八欲王の生き残り (たろたぁろ)
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プロローグ

「はぁー…やっと今日が終わったよー」

 

 終業の鐘が鳴り、教室を出て行く同級生達を眺めつつ少女はゆっくりと伸びをした。

 肩の辺りで切り揃えられた真っ白い髪が地面に向かってだらしなく垂れる。

 乾燥した瞳を必要以上に潤すように硬く瞑り、目を開けるとさっきまで鮮明だった世界が少しボヤけ、暫くするとくっきりした世界が帰ってくる。

 そんな変化を楽しんでいると隣から声がかかった。

 

「終わったーって今まだ4時じゃねーか。むしろこれからだろ、今日は」

 

 チラリと横を見ると眼鏡をかけた黒髪の少女が気怠そうに目の前に浮かび上がった画面を眺めていた。

 少女の小指のあたりから3つほどのウィンドウが浮かび上がっており、それぞれの画面が目まぐるしく切り替わって少女を情報の海に誘っていた。

 

「いや、終わりだよ終わりー。学校終わったらもう終了なんだよ私の1日はー。どうせ後は帰ってご飯食べて寝るだけだし」

「うわー…それが現役高校生のセリフかね、全く。あんまぐーたらしてると牛になっちまうぞ?」

「ははっ牛になるとか久しぶりに聞いたよ!めっちゃむかしの言葉でしょそれ!完全にじじぃだよじじぃ!」

 

 普段あまり聞かない言い回しに思わず笑いが溢れてしまった。

 年寄り扱いされたのが気に障ったのか、眼鏡の少女は画面との睨めっこを辞めて此方をジトりと見上げるように見つめてきた。

 

「じじぃとか茜に言われたくないんだけど…

家に帰るなり飯食って寝るって完全に定年後の爺だろーが。」

「あははっ確かに確かに!って言っても他にやることなくない?由香里みたいに彼氏いたら少しは違うのかもしれないけどさー」

「山ほどあるだろ…ってか私だって毎日彼氏と遊んでるわけじゃないぞ?っていうか結局東條先輩とはどうなった訳?うまくいってんじゃないの?」

「ん?ああー東條先輩?もう連絡すら取ってないよ」

「はぁ!?あんたそれどういうこと!?」

 

 ガタリ、と音を立て眼鏡をかけた少女__由香里は白い髪の少女__茜に詰め寄った。

 さっきまで無気力にネットサーフィンしていたのが嘘のような反応の良さだ。詰め寄られたせいで体が斜めになり、椅子から転げ落ちそうになるのを必死でこらえる。

 

「いや、なんかあの人必死すぎっていうか…

重いっていうか…ちょっと面倒くてさー。もういいかなって」

「それって茜のこと好きってことじゃん!?

人がせっかく紹介してやったってのにオマエって奴はホント…」

 

 由香里が頭を抱える素振りをしながらドカリと椅子に腰を下ろした。

 茜は先程の無理な姿勢で痛めた腹筋をさすりつつ、未だにぶつぶつと文句を言っている友人に話題を変える提案を試みる。

 

「あ、そういえば知ってる?今度駅前のpipiの中に新しいカツ丼屋さんできるんだってー。今度一緒に行こうよ」

 

 由香里とは小学生からの長い付き合いなので彼女がどんな話題に興味があるのかよく知っている。食べ物だ。その中でもとりわけコッテリ系の油っこい話に弱い。それが学校近くの駅前にできたカツ丼屋の話ともなれば、年上のしょうもない男のことなど屋根にぶつかったシャボン玉のごとく弾けて消え失せるはずだ。

__と思っていたのだが今日の彼女はいささか手強かった。

 

「え、マジ!?カツ丼屋できんの!?行こ行こーってなるかボケ!話の切り方雑すぎだろ!肉の話なら何でも食いつくと思うんじゃねーぞ?あ?大体おめーが恋愛してみたいとかいうから紹介してやったんでしょうがあ?つかおめーみたいな面倒くさがりが恋なんかできるかよ!メッセージ返すのも一週間後とかだろどうせ!そんなんで育めるかよ!?愛が!?だいたいお前はさぁ」

 

 発狂してしまった。かけているメガネのレンズが弾けんばかりに目をかっぴろげて怒鳴る友人を前に、自分の打算が全くの逆効果だったことを痛感する。こうなった由香里を止める方法を茜は知らない。ただ目を閉じて両手を合わし、謝罪の言葉を連呼して嵐が過ぎ去るのを待つのみである。

そう覚悟を決めた茜に救いの女神が微笑んだ。

 

「そもそもこの間の件だって茜が…ん?」

 

腐るほど聞いた電子音。

それは一通のメッセージだった。

 

「うわドラモンさんからじゃん懐かし…え"っ?」

「どうしたの由香里?」

 

 もう半年ほど聞いていないギルドマスターの名前を呟いて固まる友人が心配になり声をかける。

 実際はメッセージの内容が気になるだけなのだが。

 そして呆けた表情のまま此方に放たれた言葉に茜も同じく呆け返すことになる。

 

 

 

「ユグドラシル、今日でサービス終了だってよ」

 

 

 

 

 



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ユグドラシル

DMMO RPG 『ユグドラシル<Yggdrasil>』。

 2126年日本のメーカーが満を時して発売した、圧倒的データ量の暴力とも揶揄されるそれは、当時の戦闘や物語に重点を置いていたゲーム業界に革命を齎した。

 細部まで作り込まれた広大なマップと膨大な職業や種族、ツールによって自由に作成できる外装やnpc、意図的に真似しない限り一人として同じキャラクターが作れないほどの多様性、それらが組み合わさってできた舞台。

 そのもう一つの世界ともいえるゲームの登場に、日本中のプレイヤーが夢中になった。

 彼女__月本茜もそんなプレイヤーの一人だった。目指したのは世界最強である。

 これは茜の妹__月本葵が作成してくれたアバターの原作キャラが作中で最強であったことから、

「折角だしいっちょ最強目指してみますか!」とノリで言ったのが始まりだった。

 単に最強といっても様々なので、ユグドラシルの中で戦士系最強とされ、公式大会で優勝しなければつくことのできないクラス『ワールドチャンピオン』になることを最終目標に、茜のユグドラシルライフはスタートした。

 茜のワールドチャンピオンへの道は前途多難を極めた。そもそも茜のキャラクターはキャラクターの元になったアニメ『轟けイリス』の主人公イリスのロールプレイを妹に強制されており、俗に言うガチビルド構成が不可能であった。

 加えて原作のイリスがドラゴンの力を借りて戦う半竜人であったため勿論種族は異形種の半竜人。異形種は殺されてもpkとみなされないペナルティがあり、異形種狩りなどという名目の下殺されまくる日々である。

 

「困難を乗り越えて最強になってこそ、真の強者なんだよ!お姉ちゃん!」

 

 帰って泣き言を言うたびに背中を叩いて励ましてくる妹に、実はこいつドSなんじゃなかろうかと疑いをかけてしまうほど心は折れかけていた。

 そんな中出会ったとあるギルドマスターと、アップデートによって追加された派生種族により、茜の最強への道に横たわる荊は切り払われることになる。

 

「そんで茜は行くの?行かないの?ギルマス的にはあんた強制っぽいけど」

「ん?え、ああ…なんだっけ?カツ丼?」

 

 ユグドラシルでの挫折と栄光の日々を思い出していると、目の前の苛立った友人の声で現実に引き戻された。

 咄嗟に直前の会話を繰り返すが、カツ丼の話じゃなかったことだけは確かである。だが聞いていなかったのでしょうがない。

苛立った友人の眉間の皺が更に濃くなった。

 

「ちげーよ打ち上げ!ユグドラシルサービス終了するから元ギルドメンバーみんなでギルド拠点に集まろうってさ。そんでドラモンがどうしてもあんただけには来てほしーんだとよ」

「うげ…ドラモンさんかー…私あの人ダメなんだよなあ」

 

 昔のことを思い出し、茜は顔を顰めた。ドラモンとは、茜と由香里が数ヶ月前まで入っていたギルド『落伍者の集い』のギルドマスターである。

 茜がワールドチャンピオンになれたのはこの人のお陰なのだが、ギルドを抜けてユグドラシルからログアウトする原因になった人物でもある。

 正直感謝はしていたのだ。優勝した日に涙を流して御礼を言うくらいには。

 ギルドメンバー全員に声をかけて、ギルドを上げて全面的にバックアップをしてくれたし、茜を優勝させる為だけにワールドチャンピオンのプレイヤーをギルドに引き入れて、つきっきりでレクチャーさせたこともあった。

 感謝はしていたのだ…がその動機がまずかった。 

 彼はアニメ『轟けイリス』の主人公イリスの狂信的大ファンだったのだ。

 茜のアバターであるイリスの外装は妹の葵の手によるものなのだが、このクオリティが凄まじく高かった。まるでアニメからそのまま飛び出てきたかのようで、アニメファンからの人気が高く、そっち方面で一時有名になったことがあった。出来が良すぎたのだ、無駄に。

 それがドラモン(かれ)の心に火をつけてしまったのである。

 最初の頃はよかった。振ってくる話題の大半がアニメの話だとか、たまに写真を撮らせてくれとねだられるくらいで、それ以外はまともな頼れるリーダーだったのだ。

 異変を感じたのは、茜がギルメンに勧められるまま、防御に特化したクラスを取得してしまった時である。数日後そのことを知ったドラモンは怒り狂い、そのクラスを勧めたギルメンに怒りの超長文メッセージを何通も送りつけ、茜本人に至っては、デスペナルティによるレベルダウンを利用したクラスの取り直しを強制させたのだった。

 最初はクラス構成に不備があると公式大会で不利になるからだと思っていたのだが、彼の怒りの原因は全然別のところにあった。

 

「イリスちゃんは守りになんて入らない」

 

 これが理由だった。

 あ、これもしかしてヤバいひとなんじゃ?

そう思った時にはもう遅すぎた。

この後にも事あるごとにあかねのスキルや技構成、装備の一つ一つにいたるまでしつこく注文をつけてくるようになった。

 確かにロールプレイの一環として種族や衣装を真似したりしているが、スキルやクラス構成までガチガチに縛るつもりのなかった茜にとって、このすれ違いは致命的だった。

 そもそも自由にキャラクリできるのが醍醐味のゲームでなにが楽しくて他人の言いなりにならなければならないのか。

 彼の要求は茜がワールドチャンピオンになった後更に激化し、最終的に口癖まで完コピしてこいと言ってきた時点で茜はギルドを抜ける決心をした。

 ギルドを離れる時も、決して穏やかとは言い難い喧嘩別れのような形で抜けることになったので、いくらサービス終了の打ち上げとはいえまた会うのは正直勘弁して欲しいと言うのが本音である。

 

「そりゃ茜が会いたくない理由はめちゃくちゃわかるけどさー。なんかどうしても渡したいものがあるらしいぞ?流石に反省してんじゃね?あの変態も」

「なにそれ、逆に怖いなあ…んん、てかサービス終了日に何くれようとしてるの」

「それも含めて気にならね?ねえ、行ってみようよ絶対面白いから」

「結局面白がってるだけでしょ、由香里は」

「いやいや久々にみんなに会いたいだけだよー私は」

 

 絶対嘘だ。心と言葉で同時に言い放つ。

 何故なら逆の立場なら茜も同じように彼女を嘲笑っている自信がある。

 先程のの怒りとは打って変わって空中に映し出されたディスプレイをニタニタと見つめる友人が恨めしい。

と、もう一つの電子音

 

「お、まっちゃん到着したっぽい」

「もう?相変わらず優秀だねえそっちの執事は。

うちのはあと一時間はかかるかなー」

「一時間はやべぇ。んじゃ帰るけど今日絶対来いよー。後で詳細送るから」

「ん、いけたらいくね」

「絶対だからな!来なかったら今度東條先輩と3人でカツ丼屋だから」

「うげぇ…ハイハイ行きますよ」

「宜しい!」

 

 此方の渋々の了解に満足すると、由香里は机の上の鞄を掴み上げ、ひらひらと手を振りながら教室の外へと駆けていく。

 時間をきっちり守ってくれる執事を待たせたく無いのだろう。手をふり返す頃にはもう教室には茜一人だけになっていた。

 窓の外を見ると丁度日が沈むところだった。夕日が空を赤く照らす黄昏のコントラストはとても幻想的で美しかった。

 だが茜の心は全く動かない。これが作られた美しさだと知っているから。綺麗な空をよく見ようと窓を開ければ、そこにあるのは光化学スモッグに覆われた真っ黒な空と猛毒の濃霧、死んだ河川と死んだ森。外にはどこにも希望は無い。

 茜は作られた景色に興味をなくし、手首に装着している専用デバイス<ruby>を起動する。

 目の前にホログラムが映し出され、設定しているホーム画面に切り替わった。

(ユグドラシル終わっちゃうのかー。なんだかんだ終わらないと思ってたんだけどな。)

 茜はショートカットに登録していたユグドラシルの専用チャットを開く。チャット内ではユグドラシルプレイヤー達が打ち上げの呼びかけを行っていたり、過去の思い出話に花を咲かせていた。

 茜がチャットを利用していた時は運営への罵詈雑言で埋め尽くされていたのに、今ではなんだかんだいい運営だったなんて語られているのは、いかにもサービス終了日と言った感じである。

 流れるように打ち込まれていくコメントにざっくり眼を通していると、小気味良い音と共にメッセージが送られてきた。メッセージを開き、溜息をつく。

 

〈すいません八木です。第ニブリッヂ内で火災があったみたいで少し遅れます。申し訳ありません。〉

 

「ヤギー…少しってどれくらいだよー。本当に一時間待たす気じゃあるまいな。」

 

窓を見ると、美しい夜景が広がっていた。

 

 執事の八木がペコペコ頭を下げながら現れたのは、それから2時間後のことだった。

 

 

 

 



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「ただいまー」

 

 茜は家のドアを開けるなり、やれやれと溜息混じりに帰宅の言葉を呟く。

<オカエリナサイマセ、アカネサマ>

 機械的な声がなった後、真っ暗だった部屋の電気が次々と点灯し周囲を明るく照らす。

 茜は高校に通う時に家を出た為、今は一人暮らしだ。家に帰っても誰もいないのは分かっているが、ただいまを言う癖は抜けそうにない。

 靴を脱ぎ、鞄を廊下に放り投げて、見慣れた18畳ほどのリビングに鎮座しているソファにダイブする。うつ伏せのまま部屋の隅にある時計に目をやると、丁度20時を指し示すところだった。

 

「もうこんな時間なのー?ヤバいユグドラシル終わっちゃうよ」

 

 ゆっくり準備する暇もないと悪態をつきつつ制服を脱ぎ捨て、部屋着に着替える。いつもなら風呂に入ってからログインするのだが、もうそんな時間はなかった。

 ベッドルームに行き、枕の上に雑に置いてあるコンソールを装着し、体内のナノマシン残量を確認する。十分に充填されていることに満足するとヘッドセットを装着しベットに勢いよく寝転がった。手慣れた操作で数多あるアプリからユグドラシルを選択し起動する。

<キャラクターを選択して下さい>

 機会音声と共に映し出されたのは、膝下まである赤黒い長髪と小さい頭から生える2本の禍々しい角が特徴的な女の子。

 ユグドラシルの苦楽を共にしてきた茜の分身-

イリスだ。

 

「よし、行きますか!」

 

 意識が呑まれるように視界が暗転して--

目の前にシャンデリアのぶら下がった天井が現れた。数ヶ月に何度も見た光景--イリスが活動拠点としていた宿の一部屋である。

 起き上がると正面には自身の身長よりも高い窓があり、そこからは色とりどりの光が、爆発音と共に不規則な感覚で差し込んでいた。

 他のプレイヤー達が上げている花火だろうか、統一性なく無茶苦茶に夜空に打ち上げられているそれは、運営が用意したものというよりは、より人為的な拙さを感じられた。

 

「やばっこんなもん見てる場合じゃなかった!」

 慌てて部屋から飛び出し、ロビーを駆け抜けて宿を出る。

 外に出るとそこはもうお祭り騒ぎだった。最後にログアウトした時は人っ子1人居らず、閑散としていた大通りが今やプレイヤーやnpc、召喚モンスターでごった返している。

 至る所に設置されたイルミネーションが夜空を照らし、通りの側には運営が用意したであろう露天がずらりと並び、お祭りムードを掻き立てている。

 露天で何かを購入しているプレイヤーが多く見られるが、最終日特有のアイテムでも売っているのだろうか。喧騒に圧倒されながらも気になったので寄ってみようかと駆け出した瞬間、ベルの音が鳴り目の前に≪伝言≫の文字が浮かび上がった。

 送り主の名はラガーマン。現実世界では黒髪眼鏡の美少女こと由香里ちゃんからだった。

 

[寄り道してないで早よ来い]

 

 フレンドに相互登録していると相手のログイン状況が分かるので、イリスがログインしたのを確認後すぐに≪伝言≫を送ってきたのだろう。

 イリスの移り気がちな性格を見抜いた友人からのお怒りメッセージに思わず笑みが溢れる。と言ってもアバターの表情は変わらないのだが。

 ≪伝言≫と同時にギルドの加入申請が送られてきた。

 

ギルド『落伍者の集い』加入しますか?

   YES NO

 

〔ごめんすぐ行く]

 

 簡単なメッセージを送り返した後、イリスは逡巡し、YESのボタンを押す。そして一つの転移用アイテムを取り出し、起動する。

 目の前の景色が喧騒に溢れる雑多な街並みから、真っ白な大理石に覆われた巨大な白銀の城の前に切り替わる。

 転移してすぐにイリスは周囲の確認を目視で行い、更に探知系スキルを発動しようとして__やめる。

(サービス終了日に何やってんだか…)

 未だに現役時代の癖が全く抜けていない自分に呆れてしまう。それだけのめり込んだゲームといえばそうなのだが、ちょっぴり恥ずかしい気持ちになった。

 

「警戒ご苦労!しかしまだまだ不用心じゃ!」

「うえっ!?」

 

 ドンと後ろから背を叩かれ、同時に聴き慣れた声がかかった。完全なる不意打ちに驚いて奇声を上げてしまった。

 咄嗟に振り向くと、そこには身長3メートルはあろうかという巨体を、全身黄金の鎧で包んだ金髪の女がいた。手にはその巨体に勝るとも劣らないほどの大きなウォーピックを持っている。

 ギラギラとした碧い眼光と、眉間に刻まれた深い皺、初見ではとても女に見えない獰猛な顔をしている。イリスが女と分かったのは、彼女が知り合いだからに他ならない。

 

「もーびっくりさせないでよ由香里!」

「こっちでその呼び方すな!」

「あ、ごめんラガちん」

「次から気をつけろよー。しっかし随分遅かったじゃねーか心配したぞ?ほんとにカツ丼食いに行かなきゃならんと思っちまったわ」

「ごめんよー、ラガちん出てった後まさかの2時間まちでさーほんと勘弁してって感じだよ」

「2時間…やったな八木のやつ」

「なんか火事がどうとかって。もうみんな集まってるの?」

「ん、ああ正門の方で花火の準備してたとこよ。行こ行こ」

 

 ラガーマンが巨大な門の方を指差し、走り出す。イリスもその後を追いながら門の方を見ると、数人の人影が大きな樽のようなものをせっせと並べていた。するとその内の一人が此方に気付いたのか、大きく手を振ってきた。

 

「おおー!みんな!本日の主役のご登場だぞ!」

 

 此方に手を振っていた真っ赤なフルプレートアーマーを着た男が大きな声で叫ぶ。声を聞き、気がついた他のプレイヤー達も手を止め、此方に近づいてきた。

 

「みんな久しぶりー!って主役ってなんなんですかユウジさん。」

「ん?俺らの中でドラさんから名指しで絶対こい!なんて言われてるのイリスだけだからなぁ。完全に主役だろう」

「そ、そそそそうですねし、主役ですね、き、期待してますイリスさん。」

「久しぶりーイリスー!相変わらず可愛いなあ!しかし横のゴリラとの対比がすげぇ…」

「どもー。これたんだねイリス。そんな奴らほっといて花火並べるの手伝ってー。」

「だれだ今ゴリラつったやつ、犯すぞ?」

「期待って何に期待?これ絶対面倒臭くなるやつじゃん!ログアウトしようかなあ」

「するな」

 

 久しぶりに会うメンツと挨拶を交わし合う。

皆イリスが抜けた『落伍者の集い』の元メンバーである。

 

 真っ赤なフルプレートに濃い紫色のマントを羽織った大柄な男、プレイヤー名はユウジ。

 本名でプレイヤーネームを登録している珍しい人物だ。ユグドラシルでの実力はイリスが知っている中でも1、2を争うレベルであり、イリスを含め8人しかいないワールドチャンピオンの内の一人でもある。イリスにとってはワールドチャンピオンになるための手引きをしてもらった師匠的な存在で、この人には一生足を向けて寝られないと思っている。

 その横にいるおどおどした口調の少し挙動不審な男、プレイヤー名は猫缶。

 髪は短めの白髪、血色の悪い顔に落ち窪んだ隈のひどい目はまるでアンデッドの様だ。身長はひょろりと高く、痩せぎすな身体を深緑色のローブで覆っている。

 ギルメン時代は見た目に似合わず超攻撃型の魔力系魔法詠唱者で、彼の魔法によって九死の状況を逆転できたことは何度もある。

 猫缶の後ろでラガーマンこと巨大なゴリラに首を絞められている男性プレイヤー_名前はTK。

 シルクハットを被りタキシードを着たマジシャンのような格好をしている。顔には片目から涙を流しているような装飾のある銀色の仮面をつけており、表情を伺い知ることはできない。常に明るく、誰にでも人懐っこい彼はギルドのムードメーカーだった。

 みんなが喋っている中、黙々と花火を設置している金髪長髪のエルフの男。プレイヤー名はモリオ。

 現実世界でcgのモデリング制作をしている彼のアバターは、美形を作りやすいユグドラシルの中でも突出して綺麗な顔をしており、どんな角度から撮影しても絵になるので、写真を撮る時はとりあえずモリオを呼ぶというのがギルドの常識だった。

 

 懐かしいメンツと言葉を交わしながら、イリスは感心していた。全盛期の人数からはかなり減ってしまったものの、よくこれだけ集まれたものだと。イリスとラガーマンは高校生だが、他のメンバーは皆社会人だったはずだ。__いや猫缶はニートだったか。現役時代から忙しい忙しいと口走ってはいたが、みんな実は暇なのだろうか?それとも皆を集めたギルマスことドラモンの人望故なのだろうか、いやそれは絶対にないな。とそこまで考えたところで、イリスはあることに気がついた。

 

「あれ、メンバーこれだけ?そういえばドラモンさんまだ来てないんですか?」

 

 イリスがそう聞くと、ユウジはバツが悪そうに頭を振り、これ言ってもいいのかなー…などとぶつぶつ呟きながら何か誤魔化すように返事をした。

 

「んん、今買い物中らしいからそのうち来ると思うよ」

「なんか誤魔化しませんでしたか?今」

「なんにも無いよっ!ほんとに!よっしゃ、ドラモン帰ってくる前にさっさと花火並べちまおうぜー!」

「だからさっきからそう言ってるじゃん。マジで早くしないと終わんないよ?」

 

 んー??とイリスはユウジの顔を下から覗き込むが、さっと顔を背けられてしまった。もっと追求してやりたいが、なにやらモリオの機嫌が良くないので後にしようと気を使い、イリスも花火並べに加わった。

 

「そ、そそそれにしてもよくの、残ってましたよね」

「ん?何が」

 

 モリオの指示通り花火の詰まった樽を並べていると隣に来た猫缶が話しかけてきた。

 

「こここですよここ!ぎ、ギルド拠点!て、てっきり崩壊してるとお、思ってましたから」

 

 天空城ラヒュテル。アースガルズに悠然と浮かぶ白亜の巨城を猫缶が指差す。

 数あるホーム系ダンジョンの中でもトップレベルの攻略難易度を誇る巨城で、ギルド拠点の規模を測る指標によく使われるnpc制作可能レベルはなんと初期値3000。小さい城程度のダンジョンがnpc制作レベル700なのを考えるとおよそ4倍以上の規模になる。

 当然そんな大きな拠点になると維持費がばかにならないのだ。また、イリスがいた当時は難攻不落を謳っていたものの燃費は最悪で、節約など一切行っていなかった為、攻略班とは別に集金班なるものを作り何とか収支をプラスにしていた。流石にその頃と比べたら節制していたのだろうが、多くのプレイヤーが抜けた後に維持できるものではない。

 

「あー確かに!拠点維持費って結構えげつなかったよね?私抜けてからも皆ちょくちょくやってたんですか?」

 「俺もイリス抜けてからすぐ引退したから知らねーなー。ユウジさん金入れてたんすか?」

「ギルド維持の?まさか!なんだその無駄金。てか一緒に辞めただろうがTてめーふざけんな」

「ぶえっ」 

 

 ガツンと樽で殴られたTKが地面が割れるエフェクトと共に沈む。タキシードを着た身体がペコリと地面にめり込む様はなかなかに滑稽だ。

 

「じ、じゃあ誰が」

「ギルマスしかいねーだろ。ここがあるってことは結局最期まで残ってたんだろ?まあ貯金はギリギリだろーけどな。最終日まで残ってんのは奇跡だな」

「まあ…そういうことだわなー」

「ど、ドラモンさんには感謝、で、ですね」

「ちょっと異常だけどな」

 

 ラガーマンの発言に皆少し黙った。苦笑いを浮かべているのが表情の無いアバター越しにも伝わってくる。

 実際イリスもサービス終了日までギルド拠点を維持していたドラモンには、驚愕を通り越して若干引いてしまっていた。ユグドラシル愛の強い人とは思っていたがまさかここまでとは…。

 だが猫缶の言う通り、彼の愛のお陰でこうして皆でギルド拠点に集まって楽しく花火をすることができたのだ。そこは素直に感謝すべきだと思った。夢も希望もない現実世界から少しだけ目を背けることができたのだから。

 そう思った矢先、モリオがふっとつぶやいた。

 

「減ってないよ、貯金」

 

「は?」

「だから減ってないんだよ、ギルドの資金。むしろあの頃より増えてる。」

 

 皆がモリオを見つめる。アバターに隠された感情は勿論、何を言ってるんだコイツは?である。

 

 「そんなわけねーだろ。てことはあれか?新しいメンバー組んでたのか?あの人。水くせーことしやがるなあ」

「まあそれはしょうがなくない?流石に一人じゃやってけないしさ。まあ誘って貰えなかったのは少し寂しいけど。」

 

 辞めといて言うことじゃないかー。と自虐気味に笑いながら、少し憤慨気味のラガーマンをTKが宥めているとまたしてもモリオが呟く。大樽をじっと見つめながら。

 

「一人だよ。ずっと一人だったっぽいよあの人」

 

「んなわけあるかよっ!」

「さ、流石にそ、それは難しいんじ、じゃ?」

「あーなんかヤバめな流れになってきたぞー!もう黙れ!モリオ!」

 

 頭を抱える仕草をしながらビシッとモリオを指差しTKが叫ぶ。そんなTKにお構いなしにモリオは続けた。

 

「俺もここに来て思ったんだよね。なんでまだ拠点残ってんだろって。そんでさ、さっきラガちんが言ってたみたいに貯金の残りが気になって行ってみたんだよ。スカスカになった宝物庫が見てみたくて。そしたらさ」

 

 樽に手をついて立ち上がりモリオは皆を見渡しながら言う。

 

「俺らの全盛期以上のゴールドの山だった。みんなここの宝物庫の広さ知ってるよね?あの中天井までゴールドでぎっしり。」

 

 皆何も言わない。さっきまで騒いでいたTKも続きが気になるのかさっきのポーズのまま黙っている。巨女とアンデッドみたいな奴とシルクハットと鎧が樽の前で黙っている光景がシュールで、思わず笑いそうになってしまう。

 

 「当然気になるわけじゃん?どうやってそんな金集めたのかなってさ。んでさ、調べてみたんだよ」

「な、なにを?」

TKが聞く。

「ギルマスのログイン履歴。ほら、見れるじゃん?王の椅子の端末でさ。マジでビビったよ…どれくらいログインしてたと思う?」

 

 どれくらい…それだけの金を集めるくらいだから毎日欠かさずログインしてたのだろうか?だとしたら凄い執念だなと思った。

 誰かが帰って来るかもわからないギルド拠点に、一人で毎日金を入れ続ける。考えられない。てか仕事しろよ。と思わず心の中でツッコミを入れてしまうほどだった。

 チラリとラガーマンを見ると同じ事を思ったのかアバター同士の目が合い、ふっと呆れたように笑う。

 だが、次に続くモリオの言葉は想像を絶するものだった。

 

「今まで毎日、24時間ずっっとログインしっぱなしだったんだよ」

 

 絶句。開いた口が塞がらないとはこのことだろう。無理もない。モリオの話が真実ならば、ドラモンは現実世界に一度も帰ることなく、この電脳世界の中でひたすらにゴールドをかき集めていたことになる。

 はっきり言って異常だ。と言うかそもそもそんな時間ログインすることなど本来不可能なのだ。

 vr自体にセーフティーがかかっており、8時間以上プレイできなくなっているし、そもそも体内に充填されているナノマシンが切れれば、vrとのリンクも切れてしまう筈である。

 ゆえにこれは嘘、作り話と断定してしまいたくなるが、問題はこの話をしているのがモリオという点である。イリスの知っている限り彼はそんなしょうもない嘘をつくような人間ではない。寧ろ嘘がつけないタイプの人間だ。そんな彼がこんなに流暢に嘘をつけるだろうか?そんな矛盾による気持ち悪さが重たい空気となってイリス達を包み込んでいた。

 

 「流石にバグじゃねえか?24時間ぶっ通しは無理だろ。点滴でもしながらプレーしてんのかよ」

「だ、だよなー。いくらドラモンさんが超人っつっても無理あるぜ?その設定?残念だったなモリオ!」

「そうだよー。あのユグドラシル廃人にも限界ってもんがあるんじゃないかなー。」

「じゃあ見に行くか?みんなで」

 

 皆が黙る。見たくない。見てしまったら嫌でもこの話を肯定せざるを得なくなってしまう。大体なぜ楽しいお別れ会のはずが、こんなホラー映画の冒頭みたいな雰囲気になってしまっているのか。モリオいい加減にしろ。

 

「そんなぶっ通しでvrやってたらさ、もはやこっちの世界の住人な訳じゃん?そんな人間がサービス終了日にわざわざ元ギルメン呼び出してさぁ__なにするつもりなんだろうね?」

 

 天空城から覗く広大なアースガルズの夜景を背にモリオが問いかける。投げかけられた問いの意味を考えた時、ゲームだから寒さなど感じないはずなのに、冷気に対する完全耐性を持っているはずなのに、背筋が凍るような怖気が走った。

 ずっとログインし続けていたドラモンからすれば、ユグドラシルは紛れもなくもう一つの世界で、寧ろ現実世界こそが虚構で、そんな彼にとってサービス終了日とは世界の終わりを意味するわけで。そんな彼にどうしても来て欲しいと言われたイリス。…心中でも迫られるのだろうか。イリスの全身に無いはずの鳥肌がスタンディングオベーションしている気がした。

 周りを見渡すと皆唸るように黙り込んでいる。そう言えばとさっきから存在を全く感じないユウジの方を見ると、三角座りで両耳を塞ぎ、大きな体を必死に縮めて震えていた。ユグドラシルで耳を塞ぐと言う行為は、全く意味をなさないのだが。

(そう言えばユウジさんって大のホラー嫌いだったな)

 イリスは可哀想にと憐れみの視線を向けていると、

 

「なーんてな!!ダハハハハッ」 

 

 跳ねるように皆の顔が上がる。笑っているのは勿論モリオだ。

 笑いの意味は明白である。

 

「え?え?」

「やりやがったなモリオぉ…」

「嘘に決まってんだろうが!ダハハッ無駄話ばっかして花火並べないからちょっとからかってやっただけだよぉ!」

「お、お前ぇ!!ちょっと本気でギルマス心配しちまったじゃねーかよ!!」

 「ユウジとか必死で耳塞いでるしなー!!意味ねぇっつーの!!ギャハハ」

 

 シルクハットが狂喜乱舞している。さっきの話でドラモンを怖がるのではなく心配している所が実に彼らしいと思った。かく言うイリスは本気でドラモンに恐怖したので冗談ではなかったが。

 

「モリオ…後でワールドブレイクだから」

「げぇっそれは勘弁、100レベのままサービス終了させて。」

「いいぞーイリス。私が抑えといてやるからぶった斬ってやんな」

「っし俺も混ぜろ、マジでコイツ殺す」

「うげー!!離せー!元はと言えばお前らが花火」

「「花火花火うっせぇ!!お前が花火になるんだよぉぉ!!!!」」

「うぎゃぁぁぁぁあああああああああああ」

 

 ワールドチャンピオン二人による最強の攻撃が炸裂し、アースガルズの上空に特大の花火が打ち上がった。

 複数の大樽に詰まったそれを巻き込んだ一撃の瞬光は、束の間ではあったがユグドラシルのどこにいても見えるほど眩い光だったという。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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裏切り

「さーて今からどうする?」

 

 大剣を肩に置き、夜空をぼーっと見上げながらユウジが言う。

 

「もーお開きでいいんじゃないですか?花火もなくなっちゃったし」

「いやいやイリスちゃん、流石にそれはドラモンさん可哀想でしょ。泣くぜ?あの人」

「うーん…面倒くさいなあ」

 

 正直な所イリスとしては、もうドラモンのことはどうでも良くなっていた。さっきの下りがモリオの茶番だったとはいえ、どちらかと言えば会いたくない。かつての仲間と会えて楽しく?花火もできたことだし、とっととログアウトしてお風呂に入って眠りたかった。明日も早いのだ、此方は。

 

「まあ確かにもうやることねぇしなあ…帰るか!」

 

 パッシブスキル以上に主張しているイリスの帰りたいオーラに気を遣ってくれたのか、ラガーマンが後押ししてくれた。

 

「ぼ、僕も帰ろうかな…あ、明日も早いし」

「よし、帰るか!ドラモンには俺から言っておくよ」

「鬼だなお前ら…」

 

 すっかりお開きムードになったところで、イリスは一つの疑問を思い出した。

 

「そう言えばユウジさん、ドラモンさん買い物に行ってるって言ってましたけど一体何買いに行ってるんですか?」

「ん、ああいや…俺も何かまでは知らないんだけどな。実は__」

「おーい!!」

 

 突然遠くから声がかかった。声のする方を見るとプレイヤーらしき二人組が此方に歩いてきている。此方に近づくにつれ輪郭がはっきりとしてきて、それが誰なのかわかるとイリスも声をあげて手を振った。

 

「ガルじぃー!エルモアさーん!」

 

 イリスがガルじぃと呼んだ男。プレイヤーネームはガルバリン・デモラスウッド。ウェーブのかかった白髪と蓄えられた長髭が渋い、80前後の老人の見た目をしている。

 ロールプレイの一環なのかわからないが、滅多に喋ることがなく≪伝言≫かグループチャットでしか会話しない。彼の声を聞いたことがあるのはギルメンの中でも一握りで、イリスは終ぞサービス終了日までその声を聞くことができなかった。

 その隣にいるのは身長2メートルほどの青年。プレイヤーネームはエルモア・ペーパー。銀色の長髪で整った顔をしており、モリオと同じくギルドのイケメン枠だった男だ。頭がよく切れるので、ギルドの参謀役としても活躍していた。

 

「久しぶりですー。まさかガルじぃに会えるとは思わなかったよー」

「なんだよ。二人とも来てたんなら連絡くれたらいいじゃねーか水臭いな。もう帰っちまうところだったぞ?」

「申し訳ない。ドラさんに頼まれてちょっと用事を済ませててね。」

 

 ラガーマンが悪態をつき、エルモアが軽く頭を下げる。エルモアは心の奥にすっと入り込んでくるような独特な深みのある声をしており、イリスはこの声を聞くと、まるで精神支配を受けているかのような不思議な気分になるので少し苦手だった。

 

「久しぶりー二人とも!てか肝心のドラモンさんは?こんだけ揃ってなんでいねーのよあの人!サービス終了まで後30分もないぞ?」

「ああ、ドラさんなら先に王の間で待っているよ。準備が終わったからみんなを呼びにきたんだ。」

「え、そうなの?」 

 TKが素っ頓狂な声を上げる。

 

「まじか、んじゃ早くいこーぜ!何の準備か知らないけど、これだけ待たせたんだから凄ぇもんがあるんだろうなあ⁉︎」

「凄い…か。そうだな、みんなきっと腰を抜かすんじゃないか?とんでもないサプライズだから…まあ人生で一番驚くだろうね。」

「人生て…エルモアがそんだけ言うってことはマジの奴だな!オホー!みんな早く行こうぜー!」

 

 TKがわれ先にと城の方に駆け出す。TKが興奮するのも無理はない。エルモアは真面目な性格とは裏腹に大のサプライズ好きなのだ。

 彼に祝い事やドッキリなどを企画させると、大抵の場合規模がとんでもなく大きくなるので、みんな誕生日が近くなるとそれとなく彼に匂わせていたほどだ。        

 そんなエルモアがサービス最終日にサプライズしてくれるというのだ、楽しみでないはずがない。イリス自身もTKほどではないが内心めちゃくちゃ期待してしまっていた。サプライズとかそう言うこと先に言っちゃっていいものなのだろうかと思わないでもないが、きっとそれだけ驚かせる自信があるのだろうと、無理矢理納得しておく。

 

「イリス、ウチらも早くいこーぜ!」

「うん!行こ行こ」

 

 ラガーマンを追いかけるようにイリスも駆け出すと、目の前にヌッとガルバリンが割って入ってきた。イリスはぶつかりそうになり慌てて止まる。

 

「うわっガルじい危ないよ!」

 

 イリスが怒ると、ガルバリンは枯れ枝の様な手を此方に突き出し、止まれと合図を送ってきた。どう意味なのかと困惑していると、エルモアから声がかかった。

 

「イリスくんはちょっと待ってくれないか。今日君は仕掛ける側だよ」

 

 エルモアの言葉の意味を理解し、イリスの顔が絶望に染まる。いや、仕掛ける側は嫌いではない。寧ろ好きな方なのだが、今日は嫌だ。今日というこの日はみんなと一緒に驚きを共有したかった。

 

(さっさと帰ろうとしてた癖に虫のいい話なのはわかっているけど…エルモアさんのサプライズなら話は別だよぉ!こんなのあんまりだぁよ!)

