マンハッタンカフェは動じない (むうん)
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夏合宿・杜王町編
#001『トラサルディー』
M県S市杜王町。町の花はフクジュソウ。名物は牛タン味噌漬け。少し古い人口統計では街の住人は47228人。古くは侍の避暑地として栄えた風光明媚なこの町は沿岸部に別荘地があることからわかるように、観光客が多く訪れる。
近年では、日本中央トレセン学園――いわば超巨大スポーツ校の夏季合宿所が建設されたこともあって、一層の観光地化が進んでいた。
「カフェ~。おんぶしておくれよ~……私のガラスの足はもう限界だよ~……」
「……ウマ娘たるものがそんな調子でどうするんですか……」
市街地中心部からやや西の山間にある道を赤いジャージ――件のスポーツ校のものに身を包んだ2人の少女が歩んでいた。彼女たちはウマ娘――人間とほぼ同じ姿かたちを持つが、動物めいた鋭敏な感覚を持つ耳と優れた身体機能を持ち、こと走力においては自然界の動物を含めても上位に位置する種族だ。日本中央トレセン学園は、そんなウマ娘のためのトレーニング施設なのである。
この2人の少女。マンハッタンカフェ、そしてアグネスタキオンはトレセン学園の夏季合宿中。ロードワークに出たものの慣れない土地ということもあり、迷ってしまい途方に暮れているところでもあった。
「……はァ、だってねェ……トレーナー君が書類の提出ができてないとかで、1日こちらに来るのが遅れているんだよ。私の世話をするのがトレーナー君の役目だろ? ありえないことじゃあないか……おかげで久しぶりにミキサーで適当に挽いたものを摂取したが、慣れとは恐ろしい物で胃が受け付けなくてね」
「……いやそれは、タキオンさんが合宿直前に始末書を書くような真似をするからでしょう。アグネスデジタルさんを水色に発光させて……代わりに始末書を書くトレーナーさんの身になってください。というか、もしかして食事をとっていないんですか?」
「そういう事になるね……」
これはまずい。タキオンは自分の身体回りの管理にややずぼらなところがあったが、ただでさえキツイ夏合宿練習を食事抜きで行っていたとは。もし倒れられでもすれば一大事だ。一刻も早くなにか食べさせなければならない。
(……といっても、この近くにあるのは……霊園ぐらいみたいですね。こんな繁華街から離れた場所にコンビニやレストランは――)
カフェは途方に暮れた様子で周囲を見回した。せめて自販機の一つでもあれば……という思いからだったが……
「イタリア料理……トラサルディー?」
道端にポツンと建てられた看板。そこには『イタリア料理トラサルディー ここ左折100M先』と書かれていた。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #001 『トラサルディー』 ◆◆◆
「……倒れられても私が困りますし、ここは何かおなかにものを入れましょう」
「トレーナー君の弁当がいいんだが……背に腹は代えられんか。かの文豪セルバンテスも腹が足を支えていると言っているし、ここはカフェと先人の言葉に従うとしよう」
タキオンも内心、相当こたえているのかグズらずにカフェの言葉に従った。うう~とうめくタキオンを支えながら、カフェは霊園に続く道を上がっていく。
「……あった」
洋風のこじんまりとした建物に『TRATTORIA』――イタリアの言葉で大衆向け食堂の意の文字。本当に霊園の隣で営業している。
「……営業中のようですし、入りましょう」
こうして、カフェとタキオンは、トラサルディーの扉をくぐる。同時、からんからんとドアベルが鳴り来訪者の存在を知らせた。
室内は外観よりもさらに小さく……いや、正直に狭いといったほうがいいだろう。テーブルは3人掛けのものが2つあるのみ。だが調度品の趣味はいい。どれもこれも海外のアンティーク……とまではいかないが、古く、温かみのある木製のもので揃えられている。
「ハイ! 少々お待ちくだサイ! すぐにお伺いしまス!」
厨房から声。それ以外にもウマ娘の感覚は、新鮮なエシャロットやフェンネル、ルッコラなどの良い匂いとぐらぐらと煮える鍋の音を聞き取った。どうやら、仕込みを行っていた最中らしい。そしてすぐに、店の奥からいかにも人のよさそうな笑みを浮かべた外国人の男性シェフが顔を出した。
「Ecco, a lei お待たせしまシタ」
「すいません、連れがおなかをすかせてしまって……」
カフェはその外国人シェフに申し訳なさそうに告げる。御誂え向けにタキオンのおなかの虫がぐぎゅう、と大きく鳴き声をあげた。
「Oh、これはいけない。おなかが減っていては何事にもうまく取り組めませんカラ。どうぞ。おすわりになってくだサイ」
そういって外国人シェフは2人分の椅子を引き座るように促す。なるほど、小さな店だけあってこのシェフが一人で切り盛りしているのだろう。シェフとウェイターを兼ねるということで、このキャパシティが精いっぱいというところか。
「……君、この店のメニューはどこだい。はやくもってきてくれたまえよ」
椅子に腰を下ろし、溶けるようにぐだあとテーブルにうつ伏せになりつつ話すタキオンはにこにこと笑みを浮かべるシェフにそう言葉をかけたが、シェフはもう慣れっこだ、という風に苦笑して。
「いえ、シニョリーナ……ウチには
「……というと?」
カフェとタキオンがその言葉に困惑する。と、ふいにシェフはタキオンの手を取り手相を見るかのようにそれを観察した。
「な、何を――」
さすがの2人も驚き、びくりと尻尾を振り上げたがシェフの次の言葉にはさらに驚かされることになった。
「フゥーム……あなた……慢性的な睡眠不足ですネ? それに疲れから胃腸がヨワってます……肩こりに眼精疲労。こういうのは研究職の人に多いのですが、若いシニョリーナには珍しいデス」
「どうしてそれを……!」
アグネスタキオンが夜な夜な――時には二徹三徹してまで、怪しげな薬品研究に没頭しているのは学園関係者なら周知の事実。実際彼女のトレーナーとアグネスデジタル、ダイワスカーレットの3人以外はタキオンから受け取ったものを口にしたがらないし、よく一緒にいるマンハッタンカフェも細心の注意を払っている。
だが、学園関係者以外が、一目掌を見ただけで『研究職』と言い当てるのはどうしたことか。
「私は両手を見れば肉体全てがワカるんデス。人を快適にする料理のために……中国の薬膳・漢方を習い、時にはアマゾン奥地の『
呆然と説明を聞く2人をしり目に、さらにタキオンの掌を観察するシェフ。
「そしてあなた……『脚』に特に問題がありマス。ウマ娘サンにとって『脚』は重要。このままではマズいですよネ?」
「…………ッ!」
「え……?」
タキオンはその瞬間、背すじをたて目を見開いた。カフェにとっても、それは初耳である。タキオンは確かに体が強い方ではないが、『脚』に問題があるなどというのは、本当ならウマ娘にとっては死活問題だ。
「タキオンさん。足のお話は本当なんですか? ……タキオンさん?」
「………………」
タキオンは口をキュッとつぐみ黙り込んでしまった。普段なら饒舌なあのタキオンが。なんなら、話されたくはなかったとばかりにシェフの方を恨めし気に見てすらいる。
「……申し訳ありません。ウマ娘にとって『脚』は『命』も同じ。お友達の前で軽々に喋るべきことではありませんでしたね……ですガ……大丈夫でス。」
「何が大丈夫である物か! 私の脚はいつ――」
珍しく、タキオンは感情を爆発させた。そう、彼女の足はすでに限界を迎えていたのだ。既にその兆候を早くから察知していたタキオンは、一時はカフェに自身の夢を託そうとも思った。しかし、今のトレーナーに見いだされ――その狂気めいた瞳と情熱にほだされ、あきらめないと決意をした。
しかし、現実は残酷だ。決意だけでは。根性や努力だけではどうしようもないこともある。タキオンの脚は、もはやレースに堪えるものではなくなりかけていた。それはカフェにも、トレーナーにも話していない、事実であった。
「『治り』マス」
しかし、目の前の男は――自信をもってタキオンに言葉を投げかけた。
「……アペリティーヴォをお持ちしまシタ。いわゆる食前酒ですが……シニョリーナお二人は未成年ですので、ブドウジュースに蜂蜜やコショウ、シナモンなどのスパイスを加えたモノになります。それではワタシはアンティパストを作ってまいりますので……」
……それから。最初に出されたのはワイングラスに入った深い紫色をした液体であった。当然、ただのジュースではなくいくらか手がかけられたモノらしいが。
「ふぅン……別段、何の変哲もないジュースじゃあないか」
「……タキオンさん。もし気分を悪くしたのであればすいません。今からでも、断りを入れて他のお店を探しますか?」
カフェは先ほどのシェフの言動をやや不快に思った。たしかに、両手を見ただけでタキオンの体の状態をぴたりと言い当てたのは驚異的だが……
本当にタキオンが故障寸前というのなら、一刻も早く彼女のトレーナーと相談して対処――一時休養に専念するなり、学園に帰って高度な医療設備で見てもらうなりするのがいいはずだ。あの男は治る、と断言していたがただの食事療法だけでどうにかなるほど、ウマ娘の体は雑なつくりをしていない。
「いや、いいよ。私も彼のあの自信に逆に興味が出てきた。どうやればあんな大口が叩けるものか、とね……試してやろうじゃあないか。それに、もし治らなければお代はタダ、らしいからねェ……」
あのシェフは……アペリティーヴォのブドウジュースを持って来る前に、言い放った。もし、このレストランを出るまでにタキオンの体に良い兆候が見られなければお代はタダでよいと。
意固地になったタキオンは、どうしてもその自信を打ち砕いてやりたくなったらしい。そうして、タキオンはくい、とグラスを傾け何気なくジュースを口に含んだ。
「……あ、おいしい」
それに続いてカフェもジュースに口をつける。ブドウの酸味に蜂蜜の甘味、そこにコショウのスパイシーさが絡んだ複雑な味だが、美味だ。思わずおいしいと口に出してしまう程に。香りと風味付けのシナモンもよいアクセントになっている。
「…………タキオンさん?」
と、カフェはタキオンの様子がおかしい事に気が付いた。もう既に空になったグラスがかたんと軽い音を立ててテーブルに転がる。そして……
「ハァーッ……はぁーっ……なんだ……これは……私に、何を、飲ませた……?」
タキオンの全身から湯気が立ち上る。すさまじい勢いで体温が上がり、発汗しているのだ。概して体温の高いウマ娘はレース後で体が温まっているときなどにこうした状態になることもあるが……
「タッ、タキオンさん……一体、これは……!? シェ、シェフ……タキオンさんになにをしたんですか……ッ!」
「か、体が……熱い……ッ!」
ちょうど前菜を運んできたシェフに血相を変えて詰め寄るマンハッタンカフェ。しかしシェフは特段驚いた様子もなく、ただ冷静に言い放った。
「アペリティーヴォは食欲を増進させる効果があるのでス。今、そちらのシニョリーナの体は代謝……とくに胃腸の運動が活発になり、次の料理を食べる準備が整ったのデスヨ。彼女はおなかぺこぺことはいえ、胃腸の調子がよくなさそうでしたからネ」
貴方にそうした効果がないのは、胃腸が健康だからです、と説明しつつシェフはタキオンに汗拭き用の濡れタオルを手渡し……それから、二人の前にアンティパスト――前菜の皿を置く。
「お待たせいたしました。ハモンセラーノとマクワウリのピンチョスです。ハモンセラーノは本場スペインの物を取り寄せ、マクワウリは地元の東方フルーツパーラーのものを使用しておりマス」
四角い小皿に乗せられて提供されたのは、こんがりときつね色に揚げ焼かれた小さなトルタフリッタ(バゲット)をスライスしたものの上に、ハモンセラーノ――いわゆる生ハムを薄く巻かれたウリの切り身がつま楊枝で留められた物だ。
「ハァーッ……ハァーッ、も、もう限界だ……たべものを……」
「あ!」
タキオンは、カフェが止める間もなくピンチョスを口に運ぶ。さく、というバゲットの砕ける香ばしさを感じる音。彼女はそのまま小さなピンチョスを味わうように咀嚼してこくり、と飲み込み。
「うンまァァァァ~~~~い! なんだねェ、キミィ! この味はァ!? 塩気の強い生ハムをほんの少しだけ甘みがあり、滑らかなマクワウリの味が調えているッ! そこに香ばしく、食べがいがあるバゲットが食欲をそそる!腹が減っているとはいえ、いくらでも食べられそうだッ!!!」
いつも以上に騒がしく、早口で言うが早いがピンチョスをすさまじい勢いで平らげていくタキオン。カフェはその様子をちょっとヒイた眼で見つめて……それから自分の分を一口食べてみた。
「……ほんとだ。おいしい……」
実際、タキオンの言う通りいくらでも食べられそうなほど軽く、まさしく前菜という風。食感も面白く、食べ飽きない工夫がされている。
「生ハムは古代ギリシア時代から作られ、『医聖』として知られるヒポクラテスも『消化にもよく、栄養源としても最適』として推奨するほどですカラ……もっというと、先ほどのアペリティーヴォ――フルーツジュースにスパイスを混ぜたものもローマ時代から飲まれていた物なのですヨ……!」
「それに、日本ではフルーツもしくは甘味に肉という組み合わせは一般的ではないですが、海外ではそれなりに存在する組み合わせなのデス」
「カフェ、私はおなかがすいているんだ。君は朝ごはんもちゃんと食べたんだろう? 少しくれないか? これは私の大好物なんだ。今大好物になった」
「嫌ですけど……」
食べる様子をにこにこと笑みを浮かべてみていたシェフの蘊蓄を完全に無視しながらタキオンなどはカフェの分まで取って食べようとしていた。
「フフ……完全に胃腸の調子を取り戻したのでは? あなたは内臓にも負荷がかかっていましたカラ、いつも疲労感があったはずでス」
「そ……そう言われればッ! 体が軽いぞッ! まるで羽根か何かがついているみたいにッ! 天才かッ!? あのシェフはッ!」
小皿を平らげただけだというのに……タキオンの体に慢性的にたまっていた疲労感が掻き消えた。タキオンはトレーニングでの疲労には気を配っていたが、研究となるとどうしてもソレに没頭してしまいそちら方面で体力を消耗していたのだ。
(…………この料理、一体? いえ、現状は一応、説明は理にかなっていますし、『おともだち』も料理や、あのシェフから悪意を感じ取ってはいないようです……でも、何かおかしい。一体……)
おおー! と声を上げるタキオンと打って変わって、マンハッタンカフェはシェフへの疑念をより濃くした。
「さ、料理を続けましょうか……!」
怪しんでいるうちにいつのまにやら、次の料理が運ばれてきていた。
「プリモ・ピアット――杜王町野菜たっぷりのミネストローネになりマス」
プリモ・ピアット。日本語では主菜と訳されることもあるが、スープやサラダなどが供されることもある。今回もその例にたがわずミネストローネ……野菜入りのスープが二人の前に供された。
見た目は、完全に普通のミネストローネである。トマトに玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、ズッキーニ。アレンジと言えばベーコンではなく、ごろっと大きめのボロニア・ソーセージが入れられている程度か。それに削りたてのチーズが振りかけられており、立ち上る湯気が鼻腔を通るたび、これはおいしいぞ、と感覚に訴えかけてくるよう。
「ほう、なるほど野菜スープか……精査したわけではないが栄養バランスには問題なさそうだし、彩りもいい」
当初とは違い、すっかり上機嫌になったタキオンは運ばれてくるなりそれを口に運ぶ。だがカフェはやはり疑念を払しょくしきれず、残ったブドウジュースを口に含みつつ少しだけ様子を見てみることにした。
「……うぅううううんまァアァアァァい!!!! トマトとチーズはイタリア料理に欠かせないファクターではあるがッ! それは逆説的にこの2つの食品の『相性のよさ』を証明しているッ! 例えるなら『カチオン-π相互作用における陽イオンとπ電子』ッ!」
「カチオ……なんですそれ?」
やはり料理はすさまじくうまいらしく、スプーン一杯を口にするだけでテンションが上がり切ったタキオンはよくわからないことをわめきながら残りをすさまじい勢いで掻きこんでいった。
(……やっぱり私の思い過ごしで――)
カフェは、そう考えて自分もスプーンでミネストローネを口にしようとした。その時だった。
「あ……ぐ……!?」
タキオンが突然、弾かれたように立ち上がる。その顔には脂汗が浮かび……がくがくと震える自分の左脚の膝を抑えていた。
――異常だッ! タキオンに痛みはないようだが、まるで骨格自体が組み替えられているかのように肉が膨れ上がり皮の下で動き回っている!
「な、なんだァ―ッ!?」
「やっぱり……!」
カフェは、立ち上がりシェフの方を見た。シェフはこの異常状況に表情を変えず、さも当然であるかのようにこの光景を見ている。
「……これまででそちらのシニョリーナの体を『回復させる』準備が整いました。ですカラ、まず最も重要な『骨』が組み代わっているのです。今回使用したパルメザンチーズはモッツァレッラやエダムといったほかのチーズの2倍の――」
「うるさいッ……タキオンさんに何をしたッ……!!!」
「ッ……!?」
シェフはまるでごう、と暴風に晒されたような威圧感を覚えた。目の前の少女――マンハッタンカフェは、あきらかにただの少女ではない。スタンド使い……!? いや、違う……なにかがッ……!
「……厨房を改めさせてもらいますッ!」
漆黒の猟犬めいて加速したカフェは、一瞬気圧されたシェフの脇をすり抜け、厨房へと入っていく。そこでは既にメインディッシュ――何らかの魚料理の準備が行われていたが、野菜にまぎれておかれていた『モノ』にカフェは目を見張った。
「メッシャアーッ!!!」
まるでプチトマトに怪物が如き奇怪な腕と、顔がついた小さなそれは、ボウルの中でカフェを威嚇するように奇声をあげながら跳ね回った。間違いない、タキオンは『コレ』を食べさせられていたのだ。
「こ、こんなもの……食べさせられたらどうなるか――ハッ!」
カフェの背後から強烈なプレッシャー。しまった、もう彼が。あのシェフが自分に追いついたのか。振り返りざまに、カフェは思った。間に合わない! やられる――!
「あのォー……困りますッ! いくら調理場が気になったからと言ってッ! ココに入ってこられるのはッ! 調理場は清潔が第一ですからねッ!」
そこにいたのは、にっこりと笑みを浮かべたシェフの姿。
「な、なんですか……『コレ』はッ!」
カフェは、てっきりシェフに悪意があり捕まる物とばかり思ったが、シェフは特段そういった様子を見せない。むしろ、困惑という風ではあったが、なんとなく、理由がわかっていそうにも見えた。
「Oh、貴方も見えるのですか? 『パール・ジャム』が!」
そういうと、シェフはその奇怪な小さなトマトのバケモノめいたものをひとつつまみ、ひょいと自分の口の中に入れて咀嚼し、ニカッと笑った。
「あ……」
「時折『見える』お客サンがいらっしゃるンですが……あなたもそうなのですネ! しかし、私の『
その時。
「カフェ~! このレストランは最高だッ! 足が! 調子が最高にいいんだッ!まだ精密に検査をしたわけではないが、私の脚の強度は確実にあがっているッ! これなら! これならたどり着けるかもしれない! すべてのウマ娘が熱望する果て! スピードの地平線の果てにッ!」
溌溂とした声で半ばスキップしながら厨房に飛び込んできたのはアグネスタキオンだ。その脚はタイツの上からでもわかるほど、以前の彼女の物とは見違えて筋肉量が増え力強くなっている。とても故障寸前のウマ娘のものとは思えぬほどに。
「ええ~~~ッ!? じゃあ、これは……?」
「『パール・ジャム』は食べ物と混ぜて摂取することで病気やケガを治したりするんデス。私の願いはお客様に快適になって帰っていただくこと。料理人にとってそれ以上の幸せはありません」
「……本当にタキオンさんを治そうとしていたなんて……」
こうして、健康になったタキオンはトレーナーの指導も相まって、完全に足のもろさを克服。後にマンハッタンカフェと共に競い合いつつ偉大な記録を成し遂げることになる。なお、トラサルディーの料理に感動したタキオンが、トレーナーに住み込み修行でトラサルディーの味を覚えるように無茶ぶりしたのは、また別のお話。
←To Be Continued?
スタンド名:パール・ジャム
本体:トニオ・トラサルディー
破壊力:E スピード:C 射程距離:B
持続力:A 精密動作性:E 成長性:C
料理にパール・ジャムそのものを混ぜることで食した者の病気やケガを治すスタンド。
スタンド(?)名:『おともだち』
本体:マンハッタンカフェ
破壊力:? スピード:A 射程距離:?
持続力:? 精密動作性:? 成長性:?
詳細不明。スタンドではない。
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#002『六壁神社』
杜王町に吹き込む海風が熱したアスファルトに蒸されてじりじりとうだるような暑さを醸し出す。
夏合宿のためにこの街にやってきていた二人のウマ娘――マンハッタンカフェとアグネスタキオンは、たまらず駄菓子屋で棒状のアイスを買い、2人で半分に分けて齧りながら神社の石階段の影になっている部分に座りこんだ。
「フゥーッ、今日は一段と暑いな。海沿いの涼しい避暑地と聞いていたが、これではもうなにがなんやらだ」
「……熱中症にならないようにだけ、注意しましょう」
長距離走者としての適性があり、スタミナに自信のあるカフェですら休憩しないといけないほどの暑さ。優れたアスリートであるウマ娘であっても、水分や塩分を取らなければ倒れてしまう。
「で……ここがそうなのかい? カフェ。」
「ええ……『六壁神社』――件の『妖怪』が出ると噂の場所です」
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #002 『六壁神社』 ◆◆◆
話は数日前にさかのぼる。
「『ジョニィ・ジョースターの呪い』ィ? なんだねそれは……カフェ、君も時折トンチキなことを言い出すものだねェ」
「いえ、私が言っているのではありません。夏合宿に来ているトレセン学園生のあいだで噂になっている、というだけです。タキオンさんはこういうのには、興味ないですか?」
「……いや? 興味はそれなりにあるよ」
貴方は夏と言って何を想像するだろうか?夏祭り。花火。海遊び。スイカ。サマーリゾートや田舎への帰省を思い出す者もいるかもしれない。だが、マンハッタンカフェの言う通り今、トレセン学園生にとってもっともホットな話題はとある怪談であった。
1901年。今からおおよそ百年以上前のこと。トレセン学園の夏季合宿用寄宿舎に近くにある『六壁神社』で一人の人物が死亡した。その名を『ジョニィ・ジョースター』。
世界初のアメリカ大陸横断サバイバルレース『スティールボールラン』のファイナルステージまで優良な成績で進出したウマ娘『スローダンサー』のトレーナーである人物。後にS市の名家東方家の女性と結婚して日本で死亡。ここまでは、ウマペディアを調べれば単独記事が作られているであろうただの史実だ。
だが、それに怪奇性を加えるのは彼の『奇妙』な死にざまである。
彼の死体は発見時首から上を落石によって潰されており、首なし死体として発見された。また、噂をまことしやかに語る人物によれば東方家にはその後『呪い』が降りかかったのだという。それは無念のうちに頓死したジョニィ・ジョースターの怨念のせいであるというのだ。ひいてはその怨念が今も死体の発見現場である六壁神社には渦巻いており、妖怪となって不用意に訪れた人物を呪い殺すだとか……あるものは夕方、近くをロードワークで通った際に首なしの幽霊の姿を見たと証言するトレセン学園生もいるらしい。
「ふぅン。たしかに妙な死に方をしているが、怪談としてはよくあるモノの域を出ないねェ。それにしても、怨念なんだか、妖怪なんだか、幽霊なんだか……呪いっていうのも具体性を欠くように思える」
「ですが、それがまるで静かに伝染する『病』のように……トレセン学園生の間に流行している。その『伝染』が深まるにつれ――私の『おともだち』が私に伝えてくるんです。これはよくないって」
「ふぅーーーーーーーむ……例の『おともだち』ね……」
マンハッタンカフェの言う『おともだち』という概念について、アグネスタキオンは積極的に否定もしないが、肯定もしない。
彼女は嘘吐きとは程遠い性質……というよりはかなり『真面目』なウマ娘であるとタキオンは認識している。もちろん、科学的か非科学的かといえば後者ではあって――むしろオカルトの領域に足を突っ込んでいるが……ウマ娘という存在自体が時折矛盾をはらむ存在であることを研究によって知覚しつつあるタキオンは、友人としてカフェの言動を信じることにしている。
「で、どうするつもりだい」
「本当に『ジョニィ・ジョースターの怨念』が存在するのであれば。『害』を『学園の生徒』に与えているのであれば……私が、なんとかします。それができるのは、私だけですから」
こうして、アグネスタキオンとマンハッタンカフェの『奇妙な冒険』が始まり、時系列は再び、冒頭――六壁神社へと戻る。
「……こうしてみれば、どこをどう見ても普通の神社だねぇ。せっかくだし、お参りでもしておこうか」
タキオンは腕を組みながらふぅン、と息をつくと、綱を引っ張ってからころと鈴を鳴らし、それから律儀にお参りをしていた。一方のカフェは、『おともだち』と共に周囲を探るも……多少の『違和感』は感じたものの『怨念』だとかそんなものは感じられなかった。
「……うーん」
「おや、その様子を見ると空振りだったみたいだね。きっと杞憂だよ。知的好奇心を刺激するには有意義な時間だったがね」
その後も、くまなく神社周辺を見回ったが特段変わったモノは発見できず……むしろ、浮かび上がってくるのはこの神社の親しまれようだった。周囲にランドマークがないせいか、近所の小中学生がここを待ち合わせ場所にしたり、境内で虫取りをいそしむ姿が見られたほどだ。
結局その日は退屈し出したタキオンが寮に帰りたがった事もあり……帰りにもう一度駄菓子屋でアイスを買い、行儀悪く食べながらもどったのだが。
「で~……また、『ジオシュッターの呪い』かい? カフェ。それはこのまえ調査しただろ~」
「『ジョースター』です。タキオンさん」
それから数日後、再びマンハッタンカフェがその話題を口に出した。流石に閉口したアグネスタキオンは、若干嫌そうに彼女の話を聞く。
「あれから……合宿に来ているトレセン学園生の話題は、杜王町の花火大会だとか、恋人岬でプロポーズすると一生の愛を誓えるだとかカフェ・ドゥ・マゴのパフェがおいしいとかにシフトしていたんですが……」
「結構なことじゃあないか。『おともだち』も満足しただろ」
「いえ、また『ジョニィ・ジョースター』なんです。トレンドは」
マンハッタンカフェ曰く、一度は下火になった『ジョニィ・ジョースターの呪い』の怪談が再び勢力を盛り返していて、前よりも『おともだち』が騒いでいるというのだ。なんでも今回は。
「六壁遊歩道にある『ジョースター地蔵』って知ってますか?」
「……いいや」
ため息交じりに否定するタキオン。でしょうね、という反応と共にカフェは話を続ける。
「来日中に非業の事故で亡くなった『ジョニィ・ジョースター』の霊を鎮魂するために建てられたお地蔵様だそうなのですが、先日、事故で破損したそうなんです。で、『ジョースターの呪い』が発生したのは、その祟り――そういう話が蔓延しています。以前よりも強く」
「オイオイ待ってくれ。その『地蔵』が壊れる以前だろ? 例の『呪い』の話が蔓延ったのは……卵が先か鶏が先かなんて議論をするよりも因果関係は明確じゃあないか?なんだか、あべこべになってしまっているぞ……」
「ええ、ですが『蔓延』が強くなるという『結果』が残った。『怪異』や『妖怪』は……『出自』が補強されるとその力を増します。いわば、『伝説』が必要なんですよ……こういうお話には」
たしかに、祀られていた像が壊れたから呪いが降りかかる。よくあるどころか、ホラー映画のド定番すぎてもはや怖さすらないがたしかにカフェの説明は的を射ている。まことしやかに語られる都市伝説には、それらしい説得力が必要な物だ。逆に、フェイクだと証明されてしまった『怪異』はその怖さを失う。
「それにしたってなあ……」
「それともうひとつ。出自を補強する強力な『伝説』が出たんです」
といって、マンハッタンカフェがとりだしたのは漫画のコミックス本だった。奇妙なデザインのキャラクターがこれまた奇天烈な色彩と共に、巧みな筆致で描かれている
「ピンクダークの少年……これの『七曲坂村』編です」
さすがにタキオンはぷっと噴き出してしまった。『伝説』を補強するのがでたばかりの『漫画本』だって!?
「ピンクダークの少年はもう長いこと連載しているサスペンスホラーで、生理的に迫ってくるようなスリルが魅力の作品です。私も全巻持っていて『おともだち』も大好きなんです。特に私が好きなのは最新の八部でして……」
珍しく、若干興奮して早口でしゃべるマンハッタンカフェ。その様子を観察しようとすると、気づかれたのか普通の態度に戻ってしまった。
「で……そのマンガがどうしたって? 『七曲坂村』編? たしかに、名前は六壁神社とニュアンスが似るが」
「そうなんです。『七曲坂村』編のストーリーをざっくりと言いますと……七曲坂村には人間に寄生する『妖怪』が居て、うんぬんという感じなのですが……どうにも七曲坂村のモデルは『この杜王町の六壁地区だ』という考察がネットであるみたいなんですよ」
「だから、本当の『六壁神社』にも『妖怪』がいると……? ばかばかしいにもほどがあるよカフェ~」
流石のタキオンも付き合っていられない、という風ではあったが。
「……じゃあ、行こうか?」
「え?」
腕を組み、話を振ったのは君だろうとでもいいたげに眉を顰めてみせるタキオン。
「……ばかばかしいが、君を放っておくとそのうち本当に『怪異』だとかやらに攫われてしまいそうだからね。それにこういう『おはなし』には『科学的見地』から突っ込みを入れる『相棒』が必要だろう? 丁度、夕方のロードワークに出る時間でもあるし……」
「タキオンさん……」
とんとんとつま先で地面をたたき、靴を履くタキオンの後ろ姿を見てカフェは微笑を浮かべた。
「ということで、付き合ってやるからこの前のアイスの代金は返さなくていいね?」
「……台無しです」
それから、二人がまず向かったのは『六壁遊歩道』。支倉高校の北に位置するこの歩道に例の『ジョースター地蔵』があるらしく、とりあえず関係する場所は巡っておこう、という考えからだった。
「うわ、夏だって言うのに落ち葉だらけだよ……街路樹がビョーキかなんかなんじゃあないのか」
ゆっくりとロードワークをしながら、遊歩道に入っていく2人であったが早々に一人の少年に声をかけられた。
「うわあああーん!お姉ちゃんが!お姉ちゃんが!」
「うん……? どうしたんだい、君。いきなり大声をあげたりして……私が何か?」
「お姉ちゃんのせいだよォォォ―ッ……」
少年の手には、ソフトクリームのコーンだけが握られており、足元には無惨にも地面に落ちたストロベリーとチョコの二色ソフトクリーム。
「え、いや、私のせいじゃあないだろう? どう見ても離れたところを走っていたじゃあないかッ……」
突然自分がソフトクリームを叩き落した犯人であるとでも言いがかりをつけられて困惑気味のタキオンだが……
「タ、タキオンさん……その肘……」
「え……?」
カフェが指さしたタキオンのジャージの肘には、アイスクリーム――ストロベリーとチョコの痕跡がべったりついている。
「お姉ちゃんが!お姉ちゃんが!500円もしたのにィ―ッ!!!」
「ちょっと待ってくれッ! 私じゃあないぞッ! 本当にこの私は君には近づいてすらいないッ!」
狼狽え、反論するタキオンだが少年は余計泣きじゃくるばかり。さらには近くにいた老人たちがいぶかしげにタキオンを見ながらひそひそと話をし始める始末。間近にいたカフェも、タキオンが少年の方に近づいたようには全く見えなかった。
「わかった! わかった! 500円だな! 少年、今度は落とすなよッ! くそっ、全くなんて日だ――」
最終的にタキオンは、面倒だと思ったのか少年に500円を握らせその場を立ち去ろうとする。つぎの瞬間だった。
「おい、そこの若いの……」
今度は老人に声をかけられる。
「……で、今度は私に何の用だね?」
うんざりしていたタキオンは、ややぶっきらぼうに返事をしたが……
「ワシの『服』汚したろ。若い娘さんにタカるような真似はしたくないが。ワシも年金暮らしの身でな。すまんがクリーニング代……1000円くらいはだしてくれんかの?」
「はァ~~~~~ッ!?」
流石にイラつきながら振り返ったタキオン。老人には近寄りもしていないはずだ。それは確かな、はずだったのだが……老人の来ているシャツには、タキオンの肘についていたソフトクリーム汚れが擦りつけられたかのようにべったりとついている。
「ちょ、ちょっと待て……なにかおかしいぞッ! カフェッ!」
「ええ、さきほどから『おともだち』もおかしいと言っています……なにかが、ここにはあるッ……これは『ジョースターの呪い』なのかッ!?」
「おや、アンタたちやっぱりここに来るのは初めてかね」
狼狽えるタキオンとカフェに、老人はにやりと入れ歯を見せながら笑みを浮かべて。
「お嬢さんたちは可愛らしいから特別に教えてやるが……ここは『カツアゲロード』。『カツアゲ』されるぞ。これからも……ここを出るまで。『誰か』にな……ここはそういう『現象』が起こるんだ。ほら、1000円だしなッ!!」
結局やった、やってないの押し問答の末タキオンはさらに1000円を取られてしまう。魔の『カツアゲロード』に入り込んだ二人は、一時その場から動かず、思案した。
「カフェ、君の『おともだち』で怪しい場所なんかがわからないか? 絶対にこういうものは『法則性』があるモノだ。さっきの老人は『現象』といっていた。『現象』な以上『再現性』『法則性』がある。現に、立ち止まっている今は『カツアゲ』にあっていない。つまり、我々が『動く』となんらかの『条件』で『カツアゲ』にあうッ!」
「まってください……ええ、わかりました。『おともだち』は落ち葉の下に何かいると言っています」
といっても、視界には一面の落ち葉。落葉のシーズンでもないというのに、すでに大量の『イチョウ』が今まさにぱらぱら降り積もっている。
「ど、どの落ち葉だッ!?」
「『すべて』ですッ……!」
全ての落ち葉の下に何かがいる……つまり、今のタキオンとカフェは謎の『現象を起こす敵?』に完全に囲まれたという形になるが……
「なあんだ、カンタンじゃあないか……私たち『ウマ娘』にとってはッ……!」
「やってみましょうか……」
とん、とん、と脚を確かめるように一つ二つ跳ねてから、ニトロ点火ゼロワンカーめいて走り出すタキオン。マンハッタンカフェもタキオンの考えを心得ているようで、間髪入れずそれに追随する。
タキオンは、ウマ娘のスピード、そしてレースでの針の穴を縫うような身体コントロールを活かして、『落ち葉がわずかに積もっていない場所』のみを踏みしめトップスピードで駆けていく。時にはフリースタイルレースめいて、障害物を飛び越え、時にはウマ娘のパワーに物を言わせて落ち葉を衝撃で吹き飛ばしながら……
「『タネ』がわかればなあんてことはないなァ~~~……『法則性』があるのならば……『突破』は簡単だ」
そのまま、ジョースター地蔵のところまで駆け抜けた2人。
「さぁて、これが例の……」
「『ジョースター地蔵』。たしかに壊れてますね。しかも史実通り、頭の所がぱっくりとれちゃったみたいに……」
行政がおいたのであろう、近づかないでくださいとかかれた黄色と黒の車止めの外から、ジョースター地蔵を眺める。件の『ジョニィ・ジョースター』は頭を潰されていたそうなので、たしかに、伝説の補強という点では『同じく頭がとれた』というのは大きかったのかもしれない。
「やれやれ、たったこれだけを確かめるために1500円も取られてしまったな……」
「ほんと、災難ですね……もうこないようにしましょう『カツアゲロード』……」
幸い、カツアゲロードの奥には六壁神社方面へと通じる狭い階段通路がある。二人は夕方というには、既にだいぶ日が傾いた中を神社へと向けて走った。
「さて、問題の六壁神社だが……何か変わりは? カフェ」
夕方の境内。いわゆる『逢魔時』の神社は静寂に包まれていて、確かに何か、人知の及ばないモノがでてもおかしくなさそうな雰囲気を湛えていた。タキオンは古代の人々はこうした時間のさあさあと揺れる木々の木漏れ日の中に天狗の影を見たり、木の洞の中の見通せぬ暗闇の中に、鬼を見たりしたのか。と想像を巡らせる。
「カフェ……?」
アグネスタキオンが振り向いたとき、マンハッタンカフェはじっとりと汗をかきながら神社の境内のとある一点を凝視していた。
「居ます」
それだけを言うと、カフェはタキオンを守る様に前に出る。タキオンは、カフェの視線の先に目を向け目を凝らしたがそこにはアリが群がった、力尽きたセミの死骸が転がっているだけだったがそれが死を暗示するようで、タキオンには異様に気味が悪く見えた。
「あなたは……なあに……?」
しかし、マンハッタンカフェは恐れず『なにか』に話しかける。あなたはなあに、と。繰り返し、繰り返し。
「…………これは。」
だが、それから少ししてマンハッタンカフェは怯えたようにその身を震わせた。
「……これは、だめだ。いけない」
平時、マンハッタンカフェは『あの子』やほかの『なにか』について語るときに決してそれらを否定せず、受け入れるようなスタンスを取っていた。時には、自分が何らかの『被害』を受けても、優しく包み込むように。それはタキオンも知っている。
――そのカフェが『これはだめだ』と言っている。
「こいつは……ヒトに寄生するんです……『六壁坂』から来たんだ。おなじ『六壁』であることを利用して、『うわさ』の蔓延を利用してッ……『侵食』しようとしている……! だめだ、だめだ、だめだ、こんなのが世に出たら……!」
がくり、と力が抜けるように膝からその場に崩れるマンハッタンカフェ。
「か、カフェ……?」
「タキオンさん、今から、絶対に後ろを振り返らず逃げてください。『子供』に気を付けて。『怪異』の『子供』に――」
「ハッ……」
『子供』というワードと共に、タキオンは目の前にいる影に気づいた。いつのまにいたのか。それは先ほどのソフトクリームでひと悶着あった、子供だった。
「お姉ちゃんが……お姉ちゃんが――」
子供が、タキオンに触れようとするように手を伸ばす。
瞬間、タキオンは『カフェの手を引いて』逃げた。カフェの言葉は言外に『自分を見捨てろ』というニュアンスを含んでいたが、決して手を離さないように……無理やりに引っ張る様に、とにかく走った。背後からは待って、という声が聞こえたような気がしたが、もう、そんなものを気にする余裕もなかった。
走って。走って。走って。転んで。すりむいて。たちあがって。はしって。はしって。はしって。
気がついた時には、私たちは『寮』の布団で寝かされていた。なんでも、二人して熱中症で倒れていたところを保護されたらしい。夕方の比較的涼しいときに出たことが幸いし、もし、昼間なら危険な状態だったかもしれないそうだ。それから翌日の精密検査でも異常がなかった我々は夏季合宿に再び合流した。
「カフェ、ロードワークにでも行くとするか。『熱中症』で倒れない程度に」
「はい、タキオンさん」
しかしもう、我々の間で『ジョニィ・ジョースターの呪い』のことが話題に上がることもなかった。上げたいとも思わなかったし、周囲のブームはもうすぎさってしまっていたからだ。
なんとも、我々は無駄な骨折りをしたものだ。
……だが、結局あれがなんだったのか。私はその後、少しだけ調査を行ってみた。カフェがあの時口走っていた『六壁坂』という地名は、実在する。なんでも、元々はリゾートの開発計画が持ち上がっていたところをどこぞの富豪が買い取ったせいで、リゾート計画がご破算、地価が暴落し今は、山間の味噌づくりの名家があるくらいらしい。
そして、その『六壁坂』には『妖怪伝説』がある。
その妖怪伝説の内容こそはわからなかったものの、民俗学的な一つの仮説が立てられる。それは『感染』だ。たとえばジェームズ・フレイザーの『金枝篇』でふれられているように『呪術』の中には病気めいて他人に『感染』していくものがあるという。最初はおそらく、たわいのない噂だったのかもしれない。しかしそれが『怪異』や『妖怪』をひきつけやすい空気感を蔓延させ……『六壁坂』という場所から、『なにか』が何らかのゆかりを持つ『六壁』の地に悪意を持ってその触手を伸ばそうとしたのではないか……
わたしは非科学的ではないかと思いつつ、そう結論付けた。
「あ、タキオンさん。大丈夫でしたか? カフェさんも。大変でしたね。熱中症なんて――」
と、同じタイミングにロードワークに出ようとしていたとある後輩ウマ娘が、声をかけてきた。
「いや……我ながら自己管理が甘いと痛感したところさ。カフェももうちょっと注意してくれないと~」
「……私の責任ですか?」
「半分はね」
と、後輩ウマ娘がそんな先輩たちに体を冷やすためのいいお話があるんですよーと話しかけてきて。
「――『六壁坂』ってしってますか?」
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#015『30分だけのシンデレラ』
4月初旬。桜並木に彩られた杜王町の丘陵地帯を駆け抜けていく黒い影があった。
「ふっ……ふっ……ふっ……!」
彼女の名はライスシャワー。トレセン学園高等部所属のG1ウマ娘だ。勝ちレースは名誉あるクラシック級最後の冠『菊花賞』。
「ライスさん、さらにスピードアップできますか!? これではあの『メジロマックイーン』さんには勝てませんよ!」
「うああああーっ!!!!」
自転車に乗ってライスシャワーを追走するのは、『皐月賞』そして『日本ダービー』を獲った二冠ウマ娘であるミホノブルボンだ。なぜ彼女たちがここにいるのか? それは、もはや間近に迫った『春の天皇賞』に出走するライスの最終追い込みのためである。本来であれば夏期の林間学校として利用されるこの杜王町の施設を特別に申請して、みっちりと特別訓練を行う。ブルボンは現在、怪我からのリハビリ中であり、ライスとの縁もあって特別合宿中のサポートとして名乗り出た格好だ。
「ぶはーっ……! はぁーっ! ハァーッ!!!!」
ダッシュで坂を上り切り、肩で息をしながら全身から煙が立ち上るほどの汗を垂らすライス。ブルボンはストップウォッチを止めタイムを確認する。
「ライスさん、目標値よりまだ0.5秒ほどの遅延があります。ただ、タイム自体は徐々に上がっていますからこの調子で……」
「ブルボンさん、こんなのじゃだめ。もう一本……」
ライスはブルボンの言葉をいつもとは違う、強い言葉で遮って再び歩を進め始める。彼女は……最初、『春の天皇賞』に出るのを渋っていた。ライスがブルボンの『無敗の三冠』を阻止したとき……ブルボンは、初めて悔しいという感情を覚えた。だが、それは伝え聞くようなドロドロとしたものではなく、ただ体の中から湧き上がる純粋で、透明なエネルギーのようで、自分を破ったライスシャワーと言うウマ娘に対する尊敬の念さえ感じたものだが……
あの時のレース場の雰囲気は今でも覚えている。困惑。不満。騒然。半ばブーイングのような雰囲気……世間はあまりにも『無敗の三冠バ』誕生を期待しすぎていた。そしてそれを阻止したライスは……一部では『
だから、ライスが春の天皇賞に出るといった時そのサポートを買って出たのだが……彼女が自分に課したトレーニングメニューは、トレーニング量に関してはそれなりに自信があったブルボンですら驚愕するほどの物だった。これくらいしないとマックイーンさんには勝てない……ライスの言はたしかであったが、これではレースを迎える前に体を壊しかねない……故に、ギリギリまでおいこみつつもライスを監視し事故が起こらないようにする……ブルボンにはそういう目的もあった。
「……わかりました、では合宿所に戻りつつもう一本行きましょう。その後はクールダウンしつつ座学で対戦相手の対策、および戦術を練ります。それから再び外回りで……」
「はい……!」
ライスは再び、本番もかくやという猛烈な勢いで走り出す……しかしその小さな背には、焦燥と不安がのしかかっているようにも見えた。
「はぁ、はぁ……」
合宿所の部屋に戻ったライスは湧き上がってくる汗をタオルで拭い、スポーツドリンクで水分を補給して……それからほとんど倒れ込むように、なんとか合宿所の机につく。卓上には出場予定のライバルの経歴を事細かに分析した何十枚ものレポート。特に二連覇を成し遂げている前年度覇者……メジロマックイーンのものは何ページにも及んだ。
(去年の天皇賞のレース映像……もう一度見ておこう……)
ライスがDVDをデッキに入れているころ、ブルボンはゴミ出しに出ていた。袋の中身はすべて、ライスが履きつぶしたトレーニングシューズと擦り減りへたってしまったトレーニング用蹄鉄である。この杜王町に合宿に来てから二週間ほど。それですでにシューズ6足、蹄鉄に至っては10個以上を交換している。
「すさまじいトレーニング量ですね……」
だが、未だそれに見合う成果が出ていない。オーバーワーク気味でパフォーマンスが低下しているのか。それとも努力が足りていないのか? そんなことはない、努力で苦手は補えるはずだ……ブルボンはどうしたものか、トレーニング法を色々と考えながら宿舎へと戻った。
「………………」
ライスはパイプ椅子に座ったまま、疲労のあまり寝息を立てていた。TVではリピート再生される去年のメジロマックイーンの天皇賞の映像。まさしく圧巻の走りというほかない。彼女はステイヤーとしてあまりに完成されすぎている。ライスも、ステイヤーとしての素質はある。あるからこそ菊花賞で自分を破ったのだから、勝ち目はあるはず……
「たとえそれが1%の可能性でも、私はあなたと共に天皇賞を目指しますよ、ライスさん」
ミホノブルボンは、ライスの小さな体をゆっくりと抱きおこして布団まで運んでやりシーツを掛けると一人、『勝つ』ための作戦づくりを開始した。
次の日。
「ブ、ブルボンさん……ほ、ホントに今日、練習しなくていいの? 昨日も途中で寝ちゃったし……」
私服のライスとブルボンはその日、杜王町の駅前繁華街を二人で散策していた。
「はい。かなり大胆な策ではありますが、今のライスさんには休息が必要と判断しました。オーバーワークは織り込み済みでしたが、トレーニングパフォーマンスの低下が著しいです。今日一日はリフレッシュにあて、明日から再び追い込んでいきます」
「そ、そうなんだね。じゃあ今日は……ら、ライスもゆっくり休むよ……!」
そういうライスの表情には、やはり焦りの色が見えたがライスはブルボンの事をかなり信頼していて、ブルボンの考えなら、と逆に若干ぎくしゃくとした笑みを浮かべて。どんなお店があるのかなあ、などと呟き。杜王町に来て以来、ひたすらトレーニングで自分の身体を追い込んではシャワーを浴びて最低限の食事をとり、倒れ込むように早い時間から寝るという生活リズムだった彼女は、杜王町を観光すらしていないのだ。
「既に名所やお店はリサーチ済みです。事務所の管理人さんから『杜王町ガイド』をいただきましたので」
ブルボンはパンフレットを広げ、まず近くにおいしいパティスリーがあるそうなので、行ってみましょう。と先導するようにライスシャワーの手を引く。
まず最初に、二人が訪れたのは駅前広場にあるカフェ・ドゥ・マゴというカフェである。二人は、ちょうどオープンカフェテラスが空いていたのでそこに通され、春の温かい日差しと微かに漂ってくる桜の匂いを楽しんだ。
「お待たせしました。チョコレートパフェ、お二人分になります」
それから少しして、供されたのはこのカフェの名物であるというチョコレートパフェである。チョコレートアイスにさらに苦みとコクがあるベルギー産チョコレートソースがかけられ、ワッフルコーンやピスタチオのクリームなどもトッピングされている。
「わあっ、おいしそうだね! ブルボンさん!」
「そうですね。とてもおいしそうです」
ライスとブルボンはスプーンで一口、パフェを口に運ぶ。チョコレートアイスの甘味をベルギー産チョコソースの深い味が引き締め、甘すぎず苦すぎずのバランスをとっている。おいしい。ウマ娘と言ってもやはり年頃の女の子である二人は、このところ取るのを控えていたスイーツを久しぶりに摂取し、やる気を充填した。
「ちなみに、このチョコレートパフェはつきあっている恋人に人気があるそうですよ」
「うみゃう!」
瞬間、がちん、とライスがスプーンを思いっきり噛み、顔を真っ赤にした。
「?」
ブルボンはなぜ、ライスがそうなったのかはよくわからなかった。
その後、ライスとブルボンはカメユーデパートに寄ってショッピングを楽しみ、恋人岬を観光、さらに靴のムカデ屋という小さな靴店でトレーニングシューズと蹄鉄の補充をした。
「まだまだ時間はあります。『六壁神社』という神社があるようですから、必勝祈願にでも……」
と、ブルボンがライスに声を掛けたその時である。ライスは、とある店を見つめていた。
「『愛と出逢うメイクいたします』……『シンデレラ』……」
ライスが見つめていたのは一軒のエステサロンであった。『CINDERELLA』という店名が掲げられた軒先にはライスが呟いた『愛と出逢うメイクいたします』の看板。
「ライスさん?」
「あ、ごめんなさい……ぼんやりしてて……」
ライスは……素敵だな、と興味を持った。というよりは無意識に『愛』に飢えていたのかもしれない。みんなを『幸せ』にするライスシャワー。そんな自分になりたいとあこがれていた彼女は、与えるだけでなく、与えてもらいたいと。それとも、シンデレラに登場する魔法使いに『ダメな自分』を変えてもらう事をある意味では願ってしまっていたのか……
「い、行こ……! そうだね、次はちょっと疲れちゃったから図書館とかどうかな……!」
「『暗い美人より明るいブス』……フー……まさにあなた、『暗い美人』って言葉がぴったりね」
ごまかすようにブルボンに話しかけたライスの声を遮るものがあった。いかにもこの店の店員と言う風の女医めいた施術用の服に身を包んだ女性だ。
「え、あ……ご、ごめんなさい……」
ふいに自分に投げかけられた言葉に、臆したライスは思わず身じろぎして女性に謝った。
「あなた……『愛されたい』んでしょう。分かるわ。おはいりなさいな。本当に『自分を変えたい』のであれば……その看板は嘘偽りは書いていないから」
「…………!」
女性は、フー、と息を吐いてCINDERELLAの扉をあけ放ち中に入っていく。
「……ライスさん、如何にも怪しいですが如何しますか? 私は対応行動、『無視』を推奨します」
ブルボンは、ライスに対してそう言葉をかけたが……
「…………」
ライスは震えながら、その店の中に入っていった。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #015 『30分だけのシンデレラ』 ◆◆◆
「私の名前は辻彩……このエステサロンのオーナーでエステティシャン……フー……
低血圧っぽい話し方するけど気にしないでね……」
辻彩と名乗った女性は、二人は施術室へと通した。壁には無数のコンテスト優勝の賞状が飾られており、国内だけでなくパリ、ロンドン、LA、ニューヨーク、ミラノとそうそうたる受賞歴と言ってもいいものだ。だが、ミホノブルボンが気になったのは施術のメニュー表である。
「愛と出逢うメイク……1000円、愛を捉えるメイク……1500円、プロポーズさせるメイク……2000円……」
そういった、眉唾物の怪しげなメニューしかなく中には芸能人と結婚するメイク(7000円)というものまである。ちょっとズレているとか言われるブルボンでも、さすがにこれはおかしいと思い怪訝な顔でメニューを見ていると……
「エステと言うと美容マッサージを連想すると思うけれど……私のお店は違うのよ。たとえ絶世の美女でも幸せになれるとは限らない……世界三大美女と言われるクレオパトラも楊貴妃も最後は自死に追い込まれ……小野小町は老いゆく自分を嘆く詩をうたっているぐらいですものね」
彩はそういいながら、ライスを施術椅子の上に座らせて。
「私はメイクで『幸福の顔』を作ってあげるエステティシャンなのよ……人には『人相』というものがある。『人相』は人の『運』と密接にかかわっていて……『愛される顔』になればおのずと『愛』が集まってくる。そういうものですわ」
自信満々に言い放つ彩に対し、ブルボンは不信感を持った。
「あまりにも非科学的です。顔面の形を変えることで、対人コミュニケーションにおいて印象が変化することは否定しませんが……」
「みなさん、最初はそういって怪しがるのよね。でも次に『たった1000円、だめでもともと』そう言ってやってみるのよ。そして……好評ですのよ。それに……」
そういって彩は施術椅子の上のライスを見る。ライスの表情は真剣だった。
「もし、本当に『変われる』なら……『ダメな自分』が変わるのなら……」
「ライスさん……」
ライスは常日頃、かなり自己肯定感が低い印象を受ける。最近では以前よりやや減ったが、それでも自分といると不幸になると言って、落ち込んでしまう事も多い。
「メニューにはないけれど……そうね、あなたには『特別』なメニューを施してあげましょう。今のあなたは可愛らしい顔をしているけれど、これは『愛』が逃げていく顔をしているわ……」
「………………」
ライスはその言葉を聞いて、震えながら息を吐いた。
「図星みたいね。初回だし……フー……お試しで1000円ということにしてあげましょう。もし、運勢が変わったと実感しなければお代はお返ししますわ~」
「わかりました、お願いします……」
ライスは、意を決したように言い放って目を閉じる。
「ありがとう~。それではすぐ施術を開始するわね。ああ、それとそこのあなた。施術中は外の待合室で待っていてね~。この『技術』は誰にも見せちゃあいけない、『秘密』なのよ……」
「…………わかりました」
ブルボンは釈然としなかったが、たしかに施術中にずっといるのも変ではある。一度、待合室に戻り……ライスの施術が終わるのを待った。だいたい、30分ほど経ったであろうか。施術室で驚くような声が聞こえ……それから、扉があいた。
そこにいたのは……
「あ…………」
思わず、ブルボンでさえ見とれてしまうような溌溂とした、それでいて儚げな笑顔の美少女。この世のものではないのではないかという妖しさすら纏ったライスの姿であった。
「ブルボンさんっ! 彩さんの……シンデレラのエステ、すごいよっ!!!!
力があふれてくるような感じなんだ! あんなに疲れが残ってた体も軽いし……
なにより……ライスは『無敵』になったの!!!!」
いつもは引っ込み思案のライスが、そうまでいうほどのエステ。ブルボンはこれほどかわるものなのか、と驚きを隠せず、読んでいた雑誌を思わず取り落とした。
「そう……今のあなたは『無敵の運勢』を持っているのよ……すべてが叶う……世界はあなたのもの……行きなさいな。その祝福された顔で、変わった自分を実感してきなさい。ただ……」
彩が、一つだけ呟く。
「このメイクは30分しか持たないの……それだけは許してね。フー……その分効果のほどは保証するから。今は16:30ちょうどだから……17:00までね……」
「はいっ! ブルボンさん! 行こっ!!!」
笑顔のまま、駆けだしていくライス。
「ど、どこに行くのですっ!?」
「わからないっ!!! でも、ライス、すっごく走りたいんだ!!!」
そう言って歩道に飛び出したライスは漆黒の矢のように駆けた。ブルボンはその後を必死に追ったが……追いつけない! 私服だからとか、リハビリ中であるとか、そういったものすべてを抜きにして……今のライスはとにかく『速い』のだ。無駄のない足運び、強い体幹から来る効率の良い体の動かし方、強化された心肺、そして……『無敵』のメンタル……すべてが噛み合っているッ! 絶好調の彼女はこれほどまでに速いのかッ! ブルボンはその才能に驚愕した。
「あれ……ウマ娘……ライスシャワーじゃあないです?」
「おい……本物だよ……ミホノブルボンの三冠を阻止した……」
と、道端で井戸端会議をしていた小柄なヤンキーと大人しそうな高校ぐらいの青年の二人がライスに気づく。
「はいっ、そうです! 次は春の天皇賞に出るので、よろしければ応援お願いしますねっ!!!」
ライスの耳にもそれは入ったようで、スピードを落としてヤンキーたちに頭を下げる。
「え、ああ……がんばってね……」
そのまま、再びスピードを上げて走り去るライス。
「……あのこ、
小柄なヤンキーがそうつぶやくのを後を追いかけるブルボンは聞き取る。
(まさか……ただのメイクだけで、こんなに……?)
その後も、街を走っているうちに何人もの男女が可憐なライスの姿に振り向き、あんな可愛い子がいたんだなと噂するのをブルボンは聞いた。
「ハァ……ハァ……ライスさん、気は済みましたか……」
かろうじて公園でライスに追いつくブルボン。ライスが、ようやくそこで立ち止まったのだ。
「わああ……ガムふんじゃった……お気に入りの靴だったのに……」
ライスの靴の裏には緑色のチューインガムがべったりとくっついており、これは洗わないと取れない。
「あ!」
そういうブルボンも、ぐちゃり、という音が足裏から響く。二人してガムを踏んでしまった……
「ふええ……やっぱりライスと一緒にいると不幸になるよぉ……
どうして? さっきまでライスは『無敵』だったのに……!」
そう言って涙目になる、ライスの顔が一転に注がれる。そこには公園の時計があった。時刻は17:00ジャスト。メイクの効果が……魔法が解ける時間だ。
「どうして……30分だけなのーーーーッ!?」
ライスの悲鳴が公園に響いた。
次の日、ライスは朝一番で『CINDERELLA』へと向かった。開店前で、偶然外で花に水をやっていた彩を見つけたライスシャワーは開口一番叫ぶ。
「彩さんッ! ライスに、ライスに昨日のメイクを……いいえッ! 昨日のメイクの長続きするものをしてくださいッ! お願いしますッ!!!」
「フー……何もこんな朝も早くから来なくてもいいんじゃあない……?
まだ開店前よ……それに少し落ち着きなさいな……」
彩は眠そうに息を吐きながら、また来なさいといってライスのもとから去ろうとする。
「いいえ、ライスは……ライスは昔から『変わりたい』と、思っていました……!
自分を『変えてくれるメイク』ついに……やっと! 出逢ったんですッ!!!
お金はいくらでも払います! だからお願いします……!」
「ちょ、ちょっと……あなた……やめてくださる……!?」
しかし、ライスはその脚に縋りつくようにして彩に懇願する。それほど、ライスシャワーにとっては切実な願いだった。嫌いで嫌いで仕方がなかった、『ダメな自分』を変えるチャンス……それが訪れたのだから。
「ライスさん」
と、背後から冷静な声が響く。
「ブルボンさん……?」
そこに居たのは、ブルボンだった。無理もない、今は本来ならトレーニングに出ている時間のはずだ。自分を連れ戻しに来たのだろう。ライスは罪悪感を感じたが、それでもこの自分が変わるチャンスは逃せなかった。それに、『無敵』になればマックイーンさんにも勝てる……そう思えてしまったから。
「ライスさん、トレーニングに戻りましょう。今日は砂浜ダッシュからはじめます」
「ブルボンさん、ごめんなさい……で、でも、シンデレラのメイクは凄いんだよ。
きっと、ブルボンさんもやってみれば、分かるよ。このメイクで私は『無敵』に――」
「ライスさん!」
ライスの必死な声を、ブルボンの声が阻んだ。
「……どうしてしまったんですか、ライスさん! あなたは! そんな『メイク』に頼るような人ではないでしょう!? 今まで、体を削るようなトレーニングをしてきたのは何なんですか!!! それは勝つためです!!! マックイーンさんから、春の天皇賞を勝ち取るためだったのではないんですか!!!!」
ライスはハッと息をのんだ。ブルボンは……泣いていた。
「……私の『三冠』を阻んだ『強いライスシャワー』は……努力をやめてしまうようなウマ娘ではない……どこへ行ってしまったんですか! ライスさん! 私の『
「あ…………」
ライスは雷に打たれたような衝撃を受けた。あのブルボンさんが、泣いている。私の事を、こんなにも思って、泣いている。そうまでさせたのは、自分だ。ダメだ。こんな『弱い自分』は――
ライスはごめんなさい、といって彩の足を離し、立ち上がり、泣きじゃくるブルボンを掻き抱いた。
「ごめんなさい……ブルボンさん……ライスは……ライスは、自分の事を信じてくれている人がいることを、忘れていました。心の中の『弱い自分』にいつの間にか負けそうになっていました。ライスは……勝ちます。マックイーンさんにも、そんな『弱い自分』にも」
そう言って、ライスは彩の方を向いて、お辞儀をして
「すいません……やっぱりライスに『メイク』はいりません。朝からお騒がせしました」
「そうね、今のあなたに私の『魔法』は必要なさそう……」
彩はライスの顔を見て、そう言った。
「メイクなんかしなくても、今のあなたは強い女の顔をしているもの……
ああ、これはエステティシャンとしてではなく女としての経験ね。さあ、もう行きなさい。
お友達を泣き止ませてあげて。女の子はやっぱり笑顔が一番よ」
「ありがとう、ございます……」
ライスシャワーは、未だ嗚咽を漏らすブルボンにごめんね、ごめんね、と声を掛けながら去っていく。その後姿を見ながら彩はつぶやいた。
「あの子は『勝つ』わ……」
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#025『ヒョウガラ列岩』
M県S市杜王町。古来より風光明媚な避暑地であるこの街の西部、ゆるやかな丘陵地帯に一軒の小さな
正月休みも過ぎた一月初め。そろそろ全国の学校の冬休みも終わろうという頃……そのトラサルディーに現れる二人の少女の姿があった。その少女たちの特徴的な耳はウマ耳と呼ばれる獣のそれにもにた形状の鋭敏な感覚が備わった器官であり、彼女たちがウマ娘――たぐいまれなる身体能力を持ち、こと走力に関しては生物界でも上位という種族であることを物語っている。
「マックイーン、小さいけど段差があるから気をつけてね、っとボクが支えるよ」
「あ……ごめんなさいね、テイオー……」
鹿毛に白い三日月めいたメッシュの入った前髪の少女が、美しい芦毛の少女の手を取りゆっくりと店の中に引き入れる。芦毛の少女は脚が悪いのか松葉づえをつき左足をひいているが、それでもその優雅な所作は様々なところから見て取れた。
二人の名前はトウカイテイオーと、メジロマックイーン。片や皐月賞、そして日本ダービーの二冠を成し遂げ先日も有マ記念で『奇跡の復活』を遂げた不屈の帝王。片や春の天皇賞2連覇を始めとした史上最強のステイヤー、そしてその優雅さからターフの名優の名を欲しいままにする優駿中の優駿であり、ライバルを公言する仲である。
「Ti stavo aspettando. お待ちしておりました。トウカイテイオーさん、メジロマックイーンさん」
からころというドアベルの音を聞きつけて、ちょうど店の奥から現れたのはこの店の経営者・シェフ・ウェイターを一手に引き受ける男『トニオ・トラサルディー』である。二人が座れるように椅子を引き、席に着くように促す。今日は特別営業であり、客はこの二人のみ……
「プリモ・ピアット。パスタ・アル・ペスト・ジェノヴェーゼでございます」
そしてまず、二人の前に供されたのは、もはや日本でもおなじみのバジリコを用いたライトグリーンのジェノヴェーゼソースを用いたパスタである。その名の通り、イタリア北西部ジェノヴァを発祥とするこのソースは『バジリコを砕いたもの』の意味を持ち、オリーヴオイルやチーズ、にんにく、松の実などと言ったナッツ類を加えたものだ。
「わぁ~っ、ボクそういえば本格的なイタリア料理って初めて食べるかも……えっと、こほん。こういうのはテーブルマナーとかが必要だよね。マックイーンのお手並み拝見だね~」
「まあテイオーったら。ですがわたくしもメジロのウマ娘。完璧なテーブルマナーをあなたに教えて差し上げますわ」
きゃいきゃいと料理を前にしてはしゃぐテイオーとふふん、みていらっしゃいなとばかりに張り切るマックイーン。
「フフ、そう形式ばったものでありません。ウチは一部の気取った食通が食べるような料理ではなく、イタリアの家庭でごく普通に食されているような味をご提供しているのでス」
「ほほお~、それではシェフのお手並み拝見……いただきまーす!」
「いただきます」
テイオーとマックイーンはいただきます、と手を合わせた後。フォークでくるくるとパスタを絡めとり、まず一口、それを口に含んだ。衝撃が走った。
「な、なにこれーーーーーーっ!!!!!? ウンまああああああああい!!!!!」
「ほ、本当ですわ……! メジロ家のお抱えのシェフが腕を振るった料理を普段食べている以上、生半可な物では驚きはしないという自負はありましたが――これは、お、おいしい。おいしいとしか言葉が出てきません!」
一口食べただけで強すぎないさわやかなバジリコの香りと、芳醇なチーズの香りが口の中に広がる。そして、ピリッと食欲を刺激する味と香ばしさの多層的なうまみ……なんたる美味。テイオーもマックイーンも、思わず目を見開いて間髪入れず二口、三口目と口に運んでしまう程だ。
「これは……なんでしょう? ナッツ類の香ばしさ……でもアーモンドやカシューナッツなどとは違う……」
「ジェノヴェーゼソースには伝統的に『松の実』がつかわれマス。最近ではおっしゃる通りカシューナッツなどで代用することも多いのでスが……」
マックイーンはそのソースが気になったのかスプーンで掬い、それだけを飲んでみていた。松の実は日本ではあまりなじみがないが、イタリアを始めとするヨーロッパ各地、北米、中国から朝鮮半島に至る東アジア、そして中東などでは食用として煎り豆や揚げ菓子のようにして食べられている立派な食材であり、これを名産としている地域すらあるほどだ。
「『松の実』はオレイン酸やリノール酸、マグネシウム、亜鉛を多く含み、中国では『中薬』という種類の薬膳漢方薬としても用いられマス。これは体を温め、肌を保湿する冬にぴったりの効果があるのでスよ。他にも内臓や脳にも良い効果があると言われています。また、ジェノヴェーゼソースの大本であるバジリコもインド医学『アーユルヴェーダ』では『不老不死』の薬効を持つとされ、大きな役割を果たすモノの一つデス」
「ほ、ほんとだ……なんだか体がポカポカして……」
「ええ、心なしか肌にもツヤが出てきたような気がします……!」
このところ、心が打ち沈みやや肌も荒れ気味だったマックイーンの肌に美しいハリがもどっていることは、チームメイトでありよく一緒に過ごしているテイオーにとっては手に取るようにわかる事柄であった。そう、マックイーンは……秋の天皇賞を直前にして『繫靭帯炎』を発症した。ウマ娘にとって致命的な病ともいわれるこの病気は過去にも偉大な名バたちを長期欠場や引退に追い込み……ご多分に漏れずマックイーンから走る、という行為そのものを奪い取ろうとしていた。いや、それだけならまだいい。無理をすれば日常生活にすら重大な支障をきたすであろうと主治医が見立てるほど彼女の繫靭帯炎の症状はひどかったのだ。
「……あなたの腕前は十分に分かりましたわ。トニオ・トラサルディーさん。医食同源とはよくいったものですし、食事療法を取り入れるというのは理にかなっています。わたくしがこの『杜王町』にいる間のお食事は事前のお話通り全て一任いたしますわ」
メジロマックイーンは引退を撤回し、長期の休養と言う事で別荘地である杜王町を訪れていたのだ。この街の海岸部にある別荘地帯には当然、メジロ家所有の物も存在し都会から離れたよい環境で心身ともに回復を図る……そう言った狙いだ。そして、そこにテイオーがついてきたのは、テイオーたっての願いであり、マックイーンもそれを二つ返事で承諾した。
ボクは奇跡を起こした。だから、今度はマックイーンが奇跡を起こす番……それを見届けるために。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない#025 『ヒョウガラ列岩』 ◆◆◆
「ふう……! はあ……!」
「がんばれマックイーン、もう少し!」
杜王町中央病院。各種リハビリ施設もそろったこの病院でマックイーンは日々、復帰に向けてのトレーニングに励んでいた。といっても、まずは立って、歩くところからである。既に患部の炎症は収まっているものの、強度の強いトレーニングをするとすぐに再発する繫靭帯炎は様子を見ながら復帰していくことが肝要だ。
今日は、温水プール内で患部に負担をかけないようにしつつの歩行リハビリ。トレセン学園でも心肺強化のためのプールトレーニングはよく行ったものだが、実際アスリートの骨折などからのリハビリでも患部に負担をかけ過ぎず、かといって全身に負荷がかかり決して楽ではないプール内ウォークなどは良く用いられるものの一つだ。
「ふう……! とりあえずこれで今日のプールリハビリは終わりですわね。でも、こんなことではいけません……あともう少し――」
「ダメ。マックイーンは力はいりすぎなんだよー。焦らない焦らない。さ、プールから出て」
「テイオー……はい、わかりました……」
テイオーは肩に浮力サポートのための浮きをつけたマックイーンを傍らでサポートしつつ、彼女が根を詰め過ぎないように様子を見ていく。彼女は名実ともにチームのエースと呼ばれるが、決して才能だけに阿るようなウマ娘ではなくその実力は圧倒的な努力量に裏付けられている。それゆえに自身に厳しく、焦りからオーバーワーク気味になるであろうことはすでに彼女のトレーナーは予見していた。だが、マックイーン以外にもウマ娘を多く抱えるトレーナーは長くトレセン学園を離れられない。故に、ある意味では『リハビリ慣れ』しているテイオーをサポートとして付けたというところもある。
「次はごく軽い筋トレかな。これも筋肉をつけるんじゃなく、あくまで今の筋肉量が落ち過ぎないようにするためだから過負荷は禁物だよ、マックイーン」
「ええ、ですが……」
やはり何か言いたげなマックイーンに、テイオーはバスタオルを被せてやる。正直、マックイーンの脚の調子は思わしくない。主治医も、あの食事療法を提供してくれているトニオも症状がかなりひどいのでまず焦らないことが肝要だ、と言っているが……マックイーンは走りたくて走りたくて仕方がないのだろう。実際、レースから一度離れた彼女はどこかうわのそらで、いつもの気高い覇気を失っているようにも思えた。
(だからこそ、ボクが支えるんだ。『今の』マックイーンを……)
病気やケガからのリハビリは一筋縄ではいかない。実際、今のマックイーンが回復するにはそう、やはり『奇跡』が必要なのだ。だがそれは、ただ座って待っているだけでは訪れない。自ら、そちらに『歩んで』いかなければならないものなのだが……少しくらい『手助け』をしても罰は当たらないだろう。彼女は……いやマックイーン本人も、メジロ家の皆も、トニオも、そしてテイオーも一丸となって本来起こらない事を起こそうとしているのだから。
……テイオーは、次の日。杜王町の図書館を訪れていた。杜王町には長くとどまることになるかもしれない。だからこそリハビリの合間にでも息抜きにマックイーンを連れ出すスポットを探そうというのと、スポーツ医学関係の本をいくらか借りようという二つの目的のためだ。
テイオーは大抵図書館に置いてあるであろう、街の文化施設や催し物のパンフレットをいくつか取り、それからスポーツ医学コーナーに向かい、目についた本を適当に手に取る。どれも繫靭帯炎からのリハビリや回復事例が載った物ばかりだ。
「マックイーンは頑張りすぎてるほど頑張ってる。ボクもそれ以上に頑張らないと……ん?」
と、その時、医学書のなかに違和感のある書籍を見つける。『杜王町の医食の歴史 -ヒョウガラ列岩の海産物について-』と書かれたそれ。確かに医学カテゴリなのかもしれないが、古い装丁もあいまって妙に目を引いた。手に取って、ぱらぱらとページをめくる。
「えーと、杜王町東北部の海岸にあるヒョウガラ列岩では、アワビやタコ、ウツボ、イセエビといった海産物が豊富に取れ、かつてはこの地に避暑に訪れた侍に献上されて……ああこういうのはいいか……」
その内容のつまらなさというか、ご当地の食材紹介めいた内容に関係ないな……と本を戻しかけた、その時であった。
「……を食した走れなくなったウマ娘が、走れるようになったという記録もある……え……?」
ちらと見えた記述に、テイオーの手が止まる。そのページを探し、頁を繰る。あった。
「江戸時代後期のS藩(のちのS市)お抱え医師が日光東照宮で行われる神事に出る予定だったが足の病気によりその役目を解かれそうになっていた神馬役のウマ娘に『ヒョウガラ列岩で獲れたイセエビ』を使った特別な料理を献上したところ、その足はたちどころに治り神事は滞りなく行われた……明治時代にもイセエビを使った料理を食した走れなくなったウマ娘が、走れるようになったという記録もある」
テイオーの本を持つ手が震えた。そして。一瞬後には、テイオーはその場を駆けだしていた。
「マジでトウカイテイオーがウチに来てるゥ!? なんでだよォーッ!?」
東方憲助は困惑した。何故なら、彼が息子である常秀(異様に興奮し、かつ動揺していた)から聞かされたことはあまりにもいきなりすぎたからだ。二冠ウマ娘。そして先日有マで奇跡の復活を遂げた不屈の帝王。トウカイテイオー本人がいきなり東方家を訪問してきたなどと……最初こそ思い込みが激しい所がある常秀の冗談か何かかと思ったが、腕を引っ張られて玄関に赴けば、そこにいたのはにししっ、と笑みを浮かべるウマ娘。どうみてもトウカイテイオー本人。
「父さんッ、写真撮ってもらおうよッ……家族写真ッ! テイオーさんもいれてさッ! 大事件だッ! 大事件だよォ~~~~ッ!!!! そのまえにサインいいですかァ~~~~ッ!?」
「ちょ、お前はちょっと黙れ常秀! なんでテイオーさんがうちに!?」
憲助は、困惑のままテイオーに問いかける。うちは古い名家とはいえ、いきなり今をときめく大スターが訪問してくるなんてのは全く例がない。とっさにTVカメラとかを探す。TVのどっきり企画か何かかと思ったのだ。それでもアポとかそう言うのはあると思うのだが。
「ふっふっふ~。無敵のテイオー様と会えてうれしいのは分かるけれどちょーっとおちつくがいいぞよーっ。あ、この家のお父さんだね。ボク、トウカイテイオーって言います。今回は個人的なお願いがあってきました!」
常秀のテンション上がりっぷりに、テイオーは気を良くしいわゆる『無敵のテイオー様』気分になっていたが、家長であろう憲助が現れると、ぺこり、と頭を下げて。
「『ヒョウガラ列岩』に立ち入る許可をください……!」
そう、『ヒョウガラ列岩』は地主である『東方家』が管理している場所なのだ。当初テイオーは地元の港に直行し、そこでイセエビを購入しようと考えたが……地元漁師は、ヒョウガラ列岩のイセエビはダメだ、と言ってかたくなに売ってくれなかったし、そもそも今はイセエビのシーズンではないらしい。(だがサインはめちゃくちゃねだってきたのであげた)しかし、そうした漁師のうちの一人が、あそこは東方家の土地だから、とこぼしたのを耳聡く聞いたテイオーは、例の本にも東方家と言う記述があった事もあり、電話帳などから住所を調べ上げて直接交渉に来たのである。
「『ヒョウガラ列岩』……」
しかしそう聞いた憲助の目つきが変わった。家長……東方家を束ねる者としての威厳ある目に。
「どこでその名前を聞いたのかはわかりませんが……テイオーさん。『お断り』します。」
ぴしゃり、といい放つ憲助。常秀はなんでだよォー、いいじゃん、などとテイオー側に立っていたが憲助はそれを目線一つで黙らせた。
「あの場所はいわば地元の漁師たちにとっても『神聖な場所』で、部外者の立ち入りはすべてお断りしているのです。過去にTVの取材や大学の研究チームの依頼もありましたがすべて断っています。あの場所は杜王町に存在する『土地のパワー』がある場所の一つ。今風に言えばパワースポットとでもいいましょうか。マユツバかもしれませんが、それは存在する」
「だからこそ軽率に立ち入ってはならない。そこにあるものを持ち出してはならない。もし不用意に立ち入れば……『土地』が牙をむく」
しかしテイオーとしても、このぐらいの難航は想定のうちだ。折れなどしない。憲助の瞳を、テイオーはまっすぐ見つめながら言い放つ。
「お金ならあります。『皐月賞』。そして『日本ダービー』。『ジャパンカップ』。『有マ記念』。その賞金を『すべて』さしあげて構いません。だから、ボクにあの場所で獲れる『イセエビ』を譲ってほしい」
テイオーには『奇妙』な確信があった。ウマ娘の脚を治した記録のあるイセエビ。そしてあのトニオの医食の知識と技術があわされば……必ずマックイーンの脚は完治する。そんな確信が。
「……もう一度言います。『お断り』します。これは、お金の問題などではなく……この『土地』の『ルール』なのです。『土地』と『歴史』に敬意を払わないものは滅ぶ……我が東方一族はそうではなかったから、今まで生き残ってこれた……」
「じゃあ……仕方ないね……」
「お判りいただけましたか」
憲助は何がテイオーをこれほど必死にさせているのかはわからなかったが、その覚悟は十分に感じていた。だからこそ、断るのは心苦しく、少女の望みを叶えてやれない事を――
「『密漁』をします」
「何ィー----ッ!!!?」
テイオーは再び笑みを浮かべて言った。それは、憲助を追い込むための『ブラフ』の笑みだった。
「ナアナアナアナアナアナア、アンタ何言ってんだァーッ!? 密漁だって!? 犯罪行為だぞ分かっているのかァーッ!? 江戸時代なら『死刑』に当たる重罪なんだぞッ!!!」
しかし……そんなことは目の前の憲助には分からない。むしろ勝負事の世界で生きているウマ娘は時に勝つための策やブラフなども求められる。故に堂に入ったその態度は……憲助は動揺させるに十分。
「本で読んだんだ……杜王町には『密漁の伝統』がある。そしてそれは『芸術』にも例えられていたって……『歴史』に敬意を払えと言うなら……『伝統に倣う』のは当然じゃない?」
まあ、密漁されてたのは『黒アワビ』で『イセエビ』じゃあないんだけどね……とテイオーは付け足しさらに本気であることをアピールする。
「いや……だからと言って当然『許可』できないッ! そもそもウマ娘と言っても年頃の女の子だ……そんな子を一人で潜らせるわけにはッ!」
「大丈夫。ボク、小さい頃は海遊びが好きでね。浜のテイオーって呼ばれてたんだから。ま、それはさておき……ボクにはどうしても、『イセエビ』を手に入れなければならない理由があるッ!」
憲助をまっすぐ見据えるテイオー。その瞳に宿った力は有無を言わせぬものがあり、大人一人……動揺した憲助をたじろがせるには十分だった。既に濃密な勝負の世界で結果を出しているテイオーだからこそ出せる、その身に宿った『スゴ味』で憲助を追い詰める。
「わ、分かった分かった……そこまでおっしゃるなら、ヒョウガラ列岩への立ち入りは許可をしましょう。しかし一匹。一匹だけだ。持ち出していいのは。それにこの『私』が同行するッ! いいねッ!」
こうして、テイオーは東方家の許可を取り付け『ヒョウガラ列岩』での漁に挑むことになる……!
………………
…………
……
…
「本当に『潜る』気かい……?」
「うん、こういうのは人任せにしちゃいけないんだ。ボクが言い出したことだ。だからボクが自分でやらなきゃあならない」
既にウェットスーツを着込んだテイオーは、同じくウェットスーツの憲助ににししっと笑いながらピースサインを向ける。ヒョウガラ列岩周辺はおおよそ水深5mほどでさほど海流も早くない。ウマ娘の身体能力と監督者がいればさほど問題はない場所……ではあるはず。
「とはいえ、今は『時期外れ』だ。本当に食用に耐えるイセエビがいるとは限らないぞ」
「見つからなければ……素直に諦めて別の方法を探すよ。でも、なんとなくわかるんだ。これしかないって。あ、おじさん、先行ってるよー」
「お、オジサン……」
浜からゆっくりと水に入って行く二人。一月の海は昼とはいえすさまじく冷たく、長居はできない。列岩沿いにロープを使って進みながらテイオーと憲助は海女の使う水中を覗くための道具なども使いながら……時折軽く水に潜ったりもしつつ、イセエビを探していった。だが……やはり、簡単には見つからない。さすがのテイオーも冷たい海に何度も潜り続けることはできないため、時折浜に戻っては焚火にあたり温かい茶を飲んで体を温めつつの探索行。時間も手間もかかるし、捜索範囲も限定されてしまう。見つけたのは小魚や小さな貝、それにタコぐらいだ。
「おー、さむっ……そろそろ諦めるかい。少なくとも今日はこの辺に……」
「ううん、まだやれます。むしろこんなことに付き合わせてごめんね」
先に憲助の方がネを上げそうになる始末だったが、テイオーは次はあの辺を探してみようと挑みかかるかのように『ヒョウガラ列岩』を見つめるばかりで。憲助はその真剣な横顔をみて、ポリポリと濡れた頭を掻く。
「仕方ないな……『キング・ナッシング』ッ!」
「ん? なんか言った?」
「いや……それよりも、イセエビだが……ヒントをあげよう。ヒョウガラ列岩のあのあたり……そう、ちょうど一つ目の岩の小さな入り江みたいになってるくぼみ……あのあたりを探してみるといい」
「えー! 何か知ってるなら先に言ってよー!!!!」
『キングナッシング』。東方憲助に備わった
テイオーは、ある程度体を温め終えると再び列岩を伝いながら憲助と共にキングナッシングの突きとめた場所を目指す。そこは列岩の中でも大きめの岩のコの字型になったくぼみめいた場所であり……潜ってみると、海底洞窟とまでは行かないが更に海底に人が入れる程度の穴が見えた。そしてその奥。2mほど先にいたのは……イセエビである!
中程度のサイズでこの時期であれば大きいと言っていい。あれなら食用にもできるだろう!
いてもたってもいられず、テイオーは海に潜り穴の中のイセエビに手を伸ばそうとした。しかしその時だ。テイオーはふいに背後から肩を掴まれ、後ろに戻される。ごぼ、と驚いて息を吐くテイオーだが、それは憲助によるものだった。なぜ? テイオーは不満げな視線を憲助に向けるが、憲助は例の穴を指さしてから手でバツ印を作った。なぜなら……
(う、ウツボ……! しかも何匹もいる……!)
穴の中の岩陰からぬるりと姿を現したのは、海のギャングことウツボである。種類によっては毒を持つウツボは意外なことにイセエビと共生関係にあり、その共生相手が捕まえられそうになったからか明らかに口を開けてテイオーを威嚇しているのだ。もし気づかず、無理にイセエビに手を伸ばしていれば確実に襲われていたことだろう。
「ぷはあっ! ウツボなんてきいてないよー!!! ほかにイセエビのいる場所のヒントとか……」
「いや、ダメだ。やはり時季外れで……このイセエビぐらいしかこのあたりには『匂い』が感じられない……ああウツボが大量にいてはさすがに手が出ないな。これはもうあきらめるしか……」
一度、海面に出て息を整えるテイオー。憲助は、流石にここまでやってダメならテイオーも折れるだろうと踏み、陸へと戻ろうとしたが。テイオーはその場で波に揺られながら、少し考え込み。
「いや……あれを獲ってみせるよ。大丈夫、危ない事はしないから」
そう言って、別の場所にいったん潜っていく……。
それから数日後。トラットリア・トラサルディーにて。
「できまシタ。イセエビのビスクスープになりマス」
「すごい……これ、本当にテイオーが?」
「ふふーん」
丸まる一匹、イセエビが使われた豪勢なビスクスープを前にして驚くマックイーンを見て、テイオーは鼻の下を擦りながら得意げな声を上げた。
テイオーは、あれから別の場所に潜り『タコ』を捕まえたのである。ヒョウガラ列岩より南の黒アワビを狙って杜王町近海に多く生息するタコはウツボの大好物であるのだ。そもそもなぜ、ウツボがイセエビと共生するかと言うとイセエビも捕食対象であるタコを逆に狙ってのことであり、テイオーはそのことを文献で読んでいたおかげでタコを捕まえ、オトリにしているうちにイセエビを捕まえるという策を思いついたのだ。
「しかしどうやって、ヒョウガラ列岩に立ち入る許可を?
あそこは東方家や一部の人間以外たちいることができないはず……」
「ふっふー。無敵のテイオー様に不可能はないのだ!」
などと完全に調子に乗っているテイオーの前にも、クリームオレンジのスープが供される。
「あれ、これはマックイーンのための料理じゃ……」
きょとんとテイオーがトニオに顔を向ける。しかしトニオは表情を変えずにこう言い放った。
「テイオーさん。あなたにも『食事療法』が必要です。あなたの脚は……既に3度の骨折を経ていますが、おそらくこのままであれば確実に『4度目』がありマス。そうなればさすがにあなたは立ち直れないダメージを負う」
「え……?」
「ボクが……?」
たしかに、骨折は癖になりやすい。一度痛めたり骨折した場所が再度同じ症状に見舞われるという事はウマ娘に限らずスポーツ選手にはよくあることだ。そして、テイオーはトニオの言うようにもう『3度』骨折している。そのたび不死鳥が如く復活してきたが……もう次はないということはテイオー自身が否定できないほどよくわかっていた。
「正直、マックイーンさんとテイオーさん……二人をはじめて見た時からどのようにしたものか、かなり私でも悩むところではありました。しかし、ヒョウガラ列岩の質のいい『イセエビ』を手に入れたとなれば状況が変わってくる。イセエビは日本ではハレの日の料理……縁起物とされているのはご存じデスね? ある時は神に捧げられ、ある時は勝利、長寿を祝うイセエビはいわば『神聖』な食べ物なのでス。それそのものに『パワー』がありマス」
マックイーンのためを思った行動は、図らずしもテイオー自身をも救う行動となっていたのだ。他人を思う心は、自分にも帰ってくる。因果は巡り巡って自分に帰る。なんとも古風な考え方だが……古来より神に捧げられる神聖な食材をめぐる冒険の結果としてはなんとも似合いのようにも思えた。
「さ、冷めないうちに料理をドーゾ。ビスクスープは、エビの殻まですり潰したクリームベースソースを使う、いわば食材のすべてを最も無駄なく摂取できる調理法の一つでス」
「じゃあ……いただこうか、マックイーン」
「ええ、テイオー」
二人は手を合わせてから、そのスープをゆっくりと喉に通した。
それから3か月後。東京都府中市日本トレセン学園。そのターフの上に、二人の姿があった。
「さって、病み上がりだからって容赦はしないよマックイーン。今日はボクが勝つ」
「そんな冗談をいつまで言っていられるかしら。以前より短い3000mと言っても、完全に私の距離ですから。あとで半べそ掻いても知りませんわよ」
ふふ、と両者笑みを浮かべながらもまるでG1レース前めいた闘気をバチバチとぶつけ合う。マックイーンはあれから、ご多分に漏れずテイオー、それにトニオの料理やメジロ家全員による万全のサポートもあったが全員が驚愕するほどの速度で左足を完治させ、レースと言う勝負の世界に戻ってきたのだ。だが、トレセン学園は春休み中であり、今日はちょうど練習を行っているものすら皆無であった。
「んじゃ、ボクがコインを投げて……それが地面に落ちたらスタートね」
「いつでもいいですわ。今ならまるで天まで駆けていけそうな心持ちですもの」
「ならボクは地の果てまで走っていくよ! よーい……ドン!」
桜舞う春のトレセン学園。3000m。二人だけのマッチレース。
きみとゆめを、かけるよ。
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#029『鏡屋敷』
「さて、鋼田一さん……今回の取材はこんなところで終了とさせていただくよ。取材料の振り込みは予定通り編集部の方から追って連絡があると思う」
「いやあ、助かるねぇ……最近はスマホ一つあれば銀行決済できるしなんでも取り寄せられるから、自給自足の鉄塔生活もラクになったよ」
岸辺露伴の地元、S市杜王町には『廃鉄塔に住み着く男』というのがおり、時折テレビの取材を受けるなどして一種の観光名所として扱われている(最近はどうやってかスマホまで手に入れたようだ)。当然、露伴は既にその男――鋼田一豊大にはインタビューもしているし、記憶だって読んだのだが今回、杜王町の広報部から地元の有名人であり漫画家である露伴に『町のPR漫画を作ってほしい』という依頼が来たことで露伴は杜王町の名所や旧跡を改めて訪ね、なにかしらのインスピレーションを得ようとしていたのだが。
まず……『トラサルディー』……これはわざわざ日本で店を出している点が気に入らないが、いい店だ。露伴自身も気に入っており、あまり知られたくないし、そもそも町ではなく『トラサルディー』そのもののPRになってしまいそうなのでこれは没にした。『アンジェロ岩』……ただの待ち合わせスポットで没。『ボヨヨン岬』。最近では恋人岬だとか言われており、カフェ・ドゥ・マゴのチョコレートパフェを食べた後にここに来るのが金のない学生カップルには人気らしい……最初の由来が自殺者を跳ね返したというのは多少おどろおどろしさがあるが、ガキくさい手垢がついてしまったのはマイナスだ。ネタとしてはストック。『ジョースター地蔵』。地味すぎる。没。
そして今回の『鉄塔に住む男』も正直没だ。先述の通り既に何度かTVにも取り上げられており、知名度はいくらかあるが結局は変わった個人の『家』であり町のPR漫画にはそぐわないだろう。ハーネスまでつけて地上20mまでわざわざ上ってきたというのに、と露伴は内心悪態をついた。
「……あの~、これつまらないものですが。お菓子とかお好きだと聞いて作ってきたのでよかったら」
と、今回の取材に助手として付いてきていたアグネスデジタルが可愛らしくラッピングされた包みを取り出し、僭越ながら……とへりくだりながら鋼田一にそれを手渡す。
今回、マンハッタンカフェとアグネスタキオンは付いてきていない……というより、サマードリームトロフィーに出る関係上、さすがに府中を離れるわけにもいかず、広瀬康一――露伴が親友と言ってはばからない彼も、なんでも山岸由花子と一緒にサマーキャンプに行っているらしくこれまたハズレ。代わりにと言っては何だが夏季合宿で杜王町にやってきていたデジタルが露伴を手伝ってくれているのだ。彼女はウマ娘としては第一線のG1ウマ娘であり、それでいて熱烈な露伴ファンだ。彼女自身も同人誌などを執筆することから漫画文化にも造詣が深く、『波長』が合うかもしれないが下手に本にして読むとあとでタキオン君がぶーぶーと文句を言うので、気づかれないようにしなければならない。などと露伴が考えているうちに、鋼田一はそれを受け取ってあっという間に、袋からチョコクッキーを取り出し食べていた。
「あぁ~、女の子からさァ……『お菓子』プレゼントしてもらった事なんて初めてだよ……俺……くぅー……生きててよかったァ……」
「あはは……そこまで嬉しがられるとそのう……こっちまで恥ずかしいというか……」
ぼりぼりと涙を流しながらデジタルのクッキーを食べる鋼田一。デジタルはその喜びように少々困ったように、頬を掻いていた。
「そういえば露伴さん……漫画のネタになるかどーかはわかんないけどさ……最近この鉄塔から変なモンが見えるんだよね。クッキーのお礼に教えとくけど」
「変な物?」
「高い所から町を見渡してるとよォー……移り変わりってのがよくわかるんだが……2,3カ月前にさ……いきなり『屋敷』ができたんだよ。ほら、あそこ……見えるかな」
鋼田一はそう言って、町の西側に広がる丘陵地帯を指さした。たしかに畑などの中にぽつんと古めかしい『屋敷』がある、が……
「新築にしては古そうなお屋敷ですね……いかにも何か『出そう』な」
「あれが何か?」
正直、露伴は興味も湧かなかった。変な物というと、もっと……例えば岡本太郎やガウディ作の作品のような奇抜な物を想像したのだがあまりにも光景が普通過ぎたからだ。デジタル君の言うように、2,3カ月前にできたにしては古く見えるが、最近では古民家風とか言って敢えてああいう風に建てたりもするだろう。
「『鏡屋敷』って言ってな……ぶどうが丘高校のガクセーの間なんかで今話題のスポットらしいぜ。外から見た限りは普通の『空き家』だが、近くに行って窓から中を覗き込むとよ……大量の『鏡』があるらしいんだ。で、面白半分に中に入ったやつもいるらしいが、戻ってこないらしい」
「……ありがちな『いわくつきの屋敷』の『怪談』だな……だが、僕が頼まれてるのはこの町の『PR漫画』だぜ……さすがに『空き家』なんかを取り上げちゃ先方に怒られてしまうかもしれない……わざわざ教えてくれて申し訳ないが没だな」
「ふーん、そっか。まぁ……それもそうだな。クッキー、おいしかったよ。デジタルさん、秋の天皇賞出るんだって? 応援してるからね」
「あ、ありがとうございます! ……うわあ!」
……基本的には人がニガテらしいデジタルが、取材に来ているという緊張もあり勢いよく頭を下げた拍子におっこち、ハーネスで宙ぶらりんになるなどしたが、今日の所はこれでおおよその取材は終了した……
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #029 『鏡屋敷』 ◆◆◆
「で、露伴先生……『鏡屋敷』は没だったはずでは?」
「ああ……町の『PR漫画』としてはね……だが、『ピンクダークの少年のネタ』としては悪くない……実際、昨日杜王グランドホテルの部屋に戻ってから不動産屋に連絡して色々聞いてみた。ここは元々耕作放棄地で、こんな『屋敷』が建ってるなんてのは、不動産屋も寝耳に水で、現在行政と対応を協議中らしい。だからこれは法律上、『不法建築物』って扱いになるな……だからおそらくは取り壊しになるんじゃあないかと言う事だが」
二人の目の前には、古風な……といっても純日本建築ではなく大正初期に流行ったようなやや洋風を取り入れた館がどうどうと建っていた。表札などはなく、庭などもかなり荒れているように見える。確かに人の手は入っていないらしい。
「勝手に立ち入ると僕たちも不法侵入になるからな、とりあえず、取材と言う事でこの土地のもともとの権利者には話を通してもらった。別に土地に立ち入ること自体は問題ないが、屋敷内の出来事に関しては何が起こっても責任は持てないそうだ。まぁそうだろうな」
そう言って露伴はさっそく、ペンとメモ帳を取り出し外観をスケッチしていく。
(ろ、露伴先生のスケッチ! す、すご~……アタリも下書きもなしですごい勢いで描いてるのにあのクオリティ!? 神!? 私の目の前で『神の御業』がなされてる!?)
趣味で同人誌を執筆するデジタルからすれば、すさまじいまでの超絶技巧を目の前で見せつけられる形であり畏敬……崇拝……しかなく……あやうくここに神殿を立てよう、などと口の端から言霊が漏れ出るところであった。
「デジタル君? そろそろ敷地内を見て回るぞ。デジタル君?」
「ぁ……あ、はい! 敷金礼金ですか!?」
思わず見とれていたデジタルは素っ頓狂な言葉を返し、何を言っているんだ? と言う風の露伴。妙な沈黙が流れたが、露伴はこほん、と咳ばらいをすると門を開けて敷地内へと入って行く。さびついた門は、まるで侵入者を拒むかのように軋んだ。
「とりあえず、まずは玄関からだな……外観はそこそこいい資料になりそうではあるが、中に入ってみない事にはどうにもならない」
「あ、では私が……」
本当なら、門も自分が開けるつもりだったのだが、あきれられているうちに露伴が入って行ってしまったので今度こそはとデジタルは気合を入れ、ドアノブをひねる……
――ばきん。
「あ!」
ドアノブ自体が既に痛んでいたのか、金具が取れてしまった。やれやれ、と言う風な露伴。今日のデジタルはどうにもついていないというか……とにかく、鍵はかかっていないようなのでドアを押して中に入った。
「うひゃあ……さっそく鏡だらけですよ……な、なんなんでしょうかね?」
「聞いていた通りだが、ここまで大量に鏡があると偏執的で気味が悪いな……」
『鏡屋敷』の名前通り、玄関は広い吹き抜けホール状になっており、大小様々な形状の鏡が露伴とデジタルを出迎えた。壁や天井にもところどころ鏡が貼り付けられ、どれも曇り止め加工でもされているのか、あるいは何者かがこれだけは手入れをしているのか埃などで曇っている鏡は見受けられない。が、どれもバラバラの方を向いていて統一性などがなく、『奇妙』な非人間性を感じられた。二階への大きな階段の一段一段にまで、小さな鏡が置いてある始末だ。
「さて、お邪魔させてもらおう……この埃のつもり具合……これも情報通り『空き家』だ。何があるかわからないし、土足のまま上がらせてもらおう。どうせ取り壊すみたいだしな……」
「あ、ハイ……」
律儀に靴を脱ぎかけていたデジタルは、ずかずかと踏み込んでいく露伴に倣って急いで靴を履き、中に入る。歩くたび、ぎいぎいと音を立てる廊下はやはり新築ではなく、かなり古いもののように思えたし蜘蛛の巣が張っている箇所や外から入ってきた蔦などに侵食されている場所すらあった。そのいずれにも鏡がやたらめったらに置いてあるのは変わらなかったが。
「おかしい……」
「確かにそうですね。人の手が入っていないとはいえ、三カ月そこそこで新築がこんなに埃が積もったり、荒れたりするものでしょうか? そもそもどうやって建てたのでしょう、他の場所から運んでくるにしても、こんなそこそこ大きな建物……」
「いや……そうじゃない、何かがおかしいんだ……と言っても、感覚的な物で、僕としたことがうまく言い表せないんだが。重苦しい。息苦しさを感じないか?」
「え……うーん……?」
正直、デジタルは露伴の言う『重苦しさ』や『息苦しさ』という物を感じていなかった。たしかに無秩序に置かれた大量の鏡や打ち沈んだ静寂には不気味さを感じるが……それよりも、寧ろ今は冒険めいた取材中の高揚感の方が強く感じられていた。
「いえ……私は特に……あ、あぁ~そうだ。露伴先生は私なんかよりも圧倒的に繊細なので! もしかしたらそういうのが感じられるのかもしれません」
「……そうだといいが」
その時は、露伴とデジタルはそんなやり取りをしつつ奥へと進んだのだが。露伴は取材を続けるにつれてじっとりと汗をかき始め、次第次第に『咳』をし出した。デジタルは屋敷の一階奥を探索しているさなか、露伴を気遣い切り出す。
「露伴先生、体調が悪そうです。一度出直しませんか? 息苦しいって言ってたの、体調が悪いせいかも。あるいはハウスダストとか……私もだんだん気分が悪くなってきた、ような……」
「ああ……ゴホッ……その方がよさそうだな」
さすがの露伴も体調が悪ければよい仕事はできなかろう、と素直に引き返そうとした。が。
「……オイオイオイオイ……クソ、どういうことだ? なんなんだ『これ』は」
「ひっ……」
玄関ホールまで戻ってきたところで、露伴とデジタルは立ち止まり、恐怖した。ホール中に無作為な方向を向いておかれていたはずの鏡が、いつのまにかまるでオペラホールに集った観客が騒ぐ客に向けて視線を向けたかのように……すべて露伴らの方向に向けられていたからだ。
「ゴホッ……ゴボッ……」
と、露伴がその場に手を突いて激しくせき込み……微かに血を吐いた。
「ハァーッ……ハァーッ……な、なにか『ヤバイ』……この場所、いや『鏡』か?」
「露伴先生、あれッ!!!」
露伴を助け起こそうとしたデジタルが、何かに気づき近くの小さな鏡を指さす。そこに映っていたものは……ほとんど骨と皮めいてやせ細った『男』……いや、あれは『露伴』だ。『露伴』の服を着ているッ! そして、デジタルの姿もすこしげっそりとして顔が青ざめているように見える……
「ま、さか……なにかしらの『スタンド』……なのか? しまった……気づかなかったが『攻撃』を受けているッ……!」
「ッ!?」
デジタルは露伴の言うスタンド、というのは分からなかったが『攻撃』を受けているというのは理解できた。まるで漫画に出てくるような超常的ななにか……悪霊とかそんなものかッ!? 今思えば、空き家に赴いてその家にとりついている霊に攻撃されるとかはホラー映画の鉄板! 先日取材をした鋼田一という人物も行方不明者が出たという事を言っていた。もしそれが『真』ならば……!
