ウマ娘はトレーナーと恋愛してるらしいのでチートオリ主の出番はない (ちゃ)
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アルファ:1

 

 

 この世界でやるべきこと、特に無いな──と。

 学園の廊下を歩きながら、ふと、そんな考えが脳裏に過った。

 

 恐らくは、異世界転移という類の事象だったのだろう。

 気がつけば、コスプレ姿の美少女が、ターフを駆け抜ける姿に、一喜一憂する人々で溢れた、おかしな世界に立っていた。

 そこに、喜びがなかったと言えば、嘘になる。

 こちとら元より、天涯孤独の身。

 学生にして、既に両親と帰る家を失っていたわけで、躍起になって元の世界へ帰ろうと努力する理由は、残念ながら持ち合わせてはおらず。

 それなりに好きだったメディア作品に、よく似た世界へ神隠しに遭ったとなれば、思考の現実逃避も存外捗るものであった。

 

 しかし、金も身寄りも戸籍もなく、全く味方のいない世界での立ち回り方など、俺には分からなかった。

 普段から、異世界に迷い込んだらまずコレ、だとか、想像力豊かな話を楽しそうにしていた、あのクラスメイト達に、助けを求めたい気分だった。

 戸籍が無かったら、こうする。

 頼れる人がいないのなら、とりあえずこうする──だなんて、全く、てんで何も思いつかず。

 

 警察へ赴き、俺、戸籍が無いんです、などと馬鹿正直に”異世界からの遭難”を告白する勇気も、十数年間普通に学生をしていただけの俺にはなかった。

 なので、一旦日銭を稼ぐために、履歴書のいらないバイトを探していたところ、とある治験が目に留まり、興味を惹かれた。

 あまりにも割が良すぎるそのバイトへの応募が、人生最大の過ちであることなど、露ほども知らず。

 治験なのに履歴書なくて大丈夫なのかよ──なんて呑気に構えていたその日が、俺が普通の人間でいられる、最期の日になるのであった。

 

 気がつくと、ウマ娘になっていた。

 いや、娘、というと語弊があるかもしれない。

 俺はウマ耳が頭から生えた、奇怪な男に変貌を遂げていたのだ。

 バイトとして受けた治験は、どうやらどこぞの怪しい研究機関が、内容を偽って実施したものであったらしい。

 ウマ男子になった俺が、施設から逃げ出した数日後、全国のニュース番組では、連行される彼らの映像が映し出されていた。

 

 

 ──と、言うわけで。

 

 上述の経緯の果てに、今現在の俺は、どういった状況に陥っているのか。

 一言で表すなら、二度目の学生生活を送っている。

 悪魔の実験でウマ男子になり、汗と涙と鼻水をまき散らしながら、街中へ逃げ込んだ俺を保護したのは、どこかで見たことのある、白髪混じりのオレンジ髪の少女であった。

 

 ロリババアかと思いきや、ガチロリだったことで衝撃を呼んだ、学園の理事長こと秋川やよい。

 身寄りのないホームレス少年から、再び学生に戻れたのは、彼女の計らいだ。

 監視やら保護やら、世間の注目から守るだとかの理由で、俺は中央トレセン学園に()()()として、籍を置くこととなった。

 

 簡単に言えば、女装コスプレである。

 俺を守るにはこうするしかないとのことで、更衣室やトイレは、特別に職員用のものを使わせて頂き、なんとかバレないよう工夫しながら、秋川さんとお偉いさんの、この先の俺の処遇が決定するその日まで、俺はトレセン学園に女装して通う変態になったのであった。

 

 

 ……

 

 …………

 

 

 ヤベー組織による、マジでヤベー改造を施された俺は、通常のウマ娘たちを、遥かに凌駕する身体能力を有している。

 

 例えるなら、一般人から見たウマ娘、と言ったところだろうか。

 普通の人間からすればウマ娘は超人だが、俺は彼女たちから見た場合の超人に該当する。

 これは自惚れではなく、検査により判明した、覆しようのない厳然たる事実だ。

 一般的なウマ娘が、ゴールまでに三十秒かかる距離を、俺は五秒で走り抜けることができてしまう。

 まるで、アメリカンコミックのヒーローにでもなったような、とても愉快な気分になった時もありはしたものの、その力を詳らかにすることは、秋川さんによって止められてしまっているのが、現状だ。

 

 言うまでもなく、秋川さんが俺の身の安全を考えて、忠告してくれたことである。

 こんな、ウマ娘すら軽く凌駕する最強生物がいるとなれば、世界中の誰に研究材料として狙われるか、分かったものではない。

 なので、とても平々凡々なウマ娘として、秘密をひた隠しにしながら──ついでに、四方八方から襲い掛かる、学園の女子たちから香る甘くて芳醇な匂いを、胸いっぱいに吸い込んで幸福を噛みしめている事実も隠しつつ、俺は普通に生活をしていた。

 

 ……平凡な生活が、出来すぎている。

 

 いや、ウマ娘の世界に迷い込んで、あまつさえ規格外のチート能力を手に入れたというのに、これほど安定して()()()()生活を、送り続けていいのだろうか──ふと、そんなことを考えたのが、昨晩。

 そして、でもこの世界でやるべきことなんて特にないよな、と再確認できてしまったのが、放課後の廊下を歩いている、今この瞬間なのである。

 

 秋川さんに保護してもらい、精神的な余裕が生まれ始めた頃、俺は改めて”ウマ娘の世界へやってきた”という事実について深く考えていた。

 もしかすると、あの美少女たちと、何らかの形で交流することができるかもしれない。

 もっと単純な言い方をすると──ラブコメが可能かもしれない。

 そう思ってた時期が、私にもありました。

 しかし、現実は理想とは程遠く、ウマ娘たちには、彼女たちをよく見てくれるトレーナーの存在があり、女子高ではあるものの男性は十二分に足りていた。

 

 つまり、俺の出番はなかったのだ。

 正体を明かさねばならないほど、特異なイベントも何も起こらず、今もこうして普通に()()()として日常を謳歌できてしまっている。

 細かい部分は見ていないが、きっと彼女たちも、元の世界で目にしていたコンテンツ通り、自身の担当やチームのトレーナーと、変わらずギャルゲーをしていることだろう。

 

 本当に、何もない。

 マジでめっちゃ暇。

 自分の保護者が、一時的に美少女ロリになったこと以外、元いた世界と比べても、特にこれと言って面白いことは何も起きていない。

 

 

「……あ゛ー」

 

 フェンスで囲まれた、人気のない校舎の屋上。

 放課後は、いつもここで、棒アイス片手にボーっとしている。

 ここまで何もないとは思わなかったのだ。

 流石に、こんな異世界にきたのだから、少しくらい何かあってもいいだろう。

 不幸に次ぐ不幸コンボの果てに、異世界転移からの超人化を経たとあれば、自分は物語の主人公にでもなったのではないかと、錯覚するのも無理はない。

 

「ラブコメしてんなー……」

 

 眼下の光景を見つめながら、ぼそりと呟く。

 凛々しい男性トレーナーと、彼に応えるべく奮闘する美少女。

 思い描いていたそこに、俺の姿はない。

 出走はせず、仮に走ることになっても力をセーブして、最下位で終わらせているため、ウマ娘としても俺は面白くない人間だ。

 こんな、女装して精神をすり減らしながら、コソコソと学園生活を送ることに、果たして意味はあるのだろうか。

 

「……んっ」

 

 校庭でトレーナーと何やら話し合っていたウマ娘が、屋上から見ている俺に気がついたようだった。

 たしか、名前はサクラチヨノオーだったか。

 一応クラスでは席が隣で、よく会話はするものの、彼女が仲を深めている他のウマ娘たちに比べれば、別段仲が良いわけでもない相手だと、思われているに違いない。

 というか、男であることを隠す都合上、どの生徒たちとも一定以上距離を取って生活しているのだ。

 誰かと必要以上に仲が深まることはない。つらい。

 無愛想になり過ぎないよう、クラス委員として色々やってはいるが、恐らく焼け石に水だろう。

 

「おーい」

 

 どういうわけか、手を振ってくれている。

 悪い気はしないので、軽く振り返すと、彼女は満面の笑みを浮かべてくれた。

 サクラチヨノオーは、とても優しい子だと思う。

 屋上から見ていた怪しげなウマ娘に対しても、わざわざ手を振ってまで笑顔で応対してくれるなんて、善性の化身か何かなのだろうか。

 

「えへへ……あ、あの、すみません、トレーナーさん。今日のところはコレで!」

 

 結構遠いため、会話は聞こえなかったものの、何故かサクラチヨノオーはトレーナーにお辞儀をすると、足早に校庭を去って校舎へと戻っていってしまった。

 俺に見られていたのが嫌だったのだろうか。

 いや、よく考えれば、ただ席が隣なだけの相手が、遠くからずっと眺めていたら、キモすぎて練習に身が入らないかもしれない。

 彼女には悪いことをしてしまった。

 明日にでも謝っておこう。

 

 アイスの棒をゴミ箱に投げ入れ、屋上を去った。

 そろそろ帰って、秋川さんの夕食を作らねばならない。

 トレセン学園は全寮制だが、ワケあって俺は学園付近にある、秋川さんが使っている賃貸に住み込んでいるのだ。

 家事は主に俺がやらなければならない。

 

「あっ。……アルファさん」

 

 靴を履き替えていたところ、下駄箱付近に通りかかったとあるウマ娘に、俺のウマ娘としての名前を呼ばれた。

 二ヵ月ほど前から交流のある、アドマイヤベガだ。

 必要以上に交流しないという縛りを無視して、彼女に会いたいという、下心全開でプラネタリウムへ向かってみたところ、狙い通り出会うことが叶い、俺という存在を知ってもらうことはできた──のだが、クラスも異なり、同じ寮に住んでるわけでもない俺では、これっぽっちも距離を縮められず、そこまで仲良くないけどたまに会う友人程度にしかなれなかった相手である。悲しい。

 

「こんにちは、ベガ」

 

 チョーカーに見せかけた変声機で、女子っぽい声音に変えつつ返事を返した。

 

「……その呼び方をするの、貴方だけよ」

 

 アヤベさんだと、距離感近すぎると思ってこうしているのだが、なかなか難しい。

 

「アルファさんは……これから何か、用事があるの?」

「寮住みじゃないから、夕飯の買い出し。ベガはこれから練習かい」

「あ──えと、いいえ、今日はトレーニングは休み」

 

 であれば寮へ帰る途中だ。

 邪魔して申し訳ない。

 

「……あの、アルファさん。わたしもついて行って、いいかしら」

「買い物に?」

「ええ、買い物に」

 

 お菓子でも買っていくのだろうか。

 こういった誘いは珍しいので、是非とも一緒に行ってもらいたい。

 適切な距離を保ちつつ行える、貴重なウマ娘との交流時間だ。

 

「じゃあ、行こうか」

「ん」

 

 それから、校舎の外へ向かって、二人で歩き出した。

 

「……アルファさん」

「ん?」

「そ、その……あなたさえ良ければ、今度──」

 

 アドマイヤベガが、何かを言いかけた、その瞬間。

 

「おーい、アルファちゃーん!」

 

 後ろの方から、またしても声をかけられた。

 現れたのは、先ほど屋上から眺めていた、サクラチヨノオーだった。

 いつのまにか、練習着から制服に着替えている。

 彼女の姿を目にして、アドマイヤベガが少しだけ眉を顰めたが、特別二人の仲が悪いという噂は、聞いたことがない。俺の知らない事情が、何かあるのか──詮索はやめておこう。

 

「サクラ。さっきは、屋上からずっと見つめてしまって、ごめん」

「えっ! そ、そんなの全然いいよ! 気にしてない、気にしてない……!」

 

 社交辞令も完璧なウマ娘だ。俺はもう少し、彼女を見習った方がいい。

 

「あっ、えっと……二人はこれから、どこかへ行くの?」

「少し先のスーパーに。ただの買い物だよ」

「そ、そうなんだ。……あの、私もついてっていい、かな」

 

 なんだなんだ。みんなしてスーパーマーケットに用事があんのか。

 側から見れば、今時の女子高生三人組なのに、向かう先が欠片も洒落てないスーパーでいいのかよ。主婦か?