 

 心の叫びがアバターにも現れていたのだろうか、ガルバリンが同情する様に肩を叩いてきた。

 

「イリスー!何してんだ早くしろよぉ!!」

「後で行くからラガちん先行っててー!」

「…りょーかーい!待ってるぞー!」

 

 能天気な友人の呼ぶ声に若干腹を立てつつ返事をすると、ラガーマンは何かを察したのか此方にサムズアップした後、巨大な背中を揺らしながら走り去っていった。正直羨ましい。

 

「それで…何すればいいんですか?」

 

 ムスッと感情を隠すことなくイリスが問うと、エルモアはいつものゆったりとした口調で淀みなく答える。

 

「簡単なことだよ。神秘の森のことは知っているだろう?そこにしまってあるアイテムを全て根こそぎ掻っ攫ってきて欲しいんだ。」

「神秘の森って…あのですか?」

 

 神秘の森とは、ラヒュテルの宝物庫から脇にそれた先にある、何の変哲もない普通の部屋のことである。

 ダンジョン攻略時は強力なネームドボスが守っていた部屋なのだが、期待して入ってみると中央に置かれた大きな机以外何もない部屋で、非常にがっかり…というかブチギレた記憶が色濃い部屋だ。

 位置的に使い勝手が悪いので誰も使っていなかった筈だが、そんな所になんのアイテムがあるというのだろうか。そもそもなぜイリスが取りに行く必要があるのだろうか。

 

「あの神秘の森だよ。実は少し前からあの部屋にドラさんとガルバリンさんと一緒にレアアイテムを集めていてね。イリスくんにはそれを回収してほしいんだ。」

「エルモアさんの頼みなら…いいですけど、なんで私なんですか?」

「君じゃなきゃ駄目なんだ」

 

 イリスが聞くと、エルモアは少し食い気味に答えた。

 

「ドラさんがあの部屋に君以外侵入できない鍵をかけてしまってね。物理的に破壊できないこともないけど、とてもじゃないがサービス終了までに間に合いそうもないんだ。」

「は、はぁ…そんな鍵あるんですね。でも今更レアアイテムなんているんですか?もう終わっちゃいますよ?ユグドラシル」

「悪いが細かい質問に答えるのは後だ。今から神秘の森への入り方を教えるからすぐに向かって欲しい。」

 

 気のせいだろうか、エルモアのゆったりした口調が少し早めに感じる。そもそもいつものエルモアなら祝い事にせよドッキリにせよ、もっと楽しそうにしているはずだが、今日はなんだか…一言で言うなら怖い。ガルバリンを見るとそわそわと周囲を気にする素振りをしている。もうすぐサ終だから急いでいるのだろうか。

 

「まずこれでアイテム所持数の上限を解放してくれ。今のままではとても入り切らないだろうからね。」

「は、はい。ってこれ…うぇえ!?」

「驚くのも後だ。早くしてくれ」

「はいっ!」

 

 イリスがエルモアから受け取ったもの、それは驚くべきアイテムだった。見た目は一般的なアイテム所持数を上げる課金アイテムなのだが、問題はその上限である。

 普通はアイテムのアイコンの横に<10>とか<20>など上昇値が載っているのだが、このアイテムに記載されているのはなんと<∞>。

 ありえない。完全にバグっている。イリスは元々上限一杯まで課金で増やしているのだが、そこから無限になるのだろうか?こんなアイテムをエルモアはどこで手に入れたのか…。

 疑問は山ほど出てくるが、もたもたしてるとエルモアが怒髪天を衝きそうなので、大人しく従うことにする。何の問題もなく所持数上限が∞になるが、とりあえずツッコむのも後にしておく。だってエルモアが怒髪天…。

 

「おお、こりゃインフィニティだぁよ…」

「ワールドアイテムは所持しているか?」

「えっ?あっはい。」

「よし、絶対に外すんじゃないぞ。それじゃあ今から神秘の森の侵入経路とパスワードを教える。パスワードだけだと弾かれるが、君の場合顔認証でパスすることができるはずだ。」

「了解しましたー!」

 

 イリスの潔い了承を聞き、エルモアは少し顔を伏せそして真っ直ぐに見つめてきた。

 

「…イリス君、本当に申し訳ない。終わったら全ての質問に答えると約束する。」

「え、いやいやそんな大袈裟な!ただのゲームですし…そんな深刻にならないで下さい」

「……そう、だな。ただのゲームだものな。」

 

 エルモアの言葉は、イリスに向けてというか…どこか自分自身に言い聞かせているようだった。

 

「ペーパー…もたもたしてると気づかれるぞ」

「え!?今ガルじぃ喋った!??聞きました?エルモアさん!いやペーパーってふふっ」

「わかった。イリス君、まず侵入の仕方についてだが__」

 

 

 絶望に打ちひしがれた小さい友人を背に、ラガーマンは転移門に飛び込んだ。あの様子だと大方エルモア達に一緒にサプライズを仕掛けよう、とでも言われたのだろう。

 誘い方が強引だったので、土壇場で人手が足りなくなったから運悪くイリスに白羽の矢が立ったと言うところだろうか。

 友人と一緒にサプライズを楽しめないのは非常に残念だが、仕方なくこのむさ苦しい男達と一緒に思う存分楽しませてもらおう。非常に残念だが。

 転移門を抜け、ラガーマン達は大広間に出た。ひとえに大広間と言ってもそのサイズは桁がちがう。比較するとしたら昔写真で見た野球場が2つ分といったところだろうか。

 6角形の形をした大広間には、それぞれの辺の部分の中央に巨大な扉が付いており、扉からはその大きさに相応しい階段があり、その前にはこれまた巨大な柱二本とアーチ状の門が鎮座している。これら全てが白銀の石でできている。正直言って目がチカチカする光景だ。

(サービス最終日じゃなけりゃテクスチャごと変更させてるところだな…モリオに)

 

「相変わらず凄いな…ここは」

「き、綺麗ですよね、とても」

「皮肉が上手くなったねー猫缶も。目がいてぇよ」

 

 男衆達も大方同じ意見のようだ。そもそもここ設計したのは誰だったか。覚えてないがどうせドラモンだろう、彼はこう言った芸術的センスがまるで無かった。

 

「王の間って右下の扉から転移すればよかったんだよな?」

 

 ユウジが腕を組み仁王立ちで暫く悩んだあと、聞いてきた。記憶力に自信のあるラガーマンは自信満々に答える。

 

「そうそう、ちゃんと指輪装備しとけよ。どこ飛ばされるかわかんねぇぞ。何時ぞやの猫缶みたいにな」

「あったなーそんなこと。猫缶もう絶対転移先覚えてないっしょ」

「う、その話は、や、やめましょう。指輪指輪」

 

 天空城ラヒュテルには、独特の攻略システムがある。侵入者は大広間の正面以外の4つの扉から行けるダンジョンを攻略し、最奥にある鍵のかけらを全て入手し、正面の扉を開け、ラストダンジョンに突入する形となる。

 ギルドの指輪<落伍者の烙印>を装備していれば、各扉の前にある転移門からそれぞれのダンジョンや、部屋に移動することができるのだが、これがなかなか曲者で、各扉の転移門から行ける場所は決まっており、もし間違った転移先を指定してしまった場合ランダムでラストダンジョン意外のダンジョンの中(罠地獄)に放り出されるようになっている。

 指輪を所持していない者が転移門を使用した場合でも同様である。

 以上のことから各扉の転移門がどこに繋がっているのかギルドメンバー自体がしっかりと把握しておらねばならず、暗記が苦手な猫缶はしょっちゅう迷子になっており、トラップに引っかかって死ぬことがしばしばあった。

 懐かしい思い出に浸りながら全員が転移門の前に立った。

 

「さぁ…行きますか」

 

 少し引き攣った様な声でTKが呟く。何でちょっと緊張してんだコイツは。とラガーマンは訝しむが、実はラガーマン自身も無自覚に身構えてしまっていた。横を見るとユウジが堂々と仁王立ちしている__いや、緊張して固まっているだけだった。誰かコイツからワールドチャンピオン剥奪しろ、と思ってしまうほど情け無い固まりっぷりだ。

 

 結局皆モリオの話を頭から切り離せないでいたのだ。仮にゴールドの件が嘘だったとしても、ドラモンがギルド拠点を今日この日まで残し切っている事実は覆しようがない。

 他の仲間と金を稼いでいたとして、なぜその仲間は今ここにいないのか。いいや、仲間なんていない。一人だけ残ったのだ。このだだっ広いだけのギルドホームに。

 かつての仲間達に対する愛故か、それともユグドラシルへの執着か、はたまた両方?どちらにせよ変態に変わりはない。

 そんな男が手間暇かけて作ってくれたエルモアお墨付きの盛大なサプライズだ。面白くない訳がない。男衆が気構えてしまうのも無理はないだろう。猫缶くらいだ、ちゃんと転移できるかどうかでぶつくさ悩んでいるのは。

 ラガーマンは一つ大きく深呼吸をする。

 

「うしっ!んじゃ行ってくるわ!<転移>王の間」

 

 意を決して転移門を潜った。別に我先にと行きたかった訳ではないが、男共を待っていたらそのままサービス終了もあり得る。そんなつまらん幕引きは許されない。この先を見逃してしまったら二日は引きずる自信がある。

 景色が変わった。そこは大広間と同じく白銀の世界__先程と違う点が3つ。それは白い世界を真っ二つに分ける様に伸びた真っ赤な絨毯。その絨毯の終着点にある巨大な玉座。そして絨毯を横から挟む様にしてずらりと並んでいる銀色のフルプレートを纏った騎士達。

 

 その玉座に座ってじっと此方を見つめている男。白銀の世界を塗り潰すような漆黒のマントを纏い、首からは拳大ほどもある巨大な赤い宝石のついたネックレスをぶら下げている。肌の色は血の様に赤く、鍛え上げられた鋼の様な肉体によくマッチしている。瞳はレモンの様な黄色。口からは鋭い牙が二本突き出ており、そして頭には一本、額から巨大なツノが生えている。

 ユグドラシルでは鬼という種族に分類される異形種だ。彼こそギルド『落伍者の集い』の創設者にしてギルドマスター、そしてギルドに最後まで残った男『ドラモン』だ。

 

「おいおい急に行くんじゃないよぉ。こういうのはいっせーのーせで皆一緒に行くもんでしょうが」

 

 後ろからの声に振り向くと、TKが此方に指をさしながらぷんすか怒っていた。他の2人も無事転移できた様だ。TKの後ろで周囲を見渡している。

 

「せーのも何も…おめーら固まって動かねえし」

「やっぱ何か緊張しちゃうよねー。モリオのせいだよモリオの!あっドラモンさんいるじゃん!ウィーっス」

 

 TKが手を上げながらドラモンの方へ駆け出した。ラガーマン達も少し遅れて玉座の下へ集合した。ラガーマン達の到着を待っていたかの様にドラモンが立ち上がった。

 

「皆忙しい中よく来てくれたな。素晴らしい…本当に素晴らしいメンバーだよ」

 

 うんうんと噛み締めるようにドラモンが頷く。声色からして感動すらしてそうだ。エルモアが来てなかったら帰ってたなんて口が裂けても言えない雰囲気である。

 

「そりゃギルマスの頼みなら来ますって!まー俺以外全員ログアウトしようとしてたけどねー」

 

 と思った矢先にTKが即カミングアウトをかました。

 

「あっコラTK!余計なこと言うんじゃねーよ。そこは素晴らしいメンバーってことにしとけよ!ドラモンの感動を返しやがれ」

「いやそれドラモンさんのセリフだよね!?」

「うるせーこの野郎犯してやるよ!」

「いやぁあああああ」

「待ってくれラガーマン。実際呼びつけておいてこれだけ待たせてしまったんだ。帰ろうとするのも無理ないさ。だからそこはもうお互い水に流そう。」

 

 TKを沈めようとした矢先にドラモンからストップがかかった。ドラモンは何やら王の間の入り口の方をしきりに気にしながら問いかけてきた。

 

「ところでイリスちゃんはまだ来ていないのか?ログインしているのは知っているんだが…」

「ああ、イリスな。実はここに来る前モリオぶっ殺しちゃってさぁ、モリオ一人で来させるのも可哀想だから後で一緒に来るんだとさ。」

 

 ラガーマンは咄嗟に思いついた嘘をつく。なぜ嘘をついたかと聞かれるとそっちの方が面白そうだからである。

 イリスが仕掛ける側に回ったと仮定して、その情報がエルモアからドラモンに伝わっていないということは…ドラモンもこちら側の人間という可能性がある。

 盛大なドッキリなのかサプライズなのか知らないが、余計なことは伝えない方が結果的に面白くなるに違いない。

 TKが「え、そんなの聞いてないけど?」とか呟いていたが、殴って黙らせる。

 

「モリオと…?おい本当にちゃんと来るのか!?ラガーマン!イリスちゃんはちゃんとくるんだろうなあ!?」

 

 ドラモンは玉座から降りてくるなりラガーマンに詰め寄る。余程取り乱しているのか、鬼のアバターがカクカクと奇妙な動きをしている。

 

(相変わらずイリスのことになると理性が飛びやがるなコイツは…)

 

 ラガーマンは情けないギルドマスターの姿に辟易するが、可哀想なのでもう少しだけいじめてやることにする。

 

「来てる来てる。拠点の中には確実にいるから安心しろって。無事転移してこれるかは知らねーがな」

 

 そう言ってラガーマンはガハハと笑う。このままイリスがたどり着けずにドラモンが絶望するのも悪くない気がしてきた。

 

「本当か!?いるんだな!?ハッ!」

 

 ラガーマンの思惑とは裏腹に、ドラモンは希望を宿した声を上げ、弾けるように玉座に駆け上がった。ドラモンは玉座の横にある端末をいじくると、心底安心したようにため息をついた。

 

「良かった…本当に来てくれたみたいだな。モリオも…間に合ったか。」

「…それで?ウチら集めて何するつもりなんだよ。先に言っとくけどバカのせいで花火は無くなっちまったからな。」

 

 思惑が外れて面白くなくなったラガーマンは、単刀直入にドラモンに問うた。

 

「花火なんてどうでもいいさ。」

 

 そう言うとドラモンは玉座にどかりと腰を下ろし、顔を伏せた。

 

「まだ全員集まってないが…時間もないし…始めるか。逃げられても困るしな。みんな聞いてくれ。」

 

 ドラモンは一人呟くと、顔を上げ、此方をゆっくりと見渡した。睨み殺すようなドラモンの眼光は、妙に生々しく…ラガーマンはまるで本当の鬼の眼に睨まれているかのような錯覚を覚えた。いや、錯覚なんかじゃなかった。

 

 鬼は立ち上がり、両手を広げ言い放つ。

 

 

 

「諸君、我々はこれより…」

 

 

 

「世界を手に入れる」

 

 

 

 

 

 

 

 エルモア達と別れた後、イリスは城の転移門から移動し宝物殿の前に来ていた。巨大なかんぬきがかけられた、イリスの身長より何十倍も大きな扉。宝物殿の扉は秘密の合言葉により開かれる。

 イリスは暫くブツブツと悩んだ後、合言葉を口にした。

 

「俺たちは、どうしようもない成らず者。成らず者が故に成り上がり、世界の頂きまで上り詰めよう。」

 

 自虐的なのか前向きなのかよくわからない合言葉だなと唱えるたびに思ってしまう。

 

(最終的にはてっぺん行くんだから…ポジティブか)

 

 そんなことを考えていると、扉にいくつもの光の線が入り、消えると同時にガチリと大きな音が鳴った。イリスは無事鍵が開いたことに安堵のため息を吐くと、扉に手をかけ一気に開いた。

 悲鳴にも似たけたたましい轟音と共に扉が開かれ、イリスは目の前の光景に絶句した。

 

「嘘…だってモリオはからかっただけって…」

 

 目の前に広がっていたのは天井に届きそうなほど積み上げられたゴールドの山。ざっと見渡しただけでもイリスの在籍していた頃の倍以上はある。その光景はモリオの嘘を肯定する材料には十分すぎるほどだった。

 それはつまりドラモンの異常性を裏付ける事実な訳で、ということは…

 

(今はそんなこと考えてる場合じゃないか)

 

 思考の海に流されそうになったところで、エルモアとの約束を思い出し、意識を引き戻す。

 大体ドラモンが気色悪いのは今に始まったことではないのだ、気にしたってしょうがない。イリスはそう割り切ると、神秘の森の入り口を求め、金色の迷宮に飛び立った。

 

 神秘の森への入り口は、意外にも早く見つかった。金貨の山に埋もれて発見できないのではないかと心配だったが、杞憂だったようだ。金貨が乱暴に積み上げられている部屋の中で、神秘の森へ繋がる入り口の前だけ綺麗に整頓され、寧ろどうぞ見つけて下さいと言わんばかりの状態だった。

 数十トンはありそうな巨大な石でできた扉の前で、イリスは自身の状態異常耐性を確認する。

 と言うのもエルモア曰く、神秘の森の大部屋に繋がる道中は、あらゆる状態異常のガスや罠で充満しているらしいのだ。対策なしで突っ込めば、たちまち餌食にされてしまう。

 

 イリスの種族であるデミドラゴンは、人間とドラゴンの二つの形態があり、人間の状態では状態異常耐性が無に等しく、眼、角、翼、尻尾と変形してドラゴンに近づいていくほど耐性やステータスにボーナスがつくと言う特性がある。

 となると状態異常にならないためにはドラゴン形態になる必要があるが、これが中々使い勝手が悪く、完全なドラゴンの形態になると、複数の状態異常に対する完全耐性を得られステータスも大幅に上昇する代わりに、一部のアイテムが使用できなくなったり、装備の効果が制限されるというデメリットがあるのだ。

 この装備の効果制限というのが厄介で、指輪やネックレスなどのアクセサリー系は特に制限は受けないが、鎧などの防具系の効果はほとんど使用不能になってしまう。

 つまり、ドラゴン形態になっても防具で状態異常耐性をカバーすることができない為、神秘の森へ行く道中で何かしらの状態異常やバッドステータスを被ることになるのだ。そう、通常ならば。

 イリスはそれらの問題を解決する一つのクラスを取得している。デミドラゴンの種族が、特定の種類のドラゴンを倒し、それにより発生するクエストをクリアすることで成ることができるクラス、<スピリットオブドラゴン/竜の意志>。

 

 この<竜の意志>は、倒したドラゴン系のモンスターから極低確率で入手できる<ドラゴンソウル>というアイテムを使うと、そのモンスターに変身することができるようになるというドッペルゲンガーに少し似た特徴を持つクラスだ。因みに一度でも変身したモンスターは勝手に登録されるので、何度も同じ<ドラゴンソウル>を入手する必要はない。

 変身には段階があり、眼、角、爪、翼、尻尾、完全体となる。完全体になるにつれ、ステータスの上昇ボーナスがつく…とここまではデミドラゴンと差がないのだが、各種耐性やスキルが変身の状態に関係なく使用可能という決定的な違いがある。つまり、ドラゴン形態のデメリットを受けることなく耐性をつけることができるのだ。

 当然、変身するモンスターが持っていない耐性はつけることができないが、それは大して問題ではない。ドラゴン種のモンスターなどユグドラシルには何種類もいるのだから、状況に応じて変身するだけだ。

 

 イリスは竜の意志のスキルを発動する。《トランス・ソウル/スケリトルドラゴン》

 イリスの頭から生えている捻れた黒曜石のような禍々しい二本の角が、後ろに流れる様な白い4本の棘に変化する。赤黒い髪は真っ白になり、瞳の色は黒から紅い灯火の様なものに変わった。

 スケリトルドラゴン形態は他のドラゴン種よりも数段弱い。ステータスボーナスも寧ろマイナス補正がかかってしまう。それでもこの形態を採用した理由、それはアンデッド化による状態異常無効化である。

 ユグドラシルでのアンデッドの状態異常やバッドステータスに対する耐性は突出して高い。なので、アンデッドであるスケリトルドラゴンになれば、あとは少し装備品を調整すれば、ほぼ全ての状態異常に対して耐性を得ることができるのだ。

 

  エルモアから聞いていた全ての罠、状態異常に対応できることを確認し、イリスは石の扉を開け放つ。薄暗い内部から白い靄のようなものが流れてきて、身体に纏わりつく様に漂っては消える。     

 ただのエフェクトとは理解しているが、なんとなく気持ちが悪く、つい口を手の甲で押さえてしまう。

 イリスはゆっくりと暗闇の中へ歩み出した。

 石造りの洞窟の様な通路を抜けると、だだっ広い空間にでた。異様に高い天井からは、氷柱の様に鋭い鍾乳石が、下に向かって幾つも突き出している。 

 目の前は切り立った崖になっており、石でできた細い吊り橋が向こう側の崖まで伸びている。吊り橋の終点には、遠すぎて米粒ほどくらいの大きになった石の扉が見える。神秘の森の扉だ。

 ぱっと見は何の変哲もないただの一本道だが、その周辺には目視では確認できない罠が、これでもかと仕掛けられているらしい。サービス終了日にご苦労なことだ。

 イリスはゆっくりと扉に向かって歩き出した。一定のペースでとにかくゆっくりと。これがエルモアから聞いていたトラップ対策である。急いで駆け抜けようとすると幾つもの罠が連鎖し、崖下へ吹き飛ばされる仕組みらしい。

 崖下はダンジョン攻略時のシステムを流用した、耐性無視の時間停止と状態異常ガスのオンパレードで、一度落下すると自決する以外に戻ってくるのは至難の技だとか…。

 

(耐性無視ってどんな仕組みなんだろう?超高難度ダンジョンにはそういう罠も幾つかあったけど…持ってこれるもんなの?)

 

 エルモアはあっさり流用したとか言っていたが、普通は不可能だ。というかそんなインチキ技術があったのなら、こんな辺鄙な場所よりもっとメインの所に使って欲しかったと思う。それだけでギルド防衛がどれだけ楽になったことか…。

 とはいえイリスからしてみても明らかにズルいので、運営のbanを恐れたのだろうなと、勝手な予想で納得した。

 イリスは焦ったいスピードでなんとか扉の前に到着した。入り口からだと小さく見えたが、そばによると中々に大きい。5メートル四方はありそうだ。

 扉に触れた途端、冷たい声でアナウンスが流れ出した。

 

『プレイヤー・イリス…認証致しました。ロックを解除します。』

 

 ガコン…という何かが外れたような音と共にゆっくりと扉が開く。ユグドラシル終了までもう15分を切っていたので、イリスは半ば身体をねじ込む様に扉をくぐった。

 今日驚くのは何度目だろうか…。イリスは目の前の光景に、実はサプライズを受けているのは自分なんじゃないかと思うほどに驚愕していた。

 

  そこにあった物。それは部屋の隅々まで敷き詰められた、一目で強力なものだとわかる武具。真ん中にあるはずのテーブルが隠れてしまうほどに積まれたレアアイテムの山。

 中央には人の腕の像が4本ほど天井に向かって突き出され、その開かれた指には幾つもの指輪が嵌められていた。

 そしてその腕に囲まれる様に置かれている一際大きく豪華な装飾が施されている宝箱。中には一体何が入っているのだろうか…。そんな物を目にしてしまったら。

 

「うわー!え、何これうわぁ…。やばい!!」

 

 大興奮である。イリスは迷うことなく宝の山に踏み込むと、一つ一つ鑑定し始めた。

 

 「こ、こ、これもしかして全部神器級?え?やばいよぉ…。何で隠してたの!」

 

 神器級アイテムとは、ユグドラシルのレアリティ最上位の階級の激レアアイテムで、超重課金者のイリスでも、自分の装備一式作るので精一杯だったほどのアイテムなのだ。

 んほぉー!と声を上げながら、武具を持ち上げていると電子音が鳴り響き、<メッセージ>が届いた。

 今楽しいんだから邪魔するなと思いながら、<メッセージ>を開くと、そこにはエルモアの文字。

 <興奮するのはいいから早くしてくれ。>

「す、すいませんでした。」

 

 ラガーマンといいエルモアといい、どこかに監視カメラでも仕掛けているのだろうか。イリスは虚空に向けて深々と謝罪をし、渋々回収作業に取り掛かった。拡張され無限となったアイテムボックスが次々と装備品を飲み込んでいく。

 壁側にあった物を全て回収すると、次はテーブルのあるであろう周辺を片付けていく。重課金者でも中々手に入らないような物ばかりだ。これだけのアイテムがあればもっと色々できただろうに…。

 

「勿体ねぇ…」

 

 と、呟きながらもイリスは一つの可能性を思案していた。それは『ユグドラシル2』の存在である。 

 公式がアナウンスしていない以上、0に近い可能性だと思うが、そう考えると色々と合点がいくのだ。これらのアイテムを次の作品に持っていけるのならば、それだけで破格のアドバンテージを受けることができる。そのまま持っていけなくても、ゴールドに換金などできれば全然違う。

 とすると続編の情報をどうやって入手したのかという話になるのだが…イリスはエルモアとドラモンのどちらか、或いは両方がユグドラシルの運営に携わる人間なのではないかと睨んでいる。

 実はこのギルドに入ってから、こう言った黒に近いグレーな行為は何度か目にしたことがある。

 運営の者がその特権を利用し、ゲームを有利に進める。完全にアウトだし、バレれば逮捕は免れないだろう。

 イリスはその件について首を突っ込まない様にしていた。疑問に思うことはあっても確証はないし、抜け道が多いのもこのゲームの醍醐味なので、何か裏技でも使ったのだろうと納得していた。なので今回の件もあえて何も聞かないことにした。

 と、決心したにもかかわらず、次から次へと衝撃的なことが起きるので正直勘弁してほしい所だ。ツッコミが追いつかない。例えばこのテーブルの下に隠されていた50本近い槍の束とか。

 

 「これ、あれだよね?前にコラボ企画でやってた…確か≪インドラの矢≫だったっけ?」

 

 ≪インドラの矢≫とは、とある有名作品とのコラボイベントの景品で、コラボ内の高難度ダンジョンをクリアした者に一本だけ与えられる、使い切りのワールドアイテムのことである。

 ワールドアイテムという枠組みだが、ダンジョンクリアで誰でも手に入れられるという性質上、そこまで強力なものではない。

 能力は至極単純で、超広範囲に防御、耐性無視の大爆発を引き起こすというもの。その威力は絶大で、範囲内にいた場合まず即死は免れない。

 また10回に渡る多段ダメージが入るため、効果範囲内で生き残るためには最低でも10回の即死級ダメージを無効化しなければならない。実際このアイテムを使われた場合は、炸裂する前に転移又は高速移動で効果範囲外に逃げる、というのがユグドラシルプレイヤーの共通認識だった。

 威力だけ見れば強力なのは間違いないが、イリス達からすると、ちょっと強い超位魔法…という程度の評価である。

 というのもこのワールドアイテム、≪世界の守り≫がつかないという致命的な欠点があるのだ。

 ≪世界の守り≫とはワールドアイテムを装備すると発生するバフのことで、それは敵対プレイヤーのワールドアイテムの理不尽な効果から自身を守ることができるという強力なのバフ効果なのだ。

 ぶっちゃけワールドアイテム自体の能力よりも≪世界の守り≫の方が大事だったりする。ワールドアイテムにはそれこそプレイヤーキャラそのものを消滅させてしまう物もあるのだから。

 そのバフ効果がつかない上、ワールドエネミー他、一部の強力なボスモンスターにはダメージが入らないという欠点も存在する。

 そんなことからギルド間の戦争や、対人戦に使用することになるのだが…即死級の魔法や技が跳梁跋扈するユグドラシルにおいて、わざわざこのワールドアイテムを使おうというプレイヤーは少なく、苦労してまで手に入れようとする者もいなかった印象がある。イリスもその内の1人で、ダンジョンの難易度が無駄に高すぎたために早々に撤退した。

 

 しかし、そんな微妙なワールドアイテムも、50本となれば話は変わってくる。これだけあれば、その辺のギルドならイリス1人でも壊滅させられるだろう。

 

「どこで拾ってきたんだろうこんなもん。戦争でもするつもり?」

 

 なんだかもう呆れ果てて色々どうでも良くなってきていた。テーブルの下には他にも幾つかワールドアイテムと思しき物が転がっているが、いちいち調べていたら時間がいくらあっても足りないのでさっさと回収する。

 テーブルの下が片付いたので、その上に突き出す様に置かれている腕のオブジェの指から、指輪を回収していく。≪流れ星の指輪≫という表記が幾つか見られたが、努めて無視する。

 最後に残った宝箱に手をかけ…イリスは少し迷う。開けずに回収してしまわないと間に合わないかもしれない。理性はそう訴えてくるが…好奇心の部分があと少しだけなら大丈夫だよと囁いてくる。結果好奇心が圧勝した。

 宝箱を開ける。中に入っていたもの…それは。

二つの水晶玉ほどの大きさのある火の玉。一つは濃い紫色でもう一つは鮮やかな水色をしている。

 ゆらゆらと蠢く二つの炎は、先ほどのワールドアイテムでさえ霞むほどの強いエネルギーを感じさせた。ある意味ではイリスの最も馴染みのあるアイテム。ドラゴン・ソウルだ。だがイリスの持っているどれとも違う__これは。

 

「ワールドエネミーの…ソウル?」

 

 そう、ユグドラシルの敵モンスター最強の存在。ワールドエネミーのドラゴン・ソウルだったのだ。ネットでも噂程度でしか聞いたことがない都市伝説のような代物。まさか実在していたとは…

 イリスはもう何が出てきても驚くまいとは思っていたが、流石に動揺を隠せなかった。なぜならこのアイテムは、イリスの諦めてしまった目標の一つだったから。そもそもドロップ率のかなり低いドラゴン・ソウルは、一個入手するのに同じモンスターを最低2000体は狩らねばならないと言われていた。2000体でもかなり少ないらしく、実際は10000体倒して一つも出ないプレイヤーもいた。

 イリスはどれも2000〜3000ほどで入手できたが、他のプレイヤーの入手報告を見る限り、これはかなりの豪運だった。≪竜の意志≫が、比較的簡単になれる強力なクラスにも拘らず人気がないのは、この異常に低いドロップ率が大きく影響していた。

 ただでさえ最強のモンスターであるドラゴンを狩りまくらなければならないのだ。相当暇じゃなければできないし、根気と情熱も必要だ。

 今にして思えばイリスもドラモンのことを笑えないほどの狂いっぷりだったなと…自虐的な笑みが溢れた。

 そんな当時のイリスでさえ、ワールドエネミーのソウルだけは手に入れることができなかった。

 ワールドエネミーの中にもドラゴン種のモンスターは複数いたが、その内遭遇できたのは3体。討伐できたのは1体だけだった。

 その勝利でさえ奇跡のようなものだったのだが、そこでドラゴン・ソウルがドロップすることはなかった。   

 終ぞ、手に入れることの出来なかったワールドエネミーのドラゴン・ソウル。そんな物が何故ここにあるのか…。そんな疑問がどうでも良くなるほどの欲望と好奇心が、イリスのなかで吹き上がっていた。

 

(これ使って暴れてみたあああああああい!!)

 

 もうサービス終了まで残り僅か。終わってしまったらもう何が起きるのか確認することもできない。使うのなら今しかないのだ。だが…。

「う、ううう」

 

 パタン。と断腸の思いで宝箱を閉じた。勝手なことをして楽しみを奪われた友人の怒り狂った顔が、頭をよぎったからだ。それにドラモンとエルモアから何をされるかわかったものじゃない。

 そうと決まれば撤収だ。時間が余れば使わして貰えるかもしれないし。

 宝箱をアイテムボックスにしまい、急いで帰ろうと思った矢先、イリスはテーブルにかけられていたテーブルクロスに、アイテム表示があるのを発見した。普通こういった装飾品はオブジェクト扱いなのでアイテムとは別の表記がされるはずなのだが…。

 調べてみて驚愕した。テーブルクロスだと思っていたものは…ワールドアイテムだった。

 イリスはこのアイテムは知っている。『死神の隠蓑』というアイテムで、マントのようにこれを被ると、周囲から完全に感知されなくなるという効果を持つ。

 似たような効果の魔法に『完全不可視化』というものがあるが、あれは感知系スキルや魔法、種族特性などにより発見することが可能だ。それに対し、このアイテムは使用者が攻撃などの敵対的なアクションを起こさない限り、一切感知出来なくなるという出鱈目な能力を持つ。

 かつてこのアイテムを所持していたギルドメンバーから、散々イタズラをされたイリスは、身をもってこのアイテムの恐ろしさを知っていた。そんな激ヤバアイテムをテーブルクロスにしているとは恐れ入る。

 イリスはテーブルクロスを引っ張り上げ、身に纏う。自分じゃわからないが、外からは姿が消失していることだろう。

 

(ラガちんに仕返ししてやろう。)

 

 まだまだ不用心じゃ!といってあの巨体に体当たりする自分を想像し、気持ちが逸る。

 

 そう、逸ってしまった。ドラゴンソウルを早く使ってみたいという気持ちもあったし、なによりも皆と一緒に終わりを迎えたいと思ったから焦った。もう少し早く来ればよかった。アイテムの鑑定なんか後回しにすればよかった。調子に乗ってテーブルクロスなんか被らなければよかった。でもそんなこと今更後悔しても遅い。遅すぎたんだ。

 

 神秘の森から出たイリスは、エルモアの言いつけを破ってしまった。早く戻らなきゃという焦りから、感知不能のワールドアイテムを装備している油断から、ついつい駆け足になってしまった。

 基準を超えた速度を感知したトラップが、連鎖する様に作動する。

 宝を手にした盗人に、ドラモンの無慈悲な鉄槌が下された。

 衝撃。イリスは上から巨人に踏みつぶされたかのような圧力を受け、崖下に吹き飛んだ。一瞬何が起きたか分からなかったが、直ぐにトラップによる爆発に叩き落とされたのだと理解する。

 が、理解した時には遅かった。強力な睡眠ガスがアンデッド化したイリスの耐性を貫通し、羽ばたこうとしたイリスの動きを封じる。

 なすすべなく崖底まで転落し、そこで強制的な時間停止をうけ、指一本動かせなくなった。

 

「な、なんじゃこのトラップ…全く動けない。」

 

 コンソールを開くことすらできない。睡眠状態くらいなら変身の掛け直しで解除することができただろうが、時間停止が凶悪すぎた。これでは死ぬこともできない。

 絶望的状況だ。もしかしたらエルモアあたりが助けに来てくれるかもしれないが、この崖下に降りて来れるとも思えないし、なにより『死神の隠蓑』を纏い、身動き一つしないイリスを発見できる可能性はゼロに近い。

 

「ああ〜完全にミスった…ごめんなさいエルモアさん。ごめんみんな。ごめん由香里…私はここでゲームオーバーだぁ」

 

 崖底からは上に目を凝らしても、天井が高すぎるのか真っ暗な空間しか見えない。睡眠ガスのエフェクトに邪魔されているのかもしれない。

 

 (とりあえず終わったらみんなに謝らないとなぁ。エルモアさんの連絡先…由香里なら知ってるかな…あーお風呂も入らないと…)

 

 もう諦めるしかないので、その後の対処を考えるしかない。今夜は徹夜だな、と明日を憂う。

 しかし、ログアウトもさせてもらえないとは、ドラモンもいやらしいトラップを作ったものだ。サービス終了間近だからいいものの、通常時にこれに引っ掛かったら目も当てられない。下手をすれば体内のナノマシンが尽きるまで拘束され続けるのだから。

 

 どれくらい時間が経っただろうか。さっきから≪メッセージ≫の魔法がしつこいくらいに飛んできているが、指が動かせないので開けないし、誰から来ているのか確認することも不可能だ。まあ大体想像できるが。

 もうどうにでもしてくれと投げやりになっていた矢先、イリスは自分が少し眠たくなっていることに気づいた。

 電脳世界で眠くなることなんてあるはずないのにおかしいな、と思っていると眠気はどんどん強くなり、耐えられない程になってきた。眠ってたまるかと抗っていたが、もうその意識は尋常じゃない睡魔に押し負ける寸前だった。

(あ、だめだこれ。もう…無理。)

 

「ごめん…みんな…ちょっとだけ、寝るわ」

 

 そう言ってイリスは、掻き抱いていた意識を手放した。

 

 

 

 

 



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目覚め

 

 どうなってんだよ!!

 

 

 

 

 本気でやる気なの?じゃあ、覚悟決めないとね。

 

 

 

 

 

 

 どこに…どこにいるんだ…君は…。

 

 

 

 

 

 こ、こここ殺した…殺しちゃったんだよおおおお!!!!!

 

 

 

 

 もう俺には、耐えられないよ…ごめんなぁ。

 

 

 

 

 

 あいつさえいれば、あの女ぁ嬲り殺しにしてやるからな。

 

 

 

 

 

 イリスくん。そこにいるなら聞いて欲しい。この子らを…この世界を…。

 

 

 

 

 

 んじゃ、いっちょ行ってくるわ。また…会おうな。

 

 

 

 

 

 

 さよなら、茜

 

 

 

 

 

 

 「もう…この子は相変わらず寝坊助だね。早く起きなさーい。」

 

 

 

 

 

 「おねーちゃーんおきろー!!」

 

 

 

 

 ハッと目が覚めた。

 随分と長い夢を見ていた気がする。とても悲しくて…苦しい夢を。泣き続けた後のような脱力感と虚しさが身体を蝕んでいる。

 埃っぽい臭いがする。ひんやりとした地面の硬質な感触が、酷く心地悪い。本来ならベッドの上に寝ているはずなのに、寝ている間に落ちてしまったのだろうか。いや、家のフローリングでさえもう少しマシだ。じゃあここはどこ?

 ガバッと身体を持ち上げる。掛け布団を振り払いイリスは周囲を見渡した。初めに荒々しく削られた様な岩肌が目に入った。

 上に視線を伸ばすと、浅黒い色をした巨大な蜘蛛の巣が、崖の上まで縦横無尽に張られ、その所々に罠にかかる哀れな獲物を待つ様に、これもまた巣のサイズに比例するかの如く巨大な蜘蛛が潜んでいた。

 

 どこだここ。それが第一の感想だった。そして、それがどこか理解した後、何故ここにいる。という第二の疑問がイリスの頭を駆け巡った。

 

(あれ…何してたんだっけ?確か…ん?みんなで花火して…モリオが死んで…神秘の森に行って…落ちた?)

 

 何故だろう。眠っていたとして、せいぜい数時間前のはずなのに、何年も昔のことに感じる。

 

「ドラモン?さんの罠で動けなくなって…あっ!!」

 

 身体が動くことを思い出し、イリスはログアウトする為にコンソールを出そうと指を動かして…苛立ちに顔を顰めた。

 

「システムコマンドが出ない?なんで」

 

 これじゃあログアウトできない。それはつまりこの面倒臭い状況を、きちんと整理しなければならないということだ。

 イリスはうんざりしながら上を見上げ…目が合った。獲物を待つ8つの眼と。イリスを見つけたそれは、ほぼ垂直な壁を驚くほどのスピードで駆け降りてきた。

 イリスはその巨大な蜘蛛が崖下に到達するより早く、掛け布団だと思っていたそれを頭からがっぽりと被った。

 イリスという獲物を見失った巨人蜘蛛は、少しの間イリスの周辺をぐるぐると回ると、惜しむ様にそのそのと上に上がっていった。

 『エルダー・ブラックスパイダー/古の黒蜘蛛』とは先程の巨大蜘蛛の名称である。

 レベルは80ほどで、飛行中の敵に対して攻撃力が3倍になるという特殊能力を持ち、追尾性能のある毒針をマシンガンの如く放ってくる。

 また、彼らの張ったクモの巣は、引っ掛かれば行動阻害に対する完全耐性を持っていたとしても、何故か10秒ほど完全に拘束してくるという嫌がらせ地味た効果がある。そして顔よりも大きい二本の巨大な牙は、噛みつけば20%の確率で相手を即死させる恐ろしい物だ。

 と、確かに恐ろしい相手なのだが、100レベルプレイヤーからすれば、警戒するべきダンジョンの雑魚敵の1匹にすぎず、イリスであれば難なく崖下の蜘蛛全てを始末できるだろう。

 

 では何故イリスは慌ててワールドアイテムに隠れてしまったのか。

 それは単純に、恐怖からだ。80レベルのモンスターが怖かったのではない。説明するのが難しいが、その大蜘蛛という存在そのものを、五感全てでもって、恐れてしまったのだ。

 悍ましい牙の間から滴る赤黒い粘液、イリス身体よりも太い8本の腕にびっしりと生えた針の様な毛、毛の隙間から見え隠れする、てらてらした深緑色の艶のある皮膚。丸々と太った腹の下には、小さな子蜘蛛がこれまたびっしりと蠢いている。

 一言で言えば描写が細かすぎるのだ。テクスチャが書き込まれすぎていると言ってもいい。もっと分かりやすく言うと『リアル』すぎるということだ。

 イリスがプレイしていた時はこんなにリアルじゃなかった。腕の毛なんて全く気にならなかったし、腹に子蜘蛛がいるなんて今の今まで気がつかなかった位だ。

 それが今では毛の一本一本の生え方の違いや、子蜘蛛一匹一匹の動き方の違いまではっきり分かる。分かってしまう。

 極め付けはその臭いだ。昔家族で行ったコロニーに一つしかない動物園のゴリラコーナーで、フワッと臭ってきた思わず顔を顰めてしまうほどのゴリラ臭を、100倍に濃縮したかのようなどギツイ異臭がした。

 臭すぎる。そんな物が突進してきてハイそうですかと戦えるほど、イリスの心は強くない。

 起きた時から薄々気がついてはいた。__ひんやりとした地面の感触、埃臭い空気、岩壁の極僅かな隙間に吸い込まれていく風の感触。本来ユグドラシルにはあるはずのない触覚、嗅覚が完全に再現されているということに。

 普通の大人なら、この時点で異常事態だと割り切ることができただろう。異世界に転移してしまったなどという有り得ない仮説を立ててしまえる者もいたはずだ。

 だが、ここに至ってイリスは…ただの能天気な女子高生だった月本茜は、ユグドラシル2が始まったのだと思い込んでしまっていたのだ。

 

(はっはっはドラモンさん、エルモアさん、あんた達の考えていることは…全て丸っとお見通しだ!!)