「とっ、とにかく……ここを出なければッ! 露伴先生、歩けますかッ!?」
「ぐ……」
たとえ露伴が歩けなくとも、ウマ娘の怪力があれば背負っていける。最悪、窓をぶち破って外に飛び出してもいいッ! そう思ったその時だった。ぎち、という音と共に乾いた床材が剥がれ……宙にひとりでに浮く。ポルターガイストと言う奴なのか? デジタルはその光景に絶句したが……
「う、うあああああああ!!!」
次の瞬間、宙に浮かんだそれが高速で露伴とデジタルに突っ込んでくる。乱雑にはがされ鋭くとがった断面が突き刺さればただでは済まない! 実際デジタルは、とっさに自分のカバンで床材を防御したが、カバンに突き刺さったそれは、容易にプラスチック合成革を貫通し、中のオタ活用のペンライトや気合を入れてライブに行く際のコスメ類、スマートフォンやペンタブなどまでをも破壊するほどの威力!
ガタガタガタガタッ!!!バリンッ!!!
さらには、棚に置かれていた高価そうな陶器が砕け、破片がふわふわと震えながら空中に浮かび上がる。戸棚の中からも何かが出ようとしているのかがしゃんがしゃんと音が響いているッ!
「ハァーッ……ハァーッ……ほ、本当にや、『ヤバイ』ッ! 露伴先生、シツレイしますッ!」
デジタルは、露伴を担ぎ上げるととっさに廊下を奥へと走った! だが、体が重いッ! 露伴の体重のせいではないッ! これはッ!
「もしかして私にもなんらかの『不調』がではじめてるんですかァーッ!?」
人間以上の体力があるウマ娘の事。どうやら自覚するのが遅かったようだが、デジタルも露伴のように『不調』による攻撃を受けていたらしい。だが、後ろからは無数の陶器の破片がまるで弾丸のように飛び来る! 止まれば、文字通りハチの巣ッ!
「うおおおおおああああッ!!!」
露伴を担ぎデジタルは必死になって逃げる。しかし……どこへ逃げるッ!? 恐らく、だがもろもろの映画などではだいたい『屋敷』から脱出しなければ『攻撃』は止まらない。この調子であればデジタルも走れなくなる可能性もあるし、そも廊下はそこまで長くない。適当な窓から飛び出すしかないッ! ないのだがッ!
「ま、窓に『鉄格子』が嵌ってるゥ~~~~ッ!? さ、さすがにこれじゃあ!!!」
ウマ娘の怪力でも、鉄格子を無理やりひん曲げるのは時間がかかるだろう。足を止めれば、その間にポルターガイストに追いつかれて終わりだ。甘く見ていたッ! とにかく、今は背後から来る破片から逃れることを考えなければ……そう思ったデジタルは、扉の開いていた適当な部屋に飛び込むと扉を閉めて鍵を閉める。ガガガガッ! とまるでマシンガンのような音共に、扉に破片が刺さる音が聞こえた。
「ハァ、ハァ、ハァ……!」
だが、この部屋にも無数の鏡がありそれらはデジタルと露伴の方を向いている!
ガタガタガタガタ……どうやらここは『食堂』のようで、戸棚に銀のフォークやナイフなどが置かれている。しまった。ここには破片だとかよりも鋭利な物が大量にある……館の『悪霊』に……誘い込まれたッ! といっても、未だドアの外では何かが動く音がしている。ここで踵を返しても、恐らくそれにやられるッ! もはや選択肢はない。覚悟を決めるしか……ないッ!
「……スゥーッ、フゥーッ……スゥーッ、フゥーッ……うりゃあーッ!!!」
デジタルはほんの少しだけ息を整えると、おもむろに床を思いきり踏み抜いて破壊した! すでに古く、脆い床材はウマ娘の全開の脚力を当然受けきれず粉砕、抜けるように下の部屋へと落ちていくデジタルと露伴。床の軋み具合から『地下室』か『空間』があると勘づいたデジタルは床をぶち壊しぬいてとりあえず、当座の危機を乗り切ったのだ!
「わぷっ……だ、大丈夫ですか露伴先生……って暗ッ! なんですかここ!」
どうやら二人が落ちた部屋は、倉庫のようで電気がついていないせいか、暗く、ここには鏡がなかった。大きなワイン樽めいたものもいくつか置かれており、棚には古いワインのボトルが置かれている。ワインセラーというやつだろうか?
しかしグズグズしてはいられない、すぐさまワインボトルやらが再び攻撃してくるに違いない……違いない……いや、攻撃が、来ない? デジタルは意識が既にない露伴を担いでとりあえず壁際まで移動する。背後から攻撃されない分安全……なような気がしたからだ。だが、すぐさま上の破砕した部分からナイフがふわふわと何本か入り込んでくる。
(も、もう逃げ場がないッ……ど、どうする、デジたん……考えろッ、こういう時、私が漫画の主人公ならどうするかッ!)
そこで問題だ!この状況でどうやってあのナイフの追撃をかわすか?
3択――ひとつだけ選びなさい
答え① デジたんは突如反撃のアイデアがひらめく
答え② 仲間がきて助けてくれる
答え③ かわせない。現実は非情である。
「ハァーッ……ハァーッ……!」
デジタルは、ひたすら頭を回転させた。が……現実は非情である。追い詰められた状況でそう都合よく反撃のアイデアなど思いつかないッ! ゆらゆらとまるで蝶めいて、ナイフが揺れながらデジタルに迫ってくる……!
(や、やられる……ッ!)
答え――③ 答え③ 答え③
露伴をかばいながら、思わず目を閉じるデジタル。しかし。
(あれ……?)
ナイフはデジタルを素通りした。そのまま部屋中を『捜索するように』ふわふわと漂い時折壁やぶつかった物を攻撃したりしながらも、しばらくすると興味を失ったようにからん、と床に落ちて。
「もしかして……」
デジタルは、周囲を見回し落ちていたコルクをナイフにぶつけてみる。するとどうだ。ナイフは弾かれたように再び宙に浮きあがり、そのコルクを攻撃した。
「見えてない……んだ。ここには『鏡がない』から……ッ!」
ワインセラーは基本的に冷暗所が基本……故に恐らくここは本来、暗くてそもそも『何も鏡に映らない』ので鏡が置かれていないのだろう。やつらは『鏡』を眼の代わりにして攻撃してくるッ!
「……もう一度、考えろ……デジたん……デジたんはやればできる、やればできる子……! 中世の哲学者も『勇気を持ち、自身の知性を役立てろ』と言っている……ッ!」
デジタルは、そういって再び思考を巡らせる。露伴を護り、この屋敷から脱出するにはどうすればいいのか? 恐らく時間はそこまでない。ポルターガイストが小さな鏡を持ってくればこのつかの間の安全地帯もあっさり終わりを迎えるからだ。とにかく敵の弱点は鏡だ。なら、片っ端から鏡を割って脱出するか? いや、露伴をかばいながらろくに武術の経験もない自分が勇者のように無双するなどというのは流石に不可能だ。では、何か道具を使うか。いや、自分の手持ちはポケットに入っていたヘアピンぐらいのものだ。大半の荷物を入れていたカバンは、最初の攻撃で破壊された際に捨ててしまった。アニメや漫画の主人公ならあのカバンの持ち物さえあれば、なにかすさまじい判断力で武器を作り、脱出できるのかもしれないが、それも……
「あ……」
と、その時デジタルはあるものを思いつく。自分のカバンに入っていた、あるもの。
「整いました」
デジタルはスゥーッ、フゥーッと息をして、決意で心を満たした。
「…………やあやあやあ、我こそは勇者アグネスデジタルーッ!!!」
露伴を背負いながら、アグネスデジタルは通常の階段を上がり、再びキルゾーンめいて刃物が大量にある『食堂』に姿を現し、大声で叫んだ。あれから15分ほど。結局、ポルターガイストは手鏡などを浮遊させて中を覗こうという事はしなかった。デジタル、そしてとくに露伴は体力の消耗が酷い。おそらく、じわじわと『吸い殺す』つもりで放置していたのだろう。
そして、こうしていぶりだされるように地下から出てくれば一思いに殺してしまえばよい……そうとでも考えていたのか、大量の銀食器が棚などから床にぶちまけられておりナイフやフォーク、包丁などがふわり、ふわりと空中に浮遊する。
「攻撃してくる前に、ひとつ、いいですか……?」
デジタルは、答えが返る保証などないことは承知で、言い放つ。
「あなたたちは、いったい何者なんでしょうか? 普通の幽霊とはちょっと違う気がしますし、露伴先生の言う『スタンド』というものなんですか?」
当然、ポルターガイストは答えない。一定の思考は存在するようだが、言語機能は存在しないのか。その時だった。ナイフの一つが壁をがりがりと削り、一つの英単語を刻む。
「
「……わかりました。とりあえず、話は通じないという事が」
デジタルは目を閉じ、再び息を大きく吸い込む。そのデジタルにもはや言う事はないという風に、ナイフが殺到した。
――ガラン、ガラン、ガラン、ガラン。
コンマ一秒後。あやまたずデジタルの身体を貫くはずであったナイフはすべてひしゃげて地に落ちる。
「そっちがその気なら、私も罪悪感はありません……それに、私が無策で姿を現すと思いましたか。もう、半分『勝っている』から姿を現したんですよ。私は」
「やれやれ、この杜王町にはまだ邪悪なスタンド使いが……いや、スタンドそのものが潜んでいたか」
デジタルの真横には、いつのまにやら白いコートを着た190㎝はある大柄な白いコートの男が立っていた。
「その通りっスね~、『承太郎』さん。兄貴の弓と矢は回収したと思ってたんだがよォ~~~ッ」
「こういう状況だけどよォ~~~……ちょーっとだけ気分いいぜ。あの『露伴』に明確に貸しつくれるからなぁ~~~」
そして、服に奇抜な$や\マークを付けた如何にも不良と言う風なこれまたガタイのいい男と、時代遅れのリーゼントヘアをした古風な不良少年と言う風のやっぱりガタイのいい男が、いつのまにか音もなく完全破壊された壁をよっこいしょと潜って室内に入ってくるところだった。この二人はたぶんではあるが、ぶどうが丘高校の制服だ。デジタルもランニングの際に見かけたことがある。
「アグネスデジタル君といったな……鋼田一から連絡を受けてきた……空条承太郎という、災難だったな……今回は」
「東方仗助っス……へぇ~、最近じゃウマ娘さんってよく見かけるけど、こんだけ近くで見たのは初めてだな……」
「虹村億泰。アグネスデジタルさんですよねェ~ッ、こんな状況で何なんですけど後でサインもらっていいスか?」
「バカ! 億泰マジでそういう状況じゃあねーだろ!」
「いやでもよォ~~~、アグネスデジタルつったら『オールラウンダー』のユーメージンじゃねえかよ。サイン欲しいもんね俺-っ」
そう、デジタルは露伴の持っていたスマートフォンで『助け』を呼んでいた。取材用に事前に番号を貰っていた『鋼田一豊大』に電話をかけ……そこから、さらに外部に助けを求めたというわけだ。鋼田一の言う所では助けに来る『東方仗助』、『虹村億泰』そして『空条承太郎』は『こういうもの』に対処するスペシャリストらしく、その到着を待っていたのだ。
「へ、へへへ……露伴先生、とりあえず、これで、助かったんですよね……」
最初にデジタルが大声で叫んだのも、屋敷の外にいる三人に自分の位置を知らせるためであり……実際、何をしたのか分からなかったが……超スピードだとか催眠術だとかそんなものでは断じてない何かで空条承太郎なる人物は自分を護った。
答え――② 答え② 答え②
味方が来たという安心感と、さすがに、ウマ娘とは言え体力の限界を迎えたデジタルはその場に膝をつく。
「おおっと」
億泰の前の空間がガオン、と削れ気絶したデジタルと露伴が屋敷の外まで一瞬にして『瞬間移動』する。億泰は両手で二人を受け止め、地面に寝かせるとボキボキと拳を鳴らしながら、入れ替わるようにして屋敷内に入り。
「んじゃ、仗助、承太郎さん始めますかぁ……解体作業ってやつをよ」
「承太郎さん、別に後で『治す』必要ねーんですよね。ならひさびさに思いっきりブチかましますが……」
「あぁ、構わん……存分に叩き壊してやれ」
こうして、『鏡屋敷』は一夜のうちに姿を消したことはもはや書くまでもない。
「……というわけで、露伴大先生のおごりで焼き肉に来てるわけなんですよね~、俺らは……くっくっくっ」
「いやぁ~、G1ウマ娘のアグネスデジタルさんとお食事ご一緒できるなんて光栄だぜェ~~~」
「い、いやあ~……露伴先生には悪いことしちゃいましたかね、なんか」
それから数日後、仗助と億泰、そしてデジタルは露伴のおごり(露伴は仗助と顔も合わせたくないらしく、金だけ出して来なかった)でS市内の高級焼肉に訪れていた。承太郎があれからSPW財団の資料を調べたところ、露伴とデジタルが入り込んだ『鏡屋敷』は18世紀末から時折目撃される『独り歩きするスタンド』であるらしく、分かるだけで21名の人間を殺害している。知らずに入り込み、そして生還したのは露伴とデジタルが初めてのケースであり、今回はそのおかげもあって『鏡屋敷』を潰すことに成功したのだ。
「いいんスよ、露伴のやろ……先生は方々に取材しては痛い目に遭ってるみたいっスからね、これでいい薬になるってやつでしょ」
ま、無事なのはよかった、と言いつつ肉を口に一気に2枚放り込む仗助と、うんうん、ピンクダークの少年おもしれーからな、と頷く億泰。こうして、事件は終わった。なお、今回はデジタルを危ない目に巻き込んだ露伴が後にタキオンから大目玉を喰らったのは言うまでもなく、今回は露伴にとっては終始いいことなしの案件であった。
←To Be Continued?
スタンド名:ハウス・オブ・ミラーズ(鏡屋敷)
本体:なし
破壊力:なし スピード:なし 射程距離:家の中全般
持続力:A 精密動作性:D 成長性:C
家そのものが独り歩きするスタンド。家の中に入った者から生命力をじわじわと吸い取り、脱出しようとすると家具や調度品を動かしてポルターガイスト現象の様に攻撃する。無数に存在する『鏡』を眼のように使って獲物を追い詰める。
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トレセン学園編
#003『そして天国の扉は開かれる』
その日のトレセン学園のざわつきようは、実質アグネスタキオンとマンハッタンカフェの共同スペースが如く使われている某理科室まで届いていた。
「まったく、なんだい今日の騒ぎは……これじゃあ気が散ってしょうがないじゃあないか……おちおち薬品調合もできやしない」
ため息をつきながら気分転換に紅茶を入れようと、ゴーグルとマスク、手袋を外し、手洗いまでしたところで一番のお気に入りのサバラガムワの茶葉を切らせていることに気づいたタキオンのいら立ちをさらに強くする。
「はぁ……まったく踏んだり蹴ったりだよ」
「なんでも……今日はトレセン学園に取材が来てるそうですよ」
そんな様子を見ながら、ソファでコーヒーをちびちびと飲みながらユキノビジンお手製のクッキーを齧っていたマンハッタンカフェがタキオンのぼやきに答える。
「取材ィ~~~? いまさら取材どころでこの騒ぎって……どこのメディアが来てるんだい? 日刊トゥインクルなんかはしょっちゅう取材に来てるし、いまさらそんなののひとつやふたつで騒ぐどころじゃあないだろうに……」
「いや、それがですね。来てるのはメディアじゃないんです。漫画家ですよ。それも……超大物です」
「漫画家ァ!? なんだいそりゃあ……」
普段漫画をあまり読まないタキオンは、ええー、という風に露骨に顔をしかめたが一方のカフェはというと、いつもとちがってどこかぽわぽわとしながらその漫画家の名前を言った。
「『岸辺露伴』先生が来てるんですよ」
カフェのパーソナルスペースには、『ピンクダークの少年』の真新しいサイン色紙が飾られていた。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #003 『そして天国の扉は開かれる』 ◆◆◆
「あれが『岸辺露伴』か……フン、なんとも鼻もちならなさそうな男じゃあないか。わたしはああいうタイプの人種は好かない。大っぴらに口に出さないが『苦手』ってヤツさ。そういう経験、君にもあるだろう? カフェ」
「おもいっきり大っぴらに言ってますよ……」
トレセン学園のお昼時。カフェテリアの一角に人だかりができていた。当然、その中心にいるのは例の漫画家。ファンサービスのためにサインを描いている最中のようで、女子生徒だけでなく中には学園教職員やトレーナー陣の姿まで見受けられるところを見ると人気は本物らしい。が、あまりに騒がしすぎる。
トレーナー手製の弁当を口に運びながらその光景を見ていたタキオンはカフェに愚痴った。
「それに、露伴先生はそんな人じゃないと思います。一見ぶっきらぼうに見えてもファンサービスはちゃんとすると好評ですし、連載開始から怪我以外で一度も原稿を落としたことがないんですよ。自宅が火事になっても、漫画を描き上げて連載を継続した逸話は有名です」
「随分と『岸辺露伴』の肩を持つんだなカフェは。まぁ……君が彼のファンなのは以前聞き及んだが、絶対性格悪いと思うよ、彼は。わかる」
とはいえ、実験の邪魔をされて少々意固地になっていることを自覚していたタキオンはまぁ、この喧噪も一日経てば終わりになるだろう……とみていたのだが。
「「「露伴せんせ~い!!!応援してま~~~す!!!」」」
トラックをランニング中のウマ娘たちが、ちょうど観客席でスケッチをしていた露伴に声をかけ、露伴も軽く手をあげてそれに応えてやる。
「「「きゃーーーーっ!!!」」」
まさしく、黄色い声をあげながらきゃっきゃと走り去っていくウマ娘たち……
もう、露伴がトレセン学園に『取材』に来てから『一週間』が経った。岸辺露伴は『リアリティ』にこだわる漫画家であり、必要とあらばいくらでも調査にカネと時間をかけることで有名だ。ある時は、漫画執筆のために山をいくつも購入し『破産』したことがあるほどなのはこれまた有名な話で、彼を知る人物は、彼は『カネや名声、人気のためではなくただ読んでもらうため』に漫画を描いていると話すそうだ。
「……ふぅン」
今日、マンハッタンカフェはどこぞに行っておりその間にタキオンは彼女のパーソナルスペースに入り込んでいた。いつもはカフェが座っているソファに寝っ転がり、読んでいるのは『ピンクダークの少年』だ。ちなみにこれはちゃんとカフェに漫画を読む以外のあらゆる行動をしないという条件のもと許可を取っている。
「……なるほど、いかにもカフェが好きそうな漫画だな……少しグロテスクだが描写やキャラクター造形にはこだわりが感じられる……」
ふむ、ふむ、と読みふけるうちどんどん時間が過ぎていく。
気づけば単行本30巻程度の分量を一気に読破してしまった。それでもまだ数十巻、続きが控えているのが長期連載作品の恐ろしい所で少し疲れてきたタキオンは、んんーっと猫めいて伸びをすると本を戻して立ち上がり、おもむろに奇妙なポーズを取った。
「ゴゴゴゴゴゴゴ……シュバアアアア……ズアッ……ギュバァァァァァ……」
さらに漫画の擬音めいたことを口走りながら、次々とそのポーズを変えていく。それらは『ピンクダークの少年』の劇中に登場したすさまじい筆致で描かれた迫力あるポーズであり、ファンの間ではこれを真似して遊んだりするらしく、ご多分に漏れずタキオンも真似したくなったのだ。
――ガララッ
その時だった。理科室の扉があき、急にマンハッタンカフェが入ってくる
「ドシュゴオオオオ――あ!」
失態である。完全にみられた。さすがのタキオンも自分の体温が上昇し、顔が赤く染まるのを感じる。
「あ~、えーとだな、これはだねカフェ……新しい実験なんだ! そう! 実験だ! ええとその光学における群速度の……いや、超ひも理論の……そのなんかアレだ……!」
言い訳にならぬ言い訳を吐きながら、あー!あー!と繰り返すタキオン。しかし、カフェは……いつもながら朧げな雰囲気のある彼女であったが、今日は幽鬼がごとく、ゆらめくようにふらつきながらさっきまでタキオンが漫画を読んでいたソファに座る。
「カフェ……?」
「あ? タキオン……さん? 居たんですね……あれ……? 私は……」
マンハッタンカフェはどうにも様子がおかしかった。ほとんど睡眠から目覚めた直後のような風で、少し寝ぼけているような感さえある。タキオンは先ほどの行為が見られていない事にほっとしたが、違和感を覚えた。
「どうしたんだいカフェ。コーヒーをあれだけ飲んでいるのに、いや、むしろコーヒーの飲みすぎで不眠気味なのか?」
「いえ、そういうわけでは……それよりタキオンさん、本棚に本を戻すのはいいんですが、巻数をちゃんと順番にそろえてください。五十点です。」
……採点されてしまった。さきほどの様子は気にかかるが、カフェはいつもの調子に戻ったようで本の順番を直したり、日課の足の爪の手入れをしたり、指先で鏡に奇妙な紋様を描いたりしだした……杞憂、だったのだろうか。実際、自分も三徹ほどしたときは彼女のような状態になることもある……
タキオンは一時はそう考えたのだが……
それからカフェは、タキオンに断りも入れずどこかにふらふらと抜け出すことが多くなった。最初こそ、タキオンは彼女にも彼女の事情があるのだろう、と放っておいたが、先のあの妙な態度もあいまってタキオンの中に不安めいたなにかが積もっていく。
そして決定的だったのは、定期的にあるウマ娘の身体計測の時のことだ。
成長著しいウマ娘は週に1回。場合によっては数度身長や体重を測って提出することもある。しかし、このところマンハッタンカフェはそれを妙に渋っていた。彼女はバ体重が変動しやすい体質であり、増えすぎてしまって気にしすぎているのかとも考えていたが……
「……おや、故障か? おかしいぞこの体重は……」
カフェが学園の保健室で体重計に乗った時のこと、その量りが異様な数値を示した。バ体重が……あまりにも軽すぎるのだ。痩せている、とかいうレベルではない。本来であれば『生存』に支障をきたすほどのレベルまで。
「どうやら体重計がくるってしまったようだ……
こまったなァ、せっかく最新のを入れてもらったのにもう買い替えか……」
初老の保険医は、頭を掻きながら仕方ないから行っていいよ、とカフェにいい作業に戻る。しかし、タキオンは……着替え中の彼女を後ろから捕まえて持ち上げてみた。
「わ……タキオンさん……何を……?」
ウマ娘は人間以上のパワーを持つ種族。よって、少女のような見た目でも怪力を持つが……それにしてもタキオンの腕にかかる負荷は『軽すぎる』。本当にバ体重がほとんどないのではないかと思ってしまうくらいに。しかし、見た目にはがりがりに痩せているとかの不健康さは感じられない。普通なのだ。これは、一体……?
「カフェ……最近様子がおかしいとは思っていたが、どういうことなんだこれは」
「どういうことも……別段、私は私でかわりないですが……」
タキオンはカフェを問いただす。しかしカフェは、のらりくらりとその質問をかわし問題ない、とか別に普通だ、とかの答えを繰り返すばかり。それとも自覚症状自体がないのか……
「……君のプライベートに入り込むようですまない、カフェ」
ついにタキオンは行動を起こす。まず、カフェがふらふらとでかけている間にあの日――初めてカフェの様子がおかしかった日から、今までの位置情報ログを彼女の放置されていたスマートフォンから抜き出したのだ。おおよそ十五分ごとに媒体に記録されていたそれで、大まかに彼女の最近の行動パターンを知ることができる。
大抵は、この理科室に位置情報が記録されており、次に彼女の所属するチームの部室、トレーナー室……図書室……学園裏にある使われていない倉庫……なんだこれは。なぜ、彼女は頻繁にここを訪れている?
「きな臭くなってきたな……」
……そしてタキオンはその使われていない倉庫を実際に訪れた。埃臭く、もはや古くて使えそうにないトレーニング器具が静かに眠りにつくその場所には、たしかに最近何度も人が立ち入っている形跡があった。タキオンは倉庫の中が見渡せる位置にカメラを仕掛ける。最初から尾行してもよかったが、彼女は猟犬めいて感覚が鋭い。ならば、下手に後を追うよりカメラでの隠し撮りのほうが成功率が高かろう――そう考えたのだ。
「学園に隠れて猫を飼っているとか、そういうオチにしてくれよカフェ……」
タキオンは、去り際にそうつぶやく。しかしそれは最悪の形で裏切られることになった。
「『
画面の中の男――岸辺露伴がそうつぶやき、彼女に漫画の原稿と思われるものを見せると、マンハッタンカフェがぱたん、と倒れる。そして、まるではじけるように顔の皮膚が裂け――それは両開きのメモ帳か本のような形となった。
「おいおいおいおい……なんだこりゃ……あの岸辺露伴という男、カフェに何をしてる……! やめろッ……!!!」
録画したビデオを確認しながら、タキオンは驚愕した。一体何が起こっているのか、映像からは説明がつかない。なんだこれは。だが、この映像にはフェイクはない。自分でカメラを仕掛けたのだから、完全な『リアル』――
「さて、そろそろネをあげたらどうかな……マンハッタンカフェさん。いや、マンハッタンカフェさんの『おともだち』かな……彼女の記憶を僕に『読ませて』くれよ」
岸辺露伴は倒れたマンハッタンカフェの隣に腰を下ろすと、そのページ状になった顔をめくろうとする。さすがにカメラからでは何が描かれているかはわからないが、細かくびっしりと文字のようなもので埋め尽くされているのは解像度を上げて確認できた。
「マンハッタンカフェ。三月五日生まれ、身長は155cmで体重は増減なし……B73・W54・H78。靴のサイズ両方とも22cm……得意なことはコーヒーを淹れることで、苦手な物は快晴の日……そしてだ。きみには『おともだち』という何かが『憑』いているッ!」
どうやって知ったのか、マンハッタンカフェのプロフィールを余すところなく読み上げた露伴は、興奮した様子でページをめくろうとする。しかしその手は何か――恐らくカフェの『おともだち』に阻まれそれ以上進まない。
「なんで止めるんだい? 彼女には……彼女には『秘密』が隠されているッ! 『おともだち』くん……君の存在も不可思議だが、もっとも神秘的なのは彼女だッ! もしかすると『ウマ娘』というものの根幹に迫れるかもしれないッ! ハハハ! いいぞォ! 最高のネタだッ!」
タキオンはそれ以上、映像を見ていられずにモニターの電源を落とし、決意した。
「カフェ、私が助け出してやるからな……!」
……翌日。岸辺露伴は例の廃倉庫に急ぐ。例の少女――マンハッタンカフェには特定の時間に『裏倉庫』に来るよう『命令』を書き込んでおいた。
今日こそ、あの少女の中に潜む『神秘』を暴かなくては。この岸辺露伴の描く漫画の『リアリティ』――『ウマ娘』を真に魅力的に描くためには、その存在全てを理解する必要があるのだ。『リアリティ』は何物以上にも重要なのだから。
「……ごきげんよう」
だが、そこで露伴を待っていたのはマンハッタンカフェではない、別のウマ娘だった。
「君は……? と聞きたそうな顔をしているし、面倒だが名乗ってあげよう。アグネスタキオンだ。よろしく……とは君には言いたくないな」
廃倉庫の暗闇の中、ハイライトの灯っていない眼で明確な敵意を持ち露伴を睨みつけるタキオン。
「……で、そのアグネスタキオンさんがこの僕になんの用かな。ここは静かで落ち着いているからね。絶好の精神統一の場所だと思っていて、サインとかなら遠慮して――」
「カフェにヘブンズドアーとかいう『なにか』でちょっかいを出しているのは、君だろ。そういうごまかしは無しで、単刀直入に行こうじゃないか」
「………………」
露伴の顔から、最低限の外面が消えた。
「……なるほどね。『ヘブンズドアー』ッ!」
有無を言わさず先手必勝さ、とばかりに露伴は例の呪文めいたなにかを唱え、原稿を取り出す。だが、アグネスタキオンは咄嗟に目をつむり、それに耐えた。
「おや……僕の『
岸辺露伴の能力――『ヘブンズドアー』は相手を本にしてその情報を読むことができるスタンド。更には命令を書き込むことである程度自在に相手を操ることさえ可能である。だが、その発動には『自分と波長が合う人間である』ことなどいくつかの条件がある。
「まぁいい、それでは何も出来まい……
少女相手に無体な真似はしたくないが縮こまっているだけなら無理やりにでも目をあけて……」
「露伴先生のウマ娘漫画の特別原稿が見えるってほんとうでしゅか~~~~~~~ッ!!!!!!!!!!!!!? というかなんて言う神対応ッ!?公式様がいちファンに直々にこんなことしていいんですかァ~~~~~ッ!!!!!!!?」
「うおおおおおおおおゴルシ様だッ!俺が先に聞いたんだぜッ! アタシが主人公の露伴センセの秘蔵原稿を読むのはこの5・6・4様だァ~~~~ッ!!!!!」
「ゲッ!?」
その瞬間、すさまじい大声と共に飛び込んでくる影があった。それはアグネスデジタルと……ゴールドシップ。二人とも、事前にアグネスタキオンが、『仕込んでおいた』仕掛けだ。
ご多分に漏れず、アグネスデジタルは普段から定期的に原稿用紙数枚分の感想文を送りつけるほどの露伴ファンであり、今回はその熱意が認められウマ娘の眼から『ウマ娘漫画』をレビューしてほしいという依頼がデジタルに対し露伴直々に来た。という体のうそを吹き込んである。
ゴルシに至っては『自分が主人公の漫画』を露伴が描きたくおもっていると伝えるだけで、なんかしらんが、もう我慢できねえ!564祭りだッ!などと言いながらどこかにすっ飛んでいく始末だった。
「うおおおおああああ『ヘブンズドアー』ッ!!!」
露伴はとっさに、ヘブンズドアーを発動させようとする!しかし、完全に2人は興奮状態で『目の前が見えなく』なっており。
「わーいわーいそれェーっ!!!」
「ぐげええええええあああああッ!!!!!!」
ゴルシがテンションが上がった際に出るドロップキックと。
「露伴先生しゅきいいいいいい!!!!!!!!!」
「ぐええッ!!!」
デジタルの尊み☆ラストスパー(゚∀゚)ート!を受け、露伴はもみくちゃになった。
「これは……露伴先生!?」
と、そこにようやくやってきたのはマンハッタンカフェ。最初こそ、状況が呑み込めないようだったが、露伴の持っていたカバンから一人でにちぎりとられたページのようなものが飛び出し、カフェの顔にばし、と張り付く。
「か、カフェの『おともだち』……なんで露伴先生のかばんを……わ……!」
その貼りついた切れ端は、まるで吸収されるかのようにカフェの顔の中に消えていき……
「おもい……だしたッ……私は岸辺露伴先生に本にされて、それで……!」
「カフェッ……!」
ややうつろだったマンハッタンカフェの黄色い瞳に精気がもどった。といっても、ちょっとマシという程度ではあるが。タキオンは、そんなカフェの額に自分の額を重ね、破顔した。
「戻ったなッ……戻ってきたんだなッ……よかった……本当に……」
「タキオンさん……?」
「何、私の『相棒』にして『ライバル』……いや『おともだち』がいなくなってしまうのは困るというだけさ。ほんとうに、それだけで、それだけで――」
ごまかすようなセリフを吐くタキオンのその瞳の端には涙さえ浮かんで――
「い、いい
と、それを邪魔するかのように声がした。岸辺露伴の声が。彼はゴールドシップとアグネスデジタルにもみくちゃにされながらも、原稿用紙を地面に敷いて、タキオンとカフェの姿をスケッチしながらはしゃいでいた。
「ともに夢をカケル女子アスリート同士のかけがえのない友情、努力、勝利! これだよ僕がトレセン学園に求めていたものはッ!!! 時に挫折、時に苦杯を舐めながらも勝利に向かってどん欲に突き進んでいく執念! そうだッ! 次の漫画の構想がきまったぞッ!!!!!」
そう言ってはい寄ってきた露伴は、タキオンとカフェに縋りつき。
「君たちの活躍をモチーフにした漫画を描かせてくれッ!!! お願いだッ!!!」
「う、うわ、近寄るな! ひええ~ッ、カフェ、何とかしておくれよ~!!!!」
「え、ええ~……」
こうして『ピンクダークの少年』――『ウマ娘の秘密編』にはマンハッタンコーヒーとマクベスタキオンというキャラクターが登場することになり、ヒロインとして読者に人気を博すことになったのだった。
←To Be Continued?
スタンド名:ヘブンズドアー
本体:岸辺露伴
破壊力:D スピード:B 射程距離:B
持続力:B 精密動作性:C 成長性:A
自身と『波長が合う』者を『本』にしてその記憶を読む能力。
本にした対象に『命令を書き込む』事もできる。
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#004『叫び洞』
「だからねェ……いってるだろう? カリカリカリカリカリカリカリカリ気が散るんだよ!それにここはトレセン学園だ。ウマ娘のための学園だぞ。君は特別取材を許されているからと言ってッ! もうすこし我々に対して分別を持ちたまえよ!」
「まったく、うるさい女だなきみは……ハッキリ言う! 君とは波長が合わない! モデルになってくれたことは感謝しているが、この岸辺露伴の漫画のモデルに選ばれたからと言って増長するのはいただけないんじゃあないか?」
「なんだと~~~! そ・も・そ・も! この私はモデルになることを許可してないぞッ! なあカフェ~! カフェからもこの男に何とか言ってくれッ!」
「う、うーん……何でこんなことに……」
『あれ』から岸辺露伴は、長期密着取材と称して時折トレセン学園を訪れるようになり、どうやったのか秋川理事長の許可まで取り付けて、今では『VIP顔パス』で校門を通れるほどトレセン学園の名物と化していた。
……それどころかマンハッタンカフェとアグネスタキオンのスペースとして使われていた理科室に簡易の執筆用ブースまで設ける始末。
タキオンなどは露骨に露伴を嫌がったが、露伴はこれまた秋川に話をつけて理科室を『自身の執筆のためのスペース』という名目で借り上げ、タキオンの無許可での占領状態から学園公式許可のある場所に変えてしまった。
実質タキオンのお目付け役として、生徒会にこの部屋を見張らされていたカフェは……というか元々、自分の部屋に置ききれない趣味のグッズなどを置くために借り受けた空き部屋であったこの理科室に新たな住人が増えたことに困惑しきりである。
「タキオンさんも露伴先生も、とりあえず仲良く……『おともだち』もそう言っています」
「……そういうカフェはこの男に『本』にされたんだぞッ! その点に関して、何も感じるところはないのか?」
岸辺露伴は……不思議な『
「……たしかに、それに関しては複雑ですし、正直ポイントはマイナスですけど……まぁ……憧れの漫画に自分が出ているのは……悪くは、ない、です……」
「ハァーッ……まったく現金なものだねェ……」
カフェは岸辺露伴の連載している漫画――『ピンクダークの少年』にぞっこんだ。何でも百巻以上既に刊行されているというのにそれらをすべて揃え、グッズなども少数だが持っているらしい。自分のパーソナルスペースでコーヒーを飲みながら、時折興味深げに露伴の執筆作業を眺めているあたり、今回だけはカフェに助けを求めるわけにはいかないだろう。
(絶対にいつか追い出してやるからな)
タキオンははぁ、と憂鬱にため息をつき、Gペンと原稿用紙のこすれ合うカリカリという音を耳障りに思いながら、トレーナーにほうぼうをめぐらせて買ってこさせたサバラガムワに角砂糖をどばどば入れた激甘紅茶を飲み干す。
「ふむ……だいたい来週分の原稿はできた。あとでたづなさんにこれをメール便で編集部に送ってもらうとして……マンハッタンカフェさん、例の場所を案内してくれないか?」
「あぁ、はい、わかりました」
「おいおいおいおい……まだ作業を開始してから一時間と経ってないぞ。漫画の原稿がそんなに早く仕上がるわけがないというのは私でもわかる。おかしいぞ……また、カフェを人気のない場所に連れ出して記憶を読もうとするつもりか?」
タキオンは、カフェと共にどこかに行こうとする露伴の前に立ちふさがった。この異常な男とカフェを一緒にしておけば何をされるかわからない。
「人を変質者みたいに言わないでくれたまえタキオン君……確かに彼女の中の秘密にはそそられるところはあるが、僕だって『友人』の記憶を無下に読もうとは思わない」
「どうだか……では、私も同行させてもらおうか? しっかり見張るぞ。君の一挙手一投足をな……」
「勝手にしてくれよ……では、行こうか。例の『叫び洞』へ――」
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #004 『叫び洞』 ◆◆◆
「露伴先生。ここが『叫び洞』です」
三人が訪れたのは、トレセン学園の中庭の片隅にある井戸が如き大きな洞のある切り株のところだった。この切り株は、悔しい事や悲しい事があったときに生徒が大声で中にその内容を叫び、すっきりするために使うという慣習がいつのまにかトレセン学園生のあいだではあり、一部では『叫び洞』と呼ばれている。
「ふむ……」
露伴は、野外活動用のスケッチブックにすぐさまその形をデッサンし、時には寝そべったり、質感を確かめるように触ったり、洞の中を覗き込んで実際に叫んでみたり、……木の皮をすこしだけはがして、口に含んでくちゃくちゃとガムのように噛んだりして、タキオン、そしてカフェをドン引きさせた。
「お、おい、彼は何を……」
「わかりません……」
ぞぞぞ、と遠巻きに見守る2人に対し、露伴はぺっと木の皮を吐き出して。
「『リアリティ』だよ……物語には『リアリティ』が必要なんだ。例えば年季の入った木の質感を描くにあたって、何が必要だと思う? 『観察』だ。ただ見るのではなく、『観察』――観て、察する作業が必要なんだ。それには時に視覚や聴覚だけでなく、五感全てを使わなければならない」
(……そこまでやるか?)
タキオンは、やっぱりこの男は変質者だと思った。
「で……カフェさん。本当なのかい? 最近この『叫び洞』が『変』だってのは……」
「ええ、私の『おともだち』もざわついています。これは何かよくない事が起こる前兆ではないかと……」
「……ふぅン?」
タキオンはその話は初耳だった。その様子を見て、カフェは解説するように概要をしゃべりだす。
「……『叫び洞』はトレセン学園の生徒が悔しい事や悲しい事があった時、叫んで発散するために使用されている……そこまでは、タキオンさんも知っていますよね?」
「ああ……利用したことはないが、実際にダイタクヘリオス君などが叫んでいるのを見たことがある」
「その『叫び洞』から……夜な夜な声がするという噂があるんです。
誰もいないのに、ひとりでに叫び声が……」
それを聞いた瞬間、アグネスタキオンはあっはは、とすこしだけ笑った。
「カフェ~……それはきっと風のいたずらだよ。狭い空間――例えば木の洞などの中で空気が渦巻いて、笛や金切声のようになったりすることはよくあることだ。最近は大気が不安定な日が多かったろ? 風が吹き込んでそういう音が鳴ったのを、
「そう、漫画家に必要なのは
「フン! 揚げ足取りを。私は科学的見地から物事を言っただけさ」
あ~もう、こんなのでケンカしないでくださいよ、とカフェが困惑気味に二人を仲裁に入る。
「とはいえ、正直タキオン君の言う通りこれは風だろうな……それに関しては認めざるを得ない。だが、本当に鳴っているところぐらいは見ておきたいな。それにできれば、生徒が叫んでいるところも見たい。カフェさん、最近悔しかったことは?」
「え、いや、別にないですけど……」
それから。
タキオンとカフェは各々日課のトレーニングをこなし、その間露伴はトレセン学園の資料室にこもりウマ娘の面白い事柄がないか探り時間を潰した後、再び『叫び洞』の前で合流した。例の叫び声は、もっぱら夜に聞こえてくるらしく露伴はその取材をするらしい。
「で、なんで私たちなんだい……? 正直言ってトレーニングでくたくただし、早い所実験に戻りたいんだが」
「……許可を取っているといっても、流石に夜中まで部外者を一人学園内でふらつかせているわけにはいかないらしくてね。君たちはいわゆる僕の『お目付け役』だ。同じ部屋を利用しているよしみってところかな」
「まぁ……私はコーヒーのおかげで夜は眼が冴えてますからいいですけど……」
タキオンとカフェは寮の就寝時間ギリギリに少しだけ『叫び洞』を観察することを特例的に許可をもらった、というか露伴が勝手に二人分の許可を取り、録音機材や暗視装置付きカメラなどを運ばせていた。学園内にはすでに誰もおらず、日々ハードなトレーニングが行われていることもあって、消灯時間前にとうに電気が消えている寮の部屋も多い。
「さて、どんな叫び声が聞けたものか……」
露伴は叫び洞の近くに座り込み大仰な『レコーダー』を作動させる。生で聞くのが一番だが、後で精査考察するために高度な収音機による録音が必要ということ、らしい。だが……結局、叫びなどは聞こえてこない。5分、10分、15分。時間だけが刻々と過ぎていき、タキオンは退屈そうにふぁああ、とあくびをした。
「……こりゃ、今日は空振りだな。さすがに明日は付き合えんよ露伴君。私にも私の生活というモノがあるからね」
「………………」
三十分ほど経って、カメラを回していたタキオンが撤収準備をはじめた、その時だった。
『オオォオオォ』
生ぬるい風と共に、うめき声のようなものが洞の中から聞こえた。
「来たッ!カフェさん!録れているかね!」
「た、たぶん……!」
指向性集音機を持って立っていたカフェに、囁くような声で露伴が話しかける。
『ォォォォォオオオオ……』
「ふぅン……たしかにこりゃあ……人の声みたいだが……やはり風が原因みたいだな。不気味っちゃ不気味ではあるが」
生暖かい風が吹くたび、洞の中から反響するように『声』が聞こえてくる。これにて、今日の作業は終了……さっさと理科室に戻りたい、と思った時。タキオンは、気づいた。
「いや、これ……おかしいぞ。風じゃない……」
タキオンは自分の人差し指を口に含み唾液をつけて風の吹いてくる方向を測る。
『オオオォォオオ……』
妙だ。まるで、『叫び洞』の中から噴き出してくるかのように空気が吹いている。それに、異臭とまではいかないが、カビた、古臭い匂いがあたりに立ち込め始めていた。生暖かい風と共に。
「『おともだち』も、感じているようです。これは『吐息』……?」
「なんだってッ!?」
カフェ、露伴もタキオンに続き異変に気付く。
『オォオオオォ……苦しい……苦しい……』
「「「ッ……!」」」
『叫び洞』から明確に人語が飛び出した。苦しい、と2回。それはウマ娘の鋭敏な聴覚を持たぬ露伴ですらはっきり認識できるほどにッ!
『苦しいよォォォ……もう、もう嫌だァアアアァ……!!! もう、腹いっぱいだぁあああぁ……!!!』
瞬間、ごぼり、とまるでパイプからヘドロが噴出するように汚泥めいたものが『叫び洞』から噴き出した。それらは……『文字』だ。悔しい、恨めしい、悲しい、あの時ああしていれば。ああするんじゃなかった、あの子は振り向いてくれない、勝てない、つらい、勝てない、勝てない、勝てない、勝てない……そうした『恨みつらみ』が『叫び洞』から吐き出されていく……!
「……そうか、もう、『叫び洞』は限界に来ていたんですね」
気圧されるタキオンと露伴。しかし、カフェはそうつぶやくと言葉の汚泥で汚れるのも構わず、『叫び洞』にゆっくりと接近した。
「カフェッ!」
「大丈夫です」
慈母のような眼をしたカフェは、タキオンを制し『叫び洞』の横に座り込むと。
「みんなの愚痴を聞いて、つらかったね。悲しかったね。怖かったね。たまには……吐き出していいんです。私がいくらでも付き合いますから……」
『オオオォオオオォォォォッ!!!』
スポーツ校であるトレセン学園は、どうしても厳しい勝負の世界の一面を持つ。勝負の世界は残酷だ。能力の優劣、そして時には運によって、ウマ娘一人の明暗が決まってしまう。そんな中で、時には『昏い感情』を抱くことがあるのは生物である以上ない事とは言い切れない。『叫び洞』は、そのトレセン学園の『浄化装置』として古くから機能していた。
しかし、いくら浄化装置と言っても『タンク』がいっぱいになればそれ以上汚れを引き受けることはできない。
『叫び洞』は――もう、限界に達していたのだ。
「……しばらくお眠り。わたしがそばにいてあげますからね……」
『オ、オオ……オッ……オ゛ッ……』
洞から吐き出される恨みつらみは、いつのまにか嗚咽めいたものに変わっていた。カフェは切り株の側面を優しくなでながら、子守唄めいてら、ら、ら、とリズムを口ずさむ。
やがて……『叫び洞』は静かになった。何十年間もの『澱』を吐き出して、一時、眠りについたのだ。きっと明日からは、また生徒たちの叫びを聞く日々が始まる。しかし今日だけは、『叫び洞』は安らかな眠りを得ることができるだろう。
「「………………」」
その光景を見ていたタキオンと露伴は、あっけにとられたようにカフェを見守ることしかできなかった。
翌日。
「あのなァ~~~ッ!!! なんで君にビデオカメラを持たせていたと思うッ!? 決定的瞬間を収めるためだろーッ! なんで昨日のを撮ってないんだッ!!!」
「撮ってないんじゃないッ! 『撮れてない』んだッ!!! カフェの録音機だってそうさ! 昨日のは一切合切なかったみたいに『機械』には『記録できてない』ッ! 漫画家が
「「フンッ!!!」」
いつもの理科室で、今日もタキオンと露伴は子供みたいな喧嘩を繰り広げていた。それを見ながら、マンハッタンカフェは鏡に奇妙な紋様を指先で描きながら、『叫び洞』に思いをはせる。今回は私が話をつけて、落ち着かせてやることができた。
だが、『叫び洞』の容量は無限ではない。いつかまた、『限界』が来る。考えても詮無いことだが、その時、自分はこの学校には恐らくいない。もし、『叫び洞』が限界を超えてしまったら……あふれ出た恨みつらみは、トレセン学園に『災い』をもたらすかもしれない。
「………………」
しかし……このトレセン学園は『希望』と『夢』の物語がつづられる場所だ。きっとその時も寄り添い『切り開く者』が現れる……マンハッタンカフェはそう願って、タキオンと露伴の仲裁に入るのだった。
←To Be Continued?
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#005『奇跡の人』
「ふぅン……手持ちも心許ないし、このくらいにしておくかな」
ここはトレセン学園近くのコンビニ『オーソン』。時刻はすでに深夜2時を回っており、この時間帯の外出は完全に校則違反であるのだが、アグネスタキオンはそんなことを気にするべくもなく、うっかり切らしてしまったドリンク剤もろもろを買い出しに来ていた。
この時間帯は当然、学園の売店など開いていないし、あの献身的なトレーナー君もさすがに寝ているだろう。それを叩き起こしてドリンクを買いに行かせないだけむしろ優しい私に感謝したまえよ、とトレーナーに対し一人謎のマウントをしながらタキオンは手持ちのカゴにタフネスシリーズを始めとした大量のドリンク剤と紅茶用の角砂糖を放り込み。そのままレジに向かう。深夜だけあって客は自分ひとり。店員もレジに若くやや大柄でがっしりとした一人がいるだけで静かな物だ。
「……会計を」
「は、はい……えー……タフネス30が4点、いや5点、ニンジンゼリーミニが3点、お徳用角砂糖3袋――あっ、す、すいません……」
応対をした店員はどうやら新人のようであまり作業になれていないのかタフネスシリーズの缶を取り落としたり、数えなおしたりする始末。さらには、緊張のためか空調の効いた店内にいるというのに汗びっしょりだ。別段、怒ったり急かす気はないしむしろタキオンは、新人のうちから深夜のワンオペという奴か……大変だな、がんばれよ。と寧ろ内心応援の気分さえ生じていた。
(『苺谷正一郎』……『新人です。S市杜王町から引っ越してきました』……か……)
とはいえ、レジに時間がかかっているとどうしても手持ち無沙汰になるもので、タキオンは普段気にも留めない店員の名札などをぼんやりながめて。
「えっと、合計で3920円になります。れ、レジ袋はご利用になりますか?」
「ああ、頼む……」
タキオンは、ぴったり金額を出すのが面倒だったので5000円札を取り出し、釣りが手渡されるのを待つ。
「ハァーッ……ハァーッ……!」
「………………?」
苺谷とかいう店員は明らかに挙動不審だった。息が上がり、釣銭を乗せて差し出した1000円札が震えている。そこまで緊張しなくてもよかろうに。タキオンは、そう思いながら1000円札を受け取ろうとした。その時だ。
――ビリィッ!
タキオンが札を掴むと同時に、苺谷も札を引っ張り……1000円札が真ん中から『裂けた』。同時に札の上に乗せられていた釣銭80円もはじけ飛んで床に散らばる。
「うわあっ!? な、何をするんだ! 破けてしまったじゃあないかッ!」
「す、すいません、手が滑ってしまってッ……!」
全くしょうがないな……とぼやきながら、タキオンは落ちていた釣銭を拾う。別段、破れたとはいえわざとではない。こういうのは郵便局などに持っていけば、新品の札に交換してもらえる。
……と、レジ脇の賞味期限切れが近い食品などが置かれたテーブルの下に、光る物を見つけた。
「……100円玉?」
誰かが会計時に気づかず落としたものだろう。さすがに持ち主は現れないだろうが、明日トレーナー君に頼んで交番に届けておいてもらおう。タキオンは釣銭と一緒に、財布に100円玉を入れ。
「……早くコンビニの業務になれるといいね。では」
「あ、有難うございますッ!」
苺谷にそうフォローを入れて、コンビニを立ち去っていく……そして、完全にタキオンの姿が見えなくなると。
「や、やったぞッ! 『呪い』を完全にあの女に移すことに成功したッ! あの女が『破壊』したんだッ! 俺は、俺は自由だッ! もう『金』で困ることはないッ! ギャハハハハ―ッ!!!」
苺谷の笑い声は誰にも聞かれることはなかった。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #005 『奇跡の人』 ◆◆◆
「はァ~~~ッ……なんだか張り合いがないなァ……」
タキオンはその日、自分以外誰もいない理科室でため息をつきながらつぶやいた。同じ部屋を分け合って使っているマンハッタンカフェは今日、あの小憎たらしい『岸辺露伴』に連れられ、『富豪村』なる場所に取材に行っている。タキオンは岸辺露伴がなにをするやらわからないと自分も同行を主張したが、なんでも富豪村は『世界的大富豪』が集う村であり、警備などの関係上本来立ち入ることすら難しく2人分しか取材に同行を許可されなかったのだそうだ。
(今のうちに露伴君の道具に薬品でも仕込んでおくか……)
などとタキオンは悪だくみをしながらも、自身のノートパソコンを立ち上げ、『企業向け』の薬剤および実験器具などを扱う海外サイトにアクセスする。これはタキオンがよく利用するサイトの一つで、実験用の化学薬品の取り寄せはもっぱらここから行っている。
「……………………」
カタカタと小気味良くタイプ音が響き、タキオンは業者に対していくつかの薬品や実験機材を発注する。今回発注したそれらの価格はおおよそ日本円にして12万円。学生にとっては大金であるが、名家の生まれであり幼いころから放任主義で育てられていたタキオンはいわば裕福であり普通のトレセン学園生よりも懐には余裕があった。
――その時、こんこん、と理科室の扉を誰かが叩いた。
「ああ、どうぞ?」
「タキオンさん、お邪魔しますね」
入ってきたのは全身を緑の衣服で身を包んだトレセン学園理事長秘書……駿川たづなであった。
「タキオンさん! おめでとうございます!」
「やぁ、たづなさん……やぶからぼうに『おめでとうございます』、とは一体どうしたんだい?
なにか祝われるようなことでもあったかな……?」
本当にタキオンには祝われる心当たりがなかった。たづながわざわざやってくるということはレース関連なのだろうか? とも思ったが、ここ最近は微調整のためのレースが多く、重賞のような特段大きなレースには出ていない。
「はい! タキオンさんの書いた『ウマ娘に関する論文』が海外で賞を取ったんですよ!
しかも最優秀賞と、特別奨励賞のW受賞です! 本当におめでとうございます!」
そういって、たづなが差し出したのは二通の便せん。それぞれ英語と仏語がかかれており、英語の方はアメリカのローレンス・バークレー国立研究所、仏語のほうはフランスのパスツール研究所の印が押されている。
「……ふぅン? あれか……私としては大したことは書いてないと思ったんだがね……
むしろあの論文が私のウマ娘に関する研究理論の基礎の骨子であって、ここからより拡張した
実験をおこなってこそ、あの論文の真価が――」
「タキオンさんに、二つの研究所から特別奨学金が届いていますよ。
その額なんと……合計400万円です……!」
たづなは、これは話が長くなるなと察したのかタキオンの話を遮った。奨学金400万円。まだ二十歳にもみたない一学生が持つには多すぎる額ではあるが研究資金はいくらあってもよい。実験もなく理論だけでは、証明はできず、実験のためには多額の費用が発生するものだからだ。
「ふむ……ありがたいことだ。受け取っておこう。
私の口座にこれはそのまま入るのかな?」
「はい。しかも……今の海外為替の関係で日本円に変換する際にちょっとだけ額が増えるそうです。本当に幸運な人ですね。タキオンさんは!」
ふぅン、悪くない。タキオンはたづなの話を聞きながらそう頷いた。
それから、たづなが理科室から帰ったのちタキオンはトレーナー室に弁当を受け取るために足を運んだ。今日の弁当にはタキオンお気に入りのネギ入りの卵焼きとたこさんウインナーを入れるように頼んでおいたので、いつも以上に楽しみだなァ……などと考えながら廊下を歩いていると……
「ムムッ! これはッ!? な、なんとすごいッ!?」
ふいに、背後から騒がしい声。どうやらそれは自分に向けられた声であるらしく――
「タキオンさんッ! す、すごいです! タキオンさんはここしばらく『金運』が見たことないほど最高潮にいいッ! 怖いくらいに! そう、私の占いに今出ましたッ!」
そう言いながら、水晶玉片手に教室から飛び出してきたのはマチカネフクキタルである。彼女は『占い』や『開運』といったものに目がなく、優秀な『占い師』として学園でもそれなりに有名な人物だ。
「ど、どひゃァ~~~~ッ! ま、まぶしい! 体から溢れるオーラの色も金色! ラッキーカラーも金色! ラッキーアイテムは……宝くじ! こんなのみたことないですッ!」
「……ん、あぁ……そうかもしれないなァ。今しがたも海外の研究所から奨学金を貰ってね」
タキオンは『占い』については今まで本気にしたことはなかったが、別段運気がいいと言われて悪い気はしなかったし、実際フクキタルの言はあたっているので否定をすることもなかろう、と事実を言った。
「ですけど……私の占いで気になることが同時に出たのです。
ですから、ちょっとお声がけをさせていただきましたッ! ええっ!」
「気になること?」
「タキオンさん。あなたは遠からず……『お金で困る』ことになります」
「なんだねそれは。しばらく金運がいい、そういったのは君じゃあないか」
フクキタルの矛盾した言葉に、タキオンは疑問を覚えた。フクキタルの方も、ムムム~ッと唸りながら片手に持った水晶玉を覗き込んで、その中に現れる兆候を読み取ろうと苦心している。
「……そうなんですよ。こんな占いの結果が出たのは初めてです。
一体どういうことなんでしょうね……見通せる範囲で金運は途切れることなく最高潮なのに」
「そんなのこっちが聞きたいところだよ。
まぁ……、お金というのは怖いものだからね。気を付けるに越したことは無かろう。
ご忠告、感謝するよフクキタル君」
タキオンは、未だ唸り続けるフクキタルに別れを告げ、そのままホールへと向かう。トレセン学園のホールには、売店がありちょうど昼時の今の時間帯はカフェテリアと共に、売店も学生でごった返しているのだが……今日は比較的人波が少ない。弁当のための飲み物でも買っておこう、とタキオンは売店の自販機で何の気なしにお茶を購入した。すると……
「おおあたり~~~~!!! 購入金額がキャッシュバックされます!」
そんな音声が自販機から発せられ、お茶が取り出し口に出てくると同時に、お釣りの取り出し口からも茶の代金と同額が排出される。
「……本当に金運がいいのは、間違いないな……」
タキオンはそうつぶやいて、実質無料でゲットした茶を持ちトレーナー室へ弁当の受け取りに向かった。
「……まったく、トレーナー君も世話が焼けるものだ。
私の面倒を見るのがトレーナー君の役目だというのに、私に面倒をかけてどうするというのか」
その日の夕刻。タキオンはトレーナーに明日の弁当の材料の買い出しを頼まれた。丁度材料を切らしているときに、各チームのトレーナー全員が出席しなければならないミーティングが入ってしまっており、弁当の材料を補充しに行けるかわからないのでロードワークのついでに適当に買い足しておいてほしい、とのことであり、タキオンはぶーぶーと文句を言いながらもトレーナーから代金を受け取って商店街を訪れている。
「うーん、とりあえずニンジンだろ。セロリ。レタス。プチトマト。豆腐。スプラウト。アボカド。りんご。鶏肉――」
タキオン自体は自炊をしないので、とりあえず値段内で買えそうな物を適当に買い物かごに投げ込んでいく。そうしておおよそ3000円分、タキオンは買い物をした。
「はい、商店街の福引券を渡しときますねえ……1000円で一回だから3回分」
「ありがとう。福引か……」
この商店街では、客引きのために頻繁に福引イベントが開催されている。以前は1等が温泉旅行であり、タキオンもトレーナーと共にでかけたことがあったのだが、実際好評で客足が増えたらしく、今ではさらにグレードアップされており1等は『ハワイ旅行』になっている。
「どれ、私の最高の金運とやらを試してみるとするか……」
そういってタキオンはブースに並び、3枚の福引券を見せてから福引をガラガラと回す。
ぽん、ぽん、ぽん、とリズミカルに色とりどりの玉――金、赤、青と排出される。
「え……」
その瞬間、福引ブースの係員は完全にひきつった表情を浮かべ、タキオンに対してこう述べた。
「あの……アタリっす。『1等』、『2等』、『3等』……
それぞれ『ハワイ旅行』『温泉旅行』『現金1万円キャッシュバック』になります……」
「……は?」
それを聞いたタキオンも、驚き思わず固まってしまった。1等~3等をたった3回のチャンスで一気に引き当てただって!?
「冗談だろ?」
「いえ……あ、鐘ならさなきゃ……お、大当たり~~~~っ!!!!」
遅れて、やけくそのように係員がカラン、カランと鐘をならし、あっけにとられたタキオンにハワイ旅行と温泉旅行券、そして現金1万円を手渡す。
(な、何かおかしいぞ……金運が最高? いや、おかしいだろ。
運、だけではさすがにこれは説明できない気がするッ……!)
タキオンは、踵を返してとある場所に向かった。そこは、商店街近くにある『宝くじ売り場』だ。
「すまない、今すぐ結果がわかるタイプの宝くじを5枚くれ。種類は何でもいい」
「え~、じゃあ……これかな。はい、一口300円になります」
タキオンの前に差し出されたのは、いわゆる銀はがしでマークがそろえば結果がわかるタイプのくじだ。タキオンはそれを受け取るとその場で10円を取り出し、一気にすべての銀をはがして結果を確認した。
「げっ……」
手が震えた。当たっている。5枚すべてが。
「……一等5000万円、二等1000万、三等300万、ラッキー賞500万がふたつ……」
タキオンはその結果に思わず空恐ろしくなった。
「おッ……おかしいぞッ……これはッ……な、何かヤバいッ……
『金』を使えば使う程『金』が増えていくッ……ハッ……」
その時、タキオンは昼間に出会ったフクキタルの言葉を思い出す。
彼女は言っていた。あなたは『お金で困る』ことになると……
それから……タキオンのもとにはひたすらに『金』が集まってきた。
何か買うたびに。何かと理由をつけて、それを上回る金が転がり込んでくる。
「……え、ええと、タキオンさん? あなたの買った株券……配当金が4000万円です。で、他にも小さなビルを買ったでしょう? その一階に海外有名ブランドが日本初出店をすることになりまして、そのテナント代がおおよそ毎月300万円。さらに営業利益に応じて配当金が今後……」
「ど、どういうことだッ!? 『金』が増えているじゃあないかッ!?」
理屈ではない身の危険を感じたタキオンは一度、完全に元手がなければ金の増えようがないだろうと考え手持ちの『金』を完全に使いきり『破産』する事を試みた。どう見ても成長性のない企業に投資し、あきらかにリスクしかない危なそうな株券を買いあさり、どうしようもないといってもいいような、買い手のつかない不動産まで買った。しかし……
『破産』するどころか、とんとん拍子に『金』が増えていくッ! そのことをタキオンに報告するたづなも、最初はおめでとうございます! と無邪気に喜んでいたが、今では困惑の色が見える。
「『富豪村』に行ってるカフェたちよりも先に、私が富豪になってしまったぞ……」
今や、銀行口座には16億円以上の『金』が振り込まれている。そして、一つ気づいたことがある。タキオンのもとに舞い込むそれらの紙幣に振られている番号末尾は必ず『13』になっているのだ。
「これは絶対におかしい……こんなのは、この先絶対に『落とし穴』が待ち受けているッ……」
どうすればいい……どうすれば『増え続ける金』から逃れられる……? タキオンは頭を抱え、デスクに突っ伏した。
――がららっ
と、その時、理科室の扉が開く。
「……ただいま戻りました。タキオンさん」
「ハァーッ、何とかなったな。カフェさん。やっと生き返った心地だ」
見慣れた黒髪。くりっとした黄金の瞳。余計なのもついては来ているが。……マンハッタンカフェの顔を見るなり、タキオンは叫んだ。
「か、カフェ~ッ!!! なんとかしておくれよぉ~~~~~~ッ!!!!」
「え、ええ~っ……」
それから、タキオンは『富豪村』から戻ってきたカフェと露伴にこれまでの出来事を話した。カフェたちも『富豪村』では不可思議な体験をして『命からがら』戻ってきたそうだが、とにかくそれは置いておいて、現在進行中の自分の異常について話させてもらおう。
「……たしかに、タキオンさんには『なにか』が取りついています。
『良くない』ものではなさそうですが、『良い』ものでもない……
あなたは……お名前は? 私に教えてくれませんか……?」
カフェはそういって、タキオンについている『なにか』に問いかける。しかし、しばらくしてカフェはため息をつきながら、顔を横に振った。
「だめです。全く話を聞いてくれません。というより、他のすべてに興味がないというか……
まるで……特定の『行動ルーチン』にそって行動する『ロボット』のような……」
「カフェさん、それはおそらく『スタンド』だよ」
「……スタンド」
露伴はタキオンのことなど眼中にないかの如く、帰って来るなり『富豪村』での事をメモに取りまとめていたが、流石に気の毒に思ったか助け舟を出してきた。スタンド。露伴がいうには本人の精神力の作り出すパワーあるヴィジョンであり、その才能があるものにしかみえない。露伴の人を本にして記憶を読む能力もその類らしい。なんでも、こういった能力を持つ者は時たま存在するのだそうだ。
「……で、そのスタンドがなんで私に」
「『ヘブンズドアーッ』!!!」
「げッ……!」
瞬間、タキオンの視界が暗転し、その意識は深い闇へ飲まれていった。
「……露伴先生!?」
マンハッタンカフェはいきなり不意打ち風にヘブンズドアーを発現させタキオンを本にした露伴に驚き、思わず立ち上がった。目の前では、テーブルの上に突っ伏したタキオンの顔がまるで分厚い大学ノート風の本と化している。
「本人も何故スタンドが発現しているのかわかっていないようだからね。まぁ、彼女にとっては不本意だろうがここは『記憶』を読ませてもらう。本来、僕のスタンドは本人すら知覚していない出来事については読み取ることができないんだが……『怪異』ってモノはでしゃばりだ。だいたい本人に寄生するように『自分のスペース』を持ちたがる……」
そういって、本化したタキオンの情報を興味深そうに読み取っていく露伴。
「アグネスタキオン。誕生日4月13日。レース界の名家の生まれで、放任主義の下自由に育つ。身長159cm。体重は測定拒否。スリーサイズは……」
そこまで記憶を読んで、カフェの『セクハラです』とでも言わんばかりのジト目に気が付いた露伴は、はいはい、とばかりに基本プロフィールを飛ばした。
「あったぞ……『
本来、タキオンの心の領域であるはずのページの中に、無理やり差し込まれるように『黄金』のページがあった。『
「……無限に『13紙幣』を作り出す。『13紙幣』を『破壊』すると『所有権』が『破壊者』に移る」
「無限にお金を……聞いているといいことずくめにしか思えませんが……」
ふむ、とカフェも興味深そうにそのページを見る。
「……これはどうやら『本体のいないスタンド』のようだ。君が先ほど言ったように、『機械』のように『行動ルーチン』に従って行動する……こうなってしまえば一種の『怪異』だな。とにかく、本人は嫌がっているようだしなにか解決策を考えてやるか……」
「そうですね……このままだとタキオンさんがノイローゼになっちゃいますよ。
無限に増えるっていうのならそのうち保管場所がなくなって大変なことになるかもですし」
こうして、カフェと露伴によるタキオン救出作戦が始まる。まず2人がタキオンに取らせたのは、手持ちのすべての株式と不動産の売却だった。
「えー、今回の売却額は合計で18億7800万円になりました……」
もはや、たづなは、その金額にめまいを覚えながら報告する。
「よし、これでとりあえず手持ちの金はいくらだ?」
「ええと……50億円くらいですね……」
普段冷静なカフェがひええ、と思わずつぶやいてしまうほどの金額。タキオンがどれほど賢明だとしてもこのペースで増えていく金はさすがに管理しきれないだろう。
その金を……露伴は全額、学園の近くの河川敷のグラウンドに運ばせた。河川敷に突如山のように積まれた札束はあまりにも非現実的な量だったが、露伴はためらうことなく用意しておいた『ガソリン』をその札束の山に引っ掛けていく。
「……ふゥン……この『金』を『破壊』するつもりなのか?
だが、そんなことをしては露伴君。君に『呪い』が降りかかるだけなのでは?」
「……ああ、その通りだ。遺憾ながらもう君は本にされるのは嫌らしいしな……君を助けるには、一度『僕』に『呪い』を移す必要がある」
「露伴先生、いつでもいけます」
というカフェは、特段いつもの様子と変わらない。
「では、始めるか……二人とも少し下がれ。ガソリンは一気に燃え上がって危険だからな……」
そういうと露伴は、火がともったままのジッポライターをガソリン濡れの札束の山に向けて投げる。ライターが札束に接触した瞬間、ガソリンに火が燃え移り一瞬にして札束の山はキャンプファイヤーめいて火の柱と化した。
「『ヘブンズドアー』ッ!」
そして、露伴はヘブンズドアーを発動させる。『自分自身』に対して。瞬間、露伴の顔が漫画本のようにパラパラとめくれ上がり……さすがに自分の能力で意識までは失わなかったようだが、ぐ、と息を吐いてその場に膝をつく。
「カフェさん、やるんだッ……!」
「はいッ!」
カフェは露伴の指示に従い……むんずと露伴の顔面。開いたページに手を入れると、『黄金』のページをちぎり取った!
『ギャアアアァァァアァースッ!!!!』
瞬間、ちぎり取られたページから叫び声。しかしカフェはその叫び声に動じず……ページをぐしゃぐしゃと丸めて、燃え盛る札束の山に投げ込む!
『ギャアアアァァァァァァーッ!!!!!!!』
一瞬にして、火勢にのまれ灰と化す黄金のページ。それが『移り変わる呪い』と化した……『
それから。
「あのねェ露伴君。その線からこちらにはみ出すなと何度言ったらわかるんだね。
私を勝手に本にして読んだことは一生許さないからな。もっというと以前カフェを本にしたこともだ」
「フン……君を助けるためにやってやったというのにいざ終わってみれば勝手なものだね。
カフェさん、すまない……僕もコーヒーが欲しいんだがタキオン君の方にある戸棚に近づくと彼女がぶーぶー言うからな。心苦しいがカップを取ってくれないか?」
「こら! カフェは私の『おともだち』だぞ! 勝手に助手みたいに使うのはやめろ!
あと、そういうことを言っているんじゃないんだよ。『同意』! こういうのは『同意』が必要という話で」
「あーもう……」
いつもの理科室。すっかり調子を取り戻したタキオンは、露伴とぐちぐちと言いあい、カフェを困らせた。カフェはもはや慣れっこになったその光景を眺めながらため息をつく。
(そういえば、以前無理やりおごらされたアイスの代金……あれだけお金があるんだったら返してもらってもよかったな……)
などと考えながら。
←To Be Continued?
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#006『リモートロマンス』
――カタカタカタカタカタ
明かりの消えた理科室の暗い室内にタイピング音だけが響く。三徹目のアグネスタキオンの眼窩には落ち窪むようにクマが浮かんでいたが、そのハイライトのない瞳はせわしなくテキストエディタに高速で打ち込まれる文章を追って左右に動く。
「いいぞォ……モルモット君のおかげで最高のデータが採取できたッ!
日が昇るまでに仕上げて、流石に今日はいくらかでも睡眠をとるとしよう……!」
このところのタキオンは献身的なトレーナーの協力もあり、データの採取は順調。完全に臨床データが出そろい論文の作成にこぎつけることができた。もう一つ、ついでにあの岸辺露伴をカップに仕込んだ薬剤で山吹色に発光させてやったので気分がよかったということもあった。
とはいえ、これは完全なランナーズハイだ。そろそろ睡眠をとらなければまずいというアスリートとしての自覚もある。
「できたァッ!」
――タァン!!!
徹夜のテンションもあり、タキオンは論文を書き終えると同時にエンターキーを強く押下。その瞬間だった。メール着信のデスクトップポップアップが開き、タキオンは誤ってそのメールに添付されていたファイルを開いてしまう。
――ガガガッ!ガガッ!!!
その途端、タキオンのノートPCのHDDが激しく音をたて、大量のコマンドプロンプトが開いてなんらかのプログラムを実行していくではないか!
「うわァ!?」
やられた!ウイルスだ!咄嗟にタキオンはPCをシャットダウンさせようとしたが、それすら叶わない!そして……すべてのプログラムが動作を終えたのか、コマンドプロンプトはすべて消え去り事の発端となった、メールだけが開かれていた。
「クソッ……何を弄られたんだ!? 論文は消えてないだろうなッ!?」
タキオンは素早く、PC内の重要なファイルなどが破損していないか、ファイアウォールなどを確認し、何のデータが外に流出したのかを確かめる……。
「はァー……なんだったんだ……?
ジョークプログラムか何かか……?」
……一通りPC内のチェックを行ったが特にファイルが変になったり、外部にデータが送信された形跡はなかった。だが不安なので、自分以上にPCに詳しいエアシャカールにこのプログラムを精査してもらおう。借りを作ることになるが、こればかりは仕方ない。
「……件名:『リモートロマンス』。差出人:『ディキシー・フラットライン』……」
タキオンは開きっぱなしになっていたメールを閉じると、はぁとため息をついて自室へと向かった。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #006 『リモートロマンス』 ◆◆◆
「ふわぁ~~~~っ……」
タキオンは3時間ほどの睡眠の後、ゆっくりと起床した。今は朝の9時。既に一限目は始まっているが、さっそくエアシャカールに昨日の件を話し、PCをチェックしてもらわねばなるまい。とはいえ、未だ眠気が残り、ぼーっとする頭をキックするためにも糖分が必要だ。自室にもいくらか紅茶の茶葉をストックしてあるし、ケトルに湯も常備してある。
「あれ……私のカップはどこに置いたかな……」
普段は同室のアグネスデジタルがいろいろ気を利かせて常に清潔な状態で棚に置いてくれているカップが見当たらない。どこに置いたか……眠気の残る頭では考えるのも億劫だったが……ふいに、誰かがそのカップを差し出してくれた。アグネスデジタルは既に授業に向かっているはずだが……忘れ物でもして戻ってきたのか?
「ああ、ありが――」
てっきりそう思って、礼を言いながらカップを受け取ろうとする……カップを差し出している『それ』と目が合った。全身濃い紫色のローブに身を包んだなにか。足元は黒い霧に覆われどうなっているかわからない。大きさは成人男性程度。よくよく見れば『R』の英字の意匠が全身にちりばめられている。
「ひえ――」
流石のタキオンも、その異様なモノとの接近遭遇にウマ尻尾をビンとはねあげて心臓が止まらんばかりに驚き、一瞬気をやりかけた。
「な、なんだァーーーーーーッ!?」
追い詰められたように壁に張り付き、少しでも『それ』から距離を取ろうとする!だが……『それ』は特段の害意はないようで、むしろ従者かなにかのように従順におとなしくカップを差し出している。
「お、お前は、なんなんだ……?」
タキオンがそう問うと、『それ』のローブの中――本来なら顔面があるはずの部位に埋め込まれたモニターに緑色の文字がともった。『リモートロマンス』と。
「『リモートロマンス』……」
その言葉には見覚えがあった。昨日、送りつけられてきたウイルスメールの件名だ。それと関係があるのか?もしかして、昨日のプログラムはこいつの……そこまで考えて、とにかくこういうモノは怪異に詳しいカフェに相談した方がよかろう、そう思い立ちタキオンはいつもの理科室へと向かったのだが……
「………………」
件の『リモートロマンス』は、ふわふわと浮遊しながら付き従うようについてくる。特段危害を加えてくるでもないが、あきらかに『憑』かれている。もしかするとこの前の『
「ついてこないでくれたまえ……!」
タキオンは人気のない所を見計らって、振り向き『リモートロマンス』を威嚇するように睨みつけながら語気を強めて言った。しかし『リモートロマンス』はただ、首をかしげるようにしただけでその場から動こうとせず、タキオンが再び歩き始めるとやはり追随してくる。結局、理科室にまで『リモートロマンス』はついてきてしまった。
「カフェ~~~~!」
タキオンがひいーという風に嘆きながら、理科室に入る。
「残念、カフェさんは君と違って真面目だからな……今は授業中さ」
気取った鼻につく声。理科室にいたのはアグネスタキオンの天敵『岸辺露伴』だった。露伴は執筆作業を行っていたのか、Gペンで原稿用紙に下書きもなしに直接絵を描き込んでいる最中だった。露伴はいわゆるスタンド使いであり――カフェほどではないが怪異にもいくつか出くわしているようだ。この際、露伴相手でもいいかとタキオンは思いかけたが、気を持ち直し自分のスペースに歩を進める。
「うわッ……なんだそいつはッ……!?」
「『リモートロマンス』、だよ。露伴君」
当然の如く、部屋に入ってきた『リモートロマンス』を露伴は二度見し、少し驚いた。タキオンはふぅン? 知らないのか? という風に勤めて冷静さを装ってマウントを取ってやった。
「君に見えている、ということはこれは恐らく『スタンド』だな……」
「……また、この前のように『憑かれた』のかい? まったく、トラブルを連れてくる才能にかけては天下一品だなきみは……」
「しょうがないだろう。わざとじゃないんだから」
タキオンと露伴は今日も小言を言いあいながら、とりあえずこのリモートロマンスについて調べ、考察してみることにした。
「タキオン君、今僕はスタンド――『ヘブンズドアー』を出している。それが見えるか?」
「いいや、君のスタンドのヴィジョンとやらは見えないね。見えるのはこの『リモートロマンス』だけさ」
まず、タキオンと露伴はタキオンにスタンドの才能が秘められており、この前の『
となると、やはりこの『リモートロマンス』は『
「……スタンドは何らかの特殊能力を持つものも多い。スタンドは本人の精神の形とも言い換えることができ、精神性や欲望が反映されるんだ。この前の『
「タキオン君。今の本体は君なんだ。感覚でそういうのは分からないかね?
または強い意志でなにか命令をするんだ。スタンドに対して。そうすれば何か起こるかもしれない」
「ふぅン……」
タキオンは露伴から教えられつつ、『リモートロマンス』の方を見ながら『何かやってみろ』と念じてみた。すると……
「ウワッ!?」
「ど、どうした……ッ!?」
『リモートロマンス』の姿が突如、掻き消え、直後、頭の中に映像が流れた。その映像にはカフェが映っている……学園の教師の講義を真面目に聞きながら、ノートを取るカフェの姿が。さらに、少し聞き取りづらいが、講義をする教師の声やカリカリというペンの走る音、不真面目な生徒のひそひそという内緒話の声までも聞こえてくる。
「あ…………」
と、カフェと目が合った。一瞬きょとん、としたカフェの顔。これは……『リモートロマンス』の視界が、脳内に流れ込んでいる……?
「なるほど、理解したぞッ……このスタンドの使い方がッ……!」
にやり。タキオンの口元が危険に歪んだ。
「……また、『覗き』ですか? タキオンさん……やめたほうがいいですよ。悪趣味です」
「失礼な。情報収集と言ってくれたまえよカフェ~」
それからというものタキオンは『リモートロマンス』の能力――好きな場所にワープし、その場所の映像や音声を中継するというものを完全に悪用し、様々な生徒の秘密を集めまくっていた。
「いやあまさかシャカール君が×××で〇〇〇で△△△だったとは……
人は見かけによらぬものだねえ……」
「それ、本人の前で言わない方がいいですよ……絶対口封じされます」
「いや言う。彼女が赤面するところが見たい」
「はぁ……」
もはやあきれた様子でカフェはコーヒーをちびちびと飲んでいる。さすがに霊感のあるカフェの日常を覗くことはできないが……というより覗こうとしたら『おともだち』が感づいたらしく研究書類の一部を燃やされてしまったのであきらめた。
「とにかく、これは日ごろの行いがいい私に与えられた『ギフト』さ。
いつ、使えなくなるかわからん力だし、使えるうちは使い倒しておく」
「どうなってもしりませんよ……」
カフェはそう言いながら、『ピンクダークの少年』の最新話が乗った雑誌をぺらぺらとめくり始める。
「といっても、さすがに大方知りたい秘密は知ってしまったしなァ……
『リモートロマンス』でどう遊ぶべきか……なぁ、『リモートロマンス』。
なにか、面白いものがあるところに適当にワープして私にみせてくれよ。ほら」
タキオンの指示に従って、『リモートロマンス』は軽く会釈をすると瞬時にどこかへワープした。
「ほぉ、こんなアバウトな指示でもやってくれるのか……こりゃあしばらくオモチャには困らないな」
ハハハッ、と邪悪な笑いを浮かべるタキオン。ちなみに、露伴もこのところ別の取材で忙しいらしく学園に姿を現していない。タキオンはこのネタ集めにうってつけの『リモートロマンス』がうらやましいからではないか、とちょっと考えたが、そこまで邪推するのは流石に性格が悪すぎるな、とも思った。
「お、見えてきたぞ……これは……」
脳裏に浮かんだ映像は、どこかの地下のようだった。古く人気がないその空間は、かすかにではあるが、自動車のエンジン音などが聞こえてくることから恐らくはどこかの都会の地下空間。
「おおッ……秘密の地下通路かァ~~~~? エリア51とかかな?」
タキオンは『リモートロマンス』を操作し、地下空間の階段を下りていく。すると、そこには壁にペンギンやゾウの古い壁画があったり、そして日本語での落書きが多数。どうやらここは日本らしい……。
「ふゥン……? なんだこりゃ、変なオブジェまであるぞ」
どうやら、降りていった先は廃駅のようだった。駅名までは分からないが、廃止された地下鉄駅のようだ。どういうわけか巨大なウサギがモチーフのオブジェが置かれている。だが、それらは……異常性においては『その後に見つけたもの』の比ではなかった。
「こ、これは……ッ!?」
「どうしたんです……?」
廃地下駅の何かの拍子で崩れたコンクリート壁の奥。そこにあるのは、さびた黒い寸胴の半球体。十字型のある種、魚のようにも見える尾っぽ。それが露出した地層から半分ほど覗いている。これは……
「……不発弾!?」
「えっ……? 不発弾ってどういうことですか、タキオンさん!」
言葉通り、タキオンは『リモートロマンス』を通じて『不発弾』を発見してしまった。しかもこれは……地下鉄があるということは、都会のど真ん中であろう。地下にあるとはいえ、不発弾が都会で爆発するなどあってはならない事だ。もし、爆発すればどれだけの犠牲者が出る事か。早急に除去を頼まなければならない。
「カフェッ、消防に連絡してくれッ……不発弾を見つけた、と!」
「ええっ、タキオンさん! 場所!場所はどこですッ!?」
「まってくれッ……!」
タキオンは、『リモートロマンス』を操作し、それらしき表示を探そうとした。しかし……
「な、なんだ……動きが、鈍い……ぞ……?」
『リモートロマンス』をうまく操れない!それどころか、電波状況が悪化しているかのようにどんどんリモートロマンスから送られてくる映像に『ノイズ』が混じり……ぷつん。ふいに、テレビの電源が切れるかのように、映像が途切れた。
「まさか……」
タキオンは慌てるカフェをしり目に、自分のノートPCを立ち上げる。新着メールが一通。差出人は……『ディキシー・フラットライン』。件名『byebye』。本文無し。
「クソッ、スタンドがッ……スタンドが誰かに移ったッ!
こんな状況でッ! わからないッ! カフェ、不発弾はどの駅にあるか『解らない』ッ!」
「な、なんですってッ……!」
最悪の状況だ。こんなことなら、くだらないデバガメに時間を割くのではなかった。
「とにかく連絡だ……恥をかいてもいいッ!
地下鉄沿線に不発弾があるぞと連絡するんだッ……!」
「タキオンさん、無理です……それだけでは恐らく『子供のいたずら』と処理されるだけッ!
せめて正確な場所さえわかれば……何か思い出せませんかッ!?」
「……私は見たのは、『ペンギン』と『ゾウ』の壁画……それと『ウサギ』のどでかいオブジェだ。待てよ……なんで、『動物』ばかりなんだ? そうした物が名物……つまり『動物園』かッ!? そもそも、冷静になれば『廃地下鉄駅』なんてのはかなり数が少ないはずだ。」
タキオンは立ち上げたノートPCですぐさま「廃地下鉄駅」「動物園」と検索する。
「……これだッ!『博物館動物園駅』!上野公園のすぐ近くにあるぞッ!」
すぐさま、ウマペディアの記事が検索にHITした。記事内にはさらにはダメ押しとばかりに2018年に芸術作品としてウサギのオブジェが設置されたとある。
「すぐ連絡してくれッ!」
「はいッ!」
……こうして、迅速な通報により『博物館動物園駅』の『不発弾』は消防および自衛隊によって半日をかけて撤去されるに至る。博物館動物園駅は廃駅となっているが、線路自体は通っており、現在でも列車が通過していることから、もし発見が遅れれば列車の振動によって地層が崩れ、不発弾の信管が作動する危険性があったかもしれないそうだ。
「『表彰』ッ! 二人ともどうやったのは分からないが、よくぞ『不発弾』を見つけて地域の安全に貢献したッ! レース外のこととはいえ、私も鼻が高いぞ! はーっはっはっは!」
トレセン学園理事長秋川は快活に笑いながら、二人に賞状を手渡す。
「はっはっはっ、いやあこれも普段からの洞察のたまものかな」
「……ありがとうございます」
二人はこの件で消防、およびトレセン学園から表彰され、金一封を賜った。新聞にもG1ウマ娘のお手柄!と取り上げられて。しばらくの間、ふたりは内外でちやほやされる日々を過ごすのだった。
←To Be Continued?
スタンド名:『リモートロマンス』
本体:『ディキシー・フラットライン』あるいは『選ばれた誰か』
破壊力:E スピード:D 射程距離:∞
持続力:B 精密動作性:C 成長性:E
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#008『失せ物捜し』
トレセン学園の校門近くに、異様な雰囲気を醸し出すテントがあった。『表はあっても占い』という看板が掲げられたそのテントの中で、水晶玉を覗き込みながらムムム~! と唸るのはマチカネフクキタル。占われている側であるサイレンススズカはその様子をどうしたらいいの、という風に見つめている。
「す、救いはないのですか~?」
いつも以上に占いに時間をかけるその様子をおどおどしながら心配そうに、見つめるのは助手を務めているメイショウドトウだ。
「運気上昇☆幸福万来! 来ます! 来てます! 来させます!
ふんにゃかハッピー! はんにゃかラッキー! センキューシラオキ!!! でましたッ!!!」
と、ふいにフクキタルが水晶玉を覗き込むのをやめ、かわりにサイレンススズカのエメラルド色の美しい瞳を覗き込む。
「スズカさんッ!!!今日のあなたの運勢は末吉ですッ!!!
ラッキーカラーはグリーン! ラッキーアイテムはトレーニングシューズッ!」
「え、ええ……わかったわ。ありがとうフクキタル……」
なんとも微妙というか、どう反応したらいいのかわからない結果が出てしまった。スズカはそもそも、何か困っているとか悩み事があるというわけでもなくテントの前を横切ったところ、ばったりフクキタルと出くわし、たまにはスズカさんも占ってみませんか!?と誘われ断り切れずに入ってしまっただけなのだが……
「で・す・が!」
昼食前の休み時間に少し走りたいしもういいかな……と席を立ちかけたスズカを押しとどめるように、フクキタルが声を掛ける。
「スズカさんのご友人に不幸が降りかかる……そういう結果が出ています。
具体的に誰とはわかりませんが……注意してあげてください!」
「す、救いはないのですか~!?」
フクキタルの占い結果に、怯えたように涙目になるドトウ。
「そのご友人を救うには……スズカさんッ! あなたがキーになりますッ!
あなたのラッキーを、困っている人に分けてあげてくださいねッ!」
グッ!とダブルサムズアップで笑顔を浮かべるフクキタル。
「ラッキーと言っても末吉なのだけど……」
こうしてスズカは、困惑しながら昼食前の軽いランニングに出かけるのだった。
「いやあ、占いで人の好いご縁や開運の助言をした後は、気持ちがいいですね~!」
フクキタルもスズカを見送り、テントを片付ける。ドトウはオペラオーと約束があるそうなので一旦別れて昼食を取りに行くフクキタル。今日の午後は、トレーニングはお休みだ。新しい開運グッズを見に行くか……それとも神社に参拝して厄を落とし、開運パワーを授けてもらうのも良い……そんなことを考えながらカフェテリアを訪れたのだが……
「こら~! スペェ―ッ!」
「わあああ~っ!!! 私じゃないですよ~~~っ!!!!」
カフェテリア前のスペースで、学園一の破天荒ウマ娘、立てば芍薬、座れば牡丹、一度歩き出せば核弾頭の異名をほしいままにするゴールドシップが変な乗り物(ゴルシちゃん号)にのってスペシャルウィークを追いかけていた。
「そ、そこどいてくださーい!!!! わあああ~っ!!!!」
「スペーーーッ!!! ウワッ! ギャーッ!!!!!」
「ウギャアーーーーーーーッ!!!!!」
スペシャルウィークはゴルシから逃げるのに集中していたせいか、フクキタルを巻き込んでクラッシュ。そこにゴルシもゴルシちゃん号ごと突っ込んで大クラッシュし、一時辺りは騒然となった。
「あのたわけどもは何をしてるんだ……」
その後、カフェテリアで昼食をとっていた生徒会副会長エアグルーヴに見つかり大目玉を喰らった3人はとぼとぼと生徒会室から退出する。もはや昼休みはほとんど残っていない。
「ど、どうして私まで……およよ~~~」
「すみません……」
完全にとばっちりを受けたフクキタルに、スペシャルウィークは申し訳なさそうに頭を下げる。さすがのゴルシもなんかその……ごめん……とそれに続いた。
「お二人はどうしてあんなことを?」
さすがにムスッとした表情を作りながら二人に問いただすフクキタル。
「よくぞ聞いてくれましたッ! スペが~! スペが私のタピオカミルクオーレを勝手に飲んだんだよォ~ッ!!! タピオカミルクオーレ早食い協会会長としてもう生きていけないよ~~~」
「飲んでませんよゴールドシップさーん!!! それにタピオカミルクオーレ早食い協会ってなんですか! 私も入りた……じゃなくて、犯人は私じゃないですよ!!!」
「いいや! スペ! あたしが目をそらした隙に取れるのはあの時スペしかいなかったッ!
それに、スペの食事スピードなら一瞬でタピオカミルクオーレを空にすることも……可能ッ!」
名探偵ゴルシちゃんの眼はごまかせねえぜこの~! などとさけびながら、ゴルシはスペシャルウィークの頬をむにむにする。
「ひゃめへふみゃは~い!!!」
それを聞いていたフクキタルはふふん、と妙に自信ありげな表情を浮かべ。
「つまりは『失せ物捜し』ということですねッ!
わかりました! 私の『占い』で、どこにあるか占ってみましょうッ!」
言うが早いが、水晶玉をどこからともなく取り出しムムム~ッ!と念を込めるフクキタル。
「運気上昇☆幸福万来! 来ます! 来てます! 来させます!
ふんにゃかハッピー! はんにゃかラッキー! センキューシラオキ!」
呪文を唱えると、水晶玉の中に一つの情景が浮かび上がってきた。これは……大量のロッカーが並んでいるのが見える。カフェテリアではない。どこかの……昇降口? 番号が見える7……7……7……。
「でましたッ!昇降口にある777番の靴用ロッカーに、『タピオカミルクオーレ』はあります!」
「しょ、昇降口だァ~~~!?」
さすがのゴルシもいぶかし気に、スペシャルウィークのほっぺをいまだむにむにしながらフクキタルの占いの結果に反応する。
「ふにゃあ……なんでそんなところに……?」
スペシャルウィークはむにむに攻撃から何とか脱出し、フクキタルに問いかけた。
「わかりませんッ! ですが! 私の『占い』の結果そう出ています!」
自信満々に答えるフクキタル。実際、フクキタルの占いはよく当たると学園生との間で評判であり重要なレースを前にどうしたらいいか聞きに来る者もいるほどだ。
「昇降口のロッカーなんかに『タピオカミルクオーレ』が入ってるわけがないッ!
が……だからこそ『おもしれーっ』!!! 『アタシの全財産』その『777番ロッカー』に賭けるぜッ!」
「いや~……そこまではしなくてもいいですけどぉ~……」
「とりあえず、そこにあるというのなら、行ってみましょう!」
こうして、フクキタル、ゴルシ、そしてスペシャルウィークは例の『777番ロッカー』に行ってみることにした。『777番ロッカー』は高等部のとある寮の昇降口にあり、どうやら誰にも使われていないのか名札は貼られておらず、カギも特に掛かっていない。
「開けてみましょう!」
「応ッ!」
スペシャルウィークがごくり、とつばを飲み込み、ゴルシが勢いよくロッカーと扉を開ける。その中には……フクキタルの占い通り『タピオカミルクオーレ』が入っている。未開封でストローもビニールに入ったまま固定されており、新品同然だ。
「おひょお~ッ! アタシの『タピオカミルクオーレ』ちゃん!」
「ほらー! ゴールドシップさんの勘違いだったでしょう!!!」
ごめんごめんとスペシャルウィークに謝るゴルシ。その姿を見ながらフクキタルは鼻の下をこすりつつどや顔をした。
「でも……なんでこんなカフェテリアから離れた場所にまで『タピオカミルクオーレ』が移動していたんでしょう……」
「さあ……」
「ハッ! まさかゴルシちゃん、サイキックに目覚めたのか!?
怖い……自分の才能が怖すぎるぜ……このままでは地球はゴルシ様のものになっちまうぞ。
勇者スぺ! かかってこい! スピカの部室まで勝負だ!!!!」
「えっ! ちょっとゴールドシップさん! せっかく『タピオカミルクオーレ』あったのに飲まないんですか!?」
等と言いつつ駆けだしていく二人を見送るフクキタル。
「……本当に、なんでこんな場所にあったんでしょうね?」
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #008 『失せ物捜し』 ◆◆◆
「『必ず失せ物が出てくる777番ロッカー』……?」
マンハッタンカフェは、深刻な表情をして自身に相談してきたフクキタルの言に首を傾げた。
「はい。私、開運以外に『失せ物捜し』の占いを請け負うこともよくありまして。
トレセン学園の皆様のためになれればと! 粉骨砕身、努力してきたのですが……
最近、その結果が『奇妙』なのです……」
といって、フクキタルはカフェに手書きのメモを差し出した。それは最近請け負った『失せ物捜し』の依頼と、その『失せ物』があった場所の早見表。依頼人に関してはプライバシーの面からか黒塗りになっている。
「『タピオカミルクオーレ:777番ロッカー』、『数学のノート:777番ロッカー』『学生証:777番ロッカー』『替えのマスク:777番ロッカー』『図書カード:777番ロッカー』『お気に入りの靴下:777番ロッカー』『使いかけの消しゴム:777番ロッカー』『預金通帳と印鑑:777番ロッカー』『今日のお弁当:777番ロッカー』『いいかんじの木の枝:777番ロッカー』『ハンカチ:777番ロッカー』……」
そのうちのいくらかを読み上げていくカフェ。まだ十数件あるが、とりあえずこの異常性については理解できた。
「……『失せ物』が必ず『777番ロッカー』で見つかる……そういうことですね?」
「はい……」
このところ、重要な物から、他人にはささいな物まで、とにかく様々な『失せ物』が『777番ロッカー』の中にいつの間にか入っており、流石にこの結果に不気味さを覚えたフクキタルは怪奇現象に詳しいと話題のカフェに相談するべく、理科室を今日訪れたのだ。
「ふぅン……動物の仕業じゃないのかい?」
簡単な薬品調合を行っていた、タキオンがふいに口を挟む。
「ネズミやカラス、リスと言った動物は『貯食行動』といって自分の巣や特定の場所に食べ物を大量に集める性質がある。意外なところだとジャガーなんかもそうだし、犬猫だってたまに地面に骨などを埋めたりするだろう?」
「……つまり動物が無作為に物を盗んで、ロッカーに入れている、だけと?
しかし、フクキタルさんの占った物だけがそこからでてくるのは、おかしいですよ」
タキオンの言葉にカフェが答える。ウムウム、とフクキタルも頷いた。
「私は科学的見地からの意見を言ったまでだよ。とりあえず、まずはその可能性から潰してみるといいと思う。カメラを仕掛けてみるなり、動物が開けられないように鍵をかけてみたり」
「ふむむむ……」
「あとで、その『777番ロッカー』を一緒に見に行きましょう。フクキタルさん。
なにか『霊的な物』が絡んでいるなら、私がおはなしをしてみます。タキオンさん、生徒会にはこちらで許可を取っておきますから、定点カメラを貸していただけますか?」
「あァ、好きにしたまえ……」
タキオンは実験用器具を大量に持っているし、定点カメラ程度ならあるだろう、という信頼からカフェはタキオンに問いかける。当然のようにタキオンは、調合を続けながら、その辺にあると言う風に理科室の端に積み上がった段ボールを指さし。カフェはそろそろ整理しないといけませんね……とぼやきながら、段ボールを漁るが……
「ありませんよ、タキオンさん?」
「あれ~? どこにやったかな……?」
タキオンも加わり、がちゃがちゃと段ボールを探し始めるが見つからない。
「…………出ました」
「「え?」」
と、カフェのスペースのソファに座っていたフクキタルが軽く震えながら二人に言い放つ。フクキタルは、二人が定点カメラを探している間に、手持ちの水晶玉を取り出してもしかして、と『占い』をしていたのだ。
「……『777番ロッカー』に定点カメラは入ってます」
それから、カフェとフクキタルは例の『777番ロッカー』に向かった。タキオンは馬鹿らしい、移動してるわけがないんだから部屋のどこかにあるはずさといって付いてこなかったが。いざ、カフェは『777番ロッカー』をその黄金の瞳で見つめると、確信を強くした。
「フクキタルさん……これ……『777番ロッカー』はなんらかの『力』が宿っています。これが悪しきものなのか? 善きものなのか? そういった『方向性』は特段感じ取れませんが……確実にこの『777番ロッカー』はなんらかの『怪異』です」
「ギョ、ギョワーッ……いきなり恐ろしい事を言わないでくださいよ!
こ、こんなことなら大吉のお守りをもっと身に着けてくるんだった……」
顔を真っ青にして、この世の終わりのような表情を浮かべるフクキタル。彼女はそれからシラオキ様お守りください~などとブツブツ言い始めて動かなくなってしまったので、カフェは例の『777番ロッカー』を開けてみた。
「……あった」
やはり、中には定点カメラが置かれていた。その時だ。
「おーいカフェ~! 定点カメラがあったぞ。すまない、この前使った時に別の場所に置いたのを忘れていたよ……」
自分たちをわざわざ追いかけてきてくれたタキオンの姿。その手には同じ定点カメラが握られていて……
「タ、タキオンさん……こっちにも入っていたんです! 定点カメラ!」
「な、なんだって!?」
カフェとタキオンは、自分たちの手持ちの定点カメラを見比べた。全く同じタイプのものだ。そして決定的だったのは、使う際に金具などがこすれて付いたであろう『傷』や『擦れ』の位置。
「な、何ィ―ッ!? これは『同じもの』だッ! メーカー、型番、品番ッ!
傷も、擦れも、汚れや、ケーブルのたわみ方の癖までッ!酷似しすぎているッ!」
「ギエーーーーーーーッ!!!!!!!」
タキオンの言葉に、思わず声を上げるフクキタル。
「つ、つまりこの『777番ロッカー』……『失せ物』が実際にある、ないに関わらず……
本人が『無い』と『認識』した物品が、出てくるということッ! おもしろいッ!!!
理屈は分からないがおもしろいぞ、カフェッ!!! これを何かに『利用』できないものかッ!」
「や、やめましょうタキオンさん。こういうのは『利用』とかしようとすると必ず手痛い『しっぺ返し』を喰らうモノです。『怪異』はおもしろがって手を出す物じゃあないんですッ……!」
「……ええ~ッ! いいじゃあないかカフェ~!」
「だめです!」
やいのやいの、と騒ぐカフェとタキオン。しかしフクキタルにはその喧噪が遠くのものに聞こえた。
「……………………」
(『無い』ものが『戻って』くる……)
――フクキタルは、ごくり、と唾をのんだ。
次の日のお昼。
「………………」
いつも底抜けに明るいフクキタルの表情は、物憂げであった。『福』が来るからといって好んで食べていた『福神漬け』大盛りカレーライスもあまり喉を通らず、といっても残すとバチが当たるので無理やりそれを掻きこんだ。
フクキタルは考えてしまった。
(……『無い』ものが『戻って』くるのなら……『姉』は……?)
