竜血濁らずとも腐るべし (メラニンEX)
しおりを挟む

異端なる天竜人
1.マリンフォードの天竜人


中学生時代に書いていたものを、今になってリメイクしてみました。楽しんで頂けると幸いです。


 

マリンフォード海軍本部、最上階。「正義」の2文字を信条とする組織の文字通りトップであるそこは、三日月型をした湾が一望できる絶好のロケーションである。建物の中まで漂う、潮と水の強い香りが充満しており、遠くのほうから荒っぽい海兵たちの怒鳴り声や、腹の底まで届く海嘯が、淡く鼓膜を叩いた。内部は外観や制服と同じように、建物内も潔癖なまでに純白で染め上げられており、足下の絨毯だけが濃く深い海の色だった。入隊後初めて、海軍上級将校たちの執務室が存在する最上階に足を踏み入れたコビーは、しばらくその質実剛健をそのまま表したような内装や高い天井、ぶら下がっている電球を呆けたように眺めていたが、ややあってはっと我に返った。

 

(いやいや、こんなことしてる場合じゃないぞ!早いとこガープ中将を探して判子を貰わないと…)

書類を手にした青年は、なんとも初々しい。白い軍服もどこなく着られているように見えるし、緊張がありありと伺えるような表情を浮かべたまま右足と右手を同時に動かしている。

まだ軍属になってさほど経っていない若き海兵は、豪放磊落かつ自由奔放な上司から期限間近の書類に判をついてもらうべく、普段寄り付くこともない最上階フロアにたどり着いたわけなのだが、どうもあの巨大な気配はないようだ。軍に入ってより朝から晩まで鍛錬を積む彼は多少気配に敏感になっており、それでなくともあの生きているだけで周りの空気の温度が上がりそうな『英雄』の在不在を探るのはそう難しいことではない。

しばし迷った彼はおろおろと視線を彷徨わせたが、ともあれ部屋を除いて不在を確認してから他の場所を探そうと考え、直属の上司であるガープの執務室の扉を開いた。

 

「………!?」

反射で扉をバタンと閉じる。今しがた部屋の中に見えたものがさだかには信じられず、部屋のネームプレートを5回確認してからまた扉を開け、やっぱり閉め、と無駄な動作の繰り返しをしたところで、焦れたように中から声が聞こえた。

 

 

「–––さっきから何をしてるの。扉をそうガタガタさせられると耳障りだから、やめてちょうだい」

「あっ、す、す、すみません!」

か細く静かだが、どこか威厳のある声にコビーはひいっと姿勢をただし、そろそろと何度目になるか分からないほど開閉したドアを軽く押した。音もなく開いた扉の隙間からコビーはそうっと中を覗いた–––が、どう見ても、目を擦っても中で堂々とくつろいでいる人物は、上司のガープではない。軍服も着ていなければ壮年でもなく、筋肉に覆われた巨躯でもなければそもそも男ですらない。年若い、華奢そうな女性である。顔はどこかで見たような気もするが、とにかく海軍所属の人間でないことは確かである。青年の頭に「不審者」の3文字が浮かんだ。

 

女性は覗いているコビーを気に止めることなく、しばらくの間手元の書類に目を落としていたが、ふと顔が上がる。淡い紫のサングラス越しに、吊り目がちの二重がコビーを捉えた。

「そこの貴方」

「はいっ!?」

初対面にも関わらず、上から目線の声色で呼ばれたことにちょっとびっくりした青年を無視して、女はコビーを指差した。正確に言うと、コビーが持っている書類を。

「ガープに用があるのでしょう。あれなら、少し前におかきを買いに出たからもうすぐ帰ってくると思うわ。中で待てば?」

 

部屋の主でないことは確かな女の誘いにコビーは躊躇ったが、ともあれその言葉が本当ならば従った方が良いのは確かだし、ガープはそれくらいで気分を損ねるような人間ではない。コビーは恐る恐る部屋に脚を踏み入れて、女からうんと離れた部屋の隅っこで直立不動になった。ちらりと横目で女の方を伺ったが、女は青年に興味がないようで一瞥もくれず、手元の書類に何か書いていた。

 

(だ、誰なんだろこの人…制服着てないし海軍ではないんだろうけど…ガープ中将が部屋に入れたってことは顔見知りなんだよね?どこかで見た気もするけど、中将をあれ呼ばわりするってことは、身分高い人なのかな…世界政府の人とか)

 

謎の女性は、コビーのいくつか年上と見えた。明らかに染めたと思わしき安っぽい金髪は色落ちしていて、根元の方が特に黒い。耳にいくつものピアスをつけた上に紫のサングラスというのに柄の悪さはあまり感じず、むしろ気品のある精巧なつくりの面立ちだった。対して服の方は、上質なジャケットにドレスシャツ、白いネクタイ、白いロングスカートにコルセット風のベルトという全体にかっちりした格好は、襟元のボタンを1番上まで止めていることも相まってどこかの役人のようにも見える。

 

プリン頭・グラサン・ピアスという、歓楽街の模範チンピラみたいな特徴と、仕立てのよい服装はどう考えても相反するものだが、目の前の女性に限ってはこれ以上ないほどしっくりと馴染んでいた。

粗野なようでいて、優雅。

低俗なようでいて、高貴。

そんな奇妙な印象を抱かせる女性である。

 

「………あのう」

コビーの勇気を振り絞った声に、女は目もくれない。

「………あのう!」

2度目の声かけに、プリン頭の女はようやっとのことで目線を上げてコビーの方を見た。

 

「何?」

「…あの、こ、ここガープ中将の部屋ですよね?」

「そうね」

「貴女はガープ中将…ではないですよね」

「ええ」

「海軍所属の方でも…ない?」

「全くもって違うわ」

「………で、では、貴女はどなたなので…?」

 

女はコビーの震えながらの問いかけに、ずっと動かし続けていた手をそのとき初めて止めて、少しサングラスをずらしてじっと彼を見つめた。ごく淡い、白眼との区別がかろうじて可能なくらいのうすい灰白色の瞳である。人よりもやや、黒目がちなせいか以外と姿は幼い印象があった。からん、と天井のシーリングファンが回る音がひどく響く。

 

「……私を知らないの?不勉強だこと。多分新兵なのでしょうけど、ガープも教えてやればいいものを…まあいいわ。貴方、名前は?」

女の口振りには有無を言わせない力と、相手が自分の意に従うことを至極当然と考える冷然とした傲慢が宿っていた。その静かな圧に押されるようにして、コビーは無意識のうちに踵を揃えて最敬礼の姿勢をとっていた。

「えっ、あっ、はい!私はガープ中将付きのコビー軍曹であります!!先月より本部配属となっております!」

「そう。極めて素朴な名前ね」

 

雨が降る音にも似た、か細い声はひどくつまらなさそうだった。非難や見下しの響きこそないが、どちらにせよあまり興味もないようである。口紅の塗られていない唇が一度閉じられて、また小さく開く。

 

「私の名前は、」

「戻ったぞヨル!!おかき食うか?おっ、なんじゃコビー、お前さんも来とったんか。まあ座れ座れ」

 

女の自己紹介をドアが蹴り開けられる音と威勢のよい大音声が遮った。その大きさと言ったら尋常ではなく、部屋の空気がびりびりと震えるのが直接肌に伝わり、部屋に備え付けられた家具が若干揺れるほどだった。コビーは敬礼したまま床から5センチ飛び上がり、対照的に女の方は驚く様子も見せないまま、ため息をひとつ吐く。

 

その大声の主こそ、この部屋の持ち主でもあるモンキー・D・ガープ中将だった。海軍上級将校が身に纏う白いスーツは、老いてなお分厚い筋肉ではち切れそうなほどであり、その足取りには一分の隙もない。一挙手一投足にまで周囲の温度を上げるような気配がまとわりつくこの男こそ、ゴッドバレー事件や海賊王との因縁で名高い海軍の『英雄』その人だった。ちなみにコビーの直の上官でもある。

 

「ガープ…声量を抑えてちょうだい。新米が床から浮いてたわよ」

「ぶわっはっは、そいつはすまんかったな!」

やはり顔見知りらしい。両者の口振りには、親しさからくる無遠慮がある。見た目通りの開けっぴろげな笑い声を立てたガープは、白いジャケットを脱ぎ捨てながら、ふと直立不動で固まっているコビーとソファに行儀良く座っている女性を見比べて、目線をいったりきたりさせた。

 

「んん?しかし珍しい組み合わせもあったもんじゃな。お主ら知り合いだったか?」

「いっ、いえ」

「初対面よ。彼が貴方の新しい部下だと言うのを聞いたところで、貴方が遮ったの」

「おお!なるほどな!」

 

女の嫌味をスルーして何やらニンマリしたガープは、ソファにどすんと腰掛けて女の華奢な肩を掴むと、わざとらしく片手を口元に寄せた。

「コビー、このお嬢様の顔はここにいれば嫌でも覚えるぞ。なんと言ったってな」

言いかけたガープを今度は逆に女が遮った。細く節だった指がガープの口に押し当てられると、その無礼の極みのような動作ひとつでガープは沈黙し、女が静かに口を開いた。

                    

「私はビヴロスト・ヨルムンガンド。五老星直属諮問機関、六梯席所属のひとりよ。この名前と顔をよく覚えておくことね、新兵」

その名前にようやっと、彼女の顔に既視感を感じた理由を思い出したコビーは、あんぐりと顎が落ちそうなくらいに驚いた。

 

 

世界を作った20人の王の末裔、世界貴族『天竜人』。世界最高の権力者の一角であるビヴロスト一族の長の名前こそ、目の前の女性が名乗ったものに他ならない。『魚類贔屓』『マリージョアの暴走機関車』『厄災』と物騒な異名を持ち、世界各地で良い意味でも悪い意味でも揉め事を起こしまくった海軍の悩みの種である。

–––そして、何よりも。

 

ビヴロスト・ヨルムンガンド宮は、偉大なる王たちがマリージョアに移り住んでからの有史800年間において唯一、聖地を脱走しすぎたことにより、海軍によって顔写真付きの手配書を作られた天竜人である。コビー自身も何度か目にしたことのある彼女の手配書にはこう記されている。

 

『MISSING!!』

『このご尊顔をお見かけしたら、お近くの海軍まで連絡を!当該天竜人が無事に保護された場合、報告者には1000万ベリー!』

 

今まで偉そうな不審者だと思っていた女性がまさかの身分であることに驚愕したあわれな青年は、ふらっと意識を失って顔面からローテーブルに突っ込み、ガシャン、という轟音とともにガープの爆笑が部屋を揺るがした。今日も今日とて平和なマリンフォードである。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

脱走癖のある天竜人、ビヴロスト・ヨルムンガンド。海軍を悩ませる、この世で最も高貴な頭痛の種は、実のところ生活のほとんどを聖地マリージョアではなく、海軍本部のあるマリンフォード近辺のどこかしらで過ごしている。流石に寝るときはマリージョアの邸宅まで戻るが、1週間のうちの約半分程度はマリンフォードが所在地だ。そうでない日は大体、新世界か世界政府の庁舎があるテーチスにいる。

 

当初は世界貴族の一員であり、単独でバスターコールすら余裕で起こせる権力者を本人の望みとはいえマリンフォードに置いておくのはどうかと、海軍本部で会議すら行われたのだが、そうなった彼女はマリンフォードから別の島に移しただけだったので、本部は諦めて彼女がマリンフォードのカフェテリアで安っぽい飲み物を啜っているのを黙認するほかなかった。海軍の目が最も行き届いている場所にいた方が、いざ問題を起こされても多少なんとかなるだろうという目算も多少ある。

 

彼女がこんな生活スタイルをし始めた当初は、通りすがるものは皆『海兵を奴隷にしたい』とか『飲み物がまずかったから死刑』だとか、そういう天竜人あるあるの暴挙をやらないかと緊張しっぱなしだったものの、時折の問題を除いて基本的は静かにしているヨルムンガンドは半ば風景のようにスルーされることとなっていた。

とはいえ。

 

「こ、こちらコーヒーゼリー入りココナッツミルクでございます!」

「ご苦労様。そこに置いて」

流石に監視は必要と判断されているので、ヨルムンガンドの指定席となっている1番奥のボックス型ソファに飲み物を運んできたのは、彼女の護衛でもあるうら若い海兵だった。その他にもカフェテリア近辺には複数の兵士が待機している。ヨルムンガンドは机を埋め尽くす書類と寝ぼけている電々虫と積みかけのジェンガと灰皿を端に追いやって、グラスを置くスペースを空ける。コトン、とガラスが机に触れるときに、軽やかな音が鳴った。

 

それが終わると用事は無くなったようで、ヨルムンガンドはジェンガを積みながら電々虫で誰かと話し始めたので、コビーは黙って席から少し離れた位置でぴしりと待機の姿勢になった。目線を少しだけ動かすと、染めた金髪と黒髪の入り混じった髪の若い天竜人は、大して楽しげでもなさそうに手元のジェンガをちみちみと組み立ていた。時折ふんふんと相槌を打つほかは無言で、ひどく静かだった。見渡せば昼食の時間もとっくに過ぎているせいか、内部にはコビーを始めとした海兵数名とヨルムンガンドの他には誰もいないので、その静寂は耳に痛いほどである。

 

––––どうにも奇妙な天竜人である。

ガープの一言で(本来天竜人の直属は大将が担うものだが、彼女があまりにも脱走するのでいつしか下っ端でも許されている。海軍は忙しいのだ)彼女の見張り当番のひとりとして駆り出されることになってから、まだそれほど時間は経っていないが、それでも彼女はとにかく謎が多かった。見聞きする天竜人との印象とはまるで、本当に、何もかもが違う。

 

 

–––そも、天竜人というものは。

この世の中において、世界政府の上に立つ最高権力者の総称だ。世界の創始者の血を受け継ぐ名誉は、治安維持を司る海軍最高峰すら凌駕しており、その行動と意志はあらゆるものより優先され、許容され、歩む道には民が平伏して通り過ぎることをただ待つのみ。天竜人の1人の声で、世界屈指の戦力である海軍大将すら跪くことを余儀なくされる。

 

道端で気に入った女を無理やり奴隷にし、それに反対した夫を殺した。

天上金と呼ばれる各国への税金を吊り上げ、ひとつの国を滅ぼした。

道端を歩くときに自分の足では歩かず、四つん這いの奴隷に乗って移動する。

一国の王を奴隷として扱った。

己の前を横切ったというだけで、船を沈没させた。

下々と同じ空気を吸わないために、ガラスの被り物をする。

 

これらは全て作り話でもなければ、小さな話が膨らんだわけでもない。この悪行の全ては実際に行われて、そして何の咎めも裁きも下されていないものである。かつては高潔だった王の子孫は、800年の歳月の中で、自らを取り巻く権力に溺れ腐敗し、今や世界の人々から憎しみの視線を持って見上げられていた。何一つ統治せず、責任を負わないままに特権のみが与えられる、歪にして理不尽の権化たる世界貴族。それこそ彼女–––ビヴロスト・ヨルムンガンドが属する天竜人なのだ。

 

ヨルムンガンドはコビーが会った中で一度も奴隷を連れていることも無ければ、ガラス玉を頭に被っていたこともない。大抵同じジャケットにロングスカートやスキニーというシンプルな格好で、咥えタバコをしながらひとりでふらふらと日々を過ごしている。それどころか、ガープに『あのお嬢様に撒かれることがなくなったら一人前じゃ!』と言われた通り、護衛役のコビーたち海兵が目を離した隙に、物凄い瞬足でどこかへ逃げているようなタイプだった。ちなみに追いつけた海兵は、今のところ中将以下のクラスにはいないらしい。

 

 

からん、と。

氷が触れ合う涼しげな音に、ふっとヨルムンガンドの方を見ると、彼女はコーヒーゼリー入りココナッツミルクを飲み終わっており、空になったグラスをぷらぷらと振っていた。さっきまで話していた電々虫も静かになっている。窓側から差し込む光がコップとサングラスに屈折し、白い顔に複雑な紋様を映し出していた。普段海兵たちが何気なく使っている無骨なコップも、ヨルムンガンドのような美女が使うと驚くほど絵になっており、束の間コビーも見とれるほどに美しかった。

もとより、並ぶものなき貴人である。こうして将校ではないコビーが側に寄ることすら、本来出来ぬこと。

 

「…おかわりを持って、参りましょうか」

コビーの声に、ヨルムンガンドは少し考えて、それから黙って首を横に振った。大抵彼女は、海軍のカフェテリアに置いてある妙なラインナップばかり––ゴーヤスムージーとか炭酸抜きコーラとか–––欲しがるのだが、今日はもういらないらしい。

「結構よ。でもコーヒーとココナッツミルクの組み合わせは悪くなかったわね。カフェテリアの人間にそう伝えておいて」

「かしこまりました。…あのう、ヨルムンガンド宮…大変不躾なのですが…」

「許可するわ。何?」

ヨルムンガンドは机の上に散乱した書類を乱雑に鞄に押し込みながら答えた。

「マリージョアには、こう言う海軍の食堂で召し上がるよりおいしいものがある、と僕は思っていたのですけれども…実はそうでなかったりするんでしょうか」

 

ふ、と貴人が首をわずかに傾げた。生白く日焼けあとのない、華奢な喉が面白そうに鳴った。肉のひとかけらまで尊ばれる身分は、例え女が髪の毛をまだらに染めていようと、ピアスをじゃらじゃらと開けていようが、動作のひとつひとつに気品を保ったままである。

 

「マリージョアにはね。ここの飲み物より美味しいものも、海兵の給料一生分使っても飲めないほど高価で希少なものも…この世のほとんど全てがあるわ」

音もなく、ヨルムンガンドは立ち上がった。女性の平均身長である彼女は、立つとコビーと目線が殆ど同じになる。強い光を背にして、炯々と光る灰白色の瞳が少し、瞬く。にこりともしないまま、声だけ僅かの笑みの色が混じった。

 

「でも、私は安っぽくて、変な味がして、大して美味しくもない飲み物が好きなの。聖地には絶対、持ち込まれないものだから。–––というわけで新兵、後片付けはお願いするわ」

 

そして言うが早いか、片手で奥側の窓をガラリと開けたヨルムンガンドはそのままひらりと窓枠を飛び越えて、鞄片手に体重を感じさせないまま跳躍した。とん、とんとん、とリズミカルに、ジグザグに空中を蹴飛ばして一気に加速し、灰色のジャケットはあっという間に遠ざかっていった。

束の間見惚れていたコビーは、3拍ほど遅れて護衛対象があまりにもするっと逃げ出したことに気づいて窓枠から慌てて身を乗り出したが、後の祭り。既に遠すぎる位置まで走り去ったヨルムンガンドには、『剃』を使っても追いつくことは難しい。コビーはしばらく頭を抱えたが、そう言う時にこそ役立つのは、ガープから配られた『ヨルムンガンド宮手取扱説明書』(手書き)である。

 

かくして、逃亡から少しして、海軍本部に位置するスピーカーからは、機械的なアナウンスが大音量で響き渡る羽目になった。

 

『ビヴロスト・ヨルムンガンド宮がたった今、脱走なさいました。方向は5番ドック付近、待機中の海兵は直ちに保護に向かってください。繰り返します、たった今––––』




登場人物
ビヴロスト・ヨルムンガンド
マリージョアから毎日のように脱走しては下界でぶらぶらしている天竜人の異端児。大体マリンフォードの食堂にいるけど、月2くらいでシャボンディとか新世界に無断で行ってる。経路はほんとに謎。戦闘能力はあんまりだが、逃げ足だけならCP勢や海兵たちを振り切れるくらいに速い。最近は彼女が6式を会得しているかどうかで海兵の賭けの対象になっている。海軍上層部と五老星の頭痛の種。26歳。

ガープじいちゃん
ヨルムンガンドが7歳の頃からの付き合いがある。天竜人の中では常識的な部類の彼女を気に入ってる。大体2人の時なら「ヨル」と呼ぶが、元帥にはめちゃくちゃキレられる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2.嘘・カレーパン・天竜真拳

よろしくお願いします。


 

ごと、と軽い音を立てて一枚の皿がヨルムンガンドの目の前、白いテーブルの上に置かれた。黒地のシンプルな皿には、目玉焼きとレタス、やや歪に歪んだトマトと、端っこにポテトサラダが置かれていた。いろどり鮮やかな組み合わせが、明かり取りの広い窓ガラスから差し込む光によっていっそう美味しそうに輝いていた。

が、それを黙って眺めているヨルムンガンドの顔は、いつも通りの仏頂面ながらどこか不満そうである。皿を置いてやった中年男性–––天竜人ドンキホーテ・ミョスガルド聖は、それなりに付き合いの長い若き同族の顔から、あわい不満の色を嗅ぎ取って尋ねた。

 

「どうした、ヨルムンガンド?」

「………」

金と黒の入り混じった髪の女は、じっとりとミョスガルドを見上げる。まだ寝ぼけた顔のヨルムンガンドの斑の頭は寝癖だらけだったし、サングラスをかけていないせいか黒目がちな灰白色の瞳はぼやっとしているが、元来人相が悪めな彼女は、そうしているだけでも謎の迫力がある。

 

「………ミョスガルド」

「な、何だ」

「………私、カツ丼が食べたいのだけれど」

「自分で作れ!!!!小娘が!!」

 

朝の聖地マリージョア。その北西に位置するビヴロスト家のキッチンでミョスガルド聖は思いっきり怒声を上げて卓上の皿を投げつけたが、当たり前のようにヨルムンガンドはそれを涼しい顔で受け止めると、黙ってフォークを向けてきたので可哀想なミョスガルド聖は逃げ回る他になかった。朝食のメニューで揉めている天竜人、というのはなんともチグハグな言葉だ。濃縮還元搾りたてジュース、というのと同じぐらい違和感があるが、残念なことにこれは嘘ではない。マリージョアに存在してはいけないレベルで庶民的な朝の風景が、悲しいことに今のビヴロスト家には存在していた。

 

 

 

 

嘘・カレーパン・天竜真拳

 

 

 

大体毎日やってる争いを今日も今日とて繰り返した両者は、適当なタイミングで矛を収めると、渋々2人で使うには余りにも広いテーブルに離れて座り、もくもくと食事を始めた。互いに世界最高のテーブルマナーが一応叩き込まれているため、咀嚼音も食器同士が触れ合う音もなければ頬袋を膨らませることもない。食べているものが目玉焼きとか焦げたトーストでなければ、高価な身分に相応しい食事風景だったことだろう。

 

閑散と、している。

 

朝のだだっ広いキッチンとダイニングルームには、2人の他には誰もいない。天竜人なら殆どのものが部下として、使用人として、家具として、乗り物として、肉の盾として多くの奴隷を傍に携えているのが普通だが、それすら誰一人としてこの場にはいない。生活の匂いがあまりしない、淡い緑の壁にはきっかり2人分の影しか映っていなかった。そしてそれは、ダイニングだけではない。大理石の廊下に、暖炉のある居間に、広々としたプールにも、家中どこにもミョスガルドとヨルムンガンド以外の人影はひとつもない。

 

ビヴロスト・ヨルムンガンド。

ドンキホーテ・ミョスガルド。

 

性別も年齢も朝食の好きなメニューも全く異なる両者だが、唯一『奴隷を1人も持たない』という天竜人には極めて珍しい共通項があった。生活には雑務がつきものだ。奴隷がいない2人は天竜人にはあり得ざることに、自分の手で料理をし、クソデカい邸宅の掃除をし、洗濯物を洗って干し、ときどき家の修繕をせねばならない。その上2人は生まれつき奴隷なしの生活を送っていたわけではなく、途中から路線変更した身なのでお世辞にも家事に慣れているとは言い難く、従って奇怪な生活スタイルを貫くもの同士協力し合うことは必然の流れだった。

 

 

こうして異端天竜人の2人が朝食の当番や掃除などを互いの家に行き来しながら交代で行うようになって、既に5年以上経つ。指を危うく切り落としながら料理をしていた頃とは打って変わって、多少凝ったものを作ったり掃除にも慣れたミョスガルドとヨルムンガンドではあるが、互いに食の好みがさっぱり合わないために、やいやいと下らない争いを繰り広げるのはほぼ日常茶飯事である。争いは同じレベルでしか発生しないという真理は、ここマリージョアでも同様だった。

 

「ごちそうさま。来週は私の番だから、カツ丼にすることに決めたわ」

ヨルムンガンドはまだカツ丼にこだわっていた。

「まだ言ってるのか、ヨルムンガンド!…だいたい、あんな脂っこいものをよく朝から食べられるものだ。私など最近はこの量ですらきついんのだが」

「それは貴方が運動不足だからよ。私のように毎日マリージョアから逃走していれば自然とお腹も減るし、代謝も良くなるのに」

 

別にマリージョアから毎日逃走してまで代謝を良くしたいとか全然思わないミョスガルド聖は、その言葉を無視した。

綺麗な仕草でフォークを置いたヨルムンガンドは、椅子にかけていたジャケットに袖を通すと皿を持って立ち上がった。他の天竜人の女性のように髪を結っていない彼女の動きに従って、金黒入り混じる髪がさらりと肩から滑り落ちる。

 

「今日もまたマリンフォードへ?」

「いえ。今日はシャボンディにでも行こうかと思って」

「ああ…確か今はロウェナたちが滞在していたはずだ。海軍もかなりいると思うが」

「別にいいのよ、そんなことは。明確な護衛対象がいる以上、優先されるのはそちらになるのだし」

 

彼は呆れた顔で、この生意気な小娘をまじまじと見た。天竜人の中で特異な思想ゆえに孤立する2人は、それなりに仲も良いのだが、この女の脱走癖だけは未だに理解できていない。

ドンキホーテ・ミョスガルド聖はかつて魚人島の亡き王妃–––オトヒメに出会って諭されたことをきっかけに、奴隷制度や魚人に対する差別に反対する立場を取っていた。その後も魚人の立場向上のための活動に協力したりと、天竜人としてはかなり珍しい行動をとりこそすれ、殆どマリージョアから出ることはない。

 

ミョスガルドは痛感している。天竜人が民衆に対して積み上げてきた負債や圧政は想像を絶するほど根深く、なおかつ民衆の怒りは正当だ。例えミョスガルドが改心したところで、民衆が天竜人への怒りを捨てるほど生易しいものでないことは、親類のホーミング聖の例を出さずとも明白だった。

ミョスガルドは理解している。自分が下界の人々の為にやれることというのは、『天竜人』という身分に依存していて、それは殆どマリージョアという隔絶された聖地でしか役に立たない脆弱なものであるということを。

 

それらを理解している彼はきちんと生きて、天竜人としてやれることをやるために身分を捨てずマリージョアでこつこつと生活している。

–––だと言うのに、この小娘と来たら!

マリージョアから何の躊躇もなく飛び出しては魚人だの海賊だの海軍だのと顔見知りになり、誘拐され、暴行騒ぎを起こしながらも奴隷市場への規制法案を作って通したりしているのだから、ミョスガルドは時折自分の思案が馬鹿馬鹿しいものに思えて仕方がなくなる。

 

「ミョスガルドも良かったら行く?」

「結構だ。君が頻繁に下界に降りて行っている功績はよく知っているが、君のせいで最近マリージョアのCP0は無能呼ばわりされていて可哀想だからな。彼らの新たな胃痛の種となるのは本意ではない」

ミョスガルドは口が裂けても、かつて無理やりマリージョアからの脱走に付き合わされて、凄まじい高度からの落下で吐いたことなど言えなかったので事実混じりの嘘を言った。

「ひどいこと言うのね。ここのCPが割と無能なのは私のせいじゃないわ、鍛えてない彼らの問題なのに」

「やめろ。彼らは充分超人の部類だ、君の逃げ足がその想定より速いのが唯一の敗因だろう」

「そうかも」

 

シンクで雑に皿を洗い流し、洗い物カゴに立てかけたヨルムンガンドは、ジャケットのボタンを留めてダイニングルームから出ようとして、ふと振り返った。朝の清浄なひかりが、女の顔を漂白したように白く照らし出している。サングラスのないその面差しは、年齢に反して存外幼い。細かな埃の粒に乱反射する光線に、黒目がちな灰白色の瞳は殆ど融けて見えなくなっていた。

「予定次第ではもしかしたら魚人島行くかもしれないけど、伝言はある?」

「いつも通りに。ネプチューン王とお子様方によろしくお伝えしておいてくれ」

「了解」

 

その言葉を最後にヨルムンガンドの足音は規則正しく遠ざかり、やがてバタンと何処かの扉が閉まる音を境に聞こえなくなった。鍵を閉める音はなかった。ここは聖地マリージョアだ。盗むほど渇望する人間も、保護するほど物に執着する人間もそうはいない、静謐な退廃の中にあるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

––––ひらり。

あと一歩のところだった聖地護衛のCPの腕を軽く蹴り上げると、ヨルムンガンドは躊躇うことなく高い壁を飛び越えて、「神の地」から身を投げ出した。

足元が消えたことで身に掛かる重力がぐん、と重くなり、下界へと押し付けられるように、引き寄せられるように体が落下していく。気圧の急激な差に耐えられなくなった鼓膜からぶつりという若干の嫌な音が鳴り、それを契機にCPの悔しげな声やびゅうびゅうと通り過ぎる風の音が、遠くこもったものへと変じた。

視界にはほとんど何もない。反転した空の青と、海の青だけが混ざることなくヨルムンガンドの灰白色の瞳を埋め尽くしている。かなりの速度で落ちているはずなのだが、高度が高度ゆえまるで時が止まったようだ。天壇青と紺碧しか色の無い、寂しげな世界に閉じ込められるような、そんな錯覚。

 

ヨルムンガンドは、この瞬間がたまらなく好きだ。

毎日毎日逃走経路を変えながら神の地の壁を飛び越えたり、パンゲア城を迂回したり色々な方法を使うことはあっても、シャボン玉の昇降機やトラレベーターを使ったことがないのは、捕まりにくいこともあるけど、空中落下の感覚が好きだと言う方が大きい。

ざわりと巨大な空気圧で骨が軋む感触。反転した世界と連動して、血液が泡立つ。鳩尾が薄ら寒くなって、鼻の奥がきんと痛むこの瞬間は、ほんとうに、何物にも代えられない時間だと思っている。

 

飛翔ではない。ただ、高さにして数キロ近いだけの、墜落。

 

(…ミョスガルドにも、この楽しさが分かるといいのに)

 

時々ヨルムンガンドはそう思う。自分の倍近く歳を食った天竜人は、数少ない同志だ。まともな感性を持つようになったきっかけも、望む未来も微妙に異なっている彼は、ヨルムンガンドのように下界に降りて何か大きなことを行おうとはしてくれない。

彼は聡い。自分にできる範囲を決して凌駕しないし、その中でできる最大限を見極めて動く。そして多分、明言したことはないが、うっすらとは気づいているのだろう。ミョスガルド聖がヨルムンガンドのような行動を取り始めたら、最悪の場合『証明チップ』を剥奪されかねないが、ヨルムンガンドにはその心配はない。彼女にはこれまで積み上げてきた蛮行を許され、海軍に–––延いては五老星すら黙認させるだけの理由があることを。その有無は、両者の確かな差でもある。彼がこの落下を楽しんでくれる日がこないことも、ヨルムンガンドの共犯者になってくれないこともよく知っていた。

 

「フィッシャー・タイガー…貴方なら、」

どうかしらね。

女はそう、ちいさくつぶやいた。彼はヨルムンガンドと違って落下を楽しむような馬鹿な真似はしなかったし、あの時はそんな余裕もなかったけれど。でもきっと、1度くらいなら付き合ってくれたんじゃないかと、時折考える。ビヴロスト・ヨルムンガンドの、生涯たった1人きりの共犯者。海から引き摺り出されてヨルムンガンドと出会い、海に帰って行ったあのひとなら。

海の青はかなり近くなっている。潮の香りが淡く鼻腔を撫ぜ、マリージョアへと登る入口『レッド・ポート』が遠くに見えた。多分もうすぐ、ぶつかるだろう。青い水を湛える、雄大な世界に。

 

 

–––ああ。海が、呼んでいる。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

正午、シャボンディ諸島。

 

今日も今日とて聖地から抜け出したヨルムンガンドは、若干の海水浴を経たのちにシャボンディ諸島のカフェに居た。

こじんまりとした、個人経営のその店は内装やちょっとした茶器に至るまで店主のこだわりが詰まった品らしく、全体に木目調の雰囲気がなんとも可愛らしい。店のテラス席に陣取ったヨルムンガンドは、寄せ木細工風の机の上に書類を広げ、緑と白のパラソルを透かした陽光の下で眉間にシワを寄せていた。

 

ビヴロスト・ヨルムンガンドの辞書には「仕事」という言葉は存在しない。なぜなら別にやらなくても金は手に入るし、生活の糧にもならないので。あるとすればそれは仕事ではなくて「趣味」の部類になる。

 

そしてその趣味を存分に楽しみたい場合、聖地にいてはなにかと不便だ。聖地にはまず、流通の経路がほぼない。不純なもの、高価でないもの、天竜人が好まないもの。それら全てが排除された聖地は隔絶された空の孤島だ。電伝虫は繋がるけれども、それでは何かと足りないことも多いし、聴かれたくない内容もある。こうしてヨルムンガンドがマリンフォードやシャボンディ諸島、政府庁舎のあるテーチスに脱走しているのにはちゃんとした理由があった。決してマリージョアが嫌いだとか、飽きてるとか、空中落下が楽しいからとかそんな理由だけではない。

 

 

「意外と回収率は良かったわね。もっと長期的な計画になるかと思ってたのだけれど」

『…お褒めにあずかり誠に恐縮でございます、ヨルムンガンド宮』

 

屋台で買ったキュウリ味のフローズンドリンクをちびちび飲んでいたヨルムンガンドは、手元の資料を覗いてふむ、とひとつ頷いた。電伝虫の向こうから聞こえてくるのは壮年の男性の声だ。すこし震えていて、媚びの色がある。

 

 

天竜人は一切の例外なく金持ちであり、所有する財産を一生のうちに使い切れるものはおそらく存在しないだろう。ヨルムンガンドももちろんその内に含まれ、毎日ガレオン船を10隻買ったとして、財産の僅か何パーセントになるかどうか、というレベルである。そんな彼らはマリージョアの邸宅をしょっちゅう改築したり、珍しい奴隷や食べもしない悪魔の実を買ったりするのに金を使うのだが、ヨルムンガンドはそんな中でかなり毛色の違うことにつぎ込んでいた。

 

ずばり、投資である。

有り余る財産を使って、大型のプロジェクトや見込みのある会社の設立をしたいが資金がない、というところに資金援助を行う代わりに、売上の何パーセントや新開発の商品を貰ったりというシステムとなっており、個人で国家規模の財政を動かせる上にコケても全く痛くない彼女にとってはかなり面白いものだった。最近ではヨルムンガンドが言いくるめて出資させた天竜人たちが、ゲーム感覚で会社に金を出したり潰したりと新たな問題が出てきてはいるものの、会社側からは新たなる資金援助の市場として悪くない評判が出ていた。

 

 

天竜人(わたしたち)というカモから、出来るだけ上手く金を搾り取ることね。』

 

ヨルムンガンドがかつて業者たちに言い放った言葉は、徐々に効果を出し始めている。最近かなり業績の良いプロジェクトの主催者の声を聞きながら、今後の展開についての報告を受けていたところで、ふと背後でどよめきが起こった。

 

「お、お許しください、それだけは…どうか…どうか…!」

その時、耳にタコができるほど聞いた悲鳴が飛び込んできたので、ヨルムンガンドはいい加減にうんざりとして背後を振り返った。人だかり–––でもない。辺りには声の出所だけを避けるように流れが形作られている。舌打ちしたヨルムンガンドは、通話相手に『また明日かけ直して』とだけ伝えて電伝虫を打ち切ると、買ったばかりのカレーパンとフローズンドリンクを携えたまま椅子を引いて立ち上がった。

 

シャボンディ諸島でよくある悲鳴には、2種類ある。大別して「お許しください」と「人攫いだ!!」に分けられているのだ。なんという治安の悪さだろう。その内でも「お許しください」とかなんとか聞こえる場合は彼女の同族–––天竜人たちが揉め事を起こしている証左だ。ここヤルキマン・マングローブの楽園は、面倒な手続きなしでも天竜人が降りたてる数少ない下界であるため、その被害も凄まじく多い。

 

ヨルムンガンドの視線の先ではちょうど、金魚鉢のようなシャボン玉を頭に被った幼い天竜人の少女がそっくりかえって地団駄を踏んでいるところだった。周りには海兵がおろおろとした様子で右往左往していたり、どんよりとした顔の奴隷たちがぼんやりと主人を見上げたりと人数はいるのだが、誰一人として天竜人に意見しようとするものはいない。

 

 

「…天竜真拳」

「モガ!?熱っつ、やめ、モグガ!?!」

 

つかつかと少女の後ろに歩み寄ったヨルムンガンドは、目にも止まらない速さで少女の被っているシャボン玉に手を入れて、その小さな口に手にしていたカレーパンをねじ込んだ。追加でもう一つ加えてから、油ぎった口の周りを拭いてやる。側に控えていた海兵たちがギョッとした顔で彼女に武器を向けたが、その人物がヨルムンガンドであることに見るとたちまち武器を下ろした。

ヨルムンガンドは顔を白黒させながらカレーパンを飲み込もうとしている幼い同族を見下した。まだ13、4才のはずなのにその顔は不健康そうに弛んでいて、華やかな衣服に包まれた体も全体にふっくらとしている。間違いなくヨルムンガンドの(一応)顔見知り、エルムス・ロザリエ宮だった。

 

「な、な、何するんでアマスこの『ギョルイビーキ』!?わちきの口に下賤の食い物を入れおって!」

「?下賤じゃないわ。高貴な私が手にしているのだから、高貴な食べ物に決まってるでしょう。なかなかイケてる味じゃなくて?」

「イケて…?なぞおらんえ!大体ヨルムンガンド、お前なんでここにいるんだえ?奴隷を買いに来たんだえ?」

「違うわ。ただの脱走」

 

何とかカレーパンを飲み下すと喧しい声を上げ、ヨルムンガンドをぽかぽかと叩いてくる同族を放って横を見ると、地べたに這いつくばっている中年の夫婦とその子供らしき3人が藁にもすがるような目で、割り込んできた彼女を見上げていた。見たところごく普通の通行人と言った風態で奴隷でもなさそうだが、どうやら彼らがロザリエのお怒りの原因らしい。

 

「今日はギルバートとロウェナはいないの?」

共に来ているであろう両親の名を出すと、少女は首を横に振った。

「パパ上とママ上はオークション会場アマス。今日はわちきの好みの奴隷が出品されておらなんだから、先に出てきたんだえ。それでこの顔が好みな下々民を見つけたから奴隷にしてやろうと言ったら断ったんでアマス!ヨルムンガンド、その銃を貸すアマス。この無礼な下々民は撃ち殺さないと気がすまないえ!」

「なるほどね。残念だけどロザリエ、私の猟銃は貸さないわよ。海兵、貴方たちも渡さなくて結構」

 

ぷりぷりと怒りながら、ロザリエは地面に平伏している渋い感じの男性を指差した。その上にヨルムンガンドが肩に引っ掛けている猟銃を要求してきたが、ヨルムンガンドがそれを無視して童女の手のひらに、カレーパンをもう一つ置くと黙って食べ出した。どうやら気に入ったらしい。

 

「ふうん。今回は彼?貴女の中年好きも相変わらずね」

「はあ〜〜?これだからコンケツのギョルイビーキは困るんでアマス!下々民の男はこれくらいの歳が1番いいんだえ!」

「…ちょっと何言ってるかわかんないわ…」

 

ヨルムンガンドは眉を顰めた。この幼い天竜人は、趣味が良いのか悪いのか齢13のくせになぜか中年の渋い男を奴隷にするのをことの外好んでおり、彼女の屋敷には好みによって集められたイケオジがやたらといた。正直に性癖を教育を疑わざるを得ない趣味だが、チャルロスのように第〇〇夫人とか作ってないだけまだマシな方だった。ちなみにロザリエは連れてきたイケオジ奴隷と結婚したいらしいが、親が止めているらしい。当たり前である。

 

とは言え。

ヨルムンガンドへロザリエが気に入ったらしい男に視線をやった。震えながら俯いてはいても、身なりはきちんとしており、聡明さのにじむ落ち着いた風貌の男性である。はっきり言って美人でもないロザリエには本来なら不釣り合いなほどだった。それが、『天竜人である』ということを理由に、まだ年端も行かない小娘が、妻子もあり、羽振りもそれなりに良さそうな男性を『奴隷にしたい』と喚き、それが罷り通らないことに憤慨している光景というのは中々に異常だった。ヨルムンガンドはため息をつく。

 

「…ロザリエ。熟年趣味はこの際置いておいてとしても、貴女、まさか知らないの?彼のこと」

「?何のことアマス?」

唐突に妙なことを言い出したヨルムンガンドにロザリエはもちろん、周りではらはらしながらも口を挟まずにいる海兵たち、まるで面識のない天竜人に何やら言われている男自身も、一様に怪訝そうな顔をした。

「嫌だ、不勉強。ヘーゼルの髪にワインカラーの瞳、ツイードのスーツを着た40代の男性…間違いないわ。ロザリエ、この人はね。近頃奴隷ブローカーの間で心底恐れられている『厄災のジョン』よ」

どどん、と効果音の付いていそうな仕草で、ヨルムンガンドは男を指差した。サングラスで顔が程よく影になっているせいか、女の顔は謎の迫力がある。

「古今東西彼を奴隷にしようとしたブローカーたちは皆、ある時から家族が伝染病にかかって次々となくなったわ。その上持っていた株価は暴落し、生殖能力を失って–––そして…」

「そ、そして?」

「…家に幽霊が出るようになるのよ。血塗れの女、頭が半分崩れて脳がはみ出しているミイラがブローカーたちを次々襲って…」

 

