ケロイド (石花漱一)
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帰省編
一、アグネスタキオン(前編)


 このところ自分の教え子に不確定な好意を抱く。それは、教える立場として如何なものだろうか?トレーナーの立場としてどうなのだろうか?歓迎されるものだろうか?あの子に歓迎されても世間一般はそれを認めるだろうか?それとも、あの子にはこの想いは歓迎されはしないのだろうか?不可解な想いが、脳裏を、胸の内を渦巻く。あの子が好き。ただ、それだけでいられたらどんなに楽だろうか。きっと、もっと頭を悩ませずに軽く気持ちの告白ができただろう。それが一番楽だ。楽で喜ばしい事だ。例え、顔をそっぽに向かれたとしても、気楽にいれるだろう。しかし、俺はそうではなくなった。想いを抱え込むあまり、いつしか好意が自分の一部と化している。これがなくては生きてはいけないのだろう。この想いをどうすればいいのか?いつか向き合わねばならないときがくる。それとどう向き合えばいいのか俺には分からない。分からないまま今日も生きている。

 

 

一、アグネスタキオン

 

 今日も一日が始まった。悩める心に少しの不安を抱きながら、今日も田上圭一(たのうえけいいち)は起きた。何か夢を見たような気がした。どんな夢だったか思い出せない。――確か、…薄く黒いベールの向こうにタキオンが歩み去っていく夢だったような気がする。その時に話をしたが、なんだったか…。分からない。

 田上は、体を起こした。決して安眠だったとは言えなかったかもしれないが、それはいつものことで、よくある体調の波の様なものだった。良いときは良い。悪いときは悪い。そんなものだ。そう思うと、田上は、体を起こすとカーテンを開け、そのまま洗面台へと歩いて行った。

 鏡には、自分のあまり柄の良くない髭面が映る。目つきは悪いし、目の下には隈がある。人に生来好かれたことのない顔だ。この顔を好きになる人といったら、母親くらいなものだろう。その母親も今は、病気で天国へと旅立った。眩しい笑顔をした母親だった。田上は、そう思うと、鏡の前で二ッと笑ってみた。髭面が、不気味に歪む。――やっぱりだめだ。この顔で人にモテようと思う方がおこがましい。田上は、そう思うと、顔を洗い髭を剃った。髭を剃ればいくらか、マシになった。この土日、タキオンとのトレーニングもなかったため寮の部屋の外には出ず、ずっとゴロゴロしていた。携帯ゲーム機やパソコンのモニターなどが、机の上にあるのが見えるだろうか?それが、この二日の田上の生活だった。ご飯などは、土日に籠るために前もって買ってきて冷蔵庫に入れておいた。久々に人と隔離できた生活ができたような気がした。この寮の部屋には、シャワールームしかなかったが、体も清潔に保てたし、やりたいことも満足にできた。寮にいたのでは、ひっきりなしに誰かが訪ねてきたりするので、一人になれる時間がなかった。だから、これも前もって友人らに声を掛けて、「ゴロゴロするから誰も来るな」と言っておいた。友人らは、笑って頷いた。「そうしたい時もあるもんな」

 それから、月曜になるまで、田上はゲーム三昧で過ごした。いい気持だった。何もかも忘れる、ということはできなかったが、ある程度忘れることに成功して生活をすることができた。その忘れたことにタキオンへの想いも混ざっている。田上は、自身の教え子であるアグネスタキオンというウマ娘のことが好きだった。いつからかは分からない。少なくとも、初めて出会ったときは、好きではなかったはずだ。初めの印象は、顔色の悪い、眠たそうな目をした子供だった。それがいつしか好意に変わった。彼女に触れていくにつれ、彼女が生活の一部になるにつれ、好意を持っていった。年下の子供だということは分かっている。田上が今、二十五で、タキオンが今、十七だから八つも年が違う。それも、思春期の子供だ。娘かと間違えてしまうくらいには幼さが残っていたりもする。しかし、同時に大人の階段を一歩ずつ着実に上ってきたところだった。時々、ハッとするような美しさを持っていた。だから、田上は、タキオンに惹かれたのだ。では、タキオンはどうなのだろうか?田上に好意を持っているのだろうか?それは、田上には分からなかった。どうも彼女は、相手との距離が近くても構わない人だった。その仕草に女慣れのしていない田上は、ドキドキさせられるのだが、タキオンは相変わらず田上を見てくれているのかどうなのか分からなかった。この前も衝撃の事実を告白されたばかりだ。今は菊花賞を終えたばかりだから少々油断をしていい時期だった。その菊花賞の数日後にタキオンからとんでもないことを聞かされた。なんと、タキオンの足は、本当は菊花賞を走りきれなくても仕方のないくらい危険な状況だったと言う。

 この言葉に田上は、相当なショックを受けた。その後も話を聞いていくと、トレーナーとして自分の思ってもいないような話を聞かされた。プランAとプランBがあったり、タキオンが自分の脚を見捨てようとしていたり、それを田上の言葉が予想もつかない場所で食い止めていたりしていた。それを聞いて田上が思ったのは、自身が何の役にも立てていないことだった。確かに、彼女の胸には田上の言葉が刺さっていたのかも知れないということは、田上も理解していた。しかし、同時にそんな危険な綱渡りをしている彼女の手をしっかりと握ってやれなかったことを後悔した。タキオンは、田上の言葉を携えて一人で綱渡りを成功させたのだ。――それは、もしかしたら信頼されていない証なのかもしれない。タキオンにとって危ない橋があるのなら、俺に言っても良かったのじゃないか?俺はそんなに頼りない存在だったのか?様々な思いが田上の頭の中をよぎったが、とりあえず、その場では喜ぶことができた。その後、様々な思いがあり、田上はこの休日で部屋にこもることで考えることをやめようと思ったのだ。上手くいったかいっていないかで言えば、上手くいった方だと思う。ゲームに熱中することができて、考えに耽るのは夜寝る前の時くらいで、その時間もゲームで削りに削ったから、あまり大した物思いにならずに済んだ。しかし、今日という月曜日が少し憂鬱になったりもした。

 鏡で顔を洗うと、目の下の隈が少し気になったが、そう気にしている余裕もなく、扉がドンドンと叩かれる音がした。――早速来た。田上はそう思った。まだ、パジャマから着替えていなかったが、仕方がないのでドアを開けた。見ると、栗毛の可愛らしい少女が、興奮した面持ちでドアの前に立っていた。田上が、ドアを開けると、その女の子はすぐに話し出した。

「トレーナー君、新しい薬を徹夜で作り上げてきたよ!……って、君、なんだい?その目の下の隈は?」

 タキオンだった。田上は、その少女の姿を見て、声を聴くと、心臓の鼓動が速まった様な気がした。その心臓を無理に抑えつつ、田上はタキオンの話に返事をした。

「お前こそ、その目の下の隈。本当に寝てないな?」

「いやいや、君こそ寝ていないだろ!君は貴重な実験体なんだ!ほら、ちょっと目を見せてくれ」

 タキオンは、そう言って、田上の顔を自分の顔に近づけた。その時、田上は、自分の心臓が確かに跳ねたのを確認した。

「ほら~、君、目が充血しているじゃないか。寝ていない証拠だよ」

「…少しは寝たよ」

 田上は、慌ててタキオンから顔を引きはがして、できるだけ冷静に言った。

「い~や、君は寝ていない。十分な睡眠を取っていなければ、寝ているとは言えないんだ。だから、ほら、君が不健康なせいで、私の実験が上手くいかないじゃないか。これじゃ、実験は繰り越しだな。ふぁ~~あ」

 最後にタキオンは、大きな欠伸をした。田上は、タキオンの言葉に申し訳ないと思いつつも反論した。

「タキオンも寝てないだろ?睡眠不足は美容の天敵ってよく言うし、それに徹夜した方が、次の日のダメージはでかいだろ?」

「……」

 タキオンは、黙ってこちらを睨んだ。それから、腕組みして言った。

「それは君も同じだろ?今日の放課後にはトレーニングがあるなんて言っておきながら、大きなハンデを背負ってそれに挑むのかい?…そして、この会話は不毛だ。どっちも不健康なら仕方がない。来週までには絶対に、健康万全にしておいてくれよ。じゃあね」

 タキオンは、そう言うと、欠伸をして去っていった。田上は、その後ろ姿をいつまでも眺めていたかったが、廊下の方にちらほら見えるトレーナー陣の視線が怖かったので、少しだけ躊躇った後、ドアの内側に引っ込んだ。

 ドアの内側に引っ込んだ後も心臓の鼓動の速度が戻らずに苦労した。それよりもむしろ速まった様な気さえある。鼻と鼻が付きそうなくらいに近い距離で見つめあった瞬間など今まであっただろうか?こういう時に、自分の考えをどう処理すればいいのか分からなかった。大の大人、二十五歳が中学生のように身悶えしていた。

 

 胸の奥が痒くなるような感覚があるだろう。その感覚が、タキオンに恋している田上にもあったのだ。搔きたくて掻きたくて、最後には心臓を取り出してしまいたい。そんな感覚にとらわれる瞬間がある。例えば、タキオンにドキドキする瞬間があったときなどだ。今がそのような時だろう。田上は、どうしようもない痒み、掻こうにも胸の奥が痒いから掻けないその思いに苦しんでいた。しかし、それは、少し喜ばしいことでもあった。田上には、その感情が何なのかはわからないが、とりあえず今日も生きている。

 田上は、恋というものをこれまで、幾度もしてきたがこれ程までに好きになった人物はいなかった。中学生の時の最後に好きになった人がそれに近いと思ったが、やはりタキオンまでに想いを募らせはしなかった。これは、なぜなのだろうか、と思った時期もあったが、結局、これが本当の恋だったのだ、ということで決着をつけた。しかし、この答えにもあまり納得はいかなかった。恋にも種類があるのだろうか?そう思ったのだ。偽物の恋があれば、本物の恋があるのだろうか?それとも良い恋があれば、悪い恋があるのだろうか?田上には、そこの所が分からなかった。分からないことだらけだった。だが、やっぱり今日を生きている。

 田上は、自分の気持ちに整理がつかないまま、出勤の支度をした。パジャマからワイシャツに着替えるときに、眼鏡をかけた。実を言うと、あの時、タキオンの顔は鮮明には見えていなかったのだが、朧げな顔の形だけが見えたとしても田上にとっては嬉しいことだった。タキオンの姿が見えたというよりも、タキオンが自分を訪ねてきてくれたことが嬉しかったといえるだろう。それに、眼鏡がない分、今日はより顔が近く見えたような気がした。タキオンは、たまにあのような顔と顔を近づけて体調の確認をするという方法を取るのだが、今日は、眼鏡がないだけ少し近くに来ていたような気がした。だが、そうは言っても、そのように顔を近づける際は、眼鏡を外されたりする場合も多々ある。それでも、今日は、一段と顔が近かったような気がした。今でもあの顔を思い出すだけでドキドキするが、少しは平常心に近づけるようになった。だから、田上は、寮のドアを開けて、自身のトレーナー室へと出勤への一歩を進めた。

 

 寮の共同スペースである、広い部屋に大きなテレビ一台とソファーがいくつか並べられている部屋に来た。そこは、男たちで賑わっていた。自分より背の高いのだったり、自分よりも眠そうなやつだったり、様々な人がいた。その中に、仲のいい友人の一人を見かけた。ちょうど、ソファーに座って、スマホを眺めているところだった。田上は、後ろから声をかけた。

「よう、霧島(きりしま)。ちゃんと約束守ってくれたんだな。ありがとう」

 霧島は、振り向いた。髪の短い、スポーツマン感溢れる人物だ。内面も外見と同じように、スポーツが好きで明るい誠実な人だった。しかし、同時にゲーム好きでもあった。だから、田上と話が合って、よく田上の部屋に訪れたりしていた。田上にしてみれば、いい迷惑だった。田上と霧島は、同じゲーム好きと言っても、プレイスタイルが違った。田上は、一人で黙々と楽しみたい派。霧島は、皆でワイワイ楽しみたい派だった。この違いから、少し迷惑をしていたのだが、田上は別に皆でワイワイ楽しむという事が嫌いではなかったため、霧島が、格闘ゲームをしようぜと行って来たら、迷いながらも頷いていた。

 霧島は振り向くと、田上の顔を見て、おお、と声を上げて言った。

「お前に釘を刺されたから、部屋の前まで行って思い出すってこと何回もしたよ。一人でするって暇なんだもん」

 霧島が、唇を尖らせてそういうと、田上は、少し笑って言った。

「お前、俺の部屋の前まで来てたのか?本当に?」

「本当だよ。それでお前の言葉を思い出したから、また仕方なく戻るってことを二,三回繰り返したよ」

 田上は、ハッハッハと笑った。

「それが正解だよ。お前が扉を叩いても、この土日だけは絶対に開けなかったからな」

 それを聞くと、霧島が顔をしかめて睨んできた。その様子が、タキオンとそっくりだったので、田上は思わずドキリとしてしまった。何か、嫌な気分だった。

 霧島が言った。

「お前、この土日が一番楽しかったゲームイベントがあったんだけどな」

「残念、それは俺が部屋で一人でやった」

 田上は、少しニヤっとした。

「うわ~、ずるいな~。お前、俺とお前の間に友情ってもんはないのかよ」

「ないね」

 田上は、そうお道化た様に言った。それから、ふっと時計を見ると、もうトレーナー室に行きたい時間だったので、田上は言葉を続けた。

「悪い、俺はもう行くよ。まぁ、とりあえずは、土日は俺の集中を乱しに来なくてありがとな」

「おお」

 霧島は、そう言うと、また自分のスマホの方に戻した。田上は、人と話せたおかげか、大きく眠気が取れたような気がした。しかし、それも、トレーナー室に着いてしまえば消えてしまい、また眠気が盛り返してきた。

 

 気が付くと、自分の机の上で眠っていた。入ったところまでは覚えているのだが、その後の記憶がなかった。確かに、机の所までは歩いたような気がする。朦朧とした意識の中に微かに残っている記憶の糸を辿った。――多分、机のところまでは歩いた。その記憶がある。しかし、座った記憶まではなかった。田上が、体を起こしてみると、肩にかけられていた白衣がサラッと落ちた。タキオンの白衣だった。そのことを確認すると、田上の心臓が高鳴った。匂いを感じた。甘くほのかに香るタキオンの匂い。それと合わさった薬品の鼻をつく匂い。どうしようもなく胸がドキドキした。――タキオンが、ここに来たのだろうか?時計を見てみると、もう朝の十時になっていた。タキオンが、来る時間は十分にある。きっと来たのだろう。そして、自分が寝ていたのを見てタキオンは自分の白衣をかけてくれたのだ。十一月も少し入った頃だったので、ちょっと肌寒さを感じる時期でもあった。タキオンは、それに配慮して風邪をひかないようにしてくれたのだ。なんと優しい子なんだろう。田上は、そう思った。しかし、すぐに別のことに気が付いた。あの子の白衣の下だ。あの子は、何を思っているのか知らないが、白衣の下には、上着しか着ていなかった。下は、タイツのみで、丈の長い上着でそれをごまかしていたのだ。田上は、それを見てはいつも冷や冷やしていた。何回か注意もしたことがある。しかし、彼女は、ふぅん、と田上を値踏みするように見つめるばかりで改善はしてくれなかった。田上は、この白衣が最後の砦だと思っていた。この白衣があれば、せめて、無防備な尻が大衆の目に晒されることはない。なのに、今は田上が持っている。田上は、ため息をついた。彼女にこれを返しに行こうと思ったからだ。

 まだ少し眠たい頭を振って、田上は立ち上がった。すると、机の目の前にあるドアが勝手に開いた。そして、中に入ってきたのはタキオンだった。タキオンは、部屋に入ると真っ先に自身のトレーナーを見つけて呼んだ。

「やあ、起きたんだね。ちょうどよかった。その白衣を返してもらおうと思って、思ったより寒くてね」

「ちょうど俺も返そうと思っていたところだよ。けど…」

 田上は、そこで言葉を切った。自分の下心と勘違いされるのを少し恐れたからだ。だから、タキオンが言葉の続きを催促した。

「けど、なんだい?言いにくいことなのかい?それとも…、ああ、分かったよ。また、私の勝負服の件だね?それなら、君の言葉は聞き入れないから、その服を早く寄こしたまえ」

「俺の話は聞かないって…。タキオン、その服装普通じゃないんだよ?その…せめて下を穿いたらどうなんだ?」

「穿いてるじゃないか、タイツを」

「タイツじゃ隠せるものも隠せないだろ!」

 田上は、思わず語気を荒げた。すると、今度はタキオンが霧島そっくりの顔つきをして、田上を睨みながら言った。

「君が何を想像しているのかは知らないが、見えてますよ、と声をかけられたこともないし、例え見えていたとしても、それはパンツだ。ただの布だ。これ以上に言う事があるかい?…せっかく、私の脚で菊花賞を走り抜けて、ハッピーエンドにしたというのに、ここで仲違いをさせる気かい」

 田上は、言葉に詰まった。言いたいことはそういうことじゃない。タキオンは、何も分かってくれてはいない。そう言いたかったのだが、なぜか言葉が出てこなかった。代わりに、大きなため息が出た。そして、机の上に白衣を置いた。

「持って行ってくれ」

 タキオンは、顔をしかめた。

「君が私のところに持ってきたまえ」

「いや、持って行ってくれ」

 そういって、田上は、椅子に座った。それから、腕を組むと、それを机の上に置き、顔を見せないように寝ようとし始めた。田上が、見えないところから、タキオンの足音が聞こえた。タキオンが、机の上にある自分の白衣を手に取るとぼそっと呟いた。

「困ったらすぐにふて寝かい?いつまでそうしておくんだい?君の機嫌に合わせるのにも限界があるんだよ?」

 タキオンは、そう呟くと、上着を羽織り部屋のドアを開けて出て行った。田上は、嫌な気分だった。自分の思い通りにいかない何かに苛立ちがあった。黒くドロドロと渦巻いていた。汚い墨のようだ。様々なごみでその墨は汚されていた。

 田上は、苛立ちを抱えたまま、再び、眠りについていった。苦しくて嫌な夢だったのは覚えているが、内容までは全く思い出せなかった。

 

 田上が、次に起きたのは、十二時少し前だった。もうすぐウマ娘たちの昼休みが始まるころだったが、タキオンには関係がない。それは、タキオンが、大抵の授業は欠席してすましているからだ。もちろん、彼女がいうには最低限の授業は受けているらしい。彼女が、そう言っているのだから、田上にも言うことはなかった。それに、欠席していると彼女がたまにここに訪れる事があるので、欠席してくれた方が田上にとっては嬉しかった。タキオンと同じ空間で時を過ごせるからだ。トレーナー室のソファーにタキオンは座り、読書を嗜む。その後ろ姿をソファーの斜め左後ろの机から時折眺めて、自分は仕事をする。タキオンが、紅茶を啜る音と、自分のパソコンのキーボードの音しか聞こえない世界だったが、幸せな世界だった。だが、今日は、それもないかもしれない。タキオンは、自分とは顔を合わせたくはないだろう。田上は、そう思った。

 それから、しばらくの時間が過ぎた。十二時半だ。コンコンと自分の部屋のドアが鳴って、誰かの来訪を告げた。田上は、誰だろう、と疑問に想いながら、入室を許可する言葉を発した。入ってきたのは、マンハッタンカフェ。タキオンと休憩部屋を同じくしながらも、仕切りでその部屋を区切って、決して見ることのできないようにしているウマ娘だ。だが、時として、それは無神経なタキオンに破られることがある。田上は、タキオンが何かして苦情が来たのかと思ったが、カフェが話し始めたことはどうやら違った。

「タキオンさんが、トレーナー君の昼食を持ってきてくれ、って言ってました。あの人が落ち着かないとこちらも落ち着かないので、仕方なくお遣いに来ました。早くお弁当を出して下さい」

 田上は、そう言われた途端、あっと叫んだ。カフェが、目を見開いた。

「…まさか、あなた、忘れたんですか?タキオンさんの昼食を作るのを」

「完全に忘れてた…。ごめんだけど、カフェさん…」

「嫌です」

 田上が、言葉を言いきらないうちにカフェがそう言った。

「あなたの失敗なんですから、あなたが責任取ってください」

 無慈悲にもカフェはそう言った。

「あなた方がなんで喧嘩をしているのかは知りませんが、その尻拭いは、私の役目ではありません。最大限譲歩して、私がタキオンさんのお遣いをしに来たんです。それを完了できないのならば、あなたが責任を取ってください」

 カフェは、あまり感情の分からない子だったが、田上が見てもこれは怒っていると勘付いた。ただ、田上にもやっぱり事情があって、それを譲りたくはなかった。だから、少し怒らせないように慎重に言った。

「カフェさんの好きなものとか…」

「嫌です」

 カフェは、田上に喋らせてはくれなかった。

「大体、あなた方に、菊花賞を取られたのも心外でなりません。私は、ステイヤーだったからあの菊花賞をあなた方以上に狙っていたというのに、前走の日本ダービーで負けていたタキオンさんにその座を奪われるなんて。あのヘラヘラした動物が、私以上に速かったというんですか?心外です。悔しいです。…それなのに、あの人の使い走りをしている私の気持ちが分かりますか?天皇賞・春にタキオンさんを出させなさい。それ以外にこの話はありません」

 田上は、その話に眉をひそめた。

「じゃあ、元々その話をするつもりでここに?」

「いや、今思いついた事ですが、この話もしたかったことです。さあ、天皇賞・春にタキオンさんを出走させてください。そうすれば、面倒くさいですが、私がタキオンさんを処理します」

「…出走って言っても、今のところ、長距離は避けて中距離に行く予定だし、そもそもそれもタキオンと話し合わないといけないから、今決めれないなぁ」

「では、腹を空かせて待っているあなたの可愛い子猫でも想像して待っていてください。私は、どこかに避難します。私のトレーナーさんのところがいいかもしれませんね」

 カフェは、そう言って、背後にあるドアを開けて立ち去ろうとした。田上は、慌ててそれを呼び止めた。

「タキオンは、研究室にいるのか?」

「…いや、ここにいるよ」

 突然、ドアが開いて、タキオンが入ってきた。

「君たち、変な話をしているから中々入って行きづらかったよ。…それで?カフェ。私に負けたのが悔しいのかい?」

 タキオンが、ニヤッと笑ってそう言うと、カフェが顔をしかめた。

「…あなたに聞かせるつもりはありませんでした」

「そうかい、そうかい。…で、トレーナー君、昼食は?」

 タキオンが、田上に手を差し出すとカフェが横から口を挟んだ。

「そうです。あなた、私にお遣いに出させておいて、自分も来たんですか?」

「ああ、君に頼んだのは良いけど、やっぱり自分で行く方が手っ取り早くてよさそうだと思ったわけだよ」

「…あなたたち、喧嘩をしていたんじゃなかったんですか?」

「喧嘩?していたさ。今もしている。ただ、私は、昼食を取りに来たんだ。トレーナー君と話をしにきたわけじゃない」

 そう言って、タキオンは、トレーナーの方を横目に睨んだ。

「この人いちいちうるさいんだよ。カフェも分かるだろ?」

 カフェもまた、田上を睨んだ。そして、数秒黙った後、言った。

「…私には関係のあることじゃありません」

「つれないねぇ」

 その時、タキオンの腹がグゥと鳴った。

「そうだそうだ、トレーナー君のご飯を受け取りに来たんだった。ちゃんと作っているんだろうね?」

 田上は、座っている椅子からタキオンを見上げたまま、黙って首を横に振った。

「作っていない!?君、何のために私のトレーナーをやっているんだ。今朝は、薬を飲めないし、今は昼食を作ってもくれない。君、本当に何でいるんだ?」

 辛辣だった。田上は、うつむいた。それを見かねたカフェが、「少し言いすぎじゃないですか?」とタキオンを諭した。タキオンは、少し表情を曇らせた後、静かに言った。

「すまない、少し言い過ぎたよ。…それにしても昼食がないのかぁ。カフェテリアに行って少しつまむとするしかないのかねぇ」

「カフェテリアがあるじゃないですか。最初からそっちに行けば良かったのに…」

 カフェがそう呟いた。

「バカ言え。トレーナー君が昼食を作っているものだと思っていたから、カフェテリアに行かなかったんだ。その方が、研究室に籠るには都合がいい」

 タキオンとカフェは、そう言って、トレーナー室のドアを開けて、去っていこうとした。田上も話が終わったと思って、自身のパソコンの方に向かった。しかし、ドアを閉めようとしたところで、タキオンが振り返って言った。