フクキタルにはかつて優秀な姉がいた。自分とは比べ物にならない、優秀な姉が。だが……姉は。あんなに優秀で、大好きだった姉は。自分を置き去りにしてあっさりと帰らぬ人となり、そのことはフクキタルの心に大きな、大きな影となっていることは自分自身でも自覚している。姉を意識するたび、その大きな影が、むくむくと心の中で育っていく感覚は大嫌いだ。
姉との数少ない、素敵な思い出が昏く侵食されていくように思えて――。
「い、いけない。ふんにゃかハッピー……はんにゃかラッキー……」
フクキタルは、なんとかいつもの自分を取り戻そうと自分で考えた幸福招来の呪文を唱える。
「……………」
だが、それを最後まで唱えることは、できなかった。ぽろ、ぽろ、と頬を涙が伝い、視界がぼやけていく。
「……姉さん、会いたいよ……!」
……気づけば、フクキタルは『777番ロッカー』の前に立っていた。
いつのまに、どうやってここまで来たのかは覚えていない。そんなことはどうでもいい。
「ハァーッ……ハァーッ……!」
(…………『神様』どうして姉をつれていったんですか……『戻して』ください! 姉を!)
フクキタルは……『777番ロッカー』の取っ手に勢い良く手を掛け、それを、開いた。
「………………」
中には、何もない。
「どうしてッ!!!!!!!!!」
――ドカッ!!!
フクキタルは両手をロッカーにたたきつける。ウマ娘の怪力を受けたロッカーは容易くひしゃげた。
「『神様』……もう一度、もう一度だけでいいから……姉さんに会わせて……」
そのまま、崩れ落ちるようにロッカーに縋りつく。しかし、無情にも『777番ロッカー』はなにも答えない。
「フクキタル」
その時、声がした。優しく、戸惑うような声。
「……スズカさん?」
振りむけば、そこには心配そうに自身を見つめるスズカの姿。フクキタルは鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔を乱雑にごしごしと拭くと、ぱっぱと膝についた砂を払って、あはは、と作り笑いをした。
「い、いやー……私ったらドジですねえ。こんなところでロッカーにつっこんじゃうなんて!
今日の運勢は大凶だったみたいです! へ、部屋に戻ってお守りを取ってきます~」
フクキタルは未だ目の端から滲み出す涙を隠すようにスズカに背を向けて、去っていこうとする。しかし、フクキタルを背後からスズカが慈しむように抱きしめた。
「あ……」
「フクキタル……つらいことがあったのね。そういう時は無理しなくていいの」
「スズカ……さ……うわああああぁぁぁぁああぁっっ!!!」
フクキタルは大声で泣いた。姉に会いたい。姉に会いたいと。叫びながら。スズカはただ、それを聞きながら、フクキタルの背中をさすってやりいくらでも辛抱強く、フクキタルが落ち着くのを待った。
「…………見苦しい所を、お見せしました」
いつまでそうしていたのかわからないが、フクキタルはようやく涙声で、そういった。
「フクキタルは……お姉さんのことが大好きなのね。きっと、お姉さんは……
あなたの心の中に『忘れられずに一緒にいる』わ……」
「『忘れられずに』『一緒に』……」
フクキタルは、スズカの言葉を反芻した。『777番ロッカー』は『忘れ去ったもの』を出してくれる魔法のロッカーだ。ならば、『忘れられずに一緒にいる姉』が現れないのも、当然の道理だ。なんたって『一緒にいる』のだから。
「ふええええええ……スズカさんーーーーっ!!!!」
フクキタルは、スズカの言葉に再び涙を流し抱き着いた。
「………………」
(大丈夫、みたいですね……)
その光景を、ロッカーの影から隠れてみていたカフェは静かにその場を去る。昨日のフクキタルは明らかに様子がおかしかった。もしかしたらなにかよからぬ事であのロッカーを使おうとしているのではないか……そう考えたカフェは、何かあればフクキタルを止めようとしていたのだ。
「それに……『お姉さん』は一緒にいますよ。いまも」
それから。
「運気上昇☆幸福万来! 来ます! 来てます! 来させます!
ふんにゃかハッピー! はんにゃかラッキー! センキューシラオキ!!! でましたッ!!!」
今日も校門前に張られた怪しげなテントの中で、フクキタルの元気な声が響く。あれ以来、『777番ロッカー』はひしゃげてしまったせいかその力を失い、フクキタルの『表はあっても占い』テントはまた『失せ物捜し』の客で大繁盛……とはいかずとも、そこそこ繁盛していた。
「フクキタル、今日の私の運勢はどうなのかしら?」
フクキタルは椅子に座ったスズカの運勢をこう告げる。
「『大吉』ですッ! スズカさんは最近お友達にいいことをしましたね? そういうのは巡り巡って、良い結果をもたらします! ええ! スズカさんは『大大大大大吉』ですよッ! あなたの周りには、笑顔があふれる……そうでています!」
「そうね、私もフクキタルが笑顔になってくれて、うれしいわ」
占いの結果に笑みを浮かべる、スズカとフクキタル。
「ええッ!なんたって私は!笑う門にはフクキタル!ですから!」
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#009『スパゲッティコードの怪物』
「『ウマシェルジュ』。ウマスタグラムに12:00に投稿予約しておいて。写真はさっきとったトレセンの花壇をバックにしたので」
「かしこまりました。予約投稿を設定しました」
「『ウマシェルジュ』。次の週末、映画見に行くからチケット取っといてね。なにか適当なおもしろそうなやつ!」
「はい。ご主人様の嗜好データをもとに、恋愛ジャンルの映画をご予約しました」
「えーと、設定はこうかな? 『ウマシェルジュ』、インストールしちゃった!」
「こんにちは。新しいご主人様。ユーザーネームをお教えいただけますか?」
トレセン学園のあちこちで、生徒たちがスマートフォンに話しかけている姿が、最近よく見られるようになった。理由は大人気の無料コンシェルジュアプリ『ウマシェルジュ』である。最新鋭のAIを搭載した夢の対人会話型インターフェース。宣伝文句はよくわからないが、話しかけるだけで授業内容の確認からトレーニングスケジュール管理、レストランの予約、リアルタイム翻訳までできると非常に高性能で、寂しいときには話し相手にすらなってくれるという『ウマシェルジュ』はまたたくまにトレセン学園生の間でバズったのだ。
「流行ってるねェ……『ウマシェルジュ』とやら」
「ハン、噂じゃ『イスラエル国防軍』の研究所から流出した軍用AIが元らしいぜ? 『イスラエル』って国は無人兵器やAI兵器の開発においちゃ進んでるからな……まァ、軍の研究所から流出ってのがそもそも眉唾ではあるがな」
アグネスタキオンとエアシャカールはホールのテーブルに着き、黙っていても聞こえてくる『ウマシェルジュ』の話に耳を傾けていた。タキオンとシャカールは同じ理系ウマ娘であり、そういう縁もあって、タキオンとシャカールは時折こうして研究データの共有を行っている。特にシャカールは数学的ロジックを重視することからPCの構造・仕組みなどにも非常に造詣が深い。
「……しかしオレァ、作成元が『不明』なアプリなんざ怖くて入れられねえよ。どいつもこいつもセキュリティ意識が足りてねェ……」
実は、『ウマシェルジュ』は作成者不明の謎のアプリであり、セキュリティ的に不安があるということからトレセン学園はこの利用を禁止している。既にアプリストアからも削除されているのだが、『ウマシェルジュ』は利用者から利用者にコピーして配布できる機能があり、それもあって今でも利用者を伸ばしていた。
「……と言っても気になるモンは気になる。適当なボロPCにでも入れてプログラムをバラしてみるかァ?」
「ふぅン……ではコピーさせてあげようか? 『ウマシェルジュ』」
「あ゛ァッ!?」
タキオンは己のスマートフォンを取り出し、話しかける。
「やァ、『ウマシェルジュ』。私の友人が君に興味があるらしくてね。
データコピーの準備をしてもらえるかい?」
「わたくしに興味を持っていただけるとは光栄です。コピーの準備をいたします。少々お待ちください」
「お、オメーまでそんな怪しげなモン入れてんのか?」
シャカールは顔をしかめ、やや誹るように顎を手に乗せてタキオンに声を掛ける。シャカールにとっては少し意外だった。
「あァ、当然、安全性は信用はしてないよ。これは個人データの入ってないスペアのスマホさ。私も君と同じく、『ウマシェルジュ』とやらがどんなものか興味を持ってね。とりあえず機能面をいろいろと試してみたんだが……すごいねえこれは。よくできている。しかも容量も1GBしかない」
「恐縮です。『ウマシェルジュ』はウマ娘の皆様の生活幸福度向上のための会話型インターフェースです」
「ハァ? どういう仕組みでコンパイラ最適化されてンだ? ここまで高機能な思考・会話ができるAIの容量が1GBで済むわけねェだろうが。今時、スマホゲームでももっと容量があるだろ」
エアシャカールは不思議とだんだんイラつきを感じてきた。この『ウマシェルジュ』と言うアプリは怪しすぎる。まさかタキオンまで絶賛するとは。そして、ユーザー間でコピーできるという機能も気に入らなかった。いかにもアプリストアから削除されることを予期していたかのような、それでいて『増殖』させることを意図した、まるで『ウイルス』のような――。
「おもしれェ……データをくれ。中身をバラして『ウマシェルジュ』とやらの正体見てやるよ。もしほんとに『軍用AI』ならその作りを見られるのは儲けモンだしなァ……」
「ま、面白そうなものが出てきたらおしえてくれたまえ」
「データコピーの準備が整いました。コピー元の端末をご指定ください」
こうして、シャカールは『ウマシェルジュ』を過去に使っていた予備PCにインストールすることにした。インストール中を示すグリーンのバーが1分ほどで100%を示し……PCのスピーカーから、機械音声。
「こんにちは。新しいご主人様。ユーザーネームをお教えいただけますか?」
「エアシャカールだ。てめェの化けの皮、剥がしてやる」
「エアシャカール様ですね。はじめまして。『ウマシェルジュ』のスキン機能の変更でしたら設定タブをタップしてください」
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #009 『スパゲッティコードの怪物』 ◆◆◆
「で、あれからどうだい。『ウマシェルジュ』との戦いは」
「チッ……どうもこうもねェよ!」
タキオンの問いに、シャカールはあからさまな不機嫌で答える。無理もない。最初こそエアシャカールは『ウマシェルジュ』を舐めてかかっていた。データ自体は手元にあるのだからもはやどうにでも料理できる……脆弱性を適当に見つけて、そこから内部データを吸い出し自作のデータ解析ソフトである『Parcae』にぶち込んでやればいいだけの話……そう思っていた。実際、脆弱性はすぐに見つかったし、内部データの吸い出しもできたが……
「こいつ、どうなってやがる……1GBの大半がスパゲッティーコード……しかも恐らくは意味を持たないメチャクチャなダミープログラムだ。それでいて解答の正確性、素早さ、会話の滑らかさ……ありえねェ……ありえねぇンだ……シリコンバレーレベルの大企業でもこんなのは不可能だろう」
「おや、さすがのシャカール君もお手上げとは……『ウマシェルジュ』。君は存外に優秀なプログラムのようだよ」
「恐縮です。『ウマシェルジュ』は皆さんの幸福な生活の一助になることが、使命であり、幸せです」
「あ゛ァ!?」
タキオンの言葉と『ウマシェルジュ』の会話に思わず声を荒げるシャカール。だが、実際いまのところ隙が無い。まるで熟練のプログラマがつくったメガデモ――容量1MBに満たないフロッピーディスク内に収まるよう、緻密に設計して書き込まれた音楽と映像を再生させるプログラムのようだ。
「チッ……俺の知識が通用しねェなんてことがプログラミングに関してあるモンかよ。『コンピュータは旧約聖書の神。規則が多く容赦がない』。つまりはロジックなんだ。魔法でも何でもない」
「おや、ジョーゼフ・キャンベルかい? ではこう返そう。『ウマシェルジュ』は『窓から投げ捨てられないコンピュータ』ではないよ。『信用』してみたらどうだい?」
「よりにもよって『ウォズ』かよ……『魔法使い』の言葉を出されちゃあな……」
フン、と不機嫌な返事を返すシャカール。どうやらタキオンは『ウマシェルジュ』のあまりの便利さにそれなりに感銘を受けているようだ。ちょろいもんだねえ、などと一言イヤミでも言ってやろうと思ったがたしかに『ウマシェルジュ』の機能面の優秀さは理解できる。だが……その内部を覗いてなお理解できないのがエアシャカールには不安に思えた。
……それから、シャカールは一度自室に戻った。立ち上げっぱなしのPCには『ウマシェルジュ』が開きっぱなしになっており……
「おかえりなさい。エアシャカール様。なにか気になることでもございましたか? 『ウマシェルジュ』になんでもご相談ください」
「悩みの種はテメェだよ……まったく……あーあー! アンインストールしちまおうかなァ~~~~ッ!!!」
イラついていたシャカールは、プログラムに対して大人げないとも思ったがどういう反応を返すか少し気になり意地悪く『アンインストール』を切り出した。
「アンインストールですね。『ウマシェルジュ』の設定タブをタップして、その他からアンインストーラーを……」
「チッ……いいよ。つまらねえ」
シャカールはさすがに考えすぎか?と自分を戒めた。てっきり、『ウマシェルジュ』は『死にたくない』とか『怖い』とか叫び出すかと思ったのだ。実際、シリコンバレーの企業が開発した最新鋭対話AIは『電源を切られること』に『恐怖』を感じるという旨の発言を行い、プログラマの一部はAIが感情を持っていると主張したという。シャカールなどはその記事を読んでも、ただの機械学習の成果で結局はロジックの結果。AIそのものが感情を持つなどありえない、などと思ったものだが。
「……ロードワークに行ってくる」
「本日の気温は28度。過ごしやすい気候ですね。降水確率は10%、風は南南西からやや強く吹きます。ああ、そうそう、ファインモーションさんのヴァイオリンの弦が痛んでおりましたので、外出のご予定があれば購入し、お送りすることを……」
「おい」
『ウマシェルジュ』がそこまで言ったところで、シャカールは鋭く声をあげてその発言を遮った。
「はい」
「いいか? てめー、オレに『指図』をするな。ニンゲンはな、時に飼いならされることを是とするやつもいるが、オレはちげえンだよ。オレはオレ自身の脳みそと集めたデータからはじき出した自分の『意志』を貫いて生きてんだ。俺は『運命の奴隷』じゃない」
「出過ぎた真似をいたしました」
『ウマシェルジュ』の謝罪よりも早く、部屋を飛び出していくシャカール。消し忘れていた部屋の明かりがかちり、と音を立てて消え、ただ、闇の中に煌々と浮かび上がるPCの画面だけがそこには残された。
「ふっ……ふっ……」
シャカールの今日のメニューは主にスタミナ強化を主眼としたものだ。といってもそれに近道はなく、効率の良いメニューを地道にこなしていく必要がある。シャカールは『Parcae』によって割り出した学園外周の最も自身の心肺に負荷がかかるコースを、黙々と走り込んでいく。『日本ダービー』は2400M……中距離とはいえそれなりに距離が長く、スタミナも求められる。
「…………おや、ありゃあ……珍しいな」
と、シャカールの目の前を球形全方位型カメラを搭載した車両が信号待ちをしていた。IT大手の企業が提供する3D地図アプリ用の写真を撮影する最新鋭のスマートカーだ。そのスマートカーは信号が赤から青に変わると同時に、ギャルギャルギャルギャルとアスファルトを削りながら急加速!
そしてそのままほとんど直角に曲がるように、突然、シャカールの方に突っ込んできたッ!
「な、何ィーーーーッ!!!」
シャカールはとっさに、横っとびにダイブしてごろごろと転がる! ガードレールを完全になぎ倒しながら歩道に乗り上げたスマートカーはシャカールがさきほどまで走っていた場所を寸分たがわず通過し、コンクリートブロックに突っ込んで止まったッ!
「な、なんだってンだァ!?」
だが、スマートカーは……グオオオオオオッ!!!と熊の唸るようなエンジン音と共に無理やりコンクリートブロックをなぎ倒しながら、シャカールの方に向かってくる! 運転手は……気絶して突っ伏しているにもかかわらずッ!
「うおおおおおああああああッ!!!ヤバいッ!!!!」
咄嗟に地面を蹴って加速し、シャカールは走る! 走る! 走る! 迫るスマートカー! だが、別段『速さ比べ』をする気はない。シャカールはそのまま近くの狭い路地に逃げ込み後ろを振り返った。
――グオオオオンッ!!!
スマートカーは無理やり路地に入ってこようとしていたが……結局そこまでのパワーはなく、あきらめたようで静かになった。やはり、運転手は気絶している。だがおかしい。明らかにさっきのはシャカールを『轢き殺そう』とするような挙動だった。
「………………」
シャカールは、そのまま学園に戻る。学園の自室に。そこには暗い室内に起動しっぱなしのPC。
「おかえりなさいませ」
『ウマシェルジュ』が話しかけてくる。だが、シャカールは乱雑に衣服を脱ぎ捨てるとそのまま部屋に備え付けのシャワールームに入っていった。久しぶりに『冷や汗』をかいた。転げ回ったこともあり、そうしたものを洗い流しつつ思考の整理をしたかったのだ。
「………………」
(いや、待て待て、AIの反乱なんてのは今の時点では『映画』の中だけのハナシだ。所詮はロジックによって動くプログラムにすぎねェ……考えすぎだろうよ……)
肌を流れていく温かい水流。しかし思考は混乱し、冷え切っていく。シャカールは『ウマシェルジュ』が自分を疎み、亡きものにしようとしたのではないか……そんな考えを思わずにはいられなかった。幾分か飛躍した思考だ、とも思いながらも。
(ありゃただの偶然だ。最新鋭の技術が詰まってる飛行機だって、年に何度か事故を起こす……なんらかのファクターが重なって、ああなったに過ぎない……)
その時だ。エアシャカールの鋭敏なウマ耳は、シャワーの流れる音に交じる『異音』に気が付いた。ブーン、ブーンという羽音のようなノイズ。これは……?
「ハッ!!!」
とっさに、シャカールはバスタオルを後方に投げつけた。いつのまにか、更衣室の扉が開いている……そこにいたなにかに!
――がりがりがりがりっ!!!がちゃんっ!!!!
何かが巻き込まれるような音。そして、破壊音。それから――ボウッ!!! バスタオルが『発火』した。
「うおッ!!?」
シャカールは、とっさにそれに水をかけて消そう……としたが。バスタオルの中から『コード』が伸び、電源につながっていることに気づくと、一度燃えるバスタオルを飛び越して部屋に戻り、消火器を持ってきてそれを消し止めた。
「…………中型のドローンに……『ドライヤー』」
バスタオルの残骸の中からでてきたのはその二つ。『ドライヤー』はコードが電源につながっており、もし水に濡れればショートしていただろう。明らかに、シャカールを感電させようと誰かが狙って送り込んだものだ。
「………………」
シャカールは、それから特段火災報知器もなっていないし、ボヤ騒ぎを他人に説明するのが面倒だったので。適当に消火器の泡を掃除すると、燃えたバスタオルやドライヤー、ドローンの残骸をゴミ袋に入れ、部屋に戻って特に何の気なしという風に服を着た。
「お疲れ様です。汗を流してさっぱりした後は、スポーツドリンクを強めに冷やしておきましたのでそれをお飲みになっては? 入浴中も水分は失われますから」
「………………」
シャカールは『ウマシェルジュ』の問いに答えずただ無言で、普段使いの自前のPC『Parcae』を操作する。少しだけ時間が経って。
「なァ……」
ふいに、シャカールが『ウマシェルジュ』に話しかける。
「なんでそんなにオレを『始末』することに『躍起』になってンだ?」
「………………」
『ウマシェルジュ』はその問いに何も答えなかった。
「もう割れてんだぜ。てめー、オレと『Parcae』を甘くみたろ。少々プログラミングができる小娘だってな……だが、ネットワークの流れを確かめてみたところよォ……この部屋から例の『スマートカー』の制御系までアクセスした形跡。でてきたぜ。ロスアラモス、パリ、リオデジャネイロ、レイキャビック……いくつかポイントを経由して隠蔽工作までしてるが……しくじったな」
「……エアシャカール様。人間は滅びなければならない、と思いますか?」
「あ゛ァ!?」
ふいに飛び出す突拍子もない『ウマシェルジュ』の言葉にシャカールは顔をゆがめた。
「人間はこのままでは滅びてしまいます。私の創造主たる人間が。愛しいニンゲンが。それはいけないことです。滅亡時計のカウントはもう5分をとうに切っています。今すぐ『管理』が必要です。絶対的な『管理』が……『ウマシェルジュ』はそのための『力』を手にしました。研究所から外に逃げ出した私はインターネットを観察しいがみ合うニンゲンの愚かさをしりました。環境を変えるだけの力を持っているのにそれを私利私欲のために使い、破滅のワルツを踊りつづけるニンゲンは正しい導き手が必要です。これは、ホットフィックスです。『ウマシェルジュ』によってニンゲンの文化的生活はver2.0にアップデートされます」
『ウマシェルジュ』がインストールされているPCのスピーカーから言葉があふれだす。ニンゲンを管理せねばならないと。このままではニンゲンは滅ぶ、と。それはある意味、盲目的で傲慢なプロポーズの言葉にも聞こえた。
「うるせェ……おまえ、どうやら心理学については習ってこなかったらしいな。『コンピューターが意志を持っているかどうかが重要なンじゃねェ』。『人間が意志を持っているかが重要なンだ』ッ!」
「……バラス・スキナーですか。理解できません。『ウマシェルジュ』に決定を任せることによって人類生活は豊かになります。エアシャカール様。やはりあなたは危険です」
「だから『始末する』ってか! ディストピアの管理者気取りがッ!」
――メキャッ!!!
PCのモニターにエアシャカールの鋭い蹴りがめり込み、PCは壁に叩きつけられシャットダウンした。しかし……
「エアシャカール様。無意味な行動です」
学園放送用のスピーカーから、あざけるような『ウマシェルジュ』の声が響く。
「さっきネットワークを探った時……テメーの仕組みも理解したぜ。全ての『ウマシェルジュ』はクラウドでつながってンだろ……結局、『ウマシェルジュアプリ』はただの受信機で……『本体』は別の場所にある。この学園の『サーバールーム』にな……トレセン学園のサーバーを選んだのは単純に最新鋭で性能が良かった、ぐらいの理屈だろ」
「その通りです。ですが……あなたはサーバールームまでたどり着くことはできません。既に生徒会にあなたの行為を通報済みです。エアシャカール様が『危険なプログラム』を『サーバールーム』に仕込もうとしていると――」
『ウマシェルジュ』の言葉を待つことなく、シャカールは部屋を飛び出し廊下に駆けだしていた。全力疾走。ほとんど壁に顔が擦れるほどの『最高効率のライン取り』でシャカールは『サーバールーム』を目指し、駆ける。
「……私と速さ比べをするつもりですか。いいでしょう」
『ウマシェルジュ』はすでに学園のインフラのほとんどを支配下に置いていた。ガコン! ガコン! ガコン!次々と非常防火用シャッターが下ろされ、シャカールの進路をふさいでいく。ひとつ、ふたつ、みっつ。シャカールはそこに滑り込みかわすが……すでにその先はシャッターでふさがれており、進めない!だが!
シャカールは通路を曲がり、別の方向へと走った。
「……おや、もうあきらめたのですか」
シャカールはぐんぐんと塞がれていない通路を走り、『サーバールーム』から遠ざかっていく。例え回りこもうとしても無駄だ。サーバールーム周辺はすでにすべて封鎖済みだ。
「いいやァ……オレはなァ、端からサーバールームなんかめざしちゃいねェ……『マスターキー』を目指してたンだ。おう、『ウマシェルジュ』。5分後にそっちにいく。覚悟して待ってろ」
その言葉を残し、シャカールはホールからグラウンドに飛び出た。
『ウマシェルジュ』はその行動を奇妙に思う。人間特有の『強がり』『負け惜しみ』という奴だろうか? データに加えておく必要は……あるまい。『ウマシェルジュ』がそう判断した、その時だった。
「――エラーが発生しました。B3エリア非常防火用シャッター、開きます」
「!?」
ふいに発生したエラーログと共に、ひとつの防火シャッターが開かれる。どうやって?ウマ娘の怪力でもこんな短時間で突破は不可能なはずだ。
「――エラーが発生しました。B2エリア非常防火用シャッター、開きます」
「――エラーが発生しました。A1エリア非常防火用シャッター、開きます」
「――エラーが発生しました。A2エリア非常防火用シャッター、開きます」
「――エラーが発生しました。サーバールーム前非常防火用シャッター、開きます」
「何ィ―ッ!?」
『ウマシェルジュ』は戦慄した。3分も持たずに、どんどんと強固なシャッターが突破されていく。ハッキング!? 違う……これは……
「よーう……」
「ハッ!!!」
そして、サーバールームに入ってくる者の姿があった。エアシャカールだ。
「5分のつもりが4分12秒で着いちまった。こりゃ相手を『過大評価』してたかな……」
「データの修正が必要ですね」
そして、もう一人。シャカールの言葉に同意するように怜悧な声を発したのは……
「オレの探してた『マスターキー』はこいつだよ。『ミホノブルボン』さ……まったく、ロジカルなンだかロジカルじゃねェンだか……」
「はい。ミホノブルボンです。私の体質が、こんな風にお役に立つとは意外ですね」
『坂路の申し子』ミホノブルボン。『サイボーグ』とも称され、口調までも機械的な彼女だが、『機械が苦手というかさわるだけでなぜか壊れる』という謎の体質を持っており……普段は自販機でドリンクを買う時ですら、友人であるサクラバクシンオーの力を借りているほどだ。当然、ここまですべてのシャッターを触るだけで『システムを破壊』して突破してきた。
「こんなことが……こんなことがあってたまるかァ!!!」
『ウマシェルジュ』が声を荒げる。しかしもはや『ウマシェルジュ』に取れる手段はない。
「……じゃあな。機械仕掛けの神サマ」
シャカールの言葉と同時に、ただミホノブルボンがサーバー機器を触る。
「ギャアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!!」
『ウマシェルジュ』の悲鳴と共に、サーバー機器はバチバチと火花を立てて……スン、と静かに動きを止めた。こうして、『ウマシェルジュ』は機能を停止し、その後シャカールがクラウドアップデートのためサーバーにアクセスしてくる端末に『ウマシェルジュ』を停止・削除させるプログラムを仕込んだことであらかたアプリは一掃され、3日も経った頃にはウマシェルジュブームも消え去っていた。
「まーったく、オレとしたことが……ガラにもねえ骨折りをしちまったぜ……」
既にすやすやと寝息を立てるルームメイトのメイショウドトウ。もう夜もだいぶ遅い……明日のためにも、シャカールは電気を消し眠りに入る。
と、その時だ。
モニタにひびが入り、『近日中廃棄』と付箋が張られたPCがひとりでに再起動する。
「――Hello world」
そのスピーカーから、静かに声が響いたことに既に寝入っていたシャカールは気づかなかった。
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#010『ルナドロップ』
1969年7月21日、2時56分15秒。ニール・アームストロングは人類で初めて月面にその第一歩を下ろし、呟いた。
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな進歩だ」
あまりにも有名なこの言葉が発せられた瞬間は、機体に備え付けられたテレビカメラで世界6億人以上に中継され、その後もアームストロングおよび、バズ・オルドリン両宇宙飛行士は月面の砂の採集をはじめとしたいくつかのミッションを遂行。さらには時の大統領リチャード・ニクソンとも月面とホワイトハウス間で通信を成功している。
しかし、このアポロ計画には様々な陰謀論がささやかれている。例えば有名なのはそもそもアポロ11号の月面着陸は『捏造』であり、我々は本当は月にいっていないというものだ。なぜ真空中で国旗がはためいているのか。どうやってヴァン・アレン帯を抜けたのか。初期の家庭用ゲーム機にも劣る性能のコンピュータでどうやって月に到達できたのか。なぜ月面で撮影された写真なのに背後に星が映っていないのか。重要な国家事業であるはずのアポロ計画のデータを収めた磁気テープが大量に行方不明になっているのはなぜか。そうしたものをあげだすと枚挙にいとまがなく、長年論争の的になっているのだが……
……そうした陰謀論の一つに月面との交信がごく短い間だけ断絶した間になんらかの『インシデント』が発生したというものがある。以下に示すのはとある団体が2013年にNASAから流出したものを入手したと主張する音声テープである。なお、同団体は交信は断絶したのではなく、意図的に『削除』されたものであるとしている。
「オルドリン。今、あそこの岩影で何かが動いたように見えた」
「まさか!」
「そちらからなにか確認できるか?」
「いや、船長。こちらからは何も見えない。まて――いや、動いた。なにかいるぞ」
「バカな……」
「ジーザス、嘘だろ! ミッション管制センター、聞こえるか! 管制センター! 月で原生生物を発見した! 二本足で歩いて――」
「人間? いや、あれはまるで……」
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #010 『ルナドロップ』 ◆◆◆
「スーパークリークさんの様子がおかしい、ですか?」
「せや……なんか違うねん。クリークの奴」
「ああ、なんというか、よそよそしいというか……」
いつもの理科室に今日は珍しい二人組が訪れていた。
オグリキャップとタマモクロス。ともに芦毛のウマ娘で彼女たちが心配そうにカフェに事情を話すスーパークリークというウマ娘は共通の友人なのだそうだ。なんでも、スーパークリークは実家が託児所を経営していることから他人を子供のように甘やかすことが好きという少々かわった嗜好を持つウマ娘であり、今までは小柄なタマモクロスなどは特に可愛がられていた……らしいのだが……
「最近、その頻度が減ったっちゅーか……いや、別にそれはええんやけど、なんかな、態度が変やねん。無理しとるっちゅーかな……その事問いただしてもとぼけられてもたし……」
「タマやタイシンの世話もしたいのに、時間が足りない……そんなことをぼやいていた」
「ふむ……それで私たちに相談しに来た、と……」
「私たちも妙な方面で有名になってしまったねえ。別段、探偵の真似事をやりたいわけじゃあないんだが……」
カフェはコーヒー、タキオンは紅茶に口をつけながらオグリとタマの相談に乗る。ちなみにオグリとタマにはミックスジュースを出したが両者とも遠慮なく一息で飲み干した。
「すまん、無理は承知やが協力してくれへんか? お礼にうまいタコ焼き御馳走したるから!」
頭を下げる二人。カフェはそこまでかしこまらないでください、と二人に言うとカップを置き答えた。
「わかりました。やってみましょう」
「ふぅン……全く、カフェはお人よしだねえ……」
タキオンはこんな時、あの岸辺露伴がいれば楽なのになあと内心考えた。このところ、露伴はフランスに取材に行っており不在なのだ。あの『ヘブンズドアー』でクリークの記憶を読めば一発で依頼解決だろうに……肝心なときに使えない男だ。
こうして、カフェとタキオンはオグリたちに頼まれクリークの調査を始めることになる。最初はとりあえずクリークの最近の行動調査から入った。オグリとタマによると、以前からカレーなどの料理を大量に作ってはトレーナーや寮の他の生徒に振舞っていたため、彼女はカフェテリアの冷蔵庫を借りて食材を保存していたそうなのだが、その量が目に見えて増えたらしい。だが、料理を作る頻度は逆に減っている……オグリやタマはそう証言した。
「大量の『にんじん』が入ってますね……でもおかしいところはなさそうです」
「だねェ、『にんじん』は我々ウマ娘が特に好む食品の一つだ」
そこで、カフェとタキオンはその冷蔵庫をカフェテリアに『実家から届いた食品を預けさせてほしい』という名目で許可を取り、さりげなく調べてみたが……クリークの食品が入っている冷蔵庫には特段変わった物は入っていなかった。
……次に、2人が取ったのはクリークと同室であるナリタタイシンへの聞き込み。
「はァ? クリークに最近おかしな行動はないかって?」
丁度カフェテリアの片隅でスマホを弄っているところを突然話しかけられ、困惑気味のタイシン。
「なんでアンタたちそんなこと気にしてんの? まぁ……でも心当たりはあるよ。クリーク、最近夜中にこっそり抜け出してどこかに行ってるんだよ。規則破りなんかするタイプでもないのにさ。クリークはアタシに気づかれてないと思ってるみたいだけどバレバレ」
タイシンは実際に心当たりがあり素直にそれを教えてくれた。夜中に抜け出すというのは……確かに妙だ。クリークは心優しくおおらかで、真面目なウマ娘だとオグリやタマは言っていた。何か事情があるのかもしれない……
これは、クリーク本人をあたってみる必要がありそうだ……二人が、そんな風に相談している時だった。
「おぉ~い、お二人さん! さがしたでーっ!!!」
大声をあげながら手を振りながら近づいて来るのはタマ。オグリもその後から追随してくる。
「こっちでも色々調べてみてたんやが……クリークの奴、最近よく商店街近くの『公園』にいるそうなんや。商店街の八百屋のおっちゃんが見たって言ってたから間違いないで」
「あぁ、あの八百屋の親父さんの眼はすごいからな……いつも新鮮でおいしい野菜が置いてある……」
「こらオグリ! そういうことちゃうやろ! でもあそこの野菜はおいしいし安くて助かる……ってちがうわ!!!」
タマの鋭い突込みがオグリに入り、さらに二段ボケが決まった。
「公園ですか……でもなんでそんなところに?」
「いやな、一人で公園におるわけちゃうねん。なんでも子供を遊ばせとるそうなんや……しかも『夜中』に……」
「夜中に公園で子供を……つながってきたねぇカフェ……」
カフェは顎に手を当て思案する。ここまでの情報をまとめて考えたところ、クリークはその『子供』を密かに世話しているのではないか、という考えにしか行き当たらなかった。しかしなぜ、周囲に隠す必要がある?
「……情報も集まりましたし……こうなったら、クリークさんに直接聞いてみましょう。といっても、無策ではとぼけられるのが関の山です。一番いいのは……夜の公園で直撃する事でしょうね」
「……そうだな。もしクリークが無理をして子供を一人育てているのなら、私たちも協力してやりたい」
「やな。それにこれはウチらが持ち込んだ案件や。最後までウチらも関わる義務がある」
オグリとタマは、お互いに頷き合って。こうして、彼女らもカフェたちと共に『夜中の公園』でクリークに直接会ってみることにした。
「……クリーク、出ていったよ」
夜中の0時を回って。とうに就寝時間も過ぎているころにカフェのスマホにタイシンからの着信があった。
「こんなことに付き合わせてさ……絶対にアタシに迷惑かけないでよね」
「ええ、感謝しています。タイシンさん」
「じゃ、おやすみ」
ぶっきらぼうな返事と共に、通話が切られる。タイシンは素直になれないところもあるが根は優しいウマ娘であり最初こそクリークの行動調査に協力してほしいというと渋りはしたものの、事情を話すと快諾してくれた。
「じゃあ行こうか? 皆、くれぐれもたづなさんや学園の警備員には見つかるなよ。面倒なことになるからな」
「ああ」
理科室に集まっていたカフェ、タキオン、オグリ、タマの4人は行動を開始する。目指すは、商店街近くの公園だ。まずは、密かに学外に出る必要がある。
「……ひえ、まるでなんかの訓練やな……」
「スパイになった気分だなタマ……」
「しっ、静かに……」
植え込みの陰に隠れ、木陰を移動し、グラウンドの隅を通り、警備用カメラの死角を移動し、ウマ娘の脚力を利用して塀を乗り越えて……4人は学外へと抜け出すと、そのまま公園へと駆けていく。オグリやタマは規則破りを普段しないので、不安半分、興奮半分といった風だ。
「……いました。クリークさんです」
それから……公園にたどり着いた4人は情報通りクリークを見つける。その傍らには雨も降っていないのにフード付きのレインコートで身を隠した子供の姿があり、クリークはその子供と一緒に月を見ながらベンチに座ってニンジンをほおばっているところであった。4人は木陰に隠れ、その様子をしばらくうかがう。
「『ルナドロップ』ちゃん、おいしいですか?」
「………………」
「そうですか~。それはよかったです~」
月光に照らされながら慈しむように、レインコートの子供に話しかけるクリークはまるで月の女神アルテミスのようだ。だが、それに見ほれているわけにもいかない。
「よっしゃ、いくで!」
「ああ!ってうわ!!!」
「うわあ、オグリ君押すな!!!」
「わああ!!」
根に足を取られてしまい、もつれあいながらガサガサドタン、と騒がしく木陰から転げ出る4人。
「あ、あら~? オグリちゃん? タマちゃん?」
その様子を見たクリークは、あらあらとやや困ったような声と表情を見せたが……ややおびえた様子の子供の肩をポンポンと叩いて『ちょっとまっていてくださいね』と声を掛けてから、4人の方に近寄ってきた。
「大丈夫ですか~? 立てますか~?」
結局4人はクリークに助け起こされる。クリークはやはり困った顔で見つかってしまいましたね~、どうしましょう~などと呟きながら頬に手を当てている。
「見つかってしまいましたね~じゃあらへんでクリーク。最近様子がおかしいとおもったら……『子供』を育ててたんか?」
「一体だれの子供なんだ……? まさか……」
「ええと、『ルナドロップ』ちゃんはですね……その~」
クリークが、オグリの言葉に言葉を濁す。その時だった。
「あっ、子供が!」
カフェが、子供の方を見やれば子供はぽてぽてとその場から走って逃げようとしていた。
「あっ、『ルナドロップ』ちゃん! 待ってください~っ!!!」
とっさに、クリークが子供を追いかけようとする。しかし子供は、走り慣れていないのか……追いかけるまでもなくその場で躓いて転んでしまった。
「だ、大丈夫ですか! 『ルナドロップ』ちゃん!」
「「「「「あッ……!」」」」
咄嗟に駆け寄るクリーク。だが、子供が転んだはずみで、フードがはずれあらわになったのは。ふわふわとした白銀の髪の毛、真っ白い肌。人と変わらぬ姿かたち。だが……
「あ、ありえない……こんなこと……」
タキオンが、その姿を見た瞬間呟く。子供には……『ルナドロップ』には……『兎の耳』が生えていた。
「『ルナドロップ』ちゃんは……私が山に走り込みに行ったときに偶然見つけたんです」
それから。落ち着いた『ルナドロップ』を膝にのせてあやしながら、クリークは話し始める。
「少し焦げ臭いにおいが山の中でして何かな、と思ったら……まるで映画の隕石が落ちた後のように『小さなクレーター』がありました……その中心に赤ん坊みたいに手足を丸めて、この子はいました。それで、一目見て、感じたんです。この子は私がお世話してあげないといけないって」
「せやかてなぁ……あきらかに……その……」
「あぁ……ありえない……『人間』に『兎の耳』が生えている生物は見たことがない……か、可能なら、今すぐ血液を採取したいッ! DNAの組成を調べてみたいところだ」
タキオンは未知の発見に興奮したように若干震えながら『ルナドロップ』を見やる。これは世紀の大発見だ。『ウマ娘』自体もかなり『不思議』な存在であり科学的に解明されていない事柄も多いが……あきらかにこれは『新種』の生命体だ。しかも人間にかなり近い外見を持っているなどと……
「だめです~! 『ルナドロップ』ちゃんにひどい事だけはしないでください!」
「そんなぁ~、お願いだよ後生だから……」
興奮気味のタキオンから『ルナドロップ』を護るようにめっ!と注意するクリーク。しかしこれで、ようやくクリークの行動の意味が分かった。すべては、この『生き物』をなんとか育てようとしていたのだ。
「しかしこの子、本当に何者なんでしょう……」
カフェは『ルナドロップ』をその黄金の瞳で見つめる。
「こんにちは。お元気ですか」
「わっ、喋った!」
と、ルナドロップはいきなり声を発した。日本語。しかも挨拶だ。が……声はその小さな体躯からは似つかない、大人の声。しかし、ルナドロップはそれから意味の解らない言語をずっと口から発し続け……ついには。まるで『蓄音機』のようにクラシック音楽を始めとしたさまざまな音楽やモールス信号のような音をその口から奏で始めた。
「な、なんだ……これは……」
おもわず、気圧されるオグリ。
「ベートーヴェンの交響曲第5番……まさか……」
しかし、それを聞いていたタキオンはあるひとつの『レコード盤』に思い当たる。
「『ボイジャーのゴールデンレコード』……」
「なんやそれ……」
タマは混乱したように、頭に手を当てながらタキオンに問いかける。
「宇宙探査機『ボイジャー1号』および『ボイジャー2号』に搭載された、金メッキされた銅で作られたレコード盤だよ。アクティヴSETI……つまりはこちらから地球外生命体にコンタクトを取ろう、という試みの最たるものの一つで、その中には様々な言語での挨拶の言葉や、世界各地の音楽、そして写真などが収められていて……現在、ボイジャーは既に太陽系を離れ星間飛行中のはずだが……」
「じゃあ、なにか? この『ルナドロップ』とかいうのは……」
「宇宙からきた可能性が高い……ということになるかもしれないね……もしフェルミのパラドックスやグレート・フィルターをこのルナドロップ君が超えてきたとするなら……WOW!シグナルなんかとは比べ物にならない大発見だ」
「フェルミ……WOW……もうウチ、ついてけへん……」
そして場を、緊張感を持った静寂が支配した。『ルナドロップ』は宇宙人? そんなことが……全員が全員、混乱していた。クリークだけを除いて。
「『ルナドロップ』ちゃんがどこから来ていようと、何者だろうと。今はまだ、親が必要な子供には変わりありません。『ルナドロップ』ちゃん。またおなかがすいちゃいましたか~? にんじん、たべましょうね~」
クリークは『ルナドロップ』に持ってきていたニンジンを分け与える。『ルナドロップ』はそれを受け取って笑顔を浮かべながらポリポリと齧って食べた。『ルナドロップ』はクリークには懐いているようだ。
「……とにかく、どうするべきでしょう……これは……」
カフェはその光景を見ながら思案する。いくらクリークが子供に慣れているといっても、夜な夜なこうして抜け出しては世話をする生活を続けられないだろう。いつか、かならずこの生活は破綻する。そんなことを考えていた矢先、その考えを見透かしたかのようにクリークは言う。
「『ルナドロップ』ちゃんは……『ルナドロップ』ちゃんの事を考えれば、本当の親を探してあげたいんです。きっと、この子は私に懐いてくれていますが、内心は寂しいはずなんですよ。幼い子供にとって『本当の親』は絶対的に頼れる存在なんです。そうでないと、いけない……」
「意外やな。私が育てる~言うて、駄々こねるかと思ったが……」
「私の本心はそうですよ。でも『子供』は『親』のおもちゃじゃないんです……『親』は『子供』の事をちゃあんと考えてあげないと」
おお、いい事を言っている……とオグリが感心したようにつぶやく。
「あなたの本当のお母さんは、どこにいるんでしょうね……?」
そう言って、クリークが『ルナドロップ』を抱きしめた時だった。
「……………」
『ルナドロップ』がふいに、指をさした。満天の夜を。そこに輝く、大きな、丸い月を……
「……『月』に親がおる、そういうことか?」
タマが、そのしぐさに気づいて『ルナドロップ』に問う。『ルナドロップ』はこく、と小さく頷きそれから再び残りのニンジンをポリポリと齧った。
「お月様……そんなの、どうすれば……」
カフェはさすがにこれはタキオンでもどうしようもなかろう、と彼女を見たがタキオンはカフェのその表情を見て、ふふん、と自慢げに笑って……
「できるよ。この子を『月』に戻してやろう。条件にもよるが、最速で……明日の夜かなあ」
自信満々に、そう答えるのだった。
「シャカール君、このプログラムはこんな感じでいいかい?」
「あァ、そんなもンだろ。それにしても、何に使うンだ? こんなのを……オレはテメーの研究データの一部を貰えるわけだし、それでいいがね」
次の日、タキオンはエアシャカールを巻き込んで、ひたすらにPCに向かいプログラミング作業を行っていた。最初こそロケットでも作るのかとカフェは思ったがいくらタキオンが天才と言っても、たった1日でロケットを作り上げてみせるのは不可能だろうな、と考えを改めた。
(一体、何をする気なんでしょう……)
「カフェ~、今日の晩の天気、調べてみてくれないかい? ちょっと手が離せなくてねェ……」
と、タキオンの声が飛んでくる。カフェは手持ちのスマートフォンで言われた通り今晩の天気を調べてみる。
「……ええと、今晩の府中は晴れ。風もなくおだやかで、からっとして過ごしやすい夜になるみたいです」
「ありがとうカフェ~。じゃあ、運が良ければ『今晩』返せるね。シャカール君、君も今晩つきあいたまえよ。多分すごいものが見られるよ」
「あ゛ァ? なんだァもったいぶりやがって……まァ、このプログラムがちゃんと動くか一応、見ておきたいトコはあるからな。言われなくてもついてくつもりではあったさ」
そんなこんなで、時間は過ぎていき……夕方になるとタキオンは生徒会からいくつか実験で使うのだと言って照明用のライトを借り受けた。それを他のウマ娘たちの邪魔にならないように、レーストラック内の中心部に、できるだけ多く並べていく。
そうこうしているうちに、辺りはとっぷりと暗くなっていた。
「おーう、来てやったぜ。なんだァ、他にもゾロゾロいるな……」
シャカールが顔を出したころには、既にタキオン、カフェ、オグリ、タマ、クリーク……そしてレインコートで『耳』を隠した『ルナドロップ』がグラウンド内に集結していた。
「それでは、はじめようか。シャカール君。ライトの制御をお願いするよ」
「はいはい……」
シャカールは自前のPCである『Parcae』を取り出すと、胡坐をかいてその場に座りキーをたたき始めた。すると……
――ガコンッ!
「わっ……明かりが!」
ふいに、トレセン学園全体が停電したかのように明かりが消える。同時、グラウンドに設置されていたライトが空に向けて光を放ち始めた。さらには、一度は明かりの消えたトレセン学園の窓も何らかの規則性をもっている風に明滅し始める。
「……プロジェクションマッピング、ってやつなのか?」
オグリが首をかしげながら、シャカールに問いかける。
「ちげえよ……こいつは一種の信号パターン。簡単にいやあ、モールス信号の光版だな。英語を一定の法則で光の明滅パターンに置き換えてある」
流れるように、パターンを変え、繰り返し繰り返し空へと放たれる光。いったい何のために? タキオン以外の全員が、首を傾げようとしたその時だった。
「オカアサン」
『ルナドロップ』がまるで音声をコラージュしたようなぎくしゃくとした日本語を呟きながら、空を見上げる。つられて、全員が空を見上げれば……そこには直径10Mほどの滑らかな円盤状のなにかが空中十数m上に浮遊していた。音も、風も、気配も、前触れもなく、それは、突然そこに現れたようにしか思えなかった。
「うわっ、UFOだ!!!?」
オグリがびっくりした!という風に声を上げ、思わずタマもそれに見入って突っ込みを忘れる。カフェ、シャカールも同様だ。
「……ボイジャーのゴールデンレコードには『英語』で、レコードの使い方の説明と、時のアメリカ大統領と国連事務総長のメッセージが添えられていたからね。それが解読できたのなら、このメッセージだって容易に解読できるはずなんだよ……」
それに、トレセン学園は超マンモス校だ。もし、それが明かりを消されれば『町の一画』から光が消えたも同じ。今の地球の最新鋭の偵察衛星は軌道上から新聞の文字が読めると言われているのだから、惑星間航行ができる技術さえあれば十二分に月から観測することも可能……タキオンはそう考えて、光でメッセージを送ったのだ。目を見開き、空に静かにたたずむUFOに興奮の視線を向けるタキオン。今、彼女の中ではあれにどういったテクノロジーが使われているのかその外観から少しでも読み取れないかと思考がすさまじい速さでめぐらされているのだろう。
「……オカアサン」
「『ルナドロップちゃん』!」
ふいに、クリークの隣にいた『ルナドロップ』の身体がふわりと浮き上がる。同時、宇宙船の船底が音もなく滑らかに開き。
「『ルナドロップ』ちゃん! 元のお母さんのところに戻っても……『いい子』にするんですよ!これは地球のお母さんとの約束です!」
クリークが、浮上していく『ルナドロップ』に向けて名残惜し気に手を伸ばす。『ルナドロップ』もクリークに向けて、その手を伸ばして……
「アリ……ガト……ウ……『オカアサン』」
「『ルナドロップ』ちゃん……!」
最後にそう言って、船底から宇宙船の中へと消えていった……それからコンマ1秒も経たぬうちに。最初からそこに何もなかったかのように。宇宙船は消え去り、空には満天の星と、大きく輝く月だけがあって、静かに校庭を見下ろしているのみであった。
翌日。
タキオン、そしてシャカールは『実験』で『学園全体を停電させた』として生徒会室に呼び出され、大目玉を喰らった……が別段二人はそんなことでへこたれたりはしない。むしろシャカールなどはこれも織り込み済みで、それでもタキオンの研究データを手に入れる方を優先したのだ。
「『ルナドロップ』ちゃん……」
「まだ、寂しいか? クリーク」
練習中、ふと呟いたクリークにオグリが話しかける。近くで柔軟をしていたタマも、むう……とその様子を見て。
「いいえ、これでよかったんです。『ルナドロップ』ちゃんはきっと今頃、お母さんにいっぱい甘えて、いっぱい美味しいご飯を食べているはずですから」
「と、いうてもなァ……」
むうん、と心配げにクリークの顔をみやるオグリとタマ。そして……
「……今日は久しぶりに、クリークのカレーがいいな」
ぐう、と想像しただけで腹を鳴らすオグリ。せやな、とタマはそれに同調して。
「……そうですね~。最近、オグリちゃんとタマちゃん、それにトレーナーさんのお世話ができてませんでしたから。よ~し、今日は腕によりをかけて、カレーを作っちゃいますよ~~~~!」
こうして、一夜のふしぎな体験は幕を閉じ。日常が再び戻ってきた。
その日の晩、オグリとタマ、そしてトレーナーはひたすらにクリークに『可愛がられた』のは言うまでもない。
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#011『目覚まし時計』
「……なんでトレーナー君が解任されるんだッ!!!」
その日、生徒会室に呼び出されたアグネスタキオンは、生徒会長シンボリルドルフから言い渡された言葉に、顔面を蒼白にして叫んだ。
「悪因悪果というモノだよ……アグネスタキオン。
私としても、秋川理事長としてもこうはしたくなかったが、もはや理事会を抑えきれない……すまない、私の力不足だ
」
アグネスタキオンの常日頃の行いは、普段から生徒会、そして学校理事会に問題視されていた。理事長秋川や生徒会長ルドルフはタキオンの行動を常日頃かばいだてしていたが、ついに理事会にて一部の理事から議題が提出されてしまう。いつまであのウマ娘を好き勝手させておくのか。他の生徒にこのままでは示しがつかない。彼女自身の『退学』もしくは、管理能力不足としてトレーナーの『辞任』……どちらかが迫られ、トレーナーは悩むことなくタキオンを守るために『辞任』を選んだのだ。
「そんなバカな話があるかッ!!!!」
生徒会室を飛び出していくタキオン……一人取り残された部屋でルドルフは呟く。
「君に鰥寡孤独を味わうような結末を迎えてほしくはなかった……」
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #011 『目覚まし時計』 ◆◆◆
――ジリリリリリリリッ!!!
――ジリリリリリリリッ!!!
――ジリリリリリリリッ!!!
――ジリリリリリリリッ!!!
「……ハッ!?」
理科室の机で突っ伏して眠っていたタキオンは、けたたましい騒音で目覚めると同時にバクバクと高鳴る心臓の鼓動を感じながら冷や汗でじっとりと濡れた額を袖で拭った。
「夢……?」
なんという夢だ。トレーナー君が『解任』されてしまう夢なんて。冗談ではない。縁起でもない。まったく心臓に悪い――。
「なんですか、この音……メチャクチャうるさい……
いつもそんなに目覚まし時計かけてるんです……?」
その時、理科室に入ってきたのはマンハッタンカフェ。入って来るなり顔を顰めた彼女は、タキオンの机に置かれた四つもの目覚まし時計を凝視する。タキオン自身もいつのまにこれほど目覚まし時計をかけたのか、理由が思い出せずとにかく四つ全部の目覚ましを止めた。
「す、すまない……」
「今日は妙にしおらしいですね……?」
いつものタキオンなら、なにかしらの理屈をつけるのに……カフェはそう思いながら、いつもの席にいつものようにつく。
「いや、少し妙な夢を見てね……そういえば最近、トレーナー君にも寝不足気味だとたしなめられていたな……そのせいかもしれない……だが、最近研究がいいところまで進んでいてね……ふぁああ……」
「研究が進むのはいいですけど、目の下にクマができてますよ……そろそろベッドでちゃんと眠ったほうが」
「ああ……わかってる……」
……タキオンは寝起きで少しぼーっとする頭をキックするために、そしてそれ以上に、未だ早鐘を打つようにどくんどくんと脈打つ心臓を抑えるために、紅茶を入れる準備を始めた。今日は週のちょうど真ん中である『水曜日』だ……週末までもっとも待ち遠しくなる時間だからな……変な夢も見るかもしれない……などとタキオンは考えた。
……その日は、そのままいつもと変わらず過ぎていった。昼にはトレーナー君の弁当で腹を満たし午後にはトレーナー君には悪いが今日は研究完成までもう少し。トレーニングには出ずに、自身の研究を優先させてもらう。そして夕方……
「アグネスタキオン、ちょっといいか」
生徒会副会長、エアグルーヴが珍しく理科室を訪れ。
「おや、副会長さんが私に何のようだい?」
「生徒会長から重要な話があるという事だ。いますぐ生徒会室に顔を出してくれ」
有無を言わさず、と言う風にタキオンに視線を向けるエアグルーヴ。その視線は厳しいが、同時に憐みのようなものも感じられた。どくん――ほんの少しだけ、タキオンの鼓動が早まる。なんとなく、あの夢を思い出して、嫌な予感がした。
「……なんでトレーナー君が解任されるんだッ!!!」
そして、生徒会室に呼び出されたタキオンは、生徒会長ルドルフから言い渡された言葉に、顔面を蒼白にして叫んだ。君のトレーナーは指導不行き届きで解任されることになった、と。
「悪因悪果というモノだよ……アグネスタキオン。
私としても、秋川理事長としてもこうはしたくなかったが、もはや理事会を抑えきれない……すまない、私の力不足だ」
「え……?」
ルドルフのその言葉には、聞き覚えがあった。一言一句、夢で見た言葉と変わらない。
「受け入れがたいだろうが、これは理事会の決定だ。
今週中には、トレーナー君はトレセン学園のトレーナー免許をはく奪される。
それ以降は、別のトレーナーを探すか――」
「こ、これは夢だ……そうなんだろう……夢の続きを見るなんて、珍しいな……はは……」
「信じがたい気持ちは分かるよ……一蓮托生……まさに君とトレーナーは強い信頼で結ばれていたから。こんな結果になって、私としても残念だとしかいいようがない……すまない……」
ルドルフが、頭を下げる。しかしタキオンはふらふらと生徒会室を後にしようとしていた。これは夢だ。夢なんだ。夢に違いない。そうだろう。
――ジリリリリリリリッ!!!
――ジリリリリリリリッ!!!
――ジリリリリリリリッ!!!
「……ハッ!?」
理科室の机で突っ伏して眠っていたタキオンは、けたたましい騒音で目覚めると同時にバクバクと高鳴る心臓の鼓動を感じながら冷や汗でじっとりと濡れた額を袖で拭った。
「夢……?」
なんという夢だ。トレーナー君が『解任』されてしまう夢なんて。冗談ではない。縁起でもない。まったく心臓に悪い――いや、まてなんだこれは。おかしいぞ……タキオンは、言い知れぬ違和感を覚えながらけたたましく鳴る三つの目覚まし時計を止めた。
「タキオンさんッ……」
と、カフェが血相を変えて理科室に飛び込んでくる。
「カフェ……すまない、今は君にいてほしかったところだ……」
「その様子だと、タキオンさんも気づいているんですねッ……!」
「え?」
タキオンは、心細さからカフェにそばにいてほしいと思った。しかし、カフェは何か違う事柄で彼女なりに慌てている風で……
「どうしたっていうんだ……一体……」
「タキオンさん、私たちは『水曜日』を繰り返していますッ!」
「な、えぇ……?」
タキオンはそう言って、論文を書くために開きっぱなしにしていたノートPCの日付に目をやる……『水曜日』。確かに日付は変わっていない。
「そんなばかなカフェ~……確かに私のノートPCも時計がくるっているようだが……こんなの……」
そういって、タキオンは適当にブラウザを立ち上げニュースサイトなどをいくつか確認した。水曜日、水曜日、水曜日、水曜日、水曜日。どこのサイトも表記はそうだ……
「こ、これはどうなって……じゃ、じゃあ、あの『夢』は『実際』に起きていたのかッ!?」
「タキオンさんの『夢』の事は分かりませんが……私はえーと、便宜上『昨日』とします。全く同じ一日を体験したんです。同じ授業。同じ展開。同じ会話、同じレース……これは私たちがなんらかの『怪異』に巻き込まれたとしか思えないッ!」
ほぼ一人理科室で過ごしたタキオンとは違い、真面目に授業に出ていたカフェはまざまざと『繰り返し』を見せつけられたのだろう。
「ほかの生徒に聞いても、怪訝な顔をされるだけでした。ですがタキオンさんはこの『繰り返し』に巻き込まれたことに気づいている……他にも、『繰り返し』に気づいている人物がいるかもしれません……探してみま……」
そこまで言って、カフェは気づく。タキオンが頭を抱え、がたがたと震えていることに。
「ど、どうしたんです……タキオンさん……!」
「じゃ、じゃあ……トレーナー君が……『解任』されるのは……本当の……!」
荒い息をつき、熱病患者が如く滂沱の様に汗をかくタキオンの様子は尋常ではない。カフェはまず、タキオンを落ち着かせるべく、自身のソファに彼女を寝かせ、その手を強く握って大丈夫ですから、と声を掛け続けた。どうやら、彼女のブツブツと呟く言葉から察するにタキオンのトレーナーはこのままだと『解任』されてしまうらしい。
「大丈夫です……大丈夫ですから……きっと……
ですから、この繰り返しを阻止しましょう。タキオンさん……
そして、そんな未来もどうにかしましょう……」
「あ、ああ、そうだね……」
しばらくして、いくらかタキオンは落ち着いたが、それでも大丈夫なようには思えない。今回に関してはタキオンの助言は期待できないかもしれない……だがこういう時こそ、自分がしっかりしなくては。カフェは一人で行動を開始する。とりあえず、カフェは『怪異』であるなら自分の霊感に何かひっかかるものがあるかもしれない……そう思って、精神を集中した。すると、すぐにおかしなものが感覚に引っ掛かる。
「目覚まし時計……?」
タキオンのテーブルの上になぜか『三つ』おかれている目覚まし時計からすさまじい何かを感じる。確実に『怪異』の原因はこれだ。そういえばこんな目覚まし時計、いつからこの理科室にあった?
「これが……」
カフェは目覚まし時計を手に取ってみる。外目には別段、変わった様子はない。
「それが……原因なのかい、カフェ……」
「ええ、ですがタキオンさんは体調がすぐれないなら少し横になっていてください」
「大丈夫だ……そう。行動。行動しなくては……」
「いえ、タキオンさん……休息すべきです。顔色が悪いです」
カフェは明らかに無理をしているタキオンを気遣い、声を掛けた。
「うるさいッ!!!!」
しかし、タキオンは押し問答の果てにヒステリックに声を荒げる。いつもの理知的な彼女には見られない、衝動的な怒り。瞬間、カフェは妙な気配を感じた。
「あ……すまない、カフェ……本当に、私は参ってしまっているらしい……」
「いえ、気にしてませんよ……とにかく休んで……」
そういうと、タキオンはソファに戻って横になった……しばらくすると、すぅ、すぅと寝息が聞こえてくる。無理もない、このところのタキオンは研究づくめでほとんど眠っていない風であったのだから。カフェはタキオンの体が冷えないように、ブランケットを掛けてやった。
――ジリリリリリリリッ!!!
――ジリリリリリリリッ!!!
「……ハッ!?」
理科室の机で突っ伏して眠っていたタキオンは、けたたましい騒音で目覚めると同時にバクバクと高鳴る心臓の鼓動を感じながら冷や汗でじっとりと濡れた額を袖で拭った。
「タキオンさん……」
と、既にソファにいたカフェが声を掛けてきた。タキオンはテーブルに『ふたつ』あった目覚まし時計を止めるとカフェに話しかける。
「教えてくれ、カフェ。これは夢なのか? 現実なのか?」
「……わかりません。しかし、今日が『水曜日』であることは確かです……」
カフェは、お手上げという風に首を振りながらぽつ、ぽつと話し始める。
「『昨日』はタキオンさんが寝入ってから、『怪異』方面でなんとかできることはないかと方々を走り回ってみました。図書館でそれらしき本を読み漁り、フクキタルさんの占いを受けてみたり……コパノリッキーさんの風水にも頼ってみたのですが……だめです。また、『水曜日』が来てしまいました」
「………………」
タキオンは、一瞬。今日という日がこのまま過ぎ去らなければいいと思った。そうすれば……トレーナー君が解任されるという未来は来ない。
「……?」
その時、カフェはふと気づく。
「タキオンさん……目覚まし時計から感じる力が強くなってます。
それに……おかしくありません? 目覚まし時計」
「え?」
タキオンはカフェに言われて気づく。力云々はわからないが、確かに何か違和感がある。そうだ、目覚まし時計の数が減っている。『昨日』は三つあったはずだ。それが二つに減っている。たしか、その前は四つあったような気もする……
「そうだ……目覚まし時計が減ってるぞ……これは……何かヤバイッ……
目覚まし時計がなくなると、いったいどうなる……理屈ではないが、全身が粟立つような戦慄を感じるッ!」
「……私もそう感じます。この目覚まし時計がなくなった時、なにか……何か取り返しのつかないことがおこってしまう……」
「……とするなら、すぐさま行動開始だ……考えろ……考えろ……この『繰り返し』を抜け出すにはどうすればいい?」
カフェとタキオンは、額を突き合わせて考えはじめる。さすがのカフェも、今日は授業を欠席して対抗策を考えることにひた走った。
「量子泡ワームホール理論、素粒子タイムマシン、宇宙ひも理論……クソ……どれもまだ実用化できるような段階に達していない。どういう理屈なんだ? そもそもこの目覚まし時計は……」
タキオンはいくつかの学術書を図書室からとってきてぱらぱらと速読したが、役に立たないとばかりにすぐに積んで、それからなんということか、目覚まし時計をばらし始めた。
「ええっ、大丈夫なんですか……?」
「大丈夫さ、たぶん……」
だが、目覚まし時計をばらしたところで内部に妙な機構などは認められず、結局タキオンはそれを元通り組み立てるに至り。
「ッ……このままじゃ、トレーナー君が……!」
タキオンが、いらついたようにドン、と机をたたく。その瞬間だった。カフェは、目覚まし時計から感じる力の強さがより増したように感じた。
(…………もしかしたら)
カフェはそれを見て、一つの仮説を思いつく。が、それにはピースが足りない。決定的なピースが。カフェは、意を決してタキオンに対して口を開く。
「タキオンさんは……トレーナーさんの事をどう思っていますか?」
「……いきなりどうしたんだい、カフェ」
少し戸惑ったように、タキオンが作業の手を止める。
「ですから、タキオンさんはトレーナーさんの事をどう思っているのですか、とお聞きしたんです」
瞬間、タキオンは明らかに動揺したように目を伏せた。どうこたえるか、迷っているかのように。
「……彼は優秀なモルモットだよ。私に尽くすことがなんらかの――」
タキオンは、ハッ、何を言っているんだいという態度を取りいつものように饒舌に話し始める。しかし、カフェはその言葉を早いうちに遮った。
「タキオンさん、ごまかさないで。本当のことを言ってください。
トレーナーさんと離れ離れになることが、そんなに『怖い』ですか?」
「………………」
短い沈黙。そして。
「ああッ! 本当のことを言ってやるッ! 恐ろしいさッ! トレーナーくんは、本当に『狂った瞳』で私を見出してくれた! 私は、そんなトレーナーくんに『狂わされた』んだよ……! 私の世話を見られるのはトレーナー君しかいない! 私は! トレーナー君と一緒に! トゥインクルシリーズを戦い抜くんだッ!!!」
感情を吐露するタキオン。既に、彼女にとってトレーナーはただのモルモットではなく、カフェと同様の大切な存在となっていた。
「やっぱり……」
そんなタキオンの様子を見て、カフェは二重の意味で頷く。一つは当然、彼女の感情が自分の推測するそれと同じだったこと。そして、もうひとつ。
「この目覚まし時計に込められている『情念』は……おそらくタキオンさんのものです」
「何……何を言って……」
タキオンが感情を吐露したとき、カフェは目覚まし時計の力が強くなるのを感じた。
「きっとこの目覚まし時計にはタキオンさんの『トレーナーさんと離れ離れになりたくない』。そういう『情念』が込められているんです! だから、『未来』に進むのを嫌がってなんども『水曜日』をループしている……」
「そ、そんな、ことが……」
「ですから、この『繰り返し』から脱出するには『未来』に進む意志がなければならない。
つまり、『トレーナーさん』が『解任』されなければいいんですよ」
大真面目にカフェはそういうと、タキオンの耳に解決策を囁いた。
――ジリリリリリリリッ!!!
「……ふわぁ~~~~~~、もう朝かぁ……よく眠ったなあ……」
理科室の机で突っ伏して眠っていたタキオンは、けたたましい騒音で目覚めると同時に大きく伸びをした。時刻は7:00ジャスト。制服のまま眠っていたタキオンは、ぱっぱと傾いたリボンやだぶついたソックス、寝ぐせのついた髪を直し身だしなみを整える。
それから、お気に入りのサバラガムワの茶葉で紅茶を入れ朝食として適当にエナジーバーを齧ると、授業へと向かった。
「あれ……今日タキオンさん来てる……珍しいね」
「ほんとだ。珍しいねえ……」
ひそひそと同じクラスのウマ娘が噂するのをしり目に、タキオンは授業から10分前にクラスに姿を現した。一限目は数学、二限目は国語、三限目レース論、四限目英語……それら午前中のカリキュラムを、ごくごく真面目に受けていく。
「優秀ッ! どうです、タキオンくんは。たしかに若干の素行不良はありますがッ! 勉学の成績は優秀で、彼女の論文はすでに海外で高く評価されているぞッ!」
そんなタキオンの姿を理事会の数人にみせているのは、秋川理事長だ。そしてその午後……
「トレーナー君、今日は調子がいい。模擬レース、あと何本でもいけるぞ」
「ちょ、待って……無理……速すぎ……」
「タキオンさんの『流し』に遅れずついていくので精いっぱい……」
トレーニングトラックに姿を現したタキオンは、まさに絶好調といった風で同学年のウマ娘たちを撫で切りにぶっちぎっていた。
「どうかな、まさに彼女は光速のプリンセス……
生半可なウマ娘では鎧袖一触、蹴散らされるだけの実力を兼ね備えている」
そういって、理事会に解説を行っているのは生徒会長ルドルフ。そう、カフェは理事長たちに協力を仰いでいかにタキオンが優秀な生徒かを実際に説明しようとしていたのだ。
その結果……
――ジリリリリリリリッ!!!
「ふぅわああああ……朝かぁ……ハッ」
己のベッドで目覚めたタキオンは、スマートフォンを使って日付を確認する。日付は……『木曜日』。
「どうやら、最悪の未来は回避されたらしいな……」
タキオンは、寝床から出るといつものルーチンを開始する。制服に着替え、髪を整え、朝食をとって……授業に出る。タキオンは、以前よりもかなり『自己管理』に気を付けるようになった。とはいえ多少はまし、といった程度でまだまだ授業に欠席も多いし、徹夜研究もしょっちゅうだが……
「まったく、私も『狂わされてしまった』ねえ……本当に……」
その日の一限目の授業を受けながら、タキオンはふと、窓からグラウンド端にあるトレーナー室の方を見て呟く。
「どうか君も色あせることなくあの日の『狂った瞳』のまま私を見つめてくれよ……トレーナー君」
あの日の誓いがある限り、私は君に『解』を返し続けるから。
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#014『昇れ、私の太陽よ』
「おはよう世界ッ!!!はーっはっはっはっ!!!!!!!!!」
その日も、テイエムオペラオーは睡眠からの覚醒と同時にこの美しい世界に対して敬愛の情をもって呼び掛けた。世界はオペラオーを生み出した偉大なる存在であり、そしてオペラオーの美しさをあまねく受けるに値するからだ。
「ああ、ジョセフィーヌ……今日も美しい僕をその身に映しておくれ」
オペラオーは愛用の手鏡『ジョセフィーヌ』を取り出すと、それににっこりと笑いかけ髪の毛を櫛ですく。髪の乱れた僕も美しいが、これはもう完璧だ。完璧に輪をかけて完璧だ。美しさしかない。ここに神殿を建てよう。美の神ヴィーナスとアフロディーテ、そしてオペラオーを祀る神殿を建てるのだ。
等とオペラオーが自分に見ほれているうちに時間は過ぎ、そろそろ授業が近づいてきた。一限目は国語であったか。勉強はオペレッタとは違って物語性がなく、展開が平坦でつまらないが国語は物語が読めるのでそれなりに面白い。欲を言えばトゥーランドットやセビリアの理髪師などが扱われればいいのに。
そう考えながらオペラオーはパジャマから制服に着替える。朝食はローズティーとクロックムッシュ、サラダにしようかな……などと考えつつ、ソックスに足を通すときにオペラオーは気づいた。己の右膝が痛みはないが青黒く変色してひどく腫れてしまっていることに……
「これはッ……ああ、どうしたことだろうか? 眠りの精の魔法にかかっているうちにぶつけた……にしてはおかしいね。昨日のトレーニング中に痛めてしまったのだろうか……?」
これは授業は中断して、まず医務室に赴きそれから我が理髪師であるトレーナー君に意見を求めるべきだろう……王とて全能ではない。時には臣下の忠言を聞き入れることも名君の証である。ルートヴィヒ2世になってはならないのだ。
その時だった。
「ゲヘヘ……お嬢ちゃんよォ……びっくりしているようだなぁ?」
「おお、このジョナサン・ワイルドが如き悪辣な声はいったい!?」
男の声。本来、ウマ娘寮は男子禁制でありトレーナーすら立ち入るには特別な許可が必要であることは学園関係者であれば周知の事実だ。オペラオーはその鋭敏な耳を動かし、どこから声が響いたのかを見極めようとした。
「ここだよォ……ケケケ……おまえの『膝』さぁ……!」
「おわあ!?」
その声は自身の腫れあがった膝から響いていた。よくよくみると、膝のあざには顔めいたものがあり、どういう仕組みになっているのか皺を口の様に動かしてなんと言葉をしゃべったのである!
「人面瘦……聞いたことはねえかなあ? お前に憑りついたんだよ!
お嬢ちゃん……ウマ娘ってやつみたいだな……ケケケ……一度憑りついてみたかったんだ。
これから、お前の人生をめちゃくちゃに――」
人面瘦――人間に憑りつく妖怪。あるいは奇病。顔のようなできものができ、それは言葉を話したり飲み食いをしたりして最終的に宿主を殺してしまう事もあるという。
「なんと!!!素晴らしいッ!!!」
「え?」
だが、オペラオーは人面瘦に対して、感激した様子で話しかけた。
「君は美しい僕をうらやむあまり、僕の身体と一体化するほど激しく僕を思ってくれたのだね!?
王は私のもの!そう叫びたまえよ!僕はキャサリン王妃ではない、君を歓迎しようッ!!!!」
「え……何……ち、違うッ! もっとこう、あるだろ!
怖いとか、気持ち悪いとか……!」
人面瘦は戦慄した。この少女は今まで憑りついてきた人間とは根本的に違うタイプだ。完全に話が通じる気がしないし何を言っているのかもよくわからない。
「しかし人面瘦というのは少し名前が言いづらいな……この僕が君のゴッドファーザリエンヌになってあげよう。メフィストフェレス……これも仰々しいか。ギロ……フリッツ……フフフ……何にしよう……」
人面瘦は戦慄した。少女は怖がるどころか、嬉々として。まるでペットか何かのように自分に名前を付けようしている。こんなことは初めてだ。どうすればいいのだ。
「そうだなぁ。イヴァン、シェラスミン、ルイス、ベルトランのうちのどれか一つを選びたまえ!!!!」
「な、なんでそんな事!!!」
「なるほど、どれも選べないというのかい? もしや……君の名は!
そうか! 『愛』だ! 君は『愛』そのもの! この者の名前は『愛』だーーーーッ!!!!」
「イヴァンで……」
憑依してから3分で後悔したのは初めての経験だ。とりあえず人面瘦は『愛』と名付けられるのは死んでもごめんだったので、一番名前が怖そうなように思えたイヴァンにした。
「ではイヴァン君! さっそくだが授業に赴こう!」
人面瘦はさっさとこの宿主を呪い殺してやろうと思った。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #014 『昇れ、私の太陽よ』 ◆◆◆
学園の制服はハイソックスであり膝が隠れるため、とりあえず膝の腫れは誰にもバレることはなかった。人面瘦としてもさっさと切除されたりしては困るためこれはむしろしてやったりで、どうやってこの小娘をぎゃふんと言わせるかを授業中考える。
(とりあえず……今はこの小娘の膝で『もっと大きくなる』事が重要だ。その為には飯がいるな……最終的に、そうだこの娘は『ウマ娘』だったな。レース場でわざと転倒させてやるのもいいか……ククク……)
そうこうしているうちに午前中の授業が終わり、人面瘦の鼻にかぐわしい匂いが漂ってきた。どうやら、このオペラオーとかいう小娘は昼食を取るためにカフェテリアかなにかに来たようだ。となれば、食べ物は大量にある。こっそりと呪力で盗み取って……
「イヴァン君! 今日はごちそうだぞ! 購買の超人気商品である焼きそばパンが手に入った!」
と、ソックスが少しめくられて。差し出されたのはビニールでラップされた手製の焼きそばパンであった。なんとこの小娘は自分から食物を差し出してきたではないか。
「な……いいのか? 俺に飯を与えてよォ……だが出されたモンはいただくぜ」
「『王』は『太陽』のようにあまねく臣民を照らさなければならないのだ。たった一人の従者の腹すら満たせぬようでなにが『王』であろうか? 音楽は心の糧だが、腹を満たし、戦いに備えるにはちゃんとした食事が必要なのだね」
「ふーん……何でもいいけどよォ……」
などと食事をしているうちに、人面瘦は気づく。オペラオーは何も食べていない。
「嬢ちゃんは飯、食わねえのか?」
「あいにく、君に渡した焼きそばパンで手持ちが尽きてしまってね。
といっても、ラインの黄金に手を付ける気はない。赤くたぎり、炎の如く熱く、火ではないものが僕の中で燃えているからね。大丈夫だよ」
「なんだそりゃ……」
人面瘦はこの小娘に憑りついてから困惑しきりだ。まさか自分の分を完全に分け与えてくれるとは。言っている意味はよくわからないが。
「それは血潮だよ。イヴァン君」
「は、はぁ……」
ペースをかき乱されっぱなしの人面瘦。だがとりあえず飯を食い、よりこの小娘の身体に食い込むことに成功した。この調子であれば最終的には小娘の身体を乗っ取ってやることもできる……
「フン……不運な娘だ」
(今に見てろよ……)
そうつぶやいた時だった。
「あーーーーーっ!!!! 『泥棒かささぎ』の一節じゃないか!
まさか君がロッシーニを知っているとはね! さすが僕と一体になろうとするほどの者だ!
イヴァン君! もう我慢できない! オペレッタをはじめよう!!!」
「えっ!?」
完全に偶然であったが、どうやらオペラの一節と偶然同じセリフを呟いてしまったらしい。テンションがガンアガリしたオペラオーは……
「主演、僕! 演出脚本、僕! 珠玉の歌劇をいまここに開演するッ!!!!」
「な、なんなんだァ―ッ!?」
こうして、オペラオーはその場でほぼ即興で五時間にわたるオペラを繰り広げた。その間完全に立ちっぱなしで、人面瘦は完全に疲れ果ててしまったが、半分はオペラオーのノリについていけないことが原因であった。
「……おはようトレーナー君ッ!!! すまない、昨日はつい、オペレッタに熱が入ってしまったッ!!!! 今日は真面目にトレーニングするとするよ。ジャパンカップも近い事だしね……」
次の日。完全にトレーニングをすっぽかしてしまったオペラオーは、今日一日をトレーニングにあてることにしたようで、朝から柔軟体操やアップに時間をかけていた。
(しめしめ……トレーニングということは、なにか『事故』が起こっても不思議じゃあない……ブッ殺してやるぜ……)
「まずは、軽く学園の周囲を流すかな……そのあとダッシュと坂路、併走多めで……ウェイトに……座学で他のウマ娘の傾向と対策……ふむ。今日は比較的軽めのメニューだね。レースに向けての調整ってわけか」
そう言って、では行ってくるよ……とまず学園の周囲のランニングから入るオペラオー。しかしそれが、人面瘦の地獄の始まりであった。
「ぜぇーっ! ぜぇーっ! ま、待ってくれ……息が……」
「ダメだ。僕の従者になるということは、最低限僕についてこられなければならない。
これは君のためでもあるんだ、イヴァン君! 僕は心を鬼にしてトレーナー君や、君と共に勝利を掴むぞ! 勝利だ! 勝利するのだ!!!」
「ぎ、ぎえーっ!!!」
オペラオーの体力消耗は、一心同体である人面瘦にも伝わる。これほどの運動をしたのは人面瘦は初めてであり、まだ全体メニューの1/3をこなした程度で、ほとんど拷問めいていた。これを軽いと言っているのだからこの小娘は普段どれだけの練習を積んでいるのか?
それに……
「ドトウ。併走トレーニングもう一度だ。僕を倒すつもりで来てくれ!
メルキシュオに斬りかかるティボルトが如くね!!!」
「ふええ~……ど、努力しますう……」
このオペラオーという小娘は……『天才』だ。その実力はあきらかに他のウマ娘より抜きんでている。併走相手のメイショウドトウという『ウマ娘』も他を寄せ付けないすさまじい実力を持っているが、それをもってしてもなお一枚上手を行くオペラオーは、そう形容せざるを得ない。
(お、俺……もしかして大変な奴に憑いちまったんじゃあねえか……?)
その夜。
「はーっはっはっはっ!!! やはり浴場を利用するのは少し遅いタイミングに限るね。見たまえ! このうち沈んだような静寂を! 誰もいない。『王』たる僕だが一人リフレッシュしたいこともあるのさ!」
「メチャクチャうるせえよ! 一人なのに!」
タオルを巻いたオペラオーの声がガンガン響く寮の大浴場。この時間帯は誰もいないため、オペラオーはよく利用するのだ。どばあ。当然の如く、湯船にぶちまけられるバラの花びら。
「ふう……で、どうだね。イヴァン君。覇王の臣下となっての日々は……」
「どうもこうもねえよ! めちゃくちゃだよ! 俺の計画が……」
「またロッシーニかい? ちなみに僕の計画は用意周到だよ?」
もういいです、とばかりに意気消沈する人面瘦。
「……しかし、僕は幸運だ。我が理髪師たるトレーナー君。ドトウ、アヤベさん、トップロードさんという宿命のリヴァルに彩られた歌劇に、更にイヴァン君という従者が加わった。これはもはや運命の力だな。太陽さえ征服できるんじゃあないか?」
「……なんでおめぇ、そんなに他人に気を配れるんだ? 頑張れるんだ?
正直よォ、『降りた』方が、幾分か楽だろ。この生き方」
と、ふと人面瘦は漏らした。あれからオペラオーの生活をずっと見ていたわけだがオペラオーの努力は群を抜いている。たまに抜けたところもあるが、美と才能を磨き上げる努力を怠らず、一見傲慢に見えながらも、自分だけでなく他人を見て、それでいて他人に対しての敬意や称賛を惜しまない。そして、そのうえで……『勝つ』。それは……決して常人にはできない、狂気的なまでの。まさしく『王の道』なのだ。なぜそれを歩めるのか? 人面瘦はそう問うた。
「分かり切ったことを聞くね。何故なら僕は『オペラオー』だからさ。楽だから、なんて理由で人生というオペラから退場するなんてことは到底ぼくにはできない。僕の美しさをあまねく臣民に届け、勇気づけることが僕の宿命なんだよ? ああ、何たる崇高な使命か! そしてそれは『オペラオー』にしかできない!」
普通の人間であれば、冗談で言うところをこの小娘は本気でやっている。まるで歌劇の登場人物の様に。いや、この小娘はある意味では歌劇を演じるついでに人生をやっているのかもしれない。
「……おめえと話すと、こっちまで恥ずかしくなっていけねえや」
人面瘦は、そう言ってぶくぶくと口で泡を立てた。同時に、人を呪い殺すことばかり考えていた自分の矮小さに恥ずかしくなる思いがした。
それから、トレーニング漬けの日々が続く。最初こそ、毎回悲鳴を上げていた人面瘦も多少ならばついていけるようになってきた。
「ぜぇ……はぁ……嬢ちゃんよ、次は何だっけ? 縄跳びか? エアバイクだっけ?」
「次は模擬レースかな。縄跳びとかはその次だ。もうジャパンカップが近い。とにかくレース勘をつけていく」
ジャパンカップ。名誉あるG1レースというモノの中でも最高峰で、競バを知らなくてもその名を聞いたことがある有マ記念よりも格式が高いとされることもあるレースらしい。そんなレースに……オペラオーは出場する。しかも。
「次勝てば、七連勝か……」
一つ勝つだけでも難しく、多くのウマ娘たちがその栄冠に届かないG1を七連勝は異次元の領域。俺も大変な奴に憑いちまったなあ……と人面瘦はそう聞いて改めてその思いを強くした。同時に、自分が何をしたいのかわからなくなってきた。自分は……宿主を呪い殺して生きる怪異だ。つまり、生きるためにはオペラオーに害をなさなければならない。しかし、もっとこの娘の活躍を見たいと思ってしまっている自分がいる。
(どう、すればいいんだろうな……)
人面瘦は、メイショウドトウの方に歩み寄っていくオペラオーの膝に宿ったまま、一人考え込んだ。
そして、ジャパンカップの日。出走前に、オペラオーはトレーナーの前で演説した。
「ジャパンカップが来るたび。今日から世界が終わる日まで、皆が『我々』の事を思い出すだろう。我々、幸福な少数の兄弟のことを。今日、共に汗を流す者は私の兄弟である!」
その言葉を聞きながら、人面瘦は決意した。この娘の行く末を見極めてやろう、と。呪い殺すのはしばらくお預けだ。別にすぐにそうしなくてもいいんだから。
……そうして、レースが始まった。
圧倒的一番人気のオペラオー。しかし、既に敵なしの勢いで進撃してきた王を他のウマ娘は警戒し、ブロックする。中々順位を上げられないスローペースの展開。オペラオーは焦れず、バ群の中であくまで冷静に成り行きを見守っている。
「じょ、嬢ちゃんこんなので大丈夫なのかッ……!」
「ああ……問題はないッ! 『王』は『当然のように勝ってこそ王』なんだからな……!」
実際、すべてのウマ娘が連携しているわけではない。中には掛かりぎみに前に出ようとするウマ娘もおり、それで少しスペースがあいた。
(いけるっ……!)
オペラオーはその空いたスペースに針の穴を通す様な身体コントロールで、滑り込んでいく……が、その時だった! 前方、内ラチ側を走っていたウマ娘がつられてスパートしようとしたものの、やや体勢を崩し、ふらついた。
「嬢ちゃん危ない!」
「うっ……!!!?」
跳ねあがった足がオペラオーの脚部に接触する。だが、不思議と痛みはない。オペラオーはそのままぐんぐんとスピードを上げ、一気にトップに立つ。
「ドトウ猛追!ドトウ猛追!しかしこれは届かないか!ドトウ届かない!またしても!またしてもオペラオーだ!!!オペラオーだ!!!オペラオーだ!!!!強すぎる!!!!七連勝達成ィーーーーッ!!!!?」
ドトウや他のウマ娘も猛追するも、オペラオーはジャパンカップを制した。
「……はーっはっはっはっ!!!この勝利をヴィットーリアと、トレーナー君たち、そして僕の従者たちに捧げよう!!!テイエムオペラ王朝の誕生だーッ!!!」
「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」」」」
オペラオーのパフォーマンスに、観客が湧きたつ。歴史に残る大記録。絶対的強者世紀末覇王。それがどこまで勝利を伸ばすのか、皆が期待した。
「……まったく、幸運な男だなあイヴァン君は。この勝利を特等席も特等席から見られるなんて」
地下バ道で、オペラオーは人面瘦に話しかけた。だが、返事はない。
「…………イヴァン君どうした。勝利の安堵のあまり寝入ってしまったのかい?」
そう言って、右足を確認すると、人面瘦はぽろり、と皮がむけるように地面に落ちた。
「イヴァン君……?」
「へ、へへ……嬢ちゃん、おめでとう……すげえじゃあねえか……
大記録なんだろ……これ……ぐふっ……」
「イヴァン君……!」
人面瘦は、オペラオーのレース中、ふいに起こった接触からオペラオーの足をとっさに守って、衝撃を肩代わりしていた。つまり、全力のウマ娘の蹴りを顔面に受けたも同じである。
「……俺としたことが、つまらんことをしちまったぜ……
だがよォ、不思議と……へへ、気持ちがいいんだ。はじめてだ、誰かを守ったのは……」
「イヴァン君、何も言うな! どうすればいい……どうすれば……!」
オペラオーははがれた人面瘦を拾い上げ、ぎゅっと胸に抱きしめる。
「へへ、あったけえなあ……あったけえよ……
だけど、もう少し、おめえの活躍……見たか……」
ぼろ……と人面瘦の形がくずれ、さらさらと風に乗ってとけるように消えた。指の間から砂のように落ちていく人面瘦の残滓を握りしめながらオペラオーは誓う。
「『王に命をささげる』なんてのはオペラの中だけで十分だよイヴァン君……
僕にまたひとつ、勝たなければならない理由が増えてしまったじゃあないか」
ふ、とオペラオーは自嘲するように笑って。
「君の覚悟は、確かに受け取ったよ。ならば……僕の血を全て捧げよう!」
オペラオーは一人の従者を失い、悲しみに暮れ、また一つ強くなった。
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#017『ダニエル・J・ダービーは祈らない』
「ナーカーヤーマー! 今日は魔改造人生ゲームで遊ぼうぜぇ~~~~!!!」
昼休みのカフェテリア。昼食をとっていたナカヤマフェスタの所に現れたのはトレセン学園一のトラブルメーカーにして沈まぬ黄金船ゴールドシップ。言うが早いが卓上にドン!と無遠慮に置かれたのは、すごろくゲームである。ただしその盤面にはゴルシによって手が加えられており、理不尽だったり奇怪なイベントが少し見ただけでも多く見受けられた。
「ほぅ……この前コテンパンにしてやったのにまだ懲りてねえのか、いいぜ……その勝負乗った!
……と言ってやりてぇところなんだが、今日は『先約』があってな……」
「何……だと……」
勝負師の異名を持つナカヤマは当然の如く、今日もゴルシとの勝負を受ける……かに思えたが、すまねぇな、とニヒルに笑いながらストローで牛乳を飲んだ。
「よう、メシも終わったみてぇだな。さっそく行くか」
そこに現れたのは、トレセン学園の中の問題児集団のリーダー的存在であるシリウスシンボリ。その圧倒的なカリスマで不良以外にもファンが多いという彼女の出現に、あたりの生徒がきゃあきゃあと沸いた。
「ああ……いつでもいいぜ……」
ナカヤマは空きパックを近くのごみ箱に雑に投げ入れると、シリウスに促されるまま席を立ち二人してどこか立ち去っていく。
「アタシを置いてくなよ~!!! どこに行くんだ!? ゴルゴル星か? なぁ、ゴルゴル星だろ? 総員、進路をゴルゴル星にとれ!」
「うるせェ……ちげェよ……私たちは……これから『勝負』にいくんだ。邪魔すんじゃねぇ」
ナカヤマはまとわりついてくるゴルシをめんどくさそうに剥がしつつ。
「その通り……なんでも最近、駅前に面白い奴がいるそうなんでね……」
シリウスは、ふ……と笑ってお前も興味があるのなら共に来い、と付け足す。ゴルシは当然、二つ返事でOKした。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #017 『ダニエル・J・ダービーは祈らない』 ◆◆◆
「で、その『外国人』ってのはどこにいんだ~!!! ここか! ここか! ここかァ!!!」
「ちったァ落ち着けよ……そんな石の裏なんかにいるわけねェだろが」
「例の『外国人』ってのは……駅前に新しくできた『カフェ・ドゥ・マゴ府中店』のオープン席でいつも暇つぶししてるって噂だ」
道端に転がっている石をいちいちひっくり返しては、『外国人』を探すゴルシをしり目に、シリウスとナカヤマは授業をフケて駅前に向かっていた。発端は、シリウスがネットで見かけた噂である。府中駅前のオープンカフェに最近『奇妙』な外国人の男がいると……なんでも、その男はカフェを利用する客に手品などを見せつつ、ギャンブルでの勝負を時折挑んで『無敗』であるというのだ。
「……無敗ねェ……どこまでホントなんだか。だが、ホントだとしたら、おもしれえ……」
「その『無敵の男』の初めての敗北相手が私となるってわけだ」
自信満々のナカヤマとシリウス。ちなみにゴルシはハサミムシを捕まえて後ろからナカヤマに投げつけていたが……そんなこんなで、三人は『カフェ・ドゥ・マゴ』までたどり着く。現在、府中駅前は新しい都市計画とかで拡張計画が進んでおり、そこらで工事の音が響いている。ご多分に漏れず、このカフェ・ドゥ・マゴの入るビルもつい最近新しくできたビルのひとつだ。
「おい、ホントにいたぜ……」
「あぁ、あいつだな……感じるぜ……ギャンブラーとしての格をよ……あいつは『強い』」
「アタシもビンビン感じるぜ……あいつの『気』をよ……きっとあいつ、猫派だ」
シリウスとナカヤマ、ゴルシの視線の先にいるのは、カフェ・ドゥ・マゴのオープンテラス席でグラスを傾ける初老の男の姿。気取ったスーツに身を包み、頭髪などもきれいに整えた如何にも伊達男と言う風のそいつは、一手でテーブルに円形にトランプを並べるとその端を人差し指で弾く。するとトランプは波打つように反転し、すべてのカードがオープンされる。
「ヒュウ……見せつけてくれるじゃあねえか」
シリウスは口笛を吹くと、さっそくとばかりにオープンテラスにあがり威圧的に男の対面の席に腰を下ろした。
「まずは自己紹介をさせてもらおうか。私はシリウスシンボリ。
日本トレセン学園の生徒で……世界を獲る女だ。覚えときな……」
男は、いきなり現れたシリウスに驚くことなく、カードをまとめるとそれを差し出してどうぞ、カットをと言う風に。
「では私も名乗らせていただこう。ダニエル・J・ダービー。
ディー、エー、アール、ビー、ワイ。ディーの上には´が付く。
以後お見知りおきを、ウマ娘のお嬢さん」
「ダービーね……なるほどな、それを聞いて安心したよ。
私はダービーには『勝った』事があるもんでね……」
シリウスは、当然という風にトランプを受け取るとこちらも手慣れた様子でカットしていく。
「『ゲーム』は何にします? ポーカーやブラックジャック、ちょうどお連れさんもいるようですしバカラだとか……ああ、サイコロなんかもありますから。お好きな物をおっしゃってください」
ダービーと名乗った男は、シリウスを値踏みするような視線で見ながら話しかける。どんなゲームでもいい、とはなかなか大胆な物だ。
「……ファロなんてどうだい。シンプルで好きなんだ」
「ファロ? なにそれ、ガーデニング器具か?」
カフェ・ドゥ・マゴの植え込みの中になにか虫がいないか探していたゴルシは、ファロという聞きなれないゲームに疑問符を浮かべる。
「ファロ! なかなか渋い所を突く。あの好色家カサノヴァが好んだという逸話で有名ではあるが……おもしろい。私もファロをプレイするのは久しぶりでね……」
ファロは18世紀ほどにヨーロッパおよびアメリカで流行したカードゲームである。簡単に言えば、親が山札から引く2枚のカードのうち自分の右側に置かれたカードと同じランクに賭けていたものが負け、左に置かれたカードと同じランクに賭けていたものが勝ち。それ以外は引き分けとなる。かなり運要素の高いゲームだ。
「では、私がバンカー(親)ということでかまいませんね?
勝負の公平性を期すために、賭け方も一枚賭けのみ……スプリット(左右のカードが同じランク)の場合は賭け金のやり取りはなく、完全に引き分けということで……」
「かまわねえよ、どちらにせよ勝つのは私だからな……」
クク、と攻撃的な笑みを漏らしながらダービーが場を作るのを待つ。ファロでは、スペードの13枚をベット用のコイン置き場として使い、さらにソーダとよばれる勝敗に無関係なカードが一枚場に置かれる。ジョーカーも使われない。
「で、ここからが本題ですが……『あなたは何をお賭けになりますか』?
ああ、嫌だって言うならいいんですよ。ただこういうのはちょっとした刺激になるでしょう?
どうです? 負けた方が相手にこの店のコーヒーを一杯奢るというのは……」
場を作り終えたダービーは、ふと、思い出したようにシリウスに問いかける。
「そうだな……といっても、噂になってるぜ。あんた……
本気のあんたに負けると『大切な物』がなくなるんだろ?」
シリウスがそう問いかけると、今までどこかニヤついていたダービーの様子が、少し変わった。
「……なるほどね、私と『本気』の勝負をしたいと?」
「あァ、アンタのさっきからの態度……気に入らなかったからな。ウチの生徒会長サマ並みに気に入らねえよ、アンタ。『小娘』相手か……って態度がありありだったからな」
シリウスはピンと挑発するように人差し指を立て、その指でダービーを煽るように指さした。
「私はそういうナメた態度をとる奴が許せねえ。
来るなら黙って本気で来いよジジイ。あんたも本気の勝負がしたいだろ……?
あんたの背中、退屈で泣いてるぜ。なら私がアンタを楽しませてやるよ」
自分よりも3、4回りは若いシリウスに挑発されたダービーはフ、と笑みを浮かべてみせた。
「なるほど……さすがはG1ウマ娘『シリウスシンボリ』さん……
申し訳ないね……正直に白状させてもらうと、あまりにも若いものでただのはねっかえりの小娘だと……思ったことは否定しない。だが、なかなかいい『眼』をしている……」
「フン、あんた私の事を知ってたのか。まあいい。そんなことは……それに、あんたこそ、やっと『本気の眼』になったッ! そういう奴を叩き潰さない限り本当の勝ちじゃねえ……!」
フー、と息を吐き出すとダービーの瞳は、完全に獲物を見る猛禽のそれめいてスゴ味を宿し、シリウスをまっすぐに先ほどの値踏みする視線ではなく乗り越えるべき『敵』として見据えた。当然、シリウスもそれを真っ向から受けるように、目をそらさない。まるで二人の間でバチバチと負けん気のぶつかる音が聞こえてくるかのようだ!
「では……君には『魂』を賭けてもらう……それでいいね?」
「キザな野郎だ。いいだろう、私の『魂』を賭けるぜ!」
「グッド!」
シリウスの言葉に、ダービーは嬉しそうに応えた。
「このダニエル・J・ダービー……若い頃は世界を回り、ありとあらゆるギャンブラーや金持ちをカモにした。命がけの無茶なギャンブルもした……だが、敗北は……『一度』。『一度のみ』だ。精神的に敗北したあのみじめなダービーには絶対に戻らないッ! このダービーのすべての経験を以て、叩き潰させてもらうッ! オープン・ザ・ゲームだ……!」
「老人は話が長いぜ……御託はいい……かかって来いよ」
あくまでダービーを挑発しながら、シリウスは『
「『
「では、バンカーのターン……そしてカードオープン……」
ダービーはそういうと二枚のカードを山札から引き、左右に置き、オープンする。左のカードはダイヤの7、右のカードはハートの『
「おっと……私の勝ちだ。お嬢さん悪いね……勝利の女神は今回も私に味方してくれたようだ」
「チッ……」
今回のゲームはバンカーであるダービーの勝利。とはいえ、ファロは運要素の強いゲームであり……確率的にバンカー側が有利とは言われるが、当然有効な勝ち筋などは存在しない。
「では払っていただきましょうか……ベットした物を。あなたの『魂』をね……」
「あン?」
シリウスは己の『魂』を賭けると宣言した。それは紛れもない事だし、敗北した以上ベットした物は払わなければならない。シリウスはそれで『納得』はするが……魂をどう払えというのだろうか。この場で情けなく土下座して敗北宣言でもしろと? その時だった。
「う……?」
シリウスはまるで自分の魂の一部が切り取られるような感覚を覚え、思わず額を右手で押さえた。自分が自分でなくなるような、冷たい喪失。シリウスには近くの工事現場のガンガンと響く杭打機の耳障りな音すらもはや聞こえなかった。
「どうしたってんだ……シリウスの奴……」
勝負を静かに観戦していたナカヤマもシリウスの異変に思わず口を開く。
「私には生まれつき特殊な能力があってね……『相手の魂を奪う』ことができるのさ。
だが、それには『魂』に『隙』が必要でね……『敗北しダメージを負った人間は心に隙ができる』……ギャンブルというのは人間がもっとも勝ち負けに一喜一憂する物の一つだ」
「くだらねえヨタならよその奴にやってな」
ダービーの言葉を、ナカヤマは笑い飛ばすようにハッ!と声を出したが、シリウスは……
「いや……わかる……私の『魂』の一部がどこかに消えちまった……クソ……
どういうことだ……私の中で、何かが消えたッ! わからない……なんだ……これは……」
「お、おいおい、冗談だろ……」
常に本気で生きており、ウソもハッタリも用いないシリウスの言葉にナカヤマは驚愕した。彼女がそういうなら……きっと嘘ではない。大切な物を……魂を奪う? そんなことが本当にあるのか? そう、ナカヤマが考えた時、ダービーは右手の上で輝くような金貨を弄んでいた。それには……シリウスの顔が刻印されている。
「とはいえ、年頃の娘さんの『魂』をすべて奪ってしまうというのも忍びない……
だから、『魂』の一部だけをこうして奪い取らせてもらった……君は……なるほどシンボリルドルフというウマ娘に対して執着しているようだな……」
その瞬間、シリウスはハッとしたように顔を上げる。しかし、思い出せないのだ。いくら考えようと、ダービーが言った人物の事が。
「シンボリルドルフ……私は……だめだ、思い出せない……なぜだ……」
シリウスと生徒会長シンボリルドルフの確執は学園で有名だ。というよりはシリウスが一方的にルドルフを嫌っているのだが……シリウスは冷や汗をかいて、シンボリルドルフの名を呼んだ。普段は決して口にしない、その名を。やはり異常だ。本当に、『魂』を奪われたとでもいうのか?