ついでにわっ、と脅かしてやればロザリエは半ば本気で目を潤ませ始めた。いくら醜悪な権力の頂点に立つ天竜人とは言えど、幽霊は怖い。幽霊を海軍は追っ払ったりできないし。そんなわけでガタガタ震え出したロザリエは、態度を一変させてヨルムンガンドの背中に隠れると、奴隷にしたいとまで抜かした男から隠れようと必死になった。

 

「そ、その話はもうや、やめるんだえヨルムンガンド!あとそんなやつはやっぱり早く撃ち殺すべきアマス!」

「いいえ。貴女の脳味噌で思い付くことを、歴戦のブローカーたちが試さなかったわけがないでしょう。彼を殺そうとしたあるブローカーはね、銃弾を暴発させて腕が吹き飛んでしまったわ。また別のブローカーはナイフが腹に……ってあら、行っちゃった。ちょっと血生臭い嘘にしすぎたかしらね」

 

13歳の世間知らずには話が重かったらしい。さっきまで地面に転がって喚いていた少女は(彼女なりの)全速力で走って行ってしまった。ぷよぷよしたその体を追いかけるように、海兵も慌てて走ってゆく。ヨルムンガンドの謂れなき嘘に救われたんだかなんだか分からない男性を見ると、おそるおそるヨルムンガンドを見上げていたので「立っていいわ」と許可を出すと、感極まったように男は何度も頭を下げた。ぼろぼろと、安心ゆえか涙が男や周りにいた家族の頬を流れている。

それほどの恐怖。それほどの絶望なのだ。天竜人に奴隷にされるということは。

 

「……ありがとうございます、ありがとうございます、尊き方、一体何とお礼を申し上げたらよいのか…」

「不要よ。私は貴方の礼を必要としたから、ロザリエを止めたわけじゃない。私が必要としないものを渡したりしないで。次からは目が合った瞬間に走って逃げることだけ意識するのね」

ぴしゃりと言ったヨルムンガンドに、男はそれでも、と家族ともどももう一度頭を下げて、それから立ち去って行った。

 

 

 

 

ざわざわと、騒動が去ったあとの人混みをするりと通り抜けながら、ヨルムンガンドはカレーパンを口に入れようとして紙袋が空になっていることに初めて気づいた。さっきロザリエの口に突っ込んだので最後だったらしい。口寂しさを紛らわしがてら、胸ポケットからタバコを一本出すとライターで火をつけた。その煙が充満するのと同じくらいの速度で、ヨルムンガンドの顔を見た通行人が天竜人だと気づいてそそくさと避け、人だかりは1人の女を境としてさっと開けた。彼女はある程度人望がある天竜人ではあるが、それでもやはり恐怖と圧政の対象であることに変わりはない。

 

(面倒くさいものね。一発殴ってやればよかった)

ヨルムンガンドは内心で舌打ちした。相手がチャルロスのような男だったら躊躇なく手にした猟銃の銃床で殴打していたのだが、流石に一回り以上も年の違うロザリエを殴ると後々厄介なことになる。それでわざわざ妙な嘘までついた。

 

ヨルムンガンドは天竜人、という己の属する身分について、いつか滅ぶだろうという確信に近い予感を覚えている。年月はある程度の悪行を薄れさせてくれる。実感がないことについて民衆は無関心になるからだ。それでも800年の歳月ですら、天竜人が積み上げてきた負債を押し流してくれはしない。むしろ膨れ上がり、煮詰まった憎悪はいずれどこかで限度を超えて、己へと牙を剥くことは確実だ。

 

それを理解していないのは天竜人だけだ。ロザリエもその親も、チャルロスやロズワードたちも誰一人、迫り来る終焉に気づいてすらいないまま、聖地で飼い殺しにされて貴族ごっこに興じている。

 

(‥まあ、それでも)

滅びるまでに時間はあり、天竜人という身分でできることはまだある。その為には天竜人内部でそれなりに人望を持つことも必要だからロザリエのような幼児を殴らなかったし、最近天竜人内で興味のある人間を集めて勉強会などを開いている。

 

–––まだ、利用できるものがあるうちは。

牙を剥かないでいてやろう。五老星にも、虚の玉座の王にも。そんな考えを顔にも出さず、ヨルムンガンドは黙ってタールとニコチンの匂いしかしない息を吐き出した。白く濁った煙が、薄い唇から天に登っていく。小さな竜にも似た白煙は、わずか数秒でマングローブの林の中で形を失い、とろけて消えて行った。




ビヴロスト・ヨルムンガンド
天竜人。趣味の一環として投資に精を出している。チャルロスのことをしょっちゅう殴っている。マリージョアから毎回飛び降りているため、周りからは奇異の目で見られる26歳。ミョスガルド聖とは朝ごはんを作り合う仲。実はフィッシャー・タイガーの元主人。

エルムス・ロザリエ
ロリのオリジナル天竜人。イケオジが好きで、幽霊が苦手。トンタッタ族の半分くらい嘘を信じやすい。

『厄災のジョン』
災難だったおじさん。

ミョスガルド聖
ヨルムンガンドとは奴隷持たない同盟(嘘)を組んでいる。友人というより姪っ子に振り回させる叔父って感じ。アグレッシブすぎるヨルムンガンドに引き立つも、ちょっと憧れたりもしてる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3.電伝虫の言うことには

今回は短め。次はバトルシーンを書きたい所存。正直あんまり読まなくても大丈夫な間話です。


 

マリンフォード海軍本部、午後4時。

海軍本部唯一の食堂は2階に存在している。食材の運搬がやりやすいように、と比較的低層階に配置されたそこは、本部のワンフロアをほとんど占有するほど広い面積がとられていた。仮にも一大軍事拠点のくせに食事スペース取りすぎだろ、と言われそうな気もするが、腹が減っては戦ができぬのは世の常であり、それでなくともマリンフォードに勤める海兵どもはその肉体労働の大変さゆえに大食らいも数えきれないほどいる。加えて正式勤務前の訓練兵や、食堂のメニューの安さから島に居住する海兵の家族なども訪れるので、むしろこれくらいのスペースを取って置かないと人で溢れてしまうのだ。

 

昼のピークを過ぎた食堂は、つい先程までの地獄のような混雑ぶりはどこへやら、暇なのかサボってるのか分からない海兵たちが2、3人いるばかりと言う、大変うら寂しい有様だった。白い漆喰塗りの壁に、ぎゅうぎゅう詰めに並べられた安っぽい木の机とベンチ。シンプルで飾り気もなく、口さがない言い方をすれば内装にまるで気を使っていないことが丸分かりの食堂は、吹き込む濃くぬるい潮風に晒されて、あちこちの金具や窓枠が赤く錆びている。人種も混合な海兵を慮ってか、高い天井からは白い電灯が濁りのない光を、閑散としたテーブルに投げかけていた。

 

「……あらら、今日はいないのね。こりゃ珍しい」

 

恐ろしいほど縦に長い人影が、食堂の入り口からにゅっと中を覗いてそんなことを呟いた。中年の大男である。海軍上級将校の証である白いコートを肩に掛けていて、モジャモジャとした髪の毛と、何故か額に付けられているチェック柄のアイマスクがひどく目立っていた。鍛え上げた体を覆っているのは頑強な筋肉のはずなのだが、男が長い手足を余らせるようにしているせいか、何ともひょろんとしていて、たるんでいる。そんな印象が付き纏う男であった。

 

「おばちゃん、今日宮サマ来てた?」

「あらっ青キジの大将!あの天竜人のお嬢さんなら…ここ3日くらいは見てないねえ」

「あ、そう…ありがとよ」

 

入り口から中に入り、上官に気づいて立ち上がった海兵を軽く手で制して食堂のおばちゃんに尋ねてみると、返ってきたのはそんな答えだった。海軍大将クザン––通称『青キジ』の探し人、マリンフォードに居座る迷惑天竜人ことヨルムンガンド宮はどうやら長の不在のようである。いつも居座っている奥のボックス席には誰もおらず、ぬるい潮風と白い光のみが虚しく宙を漂っていた。

 

これはちょっとばかり珍しいことだった。彼女がマリンフォードに居座る日は、朝の9時くらいには海軍本部の食堂に居て、夕方の5時か6時くらいになるまで指定のボックス席で謎の飲み物を啜りながら、誰かと電伝虫で話したり書き物をしたりジェンガを積んだり、暇になったら海兵を無理やり巻き込んでカードゲームで虐めてみたり、屋上で花火をしたり脱走して海で泳いでいたりするのが日常だ。本来大将が応待すべき貴人なのだが、こんな奴に貴重な人員と時間を割くのはいかんでしょと満場一致で決まったので、見張り役は下っ端が務めてはしょっちゅう逃げられている。

 

海軍本部一同としては『マリージョアに一生引きこもってろ!』というのが偽らざる本心ではあったものの、ヨルムンガンド宮は聞きやしなかった為、海軍の目の届くとこで大人しくしていてくれるなら何も言うまい、と諦めて彼女の奇行を黙認している、のだが。困ったことにこの迷惑天竜人は、それではすまない時があった。

 

今日のようにマリンフォードに何日もいないとき、ヨルムンガンドは大抵、世界政府の庁舎があるテーチス自治区か、偉大なる航路のどこかに滞在している。後者の場合、行き先は彼女と関わりの深い魚人島やアラバスタなどの加盟国から非加盟国の治安の悪いスラムだったり、かと思えば無人島で釣りをしていたりと千差万別だ。ちなみに海軍がビビり散らかしたヨルムンガンドの行き先としては万国が不動の1位にあった。その頻度はまちまちで、月に一度のこともあれば3ヶ月ほど大人しくしていることもあって完全に気分次第らしいのだが、ともかく彼女の不在は大小の揉め事なしには済まないので、プリン頭の迷惑天竜人は例えマリンフォードにいようがいまいがセンゴク元帥の胃痛の種であることに違いはなかった。

閑話休題。

 

(……しかし、どうしたもんかね。久しぶりに宮サマ誘って飯でも行こうかと思ったんだが)

 

本日の行き先はどこであれ、エンジョイしているであろう天竜人のことを考えて、クザンはふむと思案顔になった。頭の中では煙草の煙を輪っかにして吐き出しているヨルムンガンドが真顔でピースをしていた。何とはなしに、彼女が普段使っているボックス席の近くまで行ってから、彼はまた入り口へと引き返した。猫背気味のその頭に擦られて、電球の光が遮られ、また元に戻る。

 

ヨルムンガンドとクザンは、比較的仲のよい関係にある。流石に彼女が年齢1桁の時代から付き合いのあるガープやセンゴクには劣るが、飯に誘えばたまに応じてくれる時もあるし、普通にそこに酒が入ることもあった。『宮サマ』なんぞという雑さの極みにある敬称で呼んでいるのもまあ、親密さの現れではあるのだろう。

 

–––極めて、気安く見える天竜人だと思う。下界に毎日降りてきてはシャボン玉もつけずにうろうろと歩き回り、海兵とゲームしたり食事を共にしたり。政府での活動はもちろんのこと、個人単位でも政府非加盟国に何やら援助をしたり、奴隷市場への規制をかけたりと天竜人にしては極めて社会貢献もしているために、市井からの評判も良い。彼女を知る多くの人間が、親しみやすく下界の常識を弁えた心優しい人格者だと考えるほどに。

 

ただそれでいて、彼女は決して天竜人の地位から手を離そうとする素振りもないというのが面白いところだと、クザンは考えていた。ビヴロスト・ヨルムンガンドは理解しているのだ。己の価値を形成するのが天竜人という地位に依存していることも、評判が良いのは『天竜人にしては』という冠詞が付けられていることも。

 

 

『私、跪かれるのが好きじゃないの。仰々しくて、なんだか白けるのよね。だからクザン、私の今の好き嫌いに合わせて行動して。私の好む挨拶をしてちょうだい。もし貴方に跪いてほしくなった時には、そう言うわ』

 

クザンが1番初めにヨルムンガンドと言葉を交わしたとき、彼女は微笑みもせずにそう言い放った。跪いた姿勢から、少しの驚きを持って天竜人の少女を見たことをよく覚えている。やや小柄な彼女は座ってなお、跪いたクザンとそう変わらない目線だった。

–––弱冠16歳にして、天上金のシステムを根底から変革した異端児。

–––史上初の、国ではなく大企業に少額の天上金を納めさせることを提案し、天竜人の過半数を丸め込んで票をもぎ取った改革者。

 

年若い少女の姿をした嵐は、表情が削げたような顔で静かにクザンを見下ろしていた。金黒入り混じる髪に縁取られた、白目との境界が辛うじて分かるような、淡く、鈍く、薄い灰色のまなこ。その中で黒々とした瞳孔がひらいている。金属じみたあの目はいつか世界を変えるのだろう、と思ってあの日のクザンは見つめていた。今もそれは変わっていない。

 

 

 

 

 

つらつらと考えながら食堂を出て少し歩いたところで、見知った顔に遭遇した。クザンと同じくコートを肩に掛けた、左目付近の縫合跡が目立つ老齢の偉丈夫。海軍の英雄こと、ガープ中将である。

「おう」

「どうもガープさん…っと。今取り込み中か?」

手のひらに乗せられた電伝虫を指差して尋ねると、老将はにぱ、と破顔した。こう言う楽しそうな顔をすると、ガープは驚くほど若く見える。重ねてきた戦歴が険しさや威圧感に繋がらないところも、この英雄の賞賛に繋がる点であると、時々思う。

「ちょいとな。おいヨル、今わしが誰といるか分かるか?」

『クザンでしょう。今声聞こえてたわよ』

「なんじゃ。つまらんのう」

 

電伝虫の向こう側から聞こえた声にクザンはおや、と耳を傾けた。受話器の向こうを反映してか、すん、と真顔の電伝虫から流れ出した声色は、ついさっきまで探していたヨルムンガンドのものだ。聞き慣れたややハスキーでひんやりしたそれには、いつもよりどこか楽しそうな響きを含んでいる。

 

『それにガープ、センゴクなり赤犬なりが同席してるときには私のこと“ヨル……ムンガンド宮”みたいな分かりやすい誤魔化し方をするもの。それがないから多分クザンか、それ以外ならおつるさん辺りじゃないかと踏んだだけ』

「海軍の英雄をすっかり手玉にとっちゃって。よお宮サマ、今日の行き先は?」

『マリンフォード』

清々しいほどの虚言が受話器から飛んできたもので、側で聞いていたガープが吹き出し、クザンが長々と溜息を吐き出した。

「変な嘘つくんじゃねェよ……」

『冗談。今は魚人島よ、クザン』

 

2回目の回答はどうやら真実のようで、わずかに笑みの混ざった声に続いて、焦った様子の『ちょっ、しらほし姫やめて、海葡萄頭に落ちてるから』という言葉とともにどさどさという鈍い音が電伝虫からは伝わってきた。しばらくして海葡萄からは無事に逃げ切ったのか、安堵の溜息らしきものが聞こえた。

 

ヨルムンガンド宮はその脱走癖とともに、リュウグウ王国と非常に縁深いことでも知られる天竜人である。海底10000メートルに位置し、四皇「白ひげ」の領海でもある王国は有事の際に海軍や大将を派遣しづらいことから天竜人が行くことを推奨されておらず、これに関しては五老星からも彼女に警告が出されているらしいがヨルムンガンドはまるで気に留めることなく2ヶ月に1度は足を運んでいた。ちなみに行き方はどうしているのかと問うと『泳いでる』と返ってくるが、絶対嘘なので海軍上層部では『多分海賊船かなんかに密航しているのであろう』と結論づけられている。天竜人が一体何をしているのだろうか。

 

「宮サマも好きだねえ、そこ……」

『ええ。証明チップを破棄する日が来たら魚人島に住もうと思ってるくらいにはね』

「………」

絶対天竜人が言ってはいけない類のギャグだったので、ちょっと困ったクザンは黙った。ホーミング聖の事件を知らぬ身でもないのに、よくもまあ言えるものだ。魚人島の美しさはクザンとてよく理解しているが、平穏の奥には未だ差別の過去が燻る地である。積極的に行きたい土地とは言えそうもなかった。

「……ま、早めに帰ってきなさいよ。センゴクさんの胃もそろそろやばそうだからさ」

『ご忠告ありがとう。頭の片隅にあと5分くらいは置いといてあげる。気が向いたら帰るわ。それとガープ、貴方次に私の食事時間を邪魔したら減俸するから覚えておくのね』

 

じゃあね。

がちゃん、と向こうの電伝虫が一方的に切られて、通話が途切れた。殻に引きこもって寝始めた電伝虫を掌に乗せたまま、中将と大将は黙って顔を見合わせた。一拍遅れて、ガープのどでかい笑い声が廊下に響く。

 

「……ぶわっはっはっは、いやあいつは本当に毎日可愛げが減りよるな!いっそ清々しいくらいじゃ!」

「それだと昔は可愛げがあったように聞こえるけどな……実際どうなんです、ガキの頃の宮サマって」

「あん?まあまあしおらしくてお行儀のいいお嬢様じゃったが……」

「マジ?」

マジ、とガープは顎に手をやって遠い目をした。ガープとヨルムンガンドの付き合いは、彼女が7歳だった19年前まで遡ることが可能だ。その頃まで行けば確かに、大人しく品行方正だった少女の姿もないではないが––––あまり、良い思い出でもなかった。むしろガープにとって幼い天竜人との最初の邂逅は、どろりと血生臭い事件から始まっている。

とは言え、それをわざわざ口にするのは憚られた。どのみち、古く記録にも残らない話でもあるのだし。

 

「が、そんな時期は短かった!すーぐ今の小生意気なガキンチョになりよったわ」

「だろうなあ…」

想像に難くない発言にクザンは同情の意を込めて頷いた。ちらりと横目で伺った恩人の口元には、孫を見る祖父のような、長い時間と親愛の篭った情が滲んでいる。なんやかんやと言っても、天竜人の直属にならない為にも大将昇進を断っていたガープがここまで気に入っているのは、唯一ヨルムンガンドくらいである。特別なのだろう。ガープにとっても、ヨルムンガンドにとっても。

男2人はその後もセンゴク元帥に怒られるまでだらだらと不遜な会話を続け、それに反応したのかリュウグウ王国の王宮ではヨルムンガンドがくしゅん、と1度くしゃみをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

冬の風が、吼えている。

ごうごうと、びゅうびゅうと。海から吹き込み、半壊した街を通り過ぎて次第に強くなる雪を、鈍色の空に巻き上げていた。気圧の高いところから低いところへ流れる現象だと頭では誰もが理解してはいても、人の脆弱な感覚が何か巨大な生き物の鳴く声なのではないか?と錯覚してしまうことがある。あの朝方は特に、そうだった。つい先程、大波がこの古ぼけた港町を攫っていったということも、人々の恐怖や疑心暗鬼を増幅させる一因となっていた。避難する住民の顔はどれも、怯えの色一色に染められていた。冬の風に、波に、寒さに、暗い海に、先行きの見えない未来に。––恐れを、抱いている。

 

街はそんな人々の生み出す、暗い怒号や喧騒で満ちていたが、ガープたち一部の海兵が集まる場所には、冬の夜半のような重苦しい沈黙が降りていた。普段は口の軽い英雄も、20人ほど居た部下たちの誰一人として口を開くことをあの瞬間躊躇った。否、許されなかった。その場に置いて物音を立てることは何か、絶対的な禁忌であるかのように感じて喋ることができなかったのだ。

後にして思えば、別にそのようなことはなかった。例えあの場所でガープが喋り出そうが咎めるものはいなかっただろう。けれども確かにあの瞬間、誰もが動きを止めた。そうせざるを得ないだけの力が、葉に下りる霜のように存在していた。

 

「–––あのね、」

ひんやりとした、甘い幼子の声がひどく虚しく響いた。夜更け頃から勢いを増す一方の雪風に紛れて、声はほとんど掻き消されるほど静かで細い。それでも何故か、よく通った。ざり、と軽い足音が続く。

声を発したのは、今しがた海兵たちの列を割って現れた、ちいさな少女だった。フリルの付いた可愛らしくも仕立ての良い喪服に身を包み、服と揃えたように黒々とした髪が緩く波打ちながら背中まで伸ばされている。その幼い面差しには一片の歪みもなく、職人に手を掛けて作られた人形のような、美しい7歳ほどの童女だ。行き交うだれもが見惚れてやまない、凄絶の美貌。

 

ただ。その全身は奇妙なことにぐっしょりと濡れて、濃い潮の香りに包まれていた。北の海(ノースブルー)特有の極寒で、ぽたぽたと落ちる海水の雫も瞬く間に凍りつき、少女の服も髪にも霜と塩分とで、表面が白く固まりつつある。歩くたびにかさり、と結晶が割れる微かな音が鳴った。

 

「……そのひとのこと、離してあげてほしいの」

青ざめた指が示す先は、2人の海兵たちが腕を掴んでいる人物だった。ある貧相な一軒家の、玄関先。その声に初めて、動くことを許された海兵は戸惑ったようだが、声の主は幼くとも天竜人。創造主の子孫の願いは、逆らうことを許されぬ命令である。

 

「離してあげて。そのひと、なにも悪いことなんかしてないの。……そうでしょ?」

少女はもう一度、そう言った。その言葉に焦れたような響きはない。ただ静かに、淋しそうな、柔らかな悲しみが宿っている。雪混じりの風にも似た大きな瞳が、小刻みに揺れていた。静かで明るい、落下する絶望が並々と湛えられてなお、その眼差しは透き通っている。

海兵たちはおろおろとした後、2人で掴んでいた人物の両腕をそっと下ろした。掴まれていた腕が力なく、ぱさりと地面に降り積もる雪に触れる。

 

「………ヨルムンガンド宮、しかし」

誰かがそう呼びかけた。ガープではなかった。多分、ボガートでもなかったと記憶している。低くて特徴の薄い、誰かの声。

少女が首を横に振る。ぎしぎしと、本格的に固まり始めた黒髪から音がする。雪なのか、霜なのか、塩なのか。定かには分からない、冬の結晶。

 

「いいえ。わたし、なにもされてないの。なにも起きてないから、罰する必要もないのよ」

幼子らしい嘘だった。けれども彼女は、嘘を現実にできるだけの権力を持つ身分だった。白く霜の降りたまつ毛が、物憂げに伏せられる。

 

 

少女はふらふらとした幽鬼のような足取りで、玄関を塞ぐ兵士と先ほどまで拘束されていた人物をすり抜けて家の中に入って行った。

ガープはその時に止めねば、と思ったことをよく覚えている。それでも何故か、止められなかったのだ。辺りの海兵たちは皆、厚く着込んだその肩や頭に雪を降り積もらせていた。ガープ自身もそう感じるほど長く時間が過ぎて、少女は玄関から出てきた。

 

出てきた少女の手には、先端が血で濡れたシャベルが一本握られていた。ひどくぼろぼろなシャベルの表面は、血で半乾きだった。それもすぐ、極寒の外気に冷やされて固まっていく。

 

  ・・・・・・・・・・・・

「–––わたし、刺されなかったわ」

「刺されなかったの」

もう一度、繰り返す。正しく、それが真実となるように。少女はちろり、と色の褪せた唇を舐めた。厳密にはこびりついていた、血痕を。

「だからこの話は、もうおしまい」

 

ホテルに戻るわ。

少女はそれだけ言って、ガープの横を通り過ぎた。ゆっくり、ふらふら、頼りのない足取りで。ガープの半分もない小柄な少女は、纏う喪服のせいかひどく一面の雪景色の中で浮いていた。

追いかけろ、とその時初めてガープは声を出して部下に命じた。けれど多分、断られるだろうというはっきりとした予感が頭をよぎった。おそらく、歩くだろう。あの幼い天竜人は。船までの永遠にも思える白い世界を、1人で歩くことを望むのだろう、とぼんやり思った。

軒先のつららが、ぽとりと落ちた。





ヨルムンガンド:大将勢で1番仲良いのは青キジ。他の2人は強いて言うならまだ赤犬の方が無難に接している。黄猿はあんまり…。リュウグウ王国にこっそり家を買おうとして怒られたことがある。ちなみに船は政府に没収されたので持ってない。

ガープ:ガキンチョの頃からの付き合いなので、ほぼジジ孫だが流石にそんな呼び方ができる身分ではお互いないため、節度を守って仲良くしてる。

青キジお兄さん:割と仲良し。時間があればご飯行くし、自転車に2人乗りしたこともある。式典とかでどうしても大将つける必要があるときはヨルムンガンドは彼を指名する。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4.在る蛇

結局バトルシーンまでは行き着きませんでした。無念。フカボシ王子と帰り際のシーン、ドフラミンゴとジンベエ親分とのおまけシーンの2本立てでお送りします。今回からかなりのオリジナル色が出てきます。


 

「王子、ここいらでもう結構よ」

ヨルムンガンドのその言葉に、数メートル後ろを粛々と着いてきていたフカボシはぴたりと歩みを止めた。6メートル近い視座から天竜人を見下ろした人魚は、ふるふると首を横に振った。

「いえ。船着場までお送りします。御身に何かあれば、父に叱られましょう」

そう、と金黒入り混じる髪の女はひっそりと頷いた。纏っている灰色のジャケットに、ゆらゆらと漂う海中の光が柔らかな紋様を描いている。長い白のスカートが今は、薄青に染まっていた。

 

「世話になったわね。予定より長い逗留になったこと、謝っておくわ」

「そのようなことはありません。貴女の滞在は妹にとってこれ以上ない喜びですし、我らにとってもそれは同じこと。またいつでもいらして下さい。出来ることなら、次からは海賊船での密航だけお控えいただければ……」

 

己の5倍以上ある巨躯の王子の言葉に、ヨルムンガンドは「善処するわ」とだけ返してから、ふうっと頭上に灰白色の視線を向けた。動作につられて、フカボシ王子の目が上を向く。

 

深海10000メートル。受光層、薄明層の下に存在し、本来であれば1センチ先すら見えないはずの場所でありながら、陽樹イブの恵みを受けて光差す海底に築かれた奇跡の楽園–––『リュウグウ王国』。

地上とは違い、水によって、潮のうねりによって屈折し、その眩さを減らしつつも遠い太陽の存在を感じ取ることができる奇跡の場所が、ヨルムンガンドの現在の所在地である。視界の先では巨大なシャボンの膜が、遥か彼方より届く陽光を滑らかに反射してきらきらと輝いていた、ぴかぴかとひかる泡の中に閉じ込められた街並み、海草の林、その向こうをゆったりと泳ぐ巨大なクジラたち。その光景は、ともすれば大きなスノードームのよう。向こうに見えるサンゴの林も、泡の周りを泳ぐクジラたちも皆、太陽の恩恵を体全体で受けてこの上なくすくすくと。楽しげに、伸びやかに生を満喫しているように見える。

–––まあ、今は若干そうでもないのだが。ヨルムンガンドは腕時計に目をやった。午後2時。地上と殆ど変わらない昼夜を持つリュウグウ王国ではあるが、本来王国全域を照らし出す陽樹の恩恵は僅かに翳っている。

 

「今回は幸運だったわ」

「え?」

王宮で借りてきた鮫の上で何やら動きながらの言葉に、フカボシは不可解そうに首を傾げた。鞍の上に器用にも立ったヨルムンガンドは首をぐるぐると回している。

「『蛇』。早めに逸れてくれてよかった、って話」

「ああ…そうですね。この前–––2年ほど前でしたか、あの蛇は完全に陽樹すれすれを通っておりまして、通過するのに3ヶ月程度もかかったこともありました。それに比べれば此度はかなりよい進路をとっている」

骨張ったヨルムンガンドの指の先を見て、王子は納得したように頷く。

 

竜宮城から見下ろすに、魚人島のおよそ3分の1程度は切り取られたように光が当たっておらず、しんとした闇に隠されていた。これが地上であれば、雲が太陽にかかったのだとでも思うだろうがここは海底。遮る雲も、雨も存在していない。では、一体何が陽樹イブの恵みを不躾にも奪い取っているのだろうか。その答えは島も、そして竜宮城をも飛び越した深い水の中を悠々と–––静かに泳いでいる。

 

奇妙な風景だった。青々とした深海の一部を、巨大な、辛うじて楕円形と分かる程度の何かが覆っている。一目見て、分かるのはそれだけだった。海と溶け合うような濃く鮮やかな青色をして、真珠のような光沢が表面を覆っている。ヨルムンガンドの視界の端から端まで使っても、その何かの輪郭すら見えてこないが、多分フカボシ王子の体格であれば見えるのだろう。この巨大な楕円が1枚、2枚、連綿と、延々と続いている光景が。それでもこの巨大な生き物の、僅か何百分の1に過ぎない。存在する「らしい」腹や、鬣の部分など想像することすら難しかった。

 

「……いつ見ても、これが生物であるとは思い難いものですね」

フカボシの呟きに、ヨルムンガンドも軽く頷いた。生き物というよりは、動く海底山脈だとかなんか生き物っぽい潮の流れだとか、そう言われた方がよほどしっくりくる。あるいは偉大なる航路ゆえの自然現象だとか。あまりにも巨大であるという事実は、生き物に独特の無機質感を与えてしまう。

 

 

世界蛇。

太古の昔より、そう呼び習わされてきた海王類である。海色の鱗に覆われた、西の海と東の海で同時に観測されるほどの巨体によって畏れられる、まさに生きた伝説だった。鱗に覆われた部分の内側には柔らかな腹部があり、トカゲのようなトゲが鱗の上部を飾る構造になっている、と言うこと以外には殆どその生態も分かっていない。というか蛇であるのかどうかも怪しい。

 

何を食べるのか。–––頭部を確認できた事例がほぼ無いため、不明。

雌雄はどちらなのか。–––現状生存するのが一体のみのため、不明。生殖器らしきものも未確認である。

意思疎通は可能なのか。–––不明。

寿命はどれほどか。–––最古の記録では700年程度と見られているが、おそらくそれ以上前から生きているというのが主流である。

体長はどれほどか。–––観測不可能。ただし有史存在した海王類の中で、最大で在ることは確かである。

 

要するに、世界最大の生き物であること以外は全てが不明。探せば足やら尾やらを目撃した人間もいるのかもしれないが、それは殆ど与太話に等しいものだった。それ故に、この蛇は魚人島において『尾を頭で咥えており、それを食べ物としているのだ』という都市伝説すら罷り通っている。

 

ただ、この不気味な世界蛇は幸運なことに、その巨体の割には被害を起こすことが少なかった。何年かに一度、海上に身体の一部分が浮上して津波の原因となることはあっても、それ以外の大半の年月は意志を持って他の海王類を捕食することも、島を沈めることもなく静かに深海を泳ぐのみ。こうして魚人島付近に近づいて船の邪魔になることはあっても、島に危害を加えることもない。頭部が未確認な現状ではどうやって周囲を知覚しているのかも不明だったが、何らかの手段を使って避けているのだろうか。あるいはただ、700年の中で奇跡的な偶然が続いているだけなのか。

 

–––記録上、おそらく無害。ただし一度意志を持って動き出せば、世界を沈めうる、不気味な海王類。それが今、魚人島の僅か1000メートル付近を、泳いでいた。

ヨルムンガンドの予定外だった長期の滞在も、世界蛇の身体の一部が付近を通過したせいで潮の流れが一時的に変わり、船の往来が禁止されたために起きたことだった。ただ泳ぐだけで潮も光も歪めうる、自然現象に等しい生き物は悠々とそこにある。恐らくあと1時間程度すれば、少なくともあの鱗は島を通り過ぎるだろう。完全に見えなくなるまで遠ざかるにはどれほど掛かるのか、ヨルムンガンドには予測すらつかない。

 

「まあこれが雌雄どちらであれ、繁殖することがないってのは救いね。これが世界の海を何体も泳ぐなんて考えるとゾッとするわ」

「ええ…この蛇が一族最後の生き残りと考えると、哀れな気も致しますが……700年も生きているとなると、そもそも種として繁殖の必要がないのかもしれませんね」

「……ん、海賊船。『鱗削り』かしら」

 

ヨルムンガンドの言葉通りに、海色の壁にへばりつく砂つぶよろしく、船が3隻ほど何やら奇妙な動きをしていた。彼らの船の何百倍とある海色の鱗は、地上ではそれなりの価値を持つ品である。物好きにはこれで混ぜた材料で家を建てるようなものもいるほど、世界蛇の鱗は人気がある。

別段、水害に強いこと以外には大した効果もなく、コーティング船であれば採取は容易なので言うほど高価ではない。が、万が一の危険性を考えて魚人島では世界蛇への接触が禁じられていることもあり、鱗の粉や破片の闇ルートでの流通は後を絶たなかった。

 

「あれ、意外と楽しいのよね」

「おやりになったんですかヨルムンガンド宮!?」

ぎょっとしてフカボシは足元にいる小さな貴人を凝視したが、彼女はどこ吹く風という顔でしれっと頷いた。紫のサングラスに覆われた瞳が、面白そうに細くなっている。

「ええ。この前密航した船が鱗削りで稼いでるところでね。ちゃんとお金も払ったのに、『乗るなら働け!』って言われてしまって……こう、大きなドリルを使うんだけど」

ヨルムンガンドは手でこうやって、と回す仕草をしてみせた。

「……貴女のような貴人に取り締まれ、とは言いませんが……今度からは報告していただけると……いや海賊も一体何をやらせているのか…」

「ああ、安心していいわよ。着いた後に約束反故にされたから、全員半殺しにして海軍に突き出しておいたし」

 

フカボシはもう何も言わなかった。もう10年近い付き合いがあり、世界会議や署名運動のいざこざでも彼女に世話になっている身ではあるが、こういう天竜人として明らかにおかしな行動力は、ときどき彼の想像の斜め上を行く時がある。間違いなく、誠実な人柄ではあるのだが時々なんともズレているのだ。箱入りの妹姫–––しらほしとこの破天荒な天竜人が何故仲が良いのか未だに分からない。

 

「それじゃあ、ここら辺で」

「ええ、お帰りの際もお気をつけて」

両者の足がぴたりと止まった。シャボンの膜はもう間近であり、リュウグウ王国唯一の出入り口は目と鼻の先に見えている。降り立った王子と天竜人を目にして、辺りの魚人や人魚たちがぱっと道を開けた。王子さまだ、という黄色い声、歓喜や尊敬に彩られた声とともに、若き天竜人へ向けられた視線には薄暗い色が宿っている。建物から、物陰から除く眼差しには、不審の色合いが未だに濃い。

(あの天竜人だ)

(人間だ)

(あ、ヨルムンガンドさまだ!)

(また来てるのか、あの女……)

(オトヒメ王妃の事件で懲りてないのか?)

(早く帰ってくれ……)

 

ヨルムンガンドは魚人島でも顔が知れ渡っている貴重な天竜人で、リュウグウ王国への貢献から彼女は好意的に見られている方ではあるが、それでもなお、彼女の「人間」「天竜人」「世界政府の上に立つもの」という肩書きは魚人島の住人の目を濃淡さまざまに濁らせる。多分、地上の人間が魚人や人魚に抱く偏見と全く同じように。その仄暗い色が、フカボシにはどうしても悲しい。周りの民たちにやんわりと注意しようとしたところで、軽やかな声がかかった。

 ・・・・・

「兄ほし王子、次のお土産は何がいい?」

「……結構ですよ、もう私たちも小さな子供ではないのですから…。それと私の名はフカボシです、ヨルムンガンド宮」

「そうね、フカボシ王子。じゃあ欲しいものが決まったら、また連絡をちょうだい」

「かしこまりました。またしらほしにも聞いておきましょう」

 

その返事を聞くと、彼女は船着場に向かって振り返ることなく去って行った。人間特有の固く、軽い靴の音があっという間に遠くなっていく。黄金と墨色がまだらになった髪が、淀みない足取りにつられて右に、左に緩やかに波打った。

それからフカボシは、ヨルムンガンドが乗った船が光の差さない海中へと出港するまで船着場でじっとしたまま見送っていた。警備の時間は迫っているが、リュウグウ王国の恩人でもあり彼の親しい友人への心遣いとしてそうしていたかったのだ。恩人、と言うと彼女はとても嫌がるけれど。

 

 

 

『……結局、オトヒメ妃殿下は亡くなった。私がたかだか一発撃たれたという過程を、誇張しないで欲しいの』

いつだったか、ヨルムンガンドは呆れたようにそう言った。でもあれは、大きな一撃だったのだ。フカボシたち兄弟にとって、父にとって、集まった観衆にとって。死んだ母にとっても。

フカボシは黙って目を瞑った。そうしてつい先ほど去っていった友人の、金髪に縁取られた真白い額のことを考えた。滑らかで、日焼けひとつしない–––10年前に母を庇って銃弾が貫通したはずなのに、その傷をひとつも残さなかった額のことを。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

マリンフォード島、海軍本部で野暮用を終わらせた王下七武海・海侠のジンベエが違和感に気付いたのは、もうすぐ正午に差し掛かろうかという時刻のことだった。

空を見上げればすこん、と抜けるような晴天。雲一つない鮮やかな天壇青のもとで、潮の匂いがする風が海から陸へと吹き抜けている。ちょっとしたことで本部からの呼び出しを終えた彼は、どうせマリンフォードかシャボンディでぶらついている不良天竜人の顔でも拝んで帰ろうか、と考えて食堂方面へと向かったのだが、何だかおかしい。

大抵は本部に居座る下っ端海兵たちが、2、3人ほど暇を持て余しながら彼女のいる食堂付近を見張っているだけなのだが、ほとんどの場合だらけきっている彼らがどこか不安げに、冷や汗まじりにそわついている。誰かに指示を仰ぐべきか、黙っておくべきか–––そんな感情がはっきりと出た顔をお互いに見合わせていた。

 

「‥‥お前さんたち、どうかしたか?またヨルムンガンド宮が脱走でもしたんかい」

そうでないことは薄々察しながらジンベエが海兵たちにそう話しかけると、尻の青い兵士たちは飛び上がって敬礼し–––それから何とも言えない顔をした。

「うおっ『海侠』様……これはええと、いや今日はまだいるんですケド」

「むしろ来た奴が問題というか」

「ていうか脱走はいつものことだし……」

「?まあええ、ちょいと失礼するぞ」 

 

どうも要領を得ない。ジンベエはのっそりと食堂の入り口から顔を覗かせ、ヨルムンガンドの定位置となっている奥のボックス席の方を見た。人払いされたのか妙に広々とした食堂の中、見慣れた色落ちしまくりの金髪頭が、こちら側に背を向けている。前に会ったときより根元の黒い部分が広がっているのを見るに、また毛染めを疎かにしているらしい。そしてその向かい側に座る人物が目に入ったジンベエは、『来た奴が問題』という海兵の言葉にははあ、と納得した。

 

(なるほど、これは確かに)

–––危ない組み合わせじゃのう。胸内でひとり呟く。

ヨルムンガンドの後ろ姿の向こう。彼女の倍近くある巨漢が、身体を折りたたむようにして行儀悪くボックスソファに腰掛けていた。その名を示す通りのピンク色のファー、吊り上がったサングラス。午前の光を跳ね返しているのは、ヨルムンガンドとは違う天然の金髪だ。

ジンベエと同じく王下七武海に名を連ねる海賊、元懸賞金3億4000万の「天夜叉」ことドンキホーテ・ドフラミンゴだった。

 

ドレスローザ国王も兼任する珍しい七武海であるドフラミンゴは、王国の英雄だと語られどもジンベエ自身、怪しいものだと睨んでいた。違法ルートでの武器の密輸や血生臭い闘技場、人工の悪魔の実からはたまた人身売買など、確証はないながら黒い噂が絶えず付き纏う人物であり、奴隷制度の改革を巡ってヨルムンガンドとは対立する立場にある。表立って不仲だとは聞かないが、ジンベエのよく知るヨルムンガンドはあのような人物を毛嫌いするタイプだし、こうやって2人きりで話すところを見るのは初めてだった。

 

「–––それで、職業訓練所の額は–––」

「来年からは–––」

「そりゃあ手厳しいもんだ–––」

「文句があるなら世界会議で–––」

吹き込む風と潮騒に掻き消されつつ、漏れ聞こえてくる声はジンベエの危惧するほどには険悪でもなかった。ヨルムンガンドの声は平時と変わらず落ち着いたトーンであり、会話には時折ドフラミンゴの特徴的な笑い声すら混じっている。

 

杞憂だったのだろうか。互いに歳を食った大人であるし、ジンベエが心配していた『一方的にドフラミンゴに絡まれて困っているヨルムンガンド』というのではなく、もしや何かの商談か個人的な会談なのか。もしそうなら、ヨルムンガンドに挨拶するのはいつでも可能なのだし出直すべきかジンベエが迷ったところで、ふと気づいた。背面しか見えないヨルムンガンドの手元には陶器製の灰皿が置かれてあり、その上にはこんもりと煙草の吸い殻が小さな山を築いていた。ヘビースモーカーでもない彼女は、普段それほど量は吸わない。

 

(……ありゃあ相当苛立っとるな)

ヨルムンガンドの感情表現は分かりにくいようでいて、意外と分かりやすかったりする。長年の付き合いから彼女のストレス値が限界に近づきつつあることを悟ったジンベエは、黙って食堂の中に踏み込んだ。ちらり、とサングラス越しにドフラミンゴと視線が合う。年齢不詳の口元が、意地悪く上がったのが見えた。「宮様」と呼びかけようとしたところで、距離が近づいたこともありドフラミンゴが発した言葉がはっきり耳に届いた。

 

「フッフッフッ!しかしヨルムンガンド、お前の奴隷制への執心も大したもんだ。そりゃあなんだ、"ご立派なお生まれ"を恥じてのことか?」

「おい!!」

「珍しいな海侠のジンベエ…どうした?おれたちは仲良くお喋りしてただけなんだが……」

恩義あるヨルムンガンドへの明らかな侮辱に、ジンベエは反射的にきつい声で怒鳴っていた。その声に初めてジンベエの存在に気付いたのか、ヨルムンガンドがちょっとびっくりした様子で振り返ったが、また直ぐに顔をドフラミンゴの方に向けて、長々とニコチン臭い白煙を吐き出した。ふう、と最後の一息を吐き切った顔には、怒りの色はない。けれども先刻の発言が彼女の特大の地雷であることをジンベエはよく知っていた。