 

「もちろん。……ところで、ベガ。さっきは何を──」

「いえ、別にいいわ。また今度話すから。……ほら、チヨさん、早く行きましょう」

「うぇっ。う、うん……」

 

 あの二人の距離感が、よく分からない。

 分からないが、まぁ、見た限り喧嘩をしているわけではなさそうで、安心した。

 なんやかんやありつつ、先行するベガとサクラに付いていく形で、俺は学園を後にするのであった。

 夕飯、何にしようかな。

 

 





アルファ:元普通のヒト。自分の擬態は完璧だと信じ込んでいる。遠くにいるサクラチヨノオーに気づかず、ショッピングモールで男物のパンツを購入し、アドマイヤベガのいるプラネタリウムでは、無意識に男性用トイレに足を運んでいた。

他ウマ娘:アルファは学園で交流可能な、ウマ娘としての悩みが理解できる唯一の同年代の男子。彼が実は男で、何かしらの理由で女装し学園に通っている事実は、自分だけが知っている(と思っている)


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アドマイヤベガ:1

ウマ娘視点になります


 

 

 彼女──否。

 彼との出会いは、突然だった。

 

 紆余曲折の末に、自分に担当トレーナーが付き、成績と実力が向上し始めていた、ある日のこと。

 駅前にできたばかりの、プラネタリウムに足を運ぶと、偶然にも隣の席だったウマ娘が、わたしに声をかけてきた。

 

 アドマイヤベガ、というわたしの名前を知っていて、理由を問うと、どうやら直近のレースを、観客として見ていてくれたようだった。

 少女は言った。ファンになった、と。

 その時は、別段思うところはなく。

 良い気持ちにも、特別悪い気持ちにも、なることはなかった。

 自分を応援してくれている人間に、声をかけられるのは、決して初めてではなかったから。

 

 軽く挨拶を交わし、それ以降喋ることはなく、席について上映を待った。

 プラネタリウムに訪れたのが初めてだったのか、やけに周囲をキョロキョロと見まわす隣の少女を、少々鬱陶しく思いながら。

 そして、上映開始から、数十分が経過した、ある時。

 『あっ』と、隣のウマ娘が、小さく声を上げた。

 他の席の人たちに聞こえるほどではないものの、わたしの耳には届く程度の、ほんの少しの声量で。

 それから、彼女の呼吸の音が、加速するように荒くなっていった。

 なぜ、静かにできないのか。

 映画館では黙るように、ここでも口を噤めばいいだけの話だろうに。

 そう考えて、たった一言、軽く注意をしようと隣を向いて──そこで、ようやく私は、気がつくことができたのだ。

 

 場内に、流星が降り注いだ。

 美しい夜空が広がる、その世界が、眩い星々の煌めきで、ほんのわずかに明るくなって。

 そうなって、暗闇の先にあった真実が、初めて見えた。

 

 ──涙を流していた。

 

 そのウマ娘は、上体を起こし、天上の輝きを見つめながら。

 ただ呆然と、その頬に、一筋の涙を零していたのだ。

 

 分からなかった。

 彼女の感情が、理解できなかった。

 プラネタリウムに感動したのか、それとも、星を目の当たりにして、何かを思い出しているのか。

 大きく泣き出す事こそないものの、その少女は、ただ静かに、涙を──だからこそ、上映終了後、私は彼女に声をかけたのだ。

 放っておくことは、これがどうして、叶わなかったから。

 

 もちろん、相手がファンであろうと、わたしたちはあくまで他人同士。

 同じ学園に通っている事実こそ判明はしたものの、面識もなければ友人でもない。

 だから、詳しい事情は、話してはくれなかった。

 けれど──感謝を、言葉にして伝えてくれた。

 心配してくれてありがとう、と。

 それから、うるさくしてしまって、ごめんなさい、と。

 非常識な相手ではなかったのだ。

 ただ、星が、彼女の根底に眠っていた、何かを引きずり出してしまっただけだったのだろう。

  

 それから、ちょっとお手洗いに行くと言って……その少女は()()()()()()に、入っていった。

 

 数分に渡る、思考の停止。

 それから、ようやく自我を取り戻し、とにかく落ち着いて、冷静に状況を分析しようと努めた。

 迷いなく紳士のトイレに、足を運ぶ女子は見たことが無い。

 男性のお手洗いに、考える素振りを見せることもなく、入っていけるのはもちろん”男性”だけだ。

 だから、理解した。

 おかしなことを、おかしなことのまま捉えていると自覚はしつつも、そうであると確信した。

 彼女は、彼。

 あのウマ娘は、少女の姿に扮した男子だ、と。

 冷静に考えれば、そんな人物が学園にいるとなれば、すぐに通報するべき案件なのだが、彼の孤独の涙と、わたしへの心からの感謝と笑みを見せられたあとでは、どうもすぐそれに踏み切れる勇気は残されていなかった。

 

 ゆえに、観察することにしたのだ。

 学園で、彼の学生生活を追う。

 その行動の是非で、今後どうするのかを決めようと、心の中で静かに決心した。

 

 ──彼の名前は、アルファ。

 アルファは、とにかく真面目な生徒で、怪しげな様子など、欠片も見せる様子はなかった。

 手洗いは、周囲を見回し、職員用の多目的トイレのみを使用して。

 着替える必要がある場合は、更衣室まで向かわずその場で着替える子もいる教室を、なるべく見ないようにしながらすぐ後にして、誰もいない屋上前の階段や、校庭の端に鎮座する、長らく使われていない旧器具庫という、遠い場所へわざわざ向かってから、着替えたりして。

 むやみやたらに、ウマ娘を触ろうとすることも、着替えを覗こうとすることも、怪しげなカメラを設置するだなんてことも、一切することはなく。

 

 ただ、不意に出てしまう沈鬱な表情を、張り付けたような笑顔で押し殺しながら、彼は不自由な学園生活を送って──いや、どこからどう見ても、それを強制されていた。

 深い事情は、分からない。

 きっとわたしの想像できる範疇に、ない。

 けれど、星によって感情を丸裸にされ、溜め込んでいた涙が溢れ出てしまうほど、常日頃から辛い気持ちを抱えて学園に通っているという、その事実を、わたしだけは知っている。

 彼の正体が男であるということに、気がついているのも、きっとわたしだけなのだろう。

 

 だからこそ、見て見ぬフリをしてはいけない。

 否。ただ、彼の力になってあげたい。

 不自由な学園生活を強いられながらも、学級委員としてみんなに手を貸し、苦しい気持ちを無理やり抑え込んで戦っている彼を、支えてあげたい。

 ただ、そんな感情を抱いてしまったのだ。

 学園の中で、彼の秘密を知るのは、きっとわたしだけなのだから、この強い感情と同じくらい、忘れてはならない、果たすべき責務でもある。

 だから、わたしは──

 

 

「アルファさん」

 

 

 スーパーで買い物を終えた後。

 少しだけ寄っていこう、ということで、カフェに入ったわたしたち。

 そこで、チヨノオーさんが、電話で一旦席を外したため、今しかないと思い、彼に声をかけた。

 

「どうしたの、ベガ」

「……今週の土曜日、なのだけど」

 

 カバンの中から、チケットを取り出して。

 それを、テーブルの上に置いた。

 

「もし、予定が無いのなら……あなたの時間を、貰えないかしら」

 

 あの駅前のプラネタリウムのチケットだ。

 わたしに分かることは少ないけれど、少しでも彼の負担を軽くして、支えになってあげたいと思っている。

 だから、まずは機会を用意することにした。

 お互いに、遠慮なく話し合える場を作って──そして()()を共有する。

 貴方が男であることを知っている、と。

 そして、わたしはそこにどんな理由があろうと、必ず貴方の味方でいると。

 たった一人ぐらいには、無理をして隠さなくてもいいのだと、知ってもらいたい。

 わたしが、彼の感情の捌け口になることができれば、それが一番理想なのだ。

 

「──これ、プレミアムシートのチケットじゃないか」

「えっ。……あ、あぁ、そうね」

 

 思わぬ発言に、一瞬反応が遅れてしまった。

 分かるのか、チケットをパッと見ただけで、席の種類が。

 他の子は、プラネタリウムのチケットなんて、福引の景品ぐらいにしか思わないというのに。

 

「いくらだった? ……あっ、チケットに書いてあるか」

 

 アルファがカバンから、財布を取り出した。

 待って、まって。

 そんなつもりではなかった。

 ただ、ちょっと気合いを入れて、良い席を取ってしまっただけなのだ。

 

「ちょっと、待って、ごめんなさい、えと……そ、そう、これ、親戚に譲ってもらったものなの。予定が入ってしまったから、代わりにどうか、って。だから、お金は大丈夫よ、ほんとうに」

「そっか。じゃあ、その親戚の人に渡してくれたら。会う機会が無いなら、そのままベガの臨時収入にでもしてほしい」

 

 そう言って、四千円、直接私に手渡してくれた。

 有無を言わさぬ勢いだった。

 これを突き返す勇気は、残念ながら、今のわたしにはない。

 だって、その四千円をわたしに握らせた後──彼がチケットを手に取って、柔らかい笑みを浮かべていたから。

 

「楽しみだな、ベガとのプラネタリウム」

「えっ……い、いいの?」

「もちろん。寧ろ、こっちからお願いしたいくらい」

 

 こんな、わたしにとって都合の良すぎる展開が、あり得てしまっていいのだろうか。

 この提案を、彼が喜んでくれるなんて、思いもしていなかった。

 渋々チケットを受け取って、考えておく、と一言くれたら、それだけで御の字だったのに。

 

「本当に嬉しいよ。ありがとう、ベガ」

 

 彼の笑顔を前にして、抱いたこの感情の正体を、わたしはまだ知らない。

 

 こんなことは、初めてだ。

 男子はいつでも、壁を一つ隔てた、向こう側の存在だった。

 わたしは、ウマ娘で。

 彼らは、ウマ娘ではなくて。

 もちろん、望んであの学園の門を叩いたのだから、彼らと接する機会が無いことに、思うところは別になかった。

 ──だから、知らなかった。

 同じ立場にある、対等に隣りを歩いてくれる、異性の存在を。

 ゆえに、まだ、分からない。

 この感情の答えを見つけたいからこそ、わたしは彼に惹かれているのかもしれない。

 

「この時間なら、お昼を食べてからでもよさそうだ。ベガは、何か食べたいもの、ある?」

「……一緒に、街を少し、歩きましょう。その日の気分に合わせてみたいわ」

「そう。じゃあ、そうしよう」

 

 このプラネタリウムの約束の日。

 わたしは、彼の秘密について、告白する。

 少々驕った言い方になるかもしれないが、貴方の逃げ道になってあげられると、そう言葉にするつもりだ。

 

「……ふふっ」

 

 けれど、そんな上から目線の高尚な考えとは裏腹に、ただわたしの中には、彼との約束を取り付けたという喜びしか残されていなかった。

 

 

 それから。

 

「ねぇ、ベガ」

「ん?」

「ヴァンパイアって、先輩のヴァンパイアがいたら、センパイヤって呼ぶのかな」

「ど、どうかしら……」

 

 電話を終えたチヨノオーさんが戻ってくるまで、くだらない談笑を、ただ楽しむのであった。

 

 



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アルファ:2

一瞬日間に載ってましたありありありがとうございます


 

 

 カフェを出てから、少し。

 プラネタリウムのチケットを提供してくれた、アドマイヤベガは、意外と今までやっていなかった連絡先の交換をした後、先に寮へと戻っていった。

 あとは俺も帰るだけ──なのだが、サクラチヨノオーは、どうやらもう少し、放課後の散歩を、続けたそうな様子だ。

 厳しい門限がある寮生と、いつでも外を行き来できる俺とでは、放課後の大切さの感覚が、大きく異なるのだろう。

 ここは付き合ってあげたほうが良さそうだ、と考え、はちみーなる謎のドリンクを買いつつ、俺たちは適当に街を回っていた。

 

「サクラ」

「んー?」

「明日の大相撲、楽しみだね」

「ッ!」

 

 サクラチヨノオーは、確か相撲が好きだった気がする。

 ということで、話題の提供という意味で口にしたのだが、予想以上にがっつり反応してくれた。

 どうやらチョイスは間違っていなかったようだ。

 

「う、うん! 私は、広間でみんなと観るんだけど……」

「夕方だから、一緒には観られないね」

「……アルファちゃんも、寮生だったらよかったのに」

 

 気持ちは嬉しいが、さすがに事情を知らない少女たちと、一つ屋根の下というのは、いささか厳しいものがある。

 体の隅々まで、ウマ娘として改造されているならともかく、俺の性別は変わらず男子なのだ。

 特に風呂とかヤバい。大浴場とか絶対入れん。

 

「寮に来るのがダメなら……お、お泊り、とか、できないかなぁ……」

「えっ?」

 

 サクラが手元ではちみーをクルクル回しながら、そんなことを呟いた。

 

「あっ! いや、えと……」

「サクラがウチに来る、ってことかな」

「ちょ、ちょっと待って! そのっ、本気にしないで。ほんと、言ってみただけだから──」

「いいよ」

「ヴぇっ!?」

 

 まぁ、女装のクオリティは日に日に上がってるし、同じ部屋で夜を明かす程度なら、バレないよう工夫して過ごすのも、そこまで大変というわけではない。

 それに秋川さんは、仕事であっちこっち飛び回る都合上、家に帰ってこない日も多いのだ。

 誰かと一緒に夕飯を囲めるなら、こちらとしても結構嬉しい。

 

「いつにする?」

「待っ、えぅ……い、いいの?」

「こっちは問題ないよ。サクラは、外泊許可とか貰わないといけないだろうけど」

「そうだね、うん、外泊許可。うん、もらう……帰ったら、すぐ申請出す……許可……」

 

