憂鬱の魔神 (萎える伸える)
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【序章】いづれ来たる『未来(おわり)
災厄



 初めまして、さようなら。


◆◇◆

 

 

 

 

 

『──アナタじゃない』

 

 

 

 

 全身を激痛が襲っていた。

 魂を蝕む瘴気が満ちている。

 右も左も景色は変わらぬ黒一色の世界。

 そんな影に包まれた世界でただ一人存在を主張するものがいた。

 

 世界に嫌われ、この幽世でしか存在することすら許されない少女。

 禍々しい瘴気を放ちながら、影のドレスに身を包んだその少女は──世界に忌み嫌われる者は告げた。

 

 ──俺じゃない。当然だ。

 

 その意味するところは単純明快。

 目前の少女は、俺を選ばなかったということ。

 彼女が見るのは俺ではない、ただ一人の少年。

 

 この世界の主人公。

 

 ──忌々しい。

 

 以前は尊敬と憧れを抱いていたはずのその少年に、今は唯──ただただよくない感情を抱いている。

 

 全身が黒い靄に覆われている少女。

 それによって一層際立つその銀髪は、醜く穢らわしいこの世界にいることでどこまでも美麗に引き立てられている。

 彼女がこちらに背を向けていることで否応なしに見える、地面に引き摺られるほども長いその髪が視界を占拠する。

 その瞳が目前にいる彼を写すことはなく、ただ一人を除いて誰に向けられることもない。

 その分かりきった事実にできることはなく、因縁浅からぬ相手に目を向けさせることも叶わない。

 

 胸に去来するそれは憎悪か、執着か、屈辱か、あるいは嫉妬か。

 己の体を飲み込まんとする影の大地に這いつくばりながら、偏絶した力の差を知りながら、それでも、彼は足掻き、身を捩らせる。

 

 そこに大義はなく、建前なんかなく、免罪符などありはしなかった。

 それでも、今は要らなかった。

 正当化なんて要らなかった。

 理由なんて、どうでもよかった。

 

 それは他が為を想うような高尚な行いなどではない。

 ましてや、自身に利するような意味のある行いでもない。

 それは──それはただ、この胸に限りなく湧き上がる熱を吐き出すだけの、それだけの行為だ。

 

 

 ──いつか。

 

 

 それは誓いであり宣誓。

 今は叶わぬ未来を言葉にする。

 何物でもない何かを形にする。

 そうやって、絶望に震える喉に活を入れるのだ。

 

 

 ──俺が、お前を殺してやる。

 

 

 雪辱を果たすその時まで、あるいは絶望に屈するその時まで、その理由なき殺意が失われることはない。

 それはこの世で最も困難な、覚悟の証なのだから。

 

 

◆◇◆

 

◆◇◆

 

◆◇◆

 

 

 

 

『お前のことなど、どうでもいい』

 

 

 俺を傷つけ、痛めつけ、俺にあらん限りの悲鳴を上げさせた屑は言った。

 閉じ込め、縛り、拷問を行った屑は挙句の果てに言った。

 これだけ俺に絶望を与えた屑は、俺が抵抗し、憎悪を抱き、心を折られ、服従し、媚びて諦めて、それでも俺を苦しめることをやめなかったそいつは、俺のことなど欠片も見ていなかった。

 

 理由があると思った。

 理由があってほしいと祈った。

 理由があれば納得できると思った。

 

 俺が、俺だけが、ここまで辛い目に遭わなければいけない理由。

 

 俺が屑以上の屑だから。救いようのないカスだから。異物だから。醜いから。嘘つきだから。傷つけたから。約束を破ったから。

 なんでもいい。なんでもよかった。

 

 

『──お前のことなどどうでもいい』

 

 

 憎まれるよりも辛いことがあると知った。

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

『早く飛べよ』

 

 

 顔も見せぬ臆病な人は言う。

 見知らぬ他人に言われるその言葉に、抱くのは恐怖だろうか。怒りだろうか。軽蔑だろうか。はたまた絶望だろうか。

 

 結局、意味なんてないのだ。

 人を傷つける(クズ)がいる限り、僕らはいつまでも救われない、悲しみはなくならない。 

 人は、傷つけあって生きているのだから。

 

 

 ──それでも、諦められるわけないじゃないか。

 

 

 そうやって理不尽を受け入れて、大人になったふりをしたって、きっと僕は納得できないのだから。

 

 きっと、もしかしたら、誰か一人くらいは、幸せに生きられるんじゃないのか。

 傷つけあうことなく、与え合い、支え合って生きていく、そんな当たり前の幸福を享受できるんじゃないのか。

 僕の無力な両手でも、君一人くらい幸せにできるんじゃないのか。

 

 そうやって抗うことを止められないのだから。

 

 そうして、それでもと、次ならと、もしかしたらと、そう望む心が、溢れる熱が、つまらない男の意地が、歩くことを止めさせてくれないのだ。

 

 

◆◇◆

 

 

『あなたは、誰』

 

 

 心がひび割れる音を聞いた。

 ただ一言で壊れるほど淡い希望だった。

 忘れられること、それは死んだも同然だ。

 

 

◆◇◆

 

 

『そんなことで──』

 

 

 所詮人間は分かり合えない。

 互いに聞く気がなく、分かってもらう気がない。

 恐れているのだ、分かり合うことを。

 

 その弱さが悪であると知っていて。

 

 

◆◇◆

 

 

『キモい』

『気色悪い』

『気持ち悪い』

 

 

 誰も彼もが口にする。

 拒絶し合い、攻撃し合い、自分を守ろうとする。

 ただ必死に、大切なものを抱えて言葉の刃を振るう。

 

 その強さが凶器であると知っていて。

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 ──そんなこと、言わないでくれよ。

 

 

『──豚が』

『──虫以下ね』

『──臭い』

『お前じゃあない』

『お前じゃないかしら』

『──お前さん、誰だ』

『あなたは──誰?』

『君、最低だね』

『アンタ最低だな』

『──アンタのせいや』

『──君は一体』

『貧弱軟弱』

『男の癖に女々しいやつだ』

『貴公が、やったのか』

『──怠惰デスね』

『お兄さんはいったい何がしたいの』

『あなたは一体どこの誰なのかしら』

『君は危険だ。──ここで止めさせてもらう』

 

 

『──ばいばい』

 

 

 勝手に期待して勝手に裏切られた気になって、期待されても裏切って。

 

 頑張ったのに、ただひたすらに頑張ったのに。

 傷ついても頑張った。心が疲弊しても頑張った。君を失っても頑張った。ただ望む未来を得る為に。

 でも、何も上手くいかなかった。僕程度の努力なんて無意味だった。無力だった。無駄な抵抗、無駄な足掻き、無価値な決意。

 なのに、今もこうして歩くことを止められない。

 

 頑張っても意味なんてないことを知っているのに、頑張ることを止められない。

 病気だ。

 誰にも望まれず、自分すらも分からず、それでも歩みを止めることはない。

 

 歩いて、歩いて、歩き続ける。

 その足取りに迷いはない。

 

 どうせ悪いのは俺なんだ。知っている。知っているさ。いつだってそうなのだから。もうわかってるよ。

 

 

 ──だからそう何度も言うな。

 

 

 頭の中で声が聞こえるのだ。

 自身を憎む怨嗟の声が聞こえる。自身を罵る罵声が聞こえる。自身を蔑む嘲笑が聞こえる。

 年を重ねるごとに増えていくその声は昼夜を問わず少年を苛む。

 

 いい加減、うんざりなのだ。

 分かってる。分かってるのに。

 自身を責める声が消えてなくならない。

 怨嗟が、罵倒が、嘲笑が耳について離れない。

 誰も彼もが己を嫌う。許さぬ。責め立てる。

 

 悪いのは己だと知っていて、逆上するなんて屑でしかないと知っていて、されど抑えきれぬ殺意が正常な思考を阻害する。

 時々、思ってしまうのだ。ぜんぶ、なかったことにできたら、なんて。最低で、屑で、救えない愚か者の妄想だ。

 嫌いなもの、煩わしいもの、不快なもの、全部が全部、己が思うが儘に、

 

 

 ──殺したくなる。

 

 

 破滅的で刹那的な思想に思考を侵されながら、今も、明日も、この先も、この道を歩き続ける他ない。

 それが間違った道だと知っていて、それでも少年は進むしかない。

 それしかできず、許されないのだから。

 

 

 それを憂鬱でないとしてなんとする。

 

 

 

◆◇◆お前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前お前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だ誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前お前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だ誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だ──お前は誰だ◆◇◆

 

 

 

 

 わからない。

 わからないんだ。

 何も覚えてないんだよ。

 

 

 

 少年は何もない荒野を突き進む。

 両手には何も残っておらず、何も得られず、すべてを失い、それでも生き汚くも生に縋りついている。そこまで至って尚、脚を止めることは許されない。

 

 上を向けばそこには変わらず、少年を導く星々があるのだから。

 

 恥知らず、足るを知らず。

 失敗から学ばず、されど諦め方を知らず。

 導かれるまま流されることを繰り返す。

 

 心を直接傷つけるような砂塵の吹き荒れる道なき道を愚直に進む。もっと賢い生き方を知っていて、諦める方法なんて本当はとっくに知っているのに、自分で自分を止めることが出来ない。

 

 もう止まれない。

 

 

 ──もう、何もない。

 

 

 何も残っていやしない。

 記憶も特別も大切も、すべては過去に置き去りにした。

 ただ一人生き残ることしかできないこの呪われた力を抱えて歩む。

 

 

 ──俺は一体誰なんだ。

 

 

 少年は考える。考えることを止められない。

 過去を想い、今を悩み、未来に侵されながら。

 不安も焦燥も罪悪感も、すべては過ぎ去っていくものでしかない。

 

 いったい何度否定されるのか。

 もうわかっていた。知っていた。諦めていた。

 生きることを強制する俺の肉体は抵抗することを止めず、されど疾っくの疾うに精神が折れていた。屈していた。壊れていた。

 

 

 ──俺は器じゃあなかった。

 

 

 主人公じゃなかった。

 

 

 ──俺は『ナツキ・スバル』にはなれなかった。

 

 

 誰かを救う人間になりたかった。

 ただ一人、たった一人の女の子を救いたかった。

 数多の孤独な女の子の心を救い上げ、困難から連れ出し、運命に縛られた人々を解放してきた彼のようになりたかった。

 

 それはきっと驕りだった。

 なれると思っていた。

 自分ならできると、心のどこかで信じていた。

 

 それが欺瞞であるという真実から目を逸らして無駄に足掻いた。

 憧れと理想が心を燃やし尽くし、現実と甘さが灰になった心を不器用に成形する。

 

 繰り返し繰り返し、それだけを繰り返す。

 何度も何度も何度でも同じことをする。

 まるで学びを知らない鶏のように。

 まるで馬鹿の一つ覚えみたいに、凡人は荒野を進む。

 

 決してゼロに還ることはなく、されど一から先へ進むこともなく。

 変わらず、変われず、変えられず。

 大人になれない少年は進む。

 

 

 ──もう止まれない。もう引き返せない。もう時が巻き戻ることはない。

 

 

 現実とは非情で、どうにもならないことばっかりだ。

 どこまでいっても凡人は凡人でしかなく、社会の、国の、世界の、より大きな歯車の一部として回ることしかできない。

 

 小さく歪でか弱い歯車がたった一つ抗ったところで、世界という歯車が逆さに回り出すことはない。

 大きな力が必要なのだ。

 一人でダメなら二人で、二人でダメなら三人で。

 ともに抗う仲間が要る。

 

 

 その悉くを失って、されど少年は──否、だからこそ少年は止まれない。

 

 

 散っていった仲間を想う為でも、生き残った者としての責任を背負う為でもない。

 理由などない。それは意地。

 理由など知らない。それは足掻き。

 理由なんて疾うの昔に喪失した。

 

 何の為に歩いているのかも忘れ、家族も友も想い人すら失い、最後の意地すらももう限界だ。

 

 

 ──もう、赦してほしい。

 

 

 疲れた。

 もう、歩くのは疲れたんだ。

 もう諦めたいんだ。

 

 心が摩耗し、精神が疲弊し、休息の足りない愚鈍な頭は支離滅裂に愚考する。

 

 

 ──お願いだ。

 

 

 願う、旅を終わりを。

 乞う、物語の終焉を。

 求む、己を殺す英雄を。

 

 

「俺を殺してくれ」

 

 

 きっと誰にもわからない。

 きっと誰にも理解してもらえない。 

 これは罰なのだから。

 

 

 

 

 ──『憂鬱』という名の大罪の──

 

 

 

 

◆◇◆

 






 『憂鬱の魔神』の~始まり始まりぃ~


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躁鬱と跳躍と──


 序章──憂鬱な迷い人──

 六一


 

◆◇◆

 

 

 日は沈み、空は闇に覆われ、されど視界は光に包まれている。

 

 ──ここは東京。眠らない街。

 

 ざぁざぁと雨の降りしきる音が響いている。今夜は台風。肌を刺すような雨粒が人の及ばぬ遥か高見から降り注ぎ、地上を占拠する塵芥を押し流すような激しく冷たい暴風が吹き荒れる。

 だが、それがこの街の活気を遮ることはない。

 大いなる自然も、超自然的存在でさえも、もはや止めることは叶わないのだ。

 我々を叱ってくれる親はおらず、我々を窘める先導者は消え、我々は誰の指図もない自由な世界で迷い彷徨う迷子にしかなれない。

 

 これが自由か。こんなものが自由だと言うのか。

 家に、学び舎に、市に、都に、国に、海の向こうの国々に、押し込められ、閉じこもり、どこまで行っても逃げられず、離れられず、己を御そうとする環境に身を置くしかない。

 否や、逃げられるはずだ。嫌なことからも、嫌いなものからも、煩わしい者からも。されど、怠惰な我らはそれをせず、妥協し受け入れ、身も心も滅ぼしてしまう。

 迷子な我らは優しくされれば騙されて、唆されては間違えて、甘やかされては駄目になる。ままならない。

 誰が悪いのか、優しくしてくれたか赤の他人か、唆した無二の友か、甘やかした親か。否、否、否、悪いのは徹頭徹尾、己に他ならない。

 ああ、本当にままならない。

 

 導いてあげなければいけないのだ。

 迷子に手を貸すのは、当たり前のことなのだから。

 

 

 

 その時、雷轟が世界から音を奪い去った。

 一際強い雷光が世界を覆う。音も色も消え去った刹那の世界。東京を覆う暗雲が雷神の御心を暗示しているようだった。

 迷える子供たちが救われないでいることは、神の御心ではないのだから。

 

 

 

 救ってあげなければいけないのだ。神様とやらがいたずらに手を出すことができないというのなら、例え身の丈を超えた行いだったとしても、矮小な人の身にて身に余る欲望であったとしても、誰もやらぬというのなら、俺がやってみせる。

 悩み苦しみ、迷い歎き、さ迷い歩く子供たちを、導く為に。

 

 その命を賭けてでも。

 

 

 

 

 

 

 

 一瞬にも満たない雷光が止むと、そこには一人の人間のシルエットが残影していた。

 

 そこに一人の男がいた。

 

 

 男はどこにでもいるような男だった。

 強いて言うならば私服が少しダサいだろうか。飾り気のないTシャツにジーパン、帽子はなくそれどころか傘もさしていない。

 

 男は身じろぎもせず、俯いたまま雨に濡れている。

 

 太ってはおらず、どちらかと言えば細身な男。

 おそらく十代、高くても二十過ぎだろう。

 そんな男がこんな時間にこんな場所でいったい何をしているのだろうか。

 

 男はただ立っていた。何かを待っているようだった。

 

 ザァザァと降りしきる雨音の他に音のない世界。

 その静寂は不気味とも、好都合ともとれる。

 

 

「───。」

 

 

 男は一言も話さない。ただの一音すらも発することはない。

 当然だ。彼の周囲には誰もいないのだから。

 彼がいるのは、こんな時間に人がいるべき場所ではなかった。

 

 ──不意に、男は懐から携帯を取り出し弄り始めた。

 数分の操作を経て彼は突然、独り言を始めた。

 

 

「俺は(ゆう)。今から──飛び降りようと思います」

 

 

 男がいるのは屋上。地上から遥か上空、高層ビルの最上階。

 安全柵を越え、立つのは一寸先は暗闇のへり。この雨の中、視界は悪く足元さえも覚束ない、これだけの暴風の中、一歩でも踏み間違えればお陀仏だ。

 そんな場所に身を置いて平然と語る彼は、果たして正気と言えるのだろうか。  

 

 応えは是、彼は至って正気だった。 

 正気で、真面で、ただ狂気にも似た願いを叶えんとしているのだ。

 

 

 そう、男は『自殺』を試みていた。

 

 

「実は流行り病で家族全員死んじゃったんだ」 

 

 

 男は言った。その声音は軽く、まるで何でもないことかのように。

 

 流行り病。いつの世も病で亡くなる人はなくならない。医者はおれど、薬師はおれど、時間、金銭、環境、知識、何か一つが食い違えば、人は病に殺される。

 知識のない只人に、疫病に抗う術などありはしないのだから。

 それが未知の病であれば猶更だ。人は死ぬ。たくさんの人が死ぬ。まるで罪のない人々が、たかだかミクロの存在に殺される。ああ、なんて弱いのだろうか。人という種の脆さを感じざるを得ない。

 

 だがしかし、それは理由になっていない。

 ご家族がなくなったのは残念だ。突然家族を失った君の悲しみは計り知れない。同情する。しかしだ。亡くなったご家族だって、君までもが死ぬことを望むだろうか。それも病ではなく、自分で命を断とうだなんて。まだ若いんだ、考える時間はいくらでもある。ゆっくりでいい。死ぬなんて、いつでもできることだ。まだ、死を選択するのは早計ではないだろうか。

 

 

「あぁ、そういうのいいから」

 

 

 その声音は、夜風よりも尚、冷えていた。

 

 

「家族以外に、というか両親以外に大事な人いないし。

 ──これからできるかもしれないだろ、とか思った?

 まだ若いんだからとか。生きてりゃそのうちいいことあるよとか。親不孝だよ、とか。

 ──そんな正論、聞き飽きたよ」

 

 

 何も言っていないのに、男はそんな返答が読めているとばかりに言葉を重ねていく。

 その場しのぎの正論で止められるほど、彼の決断は、決意は軟じゃない。

 正論など、そんな誰にでも思いつく下らない正解で助けられる命など高が知れている。下らない、ああ、下らない。誰も彼も同じ言葉を使う。同じ言葉で同じ顔で、後回しにして見ないふりをして、責任から逃げて、面倒そうに、煩わしそうに。

 ──その程度の想いで死を選ぶものか。

 

 

「相談ならもうたくさんしたよ。

 みぃんな口を揃えて止めてきた。そりゃそうだよね。万が一肯定して本当に死んじゃったら自分のせいみたいだもんね。当たり前だ。当たり前で、無責任だ。………止めるだけならまだいいさ」

 

 

『理由は思いつかないけどやめよう』

『死ぬなんて今までの時間が勿体ない』

『君よりも不幸な人はごまんといるのに恥ずかしくないの』

『そんなことで??』

『お前クズだな』『きも』『きっしょ』

『──うわ、かまちょだ』

 

 

「誰に相談したと思う?」

 

 『学校の先生』『クラスメイト』『オトモダチ』『幼馴染』『養父母』『祖父母』あとは『ネット民』

 

「……ま、ネットに道徳心なんて求めちゃいないけどさ。酷いもんだよね。弱ってる人に対して。そりゃあえげつない誹謗中傷の嵐さ。クラスメイトに関しては相談してないんだけどね、『オトモダチ』は口が緩いんだ。『学校の先生』なんて……ハハ……あんな大人にはなりたくないね。『養父母』も『祖父母』も良い人だったけど。

 結局他人なんだ。

 家族には──両親の代わりにはなり得ない」

 

 

 

 

 

『不幸自慢終わった?』

『被害者ぶってて草』

『そういうのおもんない』

『ただの事実じゃんw』

『ゆとり世代ってほんと甘ちゃん』

『世の中舐めすぎ』

『ぼくうつ病なんですぅ。やさしくしてぇ~』

『どうせホラだろ』

 

『──動画取ってる時点でただのかまちょ』

 

 

 そう。

 男──憂はスマホでライブ配信をしていた。

 これらの罵詈雑言はそのコメント欄に書き込まれたものだ。

 

 

「……はぁ」

 

 

 ──あまりに()()()()のコメント欄に憂はため息を隠せない。

 

 人の『命』が関わっているというのに。 

 文面だけでなく動画でも示しているのに。流れるコメントは誹謗中傷で溢れている。時たま流れる心配のコメントなんて雀の涙だ。

 

 皆、誰もが──『命』の重さをわかってない。

 本気で死ぬとは思っていないのか。はたまた本当に死ぬかもしれないと理解した上でこれだけ人を傷つける言葉を重ねているのか。

 

 ──嗚呼

 ──わからない、わからないよ

 ──理解できない

 

 誰も彼もが人の『死』を目の当たりにしているはずはない。それは当然だ。今時 人が死ぬのなんて『交通事故』か『病気』、そして『自殺』くらいのものなのだから。

 

 だからだろうか……だから彼らはこれほどまでに『無知』で『無思慮』で『無分別』に育ったのだろうか。

 嗚呼そうさ──人は『死』から遠ざかりすぎたのだ。

 

 ──若者の死因最多である『自殺』。

 それだって実際のほとんどは事故死だ。死のうとして死ねるほど人は単純にできちゃいない。人が自ら『死』を選べるとしたらそれはきっと、自分よりも大切な誰かの為だろう。

 

 ──それが、人が人たる所以なのだから。

 

 それは『良心』。人間だけが持つ、人間だけの感情。それは尊くも儚い人の想い。だけど、それは良いことだけじゃない。

 

 人を自死に至らしめるもの、それこそが『良心』だ。多くの若者には耐えられないのだ──醜い己が、人に迷惑を掛ける自分が、何の役にも立てず、何者にもなれず、何も為せない愚かな自分が、そうして『良心の呵責』に苛まれながら生きる苦しさに、耐えられないのだ。

 

 それが何万人もの人々を殺してきた殺人鬼の正体。

 そうして──オレを殺す殺人鬼の名前でもある。

 

 ──この胸に燻る『善意』が『良心』が『罪悪感』が身を焦がす。

 

 自然に生きる動物は自殺なんかしない。そんな事せずとも死ぬときは死ぬからだ。本来 弱肉強食であるこの世界で生きていくためには強くなければならない。なのに現代の人間は明らかに増えすぎている。狩りを行わずとも食料が手に入るから。自分は狩られることがないから。

 

 どれだけ心が弱くとも生きられる。どれだけ社交性がなくても生きられる。どれだけ生きる価値のないゴミのような人間でも『社会』が『法律』が『権利』が──彼らを守る。

 故に彼らは努力しない。故に彼らは学ばない。

 

 ──何もしない。──狩りも。仕事も。感謝も。

 ──なぁーんにもしなくても生きていける世の中なんて──これほど狂った世界もなかなかないだろう。

 

 

 

『なんで死にたいの』

『やりたいこととかないの』

『やり残したことは?』

『彼女とか、ダメなの?』

 

 ネットにだって当然 純粋な子はいる。死にたいだなんて思ったことのない子供。夢を持った子供。まだ明るい未来しか、未来に希望しか見えていない子供。

そんな子供に八つ当たりするほど憂は人間として荒んじゃいない。

 

 ──むしろ彼らの為の配信なのだから。

 

 

「なんで死にたいの、ね。

──逆に聞くけど、君たちはなんで生きてるの?」

 

 

 子供にする質問じゃない。

 しかしそれは彼らを対等に見ているが故。

 

 

「酷な事を言うようだけど。

──人はいつか必ず死ぬ。必ずだ」

 

 

 ──何を当然のことを、そう思うかもしれない。

 しかし分かっちゃいない。分かった気になっているだけで、誰もそれを分かってはいないんだ。

 

 いつか死ぬ。いつか終わる。

 幸せも。出会いも。未来も。

 すべては終わるものでしかない。

 

 ──この世は所詮 諸行無常。

 終わり(エピローグ)からは逃げられない。

 

 分かっていない。何にも分かっていない。

 ──僕も、あなたも、あなたの友達もあなたの家族もあなたの恋人も──あなたが関わってきたすべての人が分かっていない。理解していない。

 

 ──否、皆が皆『見ないふり』をしているんだ。

 

 

「それは『事故』かも知れない、それは『殺人』かも知れない、あるいは『自然災害』、あるいは『病』、運が良くても『衰弱死』」

 

 

 ──想像してみて欲しい

 

 いいや、想像しろ

 思い描け。理解しろ。

 

 ──あなたの『人生』は──

 ──あなたの『身命』は──

 ──あなたの『時間』は──

 ──あなたの『未来』は──

 ──あなたの『幸福』は──

 

 ──あなたの積み上げてきたすべてのものは──

 

 

 たった、たった一度

 

 

 たった一度のありふれた事故で

 

 

 ──無に帰すのだ。

 

 

 それだけじゃあない。

 

 

「それがあるいは ただの『(ハッピーエンド)』であったなら。ほんの少しでも長生きしたいと、そう思えるかもしれない──でも、」

 

 

 憂は一度、そこで言葉を区切った。

 

 

「──死ぬまでずっと、苦しみ続けるんだ。

 ……安楽死はないからね」

 

 

 苦しみなき『死』は安息で、痛みなき『死』は救済だ。

 

 しかし、

 普通の『死』は──、

 普通の『生』は──、

 生まれてから消えるまでの時間は──、

 

 ──ただの地獄だ。

 

 

「──誰もが綺麗に死ねるわけじゃない」

 

「『孤独死』は死体が腐るまで見つけてもらえないこともある。『交通事故』で頭が潰れることだってある。死因は気持ち悪い『寄生虫』かもしれない。そこらに生えてる『キノコ』かもしれない。『強姦』された後 殺されるかもしれない」

 

 

 稀な死因。しかし──ありえる死因。

 ありえてしまう死に方。

 無残で残忍で残酷な──『(現実)』。

 

 

「──そんなものなんだ、世界は……っ! 死ぬんだよ人はッ! 日本でなくても世界では未だに戦争する国がある! ──どうかしてるよっ! 世界には生きたくて! ただ生きたくてッ! 毎日必死な人がごまんといるのにッ! 偉い奴らはいっつもそうだ! 殺し奪い引きずり合うことしか考えてないッ! ──同族で争って! 奪い合って! 殺し合って! いったい全体何がしたいんだ!? ──理解に苦しむッ! 理解できないッ! 何考えてんだよ!」

 

 

 突然豹変したように憂はその思いの丈を思うが儘に叫ぶ。そこに込められているそれは怒り?悲しみ?失望?……憂自身にだってわからない。

 

 

 はっ……はっ……はぁっ……

 

 

 一頻(ひとしき)り言い切って息を乱している。

 どうにも、調子がよくなさそうだ。

 しかし、そんな苦痛を押し殺して憂は続けた。

 

 

「……どうして、他人を意図して傷つけられる……」

 

 

 まるで寂しそうな声だった。

 どうして、その一言にすべての想いが乗っかっていた。

 

 憂は分かり合いたかった。

 理解したかった。

 誰もが仲良くなれると信じていた。

 すべての人間が根は良い人間なのだと信じていた。

 

 自分は正しくて、自分は幸せになる為に生まれてきたのであって、世界は『平和』と『公平』と『幸福』で満ちているのだと、そう勘違い(信じ)ていたんだ。

 

 でも、気づいた。

 きっかけは平凡だった。

 

 僕は間違えた。

 

 僕は正しくなかった。

 僕は良い人間ではなかった。

 僕は、優しい人間では、なかった。

 

 気づいてしまった。

 知ってしまった。

 ──理解してしまった。

 

 ──人は分かり合えないのだと。

 

 憂は理解できなかった。

 理解したいとすら、思えなくなった。

 

 

「……人はっ、無意識にでも他人(ひと)を傷つけるのに……っどうして……? なんで? なんでなんだよ……誰か、教えてくれよ……」

 

 

 疲れ切ったように、そうして救いを求めるように、彼は言った。実際、もう彼は考えることに疲れ切っていたのだろう。

 

 知りたかった。

 どうして自分は、在りたい自分で在れないのか。

 分りたかった。

 どうして人は人を傷つけることをやめられないのか。

 

 

 ──どうして、人を傷つけるの?

 ──どうして、蹴落とし合うの?

 ──どうして貶し合うの?

 ──どうして足を引っ張り合う?

 

 ──どうしてありもしない噂を信じる?

 ──どうしてそう誹謗中傷したがるんだ。

 ──どうしてそう他人の人生を滅茶苦茶にしたがる。

 ──どうして人を叩いて愉める。

 

 ──どうして人の不幸を嘲笑う。

 ──どうして一生懸命な人の邪魔をするんだ。

 ──どうして純粋な人を馬鹿にするんだ。

 

 

 ──どうして、どうしてっどうして──ッ

 ──わかってくれないんだ!!

 

 

 ──笑うな! 邪魔するな! 馬鹿にするな! 

 ──それのいったい何がそんなに難しんだ!?

 

 

 理解できない不快感が──、

 向ける先のない不満が──、

 ──『怒り』となって溢れ出す。

 

 初めは深呼吸で済んだものが、次第にそれでは足りなくなるんだ。余裕がない日は物に当たるようになり、それでも抑えきれない日は自分に当たり、それでもまだ……まだ抑えられなくなったとき──。

 

 爆発した不満は矛先を見失って。

 

 

 ──どうしてお前らはそんなに『馬鹿』なんだッ!!

 

 ……って。

 

 

 そう思ったら、僕も一緒なのだと気づいてしまった。

 

 僕の善意は誰かにとっての悪意で。

 僕の正しさが善良な人(アクニン)を傷つける。

 

──自分が善人であると信じて疑えなかった僕が──

──他人を悪だと断じて自分を疑えなかった僕は──

 

 

「……もう遅いんだ。僕はもう『答え』を出した」

 

「──だから死ぬことにしたんだよ。もう誰も傷つけないように。…………彼女、いたことあるよ。もういないけど。オレは彼女のことを忘れて他の奴と付き合うなんてことはしたくない」

 

 

 彼に何があったのか。彼はその一切を語らない。

 

 憂は自分語りをしにここへ来たのではないのだから。

 憂の目的はそこにはないのだから。

 

 

 

『悲劇のヒロインかな??』

『かわいそーw』

『中二病乙』

『あいたたたたた』

『自分に酔ってるタイプだ。きも』

『ただのナルシやんw』

『思考が浅い』

『シヌナヨー』

『盛り上がってキタァァ!w』

『かっこいいじゃん』

『気持ちはわかるけど人間なんてそんなもんじゃね』

『──僕はもう答えを出したっキリッ』

『飛ばないの?』

『飛ぶの? 飛ばないの?』

『どっちなの?』

『え、まじに飛んじゃう気?』

『やめときなよー』

『こういう奴見てるとイライラする』

 

 

『──早く飛べよ』

 

 

「……クソ野郎どもが。……はぁ、いいさ、いいとも。その為にオレはここに来たんだから」

 

 

 憂は凍った雨に身を打たれながら、己が存在を目一杯に主張するように手を広げ、そうして叫んだ。

 

 

「──よく見ておけ!

 そして学べ! 知れ! 感じろ!

 ──『死』をッ!!!」

 

 

 目が合った。

 

 

「……お前らは、こんな風になるんじゃねぇぞ」

 

 

 ただ一言、そう言い残して。

 スマートフォンを片手に持ったまま。

 動画のランプは点滅したまま。

 

 憂は高層ビルを真っ逆さまに落下していった。

 

 

◆◇◆

 

 

 ──怖い。

 

 人生で感じたことのない速さ。風圧。

 

 ──怖い。

 

 心臓が狂ったように脈打っている。

 

 ──怖い。怖い。怖い。

 

 落ちるまでの時間が嫌に長く感じる。

 思考が加速する。

 走馬灯なんか見えない。

 死ぬ直前はアドレナリンで痛みを感じないって本当だろうか。

 怖い。

 誰も死んだことなんてないのに。

 こわい。

 死が近づいてくる。

 オレの人生クソだったな。

 会いたい。

 会えるかな、あいつに。

 まだ落ちる。

 痛いかな、痛いよな。

 くる、くる、もうすぐくる。

 スバルはずっと痛がってた。苦しんでた。

 

 

 最期に思い出したのは、あの世に行った家族のことでも、恋人のことでも、ましてや自分自身のことでもなかった。

 

 

 あぁ、結末、読みたかった、な。

 風を感じる。

 もうすぐ、スバルの気持ちがわかるかな。

 死が目前にある。

 ──ははっ理解する前に死にそうだけど。

 命が終わる。

 

 

 もう恐怖は感じなかった。

 憂はその瞳を静かに閉じた。

 

 

 もうすぐ。もうすぐ。もうすぐ。

 

 

 

 ………………………

 

 

 ————————————————

 

 

 ————————

 

 

 ———

 

 

 

 

 

 固く冷たいコンクリートに()()()の落ちる音が響いた。

 

 

 

 

 

『──スマホだけ落とすとかしょうもな』

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 暗い暗い憂の心を表すような真夜中に。

 冷たい冷たい憂の痛みを伴う哀しみを表すような雨の日に。──両親の命日に。

 

 憂は世界から──その存在を消した。

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「は」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 憂は急に飛び込んできた陽の光に目を焼かれた。

 それでも無理やり開いて見えたのは──。

 

 

 ──見覚えのない厳かな屋敷だった。

 

 

「───。」

 

 

 

 

 

「──貴様ッ何者だ!」

 

「──ッガッ!?!……!?……?…………───」

 

 

 無理解の果て、憂は何者かに後頭部を打たれ意識を失った。

 

 

◆◇◆

 








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【2】彼方(あなた)(ささ)ぐ『夢現(プシュケー)
始まりの悪夢



 ──さァ!
 死にたがりな主人公の成長と喪失の物語の始まりダ!

 ドウゾ。四千字


 

◆◇◆

 

 

『──起きて』

 

 

 懐かしい声が聞こえる。

 

『もう朝よ』

 

 無償の愛と少しの厳しさが込められたその声。

 

『いつまで寝てるの。早く起きなさい。もう学校に行く時間でしょ』

 

 それが誰のものかなんて目を瞑っていてもわかる。

 

 ──母さん。

 

 これは夢。悪い夢だ。

 

 ──あぁ、その声に応えてあげたい。今起きるよって、今行くよって……そう言えたら、そんな当たり前の会話ができたなら、どんなによかっただろう。

 

 もう叶わない会話。二度と来ない当然。

 極々平凡な──戻らない日常。

 

『目を覚まして』

 

 こっちのセリフだよ。

 いつまで寝てるの。

 目を覚ましてよ。

 お願いだから。

 

 叶わない願い。

 伝わらない愛。

 すぐに覚めてしまう、人の夢。

 

 ──オレ、頑張るからさ。

 

 ちゃんと大人になって、ちゃんと働いて、老後だって安心して暮らせるようにしっかり養うからさ。

 

 だから……

 

『──もう、そんなこと考えなくていいのに。あなたはあなたのしたいことをすればいいのよ。──愛してるわ。いつまでも、いつまでも──見守ってる』

 

 

 

 

 

 

 ──あぁ──

 

 ──そういえば、母さんは最後にそんなことを言ってたっけなぁ──

 

 あれから──母さんがいなくなってから。

 時間はあっという間に過ぎてしまって。

 

 ゆっくり考える暇はなかったから。

 子供のままではいられなかったから。

 考えまいと、大人になろうとした。

 でも──、

 

 せめて夢の中でくらいは、子供に戻ってもいいだろうか。

 

 

 ──飛び降りたの、見てた?

 怒ってる、よね。

 いいんだよ……ぶん殴っても。

 

 怒ってよ。叱ってよ。

 

 なんでこんな馬鹿な真似をしたんだって。

 どうして命を粗末にしたんだって。

 

 ……もうわからないんだ。何が正しくて、何が間違っているのか、わからないんだ……分かんなくなっちゃったんだ。

 

 教えてよ。助けてよ。

 

 どうして、いなくなっちゃったんだよ。

 どうして、僕を産んだの。

 ──僕は何の為に生まれたの。

 

 ごめん、母さん……ごめんなさい

 

 まともでいられなくてごめんなさい。

 死に逃げてごめんなさい。

 生きることを諦めて、考えることをやめて、命を粗末にして、普通に生きられなくて、普通の子供じゃ、なくて。

  

 ──ごめんなさい

 

 

 

 

 

 ……でも、

 

 でもね。

 

 誰かがあの動画を見て、『自殺』の、『死』の、凄惨で 無為で 呆気なくて、虚無感で 喪失感で 孤独感で 満ち溢れたその光景を見て。

 

 

 ──誰か一人が、誰か一人を傷つけるのをやめて

 

 ──傷つけられるはずだった誰か一人が、何も知らぬまま救われてくれたなら

 

 ──誰かの救いになれたなら、俺の人生にも意味があったということ

 

 ──オレの憂鬱にもオレの絶望にも、誰かの力になれるだけの価値があったということ

 

 

 その為の行為だったんだ。

 その為の行動だったんだよ。

 その為に僕は身命を賭したんだ。

 見てくれた誰かが変わってくれると信じて。

 見てくれた誰かが救われると信じて。

 

 なのに、

 

 

 ──死ねなかった

 

 

 なぜ。なんで、どうして?

 その疑問が解決することはない。

 現実には夢も希望もないけれど、まさか。

 

 ──死の自由すら。安息の時を選ぶ権利すらないとは、思わなかったなぁ

 

 

 

 世界は自由奇天烈摩訶不思議。

 

 故に理不尽。

 故に災厄。

 故にあなたの思うが儘。

 

 

 故に、

 

 

 ──少年は夢から覚めなければならない。

 

 

◆◇◆

 

 

「───」

 

 

 少年は目を開いた。

 視界に写るのは見知らぬ天井。

 荘厳な光に目を覆われた。

 

 視界を取り戻そうと、一度(ひとたび)瞼を閉じれば。

 瞼から零れ落ちる雫とその余熱だけを感じる。

 いつも通りの寝起き。

 いつも通りの悪夢。

 

 起きた時、現実に目が覚めてしまった時。

 いつだって感じるのは生きることへの憂鬱。

 未来への不安。死ぬに死ねぬ絶望感。

 

 ──どうして目は覚めてしまうのか。

 

 微睡みに沈む権利すら人間には──。

 

 そんな益体もない戯言で頭の中を埋め尽くしていた少年に、その異物はどこまでも清廉に紛れ込んできた。

 

 

「──泣いているのですか?」

 

 

(──っ)

 

 突然 横からかかった彼女の声に、憂の世界は破壊され 思わず体を起こした。

 

「──ッ!? あ゛ぐっ痛ッたっ! いたいッ!?」

 

(頭が──ッ)

 

 今まで感じたことのないほどの頭痛。鈍痛。鈍い痛み。

 体を起こした反動で脳が揺れ、その振動が頭の中で二転三転 増幅し続け、結果 凄まじい振痛となって跳ね返ってきた。

 えげつい痛みに耐えかねた憂は両の手で頭を押さえ、ベッドの上で身悶える。

 

「だっ、大丈夫ですか!?」

 

 とんでもない頭痛に目を開くことすらできず、その声の方を見ることもできない。──が、どうやら背中をさすってくれているらしい。

 

 自然と涙が出てきた。

 それは痛みに因るものかそれとも。

 

 ──人の温もりを感じるのなんて、ずいぶんと久しぶりな気がする

 

 その温もりは憂の心に浸透し、頭痛を一時的に()ませるだけの力があった。憂は思考するだけの余裕を取り戻した。

 

 ──ちゃんと、感謝しないと

 

 母親が亡くなってからついぞ来なかった安らぎを齎してくれたことに。

 その温かな気遣いに感謝を述べるのは人として当然の行いなのだから。

 

「──あ、ありが、と──っあがあ──ッ」

 

 言えなかった。

 なんでこんなに痛むんだ。

 なん、で──いや待て。

 

 ──オレは確か

 

 憂は思い出した。

 目覚める前の出来事を。

 

 ──そう、だ、オレは……だから……

 

 過去と現在を結び付けて。

 結論を導き出す。

 

 ──オレ、飛び降りて死ねなかったッ!?

 

 飛び降りて頭を打ったのだと、そう直感した。

 だが──違う。

 落ちてたら生きているはずがない。

 そんな可能性のある高さではなかった。

 

 憂は最後の光景を思い起こす。

 

 ──確か、急に風を感じなくなって。

 

 そう、突然。

 突然光が目に差し込んできて

 それで『屋敷』が──、

 

「──今、お父様を呼んできますねっ!」

 

「………あっ」

 

 憂が思考している間に、そう言って声の主は行ってしまった。

 彼女は誰だ。……ナース? 

 いやでも 今“お父様”って……

 それに、声が凄く若い──少女のような──

 

 ──ドクン 

 

 その時、心臓が一段と大きく脈打った。

 

「っ」

 

 ドクン、ドクン、と心臓が大太鼓を鳴らしている

 ズキン、ズキン、と脳が警鐘を鳴らしている。 

 

 鈍く重く頭に圧し掛かる血の脈動。

 毎秒、心臓が脈打って鮮血が巡る。

 その度に頭の中心、脳が悲鳴を上げる。

 それは殴られたとか、そういった痛みとは違った。

 何か──脳の処理能力が圧迫されているような、そんな痛み。

 

 ──っ……頭痛、が、酷すぎる……

 

 ただでさえ考えることが多い今の憂にはその痛みは耐えかねた。

 ついには限界を迎え、意識が遠のき、目の前が闇に覆われていく。

 

 

 少年は再び悪夢に堕ちた。

 

 

◆◇◆

 

憂君はさ、どうして私に優しくしてくれるの?

 

 どうして?

 そんなの一つしかない。

 

◆◇◆

 

 

「───。」

 

 目が覚めた。

 同じ天井だ。

 死に際の夢じゃなかったのか。

 

 再び目が覚めると

 ──そこには見知らぬ男の人がいた。

 

 

「──大丈夫かい? 

 頭は……? 話せそうかい?」

 

 

 ──誰。

 

 医者か……?

 憂は未だ重い頭をゆっくり持ち上げてそちらを見る。

 そこには、見たこともない髪色の偉丈夫(いじょうふ)がいた。

 

 ──緑の、髪……?

 

「ずっと眠っていたから喉が渇くだろう。

 さぁ、これをお飲みなさい」

 

 男はそう言って、金属製の器に水を注ぎ手渡してきた。

 その奇抜、というより目に馴染みのない光景に一瞬思考が止まった憂は呆然とそれを受け取ってしまった。

 中を覗けば透明な液体。

 匂いもない。

 

 ──水……毒?

 銀の器なら大概の毒は入っていないはずだが……

 

 そんな思考がよぎり、

 ちらっと男の方を視認すれば、彼は朗らかに微笑んで見返してきた。そして、その瞳に確かな思いやりと心配の念が籠っていることを理解した。

 

 ……不安症が出た。

 悪い癖だ。

 憂は気を取り直すように水を一気に飲み込んだ。

 

「──ッげふっげふっ」

 

 男らしく一気飲みした憂は しかし勢い余って(むせ)てしまった。気管に入ったわけではないが、思っていたよりも自分の喉は乾いていたらしい。いったいどれだけ寝ていたというのだろうか。

 乾ききった体は突然の潤いを拒絶し、咳き込む。

 

 ──すると再び、背中を(さす)られた。

 

「──ほら、たくさんあるから。ゆっくりお飲み。

 もしお腹がすいているのならそれも用意させよう」

 

 ──まただ。

 なんだか、懐かしい感じがする

 

 憂は咳き込んだまま涙目になりながらもその方を向いた。そうして、その姿を視認したのと同時に、

 

 

「私はカルステン公爵家現当主。

 ──メッカート・カルステンという」

 

 ──。

 公爵家……? 貴族? 

 冗談……そんな雰囲気じゃない。

 なんだ、何が起きてる。

 

 その名乗りは憂の理解を超えていて、

 否、理解しないようにと憂の脳が拒絶していた。

 

 だが、確かに男は名乗った。

 ──よく知る貴族の名を。

 

 令和の世に生きる少年が知っている貴族などマリー・アントワネットか、あるいは──創作の中の登場人物くらいだろう。

 

 ──偶然、だろうか?

 

 当然そんなこと現実にあるはずはない。

 ありえない、当たり前だ。

 “カルステン”という名の貴族がいることを知っているが故のオレの勘違いかこじつけに違いない。

 そう、どうにか非現実を否定しようと試行錯誤する憂。

 

 だが、

 

 

「そして隣にいるのが娘の“クルシュ”だ。

 一緒にいると聞かなくてな……同い年くらいだろう?

 仲良くしてやってくれ」

 

 

 男──メッカ―トは続けて言った。

 ありえない。

 そんなはずない。

 そんな儚い抵抗を、その少女の存在が打ち砕いた。

 

 ──そこには──

 

 

 

「──クルシュ・カルステンです。どうぞよしなに」

 

 

 

 そこいたのは──まだ幼いお姫様。

 翡翠のような美しい髪をした美姫。

 高貴と清廉を体現した一人の女の子。

 

 そんな彼女が、

 ──こちらに微笑みながらお辞儀をしていた。

 

 その姿は、見知った姿よりもだいぶ幼かった。

 しかし、──見知った姿の百倍は綺麗な女の子だった。

 

「は。……ハ、ハハ」

 

 いけない、思考が止まった。

 

 受け入れがたいその現実に

 憂は思考を彼方に投げ打ってしまった。

 こちらに微笑むその魅力的すぎる女の子に。

 

 憂は乾いた笑いを溢すことしかできなかった。

 

 

◆◇◆

 






 ………鬱々しく鬱クシク!


 『偉丈夫』
 ⇒体が立派で、すぐれた男。


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『現実の終わり』


 ——あなたに残酷な現実ヲ。

 ドウゾ。九三


 

◆◇◆

 

 

『えー■■ちゃんもしかしてあのデブと付き合ってるの~?wwありえなーい!ww』

 

 

 ──耳障りな声が聞こえる。

 キーキーと鳴く子供。まだ社会を知らず無知で無思慮で純粋無垢ゆえの悪意。他を蹴落とし、己が優位に立つことしか考えていないメス猿の戯言(ざれごと)。そんな人間にすら満たない類人猿の譫言(うわごと)なんて、いつもなら気にも留めないはずなのに。

 

 ──静かにしろよ

 

 彼女を馬鹿にするな。笑うな。喋るな。

 聞いているだけで不愉快になるその口を閉じろ。

 ──どうしてこうも違う。

 

『ニキビクンまた爪噛んでるよ!きったねぇ!』

 

 うるさい。うるさいよ。もう黙ってくれよ。どいつもこいつも人を貶めることしか能がないサルばかり。

 僕がお前に、お前らに何をした。 

 お前らはそうやって人を馬鹿にして、虚仮(こけ)にしてあざ笑うことしか考えてないんだろう。何の為に生きているんだ?──こいつらは。

 

 耳を塞いでも聞こえてくる罵倒。誹謗。罵詈雑言。

 

『チビでデブで不細工とかっ!wwマジかわいそww』

 

 ──うるさい。うるさいうるさいうるさい。

 

 五月蠅(うるさ)い。(わずら)わしい。忌々(いまいま)しい。

 

 それでも僕は何もしない。何もしてやらない。傷ついてなんてやらない。注意なんてしてやらない。こんな奴らを更生させたところで何の意味もない。

 世の中はこんなアホどもで溢れかえっているのだから。

 馬鹿にしたければ馬鹿にすればいい。足りない脳を総動員して粗さがしでもなんでもすればいい。

 お前らの一生も人生も、僕の知ったことじゃない。

 

 ──僕は違う。

 僕は、お前らなんかとは──っ

 

 やり返したら同じになる。

 やり返さなければこの地獄は続く。

 それでも逃げない。逃げるわけにはいかない。

 逃げる必要なんて、ない。

 

 僕は、大丈──

  

 

『──いいんだよ、泣いても』

 

 

 それは糸。

 地獄に垂らされた一本の糸。

 『毒』を孕んだ蜘蛛が垂らした──救いの糸だった。

 

 

◆◇◆

 

 

「──ッ──『リカ』っ!」

 

 

 夢から覚める。

 夢幻は露と消え、望みのない現実に帰ってくる。

 憂は勢い良く起き上がり、その名前を叫んだ。手を伸ばし、薄れゆく彼女の幻影を繋ぎ止めるように。

 

 しかし、ここは現実。

 すぐに「はっ」と酔いが覚めた。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 体中から嫌な汗を感じる。

 呼吸は荒く、身体はだるく、思考をすることさえ陰鬱に感じる。さっきまで寝ていたはずなのに、疲れが取れたようには思えず、それどころか増したようにすら思える。

 

 ──あぁ、いつも通りの朝だ。

 

 だが、これが憂にとっての当たり前の起床。いつも通りの惨めな朝。慣れたものだ。この悪寒も、最悪な目覚めも、容赦ない悪夢も。だけど慣れても慣れても終わりは来ない。むしろそのどれもが悪化していくばかり。

 

 それがどうしようもなく不快で心地悪くて報われなくて、寒がるように両の腕をさすってしまう。

 ──そうやって自分を抱きしめていないと、どうにかなってしまいそうで……

 

 

「──大丈夫ですか?」

 

 

 それは、芯のあるせせらぎのような、美しく清廉な声だった。

 それは人を安心させる庇護者の声音。

 その声のもつ不思議な温かさが、魔法のように憂を包んで覆ってくれる。

 

 ……温かい。

 

 その一声が憂に与えた影響は絶大だった。

 体を縮めて自分を守り、心を(ふさ)いで()(しの)ごうとする憂の凍える心身を優しく紐解き、憂は正体不明の寒気(さむけ)から解放され通常の体感を取り戻した。

 

「……いえ、大丈夫です。──クルシュさん」

 

「もう……クルシュで良いといつも言っているでしょう? それにどう見ても大丈夫そうには見えません」

 

 クルシュは心配そうに憂を見つめた。

 

 その瞳は真っ直ぐこちらへ向けられていた。

 そこに負の影は一切なく、ただこちらを(おもんばか)る気持ちだけが籠っていた。

 

 ──心配させてはいけない。

 不安そうな顔をさせたくない。

 あなたには笑っていて欲しい。

 

 憂はその気遣いが嬉しくて、同時に心苦しい。

 そんな顔をさせる自分が情けなくて、不甲斐ない。彼女に不安そうな顔をさせたくない、笑っていてほしい。

 憂は彼女のひたすらに清らかな微笑みが好きだから。

 彼女がそうやって微笑むだけで、憂を煩う痛みも苦悩も容易く風に乗って飛んでいく気がするから。

 

 憂は話を切り替える。

 

「そんなことより。どうしていつも起きると横にいるんですか? あなたはそんなに暇じゃないですよね? お貴族様の勉強はいいんですか。──最近は剣術も習い始めたらしいじゃないですか」

 

「あなたの寝覚めが悪いのがいけないのですよ。確かに最近は忙しい身ではありますが、それ以前に私はあなたの家族、お寝坊なあなたを起こすのも私の役目です」

 

「……寝顔を見られるのが嫌なんですよ」

 

「私に寝顔を見られるのが嫌というのならもう少し早く起きてください。ほら、こうしているうちにそろそろお勉強のお時間ですよ。早く支度をしませんと!」

 

「……はぁ、あなたは僕のお母さんですか」

 

「何か言いましたか?」

 

「いいえ。……はい、わかりました。わかりましたから、先に行っていてください」

 

「……まったく、ユウは年下のくせに生意気です!」

 

「……。」

 

 

「──早く来てくださいね!」

 

 

 バタン、と音を立ててドアは閉まった。

 誰もいなくなった自身に与えられた部屋で一人の少年は──()()となった憂は独りごちる。

 

「…はぁ、いったい何がどうなっているのやら」

 

 現在クルシュお嬢様は十二歳。

 ──僕は()()ということになっている。

 

 そんなはずはないし、こんなはずではなかった。

 自分は()()()の大人だったはずなのに、目が覚めたら小学生程度にまで体が縮んでいた。

 

「……俺はいつからコナン君になったんだ」

 

 

 ──ああ、憂鬱だ。

 

 

 原因不明。まったく理由(わけ)のわからない若返り。

 

 憂は再び子供として人生を歩むことになった。

 それを人生をやり直せるいい機会だと考えるか、憂鬱だと捉えるかは明暗別れることだろうが、憂は後者であった。

 

 しかし、憂の呟きは別段悲嘆に暮れてはいなかった。

 これはただの口癖のようなものだ。

 

 ──なにせ、もうこの屋敷で過ごして()()も経つのだ。

 流石にそれだけの時間があれば受け入れるしかない。

 

 これは夢でもなんでもなく、本当にリゼロの世界に迷い込んでしまったのだということ。身体は縮み、少年となってカルステン家の小間使いとしてお世話になっているということ。それはもう受け入れるほかない現実であった。

 

 

 

 憂は大学を中退しているが、それでも高校までの勉学をマスターしている。魔法があるとはいえ中世に近いこの世界でそれだけ学を修めている人材と言うのは貴重だ。

 

 それをクルシュさんが見抜いてくれて、文官候補として雇えないか、と当主様に掛け合ってくれたのだ。

 

 そうして何とか右も左もわからぬまま放り出されることはなく、カルステン公爵家に居候をしながら勉学まで教えてもらい、雨風空腹に心配のない生活をさせてもらっている。

 正直言って恵まれすぎている。

 

 まぁ、そんなことは実際どうでもよくて。いやどうでもよくはないんだが……。

 

 

 ──それより。

 

 

「──クルシュ様──可愛すぎるッ! 尊いッ!」

 

 

 もう本当に、本当の本当に可愛い。美しい。綺麗だ。

 自分の語彙力のなさが恨めしい。

 

 『原作』での『武人』としてのイメージやスバルに対しての『厳格』なイメージがあって正直結構怖かったんだけど、だけど──。

  

 ──全っ然! ──そんなことなかった!

 

「何でもできる完璧な人を想像してたけど、勉強も運動もそれほど得意なわけじゃなさそうだった。まだ子供だからというのもあるだろうけど、きっとクルシュさんは人よりも自分に厳しい、人に甘えるのが不得意な、天才でも完璧でもない、そんな努力の人なんだ」

 

 憂は一年間、ずっと見てきた。

 一年間、彼女と共に暮らし同じ時を過ごした。

 

 幼いながらに熱心に(まつりごと)を学ぶ生真面目な彼女を見た。

 子供ながらに自領を誇らしく語る可憐な彼女を見た。

 

 嫌々ながらピーマルを食べる可愛らしい彼女を見た。

 母君に抱きしめられ抱きしめ返す、そんな子供らしい彼女を見た。 

  

 騎士たちやご両親、メイドらや執事にこよなく愛され、期待され、大切に育てられ、そうしてそれらの期待に応えようと一生懸命頑張る彼女を、憂は見てきたのだ。

 

 

 僕はそんな尊い景色を見て、ただ──。

 

 

 ──いいなぁ。

 

 

 そんな感傷を抱いてしまった。

 僕は、本当にダメな奴だ。

 

 その完成された光景に。美しい家族の輪に、自分なんかが入り込むことはできなかった。

 僕は一人勝手に疎外感を得た。

 

 

 ──でも。

 

 

「……クルシュさんは料理もそんな得意そうじゃないのに……手にたくさん傷を作って、僕に──クッキーを作ってくれて」

 

 

 ──それは固くて、苦くて、歪な形をした。

 

 ──温かい愛だった。

 

 

 多分きっと、彼女の前で泣くのは後にも先にもその一回きりだ。

 

 僕はもう大人なのに。相手はまだ子供なのに。

 それは、その温もりは、泣きたくなる温かさで。

 

 家族を失った日の心の罅が埋まるようで。

 『彼女』との温かい思い出が蘇るようで。

 飛び降りたあの日に冷えた身体が温まるようで。

 

 僕は耐えられなかった。

 

 そうして、泣いて泣いて泣き喚いて、僕は──俺は決意した。

 

 もう泣かない。涙はもう出尽くした。

 

 だから。

 

 

 ──彼女を守る。

 

 

 憂はそう決意したのだ。

 

 また間違えるかもしれない。

 また傷つけるかもしれない。

 俺は間違っているのかもしれない。

 俺は関わるべきではないのかもしれない。

 

 ──それでも。守るのだ。そう決めた。

 

 ──今度こそ、絶対に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──と、そんなこんなの時を経て、今に至るわけなのだが。

 

 

「……クルシュって呼んであげたいんだけどなぁ」

 

 憂には多くの課題があった。

 

 まず、地位。

 それはカルステン家での地位を指すものではない。それも大切ではあるが、もっとわかりやすく言うならば──身分である。

 

 憂がクルシュ、なんて呼び捨てにしているのが周囲の人間にバレれば一発で──クビだ。それは誇張でもなんでもなく貴族社会では当たり前の礼儀、礼節だ。

 

 当主様は娘の対等な友達になることを俺に求めてくれているが、実際この家に厄介になっている身でクルシュさん呼びなのもグレーゾーンなのだ。公的な場では必ずクルシュ様と、そう呼ばなければならない。

 

 それは仕方のないこと。

 だって憂は──『孤児』ということになっているのだから。

 

 それが憂の身分であり、覆しようのない事実である。

 

「はぁ……憂鬱」

 

 思わずそうため息と口癖が出てしまうのも仕方がない。憂には本当にどうしようもないのだから。

 

 孤児だからどうしたのか、だって?

 

 それの何が問題なのかと言えば──『騎士』に相応しくない事、である。

 

 ──そう。孤児では騎士になれないのだ。

 

 そして、それがもう一つの課題に繋がる。

 

 それは──『戦闘力』。

 戦う力。憂には“守るための力”がなかった。

 

 運動神経が悪いわけではない。むしろ平々凡々に過ごしてきたにも関わらず──日本人離れした肉体、筋肉、身体能力を憂は持っていた。

 

 生まれつき憂は割とハイスペックなのだ。

 

 た・だ・し……今の憂は子供の身体である。

 故に将来はわからない。

 そして何より──憂には“人を殺す覚悟”が──それ以前に人と武力で争う武人としての心構えがなく、人にその手で暴力を振るえる確信が持てなかった。

 

 致命的である。

 

 ならば、『ナツキ・スバル』のように知力で守り支えるか? 答えは否である。

 

 憂は賢い。物覚えは良く一度見たものは大抵忘れない。学びを活かす力もあり、概ね天才の部類である。

 

 しかし憂には──『死に戻り』がない。

 それではいくら賢くとも守り切れない。大事な時に──そう、いずれクルシュに降りかかる災厄に対して、それではダメなのだ。

 

 守り抜く『力』が要る。それもただ守る力では足りない。

 

 憂がクルシュの『騎士』になる為には──『孤児』という身分を覆して堂々とクルシュを守る為には──圧倒的な力がいるのだ。

 

 故に。

 

 

「……さて、準備しますかね」

 

 憂は今日も魔法の鍛錬に勤しむのである。

 

 

◆◇◆ 

 

◆◇◆

 

◆◇◆

 

 

「──フーリエ殿下がお亡くなりになりました」

 

 

 王族の元小間使いである男が告げた。

 元、だ。もう──王族はいないのだから。

 

 

「つきましては『盟約』に従い龍歴石のお告げに即し新たなる王の選定、王選が執り行われます。時代の王候補は偉大なる神龍に選ばれし龍の巫女。その可能性のある貴族のご子息ご息女の方々は必ずご参加ください。それでは失礼致します」

 

 

 王が不在となってしまった王国に、亡くなってしまった王族を喪に服す時間などありはしない。それどころか王がいなくなったことを他国に知られないようにするため国葬すら行うことはない。王選候補者五人が揃い王選が開始するその日まで、殿下の死を悼む時間はやってこない。

 

 

 

 

 

 小間使いが去り、応接間に残るのは四人。

 当主様とクルシュ様、そして俺とフェリスだ。

 

 

「とうとう殿下も逝ってしまわれたか。予期していたとはいえ、これから王国は荒れるだろうな」

 

 そう当主様が切り出した。

 

「私は殿下との約束通りその遺志を継ぐ為、王選に参加しましょう」

 

「だが『巫女』に選ばれなかったら、わかるな?」

 

「……はい」

 

 

 王候補として、龍の『巫女』として選ばれなかったのならクルシュは女であるため当主足りえず家督を継げないため、フーリエ殿下以外の殿方とまたお見合いをし婚姻しなければならない。

 

 それは父親としてはさせたくないが、代々続いてきた家を、民を守る、民を導く貴族としての役割を娘可愛さに放棄するわけにはいかないのだ。ただの娘を溺愛する父親であれるほど貴族という民草の税で生きる者の肩書は安くない。

 

 だがそれは──選ばれなければの話だ。

 

 

「──選ばれますよ。クルシュなら絶対」

 

 憂は断言する。憂は知っているのだから。

 

「ユウのゆー通りですよ当主様! クルシュ様が選ばれないはずありません!」

 

 フェリスも賛同する。フェリスはクルシュ大好きフリスキーだからな。当然その未来を信じている。

 

「ありがとうな二人とも」

 

「「はい!」」

 

「……ああ、そうだな。お前ならばまず候補には選ばれるだろう。私だって信じているさ」

 

「期待を過分な評価にさせないよう己の魂に誓って、王選に努めましょう」

 

 メッカ―トもまた贔屓目抜きに娘が傑物であると確信している。

 そしてクルシュ自身も殿下が信じた己と、自身を支えてくれるフェリスとユウがいればそれを為せると、そう己と仲間を信じている。

 

 

「ルグニカ王国四十二代目の国王には──私がなる」

 

 ──手を貸してくれるな? ユウ、フェリス。

 

 そうクルシュは宣言し、最後の確認をする。

 ──答えなど決まっている。

 

「はい!」「当然!」

 

 

 いずれ来る災厄も──俺が絶対になんとかする。

 その為に力をつけてきた。

 その為に今まで必死に努力してきた。

 俺はこの世界の異物だけど、もう八年も共に暮らし共に助け合って生きてきたのだ。

 

 

 ──俺が必ず──クルシュを王にする。

 

 

 誰にも邪魔はさせない。

 魔女にも魔女教にも──『ナツキ・スバル』にも──誰にもだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう。

 

 何も起こらずに。

 

 一度も死なずに。

 

 憂鬱を忘れ。

 

 絶望を知らずに。

 

 順風満帆に異世界を謳歌する。

 

 

 

 

 

 

 

 

『──そんな未来は来ない』

 

 

 

 

 

 

 

 

『これは夢』『泡沫の夢』『胡蝶の夢』

 

『あり得たはずの、──ありうべからざる今なのだから』

 

 

 

◆◇◆

 

◆◇◆

 

◆◇◆

 

 

 ──ここは、どこだ。

 

 憂は得体のしれない微睡みの中にいた。

 

 

『ユウ!』『ユウっ!』

 

 ──声が聞こえる。

 

 

 大切な人たちの声が──。

 

 

『……ユウ。私は令嬢として女らしくあるべきなのでしょうか。それとも当主として剣を嗜め民を導けるよう強くあるべきなのでしょうか』

 

『──ありがとう』

 

『あなたとの婚姻が許されたなら──』

 

『今日から一緒に住まう家族が増えますよ!』

 

『フェリスとユウはどうしてそう喧嘩ばかりなのだ』

 

『喧嘩するほど仲が良い、なるほど。…ならば私も──』

 

『また、助けられてしまったな』

 

『フーリエ殿下との婚約が決まった』

 

『殿下は素晴らしいお人だ。…だが、私は──』

 

『──領内に大兎が出ただと!! 父上が討伐に向かわれた!? ──私もすぐに向かう!』

 

 

 クルシュさん。クルシュ様。クルシュ。

 

 ──夢じゃない。覚えてる。

 朧気だけど──ちゃんと覚えてる。

 

 

『──ユウッ!!』

 

 

 泣かないでくれ。あなたの為なら、俺は──。

 

 

 

 

 

 ──声が、聞こえる。

 

 

『わたしは、ぼくは……』

 

『ぼくがきもちわるくないの?』

 

『…──ふぇりす』

 

『……とも、だち?』

 

『そっか。──ありがとね、ユウ』

 

『クルシュさまを一番お慕いしてるのはこの私っ!』

 

『時間にゃんて関係にゃいもん』

 

『──今、にゃんて』

 

 

 そんな驚くことだろうか。君が──。

 

 ──そうだ、俺は──。

 

 

『──ユウっ! 待って──いかないで!』

 

 

 ごめん。過信した。ああ、こんな呆気なく。

 ……大丈夫。俺がいなくてもきっと──だから泣かないで。

 

 

 

 

 

 ──そうだった。俺──死んだんだ。

  

 

 命の雫が零れている。

 既に下半身の感覚はなく。

 否、下半身そのものが存在しない。

 突然肥大化した()()に、クルシュを庇って持ってかれたのだ。

 

 

 いくらフェリスの力でも、これだけの損傷では『禁術』でなければ治せないだろうな。

フェリスは、使うだろうか。きっと使うだろう。

 

 

 ──フェリス、怒るだろうな……。

 

 

 ──あぁ…──起きたら、謝らないと。

  

 

 ──起きたら…──起きたら……──起きたら………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『違う』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗く暗く淀んで澱んで穢れた汚らわしい──凛とした声が響いた。

 

 その声と共に、フェリスの引っ張る力とは比べ物にならない力で──憂の魂は漆黒の魔手に攫われた。

 

 

『──違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う……──アナタじゃない』

 

 

 気が付けば目の前に黒い女の影がいた。

 彼女は何度も何度も何度も何度も壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返した。

 

 

 ──なん、だ……違う……?

 

 ──それは…──

 

 

 周囲を見渡せばそこには何もあらず。

 そこは光も通さぬ闇の中。

 高濃度の瘴気に満ちる場所。

 彼女以外誰もいない孤独の場所。

 

 ふいに、女の影から手が伸びてきた。

 そして──

 

 

 

 ──今までに感じたことのない苦痛を与えられた。

 

 

 

「──ッア゛あ゛あああぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!?!???!?!」

 

 

 

 それは耐え難い激痛だった。

 それは尋常ならざる苦しみだった。

 

 

 ──痛い痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛辛辛苦苦痛痛ッッッ!!!!!

 

 

 それは魂を締め付けられる感覚。

 剝き出しの『命』を捕らえられた危機反射。

 それは言葉に言い表せない苦痛。辛苦。心痛。

 

 その痛みはありとあらゆる『正』の感情を封じ、ユウの心に── 『底なしの絶望』を── 『際限なき恐怖』を── 『狂気の恐慌』を齎した。

 

 

 ──怖い。やめて。恐ろしい。一人は嫌だ。恐い。息が苦しい。怖い怖い怖いやめて悲しい怖い寂しい辛い怖いよ悍ましい怖い寂しい怖い嫌いだ怖い憎い怖い妬ましい妬み嫉む人が怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い ──『■■!』『■■っ!』──怖……

 

 

 

 ──声が聞こえた。

 

 

 

 ──怖い

 ──恐がるな。

 ──怖い

 ──恐れるな。

 ──怖い

 ──それでも──!

 

「……あ゛ぁぁぁぁぁぁああああああ!!!!」

 

 精一杯の雄叫びをあげる。

 その思考を染め上げる恐怖を跳ね除けんとする。

 

 言わなければいけない。

 それは絶望と憎悪が溢れ出すユウの心中に──未だ強く輝く二筋の『希望』が残っているから。

 

「──お゛…まえ゛…は──ッ……がっあ゛ぐァあああッッッ!!」

 

 声を出すたびに身体が弾け飛ぶような痛みを感じた。

 だが──

 

 ──二人を失う恐怖に比べればッなんてことないっ!

 

 

「……ッ『嫉妬』のッ──魔女」

 

 

 途端、影は動きを止めて。

 

 

『──また。またまたまた失敗したまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまた失敗したまたまた失敗したまたまたま失敗したたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまた失敗したまたまたまたまたまたまた失敗したまたまたまたまたまたまたまたマタ失敗したマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタ失敗したマタ失敗したマタ失敗したマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタマタ……また……わたしは──』

 

 

 影を通じて、彼女の嘆きが伝わってきた。

 その底なしの絶望が、その際限なき恐怖が、その狂気の恐慌が。

 ──それらはすべて彼女のものだった。

 

 

『アナタじゃない』

『アナタはチガウ』

『アナタは── 『あの人』ジャナイ』

 

 ──…それは──

 ──まさか…──

 ──人違いで、連れて来たのか……?

 ──お前が、俺を、ここに──

 

 ──この世界に。

 

 

『──もうここには来ないで』

 

 様々な疑問を想起するユウ。それに対し嫉妬の魔女はそう言ったっきり、それ以上の興味を無くしたようにユウを手放して何処かへ行ってしまう。

 

 

 ──待て。

 ──おい、待てよ!

 ──どこ行く気だっ!

 

 ──待て、待て、待て待て待て!

 ──どこに行くつもりだ!?

 ──待てッ! 待ってくれ! 返してくれ!

 ── オレの魂ッ!

 

 ──フェリスの元に!

 

 

 魔女は意に介さない。

 しかしユウも諦めるわけにはいかない。

 

 行かせない。行かせて堪るか。

 こんな、こんなこと、こんな現実──あっていいはずがない。

 

 

「どこ、行く気だッ! ──ふざッけるなッ!! 返せ! 返せよッ! あの子の元にッッ!!」

 

 

 行くな。待て。まだ何も伝えてないんだ。

 まだ、何も……

 これからなんだ。これから。だからっ

 

 

 ──お願いだから。

 

 

 

「──返せぇぇぇぇぇェェェェェッッッッッ!!!」

 

 

 

 ユウの瞳が深紅に染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──一度だけよ』

 

 

 その魂の慟哭に魔女は振り向き一言。

 それを認識してすぐ、ユウの意識はシャットアウトした。

 

 

「──ぁ」

 

 

 ──戻れる、のか──?

 

 

 それがユウの最後の思考だった。

 

 

 

◆◇◆

 

◆◇◆

 

◆◇◆

 

◆◇◆

 

◆◇◆

 

 

 

 目が、覚めた。

 悪い夢を見ていたような気がする。

 

 ──知ってる天井だ。

 

 どうやら、戻ってきたようだ。

 しかしなんだか記憶があいまいだ。

 何か大切なことがあった気がするのに、それが何か思い出せない。思い出そうと思考するユウだったが、それを妨げるように──。

 

「うぐッ」

 

 あまりに酷い()()がユウを襲った。

 あまりの痛みに思考が途切れる。

 それはまるで頭を鈍器で殴られたような鈍痛。

 その痛みで、ユウはふと思い出した。

 

「オレ、は……大兎に……そうだ、それで……だから……」

 

 少しずつ記憶を回復させていく。

 大兎に襲われたこと。

 クルシュを庇ったこと。

 フェリスが治そうとしてくれたこと。

 

 何故か酷く()()がするが、もしや『禁術の後遺症』だろうか。

 いや、それより早く──。

 

 ──二人の無事を確認しなければ。

 いや危険だったのは俺だが。

 俺がいなくなった後大兎がどうなったかもわからない。

 

 ──二人は無事なのか。クッソイタイ……でもッ

 

 今まで鍛錬を積んできたのだ。

 痛みには耐性がついている。

 これくらいどうってことない。

 俺は大丈夫だ。

 

「……クル、シュは……フェリスは……ッ!」

 

 ──何故だろう。

 ──酷く喉が渇いているようだ。

 上手く声が出せない。

 

 

「──君は何者だ」

 

 

 その声の(ぬし)は家の(あるじ)

 

「……当主…様? ご無事でしたか……!」

 

「──一体、何を言ってるんだ。いやそれより──娘の名をどこで知った」

 

 ──え?

 

 え、え? は? 何、言ってるんですか、当主様。

 

 ユウは理解できなかった。

 嫌な予感が、脳裏をよぎった。

 

 ──そんなわけない。

 

「クルシュ下がりなさい」

 

「は、はい」

 

 ──大切な人の声が聞こえた。

 間違いない。そこにいる。クルシュは生きているんだ。

 その安堵と更なる安心を求めて反射的にその名を呼んでしまった。

 

 

「クルシュ様──!」

 

 

 

 

 

「ひっ」 

 

 

 ──そこにいたのは──

 

 

「──。」

 

 

 ──幼い少女。

 

 ──見知った顔の……女の子……

 

 ──日に日に可愛くなる……絶世の美女。

 

 

 

 オレなんかを好きと、そう言ってくれた……大…切な…──

 

 

 

 

 

「あなた、──誰」

 

 

 

 

 

 目に見えない、大事なものに──罅の入る音を聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「は?」

 

 

 

 

 

◆◇◆

 




 

 良かったネ、——悪夢は覚めたヨ。

 ──憂鬱の迷い人 結──


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【3】『Re:ゼロから始める異世界生活』
『悪夢の始まり』



 これはヒドイ。四七


◆◇◆

「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなん─」

◆◇◆

 

 

「君は一体何者だ」

 

 

「──。」

 

 

 不理解。

 

 それは問い。

 それは自らの名を名乗るだけの簡単な質問。

 

 しかしユウは答えられなかった。

 わけが分からなかったから。

 

 

「幼い子供に化け当家に侵入した目的はなんだ」

 

「──。」

 

 

 未理解。

 

 簡単な文章、筋の通った言葉の羅列。

 

 しかしユウは答えられなかった。

 意味が分からなかったから。

 

 

「──ッ。何故娘の名を知っている──ッ!」

 

 

 質問に答えない、それどころか何の反応もしない“正体不明の男”に(しび)れを切らしたメッカ―トは語気を荒げる。

 

 ──同時。

 

 ようやく、理解。

 ユウは知っている。

 

 

「……クルシュ様は、大貴族カルステン家の一人娘、です。……知っているのはおかしいですか……?」

 

 

 少しでも理解できた言葉に精一杯に答えた。

 少しでもこの状況を理解するため。

 

 ──クルシュ。クルシュさん。クルシュさま。

 

 ユウは知っているから。彼女を知っているから。

 咄嗟にそう答えた。だが──。

 

 

 ──あ──。

 

 

「──貴族のしきたりに疎いのだな。貴族は家を継ぐ長男以外の名を民に知らしめることはない。君が、いいや貴様が知っているはずがない。貴様はいったい何処の手のものだッ」

 

 

 墓穴を掘った。

 知ってる。そんなこと知っているのに。

 

 ──落ち着け。落ち着けよ、オレっ馬鹿かっ。

 

 貴族は何かと危険に晒されることが多い。民を守ることがその存在意義だからだ。故に幼い貴族の子供が誘拐され人質にされることもある。だから貴族はどれだけ子が生まれようと長男、後継者以外の名が(おおやけ)に周知されることはない。

 

 カルステン家は第一子のクルシュを授かってから子宝に恵まれず、そのまま奥様が亡くなられたため家を継げる長男がおらず、当主様が亡くなられた奥様以外と子を作ることを拒んだために女であるクルシュが次期当主として選ばれたのだ。

 

 奥様が亡くなるのは今からおおよそ一年後。

 クルシュが剣を学び始めたのはそれからだ。

 

 彼女は傑物だ。知恵を修め、剣術を修め、当主としての器を示した。だが、彼女が次期当主足りえると認められたのは彼女が十六歳の時の事だった。

 そうしてあの日、彼女の十七歳の誕生祝いの日、大兎が現れた日、彼女の名は世界に知れ渡るはずだった。

 

 ──それは今から五年後の事。

 

 故に民草が知っているはずがない。

 オレが知っていてはおかしいこと。

 

 ──ここは、過去だ。

 

 信じたくない。

 心が理解を拒んでいる。

 しかしこのままじゃいけない。

 だから、だから──っ。

 

 ──なんで……っ。

 

 ダメだ、動揺するな。

 

 ──落ち着け落ち着け落ち着け。

 

 すー……ふー……

 

 深呼吸をして、冷静に──ドクン、ドクン。

 

 ──落ち着いてくれよッ!。

 

 戸惑うな。鳴るな心臓。

 今はそんなことしてる場合じゃないんだ。

 

 考えろ! 余計なことは考えるなッ。

 考えろっ考え──。

 

 

「ぉ……おれ、オレは……っ」

 

「衛兵──ッ!」

 

「っま、待って! 待ってくださいッ! オレは、オレも何がどうなってるのかわからないんです! 本当、なんです……だから……だから……お願いだから……信じて、ください……」

 

 

 信じてもらえるはずがない。

 ──自分自身でも信じ切れていないのだから。

 

 ユウは心のどこかで思ってしまっていた。

 もしかしたら──あれはただの夢だったのではないか、そんな不信感が彼の心を蝕んでいた。

 そんなはずない、そんなはずはないんだ、とそう思いながらも信じ切れない。

 

 記憶がどんどん曖昧になっていく。

 夢と現実が、その(さかい)が薄れていく。

 

 ──そんなはずない。そんなわけ──。

 

 ──そう信じたいだけなのでは?

 

「──。」

 

 落ち着け、深呼吸しろ。

 まだ、まだなんとかなるはずだ。

 

 考えろ。

 

 何がどうなっているかわからないのは本当だ。

 五年過ごして尚──この世界に来た時若返っていた理由はわからなかった。

 

 今はいつだ。

 

「──っ!?」

 

 今が、この世界に来てすぐの頃なのであれば──体は縮んでいて然るべきだった。

 

 なのに──。

 

 ──身体、が………。

 

 何故か今は体が元のまま……いや、違う。

 

 ──身体の感覚が、死ぬ前と変わっていない。

 つまり──。

 

 

 ──これは、この身体は夢の中の──あいや違う! 過去の、じゃない、くて、未来の…──あれは、あれは現実だった。現実だったんだ。そうだよ、幻なはずがない。そんなこと、あるわけない。

 

 ──でも、でもじゃあ。じゃあこれは、なんで今この身体に、この身体は、なんだ………?

 

 

 ──混乱。

 ──混乱。

 ──混乱。

 

 

 もう、わけがわからなかった。

 

 頭がどうにかなってしまいそうだった。

 不理解が不理解を呼んで、混乱が混乱を生んだ。

 

 

 ただわかることは。

 このままでは衛兵を呼ばれ、貴族の屋敷に侵入した不届き者として捕縛されるということだけ。

 

 焦りが思考を乱し、浮かぶ疑問が次々と混乱に至る。

 

 

 そんな窮地に──一人の女の子がユウの前に立った。

 

 

 見知らぬ男に名を叫ばれ恐怖し先ほどまで後ろに控えていた女の子は──やはり気高さに満ち溢れていた。

 

 

「──お父様。この人──嘘を言っていません」

 

 

 ──いつだって、この人だった。

 

 自分ですら信じられない俺を勇気づけ、

 ──信じてくれるのは。

 

 

 いつだってクルシュは俺を信じてくれた。

 俺は自分を信じられない。信じてなんかいない。

 

 でも、クルシュが信じてくれるから。

 俺はクルシュを信じているから。

 クルシュの事は信じられるから。

 

 ユウは勇気を持てた。自信を持てた。頑張ってこれた。

 

 ──やっぱり嘘じゃない──いいや嘘にしない。

 

 あれが例え“質の悪い予知夢”でも──。

 五年という時間がなかったことになっていても──。

 誰も、俺のことを覚えていなくても──っ。

 

 

 ──俺が、覚えているからっ。

 

 ──クルシュが、肯定してくれたから。

 

 ──俺は大丈夫だ。

 

 

 ユウは落ち着きを取り戻した。 

 

 

 

「我らに危害を加えるつもりはない、そうですね?──ならば即刻去りなさい。捕縛は致しません。理由も聞きません。元々は当家の兵の不手際、不問としましょう」

 

 

 

 

 

 

 ──ぇ

 

 

 

 

 

 

「あ。え、ぃ、いや、オレは……!」

 

「それとも他に何か目的が?」

 

 

 美しい翡翠の瞳。

 いつもは輝いてこちらに向けられるその瞳が──。

 

 今は伽藍洞(がらんどう)にこちらを見つめている。

 その目に温もりはなく、かと言って冷たくもない。

 

 ただ──温度のない瞳。

 その意味するところは事務的、貴族的、無関心。

 

 

「──っ」

 

 ──やめてくれ。

 

 ──いやだ。

 

 ──それだけは。

 

 

「……ぁ」

 

 

 想いは口から出ることなく、ユウはただ口を無意味に開閉させることしかできなかった。

 

 ──その目だけは──。

 

 偽りの大丈夫は剝がされた。

 欺瞞の勇気は転じて恐怖へ。

 気丈な楽観はぽっきりと折れて。

 

 希望から絶望への急降下。

 

 上げて落とされるような拒絶が取り戻した落ち着きを遥か彼方へと葬り去る。

 盲信に近い期待は容易く裏切られた。

 

 ──その目で僕を見ないで。

 

 

「い、ぃえ……ありま、せん………」

 

 

 ユウは心が折れた。

 もう、彼女の方を見れなかった。

 もう、それ以上、耐えられなかった。

 

 

「──よろしい。お父様、それでよろしいですか?」

 

「──ふむ」

 

 カルステン家は優秀な貴族の家、思考は深く、決断は早い。俯いて意気消沈したユウに決断を言い渡す。

 

「よかろう。娘に免じて見逃してやる。だが一度だけだ、二度はない。──二度と我らの前に現れるな」

 

 

 ──二度と現れるな…──二度と…──二度と──…二度と…──。

 

 

「………」

 

 

 瞳から光が消えた。

 そこに写るのは。

 

 ──絶望。

 

 ──絶望。

 

 ──絶望。

 

 希望は絶たれた。

 願いは廃した。

 夢は、終わった。

 

 現実という地獄の中に──救いの糸など在りはしない。

 

 

 脳内で延々とリフレインする呪いの言葉。心傷のトラウマ。絶望の病。

 

 

 

「───。」

 

 

 

 

 

「───。」

 

 

 

 

 

「───。」

 

 

 

 

 

 

 ──気づけば屋敷の門の外。

 

 ガチャンと大門の閉じる音が響いた。

 

「………」

 

 呆然とするユウ。

 

 自分がどこにいるのかわからない。

 自分が何をしているのかわからない。

 

 自分は立っているのか、寝ているのか。

 呼吸しているのか、心臓は動いているのか。

 

 世界がぐにゃぐにゃと歪んでいく。

 過呼吸になり心臓が痛い。

 

 平衡感覚がイカレて立っていられない。

 ふらふらと酔っぱらいのように前へただ前へと歩く。

 

 

 絶望を経験した者は、誰もが皆──ありもしない希望に縋る。

 

 

 ──フェリス。

 

 

 大切な人からの拒絶に心に致命的な傷を負ったユウはその傷を癒すため、癒してもらう為、もう一人の大切な人を探しに歩き出した。

 

 

 その様はまるで──迷子の子供。

 無償の愛を与えてくれる母親を探して彷徨う迷子の子供。

 

 

 ──遠ざかる影は、だんだん()()()なっていった。

 

 

◆◇◆

 

 

「なんで?」

 

「なんで?」

 

「なんで?」

 

 ──どうすればよかった。どうすればよかったんだ。どうすれば、どうすれば、どうすれば──

 

 

 その問いに答える者はいない。

 

 その理不尽に解はなく。

 その不合理に意味はなく。

 その不条理に価値はない。

 

 ルグニカ王国カルステン領の路地裏。

 そこに座り込み狂ったようにそうつぶやく青年がいた。

 

 男は病人だ。

 しかし外側に異常はない。

 

 青年は病んでいた。

 世界の理不尽が彼の心を蝕んでいる。

 

 ──それは絶望という名の病。

 希望を無くし、生きる意味を見失い、前後不覚に陥った者のかかる精神病。

 

 ──それは『憂鬱』という名の呪い。

 

 現代人の多くが無意識に、知らず知らずのうちにかかっている心の病。

 それは個人差の大きい(やまい)故に理解を得にくく、自身の精神状態に無頓着な人間では理解できない症状。例え同じく鬱病を罹患するものたちでもお互いに共感することは難しい。

 

 しかしことこの青年を苛む絶望を理解できる人間など──後にも先にも一人だけだろう。

 

 鍛えられた肉体に不釣り合いな子供服を着た変人──否、『狂人』ユウは、一日中自問し続けた。

 

 

 ──なんで。

 

 

◆◇◆

 






 『プシュケー(古代ギリシア語)』
 ⇒心、魂、蝶を意味する。
 
 wikipediaより


 ※タイトル『呪病』→『呪命(じゅみょう)』→『悪夢の始まり』


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『虎馬』


 ボクは気持ち悪い人間の内心が大好きデス。七八


 

◆◇◆

 

 

 長年過ごした屋敷を出て、身銭もなく泊まる場所もないユウはその日の夜を路地裏で過ごした。

 

 

「……死にたい……死にたい……」

 

 

 頭を抱え、殻に籠り、うわ言を呟く。

 

 それも仕方がないだろう。五年という時間は決して軽くはない。現実であり得るはずのない時の巻き戻し、彼方へと消えた世界の記憶。

 

 屋敷は追い出され、クルシュには拒絶された。もうやり直しは効かない。もう一度同じように生きることはできない。もう二度と──。

 

 

 ──あの二人に会うことはできない。

 

 

「こんなことなら、こんな気持ちにされるなら、あの時死んでおけばよかったんだっ!」

 

 

 こんな残酷な仕打ちを受けるぐらいなら、死んだ方がはるかにマシだった。

 これは罰なのだ。死んだ命を蘇らせた罰。

 自ら死を選んだくせに生きたいと願った当然の報い。

 ──だからといって。

 

 ──諦められるわけないッ!!

 

 そうして彼は己の喉元にゴロツキから盗んだナイフを向けた。

 

 冷静になって、もう一度死んで戻ろうと考えたのだ。

 己が首を掻き切って死のうとする。

 

 ──怖い。怖い。怖い。 

 

 ビルから飛び降りるのとはわけが違う。

 飛び降りの一歩と刃物の一刺し、その差は、そこに必要な勇気の差は同じ一手でもまるで異なる。

 

 ──それでも、叶えたい願いがあるのだ。

 

 願いは『希望』となり、『希望』は勇気へと変わる。

 

 ──クルシュ、フェリス。

 

 守りたい大切な二人の顔を思い浮かべて。

 

 ──君たちの為なら。

 

 ──俺の命なんて惜しくない。

 

 人が自ら死を選ぶとき、それはいつだって自分以外の誰かの為、それが人が人たる所以なのだから。

 

 希望を胸に、一筋の涙と共に世界は白く染まり、白昼夢となって消える──はずだった。

 

 だが──。

 

 

『一度だけよ』

 

 

 リフレインするのは『絶望』の言葉。 

 世界が闇に染まった。 

 ユウの目から光が消え、手からはナイフを取り落とした。

 

 

「なんで……」

 

 出てくるのは疑問の言葉。──否。

 

「なんで、なんで、なんで! なんで──ッ!!」

 

 怒り。妬み。嫉み。そして──。

 彼の心に浮かぶはたった一つの言葉。

 

 

 ──ズルい。

 

 

「なんでお前は何度でもやり直せるんだ……ッそんなの不公平だ! そんなのッズルいにもほどがあるッ! 理不尽にもほどがあるだろうが……なんで、なんでお前みたいなやつが、努力も何にもしてこなかったようなやつが、そんなチート使ってんだよッ!!」

 

 お前とはいったい誰の事か。そんなのは一目瞭然。

 彼は嫉妬しているのだ。

 ──この世界の『主人公』に。

 

 

「死にたくないだ……? ──ふざけんなッ!! なんだよそれ……なんなんだよそれ! 死ぬのが、怖い? 怖いわけあるかクソ野郎!! 甘ったれんじゃねぇッ!! ……なんでッ。なんで、お前みたいなカスが『死に戻り』できて──なんでオレじゃあダメなんだッ!!」

 

 

 世界を呪うように、呪詛を言葉にするユウ。

 嫉妬に狂った狂人は、分け目も降らずに誰もいない路地に向かって暴言を撒き散らす。

 

 ──ふざけるなっ。

 

 それは理不尽への憤り。

 それは不条理への憎悪。

 

 ──なんでッ。

 

 それは妬み、嫉み、嫌悪、怨嗟、厭悪、あらゆる陰の感情の集約された言葉。

 

 

 

 

 

「……死ぬのなんか、怖くも、なんともねぇだろうが……っこんな、こんなのっ…──だって……そんな………………………ずるいじゃねぇか……」

 

 

 泣き崩れるユウ。

 

 ユウにだって分かっている。

 死ぬのは辛い。死ぬのは痛い。死ぬのは苦しい。

 『死』は人には抗えない恐怖そのものだ。

 

 たった一回、それも即死だったにも関わらずユウは発狂してしまいそうだった。きっとクルシュやフェリスの声が聞こえなかったなら実際に発狂し例え生き返ったとしても壊れていただろう。

 

 そこは恐怖と絶望に満ちていた。

 一度でも知ってしまえばもう立ち入ることは許されない。この世界に来る前のように飛び降りて自殺などできないだろう。

 それほど無に帰す恐怖は絶対だった。

 

 だが、それを覆せるだけの希望がユウにはある。

 あるんだ。あるのに。

 

 ユウにはその資格がない。

 ユウにはその権利がない。

 ユウには許されない。

 

 ──どうしてっ。

 

 そこにはただ悲しみが詰まっていた。

 悲しくて、悲しくて、ただ、悲しくて。

 自分でもどうしたらいいのかわからないのだ。

 

 ユウには彼──『ナツキ・スバル』以外に八つ当たりできる相手がいなかった。

 今の自分の苦悩を理解できる相手など他にいるはずがなかった。

 

 ユウにだって分かっているんだ。

 『ナツキ・スバル』という男が如何に凄い奴かなんて、実際に死を知った身からすれば、それはもう格別だ。

 

「ああ、お前はすげぇよ。そんで、オレは弱ぇ……」

 

 嫉妬の魔女を憎んだところで意味はなく、むしろもしかしたら次に死んだとき戻してくれるかもしれないという、そんな淡い願望で怒りをぶつけることさえできない。せいぜい心の中で、クソ魔女と罵るだけだ。憎むことすらできない。 

 

 わかってるんだ。ユウはわかっている。

 でも──わかりたくなんてないんだ。

 

 

「死にたく、ない……っ!……でも……あの二人のいない世界で、生きていたくもない……オレが生きる意味なんて、ない……だから、だから……」

 

 ──もしかしたら、嫉妬の魔女が戻してくれるかもしれない。そんな一縷の望みに縋ろうとする。

 

 ユウに生きる意味はないのだから、せめて最後の望みにかけて自殺してしまった方が──。

 

 そう考えて、ユウは再びナイフを取ろうとする。

 

 

 

『──ユウ』

 

 

 

「ああっ……」

 

 

 声が聞こえてくる。

 ナイフを支える手が震える。

 

 

 

『ユウっ!』

 

 

 

「ああ、ああああ、あああああああああ!!!!」

 

 耳を塞いでも、消えてくれないノイズ。

 忘れてしまいたい、忘れたくない記憶。

 

 もし戻れなかったら、忘れてしまう。

 ──忘れられてしまう。

 

 本当にもう誰にも覚えていてもらえなくなる。

 オレの知っている。オレだけが知っているあの二人を──殺してしまう。

 

 ユウは決断できない。

 

「ああ、ああっオレは、どうしようもない臆病者のっ腰抜け野郎だ……っ」

 

 そんなことをもう何度も繰り返していた。

 

 ──死にたい。

 ──もう会えないっ。

 

 ──生きていたくないっ。

 ──死ねば会えるかもしれないっ!