 

「……やめなさいなジンベエ、いちいち腹を立てる方が無駄なんだから」

言いながらヨルムンガンドは手元の灰皿を引き寄せると、結露でビショビショになったグラスを持って立ち上がった。

「もう行くのか?おれとしてはもう少しお喋りを楽しんで欲しいんだがな」

「そう思うのなら口の利き方に気をつけておくことだわ。せめて相手を不快にしない程度の気遣いを覚えないとね」

席を立った若き天竜人はスカートを叩いてから男を一瞥して、それから目にも留まらぬ速さで灰皿をドフラミンゴの爪すれすれ、僅か1センチも離れていない場所に叩きつけた。ガン!!!!!と硬質な音が食堂に響く。当たれば爪どころか指がひしゃげそうな、覇気の込められた一撃により机にはクレーターが空いていた。そのまま、首を傾げるとよく通る声を落として囁く。

「お前は喧嘩の売り方が安っぽいのよ、天夜叉。私に喧嘩を買って欲しいのならせめて年齢相応の挑発でも覚えてからにしてちょうだい。それもできないなら奴隷市場から手を引いて、一生果物の密輸ごっこでもして遊んでるのね」

・・・・・

チップ無し。

凄まじい罵詈雑言だったが、台詞にまるで感情が乗っていないのが何とも不気味だった。ひたすらに静かで、温度が低い蔑み。

 

 

黙ったドフラミンゴを尻目に、吐き捨てたヨルムンガンドはつかつかとジンベエに歩み寄ってくると「行きましょう」とだけ短く言って食堂を出た。

 

 

 

 

「…‥……宮様」

「何かしら」

不機嫌です、と額に書いてありそうな顔のヨルムンガンドに、ジンベエはため息をついた。普段喜怒哀楽が削げ落ちたような無表情の彼女だが、意外とキレると子供っぽい一面が今のように表に出るのは、長らく付き合ってもかなり慣れない部分だ。むすっと口を尖らせたヨルムンガンドの顔は、ドフラミンゴにどうこう言えないほどに幼かった。彼女の義弟の不貞腐れた顔とそっくりである。

「喧嘩を買う相手は選んで下さいや。わしも肝が冷えた」

「選んだわ。あれは私に手を出すほど馬鹿じゃないから言ったの。他の七武海なら同じこと言われても無視してたわよ」

 

10年来の貴人は今年で26歳。色んな意味で規格外なこの天竜人の数少ない未熟な部分が、時折ジンベエには可哀想に思えて怒るに怒れない。天竜人という世界の文字通りの頂点に立ち、その身に流れる血と身分を理由にあらゆることを許容されてきたはずの彼女は、生い立ちにコンプレックスがあるからこそ魚人たちや奴隷への差別に敏感だ。

 

『ひねくれたガキだよ。どうしようもないほど』

 

–––ええ、タイの大アニキ。最近それを痛感しとります。

ジンベエはひとりごちた。




人物紹介

ヨルムンガンド:ネプチューンさんちの4兄妹とはかなり仲良し。音貝とか地上にしかないお土産をちょこちょこ持って行ってる。魚人島では顔が売れてるが、そこまで人望があるわけではない。ジンベエ親分の言うことは割と聞く。ママが天竜人でパパが奴隷。

フカボシ王子:実はヨルムンガンドより2歳下。ヨルムンガンドには密航をやめて欲しいと本気で願ってる。

ドフラミンゴお兄さん:出自と思想の面でマジで反りが合わないし、ヨルムンガンドのせいで奴隷市場がかなり縮小されて営業妨害されてる可哀想なひと。

ジンベエ親分:ヨルムンガンドには恩があるのであんまり強く出れないが怒る時は普通に怒る。魚人空手の基礎を教えた人。ヨルムンガンドは触りだけ使えるが「四千枚瓦正拳」「いやその威力は二百枚!」という謎の過剰申告をするので困ってる。

世界蛇:クソデカオリジナル海王類。観測史上こいつよりデカい海王類は存在してない。頭もしっぽも殆ど目撃例がないため、蛇かどうかも怪しいが細長いので何となく蛇呼ばわりされてる。一時期本気で討伐が検討されたこともあったけど、デカすぎてだめだった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5.お食事中はお静かに

プロローグはこの話まで、次からは過去編に移行する予定です。アクションシーン書くの、苦手……‥


 

––––作法とは即ち、心の持ちようを表す鑑である。

ジンベエはふと、そんな事を考えながらもずく酢の最後の一口を咥内に運んだ。すっきりとした濁りのない酸味が柔らかに舌を撫ぜる。後味が消えないうちに徳利に注いだ清酒を流し込むと、胃の腑が僅かに熱くなり、もずくの余韻と混じってえも言われぬ風味を醸し出した。

寝酒にもならぬほどの弱い酒精だが、よい味だ。

故郷で採れるものとは流石に鮮度が違えど、地上で食べる海産物としてもそう悪くない部類である。ジンベエは満足して箸を置いた。

 

場所は、シャボンディ諸島の5番グローブ。海軍本部を出た2人は、久しぶり(とは言っても1ヶ月ぶり程度だ)に食事でも、ということでヨルムンガンドが行きつけのレストランに落ち着いていた。樹木の集合体であるシャボンディ諸島は、その木に刻まれた番号が若いほど治安が悪い。その例に漏れずこの店舗の周りには人攫いらしき目つきの悪い男がたむろしていたし、遠くから銃声が響いていた。しかしそれに反して店内は比較的健全な賑やかさに満ちていて、魚人であるジンベエを見ても特に何の反応も起こらず、柄の悪そうな客もいなかった。

 

「店主が元腕利きの賞金稼ぎなんですって」

とはヨルムンガンドの言である。確かにその言葉通り、強面のマスターは手練れの雰囲気があった。そんな店主のおかげか、比較的この店は治安も良く料理も美味しく、海兵の巡回ルートから外れているため、ヨルムンガンドは海兵と鬼ごっこをしてお腹が空いたらこの店に時々逃げ込んでいる。禿頭の店主もプリン頭の天竜人を見ると、うんざりしつつも慣れた顔で奥の個室に2人を通した。

 

ジンベエを連れてきたヨルムンガンドと言えば、ゆっくりと皿に盛られたバジルソースのパスタを行儀よく巻いて黙々と食べている最中だった。ちんまりとした量の麺を銀の匙の上で絡め取り、飲み込んで咀嚼した。相変わらず、フォークやスプーンが皿に当たる音が一切しておらず、ほとんど無音に近い食事風景は、喧騒が聞こえて来る店内でどこか浮いている。たらり、と麺から翠緑のソースが皿に着地した。

 

「んむ。私の顔に何かついてる?」

「ああ、いや。宮様は相変わらずお綺麗に召し上がるもんじゃなァ、と」

「……ああ……そうね。私、と言うか母が細かったから。その名残かも」

「ほう。御母堂さまが?」

ええ、とヨルムンガンドは頷いてまた、ちゅるんと飲み込んだ。安っぽい緑色の麺が皿から少しずつ減っていく。が、遅い。ジンベエからすると若干、遅すぎるくらいに彼女は食べ終わるのに時間が掛かるタイプだった。この癖を熟知していたジンベエは懐から煙管を取り出すと、ヨルムンガンドがすかさず『いいわよ』と許可を出した。有り難く、と一礼して煙管に火をつけた。いがらっぽい匂いを纏った紫煙が、シャボンディ特有のベタついた空気に立ち昇ってゆく。

 

ヨルムンガンドの食事風景の上品さは、単に作法が整っていて(ジンベエが詳しくは知らない)細やかなルールに則ったものである、ということのみには由来しない、と彼は常々思っている。ヨルムンガンドは例え骨つき肉に素手で齧り付いていようが、食べ終わって指についた脂を舐めていてもどこか上品で、行儀良く、整然としている。

多分、『余裕』故なのだろう。

ビヴロスト・ヨルムンガンドは生涯で一度も、飢えに苦しんだことも無ければ明日のご飯の心配もしたこともない身分だ。幼少期のジンベエのように今食べておかなければ、次にいつ食べられるか分からないという切実な悩みを持ったことがないのだ。だから落ち着いている。心の底からゆっくりと、何に急かされるでもなくきちんと、咀嚼することができる。だから、彼女の食べる姿は多分美しいのだ。ひどく静謐に、音もなく。

 

「昔はね。ちゃんと食事マナーを仕込んであげようと思ったことも、あったんだけど」

「?そりゃあ誰のことで…ああ、」

唐突に放たれたヨルムンガンドの言葉に対し、疑問を口の端に乗せたところで、誰を指しているかはすぐに分かった。彼女の義弟のことだろう。もっとも2人いる(らしい)うちの片方しか、ジンベエは面識がないのだが。

「ええ。でもあの子、そういうの嫌がるタイプだったし。5分で諦めた」

「でしょうなァ……目に浮かぶようじゃ」

「結局あの子も末っ子の方も、ナイフとフォークを同時に使ってることすら、ろくに見ることなく終わってしまって……徒労という言葉の意味はあの時初めて実感したわ」

 

ヨルムンガンドは表情を変えることなく、唇だけをちょっとだけ持ち上げて淡く微笑むような形にした。笑っているのか無表情なのか、判別のつきにくいものだったが、慣れれば薄い懐古と親愛の色を読み取ることができた。

「そういえばこの前、竜宮城に行ったときもパスタだったわね。しらほし姫に『そのような量では足りないのではありませんか?わたくしの分も差し上げますよ』って言われて…」

下手くそな声真似にゴフっと、ジンベエが咽せる。ヨルムンガンドはちょっと嫌そうな顔をしたが、黙って手元のおしぼりを滑らせてくれた。

「…召し上がったんですか?わしは久しくお会いしておりませんが、今頃は成長なさっておいででしょうから、宮様より上背がかなりあるのでは……」

 

上背どうこうの次元ではない。今年で14歳になる国王ネプチューンの掌中の玉、しらほし姫はビッグキスの人魚であるため、既に全長は10メートル近い超・巨体の美少女である。訳あって世間知らずの彼女はまともに人間と触れ合ったことがないため、平均的な食事量を摂取するヨルムンガンドを見て不安になったらしいが、維持する肉体のサイズ差からしてそれはかなり無茶苦茶な申し出だった。何せ彼女の食べるパスタは、部屋一つ分くらいのサイズの皿に乗ったものなのだから。うぷ、と思い出したヨルムンガンドは若干顔を青くして腹をさすった。

 

「あの子が100%の善意で言ってくれたのは分かるから、麺一本分だけ食べたけど……それだけで次の日の夜ご飯まで持つくらいの量だったわ。太いし、もちもちしてる排水管齧ってる気分だったわね」

「断っても姫君なら怒りゃあせんでしょうに。腹八分で留めておくのがよろしいと思いますがね…」

むっと、ヨルムンガンドは不満げな表情になった。

「仕方ないでしょう。あの子、私が必死に麺齧ってるのを見てニコニコしてるから断れなかったのよ。硬殻塔で1人で閉じ篭ってる子のお願いくらい、叶えてあげるのが年上の友人の務めだわ」

ようやくパスタの最後の一口を食べ終わったヨルムンガンドは、皿を横にやって『マンゴー風青汁』をぐび、と一気に煽った。結露で湿ったグラスをテーブルに置くと、サングラス越しにも分かる据わった灰白色の目で呻く。

 

「………これもすべて、あのバンダー何とかと言うロリコンキモストーカーのせいよ」

「宮様ァ〜〜っ!?それは流石にまずい!!もうちょっとこう、柔らかい言い方して下さいや!」

身も蓋もないスラングに、ジンベエは目が飛び出んばかりにびっくりした。

「?年齢1桁時代から女児に求婚してくる年齢不詳の男、ロリコン以外に言い方なくないかしら。あの子が大人になったらただのストーカーで済むんでしょうけど……やっぱりただのストーカーでもキモいわね」

「気持ちは分かりますが!」

 

恩義ある天竜人の口からロリコンとかいう単語を聞きたくないんじゃ!

ジンベエの悲痛な叫びをあんまりちゃんと受け止めていないヨルムンガンドは白々しい顔をした。口の悪さは裏を返せば、彼女がそれだけしらほし姫を可愛がっている証左ではあるのだが、色々とマズい。こいつネプチューン王たちの前でこんなこと言ってないじゃろうな……とジンベエは不安になったが、きちんとTPOを弁えているのはヨルムンガンドの美徳である。いや、どこでもロリコンとか言ったらダメなのだが。

 

「………まっこと、宮様はしらほし姫を可愛がっておいでですなァ…」

求婚者をストーカー呼ばわりするくらいに。ジンベエの最大限オブラートに包んだ嘆きに、ヨルムンガンドはけろりと頷く。

「小さい頃から見ているもの。そりゃあ可愛くもなるわよ。あんな風に素直に慕ってくれるとやっぱり嬉しいものがあるし」

 

意外と、と言っては失礼かもしれないがヨルムンガンドは姉気質だ。王宮を訪れる度に、12歳も年下のしらほし姫が住む硬殻塔に侵入しては地上のお土産や珍しいニュースを持ち込んだり、2時間かけて髪の毛を編んでやったりとその猫可愛がりには枚挙に暇がない。フカボシやリュウボシら王子たちとも仲良くやってはいるのだが、末妹への接し方はやはり格別だった。

しらほしの方も、6歳の頃から付き合いのある天竜人のことを『ヨル宮様』と慕っており、彼女が帰った後はしばらく泣きやまないと言うのだから、その親しさはひとしおである。

 

(このお人がいなければ、魚人や人魚に親身な天竜人なぞ、リュウグウ王国の誰にも想像もつかんかったじゃろうなァ……)

まずそうな色のドリンクを啜っているヨルムンガンドを見ながら、ジンベエはひとりごちた。

 

「可愛い……妹分、といった所ですかな」

ジンベエの言葉に、ヨルムンガンドはちょっと面白そうな目で下から見上げた。サングラスを通さない、あわい灰白色の目が光っている。

「まさか。私に妹はいないし、いたとしたらもっと雑に扱ってるわ。しらほし姫にやるほど優しく接さないと思う」

「あァ、なるほど」

割と説得力のある答えに、ジンベエは納得がいってしまった。記憶にあるだけでも、ヨルムンガンドの義弟に対する扱いはかなり粗雑だった。逆もまたしかりではあるのだが。

 

「私にとってあの子は妹でも姪でも孫でもない、ただの友達だけど…私も母が死んだの、ちょうどあれくらいの年だったから。勝手に共感してるのかしら。あるいは……」

ジンベエの空になったお猪口に、ヨルムンガンドはとくとくと清酒を注いだ。馬鹿でかい徳利から一雫、透明な粒が落ちてテーブルを濡らす。鼻の奥底を揺らす匂いが、シャボンディの空気を薄く染め上げた。

「……同情してるのかしらね?」

オトヒメ王妃とはまるで違う、典型的な天竜人で、ヨルムンガンドの家の支配者だった母。ヨルムンガンドの大嫌いな人。あの人の喪失は後にして思えば大したものではなかったけれど、当時のヨルムンガンドにとっては大事件の始まりだった。

独り言のようなヨルムンガンドの呟きに、ジンベエは黙って杯を干した。

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆

 

 

『以前融資いただきました件について–––』

『灌漑事業の進行度は––––』

『未払いの督促対応に関しては––––』

『設置した海水濾過システムの試案なのですが–––』

『奴隷に関する最低限の待遇の文書化は–––』

『世界政府への加盟希望国から相談が入っており–––』

 

がやがや、わいわい、やいのやいの。

アラディンに呼び出されてジンベエが席を外した後の部屋は、先ほどの比ではないほどの騒々しさに満ちていた。声の出所はテーブルの上、ずらりと半円状に並べられた10体の電伝虫たちである。

どれもヨルムンガンドへの相談や融資の願いを中心とした内容を口にしており、ヨルムンガンドが雑な相槌を打っているのも気にしないほど必死に捲し立てていた。

 

ビヴロスト・ヨルムンガンドは毎日毎日懲りずにマリージョアから脱走しているせいか、遊んでいると思われがちだが、全くそんなことはない。彼女の『趣味』は多くの国、多くの法律、多くの事業と市場に関わっているため、こうして食事中にも時間を割かねばとうてい捌ききれないほど膨大な量があった。現在は非加盟国だが加盟国になりたいという国家からの相談や、新しい事業への投資の願い、大規模な飢饉とそれを解決するために投入された機械に関する質問–––数え上げればキリがない。マリージョアの自宅に積んである未処理の案件を完全に整理する日は来ないだろうな、と彼女自身諦めている。

 

『未だ収穫量の増加は想定を下回っており–––』

『来月の資金は–––』

『子会社のストライキのため納期が–––』

 

時々、うんざりしてしまう。ヨルムンガンドは子供の頃に願った奴隷制度の撤廃を実現させるために動いているはずなのに、気がつけば魚人島の移住だの天上金の法案だの、面倒くさい多くの問題に首を突っ込んでいるし、その多くは未解決だ。

–––世界が少し、良くなればいいだけなのに。

その少し、が果てしなく遠くて嫌になる。

こちとら天竜人の権力と財力をフル活用しているというのに、同族の多くは奴隷遊びに耽ってるし、ヨルムンガンドが奴隷市場を縮小させたせいで叩かれてるし。底の抜けたバケツで、沈む船の水を抜こうとしているような気になってしまうのだ。

 

「ダル……」

『何か仰いましたか、ヨルムンガンド宮?』

「…いいえ、何にも。灌漑事業については、収穫量の増加はまだそこまで焦る段階じゃないわね。まだ始めて2ヶ月でしょう、そこまで劇的な効果が見込める時期じゃないし、節約の為に型落ちした機械を使っているんだからその分のリスクには目を瞑ってちょうだい。それと、◆■国の加盟はまだ早いと思うわ。少なくとも次の世界会議は見送ってもらうつもりで予定を進めて。今の財政状況だと、天竜人にちょっと額の嵩増しされただけで国が傾くレベルなんだから–––」

 

–––ぎい、ばたん。

舌が攣りそうな勢いでヨルムンガンドが電伝虫に向かって回答していると、不意に部屋の扉が開いた。ジンベエが戻ってきたのか、と思ったが、ずかずかと踏み込んできたのはまるで面識のない男たちだった。どいつもこいつも真っ黒な上下に身を包み、扉を後ろ手に閉めるとヨルムンガンドが座るテーブルの周囲と、彼女の背後に立った。横に2人、後ろに1人、そしてテーブルの向かい側に1人の、計4人。後頭部には硬い感触。恐らくは銃口だろうか。

めっちゃ不審な者たち、略して不審者である。

 

(……何でこういう奴らって、揃いも揃って黒服を着るのかしら?)

あらゆる組織からの軟禁・監禁・乱闘・脱出の経験に事欠かない女ヨルムンガンドにしてみれば永年の謎だ。目立たないためなのだとしたらそれは単に本の読み過ぎ、黒服なんぞ着て目立たないのは葬式と結婚の場くらいなのだが。

テーブルの向かい側の男が椅子を引いて座り、神経質そうな声でヨルムンガンドに向かって口を開いた。

 

「五老星直属諮問機関『六梯席(ろくていせき)』の1人、ビヴロスト・ヨルムンガンドだな」

ヨルムンガンドが黙っていると、男は彼女に指図した。

「電伝虫を切れ。不愉快だ」

逆らうと面倒だな、と判断したヨルムンガンドはおとなしくぽちっと電伝虫の電源を落とした。ただし、1番どうでもいい内容を話していた1個だけ。

『ヨルムンガンド宮、どうかなさったのですか?』

『それより来年の予算を増やしてほしいのですが……』

『本当ストライキするのやめてほしいんですよう…うう…』

『ヨルムンガンド宮、頼みますから納期の延長を』

『そこを何とか、次の世界会議に参加させてほしいのです』

 

当然、ほかの9体の電伝虫は喋りまくっているため、部屋は普通にうるさい。がやがやわいわい、ヨルムンガンドがそれなりにピンチな状況下にあると言うのに、電伝虫のせいで部屋にはまるで緊張感がなかった。

「………いやいやいや!普通切れっつったら全部だろ!テメェ何一個だけ切って後は普通につけてんだ!状況分かってんのか!?あァ!?」

ヨルムンガンドの右手側に座る男が急にキレてきたので、彼女は迷惑そうに顔をしかめた。

「貴方たちが電伝虫の電源を切れとだけ言ったのに……個数指定をしなかった責任を私に求めないで欲しいのだけど。––あ、オズワルド、言っておくけど来年の予算は増やさないわよ。お前のところ、この前の決算表で粉飾してたもの。別に私に何のダメージもないけど、決まった額内できちんと目標を達成することをいい加減覚えなさい」

「ダメだこいつ、めちゃくちゃ普通に会話続ける気だ〜!?」

「くそっ、これだから天竜人は嫌いなんだ!テメェ以外の生き物に興味なんざないってか?舐めやがって……!!」

 

今度はヨルムンガンドの左手側にいる男も何故かキレ始め、懐から何やら取り出してテーブルに置くと同時に、ヨルムンガンドが話していた電伝虫の声にじじ…とノイズが混じりだし、ものの見事に5秒もすれば完全に沈黙してしまった。無音に近くなった部屋の中、会話する相手がいなくなったヨルムンガンドは、ちらりとその原因を伺う。男が取り出して置いたのもまた、1匹の電伝虫だが通常のものとは様子が違っていた。

 

(……あ、あれ妨害用か。ひさしぶりに見た)

先程までは電伝虫たちが口々に捲し立てていたせいで状況に似合わず賑やかだった室内が、ようやっと静かに温度が下がって、ゆっくりと張り詰めていく。会話ができなくなったヨルムンガンドはそのとき初めて、物凄くしぶしぶ不審者たちのことを視界に入れた。

 

 

「ハア……ビヴロスト・ヨルムンガンド、私たちの話を真面目に聞け!私たちは皆、誇り高き改革者だ。憎き天竜人であろうとお前が質問に正しく答えさえすれば、危害を加えることはないと約束する」

「………」

別にお前らでは危害加えられないから、そこはどうでもいいかなとヨルムンガンドは思ったが、流石に空気を読んで口を閉じた。それにしても、ヨルムンガンドを捕まえて『お前』呼ばわりはめちゃくちゃ久しぶりである。ちょっと感動すらしてしまった。

 

「私たちはとある組織に所属を置く者だ。実は我が組織内では近頃、悲願である壮大な目的を達する為、天竜人であるお前に協力を仰ぐべきではないかという意見が上がっている」

「……とある組織とか言う分かりやすいぼかし方はやめたらどう?革命軍ならそう言ったらいいじゃない。別に海軍に通報なんかしないわよ」

「んな!?」

ぎょっとした様子で部屋内の男たちは、揃ってヨルムンガンドを見つめたが、まあこんなにバレバレなこともない。これで分からないと言う方がよっぽどの問題だろう。後頭部に突きつけられている銃口も、動揺したのか思いっきりブレた。

「海賊なら自分の所属する海賊団を指して『とある組織』とか勿体ぶった言い方をしないでしょうし、その上で改革者なんて自称してるのなら選択肢はひとつに絞れると思うのだけど……それに貴方たち」

 

唇に挟んだ煙草を離し、白濁した煙をゆっくり吐き出してから、ヨルムンガンドは口角を僅かに上げた。ジンベエが吸っていたいがらっぽい匂いとは異なる、ミントのような香りの混じる副流煙が部屋を満たす。その中で女がすん、と一度鼻を鳴らす音が部屋に大きく響いた。

「–––潮の匂いがしないもの。これで海賊は無理があるわ」

ぞっとするような沈黙が、狭い個室に降りた。正体不明である、というアドバンテージを開始早々に破られた男たちは、それぞれに顔を顰めていたが、ヨルムンガンドも革命軍と直接接触するのは意外にもこれが初めてだった。前から興味はあったのだが、しかし。

 

(こいつらがどの程度の立ち位置なのかは知らないけど……末端まで教育が行き届いてるってわけでもないのか。規模の問題?)

 

ヨルムンガンドという『天竜人』への反発心を隠すこともない態度や、自分たちの所属組織を隠蔽もできない話術。それに、男の話が本当であれば、彼らは秘匿すべき革命軍の上層部の意向を此方にわざわざひけらかしているのだ。少なくとも真っ当な交渉窓口だとは考えにくい。政府転覆を企むとは言えど、全てが精鋭でもないらしい事実に、ヨルムンガンドはちょっぴりがっかりした。

 

「……………それが分かっているのなら話は早い」

「いや絶対早くないでしょ。正体バレがそんなに嫌だったの?」

「やかましい!!……いいか、今言った通り組織–––世界政府転覆を目的とする我々革命軍の中では、魚人島の活動や政府非加盟国への援助、天上金のシステムを改革したお前であれば、政府の動向を読むためにもコンタクトをとるべきではないかという意見が出ている。しかし……しかしだ」

ヨルムンガンドの向かい側に座る男が–––察するにこの男がまとめ役のような階級なのだろうが–––ずい、と身を乗り出した。

ヨルムンガンドと同じく20代半ばか、もう少し上だろう。頬がこけていて、不健康そうだったが、目の色がギラギラと輝いている。天井から吊り下げられた白熱灯に照らされた濃い青色の瞳の奥には、分かりやすい憎悪と懐疑の色が宿っている。合図としてヨルムンガンドは2度、海楼石を入れたローファーの踵で床を打った。コツコツ、と硬い音が響く。

 

「お前が天竜人の中では、異端にも–––そして本来はやってしかるべき義務を為している人物であるとは認めよう。しかし、それでもお前は天竜人……聖地に住むもの以外の全てを見下し、隷属するものと考え、権力を振りかざす側にいることに違いはない。お前はその特権を手放し、我らの思想を共にするに相応しいのか……私たちはそれを見定めに来たのだ」

つまり、今目の前にいる男たちはどうやら、革命軍上層部の意図とは別に動いているらしい。それだけでヨルムンガンドには男たちと会話をする気が完全にゼロになってしまった。

どうやら天竜人に個人的な恨みやらなんやらがあるのだろうが、それははっきり言ってヨルムンガンドの知るところではない。可哀想ではあるが、いちいち構うほど暇な身分になった覚えはないのだから。

「……ずいぶんまた、勿体ぶった言い方をするのね。貴方たち、要するに上が天竜人と接触しようとしてるのが気に入らなくて、正式な指示もないのに私に会いに来たんでしょう。見定める、だなんてそんな……」

馬鹿みたいな言い草、よしたほうがいいんじゃないかしら。

 

表情のない能面じみた白皙に、見下したような色が浮かんだ。流石に聞き捨てならない台詞に、男たちの雰囲気が一気に冷え込んだ。両隣の2人が椅子から腰を浮かして武器に手をやり、ヨルムンガンドの後ろでは突き付けた拳銃の安全装置を外す音がした。

 

「…………貴様。我々革命軍を嗤ったな」

「苦笑しただけ。決めつけは良くないわ」

「何だとォ!?」

部屋の緊張感が高まり、矢を離す直前の弓弦のごとく一触即発になったところで、部屋に入ってきた5人目から唐突に声が掛かった。

 

「–––お兄さん方。ご注文はお決まりかい」

「あァ!?何が注文、で………誰だてめェ?」

どしん、と地に足のついた重々しい声音である。ヨルムンガンド以外の4人が一斉に、新しい声の主に取り出した銃口を向けたが、向けられた方はぴくりともしなかった。

禿頭に、いくつもの傷痕を走らせた50前後の偉丈夫である。ざっくりとしたシャツにエプロン姿という簡素な格好からは、厚い筋肉の盛り上がりが窺え、老いてこそいるが一目で卓越した腕前の武人であることが分かる男だった。片手には台詞の通り注文用紙を持っていたが、もう片方にはがっしりとした槍が握られている。

 

「見りゃ分かンだろ、おれはここの店主だ。入って注文もしねえ無礼な客がいるってんで来てみたら、物騒なオモチャ持って遊んでんじゃねえか。ここはレストランだ、飯食わねえんなら出ていっとくれ」

「…………それは失礼した。我々は崇高な話の最中で注文をするつもりはないが、そう時間は取らず出て行くつもりだ。だが邪魔をすれば……どうなるか、分からんわけでもあるまい」

ヨルムンガンドの正面の男は、最新式の拳銃を見せびらかすように動かした。ヨルムンガンドの合図に従って来てくれた店主は、面倒臭そうな顔でぽりぽりと頭を掻いた。

 

「崇高、ねェ……そりゃいいが、相手は選んだ方がなおいいね。お前さんの前にいるのは、そんなナリをしてるが名高き不良天竜人だ。そいつが傷付けばどうなるか、偉大なる航路育ちなら誰だって知ってるはずなんだがな……」

「安心しろ、連絡用の電伝虫は全て落としてある。海軍に連絡を入れたくとも不可能だ」

「はァ?違えよ、そっちじゃなくてだな…………おい!!てめェこのクソ野郎、やめろ!!!」

 

突如として大声を出した店主に、びくりと男たちが身を震わせた。理由なき大音声に訳もわからず顔を一瞬見合わせて、それから声の対象が自分達ではなく奥に座るヨルムンガンドであることに気づくより一瞬速く、巨大な何かが振り回されて男たちが吹っ飛び、銃声と轟音と共に店の壁に穴が開いていた。

 

––––ズドン!!!!!

 

凶器として振り回されたのは、ヨルムンガンドたちが囲んでいたアンティーク調の重厚なマホガニーテーブルだった。魚人であるジンベエには座卓程度の高さでしかなかったが、それでも巨体の彼が食事をするのに不自由ない大きさのものである。万が一を想定されて床ときっちり接着されていた細工も美しい分厚いテーブル、重さにしておよそ––––80キロ。人間が一人で動かすのもやや厳しいそれは、細身の女によって床から引き剥がされ、片手で軽々と投げられていた。男3人をテーブルで掬い上げるようにしてぶん投げるが早いか、しゃがんで銃弾を紙一重でかわしたヨルムンガンドはそのまま裏拳の要領で、後ろにいた男の顎をしたたかに打っていた。

叩く、ではなくて打つ。そして揺らすのだ、世界に満ちる水を。

 

–––魚人空手『鑓水(やりみず)』!

大気中の水と共に、男の脳ががくん、と揺さぶられてそのまま体ごと崩れ落ちる。水を制圧する技術と、80キロを振り回す腕力を存分に発揮されたことで、その一撃には顎の骨が割れるほどの威力が出ていた。男の後頭部がぶつかった壁が見事に凹んでいる。

 

「……ふう。妙な連中だったわね。あ、マスター。これ弁償代」

「『マスター、お勘定』みたいに言ってんじゃねェ!!いい加減にしろてめェこの、腐れ天竜人!この前はグランドピアノ、その前はくそでけェ人間、1番初めは銃撃戦ときて今回はうちのテーブル!!外壁を壊すなとなんべん言やァ分かる!?」

「それは本当に申し訳ないのだけど、この店で襲って来たやつに言ってちょうだい……いやでもごめんなさいね」

「クソっ今回と言う今回は出禁だ!!!2度と来るんじゃねえ!」

 

札束は受け取ったのに青筋を立てて怒る店主に、長居すると殺されそうだと判断したヨルムンガンドは珍しく申し訳そうにしながら、右手に荷物を、左手に伸びた男の襟首を掴むと壁に開いた(開けた)穴からそそくさと店を出た。後ろからはまだ怒り心頭の声が聞こえていた。

 

 

 

店の外は剣呑な賑わいでうるさいほどだった。そりゃそうである。なぜってヨルムンガンドが投げたマホガニーテーブルは店の外壁を破った後、通りを横切って向かい側の壁にめり込んで止まっていた。シャボンディの5番グローブにいる人間にろくなやつなどいないが、そんな柄の悪い連中だとしても目の前をいきなりテーブルとそれに引っかかった男が通過すれば怖い。「おい、テーブルと男が吹っ飛んできたぞ!」「何だ何だ、能力者連中の喧嘩か?」と騒いである周囲をよそに、ヨルムンガンドはテーブルの近くに歩み寄ると一緒にめり込んでいる男をよいしょ、と引っ張った。

 

(またあの手配書持ち天竜人かよ?)

(何か揉めたのか?大将呼ばねえだろうな!?)

(そこは大丈夫だろう、あいつはそうそう呼ばねえらしいし……)

(クソ、誰だよ楯突いた命知らずは)

 

周りのノイズを丸切り無視して、壁から意識を失った3人の男たちを壁から救い出したヨルムンガンドはふむ、と考え込んだ。どの男も、重たいテーブルで殴られた上にまあまあの速度で壁に衝突しただけあり、何本かの骨が折れており頭から血を流しているものもいるが、命に別状は多分なさそうである。このまま海軍に引き渡しても問題ないが、そうなるとちょっと可哀想な気もした。天竜人が嫌いで、上の指示に反抗してわざわざヨルムンガンドに接触するような、恐らく下っ端構成員。ヨルムンガンドに何か傷を負わせたわけでもないし、聞かれて困るような情報を教えてもいない。

 

そろそろ時刻は夕方に差し掛かる頃。天蓋は東の端からほんのりと夕闇に染められつつあり、夜の気配を感じてかシャボンディの賑わいはいっそう活気を取り戻しつつあった。欲望と希望にぎらぎらと目を輝かせた人間たちは、しゃがんでいるヨルムンガンドを避けるようにして足速に進んでいく。

 

(……このまま放置がベストかしら…)

そんなことを考えつつ、橙混じりの蜂蜜の光に照らされた、鼻の骨が折れて不細工になった男の1人をしげしげ眺めていると、しっかりとした足音がひとつ背後で止まり、至って気さくに呼び掛けられた。

目的が自分であることを薄々察しながら、ヨルムンガンドは振り向かなかった。相手は恐らく、若い男。身のこなしが軽くて、自分より背が高い。

「なあ、そこのアンタ。悪ィんだけど」

思った通りの、若々しい青年の声。

「そう思うのなら、武器を下ろしてから喋りかけるのね」

「あー……そりゃ失敬。ウン」

 

がらん、と音がして棒状の何かが地面に置かれた。横目で確認すると、鉄パイプである。配管工ではないだろうに、随分使い込まれた一品。

夕闇が迫る時刻、地面に映る影は長くなるときだが、それにしても後ろから喋りかけてくる男のそれはうんと縦に伸びたものだった。

 

「貴方が上官?」

地面でぴくぴくしている男たちを指差して言うと、地面の影はこっくり頭を縦に振った。

「そうだ……まあ直属じゃないけど。こいつらから話は聞いたか?それともいきなり殺し合いになったのか?」

「両方。話はざっくり聞いたけど、最初から後頭部に銃が当てられてたわ」

 

ヨルムンガンドの答えに相手は答えに窮したようで、あーとかうーとか唸っていた。彼女は続きがないことに若干苛ついて振り返り、その時初めて男の顔を拝んだ。

 

かっちりとした服に身を包む、金髪の青年である。襟元をクラバットで飾っているせいか、革命軍所属という割にはどこか貴族じみていた。ヨルムンガンドより10センチ以上背が高く、ゴーグルを付けたシルクハットを目深に被っていることもあってひょろんとしている。まだ背が伸びる途中のような、伸びやかな体つきからして年下だろう。20に届くか、届かないか。そのくらいの年頃と見えた。ヨルムンガンドを見据えている丸っこい目が、どこか幼げな印象を与えている。

どこかで会った、ような?ヨルムンガンドは僅かに首を傾げた。心のどこかがざわりと音を立てる。

 

「……悪ィな。うちの部下がどうも先走ったみたいで、アンタに迷惑をかけた。報告聞いて来たんだが、遅かったな。あー、おれは、」

「謝らなくていいし、名乗りも結構よ。天竜人への敵意を抑えるのが難しいことを私はよく知っているし、天竜人排除を掲げている上層部が選りによって対象と接触しようとしてるとなれば猜疑心が働くこと自体を責めはしないわ。愚かな行為だとは思うけれど」

青年は物言いたげにそのつぶらな目をぱちぱちさせたが、ややあってそうか、と言った。複雑そうな色の浮かんだ顔でためらった後、こほん、と咳払いをして彼は口を開いた。

「本来ならアンタとはもっと穏便に接触するつもりだったんだが……順序は逆になったし、重ねてのことにはなるが––こいつらから聞いた話を、おれは受けてほしいと思ってるんだ。『六梯席』が1人、ビヴロスト・ヨルムンガンド、アンタに。時間はあるか」

「それについて今やるべきではないわ。私、彼らが来るまで海侠のジンベエと楽しくご飯をしてたの。ついでに言うと彼はもうすぐ帰ってくると思うから、私とお喋りがしたいのなら日を改めなさいな」

 

鞄から出したメモ帳に電伝虫の番号のひとつを書いて、ピッと指で弾くと青年は慌てた様子でそれをキャッチした。その後、彼の番号であろうものが書かれた紙を手渡される。

それから青年は4人の伸びた男たちを軽々と背負い、意識を取り戻しかけた男(魚人空手で殴ったやつ)には肩を貸し、最後にヨルムンガンドに礼を言ってから茜色のシャボンディを足速に去って行った。

そうして。

よろけながら、青年に肩を貸されて立ち上がった男の放った呻き声に、ヨルムンガンドはしばらくの間、固まることとなった。

 

「……すみませんサボさん……ご迷惑を…」

「いいさ、あの天竜人はそこまで怒ってなかったし、これからのコンタクトを断絶するようには見えなかったから。でもドラゴンさんには報告を入れるから、そこは覚悟してくれよな」

 

 

 

(サボ。–––––サボ?)