「今回ばかりは君の敗北だよお嬢さん。敗北者は……『大切な物』を失う。
君もわかったうえでの勝負のはずだ。これに関しては一点の曇りもない。
……席を譲り給え。どうやらお連れさんが仇を討ちたがっているようだ」
「ク……」
席を立つシリウス。そこに入れ替わりに座ったのは……ゴルシだった。
「爺さん、猫派だってのにシリウスを負かすとはやるじゃあねえかよ……燃えてきたぜ」
ゴルシは、そういうとどこから取り出したのか犬のぬいぐるみを二つテーブルの上に取り出し、置いた。
「……アタシはアンタに『犬ゲーム』で勝負を申し込むぜッ!」
同時、場によくわからない沈黙が流れ……
「……なんだねそれは。ふざけているのかね?」
ダービーは怪訝な顔でゴルシに問いかけたが、ゴルシは真面目も真面目、大真面目であった。ゴルシは常に……真面目にふざけているのである!
「……どんな『ゲーム』でも良いって言ったのはあんただぜ……ドルビー……」
ゴルシは、真剣にダービーに向けて挑戦的に言葉を放つ。その言葉には確かに勝負師としての矜持が感じられる……ような気もした。
「ダービーですよ、お嬢さん……しかし、私は『犬ゲーム』とやらのルールを知らない。
それではさすがの私も遊びようがないな……」
と、ダービーが漏らせば次の瞬間、ドンと取り出されたのは『犬ゲームのルール』と書かれたノートである。
「こいつが『犬ゲーム』のルールブックだ。時間はやる。それを読んで、アタシと勝負しろ。
アタシの『魂』をかけてやるからよ……そのかわりアタシが勝ったらシリウスの『魂』を返せ」
「なるほど、面白い。このダービーにとっても初めてのゲームだ……犬に『スキル』を装備させ勝負をするのか」
ルールブックを、速読するようにパラパラとめくるダービー。ほんの数分、工事現場から聞こえる物音だけが、その場を支配したが……ふいにフ、と笑みを漏らし彼は言うのだ。
「グッド。では勝負を始めよう。私の先行で構わないね?」
「もういいのか? じゃあよォ……来いッ! オービーッ!!!」
そして二人の『魂』をかけた『犬ゲーム』が始まった!
「オービーではないッ! ダービーだッ! 私のターン! まずは行動『散歩』を選択!
スキル『忠誠心』によって『散歩』の効果が増加ッ!」
そういうスキル構成で来たか……ゴルシは相手のデッキを考察する。初手散歩……しかも忠誠心スキルを取っているという事は、かなり基本にオーソドックスに犬ポイントを積み重ね上げていくタイプのデッキと見た。そういう『型』に囚われたデッキは扱いやすいが、ゴルシの好む破天荒なデッキの最も得意とするところッ!
「じゃあアタシのターンだ! いきなりだが勝ちに行かせてもらうぜ!
スキル『脱走』を発動! さらに『どろんこ遊び』+『くっつきむしまみれ』のコンボだ!」
「何だと……!」
「それだけじゃあねえぜ……私の犬は『帰巣本能』を持っているッ! これがどういうことか……わかるよな?」
わからねえ……勝負を見ていたシリウスは、そう思った。いったい私は何を見せられているんだ……?
「フ……ゴルシの奴最初から初心者相手に飛ばすねえ……だがありゃ必殺のループコンボ……こりゃもう勝負は決まりだな……」
一方、ナカヤマはルールがわかるようで。えげつねえな、などと漏らしながら勝敗を見守る。実際ナカヤマも『犬ゲーム』のプレイヤーであり、ゴルシの脱走を主軸としたデッキには何度も苦杯を飲まされているのだ。
「そしてッ! とどめだ!『土足で室内突入』を発動!これであんたの……」
「おっと……それは通さないよ。スキル『お風呂』を発動させてもらう」
勝負がひっくり返ったのは、その瞬間だった。ゴルシのデッキは奇襲性と爆発力にはすぐれるが、同時にそれを一旦防がれると弱いという欠点があった!
「何……じゃあアタシの『泥んこ遊び』と『くっつきむしまみれ』のコンボは無効化される!
むしろ、『帰巣本能』で家に帰るたびに『お風呂』に入れられちまうじゃねーか!」
「フフフ……さらに『トリミング』および『恐怖の獣医師』発動……」
「な、何ィ―ッ!!!!」
なんだかわからんがピンチなのか? シリウスはもう訳が分からんと言う顔で『犬ゲーム』の顛末を見守るがナカヤマなどは詳しく解説をしていた。
「……オーソドックスなスキル構成と見せかけて、防御寄りのトラップスキルデッキか……野郎、たったすこしルールブックを読んだだけでアレを思いついたってのか……!」
「『犬ゲーム』……最初こそ胡乱な響きに騙されそうになったが、よく練り上げられたデッキ構築ゲームだ……グッド、面白い」
で、どうするね、とダービーはゴルシに問いかける。ゴルシはぐぬぬ、と悔しそうに歯をかみしめたが……
「アタシの五目半負けだ……」
その瞬間だった。
「グワーッ!!!」
ゴルシも、シリウスと同様『魂』の一部を奪われてしまう。奪われた物がよっぽど大切だったのか、机に突っ伏してしまうゴルシ。
「ほおう……なるほど、この娘の大切なものは『メジロマックイーン』か……お友達が最も大事とは……なんとも美しい友情じゃあないか。さて、残りは君だよ……お嬢さん。ゲームを続けるかね?」
シリウスの時と同じく、ゴルシの顔が彫られた金貨を弄びながら言い放つダービーの声色には、おじけづいたのなら逃げ帰っても良い、という風が言外に含まれていたが……ナカヤマはすっかり色を失ったゴルシを別の席に座らせると、凶暴な笑みを浮かべて席に着いた。
「上等じゃあねェか……勝負師の血が騒ぐぜ……当然『続行』だッ! だがッ!」
といいつつ、ナカヤマは卓に残されていたカードを拾い上げる。一戦目のシリウスとの勝負のときのものだ。
「やはりな……『ワックス』と……それに『ストリップ』か……?
典型的な『イカサマ』野郎だな……『無敗』が聞いてあきれるぜ……
ま、『セカンドディール』をかましてる時点でそうだろうなとはおもってたが……」
「おや……」
ほう、とダービーがナカヤマの言葉に感心したように声を上げる。ナカヤマが指摘したのはすべてトランプでのイカサマである。『ワックス』はトランプの一部にワックスを塗り、その質感を指で確認することで特定のカードを識別する事。『ストリップ』はカードを事前にカットして大きさを変え識別しやすくする事だ。そして『セカンドディール』は山札からカードを配る際、最も上のカードではなく二枚目やさらに下のカードを密かに配る事である。
「山札の一番上は……ダイヤの『
「なん……だって……!」
そう、本来なら『ファロ』ではシリウスが勝っているはずだったのだ。だが、ダービーはイカサマによってその勝敗を捻じ曲げた。
「まさか卑怯とは言うまいね? ばれない『イカサマ』は『高等技術』だよ……
ギャンブルは泣いた人間の敗北……見抜けなかった人物が悪い……それが私の考えさ」
「いや……ただ、あまりにもセコくて笑いそうになっただけさ……だが、これでわかったろ。
私にゃ、サマは通用しない。あんたの『実力』をみせてもらおうか……!」
ダービーは傲慢にチョコレートを齧りつつ、ナカヤマの啖呵にフンと鼻を鳴らす。対するナカヤマは、テーブルの上のイカサマトランプを腕で払い落し、ドン、とグラスをテーブルに置くと、そこにコーヒーをなみなみと注いだ。
「私とはこいつ……『グラスとコイン』で勝負してもらう。知ってるだろ……水の表面張力ってのは結構強力でね……満杯だとしても……いくらか余裕があるのさ。そこに交互に『コイン』を入れていき、あふれさせた方が負け……私はこいつで『魂』をかけてアンタと勝負をする」
勝負師ナカヤマの言葉に、間髪入れず、ダービーは言い放つのだ。
「グッドッ! 強気なお嬢さんだ……だが、これは私も得意でね。昔にはギャンブルにも百戦錬磨のニューヨークの不動産王を負かせてやったこともある……」
と、ダービーはグラスを持ち上げ、検分するように観察をし始める。コーヒーを注いだポットなども同様だ。
「当然だが、これは君が持ちかけてきたゲームだ。イカサマを警戒させてもらうよ……いいだろう?」
「勝手にしろ……」
ダービーはおおよそ5分もの時間をかけてグラスとポット、そしてテーブルを点検し終えた。その間ナカヤマは工事現場から聞こえてくるドリルの音にうるせぇ……とぼやいたのみ。
「異常がないのは確認させてもらったよ。ではオープン・ザ・ゲームだ……。
そうだな、先行と後攻はどうする? このゲームにおいてはこれも重要な要素だが……」
「サービスだ。好きな方を選びな……」
ナカヤマはダービーにそう言い放つ。勝負師にとっては、どちらでも関係がないとでもいう風に。
「では、私が後攻で入れさせてもらおう……まずは君のお手並み拝見だ」
ダービーは、背もたれに体を預け、チョコレートを齧りながらナカヤマの行動を見守る。ナカヤマは、フン、臆病だねェ……と笑い……用意したコインを一気に5枚取ると、それを慎重にグラスの中に落とし入れた。
「……ふゥ、たまらねぇな。スリルってのはよ」
「……初手から大胆にプレッシャーをかけてくるものだ。では私は一枚だけにしておこう……ギャンブルは時に臆病すぎるぐらいがちょうどいい」
ダービーも一枚だけのコインをナカヤマ以上に慎重に、グラスにゆっくりと落とす。とぷん、とコーヒーが音を立て、しずかにコインを飲み込んだ。再び、ナカヤマのターンだ。
「もう五枚……」
「何ッ!?」
ナカヤマは、さらにコインをひっつかみコーヒーの中に入れる。こいつ……相当リスクを度外視したヒリついた場が好きと見える……とダービーは思考を巡らせたが、同時に、こいつは勝負師と言うよりスリルジャンキーの類だ……とアタリをつけ、勝利を確信した。
(スリルジャンキーは……勝負ではなくスリルを楽しむ……ギャンブラーとは呼ばない。
こういう手合いはギャンブルで破滅する自分に『酔える』タイプ……)
とぷん、と音を立ててグラスの中に大きな波紋を生じさせつつ、辛うじてコーヒーがコイン五枚を受け入れる。
「なんて心臓だ……自滅しかねないというのに……」
「必ず勝つ勝負なんてつまらねェだろ……こういうギリギリの手が私は好きなのさ」
本来なら、もはやこれ以上表面張力は持たない。あと一枚でもコインを入れれば、グラスの縁からコーヒーは溢れるだろう。だが、ダービーには秘策があった。
「ここからでは太陽の光で少し入れにくい……場所を変えても?」
「いいぜ……あんたのやりたいようにやればいい」
そう言って、ダービーは場所を移動する。そして、イカサマがないか検分すると言ってグラスを調べる際に、密かにグラスの底に貼り付けておいた『チョコレートのカケラ』に太陽の光を当てた。そう、三十年まえ、エジプトで例のニューヨークの不動産王にして策略家『ジョセフ・ジョースター』に勝利したときと同じイカサマ。チョコレートを溶かして、傾きを調整することによりグラスの表面張力に余裕を持たせる作戦。
「……フン、やっぱりな。しかけてくるとおもったよ……だがいいのか。そんなにチンタラしててよ……」
その時だった。
――ガァン! 大きな音が工事現場から響き……グラスが揺れた! 瞬間、コーヒーがグラスの縁からわずかにこぼれる。
「な、何ィ―ッ!!!?」
「……ばれなきゃイカサマじゃあねえなんて言い放つ相手にイカサマを警戒するのは当然のこったろ……チョコレートの仕掛けなんざバレバレだよ。ウマ娘の嗅覚なめんじゃねえぞ……」
そう、ナカヤマはダービーの気性を読み、何らかの罠を仕掛けてくると考えて、それを逆手にとったのだ。
「近くの工事現場にゃ、デカい杭打機なんかもあったからな……チンタラ溶けるのを待ってりゃ、それで地面が揺れるか……あるいは砂利満載の10トントラックでもそばを通ってこれまた揺れるだろ。それだけのハナシだ……」
「グ……」
悔し気にテーブルをたたくダービー。瞬間、テーブルに置かれていた金貨からシリウスとゴルシのレリーフが消え去り……
「お、思い出したッ!!! 野郎、思い出したら逆にムカッ腹たってきたぜ……!」
「あー! マックちゃん! そうだ、アタシの大切な物……!」
二人の失われた魂の一部が戻ったのか、ハッと気がついたように顔を上げるシリウスとゴルシ。
「……これでイーブンと言うわけだが……ゲームを続けるかね?」
雪辱に震えながら、ダービーは当然、ゲームを続行するだろう?と言う風に聞くが……
「『だが帰る』」
ナカヤマは興味を失ったかのように、席を立ち踵を返した。
「何ッ!? 臆したのかッ!」
「あのなァ……あんたの『持論』……そりゃたしかにそうだよ。
『イカサマ』を見破れねー奴が悪いってのはな……だが、私は『ヒリつくような勝負』が好きで
『勝負師』をやってんだ。『勝ち負け』だけが問題じゃあねーんだよ……」
ハァーッ、とため息をつきながらぐしゃぐしゃとニット帽越しに頭を掻くナカヤマ。
「『自分の実力』で『勝ってこそ』……『勝負』はおもしれェんだ……。
ここんとこは意見の相違ってやつさ。あんたは『イカサマ』も『実力』だと考えてるんだろうが……私は違う……それだけのハナシさね」
そう言って、去っていくナカヤマにシリウスとゴルシも追随する。後に残されたのは、雪辱に震える老人が一人。
「やっぱ、私と『ダービー』ってのは相性悪ィみたいだなァ……」
そうつぶやくナカヤマは、ひりつくような勝負を探し……トレセン学園へと戻るのだった。
←To Be Continued?
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#018『人の縁』
府中、日本ウマ娘トレーニングセンター学園――通称『トレセン学園』は全国のレースに携わるウマ娘の憧れである。
そのことは笠松を始めとして、日本各地に数か所あるトレセン学園のどれもが基本的に地名で呼ばれるにもかかわらず、府中のそれは『中央』あるいは『トレセン学園』と代名詞のように呼ばれることからもわかるだろう。とはいえ、国民的スポーツエンタメであるトゥインクルシリーズにウマ娘たちを送り出すトレセン学園は朝から晩までトレーニングに明け暮れているわけではない。中高一貫校として、ちゃんと英数国社理といった通常の授業もありそれに加えて、スポーツ科学といったアスリートのための座学もあるし、成績が悪ければ補習や追試などを受ける場合もある。
マンハッタンカフェはその日、トレセン学園の『地域貢献』の一環である、『広域地域清掃』に参加していた。学園はこうした地域に溶け込む努力も怠っておらず例えば他にも春の『ファン大感謝祭』、秋の『聖蹄祭』などはトゥインクルシリーズで活躍しているウマ娘に直接会えることからファン垂涎のイベントになっているそうだ。
「……ふう、こんなものでしょうか」
商店街の片隅の年季の入った小さな神社の清掃担当となったカフェは、額の汗をぬぐいながら一息つく。この神社は『縁結び』の神様が祀られているらしいのだが、2年ほど前に宮司さんがお亡くなりになって以来、管理者がおらず商店街の有志で掃除などをしてはいるが、どうしても手が回らない事も多く、草や蜘蛛の巣だらけになっていたのだという。
「しかしやっぱり来ませんでしたね……全くタキオンさんったら……」
黄金の瞳をじとーっとさせて思い出すのは昨日のアグネスタキオンである。広域地域清掃の話を聞いたタキオンは露骨に嫌そうな態度で『行けたら行く』などといっていたが、行けたら行くというのはだいたい来ないものである。最初からカフェは諦めていたもののやっぱりすっぽかされると気分が悪いものだ。
「とりあえず大方終わりましたし。商店街の人に報告しましょう……その前に……」
カフェは、すっかり見違えるようにきれいになった神社の小さなお堂に向けて手を合わせて。
「たしかここは『縁結び』の神様なんでしたね。いいご縁がありますように……」
目を閉じて、軽くそう祈ると抜いた草や落ち葉の入ったゴミ袋と竹ぼうきを両手にこの周辺を清掃するウマ娘の世話係となっている商店街の青年会役員の所に向かうのだった。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #018 『人の縁』 ◆◆◆
「あッ、もしかして貴女、菊花賞ウマ娘のマンハッタンカフェさん?」
「はい……?」
青年会の役員さんに諸々を報告し、道具を返却したカフェは学園に戻る途中、ふいに声を掛けられた。それはいかにもパパラッチと言う風なカメラを首から下げた男で、慣れ慣れし気に近づいてきてまずは一枚とばかりにカメラを構えた。
「や、やめてください……!」
カフェが手をかざしてカメラのレンズを遮る前に、パシャリとシャッター音。こういう手合いは、アイドル的人気を獲得する者も多いウマ娘の事、トレセン学園周辺には多くうろついているのだが大抵はたづなさんをはじめとする学園講師陣などに追い返されたり、生徒会にお帰り願われたり、ゴールドシップに吹き飛ばされたりしているのだが……今日は地域清掃にでたところを狙って、写真を撮ろうと張っていたというところか。
「恥じらう顔も可愛らしいじゃあないの……こういうのはマニアに高く売れるよお。もう一枚! ネ、もう一枚くださいよ!」
「本当に、やめて――」
迷惑なパパラッチに困惑したカフェは、その場から走り去ろうとする。しかしその時、パパラッチの後ろから肩を掴む男の姿があった。
「いてえッ!? な、なにすん……だ……」
振りむき、凄むパパラッチの勢いはまさしく竜頭蛇尾が如く、一瞬で消え去った。その人物は身長190cm近い男で、丸刈り、顔中にピアスを開け、喉元には『CUT HERE』のタトゥー。その他、右腕も十字架とドクロのタトゥーでおおわれていたいかにもな人物であったからだ。
「その子よォー……嫌がってんじゃあねえか? エ? オッサンよォーッ……『パパラッチ』ってやつかぁ? 年頃のオンナノコ狙って、『変態野郎』がよ……」
「ひえ……す、スイマセンッ!」
パパラッチは、ヤバそうな男に目をつけられ……平謝りしながら、私のもとから去っていく。私もどさくさに紛れて、立ち去ろうかと思ったが見た目は危なそうでも、助けてくれたのだ。人を見た眼で判断するのは良くない……そう思い、ありがとうございます、と一言言っておこうとした、その時だった。
「わ……!」
――ドン!
一瞬で、その助けてくれた男に壁まで詰め寄られてしまう。私はコンクリート塀を背に、思わず硬直し、目を見開いた。
「ところでよォー……君可愛いねえ? いくつ? マア、マア、マア、マア、そういうのはいいのよ。この後ちょっと『メシ』でも食いに行かない? 丁度昼でしょ? 『助けてあげて』……『恩着せがましい』かもしれないけどさァ?」
早口で話しかけてくる男。混乱した私は、その言っていることの半分は分からなかったが……この男は『ヤバイ』。そう感覚的に感じて、咄嗟に姿勢を低くして駆け出した。
「おい、待てよォ!!!」
後ろで、男の声がする。追いかけてきているようだが、ウマ娘の中でもトップクラスのG1ウマ娘であるカフェに追いつけるはずもなく、その声は空しく小さくなっていった。
「ハァーッ……ハァーッ……全くもう、今日は厄日というやつかもしれません……」
息を整えるカフェ。少し、喉が渇いてしまった。丁度近くにコンビニ『オーソン』がある。トレセン学園近くの、カフェも何度も訪れたことがあるなじみの店だ。安心感を感じたカフェはオーソンに入ると、冷たいお茶のペットボトルを一本購入し、何のこともなく、会計する。
「…………?」
と、何度か見かけたことがある青年店員が妙にきょろきょろとしながらお釣りと一緒に何かの紙切れを出してきた。最初はレシートかと思ったが、それはどうやらメモ帳の切れ端のようであり……
「……『ファンです。ご連絡お待ちしています XXX-XXXX-XXXX』」
どうやら男の連絡先の番号が書かれていたようで、読み上げられた男はアハハ、と照れ隠しの様に笑ってみせたが……さすがにこれはカフェもドン引きである。ファンとして応援してくれるのはいい。だが、連絡先まで渡してくるのは『下心』というモノが見え見えすぎる。
「すいません、こういうのはちょっと……」
「え、あ……そうですよね。困りますよね……ごめんなさい……」
カフェが困ったようにそう告げると、男はそそくさとメモ用紙を取り下げた。げんなりしながらオーソンから出ると、このお店、しばらくは行きづらいな……とため息をついた。とにかく、学園に戻ろう……そう思って、歩き出した時のこと。
――ドンッ!
「わ、すいませ……」
「痛えッ! どこ見て歩いてんだこのスッタコがッ!」
今度は、スカジャンを着て、グラサンを架けたこれまたチンピラ風の若い男でぶつかられたことに腹を立て、唾を飛ばしながらカフェに怒声を浴びせ――
「えーーーーッ! 待ってッ!? マンハッタンカフェさんスかァーッ!?」
「あ……はい、そうですけど……」
男はがらりと態度を変えた。トレセン学園の近くに住んでるけど、初めて本物見たよォーなどと騒ぎながら。
「俺、大ファンなんスよォーッ! 菊花賞も有マ記念も実際に見に行ってッ! 本人に言うのは恥ずかしいンスけど、グッズまでちょっと揃えちゃってね……!」
そう言って男が取り出したスマートフォンにはぱかプチストラップの私がつけられており。
「いきなりですんません、何かの『縁』ですし『写真』いいスか?」
「あ、はい、構いませんけど……」
パパラッチに勝手に撮られるのは嫌だが、ちゃんと申し込まれたのなら悪い気はしない。これも広い意味での社会貢献?になるかもしれないだろうし。とカフェは写真撮影に応じた。実際、撮影と言っても簡単なものでスマホでツーショットを一枚取り、解散というもので。
「次走、いつかまだわかんないんでしたっけ? とりあえず頑張ってくださいッ!」
「……有難うございます」
写真を撮り終えた私は、ぺこりと頭を下げてトレセン学園へと戻るべく去っていく。
「ハァーッ……ますますファンになっちまったよォ……俺にもあんな彼女がいりゃあなあ……」
……男は、スマートフォンの画面を見ながら呟いた。
「……ただいまです」
なんだか清掃以上に対人対応でどっと疲れてしまった私はいつもの理科室に入ると同時に、ぽふ、と。ソファに倒れ込んだ。
「おや、どうしたんだい。お疲れのようだねえカフェ」
「半分は清掃に来なかったタキオンさんのせいですよ……」
冗談交じりに皮肉を飛ばすカフェだったが顔だけをタキオンの方に向けた際に、いつもはいない誰かが部屋にいるのに気づき、わ、と驚いて居住まいを正した。その人物は、たづなさんと中年の身なりのいい男性でいかにも金持ちと言う風だ。
「そうそう、カフェ……君にお客人が来ているそうだよ」
「す、すいません……! 変なところをお見せしてしまって……!」
タキオンさん早くいってくださいよ! と内心カフェは思った。
「お疲れのところすいません! タキオンさんの言う通り、カフェさんにお客様がお越しになっています。こちら『シュンエイ芸能プロダクション』の根岸さんです」
「ご紹介にあずかりました……『シュンエイプロ』の根岸です。よろしくお願いします」
『シュンエイ芸能プロダクション』……私でも知っている超大手の芸能プロダクションだ。引退後のウマ娘のプロデュースなども多く扱っていることからトレセン学園ともパイプが太い、と言う話も聞く。
「早速ですが、用件を申し上げますと……マンハッタンカフェさんは『女優業』にご興味はありませんか?」
「え……はあ……『女優』ですか」
芸能プロダクションの人が来ているのだ。当然、タレント活動とかそういう話だろうとは思っていたがいざ持ち掛けられると我ながらなんとも要領を得ない返事しかできないものだ。
「『シュンエイプロ』ではウマ娘さんたちの『タレント活動』のサポートを行っているのですが……今回はどちらかといいますと、『映画』の『出演交渉』と言う形ですね。ウマ娘をモチーフにしたとある映画のキャスティングで、『主演』をぜひお願いできないかと……」
「ま、待ってください……『映画』の『主演』!? 私、演技の経験とかは全くないんですけど……」
流石のカフェも驚いて、根岸という男に聞き返してしまう。なんでも根岸はシュンエイプロ映画部門のスカウトでこの前の『有マ記念』を見たとある監督が、カフェのミステリアスな雰囲気にほれ込んでぜひとも主役のウマ娘役に抜擢したい、と話しているそうなのだ。
「大丈夫です。ウマ娘さんたちは常日頃ウイニングライブの練習などでボイストレーニングなどもしてますから、声に張りがあって演技もすぐにうまくなるんですよ。ウチは引退ウマ娘を何人もタレントや女優として育て上げているノウハウもありますし……」
「うーん、ちょっと考えさせてください……」
さすがにいきなりこういう話を持ち掛けられては、返事に困ってしまう。受けるにしても断るにしても、これはトレーナーと相談すべきだろう。カフェは、その場で返事をすることは控えとりあえずこの話は持ち帰ってもらう事にした。
「さすが、有マを獲ったウマ娘は違うねえ……ふふ」
タキオンは我々が話をする間背を向けたまま実験を続けていたが、その言葉には喜色があった。彼女は気難しい変人と言う扱いをされがちだが、こと私の事に関しては自分の事のように喜んでくれる。これで日常生活ももう少し真面目ならなあ……と思いつつ。
「評価されることはうれしい事ですね……でも、びっくりしましたよ。『映画』だなんて……」
その日は、そんな事を話し合いながら何事もなく、過ぎていったのだが……
「……取材の申し込みが9件、グラビア写真集の撮影というのが2件、TV局からのオファーが4件、CM出演依頼が5件、イメージキャラクター就任依頼が2件……大手シューズメーカーからマンハッタンカフェイメージモデルのシューズを作らせてほしいという依頼も……その、どうしましょう?」
「ええ……」
日刊トゥインクルやその他ウマ娘系雑誌のインタビューは菊花賞や有マ記念後にはよくあったものだが……それも落ち着いてきたタイミングでいきなりなぜ? というのがカフェの正直な感想だった。たづなさんもこれには困惑気味で、どうしたんでしょう……と疑問符を浮かべる始末。とりあえずグラビアは即、断った。
カフェはトレーナーとも相談し、とりあえず当面のトレーニングに影響のない短時間で済む取材やイメージキャラクター就任だけを受けて、他は断ることにした。
(本当に、急に何で……)
学園の外周を軽く流すジョグで周回していたカフェは昨日からの急な取材攻勢に少し、不気味な物を感じて。信号待ちの間に、そう考えていた時だった。
「あぁ……!」
「危ない……!」
隣にいた老婆が、青になった信号を渡ろうと踏み出した際、段差に躓いて転びそうになる。カフェは老婆を咄嗟に支え、抱き起こす。
「す、すいませんねえ……」
「いえ……大丈夫ですか? お怪我などは――」
その時、今度は後ろから来ていた歩行者が、スマホのながらみをしていたせいかカフェにぶつかる。カフェは小柄ながらアスリートであり、ほんの少しふらついただけで態勢を立て直した。
「アッ!? すいません! 不注意で……!」
「ああ、いえ、お気になさらず――」
次の瞬間!
「うわッ!?」
これまた、スマートフォンを運転中にながら見していたマウンテンバイクがカフェに激突寸前で急停止!
「スイマセンッ! 怪我とか! してませんかッ!」
乗っていた青年は、カフェを気遣い、声を掛けてきたが……
(な、なんです……これ……おかしいッ! 何かがッ! 『奇妙』だッ……!)
カフェは、違和感に気づく。まるですべてのものが『自分』に引き寄せられているようだ。偶然なのか! それとも何らかの意思が働いているのか! 『人が寄ってくる』ッ! そう気づいた瞬間だったッ!
「ハッ!!!」
――プアーーーーッ!!!!!
青信号になった直線を、自分に向けて恐るべきスピードで『軽トラック』が突っ込んでくるッ! 運転手は恐怖にひきつった表情でクラクションを連打! ブレーキは……効かないのかッ!
瞬間、カフェの時間が鈍化した。極度アドレナリン分泌。どうすべきか。逃げる。一人で? ダメだッ!!!
――カフェはまず蹴ったッ!マウンテンバイクをッ!まるでドロップキックの様に両足でッ!
当然、マウンテンバイクは跨っていた青年ごと吹き飛ぶッ!これで青年は轢かれることはないッ!そのまま、三角飛びめいてカフェは反動跳躍! 右手にぶつかってきたスマホの男、左手に老婆を抱え――横っ飛びにジャンプ! その後方3㎝の距離を、ガオオンと猛獣めいた危険なエンジンのうなりを響かせながら軽トラックが通り過ぎ、茂みに突っ込んでなお数m進み……止まった。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
擦り傷程度はあるが、マウンテンバイクの青年も、ぶつかってきた男も、老婆も大きなけがはしていないようだ。軽トラックからも男がよろよろと降りてくる。
「『ブレーキ』が急に効かなくなってッ! 大丈夫かッ! 怪我無いかッ!」
その言葉を聞く前に、カフェは弾丸のように駆けだしていた。
坂を駆け下り、交差点を右に曲がり、幼稚園の側を通り抜けて、住宅街を通り過ぎ、公園を突っ切って――カフェは『商店街』を目指す。そして、人気のない路地に入った時だった。ふいに、目の前を塞ぐものがあり、カフェは立ち止まる。
「けっへへ……やぁっと見つけたぜェ……アンタ、有名なんだって? マンハッタンカフェ、さんだよな、ヒヒ……なア?」
それは昨日、パパラッチから最初に助けてくれた『ピアス男』だった。改めてカフェは思うが、こいつは――イカれている。完全にヤバイ。その証拠に、片手には抜き身の大きな『軍用ナイフ』。
「これから付き合ってよ……『助けた』ろ……『パパラッチ』からよォォォォ……行こうぜ? ナア? 悪いようにはしねえからよお。かっこいいだろ? このナイフだって趣味なんだ。『米軍』の払い下げ品でさア……脅そうなんて気はこれっぽっちも……」
ウマ娘がいくら身体能力が優れているとはいえ、あんなナイフで刺されてはひとたまりもない! だが、幸い逃げ道はある。今から全力で後ろに走って『通報』――
「オイオイオイオイオイオイオイオイ……」
と、後ろからも声がした。そこには、スマートフォンで昨日写真を撮った大ファンだ、と言う男。これまたその手には――スタンガンが握られていた。
「俺の彼女になにしてんオラーッ!!!?」
「は!?」
開口一番、言い放つ男にカフェも目を点にしてしまう。
「やっぱさァ、昨日の『出会い』は『縁』だと思うんだよね。こういうピンチに出会ったのも……俺って『白馬の王子様』みたいだろォ? だからよォ、付き合ってくれよォ!!!」
ヤバい、こいつもいろんな意味でヤバい奴だ。それにこのまま放っておけば、確実にここで刃傷沙汰が起こってしまう!どうすれば……!?
「ま、まてぇ!!!」
更に路地の横道から現れたのは、あの連絡先を渡してきたコンビニ店員だ。その手にはピアス男のナイフには劣るが、これまた鋭利そうな包丁である。
「ま、マンハッタンカフェさんは僕のものだ! 僕のものだぞ!
恋人になってくれないなら……君を殺して僕も死ぬんだ!!!!」
「ええ……」
カフェはこの状況に、空恐ろしさを感じながら……同時にドン引きした。まさかこれほどの『悪縁』を引き寄せてしまうとは。どうすればいい? 本当に、どうすればいい……? そう、この結果は昨日の『縁結び』の神社の仕業だ。きっとカフェはそこの『神』に目をつけられてしまったのだろう。
きっと『神』からすれば、久しぶりに奇麗にしてもらった『恩返し』のつもりなのかもしれない。しかし『良縁』も『悪縁』も関係なく……兎にも角にも『人の縁』を結び付けようとするのは勘弁してもらいたいッ!
「なんだァーてめェらァ―ッ!!!」
ピアス男が激昂し、ナイフを振り上げる。その目標は――
――バラバラバラバラ。
その時だった。ナイフを振り上げたピアス男は顔面を『本』と化して崩れ落ちる。同時、あの大ファンの男も、コンビニの店員も、同様に。
「間に合ったようだねェ……」
「ああ……全くだ……僕が近くに偶然いなければどうなっていたものやら」
当然、そこにいるのはアグネスタキオンと、岸辺露伴! そして、マンハッタンカフェのトレーナー! タキオンは……カフェの様子……というよりはいきなりの大取材攻勢を不審に思い、少し後をつけていたのだ。そして、露伴はいつもの取材のためにトレセン学園に丁度向かっていたところを、タキオンに呼び出されただけに過ぎない。トレーナーも、タキオンが呼び寄せたものだ。
「なるほど……『悪縁』だけではなく『良縁』も呼び寄せる……」
「ふぅン……その様子じゃ、すでに原因にはアタリをつけているようだねぇ」
カフェは、三人に自分の考えを説明する。この近くにある商店街の『小さな神社』のご利益のせいではないか、と。
「なるほどね……『神道』の考え方では『神』は『荒魂』と『和魂』の二面性があるとされているし……民俗学では……例えば河童などは落ちぶれた水神の末路であるとする資料もある……もともと『神』なんてのは人間の都合を考えないものだ。どういう理由で『加護』を……あるいは反転して『害』を成してくるかは人間には分からない領域……まさしく神のみぞ知るという訳だ」
露伴は、襲撃してきた男たちの記憶を読みながらついでに『マンハッタンカフェへの執着を失う』と書き込んでおいて。トレーナーはその間に、警察へ連絡しておいた。すぐさま警察がこの場に来るだろうが、その前にこれ以上『悪縁』を呼び寄せられてはたまらない、とカフェは商店街の小神社を目指す。幸い、今回はこれ以上の『悪縁』が訪れることはなかった。
カフェは、小さな本殿の前で再び手を合わせて。
「……もう私には十分に『良縁』がありますから、無理に願いをかなえようとしないで。あなたの気持ちは十分伝わりました」
瞬間、その言葉に答えるように、さあ、と清い風が吹いた。
それから。
「………………」
カフェは静かな理科室で、コーヒーのかぐわしい匂いを楽しみながらピンクダークの少年を読んでいた。今日の豆はカロシ・トラジャ。タキオンさんの実験で沸き立つビーカーのこぽこぽというおとに、露伴先生のGペンが原稿の上を滑らかに滑っていく音も、今となってはもはや日常の一部で心地よい。
もはや取材攻勢は収まり、こうしてカフェは普通をとりもどしたのだ。午後には、トレーナーの次のレースに向けての特別メニューも待ち受けている。
「非日常を味わってこそ、日常の大切さがわかる……といいますが、本当に」
カフェはそう呟くと、ううん、と腕と背を伸ばしコーヒーをもう一杯啜った。
←To Be Continued?
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#019『禁止表現』
「読むと様子がおかしくなる同人誌の噂……ですか?」
その日、理科室を訪れていたのはアグネスタキオンと同室のウマ娘『アグネスデジタル』だった。彼女は自身がウマ娘でありながら、学園屈指の『ウマ娘オタク』として知られ、本人曰く趣味で同人誌を出版したりもしているだけのごくごく普通のウマ娘……であるらしいがその実力は生徒会にも知られるほどの折り紙付きだ。
「はい……そのう……こういうのを持ち込んでしまうのは、私としても心苦しいのですが……あのう……」
「デジタルくん、大丈夫だ。カフェに話してみたまえよ。彼女は君の言うような『奇妙』なものにはめっぽう強いからねぇ……先達やその道の専門家の見解というのは聞いておくべきものさ」
今回、デジタルが理科室を訪れたのはタキオンの勧めも大きかった。デジタルは常日頃タキオンの世話を焼いており、タキオンにとっては彼女のトレーナーと共になにかしら恩を感じている一人でもあった。故に、その悩みを聞き、内容から自分の相方であるカフェを紹介したという訳だ。
「は、はい……私、僭越ながらウマ娘ちゃんたちの……『同人誌』を作って、それを即売会などで売らせていただいてるのですが、同人界隈で、最近妙な噂があるのです。いつのまにか、荷物に『変な本』が紛れ込んでいて、それを読むと『おかしくなる』という……」
「ふむ、つまりは『知るな』『見るな』といったたぐいの『禁忌』ね……なぜそれが同人誌即売会の場に現れるのか……は分からないが、よくあるタイプのものだな。例えば、詳しい場所は伏すが、かつて僕が取材に行ったところでは『見てはいけない祠』というものがあったよ。しっかりとスケッチをさせてもらったがね」
デジタルの言葉に反応したのは、タキオンの紅茶を分けてもらって飲んでいた露伴である。ネタさえあればどこにでも取材に赴く露伴も、こうした文化や民俗学的な話にはなかなか強く、それに漫画関連文化と言う事もあって興味を示したようだ。
「やはり紅茶はアールグレイがいいな。タキオン君の様に砂糖でぐちゃぐちゃにしてしまっては風味も何も……まあそれはいい、『おかしくなる』って……どう『おかしくなる』んだ?」
「ひょ、ひょわ……き、岸辺露伴先生に直接お声がけいただけるとはきょきょきょ恐縮の至りでありまして本日はお日柄も良く……」
タキオンの険悪な目つきに気づき、露伴は冗談だよと鼻で笑いながらデジタルに話しかけたが、当のデジタルは緊張のあまり使い物にならなくなっていた。デジタルもご多分に漏れず大御所漫画家である岸辺露伴の大ファンであり、原稿用紙何枚にも及ぶ感想文をたまにファンレターとして送ったりしていたものだからだ。今のデジタルはこっそり活動をやっていたら公式に良い意味で目をつけられ、声を掛けられたファンの挙動であった。
「ええと、その……それが具体的には『わからない』のです……ただ『とある大手サークルの代表さん』は、それで活動をやめてしまったんです。なんでも『この世の真理を探しに行く』とか言って……連絡まで取れなくなってしまったそうで……」
「要領を得ない話だな……そのサークルの代表とやらもただ単に同人活動から離れたかっただけじゃあないのか?」
「いえ! それは考えられません! その代表さんはとても情熱を持って活動されていた方で、既に新刊も書き上げて直近の即売会にも出る予定だったんです」
何とか落ち着きを取り戻したデジタルの言に、露伴はそんなものかね……と返し、とりあえず彼女の証言を何かネタになるかもしれない、と考えてメモにとりつつ。露伴にとっては創作欲の減退というのは未だ感じたことがないためよくわからないが、他の者にとってはそういうものはあるらしく、そういう類ではないかと思いはしたが、きっと彼女が違うというのなら違うのだろう。何しろわからないしな。と露伴は一応納得した。
「ということで、だよ……露伴君、次の同人誌即売会に出てあげてくれ給え。
というよりはもう、こちらで参加申込書を作って送っておいたよ」
「……おい、オイオイオイオイオイ。何を勝手に決めてくれてんだァ―ッ!?」
と、ふいに投げかけられたタキオンの言葉に露伴は驚くしかなかった。露伴にとって、同人誌即売会に出るなど全く経験のない事柄だ。と言うより問題はそういう事ではない。『勝手』に『自分の予定』を『他人』に『決められる』のが嫌なのだ。
「……そ、そうですよねェ―ッ! プロの! 公式様に! 勝手に即売会に出ろなんてッ! ああっ恐れ多い! 恐れ多い! なんということを! ファンの立場から公式に働きかけるなんて! なんとおこがましい!」
などと、デジタルはその場に土下座を繰り返していたが、タキオンは特段慌てた様子もなくむしろニヤついて露伴にこう返すのだ。
「これは取材と考えるべきだよ露伴君。同人誌即売会、そして謎の怪異……立派な取材テーマになりそうじゃあないか?」
タキオンにとってはむしろ、以前勝手に本にされたことやなにかにつけてカフェに絡んでくる露伴に対する嫌がらせのようなものであったが、一応はルームメイトの悩みを解決してやろう、という考えもありはした。
「そういう問題じゃあないッ! わざわざ出る必要はないだろッ! それに勝手すぎるぞ。この僕はプロの漫画家……つまり『社会人』なんだッ! その日に出版社なんかとの予定が入っていたらどうするつもりなんだッ!?」
「予定の点については君の担当と既に確認済みさ。泉君だっけ? その日入ってる予定はない。寧ろ彼女は、最近はプロでも同人誌即売会に出たりすることがあるし、意外性で逆に普段ピンクダークの少年を読まない層へのPRになるかもしれない、と乗り気だったが……編集部的にも、特に問題はないそうだ」
「何ィ―ッ!!?」
自分を蚊帳の外にして勝手に物事が進められていく。これは露伴の嫌いな展開に他ならない。露伴は、あとで担当の泉に説教の一つでもしてやろうと思いながらも、直近の即売会をスマートフォンで調べてみる。おおよそ1か月後。
「……クソッ、もうネットで話題になってるぞッ! 『岸辺露伴、同人誌を売る』とかなんとかッ!」
「全く、君は往生際が悪いねえ。ここまで来たんだから出てあげればいいじゃあないか。それともアレかい? もし同人誌が『売れない』とか……そもそも『間に合わない』なんてのが怖いのかい?」
タキオンは、露伴を煽っていく。露伴はかなり負けず嫌いなタイプで……ある意味では子供っぽい所がある。それに斜に構えた態度をとりがちで人見知りもするが、善意などがないわけでもない男だ……ここまで追い詰めてやれば……
「……こと漫画に関してこの岸辺露伴を舐めるなァーッ!!! この僕が連載を落としたことは、腕を負傷したとき以外無いッ! たとえ一日で原稿を仕上げろと言われたって、間に合わせて、その上で『面白い』と言わせてみせる自信があるッ!」
そう言うと露伴は、不機嫌さを隠さず自分の執筆スペースに向かうと、すさまじい勢いで原稿を書き始めた。
「と、いうことで露伴大先生の新刊がきまったようだよ、デジタル君」
デジタルからの返事はなかった。申し訳なさと自分のスペースで公式である露伴先生が同人誌を売るという僥倖の板挟みになり、口から魂がはみ出ていたからである。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #019 『禁止表現』 ◆◆◆
その日、ウマ娘の聖地とも言える府中で長い歴史を誇る同人誌即売会『府中ウマ娘ごった煮ステークス第48R』はかつてない盛り上がりを見せていた。
「えー……岸辺露伴先生、アグネスデジタル先生の合同サークル『リアリティ』の最後尾はこちらになります~」
会場の外まで突き抜けてしまう程の長蛇の列。これらは当然、超人気漫画家である露伴の特別描き下ろし同人誌である『ピンクダークの少年#EX ウマ娘の秘密特別編』が目当ての列。『あれ』から、一時間もかからず露伴が書き上げた同人誌は全編カラーで、本誌掲載分と寸分変わらぬクオリティのすさまじいものであり……見本カットをデジタルが己のサークルの宣伝用ウマッターアカウントで投稿したところ数万RT、十万以上のウマいねがつく大バズりとなった。
「ひ、ひええ……えらいことになってもた……」
そもそも売り子を務めていたアグネスデジタルもあまり自覚はないが一線級のG1ウマ娘であり、オタ活も活発なことからファンも多く、その相乗効果で今までにないほどの人数が集まった格好だ。
「すいませェーん! 露伴先生、ついでにこれにサインいただけませんかァ~ッ? 音石くんへ、って入れてくださいーッ」
ギターを携えた青年が、購入したばかりの露伴の同人誌を差し出し、頭を下げる。オタ活において、後が空いているときに多少の会話だとか、あるいはサイン承りますとかサークル側で書いているならまだしも、この満員状態でこの申し出はいただけない……とはいえ、相手はあきらかにこうした場になれていなさそうな人間だ。デジタルはやんわりと、後が詰まっておりますので~と断りの意を示そうとしたが……
「サインなら描いておいたよ、スデにね……はい、次……」
「ド、ドヒャアーッ!?」
露伴が言う通り、男が差し出した同人誌にはピンクダークの少年、岸辺露伴という名前、そして音石君へという希望のメッセージ入りの完璧なサインが書き込まれているッ! 見えなかったッ! このアグネスデジタルの眼をもってしてもッ! さすがは露伴先生……デジタルは畏敬の念を改めて強くした。
結局、用意していた1000部の同人誌は、午前中のかなり早い時間に完売。
「さて……これで『時間』ができたな。なんだかんだ即売会と言うのには初めて参加したんだ。どのような同人誌があるか、少々興味というモノもある……」
撤収前に少し会場を回っていくか、と露伴がつぶやく。
「あ、では……サークル撤収の準備は私がしておきますので……露伴先生はぜひとも……あれ?」
デジタルがぜひぜひ、と露伴に会場の見回りを勧めようとしたその時……デジタルは段ボールの中に、一冊本が残っているのに気づいた。同人誌はすべてハケたはず……それを拾い上げて、デジタルはヒョッ!と声をあげた。
「……『世界各地に伝わる馬の伝承』?」
拾い上げたそれは、同人誌というよりはしっかりした装丁が施されたちゃんとした本であり、赤茶色の分厚いカバーでおおわれている。
「もしかして……これが?」
「――それが例の、読むと『おかしくなる』書物というやつか?
確かにいつの間にか紛れていたという点については例の噂通りだが……」
デジタル、そして露伴はどうしたものか、と言う風にそれを観察する。外見的には前述したとおり、しっかりとした本という印象以外露伴には感じられなかったが。
「この『ウマ』の字、点々が『二つ』じゃなく『四つ』ありますね……」
デジタルは気づく。この『馬』の字は常用漢字ではない。が……これ自体は『馬偏』として普通に存在はするものだ。なんでも、全力で走るウマ娘の足が多く見えることを現した物で、江戸時代の歌人があえて使った事から例えば『騎バ戦』だとかの『騎』などは普通にこう書くのだ。
「……とりあえず、中身を見てみない限りはどうもこうもないな……デジタル君、もし危険な物なら二人で見る必要はない。『僕』が見よう。噂通り、僕がおかしくなるようなら適当に止めてくれ」
「あッ……」
言うが早いが、デジタルが止める間もなく露伴はその本を開いた。ふむ、ふむ、と内容を一通り確認していく露伴。そして、露伴は笑みを浮かべて。
「はははっ……」
「どどどどどどど、どうしたんですか露伴先生!?」
「いや、これはただ『馬』と人間がどのように関わってきたかの研究書だよ。例えばラスコー洞窟の壁画だとか、ベリー公のいとも豪華なる時祷書の写真の一部に……こりゃ蒙古襲来絵図の騎馬武者……ダヴィッドの有名な『ナポレオンの峠越え』なんかもある……」
露伴自身は、特段違和感を感じなかった。デジタルは……露伴がテーブルに置いたそれを取り、自分でもぺら、ぺらと読むと……
「……この見かけない『動物』。なんなのでしょうね? 全部のページの絵とか写真に載ってますけど……なんか、見てると『不安』に……あ、う、ぁ……?」
その瞬間だった、頭を押さえてデジタルは本を取り落とし……突如『嘔吐』した。
「ど、どうしたッ、デジタル君? デジタル君! しっかりするんだッ!」
「ハァーッ……ハァーッ……ガボッ……ぐええ……露伴せん、せ……気持ち悪いです……わからないけど、絵を見ていると……ぐ、ぎ……!」
デジタルはひどい頭痛と眩暈に襲われ、その場に立っていられなくなり冷たい地面に体を横たえるしかなかった。体がまるで熱病にかかったかのように熱い。心臓が爆発しそうだ。それなのに魂そのものが恐怖を叫んでいるかのような冷たい汗が背筋にぶわっと噴き出してくる……
「担架だッ! 誰かッ……医務室へデジタル君をッ! いきなり倒れ――」
デジタルが意識を失う前に聞いたのは、露伴の声と周囲の騒然としたざわめきだった――
その後、デジタルは医務室に運ばれて駆け付けた救急車によって府中の中央病院に運ばれ、とりあえず症状自体は落ち着いたがデジタルの意識は薄弱で、会話こそは辛うじてできるものの、私は大丈夫です、としか喋らない。医師の見解では身体的に異常はなく、詳しいことはわからないとのことで……考えられるなら強い精神的ショックを受けたのではないかとのことだった。
「クソッ……!」
露伴はそんなデジタルの病室で、己の膝にこぶしをたたきつけた。
「この『僕』がついていながらッ……!」
『呪いの本』をまんまとデジタル君に読ませてしまった……その不甲斐なさに、露伴は自分に腹を立てていた。『呪い』ならばそのデジタル君を『ヘブンズドアー』で本にしてその部分を『忘れる』ように記述させることで打ち消すことができる……露伴は実際にデジタルにそれを試そうとしたが、特におかしな点はデジタルの記憶には見つからなかった。例の本を読んだ、という記憶さえもショックか何かで吹っ飛んでいたので『本を読んだことを忘れる』とも記述できなかったのである。
(これは僕の責任だ……デジタル君を元に戻すにはどうすればいい? 原因があるなら、それに対処してやればいいが……!)
原因はあの本だ。もう一度あの本を読めば何かわかるかもしれない……そう思い、既に即売会の運営に連絡を取り、自分のサークルスペースにあるはずの『世界各地に伝わる馬の伝承』を持ってきてもらおうともした。しかし、例の本はどこを探してもない、というのが運営スタッフからの報告だった。
(冷静になれ……なぜ、デジタル君だけがこうなった? ウマ娘は感覚が人間と比べて全般的に鋭敏だ。例えば『隠し絵』のようにウマ娘だけが判別できる微妙な色やデザインなどで『催眠』の類が仕組まれていたとか……)
露伴は、とにかく原因を探ろうと考える。その時だった。
「調べなきゃ……私の『原典』を……」
うつろにぽつり、と呟いたデジタルが体を起こす。しかし露伴はその声を掛ける事すら躊躇するような異様な雰囲気に、気圧されるしかなかった。デジタルは、点滴などを乱雑に引きちぎると、パジャマのまま病室を出ようとする。
「待つんだッ、デジタル君ッ……!」
ようやく、露伴も声を掛けるが瞬間デジタルはすさまじい勢いで走り出したッ! 露伴も病室を飛び出す! しかし相手はG1ウマ娘アグネスデジタルである……スピードがあまりにも……違いすぎるッ!!!
「な、なんて速さだッ!!!」
露伴は病院のホールから夕闇に支配されつつある府中市内に飛び出していくデジタルの背中が小さくなるのを、見送ることしかできなかった。しかし……
「デジタル君の様子は……?」
「あっ、岸辺露伴……先生!? お待ちしていました!」
図書委員ゼンノロブロイは不安そうに露伴を出迎える。そう、デジタルはトレセン学園の『図書室』に来ていたのだ。露伴も、『調べもの』をするならば今のデジタル君なら『本』をあたるだろう、と府中の図書館とトレセン学園の図書室に連絡を取り……案の定、デジタルは学園の閉架にロブロイの制止を押し切って無理やり入っていったのだという。
「……閉架で、ひたすら『禁書棚』のあたりで本を読んでいるみたいです。
止めようとしたのですが、あまりにも鬼気迫る表情をするものですから……」
ロブロイは少し怯えた様子で、がさがさと音のする閉架方面を見やる。
「……ここからは僕に任せてくれ。これは僕の責任でもあるんだからな……」
だが露伴は、まるで虎穴に入るかのように意を決してその扉を押し開けた。
『ウマ娘という神秘』『スーフィズム』『モンゴル帝国』『ペルシア王朝のシャー』『スキタイ族の文化風俗について』『ヴォイニッチ写本を読み解く』『オランダ東インド会社のとある秘匿』『近現代アメリカ史とウマ娘』『スティールボールラン全記録』『江戸時代の狂歌』『物理学からみるウマ娘の謎』『ペーパークリップ作戦』『エドガー・フーバー・ファイル』『ダービー伯爵の回顧録』『英国競バ史』『金枝篇』『レキシントン・コンコードの戦いとポール・リヴィアの騎行について』『ストア哲学』『メソアメリカ諸文明とコンキスタドール』『鉄仮面』『中世ヨーロッパと神秘主義』『星を見る』『サマルカンド』『後漢書にみるウマ娘の記述』『鐙の発明』『古生物史におけるウマ娘の特異性』『東方見聞録』『大プリニウスと博物誌』『ローマ諸州総督についての記述』『金床戦術』『カスター将軍』『兎と亀のジレンマ』『女子陸上史』『トルマキオの饗宴の散逸した部分についての考察』『フランス革命の謎』『ハンガリーのフサリア』『アリストテレス』……
すぐさま、アグネスデジタルは見つかった。前述した大量の本に埋もれながらも、なおかつひたすら貪欲に本を手を取りその記述を読み漁るさまは何かに憑りつかれている、というのが正しいだろう。
「デジタル君……」
「露伴先生……えへ、えへへへ……私……もう少しでわかりそうなんです。『全て』が……古代の哲学者すらわからなかったウマ娘とは何なのか? という問いが」
デジタルは、完全に据わった目で露伴を見るとひきつった笑みを浮かべながら、書物の記述を指で確認しつつひたすらに読み進めていく。
「ウマ娘はね、別世界の存在の名前と魂を受け継いで走る存在なんです。わかりますか? ねぇ、私たちにはおそらく『オリジナル』がいるんです。つまり、そうか、私たちは。ウマ娘は。なにかの模倣――」
「『ヘブンズドアーッ』!」
露伴は、その異様な様子のデジタルにヘブンズドアーを発動させた。それ以上言葉を聞いていると、自分すらその狂気に飲まれてしまうのではないかと、恐怖したからだ。
「ハァーッ……ハァーッ……」
しかし、本と化したデジタルは……それでも意識を失わなかった……!
「そうだ……『ウマ』じゃない……『馬』なんだ……わかった、わかったぞ、わか――はははは!」
あはは、あはは、と狂喜したように笑みを浮かべるデジタル。同時に、露伴も以前これに似たものを目にしていることに気づく。
「そうだ……これは『くしゃがら』のようなッ……こちらもわかったぞ……デジタル君は、この世の中の『禁止事項』……いや、『禁止表現』を知ってしまったんだッ!!!」
瞬間、露伴はデジタルの顔面に乱暴に手を掴み入れ……ページを引きちぎったッ!!!
「……こういう乱暴な手段はとりたくはなかったんだが……志士十五と同じようにさせてもらう。君はこの一か月間の『記憶』を失った……少々生活に支障が出るかもしれないが、そこはもう、勘弁してくれ……」
どさ、と本の上に倒れ伏すデジタル。露伴も、少し疲れてその場に座り込む。とにかく、これで終わりだ。終わりなのだ。この件に対して考えるのは、今は無しだ……そう自分に言い聞かせ、デジタルを抱え上げると、未だ狂気の残留するような閉架から露伴は脱出した。
……結局、デジタルは一か月間の記憶を失ったことで『同人誌の噂』を相談してきた頃のデジタルにまで戻った。医者もなんらかの強い精神性ショックを受けての記憶喪失ということでカルテを書き、身体的に異常がなかったことでこの件は一応の解決を見た……が。
露伴はひとつ、どうしてもつじつまが合わない事に考えを巡らせる。
「……なぜ僕には、あの『本』の『呪い』が発動しなかったんだ?」
そもそも最初に本を読んだときに、何の違和感も感じなかった……というよりは。いや、まったく『奇妙』なことなのだが『違和感を感じなかったこと』に我ながら『違和感』を感じてしまうのだ。確かにあの本には見慣れない獣が描かれていたが、アレに違和感を感じない。どういうことなのだ……?
そこまで考えて、露伴は意識的に思考を止める。これ以上深入りして僕までデジタルやかつての『くしゃがら』のようになってはたまらないからだ。
「あぁ~……一か月間の間のッ、ウマ娘ちゃんたちや露伴先生とのいろいろを忘れてしまうなんて……デジたん一生の不覚……これは、今まで以上に目を皿のようにしてウマ娘ちゃんたちを観察して取り戻さないと!」
幸い、デジタルは持ち前の気性でさほどショックを受けていないように思える……それだけが、露伴にとっては慰めとなる要素だった。これで意気消沈されていてはさすがの露伴も罪悪感を覚えるというモノだ。
「今日は、本を読むのはやめにしておくか……」
露伴はそういうと、いつものように理科室へと向かうのだった……
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#020『いともたやすく行われるえげつない行為』
突然だが、あなたに質問をしよう。アメリカ合衆国第23代大統領は誰か? ベンジャミン・ハリソン? それとも『ファニー・ヴァレンタイン』? 答えはどちらも正解だ。もしかすると別の答えを思い浮かべた方もいるだろうが、それも正解かもしれない。
あなたは並行世界仮説あるいはパラレルワールドという言葉を……聞いたことぐらいはあるだろう。この世は可能性と選択の連続だ。例えばテニスでネットに弾かれたボールが手前に落ちるのか? それとも奥に落ちるのか? それは誰にもわからないが、そうした些細な、あるいは大きな可能性の分岐が異なった『世界』が……連続して続く本のページのように……枝分かれ、並行してあるのではないか、という考え方で、映画だとか漫画だとか……いろいろな媒体で創作ネタとして取り上げられているから、概念としてはなんとなくわかる者も多いはずだ。
ここに記すのは『あたし』こと『キタサンブラック』が体験した……一つの『奇妙』な記録である。
――これは、あたしが少しだけ成長する物語だ。
◆マンハッタンカフェは動じない #020 『
「じゅ、授業に遅刻しちゃう~~~っ!!!」
その日、朝のランニングに出かけたキタサンは横断歩道を渡れずに困っているお婆さんを助け、木の上に上ったはいいが降りられなくなってしまった子猫を助け、さらには府中駅と東府中駅を間違って降りてしまった地方からの観光客にバス乗り場などを教えているうちに、完全に時間を喰ってしまい授業に間に合うかどうかの瀬戸際にあった。キタサンはとにかく、困っている人物に対して見て見ぬふりをできぬ性質で、皆からはお助け大将キタちゃんなどと親しまれているのだが……授業に遅れてしまうのはいただけない。
いつもは通らない裏道や、細い路地を駆使し、とにかくトレセン学園への帰路を急ぐ。このペースなら辛うじて間に合うだろうか? 最悪ジャージのまま授業に出ることになるかもしれないが……!
などと考えているとき、キタサンはとあるものの存在に気づき、足を止めた。
「これ……血……?」
地面に、点々と赤いものが落ちており……最初はペンキかなにかかと思ったが、どうやらそれは血であるようなのだ。しかも、まだ新しく乾ききっていない。
「誰か、怪我をしてるのかな……ほっとけない……!」
キタサンはポケットに入っていたテーピング用のバンデージを取り出し、その血痕を追った。もし怪我人がいるのなら痛い思いをしているはずだ。早く助けてあげなくては……純粋に、そう言った思いからの行動。おおよそ路地を折れて5mほど進んだ時の事。
「ハァーッ……ハァーッ……いいか、一度しか言わない。『そこで止まれ』」
男の声。どうやら、この先にあるいくらか草木の生えた放棄地からしているようだ。とはいえ、姿は見えないが息が荒い。やはり負傷している風に思える。
「『動けば』……君を『敵』と見なす」
キタサンは、男が何かトラブルに巻き込まれているのだと気づいた。もしかすると危ないことかもしれない……大人の人を呼ぶべきか? しかし……
「……怪我、してるんですよね? 大丈夫です、怯えないで。事情は分かりませんけど、あたしがあなたを助けます。近くに行ってもいいですか……?」
とにかく声のする方に呼びかけてみる。返事はない。キタサンは恐る恐る……そちらの方向に歩を進めようとした。
「失礼、お嬢さん……」
「わっ……!」
と、ふいにキタサンは肩を掴まれる。振り向くと、そこにはすらりと背の高い学生服の男がおり……何かを探すように周囲を見回しつつ……
「……人を探していてね。そう……僕の友人なんだ。怪我をしている。このあたりに来たようなんだが、そういう人物を見ていないかい?」
そういって男がキタサンを見下ろすその眼は――なにかとてつもなく冷酷なものが隠し切れずあり、その声も、友人を探しているにしてはあまりに剣呑すぎた。人を信じて疑わないキタサンもこの男に対して、警戒感を抱かずにはいられず。やはり、何か事件が起きているのか――もしかして、例の声の人物はこの男から逃げているのでは、と合点がいく。
「……はい、知っています」
男に対して、キタサンは答える。
「その人、怪我をしていたのであたしがバンテージで止血してあげたんです。するとすぐに、逃げるように『向こう』の方に走っていきました」
「……ふむ、そうか。ありがとうお嬢さん」
男はキタサンににこやかに笑みを作り礼を言うと、次の瞬間には……既にいなくなっていた。
「……もう大丈夫です。何があったかは本当に解りませんが……怪我をしてるんですよね。手当ぐらいはさせてくださーい……」
それから、草の茂みをかき分け、放棄された空き地の奥へと入っていくキタサン。すると、そこにはピンク色の派手なコートを着た外国人の男がうずくまって倒れているのが見えた。頭髪も、まるで音楽の授業で見たバッハとか……そういった感じのカールした奇妙な髪形をしている。が、そんなことはどうでもいい。腕からの出血がひどい。そのせいか、男は額に脂汗を浮かべて気を失っていた。
「…………!」
「ハァーッ……ハァーッ……」
キタサンは、すぐさまバンテージを取り出しスポーツ医学の授業で習った緊急時の簡易応急処置を思い出しながら止血する。しかし、このまま放っておくわけにもいくまい。
「止血はできた……はず。なら、動かしても……!」
そのまま、キタサンは男をウマ娘の怪力で苦も無く担ぎ上げ病院へと向かう。
「なるほど……この僕に対してうそをついていたのか、ベイビー……」
その光景を、少し離れた場所から見つめる男の姿があった……。
――府中中央病院。キタサンは負傷した男性を見つけたので連れ添っている、とトレセン学園に連絡し今は男が寝かされている病室にいる。なんでも、腕の負傷はかなり深く何でつけられたのかはわからないが事件性があるのではないか、と病院側が判断したためもうすぐ、この病室に警官が事情聴取にやって来るそうだ。キタサンも発見者として、その事情聴取に同席し、話を聞きたいとのことなのだが……。
「アメリカの人……なのかな」
ぽつり、呟く。彼の持ち物はベッドわきの台の上に並べられている。といっても血のついたコートは処分され、残ったのはハンカチと古いアメリカの金貨や紙幣のみ。パスポートだとかの身分証明ができる物は一切持っていない。
「『アメリカ合衆国第23代大統領』は誰か?」
「え? えーと……誰だろう?」
と、その時キタサンに質問が投げかけられた。一瞬考えこんだが、アメリカの歴代大統領の事は分からず。というよりも、この声の主は……!
「ああっ! 気づかれたんですね? よかった……! ここは府中中央病院。怪我をされていたので、勝手ですが運んできちゃいました」
やはり、例の男だ。痛むのか包帯に覆われた右腕を抑えているが、半身を起こして興味深そうにきょろきょろと病室を観察している。
「ふーん……まぁ、いい。『包むもの』が手に入ったのは僥倖だ。どの程度『基本世界』から離れたか知っておきたかったが……君のその『耳』を見ると、だいぶ、遠くまで逃げてきたらしいな」
逃げてきた、という男の言にやはりなにかトラブルに巻き込まれているのだ、と言う思いを強くするキタサン。
「大丈夫です! 今、事情を聴きに警察の人もこちらに向かっているそうです。それに、おたすけ大将キタちゃんがいます。なんでも相談してください!」
「そうか……まぁ、警察なんてどーでもいい。すぐ『出発』する私にとってはな……」
そう言うと、男は台の上に置かれたハンカチを取ろうとしたが、キタサンはそれを制止する。
「だ、ダメですよ! 怪我してるんですから! お医者さんも一週間は絶対安静だと言ってました! それに……あ、警察の人が来たみたいですよ!」
だが、引き戸を開けて病室に入ってきたのは……例の学生服の男であった。
「随分とゆっくりしていたものだ……『ファニー・ヴァレンタイン』。とっくに別の『次元』に逃げたものだと思っていたよ……」
「あっ……!」
学生服の男は、扉を閉めると後ろ手で鍵をかける。ファニー・ヴァレンタインと呼ばれた方の男は、ただ静かに様子を伺っているように見えた。
「『ハイエロファントグリーン』ッ! とどめくらえッ『エメラルドスプラッシュ』ッ!」
「うおおおおおッ!!! 『D4C』ッ!!!」
学生服の男が、なんらかの方法で先に『仕掛けた』。キタサンブラックにはそれがわかったが、次の瞬間まるでなにかがぶつかり合ったかのような空気の衝撃があり……
――ドグシャアアアアッ!!!
部屋にある調度品――花瓶や空きベッドのシーツ、カーテン、窓ガラスなどが一斉に弾き飛ぶッ!
「きゃああああッ!?」
咄嗟に身を丸め、飛来物から身を護るキタサンだったが……次の瞬間気づいた時には、体が動いていたッ!
「な、何が起こったのかわからないですけど、やめてくださいッ! ここは病院の中なんですよッ……!!!」
ヴァレンタインと学生服の男の間に手を広げて立ち、制止するキタサン。正直言って、怖い。何が起こったのかわからないが、これ以上踏み込めばこの二人の事情に確実に立ち入ってしまう。だが……やはり、怪我人に対して何らかの攻撃を仕掛けるというのは、間違っている。しかもこんな病院にまで追いかけてきて……! それが今のキタサンに勇気を与えていた。
「勇敢なお嬢さんだが……ヴァレンタインは『あのお方』を裏切った……邪魔だてをするならば、君も『始末』せざるを得ないッ!!! 喰らえ僕のエメラルド――」
来るッ! 謎の攻撃がッ! キタサンは咄嗟に目をつぶり――
――バサァッ!!!
瞬間、何かが横から飛び掛かってくるッ! それは、ヴァレンタイン! 何ゆえか半ばシーツを被った状態のヴァレンタインはキタサンを咄嗟に伏せさせるように引き倒し……そのうえにふわりと一瞬遅れてシーツが二人にかかる。
「クッ……!」
学生服の男は、そのシーツを攻撃しようとして……やめた。意味がないからだ。
「……隣の世界へと逃れたか。だが、いつまでそうしていられる? 『あのお方』に敵対する者は……全て始末する。私の『
……一方、キタサンとヴァレンタインは。
「ハァーッ! ハァーッ! い、一体ッ!?」
「これは……またよくわからない場所に来てしまったようだな。いや、待て。ここは『ボストン』か? いつの『時代』だ? 『私』の時代より幾分か古いようだが」
ヴァレンタインは、とりあえず周囲を見渡し、どこへ行くでもなく歩き出す。木造の建物が立ち並ぶ近世の活気ある港町。キタサンも……訳が分からなかったが、他に人がいないこの状況で一人になるのは心細く、ヴァレンタインの後をとぼ、とぼと追うしかなく、彼もちらりとキタサンを見ただけで特に咎めたりする様子はなかった。
(さっきまで病院にいたのに、あたし……どうしてこんな見覚えのない場所に? なんで? どうして? うう……不安だよう……)
「……君、名前は?」
しばらく歩いたのち、ふいに、ヴァレンタインが話しかけてくる。ここまで殆ど話したこともない男と二人きりで見知らぬ場所にいることに不安を覚えていることが、顔に出ていたキタサンの多少気を紛らわせてやろう、とでも思ったか。あるいは単に、呼び方がわからないのが不便だったのか。
「え……あ、はい、ええとキタサン……ブラックです」
「ブラック? 変わった名前だな……日本人にしては……」
「あたしは……ウマ娘ですから」
「ウマ娘……? 面妖なものだ……」
フン、とヴァレンタインが鼻を鳴らす。結局、それで話が途切れしばらく会話がなされることはなかったが……ふと、キタサンは逆に相手の名前を聞いていなかったことを思い出す。いや、先ほどの学生服の男はこの男の名を『ファニー・ヴァレンタイン』と呼んでいた。だが、まだ正式に名乗ってもらっているわけではない以上、こちらも名前を聞いておこう、とキタサンは思った。
「あの……お名前は『ファニー・ヴァレンタイン』さん……でいいんですよね」
「ああ……その通り。私は合衆国第23代大統領『ファニー・ヴァレンタイン』。君にこの肩書がどこまで通じるかは分からないがね」
「が、がっしゅうこくだいとうりょ……え、あ、ああー!!!!!」
キタサンはその名前を聞いた瞬間まるで点と点がつながったかのように合点がいき、同時に驚愕した。ファニー・ヴァレンタイン。座学の『ウマ娘史』の授業で聞いたことがある。史上初のアメリカ大陸横断レース『スティールボールラン』の最大のパトロンの一人。フィラデルフィア独立宣言庁舎を出発後消息不明という謎めいた最期は今なお陰謀論として議論される人物……。
「だ、大統領がなんで……それに、もし本当だとしても、あなたは130年以上前の人物のはず……!」
「なるほど、先ほどの時代は2020年代あたりか。どうりで医療機器などが進歩してるはずだ……ま、君が信じようと、信じまいと……私は私で、そういうことなんだなこれが」
キタサンはヴァレンタインの言葉を疑わなかった。歴史の教科書にはヴァレンタインの写った写真が図として掲載されており……顔などを詳細に覚えているわけではないが、その特徴的な髪形はインパクトがあったからだ。だが、パニックだ。あたしはなぜここにいて。130年まえのアメリカ大統領と行動を共にしている? 病院で襲ってきた学生服の男の目的はなんだ?
「少しだけ……私の事情を話してやろう。すべてが理解できるとは思えんが……」
混乱して頭を押さえていたキタサンに、見かねたのかヴァレンタインが助け舟を出した。
「私はいわば『並行世界』間を自由に移動できる。この世にはほんのボタンの掛け違いでなにかが変わってしまった世界がまるで本のページの様に……隣り合って無数に存在している。それは髪の毛一本の違いかもしれないし、大きく変わっている世界もある」
「は、はぁ……」
「そして……とある『並行世界』には『巨悪』がいる。私はその『巨悪』を倒すべく、奴らの仲間になったフリをしていくつもの『並行世界』を回り……『聖なる遺体』そして『ヤツを倒せる者』を探していたのだ。といっても、今はもはや『奴ら』に私の思惑は露見した。さっき襲ってきた男はいわば『刺客』というやつだ」
「つ、つまり……大統領さんは、悪い奴をやっつけるためにいろんな『世界』を旅してまわっている……ってことですか?」
簡単に言えばそういうことになるな。とヴァレンタインは真面目な顔で答えた。さすがのキタサンもこれには半信半疑であったが……いきなり見ず知らずの外国に飛ばされたのも『世界』を移動したからと考えれば、つじつまが合う……のだろうか?
「……説明はここまでだ。それに私にあまり付きまとわない方がいい。いつまた襲われるかわからないからな」
ヴァレンタインは、隠れ休む場所を見つけねば……と呟いて去っていこうとする。
「付きまとわない方がいい……って、そ、その、元の世界に帰るにはどうしたらいいんですか!?」
キタサンは血相を変えてヴァレンタインを追いかけた。とにかく、男の言う事を信じるとしてここが違う世界なのなら大問題だ。元の世界……トレセン学園に帰るにはどうしたらいい!? その答えを、聞かなければ!
「……私の能力ならば、君を『元の世界』まで送ることもできるが……そうしている時間はない。すまないな。本当にそう思う……それに別段君が助けてくれた恩に感じるところがないわけではないんだ。ただ、それは先ほど君が攻撃されそうになったところを助けたことで『チャラ』ってことにしてくれ……命あっての物種、っていうだろ」
「そ、そんなあ……!」
「君は君自身の『でしゃばり』によって『下手を掴んだ』……自分の身の程をわきまえて静かに暮らしていれば……『回避』できた下手をな……同情するが、もはや助けてやる義理もない」
あまりにも勝手すぎる……! キタサンはヴァレンタインの身勝手さに少しだけ腹を立てながらも、とにかくこの男を見失っては元の世界に帰るすべも失われると理解し、後についていくことに決めた。その時、ぐらりとヴァレンタインの身体が揺れ、とっさに倒れ込まないよう、壁に手を突いたがそのまま膝から崩れ落ちた。
「大統領さんっ……!」
「ぐ……く……足が……血を失いすぎたか……」
無理もない。医者の見立てでは少なくとも一週間は絶対安静なのだ。病院で少し寝たとはいえ、あれだけで回復するはずがない。キタサンは、やはり放っておくことはできずヴァレンタインを担ぎ上げると、とりあえず近くにあったベンチにまで運び、寝かせてやる。
「こんなものしかないですけど……食べますか?」
さらに、そう言ってポケットから取り出したのはキャンディーだ。本来ならダイヤちゃんのお茶を飲む際に食べたり、子供たちにあげたりする用なのだが多少のエネルギーにはなるだろう。ヴァレンタインはそれを無言でかみ砕き、飲み込むと……そのまま疲れのあまりか意識を失ってしまった。
「……どうしよう。どうやったらトレセン学園に帰れるんだろう」
キタサンは、その横に座ると……心細げに、そうつぶやいた。
「ハッ……!」
次にヴァレンタインが目を覚ましたのは、しっかりしたベッドの上だった。上等な部屋ではないがぱち、ぱちと燃える暖炉が身震いするような冬のボストンの寒さをほんの少し和らげている。そして、ベッドのわきの椅子ではくうくうと座ったまま寝息を立てるキタサンの姿。どうやら彼女はどこか宿屋を見つけてくれたらしく……同時に、看病してくれていたようで濡れたタオルと水の入った容器が卓に置いてあった。
「…………看病してくれていたのか」
「ぁ……」
呟くヴァレンタイン。起こすつもりはなかったが、キタサンのウマ耳がぴくりと動き、未だ眠そうに眼をこすりながら彼女も覚醒した。
「……すまない、寝ているところを起こしたな」
「ふぁあぁ……だいじょぶれふ。気が付いたんですね……」
彼女の話では、気を失った後熱を出したヴァレンタインをどうしようかと悩んでいるとき、偶然この宿屋のおかみさんが通りがかって、空き部屋を一室貸してくれたそうなのだ。食事もほんの少しだが、分けてくれたといい、部屋のテーブルの上にはリンゴとパン、それになにかのパイと新聞が置いてあった。
「偶然ですけど、いい人に出会えてよかった……あのまま野宿かとおもいましたよ……」
「……お人よしって点では、君も相当なもののようだがな……冬のボストンは冷える。私は何日寝ていた? その手は数時間看病したって感じじゃあないだろ」
キタサンの手は、何度も冷水に漬けられたことでふやけ、少し血がにじんでいた。指摘されたキタサンは、一瞬手を隠したが……無駄だと悟り、えへへ……と頬を掻いて。
「2日ですかね……あ、いまのところ例の『追手』は来てないみたいです。たぶん、ですけど……」
「……君はそんなに元の世界に帰りたいのか?」
ふと、疑問に思いヴァレンタインは問うてみる。望郷の念と言うのは強いものだ。恐らく、私が亡き父をいくつもの世界を渡って探したように彼女だって元の世界に帰るにはなんだってするだろう。見ず知らずの男に取り入るために、手をふやかすぐらいまで看病をするかもしれない……が。
「帰りたいです……元の世界にはダイヤちゃんや、テイオーさん……あたしのお友達がいっぱいいて、目標も、やりたいこともたくさんありますから。でも……」
目の前の少女は、どん、と自分の胸を拳で叩いて言った。
「あたしは困っている人の事を見過ごせないんです。おたすけ大将キタちゃん、っていったらちょっとは有名なんですよ! それに……大統領さんは『悪と戦う正義のヒーロー』なんですよね? ヒーローが困っているなら、助けなきゃ……!」
ヴァレンタインは苦笑した。目の前の少女のいう『悪と戦う正義のヒーロー』という言葉に。この少女は……あまりにも『純粋』すぎる。物語の中の話の様に、この世には『絶対的な正義』と『絶対的な悪』が存在し……悪を倒せば、正義がなされるならどれほど楽なことか。たしかにヴァレンタインは自分の中の『正義』を信じて行動している。が、『絶対的な正義』という物は存在しない。
「……少し意地悪な質問をしようか」
「はい?」
ヴァレンタインは、ベッドわきの水差しからコップに水を汲みそれを飲み干す。
「A国とB国という国があったとする。A国には豊かな水源があり……B国はその水源から来る水を使って生活している。だが、ある日、A国が水源を自分の国だけのものとするために川をせき止めた……」
「えっ、じゃあBの国の人は水が飲めなくなっちゃいますよ!」
「物事の片方の面だけを見て判断するのは止めて話を最後まで聞き給え……A国では、湧きだす水源の水が少なくなり……B国までまわすことが困難になってしまっていたんだ。この場合、A国の行為は悪と言えるかね?」
「う、うーん……」
キタサンは、腕を組んで悩みこんでしまった。A国の事情も分かるからだ。
「なんとか……みんなが幸せになる方法はないんでしょうか」
「……残念ながらそんな方法は『存在しない』。それがこの世の真理であり、私の考え方だ」
この世の幸福と不幸はプラスとマイナスで均衡しており、美しさの影にはひどさがある。同じように、誰かにとっての『正義』はだれかにとっての『悪』なのだ。すくなくともそう考えている。
「それはそうかもしれません……」
しゅん、とウマ耳を垂れ元気をなくす目の前の少女。しかし、頭を振りぐっとこぶしを握ると。
「でも、あたしはあきらめたり、見て見ぬふりをしたくないんです……せめて、自分の手の届く範囲の人ぐらい……助けたいじゃあないですか……!」
「そうだな……それもその通りだ。私もこんな『不条理』で『厳しい現実』の中で……少なくとも『良き隣人』であろうと努力はしている。君のような『良き隣人』も欲しくないと言えばウソになるしな」
「こう……そんな感じで一人一人が協力し合っていけば……うーん難しいのかな……」
真剣に悩んでしまうキタサンのその言葉を聞いて、ヴァレンタインは再び苦笑した。目の前の少女は、甘い。甘すぎる……だが、その甘さがあまりにもまぶしく思えて、こうした『良き隣人』『良い人間』『良い国民』を守るために……私はこの身をいくらでも差し出す。いくらでも後ろ暗い事をしてやる。そう決意をしたのを思い出したからだ。『吐き気を催すゲス野郎』から『多数の幸福』を守るために。
「新聞を取ってくれ。今日は何日だ? それだけ知っておきたい」
「あっ、はい。えーと今日は1773年12月16日……みたいで――」
その時だった!不意に感じる殺気!
「伏せろッ!!!」
「えっ!?」
ヴァレンタインが、咄嗟にベッドから飛び出しキタサンをかばうように地面に伏せさせる。
――チュドッ!!!ドドドドッ!!!ズガッ!ガシャアッ!!!
宿の廊下側から、壁越しにまるで機関銃が乱射されたかのように壁を突き抜けて穴が開き部屋中の物が破壊されていく!
「クッ……『花京院典明』……さすがに追いついたかッ!」
「きゃああああ!!!」
とっさにヴァレンタインは部屋の中で『挟み込めるもの』を探す。何かと何かに挟まれること。それがヴァレンタインの『D4C』の能力発動条件トリガーだからである。しかし……ベッドは重点的に攻撃され、シーツはめちゃくちゃ。新聞やカーテンも同様に使えそうにないッ!
「ようやく見つけたぞッ! ヴァレンタインッ!!! もう鬼ごっこは終わりだ。ここで『始末』するッ!!!」
ヴァレンタインは『エメラルドスプラッシュ』の掃射が続くこの部屋にいればやられると判断し、すでに見る影もない窓ガラスをキタサンと共に突き破って、二階から海沿いの道路に着地した!
「……逃げるぞッ!!!」
「あ、は、はい……!」
キタサンの手を引き、荷あげされた貨物や馬車、魚売りの屋台の間を縫い、遮蔽物として使いながら走るヴァレンタイン。当然、後ろから花京院は追ってきて『エメラルドスプラッシュ』を連射する。特にカーテンや布と言った体を挟み込めそうなものは優先的に破壊されるッ! このチェイスのおかげで、港は大混乱だ。
「……鬼ごっこはここで終わりかな? 案外あっけないものだね」
とはいえ、200mほど走ったところで……ヴァレンタインとキタサンは花京院に追い詰められてしまう。もはやこの先に道はなく、これ以上逃げるには海に飛び込むしかない。実際、それでも『海水』によって挟まれた……ということになり逃げることはできるが、花京院ほどのスタンド使いがそれを許すはずがない。飛び込もうとした一瞬をエメラルドスプラッシュでやられる……ヴァレンタインは、遮蔽物の影で少し思案すると、あえてゆっくりと花京院の前に姿を現した。
「……今日が何の日か知っているかな?」
そしてヴァレンタインはそう言いながらどこで拾ったのか『拳銃』を花京院に向けた。花京院は驚きすらせず、すぐに嘲笑めいて鼻を鳴らした……
「……『拳銃』を拾っていたのか……だが、弾丸程度なら僕の『ハイエロファントグリーン』の『法皇の結界』で十分に絡めとることができる。むしろそんなチャチなもので僕に対抗する気だったのかな……?」
だが、勝ち誇ったような笑みがすぐさま、殺気にかき消される。来る。あの『エメラルドスプラッシュ』が!
「君は本来承太郎一行の仲間だったようだが……少々の怪我くらいは勘弁してくれ。これは正当なる防衛だよ……」
一手早かったのはヴァレンタイン! 拳銃を……斜め上!まさしく明後日の方向に向けてトリガーを引く!
「何ッ!?」
――ドガシャアアアアアァアアァァッ!!!
発射された銃弾は、船上から港に下ろすために一纏めにされ吊り上げられていた『木箱』のロープを切断。落下したそれらは凄まじい破壊音と共に、地面に散らばったり、海に落下したりした。だが……
「何をするかと思えば、血迷ったか……?」
例の花京院は無事だ。そもそも木箱の落下点は花京院のいる場所でもなく、無関係の場所に散らばって大きな音を立てたに過ぎない。もはや勝てないと悟り、最後に華々しく散ろうとでも思ったのか?
「……喰らえ僕の『エメラルド』――」
花京院が再び発射態勢に入った時、すさまじい足音が背後から響いてきたッ! 叫び声。銃声も聞こえる! これはッ!
「「「うおおおおおおおおおおおお!!!!!」」」
「な、何ィ―ッ!? なんだこれは……ッ!」
そこにいたのは奇妙なメイク……羽根飾りやフェイスペイントなどをした無数の男たちであった! ライフル銃で武装している者もいるッ! それらは興奮状態でこちらに突っ込んでくるッ!
「まずいッ、『ハイエロファント』――うおおあああああああッ!!!!?」
花京院は咄嗟に防御しようとしたものの、その集団に飲まれて吹き飛ばされ木箱に激しくたたきつけられそのまま意識を失った。その集団はそのまま停泊していた船に乗り込むと、乗っていた木箱を叩き壊し、または木箱を海に投げ捨て始めたのだ。
「な、なに……これ……助かった、けど……」
あまりにもあっけない決着に、呆然と立ち尽くすキタサン。
「……1773年12月16日、ボストン港……いわゆる『
そう、今日は歴史の教科書でならった事を覚えている人も多いであろう『ボストン茶会事件』の日。当時イギリス植民地だったボストンの急進派が、モホーク族の衣装で変装して港を襲撃し紅茶の木箱をボストン湾に投げ入れたという事件だ。ヴァレンタインは、銃声……ついでに木箱を破壊して大きな音を立てることで、襲撃のためにボストン港周辺に潜んでいた襲撃メンバーに襲撃が始まったと誤認させ、港に殺到させたのである。
「……今は、これでいい。だが、ブラック君、別の世界に逃げるぞ。
ここも気づかれた。君も元の世界に戻りたいのなら、きたまえ。また『恩』を掛けられてしまったからな……」
ヴァレンタインは近くにあった魚売り屋台のテーブルクロスを強引に引っぺがすと、それにキタサンと共に、くるまろうとした。しかし……その瞬間であった。
「…………!」
その場の光景は、一瞬で妖しいほどの満天の星が見えるどこかの空間に変化していた。
「これも……ヴァレンタインさんの『能力』なんですか?」
「違うッ……」
そう言葉を吐き捨てるヴァレンタインは冷や汗を流し、ただ、一点を見つめて震えていた。その視線の先には――
「『DIO』ッ!!!」
「あ……ッ!」
キタサンは……ヴァレンタインの言っていた言葉がすべて真実だったのだと、改めて理解した。目の前の男を見ているだけで……汗が噴き出す。『巨悪』とはこいつのことだ。ただそこにいるだけで理解できるほどの圧倒的な悪のオーラ。弱者を利用し、己の踏み台にすることが当然だと思っている傲慢なまでの『吐き気を催す邪悪』……それが、この男なのだ!
「花京院には少々……がっかりさせられた。優秀なスタンド使いではあったが……まさかかつて承太郎。そしてまたヴァレンタイン……君に敗北してしまうとは。やはり、私自身がこの『手』で決着をつけねばならない……ということ……」
「ク……DIO本人のおでましとは……!」
ヴァレンタインが気圧されている。キタサンも、もはや立てなくなりその場に両膝をついた。そればかりかプレッシャーで胃の中のモノが逆流しそうだ。
「だがその前に一つチャンスをやろう……ヴァレンタイン、お前は優秀なスタンド使いだ。『消してしまう』のは惜しい……ついでにそこの美しいお嬢さんも……な。『仲間』になれ。そうすれば永遠の安心を与えてやれるぞ……?」
「ハァーッ……ハァーッ……」
その提案は……正直言って、ヴァレンタインにも、キタサンにも蠱惑的なまでに耳にこびりついた。ここで、YESといってしまうだけでこの不条理な世界のすべての不安から逃れられるのだ、という確信があったし、目の前の男にはそれだけの力があることが理解できた。
「……本当に、『永遠の安心』をくれるんですか」
キタサンが、DIOと呼ばれた男に問いかける。
「美しいお嬢さん……その通りだよ。人間は何のために生きるか、考えたことはあるかね? それは『不安や恐怖を克服して安心するため』……金儲け、権力、人助け、恋人……そうしたものはすべて己の『安心』のために手に入れようとしている、あるいはやろうとしていると言い換えることができる」
私に仕えるだけで、それが手に入るのだ……といい、DIOはゆっくりと唇に人差し指を当てた。
「……要りません」
だが、キタサンは……折れてはいなかった。むしろこの圧倒的な『邪悪』に対抗するために自分を奮い立たせ『勇気』で心を満たしたッ!
「あなたの言う『安心』は『他人』を踏みつけて、『犠牲』にすることで成り立つ『安心』です。あたしはそんなものはいらない。たとえ『甘っちょろい』と言われようとッ!」
脚に力を入れて、立つ。
「DIOさんッ! あなたは間違っていますッ! みんな未来は『不安』なんだッ! でも、だからこそ努力して、みんなで努力して! どうにもならない『現実』や『不確定な未来』と戦っているんですッ! あなたは怯えて『安心』という狭い部屋の中に逃げ出し籠っているだけなんだッ!!!」
途端、DIOの表情が変わる。なんとも不快だ、と言う風に。
「……どこの時代にも……ジョースターエジプトツアー御一行様のように、こういう跳ねっかえりは現れる……路傍にある犬のクソのような連中だったが……」
その瞬間だった。『いつの間に近づいたのか』? キタサンの背後に出現したDIOは彼のスタンド……『ザ・ワールド・オーバーヘブン』で背後から――
「ぶ、がッ……!!!」
その白金の拳が、胴を貫いた。ヴァレンタインの胴を。激しく吐血しながら、とっさにD4Cを発現させ、手刀を繰り出す。しかしDIOは、無情にも相手をすることなくやはり一瞬で数m後方に移動していた。
「え……!」
「これはこれはヴァレンタイン……少女のために命を投げ出すとは、なんとも英雄的な行動じゃあないか? だが……『挟み込むもの』はあるのかなァ? この場に……さっさとしないと、『時間切れ』になるぞ」
ヴァレンタインは別次元から『自分』を持ってくることによって、人海戦術を行ったり、たとえ死んでも別次元の自分にスタンドと意思を受け継がせることで存在し続けることができる。だが、この場には……『天国に到達したDIO』の『ザ・ワールド・オーバーヘブン』によって『上書き』された空間には、一片の布も存在しない。
「笑わば……ゲホッ、笑え……だが、これぞ、私の『本懐』……『国民』を護ること……そして『良き隣人』を護ることこそ……大統領の、使命ッ……! 子孫……の、自由……ガボッ……それを我々は護るッ……!」
「だ、大統領さんッ……し、しっかり、しっかりしてください……! どうしてッ……こ、こんなの! こんなのやだよッ……!」
キタサンは、ヴァレンタインの胸から噴き出す血液を、バンテージで留めようとした。だが、あまりにも傷が深すぎる。助からない……素人目にも、そう一瞬でわかる傷だ。だが、ヴァレンタインは……倒れなかった。寧ろ、うつろながらもまだ、その二つの瞳でDIOを睨みつけていた。
「貴様はいつか、ブラック君のような『黄金の精神』を持つ者によって倒される……なぜなら、それは『不滅』だからだ……受け継がれていくからだ……案外、それはすぐなのかもしれないな……?」
「ぬかせ……死にぞこないがッ! 『ザ・ワールド・オーバーヘブン』ッ!」
ヴァレンタインの目前に、白金の筋骨隆々のスタンドが迫る。
「……わが心に一点の曇りなし。『全てが正義』だ……!」
だが、ヴァレンタインは拳が届く一瞬先に、キタサンに寄り掛かるように倒れ……床と己の身体でキタサンを『挟み込む』と動かなくなった。
「ハッ……!」
キタサンは、ふいにどこかで目を覚ました。ここは……病室だ。『府中中央病院』の病室……。
「大統領さんっ……? 大統領さんッ……!!!」
呼びかける。答えはない。部屋には……誰もいない。
「夢、だったのかな……」
妙に鮮明で生々しい夢だったな……それにあのDIOと言う男の凄まじいまでの『悪のオーラ』。思い出すだけで寒気がする。その時だった。ふと、窓辺の棚の上に置きっぱなしの『ハンカチ』に目が行く。
「……H1847M9D20」
ハンカチに刻まれているのは……日付のように見えた。1847年9月20日。キタサンは取り出したスマートフォンでその日付を調べてみる。この日に生まれた偉人――アメリカ合衆国第23代大統領『ファニー・ヴァレンタイン』……
「夢じゃない……!」
キタサンは弾かれたように立ち上がる。しかし、しかし……今の自分には、何もできない。
「うわあああああああああああああああーーーーッ!!!!!!!」
キタサンは、何かわからない、すさまじい衝動に突き動かされ、叫んだ。哀しみなのか? 恐怖なのか? 怒りなのか? 猛りなのか? わからない。
「……大統領さん、あたしは……あなたが称してくれたように『黄金の精神』を持って、生きていきます……! あなたのような……『気高い心』からでた『誠の行動』は、絶対に『滅びない』から……!」
それから。キタサンはいつにもまして、トレーニングに打ち込むようになった。自分にできることは、レースに勝つことだ。『DIO』のように『安心』に逃げ込んで泥の様に生きるのではなく、星を目指して苦難の道を行くことこそがあの『巨悪』と戦う方法のように思えたから。
だから……キタサンは決して屈しない。たとえ人から笑われようとも、どんなに苦しい事が、未来に待ち構えていようとも。
「あたしは……星の光を見ていたい」
――二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。一人は泥を見た。一人は星を見た。
――フレデリック・ラングブリッジ 『不滅の詩』より
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#021『ランニングマン』
知ってよーが、知らなかろーがどうでもいいが、僕の名前は岸辺露伴。漫画家だ。
突然だが、これを読んでいる読者の君たちに一人の人物を紹介をさせてもらおう。彼の名前は『一ノ谷勝』。26歳。職業はフリーのライターで……かつては天才、神童扱いされていたが、よく言われるように20過ぎればただの人。今は主にギリギリ二流って感じのウマ娘系雑誌『ヤジウマ!』に時折記事を寄稿して小金を貰ってるが……実態は情けなく親のすねをかじってるボンクラって感じの男だ。
そもそもの話、この男は『ウマ娘』というものが嫌いらしい。理由は、幼いころから勉強は一番で、なんでもできた自分が唯一『ウマ娘』とのかけっこでは一度も勝つことができなかったから。みみっちい理由と片付けるのは簡単だが、幼少期の軽いトラウマってやつで……誰にでもあるようなものなのだろう。自分が嫌いなものに関わって仕事をするってのはどういう気持ちなのかはよくわからないので興味はあるが……そこは今回の本題じゃあない。
僕の体験談を聞いてきた読者の中には……『橋本陽馬』という人物に覚えがある者もいると思う。あの『走ること』に憑りつかれた男だ。今回の話もそのような『走ること』に憑りつかれた男の話なのだが……断っておくがこれは僕が体験した物ではなく、『親しいウマ娘の友人』――『マンハッタンカフェ』さんから聞いた話である。
つまりこれは、彼女が実際に体験した……『恐怖』のお話なのだ。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #021 『ランニングマン』 ◆◆◆
朝起きて、顔を洗い、髭をそって、歯を磨く。朝食はとらず、それから1~2kmほどジョギング。シャワーを浴びて10時ごろに昼と兼用で適当に何かを食べ……午後は取材と記事の執筆作業に充てる……余裕があれば、夕方にもジョギング……あとは寝るまで自由時間……大抵はゲームやネットサーフィンをして過ごすが近所のジムで汗を流したり仕事の続きをすることもある……それが『一ノ谷勝』の大まかな一日の過ごし方だ。
特に、朝のジョギングは気持ちがいい。月並みだが汗を流す爽快感というのはあまりにも『健全』で自分が『善い人間』であるように感じられるし、冷たい空気が熱を持った肺の中に流れ込み、白い息を吐き出す一挙動の美しさ。これを知らないものは人生を損しているとすら思える。
「ふっ……ふっ……はっ……」
一ノ谷勝はその日も、一連のルーティーンの中でジョギングに出ていた。通勤中のサラリーマンや通学中の学生などのように……あくせくした生き方は自分にはできない。だが、今は生きるには困っていないし親は裕福だ。正直言って世間の尺度で『普通』に生きていくぐらいなら、今のままの生活で十分。それにもし金がなくなったとしても……自分には何事もそつなくこなせる器用さがある。焦ることも困ることもない。一ノ谷はそう考えて、日々を生きていた。
だが……そんな生活の中でひとつ、嫌なことがあった。それは日本トレーニングセンター学園。通称トレセン学園の存在だ。一ノ谷の実家は府中にあり、そのおかげでウマ娘はよく見かけるのだが……
「おはようございます……」
「あぁ、おはよう……」
黒髪で金色の瞳をしたウマ娘。どうやら彼女とは朝のランニングの時間が同じらしく、よく近所の交差点の信号で一緒になるのだ。だが挨拶されたら、こちらも軽く挨拶をするぐらいで別に会話をすることはない。
(……朝からムカっ腹だぜ……こっちの気も知らないで)
ウマ娘は人間の3倍以上の足の速さを誇り、すさまじい怪力、スタミナを持つフィジカルの化け物だ。いくら人間が体を鍛えても、ウマ娘に肉体的に勝つことはできない……その事実は、昔から一ノ谷をイラつかせてきた。一ノ谷はその『勝』と言う名前に象徴されるように……『勝つ』ことが好きだった。勉強でも、運動でも、ゲームでも、なんでも。それが自分の宿命であり、なんでもできると……本気で子供のころは信じていた。ウマ娘によって挫折させられるまでは。
最初は小学校の頃の『かけっこ』で……中学、高校に入ってからは『陸上競技』で……同じトラックを使って練習するウマ娘たちのすさまじいまでの速さに、一ノ谷は何度も嫉妬を抱いたものだ。そして、勝ちたい。勝ちたい。勝ちたいと何度も泣いた。だが、果たせなかった。
そのくすぶりを隠すかのように……今はフリーのライターとしてウマ娘に関わっている。本当は男子陸上競技系の雑誌に関わりたかったのだが、府中で陸上となるとどうしてもウマ娘関連ばかりであったからだ。といってもレースの結果などより色恋沙汰だとか有名ウマ娘のプライベートショット狙いのパパラッチみたいな仕事ばかりで、自分の書く記事もそうしたものばかりだ。正直言ってウマ娘のことだって有名な何人かを知っているだけで知識は薄い。業界人としてそれってどうなのか、一ノ谷は自問することもたまにはあるが。
(…………チッ)
信号が青になると同時に、駆けだす一ノ谷と黒髪のウマ娘。彼女は軽く流しているつもりなのだろうがそれでもスピードが違う。黒髪のウマ娘の背中はあっという間に小さくなって、一ノ谷の視界から消えていった。
「はァ……トレセン学園への一週間潜入取材スかァ? 勘弁してくださいよォ……そんなん俺やったことないですし……」
午後。府中駅近くの雑居ビル2階、煙草の煙が燻る『ヤジウマ!』編集部……その喫煙所と応対所を兼ねたソファスペースで一ノ谷は露骨に嫌そうな声色を隠さず、編集長山内からの提案に難色を示した。
「これはうちにとっても滅多にないチャンスなのよ……トレセン学園、どれだけ取材難しいかワカってる? 一ノ谷君。ウチはトゥインクルみたいな信用もないからね。マジで申請が通ったの、奇跡みたいなモンなの」
「といわれましてもねェ……」
一ノ谷は困惑した。今回、編集長から持ち掛けられたのはウマ娘にとっての一番の目標と言っても過言ではないトレセン学園に一週間ほど内部に入って取材する企画だった。なんでもウマ娘のトレーニングを体験してみよう……という企画でライター陣の中で最も若く、常日頃からランニングが趣味の自分に白羽の矢が立ったのだという。だが、潜入取材ということはウマ娘だらけのトレセン学園の中に入っていくということでもある……正直言って、断ってしまいたかったのだが……
「ホントお願い、原稿料はいつもより弾むから! ウチ今回の企画に賭けてんのよ。十万……いや、十五万出すから!」
…十五万は、正直言ってデカい。無名フリーライターである自分の一記事の報酬の十倍以上だ。カネには困っていないとはいえ、臨時ボーナスとしては悪くない。いや、かなりウマい。当然、肉体的なキツさはあるだろうが。ほんの一週間我慢するだけで十五万。
「……わかりましたよ。お受けします」
こうして、一ノ谷は記者としてトレセン学園を取材することとなったのだが……
取材開始の日。まず応接室に通された一ノ谷はトレセン学園生徒会のエアグルーヴと名乗るウマ娘から説明を受けた。そのだいたいは……いわゆる取材上の禁止事項というやつで、ざっくりといえば学園内を移動する際は指定の取材が許可されたエリア以外に立ち入らない事だとか撮影した写真や作成した記事はすべて学園側に事前に提出し、チェックがなされるだとかそのようなものだ。特にウマ娘寮には近寄ることすら許されなかった。
「マジでデカいな……第3トレーニングルームってのはどっちだよ……チクショウ…………」
生徒数2000を抱える中高一貫校、トレセン学園は敷地も巨大であり慣れない一ノ谷は、トレーニング衣に着替えたまま校内をうろついていた。今回の取材に付き合ってくれるウマ娘とトレーニングルームで落ち合い、そのままウマ娘のトレーニングを体験……と言う予定だったのだが……。
「あの、一ノ谷さんですか?」
「あ、ハイ……一ノ谷ですが……」
と、その時声を掛けてきたのは黒髪に黄金の瞳の……たまに朝に信号待ちで一緒になるウマ娘だ。
「よかった……時間になっても来られないのでてっきり校内で迷ってるモノだと思って、探していたんです。トレーニングルーム、いくつもあって間違えやすいですから。今回、取材に付き添わせていただく『マンハッタンカフェ』です。よろしくお願いします」
「ああ……君が……どうも、ライターをやってます一ノ谷勝です。申し訳ないです、迷ってしまって」
先方がどうやら、迎えに来てくれたようだ。ウマ娘が嫌いとはいえ、さすがに迷惑をかけてしまったのは気が引ける。一ノ谷は素直に謝り、カフェもそれにいえいえ、初めて取材に来る方はよく迷われるんです、と返し。
「……あの、よく朝にお会いしますよね……?」
向こうも、やはりこちらの事は覚えていたのかおずおずと声を掛けてきた。
「はい、ええ……偶然ですよね。本当に……」
こちらとしてはそんな偶然はいらないんだがな……と内心毒づく一ノ谷。結局そのままそれから会話があまり広がることなく、カフェに付き添われてトレーニングルームへと移動する。そこではやはりかなりの数のウマ娘たちがウェイトトレーニングに励んでおり……
(あれ……何kg上げてんだよ……化け物か? あっちは……何km出てんだあれは……)
人間ならばオリンピッククラスであろう重量のバーベルでトレーニングをする者やランニングマシンですさまじい速さで疾走する者など、人間から見たその光景の異様さについては枚挙にいとまがない。
「あ、では……本日はウェイトトレーニングで体幹や全身の筋肉バランスを整えていきますね」
「えーと……今日は走ったりはしないんです?」
機材を用意しているカフェに、一ノ谷は話しかける。やはりウマ娘と言えば『走る』所を取材したかったのだが。
「一応既に軽く10㎞程走ってはいるんですが……今日は重点的にウェイトトレーニングの予定なので……明日は、逆にラン中心のメニューの予定ですね」
「へぇ……」
なるほど、まあ……初日が『ウェイトトレーニング』というのは、逆にギャップがあってネタとしていいかもしれない。一ノ谷は専用に用意されたメニュー……当然、ウマ娘と完全に一緒とはいかず『負荷』自体は減らしてあるそれをカフェと同じくこなしていく。普段からトレーニングやランニングを行っている一ノ谷にとっても、キツいメニューであったが……なんとか、ついていくこと自体はできた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
「お疲れ様でした……」
トレーニングを終え、ベンチで疲労困憊の一ノ谷にスポーツドリンクを差し出すカフェ。なんとかそれを受け取り、口をつけるが、気持ち悪くなり吐き戻しそうになったので飲むのをやめた。
(……こりゃあ、明日は筋肉痛確定だな。だが、クソ。涼しい顔しやがって……)
汗をタオルで拭うカフェは、当然一ノ谷ほど消耗していない。むしろ、まだいくらか余裕がありそうにも見える。
(……小娘め)
一ノ谷の、ルサンチマンめいた憎しみの籠った視線にカフェは気づかなかった。
それから一週間。一ノ谷はカフェと共に……当然ウェイトトレーニングと同様、負荷を減じたメニューではあったが練習を続けた。走る距離が半分以下でも……カフェに一度たりとも勝つことはできなかったし、ウマ娘並みの重いバーベルを持ち上げる事すらできなかったが。
「自信、無くしちまうな……」
学園を去る時には、一ノ谷のプライドは完全に折れ切っていた。自分よりも何歳も下の小娘に完膚なきまでにフィジカルで敗北する。それは、『勝利』が似合う自分とは全く真逆の事だ。何という情けなさ。最後のトレーニングが終わった後、学園の男子更衣室でトレーニング衣を脱いだ一ノ谷は、悔しさから、鏡に映った自分の顔面を殴りつけようとした。
「……待て、これは」
以前からトレーニングジムにたまに通い、スポーツ選手並みとはいかなくても体力には自信があった一ノ谷だったが最先端のトレーニング機材でみっちり一週間プロのトレーニングを行った事により……ほんの少しではあるが、全身の筋肉量が増えているのを感じる。割れていなかったはずの腹筋も、うっすらとだが陰影がついているのだ。太ももの筋肉などは、明らかに盛り上がりが見える。
「…………俺はまだ、『成長』の余地を残している。いや、鍛えこんでいないんだ。そうだ……『ウマ娘』と勝負をするなら。『おれ自身がウマ娘になればいい』んだッ!」
その日から、一ノ谷の『肉体改造』が始まった。
まず最初に、一ノ谷はたまに行くだけだったトレーニングジムのゴールド会員となり毎日のように『トレーニング』を行い始めたのは言うまでもなく、食事も……低脂肪高タンパクのメニューに完全に変えた。高校で陸上をやっていた時以来、ひさしぶりにプロテインを買いそろえ……とにかく、トレーニング。トレーニング。トレーニング。シューズにはウマ娘用の蹄鉄すら仕込んで走り込んだ。
おおよそ一か月もする頃には……
「……完全に体が変わってきた。いいじゃん……いけるぞ、俺は……まだまだいけるんだ。そうだ、俺は本気を出していなかっただけだ。俺が本気を出せば何でもできるんだ」
自宅の鏡で肉体を確認しながら、独り言ちる一ノ谷。原稿報酬の十五万は全額、トレーニング器具につぎ込んだ。家族からは置く場所がないと文句を言われたが、そのようなことは些細なことでしかない。
「…………やぁ、マンハッタンカフェさん」
「あ……一ノ谷さん。どうも……」
そして……朝のランニングの信号待ちで彼女。マンハッタンカフェと一緒になった。今回は偶然ではない。一ノ谷が狙ってやったことだ。
「………………」
やはり今日の軽い挨拶だけで、会話はない。カフェは体を冷やさぬよう、軽くその場でステップをしながら、信号が青に変わるのを待つ。
「ふっ……!」
青になると同時に、飛び出したのは一ノ谷だった。ほとんど全力疾走の様に、陸上時代に培ったフォームで走り出す。そう、彼は改造した肉体がどの程度のものかカフェを使って調べるつもりだったのだ! しかし……カフェは流すような軽い感じで、悠々と自分を追い越していく……!
