青い花の色 (朝吹)
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青い花の色 「おさな妻」番外篇
領主の若さまは、わたしと同じ年だときいていた。
紹介される前から、石造りの広間の端と端からお互いちらりと姿を見ていた。
同じ年。
だから何。
「同じ年なのだから仲良くするがよい」と若さまの父君は上機嫌だったけれど、わたしには興味がない。
晩餐までまだ時間があった。
わたしに城の付近を案内する役目を父親の領主さまから云いつけられた若さまは「分かった」と頷いた。内心「なんで俺が」と想っていそうな顔をしていた。
大人の思惑で動かされるのは鬱陶しいものだけれど、もう少し隠してくれてもいいのに。
わたしまで不機嫌になってきた。
いずれは領主になる若さまは領内のことならば大体わかるのだろう。この時間から巡れる景色のいい処といえばあそこやあそこだと独り言を云っていた。馬に二人乗りして私たちはお城から出た。二人とも黙っていた。わたしは男のほうから機嫌を取ってくるのに馴れていたし、若さまは元からそんなにお喋りではないみたい。
「名」
ふいに、若さまがわたしに訊いた。わたしは若さまの前に横乗りしていたからちらりと横を見るかたちになった。
「名まえなんだっけ」
「どなたの名のことでしょうか。若さま」わたしは云った。
「決まってんだろ」
若さまは手綱を握る手を軽くわたしの方にふった。
「他に誰がいるんだ」
無言でわたしは横を向いた。
「無視かよ」
若さまは唖然としていた。
わたしの名は簡単なものだし、「あれは誰だ」と男たちが訊きたがるのに、まるで憶えてないなんて失礼にもほどがある。
そういえばわたしも若さまの名は憶えていない。まあいいか。若さまで。さまも要らないか。若でいいや。
わたしは後ろを振り返った。お城はまだ大きく見えているしまだそんなに遠くない。馬は大人しいし、横乗りのままでもいけそう。
わたしは若を振り仰いだ。
「若。若は帰って。ここからは自分で行きます」
いきなり敬称略の呼び捨てか、と若が愕いていた。
「馬には乗れます。横乗りにも慣れてるの。この馬を貸して下さい。わたしは一人で散歩できますから」
「大丈夫か」
「大丈夫です」
わたしは頷いた。こういう馬は勝手に城に戻るから迷うこともない。
馬から降りた若は心配そうに見ていたけれど、わたしがすぐに危なげなく馬を歩ませはじめたから、振り返りながら帰って行った。
「おい」
かなり遠くから若に呼ばれた。本当にわたしの名まえを憶えてないんだ。知らない、あんなやつ。
「城が見えなくなるような遠くには行くな」
分かったというしるしにわたしは若のほうを見ることなく頷いた。
若の姿が見えなくなった。馬を進めていった。農夫たちはすでに家路だ。起伏のある畠には誰もいない。所々に樫の木がある。木々は空に黒い手を伸ばすようにして影になっていた。夕暮れの色に染まった薄むらさき色の無人の大地。雲ひとつない空には金貨のような星がもう出ている。念のために辺りを見廻した。誰もいないことを確認した。ここでならいいかな。
「大っ嫌い」
大声で叫んだ。馬がびっくりしていた。
「大っ嫌い。みんな死んじゃえ」
涙が落ちてきた。わたしは涙が流れるにまかせた。見知らぬ土地の夕暮れの中で思い切り泣いた。
変態じじいの嫁になるか、こちらの人質になるかの二択だったのだ。妾腹の子であるわたしには選べなかった。意地悪な親族や従妹の娘たちは「じじいの嫁になればいい」と云っていた。十代の処女しか嫁にしないことで有名なじじいで、数年経つと嫁を変えるのだ。変態じじいの次の嫁の候補としてわたしに白羽の矢があたっていた。
実家といってもそこはわたしの家ではなかった。かなりややこしい因縁の絡んだ妾腹の子だったから、居候みたいな感じで肩身せまく暮らしていた。
わたしの名を乱暴に呼ばれて小言や用事を云いつけられるたびに、わたしは自分のことが嫌いになった。誰かにわたしの名を呼ばれる時は嫌なことしかなかった。その名を愛情をもって呼んでくれたのは母さまだけだ。その母さまも六年前わたしが十歳の時に死んでいた。