「…トレーナー君もその様子では昼食を食べていないんじゃないのかい?」

 田上は、少し顔を上げた。タキオンの少し寂しそうな目が見える。タキオンは、言葉を続けた。

「約束したろ?来週までには健康万全にするって。今から、その約束を破ろうと言うのかい?」

 これは、タキオンの最大限の譲歩だったと思う。田上は、低く暗い声で、「ああ、行くよ」と言った。田上の好きなタキオンの優しさに今日も甘えた。

 



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一、アグネスタキオン(後編)

 カフェテリアに着くと、そこはまだ人で溢れかえっていた。昼食が始まってから三十分たったのだが、まだ、人の減る様子はないようだ。このカフェテリアは、広いには広いし、厨房にもたくさん人はいるのだが、育ち盛りのウマ娘の食欲を抑えきるには時間がいるようだ。タキオンもその一人だったのだが、今日は、少し量が少ないようだ。田上は、思わず、今まで閉じていた口を開いた。

「今日は食欲がないのか?」

 タキオンは、自分の運んでいるお盆を見た。そして、驚いたような顔で自身のトレーナーを見つめて言った。

「食欲…はいつもよりかはないが、気にするほどのことでもないさ。ただの誤差だよ」

「…そう、ごめん」

 そう言うと、田上は、また口を閉じようとしたが、タキオンが少し怒ったふりをしながら言った。

「ごめんってなんだい?ごめんって。まさか、さっきの口論のけりを今つけようってのかい?そんなことは許さないよ。私は、ごまかすような男は嫌いだ」

 田上は、困惑した眼差しでタキオンを見た。すると、タキオンが言った。

「冗談だよ冗談。君、本当に面白い顔をするねぇ。遊び甲斐があるよ」

 その時、カフェが後ろで咳をした。振り向くと、苛立ちの籠った顔でこう言った。

「コーヒーが甘くなります」

 手に持った缶コーヒーを軽く振りながら、カフェは、後ろについてきていた。そして、カフェに会話を邪魔されてからは、二人とも口を閉じて、ただ、黙々と自分たちの座るところを探した。

 結局見つかったのは、料理を受け取る場所から一番遠い、壁際の席だった。そこにタキオンとカフェが隣同士で、田上がカフェの正面の席に座った。田上は、タキオンの真正面に座るのは、正直生きた心地がしなかったので、カフェの前に座った。カフェは、そんな田上の様子を見て、少し顔をしかめた。

 このテーブルでは、田上は会話には参加しなかった。ただ、喋る人がタキオンしかいないので、会話というよりもタキオンが一方的にカフェに語りかけているだけだった。その中に、こんな話題があった。

「カフェ、カフェ。この勝負服どう思うかい?」

 タキオンは、白衣を広げていった。カフェは、缶コーヒーをじっくりと飲み込みながら、それを横目で見て、数秒後に言った。

「もう少しどうにかならなかったのか、と思います」

「君もかぁ~。…今朝これで、トレーナー君と口論をしたんだ。トレーナー君曰く、隠せるものも隠せないんだってさ」

 タキオンは、田上が目の前にいるというのに、遠慮なくそう言った。その時は、横目で自身のトレーナーの反応を窺いながら言っていた。田上は、反論したかったが、そんな元気はなく、カフェが話すのを待った。

「…確かに、随分破廉恥な格好ですね。タイツだけなんて、気でも狂ったんですか?」

「何!?タイツは、ズボンだろ?その下にパンツを穿いているじゃないか?カフェもそうだろ?」

 そうタキオンが言うと、カフェもさすがに戸惑った。そして、田上の方をチラと見てタキオンに言った。

「ここには男性がいて、そして、私の下着事情なんて明かす気はありません。こういう心がないからあなたは、ここにいるトレーナーさんと喧嘩したんじゃないんですか?」

「口論だよ」

「さっきあなた、喧嘩したって言いましたよ。それに、喧嘩も口論も変わりません。これ以上、私に口答えするのなら、私はここを立ち去ります。ちょうどコーヒーもなくなった事ですしね」

 カフェは、そう言うと、タキオンを置いて立ち去ろうとした。その袖にタキオンは縋りついた。

「待ってくれよ~。トレーナー君と二人きりじゃ何話したらいいか分からないじゃないか」

「勝手に話せば良いじゃないですか」

 カフェは、そう言って、タキオンの腕を振り払った。

「君、私が口答えしたら立ち去るって言ったじゃないか!」

 立ち去るカフェの後ろ姿にタキオンがそう叫んだ。カフェは、カフェテリアを出る前に、一度タキオンの方を振り向いたが、いい気味だ、という風に鼻を一度鳴らしただけで何も言わずに去って言った。タキオンの前には、喋るのに夢中で全然手をつけていなかったカレーの大皿が残った。それを見ると、タキオンが呟いた。

「参ったなぁ。喋るのに夢中になって手をつけていなかったけど、少し食べただけで、食欲が失せちゃったよ」

 田上は、もう食べ終わったので、そのタキオンの様子をじっと見ていた。タキオンは、面倒くさそうにカレーをスプーンで口に運びながら、時折、手遊びをしスプーンを眺めた。もう、カフェテリアも終しまいになりそうな時間だった。あと五分ほどだ。タキオンは、まだ食べ終わりそうになかった。

「食べようか?」

 田上が不意にタキオンに声を掛けた。すると、タキオンは嬉しそうに目を輝かせた。

「その言葉を待っていたんだよ。君、全然声をかけてくれないから、もうこれを残してしまおうかと考えていたところだったよ」

「そうか。…でも、俺ももうご飯は食ってしまったから、全部は食い切れない。タキオンも最後まで食べてくれないか?」

「ああ、いいとも。お安い御用さ」

 そう言って、タキオンは皿を机の中央に寄せようとしたが、田上は、首を横に振って、右寄りの中央に戻した。そして、自分は席を移動して、タキオンの正面についた。先程まで面倒くさそうだったタキオンの顔が急にニコニコしだしたのを見て、田上は少し嬉しく思った。――やはり、彼女はこの顔をしている方がいい。そう思ったのだ。

 それから、二人は黙々と、しかし、にこやかに料理を食べ続けた。タキオンの食べる速度は急に速くなったように思えた。事実、残りの四分の三はタキオンが平らげてしまって、田上が食べたのは、四分の一程度だった。そして、カフェテリアが閉まりますよ、というころには、二人は完食できていた。自分たちの皿をそれぞれに持ち運んでいる途中でタキオンが言った。

「……やっぱり、タイツだけはまずいのかなぁ」

 田上は、何も言わなかった。しかし、目線だけはタキオンの方にやってみると、タキオンもこちらを見ていて、目が合ってしまった。

「君の考えではまずいと言うのだろう?」

 田上は、コクリと頷いた。

「ふむ……、この下にスカートでも穿いてみるか。君もその方がいいのだろう?」

 田上は、この問いには、あんまり反応はしたくなかったのだが、実際のところはそうなので、躊躇いながらも頷いた。すると、タキオンが笑い出した。

「君のその反応!面白いねぇ。日本人らしい躊躇い方とも取れるけど、やはり君自身が躊躇いを覚えたのだろう?自分の意見を発するのに。どうなんだい?」

 田上は、また困惑した眼差しでタキオンを見つめた。

「…どうやら、あんまり話したがらないようだね。…ふぁ~~あ、昼ご飯を食べたら何だか眠たくなってきたよ。トレーナー室で寝よう」

「…午後の授業は?」

 田上は、低く呟くように言った。

「そんなもの初めから出る気はないよ。まだ、研究室でしたいこともあったんだけどね。何しろ眠くって。ふぁ~~あ、…決めた。これを片づけたら絶対に眠るからね」

 タキオンは、そう言うと少し早足になった。田上は、置いていかれまいと、自分も早足になった。そして、二人は食器を厨房の前の洗い籠の中に入れると、トレーナー室へと急いだ。

 

 タキオンは、トレーナー室に着くと、早速ソファーに寝転がって眠ろうとし始めた。しかし、体を半分寝かせたところで、「そうだ」と言って、部屋から出ていった。田上は、二人でこのトレーナー室でのんびりできると思っていたのに、タキオンが自分に何も言わずに出ていってしまって少しがっかりした。けれども、田上も午前中に眠っていてできていなかった仕事があるので、それに集中しなければならなかった。それは、今後の予定と明日の昼食のことだった。

 十数分したとき、またトレーナー室のドアが開いて、タキオンが入ってきた。白衣の下には学校のスカートを着ていた。

「いや~、無駄に広いねこの学校は。おかげで眠くって眠くって。…そうだ、トレーナー君。これで満足かい?しっかり、パンツを隠せていて、十分過ぎる程だろう?」

 タキオンは、良く見えるように白衣の裾を持って、たくし上げた。田上は、少しだけ反論した。

「スカートが十分過ぎるってことはないと思うけど…」

「まだ文句を言うのかい?」

「いや、別にそれでいいよ。ありがとう、…なんか」

「なんか?ハッハッハ、なんかとはなんだい?君、相変わらず曖昧な物言いをするよ。…ああ眠い。もうだめだ寝よう」

 タキオンは、一瞬前まで笑っていたのに、急に眠気が来たようで、ソファーに体を預けるとすぐに眠りにつき始めた。やがて、自分が叩くキーボードの音とタキオンの寝息しか聞こえなくなった時、田上は、これまでにない幸せを感じて、そして、それに抵抗するようにふんと鼻を鳴らした。

 

 その頃、タキオンは夢を見ていた。縄跳びをする夢だった。子供の頃の記憶だろうか?しかし、タキオンにはそんな子供時代はなかった。終始、友達とは交わらず、教室の窓からその光景を見ているだけだった。

 夢の中のタキオンは、友達と郵便屋さんの歌を歌いながら縄跳びをしていた。「郵便屋さん、落とし物」から始まり、一枚二枚とどんどん数を数えていった。そして、十枚になった時、終わりになるのかと思ったらそうではなかった。友達は、数えるのをやめなかった。

「タキオンちゃんはまだ飛べる」「タキオンちゃんだったら行けるよ」

 その子たちは口々にそう言った。タキオンは、困惑し、そして、怒った。

「もうこんなのしない」

 そう言うと、まだ回っている縄を無視して、タキオンは、学校の校庭の別の方に歩いていった。それから、後ろを振り返ってみると、もうその子たちは別の子を縄の上に置いて遊んでいた。タキオンは、悲しくなって、…そこで夢が途切れた。

 起きると、自身のトレーナーが携帯ゲーム機を持って、夢中で遊んでいた。

「おはよう、トレーナー君」

 タキオンは、そう声を掛けた。しかし、ゲームに夢中な田上には聞こえていないようだ。もう一度、今度は少し大きな声で、「おはよう」と言った。すると、田上は、ゲームからチラと目を上げて、タキオンを見た。そして、「おはよう」と返した。それ以上は、話さなかった。ただ、中学生のようにゲーム画面をじっと見つめて、時折、あっと驚いて顔をしかめるのだった。

 田上は、タキオンが寝ている間に、仕事を終わらせて暇を持て余し始めた。一回、立ってタキオンの寝顔をこっそり見に行ったが、それでもすることがなかったので、自分の寮から持ってきたバッグからゲーム機を取り出した。トレーナーの本業というのは、トレーニングにあるので、事務仕事はすぐに終わり暇になりがちだった。だから、田上は、自分のゲーム機を持ってきていた。ここ最近ハマっているのは、2Dの横スクロールシューティングゲーム(飛行機などで、右から来る敵を倒すゲーム)だったが、オンラインのゲームも霧島の影響でやっていた。しかし、このトレーナー室はオンラインゲームができるほど、ネットの回線が強いわけではないので、やはりやるものと言ったら、オフラインでできる横スクロールシューティングゲームだった。このゲームの主な内容は、宇宙から来たエイリアンがUFOに乗って襲ってくるので、それをやつけろ、というものだった。別にストーリーが面白いというわけではなかったが、やってみると楽しいので最近はこればかりしている。しかし、こればかりしていると、集中しすぎて周りの声が聞こえなくなり、タキオンに怒られる時がある。例えば、今がまさにそうだった。

 唐突にゲーム画面の前に手が出てきて、田上は驚いた。そして、「邪魔だよ」と言って、手をどかそうとしたが、びくともしないのでさらに驚いた。

 田上が、顔を上げるとタキオンの怒った顔がすぐ近くにあった。途端に、田上の心臓がドキリとして跳ね飛んだ。

「な、何?」

 田上は、どもりながらそう聞いた。

「私が研究室に行くって言っているのに、ゲームから目を離そうとしないし、声も聞こえていないようだったからこうした。いい加減ゲームなんてやめたらどうなんだ?」

「い、いや、ゲームって楽しいし、癒しだし…」

「人とのコミュニケーションを害するのにかい?」

「いや、別に害するって訳じゃないよ」

「じゃあ、何だっていうのかい?」

「……」

 田上は、黙ってしまった。

「ほら、何にも言えないじゃないか。人の声聞こえなくなる程に夢中になるんだったら…」

 そのタキオンの言葉を聞いていると、田上は反論を思いついた。

「だったら、タキオンの研究もどうなんだ?人のこと言えないくらいに夢中になっているじゃないか」

「いや、それとこれでは訳が違うだろ。君のはゲームで…」

「それは、ゲームに対する偏見だ。身のためになるかならないかで判断するんだったら、ゲームはダメなんだろうけど、人とのコミュニケーションへの害で判断するんだったら、ゲームも研究も同じだ」

 タキオンは、ふむ、と考えた。そして言った。

「…それもそうだな。……でも、返事がもらえないのは寂しいじゃないか。もう二年も君と過ごしているけど、相変わらずだよ」

「……善処します」

 田上が、こう告げると、話は終わったようだ。タキオンが、「研究室に行ってくるからね。今日は、トレーニングをする予定だから、もし私が運動場にこなかったら研究室に呼びに来てくれ。三時半までには、そちらに行くつもりだ」と言って、トレーナー室を去った。田上は、「了解」と一言だけ言うと、またゲーム画面に目を戻した。

 

 田上が、顔を上げた時には、部屋がすっかり暗くなっていて窓の左手からは夕日が差していた。田上は慌てた。もう、三時半はとっくに過ぎていた。タキオンは、どうしているだろうか?そう思って、急いでジャージに着替えた。肌寒い寒さと夕日の温もりを背に浴びながら、田上は運動場まで走った。運動場には、人がもうたくさんいた。――この中にタキオンはいるだろうか?田上は、きょろきょろと辺りを見渡しながら、トレーナーが集まっている場所に駆け足で行った。

 その集まりの中にいくつか知っている顔が見えたから、タキオンの行方を聞いてみた。皆、「サボっているんじゃないのか?」とか「もう帰ったんじゃないのか?お前が来るの遅かったから」とか知らないなら知らないで、聞いてもいないことを言ってきた。腹が立ったので、そいつらには唾を吐くふりをした。そして、結局、運動場にはタキオンはいなさそうだということが分かった。タキオンも研究に夢中で忘れてしまっていたのだろう。田上は、また校舎の方に戻り、三階まで駆けていった。

 土日の二日間を全く運動もせずに過ごした田上には、三階まで道のりは辛いものだった。なんで、研究室を三階につくったのだろう、と恨めしく思った。そして、ようやっと上り切ったとき、タキオンが曲がり角から出てきた。

「おや、トレーナー君。…さては、君も忘れていたねぇ?」

 タキオンが、ニヤッと笑って言ったが、膝に手をついてはぁはぁ言っている田上は、それに反応できなかった。しばらく、田上はそうした後に、タキオンにまだ息も絶え絶えに言った。

「タキオン…、ごめん。はぁはぁ、……もう夕方だ」

「ごめんというのは私の言葉でもあるよ。私だって忘れたんだ。そうすれば、君も呼ぶことができたというのに。…とりあえず、運動場に向かおうか。…その前に、少し寮に戻って着替えなくてはいけないのだが、私は先に行っておくよ」

 タキオンは、少しだけ呼吸が落ち着いた田上に言った。田上は、ゆっくり頷いた。それから、タキオンは、階段を急ぎながら下りていった。

 田上は、その後ろ姿を見送った後、ゆっくりと歩きながら呼吸をさらに落ち着けた。それは、二階から一階に降りる階段の所まで続いた。そして、一階の階段の下りた先が、外に面している渡り廊下だったので、そこで脱いだ靴を履き直し、また運動場の方へと向かった。

 

 運動場に着けば、さらにもう少し人が増えていて、鬱陶しいくらいに人がいた。タキオンは、他の子を観察してデータを集めるのが好きなタイプだったから良かったが、田上は、人込みはあまり好かなかった。だから、トレーナーが集まっている場所から少し離れて、まだ来ていそうにないタキオンが来るのを待った。

 タキオンが来たのは、田上が来てから数分後だった。長袖長ズボンのジャージを着ていたが、ここに着くと、下のジャージを脱いだ。その下には、当然、体操ズボンを履いていたので、タキオンが急に脱ぎだしても田上は驚きはしなかった。

「トレーニングを始めようか」

 田上は、タキオンにそう声をかけた。タキオンは、運動場に下りてくる土手の方を少し下ると、田上の前に立って言った。

「トレーニングの前に少ししたいことがあるんだが…」

 タキオンが、そう言い始めた所で、横から口を挟んできた人物がいた。

「よう、田上。あ、天下のアグネスタキオンさんもいるね。菊花賞おめでとう」

「ああ、ありがとう」

 タキオンは、そう答えた。すると、田上は、戸惑った。タキオンが、霧島にこんな口の聞き方をするとは思えなかったからだ。タキオンと霧島は、たまに会う時には会っていて、二年間で顔馴染みにはなっていた。だが、そうは言っても、あんまりタキオンの警戒心は霧島には解けていなかったはずだ。いつの間にか自分の知らないうちに、少し仲良くなっていて、田上は困惑した。しかし、誰も田上の困惑には気が付かずに話を続けた。

「うちの聞かん坊がどこに行ったか知ってるか?確かこっちらへんの人込みに紛れていったと思うんだけど…」

 霧島が田上にそう言うと、横からタキオンが口を挟んだ。

「いや、見てないねぇ」

 別にタキオンは、答える必要がなかったのに、なぜ答えたんだろうと思った。霧島は、タキオンの方を見た後、田上の方も問うように見た。

「俺も見てないな…」

 少し落ち着かない様子で田上はそう答えた。すると、霧島は人のいい笑顔を見せて言った。

「分かった。ありがとな、答えてくれて。そして、ササクレ(霧島の担当しているウマ娘)を見つけたら言ってくれ。俺が探してるってな」

 そう言うと、霧島は、あたりをきょろきょろしながら去っていった。田上は、この会話の中で疑問に思ったことをタキオンに聞きたくなったが、聞くのはやめた。それは、口に出したくないことだったし、タキオンがすぐに話し始めたからだった。

「トレーナー君、トレーニングの前に少し話したいことがあるのだけれどいいかい?」

「話したい事?何かあるの?」

「とっても重要な事なんだけど、ちょっとここでは話しづらいから移動したいんだけど」

 タキオンが、少し眉を寄せながら言った。田上は、不思議に思いながらも、「言いけど…」と頷いた。

「よかった」

 そう言って、タキオンは、ほっと安心した顔になった。それから、タキオンが田上に「ちょっとこっちの方に来てくれ」と言うと、土手を下りる階段の方に連れて行った。その階段の左の方は、すぐに運動場が終わっていて、ちょっとした林になっていた。その階段に二人は腰を下ろした。だが、タキオンはすぐには喋らなかった。田上は、タキオンと座る距離が近かったので、そわそわしながらタキオンが話すのを待った。

 やがて、遠くから喜びの歓声が聞こえてきたとき、タキオンが口を開いた。

「ここのところ妙に落ち着かなくてね。何が原因かは分からないんだけど、嫌な気分になるときがあるんだ。…ただ、今日ある夢を見たんだ。私も目覚めた当初は意味が分からなかったが、研究室で思考を重ねていくうちに分かったことがあったんだ。……それは、多分、…君が、私の代わりを作ってしまう事だったんだよ。菊花賞を優勝して、道はまだまだあるけれど、もう君は他の子のことを考える時期にあるだろう?いつまでも私にかまけている時間などないはずだ」

 そう言うと、タキオンは、不安そうに田上を見た。田上は、タキオンの方など見ておらず、静かに林を眺めていた。

「トレーナー君、こっちを見てくれ」

 タキオンはそう言った。実のところ、田上は、タキオンとの距離が近くて、身動きできない状態にあったのだが、タキオンはそれを知る由もなかった。田上は、タキオンに呼びかけられると、モゾモゾと体を少し横にずらしてタキオンから離れてから、その顔を見た。タキオンの赤い目が、夕日を受けてキラキラと輝いていた。それは、まるでこの世にあるもの全てに劣らない多大なる価値を持った宝石のようであった。しかし、その瞳の上にある眉は、今は曇っていた。

「君は来年から、新しい子を二,三人担当したいと言っているのを聞いたよ?」

 それを聞くと、驚いて田上は、思わず思ったことを口に出した。それと言うのも、タキオンには、少なくとも次のレースを終えるまでは言うつもりがなかったからだった。

「だ、誰に聞いたんだ?」

 田上は、そう言った。すると、タキオンがこう返した。

「君の友達の霧島君に。偶然話す機会があって、向こうからその話をしてきたんだ」

 すると、田上は納得したようにため息をついた。

「ああ、あいつには話したんだったな…。妙に仲が良かったのもそのせいなのか?」

 田上が、そう聞くとタキオンは、ん?と聞き返した。どうやら、タキオンの耳には田上の声は届いていなかったようだ。田上は、そのことを二度も言うのは億劫だったから、「いや、何にも」と言うと、もう一度ため息をついた。

 そして、タキオンに言った。

「俺は、それを今の時期にお前に言う気はなかったんだけどな。聞いてしまったのなら白状するが、全くもってその通りだ。お前と二年間走ってきて、ある程度のことは掴めたし、自分のレベルアップもしたかったから、次の年には複数人に挑戦しようと思っていたんだ。勿論、タキオンにもいずれ言うつもりだった。ただ、それは、もう少し後のことで、次のレースが終わってからにでも言うつもりだった」

 田上がそう言うと、タキオンが「次のレース?」と聞いてきた。

「ああ、次のレースだ。大阪杯あたりがいいと思うんだけどどう思う?」

「……私は別に構わないし、それに大いにそそるねぇ。期間は開くけど、その分腕を上げる子もいるだろうし、データ収集が捗るねぇ。私は賛成だよ」

「よかった。じゃあ、今日からはその方向でトレーニングを本格的にしようか。…実のところ、いつ話を切り出そうか迷っていたところだったんだ」

「なんだい?それが迷うことかい?もし、それが迷うことだったんなら、私の心配なんて自殺ものじゃないか」

「自殺なんて、いやなこと言うなよ」

 田上は、顔をしかめた。

「いやいや、もう少し真剣に私のことを考えてほしいね。まだ君の答えは貰っていない。…私の代わりの子ができても、…その…あるかい?情って奴が」

 田上にとってタキオンに対する情は有り余る程あった。そして、突然、そのことを言いたい衝動にかられたが、田上は唾を飲むと言った。

「別にタキオンのことをおろそかにするつもりはないよ。実際、俺の予定では大阪杯が終わるまでは、タキオンの環境を変えないように、スカウトしたい様子すらも微塵も出さないつもりだったから。…それも、あの霧島の野郎のせいで挫かれたけど」

 田上が、憎しみ籠った声でそう言うと、タキオンがハハハと笑った。

「彼を責めないで上げてくれ、悪気はなかったんだろうから」

「なおさらタチが悪いね」

 田上は、そう言うと立ち上がった。田上の顔には、より一層夕日が照った。

「早くトレーニングをしよう。今日は、遅かったからあんまりトレーニングの時間はないけど」

 そう言って、まだ座っているタキオンのアホ毛をパシッと叩いた。長いアホ毛がビヨンと揺れた。

「怒るぞ」

 タキオンが、田上を睨んでそう言った。田上は、笑って「ごめん」と言った。その様子が気に食わなかったのか、タキオンは先に歩いて行った田上に駆け足で追いつくと、その脚を軽く蹴った。