 

 自分の予想が当たったことに多少機嫌を良くしたが、状況が悪いことには変わりない。第一にシステムコマンドにアクセスする方法が分からない。これではgmコールで運営に問い合わせもできないし、ギルメンにメールも送れない。フレンドのログイン状況の確認も不可能だ。

 何回かそれっぽく空中をなぞってみたが…ダメだった。

 

 そして第二の問題、リアル過ぎ問題だ。バージョンアップに基づいて作品のクオリティーが上がるのは良いことだと思うが…このリアルさは受け入れられない。きっとコンソールで嗅覚と触覚は遮断できるのだろうが、このグラフィックは駄目だ。もう完全に実写。

 ゴーレムなどの無機質なモンスターなら気にならないかもしれないが、アンデッド系のグロテスクなモンスターが全て『古の黒蜘蛛』クオリティで出てくるとなると…ユグドラシル2はもういいかな、というのが正直な感想である。

 ドラモン達には悪いが、ログアウトできたらもう二度とプレイすることはないだろう。それくらい強烈だった。寝起きの大蜘蛛は。

 

 そして第三の問題、ギルド拠点にもかかわらずモンスターに襲われたということだ。

 これについてイリスは幾つか仮説を立てた。

 一つはユグドラシル2になったことにより、全てのダンジョンが一新され拠点の所有権がなくなり、また一から攻略しなければならなくなったというもの。正直これが一番あり得ると思う。      

 こう考えると、ドラモンの時間停止&睡眠ガストラップがモンスターに置き換わっている説明もつく。だがこの説だとダンジョンの最奥近くで、ぐーすか眠っていたイリス自身の説明がつかない。バグだと言ってしまえばそれまでだが。

 二つ目は単純にイリスの寝ている間に維持費が無くなった、又はギルド武器が破壊されるなどしてギルド拠点が崩壊し、またダンジョンに戻った説。

 もしこの説が当たっていたとしたら、原因は当然レアアイテムを持ち出した挙句寝てしまったイリスにある。この説は…当たってほしくない。

 せっせとアイテム収集していたドラモン達になんと言って謝ればよいのか…。

 だが眠っていたであろう数時間の間にそんなことが起きるだろうか?あれだけゴールドがあって?よってこの説は恐らくあり得ない。

 そして三つ目、ここのモンスターだけが特別に、ギルドメンバーも無差別で攻撃できるように設定している説。

 セキュリティの為に無差別モンスターやトラップを設置することはよくあることだ。現に猫缶がそれでよくやられている。よってこの説も有力だが…正直『古の黒蜘蛛』よりも、ドラモンの罠コンボの方が数段強力なので、わざわざ置き換える意味がわからない。節約だろうか。

 

 何にせよここから脱出しないことには何もわからない。となると、必要になってくるのは自分の状況把握だ。何ができて、できないか。

 イリスは『死神の隠蓑』の中で、モゾモゾと試行錯誤を試みることにした。

 『死神の隠蓑』の性能は先程の過程で実証済みだ。なら後はアイテムの出し方だが…。

 イリスがアイテムを出したいなーと思いながら手を伸ばすと__手がぞぶりと別の空間に沈みこんだ。これはもしや、と思いつつ手をスライドすると、窓を開く様に空間が開かれた。

 そこにはイリスが眠りにつくまでに集めた数々のアイテムが、ずらりと並んでいた。 

 当然、神秘の森で手に入れた超級のアイテム達も同様にそこにあった。

 イリスは小さく息を吐き出した。呼吸に合わせて胸が上下するリアルさにももう慣れた。

 とりあえず一安心だ。これだけのアイテムがあれば…脱出までゴリ押すことも可能だろう。

 魔法とスキルの発動も確認したいが、それをすると上の蜘蛛達に気づかれる可能性があるので後回しにする。

 

 イリスは立ち上がるとバサリと骨の翼を広げた。

 『死神の隠蓑』は身体の大きさや、状況に合わせて変化するので、翼を広げようが巨大化しようが、装備状態にある以上、その性能に問題はない…はずだ。

 完全に無意識にした行動だったが、イリスは自分手足と同じか、それ以上に翼が身体に馴染んでいることに驚いた。翼の付け根から先端に至るまで、イリスの意識が浸透している。

 

(さ、最近の科学はすごいなー)

 

 改めて浮上してきた仮説を、暴論で飲み込んだ。今は考える時じゃない。

 ついでに尻尾も生やす。これも無意識だ。親指の骨を握って鳴らすくらいの無意識でもって、イリスの尾骨辺りから骨で組み上がった長い尻尾がズルリと伸びる。

 イリスの意識に合わせてフリフリと動く尻尾が面白く、しばらく遊んでいたくなるが、今はそんなことをしている場合ではない。

 

(さて、いきますか。)

 

 蜘蛛の巣の張り巡らされた崖を見上げる。

 飛び方は…わかる。きっとユグドラシルで飛んでいた以上に軽やかに、そして素早く飛ぶことができるだろう。全力疾走するのと同じだ。蜘蛛の巣は全て躱す。一瞬で崖上に到達してみせる。

 イリスは覚悟を決め、地を蹴った。

 

(うおおおおお!!)

 

 一瞬で地面が遠のいていく。

 顔に打ち付ける風、流れていく景色、恐らく人生で初めてであろう空を飛ぶという行為に、イリスは感動した。こんな状況でなければ、きっと叫んでいたはずだ。

 そしてもう一つ驚かされたのは、高速で飛翔しているにもかかわらず、目の前に迫る蜘蛛の巣の、一本一本の細部に至るまで見分けることのできる自身の知覚能力の高さだ。

 これだけ見えるのであれば、今の数倍の速度で飛んだとしても、余裕で躱すことができるだろう。

 心に余裕ができたので、イリスは空中で宙返りをしてみたり、敢えて蜘蛛の巣の隙間ギリギリを回転しながら通過したりと、自分にできることを試しながら頂上を目指していった。

 遊びながら飛んでいたら、あっという間に崖上まで到達してしまった。イリスは石でできた吊り橋の上に軽やかに舞い降りた。

 感覚としては走っているのと同じだが、汗ひとつかかず、疲労一つ感じないのは、少し奇妙な感覚だった。

 頭は人生で一番冴え渡っている気がするし、五感もこれでもかと研ぎ澄まされている。最高の気分だ。蜘蛛の側を通った時の臭いがなければもっと。

 

「何者だ、貴様」

 

 突然声がかかった。

 イリスは驚いて声のした方を振り向き…硬直した。

 そこにいたのは巨大な男。ただの男ではない。 筋骨隆々の体に鯨の様な下半身。白髪頭に見事な黄金の冠を被り、堀の深い顔に鋭い眼光、口元には髪の色と同じ真っ白な髭を蓄えている。

 そしてその手には、神話の生物をも突き殺せそうなほど巨大で鋭利な黄金の三叉槍を握りしめている。

 彼こそは天空城ラヒュテルのネームドボス、神秘の森の守護者『ポセイドン』。

 

 唐突なネームドボスの登場に面食らったが、それ以上にイリスが驚いたのは、彼が喋りかけてきたことだ。本来なら問答無用で戦闘が始まったはずなのだが…。 

 

「どうも、こんにちは」

 

「こんにちは、ではない。我輩は貴様が誰なのかと問うておる。」

「えっと…ここの前の住人?ていっていいのかな?です」

「前…だと?ふむ、つまり今の住人ではないと言うことだな?」

 

 心なしかポセイドンの槍を握る力が強まった気がした。

 ゲームのキャラと言葉が通じてしまっている。これはもうわからない。ここに来てイリスの混乱も極まってきた。だが、コミュニケーションが取れる以上、交渉の余地があるということだ。

 もしかしたら戦闘することなく脱出させてもらえるかもしれない。なんとか怒らせないように話をしなければ。

 

「いや、さっきまで下で寝てたので…今もここの住人です!」

「むぅん!!!!」

 

 風を切る音と共に、イリスの眼前に黄金の槍が突きつけられた。

 

「貴様、先程は前の住人と言ったにもかかわらず、その舌の根の乾かぬ内に今の住人とぬかすか。我輩はそれを嘘と呼ぶ。嘘をつく者は侵略者だ。大体貴様の様な同胞は知らぬ。ここで死ぬが良い。神秘の森へは行かさぬぞ」

 

 三叉槍に電光が走る瞬間、イリスは後ろへ飛び退いた。轟音と共に槍の先端から電撃が打ち出され、イリスの目の前を焼き払う。

 明らかに殺意のある一撃。さっきの位置にいたら大ダメージを負っていたところだ。

 一瞬で交渉決裂してしまった。自分の話術の低さに落ち込むが、相手はネームドボス。元々交渉などできる相手ではないのだと傷ついた心を慰めた。

 

「npcの癖によく喋るじゃん。てかそんな糞森になんか興味ないっつーの!」

 

 ≪トランスソウル/ノーマル≫

 

 イリスは変身を解き通常状態に戻る。状態異常トラップのない今なら、スケリトルドラゴンの形態は寧ろマイナスだ。

 イリスは尻尾を生やした要領で、完全竜化の直前まで変化する。

 イリスは軽く笑う。以前の自分より格段に強くなったと確信して。

 変身の手間が以前より格段に少ないのだ。前は変身部位をいちいち叫ぶか、コンソールで選択しなければならなかったのに対し、今は考えるだけでノータイムで変身できる。

 一瞬が命取りになるこの状況で、この差は途轍もなく大きい。

 イリスは飛び上がり、空中で助走をつけてポセイドン目掛けて突進した。スキルを発動させる。

 

 ≪残滅の破爪Ⅴ≫

  弾丸の様なスピードで瞬く間にポセイドンの懐に飛び込むと、三叉槍をにぎるその太い右腕の肘先めがけて思いっきり爪を叩きつけた。

 衝撃と共に、ポセイドンの腕に太い傷が入る…が、傷の幅こそ広いが、深さで言えば全くである。 

 ポセイドンも最初は面食らったようにたじろいだがすぐに余裕の表情に戻ると、目の前のイリスめがけて鯨の様な尾ヒレを振るう。

 イリスは尋常じゃない速度で迫り来るそれを、空中で回転することでいなして躱し、回転の勢いのままもう一度、先程と同じ箇所に鋭い爪を叩きつけた。

 結果はさっきと同じだが、自分の攻撃が当たらず一方的に殴られていることに業を煮やしたのか、ポセイドンは三叉槍を滅茶苦茶に振り回し、目の前を小蝿のように舞うイリスを振り払うと大声で叫びちらした。

 

「糞森とはなんだ!!下品な小娘よ!!口も汚ければ戦い方も低俗ときたか!!恥を知れぇ!!」

 

 どちらかと言えば正々堂々戦っているつもりだが…何が気に入らないのだろうか。

 

「もーただの頑固じじぃじゃん。喋んない方が格好いいと思うよ?」

 

 今、ポセイドンに同情する点があるとすれば、ポセイドンは神秘の森の扉の前から一切動けないのに対し、イリスは後退し放題飛び放題なところだろうか。 

 事実、この状態のポセイドンであれば魔法などの遠距離攻撃で一方的に攻撃できる。ポセイドンにできる遠距離攻撃は三叉槍による直線的な雷撃しかないのだから。

 だが、イリスは近接攻撃を止めない。それはこの後の展開を知っているからである。この段階での行動で勝敗が決まるのだ。

 イリスはポセイドンから罵詈雑言を浴びせられながら、そろそろ8発目になる≪残滅の破爪≫を叩きこんだ。

 迫り来る三叉槍の強烈な突きを既で躱し9発目の爪を打ち付ける。ポセイドンはこれだけ食らっても何ともない様に腕を振るい、イリスに槍を突き出す。

 

 ポセイドンとしてもいい加減気持ちが悪くなってきていた。目の前の敵が、自分の攻撃を幾度となく躱す能力がありながら、かすり傷にもならない様な見掛け倒しの攻撃を繰り返しているのだから。

 

(この小娘…明らかに何か企んでおる。ならば早々に決着をつけるまでよ。)

 

 ポセイドンは三叉槍を天高く構えると、超位魔法を発動させる準備に取り掛かった。

 腕を突き上げたポセイドンを囲む様に、巨大なドーム状の魔法陣が浮かび上がった。

魔法陣が浮かび上がると同時に、半竜の小娘が血相を変えて飛び掛かってきた。先程よりもより苛烈に、狂ったように突き上げたポセイドンの右腕を攻撃している。全くもって無駄なことだ。この娘の攻撃には全く痛痒を感じ無い。

 

 超位魔法は発動するのに時間がかかる上に、その間使用者は身動きが取れなくなる。つまり今のポセイドンは全くの無防備だ。

 それにもかかわらず、強力なスキルを使うわけでもなく、魔法を撃ってくることもなく、鋭利な武器で攻撃してくるわけでもない。ハエの様に飛び回り、ダメージの無いか弱い爪による攻撃を繰り返すだけ。

 ポセイドンはこの五月蝿いハエに、憐れみすら感じていた。

 必死に何かしようとしているのだろうが、もう遅すぎるのだ。この娘は死ぬ。既に超位魔法の詠唱は完了した。

 

「小娘よ…嘘をつき、神秘の森を愚弄したことを許そう。ここで死に…我が眷属の餌となることでな。」

 

 超位魔法_≪カタクリズミック・レインストーム/天罰の大涙≫

 

 発動と共に小娘が距離をとる。

 魔法陣が弾け、天井の岩肌を塗り潰す様に巨大な雨雲が出現する。雨雲が広がるや否や、上から押し潰すかの如く大粒の雨が滝の様に降り注いだ。そのあまりの水量は互いの姿が全く視認できなくなる程だ。

 肌を叩く水の感触が実に心地良い。

 大量の雨が崖下に吸い込まれていくのを見て、ポセイドンは破顔する。あと数分もしたら崖が水で満たされ、巨大な湖となるだろう。そうなればポセイドンは自由に泳げるようになり、この忌々しい足場に頼る必要もなくなる。

 その時がこの哀れな小娘の最期だ。

 ポセイドンの持つ黄金の三叉槍≪トライデント・オブ・アトランティカ≫の真の力をとっくりと味わってもらおう。…最もそれまで小娘が生き残ることができたらの話だが。

 

  眼を凝らす。この濁流のような豪雨では、飛ぶことすらままならないはずだ。つまり足場となる目の前の小道以外警戒する必要はない。真っ直ぐ駆けてきたところを串刺しにしてやろう。

 ポセイドンは右腕を引き絞るように下げ、三叉槍を肩口に構えた。…そして。

 

 下から突き上げるように右腕に衝撃が走った。

 

 慌てて腕を見る。小娘が…いた。濡れた赤黒い髪を振り乱し、黄色い瞳…縦に亀裂のように走る黒い瞳孔が、ポセイドンを真っ直ぐ睨みつける。

 感心した。この豪雨の中にあって、その飛翔は全く衰えていない。加えてこの視界の悪さをものともせず、正確に右腕を撃ち抜いてきたのだ。

 痛みは無い。先程までと同じ無意味な殴打。この期に及んでまだ爪でくるのというのか。

 かち上げられた腕を振り下ろし、三叉槍の柄を地面に突き立てる。

 

 ≪神の怒り≫

 

 ポセイドンからドーム状に広がるように衝撃波が飛び、周囲の全てを吹き飛ばした。束の間の静寂__周囲の雨が止んだかのように静かになり、すぐに轟音の帷を下ろした。

 

 執拗に右腕、それも同じ箇所ばかりを狙ってきている。小娘の狙いは恐らく、業腹だがこの右腕の破壊で間違い無いだろう。右腕を破壊されれば、三叉槍の力を引き出せなくなる。

 あのやわな爪で壊せるほど脆くは無い。だが狙いを知って尚それに付き合うつもりもない。

 時間を稼ぐ。水が満ちればお前の負けだ。

 

 ≪眷属召喚__マーメイドシャーク/人魚鮫≫

 

 嬌声が爆発する。豪雨と共に美しい人魚が大量に降り注いできた。

 艶めかしい鮮やかなピンクの長髪。見るものをたちまち虜にしてしまうような可憐な黄金の瞳。

 そして耳まで裂けた大口に、重なるように生えた牙。腰から伸びるのはただの魚の体ではない。力強い大鮫のそれだ。

 ポセイドンからすれば、それはまさに美の化身なのだが、ユグドラシルプレイヤーにこれを綺麗だと思う者はいないだろう。

 というのも、ウルウルとした瞳と口のバランスが絶妙に噛み合っておらず、見るものに不安と恐怖を与えるデザインとなっているのだ。

 所謂不気味の谷現象の極地と呼べる見た目をしており、下手なゾンビよりよっぽど精神にくると感じるプレイヤーも多い。

 そしてそのレベルは70。100レベルプレイヤーであれば一体一体であれば苦戦することはないが、ポセイドンは≪天罰の大涙≫の発動している間、無限にこれを召喚することができる。まさに数の暴力。並のパーティでは即彼女達の餌食となるだろう。

 

 これは余談だが、ゲームという性質上、当然処理落ちというものが存在するため、ユグドラシルであれば同時に出現できるのは20体までである。

 が、この場において…何故かその制限は存在しない。

 人魚鮫達はまさに豪雨の如く降り注ぎ、崖下の大穴を埋め尽くしてゆく。

 ポセイドンは満足そうに頷いた。時間稼ぎとは言ったがこれではもう生き残ることは不可能だ。

 

「神秘の森へは何人たりとも近づくことはできんということだ、小娘」

 

 雨と眷属の降り注ぐ世界のどこかにいるであろう、半竜の娘に声をかける。最早聞こえてはいないだろう。既に肉塊と化していてもおかしくない。

 感謝しよう。眷属の供物となってくれたことを。感謝しよう。この数百年誰も訪れることのなかったこの地に挑んできてくれたことを。

 ああ…こうしてまた神秘の森に静寂が__

 

「だから、糞森になんか興味ないって言ってんでしょーが」

 

 ≪ワールドブレイク/次元断切≫

 

 無礼な言葉が耳を突いた次の瞬間、世界が割れた。

 それは比喩でも何でもなく、まるで画用紙に書かれた風景画を引き裂いた様に、落とした鏡に亀裂が入った時のように、眼前の世界が一直線に砕け、陥没し、そしてひび割れて、穴の空いた空間に吸い込まれるようにして世界が、色が、収束して…

 けたたましい怒号と共に空前絶後の大爆発が巻き起こった。

 

 なにが起きたのか理解などできない。肩口から袈裟斬りにされ、血の吹き出した体を抑え、ポセイドンは激痛のあまり顔を歪めた。

 額から大量の汗が流れては、大粒の雨に洗い流されてゆく。下をみれば眷属たちの肉片が無数に散らばり、ポセイドンの足元を真っ赤に染め上げていた。

 右下から怒鳴り声がした。あの小娘の耳触りな声が。

 

「これで50!!!!」

 

 右腕に跳ね上がるような衝撃が走った。今までとは違う__耐え難い激痛と共に。

 クルクルと目の前を舞うこれはなんだ。三叉槍を握ったまま崖下へ落ちてゆくあれはなんだ。

 あれは我輩の…。

 

「ぬ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"」

 

 ≪ゴッドブロー/神の一撃≫

 

 ほぼ反射的にポセイドンの放ったスキルが、拳が、技を放った硬直後のイリスの腹に突き刺さった。

 イリスはまるでピンボールの様に吹き飛び、雨を切り裂きながら、爆音と共に向かいの壁に激突した。衝撃で壁に無数の亀裂が走り、破片が舞う。

 激痛がイリスの全身を支配する。視界が揺れ、雨によって滲んだ世界がぐるぐると掻き混ざる。

 咳き込むと同時に大量の血が口からこぼれ落ちた。

 油断した。完全に失敗した。

 

 通常ならばイリスの動きは間違いなく最善のはずだった。あの場でポセイドンの腕を破壊できなければ、敗北は必至だったのだから。

 ≪残滅の破爪≫とはデミドラゴンの種族が使用できる部位破壊専用のスキルである。

 それは特定の部位に決められた必要回数攻撃を当てると、相手のhpや耐久値にかかわらず必ず部位破壊できるというもの。

 必要攻撃回数は対象のレベルによって上下する。ポセイドンの場合、腕50回・頭70回・尾ヒレ30回といった具合だ。

 大抵の場合普通に攻撃した方が早いので、対ボス戦で使うことは滅多にないが、今回のような一人での戦い且つ、部位破壊によって勝敗が大きく左右されるような状況では有効なスキルだ。

 ポセイドンの右腕を破壊しないまま水が満ちた場合、ポセイドンは湖を縦横無尽に泳ぎ回りながら、<浸水状態の対象>に必中効果のある防御力無視の雷撃スキルを乱発してくるようになる。

 この<浸水状態の対象>とは水の中、もしくは≪天罰の大涙≫の効果範囲に入っている者である。つまりこのフィールドにいる以上逃げ場なく、常に攻撃にさらされることになるのだ。そうなれば勝ち目はほぼ…というか0になる。

 その事態を避けるために、イリスは被弾覚悟で特攻し、無理矢理攻撃回数を稼いでいたのだ。

 思ったよりずっと早く超位魔法を撃ってきたことと人魚鮫の多さには面食らったが、詠唱中に何度も攻撃することができたので人魚鮫が降ってくる頃には部位破壊まで後一回の状態だった。

 最後は≪ワールドブレイク≫によって怯んだ隙に、懐に飛び込んでからの一撃で簡単に破壊することができた。

 と、ここまでほぼ計画通りにことが進んだにもかかわらず1発貰ったくらいで何が失敗だと言うのか。

 

 それは…この敵と戦ったことそのものだ。

 たかがエリアボスがこんなに豊かな感情を持っているなんて知らなかった。≪ワールドブレイク≫のスケールのデカさを見誤った。npcから血が、臓物が飛び出すなんて知らなかった。

 

 殴られるのがこんなに痛いなんて知らなかった。 

 こんなゲーム知らない。こんなのゲームじゃない。きっとここで死ねば本当に死ぬ。理屈じゃなく本能で理解した。理解できてしまった。

 

 込み上げてきた血を吐き出し、雨と涙で滲んだ視界で周囲を確認する。

 どうやら洞窟の端まで吹き飛ばされたらしい。

 チラリと後ろを見ると、宝物庫の方へ繋がる扉が見えた。

 再び前方に視線を戻すと、人魚鮫の群れがイリスに食らいつかんと全力で這ってくるところだった。 

 一か八か…イリスはアイテムボックスから腐るほどあるワールドアイテムの内一本を抜き出すと、前方に向けて思い切り投げつけた。

 槍は洞窟の中央あたりで人魚鮫の一体に突き刺さり、その効果を発揮する。光がだだっ広い洞窟全体を照らしだす。そして全てが照らされるより早く、耐性無視の力の暴力が炸裂した。

 それは降り注ぐ大量の雨と人魚鮫を瞬く間に蒸発させたかと思うと、一瞬で洞窟の端から端まで焼き尽くした。

 『インドラの矢』の効果10回に渡る多段攻撃だ。イリスは迫り来る波動に合わせてスキルを発動した。

 

 ≪次元断層≫

 

 ワールドチャンピオンの持つ絶対防御のスキルである。自身を別次元へ移動させ、あらゆる攻撃の干渉を不可能にする…らしい。

 発動時間は束の間だが、瞬間的にワールドアイテムの効果でさえ無効化することができると、ネットで話題騒然となったスキルだ。

 通常は24時間に3回しか使用できないがイリスは…というかほぼ全てのワールドチャンピオンが特別クエストと課金アイテムにより10回まで増やしている。

 つまり、タイミングさえ間違えなければ『インドラの矢』を防ぎ切ることが可能ということだ。

 ユグドラシルではきっと成功しなかっただろう。だが、今なら…知覚能力が極限まで引き上げられている今のイリスなら…上手くいくはずだ。 

 一つ目の波動が迫る。スキルを発動したイリスの身体が白銀の光に包まれ半透明に透ける。波動がイリスの身体を通りすぎて__続けて9回の大爆発が洞窟に激震を齎した。

 

 

 洞窟の内部は蒸発した水分により発生した霧と爆煙に覆われ、一寸先も見えない状態だ。

 

「小娘め、このような切り札を持ち合わせていたとは。だがこの爆発だ。無事では済むまい」

 

 あの徹底的な破壊の後でさえ、ポセイドンは健在であった。そもそも『インドラの矢』はエリアボスモンスターに対して効果を発揮しないので当然ではあるが。

 眷属が皆殺しにされてしまった。天は裂け、雨雲は掻き消えてしまった。もう絶対に許すまい。

 霧が晴れたと同時に全ての力をもって叩き潰してやる。ポセイドンはそう決心した。

 

 霧が晴れる。左腕を硬く握りしめ、スキルを発動しようとしたポセイドンの見たものは、もぬけの殻となった洞窟と、対岸で粉々に砕け散った石の扉だけだった。

 

 

 静寂を取り戻した神秘の森の洞窟で1人、ポセイドンは憤怒の咆哮を上げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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脱出

今回も独自設定のオンパレードです。


 

 

 『死神の隠蓑』を握りしめ、イリスは1人夜空の下を歩いていた。初めてここを訪れた人間がいたら、これがまさか城の中の光景とは思わないだろう。

 そう、これは作られた景色だ。天空城ラヒュテルの中には朝日から月夜まで、そして春夏秋冬に至るまで、あらゆるロケーションが用意されている。夜空などここでは珍しくもなんともないのだ。

 サクサクと土を踏みしめ、夜の森をイリスは進む。周囲のモンスターに際限なく警戒しながら。

 戦闘はごりごりだ。あんな風に殴られたことは現実世界ですら経験がない。もう痛いのもグロいのもうんざりだった。何とか戦わず抜け出したい。スキルの使い方もわかったので転移で脱出を試みたが、ダンジョン内部のせいか発動しなかった。

 

(早くみんなに会いたいよ…。帰ってシャワー浴びたいー、ご飯食べたいい、布団で寝たい)

 

 先程殴られたお腹の辺りをさすってみる。洞窟から逃げた後に<ライトヒーリングポーション/中級回復薬>を振りかけてみたのだが、面白いくらいに痛みが引いて驚いた。

 どうやらhpさえ回復すれば、傷は綺麗に治るらしい。アザが残ったらどうしようかと思ったが、杞憂で済んで助かった。

 イリスは歩きながら、ここがダンジョンのどのエリアなのか、記憶の引き出しから必死に探り出そうとしていた。どうも目覚めてから昔の記憶が曖昧なのだ。イリスが初めてこのダンジョンを攻略してからまだ3年も経っていないはずなのに。

 足元の土が、硬い石混じりのものから、サラサラとした砂状に変わり始めた頃…唐突に思い出した。周りに生えるやけに葉の大きい植物、背の高い…ヤシの木と呼ばれる植物もチラホラ見られる。雪の様に白い砂、鬱蒼とした森を抜けると、月夜の下そこに広がっていたのは広大な砂浜と、見渡す限りの真っ黒な海だった。

 浜辺には一隻の巨大な帆船が停泊しており、水夫が数人、せっせと荷物を積み込んでいる。水夫の表情は、夜だというのに遠目からはっきりとわかるほど笑顔だった。

 

 イリスは絶望して膝から崩れ落ちた。なぜ今まで思い出せなかったのか。神秘の森の前、宝物庫のあった場所の本来のエリア…天空城ラヒュテルを難攻不落たらしめた最凶最悪のステージ『ワールド・エンド』の存在を。

 終わった。ここはイリス1人では絶対に突破できない。確実に死ぬ。一体何人のプレイヤーがこの海に飲み込まれていったのだろうか。ユグドラシルならあー死んだで終わりだが、今の状況だととてもそんな風には考えられない。

 身体の力が抜け、イリスは重力に任せて砂浜に寝転がった。うるさいほど美しい星空も、普段なら心を癒してくれる波の音も、今のイリスにとっては孤独感を倍増させる要因でしかない。

 このまま宇宙まで飛んで行けたらいいのにと、夜空に向かって手を広げ…その細い指にはまっている一つの指輪が目に留まった。

 

<シューティングスター/流れ星の指輪>

 

 経験値を代償に、願いを叶えて貰う魔法≪ウィッシュ・アポン・ア・スター/星に願いを≫を経験値消費なしで3回まで発動できる最高の課金アイテム。

 

「これに願ったら…入り口まで戻れるかも?」

 

 これは賭けだ。もし可能だったとしても選択肢が出てこなければ終わりだ。チャンスは3回、イリスは星に手を伸ばし、願った。

 

「お願い!≪星に願いを≫」

 

 指輪の装飾である三つの星の内一つが弾けた。

 それと同時にイリスはこの超位魔法が変化していることに気づいた。選択肢はでない。そのかわり望んだ願いをそのまま実現できるようになっている。イリスは笑った。これならきっと外に出られるはずだ。

 頭の中で何度も反芻した願いを唱えた時、イリスの身体を光が包み込み、世界から消える。

 後に残ったのは黒海に亡霊の様に浮かぶ帆船と、笑顔を貼り付け黙々と作業する水夫達だけだった。

 

 転移した…と気づいた時、あまりにも眩い光にイリスは手の甲で目を覆った。

 突風が吹き荒び、風に混じった砂が身体を叩く。空は雲一つない晴天。鮮やかなセルリアンブルーがグラデーションしながら地平線まで続いていた。

 ハッと後ろを振り向くと、そこにあったのは白銀の城、それを取り囲む見上げるほどの巨大な門。

 ここは、イリス達が最後に花火を打ち上げた場所だ。少し前の出来事なのにどこか懐かしく、イリスの心は謎の郷愁感に包まれていた。

 ここに立っているということは…出られたのだ。難攻不落の極悪ダンジョンから。

 イリスは指輪のはまった左手を胸に抱きしめて、無事脱出できたことを、命を失わずに済んだことを…指輪の願いを叶えてくれたことを神に感謝した。神様なんて信じたことなかったが、今はそんなものにでも縋りたくなるほどに、救われたのだ。

 怖かった。本当にあのまま孤独に死んでしまうのかと思った。暗い砂浜を歩く水夫の顔を思い出し、ゾッとして頭の中から振り払う。

 

 脱出できたらこっちのものだ。早く皆と合流しなければ。イリスは頭の中を切り替え、これからのことを思案する。

 外に出られた喜びで余り考えていなかったが、眼下に広がる光景は、イリスの想像とは…アースガルズの光景とはまるで違っていた。 

 山脈と海に囲まれた自然いっぱいの光景、それがイリスの知っている天空城からの眺めだ。

 夜の海をバックにドヤ顔で語ったモリオの演説が懐かしい。では今はどうか。

 城の下には、街ができていた。それもうっとりするほど美しい街が。統一感のあるレンガ造りの街並みは、昔写真で見たフランスの景色を連想させた。

 天空城からは街の中央の貯水池に向かって滝の様に水が降り注ぎ、そこから街全体に張り巡らされた水路に流れている。

 そしてもっと驚くべきは、この街そのものが天空城の如く浮いているということだ。天空都市にして水の都。なんなんだこの贅沢な街は。

 もうここはユグドラシルではないのかもしれない。何もかもが以前とはあまりにも違いすぎる。ユグドラシルの設定をかじった別の世界に飛ばされたと考えた方が色々納得がいってしまう。

 

 深く考えても答えが出る気がしないため、イリスは街に降りて探索することにした。イリスよりも弱そう且つ友好的な存在を探しに。

 『死神の隠蓑』を纏い、千里眼などの探知系スキルも周囲100メートルほどの範囲に狭めておく。『死神の隠蓑』の性能を疑う訳じゃないが、やっぱりまだ怖い。街の人間が全て敵対npcの可能性もあるのだから。

 街に降り立ち煉瓦で舗装された道を歩く。

 目に止まった小さい家の扉を軽くノックする。木製の扉が、乾いた鈍い音を立てて揺れた。反応は…ない。

 取手に手をかけて手前に引いてみる。扉は意外なほど抵抗無く開いた。

 

「ごめんくださーい…」

 

 扉を少し開け中を見ると、玄関と呼べるようなものは無く直接リビングとなっており、中央に長方形のテーブルが置かれ、テーブルの隅には食器がまとめて置かれていた。部屋の端には暖炉があり、その横には観賞用の植物が置かれていた。

 予想はしていたが、誰もいないみたいだ。室内には埃一つないので、誰かが掃除しているのだろうが…。

 もしかしたら何か行事があって皆そこに集まっているのかもしれない。少し飛べば人一人くらいすぐに見つかるはずだ。そう思いイリスは家を後にした。

 

 2時間ほど飛び続けただろうか。イリスは人間はおろか、生き物一匹見つけることができずにいた。この街は何かがおかしい。

 遠目から見たら美しい街だったのだが、実際に近くで歩いてみると、騙し絵を見た時の様な違和感を感じたのだ。

 その違和感の正体は、登った先の無い階段だったり、貼り付けただけの扉、明らかにサイズの間違った窓のついた家、穴の空いていない煙突など、数え出したらキリがない。まるで素人が何も見ずに作ったミニチュアの世界に迷い込んでしまった様だった。

 それだけチグハグしているのに、屋根の高さや色は美しく統一され、水路の流れも詰まることなく町全体に行き渡っているのが、気持ち悪さを倍増させている。

 極め付けは、この街が綺麗すぎること。街の端まで行って確認したが、浮遊都市の下は草一つ生えない砂漠地帯だった。ちょくちょく身体に当たる砂はそこから風に飛ばされてきたのだろう。

 それならこの街はもっと砂まみれになっていなければおかしい。にもかかわらず街道は綺麗に掃除され塵一つ見当たらない。植えてある街路樹にも砂の一粒すらついていない。

 間違いなく誰かが管理している。なのに2時間飛んでも人一人見つからないのだ。こんなことありえるのだろうか?

 

 ひとしきり飛んだ後、イリスは天空城の門まで戻ってきていた。理由は天空都市を上から俯瞰して眺めたかったのと、何となくあの街の中にいるのが嫌だったからだ。

 

「あぁ〜お腹空いた…。せめて食べ物くらいあったらなあ」

 

 門に背をつけて座り、今後の方針を考える。正直もうここにいる理由はない。人はいないし、ダンジョンに戻る訳にもいかない。それになりより空腹が洒落にならなくなってきた。

 イリスは<維持する指輪>などの飲食が不要になるアイテムを所持していない。

 これはイリスが高い料理スキルを持つドラゴンに変身でき、食事ボーナスに頼ったプレイスタイルだったのが原因だ。料理や食材は一定期間で腐ってしまうので腐りを遅くするアイテムや、魔法をかけて保存しておくのだが…さっき確認したら全滅していた。

 腐った肉が出てきたらどうしようかと取り出したら、手のひらで砂に変わったので思わず笑ってしまった。

 

 お腹がグルグルと唸り声を上げている。まるでドラゴンだ。

 砂漠を抜けて人里か、最悪森などの食材のある場所に行かないと餓死確定コースだ。仲間探しはその後でも大丈夫だろう。そうと決まれば出発しなければ。

 イリスは立ち上がり、いつでも戻って来られるよう転移の魔法のマーカーを大門前に打ち込んだ。もしかしたらラガーマン達が戻ってくるかもしれないから。 

 感覚的にマーカーなどつけなくても場所を覚えておけば転移できるみたいだが、忘れる可能性もあるし念には念を、だ。

 

 

 

 打ち込んだ瞬間、ミシリと空気が軋んだ。

 

 

 

 これは殺意だ。空気が変わるほどの強烈な殺意がイリスに向かって放たれているのだ。

 

「なん…で?」

 

 敵対行動をした覚えは無い。だが…何かに気づかれた。気づかれてはいけない何者かに。スキルを使用していなくても五感の全てが警告音を放っている。全力でここから逃げろ、と。

 一つの殺意から伝播するように幾つもの殺意がイリスのいる場所に向けられてきた。

 それも一つや二つではない…二十は越えているだろう。

 この街の管理者なのか誰なのかは知らないが、一つだけ確かなことはその相手は、マーカーをつけたとはいえ、その一瞬でワールドアイテムで身を隠しているイリスを発見するだけの探知能力を持っているということだ。

 

「もぉー!お腹空いてんのにぃぃ!!!!」

 

 イリスは 即座に『死神の隠蓑』を解除し、竜眼のスキル<千里><看破>の範囲を最大まで引き上げた。

 敵の数は感知できるだけで25。天空都市を包囲する様に展開し、矢の様な速度で此方に飛んできている。

 イリスは天空城から飛び降り、包囲の中で最も数の少ないところへ突撃した。

 敵は天空城よりも高い位置にいるようだ。ならば…イリスは街まで急降下し、屋根の上スレスレを猛スピードで飛び抜ける。衝撃で瓦が吹き飛ぶが、気にしていられない。

 パッと空が明るくなる。直接見てはいないが何の攻撃かは大体理解できる。少なくとも花火の光ではないことは確かだ。

 上空の敵から強力な魔法が飛ぶ。

 

≪ コール・グレーター・サンダー/万雷の撃滅≫

 

 幾本もの雷を束ねた光の本流がイリスに直撃する寸前、イリスも竜眼のスキルを発動させた。

 

 竜眼≪遅延≫

 

 途端、イリスの周囲の全ての物の流れがゆっくりになる。これは時間操作したものではない。

 ≪遅延≫の竜眼を発動したドラゴンは周囲のあらゆる攻撃を見抜き、その全てを捌くことができるだろう。と公式wikiに書いてある通り、反射神経を極限まで引き上げた結果、敵からの攻撃がゆっくりになるよ、という設定のスキルだ。

 エフェクトや効果音は他の時間操作系とほぼ同じだが、決定的に違うのは設定上時間操作ではないので時間対策では防げないという点である。

 発動中こちらからは攻撃できない為避ける時限定にはなるが、前衛戦士職にとっては特に重宝するスキルだ。

 スキルを発動して驚いたのは、ユグドラシルでは敵からの攻撃のみスローになっていたのに対し、こちらでは視界に入る全てがゆっくりに見えていることだ。 

 これはエフェクトや演出で誤魔化す必要がなくなり、本当に反射神経や動体視力が極限まで高まっているということなのだろうか…。イリスは苦笑いをした。この世界は本当になんでもありなんだなと。

 

 ごんぶとの雷がイリスの後ろを通り過ぎ、屋根の上で爆発した。追撃の魔法が来る前にもう一つスキルを発動する。

 

≪トランスソウル/赤の王ギュラ≫

 

 イリスの髪色が赤黒いものから炎のような紅に変化する。ツノは牙のように白く真っ直ぐに、尻尾と爪は白く変化し、背中には半透明な薄く鋭い羽が四枚生える。

 ダンと屋根を蹴り上げ空を舞う。上空の敵から最強化された≪マジックアロー/魔法の矢≫が20発ほど飛来するが…もう遅すぎる。

 

≪フォーフェザーズ・アクセラレーション/加速する四枚羽≫

 

 金切り声の様な騒音と共にイリスに生えた4本の羽が目に見えないほどの高速で羽ばたく。

 

 ≪マジックアロー≫が届く瞬間、轟音と共にイリスの姿が掻き消えた。弾けるように砕けた屋根の破片に、魔法の矢が炸裂する。執拗に群がるその様は、餌に群がる小魚の大群の様だ。そこには半竜の娘の残像しか残されていないというのに。

 

 『赤の王ギュラ』とは、竜眼を手に入れるためのクエスト<竜の12の試練>の4番目の試練の最後に登場するボスのドラゴンのことである。

 倒せばスキル竜眼≪天駆≫が使用できるようになり、これはドラゴン族の飛行速度を2倍に引き上げるという破格の効果を持つ。

 そしてこのボス『赤の王ギュラ』の最大の特徴は≪天駆≫の能力から分かる通り、速度である。

 ステータスが攻撃力とスピードに極端に偏っており、素の状態でも目で追えないほど速いのに、そこからさらに専用スキル≪加速する四枚羽≫を使用された場合、あまりの速さに姿が消える。

 こうなると一切攻撃が当たらなくなるので、時間停止して罠に嵌めるか、範囲魔法で強引に攻撃を当てるなどの対策が必要になってくる。

 これは余談だが…その速度にゲームの処理が追いつかないのか、余り広くないステージの構造上の問題も相まって、消えたと思ったギュラが壁に突き刺さってました。なんてことがよくあった。

 一度壁に刺さると自分では抜け出せないらしく、タコ殴りにされても死ぬまで埋まったままなのでプレイヤーの間では「馬鹿の王」「埋まるちゃん」「突き刺し王子」など不名誉な名で呼ばれていたこともあったとか。

 

 そんな自他共に危険な能力も、この地平線まで障害物の無い空の下では逃走においてデメリット無しの最強スキルとなる。とはいえ竜眼≪遅延≫と併用しなければ速すぎて使えたものではないが。

 知覚と身体能力が以前の比ではないので、もしかしたら裸眼でいけるかもと思ったが、不可能だった。飛ぶだけなら何とかなるかもしれないが、目の前に障害物…例えば鳥とかがいた場合避けられる自信はない。

 

 竜眼のスキルは眼という性質上、同時に使用できるのは2つまでだ。そして≪遅延≫の竜眼の連続使用可能時間は10分間。使用時間の回復には倍の20分かかる。

 現在使用しているのは≪千里≫と≪遅延≫だ。≪千里≫はその名の通り遠くの物や人物を知覚することのできるスキルだ。

 ≪天駆≫を使用すれば今のさらに倍の速度で飛ぶことができるが、正直そこまでする必要は感じなかった。今は敵の状況を把握する方が重要だ。

 既にイリスは敵の包囲網を突破し、天空都市からも飛び出している。そしてここから数キロ先にある巨大な防御壁も把握済みだ。

 

 『アイソレーテッド・シャングリラ/隔絶されし理想郷』という名の神器級アイテムがある。

 このアイテムは羽の生えた卵のような形をしており、展開すると使用者の指定する範囲を丸々ドーム状に包み込む防御壁が出現する。

 外からは超位魔法でも崩せないほどの強力な守りの壁を張り、中にいる使用者とその仲間はステータス上昇などの様々な恩恵を受けることができるアイテムである。

 当然完全無敵の壁などではなく、防御壁へのダメージが限界を超えると、卵の殻が割れる様に砕け散り、同時にアイテムも破壊されその時恩恵を受けていた者達には、強烈なバッドステータスが付与される。

 そしてこのアイテムの弱点…というか特徴の一つが、中からなら簡単に出られるというものだ。

 

 この防御壁は天空城と天空都市を丸々包み込むように展開しているので、イリスが内側にいるのは間違いない。つまり問題なく脱出できるだろう。

 防御壁を飛び出した後≪千里≫で敵の状況を確認すると、既に追ってきている者はおらず、しつこく追いかけてきていた一体も、天空城へ引き返しているところだった。

 

 

 

 

 



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試練

 

 

 イリスは≪遅延≫の使用限界まで飛び続け、追手が全くきていないことを確認すると、ホッとため息をつき灼熱の太陽の下そのまま飛行を続けた。

 一体あの敵はなんだったのか。ダンジョン外に設置された新しい敵なのか、はたまたあの街の管理人なのか…。何れにせよ敵対的な存在であることに変わりはないだろう。ラガーマン達だったかもしれないが、きっとそれは無い。

 『死神の隠蓑』を解除し、わざと姿を見せたにもかかわらず攻撃してきたのだから。

 他のプレイヤーの可能性もあるが、あれだけの数に殺気を向けられて、あの場で交渉する勇気は無い。問答無用で殺されていた可能性だってある。 

 お腹がグルグルと咆哮を上げる。

 色々な考えが頭の中を巡るが、お腹が空きすぎて正直まともな思考をできているとは思えなかった。

 

 もうこのまま餓死するのかと諦めかけていたところ、≪千里≫の竜眼に反応があった。

 目を凝らすと、イリスのいる場所から200キロほど先に動物の頭をした二足歩行の生き物の大軍がいた。ざっくり数えただけでも1万以上はいそうだ。皆武装しており、腰に剣を帯びているものもいれば、鋭い爪を研いでいるものもいる。

 皮でできた天幕のような物がいくつも張られており動物人間達が出入りしている。

 

(戦争…してるのかな?)