辛かった。
わたしは見知らぬ土地の見知らぬ景色の中で涙を流して大泣きした。雪をいただく夕映えの山々が暮れていく中でもまだ光っていて、嫌味のようにそこだけ鮮やかだった。風景は良かったけれど眼に入らなかった。わたしはじじいに嫁ごうが人質として余所に送られようがどうでもよい娘だった。氷河と泥地のある実家の領地は荒涼と背中合わせだった。こちらのほうが景観が良いし緑もやさしい色をしていた。でもその時のわたしにはまるで眼に入っていなかった。
いざこざがあって、死人も出るような喧嘩もあって、仲が悪くなっていた二つの領土のあいだを取り持つためにわたしは此処に送られてきた。人質といってもそんなに大層なものではなく、形式的なものだった。
領主ご夫妻は親切だった。
「大昔からあそことはそういう関係で、諍いがあるたびに嫁を取って仲直りしてきたのだ」領主さまから説明を受けた。
わたしは妾腹の子だけど、なんとなく領主さまの言葉の端々から、このまま此処で嫁になってもいいようなことを匂わされていた。誰に嫁ぐのかといえば、あの若だ。
食事の席でその話が出た時に、わたしは無言で顔筋ひとつ変えなかったけれど、若の方は「え」という顔をしていた。
「メリー」
若に呼ばれた。憶えたんだ、わたしの名。
若はなぜかわたしを見ずに横の方を見ながら喋った。わたしは馬を引き出して散歩に行こうとしているところだった。厩舎の入り口に若がいて邪魔だった。
「ごきげんよう若」
邪魔だぞという意を込めて冷たく云った。
「若も馬なら、どうぞ」
片方に道をあけた。でも若は入り口から動かなかった。
「やめとけ」と若は云った。
わたしは若を見た。
「何をでしょう」
「遠乗りだ。やめとけ」
「どうして」
「とにかく、やめとけ」と云う。
「行くつもりでもう用意がすみました」前に進んだ。若は動かない。やがて云った。
「危ないから」
「それが何か」
いらいらしてきた。何が云いたいの。
「話が見えません」
「人質だし。女だし」
「はっきり云って下さい若」
「余計な面倒は最初から起きないに限る」
ああ、そういうこと。
わたしは唇をかんだ。
誰からも庇護されず冷遇されている居候の女ほど男たちから侮られて揶揄いの的になるものはない。国許でもわたしのことを妾腹の子と低くみる輩から、同じような目に何度も遭ってきた。さすがに半分は領主の血だから乱暴狼藉には及ばなくても、未遂だけならわたしは国中で一番そういう目に遭っている女の子かもしれない。
「だんだんお前が外に遠出しているのが領民の間でも噂になっている。石くらいは飛んでくるかもしれない」
毎日わたしは馬で長い距離を散策することで午後を潰していた。
そっかーとわたしは小首を傾けて、馬の首を撫ぜた。
「でもせっかく馬の用意をしたのです。外に行けると思っていたこの子も可哀そう。かわりに少しだけお城の敷地の中を散歩させてもよいでしょうか」
「そうしろ」
若はほっとしたようだ。
「若さま。ご親切にありがとうございます」
わたしは貴婦人がそうするように少し膝を折って若にむかって微笑んだ。ガキに通用するかどうかは知らないけれど、何人もの男たちが一瞬でわたしに優しくなってきた、とっておきの笑顔だった。
たっぷりある衣の裾を左右に流して前向きに鞍にまたがり馬を歩ませていた。いつものようにいつもの道を行くだけでいい。道行の半分ほどきた。そのうち前方に男が四人見えて来た。わたしの方を見ている。
こいつらだ。
わたしは馬を駈けさせた。「駈け抜けて」と馬に頼んだ。落馬したらどうしようと一瞬だけ想った。落ちてもいいや、どうなってもいい。
何もかもが大嫌い。
馬から落ちる代わりに反対側の茂みから馬に乗った男が出てきた。飛びついてきた男に手綱をとられた。あっという間に五人の男の手が伸びてきて鞍から引きずり降ろされた。
何となく勝手が違う。ここが、嫌がらせや揶揄いだけで済む国許ではないことを想い出した。一昨年のいざこざでは死人が出ていた。まだわたしの実家に恨みをもっている者が大勢いる土地なのだ。
大きな手がわたしの手首を掴み、別の手が口を塞いできた。
メリー!