 少しだけ俯いて、尻尾を回しながらブツブツ呟き始めた、サクラチヨノオー。

 そのまま、前方の電柱に気づかず、ゴツンと頭をぶつけて『いだっ』と反応したところで、ようやく彼女は頭の中で整理がついたようで、にへらとだらしない笑顔を、こちらへ向けてくれた。

 この態度はなんなんだろう。

 外泊許可を貰うのって、そんなに大変なのだろうか。

 

「……サクラ、顔赤いけど、大丈夫?」

「んうぇ……っ!?」

 

 バタバタと手鏡で、自分を確認しだす少女。何だか忙しない。

 女友達とのお泊りって、女子からすると、そんなに緊張するものなのか。

 むしろ緊張したいのは、全然普通にこっちの方なのだが。

 友達と寝泊まりなど、男子としかやってこなかった、バキバキ童貞のバキ童からすれば、女子が自宅へ訪れるなんて、この上ないビッグイベントだ。緊張しないほうがおかしい。

 今の立場はともかく、中身は普通に男子高校生なのだ。

 お泊りを許諾した身ではあるが、あんまりそっちばっか狼狽するのもやめてほしい。こっちのほうが何倍もドキドキしてるので。

 

「あのっ、あの、日程あとで連絡するね。今日はもう帰るから……」

「分かった。じゃあ、また明日」

「うん、またね!」

 

 終始慌てふためいていたサクラが、ようやくその場を去っていった。

 ウマ娘たちとは、一定以上距離を取って接すると決めていたわけだが、こういう自宅へ招くといった行為は、果たしてセーフなのだろうか。

 これは、そこら辺の塩梅を学ぶための、実験の意味も兼ねている。

 もちろん合理的に考えれば、リスクの高い行動をするべきではないのだが、日々の楽しみが少なすぎるが故に、少々の刺激を求めてしまった。ヤバいかもしれない。

 もし彼女との夜で、あまりにも正体バレがギリギリになってしまうようであれば、誰かと一緒に夜を明かすのは、今後は控えることにしよう。

 

 

 ……

 

 …………

 

 

 二人のウマ娘と別れ、さぁいよいよ帰るぞ、といった帰路の道中。

 俺の視界に、目を引く光景が、映り込んできた。

 

「ボクの風船……うぅ~……」

「だ、大丈夫だよっ。ライスが取ってあげるから、ね?」

 

 とある公園。

 そこには幼い少年と、見覚えのあるウマ娘──ライスシャワーがいた。

 かなり高い位置にある街灯に、風船が引っかかってしまっているようだ。

 制服姿なのと、傍らにある買い物袋を見るに、恐らくライスシャワーは、買い出し中に通りかかっただけなのだろうが、風船を手放してしまったあの子供を、放っておけなかったのだろう。

 

「ぬわあああぁぁぁ……」

 

 変わった泣き方する子供だな。

 

「んしょっ、んしょっ!」

 

 ぴょんぴょこ跳びながら、街灯に手を伸ばすライスシャワーだが、彼女の身長では届きそうにない。

 ウマ娘ほどの身体能力があれば、不可能ではない距離だが、彼女たちは上に跳ぼうとする運動をあまりしないため、通常の跳躍力に関して言えば普通の人間とあまり変わらない。

 

「……へへ。お姉ちゃん、がんばれー」

 

 おいおい、あのガキ、下からライスシャワーのスカートの中、覗こうとしてねぇか。

 彼女も彼女で、風船を取るのに必死過ぎて、気がついてないし。

 

 ──しょうがない。ここは俺の出番のようだ。

 風船を囮にして、女子高生のパンツを観察しようとする、あのマセガキの強かさには、少々舌を巻いたものの、あれ以上いくとウマ娘のコンプライアンス的にアウトだ。

 残念ながら、ライスシャワーの絶対領域のその先に、行かせるわけにはいかない。

 悪いな、クソガキ。お前にゃまだ、このステージは早すぎるよ。

 

「こんにちは、ライスシャワー」

「ふぇっ? ……あ、こ、こんにちは……」

 

 初めまして、と言ったほうが正しかったかもしれない。

 俺が一方的にライスシャワーを知っているだけで、彼女と俺は初対面なのだ。

 

「あとは、ちょっと私に任せてほしい」

「え。で、でも……」

「大丈夫。すぐに済むから」

 

 そう言って、まず俺はエロガキのほうへ向かった。

 

「少年」

「な、なんだよぅ」

「少し、目をつぶっててくれるかな。お姉さんがあの風船、魔法で取ってあげるから」

「えぇー?」

 

 魔法なんてあるわけないでしょ、と言いつつ、素直に目を閉じる少年。かわいいやつだ。

 その隙に、俺は某配管工ばりのスーパー跳躍をして、街灯に引っかかっている風船をゲットした。

 学園生活では、これっぽっちも使い道のないチート身体能力だが、こういう時に限っては役に立つのだ。

 一応、ビルの四階くらいまでなら、軽い跳躍でも届くので、手放しちゃった風船取りは俺に任せてほしい。

 

「はい、もういいよ」

「うん。……わっ、えっ。……ど、どうやって取ったの?」

「魔法だよ。……それとね、少年」

 

 こっそり、ライスシャワーに聞こえないよう、マセガキの耳元で警告しておく。

 

「──女の子のスカートの中、覗こうとしちゃダメだぞ」

 

 ASMRもかくやというほどの、静かな声でそう囁くと、少年は『ひゃわっ』という声をあげ、顔を赤くしてその場を去っていった。

 俺の使っている変声機は、結構かわいい声を出せるので、今の囁きでアイツの性癖も破壊できたことだろう。ふふ、マセガキ退治完了。めでたしめでたし。

 

「……す、凄い、ジャンプ力……」

「あっ」

 

 しまった。

 うっかりしていた。

 ライスシャワーにも、目を閉じておくよう、先に伝えておくのを忘れていた。

 超人的な跳躍を見せてしまったわけだが、ウマ娘の身体能力があれば可能ということで、何とか誤魔化せないだろうか。

 

「めっちゃ縄跳びしてるから。めっちゃ」

「そ、そうなの……?」

 

 苦しい。頼むから納得してほしい。

 

「その脚力……羨ましい、な」

 

 困ったことを言う。

 これは人体実験で得た不正な(チート)能力なのだ。ただのズルなんで、何も凄くないんだな、コレが。

 というか、こんな脚力なくても、ライスシャワーは十二分に強いウマ娘のはずだ。

 実力的に言えば、上から数えたほうが早いくらいだろうに。今はまだ開花してないのだろうか。

 

「ど、どうやったら、そんな脚の力を得られるの……?」

「……な、縄跳び」

「なわとび」

「そう、縄跳び。信じられないなら、今度一緒にやろう」

「ッ! う、うん……っ!」

 

 ──といった、よく分からない約束の取り付けなんかもありつつ、異様にイベントが多かった放課後を終えて。

 数十分後、ようやく俺は、帰るべき自宅の玄関をくぐることが、できたのであった。

 ちなみに、保冷剤と一緒に入れてたアイスは溶けた。かなしい。

 

 



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秋川やよい:1/アルファ:2.5

 

 

 

 三ヵ月前、私の家に同居人が、一人増えることになった。

 

 諸々の事情で、学園に近い賃貸を仮住まいにしていたのだが、帰らないことの方が多いため、そこは実質的には、ただの荷物置きの部屋でしかなかった。

 家、とは言ったものの、わざわざ帰る理由が、これといって存在しないのだ。

 外泊、宿泊が常となっている現状では、別段あってもなくても、大して変わらない場所であった。

 

 しかし、突然、私の帰りを待ってくれる存在が、現れることになって。

 生活感の欠片もない、私物が鎮座されているだけのその家で、自分のために食事を用意してくれる同居人の存在が理由で、私は以前の数倍は()()するようになっていた。

 

「帰着ッ!」

 

 そう言って、最近ようやくキーホルダーを付けた合鍵を使い、玄関の扉を開けるこの瞬間が、日頃の楽しみになりつつある。

 その先では、いつも必ず、彼が待ってくれているから。

 

「──あっ。おかえりなさい、秋川さん」

「うむっ」

 

 学園内で、最近妙な噂が流れ始めている、何故かほんのちょっと有名人なウマ娘。

 アルファ。

 否。

 彼はウマ娘ではなく、その力を強制的に植え付けられた、ただの人間に他ならない。

 少年の名はアルファではない。

 それは学園内での仮の名前であり、本当の名は──

 

「ただいま、或葉(あるは)くん」

 

 

 ……

 

 …………

 

 

 彼と一緒に、こうして家にいるときだけは、普段の堅苦しい喋り方が抜ける。

 或葉くんと暮らし始めて、三ヵ月。

 自分でも、不思議なほどに、私は彼に対して心を許しているようだった。

 

「そだ。今日たまたま知り合いに会って、良いぶどう貰っちゃったんだ。ほら」

「おぉー、巨乳」

「巨峰ね」

 

 貰いものをテーブルに置き、ソファに腰を下ろして一息つくと、帽子の上にいた友も飛び降り、彼が用意したキャットフードへ、一直線に駆けていった。

 

「猫先生もお疲れ様です」

「んなぁ」

 

 我が友も、同居人の存在には随分と慣れたようで、時たま彼の頭の上にも乗ったりしている。

 或葉くんも、すっかりウチの一員だ。

 キッチンのほうからは、食欲をそそる匂いが漂っており、腹の虫も鳴いているので、私も食事にしてしまおうかと欲が出始める。

 

「お風呂、沸いてますよ。こっちは煮込むのにもう少しかかるんで、入っちゃってきてください」

「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて……」

 

 帽子をいつものラックにかけ、ささっと風呂場へ直行していった。

 それにしても彼、本当にウチの家事が板につきすぎじゃないだろうか。

 この家の設備の使い方を教えていたのが、もはや遠い昔に感じる。

 

 

 ──そう、三ヵ月前。

 

 同居人になるきっかけを、私のもとへ運んできたのは、他でもない彼自身であった。

 たすけてください、と。

 黒い布を被り、上擦った涙声で、そう私に助けを求めてきた少年は、汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていて、とても放っておける状態ではなかった。

 そして、少々戸惑いつつも、事情を聴いてみたら、これまたどうして、彼は私の追っている事件と、深く関わりを持つ少年であった。

 

 非合法の研究──俗に言う人体実験という禁忌を、秘密裏に続けている組織が存在すると、内閣に属している協力者からリークがあった、その翌日のことだ。

 神秘に包まれたウマ娘を、人の手で超えるという目的で、人攫いを企てていたその組織は、()()から逃げてきた或葉少年の情報によって、主要メンバーが軒並み逮捕され、壊滅した。

 元より、研究のためにウマ娘たちを脅かす恐れのあった奴らのことは、対処せんと考えてはいたのだ。

 しかし、とある少年が現れたことによって、私のスケジュールは大幅に変更されることとなった。

 忌々しい事実だが、奴らの”ウマ娘を超える”という研究は、完成してしまっていたのだ。

 

 彼の正体を知っているのは、政府の中でも一部の人間のみだ。

 こと学園内に至っては私だけであり、危険すぎるその情報は、職員はおろか、私の秘書である駿川たづなすらも把握していない。

 そんな、特級の機密情報の塊である彼を、わざわざウマ娘として学園で保護している、その理由は──他に道が無かったから、という、身も蓋もない事情が真相だ。

 学園で監視しつつ、国や裏組織から、彼を守る。

 様々な要因が重なり、私の立場で選べる選択肢は、たったひとつ、それだけだったのだ。

 

「秋川さん。着替え、ここに置いときますね」

「あ、うん、ありがと」

 

 湯船に漬かりながら、天井を見つめて物思いに耽っていると、扉を隔てた向こう側から、彼の声が聞こえてきた。

 当たり前のように、着替えを準備してしまうその様は、この家の住人として馴染みすぎている。

 一瞬、彼のその行動に違和感を覚えなかった自分を顧みて、甘い生活に毒されているな、と自嘲してしまった。

 

「……ね、或葉くん」

「はい?」

 

 タオルを洗濯機の上に置き、そのまま洗面所から出ようとした彼を、一言呼び止めた。

 大切な話があったわけではない。

 どうしても今、聞かなければならない質問でもない。

 ただ、互いに顔が見えないこの状況でしか、問う勇気が出なかった。

 

「学園のほうは、どうかな。もう慣れた?」

「あー……」

 

 保護、とは手前勝手な言い分に過ぎない。

 実質的には、私は彼を、トレセン学園に幽閉しているのだ。

 様々なウマ娘たちが、夢を抱いて志望する我が校に、元より”通いたい”という意思すら持っていなかったヒトの少年を、自分の都合で閉じ込めている。

 本来私は、感謝されるような立場にはないのだ。

 確かに、助けを求める手を取ったのは間違いないが、他の大人たちを信用できないという、身勝手な理由で学園への通学を強制させた私の行動は、決して正しいとも、最善だったとも思えない。