「あイテ」と田上が情けない声を上げた。すると、タキオンがそれを煽った。

「君の情けない声面白いな~。悔しかったら私に追いついてみたまえ~」

「この野郎!」

 田上は、そう言って、タキオンの誘いに乗った。タキオンは、笑いながら走っていた。一方田上は、すぐに息が切れて脚も疲れたが、タキオンの後を追い続けた。それは、田上が、疲れて膝に手をつくとわざわざ戻ってきて、再度煽り散らかすからだった。田上は、ヘロヘロになりながら暗くなるまで走り続けた。そして、暗くなって、人も消えていった運動場で寝転がって思ったのは、運動場の明かりでせっかくの星空が何も見えないことだった。田上は、見えるはずだった星々に手を伸ばした。すると、視界の外からタキオンが出てきた。

「もうバテたのかい?」

 田上は、ふーーっと深呼吸をしながら頷いた。タキオンは、屈みこんで田上を真上からしばらく見つめたが、数秒後に言った。

「今日は早くに寝れそうだね」

 そう言って、タキオンの汗が田上の顔に滴り落ちた。目に入りそうになって慌てて避けた。それをタキオンが、不思議そうに見つめた。自分の汗が滴り落ちたのに気が付かなかったのだ。

「何をしているんだい?」

 タキオンは、そう言ったが、田上が答える前に土手の上の方から声が聞こえた。

「もう寮に帰る時間だよー」

 見ると、寮長のフジキセキが、運動場の光に霞んで見えていた。

「今行くよ」

 タキオンが、そう声をかけた。そして、田上に「一人で起きれるかい?」と声をかけた。田上は、「起きれる」と言いながらも、少しばかりの時間をかけて、最後にはタキオンの差し出した手を取った。運動した後なので、少し湿っぽく暖かかった。しかし、同時に秋の夜の冷たい風が吹き、田上は身震いした。

 タキオンの手を話すと、二人は土手を階段を使わずに真っ直ぐにフジキセキの方に上って行った。

 フジキセキと十分に距離が近づくと、向こうから声をかけてきた。

「おや、君たちか。声を聞いても気が付かなかったよ。タキオン、少し喉が枯れているんじゃないのかい?」

「んん?」

 タキオンは、そう言って、疑わしそうに自分の喉を触った。そして、「あー」と声を出した。確かに、少し喉が枯れているように感じた。

「笑いすぎたな」

 タキオンは、誰に言うともなく呟いた。すると、フジキセキがその言葉に返した。

「ハハハ、それは良かった。笑いすぎて喉が枯れるなんて、それ以上にいい喉の枯れ方はないだろう。超高速のプリンセスは、今宵、自分の恋するプリンスと楽しく踊り続けたのかな?」

「その言い方は止めてくれ」

 タキオンが、フジキセキを睨んだ。田上は、その表現はとても喜ばしいことだったのだが、タキオンが嫌がったのを見ると、少しがっかりした。フジキセキは、その様子をしかと見止めていたが、何も言わずに微笑むと「さあ、君たちを寮までエスコートしてあげよう」と言った。それから、田上の方に手を差し出したが、タキオンがそれを「面倒くさい。さっさと行くぞ」と言って邪魔をした。フジキセキが、ハハハと笑った。

 それから、明かりの灯る寮へと三人は歩き出した。運動場からも街の明かりからも離れた場所では、夜空にキラキラと光る星が瞬いては、消えていた。

 



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二、厨房事変

二、厨房事変

 

 冬もいよいよ寒さを増して、北風の冷たさに肌を切られるかと思う頃、厨房ではある戦いが起きていた。それは、寒さに腹を空かせてやってくる食欲旺盛なウマ娘と厨房の人たちとの満足をかけた戦いだった。

 今年は、いつにも増して寒い冬だった。しかし、雪は降ることがなく、空気はカラッと乾いていた。そんな中ウマ娘たちは、自分たちの燃料を欲していた。大きな寒さに耐えるため、常に自身のエネルギーを燃やし続けているウマ娘は、薪ではなく、ご飯を所望している。その中でも厨房を震えあがらせる「怪物」と呼ばれるウマ娘がいた。その名は、オグリキャップ。トレセン学園の中でも随一として知られる食欲旺盛なウマ娘だ。そのウマ娘も今年の厳寒の冬は、食欲をさらに増大させなければ乗り越えることができないらしい。オグリキャップが来るたびに、注文の数がとんでもないことになるので、厨房の人は震えていた。 ある人はこう言っている。

「あ、あいつがきたらおしまいだぁ。食べ物全部食われるんだよぅ」

 またある人はこう言う。

「オグリ様オグリ様オグリ様オグリ様オグリ様オグリ様……」

 こういう風に厨房の人たちは恐れ慄いていた。今の例は、言い過ぎかもしれないが、実際、厨房の人手を増やしたとしても足りないというのが現実だった。食料は十分にあった。しかし、人手は増やしても増やしても足りないくらいだった。

 この厨房でリーダーを務めている厨房努は、インタビューでこう語る。

「ウマ娘の食欲を満たすのは大変です。しかし、私たちはそのためにトレセン学園のカフェテリアという過酷な戦場に身を置きました。特に冬の間は酷いものです。どのウマ娘も食欲が増している。…給料は、十分に貰えます。トレセン学園が一番待遇がいいと言えるでしょう。しかし、もう一度言いますが、あそこは過酷な戦場です。手が六本あっても足りないでしょう。特に、あの…あの…ウマ娘が来ると物凄いことになります。まるで、飢餓状態の怪物です。これでも、あの子には満足に食わせてやっているつもりなんです。けれど、次の食事の時には同じように食い始める。私は、あの子が卒業するのを待っています。あの子が卒業すれば、厨房も少しは平和になるでしょう。……あの子とは誰か?それは、個人情報の漏洩に繋がるので言いません。…はい、ありがとうございました」

 こうしてインタビューは終わった。トレセン学園の生徒にしてみれば、それが誰なのかは、言わずとも知っていた。しかし、当の本人、オグリキャップは、誰のことなんだろう、と疑問に思うばかりだった。

 こうして今日もオグリキャップがやってきた。お腹を鳴らしてカフェテリアへとやってきた。今は昼食時で、人で混雑もしていたが、オグリキャップが歩いていくと、お腹を鳴らす大きな音に気付いて道を開ける人が大勢いた。それは、まるでオグリキャップのレッドカーペットのようだった。

 そうやって、オグリキャップが歩いていくと、通路に少しだけはみ出していた椅子に気が付かずに、ドンとぶつかってしまった。

「ああ、すまない」

 オグリキャップが、そう言うと、椅子に座っていたトレーナーらしき人も謝った。

「すまない」

 その人は、田上だった。田上は、今日はカフェテリアに来ていた。普段であれば、タキオンと自分のお弁当を作って、お昼にトレーナー室で食べていたのだが、今日は生憎、タキオンが風邪をひいて寝込んでいた。風邪を引いた子には、当然、それ相応のご飯が支給されるので、トレーナーとして出る幕はほとんどなかった。だから、タキオンは、今保健室で寝ていて、田上はカフェテリアで一人寂しくご飯を食べていた。

 スマホを眺めていた田上は、急に椅子に大きな衝撃が走ってびっくりした。そして、人にぶつかったのだと気が付くと慌てて椅子を引いた。この席は、通路に対して微妙な位置にあって、椅子が少しだけはみ出してぶつかってしまう、なんてことがままあった。今日は、田上がそうだった。田上は、謝ると、またスマホに目を向けた。オグリキャップは、その様子を不思議そうに見つめた。その後に、自分のお腹が鳴って、慌てて注文口の方へと歩いて行った。

 

 オグリキャップが注文すると、事前に作ってあった大量の豚カツも消えて、その後には、長蛇の列ができた。ここでは、ひっきりなしに人が来るので、事前に作っておいても冷え切る前に誰かが取っていった。しかし、オグリキャップが来るとその分もなくなるので、また初めから作り直さなければならない。そこからが厨房の人にとっても大変だった。みんなの笑顔を守るため、できるだけ頑張って急いで作ってもすぐになくなるから、列ができる。この厨房のリーダーの厨房努は、同時に五個のフライパンで料理を作っていた。これは、誰にでもできることじゃない。厨房努だからこそできたのだ。厨房努は、仕事もできるし、顔もいいので、女性陣からの人気は結構あった。しかし、今はそれどころではないようだ。できるだけ唾を飛ばさないように口を閉じながら、それでも自分に気合を入れようと、口を閉じて「ん~~!!」と叫んでいた。その目力たるやライオンでも逃げてしまいそうだった。

 オグリキャップは、自分のチキンカツを皿の上に大盛に盛ってしまうと、まるで曲芸師のようにふらふらとして自分が座れる席を探した。あまりに盛りすぎて、自分の正面が見えないくらいだった。カフェテリアは相変わらず、人で溢れかえっていて、席が空いているところはありそうになかった。しかし、ちょっと探していくと、テーブルに一人男がついてはいたが、その正面には空の椅子が一つだけ置いてあった。

「そこに座っていいか?」

 オグリキャップはそう聞いた。すると、その男は見ていたスマホから顔を上げた。またもや、田上だった。田上は、驚いたように、オグリの顔を見ると自分の椅子をずらして、空の椅子に座りやすいようにした。

「…どうぞ」

 田上は、そう言った。そして、またスマホに目を戻した。オグリは、その様子でさっき椅子にぶつかった人だと気が付いた。しかし、そのことは言わなかった。代わりに、テーブルに大量のチキンカツと白飯を置くと、空の椅子に座り、そして、田上からはご飯の山の陰に見えなくなっていった。

 

 しばらくして、チキンカツが半分ほど減ったころ、ようやくオグリの顔が見えてきた。まず、ウマ耳が見えて、それから芦毛とは色が変わった黒に近い灰色のアホ毛が見えて、最後に顔の目から上半分が見えた。そうすると、オグリもお腹の調子が落ち着いたころで、目の前の人に興味を持った。

「……風邪なのか?」

 オグリは、田上にそう聞いたが、田上には聞こえていないらしく、スマホから目も上げなかった。

「風邪なのか?」

 もう一度、オグリは聞いた。すると、田上も目を上げた。

「…え?」

「風邪なのか?」

 オグリは、三度聞いた。そこでやっとそれらしい反応が帰ってきた。

「いや、俺ではないんですけど…」

 田上は、少し驚いた。それというのも、自分がスマホで今調べていた内容だったからだ。

「じゃあ、誰が風邪なんだ?」

 オグリが不思議そうに聞いた。

「俺が、担当している子で…」

「担当している子?」

 田上は、なんとなく、話しにくい子だなぁと思った。

「はい。僕は、アグネスタキオンの担当をしていて…」

「驚いた!君がアグネスタキオンのトレーナーか!」

「…友達?」

「いや、話したことはないが、名前なら聞いた事がある。そして、注意しておけ、とも」

「注意?」

 田上は、訝しんで聞いた。

「ああ、私は特に危ないから、アグネスタキオンには注意しときいや、とタマから言われた。トレーナーの方も、光っていて直接見たら目が潰れる、と聞いたのだが、…それは誤解だったようだな。タマに言っておかなくては」

 オグリの言葉に、田上は苦笑した。実際のところ、このような少し天然な子はタキオンに注意しておいた方が、理解できないまま薬を飲んでしまう可能性がなくなるからよかったし、トレーナーが光るというのもそんな頻繁な事ではなかったが、間違いではなかった。それよりも、トレセン学園内で都市伝説と化しているところに田上は、苦笑した。薄々勘付いてはいたが、こうやって話で聞いたのは初めてだった。

 その苦笑を不思議そうに見つめながらオグリはチキンカツを口に運んだ。そして、もぐもぐしながら言った。

「アグネスタキオンは風邪なのか?」

「ああ、ちょっとね。俺の管理が行き届かなくて…」

「管理?…管理すれば、風邪はひかなくなるのか?」

「絶対ではないけど、それでも多く着込ませるとか、暖かいもの飲ませるとか、トレーニング後に冷えないように対策するとか、色々な事が対策できるだろ?それを怠っていたから、タキオンが風邪を引いたんだ」

 オグリは、ああと頷いた。

「私のトレーナーもそんなことを言っていたな。…それでも絶対ではないのだから、そんなに自分を責めなくてもいいんじゃないか?」

「責める?…自分を?」

「…責めているように見えたのだが、違ったのか?」

 そこでやっと、田上にはこの子と話しにくい理由が分かった。この心を見透かしてくるような瞳だ。今は、憐みのものとなって田上に向けられている。田上は、最後まで残してあった暖かい紅茶をグイと飲み込んだ。そして、立ち上がると言った。

「責めていてもいなくても、僕にはどちらでもいいです。気遣ってくれてありがとうございます」

 そう言うと、田上はカフェテリアの出口の方に足を向けた。残されたオグリは、その後ろ姿を悲しそうに見つめ、そして、チキンカツを口に入れた。

 それから、少しの間一人で食べていると、唐突にタマモクロスの声が聞こえて、オグリは顔を上げた。

「よう、オグリ。さっき知らん男の人と喋っとったやろ?知り合いなんか?」

 オグリは首を振った。すると、タマが驚いて聞いた。

「じゃあ、誰や?」

「アグネスタキオンのトレーナー…らしい」

「あれがアグネスタキオンのトレーナーか!…光っとらんかったなぁ。あれは、噂やったんか。…まあ、それにしても、人が光るなんていうバカみたいな話、本当の事の方が恐ろしいわ。信じたウチが、バカやった」

 そう言うと、タマは笑った。しかし、オグリは、心配そうに再度カフェテリアの出入口を見つめ、田上の姿を探した。

 

 田上は、カフェテリアから出ると、少し反省した。まだ、思春期の女の子に強く当たりすぎたと思ったからだ。しかし、少し反省したばかりで、後は、自分とは関係のない子だからいいやと思った。それから、渡り廊下を過ぎると、校舎の方に足を踏み入れた。

 校舎の方に足を踏み入れたのは、タキオンの見舞いに行くためだった。タキオンが、一人で寂しそうにしていたら可哀想だったし、単純にタキオンが心配だからでもあった。午前中に一度見舞いには行っていた。しかし、その時は眠っていて話すことはできなかった。今度は、起きていて話せるかもしれない。そんな期待を寄せながら、田上は、保健室まで少し急ぎ足で行った。

 保健室に着くと中から話し声が聞こえてきた。タキオンの声と保健室の赤坂先生の声だ。田上は、起きたのかな?と思いつつ、保健室のドアを開けた。

 中には、頭に冷却シートを貼ったタキオンと赤坂先生が、二人で話していた。タキオンは、ベッドの上に腰かけて、赤坂先生はキャスター付きの椅子に腰かけて二人で話していた。そこに田上が、入ってくると二人はそちらに目を向けて、再度話を続けた。田上は、まさか無視されるとは思っていなかったので、戸惑った。すると、二人の顔が段々とニヤニヤしだして、最後には腹を抱えて笑った。

 田上は、終始困惑していた。

「いや~、ごめん。君の表情本当に面白いね」

 タキオンが、笑いすぎて出てきた涙を指で拭きながら言った。すると、横の椅子に座っていた赤坂先生もまだ半笑い気味に状況を説明した。

「いや~、タキオンがさ。あなたの困惑した表情面白いから、入ってきたら無視してみないか?って言うから、やってみたら本当に面白くってさ。もう、…どうやったらあんなに、誰もがしそうで、できない顔をできるの?普通よりも普通なのに、面白くって、もう」

 そこで言葉を切ると、赤坂先生は、また腹を抱えて笑い出した。その状況を説明されてやっと理解すると、田上はふてくされて言った。

「俺、歓迎されていないようなので、帰ります」

「ああ、待ってくれよ。冗談じゃないか!」

 そう言って、タキオンが立ち上がった途端、フラッとよろめいた。田上は、倒れるかと思い慌てて戻ったが、そこには当然間に合わず、タキオンは、目の前にあったベッドに手をついて、床に倒れるのは防いだ。

 タキオンは、自分でも何が起きたか分からず、驚いているようだった。田上は、タキオンが床に倒れなかったのを見ると、ほっと胸を撫で下ろした。そして、タキオンの方に寄ると手を貸しながら、ゆっくりと元のベッドの方へと座らせた。

「ありがとう…」

 タキオンは、少し呆然としながら田上に感謝を告げた。

「どうやら、もう少し安静にしておいた方がよさそうね」

 心配して立ち上がった赤坂先生も安心すると、今度は少し呆れて言った。すると、タキオンは、顔を上げて小さく眉を寄せた。

「そんな顔をしてもダメ。今からカーテンを閉めるから、タキオンは寝て、それからあなたは出て行って。安静にしないといけないから」

「えー、トレーナー君がせっかく来たっていうのにもう追い返すのかい?ちょっとくらい喋らせてくれたっていいだろ?」

 タキオンが、そう言うと赤坂先生は、眉を寄せてタキオンを見て、それから、問うように田上の方を見た。田上は、「いいですよ」と頷いた。赤坂先生は、大きくため息をついて言った。

「あんまりはしゃがないでね。特にタキオンの方から、積極的に話すのは禁止。あなたのトレーナが話すのを黙って聞いていなさい。……それから、もし不純な行為をするのだったら、あなたたちの首を叩き折る。キスでも不純な行為です」

「私たちそんなことしないよぉ」

 タキオンが「心外だ」と言わんばかりに声を上げた。

「前例があったの。例え、あなたたちがそういう関係であってもなくても、もしかしたら、田上が、寝ているあなたに欲を抱く可能性があるから」

 今度は、田上が声を上げる番だった。

「俺もそんなことしないよ!」

 赤坂先生は、声にこそ出さなかったが、「どうかしらね」という目で田上を睨んだ。田上も腹が立ったので、思い切り睨み返した。すると、パンと軽く頬を叩かれた。田上は、信じられないという顔で赤坂先生を見たが、赤坂先生はそんなことには構わず、タキオンをベッドに寝かした。

「タキオンが寝やすいように、カーテンを閉めるわ。…私の信頼を裏切らないでね」

 赤坂先生はそう言うと、カーテンを閉めた。

「トレーナー君、何か話してよ」

 ベッドに寝転がったタキオンが、そう小声で言った。

「何か?何も話すことはないけど…」

 田上が、ベッドに腰かけてそう小声で返した。

「それじゃあ、君がここにいる意味がないじゃないか。私が落ち着くような話とか何かしたまえ」

「何かぁ?……」

 そう言って、田上はしばらく考え込んだ後言った。

「歌とか?」

「よりにもよって歌かい!?…まあ、なんでもいいや。それはどんな歌なんだい?」

「どんな歌って言うと、タキオンが聞きたいような歌を歌うけど?」

「うーん……、君が好きな歌でいいよ?今はどんな歌が好きなんだい?」

 田上は、少し躊躇った。その歌は、ラブソングで、自分には似合わないような歌だと思っていたからだ。しかし、何か言ってみたい衝動にかられ、田上は思わず口に出した。

「『愛の名のもとに』…」

「…それはラブソングかい?」

「ああ」

「君、ラブソングが好きなんだねぇ。意外だ」

「面白いか?」

「いや、笑わないよ。愛だの恋だのというものは私には分からないからね。分からないものをバカにするのは、私の領分ではない。…君の好きな歌を聞かせてくれ」

 田上は、そう言われて催促されたが、恥ずかしいやら不安やらで中々歌いだせなかった。そして、タキオンが「トレーナー君?」と呼びかけた時、ようやくぽつりぽつりと歌いだした。

 

「君に正義の鉄槌を下す

 ここは真実の愛を暴く裁判所

 今宵集められたのは僕と

 そして、愛する君の二人だけ

 

 君のベールをそっと上げてくれ

 僕は君の顔をしっかりと見たいんだ

 明日の朝になれば、ここにはいない

 光と霞みに消えていく

 

 もう終わりにしようか

 それとも君が終わらせるの?

 答えておくれよ。その瞳見せて

 

 右か左かに転んだって、人生不幸で終わりますか?

 君が若けりゃ僕も若くて、いつでも終わりなんてできるのよ

 怖いとか不安とか鬱々とした感情に流されて

 僕は君をこの裁判所に呼んだ 呼んだ…

 

 あいつが君を見ている

 僕が君のことをそっと隠す

 それでも君はじっとして

 いないから 僕の前から消える

 

 この目の力が及ぶ限り

 君に群がるハエを追い散らした

 君はそのことに気づきもせずに

 ただ、のほほんと暮らしている

 

 君は甘い果実か?

 僕はただのハエなのか?

 …分かんないや

 

 だからこうして僕は町で暮らす

 とどまることを知ることのない

 君の背を追いかけて走っている

 

 こうすりゃいいんだろ

 後は君を待つだけ」

 

 そうやって、田上は歌い終えた。それから、その後には、カーテンの向こうで赤坂先生がカリカリと紙に物を書いている音とタキオンの寝息しか聞こえなくなった。田上は、そっと囁いた。

「タキオン?」

 タキオンが本当に寝たか気になったからだ。そして、少しだけベッドから腰を浮かしてタキオンの顔を覗き込もうとしたとき、カーテンがシャッと開いた。

「もうタキオン寝たでしょ」

 田上は、慌てて浮かした腰を元に戻した。振り返ってみると、それは赤坂先生だった。

「もう寝ました」

 田上は、そう言った。すると、赤坂先生は、難しい顔をして言った。

「……あなた、もしかしてタキオンのこと好きなんじゃないの?」

 その言葉を田上は、初めのうちは理解できなかった。しかし、段々と飲み込んでいくにつれ、心臓がバクバクと脈打ち、何を考えているのか分からなくなり、そして、口から言葉を出そうにも口の中がカラカラで何も出なかった。田上は、自分が何も言えていないことにさらに焦り、それが悪循環に繋がった。もう何も分からなくなった。目の前にいるのが誰なのかも分からなくなった。

 その様子に赤坂先生は驚いた。軽く笑い飛ばしてくれるだろうと思っていた半分冗談のようなものに、田上が、動揺して固まっていたからだ。

「じょ、冗談よ。冗談冗談。そんなに動揺しなくたっていいじゃない」

 赤坂先生は、目の前の自分に怯えている憐れな生物に言った。だが、その言葉を聞いても田上は、しばらくの間は理解することができなかった。赤坂先生が、田上の肩を叩き、落ち着かせるように言って、ようやく田上は浅い呼吸を元に戻すことができた。それでも、安心はできなかった。不安げにタキオンの方をチラリと見た。相変わらず熱に火照った顔でベッドの上で眠っている。可愛い顔だったが、今はその顔を見たくなかった。だから、すぐに顔をそむけると、赤坂先生の方に顔を向けて言った。

「僕はもう帰ります」

 随分と意気消沈した声だった。赤坂先生は、それに触れることもできずに、「ああ…」と何かごにょごにょ言って田上を見送った。

 

 その後の一日は、自分が何をして過ごしたかあまりよく覚えていなかった。霧島や他の友達数人にも心配そうに声をかけられたが、それも何を話したのか覚えていない。ようやっと思い出せることと言えば、自分の寮の部屋に帰ってベッドの上に寝転がると、息が詰まりそうなくらい胸が苦しくなったことだ。

 その後は、ただ、無意味にベッドの上を寝転がりスマホの画面を眺めた。部屋が暗くなっても電気はつけず、水を飲みに行くときもスマホの明かりを頼りに進んでいった。食事は取らなかった。自分で何か作る気にも、カフェテリアで夕食を取る気にもなれなかったからだ。そして、そのまま眠気が来るに任せて、スマホを枕元に置いて落ち着かない眠りに入った。

 田上は、嫌な夢を見た。自分の体の皮膚を突き破ってミミズが這い出てくる夢だ。いたるところから出てきた。腕、脚、お腹、首、頬。その全てからミミズは出てきた。田上は、出てきたミミズを殺そうと躍起になったが、どのミミズも瀕死に至ることこそあれど、死ぬことはなかった。そして、皮膚から出てきて地面にポトリと落ちたミミズは、また脚の方から、田上の体に入ってきた。田上は、「助けて!」と叫んだ。それから、ミミズたちから逃げようとした。ミミズたちは、脚は遅いが、必ず田上の場所を知っていて、逃げ切れる場所なんてなかった。誰かに助けてほしかった。田上は、どこかで見たようなアパートの一室に体育座りをして顔を伏せた。もう入ってくるミミズを止めようという気にすらならなかった。ただ、痛みに耐えて耐えて耐えながら、誰かの助けを待った。しかし、アパートの近くのネオン街の看板がチカチカと明滅しただけで、誰も何も助けには来なかった。田上が、しくしくと泣きながら、夢が終わっていった。