 

 武装しているにも関わらずそこまで緊張感を感じられないのは、恐らくそこが前線ではないからだろう。

 どこと戦っているのかはわからないが、これだけの生き物がいるのだ。食べ物の一つや二つあってもおかしくないはずだ。

 そしてこの動物人間達はイリスより格段に弱い。イリスはこの身体になってから、相手の動きを見るだけである程度の強さを判断できるようになっていた。その正確さは鮫人間やポセイドンで実証済みである。誤差があったとしても1〜2レベル程度だろう。

 そのイリスの見立てでは、この動物人間達のレベルはイリスは疎か人魚鮫にも大幅に劣る。これならば例え下手をこいて1万人と戦闘になったとしても余裕で逃げられるはずだ。

 天幕の中にはプレイヤーレベルがいるかもしれないが、もうそんな可能性を考慮している余裕は無かった。さっきから骨つき肉を貪り食う動物人間が視界にチラついてしょうがないのだ。

 口の中に涎が溢れる。もう我慢できない。

 たまりかねたイリスは赤の王ギュラのスキルを発動させた。

 

≪グレーター・テレポーテーション/上位転移≫

 

 パッと視点が切り替わり、動物人間軍団のすぐ後ろまで移動した。

 転移後のイリスに気がついた何人かの動物人間が、驚いて声を上げた。馬と虎と…熊?他にも沢山いる。頭のバリエーションはかなり豊富なようだ。

 

「な、なにもんダ!!どこからでてきタっ!」

「おい、なんだあいつは!オマエ知ってるか!」

「しらない!審判長よべ!!」

「あっ言葉通じるんだー良かった。」

「う、うごくな!しゃべるな!早くガラウム呼べ!」

 

 ザワザワと騒ぎ出した群れを眺めること数分後…人混みを掻き分けるようにして1人の動物人間が出て来た。

 ニワトリの頭をした動物人間だ。筋骨隆々な肉体は革鎧の上からでもわかるほどで、腰に差したメイスによく似合っている。

 ニワトリ男が怒鳴った。

 

「我こそは審判長ガラウムであるッッ!!オマエは何者だ!見たところ…半竜…?とお見受けするが!?」

 

 引き絞ったような声が響く。ひどく聞き取りづらいが、会話できないほどではない。言葉が通じれば十分だ。

 もう我慢していられないイリスは、ガラウムに向かって単刀直入に欲望を叩きつけた。

 

「イリスっていいます。お腹空いてるから食べ物下さい。お金は払います。アイテムと交換でも良いです。お願いします。」

 

 必死に頭を下げた。我ながら酷い交渉だと思う。だがもうこの空腹に耐えられる気がしないのだ。ゴールドなら幾らか持っているし、それが駄目なら物々交換でも構わなかった。が、ガラウムの要求はイリスの想像とは全く別の物だった。

 

「金などいらぬぞ!そんなものに価値を見出すは忌々しい人間くらいのものよ!我々は違う…」 

 

 ダンと足を前に出し、渾身のドヤ顔でガラウムが告げた。

 

「力だ!ここでは力こそが価値を持つ!!さあ!己が要求を貫きたくば、力を見せるがいい!半竜の娘イリスよ!!」

 

 返ってきた予想外の返答にイリスは困惑した。力を見せろと言われても何をすれば良いのか。周りの動物人間達が「マタ始まったよー」とか「ダレダ、アイツ呼んだノ」とか言っているが、とりあえず無視する。

 

「力…?んー腕相撲でもしたらいいんですか?」

「腕相撲も不要!!オマエがするべきはただ一つだ!!」

 

 ガラウムが腕を広げてフフンと鼻?を鳴らしながら横目でこちらを見る。

 

「私を殴れ!!!!」

「うぇっ?」

「だからっ殴れ!!私を!!力を示すのだ!!私を屈服させて見せろ!!」

 

 ガラウムが鎧を脱ぎ胸を差し出す。張り裂けんばかりの胸筋がテラテラと光っている…汚い、なぜ脱いだ。

 正直困った。いや、ガラウムの要求はとても単純でわかりやすいものではあるのだが…。

 イリスは自分の手を見る。本気で殴ったらこのニワトリ男は弾けて死ぬだろう。それこそ≪次元断切≫を食らった時の人魚鮫のように。ハキハキと己を殴れと言っているこの自信満々な顔も、イリスが殴った瞬間物言わぬ肉塊と化すのだ。

 そんなのは…嫌だ。

 周りの反応を見た感じ、きっと愛されているのだろう「やっちまえー」とか「ぶっ殺せー」とか物騒な言葉が飛んでいるが、そこにはどこかお約束というか愛情のようなものを感じるのだ。

 彼の帰りを待つ家族だっているのかもしれない…いるのかな?

 だから困った。本気どころか9割抑えて殴っても殺してしまう気がするのだ。かといって撫でるような攻撃だと力を示すことができない。弱いとみなされてご飯は貰えないだろう。単純だが超難題だ。

 ぐぬぬとガラウムを睨む。まさかドヤ顔のニワトリがここまで神経を逆撫でするものとは…。

 

「どうした!!怖気付いたか!娘よ!!早く殴れ!!」

「わかったよー 。そのかわり後でちゃんとご飯出してよ?」

「承知!!オマエの力を認めた暁にはその願い聞き届けよう!!」

 

 もうやるしか無い。一か八かだ。弱すぎず強すぎず…ガラウムを認めさせる一撃を。

 目覚めてからこんな博打ばっかりだ。安定した高校生活がとても恋しく感じた。つまらない日常に刺激が欲しいと思ったことはあるが、こうも連続して窮地に立たされると流石にうんざりする。

 変身を解く。そして角と眼以外の竜化を解除した。イリスの変化に周りがどよめく。

 ガラウムの話だとこの動物人間達と人間は敵対してそうだ。これはユグドラシルでも変わらない。人間種と異形種、一部亜人種は仲が悪い。

 だから竜化を完全には解かない。人間だと思われると後々厄介なことになるかもしれないからだ。極力種族レベルのステータスが乗らない状態にしたかったが仕方ない。

 イリスは覚悟を決め、審判長ガラウムの前に立った。直立のまま右腕だけ前に構える。

 

「おい!そんな構えで大丈夫か?ちゃんと殴れるのか?力を示すのだぞ!!」

 

 ガラウムの唾混じりの怒声が飛ぶ。

 思わず力任せにぶん殴ってしまいそうになるのを必死で堪えた。

 

「大丈夫だから心配しないで。んじゃあいくよー。」

「ムッ!!」

 

 ガラウムの胸筋がキュッと締まる。黒光りした胸に生えた鮮やかなピンクの突起がピンと跳ねた。

 イリスはその突起めがけて__赤子を愛でるような優しさでもって__拳を突き出した。

 ニワトリが飛ぶ。それは本来の翼を使った滑空ではなく…だが同じくらいの滞空時間を経て地面に衝突し、砂埃を舞上げながら転がった。

 野次が止み、周囲を静寂が包み込む。ガラウムは地面に突っ伏してピクリとも動かない。

 

「わっごめっ大丈夫!??」

 

 イリスは用意していた<中級回復薬>を使おうとガラウムに駆け寄り、そのニワトリ頭に触れようとした瞬間、此方を制止するようにバッとガラウムの手が上がった。

 

「ゴフゥッ!い…痛くも痒くも…ないブハァ!!あっ…あっ…」

「うわぁ!めちゃ血ぃ吐いてるじゃん!強がんなくていいから!ホラッ」

 

 吐血しながらフルフルと起き上がろうとするガラウムに、回復薬を振りかける。ポセイドン戦の時の効果が確かならこれで全快するはずだ。

 回復薬をかけられたガラウムはビクリと身体を震わせた後、半身を起こして自身の胸の辺りを数度さすり、驚きの声を上げた。

 

「こ…これは…痛みが…無くなったのか!?いや、別に痛みなどなかったが。元より痛みなど無いのだ。」

「嘘つくなよ。めっちゃ血吐いてたからね君。」

「失礼なっ!!おい!私はまだお前を認めておらんぞ!!もう一度だ!もう一度殴れ!私を!!力をっ」

「示したじゃん。吹っ飛んでたじゃん。早くご飯よこせー!ニワトリぃ!」

 

 回復なんてさせなければ良かった。ケロッとしたガラウムの顔を見て心底後悔した。

 往生際の悪いニワトリの肩をゆすりながら懇願するが、カクカクと頭を揺らすだけで頑として認めようとしない。コイツもしかしてただ殴られたいだけなんじゃないだろうか。

 ドMという言葉がイリスのいた世界にはあったがこのニワトリ男はそれに該当する可能性が極めて高い。そうなるとイリスの願いが叶うことはない。

 冗談じゃない。なぜなら力を示せば示すほどこのニワトリの愉悦が高まるだけなのだから。恐らく…死ぬまで。

 イリスは周囲を見渡し助けを求めた。が、他の動物人間達は「ドウシヨウ」とか「吹き飛んダ、ガラウム、オンナつよい」とか各々好き放題騒ぐだけで助け舟を期待することはできそうになかった。

 どうもガラウムの種族は知的レベルに大きく差があるようだ。3語文以上話している者はガラウム以外見当たらない。となるとまともにコミュニケーションを取れるのが、この目の前で己を殴れと連呼するドMだけになってしまうのだが…。

 イリスは深くため息をつき、ガラウムの肩から手を離した。

 

「なんだ。小娘、漸くやる気になったのか。さあもっと私を喜ばせろ!」

 

 もう本人も性癖を隠す気がないらしい。四つん這いになって尻を此方に向けている。

 いくら殴っても無駄だと分かったので、別のアプローチをすることにした。

 

≪トランスソウル/マウンテン≫

 

 スキルを発動した瞬間イリスの身体がメリメリと大きくなり、ガラウムの2倍程の大きさで止まる。ステータスに大幅な補正がかかり、身体がフッと軽くなった。

 おおよそ5メートルほどだろうか。元の大きさが1.6メートルくらいなのを考えると、かなりの変化具合だ。集中すれば大きさのコントロールは自在みたいだが、今は放っておく。

 イリスの変化に周囲が騒ぎ出す。中には後ずさって尻餅をつくものもいた。

 そんな中でもガラウムは相変わらずだったが。

 

 だから、もっともっと大きくなることにした。

 

≪完全竜化≫

 

 目線がグンと高くなる。どんどんどんどん高くなる。それは四つん這いのガラウムがもう米粒程にしか見えないくらいに。

 全身が硬い深緑色の鱗に覆われた。頭には大樹の様に枝分かれした巨大な角が2本生え、その巨体から伸びる尻尾は、先端がどこにあるのかわからないほどに長い。背中に生えた翼は、広げればガラウムの軍全てを包み込めるほどの大きさがある。

 長い首を持ち上げてグッと背伸びをして前を見ると、地平線の果てまで見渡せた。

 

 それは丁度夕日が沈むところだった。赤く照らされた黄昏時の空。

 その光景にイリスは言葉を失った。

 いつだっただろうか。これと似た景色をちっぽけな教室から眺めたのは。

 これだったのか。あの景色の空気は、匂いは、音は、感触は。

 現代科学の粋を極めた最新のテクノロジーでさえ再現出来なかった光景がそこにはあった。

 それはあまりにも壮大で、雄大で、広大で、偉大で…一瞬だが倒れそうなほどの空腹感を完全に忘れていた。

 遥か下方から悲鳴のような声が聞こえてきてハッと我に帰る。下を見ると蟻のように小さい動物人間の群れが散り散りに四散して逃げ惑っていた。

 

(そっか今私マウンテンなんだった。それにしてもちょっと大きすぎない?気のせい?)

 

 『天衝龍マウンテン』とはユグドラシル内でも最大級の超大型レイドボスのドラゴンの名称である。

 その名は比喩でもなんでもなく、正に天を衝く山のような大きさの超巨大なドラゴンなのだ。

 設定資料では全高1500メートル以上…となっているが、ゲーム内の処理の関係か実際はそこまでの大きさはなかった。あっても精々500メートルくらいだろう。それでも規格外の大きさには変わりなく、実際に戦ってみると自分がどこにいて何を攻撃しているのかわからなくなるほどだった。

 特別な攻撃スキルは無い。あるのはその巨体を使った肉弾戦とブレス攻撃のみ。

 その純粋な戦闘スタイルからか、絡め手を嫌う脳筋プレイヤーからの人気は高く、また武器や魔法の試し斬り相手としての需要も高かった。

 イリスはこの形態でギルドメンバー複数人とレイドボスよろしく戦ったことがあるが、その時は5分と保たずにやられてしまった。

 理由は明白で、プレイヤーからすればその大きすぎる身体はただのマトになってしまうからだ。

 また、『竜の意志』の変身効果はステータスの補正こそあれ、完全にボス級モンスターの能力値と同じになるわけではない。特にhpの補正は低く、最大級のhpの高さを誇るマウンテンでも並プレイヤーの3倍が限界値なのだ。当然そんな状態でタコ殴りにされれば反撃する間も無くやられてしまうという訳である。

 そんなこんなでユグドラシルではほぼ日の目を見ることのなかった『マウンテン』の形態にわざわざ変身したのは、当然ガラウム達動物人間軍団をビビらせて力の証明をする為だったのだが…正直あまりの大きさに彼らよりもイリス自身の方が驚いてしまっていた。

 明らかに設定遵守のデカさだ。下手に動いたら地震でも起きそうなので、地に接しているところは指一本動かせそうもない。

 

 足元では未だにパニックが続いていた。少し先を見れば、武器を手にして此方に向かってくる集団がいるが全く恐怖心はなかった。

 このイリスの余裕は『マウンテン』ら一部のボスエネミーの持つ、70レベル以下の存在からの一切のダメージを受け付けないという特性からきている。

 これは低レベルプレイヤーの寄生行為を防止するための運営の策であり、これによりダメージを与えないと経験値やドロップアイテムが貰えないというユグドラシルの仕様上、プレイヤーは嫌でもレベルを上げる必要があるのだ。

 そんな仕様上の能力をプレイヤーが使えるのは全くの謎だが、深くは考えない。使えるものは規制されるまで容赦なく使い倒して勝利をもぎ取る。それがユグドラシルの常識なのだから。

 

 この集団にレベル70を超える存在はいない。故にイリスがダメージを受けることはないはずだ。

 後問題があるとすれば、このパニックの中にあって、『マウンテン』という超ド級のドラゴンに変身したイリスの前にあって尚、四つん這の姿勢を崩さず、寧ろ興奮を増しているガラウムくらいだろうか。

 

「素晴らしいィ!素晴らしいぞぉぉ!!竜の王よ!今こそその偉大なる御御足で、私をぉぉ!!踏むのだ!!!!」

 

(手強い…)

 

 認めるしか無い。コイツは大物だ。

 イリスは黒光りした艶のいい尻を眺めつつ豪風と見紛うほどの猛烈なため息を吐いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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無能

 

 

 

 

 絶叫を上げながらペンギン頭の同胞が天幕に飛び込んで来たのを見て、ワニの頭を持つビーストマンの最高司祭アムドールは、驚いて椅子から転げ落ちた。

 どうしたのかと問うてみるも、焦点の合わない目で「コイ!ヤマダ!!ヤマダ!!」としか答えず拉致があかない。

 アムドールは情けない同胞の姿にため息をついて起き上がると、テーブルに立てかけてある杖を手にとった。

 

 アムドールには悩みがあった。ビーストマンとして生まれ落ちてから現在に至るまでの深き悩みが。

 ビーストマンとは彼ら動物の頭を持つ二足歩行の種族の名称である。動物の頭を持つ以外は人間とよく似た外見であるが、大きな違いが二つある。

 一つは人間よりも遥かに強靭な肉体を持っているということ。そしてもう一つは人間よりも知力で圧倒的に劣るということだ。

 アムドールは目の前でヤマダヤマダと喚き散らしている同胞を憐れみの目で見つめる。

 そう、アムドールの悩みとはこのビーストマンと言う種族において、異常なほど賢く生まれてしまったことだった。

 ビーストマンが平均的にもう少し賢かったなら、もう少し思慮深かったなら、人間などとっくの昔に彼らの食糧に成り下がっていたはずだ。

 現在彼の国では彼ほどの知能を持つビーストマンは100人しかいない。これは国の総人口からすれば少なすぎる数だ。当然この国は彼ら100人の力によって成り立っている。

 人間でいえば3〜5歳児程度の知能しか持たない彼らを統率するのがどれだけ難しいことか。

 正直国として纏まっていること、人間の国である竜王国を攻めていること、軍として竜王国の第三砦の前に陣をひいていること。これだけでも彼には奇跡に思えていた。

 勿論奇跡と言う言葉ではすまされないほどの努力と犠牲の賜物ではあるのだが、それでも「人間を食べたい」という絶対的な共通願望がなければ彼の国など既に崩壊していただろう。

 6大国家の一つにビーストマンの国があるらしいが…彼にはとても信じられなかった。聞けばあちらの方には人間などほとんどいないと言うではないか。それは『食欲』という三代欲求の一つに必死にぶら下がっている彼らからすればあり得ない話だ。

 もしかしたら向こうには人間よりももっと美味な食糧があるのかもしれない。もしくは平均的知能がずっと高いか。それならば6大国家に名を連ねるのも頷けるか。

 

 グイッと手を引っ張られ我にかえる。日頃の疲れからかぼうっとすることが多くなった気がする。アムドールは頭を軽く振って雑念を追い払った。

 見れば必死の形相をした同胞が目を血走らせて「早くキテ!!」と吠えていた。

 こうして同胞が天幕に飛び込んで来たのは何度目だったか。

 どうせ大したことではない。やれおやつを食べられたとか、背中がかゆいとか、口喧嘩が殴り合いになったとかそんなことだろう。そんなことでこんなにも必死になれる彼らがある意味では羨ましい。

 知能が高くなるということはそれだけ激情が減ることを意味するのだから。

 

 ふと同胞の顔を見て一つの疑問が浮かんだ。何故彼がここにいるのか。このペンギン頭の同胞「ムー」は審判長ガラウムの部隊だったはずだ。

 ガラウムの部隊はアムドールの部隊よりずっと後方に位置していたはず。ムーがそこからわざわざここまで来た理由。少し胸騒ぎがする。思えば外の騒ぎもいつもより大きいような…。

 

「アムドールハヤく!!」

「ああ、わかったすぐ行こう。」

 

 天幕を出るとそこは大騒ぎだった。同胞達は皆部隊の後方をしきりに指差して叫び声を上げている。

 いったい何があると言うのか。指の差された方向を見て、アムドールは驚きのあまり絶叫を上げて腰を抜かした。

 

 ガラウムの部隊の後方に、空にも届きそうな程の巨大なドラゴンが鎮座していたのだ。

 その大きさはここからでは全容を全く捉えきれない。

 ガラウムの部隊までかなりの距離があるというのにすぐ側に感じるほどの威圧感。遠近感が完全に狂う。いったいどれ程の大きさだというのか。

 ムーの言っていた意味が分かった。これは正に山だ。山の様に巨大なドラゴンがガラウムの部隊後方に突如出現したのだ。

 

「アムドール!!ガラウム…山にやられる!!」

 

 ムーが立ち上がらせようと腕を引っ張ってくるが、正直行きたくない。自分が行ったところで何の役に立つというのか。

 あのドラゴンが指を軽く弾くだけでこの軍は全滅してしまうではないか。

 それならば今すぐ散り散りに逃げ出し、後で軍を再編成したほうがまだ生存率が高まるというもの。

 まあ…それでも致命的なレベルで犠牲が出るだろうが。

 既にガラウムも逃げ出しているはずだ。現にチラホラと彼の部隊の兵が逃げてくるのが見える。

 ならば此方も早急に敗走の指示を…声を上げようとし、アムドールはかぶりを振ってその考えを否定した。

 きっとガラウムは一人残っている。あの巨大なドラゴンの攻撃を一身に受け止めようとしている。

 奴はそう言う男だ。昔からそうだった。どれだけ絶望的な状況でも、どれだけ戦力差のある状況でも、自分一人だけが犠牲になることで周りを救おうと考える。そしてそれは諦め、絶望した故の決断ではない。最後に一人残ろうとも、彼は最終的に勝利を手にしてきたのだ。

 そんなガラウムを同じ100人の賢人として誇りに思う。そしてそんな彼を…やはり見捨てることはできない。流石の審判長も、あのドラゴン相手では踏み潰されて終いだ。それを理解した上で、自分以外が助かるよう交渉しているのだろうが…あの不器用な男にそのような交渉などできるだろうか。いいや、不可能だ。逆にドラゴンの怒りを買う可能性すらある。

 アムドールはフッと笑う。それならば私が行くしかないじゃないか。死ぬ時は共に逝こうぞガラウム。

 

「全く、奴の自己犠牲にも困ったものだ。おい、ムー。ガラウムの所に連れて行け。おーい、あの竜を近くで見たいやつおらんかー!あんなドラゴン滅多に見られないぞー!」

「何っ!!珍しいのか!?」 

「行くっ!俺が一番だ!」

「ずるいぞ!ぼくも行くぞぉ!」

 

 無邪気にワラワラと集まってくる同胞を見て、やはり羨ましく思ってしまう。彼らはきっと恐怖心よりも好奇心の方が強いのだろう。間近でドラゴンを見たもの達は流石に逃げ出してしまっただろうが、此方の部隊は距離がある分まだ心に余裕がある。

 騙しているみたいで少し気が引けるが仕方ない。流石にムーと2人だけでは、ドラゴンに自分が総司令だと信用してもらえない可能性がある。

 

 十分な数の兵が集まった事を確認し、アムドールはそれらを率いて走り出した。巨大な山の麓へと。

 きっと自分は死ぬだろう。だが…もはや恐れはない。思えば良い一生だったのだろう。賢く生まれたこともそう。皆に最高司祭最高司祭と意味不明な肩書きで祭り上げられたこともそう。この童心のままの同胞達と美食を求めて突っ走ってきたこの一生の全てがアムドールの宝だ。

 流れて行く走馬灯に心を任せて走っていると、荒野で一人這いつくばっている鶏頭の同胞の姿が見えてきた。やはり残ったか、大馬鹿者め。

 ああ…ガラウムよ。もうお前を1人にはしない。お前がどれほど拒絶しようとも、共に残って死を選ぼう。お前がどれだけ拒絶しようとも、地獄の果てまで共に行こう。お前がどれだけ拒絶しようと…

 

「ガラウムっっ!!私も今行くぞっ!!!」

 

 友の為駆け出したアムドールの見たもの、それは。

 

「ねぇ、もうやめようよぉ。死んじゃうよ?本当にさぁ。」

「良い…死んで良い!!!!だからっ早くっっ踏むのだ!!!!あああ私はこのために生きてきたのだなあ!?おい!早くっっ!」

「いや死んだらダメでしょうに。もぉーお腹空いてんだってばぁ。お前を喰うぞ」

「それも良い…が食す前に踏ん゛て゛く゛れ゛!!」

「だぁかぁらぁあ!!」

 

 

 困惑するドラゴンに尻を剥き出しにして己を踏みつけろと懇願する醜い変態の姿だった。

 此方に気づいたガラウムの顔が凍りつき、ハッと顔を伏せた。

 

「お前は何をしとるんだあぁあぁぁぁぁあ!!!!」

 

 張り裂けんばかりのアムドールの絶叫は、天を衝くほどの巨大なドラゴンすら怯ませるものだった。

 

 

 

 

 天幕の中に咀嚼音が響き渡っている。白い布と木の枠だけで作られた簡素な作りだが、この軍の天幕の中では一番広く、中も比較的綺麗だ。

 中央には大きめのテーブルが置かれ、その上にはこれでもかと言わんばかりの肉の山。その山をかき分けながら一心不乱に肉に食らいついている角の生えた少女を、ビーストマンの最高司令官及び最高司祭アムドールは注意深く観察していた。

 赤黒い長い髪と、その頭に生えたこの世の終わりを齎すかの様な禍々しくドス黒い一対の角。瞳は琥珀色に透き通っており、縦に走る黒い瞳孔は彼女がドラゴンだということを思い出させる。

 身につけている黒を基調とした鎧は、武具というものにあまり詳しくないアムドールをして、一目で強力な物と分かる作りをしていた。

 胸と腹、手の甲など最低限の箇所以外は布のような柔らかい素材でできているのがわかるが、その布でさえアムドールがどれだけ切りつけても傷一つつけられる気がしない。足具も…上等なものだろう。

 アムドールが見つめていることに気がついたのか、チラリと此方を一瞥するが、またすぐに食事に戻った。

 余程腹が減っていたのだろう。彼女がアムドールの存在に気づき、対話が可能だと判断した後の反応を思い出す。即座に現在の姿に戻ってからのあまりにも見事な土下座を。

 涙を流しながら肉に食らいつく彼女を見て、アムドールはガラウムへの怒りから眉間に深く皺を寄せた。

 聞けば飯をくれという彼女に対し、交換条件として己を殴れと提案したとか。

 なんでも物々交換すら持ちかけられて尚断ったとか。たまりかねた彼女があの巨大なドラゴンの姿になっても応じなかったとか。

 ここにきてあの友人が何を考えているのか彼には全く理解できなかった。飯が欲しいなら幾らでもくれてやれば良い。何故ならこの目の前の娘は尻尾の一振りで此方の軍を全滅させかねない程の…もはや竜の神とも呼べる存在なのだから。

 彼女は大きい。大きいというのはそれだけで強い。この世界にドラゴンという種族は複数存在しているが、彼女ほど巨大なドラゴンに成れるものは存在しないと断言できる。

 もしそんな存在がいたのならとうの昔に伝説として語られていなければおかしい。

 では彼女の場合はどうかといえば、それは全くの謎だ。考えられるのは今までこの小さな姿で生きてきたが、ガラウムへの怒りのあまり本来の姿に戻ってしまったとかだろうか。

 だとしたら不味い。軍はおろかビーストマンという種族そのものの危機だ。初対面では不気味なほど好意的…むしろ謙ってすらいたが、それは腹が減っていたからだ。机上の肉を平らげて満腹になったらどうなるかわからない。

 なんとかしてあの愚かな友人の失態を帳消しにしなければならない。

 アムドールの胃がキリキリと痛む。今の事態に比べれば今までの悩みがとてもちっぽけに思える。いや、中途半端に知恵をつけていなければこんな責任を負うこともなかったか…。

 

「プハーッッ!!生き返ったぁ!!」

 

 アムドールが己の境遇を憂いていると、丁度目の前の竜神が食事を終えたところだった。布で口を拭い、此方を向くとペコリと頭を下げた。

 

「ホント助かりました!あのままあなたが来てくれなかったらきっと飢え死にしてたと思います。」

「あ、頭をお上げください!全てはわたくしの同胞の不徳のせいであります。竜の神の為あらば我々の食糧など幾らでも献上する所存でございますぞ!」

 

 慌てたのはアムドールの方だ。相手は絶対強者。頭を下げさせて良い相手ではない…と思うのだがこうも下手に出られるとどうしても緊張が緩んでしまう。いかんいかんと頬を叩き、緊張感を引き戻す。

 あの巨大なドラゴンが決して幻影やまやかしでないことは、遥か先までクレーターのように抉られた大地が証明している。

 

「…神?」

「我々の食事はお気に召しましたか?」

「ん?ああ!すっごく美味しかったです!もーこれまで食べた何よりも!今まで何食ってたんだって感じ」

「そうでしょうそうでしょう。それこそ我々を突き動かす食の結晶でございます故。足りなければまた持って来させます故いつでもお申し付け下さい。」

 

 社交儀礼なのかもしれないが、自分達の生きた証とも言える食を褒められて悪い気はしない。それにしてもこんなにも目を光らせて喜んでくれるとは…。思わず頬が綻んでしまうのをアムドールは感じていた。

 なんにせよこの価値観の合致は大きい。ここが分かり合えなければそれは両者の決定的な溝になりかねないのだから。

 

「いいんですか!?じゃあまたお腹空いたらお願します。」

「勿論ですとも。竜の神よ…。それで、不躾ながら幾つか質問させていただきたいのですが、宜しいですかな?」

「良いですよー。てか私も聞きたいこといっぱいありますんで、よろしくお願いします。」

「はい。我々に答えられる範囲であればお答えしましょう__それでは。」

 

 ゴホンと先払いをし、アムドールは質問を投げかけた。

 何処から来たのか。目的はなんなのか。何故腹を空かせていたのかなどから始まり好きな食べ物など他愛のないものまで。

 一通りの質疑を終えた結果、彼女に対する疑問は深まるばかりだった。聞けば天空城ラヒュテルなどと言う聞いたことのないところで目覚めたといい、目的もそこにいた仲間を探す以外特にはないらしい。では目覚める前は何処にいたのかといえばよく分からないと言う。

 仲間も同じくらい大きくなるのかと聞いてみたがそんなことはなく、そもそもあの大きなドラゴン自体彼女の数多ある形態の一つにすぎないのだとか…。

 全くもって得体が知れない。確かなことは彼女が途轍もない力を持っていることと、とんでもない大食漢なことくらいか。

 アムドールは唸る。が、これは幸運なことでもあった。彼女が目覚めてから初めて会う種族はこのビーストマンなのだ。

 今ビーストマンという存在に好印象を抱いてもらうことができれば、他の種族に対して大きなアドバンテージを持つことができる。

 上手くいけば竜王国侵攻の助力をしてもらえる可能性すらあるのだ。アムドールは自身の眼に宿る邪な光を必死に押し隠した。

 

「そっかー。アムじぃも苦労してるんだねぇ。」

「おお。イリスよ、分かってもらえるか!」

「わかるわかる!私だってご飯貰うのがこんなに大変なんて思わなかったし!これが毎日でしょ?考えらんないなぁ。頑張ってるよアムじぃは」

「おぉ…。苦労を労われることのなんと嬉しいことか…。」

「わわっいきなり泣かないでよっ。」

 

 質疑を通してアムドールはこの半竜の娘イリスと、お互い名前と愛称で呼びあう程に打ち解けることに成功していた。それは最早敬語すら使う必要がないほどに。成功と言ってもほぼ向こうからの一方的な打ち解け方だったが。

 突き抜けた存在というものは孤独なものだ。アムドールがこの種族で抜きん出た知力を持っている様に、彼女は絶対的な力を持っている。それは互いの肩を抱くときにすら握り潰さないよう気を使わねばならないほどに。

 きっと彼女は孤独なのだ。少ないとはいえ100人の理解者のいるアムドールよりもずっと。

 故に敬われるのを嫌うのだ。故にその力を振るわないのだ。力による従属を要求してこないのが疑問だったが、なにも不思議なことなどなかった。

 単純にそれでは彼女の欲する物が手に入らないだけなのだ。それならば__とアムドールは思う。

 彼女の悩みを雀の涙ほどだが理解できる彼が、彼女の良き相談相手になれば良い。そして彼の孤独も彼女に癒やして貰えば良い。それはつまり友になると言うことだ。アムドールにはきっとそれができる。いや、彼にしかできないと言ってもよい。

 

「大丈夫かぁー。アムじぃー。」

 

 と、イリスに頭を撫でられながら考えていた彼だったが…アムドールの目線がイリスのある一点に留まっては逸れる。もう一度…もう一度。

 イリスが肉を食べていた時から繰り返していたそれは、最早凝視と言っても良いほどの見つめっぷりだった。

 ビーストマン最高司祭アムドールは今、種族存亡の危機に立ち会おうとしていた。

 彼が見つめていたもの。必死で気を逸らそうとしていたもの。

 それはイリスの漆黒の鎧の裾と足具の間から覗く白い太ももだった。

 彼女が動く度にチラチラと垣間見えるそれは、彼のある欲望を刺激するのに十分すぎる破壊力を持っていたのだ。

 

 そう、食欲である。

 

 彼女は人間によく似ている。それはもう頭に生えた角と竜眼がなければ見分けがつかないほどに。

 人間の一番の旬はいつか?アムドールは自信を持って答えることができる。15〜16歳この期間だと。

 そして尚且つ健康的に育った雌。もう間違いがない。絶対に美味い。そしてこれは彼の中の迷信だが…容姿の整った者ほど美味い。

 この容姿の基準は個人差があるため一概には言えないが彼の中には絶対的な基準があった。

 イリスをこの基準に当てはめるとどうか?ぶっちぎりのSSSランクである。もうドンピシャ。もう何度湧き出した涎を飲み下したかわからない。観察などしなければ良かった。

 顔が出ているだけならばまだ我慢できた。手も…我慢できる。だが、太ももの存在に気がついてしまった瞬間彼の中で何かが壊れた。

 正直今すぐにでもかぶりつきたい。が、そんなことをすれば怒り狂った彼女にビーストマンごと根絶やしにされかねない。そんなことは分かっている。分かっているのだが。

 そもそも何故太ももの見える防具を着けているのか。誘っているのではないのか。

 そもそも何故こんなにも近くに座っているのか。もう少ししたら膝が触れ合いそうではないか。誘っているのではないのか。

 何故頭を撫でるのか。そんなことをしたら目線が下になるではないか。誘っているのではないのか。

 このまま屈んだなら…少し舐めるくらいなら許してくれるのではないか。

 

「ねぇ。アムじぃー。どこ見てるのー?」

 

 頭上から甘い声がかかる。

 

「ど、どこと…言われても…私はっ」

「んー?」

 

 そう言って彼女は少し足を開く。裾が少し捲れ上がり…あらわになる。それは雪のように白く…張りのよい…。

 もう間違いようが無い。彼女は誘っている。きっと先程の食事のお礼をしようとしてくれているのだ。少しだけなら齧っていいよと…。

 アムドールは屈み、口を開く。涎が彼女の太ももに糸を引いて滴り落ちるが…気にしている様子はない。ああ、もう我慢できない。私はっ。

 

「お楽しみのようだな、同胞よ。」

 

 声のした方を向く。そこには天幕の隙間から此方を覗く…ニワトリの眼。何故お前がそこにいる。巡回に回したはずでは。

 ハッと上を向く。半竜の少女がニヤニヤと笑い此方を見下ろしている。

 アムドールの頭の中が真っ白になった。

 

「随分とお楽しみだったようだな、同胞よ」

「ちっ違っ」

 

 違う。断じて違う。私はお前とは違う。己の欲望を満たすためだけに我々を滅亡させようとしたお前とは。お前とは違う。私は…。

 イリスの両腿を握り締め、アムドールは憤怒の眼でガラウムを睨みつけた。

 そんな苛烈な瞳を受けても、ガラウムは平然と受け流し満面の笑みを浮かべた。

 

「__同胞。」

「やめろぉぉおぉおお!!同胞っていうなぁあぁあああああああ!!!!!笑うな゛ぁ!!お前が私を笑って良いものかあぁああ゛あ゛あ゛あ゛!!」

「あっはははは!おっお腹痛い!やばいビーストマン最高だわ!あははっ」

 

 夜の帳に包まれた天幕にアムドールの怒声が響き渡った。天に轟かんばかりのその絶叫は、夕刻の時のそれをさらに上回るものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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破壊






 

 

 

 

「はぁー疲れた」

 

 静まり返った天幕の簡易ベッドの上に寝転がり、イリスは大きく伸びをした。

 木の板の上に藁を敷き詰めただけのベッドはとても寝心地が良いとはいえないが、崖の底よりはマシだろう。

 仄かに香る藁の香りに実家にあった和室を思い出す。コロニーでの生活がもう遠い昔のことのように感じた。

 天井から垂れる布の切れ端がゆらゆらと揺れ動くのをぼーっと眺めながら、イリスは今日という一日を振り返っていた。

 濃かった。特濃だった。月本茜としての16年の人生全てを凝縮しても足りないほど濃い一日だった。ポセイドンと戦ったのすら懐かしく感じてしまう。

 あれだけ動き回った割に身体はピンピンしているが、精神的な疲労は極限まで溜まっていた。

 正直今すぐにでも眠ってしまいたいが、その前に今日手に入れた情報は整理しておきたい。

 まず第一にビーストマンはからかうと面白い…というのは置いといて、この世界は地球ともユグドラシルとも関係ない全くの別世界だということだ。

 アムドールに聞いた地名はどれも聞き覚えのないものばかりで困惑した。これでユグドラシル2の可能性はほぼゼロになった。もうログアウトという逃げ道は断たれてしまったと言ってもいい。

 少しだけ希望が持てるのは、ここから北西に行けば人間達の国々があるということだ。そこに行けばラガーマン達に会える可能性は高い。同じような事態に遭遇したらプレイヤーなら誰だって人間の国に行きたがるはずだからだ。

 自分でも意外な程に亜人であるビーストマン達に不快感や恐怖心を感じなかったが、イリスだって元は人間だ。やっぱり人に会いたいと思ってしまう。

 問題があるとすればアムドール達ビーストマンが、人間の国である竜王国と戦争中ということだろうか。戦争といってもビーストマンからの一方的な侵略ではあるが。

 彼らビーストマンからすれば人間はただの食糧の一つらしい。アムドール曰く人間はとても美味で栄養価も高く、アムドールの国は人間を食べるためだけに国として成り立っていると言っても過言じゃないとか。

 人間を食べる種族は他にもたくさんあるが、彼らほど食に熱心な種族は少ないとか。

 これを聞いたイリスの感想としては、こっちの人間ってそんな弱いの?である。

 ユグドラシルでの人間種は異形種や亜人種と比べても強い。寧ろ異形種狩りなどと言って異形種のプレイヤーをpkしまくるような連中だ。一方的に食糧にされることなんてまずあり得ない。

 それにビーストマンのレベルもイリスが見たところお世辞にも高いとは言えない。一万近くいるこの軍も天空城の人魚鮫一匹に全滅させられるレベルだろう。

 そんな弱小種族の食糧になっているのが正直信じられなかった。まあ戦争と言っているくらいなのでそこまで一方的な蹂躙ではないのだろうが。

 という訳でそんな自分達を食べに来る連中の側から来た奴が、ほいほいと入国させてもらえるだろうか?もらえる訳がない。

 完全に人間の形態になれば異形種とバレることはないだろうが、正面きって堂々と入国…というのは難しい気がする。つまり__

 

「潜り込むしかないかー」

 

 密入国。日本に住んでた頃には考えられない選択肢だ。バレれば間違い無く極刑に処されるだろう。

 だが今のイリスなら気づかれずに入国すること自体はさほど難しいことじゃない。国民が皆プレイヤーレベルなら話は別だがそれは考えなくて良い。

 問題なのは潜入してからだ。イリスは身分を証明するものを何一つ持っていないから、どこかの組織に所属することが…おそらくできない。

 なんとかお金を稼ぐ手段を見つけないとまた飢え死にコースになってしまう。

 余談だがユグドラシルのゴールドはこっちでは流通していないらしい。これはショックだった。今持っているゴールドでは何も買えないのだ。

 換金所に持っていけば価値を認めて貰えるかもしれないらしいが、密入国の身ではそれは最終手段だろう。

 前途多難だ。イリスは小さくため息をついた。

 いや、これもラガーマン達を見つけるまでの我慢だ。みんなと合流できれば後は何とでもなるはずだ。難しいことはエルモア辺りに丸投げすれば良い。

 平均レベルの低い国ならプレイヤーは確実に目立つ。余程上手く潜入できていれば話は別だがそんな器用なことができるメンバーではない。

 現地人に神だなんだと煽てられて調子に乗ってるTKの姿が脳裏に浮かんで少し笑みが溢れた。

 そうだ。悲観ばっかりしてもしょうがない。もっと楽しいことを考えないと。

 

「みんなアホだからなー。無事でいてくれるといいな」

 

 みんなと合流したら何から話そうか。みんなの話も聞きたいし。私の場合は…寝起き蜘蛛?初の話相手がポセイドンだったこと?天空都市の話もしたい!変態ビーストマンの話は外せないなー…。などと考えている内にこくこくと襲ってきた睡魔に身を任せて眼を閉じた。

 

(そういえば明日はからかったお詫びにアムじいのお願い聞かなきゃいけないんだっけ…まあいいや寝よ)

 

 からかったと言ってもアムドールが勝手に自滅しただけなのだが。バレない様に椅子を少しずつずらしながら近づいてくるワニ頭をみんなに見せてやりたい。

 そんな彼の願いを予想するのも億劫になったイリスは、思考を放棄して夢の世界に飛び立った。

 

 

 朝である。

 天幕の隙間から差し込んできた光に顔を歪めつつイリスはモゾモゾと藁の上で寝返りをうつ。

 薄目越しに見える景色に、昨日までのことが夢でないことを肯定され、少しだけうんざりした。

 

「イリスー!起きたか!起きたか!」

 

 天幕の外から甲高い声が聞こえる。この声はガラウムの部下の…確かペンギン頭の…

 

「ムー。もう起きたよー」

「起きたか!!ガラウム呼んでたからきて!!」

「あー…はいはい。今行くよ」

 

 仕方ないと身体を持ち上げ、眼を擦りながら天幕から出た。照りつける太陽が眩しい。

 天幕から出た瞬間がっしりとイリスの手を握ったムーは、グイグイと軍の前方へイリスを引っぱって行く。

 

「早く!!早く!!!」

「もー…。そんな焦らんでも大丈夫でしょうに」

「イリスはねぼすけ!!ねぼすけだめー!早く!」

 

 ビーストマンの群れをかき分けながら強情なペンギンに引っぱられること数分後、前方に喧騒と共に大きな砦のようなものが見えて来た。

 軍の端まで来ると、ガラウムとアムドールが砦の方を見ながら何かを話していた。

 2人はイリスとムーに気がつくと会話を止め、小走りで此方に走ってきた。

 