 もし、学園生活が、こちらの想像以上に彼の精神を蝕んでいるようであれば、そろそろ他の対応策も、考えなければならない頃合いだ。

 

「……まぁ、確かにちょっと、大変ではありますけど」

「っ」

「でも、楽しいですよ。全部秋川さんのおかげです」

 

 律儀に、浴室の扉に背を向けながら、彼は続ける。

 

「どこの(ウマ)の骨とも分からない俺に、安全な居場所をくれた。無償で衣食住を提供してくれてるの、マジでちょっと優しすぎだと思いますね」

 

 果たして、そうだろうか。

 或葉くんは、他人への気配りが上手い。

 私が言われたいことを、彼が気遣って言葉にしてくれているだけなのではないか、とつい訝しんでしまった。本当に自分はかわいくない女だな、と辟易する。

 

「それに三ヵ月経ってますから。……もう、大丈夫です」

 

 三ヵ月。

 そう、まだ、たった三ヵ月だ。

 彼はこう言っているが、或葉くんの境遇を鑑みれば、大丈夫なはずはないと、すぐに気づける。

 

 ──彼には、両親がいない。

 彼という存在が誕生した痕跡が、どのデータベースにも存在しない。

 当然だ。

 如月或葉という少年は、ウマ娘という生態系が存在しない、異なる世界線から流れ着いてきた迷い人なのだから。

 私は、彼自身が口にした、その言葉を信じている。

 例えそれが、あまりにも常軌を逸した、戯言にしか思えなくとも、私だけは彼を最後まで信じ抜くつもりだ。

 それこそが、助けを求めた彼の手を取った、私自身の責任だと、そう思うから。

 

 しかし、彼の言葉が本当に全て真実であるなら、如月或葉という人間の心は、とっくの昔に壊れてしまっていてもおかしくないのだ。

 目の前で肉親を奪われ、帰るべき場所を失い、最後には自分を知る者がいない異世界へと流れ着き、裏社会の大人たちの実験により、人間としての尊厳を凌辱され尽くした。

 保護しておいて何だが、私はどうして彼がここまで、平静を保てているのが分からない。

 

「……さっきも言ったでしょ。全部秋川さんのおかげだって」

「でも、私は、何も……」

「なんでもしてくれたじゃないですか。悪夢に魘されて目を覚ました時も、そのまま過呼吸に陥ったときも、抱きしめて、励まして、俺を落ち着かせてくれた」

 

 それは、だって。

 私がしてあげられることなんて、それくらいしかないから。

 

「あぁやって、あなたがそばに居てくれたから、俺は今もこうして普通でいられるんです」

 

 私の行動を、その是非を、何もかもを肯定してくれている。

 

「……あ、あの、恥ずかしいんで、あんまりこういうの言いたくないんですけどね。……俺には、秋川さんが必要なんです。この世界で、唯一俺を信じて、守ってくれた。

 ──だから、あんまり心配しなくても大丈夫ですよ。秋川さんがいてくれるなら、ホントに割と平気なんで」

「……そっか。……うん、分かった。もう、入学したての子供にしつこく質問する、お節介なお母さんみたいなことは、聞かない」

「そんな卑屈にならんでも……」

 

 とても、良く思ってくれている。

 もちろん、そうありたいと努めて行動していたし、そう認識してくれているのなら、こちらとしてはこの上なく嬉しい。

 けど、彼は少しだけ勘違いをしている。

 私は彼が考えてくれているほど、強いわけでも、立派な人間でもない。

 

 トラウマに苛まれて、彼が私を頼ったとき。

 帰ってきて、笑顔で出迎えてくれたとき。

 いまのように、こうして感謝を伝えてくれたとき、いつも、こう思うのだ。

 

 必要とされているよりも、ずっと、もっと、遥かに大きく──私が、彼を必要としている。

 間違いなく、支えられているのは、私の方なのだと。

 誰かと共に過ごす時間の、温かさを思い出させてくれた。

 こうして、一緒にいるからこそ、大人の世界でも頑張れているのだ。

 

「秋川さん? あの、もう戻っていいですか。カレー焦げちゃうので」

「あ、うん。引き留めてごめんね」

 

 もしも秋川やよいが、学園の理事長として、立派に自立した世界線があったとして、それは今のわたしからは最も程遠い未来だ。

 きっともう、以前のような、或葉くんの存在しない人生など──全くもって、考えられない。

 

「……ありがとう、或葉くん」

 

 それほどまでに、彼によって、私の心は絆されてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 何やら、仕事で落ち込むことでもあったのか、お風呂に入りながらナイーブになっていた秋川さんと話した、その翌日。

 俺の言葉は薄っぺらいので、特に響いたとは思えないものの、美味い飯を食ってさっさと床に就いた翌朝には、彼女もすっかり元気を取り戻していた。安心。

 やはりご飯は、何に置いても一番大事なエネルギー源だ。

 これからも料理の研究は、欠かさないように頑張ろう。数少ない俺の得意分野である。このステータスだけめっちゃ伸ばそうな。

 

「出勤ッ! ……むっ、帽子はいずこに!」

「はい、ここに」

「感謝!」

 

 がっつり理事長モードに切り替えた秋川さんは、頭上に猫先生を乗せ、荷物をまとめて玄関へ向かっていった。

 秋川さんの出る時間が早いというのもあるが、基本的に俺たちは時間をずらして、家から出ている。

 俺が出発するのは、彼女が行ってから約三十分後なので、いつも見送りをするのはこっちだ。

 

「充電っ。しゃがみたまえ」

「ま、またやるんですか……?」

「補充! これをやらねば頑張れないのだっ」

 

 言われるがまま、玄関でしゃがむと、秋川さんは正面から俺を抱擁してきた。

 彼女によると、これは活力の充電だそうだ。

 定期的に不足するのか、三日に一回程度は、朝にこんなことが繰り広げられる。

 早朝から美少女とぎゅーして、やわらかい感触と良い匂いを嗅げるこのイベントは、普通に俺にとっては涙が出るほどありがたいのだが、彼女は本当にこんなので活力を補充できているのだろうか。

 理事長という立場である以上、おいそれと軽率なボディタッチができないのは分かるが、駿川たづなさんとかイケそうな人は割といるのに、相手が俺でいいのかしら。

 

「んん~……ふふ、充電完了っ」

 

 あまりにも笑顔が眩しすぎる。とりあえず一旦結婚しておきたい。

 事件の関係者として保護してくれている以上、妙な勘違いはしないように気をつけてはいるが、毎回こんなことされてたら『こいつ俺のこと好きなんじゃね?』と思い込みそうになっても、しょうがないことだと思う。

 男子ですので。えぇ、非常に女子への勘違いが盛んな、高校生のね。

 

「…………いってらっしゃい」

「っ? どうしたの、名残惜しい?」

「い、いや、別に」

「帰ったら、続きしようね」

 

 こいつ俺のこと好きなんじゃね……?

 

「出発! 行ってくるぞッ!」

「はい、気をつけて」

 

 

 そんなこんなで、朝の秋川さんとの一幕を終えつつ、少し時間を空けて俺も学園へ向かった。

 情緒を乱しそうなイベントはあったものの、概ねいつも通りの朝──だったのだが。

 校門の前で待っていた、とある少女の姿は、俺の”いつも通り”の中には含まれていないため、再び新しいイベントが来るという予感が、俺を襲った。

 

「──あっ。……お、おはようございます、先生っ」

 

 少女の名は、ライスシャワー。

 先日、マリオもかくやというほどの、超人的な跳躍をうっかり見せてしまった相手だ。

 

「おはよう、ライスシャワー。ところで先生って」

「あの、えっと、これから縄跳びの指導をしてもらうから、先生……」

 

 そういえば縄跳びで脚力を鍛えるという、よくわからん約束を取り付けてたんだった。

 縄跳びでスーパー跳躍が可能になったというアレは、その場を誤魔化すために、つい口走ってしまった出まかせなのだが──いや、まだ分からないか。

 もしかすると、ウマ娘ほどの身体能力があれば、同じような芸当が可能かもしれない。

 せっかく、ウマ娘と二人きりになれるイベントが舞い込んできたのだから、ここは正面からぶつかっていこう。当たって砕けろ、というやつである。

 

 ──というわけで、放課後。

 体操着に着替えた俺とライスシャワーは、河川敷に訪れていた。

 

「縄跳びする前に、軽く体を温めておこう。縄が冷えたすねにぶつかると、めっちゃ痛いからね」

「う、うんっ」

「じゃあ、まずはランニングしよう。十分後に、ここへ戻ってくるくらいのペースで」

「分かった、ついてく……!」

 

 縄跳びのトレーニングなど真っ赤なウソなので、メニューを考える暇が欲しくて、つい時間稼ぎにランニングを提案したのだが、ライスシャワーが真剣に向き合ってくれていて、少々心が痛い。どうしよう平八郎って感じだな。

 帰りにご飯でも奢ろうか。

 そう考えて、参考程度に何か食べたいものはあるかと、質問するつもりで振り返ってみた。

 

「ついてく、ついてく……」

 

 ぎゃあ! 困った、この女、かわいい──

 

 



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トウカイテイオー:1

 

 

 レースの成績も、学園での生活も、トレーナーとの仲も総じて良好で、まさに順風満帆でしかなかった、ある日のこと。

 彼女は、風のように、ボクの前に姿を現した。

 いや、もはや比喩ではない。

 その少女は、一陣の風、そのものであった。

 

 

「へへ、見ろ〜! テイオーの限定ぬい、一回で当たっちまったぜ!」

「いいなぁ……ゴールドシップさんの今日の運勢、凄まじいです」

「ず、ズルいですわ! それは先に私が五回やったから──」

 

 いつも通り、やかましい友人たちと、放課後を過ごしていた。

 三ヶ月前のレースでの活躍が注目され、自分のグッズがコンビニの一番くじに登場し、みんなでそれを見にきたのだが、一店舗に一つしか置いていない限定品を取ろうと友人らが躍起になっているうちに、いつの間にか騒がしくなってしまっていた。

 何でボクのぬいぐるみを取り合ってるんだろう。本物ここにいるのに。

 

「カンカン。ゴルシオークションを開催します。入金額はクジ一回分の五百円から」

「やります! テイオーさんのぬい欲しい! 五百円!」

「……じゃあ、ボクもやろうかな。とりあえず八百円で」

「ふふふ。では、七百円ですわッ!!」

「お前オークションやったことねぇのか?」

 

 くだらないやり取りをしていた──そんな時だった。

 

「……わっ、地震?」

 

 僅かな違和感を感じた、その数秒後に、揺れは激しさを増していく。

 もはや、そのまま歩き続けることは不可能で、ボク達は本能的にしゃがみ込んだ。

 

「お前ら、コレ被っとけ!」

 

 ゴールドシップが、何処からともなく安全ヘルメットを取り出し、ボクたちは耳を折りたたんでそれを被る。

 振り返ってみれば、ボクたちの後ろを歩いていたライスシャワーら見覚えのある学園の生徒たちも、怯えた様子で近くの電柱や自販機にしがみ付いていた。

 しかし、大災害の予感は杞憂だったのか、幸いな事に、揺れ自体はすぐに落ち着き始めた──が、立ち上がれず身を守る事で手一杯な仲間たちよりも数瞬早く、運良くボクは()()に気がついたのだった。

 

「あっ」

 

 少し先に、高めの足場が建てられた、工事現場がある。

 先ほどの揺れが原因で、今にも落ちそうになっている、大きな看板が、ひとつ。

 さらに、看板が落下してしまうであろう位置には、通りがかりの幼い黒髪の少女が、怯えて蹲っている。

 そこより少し離れた位置にいる、彼女の友達らしきもう一人の少女が、上の看板が危ないと叫んでいるが、当の本人は足が竦んで動けない様子だ。

 まずい。

 あのままでは、彼女が看板の下敷きになってしまう、と、そう考えたときには、既に脚が勝手に動いていた。

 だが。

 

(ヤバい……ッ!)