 

かちん、と体の深い部分で嫌な音がした。どこかで錆び付いていた何かが、軋むような。

誰がサボ?決まってる。ヨルムンガンドに喋りかけてきて、今しがた去って行った青年の名前だ。   

奇しくもそれは、10年前に死んだヨルムンガンドの義弟の名前とまったく同じ響きだった。

 

視界がちかちかと明滅した。

ただの同名だ、そこまで珍しくもない名前なのだし、という心の声を掻き消すように、だとしても、と反論する声が泡のように次々と浮かんでは消えていく。あの子も似たようなシルクハットを被っていたじゃないか。あんなの、どこでだって売ってる。あの子も同じようにクラバットを結んでいたじゃないか。そんなの、ただのスカーフの結び方に過ぎない。服の好みが似ている。そんなの、そんなの––––エトセトラ、エトセトラ。

 

久方ぶりに聞いた懐かしい響きに、あらゆる特徴をとんでもない陰謀論と結びつけようとしてくる思考を振り払うように、ヨルムンガンドは血の気の失せた顔で頭を2度、3度、ふるふると小刻みに振った。

別人だ。ただ、死んだ義弟と同じ名前だというだけ。

冷や汗がとめどなく脇を伝う感触がひどく不愉快だった。不自然に固まったヨルムンガンドを一度だけ振り返った後、遠ざかる青年を追いかけて尋ねなければ、と思うのに足が地面に根を張ったようにぴくりとも動かず、結局ジンベエが戻ってくるまでヨルムンガンドはまんじりともしないまま、青い顔で固まったままになっていた。

 

(…ば、かばかしい……あの青年が本物のサボなら、私のことを分からないはずがないのに)

 

夢だったのだろうか。何か似たような名前を聞き間違えたとか。

あるいは、あの日のことが悪夢だったのか。サボの乗った船が天竜人に沈められて、ヨルムンガンドがジャルマック聖を半殺しにして、壁に飛んでいた血飛沫のことだとか、末弟のルフィが泣きじゃくっていたこととか、10年前のあの思い出のすべてが夢だったのか。

 

傾き始めた太陽に照らされて、地面に落る自分の影は妙に長い。べたついたシャボンディの空気の中、ぐらりと平衡感覚が狂っていくような感覚が、ひたすらに気持ち悪かった。

 

 

 

 

 

 

 

–––ビヴロスト・ヨルムンガンド。

五老星直属諮問機関『六梯席』所属。

4/10生まれの26歳。牡羊座。

現在の懸賞金額、1000万ベリー。

身長170センチ、体重56キロで利き腕は右。

好きな食べ物は微妙な味のドリンク、嫌いな食べ物は脂っこいもの。

特技は速読と権力争い、趣味は高所からの落下。

家族構成、両親ともに19年前に死去。三親等以内の血縁関係なし。

 

 

 

–––追記。

脱走の最長期間は東の海(イーストブルー)で過ごした約7年。その間に義弟が3人できている。





ヨルガンドさん
弟全員反政府という事実が発覚した女。今は半信半疑。この後エースに連絡入れようとしたけど、追跡中なので連絡つかなくてバチギレした。「鑓水」はオリジナルの空手技。というかジンベエの「槍波」の劣化バージョン。ガープの伝手でダダンさんちにしばらく住んでた。義弟たちと結構年が離れてる。

六梯席
五老星直属の諮問機関。他の目的としては「世界会議の効率的な運営」を掲げており、自分達の担当する国からの相談事や問題点、相応しい天上金の額などをあらかじめ調査して報告しているため、各国の王ともそれなりに仲が良い。ヨルムンガンドみたいに個人でやっているやつもいれば、部下に全部丸投げしてるやつもいる。ただし、世界会議での発言権そのものは、一般天竜人と変わらない。

ジンベエ親分
ご飯食べに行ってた。食べるのが遅いヨルムンガンドに、出会った当初はイラついてたけど今は慣れた。親分が煙管使ってるの、めっちゃ好き。

襲撃者たち
身内に天竜人に連れてかれた人がいるかもしれない。下っ端だけど、正義感に駆られて行動したら不良天竜人にボコられた。

サボくん
まさかの関係。こっちは「なんか見たことあるな……」くらいで終わってしまった。大体ヨルムンガンドのグラサン・タバコ・ピアスというチンピラ欲張りセットのせい。6歳差の姉弟。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

聖なる竜殺し
1.欠けたる竜の仔


過去編そのいち。まずはヨルムンガンドのパパとママ、そして竜血五箇条についてのこと。


 

『天竜人の血統保護に関する五箇条」

 

第一条

天竜人と非天竜人の間において、婚姻及び子を設けることを認める。

 

第二条

天竜人と非天竜人の間に生まれた子の親権は天竜人である親に一任される。またその子を嫡出子として認め、天竜人として扱う旨の申請についても同様である。

 

第三条

天竜人である親が、非天竜人との間に設けた子に対して天竜人として扱う申請を出した場合、その子は天竜人としての全ての権限を使用することが可能である。しかし、天竜人である親が申請を取り下げた場合はその限りではない。

 

第四条

天竜人として扱う申請を出すことは義務ではない。また、天竜人と非天竜人の間に生まれた子が申請を出されなかった場合においては、血統保護のためマリージョアから出ることは許可されない。

 

第五条

天竜人と非天竜人の間に生まれた子同士では、申請が出されているか否かに関わらず結婚が許可されない。また、非天竜人との婚姻及び子を設けることも許可されない。

 

 

『……嘆かわしい。天翔ける竜の血は下々民の血が混じったところでその高貴さを濁らせることはないが、何物とも混ざらぬ純血を守り抜いてきた歴史を我らの代で絶つことになろうとは……父祖の誰一人予想しえなかっただろう。一体何と言って創造主たる王たちに詫びればよいのだ?』

 

–––「天竜人の血統保護に関する五箇条」の可決に対して1人の天竜人のコメントより抜粋–––

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

––––父の部屋には、扉がなかった。そのことに気付いたのは、いつだったのだろう。

 

 

 

聖地マリージョア。創造主の末裔たちが暮らす、選ばれし地。

赤い土の大陸の文字通り頂点に位置し、只人では入ることは疎か近づくことすら許されない場所である。入り口に存在するパンゲア城までは七武海や世界会議に列席する王族などの限られた人間が足を踏み入れることが許されるが、その奥、天竜門を超えた先には海軍すら立ち入り不可能の神聖なる「神の地」が広がっていた。

 

「神の地」は見渡すかぎりに、当代の建築技術の粋が詰め込まれた絶景である。大陸の頂上に築かれたマリージョアは、それゆえ太陽に近く、照らす光もまた地上よりずっと強く眩しいものとなる。その熱に考慮して聖地の邸宅の壁の殆どは白い大理石で作られていた。かつては19の王国の創始者が移り住んでいたがゆえ、異なった建築様式の宮殿が19個存在していたと伝わっているが、それももはや昔の話。血統の細分化に従って宮殿の集まりだったマリージョアは、壮麗な邸宅の立ち並ぶ都市へと変貌を遂げていた。

 

磨き抜かれた色とりどりの屋根瓦は、白っぽい朝の光に照らされて漂白されたように褪せていた。住まう天竜人の好みによってカスタムされた屋敷の群れは、さながら時間ごとに色を変える雲のようである。神が手ずから雲を捏ねて形作ったような幻想的な光景には、早朝のぼやけた陽光によって淡い虹のような光沢が掛かって見え、人の手によるものとは思い難いほどだった。滑らかで、太陽の恩恵を跳ね返して輝く、天上の王国。濁りなく、曇りのない雲で作られたようなその街並みの中で、中心部にある邸宅の一面のガラス窓から、男が1人家々の屋根をぼうっとした様子で眺めていた。

 

 

痩せた、初老の男である。白髪の混じり始めた長い黒髪をひとつに結んでおり、簡素だが清潔そうなシャツとスラックスに身を包んでいた。聡明そうな飴色の瞳が印象的な顔立ちには、昔はさぞかし美形だっただろうと伺える端正さが老年に差し掛かった今でも残っている。若々しくもなく、華やかな雰囲気は微塵もなかったが、しんと枯れた佇まいには見るものを落ち着かせるような静けさがあった。

 

男の視線の先を辿れば、屋根から吊り下がって瓦を拭く人間の姿があった。奴隷である。もっとも、ここ聖地マリージョアに住まう人間には2種類しかいない。天竜人か、奴隷か。そして天竜人が屋根拭きなどするはずもないので、答えは初めから決まっているのだが。

 

 

男の居る部屋は、壁一面に本と書類、標本や剥製の入ったケースやはたまた魚拓のようなものなど、全般に学術関係のもので埋まっており、ひどく生活の色が薄い。それらしいものなど、隅に置かれたベッドと、真ん中に位置するテーブルと椅子程度しかない。奇妙なことにテーブルは明らかに2人用なのに、椅子は一脚しか置かれていなかった。が、多分それは長年の習慣なのだろう、絨毯には椅子一つ分の凹みしかなかった。

 

男はしばらくの間、備え付けの家具のように一面のガラス窓の前でじっと動かなかったが、微かに聞こえてきたバタン、パタパタパタという物音に、ふっと顔を上げる。それからおもむろにカーテンを閉めると、電灯のスイッチを付けて、ゆっくりとした動作で彼は部屋の入り口を振り返った。

やはり、窓の向こうを眺めているときと変わらぬ静謐な表情だったが、部屋の光源が燦々と輝く陽光から電灯へと変わったせいか、どこかその顔は頑なで無機質なものにも見える。男がカーテンを閉めてから少しして、物音の主は勢いよく現れた。

 

「パパっ、おはよう!」

「はい。おはようございます–––––ヨルムンガンド宮。う、ぐぐぐ…本日もお元気で何よりでございますね」

 

男は部屋に凄い勢いで走ってきた少女の姿を見るや、跪いてきちんと両手を揃え、頭を床につけようとした–––のだがちょっと間に合わず、ネグリジェを纏った弾丸は中途半端な姿勢の男に飛びついたので、男はあわてて抱き止めた。寝起き特有の暖かい体温が、ずっしりとした重さを伴って男にのしかかってきた。甘い、ミルクのような匂いが鼻腔をくすぐる。

まだ子供とはいえ、じき7歳を迎える大きさの人間に飛びつかれた首はぐき、と嫌な音を立てたが、男は呻き声をなんとか飲み下すと体勢を立て直して少女を床に立たせてやった。

 

ぽんぽんと背を叩いてやると、大人しく離れた少女は床に膝をついている男に顔全体でにぱ、と笑いかけた。

「いやだ、パパったら。毎朝毎朝そんなに大げさな挨拶、しなくったっていいのに。ほらほら立って立って!」

ぐい、と少女は無遠慮に男の首を飾る硬い首輪を小さな手で掴むと、立ち上がるよう促し、男はその動作に従ってのろのろと立ち上がった。

 

見下ろした少女の顔は、恐ろしいほど男とそっくりだった。ウェーブした黒髪、ぱっちりとした二重の吊り目、目鼻立ちの配置や顔の輪郭まで写し取ったように似ていて、両者が同じ年、同じ性別であったら殆ど見分けはつかなかっただろう。ヨルムンガンド宮、と呼ばれた少女はそれほど父譲りの顔立ちだった。唯一似ていない、淡い灰色の瞳がきらきらと男を見上げて弓なりに細まった。

 

「そうは仰いましても……貴女さまは私の主君でいらっしゃるのですから。それに応じた挨拶をすべきでしょう」

「違うわ!シュクンじゃなくて、わたしはパパの娘なんだから!そんな大げさなことされたら、まるで家族じゃないみたいだわ。そうでしょ?」

男は困ったような顔で曖昧に、静かに微笑んだ。

「……ふふ。ではヨルムンガンド宮、貴女さまは私にどのような挨拶をお望みなのでしょうか?ぜひお聞かせくださいませ」

「?そうね……うーんと、まずパパに挨拶してほしいんじゃなくて……うん!わたし、パパが寝てるベッドに飛び乗って『おはよう』のキスがしたいの!わかる?わかるかしらこれ?」

 

寝起きでくしゃくしゃ頭の『娘』は、ぴょんとベッドに乗るとマットレスをぺちぺち叩いた。

ヨルムンガンド、と呼ばれた少女は父親の寝顔を見たことがない。生まれてこの方、どんなに早起きして父の部屋に飛んでいったとしても、変わらない穏やかな顔で書籍をめくっているか、窓の外を覗いているかのどちらかで、ヨルムンガンドに気づくと必ず跪いて朝の挨拶をする。それどころか歯磨きや顔を洗ったり、髪を梳かしているところすら一度も見たことがなかったので、少女は父はそういう必要がない人間なのか?と時々思ったりもした。もちろん、そうでないことは十分知っているのだけど。

 

6歳のビヴロスト・ヨルムンガンドは、自分にそっくりなこの父親が大好きだった。父の顔が自分に似ていることがまず嬉しかったし、何を聞いても答えてくれる博識なところであるとか、背の高いところだとか、抱き付くとひどく落ち着くにおいがするところだとか、穏やかな話口調だとか、その他にも数えられないほど好きな部分を持つ人だ。

 

「それはまた、何とも……」

「…子供っぽいかしら?」

「いいえ。たいそうお可愛らしいことです。また外の絵本から思いつかれたのですか?」

「うん。お母さまに買っていただいたの」

「さようでしたか。私は年のせいかどうにも眠りが浅い身ゆえ、ヨルムンガンド宮が起きる時間まで寝ていられるかは分かりませんが……これから肝に銘じておきましょう」

 

ヨルムンガンドはベッドから下りて窓に近づくと、父親が先程閉めたカーテンを開いた。シャ、とカーテンレールを滑る音と共に陽光が部屋の中を満たした。埃の粒に乱反射する、朝の清い光が部屋を洗い流していく。窓を背にしたヨルムンガンドの輪郭はきらきらとした逆光に縁取られて、白く光っていた。男が望んだことなど一度もないのに、年々顔つきが似てくる少女は、カーテンを体に巻き付けて何がおかしいのかけらけらと笑っている。

 

日焼けした真紅のカーテンに混じる、白い絹のネグリジェ。裾から覗く小さな足には、桜貝のように整えられた爪がちんまりと載っている。ヨルムンガンドが無邪気に踊るような足取りでカーテンと遊ぶ仕草に合わせて、差し込む光がするするとその形を変え、幼子を、傷ひとつない足を、書物に溢れた生活臭のない部屋を照らし出した。

どうしてか、その光景がひどく虚しくて男は目をすがめた。

 

「……ヨルムンガンド宮、あまり日光に当てますと書籍が傷みますので…」

「はあい、パパ」

 

素直に従ったヨルムンガンドだったが、カーテンに絡まって何やら出にくいらしい。複雑な形になったカーテンを解いて、うごうごしている少女を猫の子よろしく持ち上げたところで、灰白色の丸っこい瞳を飾る瞼がひくり、と震えた。男がその視線の先を追うよりも少し早く、背後から笑みの混じった声がかけられた。

 

「–––うふふ。おはようヨルムンガンド、それにロプトも。可愛い子、貴女ったらまた歯磨きや顔を洗う前にロプトの部屋に来てたのね?いけないわ、女の子ともあろうものがそのようなことをしては」

「…あ、ごめんなさいお母さま。それとおはようございます」

「分かってくれればいいのよヨルムンガンド。今日もいいお天気ね」

 

声の主を目にして、ヨルムンガンドは自分を持ち上げていた父の腕からするり、と抜け出した。

いつの間にやら部屋の戸口に立っていたのは、妙齢の女だった。年はロプトと呼ばれた男より、一回りかもう少し下だろうか。赤みの強い茶の巻き毛をゆるく結い上げており、至って地味な顔立ちの中、やや厚ぼったいの瞼に埋もれるようにして、ヨルムンガンドと同じ淡い灰色の目が光っていた。肥満と言うほどでもないが、手の甲や頬にぷくぷくとした肉がついているせいか、ふっくらとして見える。

 

その姿を目にした男はのろのろと、右足を僅かに引き摺りながら這って女の足元まで近づいた。白髪の入り混じったつむじを見下ろす、女の視線を受けて項垂れるように髪が一房、結い紐から女のスリッパにこぼれ落ちる。

「どうぞ。立っていいわ、愛しい貴方」

甘やかな声でつむがれた許しに、ロプトは絨毯から両手を離して立ち上がり、慣れた仕草でその体躯を緩く抱き締めた。肉付きの柔らかな女の輪郭に触れるとき、男の体から震えが消えたことはかつて一度もない。

「ありがとうございます愛しい方、麗しきアングレア様……今日も貴女の尊顔を拝せることを心より嬉しく思います」

すり、と猫の顎をくすぐるような仕草で、首輪を白い指が滑った。

「まあ。素敵な挨拶をありがとうロプト、私もよ」

 

ヨルムンガンドは抱き合う両親から視線を外していたので定かには分からなかったが、父の細い足が少し屈むために曲がったことと、微かなリップ音が聞こえたので多分、朝の挨拶にキスをしたのだろう、と確信していた。

「……お母さま、わたし顔洗ってくるわ」

2人の側を通り過ぎざま掛けた言葉に、返事はなかった。恐らくはヨルムンガンドの台詞と2人の『挨拶』が重なっていたのか。

パタパタと、急ぎ足で階段を上がって洗面所に急ぐ。

別にあの場にいたって、怒られることは何もない。けれど、あまり見たいものでもなかった。

 

ヨルムンガンドは6歳だけど、見ないふりをした方がいいものがこの家の中にも外にも、多くあることを知っている。

例えば、昨日近所に住むチャルロスが壊したけど、シャルリアのせいにしていた花瓶。

例えば、一昨日マリージョアから運び出されていった、大きくて腐った匂いのするシーツに包まれていた何か。

例えば、父の右足首を横切るような古傷。

例えば、父の左手薬指の不在。

 

–––例えば、父が母を抱き締めるとき、小指の後ろ側が引き攣るようにピン、と強張ること。

 

それらは自分の視界の真ん中で捉えないほうがいいことを、誰に教わらずともヨルムンガンドは悟っていた。わけもなく、心のどこかを引っかかれるように微かな不快感をもたらす何か。そういうものは、年々増えていく。ヨルムンガンドの背が伸びるたびに、顔が父親に似ていくたびに、斜面を転がる雪玉のようにどんどん膨れて、その数を増していく。その数を数えることからも、ヨルムンガンドはずっと目を背けていた。

 

 

マリージョアに住まう人間には、2種類の区別がある。

天竜人。そうでなければ奴隷。

ビヴロスト・アングレアは前者で、ロプトは後者。

その間に生まれたビヴロスト・ヨルムンガンドは前者に区別されている。母親の愛情が尽きていない間は、という注釈付きではあるけれど、6歳の少女はまだその肩書きを許されている。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

聖地マリージョアに、というか天竜人に法律が施行されることは基本的にない。何故なら、法を超越する絶対権力者が彼らであるからだ。彼らを縛り裁く法は存在せず、彼らの意志はあらゆるものより優先される。

その唯一に等しい例外が「天竜人の血統保護に関する五箇条」、略して竜血五箇条だった。これは権力を縛る方法ではなく、むしろ天竜人の範囲を限定的に広げるものではあるのだが。

 

800年。世界を作った20人の王のうち、アラバスタ王を除く19人の王が家族を連れてマリージョアに移り住んだ時からの歳月は、既に伝説を超え、風化の向こうにあるほどの長さを誇っていた。その間に、隔絶された聖地に住まう人々は互いに婚姻を結び続け、住人の全てが血族となるほどまでその交わりを濃く、確かなものとしていた。現在に至るまでもその伝統は脈々と受け継がれ、大体3代か4代まで遡れば、マリージョアに住むあらゆる天竜人との関係性を説明できることだろう。天竜人の家には必ずある一枚の系譜図がその証左である。

 

そうやって聖なる血を煮詰めてゆく伝統はしかし、明確な弊害を生んだ。時代が下るごとに増え続ける虚弱体質、白痴、生来の肉体的欠損、知的障害、未熟児、あるいはそれ以前の流産。既に今から数えて100年前には問題として五老星たちの俎上に上がっていたという。

分かりきったことである。19人の王とその家族が移り住んだとして、親族同士では結婚できないため、元より組み合わせには限りがある。その組み合わせの限界は長い歳月の間に使い尽くされて、マリージョアに住む天竜人たちの全ては親族となった。こうなると、だいたい従兄弟や再従兄弟同士、運が良ければもうちょっと遠い親戚との近親結婚となる。それが続けば近すぎる血によって生まれる子供とその健康が蝕まれるのも、当然の結果だった。

人間は多様な遺伝子の組み合わせによって、繁栄する確率を高める生き物だ。それを阻む近親婚は、生物的に向かないどころか害なのである。

 

 

天竜人たちは困った。高貴なる自分達の子供は健全で、五体満足でなければならないし、下界の血など入れたくはない。しかし、今のような親族結婚を続けていけば、健康な子供が得られる確率は減っていくという。まともな教育を受けない彼らなりに悩み、生まれてくる青白い顔をした子供を見ては泣き、虚弱な子供を死なせたと喚いて医師の屍が山と積み上がったところで、とうとう五老星たちは限界を悟った。

–––このまま続ければ、いずれ天竜人は滅ぶ。

 

それをなんとか解決するべく、打ち出されたのが『竜血五箇条』だった。施行されたのは、ヨルムンガンドが生まれるおよそ65年ほど前。天竜人と天竜人でないものが婚姻関係を結ぶことは一応以前から許可されていたのだが、新たにその間の子供を限定的に天竜人として認めることで何とか血脈を細々と広げよう、という目的が読み取れる。

いくつかの制限を持たせたにも関わらず、危機感のない天竜人からは大ブーイングと共に迎えられたこの法を持って、天竜人の濃くなりすぎた血の問題は多少進展を迎えることになっており、ビヴロスト・ヨルムンガンドもまた、その法の恩恵を受けて天竜人として生きる人間のうちの1人だった。

 

 

 

ざあ、と街並みを吹き抜けた風が、マリージョアの一角に作られた共同庭園の芝生に寝転ぶ、幼いヨルムンガンドの黒髪をさらさらと吹き上げた。

 

 

重たいハードカバーの本を、幼いヨルムンガンドは自分の頭の上にほとんど被せるような姿勢で掲げながら、ううんと一丁前に眉をしかめていた。

涼しい木陰にいるせいか、ツルツルピカピカのページの上を泳ぐ魚たちはなんとも陰気臭い。どんよりとして、生きていないみたいだ。それがなんとも不満で、寝転んだヨルムンガンドはつんつんと印刷されたヤリイカの写真を指でつついた。

やはり、一瞬ページに指紋が付いただけで、ヤリイカが動き出すことはない。

(パパが教えてくれる時は、泳いでるみたいなのに)

むう、とヨルムンガンドは穏やかな声で図鑑に載っている魚を指差して説明する父の姿を思い浮かべながら、白くまろい頬を膨らませた。

 

 

ヨルムンガンドの父、ロプトは海洋生物学者から母に見初められてマリージョアに連れられ、奴隷になったというちょっと変わった経歴の持ち主だった。母の溺愛ゆえに、父は奴隷となった今でも日常的な雑務をすることなく、与えられた部屋で本を読んだりヨルムンガンドに勉強を教えることが彼の暮らしの大半を占めており、一般的な奴隷、というイメージからはやや離れた生活を送っている。

 

名高い学術集団に属し、はるばる海を渡って様々な海域のフィールドワークに励んでいたロプトの教えてくれる話は、幼いヨルムンガンドに全て理解できた訳ではなかったけれど、それでも父の専門分野である海王類の起源や、それを育む青く広い海への興味を掻き立てるには充分だった。幼い子供が何かに興味を持ったときの行動は大抵大人の真似か質問攻めと相場が決まっていて、ヨルムンガンドもその例を免れてはいない。

こうして難しい顔で、大して内容を理解できない本を読んでいるフリをしているのも、大好きな父の真似事である。ヨルムンガンド少女は中々のパパっ子だった。

 

べらり、と傷ひとつない指がページをめくる。

次の項にはほとんど写真がなく、ぎっしりと文字が詰まっている中に父の筆らしき書き留めと、繊細なスケッチがいくつか描かれていた。

 

『オハラにて、ウェストナポレオンフィッシュの魚拓。貴重な資料だ。オハラの学者たちは世界や言語の歴史を本分とする印象を持っていたが、このように全く違う分野の遺物の保管も行っているとは。彼らの見識の深さには改めて感じ入る』

(パパ、絵上手いのよね…今度何か描いてもらおうかしら?)

 

不思議な形の骨格や、ひらひらとした襞の多いカサゴのような魚などざっくりとした線ながら、構成がきちんと分かるようになっている絵には華やかさことないが精密な美しさがある。どことなく描いた本人にも似ているような気がした。時間が経っているからか、かつては黒かったであろうインクの色も褪せたスケッチを、ヨルムンガンドはそっと撫ぜた。

 

その時にぴゅう、と庭園を吹き抜けた風がヨルムンガンドの前髪をくすぐるとともに何か小さなものを本の間から抜き取って、晴れた空に舞い上げてしまったので少女は慌てて立ち上がると、それを追いかけた。

失くしてもヨルムンガンドに優しいロプトは怒らないだろうが、父の本を持ち出してきた手前、欠けた状態で戻すのはなんとなくイヤだった。

 

 

–––ひらり。少女を揶揄うように、猫の鼻先を飛ぶ蝶のように、落ちそうで落ちないパピルス紙が風に遊んでいる。

 

ぱっと掴もうとした手がすり抜け、悔しさからちょっとムキになったヨルムンガンドがパタパタと花の咲き乱れる庭園を抜けて邸宅の間の道路まで全力でダッシュしたところで、手のひらより少し大きいくらいのそれは少女の目の前でぴたりと止まった。風は突然止まったりしないので、必然それ以外の理由によって。そのことに気づいたヨルムンガンドは急ブレーキにつんのめりそうになったのを、あわてて踏み留まる。

 

「………これ。お探しでしたか」

「あ、うん。そうなの、拾ってくれてありがとう……フェリクス」

 

少女の目的である小さな紙片を捕まえていたのは、ヨルムンガンドよりもう少し年上と見える少年だった。短い赤髪にくすんだターコイズの瞳のコントラストが映えていて、よれよれの服を着た体躯には布の上からでも分かるほど骨が浮いている。髪の生え際にぷつんとできた吹き出物も相まって、健康状態が良さそうには見えなかった。首元には奴隷の証である首輪が固く巻き付けられていた。

 

フェリクスと呼ばれた少年は、こちらに紙片を渡そうとしたのか近寄ろうと一歩踏み出し–––それから思い出したように、ぴたりと足を止めた。

奴隷は主人や目上の人間が呼ぶまで、動いてはならない。呼ばれれば駆けつける。第一の鉄則である。

ヨルムンガンドもそれを知っていたので、彼女の方から一歩近づくと少年は急いで跪いて紙片を恭しく掲げ、彼女がそれを受け取るとフェリクスは暗い目で少女を見上げた。

しん、と音のないターコイズの中で、ぐらぐらと小さな何かが煮えたぎっている。

「……あっ、えっと立って大丈夫!パパの大事な本のメモだったから、取ってくれて助かったわ!ありがとうね」

「……ああ」

「…あの、フェリクス、私はええと」

「……すみませんが、用があるので…」

 

少年は物言いたげに口を動かしたが、結局気まずそうに雑な返事をすると立ち上がって周りを見回し、それからパッと背を向けて走り去って言った。気の短い天竜人であれば、一発銃を撃っていてもおかしくないほど杜撰な対応ではあったが、ヨルムンガンドはそれを咎めるような気持ちにはとてもなれず、あっという間に遠ざかる後ろ姿をぼんやり見送った。

 

 

(……フェリクス、昔はあんなに足が速い子じゃなかったのに…)

ヨルムンガンドは胸内で呟いた。何せあの少年はかつて走る必要すらない身分だったのだから、当然だとも言えるが。

 

 

『竜血五箇条』は天竜人と非天竜人の間に生まれた混血児を、天竜人として認める法ではあるが、それには『親である天竜人がそれを望み、子供を天竜人として認める申請を出せば』という冠詞がつく。逆に言えば、親の天竜人が申請を出さなければ、子供はただの奴隷である。

ぶっちゃけ今のご時世、きちんと申請を出すのは母親が天竜人の場合がほとんどで、父親が天竜人の場合は申請など出す方が稀だった。お腹を痛めて産んだかどうかという違いは、如実に子供の身分差となって現れている。

 

しかも混血児は天竜人の血を引いているため、申請がない場合はマリージョアから一生出ること叶わず、万が一の事態に備えての『繁殖用』という意味も含むため、時にその過酷さは普通の奴隷を上回ることすらあった。普通の奴隷であれば、主人が飽きればマリージョアから出られるという低確率の賭けもできようものだが、混血児にはその万が一すらない。

 

 

そして、混血児にとって『竜血五箇条』の最悪な部分は天竜人としての申請が完全に親次第であり––––成人するまでは一度通った申請を親が取り消すことが可能、という点だった。理屈としては、混血である子供が天竜人として相応しくないかどうかを天竜人の親が決めるのだ、など嘯いているが、どうあれ子供にとっては悪夢のごとき屁理屈である。

申請が出され、かつては海軍大将すら顎で使える身分から、親の匙加減で跪く側の奴隷に。気分次第で天から地の底まで蹴落とされるがごとき無法は、ここマリージョアで当然のように罷り通っていた。先ほどヨルムンガンドから逃げ去っていった少年、フェリクスがそうであるように。

 

 

「……帰ろ」

ヨルムンガンドは、フェリクスから手渡されたパピルス紙のメモをきゅっと握ると、とぼとぼとビヴロスト家に向かって歩き出した。

どうにも、先ほど自分を下から見上げていた少年の、昏いターコイズの視線が眼裏に焼き付いて離れてくれなかった。ヨルムンガンドは、かつて、あの瞳がきらきらと輝いて奴隷に乗っかっていた時分をよく知っている。

 

彼の父親は、彼の母親をたいそう可愛がっていて、両親の容貌の良いところを掛け合わせたようなフェリクスは生まれてすぐに天竜人として申請を出され、舐めるように甘やかされていたものだ。それが覆ったのは、彼の母親が逃亡を図り、首輪が爆発して死を迎えたからだと聞く。つい1年半ほど前に起きたその事件をきっかけに、赤毛の可愛らしかった少年は申請を取り消されてチップが失われ、天竜人から一転して奴隷へと身を落としていた。

 

そして、あの少年の落ちぶれた姿にヨルムンガンドが気まずさを覚えていたのは、何も知己の少年の転落ぶりが悲しかったからだけではない。フェリクスに起こりうることは、ヨルムンガンドにも起こりうることなのだ。

 

いつか、ヨルムンガンドが成人するまでに母の愛情が枯渇する日が来たら。ヨルムンガンドや父のことが好きでなくなったら。そういう日が来れば、彼女もまた同じことだ。かつては遊び相手だったフェリクスがヨルムンガンドに跪いたように、自分は母に跪けるのだろうか。あんな風に、怯えた目で。

 

ヨルムンガンドはぼんやりそんなことを思って、マリージョアの空を眺めた。下界よりずっと、天に近い場所であるはずなのに、解放感はあまりない。そんな錯覚を覚えるのは、この場所がそう自由でないことを知っているからなのか、あるいは住む人間たちが堕落しているからなのか。

 

見上げた空の端には、雨雲のような暗い色をした雲が集まり始めており、少し前までは鮮やかな青だった天蓋は薄墨を垂らしたようにじわりと滲みだしていた。その色は、先ほど拾ってもらった紙片にスケッチされていた「世界蛇」の体の濃紺を、うんと薄めれば似ているだろうか。

 

『魚人島、古書店にて古代の世界蛇の全体想像図。伝承ではあるが、一考の余地のあるものだ。あの美しく雄大で謎めいた生き物の起源を探る上では、あらゆる情報は宝に等しい。私は知りたいのだ、あの巨大な生き物はどのようにして世界を感知し、大きな害を起こすことなく今まで生きてきたのだろう?何故あれほど巨大な海王類は、普通の大きさの海王類を従えていないのだろう?いつかこの謎が解明される日はくるのだろうか』

 

–––じきに、雨になるだろう。ヨルムンガンドは鼻を鳴らす。吸い込んだ空気には、遠くからやってくる土の匂いが混じっていた。





ヨルムンガンド
まだ黒髪の純粋ロリだけど、家のカーストをきっちり理解してるので、「お母さま」と「パパ」と呼び分けている。自分ちがにちゃ…としてることには何となく気づいてる。

ロプト
パパ。元海洋生物学者だったのが、偶然ママに一目惚れされて奴隷として連れてこられた。比較的好待遇な方だが、奴隷は奴隷。娘への感情は正直謎。顔が死ぬほど似てる。

アングレア
ママ。この頃のヨルムンガンドは恐れながらも好きだけど、じきにそんなぬるいことは言えなくなる。

フェリクスくん
可哀想。

竜血五箇条
カス法律。こんなに抜け道いっぱいあるのは、この程度でも導入反対する奴がいたから。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2.人と竜とを分かつもの

ビヴロスト家の日常パート2。めちゃくちゃ短い。言っておきますが、ママはあんまり痛い目には遭いません。


 

 

ビヴロスト・ヨルムンガンドは飲み下さなければならない。

 

 

 

 

 

 

何の変哲もないスケッチブックは、父の手にかかれば美しく広い海や、暗い月の夜や、美しい朝の川辺や、何にだってなることができた。さらさらと一切の淀みなく泳ぐ鉛筆たちは、青、紫、緑、黄色、黒、赤とたびたび持ち替えられながら、一つの風景を精密に写し取って、編み上げ紡いでいる。カーテンの隙間から差し込む細い光の下、父の節くれだった大きな手は、まるでどこにどの色を置くのが正解なのか分かっているかのように迷わず進んでおり、描き始めたときは真っ白だったページも、8割方完成に近い。

 

「パパ、ほんとに上手ね………」

 

呆気に取られて、ぽかんと空いたヨルムンガンドの口からは、そんな気の抜けた感嘆が漏れ出た。少女の言葉に、目を上げたロプトはありがとうございます、と薄くはにかむ。

時刻はもうすぐ正午。ロプトとヨルムンガンドの2人は、地下にあるロプトの部屋にて少女が唐突に言い出した『お絵描き』の真っ最中だった。

 

「お褒めにあずかり光栄です、ヨルムンガンド宮。そんなにお気に召しましたか」

「うん!ね、ね、パパ今度絵の具でも描いてくれない?色鉛筆でもすてきだけど、絵の具を使ったらきっともっとキレイだと思うわ」

「絵の具…と申しますと、水彩や油彩ですか?」

「そう、スイサイのほうならわたし持ってるし!」

 

床に座っているロプトがふむ、と少しばかり考え込んでいるそのつむじを、ヨルムンガンドは椅子の上からじっと見下ろした。ヨルムンガンドは父のかなり晩年の子供であるため、ロプトは年相応に頭髪にはかなりの白髪が混じっている。以前は母であるアングレアが毛染めにハマっていた時期があったため白髪など殆どなかったのだが、その熱が冷めた今は、髪全体における白の割合は日毎に増える一方だった。

 

毛先の方はまだ黒いが、遡るにつれて白の純度が高くなっている父の髪が、ヨルムンガンドは意外と好きだったりする。雪の降りた地面を引っ掻いたみたいで、とても綺麗だと思う。

 

「しかしですね、畏れながらヨルムンガンド宮。私は絵を描くこと自体にはそれなりに経験があっても、絵の具を使ったことがあまりないのです。ああいうものはやはり練習がものを言いますから……描けたとしても鉛筆よりずっとひどい出来になると思いますよ」

「こんなに絵がうまいパパでも?」

「ええ。ヨルムンガンド宮もクレヨンで絵を描くときと、鉛筆で描くときではやはり違うでしょう。上手く描こうと思えば練習は必須かと」

「ふうん………」

 

ヨルムンガンドは手元の自分の描いた絵を見下ろして、ちょっぴり口を尖らせた。輪郭も何もなく、黒色や肌色のぐるぐるとした線の集まりや歪んだ線のみで描かれた、年齢相応に下手な絵である。画用紙に家族3人を並べて描いたそれは、なんというか、自分ではうまく描けたつもりだったのだけれど、ロプトのそれを見てしまうと途端にただの乱雑な筆跡程度にしか見えなかった。

 

「いいなあパパ…わたしも絵が上手くなりたい」

少女の本心から出た嘆きに、ロプトは少し腰を浮かせてヨルムンガンドの絵を覗き込むと、微かに笑みを浮かべた。

その視線にヨルムンガンドが慌てて絵を隠すと、父は色鉛筆をまた持ち替えながら柔らかな声で諭すように言った。

 

「ヨルムンガンド宮は十分お上手な部類です。私が貴女さまと同い年の頃はもっと下手…というか描くことすら知りませんでしたよ」

「えっ!?そうなの?てっきりわたし、パパは生まれたときから絵が上手なのかと思ってたのに」

「…ふふ、まさか。私の幼い頃は貧しかったので、高級な鉛筆も画用紙も、ましてや絵の具など身の回りにありませんでしたから…単純に描く機会がなかったのですよ。初めて絵を描いたのは、もっと大人になってからでした」

 

鉛筆や紙の値段を知らないヨルムンガンドは曖昧に頷いた。

ビヴロスト・ヨルムンガンドにとって父は、万能に近しい人である。絵も描ければ文字も綺麗だし、難しい本も読めれば作る機会は少ないが料理の腕も確か。手先を使うことで、苦手な分野を探す方が難しいくらいだ。そんなロプトは、ほんの小さい時から今と同じくらいに何もかもに優れた人物だとばかり考えていたのだが、どうも違うらしい。

 

「じゃ、パパが初めて絵を描いたのはいつ?」

「ふむ。ええとそうですね、17くらいでしょうか。その頃に運良く海洋生物に関する勉強をする為の学校に通うようになって、標本のスケッチを描いたのが恐らく初めてかと……しかしもう遥か昔のことですから、記憶もずいぶん曖昧で…」

 

ロプトはちょっと視線を上げて、ふと遠くを見るような目になった。

老境に差し掛かった男の瞳がゆるく伏せられて、その色は淡い。ヨルムンガンドと瓜二つの面立ちの中で、唯一似なかった黒の眼差しは、ひどく透明に在りし日を思い起こしているようだった。

2度と叶わぬ夢を見ている、ような。

なんだかその透き通った墨色に決まりが悪くなって、ヨルムンガンドはもじもじした。

 

「…そ、そうなの。それにしてもパパ、また同じもの描いてるのね。飽きたりしない?」

ちびっちゃい指が指す先は、ほとんど完成しかけのスケッチブックだった。白い画用紙の中には、暗い嵐の海が描かれている。どんよりと落ちてきそうなほど濁った空の下、荒れ狂う高波や渦巻く水面の一様に底の見えない黒混じりの青や緑などが、実物をそっくり写し取ったかのごとき迫力で紡ぎ出されている。見るものの顔に当たる風雨の感触や、潮の匂い、遠くで鳴る雷の音まで聞こえてきそうな絵は、色鉛筆で描いたとは思い難いほどの写実的だった。

 

そして、荒れる海を割るようにして、絵の中央には鮮やかなコバルトブルーが使われていた。端っこに描かれた島をゆうに越すような巨大な青は、よく見れば楕円のような形を取っていることが分かるが、言われなければそれが鱗だと気づくものは少ないだろう。事実、少女も父に教えられるまでは海と共にいつも描かれる青の正体が「1匹の巨大な蛇」であることなど思いつきもしなかった。

 

「いいえ?ちっとも、飽きることなどありません。むしろ描くたび、絵が完成するたび、『ああ、この絵でも世界蛇の美しさを表現しきることが出来なかった』と己にがっかりするくらいです」

「へえ……パパこのおっきい蛇、ほんとに好きね」

「よく言われます」

 

父は元々海王類、その中でも特に世界蛇について研究していた学者である。母に見初められて奴隷となり、もはや研究から離れて久しい今でも、かつての研究対象への憧れや深い愛情は変わりないらしく、こうやって一緒にお絵描きをしようとねだれば、描くものの内約半分は途方もなく巨大な海王類の姿だった。

深い海の中、水面から差し込む日差しを受けて蛇がひかる絵。

世界蛇の体の周りに、小さな魚や鮫などが纏わりついている風景。

蛇の起こした高波が、街に流れ込む瞬間を切り取った絵。

 

ロプトは言葉通りまるで飽きることなく同じモチーフを描き続けているため、与えられているスケッチブックはめくってもめくっても、大体同じものしかないので若干つまらなかったりする。

 

「次は他のものも描いてよ。…例えばわたしとか!どう?」

「おや、ヨルムンガンド宮を?…たいへん光栄ではありますが…貴女さまのお可愛らしさを表現するには、もしかすると私程度の腕では難しいやもしれませんね…」

「ええ〜そんなことないわよ!パパに描いてもらったらきっと他のどんな画家に描いてもらうより嬉しいし、可愛く思えるに違いないわ!」

 

苦笑いしたロプトに、椅子を降りたヨルムンガンドは猫のようにじゃれついた。ほっそりと痩せた、肉付きの薄い父は少女を体温の低い腕でやや危なげに抱き止めたが、ヨルムンガンドがどんなに言ったって、彼女の絵を描いてくれないことは経験上よく知っていた。もう少し小さい頃には床をごろごろ転げ回って喚いてはねだっていたこともあったが、その我が儘に父は困った顔で決まって最後に同じ質問を投げかけた。

 

『ヨルムンガンド宮、それは命令でしょうか?』と。

 

そうするとヨルムンガンドはきまりが悪くなって口を閉じるしかない。家族は命令などしない、ということはまだ幼い彼女にだって分かっているから。ヨルムンガンドがロプトを父と慕う限りは、命令したくないのだ。だってそれじゃあ、奴隷と主人みたいだし。

そうやって悩んでいるヨルムンガンドの幼い葛藤を、ロプトはちっとも分かってくれない。あるいはヨルムンガンドが黙ることを分かった上でわざわざ言っているのか。どちらにしても意地の悪い問いかけだ。

 

だからヨルムンガンドは、『自分を描いて欲しい』とは長々頼めなくなった。その問いかけが、父の唇から吐き出されるたびに、何か心の奥の柔らかい部分がちくり、と後ろめたくなってしまうから。

 

ヨルムンガンドは口を尖らせたまま、何も言わずに硬い首輪の巻かれた父の首に擦り寄った。間近で伺ったロプトの眼は、相変わらずに透き通った飴色をしている。ヨルムンガンドの灰白色よりまるで違う、古い本のページみたいな色。

底が見えないほど深く、しんと冷たい温度を湛えた膨大な水。スケッチブックに描かれた嵐の海みたいな、腹まで届くような海嘯とどろく、極寒の世界。その向こうで、鈍い光が揺れている。瞬きのたびに揺らめくそれが、ヨルムンガンドを捉えてふっと静かに消えた。

 

父と目が合う。ヨルムンガンドは彼と良く似た苦笑いを浮かべて、しらじらしく目を逸らした。

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

はい、あーん。

 

ヨルムンガンドは食事のたびに聞こえてくるその声には目もくれず、手元のチキンソテーを凝視しながら無心でフォークを動かした。

親子3人で使うには明らかに広い食堂の広いテーブルの上、置かれたチキンからは肉汁とオレンジの混じった匂いが鼻腔を刺激するのに、どうもヨルムンガンドには美味しそうに思えない。白いテーブルクロスと皿の上で、ソテーは何故か雪が降りたように青白く見えるのだ。

ぷつり、と。左手に持った銀のナイフから、肉が切り離される感触が伝わった。柔らかで、ほどよく滑らかな切れ端となった鶏肉を少女は半ば義務感で口に運ぶ。

 

とろけるような舌触りのあと、パリパリとした皮の風味とオレンジソースの酸味が融合した味わいをさほども楽しむこともないまま、ヨルムンガンドは3度噛んでそれから飲み下した。

べたり、と香味のある脂の余韻が歯の裏側に残っているのを洗い流すように、コップの水を喉に流し込む。

 

(ごはん、ひとりで食べたいなあ……)

ヨルムンガンドはこっそりとため息をついたが、そのほとんど消えかけた音に母がちらりとこちらを見遣ったので、慌てて咳払いをして誤魔化した。

「どうかしたの?ヨルムンガンド」

「あ、ううん。これはね、『すっごくおいしいなあ』のうっとり溜息よ、お母さま」

頬に手を当ててわざとらしく頬を緩ませてみると、アングレアは僅かに目元をくつろげて、うすい微笑みを浮かべた。

「あら。うっとり溜息だったのね?なら、いいわ」

 

くすりと笑った母は、もうひと匙手元のリゾットを掬って、それを床に膝立ちの状態で待機しているロプトの口に運んだ。

促されて開けた口、銀の匙が突っ込まれ、頭を下げて礼を言った父はそれをゆっくり嚥下した。筋張った喉が一度、ひくりと動く。

 

「どう?ロプト、もう少し食べる?」

「………いえ、たいへん美味しゅうございましたが、もう充分いただきました。アングレア様、あとはどうぞごゆっくり召し上がってくださいませ」

「そう…あ、でももう一口で完食だから食べちゃいましょう。ほら、あーん」

 

また小さく開いた口が一度閉じて、また開き、おずおずと匙に乗ったリゾットをゆっくり飲み込んだ。白い歯並びの向こう、僅かに見える口内はひどく暗い。

 

 

ヨルムンガンドの母、アングレアの父に対する愛情は6歳のヨルムンガンドから見ても過剰なほどだった。奴隷である父に手ずから食事を食べさせ、1人用の部屋や書物を好きなだけ買い与え、病気になればすぐに医者を呼ばせるなど、天竜人が奴隷に対する態度としては破格の一言に過ぎる。仲間内でも『結婚しているとはいえ、さすがに奴隷を甘やかしすぎでは?』と苦言を呈されている母を目にしたのは、一度や2度ではない。

 

奴隷を夫や妻として迎える天竜人はそれなりにいるし、竜血五箇条が導入されて以後は子供を天竜人として認定することもできるようになった現在ではあるが、こうも奴隷に愛情と手間ひまをかけて厚遇している天竜人はそう多くない。たいてい可愛がっても性的奴隷がほとんどで、身なりをロクに整えさせないどころか、『ニキビができた』の一言で殺されるというレベルの話なのだから、それと比べればアングレアの夫への対応は健全で慈悲深いと言っても良いだろう。

 

––––でも、それは。ロプトが人として扱われているかという話とはまた別なのだ。

 

