ! これにはわけがあるのっ…!」
だったら最初からそのわけを話せばいいのに…などと言えるわけもなく、低頭平身に徹する他なかった。デートを頼んできた時の恥ずかしげな顔は、物凄く可愛らしかったのに…。
「実はね…この前退院したアタシのおばあちゃんが、アタシと男の人のツーショット写真を見たいって言い出してさ…」
ますます顔がぽかんとなる。途端、むっとした視線に射すくめられたものの、彼女はとつとつと続けた。
「おばあちゃん、アタシが男の人を苦手なこと知ってるんだよね…そのことをずっと前から心配しててさ。アタシ、おばあちゃんにはとてもかわいがってもらったから…もう平気なんだよって、安心させてあげたくて…つい、嘘をついちゃったの。今度のクリスマスにデートするんだって…」
とっさについたその嘘から、『それじゃ今度ツーショット写真を見せてちょうだいね』…という流れになってしまった。それが大まかな経緯だそうだ。
ただ、彼女としては嘘で終わらせたくないらしい。というのも、おばあさんは重い癌からの奇跡的な回復だったらしく、一時は危篤状態に陥っていたことさえあったそうだ。それゆえ、おばあさんが元気なうちに、男性が苦手であることを克服したと、本気で伝えたいのだという。
「やるからには中途半端はダメ…! テキトーな写真で嘘がバレたりなんかしたら、それこそ目も当てられないし…」
そして、彼女なりに散々悩んだ挙げ句、クリスマス当日の、しかもデートスポットの写真なら納得してもらえるはずだと、そういう結論に至ったらしい。
「アタシの嘘に巻き込んじゃって、ホントに申し訳ないって思ってる。でも、こんなこと頼める男の人、トレーナーしかいないって、アンタならよく知ってるでしょ…」
ぷいっとそっぽを向きながらも、その口調はどことなくしおらしかった。
今でさえ、お世辞にも男性と接することが上手とはいえない彼女。そういったことを頼める人は、親族を除けば自分しかいないのだろう。
そういう事情なら引き受けるよ…と、首を縦に振る。安堵の表情を一瞬だけ浮かべ、彼女は続けた。
「待ち合わせは明日の午前十時、渋谷駅の"ウマ公前広場"ね。アタシが言い出しっぺなわけだし、デートプランはこっちで考えておくから…それと、ちゃんと様になる格好で来てよね」
すらすらと言い立てた後、やおら右手を側頭部へとやる彼女。その顔と視線を、バツが悪そうに別方向へと向けて。
「今日は、その…こんな頼み事聞いてくれてありがと。それじゃ、明日はよろしく…」
言い終えるが先か、踵を返すが先か、尻尾を大きく揺らしながら、担当ウマ娘はすたすたとその場から去っていった──
ホワイトクリスマスとは無縁の素晴らしい天気に覆われた東京都心。とはいえ、その外気は息を白く染める程度には冷え込んでいる。
約束の時間、その場所はやはりそれぞれのパートナーを待つ男女であふれていた。
そんな状況でも、ウマ娘を探すのは比較的容易だ。その特徴的な耳と尻尾を目印にすればいいのだから。
しばらくして、駅の出入口から出てきた人混みの中に、ちょこんと突き出たウマ耳が目に入った。見間違えるはずのない、ダークブラウンの細長く尖った耳だ。
小走りに駆け寄って声をかける。彼女はちょっとだけ驚いた様子を見せた。
「あっ、トレーナー。ごめん、待たせちゃったね」
そんなことない、こっちも今来たところ…と、無難な返事をしつつ、彼女の姿をまじまじと見つめる。言わずもがな、それは初めて見るコーデだった。
真っ白なセーターにベージュのファーコートを羽織った冬の装い。前を開けたコートから垣間見えるのは、ネイビーブルーの膝上フレアスカート。その下には、漆黒のタイツに覆われたしなやかな脚と、同じ色をしたエレガントなブーツ。見慣れた素足とは違う、どこか妖艶な魅力を確かに放っていた。
相手の服装に目が行っていたのは彼女も一緒のようで…。
「トレーナー、その格好…」
もしかして、これではまずかっただろうか…と、おそるおそる。
学園に赴任する前、元カノと付き合っていた時に着ていた服ゆえ、流行遅れだったかもしれない。
「ううん、そうじゃなくて…予想してたよりは、悪くないかな…って。学園だといつもおんなじ服ばっかり着てるし、あんまりファッションのこと気にしてなさそうだったから」
後半の容赦ない見解に苦笑いしながらも、ほっと白い溜め息をつく。彼女なりの褒め言葉がくすぐったく感じて、お返しとばかりに、ドーベルの服も凄く似合っていると伝える。
「え…そ、そういうのは別にいいから…! だってホントのデートなんだから、地味な服装なんかで来れるわけないし…!」
赤らんだ顔をこちらから背け、不機嫌そうに腕を組み、そしてぶんむくれる…それは何度となく見てきた姿。そう、精一杯の照れ隠しだ。
「言っとくけど、撮影の時以外はいつも通りでいいからね。これはデートだけど、ホントのデートとは違うっていうか…まぁ、そういうことだから」
そのままの姿勢で、彼女はすげなく言い放った。
しかし、さっきは「ホントのデートなんだから」と言っていたような気がするが…。
「…っ! ああもうっ、撮影の時だけホントってこと…! 今日はたくさん撮らないといけないんだから、さっさと行きましょ!」
勢いよく声を張り上げて、彼女は早足に歩き始めた。
慣れないシチュエーションに、いつになく気が立っているのは間違いないようだ。やはり恥ずかしさに耐えかねているのだろうか。
そんな彼女に気を使い、その少し後ろをつかず離れず歩こうとしたが…。
「ちょっと待って、それはナシ…!」
やにわに振り返って、彼女はこちらの隣につかつかと歩み寄った。
「撮影以外はいつも通りって言ったでしょ…! アンタはアタシの隣を胸張って歩いてればいいの…!」
つんつんした口調の中に見え隠れする彼女なりの気遣い。
慣れないデートにまごまごするその姿は、思いの外いじらしく見えた──
最初に訪れたのは、都心のど真ん中にある"ウマシャイン水族館"。「都心 デートスポット」と検索をかければ真っ先に出てくるくらい、ど定番のデートスポットだ。
数多の海洋生物が住まうその巨大水槽の真ん前で、自撮りツーショットに挑む一組のカップル。
「これでどうかな…?」
薄暗い館内で眩しさを放つ液晶画面。そこには、どこかぎこちない表情でピースをする、何とも言えない距離感の男女が写っていた。
正直に言って、二人ともあまり顔が笑っていないような気がした。
「そ、そんなこと言われたって、こんな状況で自然に笑うなんて難し過ぎ…」
でも、これじゃ信じてもらえないかも…と、不安だらけの仕上がりにそんな感想しか浮かばない。
「…うぅ、分かったわよ。誰が見ても違和感ない写真が撮れるまで、何回だって撮り直すから。その代わり、最後までちゃんと付き合ってよね」
もちろん…と、グーサインで応じる。彼女が納得いくまで寄り添うことは、担当トレーナーとして、もはや手慣れたものだった。
時計の長い針が四分の一程度進んだ頃だろうか。何十回と行われたリテイクの末、ようやく満足のいく写真を撮ることができた。
幻想的なアクアブルーを背景に、顔をしっかりと寄せ合い、混じり気のない素敵な笑顔を浮かべる男女…誰が見ても楽しい水族館デートにしか見えない、完璧な一枚だ。
最初の一枚と比べると、それはまさに雲泥の差。案外、彼女は写真モデルに向いているのかもしれない。
「周りの人たち、絶対アタシたちのこと変なカップルって思ってたよね…」
水族館を出てすぐ、そわそわと落ち着かない様子で彼女は耳を折り曲げた。
同じ場所で何度も自撮りを繰り返す二人の姿は、確かに怪訝や奇異の目で見られていただろう。しかし、それを乗り越えて得られたものは、紛れもなく二人の努力の結晶だ。
「それって慰めてるつもり? でも…二人の努力の結晶か…意外に、トレーナーの言う通りかもね」
静かな声をどこか満足げに響かせた彼女。
最初こそ硬かった表情も、いつしか見慣れたそれへと変わり始めていた。そう、とても愛らしく、月明かりのように淡い穏やかな笑顔へと──
露出した肌を容赦なく責め立てる清冽な空気。すっかり夜の帳が下りた街は、クリスマスらしく見渡す限り七色の光にあふれていた。
デートスポットをいくつか経て最後に辿りついたのは、真下からだと首を垂直に上向けるほどの巨大なクリスマスツリー。
クリスマス当日だけの特別なイルミネーションが行われていて、まさにこの日来た甲斐がある場所だった。
ツリーにあまりにも近過ぎると、逆に写真に収まり切らない。というわけで、数十メートル離れたところから撮影を試みるが、それでもツリー周辺は相当な人であふれかえっていた。
窮屈な人混みの中、ベストショットを狙って何度も撮影を繰り返す。この人の多さが、写真のリアリティをより高めてくれるだろう。