 

 頭上で一際大きな音が鳴り響いた。

 何か部品のようなものが弾け飛び、間もなく看板が落下しようとしている。

 間に合うか、間に合わないか、正確に測れない絶妙な距離だ。

 そこそこ速い走力を持つウマ娘の自分ですら、心の底から焦るほどに、どうしても座り込んでいる少女の位置が遠い。

 抱きかかえて飛び退くのに、間に合うだろうか。

 最悪自分は潰されるとして、あの少女には悪いが、こうなると突き飛ばしでもしないと──

 

 

「──」

 

 

 ──ほんの、一瞬の出来事だった。

 困惑の声すら、喉から出ることはなかった。

 ボクの真横を、まるで鎌鼬かのような、凄まじい突風が吹き抜けたのだ。

 

「えっ。…………あっ、」

 

 ゆっくりと脚が止まっていく。

 それは、目の前に看板が落下し、まるで銅鑼のようなけたたましい騒音が鳴り響いたから、ではない。

 間に合わなかったから、諦めたのではない。

 事実だけを述べるのなら、看板は落下し、コンクリートの地面に叩きつけられた。

 しかし、その直下にいた黒髪の幼い少女は、傷ひとつなく生還している。

 

「キタちゃんっ!」

 

 離れた位置にいた、少女の友人が彼女()()のもとへ駆け寄っていく。

 ボクは、呆然とそれを見つめたまま、驚嘆と困惑のまま、立ち尽くすことしかできなかった。

 

 

 ──何が起きたのか、一瞬で理解することが、叶わなかった。

 

 動けない少女を助けようと、全力で彼女の元へ駆け出したら、自分の後方から風が吹き抜け、いつの間にか見覚えのない女子生徒が、少女を抱きかかえて安全圏まで後退していた。

 脳が状況把握に努めようと、情報を整理していくに連れ、その場で起きた事実の異質さが明確になっていく。

 全力で走りながらも、ボクは"間に合わない"という事実に気がついていたのだ。自分を犠牲にする勢いで、とにかく無茶をすれば、何か奇跡が起こってくれるのではないかと、縋るような思いで少女のもとへ向かっていた。

 

 だが、そんな現実を穿つが如く、一人の女子生徒が、ボクの数十倍はあろう尋常ではない速度で彼女の側へ駆けつけ、ゆっくりと抱きかかえて看板が当たらない位置にまで移動していた。

 あり得ないことが起こっているのだ。

 ウマ娘であっても手が届かない、遥か彼方にある凄惨な運命を、その身一つで覆してしまった生徒が、目の前にいる。

 彼女が走っているその姿は、ほんの一瞬しか視認できなかった。

 もはや生物としての限界を凌駕したような──紛うことなき、超スピード。

 

「キタぢゃあ゛ぁぁ……!」

「だ、大丈夫だよ、ダイヤちゃん! ほら、全然ケガしてない!」

 

 お姫様抱っこのような形で抱えていたその少女をおろし、その女子生徒は小さく笑って、一息ついた。

 

「せっ、先生〜!」

 

 立ち尽くすボクを後ろから通り過ぎて、彼女のもとへ駆け寄っていくライスシャワー。

 自分が尊敬している生徒会長からも、一目置かれているような、優秀なウマ娘であるライスシャワーに"先生"と呼ばれている、得体の知れないその生徒に、ボクは僅かながら恐怖を覚えつつ、足を前に動かした。

 

「ゆ、揺れてて見れなかったけど、先生よく間に合ったね……!? ケガはない……?」

 

 負傷など、ひとつもなく。

 それどころか、あり得ないスピードで走ったにも関わらず、彼女はまったく呼吸を乱していない。

 それから、地震が落ち着くまで動けなくなっていた周囲を見渡して、何故かホッとしたような表情になった彼女は、自らが助けた少女を優しく撫でるのであった。

 

「大丈夫?」

「ふぇっ。……は、はい、ありがとう、ございます……」

 

 助けられた本人である少女すらも、何が起きたのか分かっていない。

 気がつけば、彼女に助けられていた──そんな認識だろう。

 誰もが自分の身を守り、遠くにいる少女のことなど、気づきもしなかったその場において、彼女の()()をこの目で捉えることができたのは、間違いなく自分だけであった。

 

 誰だ、彼女は。

 最近噂に聞く、どのレースでも最終着を取っているらしい、あの理事長と何らかの関係があるらしい謎の転入生とは、全く正反対の場所に立つ存在だ。

 人間の、ウマ娘の、地球上に存在する生命体の、その何もかもの限界をぶっちぎりで凌駕した、あのスピード──何者なんだ、あの生徒は。

 すぐに問い質したい気持ちが湧いてくるが、少女二人を慰めているあの場へ割って入って、質問するのは気が引ける。

 なんとか、手元で彼女の情報を調べる手立てはないだろうか。

 

「……あっ。来月の、模擬レース……」

 

 スマホで参加者が確認できる。もちろん顔写真もだ。

 来月の模擬レースは、レースとは名ばかりの、学園全体で競技を楽しむただの催し物に過ぎないため、大抵の生徒は必ずどこかの番で出走するのだ。

 体格を見るに、自分よりはもう少し上の学年だと思われるが──いた。

 高等部の強豪たちが、一堂に会する注目のレースに参加しており、人気最下位のウマ娘ということで全く話題に上がっていない。

 

「……アルファ」

 

 アルファ。それが、ボクに鮮烈なまでの走りを一瞬だけ見せつけた、彼女の名であった。

 模擬レースの出走枠はまだ全ては埋まっておらず、ボクは運命を感じた。

 一度、彼女と走ってみたい。

 なぜあんな規格外な力を持っておいて、学園ではまったく注目されていないのか、その理由を解明したい。

 彼女から、真実を得て、自らの糧にしたい。

 アルファというウマ娘のことを、どうしても知りたい。

 

「……あっ、もしもしトレーナー? 悪いんだけど、明日の蹄鉄見に行く約束、ちょっと保留にしてもらえないかな。……うん、急にごめんね」

 

 そんな思いで、ボクは出走レース変更の申請を行うべく、電話でトレーナーに予定のキャンセルを伝え、去り際に友人らに一言告げつつ、そそくさと学園へ戻っていくのであった。

 

 



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アルファ:3

 

 

 

 放課後。

 学園の誰との約束もなく、また秋川さんも外泊で、ちょうど一人きりになる事となったその日に、最も大切な用事が存在した。

 何を隠そう、定期健康診断だ。

 普通の人間ではなく、また普通のウマ娘でもない、改造痕まみれの肉体を持つ俺は、おいそれと病院へ赴くことができない。

 そのため、唯一事情を共有している、政府の人間が斡旋してくれた、口の堅い担当医のもとへ行き、身体の不調がないかどうかのチェックを、定期的に行わなければならないのだ。

 

「血液検査の結果出るまで、院内で適当に待っててね」

 

 そう言われて部屋を出ると、タイミング良くお腹の虫がグゥと鳴いた。時間帯で言うと、夕飯には少し早い。

 俺が今いる場所は、学園から電車で三十分程の距離にある大きな病院だ。

 女装もしておらず、厚めのニット帽と、ダボついたズボンで、ウマ娘だと分かるような部分を隠して外出している。

 ついでに、変装のつもりで伊達メガネもかけているが、これはいらなかったかもしれない。こんな学園から離れた病院で、男の格好をしているにも関わらず、学園の女子生徒と俺を、顔を見ただけで結びつけられるような人物はいないだろう。

 さて、とりあえず腹減ったけど、これからどうするかな──などと考えながら廊下をほっつき歩いていた、その時だった。

 

「なぁ、ちょっといいか」

 

 唐突に、背中へ声を掛けられた。

 

「……?」

 

 何だと思って振り返ると、そこには俺と同年代程度の背丈の、見慣れない金髪の男子が立っていた。

 目鼻立ちがキリッとしていて、個人的な感想になるが、ちょっとイケメンな気がする。秋川さんによると、俺は童顔らしいので、少し羨ましい。

 ──あぁ、いや、そうではなくて。

 

 彼のことは知っている。

 というか、いま思い出した。

 急に声をかけられて、驚いてしまったが、よく観察すれば、既視感が脳内に浮かんで出てくる顔だ。

 

 三ヶ月前、あの違法な研究を続けていた悪の組織に、被検体候補として囚われていた人々は、組織が壊滅したことで残らず解放された。

 その、モルモットから解放された人たちのリストを、特別に見せてもらったことがある。

 閲覧が許されたのは、俺があの中で唯一、実際に薬品投与と人体改造を施された被検体であり、何より秋川理事長の監視下に置かれている人間だったから、というのが大きな理由だろう。

 流石に名前は伏せてあり、顔写真だけだったが、確かその中に彼もいた。

 

「さっき冴島先生の部屋から出てきたよな。もしかして、事件の関係者か?」

「……人違いです」

「えっ。……あ、ちょっと、待ってくれよ!」

 

 彼がなぜ、この時間帯の、この場所にいるのか。

 何が目的で、探るような事をしているのか。

 ──割と結構どうでもいいのだが、科学者たちの研究成果の結晶である俺と一緒にいたら、事件に巻き込まれた記憶を思い出して、忘れていたはずの傷がぶり返してしまうかもしれない。

 俺と違って幽閉されていただけだったようだが、あんなの牢屋に閉じ込められるだけで軽くトラウマものだ。忘れたままの方がいいに決まっている。

 なので、逃げることにした。

 

「待ってくれってば、話があるんだ!」

「病院で大声出しちゃダメですよ」

「あっ、ぇっ……ごめん」

「謝らなくていいんで、付いてこないでください」

 

 言いながら早歩きで逃げても、変わらず追い続けてくる少年。こまった。

 

「た、頼むよ。……その、アンタなんだろ? 研究所の情報を外に持ち出して、アイツらが捕まるきっかけを作ってくれたっていう、唯一人体実験を受けた被検者って……」

 

 その言葉を聞いて、思わず足を止めてしまった。

 不思議なほどに、俺の情報がバレている。なんでだ。

 

「……どうして?」

「オレも一応囚われてたから、半年間は一応の定期検診があって、そのついでにな。そんなかで、みんなが纏まって検査を受ける日に、アンタだけがいなかった」

 

 まるで探偵みたいな推理と、地道な張り込み方だ。ますます、そうする理由が見当たらない。

 

「そのニット帽の中、ウマ娘みたいな耳あるんだろ」

「な、無いよ」

「……ズボンの裾から、尻尾の先がちょっと出てるぞ」

「うそっ、ヤバ」

 

 慌てて足元を確認した瞬間、あっ、と気がついた。

 別に、足元の裾からは、もふもふな先っぽは出ていない。

 やられた。

 今の反応は、尻尾を隠しているような人間でなければ、見せるはずのない態度だ。

 

 ──これは、マズい。

 まさか先に学園内ではなく、外で正体がバレるだなんて。

 人体実験された事実自体は、関係者なら知っていてもおかしくないが、まさか疑似ウマ化してることまで看破されるとは、微塵も考えてはいなかった。

 ……どうしよう。口封じに、ウチまで無理やり連れ込んだりとか、した方がいいのだろうか。

 

「落ち着いてくれ。……オレは単に、アンタに礼がしたかったんだ」

 

 お礼、とは。

 

「アンタが研究所を逃げ出してくれなきゃ、オレらは囚われたままだった。もしかすれば、死んだ方がマシだと思えるくらい、ヤバめの実験をさせられてた可能性だってある」

 

 だから、と一拍置いて、彼は続ける。

 いつの間にか、その少年は、あと一歩で俺に触れられるほど、すぐ近くまで詰め寄ってきていた。

 

「……とりあえず、飯でも食わないか。奢るからさ」

 

 そう言われて、ほんの少し、口をつぐんで逡巡したのだけど。

 ──割とすんなり、いつの間にか俺の口から、了承の返事が飛び出していた。

 

「……まあ、血液検査が終わってから、なら」

 

 

 

 

 結論から先に言うと、友達ができた。

 

 自分でも驚くほどチョロい──というか、同じ話題を持ってる同年代の男子が、ここまで話をしやすい相手だという事を、俺はすっかり忘れてしまっていたらしい。

 正体がバレて焦ったのも最初だけであり、以降は事情を把握してくれている相手として、何でもかんでも話せてしまった。あまりにも話しやす過ぎたし、多分いろいろ喋りすぎてしまっていた。

 

 この行為があまりにも軽率なものである事は、さすがに自覚しているのだが、それを加味しても、数少ない理解者として彼と交流できた後の、自分自身の精神状態の安寧は、とても大きなものだったのだ。

 学園の少女たちや、秋川さんや、身体を診てくれている先生とも異なる、とても身近に感じる同性の友人の存在は、本当に、この上なく嬉しくて。

 彼と話していて、久方ぶりに、心から油断した、だらしない笑い声をあげてしまった。

 

 もちろん、彼──藍原蓮斗が、とても気さくな相手だったから、ここまで心を開くことができた、というのもあるが。

 一言で例えられるほど、絵に描いたような"良いやつ"だった。

 たまに発言が尖ってたり、スマホのホーム画面をちょっとえっちなキャラの画像に設定しているのに後から気づいて慌てたりと、変な隙もあって面白いやつだ。

 話していくうちに、割と趣向が似通っていて、親近感が湧いてきたと思った頃には、既に連絡先の交換もしていた。

 まぁ、あの探偵染みた最初の話しかけ方は、ちょっとどうかと思うが。

 

 秋川さんには『一言相談してほしかった』とやんわり怒られてしまったので、流石に次もこういう事があったら、その時はちゃんと警戒しようと思っている。想像以上に軽率な行動だったため、本当に反省しなければならない。

 

 ──と、先日はなんやかんやあって。

 結局、今度彼と一緒に会う約束を取り付けつつ、それを楽しみに思いながら、俺は今日もライスシャワーと縄跳びをしていた。

 あと、何故かアドマイヤベガと、サクラチヨノオーも、近くで縄跳びをしている。いつからここは縄跳び部になったのだろうか。

 