この家には、ロプトのための椅子はない。父が座る場所はいつも、磨き上げられた大理石の上だから。

この家には、ロプトのための皿がない。彼が口にしてよいのは、アングレアが手ずから与えるもののみだから。

この家には、ロプトのための扉がない。彼の部屋は、閉ざすことを許されていない。

 

にこり、とアングレアの灰白色の瞳がヨルムンガンドを捉えた。

「ヨルムンガンド、貴女ロールキャベツ好きだったでしょう?一口あげるわ。ほら、口をあけて」

「………、はあい」

 

ヨルムンガンドは口をあけると、母が差し出したロールキャベツの切れ端をフォークから歯で抜き取って口の中に入れると、5回咀嚼した。簡単に噛み切れる程よく柔らかなキャベツと、それに絡んだ中の肉汁がとけあった風味が鼻を抜けて喉を潤した。

ごくん、と飲み下す。あまり美味しいとは感じなかったが、ヨルムンガンドは逆らうことなく飲み干さなければならない。

さもなければ胃の腑から迫り上がるような何かを、一片のシミもない白いテーブルクロスに吐き出してしまいそうだったから。

 

 




ヨルムンガンド(ロリの姿)
パパのことは好きだけど、ちょっと見下してもいる。大人になっても「あーん」ができない。

ロプトさん
人権侵害されてるパパ。正直もう50は超えてるので、絵面的にもきついものがある。

アングレアさん
人権侵害してるママ。別に美人ではないのに美人しか許されないことをしているので、絵面にきついものがある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3.握る手、撫ぜる骨

過去編日常パート、終わり。何気に海軍ネームドキャラで初邂逅なのは、ガープではなくてセンゴクさん。


 

––––つるり、と滑らかな質感。

撫ぜると丸いカーブが指に伝わってきて、ちょっと押すと人の体らしい柔らかさで凹む。軽くつまむと硬い骨が肉の奥にあるのが分かるけど、あんまり楽しいものでもないから、ヨルムンガンドはあまり真ん中を触らないようにしている。

 

何のことかと尋ねられれば、ロプトの左手薬指の断面のことだ。

少女の父の両手10本のうち、唯一欠けたそれは根本からさっぱりとその存在感を消しており、小さい頃には生まれつきの欠損なのかと思っていたがよくよく見れば抜糸の痕があるので、後天性のものらしい。

ロプトの利き手は右なので、左手の指が欠けた程度ではあまり生活に支障はないのか、特に困っているような場面に遭遇したこともなかった。

 

骨張っていて、鉛筆ダコがあって、でもごつごつとはしていない。枕元の小さなナイトランプの下、皮膚が薄いせいか骨や青い色をした血管が透けて見えそうな不健康さを備えた、深海魚のように神秘的な父の手がヨルムンガンドは好きだった。その一本が欠けていることだって、チャーミングポイントだと思えるくらい。

 

「–––こうしてお姫様と王子様はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。おしまい。…………あの、ヨルムンガンド宮。それくらいにして頂けますと幸いなのですが…ふふ、あのくすぐったくてですね…」

「ええー、もうちょっとくらい…」

 

時刻はもう夜。

お風呂と寝る前のお肌の手入れや歯磨きを終え、絹のネグリジェとナイトキャップ姿になったヨルムンガンドは読み聞かせをしてもらいに父の部屋を訪れていた。

ほこほこと上気した少女の頬は、健康的な明るい薔薇色を染まっており、同じ色をした指先も燃えるように暖かい。ちんまりとした温い指が己の欠けた指の断面を行ったり来たりするのを、ロプトはしばらくの間我慢していたが、だんだんと耐え難いくすぐったさになってきたのでやんわりと制止した。

 

ロプト自身寝る前だったので、光源はベッド脇のテーブルに乗せられたオレンジ色のランプのみ。青い闇で満ちた部屋の中、柔らかに眠気と暖かさを感じさせる、とろりとした光に照らされて、少女を膝に乗せる父の姿は絵画のようでもあった。ガラスの反射故か、濃さの異なるオレンジの楕円が何層かに分かれてヨルムンガンドの顔を飾っている。

 

「でもパパ、もうすぐしたら指生えてきちゃうんでしょう?だったら今のうちに堪能しとかないと!」

ロプトはちょっと微妙な顔をした。男性にしては長めのまつ毛がランプに照らされて、色濃い影を顔に落としている。

「…………ええ、それは確かにそうなのですが…」

 

 

妻であるアングレアから欠けた指を再生すると宣告されたのはついこの間のことだった。ロプトとしてはもう8年も前に失って以来、そこまで生活に支障が出るわけでもなく、思い出深いそれの喪失は悲しかったけれどもう戻らぬものだと諦めていたので、その申し出には仰天した。

第一に切断された指が廃棄されていた場面もうっすら覚えているので、どうやって再生するのだという疑問も残る。

 

妻の答えは簡潔だった。『悪魔の実』だと。近頃知り合いの天竜人が、手持ちの奴隷に回復系に特化したものを食べさせたらしい。

確かにあの摩訶不思議な、時に物理法則すら無視したような現象を引き起こす果実であれば、指の1本や2本生やせても何らおかしくはない。おかしくはないのだ。ロプトが困るというだけで。

彼は自分をうっとりと見つめる妻の顔を思い出して、胸内で重たい溜息をついた。

 

(…今になって、何故………)

 

かつて8年前にロプトから左手の薬指を奪うよう指示したのは、アングレア本人である。彼は鮮明にその時の、麻酔を掛けられていたとはいえ己の体から指がずれて、台に転がる感覚をよく覚えていた。本来あるべきものが自分から離れていく、違和感。つきんと鼻を刺す麻酔薬の匂い、神経が麻痺する鈍い不快、薄暗い部屋に溢れた血液の赤さ、幻肢痛に眠れなかった夜の深さ、どれもまだ生々しい苦痛だというのに。

失ったのだから、もうそのまま放っておいて欲しい。どのみち失われてしまった、長い時を共に過ごしたあの指は帰ってこないのに、今さらおもちゃのように指を生やされるのは不愉快だった。

 

その苦い記憶を知らぬとはいえ、無邪気にはしゃいでいるヨルムンガンドにロプトは心の奥底がじじ、と音を立てて燻るのをぼんやりと他人事のように眺めていた。父親の指で遊ぶ少女の頬の産毛が光を受けて、内側から淡いオレンジ色に光っている。それを手の甲で整えるようにしてそっと撫ぜると、ヨルムンガンドは弾かれたようにぱっと顔を上げた。あまり触れ合いを自分からはしてこないロプトの珍しい仕草に少女は驚き、それから嬉しそうにはにかんだ。

 

「なっ、何かしらパパ?いきなりどうしたの?」

「……ヨルムンガンド宮、実は折り合って頼みがあるのです。どうか聞いては頂けませんか」

「ええっと。内容にもよるのだけど…」

 

ヨルムンガンドは首を傾げた。ロプトが少女に対して、頼み事をしてくることは少ない。大抵母にお願いすればなんとかなるからだ。不思議に思いつつも先を促すと、父はゆるやかに笑みを浮かべた。

薄青い闇に満たされた部屋の中、父の顔には濃い影が不可思議な紋様を描いている。

 

「先ほど、ヨルムンガンド宮はこの指がもうすぐ生えると仰いましたね」

「?うん。お母さまが能力者の奴隷を連れてきて下さるから、それで–––って聞いたわ」

ロプトはこの指、言いつつ薬指の欠けた左手を軽く振った。

「そのことなのですが……私はこの指が欠けて困ったことはないのです。むしろ無くなってからの時間が長いせいか、今から生やすと違和感が出てしまいそうでして…そんな私の為にわざわざ能力者まで呼んで頂くのは心苦しゅうございます」

「ええ〜っ、ホントぉ!?指、無いよりあるほうが絶対よくないかしら…でもパパは無い方がいいの?」

「ええ。アングレア様にもそうお伝えしたのですが、却下されてしまったのです。そこで、もし良ければヨルムンガンド宮からお母さまにお願いしては頂けないでしょうか。愛娘である貴女さまのお言葉なら、聞き入れてくれるやもしれません…不躾な行為であるとは重々承知しておりますが…」

 

何卒、と頭を下げた父にヨルムンガンドは困ってほっぺたに手を当てた。愛娘の言葉なら、とロプトは口にしたが、ヨルムンガンドが母にとってそこまで価値ある存在でないことくらい、少女にも薄々分かっていることである。アングレアにとって娘は、愛する人との子供であると同時に、いつでも奴隷にできる人間でしかない。矛盾しているようで、彼女の中では両立した存在こそがヨルムンガンドなのだ。

母が決めた決定にヨルムンガンドが逆らうことはこれまで殆ど無かったし、仮に言ってみたとして聞き入れてくれるかはかなり怪しい。

もし、母の機嫌を損ねてしまえば–––想像もしたくないような結果にだって、繋がりかねない。

 

ぐるぐると迷ってヨルムンガンドは俯いた。父の指から手を離して、緩く握り込む。大好きな父の願いなら、叶えてやりたい。けれど、母に意見するのは怖い。大体なんで、欠けた指を治療することが嫌なのかもよく分からない。

ヨルムンガンドの視線はうろうろと彷徨って、ランプの光の届かない床をなんとはなしに見つめた。濃い青闇がわだかまる、昏い木張りの地面は、ずっと見ているとすこんと底の抜けた途方も無い空に浮かんでいるような心もとない感覚に襲われるときがある。今はまさにそうだった。足元の感触が消えて、どこまでも落ちて行くような、根拠のない不安。

 

するり、と右手が取られた。自分より何倍も大きな、男の手。年老いて乾いた、温度の低い9本の指がヨルムンガンドの手のひらをなぞる。お風呂上がりで上気した手が、僅かに冷えるような感覚があった。

 

「ね、ヨルムンガンド宮。お願いです、アングレア様に一度頼んでくださるだけでよいのです。もし断られればそれまでの話、無理にとは申しません」

–––どうか貴女のパパのお願いを、聞いてはいただけませんか。

 

父の口から吐き出されたパパ、という響きはどこか白々しい。叩けばかつん、と軽い空洞の存在すら感じ取れそうだった。

ヨルムンガンドはそろそろと床から目線を上げて、父の顔を伺った。

部屋の唯一の光源に照らされて、オレンジの光沢を帯びたロプトはひどく暖かそうな笑みを浮かべている。とろりと優しい、ヨルムンガンドの大好きな父の微笑み。少女とよく似た面差しの中、飴色の瞳が弓形に細まってヨルムンガンドのことを捉えている。少女にはとても真似できないほど、慈愛に満ちた笑い方だった。

目が離せないまま、ヨルムンガンドは半ば無意識のうちにこくん、と首を縦に振った。

 

「………わ、分かった。お母さまに明日、頼んでみるわ」

「ああ、ありがとうございますヨルムンガンド宮…本当にお優しい方です、貴女は…」

 

父の両手に握った手が持ち上げられて、するりともう一度撫ぜられる。この時ばかりは左手薬指の欠損がやけに生々しく感じられて、ヨルムンガンドは唇をきゅっと小さく、父に気づかれないように引きむすんだ。

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

ヨルムンガンドは非常に忘れっぽい少女であるからして、就寝前に交わした父との密やかな約束を思い出したのは次の朝起きて、歯磨きと顔洗いを済ませ、朝食の席についてからだった。

起きてすぐに父の部屋にも寄ったのだが、大抵本のページをめくりながら朝を待っているロプトの姿は既になかった。もう起きて食堂に行ったのかとも思ったが、ベッドに寝た形跡がないので多分昨夜は母の部屋で眠りについたのだろう。きちんと整えられた白いシーツの上にはカーテンの隙間から差し込む細い一筋の陽光が、くっきりとした直線を描いているだけだった。

 

「おはようございます、お母さま。パパもおはよう」

「おはよう」

「おはようございますヨルムンガンド宮」

 

広いテーブルにはできたばかりの食事が運び込まれ、椅子には既に母が着席していた。ロプトはいつもと変わらずアングレアの足元に静かに座っている。

磨き上げられた白い皿の上、湯気を立てているのは黄金色をしたフレンチトーストである。バターの芳醇な香り漂う上からたっぷりと蜂蜜をかけてナイフとフォークで切り分けて、口に運ぶこと数回。

たいへんしっとりとした美味なトーストをもぐもぐと咀嚼しながら、何か忘れてるような…?と頭の上にハテナマークを浮かべたヨルムンガンドは、一拍遅れてやっと、昨日のやり取りを思い出した。

 

(…!あ、昨日パパに頼まれたんだったわ…)

「むぐ。あのね、お母さま…ちょっとお願いしたいことがあるのだけど…」

 

フレンチトーストを飲み込んでから母にそう切り出すと、ロプトの口にスプーンを差し出していたアングレアがちらり、とこちらを見た。

少女と同じ灰白色の瞳が、不思議そうにやんわりと細められる。

足元で膝をついているロプトは顔を向けることこそなかったが、横目でヨルムンガンドの方を伺っているのが少女には分かった。

 

「何かしら?可愛いヨルムンガンド、貴女が私にお願いするなんて珍しいこともあるものね」

「……ええっと。前にお母さま、パパの欠けてる指を再生させるって仰ってたでしょう?それ、もちろんとっても素敵なことだとは思うのだけど…」

「…………」

つっかえながらの説明に、母は無言で先を促した。

「わ、わたしパパの指が欠けてる手が好きだから、できれば今のままでいてほしいなあ、って……できればパパの指、治さないでほしいのだけど……ダメかしら?」

 

しん、と冬の朝の霜にも似た沈黙が、食堂に降りた。

やはりアングレアにとってあまり「嬉しくない」願いだったか、と少女は不安になって、窓から差し込む逆光に縁取られた母の顔を伺った。

別段怒っているような表情ではないが、朝の光を背にした母の顔はやや見づらい。少しだけ眉が困ったように下がっていることだけが、なぜかはっきりと読み取れた。

かち、かち、と会話の途切れた部屋の中で時計の秒針のみが規則正しく響いている。ややあって、アングレアの口紅の塗られていない唇が、緩やかに開くのが見えた。

 

「–––ね、ヨルムンガンド。お母さま、貴女のことが大好きなの」

「………?はい、ありがとうございます…?」

ちょっとおいでなさい、と言うように手招きされ、食器を置いて近づくと、母はぷくぷくした両手でヨルムンガンドの手をきゅっと握った。ヨルムンガンドと母の顔は似ていないが、こうして見ると爪の形がそっくりである。血のつながりをというものを場違いにも少女は実感した。

 

「貴女はどうかしら、可愛いヨルムンガンド。お母さまのこと、好き?」

「だ、わたしも大好き!とっても!」

「ありがとう。それでね、生活していく上でお互いのことを好きでいるためには、努力が必要でしょう?お母さまは貴女に好きでいてもらえるような行動をしているつもりなのだけど–––」

母は言葉を切った。ちらり、と目線が合う。

目の形は違えど、全く同じ色をした瞳に見据えられて少女は自然と俯いた。

 

「貴女はどう?その"お願い"は、私がヨルムンガンドのことをこのままずっと、好きでいさせてくれるものかしら?」

「えっ、あ……それは、ええと…」

 

すり、と指の背が撫ぜられる。

不意に強く、ヨルムンガンドは昨夜の父の仕草を思い出した。年も、性別も、身分も違えど、2人は時折似た行動を取ることがある。父が環境に合わせて似たのか、母が父を真似たのか。ヨルムンガンドにはよく分からない。

冷や汗が腋の下を一筋、つうと伝った。俯いているので、椅子を挟んで向こう側にいる父の顔が目に入った。指が欠けたままでいたい、とヨルムンガンドに願った父。ヨルムンガンドの大好きな人。そして、奴隷。

父は静かな目をして、それから視線を落とした。

 

「な」

口が乾く。張り付いたように舌が強張る感触があった。

「––––何でも、ないです、お母さま…お願いのことは忘れてもらって、だい、じょうぶ……」

 

 

母が微笑むのが、気配で分かった。ロプトは床に視線を落としたまま、それでも僅かに口を開けて、また閉じた。その仕草が、音を立てないため息だということを、ヨルムンガンドはよく知っていた。

 

 

 

 

 

 

結局、その会話から1週間の後に屋敷に能力者の奴隷は連れてこられ、父の欠けていた左手薬指の断面からは、新しいものが生えていた。

父の骨張って日焼けした指とはそぐわない、ピンク色で柔らかい、赤ん坊のようなもので、母は若干不満そうではあったものの、用意していた指輪をその新しい指に嵌めてやっていた。

ロプトは己の願いを握りつぶしたヨルムンガンドを責めもしなかったし、会話の後も何ら変わることなく少女に接した。けれどもヨルムンガンドは、父の目に一抹の失望が滲んでいるのを、肌で感じていた。

両親がこの世を去る、およそ半年ほど前のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

(おまけ)

 

 

 

 

 

「あいよ!バニラアイスひとつ、お待ちどうさま」

「おお、ありがとう。こいつは美味そうだな」

「そりゃそうさ、うちは小さい店だがバニラビーンズの一粒まで拘ってるんだから味はお墨付きさね。しっかしまあ、海軍大将さまも大変だなァ。こんな寂れたアイスパーラーにまでお使いなんざ、ええ?」

 

揶揄うようににんまりした店主から、小さなコーンに乗せられたアイスを受け取ると、男は多めに代金をコイントレーに置いて歩き出した。

大柄な男である。こんもりしたアフロヘアによって身長が嵩増しされていることもあるが、スーツに包まれても分かる鍛え上げた筋肉は、鎧のように男の体をより大きく強靭に見せていた。

肩に掛けているのは白いコート。背中には「正義」の2文字。秋風に靡いているそれは海の達人を司る海軍の中でも、将校クラスにしか許されない選ばれた証である。

 

男はきびきびと歩きながら道中で一度、シャボン玉と激突しそうになって慌てて避けた。平素なら害はないが、このアイスとぶつかってしまうとちょっとまずい。行き交う虹色の泡をやり過ごした男はそのままマングローブの大地を通って、ベンチに座る小柄な人影に声を掛けた。

 

ヨルムンガンド宮、と声をかけると小さな頭が振り向く。

膝をついてご所望のアイスを渡そうとしたところで、幼い少女は首を横にふるふると振った。

 

「跪かなくて大丈夫…アイス、ありがとう。センゴク大将」

「いえ、大変失礼いたしましたヨルムンガンド宮。ご所望のお品はこちらでお間違いありませんか」

 

うん、と黒髪に縁取られた頭が今度は縦にこっくりと動く。表情の冴えなかった少女の顔が、センゴクの買ってきたアイスを目にして僅かばかり明るくなったことに男はホッとして小さな手にそれを渡した。

本当に小さな、白い手である。桜貝のような爪で飾られた指がきゅっとコーンを握るのを、センゴクはじっと見ていた。

 

初秋、シャボンディ諸島。午後2時。

秋の晴れた日にはお出かけしたくなるのは人間の性。酷暑が終わり厳寒には未だ届かぬ時期、透明な日差しと涼やかな風に誘われてお買い物に行きたい–––そんな気持ちに駆られるのは一般市民も天竜人も同じ。

それに付き合わされる海軍の悲哀はまあ置いておくとして、本日下界には多くの天竜人が降り立っており、その護衛として駆り出された大将はセンゴクだった。本来多忙な大将は天竜人直属とは言え、手出しなどがされない限り付き添うことは少ないのだが、今回はシャボンディにかなり沢山の天竜人が訪れているとあって、わざわざ出向いていた。

 

 

太陽の光は虹色のシャボンに邪魔され、カラースプレーがたっぷり掛かったアイスを舐めている少女の顔に淡い虹を投げかけている。高貴な身分にまったくそぐわない、安っぽいアイスをおいしそうに口に運ぶヨルムンガンドの姿に、センゴクはふと己の養子の小さい頃を思い起こしていた。

 

(ヨルムンガンド宮は確か今……7才であらせられたか?)

 

彼が養子を拾ったときと、そう変わらない年頃である。もっとも記憶のなかでべそべそに泣いている少年よりは、多少落ち着いてはいるのだが。

 

そう、落ち着いている。というか、センゴクが長い海軍務めの中で出会った天竜人のなかで、今日初めて邂逅したこの少女は年の割にもずば抜けて常識的、というか大人しかった。

道端で人を撃ったり奴隷にしたがることもなく、四つん這いの奴隷に乗ることもなければヒューマンショップにも行きたがらず、それどころか「跪かなくていい」とまで言うような天竜人はセンゴクの記憶にある限り初めてだった。その驚きに、ふっと自己嫌悪の念は湧いたけれど。

 

正義を遂行するために海軍に入り、その期間が長くなればなるほど目を逸らさなければならないものは増えていく。その最たるものが、天竜人たちに纏わるあれこれだ。創造主の末裔である彼らの横暴は、他ならぬ世界政府と海軍によって担保されている。秩序を守るために、秩序を乱す天竜人の行いを見逃し、彼らに逆らうものを悪と見做すことに、海軍は甘んじてきた。

大将に就任したときより、どのような専横をも心の中で噛み殺してきたセンゴクが、目の前の小さな少女のような–––何というか「ごく普通」の女の子のような振る舞いに、違和感を覚えてしまうほど。

 

「センゴク大将、今何時かしら」

コーンをポリポリ齧っているヨルムンガンドが、ふと真横で立つセンゴクにそう尋ねてきたので、彼は手元の銀時計を見下ろした。地面に届いていない、ころんとしたフォルムの革靴がぷらぷらと宙で揺れている。

「現在午後2時38分です、ヨルムンガンド宮」

「そう…ええっと、お母さまたちがオークション会場に行ったのがいちじかん前だから…」

「何事もなければ、間も無くお戻りでしょう」

 

センゴクの答えに、ヨルムンガンドは灰白色の目をぱちぱちさせて、それから残っているアイスクリームを、一息に飲み込んだ。

小さな口には厳しかったのか、ちょっぴりむせた少女に男は慌てて水か何かを持ってこようとしたが、ヨルムンガンド自身がそれを制止した。

 

「だ、げほ、大丈夫…ちょっとむ、むせただけ。うふふ、おいしくてむせちゃったの」

「そうお急ぎにならずともアイスクリームは逃げませんよ、ヨルムンガンド宮。そんなにお気に召したのであれば、もう一つ買って参りましょうか」

言ってから、天竜人に対して説教臭かったかとほぞを噛んだが、少女は特に気にしていなかったようだった。

「ううん、いい。もうお腹いっぱいだもの。でも特にあれが素敵ね。あの、アイスにかかってた色とりどりのちっちゃなチョコの粒……」

「カラースプレーですか?」

「そういう名前なの?可愛いわね…あれお母さまに買っていただこうかしら…ダメかなぁ…」

 

ヨルムンガンドはうっとりと、それでいて寂しそうな顔で頬に手を当てた。カラースプレーを欲しがるという何とも子どもらしい願いを口にしているのに、シャボン玉に囲まれた白いかんばせはどこか憂鬱そうだった。母親に物をねだって買ってもらえない子供、など世にあり溢れた光景なのに、ひどく少女の口にする言葉には寂寥感が滲み出ていた。

 

創造主の末裔。

天翔ける竜の名を冠する貴族。

聖地に君臨する、絶対権力者。

 

憐れむことなど誰にもできないはずの少女が、1人の親であるセンゴクにはどうにも可哀想に思えてしまって、彼はじっとシャボン玉の中で揺らいでいるヨルムンガンドの前髪を、意味もなく眺めていた。





ヨルムンガンド
両親に嫌われてるわけではないけど、軽んじられているロリ。
理由はそれぞれだけど、こいつにはこれくらいしてもいいだろう、まあこの程度許されるだろうという舐められ感がある。
別にいい子ではない。ロプトは切れていい。

パパ
可哀想だし被害者だが、必ずしも善行しかしないわけじゃない。

ママ
娘を可愛いとは思っているが、かなりペット感覚ではある。

センゴクさん
初出。息子がいるので、何となくヨルムンガンドの虐げられてる感を察知してる。まさかこの10年後に胃痛の種になってるとは思いもしていない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4.花束の手向けどき

期間が空いてしまいました。次からやっと、ガープたちが出てきます。


 

低く、高く、明確な言葉の形を成していない声の群れが、波打ちながら鼓膜を叩いている。重苦しくどんよりとした、嘆かされているものたちの響きだ。覚醒しかけのぼやけた意識の中、蜂の羽音や轟く海鳴りにも似たその声がわずらわしくて、ヨルムンガンドはベッドの上でううん、と呻きながら布団に頭を突っ込んだ。

 

子供らしい作りの部屋の中は、暗い。それも、まだ夜が明けていない故の暗さではなくて黒く不透明なカーテンが、ぴっちりと隙間なく陽の光を遮っていることによって作り出されていた。その証拠に、木製の壁掛け時計は午前10時20分を差している。ピカピカに磨かれた木目の上、数字の代わりに子供がご飯を食べたり着替えをしている絵が描かれた時計は、ヨルムンガンドの2歳の誕生日プレゼントである。

部屋の中に備えられた家具はどれも、明るい色をした木でできており、部屋の主に合わせてちんまりとしたものだ。それでもサイズに似合わない値段がすることは一目瞭然であり、特に部屋の端に置かれた白木のクローゼットを飾る彫刻と来たら、目眩がするほど緻密だった。

 

絨毯を柔らかく踏む足音。続けて、ノックの音。

「ヨルムンガンドさま、起きていらっしゃいますか?」

ビヴロストに仕える奴隷の声に、ヨルムンガンドはベッドの中で姿勢を変えてもぞもぞと動き、1分半掛けてからむっくり起き上がった。

「………おきてる…おはよう…」

「おはようございます。起きてすぐのことで申し訳ないのですが、お客さまがお越しです。いかがされますか」

「…だれ?」

「ヒルベルト聖であらせられます」

 

てん、てん、てん。

3拍おいてようやく覚醒した頭が、出てきた名前にずん、と重くなった。光の差し込まない寝室の中、目やにの着いたまつ毛をしばたかせたヨルムンガンドは、ゆっくりとお腹の底から息を吐き出して、ベッドからオフホワイトの絨毯に足をつけた。

 

「……会うわ。身支度を整えてからになるから、お待たせすると伝えてくれる?」

「かしこまりました。お伝えして参ります」

 

ヨルムンガンドはのろのろとした足取りで部屋の戸口に向かい、スイッチをひねって電灯をつけた。寝室の暗闇がさっと取り払われて、ペールピンクの壁紙が鮮やかに目に染みる。その子供らしい淡い色合いの部屋の中で、沈んだような黒いカーテンばかりが妙に浮いていて、ヨルムンガンドは寝ぼけまじりの頭でカーテンを開けようと考え、それから思い返して慌てて手を引っ込めた。

 

現在、「神の地」全域は喪に服している最中だ。尊き故人の遺体を特別な炎で天に還すこの期間内、天竜人たちは皆、家のカーテンを黒に変えて閉ざすことを規則として定めている。

–––特に、ビヴロスト・アングレアの死を最も嘆かねばならないヨルムンガンドにとって、哀悼の証であるカーテンを開くことは絶対に避けねばならないことだった。

 

昨日の寝る前に、奴隷が枕元に用意してくれた服も、すべてカーテンと同じ色。黒いドレスシャツ、ビスチェタイプのコルセット、足元まで届く丈のフリルスカート。電灯の光を吸収するように、黒く皺ひとつないそれを静かな目で見つめてから、ヨルムンガンドは顔を洗うために部屋を出ていった。

 

 

 

 

花束の手向けどき

 

 

 

 

 

喪服に着替えて、髪をきちんとポニーテールに結ってもらったヨルムンガンドが応接間に足を運んだのは、起きてから30分もしてからのことだった。

背の低いマホガニーのテーブルには特に頼んだ覚えの無い紅茶のカップが湯気を立てており、その向こう、真紅のソファーには客人が我が物顔で深めに腰掛けている。

ヒルベルト聖、とヨルムンガンドが呼び掛けると中年のその男は、鷹揚に手をひらひらとさせて挨拶した。

 

「おお、起きたのかえヨルムンガンド。大分顔が青白いが、具合はどうだえ?」

「大丈夫…ありがとう」

「うむ、ならばよしだえ…アツ」

 

猫舌なのか、優雅にすすっていた紅茶のカップを離すとヒルベルト、と呼ばれた男はソファーの上でむっちりした足を組んだ。

40代半ばか、それを少し超えた頃だろうか。くすんだ赤毛と、丸っこい頬のラインの組み合わせには奇妙な愛嬌と同時に、隠しきれていない若作り感があった。ヨルムンガンドと同じく喪服に身を包んだヒルベルトは、少女の母アングレアの従兄弟にあたる男性である。ついでに断っておくと、現状ヨルムンガンドと1番血の近い親類でもある。

 

「ヒルベルト聖はどうなさったの。何か式の予定に、変更があったとか…?」

「いや、特に変わったことはないえ。アングレアの体は……この話は止めておいた方がいいえ?」

「平気」

「気丈な子だえ。アングレアの遺体は予定通り、あと2日もあれば終わりだから、その時に2回目の式だえ。その時の手筈も変わらず、台本も用意してあると司祭も言っておったえ」

「そう………」

 

天竜人の葬儀は、下界のものとは少しばかり変わっている。

棺に入れて土葬という方針を取る島も多い中、マリージョアでは特殊な鉱石を燃料にした「竜焔」と呼ばれる薄い水色の火を使い、じっくりと遺体を荼毘に伏すと言うやり方で故人を送っていた。聖なる神の遺体を傷つけるその方針には、何でも煙とともに天へと昇り、駆けていくことを祈願する、という意味が込められているそうである。

そして遺体を火に焚べる前に一度葬儀を行い、遺体が完全に骨になればもう一度最後に皆で見送り、骨の一欠片を壺に収めてそれ以外はマリージョアの最も高い建物から散骨する、というのが一般的なやり方だ。

 

つい6日前に死んだヨルムンガンドの母、アングレアは現在1度めの葬儀を終えて現在遺体を竜炎で焼かれている最中であり、ヒルベルトの言葉が正しければ2日後に納骨、その後に残った骨を散骨、と言う流れとなるわけである。

 

こほん、と気まずげにヒルベルトは咳払いをして、向かい側に腰を下ろしたヨルムンガンドをちらりと見やった。すりすりと忙しなく、左手の親指と人差し指が交差されている。

 

「あー、なんだ。話は変わるがヨルムンガンド。お前が今アングレアを亡くしたばかりで大変なことは分かっとるえ。もちろん。お前の悲しみは胸を張り裂けんばかりなんだろうえ。しかしだえ……お前の奴隷の父親のことは決めておかねばならんだろうえ?」

「…………」

ヒルベルトの言葉に、少女は無言で喪服の上で手を僅かに握る。

ゆらり、と澱んだ色合いの瞳が男を捉え、そこに宿った鈍い光にヒルベルトは気圧された。この幼い少女の大人しさ–––言い換えれば抑圧に対して従順なはずの少女には似つかわしくない、威圧にも近い色合いがそこにはあった。

 

「…目は覚めたんだえ?」

ふるふる、と首が横に振られる。ヒルベルトはため息をついた。

「…いいえ。お医者さまは多分、あんまり長くは持たないしそれまで目が覚める可能性も低いって……」

「それならば……」

口を開きかけたヒルベルトに、ヨルムンガンドは俯いたままきつい声で遮った。

「それならば、何?ヒルベルト聖の言いたいこと、わ、わたし、皆からもう何回も聞いたわ!やめてちょうだい、それでもあの人わたしのパパなのよ…」

 

青白い顔の少女の頑なな言葉に、ヒルベルトはちょっと言い淀んでそれから口を閉ざした。

ヨルムンガンドは床に目を落とした。あれほどヨルムンガンドが怖がっていた母が、呆気なく死を迎えてからというもの、何もかもが7歳の少女を押し流して行こうとするばかりで、誰も少女の困惑や尻込みに理解を示そうとはしてくれない。

周りの大人たちは気遣うふりをしたり、葬儀を進めようとするものしかおらず、ヨルムンガンドはいい加減もう何もかもから逃げ出したい気分になっていた。

 

 

 

 

 

ヒルベルト聖が席を辞した後、ヨルムンガンドはしばらくソファに座り込んだまま動かなかったが、ややあって苛立たしげに床に降りると、地下にある父の部屋に向かった。ドアの無い戸口からは、ヨルムンガンドの部屋と同じくカーテンが引かれているせいで凝った闇しか見ることが叶わなかった。

 

「…………パパ、起きてる?」

 

返事はやはりない。部屋の隅に置かれているベッドに近寄ると、青白いを通り越して暗闇の中でも分かるほど土気色になったロプトが、体に何本ものチューブを刺した状態で横たわっていた。顔にはほとんど傷がなく、首から下が布団に隠されているせいか、そうしているとただ眠っているだけのようにも見えたが、実はそうではないことをヨルムンガンドは既に知っている。

 

部屋の中に響く呼吸の音は、ひどく浅い。

 

本当に、一瞬のことだった。

事件が起こったのは、シャボンディ諸島に両親と共に出かけていた途中、人間屋の階段の半ばだった。ヨルムンガンドはいつも通り、奴隷を買わないので近くのベンチで海兵と待とうと、両親と他の天竜人たちの後ろ姿を見送った、その後。

–––ふっと、柔らかで、滑らかな動作でロプトがふらりと立ち上がった。高級志向なのか長めに作られた石階段の半ば、母を背に乗せたことも忘れたかのように、躊躇うことのない仕草だったことを、ヨルムンガンドはよく覚えている。

 

ヨルムンガンドはその光景を、居並ぶ海兵の隙間から眺めており、なぜかその瞬間においてはするりと疑問もなくその動作を受け入れていた。明らかな違和感に気づいたのは次の瞬間、ロプトが振り落としたアングレアがだん、だだん、ごん、と何度も頭をぶつけながら弾みをつけて階段を転がり落ち、「こ、この奴隷を早く––––––!」と誰かが喚く声と共に銃声が鳴り響いてからだった。ぴしゃ、と父の胴体から噴き出した血が階段を汚して伝っていくのを、ヨルムンガンドは呆然と眺めていた。

 

合計、7発。

父の胴体に撃ち込まれた弾丸は、数だけでも即死に等しいものだった。何とか救命措置が間に合って命は取り留めたものの、ロプトが既に老境に差し掛かった年齢で、免疫機能が低下していることが災いし、未だ肉体は回復の兆しを見せてはいなかった。

 

(これから、どうしよう…………)

傷を負っていないロプトの太ももに、ヨルムンガンドはそうっと頭を載せた。少女よりもずっと体温の低い肌は、布団越しということも相まってごくゆったりとした脈拍を伝えてくる。

 

 

それならば、とヒルベルト聖は言いかけた。

多分彼が続けたかったのは、「早めに殺しておくべきではないか」とか、「延命措置を止めてもよいのではないか」とかそう言う類の言葉だろう。

 

今、ベッドの上の死の淵で眠っているロプトは、奴隷であるという事実に加えて天竜人を殺害した、という修飾語がつく男として扱われている。現状母が亡くなり、自動的に父の『所有権』を受け継いだヨルムンガンドがそれらを断っているからそこまで強くは言われないが、天竜人は元々同族に甘い傾向がある。その中でも純血のアングレアを殺した父は、植物状態だとしても生きることを良く思われないだろうことは、幼い少女にも理解できることだった。

母の散骨をする前に、殉死させておけばよいのにと他の親族たちにも言われて、ヨルムンガンドは内心でどろりと行き場のない感情が渦巻くのを自覚していた。

 

(…………わざとじゃない、よね)

 

何か踏んだとか、母がお腹を蹴ったところが悪かったとか、あと老眼で見えてなかっただとか。それに少し前まで父は病に臥せっていたから、その影響で意識がぼうっとしただとか………突然の凶行の言い訳のしようはいくらでもあるけれど、それらに納得できるかはヨルムンガンド自身怪しい。

あの時––––母を背から落としてなお、階段の上でぼうっと突っ立っていたロプトの後ろ姿は異様な静けさに彩られていた。思い返して、ゾッとしてしまうほど。

 

やめよう、と頭を振り払ってヨルムンガンドは父の体の上で頭を反対側に向けた。つん、と消毒液と血の混じった中に、優しい父の匂いが鼻をくすぐる。

 

いつか母が死んだら––––とまでは言わないが、似たような想像をしたことはある。明日から病気になってずうっとベッドで寝ていたらな、とか長い旅行に出掛けてくれないかな、とかマリージョアのどこかか下界に別荘を作って住まないかな、とかそういうの。

偶然にもまだ7歳のヨルムンガンドの拙い『いつか』は、今まさに叶えられているに等しかったが、そこに本来付随してくれるはずの解放感や父との穏やかな時間というものは存在していない。

 

今のヨルムンガンドの目の前にあるのは、死の淵にある父と、静かな家と、支配者の不在と、長々とした葬儀だけ。それらは、ヨルムンガンドに何も語りかけてはくれない。

それから一体どれくらい、ロプトの体を枕にしていたのだろう。ここ数日、長時間の葬儀もあって緊張していた少女はいつの間にかうつらうつらと眠ってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと、つむじに視線を感じた。

体はまだ覚醒しておらず、視界のほとんどは曖昧に輪郭の溶けた何かしか見えず、すべての感覚はレースカーテンを何層も隔てたように、ぬるいミルクの海を泳いでいるように、倦怠と眠気の中にある。視線の先を辿ろうにも鈍い体をひねるのが億劫で、ヨルムンガンドは父の太腿に頬をぺったりくっつけたまま、不透明な世界をぼんやり見ていた。

息を吸うと、不自然な姿勢で寝ていたせいで凝り固まった首と肩が僅かに軋んだ気もしたが、すぐに深い眠気の波に攫われては消えていく。

 

そうして次に、頭のてっぺんを幽かに指ですり、となぞるような感覚がしたので、ヨルムンガンドは濃くもやがかった頭で「これは夢だな」と結論づけた。屋敷に侵入者など入りようもないし、ロプトは死にかけの上に記憶にある限りヨルムンガンドの頭を撫でてくれたことはない。あり得ないことが起きているのなら、それは多分夢だ。そうと分かると、なんだかちょっと面白いような気がして、少女はのろのろと頭を逆側に向けた。

 

夢の中で、父の部屋はカーテンの隙間の、針より細いオレンジの光のみが差し込んでいる。暗い部屋を2つに分かつ、極彩色の橙の糸。

その中でどうしてか、ヨルムンガンドは父の目が開いている、とそう思った。現実とよく似た部屋の中、父の顔は闇に沈んでいるのに、何故かそれははっきりとした確信として少女の中に存在した。

 

(…………パパ?)

声を出さずに、唇だけ動かすようにして訪ねると、もう一度頭に置かれた指が、軽くヨルムンガンドの頭を撫ぜた。

目が覚めたのか。夢の中でも、とろけた頭の中の幻想でも、それは嬉しいことだった。

 

(………起きたの?よかった、心配したのよ…)

(…………)

 

返事はない。こひゅ、ひゅ、と掠れた空気の鳴る音が何度かしたので、喋ろうとはしているけれど声が出ないということだろうか。ヨルムンガンドはぼさぼさの髪の隙間からその音を聞いて、ぼやけた夢の中、特に躊躇うことなくそれでいてゆっくりと横にずれて、ロプトの首元に手を伸ばした。湿っていて温度の低い、弾力性に欠けた肌。もう少しで温度さえ失われることが確実なその上を、ヨルムンガンドの手がなぞると僅かに父が震えた。

 

かちり。夢の中にいるせいか、もつれて言うことを聞かない指先でたっぷりと時間をかけて、ロプトに嵌められた首輪が外れた。小さなヨルムンガンドの手が触れると、呆気なくシーツの上に墜落したそれには、薄い汗と血の滲んだ痕跡がある。

 

(パパ、これでおしゃべりできる?)

(…………)

 

やはり返事はない。見上げると、白髪混じりの黒髪の中で、明るい薄茶が開いているのをぼやけた視界でヨルムンガンドは知ったので、父の美しい亜麻色の眼を見つめた。

 

ヨルムンガンドと作りのよく似た顔の中で、唯一受け継がなかった瞳の色。古く色褪せた書物のページのような、年月が積もって風合いを増した木製の扉のような、重みのある透明な、きれいな目。ヨルムンガンドがそれを受け継がなかったことを母が嘆いたくらいに美しい、聡明なその眼差しには、少女が今まで見たことのない感情が浮かんでいた。

 

父はいつも、困っている。困っているのに穏やかに笑っていて、亜麻色の目は少し弓なりに細まっていた。ヨルムンガンドにとってむしろ、微笑んでいないロプトを想像するのが難しいほど彼は笑みを絶やさない人間であったのだけど–––––顔は土気色のまま、ベッドに横たわってヨルムンガンドを見返す今の父の顔にはひとつの笑みもなかった。

 

(…………パパ?)