 起きた時には、体が物凄く怠くなっていた。頭も痛いし、熱でぼーっとしていた。その頭で田上は、夢の事を考えた。しかし、碌に考えることはできなかった。

 喉が渇いていたから、田上は重たい体を持ち上げると、自室の水道の所まで歩いて行った。水を飲むと、体の熱もいくらかマシになったが、それでも辛いものは辛かった。また、ベッドの上に眠ると、朦朧とした頭で今からのことを考えた。その時、目覚まし時計が鳴った。いつも勝手に起きるから、問題ない目覚ましも今は、田上を急げ急げと駆り立てた。学校に行かなくては、と思った。タキオンの顔を見なくては、と思った。しかし、田上は、あまりに体が重く、力も入らなかったので、その場に倒れた。フローリングの冷たい床が、頬や脚などの皮膚にあたり、妙に気持ちよかった。それは、束の間のできごとで、すぐに床は田上の体温に温められてしまったが、それでも、初めの名残を追い求めて動くことはしなかった。それから、そのまま動くこともせず、朦朧とした頭も働くことをせず、時間いくつも過ぎていった。途中で、誰かが戸を叩いて、呼びかけている声がしたが、田上の耳には入らなかった。

 

 気が付くと、知らない天井が前の方に見えた。いや、正確には知らないことはないが、自分の部屋の天井程馴染みのあるものではなかった。だから、田上は、今自分がどこで何をしているのか一瞬理解できなかった。それから、周りに囲われているカーテンを見た時、――ああ、今自分は保健室にいるんだ、と理解した。理解すると喉が渇いてきた。しかし、口の中がカラカラで上手く言葉が出てこなかった。かすれた声で「水」というのが精一杯だった。

 聞こえたのだろうか?と田上が、不安になっていると、誰かが歩いてくる音がして、そして、カーテンの開く音がした。突然入ってきた眩しい明かりに田上は目が眩んだ。それは、電灯にも負けない太陽の朝の光だった。

「起きた?早かったわね」

 赤坂先生の声がした。田上は、もう一度、「水」と呟いた。しかし、それは聞こえなかったようだ。赤坂先生が、「え?」と聞き返した。そして、再度、「水」と呟いた。すると、ああと納得した声を上げて、赤坂先生がカーテンのところから立ち去った。

 赤坂先生が立ち去ると、太陽の光がさらに入ってきた。寒い朝のはずなのに、体温は暑いし、太陽は心地いいし、なんだか混乱した。そうしているうちに赤坂先生がやってきて、コップに入れた水を持ってきた。田上は、起き上がって、それを受け取った。

 体の中を水が通っていく冷たい感覚が味わえた。そして、飲み終わったコップを返すと、また寝転がった。

「熱はどう?」

 そう赤坂先生が聞いてきた。田上は首を横に振った。喉は潤ったが喋れる気分ではなかった。何より、昨日のこともあった。赤坂先生が何を思っているのかは知らなかったが、自分が話すことによってこれ以上想いが露呈してしまうことが恐ろしかった。

「そう…」

 赤坂先生は、何とも言えない顔で田上を見つめた。そして、言った。

「隣の方にまだタキオンが寝てるよ」

「まだ風邪治ってないんですか?」

 田上は、思わず聞いてしまった。それに気が付いてから、田上は、慌てて口をつぐんだ。

「朝起きた時は、大分熱も引いてたけどね。まだ、三十七度は超えてたし、今日も安静にしようって。……あなたが運び込まれてきたとき、酷く心配してたわよ。寝るときも何か口走っていた」

 田上は、口を閉じようと決心していたのだが、どうしても最後に聞きたいことがあって聞いた。

「タキオンは、その…隣で眠っているんですか?」

「ええ…。ただ、もうそろそろ起きるころじゃないかしら。朝に目覚めた時は、水を飲んだだけで何も食べていなかったから空腹で目が覚めると思うのだけれど…。あなたは、何か食べる?」

 田上は、ゆっくりと首を横に振った。昨日から何も食べていなかったが、食欲はなかった。

「そう…、じゃあゆっくりしておきなさい。カーテン閉めるわよ」

「カーテンは閉めないでください」

 田上が、そう言った。それを聞くと、赤坂先生は、ふっと微笑んで「分かったわ」と言った。田上は、眠る気にはなれなかった。おでこの上にいつの間にか貼られていた冷却シートの冷たさを感じながら、田上は、朝の光を見つめ続けた。

 

 自分の微睡みを感じながら、田上は、これまでに聞いた事のある名曲の数々を思い出した。そのどれもが、昨日歌った歌を作った人が作詞作曲したものだった。それから、母の顔を思い出した。もう過ぎ去っていってしまった母、最後は病気に必死に抗ってやせ細っていってしまった母。それでも、笑顔の絶えなかった母。田上の目からは、知らずのうちに涙が零れた。途方もなく悲しくなった。

 そして次には、中学生時代にフラれてしまったあの子を思い出した。人が必死で想いの告白の言葉を紡いでいるというのに、ニヤニヤして最後まで聞いて、それから、「私には彼氏がいるの」と言った。途端にあの子の後ろの方から笑い声がした。見ると、その彼氏が数人の仲間たちと共に床を叩いて笑い転げていた。あの子は、それを注意することもなく可笑しそうに見ていた。絶望した。そして、呪った。いつまでもいつまでも、こいつらが不幸であればいい、と。

「死んでくれ」

 誰かの声で微睡みから引き上げられた。田上は、それがあまりにも鮮明に聞こえたので、驚いたが、数瞬後に自分が言った言葉だと気が付いた。いや、自分が言ったのかどうかは分からなかった。鮮明に聞こえたものの、夢のような気もしたからだ。一度、聞こえていなかったか、赤坂先生の方を見たが、赤坂先生は何の反応もなくただ机に向かっているだけだった。

「トレーナー君」

 隣の方から微かに囁く声が聞こえた。タキオンの声だった。カーテンに遮られていたので、それはそれは微かな声だった。

「随分うなされてるようだけど、大丈夫かい?」

 田上は、その声に答える気にはなれなかった。ただ、黙って自分の上の天井を見直した。窓枠が反射して、一際明るい場所が見て取れた。まだ、熱で頭は痛かった。ゆっくりと目を瞑ると、今度は、ちゃんと寝ようとした。しかし、タキオンは黙らなかった。

「トレーナー君?」と何度も呼びかけてきて、最後には、赤坂先生の耳にも届いたようで、「何をこそこそ喋っているの?」とタキオンの方のカーテンを開けにいった。田上は、目を閉じていたからお咎めはなく、それどころか、寝ていると思われたので、開けられていたカーテンを閉められた。

 隣でタキオンが弁明している声が聞こえた。

「トレーナー君がうなされているようだったから、心配になったんだよ」

「私には全然そうは見えなかったけどね」

「確かに何か言っていたんだよ。何を言っているかは小さくて聞き取れなかったけど」

「それなら、ただの寝言ね。…熱を測る?もう顔色もよくなっていると思うけど」

 タキオンが答えた。

「もう熱はないね。頭の痛みも引いたよ」

「じゃあ、体温計で測って、熱が引いていたらさよならということで、授業に出てらっしゃい」

「ええ~、それじゃつまらないじゃないか。今のところ研究のアイディアもないし、トレーナー君も寝込んでいるから何もする事がないよ?」

「じゃあ、せめてそのベッドからどきなさい。洗わないといけないから。さあ、とりあえず、熱を測って」

 タキオンが、返事をする声が聞こえてきた。それからしばらくは、赤坂先生がカーテンの向こう側でシーツだったり、毛布だったりを運んでいる音が聞こえた。やがて、ピーッピーッと音が聞こえると、タキオンの声が聞こえた。

「三十六度七分。平熱だ」

 今度は隣ではない方から赤坂先生の声が聞こえてきた。

「じゃあ、私はしばらく忙しいから、あなたそこで待っておきなさい」

 また、タキオンの返事が聞こえた。そして、タキオンがつまらなさそうにつま先で床を叩く音だったり、赤坂先生のペンをカチカチ言わせる音だったりが、田上の耳に聞こえた。赤坂先生もまたずっとせわしなく保健室を出たり入ったりしていた。

 それが、しばらく続いた後、恐らくタキオンが歩いている音が聞こえた。タキオンの足音は、こちらに向かってきていた。田上の心臓は高鳴った。カーテンをくぐってくる衣擦れの音が聞こえた。

「トレーナー君」

 タキオンが囁く声が聞こえる。しかし、田上は目を瞑ったままでいたし、返事もしなかった。すると、やがて、ガタガタと四本脚の丸椅子を引きずる音が聞こえ、止まった。タキオンが座ったのだろうか?田上は、そう思うと、なんだか急に自分の顔がこそばゆく感じて、タキオンがいるであろう左の方から、体ごと顔をそむけた。タキオンの音は聞こえなかった。そして、そのまま眠りについていった。

 

 起きると誰だか知らない女の子の声が聞こえてきた。相変わらずカーテンは閉められていたが、その女の子の声は大きかった。その子は、声を抑えているんだろうけど、興奮するとすぐに声が大きくなり、赤坂先生に怒られていた。田上は、自分の腹が減っていたのを感じた。今は昼頃だろうか?まだ、頭はガンガンと痛く、体をベッドから起こしてみると、さらに痛みを感じた。

 食欲はなかったが、さすがに何かものを食べないといけないだろうと思った。昨日の昼で最後のご飯だった。田上は、また、水分のないかすれた声で赤坂先生を呼んだ。

 今度は、最初の一声で聞こえたようだ。「はいはい」と返事が聞こえると、ぱたぱたとスリッパの音がして、カーテンが開いた。昼の陽光は眩しく、朝つけられていた電灯も消されていて、建物の中の薄暗さと外の日の光がいい具合に心地よくなっていた。カーテンから見えた中には、先程の声の主であろうウマ娘と赤坂先生しか見えず、タキオンの姿はどこにも見えなかった。だが、タキオンはひょっこり現れた。カーテンの左の方から「やあ、調子はどうだい?」と言って出てきた。

「タキオン」

 田上は、そう言うと昨日のことを思い出して嫌な顔をした。するとタキオンは言った。

「どうしたんだい?そんな顔しないでおくれよ」

 眉を少し下げて悲しそうな顔をしていたが、田上には関係がなかった。やっぱり嫌そうな顔をして、首を横に振った。タキオンは、何でこうなったのか分からず、また、カーテンの陰に引っ込んでいった。その様子を憐れむように赤坂先生は見ていた。だが、そのことに触れることはせず、言った。

「お水飲む?」

 田上は、タキオンがいなくなったカーテンの向こうを見つめて頷いた。赤坂先生は、後ろの方に戻っていくと、コップに水を入れて戻ってきた。そして、田上に渡した。

「何か食べたい?お粥あるよ」

 そう赤坂先生が言ったから、田上は頷いた。やがて、お粥が運ばれてきた。田上は、黙々とお粥を食べた。保健室に来ていた知らない女の子は、また赤坂先生と話していた。タキオンは、窓から外を眺めているのかもしれない。田上には、なぜそんなことをしているのか理解できなかったが、考えることはせずただお粥を食べ続けた。

 タキオンを追い払ったことによって、田上の心には、少し罪悪感が浮かんでいた。しかし、タキオンの顔を見る気にはなれなかったので仕方がない。相変わらず可愛さはあったが、怖くもあった。その正体を見る気にもなれなかったので、痛む頭に任せて田上は眠りについた。

 眠りは昨日と同じように昨日と大差なかった。ただ、夢を覚えていたかいなかったかの違いで、息もしづらく、体が重かった。

 そして、起きた時にはもう夕方で、田上は、帰りたい帰りたいと切に願っていた。

 タキオンはもういないのだろうか、と田上は思った。泣きたい気分だった。声を出して泣きたかった。タキオンが、そこにいると、田上は泣けなかった。ただ、それは確認する暇もなく、田上は泣き出していた。

 静かな保健室に田上の泣き声が響いた。誰も来る気配はなかった。だから、田上はもっと泣いた。あの日に帰りたかった。母がいたあの時に。暖かな春の日差し、黄色い菜の花と赤いてんとう虫、誰もいない公園。あの頃に帰らせて欲しかった。

【挿絵表示】

 

 田上は、泣いていた。すると、保健室のドアが開いた。最初は、何も言わなかったが、カーテンの中から聞こえてくる泣き声を訝しむように、足音がゆっくりと近づいてきた。

 カーテンがさらさらと音を立てて開いた。

「田上?」

 田上は、必死に泣くのを我慢しようと思ったが、そうすることはできなかった。カーテンの向こうから見えたのは、赤坂先生の顔だった。この情けない顔を見られたくなかった。だから、田上は、体を丸めて赤坂先生に背を向けた。

 赤坂先生は、田上の背を叩いて呼びかけようか迷ったが、最後には背を叩いて言った。

「田上?なんで泣いてるの?」

 田上は、答えたくなかったから、布団にうずくまって首を横に投げるように振った。赤坂先生は言った。

「田上、タキオンを呼んでこようか?」

 それはもっと嫌だった。

「やめてくれ!」

 そう言うと、ガバッと起き上がって赤坂先生の手を掴んだ。赤坂先生は驚いたが、何も言わずにゆっくりと田上の手を放させた。

「どうしてなの?」

 赤坂先生はこう聞いた。田上は、赤坂先生と目が合ってしまった以上どうしようもなかった。一言、こう言った。

「…帰りたい」

 赤坂先生は、ふんとため息をつくと田上のベッドに腰かけて、カーテンを見つめながら聞いた。

「どこに?」

「……母さんの手の平。母さんの腕の中。…消えた。消えたい。あの日々に」

 田上は、そう言うと、ベッドにまた横になった。そして、赤坂先生に背を向けた。

「…もうどこかに行ってください」

 田上は、呟くように言った。赤坂先生は、しばらく黙って、カーテンのシミを見つめた後、ため息をついて立ち上がり部屋から出て行った。外からは、ウマ娘たちの運動している様々な音が聞こえた。

 

 赤坂先生は、タキオンの研究室へと向かった。風邪で気分が滅入っているとは言え、今の田上の言動は見逃せないものであったし、また、見逃したくないものであった。赤坂先生と田上は、まあまあ仲が良かった。それは、タキオンとも仲が良かったせいもあるのだろうが、普通に気の合う仲間でもあった。その仲間が苦しんでいるのであれば、赤坂にとっては、救いの手を差し伸べなければならないと思った。田上は、自分の過去をあまり話す人間ではなかったから、情報がなかった。田上が、なぜあのような考えに至り、泣くほどに母を想ったのか。田上と親しい人間なら、それが分かるかと思った。しかし、いざタキオンの研究室について、本を読んでいるタキオンに話を聞いてみても、あまり大した答えは出てこなかった。

 赤坂先生は、研究室の扉を開けるや否やこう聞いた。

「おい、タキオン。田上のことについて知っているか?」

「ん?」

 タキオンは、聞き返した。

「だから、田上のことについて何か知っているのか?」

「…走力や体力なんかについてはデータは取ってあるが、それのことかい?」

「いいや、そんなんじゃない。もっと田上の昔のことだ」

「昔?……あんまりそう言うことは、話したがらない人だからねぇ。昔って言っても広いよ?あの人二十五年も生きているんだから」

「……例えば、母のことだ。…それと、あんまり私がこのことを探っていたというのは田上には言うなよ。傷つくから。…忘れておけ」

「忘れておけって」

 タキオンは、困ったように笑った。そして、その後に顎に手を当てて考えた。

「母のことねぇ。昔、母が病気で亡くなったってことくらいしか聞いていないな。…何の病気だったんだろう?」

「……そうか」

 赤坂先生は、深刻そうに考えながら頷いた。すると、今度はタキオンが少し心配そうに聞いた。

「なにかあったのかい?」

 赤坂先生は、難しい顔をした。

「別に、私の思い過ごしだったらいいけど、……うう!タキオンになんていえばいいかな。言ったら絶対怒られそう」

「怒られそう?トレーナー君にかい?」

 赤坂先生は、こくりと頷いて思い悩んだ。しかし、結局は言った。

「泣いてたんだよ。あの日々に帰りたいって…」

「あの日々?」

「母の腕に抱かれたいって」

「……愛情不足かい?」

「分からない。私もそのように思うけど、実際のところはどうなんだろう?たくさんのものが降り積もってできた様にも感じる」

 赤坂先生は、低い声で言った。それから、「内緒だから」とタキオンに念を押すと、研究室を去った。保健室に帰ると、カーテンを閉め忘れていった向こう側に、出て行った時と同じように田上が寝ていた。赤坂はため息をついた。そして、部屋の電気をつけた。

 



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三、おはよう、こんにちは、そして、さようなら(前編)

三、おはよう、こんにちは、そして、さようなら

 

 翌朝、田上は目を覚ました。一度、保健室から明かりが消えようとする頃、田上が起きて、水を所望したが、それを抜きにすると、朝まで眠り続けた。そして、朝を迎えると風邪の後の倦怠感もあったが、それよりも食欲がいつにも増してあり、ぐうぐうとお腹が鳴った。風邪は完全に治っていた。田上は、朝のカフェテリアに小走りになって行った。着替えていなかったので、少し汗臭かった。

 途中でタキオンにもあった。田上は、「今日は昼ご飯作れそうにない」というと、タキオンは残念そうにして、「ま、仕方がないか」と言った。田上が、あまりに平気そうにしていたので、昨日の話がまるで嘘のようだった。母を思って泣いた影などどこにも見当たらなかった。だから、タキオンは思わず、「昨日のことを覚えていないのかい?」と質問しそうになったが、覚えているとまずいので、その質問はやめた。代わりに、不思議そうに田上を見た後言った。

「もう風邪は完治したんだね?」

「ああ」と風邪の前の時よりも元気よく田上は返事をした。そして、少し暗い表情になった後言った。

「昨日、タキオンに…その、酷いことをしたろ?」

「酷いこと?…ああ、気にしてないよ。ただ、首を横に振られただけさ。風邪の時なら誰でもそうなる」

 これは、田上の心を慰める嘘だったが、田上はその言葉を聞くと安心した。タキオンが、傷ついていないことはなかった。なぜなら、田上があの時見せた表情は、憎しみに近いまであったからだ。それは、タキオンに向けられている感情ではなかった。しかし、その顔で見られてしまうと心が痛まないわけにはいかなかった。やはり、トレーナー君の中には何かが渦巻いているのだろうか?そうタキオンは思った。

 カフェテリアまでは他愛のない話をしていった。研究がどうとかあの本がどうとか、主にタキオンから話しかけていった。それを田上は、幸せそうに聞いていた。本当に全く何事もないようだった。

 カフェテリアに着けば、彼らは普通に座り普通に食べた。ただ、スプーンを一度落としただけだった。その時は、田上が「三秒ルール」と頷いて、スプーンのゴミでも落とすようにふっと吹くと、タキオンの顔を見て「どうかした?」と挑発するように眉を上げた。タキオンは、その様子を見て、ふふふと笑った。

 幸せは長く続くのだろうか?それとも、ひと時の休息だろうか?それは、本人の気概次第だろう。何が幸せかだなんて、人それぞれだ。例え、幾多の困難に見舞われても家族を守ることさえできれば、幸せだという人がいる。幾多の困難に目の前を覆われて、不幸せになる人もいる。気概次第で幸せになれるのなら、田上もそうしたいだろう。しかし、田上にはその方法が分からなかった。

 タキオンと軽く話せているこの幸せ。これこそが、永遠のものだと信じ、本当の幸せであると信じた。それ以外は、幸せでなかった。恋することも食べることも仕事をすることも、さらには、生きることも、タキオンと話せていないのでは幸せではない。タキオンを近くに感じ、真正面から向き合えるこの時こそが幸せなのだ。それを感じることができないときは、何かに縛られているときだろう。見えないものに、がんじがらめにされて動けないときだろう。もういいや、と投げ出せないものを持っているときだろう。

 田上の幸せは、長くは続かない。常に何かに遮られる。それは、表面的には何かの物事のせいに見えるが、幸せを断ち切っているのは自分自身の感情。制御しがたいものだ。我々はそれを何と呼ぶのだろうか?それは、この物語の終わりに分かる。

 

 カフェテリアで朝食をとった後、二人は当然のようにトレーナー室へと向かった。タキオンが、午前の授業をどうするかなど、田上は聞こうとすら思わなかった。当たり前のように話し、当たり前のように歩いた。しかし、ふと思ったことがあったので、田上はタキオンに質問した。

「タキオン、今年の年末は帰るのか?」

 タキオンは、顎に手を当てて、う~んと考え込んだ。それから言った。

「トレーナー君は?」

「俺は、…帰ると思う。今日が、確か二十七日でしょ?すると、明後日から行って、…一月五日の昼辺りに帰ってくるのがいいのかな。タキオンはどうなんだ?」

「私は…」とタキオンは考え込んだ。タキオンは、自身のトレーナーの家に行ってみたい気持ちがあった。半分はただの興味で、半分は田上の情報収集だった。なぜ情報収集をするのかというと、田上がどうして母を思って泣いたのかが気になったからだ。ただ、こんなに早くチャンスが訪れるとは思わなかった。あんまり心の中で正確さも増していない疑問だったし、タキオンはどう答えるのか迷った。――そもそも行きたいと言えば、連れて行ってくれるのだろうか?タキオンは、そう思うと、田上に聞いてみた。

「君の家に行きたい、と言ったら、君はどうするんだい?」

「え?俺の家?……嫌だよ。連れていくのはさすがに、…ねぇ?絶対俺の父さんも嫌がると思うし、寝る場所もないんじゃないか?」

「どういう所に住んでいるんだい?」

「田舎のアパートだよ。二部屋しかない」

「そこにお父さんは住んでいるのかい?」

 田上は、コクリと頷いた。そして、その後にやっぱり訝しんで聞いてきた。

「…え、本当に行きたいの?」

「いや、正直私も迷っているんだよ。別に私の家の方にね、帰らなくたって、あの親二人は文句は言わないだろうけど、どうもまだ、私の方向性が定まらなくてね…」

 タキオンは、難しい顔をした。田上は、それを不思議そうに見つめたが、言った。

「あんまり俺としても来てほしくない」

 すると、きょとんとしてタキオンが田上を見た。それから、ハハハと笑った。

「えー、私が行きたいと言ったら意地でもついていくからね。最悪、君の寮に泊り込んで無理矢理にでも」

「それだけはやめてくれ」

 田上が、顔をしかめて言った。

 そして、二人はトレーナー室に着いた。

 

 トレーナー室に着くと、タキオンは紅茶の準備をし、田上は自身のパソコンの前にいった。パソコンの前につくとタキオンが話しかけてきた。

「…とりあえず、いつまでに決めればいい?明日でいいかい?」

 途端に田上は、またしかめっ面をした。

「えー、…本当に来てほしくない。それに、ちょっと世間体としてもまずいだろ。二冠ウマ娘としては、男の人の家に止まるのはまずい」

「…という来てほしくない言い訳だろ?大丈夫、私は世間体なんて気にしないよ。…それに本当に決まっていないんだから、そう邪険に扱わないでくれ」

 タキオンの言葉に、田上は、不服そうな顔をした。しかし、またパソコンに向き直ると、今度は真剣な表情をして熱心に画面を見続けた。タキオンは、その様子を見ていたが、ふっと微笑むと自分の年末・年越しの予定に想いを馳せた。

 果たしてどうしたものか…。タキオンにとってトレーナーの泣いた理由が、年末の予定を慌ただしく変える程に興味のあるものなのかが分からない。勿論、今は普段している研究や薬作りもアイディアがないので、暇であることには間違いがない、だが、緩く過ごせるなら別にトレーナーについていく必要もなかった。――熟考する必要があった。そのためにタキオンは、紅茶を用意した。廊下に行って水道から水を汲み、戻ってくると、一、二分ほどでお湯を沸かす。そのお湯をカップに注ぎティーバッグを入れる。それからまた、しばらくすると紅茶の良い香りが部屋中に広がった。

 田上は、その香りの強さに一瞬鼻の皺を寄せたが、何も言わないでただキーボードを少し強目に叩いた。そのことにタキオンは気が付いていないことはなかった。タキオンが、今淹れた種類の紅茶が特に田上のお気に召さないようだ。この紅茶を淹れると少しだけ主張するようにキーボードを叩く。毎度のことだ。タキオンは、気にせずに紅茶を一口啜った。