その日最後のシャッターが押されたのは、それから数分後のことだった。
「ふうっ…お疲れさま」
ツリーからさほど離れていない歩道の隅で、彼女は深く溜め息をついた。
今日撮った写真を二人で確認したが、それはどこから見ても、そして誰が見ても、仲睦まじい男女の一幕。お互いに納得のいく出来栄えだった。
「今日はホントにありがとね…」
辺りのざわめきにかき消されないぎりぎりの声量。
いつものように右手を側頭部にやり、少しだけ俯き加減の彼女が、そこにはいた。
こちらこそありがとう…と、反射的に答えた。
「とうしてアンタがお礼を言うのよ。アタシの頼み事に付き合わされて、大変だったでしょ…」
彼女はそう言ってくれたが、役に立てたことは単純に嬉しかったし、色々な場所を二人きりで巡ることができたのはとても新鮮だった。
「そっか…だったら、アタシもトレーナーと色んなとこ行けたし、ちょっとは楽しかったっていうか…気分転換にはなったかな…」
いつの間にか、彼女は大きく目線を逸らしていた。それが向けられた先は色鮮やかな巨大樹。その頬を、ほんの少しだけ紅色に染めながら。
心地良いしじまの中、彼女は顔に手を当て、逡巡に身を落としているようだった。
しばらくして、その手がそっと降ろされた時。
「…レースを引退したメジロ家のウマ娘が、次にするべきことって何か知ってる?」
何の脈絡もない一言によって、沈黙はおもむろに破られていた。
突然の質問に頭が回らなかったが、何とか答えを捻り出す。一般的には、やはり第二の人生となる仕事探しだろうか。
「うん、まぁ、それも当然あるけど…」
少しばかり目を伏せて、彼女はそのつややかな尻尾をゆらゆらと波打たせた。
「お見合いとか縁談とかの話が舞い込んでくるの。要は…結婚だよね」
彼女の口から発せられるとは思えなかった、意外過ぎる一言。
重々しさと気恥ずかしさ、どちらも内包したような難しい顔をして、彼女はおもむろに腕を組んだ。
「今どきそんなの古いかもしれないけどさ、メジロ家では当たり前のことなんだよね…それ。お母さんも、おばあちゃんも…皆そうやってメジロ家を繋いできたんだもの」
とつとつと言葉を紡ぎながら、ひっきりなしに行き交う人々を見やる。そのほとんどはカップルか家族連れだった。
「アタシの競技者生活ってさ、長くても後数年でしょ? もしその時が来たら、それをちゃんと果たさないといけないんだって、分かってはいるんだけどさ…」
弱々しく語尾をすぼめる彼女。
男性が苦手な彼女にとって、それは大きな不安なのかもしれない。おばあさんが抱いている心配も、きっとそこから生まれたものなのだろう。
「…って、何でこんなことアンタに話してんだろね、アタシ」
彼女らしからぬ苦笑い。適正の壁に阻まれ、望んだレースへの出走が叶わなかったウマ娘のような…そんな儚い空気をまとわせて。
ドーベルなら大丈夫だよ…と、すかさずフォローする。彼女のことをよく理解し、それでいて彼女が心を許せる男性は、この広い世界にきっといるはずだし、現にこうして男性とデートできているのだから、と。
「そ、そりゃ…トレーナーは特別だし…」
やはりどこか遠くを見つめて、彼女はそのダークブラウンのロングヘアを右の手櫛でといていた。
「おばあちゃん、多分もう長くないんだよね…いつ癌が再発してもおかしくないって。その時治療に耐えられる体力もあるかどうか…だから、会う度にいっつも言われるの。あなたのウェディング姿を生きてるうちに見たいって…」
物憂げな声が冷気を伝う。それは彼女とおばあさんの切なる願い。もちろん、彼女のトレーナーとして叶ってほしいとは思うが、おばあさんの健康を祈るくらいしか、今の自分にできることはなさそうだった。
そんな時、不意に背後から声がした。
「あの、すみません。写真を撮っていただけませんか?」
声をかけてきたのは、赤ん坊を抱えた若い女性…それもウマ娘だ。そのすぐ側には夫と思しき男性も。
男性の方は、女性と同じ色の尻尾をふわふわと揺らす二歳くらいの女の子を、女性の方は、今年生まれたばかりであろう天使のような男の子を抱えている。見るからに幸せいっぱいの四人家族のようだ。
「撮ってきなさいよ。アタシのことはいいから」
こちらにしか聞こえない小さな耳打ち。彼女の白い吐息が、耳に優しく吹きつけていた。
促されるまま快諾の意を伝える。ちらりと彼女を見やると、両親に抱っこされた幼子に、慈愛に満ちた眼差しを送っているようだった──
あまりの人の多さと、子供たちの虫の居所の悪さによって、思いの外撮影に時間がかかってしまった。
人混みを縫うようにして、急ぎ足で戻る。元いた場所に辿り着いた時、彼女はスマホとにらめっこしていた。
そろそろと近寄るが、なぜか彼女は全くこちらの存在に気がつかない。いつもなら敏感なウマ耳ですぐに気配を察知するのに、人々の喧騒のせいなのか、あるいはよっぽどスマホに集中しているのか、無防備とさえ思えるほど、ただただ小さな画面に食い入っていた。
右手人差し指が小気味よく左右にスライドしている。どうやら今日撮った写真を振り返っているようだった。
「何だか…ホントのカップルみたい」
微かに聞こえた独り言。それはさらに続いて…。
「アタシ、どうしたら素直になれるんだろ…というか、あの人も相当鈍いし…」
刹那、彼女の耳がくるりと半回転した。普段の鋭敏さを、この時だけ急に取り戻したかのように。
確かにこちらの存在を認識したであろう彼女は、続けざま、びっくりしたように振り返った。
「っ…!? ちょ、ちょっと…!? いつの間に戻ってきて…っていうか、もしかして、今の聞こえて…!?」
あからさまにうろたえる彼女。口に手を当て、目をぱちぱちとしばたたかせる。
どうやら聞かれたくなかったらしいが、聞こえなかった振りをする演技力に自信もなく、正直に全部聞こえていたと白状した。
「な、なに盗み聞きしてるのよ! 今のは忘れて! 記憶消してっ!」
そんな無茶な…と、物凄い剣幕にただただ気圧される。そもそも、どうしてこんなにあたふたしているのかも分からないのだが…。
「べ、別にさっきの独り言に深い意味なんてないから! 今日撮った写真をただ眺めてただけ…! "素直"とか"あの人"とか、アンタには全然関係ないっていうか、全部単なるアタシの妄想っ…!」
顔をうんと真っ赤にして、それでも彼女の口は機関銃のように動き続けた。
「それにしたって、戻ってくるの遅かったかったじゃない…! そういえばさっきの子たち、めちゃくちゃ可愛かったよね…! ちょっと前までの妹と弟を見てる気がして、何か懐かしいなって…そんなこと考えてただけっ…!」
何の脈絡もない話が飛び出すほど動転している。これ以上は見るに忍びなくて、さっきのことは綺麗さっぱり忘れた体で、彼女の話題転換に乗っかることにした。確かに、両親に抱っこされたあの子たちはとても可愛らしかった。
「やっぱりちっちゃい子の可愛さって特別だよね…! 母性本能をくすぐられるっていうか…」
実は彼女には十歳ほど年の離れた弟妹がいる。だからこそ、先ほどのウマ娘親子を見て感じることもあったのだろう。
「そういえば、トレーナーは子供好き? 子供の相手とかしたことは…?」
不意に飛び出した思いがけない質問。わずかばかり間を置いて、少しだけ…と、返す。
子供と接すること自体は好きが、そもそもそのような機会がほとんど無い。強いて言えば、前回の帰省で二歳になる姪っ子と遊んだくらいだ。
「まぁ、保育士さんとかじゃないとなかなかね。実はさ、アタシって赤ちゃんだった妹にも弟にも、やけに泣かれてさ…だから撮影もアンタに任せたの」
突然打ち明けられた事実に目を丸くする。しかし、残念ながら彼女の期待に応えることはできず、撮影直前から子供たちは泣き声の大合唱だった。
「そうだったんだ。何か意外だね、それ」
本当に意外そうな顔で、彼女は言う。そんな風に思われていたことが、一番の驚きだった。
「それで、結局泣き止むまで撮影を待っててあげたってことでしょ? アンタってやっぱりお人好しだよね。まぁ、この人混みで夜も遅いし、多分疲れて眠たかったんだと思うけど…」
それはまさに推察通り。すやすやと眠り始めたその幼気な寝顔は、愛くるしさにあふれていた。
「うん、子供の寝顔って、見てるこっちも幸せになるよね…昔から妹と弟のお世話をしてきたから、あの可愛さはよく知ってるつもり。よその子でもあんなに可愛いんだから、自分の子供だったら目に入れても痛くないくらい、ホントに可愛いんだろうね。まぁ…アタシがちゃんとしたお母さんになれるかは、正直かなり不安だけど…」