「おお!イリスやっと起きたか!」

「やっと起床したか!イリス!待ちくたびれたぞ!」

「どいつもこいつも人をお寝坊さんみたいに…君らが早すぎるんだよ」

「イリスはねぼすけ!!ねぼすけダメー!!」

 

 イリスは怒鳴りながらほっぺをつついてくるムーを横目に睨んだ後、視線を砦に移した。

 

「んー…。アムじぃのお願いってもしかしてあのでっかい砦に関係してるの?」

「おお、察しが良いなイリス。あそこを見てくれるか?」

 

 そう言ってアムドールが指差した先。遥か前方の砦まで続く広大な荒野を所々染める赤黒い物体。

 山のように積み上がっている物もあれば寂しくポツンと転がっている物もある。あれは…。

 

「そう、我ら同胞達の亡骸だ」

 

 イリスが答えるより早くアムドールが震える口で告げた。

 ということはつまりあの前方に見える砦こそ、アムドールの言っていた人間の住む国『竜王国』の第3砦で間違いないのだろう。

 道中に転がっているのは恐らく、攻めていって返り討ちにあったビーストマン達の死体だ。

 一つ疑問に思うのは死体から砦までの距離が結構離れていることだ。弓で射殺したにしては矢が見当たらないし…魔法だとすると距離が遠すぎる上に痕跡が綺麗な気がする。勿論魔法にも超射程高精度のものもあるし、周りに影響を与えず対象を殺す魔法だってある。

 だがそうすると…どうしても人間側のレベルがある程度高い設定になってしまうのだ。それこそビーストマン如きではとても侵略できない程に。

 イリスが頭を捻っていることに気がついたのか、アムドールは横目でイリスを見やると憎々しげに話を続けた。

 

「お前の疑問は手に取るようにわかるぞ?我が同胞達がどのように殺されたのか気になっておるのだろう。あれだ」

 

 アムドールが砦の上を指差した。

 

「あれが同胞達をズタズタに引き裂いたのだ」

 

 アムドールの指差す場所を見て、イリスは少し驚いて眼を見開いた。砦の上から覗く黒い銃身…あれは、

 

「わーお…こっちにもバルさんあるんだ」

「何?バル?イリス!あれが何だか知っているのか!?」

「知ってるよ。てかあんなもん持ってる奴らに良く喧嘩吹っ掛けたね君たち」

「どんな屈強な同胞でもあれの前には手も足も出なんだ…。イリス、教えてくれ。あの黒い悪魔は一体何なのだ」

 

 怒りか、悲しみか、それとも悔しさか、色々な感情の織り混ざった瞳で砦を…荒野に転がった仲間達を眺めるアムドールがポツリと聞いてくる。

 荒野から流れてくる強烈な死臭に思わず手の甲で鼻を抑え、イリスは遠い記憶の引き出しを漁る作業に入った。

 

 『拠点設置型防衛兵器バルカン』これが目の前の惨状を引き起こした黒い悪魔の名称である。

 その名の通りイリスのいた世界のバルカン砲という兵器にそっくりの見た目をしている。

 ゴールドで購入することでギルド拠点に設置することができ、その数に制限はない。崩壊前の天空城ラヒュテルの外壁にもいくつか設置していたはずだ。

 有効射程2km毎分8000発の弾丸を射出できるそれは値段の割に威力が高く、飛び道具に対しての耐性を有していない場合、集中砲火されれば100レベルのプレイヤーでさえ簡単に溶ける。

 とはいえ大抵のプレイヤーは飛び道具に対しての完全耐性を持っているので、耐性のない召喚モンスターや傭兵npc相手に使用するのが基本だ。

 ゴキブリの如く湧き出てくる傭兵npcやモンスターを片っ端から殲滅してくれるので、イリスは親しみを込めてバルさんと呼んでいた。

 そんな兵器がここから確認できるだけで2機。飛び道具に対する完全耐性など持っているはずのないビーストマン達では、文字通り飛んで火に入る夏の虫という奴だ。

 はっきり言ってこんなものを用意できる相手を侵略するのは無謀という他ない。此方も同等の武器があるのなら話は別だが、そんな物無いのは目の前に積み上げられた死体の山が嫌というほど物語っている。

 

「まさか、そんな恐ろしい兵器だったとは!人間供めその様な物をどこから…!」

「龍の神すら殺しかねない程なのか!…私に力を示させるか?」

「やめろ」

 

 イリスの説明を聞いたアムドールの顔が驚愕と憤怒に歪む。ガラウムが目を輝かせているが、尻の穴を増やして死ぬだけなので阻止した。

 

「イリス。私の頼みを聞いてくれるか」

「どーせあれ壊してこいっていうんでしょ。別にいいけどサ…その後どうするの?まだまだあるかもしれないよ?」

「やはりあれの破壊自体はお前には造作もないことなのだな。流石だな」

 

 さらりと壊してくると言うイリスに少し驚き、だが想定の内と言った様子でアムドールは続けた。

 

「私はあれで全てだと考える。少なくともこの竜王国に限ってはな。あれを出してくるまでに奴らも相当の犠牲を払っておるしな…。それにあの砦さえ押さえてしまえばもう奴らの国に入ったようなものだ。乱戦になればあのような兵器は使えんだろうよ」

 

 アムドールもただ無闇矢鱈に攻めている訳ではないのだろう。敵の砦の位置や、兵の配置なども計算には入れているようだ。が、どうも人間を弱く見積りすぎている気がする。

 イリス自身こっちの人間にまだ遭遇していないからアムドール達の方が詳しいのだろうが…自分達よりも遥かに強力な武器を所持しているのだからもう少し警戒してもいいんじゃないかと思ってしまう。

 そんなイリスの心を察したのか、アムドール此方に向き直りニヤリと笑った。

 

「イリスよ。何も私は人間を見くびっている訳ではないのだぞ?ただ…そうだな。進むしかないのだ。それはたとえ相手がどれだけ強い武器を持っていようとも、どれだけ強い個体がいようともだ。」

「いっぱい死んじゃうかもしれないんだよ?」

「いっぱい死んでもだイリスよ。どれだけ犠牲を払おうとも我々の目標は変わらぬし、それを叶える為ならどの様な手段でも用いる心づもりよ。それがたとえ竜の神の力であったとしてもな」

 

 フフンと鼻を鳴らし胸を張るアムドールを見てイリスは呆れたようにため息をついた。

 この種族の人間を食べることに対する執着は常軌を逸している。ここまで突き抜けているのならもう彼らは何を言ったって止まりはしないのだろう。

 イリスからしたらバルカンの数が2機しかない訳がないのだが、そんなことはビーストマンには関係ないのだ。

 その時できる最善の策でひたすらに突き進むのみ。そこに後退の二文字は無い。それが彼らの一生なのだ。

 

「もーわかったよぉ。壊してくればいいんでしょ」

「やってくれるか!!信じておったぞ!!」

 

 観念したイリスの言葉にアムドールの表情がパッと明るくなる。

 

「まあ一宿一飯の恩もあるから。んじゃ行ってくるよ」

 

 そう言ってヒラヒラと手を振ると、イリスは砦の方目指して歩き始めた。

 砦までの距離はおおよそ2.5キロくらいだろうか。バルカンの射程を考えると後2分も歩けば怒涛の集中砲火を受けることになるだろう。

 これから人間の国に行こうとしてるというのに、初っ端から喧嘩をふっかけるハメになるとは…。

 とはいえあの状況でアムドールの願いを断ることは出来なかった。飢え死にの危機を救ってもらった恩もあるし、断ればきっと彼らは己の信念に従って砦に突撃し、死体の山を築くことになるのだろう。ある意味それもビーストマンにとっては本望なのだろうが…イリスとしてはあまりにも寝覚めが悪い。

 イリスは歩きながら困難が待っているであろう前途を憂い、小さくため息をついた。

 

(まあこっちの人間がどんな強さなのか知っとくのもありかな…?)

 

 軽い気持ちで出てきたが、怖くないと言えば正直嘘になる。飛び道具に対しての完全耐性の効果を試す良い機会ではあるが、もしユグドラシルと仕様が違えば蜂の巣にされる可能性も0じゃない。

 最悪≪遅延≫の竜眼を使用して全ての弾丸を躱す心構えもしておかなければ。

 いずれにせよ逃げると言う選択肢はない。自分でも単純で頭が悪いと思うけれど、あのビーストマン達に情けない姿を見せるのは嫌だった。

 ちょっといいなと思ってしまったのだ。恐怖や絶望をものともしない彼らの心の強さを。

 少しだけ勇気をもらったのだ。この世界に立ち向かう勇気を。

 

 あまりにも無防備に見えたのだろう。アムドールが警告の言葉を叫んでいる。その横から「ずるいぞ!私も連れて行けー!」などとガラウムが怒鳴っているが、聞こえないふりをした。

 今までどうやって生き残ってきたのだろうか、あのニワトリ男は。

 後方の軍を任されていたのはアムドールなりの配慮だったのかもしれない。あの男に先陣を切らせれば真っ先に突撃して即死しそうだ。最も今まではその姿勢が勇敢だと評価されていたのだろうが。

 次からは違う理由で部隊移動だなー。などと考えている内に最初の死体の元までたどり着いた。

 きっとカバの頭をしたビーストマンだろう。身体はもう原型を留めていないが、頭と顔はかろうじて残っていた。光を無くした丸い瞳に青い空が映っている。

 イリスは死体に近づくと、しゃがみ込んでカバの瞳にそっと手を添え、瞼を閉じた。

 

 砦の上を見る。幾人かの人間がイリスに気づき、鼻で嗤う様な仕草をみせると、慣れた手つきでバルカンの標準を此方に向けた。

 あの兵器を余程信頼しているのだろう。気怠そうに銃身を動かす様は最早ただの作業といった感じだ。

 ビーストマン相手ではそうなるのも無理はないかもしれない。実際オーバーキルだし、毎日攻められれば飽きも来ると言うものだ。

 

 まあ、そんな退屈な日常も今日でお終いなのだが。

 

 イリスは身体を起こし、歩き出した。

 6つあるの銃口の内一つから火が吹いたと思うと、銃身が高速で回転し銃弾が雨の様にイリスに向かって飛来してくる。

 1発目の銃弾がイリスの眉間に直撃する瞬間__硬質な高音と供に弾けて消滅した。

 続けて降り注ぐ銃弾の嵐もまた、彼女に命中する寸前で弾け飛ぶ。

 濁流の如く飛来する…だが全く阻むことのない銃弾の中、イリスはゆっくりと砦に向かって歩く。

 自分達の兵器が効いていないことに気がついたのか、バルカンを使用していた人間が酷く焦った様に周囲に何かを叫んでいる。

 いいや、何かではない。

 

(あら、魔法使えるのもいるんだ)

 

 聴覚も研ぎ澄まされている今であれば2kmくらい先の声など簡単に聴き取ることができた。

 どうやらバルカン砲の効きが悪いと判断し、魔法詠唱者達による≪ファイヤーボール/火球≫の爆撃に切り替えるらしい。

 バルカンによる攻撃に拘らず、即魔法に切り替える機転の速さは流石人間と感心したイリスだが。

 

(バルさん効かない敵に三位階魔法打つかなぁ?)

 

 100レベルのプレイヤーでさえ殺し切る武器が無効化されているのだ。様子見にしてもせめて五位階くらいの魔法は使うべきじゃなかろうか。

 もしかしたらアムドールの言う通り、人間も大したこと無いのかもしれない。いや、まだ最強化による位階の繰り上げの可能性もある。油断はできない。

 謎な決定をする人間に首を傾げながらも歩くことは止めていないので、砦までの距離は既に700メートル程まで縮んでいた。

 魔法詠唱者が到着するまで何もしない訳にはいかないのだろう。無駄だと分かっていてもバルカンの銃撃が止まることはなかった。

 しばらくすると砦の上に数人集まってきて、イリスの方へ指を向けた。あの構えは…。

 

 砦の周辺ががパッと照らされた瞬間、矢の様に放たれた幾つもの火球が爆発と供にイリスの身体を包みこもうとし…スッと消滅した。

 それはもう息を吹きかけた蝋燭の様に。

 驚愕と絶望の声が砦から聞こえる。

 人間達はあたふたと動き周り、無駄な魔法と銃撃を繰り返す。

 あの様子を見るに、人間達にはもう打つ手が無い。 

 飛び道具と魔法が駄目だったのだ。あとは白兵戦による武器攻撃で来ると思ったのだが…誰も出てくる様子は無い。

 イリスもこれ以上彼らに付き合う必要は無いと判断した。

 お馴染みの≪竜眼≫シリーズのスキルを発動する。

 

 竜の12の試練、その6番目に値する眼の能力_破壊。

 これはその名の通り、その眼で見たアイテムや武器や兵器を破壊するスキルである。勿論問答無用で破壊できる訳ではなく、装備者のレベルやステータス、武器に込められたデータ量などによって弾き出された耐久値が≪破壊≫の竜眼の破壊値を上回ると、レジストされて破壊することはできない。

 基本的に100レベルのプレイヤーの装備している防具や武器などはレジストされると思って良い。偶に破壊できることがあるので願掛け程度に使用することもあるが、基本的には不可能だ。

 では装備できない防衛用兵器はどうか?この場合装備者のステータスは加味されず、兵器単体での耐久値で計算される。それではバルカンの耐久性はどれ程か…。

 

 血の様に赤く染まったイリスの瞳に睨まれた2つの<黒い悪魔>が内側から風船の様に膨れ上がり、爆音を響かせて木っ端微塵に砕け散った。

 砕けた破片が命中し、幾人かの人間が悲鳴を上げて地面に転がる。

 バルカンの操縦者も破片による負傷と、目の前で起きたことに対する驚愕で頭が回らないのだろう、額から血を流しながらただ呆然と無惨に破裂した兵器を眺めているだけだった。

 

 そんな人間達にくるりと背を向けると、イリスは来た時と同じ様にビーストマンの陣営へ歩き出した。

 

 歩きながら、イリスは自分の心の変化にゾっとする様な恐ろしさを感じていた。

 血を流した人間を見ても…全く何も感じない。自分のしたことで竜王国の人間達は苦境に立たされることになるだろう。そんなこと分かりきっているが、本当に何も感じないのだ。全員ビーストマンに食べられるかもしれない。でも、そうなるのならそれが自然の摂理でありこの世界の理なのだと勝手に理解し納得している自分がいる。

 そしてこの感情は強い。悲しみを抱こうと意識してもできない。以前の自分なら、月本茜であれば自然に流れていたであろう涙も…瞳の渇きを癒す程にも出やしない。

 怖い。しかしこの怖いと思う心もまた、眼に見えない合理的で冷徹な感情に塗りつぶされていく。

 大切なものが切り替わっていく。そしてそれはもうきっと

 

 

 人間ではない。

 

 

 イリスはゆっくりと歩く。

 

 その無防備な背中を襲うものは、一つとして無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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旅立ち

 

 

「本当に行ってしまうのか?もう少しゆっくりしていけば良いのに」

 

 <無限の水差し>に水を補充していると、ニワトリ頭の友人から声がかかった。

 気がつけばここに来てからもう五日が経とうとしていた。殺風景な天幕も、寝心地の悪い藁のベッドも今となっては名残惜しく感じる程に馴染んでしまった。

 ビーストマン達との日々は自分の思っている以上に心地良く、楽しいものだったのだろう。

 ガラウムとアムドールを除く言葉の拙い者達との交流も、保育園の先生になった様な気分で意外にも楽しめた。とはいえ数日だけという限定的な期間故の楽しみと言えるが…。とてもじゃないがあれを軍として率いる気にはなれない。

 アムドールに最高技長の座を任命されそうになったが、二つ返事で断った。そんなものになって彼らの世話係になれば2時間で発狂する自信がある。

 イリスは落ち込むアムドールの姿を思い出しながら肩越しに返事をした。

 

「ゆっくりって君たち戦争中なの忘れてない?もう十分ゆっくりさせてもらったよー。寧ろゆっくりしすぎたくらい」

「そうか…。ゆっくりとは言わず供に戦ってくれても良いのだぞ!!お前は愉快だ!いなくなると寂しい」

 

 引き絞った声が大きくなり、尻すぼみに小さくなった。振り向くと、ガラウムが肩を落として悲しい眼をしていた。

 そんな彼の姿が少しおかしく、また寂しいと言って貰えたことが嬉しくて思わず笑ってしまう。

 

「なぜ笑うのだ!」

「いや、ごめんごめん。てか君に愉快って言われたらお終いなんだけど」

 

 謝罪をして尚クツクツと笑うイリスに、ガラウムは憤慨と困惑の混ざった眼差しを向ける。

 ころころと表情の変わるニワトリの顔はやっぱり可愛いし面白い。

 彼らの言葉や心はひたすら真っ直ぐで、考えたことは全て顔にでてしまうのだろう。そんな彼らを愛おしく思うし、一緒にいたいとも思ってしまう。

 だが、それはできない。ここはイリスの居場所では無いのだ。

 早くラガーマン達と合流しなければならないし、それにイリスには確かめなければならない事があった。

 それは自分の感情_人間に対する気持ちのことだ。 

 人を傷つけても全く動くことの無かった氷の様に冷たい心。この気持ちは不変のものなのか、それとも人と関わることで変わっていくものなのか。

 これは実際に人間の国に住んでみなければ分からない。でも、もしそれで気持ちが変わらないようならその時は…。

 

「それに君たちと違って人間の肉に興味ないしねぇ」

「なっ…なんだと!??」

 

 ポツリと呟いた一言にガラウムの顔が驚愕で歪む。口と眼を裂けんばかりに開いている。

 なんだ。そんなにおかしなことを言っただろうか?

 

「おっおまっ…おい!!あれほど美味そうに貪っておきながら興味無いのはおかしいだろう!!」

「え?」

「え?ではない!昨日も今日も一昨日も!!お前ほど美味そうに人間を食べる奴は国中探してもそうおらんぞ!?」

「…ん?」

「ん?」

「…あれ、人間だったん?」

「ん?それは…そうだろう?」

「いや、だって骨とか、さ。あんまり…あれ?」

「骨をつけるのは失礼に値するからな。客人に振る舞うのは切身だけだ」

「…まじ?」

「まじ」

 

 口の中に僅かに残った残り香の味を噛み締める。

 

 人間の国に住むの無理かもしれない。

 

 <無限の水差し>から水が溢れ出すのを呆然と眺めながらイリスは心の底からそう思ったのだった。

 

 

 思いの外旅支度に時間がかかってしまった。朝の内に旅立ちたかったが、陽は既に天高く昇り、荒野に無数に張られた天幕を真上から照らしていた。

 食糧を入れ替えてくれとお願いした時のアムドールの悲壮感溢れた顔は暫く忘れられそうにない。

 とはいえ流石に人間の国に人肉を引っ提げて行く気にはなれなかった。渋るアムドールを説得するのは骨が折れたが、2時間に渡る問答の末、何とか理解してもらうことができた。

 

「これが…大雑把だが、あちらの地図だ。あの辺の国の大体の場所は把握できるだろう。あとこれも」

 

 そう言ってアムドールが取り出したのは木彫りのお面だった。此方を睨み殺すかの様な苛烈な瞳と、口元から生える牙、頭の部分には2本の角が生えている。

 一目みた瞬間、とある廃人ギルドマスターの顔が思い浮かんだ。

 

「アムじぃ、これどこで手に入れたの!?」

「ん?我が同胞に旅好きの者がおってな。そいつが昔人間の国で拾ってきよったのよ」

「それって何処の国!?」

「んー確か南の方の国で儀式に使われとったと言っておったな。もうとっくの昔に滅んでしもうたらしいがな。なんだ。何か知っておるのか?」

 

 お面にやたら食いつきの良いイリスを不思議に思ったのか、アムドールが訝しげに問うてきた。

 既に滅んだ国…ならばドラモンを模した面という線はなくなる。だがこれは明らかに鬼の面である。

 南の方にいけば鬼のいる国もあるのだろうか?アムドールの話にはそんな種族出てこなかったが…。

 

「アムじぃ鬼って知ってる?」

「知らん」

「そか」

「それが…鬼なのか?まあ何でも良いが人間の国に行くのならそれを被っておけ。イリスの眼は目立つ。角は…カバンに入れてやったマントのフードで隠すのだな。」

 

 これを被れというのか。マントを羽織ってこんな面をつけていたらどう見ても変質者なのだが。

 まあ折角の好意だし、ありがたく受け取らせてもらおう。そう思い、イリスはアムドールから地図と鬼のお面を受け取り、カバンに押し込んだ。

 アイテムボックスに入れても良いのだが、それだと旅立ち感が台無しなので雰囲気重視の方向でいくことにした。

 

「何から何までありがとね、アムじぃ」

「何を言うか。イリスがあの悪魔を壊してくれなかったら私たちはここで終わりだったかもしれんのだ。まだまだ恩を返せたとは思っておらんぞ」

「そう?じゃあ今度会うことあったらまたご馳走して貰おっかなー。」

「ふん、今度会う時は竜王国の玉座の間だな。とびきりの馳走を用意すると約束するとも」

「お、言うねぇ。約束だかんねー」

 

 言いながらお互いの拳を突き合わせ、笑う。何の根拠もない最早願望に近い約束だが、彼らとの約束はこれくらいが丁度良いのだ。

 

 さてと…と気持ちを切り替え、イリスは目的地の方角を向く。目指すはここから北西、竜王国とスレイン法国とやらを別つ巨大な湖を越えた先にあるらしい人間の国_リ・エスティーゼ王国だ。

 何故そこに決めたかと言えばそれは完全に消去法である。喧嘩ふっかけてしまった竜王国は論外、スレイン法国は人間種以外の迫害が酷く、見つかればヤバいとアムドールが言っていたので除外。

 となれば残るはバハルス帝国かリ・エスティーゼ王国になるのだが…聞けばバハルス帝国に行くにはアンデッドの跋扈するカッツェ平野なるものを突破しなければならないらしい。恐らく飛んで行けば問題は無いのだろうが、わざわざアンデッドを見ることもないだろうとここも却下した。

 そしてリ・エスティーゼ王国。なんと清涼感溢れる名前だろうか。きっと天空都市以上の美しい街並みをしているに違いない。王国とついているのだから、生のお城を見ることだってできるかもしれない。純白の城壁から伸びる青い尖塔、小さな小窓から覗くのは煌びやかなドレスに身を包んだ可憐なお姫様。

 夜には花火が打ち上がり、城下町は毎日お祭り気分…なんてことは流石にないだろうが、煉瓦造りの街に溢れる国民の笑顔が容易に想像できてしまう…そんな国な気がする。

 都合の良い妄想に耽っている内にニヤついてしまっていたようだ。ガラウムとアムドールが怪訝な眼でこっちを見ていることに気づいたイリスは咳払いを一つすると、スキルを発動させた。

 

≪トランスソウル/赤の王ギュラ≫

 

「おお…」

 

 変身したイリスの姿にアムドールが感嘆の声を上げた。ガラウムはこの姿に覚えがあったのだろう、驚く

こともなく寧ろ懐旧の念を抱いた表情をしている。

 

「その姿!お前と初めて会った時のことを思い出すな」

「あー…懐かしいね。ってまだ五日しか経ってないけどさ」

「どうだ?せっかくだし…あの時の様にもう一発やっていかないか?」

 

 そう言って黒くテカった胸をさらけ出すガラウム。

 何がせっかくなのだろうか。馬鹿な同胞をなんとかしろとアムドールの方を見るが、叱責するどころかしょうがない奴だと肩を竦めるだけだった。

 初日はあれだけ喧嘩してたくせに…互いの弱みを見せ合ったことで絆が深まったとでもいうのか。正直気持ち悪いからそういうの勘弁してほしいのだが。

 イリスはため息混じりにガラウムの張りの良い胸筋を軽く小突くと、ウッと呻いたニワトリ頭をジトりと睨み上げた。

 

「ガラウムさー…私だから大丈夫だけど、もう他の奴にそういう冗談言っちゃ駄目だからね?マジでいつか死ぬよ?」

 

 イリスの苛烈な眼に怯んだのか、ガラウムはたたらを踏んだように数歩下がった。

 

「あ、当たり前だろう!わ、私も誰しもかれしもにこう言うことをする訳ではないっ!」

「嘘つけ」

 

 嬉々としてバルカンに立ち向かおうとしていたことをもう忘れているのかこの鳥頭は。

 後10本程釘を刺しとかないと本当に死にかねんなと呆れてしまう。まあそれもすぐ忘れてしまうのだろうが。

 

「嘘では無い!お、お前には言いやすいだけだ。自分より強い存在にこれ程気安く冗談を言えることなどそう多くはないからな」

「なんだそれ。てか君ら私のこと結構舐めてるよね。初対面なのに齧ろうとするし…おいそこのワニっ!ちゃんとこっち見ろ!」

「すまんすまん。だが…確かにガラウムの言う通りだな。あれだ。イリスには強者特有のオーラというものが感じられんのだ。その辺の小娘というか…なあ?」

「それだ!強きものはそれだけで他者を威圧するオーラがある!だがイリスにはない!!故に我々も下に見てしまうのだ!」

「下に見るとか言わない。あー…所謂カリスマが無いってか?やかましいわ!…ん?オーラ?」

 

 失礼なニワトリを一喝し、イリスはふと今の今まですっかり忘れていたスキルの存在を思い出した。

 ユグドラシルの特定の種族や職業が持つ、発動するだけで相手のステータスにペナルティを与えたり、自身にバフ効果を齎してくれる強力なスキル。≪オーラ≫

 消耗するタイプのスキルでは無く、ユグドラシルでは出しっぱなしにしていたから効果が切れていることに気がつかなかった。

 早く気づいていればポセイドン戦もあれほどダメージを負わなくて良かったものを…と己の迂闊さに呆れてしまう。色々なものが記憶から抜け落ちている。後で自分のスキルを入念に思い出す必要があるなとイリスは反省した。

 

 それはさておき、最後に認識を改めてやらねばなるまい。 

 目の前で人のことを散々オーラが無いとかカリスマがないとか小娘とか底辺とか蟻んことかミジンコとか抜かしてきやがったこの無礼な2人の舐め腐った認識を。 ユグドラシル流の威圧を見せてやらないと。

 イリスはニヤリといやらしく笑い、3歩ほどガラウム達から距離を置くと、一度目を伏せて…開く。

 

≪覇者のオーラI≫

 

 肉眼では捉えられない、しかし空間が歪むほどの波動がビーストマンの軍を駆け抜けた。

 言葉は話せなくとも、本能に叩きつけられる衝撃は皆同じだ。オーラを浴びた者はみな武器を投げ出し倒れる様に地面に這いつくばった。1万にも及ぶそれはまるで雪崩の様な有様だった。

 

 この≪覇者のオーラ≫とはワールドチャンピオンの持つオーラ系のスキルで、レベルを上げる毎に最大で5段階強化される。

 効果はシンプルで範囲内の相手の攻撃力と防御力を下げ、自身の攻撃、防御力を上昇させるというもの。

 受け側は基本的に防ぐことが出来ないので、スキルか魔法によるバフや、ポーションなどでステータスを戻すのが主な対策になる。

 レベルⅤにもなれば初手でいきなり相手のステータスを5段階も下げ、自分は5段階上昇する超ぶっ壊れ公式チートスキルである。

 此方の世界ではどんな影響があるかわからないので、お試しでレベルIで留めておいたが正解だった。

 ビーストマンの軍は総崩れになり、皆砕けたように震える身体をなんとか起こそうと必死になっている。

 目の前で直撃した哀れなビーストマンの賢人2人も、玉の様に汗の浮かんだ身体を地面にめり込ませていた。

 

(ステータスの低下ってこうなるのか…。これ街中じゃ絶対使えないなあ)

 

 最強格のスキルを縛らなければならない現実に辟易する。願わくばこんなスキルを使用しなければならない敵が出てこないことを…。

 イリスは≪覇者のオーラ≫を解除すると、地面に転がった2人に駆け寄り、渾身のドヤ顔をかました。

 

「どーだね2人とも。これが本場のオーラって奴よ」

 

 ガラウムはぜぃぜぃと息を切らし、喘ぐように仰向けに転がってイリスを見上げる。

 アムドールの方はまだ地面に突っ伏したままだ。

 

「お、おみそれしました…ハァハァ」

「お主は…人が…悪い。どうしてそう…力を隠すのだ…」

「それはほら、あれだよアムじぃ。能ある鷹はーって奴!」

「そ…そんな言葉…知らん…」

「そか!それじゃ私行くねー。2人とも色々ありがと!また絶対帰ってくるからそれまで絶対死んじゃダメだからねー」

 

 そう言い2人に背を向ける。目指すはリ・エスティーゼ王国。空は雲一つない真っ青な快晴。それはまるでこの旅立ちを歓迎してくれているようだった。

 イリスはスキルを発動させる。

 背中に生えた四枚の羽が金切り音を上げて高速で羽ばたき始めた。

 

「おい、待て…。こんな別れがあってたまるか…ハァ」

「そ、そうだぞ!こ、このような…情けない…」

「じゃあねー!最っ高だったよ!ビーストマーんッ!!」

「あっおいっっ!」

 

 

 

 爆発音が響く。渾身の力で起き上がったガラウムの前には既に半竜の少女の姿は無かった。

 全身の力が抜けたガラウムはアムドールの横に身体を放り出した。

 

「なんだったのだろうな。彼女は…」

 

 呆然と空を見上げ、アムドールに問いかける。地面に伏したままだった同胞がゴロリと仰向けに転がった。

 

「さあな…。だが、一つ断言できることがあるな」

「ん?」

「もう間も無く、この世界に激震が齎されるだろう…ということだ」

 

 物騒なことをいう同胞の表情を伺おうと、ガラウムは顔だけアムドールの方へ向ける。

 汗ばんだ肌に張り付く小石の感触が酷く心地悪いが、今は起き上がる気にもなれない。

 アムドールはいつになく真剣な目で空を見つめていた。

 

「激震…とは?」

「あの様な存在が目覚める時というのはな、大抵世界が大きく動く時と…そう決まっておるのだ」

「そういうものなのか?」

 

 アムドールはなにやら確信している様だが、ガラウムとしてはいまいちパッとこない話だ。5日程しか付き合いはないが、イリスのあの性格からして、ただ平凡に自由気ままに生きて行くことも十分考えられるだろうに。

 そんなガラウムの感情を読み取ったのか、アムドールは真剣な表現のまま此方を向いた。

 

「あのオーラを見たであろう。あれは修羅の道を行く者のオーラだ。平穏など…決して有り得はせん」

 

 そう言ったアムドールの手は酷く震えていた。倦怠感こそあれ、身体の震えはとっくに無くなっていたガラウムにとってはその震え方は少し異常に思えた。

 

「見たことがあるのか?あのオーラを…?」

「ある。もう何十年も昔の話だが…かつて南の国を旅した時にな。思い出したくもない」

「ラクゥを失った時の旅か。お前もしかしてそれで…いや、すまん」

「良い。その通りだ。怖くて彼女を直視することが出来なかった。しかし人間共には同情するぞ。きっと血の雨が降ることになる。良くも悪くも…な」

 

 そう言ってアムドールは空に向き直り、疲れたように目を伏せた。

 確かに凄まじいオーラだった。全身に震えが走り、身体に全く力が入らなくなる程の気迫…とでも言うのだろうか。可視化した殺気とも呼べるかもしれない。

 あれほどのオーラを纏うのに、いったいどのような経験をしてきたのだろうか。どれだけの屍を積み上げてきたのだろうか。ダメだ。彼女の性格と全く結びつかない。

 分からない。が、世の中には知らない方が良いことも沢山ある。そう、ビーストマンに疑問は似合わない。ただ真っ直ぐ突き進めばよいのだ。

 肌を焼く様に照りつける太陽の下、ガラウムも同胞にならって目を閉じた。

 そしてふと浮かんだ疑問を投げかける。

 

「アムドール…なんで齧ろうとしたんだ?」

 

 ここにきて初めて同胞がフッと笑った。

 

「何でって…滅茶苦茶美味そうだったからだよ」

「ハッハッ…やっぱりお前は最高のビーストマンだな」

 

 2人のビーストマンの乾いた静かな笑いが、荒野に響いた。

 

 

 

 

 

 

 それほど大きくはないが豪華な部屋の玉座に腰掛けた少女が、鼻歌混じりに軍事報告の書類を眺めていた。

 本来ならばそれは宰相などがする仕事であり、彼女の仕事はそれらの情報が要約されたものを聞き、今後の方針を決定する程度のことなのだが、最近の彼女はすこぶる機嫌が良かった。そしてその機嫌は報告書の数字を見るたびに急上昇していくのだった。

 

「随分とご機嫌のようですね。陛下」

 

 陛下と呼ばれた少女_竜王国の王女ドラウディロン・オーリウクルスは鼻歌を止めることなく報告書の上から下まで舐める様に目を通すと、その内容に満足したのかくるくると書類を丸め、声の主である宰相の方へポンと投げた。

 

「これが機嫌良くならんわけがないだろう?全くとんでもない兵器を寄越してくれたものだな、法国も」

「全くでございます陛下。あれを借り受けてからと言うもの、南側からのビーストマンの進行は完全に止まったと言っても過言ではありませんからね。」

 

 乱暴に放られた書類を慣れた手つきでキャッチし、流れるように手元に纏めながら宰相はうんうんと同意の言葉を示した。

 

「それも兵力を全く失わずに、だ。そっちに割くはずだった軍事費も丸々浮くのだろ?クックックこれが笑わずにおれるか?なあ?」

「今年は陽光聖典の救援も必要なさそうですね、陛下」

「いや、それは受けられるなら受けとこう。例年少なくない金を寄進しているんだ。それくらいはして貰ってもいいだろうよ」

 

 彼女の治める国『竜王国』は今、国家存亡の危機に瀕していた。それは言わずもがな、隣国のビーストマンの侵攻によるものである。

 その侵攻を食い止める為の軍事費は馬鹿にならず、苦労して育てた兵も呆気なく戦死してしまい、次を育てるのにまた莫大な金がかかると言う悪循環。

 そうなると他国に救援を求めるしかなくなるのだが、このご時世いくら人類の為とはいえそうホイホイと増援を送ってくれる余裕のある国など無い。結局あれこれと交渉している内にどんどん後手に回ることになり、既に2つの都市が落とされていた。

 人類の守り手であるスレイン法国にも多額の寄付を行い、既に国費は火の車状態である。

 そんな中、スレイン法国から届いた救援…それはいつもの屈強な兵ではなく、強力な兵器だった。

 それは訓練していない兵士でも簡単に扱うことができ、その威力はまさに一機当千。魔神の如き働きで、ビーストマンの群れを殲滅してみせたのだ。

 あくまでも内密且つ借り受けるだけという条件付きだが、それでも十分すぎる働きをしてくれた。

 矢や剣のように消耗することなく、砦に設置するだけで無敵の要塞に変貌させてしまう兵器。

 正直もっと早く貸して欲しかったと思ってしまうが、それは我儘というものだろう。それにこれを借りるのに宰相達がどれほどの苦労をしたことだろうか。

 あの法国を半ば脅すような形で交渉を強行したと聞く。

 

「しかし…今回は本当にお手柄だったな」

「勿体ないお言葉です陛下。」

「欲を言えばもう一機程借りたいところだが…もうないのか?」

 

 彼女にいじらしい眼で見つめられた宰相は、一瞬怯んだように顔を綻ばせるが、直ぐに引き締まった表情を取り戻すと、鉄壁の拒絶の姿勢を見せた。

 

「無理ですね。二…いや一機借りられただけでも奇跡ですから。あれは。」

「まあ…そうか。仕方ない。南側のを一機こっちに回せば良いか。」

「そうですね。あれほどの殲滅力があるのなら一機でも十分…」

「陛下ー!!!!」

 

 怒鳴り声と共に扉が数度乱暴に叩かれた。本来ならその無礼を叱責するところだが、その尋常でない慌て様にただならぬ気配を感じ、すぐに入るよう命じた。

 押し出すように扉が開き、額に大量の汗を浮かべた細身の男が飛び込んで来た。

 白を基調としたシュッとした服を身につけた男…この国の諜報部門に属する者だ。

 先程ドラウディロンが読み込んでいた報告書も、彼らによる情報が大半を占めている。

 そんな彼がなぜ脂汗を浮かべながら部屋に飛び込んできたのか。

 

「騒々しいな。一体何があったのだ?」

「ハッ、しっ至急陛下に伝えなければならないことが…」

「何だ。申してみよ」

 

 彼の慌てように非常に嫌な予感がするが、今日の彼女は些か以上に心に余裕がある。並大抵の惨事は笑顔で受け止められる自信があるというものだ。

 ドラウディロンは平常心を崩すことなく落ち着いた口調で男の言葉を促した。まさかこの男の報告で丸三日間寝込むハメになるとも知らずに。

 

 

「陛下。第三砦より伝令なのですが…その…謎の亜人による未知の魔法により…設置していた防衛兵器バルカンを、に、二機共完全に破壊されてしまったとのことです!」

「…ぇ?」

「もうダメだぁお終いだぁぁ…」

 

 白眼を剥いて仰向けに倒れる宰相。半笑いのまま玉座の上で固まった黒燐の竜王は、その姿勢のまま半日程気絶していたという。

 

 

 

 



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勧誘

小説って難しい…


 

 

 

 

 エ・ランテル。

 リ・エスティーゼ王国の東側に位置するこの都市は隣国であるスレイン法国、バハルス帝国の領土に面しており、貿易や国交の為毎日多くの人や物資が行き交う正に物流の要ともいえる王国の要所の一つである。 

 その都市の商業地区ともなれば、連日祭りの如く人がごった返し、人混みを掻き分けなければろくすっぽ前進することもできない有様だ。

 歩くだけでも精一杯の状況、他人に気を配っている暇も余裕も無いこの空間で、強烈に注目を引く存在がいた。それはボロい黒く薄汚れたローブを羽織り、頭にはフードを被っていた。これだけであれば特に珍しいことなど何もない。旅人も多く往来するこのエ・ランテルではローブを纏う者など5人に1人は見かける程にはいる。

 では何がそんなにも目を引くのか。それはお面だ。

 その人物が被っているお面があまりにも悪趣味だったからだ。見るものを畏怖させる苛烈な瞳と口から生えた生々しい牙、天に伸びる二本の角は人を刺し殺せそうなほどに鋭利に見えた。

 鮮血を思わせる赤い口内は、今しがた人を食べてきたと言われても思わず信じてしまいそうになる。

 通りを歩く者は皆そのお面を見るなりギョッとして立ち止まり、ただでさえ混雑している大通りの交通渋滞の原因として一役買っていた。

 

 

(やっぱりめっちゃ目立つんじゃんこれぇ…)

 

 此方の世界の人間も、価値観は大して変わらないらしい。鬼ってやっぱり怖いのだ。

 フードの端をキュッと握り締め、悪趣味なお面を被った半竜の少女イリスは今、激しい後悔の念に飲まれていた。

 竜眼を解除し、完全人間化すれば面など必要ないのだが、それは御免こうむりたかった。

 完全人間化の実験はこのエ・ランテルに潜入する前に一度しているのだが、竜眼を解除した時の衝撃は暫く忘れられそうにない。

 余りの無防備感。視覚と聴覚を遮断され街中に全裸で放り出されたかの様な、圧倒的不安感に襲われたのだ。よくもまあこんな状態で普通に生きられるものだと人間達には逆に感心させられた。ちょっと前まで人間だった癖に。

 それとこれは副次的な理由だが、この恐怖の権化とも言えるお面をつけておけば、ラガーマン達に発見してもらえる可能性も少しは上がるだろうという打算もあった。雑踏にうんざりしながらも、此方を見ていちいちリアクションを取ってくれる人間達を見るに、この作戦はなかなか期待値が高そうだ。

 とはいえ少し目立ち過ぎである。犯罪にはならないと思うが思いっきり不審者なのでそのうち警備の兵にしょっ引かれそうである。

 

(何はともあれ先ずは情報収集しないと)

 

 馬鹿みたいに都合の良い話だが、人間達の言葉も勝手に翻訳されて聞こえるようで、会話をするのは問題無さそうだ。

 という訳で、当面の目的であるギルメン探しのために情報の集まりそうな場所を探していたイリスだが、どこに行けば良いのかさっぱり分からない状況だった。なぜならば、看板に書いてある文字が全く理解できないのである。言葉は翻訳される癖にそっちは駄目なのかよと思わずツッコんでしまった。

 幾人かの人間に道を尋ねようとしたが、皆悲鳴を上げて逃げて行ってしまった。イリス自身このアバターの声はふわふわした可愛い声をしていると思っているのだが、鬼の面の怖さを相殺できるほどでは無かったらしい。いや、寧ろ不気味さを倍増させてしまっている可能性すらある。

 人混みをスルスルと掻い潜り、大通りの外れに出た。此方の通りは先程までの露店立ち並ぶ商業区画と違い、しっかりした店舗型の施設が多く見られた。

 道がちゃんと舗装されていないのか足場が悪いが、人通がかなり減ったこともあり、先程よりは断然歩きやすい。

 イリスは読めない看板を眺めがら直感に任せて歩みを進めた。どうせ何の店かわからないのだ。もうフィーリング頼りで選ぶしか無い。

 パッと目についた古めかしい建物。入り口と思わしき場所には趣深いウエスタンドアが取り付けられていた。

 これは…きっと酒場だ。酒場といえば物語の中では定番中の定番と言える情報交換の場である。店主と仲良くなれば有用な情報を手に入れられる可能性は高い。そうと決まれば行動だ。