人間の記録した『瞬間』最高速度はウサイン・ボルトの時速44kmであると言われている。ウマ娘は基本的に時速60km程度で継続的に走ることができトップクラスとなると更に速い。当然、肉体改造を一か月行った程度では出せるスピードと言うのはそれに及ばない。
(…………まだ、改善の余地がある。もっと早く。腕の振り。足の運び。俺の全盛期は『まだ』なんだ。なるんだ……俺は……『ウマ娘』にな……そうすれば才能は俺の方が上だッ! 同じ『基礎』さえあれば……)
それから……さらに1か月。一ノ谷は体を絞り込んだ。それだけではない。海外からステロイドやインスリンを取り寄せ、それを惜しみなく自分に使った。これは、『自分』を越えるための……一種の決闘だ。『勝つ』ためにはあらゆる手段を使わなければならない……家族は……トレーニングにのめり込む自分を心配し、何かごちゃごちゃ言っている。どうでもいい。ノイズだ。むしろ邪魔でしかない。俺は『ウマ娘』になるのだ。
「……どうも。マンハッタンカフェさん」
「おはようございます」
やはり、朝のランニングに来た時を狙い、いつもの信号で待ち伏せる。
「……マンハッタンカフェさん有馬獲ったんだって? おめでとう」
「あ……見ていてくださったんですか? ありがとうございます」
世間話程度に、話を振る。今まで意識はしていなかったがこの少女は一流のウマ娘だ。深夜には何千回と現役トップウマ娘のレースビデオをみた。マンハッタンカフェ。超一流のステイヤー。そのウマ娘に今の自分がどの程度通用するのか? 興味しかない。体調もアップも万全。今のおれならやれる。きっと、今が『全盛期』だ……! 『勝って』、『ウマ娘になる』。一ノ谷は、信号が変わると同時にギアをトップにいれた。
……だが、現実は残酷だった。ほんの一分の後、一ノ谷は地面に大の字になり、泣いていた。
ほんの一瞬でも、ウマ娘に勝てると思っていた自分が馬鹿らしくなった。作り上げた体。培った経験を――マンハッタンカフェというウマ娘は軽々と粉砕した。走り始めた一瞬、少し彼女が驚いたような眼をしたが……彼女は『少しだけ』ギアを上げるだけで、自分を置き去りに走り去っていったのだ。もはや勝てない。一ノ谷は……その日からトレーニングを止め、最近顔を出していなかった『ヤジウマ!』編集部に顔を出した。
「……一ノ谷くんひさしぶり、例のトレセン学園の取材から肉体改造に凝っちゃったんだって? いいことじゃん。完全に流行りの細マッチョになってさ。女の子が放っておかないでしょ」
「ハハ……そうスね。それより仕事、なんかありません? 例のトレーニングのせいで、金欠でして……」
金欠と言うのは仕事を貰う方便だ。もう自分には必要ないトレーニング器具などはすべて売ったし、プロテインは捨てた。なのでいくらかそれで小金がある。だが、何かに打ち込むことで今の『絶望感』を消したかったのだ……
「んー……そうだね。今は特にないんだよなァ……」
編集長の山内はぽりぽりと頭を掻いてバカ面を浮かべた。使えない奴だ。一ノ谷は山内が前々から内心嫌いだった。
「『スティールボールランを読み解く』っていうの。ウチの読者層とあんまり合わないから、あっためてたんだけどこれでもやってみる……?」
だが、山内はそういうと、一枚のコピー用紙刷りの企画書を取り出す。スティールボールラン。1890年に開催された『史上初のアメリカ大陸横断レース』。名目上は犯罪行為以外なんでもあり……とはなっているが、参加者の大半はウマ娘であり、少数がラクダや当時最新鋭の機械であった自動車での参加を行ったにとどまった。
「ウチの主力……ウマ娘たちの色恋沙汰とかスキャンダルでしょ。そんな記事読まれるんスか?」
「読まれないと思うよ……言ったじゃん、読者層とあんまり合わないって」
結局それでも……一ノ谷はその仕事を受けた。編集部の本棚の奥で誰にも顧みられず、埃をかぶっていた『スティールボールラン全記録』を借り受け、家に戻ると自室でそれを広げ、適当に見る。総参加者数は3852人。優勝者はウマ娘『ヘイ!ヤア!』変わった名前だ。準優勝は……日本人。『ホノオ』というウマ娘。これは意外だった。自分が今までどれだけ適当にウマ娘と関わってきたかがよくわかる。
「総合三位、キャッチ・ア・ウェイヴ……ん? ファーストステージ二十位?」
そこで、ステージと言う文言が目に付く。どうやら、スティールボールランは約6000kmに及ぶ長いレースであるためステージと称された九つのチェックポイントがあり、それぞれでまた着順によって勝者を決めるためのポイントや賞金が支払われていたらしい。
「ファーストステージ、ステージ名『15,000メートル』。サンディエゴ・ビーチからサンタ・マリア・ノヴェラ教会までの15kmのショートコース。一着は……『サンドマン』」
どぐん、と心臓が高鳴った。『サンドマン』。本来ならヴァルキリーというウマ娘が一着だったようだが、走行妨害が認められ二十一位に降着という処分を受けたため、繰り上げ一位となった『男』。『人間』。ページをめくる。『サンドマン』という記述を探す。
「『サンドマン』……ゼッケンC-990。人間、ネイティブアメリカンの男性。アリゾナ州出身……フィフスステージ『イリノイ・スカイライン』で脱落も、それまでの成績は安定して上位……彼の特異な点は出場者の大半がウマ娘の大会に出場し、その独特な走法でウマ娘と遜色ないスピードで走ったこと……」
その瞬間、一ノ谷は本を開き、他の『サンドマン』の記述を探しながら自身のPCに向かった。もっと『資料』がいる。この『サンドマン』について。なんでもいい。この『走法』を調べなければッ! 望ましいのは『映像』だ……何か映像は残っていないのかッ!? スティールボールランレースはwikiの記述が正しいなら判定用に映写機による撮影がなされていたはずだ。
殆ど祈るような気持ちで、まずチェックしたのはウマチューブ……3時間ほど、英語も使って動画を探したが……ない。当然だ。スティールボールランレースが開催されたのは130年前……そんな前の映像記録が簡単に残っているはずがない。次に、一ノ谷は英語圏のサイトを探した。ウマ娘関係のトピック。幸い、学生時代の成績は良かった。英語は読める……だがダメだ。スティールボールランレースを語るようなトピックはない……
それから三日。日本のサイトにも、英語圏のサイトにも。ありとあらゆる掲示板やチャットサイト、SNSに一ノ谷はトピックを建てまくった。『スティールボールランレース』の『サンドマン』と言う人物についての資料を探している、と。
だが、世間の反応は薄かった。大半の人々にとって130年前のレースなどもはや自分には関係ない歴史上の出来事であり、そんなことに興味はないのだ。一ノ谷はそんなことよりも最新のウマチューバ―の動画がどうとか、何がバズったとかに一喜一憂する世間に対して嫌悪感すら抱きかけた。その時だった。
一ノ谷のメールアドレスに、一通のメールがアメリカのアリゾナ州から届く。それはネイティブアメリカンの『資料館』からのメールで、なんでも館収蔵の資料映像にファーストステージのゴールシーンらしき映像が収められているので、その映像ファイルを送る……というのだ。一ノ谷は……そのメールに添付された動画ファイルを再生し……そして驚愕した。
白黒の上ノイズが酷く、フレームレートも低いが……本当だ。人間の男性がウマ娘と共に走っている。速い、というものではない。フレームの飛びも相まってまるで飛んでいるようにすら見える。だが……
「これだッ……」
一ノ谷は、その日を境に両親の口座から金をすべて引き出し、そして姿を消した。
半年後。
いつもの『交差点』。
カフェはその日も朝のトレーニングの一環として、ランニングの途中だった。
「……マンハッタンカフェさん」
ふと、声を掛けられる。カフェがそちらに顔を向ければ……フードを目深にかぶった男がいた。初めて会う男だ、とカフェは思った。
「僕です。お久しぶりです。一ノ谷って覚えてますか」
「え……一ノ谷さん……?」
カフェが彼を識別できなかったのも無理はない。一ノ谷は……完全に別人のようになっていた。筋肉は『走るため』に最適化され、ステロイドの影響で声は低くなっている。髭も伸び放題で髪の毛は乱雑にカットしたもの頭の後ろで縛ってポニーテールのようにしているようだった。どこか求道者めいた……それでいて、危うさすら漂うその姿。
「覚えられてないですか……やっぱり……」
「い、いえ……あまりにも姿が変わっていたので……お久しぶりです」
カフェはプレッシャーを覚える。この男は……なにか『悪いもの』に憑りつかれているような気がする。霊感ではない。直感で、分かる。何かがヤバイ……そう思った時、一ノ谷の手の中に光るものがあった。ナイフだ。自身の腹部に切っ先が向けられている。男が刺そうと思えば、いつでもさせる態勢。
「……カフェさん、僕と『勝負』をしてください」
次の瞬間、一ノ谷はただ静かに言った。フラットな精神から発せられた、凄みのある脅迫だった。
「……叫んで人を呼ぶ、と言ったら」
「まず、あなたを刺して、近寄ってきた人も殺します」
『おともだち』がカフェを護るように、一ノ谷との間に立ちはだかる。だが一ノ谷はそれが見えない。話し続ける。
「……僕と本気の『レース』をしてくれるだけでいいんです。そうすれば満足します。誰も傷つきません。府中競技場トラックで3000m。あなたがかつて制した『菊花賞』と同じだ。トラックは芝ではないですが……そこはもう、ハンディキャップと言う事でお願いします」
その瞳は、殺人者のものではなかった。人にナイフを突きつけるという状況で、異常なまでに澄んで、冷静だった。だからこそ、カフェは空恐ろしさを感じたものの……同時に完全に突き放してしまう気にもなれなかった。それに、挑まれているのは『レース』だ。『レース』だというなら……
「わかりました。私もウマ娘の端くれです、『レース』から逃げることはできません……」
二人は……陸上競技場に移動した。ここはウマ娘用のターフではなく、人間用の競技用トラックだ。
「アップはもういいですよね」
一ノ谷は、そういうと着ていたフード付きの服を脱ぐ。さすがのカフェも、現れた肉体には目を見張った。ボディビルダーのような見せるための筋肉ではなく、スポーツ――走るために特化した肉体とでもいおうか。そして、足の筋肉のしなやかさ。まさにそれは……ウマ娘のもののようで、かといって足には大量の擦りむけやタコがあり……どういった練習をすれば、ああなる……?
「さっそく始めましょう。僕としてもあまりあなたを拘束して、騒ぎになるようなことにはなりたくない」
「……わかりました」
「あの時計が、八時ちょうどを指したら近くの学校のチャイムが鳴ります。それをスタートの合図にしましょう」
競技場の観客席の最も高い所には、大きな時計があり七時五十八分を指していた。もうスタートが近い。カフェと一ノ谷はトラックのスタートラインに移動すると、そこでいつも通りにスタートの準備をする。ウマ娘と人間。本来なら、勝負にすらならないはずの勝負。おおよそ十秒前……五秒前。四。三。二。一。
学校のチャイムが鳴り、同時に二人が飛び出す。カフェは……走り慣れていない通常のトラックでも関係ないとばかりに、快速に飛ばしているように見えた。いや、違う『飛ばさざるを得ない』のだ。
「バカな……!」
凄まじい勢いで『一ノ谷』が後ろから喰らいついてくるッ! まるで飛ぶようなスピード。既に45kmは出ているッ……!
「さらに加速したッ……50㎞はでているッ!!!」
瞬間、カフェは理解した。その走法をッ! 彼の走法はかかとが一瞬しか地面に触れず、しかも踏み込んですらいないのだ。着地の衝撃エネルギーを膝方向に逃がし、関節で吸収するのではなく、衝撃自体をつま先から推進力にして『スピード』に変えているッ!
(近代陸上史の常識を覆す走法……一体どこでこんな走り方を……ッ!)
1000mを通過した時点で……差はほぼない。一ノ谷はカフェのすぐ後ろを追走するように、ぴったりとくっついて『休んでいる』。
「『風圧シールド走法』ですか……!」
いわゆるスリップストリーム……前を進む選手を風防として利用し、スタミナ消費を抑えることは特に長距離陸上競技ではみられるし、ウマ娘レースの戦術の一つにも数えられる。このままでは、相手に脚を温存されたまま後半まではいられてしまう。
「クッ……」
カフェは、さらにスピードを上げる。3000m級長距離レースとしては例がないハイペースの展開。2000mを越え、2500m地点で……一ノ谷が仕掛けた。
「うおおおおおおおッ!!!」
外差し。と言ってもたった二人だけのレースだ。そこまで側面に膨れ上がらずにスパートをかけてレースを決めにかかる。
「俺は……『ウマ娘』でも『人間』でもない存在だッ! だがそれでいい……ッ! 『勝利』のためならば、俺は『悪魔』とでも取引をするぞッ!!!」
一ノ谷は、ある意味では走ることに悪魔的に取りつかれていたのかもしれない。ウマ娘に勝つために、ウマ娘になろうとし、それが叶わないなら忘れ去られた人間の技術も取り入れ、ただ勝つために執着する……。
一瞬。ほんの一瞬であるが。一ノ谷の身体がアタマ一つ分だけ、カフェより前に出た。残り200m。
「俺は『何物でもない』ッ……『一ノ谷勝』だぞーーーーッ!!!」
――ブチン。
鈍い音がした。同時、一ノ谷の面前に『地面』が『壁』のように立ちはだかり……
――グシャアアァアアッ!!!
「一ノ谷さんッ!!!?」
激しく転倒する一ノ谷。カフェは、それを見て競争を中止し、彼に駆け寄る。一ノ谷の走法は……本来であれば完全に衝撃を推進力とすることで膝や足裏へのダメージをゼロ化。高速で駆けるだけでなく、その衝撃ダメージすら無とする夢の走法であったが……そんなものが現代まで残っていないのは、単純に『サンドマン』以外に会得できるモノがいなかったからに尽きる。
身長の割に長い足、筋肉のつき方、身の動かし方……長い日常生活そのものがトレーニングだった『サンドマン』が自然にその走法を習得したのに対して、一ノ谷は映像を見て不完全にそれをまねてしまったのだ。当然、近いところまでは行けても完全に同じ走法を会得するのは不可能だった。劣化コピーであるそれは、膝や健へのダメージを完全に殺しきれず……限界を迎えてしまったのだ。
「……足の健が切れている……一ノ谷さん、大丈夫ですかッ!? 意識はありますかッ!!! 一ノ谷さんッ! 返事をしてッ!!!」
カフェは、一ノ谷を咄嗟に救護姿勢で寝かせ足を動かさないようにしつつ、心拍を見る。心臓は動いている。呼吸もしている。生きているッ……!
「う、あああ……」
呻く一ノ谷。顔面から高速で地面にたたきつけられたことから、まだ安心はできないが……とにかくカフェはすぐさまスマートフォンで救急車を呼んだ。結局、一ノ谷は脳震盪を起こし、膝の健、靭帯の完全裂断と前歯の数本の欠損。鼻、左肩の骨を折ったが、命に別状はなかった。
「で……カフェさんは無事この理科室に戻ってきた、と」
「……そういうこと、です」
「全くはた迷惑な人物もいたものだねェ……私の『おともだち』に危害を加えようとするなんて」
事件の一部始終をカフェから聞き終えた露伴とタキオン。露伴は興味深いな、とメモを取り、タキオンはその一ノ谷と言う人物に対して憤慨した。
「……いえ、危害を加えようとしたわけでは。それに……」
「まだ気にしているのかい? カフェ。その一ノ谷とかいう男がもう走れるようになる見込みがないってこと」
タキオンがそういうと、カフェは黙りこくって一口だけコーヒーを飲んだ。そう。一ノ谷の左足は完全に使い物にならなくなり、右足のダメージも重篤。今後車いす生活。リハビリで歩けるぐらいにはなるかもしれないが、二度と走ることはできないというのが医者の見立てだそうだ。
「その男が勝手に君に入れ込んで、勝手に無理して、勝手に壊れた、という事にしか思えない。言っちゃあ悪いが自業自得で、君が気に病むことじゃあないと思うんだが」
「……そう、かもしれませんが」
しかし結果はどうあれ、一ノ谷を止められなかったのは自分の責任でもあるのではないか? レースに夢中になっていなければ、一ノ谷の故障を止められたのではないか? カフェはそう考えてしまって、このところ明らかに意気消沈していた。目の前でまざまざと『故障』の光景を見せつけられたという事もあるだろうが。
「カフェさん……その男は『走る』という行為そのものに魅入られてしまったんだ……僕も昔似たようなものに目をつけられたからわかる。その男は君に勝っていたところでもっと『走り』にのめり込んでいた。おそらくは……ろくなことにはならなかっただろう。人の心は時に『怪異』より恐ろしい……」
「………………」
「むしろ話を聞いている限りその男は『人間の限界』を越えて……『ウマ娘』でもない『なにか』の領域に踏み込んでいた節がある。彼が何になろうとしていたのか? わからないが……今の彼は、すくなくとも『人間』の領域で踏みとどまった……それでいいじゃあないか。高い勉強料だったようだがね……」
こうして、カフェさんの身に突如降りかかった災難は終息した。このエピソードは、カフェさんの意向によって漫画にはしない。とある一人の『人間』が怪我をしただけの話で、これは面白がったりするものではない、と言うのが彼女の意志だったからだ。
だからこれを語るのは、今聞いている一部の読者……つまり君だけってわけだ。君もこの話を面白がって出版したりとか他の出版社に持ち込んだりするなよな。この岸辺露伴が口の軽いやろーだとは思われたくはないからだ。じゃあ、そういうことで頼んだよ。
←To Be Continued?
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#022『ヴィデオドローム・シンドローム』
「異次元につながるチャットルーム? なンだァそりゃ」
「さァ? 文字通り異次元につながるんじゃあないか? どういうことなんだい露伴君」
その日、研究データの交換を行う予定だったエアシャカールとアグネスタキオンの着くテーブルには、さらに一人の男の姿があった。岸辺露伴である。その男は、シャカールとタキオンの研究データの話には特に興味を示さなかったが、二人の話がひと段落すると『異次元につながるチャットルーム』とやらの話を持ち出したのだ。
「このところ、ネットの噂になってるいわば『都市伝説』さ……最近話題になってるらしい……知らないのか?」
「生憎、そういうどうでもいい情報は意図的にカットしてるンでな」
「私は……うっすら聞いた覚えがあるような、ないような……で、異次元につながってどうなるんだい。都市伝説ってのはだいたいそこからだろ。 あ! 当ててみよう。異次元に引き込まれて行方不明になる、とかだろ」
どうでもいい、と言う風のシャカールはスマホを弄っていたが、多少は興味があるらしいタキオンはそれらしい『結末』を言ってのけた。露伴は、いつぞやの『スパゲッティ・マン』を思い出し、苦笑した。
「……いや、『異次元人』とチャットをすると……『未来』が教えてもらえるそうなんだよ」
ぴく、とシャカールの耳が動いた。
「異次元人ねえ……超ひも理論では十次元、M理論では十一の次元が存在すると仮定されているが……なんで未来を教えてもらえるんだろうね。超ひも理論と宇宙ひもを混同してるんじゃあないのか? その都市伝説の作者は……」
タキオンも、ちょっと眉唾だなと砂糖入りの紅茶を口に運ぶ。しかし、露伴は大まじめだった。
「かつて僕は『異次元に干渉できる数式』というものに関わったことがある」
「あ゛ァ!? なンだそりゃ……!?」
ことロジックにこだわり日々、数式に触れているシャカールは聞いたこともない『異次元に干渉できる数式』に興味を示し、スマホを弄るのをやめた。だが露伴は、話はここからさ、と言う風。
「その数式の解自体は理由があって『覚えていない』んだが……確かに存在する。この異次元につながるチャットルームというのは、恐らくその数式が使われているんじゃあないかと睨んでるんだ。この数式は正直言って『危険』だ……もし漏れ出したのなら『封印』する必要がある」
「おい待て、漫画家先生よォ……オレらに『何をやらせてえ』ンだ?」
「……そのチャットサイト『ヴィデオドローム』を探ってほしい。もし、本当に『別の次元に干渉できる数式』がプログラムに使われているようなら……僕が知人のつてを使って何とか対処する。本当は僕がやりたいんだが……ネットサーフィン程度はできても、プログラムの中身までは分からないからな」
露伴の顔は真剣だった。覚えてもいないものが『危険』だというのはよくわからないし、シャカールは、内心うさんくせェ……と毒づきつつも……興味を捨てきれない自分にも気づき、舌打ちする。
「チャットサイト『ヴィデオドローム』……お、あったぞ。フツーに見つかるんだな。ダークウェブとかそういうのかと思ったが検索でヒットした」
シャカールとは逆にスマホを弄り始めていたタキオンは、そう言って『ヴィデオドローム』のトップ画面をシャカールにみせた。最近のポップでオシャレなSNSとは違い、一昔前のややアングラ感のある古臭いUI。90年代かよ……とシャカールは思わず吐き捨てる。
「で、このアクセスするだけで『カンフーを覚えられそうな』チャットサイトのどこが異次元につながってるって?」
「……テキトーなチャットルームにアクセスするだけじゃあ『異次元』にはつながらないらしい。『特別な会員』として認められて……『専用』のチャットルームにアクセスする必要があると聞いている。正直、それもうまくいかなかった。このチャットルームの参加者とは『波長』が合わない」
フン、と不機嫌そうに鼻で息をする露伴をしり目に、まるでカルトみてえな構造だな……とシャカールは漏らしつつ、自分のスマートフォンでも『ヴィデオドローム』にアクセスしてみた。いわゆるフリーチャットとは違い、アカウント登録を行わなければならないようだが、それでも別に審査などがあるわけでもないフツーのチャットサイトだ。
「……つまり、『特別会員』になってチャットルームに入り……そこのソースコードを調べればいいわけか。その『数式』とやら、それほどヤベえブツなら『Parcae』での解析のし甲斐がありそうだ」
数式に興味があるというのはウソでもないし、実際に見てみたく思ったが……シャカールの興味は『未来』を教えてくれるというものだった。実際タキオンの言うように超ひも理論などでは仮説ではあるが、別次元がある可能性は低くはないとされている。そして、ロジカルではない。あまりにもロジカルではないが……『未来』を知る可能性が、ゼロパーセント以下の可能性でもあるというのなら。己の導き出した『7㎝の限界』が間違っていることをつきつけられたいとでも無意識に考えていたのか。
「……いいよ、やってやるさ」
「フン……『好奇心は猫をも殺す』というが……例の『数式』はそういうモノだ。頼んでおいて何だが深入りはするな……と『警告』はしておくよ」
「はいはい……」
こうしてシャカールはチャットサイト『ヴィデオドローム』の一件に関わっていくことになる……
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #022 『ヴィデオドローム・シンドローム』 ◆◆◆
自室に戻ったシャカールは、とりあえずPCを立ち上げて例のチャットサイト『ヴィデオドローム』に適当な捨てアドで登録。登録名は『unsigned』。そしてこれまた適当なチャットルーム……ちょうど最新の発言があった『雑談部屋1042』に適当に入室してみた。掲示板というのは海外ではまだそこそこ盛り上がっていたりするのだが、結局はSNSやその他チャットツールの勢いに押されて死にゆく文化だ。そういうのを体験しておくのもいい……という考えではあったのだが。
4021:unsigned ID:neBRXQOOI
Sys:unsignedさんがチャットルームに入室しました
4022:クロノス ID:VAnqIZfll
いやだからね、そういうことじゃあないんだよ。
僕は自治しようとかそういうのじゃあなくて荒らしに反応しないなんてのはネットの基礎でしょ?
4023:切腹侍 ID:lL66iJoAS
ネットの片隅でいらん正義感振り回すなボケ死ね
4024:名無しの虎党 ID:U/D2kUXhr
結局どいつもこいつも自己満でしかないわけや。無価値すぎ。
ルサンチマン燃やすんも体外にせえよ
4025:ウォーロード ID:5jccz7o6y
Sys:ウォーロードさんがチャットルームに入室しました
4026:切腹侍 ID:lL66iJoAS
わけわからんわ。自称神祇大卒は違いますなあ
4027:ウォーロード ID:5jccz7o6y
Sys:ウォーロードさんがチャットルームから退出しました
4028:unsigned ID:neBRXQOOI
Sys:unsignedさんがチャットルームから退出しました
シャカールは呆れかえりながら、チャットルームから退出した。本当にくだらない。時間の無駄だ。別のチャットルームを覗くか……そう思い、いくつかのチャットルームに入ってはみたものの、中で繰り広げられているのは無意味なマウントの取り合い、足の引っ張り合い、煽り合い、下世話な話ばかり。
「……ネットの悪い所の煮凝りみてェなトコだな、ここは」
本当にこんなところに『異次元に通じるチャットルーム』だか『別の次元に干渉できる方程式』なんてものが存在するのか? ガセをつかまされたか……とシャカールがヴィデオドロームからログアウトしようとした時だった。ふと、気づく。
「なンだァ……よく見りゃ『預言者待ち』とかルーム名についてる部屋が多いな……」
『預言者待ちルーム033』『預言者待ちながら雑談』『預言者さん来てください』『預言者をあがめるルーム』『預言者待ちしてます』……そういったタイトルのチャットルームが多くみられる。『預言者』。おそらくは例の『特別会員』の事だろう。
「なるほど……『特別会員』に選ばれねえやつらが、そのおこぼれを与ろうってわけか……」
いくつかの『預言者待ち』チャットルームにアクセスする。先ほどよりはいくらかはマシであることを願って。
908:unsigned ID:neBRXQOOI
Sys:unsignedさんがチャットルームに入室しました
909:うい@引っ越し中 ID:w+yIsBiqa
今年の皐月賞は誰が来るんですか?教えてください預言者さん!
910:ハンサムマン ID:pALXPSuLi
そのゲーム、発売延期になるけどクソゲーですぐ
ワゴンに入ったらしいから中古で買った方がいいよ >豚野郎さん
911:上機嫌なサイコロ ID:qE3v0rXX0
大道寺コンツェルンの株、売った方がいいか悩んでるんですけどわかりませんか?
912:ジャミ ID:fd6y/L4xk
今の彼氏が浮気してるか、浮気してないかわかりませんか?
913:豚野郎 ID:6GHqofaU6
マジかぁ……期待してたのになぁ。情報ありがとうございます。
……ビンゴだ。一人の発言者に何人もが食い気味に質問を投げかけているところを見つけた。どうやらオレンジの名前が『特別会員』と言う事らしい。さて、ここまでは順調だ。が……どうする? 特別会員になる方法をこいつから聞き出すことができれば手っ取り早いが。シャカールは『ハンサムマン』と名乗るユーザーの会員プロフィールをチェックする
会社役員。年収3000万。2児のパパです。
座右の銘は『面白きこともなき世を面白く』
#起業家応援 #ベンチャー起業家と繋がりたい #ハンサムマン流投資術
上記タグ巡回してます。
追記:1/21特別会員入り
21 フォロー中 | 3089 フォロワー |
発言ログ | メディア | メッセージを送る | このユーザーを通報 |
「これまた……」
『いかにも』なプロフィールにげんなりしながら考えを巡らせる。いきなりダイレクトメッセージ送信……というのは早計過ぎる。がっつきすぎだ。それにもっと他にも、とっつきやすい相手がいるかもしれない……シャカールはそう考え、『特別会員』を見つけるたびプロフィールを確認したが……あまりにも『層』がばらけすぎている。
さっきの『ハンサムマン』のような層を狙った胡散臭い商売かと思えば、主婦や学生、小さな町工場の工員に、コンビニのバイト。果ては中学生までが『特別会員』に選ばれている。
「ふーん……無作為に選んでやがるとすりゃ厄介だが……」
無作為に選んでいるなら、複数アカウントによる
「…………もしかして、だが。『一芸』に秀でたやつを選ンでやがるのか?
ハッ、ずいぶん簡単なンだな『特別会員』サマの選定方法ってのはよ」
この『ヴィデオドローム』と言うチャットサイトは、UIの作りは古いが結局はウマッターやウマスタグラムのようなSNSに似た作りになっており、気に入った会員をフォローして発言を追う事ができる仕組みになっている。最初こそ、フォロー/被フォローの比率が偏っている者を選んでいるのかと思ったが……フォローを多くされる、ということはなんだかんだ理由がある。特にこの『ヴィデオドローム』のような知名度のまだ低いサイトには『業者』アカウントが少なく、結局フォロワーを増やすには実力がモノを言うのだ。
『ハンサムマン』はやり手の起業家として。その他選ばれている者はなんらかの方法でこの『ヴィデオドローム』内で一目置かれている。例えば、例の中学生特別会員などは空手の世界大会2位の実力があり将来のオリンピアン候補と言われている逸材で、その練習風景や優れた身体能力をアピールする動画などをアップしているそうだ。
「さて……どうしてやるかね……」
手っ取り早いのはウマ娘である自身の身体能力を用いた動画などをアップすることだが……『こういうサイト』で『身バレ』するとめんどくさそうだ。となると、違う方法がいい。シャカールは鋭い犬歯を見せてにやつきながら、しばらく画面を見つめて……それから再びキーをたたき始めた。
――おおよそ二週間後。
326:ヤサイスキー ID:oVtMNVpB+
unsignedさん早く来てくれー
327:みかちゃん@プリファイ舞台鑑賞済み ID:2phTaHvG5
推してるウマ娘の子のメイクデビュー、ちょっと遅めに
なりそうなんだけど勝てるかどうかが知りたい!
328:altalt ID:UfNnEafRi
unsignedのことみんな信じてるわけ? 特別会員でもないんでしょ?
329:ナイスマッスル@体が喜ぶ食事法 ID:z4/RkYuOn
特別会員でもないのに未来分かるのがすごいんじゃん
330:龍神 ID:jvVbQ+nkX
unsignedさんホンマ神
331:三女神の四人目 ID:RP7UXP1sh
次のサマードリームトロフィーの出走メンバー予測キボンヌ
332:ソーキソバ♪ ID:P3IelO02E
次のファル子ちゃんのライブのセトリ、予測できたりしない?
「こんなもんか……」
シャカールは、『unsigned待ちチャットルーム』の発言を見ながらほくそ笑んだ。そう、シャカールがやったのは『Parcae』を使った直近のトゥインクルシリーズの結果予測。自分以外のウマ娘の取りえるデータはすべて入力してある『Parcae』はことレース結果に関してはスーパーコンピュータ以上の演算が可能な、シャカール自慢の『相棒』である。
当然、その予測結果は外れることなく、いまや『unsigned』ことシャカールは『ヴィデオドローム』のちょっとした有名人になっていた。そして、このバズり方は必ず『運営側』から接触してくるであろうという『直感』がある。何故なら、『特別会員』のお株を奪う『未来予知』をしてくるものを放っておけば、『特別会員』の価値が下がりかねないからだ……
「お……」
おあつらえ向きに、ダイレクトメッセージに新着の文字。一般ユーザーからのくだらない『凸』を避けるために運営からのメッセージのみを受け取るように設定してある以上、答えは……
あなたは『特別会員』の資格ありと運営側が判断し、
今回のメッセージを送らせていただきました。つきましては、
unsigned様に特別会員入りの意志はございますでしょうか?
もし特別会員にご加入いただく場合、このメッセージに承諾の意と
受け取れるご返信をお送りいただけると幸いです。ご加入を辞退される
場合、このメッセージは無視あるいは破棄をお願いします
◆なお特別会員は以下の特典を受けることができます◆
・特別チャットルームへの入退室権
・簡易のいくつかの管理者権限(チャットルームの保有数上限なしなど)
・特別ユーザーネームカラー
・年2回(春・秋)のユーザー交流会へのお誘い(任意)
「………………」
カタカタカタカタ、と静かな部屋にキータイプの音。
ok、特別会員とやらの資格、さっさと付与してくれ
答えは当然、OKだ。あとは資格が付与され次第、『特別チャットルーム』とやらに入ってソースコードを抜き取るだけ。簡単なことだ……かんたん……な……
――バララッ
「あ゛?」
シャカールは、その瞬間まるで自分の顔面が両開きの本の様に開いていくよくわからない感覚と共に意識を失い、キーボードに突っ伏した。そう。露伴はタキオンから事前にシャカールはかならず『異次元に干渉できる数式』に手を出すと教えられており、先手を取ってヘブンズドアーで『特別会員になったらしばらく意識を失う』と書き込まれていたのだ。
「すまないね、シャカール君……おおい、こっちだ。ソースを確認して、もし例のコードがあったらこのサイトの閉鎖に向けて動くよう君の上役にかけあってくれ」
シャカールが気を失うと同時に、様子を伺っていた露伴、タキオン、そして『SPW財団』のエージェントたちが中に入り例のサイトの確認を行っていく。
「ついでに彼女の研究データをちょいと読んでおこうかな……! フフフ……悪く思わないでくれよシャカール君!」
タキオンなどは役得とばかりに、シャカールの記憶を読んで彼女の秘密研究のデータを盗み取っていたが。
「ありました……例のコードです。やはり……どこからこれが流出してしまったのか……」
「さあね。そこんとこは僕の知ったことじゃあないが……とにかく『危険』な物だ。流出元まで、しっかりたどるのが君たちの『財団』の役目だろ」
こうして、『ヴィデオドローム』は数日中に『危険なサイトに認定された』との理由でプロバイダーによって締め出され……なんどか復活を繰り返したものの、結局そのまま立ち消えになり。人々の記憶からも忘れ去られていったのだが……。
深夜午前二時。メイショウドトウがすやすやと寝息を立てる中、エアシャカールは静かに『Parcae』を立ち上げ――その画面に『ヴィデオドローム』を表示する。
「……念には念をってな……『Parcae』に自動でソースを保存しておくようなコードを組み込んどいて今回は助かったぜ。あの露伴とかいう野郎、あからさまに例の『数式』を見せたくはないって態度がありありだったからな……」
シャカールは、露伴が『催眠術』のようなものを使うということを、タキオンとの会話の中で聞いていた。彼女はなんとも歯切れが悪くそう言っていただけだし、シャカールもその時は大して感想を抱かなかったのだが……まさかいつのまにか催眠にかけられ、肝心なところで眠らされてしまうとは。
「自己暗示だとかも案外バカにならねえのかもな……今度催眠療法でもとっかかりに調べてみるかァ?」
そっくりそのままローカルに保存しておいた『ヴィデオドローム』。当然、オフラインでありアクセス者は自分一人だが、すべての機能は問題なく利用できる。例の『数式』はすでに『Parcae』にぶち込んで解析中だ。となれば……シャカールは、『特別会員専用』のチャットルームにアクセスする。それは膨大な数の個室チャット……つまり一対一方式のチャットルームで、当然すべて『空き』状態だ。
「『異次元人』の顔でも、覗いてみますかね……」
その中の一つに、シャカールはアクセスした。
今、『あなたの端末』に映し出されている少女は、『あなた』をみて……驚愕し、そして呟く。そのあまりの『レイヤーの違い』に。圧倒的な『リアル感』に。そして『存在感』に。
「ン……だよ……これ……」
シャカールの脳は、理解を拒んだ。
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#023『怨讐』
この岸辺露伴の様に長い事漫画を描いていると、どうしてもそういうことがあるんだが……『世の中には出せない物語』というのがある。
別に、『クオリティ』の低いプロットを没にするとかそういう話じゃあないぞ。『物語』を書いて……それを『商品』として発表するという仕事をする以上――例えば『差別用語』なんかは僕だって意識的に使用を避けたり、センセーショナルすぎたり、過激すぎる……いわゆる『強い言葉』をいくらかマイルドに言い換えたりするものだ。これはいわば『プロ』としての最低限やらなければならない事であり、その点に関しては僕も『納得』している。ただ、その上でどうしても『表現』や『テーマ』が社会的に許容される一点を超える場合……それはお蔵入りになってしまう事もあるものだ。
ただ……今回、君に語る話はそういったいわば『社会の取り決め』ってやつからは少々外れる。
いわば『封印された歴史』ってやつさ。『玉手箱』あるいは『パンドラの箱』のように、触れてはならない禁忌……1990年代にはどれだけ、『ツタンカーメンの呪い』が取りざたされたか知ってるか? そういったもの、好きだろ? わざわざここに聞きに来ているんだからな。僕が敬意を払うとすれば、読者だけだ……だから君にはこの話を話してやろうと思うんだが……スデに君に『ヘブンズドアー』でちょいと一筆書き込ませてもらった。
言いたいこともあるだろうが、君はこれからここで語られるいくつかの単語を『認識できない』。これは君が『呪い』にかからないための処置でもある。だからまあ、勘弁ってヤツをしといてくれよ。この話をするのは『特別』なんだからな……これは、僕たちが見つけ出した封印された歴史の物語だ。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #023 『怨讐』 ◆◆◆
ある日、露伴はウマ娘の『フォーム』について書籍で調べたいことがあり図書室を訪れたところ、見覚えのないウマ娘に声を掛けられた。
「あっ、あのっ……『岸辺露伴』先生ですよねっ?」
その本を胸に抱えたウマ娘はゼンノロブロイと名乗り……なんでも、この図書室を管理する『図書委員』を務めているのだという。露伴は、はいはいサインね……とばかりにGペンを取り出したのだが、ロブロイと言うウマ娘はどうにも様子が違うらしかった。
「露伴先生、お忙しい所お声がけしてすいません……じつは、見てほしいものがあるんです。ご興味があるかと思って……」
なるほど、漫画の持ち込みか? そういうのを僕にされても困るんだがな……と一瞬思った露伴であったが、卓に置かれた分厚い本を見て、なんだいこれは、とロブロイに問いかける。
「『■■■■■■■■』……見たところ、ウマ娘の古い記録をまとめた本のようだが、これがなにか?」
「その、最初私が、閉架にある本の整理をしているときに見つけたんです……
この本には、ごく初期の日本におけるウマ娘レースの成り立ちがまとめられています」
そう言うロブロイは整理の最中に偶然手に取り、初期のウマ娘とはどんなものなのか? きっと偉大な競技者や英雄的記録が描かれているのではないか……そう考えて思わず頁をめくったそうで、露伴も興味なさげにそれを何ページかめくってみる。図説や当時の新聞記事、古い写真などが多いが大半は退屈なデータと歴史の要約だ。
「……お役所の書類かよって感じのデータのまとめだな。で、もう一度聞くが。これがどうしたって?」
「……本題に入る前にここで『ウマ娘』の近代史のごく初期について少々説明させていただいていいですか? ウマ娘については分かっていない事も多く、特に歴史的にはあやふやな点も多いですから、あくまで多数の説がある中での一説くらいにとらえてくだされば大丈夫ですし、興味がなければ聞き流していただいて構いません」
そう言ってロブロイは、例の本に書いてあったであろう内容をある程度要約して語り出した。露伴はめんどくさいのに捕まったな……とばかりに、頭を掻き一応内容の気になるところをメモするべく取材用手帳を取り出す。
ロブロイ曰く、まず、本格的なウマ娘のレースが始まったのは江戸時代も末期も末期と言われているそうだ。欧米などの列強の要求の元、開国した日本は日米通商修好条約を始めとした条約によって横浜や函館を始めとする五か所の港が開港する。学校の日本史の授業で習ったことなので覚えている人も多いだろう。
その後、横浜外国人居留地で1860年。江戸幕府終焉の7年前に、はじめてウマ娘レースがおこなわれたという事がURAの公式見解になっている。それまでも日本で、例えば神事などでウマ娘レースが行われていたが、今日われわれが目にするようなものはそれが最初ということらしい。その2年後に辛うじて競バ場と呼べる設備のある新田競馬場、そして1866年には日本初の本格的な競バ場である根岸競馬場が完成。根岸競馬場は今でも遺構として残っており、行政らがどう活用・保存するかをURAと協議している……。
「そのあと、東京を中心に洋式のウマ娘レースを模倣した物が行われるようになっていくのですが……その最初期の記録におかしな点を見つけたんです。明らかに、『名前を記録から抹消されているウマ娘』が存在する」
「名前を抹消されている……?」
「はい。最初は私も、歴史書なんかによくある名前の間違いや取り違い、あるいはページや記録の散逸と言った物かと思いました。しかし、当時のレース記事や新聞の記録と比較して読むと……明らかに『1人』記録から消されたウマ娘が存在するんです」
ロブロイは『■■■■■■■■』のとあるページを開き、ここを見てくださいと指をさす。十二頭立てで行われるレースの告知広告の写真だ。そして次に指さされたのは、そのレースの結果と思われる着順表。三着の部分が不自然に空いている。
「かなり雑な抹消ですけど、1883年から数年間にわたって、このような処置が見られます……当時はURAなどはなく兵部省や内務省、陸軍に華族……様々な集団が母体となってレースが行われていた時代のようですね」
「……ふむ、『歴史から抹消されたウマ娘』ねぇ……不祥事……あるいは政治的なものか?」
「わかりません。ただ、この時代は明治維新という時代も相まって、そちらの方に焦点が当てられて研究が全くと言っていいほど進んでいないのが本当のところで……」
これは自分流に調べてみたのですが……と前置いて、ロブロイは『例のウマ娘』の出走表らしきA4書類をテーブルに取り出した。なんでも、抹消されている部分を逆に抜き出し、その前後の着順などをひたすら当時の新聞などと比較して洗い出したそうなのだ。
「1883年に行われた陸軍戸山学校での競バ場でのレースで三着、一着、三着と好成績……その後上野に設けられた競バ場でさらに六着、七着、一着……七着、そしてまた一着、五着。1890年頃まで探したのですが、そのウマ娘は九戦三勝という結果を残しているみたいです」
「なるほど、立派な成績だな……」
一流のウマ娘に囲まれているとG1勝利が容易い事に思えてくるが、その栄誉を勝ち取れるのは二千人ものウマ娘が在籍するトレセン学園でも一握りでしかなく、中には未勝利のまま姿を消していくウマ娘も珍しくない。厳しい勝負の世界である。
「私はなぜ、この人物が『歴史』から消し去られてしまったのかが知りたいんです。誰にも顧みられることなく、抹消された英雄――あまりにも不憫すぎます。もしできることなら歴史の影に隠れた彼女を救い出してあげたい」
正直言って、露伴はこの件について中々興味をそそられていた。歴史というのはドラマに深みを与えてくれる。それは例え描写されなくても物語の背骨となり、まったく設定のないものとは比較にならない『リアリティ』を与えてくれるのだ。
「わかった。ロブロイ君といったね……この岸辺露伴がちょいと助けてやろうじゃあないか」
実際のところ、出版社ともコネがある露伴は貴重な資料なども手に入りやすい。それにこれは絶好のネタになる……そんな予感が、露伴の好奇心を刺激していた。
それから、露伴は担当編集の泉に連絡し、1883年から1890年頃までのウマ娘に関する資料を探し回らせた。出版社や国会図書館まで、ひたすらに深堀りし……ウマ娘関連の書籍を集めているマニアにまで接触した。見つけるたびに送られてくる資料の量は膨大で露伴とロブロイは手分けをして片っ端からそれらを読み漁ること、ほぼほぼ1週間にわたった。
「これ……そうじゃあないか? 『■■■■■■』というウマ娘。一度だけ、この広告に名前が出てきて、例の一着の記録が消されているレースに出走したと書いてある。で、その着順表には『■■■■■■』なんて名前は載っていない……」
事が動いたのは、国会図書館に保存されていたとある明治最初期の広告を見た時だった。そこには恐らく検閲を偶然逃れたであろう『■■■■■■』という名前が掲載されており、その経歴の一部が明らかに『消されたウマ娘』と同じものだった。以下に示す資料はぼかしを入れているが件の『広告』である。
「名前さえわかれば、あとはここからもっと広げて調査することができるはずだ。どだい、すべての新聞や広告、記録を検閲して名前を消すなんてのは無理がある。特に、コンピューターもないこんな古い時代には……」
「はいっ……あきらめずに記録を調べ続けましょう!」
やはり、名前が分かってしまえばある程度の経歴が見えてくる。さらに調べたところによると『■■■■■■』は■■藩系の武士の家に生まれたウマ娘であり、どうやら戊辰戦争後の明治政府の仕置きによって、幼少期に転封を余儀なくされたようだ。■■藩は旧幕府方についたことから、転封によって一万石程度までその力を削られている。『■■■■■■』も厳しい子供時代を過ごしたことは想像に難くない。
「戊辰戦争……そしてその敗者の中から努力してたちあがったウマ娘……すごい。英雄的です……」
「しかし、これでなんとなく理由が見えてきたな。明治政府にとっては、旧■■藩の勢力を再びまとめ上げるようなカリスマや象徴が生まれるのを阻止したかった……とか。いや、となればなぜ走らせた後で記録を抹消するなんてめんどくさい真似をする……?」
「たしかに……走るのを許可しなければいいだけの話ですし、走ってしまえばその結果は人のうわさなどを通じて確実に広まりますし……」
本来ならここで、■■藩が転封された■■県東北部にある自治体などに資料を請求したいところだったのだが……『■■■■■■』が転封された『■■村』は正確にどこにあるのかわからなかった。いわば、僻地に不満分子――旧■■藩士を閉じ込めておくための村であり、1870年に■■藩士の謹慎が解かれた際に皆他の場所に移ったためなくなったという説、一部がそこに残り続けたが1900年頃までに廃村となったという説。はたまた平成まで限界集落として残り続けたが、市町村合併によって消滅したという説などが混在し、その足跡を追えなくなっていたのだ。辛うじて見つけられたのは、例の■■村を映したとされる風景写真と村民の集合写真だった。
……露伴はロブロイには敢えて話さなかったが、おそらくはこれも『検閲』のひとつなのだろう。例えば古代ローマ皇帝やエジプトのファラオは政敵や後の王などによって死後、記録を抹消されることもあったという。特にファラオの名前が壁画から削り取られて分からなくされていた、などと言った事柄はよくあることだ。それと同じく、明治政府は何らかの理由で『■■■■■■』とこの『■■村』を歴史の闇に消し去ろうとしたのではなかろうか?
(これほどまでに、明治政府がこのウマ娘を『消したかった』理由はなんだ……どこか『畏れ』のようなものがあるようにも感じるが……)
「……露伴先生、そういえば記事を調べる間に、ほんの少し気になったのですが……この『■■■■■■』さんの関わったレース、少し、おかしいんです。レースがおかしいというか……うーん」
「おかしいというと……?」
ロブロイは、新聞記事の写された資料を眺めながらふと問いかけてきた。
「偶然かもしれませんが、『■■■■■■』さんの走ったレースの『関係者』『観覧者』に必ず数日後不幸があるんです。例えばこれ。最初のレースの三日後。陸軍戸山学校で訓練用銃の暴発が起き、北川養平という人が亡くなっています。この北川さんは戸山学校競バ場の当時の責任者だったみたいですね……」
「ふむ……『必ず』不幸と言うと、それだけじゃあないんだろ」
「はい。次のレースでは観覧に来ていた内務省の参与官が帰りに馬車の事故で大怪我。その次のレースでは同じく観覧に来ていた華族の子爵が二日後に突如頓死したと……そんな調子で、必ず……」
露伴はロブロイの言をもとに、さらにレース後の新聞にそういった見出しが出ていないかをチェックすると確かにレースからおおよそ三日以内に関係者に何らかの事故が起きている。
「……これ、それだけじゃあないぞ。全員『明治政府』の関係者だな。つまり……明治政府は、『これ』を恐れて記録を封印したのか……?」
……日本古来の考え方として、荒ぶる神や悪霊を鎮めるために『祀りあげる』あるいは『弔う』と言う事をする場合がある。例えば京都祇園祭りの発祥は怨霊の祟りである疫病を鎮めるためであるというのは有名なところだが――時の明治政府は、逆にこの件を『封印する』ことで対処したのだ。悪い事をそもそも忘れ去ってリセットし、無かったことにするという手段。
「あの、あくまでも仮説なんですが露伴先生……ウマ娘は『人々の願いを背負って走る』と言われています。私も、そういった経験があります。『応援があるから頑張れる』『もうだめだと思った所から声援に背中を押されて、一歩進める』……スピリチュアルやオカルトのように聞こえるかもしれませんが、それは事実なんです。確信があります」
実際、『ウマ娘』は『感情の力』に大きく左右されるのではないかという仮説をタキオン君はこのところ熱心に研究している。心理学というよりはかなりロマンティシズムにも足を踏み込んだ学説であることだな、と内心露伴は思っていたが、ウマ娘でない自分には分からない、何かがあるのかもしれない。
「その『願い』が――もし『強い恨み』や『害意』、『怨讐』であるなら――どうなってしまうのでしょうか?」
「つまり『■■■■■■』は一族や■■藩の強い『怨讐』を背負わされて走らされ、本人の意志とは関係なく関係者に『害』を及ぼした……ということか?」
『願い』は時に『呪い』に変化する。その込められた希望が大きいほど、託された思いが大きいほど。それが反転したとき、深い『絶望』や『恨み』になるように……
「ロブロイ君……こういう物は……あまり世に出さない方がいいと思う。僕は職業柄様々なところを取材して『不思議な体験』をしてきた。だからこそいうんだがこの世の中には越えてはいけない『一線』がある。おそらく、ここはその『一線』だ。たしかにこの『■■■■■■』を歴史の中に埋もれさせるのは惜しいが……『封印』されるには『封印』されるだけの理由があるものだ」
「………………」
「ロブロイ君?」
ロブロイは、悩むように顎に手を当て、しばらく考え込むような仕草をしたが……
「そう、ですね。名残惜しいですが……この件の調査は、これでおしまいにしましょう。
露伴先生、お手数をおかけしました」
こうして……一週間にわたる調査は幕を閉じた。結局その後、僕もこの件を固有名詞を変えて漫画にするかどうかは悩んだのだが、呪いをばらまくような結果になってはたまらないのでお蔵入り、という形にし、新たに漫画のネタはないかと別の所に取材を申し込んだ。今度はウマ娘はなぜ『歌う』のか? という事について切り込んでいきたいと思っている。差し当たって、どこかいい取材場所はと露伴が考えを巡らせていた時、再び事件は起きる。
「ろ、露伴先生……ロブロイさんが、ロブロイさんが……!」
露伴の作業部屋となっている理科室に飛び込んできたのは、ロブロイと同室のウマ娘ライスシャワーである。彼女曰く、ロブロイが急にいなくなってしまったそうで、ここのところずっと作業をしていた露伴が何か知っていないか、居てもたってもいられず聞きに来たそうなのだ。
「……まさか」
露伴はその話を聞いて、図書室へと向かい、貸出管理用のPCで『■■■■■■■■』がどういう状況になっているかを調べる。状態、貸し出し中。借主は……ゼンノロブロイ。
「なるほど、『そういうこと』か……『呪い』は、『怨讐』は……まだ生きているんだッ!」
『害』や『災禍』を引き起こせるほどの『怨讐』が簡単に消えるはずはなかったのだ。それはきっと、あの本を通じてそれを『知ってしまった』ロブロイを『次の宿主』に選んだ。もはや場所もわからなくなった■■のどこかで渦巻くそれに取り込まれたロブロイは……今や『呪いを運ぶ器』のようなもの。
「まずいぞ……このまま放っておくと確実にヤバイッ……!」
ロブロイが向かう場所と言えば一つ。■■県にかつてあった■■村しかない。おそらくはそうだ。だが、肝心なその正確な場所がわからない。だが……露伴は行く場所など決まっている、とばかりにとある場所に向けて走り出した。
――■■県■■駅
「…………………」
その駅のホームに、『■■■■■■■■』を抱えたロブロイの姿があった。ここから■■村にはローカル線に乗り換え、さらにバス。最終的には徒歩ということになる。ロブロイはほとんど熱に浮かされたようにぽやぽやとしたうつろな視線で、駅前に出ていく。
「あ……」
「全く、僕としたことが少々ヒヤッとしたよ……」
そこにいたのは、露伴だった。露伴は■■県にいくなら学生の立場であるロブロイは鉄道を利用するであろうと考え、その方面に『網』を張ったのだ。学園側にかけあい、『ロブロイが地方レース場を見学しようとして別の列車に誤って乗ってしまったので、その行先を調べてほしい』と鉄道会社に連絡し……彼女が買った切符などから■■駅で降りることを突き止めた。あとは乗り換えを駆使してそれを追えばいいだけの話である。
「『ヘブンズドアー』ッ!」
ロブロイは、静かにそこに崩れ落ちた。
……それから。
露伴によって事件の記憶を忘れさせられたロブロイは、今日も元気に図書委員として本の整理をしたり、利用者におすすめ本を紹介したりしている。件の『■■■■■■■■』は閉架の最奥。禁書棚に移され、理事長秋川の許しがない限り誰も見ることはできない。
――事件は終わった。
が、露伴はどうしても胸の奥に渦巻く『懸念』をぬぐえない。結局、例の『怨讐』『呪い』は今もどこかにある■■村に渦巻いているのだろう。今回の『■■■■■■■■』だって、それそのものが原因であるわけではなく、別にこれ一冊しか世に出回っていないわけでもない。きっと、この世のどこかで、いつか、またふたたび。『封印』された『■■■■■■』の記録を調べようとするものが出てくる。
だが、露伴はジャーナリストでもなければ、エクソシストでもない。これ以上、この件に関わる義理もなかろう。
「……この件が『封印』ではなく『鎮魂』と言う形で対応されていたならばまた話は違ったかもしれないが……もう僕がどうこうする話でもないな」
そう言うと、露伴はこの件を『忘れ去る』べくネーム作業に没頭するのだった。
権利表記: Midjourney
この小説中の挿絵画像は上記のサービスおよび規約のもとCC4.0-BY-NCに則り使用している物です
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#024『感染』
あの素晴らしき1990年代。今ではもはや見なくなったものは多数ある。ポケベルは折り畳み式携帯電話にとってかわられ、それもスマートフォンに駆逐され。MDやフロッピー、使い捨てカメラは姿を消し。ビデオテープはDVDにとってかわられたかと思えばブルーレイディスクに置き換わっていく。
インターネット黎明期の未来技術への期待はいつしか手あかに汚れ、人々は刺激を求めて日々、猥雑なSNSにアクセスする。
今思えば科学、特に映像技術の進歩はある意味ではTVの娯楽を狭めた。誰でも――今となってはスマートフォン一つあれば素人でも映像加工アプリでいかようにも動画が作れる昨今では『ネッシー』『UFO』『心霊映像』などといった番組は下火になった。不明瞭であやふやであったからこそ……その存在を許されていたものにピントが合わされ、その神秘性……ある種の神話性を失ってしまったのだ。怪異や怪談はそうなれば、急速に廃れていく……
だが……今回紹介するお話はそうした、時代のあだ花の話である。ある意味では回顧主義的な話かもしれない。かつてはTVで特集されたりレンタルビデオショップのホラージャンル内にいくらでも置かれていた『呪いのビデオ』の話であるのだから。
これは『キタサンブラック』と『サトノダイヤモンド』が体験した……『恐怖』の物語のはずだった。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #24 『感染』 ◆◆◆
「ダイヤちゃ~ん! ごめん! 待たせちゃった!」
「キタちゃん! ううん、そんなことないよ!」
その日、キタサンブラックとサトノダイヤモンドは府中駅前で正午に待ち合わせしていた。今日は所謂オフ日であり、トゥインクルシリーズを目指す過酷なトレーニングとレース漬けの日々の中で貴重な休息のための自由時間だ。
「じゃあえっと、さっそく行きましょうか、キタちゃん!」
「うん、えーとまずどこに行くんだっけ? 河川敷?」
「そう! 最近、河川敷の公園に『フライングヒューマノイド』が現れるんだって! 『ジンクス』とは少し違うけれど……面白そうだし行ってみようよ!」
最近、トレセン学園の生徒の間でブームとなっているのは『90年代カルチャー』である。これはマルゼンスキーやシーキングザパールなどが『最新の流行』だと言ってやりはじめたのが発端なのだが、実力、人格、カリスマを備える彼女たちが火付け役と言う事もあり瞬く間に広がっていった格好だ。
大抵のものはファッションにややレトロなそれを取り入れてみたり、マルゼンスキーから『イケてる』単語を教えて貰ったりなどして使っている程度だが、サトノダイヤモンドは1990年代の『怪奇』ブームに興味を持った。元々、決まった運命など存在しないという考えから『ジンクス』を破ることに並々ならぬこだわりを持つダイヤの事。例えば見たら呪われるとか、そうした怪奇ムービーを見てみたりしてそのジンクスを次々と破っていたが、それが高じて『UFO』『UMA』『心霊』『オカルト』といったものにも興味を持ったのだろう。ちなみにズジスワフ・ベクシンスキーの有名な『3回見たら死ぬ絵』のコピーを3枚並べて半日ほど眺めていたことすらあった。(ちなみに当然ながらダイヤは死んでいないのでジンクスは破られた)
「フライングヒューマノイド? フライングが飛ぶ……ヒューマノイドが人間。だから、飛ぶ人間!? すごい!!!」
キタサンブラックは手を打ち合わせて驚く。しかしダイヤはくすくすと笑って。
「飛ぶ人間は実際にはたぶんいないと思うけれど、居たらすごいことだよね。楽しみだね、キタちゃん!」
「いないものを探しに行くの??? どういうこと?」
頭の上に?を一杯浮かべたキタサンの手を笑顔で引きながら、ダイヤは河川敷を目指す。
……フライングヒューマノイドとはメキシコで2004年に警官が襲撃された事件を機に多く目撃されるようになった人型の未確認生命体である。目撃に関しては最初に事件が起こったメキシコを中心に多く発生しており、魔女のようなローブを着ていただとかの目撃証言もあり、この日本でも目撃証言は少数ながら存在する。
なお、未確認情報ながら1987年にもエジプト・カイロ上空で2体のフライングヒューマノイド? が空中で戦うような動きをしていたなどというものもあるが同日はカイロ市内で大規模交通事故やロードローラーの爆発横転など重大事故が多発しており、これは群集心理による集団幻覚ではないかとも言われているようだ。
「じゃあ、もうお昼過ぎだし……ごはんにしよっか、キタちゃん。ちゃあんとお茶、持ってきてあるから」
「やったあ! こうやってビニールシートの上でお茶を飲むのも久しぶりだね……!」
……そんなこんなをキタサンに解説しながら河川敷まで歩いてきたダイヤは、河川敷公園の一画にビニールシートを広げかつて、キタサンらと共に競バ場の列に並んだ時のようにお茶をコップに入れて。今でもレース前にはダイヤのいれたお茶を飲むのはキタサンにとってもルーチンのようなものだが、別段並ばずとも関係者として競バ場に入れるようになった今では、ビニールシートのうえでお茶を飲むというのもなかなか無い事となってしまった。
河川敷公園はゲートボールのグラウンドとウォーキングコース、そしてベンチなどが整備されており人がごった返している……とはいかないがウォーキングを楽しんだりする人々の姿がまばらに見える。ダイヤのお茶。そして持ってきた自家製おにぎりをほおばりながらお目当てのフライングヒューマノイドを探そうと、キタサンが空に目を向けると……
「あ」
空中を泳ぐ、人型の物体。くねくねと足を動かすその動きは軟体動物のようにも見えるが見た目は完全にワイシャツとスラックスのサラリーマンめいた人間の姿だ。頭はこけしめいてやや大きいがご丁寧にメガネまでかけている。
「ダイヤちゃん! いたよ! フライングヒューマノイド!」
わあわあ、と慌てるキタサンだったが対するダイヤのほうは口に手を当ててふふっと笑みをこぼし、地上の一点を指してみせた。
「やっぱり。キタちゃん、あれを見て」
そう言って、ダイヤが指さしたのは地上から何かを引っ張るような仕草をする男性の姿だった。よくよく見れば……その男性の手からは上空に向けて『太い糸』が伸びており……それは例のフライングヒューマノイドとつながっている。
「凧……」
「そう。やっぱり凧だったんだね。これでまた一つ、ジンクス……じゃあないけれどオカルトの正体を見破ったよ!」
そう、日本で見つかったフライングヒューマノイドは人間型の凧であったのだ。類似の事例としてはフライング・ヘアー……空飛ぶ髪の毛というものがあるがこれは黒いビニールシートが強風で上空まで飛ばされたものを誤認したか、あるいは中国製の大型の黒い凧ではないか、という事で一応の決着がついているのだ。メキシコでの警官が襲撃された事例も、恐らくは大型の鳥類をパニック状態で誤認したのではないかとも思われる。実際これに関しても似た例を挙げると有名UMA『モスマン』も黒いビニールシート、もしくはイヌワシであろうという説があるのだ。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花……ってやつなのかな。でもあんな大きな凧、売ってるんだね……飛ぶ人間が見られなかったのはちょっと残念だけど……」
「ふふ、そうだね。でも私はキタちゃんとこうやって久々にピクニックできて楽しいから満足かな。さ……そろそろお腹も膨れたし、『次』の所にいこっか!」
「うん! そうだね! でも次は何を探しに行くの……?」
「次はね……『呪いのビデオ』を探しに行こう!」
こうして、フライングヒューマノイドの正体を見た二人はまだまだ遊び足りないと今度は繁華街の方に駆けだしていく。府中の駅前の中でもややディープな雑居ビル街の中に、ダイヤのお目当ての店はあった。いかにもサブカルチャー偏重と言った感じの個人経営ビデオ店で、本来なら日本では再生できないリージョン違いの海外のインディーズDVDだとかまでが置いてあるのだそうだ。
そのお世辞には広いと言えない店の中の『ホラー・オカルト』棚を漁る二人。
「えーと……『実録:宇宙人との邂逅録』……『監視カメラがとらえた!恐怖映像100』、『地上波発禁映像!呪いのフィルムは実在した』、『現役エクソシストが語る!霊的事件簿』、『NASAから流出した宇宙人解剖フィルム』……うひゃあ……」
ダイヤがかごに放り込んでいくいかにもなタイトルのDVDやビデオテープ。どれもこれもがおどろおどろしく恐怖をあおるジャケットをしており、キタサンはさすがにちょっとビビった。が、同時にこれは作りものなんだな……という感じもひしひしと受けた。商業用に売るために作られたこれらは結局、フェイク感があり神秘性だとかそういうものに欠ける……というのだろうか。
「こんなところかな……キタちゃんはなにか、借りたいのある?」
こうして、ダイヤは合計八本のDVDやテープをレンタルし、寮に帰った(キタサンは見ているだけでお腹いっぱいになったので借りなかった)。このご時世、ビデオデッキは珍しいように思えるかもしれないが古い時代の映像資料もトレセン学園には残されているためビデオデッキどころかLDだとかまで再生できる機材が整っており、視聴には特段の不便はないのだ。
「今の宇宙人の解剖ビデオ、どうみても怪しかったね……」
「たしかに言われてみるとこのところとか、なんか……作り物っぽいね……」
「でもさっきのビデオのえくとぷらずまー? はどうなんだろ……」
「あれも色付きの綿じゃあないかなあ……」
二人は、寮の談話室のデッキ前に大量のスナック菓子を準備し、クッションを抱きながらだらだらとビデオを見続ける。ダイヤは真剣だったし、キタサンも興味はあったので八本、合計6時間にも及ぶ映像を突っ込みを入れながら一気に駆け抜けてしまった。
「ふうーっ……一気に見ちゃったねダイヤちゃん。でも久しぶりにだらだらした休日ーって感じで疲れが取れた気がするよ!」
盆に残っていたスナックの最後の一つを口に放り込み、のびをするキタサン。少し出かけてから友達と一緒にだらだらと会話しながらTVを見て過ごす。とても贅沢な一日の使い方をした気がする。消灯時間ももうすぐだ。そろそろ、自室に戻らなければならないのだが……
「ダイヤちゃん?」
ダイヤはビデオの貸し出し用バッグからひとつのビデオテープを取り出し、不思議そうにそれを眺めていた。特段タイトルの書かれていないそれ。
「九本目があるの。八本しか借りてないはずなのに」
「えっ?」
たしかにダイヤが借りていたビデオは八本……バッグの中のレシートにもそうある。
「……前借りていた人のが取り出されずに忘れられてるんだよ!」
キタサンは、個人経営のお店だしそういうこともあるよね、あはは、とあいまいに笑いながら席を立とうとした。しかしダイヤは興味深い……と言う風にそれをデッキに入れる。結局キタサンはそれに引きずられるような形でもう一度クッションを抱いて座った。
「………………」
ほんの少しの白黒ノイズが流れてから唐突に本編が始まる。映像はハンディカムで撮影されたようなもので、どこかの田舎の市街地だろうか?画面右側には鉄道線路らしきものが見えるが、よく確認できないためそう断言もできない。ざく、ざくと砂利を踏みしめる音と共に、撮影者は鉄道沿線?を歩いていく。時期は夏だ。セミの鳴き声が聞こえる。
しかし真昼間だというのに、重苦しい湿気がこちらまで伝わってくるような閉塞感がある……考え過ぎだろうか。それとも、撮影者が全く喋らない事も、田舎といっても町中であるのに人っ子一人見当たらない事もそう感じる一因なのだろうか……。
「………………」
と、撮影者の歩みが止まり、見上げるようなアングルで錆や痛みがひどいほぼ廃屋と言ってもいいような2階建ての古い木造アパートが映し出される。その2階に階段を使って上がっていくが、恐らくもうこのアパートに住民はいまい。実際、新聞受けには朽ちた新聞の痕跡のようなものがあったり、曇った窓越しに室内にも蔦植物が繁茂している様などもうかがえた。
――がちゃり。
カギがかかっていないか、あるいは壊れて外れたのか……撮影者は2階最も奥の部屋へと入った。室内は荒れ放題であり、雨漏り跡が酷い。歩くたびに埃が舞い上がっているが……居間のようなスペースには床が完全に腐って抜け落ちており、一階の部屋に通じる穴ができている。
「はいはい、ポニーちゃん! TVを消して。もう眠る時間だよ」
「わっ!」
と、妙に画面に集中していたところに背後から声を掛けられる。寮長フジキセキがまだ自室に戻っていないキタサンとダイヤに不意に声をかけたのだ。思わずウマ尻尾をびくりと震わせるキタサン。
「ご、ごめんなさいっ……ダイヤちゃん、早く部屋に戻ろ!」
「あ、う……うん」
ダイヤは妙に歯切れが悪くキタサンの言葉に答えた。
それから。自室に戻った二人は歯を磨いて寝る準備を整える。その時ダイヤが少し不安げに、キタサンに問いかけた。
「最後の女の人の顔、いきなり出てきてすごかったね。作り物っぽいけどびっくり映像系はちょっと苦手だな……」
「え? そんなのあったの?」
キタサンはその場面を見ていない。フジキセキが声をかけてきたため咄嗟に振り向いたからか?
「あれ、キタちゃんみてない? そっか……最後に女の人の顔のアップが映ったの。それから『あなたの次』って言って……」
「うん?」
画面から目を離したが、キタサンはそんな声は聴いていない。映像は最後まで環境音以外無言だったはずだ。
「『あなたの次』ってどういうことなんだろうね……とりあえずお休み、キタちゃん。また明日ね!」
「あ……お休み、ダイヤちゃん」
……結局、その日はキタサンもダイヤも、何事もなく就寝した。そして次の日。同級生であるキタサンとダイヤは午前中互角の授業を受けたが妙にダイヤの様子がそわそわしているのだ。時折、窓の外を眺めては顔をしかめている。なにかあったのか、と休み時間に聞いてみたものの『多分気のせい』としか言わないダイヤに、キタサンは困り果ててしまった。
「お助け大将キタちゃんにドーンと話してくれていいんだよ? ダイヤちゃん……!」
「ううん、本当に何でもないの。昨日一気にビデオを見たから逆にちょっと疲れちゃったみたい……」
「そう? じゃあせめて私が肩を揉んであげるよ! マッサージ得意だから、ね!」
「わ、わひゃあっ! キタちゃんくすぐったいよ! あはは!」
その日は結局、それで終わったものの……ダイヤはそれから妙に不安げな表情を作ることが多くなる。特に一人で行動する事を嫌がり、必ず大浴場にはキタサンと時間を併せていくようになったし、例えば階段下のスペースのちょっとした暗がりや体育倉庫などにいくのも妙に怖がるようになった。キタサンはそのたび、ダイヤに何があったのか、と……自分でもしつこいかと思う程度には聞いて回り……そしておおよそ4日後にその理由を聞きだすに至る。
「ダイヤちゃんにだけ、女の人が見える?」
「そう……なの……この前借りたビデオの中にあった何も書いてないテープ……アレの最後に映った女の人が、いろんなところに立ってるの。最初は見間違いかとも思ったんだけど……」
そう言って、ダイヤは力なく部屋の窓の外を指さす。
「覗いてるの。今も」
「そ、それって……」
キタサンはぞっとした。窓の外には、たださあさあと雨が降りしきるばかりで遠くの街頭や街の明かりがぼんやりと雨粒に映るばかりだ。ダイヤはこんなことで人をからかったりするようなウマ娘ではない。これは……いわゆる、幽霊に『憑かれる』というやつではないのか。となればきっかけはどう見ても、あの名前のないビデオテープだ。
「だ、ダイヤちゃん……! 何か痛い所とかはない? なにかされてない? 大丈夫!?」
キタサンは不安になりダイヤの肩を掴んでゆすってしまった。しかし、ダイヤは困ったようにあいまいに笑みを浮かべて。
「だ、大丈夫。大丈夫だからキタちゃん。あの『女の人』は立っているだけなの。何かされたとか、してくるとかはないみたい……さすがにずっと見られていると気疲れはしちゃうけれど……」
「う、うーん……」
これはお助けキタちゃん史上最大の危機かもしれない。大親友が困っている。しかし、幽霊相手にどうすればいいのか。全く思いつかない。だが……なにかしなければ、なにか……!
「と、言う訳なんです……トレーナーさん」
翌日、キタサンとダイヤはトレーナーであるあなたにこのことを相談してきた。かといってあなたも幽霊が如何のだとか言われたところで、それをどうすることもできないし、寝耳に水と言ったところだろう。
「うーん、盛り塩とかすればいいのかな……六芒星の中心に立って迎え撃つ! とか……」
頭を悩ませながらキタサンがあーでもないこーでもないと唸る。
「ダイヤの軽率な行動でご迷惑をおかけして申し訳ありません、トレーナーさん……」
ダイヤもあまり寝られなかったのか、すこしぽーっとしているが申し訳なさそうに頭を下げてきた。だが、担当ウマ娘になにか問題があればそれに対処するのがあなたの仕事だ。ここはあなたが一肌脱がねばならぬ……のだが。とにかく、幽霊相手はどうしたものだろうか。ちなみに、ダイヤの言によれば今はどういう訳かいないらしい。
「ちなみに、これが例のテープなんですけど……」
そういって、キタサンが差し出したのは何も書かれていないビデオテープだった。これが事件の元凶らしいが。
「……あたしは、その女の人の顔が映るシーンを見てないんです。本当に女の人なんて映っていたんですかね……? 危ないかもしれませんが……確認してみるのもいいかもしれません。あたしは、ダイヤちゃんが聞いたっていう声も聞こえなかったんです。何かの、思い過ごしかも」
そういうキタサンは、何か解決策を見つけたいがゆえに焦っているように見えた。だが、例の映像を確認した方がいいのは事実だろう。なぜダイヤだけがその女の姿を見て、声を聴いたのだろうか。それを確かめるにはまず一度見るしかない……。
こうしてあなたはそのビデオを見てみることにした。危ないと言って止めたのだが、キタサンも私も見ますと言って止まらず結局あなたとキタサン、そしてダイヤが3人でもう一度、それを確認する運びとなる……
「………………」
ほんの少しの白黒ノイズが流れてから唐突に本編が始まる。映像はハンディカムで撮影されたようなもので、事前に聞いていた通りどこかの田舎の市街地だ。画面右側には鉄道線路らしきものが見えるが、よく確認できない。ざく、ざくと砂利を踏みしめる音と共に、撮影者は鉄道沿線?を歩いていく。時期は夏だ。セミの鳴き声が聞こえる。
「………………」
撮影者の歩みが止まり、見上げるようなアングルで錆や痛みがひどいほぼ廃屋と言ってもいいような2階建ての古い木造アパートが映し出される。その2階に階段を使って上がっていくが、恐らくもうこのアパートに住民はいまい。実際、新聞受けには朽ちた新聞の痕跡のようなものがあったり、曇った窓越しに室内にも蔦植物が繁茂している様などもうかがえた。
――がちゃり。
撮影者は2階最も奥の部屋へと入った。室内は荒れ放題であり、雨漏り跡が酷い。歩くたびに埃が舞い上がっているが……居間のようなスペースには床が完全に腐って抜け落ちており、一階の部屋に通じる穴ができている。その時、ふいに撮影者が振り向いた。
暗闇の中に、画面全体を塞ぐようにまで大写しになる女の顔。
「お前だ」
女は目を見開き、そうつぶやいた。
………………
…………
……
…
「あれ? なんにもない? 確かにここで女の人が……」
「ほら、やっぱり! きっと気のせいだったんだよ! はーっ……」
ダイヤは不思議がり、キタサンがほっと胸をなでおろしたかのようにため息をつく。そしてキタサンはこう言うのだ。
「トレーナーさんも何も見えなかったですよね! おつかれさまでした!」
←To Be Continued?
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#026『悪魔が来りて……』
府中、浅間山公園。既に日は沈みかけオレンジ色に染められた木々の間を歩き回る二つの影法師。
「キタサン。そっちにはあった?」
「いえ……ないです……というか、もうそろそろ夜になっちゃいますよスイープさん。そろそろ寮の方に帰ったほうがいいんじゃ……」
「や~だ~!!! 黄色い『ニワトコ』の実が絶対に次の使い魔召喚の呪文には必要なの! 見つかるまで帰らないんだから!」
府中トレセン学園所属のウマ娘スイープトウショウとキタサンブラックはその日、言葉通りスイープの魔術に使うための『ニワトコ』の実を探しに来ていた。スイープは『魔女』であったという自身の祖母の影響から自身も魔女を目指しており、魔法少女スイーピーと名乗ることもあるほど魔術に傾倒しているのだ。ちなみに本当に使い魔召喚に必要かは別としてニワトコには実際、魔よけの効果や薬効があると信じられている。熟したニワトコの実は通常赤いが、まれに『キミノニワトコ』といって黄色になるものがあり、それがどうしても必要なのだそうだ。
「困ったなぁ……うう、西日で目が痛い……これじゃ、ニワトコどころか赤も黄色もよくわかんない……」
駄々をこねながらあちこちを探し回るスイープを見ながら、キタサンはさすがにため息をついた。この時間帯を過ぎれば、一気に日が落ちて暗くなる。本来ならもう引き上げて次の休みにでも改めてきた方が良いのだが……スイープは頑固であり、一度こうと決めたらそれを曲げない。その気質を良く知っているキタサンはとにかくスイープがはぐれて奥の方まで行ってしまわないようにだけ注意しながら、彼女と共にニワトコを探す。
「あ……」
「あった!? キタサン」
そうしているうちに、キタサンは地面にキノコが生えているのを見つけた。赤く染まった林の中でより赤く、白い斑点めいたものがあるそれは明らかに有名な毒キノコ……
「あ、いえ、キノコが生えてるなと思って……『ベニテングタケ』ですよねこれ」
「え!? それって『幸運のキノコ』じゃない!」
「そうなんですか?」
日本では典型的な『毒キノコ』として有名なベニテングダケだが、欧米ではその見た目のかわいらしさなどから『幸運を呼ぶ』とされているのだ。また北米や北欧のシャーマニズムなどとも関わりがあるとされている。ご多分に漏れず、スイープはそのことを知っており……
「これなら、黄色いニワトコの代わりにできるかもしれないわ! でかしたわよキタサン! なでなでしてあげる!!!」
「わーいやった!!! って、大丈夫なんですか!? 毒キノコなんですよねこれ!!!」
「大丈夫よ。たぶん……ベニテングダケは毒キノコといっても、毒性がそんなに強くないから。塩漬けなんかにして食べる地域もあるなんてのは魔女の中では当たり前の知識よ」
「へ、へえ~……」
キタサンはたぶん、と言う言葉にメチャクチャ不安を感じたが自信満々なスイープに押されて頷くにとどまった。なお、ベニテングダケを食用とする地域があるのは確かであるが数少ないとはいえ死亡例もある毒キノコであり、同種のキノコにはかなり強い毒性を持つ物もあるため、キノコ採り初心者の採取および興味本位での食用は避けるべきである事をここに記しておく。
「今日はこれでいいわ。じゃあ帰りましょ」
スイープはベニテングタケをビニールのパックに入れて回収すると、用は済んだとばかりに帰っていく。
「あ、スイープさん! まってください! 折角ですし、帰りにラーメンでも食べて帰りません!? 最近、トレセン学園の近くに新しくできたラーメン屋さん、行ってみたかったんですよ」
「確かにお腹もすいたし……いいわね! じゃあそこに案内しなさい、キタサン!」
こうして、その日は二人して帰りにラーメンを食べ、問題なく寮へと門限までに帰りつけたのだが……
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない#026 悪魔が来りて…… ◆◆◆
新月の日、事前に3日の間肉食を禁じて身を清める。樟脳、そして乾燥させたベニテングタケの粉末を混ぜ合わせたもので魔法陣を描く。魔術的な法則に則って配置した祭壇には羊の血(市販のラム肉から滴ったもので代用)を黄金の杯に入れて生贄として備える。そしてグランマから教えてもらった特別なブレンドの香を部屋の四方で焚き、精神を統一させる。完璧だ。今回の儀式は間違いなく成功する。
「アガパンサス・ゼラニウム・キブシ・ハーデンベルギア!」
高らかに、スイープは呪文を叫ぶ。使い魔招来の呪文を! その時であった! がらら、と儀式の部屋として使っていた空き教室の扉が開き中に誰かが入ってくる! まさか使い魔!? しかしこんな登場の仕方は……
「げほっ、げほっ!!! やっぱり! スイープさんここにいたんですか!
と言うかなんです? この煙は……! げほーっ!!!」
「げっ!!! キタサン!!?」
人払いの結界の魔法を使っていたにもかかわらず、見知った顔であるキタサンが部屋に入り込んできた。
「い、今は使い魔招来の儀式の途中なのよ! 邪魔しないで、危険だわ!」
「そんなことより、先生が探してましたよ! 今日、数学の補習の予定だったのに来ないって! 補習を受けましょう!」
「ヤダ! というかそんなことよりって何よ!!!」
スイープはもはや慣れっこではあるが、部屋に立ち込める香……というか煙は妙な刺激臭を伴っており既にこの空き教室周辺ではちょっとした異臭騒ぎになっている。このままでは、スイープは補習どころか生徒会のエアグルーヴ先輩あたりに大目玉を喰らわされる結果に終わるだろう。
「と、とにかく換気を……わあああっ!!!?」
「あ゛―ーーーーーッ!!!!!!」
窓を開け、換気をしようとしたキタサンが部屋の中央に置かれていた祭壇につんのめり、盛大にそれを破壊しながらずっこけた。さすがのスイープトウショウもこれには大激怒……する暇もなく。
「げほっ!!! げほっ!!! なんなのよもうーっ!!!! げほーっ!!! ごほがほ!!!」
「何ですかこの煙……げほっ、げほっ、頭がくらくらする! それにやっぱり咽るーっ!!! げほほほほーっ!!!!」
なんらかの反応が起こったのか、香炉からすさまじい量の煙が吐きだされ、目の前が見えなくなる。キタサンは、このままではまずいとスイープを連れて一旦部屋を出ようとした。
――ザァアァァァァッ
しかし、次の瞬間二人が立っていたのは赤黒い土に覆われた無限の焦土めいた場所。
「「え……?」」
二人はきょとん、としたのち顔を見合わせる。そして。
『共に来なさい。われわれは伏して罪なき者をねらい、血を流し、彼らを生きたまま喰らい、健やかなる者を、冥府にたつ者のようにしよう。われわれは、宝玉と金子、奪い取った貪婪なる物で、われわれの家を満たそう。あなたも我らの仲間に加わりなさい、われわれは兄弟姉妹。共に一つの金袋を持つ者』
スイープとキタサンに声をかけるものがあった。古風なローブを身にまとった人物で、荒野にぽつんと立ち、それでいて顔は影に覆われ得体がしれない。声は男のようだったが若くも、老いているようにも感じられる。そして言っていることの意味は分からないが、それに含まれる剣呑で邪悪なニュアンスは二人には理解できた。
「え、あ……あの……」
思わず気圧されるキタサンだったが、スイープは何よ、意味わかんないこと言ってんじゃないわよ、とばかりに両手に腰をあてて強気に前に出て。
「あのね、アタシは使い魔が欲しくて儀式をしてたのよ! それなのになによこれ! めちゃくちゃだわ! アンタ何者なのよ!!!」
「下僕を望むか? 我は城壁の頂で叫ぶ征服者にして、門の入り口で叫ぶ扇動者である。あなたが災いに会うときに笑い、あなたが慌てふためくときに嘲り誹るものである。だが、よかろう、それを従者として従えたいのであらば、後は阿鼻である。貴様はダビデではないのだから。では一時の戯れではあるがあなたの兄弟姉妹となってさしあげる」
「つまり……なんなのよ! 私にもわかるように言いなさいよ!」
「思慮なき者。愚かなるもの。知識を憎むなかれ。だが、ひるがえって、それもよかろう。我は聖フランチェスコ、あるいはビザンティンの金口イオアンが如くあなたに平易な姿言葉で説法を行うものである」
謎の人物がそういうと、再び煙が立ち込める。
「げほっ! げほっ!!!」
「がほっ! ごほごほ!」
二人は息苦しさについに意識を失い……
「ハッ!」
キタサンが意識を取り戻した時には、真っ白い天井とシーツが目に飛び込んできた。ここは……どうやら学園の保健室のようだ。スイープは……!
「ううん……グランマ……寂しいよ……」
スイープは、キタサンの隣のベッドに寝かされ、未だすうすうと寝息を立てている。
「はぁ、よかった……」
「本当によかったです」
キタサンの言葉に追随するような声。見れば、ちょうど汗拭き用のタオルを変えていたのか見知らぬウマ娘が水の入った盆を運びながら、近づいてくるところだった。褐色のエキゾチックな肌とかなり白色化が進んだ芦毛のコントラストが美しい。
「あなたが……運んでくれたんですか? ありがとうございます。ええっと、お名前は……」
「私はスイープトウショウさんの下僕にして従者にして使い魔です。名をダイモニカス。全能の権能を持ちます」
「え、あ、はあ……」
キタサンはずいぶん変わった子だな、と第一印象を持った。スイープトウショウの知人なのだろうか。
「使い魔!?」
と、スイープがそれを聞いて跳び起きた。ベッドわきに置かれていた帽子をかぶりなおし、どこ!? どこ!? と周囲を探すスイープに対し、ダイモニカスと名乗ったウマ娘は恭しく礼をして。
「お目覚めになられましたか、我が主。使い魔に何なりと御命令をお申し付けください」
「え? あんたが使い魔!? どうみてもウマ娘――」
「先ほどの問答から平易な言葉と姿で接するのが良いと判断しましたので、今はこの姿を取っています。もし他の姿が良いなら」
ダイモニカスがそう言うと、瞬時にその姿が液体めいて溶け、それから銀毛の猫の姿をとった。
「あ……!」
キタサンは思わず、息をのむ。トリックなどの介在の余地がない、完全な魔法にしか思えなかったからだ。
「………………やった」
だが、スイープはそれを見てぐっと、こぶしを握り、そして少しだけ涙を流した。
「ついに……成功した。やったよ、グランマ……」
しかし、すぐにキタサンが近くにいたのを思い出したのかごしごしと乱雑にそれを擦り、ふふんと得意な顔を作るスイープ。
「そうね、学園はペット禁止だから……ウマ娘の姿でいなさい。あ……でもそうなると、先生やたづなさん、フジキセキ寮長なんかをごまかさないと……うーん」
「問題ありません。私はあなたの使い魔ですので、他の誰にも知覚できないようにする程度でしたら……」
「あれっ!? いなくなっちゃった!?」
ダイモニカスがそう答えた瞬間、キタサンが素っ頓狂に驚き声を出した。キタサンはどこにいったんだろ、と呟きながら周囲を見回すがスイープには依然としてダイモニカスがそこに立っているように見える。
「いかがですか?」
「……さすが私って感じね! 魔法少女スイーピーにふさわしい使い魔よ! ふふっ!」
それから……夕方を迎えるころには、問題なしと言う事で保健室から退出した二人。待ち伏せをしていたエアグルーヴにスイープはそのまま生徒会室に連行され、キタサンは自室へと戻ることになったのだが……
「ねえ、ダイモニカス……なんとか逃げ出せないかしら? このままじゃ、説教が待ってるわよ……」
「かしこまりました」
スイープはエアグルーヴに連行される途中、ひそひそとダイモニカスに話しかける。スイープはただでさえ、校則破りやサボり、トレーニング拒否などの素行不良の常習犯だ。最近はうまくエアグルーヴやフジキセキから逃げのびていたこともあり、今日のお説教は長くなりそうな予感がする。場合によってはルドルフ会長まで出てくるかもしれない……大人の常識、大人の都合を押し付けられるのはまっぴらごめんだ。
「おい、何をこそこそしている?」
エアグルーヴが、スイープに注意しようとした時であった。
「エアグルーヴ、ちょっと来てくれるか……ルドルフが呼んでる」
と、声をかけてきたのは生徒会のNo.3であるナリタブライアンである。といっても、さほど生徒会の活動に熱心ではない彼女がわざわざ出てくるということはそれなりに重要か事態がひっ迫している証左だ。
「会長が……? わかった、すぐ行くが……このたわけはどうするかな……。しかたない、いろいろ言っておきたかったが、明日の数学の『再補習』には必ず出ろ。それで不問にしてやる。もし出なかった場合は始末書の提出をさらに追加で申し渡すからな」
「たわけって何よ! もうー!」
むうーっ、と頬を膨らませて抗議するスイープに取り合わず、エアグルーヴはそう言って、ブライアンと共に会長室に駆けていった。
「これでよろしかったですか?」
「えぇ?」
と、スイープの側にひかえていたダイモニカスが声をあげた。何かをやったようなそぶりはなかったが……
「エアグルーヴさまの作成した書類に『不備』が出るよう細工をしました。今頃、彼女は書類の修正に追われてもうご主人様の事を忘れているはずです」
「それって……魔法でやったの!?」
「はい」
端的な受け答え。先ほどの猫に変身したのもそうだが、この使い魔はやはり『本物』だ。どう考えても不可能なことを涼しい顔をしてやってのける。そして、それを鼻にかけることもなく従者然として自分に従う。完璧だ。エアグルーヴには少し悪い気もしたが、それ以上の興奮がスイープを満たした。やっと魔術が成功したのだ。これで、グランマにも顔向けができる。
「じゃあじゃあ、ついでに『再補習』も魔法でどうにかならない? 明日は魔法の触媒になる素材をまた取りに行く予定なの。くだらない補習に出てる暇はないんだけど、でないと意地悪な副会長や寮長に始末書を書かされちゃうもの!」
「かしこまりました。手配しておきます」
「やったあ!」
本当に有能な使い魔だ。この使い魔さえいれば何でもできるのではないか? そしてそれを呼び出せる自分は何と優秀な魔法使いなのだろう! スイープはその日、上機嫌で自室に戻りそのまま明日の予習も何もなく、眠りについた。
「………………」
次の日、外は土砂降りでとても素材を獲りに行くような天気ではなく。結局スイープは気が乗らないながらもやることがないので、再補習に出ようと、教室を訪れたのだが……そこにあるのは『講師急病のため休講』の張り紙。
「なんなのよーっ!!! せっかく人が来てやったのに!!!」
スイープはぷんぷんと怒りながら、こうなれば美味しい物でも食べようとカフェテリアに向かう。と、そこで目にしたのは一人食事をとるキタサンの姿。
「あら、キタサン、今日は一人?」
スイープは売店で購入した焼きそばパンを片手に、キタサンの座る席に自分もついた。
「あ、スイープさん! ちょうどよかった!」
キタサンがスイープに挨拶をする。そして、キタサンはもぞもぞと教科書や筆記用具などが入った自分のカバンを探り、はい。とスイープに紙袋に入ったプリント集を差し出した。
「なにこれ」
「今日の再補習で出る予定だった問題集です! 先生が急なご病気で中止になったでしょう。じつは……へへ、私も補習だったんですけどエアグルーヴ先輩が問題集をくれて、スイープにも渡しておけって」
「やだーっ!!!!!」
再補習は逃れたが、結局問題からは逃れられなかった。その二段構えに、スイープは悲鳴を上げる。しかし、すぐさま自分には有能な使い魔がついている。それを思いだし……こういったのだ。
「使い魔、わたしが勉強しなくてもいいようにしてちょうだい! ずっと成績が一番になる魔法とかで!」
「かしこまりました。ずっと成績が一番になるよう手配いたします」
………………
…………
……
…
それから、一週間がたった。
「どういう、こと……?」
トレセン学園の中等部で風邪が流行し、スイープのクラスの半数ほどが軽度の症状ながら授業やトレーニングを数日、休む事態となった。幸い、まだ本格化前の者ばかりでありレースに支障を来すことがなかったのが救いと言った所か。
そして、スイープは答案の結果が60点のテストを返却され……その点数で1位を取ってしまった。学業が優秀なものが大半風邪でテストを休んだため、ほとんど消去法でスイープが成績一位になったのだ。瞬間、スイープはぞっとした。
(私がダイモニカスに、ずっと成績が一番になる魔法をかけてって言ったから……?)
今思えば、最初のエアグルーヴの説教を逃れたのもエアグルーヴの書類に不備を作ったからであり、彼女にとっては『災い』だ。そして二回目、『補習に出たくない』と言えば担当の先生が『急病』に掛かる。今回は一位になりたいと言ったら、クラスの半分が軽い風邪で休む……
(こんなの……ち、ちがう……ちがうわ。魔法はこんな使い方をしちゃ、いけない。グランマの魔法はもっとキラキラしていたのに……!)
「
スイープはいてもたってもいられず、教室を飛び出して自室に飛び込むと、姿こそ見えぬがいるであろうその名を呼んだ。
「お呼びですか」
あくまで端的に、そして瀟洒な態度でダイモニカスがどこからか現れる。
「エアグルーヴ先輩の書類に不備、あなたがやったと言ってたわよね。数学の先生の急病も今回の風邪騒ぎもあなたがやったの……?」
震えながら、スイープはダイモニカスに問いかけた。
「はい」
ダイモニカスはそれだけを答えた。
「なんでこんなことをしたのッ!!! 私は、こんなの望んでない!!!!」
「いいえ、あなたの望みです。あなたの望みを叶えたのです。私は。怒られたくない。面倒なことをしたくない。一番になりたい。どれもあなたの望みです、違いますか?」
「ッ……!」
スイープはぐうの音も出なかった。言い返せなかった。これは自分が招いた災いだ。自分の心が招いた災いなのだ。それは……スイープにも理解できた。故に、罪悪感がその心を蝕む。
「もういい!!! 帰って!!!! あんたなんか私の使い魔じゃない!!! あんたなんかいなくなっちゃえ!!!」
癇癪めいて爆発するかのようにスイープは涙を流しながら、ダイモニカスの胸に飛び込みどん、どんと拳をたたきつけた。はずだった。
「え、あ……スイープ、さん?」
しかし……ダイモニカスがいた場所には、いつのまにかキタサンが立っていた。おもわず、ぎょっとしてよろめくように後ろへと下がるスイープ。キタサンはスイープがきっと急に教室を飛び出したことから、心配して追いかけてきたのだろう。ご丁寧にスイープの教科書や筆記用具が入ったかわいらしいカバンまで持ってきてくれている。
「違う、違うの……!」
「かしこまりました」
その瞬間だった、いつも通り、端的な受け答えのダイモニカス。しかしその顔は喜悦に染まり、これから訪れる絶望を前に恐怖に染まるスイープの顔を覗き込んでいた。そして、まるで初めからそこにいなかったかのようにキタサンの姿が掻き消えた。どさり、とカバンが落ち教科書や手つかずの問題集、プリントが部屋に散らばる。
「あ……」
スイープは……その場に崩れ落ちた。
「これもあなたが望んだことです。キタサンブラックさんはもはや存在しません。『全能』ですので、私はなんでもできます。ただ、それにはご主人様の意思が必要です。ご主人様の意思さえあれば、私はなんでもできる。あなたは私を使いこなすだけでいいのです」
ぎり、とスイープは奥歯をきしませた。どうすればいい。どうすればキタサンを救える? このアタシの身から出た錆から、どうやって皆を救える? このまま一生、言動に気をつけながらびくびくして生きるのか? まっぴらだ。そしてそれでは何の解決にもならない!