 いろいろなことを考えた。時に考えが脱線したりもしたが、自分の中の様々に思いを巡らし、気持ちに整理をつけようとした。しかし、未だ納得できない要素が心の中にあるような気がして、タキオンは思い悩んだ。紅茶をもう一杯飲んだ。それでもその謎は解けない。遂には、考える事を止め、トレーナー室の本棚の前に歩み寄るとその中から適当に一冊を取り出して、ソファーに座るとそれを読み始めた。田上は、それを何の気なしに見ていたのだが、突然いいことを思いついてタキオンに言った。

「タキオン、別に俺の家じゃなくても、スカーレット君とかカフェさんの家に行ってみたらどうなんだ?スカーレット君とか喜んで迎え入れそうじゃないか」

「ああ…」

 本を読んでいたタキオンは振り返っても田上を見ておらず、生返事をした後で、また本を読み始めた。田上には、タキオンの耳にちゃんと自分の言葉が聞こえていたのかいなかったのか分からず不安になったが、今のところは再度呼んでもタキオンは、生返事しかしなさそうなので呼ぶのはやめた。

 

 それから、また時が経った。昼になると、タキオンは「昼食はいい」と言って、研究室の方に歩いて行った。田上は、それを心配に思ったが、大した言葉をかけてやれず、結局はタキオンのなすがままに任せた。そして、自分は昼食を食べにカフェテリアへと向かった。

 その途中で自分の寮へと寄った。汗臭い衣服を着替えようと思ったからだ。寮に着くとそれなりに人がいて、わいわいがやがやとしていた。しかし、その中には田上の友人たちの姿は見えず、田上は黙ってわいわいがやがやの脇を通り過ぎていった。

 

 服を着替えると寮を出たのだが、その途中で楽しそうに自分の担当の子と話している友人を見つけた。これは、霧島ではない。国近(くにちか)という男の方だ。カフェテリアに続く渡り廊下を歩いていた。

 田上が、声をかけるかかけまいか迷っていると、向こうの方がこちらに気が付いて呼びかけてきた。

「よう、圭一。風邪治ったのか?」

「ああ」

 田上は、そう返した。そして、少し早足になると国近の方に歩いて行った。国近の隣には、黒髪のおさげの子が歩いていた。国近の担当で、名前は、ハテナキソラという。容姿は、少し赤坂先生に似ているだろう。しかし、大きく異なる部分もある。それは、ハテナキソラは、その名の通り青く澄んだ空色の瞳を持っていて、おさげは赤坂先生の方は三つ編みだが、ハテナキソラはただ結ってあるだけだ。

「ソラさん、こんにちは」

 田上は、ハテナキソラにそう呼びかけた。しかし、ソラの方はというと、ただ頭を少し下げて微笑んだだけだった。これが、ソラの普段の様子だったので、田上は何にも構うことはなく、自分も少し頭を下げて国近の方を見た。

「俺が風邪ひいてたの知ってたんだな」

「ああ、霧島から聞いたよ。お前、寮の部屋でぶっ倒れてたって?ちょっとした騒ぎになってたよ」

「へー、全然気が付かなかった」

「の割に回復早いんだな。一週間くらい寝込んでてよかったんだぞ。飼い主の面倒だったら、俺達でも見れるし」

 この飼い主という呼び方は、タキオンに対する呼び方で、主に田上と国近の間で使われる、タキオンの「モルモット君」呼びに対するからかいだ。

 国近の話を聞くと、田上は首を傾げた。

「…俺が倒れてた時はタキオンもまだ風邪ひいて寝てたぞ?」

「え!?その情報初耳だぞ!?お前、それ誰かに言ったのか?」

 田上は、顎に手を当てて考えた。そして、言った。

「……言ってないわ」

「ほらな、俺も知らねえわ。…で、タキオンちゃんはもう大丈夫なのか?」

「ああ、俺が保健室に運ばれて気が付いた時だったかな?…どうだったかな?…少なくとも朝にはもう平気そうだった気がするな」

「ふーん、…タキオンちゃんは次走どうするんだ?聞いてなかったけど」

「次走は大阪杯に出るよ」

「大阪杯ねぇ」

 国近は少し残念そうに言った。すると、隣の方で黙って話を聞いていたソラが、国近と同じように残念そうにした。その様子を国近は見とめていた。田上もそれに倣って、ソラの方を見た。国近はしばらく無表情でソラの方を見ていたが、しばらくすると言った。

「お腹減ったなぁ…」

 カフェテリアの扉はすぐ前だった。田上と国近とソラは、一緒に中に入ったが、料理を受け取ったところで田上は分かれた。自分がいたままでは、ソラの方が会話ができずに可哀想だと思ったからだ。実際、そちらの方がソラも嬉しかったらしい。田上が席について、遠目から二人を見た時、また楽しそうに話をしているのを見た。田上は、一人寂しく昼食を食べた。相変わらず、昼のカフェテリアは喧騒に満ちていた。

 

 タキオンは、昼も食べずに研究室に籠っていた。食欲がないというよりも、他に集中することがあったからだ。それは、トレーナー君の家に行くのかという問題で、朝から今までずっっと悩み続けていた。だが、それも終わりに近づいてくるようだ。それは、廊下の足音と共にやってきた。

 その足音は、薄暗い研究室に入ると本を読んでいるタキオンを見つけて言った。

「タキオンさん、お暇でしたら一緒にお昼を食べに行きませんか?…それとも、もうトレーナーさんのお弁当食べちゃいましたか?」

 それは、タキオンの良き後輩、ダイワスカーレットの声だった。

 タキオンは、チラリと本から目を上げると言った。

「暇かそうじゃないかで問われるなら、暇と言うが、実際のところは、私は今、本を読んでいて忙しいとも言える。残念だが、今日のところは…」

 そこまで言いかけたところでタキオンは、言葉を切った。断ろうと思ったのだがスカーレットの残念がっている顔を見たからだ。だから、代わりにこう聞いた。

「…君、なんでここに来たんだい?昼食時には珍しいと言えるが…」

「今日は、私の友人たち皆が皆、用事があると言って、一緒に昼食は取れないそうなんです」

「なるほど、私は代用品か」

 タキオンは、やれやれといった風に首を振った。すると、スカーレットは、首を横に振って慌てて言った。

「タキオンさんが代用品ということではないです!ただ、普段研究室やトレーナー室でご飯を食べているようなので、中々声をかけても通らないのかなって思って、それで、少しタキオンさんを敬遠してただけなんです!決して、タキオンさんが嫌いとかそういうわけではないんです!」

 タキオンは、スカーレットの慌て具合に苦笑して言った。

「分かった、分かったよ。私も少し意地悪な言い方だった。君がそういうことを考えているのは分かっているし、無論その考えが当たっていることは言わずもがなだ。確かに普段であれば、断るつもりでいる。…しかし、今日はどうかな?なんだか行ってもいいような気がしてきたが…。…うん、スカーレット君。少し話をしてからカフェテリアに行かないか?」

「話…ですか?」

 スカーレットが不思議そうに言った。

「そうだ、話だ。…少し悩んでいることがあってね。それが、中々決定できないんだよ」

「タキオンさんが悩んでいること?研究のことですか?」

「……まあ、似たようなものだが、少し違う。トレーナー君の実家に私は行ってみるか否か、だよ」

「え!あの、...タキオンさんのトレーナーさんの実家ですか!どうして!?」

 すると、タキオンは、スカーレットの大声に面倒くさそうに眉を寄せて言った。

「この際、トレーナー君の家に行く行かないということは問題ではないんだよ。私が、行くと決めたら無理矢理にでもついて行く。問題は、トレーナー君の家に行っておく方がいいか良くないか、だ。どう思う?スカーレット君」

「……あの、まず、なんで行きたいのか教えてほしいんです。タキオンさん」

「ああ……。参ったな、赤坂先生の気持ちが分かった。どうやって話せばいいかな。…いいかい、これはトレーナー君ののっぴきならない事情による出来事なんだ。それは、まだのっぴきならないとまではいってないんだが、私には何かが裏に潜んでいそうで興味がある。裏に何かがあるというのは、のっぴきならない事だ。大変なことだ。だから、少しトレーナー君が心配でもある。…あんまり詳しく話したらトレーナー君の尊厳を傷つけてしまうから言いたくないのだから言わない。だけど、ほんの少し掻い摘んで話すとすれば、さっき言ったように、のっぴきならない事情が潜んでいて、トレーナー君が心配だ。それを探るためには、トレーナー君の実家に行って父親やら何やらに聞くしかできないんだよ。分かるかい?スカーレット君」

「は、はぁ…」

 あんまり分かっていなさそうにスカーレットは頷いた。タキオンは、もう少し何か話せることはあるかと口を開けてみたが、何も言葉は出てこず、口を閉じた。そして、話を続けた。

「まあ……、本当にこれ以上は言いようがないから仕方がないが、私がトレーナー君の家に行くのを躊躇っている理由はなんだと思う?」

「何?…うーん、そうですね。あんまり事情が分からないので、踏み込んだことは言えないから何を話せばいいか分からないんですけど…、私が、単純に考えてみると、…男の人の家が恥ずかしいから…とか?」

 そう言うと、スカーレットは「間違っているかもしれないんですけど…」と付け足した。そして、タキオンの方を見た。タキオンは、今言われた言葉を反芻していた。だが、言葉は上手くまとまらなかった。

「他にはないかい?」

 タキオンは、うつむいて床を見つめながら言った。スカーレットは、うーんと頭を悩ませたが何も出てこなかった。タキオンは、相変わらず床を見つめている。遂には、スカーレットもいたたまれなくなった。だから、タキオンに少し慌て気味に言った。

「タ、タキオンさん、こんな暗い所で考え事しているから、何も浮かんでこないんですよ。たまには環境を変えて、私とお昼を食べながら考え事をしませんか?」

 そう言うと、スカーレットのお腹がキュルキュルと鳴った。それでタキオンは、床を見つめるのをやめた。

「そうだね。どうせタイムリミットは明日だ。もう少し先延ばしにしたってかまわないだろう」

 そうタキオンは言うと、スカーレットに「行こう!」と言って、歩き始めた。お腹が大変減っていたので、タキオンが先頭に立って歩いた。もう午後の授業も近かったので二人は急がなくてはならなかった。二人は、小走りになってカフェテリアまで急いだ。

 

 カフェテリアに着くとちょうど出入口のところで田上とタキオンが鉢合わせた。田上が、カフェテリアの入り口の影から急に出てきたので、タキオンはぶつかりそうになって慌てて避けた。すると、今度は別の人にぶつかって、タキオンは慌てて謝った。その人は、快く「いいですよ」と微笑んで許してくれた。ウマ娘の重いタックルをもろに食らったにも関わらず、その人は優しかった。

 タキオンは、その人に申し訳なくなって、だけど何も言えなくて、代わりにトレーナーの方に八つ当たりした。

「君のせいだぞ!急に影から出てくるから!」

 その人は、まだそこにいたのだが、自分のぶつかった相手が急に怒り出して驚いた。しかし、怒られた男の方を見ると、ああと納得したように頷いた。その人は、アグネスタキオンとそのトレーナーのことを知っていた。そして、その仲の良さも。だから、ああと頷くと、ニコニコ笑ってその場を後にした。

 タキオンは、その人には構わずぶつくさ言った。勿論、スカーレットも後ろにいたのだが、それにも構わずぶつくさ言った。「トレーナー君が…」とか、「もう少し壁から出てくるのが遅ければ…」とか、子供のようにぶつくさ言った。

 それをスカーレットは、心配そうに見つめた。田上は、「あー、ごめんごめん」と言って、タキオンの肩を慰めるように軽く手を置いた。タキオンは、それを乱暴に振り払って言った。

「もう君は昼食を済ませたのかい!」

 まだ、怒っているようだった。田上は、苦笑して言った。

「もうとっくに食べ終わって、今帰るとこだよ。タキオンは食べに来たのか?」

「当たり前じゃないか!スカーレット君と一緒だよ!…おや、スカーレット君?」

 そこでタキオンは自分の気をとり戻したようだ。

「すまない、スカーレット君。君のことをすっかり忘れていたよ」

 そう言って、頭を垂れた。スカーレットは、「いえいえ、全然」と笑って言った。それから、一つ間を置いて、不思議そうな顔をしてトレーナーを見た。スカーレットは、――この人にどんなのっぴきならない事情がおこっているんだろう、と思ったが、田上はそれが分からず、困惑しながら笑い返すだけだった。タキオンは、それを見つめた。タキオンには、大体の事情が読み取れたが、そのことには何も触れないで言った。

「スカーレット君、行こう!昼食が私たちを待っている!」

 スカーレットは、嬉しそうに返事をして頷いた。そして、行こうとして、ちょっと待ってからやっぱり田上の方を戸惑うように見つめた。今度は、田上にも考えていることが分かった。だから、言った。

「俺も行こうかな?スカーレット君が良かったらだけど」

 すると、タキオンが口を挟んだ。

「君は…来なくてもいいだろう。なあ、スカーレット君」

 まだ、さっきの出来事をタキオンは根に持っているようだ。スカーレットは、二人の間に挟まり迷ったが、言った。

「私、タキオンさんのトレーナーさんに聞いてみたいことがあるんです。ご一緒してもいいですか?…タキオンさん」

 スカーレットがそう言って、申し訳なさそうな顔をしたので、タキオンも了承せざるを得なかった。タキオンは、この子には何かと弱いのだ。色々な理由があるが、この子には後輩ということだけでなく、それ以外の何かを感じて、できるだけこの子には優しくしてやろうと思っていたのだ。だから、タキオンは不満そうに田上を見つめた後、「腹が減った」と呟いて、注文口の方へ歩き出した。

 

 二人は、注文口でウマ娘としてそれなりの量を頼み、もう一人はその後ろをのこのことついて行った。

 席に着いた時、スカーレットがタキオンに言った。

「すみません、タキオンさん。私のわがまま聞いてもらって。私から気分転換に昼食を食べに行こうって言いだしたのに…」

「いや、構わないよ。私はどちらにしろ、ここでは考える気などなかったから。…それで、うちの不甲斐ないトレーナー君に聞きたいこととは一体どんなことなんだい?」

 タキオンがそう聞くと、スカーレットは言いにくそうにチラと田上の方を見た。田上は、できるだけ怖がらせることのないような声にはして、スカーレットに聞いた。

「スカーレット君の話しやすい順序からでいいよ」

 そう言うと、スカーレットはしばらく間を開けた後、ぽつりと言った。

「トレーナーさんは、タキオンさんと呼び方が同じなんですね」

 これは、田上の予想だにしていない質問だったので驚いた。驚いたから思わず、「え?」と聞き返してしまった。すると、スカーレットがまた同じことを繰り返し言った。田上は、思いもかけない質問に戸惑いながらも答えた。

「…うーんとそうだなぁ。同じだねぇ。もしかしたら、タキオンの呼び方がうつったのかもしれないね。俺は、普段人を君付けで呼んだりしないし、女の子だったら以ての外だからねぇ。…うん」

 田上は、この答え方でよかったのか不安になったが、とりあえずスカーレットがこれ以上そのことについて聞いてくることはなかった。

 それからしばらくして、タキオンの食事の様子を田上が見ていると、スカーレットが言った。

「私は、…まだウマ娘としての本格化(自身の能力が開花すること)を迎えているようではないんですけど、…トレーナーさんから見たらどうですか?」

「俺?……うーん、多分迎えていないんじゃないのかなぁ?ねぇタキオン。感覚…とかがあるんだろ?」

「ああ。落ち着かないような気持になってしまうが、慣れてしまえばそれは生活の一部さ。すぐに良くなる。…そのような感覚があるのかい?」

 すると、スカーレットは顔を思いに悩ませた。

「…ある、と言えばあるような気がするんですけど、ない、と言えばそのような気も…。私が、どのような状態にあるのかが分からなくて…」

「ふむ、それでトレーナー君と話したくなった、と。…それは、うちのトレーナー君じゃなくても、良かったような気もするが、…まあ、どうだろうね?」

 そう言って、タキオンは田上を見た。田上は、少し考えながら言った。

「まあ、俺でなくてもいいけど、俺に聞きたいのであればそれは嬉しいことだよ。…で、自分が本格化を迎えているのかが不安で、何か答えが欲しいんだろ?」

 スカーレットは、黙って頷いた。

「じゃあ、まあ、今のところは心配しなくてもいいんじゃないか?本格化の期間が個人で差があると言っても、三か月とかそこいらで終わるものじゃない。…多分、本格化の時期は思春期とも被っているから、そこのところで多少の違和感が出たりもするんだろうな。…ま、今のところは大丈夫。年明けからの選抜レースで結果を残しさえすれば、トレーナーもついてデビューもできる。なんなら、スカーレット君の担当に俺がなってもいい」

 田上の言葉にタキオンもこぞって賛同した。

「それがいい!有象無象がトレーナー君の傍に来るより、君が来てくれた方が楽だ」

「あれ?トレーナーさんは、まだタキオンさんとの三年間を終えて…?」

「ああ、もうタキオンの扱いにも慣れたから、新しい子とのトレーニングを並行しつつ、残りの一年を頑張ろうかなって思って」

「へ~」とスカーレットは、頷いた。タキオンは、「扱いに慣れた」と言われて少し心外そうだったが、残りのご飯を口にかきこみ始めた。スカーレットの皿には、まだ料理が多く残っていた。それをスカーレットは、ぽつぽつと食べた。お昼の時間はぎりぎりとなった。タキオンは、スカーレット君と自分が同じ環境でトレーニングをできるかもしれないということに活気づいて、田上のことをすっかり許した。それから、二人は談笑しつつスカーレットが食べ終わるのを待った。スカーレットは、終始ぼーっとして心ここにあらずだった。

 お昼が終わり、午後の授業を告げるチャイムが鳴る間際となっても、その様子は変わらなかった。ただ、田上の申し出には、「また後日考えさせていただきます」と告げ、その場を立ち去っていった。

 スカーレットが立ち去った後、タキオンが言った。

「スカーレット君は、本格化を迎えていると思うかい?」

「うーん…、どうだろうな。…選抜レースに出てみれば分かるんじゃないか?確か、選抜レースは年明けからだったよな?」

「ああ、えっと…、確か、一月に一回、三月に一回、五月に一回、で、六月が最後だったな。最初以外私は行っていないけど」

 タキオンが、そう言うと田上はハハハと笑った。

「そういえば、そうだったな。有象無象に邪魔されるのはごめんだよ、って言ってたよ。さっきみたいに」

「だってそうじゃないか」とタキオンは唇を尖らせて言った。

「それはその時話したろ?邪魔なんだよ。私の前に立ってあれこれいう人が。…その点、君は恐ろしくバカだった。御しやすいと思ったよ。…だけど、それに加えて、君の瞳が面白かった。何か、私であって私でないものを見ていた。…あれは何だい?どういうことを考えていたんだい?」

 田上は、そう聞かれて困った。

「別にただ、お前の走りが凄いって思っただけだよ」

 そう答えたが、胸の内で別のことを考えた。それは、――もしかしたら、あの時から俺はタキオンは好きだったのかもしれない、ということだった。だが、これはあんまり納得がいかなかった。だから、その後に、やっぱり別のタイミングだったのかな、と考え直した。

 タキオンは、その田上の様子を不思議そうに見ていたが、やがて言った。

「やっぱり君の家に行ってみよう。私は決めたぞ。絶対に行くんだからな」

 勿論、田上は嫌そうな顔をした。

「あのな、本当にお前が来るとせっかくの休暇がなくなるんだよ。ずっと気を張り詰めていなくちゃならない」

 すると、タキオンは信じられないという顔をした。

「おや!?私といるときはいつも気を張っていたというのかい?」

「いやいや、そういう訳じゃないんだけど…、あるだろ?父親といるときの自分と、仕事場にいるときの自分。それが俺にはあるから、お前が俺の家に来ると、本当に面倒くさいんだよ。調整が大変なの!」

 タキオンは不満そうな顔をした。

「でも、君に俄然興味が湧いたんだよ」

「俺に興味を持ってくれるのは嬉しいけど、家にくるのは別だ。そういうことは他所でやってくれ」

 タキオンの不満そうな顔は続いた。ただ、タキオンは知っていた。タキオンがスカーレットに弱いように、田上もタキオンに弱いことを。なぜかは知らないが、経験則から元づくとこのまま押していけば、いつかは田上も押し切れることを。

 タキオンは、言葉を続けた。

「君も今のところ薬がなくて暇をしているじゃないか。それじゃあ、私のモルモット君としての役割が半減している。君は、私のモルモット君なんだ!私の実験動物なんだよ!私の研究を阻害するというのなら、……いや、これはダメだ。君にはまだまだ役目が残っている」

 タキオンは、何かを言おうとして慌ててやめた。代わりにもっと、田上に詰め寄った。

「とにかく、私は行くと決めたからには絶対に行くと言ったんだからね。君が何を言おうが、知ったことではない!……異論は?」

 タキオンは、知ったことではないと言った割に、自身のトレーナーに意見を求めた。そのタキオンの心ばかりの優しさに田上は少し可笑しく思ったが言った。

「ある!…まだ、俺の父さんがいる。可哀想だ。俺の父さんまで実験動物として巻き込むことになるぞ。これには、断固抗議する」

 こう言うと、タキオンも頭を悩ませた。そして、少し考えた後、言った。

「じゃあ、今から君のお父上に電話をしようじゃないか」

「ダメだ。仕事中の可能性がある。邪魔はできない」

 田上は、即座にこう答えた。すると、タキオンが返した。

「じゃあ、いつ頃に電話できる?」

「夜…九時以降。お前の寮の門限が終わってから」

 田上は、嘘をついた。父は、午後五時には終わる仕事についているので、タキオンは余裕で電話することができた。タキオンは、田上の発言を訝しく思った。その発言に不自然な間があったからだ。

 タキオンは、赤い瞳から放たれる視線をじっと田上に注ぎ込んだ。すると、田上もちょっとたじろいで「な、何だよ」と言った。

「…君、私に嘘をついていないかい?」

 タキオンは、そう言った。田上は、勿論、噓がばれたくなくて「いいや」と答えた。タキオンは、「ふ~ん」とまだ少し疑心に満ちた声で言った。そして、落ち込んだように「そうか…」と呟いた。

 タキオンは、田上の言ったことを信じていた。疑わしくはあったが、ここで「君は嘘をついただろ!」と問いただしても、余計もつれるということは分かっていた。だから、嘘をつかれたらタキオンは引き下がることしかできなかった。少しがっかりした。田上の心意気と自分の予定の狂いに。押し通せばいけるものと思っていたが、そうでもなかったようだ。

 タキオンは、一つため息をついた。それから言った。

「じゃあ、君の父さんには、連絡は取れないんだね?」

 田上は、メールの存在をできるだけタキオンに知らせないようにして話していたのだが、嘘をついた後ろめたさからか思わず言った。

「メールとかで一応できないことはないけど…」

「いや、いいよ。君に嘘をつかれでもしたら困る。君は誠実さが取り柄なんだから」

 そう言うと、タキオンは話を変えた。ちょうど、分かれ道のところだった。

「私は、もう研究室に行くよ。しばらく、また考え事をする。今日の放課後は、…トレーニングには行かない。…いや、もしかしたら行くかもしれない。君は待機していてくれ。私が来ても来なくても居るんだよ。もし、行ったときにいなかったら、君の寮に殴りこみに行く」

 タキオンはそう言って、研究室に続く薄暗い道に歩いて行った。田上は、タキオンの顔を見てどうしようもなくなっていた。少し落ち込んでいるのが見ていられなかった。何より、さっきの「君は誠実さが取り柄なんだから」という言葉が、胸に刺さった。タキオンは、暗い廊下をすたすたと歩いていた。

 田上は、話しかけたかったが、どう話せばいいのか分からずしばらく躊躇った。それから、突然、遮二無二タキオンの背を追いかけ「ごめん!」と叫んだ。

 タキオンは、少し顔に喜びを浮かべ、「何がだい?」と振り返って聞いた。その顔を見ると、田上はやっぱり躊躇いを覚えた。「あの」とか「その」とか言って、最後にはじれったいように頭を掻きむしった。しかし、しっかりと言いたいことを言った。

「ごめん、嘘ついてた。タキオンだったら、俺の父さんと電話できる。確か、今の仕事は五時に終わるから、それ以降だったら電話しても問題ないんだよ。…タキオンが、君は誠実さが取り柄なんだから、とか言うから、どうしようもなくなっただろ!」

 田上は、最後にタキオンに八つ当たりした。すると、タキオンはハハハと笑った。

「やっぱり嘘をついていたか。君の心に揺さぶりをかける言葉も成功したようだ。…それにしても、幾ら嫌だからって嘘をつくのは酷いんじゃないか?」

「いや、むしろ、誠実さが取り柄の人間が嘘をつくくらい嫌なことだって思ってほしいね」

 タキオンは、面白くなさそうに田上を睨んだ。そして、ふぅとため息をつくと言った。

「…どうしてもダメなのかい?」

 タキオンは、悲しそうな顔をしていた。田上には、その顔がダメだった。

 田上は、少し後ずさった。

「嫌なもんは嫌なんだよ。お前だって、俺が家に来たら落ち着かないだろ?」

「いや、私はトレーナー君くらいだったらどうってことはないよ。さすがに赤の他人だったら嫌だけど…。まさか!トレーナー君は私のことを赤の他人だと!?」

「そういう良心に訴えかけるようなことはしないでくれ。今の嘘で俺は疲れたんだよ」

 タキオンは、ふふっと笑った。

「でも、本当の本当にダメなのかい。私が、何と言ってもこうと言っても、君は動いちゃくれないのかい?」

 田上は、眉をひそめた。田上の心に何だか知らない別の心が芽生え始めた。その心はこう言っていた。――別にタキオンだろ?いいじゃないか。やっぱり父さんの配慮はした方がいいけど、お前はいいんじゃないか?好きなんだろ?急接近できるチャンスだろ?