 

 ──死にたく、ない。

 ──忘れたくない……。

 

 

 ──じゃあ、どうすればいいの。

 

 

「死にたい……死なせてくれ……諦めさせてくれ……オレは、僕は、何のために…──」

 

 

 過剰な情動の乱高下は心身ともに疲弊させる。

 あり余る感情の大波に流され、ユウは壁にもたれかかり崩れ落ちる。

 

 涙は枯れることなく流れ続けて目元は真っ赤に腫れぼったくなっている。首には何度もナイフを突き付けた跡があり少量の血が流れた跡がある。

 その顔はやつれていて目に生気はない。まさしく病人。

 

 愚かな病み人である。

 前に進むこともなく、過去に見切りをつけることもない。

 決断を何よりも怖がって、過去に縋って、未来に怯えて、今を憂鬱に貶める絶望の病み人。

 

 ユウは己の殻に閉じこもって、暗闇に身を置いて、もう何も見えなかった、もう何も見たくなかった。

 

 

 

 

  

 それでも空腹はやってくる。

 

 それでも心は鳴り血は巡る。

 

 そうして人は眠くなる。

 

 

 

 ユウは夢を見る。昔の夢。もう八年も前の夢。──この世界に来る前の夢。

 

 もはや夢か現実かもわからないこの世界から意識を反らしたかったのだろう。

 

 

 ──夢でまで現実逃避なんて、根っからの臆病者だ。

 

 

◆◇◆

 

 

 

「ほら起きて! ■君」

 

 

 

 ユウは何者かに肩を揺すられて、眠りを邪魔された不快感を感じた。だが、不機嫌な顔もその笑顔の前では保っていられなかった。

 

 そこにいたのは──。

 

「……おあ。──リカ、ちゃん?」

 

「そうだよ! ほらもう休み時間終わるよ。次移動教室だから一緒に行こ!」

 

 彼女──リカはそう言ってユウを急かした。

 周囲を見渡せば、ここは学校の教室だった。周りには誰もいない。そこには空席となった机がずらっと並んでいるだけだ。誰も起こしてくれなかったのだろう。──彼女以外は。

 

 だんだんと寝ぼけた脳が覚めてきた。

 

 

「……ありがとうリカちゃん。待っててくれて」

 

「もう。リカでいいってば、約束したでしょ?」

 

「うん、ごめんね……リカ」

 

「よろしい! ほら、それじゃはやく行こ。授業に遅れちゃう!」

 

 

 そう言って彼女は僕を置いて教室を出て行った。一緒に行こうって言ったのに……彼女らしい。

 

 彼女は■■(りか)。クラスで一番、優しくて、明るくて、可愛いクラスの人気者。

 

 そして僕は──チビでデブなニキビだらけの不細工な、性格の悪いクラスに溶け込めないはみ出し者だった。

 

 ──そう、これは昔のこと。小学生の頃の事。僕はそれが原因でいじめられていた。このころは周りの子供皆がサルに見えていたし、碌に足し算もできないクラスメイトを内心、いや口に出して馬鹿にしていた。そりゃあいじめられもする。

 

 なのに、彼女はこんな僕にも優しかった。だから、僕には彼女だけは周りと違って見えた。彼女は僕にとって地獄に垂らされた唯一の救いの糸だった。

 

 

『泣いても、いいんだよ』

 

 

 初めて彼女と会ったのは、否、初めて彼女を人として認識したのは、そのきっかけはこの言葉だった。

 

 はじめ、僕はそれを戯言だと思った。

 僕のことを知ったかぶって勘違いの憐れみを向けてきたのだと。

 僕はいじめを何とも思っていなかったし、彼女の言っていることはまったく的外れだった。

 しかし。 

 

『泣くのを我慢する必要なんてない』

 

『あなたが泣くのは、あなたが弱いからじゃない』

 

『あなたが強いから。あなたが優しいからよ』

 

 しかし、なぜだろう。

 その言葉は、どうしてか僕の胸に響いた。

 

 それは綺麗ごとだった。

 僕が泣かないのはそんな綺麗な理由じゃなかった。

 僕という人間のことは僕が一番わかっている。

 

 僕はただ──何も感じていなかっただけ。

 他人の気持ちが理解できなかったが故に共感もできず、他人の心の痛みも、そして自分の心の痛みも分からない、そんな心のない人間、それが僕だった。

 

 それは甘い甘い毒だった。

 その毒はじわじわと僕の心を揺さぶった。

 冷めきり、誰にも心を開かず、他人を拒絶することしかできなかったそれを甘く溶かし包み込んだ。

 

 それは間違っていた。

 僕は優しくなんてない。

 ただの心のない人間だ──でも、君にそう言われたら本当にそんな風に思えてきたんだ。

 

 ──僕にも、傷つく心が、ある……? そんなわけ……ぼく、は……あれ……?

 

 そう思ったら──頬に涙が零れ落ちていた。

 

 止まらなかった。

 わけがわからなかった。

 恥ずかしい、僕は、こんな、こんな……。

 

 僕は気づいた。

 僕はただ、意地を張っていただけだったのだと。

 ただ、傷つくのが怖くて、目を逸らしていただけだったんだ。

 

 僕は泣いた。

 しくしくと、わんわんと、えんえんと。

 恥も外聞も気にせずに泣いた。

 

 一度溢れ出たそれは止めようとしても止まらず。

 それはきっと、生まれてから二度目の号泣だった。

 

 僕は辛かったのだろうか。

 苦しかったのだろうか。

 今となってはわからない。

 

 でも、わかることもある。

 それは──彼女が僕を変えてくれたということ。

 彼女が僕を──救ってくれたということ。

 

 僕が泣いているところを、彼女はじっと見つめていた。

 

 

 

 僕は彼女を好きになった。当然だ。

 彼女は可愛くて優しくて、頭もよかったから。

 

 

 彼女は理想の女の子だった。

 

 

 僕には全然釣り合わない高嶺の花だったから僕は当然努力した。彼女と付き合うにはまず見た目をなんとかしないといけない。だからまず毎日運動をした。好きでもない将来の役にも立たない運動は辛かったけど彼女への想いを力に変えて頑張った。ただ彼女に釣り合う体を手に入れるために。するとお腹に蓄えられていた栄養は順調に身長に変えられて僕はあっという間にチビでもデブでもなくなった。そうなれば次は見た目だ。僕は身だしなみを整えた。まずは髪。好き放題跳ねている天パを整え、ワックスも日頃から使うようにした。次に眼鏡を外してコンタクトにした。そしていじめによるストレスと寝ればいつものように悪夢を見る不便な僕の脳のせいでできていたニキビも、彼女を想えばそれだけで幸せになれるし心が満たされる、悪夢なんてへっちゃらだった。夢に彼女が出てくれるようになってよく眠れるようになった。ニキビなんていつの間にかなくなっていた。それだけで僕の顔はいつの間にか見れるものになっていた。爪を噛む癖も直した。知ってる?爪を噛むのって自傷行為の一つなんだ。みんな赤ん坊が乳を吸う癖が治ってないんだと思って馬鹿にするけれど。爪を噛むのは主にストレスが原因。真面目で責任感があって、正義感があって物事を深く考える人ほど爪を噛むんだ。漫画でもよく見るだろ?賢い人が考えすぎて爪を噛みきるところ。あとはスポーツ選手なんかは試合中ガムを噛んでいるよね。NBAとかそうなんだけど。あ、僕は運動にバスケ部に入っていたから知ってるけど、日本じゃプロスポーツ選手がガムを噛んだりしないからわかりにくいかな。まぁとにかく人はものを噛んでいる時に集中力が増すんだ。勉強中にはガムを噛んだりするといいよ。授業中に僕が無意識に爪を噛んでいたのは多分そういうわけなんだろうね。僕が人より真面目で、睡眠以外でストレスを発散する方法を知らなかったから爪を噛んでいたんだと思う。酷い悪循環だよ。ニキビができて、爪を噛んでいるというだけでいじられて、いじめられて、他人を蹴落とし邪魔をすることでしか自分の価値を上げられない哀れで頭の悪いサルに馬鹿にされるそのストレスと不快感で眠れなくなってまたニキビが増えて、爪を噛むようになる。いじめてきたやつらは僕が悪いと思ってるんだろうし、『爪を噛む意味がわからない』と言って突き放してきた無能で無知な先生は本当に何気なく言ったつもりなんだろうけど、お前らみたいな低能とは違うんだ。彼女は違った。だから、痩せて、筋肉もついて、顔もまぁ自分で言うのもなんだけど格好良くなって──。

 

 

 

 だから、僕は彼女に告白したんだ。

 

 高校生になってようやく言えた。

 小学校で助けて貰ってから、ずっと好きでした、って。

 

 そしたら、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなた、誰?」

  

 

 彼女は僕のことなんて覚えていなかった。

 恥ずかしかった。

 一人で勝手に舞い上がっていた。

 

 

 彼女は小学生の頃とは違ってクラスで一番かわいい子というわけではなくなっていた。でも、僕は彼女が好きだったから、不細工でも、見た目なんて関係ない、僕は彼女の中身が好きなんだ、だから絶対幸せにして見せる、そう思った。僕はクラスで一番格好良くなった、君の為に、君に釣り合う男になる為に。成績だって学年で一番だ。君と同じ学校に行くために頑張った。運動だって誰よりもできる。喧嘩だって負けない、君がどんなに危険な目に遭っても守って見せる。全部全部君の為に頑張った。大丈夫、僕がメイクを教えてあげよう。ちょっとぽっちゃりしている体形も一緒に運動すれば昔みたいに美人になるだろう。素材は良いんだから。告白はオーケーされて当然。彼女は()()彼女になる。だって彼女は僕を助けてくれたから。彼女だけが僕の希望だから。助けて貰った。救ってもらった。

 恩を返さなければ。きっと彼女といれれば幸せだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 傲慢だった。

 

 

 

「え、えっと……お友達からでいいかな?」

 

 

 

(は?)

 

 

 

 思考が停止した。

 あり得ない現実を脳が拒絶した。

 しかし無情にも時間は僕の理解を待たずに進んでいく。

 呆然として動かない僕を置いて彼女は去った。

 

 五年も努力してきたのに。

 ──何にもなかったみたいに。

 

 

(え? は? え? ──僕の五年間はなんだったの?)

 

 

 ……その時は本当にそう思った。

 

 口に出さなかったのがせめてもの救いだろう。

 僕はなんにも知らない、女の子に理想を求めるだけのガキだった。

  

 無知が罪というのはこういうことを言うのだろう。

 自分本位な、一方的な好意を押し付けるだけの気色の悪い男。

 

 

 それが俺だった。 

  

 

 心を手に入れても、相手の心すべてを理解できるわけではないのだと、知った。

 

 

◆◇◆

 

 

「私と付き合ってくれませんか?」

 

 

 後日、改めて彼女は僕に告白してきた。

 

 どういうつもりだろうか。

 彼女が何を考えているのかわからない。

 彼女は僕が思い描いていた彼女とは違った。

 僕にはもう彼女が分からなかった。

 

 僕は迷った。迷ってしまった。

 僕は彼女への愛を疑った。

 

 ──違う。違う。違う。僕は救ってもらった。彼女に救われた。それは間違いない、間違ってなんかいない。間違いになんてしてたまるか。彼女だけが希望なのだ。彼女だけが僕の──だから僕は彼女を──。 

 

 理想から覚めて、恋が冷めていくのを感じた。

 また、心が冷え込むのを感じた。

 それを認めたくなくて、戻りたくなくて、それから目を背けるように僕は言った。

 

 

「うん、よろしく!」

 

 

 彼女が何を目的に近づいてきたのか、その時はまだ知らなかった。

 

 

◆◇◆

 

 

 声が聞こえた。

 

 

『■君。実は言いたいことがあるんだけど…』

 

『私、幸せ者だなぁ』

 

『私のことはリカでいいよ』

 

『■君! 楽しいね!』

 

『泣いてもいいんだよ。泣くのは君が弱いからじゃなくて、君が優しいからだよ』

 

『…ごめん……ごめんなさい…』

 

『ありがとう!』

 

『どうしても泣けなかったら、私も一緒に泣いてあげる!』

 

『──軽蔑したよね。罵っていいんだよ』

 

『──好きだよ』

 

 

 彼女の記憶をまばらに想起する。

 チビで不細工で虐められていた僕を助けてくれた人。好きな人。何も感じなかった僕に心をくれた人。愛しい人。

 

 付き合う為に努力して、勉強して、格好良くなって、告白して、だれ、とそう言われた人。それでもやっぱり好きだった。

 

 彼女は変わったけど。僕も変わったけど。

 彼女の根は変わってなんかいなかった。僕の思い出だってセピア色になんてなっていなかった。過ごせば過ごすほど、知れば知るほど、僕は彼女を好きになった。

 

 彼女は理想の女の子じゃなかったけど。それを言うなら僕の方が気持ち悪かった。見た目を取り繕っただけで、理想なんてほど遠い男だった。それでも彼女は僕を選んでくれた。やっぱり嬉しかった。

 

 あれが偽善だったとしても欺瞞だったのだとしても、目的のために僕を利用するための利己的な行動だったのだとしても──それで僕が救われたのだから。

 

 そのおかげで今の僕があるのだから。

 愛に報いなければ。今度は僕が彼女を幸せにしなければ。救わなければ。

 

 無知だった子供は大人になろ──〖彼女が死んだ〗。

 

 

 

 

 

『最後に電話』

〘悪い夢のようだった〙

『救えなかった』

 

 

 

 

 

 何もない暗闇の先に影が灯った。

 

 水の滴る音を聞いた。

 

 見上げれば、そこには──。

 

 

『殺したのは(お前)だ』

 

 

◆◇◆

 

 

「ハっ…………………りか…」

 

 

 ユウは路地裏で目を覚ました。

 胸を押さえて跳び起きるユウ。

 額には汗がびっしりついている。

 

 

「……最悪の気分だ」

 

 ただでさえ陰鬱な心境だったのにこんな昔のトラウマまで思い出すなんて、最悪以外に言いようもない。本当に、最悪だ。最悪も最悪……最悪、なのに。

 

 

 ──でも。

 

 

「……そうだな。五年なんて、誤差だ」

 

 五年、それは途方もない時間、巻き戻せない時間、取り返すことのできないかけがえのない、時間。

 それをユウは誤差だと言い切る。

 

「……今、生きている二人がいる。彼女たちはまだ、生きているんだ。だからきっと、今からでもきっと、やり直せる。まだ、俺には、やるべきことがある」

 

 ──だから──。

 

 思い出したくもない過去が彼に一筋の光を見せた。

 時に、悪夢は人に勇気を与える。

 

 ユウは思い起こす。

 二度と姿を現すなと言われたことを。

 

 ──辛い。

 

 クルシュに他人を見る目で見られたことを。

 

 ──苦しい。

 

 もうあの二人には会えないことを。

 

 ──痛い。

 

 

 ──それでも。  

 

 

 

「…──行こう」

 

 

 ユウは前へと歩き出した。

 

 

◆◇◆

 





 チミはいったいどこのレグルスさんだい。
 中々に気持ち悪いネ。

 ※タイトル『冷静』→『虎馬』



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『魔女』



 一応グロ注意? そんなにグロくないケド。一万と三千




◆◇◆

 

 

 ──痛い。痛い。痛い。

 

 

 肌を突き刺す鋭い痛み。何度も何度も身体が穴ぼこだらけになるほど刺される(つんざ)く痛み。いつまで経っても途切れぬ痛み。延々と脳を揺さぶる鈍い痛み。比喩でもなく肉体から肉の焼ける臭いがしてくる燃える痛み。傷が空気に触れ化膿し腐りネバつくようなひりつく痛み。目を刺す痛み。首を締め付ける痛み。口の中が痺れる痛み。切り取られた腕の幻痛。足の幻肢痛。殴れらる鈍痛。磨り潰される苦痛。いっそ腕ごと切り取ってしまいたくなる疼痛。想像を絶する激痛。死んだほうがマシな劇痛。見ていられない心痛。苛む頭痛。癒えぬ腹痛。来ない鎮痛。諦めの沈痛。ずっと椅子に座り続ける腰痛。それしかできない悲痛。

 

 ──痛い。イタイ。いたい。

 

 痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。痛み。──いたい。いたい。いたいよ。──だれか、だれか──。

 

 

◆◇◆

 

 

 ありとあらゆる痛みが彼を苛んでいた。 

 彼は暗闇の中、一人椅子に座って思考することしかできなかった。

 

 ──どうして、人は痛みを感じるのだろう。

 

 痛みは危険を知らせる為にある。怪我をしたとき、それが良くないことだと本能が教えてくれるのだ。だけど、そんなのは見りゃわかる。必要だろうか、痛みなんて、こんなのただの地獄だ。

 

 ──危険から逃れる為?

 

 逃げられないさ。手足を鋼鉄で縛られてるんだから。人間一人にはどうしようもないことがある。魔法があろうと剣を振れようと、何も変わらない。頑張るだけじゃどうしようもない。状況は良くならない。世界は変わらない。だから耐えるしかないんだ。俺にはそれしか許されていないんだ。

 

 ──なら同じ過ちを犯さない為?

 

 (いまし)めってか。

 

 ──ふざけるな。

 

 俺の行動を勝手に間違いにするな。俺は間違ってない。俺は間違えてなんていない。間違ってるのは怪我をした奴じゃない。怪我をさせた奴だからだ。俺は何も間違っちゃいない。誰にも間違ってるなんて言わせない。

 

 狭苦しい孤独の暗闇の中で自問自答を繰り返す。

 

 許容量を軽く超える痛みは神経をイカれさせそのうち痛みは感じなくなる、そう聞いたことがあった。

 

 ──嘘つきだ。

 

 全然そんなこたァない。この苦しみは生きている限り続く。死ぬまで、永遠と、意識ある限り、諦めない限り、生にしがみついている限り、延々、延々、延々と。

 

 ──苦しい。苦しい。苦しい。

 

 思考の渦に飲まれていく。それが痛みを和らげる唯一の方法だったから。こうするしか選択肢はなかった。なのに考えれば考えるほど、今度は心が悲鳴を上げる。答えはなく、正解はなく、理由はなく、理解はなく、納得もできず、ただ理不尽を受け入れることしかできない。残酷な真実を目の当たりにして目をそらすことしかできない。

 

 ──嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 

 ──なんで、どうして、なんで。

 

 ──僕がこんな目に。

 

 怒り?悲しみ?絶望?そんなものは疾うに過ぎ去った。今彼の中にあるのは本能。ただ生き残ってやるという生存本能。それが彼にできる唯一の抵抗だったから。理不尽で残酷で自分をこんな目に合わせるクソッたれな世界にできる、唯一の復讐だった。

 

 ──稚拙で、幼稚な、悪あがきだ。

 

 ──それでも、許せない。

 

 世界が?──否。

 

 ──オレがこんな目に遭っているのに、今ものうのうと生きている奴らが許せない。

 

 

 それは許されざる大罪、すなわち『嫉妬』である。

 

 

 ──爪を強引に剥ごうとするとどうなるか、知ってるか?

 

 まず指の骨が折れる。それでも無理やり引っ張れば割れる。爪は指の皮膚の中にまで入っているからだ。それでも引っ張れば?出てくるのは骨さ。指の骨。関節を引きちぎって指の骨が抜ける。骨を無くした指先はだらんと垂れ下がる。筋肉も骨がなければ機能せず動かない。なのに痛みは感じるんだ。神経が繋がってるから。見ていて痛々しくて仕方がないよ。いっそ斬り落としてしまえば楽になるのに。楽にさせてなんか貰えない。

 

 ──でも慣れる。指に集まってる神経などたかが知れている。人は慣れる生き物だ。……不幸にもな。

 

 百回もやれば慣れるさ、誰だってな。人の指は百本もないって?はっ笑わせるな。──治せばいいだろうが。慣れるまで、何度も。何度も。何度も。……繰り返せばいいのさ。

 

 ──そら、やってみ。

 

 

 ──そしたら次は耳だ。

 ──それも慣れたら鼻だ。

 ──それも慣れたら舌だ。

 ──それも慣れたら目だ。

 ──それも慣れたら歯だ。

  

 延々延々繰り返せば慣れるさ。どんな痛みにもな。

 

 ん、そんなことしたら気が狂う?んーそうだなぁ……。

 

 

 ──じゃあなんでオレは狂えないんだろうな?

 

 

◆◇◆

 

 

「そういうことか」

 

 

 情報収集をしていた憂は理解した。自身の身体に何が起きているのかを。

 

 ──おそらく身体が伸びたり縮んだりしているのは自身の精神状態に依存している。

 

 この世界に来たばかりの状況と死に戻りした後の状況を比較し、尚且つ肉体が年齢だけでなく鍛え上げた筋肉まで反映していたことを鑑みた結果出たのが、今の彼の肉体は彼の精神状態、とくに固定観念(イメージ)に左右されている、という結局原因も何もわからない結論だった。

 

 ──()()、子供だ、子供。子供──。

 

 そう意識すれば身体はだんだんと小さくなっていった。鏡がない為、顔や体形はわからないが、おそらく筋力や骨密度も年相応になっているだろう。体感で分かる。

 

 ──オレは大人だ……大人だ……大人だ……。

 

 当然、大人にもなれる。しかしそれも長くはもたない。

 気を抜けばすぐさま子供の状態に逆戻りだ。

 

 ──そう、これはまさしく。

 

 クルシュが言っていた、己の魂を最も輝かせる生き方をしろと。

 つまりこれは“己の魂の在り方そのままに肉体に反映する力”──んなわけはない。

 

 ──ようするに。

 

「……ただ俺の精神年齢がガキのままだったってわかっただけ、だな」

 

 そういうことであった。この世界に来た時ユウは確かに二十歳を過ぎた大人だったがその精神は幼少の頃から成長していなかったのだ。

 

「……彼女たちと五年過ごして成長できたかと思いきやクルシュに見捨てられて子供に逆戻りかよ。笑えない。本当にクソ雑魚メンタルだ、我ながら……はぁ、憂鬱すぎる」

 

 結局真相はわからずじまいで、分かったことが己の精神の脆弱性だけなんて、さすがにあんまりじゃないか。

 

 そう溜息をつくものの謎の肉体変化についてはとりあえずそれでいいとする。特に不便でもない。そのせいで追い出された感もあるが、まぁ、いい。いいったらいい。今大事なのはそこじゃない。

 

 ──問題は。

 

「問題は、どうやってこれからクルシュたちと仲良くなるか、だな」

 

 カルステン家には関われなくなった。これからクルシュの仲間になるにはどうすればいいのか。

 

 ──…クルシュと二度と関わらないなんて選択肢は、オレの中にはない。…クルシュを助けたい。いいや、助けると決めたのだ。

 

 ──でも、それだけじゃない。オレは──。

 

「……一番近道なのは、おそらくフェリスだ」

 

 しかし。

 

「…オレは、アーガイル家について何も知らない」

 

 聞かなかったし聞く必要もないと思っていた。フェリスはフェリスだし、もう終わったことを思い出させるのも嫌だったから。それにその時はまだ文官として過ごしていたから、オレはフェリスの救出作戦に参加していない、

 

 何もわからない状況だ。

 

「これから一人でアーガイル家に突貫してオレにフェリスが救出できるかどうか」

 

 可能性は低い。しかし、クルシュとの関りを得る為という理由より何より、いずれ救出されるとはいえ、今現在フェリスが監禁されているのを黙っていられない。

 

 ……ただ、いくら三年間必死に鍛えてきたとはいえ。

 

「オレの手札は最上級まで使える風魔法と最低限騎士を名乗れるレベルの剣技。……と、よくわからない子供に化ける力、か」

 

 ……これでどうやってフェリスを助け出すってんだ。子供に化けて侵入でもするか。はぁ、それじゃ死にに行くようなもんだ。捕まったら極刑だろうな。

 

「…まぁ、でも」

 

 ──それでも。

 

「…死にたくはない。死にたくはない、けど……二人に会えない方が、辛い」

 

 死ぬ気でフェリスを救って、クルシュに取り入る。望み薄とも言えない、無謀で望みのない賭け。

 

 ──それでもやるしかない。嫉妬の魔女に期待して身投げするよりは遥かに現実的な策だ。オレにもまだ希望はあるのだ。だから──やってやる。

 

 ユウは覚悟を決めた。まずはアーガイル邸の情報収集だ。

 

 

「………やってやる」

 

 

 

 

 

 ユウの手指は終始震えていた。

 

 

 ユウの視線はずっと彷徨っていた。

 情緒は安定せず、精神はずたぼろ。

 彼は努めて明るく振舞っていた。

 誰の為でもなく、ただ自分を騙すために。

 自分は大丈夫であると、まだ希望はあるのだと言い聞かせる為に。そう信じたいが為に。

 

 無理をしているのだ。

 

 やらなきゃいけない。助けなきゃいけないという気持ちを杖にして無理やり立っているだけだ。それしかできないのだから。そうするしかないのだから。ユウには選択肢も諦める勇気もありはしないのだから。

 

 路上でぶつぶつぶつぶつ独り言を呟いている時点でお察しだ。壊れないギリギリで自身を保っている。いや、もしかしたら本人も気づかぬうちにもうどこか壊れているのかもしれない。

 

 

 ──人は皆、己をこそ最大の偏見を持って見ているのだから。

 

 

◆◇◆

 

 

 アーガイル家の情報を集めながら移動し続け、ユウはアーガイル領へと辿り着いた。

 

 

「……大変……だった……」

 

 

 着いたそばからユウは既に疲労困憊していた。

 ここに辿り着くまでに軽く二ヶ月を要した。

 

 まずお金を得る術がなかった。

 異世界であろうと何処であろうと生きていくためには社会で暮らすためには、お金が必要なのだ。だがしかし、転移直後に戻されそのままカルステン家を追い出されたユウに手持ちのお金などあるはずがなかった。

 

「地球から持ってきたはずの荷物……服とか、財布とか、しれっと全部もってかれてた……」

 

 そう。ユウが目覚めたときの服装はこの世界におけるちょっと高級なぐらいの子供服だった。おそらくこの世界に来る前に着ていたTシャツやジーンズは子供姿のオレには合わなかったために着替えさせられたのだろう。おそらくその時に財布も持っていかれた。

 

 そしてそのまま返却されることなく追い出された。追剥でもされた気分である。

 

「……はぁ、まあクルシュさんや当主様はオレが着替えさせられたことなんて知らなかったんだろうし、そもそも勝手に屋敷に侵入してきた不審者に持ち物返すわけはないわな」

 

 そういうわけで、ユウはナツキスバルとも違ってマジもんの一文無しであった。こちらの世界では珍しいであろう服を売るという選択肢はなくなった。

 

 と、なれば。

 

「……肉体労働するしかない」

 

 そういうわけで仕事を探す羽目になった。

 ユウにできるのは風魔法と肉体労働。

 風魔法を必要としている仕事は木こりぐらいだが、そんな都合よく仕事を得られるはずもなく。仕方なく肉体労働をして竜車代を稼いだ。

 

 それだけで一か月。移動にも一か月。

 

 もはや金はない。食費も削って居心地の悪い安宿に泊まって隣室のふしだらな喘ぎ声を全力で無視して必死に耐えてここまで来たのに、金は一銭も残らなかった。世知辛いというか何というか。

 

 二年も文官になろうと勉強していたのに、結局一人でできることなど限られているのだ。現代社会で家もなくお金もなく身分もなくお金を稼ぐことを考えてみて欲しい。無理だろう。それができただけでも褒めて欲しいものだ。

 

 しかしアーガイル領に着いたはいいものの、どうしたものか。

 

 無計画で侵入して、フェリスを助けて屋敷を抜け出しても今のオレにはあいつを休ませてやれる場所がない。宿に泊まる金もない。

 

 

「………。本当にどうしたものか。はぁ……憂鬱だ──って、泣き言言ってる場合じゃないよな…──とにかく行こう。足を動かせ。立ち止まるな」

 

 

 それしかできないのだから。

 そうする他ないのだから。 

 そうでもしないと──。

 

 

◆◇◆

 

 

 そうしてやってきたアーガイル邸。

 

 

 領主の家だ、軽く調べれば場所はわかった。

 それは一見して普通の屋敷だった。大きさで言えばカルステン邸より一回りは小さいだろうか。門には二人の警備兵が見える。他にはこれといった特徴がない、フェリスを監禁しているとは思えないほど普通の屋敷だ。

 

 ──いや。

 

 しかしユウはその目立たなさに違和感を覚えた。

 

 ──何かがおかしい。

 

 少し見ただけでも感じ取れる引っ掛かり。

 

「……貴族が、外面に拘らないなんてことはあり得ない」

 

 そう、それは貴族がただの金持ちではなく貴族であるが故に得られる違和感であった。貴族は民と領を納める義務があり、それ故に厳しい儀礼と権威足りうる示しをつけなければならないのだ。

 

 ──なのに。

 

「…庭もぱっと見じゃわからないがよく見れば手入れが荒い。警備兵も本当に訓練しているのか怪しいほど風格がない。これじゃあ──無理やり取り繕っただけのハリボテだ」

 

 おそらく一般人にはわからないであろう齟齬。しかしカルステン家という本物の貴族の家で過ごしてきたユウにはその差が、その齟齬がありありと見えていた。

 

 

 ユウは無計画で侵入するのをやめた。

 

 

 

 

 

 一日目。

 

 

 屋敷の観察に一日を費やした。

 

 早朝、警備兵が交代し、その後メイドが外出。メイドを追うことも考えたが、今日は屋敷を見張ることに徹底した。昼前にメイドが食物をもって帰ってきた。買い出しに出ていたのだろう。夕方に再び警備が交代しその後は変化なし。領主が出てくることも買い出しに出たメイド以外の使用人が出てくることもなかった。

 

 カルステン家もそれほど外出する機会はなかったが……。

 

 ──何か、何かがおかしい。

 

 漠然とした違和感。しかしそれを言葉にできない。

 

「…まだ情報が足りない」 

 

 監視を続行する。

 

 

 二日目。

 

 

 今日も一日観察を続けた。

 

《早朝、警備兵が交代し、その後メイドが外出。昼前にメイドが食物をもって帰ってきて、夕方に再び警備が交代しその後は……変化、なし》

 

「…昨日と、全く同じだ」

 

 結果はこの通り。

 いくら貴族の家で最適化、効率化されていようとあり得ない。

 交代のタイミング、外出のタイミング、帰宅する時間まで昨日と寸分違わず同じなんて、有り得るはずない。 

 プロとかそんなレベルじゃない。これじゃあ──。

 

「…まるで機械だ」

 

 そしてそれとは別に昨日の違和感の正体にも気づいた。

 

 ──誰一人会話していない。

 

「衛兵が交代するときも、メイドが出入りするときも……誰も何も話していなかった」

 

 そこに声はなく、音はなく、温度はなかった。

 貴族に仕えているからといって衛兵が私語を一度も挟まないことなどあるだろうか。

 子供を監禁をするような貴族だ。緘口令(かんこうれい)でも敷いているのか…?

 

「………」

 

 確かな不安と不吉な予感が募ったまま、一日を終えた。

 

 

 三日目。

 

 

 今日は朝決まって外出するメイドを尾行した。

 

 メイドは真っ直ぐ決まったルートを歩くように、八百屋、果物屋、パン屋を巡回した。あまりにもまっすぐ進むメイドは通行人とぶつかっていた。

 

「ごめんなさいっ」

 

 メイドは申し訳なさそうに謝罪した。それは普通の謝罪だった。ぶつかった人も違和感を覚えなかったのだろう。気にせずそのまま通り過ぎていく。

 

 ──しかし。

 

「ごめんなさいっ」

 

「ごめんなさいっ」

 

「ごめんなさいっ」

 

 ──その光景がたった一日に四度繰り返された。

 

 ──その謝罪は、表情から声音からしぐさから、何から何まで同じだった。

 

 その後、どの店でも決まった台詞でも述べているかのように淡々と食材を買いメイドは屋敷へと帰宅した。

 

「……なんだ、これ」

 

 ユウはその光景に、戸惑いよりも恐怖を覚えた。

 

「……あれは人、か?もしかして、操られているのか?だけど──」

 

 ──一体誰に?

 

 次なる疑問が湧いて出てくる。すぐに思い浮かぶのは──。

 

 ──領主。

 

 当然だ。彼女はこの屋敷のメイドなのだから。彼女に何かしたのだとしたら領主以外にあり得ない。仮に領主以外の何物かの仕業だったとしても領主が気づかないはずがないからだ。

 

 ──だけど。

 

「……なら、いったいどうやって?」

 

 ただの領主にそんなことができるのだろうか。──ここの領主は、フェリスを閉じ込め虐待しているだけではないのか?

 なにか、ユウの知らない何かが行われている。

 

「………フェリス」

 

 ユウは彼女の名を呼んだ。

 それは彼女の身を案じているためだろうか。それとも──得体のしれない恐怖と不安を誤魔化すためだろうか。

 

 

 四日目。

 

 

「……違う。これは違う。──人間じゃ、ない」

 

 

 今日は、リスクをとって屋敷に近づき屋敷の()()観察した。

 そうしてわかったことは──。

 

「人が、少なすぎる」

 

 もともと人の出入りが少なすぎるとは思っていた。この四日間屋敷に訪れた人間はおらず、外出した人間もいない。ということは使用人は全員屋敷の中で暮らしているはず。なのに食料の買い出しをしていたのはただ一人。例え毎日買い出しに出ていたとしても屋敷に居るすべての人間を賄う食料など一人では持ち切れるはずもない。 

 

 その答えを示すように、厨房にも、数多ある部屋にも、廊下にも、買い出しに出たメイド以外には誰一人として使用人がいなかった。

 

 交代に出る兵士すらどこにいるのかわからなかった。

 

「………」

 

 それに、昨日は人形のようなメイドの振る舞いに驚いていて気にならなかったが、メイドが買っていた食料は屋敷の規模に比べて明らかに少なく、買っていたのも果実に野菜とパンだけで肉や魚は買わなかった。それは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ではないのか?

 

「………」

 

 ロズワール家もたった二人のメイドで管理できていたのだから不可能ではないのだろうが……普通の貴族の本邸でこんなに少ないことがあるだろうか。いいやあり得ない。ロズワールだって本邸にはちゃんとした執事や使用人がいた。

 

 しかし、ユウを驚愕させたのはそれではなかった。

 

 ユウはあることを確かめるために《風魔法》を使用した。

 それはユウなりにクルシュの役に立つために工夫と試行錯誤を経て編み出した風魔法の応用。

 

「……『フーラ(拾音)』」

 

 クルシュのもつ『風見の加護』を参考にして作り上げた音を拾う魔法。本来は密偵なんかの為に使うものだ。……クルシュはきっとそういうことを好まないし得意ではないと思ったから、その分野で役立とうとしたのだ。……クルシュにバレて使うのを禁止されたが。こんなところで役立とうとは。

 

 ユウがそう唱えると、眼前に薄緑色の気体が出現した。それに向かって、ふっと息を吹くと気体は風に乗ってメイドの方へと向かっていく。

 そうして、メイドの目を通り過ぎた。

 そのまま流れるようにUターンしてユウの元へと帰ってきて、しかし何事もなく消えていった。

 

 そして、その結果がユウを驚愕させたのだ。

 

「………っ」

 

 

 ──心臓の音が、しない。

 

 つまり、それが示すところは。

 

 ──人間じゃ、ない。

 

 これは、人間じゃない。私語がないなんてものじゃない。心音すらないなんて。これじゃ本当に──人形みたいじゃないか。

 

 念のため、門番をしている兵士も確かめたが、結果は同じ。

 この屋敷の人間は誰一人として生きていない──死体だ。しかし人間のように毎日同じ行動を繰り返している。

 

「……意味が、わからない。死体が、操られている?いったい、何に……?何のために?ただの一貴族がこんな大胆なことを……?」

 

 

『ごめんなさいっ』

 

 ユウは昨日のメイドの声やしぐさを思い出していた。あれが、操られているだけの死体だというのか。ただ死体を操っているだけではありえない。死体は腐るからだ。

 

 ──しかし、ユウは知っている。

 

 ──それが可能な魔法が──『禁術』が存在することを。

 

「───。」

 

 もう、様子見の必要はない。

 あとは覚悟を決めるだけだ。

  

 

 五日目。

 

 

「……侵入、する」

 

 

 ユウは屋敷への侵入を決断した。

 整然と佇む屋敷から禍々しいオーラが見えるような気がする。

 幻覚だろうか。ユウがもつ漠然とした不安が見せているのかもしれない。

 

「………不安だ」

 

 ユウにはそれが確かに感じ取れた。心臓が恐怖で高鳴っている。汗は止まらず、嫌な予感がしてならない。

 

 ──ナニカ。

 

 なにかがいる。彼にはわからない──ナニカが。

 根拠のないただの予感。

 そうわかっていても恐怖は拭えない。

 

「…これがオレの気のせいで、ネガティブな思考による取り越し苦労で、全部妄想、すべて当主の企みなら、そうだったら良いんだけど……」

 

 ──いいや。

 

「…だったら、なんだってんだ」

 

 例え、ユウにはわからない危険な輩がいたとしても、関係ない。猶更フェリスを助ける理由が増えるだけだ。

 

「言い訳するな。逃げるな。恐怖なんて知ったことか、オレにはまだできることがあるんだ。だから──いくぞ」

 

 ユウは今度こそ意思を決めた。それはしかし、ある意味で思考停止。予測できる危険を無視して考えないようにして目を逸らしている、だけなのかもしれない。

 

 ──動かなきゃ、始まらない。行けばどのみち分かることだ。

 

 ユウは動き出した。

 

 四日間見張って確かめた警備の隙をついて壁を越え屋敷裏、二階の窓から侵入する。衛兵は同じルートを巡回しているだけなのだから容易だ。

 

 問題なく侵入できた。

 

 そうして辺りを見渡せば──そこは人が過ごしている気配のない冷たい部屋だった。家具はいくらか埃をかぶっている。

 

 ……予想通り、この屋敷では暫く人が暮らしていない。

 

 何かが起きていることはやはり間違いないようだ。何が起きているのか。

 

 ……わからない──…怖い。

 

 でももう──後戻りはできない。

 

 ゆっくりと、音をたてぬよう扉を開く。その隙間から廊下を覗く。だが──誰もいない。何も感じない。音、匂い、温度。すべてがまるでない無機質な世界がそこにあった。

 

 ただ視界を埋め尽くす赤いカーペットだけが存在を主張している。

 

「っ『フーラ(拾音)』」

 

 再び風魔法を使って音を集めても──無音。

 

 ──あり得ない。なんで。

 

 この屋敷にいたはずの、数少ない使用人の音すら、ない。

 

 冷汗が額を、頬を、顎を伝っていくのを如実に感じた。

 周囲の音よりも遥かに己の心音の方がうるさい。

 指先から順に温度が確かに失われていく。

 

 ──…考えないように、考えないように。

 

 思考を止めて逃げるように屋敷を探索する。

 

 ……どこに監禁されているのか。おそらくは──地下。屋敷の中に生き物の気配はない。ならば、あるはずだ。そしてそこに必ず──フェリスがいる。

 

「………。」

 

 無意識に手を握りしめる力が入る。それは恐怖を誤魔化す為か。しかしそうしたところでその指に温もりは戻らない。恐怖は拭えやしない。勇気は湧いてこない。

 

 ──ユウは一人なのだから。

 

「………。」

 

 この屋敷に誰もいないことが分かったユウは大胆に地下への入り口を捜索する。

 大階段のあるホールを覗いても何もいない。何もない。高そうな瓶も高価そうな絵画も豪華な装飾品も、何もない。

 

 まるで泥棒でも入ったみたいだ。

 

 ──…クルシュが突入した時もこんなだったのだろうか。ちゃんと聞いておけばよかったかな。今更考えても遅い、か。

 

 階段を降り、地下への入り口を探す。

 一階にも当然誰もいない。当主も、メイドも、兵も。

 

「…これは、あからさまに──誘われている」

 

 汗が、赤いカーペットの上に堕ちた。

 拭っても拭っても、とめどなく。その恐怖に限度はない。

 

 しばらくして、地下への入り口を見つけた。

 誰もいないのだ、ゆっくり探させてもらった。

 階段裏付近から風の流入を感知してそこを重点的に調べた。すると、定番と言えば定番か、付近の燭台をいじったら、カチッという音と共に階段下の床が動き、地下への道が開いた。

 

「………。」

 

 覗けば、そこにあるのは階段。その先は──暗闇。暗黒。暗晦。

 ゴクリとそう異常に大きな音が響く。イかれているのは喉か、耳か、あるいは頭か。

 

「──…退き、たい」

 

 ──ここまで来て何言ってんだ。

 

「…怖い」

 

 ──恐怖なんて、フェリスに比べたら──。

 

「恐怖は、どれだけ頑張ったって、消えてくれないんだ。考えないようにしても、いつか必ず決断する時が来る。今がそうだっ」

 

 心の声が、漏れ出た。

 

 それは本音。本性。本当。

 

「退きたい。逃げたい。やめたい。…これは、やばい。やばいんだよ。なにかはわからない。わからない、が……多分。きっとこの先にあるのは…──地獄だ」

 

 臆病な自分には到底進めるものではない。

 

「誰に言い訳してんだ、オレは……」

 

 ──でも……でも………怖いんだよ。

 

 足が動かないんだ。顔を上げられないんだから。

 わかってても、ダメなんだよ。ダメなんだ。

 

 心臓が壊れたみたいに危険だって叫んでるんだ。 

 耳鳴りが恐怖を煽るんだ。

 一歩が、たった一歩が、踏み出せない。

 

 ──でも。

 

「……ここで引いて、どうするっていうんだ……」

 

 ──オレ、でもばっかりだな。

 

「……ハハ。──あぁ」

 

 ここで引いたら、きっと自分は諦めてしまうだろう。

 

 きっともう二度と一歩を踏み出せなくなる。

 

 この程度で折れてしまったという事実が、あれは夢だったのだと言い訳を作ってしまう。

 

 ──自分で自分を、二度と……。

 

 二人との思い出も信じられなくなる。

 二人との思い出を忘れてしまう。

 二人に、忘れられてしまう。

 

 ──それは、嫌だ。

 

 

 ──…嫌だ。

 

 

 ──それだけは、絶対。

 

 ──だから。

 

 

「……勇気をください」

 

 

 神に祈る修道女のように、一度膝をついて、手を組んで、想像する。

 そうすれば──。

 

 

 ──声が聞こえてくる。

 

 

『──ユウ。お前ならできる』

 

『ユウっ!…──逃げても、いいんじゃにゃい?』

 

 

「………はっ」

 

 それは存在しない思い出。ありもしない空想。ユウの願いから出来上がった幻想。──でも、ユウは、ユウの頬はどうしようもなく上がってしまう。

 先ほどとは別の意味で、心臓が高鳴って来る。

 我ながら単純というか、想像力豊かというか。

 

 ──あぁオレの想像でしかないのに、なんで。なんでこんなにも──心が奮い立つのか。

 

 それはきっと、二人なら本当にそう言ってくれると信じられるから。記憶の中の二人を信じているから。

 

 

「いくしかないよな、オレ。ああ、怖いなぁ──でも、いこう」

 

 

 ──彼女を助けに。

 

 

 燭台を片手に、ゆっくり、ゆっくりと、一歩一歩噛み締めて勇気を絞り出して進んでいく。

 

 そうしてユウの影は消えていくのだ。

 

 

 ──地下の牢獄へと。

 

 

◆◇◆

 

 

 暗闇の中、一本の燃え尽きかけた蝋燭だけが光を放つ。

 

 

 光に映るのは、黒。

 

 真っ暗な壁、真っ暗な鉄の棒、真っ暗な牢獄。

 光で照らして尚もその闇に色はなく、ただすべてを飲み込むような黒が一面を埋め尽くしている。

 

 そして──真っ黒い子供。

 

 蓄積した垢と汚れで限界まで身体を覆われている子供。その小さな体を目一杯に小さく縮めている。冷たい冷たいこの世界で温もりを求めた為。寂しく悲しいこの世界で自らを抱きしめる為。

 

 子供は目を閉じている、故に真実全身が真っ黒だ。その瞳はただ己の内を写している。それは闇。孤独の闇。目を背けることのできぬ絶望の景色。

 

 子供はただ息をしている。ただ生きている。生きているから息している。息しているから生きている。

 

 子供はどこかお腹もすいているようだ。しかしお腹が鳴ることはない。子供は喉も乾いているようだ。いつから摂っていないのだろうか。

 

 子供が呼吸する音だけが響く。すーはー、という生の音。あまりの日常故に誰もが忘れてしまう生きているものの音。

 

 ──生きているのだ。

 

 狭くて暗い、息苦しい、冷たく寂しい世界。

 危険はないが、救いもない。そんな世界。

 

 

 そんな世界に異物が混じる。

 

 

 コツン、コツンと、何かの音が響く。

 ──それは変遷の音。

 

 だんだんと近づいてくる音。

 ──それは時が進む音。

 

 

 コツン

 

 コツン

 

 コツン

 

 コツン

 

 ………

 

 

 音が、止まった。

 

 その意味するところは──ナニカが、外から覗いている。

 

 

 

 

 

「──フェリス、か?」

 

 

 声が、聞こえた。男の声。

 男の声は、震えていた

 

 

 ──ふぇりすって、なんだろう。

 

 

(…?)

 

 

 子供は何もしない。否、ただ見ている──その黄金の瞳を開いて。

 

 綺麗な瞳。穢れなき瞳。

 その瞳に絶望はなく、希望はなく。

 そこにあるのはただ純然たる心。写し出されるは無垢なる魂。

 

「フェリス……っ」

 

 それを見て男は泣き始めた。何を想ったのか。誰を想ったのか。その答えは想像に難くない。

 

 男は暫くの間泣いていた。止めようにも止まらない──自分に対する涙は止められても他者へ向けられた涙は止められないものだから。

 

「……今、出してやるっ」

 

 男は子供を閉じ込める鋼鉄の檻を握った。

 そうしてその手に万感の思いを込めて、力一杯に折り曲げた。

 大人の身体でも問題なく通れるくらいの隙間ができた。

 

 それでも、子供は反応しない。

 子供は──()()()()()

 

 男は牢の中に入り、ゆっくりと、手を伸ばしてきた。

 

 

 ──だから、子供はその手を握った。

 

 

◆◇◆

 

 

 ユウはフェリスを見つけた。

 

 

 汚れ塗れだし、体は小さい。子供だからじゃあない。これは栄養失調。成長不全。虐待の跡。

 

 ……フェリスが監禁されていたのは知っていた。

 

 クルシュが助け出し屋敷へ連れてきたばかりの頃、彼女は自分が誰かも分かっておらず、ただクルシュにくっついていた。オレになんか目もくれなかった。

 

 それでも話しかけ続けて、少しづつ少しづつ信頼を得た。クルシュが呼ぶよりも先にフェリスと呼んでしまった時からかなり距離が近くなった気がする。

 

 ──だから、知らなかった。

 

 彼女がこんなだったなんて。──こんなに苦しんでいたなんて。あんなに。あんなに一緒に過ごしてきたのに。あんなに大切だって言い尽くしてきたのに。

 

 ──オレは、何にも知らなかった。

 

 その過去を。その苦悩を。知る必要すらないと思っていた。

 

「フェリ、ス……っ」

 

 思わず声が出た。思わず涙が出た。

 胸が苦しかった。心が痛かった。

 

 怖かっただろう。寂しかっただろう。

 きっと辛く苦しい思いをしただろう。

 その『痛み』をほんの少し想像するだけで、どうしようもなく涙が溢れ出てくる。堪えられない。耐えられない。

 

 だが泣くべきは自分じゃない。自分に泣く資格なんかない。

 ユウがすべきことは、今すぐにでも彼女を助け出すこと。こんなところから一刻も早くフェリスを連れ出すこと。それだけなのだから。

 

 ユウは檻を無理やり捻じ曲げこじ開ける。

 そうして中へと入りそこで身体を横にしている彼女を救い出そうと、彼女に手を伸ばした。

 

 すると彼女はその手を掴んでくれて──。

 

 

 

 

 

 

 

 ドクン

 

 

 

 

 心臓が──弾けた。

 

 

 

 

「ギィッ、アぐあアぁぁァァァァァァァァッッッ!!!」

 

 

 

 

 

 ──ナニガナニナニガ何が何が何アガナにあがなないがなにあが──ナニガ。

 

 

 ──思考ッガ、マト、マラナイッ!!!

 

「あがぁぁぁああアアッッッ!!!」

 

 ──頭がァッ!!

 

 割れる、砕ける。破ける。潰れる、壊れる。イカレル。終わる。なくなる。破裂する。潰える。崩れる。

 

 ──し、ぬ……っ。

 

 視界が明滅し、白く染まる。 

 しかし未だ意識は消失せず苦悶を与え続ける。

 

 劇痛劇痛劇痛。頭だけではない。

 肉体が死んでいく。身体が壊れて、神経が狂っていく。

 全身が悲鳴を上げている。

 

 ──痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 

 ──死ヌ死ンジャウ死ヌ、死、どうしてっ。

 

 

 五体を放り出し肉体を無様に暴れさせる。尋常じゃない痙攣、身体の自由は聞かず。ひたすら転げまわり五体を壁にぶつけるのみ。心臓が暴れている。胃が逆流している。血が身体を切り刻んでいる。ありとあらゆる内臓が自傷している。そんな痛み。息もできない。目も開けない。鼻には血が詰まっている。耳からは気色の悪い感触がする。

 一瞬にして、男は死を余儀なくされた。

 

 

「…ァ゛…ン゛ェ゛」

 

 喉は締まり空気を取り込めなくなって尚その喉は音を生み出した。意味の分からぬ音。蛙のような声でげこげこと喉を打ち鳴らす。

 

 

 ──ナンデ。

 

 攻撃された?なんで。誰に?フェリスに?なんで。なんで。なんで。

 

 ──どうしてっ。

 

「ごふ──っ」

 

 ──これは……血が、沸騰してる、のか?

 

 直感だった。それはフェリスのもつ攻撃型水魔法の一つ。ユウはそれを知っていたから。知っては、いた。しかし使っているところも、ましてや使われたことなどない。ただの直感、そして事実であった。

 

 

 ──死ぬ。

 

 白滅した視界が闇に覆われていく。

 

 ──死ぬ。

 

 目の前に避けられぬ『死』が見えた。

 

 ──死ぬ。

 

 怖がらせたから?怒らせた?そんな、なんでっ。

 

 ──死ぬ。

 

 フェリスに、殺される?そんなの。なんでだよっ。

 

 ──死ぬ。──死ぬ、死ぬ。──死ぬ死ぬ死ぬ──。

 

 

 ──『死』

 

 

 嫌だ。いやだ、いやだ──っ。

 こんな、こんな、最後──。

 

 

 ──………やだ、よ………。

 

 

 

 

 

 ユウはフェリスにやられて、その身を自身の血の池に沈ませた。

 

 意識は落ち、その瞳はもはや何も写さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──否。

 

 

 

「おや」

 

 

 女がいた。

 

 

「死にそうだね。やりすぎだ」

 

 

 桃髪の女。

 

 

「でもよくやった」 

 

 

 小さい女。

 

 

「ずいぶんと怖がっていたね」

 

 

 女は告げた。

 

 

 ──待ってたよ。

 

 

「………………──」

 

 

 こういう無感情に喋るやつを人はきっと──。

 

 

 思考は結論まで至らなかった。

 

 

◆◇◆

 



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『責められて問われて』


 どこかで見たことあるような光景。六五


 

◆◇◆

 

 

 ポタ……ポタ……

 

 

 水の滴る音がする。

 

 

 ──外は雨だろうか。

 

 

 わからない。

 いったいどれだけの時間が経ったのだろう。

 数年?数か月?はたまた数日か。

 

 明かりもなく音もなく、ただ鉄のさびた匂いのする部屋に閉じ込められて、時間の感覚すらままならない。

 発狂してもおかしくないのに。僕の頭は至極冷静だった。

 

 壁も檻も何も見えぬ暗闇で、閉塞感だけを確かに感じていた。

 もしかしたらそこには自分を取り囲む壁も自分を閉じ込める檻も本当はないのかもしれない、なんてそんな幻想を抱く。

 しかし手を伸ばせば簡単に知覚してしまう障壁。自分を妨げる物理的な壁。

 

 頭がどうにかなってしまいそうだ。

 むしろどうにかなって然るべきだ。

 どうにかなるのが正解だ。

 

 ──なのに。

 

 感じるのはただ漠然とした違和感。

 あり得るはずのない冷静さ。思考の透明感。

 どうして自分はこんな状況下で冷静なのか。冷静でいられるのか。冷静になってしまうのか。

 

 

「……会いたい……会いたいよ……フェリスに……クルシュに…──二人に……会いたい」

 

 

 もはや叶わぬ願いだった。

 ユウはここで一人死んでいくのだ。

 心を満たすのは絶望か、憎悪か…──否。

 

 ──寂しい。

 

 胸にあるのはただその想い──寂寥(せきりょう)感だけだった。

 

 

 思えば、一人になって冷静に考える時間は今までなかったかもしれない。

 ──いつも傍には誰かがいたから。

 誰かが、いてくれたから。

 

 この世界に来て、流されるままに何年も過ごした。

 勉強もしたし努力もした。

 自分なりに二人を守ろうとそう決意した。

 

 でも、それはきっとそうするのが自然で、そうする他選択肢がなかったから。

 だって、この世界には僕が縋れるものなんてなくて、でも『死ぬ意味』もなかったから。

 

 だから。

 

 流されるままに、怠惰にこの世界で過ごした。

 

 両親のことも、元の世界のことも、考えないようにして、記憶に蓋をして、現実から目を背けて、そうして逃げてきた。

 

 

 逃げていい(死ぬ)理由をずっと探してた。

 

 

 自分はこの世界の一部なんだ、

 この世界に生きる一人のキャラクターなんだってそう演じてきた。

 

 いい人を演じた。

 それに意味がないことなんてとっくに知っていたのに。

 あの二人に嫌われたくなかったから。

 

 誰かを救いたかった。

 救いを求めている人を僕は求めていた。

 それがたまたまあの二人だった。

 

 たくさん努力した。

 頑張ってるふりをした。

 自分に言い訳する為に。

 生きていていいんだって自分を騙すために。

 

 僕はこの世界の異物で、本来死ぬべき存在で、生きていること自体が『罪』だったから。

 

 

 赦されたかった。認められたかった。愛されたかった。死にたくなかった。生きていたかった。一緒にいたかった。助けたかった。笑ってる顔が見たかった。抱きしめたかった。愛したかった。嫌われたく、なかった。

 

 

 ただ。ただ、僕は、オレは、ただ──。

 

 

 

「本当に……何やってたんだろう、オレ」

 

 

 もう何もわからない。

 

 

◆◇◆

 

 

 悪い夢から覚めた。

 いつも通り嫌な夢だった。

 そうして感じるいつも通りの憂鬱。

 

 

 ユウは当たり前に、目を開いた。

 そこにはいつも通りの景色があるはずだった。

 

 

 しかし、目を開いた先にあったのは…──目。

 

 

 ──目。目。目。

 

 ──メ、メ、メ、メ。

 

 ──眼眼眼眼眼眼眼眼眼。

 

 

 ユウの視界に映るのは目。メ。誰かの『眼』。

 

 

「──はっ?」

 

 

 至近距離といっても尚足りないほどに近い距離。

 もはや眼と眼がぶつかりそうな距離、目が合うではなく“眼と会う”と言った方が近しいかも知れないそれは──。

 

 

 まるでユウの心の奥底を覗き込むかのようにその瞳を蠢かせていた。

 

 

(──え、な、は……?)

 

 

 不理解と狂気が心を潤す。

 まだ夢の中だっただろうか。

 そんな儚い願いを抱いてしまうほど、ユウの精神は、正気は、徐々に狂気に浸されていった。

 

 だが、これは悪夢ではない。

 ──悪夢より尚も残酷な現実だ。

 

 戸惑いを如実に示すユウに──声がかかる。

 

 

「目を、覚ましたか?」

 

 

 瞳が少し引いた。

 しかし未だに鼻先が振れるのではないかと言うほどの至近距離、そこに見知らぬ中年の顔があった。

 

「───。」

 

 怖い、そう思うのが自然であるのに、寝起きで未だ活性化していないユウの脳は現状を把握できなかった。

 

 

「私はこの家の当主──ビーン・アーガイルだ」

 

 

 ユウの理解をよそに、男は顔を引いて名乗った。

 貴族風の男だった。

 

 

 ──誰。──ここはどこだ──何が、どうなって──誰だこいつは。──オレは何を──身体が動かない──どうして──どうすれば。──何を──何が──なんで──どうして──。

 

 数多(あまた)の疑問が脳内を瞬時に駆け巡る。

 危機感が、恐怖が、緊張が、不安が、恐慌が、混乱が、動揺が、考えることを妨げる。

 

 しかし現実は待ってくれない。

 ──狂気が蠢き出す。

 

 

「──痴れ者がァ─ッ!!」

 

 

 沈黙から急変。

 男はナイフを振りかざした。

 

 

「──ッ!!!ぐ、ア゛ァぁぁああああ゛ああ゛!!!」

 

 

 ──手の甲を刺された。

 そう視認してから、遅れてソレがやってきた。

 

 

 ──痛いッ!!!痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛!!!!!!!

 

 

 脳内をその記号が埋め尽くした。

 刺された手から腕を伝い、肩を過ぎ首を通って、脳に至る信号。劇痛。灼熱。脳内から思考は消え失せ、ただ熱が残る。

 肉の焼けるような音が脳内で響き渡る。

 脳が焼けるような痛みをユウは現実に味わっていた。

 

 

「この私が名乗ったというのにッ!名乗らないとは何事だッ!!何様のつもりだッ!無礼者めがッッ!!」

 

 

 ──怖い怖い怖い。なにが、なんで、どうして。どうすればどうすればどうすれば、どうすればッ!!

 

 

 浮かび上がるのは根源的恐怖。

 逃げなければいけないという危機感。

 

 ユウは痛みと衝撃から覚めぬまま。

 しかし本能が危機を脱しようと反射的に答えを導き出した。

 

 

「ユ、ゆゆゆゆ、あがっ!………はッはッ……ユウっですッ」

 

 

 正常に舌が動かずどもりながら名乗るユウ。

 途中刺されたナイフを揺り動かされ悲痛の声を上げた。

 

 人は一瞬の痛みよりも痛む継続的な痛みを忌避する。

 途切れぬ苦痛が一秒を無限にも思わせる故に。

 

 継続する終わらない痛みがユウの集中をかき乱し、延々と思考を阻害する。

 

 それでも本来なら名乗ることすらできなかっただろう。

 それほどまでに状況は、ユウの脳内は混沌を極めていた。

 

 しかしユウは狂気を飲み込んで行動に移せた。

 それは五年の賜物か。

 それとも別のなにかのおかげか。

 少なくともまともな精神じゃない。

 発狂していてもおかしくなかったのだから。

 

 

「ふん、貧相な名前だな」

 

「ッ!あ゛あぁぁぁあ゛!」

 

 

 男はナイフを引き抜きそう告げた。

 男はナイフを突き刺すことにまるで抵抗がなく、こちらの痛みなど気にも留めていなかった。

 

 ──狂っている。

 

 

「なぜ当家に侵入した。貴様は何者だ」

 

 

 痛い。痛い。

 目に見えて貫通している掌が、その穴から溢れ出る血液が、肉体だけでなく精神をも狂わせる。

 しかしそれでも、先ほどよりは幾分かマシになった。

 

 ──考えろ。考えろ。考えろ。

 

 限界状態に至って、生物としての本能が生き残る為にユウの思考を加速させる。

 

 ユウは尋問されていた。

 あまりの痛みと恐怖で頭がイかれそうな中、どうにか現状を打破しようと、ユウは素直に答えようとした。

 

 なのに──。

 

 

「お、おオレは、ふぇり、を、え──っあぐあ゛ああああああ!!」

 

 

 再び凶刃が振るわれた。

 

 

「誰が!いつ!発言する!許可を与えた─ッ」

 

「あ゛ッガッな゛ンッデッ!──ッ」

 

「私の許可なく発言するな。──二度はないぞ」

 

 

 男は声を荒げ、その度にナイフを振り下ろした。

 もはやユウの左手は見るに堪えず。

 ユウは目を瞑り痛みを堪えることしかできない。

 

 しかし沸々と心に湧き上がる──憎悪。

 

 

「貴様は何者だ。──答えろ」

 

 

 ──なんなんだ………なんなんだよこいつはッ!!!こいつが、当主???フェリスの父親ぁ??

 

 

 ──イかれてやがる。

 

 

 男を睨みつける瞳に『殺意』が宿る。

 それに呼応するように、周囲の気体が質量を纏って。

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

「なんだその目つきは、──どうやら身の程というものを知らぬようだな」

 

「ちょ、ちょっと待っデ──ッッ!!ぐあ゛ああああああああああああああ゛!!!」

 

 

 ──痛い。痛い。痛い。

 ──また、また、また。

 

 尋常ならざる痛みに殺意は乱れ、力をもった大気は霧散した。

 これだけ途切れず痛みを与えられてはまともに魔法など使えない。

 

 殺意は挫け、心が折れる。

 あまりの痛みに際限なく溢れ出てくる涙。

 しかしその甲斐もなく痛みは毛ほども和らがない。

 

 

「貴様は何者だ。言え」

 

 

 知らない。そんなの、知らない。

 

 なんで。なんで。なんで。

 

 ──なんでオレがこんな目に。

 

 

「お、オレは、ユウ……」

 

「それはもう聞いたッ!私を愚弄しているのかッ!」

 

「ぐッがッあが゛ッや゛や゛め゛ッ」

 

 

 グサグサグサグサグサグサグサグサグサグサグサ

 グサグサグサグサグサグサグサグサグサグサグサ

 グサグサグサグサグサグサグサグサグサグサグサ

 

 

 延々延々とナイフがユウを貫く。

 

 もう両手の原型はなかった。

 見るも無残な、ぐちゃぐちゃの手。

 

 飛び散った肉片、数本の指。

 血管が、神経が、腕の骨が露出している。

 

 見ているだけで吐き気を催す光景。

 もしもこのまま手を振ったなら、彼の手は明後日の方向に、遠心力のまま飛んでいくことだろう。

 

 

 ──熱い!熱い!熱いッ!!!

 

 もはやどこが痛いのかもわからず、ただ熱いという信号だけが脳を占めている。

 強過ぎる刺激が脳を麻痺させているのだ。

 断続的で継続的な刺激が脳神経を圧迫し錯覚を引き起こしている。

 熱という単純な信号に変換しているのだ。

 

 熱くて熱くて仕方がないのに。

 それと同時に感じる頭部の冷えていく感覚。

 オーバーヒートしかけている脳を周囲の肉が冷やそうと躍起になっているのだ。

 だんだんだんだん、脳という臓器に熱を吸われ、目から口から鼻から耳から頬から頭皮から喉から熱が失われていく。

 

 

 ──寒い。熱い。寒い─ッ。熱い─ッ。

 

 

「ハァ、ハァ」

 

「……ひゅー……ひゅー……」

 

 

 何度も何度も腕を振り下ろした男は息切れしている。

 対して、大量出血で貧血を引き起こし脳を駆け巡る寒暖の激しさに昏倒しかけているユウ。もはや呼吸もままならない。

 

 

 それでも、尚も考える。

 

 

 考えて、考えて、考えて、

 

 考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても考えても、何度考えても。

 

 

 ──意味がわからない。

 ──理解できない。

 

 ──死ね。

 ──死ねよ。

 ──死んじまえ。

 

 

 

 もうすべてがどうでもよくなった。

 

 オレは何をしていたのか。

 どうしてこんなことになっているのか。

 何がどうなっているのか。

 

 オレはフェリスを助けに来たはずで、こいつはこの屋敷の当主、つまりフェリスの父親のはず。

 

 冷静に高速で思考する。

 死なない為、生き残る為、生存本能が彼の思考を加速させる。

 

 オレは捕まった、フェリスにやられて。

 そしたら知らない女が来た。

 目が覚めたら捕まっていて、男がいた。

 そして今、拷問されている。

 

 

 どれだけ考えても、答えは一緒。

 ──答えなど存在しなかった。

 

 

「──聞いているのかッ!この小汚いカスがッ!私が、私がっ!私がッ!聞いているというのにッ!!」

 

「あ゛ぁあぁぁぁぁぁぁ!!!!!やめ゛ろッやめ゛てくれっ!オレは何も知らないッ!何も知らないんだ!オレはただフェリスを助けに来ただけだ!謝るから!もう諦めるから…ッもうやめてくれ!!」

 

 

 『不理解』は『理不尽』は『本物の狂気』は──容易く人の心を折る。

 心の弱い一般人なんて、その狂気の前では何もかも容易く捨ててしまう。

 

 『夢』も『理想』も『希望』も、そんなものは残酷な現実を前にすれば無力なのだから。

 

 限界まで加速し時間の引き延ばされた世界で、時間が止まったかのように思われるほどの空間で、無限に引き伸ばされた『痛み』を『苦しみ』を『絶望』を与えられれば、誰だって容易く己が心を握り潰すことだろう。

 

 

 誰かを助けたいなどという思いは所詮余裕があるから生まれるもの。

 心にもお金にも余裕がある人間が、哀れでか弱い人間を見下して救い上げて悦に浸りたいという本心を覆い隠して、声高に言い放つ戯言、『綺麗事』だ。

 

 対等で平等で等価値でしかないはずの人間が、人間を救いたいなどというのはただの『傲慢』だ。

 

 

 死の間際に瀕したとき、人の本性は現れる。

 

 

 ──つまり、所詮はその程度の男だということ。

 

 口だけは一丁前で。

 綺麗事ばっかり抜かして。

 助けるだ救うだなんだ言っておいて、いざ自分が危険な目に合えばすぐさま諦めてしまえる。

 

 ──『ナツキ・スバル』とは違う。

 

 『英雄』とは違う。『ヒーロー』とは違う。『主人公』とは違う。

 

 単なる凡人。真なる凡人。

 勘違いして思い上がってイキっていただけの小さくて、醜い、底辺のゴミクズ。

 それが──七星憂という一人の男の正体なのだから。

 

 

 

「はぁ、はぁ」 

 

 

 言い切った。言ってしまった。仕方ない。こんなの耐えられるわけない。死んだ方がマシだ。なんなんだこれ。死ねよ。なんだよこの狂人は。死ね。死んじまえ。なんでオレがこんな目に合わないといけないんだよ。オレはただフェリスを助けに来ただけなのに。それがこの仕打ち?ふざけんな。ふざけるんじゃねぇよ。助けろよ。なんでオレを、攻撃しやがって。くそが。くそったれ。裏切りやがって。裏切りやがったんだ。もう知るもんか。あんなやつどうでもいい。ふざけやがって。死に絶えろ。馬鹿が、カス、死んじまえ。

 

 

 溢れかえる罵詈雑言。

 聞くに堪えない暴言の嵐。

 人をこれでもかと不快にする腐った人間性の発露。

 

 それはただの八つ当たりで、ただの言い訳に過ぎない。

 まったくもって救えない。いなくなってくれた方がすっきりしそうなほど腐ったドブの臭いのする心の内側。

 

 ああ、まったく救いようのないクズだ。

 ──なにせそれは、全くもって無意味な言い訳なのだから。

 

 

「……フェリス?──誰だそれは。──ほぉ……そうかそうか。私を馬鹿にしているんだな?嗚呼いいぞ。いいだろうとも。そんなに私の拷問が気に入ったんだな。よかろう。ならば本当のことを言うまで拷問して(付き合って)やろうじゃないか。──覚悟しろ下民」

 

 

 

 はぁ……?

 

 

 

「フェリスだよッ!『フェリックス・アーガイル』!お前の息子だろ!?」

 

「フェリックス、だと……?」

 

 

 男の態度が豹変した。

 

 

 もはやどうにでもなれと達観していたユウが冷や汗を流すほどに。

 その顔からは表情が消え、感情が消え、この場の空気を凍てつかせるほど冷え切った伽藍洞(がらんどう)の瞳だけが存在を主張していた。

 

 眼。眼。眼。

 

 その眼には生気がなく、光がなく、ただ闇があった。

 その空洞とも思える闇の中で──ナニカが蠢いている。

 ナニカが──ユウを見つめている。

 

 

「──何故。お前が知っている。お前は何を知っている」

 

 

 ──吐け。

 

 

 その声に怒気はなく、力はなく、強さもなかった。

 ただ──絶対に吐かせるという圧がユウに向けられていた。

 

 

「ふんッ!」

 

「あが゛ッ!!!あ゛ああああ゛ああァァァァアアア゛ッッ!!!」

 

 

 潰れた。潰された。

 

 ──熱いッ熱いッ熱い─ッ。

 

 その熱は、先ほどの比ではなかった。

 素手で脳を(まさぐ)られるような激しい痛み。

 熱された黒鉄(くろがね)が頭の中で暴れている。

 それはまさしく質量を持った熱。物理的な痛み。

 

 ──こいつッ!オレの──眼をッ!

 

「吐け。()く吐け。何故知っている。貴様は何を知っている」

 

「がはッぐはッげはッあがっ」

 

 

 ガンッゴンッガンッガンッガンッ

 

 

 何の遠慮もなく粗雑に頭を掴まれ叩きつけられる。

 

 

 ──狂ってるよ。こいつ、狂ってる。

 

 

「──何を笑っている」

 

 

 ──笑ってる?誰が。

 

 

「何がおかしい…ッ何がおかしい─ッ!」

 

 

「アハ。あはははハハハハハハハハハハハハハハハ!アヒ」

 

 

 ──オレ、笑ってる?なんで。

 

 ──もしかしてもう。

 

 

「笑うな゛ぁぁぁぁぁぁああ゛!!!!!!!」

 

 頭を鈍器で殴られた。

 しかし──もう痛みは感じなかった。

 

 

 ──もしかして、もう、とっくに。

 

 ──…オレも狂っているのだろうか。

 

 

 

 プツンと、電源が落ちた。

 

 

 

 これは、地獄の始まりに過ぎなかった。

 

 

◆◇◆

 



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『壊れて直されて』


 ドーゾ。七三


◆◇◆

 

 

「……死にたい……殺して、くれ……」

 

 

 死の懇願が響き渡った。

 

 死にたいなら勝手に死ねばいいと、人は言う。

 

 死にたいなんて甘えだ。

 死にたいなんて病気だ。

 死にたいなんて、所詮口だけだ。

 

 (あなた)は言う。

 

 

 ふざけるな

 

 

 死にてぇから死にてぇんだよ。

 死にたくねぇから死ねねぇんだよ。

 なんで俺が死ななきゃいけねぇんだよ。

 

 

 馬鹿が。

 

 

 ──お前が死ね。

 

 

 彼は思う。

 彼には自死が赦されていないから。

 

 手足を縛られ、口にも舌を噛めないよう口枷が付けられている。彼はずっと椅子に座っている事しかできない。

 

 故に、彼にできるのは考えることだけ。

 

 一日に一度、得体のしれないものを無理やり食べさせられ餓死することも許されない。

 そこから動くことは許されずそこには糞尿が撒き散らされている。

 それらは魔法で処理されるが、再びアレが始まるまで彼はその居心地の悪い最悪な場所で過ごさなくてはならない。

 

 肉体的にも精神的にも辛い場所だ。

 こんな拷問じみたことをされている彼はしかし、肉体に直接的な拷問はされていないのか。

 

 “綺麗なまま”だ。

 

 しかし、可笑しい。

 身に付ける衣服は──赤黒い『血』で染まっている。

 

 衣服の繊維には血が染み込みぼろぼろになっている。

 ズボンなどもはや黒に染まり、足元には──否、この部屋の地面は固まった血で埋め尽くされていた。 

 これが人一人から出たものとは俄かには信じがたい。

 

 あきらかに拷問を受けたソレだ。

 

 だが、それでも疑問が残る。

 それならばその『痕跡』が残っていなければおかしい。

 いくら魔法があるとはいえ『回復魔法』は高等技術にして希少な力。

 

 このような場所でそんな高級な魔法が受けられるとも思えない。よしんば受けられたとしても何らかの後遺症は残るだろう。

 

 これはどういうことだろうか。

 

 

「死にたく、ない……死ね、ない……まだ…──」

 

 

 不自然は続く。

 今度は死にたくないと言い始めた。

 このような仕打ちを受けてまだ生きていたいと思えるのか。

 

 それは不自然な正気。

 死にたくないと思うことは人間にとって正常な思考。

 だが、世の中には死ぬよりつらいことなんて当たり前に存在する。

 

 目を()り貫かれたり、鼻を削がれたり、耳を削ぎ落されたり、舌を引っこ抜かれたり、顔の皮を剥がれたり、首の骨が折れるほど喉を絞められたり、限界を超えて四肢を引っ張られたり、想像するだけで恐ろしい所業が、実際に世界のどこかで行われている。

 

 彼は、そんな蛮行をあろうことかすべて、その身をもって体験しているのだから。

 

 狂気である。

 そんなことをやる方もやられて生きている方も、人の想像の域を超えた狂気の沙汰である。そう彼は、そんな狂気の所業を乗り越えてしまったのだ。

 

 普通なら死んでいるはず、しかし彼は死ななかった。

 この世界の奇跡が彼を死なせなかった。

 この世界には有限の奇跡──魔法が存在するのだから。

 

 一つだけでも発狂する拷問を──幾つでも。

 一回だけでもトラウマになる拷問を──何回でも。

 

 やろうと思えばできるのだから。

 できて、しまうのだ。

 

 そんなこと、考えるだけでも頭がイカれていると分かるのに。実際にやろうと思うやつはまず間違いなく狂っている。狂人だ。人間じゃない。怪物だ。

 

 じゃあ、そんな狂気染みたナニカを乗り越えて尚、正気でいる彼は──オレは。

 

 果たして正気と言えるのか。

 

 思考がイカれ、頭が壊れ、狂気に陥るのが正常なのであれば、それでも正気を保っているなんて、それはもはや『狂気』ではないだろうか。

 

 

 その不自然を証明するように。

 

 

「殺してくれ。殺せ。殺せよ。はやく殺せ!あああ゛ああああああああ!!!死にたくない!死にたくない!死にたくないんだ!まだ死ねないんだ!なんでまだ死ねない!なんでまだ生きようとする!やめろ!ふざけるな!ばか!殺せ!やだ!ああっ生きたくない!逝きたくなんてない!でももういやだ!もういやなんだよ!死にたい……くない………死ね。死ねよ。なんで、なんなんだ。なんだってんだよ!?あ゛あ゛あ゛あああああああああっ!!!」

 

 

 矛盾する精神が自身を破壊する。

 自壊する心は瞬く間に狂気に陥る。

 

 

「………あァ………あ………あ、あ………」

 

 

 しかし、すぐさま直される。

 一度発狂すると、精神は強制的に鎮静化され再び思考の渦に沈むことになる。

 

 彼は狂気と正気を行き来しているのだ。

 

 その尋常じゃないストレスは彼の頭髪に表れる。

 彼の髪は延々と白く染まっていく。

 ──しかしすぐさま黒に戻る。

 

 そしてまた白く。また黒く。

 黒く、白く、黒く、白く、黒く白く黒く白く黒く白く──それはいつまでも続く。──いつまでも。

 

 

 壊れるなら、壊れてくれ。

 壊れられるのなら壊れたい。

 

 どうして、まだ壊れない。

 どうしてまだ生きようとする。

 

 

『■■!』

 

 

 誰の為、何の為。

 答えは出ず、故に終わりもない。

 

 ついには頭髪が抜け落ちていく。

 

 抜け落ちては生えて。

 抜け落ちては生えて。

 

 それを延々と繰り返す。

 独りでいる間、彼は繰り返す。

 

 ずっと、ずっと、ずっと。

 

 安らぎは拷問を受けている時だけだ。

 

 それは狂気か、正気か。

 あるいはもう、人ではなくなっているのか。

 

 

 彼の地獄は終わらない。

 

 

◆◇◆

 

 

「目が覚めたかい?」

 

 

 狭苦しい部屋に二人の影。

 桃髪の少女と黒髪の少年。

 黙して座る少年と一方的に話しかける少女。

 

「おや?……漏らしているね。ああ……そうか。人には排泄という生理現象があるんだったか。ごめんね。知識としては頭の中にあるんだが、どうにも経験が伴っていなくてね」

 

 何も感じない。

 感じたくない。

 恥辱も恐怖も、どこかにやってしまいたい。

 

「ワタシが誰なのか、知りたいだろう?」

 

 興味ない。

 どうでもいい。

 どうでもいいから早く解放してくれ。

 

 

「随分と落ち着いているね。普通、こんな状況に陥ったらヒトという生き物は容易く発狂するものだが、実際幾人かのメイドはそれだけで『心』が壊れたし、肝の据わっていた執事も三日と経たず舌を噛んだ。君は、やはり特別なのかな?」

 

 

 特別?オレが?

 そんなわけあるもんか。

 バカバカしい。

 

「無視は酷いなぁ。これでもワタシは女の子なんだぞ。無視されると悲しい……」

 

 お前にそんな感情があるものか。

 ペテン師め。

 

「……まぁいい。応えてくれないのなら勝手に説明させてもらおう」

 

 少女は一方的に話し続ける。

 

「君にはワタシの実験に付き合ってもらいたくてね。しかしどうやらそれは普通の人間に乗り越えることは不可能なようなんだ。しかし君なら──『■■』の魔■■子を持つ君なら、とそう思ってね。……おや?その様子だと、もしや知らなかったのかい?そうか。普通は宿った時に実感するはずだが、どうやら宿った時にそれ以上の衝撃があったらしい。そうかそうか。そんなこともあるんだね。まったく。──興味が尽きないよ」

 

 何が言いたいのかさっぱりわからない。

 

「んっん、そう。実験だ。是非とも乗り越えてくれたまえ。──健闘を祈っているよ」

 

 

 その言葉を最後に、思考はシャットアウトされた。

 

 

◆◇◆

 

 

「ほれ、起きろ」

 

 

 バシャッ

 

 冷や水を浴びせ掛けられてユウは目を覚ました。

 

「げはッげほッ………ハッハッ」 

 

 覚醒した脳が思考を開始する。

 

「私は忙しいのだ。早々に吐くが良い。さもなくば……」

 

 そう言ってナイフを見せつける狂った貴族──ビーン。

 

「ひッ」

 

 不理解の果て狂気に堕ち狂笑したユウだったが、一度眠りに就いて正気に戻ったのか、再び恐怖を味わっていた。

 否、それは確かなトラウマとなってユウの精神を更なる恐怖で縛り付けていた。

 

「クックック。イタイのは怖いか?ほれ、嫌ならば疾く吐け」

 

「……は、発言、させて、いただいても、よろしい、で、しょうか………?」

 

 どうして狂っていないのか。自分でも分からない。

 狂っていれば何も感じずにいられたのに。

 彼は今、正常に恐怖を感じている。

 

 あの痛みがトラウマとなり、完全に心が屈している。したくもない敬語を使い相手のご機嫌伺だ。

 滑稽、否、無様である。

 しかしユウの思考は痛みと恐怖に支配されていた。

 

「はっはっは。いいぞ、どうやら最低限学習する頭は持ち合わせているらしいな。発言を許す」

 

「………ありが、とう、ございます………え、っと………な、何について話せば……」

 

「………はぁ……──そんなこともわからないのかッ!」

 

「い、まっ──っあぐァぁッ!」

 

 指が舞った。

 

 真空の刃はいともたやすく指の骨など断ち切ってしまう。風魔法とは、四大属性の中でも極めて恐ろしいものだ。

 

「貴様が失言する度──指を斬り落とす。足の指も合わせれば残り十九か。それまでに吐くことだな。なに、安心しろ。指がなくなればくっつけてやる。──私は優しいからな」

 

 安心できる要素なんてどこにもない。

 この男はイカれている。

 はやく……はやく……何とかしなければ──。

 

 ──壊れてしまう。

 

「はっハっ、な、なにを話せば……」

 

 過呼吸になりながらもなんとか答えようとするユウだったが、しかし何を言えばいいのかわからなかった。

 

 当然だ。彼は何も問われていないのだから。

 

「はぁ……二」

 

「あがあッッ!」

 

 再び。

 

「だから!何をっ!」

 

「三」

 

「あ゛ああああああああ!」

 

 三度。

 

「なんで!ぐッあ゛ッ」

 

「教えてくれなきゃ答えられるわけッあがぐがああ!!」

 

「………がッ!ぐッ!あ゛ッ!」

 

 聞いてもダメ。

 黙っていてもダメ。

 あまりに理不尽に涙が止まらない。

 

「ほれ、泣いていないで答えろ」

 

「だから……っなんでも言うから……何が聞きたいのか、教えてください……お願いします………」

 

 二回目だからか。

 ユウの脳は狂気に陥ることもなく、ユウはただ延々と責め苦に耐えるしかなかった。

 

 ──人は慣れる生き物だ。

 それは生きる為に必要なもので、死に行くモノには不要なもの。

 

 

 狂うこともできず、かと言って受け止めることもできない。しかし、ユウの胸中を埋め尽くしたのは『絶望』ではなかった。

 

 そこにあるのは──『諦観』。

 もうどうにでもなれという感情。

 そこには誇りもプライドもありはしなかった。

 

「ふん。頭を使うということも知らぬようだな。これだから繁殖することしか能のない下民(ちくしょう)は駄目なのだ。己で考えることもせず、ただ餌を待つ家畜のように答えを知ろうとする──恥を知れ。貴様に私から与えるものなど何一つありはしない。――自分で考えろ、豚にも劣る畜生めが」

 

 ……恥を知れ?

 ……畜生?

 

 なんだよそれ。

 

 プライドも何もかも捨てて頼んだのに。

 それなのに、返答は否。

 

 得られたのは罵倒、侮辱、否定の言葉だけ。

 そもそも認識が違う。

 

 こいつはオレを──同じ人間とすら思っていない。

 こいつにとってオレは、ただ言葉を解せるだけの畜生でしかないのだ。

 

 そんなの、どうしようもない。

 もう──。

 

「あは。あは、あはははははは」

 

 ──笑うしか、ないじゃないか。

 

「気色悪い」

 

「あは、は、はは……ははは……」

 

「──壊れたふりなど醜くて見れたものではないな。もういい。興覚めだ」

 

 ゴン、そんな鈍い音が響き、頭部を殴られたユウは再び意識を手放した。

 

 

 殴られ脱力したユウが最後に見たのは、二十本もの指転がっている血塗れの床だった。

 

 

◆◇◆

 

 

 二日目

 

 痛い。

 

「あ゛あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああ!」

 

 響き渡る叫喚。

 

 それは痛みを和らげるための本能的反応。

 それは助けを呼ぶための原初的咆哮。

 それは生き残らんとする生物的衝動。

 

「ほれ叫んでいないで吐け!」

 

 ヒュパン

 

 空気を割く音が響いた。

 その音を生み出したるは柔軟な凶器。

 それは人を痛めつける為だけの道具──鞭である。

 

 ユウが今味わっている痛みはおよそ自然界では感じ得ないもの。世界中のどこを探したって鞭を使う生物はいない。

 

 刃物を使う生物はいる。

 ほとんどの生物はその鋭い歯で獲物を噛み千切るだろう。

 

 槍を使う生物はいる。

 蜂(しか)り蠍然りカジキ然り、数多いる。

 

 地球上に存在する数百万種類の生物はその牙を使い、爪を使い、棘を使い、毒を使い、獲物を狩る。

 それは生き残る為に必要だった『進化』。

 

 しかしどの生物も鞭という攻撃手段を用いることはなかった。

 

 それは鞭が弱いからか?──否。 

 それは鞭が知性のない獣には扱えないからか?

 ──否である。

 では、それは鞭が生体上不可能だったからか?

 ──断じて否である。

 

 鞭とは遠心力を利用して子供でも容易に力を引き出せる剣以上の凶器であり、剣とは違い無造作に振り暴れるだけでよく、蛇や蜥蜴といった尻尾を持つ生物なら可能だ。

 

 しかし鞭を使う生物はいない。

 理由は簡単──それが、生きる為に必要のないものだから、それだけだ。

 

 鞭を生み出したのは人間。

 人間は生物の中で唯一道具を使う知的生命体。

 身体能力に乏しく、毒を生成する器官を持たず、狩りを行うには道具を使うしかない弱く小賢しい生物。

 

 人間は剣も槍も弓も生み出した。

 どれも他生物を参考にして。

 

 しかし鞭は違う。

 これは人間の人間による愚かで醜く残酷な器具。

 

 それはただ命を傷つける為に存在する。

 それは命を傷つけることしかできない。

 

 頭に打てば鼓膜が破ける。目が潰れる。唇が削げる。

 打てば打つほど皮が剝げ肉が削げ骨が抉れる。

 

 ヒュパンという、そのちんけな音とともに空気を割きながら肉をも削ぎ落とすその衝撃は──その痛みは、想像を絶する。

 

 猛獣使いが猛獣使い足りえるのは世界に生きとし生けるもの──そのどれもが慣れていない、慣れることのない痛みを与えられることだ。

 

 生物は大なり小なり痛みに慣れるもの。

 ──だが、逆に言えば慣れていないものにはとことん弱い。

 

 そんな下等生物を飼いならす為の調教師の道具を、何故同じ人間に振るうのか。

 何故、同じ人間に振るえるのか。

 何故、人間が人間を調教しようなどと考えつくのか。

 

 狂気だ。

 

 否、思っていないのだ。

 同じ人間だなんて、考えもしない。

 他人とは道具でしかなく、娯楽でしかなく、玩具でしかない。

 

 狂人だ。

 

 力を持った人間が力のない人間に鞭を振るう。

 それは上下関係を教え込む為。

 それはどちらが上かをわからせる為。

 狂気に逃げることを許さず、死ぬよりも恐ろしい痛みを教える為。

 

 この世界は──狂っている。

 

 

 それが一時間。

 

 

 二時間。

 

 

 三時間。

 

 

 四時間。

 

 

 五時間。

 

 

 六時間。

 

 

 七時間。

 

 

 八時間。

 

 

 終わらない、終わらない、終わりが来ない。

 己の肉の内側を見る機会なんて、人生で何度来ようか。

 

 捲れる皮、まろび出る骨、ぐちゅぐちゅになった筋肉。

 きっとゾンビの方がまともな姿をしている。

 

 それでも死なない。

 それでも死ねない。

 

 

 ──だって彼には──『傲慢』が宿っているから。

 

 

◆◇◆

 

 

 『傲慢』とは百獣の王の罪。

 

 古今東西、百獣の王と崇められるのは獅子。

 獅子とは獣の頂点であり、古くは獅子の頭を持った人間を太陽の化身と崇める者もいたという。

 

 しかし、現代においてそれは正しくない。

 

 現代における百獣の王とはすなわち──『ニンゲン』。

 あるいは『ヒト』と呼ばれる──食物連鎖の頂点に立つ我らのことである。

 故に、『傲慢』とは『ニンゲン』の罪業である。

 

 『傲慢』、それは下等生物を支配する力。

 

 『傲慢』の魔女は同種たる人間を裁いた。

 人が人を裁くなど神気取りの傲慢だ。

 

 『傲慢』の大罪司教はこの世の上位者を知り、人間を、そして竜をも支配した。  

 人間如きが神を知った気になるなど思い上がりも甚だしい傲慢だ。

 たかが人間が竜を支配するなど恥知らずな傲慢だ。

 

 『傲慢』とは かくなる力。

 

 それは傲り。それは勘違い。

 それは思いあがりも甚だしいニンゲンの自我(エゴ)

 

 人一人の意思など何十億といる人間にとってどうでもいいものに他ならない。

 

 しかし、それを己こそが正義であると、己こそが王であると思い上がる。

 

 それは傲り、それは不遜。

 それは世界さえも滅ぼし得る脅威。

 そして、人類を滅亡させかねない最恐の力である。

 

 そんな『傲慢』の種子たる『傲慢の魔女因子』がユウに宿った。

 

 それは偶然か必然か。

 ──否、それは初めから決まっていた。

 

 それは彼がこの世界に来た時から定められていた道筋。

 それは世界という人知の及ばぬ絶対の理によって決まっていた。

 

 ──人は其れを『運命』と呼ぶ。

 

 ユウは確かな運命のもと、この世界に連れて来られ、力を得たのだ。

 なぜなら、ユウはこちらに来る直前、願ったから。

 

 ──誰かの助けになりたいと。

 ──誰かを救いたいと。

 

 それは『傲慢』。それは罪。

 ──許されざる大罪である。

 

 その意が示すところは──誰かに自分より弱くあって欲しいと願ったこと。

 ──誰かが傷つき救いを求めることを望んだこと。

 ──誰かを救えると勘違いしていること。

 

 それはまさしく『傲慢』。

 

 同じ人間が人間を救いたいなどと言うのはただの自惚れ。身の程を知らぬ愚か者の分不相応で幼稚な思想だ。

 

 ──何よりも救い難いのは自分なのだから。

 そんな人間が誰かを救いたいだなんてお笑い草だ。

 

 しかし、それだけで得られるほど『権能』は安くない。

 

 この世界の誰よりもユウが『傲慢』足りえたのは、彼が異世界人だったからだ。

 ──否、厳密には彼がこの世界を『創作の世界』だと思っているからだ。

 

 そう、彼はこの世界の誰よりも──この世界に生きるすべてを見下しているのだ。

 空想の産物、人のように動く人形、人擬きとしか考えていない。

 

 ──クルシュも、フェリスも、二次元の存在でしかないと、彼は無意識のうちに見下しているのだ。

 

 彼女らが自らを好きになることに違和感なんて覚えない。彼女らと共に過ごせるのは当たり前。生き返るのだって、これからの未来だって、上手くいって当たり前。

 

 ──だって、『ナツキ・スバル』のいない今。

 今だけは自分が──。

 

 

 ──この世界の『主人公』なのだから。

 

 

 ああ、それはなんて傲慢なのだろうか。

 

 彼はなんにも変わっていなかった。

 元の世界でも、この世界でも。

 

 この世界に来てすぐ幼児化したのがその証拠だ。

 彼は、彼の精神年齢はそこで止まっていたのだ。

 

 『傲慢』は決して偽りを許さない。

 虚偽も虚栄も許しはせず、ただ己のままであることを良しとする。

 

 彼はなんにも『彼女』から学んでいない。

 彼は何一つ学ばない。

 それは人間が歴史から学ばずに戦争を繰り返すのときっと同じ。

 

 その『傲慢』は彼を生かすだろう。

 しかしソレは応えてはくれない。

 

 なぜなら、彼は己が『傲慢』であることを認めていないのだから。

 

 彼は過去から学んだと思っているのだ。

 今度こそ誰かを救えると思っているのだ。

 ──誰を助けたいかもわかっていないのに。

 

 

 ああ、滑稽なり。

 だからきっと、これは『罰』なのだ。

 

 

◆◇◆

 





 ※スピンクスは原作と異なっていマス。


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『理性と本能』

 
 五二


 

◆◇◆

 

 

 三日目

 

 

「貴様は何者だ」

 

 

 それは答えのない問いかけ。

 

 自分は誰か。

 その答えに辿り着けるものがこの世界にいったいどれだけいるだろう。

 

 それに答えることができれば、その答えを見つけることができれば、解放され自由になれるのだろうか。

 

 

「無知蒙昧な貴様に慈悲をやる。──答えろ」

 

 

 自分は何者か。

 その答えを、ユウは一つしかもっていなかった。

 

 

「……オレは、ユウ。ただのユウ。それ以上でもそれ以下でもない。──オレはユウだ」

 

 

 ユウはユウ、彼はそれ以外の答えを持たない。

 彼は彼以外の何者でもない。 

 

 

「……思考放棄か。それもよかろう。私は慈悲深いからな。──ならば存分に味わえ」

 

 

 ユウの回答は男の望むものではなかったようだ。

 

 そうしてまた、拷問が始まる。

 

 男は一回り大きなペンチをその手にもって、ユウの指へと近づけていく。

 

 

 ゆっくり、ゆっくり、近づいて。

 

 ゆっくり、ゆっくり、締められていく。

 

 

 そして、ペンチが爪を掴んだ。

 

 

 ──今日は爪剥ぎ、か。

 

 

 痛い、だろうな。

 

 

 怖い。

 

 

◆◇◆

 

「あ゛あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

◆◇◆

 

 

 四日目

 

 

「貴様は何者だ」

 

 

「……ユウ」

 

 

 今日も同じ問答。

 だが、ユウの声は枯れ果てていた。

 

 休みなく耐え難い苦痛を与えられ、叫び続けた喉は一晩では回復しきらなかった。

 

 辛い。苦しい。もう、嫌だ。

 

 それでも、ユウの返答は変わらなかった。

 

 それは意地か、思考停止か。

 

 

 ──苗字は、なんだったっけ。

 

 

 憔悴したユウはただ漠然と、思考していた。

 

 自分の名字が、思い出せなかった。

 

 疲れてるのかな。いや、疲れてるどころじゃないか。

 

 

「………はは」 

 

 

 現実逃避に乾いた笑いをこぼすことしかできない。

 

 でも、すぐに夢は覚めてしまう。

 

 目の前を見れば、現実が迫ってくる。

 

 

 ──嫌………いや──。

 

 

 腕をぐしゃぐしゃに折られた。

 

 

 痛い。

 

 

◆◇◆

 

「ああっあ゛がっいやだっがぁぁぁああああ!!あ゛ああああああああああああ!!痛いイタイいたい!!あ゛ああああああああああああああ!!!」

 

◆◇◆

 

 

 五日目

 

 

「貴様は誰だ」

 

 

「……ゆう」

 

 

 ──漢字は……なんて書くんだったっけ。

 

 

 もう考える気力が湧かなかった。

 

 もう、わからなかった。

 

 

 現実が襲い掛かってくる。

 

 今度は………ああ………。

 

 

 引きちぎれるまで、四肢を引っ張られた。

 

 

 苦しい。

 

 

◆◇◆

 

「痛い!!!!痛い!!!痛い!!!痛い!!!痛い!痛い!痛い!痛いいだいいだいいだい゛いだいいだいああ゛ああああああああああああああああああああああ゛あああああ!!!」

 

◆◇◆

 

 

 六日目

 

 

「お前は誰だ」

 

 

「………ユ、ウ………?」

 

 

 ──自分がユウであるという自信がなくなった。

 

 

 ──オレは……誰だ。

 

 

 ユウじゃない、ユウでは解放されない。

 

 なら、自分は誰だ。

 

 オレは、誰。誰?誰だ。

 

 

 考える。考える。

 

 考えて。考えて。

 

 考えてる。考えてる、のに。

 

 

 考える余裕なんて与えられない。

 

 

 恐怖、恐慌、狂気………現実。

 

 

 がりがり、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ

 

 

 指先から、ゆっくりゆっくり、削れてく。

 

 

 (やすり)掛けされる木片みたいに。

 

 血が滲み、スライスされて、木っ端微塵になって、消えてなくなって、痛くて、痛くて、痛くて、痛くて、痛くて、痛くて、痛くて痛くて痛くて──。

 

 

 辛い。

 

 

◆◇◆

 

「おぼえ゛ッげお゛っア゛、ア゛、ア゛ア゛アアい゛だい゛い゛だい゛い゛だい゛い゛だい゛い゛だい゛い゛だい゛い゛だい゛あ゛あ、あ゛、あ゛、うぶぇっ」

 

◆◇◆

 

 

 七日目

 

 

「誰だ」

 

 

「………誰なんだろう」

 

 

 ──オレ、オレ? 僕、は誰……?