(大丈夫よ…お母さまはいないから、パパの首輪を外してもおこるひとは……ふわ……いないの…)

 

夢の中、それがどうにも未知の表情だったもので、ヨルムンガンドは思いつくまま、寝ぼけたまま、特に深く考えることもせず少女はそう口にした。

その言葉に、すこん、と憑き物の落ちたような、純度の高い、混じり気のない驚きがベッドに臥すロプトの顔にはまず浮かび上がって、それから彼はほんの少しだけ、何か痛ましく、それでいてまばゆいものを見つめるように目を細めた。

 

ロプトの珍しい表情に、改めてヨルムンガンドは父はこういう顔もする人だったのだな、と今更ながらに思った。

穏やかで、優しくて、博識で、大好きで、海洋生物を愛していて––––いつも虐げられているひと。ヨルムンガンドが知っていることなど、突き詰めればその程度に収まってしまう、隠し事の多いパパ。

でも、驚いたりするんだな。こんな風に、何とも言えない顔をしてヨルムンガンドを見たりもするんだ。びっくりしたけど、ちょっと嬉しいような、不思議な感慨がヨルムンガンドの眠気に負けそうな頭の中をじんわり満たした。

 

ふと、珍しいものを見たついでに尋ねてみようと思って、思考能力がだんだん失われていく夢の中、ヨルムンガンドはあくび混じりに父の頬に触れた。

 

(…………ふわあ……あろね、パパ…。わらしの名前、パパがつけたんれしょ…)

突然の問いかけに、欠伸で潤んだ視界の向こう、ロプトが微かに頷くのが見えた。閉じた部屋の中、カーテンの隙間から差し込むオレンジの線が父の首元に落ちている。ちょうど、首を切りとる目印のようにも見えた。

(……なんれヨルムンガンドにしたの?この前シャルリアに言われたわ、女の子らしくない名前だって……せかいへびの別名なんてヘンらっれ……ぐう……)

 

ヨルムンガンドは世界蛇の、もう廃れた学術名である。遠い昔にそう教えてくれたのも、やはり父だった。ヨルムンガンド。海色の大蛇。雄大な水の中を泳ぐ、途方もない巨体を持つうつくしい生き物の名前。女の子につけるにはちょっぴりゴツいし、名前を書くとき長くてたいへんだけど、父が少女にくれた、たったひとつのプレゼントだ。

でもなぜ、この名前にしたのかは彼はずっと教えてくれないままだった。そうして、そのまま今にも逝こうとしている。

 

(…………ぃ、ウ、あい、………たか)

ひゅ、ひゅ、と笛のような呼気でかき消されながら、彼の口からは何か音がこぼれ出していた。なつかしい、聞き慣れた穏やかで低いものとは違って、掠れて途切れ途切れものではあったが、間違いなくロプトの声だ。

(…んえ?………パパ何か言った?)

聞き取れなかったので、ヨルムンガンドはずりずりと太ももから腹の方に頭を移動して何とかロプトの言葉を理解しようと耳を澄ませた。

夢の中だというのに、耳に伝わる鼓動の遅さも、じっとり冷えているのに汗が滲みでる感触もやけに生々しい。

(………おぃ、き、ぃら、いでし、あか)

もう一度、今度はもう少しはっきり発音しようという試みがあった。

おきいらいでしあか。おきらいでしたか。お嫌い、でしたか。

何が?たぶん、ヨルムンガンドの名前が。父はそう尋ねている。

 

 

(………ううん…ちょっと長いけど、パパがくれら名前らし…すきよ。わたし、この名前のころ…)

(…………そ、おぅです、か………なまえ、は、ね)

 

うん、そう。そうだよ、パパ。

呟いたはずの言葉は、押し寄せてきた頭痛がするほどの眠気に負けて、音にはならないまま、ヨルムンガンドの意識はざあ、と遠ざかっていく。とろりとした洛陽が差し込む、暗い部屋。日焼けした書物と、薬剤と、消えゆく命と薄い血の匂いがする、父の住む狭い世界のすべてから。夢にしてはやけに見慣れた景色が、すべての輪郭を無くして溶け落ちていった。

また頭のてっぺんを、乾いた指が撫ぜた。さっきとは違って、指がかすかに震えるような、動作ともいえない小さなものだったけれど、少女は確かに撫でてもらった、と信じ切っていた。

 

 

 

 

 

 

固まっていた体がずり落ちる感覚があって、その拍子に床に尻餅をついたヨルムンガンドは目を覚ました。

ごしごしと目を擦って目に入るものは、父の様子を見にきたときと変わらない、静寂に満ちた部屋である。床から立ち上がって、枕にしていた父の体にこぼしていたヨダレの跡をちょいちょいと拭ってやると、それからヨルムンガンドはううんと伸びをした。随分長く眠っていたらしく凝り固まった首筋からは鈍い音が鳴る。

 

カーテンの隙間からは濃い橙色を通り過ぎて、藍色の混ざり始めた細いひかりが部屋を一筋、飾っている。カーテンを開けようとして慌てて止める、という学習しない一連の流れをもう一回やったヨルムンガンドはふと、違和感に気づいた。

 

ロプトの眠るベッドの脇、忘れ去られたようにひっそりと備えられた、背の低いチェスト。ニスのはげたそれの、上から2段目の引き出しが僅かに開いている。普段父が開けるどころか、触っている記憶すらないチェストのその暗闇がどうしてか気になってしまって、ヨルムンガンドはとことこにそれに近寄った。

 

(部屋に来た時には、開いてなかった………よね?)

 

ヨルムンガンドが寝ぼけて開けたのか、父の手が当たったのか。動きの固い取手を掴んで引っ張り出すと、がこん、と音が鳴った。

中に揃えて置かれていたのは、2つの白い封筒だった。何か白い紙を折り曲げて、糊で形を整えたのだろうか。明らかに既製品ではない、やや歪な封筒の表面にはそれぞれ短い文章が添えられていた。父の筆跡だ。

 

ひとつめ。ヨルムンガンドから見て左側の封筒。

『もし海円暦〇〇〇〇年◆月以前に私が死去していた場合』

ふたつめ。ヨルムンガンドから見て右側の封筒。

『もし海円暦〇〇〇〇年◆月以降に私が死去していた場合』 

 

「………え?」

何故か足元に落ちていたペンを拾い上げながら、ヨルムンガンドの口からはそんな間抜けな声が溢れた。ロプトの愛用していた、飴色の万年筆は落ちた拍子にどこかが壊れたのか、ヨルムンガンドの手をとめどなく黒いインクで汚した。ぽたぽたと、まるで血を吐くように。

ヨルムンガンドは振り返って、ベッドに眠る父の顔を見た。布団に覆われた胸は既に動くのをやめており、薄闇に沈む老年の男の顔はひどく安らかだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『–––––以上、貴方の提唱した血統因子の抽出及び操作のやり方は興味深いものでした。海王類のみが発症する血統病の治療として役立つ可能性は高いでしょう。有意義なご意見をどうもありがとう、治療データは次のフィールドワークが終わって研究所に立ち寄る際、持参します。

                   U.ロプト

追伸

またクラウンが私の荷物から海王類の細胞サンプルを勝手に持ち出しました。ドクター、申し訳ありませんが弁償と警告のほどよろしくお願いします』

 

–––北の海、とある古びた建物に置かれたままの便箋より抜粋。





ヨルムンガンド
いきなり天涯孤独になった7歳。

ロプト
死んだ。名前の由来はロキの別名。『ヨルムンガンド』の父なので。

アングレア
死んだ。名前の由来はアングルボザから。『ヨルムンガンド』の母なので。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5.巡礼のためのファースト・ホップ

旅の途中のギャグ回。ヨルムンガンドの肩関節は犠牲になった。


 

拝啓もう会えないお母さま、そしてパパへ。

お元気ですか?先日お母さまの遺骨を聖堂の最上階から散骨して以来ですね。パパの方は船底の冷蔵庫にいるのでお元気も何もないとは思いますが。わたしは元気でやっています。3食きちんと食べて、ときどき好き嫌いをし、夜8時にベッドに入り、毎日パパの図鑑を読んでいます。うそです。あんまり元気ではないです。規則正しい生活を送ってはいますが、現在進行形で痛い目にあっているため、ぜんぜん元気じゃないです。それでは聞いてください、あなた方の娘は今、北の海(ノースブルー)へ向かう軍艦の上で––––

 

「ゔぎゃあぁああぁぁあいだいよぉぉあお」

「しっかりせい!じゃなくてして下さい!傷かどうかは分からんが多分浅い!」

「バカ言ってないで押さえて下さいガープ中将!ヨルムンガンド宮、申し訳ございませんがどうか今しばしの辛抱を!大丈夫、痛いのは一瞬だけです!」

「いたいのイヤぁああぁあ」

「そうしないと腕が動かせないままですよ!?」

「もうそれでいいもんんんんん」

 

––––––両肩の関節が外れて、大泣きしています。

 

 

見渡す限り水平線までくっきりと見える、北の海近海。雪がちらつき始める海域は本日晴天、ときどき幼児の絶叫轟く空模様である。

 

 

 

 

 

巡礼のためのファースト・ホップ

 

 

「イヤじゃ!」

「まだ何も言うとらんだろうが!」

 

どどーん。と、擬音がつきそうな調子で、内容を言いもしていないのに断り文句を出してきた男を、センゴクは間髪入れずに怒鳴りつけた。

海軍元帥の執務室、数々の勲章やトロフィーが規則正しく並べられた、部屋の主の性格を表した部屋のソファで我が物顔で寛いでいる同期–––––モンキー・D・ガープはセンゴクに怒鳴られても何食わぬ顔だ。それどころか皿に盛られたおかきをぼりぼり溢しながら、また一枚貪り食っていやがる。

 

いい加減頭にきたセンゴクはガープの手元から皿を奪い取ろうとし、それを阻止しようとガープは皿を引っ張ったため、たかだか陶器製の皿は哀れにもあっさり砕けた。センゴクの眉間には青筋が浮かび上がる。

普段ならここで言うことを聞かないガープにセンゴクが折れる、という海軍上層部のお決まりパターンになるはずだったが、今日のセンゴクはちょっと違った。なぜなら彼はつい最近大将から元帥へと昇格したばかりで大変ストレスが溜まっており、ガープの利かん坊っぷりへの怒りは3倍増しだったのだ。

 

「お前がそう言う顔してるときの任務は、大体面倒くさいんじゃい。わしにはよーく分かる。誤魔化されんぞ!」

「黙って聞け!!いいか、この仕事は本来なら別にお前でなくてもいい––––と言うか中将のお前には回せんし、回したくもないが他の大将は生憎全員出払っとる。残念極まりないことにな」

 

新元帥は本気で嫌そうな表情を浮かべていた。彼とて付き合いの長さからガープの向き不向きくらい知っている。知っているのだが、今回の任務に回せそうなのは、海軍広しと言えども現状名誉大将のような扱いであるこの『英雄』くらいなのだ。

 

『–––––おれの財宝か?』

 

海賊王、ゴールド・ロジャーの処刑。ついては彼が最期に残した言葉。

処刑台の上であの忌々しい、全世界を海へと駆り立てた台詞が残されてもうすぐ1年が経つ。

その期間、海へ出て海賊王の残した宝を得ようとする海賊の数は休むことなく増え続ける一方で、海軍はその討伐に大忙しだった。あちらは欲望を抱いて海賊旗を上げればいいが、軍人はそう簡単に増えてはくれない。起こされる被害と、その討伐数は明らかに海賊側に軍配が上がり、海軍は後手に回る屈辱を味わわされていた。

 

海軍側の最高戦力である大将たちも、ここ最近本部に顔を出す暇もなく軍艦に乗り込んでの海賊退治に明け暮れており、本来は大将以上にしか任せないような重要任務を一部の中将たちに割り当てなければ、とうてい仕事が回らないような状況にまで海軍は追い込まれていた。そのツケのひとつが、今しがたガープに任そうとしている任務なわけである。

 

もとよりガープは大将への昇進を断り続けて中将の座にある男。実力としても、ネームバリューとしても申し分はないのだ。性格に難があるだけで。

 

「お前に頼みたい任務は天竜人ビヴロスト・ヨルムンガンド宮の護衛だ。期間としては3日後から始まり、およそ3週間程度を予定している」

「ほれ見ろ、やっぱり面倒くさい任務じゃろうが。イヤじゃ、わし天竜人(ゴミクズども)関係の仕事なんぞやらんからな!だいたい何じゃ3週間て。シャボンディ滞在にしては長すぎんか」

「不敬なことを言うんじゃない!そもそも貴様の天竜人嫌いは私とて知っているが、今回はお前の言うような奴隷を買い付けに行ったりだとか、そういう“観光”目的の滞在ではない。行き先もシャボンディとは別の場所だ」

「ほーん?」

 

ガープはセンゴクのその言葉に初めて、ちょっと意外そうな様子で顔をあげた。たいてい、天竜人の護衛任務といえばシャボンディ諸島で、彼らが奴隷を買ったり機嫌を損ねた人物を撃ったりだとか、そういう非道な行いを黙って見て、危険が及ばないよう守るというカスみたいな仕事がお決まりなのだが、そうではないとはこれ如何に。あまり聞かない話だ。

 

「行き先は?」

北の海(ノースブルー)だ」

「北の海、なあ…何しに行くんじゃ、どこぞの国の視察か?」

とガープ。視察なんか絶対行きたくないという顔である。

 

いいや、と疲れの滲む顔でセンゴクは首を振った。眼鏡を外して軽く息をかけ埃を払うと、すこしだけため息をつく。どことなくしんみりとしたような、彼には珍しい顔で窓の外に視線をやると、硬い口調で簡潔にこう言った。

 

「––––父君のご遺体を故郷に返しに行くのだ、と。そう仰っていた」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

あ、と子供特有の高い声がちいさく吐き出されて、それからぱちりとつぶらな灰色の瞳と視線がぶつかった。

光源は申し訳程度に取り付けられた丸窓ひとつ。ほとんど暗闇に沈んだ船底の倉庫の中、貴人の少女の青ざめた顔ばかりが白く、淡く光っている。仕立てのよい、フリルのたっぷりついた喪服も、潮の匂いが染み付いたうら寂しい倉庫の中ではほとんどその輪郭を闇に溶かしてしまい、幼い少女はまるで闇を服として纏っているようにも見えた。

 

ガープはそのまま倉庫の中に入ろうとして、それから口酸っぱく言い付けられた小言のいくつかを思い出し「入っても?」と尋ねると、少女は素直にこくんと頷いた。

「あー……こっちは寒いじゃろう。船室に戻っ…戻られては?」

崩れかけた敬語を特に気に留めることもなく、ふるふる、とこれまた黒い髪が横に揺れた。

「…ううん…まだここに居るわ。こんなに暗い場所に1人だと、パパもきっとさみしいと思うもの」

「おう、そうか…」

すん、と鼻を鳴らす音が船底に響き、まだあどけない顔立ちには混じりけのない寂しさが浮かんでいた。死んだ父親を恋しがる少女の表情は、ひどく幼い。その幼さがどうにも哀れに見えて、ガープは目を瞬かせた。

 

(しかし本当にびっくりするくらい大人しい子供じゃな……ホントに天竜人かこいつ?)

 

ガープが渋々嫌々仕方なく、センゴクから言い渡された天竜人の護衛を了承し、北の海へ行くビヴロスト・ヨルムンガンドの護衛について今日で2日目。目的地である島には遠く、未だ三分の一程度しか進んでいなかったが、この短期間でもガープは護衛対象であるちんまい天竜人に驚かされることしきりだった。

 

なぜってこの少女、天竜人とは思い難いほど手がかからない。特に海兵たちに文句をつけることも無ければ、通行人を無闇に奴隷にしたりも銃で撃ったりもせず、こうして船底の倉庫に入り浸るか船室で静かに図鑑を眺めている。食事を残すこともなく、『ありがとう、とても美味しいわ』と毎回感謝をする。部下たちには『ガープ中将もこれくらい大人しくして欲しいもんですね』と嫌味を言われたくらいだ。出会い頭に、喪服姿の少女が手ずから父親の遺体が入っている棺を台車に乗せて転がしていたのはちょっと変だったが、相手が奴隷であることを考えれば慈悲深いと言っても良いだろう。

 

センゴクから『大人しく、礼儀正しいご令嬢だ』と聞かされたときには鼻で笑ったものだが、センゴクすまん、前評判はガチだった。

 

ガープが黙っていると、少女のあわい、プラチナクォーツみたいな瞳の先はガープから興味を失ったように逸れて、倉庫の真ん中に置かれた冷蔵庫にすいっと戻って行った。

業務用の大きな冷蔵庫だ。真新しい、運び込まれたばかりのそれは闇の中で薄緑を霞ませたまま、じっとそこに立っている。人1人分入りそうな–––––というか今現在実際に入っているので、ような、と付けるまでもない。ガープ自身も黒い棺をこの中に入れる光景を昨日、目の当たりにしていた。

 

「お前さん、腹は空いとらんか」

「ううん」

「暖かい飲み物は?」

「大丈夫」

「あ〜〜船酔」

「船酔いもしてない、というか……」

ヨルムンガンドは立て続けの質問に答えながら、椅子に座る己の3倍以上ある巨漢を見上げて、くすくすと笑った。ちょっぴり腫れたまぶたがきゅっと細まって、子供らしい軽やかな声が上がる。

「うふふ、ガープ中将ったら昨日からそればっかり!ここに居て欲しくないなら、そう言ってくれればいいのに」

「ヴ」

 

でも気にしてくれてありがとう、とにこにこしている少女に図星を付かれたガープは言葉に詰まった。別段、この幼い貴人が倉庫に入り浸りなのを咎める気はない。というか、咎める手段も権利も彼は生憎と持ち合わせないので。

 

ただ、一応人の親であるガープにしてみれば、まだ10歳にも満たないような子供が–––彼は子供は外で走り回っていればそれで良いというような雑な思想の持ち主だ––––こうして日の当たらない船室で、父親の遺体が入った冷蔵庫と睨めっこしている状況というのはどうにも不健全で、危なかっかしいように思えてならず、護衛につく前のあれこれはどこへやら、こうしてたびたび足を運んでは少女を何とか外へ連れだそうと画策していた。

 

(ここまで慕われてるっちゅうことは、奴隷と天竜人とは言えども父娘の方は良好な仲だったんじゃろうが、なあ………。母親の事件の方は事故か故意かはっきりせんまま父親が死んだんじゃったか)

 

聞き分けのよく、至って大人しいヨルムンガンドは天竜人嫌いで有名なガープの目にもごく普通の育ちのよい少女にしか見えず、そんな彼女が暗い船底でまんじりともせずに冷蔵庫を眺めている光景には、どうにも不安が募る。例えば冬の崖の上で、今にも飛び込みそうな顔で海を見つめる人間のような、音の無い、しんとした–––死と生のあわいにふらふらと近づいて行くような気配。

 

しかしガープの気遣いも虚しく、というか幼い女児と触れ合ったことの少ない彼ではヨルムンガンドの気を引くような台詞が出てこないのも悪いのだが、ガープの『お誘い』が成功した試しは今のところない。いつもにこにことした顔で「ここにいる」と言って聞かないので、一体どうしたものか、とガープが考えたところで、ごと、ん–––と鈍い音が鳴って軍艦全体が僅かに傾いた。手近な椅子に腰掛けていたヨルムンガンドがたたらを踏む。

 

「何事じゃ!報告せい!」

咄嗟にヨルムンガンドに駆け寄って周囲を警戒し、追加の衝撃がないのを確認すると手元の電伝虫に向かってガープは大音声でそう問いかけた。

「も、申し訳ありません中将!現在前方500メートル付近で大型海王類がおよそ3体ほど浮上しておりまして」

「こっちへの敵対行動は?」

「ありません!こちらにはまだ気付いていない模様ですが……迂回しますか?」

「そうじゃなァ…」

 

ふと、横目で窺ったヨルムンガンドの顔がそわついていることに気づいて、ガープはにんまりした。青白い幼子の顔には、先程までの笑っていてもどこか沈んでいた暗さの中にとは打って変わって、隠しきれない好奇心が頭をもたげていた。好きなオモチャを目の前にぶら下げられた猫のような、分かりやすさ。

(………なんじゃ、こんな顔もできたんじゃな、こいつ)

 

「…いや、万が一のこともある。凪の帯方面に追っ払うから、このまま接近せい。せっかくじゃ、“お客さま”にええとこ見せんと損じゃろう。わしもすぐ行く」

「かしこまりました!」

電伝虫を切ると、足下で期待の眼差しで見上げている幼い少女と目線を合わせてガープは悪い顔をした。

「と、言う訳じゃ。海王類、見に行きたいか?」

「行く!行きたいわ!すっごく!」

「よーし、そうと決まったら急ぐぞお嬢様!」

 

ぴょんぴょんと跳ねている華奢な少女を片腕で抱え上げると、おっそろしいほどの軽さにガープは内心たまげながら甲板へ続く階段を上がった。遠い昔に抱き上げた同じ年頃の息子と比較してもかなり軽い。人型をした紙風船でも持っているかのような重量に驚いて、それからガープはそういえば己があまりこれくらいの年の女の子と関わったことがないことを思い出した。手を離れた息子も––––ついこの間一歳になったばかりの義理の孫も、みな男ばかりだ。

 

そうか。この年の女の子はこんなに軽く、柔らかいのか。その軽さを改めて感じながら、ガープはヨルムンガンドが失ったばかりの両親のことを考え、それからもう彼女の軽さを味わうことのない両親の悲痛に束の間思いを馳せた。

 

 

 

 

 

 

わあ、と甲板に出たヨルムンガンドは顔面に吹き付ける潮風の冷たさに身を震わせ、そうして見渡す限り一面を埋める海に目を輝かせた。思えば船に乗り込んでからも、ずっと船室か倉庫に入り浸っていたのでこうも海をまじまじと見るのは初めてのことだ。

とりわけ今は、3メートルを超える巨漢の腕に乗せられているので、いつもより遥かに見晴らしがよい。

 

水平線まで広がる深い青と、北の海に近づいている証でもある鈍色が混じり始めた紫混じりの濃い空色。雲一つない、澄み切った2色に分けられた夕刻の世界の全てが、今はヨルムンガンドの視界に収まっている。

北へと近づくにつれて風は冷たく透き通ってゆき、空は高く、遠くなっていくようだ、とヨルムンガンドはぼんやり考えた。

1番見慣れたマリージョアは世界でも有数の高所にある都市だからか、空は近く、月も星も飛ぶ鳥も頑張れば手が届くように思えるが、この海でそんな思いはまるで湧かなかった。

 

空はこんなにも遠く、飛ぶ鳥もその影が捉えられないほど高い所を飛んでいるのだ。そのことを今初めて、思い知ったような気になった。父であるロプトも、マリージョアに来る前はこんなに高い空を眺めていたのだろうか。

空から下に視線を戻したヨルムンガンドは、抱っこに慣れてないことも相まって足が地面に着いていないのが急に不安になってしまい、ガープの腕の中でジタバタと暴れた。

 

「ガープ中将、下ろして。わたし、自分で歩くわ」

「ン?じゃがお前さん、それじゃあお目当ての海王類が見えんぞ。そう怖がらんでも落としやせんわい!」

「うう、それは嫌だけどだってあし、足がついてないからスースーするんだもの…」

 

ガープはもう聞いちゃいなかった。大股でずかずかと部下たちが慌ただしく走り回る甲板を進み、砲台の周りで忙しくしている海兵たちに近づくと海王類はどこじゃ、と尋ねた。日に焼けた年嵩の兵の1人が双眼鏡を覗き込みながら進行方向からやや右にずれた方角を指差した。

 

「砲弾用意急げ!弾は音と光のデカさ優先で持ってこい!」

「向かって2時の方角です。先程から急浮上と潜行を繰り返しており、……体長約90メートル前後の鮫型2体とイカ型です。比較的小柄な個体ですね」

「凪の帯から迷い込んだか?交尾中には見えんな」

「いえ……恐らくは–––––狩り、かと」

 

その言葉が終わるやいなや、前方の青の海面を割って、巨大な白色の生き物が波間に飛び出して来た。水上に見える部分だけでも、軍艦と同じくらいのサイズを誇る、海の王者たち。ガープに抱えられたヨルムンガンドの目にその生き物の輪郭が映り終わる前に、それはまた海へと戻って行った。

その衝撃の余波でパタパタと雨のような飛沫が水面に白波を作り出し、渦巻いている。白い巨体は海へと戻った後も水の下で泳ぎ、身をくねらせながら大きさに見合わないスピードで泳ぎ回っているのが、少女の目にも映った。

 

「………ダイオウイカ?」

「おや、ヨルムンガンド宮はたいへん博識でいらっしゃいますね」

ガープの側で控えていた下士官の1人が、少女を見上げて薄くほほえんだ。ガープより一回りほど年下に見える彼が、降りかかる波飛沫を避けるようにヨルムンガンドに傘を差し掛けた。

「パパが教えてくれた図鑑に載ってたから…」

「ああ!そう言えばお父君はこの分野の権威であらせられましたね。ご存知なのも納得です」

「そうなんか?わし、初知りなんじゃが」

「中将、貴方はもう少し護衛対象の情報を頭に入れておいて下さい…というかその前に常識ですよ。とは言え、あれは厳密にダイオウイカではないのです、ヨルムンガンド宮」

 

夕方の風はかなりその冷たさと勢いを増しており、吹き付ける轟音に負けないように喋る誰もが半分くらい怒鳴っているような調子だった。ヨルムンガンドは暖を求めてガープの腕にきゅっとしがみついた。

その視線の先、どんどんと輪郭をはっきりしていく海王類たちは軍艦を気に止めないで絡まるように、はたまた逃れるように動きながら、海面を荒らし回っている。

 

「違うの?あ、でもそうね、大きすぎる気もする、かも」

「よく似てはいますがね。通常のダイオウイカは14〜18メートル程度ですし、こんなに浅いところで目撃することは難しいでしょう。触腕の構造なども同じですので血統としては近いと思われますが、どのような進化を辿ったのか、無脊椎であの巨体をどうやって維持しているのかは一切不明…海王類はまさに、海のブラックボックスというわけですな」

 

そして軍艦の目と鼻の先までその海王類たちが迫ったとき、ヨルムンガンドは初めて「狩り」の言葉の意味を理解した。たしかにこれは、狩りだ。

 

ドン!!!!

 

巨大なダイオウイカがもう一度水面から飛び出し、今度はそれを追いかけてもう一体が出現し、そこから遅れてイカを挟撃するような形でもう一体が現れた。

こちらは緑がかった灰色の鮫に近い姿だが、背鰭から体の中心にかけて黒い縞が入っており、普通の鮫よりやや丸っこいフォルムだからか、どこかスイカのようにも見える愛嬌がある。とは言え。

ぐあ、と口を開ければ三重になった牙とその奥に広がる無限の闇のような口が丸見えになり、深く裂けたそれがイカの腕に食いつく––––その寸前で触腕がしたたかに鮫の鼻を打ち3体ともがまた海中へと戻った。

 

ざぶん、と大きな波が立ち、差し掛けられた傘を超えてヨルムンガンドの顔にも塩からい水が落ちたが、そんなことも気にならないくらいに、少女の灰白色の目はきらきらと興奮に輝いている。

 

(……す、すごい!かっこいいなぁ…!!)

 

ヨルムンガンドはこの瞬間ばかりは父のことも頭から忘れ去って、目の前で繰り広げられる巨大な生き物たちの迫力満点のショーに夢中だった。海王類たちが立てる高波、身を切るような潮風の冷たさ、巨体が命懸けでぶつかるたびにびりびりと伝わる肌の感触……あらゆる娯楽があると豪語するマリージョアでさえ、こんなものを見ることはできやしない。ばちん、と生き物たちの肌が触れ合う音がして、スイカ鮫の牙が今度はイカのヒレのような部分を食い千切った。

 

ところでふと、ガープや控えている下士官の方を見れば、ヨルムンガンドほどは興奮も驚きもしていないようで、ガープに至っては少女を抱えていない方の手で鼻をほじっている。その視線に気づいたのか、ガープは慌てて手をスーツの裾で拭った。

 

「あなたたちは、あんまりびっくりしてないのね。海軍のひとはこんなにかっこいい……やつをいつも見てるの?」

子供らしい語彙の少なさに下士官の方が生温い笑みを浮かべた。

「いつも、というわけではないですが…やはり宮さまよりは見る機会も多いものですから。それにここは、北の海へ向かう主要航路のひとつですからね。海王類が目撃されるのはあまり良いことでもないのですよ」

「…ふうん?」

「"ここは人間の使う場所で、お前らが来ん方がええぞ"、というのを連中にもよくよく理解してもらわにゃならん、と言うことじゃ。どんだけお前さんにはかっこよく見えようとも、こんな狩りを四六時中やられちゃこっちが困るからのう。おい!砲弾は準備できたか!?」

「はっ!現在100発まで投擲も砲撃も可能です!」

 

口の端を上げたガープはその返事を聞くやいなや、ヨルムンガンドを片手に抱えていることもお構いなしに、差し出された大砲の弾をお手玉よろしく二度三度ひょいと放ってはまたキャッチして弄んだ。そうして嫌な予感がした部下が「中将、宮さまを下ろしてから投げてくださいよ」と言おうと口を開くより一瞬早く–––––老いた英雄は思いッッきり砲弾をフルスイングして投げていた。

 

 

ガープの腕に抱えられているヨルムンガンドには、その投擲の瞬間に、それでいて英雄と呼ばれる男の凄まじさが、五感の全てを通じてはっきりと理解できた。みちみち分厚い筋肉の束が盛り上がり、貯められた力が一気呵成に膨れ上がると、それが一瞬の内に肩から腕に、そして砲弾へと伝播し、ボッッッッ!!と冷たい空気を突き破りながら黒い弾は音を超えて空を疾った。

ついでに断っておくと、片手で抱き上げたヨルムンガンドの髪の毛をちょっと掠めてのことだった。

 

轟音を立てて、海面に姿を出していた海王類の体表にぶつかった砲弾は、派手な光と共に炸裂し、高い水柱と水蒸気が上がった。スコールのような勢いで水の粒が甲板を叩く。急襲した光と音に、揉み合って互いを食いちぎらんとしていた海王類たちはのけぞり、驚いたように軍艦に意識をやったことが分かった。ぐるり、と巨大な瞳孔がこちらを捉える。

 

しかし、英雄の代名詞でもある『拳骨流星』はその一発にはもちろん留まらず、体表や鱗を飴細工のようにちぎり取っていく砲弾の雨は容赦なく続き、ヨルムンガンドはこっそりとこの軍艦に取り付けられた砲台が無駄に綺麗な理由に見当がついた。単純に使っていないのだ。そりゃ、大砲より高威力で砲弾を投げられる人間がいるのなら、そちらを使う方が効率的ではあるだろう。

 

一発、二発、五発、十発、二十発………雨霰と降り注ぐ砲弾の数が、用意した分の折り返し地点にたどり着く頃には、一旦狩りを止めて軍艦に牙を剥いていた海王類たちもとうとう畏れをなしたように海中へと深く潜り、後には逆立つ波だけを残して姿は見えなくなった。

ふふん、と片腕に乗せたヨルムンガンドをガープは得意げに見た。

 

「どうじゃ?初の海王類見学は?」

「………す」

「す?」

「…………すっっごい!すごいすごい、かっこよかった〜!砲弾もすごいし、海王類があんなに近くで見れるなんて思わなかったわ!ガープ中将、ありがとう!」

「ぶわっはっはっは、そうじゃろそうじゃろ」

 

興奮しきりで、きらきらした灰色の目で己を見上げる少女に、ガープは満面の笑みだ。人間、乳歯しか生えてないような年頃の子供に褒められると、何とも嬉しいものがある。星の数より多くの賞賛を浴びてきた英雄にとっても、それはやはり同じことだった。

が、しかし。その後に続けられた言葉には、周囲の部下たちはおろか、歴戦の英雄すら困惑させる無理難題が付随していた。

 

「わたしも投げたい!ガープ中将みたいに砲弾、えいってしたいわ!」

「「「えっ」」」

 

––––––やばい。どうしよう。

甲板に出ている人間たち全員の感情が一致し、切実な感情の込められた視線が素早く交わされた。はっきり言ってヨルムンガンドの体重の5倍くらいある砲弾を持たせるのは危ないし、かと言って仮にも天竜人である彼女の願いを断るのは色々とまずい。後ろの方で控えてる世界政府の役人が「さっさとしろ」みたいな目でこっち見てるし。

お前がいけよ、いやお前がと意見の押し付け合いをアイコンタクトでガープの麾下たちはそれぞれ行っている。

海王類バトルを見せたのは軽率だったかもしれん、とガープが後悔しかけたところで、可哀想な部下の1人がおずおずと切り出した。

 

「…宮さま、この砲弾は中将が持つと軽そうに見えますが、実際には貴方様の体重より遥かに重いので、恐らくお一人で持つのは難しいかと思われます」

「そうなの?じゃ、投げられないのかしら」

「そう、ですね…ですので、中将に支えてもらうのはいかがでしょう?それでしたら投げているような気分、くらいは味わえるかもしれません」

「え、わし?」

 

と、言うわけで。折衷案として編み出された「なんかそれっぽく砲弾投げ気分を味わわせて誤魔化しとけ作戦」はただちに遂行された。

船縁に足台を乗せてヨルムンガンドがその上に乗り、身を屈めたガープが持つ砲弾に、少女がちんまりとした手を添える。冬の空気の中、外気で冷やされた鉄の塊は体温を吸い込んでいくような感触を備えていた。自力で持っているわけではないので重さは感じないが、未知の感触に喜んでいるヨルムンガンドはそれだけで大体満足していた。7歳の女児はこんなもんである。

 

「いいか、せーので投げるぞ。ええか?」

「ええ!大丈夫よ!」

「それじゃ、行くぞ…せーの、」

 

––––ここでふたつ、誤算があった。

まずは、両者の体格差を彼らが正確に把握していなかったこと。一応台の上に乗っていることで多少マシにはなっていたが、それでも3メートルを超える巨漢と、1メートルギリギリない幼女。その上、砲弾を投げるときには思い切り腕が振られてしまったため、台を持ってしてもガープの投球フォームはヨルムンガンドの肉体的な可動範囲を超えていた。

 

次に、ガープの動きで体勢を崩したヨルムンガンドが、そのままちょっと踏ん張ってしまったこと。2メートル差の動きについていけなかったとして、転べばそれで終わる話なのだが、少女が台に踏ん張ろうとし、逆に腕だけは砲弾に添えたままだったため、腕と体で相反するベクトルの負荷がかかったヨルムンガンド少女の腕は––––

 

–––––かこ、というような間抜けな音を立てて伸びた。要するに肩関節がすっぽ抜けたのだ。ここで話は冒頭へと戻る。

 

 

ヨルムンガンド宮の名誉のために詳細は伏せておこう。最終的に彼女の関節は元に戻り、大泣きしたことを心底恥じたが、学びはひとつだけあった。それは、関節は抜けるときより嵌めるときのほうがもっと痛い、ということだ。




ガープ(57)
初顔合わせ。天竜人の肩関節を抜いたのでついて来た役人に怒られた。ヨルムンガンドが26になってもまだこのネタを擦っている。まだ総白髪じゃない。

ヨルムンガンド(7)
間近で見る大怪獣バトルに興奮したが、肩関節を抜かれた。まだプリン頭じゃない。

海王類たち
イカの方は決めてないが、スイカっぽい鮫は『ウォーターメロガドン』という馬鹿みたいな名前がある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

間話その①突撃!隣(ではない)の白ひげさんち

アンケート結果、白ひげさんちにご挨拶が一位だったので。エースはまだ出てきてないけど番外編の続きを書いたら出します。あとずっと子供時代のヨルムンガンドを描いてたので、大人のヨルムンガンドの話し方を忘れそう。


 

「船影確認!そろそろ帆を畳んで速度落とせ!」

「「おう!」」

 

時刻はもうすぐ日も暮れだす夕刻、偉大なる航路には珍しい晴れ渡った空には、熟した果実のように糖度の高いオレンジの光が満ちている。金色がかった雲が紺色に覆われていく空を飾る中、落陽が沈みゆく空には巨大な筆で一筆書いたような光の線が、波に揺られながらも真っ直ぐ伸びている。それ以外には見渡す限りに何もなく、ただ暮れ方の空と海ばかりが延々と続いていた。

昼から夜へと移ろう、まさにその狭間にある海の上で、ふとそんな風に威勢の良い男たちの声が揃った。

 

一隻のガレオン船である。使い込まれてはいるが、きちんと手入れのされた歴戦の船体、ミズンマストに掲げた旗は太陽の印––––ただし、黒地に白い太陽。この海で黒色の旗を掲げる船の示すところはただひとつ、海賊である。この船もその例外に漏れることなく、世界政府が定めるところの海賊に、秩序を揺るがし略奪を是とするものたちの区分に入れられるものだった。

通称を『タイヨウの海賊団』。

構成員のほとんど全てを魚人族と人魚族が占め、奴隷解放の英雄・今は亡きフィッシャー・タイガーが立ち上げた海賊団である。

 

 

 

「よい、しょっと………」

種族の特性から海戦無敗を誇るその船の中で、今しも1人の若い魚人が忙しそうに行ったり来たりしていた。マスト付近では船の心臓でもある帆を古参の船員たちが要領よく畳んでいるが、未だ一味に加わって一年と経たない新入りはそのような重要な仕事は任されることなく、溜め込みがちな洗濯物を集めて回っている。

両手に合計4つの洗濯カゴ、その中にはこんもりと積まれた衣服の山々、いやもはや山脈と言うほうが正しいだろうか。

 

元来、海を自由に泳ぐことを得意とする種族だ。服など塩や水圧に耐えられればそれでよし、見目などにそう拘りを持たないのが常であり、ファッション的な機能を重んじた衣服の台頭など最近になって起こったことだった。

その上彼らは海賊だ。真水が貴重な船上では、種族としての癖と環境要因も相まって、タイヨウの海賊団では洗濯を怠るものは枚挙にいとまがなかった。

 

「おーい、おれの部屋も頼む!」

「分かった分かった」

廊下の両脇の部屋から次々に服を集めながら返事を返し、若い魚人の船員はあっという間に重くなったカゴを両手にふたつずつ持ってのろのろと廊下を歩く。

魚人族は比較的体格のよい者も多いため、纏う衣服もそれなりの大きさがある。それが何十人分と一気に集まってしまったため、流石の彼も一旦廊下の途中でよろけたところで、不意に腕が軽くなった。

 

「重そうね。手伝うわよ」

「お、ありがとさん……うおっジェイドの兄貴!?服投げんなよ!あとニーロ、テメェは早く出せ!洗濯するっつってんだろうが」

「もう一個持った方がいい?」

「や、大丈夫だ。洗い場までこのまま持っててくれりゃそれでいい」

見れば右側に乗せていた洗濯カゴがひとつ無くなって、それが少し小柄な誰かに抱え上げられているのが分かった。抱えたカゴにすっぽり隠れて顔は見えないが、この船で自分より背の低い船員は限られている。まだ少年のジャールか、女みたいに華奢なクリプスか……まあ誰かであろうと適当に考えて彼は部屋の中から飛んできた服をキャッチした。

 

「…ったくよお、親分も兄貴たちも揃って溜め込みやがって。ちったあ清潔を心がけろってんだ。エ?ひっでェ匂いじゃねえか」

汗のたっぷり染み付いた布地の匂いに、新入りの彼は若干苛ついていて注意力が散漫だった。普段ならここら辺で、『うちにこんな喋り方の奴いたっけ?』と気づきそうなものだが、彼は華麗にそれらをスルーしていた。

くすり、と同意の笑い声が溢れる。

「確かに。あんまり長く嗅ぎたいものではないわ」

「だよなあ…あっ、また裏返しで入れてやがる…」

 

ぶつぶつ言いながら、行く先々で洗濯物を投げ渡された彼らはやっとのことで個室の集まる区域から洗い場までたどり着くと、衣服の山々から一緒に洗ってもよいものを選り分けて洗濯機に入れ始めた。掃除されてはいるが、今暗くじめっとした洗い場には、全部で5台の洗濯機が置かれており、それぞれ分かりやすいように「毛糸」「色落ちしやすいやつ」「おしゃれ着洗い」などの張り紙がピンで止められているが、それも湿気で半分近くは滲み出していた。

 

どすん、と重たい音を立てて床に下ろしたカゴからそれぞれに当てはまるものを選別して放り込み、満杯になったら水と洗剤を投入してスタートボタンを押す。カゴを持ってくれた誰かも後ろ側の洗濯機(おしゃれ着洗い用)を使って作業を始めたらしく、しばらく洗い場には沈黙が下りた。

 

ごうん、と洗濯機の回る低く鈍い機械音と、水音だけが薄暗い洗い場に満ちている。

 

青年がちょうど2カゴ分の洗濯物を入れ終わり、一息ついたところで、後ろ側でもちょうど作業が終わったらしく、中腰から立ち上がる気配があった。

「……あら。そういえば、もう見えてきたのね」

「あ?………ああ。いつ見ても白ひげのオヤジさんたちの船ァ立派だな。ありゃご当人の器量に比例してると見たね」

「ふうん…」

洗い場にある唯一の窓からは、ほとんど夜に差し掛かった海と空、そしてその向こうに4隻の巨大な船団を見ることができた。

タイヨウの海賊団の乗るこの船も平均的なガレオン船より大きい方だが、波間から見えるそれらとは比べ物にもならない。取り分け、その4隻の中央付近にある白鯨を模した船ときたら、もはや船ではなく海王類かなんかではないかというほどのスケールだった。

 

–––––『四皇』、白ひげ海賊団。

 

偉大なる海路後半にその名を轟かす4人の海賊がひとり、白ひげことエドワード・ニューゲートをトップに据える巨大な海賊団である。視界の向こうで波に揺れている4隻はその中核を為すものだった。

すでに老境に差し掛かってなお、海賊王とシノギを削った男の伝説はすこしも衰えることなく海に響き渡っており、その威光も名声も未だ健在である。そしてタイヨウの海賊団にとって白ひげはただの伝説である前に、彼らの故郷・魚人島を長らくその威光の下守ってくれている大恩人でもあった。今日は久方ぶりに、感謝と交友のために彼らのもとを訪れる途中である。

 

「モビー・ディック号……噂には聴いてたけど想像以上ね。ああして海の上にいると、入道雲みたい」

「ハハ、なんじゃそりゃ!随分お可愛い喩え使うじゃねえか………んん?」

 

あれ?そういえばさっきから洗濯を手伝ってくれているやつ–––––顔を確認しなかったけどよく考えたらこいつ、誰だ?