 そうは言っても、田上は迷った。タキオンのことは好きだったが、家について来させるとなるとどうにも受け入れがたい。しばらくの間、田上はむっつりと悩みこんでしまった。それから、静かに言った。

「…いい」

 自分の中の何かを抑え込んでいるかのような言い方だった。田上は、この言葉を言うのにどれだけ苦労したのか計り知れないが、とにかく言うことは言った。

「俺の家に来てもいい。…だけど、まずは父さんに電話からだ。それをしないことにはこの話はまとまらない」

 タキオンは、嬉しそうに口角を上げた。

「やっぱり君はそう言うと思ったよ。……本当にいいんだね?」

 田上は、コクリと頷いた。

「じゃあ、今日のトレーニングは絶対に行くよ。それで、トレーニングが終わったら、君の父さんに電話をしよう。私が、君のスマホから話そう。話はそれからだね」

 タキオンがそう言うと、田上はまた頷いた。そして、二人は別々の道を取った。片方は、研究室へ。もう片方はトレーナー室へ。二人とも良く見慣れた廊下を歩いた。人は、誰一人いなかった。整然としていて、田上には少し不気味に見えたとも言えよう。しかし、タキオンには足取り軽く、アイディアの浮かんできそうな廊下だった。

 二人は、部屋のドアを開いた。田上は、少し考えに苛まれていたが、それも仕事をしていけば次第に薄れた。タキオンは、相変わらず元気そうで、昼食を食べる前にここに訪れた時とは打って変わって、試験管に入れてある薬品を見つめてはニヤリと頷いて、ノートに色々なことを書き込み始めた。

 それは、三時十五分の午後の授業の終わりのチャイムが鳴るまで続いていた。

 



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三、おはよう、こんにちは、そして、さようなら(中編)

 チャイムが鳴ると、タキオンは慌てて研究室を飛び出したが、同時にトレーナーに時刻を指定していないことを思い出した。普段であれば、主にタキオンの都合でトレーニングの開始時間を指定する。ただ、今日は目的が遂行できたため少し浮かれていた。面倒だなと思いつつも、認識が違っていてすれ違うのが一番面倒くさいことなので、タキオンは、着替えの前にトレーナー室に寄った。

 扉を開けると、田上が暇そうに天井を見つめて、椅子を左右に揺らしていた。それにタキオンは声をかけた。

「トレーナー君、もう時間だ。行くぞ」

 すると、田上はタキオンに気が付いたようだ。「ああ」と夢から覚めた様な声を出した。

「今、どうしようか考えていたところなんだよ。タキオンが、時間のことについて何も言わなかったから」

「すまない、すっかり忘れていたよ。では、私は今から着替えてくるから、君は運動場で待っていたまえ」

 そう言うと、タキオンはドアを閉めて、見えなくなった。田上もジャージに着替え始めた。冬だったから、太ももが寒くて寒くて堪らなかった。それなら、初めからジャージでくればいいじゃないかと思う人もいるだろうが、それだと田上の朝のスイッチが入らない。ジャージで行ってしまうと、なんだかだらけている気分になってしまうようだ。これは、トレセン学園でのトレーナーの多くがそう思っているかもしれない。別に服装の指定は、学校の方からされているわけではないのだが、ぴっちりとした服装をしてくる人が多かった。その癖トレーニングの時間になると皆揃いも揃って、ジャージに着替えてくるのだから、この学園には何か伝染病でも蔓延しているものじゃないかと思う。

 田上は、すぐに着替え終わり、運動場へと向かった。今日は、久々のトレーニングの様な気がした。それもそのはず、昨日は田上が風邪で寝ていて、一昨日はタキオンが風邪で寝ていたのだ。そして、その前はタキオンが普通にトレーニングをサボった。有馬記念を優勝したカフェに聞きたいことがあったらしい。この時は、突然のことだったので、田上は寒空の下で待たされ損だった。だが、今日は違うだろう。タキオンは、先に行っていた。

 田上は、久々の運動場に少し喜びを覚えて、足取りを少し軽くさせた。

 

 田上が、――もう冬だなぁ、と感慨に耽って、枯草や枯れ木をのんびりと見つめながら歩いて行ったら、タキオンはもう運動場についていた。

「遅いじゃないか、君!」

 タキオンは少し怒っていた。田上は、「ごめん」と軽く謝ると、「じゃあ、トレーニングをしようか」と言った。田上が、指導をするときは、まず初めに今日やることをタキオンに全て言ってから始める。田上は、持ってきたクリップボードに挟んである紙を見せながら言った。

「今日は、しばらくトレーニングをしていなくて、体も鈍っているだろうからウォーミングアップを少し長めに取ろう。そして、この紙に書いてあることを少しだけする。今日は、絶対に無理をしない。いいね?」

 タキオンは、クリップボードごと紙を受け取り、ふむふむと見つめながら、「ああ、了解だ」と頷いた。これに不満点でもあれば、タキオンはすぐに何か言うので、今日のところは何もなかったようだ。

 田上は、走っているタキオンの背じっと見つめ続けた。人がたくさんいたが、そこから離れてタキオンを見た。ちらほら友人の姿も見えたが、そのどれもが田上に気が付かなかったようだ。時折、タキオンと目が合うことがあって、そのたびに田上の心臓は喜びに震えたが、タキオンは目が合ったとしても手を振ったり、微笑んだりはしなかった。ひたすら真面目に走っていた。

 やがて、日も暮れる。走り続けるタキオンを、夕日の最後のひと踏ん張りが照らしに照らした。人の声がさざめく。田上は、夕日の陰になっているタキオンの背を見つめた。その足元から伸びる影は、人込みに紛れて見えなくなる。田上は、ため息をついた。――これからどうなっていくんだろう。そう思った。

 

 そして、日が落ちて、ほとんどのウマ娘とトレーナーが帰ったころ、タキオンと田上は、寄り集まってごにょごにょ言っていた。すんでのところで田上が、父に電話をかけるのを躊躇ったのだ。

「やっぱり、俺の家に来なくてもいいんじゃないか?その…、俺も残って研究の手伝いとかするから」

「えー、今更それはないだろう!それにまだ、研究のアイディアはまとまっていない。君の家でゆっくりとまとめようかなと思っていたところなんだ」

 当然の如くタキオンは怒った。

「君、一度言ったことを後から取り消すというのは、日本男児にしてあるまじきことだぞ」

「俺は、最初から日本男児の一員になったつもりはない。取り消したい時は、いつでも取り消す。…けど、…ねぇ?いいんじゃない?今回は俺が悪かった、ということで」

「いいわけないだろ!早く君のスマホを出したまえ。私が電話してやるから」

 そう言うと、タキオンは詰め寄ってきて田上の体をまさぐろうとしたから、田上は慌てた。

「分かった!出すから!出す!」

 悲鳴を上げるように言った後、尻ポケットから田上は、スマホを取り出した。なんだか、自分の尻に触っていたものがタキオンに触れると思うと恥ずかしくなって、少しの間、モタモタしているふりをして時間を稼いだ。タキオンには、田上がまだ躊躇っているように見えたから、少し鼻を鳴らした。田上は、それを聞くとすぐに電話できるようにして、タキオンに渡した。

「この電話番号でいいんだね?」

 タキオンがそう聞いた。田上は、タキオンから付かず離れずの距離にいて、その番号を確認した。そして、「うん」と頷いた。なんだか、気分が悪かった。吐き気という吐き気はないが、胃から何かを吐き出したかった。けれども、何も出てくることはなく、ただ、タキオンが自分の父に電話をして、その父が電話に出るのを待っているだけだった。

 田上は、自分たちを除いた最後の一人が寮に帰るのを見た。これは、前にもあったような気がした。――確か、秋頃だった。田上は、そう思った。あの頃は、タキオンへの想いが燃え上がるようだった。田上は、しゃがみこんで運動場のライトに照らされた地面を見た。自分の影が映っている。――今はどうだろうか?あの頃よりも少し気持ちは落ち着いたような気がする。しかし、好きという気持ちは変わらない。ただ、何と言うか、心にあるドロッとしたぬめりのある物が、消えたような感覚がするだけだ。確かに、あの頃よりかはタキオンへの想いの何かが違っていた。それが、田上には、分からなかった。ただ、最後に確認できた自分の思いは、少し肩の荷が減った、ということだけだった。そのことにもっと思いを巡らそうとしているときに、タキオンが「えー!」という声が聞こえた。

 田上は、顔を上げた。すると、タキオンと目が合った。タキオンは、もう父と電話をしているようだった。面倒臭そうな顔でこちらを見ていた。だから、田上は何かあったのかと思って、タキオンの方に近寄った。田上が近寄ってくると、タキオンは田上から目をそらして「ああ、はい」と言った後、田上にスマホを渡してきた。

「君のお父さんが、君からの話も聞かせてほしいって。私が説明したんだけど、とにかく双方の意見を聞かないことには決められないって。君のお父さん、まるで君みたいだ。私が説明したっていうのに、聞こうとしないんだから」

 田上は、タキオンの話を軽く流しつつ、電話に出た。

「もしもし、父さん?俺の担当のタキオンが、家に来たいって」

『その話は聞いたよ。お前は良いのか?その…、家に人を連れてきても』

 田上は、躊躇いを覚えて言葉に詰まりつつも頷いた。

「しょうがないよ。タキオンが来たいって言うから。俺は、それよりも父さんの方が心配だけど、どうなの?」

 田上の父の方も、少し躊躇いながらも話した。

『うーん、…いいよ。お前がいいのなら、正月くらい我慢するよ。…どのくらいいるんだ?』

「えっと、二十九日の昼にそっちに着く。で、五日の昼に帰る」

『つまり、…七泊八日?』

「多分」

『…長いな。…全然問題はないけど』

「じゃあ、決定で?」

 そういう時、田上はチラとタキオンの方を見た。タキオンは、その聞こえのいいウマ耳で大体の会話の内容が分かっているらしく、ニヤリとして頷いた。

『ああ、決定でいいけど…。何か一つ忘れてるな。なんだったかな…?……。ああ、そうだ。お前、幸助も帰ってくるから家もだいぶ狭くなるぞ。大丈夫か?アグネスさんの方にも聞いといてくれ』

 田上は、幸助と聞いて顔をしかめた。幸助は、田上の弟だ。悪い奴ではないのだが、田上はどうもあいつのことが好きになれなかった。正直に言ってしまえば、嫌いまであった。だから、聞き間違いであってくれと頼むように父にもう一度聞いた。

「え、本当に幸助が帰ってくるの?」

『ああ、あいつからもメールがあってね。二十九日から三日の昼までいるらしい。今年は賑やかになるな』

 そう言った父の声は、少し嬉しそうだった。田上は、去年も一昨年も正月には父の家には帰っていなかったのだ。それは、どうせ年度末になったら、母にお香を上げに帰ることが分かっていたからだ。今回の帰省は、思い立ったがためでしかなかった。なんとなく、父の家に行きたかったからでしかなかった。

 父の声を聴くと田上は、申し訳なく思った。お正月というのは、父にとって少し特別感のある催し物なのだろう。それを父と弟二人、悪ければ、一人で過ごした年もあっただろう。別に弟と二人だけでも嬉しくないことはないのだけれど、やっぱり兄の方もいたほうがいいのだろう。そう考えると、少し不安そうにタキオンの顔を見た。タキオンは、不思議そうに見つめ返した。

「うーん、……ちょっとタキオンの方に聞いてみるね」

『ああ』

 そう言うと、田上はスマホを顔から離した。

「タキオン、俺の弟も来るって言ってたけど、そしたら家狭くなるって。今からでも断ったほうがいいんじゃない?」

「私は、別に構わないさ。…ただ、君に弟がいたんだな。話してくれたことあったか?」

 タキオンがそう言うと、田上がしかめっ面をした。

「俺は、あいつのこと嫌いだから、それ程話したことはない。…それでも、話題に上ることはたまにあったと思うけどな」

「…そうか、それじゃあ、私が聞いていなかっただけか。……いいよ、君の父さんに電話をしても」

「はい」

 田上は、タキオンに促されたので、苦笑しながら返事をした。

「もしもし、父さん」

『はい』

「タキオンも大丈夫らしいので、こちらは全く問題ありません」

『オッケー。じゃあ、二十九日だな?何か食べたいものでもあるか?』

 田上は、タキオンを見た。タキオンが、「人参ハンバーグ」と口の形だけで伝えてきた。田上は、また苦笑した。

「タキオンが、人参ハンバーグを食べたいらしいです」

『アグネスさんが?参ったな。確かお嬢様だっただろ?俺には、大したもんは作れんぞ』

 田上は、またタキオンを見た。ニヤリとして、「問題ない」と伝えてきた。

「問題ないそうです。材料はあるの?」

『買い足せば、問題ない』

「無理して高い肉とか買うなよ。タキオンは、基本ミキサーにかけても十分食えるものでいいんだから」

『…は?』

「こっちの話です。…それじゃあ、もう注意事項とかないね?」

『あー…っと、お前、今年も命日には香をあげに来るんだよな?』

「もちろん」

『じゃあよかった。電話を切ります。…ばいばい』

「ばいばい」

 田上が、最後にそう告げると電話は切れた。田上は、疲れた様にふーとため息をついた。そして言った。

「もう帰ろう。そろそろフジさんが来るぞ」

 タキオンは、ニコッとして頷いた。

「任務完了だな。いよいよ明後日に君の家に行くだけだね」

 田上は、苦笑しつつも頷いた。

 帰る途中で、寮長のフジキセキにあった。フジキセキは、二人を見つけるとニコニコしながら、近づいてきて言った。

「確か、秋頃にもこんなことがなかったかい?」

 それを聞くとタキオンは、あまり良さそうな顔をしなかった。だから、こう言った。

「何の用だい?」

「おや!君が全然帰ってこないから、探しに行っていたところだよ。運動場から帰ってきたところかい?」

 タキオンと田上は揃って、「ああ」と頷いた。フジキセキは、そのことにもっと顔をにんまり笑顔にさせたが、タキオンが睨んできているのを見ると、少し顔を落ち着かせてこう言った。

「運動場には誰もいなかったかい?あと二、三人帰ってきていない子たちがいるんだけど」

「誰も…いなかったよなぁ?」

 田上が、タキオンにそう聞いた。タキオンは、顎に手を当てしばらく考えた後、自信がなさそうに「ああ」と頷いた。すると、フジキセキが苦笑して言った。

「なら、運動場も見に行くしかないね」

「俺も一緒に行こうか?」

 出し抜けに田上がそう言った。

「一緒に?」

 フジキセキは、驚いてオウム返しにそう聞いた。そうなると、田上は少し申し訳なさそうに言った。

「…いや、一人じゃ心細いかなって思って」

「うーん…、じゃあ、せっかくの申し出を断るのも野暮なことだし、少しだけ付き合ってもらおうかな。あと三人が確認できていないから、ちょっと怪しそうなところを一周してみよう。…タキオンはどうするんだい?」

「私?うーん、私は…」

 タキオンが、少し眠そうに呆けた様に言った。そして、田上の顔を見つめた。田上も見つめ返したが、分かったことと言ったら、タキオンのまつ毛が長いことだけだった。

 フジキセキには、少しだけ長く感じれるほど二人は見つめ合った。そして、不意にタキオンが視線を外すと言った。

「私もトレーナー君について行くとするよ」

 その後に、「ふぁ~~あ」と大きな欠伸をした。それを見て、田上とフジキセキは苦笑をしたが、タキオンは「何があったんだい?」という顔で見つめ返した。

 それから、三人は十分後に一人、もう十分後に一人を見つけた。そのうち一人は、タキオンの知り合いだったらしく、頭に魔女の帽子をつけていて、手にはきらきら光る本を持っていた。恐らく蓄光するもので書かれたものだと思う。その子は、タキオンに興奮しながら何か言っていたが、タキオンの眠い頭には厳しかったらしく、瞬きを繰り返して必死に眠らないようにしながら、その子の話を聞いていた。その様子が可笑しくて、田上とフジキセキは二人して顔を歪ませて笑いをこらえていた。

 三人目は、結局見つからなかった。その頃には、タキオンも眠気に限界が来ていて、度々何もない所で何かに蹴っ躓いて、その度にあっと声を上げるのだった。

 そして、帰ってみると、三人目はいた。フジキセキは、「良かった良かった」と頷いて、タキオンは寮に着くや否や田上に別れの言葉も言わないで急いで自室の方に去っていった。

 フジキセキは、「ありがとう」と言うと、田上を帰した。

 夜風が冷たかった。さっきまでは賑やかな一行になっていたから忘れていた。頬に冷たく当たる風を。田上は、自分の寮までの少しの道を、体を震わせながら歩いていた。まだ、あの時、タキオンの夕日に伸ばされた影を見た時の不安感は消えていなかった。――これからどうなるのだろう。それは、田上に付き纏う影のようなものだった。ふと見れば、そこにいるもの。普段を共にしながらも、気づかないもの。それに苛まれるのは、常日頃からであるのだが、田上は気づかない。ただ、夜風が肌に染みて、それを寒いと感じるだけだった。

 田上は、一人街灯の下、暗い道をひたすらに歩み続けた。そして、寮の団欒の中へと足を踏み入れた。

 

 寮の中は、明かりでいっぱいになっていて、田上は、あまり馴染めなかった。だから、傍が空いても寮にあるカフェテリアとは別の少し小さめの食堂には足を踏み入れず、自室にある小さな冷蔵庫にあるもので空いた腹を満たそうとした。自分の部屋に行く途中で友人を見かけたが、そいつらに声をかけることはしなかった。その人たちはやっぱり、明るい電灯の下楽しげに話していて、今の田上には馴染めそうにはなかったからだ。

 田上は、自室のドアを開けた。自分の色々なものが入っている小さなバッグを床に置くと、これまた疲れた様に大きなため息をはいた。――今日という一日は、病み上がりには少し大変だったかもしれない。田上は、そう思うと夕食を食べる気もなく、ベッドに寝転がった。その後に、せめてシャワーだけは浴びようと思った。

 シャワーを浴びれば少しは気分が晴れたが、疲れは取れなかった。また一つ大きなため息をはいた。明後日の帰省のことを考えると少し胸が痛くて憂鬱だったが、もう引き返せはしない。――頑張れ、圭一。皆が渇望するGⅠを取ったウマ娘の一番近くにいるトレーナー。お前は幸せ者だ。金もある。仕事もある。住む場所もある。これ以上に何を望む?頑張れ、圭一。田上は、自身の憂鬱な心に向かってそう唱えた。そうすると、なんだか逆に悲しくなった。だが、もう考える事はしたくなかった。――頑張れ。もう一度そう唱えると、布団の中に入り込み、落ち着かない眠りについた。

 

 朝起きたのは、寒さを感じたからだった。まだ、タキオンのご飯を作るのにも及ばない早い時間だった。窓の外を見てみると、真っ暗闇だったので真夜中に起きてしまったのかと思った。しかし、時計を見てみると、朝の四時だったので少なくとも真夜中ではなかった。

 田上は、布団をかぶり直した。体が半分出ていた。また風邪をひくのは不味いと思ったので、手でも寒い肩などの部位を擦って温めた。――タキオンは、ちゃんと寝たのかな?手の方もしきりに息をかけて温めながらそう思った。

 昨日眠たそうな顔は見たが、それ以外は見ていないのでちゃんと寝たか心配だった。タキオンは、寝たと思ったら寝てないときがあるし、寝てないと思ったらいつの間にか寝ているときがあるので、タキオンの心配は一人の男としてだけでなくトレーナーとしても心配だった。ただ、さすがに今夜は寝ただろうと思った。昨日のタキオンの顔を思い出してみれば、まだ笑いがこみあげてくるくらい面白かった。人が眠気と格闘している顔というのは面白いものだ。それも、普段はあんまり物怖じしない人がしているというのなら、猶更面白い。田上は、布団の中でニヤニヤした後、不図思い出したかのように大きく息を鼻から出した。――明日の準備をしなければ…。そう思ったのだ。

 まだ、四時だった。起きる必要はないと分かっていても、明日のこと、果ては今日のことまでもが憂鬱になる。だから、田上はベッドの上で全身に力を入れて息を止めた。目も力一杯瞑った。そして、このまま消え去るのを待った。自分の中にある黒いものを押し込めて押し込めて、封をして封をして、さらに小さくなるようにぎゅっと手の平で包み込んで、そして、いつの間にか意識が眠りに引きずり込まれそうになった時、タキオンの顔が出てきた。そのタキオンはこう言っていた。

「とれーなーくーん。ごはんごはんー。まだ作っていないのかい?はやくしてよー」

 その瞬間にハッと目が覚めた。タキオンがたまに見せるあざとい顔が見えた。本人はそのつもりではやっていないのだろうが、田上はこの顔に何度騙されただろうか。…しかし、最近はあまり見ていないような気がした。いつからぐらいかは忘れたが、確か…、最後に見たのは、今年の冬から春に変わることだっただろうか?田上は、少しの間そのことに頭を悩ませたが、またもハッとした。――タキオンの弁当を作らねば。

 重い体を無理にでも動かした。タキオンが待っていると思うと、少しだけ力が湧いて出た。それでも、体が重いことは変わらなかったが、眠たい目を擦りながら田上は、自分の寮の食堂のキッチンに足を運んだ。



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三、おはよう、こんにちは、そして、さようなら(後編)

 食堂のキッチンは、トレーナー男子寮女子寮共通のもので、トレーナーもまあまあ数がいるのだが、老夫婦が二人で食事を作っていた。カフェテリアに行くか、ここにくるのかは、それぞれのトレーナーによって分かれるのだが、トレセン側としては、あまりこちらの方には押しかけないようにしてくれとのことだった。ここは、あくまでもカフェテリアで食いあぶれた人用のものらしい。

 ここのキッチンには普段、老夫婦以外入ることはない。(なぜ、ここに老夫婦が勤めているのかは永遠の謎である)ただ、田上が自身の担当の子のために食事を作りたいと言ったら、快くキッチンに入ることを許してくれたし、さらに食材までも分け与えてくれた。その人たちが言うには、「この食材は元々この学園の人たちのためにあるんですから、この学園の人であれば、誰でも持って行っていいんだよ」とのことだった。

――なんと優しい老夫婦なんだろう!