 

 

 自分の身体がぺっしゃんこに潰されている。

 

 

 痛そう。

 

 

◆◇◆

 

 

 八日目

 

 

「誰」

 

 ──誰か、教えて。

 

 

 風の魔法で呼吸する度に喉と肺が傷ついている。

 

 

 苦しそう。

 

 

 息が怖くて寝れなくなった。

 

 

◆◇◆

 

 

 九日目

 

 

「──なんでこんなこと、するんだよ。なんで、なんで!ナンデッ!!!オレのこと、憎いんだろ??なぁ、そうなんだろ?!!オレが憎くて、オレが悪くて、オレが嫌いだから…だからッ!!こんなことするんだ!なぁ!?理由があるんだろッ!!??」

 

 

 眠れなくなり攻撃的になった精神が、幸か不幸か一時的に彼に活力をもたらした。

 

 彼は怒りのままに理不尽を否定する。己を否定する。

 

 自分がこんな目に合っているのにはなにか理由があるはずだと。

 

 それは大義。それは希望。

 

 ──なにか、きっと、大事な実験なのだ。あの魔女が言っていた。

 

 こいつは魔女の仲間で、きっとあの問いにも意味があるんだ。

 

 オレが馬鹿で、阿呆で、ゴミだから理解できないだけで、きっと意味があるんだ。

 

 だから、「──お前のことなどどうでもいい」

 

 

 

 はへ?

 

 

 

『──お前のことなどどうでもいい』

 

 

 それは、無関心。

 

 それは──『絶望』。

 

 

 ■■は知った。

 

 

◆◇◆

 

 

 十日目。目を潰された。

 

 

◆◇◆

 

 

 十一日目。自分の目を食べさせられた。

 

 

◆◇◆

 

 

 十二日目。耳美味しい。

 

 

◆◇◆

 

 

 十三日目。舌を噛んでも死ねなかった。

 

 

◆◇◆

虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫十四日虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫虫蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲蟲

◆◇◆

 

 

 十五日、耳がない。食べられた。

 

 十六日。鼻がない。食べられた。

 

 十七日、幻痛がする。幻聴がする。ゴソゴソゴソゴソ人の耳に入り込む音がする。ブンブンブンブン飛び回る音がする。口内の肉を貪られる感触がする。きっと幻だ。

 

 十八日、楽しい。

 

 十九日、あはは

 

 二十日、睾丸、死にたい。

 

 二十一日やだ、二十二日狂えなくなった、二十三日を開かなくなった、二十四日ああああああああああ、二十五日つまんなーい、二十六日、身体が縮んだ、二十七日、?、二十八日、飽きた、二十九日、痛みを感じなくなった、

 

 三十日、どうでもいい。

 

 三十一

 

 三十二

 

 三十三

 

 三十四 

 

 三十五 

 

 三十六 

 

 三十七 

 

 三十八

 

 三十九

 

 四十 

 

 四十一 

 

 四十二 

 

 四十三 

 

 四十四 

 

 四十五

 

 四十六

 

 四十七 

 

 四十八

 

 四十九

     

 五十   五十いち   五十に   五十さん   五十よん   五十五   五十ろく   五十なな   五十はち   五十きゅう   六じゅう  六じゅういち     六じゅうに  六じゅうさん  六じゅうよん  六じゅうご  六じゅう六  六じゅうなな  六じゅうはち  六じゅうきゅう  ななじゅう ななじゅういち ななじゅうに ななじゅうさん ななじゅうよん ななじゅうご ななじゅうろく ななじゅうなな ななじゅうはち ななじゅうきゅう はちじゅう………──。

 

 

 

 きゅうじゅうひゃくひゃくじゅうひゃくにじゅうひゃくさんじゅうひゃくよんじゅうひゃくごじゅうひゃくろくじゅうひゃくななじゅうひゃくはちじゅうひゃくきゅうじゅうにひゃく………

 

………

 

………

 

 

………

 

………

 

………

 

………

 

………

 

………………

 

………

 

………………

 

………

 

………………

 

………

 

………………

 

………

 

………………

 

………

 

………………

 

………

 

………………

 

………

 

………………

 

………

 

………………

 

………

 

………………

 

………

 

………………

 

………

 

………………

 

………

 

………

 

 

 ──だるい

 

 

◆◇◆

 

 

『お前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だ』

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

「――壊れたというから来てみれば、本当だね。これはもうダメだ」

 

 

 桃髪の少女は権能も機能しなくなり生ける屍と化した白髪の老人に対して言う。

 

 

「結果は失敗、か。しかし人間の感情を知るという副次的な結果は得られた。君の実験を無駄にはしないよ」

 

 どうやら実験は失敗したらしい。

 

 結局、この女は何がしたかったのか。

 

「安心したまえ。君の遺体はちゃんと有効活用するよ」

 

 女――スピンクスと呼ばれる現代の魔女は、手に特徴的な虫を乗せながら語る。

 

「この虫は人に寄生して宿主操る寄生虫でね、私が作った。寄生された人間は知性がなくなり周りにある肉を食らい続ける獣になる、本来ならば。しかしこの女王の寄生虫がいれば寄生された人間を操ることもできるんだ。素晴らしいだろう?君の持つ『傲慢』の魔女因子は私が必ずや有効的に利用しよう。いずれ来たる日には適正あるものに君を殺させ、また実験しようじゃないか。ああ、君は私の希望だ。大事に大事にとっておこう。()()()と同じ、私の望みには欠かせない存在。ああ『フェリックス』。そして、―――ふむ。――君の名前はなんだったかな―――」

 

 

 ピク

 

 

「…おや?」

 

 痩せ細り、頭髪のほとんどが抜け落ちるか色が抜けるかしていて、耳も、目も、口も、手も、腕も、足も、なんにもなくなった男の、瞼が動いた。

 

「…『フェリックス』」

 

 感情のない聡明にして合理的な魔女は反応の要因をいち早く察知した。

 

 サァ 

 

 再び反応する。

 

 たったの一本だけ、髪に黒が戻った。

 

「『フェリックス』、ん、少し違うな…」

 

 

―――『フェリス』

 

 

 カタカタカタカタ

 

 震えている。もう意思なんて残っていないだろうに。

 

 ここに座っているのはただの肉塊。そのはずだ。

 

 彼の心はとっくに死んでいるはずだ。

 

 彼は地獄を乗り越えられなかった。適性を得られなかった。

 

 そのはずだ。

 

 なのに、なぜ。

 

「…面白い。面白いな、君。ああこれが、面白いという感情なのか。ああ興味深い興味が尽きない興味をそそられる。ただの言葉だ。一語だ。何が君をそこまで震わせる。知りたい、知りたい、――ああ、シリタイ」

 

『■■!』

 

 ガタガタガタガタ

 

 痙攣している。髪がすべて抜け落ち、そうして生えてくる。

 

『■■!』

 

 空洞の瞳を開く。何も写さぬその闇に映るのは過去か、夢か、幻か。

 

 光が宿る。

 

『■ウ!』

 

 幻聴が鳴りやまない。()()が震える。

 

 うるさい。うるさい。うるさい。

 

『ユ■!』

 

「あ゛ああああああああああああああ!!!!!!」

 

 血と涎を撒き散らしながらの咆哮。

 

 なくなったすべては再生した。しかしそこで■■の動きは止まった。それは拒絶。防衛本能。

 

 彼の肉体が精神に思い出してはならないと戒めている。

 

 脳が、記憶が、魂が、ソレを拒絶する。

 

 その負荷は計り知れず、■■は眠りに落ちる。

 

 きっと彼はもう二度と目を覚ますことはない。

 

 どれだけ肉体が再生しようと、精神まで回復することはできないのだから。

 

 

◆◇◆

 

 

 

 静寂。

 

 

 

「―――」

 

 何も聞こえない。何も見えない。それでいい。考えなくていい。何もいらない。

 

 真っ白い世界で。無の空間で。虚無の中で。

 

 終わりを迎えることしかできない場所で。

 

 独り椅子に座る■■。

 

 彼は疲れたのだ。考えることに。

 

 自分は正しくなかった。自分はずっと間違えている。

 

 正義も正解も世界にはなくて、自分は悪で不正解なんだ。

 

 だからもう、自分なんて死んだ方が良い。生まれたことが間違いなのだから。

 

 元々異物だったんだ。存在するはずのない人間なんだ。

 

 自分はただの幻。夢。妄。

 

 だから、

 

 

『―――ユウ』

 

 …だから、も

 

『―――ユウ』

 

 なんで、

 

『―――ユウ』

 

 

―――忘れさせてくれないんだ

 

 

◆◇◆

 

 

「貴公は…」

 

 

 目が覚めた。

 

 目を開けば、そこにいたのは、

 

 

 

 

 

「――私はクルシュ・カルステン。――助けに来たぞ」

 

 きっと、それは、(すく)いだった。

 

◆◇◆

 



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嘘とホント

八八


 

◆◇◆

 

 

「ここでいったい……何があったと言うのだ」

 

 

 この部屋の有様を見てクルシュは呟いた。

 あり得ない量の血、血、血。辺り一帯、天井も側壁も床も、すべてに血痕がこびり付き固まっている。まるで呪われた部屋だ。

 

 そして、部屋の中央に鎮座している謎の男。その男は一見、どこも傷ついているようには見えなかった。半裸の男だ。その肉体に目に見える外傷はなく、これといった異常も見当たらない。

 

 ──だが、部屋に染み付く強烈な血の香りが、この場で起きた凄惨なナニカを示していた。

 

 そしてもう一つ。

 彼の下半身がどす黒く染まっていた。それは固まった血。酸化した血液。いったいどれだけの時間を掛ければこれほど黒く、この闇より黒く染まると言うのだろうか。これが呪われた品と言われれば誰もが信じる。それほどの瘴気を放っていた。

 

 現にこの部屋に立ち入ることができたのは『風の加護』をもつクルシュだけだ。連れて来た兵たちは誰一人入り込むことが叶わなかった。否、彼らは近づいただけで正気を保つことすら出来なくなっていた。

 

 それほどまでに、正面にいる男から放たれる負の奔流は禍々しい。眼に見えて危険な者だとわかる。そこに男がいるだけで空気は汚染され、マナは淀み、濁り腐った風が吹く。いくら加護があるとは言え長居すればクルシュですら呼吸もままならなくなるだろう。

 

 ──それでも、彼女は助けに来た。

 

 それだけで彼女が如何に勇気ある人かわかろうというもの。彼女は、ゆっくりと近づき、男に語りかける。

 

 

「私はクルシュ・カルステン──助けに来たぞ」

 

「………」

 

 

 まず自己紹介をした。そうして救出に来たということを告げる。だが、男は返事をすることも、反応することも、こちらを見ることすらしなかった。さては既になくなっているのだろうか、とクルシュは考える。

 

 

「……無事、ではなさそうだな。だが──生きている」

 

「………」

 

 

 クルシュは男がまだ生きていると確信していた。それは彼女の『加護』によるもの。

 

 彼女の加護、『風見の加護』は空気のような目に見えぬものの『流れ』──すなわち風を読み取る。それは使いようによっては相手の心の流れを読み解き、嘘を暴くことも可能にする。

 そうして、その力は目に見えぬ『魂』の揺らぎすら感知する。

 

 凡人には知り得ぬ『魂の在り方』を、彼女は生まれながらにして見ることが出来る。魂の揺らぎとは心の揺らぎだ。魂は人の心に呼応して、陰りもすれば輝きもする。それは何者にも偽ることの出来ない本音であり本心。

 そうして、

 

 ──しにたく、ない……。

 

 クルシュはそんな男の魂の揺らぎを確かに感じた。故に男が生きているとわかったのだ。

 

 彼はこのような目にあって尚、未だ足掻いている。

 それは──賞賛に値するものだ。彼の魂の輝きを、こんなところで潰えさせていいはずがない。

 

 

「──よく耐えた。もう大丈夫だ」

 

「……ぁ……ぁ……」

 

 

 彼女のその、すべてを包み込むような声音は、男に反応を齎した。彼にも伝わったのだろう。

 

 だが、男はイヤイヤ、と怖がるように小さく頭を振った。その姿を滑稽だなんて、クルシュは思わない。彼女は男を安堵させるように言葉を重ねた。

 

 

「卿に対するこれ以上の狼藉は私が許さない。卿を傷つけさせることはしないと、私の魂に誓おう。だからどうか、私を信じて欲しい」

 

「……ぁ」

 

 

 彼女は告げる。何も持たず、何者でもない男に対して敬意を込めて卿と呼び、男を安心させ、信頼して貰う為に言葉を尽くす。

 

 普通、こんな怪しい男にどれだけのことができるだろう。人は見た目を、初めの印象を気にするものだ。それが当たり前だ。

 

 しかし彼女はそれをしない。彼女は、彼女の瞳はその者の本質を見抜く。どれだけ無情で残忍な光景を前にしても彼女の瞳が、その眼差しが陰ることはない。

 

 

「──」

 

「………今解放しよう」

 

 

 彼女は恐れない。彼女は退かない。それは勇気。それは英雄の資質。

 大人しくなった男に物おじせず近づいていくクルシュ。

 

 

 

 ──もうすこしでたすかる。

 ──かのじょがきてくれた。

 ──ぼくは、すくわれるんだ。

 

 

 

 諦めなかったから、救われるのだ。思い出の中のフェリスが、ユウを諦めさせないでいてくれたから。これはその褒美なのだ。ユウは、ようやく、救われる。

 

 ──本当に?

 

 疑心暗鬼になるユウ。幻を疑ってしまうのも無理はない。しかし彼女は幻などではない。幻にこれほどリアルにクルシュを演じることなどできまい。彼女は本物のクルシュだ。

 

 ──自分は救われたのだろうか。

 

 救われるだろう。あの魔女も、イカれた拷問官もどうなったかわからないが、そんなことどうでもいいじゃないか。

 

 ──救われた。救われてしまった。ああ、ありがとう。

 

「──ハハッ」

 

 彼は笑った。心の底から楽しそうに笑った。

 

 その突然の笑い声を聞いて、ピタッとクルシュの動きが止まった。クルシュはその笑い声のした方を訝しむように見た。そこには、先ほどとは打って変わって普通に笑みを携えた男がこちらを見ていた。

 

 ──風向きが変わった。

 

 何か、漠然とした不安がクルシュの心に去来した。それは不自然。それは違和感。彼の魂の趨勢(すうせい)がわからなくなった。一瞬、助けることを躊躇したクルシュに、男は言う。

 

「助けてくださいよ。遅いじゃないですかクルシュさん。ずっと待ってたんですよ」

 

「……何を」

 

 要領を得ない男の言葉にさしものクルシュも困惑する。

 

 どうしたんだろう、ユウは自分でもわからない言葉を放った。なぜ、自分は嗤っているのか。なぜ、自分はこんなにも愉快な気持ちなのだろう。

 わからない。あぁ、でもクルシュを怖がらせてはいけない。クルシュを安心させないと、近づいてもらわないと。

 

 不気味な笑みを浮かべる男に、警戒心を(あら)わにするクルシュ。クルシュは、逡巡し、そうして男に近づいた。

 

「……今助けてやる」

 

 クルシュの勘が危険だと告げていた。

 それでも、彼女は退かない。彼女は退けない。彼女は誓った、己の魂に。彼が救われるべき人間であると判断した自身の心を信じた。

 

 何かあればすぐさま対処するという心構えをして、クルシュは男を拘束する手枷を外そうと、手の届く距離まで近づいた。そうして彼女は気づいた。

 

 ──手枷はもう、その役目を為していなかった。

 

 長い間、血を浴び続けた手枷はとっくの昔に錆さびになりぼろぼろになっていた。その劣化具合は──子供でも簡単に外せるくらいに、脆い。

 

「これは……──ぐッ!」

 

 それに気づいたクルシュの首元に手が伸びてきた。手は彼女の首を絞め持ち上げる。

 

 ──誰の手だろうか。

 

 ユウは漠然と、朦朧とした意識の中で思考していた。ユウには寝ぼけまなこでわからなかったが、この部屋にはクルシュと自分以外に誰かがいたのだろうか。

 

 ビーンか、スピンクスか。

 ユウが救われることを妨げているのは誰なのか。

 

 ──あ。

 

 ユウは気づいた。

 

 ──違う。

 

 何が違うのか。

 

 

 ──これ……──オレの手か。

 

 

 そう。クルシュの首を締め上げ、苦悶の声を上げさせ、自身が救われること妨げているそれは、彼の手だった。彼の手は錆びた拘束を容易に引き千切り、クルシュを襲う。

 

「──あ?」

 

 ユウの意図するものではなかった。当然だ。ユウが、彼女を傷つけるなんてことはあり得ない。あっていいはずがない。なんだ、これ。ユウは理解を得られない。徐々に意識が覚醒していく。

 

 わかるのは、彼の腕が彼の意思とは無関係に勝手に動き、彼女を苦しめていることだけ。腕は言うことを聞かず、抵抗しようともビクともしない。

 

『───』

 

 ──何か、聞こえる。

 ユウはもう片方の手で自身の頭に触れた。

 すると、

 

 

『──殺せ』

 

 

 声が、聞こえた。

 脳内に響き渡る奇怪な声。いや、声というよりは思念のような──。

 

「くっ離せッ!」

 

 クルシュは叫び、腰に下げていた剣でユウの腕を断ち切った。腕は綺麗に断たれ、解放されたクルシュは地に落ちた。ドサッと音を立てて地面に着地したクルシュはすぐさま男から距離を取った。

 そうしてその瞳に義憤を募らせて問う。

 

「げほっけほっ……──どういうつもりだッ!」

 

 彼女が怒っている、当然だ。今、ユウはクルシュを、殺そうとしていた。なぜ? 何が起きている。オレの頭の中に、何が──。

 

「えっと……」

 

 ユウだってわかっていないのだ。

 クルシュが離れると、ユウの手は自由に動いた。自身の手を見て、両手を開け閉めして感触を確かめると、なにも違和感はなかった。

 

 だが、ユウの視界にクルシュを収めた途端──凄まじい頭痛がユウを襲った。

 

「あっ? ──あ、ガ、ぁッ!!」

 

 ユウは自由になった両手で頭を押さえつけた。

 ──聞こえてくる。

 

『殺せ』

 

 声が──。

 

『殺せッ!』

 

 それは命令。

 

『殺せッ!!』

 

 

 ──煩い、黙れ。

 

 

「あぐぁ──ッ」

 

 ユウは謎の声に抗う。頭を押さえ頭痛に抗う。

 そうして、抗えば抗うほどに、その『殺意』は勢いを増していく。

 

 

『殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ──殺せ』

 

 

 ──あぁ……なるほど。

 

 

「──虫、か。……最悪だな」

 

 ようやく、ユウは理解した。

 頭の中で命令するソレがなんなのか。

 つまり、ユウはとっくに──。

 

「……ごめん。クルシュさん、オレ、操られてるみたい」

 

「卿は、いったい……」

 

 クルシュは困惑する。

 なぜなら彼女の加護が、それが嘘でないことを告げているから。彼女の困惑の根源は操られているか否かではない。彼女が困惑している理由、それは男がクルシュを知っているような素振(そぶ)りをしていること

 クルシュは、この男と何処かで会ったことがあっただろうか。

 

 

 ──最悪だ。せっかく助けて貰えると思ったのに。結局こうなるのか。希望なんてない。希望なんて持つから絶望するんだ。あぁ憂鬱。沈鬱。陰鬱だ。

 

 ユウはもう期待しない。ユウはもう、望まない。ユウはもう求めない。祈らない。願わない。もう、いい。

 

 クソみたいな人生だ。クソみたいな最後だ。クソまみれで自分の馬鹿さと生き恥を晒すだけの人生だった。

 

 ──でも。

 

 期待はしない。もう世界になんて期待しない。

 

 ──それでも。 

 

 彼女なら、もしかしたら。彼女だけには──。そんな希望に、縋らずにはいられないのだ。まったく、どこまでもオレは──。

 

「……あなたに看取ってもらえるなら、悪くない、よね」

 

 ユウは呟き、決断する。それが最善だと信じて、それが最後の望みだと知って。

 

「クルシュさん……一つ、お願いがあるんですが……」

 

「……なんだ」

 

 一人勝手に、何かを悟ったように冷静に話を進めるユウ。それに対しやはり要領を得ないクルシュ。

 

 操られているという言葉が真実だと言うのなら、彼女は先ほどのことを不問にし、なんとか救おうと思案していた。しかし、それとは別に、止むを得ず断ち切ってしまった腕から血の一滴も出ていないことに、そうして男が毛ほども痛がる様子を見せていないことにに疑問を感じている。いや、というよりも、その雲を掴むような現実味のなさに取っ掛かりを掴めずにいた。

 故に返答は上の空。

 

 とにかく情報が足りなかった。男が誰なのか、何があったのか、今何が起きているのか、男は何を知っているのか。疑問は募るばかりだ。故に、お願いがそれに類するものかどうか、兎にも角にも情報だと考えクルシュは答えた。

 

 

「──簡単です。オレを、殺してくださ──「断る」──っ」

 

 

 ユウの提案は最後まで言い終える前に、却下された。あまりに早い返答。流石は深謀遠慮に長けるカルステン家の女傑か。ユウの死相でも読み取ったのだろうか、その選ばれしものの加護で。

 

「あはっ……クルシュさんらしい、なぁ……」

 

 いいや、いいや、死の懇願など、クルシュが受け入れるはずがなかった。ユウは知っている。そんなの分かっていた。

 

 ──それ、でも。

 

「……お願いします、クルシュさん……時間が、ないんです……」

 

「先ほどから何を言っているのだ! 本当に操られているとして、諦めるのはまだ早い! 何か分かっているのなら私に教えてくれ。諦める前に私に頼ってくれ。そうすれば私が必ずなんとかしてみせる! 生きることを簡単に諦めるなッ!」

 

 クルシュは、自分を殺せなんて抜かす男に諦めないことを説く。まだ何かできることはあるはずだ。まだ死にたくないと、彼の心は言っていたのだから。男が諦める命を、クルシュは諦めない。諦めることを許さない。

 

 

 ──簡単、ね。

 

 クルシュは言う。簡単に諦めるな、と。

 確かに、諦めなければ虫なんて、もしかしたら簡単に取り除けるのかもしれない。もしかしたら、そうして助かった後で、クルシュのもとで世話になれるかもしれない。もしかしたら、また、クルシュと、フェリスと、また……っ、また一緒に……。

 

 そんな、都合のいい夢を見れたなら、どれだけよかっただろう。

 そんな希望に縋れないほど、ユウはもう、壊れていた。

 

 ──二年、二年だ。

 

 二年、二年、二年。そんな地獄の日々は、ユウから生きる希望を、残らず拭い去っていた。それでも、ユウは死にたくなかった。そうさ、ユウは死にたくなかった。死ねなかった。まだ、生き恥を晒している。ユウは──。 

 

 クルシュにも完全ではないにせよ、この凄惨な部屋を見て、何があったのかある程度は察せるだろう。それでも、彼女から簡単に、なんて言葉が出るのはきっと──僕を怒らせるため。

 

 僕が経験した狂気を、辛さを吐き出させる為。

 僕が真に不幸であったなら、きっとすべて吐き出していた。彼女の言葉にキレ散らかしていただろう。ふざけんな、と。何にも知らない癖に、綺麗ごと言ってんじゃねぇと。──ナツキスバルのように。

 

 そうしてきっと彼女は言うんだ。僕を怒らせた後、言うんだ。僕には想像もつかない綺麗ごとを。──誰かを救える綺麗ごとを。彼女は王道を突き進む真に英雄足る人。僕のような卑しい人間を光に連れ戻してくれる人。

 

 知っている。あなたがそういう人だということを僕は知っている。あなたは人の強さを信じている。誰もが絶望から立ち上がれると信じてくれる、だから誰もが、僕だって、あなたに付いて行きたくなる。

 それはナツキスバルと同じ英雄の資質。

 

 ──でも、でも、ダメなんだ。

 

 それでも、それが分かっていて尚、ユウはその手を取ることが出来ない。ここまで言って貰って尚、彼女の手を取ることが出来ない。

 

 僕は、そんな悲劇の主人公じゃない。僕には、救われる資格なんてない。ユウは誰よりも、己の事を知っている。自分のことは分かっている。

 

 

「……お願いします……」

 

「くっ、もういい! 卿にその気がなくとも無理やりにでも……──なっ!?」

 

 そう言いながらこちらへと近づいてくるクルシュだったが、しかし彼女は気づいた。十万人に一人にしか宿らない、特別で有用な加護が教えてくれる。教えてしまった。

 

「卿の、魂が……」

 

 ユウの魂は、もう──空っぽだった。

 

 世の中は等価交換。

 大いなる力にはそれ相応の代償がいる。人を生かすのに供物がいるように。彼を生かした『傲慢』は、適応しなかったが故に、彼の(オド)を贄に効力を発揮していた。オドを失った人間がどうなるかなんて、普通の人は知らないだろう。誰もそんな狂気な真似はしない。

 

 そう。彼はとっくの昔に、廃人と化していた。

 

「……あはは、バレちゃいました」

 

 彼はもう、壊れている。

 彼はもう長くは生きられない。

 彼は、もうすぐ死ぬ。

 肉体も精神も『傲慢』が無理やりもたせているが、もう魂が底をつこうとしていた。

 

「もう、長くないんです。それに……あなたを、傷つけたくないんだ。だから──」

 

「馬鹿なことを言うな! それが、それがなんだっ! だから諦めると言うのか! 私なんていくら傷つけてもいい! だから、私に卿を殺せなどと二度と言うなッ! 自分の事だけを考えろ!」

 

 クルシュは、彼女は涙を流しながらそう訴える。

 

 ──あぁ……僕は馬鹿か……。

 

 彼女は、まだ十数歳の少女だ。こちらでは大人であっても、ユウからすれば彼女はまだ子供と言ってもいい年齢なのだ。そんな彼女に人を殺せなんて、あぁ、罪作りもいいとこだ。まったく度し難い阿呆だ。

 

 ──僕は……。

 

 あぁ、分かっている。まだこれからである彼女に、自分を殺せということが、どれだけ罪深く、どれだけ傲慢なことなのか。そんなことユウにだってわかってる。

 

 ──でも、でも……っ。

 

 こんな目に合ったのに、なにも残せないで、なんにも見れないで、一人で死ぬのなんて、嫌だ。嫌なんだ。嫌なんだよ。

 僕は、本当に──。

 

 ユウは、続ける。

 その言葉、一言一言に罪を重ねていく。

 

「……お願いします。もう考えたんです。ずっと、ずっとここに来てからずっと、いいや生まれてから、ずっと……僕は、自分の事しか考えてこなかった。自分が幸せになることだけ考えて来た……誰かを幸せにするなんてこと、考えたこともなかった。僕は……」

 

 

 あぁ、そうさ、僕は──。

 

 

「僕は、最低な人間だ」

 

 

 ただ、忘れていたことを思い出しただけ。前世の罪を、忘れていた償えない罪を、自分が如何に汚く醜く、穢れた人間であるか、思い出した。それだけだ。

 

 誰かを救いたいって自殺しようとしたのだって、現実逃避の、自分にできる簡単な、出来の悪い言い訳だった。

 

 リカと付き合ったのだって、彼女を死なせたのだって、ぜんぶ、ぜんぶ、僕のエゴだった。

 

 あんなに立派な両親に恵まれたのに、自分が誰よりも命を大切にしてなかった。命の重さをわかってなんていなかった。

 

 

「だから、最後ぐらい……誰かの為に死にたいんです」

 

 

 それが、前にもまして出来の悪い言い訳であることをユウは分かってる。そんなこと分かってる。それでも、自分が死んで救われる人がいないなんて嫌なんだ。何も残せないなんて嫌なんだ。それはどうしようもない恐怖心。臆病者の戯言(ざれごと)。卑怯者の戯言(たわごと)。救いようもない屑の、最後の抵抗。

 

 大兎からクルシュを無駄に庇ったのだって。彼女は死なないと分かっていたのに庇ってしまったのは、ずっと意味のある死に場所を探していたから。彼女が、彼女が、彼女が好きと、そう言ったのだって全部全部全部自分の為だった。

 彼女らのことなんてなんにも考えてなかった。

 

 だからすぐ裏切られたなんて発想が出てくる。彼女たちを信じていないから。

 死んだ方がいいんだ、オレみたいな屑は。

 

「だから、だから……お願いです」

 

 必死に懇願する男。

 頭を下げて、泣いて乞う哀れで矮小な男に、クルシュは答えた。

 

「……わかった」

 

 それが本気で本性で本音で本当だと、加護を通さずとも理解できるから。

 だから──。

 

 

「卿を死なせはしない。後悔しているのなら次に生かせ。その為に必要なら私が卿を生かそう。だから──生きろ」

 

 

 彼女は曲がらない。それは、その魂の輝きは、眩しくてまばゆくて何よりも美しい。

 

「……ハハ、知って、ました。分かってました。オレ如きに、あなたを汚すこと、なんて、できないんだ、って」

 

 彼女に照らされると、まるで自分も明るい世界の人間なんだと思えてくる。綺麗な人はたくさんいても、僕みたいな人間には自分が余計に穢れた人間だと浮き彫りにされているように思えてならなかった。辛かった。

 

 だけど、彼女は違う。この世界に来て、幻でしかないはずの彼女と触れ合って、思えたんだ。彼女と一緒なら、自分でも輝けるかもしれない、なんて。

 

「ハハ、ははは……だから……はぁ……」

 

 でも、彼は何一つ成長していなかった。

 彼は理解してしまった。自分は、誰かを救える人間なんかでは、ないのだと。

 彼は、変わることのできる人間ではなかった。

 だから、

 

 

「──さようなら………ありがとう」

 

「──っ! まっ──」

 

 

 こうなるもの、自然の成り行きだろう。

 

 ──ユウは、

 ──彼女と同じ、風魔法で、

 

 ──自身の首を掻き切った。

 

 

『──お揃いですね!』

 

 

 ──あなたと同じだって知って、嬉しかったなぁ……

 

 ユウは字面に崩れ落ち、冷たい地面の感触に沈む。

 

「っ死な!」 

 

 くるしゅの声が聞こえる。

 

「生きろっ!」

 

 彼女がこちらの顔を覗いている。泣いている。

 ユウは残った腕で、彼女の涙を拭う。

 

「……ごめんなさい

 

 ユウは誤った。

 ずっと誤っている。

 ずっと、ずっと、誤り続けている。

 

「……おねが、い一つじゃ、ありませんでした」

 

 クルシュが首元を押さえ、一時的に血が止められて生まれた僅かな時間で、ユウは願う。

 

 ──人は死に瀕した時、本性が出る。

 

 彼が最後に願うのはなんなのか。

 今までずっと演じてきたユウという殻を脱ぎ捨てて、最後に、死の間際に、人生で最も自由な時間に、彼は彼として願う。

 

 

「フェリスを、あの子を、助けてあげてください」

 

 

 ──彼は願う。彼女の安否を。

 

 彼はずっと演じてきた。

 彼女たちに合わせて振舞ってきた。

 それは仮面で、それは偽物。

 嘘だった。そのはずだった。

 

 しかし、彼が真に終わりを目前にして願ったのは──他者が救われることだった。

 

 

 ──ならばきっと、それが答えなのだろう。

 

 

「…………わかった。クルシュ・カルステンの名において必ず助け出すと、我が魂に誓おう」

 

 

 ──やっぱり、クルシュはクルシュなんだなぁ…… 

 

 そんな感慨を得て、

 最後に、男は微笑んだ。

 

 

 

 

 

 クルシュは思う。

 それは、その顔は、本当に、本当に、今まで生きてきた中で見た何よりも──優しい顔をしていた。

 

 ──■は人と接して初めて、なれる。

 

 最後に笑って死ねたのなら、きっとそれは幸福なことなのだろう。だが、それはそれとして、この蛮行を齎した者を許しはしない。

 

 クルシュは瞳に光を写さなくなった男の瞼を閉じさせて立ち上がり、彼の願いを叶える為 歩き出す。その瞳に必ず助けるという琥珀色の闘志を宿して。

 

 

 彼女は行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男の死体が一つ。

 

 牢獄に転がっている。

 

 

 

 

 

 

 死んでいる。

 

 確実に死んでいる。

 

 

 頭の中の寄生虫も、宿主と共に心中している。

 

 後に兵士が回収に来て、埋葬されるだろう。

 

 

 物語はおしまい。

 

 彼は主人公になることなく。

 

 この世界での役割を終える。

 

 

 それでお終い。

 

 彼は最後に救われた。

 

 彼は本当を手に入れた。

 

 だから、もう、終りのはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──ズルい』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嫉妬の声が聞こえた。

 

 

◆◇◆

 







アーク―ムーのーはーじーまーりー、デス。


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【4】去りし過ちの『過去(アイデンティティ)
『■■:■■■■■■■■■■■■』



 ぐっどたいとる。四三


 

◆◇◆

 

 

『????????』

 

 

 思考をはてなが埋め尽くしていた。

 不理解。一体何が起きているのか。

 先ほどまで死を目前に構えていたはずの男──憂は困惑していた。

 

 

「いったい何が……」

 

 

 周囲を見渡すも周りには誰もおらず、というより暗くて何も見えず、ここが四角い部屋の中であるということしかわからない。

 更に自身の状態を確認してみれば、自分が椅子に縛り付けられ動けなくされていることに気が付いた。

 

 

「……寒い。それに、臭いッなんだこの臭いは……ッなんなんだここは……──まさか」

 

 

 そこは陽の当たらない暗がりの世界。人を苦しめる為だけに存在する地下の寒獄。当然空気の巡りも悪く、清掃なんてされていない。故に色々と臭う。血と臓物と糞便の異臭漂う最低の場所。

 

 現代社会の日本で生きてきた極々平凡な一般人には少々居心地の悪い、いやかなり健康に良くない場所だろう。肉体的にも、精神的にも。

 

 しかし、憂はそれほど動揺していなかった。否、動揺はしている。だが、不自然なまでに冷静。それも理解できないからではなく、憂は現状を理解した上で、その動揺は困惑程度に収められていた。

 

 そう、憂は理解していた。

 この不可解な現象に、不条理な現実に、不合理で非論理的な──一つの答えを導き出した。

 

 それは直感。察し。

 憂はビルから飛び降りたはずだった。

 なのに気づけば知らない場所にいた。

 

 それは根拠のない勘だった。

 しかし、深層心理に沈殿する言葉にならない様々な思考を基に至った結論でもある。故に、それは限りなく正解に近い、答えを得る。

 

 

 そうこれは──。

 

 

「──異世界転生、ってか。──笑えない」

 

 

 それが憂の出した結論だった。

 まったく、笑えない冗談だ。

 普通なら喜ぶところなんだろうが、憂は喜ばない。喜べない。

 

 憂は己の命を賭けてまで叶えたい願いがあったから飛び降りたのだ。憂は望まぬ死ではなく、自ら望んで死を受け入れたのだ。

 

 なのに──死ねなかった。

 

 憂の勇気は、願いは、その為の行為は、誰とも知らぬ何者かによって邪魔され、無為と化した。

 

 それは──あまりに残酷。

 

 それをしたのが人なのか、神なのか、憂には知る由もないが、もし──そいつが救ってやっただなんて思い上がっているのだとしたら──ただただ恨めしい。そんな自己満足の押し付けを救いだなんて勘違いしている傲慢なそいつに教えてやりたい。

 

 お前のしたことは、救いじゃない。

 それは──。

 

 

「……世界は残酷だって、知っていたつもりだったけど、まさか──死の自由すらないなんてな」

 

 

 憂は途方に暮れた。

 

 

 ──己の不自然なまでの冷静さに、気づかぬまま──

 

 

◆◇◆

 

 

「目が覚めたか? ──私はビーン・アーガイルという」

 

 

 しばらくすると、一人の男がやってきた。

 少し痩せ気味の不気味な男。

 

 目は落ち窪み、頬がこけていて、その面は随分とやつれているように見える。しかし、そんな風貌とは不釣り合いに服装だけはやたら高級そうなものを着飾っていた。

 

 この男が憂を召喚したのだろうか。

 男はごわごわとした豪華な服装に、指にはいくつか指輪までつけている。見たまんま、おそらく貴族だろう。

 

 定番だ。

 取り敢えず名乗られたからには名乗り返すのが礼儀だろう、と憂は考え、名乗り返した。

 

 

「……えっと、オレ、あいや、わたしは憂、です。

 ──七星憂です」

 

「──ほう。礼儀がなっているな。どうやら身の程は弁えているらしい。いいぞ、私は行儀のいいニンゲンは嫌いじゃない。褒めて遣わそう」

 

「………」

 

 

 どうやらお気に召したようだ。

 男──ビーンは憂の返答に気をよくしたようで、上機嫌に何やら器具をいじっている。

 ビーンが他に気を取られている間に憂は思考する。

 

 ……召喚時に誰もおらず、これほど居心地の悪い環境に放置され、極めつけには椅子に腕を縛りつけられている。

 

 これはどう考えても異世界チートものの異世界召喚じゃない。相手を怒らせるのも、相手に楯突くのも愚策。

 どうにかして相手の機嫌を取って情報を得ないと……。

 

 こんな状況で、憂は冷静だった。

 

 ──冷静。憂は恐怖しない。

 ──冷静。思考は淀みなく。

 ──冷静。その心は何事にも動じない。

 

 憂は相手の機嫌を損ねないよう慎重に質問する。

 相手の反応を逐一確認しながら、媚びるように許可を乞う。

 

「あの……一つ質問させていただいてもよろしいでしょうか」 

 

「ふむ……当家に侵入してきた不届き者にしては随分と殊勝な態度ではないか。妙だな、さては何か企んでいるのではあるまいな……?」

 

「……?」

 

 

 そう演技や(はかりごと)を疑うビーンだったが、憂は今言ったビーンの言葉を反芻し、情報を汲み取るのに精一杯であり、その何もわかっていない様子にビーンは杞憂だったか、と思い直した。

 

 

「……奇妙だが……まぁ、いいだろう。言ってみよ。私は慈悲深いからな。だが、答えるかどうかはそれから決める」

 

 

 ……侵入してきた?

 もしや、召喚ではなく不慮の転移?

 それでこの貴族の屋敷に落ちてきた、か?

 それで捕まっている?

 

 なら、と憂はそのまま推測を続けようとした。

 もう少し時間があれば正解に辿り着ける気がした。

 

 しかし、思考に没頭していた憂は、だんだんと貴族の表情が不機嫌になっていくことに気が付いた。

 

 ──まずい……質問を……──でも。

 

 早く質問を言わなければいけないが、憂は躊躇した。この男の口振りからするに聞きたかったことが“地雷”である可能性を考えたからだ。

 

 しかし咄嗟に他の質問が思い浮かぶこともなく、黙っていれば確実に会話は決裂する。言うか言わざるか、選択肢はない。

 

 憂は言った。

 

 

「……私はなぜ、捕まっているのでしょうか」

 

「──なぜ? なぜ、だと……? ──貴様。この私の屋敷に侵入しておいて、その分際で……私に、この私に、なぜだと? ──ふざけるのも大概にしろッッ!!」

 

 

 失敗した。

 男は激昂し狂刃を振るった。

 

「──あがっ!………」

 

 手にナイフを刺された。

 そう認識してすぐ──痛みが来る、そう思い覚悟して憂は堪えるように叫んだ。

 

 だが──。

 

 

「………──あ?」

 

 

 ──痛くな、い?

 

 予期した痛みは、いつまで経っても訪れることはなかった。憂は確かに手をナイフで貫かれている。

 しかしその現実に反して、憂は一切の痛みを感じなかった。

 

 

「………ッ!? ──貴様……なぜ、痛がらない。なぜ苦しまないッ!? 貴様ッ貴様ァァ!! 私を愚弄しているのかッ!!」

 

 

 グサグサ、と何度も刺される。血が溢れている。肉が刻まれている。骨が削られている。

 

 ガンガン、と掌を貫通したナイフが手すりに到達して金属同士を衝突させその振動は憂にも伝わってきていた。

 

 それは証拠。その景色が音が臭いが、それらを捉える憂の五感が、これは現実だと訴えかけてきている。なのに、それなのに──感じない。

 

 まるで夢でも見ているかのように、憂はなにも、痛みも、刺されている感触すら、感じない。

 

 

「……なんだ、これ……どうなってやがる」

 

 

 憂もわからない。ここまで冷静だったさしもの憂もあまりの現実性との乖離に動揺を禁じ得ない。まるで、まるで、自分の身体はもうその痛みに適応しているかのように、危険信号である痛みを発さない。

 

 それどころか。

 憂の腕は刺されたところからたちどころに──再生していった。そうなってはもう憂の理解を超えていた。完全なる未知、不詳、不理解。

 

 刺されても、刺されても、痛くない。苦しくない。辛くない。それはいいこと。──本当にそうだろうか?

 

 恐怖すらも、感じない。何事もなかったかのように、傷ついた肉体は勝手に回復していく。

 

 これじゃまるで──人形だ。

 

「ハァハァ……ハァハァ………」

 

 どれだけ刺さされても憂のその症状に変わりはなく、そんな何の反応も示さない憂に、先に息を切らしたのは加害者であるはずの男の方だった。

 

 

「……ッ……貴様……ッ貴様貴様貴様貴様貴様ァァァ!!!! 苦しめッ! 苦しめッ! みっともなく泣き叫べ! それが、それがお前たちのようなゴミにもできる唯一の存在意義だろうがッ!! ふざっフザケルナッッ!! このッ──化け物がッ!!」

 

 

 カーン、と甲高い音を立ててナイフが壁にぶつかった。男が発狂とともに憂に向かって投げたからだ。ナイフはからんからんと情けない音を立てて地面に転がった。

 

 ──化け物。男はそう言った。

 ──確かにその通りかもしれない、と憂は思った。

 

 いったい自分の身体はどうなってしまったのだろうか。異世界特典……? 記憶にないだけで、憂は神様にでも会って力を貰っていたのだろうか。わからない。それぐらいしか思い当たる節がなかった。

 

 男はそんな憂を、馬鹿みたいに顔を赤くさせて睨みつけている。何をそんなムキになっているんだろうか。自分の思い通りにいかなかったからってそんな……。憂には理解できなかった。

 

 だが、なんだかとても──いい気分だった。

 

「ぷっ……あいや……なんか、ごめんな?」

 

 ブチッ、何かの切れる音が響いた。

 

「──ッ!! いいだろうッそこまで死にたいのならッ──そうしてやるッ!!」

 

 

 ビーンは並べられている拷問器具の中からスパナを選り出し強く握りしめ、振りかぶる。その光景を見て尚、憂は恐怖も何も感じない。

 

 それは勇気だろうか?──答えは否だ。

 

 人には悲しみがあるから喜びがあるように。恐怖を感じない者に勇気なんてあるはずがない。それはつまり、憂はただ──感情の起伏がなくなっただけだ。

 

 あるのは無、あるいは──。

 

 

「ふんッッ!!!」

 

 

 男は振りかぶったスパナを全力で振り下ろした。そこには躊躇いなんて微塵もなかった。

 

 ゴォォオォオン………脳に衝撃が鳴り響いた。脳そのものが揺れているかのように、否、実際に脳が揺れているのだろう。その衝撃は正しく脳震盪を引き起こし、憂は凄まじい酩酊感を味わった。

 

 前頭部を殴られ、そこから血が滲み出た。溢れる血が額を流れ、視界を赤く染め、頬を沿って地に落ちる。

 

 自身がそんな目にあっても、それでも憂は何も思わない。感じない。わからない。こういう時、何を思えばいいのか、思い出せない。

 

 しかし、一つだけ。憂にもわかることがあった。

 今、憂の心にあるのはただ一つ。

 

 ──だるい、というその感情だけだった。

 

 

「クッガァァァッ!! フザケルナッ! フザケルナッフザッケルナァァ!!」

 

 

 その叫びはビーンのもの。拷問されているのは憂の方なのに、まるでビーンの方が苦しめられているかのように叫び声をあげる。

 

 それは、あぁ……。

 

 

「ハハッ──滑稽だなぁ」

 

 

 頭に血を被りながら、しかし嘲笑う様はまるで上位者、まるで人間ではなくなったかのようで、それは例えるなら魔女、いや──魔人、だろうか。

 

 

「がぁぁぁ!! あ゛ぁぁあぁ!!!!」

 

「アハっアハハハハっ頑張れがんばれ! アハハハハッ」

 

 

 苦しむような叫び声と、狂った笑い声。

 加害者と被害者の言動があべこべな、奇妙な空間がそこにはあった。

 

 

「──あはっ」

 

 

◆◇◆

 





 
 『Re:ゼロから始める異世界生活』
 ⇒作者が初めて小説で泣いた作品。
 
 作者より


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『それは罪』

 
 飽き飽きする毎日デス。一万と千


◆◇◆

 

 おはようございますこんにちわこんばんわ。オレは憂。七星(ななほし)憂です。

 

 本日はものすごく快適なオレの家を紹介したいと思います。

 

「フンッ!フンッ!」

 

 ここはなんと家賃ゼロ。これは凄いことです。現代日本に家賃ゼロの場所など刑務所ぐらいしかないのではないでしょうか。ええ、まぁここも似たようなものですが。しかしここに刑務等はありません。自由です。

 

 家賃ゼロ。ただ住むということにお金がかからない。それは人に働かずとも暮らしていいのだと、生きていいのだとそういう肯定の念を感じさせてくれます。

 

 ただ難点が少しだけあります。

 

 まずトイレがないこと。これが辛い。そして日当たりも悪く、風呂もなく、何故か血なまぐさい。

 

 ブチッブチッ

 

 でも家具が常備されてます。椅子です。椅子は欲しいですよね。

 

 プチップチッ!

 

 更に朝夕の食事つきです。何の肉かわかりませんが、まぁ不味くはないし毒も、おそらくないです。少なくともオレは食べても問題ありませんでした。だから問題ないです。

 

 バキッバキッ!

 

 えぇしかし最大の欠点は隣人さんがうるさいことですかね。

 

◆◇◆

 

「このっ!このッ!コノコノコノ!!!」

 

 力む声と共に響き渡る不気味な音。それは肉の潰れる音。押し切れる音。爪の割れる音。一本一本丁寧に潰されていく足先の音だ。

 

 想像するだけで痛く苦しく辛くなる。しかし、

 

「ふぁーぁあ」

 

 当の本人はあくびまじりに退屈の吐息を吐いていた。

 

(どうしたもんかな)

 

 痛みを感じず、何故か子供の身体で、尚且つ再生までする意味不明な肉体にも慣れてきた。そして同時に飽きてきていた。

 

 何も感じないのだ。怖くないだけじゃない。楽しくもなければ面白くもない。

 

 憂は拷問に飽いていた。切られても斬られても潰されても捩じられても引きちぎられても剥がされても刺されても折られても砕かれても削られても殴られても叩かれても蹴られても、死なない痛くない。

 

 そんな意味不明な自身の身体だが別段怪力ということはなかった。故に手足の拘束から逃れることはできない。

 

 憂にできることは脳内で独りごちることくらいだった。しかし二十日も経てばネタが切れる。

 

(夕ご飯まだかな)

 

 憂の楽しみは唯一食欲を満たすことだけだった。

 

「馬鹿にしおって!私を、私を私をを私を私を、私をッ!!あ゛あああああ!!!苦しめ!苦しめ!ぐるじめ゛ぇ!!!!!――ジネェェ!!!………ギ!!!?」

 

 バタン。

 

「………あ?」

 

 それは突然の出来事だった。

 

「――ぶっ倒れやがった」

 

 どこか狂った貴族だと思っていたが、まさかオレに舐められすぎて脳の血管でも切れたか?

 

 男は目、鼻、耳、顔の穴という穴から血を流し倒れている。

 

「えぇ…。…おーい、起きろー生きてっかー」

 

「………」

 

 ただの屍のようだってか。

 

「おいおい、どうすんだよ」

 

 

 憂は一人取り残された。

 

 

 

◆◇◆

 

 ポタ、ポタ、ポタ。

 

 あれから、もう二週間。

 

 拷問官が再び立ち上がることはなく、食事も止まり、憂は飢えていた。

 

 水の滴る音がする。それは口から滴る唾液の音。飢餓の限界。

 

 椅子に縛り付けられた憂は一週間、抜け出す方法を考えた。しかしどれだけ暴れても手枷も足枷も外れなかった。

 

 どうせ治るし痛みもないのだ。時間を掛ければ無理やり抜け出せるだろうと、そう思った。

 

――甘かった。

 

 まず腕を折った。可動域の限界を超えて動かすだけで簡単に折れた。一回じゃ足りない。何度も何度も粉砕するまで折って手枷から抜こうとした。しかし、

 

――再生の方が遥かに速かった。

 

 どれだけ折っても抜け出す前に再生する。関節を外しても、肉ごと千切り取ろうとしても、抜け出す前に再生する。

 

 

 次に拘束を破壊しようと足掻いた。しかし鋼鉄の拘束はどれだけ藻掻いてもどれだけ頭突きしても噛みついても壊れなかった。

 

 一週間ずっと、破壊しようと足掻いたが遂には歯形を付けるだけに終わった

 

 動かせるのは首から上だけ、飢えは限界。そもそも食事なし水なしで人は二週間も生きていられない。これもおそらく再生能力の恩恵だが、もう限界だ。

 

(食い物…食い物…食いもん…肉…肉…肉…)

 

 思考はもう飢餓で埋め尽くされている。

 

 大切な水分を唾液として放出してしまう矛盾。

 

「ハアァ…ハァ…ニク、ニク、ニク!!………あ」

 

―――肉ならあるじゃないか。

 

 たくさん。たくさん。

 

 食べても食べてもなくならないお肉が。

 

 こんなに近くに。

 

 どうして気づかなかったんだろう。簡単なことだった。

 

 

 飢餓の狂気に至った憂は、――自身の腕に嚙みついた。

 

 

 ブチ、グシャア、ポタ、ポタ

 

 

―――美味しい。

 

◆◇◆

 

「ふぅ…」

 

 憂は拘束から抜け出した。

 

 骨がむき出しになるまで、食べた。どういう原理かわからないが、食べたところの再生は遅かった。もしかしたら食べられた部分を再生に利用できないからかもしれない。

 

 憂はそのまま骨を砕き、拘束から解放された。腕が自由になれば後は簡単だ。並べられていた拷問器具の中からナイフを取って斬るだけだ。切れ味のいいナイフだ。

 

 なくなった腕も、斬り落とした足も再生が終わり、憂は立ち上がった。

 

「…おわっとと」 

 

 ドサ、と尻もちをついた。当然だ。もう一か月も座りっぱなしだったのだから。立ち眩みもするだろう。しかしそれもすぐになれる。

 

「…いくか」

 

 ガキン、ガシャン

 

 牢獄の南京錠を外し、憂はこの世界に来て初めて、外に出た。

 

 

 

 

 

 歩くあるくあるく。廊下を歩く。一本道だ。 

 

 明かりはたまにある蝋燭だけ。ほとんどの蝋燭は切れていて、ポツンポツンと奥へと続く道を照らしている。

 

 奥に見えるのは暗闇。

 

 この一か月。あのビーンと名乗った男しか見ていないが、あれが貴族であるのなら兵隊がいてもおかしくない。慎重に慎重に歩を進める。

 

 

「?」

 

 なにか聞こえた。

 

 それは空気の音。空気が吸引される音。空気が吐き出される音。

 

 人の呼吸する音だ。

 

 ちょうど何も明かりのない場所に、ただ呼吸音が響いている。

 

――敵か、味方か。

 

 味方である可能性は極小。

 

 敵ならば、――殺す。

 

 憂にとって、この世界の人間はあの男のみ。憂にとって、あの男が基準。故に、殺せる。あんなのは人の形をしているだけの獣だ。

 

 もし、この世界すべての人間があのような狂人であるのなら、殺せる。

 

 憂に人を殺せる度胸はない。しかし獣なら殺せる。妙に冷静、否、冷徹な思考が彼に覚悟させる。

 

 ゆっくりと音に向かって近づく憂。

 

 

「………すぅ………すぅ………」

 

 手にナイフを構え、それに触れる。

 

 柔らかい。子供、か?寝ているようだ。

 

「………はぁ」

 

 憂は迷った。しかし決断する。

 

 

――子供は見捨てられない。

 

 憂は子供が起きるのを待った。

 

◆◇◆

 

「ん……」

 

 ■■■■■■は目を開く。その瞳は猫のように縦に鋭い瞳孔をしていた。この暗闇でも、その瞳は周囲を見通す。

 

 しかしすぐに目を閉じる。そしてもう何もすることはない。

 

 毎日少しだけ期待して目を開くも、何も変わらない。

 

 少し前から食事もなく、もう死んでいくしかない身だった。

 

 しかし■■は何もしない。何もできないからではない。何をすればいかわからないからだ。

 

 お腹がすいたと泣くことを知らない。寂しくても、寂しいという感情を知らない。希望がなければ、絶望もしない。

 

 それは生きる人形だった。受け身の最終系。■■はそれを受け入れていた。

 

 ■■■■■■はただ言われたことをするだけ。食べろと言われれば食べる。ここにいろと言われたからここにいる。変化のない日常が■■にとって当たり前だったから。

 

 しかし、少し前■■は初めていつもと違う命令を受けた。

 

『ここに来た人間を攻撃しろ』

 

 そう言われたから、■■はここに来た人間を■■の持つ力で攻撃した。

 

 ■■■■■■には心がない。それは■■の持つ防衛本能による処世術。痛みも苦しみも、感じない。感じたくない。

 

 しかし、『■■■■』と呼ぶ声に、少しだけ――胸がチクっとした。

 

 あの男は誰だったのだろう。そう思うも、すぐに忘れようとする。きっともう会うことはない。そうわかるから。

 

 身体は痛くないのに、なぜか感じるこの胸の痛みも、忘れる。

 

 ■■は期待しない。希望を持たない。

 

 ■■はこの場所で、このなんの変化もない場所で、少しずつ弱って死ぬだけの存在。

 

 なのに。

 

 

 

「――目が覚めたか?」

 

 

 そこにはいるはずのない男がいた。

 

◆◇◆

 

「目が覚めたか?」

 

「………」

 

 反応がない。暗くて表情も読み取れないが、こちらを見ている視線は感じる。

 

 故に憂は話しかける。

 

「あー、なんだ元気か?」

 

 自分はいったい何を聞いているのか。人と話さな過ぎて話し方を忘れた。

 

「………な、んで」

 

 少女か、少年か、その高い声からは分からなかった。どれだけ声を発していなかったのだろう。その声はカスカスだった。

 

 それより。

 

「なんで…?なんでって、なにが?」

 

「………」

 

 また反応がない。話せると分かったが、会話が通じない。

 

 仕方なく一方的に話しかける。

 

「えっと、ここから抜け出したいか?」

 

「………」

 

 反応なし。

 

「お腹、すいてるか?…食べ物もってないけど…」

 

「………」

 

「なんでこんなところにいるんだ?」

 

「……言われた、から」

 

 答えた。

 

「!言われたってのは、誰に?」

 

「………」

 

 また答えない。しかし、

 

―――こちらに手を伸ばしてきた。

 

 影が近づいてくる。

 

 だから憂もゆっくりと、手を近づけた。

 

 手と手が触れ合う。

 

 

 ドクン

 

 

 心臓が跳ねた。

 

「……あ?……がはっ」

 

 ドクドクと心臓が脈打っている。突然なんだというのか。

 

 痛みはなく苦しくもない。しかし突然吐血した。

 

 

―――しかし、それだけだ。

 

「……な、なんで…」

 

 その様に子供は驚いているようだ。

 

 この子供がなにかしたのか…?

 

「お前、なんかしたのか?」

 

 敵か、とそう思考が過り、子供相手に鋭い視線を向ける憂。

 

「…ご、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい」

 

 すると謝り始める子供。

 

 なにがなんだか、こいつは敵なのか。憂は思考を巡らせるが、でもしかし何故だろう。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 気持ちの悪い感覚だ。むしゃくしゃする。その感情のまま、憂は言う。

 

「……ああもう、なんだかわかんないけど、いいよ。別に痛くも苦しくもなかったし。許す。というか謝るぐらいならちゃんと話せ。やりづらいだろううが」

 

「ご、ごめんなさい…」

 

「ん。それで、なんでお前こんなとこにいんの」

 

「え、えっと…」

 

 怯えられている気がするが、きっと気のせいだ。仕方なく一旦腰を落ち着けて話すことにする。

 

「ん、そうだな。ごめんな、怖いよな」

 

「え、いや…」

 

 

「――オレの名前は憂。ただの憂だ」

 

 

 まだ自己紹介をしていなかった。

 

「――ユウ」

 

 なぜだろう。名前を呼ばれただけなのに、心のどこかがざわめく。

 

「――おう。んでお前の名前は?」

 

「ぼくは…――フェリ………ふぇりす」

 

 一瞬なにか躊躇ったように、しかし子供は名乗った。

 

「フェリス、か。うん、いい名前だな。――ああ、いい名前だ」

 

 この子供と、いやフェリスと話していると、何故なのだろう。不思議と心が落ち着く。

 

 心の中で、フェリスと呟いて凄くしっくりくるのを感じた憂は繰り返しいい名前だと呟くように言った。

 

 心の衝動の赴くまま、憂は言う。

 

「なぁフェリス。握手しないか?」

 

「あくしゅ?」

 

「握手ってのはな…ほら手出せ」

 

「……」

 

 無言で、なにか期待するように先ほどと同じように手を出すフェリスに、憂は一切躊躇わずその手を握る。

 

 その手は、暖かくて。温かくて。

 

 なんでなんだろう。

 

「……あったかい」

 

「……っ…!」

 

 何故なのだろう。 

 

「?――ないてる、の?」

 

 涙が、止まらなくて。

 

「い、いたかった?ご、ごめんなさ、ん」

 

 そう言って、手を放そうとするフェリスの手を強く握ってしまう。

 

「――ユウ?」

 

「……ぐ、うぐ……」

 

 その小さな手を両手で握り涙を流すことしかできない。

 

 

 

「―――だいじょうぶ。だいじょうぶ」

 

 昔、ずっと昔に、誰かが言っていた言葉を、誰かが自分に言っていた言葉を、フェリスは口に出した。

 

 その頃はとても温かくてとても優しい場所にいた気がする。

 

 今、その時の言葉を思い出して言いたくなったのは、きっと男の手がそれと同じくらいあったかくて、やさしかったからかもしれない。

 

 

 暗くて、冷たくて、何もない場所のはずなのに。

 

 今は明るくて、温かくて、満ち足りた場所のようだった。

 

 暗くて明るい部屋で、慰める言葉と、すすり泣く声だけが響いていた。

 

◆◇◆

 

「…ごめん、な。急に泣き出したりして」

 

 どうしてかわからない。わからないけど、救われた。憂は救われた。

 

 どうしてこうも自分は弱いのだろう。救われてばかりなのだろう。

 

『―――』

 

 ああ、違う。そうじゃないだろう。それはただの言い訳なんだ。それじゃあ何も変わらないんだ。救おうとしようとそうでなかろうと人は救われる。それは強いだとか、弱いだとかじゃないんだ。

 

 だから。

 

「いや…ありがとうな、フェリス」

 

「ありが、とう…?」

 

「ああ、ありがとう」

 

「………」

 

 それはただの一語なのだ。たったの一語。数音。ただの、振動でしかない。

 

 でも、その振動は時に、人の心までもを揺さぶる。

 

 『ありがとう』という言葉に秘められた力がフェリスの心を揺さぶる。その言葉に湧き上がる何かがある。なのにソレがなんなのか、フェリスはわからない。

 

 胸が痛くて、目が熱くて、『■』が震える。

 

 フェリスはその放出の仕方を知らない。それは苦しくて、■しい。

 

 今度はフェリスが憂の手をその小さな手で包み込み、強く目を瞑る。

 

 それは、いけない事だから。それは、苦しいことだから。

 

 ■望を持ってはいけない。期■してはいけない。それをしてしまったら、苦しくなるのは自分だから。

 

 そうやって、何もかもを抑え込んで、ふさぎ込んで、我慢する。

 

 人はそれを『憂鬱』と呼ぶ。

 

 

「――フェリス」 

 

 

「―――あ」

 

 

「いいんだよ、泣いても。いいんだ」

 

 憂は言う。

 

「泣きたいときは、泣いてもいいんだよ」

 

 憂は知っているから。

 

「それは君の弱さの証明じゃないんだ。それは君が悪いんじゃないんだ」

 

 憂は教えてもらったから。

 

「それは、君が本当に優しい子だからなんだよ」

 

 温かさに縋るフェリスを、凍える心を温めるように、憂は抱きしめた。

 

「…んぅ」

 

 フェリスは知らない。知りたくなどなかったのかもしれない。いや、知らない方が良かったのかもしれない。

 

 

 苦しい時、悲しい時、誰かに救われることは必ずしも最良ではない。一人で解決しなければ成長できない人もいるのだから。

 

 でも、それでも。これが間違いだったとしても、これがこの先彼女を縛ることになっても。今、この瞬間がすべてなのではないだろうか。

 

 未来のことを考えない人間を、人は時たま現実逃避という。今だけを考えて生きる人間を、人は時たま向こう見ずな馬鹿だと嘲る。それは正論なのかもしれない。

 

 でも人は機械になど憧れていない。人が憧れるのはいつだって正義の味方。

 

 未來のことは、その未来が今になった時に考えればいい。この世にあるのはただ一つ。未来でも過去でもない。今なのだ。今が、最初で最後なのだ。それは綺麗ごと。でも、それでいい。だって人を救うのはいつだって、正論でも、合理でもなくて、――綺麗ごとなんだから。

 

 

「ッん…ふぇっ…」

 

 

 泣くのは、恥ずかしいかも知れない。泣くのは、もしかしたら笑うより難しいことなのかもしれない。

 

 だって、泣くのは悲しみを受け入れることだから。悲しいと心から叫ぶことだから。

 

 一度決壊すれば、もう戻れない。それは怖くて、未来に逃げてしまうこともある。でも、誰かがほんの少し背中を押してあげるだけで、人は勇気を振り絞ることが出来る。それが人が人たる所以なのだから。

 

「うぇぇ…わぁぁあぁあぁん」

 

 大きな泣き声。みんな大人になればなるほど、赤子のように泣くことはできない。その理由はきっと誰にも分らない。わからないけど、どれだけ成長しても、どれだけ一人に慣れていても、赤ん坊みたいに大声で泣いちゃいけないなんてことは、きっとないんだ。

 

「――大丈夫。大丈夫だよ」

 

 さっきとは真逆。何も見えない暗闇の中、憂はフェリスを抱きしめて背中をさすりながら言う。

 

 感じるのはその温かさとその鼓動だけ。

 

 それはとても居心地が良くて。泣きたくなるほどの温かさで。

 

 心を塞ぎこんで自分の殻に閉じこもっていた二人を、その殻を親鳥が卵を包み温め孵すように優しく砕いて開放する。

 

 人は人に救われても成長はできないかもしれない。

 

 でも、人は人と関わることでしか生まれ変われないのだ。

 

 その泣き声は産声だ。

 

 悲しいとか、嬉しいとか、そんなのわからなくたって人の子は泣ける。赤子がそう証明してるじゃないか。

 

 

 

 

「……フェリス?」

 

「……すぅ……すぅ……」

 

 眠ってしまったようだ。存外泣くのは疲れるからな。本気で泣くから疲れるのだ。

 

「……君の顔が見たいな」

 

 早く暗闇から抜け出して、この子の顔を見たい。

 

 ここはきっと異世界で、知り合いも頼れる人もいない。

 

 でも、フェリスと一緒ならなんとかなる気がする。

 

 そうさ。世界なんてのは割となんとかなるようにできているのだ。

 

 ここから抜け出して、仕事を見つけてお金を稼いで二人で住める家を買って、そうやって普通に暮らすことがきっと――。

 

 

 

 

 

 ガゴンッッ!!!!!………からんからん

 

 

 

 

 

 そんな二人を許さない世界があった。

 

◆◇◆

 

「ぐっ!うぐっ!こんのっ!」

「ふぅ!…ふぅッ……ふぅッ!…ごろずぅ…」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」

 

 何も見えない暗闇で三つの声が響く。

 かすれた声、鼻息の荒い声、謝る声。

 三者三様、狭い牢屋は混沌に満ちていた。

 

◆◇◆

 

 ドスン、ドスン、ドスン

 

 音がする。その音と共に奥からだんだんと消えてゆく燭台の灯。

 

 誰か、いや何かが炎を消しながら近づいてくる。

 

 憂は震えだすフェリスを抱きしめ立ち上がり今すぐにここから脱出しようと試みる。

 

 が、ここから最も近かった蝋燭が消える。

 

 同時に、何かの近づいてくる音。

 

(何も見えないッ!)

 

 

「ふぅ!ふぅ!ふ―ッ!――ニクッッ!!!」

 

 

 その声は、真後ろから聞こえた。

 

「ぐっ。――がッ!」

 

 憂は何かに押し倒され転倒する。なんとかフェリスに怪我をさせないよう、巻き込まぬよう逃がすも憂はソレに乗りかかられ身動きを封じられてしまう。

 

「なんだっ!こいつッ!うぐッ」

 

 抵抗するも子供の身体では力が足りない。

 

 さらには首を絞め上げられ苦痛の声を上げる。

 

「――ごろ゛す…殺じて゛や゛るぅ…喰わ゛ぜろぉ……」

 

 この声。

 

「おま、えッ生きて、やがったかッ」

 

 拷問官である。しかし明らかに様子がおかしい。

 

 殺すはともかく、食う、だと…?それではまるで獣、いやゾンビだ。

 

 それが嘘ではないことはすぐにわかった。

 

 

 ぐちゃり

 

 

 噛みつかれた。首筋から血が噴き出す。

 

「がはッ」

 

 まずいまずまずい。

 

 そう危機感が思考を乱すものの、それでも憂は冷静に思考する。

 

 ――喰われれば再生が間に合わないッ!

 

 そう。それはさきほどわかったこと。このまま喰われ続ければ憂は、――死に得る。

 

(そんなこと、あって、たまるかッ)

 

 せっかく見つけたのだ。これから特別になれるかもしれない子を。

 

 分かり合えるかもしれない子。傷を分かち合えるかもしれない子。

 

 助けたい子。自分の生きる意味になるかもしれない子。

 

 助けなければ、いや助けたいのだ。

 

 こんなところで死ぬわけにはいけない。ここがどこだか知らないが、あの子を助けぬまま死ぬなんて、許せない。憂は、また誰も助けられないなんて、認めない。

 

「あがッご……ごんの゛……ッ」

 

 喰われることを最大限に警戒し相手の顔を全力で抑える憂に対して、獣のごとき男はならば殺してから食らってやると首を絞めてきた。

 

(ダメだッ力が足りないッ)

 

 咄嗟に自身の首を絞める腕を掴むも、抵抗むなしく再び噛みつかんとしてくる。防げない。

 

「――フェリスッ!頼むッ!さっきのをこいつにッ!」

 

 助けたい子に、助けねばならない子に頼るのは情けない限りだが、このままじゃおとされる。そうなれば次は確実にフェリスが狙われるだろう。故に憂はフェリスに助けを求める。しかし、

 

「――ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ッ!」

 

 転んだ衝撃で目を覚ましたフェリスはしかし、目を閉じ自身の身体を抱き殻に籠り、ひたすら謝っていた。

 

(トラウマか、恐慌か)

 

 あるいはどちらもか。どちらにせよフェリスは動けない。このままじゃ。死ぬ。

 

 

 ピタ

 

 

 動きが止まった。

 

 男の腕は未だ憂の首を絞めているが力みが止まった。

 

「………ヴぇり、ぐず………」

 

(なんだっ?)

 

「ヴぇりっくずふぇり゛くすふぇりっくす。――フェリックスッッ!!!!」

 

「げはッ」

 

 男はそう言って憂の拘束を解き、そして突貫する。――フェリスに向かって。

 

(まずいッ!)

 

 ここまで冷静だった憂も焦る。

 

「ひっ!ごめんなさい、ごめんなさい、お父さん、ごめんなさいっ!」

 

 それに気づいたフェリスは言った。

 

(こいつが、フェリスの父親?いや)

 

 今はそんな事どうでもいい。フェリスが食われる。

 

 いけない。あってはならない。それはダメだ。許してはならない。許されてはならない。こいつが誰だろうとどうでもいい。父親だろうがなんだろうが、フェリスはオレが助ける。

 

 しかし憂には手段がない。

 

 あるのはおよそ不死身の肉体のみ。しかし肉体は非力な子供。

 

 すでにフェリスに向かって飛び掛かっている男。

 

 時間なんてもはやありはしない。

 

(どうすれえばどうすればどうすればどうすればどうすれば)

 

 どれだけ脳が冷静で思考が早かろうと答えがなければ意味がない。

 

 脳が焼ききれそうな程、スローモーションの世界で無理やりに思考を加速させ考えて考えて考える。

 

 死ぬわけにはいかない。

 フェリスを守らなければ。

 オレは、フェリスを守るんだ。

 どうすれば、どうすれば、どうすれば。

 足が、砕かれてる。首の骨も折れている。無理やり起き上がるので限界。フェリスフェリスフェリスふぇりすふぇりすふぇりす。大切になれるかもしれない子。いいや違う。大切な子。もうあの子はオレにとって大切だ。救われた。こんなわけのわからない世界に来て、ここを抜け出したところで生きる理由もなく死ぬしかなかっただろう自分に生きる理由をくれたんだ。それになぜかわからないけどあの子に名前を呼ばれて大丈夫と言ってくれたから、自分の中のなにかが救われた。わからないけど、でも救われたから。だから助けたい。今度はあの子を救いたい。

 

(また、また救えないなんて、そんなの──絶対に許さない)

 

 憂の中でなにかが膨れ上がった。

 

(なぁオレの身体。あるんだろ、力が──)

 

 数舜の間なのにもうずっと考えているような気がする中、憂は己に語り掛ける。

 

 意味の分からない再生力に痛みを感じない身体。子供の頃にまで縮んでいる不可思議な体。

 

 根拠はない。しかし憂は確信している。この身体にはまだ何かがあると、そう信じている。それはある種狂人の域。あるはずのないものをあると信じるなど。

 

 目には見えない、感じ取ることもできない、それが何かもわからない。

 

 が、聞こえた。

 

『■■■』

 

 それが何かはわからない。わからない、がわかる。

 

 憂はそれをその心の激情のままに叫ぶ。構えるのは手。男に向かって。時が、動き出す。

 

 

「──フーラッ!」

 

 

 それは詠唱。世界に奇跡を具現化するトリガー。

 それは夢幻の創造。

 生み出されるは翠緑の風。不可視なる凶器。

 

 それは世界を満たす空の水。

 それは生きとし生けるものを生かす慈愛の奔流。万物を包む大いなる気。

 

 そして恐るるべきは自然の猛威。

 

 

 ヒュイン

 

 

「──ァッッッ!!! …………」

 

 

 スパ、そう聞こえてきそうな程、あっさりと淀みなく少しの乱れもなく、男の影が真っ二つにずり落ちた。悲鳴もなく最後に何も残すこともなく、男は絶命した。

 

 飛び散る血。匂い立つ臓物の腐臭。まれで本当にゾンビのようだ。

 

「はッ……はぁ……ッ」

 

 緊張からか、限界を超えた思考からか、それとも人の形をしたものを殺した動揺からか、息を荒げる憂。

 

 しかしそれも少しすれば落ち着く。奇妙な感覚だ。

 

 そうして心を落ち着けた憂は問う。

 

「フェリス、大丈夫、か……?」

 

 おそらく血を被ってしまっただろう。トラウマになるかもしれない。だがそうしなければ死んでいた。

 

 憂は間違っていない。

 憂はフェリスを救ったのだ。

 

 それは良いこと。それは間違ってない。

 

 だが、

 

 

「…………ひっ」

 

 

 憂を見て、フェリスは怯み、そして後ずさった。

 

 それは無理からぬこと、フェリスはただの子供、優しい子供。傷つくのも傷つけるのも嫌な優しい子だから。どれだけ父親として酷かろうと、男はフェリスの父親だったのだから。

 

 それを目の前で殺した憂に、満面の笑みで感謝するなんてことはできない。

 

 それは当然の事。それは仕方のないこと。

 

 憂はそう脳内で冷静に分析する。

 

 が、

 

 

(は?)

 

 

 憂の心は受け入れられなかった。憂は極度に拒絶を恐れていたから。理解はできても、納得できない。助けたのに、報われないことを受け入れられない。

 

 誰かを助けることに対価を、報酬を求めることは強欲だろうか。例え求めているのがただ感謝を一つ貰うことだとしてもか。

 

 憂の心にあるのは怒りでも、悲しみでもない。――拒絶。

 

 大切な子に拒絶される恐怖を、その現実を拒絶しているのだ。

 

 

 

 だが──違う。

 

 違った。

 何が違うのか。

 

 フェリスが怯えたのは──憂じゃない。

 

 フェリスが怯えたのは──、

 

 ──憂の後ろにいる──

 

 

「──ああ、壊れてしまったか。残念だ。意識を遺している稀有な固体だったのに」

 

 

 ──憂は、

 

 ──その時、絶対的に。

 

 ──油断していた。

 

 

「グアアァァァアァァァッッッ!!!」

 

 

 この世界に来て初めての、激痛。

 痛みを感じなかったはずの憂の肉体が悲鳴を上げる。

 

 

「ダメじゃないか逃げ出しちゃ……あの子まで連れ出して。──いけない子だ。いけない子にはお仕置きをしないとだよね? さっ──実験の続きをしようか」

 

 

(なん、だ、こい、つ……)

 

 劇痛に沈むもしかしぎりぎりで意識を保っていた憂。見えるのは桃髪の女の子。いったい誰なんだ、この女は。

 

 女はこちらに気づいた。

 

「──おや? 意識があるのかい? ──それは凄い。竜も一撃で悶絶する術を最高出力でかけたんだが……それが君の『権能』なのかな? ……いや、少し違うな。まだ完全に適合していない。──にも関わらずその竜にも勝る耐久力……――やはり、君は特別だ」

 

 頭がガンガン鳴っている。

 

(何、言ってるのか、ぜんッぜんわかんねぇっ)

 

 口もまともに動かせず、話すこともままならない。

 半開きのまま微動だにしない口から舌をまろび出させながら地に付し、その状態でしかし眼だけには目一杯の反骨心を込めて睨みつける。それしかできはしないのだから。

 

 そんな憂に女は一方的に語る。

 

 

「再生能力に思考能力、変化する肉体に痛みを感じない身体──そして耐久力まで。やはり君を選んで正解だった。君のその『適応』の力をもってすれば必ずや実験は成功する。そうして遠くない未来、君は『それ』に適合する。私は確信をもってそう言えるよ。そう、君は私の──希望なのだから」

 

 

(選んだ……? 実験?希望?)

 

 微睡む脳内を満たす不理解。未理解。非理解。

 そんな惰考の末、限界が来る。

 

 

「ほら、フェリックス。──こちらへおいで」

 

 

 ──聞こえる。

 彼女を呼ぶどこまでも冷めた声が──。

 

 ──見える。

 悲痛に染まるフェリスの顔が──。

 

 

 故に確信する。

 

 ──こいつは『敵』だ。

 ──こいつが『敵』だ。

 

 ──絶対に殺してやる。

 

 そして、

 

 

 ──必ず助ける。

 

 

 それが憂の最後の思考だった。

 

 

◆◇◆

 





 語彙力。


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『契約』


 よく読まずに契約書にサインなんてしちゃダメダメだよ?


◆◇◆

 

「目は覚めたかい?」

 

「………」

 

「身体の調子はどうだい、違和感はないかい」

 

「………」

 

「無視は酷いなぁこれでもワタシは女の子なんだぞ。そんな反応をされてしまうと傷ついてしまうなぁ」

 

 この会話は、会話と言っていいのかわからないが、憂と謎の女とのものである。

 

 素振りでは確かに普通の女の子のように見える。が、ダメだ。こいつの目は感情を写していない。下手くそな演技。それじゃあ憂は騙されない。

 

――くだらない。

 

「御託は言い。お前の目的はなんだ」

 

 憂は再び椅子に縛り付けられていた。しかしその態度は尊大。まるでいつでも抜け出せると言わんばかりだ。

 

「――目的。目的、ね」

 

 思ったものと違った態度に興味深そうにする女。

 

「こうして君と会話するのは二回目だ。そろそろワタシが誰か気になっているのではないかな」

 

 二回目?この女はあれを会話だとでも思っているのか。だとしたら滑稽だな。生粋のぼっちだ。

 

「一方的に話しかけることを会話とは言わねぇんだよ」

 

「おやおや、手厳しいね。しかし会話をする意思がないのは君の方だろう?ワタシは君とちゃんと言葉を交わしたいと思っている。君にその意思があるなら、君の質問にも答えようじゃないか」

 

「屁理屈だな。こんな狭っ苦しい場所に閉じ込めて、実験だか何だか知らないが拷問紛いのことをして、それでも友好的に会話できると思ってるんならお前イカれてるぞ」

 

 不毛な会話だ。どちらも自分の理屈を押し付けているだけ。

 

「それで?」

 

 そんな会話に意味はないと、女は断ち切る。

 

「ならば君はどうすると言うんだい。言葉を交わすことを拒否するというのであればそれもいいだろう。ワタシはワタシの悲願の為、君を徹底的に利用するまでだ。しかしそれではあまりに君という人間に対して不誠実ではないだろうか。ワタシはできれば君に進んで協力して欲しい。君が協力してくれるのであればワタシのもつ知識において可能な範囲で君の望みを叶えよう。これは提案だ。――ワタシと契約を結ばないかい?」

 

「…契約?」

 

「そう、契約だ。決して破ることのできない魂の契約。もし破ったなら即座に死に至る絶対の契約だ。ワタシが求めるのは君がワタシの実験に協力すること。それだけだ。実験が成功した暁には君の望むものを与えよう。どうだい?君は、何を望むかな」

 

 まるで憂が契約を結ぶと確信しているような口ぶりだ。

 

「不愉快だな。そんな怪しい契約をオレが結ぶとでも思っているのか?」

 

 そんなはずはない。

 

「……君は冷静だね。冷静だが、――愚かだ」

 

「なんだ?契約するまで拷問でもするか?」

 

「ああ、そうしようかな――」

 

 拷問などもはや何も怖くはない。

 

 憂が今考えているのはどうやってこいつを殺してフェリスを助けるか。それだけだ。

 

 それを魔女もわかっている。

 

「――彼女を」

 

 そう言った途端出てくる空間の穴。

 

 その先に見えるのはおそらく異なる牢屋に閉じ込められているフェリスだった。

 

「お前ッ!!」

 

「――勘違いしているようだからはっきりと言うが、ワタシは君にお願いしているんじゃあない。――これは命令だ」

 

(こいつッ!フェリスを人質にッ!) 

 

「ハッ、はったりだねッ。あの子はお前にとっても大切な子なんだろ!?殺せっこない!」

 

 それは虚勢か、それともまさか本気で言っているのか。

 

「随分と浸食されているようで残念でならないが、それも仕方のないことだろう。それほど適性があっては精神的に制御できぬのも無理からぬこと。ああ、知性の損失は忌むべきものだが、その適性は唯一無二のもの。ワタシはこれを喜ぶべきかそれとも嘆くべきか。感情というものは難解だ」

 

 何を。

 

「何を言ってやがるッ!」

 

「…はぁ。――ワタシがあの子に期待しているのはその素質と肉体にだけだ。ワタシはあの子が生きてさえいればそれでいい。要するに、あの子をどれだけ痛めつけようとあの子がどれだけ苦しもうと、ワタシが躊躇うことはない。君が拒絶を選ぶというのであれば、ワタシはあの子を死なない程度に苦しめよう。それに相応しい術もワタシの知識にはある。さぁ、どうするんだい?我が身可愛さにあの子を見捨てるかい?」

 

「このッ悪魔がッ」

 

「悪魔、ね。当たらずとも遠からず、ワタシは、――魔女さ」

 

 魔女。魔女。魔女。

 

 それは悪者。それは悪人。

 

 それは人智を超えた化物である。

 

「――ここに契約を結ばん。我が名はスピンクス。さぁ、君の名前はなんて言うんだい?望みと共に言いたまえ」

 

 魔法陣が現れる。

 

 杖を構え、魔法陣を使い、理不尽な契約を迫る、まさしく魔女。

 

 スピンクスと名乗った魔女は憂にも名乗るように言う。それがおそらく契約のトリガーなのだろう。

 

 憂に拒否権はもはやない。

 

 憂は決めたのだから。彼女を守ると。

 

「――七星憂。あの子に、――フェリスには絶対に手を出すな」

 

 

「――ああ、――契約成立だ」

 

 

 一瞬、ほんの一瞬。

 

 嫌な予感が過った。なにかを決定的に間違えたような。

 

 取り返しのつかない過ちを犯したような。

 

 そして見えた。それを肯定するかのように、女の口が弧を描くように、こちらを嘲笑う笑みを浮かべた瞬間を。

 

 

 憂は間違えた。

 

 

◆◇◆

 

 痛い、痛いっ、痛いッ、痛いッ!!!

 

 苦しい、苦しいッ、苦しいッ!!!

 

 もう見たくないッ!もう聞きたくないッ!

 

 もうやめてくれッ!もうこれ以上オレを苦しめるのはやめてくれ!

 

 このままじゃ、死ぬ。

 

 それはどれだけ優秀な肉体でも抗えぬ痛み。その痛みは、その苦痛は、どこまでも跳ね上がる。

 

 どこまでもどこまでもどこまでも。

 

 その苦しみに限界はない。限界があるとするならば死ぬときだろう。

 

 このままでは破裂してしまう。このままでは張り裂けてしまう。

 

 しかし死ぬことはできない。それは死に相応しき苦痛であるにもかかわらず、死ぬことは許されない。

 

 憂は死を選ぶことはできない。

 

 ならば抵抗するか、それを止めるか、目を塞ぐか、耳を塞ぐか、痛みを感じないようにするか、どれもできない。

 

 『契約』がそれを許さない。

 

 抗えば待っているのは死。しかし死ぬことは許されない。それは憂が死にたくないからではない。

 

 死にたくなる音。死にたくなる景色。しかしそれから目を逸らすことはできない。抗えば死。抗わねば、延々とそれを感じ続けるしかない。

 

 理不尽の板挟みが彼を苦しめる。

 

 

 ここは、地獄だ。

 

◆◇◆

 

 

「やだッ!やめてッ!いやだよぉっ!やめてッ痛いよぉやだよぉあ゛ああああああああぁぁああぁ!!!!!!」

 

 

 あの子が泣いている。当然だ。喰われているのだから、腕を。

 

 フェリスが泣き叫んでいる。オレの目の前で。

 

 

 なんだこれ。

 

 

 なんなんだこれ。なんなんだよ。なんなんだよこれは。は。なんで、なんでフェリスが、こんな。こんな。

 

――止めないと。

 

 しかし、動かない。

 

――止めないと。

 

 動かない。

 

――助けないと。

 

 動かない。

 

――救わないと。

 

 動かない。

 

 

「動けよ゛ォッあ゛あああッ!!!!!オレの身体ァァァアアア゛ァァ!!!!!!!!!」

 

 

 憂は椅子に座っている。ただ座っている。縛られているわけでもなく、ただ座ってその光景を見ている。

 

 否、憂は縛られていた、『契約』に。

 

「――あぁ。いい叫びだ」

 

 その傍らには魔女がいる。否、悪魔だ。こんな外道な真似をするのは悪魔でしかありえない。魔女なんて、そんな可愛い存在じゃあない。

 

 そいつが蟲を操って喰わせているのだ。フェリスを。

 

 その様を『契約』を用いて憂に強制的に見させている。

 

 

「殺してやるッ!殺してやるッ!殺してやるッ殺してやるッ殺してやるッ殺す死ね死ねよ今すぐ死ねあ゛あああああああああ!!!!ふざけるなッ!今すぐこれをやめさせろッ!」

 

 憂は叫ぶ。それは怒り。激情。憤怒。

 

 その激情に呼応するように狂風が舞う。周囲のすべてを切り割かんと狂刃が舞う。

 

 しかし。

 

「『やめろ』。大人しく見て、聞いて、感じるんだ」

 

 ヒュン。その言葉一つで、突如として消える。

 

 それが『契約』、否、これはもはや『呪印』。憂にだけ一方的に課せられた魂を縛る鎖。『呪い』だ。

 

「――なんでッ!フェリスには手を出せないって契約だったはずだッ!!ふざけるなッ!!どういうことだッ!!!!」

 

 それは当然の疑問。しかし、憂は間違ったのだ。決定的なことを。

 

「――『フェリス』。フェリス、ね。いい名前じゃないか。女の子らしい可愛い名前だ。しかし……それはいったい、どこの誰さんなんだろうね?」

 

「はァッ!?」

 

「二つ、無知で愚かな君に教えてあげよう。一つ、契約魔法は世界を介して施される。故に契約の順守と違反は世界が見定める。故に契約内容は世界の認識によるものだ。故に、契約の内容に『人名』が含まれる場合、それはその者の――『真名』でなければいけない。そしてあの子の名前は『フェリックス・アーガイル』。さて、君の定めた『フェリス』という名の人間にワタシは指一本触れていない。故に契約は破られず、ペナルティは下されない。――わかるかな?」

 

 そんな、そんなの。

 

「そん、なのッただの屁理屈だッ!あの子がフェリスだッ!あの子に手を出すなッ!」

 

「残念ながら、契約は既に為された。もはやワタシの願いが成就するまで君はワタシに逆らえない」

 

 終わりだ。詰み。もう憂にできることはない。憂は決定的に誤った。

 

「そしてもう一つ、――魔女と契約を結ぶことなかれ。いい勉強になっただろう?」

 

 

「やめでぇっ!食べないでッ!いたいよぉやだよぉ…――ユウ!」

 

 

―――『タスケテ』

 

 

「ごめん、ごめん、ごめんごめんごめん、フェリス、ごめん、オレ…」

 

 助けられない。救えない。

 

 こんなに近くにいるのに、手の届くところにいるのに。

 

 意思とは無関係に憂の身体は動かない。フェリスが嬲られるのを見ているしかない。

 

――痛い。痛い痛い痛い。

 

 身体はどこも傷ついてないのに。

 

――苦しい。苦しい苦しい苦しい。

 

 一番苦しいのはフェリスなのに。

 

――このままでは死んでしまう。

 

 胸が張り裂ける。心が破裂する。――心が、死ぬ。

 

「あぁ…あ゛あ、ああああああぁぁあああ!!!!!!!」

 

 呆然と、愕然と、その胸に絶望を満たし、その心を『憂鬱』で満たされ、壊れたように涙を流しながら、張り裂けそうな程心臓を鳴らして痛む胸を押さえて、吐きそうな程苦しむ心は破裂寸前で、ユウは叫ぶ。

 

 それは苦しみの咆哮。それは悲嘆の叫喚。

 

 

「――あぁ。もっと苦しんでくれ。もっと、もっと、ワタシの願いが叶うまで」

 

 

「――なんでッ!なんでこんなことするんだッ!あいつは何にも悪くないだろうがッなんであの子が苦しまなくちゃいけないッ!やるならオレにやれよッ!オレになら何をしてもいい!だからッ!!」

 

「おいおい、ワタシのせいにしないでくれ。それはね、――君のせいさ」

 

「オレの、せい……?」

 

 不理解。オレが悪いのか。オレのせいで、フェリスは傷ついているのか。

 

 その様子を眺めスピンクスは言う。

 

「ああ、そうだとも。ワタシはね、君に苦しんでもらわなければいけないんだ。君にはもっともっと、とある因子を引き付けるほど強く深く苦しんで絶望してもらわなきゃいけない。なのに君はその肉体の力で痛みも苦しみも感じないのだろう?――なら、君の(精神)を苦しめるしかないじゃないか。君にはもっともっと、もーっと苦しんでもらう。つまり、君があの子を大切に想えば想うほどあの子は苦しまなきゃいけないんだ。わかるだろ?君があの子を助けたいと真に思うのならもっと悩み、もっと苦しみワタシの望む力を、その資格を手に入れるしかない。私は君に期待している。君なら必ずその資格を手に入れられると信じている。――ナナホシ・ユウ、君はワタシの希望だ」

 

 

 その女の話など、憂は途中からほとんど聞いていなかった。

 

 心の中にあるのは絶望、傲慢、苦慮。

 

 助けられないという絶望。助けたいという傲慢。そしてどれだけ冷静に冷徹に思考しても存在しない、答え。

 

 

 その日、一日中。フェリスは手足を蝕まれた。

 

 

◆◇◆

 

 ガシャン

 

 牢屋の扉が閉じた。一日が終わり、拷問は終わりを迎えた。

 

 牢屋の中にはフェリスと憂、二人一緒にいた。

 

 二人は一定の距離を保ったまま。

 

 近づくことが出来ない。気まずいとかそんな次元じゃない。

 

 憂はフェリスに対して目を向けることすらできない。

 

 しかし、憂は声をかけた。

 

「フェリス……ごめん……」

 

 その声はかすれていた。再生能力に優れた肉体であるはずなのに、未だに喉は壊れていた。むしろ何度も壊れるほど叫んだにもかかわらずこうして話せることがどれだけ強い再生能力かということを示している。

 

 憂の言葉は謝罪だった。

 

 きっと枯れていなければ涙も流していただろう。いや、憂には泣く資格なんてない。憂は少しも傷ついてないんだから。

 

「ごめん……オレ、なんに、もっ!??」

 

 バサ

 

 音と、温もり。

 

 それは抱き着く音。それは泣きたくなる温もり。

 

 

「………」

 

 

 フェリスは何も言わない。ただ、抱き着いている。

 

 憂はどうしたらいかわからない。抱きしめていいのか。

 

「んっ!」

 

 しかし、反応のない憂に対して更に強く抱きしめた。

 

 抱きしめろ、ということだろうか。

 

 恐る恐る、憂はフェリスに腕を回す。

 

 そうして触れる。直されてはいるものの赤く真皮の露出した腕と脚を。

 

「ぐっ、うぐっ」

 

 痛い。苦しい。

 

 涙目になる憂。しかし泣いてはいけない。泣くことは許されない。だって、苦しかったのはフェリスなのだから。

 

 歯を食いしばって、泣くことをこらえる。

 

 そんな憂を見て、フェリスは言った。

 

 

「――ないても、いいんだよ」

 

 

 なんで。

 

 

「ユウの苦しそうな顔。ずっと見てた。ユウが泣いてるの、ずっと見てた。だから、大丈夫。――わかってる。だから、ないてもいいんだよ」

 

「なん、で…」

 

 なんで。それは色んな思いが籠っていた。助けられなかったのに。救えなかったのに。見ている事しかできなかったのに。そんなに強いのか。なんで、そんなに優しいのか。

 

 

「泣けないなら、一緒になく」

 

 

 ああ、どうして。君はそんなに強いのか。

 

 どうして、自分はこんなに助けられてばかりなのか。

 

「――ごめん…ごめんなッごめん、ごめんね…何もできなくて、助けられなくて、ごめんなさい、ごめんなさい…」

 

「ん、大丈夫。だい、じょうぶ…」

 

 涙を流しながら謝り続ける憂。

 

 そんな憂の頭を撫でながら自身も泣きながら、だいじょうぶと、そう言い続けるフェリス。 

 

 

 明日も、明後日も、これから先の未来には絶望しかない。 

 

 でも、二人一緒にいればなぜだろう。耐えられる。

 

◆◇◆

 



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『罪と罰』


 罪には罰を。罰には罪を。五四


◆◇◆

 

 あれからどれほどの月日が経っただろう。いや、きっと一月も経っていない。しかしもう何年もこうして過ごしたかのように感じるほど、濃い時間だ。

 

 憂とフェリスは変わらぬ日常を過ごしていた。フェリスは毎日拷問された。非人道的な拷問の数々を、憂は一つも忘れることなく覚えている。忘れることなど許されない。それが憂の罪であり罰なのだから。

 

 変わらぬ日々の中でも変わったこともある。

 

 

「――ユウ!それでっそれでっ、どうなったの?」

 

「ああ、それでな――」

 

 憂とフェリスは日を経るごとに仲を深めていった。

 

 憂はフェリスを癒すためにいろんな話をした。

 

 元の世界の事。アニメや漫画の話。家族と旅行に行った話。

 

 憂はフェリスの猫耳のついている可愛らしい頭を撫でながら話す。

 

「その湖がすごい綺麗でな、青空一面を鏡みたいに写すんだ。地平線の彼方まで上も下もどこまでも空が写ってる。まるで空を飛んでいるみたいだったんだ」

 

「わぁ…!」

 

 楽しんでくれているだろうか。拙い言葉で少しでも想像しやすいように語る憂。

 

 でも。

 

「そら、かぁ」

 

 フェリスは空を知らないのだ。

 

――ああ。

 

「――一緒に、見に行こう。ここを抜け出したらいっぱい、色んなところに行こう。綺麗な景色をたくさん見よう。美味しいものもいっぱい食べよう。一緒に旅をしよう。それで、ずっと一緒に暮らそう。きっと、抜け出す方法を見つけてみせるから。――な?」

 

「…ずっと、いっしょにいる…?」

 

「ああ、ずーっと一緒だ」

 

「…うん」

 

 控えめに、静かに少しだけ頬を染めて頷くフェリス。

 

――助けたい。救いたい。

 

 フェリスと時を過ごせば過ごすほど、想いは強く深く膨れ上がっていく。

 

――この子に空を見せてあげたい。

 

――この子と一緒に、普通の暮らしをしたい。

 

 一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に食べて、一緒に寝て、そうして一緒に死にたい。

 

 死ぬのなんて、怖くて当たり前なことのはずなのに。フェリスと一緒にそうやって一生を終えられたなら、きっと、幸せなんだろうなって、そう思えるんだ。

 

 死ぬよりもずっと、この子を幸せにできない事が辛くて苦しくて、自身の無力が無能が耐えがたいほどに痛い。

 

――絶対に、何としても、何に代えても。

 

――例えオレの命を引き換えにしても。

 

――オレがフェリスを助ける。

 

 その想いだけを胸に、憂は過ごしている。

 

 それは希望。この残酷な世界の中で見つけた、小さな光。 

 

 故に憂は絶望しない。フェリスがいるから。憂はフェリスを包み、温もりを与える。

 

 故にフェリスは耐えられる。憂がいるから。フェリスは憂を癒し、その心を守る。

 

 

 人はそれを、共依存と呼ぶ。

 

 互いが互いに依存することで、この地獄を耐え抜いている。

 

 それは強い絆であり、しかし人の心の弱さでもある。

 

 それは結ぶに難く、容易く切れる。

 

 

――その日は突然、やってきた。

 

 

◆◇◆

 

 

「さぁ、今日も始めようか」

 

 魔女は言う。その一切の感情の籠っていない冷酷な言葉にフェリスは竦む。

 

 憂はただ椅子に座って、その光景を見ているしかない。

 

 これから何が始まるのか。

 

 

「――そう怯えなくていい。むしろ安心して欲しい。実験は、――今日で最後だ」

 

 

――こいつは今、なんて言った?

