マンハッタンカフェ、今日の一杯。 (天海望月)
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ドリップ、朝のまどろみに

早朝、マンハッタンカフェが旧理科室でドリップコーヒーを淹れるだけ。


「さて……」

 

 日が昇ってしばらくしない朝。部屋の片隅で彼女は静かに湯を沸かしていた。

 たちまち立つ白い湯気。それを待っていたかのように、辺りにはゆっくりと香ばしい匂いが広がっていく。

 

「やあ、おはようカフェ。ついでに紅茶も淹れてはくれないかな?」

「タキオンさん……そこにティーバッグがあるので、お好きに」

 

 そこに現れたアグネスタキオンは、淡く光る試験管を携えていた。対して溜め息で返事をするマンハッタンカフェは、一瞥もくれずにコーヒーを淹れる作業へと戻った。

 

「えぇ~?いいじゃないか、もう適当に私のカップに全部放り込むだけでもいいからさぁ」

「それくらい自分でやってください。コーヒーなら構いませんが」

「私がコーヒー飲めないの知ってるだろう?」

 

 カフェはドリッパーに慣れた手つきで湯を注ぐ。円を描くように、慎重に。そしてタキオンが試験管の中身をぶちまけようとするのを見逃すことはなかった。

 

「あっ~!」

 

 ドリッパーがあった場所に水色の液体が無様にまき散らされる。速やかに雑巾でふき取った。

 

「何するんだいカフェ!せっかく調合したばかりなんだぞ!」

「それはこっちのセリフです。次は何するつもりだったんですか」

「感情の起伏を約10倍にする薬だとも。ちょっとデータが必要でね」

「自分で──」

「自分で試したら客観的なデータが取れないだろう。それに母数は多いに越したことはないからねえ」

 

 カフェにとっては、正直タキオンの突拍子もない実験に巻き込まれるのはごめんだ。得体のしれないものを身体に取り込むなんて言語道断だし、なにより許可もとらず強引に押し付けてくるのが気に入らない。

 先も作りかけのコーヒーに薬を混入されかけた。せっかく人が朝の一杯を楽しみにしているというのに──。

 そう考えると、彼女のそれを台無しにしてしまったのは自分も同じかもしれない。頑張って薬を完成させたのだろうと思うと、微かに申し訳ない気になった。

 彼女はふとカップを二つ取ると、ポットに手を伸ばす。

 

「……っとにかく、いきなり薬を飲ませようとするのはやめてください。その……さっきみたいになると、薬品の材料がもったいないですから」

「おやおや。それじゃあ次からはちゃんとお願いをしようじゃないか」

「飲むかどうかは別です」

 

 カフェは手に持ったものをカップへと注ぐ。一つは出来立てのコーヒーを。もう一つには沸かしなおした湯を。

 最後にそっと何かを入れると、そのまま両手にカップをもって歩き出した。

 

「一分経ったら飲んでください」

「おおっと。ありがとう。やはり朝は君の淹れた紅茶が一番さ」

「ただのティーバッグですが」

「君が淹れたからいいんだよ」

 

 タキオンにカップを手渡した後、カフェは僅かに部屋のカーテンを開けた。

 薄暗い旧理科室につんざくような光が飛び込む。彼女はそれを浴びながら、ゆっくりとカップを呷った。

 

「──ふぅ」

 

 未だ眠気の残る頭が、おかげで少しは冴えたような気がする。窓の向こうで輝く太陽が、カフェの白い吐息と黒い髪を艶やかに照らしていた。

 タキオンがこの部屋にやってきてどれくらいになっただろうか。騒がしく、はた迷惑な隣人だが、そのせいで退屈することもない。

 ひとまずは、この一杯を飲み干したら今日一日を考えよう。今はただ、温もりに身を委ねていたい。

 

「おや、カフェ。このカップは……」

「……?どうしました?」

 

 後ろを振り返ると、タキオンが不思議そうな顔でカップを見つめていた。

 何かおかしいことでもあったのだろうか。そう思って、おもむろにカフェは手元のものを見た。

 

「あ──」

 

 あるべき、見慣れたマークがない。それどころはこれは、

 

「ふふふっ、どうだい。間接キスとやらのお味は」

「っ!そんな……つもりじゃ」

「ずいぶん動揺しているじゃあないか、カフェ。いやはや、まさか薬を使わずともここまで顕著な感情のデータが取れるとはねえ」

 

 ここに鏡がなくてよかった。きっとそこには真っ赤になった自分の顔を映してしまっただろうから。

 カフェはコーヒーをどうするか一瞬迷って──そしてまだ熱いのをぐっと飲み干してから、彼女のカップを置く。

 

「そ、それでは。今日のトレーニングの準備をしてきます」

「ああっ待ってくれよカフェ。今どんな気持ちなんだい?サンプルは可能な限り多いほうが──」

「……恥ずかしいですっ!」

 

 逃げるように部屋を去るカフェ。その背中を、タキオンは笑いながら見送っていた。

 彼女は手に持ったカップを見つめる。

 

「これを捨ててしまうのは、彼女に申し訳ないか……」

 

 タキオンはそう呟くと、少しの間の後に口をつけた。



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