「にへへ……」

「……先生、もしかして何か、良いことでもあったの?」

「うぇっ──ブッ!」

 

 すっかり自分の世界に入り込んでいたのか、ライスシャワーに横から声をかけられたことに驚き、縄跳びで足がもつれ、すっ転んでしまった。あまりにもダサい。

 

「いてて……な、何で分かったの、シャワー」

「ずっとニコニコしながら、かれこれ十五分くらい、ずっと縄跳びしてたから……」

 

 マジ。十五分も跳び続けてたの、俺。

 この身体になってから、日頃からあまり肉体的な疲れを感じなくなってしまっているので、まったく気がつかなかった。

 

「……えと、実はかなり楽しみな約束があって。それで気が緩んでたのかも」

 

 あまり細かい予定は決めてないが、お昼だけは美味しい人気店へ赴くことになってるのだ。激うまパスタ、楽しみです。

 

「ふふっ」

「えへへ……」

 

 横を見ると、縄跳びをしたまま、ベガがそこはかとなくドヤ顔をしてていて、サクラはにへらとだらしない笑みを浮かべていた。どうしたんだろう。二重跳びできて喜んでんのかな。

 

「あぁ、それはそうと、シャワー」

「なぁに、先生?」

 

 こてん、と不思議そうに首をかしげるライスシャワー。いちいち所作がかわいいの、どうにかならんのか。危うく好きになるぞ、気をつけてね。

 

「ここのところ、ずっとこうして縄跳びをさせてしまっているけど……どう? 何というか、成果は出てるかな」

 

 ここに関しては、欠片も自信がなかった。

 レースを頑張る彼女たちの、貴重な時間をただの縄跳びで浪費させるのは、あまりにも心苦しい。

 そもそも、咄嗟の対応策で縄跳びと口走っていただけなので、本来このトレーニングには意味などないのだ。

 これ、なんて言って終わらせればいいのだろうか。

 

「う、うんっ、出てるよ、成果……!」

 

 マジ? トレーニング効果もそうだが、そもそもまだ数日しかやってないぞ。

 

「この前、トレーナーさんにね、踏み込みが浅かった部分が改善されてるって、褒められたのっ」

「踏み込み……」

「それから、それからっ、スタミナもついたって……! 思い返してみると、確かに前より長い距離が走れるようになってるかも……」

「す、スタミナ……」

 

 ウマ娘の吸収率というものを侮っていた。

 こんな、大して効果のなさそうな、ちょっと楽しいだけのトレーニングを数日行っただけで、ここまで成長するだなんて、結果を聞いた今でも信じられない。

 というか、ライスシャワーの成長率がバグってるだけ説もある。進化のスピードが速すぎないか? サイヤ人かよ。

 

「それもこれも、ぜんぶ先生のおかげだよ……?」

「……そ、そっか」

「ありがとうございますッ!」

「どういたしまして……?」

 

 完全にただ偶然ライスシャワーが、スーパー最強すごすご成長率激高ウマ娘だっただけなのだが──まぁ、いいか。

 本人がこのトレーニングを快く思ってくれていて、実際数値にも良い方向で影響が出ているなら、わざわざ必死になって否定する必要もないだろう。

 

 それから少し経って。

 アドマイヤベガは、いつも絡みがちなテイエムオペラオーたちの方へ合流し、サクラチヨノオーも似たような理由で『明日も来る! 明日も来るからッ!!』と何回も強調しつつ、縄跳び部から去っていった。何しに来たんだろう、あの人たち。

 

「……あ、あの、先生」

「うん?」

「ほんとに、ありがとう。ライスのワガママを聞いてくれて……こうして、トレーニングも、ずっと付き合ってくれてる……感謝しても、したりない」

 

 モジモジしながら、それでも素直に感謝を述べるライスシャワーを前にして、俺は胸が熱くなった。

 かわいいうえに、殊勝で優しい良い子だなんて、完璧生物が過ぎる。

 この立場じゃなかったら、危うく告白してフラれてるところだった。ギリギリだったぜ。

 

「こっちこそありがとう、シャワー」

「ぇ、え? ライス、お礼を言われるようなことなんて、何も……」

「そんな事ないよ。このトレーニング、パッと見は地味だし、いつでも辞めていいのに、こうして根気強く付き合ってくれてるし……何より、シャワーと一緒にやる練習、けっこう楽しいんだ。だから、ありがとね」

「……っ!」

 

 この時間が楽しかったのは本当のことだ。

 来月のレースは、ほぼすべての生徒が半強制的に参加することになっており、モブウマ娘として負けるのにちょうどいいレースを、わざわざ出走選手の名簿を調べ尽くしてから選出したりと、ネガティブな思考で頑張らないといけない用事のせいで、あまり晴れやかな心ではなかったのだ。

 そこに、友人として俺を誘ってくれた、ベガとサクラの二人や、遊ぶ約束を組んでくれた蓮斗──そして放課後はこうしてずっと一緒にいてくれるライスシャワーの存在が加わって、この世界へ訪れてから初めてと言っていいくらい、俺はここ数日間が心底楽しかった。

 

 だから、そのお礼だ。

 物理的に失った青春を、彼女たちは再び俺に齎してくれた。

 

「……~~っ! あ、あの先生っ、ちょっと外を走らない……?」

「うん、いいよ」

「い、いこっ」

 

 シャワーが顔を赤くしながら、先導するように、校庭の外へ向かって走りだした。

 気持ちは分かる。

 言った後に気づいたが、俺も結構恥ずかしいことを口にしていた。

 それはもう、当然のように照れてしまう。こっちも少し顔が熱いくらいだ。

 よく考えると、元いた世界では、友達に真正面から『お前と一緒にいると楽しいよ』だなんて、歯の浮くようなセリフは言わなかったのに、今回はなんともすんなり出てきてしまった。ライスシャワーの純真さにあてられてしまったのだろうか。

 

「──うわっ、雨?」

 

 学園出てほんの数分、まるで狙い澄ませたかのように、突然の通り雨に遭った。大粒がかなりの勢いで降り注いできている。

 

「ふえぇっ……!」

「シャワー、そこのバス停で、止むまで雨宿りしよう」

「えっ。う、うんっ」

 

 まったく、良い気分だったのに、災難だ。

 早く止んでくれればいいのだが。

 

 





ライスシャワー:透けてない

アルファ:透けてる


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番外

今回ウマ娘が出ないので飛ばしても分かるよう後書きに内容まとめてあります



 

 

 事件から解放され、無気力に毎日を過ごしていると、あの研究所の件を嗅ぎまわっている、怪しげなジャーナリストに声をかけられた。

 

 どこから情報を仕入れたのかは不明だが、その男は、とにかく『一人でも実際に改造された人間がいるなら、そいつを調査してほしい』と必死だった。

 確かに美味いネタなのだろう。

 ウマ娘を目の敵にしている連中が、どんな研究をしていたのか──紙面を飾るには十分すぎるインパクトだ。

 男から提示された報奨金の値段は、一介の学生に過ぎない自分からすれば、目が眩むような金額だったため、調査の協力は二つ返事で了承してしまった。

 

 そして、自分でも驚くほど、すんなりと対象の人物を釣ることができた。

 相当心が弱っていたのか、それともオレ自身が、彼の求める理解者像に合致しすぎていたのか──ともかく情報を引き出す場を設けることができた。

 あとは飯を食いながら、さりげなく、彼の話を引き抜きまくってやればいい。

 如月或葉の情報を、あのジャーナリストに手渡して、さっさと逃げれば、大金を抱えてしばらくは安泰な生活を続けられる。

 

 ──そう考えて、いたのだが。

 

『それで、脚の強化が特にヤバかったんだ。なんかバカ太い針を脹脛にブッ刺されてさ──』

 

 流石に、オレでも違和感を覚えてしまった。

 如月或葉──コイツ、あまりにも()()()()だ。

 それとなく普通の会話を心がけてはいたものの、いつの間にかこっちが聞いていないことまで、ペラペラと喋ってしまっている。

 オレは、そこに意図を感じないほど、自分の話術に自信を持てるような性格ではなかった。

 

『ん、どした? ()()()()()()()()()

 

 肩が、跳ねた。

 たまにスマホを弄るフリをして、こっそりメモを取っていたのだが、彼はどう考えてもそれを見越したうえで、そのセリフをぶつけてきたのだ。

 表情が、そう物語っていた。

 余裕が、垣間見えた。

 警戒心の薄いその姿は、逆に油断させることで対象をおびき寄せるような、形容しがたい威圧感を放っていた。

 

 ──マズい。

 会話の内容から思い出したが、こいつの後ろにいるのは、中央トレセン学園を仕切る理事長と、一部とはいえ国の中枢で動いている政府の人間たちだ。

 たった一人の、しょうもないジャーナリストと手を組んだだけの自分が、まともに相手取っていい存在ではなかったのだ。

 これは、きっと警告なのだろう。

 

『……? 何だよ急に黙り込んで。グリーンピース食えないのか? 俺が食べてやろっか』

『……悪かった。オレの、負けだ』

『へへっ、なんだよ。ダメなら最初からそう言えって』

 

 嬉しそうにオレのグリーンピースを頬張る彼の姿は、一見無邪気に見えるが、その奥には思慮深い男の意志が秘められている。

 お手上げだった。

 勝てないことが──いや、逃げる事すらままならないと悟ったその瞬間に、オレの戦いは終了のゴングを鳴らしてしまっていた。

 

『ふう。……ん、そろそろ帰っか』

 

 おとなしく首を差し出す気持ちで、降参の意を示すと、彼は皿の上の食べ物を全て平らげて、席を立った。

 これからどんな目に逢わされるのか、いくつも最悪の想定をしながら、ビクビク怯えたまま付いていくと、彼は突然QRコードが表示されたスマホの画面を、俺に見せてきた。

 

『ほら、連絡先の交換しとこ。そういえばまだ聞いてなかったからさ』

 

 ──想定外だった。

 どこかへ強制労働行きになるか、口封じのために連行されるか、ともかく予想の中に、オレの安全という項目は、一切含まれていなかったのだ。

 だというのに、彼は。

 

『……? ど、どうした?』

『いいのか。オレと、交換なんかして』

『えっ。……いや、だって、もう友達でしょ。連絡取れないと困るし……』

 

 彼のそんなセリフを耳にした、その瞬間に、オレの中で如月或葉という人間対しての評価が、一変した。

 

 

 如月にとって、相手が敵かどうかなど、些細な問題でしかないのだ。

 どんな人物と相対しても──それこそ自分の情報を暴こうとする、不埒な輩が相手だろうと、こうして味方に引き込もうとしてしまう。

 あまつさえ、オレを友人、などと。

 言葉そのままの意味でないことは、十分理解している。

 しかしそれでも、間違いなく彼は、よりにもよって敵対していたオレに、慈悲を与えてくれたのだ。

 真の意味で敗北した……というより、きっとオレは、最初から負けていたのだろう。

 チョロそうに見えたのは、ただの作戦に過ぎず、全てを察した上で、オレを試した。

 

『……そうだな、交換しよう』

 

 一言で表すのならば、それは感服に他ならない。

 事件に巻き込まれただけなのにも関わらず、それで得る事となった自らの立場を、存分に利用する、その豪胆さ。

 正体を見破ったとしても、すぐに判断を下すのではなく、相手の出方を伺い、それを察せる相手であれば他の道を用意する、その思慮深さ。

 彼の持つそのカリスマ性に負けた自分には、もはや取引を持ち掛けてきたジャーナリストの事など、心底どうでもよくなっていた。

 

『蓮斗、今度の日曜日辺りにでも、遊ぼうな!』

『……あぁ。うまいパスタ屋に連れてってやるよ』

 

 そんな会話を思い出しつつ、オレは服の中に仕込んでいた盗聴器からカードを抜き取り、粉々に踏み砕いてから、帰路に就くのであった。

 

 





要約:男友達のフリしてたスパイが勘違いで勝手に負けて味方になった。

ライスシャワーは次回になります


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ライスシャワー:1

 

 

 

 不安から始まった学園生活は、驚くほど順調に進んでいた。

 

 自分の力を見出してくれたトレーナーの存在や、超常現象レベルの不幸を呼び込むこの体質を前にしても、そばに居てくれる友人たち──本当に、恵まれていると思う。

 とても不満など無かったのだ。

 彼ら彼女らに支えられながら、レースの頂点を目指す。それはまさしく、自分が思い描いていた青春の形そのものだった。

 

 けれど、風船を街灯に引っかけてしまい、泣いている少年を慰めようとしたその時に、気がついてしまったのだ。

 自分が、周囲に支えられ過ぎていた、という事実に。

 泣いている子供のあやし方など、分からない。

 自分の脚力では届かない位置にある風船の取り方など、分からない。

 その場で、何をすれば正解の道を辿れるのか、周りの好意に甘えすぎていたその時の自分では、一切思いつくことができなかった。

 