私の名を呼んで若の馬が駈けて来た。
お城まではまだ距離があったが、若はここで休憩をすることにしたようだ。わたしを馬から降ろした後で、小さな花が咲いている叢の中に転がるようにして若はうつ伏せに倒れ伏した。手足を投げ出してしばらく倒れたままだった。やがて下を向いたまま若が云った。
「あそこまで芝居に合わせてくるとは」
呆れているのか怒っているのか分からない口調だった。
駈けつけた若は片腕を上げるとわたしを掴まえている男の顔面にいきなり馬の鞭を振り下ろした。過激すぎてわたしの方が愕いた。続けて騎乗の若はわたしの腕を掴まえている男にも鞭をふるった。すごい音だった。
男たちが農具や剣を持つ前に若は彼らに鞭を突き付けて怒鳴りつけた。
「当家がお預かりしている国王陛下ゆかりの貴き女人に何をする」と若は云ったのだ。
今なんて。国王陛下。
「こちらの貴女に乱暴をはたらこうとしたお前たちは国王の敵だ」
貴女ね。
男の手の下から這い出したわたしは若の許に駈け寄った。
「この者たちの今の非道な振る舞いを国王陛下に訴えて下さい」
お祈りの時のように手を組み、せいぜい貴女らしく馬上の若君を仰ぎ見てか弱くすがりついてみた。
「国王陛下の保護卿であられる公爵はわたくしの名親です。わたくしは陛下の姪も同然。陛下はきっと聞き届けて下さいます」
若の眼が「え」と云っていた。かまわず続けた。
「烏が三回鳴くあいだにその者の息が絶えるという嘆きの塔。この者たちを国王陛下の名のもとあの塔に収監させて下さい。陛下の保護下にある婦女子を穢したものを国王陛下は決して御赦しになりません」
どうせ何を云われているのか分からないのだ。適当に云った。国王陛下だけは繰り返しておいた。息ぴったりの三文芝居だった。国王の名が出てきたことで男たちは慌てて逃げ去って行った。
「公爵までとび出してたぞ。あれは一体なんなんだ」
「ごめんなさい」
忠告を無視して迷惑をかけてしまった。先刻のことにわたしはまだ動揺して少し震えていた。本当に怖かった。わたしは叢にうつ伏せになっている若に云った。
「若のおっしゃるとおりでした」
「つんつんしてるお前でも一応、男に謝ることはできるの」
「お礼も云います」
「ではどうぞ」
「危ないところを助けて下さってありがとうございました」
「どういたしまして」
うつ伏せに倒れたまま若はぶっきらぼうに応えた。わたしの乗っていた馬は暴漢に愕いて何処かに逃げてしまっていた。若と二人乗りでここまで帰ってきたのだ。
わたしは傍を流れる小川に下りて行って、透明なきれいな水で手を洗った。顔も洗った。男たちが触れたところは全て洗い流したかった。若は何で分かったんだろう。
「あの笑顔は絶対にあやしかったからな」
寝ころんだまま若はじろりとこちらを見上げた。
「お前が俺に対してあんなに愛想がよかったことはないからな。女がああいう顔をする時は必ず何かとんでもないことをやるんだ」
あらそう。領主の息子として大勢の人間は見てきたということだろうか。
「若は何歳」
「お前と同じ。十六になったとこ」
そうだった。
「人質とか脇腹の子とかそうことはどうでもいいから」
やがて若は身を起こした。起き上がった若は小川で水を散らしながら顔を洗った。人質とか脇腹の子とかそういうことはどうでもいいから。その後に何か隠れている気がしたけれど、若は云わなかった。代わりに別のことを云った。
「今の男たちはうちの領民ではなかった。あちらも俺の顔を知らなかった。最近国内にあの手のが多くなってるんだ。ああいう流浪人には最初に大きく出た方がいい。こっちが若造で単騎だったしな。後で父上にも報告しておく」
話がそうなると、もうわたしの口出しすることではなかった。
「メリー。ちょっと来い」
呼ばれた。前から想ってたけどちょっとこの若さまは傍若無人で無遠慮だ。次代の領主だからこんなものなのかな。女の子に対してわざと雑に扱って気を惹こうとしている感じでもないから、これが彼の自然体なのだろう。悪い感じはしないけど、ちょっと来いなんて云われたの初めてだ。男の子扱いみたい。
「お前に三つ云いたいことがある」若は云った。
三つもあるんだ。
助けられた恩もあることだし、お世話になっている領主の息子だし、一応わたしは衣の裾を整えて若の前に横座りして手を膝においた。
「きいとけ」
「はい」
なんで偉そうなの。
「これから遠乗りは俺と行くこと」
まあ仕方がないか。わたしは頷いた。
「はい」
「俺と一緒なら問題はほぼ解決だ。次だ。大っ嫌いみんな死んじゃえ。畠のど真ん中で叫ぶな」
あれ。
わたしは首を傾けた。あれ?