 イリスはタンタンと軽やかに入口前の階段を駆け上がると、ウエスタンドアを勢いよく開いた。

 

「お邪魔しまーす!」

 

 薄暗い店内のカウンターでコップと思わしき物を拭いている厳つい禿頭の男が此方を一瞥し、眼を見開いた。そして…

 

「おわああああああ!!な、なんだお前ぇ!?」

「うえぇ!?あっお面…ち、ちょちょちょちょっとちょっと!びっくりするの待って!怪しくないから!お、斧出さないで!怖いからぁ!」

「うるせえバケモン!早く出て行きやがれ!」

「違うんだってばぁ!」

 

 やっぱりこのお面駄目だ。店主とのファーストコンタクトは最悪のスタートになってしまった。というか斧ってそんなにもスッと出てくるものなのだろうか。なんて物騒な店なんだ。などと考えているうちに店主がカウンターから出てきて斧の切っ先をイリスに突きつけてきた。

 

「とっとと失せるかその面外してツラ見せるか選ぶんだな。馬鹿とゴロツキに飲ます酒はあっても得体の知れねえ奴に出すもんは何もねえのよ」

 

 斧をギラつかせて店主が凄む。この期に及んでまだお店に入れてくれる選択肢を用意してくれるあたり、意外と良い人なのかもしれない。

 さて困った。竜眼を解除して顔を晒しても良いが、それをすれば店にいる間はずっと完全人間化状態でいなければならなくなる。正直それは耐えられない。発狂して情報収集どころではなくなってしまいそうだ。

 それならばいっそのこと竜眼の方を受け入れてもらった方が手っ取り早いかもしれないと、イリスは考えた。そうすれば面を被っていることも正当化できるはずだ。理由は適当にでっち上げれば良い。

 イリスは頭の中にパッと浮かんだ言い訳を、目の前の怒れる店主につらつらと述べた。

 

「顔は…見せても良いんですけど…。私、昔悪い魔女に呪われてしまって…瞳を竜のそれに変えられてしまったんです。それで…この様なお面で誤魔化しておりまして…うぅ」

 

 我ながら酷い嘘だ。魔女って誰だよ。だが位階魔法が存在する世界なのだ。あながち嘘とも言い切れない話のはずである。

 恐る恐る店主の顔を伺うと、意外にも怒りの感情は感じられず、寧ろ興味深そうな表情で顎を摩りながら此方を見下ろしていた。

 

「ほう、魔女の呪いか、珍しいな。どれ、見せてみろ」

「え、信じてくれるの?」

「嘘がどうかは実際見てみりゃ分かるだろ。さっさとしろ」

「はーい。でも怖がらないで下さいよ?」

 

 えらく理解の早い店主だ。普通の人間ならばこんな荒唐無稽な話歯牙にも掛けて貰えないだろうに。

 これ以上待たすのも悪いので、イリスは急いでフードを脱ぎお面に手をかけて外した。

 瞳の色が分かりやすいように店主の顔を真っ直ぐに見つめる。

 イリスの眼を見た瞬間、店主は驚きの余り手に持った斧を取りこぼした。

 

「おお…こりゃあ…!」

「わわっ危ない危ない」

 

 斧が地面に転がる前にキャッチする。気をつけろと注意しようと店主を見ると、口を開けてまだ固まっている様だった。そんなに珍しかったのだろうか。

 

「ちょっと…おーい!起きてる?」

「あ、ああ、すまん。ちょっと驚いただけだ。」

「ね?本当だったでしょ?」

「そう…だな。確かにそりゃ竜の眼だ。おい、ここで話すのも難だ、中に入れ。詳しく聞かせてくれよ。何か食うもんも出してやる」

「おっしゃ!やったねー。丁度お腹空いてたとこなんですよー」

 

 店主に斧を返しながらイリスも店内に入る。窓を閉め切っているのか、まだ日は高いはずなのに室内は随分と暗かった。見渡すと、イリスの他にも客がいたようで武装した3人組の男が隅の方の丸いテーブルを囲んで座っている。そのうちの1人は項垂れた様にテーブルに突っ伏していた。テーブルの上に乱雑に置かれている空のジョッキを見るに、既に結構飲んでいるのだろう。他の2人も赤い顔をして談笑していた。

 

「それで?なんてったってそんな眼にされちまったんだ?」

 

 促されるままカウンターの席につくと、店主が吊るされていた干し肉を取り外しながら話しかけてきた。

 肉が食える…。じゃなくてイリスは頭をフル回転させて整合性の高い嘘を捻り出そうと苦心した。

 

「んー…それなんですけど魔女に眼を変えられた以外の記憶がごっそり抜け落ちてるというか。だから詳しい事はよくわかんないんですよ。」

「なんだそりゃ?魔法による副作用ってやつか?そんなの聞いたことねえな。それじゃ自分の名前もわかんないのか?」

「いえ、名前と言葉は分かるんですよー。逆を言えばそれ以外全部忘れちゃいました」

「記憶喪失か、そりゃ…災難だったな。そういや挨拶がまだだったな。嬢ちゃん名前はなんて言うんだ?」

 

 コトっとお粥の様なものと干し肉を盛った皿が目の前に置かれた。打てば響く様に返ってくるテンポの良い会話に、イリスは少し困惑した。

 この店主、この手の話に慣れているのだろうか。記憶喪失なんて都合の良い話をストンと飲み込んでくれる人なんてそうはいない筈だが…。とはいえ疑っても仕方ない。騙しているのは此方の方なのだから。

 名前を尋ねてきた店主にイリスは笑顔で答えた。

 

「イリスって言います。マスターの名前は?」

「イリスか…綺麗な名前じゃねえか。俺はスローンってんだ。宜しくな。」

「スローンさんね。宜しくです。マスターも可愛い名前してますねぇ」

「可愛いはおかしいだろ。ほらっ早く食えよ。せっかくの飯が冷めちまう」

「はーい!じゃ早速…いただきまーす!」

 

 スローンの許可が下りたので、イリス心置きなく粥みたいな飯を貪りにかかった。ただのふやかした白米かと思ったが、味付けはある程度されているみたいで、思いの外食べやすかった。

 次いで干し肉にもフォークを突き刺し…食べる。硬い、あまりにも。硬い故に口の中で何度も噛み締めていると、次第に旨味が溢れてきて塩気の強い癖になる風味が口いっぱいに広がった。

 

(面白い料理だな)

 

 所謂ビーフジャーキーって奴だろうか。現実世界では知識ではしっていたものの食べたことはなかった。

 単純な美味さで言えば人肉に軍配が上がるが、なかなかどうしてこれも悪くない。食事のメインとしては少し物足りないが。

 

「スローンさん!これすっごく美味しいです」

「ハハ、そりゃよかった。今朝の余りもんだが…そんだけ美味そうに食ってくれるならそいつらも喜んでるだろうよ。…ところで一個聞きたいんだが」

「ん?」

 

 今まで仕事のついでに喋っていたスローンだったが、ここからが本題とばかりにずいっとカウンターから身を乗り出すと、少しボリュームを抑えた声で、

 

「その眼なんだが…見た目意外になにか変わったことはないのか?その、特別な力みたいな」

 

 と、問うてきた。スローンの目は好奇心旺盛な子供の様にキラキラと輝いている。

 ああ、この人噂話大好きなタイプだ。その眼を見てイリスはそう判断した。それならば先程のテンポの良い会話も納得がいく。要は外界の面白い話に飢えているのだろう。ゴロツキ相手に酒場の店主をしているのもそれが理由だったりして…。

 と、そこまで邪推した上で、物理的に飢えを満たしてもらったイリスはそのお礼にと、竜眼の蘊蓄を垂れ流すことにした。

 

「ふふ、鋭いですね…マスター。実はこの眼、見た目怖いけど滅茶苦茶便利なんですよ」

「ほう…どんな風に?」

「何個か能力あるんですけどね…。その一つ目が…なんとこの眼、千里先まで見通すことができるんですよ…ふふふ」

「なにぃ!?」

 

 スローンが大声を上げる。イリスのドヤ顔にスローンの口内で錬成された高粘度の飛沫が大量に吹きかかった。

 スローンの声に反応してか、酒場の隅の方からガタリと椅子同士がぶつかる様な音が響いた。きっと寝ていた男が驚いて飛び起きたのだろうと勝手に合点し、イリスは振り返ることもなく、顔にかかったねっとりとした唾液をローブの袖で拭う。

 

「そして二つ目が…」

「ち、ちょっとまて!さらっと二つ目にいくな!千里先が見えるってのか!?特殊な魔法を使うこともなくか!??」

「そうですねぇ。見えちゃいますねえ。遮蔽物によってはちょっと難しいんですけれども」

「それが本当ならとんでもねぇ能力だぞ…。見た目の欠点なんて簡単に帳消しになっちまうだろうに」

 

 スローンの声が小声に戻る。今更もう遅いと思うのだが、この店主の場合小声の方が聞き取りやすいのでわざわざ指摘はしない。

 

「まあ今証明しろって言われてもちょっと難しいかな…。あ、マスター。後20秒くらいしたらお客さん来ますよ。赤毛で巨乳のお姉さんが」

「も、もしかしてブリタ…か?マジか?」

 

 スローンがイリスの後方に目を向ける。恐らく店の入り口のウエスタンドアを見ていることだろう。

 ゴクリと唾を飲み下す音が聞こえた。

 張り詰めた様に静かな店内に、遠くから足音が響いてくる。そして、

 

「うぃーす。ねぇ聞いてよマスタぁー。今日の依頼ホント酷くって…何?」

 

 勢いよく入ってきた赤髪の女性の足が、店内の異様な雰囲気に飲まれて止まる。

 きっと仕事終わりなのだろう。使い古された革鎧は土や煤で薄汚れており、その健康的に焼けた小麦色の顔も所々黒ずんで、表情にはありありと疲れが見てとれた。

 そんな状況で店に入るなり、そこの店主にまるで死んだはずの家族が帰ってきた様な目を向けられているのだ。足を止めて訝しむのも無理はない。気づけば隅に座っていた武装した3人組の男達も、スローンと同じ表情で彼女を見ていた。

 

「マジで来やがった…。その眼、どうやら本物みたいだな」

「ふふ、便利でしょ」

「便利なんてもんじゃねえ。なんてったってその魔女はあんたにそんな力…」

「ちょっとぉ!無視しないでよっ!」

 

 顔を見るなり興味を失って話し始めた2人に業を煮やしたのか、赤髪の女性はズカズカと足を踏み鳴らしながらカウンターまで来ると、どかっとイリスの横に腰を下ろした。

 

「失礼だと思うんですよ、私は。人のことジロジロ見といて…ねぇマスター」

「お、おうすまんなブリタ。今それどころじゃ無くてな。ほら、これ食って落ち着け」

 

 スローンはちゃっちゃと手際よくお粥をよそい、その中に肉を数切れ放り込むと、機嫌の悪い赤髪の女性__ブリタの前に雑に置いた。

 

「こんなもんで私の気を紛らわそうだなんて…」

 

 ぐう〜とイリスも良く聞き覚えのある音がカウンターに響いた。ブリタは少し顔を赤らめると、

 

「い、いただきます」

 

 と言って粥を夢中に頬張り始めた。空腹に己の怒りすら翻弄されている彼女に、イリスは少しだけ親近感を覚えた。

 

(抗えないよねぇ、その衝動は)

 

 同情にも似た感情で飯を掻き込むブリタを眺めていると、イリスの視線に気がついたのか、彼女はチラッと此方を一瞥し…

 

「ぶふぉぉっつ!!!」

 

 咀嚼していた内容物をスローンの腹に思いっきりぶち撒けた。

 

「うおおっ!何しやがんだブリタ!一気に食いすぎなんだよ。ほれ水」

「ゴホッゴホッっんやだって…となりっゴホッびじんっがっっ!」

「分かったから黙って飲め」

 

 彼女は胸を叩きながら涙目で水を飲み干すと、しっかりと呼吸を整えてから此方を見て、鋭い目を何度も瞬かせた。

 ブリタが驚くのも無理はないだろう。見聞の広そうなスローンでさえ固まる程仰天していたのだ。竜眼という物は人間の社会では相当に珍しいものらしい。

 やはり外ではお面は必須になるだろうな、とイリスは少しうんざりして小さくため息をついた。

 

「やっば…初めて見たかも…こんな」

「あんまジロジロ見てやるなよ?なんでも魔女の呪いのせいらしいからな」

「呪いって…。ああ、ごめんなさい」

「気にしないでいいですよー。マスターなんて斧持って固まってましたもんね」

「バラすんじゃねぇよ恥ずかしい」

 

 ニヤニヤとからかってくるイリスに、スローンがシッシッと手を振った。

 すっかり話が途切れてしまったところで、イリスも本題のギルメン捜索の話を持ち出そうと、話の切り口を模索する。

 

(記憶喪失設定は失敗だったなー。仲間のこと聞けないじゃん)

 

 となると身長3メートルのゴリラみたいなマッチョ女知りませんか?とか金髪の超絶イケメンエルフ知りませんか?とか仲間探しというより、珍獣捜索方面で切り込んだ方が手っ取り早そうだ。理由は適当に呪いを解くのに必要な奴らとでも言っておけば良いだろう。スローンであれば細かいことはスルーしてくれるはずである。

 頭の中で軽く話す内容をまとめ、ブリタの愚痴にホーホーと相槌を打っているスローンに声をかけようとした瞬間、後ろからしゃがれた乱暴な声がかかった。

 振り向くと、そこには先程テーブルで酔い潰れていた男が立っていた。

 

「おい嬢ちゃん…。さっきの話聞かせてもらったぞ」

「ん?君はさっき隅の方にいた…」

 

 男はフゥっと酒臭い息を吐き出すとブリタとイリスの間に乱暴に座った。

 黒い髪は短く切り揃っているが、口元には無精髭が青々と茂っていた。男は赤ら顔を此方に向ける。口元はだらしなく緩んでいるが、その眼は全く笑っていない。

 

「千里先を見通せると言ったが…それは本当に千里先なのか?正確な索敵範囲は?効果時間は?夜目は効くのか?妨害魔法に対抗できるか?」

「おいおいバアル!やめとけって!そんな得体の知れない奴…」

「うるっせえ!!お前は黙ってろ!で、どうなんだ?嬢ちゃん。詳しく聞かせてくれよ」

 

 バアルと呼ばれた男は血走った眼でイリスを見る。何か…相当に焦っているのだろうか。どう対処しようか迷っているとスローンから助け舟が入った。

 

「バアル。お前さんの気持ちはよく分かるが…その娘はやめとけ。竜の眼以外は普通の女の子だ。アスハルの抜けた穴は埋められねぇよ」

「うるせえっつってんだよ!お前に俺の何がわかんだよっ!眼が見えりゃあそれでいいんだ!それ以上は望まねえ!なあ嬢ちゃん。教えてくれよ、どこまでできんだその眼は…」

 

 バアルはカウンターに拳を叩きつけ、叫び散らす。そして縋る様な目でイリスに問いかけてきた。何が何だか分からないが、このバアルと言う男は凄く…追い詰められている様だ。口調から仕草から全く余裕が感じられない。そんな彼が手におえないのだろう。後ろの仲間と思しき2人の男も、憐れみの目でバアルを見ている。

 なんだか状況判断が面倒臭くなったイリスは、馬鹿正直に答えてみることにした。

 

「正確には4000km先までかな。効果制限は無し。夜は昼みたいにはっきり見えるよ。探知阻害とか妨害魔法は対策無しだとバッチリ引っかかっちゃうから…無闇矢鱈と使うのは怖いかなあ。カウンター食らって死ぬの嫌だし」

 

 淀みなく質問に答えたイリスに全員の注目が集まる。一瞬の静寂。ユグドラシルの人間であればすぐに通じる内容ではあるが…此方の人間はどうだろうか。

 

「ほ、ほぉ…。アハっアッハッハハッハッ!ノリがいいじゃねぇかよ嬢ちゃん!そうだよ!それでいいんだよ!おい聞いたかお前ら!!コイツヤベェぞ!!運命だ!運命だよこれは!アハッハッハクックックック」

「おい飲み過ぎだバアル。そんなの嘘に決まってんだろ?おい女。絡んだのはこっちだから悪かったけど、あんまウチのリーダー焚きつけるようなことしないでくれよ」

 

 席を立ってフラフラと大笑いをしているバアルに肩を貸しながら、男が言う。

 焚きつけるも何も質問に答えただけなのだが、まあこの場合は無視する方がお互いの為だったのかも知れない。

 

「ごめん。でも私は嘘は言ってないよ」

「だからそれが…うわっ!」

 

 バアルが男を突き飛ばす。そしてフラフラとイリスに向き直ると彼は言った。

 

「おい嬢ちゃん。富と名声が欲しくないか?永遠に遊んで暮らせる金!名誉!俺達と来れば全部手に入る。そうこの…ミスリル級冒険者、泣く子も黙る<アングリード>の仲間になればなぁ!」

 

 いきなり振られた突拍子のない話に、イリスは目を白黒させた。頭の中が混乱する。情報が多すぎる。お金持ちになれる?名誉??冒険者とはなんだ。

 

「ぼ、ぼうけん?君は…冒険してるの?」

「なんだぁ?冒険者知らねぇのか嬢ちゃんは。冒険なんかしねぇよ。まあいい後で色々教えてやるよ。知識なんてどぉーでもいい。いるのは力だけだ。さぁ来な!」

 

 そう言うとバアルは突然イリスの両脇を掴んで持ち上げ、肩に担いだ。酸っぱい汗の臭いと酒の臭いが鼻を突く。展開が早すぎる。頭が追いつかない。

 

「ちょちょちょちょぉっ!!」

「ハッハッハ。随分軽いなぁ。ちゃんと食ってんのか?ハハッ!さあアングリード復活記念日だ。オラいくぞテメェら!今夜は派手にいくぜぇ!」

「バアル待て、待ておい」

「やめとけぇイシル。ああなったリーダーは止めらんねぇよぉ」

「マスタぁー!」

 

 バアルの肩の上からスローンに助けを求める。が、スローンは呆れた様に肩を竦めるだけだった。

 

「まあ…富と名声ってんなら心配いらねえだろうよ。アングリードは腐ってもミスリル級だしな。頑張ってきなイリス。金さえ払えば飯ならいつでも出してやるよ」

 

違う、そうじゃない。てかミスリル級って何だ。酒臭い。おい、ブリタ。手振ってんじゃねぇよ。こんなの唯の誘拐だ。こんな…

 

「さぁあと一歩だ。俺達の夢まで。フハハハハ期待してるぜぇ嬢ちゃんよぉ!」

「あー…もう好きにしろばかやろー…」

 

 薄暗い空に轟く男の笑い声。どこまでも木霊するその声が、エ・ランテルの街に響き渡ったのは、正に2ヶ月振りのことであった。

 

 

 

 



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冒険者

誤字報告ありがとうございます。


 

 

 

「それでは準備ができ次第お呼びしますので、待合の方でお待ち下さい」

「分かった。ありがとう」

 

 受付を済ませた男は、床に置いた荷物を背負い直すと、待合に数列並んでいる木製の椅子に腰を下ろし、深々とため息をついた。

 男の名はイシル。ミスリル級冒険者<アングリード>のメンバーである。担当は戦士職のアタッカーだ。

 艶の良い金髪は短く刈りそろえられ、精悍な顔には一切の髭が生えていない。

 厚みのある革鎧は特注品で、見た目の割に軽く、そして鋼よりも頑丈だ。腰に備えた一本のブロードソードは魔法のかかった逸品で、軽く振っただけでもゴブリン程度なら簡単に両断できる優れ物である。

 そんな冒険者として、ある意味成功していると言っても良い程の装備に包まれたこの男を悩ませる種が一つ…目の前の長椅子で寝転がっている小太りの友人の尻を枕に、仰向けに横たわって大きなイビキをかいている。

 昨日安宿からリーダーのバアルが拾ってきた正体不明の新入りの女…名をイリスと言うらしい。

 竜眼とかいう大層な眼を引っ提げ、おまけに顔はおおよそ人間ではあり得ない程に整っている。そう…人間ではありえないのだ。まさに魔性の美。絶対に普通じゃない。本性は実は吸血鬼でした…などと言われても全く不思議じゃない。

 リーダーのバアルも、目の前でグースカ寝ている小太りのメンバー…パドムも、飲み歩いた酒場の連中も皆んな呑気に鼻の下を伸ばしていたが、自分は絶対に騙されない。コイツは化け物だ。こんな奴に頼ってしまったらいつか必ず…。

 

「おい、何怖い顔してやがんだよイシル。リラックスしろリラックス」

「俺は認めねぇぞバアル。こんな身元不明の怪しい奴、メンバーに入れるべきじゃない」

 

 いつの間にか後ろに立っていたバアルの方を見ることもせず、イシルはそう言い切った。

 バアルはふぅっと一息つくと、長椅子を跨いでイシルの隣に腰を下ろした。

 

「認めるもなにもねぇよ。試験を突破すりゃあ晴れてこの子はミスリル級冒険者<アングリード>の一員よ。組合がプレートだってちゃんとくれる」

 

 淡々と告げるバアルのにやけ面を思わず引っぱたきたくなる衝動をグッと堪える。

 バアルの言っていることは間違っていない。確かにチームリーダーの推薦があり、そのランクに合った組合の試験をクリアすれば、正式にメンバーに加入することはできる。

 でもそれはあくまで形式上の話だ。実際にメンバーに加えるということはそんな簡単な話じゃない。新規メンバーとの性格の不一致だけで崩壊したチームなどごまんと見てきた。そもそも性別の違うメンバーを入れるのが高リスクなのだ。入れるとしてもバランスをとるべきだろうに。 

 男3人に女1人など最悪だ。チームの軋轢を生む典型パターンではないか。

 おまけにこの女はその内に何を隠しているか分からない…このチームを内部から貪り喰らう化け物の可能性も大いにありうるのだから。

 冒険者はチームなのだ。実力があったってチームの調和が保てないのでは意味がない。一つのミスが全滅に繋がる職業なのに、何故そんな簡単なことも分からないのだこの馬鹿リーダーは。

 

「そんな建前の話をしてるわけじゃない。能力があったらそれでいいのか?違うだろ?俺はこの女と連携とれる自信ないぞ」

「歓迎会までしたのになんて言い草だよ。あぁ?…能力があれば十分だ。俺達の計画にはな。まさか忘れた訳じゃねぇだろ?イシル」

「計画って…お前やっぱりまだ…」

「当たり前だろう。そのために復活したんだろうが。一生遊んで暮らすんだろ?元々それが俺達の最終目標だったんだろうがよ」

「それは…そうだが」

「大丈夫だ。きっとうまくいく。アスハルの無念を晴らしてやろうじゃねぇかハッハッ」

 

 今は亡き友人の顔がよぎり、イシルはハッとバアルに向き直る。

 

「なぁバアル、俺はもう」

「ま、細けえことは試験が終わってからにしようや。イリスが試験を突破できなけりゃこの話はご破産なんだからよ」

「ああ…そうだな」

 

 頼むから不合格になってくれ。目の前で呑気に寝息を立てている女を睨みつけると、イシルは心の底からそう願ったのだった。

 

 

 

 

「ほら、2人供いい加減起きろ」

 

 ガン、と椅子を蹴る音と共に全身に軽い衝撃がはしる。続いて頭の下にあったふくよかな感触がなくなり、硬質な物体にぶつかった。

 

「うわあっ。どぉれくらい寝ちまってたんだぁ俺ぁ」

「アダっ!ちょパドム…いきなり動くなぁ」

「あぁ、ごめんよぉ」

 

 強かに打った頭を摩りつつ起き上がると、イシルが不機嫌そうにイリスを見下ろしていた。

 

「お、おはよイシルさん」

 

 まるでうじ虫でも見るかの様な彼の眼に、イリスは苦笑いで答える。

 

「もうすぐ受付から試験の説明がある。さっさと準備済ましておけよ」

 

 イシルは冷たく言い放つと、受付の方に歩いて行ってしまった。

 どうもこの男には全く信用されていないらしい。

 いや、いきなり信用しろと言う方が難しいか。どちらかと言えば簡単に打ち解けたバアルとパドムの方が異常なのかもしれない。

 それでも半ば誘拐に近い形で勧誘したのはそっちなのだから、ある程度の社交辞令くらいしてくれても良いだろうに。結局昨日の歓迎会でも一言も会話をすることがなかった。

 まあこれについては考えても仕方ないだろう。実力を示せば仲間として認めてもらえるかもしれないし、今後に期待だ。

 

「実力…か」

 

 そう呟き、イリスは昨日のバアル達との会話を思い出していた。

 彼らはアングリードと言う名前の冒険者チームらしい。冒険者というのはその名の通り冒険をする者達…ではなく、モンスター退治をしたり、ある時は荷物持ちをしたり、そしてある時は要人の護衛をしたりと、要は何でも屋みたいな職業についている人達のことだ。

 その冒険者の中にもランクがあり、そのランクによって受けられる仕事が変わってくる。

 ランク最上位のアダマンタイトクラスになれば、そのチームの名は世界中に轟き、皆から英雄として称えられるとかなんとか。

 正直冒険者になるつもりなどさらさら無かったイリスだったが、この話を聞いた時は冒険者ありかもしれないと思ってしまった。

 世界中…と言っても恐らく人間社会だけの話だろうが、それでもそれだけの人間に認知されれば、きっとラガーマン達にもその名声は届くに違いない。

 それはこの広すぎる世界を無闇矢鱈に探し回るよりも、ずっと効率的に思えた。

 その上依頼をこなせばこなすほど報酬金が貰えるし、アングリードの冒険者ランク<ミスリル>は、なんと上から三番目。

 そのレベルのランクになると、依頼の難度はハネ上がるが、報奨金は結構な金額になるらしい。

 人手不足な業界なのか、身元不明でも特には問題無いし、何よりミスリル級冒険者のリーダーであるバアルが、イリスの身元を保証してくれるというのだ。

 金も仲間探しも身分証明も解決する。バアルの提案はイリスが人間社会で生きる上での不安要素を、バッサバッサと切り払ってくれる好条件が揃っていた。 

 結局最後まで話を聞いたイリスは、二つ返事でバアルの提案を快諾し、アングリードに加入することになったのだった。

 が、いくらリーダーの許可があったとしてもそう簡単には加入できないらしい。なんでもそのランクや役割に合わせた試験を合格しなければならないのだとか。

 アングリードでのイリスの担当は、レンジャー。周囲の偵察や、危険の察知などをこなす言わばチームの眼ともいえる重要な役割である。

 元はアスハルと言う人が担当していたポジションなのだが、数ヶ月前に殉職してしまったらしい。彼の抜けた穴をどうしようかと途方に暮れていた所、丁度良く<千里>の竜眼を持ったイリスと出会ったと言う訳だ。

 試験の詳しい内容は今から教えて貰えるのだろうが、バアルからざっくり聞いた内容では、竜眼は愚か、ドラゴンの基礎能力だけでも十分クリアできそうであった。

 

「イリスぅ。気にすることないぞぉ。あいつは初対面の相手にはいつもああだからよぉ。ああ見えて案外チョロいからきっかけがあればすぐ仲良くなれると思うぞぉ」

 

 ハッと横を見ると、パドムが心配そうに此方を見ていた。考えに耽っていたのを落ち込んでると勘違いしてしまったのだろうか。この大変美味そうな…じゃなくて少し肥満気味の坊主頭の男は、アングリードには似合わない程に優しい男だった。

 

「大丈夫大丈夫!気にしてないよ。どっちかって言うと試験の方が不安だなー」

「あぁ昇格試験かぁ。そっちは大丈夫だろぉ。その眼がありゃぁ余裕余裕ぅ」

「だと良いけどさー。いやぁ筆記試験とかなさそうでホンっトよかったよー」

「ひっき?ひっきってなんだ?」

「あ、ああ、いや気にしないでこっちの話だから」

 

 ついつい学生時代の名残が出てしまった。もう学校に通うことも受験勉強をすることも無いというのに。

 

「おい、呼んでるぞ。早くこい」

 

 受付の方でイシルが呼んでいる。

 

「はーい。じゃあ行ってくるね」

「おぉ。頑張って!」

 

 席を立ちパドムに手を振ってから受付に急ぐ。

 受付には相変わらず無愛想なイシルと、昨日の酒が未だ抜けていないのか、赤ら顔のままのバアルが腕を組んで立っていた。

 

「おうイリス。もう準備ばっちりか。」

「さっきから準備準備って、今日は説明聞くだけなんでしょ?」

「まあ…あれだ。ばっちり頭柔らかくしとけってことよ。ただの説明だからって舐めてると痛い目みるぜハッハッ」

 

 赤ら顔が笑う。なぜただの説明で痛い目を見なければならないのか。イリスの頭にいくつも浮かんだハテナを見透かしたようにバアルがニタリと目尻を下げた。

 

「行けば分かる。なぁにみんな通る道だ。」

「何それ…めっちゃ怖いんだけど。それって」

「イリス様。準備ができましたのでどうぞこちらへ」

「あ、はい」

 

 バアルに問う前にお呼びがかかってしまった。イリスはモヤモヤした気持ちの悪い感情を引きずったまま、受付嬢の後を追って薄暗い廊下を進む。

 

「ではこちらに入って椅子に座って下さい」

 

 言われるがままに部屋に入る。木製の床がぎしりと音を立てて軋んだ。中央にポツンと置かれた椅子に座り、無意識に周囲を見渡す。普段は資料室の様な扱いなのだろうか。目の前の長机の上には、羊皮紙の束がまとめて置かれ、部屋の隅にも同じように様々なサイズの羊皮紙の入った木箱が整頓されて置かれている。

 長机の後ろの壁に沿うように設置されている木製のボードには、読めない文字の書かれた羊皮紙が、いくつも打ちつけられていた。

 部屋を観察している内に、さっきの受付嬢が長机の前まで来て書類を整理していた。

 

「お待たせして申し訳ありません。それでは早速始めさせていただきますね」

 

 受付嬢はそう言って手に持った羊皮紙を眺めながら、話を続ける。

 

「イリスさん、ですか。冒険者の経験は無し、と。凄いですね。ミスリル級冒険者からの直々のスカウトなんて、あんまり前例ないですよ。それもレンジャーなんて…本当に珍しいです」

「そうなんですか?」

「そうなんです。優秀な魔術師の方や、高位の治癒を行える神官などであれば未経験でもそう言う話はありますけど、レンジャーの様な経験がものをいうスキルの方で未経験なんて…何か凄い特技でもお持ちなのでしょうか?」

 

 受付嬢がまじまじと此方を見てくる。その眼の中にあるのは純粋な好奇心だろう。試験とは関係無い個人的な質問だとイリスは判断した。

 誤魔化すようにわしゃわしゃと髪を掻き、答える。

 

「まあ…そうですねぇ。ちょっと人より眼がいいと言うか、なんというか」

「その目隠しと何か関係がおありで…?」

 

 随分と突っ込んで質問してくる。

 そう、イリスは今顔の上半分を目隠し…黒い布で覆っている状態である。これは竜眼を晒したままでは目立ちすぎると、昨日の晩にバアルに貰った物だ。

 傍から見ると奇妙に見えるかもしれないが、鬼の面よりは数段マシだろうと言うことで、ありがたく採用した。

 瞼を閉じた状態で装着しているが、<千里>の竜眼さえ発動していれば視界には何の問題も無かった。

 バアルもそれを見越していたのだろう。いや、寧ろ目隠しさせることで、能力のテストをしているのかもしれない。ただの酔っ払いに見えてなかなか強かな男だ。

 目立たないようにと目隠しを寄越された程だ。竜眼のことはベラベラと喋らない方が良いのだろう。好奇の目を光らせている受付嬢には悪いが、今は誤魔化すことにした。

 

「ああ、これは、はい。目がいい分ちょっと疲れやすくて」

「その状態で見えるものなんですか?」

「まあ、なんとなくは。視界がない分他の感覚が冴えますし」

「成る程…レンジャーの方は鋭い感覚を持ってらっしゃる人が多いですし、イリスさんもそう言う素質がおありなんでしょうね」

 

 さてと、と一息つくと受付嬢は羊皮紙を机の上に置き、改めて此方を向き直る。先程の緩んだ表情とは打って変わり、その顔はキリリと引き締まっている。

 

「それでは本題に入りますが…冒険者加入の際は初心者講習を受けていただくのですが、そちらはバアル様が説明して下さると言うことで今回は割愛させていただきます」

「はい」

「では早速試験の概要を説明させていただきますが、全て口頭での説明になりますので聞き逃しの無いようお願いします。説明を聞いていなかった場合に発生する問題や、不都合について当方は一切の責任を負わないものとさせていただきます。」

「また、これから話す内容については試験終了まで如何なる理由があっても他言無用でお願いします。勿論チームのメンバーに話すことも禁止です。もし情報の漏出が発覚した場合その時点で試験は不合格となりますのでご了承下さい。」

「それでは試験について、説明します。『試験』と言う名目ではございますが、イリスさんには実際にミスリル級に該当する依頼を受けていただきます。失敗したとしてもギルドには然程影響のない依頼を選択させていただきましたが、仮に失敗した場合、半年間は試験を受けられなくなるのでご了承下さい」

「依頼の内容を説明します。今回は冒険者ギルドからの直接の依頼となります。概要は『トブの大森林』に群生しているクワベナ草の採取となります。クワベナ草は単純な治癒のポーションだけでなく、抵抗力を高める薬や、状態異常回復のポーションなど幅広く使用される非常に有用な薬草です。ギルドの中にも在庫は幾つかあるのですが、いくつあっても困るものではないので出来るだけ沢山採取していただけると助かります。勿論採取した数によって加点と報酬のボーナスもつきますのでイリスさんにとっても悪くない話だと思いますよ」

「普段の依頼なら依頼達成までの過程はお任せするのですが、今回は試験ですので試験官も兼ねた護衛対象をギルドから一人、派遣させていただきます。護衛対象を死亡させる、又はその場で治療不可能な重症の怪我を負わせてしまった場合も試験失格となりますのでご注意下さい。ですので『護衛対象を守りつつ、クワベナ草をできるだけ沢山採取し、無事ギルドまで帰還する』というのが今回の依頼の全容になります。ここまでで何か質問はありますか?」

 

 滝の様に流れ落ちてきた言葉の本流を受け、イリスは頭から煙をあげて唸った。

 こう言うことか、頭を柔らかくしておけと言うのは。ニヤケ顔のリーダーの顔が頭をよぎり、イリスは心の中でそっと舌打ちをした。

 

(や、やばい…最初の方ほとんど頭に入ってねぇ。このお姉さん早口すぎるよ)

 

 よくもまあこんなにも舌が回るものだと感心する。ユグドラシルの蘊蓄を語る時のドラモンでさえ、もう少し話し方に抑揚があったはずだ。バアルはみんなが通った道と言っていたが、冒険者は皆この早口講習を潜り抜けてきたのだろうか。

 駆け出し冒険者は死亡率が高いと聞いたが、半分くらいこの人のせいじゃないのかと勘繰ってしまう。

 

「えっと…ボーナスがつくって聞こえたんですけど、試験なのに報酬出るんですか?」

「はい。この後にも説明させていただきますが、今回はギルドからの依頼も兼ねてますのでその分の報酬はきちんとお支払いさせていただきます」

「はぇ〜わかりましたありがとうございます」

 

(試験というか依頼こなせばいいだけなのか。オッサンを守りながら草とってこい、と。なんだ、簡単じゃん)

 

 試験官がオッサンかどうかは定かではないが、試験の流れは何とか理解することができた。

 

「ではこれ以上質問は無さそうなので次に移らせていただきます」

 

 受付嬢が薄く笑う。

 イリスはゴクリを唾を飲み込み、リスニングの試験を受ける覚悟を決め、両耳に全神経を集中させた。

 

 

 

「__では試験については以上になります。最後に何か質問はありますか?」

「…いえ…無いです…多分」

「それでは以上で終了となります。お疲れ様でした。また何かご不明な点があれば受付までお越しくださいね。ご武運を祈っています」

「…はい。またお越しすると思います。ありがとうございました…」

 

 

 ペコリと頭を下げ、引きずる身体で部屋を出る。一週間分くらい脳をフル回転させられた気分だ。それでも話の3分の1くらいしか頭に入ってない。

 チラッと部屋を見ると、未だにニコリと微笑んだままの悪魔がいた。イリスは軽く微笑み返すと、足早に廊下を抜けて待合室に出た。

 早朝とは打って変わり、待合には多くの人が集まっていた。クエストボードを齧り付く様に見ている者や、武器の手入れをしている者。長椅子で談笑している者もいれば隅の方で小銭を数えている者もいる。そして皆に共通しているのは首に様々な色をしたプレートを下げているということ。つまり皆冒険者だ。

 バアル達の姿を探すと、奥の席で他の冒険者らしき人と談笑していた。

 

「イリスぅー。お疲れぇー」

「おお、終わったか。意外と早かったな。」

「もう頭がパンクしそうだよ…。言ってくれればメモ用紙持っていったのにさ」

 

 恨めしそうにバアルを見るとバアルは目を丸くして言った。

 

「羊皮紙に書きながら話聞こうってか?マイナス50点じゃ済みそうにねぇなぁおい!ハッハッハッ」

「え、説明の段階で減点とかあるの?どうしよう。それちょっとやばいかもしれないよ」

「あ?気にすんな。新人講習恒例のイシュペン採点の話だからよ。女心が分かってない奴ぁ減点喰らうんだ。な、イグヴァルジ。お前マイナス120点だったか?ぶっちぎりの過去最低点…クック」

「笑うなよ。こっちの格好見た瞬間30点引かれたんだぜ?冗談じゃねえよ」

 

 イグヴァルジと呼ばれた角ばった頬骨が特徴的な強面の男が悲痛な顔で唸った。それを聞いたバアルが腹を抱えて笑う。

 名前を聞いていなかったが恐らくイシュペンとは先程の受付嬢のことだろう。あの高速説明の裏でその様な採点まで行われていたとは恐れ入る。

 自分が何点だったのか少し気になるが聞きに行く勇気は無いな…などと考えていると、イグヴァルジが此方をじっと見てきた。

 

「それで?これが例の新入りか。まさかこんな若い女とは思わなかったぞ。どう言う風の吹き回しだ?」

「うちは実力主義だからな。技持ってる奴ぁ女だろうがガキだろうが構わねえのよ」

「そうだったか?お前ら昔はチームワーク第一だったろう?寧ろそこがアングリードの強みだと思っていたんだがな」

 

 イグヴァルジの言葉に、一瞬だがイシルとパドムの顔に影が落ちた様に見えた。

 そんな空気をかき消すように大きな声でバアルが答える。

 

「勿論!連携重視なのぁ今も変わってねえよ。でもそれは後でいくらでも培えるもんだ。だが突出した才能てもんはそうはいかねえ。なら手に入るなら手に入れるってもんだろ?最初は…ちょっぴり苦労しそうだがよ」

 

 バアルはそう言ってイシルとパドムを順に見やる。パドムはうんうんと頷いているが、イシルの方は難しい顔をして黙っている。

 

「お前にそこまで言わすか。何者なんだこの娘」

「お前ぇそこぁ企業秘密よ、ハッハッ。ほら、イリス。挨拶しねぇか。ミスリル級冒険者の大先輩チーム<クラルグラ>のイグヴァルジさんだ」

「えっと…新人のイリスです。宜しくお願いします」

「イグヴァルジだ。宜しく。役職はレンジャーなんだってな。アングリードにはレンジャーに詳しい奴いないだろうから分からんことは俺に相談しな。大先輩が優しく教えてやるよ」

「ありがとうございます!」

 

 なんと面倒見の良い男だろうか。正直役職としてのレンジャーの仕事は浅くしか理解していないので、相談できる先輩の存在はとてもありがたかった。

 バアルは感覚で何とかなると言っていたが、そんな簡単なものでもないだろう。

 

「さすが、マイナス120点様は女心がよく分かってらっしゃるな。クックックッ」

「茶化すな馬鹿。いいか、イリス。レンジャーってのはチームの生命線だ。お前の一言で任務は天国にも地獄にもなる。木の枝一本、地面の色一つ見逃すだけで仲間が死ぬこともあるんだ。任務中ずっと気を張っとかなきゃいけないし、糞重い責任の割に目立つのはいっつも戦士か魔法使いでぶっちゃけ損な役回りだが…後で仲間に一番感謝されんのは間違いなくレンジャーだ。やりがいのある仕事だと思うぜ。しっかりやれよ」

 

 イグヴァルジはそう言ってイリスの肩をポンと叩いた。

 きっとこの男は自分の役割に誇りを持っているのだろう。その瞳には縁の下の力持ちとしてチームクラルグラをミスリル級冒険者まで押し上げた自負がありありと見て取れた。

 

「おーい。イグヴァルジ、そろそろ行くぞ」

「おう!今行く。じゃあなバアル。また試験の結果教

えてくれよな。新人君も頑張れやー」

 

 イグヴァルジはそう言うと、バアルとイリスの返事を聞き終わらない内に早足でギルドから出て行った。

 

「バアル。レンジャーやれるかな。私に」

「あ?なんだビビってんのか?大丈夫だから心配すんな。お前の眼がありゃ問題ねぇよ。後は頭の柔軟さだな!ハッハッ」

「う…そこは自信無いかも」

 