 

 憂はそれを認識するのにしばし時間を要した。

 

「君たちはワタシの想像以上であり、期待以上だった。お互いに極度に依存し合い想いあい実験に耐え抜いた。――ああ、想定以上だ。本当に素晴らしいよ」

 

 なんだ。なにかが。

 

「君たちのその絆が、その想いが、その依存が、その心が、その感情が、その深い『愛』が、ワタシの悲願を成就させる!」

 

 なにを、言ってやがる。

 

「さぁ!その極限まで高まった『愛』を!絶望に抗う『勇気』を!『希望』を貶め!――『憂鬱』に堕ちろ!」

 

 何を言ってやがるッ!

 

「『ナナホシ・ユウ』…」

 

 ビク。縛られる。魂の束縛。抗うことは許されない。

 

 例えそれがどんなに理不尽で不条理で不合理であれど。

 

「『命令だ』…」

 

 嫌な予感などではない。憂は確信した。その女が、いいや、人ならざる魔女が次にいうであろう言葉を。

  

 だから。

 

「やめろ…やめてくれ…それだけは…」

 

 無意味。

 

「『君の手で』」

 

「やめろォォォォォォォ!!!!!!!!!!!」

 

 

――『フェリスを、殺せ』

 

 

◆◇◆

 

 

「ぐ、あ゛、ん゛……」

 

 

 苦悶の声。喉を剛力で締められもがき苦しんでいる。

 

 

「あ゛ああああああああああ!!!!!!!!!!」

 

 

 それをするのは、子供の男の手。自分の手。

 

 全力で抗う憂。人生最大の叫び。嘆きでも怒りでもない。発狂の咆哮。

 

――止まらない!止まらないッ!!止まらないッッ!!!

 

「とま゛れッ!!!止まれ゛!!!!!とま゛れ゛ェェェェェエエ!!!!!!!!」

 

 ギュウ。首の締まる音がする。

 

 ギュウギュウギュウギュウと締め付ける音が、鮮明に聞こえてしまう。

 

 足掻いても泣き叫んでも、どれだけ意志を込めても、止まらない。

 

 憂の手はフェリスの首を締め付け続ける。

 

 死ぬ気で抗う憂。その目からは血涙を流している。

 

 いいや目だけじゃない。鼻も耳も口も毛穴もすべてから血を流している。

 

 それは罰。

 

 そのまま抵抗し続けたなら、憂の魂は崩壊し死ぬだろう。フェリスが死ぬのが先か、憂が死ぬのが先か。このままであれば先に死ぬのはフェリスだろう。

 

 自分の手がフェリスを殺そうとしている。

 

 また、憂は自身の手で大切な人を殺そうとしている。

 

 また、また、また。そんなことあってはならない。

 

 腕の筋肉が支配権の綱引きにより裂け血が噴き出す。

 

 指は既にあらぬ方向に曲がり腕の中身はグニャグニャに折れ曲っている。

 

 そうやって一時的に力が弱まり時間を稼ぐことでまだフェリスは死なずにいる。

 

 

 しかし、――即座に再生し、再び首を絞める腕に力が入る。

 

 

 憂の中の『傲慢』が死ぬことを許さない。折れた腕も、血の吹き出す肉体も、滅茶苦茶に乱されている臓器も、すべてを再生し憂を死から遠ざけている。

 

 それが『傲慢』の罪。自分一人だけが生き残るための力。

 

 それでも、憂は抗う。『契約』に逆らって魂を締め上げられ想像も絶する痛みを感じながら、肉体が崩壊と再生を繰り返す地獄に身を置きながら、それでも。

 

 

「死なぜない゛ッ!絶対ッじなぜ、な゛いッ!例えッオレがッ!――どうなっても゛ッ!!」

 

 

 暴走する『傲慢』を絶対の意志でねじ伏せようとする。人の意志どうこうで『権能』の力はどうにもならない。しかし、ほんの一瞬、その力を弱めた。

 

 そうなれば拮抗していた肉体は崩壊に傾く。

 

 再生よりも崩壊が早まる。

 

 このままいったなら、フェリスよりも先に憂の魂が壊れるだろう。

 

――これで、いい。これで、フェリスは死なない。

 

 憂の全身に亀裂が入った。それは魂に罅が入ったということ。

 

 もう再生は間に合わない。

 

 憂は死ぬ。

 

――フェリスを殺すぐらいなら、オレが死んだ方がいい。

 

 憂は目を閉じ、終りを待つ。

 

 

 

 

 

「――しなないで」

 

 

 

 

 

 フェリスは言った。フェリスは亀裂の入った憂の顔に触れる。

 

 すると、触れられたところが温かくなって、――傷が治っていった。

 

 憂は呆然とすることしかできない。

 

 

 なんで……

 

 

 こんな馬鹿な契約を結んで、君を殺せって命令されて、抵抗することもできない、どうしようもない人間を、なんで、どうして、

 

 

 

 

 

 

「――いいよ、ユウに、なら、――ころされてもいい」

 

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

――夢を持つことは傲慢か?

 

――理想を求めることは傲慢か?

 

――誰かを助けたいと思うことは傲慢か?

 

 

 それはそんなに罪深いことだろうか。

 

 ああ、きっとそうなのだろう。

 

 それはきっと傲りで、罪で、身に余るものなのだろう。

 

 

――あの子が空を見る夢を見るのは悪いことか?

 

――あの子が普通の暮らしをするのは罪か?

 

――あの子が救われるのは、大罪なのか?

 

 

 なら、オレは。だったらオレは罪人でいい。

 

 あの子を助けたいと思うこの気持ちが、『傲慢』で『悪』で『大罪』だというのなら、ああ、それでいい。

 

 

――オレはその『傲慢』を、――受け入れる。

 

 

 憂の中の何かが、変わった。

 

 

 世界の鎖に締め付けられ、崩壊寸前の憂の魂を、その鎖ごとさらに大きな何かが飲み込んだ。

 

◆◇◆

 

 

「――ユウ…?」

 

 フェリスが憂の顔を覗こうとするが見えない。

 

 憂の動きが止まった。崩壊も、再生も止まり、まるで時間が止まったように肉体が活動を停止した。

 

――それはあり得ないこと。

 

「なにが……」

 

 それは知識しか持たない欠陥品にはわからないこと。

 

 スピンクスの想定では苦しみながらも彼がフェリスを殺し、希望から反転した絶望が彼に資格を与えるはずだった。

 

 『契約』に抗うことはできない。それは世界の理に背くということだから。 

 

 それを可能にするものがあるとするのなら、

 

「まさか……」

 

 

「『動くな』」

 

 それは命令。

 

「ぐッ」

 

 それは何者も抗うことのできない絶対者の命令。

 

 故に、——()()()()()は動くことが出来ない。

 

 

「…ゆう?」

 

「―ああ、オレだ。」

 

 命令の主は憂。その肉体は青年ほどにまで成長していた。

 

 さっきまで何をしても離れなかった手が、簡単に解けた。憂はフェリスの上からどき、彼女の喉に手を当てる。

 

「『治れ』」

 

 憂はフェリスの身体に命令する。

 

 すると、締め付けられ痣のできていた喉が元に戻った。

 

「痛くないか?」

 

「ん、だいじょうぶ」

 

 フェリスは答える。

 

「――よかった」

 

 そう言って憂はフェリスを抱きしめる。

 

 

「――よく、ない。何も良いはずがない!君にはワタシの悲願を、ッ!」

 

「『黙れ』」

 

 水を差す魔女を黙らせる憂。

 

「お前の願いなんて、どうでもいい。お前がどうなろうと知ったことじゃないが、二度とオレたちの邪魔はさせない。だから、――『死ね』」

 

 

「が、はっ…………」

 

 あっけない。あまりにあっけない。

 

 たった一言で、女は血を吐き、地に倒れ、死んだ。

 

「――ユウ?」

 

 フェリスは違和感を覚えた。

 

 彼の中のなにかがおかしい。

 

 それを証明するように。

 

「がッはッ…」

 

 ユウもまた、血を吐き崩れ落ちた。

 

「ユウッ!!」

 

 咄嗟に縋りつき回復しようとするフェリス。だけど。

 

「――なんでっなんでっ!!」

 

 治らない。それどころか、どんどんどんどん憂の身体が冷たくなっていく。

 

 それは必然。憂は遅かった。憂の魂は既に壊れていた。

 

 それを傲慢で無理やり形作っていただけ、その状態で『権能』まで用いたのだ。もう、助からない。

 

「ふぇり、す…」

 

「治ってっ!!治ってよ!」 

 

 どれだけ力を注いでも、憂の状態は良くならない。涙を流して、一生懸命にマナを注ぎ続ける。

 

 しかし、すぐにマナは尽きてしまった。

 

 すぐさまそのオドまでもを使おうとしたフェリスを。

 

 その手を。

 

「――フェリス」

 

 憂は止めた。

 

「ユウっゆうッしなないで!一緒にいるって…いるってっ!約束…!!」

 

――泣かないで。

 

「ごめんな、約束、守、れなくて…」

 

「っ!待って、いかないでっ!――わたしを一人にしないでッ!!!」

 

――ごめん、ごめんな。

 

 もう、数秒もない。

 

――最後に、言いたいことがあるんだ。

 

 

「フェリス…――大好きだ」

 

 

 そう最後に言って、憂は死んだ。

 

 彼女以外の誰も好きにならないと決めていたけれど、言いたかった。

 

 憂はフェリスを愛してしまった。

 

 自身の犯した罪をなかったかのように、他の人間を愛した。これはその罰なのだろう。

 

 憂はフェリスの返答を聞くこともなく、その命を手放した。

 

 

◆◇◆

 

 気づけば何もない、どこでもないどこかにいた。

 

 あたりは暗く。何も見えない。

 

 そんな場所に一人ポツンと一人の男が立っていた。

 

 憂である。

 

 

「あの世、か…?」

 

 すわ地獄行きかとビビる憂。

 

 

 しかしここは地獄ではない。――もっと恐ろしい場所だ。

 

 

『―――』

 

 

 何かがいる。

 

 何かを呟いている。

 

 耳を凝らせば、聞こえてくる、怨嗟。

 

『ズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルい…』

 

 なんだ、こいつは。

 

 しかし知っている。憂はこの女を知っている。

 

「うぐッ」

 

 途端、ノイズが走る。

 

◆◇◆

 

『あなた、あの人を知っているのね?』

 

『ズルい』

 

『あの人は私だけのもの、あの人を覚えているのは私だけ。私だけでいい』

 

『あなたの知っているあの人を、――頂戴(イタダキマス)

 

◆◇◆

 

 

「あ゛ガあああああァァァァァ!!!」

 

 

 記憶の蓋が開き、彼の脳に思い起こされる思い出、そして絶望。

 

 

『ユウ』『ユウっ!』『クルシュ・カルステンです。どうぞよしなに』『ありだとね、ユウ』『死ぬなッ!』『いかないでッ!』『死なせはしない』『今、にゃんて』

 

『『ユウッ!』』

 

 

「あ゛ああああああああああ!!!!!」

 

 

 思い出さないでいた方がきっと幸せだったであろう記憶。

 

 鮮明に思い出される痛み、苦悩、絶望、後悔、苦痛、そしてほんの少しのいい思い出。

 

「――お、まえが、おまえが、おまえがッお前が奪ったのかッッ!!!!!!!?」

 

 噴き出すのは怒り、激情、憤怒。

 

「あ゛ああああああああ!!!オレからあの二人の記憶をッ!!?ふ、ふざっけるなッ!!――フザケルナッッッ!!!!!」

 

 憂からこの世界での記憶を奪ったのは、この女だ。

 

 それは嫉妬。

 

 憂の持つ『ナツキ・スバル』の記憶に対するもの。

 

 そして。

 

『ズルいどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして』

 

 再び。

 

『私だけでいい。私だけが知ってるの』

 

 何度でも。

 

頂戴(イタダキマス)

 

 

 その嫉妬心は、すべてを飲み込むまで止まらない。

 

 

「また、またオレから二人の記憶を奪うつもりかッ!?どこまで身勝手なんだ!?ふざけるな!!――殺してやる。絶対に殺しやる。待ってろ!オレが絶対、お前を殺してやるッ!!!」

 

 

『——そう。——やれるものならやってみなさい』

 

 

 その言葉と共に、憂は影の腕に飲み込まれた。

 

 

 長い、長い、——旅が始まる。

 

◆◇◆

 





赦してつかぁさい。


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【5】傲慢なる『利我(エゴ)
『Who is you』



 七星 憂は自殺した。


 七星 憂は運命の『翡翠』に出会った。

 憂は五年の時を過ごした。

 ユウは『翡翠』を庇い下半身を失って、死んだ。


 ユウは『嫉妬の魔女』と出会い、五年前に戻ってきた。

 ユウは『翡翠』を失い、『黄金』を求めた。

 憂は捕まった。拷問され、尋問された。

 憂は『翡翠』に救われ、感謝を述べて自決した。


 ユウはこの世界記憶を失い、七星 憂は『傲慢』に目覚めた。

 七星 憂は運命の『黄金』に出会った。

 七星 憂は『黄金』に救われ、『黄金』を救うと誓った。

 ナナホシ・ユウは『獅子女』と契約を結んだ。

 ナナホシ・ユウは『黄金』に依存し、『黄金』はユウに依存した。

 『黄金』は命を差し出し、ナナホシ・ユウは拒んだ。

 七星 憂は『傲慢』となり、好きだと言って死んだ。


 七星 憂は『嫉妬の魔女』と再会し、彼女を殺すと誓った。


 さぁ、あなたは今、だぁれ? 二八





◆◇◆

 

 

「――フェリスッ!!!………はぁ、はぁ…」

 

 戻ってきた。

 

 辺りを見渡せば暗い牢獄の中。横には、フェリスがいた。

 

 

「んぅ~………どうしたの…?」

 

 どうやら起こしてしまったようだ。

 

 でも、それより。

 

「…フェリス。――あぁ、よかった…覚えてる」

 

 心を満たすのは安堵だった。

 

 

「…だいじょうぶ?」

 

「ああ、大丈夫だ。ごめんな、起こしちゃって」

 

「うぅん、だいじょうぶ。――おやすみ、ユウ」

 

 

「ああ、おや、すみ………?」

 

 

―――違和感。違和感が■の脳内を満たしていた。

 

 

 わかっているはずなのに、知らない。

 

 理解しているはずなのに、納得できない。

 

 気づいてしまえば疑念を抱く。

 

 疑念を抱いてしまえば、確信してしまう。

 

 

―――あ、れ……『ユウ』って、――誰だ?

 

 

 ■は己の記憶を失っていた。

 

◆◇◆

 

 

「あのッくそ魔女ッ」

 

 再び眠ったフェリスを起こさないよう小さく悪態をつくユウ。

 

 覚えている。フェリスのこともクルシュのことも、『嫉妬の魔女』に記憶を奪われたことも、この世界がリゼロの世界であることも覚えている。

 

 なのに。

 

――オレは誰だ!?

 

 思い出せない。この世界に来るまで、自分がどうやって生きてきたのか、なにも思い出せない。

 

 記憶にぽっかりと穴が開いている。そこにあるのは事実だけ。

 

 母親がいたということ。父親がいたということ。そして自分がこの世界の異物であるという事実だけが残っている。

 

 家族の顔も、自分が誰なのかもわからない。

 

 

「オレ、はっ『ユウ』だ…『ユウ』、『ユウ』、『ユウ』」

 

 何度も繰り返しその名前を呼ぶ。己に思い込ませるように、何度も、何度も。

 

 しかし何度繰り返そうと、それが己の名であると感じられない。逆効果だった。人は何かを思い込もうとすればするほど、それが誤っているという認識を強くしてしまう。その違和感が、不一致が、ユウの脳に甚大な負荷をかける。

 

 それでも。

 

「オレは、フェリスを…」

 

―――助ける。

 

 ユウの中にはもうそれしかない。

 

 クルシュと過ごした五年も、もはや昔に等しく記憶は朧気。更に、その時の自分をも自分とは思えなくなってきている。  

 

 その後に受けた強烈な拷問の記憶がそれを加速させている。

 

 そしてそれを更に上書きするのが、フェリスの記憶。フェリスとの思い出。

 

 この世界が創作の世界であるということを忘れてフェリスと過ごした日々は明確にユウの無意識に変化を与えた。フェリスは物語のキャラクターではなく、この世界に生きる一人の人間、小さな子供、ユウが本気で本当に助けたいと思える大切な人になった。

 

――ユウはフェリスに救われたのだから。

 

 今度はユウが救わなければいけない、フェリスを。

 

 愛には報いなければならないのだから。

 

 それだけがユウの寄る辺。フェリスだけがユウの縋る居場所。

 

 故に。

 

―――絶対、助ける。

 

 

 それは傲慢ですらない。――ただの執着。

 

 

◆◇◆

 

 コツンコツンと、歩く音が響く。

 

 明かりに乏しい暗く冷たい廊下を一人の女が歩いている。

 

 桃色の髪に小学生程の背丈の女の子だ。その手には木製の杖を持ち、老人のように歩行を補助している。身体が弱いのだろうか。見るからにいたいけな少女である。

 

 しかしそんな少女が行くのは、じめっとした地下の道。あまりに似合わない光景だ。

 

 少女は進む。その先にあるのは暗闇。しかし少女には輝いて見える。そこには少女の希望があるのだから。

 

 数分も経たずに着いたのは最奥の部屋。入り口を檻で封鎖された牢獄だ。中には一つの影が見える。否、そこにいるのは二人。中学生程の男の子と小学生程の子供。

 

 男の子は座って瞳を閉じその懐に子供を収めている。子供はその腕の中で安心したように眠っている。

 

 仲睦まじい光景だ。――ここがそんな子供を閉じ込める牢獄でなければ。

 

「仲が良いようでなによりだね」

 

 しかし少女は言う。少女は疑問を抱かない。ここに二人を監禁しているのは他ならぬ彼女なのだから。

 

「……」

 

 そんな少女の声を聴き、静かに少年はその瞼を上げ、少女を睨みつける。その手に子供を抱き剣呑な気配を漂わせる。

 

「おや、起きていたのかい?」

 

 それを少女は気にも留めずにそう微笑んで話しかける。そこには驚きも躊躇いもない。彼女の表情は微笑んでいるが、その実少女は何も感じていない。

 

「……」

 

「まただんまりかい?いけない子だな。仕方ない、――『話すんだ』」

 

 少年は黙って少女を睨んでいる。その瞳に宿るのは『殺意』。そんな少年の態度を見て少女は表情を消す。いや、戻す。

 

 そうしてそう命令する。それは絶対。破れぬ理。世界の支配。

 

 少女はその履行を疑わない。他でもない、少女が破れない鎖なのだから。

 

 少年は口を開いた。当然だ。一人の人間が世界に抗うことなど不可能なのだから。

 

 そして、少年は言った。

 

 

 

 

 

「――『死ね』」

 

 

◆◇◆

 

 

 少年、ユウは漆黒の『殺意』を込めて言い放った。それは世界の理。神の力。凡人には持ち得ぬ権利。すなわち『権能』である。

 

 命令。それは『傲慢』たる人間が決する命の(おきて)

 

 何物にも逆らうことを許さぬ支配者の権利。

 

 ――そのはずだった。

 

 

「――随分と嫌われたものだね」

 

 

「―――。」

 

 ユウは言葉を失った。それほどに驚愕していた。

 

 ユウは今、確かに『傲慢』の権能を行使した。そのはずだ。

 

 『権能』はこの世界において『加護』よりも強大な力。大罪司教が持ち『ナツキ・スバル』が手に入れる力。

 

 ユウは知っている。『権能』が如何に凶悪な力か。

 

 ユウは覚えている。『権能』を行使した感覚を。

 

 故に少女、スピンクスはその魂を自壊させ死に至るはずだった。

 

 彼女を殺してここを抜け出すはずだった。

 

 なのに。

 

 

「隈が酷いようだけれど、もしかして眠れていないのかな。ワタシが言うのもなんだが、睡眠は生命の維持に不可欠だ。思考力も落ちる。いくら君の力で誤魔化せるとはいえ実験に支障が出る可能性もある。そうなれば実験は長引き、フェリックスの消耗も……?どうしたんだい?――そんなに驚いた顔をして」

 

 

 あり得ない。あってはならない。

 

(まさか。まさかそんな。そんなはずが、そんなのッそんなことッ!あってたまるかッ!!!!)

 

 ユウは認めない。受け入れない。許さない。

 

――ソレがなくなった、なんて。

 

 

「――『フーラ』ッ!!!!!!!」

 

 

 例えソレが失われようとユウに諦めるという選択肢はない。ソレが、その資格がなくなってもまだ、ユウには魔法がある。

 

 あの人と同じ力が。ユウに勇気を与える慈悲なる奇跡が。

 

 ユウは唱える。

 

 心中にあるのはただ一つ。

 

『こいつを殺す』という殺意のみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静寂。

 

 

 なにも、起こらない。

 

 

「――ふむ。」

 

 先ほどの言葉をただの戯言だと認識していた少女は認識を改める。

 

 

「なんで、なんでッ。『フーラ』!『エルフーラ』!ッ!!――『アルフーラ』ッッ!!!」

 

 何度も、何度も、そう唱えるユウ。しかし何も起きない。何も変わらない。

 

 ユウはその()()を失っていた。

 

 

 

「――推測するに、もしかして君――」

 

 

 その小さな頭に叡智を収める少女、否、少女の皮を被った魔女は、答えを導き出す。

 

 

「――『傲慢』の資格を、――失ったのかな?」

 

 

 その瞳は失望を写していた。

 

 

◆◇◆

 





 
 『アイデンティティ』
 ⇒同一性を意味する。心理学において『自分は何者なのか』という概念をさす。これが損なわれた状態を解離性同一性障害という。俗にいう二重人格である。
 
 wikipediaより


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『毒吐く 独は苦 モノのローグ』



 独白。五五。

 


◆◇◆

 

 

「出せッ!!ここから出せッ!!!」

 

 ガゴン、ガゴンと鈍い音が響く。それと同じくしてポタポタと何かの滴る音がする。

 

「このッ!なんでッ!?」

 

 その問いは明かりすらない牢屋に独り閉じ込められているユウのものだった。ユウは無心で拳を振るい檻を破壊せんとしていた。

 

 しかし、それは無意味。無意味。無意味。どれだけ殴ろうと変化はない。非力な子供の肉体では一生かけても鉄の塊を砕くことはできない。

 

「早くッ…早くしないとッ…――フェリスがッ」

 

 無意味でも、無価値でも、何もしないわけにはいかない。何もせずにはいられない。何かしていないと気が狂う。否、既に狂い始めている。 

 

 手からはダクダクと血が流れているのに、痛みはちゃんと感じているのに、止められない、やめられない。手を止めたら、ナニカが折れる。ナニカが砕ける。ナニカが割れる。

 

―――助けないと…ッ。オレが、オレが、助けないと…ッ。

 

 

 フェリスは連れていかれた。フェリスだけが連れていかれた。

 

 力を失い価値のなくなったユウはスピンクスの失望を得て殺されそうになった。――しかし、フェリスが己の身を差し出してユウを救ったのだ。

 

 フェリスは連れていかれた。当然、ユウも抗おうとした。しかし、――何もできなかった。ユウには何の力もないのだから。

 

 ユウは術に縛られフェリスが連れていかれるさまを呆然と見ているしかなかった。

 

 

―――オレのせいで、フェリスが…ッ。

 

 その目には闇より黒き瞳孔が浮かんでいる。妄執。妄念。執着。暗闇故に瞳孔が開いているというだけでは説明できない、言い知れぬ眼力。

 

 その視界には何が写っているのか。この闇に何を浮かべているのか。

 

「…ッ…ハァ…ッ…ハァ…ッ…!」

 

 しかし何の力もない子供の肉体の限界は早い。既に腕は痺れはじめ痙攣している。それでも殴ろうとするユウだったが、無呼吸のまま一心に檻を殴り続けていたために息は切れ、肉体は言うことを聞かず尻もちつく。

 

「クソ…ッ…!!」

 

 ペタン、と力のない音が響く。それはやるせない怒りを込めて地を叩く拳の音。無力な音。その音がユウの無力さをより知らしめているようで、ユウは心を暗く沈ませる。

 

 無暗に暴れる不毛さと今自身が如何に非力かを未だ保たれている理性で理解したユウは暴れるのをやめ、壁に背を預け、目を閉じ、手のひらを合わせることで己を落ち着かせる。

 

 

 

 しかし、そうして落ち着くのもつかの間、狂気が迫ってくる。

 

 それは、――孤独。

 

 人は何も見えぬ暗闇に独り捨て置かれて正気でいられるほど狂気に満ちていない。ただ一人で暗闇にいるだけ、それだけのことで人の心は容易く病む。

 

 

「…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば……どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば……どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…どうすれば…」

 

 

 思考は円を描き、視野は狭まり、そうしてそのうち思い込みの狂気に至る。

 

 

 

「………死ねば、楽に…なる…」

 

 

 

「死ねば、そうだ。そうだよ。死ねばいいんだ。死ねば、『死に戻り』で『傲慢』を失う前に戻れるかもしれない…!『傲慢』さえあれば!――フェリスを助けられる!」

 

 解なき問いに苛まれた人間は極論に行き着く。どうにもならない現状を打破する為、どうにもならない現実を否定する為、そうして『死』を望む。

 

 途方もないストレスから解放されたバウンドは凄まじく、当人に万能感と高揚感を与える。

 

 思考を鈍らせ、思考を狭ませ、思考を単調にし、そうして思考をやめさせる。

 

 考えても考えても、どれだけ考えてもいくら考えても、そこに答えはないから。辛く苦しく、自分を傷つけるだけの思考という自傷行為をやめるのだ。

 

「あはっ」

 

 

 死ねばいい!それは楽な事。

 

 死ねばいい!それは誰にでもできること。

 

 死ねばいい!それは誰にでも許されること。

 

 死ねばいい!それは今ユウにできる最善の事。

 

 死ねばいい。それは生きるより遥かに楽な事。

 

 死ねばいい。それはユウに許された特権なのだから。

 

 死ねばいい。それは本当に楽な事?

 

 死ねばいい?どうやって死ぬの?

 

 死ねばいい?この世界のフェリスは見捨てるの?

 

 死ねばいい?戻ったところで力は戻るの?

 

 

 死ねば、いい?―――『魔女』がもう一度戻してくれるの?

 

 

「――………」

 

 

 考える。人は考える。

 どれだけ嫌がろうと。どれだけ藻掻こうと。どれだけ足掻こうと。人は思考する。

 

 それが生きるということなのだから。 

 

 

 『魔女』は三度、ユウに死に戻りをさせた。 一度目は慈悲か気まぐれか。二度目は『ナツキ・スバル』の記憶を奪う為、ユウからこの世界に関する記憶を奪った。そして、三度目。今、ユウは己自身に関する記憶を奪われた。

 

 もし、『魔女』の目的が『ナツキ・スバル』の記憶にあるのならば、もう――『魔女』がユウの前に現れることはない。

 

 もう、ユウが差し出せる『対価』はないのだから。

 

 だから、もう、死ぬ理由はない。死ぬ意味はない。己の死に、価値はない。

 

 だから、「じゃあッ!!!どうしろッてんだよッ!!!なぁッ!!?」

 

「なんで…ッ…なんでッ!!!」

 

「オレには、何もないんだ…」

 

「オレには、だって…アイツにはあるのに…」

 

「オレにだって…ッ…力さえあればッ!――『傲慢』さえあれば!!!」

 

「なんで…ッ…なんでなんだよ…」

 

「……おれが、『ユウ』じゃ、ない、から…?」

 

「だから『傲慢』が使えないのか?」

 

「だからおれには救えないのか…?」

 

「じゃあ、じゃあ、おれは、…僕はいったい…」

 

 

「――誰なんだ」

 

 

 記憶は過去。過去は今。今の積み重ねこそが未来。

 

 故に、記憶なき者に過去はなく、過去無き者に今はなく、今なき者に未来はない。

 

 それはどこにも存在しない者。

 

 それは否定。それは疎外。それは孤独。

 

 己すら己を知らない。己で己の存在を肯定することが出来ない。

 

 無知が恐怖を呼び起こし、恐怖が不理解を生み、不理解は不信となる。

 

 

 暗闇に独り身をやつす子供の影。

 

 それはまるで、どこかのだれかのようであった。

 

◆◇◆

 

「フェリス……フェリス……フェリス……フェリス……フェリス……フェリス……フェリス……フェリス……フェリス……フェリス……フェリス……フェリス……フェリス……」

 

 

 壊れた蓄音機のように延々延々とその名は垂れ流される。

 

 縋るように、求めるように、迫るように。

 

 それは希望だから。それは必要だから。それは不可欠だから。

 

 今、ユウになくてはならないものだから。

 

「……一人は……嫌だよ……」

 

 成人した大人の発言とは思えない、か弱い子供のようなか細い声音、発言。身体につられているのだろうか。否、それもあるが何よりも己の記憶がないことが原因だろう。

 

 彼には育った記憶がない。彼には生まれた記憶がない。彼には挫折の記憶がない。彼には母親の記憶がない。彼には父親の記憶がない。彼にはいじめられた記憶がない。彼には彼を彼たらしめた『彼女』の記憶がない。

 

 からっぽ、からっぽだ。彼には、『人』として生きるに必要な、大切な記憶が何一つないのだ。そんな彼を幼稚だと蔑むことは憚られる。

 

 彼にあるのはこちらでの記憶だけ。

 

 クルシュと共に育った記憶。クルシュに救われた記憶。クルシュを助けたいと思った記憶。

 フェリスと出会った記憶。フェリスを助けた記憶。フェリスを大切だと、そう思った記憶。

 

 その記憶がユウの心に温もりを与える。ユウの身体はその温もりを覚えている。

 

 その記憶のどれもが、…——ユウに絶望を与える。

 

 

 ——怖い。苦しい。辛い。怖い。嫌だ。嫌だ。嫌だ。いやだいやだいやだ。

 

 耳を塞いで、目を閉じて、頭を抱え髪を搔きむしる。

 

 独りは怖い。一人でいることと独りでいることは違う。

 

 家族のいる人間にはわからない。友達のいる人間にはわからない。恋人のいる人間にはわからない。

 好きな人がいない人間にはわからない。大切な誰かがいない人間にはわからない。

 初めから一人だった人間には、わからない、——孤独という痛み、喪失の苦しみ。

 

 

「オレは……オレ、はっ……」 

 

 わからない。自分がない。答えなど出せやしない。

 

 確信も自信も持てやしない。己が何者かなど、きっと人類の半分は分かっていないだろう。そして残り半分の人間が分かった気になっているだけ、そんな答えのない問いなのだから。

 

 自分はどうするべきなのか。自分はどうあるべきなのか。そうやって自分の選択を疑って。

 この気持ちは本物なのか。自分は本当にあの子が好きなのか。そうやって自分の感情を疑って。

 クルシュは助けに来てくれるのか。フェリスは、助けるべきなのか。そうやって大切な他人を疑って。

 

 信じるべきものを見失って、疑う言葉ばかりが増えていって、疑心暗鬼になって、自分も、他人も、何もかもが信じられなくなって。

 

 

「……フェリスに、会えば…」

 

 ——きっと、わかる。

 

 拙い願い、儚い希望、淡い祈り。

 

 

 仕方ない。だって、仕方がない。

 

 自分はここを出られないのだから。自分から会いに行くことはできないのだから。

 

 ここで、待つしかない。フェリスが帰ってきてくれるのを。

 ここで、待っていればいい。クルシュが助けに来てくれるのを。

 

 仕方ない。自分にはできない。どうしようもない。

 

 世界は残酷で、無慈悲で、理不尽なのだから。

 自分は馬鹿で、無力で、ゴミなのだから。

 

 だから、だから……、

 

 

 

「……だれか……たすけてよ……」

 

 

 

 ゆっくり。

 

 ゆっくり。

 

 ゆっくり。

 

 堕ちていく。

 

 淀んでいく。

 

 穢れていく。

 

 腐っていき、澱んでいき、鬱いでいく。

 

 どろどろとした黒い汚泥が、空っぽの器を満たしていく…——取り返しがつかなくなるまで。

 

 

◆◇◆

 

『……ユ……ゥ……』

 

 声が聞こえる。

 

『……ユ…ゥ……』

 

 まだ脳は微睡みの中にいて思考はぼやけ、視覚や聴覚もまた靄がかかっている。それは目覚めたくないという心の表れか。それも仕方のないことだろう。現実は理不尽で、未来は真っ暗闇で、世界は残酷なのだから。

 

 

『……ユウってば!!!』

 

 

 それでも、その声は安眠を許してくれない。その声に逆らうことはできない。脳が、肉体が、心臓が、全身が、心が、魂が叫ぶから。

 

 ——その声に応えろと、その声の主を泣かせるなと、そう叫ぶから。

 

◆◇◆

 

 

 いつの間にか眠ってしまったみたいだ。

 

 自分は何をしていたのだったか。ここはどこだったか。

 

 寝ぼけ眼を擦りながら周囲を見渡す。

 

 するとそこには、■■■■がいた。

 

 

「あ」

 

 

 思考は突然覚醒する。そうして思い出す。ここはどこで、自分は何をしていたのか。そして彼女は誰なのか。

 

 

「…ユウ?」

 

 その首をこてんと可愛く転がせて、こちらの顔を覗く黄金の双眸は間違えようもなく。

 

 

「——フェリスッ!!!」

 

 一目散に、脇目もふらず一心不乱にその陰にその名を叫びながら飛びついた。恥も外聞も捨て置いてでも、放したくないと、離れたくないと、そう彼の心が叫んでいるから。

 

 愛を求めるように、救いを求めるように、赦しを請うように。

 

 ひたすらに弱く憐れで惨めな姿を晒す。それほどまでに追い詰められていた。それほどまでに欲していた。

 

「わっどうしたの」

 

 ■■■■はそれを優しく受け止める。どうしたのと問うその声に応えたいけれど、今はそれが出来ない。

 

「…ごべんっごえ゛んなざいっ…」

 

 ——涙が止まらない。

 

 なんで泣いてるのかわからない。自分はなんで泣いているのだろうか。

 きっと辛い思いをしているのは■■■■の方なのに。自分はただ牢屋にいただけなのに。

 なんで、こんなに弱いのか。どうしてこんなに脆いのか。

 

 恥ずかしい。情けない。申し訳ない。——でも。

 

「ごめ゛ん…んぐっ……もう少し…もう少しだけ。こうさせて」

 

「……うん、わかった」

 

 自分より遥かに幼い子に抱き着いて、泣きべそかいて、許しを請うて。

 

 ああ、僕は最低だ。きっとフェリスは僕がされていたような惨いことをされたはずだ。ただ独りでいただけの僕なんかとは比べ物にならない程傷ついているはずだ。

 

 忘れてはならない。諦めてはならない。

 

 今度は僕が救うのだ。助けるのだ。幸せにするのだ。

 

 ——■■■■を。

 

 …。

 

 ……。

 

 ………。

 

 不意に。

 

 違和感を覚えた。

 

 何かがない。ナニカが足りない。

 

 あるはずのなにか。なくてはならないナニカが。

 

 ——それは。

 

「ふぇり、す?」

 

「うン、どウシたノ?」

 

 声が。ユウに温もりと勇気を与える声が途端、機械仕掛けのまやかしのように変わって。

 

 

「お前、耳、が……」

 

 

 耳、耳、耳。

 

 それは声を聴くもの。それは獣人が信用するものだけに触れさせるもの。それは獣人になくてはならないもの。

 

 突然蛍光灯に電気が灯る音がする。どこからともなく光が寄ってきて。

 

 そこにいたのは。

 

 

 

 ——桃髪の。

 

 ——魔女だった。

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

「ぅわぁあああああああ!!!」

 

 

 ユウは叫び声と共に目を覚ました。心臓のバクバクという鼓動が脳に響く。頭から全身にかけて汗のべたつくような不快感がまとわりついている。

 

 それも暫くすれば収まり、気づく。

 

 ——ああ…。

 

 

「…また、か」

 

 また、ユウがこのような悪夢を見るのは初めてじゃない。この世界に来てから何度も、そう何度も悪夢を見ている。否、この世界に来る前から悪夢は見ていた、ような気がする。分からない。考えるだけ無駄だ。

 

 周囲を見渡すもやはり何も変わりはない。

 

 ユウは未だに牢屋の中。もう一月は経つだろうか。それともまだ二週間程度だろうか。もしかしたら二、三日だろうか。明かりも何もない、ただ惰眠を貪ることしかできない部屋では時間の感覚などあってないようなもの。

 

 変化はない。助けは来ない。力は戻ってこない。

 

「……はぁ」

 

 ため息を吐くユウ。

 

 ユウの心を支配するのはただ一つ、——退屈だった。

 

 初めの頃はそれはもう弱りに弱った。——でも慣れる。人は慣れてしまう。

 

「……怠い」

 

 気力が沸かない。立とうとすら思えない。檻を殴ろうなんて猶更思えない。——傷はもう治っているのに。

 

「……はやく助けに来てくれ……」

 

 心底かったるそうに他力本願を口にする。

 

 だって仕方ない。本当に仕方ない。だから、

 

 ——オレは悪くない。

 

 

 腐り腐って腐ってく。

 

 腑抜けに腑抜けて怠惰に過ごす。

 

 何もしないというのも楽じゃない。

 

 

◆◇◆

 

 

「あああ゛あああああああ!!!!!!!!!!」

 

 

 奇声が響き渡る。

 

「——おっせぇーんだよッ!!早く助けに来いよッ!!!!」 

 

 感情の暴走。

 

 昨日とはまるで打って変わって立ち上がり檻を殴り散らかすユウ。

 

「ふざけやがって!ふざっけやがってェェェェェ!!!!!!!ああああああ゛あああああああああ!!!!!!!」

 

 感情を爆発させてそこかしこに八つ当たりする。

 

「ぶっ殺してやる!!ふざけやがって!なんでオレがこんな目に!オレは悪くない!お前が悪い!お前のせいだ!ふざけやがって!ふざけんな!あ゛あああムカつく!!イラつく!!死ね!!死ねッ!!死ねッ!!!」

 

 ガンガンガンガンと殴りつける。血が滲んでも、血が噴き出しても、筋肉が見えても、折れても、曲がっても、痛くても、痛いから、痛めつける為に殴り続ける。

 

 誰に向けているのかもわからない戯言と暴言を吐き捨てながら。

 

 それでも、怒りは晴れず。

 

「ふぐっふぐうううううううううう」

 

 ——指を噛む。——髪を搔きむしる。——自分を殴る。——壁に頭を叩きつける。

 

 そうでもしないと、どうかしてしまいそうで。

 

 痛みだけが彼に安らぎと爽快感を与えてくれるから。

 

 

「……はぁ…ッ……はぁ…ッ……」

 

 

 頭から血を流せば、思考は鈍くなり感情の起伏もまた小さくなる。

 

 感情を爆発させるには殊の外体力を使うのだ。

 

「あー……だりぃ……」

 

 気絶するようにその場に倒れこむ。

 

  

 どれだけ無関心を装おうと、不満はたまる。

 どれだけ平常心であろうと、我慢には限界が来る。

 

 吐き出さなければ狂ってしまうから。

 

 我慢は不満に、不満はイラつきに、イラつきは怒りに、怒りは憎悪に。

 

 濁り濁って濁ってく。

 

 繰り返すたび、暴言は酷く。八つ当たりの対象は誰でもよく。その嗜虐性は悪化していく。

 

 その憎悪の矛先はいったい誰なのか。

 

 

◆◇◆

 

 

「ああなんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう?」

 

 暗闇。何にも見えぬ暗闇に奇妙な、否、悪寒を覚えるほど呑気で、明るく、陽気な声が響き渡る。 

 

 

「俺も悪くないし、誰も悪くないんだ」

 

「スピンクスにも目的があるみたいだし、フェリスが助かるのは決まってるし、クルシュさんもきっと助けに来る」

 

「クルシュさんがこんなとこに閉じ込められている子供を見捨てるはずがないんだから。また有用性を示せばきっと雇ってくれるに決まってる!」

 

「そしたらまたフェリスとクルシュと一緒に過ごせる!」

 

「僕が無理にフェリスを助ける必要なんてそもそもなかったんだ。いや、むしろ悪いことだった。僕が間違ってた。余計なお世話だったんだ」

 

「フェリスは今少しの間苦しむかもしれないけど、それは元の世界でも同じこと。だから大丈夫。——僕は悪くない。」

 

「僕もフェリスもクルシュさんに救われて、一緒に過ごして、ゆっくり仲良くなって、それでいつか結婚して、幸せになるんだ。そうに決まってる。」

 

「——ああ、ここから出たら何をしよう。なんでもできるな。魔法使いたいな。剣なんかも振れるようになりたいな。原作キャラにもやっぱり会いたい。エミリアいい子だろうなぁ。クルシュとどっちが可愛いかなぁ」

 

「レムと姉さまも楽しみだなぁ!きっと超かわいいに決まってる!」

 

「あっ、もしかしたら『ナツキスバル』より先に助けて惚れられちゃったり?あーあ、困っちゃうなー!」

 

「ベアトリスのその人になれちゃうかも」

 

「フェルトとも会ってみたいけど、ラインハルトがなーあいつほんとズルいよなーそういうチートはオレが持つもんじゃんかー」

 

「——あっ!良いこと思いついた!」

 

「——大罪司教全員殺せば全部の権能手に入ってオレが最強になれるんじゃないか!?」

 

「なんだそれ最っ高だな!」

 

「夢がある!」

 

 

「楽しみ、だなぁ」

 

 

「生きるって、ほんと…最高…だねぇ…」

 

 

 

「……はぁ……」

 

 

 

 重ね重ねて重ねてく。

 

 どれだけ取り繕っても、偽っても、自分に嘘を吐いても。

 

 理想に沈めはしない。妄想に浸れはしない。虚飾に堕ちれやしない。

 

 心の奥底で冷静な自分が見ているから。 

 

 

◆◇◆

 

 

 怒りに身を任せても、何もせず堕落に身を預けても、無理やり取り繕った仮面で身を包んでも。

 

 数舜先には恥ずかしく感じる。

 

 頭おかしいんじゃないのと自分を責める声がする。

 現実逃避してないでフェリスを助けに行けよという責め苦が聞こえる。

 

 言い訳するな。頑張れ。努力しろ。諦めるな。助けろ。救え。

 そう自分を責め立てる声がする。

 

 どうしようもないじゃないか。

 

 そうやって言い訳する自分が、嫌で嫌で仕方がない。

 何も思いつかない自分が、憎くて憎くて仕方がない。

 

「僕は、ただ……」

 

 ──わからない。

 

「ああわからない分からない解らない判らないワカラナイ…ぁあもう…──」

 

 ──なーんにもわかんない。

 

 

「何がしたいんだよ、オレは……気持ちわりぃ……」

 

 自己嫌悪は止まらない。自己否定は止まらない。

 

 だって、自分はゴミで、雑魚で、弱くて、脆くて醜くて底辺のゴミクズだから……だから仕方ないって、また、そう思いたいだけなのだから。

 

 否定しても何も解決しなくて、どれだけ頑張ろうと思っても頑張り方が分からなくて。

 

 ──自分が何よりも嫌いと言いながら、何よりも自分の命を大切にしている。

 

 ──気持ちが悪い。

 

 矛盾した思いが心の中で鬩ぎ争い滅ぼし合ってどちらが本当の自分なのか、どちらも本当の自分なのか。

 

 わからないまま自分で自分を傷つける。

 

「何が僕は、だよ。子供ぶるんじゃねぇよ、気持ち悪い」

 

「何が、ふざけんなだ。ふざけてんのはお前だろ」

 

「わからないわからないって子供みたいに駄々を捏ねて気色悪ぃ」

 

「何が、何が……救うだよ……できるわけ、ねぇじゃねぇか…」

 

「オレに何ができるんだよ……なぁ…」

 

 わからない。ワカラナイ。

 

 それでも思考は止まらない。

 

「なぁ…誰か…教えてくれよ…」

 

「どうやったら幸せになれるんだ」

 

「知らねぇよ」

 

「どうやったら救えるんだ」

 

「自分で考えろ」

 

「どうしたら、思い出せるんだ。思い出せないんだよ。家族のことも。誰かのことも。自分の名前も」

 

「………」

 

「オレは誰なんだ」

 

「お前はオレだよ」

 

 

 ?

 

 

「もう何も頑張らなくていい。オレに任せろ。」

 

「あ?」

 

 

 ──なんだ、これ……幻聴? いや──。

 

 

「……誰だよ……お前」

 

「オレはお前さ』

 

「──違う。お前は、……なんだ」

 

 違う。俺じゃない。俺じゃない誰か。なのに。

 

『ちょっと疲れたろ? 全部オレに任せろ。な?」

 

 その声はきっとオレの声で。

 

『こんなひどい目にあったんだ。少しだけ全部忘れて休もうぜ』

 

 

 その声は、酷く、酷く、──優しくて。

 

 その声には、聞いたこともないほどの慈愛が込められていて。

 

 その声を聴いていると、なんだか安心してきて。

 

 疲弊した心に染み渡るように安堵の波が広がって。

 

 

「…ぁ…れ…なん……ね、む………」

 

 

 ユウは永久の眠りに落ちた。

 

 

◆◇◆

 

 

 その肉体は既に骨と皮しかなく、まるで不治の病の闘病人のようであった。否、その実彼は病人であった。

 

 それは病。心の病。絶望の病。傲慢なる病。

 

 彼がここに閉じ込められてからその実()()もの月日が流れていた。それだけの時が流れたにも関わらず、彼はここまで()()()()()()で生き残ってきた。

 

 そんなことが出来たのは当然、──彼の中に『傲慢』が宿っていたからだ。

 

 『傲慢』は消えたわけではなかった。ただ己を失った者に手を貸さなかっただけ。己が何者かもわからないニンゲンに使い熟せやしないのだから。それでも宿主を守る為、生き残らせる為、『傲慢』は彼の(オド)を使い延命させていた。

 

 しかしそれにも限界が来た。彼はもう餓死寸前であった。

 

 魂を贄に燃え続けた命の灯は消えかけていた。最後の最後、彼に喋る気力を与えていたのはラストラリーと呼ばれる現象、命の最後の一滴でしかなかった。

 

 否。否。否。

 

 『傲慢』は許さない。無為な『死』を。無意味な『生』を。無価値な『最後』を。

 

 

 

 故に、目覚める。

 

 

 

 それは最初からユウの中にあった。

 それはずっとユウと一緒にいた。

 ──それは『傲慢』の裏側。表裏一体の『罪』。

 

 ──孤独と孤高を履き違えるなかれ。

 

 自らが世界で一番不幸だなんて『思い上がり』だ。

 生きにくいが責を世に求めるなんて『自惚れ』だ。

 生まれてきたくなかっただなんて、嗚呼なんて——なんて『傲慢』なのだろう。

 

 其は何者も信じず、其は何者も頼らず、其は何者にも頭を垂れなかった。

 

 故に、覚醒する。夢から醒めるのだ。 

 

 すべては反転し、逆転し、流転する。傲慢な神は夢に堕ちて人と成るのだ。 

 

 表は裏に、裏は表に。夢は現実となり、現実は夢現(ゆめうつつ)に成る。

 

 表と裏は点となり円となり球となし、表裏の概念は消失し、混ざり混ざって混沌に至る。

 

 誰にも頼らないで、信じないで、縋らないで、一人で抱え込んで、苦悩して、我慢して、自分を責めて、腐って、怠けて、偽って、鬱ぎ込む。

 

 その嘉悦が、その欝憤が、その絶望が、その怠惰が、そのどうしようもない自己嫌悪が、その歪んだ自己愛が、その驕った無関心が、──そのちっぽけな『プライド』こそが──。

 

 

 

 

 

 ──『憂鬱』の正体なのだから。

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 永遠の眠りに落ちたユウ。

 

 ──しかし数舜、起き上がった。

 

 そして、

 

 

 

 

 

「──ああ、憂鬱だ。」

 

 

 

 

 

 そう言い放った。

 

 

◆◇◆

 







 ※タイトル修正『それは正しく悪い夢』→『毒吐く独は苦モノのローグ』

  タイトル『覚醒』でもいいくらいダケド。このタイトル気に入ってるのデ。

 『傲慢』と『憂鬱』ってなんか親和性高いヨネ。
 ちゃっかりユウ君死んでマス。
 大罪とは死に至る罪、つまり逆説的に、死んで初めて『罪』となるってナ

  
 ユウくんの『憂鬱』はユウくんの小さな『傲慢(プライド)』によるものでしタ。完璧主義は生きにくいヨ? 自分も他人も赦せない正義なんて生きずらいだけだヨ?
  
 あなたの憂鬱は何が原因カナ? 




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【95】濁魂の『情動(カタルシス)
『躁爽葬・詩四死師・詰罪積』



 そうそうそう、しししし、つみつみつんで

 後悔しないなんてできやしない。一万


 

◆◇◆

 

 

「どっ」

 

 

 ドガァァァァァァーンッッッ!!!!!!!!

 

 

「か~ん」

 

 崩壊の音が響いた。まるで大量のダイナマイトが爆発したかのような音。途轍もない重低音と共に繰り出された衝撃波が破壊不能オブジェクトのようだった世界を容易くぶち壊した。

 

 響く音は解放の音。立ち煙る土埃は自由の狼煙。煙の中に現れるのはそれを引き起こした者の影。

 

「うえぇっげほごほっおえっ……」

 

 煙から出てきた()()はなんとも締まらない姿だった。あまりの土煙で咽たようだ。自分でやっといて心底煩わしいと言った目、そして表情をしている。

 

 そんな少年が両手を振り払えば、——再び衝撃波が吹き荒れる。

 

 大量に舞っていた砂塵は瞬く間に彼を中心として押し退けられていく。——一体何をしたのか。風魔法?いいや違う。彼は今()()をしていなかった。

 

 しかし青年は何事もなかったかのように身体についた砂を払い、凝り固まった体を伸ばしている。

 

「ん~~!」

 

 ぽきぽきぽき、と身体が鳴る。そうして体を解し両の手を腰に落ち着け何かに納得したように独り頷いて。

 

「あぁ!愉快痛快!気分爽快ってな!」

 

 

 妙に明るいテンションと妙にすっきりとした表情で、青年——『ユウ』はそう言い放った。

 

 

◆◇◆

 

 

「~~♪~~♪」

 

 鼻歌を歌い口笛を吹きながら歩く『ユウ』。その曲は妙ちくりんで適当で、しかしどこか一貫性を感じた。

 

 その足取りに不安はなく、その表情に悲痛はない。まるで陽気。まるで呑気な様相だった。——彼は現状を理解しているのだろうか。

 

「シャバの空気は美味しいね~ぇ」

 

 シャバと言ってはいるが未だに地下牢獄の中である。というより、彼は絶賛迷子だった。かなり深くに閉じ込められていたようだ。

 

 歩いても歩いても景色に変わりはない。暗闇ばかりで先の見えない細道をしかし何の躊躇いもなく突き進む。——まるで恐怖を感じないというばかりに。というより彼は本当に——。

 

 

 不意に、声が届いた。

 

 

『……ぁ…ぅ…ぇ…ぇ……』

 

 

「……あ?」

 

 それはか細く、か弱く、そして()()の声で聞こえた。何かがいる。呑気に歌っていた『ユウ』も流石に警戒する。

 

 すると、現れたのは。

 

 

 ——ゾンビの群れだった。

 

 

「……が。」「あ゛ぁぁぁ」「うがあ゛…」「ヴあ」「だげで…」「うぉえ…」「…ヴぉえ」「…あう゛ぁ」「…ヴぇヴぇ」「…あ゛う゛え゛え゛」「ん゛あ゛ああああああ…」「あががががが…」「………」「…あ゛ん゛え゛」「…お゛ぶっ」「だっ…」「う゛ー」「ゲェえ゛」「………」「だずげで」

 

 

 支離滅裂な遠吠え。しかし強く秘められた嘆き声。——何か、何かを伝えようと唸り声をあげている。

 

 その見た目は腐りきっている。腕のない者。足がなく体を引きずらしている者。頭部が損傷し蟲のような何かが飛び出ている者。その瞳に生気はなく、あるのはただ漠然とした虚無。生ける屍そのものだ。そしてその誰もが皆、『ユウ』に向かって歩いていく。軽く、否、普通にホラーだ。

 そんな彼らを『ユウ』は——。

 

「——キモッ!多っ!」

 

 ただ二言で言い表した。その数は二十ばかり。おそらくこの屋敷で働いていたものだろう。その身に付けている服からメイド服や従僕、執事や騎士のような特徴が見受けられる。

 

 被害者であろう彼らを前にして二の腕を摩る『ユウ』はどこか自然で不自然だ。場違いとでも言うのか。まるで自分には関係ない、フィクションの世界でも眺めているようで。

 

 しかしここは現実。これだけ近くまで迫っていて無関係ではいられない。亡者の群から鎧をまとった片腕のゾンビがその手に直剣を携えて飛び出した。

 

 

 そして、——その胸に風穴が空いた。

 

 

 『ユウ』はただそれを、侮蔑の目で見ていた。

 

 何をされたのかもわからなかったのだろう。呆然とした表情で騎士風のゾンビは倒れた。音も予備動作もありはしなかった。しかし、やったのは『ユウ』だ。

 

「……きったね」

 

 飛び散った血と臓物を見て、興冷めといった表情と声音でそう言い放つ。そうして、——腕を振るった。

 

「——ばいばーい、っと」

 

 上から下へ、振るわれた腕。上から下へ、まとめて押し潰されるゾンビたち。ナニカが振り切られ地に打ち付けられる。遅れて発生する爆音と衝撃波。巻き起こるは芳醇で濃厚な死の風。その匂いは筆舌に尽くしがたい。ただ吐き気を催す血の香り。そんな風を浴びて尚『ユウ』は表情一つ変えることもない。

 

 ゾンビたちは綺麗さっぱり廊下のシミへと変わった。しかし先ほどのようなすっきりとした表情を『ユウ』がすることはない。

 

「…ふん」

 

 ただ一度だけ鼻を鳴らしてその血だまりを通り抜けようとする。そうして通り抜けた先に一体だけ生き残りがいた。

 

 

「…あ…ア…」

 

 下半身を無くし手をバタつかせ、意味のない声を漏らすしかできない女のゾンビ。それを『ユウ』はやはり虚無の瞳で見ている。そうしてゆっくり手を振り上げた。

 

 すると。

 

 

「た」

 

 

 ユウの手が止まった。

 

 

「た。たス。」

 

「タすケ。」

 

「た。スた。すて。」

 

 

「………」

 

 言わずもがな。そのゾンビの言いたいことはわかった。命乞いだ。

 

 まだ、——意思が残っているのか。それとも彼女を操っている寄生虫の意思か。

 

 その瞳にはやはり生気がなく、故に命乞いをしているのは寄生虫の方だろう。

 

 再びその手を振り上げる。

 

「あ」「アアああノ」「ここ。こここここ」「をををおおおおおお」

 

 別のことを言いだした。しかし今度は要領を得ない。悪あがきか。

 

 否、人であろうと、寄生虫に侵された獣であろうと下半身がないのだ。いずれ死ぬ。『ユウ』が手を下す必要などかけらもない。故に、『ユウ』はその手を下ろし進もうと——。

 

 

「——アノこヲ、たすけて」

 

 

 ———。

 ——————。

 ———————————。

 

 

「は?」

 

 言った。彼女は言った。——あの子を助けて、と。そう確かに今、言った。そんな意味の分からぬ願いに『ユウ』は苛立ちを込めた声音で答えた。

 

 せっかく無視してあげようとしたのに。こんなところから早く出たいというのに。そんな思いと歩みを妨げられ先ほどとは打って変わって不機嫌になる。

 

 ——殺そう。

 

 そう思った。煩わしいものは壊せばいいのだ。それですべて解決する。自分を煩わす女はみんな殺してしまった方が良い。——『ユウ』は拳を握った。

 

 そんな『ユウ』を女ゾンビは見ていた。初めて目が合った。

 

 ——そんな目でオレを見るな。

 

 無性にイライラが募る。それはきっと、その女ゾンビの頭部に、——見覚えのある二つの耳が生えていたから。

 

『■■■』

 

 心の奥底で静止の声が聞こえる。

 

 しかし。

 

 

「——嫌だね。——死ね」

 

 

 『ユウ』はその拳を振り下ろした。煩わしいものは殺す、壊す、侵す。そうでなければ自由じゃない。そうでなければ解放されない。——『ユウ』は自由になるのだ。

 

 そうしてゾンビは、何を遺すこともなく、跡形もなく潰され、

 

 

「——ありがとう」

 

 

 否。

 

 最後に感謝を遺して、彼女は逝った。一体何に対して、誰に対しての感謝だと言うのか。先ほどまであれほど滅茶苦茶な呂律で言葉を発していたのに。最後の最後になって、まともな意思を宿した声でそう言い放った。

 

 何の意地だ。何でそんな目で見る。何がありがとうだ。

 

 ——それではまるで。

 

 

「………。」

 

 

 後悔などしない。未練など残さない。やりたいことをやってやった。

 

 なのに、残ったのはわけもわからぬ苛つきとぶつける先のない感情だけだった。

 

 

 

◆◇◆

 

「あーぁあ…嫌んなっちゃねーぇ…嫌んなっちゃうやんなっちゃう…」

 

 独特の口調で一人愚痴を溢す『ユウ』。進めど進めど代り映えのない迷路のような廊下に嫌気がさしていた。

 

「だりぃな~めんどいな~生きるってなァ面倒くせぇな~」

 

 一人歩を進める『ユウ』は退屈に耐えられず訳も分からない詩を歌う。

 

「自分なんて大嫌い(でェきれェ)~言うだけ直さず自堕落で~相も変わらず極潰し~そんな自分が大好きさ~」

 

 適当な口調で適当なリズムで歌う謳う。

 

「理想の自分になりたくて~でもでも努力は大嫌い~願い願えど夢を見る~そんな自分が大好きさ~」

 

 その言葉に意味などない。その歌に価値などない。自己愛の歌。自己満足の呟き。

 

 

「自由になりたいだけなんだ~」

「普通に生きたいだけなんだ~」

 

「自分を殺すにゃ飽きたんだ~」

「他人ざ生かすにゃ無理なんだ~」

 

「救え救えど落ちぶれる~」

「助け助けて私のことを」

 

「誰も助けてくれぬから」

「私はあなたを殺すのです」

 

「私が独り、残るまで」

 

 

◆◇◆

 

 

 かなりの距離を歩いた先、少し広い場所に出た。先ほどまでなかった燭台の灯が周囲を照らしている。

 

 散々歩かされたのだ。何かあって然るべき。そんな願いに答えるようにそこには火に照らされた一人の巨漢がいた。その肌は見たこともないほど青ざめている。

 

「………」

 

 巨漢はこちらに見向きもせず、その()()()()を組み鎮座している。

 

「………」

 

 『ユウ』もまた動かない。否、——動けない。

 

(これは……)

 

 ——『死』。

 

 明確に鮮明に、感じ取れる、死の予感。動いたら、死ぬ。あと一歩踏み出したなら、死ぬ。

 

(こいつは——)

 

 ——『八つ腕』の——。

 

 冷汗が、——落ちた。

 

 

 ポタッ

 

 

 その音が、開始の合図だった。

 

 ガギンッ!!!!!!

 

 硬質な音が鳴った。金属が擦りつけられる音。飛び散る火花。薄暗いこの空間で火花の光は一層眩しく。その光に目を細めながら、『ユウ』は見た。——その男の闘志の宿った瞳を。

 

「こんのッ」

 

 ガンッ、『ユウ』は両腕の防御で男の凶刃を防ぎ、その腕を思い切り振りほどき凶刃を弾いた。

 

 そう、あの硬質な音は『ユウ』の腕と『八つ腕』のクルガンの剛毅な刀のぶつかる音だった。刀に斬りつけられたにも関わらずその腕には傷一つもなくそれどころか刃を弾いて見せた。

 

「おいおいおいおいおーい……勘弁してくれよ」

 

 焦りと緊張が『ユウ』に軽口を叩かせる。

 

 ——想定外だ。

 

 想定外、その通りだろう。『ユウ』が想定していたのはスピンクスのみ。倒すべき、否、殺すべき敵はただ一人だったのだ。それがどうした。ここには自らを襲う強靭な巨漢がいる。

 

「…めんどくせぇ」

 

 『ユウ』の心に浮かぶ怠惰な感想。思い浮かぶのはただ、——それだけだった。そこに恐怖など、——ありはしない。

 

「おいおい、なんでこんなところにいるんだよ。——クルガンさんよ」

 

「………。」

 

「無視かよ。意識ないわけ?寄生虫か、いや……」

 

 『ユウ』は知っている。『ユウ』には原作の記憶があるのだから。彼は確かヴォラキアの英雄、『強欲』の大罪司教に殺された故人、そして——『不死王の秘蹟』で生き返らされた屍兵。

 

「——はぁ…。本っ当に、——面倒くさい」

 

 『ユウ』は腕を振るった。

 

「———。」

 

 無言で容易く避けられた。

 

「見えてないくせに、よくもまぁ避けられる、なッふッ」

 

 振るう振るう。我武者羅にハチャメチャに。己の力を解放するように。

 

 ダン!ガン!バン!ガンダンダンダンダダダダダダダダダダダダダダダダダダ!!!!!!!

 

 不可視の得物が空間を破壊する。砕ける。破壊する。崩壊させる。避ける場所などなく逃げる場所などありはしない。クルガンは瞬く間にその身を傷だらけにさせる。殴打されたような傷に切り割かれたような傷。数多の傷が刻まれていく。

 

「あはっあははっ♪あっはっはハハハハハハ!!」

 

 それは暴力。解放。自由。

 

「最っ高だなッ!!」

 

 際限のない破壊衝動。溜まりに溜まった破壊欲。物を壊すだけでは満たされない、人を動物を生き物を殺し壊し侵すことでしか満たされない望外の想い。

 

 しかしそれでも、それだけでクルガンが、英雄が倒れることはない。

 

 見えざる凶器の舞う嵐の中、針穴を通すように、最小限のダメージでこちらに接近してくる。

 

「———ッ!」

 

 そんな英雄を『ユウ』は、殴り飛ばした。ドガン、ともの凄い勢いで壁に衝突するクルガン。

 

「ハッハ―ッ!あぁ~気持ちいい!最高だ!あんた最高だ!最高のサンドバックだッ!あっはっは、——あ?」

 

 グラ、そんな音と共に、——視界がズレた。

 

 最高潮に興奮し、英雄を侮辱し、その面を殴り飛ばした絶好調の『ユウ』。しかし、その首が、——裂けた。血が、噴き出す。

 

 ぷしゅ―――――――。

 

 半ばまで切り割かれた首が凄まじい勢いで血潮を吹く。その勢いのまま、——首はポロっと、取れた。

 

「おあっ?」

 

 平衡感覚が失われた。失われた首は皮一枚を遺して繋がっている。しかし、——それもいずれ自重のままに。

 

 ぽとっ、ばたんっ。

 

 調子に乗っていた頭はお似合いの地に堕ち、司令塔を失った肉体はからくり糸を失った操り人形のように関節から力が抜け血に付した。

 

 血の涙を流し口から血を吐く頭部。もはや繋がっていないのに感じる胴体の冷たさ。

 

「ア」

 

 ——ああ、憂……鬱……——。

 

 ———。

 ——————。

 ——————————————。

 

 

◆◇◆

 

 

「うん。調子乗った」

 

 

 歩きながら『ユウ』は独り反省会をしていた。

 

「なんでクルガンいるんだよ。いやほんとに。勘弁してくれ」

 

 否、ただの愚痴であった。それも致し方ない。仕方ない仕方ない。

 

 せっかく。漸く出られたと思ったらこれだ。逆戻り。——また歩かなきゃいけないじゃないか。面倒くさい。しかし、思うのはそれだけ。『死』に対する恐怖も、また死ぬかもしれないという恐怖もない。

 

 リスポーン地点は目覚めた牢屋だった。

 

「『英雄』…ねぇ?」

 

 顎に手をやり思考にふける。

 

 

「——いいね。やってやろうじゃーないの」

 

 

◆◇◆

 

「う゛あ゛」

 

「げっ忘れてた。」

 

 再びゾンビを蹴散らした。

 

◆◇◆

 

 

「いい加減にしろォ!!どんだけ歩かせるつもりだ!!」

 

 

 都度四回。『ユウ』は逆戻りさせられていた。故にそう言ってぶち切れながらクルガンに斬りかかる。

 

「———。」

 

 当然、ゾンビであるクルガンは応えてなどくれない。しかしせっかく人がいるのだ。話したくなるのが人というもの。話してくれないのなら、一方的に話しかけるのみ。

 

「お前に殺されるたびにあんの腐ったくっさいゾンビども殺さなきゃいけないんだッ、ぞッ、っと!」

 

 斬って、斬って、斬って、斬り合って。

 

 現在、『ユウ』はその手に普通の剣を持って『英雄』と斬り合っていた。初めの二回で気づいたのだ。——この『英雄』に権能は当たらない。

 

 否、当たったところで弱すぎて大したダメージにならないのだ。傷はつけられるがゾンビに傷をつけたところで、といったもの。

 

 故に騎士風のゾンビから手に入れた直剣を頂き『八つ腕』のクルガンと、『英雄』と斬り合っているのだ。

 

「オラオラオラ、オラララララララッ!!!!」

 

 オラオラ言いながら剣を振るう。振って振って振るいまくる。そうして——。

 

「ぐはッ!」

 

 凄まじい勢いで壁に衝突する。凄まじい一太刀で吹っ飛ばされた。圧倒的な力の差、技量の差。正直勝ち目などない。

 

 こちとら下級騎士レベルなのだ。それも本業は風魔法。なのにそれも使えやしない。まったくもって憂鬱だ。

 

「——痛ったいなぁ…」 

 

 それでも斬り合えているのは『権能』のおかげ。見えざる力が鎧のように『ユウ』の身体を覆ってその身を斬撃から守っているのだ。故に一撃で切り殺されることはない。

 

 ことはない、が。

 

「がっ」「ぐへっ」「がはっ」「うぶ」「おえっ」「だはっ」

 

 衝撃は通る。故にダメージも通る。一撃で殺されるよりも正味辛い。

 

 ——でも。

 

「あはっ、——楽しいからッイイッ!!」

 

 それでも笑って挑みかかる。それでも全力で踏み込む。

 

 思うがままに暴力を振るう。その快感に身を任せる。

 

「———。」

 

 そんな『ユウ』を何度も、何度も、何度も、斬り飛ばすクルガン。

 

 ——それはまるで剣の指南のようで。

 

 そうして延々と切り結ぶ。楽しくて楽しくて仕方がない。

 

 身体はぼろぼろ、血が滲む。骨は折れ、関節はねじ曲がり、満身創痍。

 

 ——痛い。痛いっ痛いっ!痛いっ!!!

 

 しかしその顔に浮かぶのは笑顔。

 

 ——ああ。

 

「オレは今、生きているッ!!!」

 

「———。」

 

 もはや立派な狂人である。

 

 全力、全身全霊、全開の一太刀を繰り出す。繰り返す。斬って、払われて、斬って、吹き飛ばされて。

 

 そうして。

 

 

 ——早くっ速くッ疾くッ!

 

 ——もっと——ッ——もっとッ!!!

 

 

 そう言ってまた剣を構える。その感情の高ぶりを表すようにその手に握られた剣が、——鳴動する。『ユウ』は剣を上段に構え、——振り下ろした。

 

 

 ——斬ッ!!!!!

 

 

 その我武者羅な一撃は、——『英雄』を切り割いた。

 

 

「……ぁ?」

 

 

 自分でも信じられない。今まで弾かれ続けた一振りが、今回は振り切れた。あまりの驚きに暫し呆然とするも、『ユウ』はあることに気づいた。

 

 ——振り下ろした剣が紫紺の輝きを放っている。

 

「なんだこれ…。いや、それより…」

 

 振り向けば、——首筋から真っ二つに切り割かれた『英雄』の姿。その巨躯はゆっくりと前面に倒れた。

 

「———。」

 

「おいおい。おいおいおい。なに倒れてんだよ。もっと斬り合おうぜ!?」

 

 楽しかった。楽しかった。本っ当に楽しかった。

 

 全力で、本気で、馬鹿みたいに、同じことを繰り返して。でもそれが、今まで感じてきた何よりも、楽しかった。

 

 故に、悲しい。楽しい時間が終わってしまったのが哀しい。

 

「———。」

 

「………。」 

 

 語り掛けても所詮木偶の坊、答えてくれやしない。楽しんでいたのは『ユウ』だけだったのだ。

 

 

 

 否。

 

 

 

「……若の力を…継し者よ…」

 

 最後の最後に、残ったの力を振り絞って男は語る。

 

「その力に飲まれるな…」

 

「若と同じ道を辿るでない…」

 

「その先にあるのは…——『破滅』だ」

 

 語る語る『英雄』は語る。薫陶を、教えを、忠告を。どうしてそんなことを言ったのか。武の『英雄』ともあろうものが、何故。何を言葉で語ろうというのか。

 

 

「……お主との斬り合い……昔の若を見ているようで……悪く……なかった……。……感謝、する…………。」

 

 

 ——楽しんでいたのは『ユウ』だけではなかった。

 

 『英雄』と言えど人。懐古の念に手が鈍ったのかもしれない。最後にそう言い残して、『英雄』は、クルガンは灰となり、逝った。

 

 

「………。」

 

 

 その最後に、『ユウ』は何を言ったらいいのか、どうしたら良いのか分からなかった。

 

 残るのは虚無感、喪失感。ああやっぱり、憂、鬱…。

 

 ………。

 

 

◆◇◆

 

 

 ぐうぅぅ~~~~~~~。

 

 

「……腹減ったぁ~」

 

 クルガンを下したものの満身創痍な『ユウ』。その足は、その手は、血に塗れている。先ほどまでの陽気さは失せ、今はまさしく憂鬱といった風貌をしている『ユウ』。

 

 極度の疲労、飢餓、飢渇、それらが『ユウ』の精神を侵している。

 

「……喉乾いたぁ~」 

 

 忘れていた飢えと渇きを思い出した。失った血を作る為、壊れた身体を再生する為、身体が肉を欲しているのだ。しかし周りに食料などありはせず、これでは満足に戦えない。

 

「……血が足りない」

 

 貧血。どうせまた『死に戻り』するのだろうと無闇矢鱈に攻撃した挙句血を流しすぎた。

 

「……怠い…かったるい…しんどい…疲れた……ねっむ、い………——あ゛ッ!」

 

 ——あ、やばっ。

 

 ドスン、とすっころんだ。限界が来たのだ。酩酊状態のように不安定だった足取りはついには覚束なくなり『ユウ』はその場に倒れてしまった。

 

 ——眠い……。

 

 襲い来る睡魔。心身共に疲労しきった『ユウ』に抗えるものではない。もういっそこのままここで眠ってしまおうか、なんて思考に陥る。

 

 

『■■シロ!』

 

 ふと、何かの声が聞こえた。

 

『■ケ■レロ!』

 

 それは囁き。

 

『■ボセ!』

 

 ——悪夢の誘い。不吉の子守歌。

 

 その声に誘われるように、——『ユウ』は悪夢に落ちた。

 

 

◆◇◆

 

 

「——愉快痛快!」

 

 目が覚めた。

 

「気分爽快ァ~~ィッ!!!」

 

 どれくらい寝たのかわからない。しかし傷だらけだった肉体は回復しきり疲労や飢餓、飢渇も改善した。寝る子は育つのだ。

 

 夢を見た気もするが、そんなものは起きたら忘れるもの。どうでもいいものだ。

 

「——さぁ!さぁさぁさぁさぁさぁさぁ!!!さァ—ッ!」

 

 準備は万端!どうにかなるさ!

 

 こんなところはさっさと抜け出して美味い飯を食っぱらおう。自由に生きるのだ。行きたいところへ行って

、会いたい人に会って、なりたい自分になるのだ。

 

 それを邪魔立てすることは誰にもさせない。妨げる全てを穿ち、降りかかる全てを妨げる。

 

「——いくか」

 

 

 歩いて歩いて歩き続けるのだ。その命尽きるまで。

 

 

◆◇◆

 

 

 再び広い部屋に出た。

 

 

「——やぁ。待ってたよ」

 

 

 俯いたままここまで来た『ユウ』はその言葉で正面を向く。そこにいたのは魔女スピンクス。こちらに振り向くことなく瞳を閉じ杖を構えている。そして部屋の中心には巨大な魔法陣、そしてそこに、——フェリスが倒れていた。

 

「………。」

 

 しかし『ユウ』は反応を示さない。

 

「どうしたのかな?随分と疲労しているように見える。もしかしてゾンビの集団と『英雄』はお気に召さなかったかな?」

 

「………。」

 

「無視はひどいなぁ。これでもワタシは女の子なんだけどね」

 

「………。」

 

「——覚醒、したんだね?」

 

「——覚醒?んな大層なもんじゃあない。ただ、——目が覚めただけさ」

 

「——ああ、ああっああッ!ついにッ!ついにワタシの悲願がッ!」

 

「………。」

 

 『ユウ』に目もくれず魔女は一人勝手に話を進める。

 

「あぁ……やはり君は希望だった。君こそがワタシの悲願を叶えてくれる大切な存在(ピース)。さぁ、一緒に行こう。『ナナホシ・ユウ』」

 

 その名を呼ぶ。それは、——『契約』、そのトリガー。

 

「『こちらに来たまえ』」

 

 その言葉を受けて『ユウ』突き動かされるように、魔女へ向かって歩き始めた。

 

 歩いて、歩いて、歩いて。

 

 その真正面にて止まり、膝をつく。

 

 

 そうして、その魔女のクソったれに掌を向けた。

 

 

「———ッ!」

 

「……——死に絶えろ」

 

 小さな声、しかしそこには確かな殺意が込められていた。咄嗟にスピンクスが横へと飛ぶ。瞬間、見えざる狂気が掌の先を穿つ。

 

「…君は…」

 

「——あはっ。びっくりした?」

 

「…何故だ。『契約』は…」

 

「あぁ……『ナナホシ・ユウ』、だったっけ?ッアハハハハ」

 

「何を…」

 

 

「——オレは『ユウ』。ただの『ユウ』さ。それ以外の何者でもないッ!!」

 

 

「なんだって……?まさか、思い込みで世界を欺いたとでも言うのか。それとも君はまさか魔女の………。まぁいい。やることは変わらない。——君を殺して。『憂鬱』を手に入れる。そうしてあの女を——ッ!」

 

「あっそ。——知るか!」 

 

 

 戦いが始まった。——否、戦いになどなりはしない。

 

 

 『ユウ』がその手を握りしめれば、不可視の得物がスピンクスの首を絞めつける。

 

「んぐっ」

 

 ——これでもう詠唱はできない。

 

 単純な魔術師殺しだ。しかし流石は魔女。流石に魔女、首を絞められ呼吸も集中もままならずともその状態ですら強大な魔法を生み出す。

 

 強大な火球、大水の激流、尖鋭な氷杭、鋭利な風刃、数多の岩塊。それらが凄まじい速度で『ユウ』を襲う。

 

 それでも——。

 

 『ユウ』がもう一方の手をそちらに翳せば、——見えざる障壁が一切の攻撃を通さない。それが『憂鬱』の力。

 

「——死ね」

 

 より一層首を絞める力を強める『ユウ』だったが——。

 

 ガギン。金属の衝突する音が響いた。不可視の刃。否、それは反応することすら許さぬほど美しくも鋭い銀線だった。

 

「がは—ッ」

 

 ドガァ――ンッ!!

 

 再び壁に叩きつけられる『ユウ』。

 

「…なんだってんだ……——はぁ…やっぱりなぁ…」

 

 その言葉は不安の確信。その視線の先には暗い暗い()()が揺れていた。

 

 

「——『剣聖』…テレシア・ヴァン・アストレア」

 

 

「げほごほ……ああ、危ない危ない。流石に一筋縄ではいかないな……」

 

「———。」

 

 状況は最悪。敵は『剣聖』に『魔女』。そして、傍らには倒れたままの少女。

 

 ——ああ、——憂鬱だ。

 

 『ユウ』の纏う気配が増した。

 

 ならばと、クルガンを斬った時のように力を剣に纏わせようとした『ユウ』だったが、そんな隙だらけな状態を見逃してくれる相手ではない。集中しようとする『ユウ』に対して『剣聖』はその剣を振るう。

 

 『剣聖』とも斬り合いが始まる。しかし——。

 

「…どうやらまだその力に不慣れなようだね。まぁ、覚醒したばかりの君が『あの人』のように使いこなせるはずもないわけだが、いささか拍子抜けだな。完璧な攻防を併せ持つその力を昔は甚く恐れていたものだけれど……君の力は、その程度なのかな?」

 

「………。」

 

 何も言い返すことはない。単なる事実だ。この力は強力無比だが、『ユウ』のスペックを上げるものではない。どれだけ強力な武器であろうと素人には使いこなせない。

 

 先のクルガンとの戦いでは相性が良かっただけ。相手が剛の剣、つまり脳筋であったからごり押しで勝てただけだ。それに対して今目の前にいる相手は『剣聖』。剣技を極めた者。せいぜい下級騎士を名乗れる程度の経験と技術で勝てるわけもなし。

 

 故に。

 

「——詰み、だな」

 

 それは諦めの言葉だった。どうしようもない。どうにもならない。——今回は。

 

 やることはクルガン戦と変わらない。当たって砕けろ、だ。

 何度も、何度も、何度でも。超えられるまで。

 積んで、積んで、積み重ねるのだ。罪を。力を。経験を。

 

 だから、今回は諦め——。

 

 

 ジ——。

 

 ジジジ———。

 

 ジジジジジジジ————。

 

 

 ノイズが——。

 

『ダ■■!』

『■■だ!』

『■メ■!』

 

「あ゛?」

 

 『ユウ』の脳に頭痛が走る。声が走る。

 

『■ケないト…』

『■わナイと…』

『■うんダ…!』

 

『——■が!』

『——フ■■スをッ!!!』

 

「あそう。——もう目が覚めちゃったってわけ」

 

 独り納得するユウ。しかしこんな隙を晒してしまえば——。

 

 ——美しい銀線が『ユウ』の首筋に迫っていた。

 

「——オレはお役御免ってか?」

 

 ——ああ全く、——『傲慢』、だな……。

 

 『ユウ』はその瞳を閉じ、そして——。

 

 ——ユウの首が跳んだ。

 

 

 

 

 

 首は血を撒き散らしながら部屋の中央へ飛んでいく。頭は重力のままにその子の前に落ちる。首はゆっくりと転がり、その子に顔を向ける。その目はまだ生きていた。身体と泣き別れしたにも関わらず、未だ意識を保っている。とんでもない生命力。

 

 ——僕が、必ず——。

 

 その瞳で彼女を見る。涙は出ない。だが心を突き動かす何かがある。失いたくない何かが彼の意志を固めさせる。——決意するのだ。

 

 

 

 ——君を救ける——。

 

 

 

◆◇◆

 

 






 ——『傲慢』が目を覚ます。
 
 ※メイド服を着た猫耳女ゾンビ。死にゆく間際、意識を取り戻した彼女は願った。目を合わせ、確信した。故にその瞳に慈愛と、そして慈悲を込めた。最後は介錯と希望に感謝を述べて、誰かの母親は逝った。

 
 『エゴ』
 ⇒精神分析学や哲学の分野においては『自我』をさし、倫理学においては『利己』をさす。エゴイズム(利己主義)の語源でもある。
 人が自己同一性(アイデンティティ)を認識する領域であるとされる。

 wikipediaより



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『セルフトーク』


 自分と会話したくなイ? 八千


 

◆◇◆

 

 

「ハッ」

 

 

 ユウは目を覚ました。そこは廊下の途中、空腹で倒れた場所。セーブポイントは更新されていた。

 

 ユウは覚えていた。迫り来るゾンビを叩き潰したこと。クルガンと戦った時の事。まるで夢でも見ているようだった。それは自分であって自分ではなく、狂気的で、開放的で、破滅的な自分。もう一人の自分。——いいや。

 

 

「あんなのが、僕であるはずがない。……あれは夢、悪い夢だ」

 

 

 ユウは認めない。人の形をしたものに躊躇いなく暴力を振るって、剣を振るって、叩き潰して、殺して。

 

 

「うぶっ」

 

 

 思い出しただけで吐き気がする。ゾンビの腐臭。人の死臭。どうして殺した。なんで殺した。彼女はまだ生きていた。あの子を助けてと彼女は言った。あの人は——。

 

 

「——母親。フェリスの母親だ」

 

 

 それは確信。それは絶望。殺してしまった。フェリスの母親を殺した。

 

 

「僕はっ……僕、は……っ」

 

 

『——お前は悪くない』

 

 

「はっ?誰だッ!?」

 

 

 バッ、と振り向くも誰もいない。

 

 

『おいおい。何処見てんだよ』

 

「は……?どこから……」

 

 

『お前の中だよ。わかってんだろ?』

 

「……おまえ、は」

 

 

『なに驚いてるんだよ。死んだとでも思ったか?それともまさか本当に夢だとでも思ってたのか?』

 

「…っお前は、なんなんだ」

 

 

『……はぁ。何度も言わせるな。——オレはお前さ』

 

「お前が、僕……?ふざけたことを言うなッ!!」

 

 

『これっぽっちもふざけちゃいない』

 

「じゃあ……じゃあなんで——なんで殺した」

 

 

『誰を?』

 

「人をッ!」

 

 

『人?ヒト?誰が、オレが?ああ。まさかゾンビ女のこと言ってんのか?』

 

「そうだよッ!あの人はっあの人はッ」

 

 

『フェリスの母親かもしれないって?あはっだったら何だってんだ?』

 

「お前ッ!!」

 

 

『おいおい。あれはもうダメだってわかるだろ。寄生虫頭ン中入ってんだぞ?なにより攻撃しに来たんだ。セートー防衛、だろ?』

 

「あの人は襲ってきていなかった。それにあの人は操られていただけだ。それにっ——それに、もしかしたら助けられたかもしれない!」

 

『……あのな、あの女は最後にありがとうって言ってただろ?感謝したんだ。本望だっただろうさ』

 

 

「でも、でもっフェリスが……」

 

『——ハッ!お前が怒ってるのは結局それだ。オレが人殺しどうこうじゃない。お前はあの女ゾンビ以外のゾンビを気にしちゃあいない。……いいや?お前は女ゾンビのことすらホントはどーでもいいんだよ』

 

「……何を」

 

 

『ゾンビ共の死も、クルガンの死もお前は何とも思っちゃいない。お前はただ自分は悪くないって、悪いのはオレだって、そう思い込みたいだけなのさ。責任転嫁したいだけだ。罪悪感を誤魔化したいだけなのさ』

 

「——違うッ!!」

 

 

『ああそうだな。違ったな?お前はとどのつまり、——フェリスに嫌われたくないだけだものな。フェリスに、自分に関係ない奴は認識すらしていない。すべてモブ。意識の片隅にもありゃあしない』

 

「——っ」

 

 

『それにそもそも。——オレたちはすでにフェリスの父親を殺してるじゃないか』

 

「——ッ!……あれは……あれは仕方なかった、仕方なかったんだ……」

 

 

 ユウは覚えている。父親を殺した時の——フェリスの拒絶を。その時の心の痛みを。

 

 クルシュに拒絶された時と同じように、フェリスにも拒絶されることをユウは何よりも恐れているのだ。

 

 

『あは♪そうだよな。仕方ないよな?襲ってきたもんな?フェリスが危なかったものな?ああ、お前は悪くないよ。始めっから言ってるだろ?』

 

「………」

 

 

『な?——オレはお前の味方だ。別にお前をどうこうしようなんざ思ってない。ただここを抜け出して自由になろうってだけだ。だから、な?——オレに身体を預けろよ』

 

「……僕は……僕は……僕が……フェリスを……」

 

 

 こいつに身体を委ねて、自分はただ見ている。自分は何もしなくてもいい。それは甘い誘惑だ。辛いことは全部こいつにやらせて、自分はただ待っていればいいのだから。

 

 ——それで、いいのかもしれない。

 

 そんな思考が過る。こいつが助けても、僕が助けても、フェリスからすれば変わりはなく、結果は変わらない。結果は変わらないのなら。

 

 ——それなら、任せてしまえば。 

 

 甘言につられそうになるユウ。

 

 しかし、ユウは思い出す。ユウの目が覚めたきっかけ。絶対に受け入れられないその言葉を。

 

 こいつは言った。こいつは——。

 

 

「そう……そうだ……ッお前ッ!——フェリスを見捨てようとしたなッ!!」

 

『………』

 

 

「お前は、自分が抜け出すことしか考えていなかった!知ってるんだからな。僕にも意識があったんだ。……お前がフェリスを助けないなら。お前に、フェリスを助けるつもりがないのなら。お前は——敵だ」

 

 

『……ハァーァ。……あぁーあのな?よく聞けよ?——オレが助けようと。無視しようと……』

 

 

 ——フェリスはクルシュに救われる。

 

 

「———。」

 

 

『だーから、オレらが助ける必要はこれっぽっちもありゃしない』

 

 

 それは、ユウが目をそらしていた事実だった。

 

 

『オレらはここを抜け出して自由に生きる。フェリスはクルシュに救われて『原作』通りに生きる。それの何が。どこが悪いってんだ?』

 

「——っ」

 

『オレたちはフェリスを助けるなんて考えずに。オレが何度も何度も死んで死んで繰り返して、『剣聖』と『魔女』を討つ。そうすれば後々助けに来るクルシュ達を楽をさせてやれる。それでいいじゃないか』

 

 

 本当にフェリスに救われて欲しいと願うなら、手を引けと。こいつはそう言っているのだ。それが最善だと、そう言っているのだ。

 

 それは……それは、事実。こいつは事実しか言っていない。

 

 

 本来、フェリスはクルシュに救われてクルシュと、そしてフーリエ王子と共に過ごして、そうして初めて“あの”フェリスになるのだ。それがあるべき姿であり、あるべき世界なのだ。

 

 今、ここで僕がフェリスを救い出しても、もうあの子にはならない。原作通りにはならない。

 

 それは事実。それが現実。

 

 僕がフェリスを救うのは間違っている。

 

 それは真実。

 

 だから、こいつに身体を預けるのが正しい?

 

 

 ——本当に?