「聴こえてたから。俺、後ろにいたから」
城に帰るふりをして、隠れながらわたしの跡をつけていたのだという。
さすがに顔があかくなった。恥ずかしい。あれを全て見られてたとか死ねる。せっかく普段、気を張りつめて淑女らしくあろうとお澄まししているのに。台無しだ。
「あんなの誰かに聴かれたら何かと想われるだろうが。大泣きしてるから出るに出ていけず、すごく困ったぞ」
ちょっと耐えられない。今すぐそこの川に飛び込みたい。
「メリー。最後の一つだ」
まだあるんだ。
「もういいです」
わたしは耳に手をあてて聴こえないようにした。勘弁して。せめて明日にして。顔がまっかになっているのが分かる。確かにあれはない。あんな醜態を男の子に見られていたとは。わたしは俯いた。やめて。
「若。わたしが悪かったです」
「駄目だ。きいとけ」
なぜか若も必死だった。あまりにも様子がおかしい。わたしは耳から手を離した。
わたしは嫌われ者だった。
因縁の絡んだ妾腹の子だったからだ。いつも云われた。あの子はあの母親の子。
誰かがそう囁くと人はさーっとわたしの周囲からいなくなった。
男の人はわたしにまあまあ優しかったけれど、かなり下心ありだった。物陰に何度も引っ張られていった。領主の子だと分かると解放されたが、でも妾腹の子だろ、と捨て台詞がついてきた。
正嫡の子たちより上に立たないように、この世で一番の嫌われ者だと小さな頃から何度も云われた。わたし以上に嫌われていた母さまが死ぬとさらに云われた。
メリー。そう呼ばれる時はきまって、彼らがわたしにこの世で一番の嫌われ者であることを教えようとする時だった。
それがわたしのあだ名だったのだ。
実家に誤解があるといけないので云い添えるが、いいひとも沢山いた。ただわたしの母さまが人に後ろ指をさされるような形で領主さまと結ばれたので風当たりがきついところはきつかった。
この世で一番の嫌われ者。なんだかすごい。愛されてはいけない烙印のようだ。
「そんなに痛くないから」と私は云った。
若がわたしの腕を気にして見ていた。若が暴徒の腕に振り下ろした鞭がわたしの腕も少し掠めていたのだ。後で冷やしておこう。
帰り道は夕陽と一緒だった。長い影が土の道についてきた。
例の、性欲衰えぬ処女好きの妄執じじいが、執念で再度わたしを新妻に欲しいと云ってきたらしい。それが三つ目の若の話だった。
こちらとの関係も落ち着きを取り戻していた。わたしが此処にいる必要はなくなっていた。元々そういう話だったのだ。実家は承諾した。わたしは、変態じじいの嫁にされることになったのだ。
「あまりいい噂をきかない」
若は云いかけて口を濁した。
変態じじいの許に嫁いだらわたしは変態じじいの許でおかしな恰好をさせられたり、じじいを風呂で洗ったり洗われたりするのだろう。十代の処女を妻に迎えると室から出さずに暮らさせるという話だった。
畠のど真ん中で泣けないのならば、わたしは何処で泣けばいいのだろう。城に居れば何処にいてもひと眼があるのだ。これからは遠乗りに行く時も若が一緒だから外で泣くわけにもいかない。笑えば男に媚てると云われ、怒ればほら性格が悪いと云われ、楽しめばそんな資格はないと云われ、哀しめば嘲られて喜ばれた。ついに泣くことも出来なくなってしまった。
わたしが編み出した方法は室に誰もいない時に口を半開きにして呼吸しながら涙を流すことだ。これだと音があまりしない。餌を欲しがる魚みたいな姿だ。でもこうしないと少しでも口を閉じると嗚咽が洩れてしまう。油断していると苦しい呻き声を出してしまうから自分で何とかしなければならなかった。どうせ変態じじいの城に行っても何度も泣くことになるのだ。今から習得しておけば何かの役にたつ。