 田上は、そう感激をした。それから、老夫婦の言い草にも筋が通っていたように思えたので、後ろめたさも感じることがなく、心地よくタキオンの弁当を作らせてもらっていた。

 田上は、今日もキッチンへ行った。老夫婦はもうそこにいて、暗いうちからもう料理を作っているようだった。食堂の長机の方にも一人二人トレーナーと思しき人がいた。何のためにそこにいるのかは分からないが、田上が予想するに、もう朝も近いので自動的に起き上がってしまった人たちは、ここで暇でも潰そうというのだろう。

 田上は、キッチンまで歩いて行って老夫婦に挨拶をした。

「おはようございます、修さん。節子さん」

 田上は、できるだけ元気よく挨拶をしたつもりだったのだが、老夫婦は心配そうな顔をして、そして、節子さんの方がこう言った。

「おはよう…圭一君、元気ないの?」

「そんなことないですよ」

「……」

 修さんは、皺の寄った顔で田上の顔を睨んだ。田上は、少したじろいだが、毅然とした態度でそれを見返した。それを見ると、修さんは、ふっと微笑んで言った。

「圭一君」

 随分としわがれた声だった。

「ここ二日ばかり見なかったんが、なにかあったんけ?」

「風邪です」と田上は答えた。そうすると、修さんは「そうか…」と呟いて、料理の方に集中した。田上もキッチンにあるエプロンと包丁を借りて、修さんの横に立った。しばらく包丁がまな板を打つ音と、節子さんが野菜を煮ている音しか聞こえてこなかった。

 そして、食堂の椅子に座っている男の人が、大きなくしゃみをした後、修さんが言った。

「あんまり無理せんでもええからな。圭一君が、元気ななったら、君ん担当ん子んもんも俺らが一緒に作うてやるんばい」

 訛りがきつくて、上手に聞き取れなかったが、言いたいことは分かった。疲れてたらタキオンの分も作ってくれるよということだった。それを聞くと、田上の喉にはなんだか熱いものが詰まって、せっかく話しかけてくれたのに何も返す事ができなかった。だから、田上は黙々と野菜を切り続けた。

 

 それから、暫く経った頃、田上はお弁当の仕上げに入ろうとしていた。もうおにぎりも作り終わり、お弁当箱も埋まってきたときだった。修さんが、田上に話しかけてきた。

「圭一君は、最初のこん(頃)に比べっと米握るのがうもう(上手く)なっときとんのぅ」

 田上がラップに包んだおにぎりを見つめながら言っていた。今度は、田上も言葉を発することができた。

「…僕も大学の頃は一人暮らしで料理をしていたんですけど、どうにも見栄えは気にしなかったですからね。おにぎりなんて崩れても気にしなかったし、味も最低限あれば良かったので」

「……そんな圭一君をこんなに一生懸命にさるる(させる)担当ん子は、どげん(どのくらい)いい子なんか想像もつかねぇばい。…おい、せつ。どげんもんばい?」

 そう呼びかけられた節子さんは、ゆっくりと鍋をかき回しながら頬に手を当て考えた。

「どげん…?まず、美人さんなことは間違いがないわねぇ。…それから、…それから、圭一君が喜んで弁当を作るくらいだからねぇ…」

 節子さんは、そう言っておっとりと考えていた。

「うーん…、例えば、すごく優しいとか?」

 そう言って田上の方をチラリと見たが、田上は口元に微妙な笑みを浮かべただけだった。

「違うかしら?…じゃあ、とても勉強熱心とか?」

 あんまりこの時間が長く続いても困るので、田上は、「まあ、そんなところです」と頷いた。その途端、修さんがぶわっはっはと笑い声をあげた。

「おい、せつ。お前、圭一君を困らせてってばい。まあ、そんなところです、って、お前の答えが面倒と言っとるんばい」

 修さんがそう言うと、田上が困ったように笑った。

「面倒ということではないんですけど、僕の担当の子はあんまりいい子と言える代物ではなかったから、答えは出てきそうにないのかなって思って」

「へー、圭一くん担当ん子んは、いい子じゃねっがぁ。どして?」

「どうして…?うーん、がさつで自分のことすら他人に任して、弁当作ってくれなきゃ怒って、危ない実験に他人を巻き込もうとしたりして、そして、人の家に勝手についてこようとしたりして…、とにかく我儘なんですよ。あいつはいい子じゃありません」

 田上が、そう言い切って、老夫婦の顔を見ると、二人とも似たような顔で目を丸くして田上を見つめていた。

「どうかしたんですか?」

 田上は、挑戦するように言った。すると、修さんが「ふーん」と言って噛み締めるように頷いた。

「やっぱり圭一君は、一生懸命ばい」

「…どうして?」

「いや、……こげんこ(こんなこと)言われて気ぃ悪くせんでほしかってんば、圭一君みたいにたげんこ(他人のこと)考えられる人はそうそういなか。圭一君はそん子んに怒っとるみたいじゃが、怒っとんのならそも弁当なんて作らなか。…こう、……言いてぇこと分かるけ?」

 修さんが、言葉にできないもどかしさを感じながら、田上を見た。田上は、修さんの言いたいことが分からなかったし、また分かろうともしなかった。田上は、冷たく言い放った。

「分かりません」

 修さんは、少し悲しそうな顔をして、「そうか…」と呟いた。

 田上は、タキオンの分の弁当箱に具を詰めながら、先ほど言ったことを考えた。――がさつで、怒って、巻き込んで、勝手についてくる。ここの中に人の魅力と言えるものなんて何一つなかった。そのうち、田上は自分が何でタキオンが好きなのか分からなくなった。思い出せるタキオンの顔が、悪だくみをしている顔しか出てこなくなった。すると、急に悲しくなった。今、自分が何のために弁当を作っているのか分からなくなった。

 田上の手が止まった。目頭が熱かった。頭もぼーっとした。もう何を考えればいいのかわからない。田上は、必死に手を動かそうとした。自分の思いを振り払うように、いらない考えを消しゴムで消すように。でも、目頭の熱さは止まらなくなり、一つ二つと弁当箱に涙が零れた。

 その様子を節子さんが見とめていて、慌てて田上に声をかけた。

「圭一君!大丈夫?やっぱりさっきの修さんの言葉がダメだった?」

 田上は、節子さんに声をかけられながらも、自分の止まらない涙を抑えようとしながらも、必死に弁当箱に具を詰めた。修さんも田上の涙を見とめた。

「圭一君?」

 修さんは、田上にそう呼びかけたが、田上は反応しない。もう二,三度呼びかけたが、やっぱり田上は弁当に具を詰めたまま二人の言葉を聞いていないふりをした。

 修さんは、自分で何を思ったか知らないが、田上の腕をつかんだ。そして、言った。

「こっちを見んね。圭一君!」

 そう言われて田上は、やっと修さんの方を見た。顔が見えた。しわくちゃの顔が心配そうに眉を寄せていた。

「俺の言葉がダメだったんか?」

 修さんはそう聞いた。田上は、ふるふると首を横に微かに振った。

「じゃあ、何があったんけ」

「………なんにも」

「そんなはずはなか!なんにもなくて涙が零れるんのなら、俺ん料理ば今頃しょっぱくて苦情ん嵐ばい」

「………なんにもないんです」

 そう言った後に、田上は修さんの手を腕からそっと外した。そして、涙をこらえるように、上を向いた。

「……すいません」

「…なして謝る?悪いんは俺のほうばい!最初から元気ない思っとたのに、そのまんまにしとったって。もう座り、後は詰めるだけけ?」

 田上は、節子が持ってきた椅子に大人しく座り、頷いた。その後、やっとの思いで声を出した。

「……タキオンの弁当箱から……卵焼きときゅうりをとって、代わりのを詰めてください。…僕の涙が落ちました」

「…分かった。取ったんはどうする?」

「………僕のに」

 そう言うと、田上はうつむいた。どうにも顔を上げる気にはなれなかった。田上の前には、修さんがいたのだが、田上には背を向けていた。その背も、うつむいている田上には見えず、ちょっとちょっと動く修さんの古びたサンダルとよれよれの靴下が見えるだけだった。

 そのうち田上は、うとうとし始めた。乾いた涙が、瞼をくっつかせて田上を眠りにつかせようとした。前に夢を見た時から、三日と経っていないが奇妙な夢を見た。それは、修さんに肩を叩かれるまで続いた。

 

 田上は、いつも通りトレーナー室で仕事をしていた。パソコンの画面を文字と数字が埋めていく。キーボードの音しか聞こえてこなかった。

 しかし、暫くすると、どこからか誰かの寝息が聞こえてきた。田上は、くるくると辺りを見渡して、それがソファーの方からするのに気が付いた。

 田上は、立ち上がってそっと寝ている人物を起こさないようにソファーに近づいた。ソファーにいたのは、タキオンだった。そうなると、田上の心は喜びに踊った。もっとタキオンの顔が見たいと、しゃがみこんでタキオンの顔を見た。タキオンの長い前髪が邪魔だったので、それを掻き上げた。綺麗なすべすべしたおでこが見えた。

 すると、タキオンが鬱陶しそうな声を上げて、田上の手を振り払おうとしたので田上は微笑んでそっと手を外してやった。タキオンの顔には、また髪の毛がかかった。

 田上は、あんまりここには長居できなかった。少しすると、パソコンの方を向いて立ち上がり、歩き出そうとした。しかし、それは寝ていたはずのタキオンが手を掴んできたので、それはできなかった。田上がタキオンの方を見ると、タキオンは田上の手を掴んだままゆっくりと起き上って言った。

「愛するっていうのはどういう行為のことだい?」

 田上は、驚いてタキオンを見たが、そこで夢は途切れた。修さんに肩を叩かれたからなのか、夢がそれ以上を見せてくれなかったのかは分からない。気が付けば修さんの体が前にあって、顔を上げると修さんらしいしわくちゃの顔がそこにはあった。

「圭一君、弁当、そん子んとこにもっといとってばい」

 田上は、寝ぼけたままで何度も「ありがとうございます。ありがとうございます」と言った。時計を見てみると、弁当を詰めた直後の様な時間ではなかった。どうやら、ぎりぎりまで自分を寝かせててくれたようだ。ただ、寝た時の姿勢が悪かったので、寝れて嬉しいのかそれとも背中が痛くて気分が悪いのか、区切りがつかなかった。

 田上は、一旦部屋に戻り自分のバッグを持った。不思議と気分は晴れていた。田上は、トレーナー室まで軽い足取りとまでは行かなくても、いつもの田上の足取りよりかは比較的軽やかに歩いた。寒い朝だった。田上は、何も言わずに黙々と歩き続けた。その背は、寒さには屈してはいない。まだ、ほんの少しの、僅かな灯を胸に宿した男の小さな背だった。

 

 今日という一日は、平凡な一日だったようだ。朝に少し涙を流したのを除いては。田上は、それを極力忘れようと努めたが、タキオンの視線が気がかりだった。タキオンは、恐らく田上が泣いていたのに気が付いていたものじゃないかと思う。タキオンが、弁当を取りに来たのは昼近くになってからだったが、タキオンの視線は目元に向けられていた。田上の目元を見ると、タキオンは何かを言おうとしたが、それはやめて別のことに変えたように感じた。タキオンが、言った別のこととは「明日の何時に出かけるんだい?」ということだった。田上は、「九時から」と答えたが、その間もタキオンは目元を見ていたように感じる。全部田上の被害妄想かもしれない。しかし、タキオンが弁当を受け取って出て行くとき、少し心配そうな顔をしていたのは確かだった。

 

 タキオンは、弁当を受け取ると研究室に再び戻ったが、すぐにそこから出て行った。それは、赤坂先生と話に保健室に行くからだった。

 タキオンが、保健室に着くと数人の生徒に赤坂先生が取り囲まれていた。中に入ると、赤坂先生が、「また風邪?」と聞いてきたが、タキオンは静かに首を振った。それから、赤坂先生を取り囲んでいる輪からは逸れて、窓の方に寄った。赤坂先生が取り込み中の時は、タキオンはよくそうしていた。知らぬ他人と馴れ合う気などなかったからだ。それに赤坂先生とよく周りを取り囲んでいる人たちの話を聞けば、大抵は、映画やドラマの話で、タキオンに興味のあるものではなかった。だから、たまに窓から外を眺めているタキオンのそばに寄ってきて、話しかけてくる人がいても、話が合わないとわかるとそっと離れていって、また赤坂先生と話し出した。

 今日は、いつもより人が多かった。なぜだろう、と窓から差すほんのり暖かい日光を浴びながら考えていると、今日から授業がなくなって、冬休みに入ったことを思い出した。そうすると、この人たちもいつまでもいなくならないのではないかと不安に思った。タキオンはちょっと振り返った。三、四人の生徒が見える。タキオンは、赤坂先生と田上の家に行くことについて少し話がしたかったのだが、今日はどうにもできそうになかった。地毛なのか染めているのか分からないカラフルなウマ娘たちが、赤・黄・青・白と並んでいた。――白がいなかったら、完全に信号機だったな。タキオンが、考えたことのくだらなさを自覚しながらもニヤリと口角を上げると、白のウマ娘がタキオンが見ているのに気が付いた。前髪には、三本のヘアピンが付いていて、それぞれ星とハートと稲妻の形をしたキラキラしたものが付いていた。その子の髪は長かった。パッと見た限りでは、その一団の中でその子が一番おとなしそうな子だと言えるだろう。実際、この子は自分から話すことはあまりなく、必然的に聞き役へと回っていた。

 その子は、突然、タキオンに興味が湧いたようだった。タキオンとしては、そんなことごめんだった。だから、話しかけられないように、またそっぽを向いて窓の方を見ようとしたのだが、白の子の声らしき声が聞こえてきた。それは、仲間たちに言っているようだった。

「……あの子、確かアグネス家の…」

「タキオンっていう子でしょ!」

 鬱陶しい程に元気のある声が聞こえてきた。そして、また白の子に答えたその声が言った。

「危ないって言うよ?触ったら指が溶けるって!」「私は、その子と話すと口から怪光線が出るって聞いたよ!」別の声が口を挟んだ。

――礼儀がなっていないのかは知らないが、本人を目の前にしてその声の音量でいいと思っているのだろうか?

 タキオンは、面倒くさそうにため息を吐いた。一瞬だけ窓に白い靄がかかった。

「…本当に?」

 白い女の子が訝しむ声が聞こえてきた。すると、女の子たちが「う~ん」と悩むのを聞いた。

「……私は、ゴルピが言ったのを聞いた事があるだけ…だけど」

「私もあんまりどこで聞いたのか覚えてないや」

「…じゃあ、話してみないと分からないんじゃない?」

「はい!私話したことあります!」

「ええ~まじ~?」という声が起こった。そこで赤坂先生の声がした。

「こら、タキオンがいるんだからそういう話はせめて他所でしなさい。あなたたちの声は大きいのよ」

――先生がする注意としてはあまりにも不適切だな。タキオンはそう思った。しかし、それを口には出さず、もう帰ろうと決めた。タキオンが、ここでできることはなさそうだった。

 タキオンは、急に動くと赤黄青と白のウマ娘が見守る中、保健室のドアの方まで歩いて行った。しかし、そこで不図思いついたので赤坂先生に向かって言った。

「赤坂君、一昨日のトレーナー君の件なんだが、探れそうな機会が見つかったよ。事によっては、君にも報告してみようかな」

 その途端に赤坂先生が目を丸くして聞いた。

「マジで?」

「ああ」とタキオンは頷いた。そして、その後にまだ居るウマ娘たちに視線を投げかけた。白の子以外は、皆赤坂先生とタキオンの顔を見比べ、なんだろうと不思議に思っているようだったが、白の子はまだ興味ありげにタキオンを見ていた。タキオンは、その目を無視して、保健室の引き戸を開けた。その戸は、建て付けが悪いのか、ウマ娘の力でも少し重く感じられた。そして、そのままタキオンは、研究室に戻るため廊下を歩いて行った。

 だが、十歩も歩かないうちに後ろの保健室の戸が開いた音がした。何かあったのだろうかと思って、後ろを振り返ってみると白の子がこちらに歩いてくるのが見えた。タキオンは、露骨に嫌そうな顔をした。白の子は、大人しそうな子ではあったが、話すことができない人ではなかったようだ。「そんな顔しないでよ」と笑いながらタキオンに近づいて行った。

「何の用だい?」

 タキオンは仕方なく立ち止まって、そう言った。白の子は、傍まで近づいてくるとタキオンに向かって言った。

「さっきはごめんね。あの子たちああいうところがあるから……、悪い子ではないと思うんだけどね。…少し騙されやすいというか…」

「用件は何だい?」

 タキオンが質問を繰り返すと、白の子は苦笑した。

「えーっと、…あなたって本当に触ると指が解けるの?」

「君も信じたのかい!?あんな話、嘘に決まっているじゃないか。…いや、口から怪光線はあながち嘘でもないか。トレーナー君に渡した薬の副作用にそんなものがあったような気がする」

「えっ!?それは本当のことなの?じゃあ、私も口から怪光線が出る?」

「出ていないじゃないか。見ればわかるだろう?薬を飲んだ時だけだ。…そして、私は君たちがあまり好かない。もうこれで話は終わりだろう?それであれば、もう嘘なんて垂れ流さず、声の音量も控えた節度ある行動を頼むよ。それでは」

 そう言って、タキオンは立ち去ろうとしたが、白の子はタキオンを呼び止めた。

「待って、最後に一つだけ!」

 タキオンは面倒くさそうに振り返った。

「…なんだい?」

「…何で有馬記念に出なかったの?十分出れる実力はあったでしょ?」

 そう言われると、タキオンはイラっとした。

「予定になかっただけだよ。人には色々な事情があるんだ。君の様な輩が詮索するものではないよ」

「そう…」

 タキオンに怒られて白の子はしゅんとした。それから、「ありがとう」と一言告げると去っていった。タキオンはその後ろ姿を見てようやく落ち着いた。そして、鼻歌を微かに歌いながら、人気のない廊下を歩いて行った。

 

 研究室に着くとタキオンの頭に何か引っかかるものがあることを知った。どうにもその言葉が頭から離れなかったのだが、薄暗い部屋の椅子に腰掛けてみると、その矛盾した言葉に気が付いた。

――君の様な輩が詮索するものではないよ。

 タキオンは、これが頭にずっと引っ掛かっていた。頭を振っても、何かの勘違いだろうと思っても頭にこびりついて離れないので、そのことについて考えてみた。答えは、すぐに分かった。自分も同じことをしようとしているからだ。トレーナーが母のことを想って泣いたなど、自分が詮索するべきものではないのかもしれない。タキオンはそう思った。いささか不安になった。自身のトレーナーは、完全にタキオンのために、自身の嫌なことをしてあげるという無理をしていた。そのことは見てみれば分かる。タキオンは、そのことによって嫌われるのが嫌だった。せっかく良好な関係を築いて、脚も治って、実験体としても素直で優秀で、こんなにいい物件など他にはないだろう。なにより、あんな人の良い男に嫌われるなど、自分が悪いことをしている気がしてならなかった。

 タキオンは、少しの間そわそわして、それから時計を見た。もう昼だった。トレーナーは、自分の部屋で自分の弁当を食べているころだろう。タキオンは、明日出かける前にもう一度、田上に話を聞こうと思い、研究室から自分の弁当箱を引っ提げて出て行った。

 

 タキオンが、トレーナー室のドアを開くと、田上がスマホを見ながらご飯を食べているのが見えた。田上は、ドアを開けたタキオンにすぐに気が付いて声をかけた。

「おお、タキオン。研究室で食べるんじゃなかったのか?」

「まあね」とタキオンは呟いた。

 タキオンは、今すぐにでも話を切り出して、本当に自分が家について行ってもいいのか聞きたかったが、うしろめたさからかひとまずソファーの所に落ち着こうとしてしまった。それだから、いけないと思って、話しかけたそうにチラチラと自身のトレーナーの方を見たが、トレーナーはと言うと自分のスマホを見ながら黙々とご飯を食べていた。

 タキオンは、どうしていいのか迷った末に、とりあえず、ご飯を食べようと決めた。ご飯を食べて、一息つけばなにか妙案が生まれるかもしれなかった。だが、それが生まれる前にトレーナーの方から好機が訪れた。田上は、タキオンの背を見ると不図思い出したことがあって聞いた。

「おい、タキオン」

 急に話しかけられてタキオンはびっくりした。声を抑えることには成功したが、その後の返答で声が少し裏返ってしまったのが、少々恥ずかしかった。

「ん!なんだい!?」

 タキオンの驚き様に田上は笑った。

「そんなに驚かなくてもいいだろ。米粒飛んだぞ。…で、タキオンは明日本当に行くんだね?」

 タキオンは、最初のうちは米粒の処理やら思いがけない質問やらで、田上の話が頭の中にとんと入ってこなかった。しかし、段々と頭の中で整理をつけていくにつれ、田上の言ったことが理解できた。

「ああ。…ああ!そのことで君に聞きたかったんだよ!……その、本当に私を連れて行ってもいいんだね?本当の本当に私が付いてきてもいいんだね?」

「俺もそれで言いたいことがあった。…俺は向こうにいったらお前の世話は一切しないからな。ついて来てもいいけど、俺はゆっくりしたいんだ。あくまでも休暇なんだ。タキオンの面倒くさいことはしない」

 田上はそう宣言をした。

「えっと…、世話をしないというとどこぐらいまでしないつもりなんだい?…まさか食事抜き?」

「それは、さすがに可哀想だし、父さんが作るから特に問題はない。…何と言うか、俺の気分を紛らわすためにこの宣言が必要だったんだよ。正直言って、今でも嫌なんだけど…」

「今でも嫌なのかい……」

 タキオンが、誰に言うともなく呟いた。そして、少し考え込んだ後、慎重に話し始めた。

「実はね……。この…今回の私の我儘?にも少し目的があってね。あんまり話すことはできないんだけど、秘密裏に君の父親に聞こうと思っていたんだ」

「……何を?」

「それが難しいところさ。この目的を話すと君との関係が壊れるか、ある人が凄く怒られるかのどちらかなんだけど…。どうしたものかねぇ。いっそのこと君に聞いてみるのが一番手っ取り早いと思うんだろうけど、本当のことが話せるかどうか…」

 タキオンが、うーんと悩んでるのにつられて、田上もうーんと悩んだ。

「うーん…、タキオンが何か聞きたいのか……。それは誰のことを?まさか、俺の父親に興味があるってわけでもないんだろ?」

 タキオンは、「うーん…」と言ってごまかした。田上は、訝しく思ったが、そのことには触れなかった。そして、別のことを言った。

「タキオン、お前が何を思って俺の帰省についてきたいのかは知らないけど、目的があるのはなんとなく分かった。その上で言いたいんだけど、俺はこの旅行は不納得であり、大変面倒くさいものであると思っている。……しかし、父さんはタキオンが来ることも少しは喜んではいると思うんだ」

「…つまり?」

「つまり、もう後戻りはできないってことだ。旅行の準備はしっかりしておけよ。研究道具は持っていけない。トレーニングは、鈍らない程度にはするように動ける服を持っていくんだぞ。そして…、何かあったかな?」

「ああ、そうだ」

 タキオンが声を上げた。

「今日のトレーニングはどうするんだい?」

「ああ、それは……。どうする?」

「どうするって言ったって…、今日は、ノートの記述も少なからずできたので、満足ではあるがね」

「ああ、違う違う。俺が言いたかったのは、明日、電車で長いこと座るから、前日のトレーニングの疲れで乗り換えもままならないとなったら面倒だろ?それで、どうするかって聞いたんだ?…タキオンとしてはどうだ?」

「ふむ……、では、今日のトレーニングはやめておくか。どうせ大阪杯までまだ長いんだ。気楽に行けるさ」

「じゃあ決定だ」

 田上は、そう言って、スマホに目を戻した。タキオンはしばらくそれを見つめていたが、田上が自分の方を見るとゆっくりと目を逸らした。お昼ご飯は、二人とも別々に食べたようだった。同じ部屋にいながら、顔を見ながらは食べなかった。互いに、一方はスマホを片手に、もう一方は宙を見ながら、考え事をしていた。その考え事の内容は、二人とも同じとはいかなかったが、その考えている顔は二人とも面白いくらいに似通っていた。

 そして、タキオンはご飯を食べ終わると、部屋を出て行った。もう二人は、今日のうちは会わないだろうと思って、去り際に別れの言葉を交わした。

「バイバイ」「バイバイ」

「また明日ね」「また明日ね」

 そう言った後、田上は付け加えた。

「明日は忘れ物がないようにな。着替えとか暇つぶしのものとか、今日のうちに準備しておけよ」

 そして、今日という日は過ぎていった。いよいよ、明日になれば、八日間の旅が始まる。田上にとってそれがいい帰省であったのかは今のところは分からないが、少なくともタキオンは田上とその母親の関係性について知ることができるだろう。その上でどう考えるのかはタキオン次第。良くも悪くも実りのある旅になるだろう。



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四、父の家へ(前編)

【すみません】
この小説の主人公の名前は、漢字だと『田上圭一』と読まれますが、これに読み仮名をつけるのを忘れていたので、もしかしたら、個人によって読み方が違うかもしれません。大変申し訳ございません。読み方は『たのうえけいいち』です。今まで呼んでいた認識と差異があって、少し気持ち悪くなるかもしれませんが、一応、言っておかなければとなりました。。現在は、一話に読み仮名があるはずです。