その不安が結婚に対するものなのかは分かりかねたが、彼女をよく知る身として、その不安は杞憂としか思えなかった。あがり症ではあるものの、本当は芯が強く心優しい彼女…いつか素敵な男性と結ばれて、立派な母親になるに違いない。
ただ一言、何も心配いらない、ドーベルは強くて優しい娘だから、きっと良い人が見つかるよ…と、エールを送った…までは良かったのだが。
次の瞬間、彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らして、いかにも当て付けがましく顔を背けた。
(もうっ…どうして………のよ………バカ…)
何かぶつくさと聞こえてくる。心の声と相違ないほど微弱過ぎるそれは、残念ながらきちんと聞き取ることはできなかった。
「何でもないっ…! 撮影も済んだんだし、さっさと帰りましょ…!」
そう言い放つや、つややかな尻尾がふわりと翻る。
つかつかと歩み去る彼女を、慌てて追いかけていた──
肩を並べて歩く一組のカップル。そこには和気あいあいとした和やかさも、そぞろに浮き立つ初々しさもない。肌で感じるほどの、剣呑な雰囲気だけが漂っている。
「ホントに何でもないからっ…!」
何を聞いても、彼女はその一点張り。なぜかは分からないが、最後の最後に機嫌を損ねてしまったようだ。
彼女がそんな態度を取り続けることは、過去何度かあった。何かに対して強い不満や怒りを持っている時だ。しかし、今回ばかりは原因からして分からない。
もし何か気に障ったのなら謝りたい…と、必死に頼み込む。
「…別に怒ってない」
素っ気なくささやき、決して目を合わせようとしない彼女。それなのに、隣同士歩いてくれる状況が不思議でならなかった。
それでもめげずに声をかけ続けると…。
「それじゃ…これから"練習"に付き合って」
出し抜けに、彼女はそんなことを口走った。トレーニングのことかと尋ねると、すぐさま首を横に振った。
「もし付き合ってくれたら、アタシも機嫌直すから。それと、一つ約束して。絶対に逃げたり、変な声出したりしないって」
彼女の落ち着いた言葉から並々ならぬ思いを感じ取り、ただ黙って頷く。小刻みに揺らめくその耳は、まるで武者震いでもしているようだった。
そして、その"練習"は突然始まった。
その内容を簡潔に述べるなら、"彼女によって手がいきなり奪われた"…そんな表現しかできない出来事。何が起きたのか、一瞬理解できなかった。
そう、それはいわゆる手を繋ぐという行為。思いを寄せ合う二人が行う、気心の知れたコミュニケーションだ。
思わず漏れそうになった声を喉元で何とか抑え込み、おそるおそる真横を見る。すると、彼女はこれ以上なく顔を真っ赤にして…。
「か、勘違いしないで! これは練習だから…! 手も繋げないなんて、それってやっぱり男の人からしたら嫌でしょ…! だから、その練習…!」
呆然となるこちらに目もくれず、明後日の方向にまくし立てていた。
お互い手袋をしているがゆえ、手の感触や温もりは伝わらない。ただ、彼女がこちらの手をぎゅっと握り締めていることだけは、確かに感じ取れた。
「それに、トレーナーとなら、別に見られたってそんなに恥ずかしくないっていうか…ほ、ホントは恥ずかしいけど…! これだけ周りにカップルがいたら、アタシたちが手繋いでたってそんなに目立たないでしょ…! だから、アンタを練習台にさせてもらっただけっ!」
恥ずかしさを紛らわそうと懸命な彼女。耳も尻尾も、別の魂が取り憑いたかのように忙しない。
男性と話すのでさえやっとなのに、無理をしているのは誰の目にも明らかだった。しかし、競技者生活を終えたその先…メジロ家の新たな未来に向けて、それは大きな第一歩に違いなかった──
数分の後、最寄り駅の出入口に辿り着いた二人。彼女のトークは終始止むことはなかったが、さすがにある程度は慣れたようで、今はもう平静を保っていた。
後は電車に揺られて学園に帰るだけだ。
「トレーナー…その…今日はアタシのわがままに付き合ってくれて、ホントにありがと…あの写真を見せたら、おばあちゃんもきっと安心してくれると思う」
どこか名残惜しそうに手を離して、彼女はこちらへと向き直った。その顔はやはり紅潮したままだったが、凛々しい面持ちは達成感にあふれていた。
しかし、それは一瞬のうちに物悲しさを帯びた。
「…でもさ、よく考えてみたら、これってその場しのぎっていうか…本当の意味でおばあちゃんを安心させてあげられるわけじゃないよね。これじゃ、ただそれっぽい写真を撮っただけ…」
真っ白な重たい息を吐き出す彼女。一拍の空白を経て、やにわにまなじりを決した。
「だからさ、アタシ…もうちょっと頑張ってみる。メジロ家に生まれたウマ娘として、果たすべきことを果たしたいの」
それならばと、すかさず応じる。担当トレーナーとして、協力できることがあれば是非手伝わせてほしい…と。
「"トレーナーとして"…か。うん…やっぱりアンタらしいわね、その絶妙に人が好いところなんか、特に。そこはトレーナーとしてじゃなくてさ…」
ほんの少しむくれた顔をしながら、唐突に言い淀んだ彼女。次いで、わざとらしく首を横に振ってみせた。
「ううん、何でもないっ…そこはアタシが何とかしてみせるから」
ふと、二人の間を吹き抜けた微風。ダークブラウンの髪がさらさらと舞い、彼女は右手でそれを抑えた。指の隙間からあふれ出る一本一本は、あたかもビロードのようにあでやかな光沢を放っている。
その可憐な姿に、なぜかこの日は少しだけドキッとした。
「あのさ…一つお願いがあるんだけど、いい? せっかくクリスマスに、こんなところまで来たわけだし…」
わずかな静寂がお互いを包む。やがて、大きく冷気を取り込む音がした。そこには、決意を秘めた紫紺の瞳が確かにあった。
「もう少し一緒に歩かない…? イルミネーションが綺麗なとこ、近くにまだいっぱいあるから…」
そして、まるで握手のように、そっと差し出された小さな手。いつものように、少しだけ視線を逸らしながら。
「勘違いしないで。もう…練習じゃないから…」
頬をほのかに赤らめて、彼女は精一杯に紡ぎ出していた。ツーショット写真のようなはにかみ顔と、白くて愛らしいささやきを。
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思い出の場所でサイレンススズカとデートすることになりました
「トレーナーさん、いきなりで申し訳ないんですけど、お願いしたいことがあるんです…」
眩い白光によって照らし尽くされた、トレセン学園の広大なトラック。その外縁柵の内と外を挟んで、ルームメイトとの併走から戻ってきたサイレンススズカは、何の前触れもなくそう切り出した。
クールダウンの軽いランニングだったとはいえ、その肩は少しばかり上下に揺れている。
「あっ、スペちゃんはもう少し走ってから帰るそうです」
やおら振り返って、未だ草色の絨毯を駆けるルームメイトの姿を、彼女は目で追っていた。迫る門限に、生徒たちの姿はまばらだった。
やがて、彼女はこちらへと向き直って…。
「それで、お願いしたいことなんですけど…今お話ししても大丈夫ですか?」
きょとんとしていたこちらの顔を見て、彼女は再度そう尋ねていた。
柵に片手を置きながら、そわそわと何とも落ち着かない様子に見える。
「すみません…突然過ぎてびっくりしますよね。でも、今じゃないと、多分お願いできないので…」
その物憂げな表情と改まった雰囲気に、並々ならぬ覚悟を感じて、おそるおそる首肯する。
「ありがとうございます。えっと、実は…」
そう口走りながら、柵をゆっくりとくぐってみせる彼女。朱色のストレートロングヘアがさらさらとなびいて、その直後、真正面に向き合う。
「今度のお休みの日、静かなところにお出かけがしたいんです」
身構えていた割には、何の変哲もない内容。確かに、彼女の方から率先してお出かけを提案するのは珍しいことではあるが…。
せっかくだし、スペも誘おうか…と、今なお走り続けているその少女を見やりながら答えると…。
「スペちゃんですか? あの、できれば…あっ、できればじゃなくて…二人きりが良いんです」
とつとつとした口振りながらも、これまでよりはっきりとした意志が込められている…不思議とそんな気がする言葉だった。
実は、スペシャルウィークの担当トレーナーが、わけあって一ヶ月ほど入院している。そこで、入院期間中だけ臨時的にスペのトレーニングを見ることになっていた。
元々ルームメイト同士で仲の良いスズカとスペ。自分が受け持った方が何かと都合が良いだろうという判断だった。
その期間はトレーニングもほとんど一緒に行っているし、休日には三人で過ごすことも多かった。なかなかないシチュエーションに、スズカ自身、とても楽しそうにしていたと思うのだが…。