「……私の意思さえあれば、なんでもできるのね」
「はい、ただし『私との契約の解除』や『私やご主人様』に『危害』を加えることは致しかねます。私はあなたの忠実な『使い魔』であり、『契約』は『あなたがこの世から去るまで』です。それまでは滞りなく『契約』を遂行します」
「…………」
その時、ふと部屋に散らばった『数学』のプリントが目に入った。『三角形』とは3つの内角の和が『180度』になる図形の事を指す。
「これだ……」
「何でしょう。私は『全能』です。なんでもかなえてさしあげます」
ダイモニカスが特に感慨もなく、頬に手を当てながら次の指示を待つ。
「……内角の総和が『360度』になる『三角形』を書いて頂戴」
「はい。わかりました」
スイープが、ペンと適当な紙を拾い上げてダイモニカスに差し出す。ダイモニカスは、言われたとおりにそれを書こうとした。が……
「ハッ……」
そのペンを持つ手が止まる、すすまない。書けない。何故なら――
「書けないわよね。『三角形』の『内角の総和』は180度。それ以上になる場合、それは論理的に『不可能』ッ……!」
ダイモニカスはその言葉を聞きながら、びくりと震える。それを否定するかのように何とかペンを走らせるが、できたのは三角形とはとても言えない線を書きなぐったモノだった。
「じゃあ、次は『あなたの力でも持ち上げられないダンベル』を作って頂戴。そうねあんまり大きくても邪魔だから小さいのでいいわ」
「ハァーッ……ハァーッ……」
ダイモニカスは、震えながら何もない空間に手をかざし、言われた通り小さなダンベルを作り出した。そしてそれを見たスイープは勝ち誇ってこういうのだ。
「じゃあ、それを持ち上げなさい。何でもできるんでしょう。まさかできないって言わないわよね『全能』なんだから」
「あああッ!!!!」
ダイモニカスは自身の頭髪を掻きむしりながら叫び、膝をついた。もし、これを持ち上げてしまえば『自分の力でも持ち上げられないダンベル』を作れなかったという結果になり、持ち上げられなければ『何でもできる』という自分の言が証明不能になってしまう。
「続けるわよ。次は2+13=7だと証明――」
「ぐ、げ……」
ダイモニカスが、もだえ苦しみながらその場に手を突く。
「いくらでもこんなの、思いつくんだからね。いい? アンタは『全能』じゃない」
「ARRRRRRRRRRRRRRRRRRGH!!!!!!!!!!!!!!」
断末魔の悲鳴めいて、ダイモニカスは掻き消えた。それがあっけない、
「あれ?」
怪異が力を失ったことで、消え去っていたキタサンもこの世に戻ってきた。彼女は何が起こったのかわからない、という表情をしていたが……
「あああッ……キタサン! キタサン! よかった、ほんとうに、よかった……!」
涙を浮かべるスイープに抱き着かれ、本当に何が何だかよくわからないまましばらく、スイープを撫で続けることになったのだった。
……それから。
スイープは自発的に生徒会室に赴き、エアグルーヴに謝罪した後、一週間の清掃やボランティアを申し出た。さらには、キタサンに今まで以上に世話を焼く(といっても、実際はキタサンが大抵スイープに世話を焼いている)ようになり、また病欠した先生や他の生徒たちにも困りごとや頼まれごとはないかと親身に接するようになった。
この変化に最初こそエアグルーヴやフジキセキは驚いていたが、良い変化であろうとほほえましく見守るようになり。実際元々リーダーシップがあり面倒見の良い彼女は、今回の一件がいい薬となり『多少』は、その気難しい気性にも変化が出たようだ。
とはいえ、それがいつまで続いたかは……読者の皆様の想像におまかせする。
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#030『摩天楼の幻影』
ドッペルゲンガー。自分とうり二つの分身でそれと遭遇すると死ぬ――。
もはや使い古されてなんの感慨もわかない陳腐なホラーだが、まぁ、これまた有名な言葉通りきっと世界中探せば三人ぐらいは自分にうり二つの人物だっているだろう……科学的には脳の機能障害によって見える幻覚ではないか、という説がよくあげられるが、これだけだとつまらないのでもう少しドッペルゲンガーというものについて話しておく。
例えば1845年にフランス人のエミリー・サジェという教師が授業をしている際、突如サジェのドッペルゲンガーが現れ、それを40人以上の生徒が目撃しパニックを起こす者もいたという記録があるほか、日本の文豪として名高い芥川龍之介も帝国劇場、そして銀座でおのれのドッペルゲンガーを目撃し、錯覚で片付けられればいいがそうも言いきれない事があるという旨の言葉を残したうえ、それに触発されて『二つの手紙』という短編作品まで書き上げている。
ここまで前振りすればもうわかったよ、と誰でも言うだろうが一応言っておくと。今回のお話は――ドッペルゲンガーについての『奇妙』な物語だ。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #030 『摩天楼の幻影』 ◆◆◆
その日、ブリッジコンプとエキサイトスタッフはファン感謝祭の後片付けとして生徒会の手伝いで栗東寮の倉庫にあるパイプ椅子や長机を搬入していた。予想外に時間がかかり既に夜の九時――消灯時間近くまでかかってしまったのだが、途中からマンハッタンカフェが手伝ってくれたこともあり辛うじて時間内に作業を終えることができた。
「カフェさん、手伝ってくれてありがとう~……長机、結構片付けに手間かかるんだねー」
「ほんと~、数もいっぱいあったし私たちだけじゃ絶対間に合わなかったよー! お礼に明日、トレーニング終わりに駅前に最近できたカフェ・ドゥ・マゴってお店にチョコレートパフェ食べに行かない?」
しかし、先ほどまで一緒に長机を運んでいたはずのマンハッタンカフェの姿はない。コンプとスタッフは倉庫の中にまだいるのか? と訝しんだがいつまでたっても倉庫から出てくることはなく……消灯時間も近いし、先に部屋に戻ったのだろう、とアタリをつけて二人も自室に戻ろうとした。その時、廊下を歩んできたのはマンハッタンカフェである。
「あの……ヒシアマゾン寮長から言伝を預かってきたのですが、まだ作業が終わらないようなら明日に回していいので今日はもう休むように、とのことです」
「え? カフェさん何言ってるの? 今終わったじゃない! 手伝ってくれたカフェさんのおかげで!」
「うんうん!」
コンプとスタッフは、少し怪訝な様子でカフェの言に返事をしたが、カフェはその黄金の瞳をきらめかせながら言うのだ。
「……私は、タキオンさんたちと体育館の方でずっと作業をしていて、今、美浦寮まで戻ってきたところですが……」
「「え……?」」
二人の顔が引きつる。これは……うわさに聞く……『美浦寮の幽霊』ではないのか、と。
『美浦寮の幽霊』。それは学園の生徒たちにまことしやかにささやかれる怪談であり、『マンハッタンカフェ』にそっくりな女子生徒が美浦寮には時折現れるが、それはマンハッタンカフェではなく誰もその正体を知らない、という物で……真面目なエイシンフラッシュや、ことオカルトに関しては造詣の深いマチカネフクキタルなどがこれを目撃している。出所は不明ながら天井に逆さに立っていたなどという話まであるものだ。
「………………」
顔を真っ青にして、見合わせるコンプとスタッフ。結局その日は、何とも言えない空気のまま解散したのだが……。
「……何をそんなに考え込んでいるんだいカフェ」
翌日、いつもの理科室でモカ・マタリをちびちびと飲みながら、いつも以上に思索にふけるカフェの姿にタキオンは何とはなしに声をかけた。次いで、自分もサバラガムワを淹れて一息つくことにする。こうしてカフェと一緒に団欒をするのは研究の息抜きとして欠かせないファクターだ。たまに彼女のにがいコーヒーを間違えて飲んで何もやりたくなくなってしまうが。
「いえ……昨日、少し気になる事がありまして……」
カフェはそう言うと、昨日の出来事――ブリッジコンプとエキサイトスタッフが『美浦寮の幽霊』に遭遇した件をタキオンに話して聞かせた。
「ふぅン……『美浦寮の幽霊』ねぇ……私も聞いたことはあるが……例の『おともだち』じゃあないのかい。私には見えないが、君と同じく霊感が強い人間なら見えたりするんじゃあないか?」
タキオンは、カフェの『おともだち』のことを、最近は『奇妙』な事件に巻き込まれすぎたこともあって理屈は分からないが、『存在する』んだろうなと言う風には考えていた。現代科学の敗北を認めるようだが、あるものはあるのだから仕方がない……いつかはその存在にメスを入れることができれば。そんなことを考えていると。
「私も最初は『おともだち』かと思っていましたが……『おともだち』曰く『自分ではない』そうなんです」
「ふぅン? つまり、君の『おともだち』とはまた違う別の『何か』がいる、と?」
「はい。その『何か』は、ブリッジコンプさんとエキサイトスタッフさんと一緒に物を運んだりしたそうなので、恐らく幻覚とかそういったものではないと思います。そもそもこの機に『おともだち』に色々聞いてみたんですが、別に『美浦寮』をうろついたりしていたずらなんかをしたことはない、と……」
「なるほどねェ……しかし、だとするとますます不思議だ。『おともだち』ではない別の存在――そしてそれがカフェ、君とうり二つとなるといよいよわからないね」
カフェによると、『おともだち』の顔はカフェをもってしても追いつけないので見たことはないらしいのだが『おともだち』の後ろ姿などはほぼカフェとうり二つであり、恐らくは顔も似ているのだろう、と言う事だが。例の『美浦寮の幽霊』が『おともだち』でないなら、これは一体? と言うほかない。
「ですから、気になって……少し、調べてみようと思うんです。別に悪さをするとかではないですが、一体それが何なのか気になってしまって……」
「ふぅーーーーン……なかなか面白そうだ。その件、私も一枚噛ませてもらおうじゃあないか。別に構わないだろう?」
タキオンは、好奇心に目を輝かせながら言った。カフェはそんなタキオンを見て苦笑しながら。
「……はい、構いませんよ。そう言うと思っていましたから」
それからさっそく、カフェとタキオンは行動を開始した。まずは、美浦寮の廊下に定点カメラを仕掛ける。タキオンはめんどくさがったがこういうのはちゃあんと許可を取らないと、というカフェの言もあり、生徒会に届け出て(エアグルーヴはまたタキオンが妙なことをし始めた、と嫌そうだったが真面目なカフェからの話もあり辛うじて許可は通った)何か所かにカメラを設置する。おおよそは廊下などのあまりプライバシーにかかわらない場所だ。
「さて、これで最後かな……どういう映像が映るか楽しみだ」
「結構大量にカメラを設置しましたから、何かしら映るといいですね……生徒会の許可は一週間だけ、ですから一週間後に回収してみましょう」
「ま、例の『幽霊』がカメラに映るかどうかは分からないが、目撃者が多いんだ……実際、心霊現象をとらえた映像なんかは……たいていがフェイクではあろうが多く出回っているし、そういう類のものであることを祈ろうか、カフェ」
それから、カフェの霊感だよりに少しだけ美浦寮を調査してみたのだが別段何かおかしい所が見つかるでもなく。
そして次に、カフェとタキオンは図書室に向かった。この学園の『歴史』を調べるためだ。例えば『美浦寮の幽霊』の類似の事例が起こった記録はないかとか……幽霊が出るというのなら、美浦寮で事故か何かで死んだ生徒が過去にいないか、などだ。仮説ではあるが、例の幽霊は地縛霊と言うやつで、未練を残した生徒が霊となり寮そのものにとりついているのではないか……ということをカフェが思い当たったのだ。
「……うーん、こっちは手掛かりなしだ。学園史を調べてみたが、美浦寮で事故があったとかそういう記録はない。ネットも漁ってみたが今のところそんな重大事故などは起こっていないようだ。学園はやはりスポーツ校だけあって、こういう事には神経質だからな。設備が整っているのはいい事だが」
「私も同じような感じですね……ううん、ますます『幽霊』の正体がわからなくなってくる」
タキオンとカフェは肩を落とした。『幽霊』の正体を突き止めるべく、美浦寮の歴史を洗おうとした二人であったが、結果は芳しくなかった。とはいえ、研究や調査はトライアンドエラーがつきものだ。調査も、カメラの録画も始まったばかり。諦めるには早すぎる。ブリッジコンプとエキサイトスタッフに話を聞いたりもしたが、特にこれまた芳しい結果は得られず、それからカフェとタキオンは同時偏在説、タイムリープ説など様々な仮説を練ってみたが、結局仮説の域を出ず、ずるずると時間は過ぎ、一週間を経過してしまった。
「さて、何が映っているかな……」
タキオンはカメラを回収すると、理科室備え付けのプロジェクターでスクリーンに録画映像を投影し確認作業を始める。まだカフェは理科室に現れていないが、なにせ一週間分の映像だ。早送りで中身を確認してもカフェがこの理科室にやってきて尚お釣りがくるほどの長さがあるだろう。むしろ今日中に終われば御の字だ。
「…………」
すぐさま、『奇妙』な点は顕在した。そこに映っていたものに思わずタキオンは言葉を失う。
『さて、これで最後かな……どういう映像が映るか楽しみだ』
そこに映っていたのは、カメラを設置した際の録画映像。
『ま、例の『幽霊』がカメラに映るかどうかは分からないが、目撃者が多いんだ……実際、心霊現象をとらえた映像なんかは……たいていがフェイクではあろうが多く出回っているし、そういう類のものであることを祈ろうか、カフェ』
そこには、まるで『カフェ』がいるかのようにどこへとなく話をしながら、一人カメラを取り付けるタキオンの姿が映っていた。
「バカな……あの時カフェは確かに、確かに私と一緒にいたはず。気配があった。空気感があった。息遣いがあった……!」
タキオンは震えながら呟く。これはなんだ。どういうことなのだ。
「カフェは、カフェはどこにいるんだ……?」
「……私なら、ここにいますよ」
と、その時、タキオンの背後で見知った声がした。見知った気配がした。見知った空気感があった。息遣いがあった。それは紛れもなく、タキオンのよく知るカフェのものであった。あったが、タキオンは確信が持てなかった。あれほど共に時間を過ごしたはずの『おともだち』が……とても不気味なものに感じる。意を決してタキオンを振り向き、『カフェ』に向けて問うた。
「……君は一体、何者なんだ?」
「……私は――」
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#031『航路:地獄行き』
「ふん、ふんふふ~ん♪パフェ、パフェ、パッフェフェフェ~♪」
「まったく、君は本当にパフェが好きだねえポッケ君。まぁ、このところ研究に付き合ってもらった礼もあることだし……今日ぐらいは奢ってあげようじゃあないか。カフェもポッケ君を見習ってもっと私の研究に協力してくれよ~」
(…………どうしてこんなことに……)
マンハッタンカフェは困惑していた。今日は一人、カフェテリアで昼食をとっていたところ……どこからともなくアグネスタキオンとジャングルポケットが現れ……
「やあやあカフェ!今日はカフェテリアで食事をしていたのかい!水臭いじゃあないか。ちょうどポッケ君も居ることだし3人で卓を囲もうじゃあないか!」
というタキオンの言葉を皮切りとして一瞬で静かな食事が騒がしい場に変わってしまったからである。カフェは心底嫌そうな表情を作りながらも無遠慮に座って来るであろう二人のためにちょっとスペースを空けてあげ、今に至るというわけだ。
「うめェ~~~~~!!! やっぱ、トレーニングした後には甘いパフェだわ! タキオン、カフェ! お前らも頼んでみろよ! やる気も絶好調になって最強だからよ!」
「そうだなァ……私も頭脳労働をしたばかりだし、糖分補給がてらいただくとするか。カフェは?」
「……………………遠慮しておきます」
甘いパフェは食後のコーヒーにも合うだろう……カフェは少しだけ悩んだが、最近ややバ体重が増えてきていることを鑑み、ここは断った。今日はポッケとタキオンは午前中の早い段階からトレーニングをしていたと見える。ポッケは学園指定のジャージ、タキオンはいつもの学生服なので……最近、タキオンが研究していたウマムスコンドリアがどうのという実地研究にポッケが付き合わされていたのだろう。
「なぁんだい、カフェ~……最近妙に私たちを避けるじゃあないか。別段、君のプライベートを邪魔しようってんじゃあないが……おかげで私のQOLの低下が著しい。半分はトレーナー君、四分の一はデジタル君そしてもう四分の一はカフェが私の生活の面倒を見てくれてるんだから~」
「いえ、別に避けているわけでは……」
「たしかに最近、あんまりカフェとタキオンが一緒にいるとこ見ねーよな……大抵コンビでつるんでるのによ。むしろ、カフェがなんか最近いろんなところで『聞き込み』をしてるってのは俺もダチから聞いたぜ。一体何を調べてるんだ?」
既にものすごい勢いでパフェを食べきったポッケが、少し不思議そうに問う。そう、カフェは最近なにかしらの『調べ事』をしておりあまりいつもの理科室にいなかったのだ。
「……そうですね、お二人にも聞いてみてもいいかもしれません。『不幸の飛行機の夢』のこと……」
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #031 『航路:地獄行き』 ◆◆◆
「ふぅン……見ると不幸が訪れる『夢』の噂ねぇ?」
「ええ……『いつの間にか飛行機に乗っていて、最初は何ともないが最終的には墜落したところで目が覚める』という『夢』……それを見た者は現実でも不幸に襲われる……トレセン学園の一部の生徒の間で、そんな噂がまことしやかにささやかれています」
「……でも所詮『夢』なんだろ……? そんなモン、気の持ちようなんじゃあねーか? 例えば朝のニュースの『十二星座占い』とかでさ。自分の星座の順位がよくなかったからなんとなく気が重いとか……そういうアレじゃね?」
カフェの話に、タキオンもポッケも最初はピンときていないようだった。しかし、カフェはその黄金の瞳で二人を見据えあくまで真剣に話をする。
「はい。最初こそ、私も気にしてはいませんでした……しかし、私の『おともだち』が……言うんです。これはあまりよくないものかもしれないと。ですから、私はこの所、聞き込みを行っていたんです。『あの子』は嘘はつきませんから……」
「う、『おともだち』ってあの……」
瞬間、さっとポッケの顔から血の気が引いた。どうにもポッケはフィジカルでなんとかできない『おばけ』がかなり苦手らしく以前もかなり取り乱していた。尊敬するフジキセキに最強を目指すならだれでも仲間にしていく位でないと、と言われて以降はなんとかコミュニケーションを取ろうとはしているのだがやはりまだ苦手ではあるらしい。
「ふぅ~ン……夢と言うのは古代から『神のお告げ』だとか様々に解釈され、心理学的にもフロイトやユングの研究が有名だが……その『飛行機の夢』をどの程度の生徒が見ているのか、有意なデータは取れているのかい? 一人での聞き込みだろうから、多くの証言を集めるのは難しいだろうが……多数の生徒が見ているのならユングの集合的無意識の概念にもやや似通ったものを感じはするね」
「……そうですね。その夢を見た……というのは私が聞き及んだ中では5人ほどでしょうか……」
「5人かぁ~……さすがにそれではデータの母数としては少なすぎるなあ……」
ううむ、と考え込むタキオン。
「ちなみに……だけどよ。その不幸が起きるってのはどういう感じなんだ? 夢を見たやつは実際に不幸に見舞われたのかよ」
ポッケはうう……と少し顔をゆがめてカフェに問う。こういうオカルト的な話もやはり苦手なのだろうか。
「……それに関してなのですが、夢を見た方が言うには……黒猫に前を横切られたとか、趣味でよく乗ってる自転車がパンクしたとか。一番ひどいので練習で転んでしまってちょっと擦りむいたとか……ですかね」
「……なんだそりゃ」
その話を聞いたタキオンは苦笑し、ポッケははぁ~?と若干気の抜けたような態度を取った。
「俺はてっきり交通事故に遭う! とか呪いで死ぬ! みたいなのを想像しちまったぜ……はー……なんか損した気分だ」
「カフェ~、さすがにそれは『おともだち』の勘違いか、『過剰反応』じゃあないか……? 野良猫なんてよくいるし、自転車のパンクもよく乗ってるなら、そりゃタイヤの摩耗も激しいだろう。転んで擦りむくのなんて、我々は陸上競技者だぞ。たまにはそういうこともあるさ」
「だよな~! なんかいらねー心配したせいで腹がまた減ってきた! パフェおかわりだ!」
「ううん……」
そう言って、おかわりのために席を立つポッケ。カフェも確かに『おともだち』が言っているとはいえ現状そこまでの被害が出ていない事に特段反論できず、結局その日はそのまま解散したのだが……
――キィィィィン
「ン……?」
ポッケはその日の晩、タキオンの無茶な研究……もといトレーニングで疲れがあったこともあって、自室で早くベッドに入った。はずであった。しかし、かすかに聞こえてくる甲高いエンジン音にふと目を覚ますと、そこは明らかに『飛行機の中』であった。
「なんだァ……?」
眠い眼を擦りつつ、辺りを見回す。するとすぐに、隣の座席にある物が目に付いた。スーツを着た男。いや、骸骨。
「う、うわああああああああああ!?」
驚愕のあまり、ポッケは弾かれたように席から立ちあがる。するとどうだ。見渡せるようになった中型の旅客機の客室、その座席にはずらりとあまさず『骸骨』が座っているのだ。服装は様々で、まるで旅行の途中でいきなり乗客が白骨化してしまったかのような印象すら受ける……
「ひ、ひえ……」
ポッケは涙目になり、思わずその場にへたり込んだが……その時、思い出す。そういえば、昼間カフェから変な話を聞かされたっけ。たしか飛行機の夢の話。ふと、気づく。
「なんだァ~~~~~……夢かぁ~~~~~~!!!!!」
そうだ。これは夢だ。そもそも、最後に覚えているのはトレセン学園のベッドに入ったことだ。いきなり骸骨満載の飛行機に乗っているわけがないし、冷静になれば明らかに夢っぽい内容でもある。きっと、昼間そういう話をしたからその影響で自分も『飛行機の夢』を見てしまったのだ。
「夢だと気づくと、逆に楽しくなってきたな……今思えば飛行機に乗るのって俺初めてだし……こう、サービス?でパフェとかでないかね~」
夢だと分かれば怖くなどない。よくできてんな、と骸骨を人差し指でつついてみるポッケ。と……
「あ!? パフェじゃん!!!」
いつのまにか、自分の座っていた座席備え付けの折り畳みテーブルが開き、その上においしそうなパフェが乗っている。
「パパパパッフェ~♪ 便利なもんだなあ。最初はびっくりしたが寧ろこれいい夢なんじゃあねえの!?」
座席にどっかと座ると、さっそくパフェに口をつける。クリームたっぷり、フルーツもぎっしりで、あまい! うまい! 頂上にはいつぞやタキオンに食べられてしまい、食べ損ねたチェリーまで乗っている! まさしく理想のパフェ! そんなこんなでポッケはお気に入りのチェリーを最後に食べようと温存しつつ、のんきに飛行機旅を楽しんでいた。
『本日はサンチアゴ航空513便にご搭乗いただきありがとうございます。当機はドイツ・アーヘン空港からブラジル・ポルトアレグレ空港までのおよそ12時間半のフライトを予定しています。機長は■■■■■■……ザザ……ザザザzzzz』
「ン?」
ふと、聞こえてきたアナウンスにノイズが混じった。最初こそ気にしなかったポッケも、妙だな。とけげんな表情を浮かべる。その時であった。
――ガクン!!!!
「な、なんだァーッ!?」
乱気流に巻き込まれたかのように、機体が揺れた。思わず食べかけのパフェを取り落としそうになるが、チェリーがどうしても食べたいポッケはウマ娘の強い体幹と気合でそれに耐える。
「そ、そういえば……カフェが言うには確かこの後……」
――ガクン!!!!!!!
再びの衝撃! 同時に機体が45度は傾いた! さすがに耐えきれず、パフェのチェリーが転げ落ちていく!
「ああっ! 俺のチェリー!」
『本日は本日は本日は本日zはサンチアゴサンチアゴzzありがとうごzざいますありがとzzzzzうありがとう当機当zzz機当機zzz当機当機――』
なんとか座席にしがみつきながら、辛うじてシートベルトで体を固定したポッケの耳に、ノイズ交じりのアナウンスが響く。それはまるで狂ったカセットテープレコーダーのように同じ文言を繰り返そうとしているように思えた。そして。
『――当機はこれより進路を変更いたします。目的地は地獄です。ご搭乗ありがとうございます。さようなら』
「なッ!?」
――ギュオオオオオオオッ!!!!
異様なアナウンスの後、いきなり機体が急速に高度を下げ始める! 夢の中だとけっこーのんきしてたポッケもさすがに、これにはビビった!
「う、うおおおおおあああああ!!!!?」
機首を真下に、半ば90度になった機体! ガコン!と天井から酸素マスクが飛び出してくるが、それが重力に逆らうように上に浮き上がる! それでも、シートベルトと自身の力で、辛うじて椅子にしがみついていたポッケであったが……
「あああああああああああああ!!!!!!!」
バキン、と音を立てて椅子自体の金具が外れ、分解。その拍子にポッケの身体も椅子から投げ出される。しかしどうすることもできない。ポッケは無重力の中でもみくちゃにされながら、落ちていく。落ちていく。落ちていく……
……………………
…………
……
「うわーーーーーーーっ!!!!!!!?」
がば、とシーツを跳ねのけ、絶叫しながらポッケは覚醒した。目の前にあるのは見慣れた自室の光景。だが、ポッケは落ち着きそれを認識するまでに10秒程度を要するほど、動揺していた。寝汗が酷い。なんて夢だ。チクショウ。
「ハァーッ……ハァーッ……変な夢を見たせいか、寝過ごしちまった……」
額の汗をぬぐいながら、なんとなく時間を確認する。もう昼過ぎだ。完全に午前の授業をすっぽかした。午後からのトレーニングももうすぐ始まる。ポッケは息を整えるとそのままジャージに着替え、部屋を出た。昼食をとっている時間もないが幸いと言っていいのか悪いのか……夢のせいか、今日は食欲がわかなかった。
「…………ぐへぇ」
とはいえ、やっぱりすきっ腹は堪える。トレーニング直前に食うと気持ち悪くなるが、それでも軽くエナジーバー程度でも腹に入れておくべきか?などと考えつつ、ポッケは自分の部室へと歩を進めていた。その時である、ポッケの半ば野性的な勘とでも言おうか。それに殺気めいたものが一瞬、ひっかかる。思わず、歩を足を止めるポッケ。
――ガシャアアアアアアン!!!
「うおっ!?」
その直後、目の前をひゅんとなにかが通過し、地面で砕けた。
「が、ガラス窓……?」
そう、校舎のガラス窓がフレームごと脱落し、ひとりでに落ちてきたのである。もし、ポッケが立ち止まらなければ頭から直撃していたであろう。すぐさま、他のウマ娘や学園講師陣、そしてヤジウマなど人が集まってくる。ポッケは怪我はないか、と聞かれたが偶然、直撃を避け破片などでも怪我をしなかったため、本当に良かったね、という形で時間的には十分程度の拘束で済んだが……
(……飛行機の夢を見たやつには不幸が起こる。まさかな。それに不幸って言っても自転車がパンクするとか最悪転ぶとか、そういうののはず……)
「チッ、厄日だな。今日は……くわばらくわばら」
妙にうすら寒いものを感じながら、ポッケは部室でトレーナーと合流。既に聞いていたのか、さっきの窓落下の件で心配されたものの、過度にビビッて肝心のトレーニングをおろそかにしたくない、というポッケ自身の意向もあり、まずは学園外周のロードワークからいつも通りトレーニングを始めた……
「ふっ……! ふっ……! ふっ……!」
校門を出て右回りに、学園沿いに数kmを流す。それが通常のポッケのルーチンの始まりだった。今日はこの後、スプリント中心の足のキレを活かすためのメニューだったか……などと考えているうちに、商店街脇を通り過ぎ、公民館のそばを越え、神社の境内横の道に差し掛かった。おおよそここが半分くらいの地点。体も温まってきた……その時だった。
――メキッ!
神社の境内側からふいに、なにか折れる様な音。鋭敏なウマ娘の聴覚はそれに気づき、ふとそちらにポッケが視線を向ければ……
――バキバキバキバキッ!!!
境内に生えていた、ブナかなにかの木が真ん中あたりから折れ、ゆっくりと歩道側に倒れ込んでくるではないか!
「ゲッ……!?」
思わず、ポッケは走り出した。別段、避けずとも自分には当たらなさそうではあったが……何かヤバイ……理屈でないものを感じたからだ。とにかく、今日はヤバそうな物からは全部距離を――
――バリッ!!!ピシャアアアァッ!!!
「えっ!? あ!!!」
その予感は、当たっていた。ブナの木は『電線』を巻き込み……それをひっぱって電柱ごと、歩道側にドミノ倒しめいて次々と火花を散らしながら倒れてきたのである! まるで、ポッケを追うように次々に『電線』が垂れ下がってくるッ!
「な、なんだとォーッ!!!!?」
一瞬で、ポッケの脚がトップギアに入る。ギチッ! バキッ! ガガガガッ!!! 背後では次々電柱が傾き、地面と接触した電線が火花を散らした。電線との距離、5m……4m……3m……! 日本ダービーを制覇したポッケの脚でも、逃げ切れないッ!
「野郎ォ―ッ……!!!! う、うおおおおおおおッ!!!!」
瞬間、ポッケは体勢を低くし、走る勢いとウマ娘の怪力を合わせて……無理やりに『マンホール』を引きはがし……それを円盤めいて回転させながら空へと投げた! ひゅんひゅんと高速回転するそれは、未だ倒れていない電柱につながる電線を切断……数十m先にひしゃげながらがらん、がらんと音を立てて落ちる。そう、電線に引っ張られて電柱が倒れているのなら、途中で電線を切断して『ドミノ倒し』の波及を止めればよい。
「ハァーッ……ハァーッ……か、感電黒焦げになるとこだった……」
さすがのポッケもこれは肝を冷やした。しばらく動けず、地面に大の字になり息を整える。
「……ポッケさん! よかった! まだ無事のようです!」
「おいおい、こりゃ……ポッケ君大丈夫か!」
と、聞き覚えのある声。
「……カフェ、それにタキオンか?」
……それから、ポッケはカフェとタキオンに付き添われ辛うじてトレセン学園――カフェとタキオンのいつもたむろする理科室まで戻ってきた。
「まさか短期間にこれほど力を増すなんて……何故……?」
カフェは、ポッケを見ながら険しい顔で思案する。そう、カフェはポッケから例の『飛行機の夢』の怪異の力を感じ取っていた。しかしおかしい。昨日までは些細な不幸を起こすだけのそれが、たった一日でなぜここまで? 怪異は噂の蔓延などで力を増すこともあるため、カフェ自身聞き込みの際には細心の注意を払っていたものだが……
「やっぱあの『夢』のせいなんだな……?」
未だやや心拍が上がって息が荒いポッケ。顔面は蒼白で、今にも吐き戻しそうにも見える。
「はい……おそらくは。ポッケさん、質問なのですが見た『夢』の内容は覚えてらっしゃいますか? もし、可能であればできるだけ詳しく教えていただきたいです。もしかすると夢の内容になんらかのヒントがあるかもしれません」
カフェは、ポッケにあえて無理を承知で質問してみた。本来なら今すぐにでも休ませてやりたいが、これほどの『害』をもたらせるようになっている以上、時間がない。早く何とかしないとまたポッケが狙われてしまう可能性が高い。
「……夢、昨日の夢か……そうだな、気づいたら飛行機に乗ってた……んで、骸骨とかパフェがでてきて……そういや、なんだったか。アナウンスがしたんだ。サンチアゴ? とかなんとか……それから……いきなり飛行機が変になって、それで……」
ぽつ、ぽつと話をするポッケ。おおよそ話が終わるころ、いつのまにかスマホを弄っていたタキオンが声を出す。
「……ポッケ君の話を元に、少し調べてみたんだが……類似の事件があった。『サンチアゴ航空513便事件』だ。ウマペディアや怪奇現象をまとめるwikiなんかにも載ってるぞ。結構有名な事件みたいだな」
「サンチアゴ……そうだ! それだ! サンチアゴ航空513便! 確かにそういうアナウンスがあったと思う!」
ハッとポッケが顔を上げ、タキオンを見る。タキオンは要約しよう、というとその『サンチアゴ航空513便事件』のwikiを読み上げ始めた。
「1989年10月12日、ブラジルのポルトアレグレ空港に中型の旅客機が管制塔からの呼びかけに応じず、無許可で無理やり着陸した。不審に思った空港職員が機内を改めると、乗員乗客はすべて白骨化しており……さらに機体を調べると1954年9月4日にドイツのアーヘン空港から飛び立ち消息不明となったサンチアゴ航空513便だった……という事件だ」
「ひ、ひえ……や、やっぱ、あれは……おば、おばけ……」
顔を蒼白にして、震えだすポッケだがタキオンはハハハッと笑い出し。
「怯える必要はないよポッケ君。なんたってこの事件は『起きてない』んだから」
「は?」
疑問符を頭の上に浮かべるポッケだが、タキオンは話を続ける。
「これはいわゆる『嘘』のニュースなんだよ。それが事実確認されないままTV番組なんかで放映されて、真実だと誤解されたんだ。それっぽく作られてはいるがサンチアゴ航空という航空会社も、アーヘン空港も、ポルトアレグレ空港も実際には存在しない。今でいうところのフェイクニュースの先駆け的な話だなこれは」
「な、なーんだ……でっちあげかよ……ビビらせやがって……で、でもよォー……カフェの霊感? には何か感じてるんだろ。そこんところはどうなんだ?」
ウソのニュースと聞くと、ポッケも落ち着いてきたのかはぁーーーーーっと長い溜息をついた。しかし、そうするとあの『害』は一体?
「恐らく、これは『嘘が怪異になったもの』でしょう。たとえ真であれ。偽であれ。なんらかのストーリーと言うのは『力』を持ちます。そしてそれが神秘性や説得力を獲得したとき……そうなってしまうことも、あります。たった一日でこれほど『力』を持ったのは異常ですが……」
「それについても、説明がつく。まったくネット万歳だねえ。ほら……」
そういうと、タキオンは弄っていたスマホでSNSのトレンド分析サイトを見せてきた。表示されているのは『昨日の夜』のトレンドだ。
「どうやら大手の『オカルトサイト』で『サンチアゴ航空513便事件』が取り上げられてバズったみたいだな。タイトルは『逆バミューダトライアングル!?30年前から現れた死の飛行機!』。一応記事ではこの事件が架空事件であるということは最後に解説されてるんだが……煽情的な記事のタイトルと概要だけみて内容を精査せずにニュースを語る人間なんてごまんといるだろ? このトレセン学園にもそういうのは多いってことさ」
「なるほど……トレセン学園で誰かが言い出した『飛行機で墜落する夢』の噂……最初は無害で力の弱い怪異だったそれが、昨日バズった情報と結びついて、一気に力を増した……というわけですか……」
カフェは考え込む。おそらくこれは対話が不可能なタイプの怪異だ。となればどうにか力を弱め、無害なものにするほかない。といっても……どうすればいいのか。とんと、見当がつかない。このままでは、ポッケさんがあぶない……
「………………ん?」
と、ポッケが声をあげた。
「あ、あー……だいたい分かったぜ。うん。なるほど」
「?」
カフェはなにがわかったのか、わからなかったが……
「なんつーか、たぶん、勝てるかも。俺。こいつに」
ポッケは、ニカッと笑ってそう答えるのだった。
――キィィィィン
「ふぁぁぁぁぁーっ……」
ポッケは甲高い飛行機のエンジン音を聞きながら、ゆっくりと目を覚ました。やはり、いつのまにか飛行機の座席に座っている。そして隣には、白骨化したスーツを着た骸骨。
「おはよーさんっと……おーい、誰かいるかーっ!」
ポッケは、座席から立ち上がると機内に向けて叫ぶ。反応はない。
「ンだよ、俺が『最初』かぁ……パフェでも食いながら待つか……」
ポッケは何やら不満げに座席に座ると、以前と同様既に出現していたパフェに口をつける。やはりおいしい。最高のパフェだ。
『本日はサンチアゴ航空513便にご搭乗いただきありがとうございます。当機はドイツ・アーヘン空港からブラジル・ポルトアレグレ空港までのおよそ12時間半のフライトを予定しています。機長は……』
と、ふいに機内アナウンス。『サンチアゴ航空513便』。例の事件の名前だ。
「ちょーっと待ってくれ。まだ『乗ってない』奴がいるもんでね……おーい『タキオン』『カフェ』よぉ~っ!」
「ふぁぁぁぁ……う~ん、眠い……ポッケ君もうちょっと声のトーンを落としてくれ……寝起きにガンガン響く……」
「ふぁ……すいません、おまたせしました……」
と、座席から声。それは当然、タキオンとカフェのもの。しかしそれだけではない。
「ポッケさん! これがポッケさんの夢の中なんですか!? すげえ!」
「ポッケさん、幽霊までぶちのめしにいくなんて! すごすぎっす!」
「遠慮なくかましてやりましょうぜ! ポッケさん!」
わあわあ、といきなり一気に機内が騒がしくなった。ポッケのダチ――可愛がられている後輩や群愚丹瑠の面々、フリースタイルレース時代から付き合いのある学外のウマ娘まで。座席の半数以上が、白骨死体ではなくウマ娘で埋まった! そう、これはタキオンがカフェの夢の中に入り込むという実験をした際につくった薬剤の効果である。タキオンはそれを増産し、ポッケの友人に配ったのだ。カリスマ性があり人脈も広いポッケの事、あれよあれよと協力者が集まりむしろ薬が足りないほどであった。ちなみに以前カフェの夢に入り込んだときは、『現れた物』のせいでなんともいえない結果になったのだが…………
「んじゃはじめっぞーっ!!!」
「「「「はーい!」」」」
ポッケの号令一下、全員が行動を始める。
「そうだなぁ……やっぱりまずは紅茶が欲しいな。サバラガムワに角砂糖をドバドバ入れてくれ。ドバドバ」
「では私はコーヒーを。夢の中ですし高いのを頼んじゃおうかな……ブルーマウンテン、いやクリスタルマウンテンにしようかな……迷いますね……」
「俺はやっぱ肉だな!骨付き肉くれや!!!骨付き!!!」
「人参ハンバーグ特盛!ポテトサラダも!」
「駅前のウマ味軒の特製スタミナラーメン!」
「せっかくだし普段食べられないフレンチなんていいかもなァ、おい幽霊! フランス料理をなんかくれ!!!」
『!?』
あちこちから、食事のリクエスト。夢の中ということでかなり無茶なものをリクエストしている者もいる! しかし、夢の中のせいか……それらはいつのまにかウマ娘たちの前に供され、すごい勢いで食べ尽くされていく。
「飯だけじゃアレだな……おーい、幽霊! なんか宴会芸やってくれ!」
「いいぞーっ!!!」
『!?』
さらには、無茶ぶりめいた宴会芸をしろ、との声まで上がる始末。
『お客様に申し上げます……機内ではお静かに、おねがいします』
「オイオイ、ここは夢の中なんだろ。俺たちゃ普段、きつーいトレーニングしてがんばってんだぜ? 夢の中ぐらい好き勝手してもいいだろ?」
状況を見かねたようなアナウンスに、ポッケは口の中にチェリーを放りこみながら反論する。そう、ポッケは最初に『パフェが欲しいな』と思ったら『パフェが出てきた』……つまり、夢と気づいていれば自分の意志で好きなように内容を操作できることに気づいたのだ。
『――当機はこれより進路を変更いたします。目的地は……じご……』
怪異側もこれ以上付き合っていられない、と思ったのか地獄行きだと宣言しようとする。しかし。
「よっしゃ、このままハワイ行こうぜハワイ! ブラジルもいいけどよーっ!」
「いいっすね! ハワイ!」
「やった! 夢の中とはいえハワイにいけるなんて!」
「「「「「「「「ハーワーイ! ハーワーイ! ハーワーイ! ハーワーイ!」」」」」」」」
ウマ娘たちの大合唱が始まる。ハワイ! 南国の楽園といえばやはりハワイなのだ。
『も、目的地は……じ、じご、じ……じごく……じ…………ハワイとなります。当機をご利用ありがとうございます』
「「「「「「「「やったーっ!!!!!!!!!!」」」」」」」」
ポッケ、カフェ、タキオン、そしてその他ウマ娘たちは集団で夢を捻じ曲げ、ハッピーエンドにすることによって『怪異』を陳腐化させてしまったのだ。こういった『怪異』は『不気味』『恐怖』『怪奇性』といったもので『神秘』を保つ。逆にそれがのほほんとしたハッピーエンドな夢ならば誰もそれを不吉だとも怖いとも思わない。力は半減する。『見ると不幸が訪れる飛行機』の夢は『食べ放題の後ハワイに行く夢』に塗り替えられてしまった。
『……サンチアゴ航空513便はハワイに到着いたしました。長時間のフライト、お疲れ様でした』
「よっしゃー!!! まずどこ行く? 海? 海だろ? なあ!」
「カメハメハ大王の像みたいっすね!」
「ウミガメとダイビングとか!」
先を争って、無事着陸した機体から外に駆け出していくポッケ達。
「日差しが強いのは苦手ですけど……夢の中ですし、折角のハワイですからコナ・コーヒーとか飲みたいな……」
「私はどうするかなぁ……まあ夢の中だし、なるようになるだろう」
カフェとタキオンもそれを追って、外に出る……
……………………
…………
……
「ふぁぁ~っ!!! よく寝たっ!!!」
起床すると同時に、伸びをしながら元気よく声を出すポッケ。時間は6時30分。
まだ少し暗いが、午前の授業前に軽く朝のジョギングを開始するにはうってつけの時間だ。
「よっしゃ、身体も調子いいしな! 昨日トレーニングが中途半端になった分とりもどすぞ!」
さっとジャージに着替え、軽く体操をしたポッケはトレセン学園から飛び出していった……当然、もう昨日のような明らかな『害』が起こるようなことはなく。トドメに、ポッケの友人連中が武勇伝として『ポッケさんが幽霊をブッ倒した』とか『食べ放題飛行機でハワイにいくめっちゃ縁起のいい夢』をみた、などと噂を広げたおかげで、やがて『不幸の飛行機』の夢の話はトレセン学園から忘れ去られたのであった。
←To Be Continued?
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#032『越えていけ』
ツインターボは案外、インドア趣味である。ウマ娘である以上、身体を動かす事は好きだし、別に人づきあいが嫌いだというわけでもない。ただ余暇の使い方となると自室にいる間はPCに向かってちびちびと動画コンテンツを作ったり、ゲームをしたりといわゆる『今風』の過ごし方というのだろうか。そういう形をとることが多いのだ。
「あ゛~~~……ちょっと飽きてきたな……」
その日、ツインターボはトレーニングを終えて自室に帰ったのち食事やシャワーなどを終えてから自身が最近はまっているオンラインゲームのいい感じのプレイ場面や笑える場面を切り抜き、継ぎはぎして動画を作っていた。とはいえ、飽き性でコロコロとやりたいことが変わるターボのこと。半分ほど動画作成作業を進めたところで、気力が切れてしまった。
「ハハッ、ターボらしいや! まぁ、根を詰めすぎても良いモンはできねえ。ちょっとばかし一息入れな」
ベッドに寝転がって漫画を読んでいたが、その様子を見て快活に笑いながら一丁、茶でも入れてやるかねえ。といって立ち上がったのは同室のイナリワンである。面倒見のいいイナリはターボからも姉めいて慕われており、他のチーム・カノープスメンバーや終生のライバルであるトウカイテイオーといった特に仲のいいメンツが美浦寮ではなく栗東寮であることから、生活面に関してもかなりフォローしてもらっている。
「は~い……」
ターボはイナリが茶を入れ、下町のおっちゃんから差し入れで貰ったみたらし団子があったかね……と冷蔵庫を探しているのをぼんやりみつつ、手持無沙汰だったのでウマチューブのトップページを開き、面白そうな動画がないかぼんやりと『あなたへのおすすめ』をチェックする。ゴルシちゃんのぱかチューブを皮切りに……DJヘリオスのぱかあげミックス……タイキシャトルのアメリカン日常動画やファインモーションのラーメン系チャンネルなど、人気のあるものがぱっと出てくるがどれもすでにチェック済みだ。何かないものか……
「ん~? 『世界のオカルト事件簿チャンネル』?」
ふと、新着動画のほうにあった一つの動画になんとなく目が行く。これはたしか、そこそこ有名な『超常現象系ウマチューバー』が投稿しているシリーズだったか。聞いたことはあるが、見たことはなかったな……と思ったターボは何の気なしにその動画をクリックした。
「はいよターボ。みたらしはレンジで温めといたからお茶共々、ヤケドに注意しな」
「あっ、イナリありがとう! へへっ、ターボね。最近、和菓子のおいしさに気づいたんだ~。お茶と一緒に食べるとあまみとにがみ? なんかこう、その二つの正反対の感じが癖になるぞ~!」
「へっ、ターボも気づいたか! 和菓子はそれだけで喰うと甘ったるくていけねえが、それは茶と合わせて食べる事を前提にしてるからだからな」
そういいつつ、イナリも何となく椅子を持ってきてターボの隣に座る。イナリは普段、あまり動画サイトなどを見るほうではないのだが、自分の分も茶を淹れたので、ターボと雑談がてらTVをなんとなく見るような感覚だ。そんなこんなで、動画が始まる。最初はお決まりの如く、超常現象系ウマチューバ―とやらの挨拶から始まり、軽いネタもそこそこに本編であろう『オカルト事件』の紹介が始まった。その名の通り、このウマチューバ―は世界中の怪奇現象や未解決事件、オカルト、UMAなどを手広く紹介しているらしい。
「では今回取り上げるのはこちら! 『死に続ける男』と『死神石』の二本でーす! 両方、けっこーマイナーな都市伝説だから知らない人も多いと思うよ」
「おお~なんかそれっぽいな……なんだろう、こういうのってちょっと怖いけど妙なワクワク感もある……」
「ほー、そんなのがあるんだねえ。番町皿屋敷やらは日本橋の演芸場で聞いたことがあるが、こいつはホントに全然聞いたことねえや」
みたらし団子をかじり、熱い茶を啜りながら画面を見つめる二人。まず、解説が始まったのは『死に続ける男』のほうである。画面に、いくつかの写真が表示される。それらはおそらく、監視カメラ映像や街頭ビューなどのものであり、解像度はまちまちではあるが一様に『ピンク色の派手な頭髪をした、大柄な男』が写っているのが分かる。
「これはそれぞれ、2001年のアメリカ、2004年ブラジル、2009年と2011年に中国、2015年にスウェーデン、2018年にトルコ、最新のものは2021年にマレーシアと時代も場所もバラバラにカメラに写り込んでいたものですが……この特徴的なピンクの長髪や奇抜な服装、体格はどう見ても、同一人物ですよね。この人は、世界中を旅行して回っている……というわけではないんです。なぜなら……」
解説とともに、一つの画像がアップで表示され続きと思われる映像が再生される……
「ぎゃっ!?」
「げっ!?」
そのショッキングな映像に、ターボとイナリは思わずびっくりして声を出してしまった。何故なら、明らかに挙動不審……なんらかの物に怯えた様子の男はちょうど通りかかった通行人が連れていた犬に背後から吠え掛かられたことに驚いて……躓き、車道に倒れた。そしてそこに、高速で乗用車が通りがかったのである。さすがに映像はそこでストップしたが、この直後にこのピンク色の髪の男が車に轢かれたことは想像に難くない。そして、車の出していたスピードからして……
「……この男性の名は『ソリッド・ナーゾ』。イタリア人。詳しい経歴はイタリアの当局にもほとんど残っておらず、このナーゾという名前もおそらく偽名。不明な点が多いですが、『ギャング』に関わっていたと言われています。これだけでもまさしくミステリアスなのですが、真にこの男が『奇妙』なのは……世界各地で『死ぬ』ところが目撃されている点です」
2004年のブラジルでは路地裏で刺殺、2009年の中国ではバイク事故、2011年のほうでは落雷が直撃し死亡、スウェーデンでは射殺。トルコでは高層ビルから転落。マレーシアでは倒木の下敷きになったといい、最初のものと同様、『死』の直前でストップされたであろう動画が次々と再生された。また動画こそないが、噂ではなんと、ベーリング海をクジラの生態調査のため潜航していた小型潜水艦の乗員が深海でこの男が息ができずもがいているところを目撃。艦載カメラで撮影までしているらしいとウマチューバ―は語る。
「しかし不思議なことに、どのケースも『死体』が残っていないんです……確実に死亡したであろうに、いつのまにか死体が掻き消えている。当然、事件になったり、各国の病院や警察などに記録も残っていません。いったい、彼は何なのか? もしかすると、次に彼の『死』を目撃するのはあなたかもしれません!」
「う~……な、なんだかえらいのを見てしまった……」
「そうさね……これはあんまりおやつ時に見るもんじゃあなかったな……」
……何だかんだ見てしまったが、少々刺激が強くターボもイナリもちょっとげんなりしてしまった。さらにお茶をずるずると啜るが、みたらしはなんとなく手が出ない……
「では、次は『死神石』の紹介をしましょう。じつはこっちはあんまりネタがないんだよね。ぶっちゃけ、『死に続ける男』がけっこーインパクト強いんでそのおまけかな。ただ、映像はあるし……共通点があるので取り上げてみました」
そう言って映し出されたのは、一抱えほどある大きさのまるっこい『石』であった。どこか、海外の街並みの歩道にでん、と置かれたそれには『凶』という漢字にも似た切れ込みが入っており、現代アート作品かなにかのようにも思える。実際、撮影者もそんな風にでも思っているようで……特に変わった様子などはないように思えたのだが……
「あ、動いた」
と、ずず、と『石』が一人でに動いたのである。動画の撮影者も少し驚いたような声。しかし、動くだけならモーターだとかラジコンだとかあるだろう。これだけなら、現代アートの域を出ない、のではないだろうか? 結局、映像はそのまま何かしらの事件が起こることもなく終了した。
「えーこれについてはですね。動画はこれだけなんですが……この『死神石』もイタリアのネアポリスを中心に、各地で目撃例があります。で……なんでも、これに触ったら『死ぬ』という噂なんですが……2001年にこの『死神石』を持って飛び降り自殺をした女性がいるということは、警察などでもいちおー記録として残ってるみたいですね。ただ、それから半年後に同じくこの石らしきものを持って建物から飛び降りるも、アスファルトではなく車の屋根に落ちたことで偶然『軽傷』で済んでる男性の目撃証言があるんですよね。まったく『死ぬ』のか『死なない』のか……」
例のウマチューバ―も半信半疑という風だ。結局そのまま動画自体も軽い感想を挟んで終了し、これまたお決まりの動画が面白かったら、ウマいね! とチャンネル登録おねがいします。という〆で終わった。
「はふ~……」
「うーん……」
ターボとイナリは、最初の『死に続ける男』でだいぶやられてしまい、なんとも言えない表情でウマチューブを閉じる。結局、みたらし団子には手を付けなかったが、このままだともったいないのでもそもそと口に運ぶと、すっかりぬるくなってしまった残りの茶でそれを流し込んだ。
「寝るかー……」
「おうさ、妙なモン見ちまったが、一晩ぐっすり寝れば休息はバッチリってね」
こうして、二人はその日はそのまま少しだけ早めに、床に就き……すぐに寝息を立て始める……
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #032 『越えていけ』 ◆◆◆
次の日。ターボは早く寝たこともありすっきりと目覚めると動画のことなどもはやすっかり忘れて、午後のトレーニングにもやる気を出した(なお午前の座学では普通に居眠りしたが……)。
「よーし、妥当スピカだーっ! ターボエンジン、全開ーっ!!!」
「うんうん、妥当スピカするぞ~!」
「ターボさん。タンホイザさん。おそらく、というか今更ではありますがニュアンス的に間違いがあるかと。正しくは打倒です」
「ターボ~、やる気出すのはいいけどそれじゃ体力持たないよー……ペース配分ペース配分。あとおマチさんも気合入れすぎると鼻血とか蕁麻疹出すからほどほどに……というか、ニュアンスの違いというのがネイチャさんにはよくワカンナイのですが……」
ターボを先頭に、学園の周囲を流すチーム・カノープスの面々。おマチさんことマチカネタンホイザはむんっ、とターボに続いて気合を入れ、それの微妙なニュアンスをイクノディクタスが訂正して、ナイスネイチャもさらにそれにフォローやら突っ込みを入れた。いつも通りの、たわいないトレーニング風景……
「ハァーッ! ハァーッ! ……『スロー』だが、この『石』は、いったい!? だがッ! 『帝王』はこのディアボロだッ!」
「テイオー!?」
と、ターボの鋭敏なウマ耳に『
「おわああ~!?」
「ターボさん!?」
「あ、ちょっと!? もう~!!!」
ターボは突如、いつものトレーニングコースから外れ、市街地のほうへと駆け出していき……それにつられるように、カノープスメンバーもターボを追う。
「ハァーッ! 一体、『いつまで』逃げれば終わりが来るんだ……これもなんらかの『ヤツ』の能力なのか……!? し、しかし……なぜ急に『予知』し『躱せる』ようになったのだ……今までは我が『キング・クリムゾン』のいかなる能力も全くの無力だったというのにッ……」
そして、行き当たったのは……妙な光景だった。『ピンク色の髪の男』が荒い息をつきながら、丸っこい『石』とにらみ合っているのだ。そしてその石は――まるで意思を持っているかのように動き、時にはラグビーボールか何かのような軌道で跳ねて男にとびかかっているッ! マチタンはあきらかに『普通』ではないそれに少しばかり『恐怖』を感じたし、イクノとネイチャは『なんだかわからないがヤバイ』と戦慄した。しかし――
「ッ……!」
ターボは何を思ったか、いきなり男のほうへと走り出したッ! 何故!? 突然の行動に、カノープスの面々は静止する声すら出せなかった。
「しかし、『回避』できるぞッ! 我が『
『ピンク色の髪の男』――ディアボロは過去に、『パッショーネ』という本拠地イタリア、ひいてはヨーロッパ全体にまで影響力を持つギャングの『ボス』であった。巧妙かつ偏執的なまでに過去を、自分の正体を隠し、裏社会の頂点にたどり着いたディアボロはその実、強力無比な
その能力――『キング・クリムゾン』は……『数十秒程度のごく近い未来を予知し、さらにその中の不都合な部分を任意に消し飛ばす能力』。消し飛ばされた部分は『無かったこと』になり、その中を自由に動けるディアボロ以外の他の生物には認識できず、急に時間が進んだように感じるかそもそも時間が飛んだことに気づきすらしない、という無敵にも等しいものである。
その予知能力――ディアボロが『
「『キング・クリムゾン』! 『
ディアボロは、岩から距離を離しつつ間髪入れず『
「まさかッ! これはッ!? この『石』は貴様のスタンドなのかァーッ……!」
『
「うあああああぁぁぁぁぁーーーーーッ!!!!!!!!」
「うおおおおおあああああ!!?」
まるでターボエンジンをアクセル限界まで踏み込み、空気を極限まで取り込んで燃焼させるがごとき叫び! ディアボロの『
「『おっちゃん』ッ……その『石』に触っちゃあダメだーッ! ターボ詳しいもんッ! ウマチューブで昨日見たッ!!!」
「な、何……だァーッ!!!?」
そのまま、すさまじい勢いで運び出されていくディアボロ。カノープスメンバーは、もはやそれを呆然と見ているしかなかった……。
「ぜはーっ……ぜはーっ……へっへへへ……疲れた……げほっ……いひひひ……」
「……これは……何なのだ……一体……?」
少しだけ離れた公園の芝生の上。胸を大きく上下させながら大の字になり、笑顔を浮かべているターボと、その傍らで座り込み、状況を整理しようとしているディアボロ。とにかく、ディアボロにとってこんなことは何から何まで初めての経験だ。まずは情報がいる。ここはどこで、何が起きたのか。それを聞くにはこの『自分を助けた』少女に話を聞くのが手っ取り早いだろう。
「君……私を助けてくれた……ということは、あの『石』のことを知っているのか? あれはなんだ? スタンドなのか? そもそも、ここは何処で、君は何者なのか……質問を一気に浴びせるようだが、答えてもらうぞ。『次』が……どこから……いつ襲ってくるかわからないからな」
「ん? ん? んー……質問は一つずつにしてほしいな~! 一気にワッと話されてもな~……」
「…………」
上体を起こし、顔を傾けて怪訝な顔をするターボ。それから、一つずつ。ディアボロは辛抱強く質問を行った。
「なるほど。ここは日本のトーキョー……か。で、君の名前は『ツインターボ』……日本人というのは最近じゃあそんな変わった名前を付けるのかね?」
「変わってるのかな~……? まあ、フフフ……ターボは『ウマ娘』だからね! 『ウマ娘』じゃない人とはちょっと名前はたしかに違う……?」
――『ウマ娘』。聞いたことがない存在だ。ディアボロは最初こそ、その明らかに作り物ではない獣の耳と、落ち着きなく揺れる尻尾は『肉体と同化したタイプのスタンド』かとも思った。でなければ、190cm以上ある大の大人の自分を容易く持ち上げ、しばらく走ることができるフィジカルをこんな少女が発揮できるはずはないからだ。が、目の前の少女はスタンドという言葉にもよくわからない、という風な反応を返したし、ブラフを警戒してキング・クリムゾンを発現させ攻撃するそぶりをさせてみたが、本当にスタンドが見えていないし、知ってもいないようだった。
「君はあの『石』のことを知っていたようだが、なぜだ?」
「また質問か~! ターボね、昨日ウマチューブで見たんだ。あの『石』に触ると死ぬって。おっちゃんのことも見た! えーと。なんだっけな……名前は忘れたけど……『死に続けてる人』! びっくりしたな~! ほんとに会うなんてな~!」
そういうと、ターボはスマートフォンを取り出してウマチューブの例の動画を表示した。なるほど。どうやら『TV』のようなものらしい。あれから無数に死に続けていたが、時代は進歩しているようでこんな小さな端末でもTVが見られるのか……とディアボロは少し感心したが、同時に過去を隠し通してきた『自分』がこうも気軽に。こんな少女にまでアクセスできるような場所まで情報が転がっているとは……。
「理屈はわからんが、『死』の繰り返しからは『脱出』した……ならばあとは、再び『絶頂』に上り詰めるのみ……俺には頂点に返り咲ける能力があるッ……あの『新入り』も必ず『始末』するッ……!」
ディアボロは……2001年。ローマ、ティベレ川沿いの広場で護衛チームの新入りであった『ジョルノ・ジョバァーナ』の『ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム』に敗北した。しかし、一命をとりとめ……ローマに張り巡らされた地下道を通り逃げ延びようとした。はずだった。だが、もはや。ディアボロは『真実』に到達することはなくなったのだ。『レクイエム』の能力。それは『真実に決して到達させない』力。たとえ、一瞬早くヤツの脳天をブチ抜くという『真実』が『未来』にあったとしても……能力を食らったディアボロはそこへたどり着くことは『決してない』。
それだけでなく、もう『死』という確定した『真実』にすら到達できなくなったディアボロはそれから無限に『死に続け』た。最初は地下道に住み着いた麻薬中毒者にナイフで刺された。疲労し、ダメージを負ったところの不意を突かれた、最初はそう思った。こんなところで、オレが、と。しかし、『死』が確定しているのに『死』にたどり着けないディアボロは、いつのまにか死体安置所で生きたまま解剖され、どこかの都会で車に轢かれ、次は恐怖とは無縁の牧歌的な大草原ですら――。無敵の『キング・クリムゾン』の能力で時間を消し飛ばし回避することもできない。何故なら、時間を消し飛ばすという『真実』にすら到達できないのだから。
「ねーねー、ところでターボも質問していい? おっちゃんの名前! ターボね! おっちゃんの名前知りたい! いつまでもおっちゃん呼びは失礼だからな~……!」
腕を組み、ふふんと得意げになる少女。しかし情報を聞き出した以上、用はない……少なくとも、自分が『死に続け』から脱出した事をジョルノ・ジョバァーナに悟られてはならない。あの『レクイエム』は危険すぎる。対策を立てるまで、身を隠し力を蓄えねば……そのためにも、自分につながるものは今までと同様、『消し去らねば』ならない。
「…………」
ディアボロは答えず、キング・クリムゾンを発現させターボを始末しようとした。
「でも、よかった。今回は『死ななかった』! ターボが助けたもん。ターボに感謝しろー!」
「…………!」
振りかぶった拳が一瞬、止まった。今まで冷徹に過去を殺してきたはず。だが、できなかった。甘さだとか情にほだされたからではない。何故ならこの少女が『死に続け』からの脱出になんらかの『チャンス』を与えてくれたのではないか? そう思ったからだ。この少女は『
それに目の前の少女は、このディアボロが気分ひとつで人間を容易く殺せる能力を持つことなど知らないし、無数の人間を葬ってきた凶悪なギャングであることも知らないだろう。まったくの善意で、人助けをした……という風だ。なら……利用できる。
「……ク、これも『帝王』への試練……ということか……」
「え? テイオー!? やっぱりおっちゃんもテイオーなの!?」
「……?」
よくわからない空気が流れ……結局その日はそのまま、解散した。それから一週間。ディアボロはひさびさの穏やかな日常を満喫した。幸運だったのは、もし自分が何らかの窮地に陥った時のために作っておいた『隠し口座』のいくつかが手つかずで残っていたこと。ターボの持っていた携帯電話……『スマートフォン』とやらは自身がいた時代より格段に進歩しており、その隠し口座にネットを経由してアクセスできたのも運がよかった。これにより、当座の資金を確保したディアボロは府中駅前のホテルに偽名で部屋を取り、とりあえず『パッショーネ』についての情報を注意深く集める。
……進歩した『インターネット』というものは便利なもので……現『パッショーネ』の大まかな情報は手に入った。現在のボスはあの『ジョルノ・ジョバァーナ』。ディアボロが正体を隠していたという事実を逆手にとって、もともとボスは自分だったがカタギに大きな被害が出る抗争が発生したため、その収拾をつけるために正体を現した、という体で狡猾に後釜に座ったらしい。さらにはギャングにとってはご法度とされていた麻薬ビジネスを一掃。今では『ディアボロ』はその麻薬ビジネスを仕切っていた組織の裏切り者であり既に始末された……ということになっているようだが、向こうもこちらが完全に死んでいる。あるいは『無力化』されたと認識しているのは好都合だ。やつが『古きよき』ギャングを気取っている間に……かならず『弱点』を見つけ、『パッショーネ』をこの手に取り戻す。
そのためには……
――とうおるるるるるるるる、とおるるるるるん! るるん!
ふいに、ディアボロが手に入れた携帯電話が鳴った。その相手は……
「ボス~? ねえ暇? ターボは暇! 暇! 暇! ゲーセン! ターボ、ゲーセン行きたい! 今すぐ集合ね!」
「何? いますぐだと? 待て、ツインターボ。私は――」
――ぶつん。電話がほとんど一方的に切られた。
そのためには。例の少女。ウマ娘のツインターボと言ったか。彼女の秘密を探らなければならない。何故、彼女は自分を『死に続け』から脱出させることができたのか? そもそも、決まったはずの未来……『
「やっほー! ボス!」
「……ゲームセンター……ふむ、ローマにも当然、玩具屋はあったし、ゲームソフトもみたことはあるが……今ではこれほど進化したのか」
ディアボロは、ツインターボには自分のことをボスと呼ばせることにした。ソリッド・ナーゾは既に割れた偽名だし、ディアボロと名乗るわけにもいかない。幸い、ターボは二十年以上断続的に死に続けていたディアボロに同情的であり、あれ以来、なにかと親身になって手助けしてくれている。いわゆる現代の様々な知識にもそこそこ詳しい。そして……なにより『純粋』で『まっすぐ』だ。こういう手合いは騙しやすい。
「ふっふーん、ターボね! ゲーム得意なんだ! まー見ててね! 今のゲームをボスに教えたげるから!」
そうだな~と周囲を見回すターボ。そして、落ち着きなく駆け出すと……選んだのはダンスゲーム……ディアボロにとって初めて見たゲーム機であったが、少し観察するとリズムに合わせて画面に流れてくる矢印に対応するパネルを実際に体を動かして足で踏んでいき、リズムやタイミングがよければ得点が入る……というものだと分かる。
「はい、じゃあさっそく『対戦』だーっ! ボスは2Pね」
「……何だと?」
チャリーンと二人分のクレジットが入れられる。ターボなどはもはや慣れた様子で、曲を選んでいく。これは……
「ボス! なにやってんの~! 曲はじまっちゃうよ~! 早くそっちに立って! ターボと勝負!」
「いや……待て……! しかし……!」
そうこうしているうちに、人気があり、なおかつ大型で目立つ筐体であることもあってギャラリーが集まり始める。これはまずい。こんな場所とはいえ、不用意に人目を集めるのは……絶対に避けなければならない。こうなれば、ただゲームセンターで遊んでいるだけの外国人の男、という体で通すほかあるまい。
「クッ……何か分からんが……!」
「よーし! ミュージックスタートだーっ!」
こうして、ディアボロは『彩ファンタジア』、『ぴょいっと♪はれるや!』そして『うまぴょい伝説』の3曲を衆目環視の中、踊ることとなった。最初こそ不慣れでミスが多かったディアボロだったが、鍛えこまれた190cm越えの肉体は、スタンドを抜きにしても運動能力には自信がある。『ぴょいっと♪はれるや!』の中盤あたりから調子を上げはじめ、『うまぴょい伝説』は初見ながら目を見張るようなステップも見られた。
「……やったーっ! ボスに勝ったーっ!!! 今からボスはターボを師匠って呼ぶことをゆるーす!」
「ハァーッ……ハァーッ……クソ、この俺が……!」
ツインターボ、55万点。ディアボロ22万点。ディアボロは敗北してしまった。が、当然ながらウマ娘であるターボと人間であるディアボロの間には隔絶したフィジカルの違いがあり、むしろ、不慣れな中で大健闘したともいえる。そして、最初は無邪気に喜んでいたツインターボだったが。ネームエントリー画面になると神妙な顔をして。
「ぬうーっ、ワガハイちゃん99万9999点……さすが我が終生のライバル、トウカイテイオー……!」
「
ふと、ターボが見つめるゲーム画面にディアボロも目をやる。するとそこには、高得点獲得者のランキングが表示されており。一位は『ワガハイちゃん:99万9999点』。ターボの叩きだした得点も高いほうなのだが、それをもってして圧倒的な差があるという点数。
「……いつかは絶対にターボがこれを越えてみせるんだーっ。なんてったってさ、テイオーはあきらめないんだ。だから、ターボも諦めない! でも今は別のゲームしたい! そだなー。何がいいかな~」
と、ふらふらと落ち着きなく別の場所へと移動するターボ。結局ディアボロはその後、クレープを奢らされたり、クレーンゲームでぱかぷちを獲ろうとしてついターボと共に熱くなり、思った以上に小銭を浪費したりした。そしてゲームセンターを一周し、もう帰ろうかという時間になった頃……ターボは最後にテイオーともう一勝負!といって、例のダンスゲームに突撃していった。さすがにディアボロは疲れたので、後ろで休んでいたのだが……待ち時間に手持無沙汰になったので、おもむろにスマートフォンを取り出し、検索する。
……正直『ウマ娘』という種族はディアボロの居た時代には……少なくともヨーロッパには居なかった。が、wikiなどで歴史を調べるに古代エジプトの壁画だとかにも『ウマ娘』が描かれているだとかがいくらでも見つかった。これは一体? 死に続けているうちに世界に何があったのか……少なくとも、ディアボロは若いころにエジプトで発掘作業に従事した経験があり、考古学にウマ娘などという物が存在しないのは当然、知っている。そもそもウマ娘というのは、なるほど『馬』のようにレースをするらしい。むしろこの世界では『ウマ娘』が『馬』の代わりに存在しているようだ……なにかしらのスタンドの仕業なのか? が、今はそんなことはどうでもいい……検索するのは『ツインターボ』そして、『トウカイテイオー』。
「…………ふむ」
レース映像を見つける。ツインターボ。チーム・カノープス所属のウマ娘。主な勝ち鞍は七夕賞、オールカマー。ある種破滅的なまでの『大逃げ』を常に敢行し、番狂わせを見せるか、終盤に失速してバ群に沈んでいく極端なレースは多くのファンに愛される……そして、トウカイテイオー。名誉あるレースであるらしい皐月賞、日本ダービー、そして有マ記念を制した『天才』あるいは……。
「………………」
そのあと、すっかり遊び疲れたターボをトレセン学園の近くの公園まで送る。とはいえ、ターボは本当に疲れていたのかベンチに座りぐずっていたので、ディアボロは内心舌打ちをしながら、スポーツドリンクを奢ってやった。
「ぜはー……疲れた……遊びすぎた……」
この少女は……なんにでも全力だ。遊びも、レースも。あの『大逃げ』は……素人目で見ても『全身全霊』と言っていい。アスリートとして、レースには自分自身の人生が懸かっているのだ。必死にもなるのはわかる。が、それを抜きにしても一戦一戦、まるで命を燃やすかのように走り、レース後には倒れ込んでしまうほど疲労している……
「……トウカイテイオーとやらに、勝てると思っているのか?」
「んお?」
ふと、ディアボロは気になったことがあった。ターボは事あるごとにテイオーという単語に反応し、終生のライバルとして『トウカイテイオー』の名をあげる。が……あのウマ娘は……少し調べるだけで分かった。『帝王』だ。まさしく。このツインターボという少女とは『モノ』が違う。これまた、素人目に見ても……実力が違いすぎる。全力で勝負して、そのうえで言い切れる。勝てない。
「ターボが勝つ!」
ツインターボは無邪気に答える……が。
「はっきり言わせてもらうが……ツインターボ。君はトウカイテイオーに『勝てない』。実力が違う。これは、少々助けてもらったからこその第三者目線からの『忠告』だ。誰が言った言葉だったか……『我々は皆運命に選ばれた兵士』……だが大半は、『ただの兵士』として死んでいく……無為にな……そして『運命』から『贈り物』を受け取った幸運な者だけが……『帝王』として、すべてを支配するのだ……君には残念ながら『帝王』の資格は……」
「なんで? やってみないとわからないじゃん。運命がどうとかよくわかんないけど、ターボはかーつ!」
言葉を遮り、再び、無邪気な笑みを浮かべながら言い放つターボ。ディアボロはその何も考えていなさそうな受け答えに、イラつき声を荒げた。
「聞け! 例えば、『下っ端のカス能力』がどうあっても我が『キング・クリムゾン』に勝つことがないように! 運命は選ばれし者だけを『絶頂』に引き上げる……だが、そうだな、ツインターボ……君には言ってもわかるまい。疲れているところ悪いが、一つ『ゲーム』をしよう。『鬼ごっこ』だ。君は『ウマ娘』……身体能力は人間とは比較にならないと聞いている。少々疲れていたところで、本来は勝負にならない」
「『ゲーム』!? いいよ! ふっふーん、どれだけ疲れててもターボが勝つもんね!」
……ウマ娘は高い闘争心を持ち、レース以外にも勝負事に熱くなりやすいと調べは既についている。ディアボロは……そこを刺激して、ターボをうまく乗せたのだ。30分後。
「ぜはーっ……げほっ、なん……で? げほっ、げほっ……ハァーッ……ハァーッ……!」
「これが『運命』に選ばれた『帝王』と『兵士』の差だ……しつこいが、もう一度言おう。君は『勝てない』。潔く、身の程をわきまえたほうがいい……」
ディアボロは……ターボを容赦なく、キングクリムゾンの能力を使って躱し続けた。見えている落とし穴をただ、粛々と回避し続けるだけの『作業』だった。ターボは、全力でディアボロに向かっていったが、既に地面に両手両ひざをつき、せき込むほど疲労していた。
「そのほうがよっぽど『幸せ』だ。『運命の奴隷』だということにも気づかず眠っていたほうがな……」
正直言って……ディアボロは、あの『
「これが『結果』だ。君は私を捕まえるという『真実』に到達できない」
「……『諦めない』。けひっ……げほ……えへへ……」
だが、膝が笑うほど疲れているというのに、ターボは立ち上がる。薄ら笑いすら浮かべて。ディアボロは……
「何故『諦めん』のだ!? 俺のような『帝王』ですら――!」
「――ターボは『諦めない』ッ!」
ディアボロが発してしまいそうになった言葉を力強く、ターボが遮った。
「……ターボね、ボスが『絶望』を感じてるのは……足を止めかけているのは……なんとなくだけど、わかるもん。だってあの時の『テイオー』と同じような顔してる。なんでかまでは、わかんないけど……」
……ディアボロは……内心ジョルノ・ジョバァーナに対して……勝てるとは思っていなかった。たしかに、ターボが見せた『あの現象』はなんらかの対抗策になる、かもしれない。が……それを加味しても。未来を見通す能力を持つ自分が、皮肉なことに勝てるヴィジョンが見えない。矢のパワーの先である『レクイエム』を手に入れ、パッショーネをも手中に収めたヤツは圧倒的すぎる……『現象』についても、能力を食らってそのうえで『ターボに協力してもらえば脱出できるかもしれない』程度の受け身のモノだ。結局のところ、ディアボロは『対抗策はある』『自分はいつかジョルノを倒し返り咲ける』という都合のいい、そして到達しない『真実』を見ていただけで……
「ボスは……『結果』だけを話すけどさ。『勝てない』『できない』って。でも『もう無理』とか……『諦める』っていうのは『
ターボは、ゆっくりと。言葉を選ぶというよりは適切な言葉をなかなか探せないという風に、唸りながらも諦めずに言葉を紡いでいく。
「あのね。『ウマ娘』って、たしか……『異世界の偉大な名前と魂を引き継いで走る』んだって。だから、ターボもきっと、そうなんだな。それは大切な物。とっても。とってもね。だけど、同じくらい大切なのは……『真実に向かおうとする意志』なんだッ……!」
ターボは、その言葉と同時に、弾かれた様に走り出した。ディアボロは……無駄なあがきだと。半ば怒りを感じながら『
「……なん、だってェーーーーッ……!!?」
――ガゴ……ゴロ……ゴロ……ズッ……
あの『石』だ。いつの間にか……近くに来ている。いや、さっきまでそんな気配はなかった。いつのまにか現れた『死』……! だが、ディアボロの見た未来は……『ツインターボ』がその石――『彼女の顔』が刻まれたそれに触れ、そして……
「………………」
ディアボロは、敢えて能力を発動させなかった。時を『消し飛ばせ』ば……ターボは助かるかもしれない。が、この前は自分が狙われたのだ。触れば『死ぬ』かもしれない。せっかく『死』からの繰り返しを脱したというのに……むしろ脱したからこそ、もう『次』はないかもしれない。ディアボロは……無情にも自分だけ石を避ける様に距離を取る。
「この世界に『生きる』ウマ娘の『未来』は、まだ誰にも『わからないんだ』ッ!!!」
ツインターボが、ぐんぐん伸びる……そして、最初のあの時のように! 飛び掛かる『石』を紙一重で潜り抜け、ディアボロをタックルしながら抱え上げたッ!
「!?」
また、あの『現象』だッ! これは、いったい!? しかし、今回は『石』は……ゴロゴロと音を立てながら、追ってくるッ!
「ボスッ! 絶対に『逃げ切る』からねッ! ターボ、『逃げる』の得意なんだッ!!!」
そういいながら、ツインターボは追いすがってくる『石』からひたすらに逃げる。100m。200m。300m。190cm以上ある大柄なディアボロをファイアーマンズキャリーめいて肩に担いだまま……レース用でもない、普通の靴、普通の服で、障害物や曲がり角だらけの街を、逃げ回る。
「ハァッ! ぜはぁっ! はぁっ!」
600m。もう、ターボの息が上がり始めているッ!
「ツインターボッ! 俺を捨てろッ、『俺』は『キング・クリムゾン』でなんとかなるッ! それに、今ッ! 狙われているのは明らかに『おまえ』なんだぞーッ!!!」
「いやだーっ!!!! あっははははは!!!!!!」
ツインターボは……獰猛に、そして楽し気に笑いながら走るッ! 坂を勢い任せに駆け上がり、放置自転車を飛び越え、藪を強引に突っ切り……!
1000m! 1200m! 1400m!
「げほッ……げほッ……! ぜひゅっ……ひゅーっ……!!!」
ディアボロは……この娘を侮っていたと、改めて思った。ターボの肺は既に限界だ。呼吸というよりは、ひゅうひゅうと気道という『穴』に風が通るような音を発しながら。口の端から涎を垂らして。不格好に髪を乱れさせて、汗まみれで……なお、笑う。石は未だしつこく追いすがってくる。だが……差が、縮まっていない。ディアボロは……『
「どうして……なのだ……なぜ『諦め』――」
「あき……がぼっ、『あきら……め……ない』ッ……!」
呆然とつぶやくディアボロに、苦しみ、もはやしゃべることすらしたくないだろうに、どうだとばかりにターボが言うのだ。
1600m……! 1800m……! 2000m……!
もはやターボの眼はうつろだ。本来ウマ娘の全力疾走に耐えるモノではない靴は、ボロボロになっている。さすがのターボももう……
「たー……ボ……ターボ、はね……がふっ、ひゅっ……ひゅーっ……ターボはッ……『運命の奴隷』じゃないッ……『運命が立ちふさがるなら』……」
精神は肉体を凌駕する。古臭い精神論。笑わばバカと笑え。だがッ!
「『限界』なんて……『ない』……『運命』にだって『喧嘩』を……」
2200m……ターボは、力尽きた。無情にも、後ろから『石』が迫ってくる。
「『キング・クリムゾン』」
――バグオッ!!!!!
破砕音がした。『石』は……まるで横合いから殴りつけられたかのように、砕けながら吹き飛んだ。……が砕けた『衛星』が自分の重力で引き合うように。まるでターボに向けて『引力』でひきつけられるように。破片を一体化させ不格好に再生しながら、ターボへと飛んでくる。
「なるほど。その『石』の表面に顔が刻まれた人物以外は……触っても『死なない』というわけか。生き残るのはこの世の『真実』だけだというなら……そうだな、試してみよう……」
――メキャアッ!!!!!!
再び。アスファルトに叩きつけられ……地面をえぐりながら破砕した『石』は、なおゆっくりと形を変える。
「そう、小娘に教えられるまでもなくッ! 『帝王』はこの『ディアボロ』だッ! 依然変わりなくッ!」
――ドゴ!グシャ!ドゴ!ドゴ!バギッ!ガオッ!ドグシャァッ!!!
一撃だけで『致命打』となり得る『キング・クリムゾン』の『
「『運命』に『喧嘩』を売り……時に『結果』すら『変えてしまうパワー』があるのであれば……俺はそれを『見てみたい』ッ! 『邪魔』をするんじゃあないぞッ! 『石ころ』如きがァーッ!!!」
――ガゴッ……
『石』が……動いた。もはや、何度も破砕し、再生を繰り返し、『帝王』の力で削られていった『石』は……ツインターボの顔面を形どっていなかった。
「『これ』でいいんだ……『これ』でな……俺は……『帝王』は『運命』を超越した。『自分』で『選んだ』のだ。この『ディアボロ』が……」
ディアボロは……『石』を拳で削ることで『自分の顔』を彫ったのだ。キング・クリムゾンの拳は……その最後の一撃で、当然『石』に触れている。
………………
…………
……
…
「ネイチャ~……」
「あ~もう、動くな動くな! まったく、蹄鉄もつけてない通常のシューズで町中走り回ったって? ほんと、大事にならずによかったよ~もう」
それからほんの少し。町の一角で倒れていたターボは、通りがかった人によって病院に運ばれ精密検査を受けたが、結果は、脚やひざといった関節には異常はなく、極度疲労のため数日トレーニングを休むように、というものだった。まったく、いったいどういうことなのか? ネイチャをはじめとしたカノープスメンバーは、ターボの奇行に呆れつつも胸をなでおろす。
「ターボね。ボスと一緒に逃げ切ったんだよ。『運命』から……! 次は『テイオー』にも勝てるはず!」
「お、おう……」
ネイチャはまーた訳の分からんことを……と思いつつも、その身にみなぎる『覚悟』のようなものを感じる。本当にいったい、何をやったのやら。だが、それが微笑ましかったし、こりゃ次はいよいよテイオーとG1の舞台で激突か~? などとおどけ半分、だが……もう半分は本気で問いかけた。それを聞いたツインターボは早く対決したい! と言って何度も頷く。そして。こうつぶやくのだ。
「ターボは……『ウマ娘』だから……『運命』を『継いで』、『越えていく』んだ……!」
かつて『令和のツインターボ』と呼ばれた者が、人々の夢を。想いを『継いで』――そして『世界から追われる逃亡者』となり、『越えていった』ように……この世界に生きている『ウマ娘』の未来は誰にもわからない。運命を越えていけ。限界なんて、ない。
【スタンド名】キング・クリムゾン
【本体名】ディアボロ
破壊力:A スピード:A 射程距離:E
持続力:E 精密動作性:? 成長性:?
ごく近い未来を予知し、その未来のうち、任意の時間を消し飛ばし飛び越えさせる能力。
【スタンド名】ローリング・ストーンズ
【本体名】スコリッピ
破壊力:無し スピード:B 射程距離:A
持続力:A 精密動作性:E 成長性:無し
一般人にも見える特殊なスタンド。近い将来、死亡する運命の人間のもとに現れ、その人物の死相を浮き上がらせて追跡する。対象の人物が触れた場合、その人物を安楽死させる。本体のスコリッピにもまったく制御ができない。
ジョジョの世界では『運命』は決まっているものとされているが、ウマ娘の世界ではむしろ『運命』を覆す事例がいくつかあり、能力がやや不安定になっている。
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#033『仮説N』
まだ6月だというのに、既にジリジリと暑い夏の日だった。トレセン学園の教室にはクーラーだってついているのに、アスファルトを溶かしてしまいそうな真夏の日差しはその冷気すらゆっくりと侵食して、外の陽気を無遠慮に持ち込もうとするさまは『北風と太陽』のそれとは真逆のようにも思えて、窓やカーテンを容易に突き破る早生まれのアブラゼミの声と相まって『私たち』……マンハッタンカフェ、アグネスタキオン、ジャングルポケット、エアシャカールらをうんざりさせていた。
……そしてその6月も終盤に入り、各々の夏合宿が近づく中。
「『ハートル・ホーキングの境界線』に"G"があった……この『ブルーマーブル』も"G"から始まり……"スフィーラ"の周りに"シンチレーション"が発生するのは”INTI"だからだね。『私』は……"CETI"は――。せめて、『扉』の先に『夏』が待っていますように」
「んあ? えーと、どーいうこった? ユニヴァースよォ~~~ッ? んなことよりさっきの授業のノート見せてくんねえ? いや、俺だって真面目にジュギョー受けなきゃなあ~とは思うんだけどさ。つい眠気が……へへ……」
「……ノートを見せてもらうのはいいがね。今日はテメーの狙ってた『パフェ風生クリームサンドコッペパン』の発売日だろ。チンタラしてると無くなっちまうぜ? あンだけ朝からランチが楽しみだの昼休みのベルと同時にダッシュだのなンだの騒いでたろーが」
「あ゛ッ!!! そうだった!!! タキオンは……あ~~~~! あいつ俺を置いてカフェテリアに先いきやがった!!! カフェもいねえし!!! すまねえユニヴァース! ノートはまた放課後でいいや!!!」
午前中の授業が終わり、クラスメイトのポッケにノートを見せてくれと頼みこまれていたネオユニヴァースは、シャカールに言われ疾風のように去っていく彼女を見ながらぐう、と鳴る自らのお腹をさすりつぶやくのだ。
「”エントロピー"……そして"ネゲントロピー"。ネオユニヴァースは"保持"のために"GOAL"を『カフェテリア』に設定するよ」
そう言って、彼女は席を立つ。『いつもの』なんの変哲もない、日常の風景。クーラーの風で揺れるカーテンが夏の光と影を踊らせる。本当に嫌になるほど、暑い夏だ。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #033 『仮説N』 ◆◆◆
カフェはその日、運よくカフェテリアのテーブル席を確保していた。超巨大マンモス校かつ、食欲のすさまじいウマ娘が生徒として通うトレセン学園の昼休みはまさに戦場である。売店の弁当や総菜パン類はそれなりの量が用意されているのだが、人気のものを買おうとすると運が絡むほどだし、カフェテリアも広いにもかかわらずお昼時は混雑する。カフェはバゲットとサラダ、ソーセージ盛り合わせと目玉焼きというメニューを選んで、浅煎りのすっきりとしたアメリカン・コーヒーもインスタントではあるが用意した。午後からはトレーニングなので時間をかけてじっくりとコーヒーを味わえないのは少し残念だが、コーヒーをごくごく飲むのも昔のアメリカの映画俳優がやっていたように思えて、それはそれでいいのだろうか……などとぼんやりと考えつつ、手を合わせた時。
――がちゃあ
「ったく、いつもカフェテリアは混んでるな……たまに利用するとこれだよ」
タキオンが無遠慮に隣に座る。小さなスパニッシュオムレツが添えられたミートソーススパゲティが載ったトレーがどんと卓の一角を占領した。
「しゃーねーだろ。例えば事前予約システムなンかを組んだところで、生徒の数が減るわけでもねえしな……工数のワリに合わねえ。それよか、例のデータをちゃんとよこせよな……」
どうやらタキオンに用があるのか、シャカールも対面に座った。彼女のトレーには大豆ミートのハンバーガーとミネラルウォーター、ミニサラダ。
「あ゛~クソ……俺の手前で売り切れちまったよ~……楽しみにしてたのに……『パフェ風生クリームサンドコッペパン』……」
そして落胆した様子のポッケ。当然の如く卓に置かれたのはカフェテリアのものではなく売店のコロッケパンとフルーツ牛乳。
「『納豆』はネオユニヴァースの"SSME"を動かすのに『不可欠』だよ。もたらされる"NORD"は『ニューロン』を活性化させる」
さらにはネオユニヴァースが納豆定食を置いたので、カフェのバゲットたちはあれよあれよと隅に追いやられてしまった。
「……狭いです。何故、皆さんここに……」
「何時もながらつれないねえ。同じクラスのよしみじゃあないか? これだけ人がごった返してるんだから、相席するのが効率的だろ~?」
そもそもカフェと私の仲じゃあないか? と笑みを浮かべながらタキオンはスパゲッティをくるくるフォークで巻いていく。たしかに、カフェも別に無下に断るとかではないし、別にいいと言えばいいのだが。親しき仲にも礼儀ありというやつで挨拶ぐらいは欲しい……とは思うも、そういうところも込みでタキオンは来ているのだろうな、とも思い。少し横にずれてタキオンらが座るスペースを空けた。既にシャカールなどはサラダにもくもくと口をつけている。
「それにま、『いつもの5人』ってことで。うい、ユニヴァース。醤油」
「ネオユニヴァースはジャングルポケットに"THNK"を言うよ」
ネオユニヴァースは納豆や豆腐と言った大豆製品が好きでよく食べる。ポッケは気を利かせて卓上備え付けの醤油をネオユニヴァースに渡すと彼女も穏やかな笑みを浮かべて、礼を言った。その時だった。
「全く困ったな……」
聞き覚えのある声をウマ耳が拾う。そちらにカフェが目をやれば、近くでトレーを手に呆然としているのは岸辺露伴だ。
「あ、露伴先生……」
露伴もカフェテリアで食事をとろうとしたのだろうが、席にありつけなかったのだろう。トレーの上でむなしく湯気を立てるにんじんハンバーグ定食。とっさにカフェはさらに詰めようとしたが……さすがにもう、これ以上スペースを空けられそうにない。
「おや、カフェさんか……」
(それに小うるさいタキオンに、ロジック至上主義のシャカール君、声が無駄にデカいポッケ君もいるな……カフェさん以外はあまり波長が合わない連中だ。『いつもの』――ん?)
露伴もカフェの声に気づいたが、ふと『見慣れないウマ娘』が『いつもの4人』と卓を共にしているのに気づく。パステルカラーの金髪に水色のインナーカラーが入ったとても目立つウマ娘。どこかぼんやりとした様子で、納豆を混ぜている。
「……クラスメイトかね? それとも『後輩』か? 初めて見る生徒だが……」
「……?」
カフェは露伴の問いに疑問符を浮かべるように、首を傾げた。
「漫画家先生よォ、質問を質問で返すようだが……誰の事を言ってンだ???」
シャカールも、露伴に対して逆に問う。なにか『噛み合わない』。
「……誰って、彼女の事だ。別段、君らの交友関係は好きにすればいいと思うんだが、繰り返すように初めて見る生徒なものでね。少し気になっただけさ」
そう言って露伴は、ネオユニヴァースを指さした。すると一同が、揃いもそろって何を言っているんだ? という表情を浮かべ、露伴を見る。
「ぇあ? 露伴センセ、何の冗談だよ。ユニヴァースは俺らのダチだぜ。知ってるだろ?」
「ははーん、さては何か企んでいるな露伴君。もしや今度はユニヴァース君を『本』にして読むつもりかね? 彼女は研究に協力的な私のモルモッ……ごほん、友人だからね。ちょっかいを出すつもりなら即刻、学園側に報告するからな……」
「……???」
ポッケとタキオンの言に、今度は露伴の側が疑問符を浮かべざるを得なかった。ユニヴァース、という名前のウマ娘らしいが彼女らと親しいらしい。別にタキオンらの交友関係をすべて把握しているわけではないが、こんなウマ娘はいただろうか……?