遠乗りには必ず若が附いてきた。若さまが一緒だと領民は若さまに対してお辞儀をするだけで、仮に内心でおもしろくない感情を持っている者がいたとしても、わたしに対して露骨な態度を取る者もいなかった。
「市場に行ってみるか」
若に云われて歓んで附いて行ったら、若は泥棒をしていた。勝手に屋台からひょいひょいと物を取るのだ。
蜂蜜水だの焼き菓子だのをわたしの手に渡してくれながら、「俺の家の領地のものは俺のものだから」と若は事も無げだった。
盗ってるといっても微々たる量だし、向こうからも「若、今日の出来栄えをみて下さい」とにこやかに渡されるし、これでいいみたい。
かと想えば、ちゃんとお金を払うこともあった。値の張るものや貧しい人のお店にはお金を払っていた。
「欲しいものがあれば云えよ」と若が云うから、砂糖漬けの生姜を食べながらしばらく悩んでいたら、「遅い」と云われて帰ることになった。
遠乗りだけでなく、若と一緒に洞窟探検や、川で釣りもした。焚火を熾して釣った魚も食べた。
「男が刺繍や機織りに誘うわけないだろ」
若は男の子が遊ぶようなことにばかりに誘ってきたが、わたしは楽しんでお付き合いをしていた。朝早く「メリー!」と窓の下から若が呼んで誘いに来るのだ。たまには「メリー今日俺いないから」とだけ断りに来る時もあった。そんな時の若は父親の領主さまと一緒に何かの用事で出て行った。少しずつ簡単なことから若が領主代行を任されていた。一度「今日は伯爵ご夫妻に逢うんだ」と云って国王から領地を拝領した辺境子爵家らしいきれいな衣裳を身につけていた。釦の数と麗糸のひらひらに若は文句を云っていたが、少し粗野なところがかえって引き立っていた。わたしがふざけて差し出した片手に、「めんどうだな」とぼやきながらも、次代の領主さまはまずまず合格点をあげられる所作で貴婦人への接吻してくれた。
若が男友達と大勢で遊びに行く時もわたしは蚊帳の外におかれた。べつに逢わせて欲しいとは想わないけれど、紹介くらいはしてくれてもいいのに。
「それは駄目だ」
若はびっくりしたように云った。
「誰かがお前のことを好きになったらどうするんだ」と応えたから、わたしの方が愕いた。
森の中のせせらぎを渡る時に若が手を差し出した。はだしになって水の中の冷たい丸い石を踏んだ。
「若、ちいさな鳥」
「あれは鶺鴒」
水面のさざ波に小さな光がたくさん集まっていた。空から落ちて来た星屑を踏み分けているようだった。
若の後について渡りきると、若がわたしの顔の横の髪を指に巻き付けてきた。お返しにわたしも若の髪を指につまんだ。そのうちどちらともなくお互いに顔を寄せて軽く口づけした。この程度のことは同じ年の子たちの間でたまにある挨拶だから気にもしなかった。一瞬だけ。他の男の子たちともやっている遊びみたいなものだ。なのになんとなく、いつもと違った。わたしたちは十六歳だった。
帰り道、小さな子どもたちがお花がいっぱい咲いている野原で駈けまわっていた。変態じじいのお城に行けば、わたしは奥方として髪を結い上げ、ほとんど城の外に出ることはなくなる。若と遊んでいるこの日々は後からとても大切な想い出になるだろう。少女時代の最期が過ぎていく。
生まれ育った土地は領土の三分の一が氷河と泥土だった。夏でも冷たい泥土からは時々、死骸が見つかった。
今でこそその風習が絶えたが、何百年もの昔からそこは処刑地だった。罪人を縛り生きたまま泥に埋めるのだ。冷たくひえた泥の中で遺体は腐らずに、生前の面影を色濃く残したまま半分凍って発見されてくる。
ある時、若い娘の遺体が掘り起こされた。
服装から二百年くらい前のものだといわれた。髪を短く切られていた。赤い衣をまとい、針金で両手と足首を縛られていた。
赤い衣を着ているから姦通罪だと物知りの老人が云った。
わたしとあまり歳が変わらないような若い女が、妻子ある男性と通じて、泥の中に生きたまま埋められたのだ。