そんなことを考えるこちらを気にする様子もなく、彼女は真っ直ぐな視線を送っていた。だらりと下げた右腕を自身の左手で掴みながら…それは、彼女の見慣れた立ち姿だった。
「場所は私に任せてほしいんです。ちゃんと門限には間に合うように予定は組むので…」
お出かけを切り出す前までの気後れ感はどこへやら。決して誰にも先頭を譲らないレースの時のような気迫が、そこにはあった。
「ですから、二人きりで構いませんか?」
スカイブルーの双眸がこちらを穿つ。その真剣な表情は、どこか助けを求めているようにさえ思えるものだった。
担当ウマ娘の切なる願いを断る理由なんてありはしない。迷いなく首を縦に振った。
「ありがとうございます。詳細はまたご連絡しますね」
そう答えるや、やにわにトラックの方を向いて手を振り始めた彼女。その視線の先で、ルームメイトが小さく手を振り返しているのが、確かに見えた──
お出かけ当日の朝。待ち合わせ場所である学園の最寄り駅で、彼女がやって来るのを待っていた。
決して大きくもなく、小さくもない通い慣れたその駅。休日には多くのウマ娘が改札を通り抜ける光景が見られる。言わずもがな、そのほとんどは学園所属の生徒たちだ。
この日もご多分に漏れず、私服のウマ娘たちがひっきりなしに訪れている。その中に、朱色の髪の少女を見つけたのはすぐだった。
少し背が高めの彼女。たとえ人混みにまみれても、ちょこんと見える緑色の耳カバーですぐに分かってしまう。
手を振ってこちらの存在をアピールすると、彼女はそれに気づいて足早に駆け寄ってくれた。
「おはようございます。ちょっと遅かったですか?」
そう言って、自身のスマホを取り出す彼女。
まだ待ち合わせ時刻の十分前…全く問題ない時間だ。お互い几帳面なのか、待ち合わせをするとだいたいどちらも早く着き過ぎてしまう。
だが、無事に合流できた安堵に勝る事態が、そこにはあった。そう、見慣れぬその姿に目を奪われてしまったのだ。
「この服装、変ですか…?」
こちらの視線に気づいたのか、彼女はおそるおそるつぶやいた。その要因が自身の衣服であることは、彼女自身、自覚があるようだった。
涼しげな真っ白いシャツに、カフェオレ色のショートジャケット。アッシュグレーの膝上スカートは、短過ぎず長過ぎず、彼女の透明感と可憐さを際立たせるその中間点。そして、その下に広がる健康的な肌色は、スニーカーに至るまで連綿と続いている。
見知らぬ女の子がこの服装をしていても、別に何とも思わなかっただろう。ただ、何より違和感を感じたのは、季節や場所に関係なく着用していた、彼女のトレードマークといってもいい黒タイツを、この日封印してきたことだった。学園の制服やトレーニング用水着は仕方ないとしても、それ以外で彼女が素足をさらけ出すことは、かなり稀なのだ。
こちらの心を読み取ったように、彼女は足元に視線を落としながら切り出した。
「やっぱり気になりますよね。私も慣れてなくて、足がスースーします。実は、スペちゃんがおすすめしてくれたデートコーデなんです」
デートコーデ…そんな言葉を彼女の口から聞いたのは間違いなく初めてだ。意外過ぎて、思わず復唱してしまう。
「えっ…あっ、はい。デートにおすすめの服ってことですね」
その言葉を真に受けた返事。いかにも彼女らしい。
なるほど、今日はデートなんだ…と、いたずらっぽく茶化してみる。こういうことに"お堅い"印象がある彼女を、少しからかってみたかったからだ。
「はい、デートです」
しかし、返ってきたのは生真面目な回答。ふふっと顔を綻ばせてはいるものの、その顔に恥ずかしさの類は一切なく、朱色の尻尾が静かに揺らめいているだけだった。
「デートだと困りますか?」
それどころか、畳みかけるように飛んできた二つ目のカウンターパンチ。それも、純真無垢な上目遣いと共に。
そんなことないよ…と、反射的に答えることしかできなかった。それは間違いなく心揺さぶる所作だった。
「ふふ、良かった」
口に手を当て、彼女は柔らかく微笑んでみせる。
いつもとどこか違う雰囲気に驚かされながらも、今日の担当ウマ娘はとても可愛らしく見えた──
電車に揺られること約一時間。辿り着いたのは、秋の色を帯び始めた山々を臨む小さな駅。周辺は人家もまばらで、いわゆる田舎の光景が広がっていた。
「トレーナーさんとここに来るのは、二回目ですね」
耳カバーをしたそれを上機嫌にぴくぴくさせながら、澄んだ空気を全身に取り込む彼女。
そう、ここは以前、彼女が別のトレーナーと契約していて、その指導から走りに精彩を欠いていた時、気分転換のため連れてきた場所だった。誰もいないまっさらな世界…見たことのない景色を求めて、心が空っぽになるまで走り尽くした場所だ。
「あの時は春でしたけど、秋の景色も見てみたくて…」
言われてみれば、以前見た時と印象が少し変わっている気がする。そもそも、こうやって彼女と遠出するのも、遠征を除けば随分と久々だった。
頭上に広がる水色と白のまだら模様と、秋らしく過ごしやすい気候に、自然と高揚していく気分。それはおそらく彼女も同じだろう。
「前回は山の方に登っていきましたから、今日は川沿いを下っていきましょうか」
そう言って、彼女は静かに歩き出した。
ひんやりとした微風が朱色の髪をあでやかに揺らし、心地良い匂いを運んでくる。
「秋の風って本当に気持ち良い…何だかうずうずしますよね」
走りたい衝動を抑えられないのか、尻尾が軽やかに波打っている。
この前みたいに走ってみる?…と思わず言いかけたが、さすがに走りに適した服装ではないと判じて、開きかけた口をつぐむ。
それを感じ取ったように、彼女はにこやかに笑う。
「ふふ…今はトレーナーさんと一緒に歩きたい気分なんです。ゆっくり話しながら行きましょう」
その視線の先には、陽の光を浴び、きらきらと輝いている清らかな渓流。絶えず奏でられる水の音は美しく、心を癒やしていく。
「スペちゃんの故郷って、あんまり人の住んでない山の中って言ってましたよね。多分、こんな感じなのかしら…」
唐突に飛び出したルームメイトの名前。彼女がスペの話をすること自体は珍しいことではなかったが、それはなおも続いた。
「スペちゃんって凄いですよね。愛嬌たっぷりでいつも周りを元気にしてくれるし、気遣いができて、本当に気さくで、友達もたくさんいて…」
止まらない褒め言葉。確かにその通りだが、そこまで並べ立てられると、語る本人が卑屈にさえ思えてくる。
「トレーナーさんも、スペちゃんを受け持ってから楽しそうにしていますし…」
その言葉には控えめに肯定しつつも、何となくばつが悪かった。スペの明るさに笑みをこぼしてしまうことは、何度となくあったからだ。もちろん、スズカがつまらないとか、そんなわけでは決してないが。
「それに、色んなことを知ってるんです。美味しいお菓子屋さんとか喫茶店とか…私の方が先輩なのに、私は走ることしか知らないんですよね。だから、凄く尊敬してて…」
やたらスペの話ばかりしてくることに、さすがに違和感が勝ってくる。
話したいことというのは、もしかしてスペ本人やスペを受け持ったことへの不満なのか…そんな疑念を抱えたまま、ここにスペはいないよ、何か思うところがあるのなら言ってごらん…と、おそるおそる話しかけていた。
「あっ…」
口に手を当て、本当に「しまった」という顔をする彼女。先ほどまでの言葉に他意はなく、無意識に口をついてしまっていただけ…そんな表情に、少しばかり安堵した。
一呼吸置いて、彼女はひっそりとした声で尋ねていた。
「トレーナーさんは…スペちゃんのこと、どう思ってますか?」
ストレートな質問に思わず困惑する。単純な問いかけほど、答えるのは意外と難しいからだ。とっさに無難な答えを探る。
臨時でスペのトレーナーをしているゆえ、可能な限り気にかけているのは事実だ。クラシック路線を走り抜いたウマ娘だけあって、その素質と実力には驚かされてばかりだし、スズカとは全く違うタイプの力強い走りには一目置いている。
だが、案の定というか、それは彼女の求めていた答えではなかったようで…。
「すみません。その…競技者としてじゃなくて…一人の生徒としてです」
鋭さを帯びた声を突きつけられては、嘘をつくわけにもいかない。正直に今感じていることを告げる。
ひたむきに夢に向かって努力し、それでいて笑顔を忘れない天真爛漫な少女。何でも美味しそうに頬張る姿も、たまに飛び出す方言も可愛らしい…そんな女の子だと。
「そうですよね…」
どこか寂しげに、彼女はぽつりと漏らしていた。さっき彼女が述べたこととさして変わらないとは思うのだが、なぜか不安のようなものを隠し切れない様子だった。