 痛いところを突いてくる。100レベルのステータスがあっても地頭の悪さはフォローできないことは今日の試験説明会で嫌と言うほど思い知らされた。

 どれだけ敵が見えようとも、危険が把握できようとも、状況判断が下手くそだった場合チームを危機に陥らせる可能性は大いにある。

 ユグドラシルではソロでドラゴンばっかり狩っていたし、パーティ戦では基本エルモアの指示待ちだったイリスにとっては少々荷が重く感じた。

 

「だったら辞めちまったらいいんじゃないか?」

 

 ボソッとした、だがよく通る声が響いた。

 

「イシルぅ。そんな言い方はねぇだろぉ」

「じゃあお前は命預けれんのか、コイツに。ただでさえ得体が知れないってのに、オツムの方が自信ねぇだと?早くもレンジャー失格じゃないか。眼よりも頭だろうよレンジャーは。自覚あんのかよ」

 

 イシルの鋭い眼が突き刺さる。確かにイシルの怒りは尤もだ。不安がってばっかりの奴に誰が命を預けられるだろうか。もうここはゲームでは無いのだ。もっと自信を持たなければ。安心して背中を任せて貰える仲間になるために。

 

「ごめんイシルさん。私が無神経だった。でも…せっかく誘ってもらったし、私はこのチームで頑張りたい」

「ハッおめでたいねぇ。頑張るで何とかなるなら世話無いんだよ。アスハルだって死んでない」

「おいぃ!イシル!!」

 

 掴みかかる勢いでパドムが立ち上がりイシルに迫るが、イシルは何とも無いかの様にイリスを睨み続けている。溜め込んだ鬱憤が爆発したかの様な怒りようだ。

 彼を納得させる言葉がうまく出てこない。

 

「ま、まずは試験の結果を見てほしいかな。実力見せないとイシルさんも信用できないと思うから」

「あんな試験で何が…」

「おい、イシル。そんくらいにしとけや。誰だって最初は不安だろうよ。お前の駆け出しの頃思い出せや。あの頃のお前に命預けんのはちと怖えなあ俺はよ。ハッハッ」

「それとこれとは話が違っ」

「一緒だよ。この世界も結局慣れだろ?慣れてる奴はいっくらでも偉そうに言えんだよ。で、そういう奴はいつだってすぐに追い抜かれる」

 

 バアルの言葉に奥歯を噛み締めイシルが黙る。バアルはそんなイシルを見下ろしながらチラリとイリスを横目で見ると、

 

「おいイシル。お前イリスの買い物に付き合ってやれや。試験に必要な物資は事前に用意しなきゃいけんからな。前金はもう貰ってんだろ?イリス」

 

 と言った。咄嗟にイシルが怒鳴る。

 

「はぁ!?おい!なんで俺が」

「前金貰ったよー。って試験の内容言っていいのかな?確か情報漏洩…」

「問題ねぇよ。あんなの建前だ建前」

「人の話聞けよ!お前ら!何で俺がこいつと買い物しなきゃいけないんだよ!!」

 

 詰め寄るイシルに鬱陶しそうに顔を顰めたバアルは深々と酒臭い息を吐き出す。そしてイシルの額に己の額をぶつけ、睨み上げた。

 

「何でってなぁ、イリスはもう俺らの仲間なのよ。仲間の面倒見るのがメンバーの役割だろうが。お前、言ったよなぁ?連携が大事だって?ならまずは仲良くならねぇとなぁ?おい、イシル。今一番チームの和を乱してんのが誰か…わかるよなぁ?」

「そ、それは…」

「行け。今日の宿は子馬亭を使うから日暮れまでに帰ってこい。わかったか?」

「…ああ、わかったよ。おい、行くぞ」

 

 バアルの凄みに観念したのか、イシルは硬く握っていた拳を力無く緩め、イリスの方を一瞥するとトボトボと出口に向かって歩き出した。

 

「バアル、ありがと」

「ハッハッ。最悪のデート押し付けちまったか?…あいつも悪い奴じゃねぇんだが、ちと頭が固すぎるんだよなぁ。お前にゃ悪いがなんとか仲良くなってくれや」

「うん。頑張る。じゃ行ってきまーす」

「頑張れぇー」

 

 イシルの後を追う。これだけ嫌われている相手との買い物など憂鬱以外の何物でも無いはずだが、イリスの口元は思わず緩んでしまっていた。

 どうしようもなく孤独なこの状況。

 怒るイシルに向かってはっきりと仲間だと言ってもらえたことが嬉しくて、心強くて、イリスは込み上げる喜びを抑えるのに苦心したのだった。

 

 

 

 



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でぇと

 

 

 冒険者ギルドの外に出ると、既にイシルの姿は無かった。

 イリスはため息を一つつくと、匂いを頼りにイシルの後を追った。他の感覚の実験も兼ねて敢えて竜眼は使用しない。

 寸時にイシルを発見し、曲がり角を曲がって路地裏に入る。早足で遠のく背中に5メートル程まで駆け寄ったところで、分かりやすく大きな舌打ちが響いた。音の主は此方を振り向くことも無く吐き捨てる様に言う。

 

「ったく鬱陶しい能力だな。お前、説明受けたんなら準備するもんくらい分かるだろ?自覚あるんだもんな?」

「うん」

「俺は適当に時間潰して帰るからお前も買い物済ませたらさっさと宿に行けよな。気持ち悪いからもうついて来んなよ」

 

 返事を待たず、イシルは早足で歩き出す。

 別に1人で買い物するのは構わないが、このままでは少し困る。宿の詳しい場所も聞いてないし、それになによりも…

 

(このままじゃ良く無いよね。お互いにさぁ)

 

 イリスは深く息を吐き出すと、遠ざかって行く背中に声をかけた。

 

「おいコラ、イシル。お前ちょっと待てや」

 

 ピタリと足が止まる。そしてゆっくりと此方を振り向いた。その顔は憤怒とほんの少しの困惑で醜く歪んでいた。

 

「あ…?お前今なんつっ…」

 

 言い終わる前に地を蹴った。

 音速を遥かに超越した速度で間合いを詰め、イシルの襟首を掴み上げ、内股に足を滑り込ませて大内刈りの要領で地面に引きずり倒す。

 地面にぶつかる寸前に手を添えて、衝撃を完全に殺してやるのは忘れない。そうしなければこの男の体は高所から落としたスイカの様に爆ぜていただろう。

 何も理解できず文字通り目が点になっている男にそのまま馬乗りになる。

 

「えっえ?何が…」

「何がとかどうでもいいんじゃいワレぇ!!!!」

「はっ…はぁ!?おまっ何しやがった!?」

 

 イリスが上にいることでやっと自分が地面に転がっていると気づいたのだろう。イシルは必死に腕をバタつかせて逃げようとするが、イリスの両膝はそれを許さない。

 

「あのさ。君に一つ言いたいことあるんだけど、いいかな?」

「いいから放せよ!クソっ!!」

「確かに君の言ってることは正しいよ。竜の眼は気持ち悪いだろうし身元も不明な奴なんて簡単には信用できないと思う」

「あ、ああ?分かってんじゃねーかよ。だったら」

「でもさ、幾ら私でもさ、そんな風に露骨に化け物扱いされたり拒絶されたらさぁ…流石にちょっと傷つくんだよおおおおおおばかやろおがああぁ!!」

 

 襟を掴む力が強まる。イシルは相変わらず目を白黒させており、此方を見ようともしない。その顔は先程とは一変して恐怖一色に染まっていた。

 

「な、なに怒鳴ってんだよ…。やめろよ。もう放してくれよ」

「こっち見ろや」

 

 恐る恐るイシルが此方に顔を向ける。だが相変わらず目を逸らしたままだ。ムカつく。

 

「目ぇ見ろ!!」

「め、目隠ししてたら見れない!…だろうが」

「…確かに」

 

 イリスはグイッと目隠しを上に持ち上げると、そのままイシルのデコに額をぶつけた。

 

「痛ぇっ!!」

「よく見ろ。そんなに怖いのか、この眼が」

「こ、怖くなんか…」

「ん?何?はっきり言え。しっかりしろよミスリル級冒険者」

「お、俺は…」

 

 互いの息が交わるほどの超至近距離で睨まれていることに耐えられなかったのか、イシルは目をぎゅっと瞑る。そして数秒の間の後、息を吐き、ゆっくりと目を開けた。怯えたウサギの様な弱々しい瞳。力いっぱい抵抗していた腕も、今はだらりと弛緩していた。

 

「怖い。お前の眼が。お前が怖い。いつか俺達をとって食うんじゃないかって」

「鋭いな、お前。いつかと言わず今すぐ喰ってやろうか」

「ヒィッッ」

 

 イシルの顔が恐怖に引き攣る。目にはいっぱいの涙を溜めて、まさに食われる前のウサギの表情だ。どうやらこの男は本気でイリスのことを化け物だと思っているようだ。ここから仲間に戻るのはちょっと難しいかも知れない。

 

「嘘だよ。ねぇ、イシル。一つ約束しようよ」

「や、約束?」

「うん」

 

 額を離す。距離が離れたことで少しだけ心に余裕ができたのか、思い出したように深く呼吸を繰り返すイシル。

 

「もし私の眼が、私の指示が、君達に傷一つでもつけることがあったなら、私はこのチームを辞めるよ」

 

 イシルが目を見開く。

 

「その代わり、それまでの間はちゃんと私を仲間って認めてよ。そういう約束」

「そ、そんなの駄目だ!傷つけられてからじゃ遅すぎるだろ!」

「なんじゃワレェ…。ほんっと怖がりだなぁ、イッシーは。傷一つだよ?心配しすぎでしょ」

「変な渾名つけるな!いいか?お前なんか絶対仲…痛いっ!!」

 

 本日二度目の頭突きをかます。怖がりの癖に強情な男だ。

 

「言っとくけどこれ強制だから。仲間に引き込んだのはお前らなんだからちゃんと面倒みやがれ。約束するまでこのまま動かんよ。夜中まで一緒にいよっか?イッシー」

「む、無茶苦茶な奴だな、お前」

「無茶苦茶なのは君らのリーダーだろ?」

「ハッハッ…それは…違いないわ」

 

 イリスの言葉に初めてこの強情な男の頬が緩んだ。イシルは目を閉じ、深呼吸をすると、イリスを真っ直ぐに見つめる。

 

「分かったよ、俺の負けだ。約束するよ…イリス。お前は俺たちアングリードの仲間だ」

「よし!言ったな、その言葉絶対忘れんじゃねーぞ」

 

 イリスはそう言って拘束を解き、立ち上がってパンパンとローブについた汚れを払う。

 イシルも体を摩りながらヨタヨタと立ち上がった。

 

「それじゃ行こっか。イッシー」

「え?どこに?」

「買い物に決まってるでしょ。まさか…ついて来ないとは言わんよな?」

 

 滲み出る殺気を感じ取ったのか、イシルは引き攣った笑みを浮かべた。

 

「も、勿論行くよ。仲間の面倒は…見ないといけないから」

「宜しい。じゃ早速なんだけど露店いっぱいあるとこまで連れてって下さいなイシルさん」

「…わかりましたよ、イリスさん」

 

 返事をすると、イシルはやれやれと歩き出した。先程までと違い、イリスの歩調に合わせようとゆっくりと歩く姿にイリスは満足げに頷くと、イシルの横に並んで路地裏を進んだ。

 

 

 

 

 初めて女に泣かされた。怖かった。まさかこんな形で本性を見せられるとは思わなかった。

 イシルは横目で隣を歩く少女を見る。

 長らく冒険者をやっているが、あんな経験は初めてだ。気がついたら寝かされて、馬乗りになられていた。幻術?精神系魔法?…まさか単純な肉体能力?いや、ありえない。幾らなんでも全く知覚されることなく正面からミスリル級冒険者の戦士職であるイシルをはっ倒すことなど不可能なはずだ。

 もしそんなことが可能ならば、彼女は化け物を通り越した魔神とも呼べる存在ということになる。

 それが事実ならわざわざアングリードに加入する意味がわからない。そんな力があるのなら仲間など必要ないからだ。誘ったのはバアルだが、断ることなど容易だったはずだ。

 故にさっきのは何かしらの魔法のせいと断じたくなるが…何故だろう。彼女ならばそれだけのことをやってのけても当然とすら思えるのは。

 いや、そもそも彼女の拘束を全く振り解くことができなかったのだ。まるで巨大な岩でも乗せられていると錯覚するほどピクリともしなかった腕。とてもじゃないが重心操作だけでできる芸当じゃない。ではやはり…。 

 

(俺達はいったい何を仲間に入れてしまったんだ?)

 

 怖い。隙だらけに見えていたのに、今ではどんな攻撃を仕掛けても地面に張り倒されるビジョンしか見えない。

 疑問は山ほどあるが、聞けない。次あの目で睨まれて凄まれでもしたらたちまち失禁してしまう自信がある。

 バアルとパドムに相談することも憚られる。バレたら皆殺しにされるかもしれない。イシルの背中には然程暑くもないのにじっとりと汗が滲んでいた。

 

「どうしたの?イッシー?もしかして迷っちゃった?」

「い、いや大丈夫だヨ。こっちであってる」

「だよーって。ふふっ可愛いねぇイッシーは」

 

 お前は可愛くない。此方に笑いかける化け物にイシルは今できる精一杯の笑みで返した。

 露店街の手前にある大広場へと続く大通りへ出た。この辺りから人集りがどっと増えるが、道が広いので歩くのには何の問題もない。

 

「「シャガルのとこのジジィが最新のポーションの調合に挑戦するらしいぞ!これが成功すればあのバレアレ家を超える発明らしい!!」」

 

 街人に呼びかける大きな声が聞こえる。能天気なものだ。こちとら一時でさえ気を抜けない状況だというのに。

 イシルはシクシクと痛む腹を摩りながら、なんとか露店街までたどり着いた。

 

「うわぁー!すっごいね!やっぱりお金もってると景色が違って見えますなあ!ありがとうイッシー!」

「ああ、役に立てて良かったよ。イリス」

「じゃ、ちょっと寄ってくるから待っててー」

 

 そう言ってイリスは人混みの中に消えていった。 

 食料品を買いに来たのだろうが、ここは生鮮食品売り場だ。正直保存の効かない野菜や生魚などは冒険者の旅に向いているとは言えない。

 基本的には嵩張らず、保存も効いてすぐに食える干物や干し肉、乾パンなどと香辛料くらいで留めておいて、残りは少しの調味料くらいで、後は一番嵩張る水にスペースを残しておくのが旅の定石だ。

 忠告するべきだろうか。怖い。でも何も教えなかったらもっと怒られるかもしれない。

 第一彼女は料理できるのだろうか?まさか生で喰らうつもりなのだろうか?分からない。分からないからほうっとくしかない。

 

(し、知るもんか。本来ならメンバーが昇格試験の手伝いをするのはご法度なんだから…俺は間違って無いはずだ)

 

「おーい!」

 

 自己正当化の屁理屈を練っていると、大きな布袋を持った可憐な化け物が満面の笑みで此方に走ってきた。

 イシルは作り笑いを浮かべ、手を振って答える。

 

「お待たせー。美味しそうなのばっかりでさー。思わず沢山買っちゃったよ」 

「お、おお。こりゃいっぱいだな」

 

 布袋の中をチラリと覗くと、新鮮な野菜が青々と色鮮やかに見てとれた。

 あ、コイツ馬鹿だ。と思ったが決して口にはしない。

 イリスはゴソゴソと布袋を漁り、その中から一つの果実を取り出すと、イシルに差し出した。

 現実世界で言う巨大な桃の様な見た目をしている果物サニーフルーツだ。

 皮ごと食べることができる果物で、その味は非常に甘く、美味だ。イシルも露店に立ち寄ってはよく購入していた。

 

「これ、待ってもらったお礼ね。桃っぽくて美味しそうだったから」

「…もも?あ、ありがとう。後で頂戴するよ」

「今食べなよー。傷んじゃうよ?向こうでお肉買わないといけないからさ、一緒に食べながら行こうよ」

「そう…だな。じゃあいただきます」

 

 柔らかい果実に齧り付く。溢れ出る甘い果汁が乾き切った喉を潤していく。非現実な経験をしたせいか、いつも食べていた味がなんだかとても懐かしく感じられた。

 

「美味えなぁ…」

「うん。美味しいねーこれ。ってイッシー泣いてるの?そ、そんなに好きなんだ?これ」

「はは…日常って素敵だなと思ってさ」

「何だそりゃ」

 

 夢中になって食べている間に肉屋の通りに到着し、イシルはイリスから布袋を預かると、今日一番のハイテンションで露店に走っていく彼女を見送った。

 きっと保存用の肉など買う気はないのだろう。だがこれも良い経験だ。イシル達も初心者の頃は食糧の配分ミスで死にかけたことなど何度もあった。

 恐らく今回の任務は同行者付きの筈なので、ギルドも気にかけてくれるだろうし餓死する心配はないだろう。

 失格になればそれは仕方のないことだ。そう、こればかりは仕方のないことだ。ミスリルになれない以上

アングリードには加入できないが、仕方がないのだ。

 向いてなかった、それだけの話だ。そうすればみんな幸せになれる。

 イシルは街行く人たちを露店の影から遠い目で眺め、サニーフルーツの最後の一口を惜しみつつ食べ切った。

 

 数刻の後、紐に括られた巨大な肉の塊を幾つも抱えたイリスと合流したイシルは、周囲からの好奇の視線を浴びながら大広場まで戻ってきた。

 

「それ、本当に持たなくて大丈夫か?宿まで結構あるけど」

「大丈夫大丈夫。私こう見えて力持ちだからサ」

「あっそう…」

 

 力持ちとかいう次元の話じゃない気がするが…。軽く50kg以上はありそうな肉の塊を、汗一つかかずに軽々と持ち歩いている様はやはり異常だった。

 やはり普通の人間では無いのだろうな。とイシルは確信する。宿で盗み聞きした内容では魔女に呪いをかけられたと言ったが、それが本当なら呪いは竜眼だけでは無い。本人が気づいてるのか知らないが、きっと彼女は全身呪いまみれだ。

 

 と、大通りのある方角から鼓膜が破れそうになるほどの巨大な爆発音が鳴り響いた。

 少し遅れてチラホラと人の悲鳴が聞こえてくる。

 

「な、何の音だ!?」

「あっちの方だね。行ってみよう」

 

 そう言うとイリスは大通りに向かって走り出した。イシルも急いで後を追う。が、当然の如く彼女には追いつけない。グングンと距離を離される。イシルも野菜のたんまり入った布袋を持っているが、それでもあの肉の塊よりは数段軽いはずなのに。

 

 大通りに出ると、そこには凄惨な光景が広がっていた。爆発のあったであろう建物の前面は木っ端微塵に吹き飛び、大きな炎を立てて燃え上がっている。炎は隣数軒に渡って延焼し、建物の前には怪我を負った人、燃える家を見て絶叫する者、わらわらと集まってきた野次馬達でさながら地獄絵図の様相だ。

 イシルは手前にいた野次馬の1人に声をかけた。

 

「おい、いったい何があったんだ?」

「んん?ああ詳しくは知らんがシャガル一家が薬の調合に失敗して大爆発をおこしたらしい。中にいる奴らは、生きてねえだろうなあ」

 

 気の毒になぁ、と呟く男を尻目にイシルは人混みを掻き分け、燃え上がる建物の前に出た。

 周囲を見渡し、肉の塊を抱えた少女を見つけて駆け寄る。

 

「遅いぞイッシー。まっさかこっちで火事なんて見るとは思わなかったよー」

「お前が早すぎるんだよ。後、これただの火事じゃないぞ。薬品の調合ミスによる爆発が原因らしい。もしかしたらまた爆発するかもしれん。さっさと離れた方が賢明だぞ」

 

 早く行こうとイリスの肩に手を置こうとした瞬間、絶叫が耳をついた。

 

「行かせでええぇ!!!!私のぉ!私の子がまだ…まだ中にいるんですうううう!!」

 

 声のした方を見ると、数人の男に体を押さえられた女が、燃える家を指差して叫んでいた。

 この炎だ。気の毒だが子供はもう生きてはいないだろう。生きていたとしても助けることなどできない。共倒れの二次災害が起きるのがオチだ。

 

「可哀想にな。ほら、いくぞぉおっ!???」

 

 突然両肩に重みがかかり、転びそうになったのをたたらを踏んで堪えた。何事かと見てみれば見覚えのある肉がぶら下がっていた。

 

「イッシーそれ持ってて。私ちょっと行ってくるよ。落としたら死刑だからね!」

「はっ!?おい!待っ…」

 

 死刑だぞぉ!と言い残し、イリスは炎の中に消えていった。炎の威力は依然弱まることを知らず、轟々と猛狂っている。内部から轟いた爆発音に、周囲から悲鳴が上がった。

 

「あいつ…死ぬ気か?」

 

 炎に舐め尽くされ、ガラガラと崩れ落ちる家屋をイシルはただ呆然と眺めていることしかできなかった。

 

「イッシーそんな近くにいたらお肉焼けちゃいそうなんだけど」

 

 唐突に後ろから声がかかった。振り向くとそこには不恰好な目隠しをした、先程よりも少し黒ずんだローブを纏った少女が立っていた。

 

「はぇっ!?お前中に入ってたんじゃ」

「入ってたよー。ほらこれ戦利品」

 

 イリスは自分の左肩辺りを顎で示す。

 そこには5歳くらいの色の白い少年がローブの幅の広い襟から顔を覗かせていた。眠っているのか気絶しているのか、目を閉じて浅く呼吸を繰り返している。

 

「可愛いでしょ。あげないよ」

「いらん。早く母親に返してこい」

「了解!」

 

 そう言うとイリスは未だ絶叫している母親の元へ駆けて行った。我が子を抱きしめ、膝から崩れ落ちる母親。地面にへたり込んだまま、イリスに向かって何度も頭を下げている。

 あの様子を見るに、本当にあの母親の子で間違い無いのだろう。

 イリスが炎に飛び込んでから、20秒も経過していない筈だ。その間に子供を救出してイシルに気づかれることなく背後に回る…もう考えるのも馬鹿らしくなる程荒唐無稽な話だ。

 いや、それよりも、だ。自分が化け物と蔑んでいた彼女は迷うことなく燃え盛る家に飛び込んで行った。対する自分はなんだ。どうせ助からないと、早々に見切りをつけて逃げようとしたのだ。

 間違ったとは思っていない。次に同じ状況になったとしても、迷わず同じ選択をするだろう。

 だが、そうやって自分を慰めても、この結果は変わらない。化け物は命を擲って人を助け、ミスリル級冒険者である自分は己の身可愛さに助かる命を切り捨てたのだ。

 仮に彼女の様な眼を持っていたとして、自分にそんなことができるだろうか。…無理だ。

 彼女はいつか俺たちを殺す?とって食われる?冗談じゃない。先に人を殺す選択をしたのは自分自身ではないか。結局自分は己の無知に託けて彼女のことを蔑んで、拒絶していただけだ。

 己に対する無力感と激しい嫌悪感に苛まれ、奥歯を噛み締める。

 

「イッシー大丈夫?お肉重たいよね。預かるわ」

 

 フッと背中が軽くなった。横を見ると、イリスがその小さい身体に肉を背負い直していた。

 相変わらずの全くブレない体幹は、肉の重さを少しも感じさせない。

 そんな少女を見て、イシルはフッと笑う。

 なんだか自分の悩んでいた全てがアホらしくなった。

 

「全く。大した奴だよ、お前」

「え?何が?」

「なんでもないよ。さ、帰ろうぜ。宿まで案内しますよイリスさん」

「ん?ふふっじゃあ、お願いしますねイシルさん」

 

 燃え盛る大通りの中、2人はすっかり合った歩調で、踊る子馬亭目指して歩いて行った。

 

 

 

 



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カルネ村

無駄に長くなってしまった。


 

 

 

「おっし、こんなもんかな」

 

 ベッドの横に備え付けてある姿見の前で身嗜みを整え終わったイリスは、満足気に一息ついた。

 それにしても…よくできた顔だなぁと感心する。

 ここに来て初めて自分の顔をしっかり見た時は、興奮して2時間くらい鏡と睨めっこしてしまった。それはまるでアニメのイリスがそのまま画面からリアルの世界に飛び出してきたかの様で。

 妹の造形技術の高さにも舌を巻くが、こうして現実と遜色ない自然な形で動く表情を眺めていると、この世界の異常さを改めて認識させられる。科学が進んだ現代の世界でも、これほど精巧にアバターを動かすことはできないだろう。

 ラガーマン達のアバターもこんな風に笑い、泣き、怒ったりするのだろうか。猛烈に見てみたい。リアル化されたドラモンの顔を見たら怖くて泣いてしまいそうだが。

 

(飽きないなぁ)

 

 意識に合わせてコロコロと表情を変える顔。はっきりした喜怒哀楽の表情くらいしか選択できなかったゲームの時に比べると、その感情表現の豊かさはまさに無限大である。

 

「がおー。たーべーちゃーうぞー」

 

 怒った顔で牙を剥いて見る。楽しい。

 

「おい、何やってんだ。飯冷めるぞ」

「んが…?あ、アハハハ…ごめんすぐ行く」

 

 部屋の入り口にバアルが立っていた。完全に変な奴を見てしまった時の顔をしている。

 また夢中になってしまっていたみたいだ。

 イリスははにかんだ笑みで誤魔化した後、いかんいかんと頬を叩き、荷物の詰まった鞄を背負って訝しむバアルと一緒に部屋を出た。

 階段を降りて食堂に行くと、5人掛けのテーブルでパドムとイシルが朝食を食べながら談笑していた。

 此方に気がついた2人と挨拶を交わし、席につく。

 テーブルには人数分のシチューと、数枚のパンが用意されていた。

 

「いよいよ本番だなぁ。もう準備万端なのかぁ?」

「うん。食糧も全部馬車に積んだし、後は出発するだけ」

「気をつけろよ?特に夜は草原の真ん中でも魔物に襲われる危険があるからな。野営する場所には本当によく注意するんだぞ」

「うん。一応休む場所は考えてる」

「街道沿いも盗賊がでるからな。まあ目的地がトブの大森林ならカルネ村に頼るのが一番の手だとおもうぞ」

「カルネ…ああ、森のすぐ近くにあった村?確かにあそこに泊まれたらありがたいな」

「村に入れてもらえるかは交渉次第だが、ま、そこは冒険者の腕の見せ所だな」

 

 まあ頑張れよ、と言いシチューに浸したパンを頬張るイシルを、頬杖をついたバアルが半目で見ていた。

 その視線はそのまま横にスライドしていき、イリスをじっと見つめる。

 

「…何?」

「なんでもねぇよ、ハッハッ」

「なんだよー気持ち悪いなあ」

 

 意味深に笑うこの男をもっと追及してやりたくなるが、もうそんな時間は残されていなかった。

 イリスは既に冷たくなっていたシチューの残りを急いで掻き込むと、席を立った。

 

「ご馳走様!」

「もう行くのか?」

「うん。できるだけ早く着いときたいから」

「気をつけてなぁ。落ち着いてやれば大丈夫ぅだぞ」

「ありがとパドム。じゃ行ってきまーす」

 

 

 宿を出てから馬車に着くと、既にギルドの試験官らしき男が、積荷のチェックをしている所だった。

 歳は40歳くらいだろうか。白髪の混じった短い髪にまばらに生えた無精髭。厚めの革鎧を装備しており、背中には木製のクロスボウ、腰には一本の剣とコンパクトな矢筒を備えている。

 護衛対象という名目だが、1人でも十分身を守れそうな格好だ。

 男は此方に気づくと、軽く頭を下げた。

 

「初めまして、今回の任務に同行させてもらうゴルトルだ。宜しく頼む」

「イリスです。宜しくお願いします」

 

 ゴルトルはもう一度わざとらしく馬車の荷台を覗き込むと、不安そうな顔で此方を見た。

 

「それで…積荷はこれだけなのかい?」

「へ?」

「いや…その、あまり持って行かないんだなと思ってね」

 

 ああ、とイリスは納得する。

 今現在馬車の荷台には最低限の寝具以外何も置いていない。何故なら食料品は腐らない様にアイテムボックスに詰め込んでいるし、休憩用のキャンプ用品もユグドラシルで使っていたロールプレイ用のアウトドアグッズがあるので問題ないからだ。本来なら寝具も必要ないのだが、あんまりにも少なすぎると怪しまれると思ったので少しだけ積んでいた。

 が、その程度では当然同行者の不安は拭えなかった、ということだろう。

 

(肉も積んでて良かったけど、アイテムボックスと外じゃあ痛む速度が全然違うんだよね)

 

 イリスは笑顔で答える。

 

「ああ、食糧とかの話ですよね。大丈夫ですよ!その辺はちゃんと考えてますから」

「そう…なのかい?まあそれならいいんだが…」

「はい!それじゃ早速行きましょう」

 

 イリスは心配そうなゴルトルを振り切る様に馬車に乗り、手綱を握った。隣に座ったゴルトルが遠慮がちに問うてくる。

 

「操縦できるのかい?てっきり私がやるものと…」

「お任せ下さい。昼には到着してみせますよ」

「昼までは…難しいんじゃないかなあ」

 

 日の登り始めた空を見上げて、ゴルトルが苦笑いで答える。内心何言ってんだコイツは、とでも思っているのだろう。

 実際この馬では仮に馬車を引かずに休憩無しで駆けたとしても、昼に着くのは難しいと思う。

 だが、のんびり旅をするつもりはさらさら無かった。旅が長引けば長引くほど危険は増すし、ボロが出る可能性も上がる。

 超特急で到着して速攻で任務を終わらせてから、村でのんびり休憩して次の日帰る。これが今回の旅のプランだ。

 村に泊まらせてもらえるかは分からないが、トブの大森林に自生している有用な薬草はあらかたリサーチ済だ。それらを提供すれば一泊くらいはさせてもらえるだろうという打算がイリスにはあった。

 という訳で実験がてら一つのスキルを使用することにする。

 

≪トランスソウル/女媧天神≫

 

 赤黒い長髪が、完全な漆黒に染まる。細身の身体はより華奢になり、肌の色は病的な程に白く変化した。

 女媧天神とは竜人のネームドボスモンスターである。黒龍に跨り、圧倒的な機動力と広範囲魔法で多くのプレイヤーを苦しめた存在だ。

 が、今回は彼女の売りである広範囲魔法スキルに要はない。必要なのは自由自在に竜を駆るその最高位の騎乗スキルである。

 女媧天神の持つクラス『ドラゴンライダー』のパッシブスキルの一つ≪人馬一体≫。

 これは騎乗したモンスターのステータスレベルを自身の9割ほどまで高めてくれるスキルだ。さらに追加でMPを消費することで数ある選択肢の中から複数の効果を付与することができる。

 複数とは言ったが、MPなど雀の涙ほどしか持っていないイリスでは、限界まで捻り出しても2つが限界である。今回は≪上位物理無効化Ⅲ≫と、≪生命力増大Ⅳ≫を付与した。

 効果は、60レベル以下の物理ダメージの無効化と、HPの上限値の4段階上昇である。

 速度重視でも良かったとは思うが、死なれては元も子もないので、耐久力重視の構成でいくことにした。

 

「あれ、君…なんだか雰囲気変わったかい?」

「ん?そうですか?気のせいだと思いますけど」

「気のせい…かなぁ?髪、めちゃ黒くなってない?肌も…」

 

 女媧天神のソウルを纏ったことでガラリと雰囲気の変わったイリスを、疑いの目で凝視するゴルトル。

 最早気のせいでは済まされないのは明白なので、イリスは慌てて目の前の馬を指差した。

 

「ほ、ほらぁ。見て下さいよ。今日のあの子、やる気満々ですよ!」

「あの子?…げぇえ!!!!」

 

 

 少女の指差した方向を見ると、そこには筋骨隆々に膨れ上がった巨大な獣がいた。無数の血管が浮き出た4本の脚は、その一本一本がゴルトルの胴二回り分程の太さがある。ブルルと唸り声を上げて此方を振り向いたその獰猛な瞳は、今にも弾けんばかりの四肢の力を、早く解放させろと訴えているかの様だ。

 やる気出し過ぎだろう。あれ、こんな馬だっただろうか?ギルドから引っ張ってきたときはもっと小さくて大人しくて可愛い奴だったはずだが…。

 

「じゃあ…行きますか!ゴルトルさん。しっかり掴まってて下さいよぉー!」

 

 手綱を握った黒髪の少女を見る。掴まっててとはどういう意味だ?と思いつつも身体は自然と緊張し、馬車の取手をしっかりと握りしめている。

 それはこれから起こることを本能で理解しているということに他ならない。

 獣が前を向く。前脚を2回ほど振り、出発の合図を今か今かと待っている。

 額にぶわっと汗が噴き出てくる。あの脚で思い切り踏み出したらどうなってしまうのだろうか。待て。昼までに着くとはそういう…

 

「え、あっ待て。待ってくれ!なんだかとても嫌な予感がする!!」

「大丈夫大丈夫!手綱はちゃんと握ってますから!」

「そ、そういう問題じゃなあああああああああああ!!!!!!!!」

 

 ピシッとしなる音がした直後、強烈なGがゴルトルを襲った。レーシングカー並みの初速でもって最高速度に達したそれは、ゴルトルの悲鳴を完全に無視して大森林へ続く街道を爆走していくのだった。

 

 

 

「ゴルトルさぁーん。大丈夫ですかぁー」

 

 本日三度目になる問いかけに、返事はない。返ってくるのは唸り声だけだ。

 先程までとは一変して、ガラガラとスローペースで進む馬車と、すっかり萎んで小さくなった馬。その荷台には4回ほど胃の内容物を吐き出して、顔をげっそりと青く染めた男が横たわっていた。

 しくじった。スピードは申し分なかった。街道の凹凸や、砂利の一つ一つも<千里>の竜眼によって把握して、完璧なルート取りと手綱コントロールで進んでいたはずだったのだが…人間の三半規管の弱さは考慮していなかった。

 よく考えれば分かることだ。サスペンションすら付いていない乗り心地最悪の馬車であんな無茶な走り方をすれば、慣れてない人間など当然こうなる。

 悪いことをした。護衛対象であるゴルトルは今、車酔いならぬ馬車酔いによって生死の境を彷徨っている。

 HPや状態異常を回復するポーションは捨てる程あるが、酔い醒ましなんて持ってない。酩酊状態を回復する薬を試したが、車酔いには効果がないのか一向に良くなる気配が無い。

 

(やばい。失格かもしれないよ)

 

 イリスは青い顔で俯く。まさかこんなミスで失格になるとは…。いや、悲観するのはまだ早い。

 ノンストップで進んだお陰で、まだ昼にもなっていないにも関わらず、トブの大森林の側にあるカルネ村までの距離は、目と鼻の先程まで縮まっていた。

 既にカルネ村の南端に位置しているであろう丘を越え、廃墟となった家屋も数軒通り過ぎている。

 村に着いて事情を説明すれば、何か良い方法で酔いを醒ましてくれるかもしれない。もうそこに賭けるしかないのだ。

 

 

「ゴルトルさーん。もうすぐカルネ村ですからねー。もう少しの辛抱ですよー」

 

 ううーと唸る声が響く。

 相変わらず好転しない現状に辟易しつつ前方を見ると、複数の人間が此方に歩いて来るところだった。

 

「そこで止まって貰えるか。旅の者よ」

 

 振り絞った大声を聞き、イリスは馬車を止めた。

 男が5人、馬車の前まで来た。1人は年老いた老人で、残りの4人は30〜40代程の中年で構成されている。その内の1人は、腰に一本の剣を携えていた。

 

「して、何用でこの村にこられたのかな?」

 

 馬車を降りようとしたイリスを手を上げて制し、老人が問うてきた。

 さて、どう答えたものかと一瞬悩んだが、腹を探り合う様な交渉ごとは苦手なので、素直に現状を説明するのが一番だと判断した。

 

「冒険者の昇格試験の任務中だったんですけど、試験官の人が馬車に酔って倒れてしまって、途方に暮れていたところなんです。それで近くの村の方に助けていただこうかなと思いまして…」

「ほぉ、冒険者ギルドの方だったとは。冒険者の方には常日頃からお世話になっておりますから、私供にできることであれば勿論力になりますとも」

「本当ですか!?助かります!」

 

 老人は柔らかい表情で、にっこりと笑った後、眉間に皺を寄せて険しい表情を作る。

 

「…ですがこの物騒な世の中、手放しで信用することも出来ないのです。何か証明できるものなどお持ちではありませんかな?」

「証明…?ああ!ちょっと待って下さいね」

 

 老人の疑問の意味を理解し、イリスはゴソゴソと腰の辺りを探る仕草をする。実際は見えない様にアイテムボックスに手を突っ込んでいるのだが。

 老人は冒険者なのにプレートを首に下げていないイリスに疑いを持っているのだろう。

 こんな時のために、ギルドからは試験期間中のみ使える手形の様なものを預かっていた。

 

「これでいいですか?」

「おお、これは確かにギルドの印ですな。確かに拝見致しました。おい、事情は聞いたな。この人達を村に案内してやれ」

 

 手形を見た老人は満足気に頷くと、男達に指示を飛ばした。

 

「じゃあ俺についてきてくれ。」

「ほ、本当にいいんですか?だってまだ…」

「いいよいいよ。この村はある意味じゃあんた達冒険者のお陰で成り立ってる所もあるからな。ンフィーも世話になってるし、これで見捨てたら天罰が下っちまうよ」

「は、はぁ。いや、ほんと助かります」

 

 拍子抜けする程すんなり村に入れてもらえてしまった。交渉材料自体は幾つか用意していたが、これは後でお礼という形で使わせてもらおう。

 

「しっかし馬車酔いかぁ。ンフィーの薬なら何かいいもんあるかな?」

「どうだろう…まあそれをあてにするんならエンリちゃんに聞くのが一番だろうな」

「そうだな。俺らじゃ見てもどうせ何の薬か分からん」

 

 先頭を歩く男達の話を聞くに、この村にはンフィーという薬師がいるのだろう。もし仮にそのンフィーの薬でゴルトルの酔いが覚めたのならば、それは興味深い話だ。ユグドラシルのポーションでさえ治せない状態異常とそれを治療できる薬。

 今回はただの馬車酔いだろうが、もし異形種特有の致命的な状態異常などがあれば、それはとても恐ろしい話である。

 そもそもこの世界に病気とかあるのだろうか。いや、無いと考える方が不自然か。

 となるとお世辞にも科学が進歩しているとは言えないこの世界では、病気になった時点で死が確定してしまうのかもしれない。

 

(手洗いうがいはちゃんとしよう。生食も…できるだけ避けた方がいいのかな)

 

 今更すぎる疫病対策を考えている内に、一件の家の前に着いた。男の1人がコンコンとノックすると、中から良く通る高い声が響いた。

 程なくして慌ただしい足音が近づいてきて、勢いよく扉が開き、1人の少女が姿を現す。

 

「お待たせしてごめんなさいっ!」

「いや、こっちこそごめんねエンリちゃん。いきなり押しかけてしまって」

「私は全然大丈夫ですよ。それで…何かあったんですか?」

「ああそれがな__」

 

 男の身体越しに横からひょこっと此方を伺うエンリ。男が事の経緯を説明してくれている間に、イリスエンリと呼ばれた少女の観察をしていた。

 年齢は…14歳くらいだろうか。整った可愛らしい顔に良く似合った栗毛色の長い髪、見るからに活発そうな浅黒い健康的な肌色。そして突然の訪問にも嫌な顔一つせず対応する器量の良さ。

 この村に看板娘というものがいるのなら、きっとそれは彼女のことだろう。などと益体のない事を考えてしまうくらいには、人を惹きつける不思議な魅力に溢れているように感じた。

 

「うーん、アレなら…効くかもしれない」

「おお!あるのかい?流石エンリちゃんだ!」

「昔ネムが酷い馬車酔いになった時にンフィーに貰った薬があるんです。その時は凄く効いたんですけど、ちょっと古くなっちゃってるからまだ効果があるかどうか…」

「おお!それだよ!馬車酔いの薬!多少古くても使わないよりはマシだろう。良かったなー客人!薬あるみたいだぞー!」

 

(えっマジで?)

 

 男の言葉にぶったまげて我に返る。正直村で休ませて貰えるだけでも御の字くらいに思っており、薬には全く期待していなかったので心底驚いた。しかもピンポイントで馬車酔い特効ときた。

 神か、ンフィーという人物は。

 

「えっホントですか?助かりますー!!ゴルトルさんやりましたよ!!薬あるって!!」

「うう…アァ…」

 

 イリスは弱々しい返事を尻目にエンリに駆け寄ると、その細い両手をがっしりと掴み深々と礼をした。

 

「ありがとうございますぅぅ!!この御恩は決して忘れませんエンリ様ぁ!」

「あ、あのぉですからまだ効くとは…」

「ホントに!ホントにもうダメかなって…。私の冒険者人生始まる前にもう終わっちまったかと…オヨヨ」

「あ、アハハ。と、とりあえずお薬持ってきますから、お連れの人をそこのベッドに移していただいてもいいですか?」

「ベッドまで…。ありがとうございます」

 

(え、ベッドまで貸してくれるの?見ず知らずの冒険者もどきに?天使かな?)

 

 若干引き攣った笑みを浮かべた天使を見送った後、

村人の男達とも一旦別れを済ませ、イリスは未だ唸り声を上げているゴルトルを抱え上げると、ブーツを脱がせてベッドに横たわらせた。

 革鎧とチェインシャツも脱がし、ベッドの脇に置いてからイリスもベッドの端に腰掛け一息ついた。。

 部屋の中は若干の生活感はあるものの、家具は綺麗に整頓されており、埃や汚れも見当たらない。

 リビングに置かれた大きめのテーブルと椅子の数を見るに、4〜5人家族だろうか。

 まさかあの子が母親なんてことは無いだろうから、両親がいると思うが…仕事に出ているのだろうか。

 

(この世界の村人ってどんな仕事してるんだろ?)