この世で一番の嫌われ者。そう呼ばれるたびに、わたしの脳裏にはあの若い女の姿が浮かんでいた。
泥の中から見つかる遺体は不思議なほどどれも静かな顔をしていた。泥があまりにも冷たいので眠るように死ぬのかもしれない。
針金で手足を縛られた女の顔も眠るようだった。優しい想い出に誘われるように、かすかに微笑みを浮かべていた。切られた髪や着せられた赤い衣からは当時の人たちの女に向けた罵声や怨嗟の声が響いてくるようだったけれど、若い女の遺体はただ静かなだけだった。この世で一番の嫌われ者にもそんな安らかな終わり方があるのだと想うことは、けっこうわたしの慰めになった。
わたしがこの世で一番の嫌われ者になってしまったのは母さまが早くに亡くなったことのとばっちりのようなところがあったけれど、母さまが云われていたことを云われているのだと想うと母さまと繋がっているような気がして、通りすがりに何か云われてもあまり気にならなかった。
若い女はきっとひとりきりで死んだのではなかった。愛を抱えて死んだのだ。わたしの母さまのように。
実家に一度戻ることすらなくわたしは若のお城から嫁に行くことになっていた。嫁ぐまでもうあまり日数がなかった。領主夫人から心づくしの贈り物までいただいて、覚悟も整ってきた。
「今のうちにやりたいことがあれば云え」と若に云われた。
或る日、若に一つだけお願いしてみた。前からやってみたかったことだ。馬鞍の後ろに乗って手綱を握る若の腰をしっかり抱いた。実家の人たちに見つかったら三年くらいは「またあのメリーが」とぼろかすに云われそうなことだった。
このまま両手を離したら何もかも終わるよねと少し想ったけれど、飛びすぎてゆく景色があまりにも美しかったし、若の責任になってしまう。
女ではできない速さで馬に乗ってみたかったのだ。狩りをする時のように遠慮なく飛ばして欲しいと頼んだ。女が後ろにいると考えないで欲しい、男の子たちがいつも馬で野原を自由に駈けまわるように駈けてと若に頼んだ。
「女でこの速さが平気なのかよ」
若は愕いていた。
「二人乗りだから馬脚は落としてるけど、けっこう走らせてるぞ」
「雲に追いつきそう。太陽の国に行けそう」振り返った若にわたしは伝えた。若が変な顔をしていた。
「そんな顔をはじめて見た」と云われた。
わたしは若にお願いした。
「もう一度もっと遠くに」
「いいけど、落ちるなよ」
「若」
云いたいことはいつも云えなかった。云いたいことを云ったら、云わなかった時よりもいつも決まって悪くなった。それにわたしは何を云おうとしていたのか、何が云いたかったのか分からなくなっていた。強いていうなら、男の子になってこのまま何処かに立ち去りたかったかもしれない。これだけ速いのならば叶いそうに想えた。
若の腰に回しているわたしの手に若の片手が一度だけ重なってきた。馬はすぐに疾走をはじめた。呼びかけておいて黙り込んだわたしを若は追及してこなかった。
晴れた空の下に草波が打ち寄せていた。林に入れば木漏れ日が大粒の雨のように降ってきた。
明日嫁ぎ先から迎えの馬車が来る予定だった。荷造りも済ませた。せっかく綺麗な処なのにあと少しでお別れなのは残念だ。
若は毎日わたしと一緒に馬を並べて、まず行きたいところはないかとわたしに訊き、特になければ領内の景観の良い処を順番に見せてくれていた。遠乗りも今日で最後だ。
ほんとうに綺麗。青い湖も清い泉も虹を流す滝もあって、大昔の何かの遺跡まであるのだ。そんな遺跡の一つに私たちはいた。若が連れて行ってくれる美しい場所はいつも人が誰もいなくて、空を流れる雲が野原に影をつくっていた。
崩れかけの石積みの一つにわたしは腰を下ろして湖を見下ろしながら風に吹かれていた。若は少し離れたところでうろうろしていた。やがて止まった。
「処女じゃなくなればいい」