 そんな、困り果てていた時──彼女が現れた。

 颯爽と現れ、風船を取り、子供をあやして早々に帰らせてしまった。

 そのあまりの手際の良さに感服し、彼女が何故かスカートの下で男性用らしき下着を履いていたという事実も忘れて、自分はいつのまにか弟子入りを志願してしまっていた。

 魅せられたといえば、そうかもしれない。

 だが、それ以上に自分の中で肥大化した、とても大きな感情こそが、この口を勝手に動かしてしまったのだ。

 

 あの人のようになりたい。

 自分も変わりたいと、思った。

 

 周囲の好意は、嬉しい。ダメダメな自分を、優しく支えてくれる彼らは、自分にとって代え難い一番の財産だ。

 ただ、それだけでは満足できなかった。

 自分自身も、トレーナーや友人たちのように、誰かを支え、誰かを導く存在になりたいと、そう考えてしまったのだ。

 

 その指標として、彼女はあまりにもピッタリだった。

 実際に目にしたその強さ以上に、迷いなく他人に手を差し伸べられる大胆さが、自分の目には鮮烈に映った。

 だから、脚力の特訓を理由に、彼女へ近づいた。

 知りたかったのだ。

 彼女の持つ、優しさの理由が。

 それを学ぶことができれば、自分を変える大きな一歩となるに違いないと、そう思ったから。

 

「──っくしゅん!」

 

 通り雨の機嫌はとても悪く、すぐさま土砂降りになったのだが、いきなり多量に降る位置にいた彼女──アルファと違い、自分はあまり濡れていなかった。

 つまり、平気な自分とは異なり、アルファはそこそこ濡れてしまっているのだ。

 故に、くしゃみ。

 ブルリと寒そうに肩を震わせている。

 

「せ、先生、だいじょうぶ……?」

「へーきへーき。どうせすぐに乾くから」

 

 その笑みが、強がりだという事は分かっていた。

 だからこそ今、自分が行動に出なければならないと思えた。

 これは自分に与えられた試験だ。

 いつもは先導されてばかりだったが、ここで自分が寒がっている彼女を支えてあげれば、アルファも”教えている生徒”としか見ていなかった自分を見直して、アヤベさんやチヨノオーさんのように、心を許してくれるようになるかもしれない。

 仲良く話せる間柄になれば、分かるかもしれない。

 彼女の、無償の優しさの理由を。

 

「えと、えっと……」

 

 ゴソゴソとポケットを漁る。

 タオルは無い。先ほど鉄棒にかけたまま、こうして外へ走り出してしまったから。

 しかし幸いにも、辛うじてハンカチは死守していた。

 少し心もとない装備だが、無いよりはマシだ。これでどうにかしなければ。

 

「あのっ、先生、よかったらこれ使って……?」

 

 そう言いながら差し出すと、アルファは明るい表情のまま、小さく首を横に振る。

 

「大丈夫だよ、シャワー。私けっこうビショビショだし、シャワーだって髪が濡れてるでしょ。自分のために使って」

「……め、迷惑だった?」

「いやいや、そんな事は──あぁ、えと、やっぱり借りようかな、ハンカチ。すぐ拭きたかったんだ、実は」

 

 ハンカチを受け取ってくれたアルファは、彼女にしては珍しく少々顔を赤らめながら、濡れた首元を軽く拭き始めた。

 もっと大胆に使ってくれてもいいのだが。どうせこの後、体操服と一緒に洗濯するのだし。

 

「あ、ありがとう、助かったよ。シャワーは優しいね」

「そんな事……」

 

 あなただって、優しい人だ。

 自分ばかり褒められるのは、聊か不公平というものではないだろうか。

 こちらも彼女に感謝を伝えなければ、割に合わないというものだ。

 ……走る前にも言った気がするけど、きっと感謝は何回してもいいはず。

 でも、その前に、一つ。

 

「ねぇ、先生」

「うん?」

「先生は……どうしてあのとき、ライスを助けてくれたの? 別に、放っておいても、先生のせいにはならないのに」

「うぇっ。……り、理由かぁ」

 

 自分の質問に、彼女は少し、困ったように笑って。

 それから少しして、ようやくアルファは、口を開いてくれた。

 

「……まぁ、大体自分のためだよ」

 

 未だに強く降り続ける雨を、じっと眺めながら、彼女は言う。

 びしゃびしゃ、バシャバシャと、バケツをひっくり返したような音が、周囲でずっと響いているというのに、自分の耳には、観念したようにしゃべる彼女の声しか、入ってこなかった。

 

「その、別に不幸自慢をするわけじゃないんだけどさ。……少し前、人にちょっとだけ()()なことをされたから。それが理由」

「えっ? ……い、イヤなことをされたなら、むしろ……」

 

 他人に対して厳しくなるはずだ。

 酷いことをされたのならば、警戒心が尖って、誰も信じたくなくなり、自分がより一層大切になるはずだ。

 なのに、どうして。

 

「ちょっと違くて。ヤな事されたからこそ、そういう事に巻き込まれる理不尽さというか……えぇっと、どれくらい困っちゃうのかとか、そういうのは自分が一番よく知っているから。

 ……だからこそ、他の人に同じ思いはして欲しくない……っていうのが、理由かな。特にシャワーみたいな良い子には、ね」

 

 アルファはおどけて見せているが、先ほどまで余裕ありげに感じていたその笑顔からは、一抹の儚さが垣間見えた。

 ひどく傷ついて、その痛みを知ったからこそ、周囲に伝播させたくない、と彼女は語った。

 

「人助けがしたいとか、なんか高潔な意思があるとか、そういうのじゃないんだ。ただ、まぁ、目の前で困ってる人くらいには手を差し伸べて、自己満足してるだけって感じ」

 

 強がってるのは、自分でもわかるんだけどね、とバツが悪そうに苦笑いして。

 

「そんな事してるから、たまに人肌恋しくなって、必要以上に誰かに理解を求めようとしてしまって……悪い癖だな。

 ……こういうのって、口に出さないのが前提なんだけどね。変な話しちゃって、ごめん」

 

 少しは知ったつもりになっていたアルファの事を、自分は何も知らなかったんだなと、改めて自覚させられた。

 いつも、彼女は危ない場所で綱渡りをしている。

 今のようにこうして、誰かに弱さを見せたことが、この少女にはあるのだろうか。

 不均衡な心を自覚しながらそれを抱えて、明るく振る舞って……そんなことを、していたなんて。

 

「……ううん。ライス、先生のことが知れて、よかった」

 

 驚嘆も同情もあった。

 しかし、それ以上に、自分の成すべき事が、明確に見えてきた。

 

 ──走ること、だ。

 

 アルファの事情は分からない。どんな酷いことをされたのか、皆目見当もつかない。

 だから、理解者面してはいけない。

 同情もきっと迷惑だろう。寄り添われ過ぎると、そこには遠慮が生まれてしまう。

 故に、走る。

 自分は彼女の隣を、共に走れる存在になる。

 痛みも、喜びも、ほんの少しずつ分け合って、踏み込み過ぎず離れすぎず、適切な距離を保ちながら、隣を走り続ける存在。

 

 それこそが、友人というものなのではないだろうか。

 

「……んっ。シャワー、雨やんできたみたい」

「ホントだ……まだ時間あるし、先生も寮の乾燥機、使う?」

「あー、そうしようかな」

 

 何だか頭の中がスッキリした気がする。

 いま、ようやく、先生と少しだけ近づけたという、そんな実感が胸に残っていた。

 

「──って、え?」

 

 自分の中の問答が消え去って、ようやく視界が明瞭になったその時に、ようやく気がつくことができた。

 

「ま、待って、先生……っ!」

「どうしたの、シャワー。ずっとそっぽ向いて」

 

 あの、えっと。

 先生が、話をしている間、ずっと膝を抱えていたから、全く分からなかった。

 む、むっ。

 

「先生……! む、むっ、胸元、透けてる……っ!」

「えっ?」

 

 どうして下に着てないのか。なんだか、薄っすらと桜色が透けてて……あわわ。

 まずい、顔が熱くなってきた。

 なんでこんな無防備なんだ。どんな顔すればいいんだ。とりあえずハンカチ渡しておくか。

 

「こっ、ここ、これ……!」

「ありがとう。──あっ、そっか。……ご、ごめん、ブラウス着てくるの忘れてた」

「どうしてぇ……!?」

 

 うぅ、やっぱり、この人が分からない……。

 

 



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アルファ:4

 

 

 翌日にアドマイヤベガとの約束を控えた、金曜日。

 

 午前中に学園を早退し、ウマ化の事情を知る政府の人間に近況報告を行っているうちに、いつの間にか夕方になってしまっていた。

 元から事件の関係者だったとはいえ、接触してきた人間に対して、軽率に自らの秘匿情報を話した件に関しては、こってり絞られた。

 

 政府側も、事情を共有できる人数の少なさから、四六時中監視することはできないので、これからはしっかりと自制するよう念を押してきた、というのが一連の流れだ。

 実際彼らがどこまでやっているのかは分からないが、俺の見える範囲に限り、たったそれだけで済んだのは、偏に秋川理事長のおかげだったのだろう。見えないところで、きっと彼女がいくつもフォローを入れてくれていたに違いない。

 

 だからこそ、俺は反省し、自分の不甲斐なさから意気消沈していた。

 まだ十代の身も心も成熟していない高校生だから、とか、家族もいない天涯孤独の身で唯一実験の被害に遭った人間だから、だとか、そういった言い訳染みた理由はとっくに過ぎ去っている。

 たとえ異世界転移や拉致だろうと、大人から見て俺が頑是ない子供であろうと、巻き込まれた()()()に関しては、全て俺自身の責任なのだから。

 

「……あと二時間後くらいか」

 

 遅くはなるものの、今日は帰ると、秋川さんから連絡があり、どういった謝罪の形を取るかで四苦八苦している。

 事情を話したあの日に、謝らなかったわけではないのだ。

 単純に彼女と過ごす時間が取れなくて、謝罪は時間のかからない上辺だけのものになってしまった。

 だから今日、改めて──と思ったのだが。

 改めて考えると、なかなか難しい。

 

「……んっ」

 

 公園を通りかかると、ベンチに見覚えのある少女が座り込んでいた。

 以前、緊急措置で助けた黒髪の少女のそばに居た、淡い栗色の髪の女の子──確かサトノダイヤモンドだったか。

 まだ学園の生徒ではないし、こんな暗い時間まで、一人で出歩いていい年齢でもないはずだ。

 一応声はかけておいた方がいいかもしれない。

 

「こんにちは」

「ふぇっ! ……ぁっ。こ、この前の、キタちゃんを助けてくれた、お姉さん……?」

 

 

 ……

 

 …………

 

 

 黄昏れていた──らしい。

 サトノダイヤモンドは、生まれて初めて門限を破り、公園でひとり物思いに耽っていたようだ。

 彼女を放っておくこともできず、近くの自販機で買った缶ジュースを手渡しつつ、許可をもらって隣に座ると、少女はポツポツと話を始めてくれた。

 

「地震があったあの日……普段通らない道で帰ろうって、そう言い出したのは私のほうだったんです」

 

 いつも二人で登下校をする彼女たちは、そもそも街の方をあまり通らない、とのことだった。

 工事中のビルや、落ちてくるような看板もない、いま俺たちがいるような住宅街こそが、サトノダイヤモンドたちの帰路だったらしい。

 

「学園の人たちがあそこをよく通るのは知っていたので。もしかしたらマックイーンさんとか、テイオーさんに会えるかもって……でも、あんなこと言うべきじゃなかった」

 

 いつも通りに帰ればよかったと、そう語る彼女の表情は、沈鬱そのものだ。ウマ耳もしんなりと垂れている。

 

「キタちゃんを見る度に思い出すんです、あの日の事。お姉さんが来てくれなかったら、今頃どうなってたか……」

 

 あの場所へ連れ出した、罪悪感。

 どうしてもそれが拭えないのだと、少女は語った。

 

 アレは勝手に揺れた地球が悪いのであって、サトノダイヤモンドが気にすることではないと思うのだが、彼女からすればそういう問題ではないのだろう。

 なんて謝ればいいのか分からない、とのことだった。

 その悩みは、秋川さんへの謝罪を考える今の俺には、ありきたりなアドバイスで済ませてしまってはいけないものだと感じて──結局、一緒に悩むことになった。

 彼女と俺とでは、自分が感じた失敗に対してかなり前提が異なるのだが、懊悩する気持ちは同じだ。

 

 当の本人たちは、絵に描いたような良い人で、明るく振る舞い、こちらの失敗などさして気にしていないように応対してくれるのだ。

 だからこそ余計に分からなくなってしまう。謝りたいのは間違いないが、特別困らせたいわけではないから。

 

「……少しずつ、返していくしかないのかも」

「えっ?」

 

 一発で何とか出来る方法がないのなら、コツコツと贖罪を積み上げていくしかない。

 サトノダイヤモンドは、俺と違って悪いことなど何一つしていないが、事実がどうあれ、本人が自分を許せるようになるかは別の問題だ。

 だから、彼女にも当てはまるようなやり方を考えてみたのだが、これがどうして地味だった。

 