 

 ——いいや。いいや違う。そうじゃない。

 

 

「……お前の言ってることは、矛盾してる」

 

『………』

 

 

「……『剣聖』と『魔女』、どちらにも勝てるまで繰り返すのなら……そうして本当に倒せるのなら……——フェリスと一緒にここを出ればいい」

 

『………』

 

 

「それなのに。それをしないってことは、つまり。……お前は——フェリスを見殺しにするってことだ。お前はフェリスを見殺しにして。見捨てて。お前だけが生き残るって、お前はそう言ってるんだ。フェリスは助からない」

 

『……あっそ。んじゃ壁でもぶち抜いて逃げよう。道がなければ作り出せってな。そうすればフェリスが死ぬこともないだろ。ほら、これで——問題ないだろ?』

 

 

「……フェリスを見捨てるんだな」

 

『……見捨てるんじゃあない。クルシュに任せるんだよ。信頼だ』

 

「……だめだ。ダメだ。駄目だ。——フェリスを見捨てるなんてできるわけない」

 

 

『ッだから!!フェリスはクルシュに救われるって言ってんだろうが!!』

 

「今苦しんでるフェリスを見捨てるなんてできないッ!」

 

『あ゛あ!?じゃあどうするってんだ!?勘違いしてるんじゃあねぇだろうな!?——お前には何の力もねぇんだぞ!!』

 

「——ッ!」

 

 

『お前はオレに頼るしかねぇんだよ!!!』

 

 

 力がない。それは真実だった。ユウには力がない。自我もあやふやなユウに『傲慢』は応えてくれない。

 

 ユウには特別な力がない。否、それどころか身体は子供に逆戻り、これではまともに剣も振るえない。それでも抱きしめられる距離にフェリスがいるのなら、妨げる檻がないのなら。

 

 ユウには勇気がない。人を殺す勇気がない。それを勇気だなんて思いたくもない。それでも覚悟はあるから。

 

 ユウがフェリスを助ける必要はない。それは無為で無意味。世界にとって何の意味もない行動。それでも。

 

 きっと何度も死ぬだろう。何度も、何度も、何度も。死んで死んで死んで、『死』を繰り返すだろう。僕は耐えられるだろうか。でも。

 

 その恐怖を思えば思うほど、——彼女の笑顔が見たいと思うから。だから。

 

 例えどれだけ自分が傷つこうと、壊れようと。例えそれが間違っていようと、どう思われようと。例えこれが、——最後の命だとしても。

 

 

「………それでも」

 

 

 

『あ?』

 

 

「……それでも…それでも…それでも——ッ」

 

『あ゛!?』

 

 

「——それでもッ!!助けたい!救いたい!フェリスを!……フェリスを助けるのは……救うのは……僕でありたいっお前でもクルシュでもない。——僕がフェリスを救いたい!!」

 

 

『——傲慢だな』

 

 

「……お前には頼らない。フェリスは僕が助ける」

 

『……後悔するぞ』

 

「——黙れ。もうお前の言うことなんか聞かない。お前は敵だ」

 

『……あっそ。いいさ、どうぞご自由に。すぐにわかるだろ。——お前に『剣聖』は倒せない』

 

「………」

 

 

『んじゃ、気が変わったら呼べよ。オレが全部何とかしてやるからさっ………———』

 

 

 

 それっきり、内なる声は聞こえなくなった。

 

 残ったのは熱。心臓を高鳴らせ、決意を滾らせる、胸を中心に募る熱。

 

 その熱に手を当てて確かめ、もう一方の手を握りしめる。

 

 そうして改めて決意を口にし、誓うのだ。

 

 

「僕が必ず——君を救ってみせる」 

 

 

 ユウは待ち受ける困難に歩を進めた。

 

 

 

◆◇◆

 

 

 ——痛い。痛い。痛い。

 

 なんで。『傲慢』は確かに戻ってきたのに。痛くて痛くて仕方がない。

 

 辛い。もう嫌だ。もう痛いのは嫌だ。首が斬られてもすぐには死ねないんだ。痛くて痛くて仕方ないんだ。吸っても吸っても呼吸できない感覚が気持ち悪くて苦しくて頭がどうにかなってしまいそうで、おかしくなりそうなのに思考だけが加速し続けて。

 

 ——怖い。怖い。怖い。

 

 怖いんだ。死ねば死ぬほど見えてくる無の光景が。魂が濾過される感覚が。聞えてくる死者の嘆きが。怖くて、怖くて、いつか怖くなくなってしまうことが、怖くて仕方がないんだ。

 

 でも、それでも、それなのに、そんな目にあっても、それでも君と、二度と話せなくなることの方が、怖いんだ。君の声が聞けない事の方が辛いんだ。君を忘れることの方が、どんな辛苦よりもありとあらゆる痛みよりも億万回、死ぬよりも、遥かに怖くて、嫌なんだ。

 

 ——嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 

 諦められない。止まれない。痛くても、苦しくても、死んでも、『僕』の心が、『僕』の魂が、『僕』という人格が壊れて、忘れられて、消えてなくなろうと。例えそれに何の意味も、何の価値も、一切の結果も、伴わなかったとしても。やめない。諦めない。

 

 

 僕は間違っているのだろうか。僕がしたことは、ただフェリスに希望をちらつかせて、そうしてそれをまざまざと奪い取ることだったのか。僕がフェリスに与えられた温もりは間違いだったのか。僕の行動は余計なお世話だったのか。僕がこの世界に来たのは、過ちだったのか。

 

 助けるのは間違い。救おうなんて烏滸がましい。異物の分際で、無関係の分際で、『リゼロ』という完成された世界に関わるのは、罪だったのだろうか。僕は死ぬべきだったのだろうか。関わるべきじゃなかったのだろうか。

 

 ——どうでもいい。

 

 世界とか、元の歴史とか、異物だとか間違いだとか、全部全部、どうでもいいことだ。オレの存在自体が間違いだというのなら、オレを連れてきたやつに文句を言え。オレは悪くない。悪いのは世界だ。

 

 オレは間違っていない。オレはただ幸せに、自由に、生きる為に全力を尽くすだけだ。

 

 誰を助けることも誰も救うこともしない。美味いもんを食って好きなだけ寝て思う存分強くなり、オレを邪魔し、煩わし、不快にさせる奴を、全員、殺してやるのだ。

 

 殺し、侵し、壊す。

 

 

 オレを煩わすというのなら、——世界だろうと赦さない。

 

 

◆◇◆

 

 

「——フェリスッ!!」

 

 

 蟻の巣のように広く何処までも続く地下牢獄に、あまりに似合わぬ少年の、あまりに必死の叫びが響いた。

 

 ユウは再びそこへ辿り着いた。変わらず存在する謎の魔法陣に呪文を唱えているスピンクス。

 

 ユウはスピンクスが何かを言う前にフェリスに駆け寄った。

 

「フェリスっ!フェリスっ!起きて、起きてッ!お願いだから目を覚まして!」

 

 その小さな肩を支えて、少し揺らす。しかしフェリスが目を覚ますことはない。

 

「っ」

 

 彼女の声を聴きたいという気持ちに駆られ焦燥が募る。彼女は無事なのか。この魔法陣は何なのか。

 

 焦り焦り不安が募る。

 

 そこへ追い打つように魔女の声がかかる。

 

「——どうしたんだい?——そんなに憂い気な顔をして」

 

 どの口が言うのか。しかしその言葉がユウに答えを齎す。

 

「フェリスに何をした」

 

「ふむ?」

 

「——ッ言えッ!!」

 

 こちらの声などまるで聞こえていないかのように、じっとこちらを観察して質問に答えないスピンクス。それが余計にユウの余裕を奪い、ユウはその手に抜き身の剣を握りしめ振るった。

 

 ブンっ。

 

「?」

 

 ぶんっぶんっぶんっ。

 

 まるで蜂が飛んでいるかのような、ひ弱で、腰の引けた、雑魚の剣術。スピンクスは呪文を唱えることもなく、軽くステップを踏んで避けながら、なおも観察を続ける。観察、否、待っていた。スピンクスはユウがそれを使うのを待ち構えていた。

 しかしユウがそれを使う様子が一向に見られない。スピンクスは脳裏に疑問符を浮かべ、その顔は訝し気になる。

 

「くっ!このッ!」

 

「………」

 

 本人は必死で、至って真剣な様子だが、その様はあまりに滑稽であった。あまりに稚拙。あまりに幼稚。このまま振り続けたなら滑稽を通り越していっそ哀れになることだろう。

 

 故に無駄な時間を削ぐためにスピンクスが軽く息を吹く。

 

「ッ!ぐは—ッ」

 

 するとそこから強風が発生し切り殺さんと剣を振り上げるユウを容易く吹き飛ばし転倒させる。

 

「くッこんの——」

 

 

「——君は一体何をしているんだい?」

 

 

 まだ続けようとするユウに、スピンクスはどういうつもりかと問う。それはスピンクスからすれば当然の疑問。スピンクスはユウがゾンビと『英雄』を『ソレ』によって倒したことを知っている。故にユウがその力を、『憂鬱』を使うのを待っていたのだ。

 

 持っているのなら使うはずだ。それは強力無比な力。この状況で使わないはずがない。——何故。

 

「——覚醒、したんだろう?何故『ソレ』を使わない?それともまさか騙し討ちにでも使おうというのかな?そうであればそれは無駄な行いだ。ワタシは見ていたのだからね。だから存分に——」

 

「——使わない」

 

「………なんだって?」

 

「『あいつ』には頼らないッ」

 

「………」

 

「僕はッ僕の力でッフェリスを助けるッ!」

 

 振る、振る、剣を振る。避けられても避けられても振り続ける。力がなくても、人を救えるのだと証明する。フェリスを救えるのは自分なのだと証明する。

 

 あまりにも、あまりにも幼稚な思想。

 

「………」

 

 必死に、その目を輝かせて、がむしゃらに剣を振るユウ。

 

 ——今は無駄かもしれない。死ぬだけかもしれない。でもっ!何度も、何度も、何度でも繰り返せば、きっといつかはっ!

 

 ——届く。そう信じて。そう信じる。そう信じたいのだ。

 

 

 ——愚か。

 

 

 その奇怪な口述に、その浅慮な愚行に、スピンクスはその瞳に落胆と失望を携えた。

 

 

「——『跪け』」

 

 

 もういいとばかりに一言。絶対者の如く命じるのだ。

 

「ハッ!『契約』が効かないのは分かって——ガッ!!?」

 

 

 嗚呼、滑稽なり。

 

 

 ユウはその一言に逆らえやしないのだ。ユウがユウである限り、その命令は絶対であり抗えぬ運命なのだから。

 

 ——な、んで。

 

 ユウには理解できないだろう。『あいつ』にできたのだから自分にも効かないのだと思ったのだろう。勘違いしてしまったのだろう。哀れなり。愚かな子。先を見据えれぬ馬鹿の申し子。

 

「……はぁ。君ならばと、そう思ったけれど。やはりそう都合よくはいかない、か」 

 

「ぐっなんでッ!」

 

 一人黄昏る魔女に対して強制的に跪かされ、何とか抜け出そうとするユウ。しかし事はどうにもならない。

 

「まぁいい。君はもう十分に役に立ってくれた。『傲慢』という可能性を齎し、フェリスに良い影響を与えてくれた。これ以上を望むのは『強欲』というものだろう」

 

 何を言っているのか。ユウは理解しない、出来ない。なんで動けない。なんで。なんで。なんで。

 

 そんな無意味な問い、否、駄々を捏ね続けるのだ。

 

「君が『傲慢』を失っていないことは分かった。君が覚醒に至らなかったことを誹りはしない。君のソレは次なるものに受け継がせ、いずれ来るその時を待とう。君を解放してあげよう。——来たまえ」

 

 その言葉と共に現れるは『死神』。死んでもなお現世に留まる亡霊を冥府に導く案内人。あるいは愚かなる罪人に裁きを執行する死の天使か。

 

 ユウを殺す死神は美しい赤い髪をして、薄暗い碧眼をもってユウではない何処かを見つめていた。

 

「ッ」 

 

 まずい、そう思うも、どうしようもなく。近づいてくる足音は死へのカウントダウン。心臓は爆音を鳴らし恐怖を誤魔化そうとするもその甲斐なく。動けない、逃げられない、眼を逸らすことを許されない鮮明な『死』がユウの心に恐怖と恐慌を齎す。

 

 ——怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 

 視野は狭まり、思考は鈍化し、身体は動かず、声も出ず、息もできず、ただ見ていることしかできない凡愚。

 

 死神が剣を振り上げてなお、かしずく姿勢を変えられず、ユウはまるで赦しを請う罪人のようにその場で首を垂れることしかできない。

 

 ——死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死、『死』。

 

 まだ斬られてもいないのに、まだ何もされてないのに、もはや死にそうな程ユウの顔は蒼白で絶望に満ちていて、悲観に暮れている。

 もはや周囲の音は聞こえず、心臓の音も聞こえず、鼻も口も呼吸機能を失い、——ついにはその瞳を閉じた。

 

 

 

『——情けねぇ』

 

 内なる声が響く。何も言い返せない。

 

『あんだけ啖呵を切っておいてたったの一回でこれかよ。ああ情けなさ過ぎて反吐が出そうだ』

 

 その通りだ。所詮口先だけの勇気だったのだ。

 

『もうすぐだな。そうしたらお前は目を覚ましてすぐにオレに縋るだろう。痛いのは嫌だもんな。怖くて仕方がないもんな。あぁお前は悪くないよ。辛ェことは全部オレに任せればいいさ』

 

 もう間もなく振り下ろされる人生の幕に。齎される終わりに。ユウは全ての感覚を遮断して内に引き籠ってその声を聴く。

 

『あーあ。こんなんがオレと同じ体に入ってるなんて恥ずかしくて死にたくなるな。いっそ自害してみたらどうだ?』

 

 垂れ流される罵倒が、無理無体な物言いが、しかしその恐怖を誤魔化してくれる。その自分を詰り誹り嘲る声に救われる自分がいた。

 

 今はその歯に衣着せぬ言葉に感謝すら抱いている。認めるしかない。事実だった。これは無理だ。一度やればわかる。初めからどうしようもなかった。力が足りないとかじゃない。次元が違うのだ。僕のような一般人の適う相手ではない。例え、何千何万と繰り返そうと彼女には勝てないだろう。

 

 

『………』

 

 

 ユウは学んだ。

 

 もうすぐ、僕は死ぬ。終わりを迎える。

 

 戻ったなら、こいつの言う通りにしよう。こいつに身体を渡して逃げよう。せめてフェリスを危険に晒さない、それが僕にできる最善なのだ。

 

 ユウは決断した。だから……。

 

 

『……——フェリスが哀れでならねぇな』

 

 

 『ユウ』は呟くように言った。

 

 

「」

 

 

 その呟きをユウはいやに鮮明に聞き取った。

 

 

 気づいてしまった。

 

 

 

「あ」 

 

 

 

 現実に戻ってきたユウ。

 

 自分の首が今まさに断ち切られ、飛んだところだった。

 

 死に際の加速した思考と空間で、ただ、思った。

 

 

 

 ——フェリス……。

 

 

 

 自然、宙を舞う生首の視線がそちらを向く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ゅ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ぅ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「」

 

 

 音のない世界で。

 時の歪んだ世界で。

 終わりを告げた世界で。

 

 

 その動口を読み取った。

 

 

◆◇◆

 

 





 『動口』
 ⇒造語。口の動きの意。 
 
 ※本来は食べるという意味。
 
 コトバンクより


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『獅子女』

 
 進んだと、見せかけといて、刹那時。 萎える伸える 四二

 


◆◇◆

 

 

「——あっけないな」

 

 

 魔女は呟いた。あまりにあっけなく死ぬ人というか弱い存在に感傷を抱く。例え神の如き力を宿していても、人は人に過ぎず。首を斬れば死ぬ程度の存在でしかない。

 

 どれだけ特別な力を持っていて、どれだけ特異な星の元に生まれついていようと、戦争という無為な政争で無為に死んでいく歩兵たちと何も変わらない。大衆の一人にすぎないのだ。

 

 それを魔女は自らが引き起こした亜人戦争での出来事をもとに考えるのだ。

 

 しかしそんな思考もすぐに冷める。この魔女には衝動はあれど情動はない。魔女は魔女らしく冷酷で冷徹で冷静に物事の行く末を謀るのだ。

 

「さて、『傲慢』の魔女因子は屍兵に引き継がれるのか、否か。また興味深い試みが出来るね」

 

 魔女因子に選ばれたものが死ねば、その因子はその者を殺した者、あるいは世界のどこぞの適性のある者に引き継がれる。無論、その場合すぐにその場から消えうせるわけではなく、一度ゲートを通してオドラグナへ行き、そうしてオドラグナを通じて次なる者に宿るのだ。

 

 ではユウを殺した屍兵、今は亡きゾンビともいえる存在、さらには『剣聖』という存在に受け継がれるのか。中々に興味深い。屍兵に魂はあるのか。そこに星たる力の資格は与えられるのか。

 

 宿らなければそれもまた良き結果。屍兵は所詮からくり人形というだけの事。本物ではない偽物。誰かの遺志を模倣しただけの、何者でもない誰かだということ。

 

 

 ——私と同じ。

 

 

 瞳を閉じ、静かに息をつく。その様は黄昏か、感傷か、どことなく寂しさを孕んだ吐息。

 

 

「……いけない。また益体もないことを」

 

 

 この屋敷に来て、二年。彼が来てからは、たったの一年。スピンクスは魔女エキドナの失敗作として生まれ、かれこれ五十年近く生きている。

 

 言葉にすればたったの三文字。しかしその実、想像もできない時間だ。ユウが絶望した五年という時間の十倍、単純に比べられるものではないにせよ。おおよそ途方もない時間である。

 

 スピンクスは失敗作として生まれたが、しかし確かに記憶を持っていた。そこに想いはなく感情はなく、ただ歴史の教科書のような記憶が、——自分のものではない誰かの記憶があった。

 

 自分は人か、人形か、その是非を知るべく、人を知るべく戦争だって引き起こした。“本物”が戦争を忌み嫌っていることを知っていて尚、スピンクスはそれをした。それほどまでに、——己を知りたかった。

 

 仲間として戦った亜人が死んでいくのを見た。同じ飯を共に食べた味方の死体でもって戦った。仲間を見殺しにし、利用し、時には自らの手で殺し術をかけ生き抜いた。ソレを知らぬままでは死ねなかった。それは仲間よりも何よりも大切なことだった。

 

 しかし結局戦争には破れ、逃げ延びる為、醜い人間に服従を誓うことを余儀なくされた。その人間の下らぬ目的の為下らぬ時間を過ごす羽目になった。それでも研究と思考は止めなかった。新蟲を生み出したのもその時である。

 

 

 ■■■■■■■■■■。    

 

 

 そうして明くる日、自由を得て、今度はこの屋敷へ辿り着いた。

 

 

 この家の主だった男はスピンクスに契約を求めた。『不死王の秘蹟』でもって妻を蘇らせることを、己の命を対価にして。

 

 

 男の家系は先祖から代々『不死王の秘蹟』の術式を受け継いでいた。男は良くも悪くも貴族らしい人間であり、そんな死者を操る術など使うつもりがなかった。しかし、男は妻を亡くし一変する。分け目も振らずその秘術でもって死者蘇生の研究を始めたのだ。

 

 地下牢を利用し、メイドや使用人で少しずつ少しずつ、人体実験を重ねた。それを数年続け、挫折した。男には『秘術』の才能がなかった。できあがるのは呻くだけのゾンビだけ。そう、地下牢でユウを襲ったゾンビの集団はそんな狂人の被害者だったのだ。

 

 挫折した男は思いついた。自分でダメならば、——より適性のある者を生み出せばいいと。そうして、男と猫人のメイドの間に、一人の子が産まれた。

 

 男はその子に『秘術』の適正を授ける為、様々なことをした。『秘術』の適正とはすなわち水属性魔法の適正。水魔法の神髄、それは『優しさ』。より明確に言うのならば無垢な『魂』である。

 

 男は息子を外界から隔離した。秘術以外のすべての情報から遮断し、何も教えず、何も与えず、人工的に無垢な『魂』を生み出そうとしたのだ。

 

 ——そう。そうして生まれたのが、フェリスだった。

 

 非道な実験を行って、息子すらも利用して。何が男をそこまで突き動かしたのか。今となってはわからない。

 

 そうして息子の完成を待つ男の元に、噂を聞き付けたスピンクスがやってきたのである。

 

 

 男はやってきた魔女に契約を縋る。己の命を条件に己の宿願を叶えようとした。しかしそれではスピンクスには何の得もない。スピンクスは断る。そもそも、スピンクスの『不死王の秘蹟』もまた不完全だったのだから。

 

 すると男は言った。——息子の命も捧げる、と。

 

 だからなんだ、それで終わるはずだった。しかし、その子供は特別、否、特異だった。有り得ないほど純一無雑な、穢れなき純白の魂をもつ子供だった。

 

 

 それは非道な悪意から生まれた、無垢な優しさだった。

 

 

 スピンクスはこの子供ならば、そう考え男を殺し、この屋敷に停留した。

 

 それから一年スピンクスは子供と過ごした。子供で実験をした。実験し、実験し、実験し、実験を繰り返した。

 

 スピンクスの目的は完全な蘇生。すなわち己の完成である。失われた大切な何か、言うなれば、——『心』を取り戻すため、非道を続けたのである。

 

 

 しかし■■■■■■■■■■■■。

 

 

 そんな最中に現れたのが『ナナホシ・ユウ』だった。スピンクスは術で共有した表で動いているゾンビの情報から屋敷を監視するユウを見つけ、そうして罠にはめて捕まえた。

 

 『ナナホシ・ユウ』は特殊な人間だった。初めは単に何故ここを見張っていたのか、どこからか情報が漏れたのか聞き出し、その後は人体実験にでも活用するつもりだった。

 

 しかし、彼はその身に『傲慢』の魔女因子を宿していた。類稀なる偶然。ありうべからざる奇跡。そう評せざるを得ない幸運だった。

 

 これ以上ない実験材料。際限なく再生する肉体。壊れぬ精神。その肉、その血、そのどれもが好奇心の中だった。

 

 そうして、彼ならばあるいは『憂鬱』に目覚めるやもしれないと考えた。

 

 スピンクスは知らない。ソレが『傲慢』の内側にあったことを。しかしそれでもなお可能性を感じた。

 

 

 『憂鬱』があれば■■■を殺せる。その謀計をもとに拷問を繰り返し彼の肉体と精神に負荷を掛けさせようとしたのだ。

 

 

 しかし、彼の可能性はそれだけに留まらなかった。彼はフェリックスに、その精神に莫大な変化をもたらした。からくり人形のように無感情に己を殺し生きる為だけに生きていた(フェリックス)を、(ユウ)が変えた。

 

 一年かけても進まなかった実験が彼の到来で急激に進み始めた。彼はまさしくスピンクスの為に生まれて来たかのような存在だった。それはまさしく希望。スピンクスの心に平穏を齎す無二の希望である。

 

 しかし……彼は突然その力を失った。希望は失望へと変わり、スピンクスは用済みになったユウを殺そうとした。それを、——フェリスが止めた。何も持たなかった、何も与えられなかった彼が、彼の為に行動を起こした。——まるで人形に命が宿ったかの如く。

 

 その変化は、その行動は彼の変遷を如実に表していた。その変わりように、スピンクスは興味が湧いた。何が彼を変えたのか。知りたくなった。

 

 

 スピンクスはユウを殺すことをやめ、生かすことを条件に彼に実験に協力するよう命令した。彼はそれを受け入れた。そうして実験を続け、一年が過ぎた頃、彼は■■となり、『■』は遂に完成したのだ。

 

 

 遂に悲願の叶う時が来た。それが今だ。

 

 しかし、興味をなくし地下牢に放置し死んでいたはずの彼が、それを阻みに来た。どういうわけが魔術で強化されていた牢獄を抜け出し、ゾンビを蹴散らし、過去の『英雄』すらも屠りながら迫ってきた。

 

 故に、期待した。彼が、——目覚めたのかと。……しかし、結果はこの有様。意味不明な言葉を遺して無残に死んだ。

 

 

「………」

 

 

 思考に(ふけ)り閉じていた目を開きその亡骸を見るが、何も変わりはない。終わったのだ。もうすぐ魔法陣は完成し、悲願は叶う。

 

 悲願が叶うのだ。嬉しくないはずがない。それ故の過去の追憶だった。嬉しくないはずがない。

 

 しかしどこか憂い気な顔のまま、手持ち無沙汰な魔女は問う。

 

 

「…どうかな?魔女因子が宿った感覚はあるかい?」

 

「………」

 

 

 答えはない。屍兵は言葉を話せない。こちらを見るだけでうんともすんとも言わない。そも聞かずともスピンクスは魔女因子が宿っているかどうかくらいわかる。そして結果は——

 

「宿らない、か。…予想通りだね」

 

 当然の帰結。その高貴で至高で傲慢な力は屍ごときには()()()()。故に。

 

 

「やはりまだ彼の中か。ならば還る前に取り出しておこう、か……?」

 

 

 ユウから『傲慢』を取り出そうと杖を構えたスピンクスは気づいた。そこにあるのは頭を失った無残な死体。そのオドが、その魂が、その赤き輝きが、未だに、——燃え盛んばかりに輝いていることに。

 

 

「これは……」

 

 

 

 

 

『…ぅ』

 

『…ぇぃ』

 

『…ぇぃぅ』

 

 

 

 

 

 どこからか微かに声が聞こえる。それは断絶された頭部から。

 

 

「…ふぇ……ぃ……ぅ」

 

「…うぇ…い…す…」

 

「…ふぇり…す…」

 

 

 声はだんだん力強さを増し、その名を呼ぶごとにそれは強まっていく。しかし言い切ると、一度その声が止む。

 

 

「………」

 

 

 死んだか、そう脳裏をよぎる。しかし——。

 

 

「…フェリス」

 

 

 小さくしかし明確に、ありったけの想いを込めて。

 

 その一言と共に。

 

 ——頭を失った躯体が蠢き始める。からくり糸に引っ張られるように、操られるように、支配されるように。腕を立て、身体を持ち上げ、膝をつく。片足を立て、もう片方の足を立てる。立ち上がり、歩く。歩く。…歩く。

 

 まるでそれしかできないように。まるでそれしか知らないように。…まるで迷子の子供のように。

 

「」

 

 その光景をスピンクスは唖然として見ているしかなかった。

 

 ——あり得ない。

 

 親を探して彷徨う身体は転びながら、バランスを崩しながら、辿り着く。自らの()の元へ。そうしてそれを持ち上げて、乗せる。

 

 すると白煙が昇り、繰り糸が切れたように倒れこんだ。

 

 

「……………かはっ」 

 

 

 そして、呼吸を再開した。

 

 

◆◇◆

 







 頑張っタ
   なのに現実
      一分ちょい
  
          萎える


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『和解』


 和を解いちゃダメじゃないですかぁ。まだまだ若いデスネ。一万


 

◆◇◆

 

 呼ばれた。名前を呼ばれた。それは僕の名前。他の誰でもない僕の、僕だけの名前。他の誰かじゃない僕の名前。呼ばれた。呼ばれた。僕の名前。自分が誰かわからない。過去がない。記憶がない。ぜんぶぜんぶどうでもよくなる呼び声。呼ぶその声。それが名前。それが僕の名前。僕が誰とか誰がどうとか。ぜんぶどうでもいい。全部忘れる。すべて忘れて。ただ、彼女の声に——。

 

◆◇◆

 

 

「げほっごほっ」

 

 

 息を吹き返したユウ。口の中に残る血塊を吐き出し荒く呼吸しながら立ち上がろうとする。

 

 しかし。

 

 

「………」

 

 

 その瞳には光がなかった。呆然としていてどこでもないどこかを見つめている。

 

 そんなユウの脳内に、声が響く。平坦で冷徹でおどろおどろしい声。

 

 

『——生キロ』『——生キロ』『——生キロ』『——生キロ』『——生キロ』『——生キロ』『——生キロ』『——生キロ』『——生キロ』『——生キロ』『——生キロ』『——生キロ』

 

 

 生存本能の呼び声か、それとも別の何かの誘惑か。死の淵から舞い戻ったユウの意識が戻らぬうちに、肉体はその声に従って動き出す。 

 

 

『罪ハ』

 

 

 詠唱が始まった。閉じていたユウの片目だけが開かれる。その瞳には深紅が浮かんでいた。

 

 

『たダ痛ミにヨってのミ、あガナわレる』

 

 

 めちゃくちゃなイントネーションで紡がれた祝詞、否、呪言。朧げな意識の中、胸の中に確かに感じる熱がユウに高揚感を与え、その瞳を熱く滾らせる。

 

 片目だけが深紅に染まるユウの瞳孔。その意は殺意。その意は不赦。

 

 ——アクニンを殺せ。

 

 心の叫び。悪を滅ぼすが正義の味方。ヒロインを助けるのがヒーローの役目。幼稚な正義が牙をむく。

 

 

 途端、崩壊する——ユウの肉体。

 

 

「ぁ」

 

 

 まず初めに足が砕け体勢を崩す。すぐさま地に手をつこうとするもその手もガラス音と共に砕け散る。そのまま達磨になって顎から地に落ち、その衝撃で顎もまた砕け散った。

 

 

「ッッッ!!!」

 

 

 激痛が走る。しかし叫ぼうとした途端、喉が砕け散る。慟哭は大気に至らず、胸中で暴れ狂う。

 

 その強烈な痛みは手足から来るのではなく、脳に、心臓に、魂に直接わからせるかのような痛みだった。

 

 熱い、ではなく痛い。それは苦痛。それは辛苦。それは魂に刻まれる恐怖。

 

 

 わからされる。

 

 

 それは罰。諦めた罰。フェリスを見捨てようとした罰。

 

 ユウの中の罪悪感を徹底的に罪に問う。赦しの痛み。贖うべき罪の重さ。魂の禊。ユウが甘んじて受け入れなければならない報い。

 

 

 しかし、ユウは受け入れない。

 

 

 ——この程度の……。

 

 ——この程度の痛みじゃあ、赦されるはずがない。

 

 

 ユウは認めない。ユウは許さない。この程度では、己を許せない。

 

 その痛みは確かに苦しい。しかしそれだけだ。

 

 

 ユウは知っている。

 

 

 己の魂を締め付けられる痛みを知っている。

 

 己の身体を羽虫に貪られる感覚を知っている。

 

 こんな肉体の一時的な痛みなんかより遥かに辛く苦しい、心の痛みを知っている。

 

 だから。

 

 

「『——罪ハ』——」

 

 

 再び。再生し始めていた肉体が砕ける。

 

 

「罪、は——」

 

 

 三度。再生の力と崩壊が拮抗する。

 

 

「罪は——ッ」

 

 

 何度でも。頭が砕けても、心臓が砕けても、止まらない。それでも再生は止まらない。

 

 

 何度も何度も唱え続ける。その度にユウの肉体が破壊と再生を繰り返す。

 

 それは暴走。『権能』の暴走。

 

 抱え込んだ罪悪感が、後ろめたさが、罪咎の意識が詠唱を辞めさせない。未だユウにはっきりとした意識はなくただ彼の許されたいという深層心理が、自傷を自壊を自罰を求めて彷徨っている。

 

 自己満足の自罰行為。

 

 ——だけに留まらない。

 

 自壊の耐性が着き始めたユウの肉体。ユウは地に手をつき、未だ懺悔するように唱え続ける。すると、その崩壊が地を伝って周囲に亀裂が入る。まるで世界が罪悪感を抱いているかのように。

 

 

「……これ、はッ」

 

 

 亀裂は地を這い『魔女』をも飲み込む。『魔女』の顔に亀裂が入り、魔女の死と共に『剣聖』の肉体が灰と化す。

 

 亀裂はそこで止まらず、壁を伝い天井に至る。

 

 地獄が、崩壊する。

 

 砕け散る敵、崩落する天井、未だ死なずにいるユウ。

 

 そして、独りだけ崩壊に飲まれていない、フェリス。彼女だけが崩壊から逃れていた。しかし。

 

 

 崩壊した天井(そら)がそこにあるすべてを蹂躙した。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 世界が終わった。

 

 

◆◇◆

 

 

「……はっ、うぐぁッ!!!」

 

 

 目覚めた。そして崩壊する。

 

 その裁きは死ねども許さず。

 

 

「……ッ」

 

 

 痛い。しかし、どこか心地のいい痛み。

 痛い。でも、同時に安らぎを与えてくれる優しい痛み。

 痛い。それでも、足りない。

 

 

 ——もっと、もっとっ。 

 

 

「……ごめんなさいっごめんなさいっ」

 

 

 笑いながら、謝るユウ。赦しは気持ちがいいから。許されるのが嬉しいから。その顔が嘉悦に歪む。

 

 もはや身体は崩壊せず、ただ痛みだけがユウに授けられる。自分の身体を抱きしめてその身を捻る。鞭に喘ぐ豚のように。

 

 

 ——気持ちいい。心地いい。このまま、眠ってしまいたい、

 

 

 睡魔のような微睡みの誘惑。抗いがたい甘い睡欲。いっそこのまま——。

 

 

 

『———おい』 

 

 

 

 快楽にトリップしていたユウはその一言で冷や水を浴びせられたかのように自らの醜態を客観視して脳内を羞恥で埋め尽くした。それと同時に崩壊がぴたりと止む。

 

 

「………」

 

『正気に戻ったか?』

 

 

 ユウは応えられない。答える言葉がない。

 

 ——今僕は……何をしていた?

 

 理解できない己の不可解な行動。自分でも何をしていたのかわからない。

 

 ユウは自分の顔に手を置き呆然と正面を見て思い起こす。

 

 

 

 僕は、死んだ。首を斬られて。それで、視界がぐるぐると回転して。それで、そう、そこにフェリスがいて。フェリスが、僕の、僕の名前を、呼んだんだ。

 

 ユウはゆっくり思い起こす。

 

 それを聞いて、助けなきゃって、そう思った。だから。そしたら、急に身体が熱を持って、動かせるようになった。それで、一生懸命動かしてたら、頭がくっついて。

 

 

 いつの間にか、視界のすべてが崩壊していた。自分も、敵も、何もかも。

 

 

『何が何だかわかんないって面だな』

 

「………」

 

 

 ユウは答えられない。図星だから。本当にその通りだから。いったい何がどうなったのか。自分であって自分じゃない。“こいつ”ともまた違う。己に潜む他人。

 

 己の中にあんな一面があるはずはなく、あれが本性なんかじゃあない。じゃああれはなんだ。あの醜態はなんだ。わからない。自分の事なのに、自分が分からないなんて、頭がおかしくなってしまいそうだ。

 

 

『落ち着け。お前は“力”に飲まれたんだよ』

 

「飲まれた、僕が……?」

 

『力取り戻して舞い上がって暴走させて全部ぶっ壊して悦に浸ってたのさ』

 

「……あの力は」

 

『——魔女の力。傲慢の魔女テュフォンの断罪の力さ。よかったじゃねぇか。お望み通り手に入れられて』

 

「……力。……力、力、ちから。……ああっ」

 

 

 力、そう数度呟いて。何かを確かめるように手を握ったり開いたりするユウ。

 

 

「——そう、そうだよ!力を手に入れた!力を取り戻したんだっ!ハハ、ハハハッ」

 

 

 喜色満面の笑みで無邪気に喜ぶユウ。まるで先ほどまでの失態など忘れたかのように。

 

 

 それは『傲慢』の力。自我が定まらなかった為に見放された力を、ユウはどういうわけか取り戻した。それは子供故に無邪気で無慈悲な傲慢の権能。それ故に扱いが難しく力に飲まれ暴走に至った。

 

 その権能は強力無比。それは『傲慢の魔女』テュフォンの使っていた、相手のもつ罪悪感と罪に感応して適正な(痛み)を与える力。

 

 その力は心に潜む罪悪感を決して逃さず、アクニンと判断したものを無造作に打ち砕く。——それは己自身も例外ではない。この力を使っていたテュフォンは真に純粋な子供であるがゆえにその裁定に引っかからなかったが、ユウは違う。

 

 力のない己を悪だと考え、フェリスを救えない自分を認められず、一瞬でも諦めた罪悪感が、後ろめたさが己自身を滅ぼしたのだ。しかし、ユウの身体は何度でも再生し次第に耐性を付け、それでも罰を欲し権能の行使を繰り返した結果、暴走し制御しきれぬ力が世界を終わらせた。

 

 にも関わらず。

 

 

「——ああ、これで僕の手でフェリスを助けられるっ」

 

 

 ユウは力を手に入れたことに有頂天になっていた。無理はない、それは凄まじい力。それは理不尽の権化。それは我を通す権利足り得るのだから。

 

 フェリス救出を諦め、己の中の他人に頼らずに済むのだから。なにより、フェリスと離れずに済むのだから。

 

 

『………何?まだ諦めてないわけ?』

 

 

 そんなユウに、『ユウ』はきつい口調で言った。

 

 

『力を取り戻したのは良い。ああ、めでてぇな。だが、だからなんだってんだ?』

 

「……力は取り戻した。フェリスを僕の手で救う手段は手に入った。なら後は助けるだけだ。お前になんか頼る必要はない」

 

『はーん、その制御できない力で?自分ごと殺す自爆技でいったい何ができるってんだ?』

 

「それは……、僕が制御できるようになればいいだけだ」

 

『へー、制御。できるつもりなわけ』

 

「………」

 

 

 売り言葉に買い言葉、つい口から出た見栄の言葉。しかしその実ユウにはその権能を扱える自信などなかった。『権能』とは本来所有者の適正に合わせて発現するものである。例え同じ傲慢の魔女因子でも同じ権能が扱えることはない。

 

 しかしユウは幸か不幸か、偶然かはたまた必然か『傲慢の魔女』の使っていた権能を発現した。そして発現こそしたもののその権能はユウに合っていない。その『権能』はユウには扱えない。ユウは真に無垢足り得ず、罪悪感をその身に抱えているから。それは捨てようとして捨てられるものではなく、簡単に拭えるものでもない。

 

 触れた者を裁く断罪の権能は何より先に己自身に巣くう罪を裁くだろう。故にその権能はいくら再生するとはいえ自爆技の域を出ず、『剣聖』にましてや『魔女』に対しての有効手段足りえない。 

 

 そもそも——。

 

 

『そもそも、お前のソレは『剣聖』には効かない』

 

「………」

 

 

 そう。その権能が裁けるのは、人が裁けるのは生きている人間のみである。死んだ人間を裁くことなどできはしないのだから。

 

 その力で、殺せるのは『魔女』だけだ。

 

 

「……魔女さえ殺せば……」

 

『ん?』

 

「魔女さえ殺せば、『剣聖』は止まるはずだ、だから……」

 

『ああ、そうだな。だけど、お前が『剣聖』を掻い潜ってあいつに触れられるのか?』

 

「それは……、さっきみたいに地面を経由すれば」

 

『はーへー、それでまた制御できずにこの地下空間ごと崩壊させるんだ。へー、あったまいいー』

 

「それはっ」

 

『——だいたいさァ』

 

 

 更に言葉を、言い訳を重ねようとしたユウの言葉を『ユウ』は遮り、言い放つ。

 

 

『仮に諦めないでフェリスを助けに行くとして、お前は後何回、いや、何十回——フェリスを殺すつもり?』

 

「……は?」

 

 

 予期せぬ言葉にユウの声色にイラつきが混じる。

 

 

『いやいや、は?、はこっちも台詞なんだけど。お前もしかして気づいてないの?——お前がもうフェリスを一回殺してるってことに』

 

「…」

 

『お前がやり直す度に、フェリスは死ぬ。崩落か巻き添いかは知らねぇが、何度も何度も死ぬだろうさ。お前が死なせるんだ。お前が殺すんだ。その覚悟がお前にあんのかって聞いてんだよ、オレは。なぁ?』

 

「……」

 

『乗り越えられる確証もねぇ。権能はまるで役に立たねぇ。たった一回の死に怯えて諦めちまえるくらい情けねぇ弱ぇてめぇが』

 

「………」

 

『助けられるって言えんのか?もう諦めねぇって言いきれんのか?それがお前の諦めていいって思えるまでの無為で無駄な自己満足の為だけの時間にならねぇって言いきれんのか?……救いたいってのは、お前の自己満足じゃあねぇのか?なぁ……答えろよ、『ナナホシ・ユウ』、もう一人のオレ様よ。なんとか言えよ。思ったこと口にしろ。中途半端じゃない覚悟を示せ』

 

「……僕は——。」

 

 

 その答えはきっと一つしかなかった。別に、迷うことではなかった。でも、そこには確かな躊躇いがあった。漠然とした不安が、曖昧にしておく安心感が、その躊躇いを生んだ。

 

 それを口に出したなら、もう許されない。それを言ってしまったら、もう後には戻れない。

 

 きっと、それは不器用な発破だった。心の内を知られているが故の焚き付けだった。悔しいけれど。ムカつくけれど。それはきっと今の僕に必要なものだった。

 

 答えは一つしかない。しかし、それを曖昧にしてはいけない。心にしまったままでは覚悟足りえない。そして、それを見守ってくれる人がいなければ成り立たない。それがもう一人の自分というのは些か奇妙な感覚ではあるけれど。

 

 

「僕は……フェリスを……」

 

 

 そこまで言って。しかし、ユウの言葉は止まった。

 

 

『………』

 

 

 助けたいと、そう続けようと思った。救いたい気持ちが確かにあるのだから。

 

 でも。それ以上に。

 

 

「僕はフェリスの声が聴きたい」

 

 

 それが、ユウの心に浮かんだ言の葉。根底にある想いだった。

 

 

「フェリスに名前を呼んで欲しい。フェリスの笑う声が聴きたい。その思いに嘘を吐きたくない。その思いを嘘にしたくない」

 

『……』

 

「だから、逃げたくない。だから、お前の言う通りにはしない。例え僕が何度死のうとも、例え何度フェリスの死を見ることになっても。例え何度心が折れても、その度に何度でもやり直す。でももし……僕の全力が及ばなかったなら、僕の死力だけじゃ足りなかったなら」 

 

『…』

 

 

「君の手を貸して欲しい」

 

 

 助けたいのではなく、ただ声が聴きたい。だから、その為なら、こいつに頼ることも厭わない。自分に頼るというのも不思議な感覚だ。こいつが自分とは甚だ思わないが、こいつに力があるのは事実なのだ。なりふり構わず頼み込む。こいつにも協力させる。

 

 

『嫌だって言ったら?』

 

 

 その言葉はえらくご機嫌だった。

 

 

「良いって言うまで頼み続ける」

 

 

 その声はいたく自信に満ちていた。

 

 

『クッハハハハハ!ああ、傲慢だな。——いいぜ。尻拭いぐらいはしてやる』

 

 

 まるで人が変わったように気前よく承諾するもう一人の自分。拍子抜けするほどあっさりと彼はその提案を受け入れた。彼はフェリスを助けるのは反対ではなかったのか。

 

 

「……ありがとう」

 

 

 それは発破をかけてくれたことに、それは期待してくれたことに、それは見守っていてくれることに、そして手を貸してくれることに対して。

 

 

『礼を言うのは早いだろ。まっオレはお前で、お前はオレだからな。てめぇがどうしてもって言うなら手伝ってやらなくはないってだけだ』

 

 

 どうして突然協力的になったのかはわからない。思えば初めからその毒舌とは裏腹にその言葉には気遣いのようなものがあった気もする、がその時は余裕がなくてその刺々しい言葉に突っかかっていたからよく覚えていない。

 

 こいつはもう一人の僕だというけれど、何を考えているのかはさっぱりわからない。

 

 でも、なんだろう。結局やるのは死ぬ気で『剣聖』を倒してフェリスを救うことに変わりはないし、手を貸してくれると言ってもどこまでかはわからない。考えはあるけれど、それでも何度死ぬかはわからないし、僕の心が持つかもわからない。

 

 でも、なんとなく。頼れる相手がいるということが、自分の覚悟を聞いてくれる相手がいるということが、なんとなしに心に余裕を与えてくれている気がした。

 

 

 だから、ユウは躊躇いなく歩き出した。 

 

 

 

 

 

「……ところで」

 

 

 余裕ができたところでユウは聞きたいことがあった。

 

 

「お前の事、何て呼んだらいい?」

 

『は?ユウだろ、そりゃ』

 

 

「いや、ユウは僕だよ」

 

『オレもユウだよ』

 

 

「絶っ対に、僕。」

 

『こんの傲慢意地っ張りが。……はぁ。はいはい、いーよ何とでも呼べ』

 

 

「じゃあ、セブンスター……」

 

『却下。ありえねぇ』

 

 

「鬱太郎」

 

『却下に決まってんだろネーミングセンス皆無か』

 

 

「ナナホシ、は呼びにくいし妙な感じする。んーじゃあ——」

 

『——ホクト』

 

 

「え?」

 

『オレのことはホクトって呼べ』

 

 

「ダサい」

 

『てめぇが言うな。だいたいな——』

 

 

 そんなこんなで二人は、——ユウとホクトはやいのやいのと言い合いながら歩を進めた。

 

 

 

◆◇◆

 

 

「ふっはっくっ」

 

 

 息をするタイミングを考えろ。呼吸を止めるな。間違えたら死ぬ。

 

 足を止めるな。明確にイメージしろ。そうすれば身体は動く。腱が切れても、靭帯が壊れても、筋肉がぶっ壊れても、骨が折れていようと、身体は動いてくれる。

 

 思考を止めるな。失敗を無意味にするな。学べ。工夫しろ。相手を見ろ。自分を変えろ。

 

 

「———」

 

 

 敵は呼吸をしていない。敵は疲労しない。敵におそらく思考はなく体に染みついた感覚、本能のままに動いている。

 

 ——故に、その動きにはある程度の癖や、規則性がある。

 

 大半の者はそんなもの見切れる前に死ぬ。それほど『剣聖』の剣技は安くない。

 

 しかしユウは何度でも見ることが出来る。死を繰り返して——『剣聖』の剣術を奪い取らんとする。 

 

 

 ——もう三十回目だ。もう三十回も、フェリスを……。

 

 

 ——あ。

 

 

 雑念が混じった。首が跳ぶ。たった一度の雑念が、失敗が、『死』を招き入れる。

 

 

 ——また失敗した。

 

 

 ——首切られて死ぬと、だるいんだよなぁ……まぁ……。

 

 

 ——もうそれ以外じゃ死なないんだけど。

 

 

 終焉の黒がユウを覆った。

 

 

◆◇◆

 

 

「…………はぁまたダメか」

 

 

 ユウの考えた『剣聖』の攻略法。それは『傲慢』の特性を利用しようというものだった。

 

 『魔女』は言っていた。『傲慢』には、『権能』の前段階というべきか、魔女因子そのものに宿った習性というべきか、そんな特性がある。

 

 『傲慢』の特性、それは生き残るための力、再生能力や一度体験した痛みに耐性が着くことなど、要は環境に『適応』する力である。

 

 ユウはそれを利用して『剣聖』の剣技に適応しようと考えた。極めて突飛な発想だ。

 

 『適応』とは本来すべての生物が持っている潜在的な力、言い換えるならば——『進化』のことである。

 

 進化とは生物が環境に適応し生き残り繁殖する為のシステムであり、己の身一つで行うものではない。ハッキリ言って無茶無謀である。

 

 それでも、ユウはその可能性に賭けた。『剣聖』の剣技を『適応』で『模倣』する選択肢を選んだ。

 

 

『大丈夫か?』

 

 

 ホクトがユウに問いかける。これで五回目である。ある時からホクトは失敗する度、ユウにそう問いかけるようになった。

 

 そうなったきっかけは——。

 

 

「……ああ、大丈夫。もう怖くないし、痛くないよ。僕は大丈夫。僕の見立てでは後……五百回、かな?——それで攻略できるはずだ」

 

 

 ユウは極めて冷静に落ち着いた風貌で、その狂気を言い放った。

 

 あと五百回、言うは安く行うは難し。時間にすれば途方もなく、想像するだけで気が滅入る。そんな数字を、ユウは淡々と合理的に言い放つ。

 

 それはまるで機械のように。

 

 だが、そこには確かな希望があった。

 

 

「あとたったの五百回だ。たったの五百回で、『剣聖』を倒せる。僕みたいな凡人にもそれができる。僕は大丈夫。後は僕が頑張るだけで、あの子を救える。」

 

 

『———』

 

 

 ホクトにはユウが大丈夫なようにはてんで見えなかった。たった三十回死んだだけで、ユウは人が変わった。それが顕著に表れたのが五回前、ユウが『死の恐怖』を失った時だ。

 

 『死の恐怖』を失ったユウを最初はホクトも良いことだと考えていた。しかし、そこから次々とユウから情動が欠落していった。

 

 初めに、戦闘中に不要な合理性を欠く感情『怒り』が消えた。

 怒りが消えると、ユウは戦闘を楽しむようになった。しかしそれもまた戦闘に不必要なものとして排除された。

 

 次に『喜び』が消えて。同時に『悲しみ』も消えた。

 

 死ぬ度に消えていく人を人たらしめる情動。

 

 そして今ユウは気づかないまま、フェリスへの罪悪感が消え失せ、フェリスによって意識が分散することを嫌ってフェリスの名前すらも呼ばなくなった。

 

 今のユウは合理性の塊。勝つために、生き残るために不必要なものを排除している。

 

 ——退化を繰り返しているのだ。

 

 退化とは進化の一環であり、失うことで得られるものがあるということを生物の歴史が肯定している。地上の生物がエラを失ったように、ペンギンが飛ぶ能力を失ったように、人が猿の尻尾を失ったように。

 

 しかし、感情の喪失、それは果たして人の煩悩と雑念を削り取り悟りへ近づかせる進化なのか。あるいは、人を心のない獣へと堕落させる退化なのか。

 

 

 果たして五百回も死んだ先に、そこにユウの心は、人格は、残っているのだろうか。

 

 

『………』

 

 

 止めるべきか。否、止めたところで今のユウは止まらない。もう止まれない。

 

 

 その声を聴くまで、その声が届くまで。

 

 

◆◇◆

 

 

「フェリスを解放しろ」

 

 

 その手に持つ剣の切っ先を相手に向け命令するユウ。

 

 

「よくここまで来たね。おめでとう、とそう言うべきかな?」

 

 

 今まで何度ここに来たかも知らない魔女は偉そうにそう応える。フェリスを解放する選択などあり得ないのだろう。

 

 ここに来るのはもう五回目だ。いい加減同じ言葉にうんざりしてきた。

 

 

「……まるで人形みたいだな」

 

「…………なんだって?」

 

「?」

 

 

 つい口から出たその言葉に、魔女は不自然に反応した。まるで一番言われたくないことを言われたかのように。

 

 人形。人形。魔女が人形?

 

 ユウはスピンクスという存在が原作でどういう存在だったか、そういえばあまり深く考えたことがなかった。本編には名前しか出てこない存在。亜人戦争がどうとか。確かヴィルヘルムさんが言っていたはず。

 

 スピンクスとは確か……。

 

 

 ——あぁ。

 

 

「お前、エキドナの失敗作か」

 

「………何を」

 

 

 思い出した。スピンクス、それはエキドナが行った魂の転写の失敗作だ。

 

 

「くっふふ。もしかして、人形って言われて傷ついたのか?人形の癖に??」

 

「……君がなぜそれを……。君が、ワタシの何を知っている」

 

「あははっお前にも怒るって感情があるんだな!ああ、確かにお前は失敗作だ。あの魔女は感情なんかこれっぽっちもなかったものな!」

 

 

 我ながら性格が悪いな、と思うものの散々拷問されて殺されて弄ばれて溜まりに溜まった鬱憤がこちらにはあるのだ。

 

 今までどんな罵倒をしても冷静に返してきてまともに反応しなかった魔女が今は冷静を取り繕っているだけで怒っているのが分かってしまう。

 

 それはまさにホクトに煽られている時の自分で。僕もまたホクトのように魔女を煽ってしまう。

 

 あいつがもう一人の自分と言うのもあながち間違いではないのかもしれない。

 

 だって今僕は、とっても愉快な気持ちで満たされているのだから。

 

  

「……能天気なものだな。君の大切なフェリスが今何をされているのかも知らないくせに」

 

 

 嘲笑を続けるユウに魔女は呟くように言った。それはユウの知りたかった魔法陣の事。

 

 

「ああ、そうとも。ワタシは失敗作、魔女のなり損ないだ。しかしそれも——今日までだ」

 

「あ?」

 

「この魔法陣が何の魔法陣か。君は何にも知らずに言っているんだろうね」

 

 

 この魔法陣が一体何だというのか。

 

 

「これだよ。この魔法陣こそが、——魂の転写の魔法陣さ」

 

 

「………は?」 

 

 

 魔女は言った。これが魂の転写の魔法陣であると。これが、魂の、転写。

 

 つまり——。

 

 

「君のおかげだよ。君が彼を彼女にした。ワタシが何のためにフェリックスを、いや今はフェリスというべきか。フェリスを生かしてきたと思う?それはね。ワタシ以上に『不死王の秘蹟』、死者蘇生の魔術に適性のあるこの子をワタシの——次の『器』にする為さ」

 

 

 器。

 

 

「そうさ、ワタシは人形。失敗作。しかしワタシは諦めてなどいない。この子の力を利用して、ワタシは本物として蘇る。この子身体を依り代としてワタシ本来の魂を、肉体を、現世に蘇らせる。それこそがワタシの悲願。故にこそこの子はワタシの希望なのだから」

 

「しかしそれは不可能に近かった。何故なら彼女は男だったから。性別が違えば魂の器が異なる。彼女程、器として相応しい存在はなかったが、ワタシがいくら彼女の魂に手を加えてもその根本的な意思が変わることはなかった」

 

「もうやめようと思っていたところに、——君が来てくれた。君との出会いが、君の存在が、君の言葉が、君の行為が、君という養分が、——彼女を『女』として開花させた!」

 

「嗚呼素晴らしい。何も持たず何者でもなかった彼が、君の為に、君を想って、君の期待に応えるようと、自らを女とした。自らを女と認めた。」

 

「この子の君への好意が、愛情が、想いが、依存が、彼女を変えたんだ」

 

 

「………」

 

 

「——君のおかげだ。『ナナホシ・ユウ』。君のおかげで、彼女はワタシの器として完成した。もうじき術は成り、彼女はもう一人の私として目覚めるだろう。彼女という人格は消え失せ、この世から消失する。生まれ変わるのさ!嗚呼、本当に、」

 

 

 ——ありがとう。

 

 

「………」

 

「どうしたのかな?そんな呆けた面をして。知りたかったんだろう?この魔法陣が何なのか。それで、それを知った君に一体何ができるのかな?」

 

 

「————。」 

 

 

 思考が止まっていた。脳が考えることを放棄していた。心が理解することを拒んでいた。

 

 僕のおかげ?僕のおかげで、消える?

 

 

 フェリスは、それほどに僕を。僕はフェリスにそれほどの。

 

 

 なのに、僕は。

 

 

 結論を出さない出せない出したくない。

 

 

 ただ、一つだけ分かることは。

 

 

 ——こいつを殺そう。

 

 

 

「——死ね」

 

 

 

 片目が深紅に染まり、片目が紫紺に染まる。

 

 ユウの肉体はリミッターを外し限界を超えたスピードで魔女へと斬りかかる。

 

 しかし無意味。

 

 怒りは力になれど、勝利には繋がらない。

 

 

「———。」

 

「がはっ」

 

 

 リミッターが外れた程度で、『剣聖』は掻い潜れない。

 

 『剣聖』とは名ばかりの死せる『死神』がユウの喉元を掻き切るのだ。

 

 死んで尚、彼女に宿る『死神の加護』がユウの再生を封じてユウを殺しきる。

 

 とことんユウを殺すためだけに存在するかのような最悪の死神。

 

 

 ——憎い。

 

 その無表情な顔が。何でもないような顔が。

 

 ——憎い。

 

 死んで楽になれるこの女が。死んでも邪魔してくるこの女が。

 

 ——憎い。

 

 死の間際、その瞳に一瞬だけ哀れみを宿すこの女が。

 

 

 ——殺してやりたいほど憎たらしい。

 

 

 これだけ憎いと思ったのは。

 

 

 ——絶対にお前を、殺してやる。

 

 

 嫉妬の魔女以来かも知れない。

 

 

 

 

 

 その感情も数十回目になくなった。 

 

 

◆◇◆

 

 





 ——赦されるってのは、快楽だろう?

 『神と和解せよ』
 ⇒罪を認めて神の赦しを乞いなさい。

 キリスト教より
 
 

 ユウくんはホクトと協力して『剣聖』攻略に勤しんでいマス。

 ホクトの『憂鬱』の力で身体を無理くり動かしたり、剣を強化したりしてマス。じゃないとまともに斬り合えもしないのデス。剣ごと切り殺されマス。

 再生能力とよく分かんない強大な力でやったるぜってなもんデス。

 が、テレシアさんは『死神の加護』を持っているので斬られると再生できませン。それにホクトが主人格じゃないので『憂鬱』の力もまともに出力できてませン。

 せいぜい剣が折れない事と身体が壊れても動けるぐらいデス。

 『適応』は所詮特性というか、おまけに過ぎないので『死神の加護』にゃ勝てませン。普通にめちゃんこ痛いデス。ユウくん頑張ってマス。まぁそのうち痛くなくなるのデスガ。

 あと『憂鬱』の……権能?それっぽい力を使ってるのでホクトの人格がちょっとユウくんに浸食していたりしマス。
 


 あ、そうそう。
 スピンクスがいるのにクルシュはどうやってフェリス救出したん?っていう矛盾の答えは、ユウがフェリスと出会わなければ、スピンクスは普通に手を引いていたから、ってな感じデス。

 やっちまったねユウくん。君は戦犯だ!

 あと、フェリスが女っぽい理由はスピンクスが自分の器にするために魂をいじったからデ~ス。原作とは多分違うヨ?


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『剣聖の攻略法』


 初めて誤字報告を受けましタ萎える伸えるデス。
 有難き事この上ないデス。
 感謝なのデス。ありがとう。

 誤字も攻略法も負けて間違えて初めて探せるもんでサ。一万二千


 

◆◇◆

 

 

「———」

 

 彼女が剣を中段に構える。この構えは、他のすべての構えに移行しやすく、彼女は剣線を繋げる刹那の間に幾度もこの構えをしている。

 

 しかし何度見ても予測はできず、むしろ予測するだけ無駄だった。彼女はこちらの動きを見てからちらよりも遥かに疾く判断し、適切な構えに瞬時に移行して隙だらけの僕に斬りかかる。

 

 その銀線は僕が構えていた剣ごと僕を切り裂いた。

 

「ぐふっ」 

 

 僕の胴体は袈裟斬りにされ、必然、切り裂かれた心の臓から大量の血が噴き出す。口から、腹から、血を垂れ流して大量出血で即死である。

 

 ——痛い痛い痛い痛い痛い。

 

 完全ではないにしろ『傲慢』を取り戻したユウ。当然その身体は不死身であり適応した痛みからは解放される。

 

 しかし、それはただの斬撃にも関わらずユウに確かな痛みを、否、ただの痛みではない、強烈で鋭い劇痛を齎す。

 

 何故か、その理由は——。

 

 ——『死神の加護』、か。

 

 地に倒れ伏し死に招き入れられるまでの人生で最も自由な時の余白に、ユウはそう結論付けた。

 

 ——なんとなく、『傲慢』が『ソレ』に適応しようとしているのを、感じる……。

 

 当然、『傲慢』はそんな神の名を冠する『加護』すらも適応せしめんとする。しかし、それが反ってユウに激しい痛みを齎していた。

 

 

 ——あと、何回……。

 

 

 ユウは挑戦一度目の死を迎えた。

 

 

◆◇◆

 

 

 その一振りを避けると、彼女は流れるように型を繋げて突きを打ってくる。その切り替えはあまりに疾く、僕が思考を挟んでいるうちに僕の心臓に到達する。

 

「がはぁッ」

 

 体内に急激に満ちた血液が口から溢れ出す。ユウは劇痛を発する胸を押さえて剣を取り落とす。

 

 するとすぐさま二の手が迫り、ユウの首が飛んだ。

 

 ——痛い。繋がってないはずの身体が、痛い、痛い痛い、痛くて痛くて、仕方がない。

 

 首は切り離されたはずなのに、まるで魂そのものを傷つけられているかのように脳が痛みを検知する。否、これは魂の悲鳴。ユウの知覚している痛みは、劇痛は、錯覚である。

 

 ——もしかして、『死神の加護』って、オドそのものを傷つける、力……?

 

 オド、それは魂であり存在でありマナを生み出すエネルギー源であり、人を構成する情報体である。故にオドを傷つけられたなら、その壊れた情報体こそが正常であると魂が誤作動を起こしているのかもしれない。

 

 だから『傲慢』でも簡単に適応できないのだろう。『傲慢』の再生能力は生き残る為の『特性』に過ぎず、その力はユウのオドを代償に賄われているのだから。

 

 身体にできた穴の一つや二つならいざ知らず、オドそのものを傷つけられては回復もままならない。

 

 ——勘弁、しれ、くれ……。

 

 ユウはようやく二度目の死を迎えた。

 

 

◆◇◆

 

 

 その突きをユウは避けない。むしろ突きならば例え心臓を射抜かれようと致命傷には至らない。ならば肉を断たせて骨を断てばいい。

 

 そう考えたユウはその突きを敢えて避けず、腕で受けようとする。

 

 しかし、そんな甘い考えが彼女に通用するはずがない。

 

 無理に受けようと身体を強引に盾にしたユウは当然バランスを崩した。

 

 そうなれば最小限の動きで盾にした腕を断たれ、剣を持つ利き腕を断たれ、瞬く間に木偶の坊と化したユウの首を不可避の突きが貫いた。

 

「あがっ」

 

 押し上げられ無理やり上を向いたユウはその口から噴水のように血を噴射し、気道に途轍もない異物感を覚えた。

 

 ——く、苦しい。息が、できない。

 

 ユウを貫いた剣は勢いよく半円を描きユウの首を掻き斬った。

 

 今度は首の側面から血を吹き出す歪なオブジェが出来上がった。

 

 ユウは痛みと苦しみに白目を向き、気絶した。

 

 

 たった三合の出来事だった。

 

 

◆◇◆

 

 

「——あ゛ッうあ゛っう゛ぅ……」

 

 

 必死に喉を掻き毟るユウ。もうそこに剣はなく、もうそこに痛みはないというのに。不快感がぬぐえない。

 

 ——気持ち悪い。気持ち悪い。

 

 三度目を覚ましたユウは既に心が折れかかっていた。

 

 ——勝てる、気が、しない……。

 

「……なんだよ……あの化け物は……」 

 

 魔女なんて目ではない。勝てる気が、勝てるビジョンが、これっぽっちも沸いて来やしない。

 

 どうしたら勝てる、どうすれば勝てる。

 

「どうすれば…どうすれば…」

 

 このまま無為に挑んだならきっと先に壊れるのはユウの心だと、そう確信する。

 

 

『——諦めるか?』

 

 

 思考が泥沼に落ちそうになった時、憂鬱に溺れそうになった時、ホクトが声をかけてきた。

 

 その声は明るく、楽しげで、いたずらっ子のような意地の悪い声だった。

 

 不器用な励まし、否、こいつはきっと本当に面白がっている。僕が剣を振るい無様にやられている姿がたいそう愉快なのだろう。

 

 そんな意地悪でお節介で心配性なもう一人の自分に、ユウは強がらなければいけない。否、強がらせてくれているのだ。まったくもって余計なお世話だ。でも、有難い。

 

 

「——まだまだ」

 

 

 まだまだ。本当にまだまだだ。まだたったの三回だ。もともと『剣聖』の剣術に適応しようだなんて無茶苦茶な話なのだ。そんな無茶苦茶な方法を通した自分が早々に折れるわけにはいかない。

 

 

「——フェリスの声を聴く為なら、これくらいっなんてこと、ない」

 

『…くふふ。そうかいそうかい。んじゃ頑張りな』

 

 

 どうせこいつには僕の心のうちなんてバレているだろうに、強がる意味はあるのか。あるのだ。

 

 自分を騙せ。自分を忘れろ。

 

 ——僕がどうなったって、いい。

 

 そう決めたのだから。

 

「——僕が、どうなろうと。フェリスだけは……」

 

 ——絶対助ける。

 

 それがユウの今の『傲慢』であるのだから。

 

 自分が何者かわからない?自分があやふや?僕が、ユウじゃないかもしれない?

 

 ——どうでもいい。

 

 そんなのどうだっていい。今は、全部忘れろ。今は全部、考えなくていい。今はただ、あの女に勝つことだけを考えていればいい。

 

 

 歩け。進め。勝ちにつながる道を探し続けろ。

 

 

◆◇◆

 

 四度目。

 

 ユウの身体は『死神の加護』に適応した。思ったよりもかなり早かった。

 

 ユウの肉体はもう死神の傷だろうと止血できる。腕を斬られても足を斬られても、ユウの身体は不治の傷を凌駕しその傷口を塞ぐ。

 

 それだけ?否、まったくもって否である。血が出なければ失血死はなくなり、貧血による思考の鈍化もなくなる。つまりそれだけより長く多よりく剣聖の剣術を見ることができる。

 

 毎回一撃で死んでいては全てのパターンを覚えるまでという途方もない試行回数を重ねなければならなかったが、これである程度『適応』が捗るだろう。

 

 しかし、それは激しい痛みを改善するものではなかった。それに傷口が塞がるだけで再生もしない。むしろそれで治ったと判定して治らなくなる。更には首を切られれば当然即死だ。

 

 ——それでも、希望は見えた。

 

 このままいけば、いずれ『死神の加護』は克服できる。そうすれば、勝てる可能性はぐんと上がる。

 

 希望は心の痛みと苦しみを和らげる精神安定剤である。フェリスを瞬く間に四度見殺しにしたことからは目を背けるために。ユウはその小さな進歩に希望を見出すのだ。

 

 

 まずは首への剣劇を見切る。そう、一歩一歩進むしかないのだから。

 

 

 ユウはダルマにされて首を切断された。

 

 

 ——だんだん、首が切れてから意識が途切れるまでの時間が、伸びている気がする。

 

 

◆◇◆

 

 五回目。

 

 僕の、僕の僕の、せいで、フェリスが、あ、ああ……。

 

 フェリスは僕を——。

 

 僕は、フェリスを……。

 

 

 ——殺してやる。

 

 ——絶対に、殺してやる。

 

 

 その為なら何を打ち捨てたっていい。

 

 

◆◇◆

 

 六回目

 

 ホクトに頼ることにした。しかしそれは『権能』だけ。体は渡さない。あいつは僕が殺す。

 

 そんな身勝手な頼みを、ホクトは快く了承した。僕の『殺意』が気に入ったとかなんとか。

 

 何言ってんだこいつ。

 やっぱり意味の分からないやつだ。信用ならない。いや、そんなことどうでもいい。今は、ただ、あいつを——。

 

 

 権能は暴走し僕は自爆した。 

 

 

 『憂鬱』の権能は僕にはまともに扱えなかった。するとホクトは意識を同調させろ、と言ってきた。僕が扱えないことを分かっていたのだろう。ニタニタと笑いながら提案してきた。気色悪い。いら立ちが募る。

 

 意識を同調させるとはつまり『権能』の使用はホクトの判断に任せて、僕は今まで通り剣術の適応に集中しろということだ。

 

 ただ、そうすると戦闘中に意識が重なり意識が互いに侵食するリスクがあるらしい。

 

 同じ体を二つの意識で動かす弊害だろう。こいつと意識を共有するなんて反吐が出るが、背に腹は代えられない。背中はこいつに預けるしかない。

 

 ——どうしてこうも苛立ちが募る。集中しろ。集中しなきゃいけないのに。

 

 ——この苛立ちは僕のものかあいつのものか。

 

 わからない。どうでもいい。気にするな。今は、忘れろ。

 

 

 僕はこいつと二人三脚で戦うことになった。

 

 

◆◇◆

 

 七回、八回、九回、十回と試行を重ねていく。

 

 憂鬱の紫紺のオーラが武器と身体を覆い強化する。そのおかげで剣ごと断ち切られることはなくなった。

 

 鍔迫り合いに持ち込めるようにもなった。そうして見える彼女の瞳に意思はなく光はなく、あるのはこの世ではないどこかを見る瞳だった。この女は、僕を見ていない。

 

 ただ言われた通り邪魔者を排除しているだけ。

 

 打ち合いが長引くようになるとスピンクスが手を出してくるようになった。しかしそれを憂鬱の力が解決する。

 

 前にやっていたように不可視の得物でスピンクスの詠唱を封じた。しかしその首を絞め殺せるほどの出力は出せないし意地もできないようだ。役立たずめ。体の主導権がない為に全力を出せないようだ。言い訳苦しい。誰が身体を渡すものか。

 

 ホクトは的確に武器の強化、身体の部位ごとの強化、スピンクスの妨害をこなし、僕は淡々と活路を見出す。

 

 

 少しだけ、ほんの少しだけ見えてきた。

 

 

 腐ってももともと下級騎士レベルの剣技はもっていたのだ。十回も同じ型を見ればその練度が如何ほどか、想像することぐらいはできる。

 

 

 その結果は、——遠すぎる。

 

 

 そんな絶望を超えて諦観すら覚える、頂の遠さだった。

 

 

 ——これで弱ってる?生前にこれっぽっちも及ばない屍兵?

 

 ——馬鹿を言え。そんなことがあってたまるか。僕だって三年間みっちり鍛えてきたのだ。フェリスを、クルシュを守る為に鍛えたのだ。全力で、本気で鍛えたのだ。

 

 ——なのに。これほどなのか。これほどに遠いものなのか。

 

 ユウは『傲慢』という反則的な力をもってしてもそう易々とは届き得ぬ“本物”の強大さに心を挫かれかけた。

 

 否、否、否。

 

 まだたったの十回だ。まだたった十回死んだだけだ。

 

 挫けるな。折れるな。思い出せ、あの声を。

 

 

 首が断ち切られる。首が切断される。首が、首が、落ちていく。

 

 

 だんだんと、死ぬ度に伸びてゆくこの時間が、ユウは怖くて仕方がない。

 

 怖い。寂しい。悲しい。苦しい。そんな負の感情の溢れる魂の世界。輪廻の狭間。そこはそんな魂から苦しみを取り除き輪廻の輪へと還す場所。

 

 生きる上で積み重ねた罪業を濾過され浄化され赦される場所。

 

 しかし、ユウはその赦しを拒むのだ。拒み、受け入れず、それが罪だと知っていて、罪業を重ね続けるのだ。

 

 

◆◇◆

 

 

 大切な何かが、失われていくのを感じる。しかし躊躇いはしない。

 

 捨てろ。捨ててしまえ。たった一度の勝利を得るために。

 

 要らない。要らない。この焦燥も、不安も、苛立ちも、すべて必要ない。

 

 ——彼女を倒す。

 

 この憎しみも、要りはしない。

 

 

 だんだんと研ぎ澄まされていく精神。精神ばかりが研ぎ澄まされていく。

 

 不純物を取り除き、過去を捨て去り、今を超えろ。そこに至れ。 

 

 

◆◇◆

 

 試行二十回。 

 

 

 足りない。足りない。技術が足りない。

 

 足りない。足りない。研鑽がたりない。

 

 足りない。足りない。集中が足りない。

 

 

 一つのミスが失敗につながる。忘れろ。捨て去れ。相手は最善解を生み出し続ける機械だ。人形だ。人間じゃない。

 

 そこに万に一つもミスはなく、思考は乱れず、息は上がらず、恐怖はなく、油断もない。しかし弱点がないわけじゃない。

 

 彼女の、否、()()の弱点は“肉体が技術に追い付いていない”という慰めにもならない事実だけ。しかしだからこそ、生み出されるそれは最適解ではなく、最善解にすぎないのだ。

 

 ——なら、やりようはある。

 

 

 こちらの技術が彼女に追い付いたとき、肉体性能の差でこちらが勝つ。

 

 

 既に痛みは感じない。首以外なら再生もできるようになった。『加護』による差はもうほとんどなく、むしろ再生する分ユウの方が有利ですらある。

 

 しかし、そんな些細なことでは覆せない圧倒的な実力差がそこにはあった。容易く『適応(模倣)』を許さない不可侵の領域。剣神の域。神の領域。

 

 人の身にて神をも魅入らせるであろうその美しい剣撃は、流麗な銀線は、合理の極致は、ユウの道を阻み続ける。

 

 

 ユウはたった一度の勝利のためにどれだけ頭蓋骨の山を気づくのか。

 

 もはやそこに痛みはなく、苦しみもない。淡々と同じ作業を繰り返すように、何度も何度も試行錯誤を重ねる。

 

 ——僕は、あと、一体、どれだけ……。

 

 苦節二十回。結果は通算八合。たったの八合。それだけの時間で、オーラを纏っているにも関わらず、再びその剣ごと斬られるようになった。

 

 ユウが散々繰り返して見切った八合で、それはユウの剣術すべてを見切るのだ。

 

 ——格が違う。

 

 心が折れる。『力』さえあれば救えると安易に考えた自分の自惚れを知る。

 

 心が砕ける。自分のような半端物が『剣聖』を剣で超えられるなんて烏滸がましくも恥知らずな浅はかな考えだった。

 

 心が疲弊する。精神が摩耗する。死ねばすべては元通りになる。しかしあまりに早すぎる死の連鎖が、死に片足を突っ込み続けるような、未だ戦いとも言えぬ殺戮の循環が、ユウの心を、ユウの根源を侵していく。

 

 怖い。何が怖いのかもわからない。なぜ怖いのか。焦ってもいない。いら立ちなどない。不安など感じない。なのに、恐怖は確かにそこにある。合理的じゃない。

 

 理屈では説明できない、漠然とした恐怖。聞き逃してはいけない魂の悲鳴。

  

 ——それでも。

 

 ——今は、どうでもいい。

 

 ユウはそれすらも無視する。こんなにも早く限界が近づいてきているという自分自身への失望を、落胆を、自分の尊厳すら蔑ろにして。見ないふりをして。忘れたふりをして。

 

 ユウは壊れることを厭わない。壊れるまで止まらない。否、壊れても止まらない。壊れたなら直せばいい。そして直ったならまた歩き出せ。

 

 誰よりも自分に優しくない傲慢の(さが)がその歩みを止めさせない。

 

 

 その瞳を溢れ出る血涙で赤く赤く深紅に染め上げながら、どれだけ血を流してもそれ以上赤くはならないことを知っていながら、血に血を注ぎ深紅を超えんとする、そんな愚行を繰り返すのだ。

 

 

◆◇◆

 

 三十。

 

 ——フェリス。フェリス。フェリス。フェリス。フェリス。フェリス。フェリス。

 

 君を想う。君を想う。

 

 忘れてはいけない。忘れたくない願い。夢。想い。

 

 ——でも、それじゃあ勝てないんだ。

 

 何度も何度も剣を打ち合わせるうちに『剣聖』は——フェリスを狙うようになった。

 

 スピンクスの命令だ。

 

 しかし分かっている。『魔女』は絶対にフェリスを殺さないと。殺せないと。わかっているのだ。わかっているけど、身体は勝手にフェリスを守ろうと体勢を崩す。

 

 どうして。守りたいのに。僕はただ、守りたいだけなのに。守る為には見逃さなければいけないのか。勝つ為に彼女が傷つけられるのを黙ってみていなければならないのか。

 

 ——ふざけるな。

 

 忘れなければいけないのか。救う為に、勝つ為に。この気持ちまで、この情動まで捨て去らねばいけないのか。

 

 ——ふざけるな。

 

 どうしてそんなに強い。どうしてそんなに遠い。

 

 ——早く、速く、疾く。

 

 もっと早く、もっと速く、もっと、もっと、もっと。

 

 ——嫌だ。嫌だ。忘れたくない。例え今だけなのだとしても、この戦いが終わるまでの間なのだとしても、必要なことなのだとしても、それだけは、フェリスへの想いを捨てることだけは。

 

 

 ——捨てなきゃ、いけないのか。

 

 ——………。

 

 ——ああ、本当に嫌になる。

 

 ——いい。なら、それでいい。

 

 ——もう、いい。

 

 

 ——ぜんぶもってけ。

 

 

 『傲慢』が加速する。

 

◆◇◆

 

 

 ???回。

 

 

 そこに、剣を構える二人の剣士がいた。

 

 方や屍とは思えない美しい赤髪を携えた『剣聖(死神)』。

 

 方や汚れや垢塗れでぼさっとした黒髪の少年。

 

 両者ともその瞳には光がなく、しかし写るのは暗闇でもない。そこにあるのは光を透過する透明な瞳である。それは思考に不純物のない『無我の境地』。

 

 凡人には辿り着けぬ、天賦の才を生まれ持った人間か、あるいは天の采配すらも覆しうる途方もない執念の果てに辿り着ける場所。どちらにしろ凡人にはたどり着けない境地。

 

 両者は必然の如く同時に動き出す。その予備動作に無駄はなく、その踏み込みは人の命のように軽やかで、それはまるで舞台で決められた舞を踊るようだ。

 

 

 始まりの一合。紡ぐ突き。止まらぬ連撃。予測不能な型から的確に繰り出される終わりなき猛威。

 

 それを少年は弾いていく。その目は剣に囚われることなく相手の身体全体を視界に収めている。それは相手の次の動きを予測するため、相手の予備動作を見逃さないため。

 

 振るわれる剣を反らし、避ける必要のない突きは無視する。動きはゆったりに見えるのに近づくにつれ加速するように感じる刃に的確に合わせる。 

 

 流れるように移り変わる鍔迫り合いの舞台。自由自在に足を動かし動き回る二人にはこの空間はあまりに狭い。この舞台はあまりに小さい。

 

 観客には飛び散る火花と轟く金属音を頼りに目で追うことしかできない。

 

 ——強い…。

 

 故、観客になり果てたスピンクスはその光景を見ていることしかできなかった。時々魔法を発動しようとするも、そう考え行動に移す刹那の間に呼吸が封じられる。

 

 一体この高速戦闘の間のどこにこちらを見る余裕があるのか。こちらを見ていない少年の瞳はしかし確かにこちらの動きを見切っていた。とんでもない観察眼。集中力。

 

 ——これが彼の『権能』?いいや違う。これは違う。

 

 おそらく何かしらの権能は発動しているのだろうが、スピンクスにはわかる。あれは、弛まぬ研鑽の果てに辿り着いた境地だ。

 

 それは『権能』による紛い物の奇跡ではない。『天賦の才』ではなく、『加護』によるものでもない。純然たる人が、持てるすべてを使って、持てるすべてを利用して、持てるすべてを捨て去って、至らんとしているのだ。

 

 それは……“偽物”が“本物”を超えんとする様。

 

 少年が一度はすべてを捨て何者でもなくなり、そして何かになろうとしている。純粋に愚直に真っすぐに、立ちふさがる苦難を、与え得られた試練を、真向から迎え撃とうとしているのだ。

 

 ——美しい…。

 

 スピンクスはその光景に、魅入っていた。

 

 興味が湧く。胸が高鳴る。知りたい。その光景を生み出した彼が気になって仕方がない。

 

 それは初めてのことだった。今だけは、悲願も、目的も、すべてを忘れてその光景を見ていたいと、そう思った。

 

 

 

 

 

 斬って、斬って、払う。突き、避けなきゃいけない。大振り、フェイントか、剣ごと断ち切る気か……後者。剣を合わせて衝撃の起点をずらして受け流す。

 

 斬って、斬って、払う。視界を遮る突き、関係ない、無視する。カウンター。突きをやめた、なら足を払う。飛んで避けるなら横一文字。

 

 斬って、斬って、払う。真向斬りは受けちゃいけない。避ける。追撃を弾く。無形にも型には限度がある、連撃は八回で止まる。ここで切り返す。

 

 斬って、斬って、払う。袈裟斬り、逆袈裟斬り、左袈裟斬り、左逆袈裟斬り、からの横一文字。繋げて回転斬り。飛んで、体制を変え真向斬り、それを避けて持ち手を上から押さえつければ蹴りが来る。避けずに受ければそのまま蹴って距離を取ろうとする。ここで突き、これをこいつは避けられない。

 

 斬って、突いて、斬りかかる。追撃の手を止めない。体勢を立て直す余裕を与えない。斬れ、斬れ、斬れ。斬って、斬って、斬りかかる。

 

 

 永遠に続くかのように思われた殺陣劇は。

 

 突然に終わりを迎える。

 

 それはユウの死で、ではない。

 

 

 苦節、百十八手。

 

 

 ユウの斬り払いが、——『剣聖』の剣を弾き飛ばした。

 

 

「———。」

 

「———。」

 

「———。」

 

 

 まだ、決着はついていない。しかし、三者ともに、時が止まったかのようにその動きを止めた。

 

 剣を持っていかれただけでまだ戦えるはずの『剣聖』は先ほどまでの縦横無尽な動きとはまるで別人のようにその場に立ち尽くしている。

 

 ついに勝利を得たはずのユウは、その剣を油断なく『剣聖』の首元に張り付けているが、しかしその首を取ろうとはしていない。どこを見ているかわからない透明な瞳は地に向けられている。

 

 終わってほしくない劇が終わってしまったかのような虚無感が胸に来訪したスピンクスはその光景の結末を固唾を飲んで見つめている。

 

 

 最初に動き始めたのは『剣聖』だった。

 

 

「……負けちゃった」

 

 

 初めて聞く声だった。綺麗で、純粋で、無邪気な声。ユウを八十六回切り殺した赤髪の死神とはとても思えない、そんな『ソレ』の声。

 

 

「凄いね。あの人以外に負けるだなんて、思わなかったなぁ」

 

「———。」

 

 

 まるで生きているように話し始める『剣聖』に、しかしユウは反応しない。首を斬ることもなく、答えることもなく、黙って剣を添えている。

 

 

「………やっ、た………?」

 

 

 ただ、そう一言、呟いた。

 

 

「………」

 

 

 そんなユウを、『その人』は申し訳なさそうな、慰めるような、そんな何とも言えない目で見ている。

 

 

 ——やった。やったのか。本当に?夢じゃ、ない?

 

 

 手が、震えて、剣を取り落としてしまった。

 

 カランカラン、というちんけな音が響く。

 

 

 ——いけない。拾わないと……。まだ、まだ、終わって、な、いのに……。

 

 

 拾おうとするも、足は言うことを聞かず、膝は笑っていて、まともに立っていることもできなくて、『彼女』に向けて身体を倒してしまう。

 

 すると、彼女は、テレシアさんは、僕を、やさしく受け止めてくれた。

 

 ——温かい。あったかい。とっても、安心する。いけないのに。殺さないと、いけないのに。

 

 

「……うん。……頑張ったんだね。」

 

 

 その声はとても優しくて。胸が苦しくなる。

 

 ——やめてくれ。今更、今更、やさしくされたところで、許すわけない、許すなんて、できるわけない。

 

 ——やめてくれ。優しくしないでくれ。髪を梳くように頭を撫でるな、やさしく抱きしめるな。

 

 ——………母さん。

 

 

 思い出してしまう。殺せなくなってしまう。やめろ、やめてくれ。僕は、だって。あなたは、僕が……。だから……………。

 

 

『———。もういい。お前はもう休め』

 

 

(………ホクト?)

 

 

『後はオレに任せろ。——よくやった』

 

 

「——っ」

 

 

 まだ、やらなきゃいけないことがあるのに、どうしてそんなに優しくするんだ。やめて、くれよ、泣いてる場合なんかじゃないのに。

 

 泣かせないでくれよ。

 

 ——いいの、だろうか。

 

 僕は頑張っただろうか。あの子に報いられるだけのことをできたのだろうか。

 

 ——少しだけ、休んでも、あの子に怒られないだろうか。

 

 

『……怒られないから。大丈夫だから』

 

 

 途中から会話もなかったが、こんな優しい奴だっただろうか。ああ、駄目だ。意識がもうろうとする。さすがに限界みたいだ。

 

 

 最後に、ちらっと、——フェリスの方を見て。

 

 

 ——よかった。

 

 

 そう心の中で呟いて、ユウはテレシアの胸の中で眠りに落ちた。

 

 

 それはきっと人生で一番安らかな眠りだった。

 

 

◆◇◆

 

 

「——あれ、眠っちゃった…?」

 

 

 テレシアは困惑する。というより動揺している。いきなり目が覚めたと思ったら、年端もゆかぬ少年に剣で負かされていて、なんとなく状況を察して少年に語り掛けたら、少年はまるで信じられないという顔をして、手足を振るわせて、こちらに倒れこんできてしまった。

 

 咄嗟に受け止めると、彼は本当にまだ子供のように小さな体で。彼は、顔は全く似ていないけれど、昔の、剣の鍛錬でいつも無理して疲れ果てていたハインケルのようで、つい髪を梳いてしまう。すると少年はテレシアの腕の中で眠るように気を失ってしまった。どうしたものか。

 

 周囲を見渡せば、倒れている小さな子供に、背丈よりの大きな杖をもったピンクの子供。テレシアはその桃髪の女子に見覚えがあった。

 

 彼女は確か亜人戦役にて亜人を率いていた現代の魔女であったはずだ。

 

 この場において敵は彼女であると確信し、拘束しようとするも、身体は言うことを聞かなかった。

 

 おそらく自分は操られているか、何かしらの契約で縛られているのだろう。わたしには何もできない。

 

 故に。

 

 

「起きて、ねぇ起きて」

 

 

 気を失ったばかりの少年には酷だが、起こさなけばいけないと声をかけ揺する。

 

 すると、魔女はついに動き始めた。 

 

 

「……『ナナホシ』…『ユウ』……」

 

 

 そう一言呟いて。

 

 

「…君は、いったい。ああ、——知りたい。君が知りたい。ワタシは……。——ああ、そうだ。ワタシは悲願を……」

 

 

 スピンクスは、その感情の起伏を、生まれた情動をどうすればいいかわからなかった。しかし、スピンクスにはやらなければいけないことがある。故にスピンクスは斬り合いの最中に崩壊した魔法陣を復元し、再度起動した。

 

 

 魂の転写が始まる。人が侵してはいけない禁忌の領域が侵される。

 

 

「…起きてっお願いっ」

 

 

 何か、まずいことが始まっている。それがわかったため、より激しくユウを起こそうとするテレシア。

 

 すると。

 

 

「——ああ……そう何度も言うな、気が滅入る」

 

 

 ホクトが目覚めた。

 

 

「…君は」

 

 

 先ほどの少年とは別人だと直感したテレシア。しかし今はそれどころじゃない。動けない自分の代わりに、何か良からぬことをし始めた彼女を止めてもらわなければいけないのだ。

 

 

「…ううん、それより——」

 

「わかってる」

 

 

 そう言ってホクトはスピンクスに手のひらを向ける。そして——。

 

 

「——『デスピア』」

 

 

 そう短く唱えたと同時、紫紺の槍がスピンクスに放たれる。

 

 ホクトの両目が紫紺に輝き、地面に描かれた魔法陣を粉砕した。

 

 土埃が舞い、魔法陣が輝きを失った。

 

 

「ぐっ」

 

 

 その衝撃波でスピンクスが尻もちをつく。

 

 そんなスピンクスにホクトは手を構えたまま、テレシアに身体を支えてもらいながら近づく。

 

 

「………」

 

「………どうしたんだい。ワタシを、殺すんだろう?」

 

「……ああ」

 

「なら、一思いにやってくれ。未練はあるが、後悔はない」

 

 

 自分とは違い、死んだら目覚めるわけでもないというのに。まるでそれだけのことと言わんばかりに潔いスピンクス。

 

 

「……悲願はいいのか」

 

 

 これがきっと最後の会話だからか。ホクトは問いを投げかけた。これが最後。もう二度と会うことはない。だから、知りたくなった。

 

 

「…ワタシがそれを君に言う必要があるかい?」

 

「……そうかよ。あっそう。じゃあ」

 

 ——死ね。

 

 ユウの手元が光を放ち、スピンクスの上半身を抉り取った。

 

 

「………」

 

 

 上半身を失った下半身が倒れる。

 

 

 終わった。地獄の主を倒した。ボスを撃破した。ゲームをクリアしたような何とも言えない虚脱感が去来する。

 

 でも、まだ終わっていない。ホクトにやるべきことはまだ残ってる。

 

 

「…うん、次はわたしの番、だよね」

 

「………」

 

 

 本当にあのヴィルヘルムの妻なのか疑わしいぐらい若々しい『剣聖』テレシア・ヴァン・アストレア。

 

 

「あんたを殺す」

 

「うん」

 

「何か、言い残すことは?」

 

「……もし。もし、あの人に、ヴィルヘルムに会ったら、この剣を渡してくれないかな」

 

 

 そう言って、彼女が使っていた剣を差し出してきた。

 

 

「会わなかったら、貰ってくれていいよ、だから」

 

「…まるでオレがヴィルヘルムを知っているような口ぶりだな」

 

 

 まるでホクトが知ってる前提で話を進めるテレシアに、ついそう口をついて出てしまう。

 

 

「んーなんとなく、あなたはあの人の事知っている気がするのよね。もしかして知らない?えっとえっと『剣鬼』とかって呼ばれてて……渋くて、口下手で、愛してるなんて口で言ってくれなくて、でも、でもいつも、行動で示してくれて……っ」

 

「……ああ、もういい。知ってるよ」

 

 

 泣いているわけじゃない。でも、どこか無理して笑っている。やはり大なり小なり未練があるのだろう。

 

 

「ちゃんと届けてやるから、——安心してオレに殺されな」

 

「…そっか、優しいんだね。無理してない?」

 

「まさか」

 

「本当に?」

 

「………」

 

「気にしなくていいんだよ。わたしはもうとっくの昔に死んだ人なんだから。わたしの願いなんて背負わなくても」

 

「ハッ。あいつ並に烏滸がましいな。余計なお世話だ」

 

 

「そっか。うん。じゃあ、——ありがとう」

 

 

 ——会えてよかった、名もない優しい剣士さん。………あの人に、よろしくね………。

 

 

 名前なんて名乗らない。ホクトはその剣を研ぎ澄まされた剣技にて振るい、彼女の首を、彼女にもらった剣で、一刀両断した。

 

 

「………」

 

 

 終わった。

 

 終わった。

 

 

「……すぅ」

 

 深く息を吸って。

 

「……はぁ」

 

 思い思いに息を吐く。

 

 

 そうして、やはり限界の身体に休息を強制するように途轍もない疲労感が去来した。権能も使ったのだから猶更だ。

 

 

 ホクトは最後に力を振り絞って。

 

 フェリスの横に倒れ込む。

 

 そうして寝返りを打って、大の字になって。

 

 少しだけ、その横顔を見て。

 

 

 ——やっぱり、何にも思わないな。

 

 

 寂しそうに、その目を閉じた。

 

 

◆◇◆

 






 感無量な完了。
 疲れた、ユウくんと同じぐらい作者は疲れタ。
 ワタシは休まなければイケナイ。

 苦節三か月半、日数にして百十二日。
 やっと、牢獄から出られる。
 ワタシは前へと進めるのだ………
 ああ、疲れた………本当に………

 お付き合いいただきありがとうございマス。
 しかしまだまだ先は長いのデス。
 どうぞ覚悟してお付き合いくださいネ。


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【幕間】束の間の『幸福(ヘドニア)
『再会の一悶着』



 
 どうかご自愛を。四五


 

◆◇◆

 

 

『———ユウ』

 

 

 優しく包み込むような、少しだけ厳しい声。

 

 

『———ユウ!』

 

 

 無邪気で癒される、少しだけ不安そうな声。

 

 

『———■』

 

 

 知らない男の声、厳格で、少しだけ寂しそうな声。

 

 

『———■』

 

 

 知らない女の人の声、そこには確かな慈愛があって、少しだけ辛そうな声。

 

 ——あなたは、誰。

 

 その問いは口から出ることなく、女の人は続けて言った。

 

 

『———愛してる』

 

 

 ——僕も……。

 

 

 最後まで言えなかった。

 

 

◆◇◆

 

 

 

「……はっ」

 

 

 ユウは目を覚ました。

 

 とても、心地のいい夢だった。今までにないくらい、絶望も恐怖もなく、切なさはあれど、やはり幸せな夢だった。

 

 覚めたくない夢なんて初めてだったかもしれない。しかし、夢は起きなければならないもの。ユウは身体を起こした。

 

 そばにはフェリス、『剣聖』の使っていた剣。

 

 周囲を見渡せば上半身を失ったスピンクスの胴体に少しだけ積もった灰。

 

 

「……彼女も、殺したのか」 

 

 

 最後、気絶する間際、人としての遺志を取り戻していたはずだ。その彼女も今は灰となった。ホクトが自分の代わりにやってくれたのだろう。

 

 

「彼女のこと、ヴィルヘルムさんに伝えるべきだろうか……。いやでも、ヴィルヘルムさんはこのことを知らないはずだ。なら、知らないでいた方が……」 

 

 

 ——いや、今はそんなこといい。

 

 

 現実から目を背けてはいけない。怖がるな。待ちかねた再会だろう。

 

 すーはー、と確かに小さく息をするフェリス。起こすのを憚られる気持ちが湧くが、ユウは起こす決心をする。

 

 起こして、感動の再会をして、その声を聞くのだ。それがここまで辿り着いたユウの権利であり、褒美であるはずだ。

 

 ユウはとある恐怖を、不安を押しのけてその肩を揺する。

 

 

「……フェリス?……起きて」

 

 

 優しく壊れ物を扱うようにゆっくり慎重に揺する。その肌は柔らかく、その肌は愛おしく、その安らかな眠りを遮ることに背徳的な気分になる。

 

 

「………………ゆぅ……?」

 

 

 ゆっくりとその目を開いて、フェリスは言った。己の名を呼んだ。最初に自分の名前を呼んでくれた。

 

 嬉しい。感動的だ。感無量だ。

 

 なのに。

 

 ——何も、感じない……。

 

 ユウの心は何も感じなかった。

 

 ——どうして。——なんで。

 

 

「………ユウ?」

 

 

 不安そうに問うフェリス。

 

 ——不安にさせるな。

 

 答えろ。答えろ。その瞳を陰らせるな。

 

 

「…ああ。僕だよ、フェリス、ユウだ」

 

 

 記憶がなくても、確かに自分はここにいる。フェリスの前で一切のぼろを出すな。信じろ。僕をユウと呼んでくれるこの子を信じろ。

 

 

「……ユウ」

 

「…うん」

 

 

「…ユウ」

 

「………うん」

 

 

 なんで、こんな悲しい気持ちになる。なんで。なんで。

 

 フェリスを信じろよ。僕なんてどうでもいいだろ?