いきなり若がわたしの顔を見てとんでもないことを云い出した。聞き間違いかと想った。淑女の前で何を云い出すの。信じられないことを口にしている。
「絶対に嫌と云うだろうけど、メリー、ここはもう俺とやっとけよ」
この人はなにを云ってるの。若はどうしたの。
「変態じじいに嫁ぐよりはましだろうが」
「やっとけよ……とは」
「俺もやったことないからいいだろう」
それの何がいいのかちょっとよく分からない。それに領主の息子なら手ほどき的なものは受けておられるはずだから女の子の初めてとは全然違うはず。
「メリーが嫌ならやらない。でも俺はメリーとやりたい」
一足飛びに若はわたしの許にとんできた。わたしの前に膝をついて、若はわたしの両手を握りしめた。
「メリーが好きだ。じじいなんかに渡すか」
この世で一番の嫌われ者に若はそう云った。
わたしのどこが気に入ったのかさっぱりだ。そりゃ少しは綺麗だと云われるけれど、ひねくれているし、反抗的だし、腹の中は黒いし、畠のど真ん中で大っ嫌いみんな死んじゃえと叫ぶような子なのに。
「来て早々、畠のど真ん中で大っ嫌いみんな死んじゃえと叫ぶ女なんか国中探してもお前くらいしかいない」
まああれは悪い意味で印象が強かったでしょうけれど。出来れば忘れて欲しい。
「危ないから止めろと云ってるのに笑ってそっちに出て行った」
若は続けて、城の広間にしらけ切った顔をしたわたしが案内されてきた時からずばり好みで気に入っていた。名も聞き逃したくらいだと云った。
「お前はどうか知らないけれど俺は最初からいいなって想ってた」
若はわたしの髪を指に巻き付けてきた。
「お高くとまってる子、好きなんだ」
よほどの手練れか通人みたいなことを若は云った。本気ならば若の女の子の趣味が悪すぎる。
処女好きの変態じじいの許に嫁ぎたい女の子なんかいるわけない。心の底から嫌で嫌で仕方なかった。
「云ってみろよ。大っ嫌いみんな死んじゃえって。前と同じように俺は聴いとくからさ」
涙をぬぐうのに忙しくて若がもちかけた最初のおそろしい話なんか忘れ果てていた。だから若の唇が唇に合わさってきた時も、泣き声がうるさかったのかなと想ったほどだ。さっきから若の手がわたしの胸元の紐や衣の裾を手繰ってる。ひざと肩が風に触れた。ちょっと待って。
ここで。
全ての女の子に訊きたい。少女の夢想の中で変態じじいに嫁ぎたいなんて夢みる子がいないのと同じように、人並みの羞恥心があれば初めての時に真昼間の明るい空の下を想い浮かべるような子がいるだろうか。
それからしばらくわたしは若に抵抗した。ものすごい恰好にされてからも懇願した。待って若、お願い待って、ここでは嫌、お願い若。
「待って若」
眼を閉じとけと若に云われた。
「俺は待たないよ。お前のことずっと好きだった」
メリー、好きだ。
わたしのことを好きになってくれる人が突然現れた。
それから若とわたしはいつも一緒だった。わたしは楽しいことがあれば楽しいと想い、嬉しいことがあれば嬉しいと想い、笑い声をあげるようになっていた。
夜明けの鐘と晩鐘の音を若と聴いた。たまには喧嘩もしたけれど若は謝るのがすごく早くてすぐに仲直りした。大樹の下に座ってわたしの膝に広げた木の実を若と食べた。季節が一巡とほんの少しめぐる間、ずっとそれは変わらなかった。
若の隣りで花を摘んでいた。この花がわたしは好きなのだ。花といえば赤とか薄桃とか黄が多いけれど、わたしにはこの花が一番似合ってる気がする。可憐でかわいい白でもない。可愛げのない青い花がなんとなく日蔭者のわたしには合ってる気がして、昔から好きな花。
若がその花を摘んできてくれた。憶えていてくれてありがとう。とても心配そうな顔をしている。そうね、ちょっと辛い。でも若のせいじゃないから。