「キタサンブラックの気持ちを察することはできないけど、少なくとも私なら、また以前みたいに普通に接してほしいと思う」

「でも……」

「うん、それでいいのかなって、不安になってしまうよね」

 

 偉そうなことを言える立場ではない。

 しかし、仮にも年上であるなら、選択肢の提案くらいはして、視野の拡張を手伝ってやるべきだと考えた。

 その先で何を選ぶのかは、サトノダイヤモンド本人が決めることだ。

 

「だから、少しずつ。重い物を持ってあげるとか、半分こするような食べ物なら、ちょっと多いほうをあげるとか。そういうのを少しずつ……自分を許せるようになる日まで、さりげなく手を貸す回数を増やす……みたいなこと」

「そ、そんなことでいいのでしょうか?」

「さぁ。あくまで例の一つだから、分からなくなったら、その時はまた相談に乗るよ。はい、連絡先」

 

 スマホを取り出し、IDの交換を済ませると、少女は尻尾の動きを少しだけ活発にしながら、両手で握った画面を見つめた。

 

「まぁ、でも、他に頼れる人がいるなら、その人に相談するべきだと思うけど──」

「あのっ、えと」

 

 俺の声を遮って、サトノダイヤモンドは何とか頭を捻りながら、上手い言葉を出そうと頑張っている。

 そんな健気な彼女の姿に、ふと秋川さんの面影を重ね、俺はハッとした。

 

 ──贅沢な奴だったのだ、俺は。

 俺には最初から、秋川さんがいてくれた。

 孤独だ何だと被害者面していても、この世界で出会ったあの日から、彼女だけはずっと俺の味方でい続けてくれたのだ。

 だというのに、俺は自分の境遇を、不幸自慢のように蒸し返すばかりで、病院の時のように軽率な行動を取ってしまう──ダメなのだ、これでは。

 周囲の人を、よく見たほうがいい。

 そばに秋川さんがいてくれる事のありがたみを、もっとしっかり理解したほうがいい。

 決して不幸ではない。

 奪われ続けるシリアスな人生を送っているわけではないのだから、もう少し自分以外の人々へ向ける意識を、自分の行動の責任を、改めて認識するべきなのだ。

 

 それに気づかせてくれた、目の前にいるウマ娘の少女には、もっと感謝しなければならない。

 相談に乗ったように見えて、その実助けられていたのは、どうやら俺の方だったようだ。

 

「……また、お話しできますか? こんなこと、今日話を聞いてくれたお姉さんにしか……」

「勿論。むしろ、私も相談したい話がいっぱいあるから、気軽に連絡して。……今日はサトノちゃんに会うことができて、本当に良かった」

「っ!」

 

 ウマ耳がピクッと跳ねると同時に、彼女の憂いに満ちていた表情も、徐々に安心したような明るい色へと戻っていった。

 理解者の存在が、何よりも嬉しいものであることは、身をもって実感している。

 俺にはもう十分すぎるくらいの理解者がいるので、今度はこっちが誰かの理解者になる番だ。

 話を聞き、少しだけ提案をする程度だが、それで悩める少女の助けになるのであれば、いくらでも相談に乗ろう。

 それこそが、ようやく見つけた、この世界でのやるべきことだ。

 

「ふふっ……私たち二人だけの秘密、ですね」

「まぁ、そうなるのかな……」

 

 ──と、そんな一幕があって。

 

 サトノダイヤモンドと違い前科まみれの俺は、帰宅後に腹を括り、正面から秋川さんに謝罪の言葉を告げた。

 心の底から、申し訳ない気持ちで──だが、そんな事をするなんてとっくに予想済みだったのか、秋川さんは小さく『めっ』とすると、お風呂掃除の刑で、一連の流れを済ませてくれた。

 本当に優しく、器の大きい人だ。

 彼女があの年で、多くのウマ娘たちが集う学園の理事長を務めあげているその強さを、改めて実感するばかりであった。

 無論、これで許された気にはならず、彼女がウマ娘たちに語る日々精進の精神を、俺も見習おうと気持ちを切り替えた、そんな一日だった。

 

 

 そして、翌日。

 

「………………うそ」

 

 チケットを買ったプラネタリウムの、建物に貼られた『地震の影響で点検中のため明日までお休みです』の文字を発見して、無表情ながらに滝のような汗を噴き出しているアドマイヤベガを一瞥し、今日のデートプランをどうリカバリーしていくのかを考えるところから、約束の日はスタートしたのであった。

 

 



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アドマイヤベガ:1.5

 

 

 

 ──出鼻を挫かれるというのは、まさにこの事だ、と。

 目的のプラネタリウムに掲示された、数日前の地震の影響で休業中、という張り紙を見た瞬間、私はこめかみを押さえながら、そう実感するばかりであった。

 

 今日は朝から、とても調子が良かったのだ。

 全ての準備が順調に進んで、寝癖や服のシワも無く、約束の一時間前に集合場所へ到着し、今日一日のプランは完璧だと自信を持っていた。

 だというのに、開幕からこれでは、まるでお話にならない。

 アルファが集合時間の三十分前に付き、お互い早く来すぎた事を笑いながら──私は若干緊張しながらではあったが、上手く会話を続けながらプラネタリウムまで訪れることができたのに、まさかこんな事になるだなんて思いもしなかった。

 

「あー、ここのプラネタリウムお休みなのか。確かにこの前の地震、けっこう強かったもんね。ベガは大丈夫だった?」

「っ! え、えぇ……自室にいたから、何事もなかったわ」

 

 どうしよう。

 今日、時間を作ってもらうように頼んだのはこちらの方なのに。

 返金対応は営業再開後だろうし、他の予定も全部プラネタリウム鑑賞を前提として組んでいた。内容も事前に調べて、会話は主にそれ頼みだったのだ。

 マズい、ロジックが全て崩壊した。

 お昼はまだ食べていない。プラネタリウムのショップコーナーを、軽く見て回ってからでもいいかなという話になっていたから。でも、この調子でお昼に行っても、美味しく食べているように振る舞える自信が無い。

 気まずい雰囲気で一日を過ごす事だけは避けようとしていたのに、あたふたして次の行動が決められない私には、臨機応変のりの字も無かった。

 

 いつもならこんな事ないのに。

 カレンさんや、普段からよく一緒に走るウマ娘たちと外出するときは、お店が閉まってたり誰かが忘れ物をしたりしていても、事前に予備を用意し、別の店舗を調べておいたりなどもしていた。

 だから、その、つまり。

 ……どうやら、自分が思っているよりも遥かに、私は浮かれてしまっていたらしい。

 こんなはずでは、なかったのだけど──

 

「あっ、そうだベガ。ここがやってないなら、ちょっと予定を変更してもいいかな」

「それは……えぇ、もちろん。構わないわ」

 

 予定の変更。

 それはもしかして、用事が無くなったのなら今すぐにでも帰る、という事だろうか。

 醜態を晒してしまったばかりなので、そう言われても仕方がないとは思う。

 早くも自室のふわふわまんじゅうクッションを、涙で濡らすことになりそうだ。

 

「少し電車に乗るんだ。いこ」

「電車……? ──あっ、ちょっと」

 

 アルファの意図が読めないまま、私は彼を追う形で、プラネタリウム付近の駅構内へと入っていった。

 あまり使わない交通系の電子マネーをチャージして、隣に座った彼の清涼感のある匂いに若干ドギマギしながら、電車に揺られること約十五分。

 到着したのは、トレセン周辺で生活する私たち生徒にはあまり馴染みのない、学園から少し離れた駅だ。

 慣れたように進んでいくアルファに付いていき、雑多な人込みを抜けて外に出ると、目に映ったのはとあるバス停であった。

 

「あの、アルファさん。このバスは……?」

「無料送迎バスだよ。一昨年にできた超大型ショッピングモール行きのやつ。この時間ならまだ乗れると思ってきたんだけど、当たったみたいだね。ちょうど二人分空いてるっぽい」

 

 説明を受けながら彼と座席に座ると、間もなくバスが出発した。

 とても大きなショッピングモールが二年前に完成したという話は少しだけ知っていた。

 しかし、そこへ行く用事も興味も無かったため、そこの概要についてはかなり疎いのだ。モールという存在自体はともかく、そこにどんな施設やお店が内包されているのかは、てんで分からない。

 

「ふっふっふ。実はあるんだよあそこ、プラネタリウムが。映画館の隣にくっ付いてるんだ」

「全然知らなかったわ……」

「駅前のあそこよりは少し小さいけどね。でもそんなに高くないし、せっかくだから知らないとこ行ってみるのも面白そうだと思って」

「……そうね。ちょっと楽しみ」

 

 隣で楽しそうに話すアルファを見ていると、私もその施設に興味が湧き、ほんの少しだけ罪悪感が和らいだ気がした。

 

 切り替えが早く、しかし露骨に気を遣っているとは感じさせない、一見すると普段通りに見える上手な気遣い方──彼にこんな一面があったなんて知らなかった。

 明るく優しい少年ではあるが、そんな大人っぽい部分を見せてくれたことは、あまりなかったから。

 元々持ち合わせていたものだったのか、それとも最近何かがあったのか……いや、それは私の知るところではない。詮索するようなことでもないだろう。

 

 ──それよりも。

 現在私には、ちょっとした問題が発生している。

 

(肩が……当たって……)

 

 喉元まで出かかった言葉は、俯くと同時にお腹の底へ引っ込んでいった。

 そうなのだ。

 この無料送迎バス、空いていた席が最奥の座席だけだったので、他の人たちも座っている都合上、二人掛けの席より少しだけ窮屈になっている。

 別にそこに文句があるわけではない。公共の乗り物というのは、往々にしてそういうものだと割り切っているつもりだ。

 

 ──問題なのは、アルファと私の肩が、隙間が無いほどピッタリくっ付いてしまっている事なのだ。

 彼が譲ってくれたおかげで、私は窓側の席。

 そしてアルファが他の人の隣に腰かけてくれたのだが、彼の横にいる人が少々大柄な男性で、結果密度が高まってしまい、現在に至るというわけだ。

 

「大丈夫、ベガ? ずっと俯いてるけど、もしかして酔っちゃったかな」

「い、いえ、平気よ。ホント、何でもないから」

「そう……? もし辛かったら言ってね。一応酔い止めも持ってきてるから」

 

 心配してくれる彼の気持ちは嬉しい。でも、でもそこではないのだ。別に車酔いする体質ではないし、気分が悪いわけでもない。

 むしろ気分は右肩上がりだ。主に緊張という意味で。

 肩が、当たっている。

 身体と身体がくっ付いてしまっていて、いままで感じたことが無いような、本能を刺激する心地よい緊張が、私の脳を支配している。

 どうしてここまで体が強張るのだろうか。

 カレンさんに後ろから抱きつかれた時や、満員電車で終始にこやかなオペラオーさんとほぼ全身密着していた時など、他人と物理的にくっ付いた経験はそこそこあるし、そのどれでもこんなに顔が熱くなることなんて一切無かったのに。

 

 ──アルファが男の子だから、なのだろうか。

 思えば、男子と触れ合ったことなど、これまでの人生でほとんど無かった。

 小学生の頃によく追いかけっこをしていたけれど、終ぞ卒業まで男の子に捕まったことは無かったのだ。

 だって、かけっこをしてウマ娘に追い付ける男子なんて、この世には存在しないから。

 それがこの世界での常識で、ウマ娘と男子の決定的な違いなのだ。

 誰もが分かっていることだし、子供の頃から飲み込んできた不変の摂理だ。

 

 なのに、彼はどうだ。

 頭上の耳、毛並みの良い尻尾、どれを取ってもウマ娘なのに、彼の正体は男子そのものだ。

 世界の理からして異なるはずの壁を壊すかの如く、私と同じ特徴を持っている。

 ウマ娘しかいない学園に一緒に通って、いつでも話すことができて、たぶん鬼ごっこをしても、私に追い付くことができる、同い年の少年。

 いるはずのない、本の中でしか見たことがないような、どんなウマ娘でも一度は”いるかもしれない”と想像するけれど、現実ではあり得ない存在。

 

 そんな物語の中にしかいないような人が今、私の隣にいて。

 ()()()()笑いかけてくれている。

 自分だけが、彼の秘密を知っている。

 筆舌に尽くしがたい優越感と、触れたことのない男子の感触を直に感じて、耳まで茹で上がった私は、緊張のあまり何も喋れなくなってしまっていた。

 

「ぅ、うぅ~……っ」

「ベガ、ベガ。ほんとにだいじょうぶ? ほらこれ、酔い止めのアメ」

「いらないわ……」

「あっ、ならお茶とか」

「平気ですわ……」

「そ、そっか。確かに、外を見てた方が楽か。いちいちゴメン……」

 

 優しい。その優しさの矛先が、今この瞬間においては私だけのものだと分かり、口角が歪みそうになってしまうし、言葉遣いも変になってしまう。

 それを隠すかのように、私は窓を向いて、外の景色に集中するのであった。

 早く到着して、はやく。

 



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