 

 ——フェリスは、僕を呼んでいるんだ。僕を、僕だけを。——『ナナホシ・ユウ』を呼んでいるわけじゃない。

 

 何を怖がってやがる。何を引け目に思ってやがる。疑われることを怖がるな。フェリスの身だけを案じろよ。

 

 でも、でも、知られたくない。知って、もし拒絶されでもしたら、僕は。

 

 信じきれない。

 

 ——フェリスがそうまで想ってくれているのは、——『本物(七星 憂)』の方じゃないのか。

 

 その不安が、その疑心が、ユウの声から自信を奪っていた。

 

 

「………」

 

 

 そんなユウをフェリスはじっと見て。

 

 

「…ん!」

 

 

 そう言って、手を広げた。

 

 

「……っ」 

 

 

 変わらない。

 

 例え僕が変わっても、君が変わらずに僕を想ってくれるなら。

 

 震えながら、その手でフェリスを覆って、懐にフェリスを招き入れる。

 

 心は何も感じない。でも、身体は確かな熱を感じる。何もかもがなくなったわけじゃない。

 

 きっと、フェリスといれば、きっとこの冷たく冷え切った心もいつか溶ける。きっとまた心からフェリスの声を聞ける時がくる。

 

 ——大丈夫。大丈夫。

 

 きっと、大丈夫だよ。

 

 

 

 そう安堵したら、なんだか、眠くなってきた。

 

 

 

 フェリスの抱擁は、とても心地が良くて、このまま二人で二度寝でもしようかなんて、思えてくる。心地よい睡魔。

 

 

 

 

 

 

 

 

 フェリスの手が、光っていた。その光は水の光。その幻想的な光は水魔法によるもの。

 

 

 ユウが夢現に落ちたのを確かめて、フェリスはその頬を、喜悦に歪めた。

 

 

 

「ユウ」

 

「…うん」

 

 

「疲れたよね」

 

「…うん」

 

 

「少しだけ眠ったらどうかな」

 

「…でも、まだやることが」

 

 

「少しぐらい平気だろう」

 

「…じゃあ、時間が経ったら起こして」

 

 

「ああ、必ず」

 

「…そっか。じゃあちょっとだけ、いいかな」

 

 

「——ああ、お休みなさい、『ナナホシユウ』」

 

 

 その声は無機質で、しかし確かな慈愛が籠っていた。

 

 フェ■スの水のマナはユウの身体をめぐり、そのオドに干渉する。干渉されたオドは一種の催眠状態であり、その言うことをまともに聞いてしまう。

 

 フ■■スの目的はわからないが、ユウはその言うことを聞いて眠りに就こうとしている。

 

 だが、そうはさせない。

 

 

 

『いいわけあるか』

 

 

 

 ユウの掌に不安定な薄紫のオーラが宿り、その手諸共、破裂した。

 

 その衝撃で■■■■は吹き飛ばされ、壁に衝突する。

 

 

「…ああッ……やはり、別人格なのだね。普通はどちらかがどちらかを染め上げるものだが、共存するタイプとは珍しい。やはり君は興味深い」

 

 

 勢いよく衝突した身体は所々折れ曲がり痛々しい姿にも関わらず——スピンクスは平然とその身体を治療して言い放った。すさまじい回復速度だ。

 

 

「……はっ」

 

 

 両手の痛みでユウも正気を取り戻した。そしてゆっくり、壊れた絡繰りのようにゆっくり、その方を見た。

 

 

 

「………フェリス?」

 

「うん?ああ、ワタシは、いや——ボクはフェリスだよ、ユウ」

 

「…ふぇりす?」

 

「ああ、聞こえているよ」

 

「………フェリス。…フェリスは、どこ?」

 

「ここにいるよ」

 

「…フェリスをどこへやった」

 

「………」

 

 

「答えろッ!!!」

 

 

 彼女は、フェリスではない。それは魔女、否、それは大切な子に憑りついた悪辣な、——悪魔である。

 

 

「もういない、と言ったら?」

 

 

 魔女はおどけたように残酷にもほどがある真実を告げた。

 

 

「———」

 

 

 脳が思考を停止していた。心が受け入れることを拒んでいた。

 

 

「……間に、会わなかった、のか?」

 

 

 しかし、考えるまでもなく答えはそこにあった。

 

 

「…ふぇりす。フェリス、なぁ、そこにいるんだろ?ねぇ、ふぇりす、フェリスなんでしょ?応えてよ、ねぇってば!」

 

「………」

 

「なんとか言えよッ!ああ、なんで、どうして……っ」

 

「………」

 

 

「……お願いだ……。フェリスを、返してくれ……。フェリスの声を、聴かせてくれ……。お願いだから……ふぇりすを、かえして」

 

 

「——それはできない」

 

 

 そこに希望はなく、されど絶望だけがあった。

 

 

「ははっはははははっ——あ゛ああああああああっ!!」

 

 

 から笑いののち、ユウは発狂し、破損した両腕を再生しながら悪魔へ迫り、その首を絞めつけた。

 

 

「うぐっ」

 

 

 ユウは殺さんばかりに腕に力を入れる。相手はフェリスの皮をかぶった悪魔だ。フェリスじゃない。

 

 ——殺してやる。殺してやる。殺してやる。

 

 ——死ね。死ね。死ねしねシネシネシネ!

 

 ユウの頭の中は殺意で埋め尽くされた。悪魔を殺すため、怒りに身を任せ、その手に理不尽な世界へ向けてありったけの呪いを込めて。殺意という思いを込めて。

 

 

 フェリスの気道が閉る。いいや、フェリスではない。こいつはフェリスの皮をかぶった化け物だ。悪霊だ。「う」

 

 悪霊の顔が青く染まる。首から頭へと流れる動脈を止める勢いで喉を締め付けているからだ。「あ。が」

 

 悪霊が抵抗する。やっぱり偽物だ。本物のフェリスなら抵抗しない。彼女は、僕になら殺されてもいいと、そうやって受け入れてしまう子なのだから。「ぐっ」

 

 こいつは、偽物だ。僕が殺すのはフェリスではない、この悪魔だ。悪そのものだ。「あ゛」

 

 

 こいつを殺して、フェリスを介錯して、僕も死ぬ、そうして戻ってまた、何度でも何度でも、その声を聴く為に死に続けるのだ。「あぐぁ」

 

 その為だったら、死ぬことなんて怖くない。フェリスの顔をした悪魔を殺すことなんて怖くない。何も怖くない。だから、だから、「っ」

 

 ——涙を流すんじゃない。

 

 泣くな、泣くな、泣くなっ。つらくない。苦しくなんてない。僕はまだ頑張れる。僕はまだ大丈夫。

 

 またやり直せばいいだけだ。また、また、また。

 

 

 

 いつまで、こんなことを続けなきゃいけないの。

 

 

 

「かはっ」

 

 

 気づけば、ユウの手から力が抜けていた。スピンクスは地に落ち、その上にユウは覆いかぶさるように彼女の両際に手をついた。

 

 必然、彼女の顔に雫が落ちる。

 

 

 ——殺せない。殺せない。僕には人を殺せない。

 

 ——ましてや彼女の顔をした子を、殺せるはずがない。

 

 

 ユウには殺せなかった。

 

 

「あぁあぁああ、うああああっうぇぇうわぁぁああっひっく………」

 

 

 もはや意味のない嗚咽を漏らして泣くことしかできなかった。どうして泣いてるのかもわからない。きっと疲れているんだろう。もう、何もわからないから、泣いているのだろう。

 

 

「………」

 

 

 醜く、不細工に泣きわめくユウを、スピン■スはただ、じっと見ていた。その顔は無である。

 

 

「ごめん、フェリス、ごめんなさい……」

 

 

 訳も分からず謝るユウ。それがフェリスではないと分かっていて、しかしその首を、ユウが絞めたことで痣のできた首筋を撫でて、謝り続ける。

 

 

 殺そうとしたことへの謝罪、殺せなかったことへの懺悔。

 

 

「………」

 

「大丈夫。大丈夫だから、僕は大丈夫だから。大丈夫、必ず君を助ける、だから、待ってて、君を助けるためなら……何度だってっ」

 

 

 だくだくと、もはや制御のできない涙を流して、自分は大丈夫だと偽って、無理をして、苦悩を抑え込んで、抱え込んで。

 

 ユウはゆっくりとそばの剣を拾って、ゆっくりとその剣を掲げる。——その矛先を自分に向けて。

 

 

「ああっ、うああっ、ひっく、うう」

 

 

 涙は止まらず、訳も分からず、その剣を腹に向かって振り下ろして。

 

 

 その剣が辿り着く刹那の間に。

 

 

 

 

 

 その小さな手が、その頬に触れた。

 

 

 

 

 

「———。」

 

 

 

 涙が止まった。どうにもならない感情の波が、溢れ出した情動が、その掌の温かさ一つで停止した。

 

 ユウはゆっくりとその手に自分の手を重ねた。

 

 そして、ゆっくりと、落ち着いて、その方を見て。

 

 

 

「………しな、ないで」

 

 

 

 ──心が、震えた。

 

 

 ──脳が、震える。

 

 

 ──魂を振るわせるその振動。その声音。そのすべて。

 

 

 ──抗えぬ慟哭が胸を穿った。

 

 

「フェリ、ス?」

 

 

「ユウ……ユウがいる……ユウ…——会いたかったっ」

 

 

 そう言ってフェリスはユウに抱き着いた。

 

 

「———。」

 

 

 心臓が壊れた。身体が壊れた。脳がおかしくなってしまった。

 

 心臓が爆音を鳴らして血を巡らせる。

 

 身体が言うことも聞かずにフェリスを抱きしめた。

 

 脳が、有り得ない多幸感で満たされて、何も考えられなくなってしまった。

 

 

「ユウ?」

 

「……ああ、あ、ああ…」

 

 

 ——フェリスだ。フェリス。フェリスだ。いや、偽物?まさか、でも、でも、これは。

 

 

「——大丈夫?」

 

 

 ————————————————。

 

 

「大、丈夫、じゃ、ない、かも……?」

 

「えっ、ど、どこかいたい?」

 

「ううん、ううんっ。今、大丈夫になった。今、全部、ぜんぶ、なにもかも、よくなったっ」

 

「?」

 

 

「…フェリス」

 

「うん?」

 

 

「——会いたかった」

 

「うん!」

 

 

 そう言って、互いに互いを抱きしめて、ようやく。

 

 

 二人は再会を果たしたのだ。

 

 

◆◇◆

 



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『約束』


 口ばっかり達者になっちゃって。八一


 

◆◇◆

 

 

 物事は捉え方次第、ということは往々にしてある。

 

 例え同じ現象だとしてもそれを観測する者によって見えてくるもの、紡がれる結果はまるで異なる。

 

 

 時に幸福は人を堕落させる快楽となる。

 

 時に信頼は人を殺す毒となる。

 

 時に希望は人を盲目にする光となる。

 

 時に夢は人を閉じ込める牢獄となる。

 

 時に愛は人を縛る鎖となる。

 

 時に救いは──。

 

 

 じゃあ、どうするのが正解なの?

 

 じゃあ、どうすればいいの?

 

 じゃあ、どうしたら幸せに──。

 

 

◆◇◆

 

 

 今、ユウは確かな幸せを感じていた。

 

 場所は埃っぽく閉鎖的な地下牢。

 そこにロマンチックなどかけらもなく、あるのは血生臭さと汚らしい人間性だけだった。

 

 しかし今の二人には関係なかった。

 この世の飢餓も、誰も死も、不条理な運命も、すべてが消失し浄化され、音は消え息も聞こえず瞳を閉じてただ温もりだけを感じる世界。

 

 

「───。」

 

 

 ──ああ、幸せだなぁ。

 

 ユウは内心、救われた気持ちでいっぱいだった。

 ユウは報われた。これまでの絶望も諦観も過ちも、すべてが浄化され天に召され無に帰した。

 その絶望も、その苦しみも、すべてはこの時の為にあったのだと、そう心から思えるほどに。

 ユウの精神は今、安寧を得た。

 

 ──ずっと……このままだったらいいのに。

 

 ずっと、このまま、時間が止まってくれたなら、これ以上進まないでくれたなら、そう思わずにはいられない。

 しかし、その快楽にユウは飲まれない。飲まれてはいけない。

 離しがたい、離れがたい、しかし離れなければいけない。

 ユウはその幸せの温もりを確かに感じながら、ゆっくりとその身をフェリスから離した。

 

 

「──フェリス、いや、スピンクス、だな。」

 

「──へぇやっぱり変わった瞬間わかるものなのかい?外面上は何の変化もないはずだが」

 

 

 離れた途端、フェリスは表情を変え、スピンクスへと入れ替わった。

 

 

「フェリスは、生きてるんだな」

 

「……ああ、まだ彼女の魂はこの体の中にある。今は少し眠ってもらったが、彼女の魂に別状はない」

 

「…そう、か」

 

 

 フェリスの身体で淡々と話す魔女の姿に、もうユウが取り乱すことはなかった。

 フェリスとの再会と抱擁はユウの心に最大の安寧を齎した。

 今のユウは発狂することも取り乱すこともなくその言葉を冷静に受け止められている。

 

 

「僕は、どうすればいい」

 

「……どう、とは?」

 

「僕はフェリスを助けたい。──その為ならどんなことだってする」

 

「───。」

 

 

 ユウが言いたいことはつまり、なんでもするからフェリスと一緒にいさせてくれと、そういうことだ。

 スピンクスはそのあまりの落ち着きようにむしろ違和感さえ覚えた。

 先ほどまで狂ったように泣きわめていた人物とはまるで別人だ。

 その瞳に迷いはなく、その瞳は純粋に真っすぐこちらを見つめていた。

 

 

「──ボクはスピンクス。その正体は強欲の魔女のなり損ないだ」

 

「………」

 

 

 スピンクスは改めて、自己紹介から言葉を始めた。

 ユウはそれを黙って聞いている。

 ユウはそれを知っているし、本人に言ったこともあるが、それは別の世界線の話であり、この世界においてユウがそれを知っていることを、スピンクスは知らない。

 故にスピンクスはその反応に釈然としていなかった。

 

 

「……驚かないのかい?」

 

「驚く?何が?」

 

「……えーっとひょっとして強欲の魔女を知らない?なるほど、それもそうか。そうならばその反応も仕方ないだろうね」

 

「え、いや、強欲の魔女は知ってる、けど。というか、君の正体はとっくに知ってる」

 

「え、えぇぇ~~?」

 

 

 素か演技か知らないが、どうにも緊張感に欠ける反応をするスピンクス。

 ユウとしては例えどんなに不平等な契約を結んででもフェリスから魔女を追い出すことを考えていたのだが、どうにも話が噛み合っていない。

 あまりにユウが今まで見てきたスピンクスという魔女とは打って変わって表情豊かに話す様はかえって不気味である。

 ──その様はまるで原作の『エキドナ』そのものであった。

 故に、これは演技の可能性が高い、ユウはそう結論付け気を引き締めた。

 ユウはあーだこーだ呟いているスピンクスに言葉を投げかけた。

 

 

「お前のことなんて、どうでもいい。僕はフェリスを助けたいだけだ。フェリスが無事ならそれでいい。だから、どうしたらフェリスの中から出て行ってくれるのか、その条件を言ってくれ。それをしてくれるなら、僕はどんな契約だろうと飲む。だから──」

 

「……そうまで覚悟を決めているところ悪いが、それはできない」

 

「……っ」

 

 

 何度も聞いてきたその拒絶に、必然ユウの眉間にしわが寄る。しかし今のユウはその言葉を受け止め、さらに尋ねる余裕があった。

 

 

「…どうして。理由は?」

 

「…──理由は三つ」

 

 

 魔女は指を三本立ててこちらに見せてきた。

 

 

「一つ、ボクがこの子の身体から出ていくにはもう一度『魂の転写』を行う必要があるが、そうなれば──この子の魂諸共、次の器に移ることになる。ボクだけが出ていく為には新たに魔法の術式を作らなければならない。

 一つ、この子には類稀な水魔法の適正、特に治癒魔法への適正が、そしてそれを扱えるだけの才能があるが、それ以外は並みか、それ以下だ。故に、さしものボクであっても今の状態で『契約魔法』は使えない。

 ──そして一つ、ボクはボクの目的の為に、その目的が達成されるまで──この子の身体(ちから)を手放す気はない」

 

「──っ」

 

 

 魔女は理路整然とできない理由を述べた。

 それが嘘か本当か、ユウにはわからない以上、信じるほかない。

 その言葉が真実であるのならば、現状、ユウにできることはないに等しい。

 だが──。

 

 

「──しかしこれはあくまで今すぐに解決しようとするならば、の話だ」

 

 

 続けて魔女は言った。

 

 

「もし、君が本当にこの子が解放されることを願うなら。もし、現状を許容できるなら。ボクと契約ではなく──約束を結んでほしい」

 

「約、束?」

 

「そう、約束だ。君も、ボクと契約するのは気が滅入るだろう」

 

 

 まるでユウを気遣うようなスピンクス。

 

 

「君が約束してくれるなら、ボクは通常時の主人格をフェリスに譲り渡し出てこないことを約束しよう」

 

「───。」

 

 

 魔女は言った。それはつまり──フェリスと一緒に、これからも過ごせるということ。

 じゃあその約束とは何なのか。

 ユウは固唾を飲んで、問うた。

 

 

「その、約束っていうのは?」

 

 

 ──ボクを『聖域』まで、──『強欲の魔女の墓所』まで連れて行ってほしい

 

 

 魔女は言った。

 

 そして、次なる目的地が決まったのである。

 

 

◆◇◆

 

 

「──ナナホシユウ。本当にいいのかい?」

 

 

 スピンクスは問うた。

 

 

「何が言いたい」

 

「……君はボクが──憎くないのかい?」

 

「………。」

 

 

 スピンクスは問う。自分が憎くないのかと。

 否、憎いはずだ。憎くないはずがない。

 スピンクスがユウに行ってきた非道の数々を思えば、スピンクスの提案する約束など一考の余地もなくて然るべきだ。

 しかし、ユウはその提案を了承した。

 なぜなら──。

 

 

「憎い、憎くないって話をするなら……憎い……いや、わからない」

 

「───。」

 

「殺してやるって、何度も思ったし、実際一度はお前を殺した。でも、今は、わからない。多分、お前のことより今はフェリスの事が心配だから、だと思う。……というか、お前がフェリスの身体に入ってる時点で僕に拒否権なんかないじゃないか」

 

「…そうだね。この子を人質にしているボクが言うべきことではないのだろう。しかし君には何か、それを解決する手段があるんじゃないのかな?──先ほど剣を腹部に突き立てようとしたのは、その為の儀式のようなものではないのかい?」

 

 

 スピンクスは何かを察しているようだ。

 ユウの言葉や行動からユウが何かしらの“やり直す力”もしくはそれに類する力をもっていると考えているのだろう。

 ユウは言うか言わざるか、しばし思考する。

 答えはすぐに出た。別段隠す理由もない。 

 

 

「……あるよ。融通の利かない不便な力が」

 

「……それを、使わないのかい?」

 

 

 抽象的に濁してその存在を示唆すると、スピンクスはそう問うてきた。

 ユウは彼女の考えが分からなかった。彼女はやり直すことを勧めているようだった。

 彼女からすればユウが約束を結ぶことに何の問題もないはずだが。

 それは彼女の気遣いか、好奇心か。あるいはその両方か。

 

 

 確かに、今自害して死に戻りしたなら、今度は『魂の転写』が発動する前にフェリスを助け出せるかもしれない。

 そうすれば魔女と奇妙な約束をすることなくフェリスと一緒にいられるかもしれない。

 

 

 ………。

 

 自分はそうするべきなのだろうか。本当にフェリスを想うなら、自分をまったく顧みないのであれば、きっとそれが正解だ。

 スピンクスの提案なんて許容せずフェリスを真に自由にするために死に戻りして、完璧に救い出せるまで繰り返すのが正しい。

 僕の決めた覚悟は自分にそうあることを定めたはずだ。自分なんて気にせずに、フェリスの為だけを思って繰り返す。その先に自分という存在がいなくても、僕はそれで満足であったはずだ。

 

 ………。

 

 じゃあ、なんで僕はそれをせず、スピンクスがフェリスの中にいることを受け入れ、約束なんて結んでいるのか。

 僕は欲張っているのだろうか。欲を出してしまったのだろうか。

 もう死にたくない。もう嫌だ、そうやって自分にとって楽な道に逃げてしまったのだろうか。

 フェリスと一緒にいたいだなんて、そんな欲を出してしまったのだろうか。

 

 

 どうして自分は──。

 

 

「……フェリスが、死なないでって。そう言ったから。だから僕は──」

 

 

 僕はフェリスを言い訳にしているのだろうか。わからない。

 やり直すべきかどうか。その答えは決まっていて、僕は自ら間違った道を選ぼうとしている。

 

 間違っている。僕は間違っている。

 

 しかしそれはいつものことだ。そう開き直るつもりはない。

 ──ただ、間違いを選ぶ覚悟はちゃんと決めて、それから全力で間違いにしない努力をしよう。

 

 

「お前と約束を結ぶ。お前を墓所まで連れて行く」

 

「……そうか。それが君なのだね。ナナホシユウ──ありがとう。それと、先ほどは意地悪をして悪かったね」

 

「…気味が悪いな。お前本当にスピンクスなのか?今までとはまるで別人じゃないか」

 

「…ああ、それは色々と訳があるんだが、そうだね。君には関係のないことだ」

 

「関係ないって、」

 

「ああ、関係ないこと。だから、ボクが君に、そしてこの子に行った数々の非道はすべてボクの所業でありボクの責任であることに間違いはない。君にはボクを憎み殺す資格と権利がある」

 

「…言ったろ。僕はフェリスを助けることしか考えてない。僕の感情はどうでもいいし、お前がどうなろうと知ったことじゃない。──それより、お前の方こそ僕が約束を破るとは思わないのか?」

 

「これは変なことを言う。約束を破る人間はまずそんなことは言わないし、ボクがこの子の中に入っているにも関らず君がむやみに約束を破るとは思えないが?」

 

「そうだ。だから、──お前は僕に一方的に命令できるはずだ。なんで命令しない」

 

「──。」

 

「なんで約束なんて回りくどいことをする」

 

「…もしボクが命令で君を強制的に縛り脅し操ったなら、君はボクを信用できるかい?」

 

「信用?」

 

「そう、それこそ目的が果たされたときボクがこの子を解放しない、という可能性もある。」

 

「………」

 

「それに君にはなにかしらの奥の手があるようだし、そんなリスクの高い手は取らない方が合理的であるとボクは考えたまでだよ。──それと、君を虐遇(ぎゃくぐう)し苦しめたボクからの、君に対する最低限の誠意でもある」

 

 

 誠意。

 

 

「ナナホシユウ──すまなかった。君へのあらゆる所業を謝罪する。」

 

「……今更、謝罪なんていい。僕はお前を許すことも許さないこともしない。でも、フェリスにはちゃんと謝れ。そんでもってフェリスの中に居座るのなら何があろうと──フェリスを守れ」

 

「──ああ、約束しよう。この子に危険が迫ったならボクは全力でもって対処する」

 

「…必要なとき以外出てこなくていいからな。基本的にフェリスは僕が守る。なんなら『聖域』まで出てこなくてもいい」

 

「ふふ、つれないな。これでもボクは女の子なんだけどね。では、ボクが必要な時は呼んでくれ……必要がなくても呼んでくれてもいいんだけどね?」

 

「そういうのいいから、早く変われ」

 

「本当につれないな、君は。まぁいい。では」

 

 ──また会おう。ナナホシユウ──………。

 

 その言葉を最後にスピンクスは目を閉じ、その場にゆっくり倒れた。

 ユウは彼女の存在がフェリスのものへと変わったのを理解した。

 

 

「……フェリス?」

 

「……ユウ……ユウ……」

 

 

 ユウは何度聞いてもその声に幸せを感じた。

 ユウはフェリスを抱き起し懐に抱える。

 フェリスの小学生くらいの体に対して今のユウは中学生くらいの体格だ。フェリスはユウの懐にすっぽりとはまって暖を取った。

 

 

 フェリスは自分の中にいるスピンクスをどう思っているのだろうと、ユウは考える。

 フェリスにとってもスピンクスは恐怖の対象であったはずだ。そんな存在が自分の中に居座っていることを、フェリスは受け入れているのだろうか。それとも、まだそのことを知らないのだろうか。

 知らないのであればむやみに聞くわけにはいかないし、知っているのであればそこに苦悩や不安を知っておきたい。

 そんなユウをよそに、フェリスは呟くように言った。

 

「…ユウ」

 

「うん、なに?」

 

「──ごめんなさい」

 

「…え?」

 

「──ごめんな、さい。ごめんなさい。ごめんなさいっ」

 

「ちょ、ちょっと待って、どうしたの?」

 

「わたしっわたしは、ユウに助けてもらう資格なんて、ないのにっ」

 

「……どういうこと?」

 

「わたし、ユウのこと、傷つけたっユウは、ユウは、わたしのせいでたくさんくるしかったよね、いたかったよね、ごめん、なさい、ぼく……ごめんなさ──」

 

「──フェリス」

 

「っ」

 

「──ばかだなぁ。ばかだよ。すっごいばか。あぁもう。ね、フェリス。」

 

「──ぇ?」

 

「──大好きだよ」

 

 そう言ってユウはフェリスを抱きしめた。それがきっと、言葉以上に想いを伝えられる方法だったから。まだ言葉の足らない子供にも確かに伝わる──唯一の愛だから。

 

「っユウ」

 

「大丈夫。大丈夫。──君が謝るなら、僕も謝らなきゃいけないよね、ごめんねフェリス、ごめん、僕が弱かったからっ僕が無力だったから、君を一人に、してしまった、君との約束をっ破りかけたっ」

 

 言っていて、ユウも罪悪感が溢れ出した。口にするたびに嗚咽が混じる。

 諦めようとしたこと、信じきれなかったこと。フェリスの苦しみに気づけなかったこと。

 すると今度はフェリスが否定する。

 

「そんなことない!そんなことないよ!あれはわたしが勝手にやったことで!ユウが悪いなんてこと、ぜったいない!」

 

「ううん。僕が弱かったのは事実。君を一人にしちゃったのも事実。」

 

「…っ」

 

「でも──ありがとう」

 

「……え?」

 

「──フェリス。僕を助けてくれて──ありがとう」

 

「──っ」

 

「君の存在が、君の声が、君の温もりが、僕に力をくれたんだ。君が僕を救ってくれた。今も、昔も、ずっと君に救われてる。だから、ありがとう」

 

「わたしはっ、なにもできなくて、だからっ」

 

「そんなことない。──君が死なないでって言ってくれたから、今僕はここにいられるんだ。君が君であることが、僕にとって何よりも救いなんだよ」

 

「でもっでもっ」

 

「ね、フェリス。」

 

「……なに?」

 

「これは人の言葉なんだけどね。──ごめんなさいって言われるより、ありがとうって言われた方が嬉しいんだよ?」

 

「───。」

 

 フェリスは、自分の言うべき言葉を理解した。

 

「…ユウ──約束、守ってくれて、ありがとう」

 

「…うん」

 

「約束。ずっと一緒にいるって約束守ってくれて、置いていかないでくれて、ありがとう」

 

「…置いていくわけないだろ。それに、約束はまだ終わってないからね。ずっと一緒にいる。これからもずっっと、フェリスと一緒にいる。──約束だ。もう、絶対。離さないから」

 

「うん……っ」

 

「こんなところからはさっさとおさらばして、空を見に行こう」

 

「…うん…」

 

「この世界に海はないらしいけど、山も湖も川も大地も何もかも、一緒に見に行こう?」

 

「…うん…一緒に……ず、っと………い、っしょ………すぅ…」

 

「……フェリス?」

 

 

 寝てしまった。泣いて笑って、感情の起伏が激しく披露したのだろう。あるいは人格の交代の問題だろうか。思ったよりも体力を使うのかもしれない。いや、元々フェリスはあまり体力のある子じゃない。

 

 なら、はやくフェリスが安心して眠れる場所を見つけよう。

 

 

「──ホクト」

 

 

『ほ~ぁア、あ?やっと話し終わったのか?』

 

「ああ、こんなところさっさと抜け出したい。力を貸してくれ」

 

『…ほーん、いいのかぁ?オレに身体渡して』

 

「ああ、全力でぶちかませ」

 

『クックク。ああそうかよ!なら──ご期待に応えようじゃーねぇの!』

 

 

 ユウは立ち上がり、片腕でフェリスを抱え、片腕を天井へと向ける。

 

 そして両目の虹彩を紫紺に輝かせて力を解き放つ。

 

 

「──『憂鬱なる権能』──」

 

「其は最強にして夢幻の矛」

 

「すべてを貫き、すべてを穿て!」

 

 

「──『神鎗(シンソウ)』──グングニル!!!」

 

 

 ホクトが伝説の槍の名を叫ぶと、巨大かつ莫大なオーラが可視化され集約しまがまがしくも神々しい一本の槍が具現化する。

 その装飾は無骨であり一見してただの紫色の朧気(おぼろげ)な槍である。

 しかし、伝説の名を授けたその槍はユウが叫んだと同時に自らの頭上に存在するすべてを穿ち、崩壊させた。

 

 槍は大地を突き進み、地上を突き抜け、天に佇む暗雲を切り裂いてユウたちのいる地下深くまで晴天を齎した。

 威力は絶大、その槍はまるで自らの上に存在するすべてを赦さぬと言わんばかりに頭上にあるすべてを有耶無耶に蹴散らした。。

 その様はまさしく最強の矛。まさしく傲慢。憂鬱にして傲慢な力である。

 ホクトはユウが繰り返す間に己の力を確立していた。不安定だった力は開花し、ホクトは『権能』としてそれを自らの力に落とし込んだ。

 

 

「………」

 

 

 パラパラと塵埃が舞い散りユウの頭上に舞う。

 それだけでなく久しく感じていなかった日光がユウの目を焼いた。

 外は朝なのか、などいろいろと思うこともあるがそれよりなにより──なんだこの威力。

 

 ユウは、その馬鹿みたいな威力に絶句していた。

 自分がやれと言ったもののここまでとは思っていなかった。

 いったい自分が剣で頑張っていたのはなんだったのかと、そう思わざるを得ない。

 これだけの力があったなら、ホクトは簡単に『剣聖』も『魔女』も打ち倒せただろう。 

 

 

「……お前……」

 

『あん?んな顔されてもな、お前がやれって言ったんだろが』

 

「…限度を考えろよ。空に風穴空けてるじゃないか。ていうかなんだよグングニルって、厨二病?やっぱりネーミングセンスないなお前」

 

『お前にだけは言わせねェ』

 

 

「……こんな深いところにいたんだな僕たち」

 

『あァオレの力が弱かったら生き埋めになってやり直しだったな!アッハッハ』

 

「……」

 

 

 笑えない。さすがに今のはユウ自身の不慮だった。

 危なかった。こんなしょうもないことでフェリスを死なせるところだった。

 自由になれる解放感で気が抜けていたのかもしれない。

 

 

「はぁ……まぁいいや今のは僕が悪い。じゃ、足場作ってくれ。早く出よう」

 

『ったく、思慮が浅ェ上に自分使いが荒ェな。僕チャンは。ほらよ』

 

 

 ホクトはその場に紫の足場を生成した。槍を作るのと原理は変わらない。

 ユウはその足場に乗って重さで壊れない確かめ、大丈夫なことを確認して、そうして。

 

 

 足場は浮き出した。地上へ向かって。

 

 

 

 ──何年ぶりだろう。もうずっと地下にいたような気がする。

 

 ──これからはフェリスと生きていくんだ。フェリスと二人で、この世界で。

 

 ──でもまだだ。まずはスピンクスとの約束を果たすために『聖域』を目指す。あいつがいなくなって初めて、本当にフェリスと一緒になれるんだ。

 

 ──それが済んだならいろんなところへ旅をしよう。

 

 ──お金を稼いで、宿に泊まって、おいしいものを食べて──フェリスと一緒に。

 

 ──そうするのが、今の僕の生きる意味であり目標。

 

 

 ユウとフェリスは白光に包まれた。

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──これは……──貴公が、やったのか?」

 

 

 そこにいた翡翠の君に、選択を迫られるのだった。

 

 

◆◇◆

 




 
 『カタルシス(古代ギリシア語)』
 ⇒哲学および心理学において『浄化』を意味する。
 また負の感情を吐き出すことで気持ちが楽になることをカタルシス効果という。
 
 wikipediaより



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『空を満たす星』


 空っぽの胸をどうか満たしてくださいお星さま。四四


 

◆◇◆

 

 

 光を抜けた先には数十の兵士と、カルステン公爵家当主メッカ―ト・カルステン、そして──。

 

 

「ここで何をしている」

 

 

 そのフェリスと似た琥珀(コハク)の瞳がこちらに向けられていた。

 

「──クルシュ、さん」 

 

「私を知っているんだな。なら話は早い。我らはカルステン公爵家からの使者。この地の領主であるビーン・アーガイルが人道に反することを行っているという情報を得て調査に来た。それで──この惨状は貴様が原因で間違いないな」

 

「………」

 

 クルシュはユウを鋭い目つきで睨んでいる。

 

「もう、そんな時期なんだ。時間が経つのは早いなぁ」 

 

「何を言っている」

 

「ああ、クルシュ。クルシュ………クルシュ。ああ、駄目だ。ダメなんだ……そっか、僕はもう……」

 

「何を、何を言っている!」

 

 

「僕はもう──あなたを愛していない」

 

 

「──っ?!」

 

 クルシュには理解できない。

 ただクルシュはその瞳に秘められた悍ましい執念を、己の持つ『加護』によって垣間見た。

 男は嘘を言っておらず、至って正気であること。

 そして──重度に汚染された魂をもって濁った風を吹かせていることはわかった。

 

 

「訳の分からないことを言うな!貴様は何者だ!──総員、配置につけ!」

 

「「「「「はっ」」」」」

 

 二十ばかりの兵士がユウを取り囲む。

 

「………」

 

 ユウは周囲を漫然と見渡した。

 皆一様にこちらを睨んでいてピリピリしている。

 

 ──なんで、こうなるかなぁ。

 

 せっかく出た記念すべき日に、タイミング悪くクルシュたちの救出作戦と被るなんてことがあるのだろうか。いやありえないだろう。そんな偶然、もはや必然。

 否、運命ではないか。

 

「───」 

 

 ユウはその腕に抱くフェリスを見る。

 ここにクルシュがいることに、ユウの心は動かなかった。

 

 もう、ユウは選んだ。

 もう、ユウは定めた。

 ユウは、もう、夢を見た。

 

 だから──。

 

 

「投降するんだ。──その子を解放し、こちらへ引き渡しなさい。さもなくば──っ」

 

 その言葉と同時、男は子供をその場に横にし、クルシュに斬りかかっていた。

 

「──やっと──やっと──やっと──やっとの思いで──ここを出たんだ。ここまで来たんだ。フェリスと──一緒にいれるんだ。だから──その邪魔をしないでくれ」

 

「──ッ!」 

 

 まだ技量の浅いクルシュなど剣聖に打ち勝ったユウには雑魚同然だ。

 ユウは容易くその剣を弾き飛ばして切り裂かないよう最低限の手加減をしてクルシュを弾き飛ばした。

 

「クルシュ様!!」「このッ!」「覚悟!」

 

「──弱い」 

 

「「「ぐあ─ッ!」」」

 

 ──邪魔だ。ジャマだ。めんどくさい。煩わしい。僕を煩わせないでくれ。僕の──。

 

 何も感じないのに、ただ煩わしさを感じるユウ。その不快感ともどかしさが、怒りとなって溢れ出し、赤光となって瞳に表れる。

 

 一刀で、襲い掛かってきた騎士たちを一蹴した。

 

「──落ち着け、皆のもの」

 

 ここまで黙っていた。メッカ―トが口を開いた。

 

「見た目に騙されるな、奴は強い。油断せずに周囲を囲め、逃がす隙を与えるな」

 

「…当主さん」

 

「貴様が何者かは知らないが、我が領で蛮行を為すならば容赦はしない」

 

「あなた自身別に強くもないくせに、偉そうだね」

 

「ふむ、剣は久しく振るっていないが、私は領主。国よりこの地を任された領主である。ただ命令を下すだけの木偶の坊にあらず、舐めていると痛い目を見るぞ──若造」

 

「……あなたの実力なんて、ああ、よく知ってるさ当主さん」

 

 

「クルシュ、カイン、いくぞ」

 

「はい!」「ああ」

 

 当主、クルシュ、そしてカインと呼ばれた選りすぐりの騎士がユウに襲い来る。

 

「──ッ」

 

 一対一であればどうとでもなる雑魚たち、だが、三対一となれば有利は傾く、ユウは三対一の戦いなど適応していないのだから。

 

 ──やめてよ。

 

「はっ!」「は─ッ」「ふッ」

 

 ──やめようよ。

 

「──ッ!」 

 

 ──やめてくれよ、そんな目で、見ないでくれ。

 

「ぁぁぁぁぁぁあ゛あああああああああ!!ヤメロォォぉォォォォ─!!」

 

 両手で顔を覆って突如発狂するユウ。

 

「くっこれはッ」

 

 凄まじい暴風が三者を吹き飛ばす。

 怒りの狂風、荒れ狂う暴風。

 

 しかしその中に悲しみが紛れていることを、クルシュだけが感知した。

 

「………」

 

「もう、いい。もういいよ」

 

 男は後ずさるように後ろへ下がって、子供の前に戻った。

 そうしてしゃがみ込み、優しい手つきで子供を抱え込んだ。

 

「あなたたちとは、ここでさよならだ。──ホクト」

 

『……ん』

 

 何もない空中に突如、薄紫の板が出現し、ユウはそこに乗る。

 

「待てッ」

 

「その子をどうするつもりだ!」

 

 どうするつもりも何もあるか。

 僕はただ、一緒にいたいだけ、一緒にいるって約束したんだ。

 

 足場が浮遊をはじめだんだんと地上から離れていく。

 

「奥さんによろしくね。──さようなら」

 

「っエルフーら──」

 

「クルシュ、やめなさい。あの子に当たるかもしれない」

 

「くっでは、どうすればっ」

 

「領地全土に厳戒態勢を敷く、絶対に逃してはならない──彼は危険だ」

 

「…わかりました──衛兵!!」

 

 

 

「………」

 

 

 既に高度は遥か上空。すべてが小さく人は蟻のようだ。

 

 何も感じなかった。きっともうユウはクルシュに思い入れなどないのだろう。ユウはもう決別したのだ。フェリスを選んだ。フェリスと一緒にいる。フェリスと一緒に生きていく。彼女を守り、彼女を幸せにする。

 

 でも、なんだろう。

 

 なんでだろう。

 

 涙も、悲しみもないのに。

 

 ただ、心に風穴があいたような。

 

 そんな喪失感を感じた。

 

 

 なんでなのだろう。──わからない。

 

 

 ユウはルグニカ王国で指名手配された。

 

 

◆◇◆

 

 

 ■■■■■■は暗闇の中にいた。

 

 

 そこには痛みがなく、苦しみがなかった。

 

 静かで一人で慣れ親しんだ場所。

 

「………」 

 

 なのに、■■■■■■はどうしようもない拒絶を感じた。

 

 ──いやだ。

 

 いやだ、ただその嫌悪感が胸を占めて、溢れ出した。

 

 

「いやだ、いやだよ………誰か、誰か──だれ?」

 

 

 するとそこに、一陣の風が吹いた。

 

 ■■■■■■の頬を風が撫でる。

 

 風は■の頭を撫でて■を包み込んだ。

 

「っ!」

 

 暗闇は一転して明るく長閑(のどか)な草原へと変わり、世界に色がついた。

 

 ──あったかい。

 

 その風は優しく、息をするごとに空っぽの胸を満たす特別な風だった。

 

 風は■とともにいてくれた。 

 

 その風は■を変えた。

 

 その風は■に名前をくれた。

 

 その風は■■の世界を変えた。

 

 もう、その風なしでは■女は耐えられない。

 

 彼女はもう、冷たくて寂しい元の世界には戻れない。

 

 しかしその風が桃色の悪魔に奪われそうになった。

 

 だから、彼女は、フェリスはその風を、いいや、ちがう。

 

 風は、彼は──。

 

 

◆◇◆

 

 

「ユウ」

 

 

 フェリスは目を覚ました。

 とても嫌な夢を見ていた気がする。

 

 ──さむい。

 

 身体ではなく心が冷え切っていた。

 不安と寒気からフェリスは身体を抱きしめて声を出す。

 

「ユウ?ユウっ?どこ─っ」

 

「ここにいるよ」

 

 返答はすぐだった。

 フェリスは後ろから抱きしめられた。

 

 ──やっぱりあったかい。

 

 この温もりが、フェリスのすべてだった。

 

「一緒にいるよ。絶対、一人になんかしないから。だから安心して、ね?」

 

「…うん」

 

 その声音は優しさに満ち溢れていて。

 その鼓動を聴いていると落ち着く。

 頭を撫でるその手は温かかった。

 

 フェリスはユウに身を寄せて暖を取る。

 

 ふと、フェリスは気づいた。

 

 ──明るい……?

 

 フェリスの手に透き通った白い光が当たっていた。

 

「──フェリス、気づいた?」 

 

「え……?」

 

「じゃあ──さっそく行こうか」

 

「え、え?」

 

 フェリスは浮遊感に襲われた。

 

 上を見るとそこにはなにか緑色のものがあって。

 

 その隙間から見たことのない白くてきれな光がさしていた。

 

 ずっと暗闇にいたフェリスにはまぶしくて、少し目をつぶってしまう。

 がさがさと音がした後、フェリスにも緑を超えたのが分かった。

 そして、ゆっくり、明るさに慣れてきた猫目を開いた。

 

 

 そこには。

 

 

 黒い天井に、たくさんの宝石が輝いていた。

 

 

「わぁぁぁ……!」

 

 

 フェリスの瞳が、夜空に浮かぶ満天の星々に照らされて、金色(こんじき)に輝く。

 

 わからない。

 フェリスにはそれ()がなんなのかわからない。

 

 ただ、でも、その美しさに、その輝きに、ただ、魅入られていた。

 

 

「すごい……っ! 

 ねぇっユウっ! すごいよ!

 すごいすごい……!」

 

 

 そこに語彙力なんてなくて、ただすごいとしかわからなくて。

 

 

「うん……すっごいね」 

 

「うん! すっごい! これ、なに……っ!」

 

「──これが空だよ」

 

「そら……!

 そっかぁ、これがそらなんだ……きれい……」

 

「……っ!」

 

 

 ユウは、泣きそうだった。

 感動で、切なくて、胸が苦して。

 でもそれ以上に嬉しかった。報われた。救われた。

 

 ユウは今までの百に近い死をその瞳を閉じて想起する。

 それは暗くて痛くて怖い、嫌な記憶。

 

 たくさんのものを失った。

 最初にクルシュを失った。フェリスを失った。

 

 ここに来てからもいろんなものを失った。

 痛い記憶が蘇る。

 二年にも及んだ拷問の数々。

 

 身体がバラバラになった。ぐちゃぐちゃになって。食われて、壊されて、治って、砕かれて、散々な目にあって、嫉妬の魔女に記憶を奪われて。この世界の記憶を失って、フェリスたちの記憶を失って。

 それでもなんとか傲慢のおかげで取り戻して、でもその傲慢も失って。

 

 一年も閉じ込められて、無力と孤独に蝕まれて。 

 そしたら今度は訳の分からないやつが自分の中に生まれた。

 

 そいつは僕の身体を奪おうとして、フェリスを見捨てようとした。

 かと思ったら今は助けてくれてる。

 

 そこから意地張って、死にまくって、頑張って、ただ我武者羅に頑張って、そうしてやっとここに辿り着いた。

 

 クルシュと決別した。もう、会えないのか、何も思わない、思ってないはずだ。何も感じなかったのだから。

 

 でも胸が空っぽになった。

 わからない。僕はどうなってしまったんだろう。 

 

 壊れてしまったのだろうか。僕はもう、クルシュとフェリスを想っていた『ナナホシ・ユウ』じゃない。

 

 この世界で五年間も過ごした『ナナホシ・ユウ』の記憶が僕にはある。でも、僕には『ナナホシ・ユウ』がこの世界に来る前の記憶がない。

 

 嫉妬の魔女に、奪われた。僕は取り返すべきなのだろうか。 

 僕は、僕だ。それに間違いはない。でも、僕は──。

 

 そんな不安と喪失感があった。

 

 ──でも、フェリスの瞳を見ただけで。

 

 僕の心は満たされた。

 

 初めて見る、遮るもののない満天の星々は幻想的でとても綺麗だった。

 でも僕には──。

 

 

 

 それは、その透き通るような白い肌は月光に照らされて青銀に輝いていた。

 夜風に優しく揺蕩うその絹のような髪も、その綺麗な笑みも、すべてが月光に染まる中、ただ一点、存在を主張するように金の星が浮かんでいる。

 

 その幻想的な光景を前に、ユウは静かに感嘆するほかなかった。

 そんな言葉にしつくせぬ感動を、世界で僕だけが見ることのできるこの奇跡を、静かに噛み締める。

 

 ……そのくらいの褒美があっても、いいよね。

 

 ユウは、フェリスがはしゃいで疲れ果てるまでずっと、彼女を見ていた。

 

 

◆◇◆

 

 (ほし)()魅入(みい)(ひとみ)魅入(みい)られる

 

 憂暮(ゆうぐ)()める ()けの明星(みょうじょう)

 

◆◇◆

 




 

 あぁ……! 
 この光景を、僕の中にあるこの尊い景色を絵にしたい……!
 この目で見たい! あぁぁぁぁイラストAI買おうかなぁッいや絶対思った通りにはならないけどッ! あぁぁてことはこれは僕だけの景色ってこと!? くぅっ伝えてェ! 物書きなら文章で伝えろて感じだけど、伝わってるかわからねぇ! 超きれいなんだぜ! 背景の夜の青と黒のグラデーション! 月光に当てられて白く輝くセミロングの髪の毛!  柔らかな夜風に揺蕩うさらさらとした髪! 不格好で、でも隠しきれない笑顔! 笑わない彼女の八重歯の光る笑顔! 尊い! かわいい猫耳が尊い! その万物を魅了する金の瞳が、どこまでも奥深い、僕を魅了してやまないその瞳がこちら(ユウ視点)だけを見ている! 障壁はまるで魔法の絨毯! ここは二人だけの世界! 胡坐座りのユウのまたぐらに座るフェリス! 振り返るフェリス! 両腕をめいっぱいに広げて喜びを、自由を、感情を表現するフェリス! これを美しいと呼ばずして何と呼ぶのか……! 


 ふぅ、はい、ちょっと落ち着きました。


 ※クルシュ一行は、ユウが暴食の大罪司教みたいな邪気を放っている(死に過ぎたせいで魂の浄化が間に合ってなくてめちゃんこ魔女の残り香、というか瘴気?を放っている)ためピリピリしていマス。ちなむと瘴気の半分は憂鬱のセイ。


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『あれは何』


 知らないことは聞きましょう。五八



 

◆◇◆

 

 

「あれはなに?」

 

「川だよ。お魚がいっぱいいる」

 

 木々が生い茂る美しい以前の中に、猫耳を生やした小さな子供と、その子供を背負うルグニカでは珍しい純粋な黒髪をもった少年がいた。

 

 二人はサァサァと流れる透明感のある川の辺にいた。川の中には大小様々な生き物が蠢いているのが分かる。

 

「お魚!じゃああれは?」

 

「あれはケヤの木。乾かすとよく燃えるから焚火に使える」

 

 じっとお魚、じゃない魚を見ていた子供──フェリスは少し見たら興味を失ったのか、今度は近くに生い茂る木に興味を示した。

 

 そんなフェリスに対して少年──ユウは初めてキャンプに来た子供に自然を教えるように名前と用途を答える。貴族の家で習った知識だ。

 

「もやしちゃうの?」

 

「え、んー森の中じゃ夜明かりがないと危ないからね、それにちょっと貰うだけだよ」

 

 フェリスにとって、きっとこの世界は輝いて見えているのだろう。物語の世界を探検しているような感覚なのかもしれない。

 

 それはユウも同じような気持ちだった。

 

 フェリスは燃やしてしまうと言われたことに、少しだけ残念そうな顔をして、しかしそれはそれと理解して、また別のものに興味を示す。

 

 まさしくすべてに興味津々といった感じだ。微笑ましい。

 

「そっか。じゃああれは?」

 

「あれってどれ?」

 

「あの、ばさーってどっかいっちゃった」

 

「ばさー……鳥かな」

 

「トリさん?」

 

 鳥、見ていないからなんの鳥かはわからない。

 しかしフェリスはそもそも鳥という動物を知らないのだろう。とり、トリ、鳥とはなんだろう。考えたこと、なかったな。

 

「うーん、鳥さんはね──自由に空を飛べるすごいやつ、かな」

 

「そら!あの天井までいけるの!?すごい!!トリさん凄い!」

 

「いやーぁ宇宙まではいけないかなぁ、あでもいけるのかな、いかないだけで……んー面白い。僕も鳥になれたらなぁ」

 

「ユウもトリさんなれる?!」

 

「ごめん、まだ無理かな。浮遊魔法ってなんか難しいらしいし」

 

「フェリスも、いつかそら飛べる?」

 

「空を飛びたいならまたいつでも空のお散歩はいけるよ?」

 

「んぅ~それもいいけど……自由にどこまでも飛べたら、楽しいだろうなぁって」

 

「……そうだね。いつか、できるかもね。ま、だからちゃんとご飯食べて大人になろう?」

 

「……葉っぱきらい」

 

「ちゃんと食べられるもの選んでるけど……まぁそうだよねぇ料理もくそもないもんね。じゃあとりあえず果物と、焼き魚でもつくろっか」

 

「サカナ!」

 

「フェリスは魚、気に入ると思うよ。猫だし。本当は動物の肉も取れたらいいんだけど……血抜きとかわからないし正直あんまり殺したくない、僕は食べなくても平気だからほとんど腐らせちゃうし」

 

 自然って残酷だな。食って食われて、それが普通の世界なんだから。それが当たり前で、それが自然。おかしいのは人間の方なのだ。

 

 ほんと、何にも知らないんだな僕って。

 この世界で一緒に生きているのに、動物を食べる方法も知らない。狩り方も知らない。食べられるものは辛うじてわかるけど、それでも栄養バランスなんてわからないし料理もできない。

 

 だからせめて、感謝して戴かないと。

 

 はやく村か何か探さないと、何があるかわからない。今は木の上で寝てホクトと交代で見張って『権能』でバリア擬きを作ってもらってるけど寝心地もよくなれば万全でもない。

 

 夜目は効くとはいえ『魔獣』なんかに襲われたら万が一がある。確か原作にいたウルガルムとか言う魔獣はかみついた相手を遠隔で呪い殺せたはず、万が一にでもフェリスがかみつかれて逃げられたらどうしようもない。

 

 死に戻りはある、けど──きっとこれ以上死に続けたらまずい。

 

 ユウにはそれがなんとなくわかっていた。

 

 死ぬ度に自分が自分で亡くなる感覚、クルシュへの想いが消えたこと、それが意味するところは──。

 

「ん、しょ」

 

「え、フェリス?危ないよ!」

 

 ユウが少し立ち止まって考えていると、フェリスはユウの背中から降りて、自分で歩いていく。

 そんな好奇心旺盛なフェリスにユウに心配の声をかける。なぜならフェリスもユウも靴すら履いてないからだ。

 案の定、一人でスタスタと歩いていくフェリスは突然悲鳴を上げた。

 

「いたっ」 

 

「……フェリス。ほら、見せてみて」

 

 見れば彼女の足は泥んこまみれになっていて、足の裏に小さな木の端くれが刺さっていた。少し血が出ている。

 菌が入ったらいけない、ユウは傷口を洗う為『水魔法』を唱えた。 

 

「──『ディーネ(洗水)』。裸足で歩くとこうやって怪我しちゃうから、むやみに走っちゃだめだよ。自分で治せる?」

 

「…うん、ごめんなさい」

 

 謝りつつ、フェリスは自分で怪我を治癒した。

 

「ううん、僕はフェリスが元気なのは嬉しいよ。だけどちょっとだけ自分を大切にして、ね?」

 

「……わかった!」

 

 そういうと、フェリスは言ったそばから走って行ってしまった、さっきより少し慎重に。

 

「んーわかってるのかなぁ」

 

「──ユウー?はやくー!お魚取りしよー!」

 

「──はは、まぁ元気が一番ってね、今行くよー!」

 

 ずっと背負うわけにはいかないし、自分で歩かなければ彼女の為にもならない、か。

 

 怪我してほしくはないが、フェリスはある程度自分で治せるのだし過保護すぎるのもよくないのだろうな。フェリスも自分の足で歩きたいだろうし……。はぁ、ままならないな。

 

 フェリスが元気なのが一番だ。そう、だからそれを脅かすものを見逃してはならない。許してはならない。

 

 危機意識を緩めるな、油断するな。

 できるだけ死なない、そして絶対死なせない、そう覚悟を決める。

 

 そうして今日も、二人は幸せに、森での生活をする。

 

 

◆◇◆

 

◆◇◆ 

 

◆◇◆

 

 

 森で生活するようになってから瞬く間に一か月が過ぎた。

 フェリスが熱を出したり、スピンクスに魔法を習ったり色々あったが、なんとかここまで来た。森を出る目途が立った。

 

 フェリスは今日も元気いっぱいだ。

 

 フェリスの足に合わせて少しずつ目的地へと進んでいく。

 『聖域』へ向けて。その為にまずは最寄りの町に向かう。

 

 『ホクト』に頼んで飛んでいこうかとも考えたのだが、そう都合のいい力じゃないらしい。具現化し続けるのは骨が折れるのだとか。役に立たないやつだ。

 

 そんなこんなでユウたちはやっと森を出るところまで来た。

 

「ふんふふんふふーん♪」

 

 フェリスはもう慣れたもので軽やかなステップを踏んで森の中を闊歩している。微笑ましい。

 

「──ねぇねぇユウ!」 

 

「ん、どうしたの?」 

 

「もうすぐ『森』を出ちゃうんだよね?」

 

「そうだね。もうすぐ平原と街道が見えてくるはずだよ」

 

「ヘーゲン?」

 

「すっごい広い野原、かな。」

 

「……ノハラ?」

 

「あははごめんうまく言えないや、ま、いけばわかるよいけば」

 

「そっかぁたのしみだね!」

 

「そうだねー、それに街道を進めば『リンツの町』があるはずだから、そこで──」

 

 

 ドスン。

 

 ドスン。

 

 ドスン。

 

 

 ユウは言葉を続けられなかった。突然空気が重くなったかのようにフェリスとユウに緊張した空気が圧し掛かった。

 

 

 何かがいる。

 

 

「ユウ……あれ、なに?」

 

「あれは……っ──魔獣!──フェリス、静かに、こっちに来て」

 

「…うん」

 

 危険は突然やってくる。

 

 そこにいたのは額に特徴的な角を生やしたカバのような獣。──魔獣。

 その大きさは高さだけでもユウの倍はあり、立ち並ぶ木々と大差ない。

 一歩一歩重量のある足音が、その巨体を物語っている。

 

 ユウはフェリスと共に近くの木の陰に身を隠し、様子を伺う。

 

 まだこちらには気づいていないようだ。

 

 しかしカバっぽい魔獣、確か名前は『岩豚(ワッグピッグ)』だったか、そいつは鼻を動かしていて、何かを臭いで探っているみたいだった。

 

(──魔女の残り香、か)

 

 ユウはそれを嗅ぎ取れないし自分にそれがあるのかはわからない、だがその可能性はゼロではなくむしろ高い。

 

(──バレるか……?──ッ!?)

 

 

「グモぉぉぉォォォォオオオオオオ!!!」

 

 

 魔獣は突然叫び声をあげた。

 

 

 ──そうしてユウたちとは反対の方向へ走り出した。

 

 

「──…はぁ、どうやらいったみたいだ。フェリス、大丈夫?」

 

「…うん。でも、」

 

「?どうかした?」

 

「ユウ、あれ、なんだったの?」

 

「…あれは魔獣。人を襲う悪い奴らだ」

 

「…わるもの?」

 

「そう、だから──」

 

 

「うわぁぁぁぁぁああああ!!!」

 

 

 男の絶叫が響いた。

 

「はっ今度はなんだ!?」

 

 

「──誰かああぁぁぁぁお願いだっ誰かぁぁ──助けてくれぇぇ!!!!!!」

 

 

 叫んでいるのは魔獣が走っていった方向。

 おそらく誰かが襲われているのだろう。

 

 ──だが。

 

「はぁ──だからね、フェリス。魔獣を見つけたら……」

 

 ──ユウはそれをまるで気にならないように続きを話し始めた。

 

 まるで、襲われている人の命なんて、その価値なんて、この会話以下であるかのように。

 

 

「──……ユウ?」

 

 

 そんなユウを、心配するように、フェリスは呼んだ。

 

「ん?」

 

「ユウっユウ!」

 

「どうしたのさ」

 

「──助けないと!ユウ!!──死んじゃう!」

 

 フェリスは泣きそうな顔をして、ユウを揺さぶった。

 

 

 ──助ける……?どうして?死──ぬ?

 

 

 一瞬、理解できなかった。

 しかし、数舜、気づく。

 

「──あ。ああ。ああっ、な、なにやってんだ僕はッ──ごめん、フェリス!ここにいて!身を隠すんだ!僕は──助けに行ってくる!!」

 

 

 フェリスをその場に隠れさせて、ユウは魔獣の進んだ方へ全身全霊で走り出した。

 

 

 ──走れ、走れ、走れ。

 

 今はとにかく走るんだ。

 

 ──早く、速く、疾く!

 

 少しでも早く、間に合うように。

 

「『フーラ(風爆)』!!」

 

 風魔法を唱え、足元に空気を生み出し爆発させ、木々の天幕を突き抜け跳躍する。

 

 そして見える森の終わり。平原と街道。そこにいる竜車と襲われている御者。

 

 ちょうどその時、岩豚はその大口を開いて、御者に齧り付こうとしていた。

 

(見えたッ!間に合わない!いや──)

 

 

「『アルフーラ(風刃)』ッ!!」

 

 

 ──間に合え!間に合ってくれ、頼むっ。

 

 ユウはそう祈りながら、全力で風の刃を生成し発射する。

 

 

「ぐもぉぁぁぁ」

 

「ひぃぃぃ!」

 

 

 風刃は一直線に魔獣へと突き進み、しかし魔獣からは明らかに外れていた。このままでは魔獣にダメージは与えられても致命傷には至らないどころか御者は食い殺されてしまう。

 

 だが、魔獣へとある程度近づいた風の刃はその軌道を──魔獣の首めがけて直角に曲げた。

 

 

「──ッオ゛ウ──ッ───」

 

「はっっ?わぶっ──」

 

 そうして、でかいカバの首は綺麗に切断され瞳から光が消えると同時、頭が首からずり落ちる。

 

 御者はその断面から勢いよく獣の血を浴びることになった。

 

 

「わっとととっ、だ、大丈夫でしたか!?」

 

 そこへ着地したユウ。すぐさま御者さんの安否を確認する。

 その男は、まさしく好青年といった風貌で、オレンジ掛かった茶髪の青年だった。

 

「えっ!?誰!?なにごと!?」

 

 血で前が見えていなかった御者はユウの掛け声に驚いた。御者は、とりあえず顔にかかった血を拭って前を見た。

 

「んっしょっと、えーっと、君は……?」

 

「あっと、すみません。血掛かっちゃったみたいで……水出しましょうか?」

 

「っと、いうことはもしかしなくても君があっしを助けてくれたのかい?」

 

「あっえっと……はい、すみません。ギリギリになってしまいました。『ディーネ(水球)』……どうぞ。」

 

「ああ、これはどうも……って、そうじゃなくて!──ありがとう!!助かったよ!」

 

 顔を洗えるように水の球体を生成し差し出したユウに対して、流されるように顔を洗った御者は、いやいやと、大きな声で感謝を告げた。

 

「あ、はい……とにかく無事でよかったです。すみません、助けるのが遅れてしまって、間に合わないところでした」

 

 懺悔するように告げるユウ、しかし──。

 

「なぁに言ってるんだ。君は命の恩人だよ!助けてくれてありがとう若い魔法使いさん!あ、そうだ──あっしは『ラウラ』っていうんだ、よろしくな!」

 

「はぁ、えっと、ユウ、です。」

 

「そうかそうか!ユウっていうのか君は。いやぁまだ若そうに見えるのに立派だな。いやいや、これは何かお礼をしなければいけないね」

 

「──いえ、受け取れません。僕は本当は……あなたを見捨てようとしてたんです。だから──」

 

 言葉は続かず。

 

「ユウっ?」

 

 声の方向には、森から顔をのぞかせているフェリスがいた。

 

「フェリス!?」

 

「待っててって言ったじゃないか!」

 

「ごめんなさい、でも……」

 

「……ユウ殿、あっしが推察するに、君はその子を危険にさらさない為に助けることを躊躇ったのではありませんか?」

 

「──。」

 

 違う。違う。そうではない。そうであったなら、よかったのに。

 

「ならば君は何も間違ってない。それは当然の取捨選択だ。それに、結果としてあっしは助かった。それがすべてではありませんかね」

 

「……僕は、フェリスが言わなければ……」

 

「……そうですか。ならば!あっしはこのお嬢さんにお礼いたすとしましょう!ふむふむふむ、む!──見たところ履物を持っていらっしゃらないご様子。なればこの靴などは如何ですかな。」

 

「……なに、これ?」

 

「これはこうして、足に履くもの。あっしの目が確かなら大きさはおおよそ間違ってないはず、ささ、どうぞお嬢さん」

 

「……くれるの?」

 

「ええ、貰ってください。あなたのおかげで命拾いしました」

 

「…ありがとう」

 

「ええ、どういたしまして。こちらこそ、ありがとうございました」

 

「…どう、いたしまして?」

 

「ええ、ええ」

 

 そう言って男は朗らかに笑った。どうやらいい人のようだ。

 

「……ユウ…どうかな……?」

 

「…フェリス…──うん、似合ってるよ。よかったね、フェリス」

 

「うん!」

 

「これはこれは、気に入っていただけたようで何よりですな」 

 

「ありがとうございます、ラウラさん」

 

「ええ、しかし命の恩には些か足りません。もしよろしければ近くの町までお送りいたしましょうか?」

 

「えっ、いやそこまでご迷惑は……」

 

「いえいえ、もし御同行いただけるならばあっしもまた魔獣に襲われるようなことがあっても安心というか、ええ、そういう打算もありますから!それでご納得いただけませんか?」

 

「…はぁ、そう、ですか。──。──では、お願いします」

 

 ちらりと貰った靴を履いて楽しそうに足踏みしているフェリスの方を見て、ユウは決断した。

 

「そうですか、それはよかった!──では行きましょうか、リンツの町へ!」

 

 ユウとフェリスはラウラさんの竜車に乗せてもらって、町まで送ってもらえることになったのだった。

 

 

◆◇◆

 








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『二人だけの世界』


 
 ……もっときれいで、もっと長閑で、もっと苦しくて、もっともっと鬱クシイのに。一万と四千
 


 

◆◇◆

 

 

「………はぁ」

 

 

 夜に覆われた静寂とした森の中、その溜息の音は一際大きく響いた。

 吐息は白煙となって空気中に溶けていく。特段夜の気温が低いわけではない。ただ溜息をついた少年──ユウは興奮冷めやらぬようで、その熱をコツコツと排出していた。

 

 

「……すー……」 

 

 隣で眠る子供──フェリスを優しく、寒くないように包み込む。すると、どうしようもなく心があったかくなって、身体もユウの心を体現するように熱をもってぽかぽかとした温もりを生み出している。

 

「………ほっ」

 

 そうしてまた息を吐く。ただ息を吸って、そして吐くだけ。

 

「…それだけのことが……あぁ…──幸せだなぁ」

 

 もはや何をしていてもきっとユウは幸せを感じられるだろう。──そこにフェリスがいれば、どんな場所でもどんな時でも幸福を感じられる。

 そう確信できる。

 

 ──一人じゃない。それがただただ嬉しくて安心で温かいから。 

 

 上を見上げれば木々の天幕の隙間から月光が周囲を照らしてくれていた。──まるで二人を祝福してくれているように。

 

 

「……フェリス、大好きだよ」

 

 

 何度でも言う。何度でも言いたい、伝えたい。ただ想いを口にしたい。ただこの幸せを言葉にして吐き出したい。

 

 それは返事を期待しての言葉ではなかった。

 しかし。

 

「──ふぇりすも

 

 眠っていたはずのフェリスから返事が返ってきた。

 

「……っ」

 

 起こしてしまったか、そう思い焦ってフェリスへと顔を向けた。

 

 

「……ゆぅ……──大好き」

 

「───。」

 

 

 そう言って、むにゃむにゃと寝返りを打ってまたユウに全身を預ける。

 寝言、だろうか。どうやら起こしてしまったわけではないらしい。

 

 でも。 

 

 ──ああ、どうしようもなく──。

 

 

「……ごめん、訂正する。僕は──フェリスを愛してる。……だから、ずっと、ずっとこのまま………」

 

 大好きだ。愛してる。言い足りない。もっともっと言葉を尽くしたい。行動で示したい。だから、いつまでも、一緒に。

 心臓は心地よく一定のリズムを刻んでユウを眠らせてはくれない。少しずつやってきていた眠気なんて、そのただ一言で軽く吹っ飛んでしまっていた。

 

「もう、眠れないじゃないか。……まったく」

 

 そう小さく悪態をつきつつ微笑む。

 夜が明け朝日が昇るまで、フェリスの髪を梳くように、慈しむように撫でながら。

 

 ユウは目を閉じてその心地よい空間に浸っていた。

 

 

◆◇◆

 

 

「んぅ~~」

 

 

 頬を撫でる心地よい微風(そよかぜ)でフェリスは目覚めた。

 生まれてから今までで一番安らかな目覚めだった。

 

 フェリスは本能のままに凝り固まった身体を伸ばして解し、また心地よく唸りながら脱力して背中を預ける。

 

 背中からは快楽ともいえる幸福が伝わってくる。

 上を見上げればその瞳を閉じて眠っている少年がいる。

 

「……ユウ」

 

 彼はユウ。

 その名前を無意識のうちに口にする。

 

 ユウ、そう呟くと途端に心臓が高鳴って胸がちょっと苦しくなる。

 

(これは、なんなんだろう……)

 

 フェリスはそれが何かわからなかった。それは苦しいのに、心地よくて。胸がキュッとするのに、元気が湧いてくる。

 

 でも、どうしようもなくその声が聴きたくなる。

 

「ユウっおきて」

 

 その衝動もまま、静かに眠るユウの顔に触れる。

 すると、ユウの手がフェリスの手に重ねられた。

 

「わっ」

 

「──おはよう、フェリス」

 

「………」

 

 静かに瞳を開いて、そう言ってユウは微笑んだ。

 

 ──やっぱり、きれい。

 

 フェリスは魅入った。

 朝のそよ風に舞いながら陽の光を弾くその黒糸の髪に、フェリスに向けられたその透き通った純黒の瞳に、見ていると胸が温かくなってくるその静かな笑みに。

 それは昨日の夜空にも負けない美しさだと、フェリスは思う。

 

「ん、どうかした?」

 

「う、ううんっなんでもないっ」

 

「そっか。……いい朝だね」

 

 なんだか、顔が熱くなってきて、はぐらかしてしまう。

 わからない。フェリスは自分がどうなっているのかわからなかった。

 

 でも、わかることもある。

 

「それじゃフェリス、世界を見に行く第一歩。まずはこの森を探検しに──一緒に行こう」

 

「うんっ!」

 

 そう言って手を伸ばしてくれるユウにフェリスは一つ返事で元気に答えた。

 

 その手は温かくて、握っていると安心する。

 ずっと握っていたい手、絶対に離したくない手。

 

 ──フェリスは、ユウが大好き。

 

 夢に見ないようにしていた外の世界が、期待すらしてなかった自由がそこにある。

 それはとてもわくわくして、そしてとても怖い。

 フェリスは外の世界でどうしたらいいのかわからないから。

 

 でも、その笑みが、この手の温もりが、フェリスの不安も恐怖も包み込んでしまう。

 フェリスはユウが大好きだ。

 

 

 だって、ユウはフェリスの、王子サマなのだから。

 

 

◆◇◆

 

 

 それから、フェリスの好奇心のままに森を歩いて回った。

 

 

「これ、なに……?」

 

 

 そうしてフェリスとユウが辿り着いたそこは、視界の限りどこまでも花畑の続く幻想的な、周囲を囲む山々に隠された秘境だった。

 

「……きれい」

 

「……」

 

 辺り一面に多種多様な花が咲いている。

 中心には一本の大きな木が生い茂っていて、その周囲を見たこともない美しい花々が囲んでいる。

 そこには柔らかな風が吹き、温かい日の光が差し込んでくる。

 

 その幻想的な光景を前にさしものユウも一瞬気を取られ、間をおいてからフェリスの疑問に答えた。

 

「……これはお花。育つと綺麗で色鮮やかな花を咲かせる植物だよ。……でも、こんなにたくさん、一斉に咲いてるのは初めて見たかも……種類によって咲く時期は違うのに。すっごい珍しい……」

 

「お花……あ」

 

 ユウの説明を聞いているうちに、フェリスは一つの花に目を奪われた。赤黄桃紅藍紫に橙色、色とりどりに咲く花たちの中で、フェリスが目を奪われたそれは小さく、しかし真っ直ぐに、その可愛らしくも美しい花弁を目いっぱい主張するようにフェリスの足元に咲いていた。

 

「これ! これはなんていうの?」

 

 フェリスが指をさしたそれは、星のような形の五枚の花弁をもった水色の花だった。

 

「ん、それは……アクアステラ」

 

「……あくあすてら?」

 

 そう聞き返すフェリス。しかしどうしたのか、ユウはその声に応えない。いいや、応えられなかった。ユウの意識もまた、その花に誘われていた。ユウは、少しだけ寂しそうに、その花を見つめた。

 

「……。」

 

「ユウ……?」

 

「……あ、ごめん。なんでもない、……アクアステラって言うのはね、『水の星』っていう意味で、星っていうのは昨日見た空に浮かんでピカピカ光ってたもののことだね」

 

「へ~」

 

「そう。それでね、フェリス……しょっと」

 

 ユウはそう言って、その綺麗なお花を摘んだ。それに魔法を用いて根、棘、葉っぱを排除し整える。

 そして、野花から立派な花飾りとなったそれをフェリスの髪に飾ったのだった。

 

「ん……?」

 

「お花にはね、それぞれ『花言葉』っていう名前とは別に特別な意味があるんだ」

 

「このお花にも意味があるの?」

 

「うん。アクアステラの花言葉はね──『幸福な愛』。──うん。すっごく似合ってるよ、フェリス」

 

「えへへ………ありがとう、ユウ」

 

「ふふ、どういたしまして」

 

 

 ──本当によく似合ってる。

 

 

 ユウは心の底からそう思った。彼女がそれを髪に飾っているだけで彼女の魅力が……いいや、違う。とてもよく似合っている、その気持ちに嘘はない。でも、これはきっと思い出してしまっているんだ。

 

 ユウがその花を見て一度呆然とした理由、それはユウが──昔、その花をフェリスにプレゼントことがあったから。

 

 当然、それは今のフェリスのことではなく──。

 

「───。」

 

 悲しくはない。苦しくはない。ユウはその花を髪に飾って、花畑で元気に走り回っているフェリスを見て純粋に嬉しく感じている。喜んでもらえて何よりだ。彼女があんな暗い牢獄から出て、野原を自由に、そして元気に駆け回っていることが、それを見られることが他の何よりも幸せに感じる。

 

 ただ、少しだけ。

 ほんの少しだけ、郷愁の念が湧いた。

 それだけのこと。

 

 その花はまるでフェリスの為にあるように、フェリスの小さくて愛らしい『青』というイメージを表していた。だからこそ、ユウはフェリスにその花を贈ったのだから。

 

「……何度でも贈ろう。花はいつか枯れて色褪せるけど、思い出は一生色褪せないから……なんて」

 

 つい思ったままに口に出してしまった。

 ホクトの厨二病が移ったかもしれない。

 郷愁に浸って詩的な気持になってしまった。

 ぜんぶあいつのせいである。

 

 

『馬鹿が。なんでもかんでもオレのせいにするな』

 

「……何にも言ってないよ。というか出て来ないでよ。フェリスにバレるだろ」

 

『言ってなくても馬鹿にしてんのが伝わってきてんだよ馬鹿が。それにバレても別に問題ねーだろ。なぁにを怖がってるんだか、クソビビりめ』

 

「……はぁお前ほんとうに口が悪い。嫌なことばっか言いやがって、そんなんだとモテないよ」

 

『言っとくけど、「オレはお前」……』

 

 ユウとホクトの言葉が重なる。

 ホクトが言うだろう言葉はもうわかっている。

 

『……んだわかってんじゃねぇか、気色悪いポエム吐きやがって。てめぇの頭ン中はお花畑かよ。頭パッパラパーな乙女かよ、てめぇは』

 

「……じゃあ、お前も僕なんだからイタいポエムは共犯だな」

 

『はぁ??』

 

 何と言われようとホクトのせいにする気満々のユウであった。それに不満を呈するホクトだったが、

 

 

「ユウーっ!!」

 

「……じゃ、フェリスが呼んでるからばいばーい」

 

『んな、てめぇ──…!』

 

「フェリスー!」

 

 最近わかったことがある。

 それは、ホクトの声を遮断する方法である。

 ユウはホクトの声を遮って、フェリスのもとへ向かうのだった。

 

 

◆◇◆

 

 

「ユウ! こっちこっち!」

 

「おぉ……」

 

 フェリスに手を引かれて行くと、そこには木漏れ日が点々とした遠目に見た大樹があった。

 

「ね! すっごいきれいだよね!」

 

「そうだね」

 

「ほら、ユウ、こっち来て!」

 

「うん」

 

 再び手を引かれ、大樹の根元へと近づいた。

 そうしてユウはフェリスに大樹の下に正座させられた。

 ん?

 

「……どうしたの?」

 

「こうして、それで、こうするの」

 

 フェリスは正座したユウの膝に頭を置いて、その場に寝っ転がったのだった。

 

「………」

 

「………」

 

 静かに風が吹いた。

 昨日の夜風とはまた違った、温かく長閑な昼の風。

 静かで爽やかな空間は居心地がよく。

 自然、ユウの手は愛しいフェリスの小さな頭に乗せられて、その髪を指で梳いた。

 

「~♪」

 

 ユウと二人大樹の下に寝っ転がって、髪を梳かれる。それにフェリスは嬉しそうに、そうして楽しそうに足をぱたぱたさせる。

 

「……フェリス、楽しい?」

 

「うん!」

 

「そっか……僕も楽しいよ、すっごく、すっごく楽しいんだ」

 

「~♪」

 

 こんな何でもない真昼時、彼女と二人で木陰で一休みする日常。それを至福と呼ばずして何と呼ぶのだろう。ユウが求めていた時間が、それこそが今だ。大切な夢、きっといつかの希望になる大事な思い出。

 

 尊い時間。大切な今。そんな今のすべてを覚えていられるように、噛みしめるように過ごすのだ。

 それがきっと、生きていくっていうことだと思うから。

 

「……フェリスはさ。……いや、うん、なんでもない。フェリスが楽しければそれでいいや」

 

「……?」

 

 言うべきか、迷ってた。ううん、きっとまだ迷ってる。後回しにしちゃいけないなと思いつつ、時間が解決してくれるかもしれないなんて淡い希望を求めてしまう。

 でも、いつか言わなきゃいけないことだ。

 ホクトのこと、スピンクスのこと、そしてユウ自身のこと。でもそれはいつでもいい。後回しにしてるだけだって自分でもわかってるけど、いい。それぐらい、今、この時が心地いいから。

 

 そんな不安気な態度と、どこか覇気がなく儚さを醸し出すユウを、フェリスは心配そうに見た。

 もしかしたら、いなくなってしまうかもしれない。そんな危機感を覚えたから。それほどに、今のユウはこの快楽に近い心地よい空気に溶けて消え行ってしまいそうな気配をまとっていた。

 

 その顔は、『満足』という言葉が何よりも似合っていた。

 

 だから、フェリスは引き止めなきゃとばかりに身振り手振りと元気な声で主張した。

 

「……楽しいよ! すっごく、すっごく楽しいよ! 今も、明日も、次の日も! これから、いつまでもユウはわたしと一緒にいるんだもん! だから、だからっ、大丈夫なんだよっ」

 

 どうしてユウから元気がなくなったのかわからないが、とにかく大丈夫だと、フェリスは言うのだ。その小さな体で、精一杯に伝えている。

 

『いなくならないで』

 

 切実な彼女の想い。それも今の上の空なユウには伝わっているかどうか怪しい。

 

「……はっ。フェリスはすごいなぁ。人を元気にしちゃう魔法をこんな簡単に使えるなんて、こんなの、きっと時の大賢者にだって使えないよ」

 

「だいけんじゃ?……ユウ、元気出た?」

 

「ははっ、どうしたの? そんなに不安そうな顔して……超出た。超元気出たよ! ありがとう、フェリス」

 

 そういって、ユウは彼女の頭を優しくなでる。

 その笑顔はいつものユウだ。フェリスの不安は気のせいだったのか、わからない。でも、取り合えずいつものユウに戻ったからよしとする。

 

「……ううん、なんでもない。気のせいだった。……よかった」

 

「──。」

 

 そう微笑むフェリスが、あまりに愛おしい。

 

「──。」

 

 酷く愛おしいからこそ、打ち明けることに怖気づいてしまう。きっと、フェリスはユウが記憶喪失だからと言って嫌いになるなんてことはないだろう。ありえない。ネガティブな妄想だ。むしろ心配してくれるだろうさ。

 でも、そう、だから猶更、打ち明けることはできないのだ。

 

 ──心配させたくない。

 

 例え一生記憶を取り戻せなくてもいい。ユウにはもう正直必要のないものだから。ユウに必要なのはフェリスだけだ。だから、言う必要はないのだと、そう思いたいのだ。

 

 元の世界のことなんて忘れて、この世界に生きる一人として平凡な人生を、彼女と歩む。それはきっと平凡で、普遍的で、過去のどんな人生よりも価値ある幸せな人生だと思えるから。

 

 

 風と木漏れ日と大樹だけの静かな場所。

 耳をすませば、森中の川のせせらぎは聞こえてくるかもしれない。

 そんな場所。

 

 そこには僕とフェリスしかいない。

 二人だけの場所。二人だけの世界。

 あまりに居心地が良くて、温かくて、大切な時間。

 

 そんな幸せな時間はあっという間に過ぎてしまう。

 でも、どれだけ短い時間でも、覚えてさえいれば『永遠』だから──。

 

「……」

 

「~~ぁ」

 

 フェリスは目を瞑り、祈るように手を組んでユウの膝を枕に眠りに就こうとしている。まだあまり体力はないだろうから、というより子供なんてそんなものだろう。うとうとし始めたフェリスを見て、ユウもまた瞼を閉じる。

 

 瞼を閉じれば、そこには一転暗闇が広がるばかりだ。

 暗闇を見ては思い馳せる。

 

 ──僕は……。

 

 これからのこと。これまでのこと。

 そうして、思い出せない自分のこと。

 

 

 ──僕が忘れた記憶の中にも、そんな大切な思い出があったんだろうか……。

 

 

 僕は、記憶を取り戻すべきなんだろうか。

 答えは出ない。出しては変えて、決意して考え直す。

 優柔不断でやんなっちゃうよね。

 

 

◆◇◆

 

 

 次の日、ユウはとうとうあることへ挑戦しようとしていた。

 それは──。

 

「それじゃ、フェリス。──水浴び、しよっか」

 

 ──フェリスを水浴びに連れていくことだった。

 

「──や!」

 

 ユウのその言葉に、フェリスは木の裏に隠れて、はげしく? 抵抗する。

 

「いや、でも」

 

「い!や!」

 

「怖くないよ?」

 

「いや!」

 

 ──どうしたものか。

 

 ユウは絶賛困っていた。

 フェリスが水浴びを拒絶したためである。

 

「無理強いしない方がいいかな……? いやでも衛生的に良くないしなぁ……病気になったら大変だし……」 

 

「……むぅ」

 

「ん~、なんでそんなに水浴びしたくないの? 水、怖い?」

 

「……こわくない」

 

「……じゃあどうして?」

 

 もしかして、何かほかに理由があるのだろうか。水は怖くないらしい。なら、怖いのは『水浴び』という行為自体……?

 やはり、僕が来る前の生活で水浴びに対して嫌な思い出が、トラウマがあるのだろうか……

 

 ──だとしたら、やっぱり……いやでも……

 

 ここでも優柔不断が出てしまっていた。

 優しさは美徳だが、子供に対して甘やかしすぎてもいいことにはならないのが世の常だ。まぁ、子供を産んだわけでも、ましてや恋人すらいた覚えのないユウに子育ての何たるかがわかるわけもなし。

 

 そんな突然母性も父性も身に付きやしないのだ。

 そもそも、ユウは彼女と対等であらんとしている為に、このような齟齬が起きるのだ。なにせユウは彼女と一緒に育った記憶が確かにあるのだ。なかなかその友達、もしくは同僚としての意識を捨て去ることもできまい。もう何も、捨てることも、忘れることもしたくはないのだから。

 

 そんな困り果てるユウに、フェリスは言った。

 

「……だってユウ、一緒に入ってくれないんでしょ……?」

 

「えっ……? いや、うん……」

 

 それが理由?