「スペちゃんからよく聞くんです。トレーナーさんはとても良い人で、飛び入りの私にも優しく接してくれるって…」
次いで、彼女の口がほんのわずかに動く。それはきっと、心の声が漏れてしまったもの。
(このままじゃ、スペちゃんに差されてしまいそうで…)
言い終えるや、唐突に数歩先へと駆け出した彼女。その重々しい空気によって、いたたまれなくなったかのようだった。
「あの、ごめんなさい…少しだけ走ってきていいですか…」
そこに拒否権はない。彼女の物憂げな眼差しを前にして、引き止められるはずもなかった。
こちらの返事を待たず、彼女は走り出していた。規則的に揺らめく尻尾が、徐々に遠のいていった──
川辺のなだらかな草っぱらに、並んで座り込む一組の男女。
夜空という紺色のパレットに乱雑に描かれた濃紫の雲と、ぽつりぽつり散りばめられた明色の星々。少し遠くに見える人家の明かりが、心の片隅に眠るノスタルジアを密やかに想起させる。
秋の夜長は、しずしずと幻想的な光景を作り出していた。
走り出してからしばらくして戻ってきた彼女。その口から、スペの話題が出てくることはもうなかった。その意志を汲んで、こちらからも話さなかった。
それ以降交わされたのは、普段と同じ、何ら取り留めのない会話だけ。しかし、決して居心地が悪いなどということはなかった。いつもと変わらない混じり気のない笑顔が、それを証明してくれていたからだ。
途中で昼食や休憩を挟みつつも、その日は歩いたり話したり、こんな時間までのんびり過ごしていた。
「今日は楽しかったですか?」
すぐ隣で涼やかな声がした。
もちろん…と、すかさず頷く。
「ふふっ…それを聞けてほっとしました。私、デートに全然詳しくないから、こんなところしか思いつかなくて」
人が多い場所が苦手な彼女。いかにも彼女らしいチョイスだし、下手に人が多いところより良い選択に思えた。
「私にとって、ここは思い出の場所なんです。トレーナーさんが私を導いてくれた、とても大切な場所…」
清流のせせらぎをバックに、秋の演奏家たちが忙しなく美しい音色を奏でている。まるで、二人のリラックスした心を体現しているようだった。
「大事なお話…してもいいですか?」
ふわりと舞う尻尾。それは彼女の背中と地面を順に叩き、また同じ位置に戻っていた。
「今日、トレーナーさんをデートにお誘いしたのには、理由があるんです。実は、どうして伝えなくちゃいけないことがあって…」
ふっと真正面を向いて、彼女はあからさまに目線を逸らしていた。その横顔は、どこか自信なげでいじらしくさえある。
「えっと、その…」
口ごもる彼女がもどかしい。そんな思いが心を満たしていく。
スペの件もあったし、彼女が伝えようとしているそれが重大なことであることくらい、さすがに察しがついていた。あんなに控えめで、どちらかといえば不器用な彼女が、懸命に自らの思いを伝えようとしている。
その背中をどうやったら押してあげられるだろう…思い悩んだ末、一番大事に思ってるのはスズカだよ…と、口にしていた。それは、走り出してしまった彼女に伝えそこねた一言だった。
「えっ…」
小さな声を漏らしながら、彼女はこちらを向いた。戸惑いを顔一面を張りつけて、やがてそれは一抹の嬉しさを帯びていく。それは本当ですか?…と、その顔には書いてあった。
確かに、スペはとても人懐っこく、活発的で明るい性格だ。スズカよりも人に好かれるタイプだとは思う。しかし、スズカにしかない魅力もたくさんある。それは彼女の担当として、誰よりもよく知っているつもりだ。そう、スズカはただひたすらに純粋で、何事にも一途なウマ娘なのだ。
その言葉に安心したのか、彼女は大きく息を吐き出し、目を細めていた。
そして、とつとつと、話そうとしていたことを吐露していた。
「実は…少し前にスペちゃんに謝られたんです。『スズカさんの担当トレーナーさんと、私ばっかりたくさん話してごめんなさい』…って」
言われて思わず目が点になる。
思い返せば、トレーニングやプライベートに関係なく、そんなシーンは多かった気がする。とはいえ、スズカを完全に差し置いてまで話しっぱなしだったわけではないし、謝るほどのことには思えないが…。
「スペちゃんは何も悪くないです。いつも通り明るく振る舞ってただけだから…悪いのは私なんです。自分が愚図なのを棚に上げて、そんなことでへそを曲げてしまったんですから…」
額に手を当て、彼女は心底うんざりしたようにかぶりを振った。その儚げな表情は深く沈み、あまりにも見るに忍びなかった。
「私…妬いてたんです。トレーナーさんとすぐに打ち解けて、楽しそうに話してたスペちゃんに。それで、自分でも気づかないうちに冷たくあたったりしてたみたいで…だからスペちゃんが謝りに来てくれたんです。それを聞いて、自分がとても情けなくなってしまって…」
半分に折れ曲がるほどしょげた両耳。
まさかそこまで思い詰めていたなんて…などとは口が裂けても言えなかった。トレーナーとして、担当ウマ娘の苦悩に気づけなかったことは、ただただ愚かしくてならなかった。
「どうしてこんなことになったんだろうって、二人で納得行くまで話し合いました。お互いの気持ちも伝え合って…それで、自分の気持ちにも整理がついたんです。スペちゃんは親友だから、本当に親身になって私の話を聞いてくれました。しかも、私がちゃんとトレーナーさんを誘えるよう、背中まで押してくれることになって…」
刹那、その耳は静かに天を衝いた。
「だから、決めたんです。今度のお休みの日、トレーナーさんにきちんと思いを伝えるって。レースでは逃げてばかりですけど、今日はもう…逃げたりしません」
凛々しさを帯びた声が響く。
二人きりのお出かけを提案してきた時の真っ直ぐな眼差しは、親友の後押しがあったがゆえのものだったのだろう。
あの時と全く同じ目をして、彼女はしかつめらしくこちらを見た。お互いの顔は三十センチメートルと離れていない。濁りなきスカイブルーの瞳が、その思いの丈の深さを物語っていた。
「トレーナーさんと出会った頃は、レースのことでずっと頭がいっぱいでした。誰もいない先頭の光景が見たくて…そのことだけを考えていました。でも、気づかないうちに、見たいものが少しずつ変わってきてたんです。私が本当に見たいもの…それは先頭の光景の、さらにその先にありました…」
不意に自身の髪に触れ、彼女は逡巡する。入念に手入れされた尻尾が、間を持たせるようにふわふわと波打って、目線を奪う。
そして、それは静かな一声によって引き戻される。そこにあったのは、気恥ずかしさを秘めた薄紅の頬。彼女が初めて見せた、一人の少女としての素顔だった。
「私は…私を導いてくれた大切な人…トレーナーさんの笑顔が見たい。そのことに、やっと気づいたんです…」
胸に手を当て、どこか苦しそうに、それでいて嬉しそうに、彼女は言う。まるで、高鳴る鼓動を必死に抑え込むようにして。
「トレーナーさん…好きです。どうかこれからもずっと、あなたの隣にいさせてください」
それは紛れもない告白だった。透明感にあふれたその声が鼓膜を吹き抜ける度、心臓がどきどきと脈打つのを感じた。
「私じゃ…ダメですか…?」
その答えを待って、いつまでもこちらを見つめ続ける彼女。目を逸らすことなんてできはしなかった。そんなことをしたら、彼女が悲しんでしまう…それは分かりきっていたからだ。
しかし、すぐに頷くこともできなかった。彼女を導くのは、あくまでトレーナーとして。一人の男として彼女を導くには、荷が重過ぎる気がしてならなかったのだ。
彼女がこの迷いを察したのかは分からない。少なくとも、先に目を伏せたのは彼女の方だった。
「すみません…やっぱり、無理ですよね…生徒からの告白なんて…」
否定することも肯定することもできぬまま、ただただ彼女の虚ろな声が容赦なく突き刺さる。
「でも、悔いはありません。トレーナーさんに気持ちを届けられただけで、私…満足していますから…」
いつしか目を閉じていた彼女。気がつけば、透明な雫が頬を伝い落ちていた。それを拭ったり、顔を手で覆ったりしないのは、彼女なりの最後の意地に見えた。
俯いたまま、暗夜に吸い込まれていくすすり泣く声。とても聞いてなどいられなかった。それを止めることもできないで、何が担当トレーナーなのか…そう覚悟を決めた。
意を決して口を開く。スペに感謝しないとな…と。
「スペちゃんに…?」
おずおずと顔を上げ、潤んだ目を見開いた彼女の顔は、まさに寝耳に水の様相だった。
それに向かってこう伝える。あの娘のおかげで、お互い本当の気持ちに気づくことができたんだから…と。