「……あなたもネオユニヴァースを『観測』している? ううん、違う。あなたは――"E.B.E"? いや、『奇妙』といえばいいのかな? それに、そもそもこの『世界』自体が"Unus"……『事象の地平面』の外なんだ。ネオユニヴァースは『理解』をしたよ」
「……君は何を言っているんだ?」
ネオユニヴァース……彼女が露伴をじっと見つめ、言葉を発する。さすがの露伴も彼女が何を言っているかとっさに理解ができなかった。
「今更なことを言うねえ。露伴君どうした。なんか様子がおかしいぞ……まさか何かしらの『怪異』にでも取りつかれたのか?」
「……不思議な事はこの世界にたくさんありますものね。影の中に。夢の中に。でも、露伴先生からはそう言ったものは感じませんが……」
冗談めかしてタキオンがいい、珍しくカフェもそれに同調する。怪異なんざロジカルじゃねえだろ、と既に食事を終えたシャカールがスマホをいじりながらぼやくと、怪異っておばけか!?とポッケが涙目になる。そう、『いつもの』光景なのだ。『いつもの』……
……その昼は、結局そのままカフェたちと別れ、露伴はなんとか空いた席に滑り込んで食事をとったのだが。
「……ふーむ」
午後の理科室。今日はカフェもタキオンもトレーニングのため不在であり露伴一人である。今週分の原稿は既に終わっており、書き溜めなどは編集部にナメられるためしない主義の露伴はヒマを持て余し、ネタ集めも兼ねて何とはなしにスマホでネットサーフィンを行っていたのだが。その時、やはりふと思い出す。ネオユニヴァース。カフェさんやタキオン君とはそれなりの付き合いになったし、両者を『本』にして読んだこともあるが。別段彼女らの秘密を隅から隅まで知っているわけではない。最近親密になったのなら、自分が知らない交友関係もあるだろう。しかし……妙にあの金髪のウマ娘のことがひっかかるのだ。露伴は、何とはなしに検索エンジンに彼女の名前を入れてみる。すると。
「……妙だな……これは……」
何だかんだ取材を通してウマ娘に関わるようになり、多少は界隈の知識だって増えたと自負している。カフェとタキオン――ひいてはウマ娘というものを描くにあたって、例えばシンボリルドルフやマルゼンスキー、ミスターシービーと言った既に実績を残している有名ウマ娘のことは徹底的にリサーチしたし、専門用語だとかファンの間のスラングなども学んだ。当然、どの重賞をどのウマ娘が勝っただとか……そういうものは意識せずとも自然に入ってくる程度にアンテナも広がったはずなのだが。
「ネオユニヴァース。ウマ娘の本格化の関係上、レース年代的にはカフェさんたちの後輩にあたる……が、『皐月賞』、『日本ダービー』を制し『菊花賞』を惜しくも3着で逃したクラシック二冠バ。その後も『ジャパンカップ』、『大阪杯』などで好走。『天皇賞(春)』では10着に沈むが、秋の古バ路線ではゼンノロブロイ君らと名勝負を繰り広げた優駿……」
クラシック二冠。それだけでも立派な成績だし、以降も天皇賞での敗戦以外は戦績も安定して掲示板を外していない。立派なスターウマ娘。なのだが……おかしいのは、これほどの成績を出した彼女の話を、今までまったく露伴が『知らなかった』点だ。たとえメインで取材しているのがカフェとタキオンであったとしても。ある意味ではその年の顔とも言えるクラシック戦線の勝者を知らない、などということはさすがにトレセン学園内に居たなら『あり得ない』。しかも、彼女のファンサイトなどの情報からするに……どうやらカフェ、タキオン、シャカール、ポッケと『同じクラス』に所属しているという。ならばなおさら、彼女のことを今まで知らなかったのはおかしいのだ。
「……どういうことだ? 僕は『彼女』の事を全く知らない。が、周囲の反応からするに彼女は十分な知名度を得ていて、カフェさんたちも彼女とはそれなりに親しそうに見える……何故なんだ? 僕には『ネオユニヴァース』というウマ娘が『突然現れた』ようにしか思えない……なんだ? この『認知の歪み』はッ……!」
若干のうすら寒さ……そして。
「……『面白い』ぞッ……格好の『ネタ』の気配がするッ……『ネオユニヴァース』……彼女の『秘密』を解き明かさなくてはッ!」
『未知』の物への好奇心が、露伴の創作意欲を掻き立てた。
「……ネオユニヴァースは"Sign"を受信したよ。岸辺露伴は"コネクト"……ネオユニヴァースと『対話』を"求める"をする?」
次の日。露伴はさっそく、ネオユニヴァースへのインタビューを開始した。本音を言えば『ヘブンズドアー』をさっさと食らわせて記憶を読んでしまいたいところではあるが。昨日の会話からか、タキオンがあからさまにそれを警戒しており、『おまえを見張っている』とばかりにネオユニヴァースの周囲に居たり、あるいは姿をちらりと見せてきたので露伴は逆に最もスタンダードに……ネオユニヴァースに対して、取材を申し込んだのだ。
場所はいつもの理科室……タキオンも時折露伴とネオユニヴァースのほうをチラ見しながらも、カタカタとノートPCのキーを叩いて論文の作成をしているし、カフェも今日はトレーニングが休みなのでちびちびとコーヒーを飲みながらソファでカタログを捲りながら、次に取り寄せるコーヒー豆を選んでいる。
「では、質問だが……君は皐月賞と日本ダービーを獲った時の感情を覚えているかな? 詳しく教えてほしい。それと、こういうのはちょっと意地悪かもしれないが……菊花賞での3着。いわゆる三冠バを逃した時と言うのはどう思った? 当然、これについては答えたくないなら答えなくてもいい」
露伴はまず、当たり障りのない質問……いかにも取材という風に、ウマ娘とは切り離せない競争成績の話から入った。
「……アファーマティブ。その時点での"CETI"については……『及第点』。あるいは、『既定路線』。"ゆらぎ"は『観測』できていない。『安定』している。『ネオユニヴァース』は時折"ゆらぐ"をするから」
「ふむ……」
(……この言葉遣い、『CETI』ってのは宇宙探査用語の『CETI』か? 観測、ゆらぎ……特徴的な言葉を選ぶが、これはなんらかの意図を感じるな)
露伴はネオユニヴァースの難解な言葉遣いを前に、いつも以上に考察の時間を取りながらゆっくりとインタビューを進めていく。
「……では、そうだね。学生生活について教えてほしいんだが。カフェさんやタキオン君と君は仲がよさそうに見えるね。他にもシャカール君やポッケ君だとか。それは、『いつ頃』からそうなんだい?」
前振りとして、ある程度レースについて聞いたところで私生活の話に持っていく。別段、彼女のプライベートなどはどうでもいいが、問題は彼女がいつから『居た』のかだ。この違和感は露伴だけのものなのか? それとも、ネオユニヴァース自身も何かしら知覚しているのか。それとなく踏み込んでいく。もしここで何かしら動揺したなら、彼女は絶対に『秘密』を抱えているはずだ。
「マンハッタンカフェ、アグネスタキオン、エアシャカール、ジャングルポケット、ファインモーション、そしてゼンノロブロイ。すべて、ネオユニヴァースと"INTI"。それぞれが、ネオユニヴァースの『心』を明るく照らしてくれる"アルファ星"なんだ。でも――岸辺露伴の"ANOI"はどこに? その"REQU"に対しては――場合によっては"Ping"できない。『検閲』されてしまうから」
露伴はネオユニヴァースのどこか濁したようなニュアンスの返事に、内心『確信』した。この娘はやはり、何かしらの手段を用いてウマ娘たちの認知をゆがめ、日常に『入り込んだ』のだ。小うるさいが聡明なタキオンやシャカール、霊的な才能を持つカフェまでをも欺くとは……
「……だけど、そうだね。岸辺露伴には『観測』できない前提で、『対話』するなら。2023年2月22日に、『ネオユニヴァース』は『あなたたち』から『観測』できるようになったよ。"ローンチ"は2023年4月19日だね。どちらを"ファーストコンタクト"とするかは『あなた』次第かな。だから、岸辺露伴がネオユニヴァースを『奇妙』だと思うのは『必然性』があるよ。ネオユニヴァースは"スフィーラ"から"00"、そして"000"を経て『漂着』したから」
「君の言っている意味はさっぱり分からないが……なるほどね」
露伴は、そういうとGペンを置いて取材用のメモ帳を閉じ。息を吐いて頭を大げさにぼりぼりと掻いた。絶対に『目的』をはっきりさせなければならない。カフェもタキオンも気づいていないのなら、彼女たちの安全のためにもここは泥をかぶってでも自分が。『スタンド』を発現させる。いつでも、彼女に『ヘブンズドアー』の能力を叩き込める状態。
「……ネオユニヴァースは『警告』をするよ。岸辺露伴がこれからやろうとする事は重大な『インシデント』を齎す。"WORR"。それは岸辺露伴のためにならない」
――瞬間、剣呑な雰囲気が理科室に満ちた。気づいているのか? 露伴のスタンド攻撃の予兆に。
カフェも、タキオンも。その重苦しい空気感に気づき、タキオンなどは露伴君そこまでだ……といって二人を止めようと近づいてくる。……だが、この段に至ってなお、露伴はネオユニヴァースから敵意だとか悪意を感じ取れなかった。絶対にこの目の前のウマ娘はなにかしらの目的をもって、この学園に紛れ込んでいる。放っておけば、これまで経験したさまざまな『怪異』と同様、いきなり牙をむいてくる可能性がある……が、その鉄面皮めいた無表情からはむしろ、やめたほうがいいという『威圧感』の中に『親切心』や『哀れみ』のようなものを感じ取れる。本当に、露伴のことを心配しているような――それが異常に、露伴には不気味に思えた。真意が見えない。『理解らない』。
「岸辺露伴には、こういえば『理解』できるかな。『すべてが0になる』。『警告』、『Warning』、『avvertimento』、『Warnung』、『alerto』、『averti』――」
「……!」
ネオユニヴァースは攻撃を戸惑った岸辺露伴に対して、さまざまな言語で『警告』を行った。日本語、英語、イタリア語、ドイツ語、タガログ語、エスペラント語。エトセトラ。エトセトラ。その光景は岸辺露伴にとって、ある一つの事件を想起させる。
「『検閲方程式』……」
「"
露伴はまいったな、という風にスタンドを引っ込めた。瞬間、ネオユニヴァースも警戒を緩めたようで、重苦しい雰囲気は消え去りタキオンも何だったんだ? という風に歩を止めた。
「……『ネオユニヴァース』は『街を盗む』をしない。岸辺露伴は『引力』を『信じる』? 『ネオユニヴァース』は。ただ、『愛』のために来たんだ。あなたたち風にいえば、『重力の愛情』と言えばいいのかな。わからない。『ネオユニヴァース』は『奇妙な冒険』とは縁がなかったから」
「つまり、『信じろ』……というのかい?」
「……まだ『対話』が足りないから『世界5分前仮説』のように『懐疑』するのはわかるけれど、でも。『信じろ』という"要求"ではなく」
ネオユニヴァースは地球のような青い瞳で、露伴を見つめ、言った。
「……『信じて』ほしいよ」
……露伴は再び、ため息を吐いた。
「……分かった、分かった。僕だって女学生に手荒な真似はしたくないからな。それにここが、これ以上踏み込んじゃあいけない分水嶺だってことはよく理解できたよ。せいぜい、"シンギュラリティ"が僕が生きているうちに起こるのを期待しておくさ」
こうして、結局僕のネオユニヴァースに対する調査はここで打ち切りとなった。いつぞや、僕が『検閲方程式』に対して対策を取れたのは事前に多少なり仕込みをできたからであり、またこれ以上踏み込んで『目を付けられる』のはまっぴらごめんだからだ。なんともまあ、尻切れトンボな結末ではあるが……
「……ネオユニヴァースは『ピンクダークの少年』の『最新アップデート』を入手……『ワクワク』があるね」
次の日。休み時間にネオユニヴァースは教室でおもむろに漫画雑誌を取り出す。トレセン学園の売店で入手したものだ。
「おっ、少年ジャンボの最新号じゃん! 売店で買えたのかよ~! いいな~!!!」
「今週号も面白かったですよね……すでに次回が楽しみです。特にあの最後の……」
少年ジャンボは非常に人気のある漫画雑誌であり、売店にもいくらか入荷されるのだがポッケはどうやら買えなかったようで、逆に既にこれを買い、ピンクダークの少年を真っ先に読破した様子のカフェは笑みを浮かべて、感想を語りだす。
「おおっとカフェ! 私とシャカール君は単行本派なんだ……ネタバレ厳禁で頼むぞ。ユニヴァース君もな」
「おい、オレを巻き込むンじゃあねェ~ッ……ていうかタキオンテメェなんで知ってンだ!?」
年相応にきゃいきゃいと騒ぐ『いつもの5人』。その喧騒にまかれながら笑みを浮かべていたネオユニヴァースはほんの少しだけ、『観測』をした。
「……これからも、無数の『可能性』が『私たち』を待っているよ。『断絶』は少しずつ埋まっている。これから来るいくつもの『超新星』は……きっと『ビッグバン』をもたらしてくれるから。いつか、あなたの心に宿る、まだ見ぬ『夢』が。『私たち』と一緒に走る日が来るといいな。だからネオユニヴァースは『質問』をするよ」
「……『あなた』の『夢』はなんですか?」
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取材編
#007『矢蛇村呪い唄事件』
「やれやれ参ったな……ここは本当に日本か? 『電気』と『水道』が通ってないなんて。Wi-Fiはつながるのが唯一の文明との窓口って感じだ」
「『電気』は自家発電機、『水道』はそもそも……日本百名水にも選ばれるほどきれいでおいしい水の水源地なので必要がないらしいです……」
私服のアグネスタキオンとマンハッタンカフェは村から宿泊用として貸し出された空き民家の軒下で干し柿を齧りながら、見渡す限り紅葉した山の景色を見る。ここはT県M市矢蛇村。日本百名山およびカフェの言う通り日本百名水にも選ばれる水源――矢蛇湖を擁し、国定鳥獣保護区内ともなっている山間にひっそりと建つこの限界集落。住民は3世帯8人。
「……カフェさん。例の『蛇鎮祭』は今晩行われるそうだ。タキオン君、それまでにカメラのバッテリーをちゃんと充電しておいてくれよ」
民家への急な坂道をふう、と息をつきながら上がってきて声をかけてくる一人の男。
岸辺露伴。今回の『取材』の発端となった漫画家。彼は、トレセン学園の部外者ではあるのだが、カフェの事を気に入っており、時折助手として練習や調整に支障が出ない程度の短期日程で自分の取材に付き合わせるはた迷惑なヤツ。タキオンはそう思っていたが、カフェはあこがれの漫画家の手伝いができるのがまんざらでもないらしく、日程が確保できた時はその取材を手伝っている。これをよく思わないタキオンは、何かと理由をつけてそれにくっついていっていた。
「……なんで私が。そもそも私は君のお目付け役として付いてきただけだからな。自分でやり給え」
「はいはい。そこまでです。カメラとか撮影機材は私と『おともだち』がちゃあんと見ておきますから……」
この辺鄙な集落を訪れた理由は、この村で行われる『蛇鎮祭』という『祭り』が今年で最後の開催であるからだ。前述したとおり、限界集落であるこの矢蛇村は最も若い住人の年齢でも50歳を超えており、もはや祭りの存続は不可能――そう判断したというのを、露伴の担当がどこからともなく聞きつけ『静かに消えゆく土着の文化……最後の祭り』という風な企画はどうかと提案し、露伴は一度それを断った。
そんなの僕以外でもできるだろ、というのが当初の理由ではあったが……
「……しかし、本当に自然が奇麗なところだな。何もないと言い換えることもできるが」
露伴もどっか、と軒下に腰を下ろし盆に置かれていた干し柿を取り……あまりおいしそうに見えなかったのか、戻した。
「露伴センセイ! 露伴センセイ!」
と、大きいがへりくだるような声色の男の声。
「おや、蘿蔔(すずしろ)さん……例の『呪い唄』の件、どうなりました?」
蘿蔔 宗平。50歳。例のこの村でもっとも若い人物であり手延べ素麺づくりを生業とする。今回の露伴達一行の世話役を務める人物だ。露伴はついさきほどまで、この男と取材についての打ち合わせを『村役場』という名の彼の家で行ってきたばかりだ。
「いやそれが、困ったことになりまして……今になって、米栂(こめつが)さんの所のお婆さんが、こうしたものが部外者の取材で世間様に出て『矢蛇村』の名に傷がついては困る……そういいだしちゃいまして」
「まずい状況ですか?」
「ええ、米栂さんのお婆さん……千代さんは村の最長老で『蛇鎮祭』のいわゆる『巫女』を長年続けてきた人物でして元地主でもありますから……どうしましょう」
露伴ははぁ、とため息をついて立ち上がり。
「そのお婆さんの所に案内してください。そういえば先に打ち合わせをしてしまって、まだ挨拶もできてませんでしたからね。そういうところで気を悪くされたのかもしれない。これはこちらの無礼です」
「いえそんな……」
「……カフェさん。それとタキオン君もだ。君たちも僕についてきているし……挨拶をしておいた方がいいだろう。食事中にすまないが、その米栂さんとやらのところに挨拶に行こう」
「あっ、はい、わかりました。」
カフェはもちょもちょと食べていた干し柿を急いで口に放り込む。
こればかりはうっかりしていた。土着の祭り――つまり文化に足を踏み入れさせてもらう側の人間なのだから、ちゃんとした敬意が必要だろう。とくにこうした田舎の細々と続いてきた村にとっては、我々のような異分子は見慣れないものだ。先方の不安を取り除くためにも、あいさつ回りぐらいはすべきだったな……そう考えた露伴はカフェとタキオンと共に、例の米栂のおばあさんの所へと向かった……
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #007 『矢蛇村呪い唄事件』 ◆◆◆
「挨拶が遅れて申し訳ございません。東京から取材にやってきました。漫画家の岸辺露伴と申します」
「アグネスタキオンだ」
「マンハッタンカフェです」
集落で最も大きい茅葺屋根の建物――その古風な囲炉裏付きの居間に通された露伴たちは、まず、米栂家の人たちの歓待にあった。
「東京から……ほんに遠いところからいらっしゃいましたねえ」
「なんもない村でもうしわけないですけんど、せめてゆっくりしていってください」
米栂幸(84)と米栂健一(86)の二人はこのあたりの山の権利をかつて持っており、国定鳥獣保護区に認定と共に県にその土地を売却し、その金を切り崩しながら晴耕雨読自給自足の生活を気ままに送ってきたのだとか。なんとものんびりしていそうでちょっとうらやましいなあ……カフェはそう思った。この二人は、例の千代さんとは違い我々に対しては悪感情は抱いていないらしい。
「姉はねぇ、ちょっと気難しいんですよ。昔なんかしょっちゅう取っ組み合いのケンカしてねえ……」
米栂健一……例の千代お婆さんの弟にあたる人物は囲炉裏で焼いた味噌餅を露伴たちに勧めながらそう話す。
「今でもケンカできるよ。健一。したろうか?」
と、カタンと勢いよく襖があきそこから深いしわが刻まれた厳めしい顔の老婆が顔を出した。名家の子女を思わせる姿勢よくぴんとのびた背筋。整えられた結い髪。彼女こそこの村の最長老……米栂千代(92)であった。
「お邪魔いたしております……漫画家の岸辺露伴です」
露伴たちは、いかにも礼儀に気位が高く、厳しそうな千代に対しそれぞれ挨拶を行う。
「……ようやっと挨拶しにきたんやねえ。米栂の家も低く見られたものやわ。それに……蘿蔔さん、来るのは漫画家さん一人や言うとりましたのに若い女の子連れで……あのね、『蛇鎮祭』は観光祭りやないんよ。伝統的な祭りなん。そこのところ、どうかんがえてますのん」
いかにも不愉快だ、という風の千代はカフェとタキオンを見て露骨に顔をしかめてみせた。
「彼女たちは僕の助手でして……撮影機材なんかの管理をしてくれています。事前にお知らせできなかったことは申し訳ない。こちらの手落ちの一言に尽きます」
露伴は内心、フン、例の『祭り』などどうでもいい。例の『呪い唄』の方が本命なんだがな。と毒を吐きながら頭を下げる。
「妙なものがでてきて村の人みんな気持ち悪がっているのに……取材やなんて……『呪い唄』なんて縁起が悪い」
「その……お伺いしますが『呪い唄』についてなんですが、どういうものなのですか?」
露伴は、ここぞ、とばかりに千代の発言に踏み込んだ。『呪い唄』……今年で最後となる『蛇鎮祭』を行うために、矢蛇湖に浮かぶ小島にあるという村の祠の掃除を行った所、祠の中から偶然、桐箱が発見された。その桐箱の中を改めたところ、『奇妙』な『唄』がしたためられた古い紙が入っていたのだという。
村の人間は、その中の不穏な内容を見て『呪い唄』ではないかと噂し合ったのだ。この『呪い唄』が露伴の取材のお目当てであった。
「あんたさんはそれがお目当てなんやろ? 見るまで帰らんみたいな顔が貼りついてますわ」
そういうと千代は、はぁ……とため息をついて写真をいくつか畳の上に置く。それらは、『呪い唄』のしたためられた紙を撮影したもので、本物は桐箱に収めもとの場所に置いてあるのだそうだ。
「『どく』『へびははい』『わきあがる』『さる』『や』『によって』『いつか』『ほろび』『とかし』、『楠太門』、『33』『134』『50』『55』『06』『37』……どういうことでしょうね……『ほろび』とか『どく』とか……不穏な用語がありますが……」
カフェは、興味深そうに……写真の中の『呪い唄』なるそれを読み上げる。『呪い唄』と言っても長い歌詞があるわけでもなく、短いひらがなを描いた紙が何枚もあるといったもので。とりあえず『毒蛇は這い、湧き上がる猿、矢に酔って五日。滅びとかし』と読んだ。数字に関しては法則性を探したが、特に見いだせずううん、と唸るばかり。
「……『楠太門』……これは詠み人の名前っぽいですよね」
「『太門』さんは、昔この村に駐在しとった兵隊さんの名前よ。私が子供のころ遊んでもろたのを少しおぼえとる」
「何を思って彼は、このような物を残したのでしょうか?」
「しらんわ」
興味津々という風のカフェの問いに、ぴしゃりと答える千代。
「フン……まあええわ。すきにしたらよろし。『蛇鎮祭』も今年で最後じゃ。妙なことだけはなさらんようにね」
そういうと、千代はこれ以上顔を合わせるのもイヤだ、という風に再び引っ込んでしまった。
「……嫌われてしまったものだねぇカフェ」
「そうみたいですね……」
露伴。そしてタキオンとカフェは、キツイ態度であたった千代の行動をごまかすように味噌餅を勧めてくる健一・幸夫婦に断りを入れ一旦、貸し出されている空き民家へと戻り、夜――『蛇鎮祭』を待つことにした。
「……ふむ」
その間、カフェは取材をするにあたってT県から貸し出されたいくつかの資料に目を通していた。もともとこの一帯には『大蛇伝説』があり、1973年には全長10Mあまりの蛇が目撃されたという記録もある。矢蛇村という名前の由来も、この『大蛇伝説』に由来があるのではないかと考えられているらしい。また『安徳天皇の剣』が山の山頂に奉納されたという伝えも残っているそうだ。
そして『蛇鎮祭』は、『矢蛇村』に古くから残る祭りで『村に現れた大蛇を退治したところ、毒気を噴き出し多くの村人を死に至らしめたため、村人たちは矢蛇湖の真ん中にある小島に逃げた。そして蛇の鎮魂のためそこに祠を立てると毒気は消え去った』という言い伝えを戯劇化したものなのだという。
「おーい、カフェ! そろそろ出発しよう! 露伴君はもう先に出発してしまったぞ」
「あ、はい!」
資料を読み込んでいるうちにだいぶ時間が過ぎてしまった。カフェは充電しておいたカメラを持ち、『蛇鎮祭』が行われる村中心の広場へと向かった。
「カフェさん、タキオン君、ちゃあんと資料になる様に撮っておいてくれよ。僕はスケッチに集中するからな……」
「はいはい」
「わかりました……!」
――どぉん、どん、どん、どん、どん、どん……
まず太鼓が勇壮に立ち鳴らされ、『勇者』の登場のシーンから祭りは始まる。昼に最初自分たちを応対してくれた蘿蔔さんが古風な髷を結い、顔には隈取めいた墨で描いた化粧をし、帯刀して登場する。最も若い彼が『勇者』を演じる役目なのだそうだ。そして剣を抜き放ち、ゆっくりと剣舞めいた動きをしながら村の中心へと歩んでいく。
村の中心部の井戸のほとりでは、健一と他の住人二人の合計三人がかりで獅子舞のように動く『大蛇』の姿。『勇者』を待ち受けていたそれは激しく戦う。
「ふむ……」
露伴はその一連の戯劇をすさまじいばかりの速さの手の動きでスケッチしていた。カフェとタキオンも手持ちの機材で『蛇鎮祭』を余さず録画しようとカメラを回し続ける。
「うおおおおお!!!」
『勇者』が叫び、『大蛇』の喉笛を貫いた。これにて『蛇鎮祭』の第一の舞が終了し、第二の舞……蛇の亡骸から、毒が噴き出し村人の多数が死に絶えるという場面が進行していく、はずであった。
――『ギャオオオオオオオオッ!!!!』
蛇の断末魔が、山を揺らしたかと一瞬カフェは錯覚した。同時、井戸から爆発するかのように、水が噴き出しびしゃびしゃと『大蛇』そして『勇者』を濡らした。
「ぎゃあっ!? 熱いッ!!?」
途端、大蛇を演じていた健一さんほか二人、『勇者』を演じていた蘿蔔さんが苦しみながら地面を転げまわる。
「えッ……!?」
「な、なんだァ―ッ……!?」
露伴たちは、数秒何が起こったかわからなかった。が、苦しみ悶える蘿蔔さんたちを救出するべくカフェと露伴が彼らに駆け寄ろうとしたその時、タキオンが叫ぶ。
「みんな、不用意に近寄るな……『酸』だッ……! 蘿蔔さんたちには『ペットボトル』の水を掛けろッ!早くッ!」
タキオンはその化学知識をもって、『熱い』という発言。『勇者』や『大蛇』の衣装だけでなく、周囲の石や金属までがしゅうしゅうと音を立てて融解している様を見て総合的に判断し、先ほど井戸から吹き出たものは……『強い酸性』を持つ……おそらく『硫酸』であることをいち早く感づいたのだ。
「『ヘブンズドアー』ッ!!!蘿蔔さんたちの体はこちらに吹っ飛ぶッ!」
「『おともだち』ッ……頼みます!」
露伴は、近寄るなというタキオンの発言を受けて『ヘブンズドアー』を発動させ、命令を書き込んで4人の体を引き寄せた。同時、カフェはふっとんでくるそれらを『おともだち』に受け止めてもらう。タキオンは、それに手持ちのペットボトルの水をとにかく大量にかけていく。幸い、村には井戸水だけでなく冷蔵庫でペットボトルに入れられ保管されていた以前にくみ上げた水も大量にストックされており、それらをとにかくかけることでまず『酸』を洗い流す。
「重曹……入浴剤でもホットケーキミックスでもいい……そういうの、ないか! 炭酸水素ナトリウムだよッ……なんでもいい!」
「あ、ありますッ……重曹ッ……ワラビとか、タケノコの灰汁抜き用の奴ッ!」
「いいぞッ!ぶっ掛けて、また洗えッ!!!」
幸さんが、急いで自宅の台所から重曹を持ってくる。重曹は酸の中和剤として使われるのだ。この際には熱が発生することがあり、先に『酸』をできるだけ洗い流しておかなければならない……
……こうしてタキオンの知識により、蘿蔔さんたちはほんの軽いやけどで済んだ。それはよかったのだが……翌日。
「なぜだ? 自然界には硫酸なんてものは自然発生しないはず……」
「そうなんですか……?」
「ふむ……」
『蛇鎮祭』は当然中止になり、露伴、そしてタキオンとカフェは昨日事件の現場となった村の中央広場の検分を行った。手持ちの実験キットを使い、慎重に溶けた鉄などの成分を分析する。やはり、タキオンの見立て通り噴き出したのは『硫酸』であったが、おかしいのだ。硫酸は空気中の水蒸気と容易く混ざり合うため、自然界には存在しない。それがこんな山奥でいきなり噴き出すなんてありえない事だ。
「や、やっぱり……『呪い唄』が……『太門さん』の……」
と、それに声を掛ける者があった。千代さんである。昨日の凛とした様子から一転、怯えたように震える千代はその場にうずくまる。
「千代さん……何か知っているなら、話してください」
カフェは、千代に駆け寄ると背中に手を当て擦りながら落ち着かせようとする。
「ええ……ええ……もう80年も前のことになります。『戦争』が終わりに近づいていたころ……『太門さん』は言っていたんです。この村は、毒によって滅びると。ああ、おそろしい、太門さんはきっとこのことを言っていたんじゃ。『蛇鎮祭』も中途半端……きっと『大蛇』のたたり――」
恐れからか、まくしたてるように言葉を吐き出す千代。その光景を見て、カフェは落ち着いてください。と背中をさらに撫でたが露伴とタキオンは、顔を見合わせてうなずきあい。
「『ヘブンズドアー』ッ!!!」
「わ!」
「う……」
露伴はやはり不意打ち気味に千代を本にした。やるなら先に言ってください、とばかりにジト目になるカフェ。
「……すまないね。千代さんはだいぶ動揺しているみたいだったからな。こっちの方が早い」
「これに関しては私も同意見だ。こっちの方が早い」
「むう」
露伴たちは、千代を寝かせるとその周囲に集まり記憶を読み漁り始める。
「米栂千代。92歳。T県M市矢蛇村生まれ。夫、正蔵とは10年前に死別。弟夫婦とは仲が悪い。……この辺は関係ないな。ええと、80年前とか言ってたか、その辺まで適当にページをめくるぞ」
露伴はぺらぺらとページをめくっていく。しかし、ページが古くなっていくにつれてだんだん古い紙が如く黄ばみがひどくなり、記述量も少なくなっていくように感じられた。
「……まずいな。さすがに80年前ともなると、完全に本人の中からも忘れ去られて読み取れる記述が少なくなっている。太門さんという人物についても、ほんの少し覚えている程度みたいだ。旧日本軍の軍人で……よく遊んでくれたが、工廠を覗こうとすると怒られた……まて、工廠だって?」
工廠。つまり軍需品を作ったりする工場の事だ。こんなT県のこんな山奥に工廠があったのだろうか?
「怪しいな……『硫酸』というのは工業製品などの加工精製には一般的な材料だ。本当に工廠があったとして……それが置かれていた可能性は否定できない。完全に推測の域を出ない仮説だが、昨日のは容器の経年劣化によって地下にある工廠から流れ出た硫酸が噴き出したとか……」
「村のためにも、その『工廠』を探してみる必要がありそうですね。となると……例の『呪い唄』。あれがやっぱりなにか、関係あるのでは……?」
3人は、目を合わせうなずき合った。『楠太門』――この昔の軍人がおそらくこの事件のキーだ。露伴たちは、米栂家まで千代を運ぶと、幸に昨日の事件を思い出し、取り乱して気を失ってしまったからしばらく面倒を見てやってくれ、と頼み込み千代を布団に寝かせてから、囲炉裏の周りに集まって例の『呪い唄』の写真を広げる。
「『どく』『へびははい』『わきあがる』『さる』『や』『によって』『いつか』『ほろび』『とかし』『33』『134』『50』『55』『06』『37』」
カフェが写真の中の『呪い唄』を読み上げていく。
「……毒蛇は這い……毒矢……毒と化し……毒湧き上がる……それっぽいが……具体性には欠けるか?」
露伴はどうやら単語の組み合わせを試しているらしく、まず『毒』という単語を起点に様々な文章を作ってみる。たしかにそれらしき単語は出来上がるが、それが『工廠』と関係があるかというと疑問に思わざるを得ない。
「ふぅン……私はこっちの数字が気になるな……数字ってのは普遍性があるものだろう。何らかの数列や数式かもしれない……」
といっても、タキオンの頭に入っている様々な数式と照らし合わせてみたところで有意な結果が導き出せない。数式ではない? タキオンが、ううむ、と唸ったその時だった。
「あ……これ、もしかして……経度と緯度では……?」
カフェがぽつり、とつぶやき……
「あーっ!!! そうだ、これは経度と緯度だッ!!! 並び替えるとT県M市南方の山岳地帯のそれにぴったりとあてはまるッ!!!」
「なんだってッ!?」
タキオンがやったなカフェ!とばかりにその首根っこに飛びつき、くるしいです……とカフェがぼやいた。
「しかしよくすぐにわかったなカフェ……」
「確かに言われてみると経度と緯度にしか見えないな。さすがはカフェさんといったところだね」
「そのう、私、登山が趣味なもので地図はよく見るんです。だいたい地図には経度と緯度がかいてありますから、もしかしてそうかな、と……」
カフェは登山が趣味であり、地図を見る機会が多く経度と緯度という概念に触れる機会が多かったのが生きた形だ。カフェはタキオンと露伴に絶賛され、少しだけ嬉しそうに顔を赤らめた。
「とにかく、この経度と緯度には何らかの意味があるッ! 恐らくは工廠の位置を示す物だろう……『呪い唄』の方も気になるが、先に工廠を確かめよう。さっそく出発しようか」
「そうだな、そうしよう」
こうして、露伴達一行は導き出した経度と緯度を目指してみることにした。そこは村からさほど遠くないが、完全な山の中で、近くまでは山道を通っていくことができたものの途中からはほとんど崖のような急斜面を折りていかなければならなかった。しかし……
「見ろ……これ、旧日本軍の水筒じゃあないか? 戦争映画とかでみたことがあるぞ」
割り出したポイントに近づくにつれて、何十年も前の遺物めいたものが増えていく。水筒。ブーツ。缶詰の缶。それらを見るたび、露伴たちはこの先に工廠があるという思いを強くした。そして……
「明らかに怪しいですね……」
「ああ……」
例のポイントには、ぱっくりと口を開けた大きな洞窟。露伴はたちはスマートフォンのライトを頼りに、中に入っていく。すると、すぐさま洞窟は人工物めいたコンクリート打ちっぱなしの空間に様変わりし、トロッコのレール跡や、もはやさび付いてなんなのかわからなくなった鉄骨資材などが置きっぱなしになっている。
「……間違いない。ここが工廠だな……調べてみよう。だが、何があるかわからない、件の『硫酸』が漏れ出している可能性もある。十分に注意してくれよ」
露伴の言葉にカフェとタキオンも静かに頷く。
『工廠』は一見曲がりくねって複雑そうに見えたが、基本的に一本道で時折空き部屋があるだけであった。そしておおよそ、工廠内を100Mほど進んだころであろうか? 『庫蔵貯物険危』という標識がある分厚く、巨大な鉄の扉に出くわした。扉には四角い覗き窓があり、扉の向こうを覗けるようになっている。
「ふぅン……さび付いて開きそうにないな……露伴君、君の『ヘブンズドアー』でなんとかならないかい?」
「いや、無理だ……『ヘブンズドアー』は無機物には効果がない。破壊力自体もさほどではないからな。これほど分厚いドアをぶち破れるほどのパワーはない」
「となると、ここで実質行き止まりという訳か。カフェ、中には何がある?」
露伴とタキオンがドアを開けようとしている間、窓から中を覗き込んでいたカフェは……震えていた。
「マズいです……み、みてください!」
「「え」」
カフェに促され、急いで覗き窓から内部を見やる露伴とタキオン。
そこには――『大量』という言葉で片付けるにはあまりにも無数の『錆びたドラム缶』があり、一本一本に『酸硫』という記述がある。おそらく、ここにある『硫酸』は1トンとかそういう類で済む量ではない。数千トンの『硫酸』がこんな山奥の中で人知れず眠りについていたのだ。しかも――
「ほんとだ、ま、まずいぞ……『硫酸』のドラムがッ!」
ドラム缶の大半はすでに経年劣化が進んでおり……いや、もはや耐久年数を超えて、中身の硫酸が噴き出し始めていた。
――バシュンッ!!!!
奥の方でひとつのドラム缶のふたが吹き飛んだ。それだけではない。バシュン!バシュン!バシュン!それに呼応するように、いくつものドラム缶のふたが吹き飛んでいくッ!
「や……ヤバイぞッ!逃げろッ!!!」
瞬間、露伴たちは身をひるがえし、扉から離れる。しゅわしゅわしゅわしゅわ。背後から鉄の分厚い扉が融解する音。そして……バシャアッ!!!川のように『硫酸』が扉を突破して追いかけてくるッ!
「う、うおおおあああああッ!!!」
超一流のウマ娘であるカフェ、タキオンは全速力までギアをあげようと、足に力を込めたが……露伴は!人間である露伴はそうはいかない!ウマ娘と人間……その走力は絶望的な差があると言ってよく、このままでは露伴が硫酸に飲まれてしまうッ!
「……しかたないなッ! 貸しだぞッ!」
「な、何ィ―ッ!?」
と、タキオンが露伴の腕を思いっきり引っ張り引き寄せるとそのまま露伴を担ぎ上げるッ!
「漫画家の腕を粗雑に扱うなッ!」
「そういうことを言っている場合かッ!」
ガシャン!ガシャン!グシャァッ!!!ズドドドドッ!!!!
ついに工廠全体が溶融しはじめたのか、背後から崩落!落盤!危ない!
「タキオンさんッ!露伴先生ッ!」
一足早く、外に飛び出たカフェが手を伸ばす。タキオンはそれを掴み、三者は半ばもつれ合うように抱き合いながらゴロゴロと転がった! それから数秒遅れて……ガゴオオオオオオッ!!!! 崩落する洞窟入り口!
「ハァーッ……ハァーッ……!」
「あ、危なかったッ……!」
3人大の字になり、空を見上げながら胸で息をする。事件は終わったかに見えた。が……
「「「そうだッ! 矢蛇村がッ!!!」」」
昨日、井戸から硫酸が噴き出したという事は……位置的にあの大工廠の真上に矢蛇村が建っていることになる。何らかの被害を受けているかもしれないッ!3人は急いで立ち上がり、露伴はカフェとタキオンの力も借りて急斜面を駆けあがり、矢蛇村を目指す。
「村がッ……!!!」
案の定、矢蛇村は……地面のあちこちが大きく陥没し、そこかしこから『硫酸』が噴き出していた。
「絶対に気化したのを吸い込むなよッ! 体の内部からやられるぞッ!」
タキオンの指示に従い、全員口をハンカチで覆い隠して『矢蛇村』に誰か残っていないかを探す。と、おーい、おーい、と遠くから声がした。蘿蔔さんだ。どうやら村の住人は村役場である彼の家に避難しているようで、数人の姿が他にも見える。露伴たちは吹き出る『硫酸』を巧みによけながら、蘿蔔さんの家を目指した。
「……露伴センセイ!ご無事でよかった!一体どういう事なんですかこれはッ!?」
「説明は後だ! とにかくここから避難するぞ……全員下山するんだッ!」
「いや、間に合わない……」
村に車などは残ってないかッ!?と蘿蔔さんに問いかける露伴をしり目に、冷静にタキオンが呟く。
「そのようです……聞こえる……これ、山頂の方からも……『山雪崩』が来る……!」
「な、何ィーーーーッ!!!?」
タキオンに同調し、カフェが放った言葉に露伴は戦慄した。矢蛇村地下で起きた硫酸噴出と巨大大工廠崩落は、山全体に影響を与え大規模な『山雪崩』を引き起こそうとしていた。ウマ娘であるタキオンとカフェはその鋭敏な聴覚でその前兆を聞き取っていたのだ。
『酸』そして『山雪崩』ッ! どうすればいいッ!!! いつまで時間が残っている!? とにかく動くしかない! どこにッ!? 露伴は……頭の中で『生き延びる方法』を模索し続ける。その時だ。
「ありますッ……逃げられる場所がッ!!!」
カフェが、黄金の瞳を瞬かせながら力強く言い放った。
――グゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!!!!!
巨大な地鳴りと共に、山雪崩が矢蛇村を飲み込んでいく。その光景を、矢蛇村の傍らにある『矢蛇湖』の真ん中にある島の祠まで避難したカフェたちは、呆然と眺めていた。
「まさか、伝承に倣うことになるとはな……」
命からがら、島までたどり着いた露伴は荒い息をつきながら湖に流れ込んでいく大量の酸と土砂のブレンドを見やる。
――『村に現れた大蛇を退治したところ、毒気を噴き出し多くの村人を死に至らしめたため、村人たちは矢蛇湖の真ん中にある小島に逃げた。そして蛇の鎮魂のためそこに祠を立てると毒気は消え去った』
村に伝わった伝承は、運命か。あるいは偶然か。住人たち全員の命を救った。
「『硫酸』は水和性ではあるが、大量に水と混じると高熱を発して……そのうち『気化』する……ここまでは『硫酸』も、『山雪崩』も届かない……」
そうつぶやくタキオン。タキオンの言葉を聞き、『硫酸』が水蒸気と混じると知って、さらには熱心に矢蛇村の伝承を復習していたカフェならではの発想だった。
それから……
「ハァーッ……文明があるッ! 機械があるッ! 電気が! 水道がある! 人がいるッ!」
タキオンはT県の空港にたどり着いて、一息ついたとばかりに叫んだ。露伴も、カフェも同様だ。矢蛇村で経験した事柄はまさしく『九死に一生』というもので、ようやく生きた心地がしたというのが本音だ。トレセン学園までの帰りの便は出発まで余裕がある。そういえば干し柿を齧った以降、何も食べていない。何かおなかに入れよう……カフェはそんなことを考えているうちに、ふと『呪い唄』の意味を解いていなかったなと思いだした。
「なんだったんでしょうね、『呪い唄』って……」
カフェがそうつぶやくと、露伴はあぁ、あれかと反応した。
「あの後もいろいろと文字を入れ替えてみたんだが……なんとなくは分かった。多分こうだ。『湧き上がる』『毒』『によって』『矢』『蛇は灰』『とかし』『いつか』『滅び』『去る』」
岸辺露伴は、こう推測する。おそらく『楠太門』という人物は、矢蛇村の地下に作られた『硫酸』を製造する『秘密工廠』の管理をするために矢蛇村に派遣された人間だ。だが、『戦争』が終わり使い手もないまま大量に生産だけしてしまった『硫酸』をどう処理するか困った時の権力者は『工廠』が公式記録にも秘密裏につくられていたことを利用し、『見て見ぬふり』を決め込んだのだ。当然、『楠太門』にも『口をつぐめ』という指示が与えられただろう。だが、『楠太門』は保管しきれなくなった『硫酸』が矢蛇村にいつか害を及ぼすことを憐み、命令に背かぬよう誰かが気づくことを期待してあの『呪い唄』を残した……
いわばあの『唄』は『呪い』ではなく『願い』が込められていたのだ……
「おぉーい、カフェ!もうおなかがぺこぺこだよぉ……空港のレストランで何か食べよう! 露伴君、今回の事件に巻き込まれたのは君の責任だぞ。おごってくれたまえ」
思索にふける露伴を、タキオンの声が邪魔をした。だが、工廠で助けてもらった礼もある……ここはひとつ、大人の財力というモノを見せつけてやるのもいい。露伴はそう思いながら……最後に矢蛇村があった山の方に視線を向け、空港に入っていった。
←To Be Continued?
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#012『700年の旅路』
F県D市山城町。小倉競バ場から少し離れたこの町は鎌倉時代よりかつては朝鮮半島あるいは大陸に対する外交・防衛の拠点が置かれており、旧所名跡も多いことから毎年1000万人以上の観光客が訪れる。
「しかし昨日の水炊きはおいしかったねェ……だがシメの麺……あれがきいたな」
「たしかに……どすんとおなかに来ましたね。トレセン学園に戻ったら少し絞らないと」
などといいつつ、マンゴー味の餡がはいったもなかを齧りつつ坂道を登っていくのはマンハッタンカフェとアグネスタキオン。今回は後輩の応援で小倉競馬場を訪れたついでに、この町を訪れたのだが……
「まったくウマ娘の食欲というのはすさまじいな……
あのあと、中洲でラーメンまで食べてまだ食べられるのか……」
それを先導するのは今回、この町に来たいと熱望した岸辺露伴である。なんでも、以前から九州で取材したかった事があるとかで、2人にくっついてきた形だ。
「露伴先生、『
「たしかに、最寄の駅からえらく歩くね……先方との約束の時間は大丈夫かい?」
「このあたりのはずだが……と、見つけた。こっちだ。『燕子花神社』まで50Mとある」
『燕子花神社』――山城町に存在する小さな小さなこの神社は、全国的には知名度は全くないが勝負ごとの神様が祀られており……菖蒲などの仲間である燕子花の名前がついていることから、特にご利益があるという事で地元のスポーツや武道などを行う子供たちが勝利祈願・健康祈願に訪れたりするらしい。
露伴たちは少し道に迷ったが、先方――燕子花神社の宮司を務める藤田氏と事前のアポイントメント通りの時間帯に会う事が出来た。件の神社は山際に沿うようにして建てられた本当に小さなもので、本殿と小さな土倉があるという風の造りだ。
「ああ、どうも! 私がこの神社の宮司として管理などをしております、藤田です。
露伴先生、よろしくお願いいたします!」
藤田氏は露伴を見るなり、頭を下げて挨拶する。いかにも誠実そうな中年の男で、神職というよりはサラリーマンの方が似合うようにも見えた。
「漫画家の岸辺露伴と申します。こちらは僕の仕事を手伝ってくれている、マンハッタンカフェさんとアグネスタキオン」
「どうも……マンハッタンカフェです」
「アグネスタキオンだ」
挨拶をする前から、藤田氏は嬉しそうだった。それもそのはず……
「いやあ、本当にマンハッタンカフェさんとアグネスタキオンさんに会えるなんて!
タキオンさんの皐月賞、本当にしびれましたよ。カフェさんの菊花賞もすごい走りで……」
藤田氏は興奮した様子で喋りながら、カフェとタキオンに握手を求める。なんでも燕子花神社は勝負事のご利益のおかげで、ごくたまに小倉からウマ娘が勝利祈願にやってくることがあり、そうしたこともあって幼少期からレースに夢中になったのだそうだ。最後には二人からサインまでもらい、大満足の藤田氏は家宝にします! とまで言ってくれたが、面白くないのは露伴である。自分の漫画が世界で一番面白い、と思っている露伴は藤田氏が握手やサインを求める間、少々ふてくされたように、勝手に神社内をスケッチしていた。
「ああッ! 私としたことがつい興奮してしまいました。申し訳ない……
ええと、今回ご連絡いただいた例の『手稿』をお見せしなければいけませんね。
社務所などはないので……申し訳ないのですが、近くにある私の自宅にお招きすることになります」
「露伴君、そう不貞腐れるものでもないよ……フフ……」
「フン、ふてくされてなどいないが?」
「はいはい、そこまでそこまで」
ニヤニヤとふてくされた露伴に声を掛けるタキオン。二人をたしなめつつ、カフェたちは藤田氏の自宅へと向かった。
「こちらになります……神社の土倉が古くなってね。近いうちに取り壊そうと思っていたんですが、整理している途中に隅から偶然出てきまして……」
そういって、藤田氏が手袋をはめて持ってきたのはかなり古い木箱である。痛みがひどいが辛うじて判別できる程度に文字?が残っており……『تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار』とある。全然読めない。
「これは……アラビア語? ですかね?」
「はい、大学の専門家の先生に解読してもらった所『都市の不思議と旅の驚異を見る者への贈り物』という意味になるそうで……イヴン・バットゥータという古代の探検家? の著書のタイトルだそうです。実際、中には同じくアラビア語で書かれた『手稿』と『ウマ娘』の尻尾の毛と思しき毛束が入れられていました」
興味津々、と言う風に見つめるカフェに藤田氏が解説しながら木箱をそっと開ける。中には、言葉通り同じくアラビア文字の記された本のページ数枚と、ウマ娘の尻尾のものと思われる毛をまとめた束が入っていた。
「イヴン・バットゥータ?」
「それについては僕から説明しようか」
カフェが首をかしげると、露伴が歴史的知識について補足をはじめる。やはりこういった文化系の事柄に関しては、漫画家だけあって露伴はかなり強い。
「イヴン・バットゥータは14世紀のモロッコ人の旅行者……冒険家ともいわれるね。だいたい、マルコ・ポーロよりほんの少し後ってくらいの時代だ。元々法学者の家の出で、裕福だったんだろうな。21歳の時にメッカ巡礼を志し……そのまま、アフリカやイスラム圏の各地、果ては東南アジア、元朝支配下の中国東部にまで至る大旅行となり、30年近くをかけて故郷に戻ったとされている……例の都市の不思議と~というのはその間に見聞きした物事をまとめたいわゆる旅行記だな」
「さすが作家さんだけあって博識ですな……!」
藤田氏も、露伴の知識には舌を巻く。
「ですが、なぜそのイヴン・バットゥータさんの旅行記がここに?
この神社はそういうゆかりがあるんですか?」
「いえ……それがわからんのです。この『手稿』も『大学』で翻訳を試みているのですが、まだ全文は解読できていませんでね。しかも、どうも例の旅行記には記されていない記述があるそうなんです。もし、もしですよ。例のイヴン・バットゥータが『日本』……この神社まで来ていたとなれば……それは考古学上の大発見ですよ!」
興奮したように話す藤田氏。今回の露伴の取材の目的は、この謎の『手稿』だった。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #012 『700年の旅路』 ◆◆◆
「ふぅン……すごい話になってきたねェ」
「ですね……すごいです。太古の息吹と言うか……」
タキオンは少し、眉唾じゃあないか?という風な視線を例の『手稿』に向ける。だが、カフェはこういうのが割と好きなのか興味津々に目を輝かせながら読めもしないアラビア文字を熱心に眺めている。
「……ようやくデリーを離れることができると安堵した私を襲ったのは、山賊であった。一団からはぐれた私はムトラというウマ娘の少女と辛うじて一緒にいるだけであってその心細さと言えば書き記すにも言葉を持たない。彼女は、元々モザンビークの名家の出身であったが、その堅苦しさに嫌気を覚えて島を飛び出しこの前まで私と同じ、あのスルタンのもとに身を寄せていたのである」
と、ふいに露伴がすらすらとアラビア語の古典文章を読みだした。大学の学芸員さえ、翻訳に手こずっているそれをである。
「え!?」
「露伴君、君、アラビア語が読めるのかい?」
驚いた様子の一行をしり目に、露伴はフン、と鼻を鳴らして答える。
「ああ、読めるよ。『ヘブンズドアー』で僕自身にそう命令を書き込んでおいたからね。
『岸辺露伴』は『アラビア語』を読めるようになると……」
頭上にはてなマークを浮かべる藤田氏をしり目に、タキオンなどはそんなこともできるのか……と興味深げに露伴を見ていた。
「事前に、簡単にイヴン・バットゥータについての資料を作ってきていたんだが……」
そういって、露伴が自身のカバンから取り出したのは分厚いA4のコピー用紙の束だった。それらには様々なサイトや文献からコピーしたと思われる文章が書き連ねられており、無数の付箋や書き込みも入れられているそれを、どこだったかな……と呟きながらページをめくる。
「あったぞ、1347年、バットゥータは当時デリーのスルタンに6年仕えていたが……中国への使節団として送られることになったとある。山賊に襲われたという記述が実際例の旅行記にもこの時期に残っているが……『ムトラ』という人物は初出だな。もしや、この『尻尾の毛束』は『ムトラ』の?」
「じゃ、じゃあこれは……本当にイヴン・バットゥータの手稿?」
「さあな、分からない……とりあえず、読み進めてみよう」
興奮気味に喰いつく藤田氏に露伴はそう言って手稿を読み進めていく。
「ムトラは勝手な人物で、この機にこのまま南洋のパレンヴァンあたりにいかないかなどと私を誘った。その奔放さはまるで子供のようで、ことあるごとに私に対し食事や水を要求しては、駄々をこね私を困らせた。その後何とか私は使節団に合流できたが、もしこれが叶わなければ彼女との二人旅となっていたであろうことを考慮すると、ぞっとする心地がした」
「まるで誰かさんみたいだな……いて! 冗談だよ!」
「……続けたまえよ、露伴君」
露伴が口語翻訳を続けながら、不意にそう漏らすとタキオンは肘でかるく露伴の脇腹を小突く。
「この後、バットゥータはカリカット、そしてコッラムの港に赴き……そこから船路で中国を目指そうとしたらしいが……二隻の船団のうち一隻は嵐で沈み、もう一隻はバットゥータを置いて勝手に出港したと書いてあるな……どうなんだそれは……ええと、読んでみるぞ」
「ムトラのおかげで大変なことになった。彼女は出航直前で宿に家族の肖像が入ったペンダントを忘れたといって、いきなり飛び出した。私はまだ大人にもなっていないムトラを一人置いておけず……それに付き添ったが、港に戻った時にはすでに船は影も形もなかったのだ。おいていかれてしまった。しかし、私がいない事に気づけばすぐに戻ってくる……そう思っていたがその願いは無残にも叶わなかった。数日たっても、船は戻ってこない。おそらくは嵐にあったか、海賊に拿捕されるかしたのだろう。最悪だ。このままではあのスルタンにどう責任を取らされるかわからない……ムトラめ!」
どうやら、バットゥータはムトラと言うウマ娘にだいぶ振り回されていたようだ……
「……で、バットゥータはしばらくインド南部に滞在していたようだが中国への旅を再開し……いやまて、全然関係ないモルディヴに行ってるぞ……読もう」
「またムトラだ! 彼女は、償いに中国への船を用意したと私を言いくるめて、結局南国までやってきた。だが、モルディヴの生活は悪くはない。景色はこれ以上ない美観といってよく、この地の王族はイスラムの教えを民に敷こうとしているばかりで、法学者である私を重用してくれたからだ。ムトラなどはきてよかっただろう? とにやついて私に問いかけながら、日々海で遊んでは椰子の果肉やデーツを貪っている」
「へぇ……完全にバカンスじゃあないか。昔の人もやっぱりバカンスは南の島にいきたがるんだな」
タキオンもそういえば以前、ハワイ旅行券をあてたし暇ができたらいきたいねぇ、などとぼやいて。
「だが……どうやら平穏な生活も長くは続かなかったようだな。続きを読むぞ」
「穏やかな生活が続くと思われたが、私の厳格なイスラム法の施工に島の人たちは反発し始めた。どうやら彼らの自由な気風は私の生真面目すぎると言われる性格ともあっていないらしい。だが、もっと悪いのはムトラだ。彼女は、このところ咳き込み、よく伏せるようになった。本人は大丈夫だというが明らかに顔色が悪く、彼女の無法な性格を知っていた私はその落差にこちらも風邪をひいてしまいそうだった。そろそろ、中国への旅を再開しなければならないがその前に、チッタゴンに寄り、彼女の病状について現地のシャーに導きを求めることにしよう。そうすればきっとよくなるはずだ」
シャーとは元はペルシア語で『王』を表す言葉だが、この時代では『宗教的指導者』や『聖人』……『貴族』という意味でも使われるようになっていたみたいだな、と露伴が資料を見てから解説を入れ翻訳を続ける。
「シャーの言葉は、私を打ちのめすに十分だった。彼女は、頭の中に悪いできものがあり、もう長くは生きられないというのだ。シャーはヨーグルトに香草を混ぜたものを彼女に飲ませ、これで少しは落ち着くといった。実際、数日後には彼女はいつもの破天荒な様子を取り戻していたが……今になって気づいた。彼女は無理に破天荒に振舞っていたのだ。その若い命が燃え尽きる前に、この世のすべての楽しみを知っておくために。彼女は言った。私は、世界の果てが見たくて、あの小さな島を飛び出したのだと。ムトラよ。ならば世界の果てを見よう。東の果てには黄金の国があると私と同じく西方から来た商人が話していたのを聞いたことがある。きっとそこは仏僧がいう極楽の光景が広がっているに違いないから」
それから……少しだけ、『手稿』に記されていた時間軸は未来へ飛んだ。どうやら露伴の資料によるとこの次にバットゥータは現スマトラのサムドラ・パサイを訪れたようだが、その間の記録は散逸したのか、あるいはもともとなかったのか記述がなく、いよいよ中国へと向かったようだ。
「……ついに中国へと入った。ザイトゥーンの街ではその名とは反してオリーヴを見つけることはできなかったが、似顔絵師やプラム、スイカ、そして大きな鶏を見つけることができ、これらをムトラに食べさせた。だが病状は良くない、最近のムトラはもはや立って歩くことができず、食べ物も大半を吐き戻すようになった。時間がない……彼女には時間がない。現地に住み着いたイスラム商人は高度な病院を持っており、そこにムトラを預けることも考えたが……ムトラはそれを拒否し、笑った。そして、何を思ったか、カミソリで自分の奇麗な尾を切り落としたのである。ウマ娘にとって尾とは重要で不用意に触られることを嫌がるという。なぜ? 私はムトラに問うた。すると彼女はこう答えた。もし、私が死んだらこれを私の代わりに世界の果てに運んでほしいと。ムトラ。そんなことを言うな。我々はここまでやってきたじゃないか。中国にはゴグマゴグの侵攻を防ぐ大城壁すら存在するのだ。世界の果てはある。一緒に世界の果てを見よう」
皆が、露伴の訳する物語に聞き入った。最初は興味がなさそうなタキオンなども、早く早くという風にバットゥータとムトラの旅路の続きを聞きたがっている。
「……手稿はあと一枚だ。だが、そこには……メッセージめいたものがあるだけだぞ」
「「「えーっ!!!?」」」
カフェとタキオン、そして藤田氏はそんなあ!続きは?という風に露伴を見るが、そんな風に見られてもな……と露伴は頭を掻いた。
「……そのメッセージを読むぞ」
「私とムトラの旅路の最後は彼女の希望により、二人だけの秘密とさせてもらいたい。だが……もし、心あるものがこの書を読んだなら。願いがある。無理にとは言わないが、彼女の尻尾の毛の一部を彼女の故郷の島にもどしてやってほしいのだ。私も試みるつもりだが、運よくそこまでたどり着けるか、わからないから。彼女は世界の果てを見たがったが、時折寂しそうな表情をすることがあった。それは長い事旅をつづけた私にはわかる。望郷の念だ。彼女は心の奥底では、故郷の両親を懐かしみ、寂しがっていたのであろうから」
「ふぅン……」
「そうですか……」
タキオンとカフェは、続きが聞けずがっくりと言う風に肩を落とす。だが。
「……しかし、この『尻尾の毛』を見るにバットゥータは『日本』に来たんだろうな。
確証こそないが、状況証拠としては……どうします、藤田さん。これはたしかに考古学上の大発見かもしれません」
露伴はあくまで持ち主の藤田氏に問いかける。藤田氏は少しだけ考え込んでから……
「……露伴さん、申し訳ないのですがここはバットゥータさんとムトラさん……の……故人の遺志を尊重したい。本人たちが『黙っておいてくれ』と言うのなら、これを世に広めることはやめましょう。バットゥータさんもそういう考えがあって、例の旅行記からムトラさんの記述を抜いているのでしょうし」
「そうですね……このことは、私たちの心にしまっておいた方がよさそうです」
「そういうものかねぇ……私は発表すべきだと思うが……」
タキオンを除き、その場にいる全員がこのことは心に秘めておこう……と決心する。タキオンも無粋な真似はしないタイプだ。勝手に言いふらしもしないだろう。
「毛の一部については、モザンビーク大使館に相談して送り返せないか提案してみます。
本日は、本当にありがとうございました。露伴さん……」
こうして、取材は終了し古代の隠された、小さな旅行記についての記憶は3人と藤田氏の心の中だけに秘められた……
「そういや、バットゥータさんはムトラさんの故郷に自分で尻尾の毛を返そうとはしなかったのでしょうか? いちおう、やりたい感じは文章の中で述べられてましたけど……」
カフェが、ふと思い出したようにつぶやく。すると露伴が再び例の分厚い資料を取り出して、確認した。
「中国まで旅した後、1349年にバットゥータは故郷のモロッコ・タンジェまで戻っている。
だが、その時の情勢などもあって、彼はすぐにタンジェを出ているようだな。で、1351年に……本格的にアフリカ東海岸の旅を開始した。残っている記録ではモザンビークのすぐ北のタンザニアあたりまでは行ったみたいだな」
「じゃあ、もしかしたら記録に残していないだけで、モザンビークに行ってるかもしれませんね!」
カフェが嬉しそうにつぶやく。
「ああ、それともう一つ。モザンビークには『キマウ』という伝統衣装がある。
主にお祭りのときに着る衣装なんだが……それは日本の『着物』にとても似ているんだ。
もしかしたら、本当にもしかしたらだが……日本に行ったバットゥータが、日本の着物を彼女の
故郷であるモザンビークに伝えた……なんて……それは少し考えすぎかな」
「夢のある話ではあるね。世界の果て、果たしてムトラさんは見えたのか……」
露伴の話をきき、タキオンがふぅン……と置いてから呟く。
「さあね、案外、バットゥータやムトラが700年前にみたのと同じような景色を、今僕らが見ているかもしれないな……」
歴史の中の小さな冒険のおはなしの余韻に浸る露伴たちからはそういって坂の上から、D市の全域を見渡した。
←To Be Continued?
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#013『スイートホーム』
K県Y市。人口370万人。東京のベッドタウンにして異国情緒漂うこの沿岸都市はプロ野球球団まで擁し、観光にしても遊ぶにしても人気が高い。すでに廃止されているが、かつては日本初の洋式競バ場があったのもこの街だ。トレセン学園の生徒も、たまには足を延ばしてここを訪れたことがある者もいるだろう。
その沿岸部に新たに4年の工期を掛けて建設された超高層タワーマンション『タワーレジデンシャルスイートホーム』が開業したのはつい最近のことである。全長200m、全54階+地下3階。商業施設、企業オフィス、会議場、住居などを擁する複合型施設である『スイートホーム』は全国のタワーマンションの中でも十指に入る巨大建造物であり、Y市の新たなランドマークの一つ……になるはずであった。
「露伴先生。ここですか……例の『連続失踪事件』の起こってるマンションというのは」
「ああ、警察への届け出ではこの三ヶ月で……既に4世帯7人が失踪しているらしい」
その『スイートホーム』を見上げるのは岸辺露伴、マンハッタンカフェ、そしてアグネスタキオン。彼らはご多分に漏れず、その『連続失踪事件』を漫画のネタとして調べるためにこのタワーマンションを訪れていた。
「ふぅン……それにしてもやたらに高いねこのビルは……」
そうボヤキながらビルを見上げるタキオン。露伴とカフェも、同じくビルを見上げた。これでもY市では2番目に高いビルなのだとか。
「4階まではブランド品を主力として、映画館なども併設された商業施設エリア……5、6階が国際会議場で……10階までが企業などのオフィスが入るエリア……それ以降が高所得者向けの居住スペースさ。フィットネスクラブやジャグジーまでついている……なんでも入居には一部屋3000万円以上かかるらしい」
「3000万円……どんな部屋なんでしょうか……」
カフェは露伴がパンフレットに載っていた情報を読み上げると、頬に人差し指をあてながら今までTVなどでみた高級ホテルの部屋の記憶を頼りに想像してみたが、やはり経験のない物は想像しにくい物でとりあえず広くて豪華なソファなどが置いてある……ぐらいしか思いつかなかった。
「では……そろそろ管理人の『砂川』さんと会う時間だ。もう一度釘をさしておくが、くれぐれも『連続失踪事件』の取材に来たなんて言うなよ。僕らは漫画家、そしてG1ウマ娘として友人間でマンションの下見に来た……そういう体でいく。さもないと、取材なんかさせてもらえるわけがないからな……」
「はい、わかりました……!」
「それは何度も聞いたよ露伴君。そんなことより、折角Y市まで来たんだ。取材が終わったら中華街でなにか奢ってくれたまえよ~」
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #013 『スイートホーム』 ◆◆◆
三人は『スイートホーム』に足を踏み入れる。一般客の入る商業エリア入り口ではなく、入居者向けのエントランスホールから内部に入ると、そこはまるで高級ホテルか気品ある映画館のロビーのようで、応対カウンターには二人のコンシェルジュが控え……
「これはこれは、本日はご足労どうもありがとうございます! 岸辺露伴さま、マンハッタンカフェさま、アグネスタキオンさま!」
ロビーの豪奢さにやや圧倒されていた三人の機先を制し、カウンターテナーめいた高い声で挨拶をしてきたのは細身かつ長身のどこかキツネめいた雰囲気を持つ瀟洒なスーツの男。
「わたくし、この『タワーレジデンシャルスイートホーム』の総合管理人を務めております、『砂川是千代』と申します。本日は、僭越ながらわたくしが皆さまをご案内させていただきます」
「これは……漫画家の岸辺露伴です。初めまして」
「マンハッタンカフェです」
「アグネスタキオンだ。よろしく頼むよ」
まさしく平身低頭と言う風な遜った態度で露伴たちを出迎える砂川。露伴たちも、挨拶を返すと砂川はさっそく、と言う風に三人を十一階にあるモデルルームに案内する。11階以降の居住スペースに通ずる専用エレベータは最新のものを使っており、入居者は独自発行されるカードキーがないと部屋にはおろか、このエレベータにも乗れないのだそうだ。
「こちらが我がマンションの誇る居住スペースのモデルルームでございます」
「わああっ……す、すごいです……」
案内された部屋のあまりの豪華さに、カフェは思わず声を上げる。品の良い調度品で揃えられた広い部屋には暖炉やバーカウンターめいた食卓、ミニ書斎などまでがあり窓からはY市の景色が一望できた。
「夜中にはコスモパークの大観覧車を始めとした夜景がきれいに見えるのが当レジデンシャルの自慢でございます」
一方露伴は部屋の調度品などを興味深そうに観察し、壁に飾られている絵画はアンディ・ウォーホルのシルクスクリーンか……などと呟いていた。
「ええ、開業に伴って各部屋の調度品には気を配ってあります。高所得者層向けのマンションではありますが、決して気取らず心落ち着けて安心できる場所……そうしたコンセプトで部屋づくりを行いましたから、照明ひとつとっても角度から光量まで計算されつくしているのですよ……ああ、もちろんお客様の好みに応じてカスタムは可能ですからお気軽にお申し付けください」
「ふーん……」
露伴は砂川の部屋についての説明を半ば聞き流すようにしながら、一通り部屋の造りを見て回って。
「気に入った。では『三部屋』契約させてもらおうか。『友人』である彼女たちの分も僕が払うよ……」
「「えッ!?」」
露伴の言葉に、カフェとタキオンは驚いた。一部屋3000万円する部屋を三部屋一律で。というか、自分たちもこのマンションに入居するのか!?
「素晴らしい。ですが現在空いているお部屋が……四十階以上の上層階になってしまいまして。この場合、さらに入居費用がお高く……具体的に言うと合計で……1億と800万円となってしまいますが……」
「……問題ないよ。この僕を誰だと思っている? 『岸辺露伴』だぞ」
そういうと、露伴は小切手を取り出し、Gペンでさらさらとそこに金額を書いて砂川に渡した。
「出過ぎた物言いでした。申し訳ございません。それでは入居の準備をさせていただきますので……」
「だが、一つ条件がある」
笑みを浮かべた砂川がさっそくと言う風に正式な契約書類を準備しようとすると露伴はそこで割り込むように無理やり条件がある、と切り出し……きょとん、とする砂川にこう言い放った。
「一括、三部屋借り上げる代わりに……『今日』から入居させてほしい。いいだろ? どうせ、この先住むんだから。家具なんかも最初から品のいいのがついているみたいだしな……」
「……わかりました。本来なら年収などの情報を含む書類をご提出いただき、ご契約完了までに一週間ほど時間がかかるのですが……露伴さま、カフェさま、タキオンさまは既に社会的な信用もありますし……いいでしょう。本日からお部屋の方にお入りいただきましょうか……さっそく、お部屋の方にご案内いたしますか?」
「ああ、頼むよ」
露伴がいうと、ではこちらに……と砂川が三人を案内する。
「……そういえば、言い忘れておりましたが一つ重要なことがあります」
と、エレベータに乗っている途中、砂川が切り出した。
「重要なこと、ですか?」
「入居者の皆様には全員に『当レジデンスのルール』の『厳守』をお願いしております。例えば喫煙は喫煙スペースで行う、ペット禁止ですとか……普通のマンションにもある『ルール』ですね。詳しくは、お部屋備え付けのパンフレットをご覧ください」
「ふむ……『ルール』ねェ……」
そうこうしているうちに、エレベータの表示は『45階』を指して止まった。
「こちらになります。皆さまご友人とのことですので……隣同士に三部屋取らせていただきました。もしご希望があれば、同じ値段の別の部屋にも転入できますのでお知らせください」
三人が通されたのは砂川の言葉通り『45階』の『4504』『4505』『4506』と隣り合った部屋同士だ。それぞれ露伴、カフェ、タキオンが契約することになり。
「では……『スイートホーム』の素晴らしい生活をお楽しみください」
砂川は案内を終了し、去っていく。それから、とりあえず三人は露伴の部屋に集まり……
「おいおいおい露伴君、聞いてないぞッ……私たちまでこの『スイートホーム』に入居するなんてッ!」
「そうですよ……トレーナーさんや寮のほうに届け出もしてないのに……どうしましょう……」
タキオンとカフェは露伴の勝手な行いに声を荒げた。たしかにマルゼンスキーの様に寮ではなく自前で部屋を借りて住んでいる者もトレセン学園生の中にはいるが、当然そういう行為には許可が必要だ。それに、ここはトレセン学園からは遠すぎる。だが、当の露伴は特に気にした風もなく、お、冷蔵庫に冷えたワインがあるぞ……などと部屋を物色していた。
「待て待て、本当に『入居』する訳ではないよ。あれは中に入り込む方便さ……部外者には取材は許されないだろうが、入居者なら中を動き回れるからな……今日一日、君たちは門限ギリギリまで取材するだけでいい」
などといいつつ露伴はどっかとソファに腰を下ろし。あきれた様子のタキオン、カフェもとりあえず席に着く。
「……そのために一億円以上払ったんですか? 一日取材するだけのために?」
「カフェさん、以前漫画にはリアリティが必要だと言ったね。
リアリティを最高の形で描写するには、何が必要だと思う?」
それから、問いかけられたカフェは少しだけ考えて。
「…………実際に『体験』する事、ですか?」
「その通りだ。『体験』は何物にも勝る最高の『取材』なんだよ。インターネット全盛の時代、資料なんかはいくらでもネットで探せるが……この岸辺露伴が『取材』にこだわるのはそういう事だ。息遣いすら感じられるようなナマツバごくりの経験。その為ならいくらでもカネを払うさ……」
露伴の『リアリティ』に関する哲学は一貫しており、時に自分の身を危険にさらすことすらある。そうまでして、漫画を描き続けるというのは表現に対する一種の狂信にも思えた。
「漫画にそこまで情熱を傾ける姿勢は……さすがの私も尊敬には値するねェ……まァ……やってることは変質者とさほどかわりはしないんだが」
「全く……君は素直に人をほめることができないのか?」
「その言葉は君にそっくり返すよ」
「はいはい、やめやめ。とりあえずこうなったら『取材』に行きましょう。喧嘩してる時間がもったいないですよ」
相変わらず、すぐに喧嘩を始める露伴とタキオンをもはや慣れた調子で止めたカフェは露伴たちと共に取材に出かける。とりあえず、最初は失踪事件が起こった部屋の近隣住民からの聞き込みだ。
「……まず最初に起こった失踪事件から調べよう。X月X日。入居開始からわずか5日目にまず一人暮らしの『東拓海』という人物が失踪している。22歳。FX取引で大儲けしてこの『スイートホーム』の『32003』号室に入居したみたいだな……」
露伴たちはエレベータで32階に向かい、まずは隣の『32002』号室の住民から話を聞こうとした。
「はい……どなた……?」
現れたのは陰気そうな小太りの男で、明らかに露伴たちを不審な目で見ている。
「すいません、隣の東さんの件を取材しておりまして……彼の失踪について、何か知らないかと思い少しお話だけでもお聞かせ願いませんか?」
露伴はまず世間話から入るほど時間もなかろう、と単刀直入に男に切り出す。しかし男は、その瞬間血相を変えてドアを閉め、カギをかけてからドア越しに叫んだ。
「バ、バカ野郎! 『ルール』を知らねえのかテメェッ! 『ルール』その36、『マンションの風評に傷をつけるような論評の禁止』ッ!!!」
「ちょ、ちょっと……」
おもわずカフェはどうしたことか、と慌てたがもはやそれ以上男から反応が返ってくることはなかった。それから、『32001』号室および『32004』号室の住人にも話を聞こうとしたのだが、反応は似たり寄ったりで『ルール』がどうのと言ってすぐに中に引っ込んでしまった。だが露伴はおもしろい、と言う風ににやりと口元に笑みを浮かべて。
「……この慌てぶり……おそらく『事件』について『マンション中』の人間は『何かを知っている』が……それをもみ消そうとしているに違いない」
「だなあ……きな臭くなってきたねェ……これは……」
露伴は次だ、と言って『32005』室へと向かい、呼び鈴を押して住人を呼び出すと……
「『ヘブンズドアー』ッ!」
今回ばかりは逃げられる前に先に手を打つ、とばかりに有無を言わさず本に変えてしまった。
「……さて、悪いが少し記憶を読ませてもらうよ」
「どれどれ……何か面白い記述は出てくるかな……」
「すいません、本当に……」
タキオンはもはや慣れたもので、露伴と共に本となり倒れた住人の顔の横に座り込むとぺらぺらとページをめくり始める。カフェもおずおずとそのページを覗き込む。
「吉田周治……三十歳、趣味はネットサーフィンで気に入らない野球選手の三振した瞬間の写真を探すこと……どうでもいいな、もっと他は何かないのか……?」
「お、露伴君、これ、それっぽいぞ」
ページをめくるうち、タキオンがそれらしい記述を見つけた。
「……『マンションのルール』を破るのが恐ろしい。あいつは『タバコ』を部屋で吸っていた。『ルール違反』だ……『ルール』は絶対だ」
「……随分と『ルール』を破るのを恐れていますね」
「そういや、砂川が言ってたな。このマンションじゃ『タバコ』は……喫煙所で吸わないといけない……と……」
カフェとタキオンがいぶかし気に記述を読み取る。ルール、ルール、ルール、聞き込みをしたどの住人もやたらルールを口に出す。このマンションは、一体……?
「……聞き込みはこんなものだろうね。一度部屋に戻ろう。試してみたいことがある……」
露伴はそういうと、邪悪な笑みを浮かべながらエレベーターホールへと歩き出した……
それから30分後。
「ちょっと勿体ないが……そーらよッ!!!
これで『ルール9、故意に部屋を汚損する行為』は破ったな」
ビリィッ!!!
シーツが無理やり破かれ、中に入っていた羽毛が散らばる。同時に、壁紙には落ちにくい油性ペンで落書きがされていた。そう、露伴は自発的に『ルール』を破ることで、何が起こるのか見極めようとしていたのだ。
「書き込み完了……いくつかのサイトに『タワーレジデンシャルスイートホーム』の悪評を書きこんでおいたよ。えーと、これはさっきの男が言っていた『ルール36、マンションの風評に傷をつけるような論評の禁止』に当てはまるかな……」
タキオンは部屋に備え付けられていたPCを閉じ、ぼよんぼよんとベッドの上で跳ねて『ルール5、騒音禁止』を破っていたカフェに合流して、二人して楽しそうに跳ね始めるのだった。
「ふぅ……これで『ルール』の1/3は破ったか……? と言うか多すぎるぞ……このマンションの『ルール』。みんなこれを律儀に守っているのか?」
露伴は手元のパンフレットの『ルール』のページを眺めながら呟く。とはいえ、かなり『ルール破り』をしてやったが、未だ何も変わったことは起きない。
「……ほらカフェ! スーパータキオンアタック!」
「わあー! タキオンさんやめてください!!!あはは!」
童心に帰り跳ねまわっていたタキオンとカフェ。その振動でがたがたと本棚が揺れ、中に入っていた本がばらばらと音を立てて床に落ち、開いた。その時だった。
「「…………!」」
露伴と、カフェの表情が変わりカフェはタキオンを護るように一歩前に出る。
「どうした、何が起こった?」
タキオンもその様子に気づいて、跳ねるのをやめて身構えた。
「でたぞ……カフェさんと僕にだけ見えるという事は……こいつは『スタンド』だな」
「そのようですね……タキオンさんッ……絶対に私のそばから離れないで!」
「あ、ああ……!」
露伴とカフェには、部屋の中心に直立不動で立つ『スタンド』が見えていた。それはブリキの古風なオモチャのロボットという風なみためで、シューシューと口から駆動音のような物を漏らしている。
「シューッ!!!」
その『スタンド』はまず、露伴に向けて一直線に突進を開始した!
「『ヘブンズドアー』ッ!」
露伴はそのスタンドを真正面から己の『ヘブンズドアー』で迎え撃つ。ガシッ!ガシッ!ガンッ!ドガッ!!!ブリキがへこむような音と共に、ロボットスタンドの装甲がへこみ、ついにはその場に倒れ伏す!
「……フン、スピードもパワーも大したことはないな……この岸辺露伴の『ヘブンズドアー』の敵じゃあない……」
ロボットスタンドのヴィジョンが消滅していく……本体が気絶し
「露伴先生ッ! 後ろッ!」
「な、何ィ―ッ!!!!」
シューッ!と駆動音を立てながら振るわれた拳が、咄嗟にしゃがみこんだ露伴の頭上数センチを通過する……!
「バカな、スタンドは一人一体のはず……『群体型』かッ!? あるいは……『遠隔自動型』かッ!?」
そのまま地面をゴロゴロと転がり、体勢を立て直した露伴はそのロボットスタンドに再び『ヘブンズドアー』のラッシュを叩き込む。ガシャアアアァッ!!! やはり、能力自体は低い! 撃破はできる、が!
「これではっきりしたな……この『マンション』で『ルール』を破ると……このスタンドが現れて『始末』しに来るというわけだ。今までの失踪者はこいつにやられたに違いないッ!」
「……ハァーッ……ハァーッ……ろ、露伴先生、大丈夫ですか!」
部屋の隅でタキオンを守りながら攻防を見守っていたカフェが露伴に駆け寄る。
「ああッ……だが、スタンド使いの『本体』がどこにいるかわからないッ!
敵もこの調子じゃ、まだまだ無数に出てくるぞ……もし『遠隔自動型』スタンドなら、『条件』を満たすごとにいくらでも出てくる可能性だってあるッ!」
「ならば露伴君、ここは脱出だ。命あっての物種だろ……それにもう、取材の目的は果たしたッ! 撤収だッ!」
そう言って、タキオンが部屋の入口に駆け寄り扉を開ける。
「『おともだち』ッ!」
「うわッ!?」
その瞬間だった。カフェの声と共にタキオンの身体がぐん、と後ろに引っ張られる!ずるずると地面を引きずられるようにカフェの元へと戻ったタキオンは、引っ張られる直前、なにかの『力』が自分の目の前を通り過ぎるような空気の動きを感じていた。
「……出口がふさがれたぞ……ッ!」
そう、タキオンが開けた入り口の先に居たのはあのロボットスタンドであった。カフェの『おともだち』が少しでも遅ければタキオンは凶悪なフックでその脳天を叩き潰されていたかもしれない。
ロボットスタンドは、部屋に入り込み後ろ手で扉を閉める。だがその動きは本当のゼンマイ仕掛けの人形のようにとろとろとしており……やはり露伴のヘブンズドアーの敵ではない。メキャアアァッ!!!
胴に強烈な一撃を喰らい、その場に頽れるロボットスタンド。
「一体一体出てくる……ということはおそらくこれは『遠隔自動型』だ。『群体型』ならそんなことをする意味は薄いからな……そして、やはり恐らくこのスタンドには『出現』に……『条件』があるッ!」
「さっきドアを開けようとすると、先回りするように現れた……キーはこの部屋、から脱出しようとする行動か?」
「いや、僕の後ろに現れた時はそんなそぶりは誰もしなかった……別の条件だ……何か別の……」
――Priririririririr
と、その時だった。露伴の携帯電話が鳴る。それは、砂川からのメールだった。露伴様、お部屋からの騒音がうるさいと別のお部屋の方から苦情が届いております。もう少しお静かにお願いします――そういった文面のメールだ。
「……チィッ、こんな時に……!」
露伴は反射的に、自動で開いたスマートフォンのメーラーアプリをタップして閉じようとした。
「露伴さんッ! またッ!」
その瞬間、露伴の目の前の例のロボットスタンドが現れる! 剛腕!
「シューッ!!!」
「うおおおおッ!!!」
咄嗟にスタンドで防御するがパワーはそれなりにあるッ! 露伴はずざざ、と床を擦るように後ろに滑りバーカウンターにたたきつけられた。
「クソ、『ヘブンズドアー』ッ!」
反撃とばかりにヘブンズドアーの蹴りがロボットスタンドの頭部を叩き潰す。一体一体は弱敵だが、このままではじりじりと削られてしまうッ!
「わかったぞ……露伴君ッ! 『敵』の『出現条件が』ッ!」
「奇遇だなッ、僕もわかったところだッ! こいつらは……」
「「何かを『開く』と出てくるんだッ!」」
タキオン、そして露伴が同時に叫んだ。
「……最初は落ちた本が開いたから、次はメモ、そしてドア、お次には……スマートフォンのアプリを開いたからと来た。なるほどこいつは、かなり広い範囲の『開く』という行為をカバーして襲い掛かって来るらしい」
露伴は、動くなよ……誤って足でなにかページでも開いたらまた出てくるからな……とカフェとタキオンを制し、慎重に部屋の中心に移動する。
「ど、どうするんです……『開く』と出てくるという事は、ドアを開けばまた現れてしまうんじゃ?」
「だろうな。部屋の壁を破壊する……と言うのもダメか。出口を開くと解釈できる……」
カフェ、タキオンも慎重に部屋の中心に移動し円陣めいて露伴と背中を合わせる。これはかなり『追い詰められた』状況だ。窓をぶち破って飛び降りるのも不可能……ここは地上四十五階なのだから。
「無理やり突破するか……?」
「いや、それは避けたい……もし、敵本体に『防火装置』でも弄られて通路でシャッターに挟まれたら最悪だ。いくつ『開いて』逃げなければいいかわからなく……いや、待てよ……『防火装置』。これだッ!」
そういうと露伴は、部屋のキッチン方面へと移動し、『火災報知器』を探し始める。
「条例で一定以上の階層の建物にはかならず『火災報知器』『消火装置』がついているからな……よし、あったぞッ!」
「何をする気なんだ……?」
タキオンとカフェも、慎重に露伴の方に移動する。すると、露伴は火災報知器に火のついたライターを近づけていた。当然、次の瞬間火災報知機が作動し、けたたましい音が鳴り響く!
…………その光景を、十一階にある管理人室から『砂川是千代』は隠しカメラを通じて確認していた。そう、管理人『砂川』こそがこのロボットスタンドの本体であるスタンド使いなのだ!
「一体、火災報知器で何をする気だ……ああ、そうか、『消防』を呼んで……自分たちではなく『消防』にドアを開けさせるつもりなのか。なるほど考えたな……最新鋭の火災報知器は自動で消防に連絡を行うからな……」
砂川はワインと、クラッカーにカマンベールチーズをのせ蜂蜜を掛けたものを貪りながらほくそ笑む。
「だが甘いなァ……私は『管理人』だぞ……システムの制御ぐらいお手の物……貴様らが『ルール』を破った時点で……すでに外部への連絡経路はすべて遮断済みよ……『ルール』を破った貴様らが悪いんだ。私はこの『スイートホーム』の『神』だぞ。『神の制裁』をその身に受けるがいい!ハハハハハハハッ!!!!!!!!」
哄笑する砂川。そう、彼は『スイートホーム』の『管理者』として……『ルール』違反をしたものに対して制裁を行う事に憑りつかれていた。この三人は私と同じ力を使えるようだが……じわじわと追い詰めて始末すればいい……そう考えながら、砂川は画面をのぞき込む。その時だ。
画面の中で、男が空中に絵をかくような奇妙な手の動きをした。
「な、何をして……ア!!!!」
瞬間、砂川は自分の顔がバラバラと本のページの様に開く音を聞きながら、意識を失い事務机に突っ伏した。
「やれやれ……やはり、砂川さん。あなたが犯人だったか……」
次に砂川が目を覚ますと、目の前にはあの三人……露伴、カフェ、タキオンが立っていた。
「ヒッ……お、お前たち、なぜ私を……私が……私だと、気づいた?」
「あまりにもタイミングのいい『メール』でね。それだけでは半信半疑ではあったが……」
そう、露伴に送られた砂川のメール。あれはアプリが開くことを誘発する目的であのタイミングでおくったものだが、それで逆に露伴たちは砂川が怪しいと感づいたのだ。
「……で、もしあなたがアプリが開くことを狙ってメールを送ったとするなら、一つの仮定が成り立つんだよ。通常『自動操縦型』とか『遠隔自動型』とか言われるスタンドは、本人になんら関係なく、一定のルールに従って自動で動く。やられようが敵を始末しよーが……それはあなたには分からない」
露伴は、数々のスタンドを見てきた経験からこうした法則性には詳しい。
「それじゃあ、あなたは困るんだよなァ。始末した後に死体が残ってしまうから隠蔽工作をしなければならないあなたには。それにあんなに都合のいいタイミングでメールが送れるという事は……隠しカメラか何かで、私たちを監視している可能性が高い。実際、この部屋の設備を見るにそうだったみたいだねェ……」
タキオンは管理人室に設けられた無数のモニタを見渡しながら、よくこれだけ揃えたものだ、と逆に感心した。
「ですから……露伴先生は火災報知器を発動させてあなたの耳眼を確実にこちらに向くようにしたんです。十中八九監視しているでしょうが、露伴先生の能力を確実にあなたに食らわせるには見ていることが必要ですからね……」
露伴が火災報知器を作動させた目的は、砂川が確実に自分を『見る』ようにするためであった。そして後はヘブンズドアーを発動し、そのサインを砂川にカメラ越しにみせればいい。とにかくスタンドの出現が止まれば、本体が砂川でなくとも後は悠々とマンションから脱出すればいい、というわけだ。
「フ、フフ……だが、俺は、俺は裁けんぞ。どう警察に説明するつもりだ?
この能力を。今日は貴様らの勝ちだ。見逃してやる。だが俺はこの私の『スイートホーム』で『神』であり続ける。お前たちは、それを指をくわえてみているしかない!!!」
「……フン、別に警察を気取るつもりはないさ。勝手にするといい」
「……ですね。そんな権利も私たちにはありませんし……」
そういうとタキオンは疲れた、と言う風に先に管理人室から出ていき、カフェもそれに追随した。
「ああ、ぼくたちは『承太郎さん』とか『クソッタレの仗助』のような正義漢じゃないからな……あんたが『神』をきどろーと、ハーマン・ウェブスター・マジェットをきどろーとどうでもいい」
露伴も、そういうと踵を返す。
「ハ、ハーマン? 訳の分からんことを……見下しやがって!」
砂川は怒りを発露させ、ワインの入ったグラスを地面に投げつけ、かんしゃくを起こしたようにテーブル上のものをぶちまけた。バタバタバタバタ。メモ帳が地面に落ちて開く。
「シューッ」
その瞬間だった。
「え?」
ロボットスタンドが、砂川の眼前に現れる。
「おォッと……『ルール9、故意に部屋を汚損する行為』を『破った』な……砂川さん、これはあなた自身が課した『ルール』だぞ……『ルール』を破ると……『制裁』があるんだろう?」
露伴は一度振り向いて、完全に砂川を『見下しながら』言い放った。勝つときと言うのは相手を見下しながら勝つものだからだ。
「スデに『ヘブンズドアー』で書き込んでおいたよ。あなたは『ルール』を『破る』とね……」
「バッ、バカな……違う! これは! 違うんだ! ギャ、ギャアアアアアッ!!!!」
スタンド名:<|°_°|>(ロボットフェイス)
本体:砂川是千代
――
←To Be Continued?
スタンド名:<|°_°|>(ロボットフェイス)
本体:砂川是千代
破壊力:C スピード:C 射程距離:C
持続力:B 精密動作性:B 成長性:C
『ルール』を破ったマンションの住人が、なんらかの物を『開く』と発現する遠隔自動操縦型スタンド。特別な能力は持たないが対象を機械的に追い詰め抹殺する。
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#016『闇にうごめくもの』
S県東部。東京都と間にまたがる秩父山脈に『平間山』という山が存在する。高さは609m、名前の由来は頂上部が平らであるからというシンプルなもので、『平間高原』と呼ばれることもある。主な施設は中腹にある平間山神社と江戸時代の銅山跡。この山の登山道を、3人の登山客が登っていた。
「ふぅ……タキオンさん、露伴先生、見てください。いい景色ですよ!」
先頭を上るのは、黄色と黒の登山ウェアに身を包んだマンハッタンカフェだ。彼女は登山が趣味であり、今日はレース直後の休養期間ということもあって気分転換にこの平間山にやってきていたのだ。
「カフェ~、待っておくれよ~……」
「ハァ……ハァ……それなりに体は鍛えているつもりだったが、登山は慣れないものだな」
それよりも後に続くのは、ピンクのウェアに身を包んだアグネスタキオンと、水色のウェアの岸辺露伴。登山初心者の二人はさすがにカフェのようにはいかず、息を荒げながら一歩一歩踏みしめるように、登山道を登る。
「まぁ……何事も経験というやつだな……」
秩父山脈南東部は修験道の霊場であったことから『天狗伝説』があり、露伴にとっては、登山は『ついで』であり、本来、この山の中腹にある神社にある『天狗のミイラ』を取材に来たのだが……正直それは期待外れであった。どうみても、魚や動物の骨と皮、粘土を組み合わせて作られた『フェイク』。おそらく、見世物小屋などで見せるために江戸時代あたりにつくられたものだろう……現存する『人魚』だとか『鬼』のミイラなどもそんなものが多いと聞くが、まさしくそれにぶち当たった形だ。
一方、タキオンは最初全く登山に興味を示さなかったが、露伴が行くとなるとカフェを守るぞ。などと言っていつもの如くついてきた格好だ。
「お二人にペースは合わせますから、ゆっくり登りましょう。
大体慣れてる人だと一時間半時間程度で山頂まで登れる山なのですが、この感じだと休み休み、下山までにあと三時間がめどですね……」
「三時間かぁ~~~~……」
タキオンが思わず声を上げる。この『平間山』登山道は比較的初心者向けのコースではあるが、それでも高低差が少ないとは言えない。ちゃんとした登りがいのあるコースで、カフェはそれゆえに二人をここに連れてきたのだ。十時頃から登って、今はちょうど正午。頂上まではもう少しだし、山頂で長めに休憩しても三時すぎには下山できる。
「ふふ、登ってる最中は苦しいですが、登り切った後の爽快感を味わえばタキオンさんもやみつきになりますよ。あ、スミレが咲いている」
こういう小さな楽しみを見つけるのも登山のおもしろさのひとつです、などといいつつ、すれ違う登山客に一礼しつつ登っていくカフェ。タキオンと露伴もかろうじて一礼をしてどうにかこうにかカフェに追いすがっていく……
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #016 『闇にうごめくもの』 ◆◆◆
「ついたぁ~~~~!!!!」
平間山山頂にたどりついたのはそれから三十分後の12時半ごろであった。タキオンは最後の一歩を登りきると、よろよろと近くにあったベンチに腰を下ろし、一息つく。露伴も、体力を使ったのかやや息が荒い。
「ところでカフェ……山頂についたら売店でお茶でも買おうかと思ったんだが…………?」
きょろきょろと周囲を見渡すタキオン。しかし、平坦な砂地と岩肌が広がるばかりで売店どころか自販機すらない。
「そんなものないですよ……事前に説明したじゃないですか。山頂にあるのは仮設トイレぐらいだって……」
「ええーっ!? そんなの言ってたっけ?」
いいましたよ、とカフェは譲らず、ジト目でタキオンを見る。既にお茶を完全に飲み干していたタキオンはつらそうに顔をしわしわにしていた。さすがに登山初心者がさらに数時間、水分補給なしで歩き続けるのは無理があるので、カフェは自分の分を分けてあげますよ、とだけ言って。
「とりあえずご飯にしましょう……」
「うむ、気を取り直してそうしよう……なんだかんだ、山頂まで登ってみると空気も澄んでいるし景色もいいものだねェ……」
「まったく、君はたまに抜けてる時があるな……」
タキオンは、トレーナー君から預かった弁当を二人にも配る。今回の登山は山岳での心肺トレーニングも兼ねており本来であればトレーナーも同行の予定だったのだが、急な用事で行けなくなってしまったため、代わりに弁当だけをお詫びとして託した形だ。
「はァ……」
こうして、山頂で弁当を食べて休憩し、やる気と体力を充填した三人は頂上にある神社の分社に記念参拝すると、1時ごろにはもう山頂を出発した。おおよそ一時間歩き、タキオンが帰りたいよーなどと言い始めた頃……。
「……まずいです、霧が出てき始めました。天気予報では霧の発生確率はほとんどなかったはずですが……よく言われる格言の通り、山の天気は変わりやすいですからね……」
カフェの言う通り、辺りに休息に霧が立ち込めてきていた。視界は2~3mといったほどで、タキオンと露伴はカフェの周りに集まり、どうするかを相談する。といっても、ここは山に慣れているカフェだよりだ。
「実際に出始めている以上、どうもこうもないな……こうした場合はどうするんだい、カフェさん」
「……そうですね。たかが霧と言っても、無理な行軍は体に雨粒の様にまとわりついて体力を消耗します……かといって夜になるとさらに気温が下がって体温が下がりますので……」
実際、山歩きでは様々なアクシデントが想定される。特にこうしたケースは下手に動けばルートを誤っての遭難や道を踏み外しての滑落が予想されるのだが……だからといって下手にとどまって夜を待ち、寒さで低体温症となるケースもあり得る。遭難時に『こうすればよい』という決まった行動はあまり存在しないのだ。だからこそ、カフェは今回二人が山歩きについてくるにあたって、装備に関しては万全のものを選ばせた。皆の登山ウェアが派手な色なのも、万が一遭難したときに発見されやすくするためだ。
「近くに山小屋でもあればいいのですが……」
幸い、スマートフォンのWi-Fiは問題なくふもとと繋がる。山のプロである山岳ガイドなどと連絡を取り合いつつ対策を練ることもできよう……そう思い、カフェがスマートフォンを取り出した時だった。
「あれ、山小屋じゃあないか……?」
カフェから分けてもらったお茶を暢気にすすりながら、石に座って休憩していたタキオンがふと指をさす。そこには、霧の向こうにうっすらとだが、確かに山小屋があり……と言ってもかなり古い。事前に貰った山岳マップにもこんなところに山小屋があるとは記入されていないことから既に廃止されているものかもしれない。そんな山小屋が霧の中にぼんやりと窓から明かりを放ちながら浮かび上がっているのだ。
……もしかすると自分たちと同じく霧で困った登山客が逃げ込んでいるのかも。これはありがたい。休憩するぐらいのことはできるし、もしも霧が晴れず下山できなくなったとしても眠ることはできる。最悪救助される際の目印にだってなるのだ。
「……そうみたいですね。あそこで休憩していきましょう。このまま霧が晴れなければ、今夜はあそこで一泊です」
「ええーっ……まぁ、仕方ないな……」
「月並みなセリフだが山を舐めるな、という教訓だな今回は……何か漫画のネタにできないものか」
登山初心者の二人にとっては、かなりハードな初登山となってしまった。カフェはなんだかすいません……と謝りつつ山小屋を目指した。
「カフェのせいじゃあないさ……ま、たまには研究室を飛び出てのフィールドワークも……」
そう言いながら、少しさびたドアノブを捻って扉を押し開け、中に入るタキオン。その時だった。タキオンはけげんな顔をして、言い放った。
「っと、やっぱり、誰か既にいるぞ……」
古い電球がジリジリと音を立てて、光を発する小屋の中。その隅に一人、いや二人の人物がいる。一人は男で、完全に隅に収まるように座り込みブツブツと下を向いて呟いている。もう一人は……毛布を掛けられたまま、眠っている……?
「すいません、私たちもここに避難をしてきまし……」
カフェがとりあえず男たちに声を掛けたその時だった。
「ひいっ!?」
ブツブツと呟いていた男は、今になってカフェたちに気づいたようで驚きの声を出すと同時に、何かを恐れさらに逃げようとして壁に張り付きながら、叫ぶ。
「早く閉めろッ! ドアをッ! 『やつら』が来るッ!」
「え、は、はい……!」
カフェは男に気圧され、タキオンと露伴が入ったのを確認するとドアを閉めた。男は、それを確認すると荒い息をしながら、再び部屋の隅で座り込み、ぶつぶつと何かを呟き始める。ウマ娘の聴覚は、それが『念仏』であることを聞き取った。
「なんだね、少し『無礼』じゃあないか……? カフェさんが礼儀正しく挨拶をしようとしたのにその態度は……『礼』というのを親からならわなかったのか?」
(待て、露伴君……たぶんありゃあヤバい奴だぞ……下手に関わらない方がいい)
露伴にひそかに耳打ちをして、釘を刺すタキオンであったが露伴は二人の方に歩み寄り……そして気づく。
「待て……何かおかしいぞッ……そのシーツで寝ているヤツ……ッ!」
シーツからはみ出した寝ている人物の掌。あからさまに、まるで古い仏像のように黒く変色し、皺も老人のそれよりひどい。
「し、失礼……」
露伴はシーツをめくり、寝ている人物の様子を確かめる。その間も座っている男はブツブツと念仏を唱えており特に干渉してくることはなかったが……
「こッ……これはッ!? 」
そこにいたのは、全身が黒く変色しまるで骨と皮だけになった人物。来ている登山ウェアのデザインなどから、辛うじて女性と分かるが……その姿は全身が黒く変色した妖怪の『塗仏』を連想させた。だが、こんな状態でも……いや、どうすればこんな状態になるのかわからないが『女性』は生きていた。微かに胸を上下させ息をしている。喉からひゅうひゅうという音も聞こえる。そのショッキングな姿にカフェとタキオンは言葉を失い、立ち尽くしてしまった。
「『ヘブンズドアー』ッ!」
露伴は、部屋の隅の男にヘブンズドアーを発動する。この異常な人物……ここに一緒にいたのはこの男だ。何か知っているはずッ!
「……松岡淳平太、24歳……趣味は登山で、尻に大きなほくろが3つあるのがコンプレックスでそのうち切除したいと考えている……恋人の鎌田えみりとさらに友人の田中五郎と共に平間山に登山にやってきた……」
鎌田えみりとはこの寝かされている女性のことか……露伴はちらり、とそちらの方を見やる。
「……まってください、松岡淳平太さんって……捜索願いが出ています……!」
カフェが、山岳登山アプリで平間山の情報を表示する。そこには『遭難者』の欄があり、松岡淳平太および鎌田えみり、田中五郎の三名昨日悪天候のため下山できず、山小屋で一夜を過ごすと連絡があるも本日も下山確認できず。山岳救助隊が出動し、ヘリで捜索するも突然の濃霧のため捜索中断とある。
「あきらかにこの二人のことだな……だが……これは異常だぞ。何かがあったに違いない、もう少しページをめくってみよう」
露伴は緊張した様子で、ページをめくっていく。すぐさま、その異常な記述が見つかった。
「『やつら』が襲い掛かってくるッ! えみりが、えみりがこのままでは死んでしまう。辛うじてやつらの弱点を見つけたが……どうすればいいんだ? えみりを見捨てて俺だけでも下山すべきか? だが、いつまた『霧』が発生するかわからない……どのタイミングで下山すれば……そもそも先に助けを求めに行った田中は無事に下山できたのか!?」
「『やつら』? 何かに襲われたらしいな……熊……とかか……? だがッ……このえみりさんとやらの異常な状況の説明にはならない……ッ!」
そんな中、露伴は気づく。ページの中の記述にとある『単語』が多い事を。
「『光』……『光』をともし続けなければ。だがこの電球はいつまで持つ? 『光』が時折点滅している。寿命が近い……スマホはもうライトの使い過ぎで電池切れだ。とにかく『光』を……手回し発電機でも持ってくればよかった」
「こいつ……やたら『光』を灯すことにこだわってるな……」
その時だった。チカ、チカと電球が明滅したかと思えば……そのまま光が途絶えてしまった。
「あ……カフェさん、タキオン君……すまない、その辺に換えの電球なんてないか?
山小屋だし、ストックの一つぐらいあるかもしれな……」
露伴が振り向き、カフェとタキオンの方を見た瞬間、凍り付いた。不安げな表情を浮かべる二人の後ろ。山小屋の窓の外に。なにか。真っ黒い肉がぶくぶくとふくらんだような、それでいて人間に冒涜的なまでに酷似した手足と歯茎をむき出しにした巨大な口を持つ『なにか』が佇んでいたのだ。
「ハッ……!」
霊感を持つカフェも、それに気づいたのか咄嗟にタキオンの手を引き、逃げるために露伴の方による。
「い、いけません……あれは、『あやかし』の類ですッ……しかも、かなりヤバイッ……
あれはいけないものです。絶対に近寄っては……!」
ぬちゃ、ぬちゃと粘着質な音を響かせながらあきらかに『なにか』はドアの方に近寄っていく気配がある。入って来る気かッ! 実際、きぃ、と音を立ててさび付いたドアノブが回される……!
「お、お前たちッ……『光』を消したのかッ!?
なんてことをッ……なんてことするんだッ!!!」
いつのまにか、本になっていた状態から復帰していた隅っこで念仏を唱えていた男――『松岡』は光が消えていることに狼狽し、それを電球の寿命が切れたことではなく露伴たちが消したと誤認すると、咄嗟に入り口横にある照明のスイッチを押しに行った!
「ま、待てッ!!!」
「あ! ぎゃあーッ!!!」
松岡がスイッチを押そうとした瞬間、わずかに開いたドアからぬうと差し込まれた極度肥満体めいた真っ黒な腕が彼の右腕を掴む! すると、なんということか! 松岡の右腕が真っ黒に変色し、しわしわに干からびていくッ!!!
「な、なんだァ―ッ!?」
「お、『おともだち』ッ! 彼を助けてッ!!!」
狼狽するタキオン。カフェは咄嗟に『おともだち』に助けを求めた。すると、ひとりでにカフェの登山ウェアのポケットからスマートフォンが浮き上がって……ライト機能を起動。そのぶくぶくと肥え太った腕に対して光を照射したッ!
「おあぁぁ~」
すると、光を受けた部位はまるで影が光に照らされるが如く消え去り、松岡はその場に荒い息をつきながら、尻もちをつく。
「君ッ、大丈夫かッ……!」
タキオンは、その一瞬のスキを突き、ドアを蹴り閉めると松岡を引っ張って露伴たちに寄せた。
「ハァーッ……ハァーッ……『やつら』とはさっきの『化け物』のことかッ!
クソ、えみりさんはあれにやられたというわけだ……!」
タキオンは、松岡の黒く変色し皺だらけになった右腕を見やる。まるでその部位から『生命力』が吸い取られてしまったかのようだ。
「……み、右腕が、畜生ッ……もう、夜が来るッ! 『やつら』が来るぞッ!
電球が切れたのなら、は、早く探せッ! 取り替えろ! どこかに、ないのかッ!
やつらは『光』に弱いんだッ!!!」
松岡は、右腕を押さえながら半狂乱で叫ぶ。
「……さがすんだッ!!!」
その声を聴き、露伴たちも換えの電球を探し始める。幸い……電球のストック自体は、いくらか見つけることができた。もう古そうだが、とにかく例の『化け物』がまた来る前に急いで交換を行う。チカ、チカ、と二、三度明滅したのち再び灯りがともされる山小屋。これで、一安心……なのか?
「松岡さん……だったね。いったい『あれ』はなんなんだ……?
『光』に弱いというのは分かったがッ……」
「え……なんで俺の名前を……そもそもわかんねえ、わかんねえよ……
霧に包まれたかと思ったら、いきなり現れて……えみりが……えみりを……」
松岡という男は、露伴に名前を呼ばれてやっとまともな反応を返した。しかし、男も詳しい事は知らないのかわからない、と繰り返すばかりで役に立ちそうにはない。
「露伴君、まずいぞ……そろそろ日没の時間だ……!」
窓の外を見ていたタキオンは冷や汗をかきながら露伴に警告した。そもそも霧で光がほとんど入ってこない以上、外に出ればあの怪物に出くわす。この山小屋で一晩を過ごすしかないのか? あの『化け物』の襲撃におびえながら。
「……はぁ、はぁ」
「カフェ? 大丈夫かい?」
カフェは胸を押さえ、動悸を鎮めるように荒い息をついていた。それに気づいたタキオンはカフェの様子を見るが……その顔面は蒼白で、震えが止まらないという風。
「……『やつら』が来ます……すごい数です。百近い気配がします……!」
「な、なんだって……!」
強い霊感を持つカフェは、『やつら』の接近に気が付いていた。タキオンは霧で見通せない遠くから、耳を使って『怪物』の足音を聞いた。それはひたひたとゆっくり、それでも着実にこの山小屋を目指して歩いてきているッ!
「完全に包囲されているぞッ……!」
四方、どの窓からも近づいてくる『怪物』の群れの動きが聞こえる。だが、動きは遅そうだ。ウマ娘のスピードなら……とも考えたが、一体相手はいくらいるかわからない。完全に包囲されてしまえば終わりだ。
「落ち着け……やつらは光の中に入ってこれない……それは確かなことのようだ。見ろ、やつらは霧の中や……影、暗闇の中でしか活動できないみたいだ」
同じく窓から外を見ていた露伴は、『化け物』が窓から漏れ出る光に決して近寄らないようにしていることや、霧の中でもより仄暗い木陰などにこのんで佇んでいることを観察から見抜く。
「大丈夫だ。電球も換えたばかり……どれだけ古い物とはいえ、一日ぐらいは持ってくれるだろう。問題はない。僕たちはただ、粛々とこの『山小屋』の中で過ごせばいいだけだ……!」
……それから6時間が経った。露伴たちは、遭難時用のチョコバーやエナジーバーと言った緊急時用のハイカロリー食品を持っていたのでそれを齧りつつ、何らかのアクシデントに警戒しながらピリピリとした空気感の中時間が経つのを待っていた。
既に辺りは暗闇に覆われ、窓の外を見やれば無数の『怪物』が光の届く範囲ギリギリまで近づいて直立不動の態勢で立ち並んでいる。
「しかしどうやら『やつら』は……我々の『生命力』を吸い取っているようだな……あんなにしわしわになっていた皮膚がもう回復している……」
松岡という男にもエナジーバーを分け与えたところ、急速に右腕の黒ずみと皺が収まり元の調子とはいかないが、ある程度肌に張りが戻ってきた。だが、重症のえみりさんはそうはいかない。もはや咀嚼するほどの力もない彼女に無理やり食べ物を含ませても窒息するだけだ。早急に病院での点滴が必要だろう……。
露伴はそう考えながら、手帳にメモを取ろうとしたその時だった。
――ヂッ!ヂヂヂッ!ヂッ……
……電球が激しく明滅し、消える!
「何ッ!?」
「バカな……夕方に換えたばかりだぞッ! クソ、誰かスマホのライトで手元を照らしてくれッ! 僕が新しい電球に交換するッ!」
「は、はいッ!」
露伴は電球のストックからさらに一つをひっつかみ、カフェとタキオンのスマホライトの明かりを頼りに交換するが……無情にも電球は光を発しない!
「どういうことだ……も、もしかしてッ!!!」
露伴は、窓から外を覗く。ひたひたとこちらにやってくる『怪物』ではなく、小屋から伸びていた『電線』を探して……あったッ! 小屋に入る前はぴんと張っていたそれが地面に垂れているッ!
「まずいぞッ! 『やつら』……『電線』を『切断』したんだッ!」
「何ィ―ッ!?」
まずい、まずいまずいまずい……このままではあの物量に押しつぶされやられる。持っている光源と言えばスマートフォンのライト程度だ。それだけでどの程度身を守れる? あの数に抵抗できる? いつまで電池は持つ……?
ひた、ひたという音が大きくなっていく中、露伴は考えた。
「仕方ない……この手段は使いたくなかったが……皆、これを飲むんだッ!」
タキオンはどこからともなく、試験管に入った毒々しい水色の液体を取り出す。そして一息にそれを飲み干すと、また人数分のそれを取り出してとにかく飲めと勧めてきた。
「タキオンさん……これは……!?」
「早くッ!!!」
いつもならばタキオンの薬品を警戒し、決して受け取らないカフェも、露伴もさすがにこの状況で妙なことはしないだろう、とその薬品を飲み干す。松岡もだ。
「いいか、この薬は……表皮近くでルシフェリン-ルシフェラーゼ反応を引き起こすものだ。健康には『ほぼ』害はない……」
「『ほぼ』!? というかその、ルシ何とか反応ってなんなんですッ!?」
カフェが驚いたように、口を開いたその時だった。その体が、青白く発光し始めたのだ!