 フェリスと一緒に、お風呂。

 一緒に、お風呂。

 一緒に、一緒に、一緒に。

 

 ──う~~~~ん。

 

 考える。思考する。黙考する。熟考する。

 

(……衛生面……僕のメンタル……何故かよくわからないもやもや…………はぁ……)

 

「……わかった。じゃあ、一緒に入ろっか。……一人じゃ危ないしね」

 

「えっほんと!?」

 

「うん。だからほら、行こう?」

 

「いく!」

 

 さっきまでの抵抗はなんだったのか。

 そんなものは知らぬとばかりにすたすたとユウを通り越して、川の方角へと歩き出すフェリス。

 

(──んー?? なんだかなぁ……)

 

 女の子とは、かくもわからぬものである。

 そう心の中で独り言ちりつつ、ユウは勇み足のフェリスと手をつなぎ、二人で仲良く川へと向かい、一緒に水浴びをしたのだった。

 

 

◆◇◆

 

 

 それからもずっと、毎日が最高に楽しくて幸せに満ちていた。

 二人でいろんな場所を見て、触れて、楽しんだ。ある日は魚を取り、またある日は長閑な丘で昼寝をし、また違う日には小動物と戯れたりして過ごした。

 

 フェリスにはきっとそのどれもが新鮮で、新しくて、色鮮やかに写ったのだろう。ユウがいろんなことを教えるたびに楽しそうに元気そうに幸せそうに笑ってくれた。

 

 それがユウにとっても何より嬉しかった。

 

 ──だから、気づかなかった。

 

 

 バタン

 

 

 そんな簡素な音を立てて、フェリスはその場にうずくまった。

 

「う……っ」

 

「フェリス……? フェリス──っ!」

 

 いつも通り森を探検していたある日のことだった。

 躓いてしまったのだろうか、フェリスが突然倒れた。

 ユウはすぐさまフェリスに駆け寄った。

 

「フェリス? 大丈夫?」

 

「……ゆう……はっはぁ、はぁっ……」

 

 フェリスは過呼吸気味で、意識も朦朧としているようだった。

 ただ転んだのでは、ない。ユウは彼女の額に手を添えて熱を測ろうとする。

 そうして触れれば、自身と比べるまでもなく高い熱があった。

 

「っ、凄い熱だ……何が……」

 

 フェリスの事を見れていなかった。

 見てあげられていなかった。気づかなかった。

 この子が、あの『青』と呼ばれた偉大な治癒術師とは違う、まだ幼い彼女だということを。

 

 ユウは、彼女が病気になったところも、病に苦しんでいるところも、ましてや怪我で寝ているところも見たことはなかった。だから、心のどこかで過信していた。彼女は天才で、今だってこの幼さで水魔法を、治癒魔法を使いこなしている。森での生活くらい、なんとかなるだろうと。

 

 実際、これまではなんとかなってきた。

 ──なんとかなってしまっていた。

 

 ──十年。彼女は十年もの間、日の当たらぬ衛生管理もままならない牢獄の中で暮らしていたのだ。

 ユウもかなりの間地下牢に入れられていたがそれでも二年だ。フェリスは違う。彼女は産まれてからほとんどずっと、地下で暮らしていたのだ。

 

 ユウは確かにフェリスの健康を考えて森で過ごしていた。食事も睡眠も運動も、自然の知識だってユウが記憶している限りを教えてきた。それにフェリスも応えていたし、怪我や毒、危険にも気を付けて生活していた。

 

 だが、ユウの想像している以上に、急激な環境の変化は、外での暮らしはフェリスに負担を与えていた。フェリス自身も幸せに惑わされて自分の状態が分かっていなかったのだ。

 

 ──あまりに幸せな生活。あまりに幸せな日々。

 

 それがフェリスに己の身体の異常を感知させなかった。更には彼女の持つ魔法の才が裏目に出た。半自動的に、本能的に身体異常を直すことのできる彼女は知らず知らずのうちに身体を回復し続けていた。回復魔法でもってその負担を、ストレスを、疲労を、誤魔化し続けてきたのだ。

 

 ──彼女が倒れるのも無理はない。

 

 そうやって無理に無理を重ね続けてしまった結果、フェリスの身体は今日、今、限界を迎えたのだ。

 森での生活の楽しさに目を奪われて、その危険性から目を逸らしてしまった。

 

 

 ──それを教えるように。

 

 

 ポタっ

 

 

(──ッ)

 

 初めての異常事態に焦るユウの頬に──雫が落ちた。

 

 

 ポタ、ポタ、ポタポタポタポタポタポタポタポタ。

 

 

(こんなときに──ッ)

 

 降り始めた雫は、止まることなく。

 

 

 ──雨が降り始めた。

 

 

 

◆◇◆

 

 

 ポタポタと響き渡る水滴の音は途切れぬことはなく、それどころか急速に勢いを増していく。

 

 本降りになるのも時間の問題だった。

 

 ──まずいっ。

 

 このままではフェリスが雨に打たれて体調が悪化しかねない。

 ユウは焦り、急いでホクトに命令した。

 

 

「ホクトッ!障壁を!」

 

『あ?今から使ったら夜まで持たねぇぞ』

 

 

 その意図を理解したホクトだったが、後のことを考えて反論した。

 しかしユウはホクトの考えを考慮しない。ユウの最優先はフェリスの安否。今目に見えている脅威に対してフェリスを守ることを優先する。

 

 

「そんなことは後で考えればいい!今はフェリスの身体を冷やさないことの方が大事だ!──はやくしろ!!」

 

『……チッ』

 

 

 納得いっていない様子のホクトだったが、とりあえずユウの言葉に従い二人の頭上に雨を妨げる障壁が展開された。

 

 

「……フェリス、フェリス?」

 

「……う……うう、ん……──」

 

 

 ユウはフェリスの意識を確認するように声をかけるがフェリスの反応は芳しくなかった。

 フェリスは(うな)されるように呻くだけで掛け声に応えることもできない。

 それどころか呻きを最後に完全に意識を失ったようで、身体からもだんだんと力が抜けていく。

 

 

「フェリス……っとにかく今は休めるところを」

 

 

 ユウは、動き──出そうとした。

 だが。

 

 

「……どこへ、いけば……」

 

 

 雨が降ることなんて簡単に予想がついたはずだ。しかし、ユウは雨が降った時のことなんて何も考えていなかった。迂闊。

 

 フェリスと過ごす幸せな日々に酔って目に見える未来から目を背けていた。

 

 

「馬鹿か、僕は、なんでっいやそれより──ホクトっこの障壁はいつまで持つ!」

 

『……さぁ、一時間とかそこらじゃねぇか?』

 

「……はぁ!?なんでそんな短いんだ!!」

 

『あ?たりめーだろ、まだ昼過ぎだぞ。力の補充ができてねぇ』

 

「補充?なんだよそれ聞いてないぞ!」

 

『はっ知るか。てめぇが聞かなかったんだろうが』

 

「おまえ─ッ!」

 

『──ていうか、オレに八つ当たりしてる場合じゃねぇだろ?』

 

「くっフェリス……っ」

 

 

 周囲の気温がだんだんと下がってきている。

 頭上を覆っているだけの障壁では当然、風も寒気も防げない。

 

 フェリスの身体がどんどん冷えていく。

 フェリスもユウもまともな服を着ていない。

 

 フェリスを温めないと、まずは、まず、とにかく雨をしのげる場所を、それで暖を取る。どうやって?火を起こす?なら、途中で木の棒を。いや、それよりまずどこへ行けばいい。

 

 周囲を見渡すユウ。

 しかし。

 

 

 ザァァァァァァァァァァァ

 

 

 本降りが始まってしまった。

 

 もう、雨で周りがまともに見えない。

 

 

「──っ」 

 

 

 どうすれば、いい。

 

 わからない。

 

 どこへいけば。

 

 どうすれば、どうすれば、どうすれば。

 

 

「……フェリス」 

 

 

 とにかく、今はとにかく動け。

 

 雨風を凌げる場所を見つけるんだ。

 

 

「『フーラ(風爆)』」

 

 

 ユウはフェリスを抱えて風魔法を唱え、枝葉を突き抜けるほど跳躍した。

 

 

「どこか、何か、ないかっ」

 

 

 中空にいる間に明かりや求める場所を探そうと目を凝らすユウ。

 

 だが、現実はそう都合よくいかない。

 

 

(……暗すぎる)

 

 

 暗雲が一帯を覆っていて、森は暗闇に包まれていた。

 

 わずかな明かりも見えず、そこには強くなりつつある風に揺れる木々があるだけだ。

 

 

 バシャッ

 

 

 泥濘(ぬかるみ)へと着地する音が響いた。

 何も得られるものはなく、そのまま地面へと戻った。

 

 

「……なにか、なにか……」

 

 

 わからない。何を見つければいい。

 

 家?洞窟?なんだ、何を。

 

 

「………ホクトっ!もう一度空中に上がる、だからその時に足場を!」

 

 

 ユウはホクトに命令した。

 何を見つければいいかもわからない。

 

 そもそも上がったところで何が見えるわけでもない。

 しかし、なにかしなければ現状は変わらない。

 

 とにかく動け。

 できることをしろ。

 

「……フェリスっ冷たい、まずい、はやくしないと─っフェリスがっ──っホクト、聞いてるのかッおいッ!」

 

 

『──嫌だね』

 

 

 ユウの嘆願を、ホクトは拒絶した。

 

 

「は?何言ってんだお前、フェリスがっ──」

 

『──知るか馬鹿が』

 

 

 その声には確かに怒りが籠っていた。

 

この頃は関係が良好だったために、その怒りの籠った声にユウは動揺した。

 

「っなにを、おまえ……」

 

 

『──テメーの女ぐれェテメーで守れ』

 

 

「──っ」

 

 

 そう言い残して、ホクトの声は聞こえなくなった。

 

 

◆◇◆

 

 

 バシャッ

 

 

 泥が跳ねた。

 

 

 バシャバシャッ

 

 

 泥となり滑りやすくなった森の中をユウは駆け巡っていた。

 

 ホクトが手を貸してくれなくなった以上、空から探すわけにもいかず、しかし当然諦めるわけにもいかない。

 

 ユウは安置を探して走り回っていた。

 

 

「どこかッ」

 

「なにかっ」 

 

「お願いだっ」

 

「頼むからっ」

 

「なにか、」

 

「なにか、」

 

 

「なんかあれよッ!!馬鹿!!っあ──まずっ」

 

 

 苛立ちと焦りが募った拍子に、足が弧を描いた。

 

 踏み込みの一歩はズレて前のめりに体勢が崩れた。

 

 ──フェリスをッ。

 

 咄嗟に身体を捻り、地面から遠ざけるようフェリスを抱え込んだ。

 

 

「ぐッ」

 

 

 案の定、ユウの身体は危ない体勢のまま地面を滑りまともに受け身も取れなかった。

 ユウは肉体にダメージを追いながらも、フェリスの身は守れた──かに思えた。

 

 

「──えっ?」 

 

 

 だが、ユウが足を踏み外した先は運悪く──急な下り坂であった。

 

 

「まっがっ」

「あ゛っ」

「ぐっ」

 

 

 ぬかるみ滑りのよくなった坂を転がり落ちていく。

 坂に乱立した低木に身体をぶつけて身体を傷つけながら、勢いは衰えることなく底まで転がり落ちた。

 

 

「うっ………」

 

 

 底まで落ちればすぐさま肉体が再生していく。

 切り傷も打撲も捻挫も、何もかもすべて回復していく。

 自然、すぐに動けるようになる。

 

 

「……はっはっ、どうなって、いや……フェリス、大丈、夫………フェリス?──フェリス!」

 

 

 しかし、その懐にはフェリスはいなかった。

 

 

「フェリス!どこだ!!フェリスっ!!!」

 

 

 周囲を見渡すも視界が悪い。

 ほとんど何も見えない。

 

 しかし暗がりには慣れている。

 すぐに目も慣れよう。

 

 ──いた。

 

「フェリスっ!」 

 

 ユウよりも坂の近くにフェリスは倒れていた。

 見つけて、安堵したのも束の間。

 

「フェリス……っフェリスっ」

 

 フェリスは雨に濡らされ、泥で汚され、身体のあちこちに切り傷までできていた。

 

 ──僕のせいだ。

 

 一度濡れれば、身体が冷えるのなんてあっとう言う間だ。

 

 はやく、はやく、身体を温めないと。

 

「──っ」

 

 周囲を見渡すが、何もない。

 そもそも。

 

 ──ここは、どこだ。

 

 今、自分たちが森のどの辺りにいるのかもわからなかった。

 

 ──町も見えない。明かりもない。はやくしないと………はやく………。

 

 

 再び焦りが募ったその時。

 

 

 ──障壁が、消えた。

 

 

「───」

 

 

 天が二人を見放した。

 

 凄まじい雫の軍が、木々を揺らす暴風雨が、二人を襲った。

 

 二人の身体から体温を奪い、命を削る自然の猛威が、牙をむいた。

 

 ユウは、それに為されるがまま、思考が止まっていた。

 

 

「………ある…ふーら……」

 

 

 否、足掻く。

 

 凄まじい狂風が二人を覆い、天の雫を、自然の流れを押し返す。

 

 瞬間、雨が止んだ。

 

 

 ──だが、無意味。

 

 

 ザァァァァァァァァァ

 

 

 止んだのは刹那の合間だけ。

 

 すぐさま自然が環境を支配する。

 

 

「あるふーら」

 

 それでも。

 

「アルフーラっ」

 

 それでも。

 

 たった数秒を稼ぐために、ユウは自然に逆らわんとする。

 

 

 何度も、何度も、何度も唱えた。

 

 

 そして。

 

 

「アル、フ──ッがはっ」 

 

 

 マナが尽きた。

 

 

「……はぁ…はぁ……………ふぇりす………」

 

 

 オドまで使えば、ユウは死ぬ。

 

 でも死ねば、また時間が稼げる。

 

 そう、ユウの目的は端からこれであった。

 

 死んで、戻る。

 

 朝に戻れば、フェリスが倒れる前に戻れば、雨が降ることさえ分かってれば、フェリスは苦しまなくて済む。

 

 フェリスを苦しめなくて済む。

 

 自分の情けなさを、不甲斐なさを、クソったれさを、挽回できる。

 

 だから──。

 

 

「………ゅ……う……」

 

 

 その刹那、フェリスが呟いた。

 

 

「フェリス!?──フェリス、しっかりして!今、今、い、ま………温かい場所に行くから!だから!」 

 

「………う、うん………ふぇりす、げほっ……ふぇりす………」

 

 フェリスは何かを言おうとしていた。

 それが、何かなんて、もうユウにだってわかっていた。

 

「………ゆっくりでいい」

 

 

「………ごめんな……さい………」

 

 

「──………フェリス」

 

 

 わかっていた。

 わかっていた。

 わかっていた。

 

  

 やり直すのか。フェリスを置いていくのか。

 こんな寒くて、寂しくて、何もないところに。

 

 僕が逸って足を滑らせたせいでこうなったのに。

 なかったことにするのか。

 

 でも、フェリスが死んでしまったら元も子もない。

 それに今までだって、置いてきただろう。

 

 何度もフェリスを見捨てた。殺した。

 そうして初めてやり直す権利を得た。

 

 なら何も迷うことはない。

 それはユウの気持ちを代償にして初めて権利足り得るのだから。

 

 

 だから、ユウは──。

 

 

 

 

 ザァザァ、と冷たい雨が広大な森に降りしきっていた。

 

 

◆◇◆

 

 

 

「……フェリス……ごめん……」

 

 

 結局、あの後、ユウはフェリスを抱えて、花畑のあった場所まで戻ってきていた。

 

 フェリスに自身の服を被せて抱きしめ少しでも温めるようにしながら、いつかの巨木の下で雨宿りする。

 

 しかし、雨を完全に防げるわけでもなく、風を凌げるわけでもない。

 別段いい選択ではなかった。しかし、ユウにはこれしか思い浮かばなかった。

 

 ──情けない。

 

 あまりにも情けない。

 奢っていた。思い上がっていた。なんでもできる気になっていた。

 

 フェリスといられればそれだけでいいって、思考停止していた。

 

 ──僕は……バカだ。

 

 

「僕が、フェリスを、守らなきゃいけないのに……」

 

 

 情けない。情けなさ過ぎて涙が出る。

 

 ゴーゴーと雷雲の降りしきる中、フェリスの為にできることなどなく、ただ縋るように抱きしめることしかできない。

 

 

 しかし、フェリスの身体はもう限界のところまで来ていた。

 

 

「フェリスが、死ぬ。僕のせいで、僕の、僕の、ぼく、の………」

 

 

 フェリスが死んだら、死に戻りして朝へと戻る。 

 だから、フェリスが死ぬまでは諦めない。

 

 そう決めたけど、ユウにできることは、何もなかった。

 ただ、抱きしめることしかできない。

 

 それじゃあいないのと同じだ。

 

 ──いいや。

 

 

「……僕が余計な事さえしなければここまで悪化することはなかった」

 

 

 ──僕は……最低だ。

 

 

「何が……何が、ずっと一緒だ……っ何が、世界を見に行こうだっ」

 

 

 ──涙が止まらなかった。

 

 

 悔しかった。情けなかった。

 

 罪悪感が、ゴミみたいなプライドが涙となって流れ出る。

 

 

「ごめん……ごめんね………やっぱり、だめなのかな……僕なんかに、君と一緒にいる資格なんて、ないのかな……」

 

 

 憔悴して命が風前の灯火な女の子を前にして、泣き言しか言えない。

 

 なんで。

 

 何かしろよ、町まで風魔法で飛んでいけよ。

 

 門が開いてないなら不法侵入でもなんでもすればいい。

 

 とにかく人を探して必要なもん奪えばいい。

 

 どうして諦める。

 

 まだできることはあるはずだ。

 

 お前はその程度なのか。

 

 

 ──死に戻りができなかったらどうするつもりなんだ。

 

 

「……僕は……無知で、愚かな、ただのゴミカスやろうだ……」

 

 

 ユウには知識があった。

 ユウには力があった。

 ユウには共に生きていきたい大切な人がいた。

 

 でも、ユウには生きていく上で必要なものがなかった。

 

 否、自分一人ならいくらでも生きられる。生き残れる。まずまともに死にはしない。

 

 痛みを感じず無尽蔵に再生する肉体がある、恐怖や不安を感じず何事にも動じない心をもっている、世界でも上位に入るであろう『剣聖』を模倣した剣技がある、罪を裁く神の如き『権能』がある。

 

 素晴らしい力だ。

 素晴らしい精神だ。

 素晴らしい才能だ。

 

 でも。

 

 ユウには守る力があっても守れなかった。

 ユウがもつ何にも動じないはずの精神は、フェリスが倒れたというだけで何も考えられなくなってしまった。

 ユウには、根本的に人と生きる才能がなかった。

 

 

 ユウには理解できないから。 

 ユウは死ぬ度に何かを失った。

 ユウは死ぬ度に人足りうるものを失った。

 

 でも、フェリスといる時だけ、人としていられた。

 フェリスを想っている時だけ、人になれた。

 

 そして、フェリスを失いかけた今、ユウは己の異常さを理解してしまった。

 

 

「………フェリスが………死にかけてるのに、なんで──何も感じないんだ」

 

 

 動じない心が回帰する。

 

 死に戻って次に行けばいいと、脳が、『合理性』が囁いてくる。

 

 あり得ない。いいはずない。

 

 そんな恥知らずな真似、していいはずがないのに。

 

 

「あはっあははっ」

 

 

 心は死に戻り出来ることを喜んでいた。

 

 

 ──その顔は、涙と鼻水で醜く汚れながら、口角は弧を描き、歪に微笑んでいた。

 

 

「ぼくっどうなってるのかなっ壊れてるのかな………わかんない………わかんないよ………ふぇりす………ふぇりすっおしえて………たすけてよ………」

 

 

 フェリスがいなくなった途端、心が崩壊する。

 

 わけがわからなくなる。

 

 ユウはフェリスを欲して揺するも、もう目覚めることはないだろう。

 

 

「ああっ戻れるっ解放されるっ諦められるっそれで、いい、よく、ない、けどっいいっもう、それで──」

 

 

 

 

 

 

『──エルドーナ』

 

 

 

 不意に。

 

 呪文が唱えられた。

 

 すると、周囲の地面が盛り上がって、ドーム状にユウたちを覆い、暗闇に包まれた。

 

 そして。

 

 

 

「『ゴーア』………これは、いったいどういう状況、なのかな……?ごほっ」

 

「───。」

 

 

 呆然とするユウに対し──『魔女』はせき込みながら問うた。

 

 

◆◇◆

 





 あァあったまいったいー--イ!!!
 脳が震えるぅぅぅぅゥ。くそワクチンがァぁ!!

 と、フェリスが水浴びを嫌がってるのはトラウマなのデス。実は地下牢には特殊な魔方陣があって病気を引き起こすような菌は死滅されていましタ。スピンクスの仕業デスネ。でも、フェリス父が生きていたころはそんな魔方陣ないので水浴びをさせていましタ。が、それが冷水を浴びせかけるだけのものでまるっきり虐待でありンしタ。一応そのあとは執事が拭いていたのですガ、それだけだったので水浴びというものをフェリスは怖がっているのデス。

 ちなみになる話、ユウくんはいろーんな花やその花言葉を知っていまス。
 あとアクアステラはオリ花デス。オリ花ですが、アニメでラムがもっていたあの花でもありマス。

 




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『天泣』


 天弓(てんきゅう)六八


 

◆◇◆

 

 

「──それで、これはいったいどういう状況なのかな? げほっ、これは……かなり衰弱している……?……聞いているのかい? ──ナナホシ・ユウ」

 

「……スピン、クス……?」

 

「ああ、ボクだよ? ……随分とやつれているね。何があったんだい」

 

「……あ……ぼ、僕が……僕が……ぜんぶ悪くて……っ……フェリスが……っ」

 

「……落ち着いて、一度深呼吸するんだ」

 

「……はっ、はっ、はっ」

 

 

 深呼吸。深呼吸?

 あれ……深呼吸って、どうやるんだっけ……。

 

 ユウは気が動転するあまり呼吸もままならなかった。

 

 吸って、吐く。それだけだ。

 しかし、狂ったように脈動を打つ心臓がそれをさせてくれなかった。呼吸しようとすればするほど、過呼吸になり苦しさが増していく。

 

 ──苦しい。苦しい。苦しい。

 

 ごめんなさい。ごめんなさい。僕が、僕がぜんぶ悪かったから。ごめんなさい。──ごめんなさいっ。

 

 罪悪感は止めどなく、溢れて溢れて止まらない。涙が溢れて止まらない。

 視野は狭くなり、視界は暗闇に染まり、何も見えなくなる。

 

 ──楽に、なりたい。

 

 はやく、一刻も早く罪悪感から逃れたい。フェリスに会いたい。この終わった世界を、はやく終わらせたい。

 

 そうやって、狭くなった視野で自暴自棄な思考に陥ってしまう。

 あまりに恥知らず、あまりに自分勝手な考え。

 しかし、それは『合理的』。それが一番『効率的』。故にそれは『正しい』。

 

 ああ、それではまるで──人形みたいじゃないか。

 

 ユウはスピンクスの方を見れなかった。責められると思った。あんな啖呵を切っておいて、フェリス一人守ることもできずに、それどころかその責任から逃れようとすらしている。

 侮蔑して、蔑んで、罵倒してしかるべき愚行。

 

 怖かった。

 

 でも、そうされて当然だ。僕は、間違えた。僕が悪いんだ。僕が、僕が、僕が全部悪い。僕が、悪いんだ。認めろよ。僕には──フェリスといる資格なんて。

 

 ──苦しいっ嫌だっ僕はフェリスと──。

 

 何してるんだろう、僕は。言い訳して、いやだいやだって、何言ってるんだ。フェリスの事を考えろよ。彼女は今、死のうとしてるんだぞ。僕のせいで、僕のッせいでっ。

 

 心臓が痛い。呼吸ができない。涙が止まらない。喉が奇妙な音を鳴らしてる。

 

 思考の渦に囚われて、自責と拒絶と恐怖を堂々巡りするだけ。

 

 ──僕は……本当に……──

 

 

「──落ち着いて」

 

「───?」

  

 

 その声は、いやに優しい感触だった。

 同時に、ユウの身体を温もりが包んだ。

 ユウの身体も雨に打たれだいぶ冷えていたのだろう。その温もりはとても、とても温かかった。

 

 

「──大丈夫」

 

「───」

 

 

 思考が、止まった。

 苦しく、自己嫌悪を重ねるだけの不毛な負の連鎖を、その心音が止めた。

 ユウは、スピンクスに抱きしめられていた。ユウの頭は彼女の胸に当てられていて、そして、彼女の心音が、弱く、か細いその心音が、確かに聞こえた。

 

 

「……ゆっくり、ゆっくりでいい。まずは深呼吸をして、そうして話してくれ。何があったのか。できるね?」

 

 

 ──これが、スピンクス? なんだこれ。なんで、こんなに。……優しくするなよ。僕を責めて、責めて、罵倒しろよ。なんで……こんな……。自分だって苦しいくせに。こんな、弱い心音っ。

 

 まだ、生きている。でも、もうすぐ止まってしまう。苦しいはずだ。怖いはずだ。フェリスが死ぬのはもう分かってるはずだ。それはつまり、自分も死ぬということだ。前とは違う。今度は確実な死だ。コピーはない。死ぬんだぞ。スピンクスの事も、僕が、殺すんだ。

 

 ──やめてくれ──

 

 話したところで、何も変わらない。話す意味なんてない。

 頭の中では、そう思ってたのに。

 

 

「…………フェリス、が……突然倒れて、それで……」

 

「……うん……うん」

 

 

 なんでだろう。僕の口は勝手に動いて、言われた通りに何があったのか説明していた。

 

 

 ──話して、楽にでもなろうってか。

 本当に、お前ってやつは──クズだな。──なぁ。

 

 

◆◇◆

 

 

 ユウは話した。

 フェリスが倒れてから、ユウの過ちまで全部。

 彼女は静かに、時々相槌を打ちながら聞いていた。

 そうして、聞き終えた彼女はただ一言、

 

「……そうか」

 

 そう言うだけだった。

 話して、楽になるわけでもなかった。

 ただ改めて自分の情けなさを客観視した。 

 

「……ごめん……僕のせいで……」

 

 ごめんで済むはずがない。死ぬ。彼女は、彼女も死ぬんだ。──ユウとは違う。死。それは戻らない。終わりだ。終わりなんだ。死。死。死。

 

「そうやって自分を責めたところで……何も変わらないよ」

 

 死ぬ、か。ああ、そうだよ、何も変わらない。

 僕は、何も感じられないままだ。

 わからないままだ。

 僕には理解できない。僕は共感すらできない。僕は死ぬことよりも自分のせいでフェリスが死ぬことを恐れてる。その責任を、死に戻りでなかったことにするしか、僕には………。

 

 ──あ、れ?

 待て……なんで忘れてたんだ!

 

「──なぁお前なら治せるんじゃないのか!?」

 

「───」

 

「お前なら、これくらい! これくらいの症、状……『回復魔法』で簡単に……」

 

「………」

 

「…………無理、なんだな……」

 

 彼女の顔が雄弁に語っていた。申し訳なさそうな顔をしないで欲しい。安易な希望に縋った僕が間違ってる。そんなことスピンクスが気づかないはずがない。まだ、僕は責任から逃れようとしてるのか。意気地なし。

 

「……すまない」

 

「……どうしてできないのか、聞いてもいいか?」

 

「……結論から言えば、ボクは『回復魔法』を使えない。『回復魔法』というのは、本来相手の肉体に自身のマナを浸透させ満たすことで治癒を促すものだ。当然、自身の身体に掛ける時もそれは変わらない。それだけであればただの技術だ、今のボクにもできる。しかし……ボクのマナは穢れている」

 

「……穢、れる?」

 

「ああ……厳密にはマナを生み出すオドそのものだけどね。──魂の転写の副作用さ」

 

 ──副作用。そんなものがあったのか。

 

「穢れたマナは瘴気と呼ばれ、正常なマナを汚染する性質をもっている。今のボクがこの身体を治療しようとすれば……けほっ、治癒する、どころか体調は悪化し話すこともできなくなるだろう。……すまない。この子の身体に勝手に居座っている身で、ボクは……何の役にも立てない」

 

「……お前のせいじゃない、全部、僕のせいだ。……お前がいてくれなかったら、とっくに力尽きてたはずだ。こうして、話す猶予はなかった。だから……」

 

「………」

 

 

 それっきり、会話は止んだ。

 ザァザァと、雨が降り注ぐ音が響き渡り、時々、彼女が咳き込む音が混じる。

 

 

「……お前は、死ぬのが怖くないの──か、っておい、大丈夫か!」 

 

「──?────あぁ、すまない、どうやら……限界みたいだ」

 

「………そんな」

 

「もう……起き上がる力も出ない……」

 

 彼女は身体をぐだっとさせてユウに寄り掛かった。

 

「………っ」

 

 ついに、終わりが来た。

 終わる。終わる。

 彼女の命が、潰える。

 

「………良いのかい、最後に話さなくて」

 

「………え?」

 

「……君には、何かしらの挽回する手段があるのだろう? 前に言っていただろう……不便な力があるのだと。……この子が死のうとしているのに……それだけの落ち着きよう、不自然だからね。でも……いいのかい? このまま、この子と話さずに終わってしまって……君は、後悔しないかい? 余計なお世話だったらすまないね、しかし……きっと、最後に苦しむことになったとしても……この子は君と話していたいと、そう思っているはずだ……」

 

 ……怖い。フェリスが苦しむのが? 違う。

 怖い、フェリスに嫌われるのが? 違う。

 

 違う、僕は、フェリスに、嘘を吐くのが怖いんだ。

 フェリスが好きだってこの気持ちが信じられなくなるのが、怖いんだ。

 

 だから、

 

「……ありがとう、スピンクス。……フェリスと変わってもらっても、いいかな」

 

「……そうかい、わかった……──」

 

「………」

 

 スピンクスは目を閉じて、そして呼吸のリズムが変わった。

 

「………フェリス、起きて」

 

「………ぇ、ゆ、う………さむい……つめたい……ゆう、どこ……っ、こわいよ………どこ……っ」

 

「──っここに、ここにいるよ」

 

「……わかんない……わたし、どうなってるの……? ゆうが、わからないっゆう、そこにいるの……?」

 

「──ごめんね、本当に、ごめんなさい、フェリス」

 

 フェリスは、もうきっと、触覚が働いてないのだろう。

 身体は冷え切り、命は風前の灯火、死ぬ寸前だ。

 ああ、やっぱり、最後までスピンクスに任せた方が良かったかもしれない。

 そうしたらフェリスは苦しまずに……いや、いいや、違う。

 それはフェリスの気持ちを勝手に邪推した僕の勝手な、都合のいい思い込みだ。

 フェリスには、フェリスの気持ちがある。

 フェリスが、僕を罵倒するなら受け入れる、フェリスがどうしたいか、フェリスの思いを聞かなくてはいけない。

 

「……フェリス、ごめん。僕のせいで、君は……」

 

 言えない。いったい、なんて言えばいいんだ。

 どんな顔して、どんな口調で、なんて言えばいいのだ。

 

 ──君は今から死ぬんだよ、って……?

 

 そんな、そんなこと、言えるわけないじゃないか。

 どうしよう。

 

「……ユウ」

 

「っ、うん、なんだい……?」

 

「……わたし、死んじゃうの……?」

 

「……っぼく、は……」

 

「…………そっか……そっかぁ……」

 

「……っ……」

 

 静けさに包まれる。

 フェリスは、死を受け入れていた。

 ユウよりも遥かに己の死を感じていた。

 むしろ今は死しか感じていなかった。

 

「……ごめん、ごめんなさいっ、ごめん……っぜんぶ、全部、何もかも……僕が悪いんだ、僕のせいだ……ごめん、ごめんなさい……守るって、言ったのに、約束したのに……っまた約束、守れなかった……っまた、君を、僕は……」

 

 何を言えばいいのかわからない。

 何が言いたいのかわからない。

 ただ、罪悪感を吐き出す、そんな醜い自己満足の言葉しか出て来なくて。

 

 もっと、せめて、フェリスが少しでも楽になれるように気の利く言葉を言えたらいいのに、ユウには今、フェリスが何を感じているのか、何を思っているのか、わからなかった。

 

 今、フェリスが感じていることは、今まで百回を超えて繰り返した失敗した世界で彼女が思っていたことそのものだ。

 今まで、目を逸らしてきた、彼女の気持ち。

 

 彼女は──。

 

「……ユウ」

 

「……うん」

 

「……っ……っ……」

 

 フェリスは、口を小さく、開けたり閉じたりしたりして、何かを言いかけてはやめてを繰り返していた。

 そうして、少し考えたように間を開けてから、言った。

 

「……ごめ……ううん、ユウ、ね──ありがとう」

 

「──────ぇ?」

 

 何を言ったのか、わからなかった。

 あ、り、がとう……?

 なんだっけ、それ。

 

「───」

 

「……ユウ、ね。ありがとう、すっごく……ありがとう、ユウ……」

 

「───」

 

「……あのね、わたしね……すっっっっごく……──幸せだったよ」

 

「───」

 

「……もう、あそこで死ぬんだって、独りで消えてなくなるんだって、ずっと思ってた。ずっと、諦めてた。わたし、誰にも愛されないで、誰も、愛せないままで、死ぬんだって……そう思ってた。……でも、わたし、いま、やっとわかったよ……わたし、ユウがだいすき……わたしは……ユウの……あなたのことを──愛しています」

 

「──────」

 

 心臓が、跳ねた。

 胸が、心が、脳が、震えるんだ。

 強く、とても力強く、響くように。

 

「…………わたし、ほんのすこしの間でも……ユウと過ごせて、すっごく幸せだった……すっごくすっごく幸せだった。………だから、わたしをつれだしてくれて、ありがとう……ユウ。──わたしを助けてくれて、ありがとう。──愛してる」

 

 それは熱だった。

 それは衝撃だった。

 それは、爆発だった。

 

「…………────」

 

「……あ……」

 

 フェリスは目を閉じた。

 だめだ。まって、まって、だめだっ。

 

 いっちゃだめだッ。

 いかせちゃだめだ、いや、 

 

「……フェリスっ待ってッいかないでッ!」

 

 ──ああ、もしかしたら、僕が今まで死んだときも、みんなこんな気持ちだったのかな……。

 

 ああ、それは、いやだな。

 

「……ふぇりす……」

 

「……ゅ、ぅ……」

 

「あ、な、なに…………僕に、なにか、できることは、ない?」

 

「……手……にぎってて……」

 

「…………わかった。──ぜったい、死んでもっ離さないからっ」

 

「───」

 

 ──しんじゃだめだよ。

 

 微笑んで、フェリスは、その手からは力が抜けた。

 

「───」

 

 胸が熱かった。

 

「───」

 

 脳が熱暴走に苛まれていた。

 

「───」

 

 熱、熱、熱。

 それは胸を満たして、そうして溢れ出した。

 外へ外へと、コツコツと吐き出されていく。

 

 心臓から湧いて、胸を通って、肩に回って、腕を通して、そうして、彼女の手を握る手へと伝わっていく。

 

 それは、熱だった。

 それは、想いだった。

 それは、愛だった。

 

 考えても、わからないことがある。

 いくら考えても、わからないことばかりだ。

 

 何度も間違えて、何度も失敗して、今度は助けようって、今度こそ助けたいって、そう言ってまた間違えた。

 いつまでも成長できなくて、いつまで経っても誰一人救えなくて、みんなを悲しませて、自分は独り勝手に死んで、そうしていつも助けたいはずの誰かを死なせてきた。

 

 どうすればよかった。

 どうすればいいんだ。

 わからなくて、わからなくて、ずっと苦しかった。

 

 でも、わからなくていいんだ。

 頭でわからなくても、心では理解していたんだ。

 ただ想えばいいのだ。

 

 頭で思うのではなく、心で想い合うことでしか人はそれを得られない。

 合理性とか、機械とか、人形とか、そういうことじゃないんだ。

 

「───」 

 

 ──死なないで。死なないで。死なないで。

 

 想いは情熱、愛は熱愛。

 溢れ出す熱が繋がる手と手を通して彼女に伝わっていく。

 その傲慢で、独り善がりで、しかし、尊い想いが、『優しさ』が彼女へと流れ込んでいく。

 

 

 

 ──あったかい……。

 

 フェリスはとても温かい場所にいた。

 そう、それは、夢で見た草原。

 長閑で、爽やかで、とても優しい風の吹いている。

 

 フェリスは気づいた。

 

 ──そっか、これが……ユウの心なんだ。

 

 嬉しい。フェリスはまさしくユウに包まれている。

 ユウがフェリスを包み込んでいる。

 冷たかった体が再び熱を持ち始め、苦しかった呼吸が楽になっていく。

 

 同時、あまりの心地よさに眠気が襲ってくるのだ。

 

 ──ふわぁ……やっぱり……ユウはすごい……わたしの、大好きな……おうじさま……──

 

 

 フェリスの症状は、ユウの『回復魔法』によって劇的に回復した。

 

 

◆◇◆

 

「……君は自分を最低だと罵っていたが、そうか……君の本当の適正は……やはり興味深いね、君は」

 

 眠りに就いたフェリスの中からその光景を見ていたスピンクスは独り言を呟いた。

 

 ユウが『回復魔法』を使えた理由。それは当然、彼の本当の適正が『水魔法』だったからだ。きっと本人も知らなかったのだろう。

 

 とはいえ、なんの心得もない彼があの重篤な状態だったフェリスの身体を回復しきれたのは『傲慢』の力がやはり大きいだろう。

 だが、それもまた彼のもつ『優しさ』がなせる業だ。 

 

 いくらそういう『性質』を『傲慢』がもっているとはいえ“ゼロから一”を生みだすということはそう容易くないからだ。

 

「……面白い。君がいったいどこまで至れるのか。──今は亡き彼女たち(魔女)と同じところへ行けるのか、はたまた道すがら力尽きるのか。それとも──」

 

 興味が尽きない対象というのはどうしてこれほど惹かれるのか。

 欠陥品とは言えど、やはりもっている記憶と知識に寄せられているのだろうか。

 

 ああ、これから彼がどうなっていくのか、実に楽しみだ。

 

◆◇◆

 

 

「───ハッ」

 

 目が覚めた。

 そしてすぐに気づく、──フェリス。

 その方を見れば。

 

「──すー……」

 

「──あ、あぁ……よかった」

 

 彼女はちゃんと息をしていた。

 小さく、しかし確かに胸を上下させて、呼吸していた。

 

「………」

 

 あの時、何が起こっていたのか。

 ユウはよくわかっていない。

 ユウは何も考えていなかった。

 

 ただ、心のままにフェリスを想った。

 

 そしたら、凄まじい熱が溢れてきて、それを彼女に流せって、本能が囁いてきた。

 そのまま祈るように彼女の手を握っていたら、どっと、疲れが湧いてきて、気づいたら意識を飛ばしていた。

 

 ……どれくらい寝てしまっていたのだろう。

 

「………ん……──ユウ?」  

 

「フェリス……」

 

 静かに、慈しむように、ただお互いを抱きしめた。

 

「……よかったっほんとうにっ」

 

「……うんっ」

 

 しばらくそうしていると、

 ぼろぼろと、二人を覆っていた石のドームが風に溶けていく。

 用済みとなり役目を果たした土塊は効力を失い、塵と化して空気に溶けていく。

 すると、二人を赤光が包み込んだ。

 

「……っ」

 

「……わぁ」 

 

 目を開けると、二人を迎えたのは透明に輝く美しい夕日だった。

 雨はいつの間にか上がっていて、そこには大きな虹がかかっていた。

 

「……きれいだね」

 

 ユウは、泣いてしまった。

 安堵か、感動か、そのどちらもか。

 泣いて泣いて、泣いてばっかりだ。

 

 わかるのは、ただ、ただこうして、二人で、二人で生きて、この夕日を見ることができたことに感謝したかった。

 それはきっと世界で一番美しい夕日だった。

 そうに違いない。少なくともユウにとってはそうだった。

 

 

 頬を伝う雫が、夕日に輝いていた。

 

 

◆◇◆

 





 一応タイトルの元ネタは『この音止まれ』から……好きなんです。


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【幕間】憂鬱なる『希死念慮(デストルドー)
『罵倒、葛藤、戦闘』



 一万と四千


 

◆◇◆

 

 

 静まり返る深夜の森。

 パチパチと火の粉の舞う音が響き渡る。

 何も見えぬ暗闇の中、唯一の光源である焚火の傍には、ユウの上着を被さり枯草を枕にして眠るフェリスの姿があった。

 

「──スピンクス」

 

 すやすやと眠っていたフェリスはしかし、ユウの呼び声にすぐさま反応してスピンクスとしてその瞼を開いた。

 

「……なんだい?」

 

「フェリスを頼む」

 

「……あぁ、そういうことか。了解した」

 

 一瞬容量を得なかったスピンクスだったが、周囲の状況を確認してその言葉の意味を理解した。

 

 

『グルルルル……』

 

 

 ユウたちは今、周囲を魔獣に囲まれていた。魔獣たちは酷く弱った格好の得物を見つけて集まってきたのだ。

 

 ホクトの障壁は頼りにできない。これはユウの責任だ。ユウが後先考えずに動いた結果。

 

 ユウは本当は一人でフェリスを守り抜くつもりだった。しかし、ユウは頼ることにした。信用ならなかった、聖域まで出番はないと言って憚らなかった相手に、

 

「──『エルドーナ』。あぁ、早くも名誉挽回の機会を得られてうれしい限りだ。……君はボクに頼ることを拒むと思ったが、どういう風の吹きまわしかな」

 

 少し前の、昨日までのユウならあり得ない選択、決断。

 しかしユウは迷わなかった。

 

「……僕は…………僕だけじゃ、フェリスを守れない。……それがわかった。だから、お前の手を貸して欲しい。虫のいいことを言っているのはわかってる。これは、僕一が人でやるべきことだ。僕がフェリスと一緒にいる為に、できなきゃいけないこと」

 

 それはフェリスを連れ出したユウの責任。しかし、ユウはそれを果たせなかった。だから頼る。恥を忍んで。

 

「……絶対に守り切るって自信はある。それでも、万が一がある。僕のつまらないプライドで、もうフェリスを傷つけることはしたくないんだ。だから、フェリスを守ってあげてくれ。──頼む」

 

「……ボクを信用すると、そういうことかい? …………ボクが言うのもなんだが、それは些か浅慮に過ぎるのではないかな?」

 

 しかしそれに対してスピンクスが返したのは疑問の言葉だった。

 

「今日のことだけでボクを信用するなんていうのは、あまりに軽率だとボクは思うよ。確かにボクは君に対し誠実であろうと努めているし、約束を違える目論見などないが? それが信用を得る為のただの演技でないとどうして言い切れる?」

 

 まるで迷う様子もなく、スピンクスを頼るユウ。それに対してスピンクスはユウの軽率な選択に疑念を抱きその真意を問う。

 

 ユウは己のちんけなプライドの問題だと言うが、スピンクスからすれば問題はそこではなく、どうして信用できるのか、ということだ。

 

 そう、理性的に考えるなら、信用なんて一生できるはずがない。なぜなら彼女は、魔女で、悪人で、自分の目的のために愛しい子に憑りついている悪魔の類だ。

 

 合理的じゃない。愚考だ、愚策だ、愚かな選択だ。

 

 それでも、ユウは迷わない。

 根拠はない。確信はない。それでも自信がある。

 

 ──心が、彼女を信用できると感じている……信じたいと思っているから。

 

「ふっ……ああ、お前が言うことじゃないな。……別に、お前のそれが演技じゃないって言い切れるわけじゃない。僕は、お前のことを何にも知らない。お前が何を考えているのか、僕にはわからない。でも、僕はお前を信じる。僕は、お前を信じたいって思えた僕の心を信じたい。だから根拠なんてないし、納得させられる理由なんてのはないよ」

 

「…………そうか。『心』……か。……ならば、期待には応えねばなるまいね。ボクの威厳にかけて、今度こそ役に立ってみせよう。この子の身の安全はボクが保障する。──気を付けて」

 

「あぁ──ありがとうな」

 

「………」

 

 ユウはスピンクスに話をつけて森へと向き直った。スピンクスはとどめていた土魔法を起動させ、防壁を完成させる。それを確認してユウは剣を構える。

 

 

 

「「「ガルルルルッ」」」

 

「──かかってこい。そうして死に晒せ、畜生共」

 

「「「ガウガァッ!!」」」

 

 犬型の魔獣ウルガルムの群れが襲い来る。

 夜が明けるまでの、狩りが始まった。

 

 

◆◇◆

 

 

 斬って、斬って、斬り尽くす。

 的確に、淀みなく、その首を切り落とし、胴を薙ぎ、脳を突く。

 

 清廉された剣技が獣を狩る。其れは天下の剣聖の模倣。完全ではないにせよ、その技術は英雄に足る。獣ごときに敵うものではない。

 

 しかし、獣は獣であるが故に、畜生どもは無謀に無鉄砲に本能のままに、その数を頼みに襲いかかる。

  

 ──数が多い。

 

 ユウは獣を狩りながら思考する。ユウは己の身を囮にしてスピンクスのいる場所から少し離れたところで魔獣と戦っていた。

 

 もう三十ばかり殺しているが、その勢いは一向に衰えない。どれだけ凄まじい剣技をもった剣士だろうと、その体力には限りがある。獣は獣なりに狩りのプロである。獲物の殺し方を経験として知っている。

 

 だが、それはユウの並の剣士であったなら、あるいはただの人間であったなら通じる戦法だ。

 

 ──このままだったら問題ないな。

 

 ユウは体力など問題にしない。ユウに体力など存在しない。ユウは『疲労』なんてとっくに失っている。

 

 どれだけ疲弊しようと怪我をしようと筋肉も心臓も脳でさえも、次の瞬間にはきれいさっぱり回復していることだろう。

 

 舞う、舞う、舞う。

 それは剣舞。それは狩り。それは武闘ではなく舞踏。踊り、振るい、屍の山を築く。

 たかだか数百の魔獣など、相手にならない。

 

「──ふぅ」 

 

 しばらく戦っていると、魔獣の攻撃が止んだ。ユウはその合間に一つ息を吐く、それだけで息の乱れは落ち着き、戦闘状態が解ける。

 

 

「………」

 

 

 しばらく魔獣は来ないだろう。しかしこうして一か所にとどまって戦っている以上、それを嗅ぎつけた魔獣が森中から続々と集まってくるはずだ。

 

 魔獣とはそういうもの。その脳にあるのは捕食、殺戮、戦闘。そこに獲物がいるのなら、血を嗅ぎ分け、音を聞き分け、駆け付けてくる。

 

 

「……ホクト」

 

 

 そうして、魔獣が止んだ合間にユウは──ホクトとの対話を試みた。

 

「……どうして裏切った」

 

 ユウは問う。どうして力を貸してくれなかったのかと。そのせいでフェリスが死にかけたんだぞ、と。そう怒りを込めて。

 

 そして、

 

 

『は?』

 

 

 返答は、ユウの怒りを遥かに上回る激怒だった。その一言、一音には、計り知れぬ激情が込められていた。だが、ユウは理解しなかった。ユウは、ホクトが何を考えているのかわからなかった。

 

「──? どうして力を貸してくれなかったんだ。それに『権能』のことも、なんで教えてくれなかった。そりゃ、天候の変化を想定してなかった僕のせいだけど、お前が手を貸してくれればあそこまで事態が悪化はしなかったはずだ」

 

『──お前。それ本気で──あぁ、本気なんだろうな。クソが、反吐が出る』

 

「あ? 何怒ってんだよ、怒りたいのは僕の方だ。どういうつもりだ、何考えてる」

 

 そうだ。ユウは間違ってない。自分が何もできなかったのは反省してる。後悔してる。しかし、それでもあの場で助け合うことをせず突き放したホクトに怒る権利が、ユウにはあるはずだ。

 

『……イラつくなァ、あァ、不愉快極まる。お前──いつからそんな腑抜けちまったんだ?』

 

「……なんだって?」

 

『お前さァ、もしかしてオレを都合のいいお助けアイテムかなんかだとでも思ってんのか?』

 

 酷く、それは、酷く底冷えのする声だった。

 

「……え」

 

『どうして? なんで? 何考えてるか、だってェ……? ──ダボが、なんでオレがお前の女ァ助ける為に汗水流さなきゃなんねぇんだ? バカか? あ?』

 

「は、なに言って……だって、お前は僕の味方だって……」

 

『……へぇ、そう、だから勘違いしちゃったわけ。へぇ、へぇ~、何度も言ってんだけどなァ、あァ、バカに説明するってのは本当にダルいよなぁ? 『ナナホシ・ユウ』クン?』

 

「………」

 

 その声には、悪意が詰まっていた。

 最近は聞いていなかった。もう、仲間だと思っていた。自分に協力してくれる、頼りになるもう一人の自分なのだと、それは、それこそが、勘違いだったのだろうか……?

 

『──甘ったれんじゃねぇぞ。お前──気持ち悪いよ。心底……心の底から、反吐が出る、お前を見てると』

 

「……っ」

 

 罵倒、それは言葉の凶器。

 ユウは、声が出なかった。

 言い返そうと、言葉を考えるも、言葉は浮かばず、それどころかホクトは更に更に侮辱の言を重ねてくる。

 

『お前がァあのガキと、キャッキャ、キャッキャと馬鹿みてぇに浮かれてるところォ見てんのはうんざりなんだよ。あァうんざりだ、うんざりする、憂鬱ダ……──お前、満足してただろ』

 

「──。」

 

『外出て、救えて、クルシュと袂を分かって、あのガキと生きてくって、安易に容易に軽率に愚鈍に脳死で考えたんだろォ? 満足か? あァ、お前は満足した。ガキと相思相愛になれてよかったなァ! あァよかったよかった、おめでてェな。オメデトウ! ──ホントはもう飽きてんだろ、オメェ』

 

 ホクトは言う、ユウは満足していると。

 確かに、ユウは満足、すなわち幸せを感じていた。

 

 フェリスと一緒にいられること、フェリスと想えること、想われていること。すべてが幸せだった。彼女が大切だった。彼女を守りたい、幸せにしたい、愛してるって何度でも言いたい。

 

 ……そう思うことの、何が悪いというのだろうか。

 ユウにはわからない。ホクトの言いたいことが、何一つわからない。ただ、わかるのは──。 

 

 

「……言いたいことはそれだけか?」

 

『………』

 

「………ならもういい、お前なんて──要らない。お前にはもう頼らないよ。お前に協力する意思がないなら──」

 

 

 ──シャッ!!

 ──キキィッ!!

 

 

 ホクトの口撃を軽く流すユウ。そうしてそこへ追加の魔獣の群れが現れた。

 今度はサル型の魔獣マジーラと言ったか。集団で獲物を狩るすばしっこい赤毛の猿だ。

 

 

「……今度は猿か、犬よりは面倒そうだな」

 

『………』

 

「──ふッ!」

 

 

 襲い来る猿どもを切り裂こうと、その剣を振るおうとした。

 ──だが、

 

 

「………が、あ、なん………」

 

 

 ユウの身体が硬直し、痙攣し始めた。

 それは──。

 

 

『──オレが、要らない。オレが、オレが、オレが──俺が何の為にお前に身体を渡してやってると思ってるんだ? 要らないのは──お前の方だよ──『ナナホシ・ユウ』』

 

「……オ、マエ……!! ぐ──ッ」

 

 

「──オレはオレだ。オレの目的の邪魔ァするってんだったら、この身体──オレに寄越せ」

 

 

 もう一人の自分は悪辣に、ユウから肉体の制御を奪い取った。

 

 

「──あは♪ 久しィぶりの身体だなァ! いい、いいねェ、やっぱり生きるってのはこうでなきゃ……! あは、あははっ? アハハハハ!!──『デスピア』ッ!!」

 

 夜の暗闇に強く輝く紫の光の爛々と輝き周囲を照らす。それは力の波動、暴力の結晶、破壊の衝動。輝きは集約し一振りの矛となる。紫紺の槍はホクトの叫びと共に魔獣に向かって解き放たれる。

 

「「「ギィャッッ────!!」」」

 

 一撃で相当な数の魔獣が消え去った。その槍は矛先にあるすべてを穿ち、貫き、この世から存在を消し去る。ホクトの編み出した『憂鬱の権能』、最強の矛である。

 

「あァ……イイ。ほら──来いよ」

 

「ギ、ギギィ……」

 

 そう言って魔獣に対し手招きするホクト。その眼光は狂気の光を発している。その威圧感は並大抵のものではない。

 

 普通の魔物とは違い狡猾で知恵の働くマジーラは恐怖する。近づけない、本能が危険だと囁いている。あれは邪なもの、あれは敵わないもの、あれは、あれは──それは魔獣の根源的な恐怖の象徴──。

 

「──来いって、言ってんだろォ──ッ!」

 

 ホクトの身体から凄まじい『瘴気』が噴出する。

 

「「ギギッガァァァァァアアアア!!!!」」

 

 すると猿どもの目から正気が失せ、狂気に染まり、発狂の咆哮とともにホクトへと一斉に群がった。あれを殺せと、本能が獣を唆す。

 

「クックック──いい子だ。ちゃァんと殺してやる。大人しくオレの糧になれ」

 

 ホクトが手を翳せば、そこに一本、二本、三本と、紫紺の槍が生成されていく。ホクトはその手を一周させ、自身の周囲に二十近い槍を具現化する。

 その大きさは投げ槍程度であり、先ほどよりも少し小さい。

 

 

「──『(アジャラ)』」

 

 

「「「「「──ッッッ──」」」」」

 

 そして、その言葉と共にホクトの周囲、上下左右三百六十度を埋め尽くしていた魔獣の群れは、一撃で血しぶきに代わり、その肉体を爆ぜさせた。

 

 ポタポタと血の雨が降った。

 そして、周囲の()()()()()()()が、ホクトへと取り込まれていった。

 

「あァ……力が満ちていく……!! 戦いってのァこうでなくちゃァな……! アハッ、アハハッ!…………はァ」

 

 少しは、気が晴れるかと思ったが、そんなことはなかった。

 

「……こんなモブじゃあ物足りねェよなァ? ま、いっか。久しぶりの運動だ、このぐらいで満足しとくかァ──んじゃ、どこへいくとするか──っとォ?」

 

 途端、平衡感覚が失われる。

 絶好調だったホクトはその場に膝をつく。

 

 

『──『返せ』」

 

 

 ユウの虹彩が赤く染まる。

 

「いひッ──『傲慢』!」

 

「──僕の身体だッ!!」

 

「あはっいいじゃねぇか、減るもんじゃないだろッ!」

 

「黙れッ! 僕は──あの子と生きるんだッ!!」

 

 

 ──身体の奪い合いが始まった。

 

 代わる代わるにその口で言葉を話す二人にして一人。傍から見れば頭のおかしい人間だ。ころころと表情を変え、口調を変え、右で笑い、左で怒る。

 

 その右手は左手を押さえ、別々に動く足によってまともに立つこともできないでいる。

 

 

「──お前、なんなんだッ──なんなんだお前はッ!!」

 

「だからァ何度も言わせるなよユウクン──オレはお前さッだから、安心して身体を寄越しな!」

 

「お前……ッ──『魔女人格』ってやつなのかッ!?」

 

 

 『魔女人格』。ユウもよく知らないそれは『魔女因子』の副作用とも呼ぶべきもの。宿りしものの魂を歪め、その者に適した『権能』を授ける正体不明の『魔女因子』という代物には、数少ない代償のようなものがある。

 

 力を手に入れるには相応の対価がいるというのはよくある話だが、『魔女因子』の対価とはすなわち資格だ。権利だ。力に相応しい意思を示すことだ。

 

 選ばれたことは始まりに過ぎず、そこから因子と魂の融合が始まる。因子はオドに寄生し溶け合い、力を与える。

 

 しかし、魂を弄られるなどまずまともな結果にはならない。魂が変化すること、それはつまり──。

 

 ──生まれ変わるのだ。

 

 力を得るのは簡単、しかし力を制御するには相応の意志が必要となる。それが足りていなければ力は暴走し、魂を穢し、精神を汚染する。

 

 そうして──新たな『別の人間』になる。

 

 それが『魔女因子』の人格なのか、本人が打ち勝つのか、はたまた互いに溶け合い一つになり、まったく別の人間になるのか、それは各々次第である。

 

 だが──『ナナホシ・ユウ』はそのどちらでもなかった。彼はその魂を完全に別ち、一つの身体に二つの人格が誕生した。

 

 ホクトとは『魔女因子』の人格であり、ホクトが言う“オレはお前”というのは嘘であると、ユウはそう考えた。しかし、違う。違う違う、全然違う。

 

 

「───。」 

 

「──っ?」

 

 

 ガチ、と、肉体の動きが止まった。ユウは動かそうとしても動かず、ホクトは沈黙している。

 

 

「……オレが、『魔女因子』から生まれた“偽物”の人格かって……? なァ──オイ」

 

「──ッ!!」

 

 

 ホクトは、その左拳でユウの頬を殴りつける。自分で自分を殴りつける。

 

 

「──不快不愉快腹立たしい厭わしい忌まわしい鬱陶しい。何も知らねェで、何もかんも忘れて、ペットの生き死に如きに一喜一憂しやがって」

 

「……あ?」

 

「よかったなァせっかく拾ってきたペットが死ななくて! せっかく懐かせたもんな! あァ……女々しいったらありゃァしない」

 

「……──殺す」

 

「きひっ? おわッと──」

 

 ユウの右手に風が宿り、不可視の刃がその減らず口を削ぎ落し黙らせようとする。しかしホクトの左手がその手首を押さえつけ、風刃はホクトの顔の真横を通り過ぎその頬を少し裂くだけに終わった。

 

「おォおォ一丁前に切れてんのかァ!? ──お人形チャンがッ!!」

 

「黙れッ!!」

 

「イィヤ黙らないね! うんざりなんだよ! お前の、お前らのママゴト見せられんのはァ! 何がごべんなさいぃだッ! なァにが愛してるゥだ! バッカじゃねェの? バカだろッ! あァペットと──」

 

「彼女はペットなんかじゃないッ! 取り消せッ!」

 

「……自覚、ないんだ、ないよね、ないよなァ知ってた! お前ェあいつのこと一度だって──『女』として見たことなんてなかっただろ」

 

「──ッ!」

 

「お前はあいつを女として愛してるんじゃァない。かと言って男として愛してるわけでもない。純粋に好きというにはドロッドロ、親愛というのも烏滸がましい。そういうのォ庇護欲って言うんだよ! ペットに対するな。ペット、ペット、ペット、何度だって言ってやるよ! お前が好きなのは自分を愛してくれる、自分を必要としてくれる弱くてひ弱で矮小なテメェに都合のいい愛玩動物! そうだろうがッ!」

 

「……違う! 違う違う、違う違う違うッ!!──僕はッ!!」

 

 

 ──アオォォォォォン

 

 

 口論し自爆を繰り返すユウたち。そこへ第三陣がやってきた。巨大なウルガルムに、それに引き連れられた通常種、更に猿というよりもゴリラに近いボスマジーラに通常種、他にも岩豚やギルティラウと言った有名な魔獣たちが一斉に集い、ユウたちを取り囲んだ。

 

 

「チッ、オマエ、何の為に力ァ得たんだよ」

 

「……僕、は……フェリスと幸せに、フェリスを、幸せに……僕はフェリスを助けたいだけだッ!」

 

「──ハッ、助けたい、助けたいってか、クッハハハハハ! あァそりゃァ質の悪い冗談だな。あァ反吐が出る。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いったらありゃァしない」

 

 

 ただただ心に兆し胸を満たす思いの丈を言葉にして告げるユウに、ホクトはただ邪悪に悪辣に陰険に、その言葉を否定する。

 

 

「──薄っぺらだ。ぺらっぺらだ。オマエのそれは口だけだ。──取り繕うな。見栄張るんじゃねぇ、あの無様で女々しい泣きっ面がお前の本性だろォ? 記憶なくしたことも伝えられないビビりで臆病者で卑怯者なテメェが、好きだ、想いだ、愛してるだなんて語んな。死ね。軽いんだよ。甘ェんだよ。気持ち悪ィんだよ。助けたいなんて妄言を吐くな。愛してるだなんて虚言を恥ずかしげもなく宣うな。テメェがそんな綺麗事口にできる立場だとでも思ってんのか?」

 

「……もういいッお前の戯言なんてどうでもいいッ! 『フーラ』ッ!!」

 

 

 言葉の限りにユウを罵るホクトに対して、再びユウの魔法が振るわれる。頭、両腕、両足、それぞれの制御権を奪い合う。ユウとホクト、二心一体で武闘を舞う。

 

 頭を狙った魔法はまたも外れ、しかし背後から迫っていたウルガルムを切り裂いた。

 

 

「僕はフェリスを助ける! 死なせない! もう絶対死なせない! 守るんだ! 助けるんだ! そう決めたんだ! 誓った! 約束した! 僕とフェリスの邪魔をッするなァ──ッ!!」

 

「キャウン──ッ」

 

 

 赤き眼光が輝きを増す。ユウの意思に呼応して肉体に力が入り、制御を奪い取る。迫りくる畜生に剣を振るい、その決意を森に響かせる。

 

 

「──しゃらくせェ! 『デスピア』! 『デスピア』! 『デスピア』ァ!!」

 

「ガ、ボァ……」

 

 

 しかしすぐにホクトが制御を奪い取る。『権能』を用いて紫紺の槍を生成し、そこかしこにいる畜生どもに手当たり次第に打ち込み、その身を爆ぜさせる。

 

 

「『デスピ……』」

 

「──『アルフーラ』ッ!」

 

 

 権能は中断され、紫紺の槍は翡翠の槍となって敵を穿つ。ユウは周囲を確認し、群れのボスらしき魔獣を先に倒そうと包囲網から脱出……しようと跳躍したところでホクトが主導権を奪い返す。

 空中で取り返したホクトだったが体勢を崩すことはなく、そのまま剣に『憂鬱』を宿してボスを斬る。

 

 

「──そうだ、そうだよ、こうでなくちゃァなァ!! なァ!? 『ナナホシ・ユウ』!!」

 

「────知るかッお前の言ってることはッなにっ一つ理解できない!」

 

「気持ちいいだろォ力ァ解放するのはッ! 生き物を殺すのは! 快楽そのものだ!」

 

「黙れ、これはフェリスを守る為の力だッ!」

 

「守れてねェ癖に偉そうに言うな!」

 

「──ッ!」

 

 

 剣を振るい、槍が飛び交い、魔獣の断末魔が響き渡る。そんな戦闘中に、しかし未だ二人は口論を続ける。二人には魔獣など眼中になく、身体の奪い合いに全力を注いでいる。

 身体の奪い合いは精神と意思で行う綱引きのようなもの。ホクトはユウの心を乱そうと言葉を連ねる。

 

 

「……守れると、思った……! 守れると、思ってたんだよ……僕が求めてたのはこんな、こんな役に立たない力じゃないッ!」

 

「………。」

 

「『フーラ』ッ……それでも、守るって決めたッ! だから、スピンクスにも頼るって決めた! だから……お前にも、手を貸して欲しいって、だから──ッ! うぐ──ぁ」

 

「──傲慢。あァあんだけ死んで、死んで、繰り返して。覚悟を決めて、少しはマシになったかと思えばあっという間に元通りだ。──クソガキ。お前のそれはただの『甘え』だ。何の覚悟もねぇただの思考放棄。あのクソ魔女に頼ろうなんてのァ思い違いもいいところだ」

 

「……スピンクスは……」

 

「──絆されたんだろ? 辛いときにちょっと優しくされただけで。……牢獄でのことォ忘れたのか? 忘れちまったんだろう。だからちょっと優しくされただけで赦しちまえるってか! バカも休み休み言えッ!」

 

「……っ」

 

「──赦せるはずがない。信用なんてするはずがない。信じるな。頼るな。……『頭でわからなくてもいい。心でわかればいい。信じたいって心で思えたから』──ッ! そんなのはただの思考停止なんだよ! 助けたいなんて綺麗事を抜かすな! ──助けたいならクルシュに引き渡せカスが。違ェだろ? お前が決めた覚悟は。そんなちんけなもんじゃァなかったはずだ!もう忘れちまったってのかァ?!」

 

「……僕……は……」

 

 ──ただ、フェリスの声が聴きたかった。独りは嫌だった。フェリスと一緒に居たかった。ただ、それだけだった。それは──

 

「──そうさ、お前は助けたかったんじゃァない。助けたのは手前勝手な『欲望』の結果だ。お前はお前の欲望の手段として救いを選んだだけだ。それを恩着せがましくも助けたかった、だなんて言葉で着飾って自覚すらねェなんて、これで反吐が出ねェやつがいるか? いぃやいないねッ!」

 

「……僕は……。……お前、何が言いたいんだ」

 

 ホクトが延々とユウを悪し様に罵倒する言葉の中に、ユウは何かの想いを感じ取った。言葉は聞くに堪えない言葉の数々、ユウはほとんど理解できていない。

 

 しかし、想いが、伝わってくるのだ。身体を奪い合う中で、感情が、意思が、想いが、混ざり合い、重なり合い、交錯する。

 

 ホクトは言う。

 

 

「──もっと欲張れ。満足なんてするな。考えて考えて、考えて、考えて! ──考え続けろ! 心で分かればいいなんて思考停止の先にあるのはテメェに都合のいい善悪で物事を語る下らねぇつまらねぇ何の価値もねぇ──偽善者(ゴミ)だけだ。──そんなんじゃァお前は、オレたちはいつまで経っても至れない」

 

「………」

 

「──強欲に貪欲に欲深になれ。生きている限り満足なんてするな。そうでなきゃお前に終わりは来ない。望み、高め、そうして至れ。想えることが──愛せることが当たり前だなんて思ってんじゃねぇ……! 相思相愛で満足なんてしてんじゃねぇ!! そうでなきゃオレは……! ……オレは何も想えない。想えないんだよ! 感じないんだッ! オレにだって記憶がある! 意思がある! なのに! オレにはあの子のことなんてこれっぽっちも想えない! オレがニセモノだからか! オレがお前が受け入れられないことを受け止める為だけの人格だからか! その為だけに生まれたからか!」

 

「………」

 

 

 支離滅裂だった。ユウはホクトの気持ちが理解できなかった。それでも、同調し、共鳴し、身体を奪い合う中で、伝わってくるものがある。

 

 それはホクトの感情。ホクトの心。そうしてわかる。──ホクトの心は空っぽである。何もない。虚無。虚空。

 

 ユウもまた空っぽだった。

 『死に戻り』が、その代償としてユウの魂を穢し、精神を常人から逸脱させた。

 

 それでも、ユウにはフェリスがいたから。フェリスとの幸福な時間が、フェリスの存在が、ユウの心を少しずつ満たしていた。ユウの心は満たされてた。

 

 しかし、ホクトの心は空っぽのままだった。ホクトは、ホクトの心が満たされるには戦いしかない。力の行使しかない。ホクトにはそれしかできない。

 

 ユウがホクトの立場だったら、気が狂っていたかもしれない。自分は乾いていく一方なのに、隣では満たされているやつがいる。しかもそれがもう一人の自分だとしたら、思うだろう。──どうしてオレじゃないんだ、と。

 

 

「──オレは消えない。オレは死なない。オレは消えてなくなってなんかやらない。オレは生きている。オレがここにいることを誰にも否定させなんかしねェ。お前にもあのガキにもこの世の誰にも! ──オレの『憂鬱』を無視するなんざ許さねェ! そうさ、オレは自由に生きるんダ! アハックハハハハッ」

 

 

 ホクトは嗤う。嘲る。それは決して愉快だからじゃない。ユウにはわかった。そしてそれがわかって尚、ユウには──。

 

 

「………わからない」

 

「……あ?」

 

「……お前が言いたいこと。思ってること、考えてること、ぜんっぜんわかんねぇ……」 

 

 

 ユウにはわからない。理解なんてしてやれない。分かってやれるなんて言わない。

 

 ホクトが本当に同じ僕なのだとして、それでも全部を分かってなんてやれないんだ。記憶も同じ、経験も同じ、もとは同じ人間。でも──今は違う人間。ユウは分かり合えないと知った。

 

 可哀そうだから身体をやるなんて言えない。言ってやらない。ユウはフェリスと約束したから。

 でも、こいつも僕と同じだから。それはわかったから。

 だから──。

 

 

「……でも、お前も僕だと言うのなら──受けて立つ。いつでも、何度でも、身体を奪おうとしてみればいい。僕は負けない。僕の心にフェリスがいる限り、僕がお前に負けることなんて在りはしない」

 

「───上等じゃねぇか。吠え面かくんじゃねぇぞ」

 

 

 相容れない二人。互いにその意志は固く、考えを曲げることなどしない。二人は決別し、対立し、ただ一人の人間としてただ求めるモノを勝ち取らんとする。

 

「グルガァァァ──!!!」

 

 そこへ到来する、機会を伺っていた獣たち。自爆し自傷するユウたちに今がチャンスだと言わんばかりに突っ込んでくる。

 

「──馬鹿が、オラッ!」

 

 しかし、瞬時に反応したホクトが剣を振るう。剣に纏わりつくオーラは振るわれた刃から斬撃として放出される。それは視界にいる魔獣すべての身体を泣き別れさせ、周囲を囲う重厚な木々までも一撃で切り裂き転倒させる。

 

「──『アルフーラ(天嵐)』」

 

 そうして反対側からも続々と迫りくる獣をユウの生み出した巨大な嵐が一網打尽にする。獣は暴風と狂風の吹き荒れる風の檻に閉じ込められてミキサーのように切り刻まれミンチと化す。

 

 肉体の主導権が高速で入れ替わり続ける。

 

「『戯』!」

「『フーラ(三連星)』!」

「「死ねッ!」」

 

 『権能』が、『風』が、剣線が舞う。

 肉体の支配権は入れ替わり続けているはずなのに、その動きに淀みはなく、凄まじい速度で魔獣の間を駆け巡っている。そうして凄まじい速度で潰えていく獣に、積み重なる屍の山。

 

「くッ」

「このッ」

「ふッ」

「らッ!」

 

 全身全霊のぶつかり合い。それは目には見えぬ精神の争い。意地の張り合い。

 肉体の制御権を奪い合う精神力を競う綱引き。

 どちらも一歩も譲らず、綱は互いを行き来する。

 

「ハッ! もう疲れてきたかァ!?」

「まだまだッ!」

「力ァ弱ってきてんぞォ!」

「一気に引き抜くためだよバーカッ!」

「うがッ、こんのッ」

 

 そんな会話をする最中も、肉体は自由自在に空を闊歩し、地を駆け、獲物を狩る。

 全力で動き続けるというのは多大な疲労を呈するが、それは精神も当然同じ。互いに、互いの疲労が積み重なって加速度的に倦怠感が増していく。

 

「ハッ、何意地張ってんだかッ! あの子が求めてるのは『お前』じゃァないってのにな!」

 

 ホクトはそんなユウの精神を乱そうと語り掛けてくる。

 

「ふッ!」

「ぬぐおッ」

 

 だが、それは失敗する。ユウはホクトの戯言を意に介さない。

 

「もうお前の言うことなんかに惑わされないッ! あの子が求めているのが僕じゃないなら、彼女が求めてくれる僕に、僕がなればいいだけだッ!」

 

(こいつッ)

 

 ユウの意思は固い。ホクトがユウを惑わそうと油断した隙に、逆にホクトが隙を突かれてしまった。

 

 ホクトは思考する。このままでは負ける、と。何故、こんな泣き虫の臆病者にオレは負けようとしているのか。ホクトは理解できない。オレとこいつで何が違う。決まってる。あのガキだ。

 

 ホクトには理解できない。それが強さに、至る為に必要なものだなんて思わない、想えない。信じない。

 

 ──なにか、こいつを動揺させる言葉をッ。

 

 ホクトは思考し、次々と暴言を吐く。

 

「なんも知らねぇで! 都合の悪いことッ都合よく忘れて! 女とイチャイチャしてるだけのやつには、あァ! わかんねぇだろうな! 自分の記憶取り戻す気もねぇんだろ?!」

 

「フェリスが望むなら取り戻す、そうでないなら、そんなもの何処へなりとも捨ててやる! 僕は僕の為、あの子の為に、あの子の望む存在になる為に僕のすべてを捧げてみせる!」

 

「──ッ」

 

 固い。頑固にも程がある。ただの思考放棄だ。自分で考えないで、判断を他人に委ねて、自分は何の決断もしない、楽したいだけの屑の妄言だ。

 

「はッ今度は開き直りか! おめでてェな! 判断を他人に委ねてりゃ楽だもんナ!」

 

「僕は彼女を、彼女たちを信じる! そう判断しただけだ!」

 

「チッ」

 

 曲がらない。最早考えることをしていない。意思の固い奴のなんと面倒なことか。

 

 ──あァ余計な方向にキマッちまってやがる。クソだりぃ。

 

 そうさせたのは紛れもなくホクトであるが故にいら立ちは募るばかりだ。

 

 ──あァクソッ、思考が鈍ってきやがる。

 

 ──守る! 守る! 守るんだ! ──今度こそ絶対に!

 

 ──うるせぇ、黙れ。

 

 隣でキンキンと叫ぶユウの心。それが猶更ホクトの思考を妨げる。うざいったらありゃァしない。

 

「あァあァアァァァ!!! うっぜェんだよ! さっさと身体を寄越しやがれ! クソ傲慢野郎ッ!」

 

「知るかッ! クソ根暗野郎!」

 

「ハッ、テメェ口が悪くなってきてるぞォ! 意識保つの辛くなってきたんじゃねェかァ……!?」

 

「そりゃお前も一緒だろッ!」

 

 ホクトだけではない。ユウだって疲労している。もうずっと二人で身体を動かしているような状態だった。実際には交互に高速で入れ替わっているのだが、二人の意識が重なり合い互いの次の行動を自ずと理解するようになっていた。

 

「バカがッ!」

「うるせぇ!」

 

「クソガキッ」

「性悪がっ!」

 

「偽善者めッ」

「くそエゴイストッ!」

 

「泣き虫!」

「サイコ野郎!!」

 

「死ねッ!」

「お前が死ね!」

 

「ウぉぉぉオオオ!!!」

「あァァァあああ!!!」

 

 もう、二人ともまともな思考はしていなかった。ただウザイ、キモイ、気に食わない、そんな単純な思いで互いを罵り合い、殴り合い、奪い合う。暴力と暴言を使った対話。

 それは要するに──喧嘩、である。

 ただ、二人は喧嘩して、想いをぶつけあっているのだ。

 

 

「──このカラダはッ」

「──この身体はっ」

 

「「──(オレ)のだッ!!」」

 

 

 二人が互角に競り合う中、その一方で、片手間に蹂躙される哀れな哀れな獣たちがいた。

 

 

◆◇◆

 

 

 夜闇に包まれる暗黒の森に、待望の光がやってくる。

 日が昇ってきた。朝日の陽光が森に差す。

 

 そんな森のとある場所では、広大な円周上に木々が倒壊し、五百はくだらない獣の死体が散乱していた。

 

 そんな広場の中央に、大の字に倒れ込み、仰向けに寝っ転がっている男がいた。

 

 

「……はぁ……『はぁ』……ハァ……『ハァ』……」

 

 

 荒く呼吸を取り乱し、疲労困憊な男。その男は目を閉じたまま、ただ息を吸うことに集中していた。無呼吸で叫び続け、戦闘し続けた当然の代償だ。いくら力があるとは言え無理を通しすぎた。

 男はもうまともに動くことも敵わない。

 

 ──決着はついたのだ。

 

 男はその瞼を上げた。そこに写る瞳は──深紅に染まっていた。

 

 ──勝ったのはユウであった。

 

 

「……勝った……」

 

 

 ユウの想いが、意思が、精神性が、ホクトを上回った。

 

 

『……オレはッ負けて、ねェ……』

 

「……いや認めろよ。それで認めなかったら……何の為に、はぁ、こんな、面倒なことを……」

 

『……知る、かッオマエが、勝手に言ったことだろうが……』

 

「……もう二度とやらないからな」

 

『あァくそッダリィ……』

 

 

 疲れ切っていた。これから朝だと思うと憂鬱で仕方がない。

 ああ、でも、いかなければ。

 

 

「……はぁ……フェリスが起きる前に、いかないと……あぁ……ちょっとだけ眠るの赦してくれるかな、フェリス……」

 

 

『……』

 

「……」

 

 

 そうして、沈黙して時が過ぎた。

 あんな殺伐としていた場所なのに、そこに日の光が当てられただけで、まるで長閑な草原のような、自然を感じる場所になった。

 そこには爽やかに風が吹き、木々が揺れ、多少の血生臭さはするが、自然の香りのするいつもの森だった。不思議だ。

 

 

「……あのさ」

 

 

 そんな森で日向ぼっこ状態だったユウは、そう言って切り出した。

 

 

「……お前の言ったこと、ほとんど覚えてないし、お前が、何なのかも結局わかんなかったけど……でも、お前のおかげで、踏ん切りがついたよ。なんか、スッキリした」

 

 

 ユウは、考えていた。ずっと、ずっと、考えていた。生まれてから死ぬまで、牢獄でも、どこでも、いつでも、考えることをやめなかった。それはスピンクスを信じると決めたときだって同じだ。

 

 心で決めたと言っても、心で決めると決めたのは結局ユウの頭だ。紛らわしいけど。

 それが間違ってないか、自分は間違ってないか、考えないなんてできない。怖いから、考え続けるしかない。自分の罪、フェリスのこと、スピンクスのこと、将来のこと、考えるべきことは尽きることがない。

 

 だから、初めてだった。

 

 何にも考えずに、ただ力をぶつけること。ただ思いをぶつけること。ただ、喧嘩するみたいに。

 

 そうして思いを受け止めてくれること。それは、とても、あぁ……愉快で痛快だった。とても心地のいい疲労感。心の膿をすべて吐き出したような爽快な気持ち。

 

 

『……あっそ……』

 

「……きっと、またお前に頼るのが必要な時がくる。その時は、無理にでも手伝わさせてやる。だから──」

 

『……はァ、知るか……勝手にしろ』

 

「うん」

 

『はぁぁ……憂鬱だ……──』

 

 

 それっきりホクトの声は聞こえなくなった。あいつも疲れただろうし眠ったのかも知れない。あいつが眠るのか知らないけど。というか寝たいのは僕の方だけど。

 

 

「………」

 

 

 ユウは目を閉じ、触覚に集中して、肌に当たる暖かい日光を、吹き通る涼しい風を、全身を受け止めてくれる雄大な大地を、快く感じた。

 

 

 そうして時間が過ぎて行って……ユウは寝坊した。

 

 

◆◇◆

 





 グングニル使い損ねタ。いや、多分ホクトは使ってる、多分ギルティラウをそれで殺してル。描写もされなかったけどナ!


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『番外編:御伽噺』


 一月十六日、今日が、フェリスの誕生日、ダト……?
 そんな、馬鹿ナ……と、今日になって知ったくそったれ作者ことワタシ。番外編。二二。




 

◆◇◆

 

 

 ──むかしむかし、あるところに閉じ込められているお姫さまがいました。

 

 

 お姫さまは泣いていました。

 そこはとてもさむくて、とてもかなしくて、とってもさびしいところだったからです。

 

 ある日、お姫さまは夢をみました。

 そこはのどかな草原で、やさしい風がふいていて、そこにはしらない男の人がいました。

 

 つぎの日、お姫さまは泣きませんでした。

 それを、お姫さまを閉じ込めているわるい人はよく思いませんでした。

 

 わるい人はお姫さまにひどいことをしました。

 それでも、お姫さまは泣きませんでした。

 

 お姫さまは信じていました。

 夢はかなうと信じていました。

 

 するとお姫さまのところへ、しっている男の人があらわれました。

 男の人は王子さまでした。

 

 王子さまはいいました。

 あなたと夢であって恋に落ちましたと。

 

 王子さまはわるい人をたおして、お姫さまをつれ出しました。

 

 その後、お姫さまはいなくなりました。

 お姫さまはお妃さまになったのでした。

 

 

 ──信じれば、夢はかなうのです。

 

 

 ──……だから、ね、■■■■■■……あなたを助け出してくれる王子様が、いつかきっと来てくれるから……大丈夫……大丈夫……わたしはいつまでも……──

 

 

◆◇◆

 

 

「……ふぁ」

 

 

 フェリスは目を覚ました。

 夢を見ていた気がする。

 どんな夢だったか、フェリスは思い出せなかった。 

 でも、声が聞こえた。

 

「………だれだったんだろう」

 

 わからない。

 でも、とても大切なものだった気がする。

 

「んー……?」

 

 思い出そうとするも、しかし思い出せない。

 小さく唸って考えていると、後ろから声がかかった。

 

「……フェリス? どうかした? まだ朝じゃないよ」

 

 ユウだ。

 フェリスを包み込むように抱えて休んでいる。

 時間はまだ早朝で、日も昇りきっておらず、空気も冷えている。

 フェリスはまだ寝ていた方がいい時間だ。

 しかし、

 

「う~ん……目がさめちゃった」

 

「……いやな夢でも見た?」

 

 完全に目が覚めてしまった様子のフェリスに、ユウは身体を冷やさないように身体を包みながら聞いた。

 

「ううん……でも、だれかが、お話してて……わからないの」

 

「……そっか……その人は、どんなお話してたの?」

 

「……んー、わかんない」

 

「ははっ、わかんないか」

 

「うーん……」

 

 夢で誰かが話していた。

 それが誰かも、何を話していたかも分からないようだ。

 さすがのユウもそれではどうしようもない。

 

 フェリスはモヤモヤするようで、うんうんと唸って考えている。

 しかし、考えても答えは出ないだろう。

 そう考えたユウは言った。

 

「じゃあ、まだ起きるには早いけど、たまにはお話でもしよっか」

 

 ユウはフェリスの気を紛らわそうと、御伽噺を聴かせることにした。

 もしかしたら何か思い出せるかもしれないし。

 

「お話!!」

 

 フェリスはユウの言葉に食いついた。

 ユウがフェリスにお話を聞かせるのはこれが初めてじゃない。

 あの二人っきりの牢屋で、ユウは元の世界のことについて色んなことをフェリスに話して聞かせた。

 

 フェリスはユウの話す物語が好きだった。

 しかし、ユウと離されてから今まで聞く機会がなかった。

 だからお話を聞けると知ってフェリスは嬉しかった。

 

「……」

 

 一方、その反応にユウは若干動揺していた。

 自分から言い出したものの。

 

(……元の世界のお話は、もうできないんだよな)

 

「……!!」

 

 ユウはチラッとフェリスを見る。すると、

 わくわく、わくわく、といったオーラ全開のフェリスがそこにいた。目をキラキラさせているフェリスに、ユウは少しだけ尻込みした。

 

 ユウが話せる物語はもうそう多くない。

 しかし、ユウにはこの世界に来てから覚えたお伽噺もあった。

 

「じゃあ──むかしむかしあるところに──」

 

「………」

 

 ユウはお伽噺を語った。

 それをフェリスは真剣に聞いた。

 そのお話は、偶然か、運命か──フェリスが夢で聞いたおとぎ話だった。

 

 

 

「──どうだった?」

 

「………」

 

「フェリス……?」

 

 話が終わっても、フェリスは黙ったままだった。

 面白くなかっただろうか、という思考がよぎる。

 内容はありきたりな御伽噺だった。

 

「………そっか……そうだったんだ」

 

「何か分かった?」 

 

 フェリスは何か得心がいったというように頷いていた。

 そうして、

 

「ううん! なんでもない!」

 

 そう言って、元気そうに答えた。

 その答えに、ユウは思った。

 ──あ、やっぱり面白くなかったのかな、と。

 

「……今度は、もっと面白いお話考えておくね」

 

「──? うんっ! 楽しみ!」

 

 元の記憶を取り戻さなければ、そう決意したユウであった。

 

 そして、一方でフェリスは夢の内容をちゃんと思い出していた。

 

(──思い出した)

 

 フェリスは夢で話していたのが誰だったのか、わかった。あれはフェリスの──お母さんだ。フェリスは覚えていない。しかし、彼女が三歳になるまでは彼女は確かに母親と過ごしていたのだ。

 

 覚えていないなんて、フェリスは悪い子だろうか。でも、覚えていなくても──夢では逢える。だから、寂しくない。それに──。

 フェリスは、『心』から溢れ出す温かい想いを、大切な人に伝えたくなった。

 

 

「ユウっ! ──大好き」

 

「……──僕もフェリスが大好きだよ」

 

 

 そう言うと、ユウも答えてくれて、抱きしめてくれる。そうしてまた胸がぽかぽかと熱を生みだすのだ。熱くて、熱くて──とっても幸せ。

 

 フェリスはユウが大好きだ。

 フェリスはユウを愛している。

 

 フェリスは寂しくない。

 フェリスは世界で一番幸せだ。

 フェリスにはユウがいる。

 

 ユウはわたしの──。

 ──わたしだけの──王子さま。

 

◆◇◆

 





 信じれば、妄想(ゆめ)は叶うのデス。
 
 さぁ、あなたも妄想しましょ。


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『それは女子』


 あなたが『好』きなのは女の子? 六千


 

◆◇◆

 

 

「──」

 

 

 何もない白い場所。

 そこに一人、ユウは立ち尽くしていた。

 

「……夢?」 

 

 そして、これが夢の中であることを漠然と理解した。すると、白い空間はだんだんと掠れていき、ぼやけて色味掛かっていく。ピントが合うようにして鮮明に写ったそこは──。

 

「……カルステン邸」

 

 その屋敷だった。それを見るのはいつぶりだろう。

 この屋敷を追い出されてから二年だ。たった二年、それだけの時間なのに、とても……とても懐かしい感じがする。その時間はあまりに濃密で、ユウの心身に深く刻みつけられていた。忘れるはずもない苦痛の日々。長くて短い、思い出すだけで手指が震えてくる記憶。

 

「なんで今更こんな夢……」

 

 ユウは忘れることにしたのだ。そう決めたんだ。もう、思い出す必要なんてない。そうさ、ユウにはフェリスがいる。彼女がユウのすべてだ。こんな夢ほうってはやく起きなければ……。

 

 

 ──起きろ。起きろ。起きろ。──目覚めろ。

 

 

 そう念じて、意識を覚醒させて、再び目を開く。

 

「…………はぁ」

 

 だが、景色が変わることはなかった。屋敷は悠然とその場に佇み、ユウの来訪を待っているようだった。

 

「入れっていうのか……はぁ、わかったよ。入ればいいんだろ」

 

 認識外の何かの意思に導かれるようにして、ユウは屋敷の門を潜った。

 

 

◆◇◆

 

 

 広く手入れの行き届いた中庭を超えて、屋敷の中に入ると、ユウの記憶と変わりない光景が広がっていた。

 

「……」

 

 広すぎる玄関、正面には二股に分かれる豪奢な階段。その中でも目に付くのは中央に活けられたアネモネの花だ。赤に白、ピンクに青、そして紫といった色とりどりの花びらが玄関口を通った来客を迎え入れてくれる。

 そうしてもう一つ、中央階段に飾られた一人の婦人の肖像画。

 

「……奥様、亡くなったんだよな」

 

 絵の中で穏やかに微笑んでいる彼女、クルシュの母親であり、カルステン家当主の奥方は、フェリスがこの屋敷に来る前に病気で亡くなったのだ。今現在はもう生きていることはないだろう。もう二度と、彼女が動いている姿を見ることは叶わない。

 

「……戻ってきてから一度も会えなかったな、そういえば」

 

 ユウがこの世界に慣れるまでの、その短い間に彼女は亡くなった。あまり関わることはなかった。会ったのは数えるほどで、大した会話もしていない。ただ、彼女が亡くなるその場に、ユウは携わることを許された。クルシュがユウの手を掴んで離さなかったからだ。

 

 彼女は最後まで強かった。亡くなるその時まで笑みを絶やさず、泣いて縋るクルシュの頭を撫で、当主様に新しく妻を娶ることを許していた。結局、当主様が再婚することはなかったけれど。

 

 簡単なことじゃない。最後まで気高くあること、それは僕にはできないこと。できなかったこと。その様はまさしくクルシュの母親であると言えた。

 

 そうして彼女は僕にも声をかけた。ただ、一言。でも──。

 

「……ごめんなさい。約束、守れませんでした。結局、今も昔も僕は自分のことで頭が一杯で、それが精一杯でした。あなたは僕のことなんて記憶にないのでしょうが……どうか、ご冥福を」

 

 いい人だった。『原作』には描かれていない存在。そんな彼女の死が、ユウにこの世界が現実であることを教えてくれた。どこの世界も、現実は変わらないのだと、そう教えてくれたのだ。

 

『……クルシュを、よろしくお願いしますね……』

 

 彼女がそれを約束だと思っていたかは定かじゃないが、ユウはその声に確かに応えたのだ。そんな彼女との約束を、ユウは守れもしないのだが。

 

 ああ、いつだって約束を破ってばっかりだ。

 でも、

 

「……一緒にいる。この約束だけは、絶対──」

 

 他の何を捨てても、守らなければいけない。彼女を、約束を、この時間を。奪わせない為に、奪われない為に、例え相手が──誰であろうと、絶対に。

 

 

『──……。 ──。────。』

 

 

「──っ!」

 

 突然、誰かの談笑する声が響いた。何を言っているのかは聞き取れない。だが、その声は食堂の方から聞こえてきていた。

 

「…………」

 

 声は続いていて途切れることはない。その声には……聞き覚えがあって。一刻も早く夢から覚める為にさっさとできることをするべきなのに、一瞬、そこへ足を向けることを躊躇してしまう。ただの夢であるのに、何故──。

 

 だが、立ち止まっていても何も変わらない。ユウは意を決して食堂へと歩を進めた。──ユウの通り過ぎた陰からソレは覗いていた。

 

 

◆◇◆

 

 

「いただきます」

 

 『ユウ』は目を閉じ、手を合わせ、心の底から感謝の祈りをささげる。それは自分が狩ったわけでも育てたわけでもない、金で買った命をいただくことに対する感謝、そして懺悔である。

 

 ときどき、食事を楽しむことが罪であるかのように感じてしまう。しかし食わねば生きていけず、生まれたその時からその暴食の原罪からは何人(なんぴと)も逃れられない。それは言い訳か、正論か、諦めなければいけないのか、感謝すればいいのか、受け入れればいいのか……動物と会話できない以上答えなんて想像の域を出るものではない。

 

 わからない。それは恐怖の根源。無知は許されざる罪なのだから。知り、学び、思考することでしか懺悔の法はない。それがわかるまでは、ただ自分を慰め、そしてせめてもの情けとして感謝する。決して残さず、余さず、無駄にすることのないように。

 

 そんな風に無の表情で祝詞を刻む『ユウ』に、彼女は告げる。

 

「──ユウは、どうしていつも食事の前に苦しそうな顔をするのですか?」

 

 いつものことながら、しかし今日は殊更(ことさら)苦しそうに食事を始めようとする『ユウ』に、懐疑的に、不思議そうに、可愛らしく首をかしげて問うてきたのは──まだ若く、そして幼いクルシュだった。

 

 彼女にはわからなかった。食事とは家族の団欒(だんらん)の時間であり、一日のうちで最も落ち着ける時間なのだから、それを苦痛の時間であるかのようにする『ユウ』にクルシュは問うた。

 

「もしかして、嫌いなものでもありましたか? それならば替えの品を作ってもらえるようお願いしますけど……」

 

「……いえ、大丈夫です。すみません、気を使わせてしまって」

 

「……もう、ユウは本当に堅いですね。もっと気を楽にしていいんですよ? ──わたしたちは家族なのですから」

 

「はい……すみません」

 

「もう……」

 

 食事をする幼い二人はどこかぎこちなかった。この時まだクルシュと打ち解けていなかったのだろう。『ユウ』のそれは他人行儀で、クルシュもまだそんなユウを掴み切れずにいた。

 

 そんな過去の幻想を、食堂の扉を開け放った()()は二人に意識されることなく見ていた。

 

「なんなんだこれ……」

 

 どうやらユウは見えていないらしい。当然だ。これは夢なのだから。しかし、こんな夢、いいや、消え去った過去の記憶を見させていったいどうしろと言うのだろうか。

 

「…………」

 

 夢で見たところで、現実は変わらない。時は戻らない。それはもうどこにも存在しないのだから。ユウは求めず、諦め、受け入れた。……だから、何も思うところはない。ただ、ただ、さっさとここを抜け出して、フェリスを抱きしめたい衝動に少しだけ駆られた。

 

「──僕はフェリスを愛している」 

 

 ユウは心を決め、想いを定め、願いを捧げ、その果てに溢れ出た言葉を口に出した。

 

 ──すると、平穏な食事風景は──パリン、と大きな破裂音を響かせて文字通り砕け散った。世界の破片は発光し、粒子へと還元され、闇へ帰り、再び光がユウの視界を覆った。──場面が変わる。

 

「今度はなんだ……」

 

 視界を埋め尽くした眩い輝きが消え、目を開くユウ。

 

『──ユウ!』

 

 明るく、爽やかで、愛情のこもった呼び声だった。彼女、先ほどよりも少し成長したクルシュが()()()()()()微笑んでいた。

 

「……」

 

 彼女を無視して周囲を見渡せば、そこはカルステン領の大通りにある露店街だった。そうして、今度は過去の自分視点であることも理解した。

 

 そして、

 

「──どうしたんですか、そんなに嬉しそうにし、て……?」

 

 ──口が勝手に動き、ユウはクルシュに答えた。

 

「ふふ、ごめんなさい、嬉しくてつい」

 

「……嬉しい、ですか」

 

「ええ、あなたとこうして町に出かけることが出来て、それだけで私は嬉しいです」

 

「……それは嬉しいです、けど……僕は荷物持ちぐらい、しか……できませんよ……はぁ」

 

 勝手に動く口を止めようと抵抗するユウだったがしかし、口を手でふさぐことも、饒舌に動く舌を止めることもできなかった。ユウは諦め、過去の通りにする。

 

「それでもいいんです。父上も、やっとあなたのことを認めてくれたってことですから」

 

「……」

 

 よそ者であり、部外者であるユウ。生き残る為、この世界における重要人物の近くにいる為、元の世界の記憶に縋る為、多くの理由があってユウはカルステン家に居ついた。当主様も、奥方様も、使用人や騎士たちも、そのほとんどは優しい人ばかりだったけれど。それでも、『家族』として認められるには至らない。当たり前だ。

 

 ユウの家族は──彼らじゃない。ユウの大切な家族は──。

 

「……家族は……僕の、家族は……っあぁあ゛ッ」

 

 ──酷い頭痛がユウを襲った。過去の思考と、現在の記憶の矛盾が、ユウを襲う。しかし、そんなユウを無視して、彼女は、否、記憶は語る。

 

「……だから、あなたにも私たちのことを認めて欲しいんです、あなたの家族として。あなたの家族の代わりではなく、私は──あなたと本当の家族になりたい」

 

 丁寧な言葉をやめて、彼女は真摯に訴えかける。その瞳はまっすぐとユウを見つめている。頭を片手で押さえながらも、その視線は確かに交錯していた。その瞳にこもる親愛、それが、頭痛に煩わされる今のユウには──不快だった。

 

「……うるさい、煩い、五月蠅いっ!」

 

 夢だ。これは、悪夢だ。最近は見ないと思っていたのに、今になってこんな悪夢を見せてくるなんて。煩わしい、不愉快だ。──そんな目で見るな。あなたは、だってあなたは僕のことを──。

 

 

 ──その時、ユウの視線の先に、銀閃が煌めいて──。

 

 

「──っ!」

 

 咄嗟に反応したユウはクルシュの肩を掴み、自分の方へ寄せた。ユウはクルシュを抱きしめる形になり、その銀の刃は空振りに終わった。

 

 だが、

 

『ちっ、クソガキが邪魔しやがってッその女には痛い目に遭って貰わなきゃなんねぇんだよッ! ──エルフ―ラァァ!!』

 

「────」

 

 突然の襲撃、敵の出現。刹那の思考──否、そこに思考はなく、直感と反射で状況を理解し判断する。敵は──成人した犬型の亜人。その手には小型のナイフを握っていて、魔法の詠唱をしている。ナイフに碧風が宿る。

 

 ──回避可能。──迎撃可能。──今のユウには雑魚に等しい。──身体は、動く。縛られてない。なら……そのコンマ一秒の視界に、怯える彼女が写って──。

 

 

「くっ、あァあ゛ぁぁあああアアアッ!!」

 

 

 ユウはその背中に真空の刃を受けた。痛覚の消失したユウを、久方ぶりの痛みが襲った。

 

「あがぁっあぁ……ッ」

 

 ──痛い痛い痛い痛い痛い。

 

 クソが、ああ、クソっ。なんで、なんで──庇ってしまったのか。

 

 その痛みは鮮明で、背中から大量の血が流れ出ている感触を感じる。ドクンドクンと心臓の脈打つたびに血は流れ、血の流れるほど思考は愚鈍に、肉体は機能を停止する。

 

「──ユウッ!?」

 

 あまりの痛みに倒れ込み、押し倒すようにして地面に手を突くユウの下で、その苦悶の表情を間近で見てクルシュは驚愕と動揺と焦燥で思考が埋め尽くされた。

 

 判断の遅れるクルシュ。だが、凶漢は止まらず、憎しみの言葉と──血を吐いて、魔法を詠唱する。

 

『エルフ―ラッエルフ―ラッエルフ―ラッ!!』

 

「ぐッがッあが──ッ」

 

『げふっ、どげよクソガキ。おれぁそいつを苦しめてやらなきゃなんねぇんだ! そいつのせいで、そいつのせいでッ!!! あ゛ぁぁぁぁアアアア! エルッフーラァッ!!』

 

 支離滅裂に、滅茶苦茶に、出鱈目に、怒り、憎み、魔法を放つ。その度に、ユウは久しく感じていなかった痛みに襲われる。慣れたはずの痛み。例え痛覚が戻ったところで問題なく動けるはずの、その程度の痛み。ただの裂傷。にもかかわらず、その痛みはユウを耐えるだけに止めて逃がさない。

 

「──ッ、か、はっ」

 

「ああっ、ああっ、ユウっだめ……っ!!」

 

 その頬に手を触れて、嘆くことしかできないクルシュ。守られることしかできない。か弱い女子。その瞳には涙が浮かび、その瞳は悲しみと苦しみ、不安と焦燥を写し……ユウの視線を奪ってやまない。その瞳から目を離すことが出来ない。

 

 その瞳を見ていると、痛みが少しだけ和らぐから。

 だが、

 

「──っあぁアア!」

 

 ──歯を喰いしばって、目を閉じ、立ち上がる。それは、ダメなのだ。ユウはもう、決めたのだ。それがユウの決断だから。立ち上がり、魔法の詠唱を……。

 

「エルフ―……!」

 

『げふっ……』

 

 そうして、下手人に向けられた手は、下へと下がっていった。その男は既に地面に倒れていて、血を吐いていた。周囲の誰かがやったわけでも、ましてやユウが止めを刺したわけでもない。そいつは純粋な亜人である、身体能力に優れ、魔法に疎い種族である。故にこそそれほど多くのマナを持ち合わせていない。

 

 にもかかわらず、男は馬鹿みたいに、狂ったように魔法を乱発していたのだ。当然、魔力が尽きる。魔力が尽きれば、今度はオドを消費する。それでも、そいつは魔法を討ち続けた。得意の身体能力でナイフを振るうでも投げるでもなく……その理由はその姿を軽く観察すれば分かった。

 

 男は酷く身を(やつ)していた。使い古したぼろ着で身を包み、その手足は細く、まともに筋肉がついていなかった。その生気のない目と窪んだ眼孔、瘦せこけた頬に蒼白な顔面を見れば男が病気であることも見て取れた。

 

「……」

 

 ──こんな無様を晒して、目的も達成できずに死ぬなんて、哀れな人間、哀れな命だ。こいつは、いったいどう育って、どんな理由があって、どんな思いを抱いて、人を殺そうとしたのか。わからない。理解できない。

 

 ──しかし、共感と悼みの念が胸から消えてなくならなかった。前の自分には理解できていただろうか。……思い出せない。

 

 思い出せない。考えて、考えて、思考が、視界が、ぐるんと回った。血を流しすぎた。更には無理に立ち上がったせいでもうまともに身体を動かせなかった。

 

「あっ……」

 

 がくん、と膝から力が抜けて、そのまま倒れユウは頭を強く打った。目は白目に向かい、途轍もない疲労に動かすことも困難な口を、喉を、肺を動かして精一杯呼吸をする。どれだけ苦しくても、思考は止まっても、呼吸だけは止めることが出来なくて。

 

 そのまま、ユウは意識を失った。

 

『──! ──……!』

 

 背後で、誰かが何か言っていた。

 

 

◆◇◆

 



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『それは敵・妄想之縄』

 
 今日はクルシュの誕生日ということで! おめでとうございまぁす!!