続けざま、彼女の体を引き寄せるように、肩に腕を回した。スズカの笑顔をずっと側で見ていたい…ただ一言、そう告げて。それ以上の言葉なんて、必要なかった。
驚きの声が一瞬だけこぼれて、彼女はまた顔を赤くした。泳ぐ目線がこちらを捉えるのにしばらくかかったが、その時にはもう、あの見慣れた笑顔を浮かべていた。
「嘘じゃ…ないですよね…?」
未だに信じられないのか、今にも消え入りそうな問いかけを彼女は口にしていた。
嘘なものか…そう心の中でつぶやいて、肩に回した腕に力を込める。
今思えば、彼女をここに連れてきたあの日から、こうなる運命だったのかもしれない。そんなお決まりのフレーズが無意識に胸中を駆け巡り、少し恥ずかしく感じた。もしかしたら、彼女も同じことを思っているのだろうか…いや、思っていてほしい。
そして、涼やかなささやきが耳に届く。
「良かった…トレーナーさんに出会えて…本当に…」
重力に身を任せ、彼女は全身をこちらへと預けていた。心地良い香りが鼻をかすめ、やがて、お互いの温もりが伝う。
その小さな白い手は、薄暗闇の中でこちらを優しく包み込むよう、そっと体に添えられていた。
「他の娘を担当に持っても、私のこと、ちゃんと見ててくれますか…? ううん…そうさせてみせます。必ず…」
愛くるしい声で、どこかいたずらっぽくささやく彼女。その言いつけを破ると果たしてどうなるのか…そんなことを考える余裕を与えないほど、自信たっぷりに。
「誰にも、邪魔させません。誰にも、譲りません。トレーナーさんと二人で見る景色は…誰にも…」
目の前に広がるノスタルジックな光景。それは二人だけの思い出だった。そう、どれだけの時が経とうとも、永遠に…。
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超高級レストランでメジロパーマーとデートすることになりました
「トレーナー、ちょっと頼み事聞いてくんない? 散々考えたんだけど、これ頼めるのやっぱトレーナーしかいなさそうでさ…」
心地良い春のぽかぽか陽気に包まれた校庭の、何ら変哲のない昼休み。いかにも神妙そうな面持ちで、メジロパーマーは何の前触れもなくそう切り出した。
悩みの相談役として定評があり、気遣い家として知られる彼女。そんな彼女が頼み事をしてくるのはなかなか珍しい。力になれることがあるなら何でも…と、耳を傾ける。
彼女は揚々と指を鳴らした。
「さっすがトレーナー、ありがとっ! 今度のお休みの日にさ、ディナーに付き合ってほしいんだよねー」
何だ、そんなことか…と、答える直前。彼女の言葉は、こう続いた。
「セレブ御用達の超高級レストランで♪」
承諾の言葉が喉元で急ブレーキをかける。一体どういうわけなのか、すぐさま問いかけていた。
「うーん、まー、そこは"色々"あってさ…要は男の人と二人で行きたいんだよね。いわゆるデートってやつ? でも、こういうの頼める身近な人、トレーナーしかいないっていうか…だってここ、女子校っしょ?」
にこにこと理由を話す彼女。その"色々"に隠されたものを知りたかったが、そこを詮索するのは何となく野暮に思えた。困っている担当ウマ娘を助けてあげるのは、トレーナーとして当たり前のことだからだ。
とはいえ、セレブ御用達の場所…上流階級とは無縁の自分が、そんなところで食事しても良いものなのか。まずそこが不安だった。
「そーだね。ドレスコードはインフォーマルだから、男の人はスーツがあれば何とかなるよー。できればテーブルマナーも知っててほしいかな。まー、当日レクチャーしてあげてもいいし。あっ、もちろん食事代は実家持ちだから安心してねっ」
実家持ちという言葉に何か引っかかりのようなものを感じたものの、それはすぐさま安心感へと変わる。超がつくほどの高級レストランなのだ。普通に考えたら、ディナー二人分ならば数万円は下らないはずだ。
「それじゃあ、決まりってことで! 場所とか時間はメールするから…って、ヤバっ! もうこんな時間じゃん!」
自身のスマホに向かって叫ぶ彼女。
「とりま授業戻るねっ!」と、言い終えるが先か、駆け出すのが先か。栗色のポニーテールを揺らして、担当ウマ娘は校舎の中へと去っていった──
約束の日。これまで縁もゆかりもなかった建物に、多少びくつきながらも、おそるおそる足を踏み入れていた。
「メジロパーマー様のお連れの方ですね。どうぞ、こちらへ」
乱れ一つない高貴なスーツを着こなす男性ウェイターは、こちらを見るなり、全てを察したようにそう発した。
案内されたのは、ドラマなどでよく見る、いかにも社交パーティーでも行われそうな広々とした空間だった。煌々と琥珀色を灯すシャンデリアに、様々な絵画やアンティークが飾られたシックな内装。優美なクラシック音楽が会話を邪魔しない程度の音量で流れている。いくつかのテーブルでは、既に何人かの先客が優雅にディナーを楽しんでいるようだった。
「メジロパーマー様、お連れの方がお着きになりました」
周囲に奪われていた視線が、その声の放たれた先へと向けられる。そこにいたのは見慣れた担当ウマ娘…のはずなのだが、その姿には目を疑うしかなかった。
両肩を露わにする純白のミディアムドレスに、七色の宝石をあしらったきらびやかな耳飾り。その栗色の髪は、いつものポニーテールではなく、シンプルに下ろしただけのストカール。これまで感じたことのないあでやかさを、ありありとまとわせていた。ただ一つ、癖のついた後れ毛だけが、彼女の面影をどことなく残していた。
「こんばんは。今日は来てくれてありがと」
目が合うやいなや、彼女は立ち上がりながら淑やかに一礼した。
いつもなら軽い口調で「遅かったね。待ってたよ〜」とでも言いそうなところだが、この時ばかりは借りてきた猫のように楚々としていた。
改めて見る彼女の全身。その婉麗且つ華やかな姿に、思わず見惚れてしまう。
「それでは、失礼いたします。どうぞ、ごゆっくり」
ウェイターのその一言で我に返る。慌てて彼女に丁寧な挨拶を返すが、その言動がよほどおかしかったのか、彼女は不意に笑顔を浮かべて小声を漏らしていた。
「ふふっ、そんなにかしこまらなくていいよ。肩の力は抜いて気楽にどーぞ。さ、座ろ」
その気さくな口調は、間違いなく普段通りのそれだった。ようやく知っている彼女が戻ってきた。そのことに、ほっと溜息をついた──
白のテーブルクロスの上に、食器が規則正しく並べられた二人用サイズのテーブル。そこに供される典麗な料理の数々は、まさにこれ以上ないほどの美味だった。
ナプキンやフィンガーボウルなど、ついぞ関わり合いのなかった人生。ある程度予習してきたとはいえ、初舞台でいきなり上手くいくはずもない。その都度、彼女は丁寧にエスコートしてくれた。
彼女が名門メジロ家の生まれであることは百も承知だったが、こういったノーブルな場をそつなくこなす姿を見るのは、紛れもなく初めてだった。
「トレーナーのスーツ姿って、何だか新鮮だね」
メインディッシュを控えた頃合い、彼女はそんなことを口走った。
トレセン学園の面接を受けた時以来となるスーツである。違和感ばりばりなのは承知の上だった。ただ、新鮮さで言うのなら彼女も相当なものだ。はっきり言って、めちゃくちゃ似合っているのだから。
そう伝えるや、彼女はあからさまに苦笑いした。
「あはは…そんなことないよ。社交場でしかこんなの着ることないんだけど、何かこう、そわそわするっていうか…私のいる場所じゃない感じがするし…」
両耳をぴくぴくと震わせて、彼女は小さく溜息をついていた。確かに、こういった衣装や雰囲気は彼女の好みではない気がする。
ただ、辺りを見渡しても、映るのは身なりの良い人たちばかり。ここが庶民とは縁遠い世界であることは間違いなかった。
しばらくして、運ばれてきたのはウェイターいわく『ブランド和牛ロースのグリエ 特製ソース添え』だそうだ。それはまさに、豪華絢爛なフルコースの主役に相応しい一品だった。
しかし、それを前にしても、不思議と気分は高まらない。その原因はきっと、この何とも言えないよそよそしい空気のせいだ。
「おいしそうだね」
当たり障りのない言葉を彼女は口にする。そこには違和感しかない。本来なら「おいしそ〜♪ マジでヤバみなんだけどっ!」くらい言うはずだ。
終始こんな調子ゆえに、意識しなくとも弾むはずの会話も全くはかどらない。この物理的に絶妙な距離感と、あまりにもフォーマルな雰囲気が、自然と二人の口を重くしているようだった。
かちゃかちゃと、食器と皿が触れ合う音だけが響き渡る中、唐突に彼女の声が響いた。
「あのさ、一つ聞いていい?」
すぐさま首を縦に振ると、彼女はナイフとフォークを静かに置いた。
「ここで聞くのもあれだけど、トレーナーは気になってる人っているの? あっ、もちろんこういう意味で」