野郎の下着を選別するのに集中していたから生返事をしていた彼は、ようやっとのことで違和感に気づいてその手を止めた。

“噂には聴いてたけど”ってなんだ。新入りの彼でもモビー・ディックにはもう何度も訪れているというのに、その言い草では初めて見るかのようだ。それにタイヨウの海賊団には船を入道雲に喩えるようなセンスの持ち主などいないし––––––何よりこんなに声の高い男も、女のような喋り方をする奴もいない。背中を伝う、冷たい汗。心臓がどくり、と嫌な音を立てた。

 

バッ!!!と慌てて振り返れば、謎の声の主は特に隠れる様子もなくこちらに歩いてきてきて、自然な仕草で洗濯カゴから毛糸の服を取り出し始めた。

 

根元が暗く色落ちしている金髪。淡い紫のサングラス。耳にじゃらじゃら付けているピアス。いつも着ているジャケットやスカート…は身につけていないが、間違いようもない。

洗い場の薄暗い室内で洗濯物を選り分けている女は、タイヨウの海賊団の恩義ある人間かつ揉め事のタネを持ち込む傍迷惑天竜人–––––ビヴロスト・ヨルムンガンドに他ならなかった。

小さな窓から差し込む最後の落陽を受けて、染めていない黒く長いまつ毛がうっすらと光っている。

 

融けた黄金に、濃いオレンジを一滴落としたような夕暮れ色。きらきら輝くそれを瞬かせた女はふと顔を上げると、絶句して動かなくなってしまった青年に、不思議そうに首を傾げた。その手に携えているのは、男物の下着である。

 

「あら、どうしたの。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして」

「み、みみ、み………」

「ええ、貴方もご存じの宮さまだけど」

「みっ、密航だァ〜〜〜〜〜!!親分、またこの人密航してきてやがるんだけど〜〜〜〜〜!?!? いつから乗ってたんだよ怖ェ〜〜〜!」

「あ、宮さまじゃなくてそっちを言いかけてたの?ややこしいわね、まったく……」

 

夕暮れのスナッパー・ヘッド号に、若い魚人の絶叫が轟いた。その声ときたらとんでもない声量の上に長かったので、束の間船の周りの魚は逃げ去り、青い水を湛えた海面はびりびりと震えて、それが静かになるまで随分と時間がかかることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ」

「ん?どうかしたか」

 

時間は少し進んで、モビー・ディック号の船上。

既に夕日も水平線の向こう側に沈んだ後、懇意にしているタイヨウの海賊団の船が横付けされ、顔を見せた久方ぶりの客人たちに白ひげの船員たちも賑やかな歓迎ムードに入っている。誰も彼もが騒がしく動き回る中で驚いたような声が上がって、船団の1番隊隊長であるマルコはふとその声の出所に目をやった。

 

声の主は古参の船員の1人である。日も暮れて、海のど真ん中特有の暗さの中、松明やオレンジ色の電灯ばかりが夜を彩る世界で、何やらぐぐっと眉間に皺を寄せてスナッパー・ヘッド号の方を睨んでいる。

 

「いやあ、今よお……あちらさんの船に女が見えた気がしてよ」

「何ィ!?!?」

「「女だと!?」」

船長の意向の下、少数のナースを除いて女のいない白ひげの船員たちはその言葉を聞きつけて食いついた。365日、どこを向いても野郎オンリーの環境は時に人をおかしくさせうるものらしい。マルコは呆れてため息をついた。

「アホンダラ、ジンベエんとこもウチと同じで女の船員いねえだろうがよい。どーせ髪の長いやつでも見間違えたんじゃねえのか」

「なんだ、つまんねえ…」

「解散解散」

「集合しろ!違えって、胸あったもん絶対。ありゃ女だ。それにジンベエんとこは女の船員はいねえが、あいつらたまに奴隷だのなんだのを故郷までわざわざ連れ帰ったりしてるじゃねえか。そういう奴かも知れねえだろ!?」

 

おっさんがもんとか言ってんじゃねえ、とは思ったものの、言ってる内容には一理ある。

天竜人の住まう聖地マリージョアから、全ての奴隷を解放した「英雄」フィッシャー・タイガーによって作られたタイヨウの海賊団は、徹底して奴隷制度への反感が強い海賊団である。奴隷とそうでないものを区別させないために船員たちは皆、奴隷の証である「天翔ける竜の蹄」に手を加えた太陽の焼き印まで入れているというのだから、その凄まじさたるや並大抵のものではない。

 

先ほどの言葉通り、マリージョア襲撃後に下界に逃げてきた奴隷の一部を故郷まで連れて帰ったり、途中までその手助けをしたりと彼らは一貫して奴隷たちの味方であり、その意志は道半ばでフィッシャー・タイガーが死した後にも受け継がれているし、その絶えることなき気高い志こそが彼らと白ひげ海賊団を結びつけている理由でもあった。

と、まあそう言う特殊な海賊ではあるので、どこかから逃げてきた奴隷なんかを船に乗せていたとしても納得できない––––ことはない。

そこまでして女でいて欲しい気持ちもあんまり理解できないけど。

 

そんなことをつらつらマルコが考えていると、今度はまた別の船員が声を上げた。

「あ、マジだ。女っぽいのいるな」

「どこだ!?」

「あそこだ、あそこ」

ずざざっと複数人が船縁に寄って集って、スナッパー・ヘッド号を覗き込んだ。マルコも仕方なしに近づいてそちらを眺める。

船員の指差す先、松明のみに照らされた暗闇によくよく目を凝らせば、確かに髪の長い人物が下っ端たちに混じって何やら荷物を手にしてじっと立っているのが伺えた。下世話な話をすれば、ボディラインが華奢にくびれているので女と言われればそれっぽく見えなくもない。

 

(しっかし、どっかで顔見た覚えがあんだがな……賞金首か?)

 

あ、ジンベエが荷物を取り上げようとしてる––––のを、さっと避けた。

わりかし慣れた様子で話しているところを見るに、奴隷ではなく知り合いなのだろうか。それにしてはジンベエは頭の痛そうな顔をしているが。

 

「金髪…ポニーテール…だよな?しかも若そう」

「最高じゃねえか!後で声かけてもいいかなァ………」

うっとりと女日照りで頭のおかしくなった船員の1人を茶化すように、下らない冷やかしが入る。

「親分に怒られちまえ!大体よ、ここは何でもアリの偉大なる航路だぜ……もしかしたらよお……あのおねーちゃんだって」

 

––––––カマバッカ出身かもしれないだろうが!

 

どっと低い声の爆笑が上がる。マルコもあまりのしょうもなさに思わずぶは、と笑い声を立てたところで、件の女性(?)の周りにいたタイヨウの海賊団のメンバーたちが連れ立ってタラップを上がり、モビー・ディックの方へと移動し始めるのが見えた。どうやらあちらの準備は整ったらしい。

 

 

 

 

「おう親分、久しぶりじゃねえか!」

「お前さんも久しぶりじゃのう…オヤジさんは息災のようで何よりじゃわい」

「元気だったかアラディン、まだ結婚してねえのか!?」

 

などなど。荒っぽい歓迎の挨拶の飛び交う最中、大柄な男の上に魚人族がほとんどを占めるタイヨウの海賊団に埋もれるような具合で件の女性(?)は立っており、さっきの騒ぎを聞きつけたのか、じろじろ見ている男共の視線に特にたじろぐ様子もない。

マルコも見物がてらジンベエに挨拶しようと近づいて行って、その時初めて件の女性の顔が間近で目に入った。

 

20代前半と見える、プリン頭の女性だった。多分、正真正銘の女だろう。カマバッカ出身……ではないと思いたい。それくらいに造形の整った、品の良い顔立ちをしていた。色褪せて根元の黒い金髪を低い位置でまとめており、ざっくりとしたアロハシャツとハイウェストのパンツに身を包んでいる。

かけている透明な紫のサングラス越しにも分かる、くっきりとした二重瞼の瞳がモビー・ディックのあちこちを興味深そうに眺めていた。

 

奴隷ではないな、とマルコはぼんやり思った。ああいう抑圧された人間特有の暗さがあまり感じられない。同時に海賊稼業に身を置く人間の、世に擦れた感じでもないように見える。立ち姿にどこか気品があり、隙がなく、多少の武芸に通じているのが分かる。一体、この女は何者なのだろうか。

 

「ジンベエ」

「おう、マルコさん。しばらく見んうちに男前ぶりが上がったのう」

「よせよせ、お前さんに世辞を言われたって嬉しかねェよい。さっきからうちの野郎共が騒いでて悪いが…そっちのお嬢ちゃんは新入り、にゃ見えねェな。どちらさんだい?」

 

マルコの問いかけに、ふらふらとモビー・ディックを見渡していた女の子視線が初めて定まり、目の前の大柄な男を見上げた。

ひどく静かな、吸い込まれるような不思議な力のある眼差しだった。

それがまた、すいと逸れてジンベエの方を向く。

 

「…さて。ジンベエ、この場合私は何と名乗るべきなのかしら。適当な身分でも名乗っておいた方が得策?」

細い声だった。眼差しとよく似た、嫋嫋と降る雨音のような響き。

「あァいや、さっき白ひげのオヤジさんには宮さまの上船許可をもらったからのう……マルコさん、前に話したかもしれんが…わしらが魚人島の移住関係やらで世話になっとる天竜人がいるという話は覚えとるか?」

「あ?ああ………結構前の話だよな。珍しい話だったから覚えてるよい」

 

魚人や人魚は、その希少性や人間側の抱く勝手な幻想により、奴隷被害の相次ぐ種族である。当然、奴隷に対する最たる加害者である天竜人への反感は、人間よりよっぽど濃く、重たい。そんな背景があるにも関わらず、魚人島に協力的な天竜人というけったいな存在と、それに世話になったというジンベエの表情が物珍しかったので、マルコの記憶にも残っていた。

 

『へえ。そんなけったいな天竜人もいるのかよい……天竜人と言やァ人間の肥溜めみたいな連中かと思ってたが、そうでもないのか?』

『どうじゃろうな…あの方や六梯席のお歴々が変わってるということは確かじゃが……わしもそう多くの天竜人と関わってるわけでもなし。まあ、天竜人の全員があんな風じゃったらそれはそれで困りもんじゃろうのう……」

 

その会話を思い出したところで、まさかな、と思ってマルコは目の前であんまり興味のなさそうな顔でボケっと立っているプリン頭の女を見た。視線に気づいて、ジンベエが重々しく頷く。 

 

「…………その、お世話になっとる天竜人っちゅうのが………このお人なんじゃ。わしも今回連れてくるつもりはなかったんじゃが、ついさっき船に乗ってるのを見つけてのう…」

「どうも。お世話をしてるという自覚はあまりないけど、天竜人のビヴロスト・ヨルムンガンドよ。以後よろしく」

「………………え?」

 

「「「え〜〜〜〜〜〜〜〜!?!???」」」

モビー・ディック号の上でその名乗りを聞いた全員が腹の底から絶叫した。天竜人。世界貴族。創造主の子孫であるというだけで、この世の全てを掌握する権利を有する、腐敗した権力者。その総称を、女はなんてことないように名乗っていた。

女がマルコに躊躇なく手を差し出す。お綺麗な顔に反して、骨張ってイカつい傷痕のある手が、昼のように明るい電灯に照らされて柔らかに光を跳ね返していた。

 

 

 

『宮さま、こっちの船で待ってもらうっちゅうことは……流石に四皇と天竜人が接触するとまずいんじゃありやせんか』

『大丈夫よ、前に万国に行った時もしこたま怒られたけどそれで済んだし……バレなきゃそれでいいんだから。それに、今回は白ひげの船に行くとは知らずに乗ったけど、どのみちいつかはご挨拶に伺おうと思ってたからちょうど良かったわ』

『そりゃあ、魚人島のナワバリのことで?』

『いいえ、別件よ。あそこの2番隊隊長にポートガス・D・エースというのがいるでしょう、ジンベエ、貴方が前に戦ったとかいう』

『もちろん、知っとりますが……何か関係が?』

 

 ・・・・・・・・・・・・

『––––あの子、私の弟なのよ。顔を見がてら、身内がお世話になってるお礼くらい言いにいかないとね』





ヨルムンガンド(25)
勝手にスナッパー・ヘッド号に乗ったり雑用手伝いをしている天竜人。アーロンが見たら憤死しかねない。今回は視察する国の近くまで乗せてもらおうと思って乗ったが、予定外に白ひげのとこに行くらしいのでついでに挨拶に来た。

ジンベエ
キレていい。海賊船をヒッチハイクしてくる天竜人だが、七武海に推薦したことも知ってるので文句があんまり言えない。「言ってくれたら乗せるっちゅうとるじゃろうが!!」とこの後怒った。

まだ見ぬエース
知らん間に義姉が来た。ヨルムンガンドとはエースが3〜10歳までの付き合いがあるため、1番遠慮のない兄弟関係がある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6.セカンド・ステップ、頭を垂れて

聖なる竜殺し編もあとちょっとしたらクライマックス。今回はあんまりヨルムンガンド宮は出てきません。


 

 

 

–––––がこん!

音を立てて扉が開くと、物凄い勢いで殺菌のためのガスが吐き出され、倉庫から出てきた人物がわずかに噎せこむ音が響いた。男は2度、3度と手を振ってガスの名残を振り払うと、足早に部屋の中へ向かって歩いてくると、あからさまに困ったという顔で椅子に座り込んだ。

痩せた白衣姿の男である。線の細く幸の薄そうな、いかにも研究者じみた風態ではあるが、日に焼けた肌と童顔気味の顔立ちが男の年齢を不明確にしている。白熱灯に照らされた、シャーレやファイルなどが雑然と並べられている部屋の中、男の纏うどこかくたびれたような空気は壮年のようにも見えるが、皺のひとつもない顔はもっとずっと若く見えた。

 

「相も変わらず辛気臭ェ顔してんなァ〜〜〜オイオイ今度はどうした!飼ってた金魚でも死んじまったのか、海王類オタク!?」

心底嫌そうな顔で、白衣の男は自分の部屋で勝手に居座るもう1人の男を見上げた。風船のように丸々としたフォルムのこちらは、白衣の男より幾分若そうに見える。ハリのあるむちむちとした肉(本人曰く筋肉らしいが)も眩しいグラサン姿の彼は、にやにやとした顔で男を見ている。

 

「あのねえ……人の部屋に勝手に入らないで下さいと何度も言ってるでしょう…うちの金魚はもうずっと前に君が改良したウイルスにやられて死んでるし…とにかく自分のラボに戻って下さいよ。クラウンと言い君といい、私のプライバシーを何だと思ってるんです……」

「ムハハハハ!アンタのプライバシ〜…?まあそこに無ければ…」

「………」

「どっかにあるンじゃね」

「どっちなんですか、それ!?」

 

疲れた顔で年下の同僚(?)に突っ込んだ白衣の男は、胸ポケットから取り出した煙草の箱から一本取り出すと、黙って火を付けた。白く濁った、ニコチン臭い煙が一筋研究室の天井に立ち昇っていく。

 

「全く…君たちと来たら…はあ………」

君たち、の対象に己があんまり含まれていないことを悟ったサングラスの男は、ははあんと訳知り顔をした。ついさっき倉庫から聞こえた野太い悲鳴からしても、多分そうだろう。

「またシーザーか?」

「ええ。私の専用冷蔵庫を漁ってました。彼いい加減に、海王類の細胞サンプルとか内臓からの抽出成分とかちょろまかそうとしてくるの、やめて欲しいんですが……実験用のラットや犬と違って海王類から採取するの、物凄く大変なのに……海楼石の錠前の購入を検討しないといけませんね」

「ムハハハハ!んで?シーザーの奴、どうしたんだ?さっき汚い悲鳴上がってたろ」

「え?ああ、海楼石の粉末入りスプレーを口から噴霧しときました。肺洗浄が終わるまでは静かにしていると思いますよ」

「…コワ〜…」

 

コイツ小市民そのものみたいな顔と性格の癖に、たまにやることがえげつないんだよなあとサングラスの男は内心でぼやいた。普段、この倫理観のない職場唯一の常識人です、みたいな顔をしてはいるが、白衣の彼は自分で思うほど性格は別に良くなかったりする。

 

 

––––ウートガルズ・J・ロプト。

海王類に関する分野の権威として名高い白衣の生物学者を、このとびきり危険で、常識外れで、良識や倫理など母親の腹の中に置いてきたような科学者しかいない兵器開発の場で見かけた時にはたいそう驚いたものだ。元は全く分野違いなこの研究所の長、Dr.ベガパンクと多少面識があったらしく、血統因子の研究に興味を持って籍を置いているとのことだった。

 

とは言え。彼はこの無法地帯では多少なりとも浮いていることは確かだった。島一つ滅ぼせる爆弾にも、血統因子を操作して強靭な生物兵器にも特に関わることはなく、あくまで海王類の生態をより深く探るため、あるいは遺伝的欠陥を持つ海王類の治療などの手段として血統因子を見ているせいだろう。正直、この研究所で表に出してもお咎めなしの研究してる奴など彼くらいのものである。

ま、別に彼が倫理観の欠如した研究に手を出していないのが、善性や科学者としての良識に由来はしていないのだけれども。

 

 

そういやよ、とサングラスの男は思い出したように、部屋に置かれていた小さな小包を勝手に手に取ると、ぽんぽんと玩具のように放り投げた。赤いリボンで飾られた、白い紙に包まれた柔らかな手触り。兵器開発の研究者にはまるで似合わない、大変ファンシーな雰囲気である。あとちょっといい匂いもする。

 

「これ………誰へのプレゼントだァ!?もしかして…」

「あ、ちょっと!やめて下さい!本当に勝手に触らないで下さいよ!」

「……もしかして不倫か!?不倫なのか!?身持ちの固い海王類オタクのくせによォ!」

「違いますって!娘ですよ、娘!誕生日が近いから用意したんです!私が不倫なんかするわけないじゃないですか!」

ロプトの言葉に、すん………と一気に静かになったサングラスの男が、ぽん、とロプトの白衣に手を置く。

「……美人か?」

「…黙秘します。君みたいな奴に娘の個人情報を教えるのは、ちょっと………」

「あァ!?おれァちゃんと女の子へのプレゼントにハートのペンダント贈るタイプの“FUNK”だぞ!!ナメんな!」

「一番要らないプレゼントじゃないですか!デート終わったら速攻売られてるタイプですよ!」

 

かくして研究室からは既婚者と未婚者の醜い言い争いがしばらく聞こえてくることとなり、あまりの騒音に怒り狂ったヴィンスモーク・ジャッジが怒鳴り込んでくるまで研究者たちのレベルの低い戦いは続けられることとなったのだった。

 

 

 

 

 

セカンド・ステップ、頭を垂れて

 

 

 

 

赤い土の大陸にあるレッド・ポートを出港して、はや6日。その、明け方のこと。

海兵たちの朝は早い。どれくらいかと言うと、うどん職人と同じくらい早い。訓練兵時代からラッパの音ひとつで瞬時に覚醒する習慣を骨の髄まで叩き込まれた彼らは、夜の見張り当番を除いて日が昇る頃には既に全員が身支度を整えて制服に着替えて、甲板で体操をしたのちに食事という極めて規則正しく健康的なルーティンをとっていた。

がやがや、わいわい。朝の食堂は健康的な喧騒と、ほんの少しの眠気の名残を振り払おうとするかのような声に満ちている。

 

「お?珍しいな、彼がこの時間に来てるなんて」

「誰だ?見ない顔だが……」

 

ガープの麾下の兵の視線の先にいたのは、食堂のカウンター付近で席を探すようにキョロキョロとしている年若い青年だった。海兵の制服とはまた違う、簡素な背広らしき服に身を包んだ大人しそうな雰囲気の男である。

尋ねられた方の海兵は、訳知り顔で口元を拭うとあっさり答えた。

 

「ヨルムンガンド宮の連れてらっしゃる、あー…奴隷だよ。つっても、あの方はほら、だいぶ気安くていらっしゃるし…彼も船内で好きに過ごしていいって言われてるみたいでな。それで昨日、荷運びを手伝ってもらったから話す機会があったんだ。いい奴だぜ」

「へえ……あー確かに、言われてみれば出港のときに見たような気も………」

「おーい、ヴィクター!席がないならこっちはどうだ!空いてるぜ!」

 

呼ばれた奴隷は、声に反応してすたすたとこちらへ歩み寄ってくると、初対面の海兵に軽く目礼をして空席に腰を下ろした。つられて海兵たちも頭を下げる。

まじまじ見るのは失礼かと思い、横目で海兵はちらりとヴィクターと呼ばれた青年を観察した。きちんと清潔なグレーの背広にネクタイを締めない白のシャツ、短く切り揃えたアッシュベージュの髪に縁取られた顔立ちは、少し疲れたような色こそあれど落ち着きのある端正さを宿していた。

 

「わざわざありがとうございます、ヘルソン中尉。助かりました」

「いや。にしても、君がこの時間に食事をとってるのは珍しいな。いつもはもう少し遅いだろうに……ヨルムンガンド宮は?」

「まだ寝ていらっしゃいます。こういう時は先に食事を済ませて構わないと申し付けられておりますので、今日はこの時間に」

「なるほどな」

 

奴隷らしくない青年だな、と海兵は考えた。身だしなみや言葉遣いが整っているし、こちらに対して過剰に怯えたり卑屈に振る舞ったりする様子がない。喉元についた首輪の痕を除けばそれらしいものなどほとんど無かった。奴隷というよりは、使用人や執事と言ったほうがいくらか近い気もする。

 

「そちらの方は……初めてお会いしますね。おれはビヴロスト家にお仕えしている奴隷のヴィクターと申します。以後どうぞお見知り置きを」

「こりゃどうも。おれはサヴィク、階級は少尉だ。そういやヨルムンガンド宮も天竜人なんだから、御付きの人間くらいいるわな。あんまり見かけなかったから、てっきりお一人で来たのかと思い込んでたぜ」

「おい」

全方面に失礼な言葉にヘルソンが同僚を咎めると、ヴィクターは微かに笑みを浮かべた。

「本当はお嬢様もそのおつもりだったらしいのですが……どうも世界政府のお役人さまに止められたと聞きました」

「へーえ…あの天竜人のお嬢様、やっぱり変わってンなぁ」

 

呆れ半分、驚き半分でサヴィクは肩をすくめた。

海軍に属してからそれなりに経ち、階級も上がれば天竜人と接する機会も多少出てくる。無論直属ではないので、警護の際遠目に眺める程度ではあるが、その距離でも四つん這いになった奴隷に乗っかり、人を人とも思わない扱いに平然としている姿から十二分に彼らの持つ異様なほどの権力や、それを振り回す横暴さは肌で感じ取ることができた。

それがこの船で、(今日は寝坊してるらしい)幼い天竜人と来たら…

 

(…連れてる奴隷もこんなんだし、なあ………)

 

同僚の世間話に時折相槌を打ちながら静かな表情でスープを口に運んでいる青年を、サヴィクはまたちらりと横目で窺う。今度は目が合って、そそくさと彼は視線を外した。

 

「ヨルムンガンド宮ってこう、誰かを連れて歩くのが好きなタイプじゃないのか?あんまり君と一緒にいるところも見てないし」

ヘルソンの言葉にヴィクターは軽く首を傾げた。

「さあ……1人でいるのがお好きなタイプ、というわけではないと思いますが……ご自宅ではお父様にべったりでしたし。でも」

「?」

「誰かを連れて歩く、と言うよりは奴隷が好きではないのだ、とは思います。あの方が奴隷を買ったりすることは一度もありませんし、この旅に連れてきたのもおれだけですし、“乗る”のもたいてい断っておられるので………」

言ってから、気まずそうな顔をしている2人の下士官の顔を見たヴィクターは慌てて「いえ、あの方がおれのような奴隷に辛く当たるとかそういうことではなくて。自虐でもありませんよ」と付け加えた。

 

「ただ単に、おれ達をどう扱えばよいのか戸惑っておられるのだと思います。お母君を見習ってごく普通の天竜人のようにするべきか、はたまたそうではないのか……」

–––––お嬢様も微妙な立場におられる方ですので。

 

青年はそう言うと、いつの間にやら食べ終わっていた素早く皿を片付けると、それでは、とまた一礼して席を立った。

なんだかあの大人しそうで地味な青年の口から、あの幼い天竜人の思いもよらない部分が垣間見えた気がして、2人はヴィクターが去っていった後もしばらく、顔を見合わせてコメントに困っていた。

 

少しして、艦内中を響かせるスピーカーからアナウンスが流れ出した。

『えー、艦内に通達、通達…………現在航行中の本艦前方10キロに島陰確認。目的地キングズ・セメタリー諸島と思われるため、艦内の海兵は推定1時間後に向けて上陸準備を始めるようお願いします……くれぐれも防寒対策はしっかりと…繰り返しま………zZZz』

 

無機質なアナウンスは不寝番のものだろう。寝不足のせいか、若干イラついたような声をしており、語尾が寝息に消えていた。

その内容に食堂に集まっていた海兵たちの視線が、示し合わせたように揃って前方の丸窓の方を向いた。たいして大きくもない、鉄に縁取られた丸いガラス窓の向こう、鈍色の空の下には確かに豆粒のような島の影を見ることができた。

 

–––––どんよりと。朝だと言うのに今にも落ちてきそうなほど重苦しい、雪の気配を潜ませた寒空と、北に行くにつれて暗さを増していく冷たい海。その中にただ、黙ったまま。

じっと窓を見つめるガープや部下たち、あるいは寝室でアナウンスに叩き起こされたヨルムンガンドの眼差しを気にも留めないで、ヨルムンガンドの父・ロプトがマリージョアに来る前に住んでいた土地、北の海は『キングズ・セメタリー諸島』が海の向こうにひっそりと佇んでいた。

 

 

 

「……雪、降りそうだな」

「そうだな…」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

––––キングズ・セメタリー諸島。

王の墓所、という仰々しい意味を持つ、この6つの島とさらに細かい小島が10ほどで構成された諸島は、意外にも王国であった過去はない。そもそもそれほどの規模でもないのだが。今も昔も冬季の厳しすぎる寒さによってまともな農業が成り立たず、緩やかな自治の下、近隣のいくつかの島同士で協力し合って穀物や労働力を融通しなければ島民が冬を越すのもやっとの不毛の土地だった。

王国制度がないのではない。身分差ができるほど富めるものがいないから、やろうにもできないのだ。

 

「……主な稼ぎは漁業。次に冬季に流氷目当ての観光業が僅か…そのため、漁業組合の長が実質の市長のような扱いですね」

「ほーん。で、何でそんな島の名前が王の墓、なんじゃ」

 

頬を打つ風は切り裂くように冷たく、吐く息は白く濁るどころか呼吸のたびにうっすらとした氷の粒が肌の表面に膜を作るほどの極寒。流石の健康優良児ガープも、分厚く着込まなければあっという間に冷えたミイラになりそうな気温の中、放たれた質問(同じことを聞かれたのは3回目)に部下は冷たい視線を送った。

船から降りるタラップも、長靴ごしにひんやりとした温度を伝えてくる。カンカンカン、と硬質な音が冬空に響いた。

 

「…現実の王族どうこうは関係ありませんよ。元々はシー・キングズ・セメタリーだったのが、初めの部分を省略するようになっただけです。つまり、ある特定の海王類がこの島を最期の場所にしてるんですね」

そこまで言った部下は、手元の地図を見ながらどの島かな、と首を捻る。

「確か北側にある島の湾岸エリアに流れ着くんだそうです。潮の流れが原因なのか、彼らが選んでここに来るのか…………」

「–––––さて。どちらかは私どもにも分かりかねますが、流れ着いてここで命を終える海王類の遺体に多くの小魚たちが群がり、それを食する魚を獲ることで我らの命も繋がれている……この島に住む者にとってはありがたい客人でございます」

 

ふと、潮焼けした声が、ガープの部下の声に続いた。見ればタラップを降りた先、少し離れた場所に似合わない正装に身を包んだ人間が集まっており、その中で最も年嵩と思わしき老人が頭を下げた。察するに先ほどの説明の中でも出てきた、諸島の運営を実質行うという漁業組合のものだろう。

ガープが老人に向かって手を差し出すと、歳の割に頑強な力で握り返された。老いても船乗り、ということだろうか。

 

「ようこそ、キングズ・セメタリーへ。このような辺鄙な場所に、尊きお客様をお迎えできること、たいへん嬉しく思います。ここの組合長をしているグレイヴでございます」

「おう。わしゃ海軍本部の中将やっとる、モンキー・D・ガープじゃ」

「『英雄』のお噂はかねがね、北の海でも伺っております……後でサインを頂いても?」

「ええぞ!」

「寛大なお言葉ありがとうございます。ところで」

元気の良い返事を貰えたところで、組合長はガープの後ろ側に停泊している軍艦を見て目を細めた。鈍色の冬空に眩しいところなどひとつもないのに、まるで光に目を焼かれたときのような仕草だった。

「件の天竜人さま……ビヴロスト・ヨルムンガンド宮は船の方に?」

「いや………」

 

ちょうど、ずべしゃ!という派手な音を立てながら、小さな人影が極寒で滑る道路に突っ込んだ。慌てて顔色を変えた周りの海兵や奴隷が助け起こすのを見て、組合長が「もしやあの方が?」と尋ねてきたのに対し、ガープは黙って頷いた。

「さ、寒い……いたい…やっぱり寒いぃ…」

「肩外れたときと違って泣かんかったな!偉い偉い、ぶわっはっはっは」

「ガープ中将!」

ずび、と鼻をすすった少女の顔は赤い。余計なことを言い出すガープを睨んでいる目はちょっとばかり潤んでいた。極寒と顔面から転んだ痛さでしばらくぶるぶる震えていた少女は、ふと自分に向かって跪いている島民に気づいて慌てて制止した。

 

「……あ、あの、あなた達はわたしに跪かなくてもいいの。だいたいこんなに寒いところでそんなことしたら、霜焼け?になるんでしょう。顔を上げてもいいわよ」

「これは、なんと慈悲深い言葉を………」

 

雪の付いていた地面から恐る恐る身を起こし、奇妙なことを言い出した天竜人の少女の顔をその時初めてまじまじと見た老爺はひゅ、と息を飲んだ。冬の透明な光に照らされた幼いヨルムンガンドの顔はあまりにも彼の知る父親とよくよく似通っており、それがどんなに残酷なことであるかも彼にはよく理解できた。

 

「?どうしたの?」

「い、いえ……何でもございません。ようこそキングズ・セメタリーへいらっしゃいました、ビヴロスト・ヨルムンガンド宮。このように遠い地までご足労頂き、ご尊顔を拝する機会を得ましたこと誠に光栄に存じます……この後のご予定はどう致しましょう。まずはホテルにご案内いたしましょうか。それともウートガルズ家の墓地の方もご用意出来ておりますが……」

 

つかの間きょとんとしたヨルムンガンドは、「ちょっと待って」とコートの内ポケットをごそごそと探って何やら手紙らしき封筒を取り出すと、それをあれこれ角度を変えながら睨むように目を凝らし始めた。細い眉毛がきゅっと寄せられていて、なんとも渋い顔をしている。

「ええっとね………………お葬式はなし、でパパの遺体をあの、アレするのはぁ…今から3日後だから、うん!墓地の案内は結構よ。それと…」

「それと?」

「……あのね」

ちょっと困ったような顔でヨルムンガンドは老爺を見上げた。結ばれた黒のポニーテールが、北限の地の血まで凍りつくような風に遊ばれて、ゆらゆらと揺れている。

「後でパパのご家族が住んでる場所に案内してくださる?渡すものがあるんですって」

 

  

 

 

 

 

 

 

木枯らしによって冷やされた、キングズ・セメタリー諸島北端部。もうすぐすれば流氷によって海面のほぼ全てが真っ白に染め上げられるその海の僅かに浅くなった部分に、船が暗礁に乗り上げたような形で体を横たえるものがいる。

船ではない。山のような–––あるいは海に沈んでいる部分も含めれば島そのものと変わらないような大きさの海王類だった。それが2匹。大きなものと、それの半分くらいのもの。後者は子どもだろうか。

外見としてはシャチに極めて似ているが、シャチとは違って眼球の周りを取り巻くように白い斑点があり、背鰭から体の半分ほどが黒いのに対して腹部が鯨のように線が入っているせいか、どこかタキシードを着ているようにも見える。

 

シャチに似た海王類の大きな方は、僅かに目を開けて小さな同族を見つめた。小さな方の海王類はとうに目を瞑り、ただ体を洗う波に身を任せて眠っているようにも見えたが、そうではない。

小型の海王類に群がってきた魚たちを散らすように、大きな方の海王類はその巨体をほんの少し、動かした。それだけで波の流れが変わり、海の王者の不機嫌を感じ取った小魚たちは慌てて逃げ出した。

ほう…と巨大な生き物は、口を開けて息を吐き出した。もうあと僅かで終わろうとしている長い長い生と重たい責務を憂いたように。疲れたように。あるいは懐かしい歌を、歌うかのように。

 

 

 

 

–––ひとつの長い戦があり、十の偉大なる魚が死に、百の島が沈み、千の高波が起こり、万の吹き荒れる嵐があった……

 

––––私は打ち寄せて帰らぬ波、流されて磨かれぬ海底の石、沈むことのない骸…

 

–––私は船を曳く栄光に与ることなき魚、しかし私は異なるものの潮路である……

 

 

 

北風は雪を運んでくる。キングズ・セメタリーはまもなく、長い冬を向かえようとしていた。何もかもが凍りつき、白い嵐がうねる遠い冬を。





在りし日のパパ
研究所時代。大体の研究員に舐められてる。小物で生ぬるい倫理観があるので、シーザーと反りがあんまり合わない。ジャッジとは世間話くらいだったらできる。ベガパンクの年は不明だけど、研究所の中ではかなり年上の方。

サングラスの男さん
あの人。クイーンより前の名前が分かんないので君で通してる。パパが奴隷になったと聞いてゲラゲラ笑った。

ヴィクターくん
奴隷。ビヴロスト家にはパパの浮気防止として男の奴隷しかいない。

お察しの通り次からパパの遺族とあれこれ。当たり前だが揉める。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7.右足踏みつけ、サード・ジャンプ

修羅場編。ホーミング聖とミョスガルド聖を分けたのは天竜人である内に、身をもって下界からの憎悪を学んでいたか否かだと思う(※個人の意見です)ので、社会貢献度の高い天竜人になってもらうべくヨルムンガンドも痛い目にあってもらいます。


 

『………手紙を届けて欲しい家族が住んでいるのは、港から見て西側の島です。オラフィア地区コートノックス通り3番街にあり、青色の瓦屋根が目印になるかと思います。そこの住人に、私の部屋の書棚の2段目右から15冊目の本に挟んでいる封筒を渡して頂けると嬉しく思いますが、もし転居していたらこのことは忘れていただいて結構です。万が一亡くなっていた場合、どうかその墓に備えてやって下さい』 

 

––––ロプトの遺書、一枚目の便箋から抜粋。

 

 

 

 

 

 

 

キングズ・セメタリー諸島到着より1日が経過した、午前。

ヨルムンガンドはお付きの政府役人と、ガープを始めとした海兵数人というさほど物々しくない程度の護衛をつれて父の遺言通り、父の遺族が住んでいるという家を探しに島を渡って移動している最中だった。役人からは天竜人がわざわざ出向くことは品位にそぐわないことで、遺族をホテルまで出向かせるべきだと散々言われたけれども、少女はそれを断って寒風吹き付ける冬の島に震えながら歩いている。

 

喪服の上から分厚い黒のコートを着て、同じ色のマフラーをぐるぐるに巻き付けてもなお、骨身を切るような寒さがしんしんと骨身に染み入って少女の体を凍えさせていた。

単純にヨルムンガンドはマリージョア近辺から出たことがないから、外界の景色を思う存分楽しんでみたいというのもあったし、その上ここはかつて父の住んでいた場所だ。それを思うだけでも両親の急死からこのかた沈んでいた心が、ゆっくりと躍るような気分になった。 

 

まだ雪は降っていないけど、今にも降り出しそうな鈍色の空の下、堅牢そうな石造りの家々がずらりと建ち並び、その軒先にはまだ生えたての水晶のような氷柱が伸びており、暗い色の屋根瓦にはキラキラした粉砂糖のような霜が降りている。見慣れたマリージョアの白い家とはまるで違う、寒さに耐え忍ぶためのずっしりとした実用的な重みが家々には備わっていた。つるつると薄い氷の膜が張り巡らされた道路の舗装の感触も、慣れてしまえばおもしろいものである。

 

「ここはとっても寒いけど、素敵な場所ね。昨日の夜も星がすごくきれいに見えたし……」

少女はうきうきと、滑り易い石畳を楽しげにスキップしている。

「埋葬が終わった後には、北側から流れてくる流氷と海王類も見に行かれるのでしたね」

「そう!見渡す限りに白い大地なんですって!アザラシやベルーガやシロクマもいるかしら……そうだ、そういえばキングズ・セメタリーはまだ雪が降ってないの?見れないのが残念……」

「恐らくはまだのようですが……もう間も無くでしょう。もしかしたら滞在中に降り出すかもしれませんね。マリージョアではもう、初雪を迎えられたのですか?」

聖地は海抜1000メートル以上という、下手な山地を越す高度に位置する土地である。当然、季節の移り変わりは下界とは異なっている。ガープの部下の問いかけにヨルムンガンドは首を横に振った。

「いいえ。この前、雨が降ってる途中に氷の粒になりかけたときがあったけど、まだ雪じゃなかったと思うわ」

 

–––そう、そうだった。ふと、ヨルムンガンドは空を見上げた。

ちょうどその冷たい雨の日は、母の遺骨を聖地の真ん中にある聖堂から散骨する日で、雨が降っていては散骨も難しかろうと、しとしと音を立てるそれが止むのを司祭たちと待っていた記憶があった。

ガラス窓の向こうで鈍色の空から落ちてくる水の粒をヨルムンガンドはぼんやり見守りながら家に置いたままの父の遺体は大丈夫だろうか、雨はいつ止むのだろうかとあてもなく考えていて、それで。

それで……きみ。さっきはとても良い弔辞だったね、まさかアングレアからこのような子供が産まれようとは……黒い傘をさした、雪のように白い髪をしたあの、作り物のように美しい人間が……

 

 

–––––ガープに会ったら、伝えて欲しいんだよ。

 

ここ1週間近く、葬儀や父の死、見つかった遺言書や急がしい旅路の用意などですっかり頭の端に追いやられていたその声が、耳の奥の方で蘇った。ひそやかで無機質な、宝石同士が触れ合うような声音。

「あ、」

と、間抜けな声がくちから漏れて、白く濁った吐息が冬の澄み切った寒気にとけていく。

「どうかなさいましたか?」

「そうだった!わたし、ガープ中将に伝言頼まれてたんだったわ!」

「わしにィ?誰からじゃ?」

 

唐突な言葉に、怪訝そうにガープは尋ね返す。天竜人の少女と、基本的に天竜人直属になることがない中将のガープなので、言うまでもなく両者はこの旅が初対面で、共通の知り合いなどいない。強いて言うならセンゴクがあたるかもしれないが、それなら本人が直接言えば良い話だ。この年で五老星がどうの、というのも考え辛く、ガープがはて、と首を傾げたところで少女はにっこりと伝言の主の名を口にした。

 

 

「ピグマリオン聖!この前、お母さまの散骨のときに初めてお会いしたのだけど、パパを故郷につれていくのよってお話したら、それならきっとガープ中将が護衛になるだろうからって仰ってたわ」

出てきた名前に老いた英雄がものすごい嫌そうな顔になった。

「…………あの人形野郎が…まーだ正気保って生きとるんか…」

「ガープ中将!不敬ですよ、口を謹んで下さい」

「ケッ、あんな趣味も性格も性癖も最悪な男に使う敬意もクソもないわい!」

 

政府役人の挟んでくる小言も何のその、ガープの口ぶりには珍しくはっきりとした嫌悪の情が篭っていた。海軍と世界政府の中でも天竜人嫌いで知られた英雄の、その悪感情の原因のひとつでもある男とは久しく会っていないにせよ、彼と関わってよかった思い出はほとんど無い。ガープの知る限りあの悪趣味な男の取り柄など、強さと知名度くらいである。どうせ伝言とやらとロクなものではないだろう、と予測したガープはますます渋い顔になった。

 

「ガープ中将、ピグマリオン聖とお知り合いなの?わたしみたいにどこかへ旅するときの護衛だったとか?」

「いいや。……まあ似たようなモンかもしれんが…もう随分前のことじゃし、つまらん話じゃ。……それより伝言とは何だったんじゃい」

「えっと、確かね。『初孫誕生おめでとう、ご祝儀いるなら言ってくれよな!』って!ガープ中将、お孫さん生まれたの?」

 

 

その、言葉に。少女の口を通して放たれた伝言が誰を指しているのかに気づき、ひゅっと喉の奥で嫌な音がするのを、ガープはどこか他人事のように受け止めていた。

––––相も変わらず。陶磁器のように生気の削げた、無性めいた人間の顔がガープの眼裏に像を結んだ。その顔が瞬く間にぱらぱらと移り変わっていく。

 

「……………おう。……少し前にな…」

「えっそうだったんですかガープ中将!?初耳なんですけど!?」

「おれもですよ!て言うか教えてくれたらお祝いしたのに!しかし相変わらず、あの方といいガラテア准尉といいマジで何でもご存じだよなァ……」

 

ガープの肝が一瞬本気で冷えたことをつゆ知らない部下たちがガヤガヤ騒いでいる。––––初孫。ガープが少し前に初めて抱き上げた、あの新しい命。南の海で、莫大な代償を払って生まれてきた赤子。バテリラの家の中で、そばかすを浮かべた女性が微笑んだ。

古馴染みの天竜人は、何をどこまで知って言伝てきたのか。

 

老兵の心中などまるで知らないと言う顔で、朝の鏡面のように硬く、冷たい風が騒ぐ一団の頭上を吹き抜けていった。歩く彼らの目的地、オラフィア地区コートノックス通り3番街はもう目の鼻の先にある。  

 

  

 

 

 

 

 

右足踏みつけ、サード・ジャンプ

 

 

 

 

 

父の遺族は、どんな人なんだろう。

それは遺言書を手に取って、父の部屋にある本棚から渡す手紙を抜き取ったときから、絶えずヨルムンガンドの頭の中に居座る謎だった。

ロプトの親……つまりはヨルムンガンドの祖父母のどちらかだろうか。あるいは父の兄弟や姉妹だったり?それなら少女の叔父や叔母になるのか。ともかく、ヨルムンガンドよりうんと年上で、恐らくはロプトに顔が似ていて……こんなに寒い島に住んでいるのだから、きっともこもこの格好をしているのだ。

 

箱入りの7歳の天竜人が想像できることと言ったらせいぜいその程度。その上遺言書のどこにも、手紙を渡す家族とやらが誰なのか、父とどう言った続柄なのか、どんな外見や性格をしているのかさえ一切書かれていなかったため、結果としてヨルムンガンドの想像は非常に曖昧で薄ぼんやりとしたものとなっていた。

 

(……どんな方、なのかしら)

 

ヨルムンガンドはほう、と息をついた。

父の家族。ヨルムンガンドとも血の繋がった、見知らぬ人々。遺言書を見るまで、その存在を考えることもなかったけれど……別に、ロプトはマリージョア生まれではない。あそこに連れて来られる前にも彼の人生はあって、別の場所で生活を営んでいたのだから家族くらいいてもおかしくはないのだけれど。

 

けれども、なんだか不思議な心持ちだった。ヨルムンガンドの家族はロプトとアングレアだけで、きっとそれは両親にとっても同じ話だと思っていた。けれど、そうではなかった。ロプトはマリージョアから遠く離れたこの地で暮らした時間があって、ヨルムンガンドたちとは別に家族がいて、死んだらそこに連れて行って欲しいと願っていた。

さみしい、ともまたすこし違う、じんわりとした冷たさが少女の心に触れる感触があった。

            

ぎゅっと、コートの内ポケットに仕舞い込んだ手紙を服の上からなぞる。便箋にしてはやけに硬く、薄い……ポストカードのような手触り。中身を確かめようと思ってついぞできなかった、父が家族に伝えたかった何かがそこにはある。

 

 

 

暗色の、代わり映えのない街並みがずらずら並び、それとは対照的に敷き詰められたオラフィア地区の大通りの石畳は明るい灰色をしていた。それが、鈍色の雲の隙間から漏れる針のような光を照り返している。

元来、漁船が獲ってきた魚の水揚げや卸売りを行う市場があるからか、人口の少ないキングズ・セメタリー諸島の中でも、この区域は比較的活気のある場所だ。大通りのずっと向こうにある市場からは、潮騒にも似た競りの声が聞こえてくる。

 

オラフィア地区の大通りは、市場から遠く離れていても特有のむっとした魚の匂いが鼻についた。呼吸のたびに刺すような外気の冷たさとともに、生ぐさい、生命が失われたばかりの臭気が嗅覚を刺激する。件の家はその大通りから少し逸れた、さびれた通りに位置していた。

 

   ・・・・

「……あらば家?」

「あばら家な。まあ、この規模の島では普通の家じゃろ」

「ずいぶん小さいのね……それになんか、こう、ぼろっちい……」

 

ガープがすかさず訂正した。ロプトの手紙にあった青い瓦はくすんでいて濃い灰色に近く、その下にくっついている石造りの家もところどころ欠けた箇所をセメントや申し訳程度のレンガで補修していることもあり、なんだかみすぼらしい。雪が分厚く積もれば、屋根が落ちてきそうなくらいの危なっかしさがあって、生まれてこの方豪邸しか知らない住むヨルムンガンドには、ほとんど犬小屋か掘立て小屋のようにしか見えなかった。

 

通り過ぎる風景として見れば特に気にならないが、人が住む場所としてはあまりに狭く、脆そうに思えてならなかった。

霜の降りた小さな前庭には、洗いすぎてくたくたになった洗濯物が干されており、玄関のポストには新聞が一部放り込まれたまま回収されている。住人の姿こそ未だ見えなかったが、確かにひとが生活を営む印が確かにある家だった。

 

「…ではヨルムンガンド宮、どうぞこちらでお待ち下さい。今私めが住人をお呼びしますので」

「!う、うん」

躊躇いなく家の前の階段を上がっていく黒服の役人が振り返ってそう尋ねたので、ヨルムンガンドはあわてて首を縦に振った。薄い胸の内で心臓がとくん、と高鳴る感触がある。

 

どんな人だろう。ヨルムンガンドと顔は似てるのかな。

パパが死んでしまったことを伝えたら、どう思うだろう。怒るかな、悲しむかな。少女だって父の死んだあとしばらく泣いていたのだから、多分まだ見ぬ父の家族だってそうなるだろうけど––––それでもヨルムンガンドのことを最後には歓迎してくれたり、しないかしら。よく来てくれたね、って言ってくれたりするかしら。

 

 

リンゴーン。呼び鈴が一度鳴り、微かに足音が扉の向こう側から聞こえてきた。ヨルムンガンドはそわそわと落ち着かなく足踏みし、それからふと横のガープの顔が目に入って首を傾げた。

(………あら?)