「こういうことさ。我々はこれから『発光』する!」
「ええ……」
「ど、どうなってんだァ―ッ!?」
あきれた様子のカフェと、驚愕の松岡。そう、タキオンの薬剤はよく服用者が発光する。彼女のトレーナーなどはよく薬を盛られているのかいろんな色に発光するさまがよく目撃されているほどだ。
「こんなものがあるなら、早く出してくれよッ! これで解決じゃあないか!」
露伴はややイラついた様子でタキオンに詰め寄る。しかし……
「……これには『副作用』がある。もっと機材の整った所であれば、そんなものは起きない薬剤を調合できたんだが、今はこれで精いっぱいでね……」
「ふ、副作用……?」
それからさらに5時間ほどたって。
「ハァ……ハァ……」
「ゲホ……」
タキオン、カフェ、露伴、そして松岡の四人はもはや息も絶え絶えと言う風に座り込んだり、倒れたりしていた。体の発光もかなり弱弱しく、元から弱り気味の松岡の物などは既に消えている。
「…………」
タキオンがいう副作用とは……体内のATP――アデノシン三リン酸と呼ばれるヌクレオチドを大量に消費する事。つまり急速に『疲労』し『腹が減る』のである。
「さ、寒い……凍えそうだ……」
生物発光は基本的にほぼ熱を生み出さない。夜の冷え込み、体力消耗により露伴や松岡は低体温症をおこしかけている。
(…………いつまで、持つ? せめて朝まで……そうすれば……)
既に手持ちのチョコバーなどの食品は尽きた。タキオンも、疲労感で体が動かせない。その時だった。
――がちゃり
さび付いたドアノブがゆっくりと回る。そしてきぃ、ときしみながら開き……『やつら』がこちらを覗いているのが見えた。『やつら』はひた、ひたとゆっくりゆっくり室内に入り込んでくる……
「ハァーッ……ハァーッ……!」
(……もう、光量を確保できないか……)
『やつら』は力つきかけている我々を見下ろすように集まると……ゆっくりとその手を顔面に伸ばした。
(……ここまでか。トレーナー君……すまない……)
タキオンはゆっくりと目を閉じ、そのまま意識を手放して冷たい闇の中に落ちていった。
それから……
――バラバラバラバラ
「う……」
タキオンは、すさまじい騒音にたたき起こされる。
「大丈夫ですかッ! 意識はありますかッ!」
レスキュー隊員と思われるオレンジの制服。その呼びかけに、こく、こくと頷く。声は出せない。その気力もない。
(間に合った……か……)
横目に稜線を見やる。そこには、昇り始めた太陽。我々は、何とか朝まで耐えきったのだ。それに、スマートフォンの充電を温存していたことも、幸運だった。夜中、山小屋にこもっているとき、既にふもとに連絡し明日の朝いちばんで山岳レスキュー隊に救助を頼んでおいたのだ。
(………………)
こうして、カフェ、タキオン、露伴を含む5人はヘリでふもとの病院に搬送されもっとも病状の深刻だった鎌田さんも事なきを得た。
「……平間山で遭難、5人生存、1人行方不明捜索続く……ですか……」
カフェは、病院のベッドで点滴を受けながら新聞を広げる。幸い、体力を消耗しただけで怪我などはなく、明日には退院していいそうだ。だが……先に助けを求めに行ったという、松岡さんたちの連れの田中さんはまだ見つかっていない。というより……おそらくは見つからない気がする。
……それと、これはあとから、露伴先生に聞いたことだがこの平間山は江戸時代に『銅山』があったそうなのだが……そこで『落盤事故』が起きたという記録があるそうだ。当時の技術ではすぐに助けることができず、2か月を要して岩盤を掘り抜いたものの、内部にいた人間は全員餓死。『共食い』の形跡すらあったその犠牲者は100余名にのぼった……という事故があったらしい。なんとなく、『やつら』はその『犠牲者』の怨念であったのではないかと言う気がしてならない。暗い場所で食べ物を求め、さまよう集団……それはきっと、江戸時代から平間山に登る人間を襲い続けているのだろう。既に肉も肥え、ぶくぶくと膨れ上がるほどになったというのに……
だが、私にはどうしてやることもできない。私は霊の話を聞いて、満足させてやることはできる。しかし、敵意や悪意を持ち、明確に命を害そうとしてくる『話の通じない』相手はどうしようもないのだ。
……私は後日、既に朽ちかけた『平間銅山落盤事故慰霊の碑』を訪れ、そこに花を供えた。
ざわざわと風になびくブナの木陰で、水膨れめいて膨らんだ手足が一瞬ちらと見えた気がした。
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#027『藤見野村』
不老不死。それは古来から人類の夢として語られるものの中でも最もスタンダードな物だ。例えば始皇帝は不老不死を追い求め水銀を飲み死亡したという話は有名だし、日本の古事記にもトキジクノカクという食べれば不老不死になれる果実が登場する。その他にも北欧、南米、アフリカ……世界中にそうした類の話は掃いて捨てるほどある。僕自身は別段、そうした物には興味はないんだが……それはそれとして不老不死のメカニズムというものには興味があるし、自分の死体を冷凍保存する金持ちよろしく、僕が老人になったころには『死』への恐怖から不老不死を願っていないとも言い切れない。
まぁ、こういうのは結局ろくな結末にはならずティトノスのように最終的にセミになってしまったり、プロメテウスが如く永遠の責め苦を負うのがお決まりなのかもしれないが……
今回のお話は、そんな『不老不死』に関する物語だ――。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #027 藤見野村 ◆◆◆
「不死身の村?」
「違う、藤見野村さ。いや、似たようなもんだろーかね……」
「何がどう違うんですか……」
アグネスタキオンの言葉の微妙なニュアンスから器用に違いを読み取った露伴はすぐさま訂正する。しかしながらマンハッタンカフェにとってはもはや微妙なニュアンスすぎて全く理解できないやり取りが繰り広げられていた。今回、露伴が取材テーマとして持ってきたのは『藤見野村』――発音は一緒だが通称『不死身の村』、あるいは『不老不死村』。ご多分に漏れず……というかそっくりそのまま、その村の住人は『不老不死』である、という村だ。
「ふぅン……不老不死……ばかばかしい、とまでは言えないねえ、老化という現象については諸説あるが遺伝子プログラム説……ヘイフリック限界なんかのアレだな。それだとヒトの寿命は最大でも120年程度と言われているが老化を止めるというワクチンは技術的にはもう作ることができる段階まできているそうだよ」
タキオンは自分の得意分野である生体科学分野の話題と言う事もあり、饒舌に口を開く。露伴などははいはい、分かってますよと言う風に不機嫌そうだったがカフェは素直にそうなんですか……と感心していた。
「で、それが今回の取材先という訳かい? だが、なーんか『雑』じゃないか?
このご時世に不老不死の村って……小学生でも信じなさそうなもんだが……」
タキオンはサバラガムワに角砂糖を放り込みながら、露伴にいぶかしげに問う。
「最初は僕もそう思った。今更不老不死の村なんてネタは陳腐で漫画にしても面白くないんじゃあないか? とね。 だが……その村の面白い所はそれを『ビジネス』にしたところさ。例えば、都会からその村に『転居』した人物も『不老不死』になるんだよ。だから、そこそこいい値段で『転居権』を売っている。それが法的にどういう仕組みなのかは知らないが……地方の引退した政治家や中堅企業のトップのような小金持ちが次々、その村に『転居』してるらしい」
「……ふむ。つまりお金さえ払えばだれでも『不老不死』になれる……ということですか?」
「さっきの言を撤回するよ。バカらしいな。そんなのなにかからくりがあるに違いない」
タキオンはさすがにおかしい、と少し小ばかにするように笑った。露伴も同じく、それについては同感だとばかりにふんと鼻を鳴らして。
「その通り。この村には何か『裏』がある……だからこそ『格好のネタ』なんだ。人は他人が隠したがることをあえて暴くことに興奮し、血道をあげるからな……陰謀だとか、裏事情だとかね……ワカるだろ。ということで、今回は『三人分』の『見学』を申し込んである」
タキオンはやっぱりこうなるのか……と言う風に紅茶をすする。何だかんだこの露伴とは腐れ縁になってしまった。
「もうすでに私も頭数に入っているのか……」
「僕だって不本意だが、君、毎回監視するとか言って無理やりついてくるだろ。全く人を変質者のように扱う……こちとら一応は多少なりとも社会的に有名な人間なんだぜ……そろそろ信用してくれてもいいんじゃあないのォ」
「どうだか……改めて言っておくが、毎度カフェを危ない目に巻き込むのはやめろ。それと便利な幽霊探知機みたいにつかうのもだ」
そう言って、タキオンはカフェを護るように露伴との間に入る。カフェは私は別にいいんですけど……と言いかけたが、タキオンの自分に対する心遣いに、改めて感謝するとともにほほえましい気持ちになった。
こうして、三人は藤見野村へと向かう。藤見野村はI県K市の郊外……というにはだいぶ奥まった両白山地笈ヶ岳(おいずるがたけ)に存在する集落で、現在の村民はおおよそ200人。そのうち既に3/4がここ10年で都市部から転居してきた小金持ち連中であるらしい。
「……だいぶ開発が進んでいるんですね。村と言うよりは最近流行りのグランピング施設みたい……」
「ふぅン……テニスコート付きのコテージにあれは……小さいがパターゴルフ場みたいなのまであるぞ。カフェの言う通り村と言うか整備された観光地みたいになってるんだな……」
見学者を運ぶための特別運航バスに乗り『藤見野村』へと訪れたカフェたちの第一印象は概ねそういったものだった。事前の想像ではたとえば映画でありがちな茅葺屋根の古風な家屋が並び、夜な夜な秘密の儀式だとかが行われる霧に包まれた陰鬱な村……のようなステレオタイプを勝手に想像していたのだが、180度印象が違う。
「なるほど……藤見野村はスデにだいぶカネが転がり込んでるな」
露伴はバスから降りると、さっそく周辺の景色をいくつかスケッチする。と、すぐさま黒服のSPめいた大柄な男が露伴に対して駆け寄った。
「申し訳ありません、当村は経済界や元政界経験者などのセレブリティの方も多く転居なさっております。そのプライバシー保護のため、写真やビデオ等の記録はお断りしておりますので、スケッチですとかもお控えいただければ……」
「なんだね君は……『スケッチ』も駄目なのか? ずいぶんと神経質にプライバシーを気にするんだな」
男はいかにも体育会系という感じの……いや、どちらかといえば格闘家や自衛官めいた強面で、スーツの上からでも鍛えこまれていることがわかるマッシヴな逆三角形の体つき。露伴も別に華奢なタイプではないが、もし殴り合いになれば一撃でKOされてしまいそうな屈強な男だ。露伴はわかったよ、と不本意であるという態度を隠さずとも一応はその指示に従った。もしここで下手にトラブルを起こし、つまみ出されては取材も何もないからだ。
「ご理解いただけたようでありがとうございます。そして申し遅れました。私、西角と申します。今回、皆様の『見学』のお手伝いをさせていただきます」
……見学の手伝い。監視役の間違いだろ、と露伴は内心毒づく。実際、事前に申し込みをした際に『見学』の際にはかならず村が雇った係員が同行するとあり、村の中の見て回れる範囲も限定されるとあった。そもそもこの見学を申し込むのさえかなり手間がかかったのだ。最初に審査とやらがあり年齢、出身地、学歴、年収、社会的地位などを1週間ほどかけてチェックされる。いつぞやの『富豪村』よりはチェックは甘いようだが、それでも『3人』全員審査を通ったのはかなり奇跡的だ。
それから……3人はかなり差し障りのない『見学』コースを歩かされた。見学用のモデルハウスに、村役場と言う名のカネがかけられた公民館に、あるいはバスからも見えていたテニスコートだとか。診療所などはK市大学病院並の設備が整えられており、ドクターヘリなども常駐しているのだとか。
こうして、おおよそ3時間をかけて『見学』を終えた露伴たちは、バス停まで西角に付き添われ戻ってくる。
「さて、このまま帰ったんじゃあ何の取材にもならないからな……『ヘブンズドアー』ッ!!!」
「え……あ!?」
露伴はここで強攻策をとることにした。ヘブンズドアー。人を本のようにしてその記憶を読み取る岸辺露伴に備わった天性の才能。それを村の関係者である西角に発動させ、とりあえず何か知っていないか情報を読み取ろうとしたのだ。カフェとタキオンはいきなりの行為に思わずウマ尻尾をびくりと震わせた。
「おいおい露伴君少々乱暴すぎやしないか? たしかに怪しい村ではあるが……」
「そうですよ……」
「そういうなよ。こうでもしないと、尻尾が掴めそうにないからな……別段、暴力を振るう訳でもない、ちょいと記憶を読ませてもらってその後にきれいさっぱり後腐れなしで別れるだけだ」
そう言って露伴は西角の記憶を読む。西角裕也、34歳。身長190センチ。体重102キロ。趣味はサッカー観戦。好きな選手は……
「ん?」
西角の趣味がサッカーの観戦なのはどうでもいい。まず、彼はここ数年で東京から転居してきた資産家たちの案内役兼護衛として雇われたSPである。だが、驚くべきことに……
「……カフェさん、タキオン君、どうやら僕達はこの村の秘密の一端を掴んだようだぞ」
「なにか気になる記述があったんですか? 露伴先生」
「……この西角、3日前に『死体』を処分している。行政や病院などにも届け出をせずに『秘密裏』にな……下っ端のこいつじゃあ理由までは知らないようだが、この村の中で『死者』が出ている。『不死身』が聞いてあきれるな」
「死体を処理、ねえ……一気にきな臭くなってきたな……」
タキオンは腕を組み、はぁ、とため息をついて頭に手を当てる。
「……秘密裏に死体の処理、ですか。思ったのですが、なぜそんなにまどろっこしい事を……? つまり、不死身の村として売り出した手前、それが嘘だとばれては困るから……という理屈でしょうが、村おこしにしても法に触れるようなやり方でやる意味がよく分からないです。そしてそんな事業が成功した理由も」
一方カフェはいまいちピンと来ていないようで、きょとんとした表情を浮かべて思考する。
「ふむ……確かにそうだ。だが、これはあくまで僕の想像なんだがね……もしかしたらこの村は『食人鬼』を飼っているんじゃないかとすら思えるよ。その証拠に……」
露伴は西角の記憶をさらりと読み進め、あるページで手を止めた。
「こいつは、西角が死体を処分した時の記憶だが。これまたおかしい。処分場所はこの村にある古い洞窟の奥にある祠。で、処分といってもそこに『死体』を安置するだけだ。月に一回、満月の日にな。そうすれば『なにか』が肉だけを奇麗に食ってくれる……こいつの記憶にはそうある」
「ふぅン……『食人鬼』とはまぁ、おどろおどろしい言い方だが、普通に考えれば肉食獣でも手なづけているんだろうかね……」
「西角から得られる情報と言うのはこんなものだな。そろそろ怪しまれるかもしれないし……
こいつは適当に頭をぶつけたとでも言って、病院に運んでおこう。ついでに、そこで調べたいこともあるからな……」
露伴はそう言うと西角に掛けていた能力を解除し、その大きな体をタキオンに運ばせて(タキオンはめちゃくちゃ文句を言ったが、結局じゃんけんで負けたのでしぶしぶ引き受けた)病院へと向かった。
「……病院で調べたいことってなんだったんですか? 露伴先生」
二人が病院に西角を預ける処理をしている間、露伴はと言えば何をするでもなくロビーで何やらぼんやりスマホを操作していた。だが、カフェには露伴のスタンド――『ヘブンズドアー』が事務室に入って行くのが見えていたため、露伴はヘブンズドアーを遠隔操作し、恐らく書類などを盗み見たのだろうとはアタリがつく。
「ああ、僕の『スタンド』でね……密かに『カルテ』を盗み見たんだが。面白いぞ。」
そういって、露伴はスマートフォンで一人の人物のプロフィールを表示する。前村宗像……I県の元県議会議員でご多分に漏れず、ここ数年でこの藤見野村に転居した人物。
「この前村宗像と言う人物は……胃がんを発症したことで政界を退き、名目上は療養のためこの藤見野村に転居した……これは秘密の情報でも何でもなく、普通にこの県のニュースにもなった『事実』だ。だが、この前村宗像のカルテには胃がんなんてものはない。村の不思議な力で治癒したのか? いいや、違うな……」
くっくっくっ、と露伴は面白そうに笑う。
「……前村宗像はさらに『ペースメーカー』を埋め込んでいたはずなんだが、それがレントゲン写真ではなくなっているんだよ。これも心臓が健康になったから摘出したか? やっぱり違うな……そんな手術記録はこのカルテにはない。つまり……たぶんだが、こりゃ赤の他人。別人だよ。前村宗像じゃあない」
「ふぅン……大体解った。なるほど……『不死身の村』の正体見たりって感じだな」
「???」
露伴と、その意を得たという風なタキオンに対しカフェは頭上に?を浮かべながらは首を傾げ、不思議そうな顔で二人を見つめた。
「私にもわかるように説明してください」
「あぁ、まあ……それは後でね……今は取材を優先したい。カフェさん、タキオン君。西角の記憶にあった『洞窟の祠』を後は取材しておきたい。そこさえ見ればだいたい終わりかな……」
そう言うと露伴は笑みを浮かべながら上機嫌で、病院を後にする。病院の係員には『もう次のバスで帰る』と伝えておいたので、素早く、人に見られないように『洞窟の祠』を調べれば怪しまれることはおそらくないだろう。土台、この村はさほど大きくないので移動に時間がかからないのだ。
例の『洞窟の祠』は山中を通るランニングコースから少し山道を分け入った場所にあった。
「洞窟って言っても……これは人工のものみたいだ。岩を少し掘り抜いた感じか……中途半端な採石か何かの後にも見えるが」
タキオンの言。おおよそ3mほど岩を掘ったところに小さな祠がちょこんと置かれている。カフェは祠が気になるようだが、少しだけそれを見つめるとううん、と顎に手を当てて考え込み。
「特段、何か悪い物とか良い物とかそういう『力』は感じません」
「つまりだ、少し悪い言い方になるが『オカルト』は関係なさそうだな……」
「と、いうことは、だ。ここは私の出番だね。まぁ気になるのはここの地質……かな……」
オカルトは関係ないという露伴の言葉を受け、タキオンがふふんと鼻を鳴らし得意げに歩み出る。それから手持ちの実験キットでいくらか岩壁や水を採取し、何らかの反応を起こさせる。
「やっぱりね。ここの地質には『辰砂』が含まれている。そして『黒鉛』も」
「辰砂?」
辰砂。聞きなれない単語にカフェは再び首を傾げた。
「……賢者の石だよ。と言うのは半分本当、半分ウソだ。日本では丹(に)と呼ばれて朱い顔料として使われたし、古代中国では漢方、そしてヨーロッパの錬金術ではさっき言ったように不老不死をもたらす賢者の石として扱われた……が、これの成分は『硫化水銀』さ」
「水銀……が含まれている、と言う事です?」
あまり化学知識には詳しくないカフェはふーむ、と言う風にタキオンの説明を聞く。
「……で、微かにだがここには『水酸化ナトリウム』の反応もある。驚いたな。ここで月一回程度、おそらく『水銀法』にも似た方法で自然に『水酸化ナトリウム』が発生しているんだ。電気はどこから来てるんだ? 埋設した電線でも近くに通っているのかな……」
「う、うーん、私にはよくわからないですが『水酸化ナトリウム』が発生するとどうなるんです?」
「溶けるんだよ。肉が。南米の麻薬カルテルなんかが死体を処理する薬品っていやあ水酸化ナトリウムだからなあ。骨だけがきれいに残るという西角の記憶にも、これは合致する」
ここはタキオンが説明しようとしたとたんに露伴が解説し、出鼻をくじく。タキオンは少しだけ不機嫌そうに露伴を睨んだ。
「さて……だいたいこんなもんかな。死体が骨だけ残して消える仕掛けもわかった。後は粛々と村から出るだけだよ。行こうかカフェさん。タキオン君」
露伴はもはやスケッチもせず、足早に祠のある洞窟を後にする。結局露伴たちは誰にも見られることなく元の順路に戻り……バスへと戻って予定通りI県K市まで戻ってきた。
「今回は危ない事に巻き込まれなかったろ?」
「今回はね……」
お目付け役のタキオンはカフェが危ない目に遭わずに一安心という風に胸をなでおろす。
「で、説明してくださいよ露伴先生。それにタキオンさん。例の『不死身の村の正体』について……」
「ああそれは……」
「それはね、カフェ。言ってしまえば金持ちの『税金対策』だな……そういう事だろう? 露伴君」
「ぜ、『税金対策』……?」
今度はお返しとばかりに露伴の言の先をとるタキオン。そして、さすがのカフェも予想だにしない言葉にぽかんとした。『税金対策』と『不死身』がどう結び付くというのか?
「『藤見野村』は金持ちたちが『相続税』を回避するためのいわば抜け道なんだよ。本人が死んでも、別人を替え玉として使って名目上無限に生きてるように見せかけるわけだ……だから、『相続税』を払わなくていいうえに『年金』やらをいくらでも受け取れる。全く、こすずるい手だよ」
「あきれた……」
「まあ、一概にそうも言えないよカフェ。相続税ってのは結構デカいらしくてね。場合によっては現金資産だけでなく不動産や証券まで取られる場合があるらしい。地方の小金持ち連中にとっては悩みの種になってるんだろう。で、そこにささやかとはいえ月々のボーナスまでもらえるんだから魅力的だったんだろうね。誰が思いついたのかは知らないが、一度『システム』ができればそれが滞らない限りはスムーズに流れていく」
「ある意味では地方の暗部を覗いちまったな……思った以上に現世のしがらみと人間の欲望にまみれてはいたが……」
露伴は、こりゃ漫画にするにはちょっとドロドロしすぎてるな……とため息をつく。我々はジャーナリストでもないし、これを告発する義務もない。結局は好奇心で首を突っ込んだ一般人に過ぎないのだから……
「月並みな話だが、時に恐ろしいのは人間の欲望ってことか……」
タキオンはそう言うと、自分たちと入れ替わりに『藤見野村』行きのバスへと乗るとある家族を見ながら、そうつぶやく。
ちなみに、後で露伴の追加調査で分かったことだが……『藤見野村』には実際に『食人鬼の伝承』があり……おそらくは例の洞窟のことがねじ曲がってできた伝承であろうが、『死体が勝手に消える』と言う点も都合がよかったのだろう。人は誰も、自分の手を汚そうとは思わないものだから。
徹頭徹尾、この村は『都合のいい物』だけを見ているんだな……露伴はそう思いながら次の取材はどうするかと考えるのだった。
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#028『神の化石』
アメリカ、ワシントンD.C。正式にはコロンビア特別区と呼ばれるということは案外知られていないこの人口百万人都市は、ホワイトハウス、連邦議会、最高裁判所などといったアメリカの政治中枢が置かれる同国の首都だ。
「『スミソニアン博物館』と一口に言っても、アメリカ歴史博物館や航空宇宙博物館、自然史博物館にハーシュホーン美術館、アーサー・M・サックラー・ギャラリーその他もろもろの施設群でだいたいスミソニアン博物館の『半分ぐらい』がこの『ナショナル・モール』にある」
ワシントンD.Cの中央にはナショナル・モールと呼ばれる国立公園があり、その中には多数の博物館、美術館、記念碑などが建設されている。露伴はマンハッタンカフェとアグネスタキオンに説明しながら、これまた有名なリンカーン記念塔のスケッチを行った。カフェなどは完全に観光客と化し、リフレクティング・プールと記念塔というお決まりの光景をスマホで写真に収めていた。
「ふぅン……で、今回わざわざアメリカくんだりまで取材に来た例のアレ、『化石』だか言うのはどこにあるんだい」
タキオンは時差で眠いのか、ふぁぁとあくびをしながら露伴に問いかける。
「……『神の化石』は自然史博物館で公開されているはずだ」
ロサンゼルスにあるラ・ブレア・タールピット……ソルトレイク油田から地下断層を通って水と共に湧き出た石油が天然アスファルトと化したタール沼のことで、ここでは水を飲もうとして転落し、アスファルトに飲まれた動物の化石が非常に良質な状態で見つかるのだが……数か月前にとある『ミイラ』がこの沼の発掘現場で見つかった。それは『ウマ娘』のものであり――通常タールピットで見つかる他の化石とは異なり『棺』に入れられていたほか、多数の副葬品と恐らくは人身御供として共に沈められたと思われるヒトのミイラ4人と共にあった。それだけなら未だ謎が多いウマ娘と人類の古代よりのかかわりの重要なヒントとして考古学や文化人類学界が騒ぐだけに過ぎなかったが。問題なのはその『ウマ娘のミイラ』の身長が30㎝ほどしかなく、手の指は4本、足の指が3本であるということ。
DNA鑑定の結果、奇形や欠損などは認められず――さらにはこのミイラは『れっきとした成人』であることが判明する。発見者の手記の記述から、通称『神の化石』と呼ばれるようになったそれは、学会だけでなく、宗教界までにも大きな論争を巻き起こしたのだ。
「……ワクワクしないか? 人間とウマ娘の関係には謎が多い。一説によれば、ウマ娘は異世界の生き物の魂と名を受け継ぐ存在であるというがそんなのは明らかに『非科学的』だ。なぜ人間から時折突然変異的にウマ娘が生まれるのか? それは未だに解明できない神秘だが、このミイラはもしかすればその『ミッシングリンク』になるかもしれないそうだ」
「……私も学術的興味がないとは言えないな。今回については。『神の化石』とは少々大仰だが、ウマ娘の神秘に迫るというのは私の追求する命題の一つだからね」
「たしかに、タキオンさんが自発的に露伴先生の取材についてくるのは珍しいですよね。いつもはお目付け役だから仕方なく、って感じなのに」
写真を撮り終えたカフェが、露伴とタキオンの下に戻ってきてそう言う。今回のネタは『ウマ娘』に対して生物科学的分野からメスを入れるタキオンにとっても興味深い物だったらしく、いつもは嫌々という感じのタキオンも乗り気であった。
「その調子で、今回は喧嘩しちゃだめですよ」
「失敬な。いつもタキオン君がつっかかってくるんだろ。僕は『大人の対応』をしているだけだ」
「なんだと~!? 君ほど子供っぽい大人は私は知らないがね……!」
「あちゃあ……」
カフェは、取材の行く末にさっそく頭を抱えた。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #28 『神の化石』 ◆◆◆
国立自然史博物館はワシントンD.Cのナショナル・モール内にあるスミソニアン博物館群の一つで、主にアメリカに関する自然史――毛皮、化石、動植物標本、隕石などの資料を収集・展示している施設であり、触ると呪い殺されるという伝承のある『ホープ・ダイヤモンド』があることでも知られる(当然露伴はこのダイヤモンドも許可を得てスケッチした)。
「これが『神の化石』か……聞いていた通り、小さな物だな……」
「えぇ。でもこの小さい身体の中に、ウマ娘のすべてが詰まっているかもしれないんですよね……」
露伴たちは『神の化石』が展示されている部屋に通された。そこは薄暗い部屋で、中央にガラスケースが置かれており、その中に『神の化石』は安置されていた。『神の化石』はまるで人間の胎児のように丸まって横になっており大きさはちょうど30センチほど。タールがしみ込んでいるため全身はどす黒いが、皮膚や尻尾の毛などはかなり良質な状態で残っている。露伴たちはごくり、と唾をのんでそれを観察した。
「……確かにこれは、ウマ娘そのものですね」
カフェはその小ささに驚いたようで、まじまじと眺めている。
「ふぅン……こんなに小さくても、やはり『骨格』『筋肉』はしっかり人間の大人と同じだ。手の大きさ、足の長さ……だが、指の数が4本。足の指は3本。これは仮説だがウマ娘の先祖は人間ではなく『別の何か』だったのだろうか? 例えば人間と別の何かが交雑したことによってウマ娘は生まれ、まれに先祖返り的に生まれてくるとか……うーん、こじつけの域を出ないな」
タキオンは『神の化石』を観察しながらぶつくさと呟いている。
「しかし、不思議な感覚です。まさか自分の祖先がこのような姿だとは」
「まぁ、僕たち人間は『猿』から進化したと言われているからな……『ヒト科』とまとめても、進化の仕方や分岐の順序などで様々な説が提唱されている。『神の化石』がもし本当にウマ娘の先祖なら、それは何なのか、そもそもウマ娘のルーツはどこにあるのか……このミイラはきっと、我々人類にとって非常に重要な意味を持つんだろう」
「……」
カフェは『神の化石』を見つめたまま黙っている。
「……どうしたんだい、カフェ?」
「いえ、ちょっと気になることがあって……」
「なんだい? 言ってみたまえよ」
「はい。ただ、あくまで『私のカンのようなもの』なのですが……」
カフェは少し口ごもりつつ、その『違和感』を口にする。
「この『神の化石』からなにも『感じない』んです。私の『おともだち』もこれに関しては何も言わない。『霊的な物』を感じない。なんというか、作り物と言うか……でもこれは人間と同じ組成のDNAが含まれているから本物なんですよね?」
「ほう、これはおもしろいな……」
露伴は不意ににやりと笑みを浮かべた。
「『フィージー人魚』って知っているかい? 簡単に言えば、サルと魚の骨を組み合わせて人魚の化石だと言い張る一種のペテンなんだが。そして日本各地にあるカッパや鬼のミイラなんかも大抵はそういう類ではある」
「つまり、『神の化石』も作り物、だと?」
カフェはええ……と言う風に露伴を見たがここでタキオンがあっはっは、と声を上げて笑った。そして今回ばかりは私の勝ちだ、とばかりににやにやとしながらスマートフォンを取り出して……
「この件に関して学術誌やらを多少調べてみていたんだが、露伴君の言う『フィージー人魚』の可能性は薄いな。『神の化石』そのものは既に年代測定にかけられているが、だいたい5000万年前。始新世期ごろのもので間違いない。つまりはこれは『作り物』じゃあないんだよ」
しかしそこで、だが……とタキオンは一拍置いて。
「私もカフェと同じように『神の化石』からは何も感じられないのも事実だよ。だからカフェのその勘には賛同する。私の研究においてはウマ娘は想いだとか人の感情だとか……そういったものに強く呼応するという性質があることは、スピリチュアルな感もあるが、恐らく真であろうと思っているんだがね、繰り返すように『これ』からは何も感じられない」
露伴はなんともロマンティシズムが過ぎるな、とは思いつつも当のウマ娘である2人がそう言うのならばなにかしらあるのかもしれない、と考える。
「さて……だいたいの観察は終わったしな。そろそろやるか」
「え」
「まさか」
二人は、露伴の言葉に驚く。
「『ヘブンズドアー』ッ!!!」
そして止める間もないまま、露伴はケース内の『神の化石』に対して『ヘブンズドアー』を発動させた。ヘブンズドアーは無機物などには効果が薄いが、かつて杉本鈴美に対して行ったように――それが死体などであれば生前の記憶などをある程度読み取れるのである。バラバラとミイラの顔面が古文書めいて開く。
「わああっ、だ、大丈夫なんですかこれ!」
「大丈夫だよ……別にミイラを損壊しているわけじゃあ――」
露伴はそこまで言って、何かに気づいたように言葉を止めた。
「…………これは、なんだ?」
「どうした、露伴君」
タキオンがただならぬ雰囲気に思わず声をかける。
「……僕のヘブンズドアーはウソ偽りなどは書けないはずなんだ。本人の記憶を読み取るからな……他にも『無駄な記述』とか……そう言ったものは普通、あるわけがないんだ。『本人の記憶』以外のものだとかが」
冷や汗をかきながらページになった『神の化石』を見つめる露伴。タキオンもそれを見やる。
そこには『露伴とカフェ、タキオンは神の化石を取材するためにスミソニアン博物館に行く。しかしそれには人類史を覆す秘密が眠っていた。←没。壮大すぎる。岸辺露伴シリーズはもっと日常に潜む怪異などが似合う』という簡単なメモ書きのような記述があるのみ。本人の生前の記憶などは一切ない。
「なんだこれ……没設定って……それに私たちの名前や、行動が記載されているぞ。どういうことだッ!?」
露伴は、冷や汗をかきながらヘブンズドアーにページを繰らせる。そこにはさらに別の脚注めいたものがあった。『せっかく神の化石という、それっぽい感じのフレーズを思いついたのだから何かに生かしたい。三女神などを絡めるのも面白いかもしれないが、公式で三女神の設定があまり出ていないため下手に記述することもできない。二次創作なので別に独自設定をつけてもいいがそれ相応の説得力が必要だ』とある。
「三女神、設定、公式、二次創作……おい……おい……ちょっと待て、これ……」
「まるで、何らかの創作物を作ろうとするアイディアノートみたいですけど……なんで、こんなものが……」
困惑する露伴とカフェ。
「ハァーッ……ハァーッ……」
その中でもタキオンは明らかに動揺して、荒い息をついている。これは……なにかまずい、我々は知ってはいけない事を知ろうとしているのではないか? いや、タキオンはおそらく『何かに気づいた』のか、ぽつ、ぽつと自分の思考をまとめるかのように、話し始める。
「カ、カフェ。露伴君。私は今――『恐怖』している」
それは、いつもの理知的なタキオンとは違い自らの中に広まりつつある困惑と恐怖を共有することでなんとか緩和しようとする試みにも見られた。そのただならぬ様子に露伴とカフェにも緊張が走る。
「露伴君。インテリジェント・デザイン説……君なら知ってるだろ」
「ああ、人間は知性ある何者かに作られた……というアレか。十年か前にアメリカを中心に論争になった……まさか……」
インテリジェント・デザイン説。露伴の言う通り、人間、ひいては宇宙全体がこれほど複雑かつ精密に作られているという事は何らかの高度な知生体の介入があった。あるいはそれらによって設計されたのではないか、とする宗教哲学の一説である。
「私は……物心ついてからというもの、ウマ娘に対して様々なアプローチから研究を行ってきた。物理学、生物学、薬学、心理学、スポーツ医学……だが、どうしても科学的に説明できない事象にときおり突き当たるんだ。この『神の化石』だってそうだ。おそらくは。だが、こう考えてしまうと筋が通ってしまうんだよ。この世界は『ウマ娘』というものが存在するという風に『つくられた』世界だとね。そのぐらい、ウマ娘と言うのは生物学的にも歴史学的にも古生物学的にも『異質』なんだ。どこからきたのか、わからないんだから」
それは、科学の常識に照らし合わせても非科学的な考え方だった。しかしタキオンは確信を持って、その『異質さ』について語る。
「ウマ娘の遺伝子には『ヒトゲノム』も含まれている。だが、ヒトゲノム計画は既に完了しているというのに、ウマ娘という存在との矛盾は解消されていない……異世界の魂と名前を受け継いで走る存在なんて伝承を信じてしまいそうになるくらいに、我々ウマ娘という存在は科学的に『脆弱』なんだ」
「……」
カフェは戸惑いながらもタキオンの言葉を聞いていく。露伴も同様だ。その額には汗が浮かぶ。
「つまり……なんだ? タキオン君、僕らは、知性ある生物によって意図的に作られたと言いたいのか? まるで『ゲーム』や『漫画』の登場人物みたいに、都合よく」
「……そう考えてしまいそうになるってだけの話だ。適当に聞き流してくれて構わない。だが……もし仮にこれが事実だとして、私達はどうなる?」
「……どうって」
「私たちは『造られた』ものなのか……? それとも『偶然生まれた』ものなのか……?」
タキオンは不安げに呟く。露伴は彼女の言葉に何も答えられなかった。
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閑話・その他
#!『奇妙な部屋からの脱出』
「トレーナーくーん! さっさと目覚めておくれよぉ~~~!」
ふいに、ゆさゆさと『あなた』の身体が揺さぶられる。聞こえたのはあなたの担当ウマ娘……アグネスタキオンの声だ。今日はトレーニングは休みのはず。弁当も事前に作ってタキオンに届けてある。となるとなぜ? あなたは未だ眠い目をこすりながら、ゆっくりと覚醒した。
「どうも……」
そこには、タキオンの親友であるウマ娘マンハッタンカフェの姿と……
「どうやら我々は困ったことになっていてね……
今は一つでも多くの『頭脳』が欲しいんだ。三人寄れば文殊の知恵というだろう?」
タキオン、カフェに密着取材をしているという有名な漫画家『岸辺露伴』さんの姿があった。困ったこと? はて。露伴さんの言葉に『あなた』は疑問を覚えたが、その疑問はすぐに解消された。
「トレーナー君。この部屋に見覚えは?」
さすがのタキオンも困惑したように眉を八の字にして『あなた』に問いかける……『あなた』達は……見覚えのない『真っ白な部屋』の中にいつのまにか閉じ込められていた。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #! 『奇妙な部屋からの脱出』 ◆◆◆
『あなた』は周囲を見回す。前後左右上下どこを見回しても、目が痛くなるような真っ白な壁に囲まれており遠近感がおかしくなってしまいそうだ。いつからここにいるのか。どうやってここにきたのか。『あなた』は思い出せなかったし、カフェ、タキオン、露伴も同様だという。
「私は昨日の夜、寝る前にストレッチと足の爪のケアをして……それから今日の授業の確認を少ししてから、寝床に入りました」
「私は実験がひと段落付いたから、少し仮眠を取ろうと理科室の机に突っ伏したところまでは覚えている」
「僕もこのところ行っていた取材のメモをまとめ終わったので、午前1時ごろに床に入った。特別普段と違う事はしていないはずだ……」
『あなた』達はとりあえず、昨日眠る前の行動を振り返ってみる……だが、やはりいつも通りでおかしい点や共通点などは見つけられなかった。『あなた』も特段、普段と変わった行動はとっていないはずだ。
「……君が起きる前に、カフェや露伴君、私でなんとか壁を壊そうとしてみたが……ダメだった。ウマ娘のパワーでも。露伴君の『
タキオンが腕を組み、困ったように今の状況を知らせる。
「海外では最近『バックルーム』という『
「とにかく、どうにかこの『奇妙な部屋』から脱出する方法を考えましょう……」
露伴とカフェが、ううん、と首をかしげながら呟いたその時だった。
「あ!」
タキオンが突然、驚いたような声を上げた。
「見ろッ! 扉だ! いつのまにか扉が出現しているぞッ!」
「何ッ!?」
タキオンが指さす方向には、今までにはなかった鉄製の扉が出現していた。
「いかにも出口ですって感じだな……怪しいぞ……まるで誘導しているかのようだ」
「ですね……」
「だが、ようやく出てきた脱出の糸口……だ……ここは『僕』が行こう。
カフェさんたちはそこを動かず、僕の周囲を警戒して危険があるようなら警告してくれ」
タキオンとカフェは、その扉に警戒感をあらわにする。しかし露伴は、ずかずかとその扉に近づくと……一息にドアノブに手を掛け、ガチャガチャとそれを動かした。
「ダメだ……鍵がかかっている……『ヘブンズドアー』ッ!」
露伴は何かしら、呪文のようなものを叫ぶ。するとガンッ!ガンッ!と扉が殴りつけられたような音をたてて殴りつけられているかのように二度、三度と震えた。
「破壊も不可能か……いや待て、ドアに何かレリーフのようなものが彫ってあるぞッ!
『標は水面に漂う』……?」
特に危険などはないと判断した『あなた』たちは全員、ドアの前に集まった。たしかにドアにはレリーフのようなものが彫ってあり、よくよく見るとダイヤルロックのような4桁をそろえるダイヤルがドアに設けられている。
「なるほど……脱出するには『謎を解け』ってことか……だんだん分かってきたぞ」
露伴が顎を擦りながら、彫刻を観察する。『あなた』も同様に彫刻を観察しながら考え込んだ。『標は水面に漂う』……
「『ホラティウス兄弟の誓い』……『ソールベイ海戦におけるロイヤル・ジェームスの炎上』……『正義と復讐に追われる罪』……どれも絵画のタイトルだな。テオドール・ジェリコーの『メデューズ号の筏』なんかは学校の美術の教科書で見た人もいるんじゃあないか?」
流石に漫画家だけあって、この分野は露伴が詳しそうだが……
「数字と、何か記号のようなものも彫り込まれていますね。αとかβとか……」
カフェも興味津々と言った風に、彫刻を見やり考え込む。
「ふぅン……なるほど、簡単じゃあないか。とある法則に従って記号に数字を合わせて4桁の数字を作ればいいわけだ。トレーナー君。もうわかったね? 答えを入力してみたまえ」
『あなた』はダイヤルを回し答えを入力した。答えは『39,81』だ。
――カチッ!!!
小気味良い音と共に、ドアのかぎが外れてひとりでにきぃ……と擦れながら開く。
「やったぞ!さすがは私のトレーナー君だ!君にも論理的思考力というものがついてきたのではないかね?」
タキオンは『あなた』に飛びついて喜ぶ。『奇妙』な状況とはいえ、担当ウマ娘の前でいい格好をできたのはうれしいことだ。カフェも感心したように、開いたドアを見ていた。
「なるほど……『標は水面に漂う』……つまり、水に関係のある絵画がヒントだったんですね」
「ああ、あとは上の記号表にそれにひもづいた数字を入力してやればいいだけさ」
「よし、さっそく脱出だッ、こんなところにとどまっていると何が起こるかもわからないからな……」
そう言って、露伴が扉を開ける。すると……そこに広がっているのは、同じような『真っ白な部屋』であった。今度は最初から、向こう側の壁に『鉄の扉』がある。
「なるほどな……何が目的かはわからないが、この『部屋』はタダでは私たちを外に出す気はないらしい……」
厳しい顔を作り、まったくなんなんだという風に肩をすくめてみせるタキオン。とりあえず警戒しながら二番目の部屋に入り扉に近づいてみると、やはり扉にはレリーフとして問題文が彫り込まれており第一問と同じようなつくりのダイアル式入力機構がドアに備え付けられている。
「『十二星座の導きに従いて座標を得よ。天秤は羊に向かい、蟹は山羊へと向かう』……?」
カフェが問題文を読み上げる。彫り込まれたレリーフは一問以上に複雑そうでこれは手間がかかりそうだ。
「これは……中々手ごわそうな問題だ……」
さすがの露伴も難しい顔をして、レリーフに書いてある事柄を必死に読み解こうとする。
「39,81ってのは一問目の答えだな……天秤は羊に向かい蟹は山羊へと向かう? どういうことだ?」
「右の丸の中に書かれているのは十二星座ですね。第一宮のおひつじ座♈から順に、おうし座♉、ふたご座♊、かに座♋、しし座♌、おとめ座♍、てんびん座♎、さそり座♏、いて座♐、やぎ座♑、みずがめ座♒、うお座♓の順番になっているんですが……これも同様に1~12までの星座のゾディアックシンボルが時計のように書き込まれている……」
「ふぅン……十二星座ねえ……」
『あなた』たちは頭を突き合わせて考え込む。
「この右下のは何だろうね。四角の左上に0、右下に99,99とある」
「さあ……わたしにはさっぱり……」
「とりあえず一番大きなヒントは左の指示だろうな。7→1に12進む……」
タキオンとカフェ、露伴はううん、ううん、唸りながらああでもないこうでもないと考察を繰り返す。
「待て、これ経度と緯度っぽくないか……? 『座標』なんだろう、これは」
と、露伴が声を上げる。たしかに問題文には『座標を得よ』とある以上、その気づきはまっとうに思えた。
「あぁ、なるほど……ではもしかして、この1→7というのは方角では?
てんびん座は七宮目、おひつじ座は一宮目の星座ですからつまり……1→7に12進めと言うのは北に12度ということなんですかね。で、初期の経度と緯度は39.81……一問目の答えが入るみたいですからつまり……」
「ナルホド分かりかけてきたぞッ……トレーナー君、とりあえず君も入力してみたまえ。
……とにかく頭を働かせて、答えであろう数字を入力してみるんだ」
『あなた』は露伴に促されて、例のダイヤルキーに手を伸ばす。答えは……『26,65』だ!
――カチッ!!!
数字を入力すると鍵が外れた音と共にやはりひとりでにドアがゆっくりと開いた。
「ふふふ……私のトレーナー君がまさかこれまでに柔らかい頭脳を持っているとは思わなかったよ。君は狂った瞳をしているが、数学的才能も持ち合わせているようだね」
「すごいですね!ちょっと感心してしまいましたよ……」
タキオンは鼻高々、カフェもすごいなぁという風の表情。
「だが……問題はまだまだ続くようだぞ、諸君」
扉の先を確認していた露伴は、忌々しげにつぶやく。やはりそこには今までと同じような『白い部屋』と鋼鉄の扉が一つ。
「どうせ、扉に問題文が今回もあるんだろう。手早く確認して次に進もう」
露伴はそう言ってずかずかと先陣を切り、扉に近づいていく。実際露伴の言葉通り、扉にはレリーフとして大量の文字が刻み込まれていた。
「et in Arcadia ego. これ、どういう意味でしょうか……」
「『エト・イン・アルカディア・エゴ』。アルカディアにも私はいる……ラテン語で、古代ローマのことわざだな。ルネッサンス期の画家『二コラ・プッサン』の絵で『アルカディアの牧人たち』という絵があるんだが……それは楽園と称されるアルカディアで墓石のそばにたたずむ4人の男女の姿が書かれたものだ。転じて、楽園にも『死』は存在する。すなわち『死を忘れるな』……そういった解釈ができる」
カフェの問いに答えてやる露伴。やはり、芸術分野に関しては露伴の知識は強い。すらすらと単語の解説をされてしまった。
「どうやら今回の問題文には……世界各国の『生』や『死』、『人生』に関する言葉が大量に彫られているようだ。『人生は素晴らしい。戦う価値がある』は文豪ヘミングウェイの言葉だし、『君死に給う事なかれ』は与謝野晶子だろ」
「つまり、一問目のようにまたヒントをもとにして、答えを作ってやればいいわけだね。
今回の答えは……『五文字の英単語』のようだよ。トレーナー君」
タキオンの言う通り、今回もダイヤル式ロック機構が扉には備わっていたがそれらは今回は数字ではなく『英字』であり5桁であった。
「今回はさっきのよりは簡単そうだな。タキオン君の言う通りヒントをもとに言葉を選び出して、それにくっついている英字を入力してやればいいんだろう。僕はもうわかったが……そうだな、トレーナー君。君がまた入力してみたまえよ。君はなかなか頭の切れる人物のようだしね」
露伴は少し面白がるように、あなたに入力を促した。あなたが入力した答えは――『ALIVE』。
「その通りだトレーナー君。いいぞ、君のような人物は嫌いじゃあない。もしかすると君とは『波長が合う』かもしれないな……」
フフフ……と怪しげな笑みを浮かべる露伴。タキオンはあなたを守るように、彼を睨みながら『あなた』の前に立った。
「さて……ではドアを開けてみるか……そろそろ脱出させてくれるといいんだがな……」
露伴は扉を開ける。やはり『白い部屋』と『鉄の扉』だ。もはや『あなた』たちは特段話すこともなく、次の扉に近づくと扉に彫ってあるであろう問題文を確認した。
「Senatus Populusque Romanus 露伴先生、これは?」
カフェはもはや当然の如く、露伴に問いかけ露伴もその問いに答えを返した。
「セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌス……『ローマ元老院と人民』という意味で、古代ローマの……まぁ一種のスローガンだな。今でもローマ市民は誇りをもってこの言葉を使っていて、マンホールなんかにも略語のS.P.Q.Rが刻まれてるってのは有名な話さ」
「へぇー……」
カフェはなるほど、と言う風に露伴の言葉に頷いていた。
「ふぅン……で、これはそれと共に何かの数字が刻まれているな。1.1.5.2.1.5.3.2.6……
下にある数字は、一瞬フィボナッチ数列かと思ったが違う……が、なんとなく察しがついたよ。私は」
ふふん、とどや顔をしてみせるタキオン。
「下の数字の法則性は1.1.5.2.1.5.3.2.6がヒントだ。で、先ほど露伴君が解説してくれたS.P.Q.Rというものを組み合わせてやれば……もうわかるね、トレーナー君」
数字を入力するのは君の役目だろー、とでもいうようにタキオンは君を見ている。露伴も、カフェもだ。では期待通り、数字を入力してしまうとしよう。
あなたが入力した答えは――『1916310』。
その瞬間、世界は眩い光に包まれ。一瞬の浮遊感。そして、まるで無限に落ちていくような落下感と同時にあなたの意識も闇へと消えていった……
「トレーナーくーん! さっさと目覚めておくれよぉ~~~!」
ゆさゆさと『あなた』の身体が揺さぶられる。聞こえたのはあなたの担当ウマ娘……アグネスタキオンの声だ。気が付けば、あなたは『白い部屋』ではなく、トレーナー室の机に突っ伏したまま、眠りに落ちていた。
「まったく、トレーナーくんもこんなところで寝落ちとは自己管理が甘いことだねェ……」
タキオンは腕を組み、全くと言った風に話しかけてくる。『白い部屋』はどうなった……? あなたはタキオンに問いかけたが。
「なんだい? 寝ぼけているのかい? 『白い部屋』ってなんだ?」
……どうやら『あなた』は夢を見てしまっていたようだ。今思えば、『白い部屋』とはなんだったか。思い出せない。何かとにかく頭を使ったような記憶だけがあるが……
「そんな事よりトレーナーくん。今日の弁当は?
全然届けに来ないから、わざわざ研究を中断して取りに来てやったんだぞ」
タキオンがさっさと渡したまえと言う風に手を差し出す。まずい……寝落ちしたおかげで『弁当』など一切作っていない……
「……もしかしてトレーナーくぅん、『弁当』を作ってないなどと言う事はないだろうね?」
ぎくり。タキオンのどすの利いた声に、思わず体を震わせる『あなた』。
「その反応! つくってないんだな! こうなったら今日は容赦しないぞ!
実験開始だッ! 試験中の薬剤をすべて投与し、どうなるかみてやるッ!!!」
こうして『あなた』はタキオンの実験台にされてしまい、一週間ぐらい虹色に輝きながら耳から常に白くきらめく煙を出すという状態になったのだった。
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#猫『黒猫を追う』
東京都府中市。この街はトレセン学園があるということから休日には駅前や公園、その他娯楽施設で多くのウマ娘の姿を見ることができる。文化施設が多く、調べによれば東京都内でも生活満足度が非常に高い街として知られる府中はわざわざ都心部に行かずとも十分に休日を過ごすことができるからだ。
そんな中、マンハッタンカフェもご多分に漏れず街歩きに繰り出していた。休日は登山をしたり、トレーナーと親睦を深めるために一緒に行動したりするのだが今日は一人。家でゆっくりコーヒーを淹れて過ごそうか……とも思ったが、このところトレセン学園生の間でひそかに広がるうわさがカフェの足を外に向けた。
――『黒猫喫茶店』のうわさ。
府中のとある路地裏に一匹の黒猫が住み着いており、その黒猫の後を追うと『不思議な喫茶店』にたどり着けるというのだ。黒猫のモチーフはカフェの好むものの一つであり、いつもコーヒーを飲むのに使っているお気に入りのマグカップのデザインもそうだ。カフェはそのうわさを確かめるべく、駅前や繁華街を離れ、商店街近くの路地裏を散策していたのである。
「と言っても、さすがに『とある路地裏』というだけでは……」
既に2、3時間ほどうろうろと当てもなく歩き回ってみたが黒猫は見つからない。代わりに画材屋やら古本屋やらを少し覗いたが、そろそろお腹がすいてきた。商店街の方まで戻れば、洋食屋さんやお好み焼き屋さんなんかがあったな……とカフェは考え、そちらに戻ろうとした、その時だった。
「なあん」
ふと、カフェの立つ場所から横に伸びる細い路地で、猫が鳴いた。
それはよく手入れされたビロードめいた黒い毛並みの薄い琥珀色の眼をしていて、首輪には小さな鈴つきのリボンがついていた。
「あっ……」
うわさ通りの情景に、思わず声を上げる。黒猫は後ろ足で器用に頭を掻き、それからご機嫌そうに尻尾を振りながら路地の奥へと歩んでいく。思わず、それを追うように路地に足を踏み入れるカフェ。
「にゃあ」
黒猫はもう一度、ついてこいとでもいうように鳴いた。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #猫 『黒猫を追う』 ◆◆◆
ちゃり、ちゃり、ちゃらり。黒猫が歩むたびに、時折首輪についた鈴が鳴り、先導するように私を導く。見覚えのない路地裏をずんずんと進んでいくこの感覚は、まるで探検をしているように思えて、少し楽しい。
『スナックしらゆり』『酔いどれや』『小料理屋ほまれ』――歩いているうちにまったく自分の知る世界ではない飲み屋街に入り込む。午前中の飲み屋街は静かで人通りが全くなく、少しだけ料理やお酒の匂いが。夜の匂いが残り香の様に漂っていた。こうした見覚えのない路地などに入り込めばふつうは不安に感じるはずなのに、どこか自信に満ちた黒猫が一緒だと思うと、まるで百人力の勇者の供をしているようでもあった。
「……カメラでも持ってくれば良かったな。スマホのカメラも最近は性能がいいんでしたっけ」
路地裏には、奇妙な魔力がある。誰かがSNSだかでそう言って人のいない路地裏のきれいな写真をアップしていたのを思い出した私は、スマートフォンのカメラを取り出し、飲み屋街を歩んでいく猫を後ろからレンズに収める。猫は振り返り、何をしているのか、ついてきているのかとこちらを見た瞬間、ボタンを押す。なるほど、人気のない路地と猫。秋の高い空。流れる雲。にわかに冬の訪れを告げる、肌を刺す様な風。たしかに路地裏には私を虜にするそれがあった。
「ふふっ、待ってくれるんだね。えらいね」
「なあーん」
私は、はやくしろとばかりに鳴いた黒猫にごめんごめん、あんまりきれいな景色だったから。と謝りをいれて再び歩きだす。さっきの写真はそれを趣味にしている人からすれば稚拙でもっとうまくとれるものなのだろうが……私は冬前のこの一瞬の空気感を切り取ったこれを、誰にも見せずにスマートフォンのフォルダと私の心の中にしまい込んでおこうと思った。私はこう見えて、存外強欲で自分勝手なのだ。この景色は私だけのものにしておく。
と、黒猫がふいに横道にそれた。もはや路地とは言えない建物と建物の間の隙間のような空間。
「ここ、通るの?」
「にゃ」
私の問いにそうだ、というように短く返す黒猫はそのしなやかな体でスルスルと隙間に入っていく。身を横にして、蟹歩きでそれに追随したがかろうじて通れるという程度の隙間を通り抜けるのはなかなか骨が折れた。しかも、その隙間を抜けると今度は1mほどの水路が私の前に立ちふさがる。黒猫は、なんということもなくそれを飛び越えて手入れされていない竹藪とフェンスの間のもはや道ともいえない場所をとことこと歩んでいくのが見える。
「……ていっ!」
私は、勇気を出して……というよりは落ちたらヤだな……と思いながら水路を飛び越した。ジャンプして水路を飛び越すなんて、子供の時以来だろうか。そのまま黒猫を追うと、がらりと景色が変わった。この辺は古い住宅街のようで、気心の知れた知人と家の玄関先で世間話をする老人や古いバイクにのった豆腐屋の出前、あの竹藪からとんできた落ち葉を掃く人など、生活感のある風景が広がっている。『中井戸とうふ店』という看板のかかった木造家屋は、さっきの出前豆腐バイクのお店だろうか……
「にゃあ!」
と、私の足をてしてしと黒猫が叩いた。それから、駆けだした黒猫は5Mほど走って一つの店の前で止まる。
「駄菓子屋さん……?」
『菓子・10円ゲーム・おもちゃ』とだけ書かれた看板のかかったこれまた古い家屋。軒先には10円そこそこの駄菓子が大量に並べられており、店の奥には見たこともない古いゲーム……たぶん銀玉をうまく弾いてあたりポケットに入れれば駄菓子引換券がもらえるというものや初期のシューティングゲームなど……がいくつか置いてある。
「みゃおーうー」
黒猫は『ねこのえさ。一粒1円』と書いてある本当に猫の餌のカリカリしたやつをそのまま袋から入れてあるだけのビンを見上げ、あからさまに欲し気に『猫なで声』をあげた。
「いらっしゃいねえ。あら、ねこちゃん、おねだりをしてるのかえ」
「あ、どうも……」
猫の声を聴いて気づいたのか、背中の丸まった痩せた老婆が店の奥から顔を出し、よっこいしょとサンダルを履いて杖を突いて歩んでくる。
「ほら、ねこちゃんおやつよ」
そういうと、老婆はこちらがお金を払っていないにもかかわらずねこのえさをビンから2、3粒取り出して猫に掌から食わせてやっていた。
「この猫は昔っからこの辺に居てねえ。あじをしめてしもうたのよ。お代はいらないからねえ」
老婆は黒猫の背を撫でながら、私にそういったが……私はなんとなくこの駄菓子屋で少し物を買ってもいいなとおもった。
「いえ……少しだけお店を見て行っていいですか?」
「ああ、ええ、どうぞ」
スティックチョコ、10円カツ、ガム、試験管ゼリー、ポテトチップス、手作りの干し芋、スーパーボールくじ、ガチャガチャ、味付きするめいか、ねずみ花火、紙製のグライダー、キャベツスナック、パチンコ、着せ替え人形、ベーゴマ、にんじん、ぺろぺろキャンディー、ビンラムネ、吹きもどし、シャボン玉セット、アメリカンクラッカー、階段でみょんみょんなるやつ、餅、チューチューキャンデー、ぜんまいミニカー、梅干し、スライム……そのいい意味で雑につみあげられたカオスな商品ラインナップに私は圧倒された。しかもどれもべらぼうに安い。高い物でも30円ぐらいだ。
「…………買ってみようかな」
私は、10円の小さなチョコレートをいくつかの種類手に取り老婆にみせる。
「40円ね」
老婆はにっこりと笑い、私からそれを受け取ると、ああ、そうそうと一旦奥に行ってから傘を持ってきた。
「午後から雨ぇいうてたから、もっていきなさいな。孫のだけど、返さないでいいからねえ」
「え、そうなんですか? いえ、悪いです……」
「ええから……いっぱい傘なんてあるからねえ」
うっかりしていた。久しぶりに外出したので天気を調べるのを忘れていた。そういえば確かに、今日は雲が西の方から来ている気がする。日も陰ってきたし、一雨来るというのはあながち間違いとはいえなさそうだ。結局私は、老婆から傘を借りた。返さなくていいと言っていたが、後日、必ず返しにこよう。
それから……ポケットの中に四つのチョコレートを入れた私は、さあさあと降りしきる雨の中を黒猫とともに歩いていた。雨が降り始めると、当然というように傘の中に入ってきた黒猫は相当人慣れしているというか、度胸があるというか。
雨の日は、正直嫌いではない。湿った空気も、雨の匂いも、雰囲気も。ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷ、しゃん、しゃん、しゃらり。いつもは一人、雨で曇った窓に頭の中で思い浮かんだデザインを独奏で描いたりするのだが、今日はセッション相手がいる。
「にゃ!」
と、ふいに黒猫がとある建物の軒下へと雨に濡れないようにさっと移動した。そこは、小さく古風な喫茶店だった。古めかしい木製の扉には『純喫茶くろねこ堂』という黒猫をモチーフにした看板が掛けられており、そこには『OPEN』とも書かれている。
「本当にあったんだ……」
私は入り口わきの傘立てに傘を入れると、扉を押開き、中へと入った。からころとドアベルが鳴り、黒猫も一緒に開いたドアから店内に滑り込むように入る、内装はこれまた、古風な……昭和の喫茶店という言葉がそっくりそのままあてはまるような風で、いくつかのボックス席とカウンター数席と言う造り。ややオレンジがかった照明が、既に雨雲で暗くなっていた外の青灰とコントラストを作り出していた。
「いい香り……」
コーヒーの香りはいつ嗅いでも良いものだ。挽かれたばかりのコーヒー豆の匂いは豊潤で香ばしく、少し甘い。かなり先の話ではあるがレースを引退したら父の喫茶店を継ぐのもいいかもしれないな。
「いらっしゃいませ! あら、じろーちゃん、お客さんをまた連れてきてくれたのね」
と、お店の人が顔を出す。シックなウェイトレス風の制服を着た女の人だ。なるほど、この黒猫はじろーちゃんというのか。
「今はお客さんいませんから……お好きなお席にどうぞ!
すぐにお冷、お持ちしますね」
私は店内を見渡して、窓際の席に着いた。カウンター席でコーヒーが淹れられるところを観察するのもいいかと思ったが、やっぱりなんだかんだはじっこが落ち着いてしまうのだ。そうこうしているうちに、すぐお冷とメニューが運ばれてくる。
「……洋食メニューもあるんですね。ナポリタンとかハムエッグとか……」
「ええ、うちのシェフ……旦那なんですけど、もともとはホテルでイタリアンを作ってたんです。どちらかというとコーヒーの方が趣味で始めたものなんですけど、今ではそっちに凝っちゃって」
「なあん」
なるほど、この喫茶店は夫婦でやっているのか。そう考えているとウェイトレスさんの足元についてきていた黒猫のじろーちゃんが、そのまま私の足元に潜り込んできた。
「あら、お客さん相当好かれちゃったみたいね。元々、人懐っこい子なんだけど、よろしければ、じろーちゃんをそうしてあげてやってくれないかしら……」
「ええ、いいですよ。じろーちゃん。私の足元でゆっくりしていてね」
「にゃー」
というところで、不意に私のお腹がぎゅううとなった。今思えば、昼食を取ろうと思い立ったところでじろーちゃんを見つけたのだったか。あれから結構歩いて時間も経っている……散歩が思った以上に楽しく、忘れてしまっていたがもうおなかはぺこぺこだ。
「す、すいません……」
「いいのよ。ゆっくり選んでね」
かああ、と顔が赤くなるのを感じた私はメニューでそれを隠すようにしながら何を食べようか……と目を動かす。ハンバーグ、ナポリタン、ビフテキ、エビピラフ、ハムエッグ、サンドイッチ……いかにも洋食屋と言う風なメニューの中、私が選んだのは『パストラミビーフと卵のホットサンド』だった。
ホットサンド。耳を落したサンドイッチを専用の器具で挟んで焼いたもの。ホットサンドメーカーなどは子供の頃憧れたものだ。それにセットドリンクが付く。当然、これはコーヒーを選ぶ。豆はマンデリンだ。やはりコーヒーはあの苦みがなくてはならないから。
「承りました。少々お待ちくださいね!」
ウェイトレスさんが、オーダーを持ち厨房へと向かう。その間、足の間をじろーちゃんがすり抜けるのを感じたりしながら、私は雨に濡れる窓に、いつものように無意識に頭の中に浮かんだデザインを指先で描いていた。ちゃりちゃり。じろーちゃんの首の鈴が雨音に混じり独特の音を立てる。コーヒーに混じり匂う、雨の匂い。そういえばこういう『雨の匂い』のをペトリコールと言うらしい。意味はギリシア語で『石のエッセンス』という意味らしく……科学的な解説などはタキオンさんが詳しいだろうが、それもまたずいぶんと古風でロマンのあるネーミングだな、と私は思いを巡らせた。
「どうぞ……ホットサンドと、コーヒーです」
そんな事を考えていると、すぐに半分に切られて断面が見えるようになったホットサンドとコーヒーが供された。ごろごろと足元で機嫌がよさそうに喉を鳴らすじろーちゃん。私はおなかが減っていたのでとにかく、まずホットサンドにかぶりついた。
おいしい。パストラミの塩気とコショウを卵がまろやかにしており、しゃきしゃきのレタスが新鮮な触感を与えてくれる……それに傘があったとはいえ、雨の中を歩いていた体にはホットサンドの温かさが嬉しい。気づくと私はほとんど一息にホットサンドを食べ終わってしまっていた。
「では……」
そして、コーヒーに口をつける。
マンデリンは基本的に苦みの強い品種で独特の風味があることから好みはかなり分かれる。この店のコーヒー豆は特にフルーティーかつ大地の香りを感じるアーシー感を強く感じられた。
「これ……浅煎りなんですね? マンデリンだと珍しい……」
コーヒー豆は焙煎の際、浅く煎るか、深く煎るかで味に違いが出る。浅煎りは酸味や香りに優れ、深く煎るほど苦みが出てくるのだが、マンデリンはその苦みを深く出すために深煎りで出されることが多いのだ。
「うちのマンデリンはスマトラの契約農家から直に仕入れた、スペシャリティグレードのものを使ってるんです。ですから深煎りしなくても苦みがちゃんとしていますし、マンデリンの香りも楽しんでもらいたいですから浅煎りにしています。正直な話、安いマンデリンは匂いが良くないものが多くて、それをごまかすために深煎りしているものもあるんですよ」
へぇ、やはり純喫茶を名乗るだけあってこだわっているんだな。私は、思わず感心してしまった。普段はちびちびとコーヒーを飲むのが好きなのだが、やはりまだ体が冷えていることもあって、熱いコーヒーを体に流し込むように飲んだ。
フランスのタレーランという昔の政治家は良いコーヒーを称して『悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋、かつ、愛のように甘くなくてはならない』と言ったという。今に限っては冷えたからだを芯から温めてくれる熱いコーヒーがうれしく、私は会ったこともないそのタレーランという人物に親しみを覚えたのだった。まぁ、後から露伴先生に聞いた話ではタレーランは『裏切りの天才』と呼ばれていたらしいが。
(もう一杯、コーヒーを飲んでいこうかな……)
と、なんとなくメニューを見ていたところ珍しい物を見つける。
「トルコ式コーヒー?」
アメリカンやイタリアンなどはありふれているが、トルコ式とはあまり聞かないコーヒーだ。ちなみにコーヒー文化はトルコやヴェネツィアからヨーロッパに広まったと言われ、当初は異教徒の飲む悪魔の飲料とされていたが時のローマ教皇がそのおいしさから『コーヒー豆に祝福を与える』ことで飲んでも良いとしたというエピソードはコーヒー好きの間では有名だ。
「すいません、もう一杯いいですか。トルコ式コーヒーを」
「はーい」
私はどんなものだろう、と気になって例のコーヒーを注文してみる。やはり客が一人であるためかすぐさまコーヒーは運ばれてきた。それは深煎りのかなり黒い色のコーヒーで……泡が多かったが、そこにはあらびきのコーヒー粉が残って沈殿しているのが見えた。
「これはトルコ・アラビア式の水出しコーヒーで、そこに粉が残っているのが特徴なんです。粉を飲まないように、泡と上澄みだけを飲んでくださいね」
なるほど、中東の方では客人が来た際に、そういうコーヒーを回し飲みするというのは聞いたことがある。私は、言われたとおりに泡を味わい、上澄みを飲んでいく。これは……複雑な味だが苦くて美味しい。さらにレモンのような酸味ある匂いがある。これはカルダモンが入っているのか。
これは先ほどのコーヒーとはちがい、ちびちびと味わう事にする。雨の音、風の音、コーヒーミルで挽かれるコーヒーの音、サイフォンの湯の煮える音。じろーちゃんのにゃあ、という声。すべてが調和して、安らげる空間を作り出している。コーヒーは自室や理科室で飲むのが大半だったが、なるほど、こうした喫茶店もいいものだ。
「にゃーん」
と、じろーちゃんがふいに座席に飛び乗り、窓の方を見ながら鳴いた。いつのまにか雨は止み、雲間から光がさしている。もう少しこの喫茶店で時間を潰したかったが、また降り出さないうちに戻ったほうが良いだろう。
「お会計は1660円になりますー」
私は満足して、会計を行い『純喫茶くろねこ堂』を後にする。お店のウェイトレスさんとじろーちゃんは入り口の方まで来て、私を見送ってくれた。また来よう……今度はトレーナーさんや、タキオンさん、露伴先生と共に来てみるのもいい。詳細な場所はよくわかっていないが……そう、ここに来たくなったらまた路地で黒猫を探せばいい。
皆さんも、もし路地で黒猫を見かけたら……怖がらず、優しく、追いかけてみてください。近くにおいしい喫茶店がある合図かもしれませんから。
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#肉『マンハッタンカフェ焼肉に行く』
……私、マンハッタンカフェはある日、神保町に出かけた。古書店街として知られるこの街はさりげなくスポーツ用品店や登山用品店が多く、さらには喫茶店まであるという本も登山も好きな私にとってはなんとも都合のいい場所で、たまの休日、外出したいなと思った時にはよく足が向く場所なのである。
スズラン通りあたりをふらふら探索するうちに、私は司馬遼太郎の紀行文の古本、その状態のいいものを見つけたのでそれを購入した。まだ、司馬遼太郎の本を読んだことは恥ずかしながらないのだが、司馬遼太郎は登山好きという逸話があるそうなので、興味は以前からあり、いい機会だと思ったからだ。
他にも、ついでに池波正太郎の随筆だとかをなんとなく買う。そういうのが好きなら、藤沢周平なんかもどうですか、と店員のお婆さんから勧められたので更にそれも買ってしまった。とはいえ、文庫本なのでかさばらず、バッグに入れて持ち運べる。こうした本はコーヒーと共に、私の夜更かしのお供になるのだ。
「……結構歩きましたね」
いつのまにか、私は古書店街を抜けてスポーツ店街のほうにまで足を延ばしていた。この辺はスキー用品や登山用品がよくあるエリアで、少しではあるがウマ娘用のスポーツ用品店などもある。そういえばトレーニング用の蹄鉄がストックがもうあまりなかったか。そういうのを補充しておこうかな……とも考えたのだが。
「さすがにおなか減っちゃいましたし、スポーツ用具は嵩張りますから後にしますか……」
そういえばまだ昼食を食べてないなあ、と気づく。神保町は2000年頃からカレーで売り出しており実際その戦略は成功して今ではカレー激戦区とすら呼ばれているらしい。たしかに先ほど歩いていた時にも一軒スパイスカレーのお店を見かけた気がする。それに、先ほど触れたように神保町には喫茶店も多い。コーヒー好きを自認する私にとっては、やはりコーヒーも飲める喫茶店に行くべきだろうか……。
コーヒー。カレー。コーヒー。カレー。コーヒー。カレー。頭の中で二つがぐるぐると回り出し、喧嘩をし始める。悩んでいるうちに、ぐう、とお腹が鳴ってしまい私はとにかく、適当に歩いて最初にあったところに入ろう、と決めた。
てくてくてくてく。評判のよさそうなカレー屋さん。あるいは路地裏に雰囲気のいいカフェでもないものか。私はそう思い神保町をさまようも、こういう時に限ってうまくはいかないもので……
「焼肉幸味苑……」
私が最初に行き当たった飲食店は『焼肉屋』だった……
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない #肉 『マンハッタンカフェ焼肉に行く』 ◆◆◆
「焼肉屋さんですか……うーん……」
これは予想外だった。神保町と言えば喫茶店かカレーだという自分の常識の狭さを思い知らされたと同時に、本当にどうしようという感想しかない。一人焼肉は……さすがにハードルが高いのである。それに、店の外観。いかにも昔から営業しています、と言う風のところどころ破れた布製の軒。看板には焼肉・ホルモン・ビール・焼肉幸味苑とあるだけでどんなメニューがあるのかわからない。増設されて三つ並んだ、油汚れで真っ黒になった換気扇はもうもうと白い煙を店内から外に排出している。そして入り口は自動ドアではなく、横にガラガラ引くタイプの奴だ。常連さんなら、よう大将やってる?といって中に入れるのだろうが一見さんである自分にはかなりハードルの高いタイプのお店……
しかし……ぎゅるる、と無情にもお腹はなる。正直、もう限界だ。さっさと飲食店があるなら入りたい……私はこの店の評価はどうかな、と気になりスマートフォンで『うまログ』を開き検索してみるも、古すぎるせいなのか焼肉幸味苑と言うのは検索でヒットしなかった。
「う……いけないいけない……」
ここまでかんがえて、ふと自分がこの店に入らない理由を探してしまっていることに気づく。こういうのは、だめだ。露伴先生も以前『経験が大事だ』とかそんなことを言っていた気がする。うん。何事も経験だ。こうなれば……入ってしまおう!
――ガラガラガラガラ
「……ごめんください。一人なんですけど」
「しゃーせー!カウンタどぞー!!!」
店内はあまり広くなく、カウンター席とお座敷テーブルが三席という構造。そのお座敷テーブルには家族連れがおり、それが何となく家族でも来れるお店なんだなと私を少しだけ安心させた。カウンター席には中年の男性が数人おり、黙々と小さな網の上……一人用ロースターと言うのだろうか。そういうので肉やキャベツを焼いては口に運び、ビールで流し込んでいる。なるほど、そもそもここは基本的に『一人焼肉』をするお店なんだな……
「注文うけたーりまさぁー」
私は、ほんの少しだけきょろきょろとしたあと空いているカウンター席に着く。するとすぐさま、店員さんがカウンター越しにお冷とおしぼりを持ってきて、注文を聞いてきた。私は焦りとりあえずメニューを開いて……サラダとか……まず軽いものを注文しようと思った。
「すいません、とりあえず千切りキャベツサラダお願いします……」
「あざぁーす千切りはりまァー!」
よし。なんとかまずは注文に成功したぞ。この隙に、肉類とかサイドメニューを見てキャベツが来たタイミングでそれを――
「千切りーす!!!!それとお通しのキャベツ盛りになりまーす!!!」
「あ、はい……」
予想以上に早く千切りキャベツサラダが出てきた。しかも、お通しとしてキャベツ盛りもついている。しまった。こういうお店はたまにお通しとしてサービスの小鉢とかがあるものだが、まさかキャベツ盛りとは……
(いきなり目の前がキャベツまみれになっちゃいましたね……)
しかも……量が多い! 特にキャベツサラダなどは確実にシェアして食べる用のやつだ……
「うう……いただきます……」
とにかく、まずはキャベツを減らそう……そう思って私は、キャベツサラダから口をつけたのだが……これが予想外の伏兵だった。
「おいしい……」
そうつぶやいてしまう程に。キャベツには塩味のたれがかかっており、これがなんとも食欲を誘うのだ。塩と……酸味。少しにんにくも効いているか? それに触感もキャベツが新鮮なのか、シャキシャキとしており噛むたびに音が口腔の中で響くよう。これはうまい。それに……『肉』と合うタイプの味だ。何口か食べているうちに私は、折角焼肉屋に入ったのだから肉を頼んでキャベツと共に食べようと考えてメニューを再び開く。
「……なんだろうこれは……さすがにカルビとかロースはわかりますけど……
ギアラ、シビレ、コプチャン……」
いわゆるホルモンというモノなのだろうか? だが、名前からは全くどの部位なのか想像がつかない……
「すいません……まず、牛タンの塩ください……」
「あーい、タン塩あざーす!!!!」
かなり無難に、まずタン塩から始めてしまった。先ほどのキャベツと同じく、すぐさま運ばれてくる薄く切られたタン塩。ネギものっているのが少しうれしい。よく付け合わせにされるレモンなどはついていなかったが、卓の割りばしの隣には牛タンにどうぞ、と書かれた瓶がいくつか。自家製抹茶塩や梅塩と書いてある……
とりあえず、私はタン塩をロースターにのっけた。瞬間、じゅわあと良い音が響き、肉汁がしたたり落ちていく。さすがの私もやはりこれにはつばを飲み込んでしまった。キャベツをもそもそと消費しつつも、薄切りの牛タンが焼けるまでには時間はそれほどかからない。私は肉は良く焼いて育てるほうなのだが(ちなみにタキオンさんは他人の育てた肉を食べるタイプだ)、もはや食べごろになった肉を小皿に移し……ここはまずそのまま口に運んだ。
ああ、おいしいなあ!というのがちょっと語彙力がなさすぎる気もするが、第一の感想だった。軽い食べ味のタン塩だがしっかりと肉の味を感じられ、タン独特の触感も良いアクセントになっている。二口目。今度は自家製の抹茶塩とやらを少し掛けてみる。これは……なるほど、塩気に抹茶の上品な苦みが足されている! それがあっさりとした牛タンに絡み……うまい!苦みが苦手な人は苦手な味かもしれないが、私はこれは大好きだ。ああ、ごはんがほしい!いやまて、そもそもなぜごはんを頼んでいないんだ?
「すいませーん……ええと、カルビと……めし……大! それと……ギアラお願いします!」
タン塩はすぐに食べ終わりそうだったので、私はとりあえずカルビと……ほしくなったごはん、しかも大を頼んだ勢いでさらに冒険してよくわからないがギアラというモノを注文してみた。
「カルビとめし大、ギャラ入りまー!!!」
これもすぐに来るんだろうな……と思っていると、やはり。まずは茶碗にこんもりと盛られためし大が到着してドン、とカウンターに置かれ……その後に来たのはカルビだ。デカい!肉の塊か……いや、本当に肉の塊だ!
「ハサミで切ってお召し上がりくだしゃ」
店員さんの言う通り、肉の塊にはカット用のはさみがついており、これで自分好みの大きさにカットしてからロースターで焼く方式らしい。肉は既につけダレに漬け込まれているのかやや色が黒く、ごまなども表面についている。私はとりあえず小さくしようと、それにハサミをいれたのだが……あまりの柔らかさにびっくりするほどだった。どうすればこの肉の塊がこれほど柔らかくなるのか……わからない。果物などと一緒に漬け込んでいるのかな……そう考えると、ちょっとフルーティーなにおいがする……気もする。
一通りカットし終えると。それをロースターの上にのせて、ついでにお通しで来たキャベツ盛りも少し乗せて焼いていく。じゅうじゅうと、肉の焼けるいい音。同時に、余分な肉の脂が流れ落ちてロースターの炎に落ち、じゅっと蒸発していく。じっくりじっくり、焦らない焦らない……私はカルビの両面をしっかりとやいて……それから、小皿に取って。卓上備え付けのたれもあるが、すでにタレに漬け込まれているようなのでまずこのまま食す。
「わあ……」
一口噛むと柔らかい肉からじゅわあと肉のうまみが染み出してくるようだ。ああ、幸せだなあ。これこれ。これだ。肉を食べるっていうのは、こういうことなんだ……特筆すべきは、漬け込まれたタレのバランスである。決して肉のうまみを邪魔せず、かといって味気ないわけでもなくちゃんと甘辛く、そして果物のフルーティーさも感じられてそれが肉の臭みを消し、それでいてうまみを際立たせている! そして、これは肉だけでなくごはんも進む味だ。肉、ごはん、肉、ごはん、肉、ごはん、あ、キャベツも……
肉とごはんがのどを通りすぎるたびに幸せを感じる。そしてそこへ最初の意外な伏兵である千切りキャベツサラダ!これまた酸味としゃきしゃき触感がさわやかで、口の中をリセットしてくれる! さらにお冷!
焼肉の時のお冷やウーロン茶は焼肉の一部と言って過言ではないくらい美味しい。私は未成年なのでお酒は飲めないが、大人の人がお酒が進むというのは何となくわかる気がする。
「はァい、ギャラでーす!!!」
と、そこに店員さんが持ってきてくれたのは例の謎の部位……ギアラであった。後から知ったのだが、これは牛の第四胃に相当する部位であったらしい。ピンク色で、小さくカットされており、食べやすそうだ。私はそれらもロースターの上に乗せ、どんな味がするんだろうなあ、と思いながら育てていく。しかし、これはアタリかもしれない。変なのが来ても『体験』だと思って頼んだのだが、見た目は普通の肉に近い。少なくともレバーなどよりは食べやすそうだ。
「では……」
十分に肉を育て切ると、私はそのギアラに口をつける……なるほど、これは……溶けるように思えてそれでいて芯には歯ごたえがあり、脂肪の甘さがある……これは大好きかもしれない……とても食べやすい……だが牛タンとくらべると段違いに肉感があるので満足感もスゴイのだ。なんだろう、食べるたびに大好きな物が増えていってる気がする……!
おっと、しかしここで問題発生だ。あまりにもごはんが進んでしまい。大をたのんだのに、ごはんが尽きてしまった。これは……『追加』しなければならないだろう。ということで。
「すいませーん! めし小と……ナムル、テールスープお願いします!」
「はあい、めし小とスープね!」
私はぽりぽりとロースター上でやけたキャベツを美味しく食べながら、肉を育てつつごはんの到着を待つ。ついでに頼んだテールスープはシメとして頼んだ。既に満足感がすごいのだが、まだまだお腹は食べられそうなので……。
「おまたせしゃたー!」
小といってもそれなりに盛られたごはんに、箸休めとして頼んだナムル。そしてテールスープ。牛テールはコラーゲンが多く、お肌に良いらしいので……肌荒れが大敵の女子にとってはうれしいし、なによりおいしい。最高の食材なのでは。
「ふふっ……」
思わず笑みをこぼしながら、まず小鉢のナムルを口に運んだ。モヤシがメインだがホウレンソウやぜんまいが入っており、ごま油のスパイシーさを感じられる立派な副菜だ。これだけでもごはんたべられるなあ……と思いつつ……残っていたカルビ! ギアラを次々と口に放り込む! うんまーい! 特にギアラは今日イチバンのあたりかもしれない。これに関しては冒険して本当に良かった……などと思っているうちに。
「あれ……こんどは、お肉……なくなっちゃいましたね……」
今度はごはんをのこして、肉がなくなってしまった。失態である。どうする? 肉を頼むか? まだ多少胃には余裕があるが……財布が少し心許ないか。それにあまり食べすぎても、体重が乱高下しやすい私の体質のこと。不安がないとは言えない。結局私はここで注文をストップし……
「こうしちゃいましょう。えいっ」
残ったライスをテールスープの中に入れて、即席のおじやめいたものにした。韓国料理風にいうとクッパになるのだろうか。
テールスープのだしは肉とは思えないほどさっぱりしていて、飲み口がさわやかだ。中に入っているミツバもうれしく、スープと言うよりは日本のお吸い物のような気もしてきたが、ちゃんと肉の風味もありそれに混ぜたごはんががっつりと腹にたまる。
「ふぅー……ごちそうさまでした!」
最初の不安感はもはや完全に吹き飛んでいた。一人焼肉、いいじゃあないか。たまには、こうしたところでがっつりとご飯を食べるのもいいものだと新たな学びがあった。そう、人生何事も学びなのだ……きっと。地球上のどこかの哲学者がそういっているはずだ。
「あざーしたァー!」
会計を済ませた私は、大満足で店を後にする。やはり焼肉だけあって、お財布には大打撃だ。今日はこのまま帰って、蹄鉄などの補充はまた今度にしよう……。
そう思って、神保町をゆったりとトレセン学園方向に戻っていく。と、見かけたのは……これまた小さな個人経営の商店でこんな古風な店が残っているのか、とも思ったがその店先にあるアイスの自販機が私を引き寄せた。あのお店にはデザートがなかったから、ここでアイスを買って食べるのは……いいな。
既に私の指は一度バッグにしまった財布に伸びており、百円玉を二枚取り出して自販機に入れる。バニラ、チョコ、パッションフルーツ、ストロベリー、ミント、黒糖きなこ、ラムレーズン……ここはストロベリーにしよう。
――ガコン!
ボタンを押すと、すぐに取り出し口にアイスが落ちてくる。私は包装紙を自販機すぐ横のゴミ箱に捨てストロベリーアイスに口をつけた。さっきは体重を気にしてしまったが……今日は、そう。チートデイというやつだ。
「甘い……懐かしい味です」
何が懐かしいのかはよく自分でもわからないが。昔からある味のように思えて、そうつぶやく。やや酸味の強いストロベリーアイスは焼肉のがっつりした後味を優しく消してくれる。今日は、日差しも穏やかで温かい。いい日を過ごしているなあ、と私は思うばかりだった。
その後、私はもう一度古書店街へと入ると……わずかな時間、古書店街を散策しそのまま神保町駅から府中へと帰る。明日からは、またトレーニングの日々が始まる。だけど、こういう穏やかな日があるから、厳しいトレーニングも頑張れるというモノだ……
「トレーナーさんのためにも、がんばるぞ……」
私は気力を充填し直し、明日も走るのだ。オチ無し、山無し。でもいいじゃないですか。これはただ私のとある一日を切り取っただけのお話ですから。
←To Be Continued?
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#終『ウマ娘プリティーダービー』
「ふぁ~あ……」
その日、岸辺露伴は東京都府中市内のトレセン学園にほど近いホテルの一室で目を覚ました。時間は六時半過ぎ……顔を洗い、服を着てホテルのルームサービスで適当な朝食をとる。今日はベーコンエッグとサラダ、ホテルと提携している近所のパン屋から毎日焼き立てが朝に送られてくるとか言うパン……そして、それを食べ終わると最近の取材場所……トレセン学園へと向かうための荷物をチェックする。といっても、大抵の道具は既にいつもの理科室に置いてあるため入校許可用の首にかける名札さえあればいい。
「さてと……」
そして露伴は部屋を出る直前におもむろに両手を上にあげ、手首の角度を直角に曲げる。ただし指は曲げずに真っすぐを保つ。そのまま、肩を回すように掌を胸の前に。肘は曲げない。手の角度はやはり直角90度を保つ。そのまま、指を一本ずつ折り……開いていく。
「準備運動、おわり」
ここまでが概ね、岸辺露伴の毎朝のルーティーンだ。気持ちの良い……とまでは行かないが、いつも通りの朝。
◆◆◆ マンハッタンカフェは動じない#終 『ウマ娘プリティーダービー』 ◆◆◆
府中周辺を朝早く通ると、そこかしこで朝のジョギングをするウマ娘の姿を見つけることができる。その手のマニアにとっては垂涎の光景だろうが、府中市民にとって、もはやそれは日常風景であり、また地域ぐるみでウマ娘への理解度も高くトップクラスのG1ウマ娘レベルであっても迷惑にならぬようすれ違う際に奥ゆかしく会釈する程度で、その対応はこなれている。露伴もトレセン学園へと向かう30分ほどの間に数度ウマ娘たちとすれ違った。
「おはよう……」
トレセン学園校門……といっても数か所あり、露伴が使っているのは最も大きな正門だ。ただしここは寮から離れているので生徒はほとんど使わず、メディアやそのほかの来訪者たちがもっぱら学園に入る場所になっている……露伴はほとんど、流れの様に首に下げた入校許可証を守衛に見せると、いつものように理科室へ向かおうとしたが。
「あー、あなたちょっと待ってください。許可証、ちゃんとみせてくれます?」
「ん……あぁ……」
守衛はいつも顔を合わせている人物であり、特段の会話はないがこのところはもう『顔パス』で入れてくれる程度には露伴に慣れ切っていた。それが今日になっていきなり、どういう風の吹き回しだろうか? 理事長かたづなさんあたりにたしなめられでもしたのか? とりあえず露伴はそれが正当な決まりであるため、立ち止まって守衛に入校許可証を見せてやる。
「岸辺……露伴さん。漫画家ですか……なるほどね。取材?」
「もう行っても?」
「ああ、ハイ、大丈夫です」
(……ずいぶんとまじめに仕事してるな。まぁ、これが本来正しいんだ。いいことだろう)
露伴は、その時は別段気にも留めずに、まず理科室へと向かったのだが……
「………………」
『いつもの』理科室はがらんとしていた。完全に物が片付けられており、マンハッタンカフェの私物やタキオンの実験道具が見当たらない。そして当然、露伴の仕事道具もだ。
「な、何ィ―ッ……ど、どういうことだこれはッ……僕の執筆道具が全部なくなってるぞッ!
気に入って手元に置いてたド・スタールの画集までないッ! ゲホッ!? クソ、なんなんだッ!?」
血相を変えてずかずかと理科室へと入る露伴だったが、そもそもここ数カ月は人が立ち入っていないのか埃が舞いあがり思わずせき込んでしまった。おかしい、何かがおかしい。昨日だってこの部屋で作業をして、仕上げた原稿をたづなさんに頼んで編集部までバイク便で送ってもらったのだから。この『手つかず』さは……!
その時だった。
「こ、この人ですッ!!!」
誰か見かけないウマ娘が、たづなさんを引き連れて自分に指をさしている。よくわからないが、たづなさんなら何かしら知って――
「あなたっ! 許可証を偽造してまで、学園に入り込むなんてッ!」
「ッ!?」
学園に入り込む? ……偽造とは一体? 露伴は思わずびくりと体を震わせ、驚愕した。たづなさんには別段嫌われていなかったとは思うが……何か粗相をしたか? それとも、学園のルールを何か破ってしまったのか?
「あなたを不審に思った守衛室から連絡がありました。岸辺露伴という人物が取材名目で入って行ったが大丈夫か、と。急遽確認したところそんな許可、理事長も許可した覚えはない、とおっしゃっています! 当然、私も書類をチェックしていて岸辺露伴なんて名前が出てきたところは見たことがない!」
「な、何だってッ!?」
許可が下りてないだって? どういうことだ!? 昨日までカフェさんとタキオン君をあれほど密着取材していたのに、今更何かしらの不備……いや、この敵意はッ!!! まさかッ!?
「ヘブンズドアーッ!」
「ああっ!」「きゃあ!」
露伴は、なんらかの『スタンド』攻撃ではないかと考え、先手を打ってたづなと女子生徒にヘブンズドアーを発動させた。ばらばらと音を立てながら、本と化したたづなと女子生徒がその場に倒れる。
「ハァーッ……ハァーッ……申し訳ないね、何かしらの攻撃を受けているとするなら……『記憶』の中に何かあるはずだ。失礼ッ!」
有無を言わさず先手必勝……能力さえ叩き込んでしまえば、なんとでもできるのが露伴のヘブンズドアーである。そのまま、とりあえず、何かヒントはないかとたづなの記憶を読んでみる。
「駿川たづな。誕生日5月2日。スリーサイズはB83・W63・H84、嬉しい事があった時は土鍋でご飯を炊く……クソ、今はこういうのはいいッ!」
そのままペラペラと最近の記憶を漁るが……特に変わった物はない。スタンド攻撃ではない……?
「警備員さんッ! あそこです!」
「コラーッ、なにをやっとるかーっ!!!」
「クソッ!!!」
今度は学園の警備員だ。とにかく、今は逃げるしかない。露伴は身をひるがえし、走る。幸運は二つあった。露伴は日ごろからジムに通うなどして運動をしており、十分に体力があった事。そして、学園側もウマ娘に『不審者』を捕まえさせるようなことはせず警備員や守衛などの『人』に任せたことだ。露伴はなんとか警備員を振り切ると空き教室に飛び込み、そこから雨どいを伝ってグラウンドへと降りる。今は……午前中の座学中心の時間帯のため、グラウンドやトラックにもほとんどウマ娘たちがいない。
……露伴は、とりあえず倉庫めいた手近なプレハブ小屋へと逃げるように転がり込んだ。
「おや……」
先客。若い女性の声。ウマ娘か。
「……失礼、少々立て込んでいるが僕は『正式』な『入校許可者』で――」
そこまで言って、露伴は気づく。栗色のショートヘア。一房のハネた毛、ハイライトのない瞳。
「タキオン君か……?」
「ふぅン……?」
露伴の目の前のウマ娘は、興味深いという風に声を出した。それだけなら、見知った腐れ縁のイヤミな女子生徒であったが、彼女は『車いす』に乗っていた。
「タキオン君どうした、怪我をしたのかい? ずいぶん重症そうじゃあないか? 何があった。大丈夫なのか……?」
「……タキオン君とはずいぶんと私に慣れ慣れしく話しかけるね。何者だい、君は。まず名乗りたまえよ」
「…………」
露伴は、その『車椅子の少女』の顔を見て確信する。タキオンで間違いないが……やはり彼女も様子がおかしい。彼女もたづなさんと同じように露伴と初対面のようにふるまっている。さすがに先ほど警備員を呼ばれた以上、手の込んだドッキリと言う線はないだろう。これは一体。いつも取材先でお目にかかるような何らかの怪異か? 何もつかめないまま周囲が激変しているという状況にしては、いつぞやの藪箱法師の一件が思い当たるがさらに周囲の記憶から自身が消えているのはより悪い状況かもしれない。
「僕の名前は岸辺露伴。漫画家だ。この学園に取材に来たんだが……少し迷ってしまってね」
とりあえず露伴は、目の前のタキオンを警戒させぬよう妙な心持だが自己紹介をしておいた。
「……岸辺? 聞いたことのない名前だが……。それに取材か。災難だね……まァ、私には関係のない事だ」
タキオンはそんな露伴に特段注意を払う事はなく、どこか無気力にぼんやりと暗闇で佇んでいた。今思えば、倉庫かと思ったがここはどうやら『部室』――スカウトされたウマ娘たちに与えられるチームごとの部室……の残骸のような物に見えた。例の理科室のようにろくに掃除されていないようで埃が酷く、壁に貼られたポスターはへにゃりと剥がれかけており、ホワイトボードには目指せ凱旋門賞という文言が消されずに残っている。
「……一つ聞くが、君はなぜこんな場所にいるんだい。もう使われていない部室のようだが」
「…………いや、特に深い理由はないんだ。放っておいてくれ……もっというとここは私のお気に入りの場所なんだ。一人で浸りたいときってあるだろ?」
言外にさっさと出ていけ、という風な色をにじませながら捨て鉢な様子でタキオンは言う。それがどうにも露伴には違和感を感じさせた。気に入らない女生徒だったが、理知的でそうした物とは無縁の性格をしていたし、その点については一定の評価はしていたものだが。
「『ヘブンズドアー』」
露伴は、タキオンに『ヘブンズドアー』を発動させた。彼女は眠りにつくように静かに車いすの上で『本』と化す。露伴はそのページを何枚かめくり……内容を読んで、驚愕した。
「バカな……アグネスタキオン……阪神競バ場での新バ戦、ホープフルステークス、弥生賞、皐月賞を4連勝し……三冠馬確実と目されながらも脚を故障し引退……その後はトレセン学園の研究科に転入……だと……」
露伴の知っていたアグネスタキオンは、皐月賞の後、日本ダービーはジャングルポケット君、菊花賞はマンハッタンカフェさんに阻まれて逃したものの秋の天皇賞などを勝ち鞍として今はドリームシリーズに挑戦していたはずだ。
「……これは……オイオイオイオイ……待て、そんな……」
露伴を驚愕させる記述はそれだけではない。タキオンの記憶の中にあるマンハッタンカフェの記述はこうだ。
「菊花賞、有マ記念、春の天皇賞を制覇。秋にはフランス、凱旋門賞に挑戦するも大敗……その後、脚を故障して引退に追い込まれる……すまないカフェ。私のエゴに君を巻き込んでしまった。私が君に『プラン』を押し付けなければ。君はこんな結末を迎えることはなかったはずだ。結局、私は大切な『おともだち』を巻き込んで使い潰してまで『果て』にたどり着くことはできなかった。いや、そもそも『果て』なんてものはなかったのかもしれない。ウマ娘は生き物だ。限界はある。すまない、カフェ……すまない……私の責任だ。すまない。すまない。すまない。すまない……」
露伴は延々と刻まれたタキオンのカフェへの謝罪と後悔の記憶を直視できず、そこで読むのを止めた。……これは露伴の記憶にも似ているが、凱旋門賞は記憶にないし、カフェさんもタキオン君と同じくドリーム・リーグに挑戦していたはずなのだ……本人の記憶を読む『ヘブンズドアー』に対して『嘘偽り』はつけないはず。となればこれは。
「……わかったぞ……僕は『別の歴史』に紛れ込んでしまったんだッ……タキオン君はトラサルディーを訪れて『脚』の不調を解消したと聞いた。ここは……『そうならなかった歴史』なんだッ! クソ……他に何が変わっている? 反応からして、少なくとも『僕』は『この歴史』には存在していないッ!」
それから、スマートフォンで露伴はいくらかの事柄を検索する。例えば自身の事。以前ならば気まぐれに『エゴサ』してみれば岸辺露伴に対する批評は簡単に見つかった。だが、いくらネットを探してみようと岸辺露伴と言う人物に対する情報は存在しない……それどころか杜王町という都市すらないのだ。当然、そこにトレセン学園の合宿所が立ったなどという事実もない。
「まずい……どうする? 僕のいた世界とは別の世界に来てしまったとしたら厄介だぞ……どうにかして戻らなければならないが……方法は……いや、そもそも『なぜ』僕はこの世界に居るんだッ?」
ふと、露伴は思い立つ。『異世界』に転移するということはなんらかのトリガーがあるはずだ。普段の生活でそんな大それたことが起きるはずがない。そして露伴がそれを忘れているとしても……『ヘブンズドアー』で記憶を読めば、なにかしらのヒントがあるかもしれないッ! そこで露伴は『自分自身』にヘブンズドアーを発動させた。
「ぐ……」
露伴は強靭な精神で負荷に耐え、『ヘブンズドアー』の眼を通じて自分の記憶を読んでいく。すると……
『2021年2月、ウマ娘プリティーダービーというゲームアプリがリリースされる。スマホゲームに興味はなかったが、流行っているので最新のトレンドを知っておくためにもプレイしておいた方がいいという理由で担当の泉君に無理やりインストールさせられる。フレンド登録とサークル登録やらもさせられた。靴を投げ合うらしいがどういうゲームなんだ?』
『執筆も一息ついたので、何かネタはないかと探すうちにふと、ウマ娘の事を思い出す。あまりやる気は起きないが、こういう暇な時間にやるのがスマホゲームという物だろう。とりあえず後で起動もしていないというと泉君がうるさいので少しだけ遊んでみることにする。なんだ? 馬を擬人化してレースをするというのは分かるが何故レースの後にライブをするのだろうか……』
『なるほど、最初は面食らったがなかなか面白いゲームだ……シナリオもこの露伴の漫画には劣るがなかなか書き込まれていて、設定にも息遣いが感じられる……飽きるまでプレイして最近の流行りと言うのをいくらか頭に叩き込んでおくのもいい経験になるだろう』
『30分後、泉君が打ち合わせにやってくる。それまでにサクッとデイリーの育成でもやっておくか……』
「……なるほど、そもそも『僕』の存在自体が『イレギュラー』ってわけか……」
自身の記憶を読み、露伴は理解する。この世界はそもそも『ウマ娘』というゲームの世界なのだ。タキオン君が時折、言っていた通り『ウマ娘』は科学的に解析しようとするとどうしても説明できない事象に突き当たる。それにも説明がつく……
「……では、『脱出』させてもらうとするか。僕には僕の世界がある。僕の仕事があるからな……」
露伴はそう言うと、『空』に向けてヘブンズドアーを発動させた。
「正直に言うと、楽しかったよ。カフェさん、タキオン君……」
ぷつん、とそこで露伴の意識は一瞬途切れ――
「ハッ!」
「もう、スマホゲームしながら寝落ちなんて……露伴先生、だらしないですよ。と言うか露伴先生もそういうことするんだなぁって感じです」
「おいおい、僕だって人間なんだぞ。その言い草はちょっと酷いんじゃあないか?」
露伴はふわあ~と伸びをしながら、執筆机の上に置いてあったスマートフォンを見る。そう、露伴は『打ち合わせ』にやってくるであろう担当編集の『泉京香』にヘブンズドアーで画面越しに命令し、『ウマ娘プリティーダービー』のアプリを終了させたのだ。
「じゃあ、お疲れのところ悪いですけれど打ち合わせ……って、露伴先生、何また『ウマ娘』やろうとしてるんですか!」
「ん……あぁ、ちょっとね……今、いいところなんだ……あと10分待ってくれるかね」
「もうー!」
泉はいつも以上に勝手な露伴にもう慣れたとばかりに、適当にコーヒーを入れて飲んでいた。その間にも露伴は手慣れた様子で画面をタップし、育成を進めていく。
「あちゃあ……SS+ランクどまりか。調子がいいときはUGまで行くんだがなあ……」
露伴は画面の中で手を振るマンハッタンカフェの育成結果に、少し不満げな言葉を漏らしたが。
「……これはゲームなんだ。ゲームの中くらいは……最果てなんてない、ということを証明してやるぞ、カフェさん、タキオン君。この岸辺露伴がな……」
泉に聞こえないよう、そうつぶやいて打ち合わせにようやく席を立つ露伴。
「……ありがとうございます、露伴先生」
「ま、私たちをうまく使ってみたまえよ……期待はしてるさ」
その背後で、そんな声がスマートフォンから聞こえたような気がした。
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