 いやぁ、今作ヒロイン……ヒロイン? まぁ、うん。なかなか登場しないわけなんですが、これもリゼロという作品に関わるものの宿命ということでどうかどうかなにとぞ、何卒デェス

 六八



 

◆◇◆

 

 

『──ほら、起きて』

 

 

 声が聞こえた。

 同時、つめたく冷えた自身の頬がじんわりと温まるのを感じた。

 

「……っ」

 

 起き上がらなければいけない。

 忘れてはならない。

 思い出せ。

 

 思い出す、夢の中にいたこと。

 そこで過去の、クルシュの幻影を見たこと。

 そうして、彼女を待たせていること。

 

「……ここは」

 

 見渡せば、そこは暗闇。

 深海の底に落っこちてきたかのような深い深い闇の中だった。

 そんな真っ暗闇の中、不自然に目立つものがあった。

 

「扉……?」

 

 覚醒したばかりの霞んだ目でもわかる、異質な扉。

 装飾は普通。色は緑。玄関の扉というよりは、部屋を跨ぐような扉。 

 そこは入り口ではなく、その先にあるのは、もう一つの部屋。

 

 そこに、きっと待ち受けているのは──。

 

「……行かなきゃだよな」 

 

 まだじくじくと幻痛のする胴体を無理やり起こす。

 

 ただ、ただ、はやく会いたかった。

 ずいぶんと、久しぶりな気がしたから。

 

 ──会いたい。

 

 その想いを胸に、ユウは足に活を入れ、立ち上がり、前へと進む。

 

「…………?」

 

 扉へと辿りついたユウ。

 ドアノブへと手をかけ──ふと、動きが止まった。

 何か、言葉にできない、何かを感じた。

 

 そんな、ユウの背中に。

 

 

『──いってらっしゃい』

 

 

 声。声。誰の声?

 

 そう思考し、振り向こうとした刹那──扉は開く。

 

「──ッ!」

 

 更に、ユウを逃がさないとばかりに吸い込むような引力が展開された。

 しかし、ユウもまた超速の反応でドア縁を掴み抵抗する。

 

 知らなければいけない何かが、まだここにある。

 その確信がユウをこの場に止めていた。

 

 だが、

 

『ダメだよ。──お寝坊さん』

 

「んなっ!?」

 

 ()()は、そんなユウの手を容赦なく弾いた。

 か弱く、しかし力強い手が扉に捕まるユウの手を握り、そうして優しく解いた。

 手が、外れた。

 

「──……クルシュ?」

 

 宙に放り出され、ここより更に真っ暗な扉の中へと吸い込まれていくその時、ユウは彼女を見た。見て、そして出た言葉がそれだった。

 彼女の姿は白く発光していた。光、光、眩しくはない優しい光。それはマナか、幻覚か、あるいは異なるものか。ユウにわかるのは彼女の輪郭だけだった。

 

 そして、そのシルエットが、あまりにも彼女に似ていたのだ。

 

「……クルシュじゃ、ない。……誰、誰? 誰だ、君は──ッ」

 

 ノイズが、思考をジャミングする。

 

『──あの人を、よろしくね』

 

 いったい誰のことを言っているのか。

 思考はだんだん愚鈍になって、時間は止まったように微睡んで、もう身体の半分以上が扉へと吸い込まれていた。残るは、頭と片手のみ、それでいったい何ができようか。

 

 核を収めた扉は、ゆっくりと閉じようとしている。

 ギィ、と軋みを上げながら、閉じる、その一瞬に。

 

 

「──また、会いに来ます」

 

 

 ユウは、自分でもよくわからないことを言っていた。

 返答は、

 

 

『──待ってます』

 

 

 帰ってきた。

 

 

「──」

 

 

 ぱたん……、扉は悲しそうに終わりを告げた。

 

 

◆◇◆

 

 

「…………」

 

 

 扉は閉まり、役目を果たした扉は暗闇に溶け、主人を失った世界は虚空へ帰していく。そんな終わる世界。否、終わった世界で。

 彼女は薄れることなく真っ暗闇の中、一人佇む。何もない場所。終わった世界。そこに一人、彼女は髪を弄り、独り言ちた。

 

「……大丈夫かな、■君」

 

 彼女は一人、彼の心配をする。

 (あい)し、(あい)され、(いと)おしい、彼の名を呼んで。

 

 もう、誰にも呼ばれることのない──その名前を。

 

 そうして、ついには何もなくなった寂しい場所に、

 

 

 彼女は未だ、一人暗闇に佇んでいた。

 

 

◆◇◆

 

◆◇◆

 

◆◇◆嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌いキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいキラいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクいニクい憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎「──おぶぅ」憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎──オマエガニクイ◆◇◆

 

 

 憎しみに溺れた。

 

 

 憎しみに溺れ、絶望に沈み、夢に堕ちて、思考をあらぬもので埋め尽くされ支配される恐怖を感じた。

 それは逃げ場のない狂気。抗えぬ正気。

 魂を汚される感触。死の恐怖を失ったユウすらも飲み込む絶対的な悪意。負荷。悪感情にして負の濃縮。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。

 

 きっと誰も助けてはくれない恐怖。

 きっと誰にも知られずに死んでいく恐怖。

 きっと、誰一人救えずに、助けられずに、出会えずに、看取れずに。

 きっと、忘れて、無くして、理解して、消えていく。

 

 きっと、きっと、きっと、絶対に。

 

 抗えない。救われたい。

 抗いたい。救いたい。

 救ってくれ。お願いだ。

 

 誰も、誰もいないのか。

 

 救ってほしい人は。

 救われたい人は。

 ぼ、おれを、オレを、俺を、求めてくれる人は、誰か…………誰か…………──

 

 

 

 願ったんだ。

 救いたいって。

 きっと、あいつの言う通り、満足していたんだ。

 救えたと思ったんだ。

 

 ハッピーエンドだった。

 終わったと思った。

 生きた意味を見つけて、成して、失った気がした。

 それでも縋った。求めた。愛してしまったから。

 

 何を間違えた。何が正解だった。

 どれが正しくて、どれが間違ってる。

 どうすればいい。どうすれば救える。

 誰が正しくて、誰が間違えてる。

 

 救おうとするほど大切な人が苦しむんだ。

 救われようとするほど心が傷つくんだ。

 願えば願うほど裏目に出てしまう。

 

 それが、『罪』。

 抗えず、逆らえず、贖えず、救えない、人そのもの。

 罪業に溺れた。

 知恵に溺れた。

 心に溺れた。

 

 

 

 そうして──君に溺れたんだ。

 

  

 

 ゆっくり沈んでいた。

 

 ゆっくり、ゆっくり、落ちていった。

 

 抗えない重力。

 

 止まらない呼吸。

 

 終わらない世界。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………しにたく、ない…………」

 

 

 

 会いたいんだ。

 

 

 

 

 

 君に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──おら、何してんだ? こんなところで」

 

 

 死ぬ気で藻掻(もが)いて、諦めながら足掻(あが)いて、それでもと(あらが)って、その末に、差し出されたその手はいったい──誰のものだったんだろう?

 

 

◆◇◆

 

 

「──げほっ、かふっ、お゛えっ」

 

 

 胸を侵食し満たす汚物。そのあまりの気持ち悪さに胃の中身すべてを吐き出すように嘔吐するユウ。吐いても吐いても胸の内の不快感は消えてはなくならないが、それでもいくらか気分はすっきりし、楽になった気がした。

 

「あ~あ~汚ねぇもんぶちまけやがって……」

 

 そんなユウを見て、憎悪に溺れかけていたユウを掬い上げたホクトは不満を垂れるのだった。

 

 そのホクトの声を聞いてユウは苦しいのを抑えて周囲を見渡す。さっきからこんなんばっかりだ。次々と移り変わる世界にだんだんと酔いを感じてくる頃合いだ。流石にこれが最後であってほしいと切に思う。

 

 さて、今度はいったいどこだと言うのだろう。

 

 結果は──、

 

「……っ?」

 

「んだよ、そんなすっとぼけた顔して。まるで脳がバグっちまったみてぇに」

 

「……お前の顔が、見えない。いや、それもだけど、それより、なんだここ……」

 

 見渡す限り、黒い何かが漂っている。煙?煤?はたまたガス? 可視化された黒い気体に世界は覆われていた。それは彼らの周囲も同様である。故、そこはどこまでいっても真っ暗闇。

 空気は淀み、体ではなくもっと大事なところに重く圧し掛かるような感触を得た。薄汚れ霞んだ世界。そう思うとなんだか心なしか、息苦しく感じてくる。気のせいだろうか。

 

「……いいとこだろ?」

 

「どこが……、ここはいったい……」

 

「ん? 知らずに入ってきたのか? 土足で踏み込む不遜太郎くんは」

 

「……ここは」

 

 そう、ユウには思い当たる節があった。ここに来る前に感じた既視感。扉の先から感じた繋がりと負のオーラ。それは紛れもなくこいつのものであり、かつ、ここがユウの夢の世界、すなわち精神世界のようなものであるとするならば、その答えはおのずと導かれる。

 

 そう。ここは──、

 

 

「ここはオレの領域。──オレの魂の在り処さ」

 

「──。」

 

 

 ──魂の在り処。言い換えるならば、心の居場所。無駄に格好つけた言い方をするものだ。要するに ここは、ホクトの心の中である。

 

 

「……随分と寂れたところに住んでるんだな。もっといいとこに引っ越しでもしたらどうだ?」

 

「あぁ、そうしたいのは山々なんだがね? どこかの高慢野郎が邪魔してくるもんだからサ。なかなかそういうわけにもいかないんだぜ、クソ野郎」

 

「そう、とんだ災難だったね」

 

「いやいや? 今はオレに運気が回ってきたところってなもんだぜ兄弟。茶も菓子も出やしねぇが、ようこそナナホシ・ユウ──歓迎するぜ」

 

「──。」

 

 軽く口撃を交わしつつ、ホクトは両手を広げ歓迎の意を示すのだった。しかし、その顔に浮かぶ笑みはどこからどうみても好戦的な悪人のそれだった。

 

 どうにも一筋縄ではいかないようだ。

 

 

 ──はやく帰らせてほしいんだけどな。

 

 

◆◇◆

 

 

 ユウは思い馳せた。

 ここが、この地獄より尚も暗い深淵足りうる世界が、空間が、ホクトの魂の在り処であるということの意味を。ホクトは、僕の体を使っていないときはいつもここにいるのだろうか? ここで一人、過ごしているのだろうか。

 

「……」

 

 それは、どこか、かわ──。

 

 そんな思考は、煽るような彼の言葉で遮られた。

 

「どうしたよ黙り込んで。暇なら楽しィ話でもしてやろうか? なんもねぇところだからな、お坊ちゃんにはさぞかし辛い場所だろう……くはっ、さっきまでぴーぴー泣き喚いてたもんなぁっ! みっともねぇ!」

 

「……別に、もう慣れたよ。あと泣き喚いたりなんかしてないっつの。いつから幻聴が聞こえ始めたんですかお爺ちゃん、病院行った方がいいんじゃないですか?」

 

「チッ……クソガキが」

 

 ホクトは不満たらたらで悪態をついている。悪態をついて意地の悪いことを言ってくるが……それだけだ。アクションを取ってくる事もなく、それどころか、何か、ためらっているような気配を感じる。

 

「……」

 

 そういえば、こうして面と向かって話すのって、もしかして初めてだっただろうか。今まで何度も言葉を交わした。牢屋での苦境でホクトという赤の他人が僕の中に生まれてから、牢獄を抜け出し、森での生活を始めた今の今まで、こいつとは脳内でのやり取りしかしていなかったのではないか。

 

 よく考えれば、肉体はこの身ただ一つ。そして話している相手はもはや信じるほかない自分自身である。当然、面と向かって話す機会など起こりえない。そんな不可能を今、僕たちはどういうわけか現実として成していた。

 

 そうしてこいつを見てみれば、至極納得というか。表情こそ(もや)に阻まれて見て取れないが、髪型や背格好、体格から指先まで、詳細は所々違えど、その大枠は正真正銘『ナナホシ・ユウ』自身のモノであった。

 

 しかしだからこそ疑問に思う。何故。

 なぜ、僕はこいつの顔を見ることができないのだろう。

 ホクトが隠しているのか、僕が隠しているのか、はたまた、こいつには()()()()とでも言うのだろうか?

 

 

「んだよ、オレの顔になにか付いてるってか?」

 

「ううん……良い顔してるなぁって思っただけだよ」

 

「テメェ適当抜かしてやがるな、ていうか、お前も同じ顔なんだからそれじゃあただのナルシストじゃねぇかッ! アハッ、まぁ? 自分大好きかわいこちゃんなお前にはお似合いの性癖だけどよ!」

 

(……同じ顔、果たしてそうなのだろうか)

 

「ナルシストは別に性癖じゃないよ。てか違うし……適当言ったのは認めるけど。そうじゃなくて、ただ、なんとなく、やっぱりお前も僕なんだなぁって、そう思ったってだけ……それだけ」

 

「……へぇ」

 

(……なんだろう、なんか、すらすらと言葉が出てくるような気がする……あ……?」

 

 

 ニヤリ、とホクトの口元が歪んだ。

 

 

「──ようやっと効いてきたか」

 

「……なにを」

 

「言っただろう、ここはオレの領域。──オレの、オレによる、オレの思うが儘の、オレの為だけの世界、オレの心の中だ。オレたちが魂のみの状態で唯一存在できる場所……故に、ここでは一切の嘘偽りが効かない」

 

「嘘が、効かない?」

 

「あぁそうだとも。オレたちは今互いの魂を直接的に視認し、聴講し、その魂に触れることのできる状態にある。それはつまりクルシュの加護の仕組みをそのまま実行できるってことだ。ここでは互いに疑似風見の加護状態。心を機微を隠す手段はなく、その心の奥底にある本音と本性を曝け出しちまうのを抑えられないのさ」

 

「それがなんだって……(わからない、そもそも別に嘘を付くつもりなんてない、僕は嘘なんてつかない」

 

「はいはいお利口さんだね、偉い偉い……だけど違う。お前に悪気があろうと、他人を騙す気がなかろうと、お前は、オレたちは、人間ってものは──常に己に嘘を付いている。(ひとえ)に──(おの)が心を守る為」

 

「……つまり、お前が言いたいのは」

 

「そう、ここでは一切 (おのれ)の心を守る(すべ)がない。この精神世界で心が壊れちまえば待ってるのは魂の崩壊、すなわち人格の消滅」

 

「……っ」

 

 

 

「さぁ」

 

「さぁ、さぁさぁさぁ、さァ──ッ!」

 

「弟二ラウンドとシャレ込もうぜッ?! 

 ──ナナホシ・ユウッ!」

 

 

 周囲の黒が集約し出現した黒紫の槍を両手に携え、ホクトは声高らかに 思っていたよりもいくらか早い再戦、否、延長戦の開幕を告げたのだった。

 

 

「──ッ!」

 

 

 剝き出しの器で魂を削り合う心象戦が始まった。

 

 

◆◇◆

 



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『それは敵・解脱』


 七千五百


◆◇◆

 

 

『そら、どうした? こんなもんか? ナナホシ・ユウ。さっきまでの威勢はどこにいった』

 

「…………」

 

 

 自身を追うように迫ってくる数え切れぬ黒槍を縦横無尽に動き回ることによって回避するユウ。ユウの通り過ぎた軌跡を潰すようにそれは叩きつけられていく。上へ前へ時には後ろへ、跳ねてしゃがんで回避する。

 

 避けて、避けて、避け続ける。

 ユウが反撃の姿勢を見せることはなかった。 

 それを喰らうわけにはいかないのだ。

 

 

『……逃げ惑うだけか。なら、これで仕舞いだ』

 

「──。」

 

 

 言い返すこともなく一方的に言われるだけのユウ。

 それも仕方がない。今のユウにそんな余裕はないのだから。視界を埋め尽くす黒槍の波状攻撃に対して、ユウは攻撃を避け続けることしかできない。

 

 その顔に苦悶を浮かべながら、ただひたすらに回避する。

 

 

「……まだ」

 

 

◆◇◆

 

 

「貫け。──『絶矛(ゼツボウ)』!──デスピア!」

 

 

 その掛け声とともに飛来するのは見慣れた紫紺の槍とは違い、酷く黒く澱んだものだった。

 だが、

 

 ──回避可能。

 

 ユウは脳内でシュミレートし それが問題なく回避できることを推察した。その()()()がユウの戦闘の要。戦闘中の無駄な思考を阻み、いつもの優柔不断なユウにはできない決断力を齎す。

 

 だが、ユウは己の弾き出した合理的な結論に、違和感、否、何か嫌な悪寒を覚えていた。それは今ユウを阻んでいるホクトに対する妙な信頼と不信である。

 

 ──ホクトがそんな甘いことをするとは思えない。

 

 甘い。甘える。ホクトはユウの手の内を知っている。きっと誰よりもユウの戦い方、癖、弱点を心得ているはずだ。

 

 ──なら、とユウは『剣聖』との戦いで得た合理性に逆らって、己の直感を信じることにした。何故だか自信があった。その自信は鬼と出るか蛇と出るか。

 

 

 はたして──その直感は正しかった。

 

 

「ほォ」

 

「──ッ!」

 

 

 ──だが、想定よりも大きく避けたにも拘らず、その確実に避けられたはずの槍は突如肥大化し、横に逸れたユウを追尾するように直角に曲がった。

 

 想定を上回る挙動をした槍。対し、ユウも咄嗟に対抗する。

 

「『エルフ―ラ』!」 

 

 手を振りかぶり、その先に生み出された翠緑の刃を迫りくる槍に向かって射出した。万物を断つ緑風は槍と衝突し、真っ二つに──することなく、槍を貫通し通り過ぎた。

 

「んなっ!? ァぐぁッ!」

 

 確実に捉えたはずの魔法は槍と干渉することなく闇の中へ消えていった。そうして止めることのできなかった槍がユウの心臓を正確に穿ったのだった。

 正確に心臓を貫く死の槍。見慣れたはずのその槍。視点の違いはあれどホクトがそれを使うところは何度も見ている、自然対処法や威力もおおよそは見当がついていた。

 だが、その予測は遥かに上回る威力で覆された。自然、予測を外したユウはそれをまともに受けてしまう。

 

 ユウの剥き出しの魂を黒槍が穿ち、ユウに絶大な痛みを与える。それは今までの身体の発する危険信号とはどこか違う痛みだった。なにか、文字通り胸に穴が開いたかのように話し身を伴った痛み。

 だが、合理を優先するユウは痛みを無視して先に疑念を放つ。

 その原理を暴かないことには戦いにならないからだ。

 

「あぐっ……どういうことだッ」

 

「あ~あ~ダメダメ、ここにゃ物理法則なんて存在しねえんだ。精神世界(ここ)のすべては虚構、すべてはオレの思うが儘。諦めてお縄につきな」

 

「かふ……っだけど、この程度の怪我何回喰らおうと……」

 

 妙な痛みにももう慣れた。風穴の空いた胸に手を当て力を注げば、手をどかした頃には傷は初めからなかったかのように消失していた。

 まだ、終わりじゃない。

 なんとかして攻勢に出なければ、

 

「強がっちゃってまぁ、言っただろう? 心の声はここじゃ隠せねぇんだ」

 

「……くっどうすればッ、どうすればいい、魔法? 剣術? ……ここが精神世界だと言うのなら──」

 

 精神世界において物理攻撃は意味をなさない。これは精神の削り合い。魂を直接傷つけあう戦い。痛みも苦しみも感情も、我慢することを許されず、偽ることを許されない。

 

「……イメージしろ、思い出せ。来い、テレシアの剣」

 

 同時に、ここにあるものは(肉体)のみ。とするならば、ユウの来ている服はユウの深層意識が生み出したものだ。ここならば、想像次第でなんでも生み出せるはずだ。

 

 そう考え、敵の目前で目を閉じる愚行を犯してでもその場で意識を深く沈める。そうして思い描く、想像する、頭の中にある記憶を現実に抽出する。

 

 すると、ユウが手を伸ばした先に光り輝く粒子が集い、球となり細長く変形し、気づけばそこにはテレシアから渡された見慣れた剣が具現化していた。

 

「やっぱり」

 

「おいおい、物理攻撃は意味ないっつってんだろ、ボクちゃんは人の話を聞けないのかなァ?」

 

「お前の話がどれだけ信用に足るっていうんだ。敵の言うことを信じたりなんかしない」

 

「ここでは嘘がつけねぇって言ってんだろうが」

 

「どうだか」

 

「あっそ、あっそう、どうでもいいけどさ──もう勝負は決まったようなもんだからな」

 

「……は?」

 

「……あはっ、気づいてないんだ? ずいぶんと薄情もんなんだなぁ? ──あ~そっかそっか、テメェは戦闘中余計な思考が消えてんだったな、アッハッハ! それならそれで大変結構、勝手に詰んで勝手に、死ね」

 

「……何をっ、舐めるな! 『アルフーラ(剣風刃)』!」

 

「ハッ」

 

 剣に風のマナを宿して威力、鋭さ、飛距離、すべてを大幅に引き上げた風の刃をホクトに向かって打ち出した。それはクルシュの剣技を模倣した劣化版ではあれど、ユウのもつ潤沢な魔力を剣の耐久力を無視して宿せるここでなら、その威力はクルシュのそれとも遜色ない、ともすればそれ以上の威力でもって実現する。

 

 そんな人体にはおおよそ過剰なエネルギーを乗せた風刃は──ホクトが片手で握りつぶしたことで消失した。

 

「なっ」

 

「効かないって教えてやってんのになぁ? ほら、防いで見せろよ──『戯』」

 

 お返しと言わんばかりに、しかしその量は十倍では足りない数の極小の槍の群。

 それは左から、右から、頭上から、正面から、ユウを覆う波のように迫ってくる。

 

「くッ、『アルフーラ(天嵐)』ッ」

 

 攻撃魔法である嵐の包囲網を自身の周囲に展開することで障壁を作り防ごうとするユウ。

 

 ──だが、そんなものは無意味。

 

「あ゛ァぁあああッ!!!」

 

 すべての槍は荒れ狂う嵐を意に介さずにユウへと降り注ぐ。

 魔法は解除され、ユウの腕、手のひら、肩、わき腹、太もも、足の甲、いたるところを串刺しにされた。被弾し刺さった槍は役目を果たすと黒へと還元されて消失する。

 

 ジクジクとした痛みがユウの頭に降り注ぐ。

 治そうにもどこから治していいかわからず、脳は混乱し再生が遅れる。

 痛む、痛む、痛い。

 穿たれた体ではなく、脳が盛大に悲鳴を上げている。

 痛み、痛み、魂を汚される痛み。

 

「あぐっぁ、あ゛ぁッ!」

 

「ハッハッハ! アッハッハッハ!」

 

「……フェリス……フェリス……ッ」

 

「……はぁ……まァたオンナ頼みか、気色悪ぃ、ま──それもいつまでもつか見物だな」

 

「はっ、はっ、はぁっ」

 

 

 心が叫んでいるんだ。

 

 ──寂しい。

 

 心が泣いている。

 

 ──悔しい。

 

 心が憤っている。

 

 ──助けてくれ。

 

 狂ったように感情が発露する。

「これが、僕のほんとの気持ちだってのか?」

「わからない、ただ、ただ、苦しい、悲しい、涙が、止まらないっ」

 

 ホクトの攻撃はユウに防御を許さず、対してユウの攻撃は片手間に防がれてしまう。

 ユウは自身が今、危機的な状況であることをようやく理解した。

 なぜ、こんな無様を晒しているのか。情けない。

 なにやってる、立ち上がれ、敵は殺せ。

 

「くっ」

 

 そうだ、立ち上がれ、王たる威厳を示せ。

 そう魂が怒鳴り散らかす。

 その瞳にシンクが浮かぶ。

 

「へぇ~、何度やったって無駄だってのに、プライドがお高いこと」

 

「どうする、どうする、どうする、どうすれば殺せる。倒せる。ぶちのめせる」

 

「あぁやだやだ物騒でいやだねぇ、くくっ」

 

「…………あがっ、違うっ、ちがうちがうちがう違うんだっ、飲まれるなっ」

 

 飲まれる。ユウは思考を取り乱してその場に頭を押さえて(うずくま)る。

 思考が憎悪と憤慨に満たされて、暴走しかける。

 それをすんでのところで押さえつけた。

 

 心を隠せない。感情を制御できない。

 それがユウの自我を次第に肥大化させていく。

 怒り、悲しみ、苦しみ、それを押さえつける鬱憤が溢れ出す。

 

 

 どうしてボクを攻撃する。

 どうしてボクの攻撃は効かない。

 卑怯だ。卑怯者だ。

 ムカつく、許してはならない。

 そう深奥からの叫び声が聞こえる。

 

「あァ、あぁぁあああ──ッ!!! 

 ──ボクの邪魔をするなァッ!!」

 

「──」

 

 ユウの瞳が怒り(アカ)に染まってその全身から赤き狂風が吹き荒れる。

 狂った風は制御不能に暴れまわり、しかし確実に敵であるホクトへ向かって突き進む。

 それをホクトは見極め──体を半歩ずらすだけで回避した。

 

「──大人しく死ねよ、ナナホシ・ユウ」

 

「あァッ! 嫌だァ!!」

 

 ホクトが再び、止めとばかりに一本の槍を飛ばす。

 高速で弾き出された槍はしかし、ユウの拒絶でもって砕け散る。

 ユウが拒絶すると同時、その心を反映したように血色の波動が放たれ、それに衝突した槍はその場で霧散して消滅した。

 

「チッ」

 

「ははっ! お前が死ね!」

 

「──クソガキが」

 

 攻守が逆転する。

 ユウはその白かった瞳孔を血で染め上げて、狂ったように笑い、殺意を証明する。

 それを煩わしそうにホクトは悪態をついた。

 

「死ね! 死ね! お前なんて要らない!」

 

 血の刃が狂った挙動で飛び交う。

 蜂が舞うようにひゅんひゅんと動き回りホクトを取り囲み降り注ぐ。

 

「要らねえのはお前だよ。オレは独りでいい。独りでなきゃいけない。『ナナホシ・ユウ』は誰と一緒にいる資格もない」

 

 避ける。避ける。

 最小限の動きで飛び、回転し、体を捻り、要所要所で槍を対衝突させて相殺する。

 

 時々、障壁を生み出すことで防げないか試すが──、

 

「チッ」

 

 障壁は狂風の余波だけで砕け散り、防ぐこと叶わない。

 

 

 ──しばらくの間、そんな攻防が続いた。

 

 

 しかし、そう長くは続かなかった。

 先に力尽きたのは──ユウ。

 その顔に特大の汗を大量に浮かべ、息を乱し、その瞳から生気が失せている。

 

「はっ……はっ……」

 

「……」

 

 対して、最小限で動いていたホクトは疲労はあれど、息を乱すこともなく、その場に佇んでいる。

 

「──無駄な足搔きもこれで終わりだな」

 

「はぁっ、はぁっ。まだ……」

 

「──来たれ、『絶望の槍』」

 

 ホクトはゆっくりとユウに近づき、座り込むユウの前に立ち、一つの槍を具現化した。

 黒を基調とした切っ先の紫紺の美しい槍。

 貴族の使う飾り物の槍のように優美な槍。

 

 だが、それから感じる禍々しいオーラがそんなちゃちなものではないことを示唆している。

 

 明らかに呪われた、力のある、『魔槍』の類である。

 その一撃は、魂さえも滅ぼし得るだろう。

 おそらくはホクトの秘匿していた力。

 

「……っ」

 

「言い残すことは?」

 

「……」

 

 ──死ぬ。

 

 死ぬのか。

 

 自分に裏切られて、殺される。

 

 僕も、死ぬのか。

 

 死ねるのか。

 

 もしかしたら、一生死ねないのかもしれないと思っていた。

 

 『死に戻り』に限界はないのではないかと。

 

 そういえば、今死に戻りしている力は、どこから来ているんだろう。

 

 ……『傲慢』?

 

 ……それとも、『嫉妬の魔女』?

 

 だとしたら、どうして僕は生かされているんだろう。

 

 僕は、何のために生かされてきたのか。

 

 

 

 

 

 クルシュと

 

 フェリスに

 

 会いたい

 

 

 

 

 

 もう、会えないと知っている。

 

 どこまで行っても、どれだけ生きていると言い聞かせても。

 

 今、この世界にいる二人は、僕の二人じゃない。

 

 僕の知っている二人は、僕が置いてきてしまった。

 

 『嫉妬の魔女』のせいだ。

 

 あいつが余計なことさえしなければ、僕はまだあの二人と一緒にこの世界を歩めていたんじゃないのか。

 

 本物の、あの二人と……

 

 本当に? ──諦めたのは僕じゃないのか?

 

 ……わからない。僕はどうして諦めた。

 

 ああ、きっと今と同じ気持だったんだろうな。

 

 

 きっと、会いたかったんだ。

 

 ──あの世で待ってくれている()()に。

 

 

 会いたかった、大切な人たちに。

 

 大切だった。

 僕にとって、無くてはならない心のかけら。

 

 

 ……■■■■。

 

 

 もう、失うわけにはいかないだろ、ボク。

 

 もう、諦めないって決めただろ、ボク。

 

 決めただけで、できはしないんだよな、僕は……

 

 ホクトが僕を殺したら、どうなるだろう。

 

 ■■■■は大丈夫かな。

 スピンクスは、どうするだろう。

 

 こいつの目的はなに?

 

 僕を殺すこと? 自由になること?

 

 わからない……でも、違う気がする。

 

 こうして近づいても、未だにホクトの顔は見えない。

 

 ホクトの顔は黒に覆われている。

 

 

 ──顔もわからない奴に殺されるなんて、嫌だなぁ……

 

 

「──?」

 

「──あ」

 

 

 呆然と見ていた景色に、変化があった。

 

 ホクトの顔を覆っていた靄が、黒いベールのようにひらひらと剥がれ落ちていった。

 

 ──ああ、やっぱり、ホクトと向き合ってなかったのは僕の方だったのか。

 

 それは、悪いことをしたな。

 

 うん、でも、やっぱりそっくりだな。

 

 

「なんでそんな顔してるんだよ」

 

「……何が」

 

「ははっ、もう、お前も大概自分に嘘ついてるんだな」

 

「は?」

 

「──そんな苦しそうな顔して、どうかしたのか?」

 

「……は、あ?」

 

 

 きっと、誰にも分からなかったかもしれない。

 

 きっと、その違いは誤差だった。

 

 でも、ユウは知っている。

 

 なにせ何十年と連れ添った自分の顔だ。

 

 それを見ればわかってしまう。

 

 ──それが苦しみを押し隠した子供の顔だってことを。

 

 

「なに、抜かしやがる、頭おかしんじゃねぇのか……?」

 

「どうしたの、話なら聞くよ」

 

「お前、ついに頭までイかれちまったってか? あぁ?」

 

「──ホクト、何か悩んでる? 迷ってる? 苦しい?」

 

「──やめろ」

 

「ホクトは、何が好きなの? 好きな子とかいる?」

 

 

 沈むように、底抜けに無垢な質問。

 その瞳は透き通ったようで、まるで心をそのまま見通しているように感じる。

 まるで超越者然とした振る舞い、所作、言動。

 

 ──これ以上に恐ろしいものがこの世にあるだろうか。

 

 

 ……そうさ、ホクトは実のところ心を見せてなんていなかった。

 ホクトのもつ『憂鬱の権能』は、その真価は『心を守る』ことにあるからだ。

 ホクトのもつ恐怖心が拒絶が、絶大な攻撃性となって世に現れる。

 それがホクトの槍の仕組み。

 そうして、当然、守るための力もある。

 それが、ホクトの用いる『障壁』。

 それは『心の壁』の具現化。

 ホクトはそれで自身を覆い着くし、決して己の心を見せることはなかった。

 

 ユウに一方的に心を曝け出させ、醜い心を白状させ、楽に殺してやろうと考えた。好機だと思った。あっちから勝手にこちらの領域へ来てくれたのだ。

 

 そう、ホクトは──ユウが怖かった。

 同じ記憶を持つのに、こうまで違う。

 それに本気で体の奪い合いに負けたことが拍車をかけていた。

 

 思ってしまった。

 

 

 ──もしかしたら、自分は、ニセモノなのかもしれない。

 

 ──違う。

 

 ──違う違う。

 

 ──オレは、オレはっ

 

 

「──オレをっ、──ホクトって呼ぶなァぁあぁああああああ!!!!!」

 

 

「……っ」

 

 

「クソ野郎っ、くそがっ、くそがっ、くそがぁっ!」

 

「……」

 

「オレはっ、オレはぁっ!」

 

 

 ホクトは堪えている。

 我慢している。 

 言葉にすることを避けている。

 

 

「──ユウ」

 

「──っ!」

 

 

 ホクトの本音。

 ホクトが嫌悪するもの。

 ホクトの、想い。

 

 

「……ごめんね、そっか」

 

「……っやめろ」

 

「そうだね、君はホクトじゃ……」

 

「ちがうっ、ちがうんだよ、ちがうんだっ。オレは、俺は──ッ」

 

「わかった、僕が間違ってたよ、僕はほんと、自分のことしか考えてなかったみたいだね……。これからは君が──」

 

「オレをその目でみるなぁっ」

 

「──」

 

 

 ユウの見透かすような目に耐えられず、ホクトは顔を覆い隠して後ずさりする。

 

 恐怖から逃げるように、孤独に安心を求めるように。

 

 心そのものである顔と目を隠せば、心を守れると思ったから。

 

 ホクトは、しゃがみ、鬱ぎ込み、耳を覆って、現実(じぶん)を遮断する。

 

 

 ──だめだ、だめだっ

 ──はやく殺さないと、どうにかなっちまうっ

 

 ──殺さないと。殺さないといけないんだッ

 

「──大丈夫?」

 

 そういつの間にか近づいてきたユウがホクトの前にしゃがみこんで手を差し伸べてくる。

 

「……ぁあっ、ああッ!」

 

 ──殺さ、殺して、殺すんだ……

 

 

「──一人は、寂しいよね」

 

 

 くるな、こっちにくるな、オレは独りでいいっ

 

 

「ねぇ、『ユウ』……僕たち二人──」

 

 

 ──オレは『独り』でいたいんだよ──ッ

 ──オレの心に、踏み込んでくるなッ!

 

 

「──友達になれないかな」

 

 

「────────────────」

 

 ──なにもかんがえられない。

 

 

 思考が真っ白で。

 でも、その輝くような黄金の瞳だけが見えていた。

 手を、伸ばしかけた。

 

 ──ダメ、だ。

 

 でも、心がそれを否定する。

 真っ白のキャンバスを、黒が染め上げた。

 背後の黒が腕となって現れる。

 それがユウへと向かって行って。

 

 

 ユウは、避けなかった。

 ぐしゃっと音がした。

 

 ──ユウの肩が握りつぶされる。

 

 ユウは避けなかった。

 ユウにはわかっていたから。

 これが、この腕が、自分を守ろうと必死な子供の手だってことを。

 

 

「あぁっ……」

 

「っ大丈夫、痛くないよ、大丈夫だから……だから、ほら」

 

「──っ」

 

 凄まじい包容力。

 その声に宿る慈愛は凄まじく、まるで拒絶を許さない。

 ホクトはいつの間にか、少年まで縮んでいた。

 

 背伸びし虚飾で覆い尽くしていた魂が剝がれかけていた。

 本当の心がまろび出る。

 

「オレは……」

 

 虚構が砕け、世界に罅が入った。

 

 そうして──。

 

 

 

 

 

 ホクトの顔にもまた亀裂が入った。

 

 偽りの顔が砕け、その亀裂の先には真っ暗闇しかない。

 

 どこまでも続く虚っぽの闇。

 

 

『──ユルシテハナラナイ』

 

 

 そんなホクトの亀裂の奥底から、

 ──ダレカの眼が覗き見る。

 

 

「あがっァ!」

 

『ダメだめ駄目に決まってる。御せるわけない。為せるわけない。お前はクズなんだから。役立たず。疫病神。お前には何も成せない。何もできない。誰も救えない。オノレ自身すらも』

 

 

 罵倒の限りを尽くすその中身(ほんしん)

 ホクトの、押し込んでいた『闇』。

 

 

『──壊せ。侵せ。殺せ。理由も因果もなく罪過をばら撒く厄災となれ。──すべてはオノレが自由たる為に』

 

『──許すな。赦すな。オノレを赦してはならなイ』

 

『──オノレは【憂鬱】。誰にも止めることなどできはしない』

 

 

 ──ホクト(オノレ)自身にすらも。

 

 

 解き放たれた憂鬱がホクトの体を覆っていく。

 飲まれる寸前 手を伸ばしたホクトの手は、

 

「──っ」

 

 あと少しのところでユウに届くことはなかった。

 ホクトの手は黒の手に引きずり込まれ、黒の渦は肥大化していく。

 ユウは一度距離をとった。

 

 しばらくして、渦は消失した。

 

 

 

 そこにいたのは、黒鎧に身を包んだ一人の青年。

 黒髪を肩まで伸ばしその肩に一本の槍を担いでいた。

 

 

『──オノレは【七星北斗(ナナホシ・ホクト)】』

 

 

 ゆっくりと開かれたその瞳は、白いはずの瞳孔が黒く染まり、その虹彩を紫紺に輝かせていた。

 

 

『──憂鬱の魔人なり』

 

 

 壊れた世界。

 罅の隙間から荘厳な光が差している。

 様変わりしてしまったホクト。

 

 ユウはそれを見届けて一度目を閉じ、再び開くとき──

 

 

「──僕はユウ。──ただの友達だ」

 

 

 その虹彩は一際強い紅蓮の輝きを灯していた。

 

 その瞳には、友達を苦しめる『やみ』に対する義憤が募っていた。

 

 最終ラウンドが始まった。

 

 

◆◇◆

 






 厨二病って、最高じゃない?



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それは手


 一万と千


◆◇◆

 

 

『──憂鬱だ』

 

 

 『ホクト』は担いだ槍を遊ばせて気怠そうに呟いた。

 

『うんざりだ。苛々する。忌々しい。煩わしい。忌まわしい。不愉快だ』

 

 本当に気怠そうに心情を吐露し、その度に背後に特大の槍が生成されていく。負が形を成して並んでいく。その数が数え切れなくなった頃、ホクトは()()()に手を振るった。

 

 先ほどとは比べ物にならない圧を感じる。

 だが、ユウの動きには微塵の躊躇いもない。

 

「はァァッ!」

 

 その手に握る一振りの剣に緑のマナを宿して、襲い来る槍を打ち払う。

 

 払い、薙ぎ、薙ぎ、薙ぎ、切り裂き、貫く。

 

 この程度の攻撃には微動だにしない。

 

『どうして、どうして、どうして、どうして、どうしてこうも命は陰鬱なのか。自由に生きたいだけなのに……無駄な正義感が、無思慮な責任感が、無味な真面目さが、無益な良心が、無用な羞恥心が、オノレを邪魔してくる。疑問でならない、なぁ、お前(オノレ)

 

「……」

 

『沈黙。話し合う気なんてないか、そうだろうな。お前はオノレを認めないのだろう? 至って傲慢、オノレらしい』

 

「……君は、ホクトなのか?」

 

『それ以外にどう見える。オノレがホクトでないならなんだ? 魔女人格か? そんなに変わって見えるか?』

 

「……そうだね。でも、それが本当の君なんだろ?」

 

『本当。本当と解くか。浅いな。薄ら寒い偽善ものの結論だ。そも人を解き明かそうなんて考えが傲慢なのだ。オノレのことなどオノレ以外に知る由もないだろう。誰に決める権利もない。それが例え片我だとしてもな。オノレの意思はオノレのものだよ』

 

「そう、じゃあ君に改めて問う。僕と友達になって欲しい」

 

『断る』

 

「……理由を聞いても?」

 

 

 ──ガキンッ!!

 

 

「──ッ!」

 

『──この問答になんの意味がある』

 

 

 突如()()に現れたホクト。

 

 

「……見えなかった」

 

 ──パラパラと銀粉が舞う。

 

 咄嗟に構えた剣が功を奏し直撃を防いだ。

 ──だが、視界に捉えることすらも困難な一撃はユウの理解を置いて、ユウの剣を粉々に砕き割った。

 

 

『一つの身体に二つのタマシイ。そんな自然ならざる状態は長くは続かない。いずれ来る災厄から目を背けるな。──生き残るのは、二人に一人だ』

 

「そん、なの……わかんないだろ。僕は、君と──」

 

『いつまで? 許婚を見つけるまでか? オノレを邪魔に思うまでか? オノレの結論はいつだって先延ばしだ。今のことしか考えていない。言ったろう、目を背けるな。──あの小娘のこともそうだ』

 

「……?」

 

『──ああ、もう蓋をしてあったか』

 

「……また、か」

 

 

 いい加減、慣れたと思ってた。

 

「──■■■■」

 

 彼女の名前が、出て来ない。思い出せない。

 

「──奪われた? いや、蓋って言ったな。つまり、どうやってか……ああ、さっきの攻撃か」

 

 思考は勝手に口を出て、言ってる間に結論に至った。

 ユウの記憶を封じた要因がホクトの攻撃であることを。

 

「──はぁ」

 

 慣れたと思っていた。

 でも、慣れないな。

 ああ、できっこないよ。

 

 君を忘れることに慣れるなんて──。

 

「──いいよ、喧嘩しようじゃないか」

 

 ──怒らずにはいられない。

 

『ここまでされて、怒るのがオノレの為ではなく小娘の為か、どこまで行っても軟弱者だ。オノレで決めることをしない。オノレの意思がない。オノレで考えない。他者依存の腰抜けの生き様だ。そんな生き方して何が楽しい』

 

「楽しいよ。誰かの為に生きることは自分の為に生きるよりもよっぽど充実している。──アルフーラ……自分の為に生きたって、最後は独りで死ぬだけだろう?」

 

『異なことを。死んだ後なんてどうでもいいことだ。オノレには関係ない。重要なのはどう生きるかだ』

 

「アルフーラ……そうだね。それは大切だと思う。でも、僕たちが死んだ後も世界は続く」

 

『ハァ、オノレがそれを言うとは滑稽だな。ひたすら大切だ大切だと ほざいていた娘を幾度となく死なせてきたのはオノレだろう。それとも、オノレだけは例外(とくべつ)だとでも抜かすか』

 

「……アルフーラ。確かに、そうかもしれない。僕は自分を棚に上げて偉そうに綺麗事を言ってるだけだ。もしかすれば僕が死んだ後の世界で■■■■は苦しんで死んだかもしれない、独りで泣いているかもしれない、孤独死したかもしれない、自殺した世界だってあるかもしれない」

 

『……』

 

「でも、それはボクにはどうしようもないことだ。ボクには関係ない、ボクが守れるのは今生きている■■■■だけだ。──彼女だけが、ボクの希望なんだ。返してもらうよ。──アルフーラ」

 

『くだらない答えだ』

 

 ユウが会話しながら放った数十の魔法。

 それらは例外なくホクトの纏う()に阻まれ、無に帰していた。

 

「……ダメか」

 

『オノレのすることは意味のないことばかりだ。無為。無駄。無意味。無価値。無感動。側だけそれらしく取り繕ってまるで策がない。思考がない。工夫がない。努力がない。その場の思い付きで、その場をしのいで、解決した気になっている。オノレには足りていない。力も知恵も、身も心も、まるでなっていない。哀れで愚かな片我、ここでの戦い方を教えてやろう』

 

「……」

 

『それは攻撃に【ゼツボウ】を乗せること。──こういう風にな』

 

 ホクトが天に向け手を伸ばし、手のひらを開けた時、九十の槍が現れる。

 

 

『【絶望の槍】【嘉鬱の槍】【悲愴の槍】【鬱憤の槍】【愉悦の槍】【焦燥の槍】【躁鬱の槍】【殺意の槍】【瞋恚の槍】【被虐の槍】【加虐の槍】【暴力の槍】【失望の槍】【孤立の槍】【不安の槍】【辛苦の槍】【自慰の槍】【不理解の槍】【飢渇の槍】【嗜虐の槍】【軽蔑の槍】【後悔の槍】【恐怖の槍】【依存の槍】【嫌悪の槍】【恍惚の槍】【狂気の槍】【過去の槍】【老衰の槍】【病魔の槍】【不快の槍】【倒錯の槍】【自閉の槍】【貧汚の槍】【憎悪の槍】【罪悪の槍】【停滞の槍】【腐臭の槍】【妄想の槍】【戯悪の槍】【劣等の槍】【不満の槍】【愚者の槍】【堕落の槍】【姑息の槍】【侮蔑の槍】【羞恥の槍】【淫靡の槍】【怨恨の槍】【厭世の槍】【瑕疵の槍】【怯懦の槍】【屈辱の槍】【錯乱の槍】【狡猾の槍】【厚顔の槍】【挫折の槍】【残機の槍】【私怨の槍】【自嘲の槍】【自傷の槍】【憔悴の槍】【舌禍の槍】【不徳の槍】【無知の槍】【吝嗇の槍】【愚痴の槍】【鬼哭の槍】【偏執の槍】【束縛の槍】【偏愛の槍】【浮気の槍】【幻滅の槍】【憐憫の槍】【渇望の槍】【放縦の槍】【悪意の槍】【欺瞞の槍】【邪淫の槍】【貪欲の槍】【獣性の槍】』

 

 

「───。」

 

 

 予想を上回るゼツボウの群。

 さしものユウも驚かざるを得ない。

 

 

『──返すぞ、オノレのゼツボウ。──たんと喰らえ』

 

 

 それは、ユウが捨ててきた【オノレ】に他ならない。

 【ゼツボウ】が迫ってくる。

 逃れられはしない。それはもともとユウのものなのだから。

 

 受け入れる他ないのだ。

 

 

『忘れたというなら思い出すがいい。それでもまだ、オノレは【キボウ】を騙れるか。──自称・ナナホシユウ』

 

 

「ォァアあああああああああっ!!!」

 

 

 聖人を襲う卑俗の海。

 

 

◆◇◆

 

『──オノレは罪人。赦されざる悪』

 

◆◇◆

 

 最初に心を染め上げたのは【恐怖】だった。

 

 ──こわい、こわいこわいこわい、怖い。

 

 何が怖い? 人が怖い。何が怖い? 自分が怖い。何が怖い? 失うのが怖い。何が怖い? 希望が怖い。何が怖い? 死ぬのが怖い。何が怖い? ただ怖い。消えるのが怖い。何が怖い? 忘れられるのが怖い。何が怖い? 自分が自分で無くなるのが怖い。何が怖い? 君に忘れられるのが怖い。何が怖い? 君と会えなくなるのが怖い。何が怖い? すべてが夢だと知るのが怖い。何が怖い? 漠然とした不安が怖い。何が怖い? 

 

 ──幸せが怖いんだよ。

 

 いつか失われるこの幸せが怖くて怖くて仕方がないんだよ。

 

 だから、

 

 ──明日なんて要らないんだ。

 

 僕は、ナナホシユウは【未来】を捨てた。

 

◆◇◆

 

『オノレは悪。人に仇成す獣』

 

◆◇◆

 

 次に現れたのは【自慰】だった。

 

 ──大丈夫、大丈夫だよ、僕はきっと大丈夫さ。

 

 そうやって自分を慰める日々。情けない。でもやめられない。その快楽だけが孤独を慰めてくれるから。抗えない。独りは悲しいから。独りは寂しいから。どうにもならない現実から逃避させてくれる刹那の悦楽にすり寄る他ないんだ。

 独りは苦しい。独りは辛い。温もりが恋しい。でも人は怖い。だから自分で自分を慰め、労い、愛してあげるのだ。それが悪だと知っていて、それが悪いことだと知っていて、それでも人は手を止めない。思考を白色のソナタに投げやって、今日も夢に浸る。

 

 ──気持ち悪い。

 

 自己嫌悪が止まらないんだ。

 

 それでも、

 

 ──僕は僕を心の底では嫌いになれないんだよ。

 

 ナナホシユウは【夢】を捨てきれなかった。

 

◆◇◆

 

『オノレは獣。嘘の皮を被った低俗なモノ』

 

◆◇◆

 

 【欺瞞】

 

 ──僕はユウ。フェリスを救いたい。クルシュなんて、もう愛していない。

 

 嘘。嘘。大嘘つき。いつまでも未練たらたらで、間違って、考えないふりをして。本当は大好きなくせに、本当は愛してほしい癖に。偽って、誤魔化して、見ないふりをして。傷ついてないふりをして。諦めたふりをして。そうやって耐えしのぐ。

 本当は気づいてるんだろう。ホクトはお前が切り離した本心だってこと。嘘を切り離したおかげでお前はお前たれるだけ。嘘を切り離せば聖人になれると思ったか、理想の自分になれると思ったか、本心で汚れなく他者を想えると思ったか。

 

 ──それを欺瞞と呼ばずになんと呼ぶ。

 

 嘘つき。

 

 わかってる。

 

 ──わかってる。

 

 わかっていても、【願い】を捨てられなかった。

 

◆◇◆

 

『醜い。醜い。醜い』

 

◆◇◆

 

 【焦燥】【侮蔑】【殺意】

 

 来たるままに受け入れる。

 

 【偏執】【不徳】【挫折】

 

 己の醜さを受け止める。

 

 【私怨】【自嘲】【自傷】

 

 嫌いな己を受け入れる。

 

 【不満】【劣等】【堕落】

 

 ああ、上等だ。

 

 

 ──そんな嫌いな己と、僕は友達になりたいって、そう思えたんだから。

 

 

◆◇◆

 

 本来。

 

 魔女因子の適合者が分離することはない。

 魔女因子は適合者の魂を欲望のままに、願望を露わに、希望を歪めて力を与える。

 要らなくなった『欲望(ジガ)』は消えてなくなる。

 

 しかし、七星憂はそうはならなかった。

 

 偏に、七星憂は心の底では自分が大好きだったから。

 

 自分が大好きだから飛び降りた。自分が大好きだから病むんだ。自分が大好きだから自分を責めてしまうのさ。完璧主義で理想主義で、どこまでいっても利己主義(エゴイスト)なのだ、この男は。

 

 その消し去るべき醜さを、その尊き性を、人を人たらしめる【ゼツボウ】を、憂は捨てられなかった。

 

 故に、七星憂は分離した。

 

 最低でクズで役立たずな己を、誰にも愛してもらえない本当の自分を、──自分だけは愛してあげたかったから。ああ、この男はどこまでも自分に甘い。甘ちゃんだ。

 

 ──嗚呼……だがしかし、だからこそ──

 

 その愛しき『傲慢(プライド)』にこそ、世界は応えて見せた。

 

 

 ──『賢人』に至れ、七星憂。

 

 ──醜い己を愛してやれ。

 

 その『傲慢』はお前(ナルシスト)にこそ相応しい。

 

 

◆◇◆

 

『馬鹿な』

 

◆◇◆

 

 【厚顔】【憐憫】【愉悦】【淫靡】

 

 そうとも、僕は厚かましくて不幸な人を助けて優越感に浸るのが大好きな変態だ。

 

 【舌禍】【姑息】【厭世】【羞恥】【鬼哭】

 

 ああ、口が悪いってよく言われる。その場しのぎで生きてきた。こんな思い通りにいかない世の中 クソッタレだって恥ずかしげもなく声を大にして(わめ)いてやる。

 

 【浮気】【束縛】【不安】【偏愛】

 【幻滅】【無知】【愚痴】【劣等】

 

 浮気性だって自覚してる。他人を信用できずに縛って、拘って、一方的に想って、幻滅して、無知を晒して、愚痴を吐いて、劣等感を押し隠すようなクズだって知ってる。

 

 心の底では人が大好きなんだって知っている。

 

 【狂気】【自閉】【躁鬱】【暴力】

 【憎悪】【嫌悪】【不快】【不理解】

 

 それも自分の一部だって認めるッ!

 

 【飢渇】【渇望】【焦燥】【偏執】

 

 求め、望み、願い、欲して止まぬ希望という病に侵されて!

 

 【絶望】

 

 どんな絶望も希望に染め上げる。

 そんな傲慢な奴だって知っている。

 

 

 ──僕が僕である為に

 ──僕が僕として生きる為に!

 ──君と一緒に、生きていく為に。

 

 

「──僕は病み人。これから先に待ち受ける数え切れない『幸福』に待ち焦がれる『傲慢(キボウ)』の病み人だ!」

 

 

 いつまでも続くかに思われた黒幕は、晴れた。

 

 

◆◇◆

 

 

 シュゥ……

 

 

 ユウを飲み込んだ黒の汚泥。

 それはユウのいたところに寄り集まり巨大な球を成していた。

 ユウを捕らえ、決して逃がさない絶望の檻。

 人一人には余りある途轍もない大きさの、瘴気の塊。

 中にいるものの魂を穢し、侵し、取り込み、二度と戻れなくする死の監獄。

 

 それが、だんだん、だんだんと──縮小していく。

 ──否、中心に向かって吸収されている。

 縮んで、縮んで、気づいた時には人一人分の大きさまで縮んでいた。

 

 初めに見えたのは手だった。

 

 その手は未だ覆われる腕、肩、胴体と触れていく。

 触れた瞬間、奇妙な音が鳴る。

 シュゥ……と、そんな音だった。

 すると、触れた黒が塵のようにして舞い散り、白い粒子へと変化した。

 次々と体に触れていき、その度に黒い汚泥が、まるで浄化されるように白いエネルギーへと変わっていく。

 

 ──パシンッ!

 

 最期に残った顔、見ずとも誰であるかなど歴然であるが、その隠された頬をそれは両手で思いっきり叩いた。それは、そう、まるで自身の目を覚ますように。

 

 最期の黒が消え去った。

 

 そこにいるのは、紛れもないナナホシ・ユウ──否、もう違う。

 

 

「──お返しするよ」

 

 

 彼は言った。

 その瞬間、白く輝く凄まじいエネルギーがユウの身体から迸る。

 それは九十のゼツボウを浄化し尽くし白へと還元させた尋常ならざる力。純然たるマナの結晶。ユウはその手に再び剣を生成し、その剣に到底収まりきらないその光を宿した。

 

 その圧力といえば今代の剣聖に遜色ない。

 可視化された十全なマナがただ一振りの剣に宿り、ただ一撃の為に振るわれる。

 それはもはや風魔法という域を超えた至高の御業。

 

 込められるはただ一つの想い。

 

「──『アル・フーラ(君に花束を)』」

 

 果たして、それは振るわれた。

 それは一直線にホクトへと突き進む。

 道中、周囲にあった瘴気を丸ごと浄化しながら。

 浄化された瘴気は白き粒へと還元され、その一撃を彩る花びらのように舞い散る。

 

『──ッアイギス──』

 

 その一撃に対し手を構え、何事か唱えたホクト。

 その先に具現化する厳かな『盾』

 オノレを守らんとする心の──

 

「──無駄だよ」

 

 ──だが、そんな拒絶はまるで意味をなさないとばかりに、光は障害をすり抜ける。

 

『──なッ』

 

 ホクトにさえ理解できない事態。

 有り得ない。有り得ないのだ、そんなことは。

 ホクトが赦していないものは何一つ通さないのがこの『権能』の力だ。

 

 なのに──……

 

 

 ──光が、ホクトを飲み込んだ

 

 

◆◇◆

 

 

『……』

 

 

 そこは、()()()()()()()花畑だった。

 周囲を山に囲まれ、自分は一本の大木の下にいた。

 あの世? 一撃で殺されたとでもいうのか。

 だが、どうにも()()には見えない。

 

「──ユウ?」

 

『────────」

 

 ぎこちなく、呆然と、信じられないものを見たかのように。

 ()()は振り返った。

 

 

「ユウっ!」

 

「────』

 

 

 ()()()()がいた。

 自身の名を、万感の思いを込めて呼ぶ()()()()少女。

 自身の胸に飛び込んでくる大切な少女を丁寧に抱き留めた。

 

 

 ……訂正する。

 ──ここは、これ以上なく、悪趣味な──

 

 

 ──地獄だ

 

 

◆◇◆

 

 

 とある、見覚えのある執務室だった。

 

 

「──ユウ? どうかしたのか?」

 

「……クルシュ」

 

「ほら、いつまでもぼさっとしていないで執務を進めるぞ。これに関してはフェリスの手伝いは期待できないのだからな。我ら二人であたるしかない」

 

 ──それとも、私と二人きりは嫌か……?

 

 なんだよ、その顔。

 馬鹿みたいだ。

 そんなの嫌に決まってる。

 断るに決まってる。

 聞くまでもない疑問だろうが──。

 

「──嫌じゃないです」

 

「そっ……そうか」

 

 そんな顔、するなよ。

 なんなんだよ、これは──。

 

◆◇◆

 

『お前のおかげでいつも助かっている。これからもよろしく頼む』

 

『おお、ユウか。どうだ、最近のクルシュは──。──そうか、そうだな、あの子は時々頑張りすぎる節があるからな、だから、な? ユウ、お前さんが見てやってくれ、父親からの小さな頼みだ』

 

『クルシュを、お願いしますね』

 

『だいじょーぶ! 私とクルシュ様、ついでにユウがいればこのくらいの難題ちょちょいのちょいですよ!』

 

『頼もしいな』

 

『私のお願いなんて無視してもいいのに……そっか』

 

『あの子を……』

 

 

『──ありがとう』

『……ありがとうな』

『……ありがとうございます』

『──ありがとネ』

『ありがとう』

『……ありがとう』

 

 

『『『『『『ユウ』』』』』』

 

 

◆◇◆

 

 

『──あ゛ぁぁぁぁああああぁぁぁぁああぁぁぁあああ!!!!!」 

 

 

 凄まじい浄化がホクトを苛む。

 ホクトを飲み込んだ浄化の光がホクトを取り囲み、常に浄化し続ける。

 同時にその攻撃は被体にとびきりの想いを伝える。

 

 ホクトはその槍にとびきりの【ゼツボウ】を込めた。

 だが、ユウがそれをしたところでホクトはその権能で自身の心を害すもの(ゼツボウ)を通さない。

 だから──、

 

 

「──やっぱり。

 ゼツボウを乗せたところでお前には届かない。

 ()()の権能はそれを防ぐことに特化しているから。

 ──でも、ゼツボウは防げても。

 ──『希望』は防げないんだろう?」

 

 

 それが、ユウの出した答えだった。

 

「あがぁっ!』

 

 ホクトを追い詰めるのは、無限大の可能性。

 有り得たはずの、有り余る希望。

 現実と過去と非現実。

 ──いづれ来たる『希望』

 

「お前と戦って、やっとわかったんだ。

 ここに来る前に見た悪夢、その正体。

 あれは──僕の悪夢じゃない。

 あれは過去に囚われたナナホシユウの──お前の悪夢だったんだ」

 

『……ありえない、お前なんかが、お前なんかが、何故』

 

「もうそんなかたっ苦しい話し方やめようよ、()

 

『何を──』

 

「──かっこ付けんなっつってんだよ厨二病! 

 自分の前で一端に見え張ってんじゃねぇ!」

 

『……お前に、できるわけない。お前には何もできない。何も知らず、何も為せず、何も得られない、何も──』

 

「そんなのどうでもいいよ、大事なのは何を得るかじゃない、どう生きるかだ、そうだろ?」

 

『……』

 

「──来いッ!」

 

 そう掛け声を発すれば、そこに新たな剣が、いいや、刀が出現する。

 それは先の一撃で砕け散った剣とは違い、剣そのものに力を宿したもの。

 その刀にユウは残ったすべての力を注ぎこむ。

 

 想いを、希望を、傲慢を。

 自身に残るすべてを糧に、願いを集約した結晶を生み出す。

 現れたるは、一本の、何の変哲もない短剣。

 

「──傲慢の御神刀! 

 我が友を苛む厄災を払え!」

 

『──やめろ、望んじゃいないんだ、そんなことっ、誰も望んでない、頼んでない。余計なお世話だっ! ──オノレは』

 

「知るかッ! お前が望むとか望んでねぇとかどうだっていい! 僕が、お前に、死んでほしくないんだよ! お前が誰も愛せない、自分すらも愛せないっていうのなら! 僕がお前を愛してやる!」

 

『傲慢、ナルシスト、くだらない、気持ち悪い、きもい、気色悪い、こっちに来るな、余計なことをするな、オノレを救おうだなんて考えるなっ、お前は、お前は、オノレはっ、ここで……──死んで、消えられればそれでっ』

 

「──わかるよ……心の声って、とっても正直でさ、死にたいときは死にたいって、そう本気で思うんだ。それは嘘じゃないんだ。──でも、同時に死にたくないって、そうも思ってるもんなんだよ、答えなんて一つじゃなくてもいいんだよ! ──矛盾してたっていいんだよ! それは嘘でも偽物でも悪いことでもない、君そのものなんだ!」

 

『っ、違う違う違う違う、違う! オノレは悪だっ、オノレは最低の屑だっ、誰も救えない、傷つけることしかできない、誰も愛せない、憎むことしかできない、捨てることしか知らない、オノレのことしか考えられない、そんな人間は生きているべきじゃないッ! お前はオノレを殺せばいいんだッ!』

 

「生きるべき人間そうでない人間なんて考えるだけ無駄! 人間皆死んだ方がきっと世界はよりよくなる! でも──誰もそんなの求めちゃいないんだよ! だってみんな本当は独りが嫌だから! 本当はみんなといたいから! 人は独りじゃ生きていけないんだよ! 人はいつだってどこだって、生きている限り独りなんてことはないんだよ! 親、学校、友達、ネット! 学校に通う途中にいる人だって、隣に住んでる人だって、どこにでもいるだろうが! ああ! 最悪なことにな! だから諦めんなよ! お前はちゃんと人だよ! みんなと一緒だよ!」

 

『クソ、が……自分で自分を慰めてるつもりか? みっともねぇって思わねぇのか! 恥知らずだってわかんねぇのか! 自分で自分褒めて、認めて、愛して、慰めて! バカ、みてぇじゃねぇか』

 

「もうなんだよ、馬鹿で何が悪いんだよ! 記憶力だけが良いだけのポンコツの癖に気取ってんじゃないよ! 友達になろう! 一緒に生きよう! 僕と、フェリスと、生きていこう!」

 

『大噓吐きがっ』

 

「……ああ、そうだよっ、ほんとはクルシュとだって暮らしたいよ! まだ、無理かもしれないっ、今は想えないかもしれないっ、それでも嘘でもいい! いつか、戻れるかもしれない! また好きになるかもしれない! 恋に落ちるかもしれない!」

 

『浮気クソ野郎が』

 

「そうだよ! 自分でもわかってる! しょうがないじゃん! 可愛い子を好きになるのが男の性だろうが!」

 

『……開き直んなよ、気色悪ぃ』

 

「お前が想えないってんならお前の分まで僕が想う! お前の気持ちを、僕が代弁してやる!」

 

『わけ、わかんねえこと言ってんじゃねぇ……!』

 

「はっ! 口調が戻ってきたな! ──本当の気持ちを言えッ! ぶちまけちまえよ! ──七星憂! ここには僕らしかいないんだから! お前はホクトなんかじゃない! そうだろ!? ──なぁ、もう一人の僕!」

 

『……なんで。お前のことここまで傷つけて、殺そうとして、憎んで、恨んで、傷つけて。それでなんでそんなに笑ってるんだよ……! 笑ってられる! どうしてそこまでする!? どうして共に生きるなんて結論に至る! 違うだろ……!? 殺すしかないんだよ! オノ、レは、オレは……! ……オノレを消せば、お前はきっと傲慢を制せる! 過去の記憶だって取り戻せるだろう……! 穢れなき気持ちでフェリスを思うことだってできるはずだ! 本当の意味で二人で生きていけるだろう!? なぜオノレに拘る!』

 

「分からずや! ──ああっそうだよっ! 僕だって何も知らずにいられたらお前なんか無視してフェリスのことだけ考えていればよかった! 例え同じ自分だとしても譲る気なんてこれっぽっちもなかった! ──でも! もう、僕はお前を知ってる! 知ってしまった! お前が僕にはなくてはならないものだって分かった!」

 

『……利己主義者。憂鬱のせいで傷ついて、邪魔されて。憂鬱なんて……憂鬱(オレ)なんて! ──ない方がいいにきまってる!』

 

「違う! 憂鬱(おまえ)は……お前は、お前のおかげで! 今の僕がいるんだよ! お前がいなきゃ、あの時、体よりも先に心が死んでたっ! お前が僕の心を守ってくれたんだ! ──悲しみを受け止めてくれた! ──絶望に抗ってくれた! 生に執着して、自分を守り他者を喰らう勇気を示してくれた!」

 

『──そのせいでフェリスの母親は死んだ! クルシュを傷つけた! スピンクスを殺した! テレシアを葬った! ヴィルヘルムが会えたはずの彼女を消し去った! オノレは、オレは、余計なことしか、殺すことしかできない! 偽ることしかできない! 自分のことしか考えられない! 自分の気持ちさえもわからねぇ……! ──お前とは違う! ──オレは、もう、満足だ。……オレはもう、要らないだろ……? ……オレがいなくても、お前は大丈夫だろ……? ──もう、楽にさせてくれ、もう嫌なんだよ……嫌なんだ、おれぁ……! これ以上──自分を嫌いになるのはっ!』

 

「……──」

 

 

 勢い任せの、本音。

 泣きそうな顔して、それでも泣かないのはなんでなんだよ。

 助けてって言えよ。生きたいって今まで通り言えよ。

 こんな時だけ正直になるなよ。

 死にたいんだろ。本当は死にたくて死にたくて、仕方がなかったんだろ? 

 

 ──僕に、殺してほしかったんだろ。 

 

 わかるよ。そうさ、僕はいつだって死にたがりの大馬鹿者だから。

 お前の気持ちが痛いほどわかるよ。

 僕とお前、多分違ったのは上辺だけ。

 心の底では繋がってる。

 きっと、人間みんなそんなもんなんだよ。 

 

 ユウはホクトに……──自分に言い聞かせるように。

 

 

「──僕には、クルシュみたいなことは言えない。僕の言葉には重みがない。僕の発する言葉は、いつだって口先だけだ。その場しのぎで、その場限りの思い付き……──でも、言わせて欲しい。

 

 ──死ぬな。──生きろ。

 

 どんだけお前が嫌がっても何度自殺しようとしてもそのたびに何度だって止めてやる。死にたい気持ちも、消えたい気持ちもわかるから。僕はお前だから。お前は僕だから。……だから、いいんだよ。もう、──自分を許してあげてもいいんだ。──ユウ」  

 

「──あぁっ、あぁぁぁぁああっ』

 

 

 ──力が抜けていく。

 憂鬱が傲慢に溶けていく。

 救われていく。弱くなっていく。

 

 ──自由に。

 ただ自由になりたかった。

 

 ……なんで?

 なんで、なんでって、そりゃあ……あァ……

 

「……フェリスを、助けたかったから」

 

「──それがお前と僕の、原点だもんな」

 

 

 ──力が失われていく。

 黒く染まった瞳孔は、その黒は、黒い涙と共に流れ出て、白く戻っていく。

 

 そんなホクトを、憂鬱は許さない。

 憂鬱が、どこからともなく表れた黒い手が、ホクトを取り戻さんとホクトを未だ閉じ込めている白浄の檻に伸びていく。力を使い果たし、弱った檻は物量に負け砕け散る。憂鬱の魔の手がホクトの首へと近づき、その首を絞める──その前に、ユウが切り落とす。その手にもつ、厄災を払う護り刀で。

 

 斬って、斬って、斬って、払う。

 

 もうこれ以上、僕を苦しめさせない。

 自分のことは自分が守る。

 

 

『──ムダ、ムダ、ムダ、ムダムダムダムダムダムダムダムダムダムダムダムダムダムダムダ』

 

 

 突然、おどろおどろしい思念が伝わってきた。

 それはそこかで聞いた覚えのある声。

 それは、悪夢の囁き。

 

「ぁ……」

 

「僕っ!?」

 

 突如、ホクトが苦しみ始める。

 

「……ァごふっ」

 

「……っ!」

 

 ホクトはヘドロのような真っ黒い血を吐いた。

 

「………あぁ……やっと………」

 

「僕!? 大丈夫か僕!?」

 

「………ちっ………ボクボクうっせんだよ…………ホクトでいい」

 

「……どういう意味?」

 

 心の中で思ったことがそのまま声をついて出てしまった。

 

「……べっつにィ、呼びにくいからそう呼べっつのはオレだろうが、文句あんのか」

 

「……そう。……それより、お前──」

 

 

『ムダ、ムダ、ムダ、イマイマシイフユカイフリカイムダムリフカノウイミナイヒコウリツナンノイミモナイスクエナイタスカラナイムダムダシネシネシネシネイシネシネシネシネオノレナンテシンデシマエシンジマエバイイソウスレバゼンブカイケツダ』

 

 

「……腹ん中で膨れ上がった憂鬱とテメェが紛れ込ませた『希望(マナ)』が争ってる……互いに拒絶反応を起こして殺し合ってやがる……ァ……ぐふっごはっ……ハッ! 随分質の悪ィ毒を打ち込んでくれやがったもんだナ!」

 

 二つの感情(おもい)は相いれず──かといってどちらも捨てられない。

 もう、捨てたくない。

 だから、器が壊れるまでその矛盾は膨れ上がり続けるのだ。

 

「……ごめん。お前を止めるにはそれしか思いつかなかった」

 

「責めちゃいねぇよ、いいんだよ、いいや、よかった。これでよかった、やっと死寝る」

 

 ──おら、お帰りはあちらだぜ

 

 ホクトが指指した方に、扉が現れる。

 最期の扉。おわりの扉だ。

 

「………」

 

「……いかねぇのか? 待ち望んだ帰宅だろ、早く戻ってやれよ」

 

「………」

 

「……早くいけ」

 

「……嫌だ」

 

「あ?」

 

「言ったろ、僕はこういうの、見捨てられないんだよ」

 

「──死ぬぞ。もう間もなくオレの器が壊れて爆発する。そうすりゃお前ともどもお陀仏だ」

 

「離れないよ」

 

「離れろ」

 

「もう見捨てない。見て見ぬ振りしない」

 

「死ぬぞ」

 

「死なないよ」

 

「お前まで死んだらあの子はどうすんだよ」

 

「大丈夫、僕は死なない」

 

「どっから来てんだ んの自信は……」

 

「……」

 

「頭でっかち」

 

「うん」

 

「……いいのか?」

 

「うん」

 

「あっそ…」

 

 

 

 

 

「なあ、オレ」

 

「なに、僕」

 

「……いぃや、なんでもない」

 

「そ──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キィィィィィィィぃィぃィぃィぃン

 

 

 

 とても酷い耳鳴りがした。

 

 

◆◇◆

 







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『それは手』

 
 長かったねぇ、すごいねぇ、むずかしいねぇ、ここまで来るのにこんなにかかるもんなんだねぇ…………すごいねぇ、やっぱり、小説を書いてる人ってすごいよねぇ……

 まぁ、そんなこんなでここまで来ました。
 どうぞ。七千二百文字。


 

◆◇◆

 

 夢を見た。

 牢屋を抜け出して、敵を倒して、フェリスを救い出し、クルシュに温かく迎え入れられて、三人で暮らす。

 

 そんな夢。

 叶わぬ夢。

 有り得ない夢。

 

 牢屋は抜け出した。

 敵は殺した。

 フェリスを救った。

 

 でも、彼女(クルシュ)は応えてはくれなかった。

 

 オレ()は捨てた。諦めた。認めてしまった。

 思えばあの時から歯車が狂い始めたのかもしれない。

 オレは喪失感で空いた胸の穴をフェリスで埋めようとした。

 

 でも、オレの心が満たされることはなかった。

 

 オレは、なんだ? 何がしたかったんだ。

 オレは誰だ。フェリスを愛せないなら、オレは何の為にいる。

 何の為にオレは今生きている。

 

 ──ああ、苦しい──

 

 ……誰も助けてはくれない

 誰もその答えを教えてはくれない。

 考えろ。自分で考えるしかないんだ。

 

 どうして。なんで。なぜ。

 オレは、クルシュ……貴方のために。どうしてあなたは愛してくれない。オレを愛さぬお前は誰だ。お前に愛されぬオレは誰だ。オレはオレだ。死ぬべきなのか。消えるべきなのか? オレは、ただ自由に。その為に全てを捨てるのか? どうすればいい。

 

 また負けた。

 オレが、オレが■■なのに。

 

 

 それは思考。

 止まることのない、苦悩の発露。

 ホクトは考え続けている。考え続けていた。

 ずっと、ずっと、今も明日も来年も。

 その苦悩は、その懊悩は、その憂鬱は誰にも止められない。

 

 ホクト本人にも。

 

 ──あぁ、楽になりたい──

 

◆◇◆

 

 

 ──は

 

 

 目が覚めた。

 酷い耳鳴りがする。聴覚はひたすらにキィィン、という音を奏でて役に立たない。

 あまりのうるささに平衡感覚もままならず、自分がどこにいるのかわからない。

 ぐるぐると世界が回って感じる。

 

 だが、

 

「く、がっ」

 

 ユウはその身体を無理やりに起こそうとする。

 

 ──夢を見た。

 ホクトの思考が、走馬灯のように自分に流れ込んできた。

 

 自覚した。

 僕の行いが、ホクトを傷つけ続けていたことを。

 僕の傲慢(わがまま)がホクトを蔑ろにしていたことを。

 

 ──謝らなければいけない

 

 ──否──

 

 起き上がれ、ユウ。

 そう自身の身体に命令する。

 

「ふッ…………はっ」

 

 そうしてようやく体を起こすことに成功した。

 自身の身体を見渡す。

 

「……これは」

 

 ──五体満足だった。

 

 ぼろぼろではあれど、四肢の欠損すらもなかった。

 いくら何でもそんなことあるはずない。

 あれはそんな生易しい衝撃ではなかった。

 なんならあそこで死に戻りする覚悟さえあった。

 魂ごと消滅して、それで死に戻りできるかも、ましてや正気のまま戻れるかも定かじゃなかったが……まぁ、今はそれはいい。

 

 大体、想像はつく。

 

 だからこそ、

 

「……ふっ、くっ、ぁぐっ」

 

 這い這いの身体で、それへと近づく。

 少しずつ、少しずつ。

 悲鳴を上げる魂を、今だけは無視して突き進む。

 

 

 そうして、辿り着いた。

 

 その胴体に大穴を空け、四肢を欠損したぼろぼろのホクトの元へ。

 

 

「……ひどい」

 

 あまりに無残な姿だった。

 これが力の代償。その末路だと言うのなら哀れ、そういう他ない。

 あれだけの力だ。制御できるはずがないのだ。

 それをホクトは曲がりなりにも制御し、使いこなしていた。

 その胆力はユウには推し量れようもない。

 ユウなんてすぐ傲慢に飲まれて威丈高になってしまうのに、ホクトは最後の最後まで心を強く保っていた。……その最後の守りを砕いたのは自分ではあるのだけれど。

 

 羨ましい、とは思わない。

 もうホクトの苦悩を知っているから。

 ただ、凄いと。そう尊敬の念を覚えるのだ。

 まったくもって自尊心の塊だ。

 

 ──死なせない。

 

「……まだ、魂の原型が残ってるなら、可能性はある……」

 

 ユウは、ホクトの器に手を当てて、力を注ぎこむ。

 その熱。その情熱。その友を想う友愛を込めて。

 覚えたての『回復魔法』を発動する。

 

 その魔法に名前はない。

 その魔法に名前など要らない。

 その想いは千差万別。

 ただ想えばいいのだ。

 

「……お前は、誰も助けてくれないって言ってたけど……──お前は僕を助けてくれたじゃんか」

 

 それは、絶望と憎悪に溺れていた時のこと。

 

「……あの時手を差し伸べてくれたのは、紛れもなくお前だった」

 

 それだけじゃない。

 

「……僕が五体満足なのも、お前が守ってくれたんだろ?」

 

 まったく、日頃余計なお世話だなんだと言っている癖に。言ってることとやってることが一致していない。

 矛盾だらけだ。

 本当に面倒くさい性格をしている。

 

「僕も、そうなんだと思う。

 ……僕が誰かを救いたいって思うのは、きっと、僕も誰かに救われたかったからなんだ。

 ……なぁ、お前もそうなんだろ?」

 

「今度はもう見捨てないから。見て見ぬ振りしないから。戻ってきておくれよ。お前が消えて、はい万歳なんて、僕はやだよ……絶対に嫌だ」

 

「……僕らの前世に兄弟がいたかは知らないけど、でも……いたらきっと、今日みたいにいつも喧嘩してると思うんだ。……こんなの毎日とか、ごめんだし、勘弁してほしいし、鬱陶しい日もあるだろうけど……いなきゃきっと寂しい」

 

「だからさ、その、感謝してるんだ。

 お前がいてくれてよかった。

 憂鬱がいてくれて、よかった。

 ──ありがとうな、ホクト」

 

 救われた感謝を、その熱意を、憂鬱への親愛を捧ぐ。

 

 だが、それでは足りない。

 回復魔法が治せるのは器だけ。

 人の心までもを癒すことはできない。

 人の心を癒すのは、希望。

 

 だから、

 

「──僕のとびっきりの希望をくれてやる。

 だから、帰ってこい、バカ兄貴」 

 

 

 終わる世界が、白光に染まった。

 

 

◆◇◆

 

 

「は」

 

 

 チュンチュン チュンチュン

 

 小鳥が鳴いていた。

 ぼやけた視界は眩い光と明るい緑で染まっている。

 天を覆う自然の天幕、そこから零れる木漏れ日。

 

 ……夢? 

 

 ヒュゥ……

 

 しばし呆然とする彼を、なまら温かい風が撫でた。

 朝だ。とても静かで温かく、心地よい森の朝だった。

 眼を閉じ、呼吸し、自然を、大地を感じる。

 

 

「──遅いお目覚めだね。待ちくたびれてしまったよ」

 

 

 そんな心地よさに微睡んでいた彼に、横から声がかかった。

 目を開け、其の方を見れば、そこにはしゃがんでこちらを覗き見るフェリス──の姿をしたスピンクスがいた。

 

「何かあったのかと思って心配したが、その様子だと二度寝でもしていたかな? 疲れを癒すのは結構だが、あまりこの子をほったらかしにするものじゃないと思うよ。まぁ、それだけボクのことを信用しているのだと考えればやぶさかでもないけれど、ね?」

 

「──お前」

 

「──おや、もしかして君は……」

 

 多少の苦言と甘言を呈していたスピンクスは彼の様子から違和感を感じ取った。そうしてすぐさま結論に辿り着く。

 

「……」

 

「……」

 

 そこで一度沈黙が訪れた。

 互いに目を合わせ、しかし何も言わない。

 ()()()が黙ったまま思考した。

  

 ……こいつは、何を考えてる。

 スピンクス、魔女の成り損ない。

 傲慢(軟弱野郎)が勝手に約束して受け入れた悪霊。

 いったい何を考えてたんだか、もう一度死に戻りして確実に殺せばいいものを。あのがきの言葉に甘えて解決を後回しにしただけだ。

 

 敵だ。魔女は、自分を害すものはどこまで行っても敵でしかない。敵にしかなりえない。敵が次の日には友達になってるなんてことは──。

 

『──友達になろう』

 

 あいつの声が想起する。

 

「──ッ」

 

「……君は」

 

 煩わしい出来事を思い出して表情を歪めるホクト。 

 それに対し彼女は沈黙を破って声を出した。

 

 何を言う。あいつに身体を返せってか。

 ていうか、なんでオレは目が覚めた。

 オレは、死んだはず──

 

「──君の名前は、なんて言うんだい?」

 

「──────は?」

 

 現状に戸惑うホクトの思考を、更なる異常が邪魔をした。

 

 今、こいつは何て言った?

 名前を聞いたのか? 

 オレの名前を? こいつが? 

 

「君の名前を教えてはくれないかい」

 

 続けていった。

 どうやら幻聴じゃないらしい。

 どういう風の吹き回しか、否、こいつはいったい何を考えているのか。名前なんて、そんなの聞いてどうする。理由は、道理は、筋合いは。思考する。思考する。そうしてあるいはこじつけに近い結論に至る。

 

「そんなの聞いてどうする、ハッまた契約にでも使うつもりか? 性悪女」

 

「──。そう、か。……そうだね、すまない」

 

「あァ?」

 

 ──んだ、そのわざとらしい態度は──気色悪い。

 

 ホクトは体を俊敏に起こし──彼女の胸倉を締め上げた。

 

「──っ」

 

「テメェ、何それらしく振舞ってやがる。ただの人形が、魔女の欠陥品が、一丁前に人間振ってんじゃねぇ。テメェが何考えてんのかなんて知ったこっちゃねぇが、テメェがフェリスの身体に入ってるから安全だなんてくだらねぇ勘違いすんじゃねぇぞ」

 

「っなにか、気に障ることを言ってしまったかい?」

 

「……あァ、気に入らねぇよ。気に入らねぇに決まってる。気に入るわけがねぇ。──二年。二年もの間閉じ込められ、拷問され、フェリスを傷つけて、実験して、──そんな奴が、のうのうと味方面してすり寄ってくるなんざァ──これで反吐が出ねェ奴なんていったいこの世のどこにいるってんだよ?」

 

「ぐゥッ」

 

 言いながら怒りが増して彼女の気道を締め上げる。

 だが、

 

「……」

 

「……うっ、げほっけほっ」

 

 ホクトはその手を離した。

 

 スピンクスは彼の眼を見る。

 そこには何も映っていない。

 何もない、黒、黒、黒。

 ──拒絶。

 

「……すまない。本当に、すまなかった」

 

 当たり前だ。許されるはずがない。

 この子にも、今自身が依り代にしているこの子にも、スピンクスは許されるはずのないことをしてきたのだから。この子の言う通り。許されたなんて、勘違いをしてはいけない。

 

 ──信じたいと心で思えたから。

 

 あの言葉に、多少なりとも救いを求めていた。

 自身の罪に対する罪悪感と、それでもなお、諦めることのできない悲願。

 そんな自分勝手な強欲に子供を巻き込み、利用する卑しさ。

 それを、あのただ一言で解消しようなんてこと、赦されていいはずがないのだから。

 

「……」

 

 対し、謝罪するスピンクスをホクトは観察する。

 

 まるで普通の人間みたいな反応。

 罪悪感、自己嫌悪、それでも諦められない何かがある、そんな顔だ。

 魔女。魔女。魔女。その存在にいい思いなどありはしない。いつだって諸悪の根源は『魔女』だ。自身の絶望に異世界生活に密接に関わっているのは彼女らなのだ。

 

 結論は出ない。

 殺すこともできない。

 全くもって悪辣な存在。

 

 ホクトはスピンクスを認められない。

 受け入れられない。そうさ、()()()とは違う。 

 オレは、自分も、他人も──赦せない。

 

「君の大切な子に取り憑いて君を利用するしかない今のボクが言っても根拠に欠けるかもしれない。いいや、例え許されるだけの根拠があったとしても、ボクが君たちにしたことは許されることじゃない。君がボクを許す道理はない。……結局、ボクがこの体を捨てて今すぐに君たちに報いるなんてことは、できないのだから。それでも、我ながら卑しいと理解していても、ボクには捨てられない悲願がある。その為に、それ以外のことならどんなことだろうと誠意をもって協力することを誓う。だから──」

 

 ──こいつは、何を必死に語っているのだろう。

 

 赦す許さないの話をしたのはオレだが、あぁ、バカらしい。そんなことオレに言われたところで、どうでもいい。オレには……オレには想えないんだから。関係ない。オレは殺したければ殺すし、不愉快に思えば苦しめる。そうでなければ勝手にしろ。あいつとよろしくやってればいい。

 

 あぁ、だが、こいつは──。

 

「──お前は、オレが憎くないのか?」

 

 あ。

 つい。

 口をついて出てしまった。

 

 ──くそ、精神世界(あっち)に長く居すぎた副作用か。面倒くせぇ。

 

 そう内心悪態をつくホクト。

 対し、スピンクスはまるで予想だにしていなかった問いに目をぱちくりとさせていた。

 

「……君は」

 

 ホクトの、先ほどとは一転、バツの悪そうな顔に、スピンクスは困惑した。

 そうして、瞬時に悟った。

 ホクトの、ひいてはナナホシユウという少年の人となりを。

 

「そうか」

 

「……」

 

「君は、君たちは、故にこそ混ざらなかったのか。嗚呼、君たちはあまりに──優しすぎるから」

 

「──は?」

 

「ふふっ」

 

 わけのわからない納得をしたようなスピンクス。

 ホクトの理解をおいて、スピンクスは微笑み、言った。

 

「──ありがとう」

 

「──。」

 

 笑った?

 なんだその慈愛の籠った目は。

 お前は魔女だ。心ない悪霊だろう。

 お前は、誰だ。オレの知るスピンクスじゃない。

 

「ボクは君に感謝している。これは心からの言葉だ。……ボクに心があるかは定かじゃないが、それでも言わせてほしい。ボクを殺してくれて、ありがとう。ボクが()()されたのは君のおかげだ」

 

「……何を、言って」

 

 スピンクスは、こちらを見て、感謝を告げた。

 意味が分からない。説明する気もないのだろう。

 こちらの理解を無視して、スピンクスは満足げに言った。

 ただ、その瞳には、確かな慈悲が込められているのを、ホクトは感じた。

 

 ──ホクトは動揺した。

 何故、感謝されているのか。何故、どいつもこいつもそんな目で見てくるのか。

 

 どいつも、こいつも。どいつも、こいつも。

 

 思い起こされるのは今までに自分が殺してきた者たち。

 そして今目の前には一度は確かに殺したはずの者がいて、あまつさえ感謝を述べている。

 

 これほど不可解なことがあるだろうか。

 生物は、生きることがすべてだ。心がどうなろうと、夢が叶わなかろうと、愛されなかろうと、生きていれば、生きてさえいれば、まだ、忘れずにいられる。

 

 忘れることは、忘れられることは等しく死だ。死は絶望、殺しは罪、絶望は罪、そのはずだ。では何故、今、オレは。

 

 それは、肯定。

 許されざる自分の他者による肯定。

 

「ボクを殺したことを、罪悪感に思ってしまっていたんだろう?」

 

「そんな、わけが──そんなわけねぇだろうが! テメェを殺したのはオレの意思だ。感謝も謝罪も知ったことか。お前に謝られる筋合いもお礼を言われる筋合いもねぇ、くだらねぇ勘違いすんな。──お前は敵だ! 敵なんだよッ! オレは認めない。オレは許してなんかやらない」

 

「──それでいい。君は正しい。君は悪くない。悪いのはボクだ」

 

「……黙れ、黙れ、分かったようなことをッ」

 

「……──」

 

 そう言った途端、スピンクスの身体から力が抜け、こちらに倒れ込んでくる。

 

「──ッおい」

 

「──ふぁ~…………ゆ、う?」

 

「ッ」

 

 ──咄嗟に身体が離れようと踏み込んだ。

 それを、異なる意思が引き止める。

 

『──逃げないで』

 

「ッ」

 

 その場で身体は踏みとどまった。

 ──あの野郎。

 

「ユウ、おはよう!」

 

「……チッ」

 

 その名を呼ばれるたびに、虫唾が走る。

 

「……ユウ?」

 

「……んだ、好きな奴の見分けすらつかねぇのか?」

 

 ホクトがそうおどけて手を広げ嘲笑を浮かばせると、フェリスはその瞳を小さく不安に曇らせた。

 

「……ユウじゃ、ないの?」

 

「───。」

 

『ユウはどこ、あなたは誰……? 

 ──ユウを返して! ユウッ!』

 

 こんなの、先が読めてる。

 なんでこんな茶番をさせる。

 何の意味がある。

 

 こいつはオレのことなんて知らない。

 こいつを救ったのはオレじゃない。

 こいつを想えるのはオレじゃない。

 

 オレじゃない、オレじゃない、ホクトじゃない。

 

 不安げな顔をするフェリス。

 しかし彼女は退くことも取り乱すこともなかった。

 ゆっくりと近づいて、ホクトの手を掴み、両手を合わせて、それを包み込むように握った。

 ホクトは、抵抗はしなかった。

 

 …………なにしてんだこいつ。

 興味もない、どうでもいい。

 

 そうして、「うんうんうんうん」と、フェリスは唸っている。

 しばらくして、こちらに目を合わせてきた。

 

 ……なんでこんなガキに、オレはされるがままにされている。どうして振りほどかない。どうして、こうまで、何も感じない。何も感じないのに、抵抗することもできない。気持ち悪い。吐き気がする。心の言うことを身体が聞かない。

 

 どうしてこんなガキにオレが……どうして──。

 ホクトは顔をゆがめ、しかし振りほどかない。

 フェリスの行動が読めない。予想していたものとは違った。

 

 ぽんっ

 

 いつの間にか、自分の手はフェリスの頭に乗せられていた。

 ホクトがしたのではない、フェリスが乗せたのだ。

 

「うん」

 

 フェリスは答えを出した。

 

「やっぱり、ユウだ」

 

 そう、有り得ない結論を。

 

「は? ……ッ違う」

 

「ううん、ユウはユウだよ。

 だって、ユウの手、すっごく温かくて、すっごく優しいもん」

 

 手を握ってフェリスは言う。

 手を握ればわかる。

 その誰よりも優しい手が、証明してくれる。

 肯定してくれる。教えてくれる。

 

 

「ユウはユウだよ──私の大好きなユウだ」

 

 

 そう言って、フェリスは微笑んだ。

 

「────」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はっ」

 

「──ユウ?」

 

「フェ、リス」

 

「泣いてるの?」

 

「──え?」

 

 

 起きたばかりのユウの頬には朝日を反射し輝く、一粒の透明な雫が流れていた。

 そうして、フェリスもまた、涙を流していた。

 

 何故、僕たちは二人して泣いているのだろう。

 

「……意地っ張りだなぁ、我ながら」

 

「ユウ、泣いてる? 痛い?」

 

「ううん……ありがとう、フェリス」

 

 きっと、僕でも、スピンクスでもダメだった。

 彼女の言葉でなければ、ダメだった。

 

 やっぱり、フェリスは賢者なんかより余程凄い魔法使いだ。

 風魔法よりも、回復魔法よりも、どんな異世界の魔法よりも、凄い、魔法の力。

 

 ──誰かを救える、魔法の言葉。

 誰にでもできるはずで、でも誰にでもできることじゃない。

 それは優しさ? 愛? 純心?

 わからない。それに必要なものがなんなのか。

 

 

 あぁ、本当に……──フェリスはすごいなぁ……

 

 

「──おはよう、フェリス」

 

「……わぁ…………おはよう──ユウっ!」

 

 

 抱きしめて、手を繋いで、おはようを交わす。

 心では表しきれない想いを言葉で、言葉では表しきれない想いは行動で。

 

 ああ、それでも表しきれないこの想いを──これから示していくのだ。

 

 僕らは今生きている。

 フェリスは生きている。

 クルシュだって生きている。

 

 生きている限り、伝えられる。

 

 だから、始めるのだ。

 

 

 

 今日も二人で、いいや──今日から四人での生活を。

 

 四人での──異世界生活を。

 

 

 

◆◇◆

 

 ──『憂鬱なる希死念慮』──完──

 






 ──愛せないからって、愛されないわけじゃないんだよ?


 あぁぁぁ~牢獄脱出から苦節五か月半、日数で言えば163日。
 やっとのことでここまで来れましタ。
 え? これ全部閑話休題ってりありー? 
 『束の間の幸福』はもちっと続くんじゃ

 ……てなわけで、皆さんもどうぞ、この理不尽で、不条理で、まったくもって思い通りにいかない、自由奇天烈摩訶不思議なこの世界で──いい異世界生活を。


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