こちらにしか見えないよう、隠すように小指をひっそりと立てる彼女。こんな場所にしては挑戦的な言動に思えたが、この空気感に痺れを切らしたからかもしれない。
その不意打ちに対して、今はいない…と、正直に答える。単純に仕事が忙しく、そもそもそんな時間がないということもあるが。
「あはは、そうだよね。トレーナーの仕事って傍から見てもマジで…じゃなくてホントに激務だし、たまの休みにも私に付き合ってくれてるし…」
他愛のない気軽な話し方もここでは憚られるのだろう。一つひとつ言葉を選びながらしゃべっているように見えた。
そんな堅苦しい彼女へと、パーマーこそ気になってる人はいないの?…と、少しからかうように同じ質問をぶつける。「私もそんな暇あるわけないっしょ〜」…的な言葉を笑顔で返してくれるのを期待してのことだったが、彼女は真顔のままじっくり考え込む様子を見せた。
「んー、そのことなんだけどさ…」
再び食器を手に取り、それをロース肉にあてがいながら彼女は続けた。
「実はね…今度」
その時だった。
今から話そうとすることに集中し過ぎたのか、はたまた単純に力を入れ過ぎたのか、皿の端の方でナイフの力が加わったことで、皿ごと大きく傾いてしまった。その拍子にソースが飛び散ってしまい、一部は純白のドレスにも降り掛かっていた。
「あっちゃ〜…やらかしちゃったね、これ…」
大丈夫か…と問いかける直前、彼女はそれを遮るようにこちらを見やった。
「大丈夫、大丈夫だから。ごめん…こんなヘマして」
そうは言うものの、椅子の後ろで不安げに跳ねた尻尾は隠し切れていなかった。皿をひっくり返しただけではない、別の何かに怯えているような…そんな姿に見えてならなかった。
次いで、濡らしたナプキンでドレスを拭いながら、彼女はささやくように言った。それは多分、自然と口をついた独り言に違いなかった。
「ダメじゃん…メジロの娘がこんなんじゃ…」
両耳を折り曲げ、あからさまに落胆する彼女。
真っ白なドレスには、ほんの小さなシミが残っていた──
「ふー、今日はおつかれ」
レストランから少し離れたところにあった公園の一角。心許ない街灯が、辺りをひっそりと映し出している。
木製のベンチに両隣で深く腰掛けながら、彼女は紺色の空を仰いだ。
「やっぱ慣れてないところに行くもんじゃないなー」
ディナーを終えるや、逃げるように訪れたこの場所。レースを走り抜いた直後のような、そんな疲労感さえ漂わせて。
「メジロ家生まれでこんなこと言うのもあれだけどさ…やっぱりああいう場所って、肌に合わないんだよねー」
そして、ふと、顔と視線を真正面に戻す。
「でも、あれが私の住んでる世界なんだ…」
ぴんと逆立った両耳と、いつになく険しい面持ち。その青い瞳には、どことなく悲哀が満ちているような気がした。
思い返せば、ディナー中ずっと退屈そうにしていた彼女。料理はとびきりおいしかったが、食事を楽しむという点においては、息苦しさが勝っていたのは確かだった。
「まー、さっきのが"本番"じゃなくて良かったよ。メジロ家の看板に泥を塗るわけにはいかないし」
"本番"という言葉に思わず反応する。今日のディナーは何かの予行演習だったのだろうか。
「あ、それ。さっき言いそびれたのって、そのことでさ…」
弱々しく語尾をすぼめて数秒、彼女は意を決したようにこちらを見た。
「もうすぐ、お見合いがあるかもしんないんだよね」
さらりと言ってのけたようで、決して軽くはないその一言。お見合いなんて今時なかなか聞かない話だが、メジロ家ではそれが当たり前なのだろうかと、ただ頷くことしかできなかった。
「お相手は多分、良家の御曹司になるのかな…場所はさっきみたいなとこって相場が決まっててさ。恥ずかしい話、堅苦しい席は苦手だし…今日トレーナーをデートに誘ったのは、その練習っていうか、リハーサルっていうか…そんな感じ」
彼女らしからぬしんみりとした声が、無人の公園にとつとつと舞う。次いで、足を組み替えながら、彼女は再び夜空へとこう言い放った。
「これまで色んなことから逃げてきたけどさ。さすがに今回はダメだろうなって、正直覚悟してる。だって、お見合いはママのお願いだし、『あなたもそろそろイイ人を見つける年頃よ』…って」
年頃…といっても、彼女は未成年で、競技者として現役だ。さすがにまだ早過ぎる気がするが…。
「うちはけっこー特殊だからね〜。現役の時から交際を始めて、レース引退後にすぐ…なんてのはよくあることだから」
言い終えて、ははっと小笑いする彼女。まるで他人事みたいに軽く。
その言葉が本気なのか冗談なのか、時折分からなくなる時があるが、大抵前者であることを、長いトレーナー生活の中で知っていた。答え合わせはすぐだった。
「ホントのこと言ったらさ。お見合いなんて…したくないよ。だって、旦那さんってこれからの人生をずっと過ごす大切な人じゃん? そんな人を誰かに決められたくないっていうか…」
綺麗にまとめられたヘアスタイルに構うことなく、彼女は勢いよく髪をかき上げた。
「そりゃー、実際会ってみたらとってもイイ人ってこともあるとは思うよ? 私のママとパパもお見合い婚だったけど、めっちゃ仲良いし。でもさー、メジロ家のお見合いって、ちょっと政略結婚的なとこもあるんだよね、やっぱ。まー、別にそれは仕方ないことだし、メジロ家がここまでなったのも、ご先祖様がそうやって家系を繋いできてくれたおかげなのは、よーく分かってる。でも、何ていうのかな…」
不安でもなく、焦燥でもなく、怒気でもなく、ただただ無機質さだけを含ませた声が響く。
しかし、次に発せられた言葉には、間違いなく感情が込められていた。
「私は…メジロである前に、パーマーでありたいんだよね」
そう、そこにあったのは、一人の少女としての純然たる思いだった。
『逃げたい。メジロっていう看板から』
契約を結んで間もない頃、彼女は微笑しながらそう言った。周りからどう見られるかなんて気にせず、自分らしく生きたい。だって私は私だから…と。
しかし、それでいて、責任感が強いのもまた彼女の性格だった。逃げたいと言いつつも、メジロ家の一員として責務を全うするための努力を惜しまない。メジロ家としての自分と、個としての自分…その葛藤に苛まれていたことは察していた。
だからこそ、さっきの言葉はこちらに向けたSOSに思えてならなかった。もし、彼女の導き手として、何か助言できることがあるとしたら…。
彼女の物憂げな表情を真っ直ぐに見つめ返しながら伝える。自分に正直に生きるべきだ、苦しい時はこれまでのように逃げたらいい…と。
「…それ、マジで言ってんの…?」
明らかな怪訝を浮かべる彼女。ふわふわと揺らめく尻尾に促され、こちらの見解を述べる。
ただ単に、お母さんはパーマーの幸せを願ってお見合いを提案したのだと思う。たとえそれを断ることになっても、パーマーの意志ならばきっと分かってくれるはすだ。
「そうかもしんないけどさ…そんな自分勝手なことできるわけ…」
そっと俯く彼女へと、それがパーマーの良さじゃないか…と、告げる。現に彼女は、その自由奔放な振る舞いで、自分にしかないものを手に入れた。メジロ家の殻を破り編み出した、彼女を代表するレースプランだ。
「それって…"爆逃げ"のこと?」
そう、"爆逃げ"という、一見するとあり得ない走り。邪道だの、無茶苦茶だの、当初は散々な言われようだったその走りも、今では観客を魅了し、確かな結果を残している。
生き方はレースと同じだ。周りに何と言われようとも、自分だけのスタイルを貫けばいい。胸を張って堂々としていれば、きっといつか認められる時が来る。
「自分だけのスタイル…か。そういや、それってトレーナーが最初に教えてくれたことだよね」
いつしか、彼女はほのかに顔を綻ばせていた。
彼女の逃げはネガティブなそれではない。いわば、未来へ羽ばたくためのルーティン。逃げたその先に、彼女は必ず突破口を見出してきた。それこそが彼女の生き方なのだ。きっと変わることはない。これまでも、これからも。
「そか、そかそか。結局いつも通りでイイのかもね。はは、そう考えると何だか悩んでたのがバカみたい。人の悩みを聞くのは得意だけど、自分の悩みってホント、自分だけじゃどーにもなんないや」
どこか恥ずかしげに、頭の後ろで手を組む彼女。その顔からはもう、かげりは消え去っていた。
「えーっと、それじゃあ…人生の大博打に打って出るのも、案外悪くないかもね」
不意に、彼女はカバンからゴム紐を取り出し、ロングヘアを手慣れた動きでひとまとめにした。言わずもがな、それはいつものポニーテールだった。
「"ガチ"の相談していい?」