お医者さまもそう云ってたでしょ。悪いのはわたしの身体だと。早く伝えなきゃ。若のせいじゃないから。わたしが選んだのだから。だから何があってもそんなに哀しまないで。若はわたしを倖せにしかしていない。この世で一番倖せな女の子にしてくれた。
「若と一緒にいれてとても倖せ。若と一緒にいれてとてもうれしい」
若は頷いていた。
身体がねじ切れそう。大きな岩に圧し潰されているみたい。骨が裂けていく。血の匂いがする。
母さま。助けて母さま。
苦しい。
産まれる兆候があってからもう二日は経ってるよね。ずっと叫んで泣いて暴れているのにまだ終わらない。ほらまた来た。どんどん辛くなる。さっきよりも辛いなんてもう無理。ものすごい叫び声を上げているのだと想うけれど、もう自分の声も聴こえない。
あそこに行こう。
選べるのならあそこに行こう。
若がわたしの手を取って連れて行ってくれた。わたしがいちばん倖せだった処だ。
魂は何処に行くのだろう。選べるのなら選ばせて。なんてきれいな星。螺旋の渦巻きのように耀く月や星座を連れて夜空がわたしたちの上にまわっている。
あの空にいこう。
ひび割れた唇が切れてずっと舌に血の味がしていたけれど、それももう何も感じない。手足が冷たくふるえてきて、もうわたしの身体ではないみたい。
「メリーごめん、メリー、ごめん。ごめん」
若は大泣きしていた。わたしの手を握り若は咽び泣いていた。
「メリー、ごめん。ごめん」
そうじゃない若。
わたしは謝って欲しくない。謝って欲しくないし、泣いても欲しくない。出来ればいつものあの無礼な調子で軽口をたたいて笑顔を見せて欲しいな。
無理か。
「メリー、いやだ、いやだ」
わたしも嫌だ。もっとあなたと過ごしたかった。
ずっと一緒にいたかった。わたしの生んだ子は産声も弱くて長生きしなさそうな気がした。もう一度あなたを哀しませてしまうのかな。死んだ赤子を抱えて慟哭しているあなたが見える。そんなに苦しませるつもりはなかったのだけど、なんだかごめんね。なんでいつもこうなるのか分からない。わたしは神さまに嫌われているから。この世で一番の嫌われ者だから。だからこの世で一番の嫌われ者にふさわしいものしか来ないと想ってた。なのにこんな嫌われ者を好きだと云ってくれる。若だけだ。わたしもそんな若のことが好き。不器用に編んだ花のかんむりを男の子から頭にのせてもらえるなんて想ってもみなかった。
こんなにもあなたを哀しませてしまうなんて。でも時を巻き戻しても、わたしはこちらの道を選んだと想う。若もそうだといいな。どう考えてもこっちがいいもの。
「メリー、メリー。いやだ、メリー」
そのまま呼んでいて。お願い。
なんだかいい気持ち。
もうあまり苦しくないの。
そのまま呼んでいて。わたしの名まえ。あなたに呼んでもらえるのなら、この名で良かった。
何もかもが大嫌いだった。
大嫌いだった世界にほんの少しだけとびっきりのいいものがあったから、もう十分。
メリー。いやだ、メリー
大嫌いな世界でもわたしに花をくれる人がいた。わたしの為にそんなに泣いている。泣かないで。若のことが大好き。本当に倖せだったから。
メリー
わたしの名を呼ぶ大好きなあなたの声がまだしている。わたしの全てはもう動かないけれど、あなたにも見せてあげたい。きれいなお花畑があるんだよ。
空の下にあの花が揺れているの。虹の中に飛び込んだみたい。
いつか来て。
あなたの家族を連れてきて。
わたしはそこに咲いている花になっていようかな。
わたしの笑顔をおぼえていて若。
それだけでいいの。
逢えてうれしかった。大好きなの。メリー好きだ。そう云ってくれたことをわたしは憶えているから。若。
手を繋いで。
階段をあがろう。
星空がそこにある。
[青い花の色・了]
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