 

 ぶっちゃけ農業くらいしか思いつかない。稼ぐというよりは、自給自足のイメージだ。出稼ぎに行ってるとすれば話は別だが。

 力仕事であれば体力(ステータス)は有り余っているので、手伝わせてもらえるなら手伝いたい。

 薬のお礼は勿論だが、単純にこっちの仕事に興味があるのだ。太陽の光を浴びながらの仕事など、向こうでは存在すらしなかったのだから。

 小麦色に焼けたエンリの顔を思い出しながらそんな事を考えていると、ふと視線を感じて向かって右端の少し曇った窓の外を見る。

 ジトっと此方を睨む二つの瞳。そこには麦わら帽子を被ったエンリに良く似た少女がいた。

 年齢は8歳くらいか。恐らくエンリの妹で間違いないだろう。

 イリスが見ていることに気づくと窓から姿を消し、ドタドタと家を迂回して玄関のドアをバンと開いた。

 

「ふしんしゃだー!!」

「え?」

「ふしんしゃはたいじします!おりゃー!」

 

 そう言うが早く、イリスは玩具の剣で斬りつけられた。

 

「ぐ、ぐえ、ぇー!!やられだぁ!!」

「どうだまいったか!私こそはあだまんたいとぼーけんしゃのネム・エモットであるぞ!」

「これが伝説のアダマンタイト…か…!?ち、力の桁が違う!も、もう悪さはしないので許して下せぇー」

「ダメだ!死ねぇ!!」

 

 理不尽である。さっきの天使とはえらい違いだ。本当に妹なのだろうか。

 ネムは倒されたイリスの腹の上にダイナミックに飛び乗ると、溝落ち辺りに剣を突き立てる…が、剣の据わりが悪いのか、あれ〜とか呟きながら何度も位置を変えて突き刺してきた。

 

「アッアハハっ。ち、ちょっとお嬢さん!こそぐったいんですけれども!」

「こら!ジッとしてなさい!悪魔め!」

「あ、今度は悪魔なんだ?」

「うぅー…アァアァ…」

「こ、こっちにもおじじの悪魔が!?」

「ね、ネムちゃんお外で遊ぼっか。おじじの悪魔はちょっと具合悪いみたいだからサ」

「…許す!!」

「ハハー!ありがたき幸せ!」

 

 アダマンタイト級冒険者ネム・エモットにボコボコにやられること20分後、地面に沈められたイリスの瞳に、水の入った大きなバケツを抱えた天使の姿が映った。

 

「あーお姉ちゃん!!」

「ごめなさいお家に水切らしてたの忘れてて…って何やってんのネムー!!」

「悪霊退治だよ!」

「コラ!ご、ごめんなさい相手して貰っちゃって…」

「あ、全然大丈夫ですよ。寧ろこっちが遊んでもらってるっていうか」

 

 イリスは立ち上がってパンパンと泥を払う。エンリは凄く申し訳なさそうに此方を伺っていた。きっと急いで走ってきたのだろう。ズボンの裾は跳ね上がった泥によって酷く汚れていた。

 

「そ、そうなんですか?」

「イリスは我儘だからねー。ネムお姉ちゃんがお世話してあげてたんだよ」

「コラっネム!調子に乗らないの!本当ごめんなさいうちの妹が」

「いやいや、気にしないで下さい。こっちこそすみません。お薬取ってきてもらっちゃって、忙しいのに」

「うちは暇なんで全然大丈夫ですよー。あっそういえばお連れの方はもうベッドに?」

「あ、ハイッ!早速お願いします!」

 

 

 

「ムムム…」

 

 薬を飲んですっかり顔色も良くなり、スヤスヤと寝息を立てているゴルトルの横で、イリスはテーブルに並べられた食材と睨めっこしていた。

 治療をしてもらったお礼にと、夕飯の支度を買って出たのは良いのだが、エンリから受け取った食材は野菜と根菜、米と小麦のみ。圧倒的肉不足なのである。

 これでも作れないことは無いが…お礼としてはちと物足りない。

 本人は夕飯を手伝ってくれるだけで十分と言っていたが、そう言う訳にはいかない。こちとら冒険者人生を救ってもらったのだから。

 イリスはアイテムボックスの中から昨日買った肉を探る前に、ゴルトルの髭をいじくって遊んでいるネムに声をかけた。

 

「ネムちゃんってお肉好き?」

「好きー!大好き!!」

「家族の人も?」

「?お肉はみんな好きでしょ?」

「オッケー!」

 

 それだけ聞ければ十分だ。もしかしたら食べられない人がいるのかと思ったが、単に切らしていただけか、高価だから頻繁に食べられないだけなのだろう。その辺は日本と変わらない。あっちはもっと酷いが。

 アイテムボックスから食材を幾つか取り出し、スキルを発動する。

 

≪トランスソウル/グレートマザー・テロワール≫

 

 腰まで伸びた髪が白髪に変化し、背が少し伸びて胸と尻は一回り大きくなった。

 胸元がパツパツになったエプロンを見て、イリスはため息をこぼした。

 マウンテンに変身した時から不思議に思っていたが、何故人間形態の身体まで変化してしまうのだろうか。ユグドラシルでは変化するのは髪の毛と肌の色だけだったはずなのに。

 これでは何に化けたのかモロ分かりなので弱点もいいところである。というか現地人に驚かれるから単純に困る。

 

「イ…リス?大丈夫!?お尻が爆発しそうになってるよ!!?」

 

 そう、こんな風に。

 

「アーハハ…私体調良いとこんな感じになっちゃうんだよねー。大丈夫だから気にしないで」

「体調いいの!?ぶるんぶるんだよ!?」

「うん、気にしないでくれ」

 

 

 グレートマザー・テロワール(通称オカン)とは、プレイヤーの代わりに料理を作ってくれるコックのnpcのことである。

 見た目はモサモサの白髪を所謂サザエさんヘアーに纏め、白い割烹着に身を包んだグラマラスな二足歩行のワニ。種族はドラゴンキンである。

 料理系のクラスはあらかた網羅しており、彼女に作れない料理は存在しないと言われる程。

 彼女の持つ究極の料理系クラスである<ワールド・リストランテ>は、取得報告がサービス終了まで出てくることのなかった超激レアクラスで、テロワール以外に存在が確認されたことはない。

 レアというがゴールドさえ払えば料理を作ってくれる存在がいるので、職業レベルを圧迫してまで取得しようと思うプレイヤーが居なかった説が濃厚だが…。

 この<ワールド・リストランテ>のクラスの最大の特徴として、バフの付与されていない食材にも様々な効果を付与することができると言うものがある。

 食材の種類やデータ量によって付与できる効果は制限されているものの、レシピによってはその辺の食材で上級素材に勝ることもできる強力なスキルである。

 イリスはこの能力で回復効果のある豆を大量に生産しており、ゲーム後半では回復アイテムを使うことがほぼほぼ無かった。

 今回は日々の生活で疲労しているであろうエンリ様とその家族のためにスタミナ系のバフを盛りまくったレシピでいくことに決めた。

 

≪千秋の審美眼≫

 

 手前の芋を手にしてスキルを発動し、バフを付与する…が。

 

(効果低っ!!鮮度の問題?同じ芋なのにユグドラシルの五分の一くらいしかないじゃん)

 

 ユグドラシルなら50は付与できたであろうスタミナ値が10しか無い。これが神話(ゲーム)の世界と人間界の差とでも言うのだろうか。

 

(まあいっか。他の食材で補おう)

 

 そんな調子で現地の食材に悪態をつきつつバフを付与していき、最後にレシピを決める。

 料理自体はユグドラシルであればシャンッと音が鳴って一瞬で作れたのだが…こっちではそうはならないみたいだ。

 テロワールのソウルを纏って分かったのは、料理系クラスを持っていない場合、全く料理をすることが出来ないと言う事だ。じゃがいもの皮剥きを変身前と変身後で試したところ、変身後は大道芸と見紛うほどの手捌きで一瞬にして剥き切ったのに対して、変身前は束の間の間に炭が出来上がった。

 何故皮剥きで炭ができるのか、意味不明である。焦げる要素はどこに…?

 感覚やスキルが自然に身体に馴染んでいるのでついつい忘れそうになるが、こういった謎現象に出くわすと、改めて自分がゲームの延長線上の存在だと再認識させられる。

 

「ホント…ヘンテコな生き物になっちゃったな。私」

 

 黙々と料理を作っていると、余計なことを考えてしまうものだ。例えば転移したのは自分だけで、他のメンバーはいつも通り日本で暮らしているんじゃ無いかとか、実は電脳犯罪に巻き込まれていて実験体にされているんじゃないのかとか、自分が目覚める前にメンバーのみんなは既に…とか。

 

「大丈夫、心配ないよ-。大丈夫」

 

 言い聞かせる様に呟きながらも、その手は止まること無く、淀みなく滑らかに食材を切り刻み、和えて、焼いて、炒めて、時には茹でて、そして盛り付け、複数の芸術とも呼べる作品を作り上げていく。

 月本茜の時では考えられない完璧なマルチタスクである。

 何をどうすれば良いのかを勝手に理解する脳と、イメージの通りに動く身体。そこにイリスの意志は存在せず、まるで誰かに操られているかの様な気持ちの悪い感覚に囚われる。

 

(料理を楽しむことはもう一生できないのかな)

 

 昔、妹と一緒に悪戦苦闘しながら作った不恰好なクッキーを思い出し、イリスは乾いた笑いを溢した。

 

 

 

(すっかり遅くなっちゃった。ネムが迷惑かけてないといいけど)

 

 朱く染った空を見上げて、心が逸り駆け足になる。

 今日は客人もいると言うのに…。

 薬草小屋の整理に思った以上に時間をかけてしまった。自分の目算の甘さに嫌気がさし、顔を顰めながらエンリは帰途に就く。

 家に近づくにつれ、今まで嗅いだことのない様な香りが漂ってきて、エンリの空腹感を加速度的に上昇させる。

 

(なに!?この良い匂い!ああ、ダメ。お腹空いて倒れそう!)

 

「ただいま!」

「お帰りーお姉ちゃん!」

「お帰りなさい。エンリさん」

 

 …誰?家のキッチンに立つナイスバディな女の人を見て、エンリは数秒硬直した。

 

「ね、ネムっ!誰?あの人?」

「あーこれイリスだよ!今日は調子いいからあんな感じなんだってさ。変だよね」

「えぇ…」

 

 どうも冒険者というものは調子が良いと髪の色が変わって尻と胸がデカくなるらしい。

 そんな訳ないがお腹が空きすぎてツッこむ余裕もない為、もうそれでいいやと思考を放棄した。

 

 食卓には王都の料亭でも拝めるのか分からない程の、美しいディナーが並べられていた。

 それはまるで、その空間だけが小さな宝石箱のようで…。

 あの匂いの正体はこれか。

 エンリは感激して、イリスに詰め寄った。

 

「イっイリスさん!!これ全部イリスさんが作ったんですか!?」

 

 他に誰がいるというのか。でも聞かずにはいられなかった。

 

「う、うえぇ!?う、うん、そうですよ。あ、もしかしてお肉ダメだったり…?」

「そんな訳ないです!!もう、すっごく美味しそうでびっくりしちゃって!ねぇ!ネム!」

「んー。そだねー」

「いやぁ…嬉しいですねえ。喜んで貰えて良かったです。あはは」

 

 あまり褒められるのには慣れていないのだろうか。 

 照れ笑いを誤魔化す様に、顔を伏せてエプロンの裾をモジモジといじくるイリスを見て、エンリは少し不思議に思った。

 料理人の道でも十分通用する程の腕を持っているのだから、もっと堂々としていそうなものだが…彼女はそんな様子をおくびにも出さず、寧ろ困っているようにすら見えた。

 

「ただいまー。ほら!やっぱりウチだったじゃないか母さん!」

「本当に?あら…あらやだちょっとエンリ!これあなたが作ったの!??えっ!?ぎゃー!だあれこのおじさま!!」

 

 ドタバタとうるさい声に振り向くと、外仕事を終えて帰宅した、所々薄汚れた両親が目を白黒させて右往左往していた。

 

「お、おかえりなさい…2人とも」  

 

(ああ…もう最悪だ)

 

 いつもなら良いが、客人の前でそのノリは勘弁してほしかった。

 込み上げる羞恥心から、耳まで赤熱させた顔を覆って天を仰いでいると、後ろから快活な笑い声が響いた。

 

「アハハッ。愉快なご両親ですねぇ。さ、みんな揃ったみたいだし、早速晩御飯にしましょ、エンリさん」

 

 

 

「「「「「いただきまーす」」」」」

 

 食事の合図を終えて、いの一番に料理に手をつけたのは、ネムであった。

 みんなが揃うまで、イリスに一口の摘み食いも許されていなかったので、余程フラストレーションが溜まっていたのだろう。

 市場で買ったよく分からん肉のローストにフォークをブッ刺すと、勢いよく口に頬張った。

 2、3回咀嚼し、手が止まる。

 そして、ネムの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。

 

「だ、大丈夫か、ネム!?喉につっかえたか!?」

「大丈夫だよ…。ただね、パパ。お、お口の中が幸せすぎてぇ…ぐすん」

「そ、そうか、泣くほど美味いのか…?ネム。父さん食べるの怖くなってきたぞ」

「もー何言ってんのよあなた。それじゃ私がお先に頂くわねー♪」

 

 母親もまた肉を一口。そして2、3回咀嚼して手が止まる。さらに一筋の涙が…

 

「もうそれいいよ!!それにお前がやるとちょっと怖いんだよ!!」

「あら失礼しちゃうわね。でもネムの言う通りなのよ…。口の中で天国が弾けているわ」

「弾け…天国が?よし、父さんも食べてみようかな。イリスさん、頂きます」

「どうぞどうぞ。因みにそれはhp上限値プラス50アップ味ですね」

「……?なるほど!」

 

 

 父親、そしてエンリと涙を流して、時には落ちそうなほっぺを支えながら料理を頬張る様子を、イリスは微笑ましく見つめる反面、この料理を食べることに若干の恐怖を覚えていた。

 日本ではこんなちゃんとした料理食べたことなかったし、こっちに来てから食べた物は人肉の切れ端とお粥と冷えたシチューくらいだ。 

 そしてそれらでさえ、感動するほどに美味しかったのである。

 それをいきなり現地人でさえ涙を流す、ユグドラシル料理系最強職の作ったメニューを頂こうというのだ。

 倫理観?価値観?世界観?いろんなものがぶっ壊れるかもしれない。

 イリスは震える手でスプーンを握り、目隠し越しに目の前のスープを睨みつける。

 

「食べないんですか?イリスさん?」

 

 じっとスープを見つめていると、横からエンリの心配そうな声がかかる。

 食べないわけにはいかない。食事を振舞っといて自分だけ食べないなんて、毒を盛ったと思われるかもしれない。不安にさせるのはダメだ。

 徐ろにスープを掬い上げ…そして、

 

(ええい!ままよっ!!)

 

 パクッと口に咥えた。スプーンからこぼれ落ちた熱を持った液体が、イリスの舌を濡らし、口内を芳醇な香りが満たして…

 

 

「うめえええええぇええええええええええ!!!!!なんっっじゃこりゃああああ!!!!」

 

 ドラゴンの咆哮が響き渡る。

 

 息吹(ブレス)が出るかと思った。

 

「自分で作っといて変なのー。ぷぷっ」

「ハハッ。イリスさんが一番いいリアクションしてるな」

「あ…アハハハハ。いや、ごめんなさい大声出しちゃって。んでも美味しくって美味しくって…」

「ま、まあ実際とっても美味しいもの。やっぱり一流の料理人って、自分で作った料理が一番美味しいのかしらねぇ」

 

 夢中になってスープを食べる。一口ごとにほっぺたがまろび落ちそうになるのを押さえながら。

 イリスとしてはテロワールに作ってもらった感覚なのだが、側からみれば自画自賛の極みであろう。

 エンリ一家もなんとも言えない表情で此方を見ていた。

 

 と、そんな奇妙な空気を乱す様に、木のドアを叩く音が2つ。

 エンリがパタパタと玄関に行き、ドアを開くと、そこには村長を含めた昼間の面子が揃っていた。

 

「今晩は!村長さん…どうされたんですか?」

「い、いやぁ、昼間の冒険者さん達がどうなったか気になって、ね。なあお前たち」

「村長…建前はよそうぜ。素直に飯食わせてくれって頼もう」

「え?」

「畑から帰ってたらよぉー!めちゃくちゃいい匂いがするもんだから辿っていったらエンリちゃんの家だったのよ。したら村の奴らみんなゾンビみてぇに集まってきやがって…なあ!」

「誰がゾンビじゃ」

 

 エンリが背伸びをして外を見ると、そこには何十人もの見知った顔があった。

 皆それぞれ手に食糧を持っている。中には酒瓶を持っている者も。

 これは完全にお祭り気分だ。娯楽の少ないこのカルネ村の大人達は、常日頃から酒を飲む口実を探し回っているが…今回はエンリ一家、もといイリスの料理が標的にされたらしい。

 呆れ果てているとエンリの頭上から声がかかった。

 

「おー!凄い人ですねぇ!あ、村長さんご無沙汰してます」

「昼に会ったばかりだろうに。して、この匂いの正体は…やはりお前さんかな?」

 

 村長の鋭い眼光。普段なら頼りになるし渋カッコいいのだが…今回はちょっと間抜けに見えてしまう。

 

「んー…そうですねぇ。お薬貰ったお礼に夕ご飯作らせてもらって、多分その匂いかな?」

「聞いたか!お前達!やっぱりこの冒険者さんの匂いだったぞ!!」

「「おお!!」」

 

 男達から歓声が上がる。隣を見ると、イリスが苦笑いをして腕の匂いを嗅いでいた。

 

「なんか…私すごく臭い人みたいになってません?」

「ほんとごめんなさいっ。普段はみんな真面目なんですけど…一回浮かれちゃうともう、手がつけられないっていうか」

「あー…なるほど。周年記念イベントの前日みたいな感じですかねぇ」

「は、はぁ多分」

 

 わかるわかると呟きながら頷いているイリスを見るに、彼女にも思い当たる節はあるらしい。

 

「して、イリスさんや。お礼にと言うことでしたが…この村の皆にも是非その腕を振るってもらえませんかな?」

「ち、ちょっと村長…」

 

 村人全員に飯を作れというのか。明らかにお礼の範疇を超えた図々しいお願い。 

 村長は眼光で押し切ろうとしているが、任務中の冒険者相手にそれは流石に無茶だろう。

 村長の無礼を謝ろうとした瞬間、イリスはニッコリと笑った。

 

「いいですねぇ。なんか皆さんいっぱい食べ物持ってるし。パァーッとやっちゃいましょうか!…いいですか?エンリさん」

 

 皆の視線がエンリに集まる。なぜかこの祭りの決定権は自分にあるらしい。皆おあずけを食らった犬のような顔でこっちを見ている。

 拒否すればそれこそ血祭りに上げられそうな勢いだ。

 エンリは深くため息を一つ。

 

「いいですけど…あんまり、羽目外さないで下さいよ。みなさん」

 

 割れるような歓声がカルネ村に響き渡る。

 

 大人って本当どうしようもないな。でも、こんなどうしようもない日々が、ずっと続いていって欲しい。

 

 盛り上がる村人達の中に飛び込んで、意味もなく胴上げされている父親を眺めながら、エンリは小さく、そう願ったのだった。

 

 

 

 夜の闇を切り裂くように、一筋の光が空を駆け、爆音と共に鮮やかな花を咲かせる。

 

「アッハハハハ!モルガーさん!もっとダッシュダッシュ!!」

「うるせー!これが限界なんだよ!」

 

 逆立ちで足にフルーツを挟んだ男達が、血の登ったこめかみに血管を浮かせて駆けて行く。

 

「ああ!落ちる落ちるー!アッハハハダメだこりゃ」

「ちょっといいかい?」

 

 ジョッキを片手に、すっ転んで砂まみれになったモルガーを見て爆笑していると、唐突に後ろから声がかかった。振り返ると、白髪混じりの初老の男が立っていた。

 

「えっと…イリス君、だったね。この状況、説明してもらってもいいかな?」

「ん?あ!ゴルトルさんー!!復活したんですか、良かったあ!」

「おかげさまでね。それで…?このお祭り騒ぎは一体何なんだい?」

 

 花火の光の下、飲めや歌えやの大騒ぎをしている村人達を見回し、ゴルトルが苦笑いで訪ねてくる。

 

「騒ぎじゃなくてお祭りですよ。まあーゴルトルさん復活祭とでも名づけましょうか」

「…はぁ?そりゃ一体どういう」

 

「お!馬車酔いのにいちゃん起きたのかい!こりゃめでてぇこった!おい!お前ら!馬車酔いがおきたぞー!」

「「「おおー!起きたか馬車酔い!」」」

「ば、馬車酔いとは失礼な…」

 

 声を聞きつけた村人達がワラワラと集まってくる。1人の男ががっしりとゴルトルの肩をだき、大声で叫ぶ。

 

「お前ら肉持ってこい肉!!腹減ったでしょう冒険者さん。今夜ははとびっきりのディナーがあなたをお待ちしてますよぉ!!ってな!ガハハ」

「ち、ちょっと離していただきたいな」

 

 酔っ払った村人を引き離そうとしたが…できない。

 おかしい。現場仕事からは遠ざかっていたが、それでも日々の鍛錬は怠っていない。こんな村人如きに力負けする訳が…

 

「無駄ですよぉゴルトルさん。今の彼らはステータスだけで言ったらレベル30相当はありますから」

「れ、れべる?なんだい?それは」

「まあ…肉食ったらわかりますよ。ゴルトルさんも明日に備えてスタミナつけないとね」

 

 肉、肉を食べたらただの村人が冒険者よりも強くなるというのか?

 待て、さっきの逆立ちの男達…ちょっと異常なスピードじゃなかったか?

 何が…一体何がこの村で起こっている?

 

 肩を抱く力が強まる。前を向くと、村人達が満面の笑みで歩いてくるところだった。皿に盛った不気味なまでに美しい料理を持って。

 

「ま、待て。待ってくれ。なんだかとても嫌な予感がする!!!!」

「大丈夫ですよー!ゴルトルさん。毒なんて入ってませんから」

「だっだから、そういう問題じゃなああああああああああああああ!」

 

 半ば無理矢理に口に肉を含まされ…ゴルトルの世界が弾けた。

 

 

 朝である。昨夜は随分と遅くまではしゃいでいたのだろう、リビングに行くと父と客人の冒険者2人がテーブルの下に転がっていた。

 エンリは冒険者の1人に近づき、しゃがみ込むと、肩を揺すって声をかけた。

 

「イリスさんー!起きて下さいー!朝ですよー!」

「んんぅ…待って、もう一匹食べないと…世界が」

「もうー!なんの夢見てるんですかー!!試験失格になっちゃいますよ!!!!」

「うぇ?…アァ…朝かぁ。おはよエンリさん。今日こそは畑の手伝いしますんでね…ちゃんと」

 

 目隠しの上から目を…擦っているのだろうか。イリスは上体だけ起こして、ふらふらと此方を向いた。

 

「ウチのことはいいですから。それよりもイリスさん!昇格試験大丈夫なんですか!?」

「あぁ…あー!!!!そうだよ!試験まだ終わってない!!ゴルトル起きろぉー!!」

「ぶぁっ!!」

 

 イリスの肘鉄がゴルトルの腹に刺さる。

 

「い…いきなりなにするんだよ…」

「試験だよ試験!!早く草取ってこないと!!」

「試験…?もういいじゃないか。料理人目指せば。お前はそっちの方が向いてるよ。もう一眠りしてから飯食って帰ろう」

「それでいいのかあんたは…てかそのご飯私に作らせる気だろ!ふざけんなぁ!」

 

 イリスは強引にゴルトルを担ぎ上げると、ペコリと此方に一礼した。

 

「エンリさん。何から何までホントお世話になりました。もし困ったことがあったら冒険者組合に来てくださいね!ミスリル級冒険者の『アングリード』がすぐさま助けに向かいますので!!」

「こちらこそ美味しいご飯ありがとうございました。

『アングリード』ですね。わかりました!!…イリスさんも、またいつでもいらしてくださいね。いつだって歓迎してますから!」

「ハイっ!ありがとうございます!あ、あとネムさんにも宜しく言っといて下さい。そんじゃ…行くぞオラァ!」

 

 イリスはそう言ってジタバタともがいていたゴルトルを締め上げて黙らせると、弾けるように家を飛び出し、そのまま馬車に飛び乗って、砂埃と共にトブの大森林の方へ消えていった。

 

「なんていうか…変な人だったなぁ」

 

 嵐が過ぎ去った様に静かになったリビングには、だらしなく寝転がった父親のいびきの音だけが残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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幕間_蠢動する災禍

パーフェクト捏造


 

 

「おい、まだランダールとの連絡は途絶えたままなのか」

 

 ドラゴンを思わせる苛烈な瞳に睨みつけられ、守護兵士の1人は蛇のように長い首をピンと持ち上げ、少しうわずった声で返答する。

 

「はっ!未だランダールからの連絡は無く、調査に送った先遣隊も誰一人帰還しておりません、王」

 

 六大国の一つである『セラドケィラ』。蛇の身体に、太い強靭な2本の腕を持つ種族<ユアンティス>の国の唯一王ラルドルは、艶の良い鱗に包まれた眉間に深い皺を寄せて唸った。

 彼の国は、いや、彼は今現在未曾有の大問題に悩まされていた。

 

「先遣隊には我が息子…3蛇将の一柱であるオルドルもいたのであろうが。何故帰って来ぬ。我は…我はこれから何を食って生きてゆけば良い?」

 

 投げられた質問に答える者は無い。否、答えられる者がいないのだ。俯いて目を合わせない守護兵士達を見て、ラルドルは首をダラリと垂らして分かりやすく落胆した。

 彼を悩ませている問題。

 唯一王ラルドルの主食である人間。

 その中でもラルドルの肥えきった舌を、唯一喜ばせることのできる最上質の人間の生産国からの連絡が、突然途絶えたのだ。

 ユアンティスは雑食なので別に人間に拘る必要は無いのだが、ラルドルはもうこの国の人肉以外では満足できない身体になってしまっていた。

 

 権力、知力、或いは武力によって…生まれてから今現在に至るまで、欲しいものは全て手に入れてきた。

 今の自分が本気で望むなら、かの竜王(ドラゴンロード)からでさえも、その全てを奪うことができるだろう。

 それだけの力が彼の国にはある。屈強に鍛え上げられた20万にも及ぶ兵士は、一体一体がトロールを圧倒できる強さを持つと言われるその圧倒的軍事力。また、生産国としても優秀な側面を持つ彼の国は、彼の鶴の一声によって貿易を止めれば、滅びる国が一つや2つでは効かないレベルで存在する程である。

 そして極めつけは唯一王ラルドル自身の強さである。

 その力、まさに鬼神。一度槍を振るえばこの国の兵士全てが敵になったとしても無傷で殺し尽くせるだろうし、この世界で最強などと宣っている『白金の竜王』でさえ、容易く屠ることができる自負がある。

 

 故に、故に理解できない。唯一王であるこのラルドルが何故食糧如きで悩む必要があるのか。

 何故欲する物を差し出さない。

 何故連絡が途絶える。

 何故使者が誰も帰って来ない。

 かの国の者も、先遣隊の者も、我が息子も、この世の全ての者全員が深海よりも深く理解しているはずなのだ。ラルドルの望みに答える以上に大切なことなど存在しないと…。

 

 

「もうよい。我が出向く」

 

 そう言って身を起こしたラルドルを見て、ギョッとした側近の1人であるルグガシュは、慌てて王の前に頭を垂れて懇願した。

 

「な、なりません王よ!!それだけは何卒!何卒_」

「何故止める?先遣隊が帰って来ぬ以上我が行くしかあるまいて。ランダールめ、つまらん理由で連絡せなんだら承知せんぞ…」

「なりません!危険すぎます!王の身になにかあれば…」

 

 違う。ルグガシュは別にラルドルの身など案じてはいない。王に勝てる存在などこの世界にいるはずがないのだから、心配するだけ無駄というもの。

 彼が必死に王を引き留めるのには別の理由がある。一歩間違えればこの国の根幹を揺るがしかねない強い理由が…。

 それを知らないはずがない王からの返答は、揺れるほどの大きな笑い声であった。

 

「笑い死ぬかと思うだぞルグガシュ。お前は一体誰の身を案じておる。この我を脅かす者がかの国にいると?そう思うのか?それならば尚のこと我が行かねばなるまいて。カッカッカッ」

 

 王は笑っているが、身に纏った空気には僅かに殺気が滲んでいる。かれこれ一週間は碌な肉を提供できていないのだ。王のストレスも限界に近いのだろう。これ以上余計なことを言えば最悪首を飛ばされる可能性もある。だが…

 

「なりません、王よ」

「貴様…」

 

 ミシッと殺気が強まる。

 

「女神様の怒りに触れます、王よ」

 

 絞り出した声を聞き、舌打ちと共に王の殺気がフッと掻き消えた。

 張り詰めた緊張が緩み、ルグガシュは思い出した様に2度、深く呼吸を繰り返した。

 

 

「天上の戦女神か。この国の創設者にして、我々ユアンティス族の救世主。先代の王達はこの地に永劫留まり、この国を守り続けることを条件に、永遠の繁栄を約束されたと言う…。」

「その通りです、王。そしてその約束は今現在に至るまで果たされ続けております」

 

 

 下らん。そう吐き捨てようとして、飲み込んだ。   

 セラドケィラ王国の背を守る様に聳り立つ、巨大かつ広大な山脈シグレィゾ。その一番高い峰に住むとされる女神。

 セラドケィラの者ならば戦女神は決してぞんざいに扱ってはならぬと遺伝子の奥深くまで刻み込まれている。

 かつて、二代目唯一王がこの国を2日程留守にしたことがあったと言う。

 懇意にしていた隣国の国王が崩御したために、葬儀に参列しに行ったという真っ当な理由であったが、これを知った戦女神は怒り狂い、シグレィゾ山は砕け、流れ落ち、王が帰還した時には既に、国土の半分が土砂によって壊滅してしまっていたという過去がある。

 繁栄が続く限り、天罰もまた繰り返す。唯一王であるラルドルはこの国を動けない。

 だが、王がひもじい思いをしているこの国が、果たして繁栄していると言えるのだろうか?足るを知れというのならそうかもしれないが、もうランダールの肉無しでは、とてもではないが満足することなどできはしない。

 ならば、戦女神とやらがそれを解決してくれなければおかしいだろうに。

 

 

「天罰か…我からすればこの現状そのものが既に罰であるが。一体どうすれば良いのだ。ルグガシュ」

「今はただ座して待つより他ないかと、既に次の先遣隊を選抜しております故必ずや…」

 

 

 

 続く言葉を言おうとした瞬間、ざわりと背後が騒がしくなった。

 王もまた、ルグガシュの後ろを凝視している。

 

「失礼」

 

 断りを入れて振り向くと、そこにはボロボロのローブを纏った、1人のひょろ長い人間の男が立っていた。

 守護兵士が男を取り囲む様に移動し、槍を構える。

 男は真っ直ぐ玉座を、王を見つめていた。白く長い髪の間から覗く、落ち窪んだ瞳は泥の様に濁り、一切の輝きが見られない。

 

(人間がどうやってここまで登ってきた?)

 

 セラドケィラ王国の王宮はシグレィゾ山脈を背に、ピラミッドの様な形でそそり立っており、玉座の間はその天辺に位置している。

 太陽の日を浴びれば浴びるほど強くなると信じられているこのユアンティス族の玉座の間に屋根はなく、国で最も陽の光の差す場所にある。

 故に、垂直な壁すら登攀できるユアンティス族ならいざ知らず、翼もない人間如きに、王宮の急な斜面を登ることなど不可能なはずである。

 

 最も、魔法が使えるならば話は別だが。

 

 

 

「不味そうな人間だな。何しに来た?」

 

 興味無さ気な王の問いに、男は黙って懐に手を入れることで答える。

 本来ならばその様な行動は敵対行動と見做され、即座に拘束、処刑するのだが、この玉座の間では違う。 

 王の許可が降りるまで、客人の行動は制限されることは無い。

 

 男は懐から一抱えの袋を取り出すと玉座に向かって放り投げた。

 袋の中身が空中で溢れ落ち、3つの塊となって玉座の前に転がった。それはルグガシュの友であり、王の息子であり、この国きっての三蛇将である…。

 転がった先遣隊の首を一瞥し、王は静かに男を見つめ、薄く笑う。

 

「これは随分な挨拶ではないか。なんだ。復讐にでも来たと言うのか」

 

 虐げられてきた人間の復讐話は別に珍しいことでも何でもない。人間は力は無いが心のある生き物なのだから。

 実際人間による反乱が起きた亜人の国はいくつも存在する。無論、食糧如きにやられた国は無いだろうが。

 この人間もその類の可能性は高い。そして王を悩ませている原因の一つと見て間違いないだろう。

 

「おい、話せないのか?何か言_」

「父さんはどこにいるの?」

「…はぁ?」

 

 王の素っ頓狂な返事に、男は呆れた様に白目を剥き、再び濁った瞳が戻ってくる。

 

「父さんはどこにいるの?君達が隠しちゃったんでしょ」

「知らんな。お前の父親など。あー…もしかしたら知らずに食ってしまったのかもしれん、許せ。」

 

 全く許しを請うてない不遜な態度。これが復讐ならば間違い無くこの男は怒りに震え、王に殴りかかるだろう。

 この後の展開を予想し、ルグガシュはベルトに差した剣の柄を軽く握る。

 

「そこの三匹もそうだ。父さんを渡したくないから嘘をついた。君達の悪い癖だよ」

「…おいルグガシュ、父さんって誰のことだ?」

 

 全く話を聞いていない様子の男に、王は堪らず此方に話を振ってくる。勿論そんなこと聞かれても知らないとしか言いようが無い。父さんって誰だ。

 

「分かりかねます、王よ。この男、黙って話を聞くタイプには見えませぬ。拘束して口を割らせるべきかと」

「まあ待て。久しぶりの客人だ。もう少し様子を見るぞ」

 

 飛び込んできた非日常に、王はすっかり機嫌を良くしている。それはまるで見世物小屋にいる子供の様だった。

 ルグガシュも王の説得はあきらめ、男の方に向き直った。

 男は長い髪をくしゃくしゃと掻き毟り、ブツブツと何かを呟いている。

 

「もうここしか有り得ないんだよなぁ…絶対にここなんだよなぁ…なんで隠すのかなぁ…悪いなぁ…イライラするなぁ…」

 

 小刻みに震えていた男の挙動が、ガクガクとさらに大きなものになり、ピタッと止まる。

 

「予言は成就する。もう間も無く、この世界に最期の特異点がやってくるだろう。そんな時に…まだ父さんを見つけることすらできていなかったら…僕が父さんに怒られるかもしれないんだよ?」

「それが我と何の関係がある?第一、親に怒られたくないのならば、少しは相手の話を聞いたらどうだ?お前が我の息子なら、もう10発はゲンコツをかましとるわ」

 

 王の返答に、濁った瞳が三日月型にニタリと笑う。

 

「≪魔魂置換≫」

 

「_なっ!!」

「…殺せ」

 

 男の突然の詠唱に仰天するルグガシュ。

 静かに王の命令が飛び、男の周りを取り囲んでいた守護兵士達が一糸乱れぬ動きで男の身体に槍を突き刺した。

 髪を掻き毟っていた腕が、ダラリと垂れる。

 前から後ろから穂先を突き出した様は、まるでウニの様だ。こうなってはもう命はないだろう。ランダールの話を聞きたかったが王の命令なら仕方ない。 

 ああ勿体ない。と思ったルグガシュの目の前で信じられないことが起きた。

 

「≪上位全能力強化(グレーター・フルポテンシャル)≫」

 

「何だと!?」

「コイツ、まだ動けるのかっ!」

 無数の槍に貫かれて尚、何事もない様に魔法を詠唱する男。守護兵士達は槍を引き抜き、再び男の身体を滅多刺しにする。

 

 が、詠唱は止まらない。

 

「≪戦神の憤怒(ラース・オブ・アレス)

 ≪魔力増強(マジックブースト)

 ≪上位幸運(グレーター・ラック)

 ≪波及する災厄(スプレッド・ディザスター)≫」

 

「やめろ!!」

 

 

 どれだけ切っても、突いても、裂いても、そんなダメージは存在しないとでも言うのか、男は此方を真っ直ぐ見据え、畳み掛ける様に詠唱を続ける。

 王はこんな状況でさえ、そんな男の様子を興味深そうに見つめている。

 勘弁してほしいものだ。確かに王ならば正体不明の魔法詠唱者(マジックキャスター)など問題にならないだろうが、こうも連続で魔法を唱えられては気持ちが悪くて仕方がない。できれば早く殺してほしい。

 そう願っている間にも男は幾つも魔法を詠唱し、そして、

 

「超位魔法」

 

 

 

 ≪空亡の唄≫

 

 

 

 突如、男を中心にドーム状の巨大な魔法陣が浮かび上がった。

 

「な…なんだこれは…」

「カッカッカッ素晴らしいぞ小僧。その胆力の少しでも我が兵士達に分けてやりたいものよ」

 

 と、戯けて見せたものの、ラルドルはこの男に対する警戒心を、極限まで引き上げていた。

 唱える魔法の全てが、そこから放たれるオーラから、どれも竜王(ドラゴンロード)に匹敵…いやそれ以上のエネルギーを感じるのだ。

 

(この男、只者ではない。成る程、ランダールを滅ぼしたのは此奴で間違いなかろうな)

 

 実際に滅びたのを見たわけではないが、先遣隊が皆殺しにされている以上、ランダールが無事とは思えない。

 玉座に立て掛けてある煌びやかな槍を手に取る。その昔戦女神から先代の王が受け継いだ国宝である。

 

 未だ守護兵士達が攻撃を繰り返しているが、効果はないだろう。恐らく奴の最初に唱えた魔法…それの防御を突破しなければ殺すことはできない。

 

 男に向かって槍を構える。

 横でルグガシュが安堵のため息を溢す。

 男が笑う。

 

 そして、魔法陣が弾けた。

 

 束の間、眩い光に包まれ、気がつくと、あたり一面に奇妙な赤い花が咲き乱れていた。

 呆けたルグガシュの頭をはたき、正気に戻す。

 

「おい、何だこの花は。知っておるか?」

「い、いえ、初めて見る花です。これは_」

 

「綺麗だろ?」

 

 はっとして声のした方を向く。

 今まで詠唱しかしていなかった男が、喋りだす。

 

「遠い昔、日本では彼岸の時期になると、この花が沢山咲いていたらしいね。僕も見てみたかったなぁ。見れるかな?見れるよね?僕はとてもいい子だから」

 

 誰に向かって話しているのか。

 男は虚な目で虚空に向かって語りかけている。

 

 すると、どこからともなく赤子の泣いている様な、しかし野太い男の声にも、啜り泣く女の声にも聴こえる、幾つもの声が折り重なった歌が…赤い花の咲き乱れる玉座の間に響き渡った。

 この声を、ラルドルはよく知っている。そう、これは屠殺される前の…

 

 

 人間の怨嗟の声だ。

 

 

「一体何が…」

「王!!そ、空が…!!空が!…ああ!!」

「ん?」

 

 ルグガシュの悲鳴に促されるまま空を見上げ…絶句。

 

 黒い絵の具の様な雲に塗りつぶされた空。そしてそのドス黒い雲の間から、メリメリと産み落とされる様にして、血の様に真っ赤な巨大な球体が姿を現した。

 それは太陽によく似ていたが、そこから放たれるのは柔らかな陽の光ではない。ただただ邪悪な…黒い呪いが、絶え間なく噴き出している。

 それはまるで地獄から這い出してこようと死に物狂いで伸ばされた、亡者達の手の様にも見えた。

 

 あれは、マズい。

 目にした瞬間、全身の毛穴が開く感覚がした。

 

 本能で理解した。あれが落ちてくれば、この国は終わりだと。

 

≪能力向上≫

≪能力超向上≫

≪剛腕剛撃≫

≪外皮超強化≫

≪可能性超知覚≫

 

 連続して武技を発動し、槍を構える。

 

「ルグガシュ、我に続け。術者を叩くぞ。絶対にあれをこの国に落としてはならぬ」

「ハッ!!」

 

 ルグガシュの返事を待たず、雷と見紛う速度でもって男に肉薄し、その胸部に強烈な突貫を見舞う。

 突きの衝撃波で守護兵士達が吹き飛び、無数の礫を巻き上げながら、ラルドルを中心に地面に幾つもの大きな亀裂が走る。そして_

 

 男は眠そうに欠伸を1つ。

 

「さあ蛇さんたち。滅びる準備は済ませたかい?」

 

 神をも殺せると謳われた一撃を受けて尚、無傷。

 槍を突き刺したまま男を見上げたラルドルの瞳に、空から溢れ落ちる怨念の塊が、ゆっくりと影を落としていった。

 

 

 

 

「アハッアハッ。さあ、そろそろ起きる時間だよ、父さん」

 

 

 

 

 この日、栄華を極めた六大国の一つであるセラドケィラ王国は、謎の魔法詠唱者の放った、たった一つの魔法により滅亡することになる。

 

 

 

 

 

 

 



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