こちらの目を穿つように、彼女は一瞬だけ真剣な表情をした。すぐさま、穏やかなそれに戻りはしたが。
「実はね、前からずーっと気になってる人がいるんだ。その人をママに紹介したいなって思ってるわけ」
意外な事実に目を丸くする。別にそのような相手がいても何ら不思議ではないが、どこか嬉しいような寂しいような…不思議な気持ちがするのは確かだった。
そんなこちらを気に留める様子もなく、彼女はすらすらと続けた。
「でもさ、問題があって、それをしたらこれまでの関係ってか、距離感っていうの? その人と積み上げてきたものが一気に壊れるんじゃないかって不安で、二の足踏んじゃうんだよね。しかも、ママが許してくれるかどうかも分かんないし、もしダメってなったら、その人との関係…もうぐちゃぐちゃになっちゃいそうでさ…」
不規則に動き回る耳と尻尾。見るからに落ち着かない様子のまま、彼女はやおら眉をひそめた。
「トレーナーはどう思う? そんなリスクを負ってまでその人を紹介するのって、ぶっちゃけあり? まー、そもそもママに紹介する前に、その人からドン引きされちゃうかもだけどさー…」
消え入るような語尾に呑まれたのか、二人の間には当然のように静寂が訪れていた。
さすがは"ガチ"の相談だけあって、なかなかに重々しい内容だ。もしかしたら、彼女の将来を大きく変えてしまうかもしれないくらいに。
とはいえ、ドン引きのくだりに関しては杞憂に思えた。そのお相手とどれくらい親しいのか分からないゆえ、確実なことは言えないが、パーマーが本気でそう思っているのなら、きっとその人は誠実に応えてくれるはずだ。少なくとも、真剣に将来を考えてくれるだろうし、もしそれで断られてしまっても、その人がパーマーを嫌うことはないように思う。
「うんうん、そっかそっか。めっちゃトレーナーらしい答えだね。聞いててすっごく安心したよ。男の人って女の子から切り出されるのがイヤだったりするのかな〜…とか思ってさ」
それはさすがに偏見のように思う。将来に関わる大切な話を切り出すのに、男も女もないはずだ。
彼女はあごに手を当てて頷いた。
「ふんふん、な〜るほど。だったらヘーキかな。トレーナーのおかげで、やっと踏ん切りがついたよ」
満足げに含み笑いする彼女へ、どういたしまして…と、一言。
こうして何でも話し合える関係は、担当トレーナーと担当ウマ娘という繋がりを超えて、人として素直に心地良かった。
「それじゃあ、また次のお休みの日、会う約束取り付けちゃおっか」
そんな言葉が不意を突く。何が"それじゃあ"なのか、全く分からなかったが。
続けざま、出し抜けに両頬をぱちんと叩いてみせた彼女。突然の所作に驚く間もなく、どことなく緊張した表情をこちらに向けた。そこにあったのは曇り一つない、青色の力強い双眸だった。
(パーマー…あんたなら言える…今しかないっしょ…!)
それは声にならない声…ただ、確かに彼女の唇はそう動いたように見えた。
そして、次の瞬間。
「今度さ…実家に招待したいんだよねっ…!」
気がつけば、取り込んだ息を一気に吐き出し、彼女は声帯を大きく震わせていた。夜の公園という薄闇の中でも、はっきり見えるほどその顔を紅潮させながら。
突然の言葉に思わず目が点になる。いや、正確には体中がフリーズしてしまったと言うべきだろうか。
彼女の目は紛れもなく本気だった。その言葉が意味することが分からないほど、さすがに無粋ではない。
それでも、何かの間違いではないかと、愚問と思いながらも問い返す。彼女は凛々しい眼差しと共に即答した。
「マジに決まってるっしょ…! 何も知らない人と付き合うくらいなら、トレーナーの方が絶対イイ…! だって…『パーマーのトレーナーになれて良かった』って言ってくれたじゃん…! 私、知ってるから。トレーナーが毎日寝る間も惜しんで、私のために一生懸命してくれたこと。それくらい当たり前って思ってるかもしんないけど、マジでパないことだから、それ…! なのに、いつかトレセンを卒業したらもう会えなくなるなんて、そんなのありえないじゃん…だからさ、そうなる前にママに紹介したいんだ…私の一番大切な人なんだよって…!」
彼女の一言一言にドキリとする。今までは何とも思わなかった目の前の微笑が、急に愛しさにあふれたはにかみに見えてきて、自然と恥ずかしさが込み上げていた。
彼女を異性として意識したことが全く無かったわけではないが、あくまで指導者と生徒の関係。よくて友人同士の仲だと思っていた。まさか、将来を共にしたいと考えるほど、好意を寄せてくれていたなんて…。
「えっと、その…ビックリさせてホントごめんっ…! でも私、ホンキっていうか、マジのマジだから…! それでも、やっぱ、ダメ…?」
何も言えないでいるこちらに、おそらく無意識の上目遣いを送る彼女。純粋な気持ちで言えば、彼女の希望を叶えてあげたい。
だが、あまりにも突然過ぎる事態。嬉しさと困惑が荒波のように押し寄せ、そもそも頭の整理が追いつかない。少なくとも、即座に首肯できるほどの覚悟は、まだ持ち合わせていなかった。
そんな無言の逡巡を否定的なものに感じたのだろう。ふと、戸惑いといたたまれなさを半々に含んだ吐息を、彼女は気まずそうに漏らした。
「…うーん、やっぱムリだったかー」
いつになくおちゃらけた声。そのにんまりとした面持ちは、大きなショックの裏返しに違いなかった。
そんなつもりじゃない…と、目で訴えかけるも、それさえ拒むように、彼女は顔の前で手を左右に振った。
「いーの、いーの、わかってるから! もうっ、恥ずかしいな〜。なーに、期待してんだかって感じだよね。いきなり告ったらそりゃドン引きなの当たり前じゃん。しかもママが許してくれるかも分かんないのにね。いやー、失敗失敗」
取り繕いの言葉が、次々と紡がれては消えていく。
刹那、そこには作り笑いを失った顔。しゅんとした空気に耐えかね、打ちひしがれるように。
「ホント、何やってんだろね…私…」
やにわに立ち上がって、純白の衣をまとう少女は数歩前に出た。ここからでは見えないその顔に、そっと片手を添えながら。
「マジでごめん。こんな夜遅くまでワケ分かんないお調子に付き合わせて…さっき言ったことは綺麗さっぱり忘れちゃってよ。無理かもしんないけど…お願い。私もそうするからさ…」
平静を装おうとする震え声に、心が締めつけられる。今そこに想像したくもない表情がある…そのことが、ただ苦しくてならなかった。
トレーナーとして…いや、一人の人間として、彼女に悲しい思いなんてさせたくない。それは彼女の担当として過ごすうち、自然と芽生えた気持ち。そう、最後まで見守りたいという決意だった。それに気づいた時、体は自然と動いていた。
こちらに背を向け、寂しげに尻尾を揺らす少女の名を、立ち上がりながらそっと口にする。さっきの話、喜んで受けるよ…そう伝えながら。
途端、勢いよく振り返った彼女。少しばかり濡れた目尻に、これ以上ない眩しさをまとわせて。
「…それってマジ…? ホントのホントのホント!?」
彼女らしい反応に頬を緩ませつつ、ホントのホントのホント…と、迷うことなく返す。
たとえ彼女のお母さんがどう思うとしても、誠心誠意臨みたいし、許されるために必要なことは何だって試したい。パーマーが自分のことを一番大切な人と言ってくれたように、自分にとっても、パーマーはかけがえのない、一番大切な人なのだから…そんな思いの丈を、余すことなくぶつけていた。
「あー…あああー…!」
声にもならない声を上げながら、彼女は口を手で覆う。そして、いつしかこちらへと飛び込んでいた。
歓喜の涙がとめどなくあふれ出し、瞳を、頬を、スーツを、順に湿らせていく。胸元で子供のように泣くその姿がいじらしくて、純粋に守りたくてたまらない。そんな彼女を、今はただ優しく抱き止めた。
「ヤバい…マジで涙止まんない…これからもずっと、ずーっと…私の側にいてくれるんだよね…」
そう口にしながら、静かに顔を上げた彼女。目と目が合った瞬間、あどけない笑みをふっと浮かべてみせた。
「もしママが許してくれなくても…私、添い遂げたい…その時は地の果てにだって逃げるから…」
こちらに身を委ねるよう、彼女は再び顔をうずめた。
目の前でそわそわと色めく両耳と、夜風に揺れるつややかな髪。気づけば、そっと触れてしまっていた。
「トレーナーと一緒なら、どこだっていい…」
くすぐったそうな…気持ち良さそうな…そんな甘い声。それが聞きたくて、何度も何度も優しく撫でた。
そのふんわりとした触り心地は、とても柔らかく、最高に心地良く、そして、何よりも愛おしかった。
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