何だってこの英雄はこんなに怖い顔をしているのだろう。まだ年端もいかないヨルムンガンドにも何か『普通ではない』と分かるほど、ガープは険しい顔つきでじっと扉を見ていた。

初冬の淡い日差しに彩られた老兵の顔は、平生の明るさを少し失って、皺の一本一本に小さな影を潜ませているようにも思えるものとなっていた。

 

 

 

––––ガチャリ、ギイ…と短く軋む音がして、とうとう古ぼけた一軒家の扉が開くと、中から人影がひとつ現れた。

すかさず、役人が一歩階段を登って玄関ポーチに上がる。彼と比べると、中から現れた人間は猫背も相まって少し小さく見えた。

 

「初めまして。私は世界政府聖地担当をしている役人です。貴女がウートガルズ・J・アイノ本人で間違いありませんか」

きびきびした役人の口調に、鈍い仕草で人影が頷いた。

「ええ、はい…それは確かに私のことですが…」

 

人影は、女だった。猫背の上に俯きがちの顔が、庇に隠れてよく見えない。声は確かに年若い女のものなのだが、辛うじて見える焼けた肌やあまり手入れしていない黒髪、骨が少し浮くほどの肉付きや、荒れた指先がどうにも女を老けこませている。女は神経質そうな仕草で、洗いざらしの服を握り込んだ。ごう、と一筋吹いた木枯らしが、女のぱさついた髪を洗っていく。

 

一方でヨルムンガンドは何だかひどく拍子抜けしたような気分でアイノ、と呼ばれた女性をもっとよく見ようと背伸びした。てっきりロプトの両親や兄弟が出てくるのだとばかり思っていたが、幼い少女の想像より声がうんと若い。もしかしたら声だけ若々しい中年女性かもしれないが、それにしても父の親としてはありえないし、兄弟にしても歳が離れ過ぎているように思う。誰だろう。

 

              ・・・

(めいっ子……それともパパのいとこ?)

 

7歳の知識で思い至るのはそれぐらいだった。ヨルムンガンドも母も一人っ子なので、姪っ子も従兄弟もいないが、天竜人は割りかし歳離れた兄弟や親類に事欠かない。ヨルムンガンド自身、母方の又従兄弟とは30以上も離れている。

 

 

 

「現在、この島に天竜人の行幸があることは、貴女も既に聞き及んでいるかと思いますが……」

「………」

役人の言葉にはい、ともいいえ、ともつかない曖昧な仕草で首を傾けかけた女がふうっと何かに気づいて、僅かに顔を強張らせた。女の位置からはちょうど、役人の体に遮られて階段の下にいるガープやヨルムンガンドたちは見えにくい。その時になって女は後ろの集団に気付いたようだった。

 

「その天竜人ご本人様が貴女にご用事があると仰っておりましてね。わざわざここまでご足労頂いております。どうぞ、まずは尊き方にご挨拶を」

 

慇懃な言葉と共に、役人が半歩体を捻ってヨルムンガンドを手で指し示した。両者の視界を遮っていた彼が退いたことで少女は初めて、父の遺族である女の姿をはっきりと目にした。

 

 

––––よく、似ている。それが場にいる全員の感想だった。階段の下にいるヨルムンガンドと、階段の上からおずおずと覗き込み、それから降りてきて跪いた女の顔はそっくりだった。ヨルムンガンドの目はグレーで女の方は薄い茶色、肌も女の方が日焼けしているなど細かな違いはあるが、すっきり通った鼻筋や吊り目がちの二重、顔のパーツの配置はどうしようもないほど血の繋がりを証明していた。並べば親類だと一目で分かるだろう。女の歳は20より少し下程度に見えた。

 

女の方はヨルムンガンドの顔を目にした途端、あたかも雷に打たれたかのような表情になって、その顔からざっと血の気が引いた。中途半端に跪いた姿勢のまま、幼い天竜人を見上げて動かなくなり、ただ、口を金魚のようにぱくぱくともの言いたげに開け閉めして、やはり何も言わずにきゅっと引きむすんだ。日焼けした女の頬を脂汗が二筋、三筋と伝っていく。

 

ヨルムンガンドはと言うと、会う相手と自分は似ているだろうという予想はしていたのでそこまでびっくりすることもなく、父の手紙を渡そうとコートの内ポケットをごそごそ探った。

 

「……えっと、あの、こんにちは。わたし、ビヴロスト・ヨルムンガンドって言うの。わたし、ちょっと前に死んじゃったパパから『ゆいごん』を預かってて、ええと、それでね。その中で、ここのお家に住んでるパパの家族にこのお手紙を渡して欲しいって言われてるの」

「…………はい、……はい?」

「……あの、お手紙を渡す相手、貴女で合ってるかしら?」

 

鈍い仕草で首が縦に振られた。ほとんど痙攣のような微かなものだった。しばらく沈黙が続き、ヨルムンガンドも血が繋がっているとは言え初対面の平民に何を言えばよいか分からず、続く言葉も見つからなかったので黙って手紙を差し出すと、女は捧げ持つのに失敗したような仕草でそれを受け取った。

 

手紙を受け取った女が、震える手で何度か失敗しながら封筒を開ける。既製品ではなく、紙を糊で貼ってだけの簡素なそれが破られる、軽い音が冬の空に響いた。

やはりヨルムンガンドの予想通り、中は何か大きめの葉書のようだった。書かれた文字をなぞっているのだろう、なぞる視線が右から左に、左から右に何度か往復して、それから初めてヨルムンガンドの方をはっきりその瞳が捉えた。

 

少女とよく似た形の、飴色の瞳だった。口の端がひくり、とわなないて、女は唾を飲み込んでから今度は震えずに言葉を発した。ミルク色の吐息が冬の空気に融けていく。

 

「……父は…死んだんですか」

「……?えっ?」

 

それが誰の事を指しているのか分からず、頭の上にハテナマークを出したヨルムンガンドに変わって答えたのは黒服の役人だった。

 

「ええ。貴女の実父、ウートガルズ・J・ロプトは約2週間前に死亡しています。こちらのヨルムンガンド宮は奴隷である彼の遺言を寛大にも聞き遂げて、ここにいらっしゃっているのですよ」

 

–––貴女の、実父。貴女の実父。目の前で跪いている女の、父。パパと同じ名前のひと。いや同一人物。

ヨルムンガンドの脳内でそれらの言葉がぐるぐると周り、たっぷりと時間をかけて、時計の秒針が2周半するころになってようやく少女は理解して叫んだ。

 

「…!?えっ、えっ、ええええええ〜〜〜!?」

 

予想を飛び越えてきた父の家族の正体に、キャパシティを超えた幼子の声には一切の配慮というものがなかった。役人の言葉が正しければ、ヨルムンガンドとこの、アイノと呼ばれていた女性は父親が同じ、つまり異母姉妹ということになる(ヨルムンガンドはちなみに異母兄弟という概念は知っている。天竜人の家系には意外とたくさんいるからだ)。

 

ヨルムンガンドの家族は、ロプトとアングレアだけだったし、ヨルムンガンドの父はやはり彼だけだった。それと同じようにヨルムンガンドだけが彼の娘であると生まれてこの方疑いもなく信じ切ってきた。少女は天竜人にしては常識を持ち合わせた人間であったけれど、それでもかなしいかな、隔絶された世界で生きてきた彼女には致命的なまでに想像力が欠けていた。

 

 

父に自分たち以外の家族がいたとして、ヨルムンガンドは妻と子供以外の誰かであると思い込んでいた。だがら混乱しきりの頭のまま、深く考えないまま紡いだ言葉は彼女自身と同じように、配慮と想像力に欠けていた。そしてこの時のヨルムンガンドは一度口から飛び出した言葉を無かったことにならないことすら、知らなかったのだ。

 

  ・・・・・・・・・・・・・・・・

「…パ、パパ、わたし以外に子供いたの!?」

 

そしてヨルムンガンドは言った側からそれを深く後悔した。少女を見上げていたアイノの瞳の中で、澱んだ何かが沸騰するのが目に映った、次の瞬間。

 

 

 

––––ガツン!!!

衝撃もともに、およそ人体からするとは思い難いような音が少女の体の中で鳴り響き、目の奥で明るい色の火花が散った。ぶわ、と熱が鼻の中で広がるのが分かるのに一拍遅れて、生暖かい温度が鼻の下を伝い、それら全てが終わった後にもの凄い痛みが顔面を襲った。

殴られた。ヨルムンガンドがそれをようやく理解したのは、殴られた勢いのまま地面に尻餅をつき、コートの尻に水が染みてきてからのことだった。混乱と恐怖からか、生理的な涙が少女の目にぶわりと浮く。

 

 

「へ、うぶ…」

「……あ、あんた…」

 

空気が凍り付いていた。誰もが一瞬言葉を忘れたが故の静寂の中で、フッ、フッ、と獣のように肩を怒らせた女の呼吸だけがやたらと響いている。

天竜人が、殴られた。下界の人間に。よい結果にはならんだろうと予測していたガープでさえ、あまりの出来事に動きを止めていた。

 

「……ッふざっけんじゃないわよ!!!何が他に子供いたのよ!他に言うこともっとあんでしょ!?あ、あんた頭おかしいんじゃないの!!父さん連れてったと思ったら、し、し、死んだって、それでなんでヘラヘラしてるわけ!?何考えてんの!?」

 

辛気臭い、痩せっぽっちの女から出たとは俄に信じ難い、凄まじい怒声がびりびりと鼓膜を叩いて、ヨルムンガンドは人生初めて受けた憎悪の念に半ばぼうっとして、自分とよく似た異母姉妹の顔を見上げていた。彼女よりずっと高いところにある顔の中で、父と同じ色をした目がぎらぎら輝いている。

 

「……か、確保ー!!」

「もういい、撃て撃て!天竜人に暴行を加えた人間だ、血縁者とは言え撃って構わん!」

「ねえ!答えなさいよ!!あんた、」

「よさんか!銃をしまえ、子供の前だぞ!!」

「!?ガープ中将、ちょっと、」

「ヨルムンガンド宮!お怪我は!?」

「ヨルムンガンド宮!?」

 

 

一度の銃声、海兵たちと役人の怒号、心配してくる声、額に触れる手の感触。動き回る音。女の悲鳴にも似た大声。それらが渾然一体となって呆然と座り込むヨルムンガンドの脳内を霞ませている。

母に殴られたときとは比べ物にもならない痛みで麻痺した頭のまま、ヨルムンガンドはぼんやりと自分の鼻から落ちる赤黒い雫を見つめて、それから地面の向こうでくしゃくしゃになっている父の手紙に目をやった。

 

ロプトがヨルムンガンドではない娘に宛てた手紙。ノートの切れ端で作った封筒から覗く葉書が、冷たい地面に投げ出されて寂しそうに横たわっている。文字は遠かったけれど、不思議と読み取れた。

『愛する娘アイノへ、8回分のハッピーバースデーを込めて。君の父より』。それは確かに、ヨルムンガンドが一度も貰ったことのない、父から娘への誕生日祝いの言葉だった。

ぽたん、と鼻血が一滴、コートに落ちて暗い染みを作った。

 




またしても何も知らないヨルムンガンドさん
痛い目に遭ったが、流石に今回はお前も悪い。人死に2人が既に出てる異母姉と仲良くなれるかナ!?!?よく考えなくても遺族に悪いことしかしてない。

アイノさん
名前はフィンランド語で「唯一の」らしい。カレワラにもこの名前の女神がいる。8年前に誘拐同然で連れてかれた父親の訃報と最後のプレゼントが届いたと思ったら、父と誘拐犯との間に異母妹できてたので脳がやられてしまった。キレてもいい。

ガープ
ええ結果にはならんだろうなとは薄々感じてたけど、まさかノータイムで殴るとは思わなかったので反応が遅れた。しゃーない。

ピグマリオン聖
名前だけ出した後々の六梯席のメンバー。死ぬほど強い元騎士団員。個にして群、一にして全だけど性格が終わってる。某フラミンゴの親類。何でもは知らないが、知りたいことは大体知ってる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

フォース・ハイ・ジャンプ、初雪に寄せて

遅くなりました。断っておきますが、私は尾形百之介と花沢勇作の異母兄弟が大大大好きです。よろしくお願いします。


 

キングズ・セメタリー諸島の中で最も格式高いホテル、現在世界政府が貸し切り中のハップス・リーガロイヤル(築80年)の一室には、重苦しい空気が立ち込めていた。窓の外では相も変わらず、身を切るような寒々しい風が吹いているが、その北風の軽やかな足取りとは真逆の、澱んだ水のような沈黙。

その空気を生み出しているのは、テーブルに座る2人の男だった。

 

「あの方は神です」と、政府役人。

「そう言われとるな」と、ガープ。

海軍の英雄はその空気の重さなどまるで関係ないと言う様子で、煎餅をぼりぼり齧りながら答えた。白いテーブルクロスには細かい食べかすが散っている。とても汚い。役人はその呑気な仕草に更に怒りを煽られたようで、神経質にテーブルを2本の指で叩いた。

 

「そして、ウートガルズ・J・アイノはその現人神に危害を加えた人間です。即刻、議論の余地なく殺害する必要があり、我々の職責としてそれは許可されている行為です。止める意味は?」

「そりゃお前さん、」

ぼりっとまた一口。物を食いながら話すなという基本的なマナーを無視して、老兵は口の中の煎餅を見せびらかすように笑った。

 

「あの小娘は確かにまずいことをしたが、何も殺すほどじゃなかろう。こっちが島を出るまで牢にでも入れときゃいい。お嬢様が殺せと言ったわけでもあるまいし」

「中将!我々の責務は天竜人の意思を慮って行動することですよ、あの方に言われる前に先んじて殺しておくべきです。ヨルムンガンド宮とてそうお望みのはずだ。…だいたい護衛として来ておきながら、軍人でもない人間にみすみす宮様を殴らせた貴方にだって責任はあるのですよ。このことは元帥閣下にも報告させていただきますからね」

「お、そりゃ悪かったの。まさかいきなり殴るとは思っとらんかったもんで反応が遅れてもうたわい。スマンスマン」

 

 

世の中広しと言えども、英雄モンキー・D・ガープに止めることのできなかった拳はそうない。その数少ない例外はついさっき鍛えたこともなさそうな少女によって成し遂げられており、先刻からそのことでガープは役人にねちっこく責められているわけだ。

 

まあ、ガープとて幼い身空で鼻骨にヒビが入るほど殴られたヨルムンガンドを気の毒に思わないでもないし、役人が言っている理屈が海軍、ひいては世界政府でまかり通る正義であることくらい長年の海軍勤めで骨の髄まで叩き込まれている。

 

––––創造主の末裔である天竜人は神だ。

––––神に逆らうことは許されない。いわんや神に危害を加えることも。

 

 

そんなことは知っている。知っていて、気に食わない。聞けばヨルムンガンドの父は、ヨルムンガンドの母親に無理やり聖地に連れてられて奴隷となった男らしく、聖地に来る前には普通に家庭を持っており、それが先程ヨルムンガンドに殴り掛かったアイノという娘とのことだ。殺される寸前でガープに止められ、現在近場の留置所にブチ込まれている彼女のパンチは恨みの籠った激烈なもので、真正面から食らったヨルムンガンドの鼻にはヒビが入る羽目になっていた。

 

ガープとしては、アイノを殺すことには反対だった。殴られたヨルムンガンドに非はないし可哀想であるが、彼女がヨルムンガンドに恨みを抱くこと自体を否定はできない。ある日突然父親を奪われ、死んだと聞かされたと思ったら父と父を奪った張本人との間に子供ができていたと知った時、彼女は父との思い出全てを踏み躙られた気分にもなっただろう。

 

(そういや……)

「……あのアイノとか言う小娘、母親はおるんか?父親が聖地に連れてかれたのはええとしても、あんだけ騒いでも家から誰も出てこんかったな」

ガープの言葉に、役人が僅かに頷いた。

「ああ……彼女の母親でしたら……おや。お戻りでしたか、ヨルムンガンド宮。お体の具合はいかがでございますか」

むっつりした口調で役人が答えかけたところで、入り口の海兵たちがざわめく声がした。ふと彼が腰を浮かせると慌てて頭を下げたのでガープがその視線の先を追えば、鼻を大きなガーゼで覆い、脱脂綿を鼻の穴に詰め込まれたヨルムンガンドがよろよろと部屋に入ってくるところだった。

 

「…らいじょうぶ……あとちょっとしたら鼻血も止まるでしょうって、お医者さまが……」

明らかに大丈夫ではない。大きなガーゼの端っこからは青黒く変色した肌が見え隠れしてしており、鼻声と相まってひどく痛ましかった。

「おう、お嬢様。泣かんかったか?」

「泣いてない………」

「えらいえらい、よう我慢したのう」

ひっく、としゃっくりしながら答えたヨルムンガンドの頭をガープがわしわし荒っぽく撫でてやると、少女はちょっとイヤそうにそれを避けた。それで、ガープは思ったよりは元気そうなヨルムンガンドの意見を聞いておくべきだと思って、尋ねた。

 

「のう、さっきのことじゃが……お前さんを殴った奴がおるじゃろ」

「………、うん」

きゅっと口が窄まって、少女はこっくり頷いた。

「あの小娘は今、近くの牢屋に入れとる。処遇はまだ決めとらんがお前さん、あいつをどうにかしたいか?」

「…どうにかって……何を?」

「何でもじゃ。そうじゃな、殴り返したいとか、罰金とってやりたいとか、謝ってほしいとか。お前さんはそういう物事の一切を許されとる」

望めば、何だって。親類全てを殺せと命ずればその通りに、この島を更地にしろと命ずればその通りにできるだけの権力が、この少女には宿っているのだから。

 

 

ヨルムンガンドは青ざめた顔で、ガープから目線を外すと自分の靴の爪先をじっと見つめた。雪にも対応している革製のショートブーツは、キラキラと室内の電灯を滑らかに跳ね返している。

それから、幼い少女は蚊の鳴くような小さな声で呟いた。冬の風に晒されてすこしひび割れた唇が、拗ねたように尖っている。

 

「……そんなの、全然考えてなかったわ。パパの家族ならきっと、わたしが来たこと喜んでくれると思ったのに………」

「…………」

蓋を開ければこの通り、父の遺族には殴られるし、父にはヨルムンガンド以外の子供がいるし踏んだり蹴ったりだ。海兵たちも、その現実離れした夢を何と言ってやるべきか迷って口をつぐんだ。そこへ、役人がずい、と身を乗り出す。

 

「大変失礼ですが……ヨルムンガンド宮、私はあの女性の処刑をお薦めいたします。玉体に傷をつけた罰は厳格であるべきかと存じますが…」

その言葉にヨルムンガンドはちらりと顔を上げて、また俯いた。ふるふると、頭が横に振られる。

「………いい」

「しかし」

「……わたし。わたし、そんなことをしたくてここへ来たんじゃないもの」

ヨルムンガンドが呟いた言葉に、役人も言葉を失った。

「できれば仲良くして欲しかったし、叩かれちゃったのは痛かったけど……痛いことしたいわけでもないし……別に、罰とか……そういうのは無しでいいと思うの」

「じゃ、釈放か?」

「しゃくほう?」

ガープの言葉に、ヨルムンガンドが少し首を傾けた。まだがんぜない、幼子そのものの仕草だった。

「うちに帰してやるっちゅうことじゃ」

 

少女の視線が、つかの間宙を仰ぐ。少しして、首が縦に振られる。

 

「…………そうしてあげて」

 

かくして、神の沙汰は下された。ガープは一度、小さな頭をわしゃりと撫でてやってから、部屋を出ていった。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

「…おや。ヨルムンガンド宮はもうお休みに?」

「あ、ボガード大佐。お疲れ様です」

「お疲れさまです。あの方ならさっき浴場から戻ったきり部屋出てませんね。寝てるのかも。何か御用でもあったんですか?」

 

時刻は少し進む。場所は全館貸切になっているハップス・リーガロイヤルホテルの4階の階段である。今回のキングズ・セメタリー滞在期間中、この階だけは天竜人であるヨルムンガンドのみが宿泊する手筈となっており、役人や海兵たちが下の階に詰めて警護に当たっている。本来なら天竜人付きの奴隷は彼らと同じ階で宿泊するらしいが、ヨルムンガンドがそれを断ったため、4階は正真正銘1人の少女の貸し切り。なんともまあ贅沢な話だ。

 

そんな訳で、3階と4階を繋ぐ階段で警護に当たっている2人の海兵たちの元を、上官の1人であるボガードが訪れたのはちょうど午後9時頃のことだった。階段の窓からは冬島の夜らしい、すこんと抜けた星明かりが眩い夜の風景が広がっていた。

 

「いや、大したことじゃないんだが…さっきホテルのスタッフから食堂で落とし物があったとこれを渡されてな。流石に海兵の持ち物とは考え難いし、お年頃からしてヨルムンガンド宮の持ち物じゃないか、と思ったんだが」

「お?あ〜……確かに。あのくらいの女の子、こう言うの好きそうですよね。というかおれらみたいなむさ苦しい連中にはちょっと可愛すぎますよね」

「確かに、今ここ貸し切りですし。でもクマじゃないんだな…」

 

ボガードが取り出したのは、大人でも一抱えくらいあるカメの縫いぐるみだった。もっちりした素材に、淡いモスグリーンを基調としたカメはお子様向けのデフォルメが効いたものではなく、しっかり鼻やヒレの細部まで刺繍の入ったリアルなものだった。顔つきも中々迫力がある。その上に何故か、黒い毛糸のセーターを着せられているのでちょっとシュールだ。少なくともおじさんのボガードが持つには可愛すぎる縫いぐるみだった。

 

「おれらから直接渡して大丈夫でしたっけ。ガープ中将か、宮様付きの奴隷の彼呼んで渡した方がいいんですかね?」

「正式にはな。まあ見る限り、そんなことで気分を害するような方ではないだろうが……」

幼く気安いとはいえ天竜人。顔を突き合わせた海兵たちがちょっと迷ったところで、もう1人の下士官がいや、と首を横に振った。

「…や、でもほら宮様、朝っぱらからぶん殴られたり大変そうだったし、そーいう時は慣れた縫いぐるみが手元にあった方が嬉しいんじゃないですか?ウチの姪っ子とかもそうでしたよ。時間からしてもう寝ちゃうんでしょうし、チャチャっと渡してあげたら喜ぶんじゃないですかね」

 

その言葉に、3人の男共は顔を見合わせて「それもそうだな」と合意し、ヨルムンガンドの宿泊している部屋までぞろぞろ歩いて行った。フロアには彼ら以外誰もおらず、その僅かな足跡も厚い絨毯に吸い込まれてひどく静かだった。少女はフロアの1番端にある角部屋に泊まっており、代表してボガードが扉をノックするとぱたぱたと物音がしてから、「はーい」と幼い声が返ってきた。

ややあって。

 

「……はあい、どなた?……あれ、貴方たち……」

「夜分遅くに大変申し訳ございません、ガープ中将麾下のボガードと申します。先程ホテルのスタッフからこちらの縫いぐるみが落ちていたと渡されたのですが、もしや宮様の持ち物ではないかと思いまして伺った次第です」

「ぬいぐるみ…?」

 

開いた豪奢なドアの先、きょとん、と屈強な男たちを不思議そうな顔で見上げたヨルムンガンドは白いネグリジェに黒い上着姿だった。ほかほかと上気した顔は子供らしく薔薇色に染まっているが、その鼻頭にはやはり大きなガーゼがぺたりと張り付いている。

こちらの縫いぐるみ、と差し出されたカメを見て、少女はぱっと目を輝かせた。

 

「あっ!セーター!いないと思ったら…落ちてたのね、持ってきてくれてありがとう。これ、うん、わたしのよ」

「左様でしたか。スタッフから聞いたところによると、食堂に落ちていたそうで……宮様の持ち物が戻って何よりでございます」

(このカメ、セーターって言うんだ……)

(『タートル』ネックからか?そのまんまだな…)

 

下士官たちの感想はさておき、ヨルムンガンドは受け取ったカメを抱きしめてにこにこした。ボガードでも一抱えくらいあるので、当然幼い彼女には抱き抱えるのもやっとの大きさではあったけれど、その抱き慣れた様子から見るにお気に入りの一品らしい。その姿はなんとも年相応で、3人はこういうとこは天竜人も一般市民の子供も変わらないのだなあ、とちょっとほっこりした。

 

「……?ヨルムンガンド宮、もしや空調の温度などに不備などございましたか」

「?ううん。べつに、大丈夫だけれど…暖炉もつけてるし。どうして?」

「いえ、不備がなければそれで良いのです。北の海の夜は聖地に比べてかなり冷え込みますので……もし寒くなれば直ぐにお申し付け下さい」

「分かったわ、ありがとう」

「では。我々はこれで失礼します」

 

そう言って敬礼をした上官に倣い、部下たち2人も慌てて敬礼をしたところで、彼はふと思いついて閉まりゆく扉に声をかけた。普通なら腐敗した権力層のトップにそのような言葉をかけるなど思いもよらなかったけれど––––彼はこの船旅を通して、ヨルムンガンドの持つ人並みの善性をきちんと知っていた。

 

「おやすみなさい、ヨルムンガンド宮!」

その言葉におさない少女はすこし、びっくりしたようにぴっと目を開いて、

「––––ええ。おやすみなさい」

ちょっとはにかむように、柔らかい笑みを浮かべた。7歳の女の子が浮かべるに相応しい、たんぽぽの綿毛みたいな、メレンゲみたいな、ふわふわの、へにゃっとした笑顔。腕にはセーター(カメ)(ぬいぐるみ)をぎゅっと抱きしめちゃって。

ドアがバタン、と閉まる。そしてまた何故か開いた。慌てた様子のヨルムンガンドが口早に捲し立てる。

「あっ!そうだ、言い忘れてた!わたしすごい寝起きが悪いから、朝起こさないでね!わたしが自分で起きてくるまでドア開けたらダメ。分かった?」

「かしこまりました。………………全く。他の天竜人にやったら死んでたぞ、お前」

 

 

ドアが今度こそ閉まった後、ボカン、と一発殴られて、下士官の青年は飛び上がった。

「ってえ!分かってますって、やりませんよ!」

「まあまあ大佐、夜のご挨拶だって一応礼儀のうちじゃないですか。しかしまあ、天竜人にもあんな方いるんですねえ……旅の間も驚かされっぱなしでしたけど……いやーウチの姪っ子の100倍可愛い気あるなあ……」

などなどぐだぐた話しながら階段の警備に戻るべく廊下を歩いていたところで、部下の片方がボガードに尋ねた。

「そういや大佐、なんだってさっきヨルムンガンド宮に空調がどうの、なんて聞いたんです?部屋普通に暖かそうでしたけど」

「ああ、そのことか。宮様は先程寝巻きの上から外用のコートを着ていらしただろう。だから寒かったのかと思ったんだが……どうも違ったようだな」

「え?あー、あれガウンじゃなかったんだ…」

 

思い起こせば確かに、着ていた黒い上着は部屋用には多少ごつかった気がする。あれコートだったのか。風呂上がりで一瞬寒かっただけなのか、はたまた厚着するのが好きなだけなのか。あれ、そういえば––––

 

(あの方、髪の毛結んでたな)

 

にこにこカメの縫いぐるみを抱っこしている少女の頭には、黒いポニーテールが結ばれていた。寝る前なら普通、ほどいていそうなものだけれど。

結んでいた髪の毛。何故か着ていた外用のコート。それはまるで––––今からどこかへ出掛けてくるときのような格好にも思えた。

 

(……いや、まさかな)

 

ヨルムンガンド宮、寝るって言ってたし。頭を振って、浮かんだつまらない考えを彼は一蹴した。彼のその思い付きを攫うように、窓を叩く木枯らしの勢いは、夜の帳が落ちてから増す一方だ。ガタガタ、ヒューヒューと、想像するだけであの痛いほど冷たい風は、雲の足取りをも早め、月は束の間分厚い雲の向こうへと姿を隠した。

––––夜が、深くなって行く。

 

 

 

 

 

 

 

海兵たちが部屋を去って行った後、少しして。

ホテル4階の北側に面した窓がカラカラカラ、と微かな音を立てて開いた。途端に吹き込む血管まで凍り付きそうな風に、窓を開けた少女は身を縮めて震え上がったものの、思い切って窓の枠に足をかけるとそこから外をキョロキョロと見渡した。もこもこに着込んだ格好では大変動きづらく、ホテル周囲を警備する海兵たち全てを見ることは叶わなかったが、少なくとも1番気になる真下には現在誰もいない。そのことを確認した少女は–––天竜人ビヴロスト・ヨルムンガンドは信じ難いことに–––窓枠から暗い宙へ、えい、と身を投げ出した。

 

重力から切り離される感覚に、臍の下の方がぞうっと寒くなり慌てたヨルムンガンドだったが、予定通りに頑張って手を伸ばすと何とか硬い棒状のものに手が触れ、それをぎゅっと掴むと落下の勢いを殺すようにしてずりずりと、雨樋や壁に擦れながらスピードが落ちていく。その動きに従って、黒いコートにも埃の跡がくっきりついた。

少女の手袋に包まれた、ちいさな両手で握っているのは、ホテルの建物側面を這う雨樋の一本だった。何で出来ているのかは不明だが、少なくとも今のヨルムンガンドの命綱であることには変わりない。

 

5メートルほど勢いのままひんやりした管を伝ったところで動きが完全に止まり、そこからは猿よろしく手と足を使ってそうっと地面まで近づいて行き、足が届く範囲まで降りてくると、少女はぴょんと霜の降りた地面に足を付けた。足が空を泳ぐ感覚からやっと慣れた地についたことで、ほうとヨルムンガンドは大きく息を吐く。

 

全く、何ということだろうか。古今東西7歳でこのような脱出劇に及んだ天竜人はいないに違いない。このことを後から知った英雄に言わせれば、『あいつは26になっても似たようなことしとるんじゃ。7歳のころから性根が変わっとらんちゅうことじゃろ』とのことである。

 

ともあれ。世紀の脱出劇を終えたヨルムンガンドは微かに震えている足をさすりながら、額の汗を拭って出てきたホテルの4階の窓を見上げた。思ったよりずっと上にある窓からはひらひらとカーテンが木枯らしに舞っているのが見える。

 

(………あら?そういえば帰るときってどうすればいいのかしら………)

 

計画性ゼロで窓から出てきた少女は今更のように大事なことを思い出したが、『ま、登ればいいか』と直ぐに納得すると、警備の兵に見つからないようにそーっと、辺りを見渡しながらホテルの敷地外へと歩き出した。幼女はまあまあ身体能力が高かった。STB(流石は天竜人)、創造主の子孫は4階からの落下・脱出・登攀など余裕なのだ………いややっぱりこいつだけかもしれない。

 

 

 

 

そわそわして落ち着かない、とヨルムンガンドが自覚したのは風呂を出て髪を乾かしてもらっている最中だった。朝にすったもんだがあってから夜までホテルに閉じ籠りっぱなしだし、ヒビの入った鼻は痛い。本当はウートガルズ家を訪ねたあと、街の観光スポットを多少案内してもらうはずだったのに、どこへも出かけられていないし––––それに、ひとところに落ち着いてじっとしていると、あの、アイノから投げつけられた手酷い言葉や、憎悪で沸騰するような眼差しや……あるいは、自分の生まれにまつわるあれこれが頭をよぎってしまって、ヨルムンガンドはそれらを脳から追い払うのにずいぶんと苦労した。

 

–––パパはお母さまに無理やり連れてこられたんだって。

(どうしよう?)(どうもできないわよ)

–––『あんた、頭おかしいんじゃないの!?』

(どうしよう?)(ごめんなさいって言えばいいの?)(どうせ許してなんかくれないよ)

 

ぐるぐる。頭の中で声が渦巻いている。ヨルムンガンドにはどうにもできない、ただ思い悩むことしかできない物事が、どんどん増えていくばかりだ。食べられない料理が、どんどん上に積まれていって、押しつぶされた肉の汁がテーブルクロスにシミを作っている。

 

 

「………ダメダメ、ヨルムンガンド。そういうことは考えちゃダメよ」

ヨルムンガンドは手袋を嵌めた両手で、ぽむっと顔を叩くと山積みの問題から頭を切り替えた。そう、そうだ。ヨルムンガンドは頭をすっきりさせがてら、ちゃんとした"目的"があって部屋から抜け出したのだ。どうにもならない問題に頭を捻っていてはいけない。それに––––

 

(………きれい…マリージョアにいたときは、こんな風に1人で出歩くなんて考えもしなかったわ……)

 

少女の見上げる先、速い雲の流れに時折その姿を隠しながら、月がしらしらと冬景色を静かに照らし出している。霜の降りた土地、遠く灯りのついた街並みは、その輪郭を闇に溶かしており、ただオレンジの淡く暖かみのある光のみがちらちらと濃紺のしじまを彩っていた。痛いほど澄んだ天は、水晶の破片をばら撒いたような、強い輝きの星々がきらめいて、それはもう言葉で言い表すことのできないほど美しい夜だった。

 

ほう、とヨルムンガンドは白い息を吐き出した。鼻から息を吸うと、凍りつくような澄んだ空気が体内に侵入し、足の爪先は僅かに感覚がないほど冷え切っていて、結構な厚着をしてきたにも関わらず北の海の寒さはおかまいなしに骨身に染みるようだ。

 

こうやって美しい夜に、マリージョアではない場所で、1人で出歩くことができるのも今だけのこと。彼女のやんごとなき身分ではその方が正しいのだし。聖地に戻ればしばらくの間外出は難しいだろうし、母の跡を継ぐことも多いから忙しくなる。束の間の夜の冒険を心ゆくまで楽しんでおかなければ。少女はまた一息、両手の間に吹きかけてかじかんだ手を温めた。

 

 

 

 

さて。やんごとなきこの少女が、海兵の目を掻い潜ってまでホテルを抜け出してきたある“目的”とは一体なんであろうか。それを説明するためにはまず、彼女がついている嘘について述べておかねばなるまい。

ビヴロスト・ヨルムンガンド少女はこの旅の目的を、『父の遺体を、ウートガルズ家の墓地に収めること』と、海軍や政府には伝えていたが、これが実のところ全く違う。にも関わらず、少女は自分以外の誰1人にも真実を教えていなかった。実際の文面はこうである。

 

 

『(前略)そして私の遺体のことですが、◆月の満月の夜––––恐らく×日になると思いますが–––先述したキングズ・セメタリーの第1島(キングズ・セメタリーは6つの島が環状に連なっており、時計回りに数字が割り振られている)の岬から海に流して欲しいのです。島の北岸には私の研究所があり、ちょうどこの季節であれば海王類が流れ着いているのが目印になるでしょう。』

 

付け加えて最後の方には、

 

『また、海に流したということはできれば内密にしていただけると助かります。埋葬したい、と言えば渡航の許可は降りると思いますので、そこからできるだけ他の人の目には付かないよう、お願いします』

 

とのことである。ヨルムンガンドが嘘を考えたというよりは、父の謎めいた手紙の指示に従って思いっきり海軍と政府に虚偽を言っているのであった。ともあれ、手紙を読んでから7歳児なりに色々考え、頑張ってバレないように計画も立てた。あとは決行の日である明後日を待つのみ–––だったのだが。

 

ヨルムンガンドは父の遺族にぶん殴られ、観光は中止になり、寝付けない夜。どこかへ行きたいような、落ち着かない時間ができた少女はふと、思った。計画には下見が何より大事、とこの前本でも読んだし………遺体を流すと言う岬まで行ってみてもよいかもしれない、と。そんなわけでえっちらおっちら海兵たちの目をかいくぐって4階から降りてきた少女は、計画の目的地であるキングズ・セメタリーの第1島目指しててくてくと歩いているのであった。

 

 

 

歩きながら、微かな街灯を頼りに読んでいた手紙に何か透明なものが落ちてきて、ヨルムンガンドは何かしら、と思って触れた。途端にそれは水滴となって溶けてしまい、手紙に小さなシミを作った。もしかして、と顔を上げれば、やはり予想通り、ちらちらと細かな雪が空から舞い降りてくるところだった。初雪だ。夜になって気温が下がったことによって雪になったのだろうか。さらさら、ひらひら。淡い月の光に反射しながら、空と地面の間を落ちて行く白に、ヨルムンガンドは少しの間目を奪われ、そうしてまた、歩き出した。

 

少女の小さな夜の冒険はそんな風に、初雪の降る冬の夜に始まった。静かで、誰もいない、骨が軋むほど寒くて美しい、紺色の時間。ヨルムンガンドの人生の大きな転機であり––––同時に、破滅への第一歩であることなど、まだ誰も知らなかった。

 

 

 

 

 

ついでに、加えると。

ホテルのある第5島から目的地の第1島までは、島同士を繋ぐ橋を渡る必要があり、その合計距離なんと片道約8km、往復16km。とてもじゃないが冬の夜に7歳児に歩かせる距離ではない。生物学者でフィールドワーク必須、かなりの健脚だったロプトはここらへんの価値観が大分バカだった。のちのち振り返ってヨルムンガンドは言う。

 

–––私の父親、7歳児を過剰評価してたわね。私じゃなきゃ途中で死んでたんじゃないかしら、と。




ヨルムンガンド:往復16キロ歩いて普通に帰ってきて4階まで登った人。いやでもミョスガルド聖も鍛えてなさそうなのにクソデカ棍棒とか振り回してたし………生まれつき体が頑丈ってことで…

ロプト:シンプルにガバ計画を立てるんじゃない!!


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。