四、父の家へ

 

 田上は、黒色の生地に蛍光色の黄色で『K』と書かれた帽子を被って、寮の外で待っていた。もう九時になったところだった。一向にタキオンが出てくる気配がないので、田上は少し心配になって、ウマ娘寮のガラス扉を見た。奥の方で数人が動いているのが見える。田上は、そこには入れなかった。ルールがあるからだ。トレーナーはウマ娘寮には入ってはいけない。何のためにあるのかは分からないルールだった。ウマ娘は人間より力が強いのはこの世界の真実だ。だから、もし男性トレーナーが寮に乗り込んだとしても返り討ちにあうのが関の山だろう。…まあ、大方の理由は分かる。保健室でさえ不純なことをする輩がいるのだ。寮なんかに入れたら何をするのか分かったものではないのだろう。だからと言って、絶対に入ったらダメというわけでもなかったのだが、いつもあるルールを目の前にすると田上は怖気づいた。もうタキオンを呼んで出かけなければいけなかったのだが、――どうしようか。田上が、そう考えていると、寮の中から数人の女子生徒が出てきたので、その子達に頼んでみようと考えた。

 田上は、地面に置いていた大きめのバッグを片手に持つと、その子たちのそばにより声をかけた。

「ねぇねぇ、君たち」

 どう声をかけるかも散々悩んだが、結局、不審者も通行人も紙一重なので、とりあえず言葉をかけた。その言葉は、出会いの言葉としては大したものではなかった。

「はい」と三人のうち一人が答えた。寮からは三人出てきたが、一人は知り合いでもなんでもなかったようだ。二人を置いて、別の場所へと消えた。

「あの…、タキオンを見なかった?」

「タキオン?あのタキオンさん?」

「ああ、アグネスタキオンなんだけど、…今日出かける予定だってこと忘れてないかな?」

 田上にそう話しかけられて、その女の子は苦笑いしながら言った。

「私にはちょっと…分かりませんね」

 そう言った後もう一人の方を向いて、その子が聞いた。

「みーちゃんは知ってる?」

 みーちゃんと呼ばれたもう一人の女の子はこう答えた。

「ああ、私、同室のデジタルちゃんなら知っているけどね。デジタルちゃんだったら、さっきトイレのところですれ違わなかったっけ?」

 みーちゃんは、もう片方に聞いたが、その子はまた苦笑した。

「私、その時いなかったから分かんないよ」

「…確か、いたと思うんだけどなぁ、デジタルちゃん。…今もいるんじゃない?呼んでこようか?」

 田上は、欲しかった言葉を言ってもらえて嬉しそうにうなずいた。

「そうしてくれると助かるよ!」

 田上がそう言うと、今度は二人とも苦笑いして、「じゃ、デジタルちゃんに聞いてみますね」と言って寮の方に戻っていってくれた。田上は、ほっと一息ついた。あんまり人と話すのが得意じゃなくて、怖さもあったが、なんとか押し通ることができた。

 しばらくすると、二人が戻ってきて言った。

「デジタルちゃんが起こしてきてくれるそうです。ひゃ~~って変な声上げてましたよ」

 二人が笑っていたので、田上も笑ったが、心の中ではあまり笑えていなかった。時間は刻一刻と迫っていた。この時間を逃してしまうと、田舎の方に電車で行くので、本数も段々と減っていって、最悪の場合、一時間待ちだった。田上は、祈った。なるだけ早く来てくれるように。

 幸いなことにその五分後には、タキオンが寮からキャリーケースを持って出てきた。顔には、まだ少し眠気が残っていたが、意識はあったようだ。

「ごめんごめん」と言いながら目を擦って、タキオンは田上の前に立った。田上は、慌てながら言った。

「タキオン、もう時間が余裕ないぞ。忘れ物はないな?着替えは持ったか?パジャマも必要だぞ。それに、家にはタキオンが暇を潰せそうなものがないから、本の一冊や二冊持っていくんだぞ。…後何かあったか?」

 タキオンは、ちょっとの間、キャリーケースを眺めた後、のんびり言った。

「あ、下着を忘れていたよ」

「早くとってこい!」

 噛みつくように田上は言った。

「もう先に行ってるからな。お前のキャリーケース貸して!俺先に行ってるから、走ってこい。駅だぞ!駅!」

「はいはい、分かったよ」とタキオンが言うと、普通にのんびり歩いて寮に向かって言った。田上は、それをじれったく思って、急かすように大声を出したかったが、自分が走った方がいいことを思い出してすぐに走り出した。タキオンのキャリーケースが妙に重くて、大変だった。

 

 田上が、やっとの思いで駅に辿り着くと、そのすぐ後にタキオンが駆け足でニコニコしながらやってきた。手には下着を持っていた。田上は、顔をしかめたが何も言うことはせずタキオンが来るのを待った。タキオンは、「いや~」と言って話始めようとしたが、田上はそれを遮って急かした。

「話は後!電車が出る!」

 キャリーケースに下着を入れる間も惜しかったので、田上はタキオンのキャリーケースを持ったまま歩いたが、タキオンの下着が大衆の目にさらされないように、少し自分の体で隠しながら歩いた。

 そして、ようやく乗りこめた時、田上は大きくため息をついた。隣では、タキオンがせっせと自分のキャリーケースに自分の下着を詰めていた。人がたくさん見ているような気がしたが、もう田上にはどうすることもできなかった。冬なのに暑いんだか、寒いんだか分からなかった。田上は、窓のそばの長いシートに座ると、一目ははばかりつつも最大限、力を抜けるようぐでっとした。

 タキオンはそれを見るとクスクス笑った。そうなると田上も少し怒った。

「お前が遅かったからこうなったんだぞ!」

 できるだけ小さな声で大きな怒りを込めて田上はそう言った。すると、タキオンは驚いたように眉を上げた。

「おや!私かい!?…まぁ、私だろう。すまないね、私の目覚ましが動いていなかったんだよ」

 田上は、「本当なのかぁ?」と怪しむような目つきでタキオンを見た。

「そんな顔しないでおくれよ。結局辿り着くことはできたんじゃないか。結果良ければ全て良し、だよ。…それにしても、楽しみだねぇ。君のお父さんはどんな人なんだい?」

「…普通の人だよ」

 田上は、そう言った後にまた大きなため息をついた。その様子を見ると遂にはタキオンも、申し訳なさそうな顔をした。

「すまないね、君にこんなに走らせて。私は案外余裕かと思っていたんだけど…」

「…そうだな!俺もお前に時間のことを詳細に伝えておくべきだった」

 田上は、少し怒ったように言った。そして、その後に最後にもう一度ため息をつくと、ぐでらせた体を椅子に座る体勢に戻し言った。

「はー、疲れた」

 そして、その後は、自分の手を見つめて考え事をした。タキオンは、暫くそれを見ていたが、やがて、自分のキャリーケースから本を取り出すとそれを読み耽り始めた。

 これには、少し田上も参ったようだ。乗り換え時にタキオンが、本から目を離そうとしないものだから、田上が手を引いて歩かねばならなかった。ただでさえ、タキオンと触れ合うだけでも動悸がするというのに、混んでいる駅のホームではぐれないようにしないといけないのだ。緊張で手から滲み出る汗が気になって仕方がなかった。

 

 電車を二回ほど乗り継いだ頃、タキオンは呼んでいた本に飽きて、田上にしゃべりかけ始めた。向かい合った四人用の座席に一人ずつ座っていた。

「トレーナー君、外を見てごらん」

 田上は、考え事もせず自分が前に持っているバッグの紐を眺めていたところだった。タキオンの声に田上は、目覚めたかのように顔を上げ、タキオンの方を見た。タキオンを見ると目が合った。そして、タキオンはふっと微笑み、顎で窓の外を指した。それから、一言言った。

「…田舎だ」

 窓の外には枯れた田園が広がっていた。皆、枯草の色をしていてそれ以外の色はなく、遠くの方にぽつりぽつりと赤い屋根の家が見える程度だった。田上にとっては見慣れた景色だった。

――帰ってきたのか。

 田上は、遠くの家を見るともなく見ながらそう思った。そして、タキオンの顔を見た。なんだか感慨深かった。ここに来ることはないであろうと思っていた人と、今まさにここにいる。その事実が、今、田上の胸に突き刺さった。

 窓際で頬杖をついて外を見ていたタキオンが、ふとこちらを見た。そして、言った。

「何か用かい?」

 田上は、小刻みに首を横に振って、そして、言葉を探すように下を見て、それからタキオンの顔を見た。言葉は、数瞬後に出てきた。

「……いや、……やっぱりお前と来ても良かったのかなって」

 田上は、そう言うとタキオンはまた微笑んだ。

「そうだろう?なんでそう思ったのかは知らないけど、私もちょうどそう思ったところだ。…田舎って物寂しいところだけど、都会に比べると、……こう、何と言うか、言葉にならない何かがある。都会育ちの私が言うんだ。間違いないよ」

 そう言って、再び窓の外を見た。すると、アナウンスが流れてきた。

『次は、竜之憩(りゅうのいこい)~。竜之憩~。お降りになられます方は、お忘れ物のございませんようご注意ください』

 まだ、田上はここでは下りない。後いくらかの数を数えたところが、田上たちの終点だ。そして、始まりの地だ。消えることのない電光掲示板が次の駅を告げる。もう後三十分ほどすれば、到着するだろう。田上の胸は、期待とも不安ともつかない胸の高鳴りに苛まれ始めた。それを微かに触れるタキオンの脚が邪魔をした。田上が、タキオンを見ると、タキオンはやっぱり微笑んで、それから足を引っ込めた。

 胸の高鳴りは、期待の方が優勢かもしれない。タキオンの顔を見て、そう思った。けれど、田上は何も話さない。タキオンの顔を見つめ続ける悠久ともいえる時間を過ごした。タキオンもまた、田上の瞳を見つめ続けた。小さな黒い目が、自分に注がれているそのこそばゆさを胸の奥に感じながら。

 

 暫く電車の規則的な波に揺られていると、やがて、アナウンスが鳴り、そして、止まった。ここは、『竜之終(りゅうのお)』という町だった。名前の由来としては、元々ここら辺には竜伝説があり、各地を漂った竜が最後の地をここに選んだというので、ここが『竜之終』と呼ばれることとなった。

 その地にタキオンと田上は、降り立った。

「これからどこに行くんだい?」

 タキオンがそう聞いた。

「家だよ」

「どの道を通って?」

 タキオンは、ホームから見える駅舎の奥の方を見た。竜之憩の駅よりかは賑やかな駅だった。およそ、まだ人の住んでいる田舎の町だ。車通りも少なくはなかった。

「ここから左の方に行って、いくつか信号を渡る。そして、……二十分三十分歩けば、ボロアパートがあるからそこの二階だな。道は詳しく教えるつもりはない」

 田上が、そう言うと、タキオンが苦笑して「ありがとう」と言った。そして、その後に前の方を向くと「三十分か…」と呟いた。

「私だったら十五分で着くけどね」

 タキオンが、田上に向かってそう言った。

「じゃあ、先に行ってみな。俺の方が早く着く」

 タキオンは、ハハハと笑った。

「そりゃあ、そうだろう。君しか道を知らないんだから君に合わせるしかないんだよ。ただ、私は人に歩くペースを合わせるのが苦手だからね。普通に歩くより余計に体力を使う」

「じゃあ、普通に歩いていいから、気がついたら立ち止まって待てば?」

「うーん…、まあ、別に君の隣に居続けることができないわけじゃないから、君の隣にいることにするよ。あんまり、こうごちゃごちゃするのも面倒くさい。…さぁ行こう!私はお腹が減ったよ」

 そう言うと、タキオンは歩き出した。切符は、回収していた駅のおじさんに渡した。六十,七十くらいのおじさんは、お爺さんとも言えるかもしれないが、顔にはまだまだ生気が残っていた。その顔をニコニコさせてタキオンたちを見ていた。

 タキオンに続いて、田上がおじさんに切符を渡したとき、おじさんが話しかけてきた。

「どちらへ行かれるんですか?」

 人の良さそうな感じのいいお爺さんらしい声だった。田上は、急に話しかけられて驚いたが、おじさんのニコニコした顔を見ると思わず話し出した。

「うちの教え子と帰省しに来たんですよ」

「教え子…?」

 おじさんの顔が、怪訝そうに田上を睨んだので、慌てて言葉を続けた。

「ちゃんとした帰省ですよ。あの子がついてきたいって言うもんだから」

 ちょうどそこでタキオンが、通路の角から顔を出してきたので助かった。

「トレーナー君!何しているんだい?早く行くよ」

 そのタキオンの様子を見ると、おじさんも納得したようだ。

「お気をつけて」とにっこり笑って言うと、田上を見送った。

 田上は、タキオンの所に駆け寄り、それからおじさんから十分離れたことを確認して言った。

「そういえばさ、お前は、ちゃんと両親に許可を取ったのか?」

 これは、おじさんの訝しんだ顔を見た時に思い出したことだった。タキオンは、不思議そうに聞き返した。

「両親に?」

「そうだよ。さすがに、お前のお父さんとお母さんに何も言わないで連れていくってことはできないだろ?」

 こうは言ったものの、タキオンの最初の反応で田上は不安になっていた。そして、その不安は的中した。

「両親に…何も言っていないね」

 さすがにタキオンもまずいと思ったのか、その後にこう続けた。

「まあ、あの人たちがダメと言うことはないと思うけど、一応、念のため電話をしておくよ。そっちの方が誤解なんかも少なくて済むだろうしね」

 そう言うと、タキオンは「トイレにも行きたいからベンチに座って待っておいてくれ」と言った。田上もトイレに行きたかったのでそれは断った。

 

 しばらくすると、田上がトイレから出てきた後にタキオンもトイレから出てきて、そして、電話をかけるのが始まった。どうやら、スマホはキャリーケースの奥の方にしまっていたらしく、ベンチに座ると屈みこんで中をごそごそ漁り始めた。そして、スマホを見つけるとまた席を立った。どうやら、電話の内容は聞かれたくないらしい。田上から、四、五メートル程距離を取った場所で、話し始めた。

 田上は、ベンチに座っていると影になっていて寒かったので、日の光の当たる場所へ出た。そのことに警戒したのか、遠くの方でタキオンが一歩後ずさったのが見えて、苦笑した。ただ、会話の内容が完全に分からなくとも、タキオンとその父か母は、軽口を叩き合っているようだった。タキオンの方をチラと見ると、ムッとしたり、鼻で笑ったりしているのが見えた。

 田上には聞こえなかったが、タキオンとその電話に出ていた母親はこんな話をしていた。

 まず初めに、タキオンの「もしもし」という言葉から始まる。

「もしもし、母さん?」

『はーい、母です。何か用ですか?年末?帰ってくるの?』

 よく口の回る母だった。

「いや、年末はね。トレーナー君と一緒に居ようと思って」

 その途端に母の声の高さが一段上がった。

『トレーナー君!?あの、田上さん?』

「ああ、トレーナー君が実家に帰るって言うから、私もついて行こうと思って」

 すると、またもう一つ母の声の高さが上がった。

『実家!?…飲み込めない。どういうこと?挨拶?』

「挨拶?」

 タキオンはオウム返しにそう聞いた。

『挨拶じゃないの?……えっと…、付き合ってる?』

 そこでタキオンは、ああと納得した。

「そんなもんじゃないよ。ちょっとトレーナー君の家に遊びに行くだけさ」

 そうなると、電話の向こうから「えー」という、怪しむような驚いたような声が聞こえた。

「うるさいな」

 タキオンが面倒くさそうに言った。すると、母は「ごめんごめん」と言って後を続けた。

『で、何日ぐらい、どこにいるの?』

「えっと…、今日から一月五日までだから…、八日かな?大内県の竜之終って言うところにいるよ」

『へー、私も行っていい?』

「やめてくれ」

『…えっと、じゃあ…、今日からってことは、もう今から出発するところ?』

「もう着いた。駅の前でトレーナー君といる」

『えっ、横にいらっしゃるの?』

「いないよ」

 そう言うと、母は喜んで言った。

『じゃあさ、言ってみるけどさ。タキオンも田上さんと付き合ってみたらどう?』

「嫌だね」

 タキオンは、つっけんどんに言った。

「そんなこと言うんだったら、もう電話切るけど」

『ああ!待って待って!…最近調子はどう?次のレースは?』

「一度に何個も質問をしないでくれ」

『じゃあ、調子はどう?研究とか上手くいってる?』

「もちろんさ。上々だね、研究も調子も」

『それは良かった。私、泣いちゃったもんね。あの京都三千メートルを一着で走り切ったとき』

「それは何回も聞いたよ。…それで、父さんとかはどうなんだい?元気にしているかい?」

『上々だよ。トレーナー業は、私と走り切ったと同時に疲れ切ってやめちゃったけど、ウマ娘関係の仕事はやってて楽しいってね。最近は、タキオンのグッズの売れ行きが上がってきて嬉しいってさ』

「それは良かった」

 そう言って、タキオンはニコニコ笑った。

『それと…、犬を飼い始めたよ』

「犬?どうしてまた、急に…?」

『桜花が飼いたい飼いたい言ってたからさ。世話ちゃんとするの?って聞いたら、するって言って、…で知り合いからちょうど犬を引き取ってほしいって話があったから、飼ったんだよ』

 タキオンは、「へー」と頷いた。桜花というのはタキオンの妹である。それはそれは可愛い奴でタキオンは、家に帰るたびにその子を溺愛していた。

 桜花は、ウマ娘ではない。タキオンと年が十も離れたウマ耳のないの女の子だ。六月十二日生まれである。生まれたのは、タキオンが小4の時で、タキオンは今でもその時の様子をありありと思い浮かべられる。母が苦痛に顔を歪めて叫んでいた。小学四年生だったタキオンは、現場の有様に絶句した。父親が、母親を応援している声が聞こえたが、タキオンは何も言えなかった。ただただ目の前で起こっている壮絶な戦いに畏怖の念をもって見つめていただけだった。自分のちっぽけさが身に染みた。父親も母親も自分には目もくれず、ひたすら戦っているのだから、自分は蚊帳の外の様な気がして、自分の存在がとても頼りなかった。けれども、当然の如くその場では、頼るものなどない。ただただ、両親二人が戦っている姿を後ろから眺めていた。

「桜花は、確か小学生だったかな?」

 タキオンは、自分の頭に浮かんできたあの日の光景を、薄く引き延ばして見えなくするように母に言った。

『もう小学一年生だね。…時間って言うのは、止まることを知らないよ。だって、桜花がこの前生まれて、タキオンもこの前生まれたのに、もう小学生。そして、皐月賞、菊花賞ウマ娘。しかも、自分の足の脆さを自分で克服して、勝つんだもん。泣くよ』

 タキオンは、鼻をフンと鳴らした。それから、言った。

「桜花はもう冬休みに入っているのかい?」

『ああ、いるよ。呼ぼうか?電話する?』

「…しよう」

 それから、少しの間、暇ができたのでスマホを顔から離すと、タキオンは田上の方に向かって言った。

「すまない、もう少しだけかかるよ」

 遠くで腕を振って体操をしている田上から、「あーい」という適当な返事が返ってきた。そして、スマホを耳に着けるとちょうど桜花が出てきたところだった。

『もしもし~、お姉ちゃん~。今年は帰ってくるの~?』

 タキオンは、桜花の声を聴いてフフフと笑った。

「いや、今年は帰ってこないんだ」

 タキオンがそう言うと、電話の向こうから「えー」と聞こえてきた。

『帰ってこないの~?つまんないよ~。お年玉もらえないよ~?』

「お年玉は…なくてもいいかな。…調子はどうだい?順調かい?」

『まあまあ。お姉ちゃんが帰ってきたら、もっと良くなるんだけどな~』

「だから、帰ってこれないと言っているじゃないか」

 タキオンが困ったように言うと、また、電話の向こうで「えー」と言うのが聞こえた。

『やだやだ。帰ってきてよ~。お姉ちゃんの薬でお父さん光らせてよ~』

 すると、電話の遠くの方で母が「あんまりお姉ちゃんを困らすんじゃないよ」と言っているのが聞こえた。

『ケチ!』

 母かタキオンかどちらに言ったのかわからかったが、タキオンはとりあえず謝った。

「すまないね。……次のレースは大阪杯だから、四月頃にまた会えると思うよ。見に来てくれるかい?」

「行く!」と電話の向こうから聞こえてきた。その後で、母親に言ったのだろう。大きな声で「次のレース大阪杯だって~」と叫ぶのが聞こえた。電話の向こうの向こうで母が「は~い」と返した。

「それじゃあ、私はもう行かないといけないからお母さんに代わってくれ」

『…誰かを待たせてるの?』

 桜花はまだ話が続けたいようで、そう聞いてきた。

「ああ、トレーナー君をね。ちょっと一緒に出かけてるんだ」

 すると、電話の向こうから母によく似た桜花の甲高い声が聞こえた。

『あ、それデートって言うんでしょ。お姉ちゃん、トレーナーさんとデートしてるんだ~』

 タキオンは、ニヤリと笑った。

「おや、ドラマか何かでも見たのかな?」

『ううん、違うよ。友達が言ってたの。大人は水族館でデートするって。そしたら、私が、デートって何?って聞いたら、その子が、両想いっていう好きな人と好きな人が一緒にお出かけをすることだよって言ってた。お姉ちゃん今デートしてるの?』

 タキオンは、桜花を少しからかうつもりで「ああ、そうだよ」と言った。すると、桜花が母の方に向かって「お姉ちゃんが今トレーナーとデートしてるって~」と叫んだから焦った。慌てて、「冗談だよ冗談!」と繰り返した。

『なんだ~、冗談か~』

 電話の向こうで桜花がそう言うのが聞こえた。

『でも、あのトレーナーさんとお姉ちゃんが結婚したら、お兄ちゃんになるんでしょ。私、お兄ちゃん欲しい~』

「おや、結婚すれば兄になるということまで知っているのかい?また、友達が教えてくれたのかい?」

「うん」というのが聞こえた。そして、「これは別の友達が言っていたやつだけどね」と言った。

『結婚するときに、大好きって誓いのキスをするんでしょ?その時に赤ちゃんが生まれるって聞いたよ。私、赤ちゃん育ててみたい』

 桜花がそう言うと、タキオンがハハハと笑った。

「おやぁ?最近の小学一年生は、教育が進んでいるのかな?そんなことまで知っているなんて驚きだ。…しかし、残念ながら私とトレーナー君はそんな仲じゃないんだ。…もう話は終わっただろう?お母さんに代わってくれ」

 今度は、素直に頷いた。そして、最後にこう言った。

『お姉ちゃん、トレーナーさんとのデート頑張ってね』

 声に微かな笑いが混じっていたので、からかい目的だということがタキオンにははっきり分かった。「この…」と何か軽く怒る言葉を言おうとしたが、その頃にはもう電話は母に渡されていた。

『どうだった?』

 母がそう聞いてきた。だから、タキオンは正直に言った。

「順調に生意気だね」

 母が笑う声が聞こえた。それから、話を変えてきた。

『次のレースは大阪杯だって?』

「ああ、そのつもりだ」

『それより前には帰ってこないつもり?』

「おそらく」

『…分かった。大阪杯楽しみにしてるね。足の方も異変はない?』

「絶好調さ」

『うん、良かった。…じゃあ、田上さんに迷惑はかけないでね。ゆっくり過ごしてらっしゃい。田上さんのご両親にもしっかりとお礼を言うのよ』

「オッケー。そこらへんの礼儀は弁えてるよ」

『じゃあ…、もう何も言うことはないわね。行ってらっしゃい』

「行ってきます」

 タキオンが、最後にそう言うと、電話は切れた。その後に、味気ない無機質なスマホの画面を見た。『母さん』という文字が、画面の中に映し出されている。タキオンは、それをしばらく眺めていたが、やがて、ため息とも深呼吸ともつかない息を吐き出すと、スマホの画面を消した。そして、自身のトレーナーの方に駆け寄っていった。

 

 田上は、一人で体を温めようと体操なんかをして待っていた。特に手と足が冷たかったから、入念に体操をした。それでも、タキオンは戻ってこなかったから、何をしようかと考えていた矢先、タキオンが「すまない」と言って戻ってきた。

「いや~、案外長くかかってしまったよ。待たせてすまないね」

 そう言うと、タキオンはベンチに置いてあった荷物の方に行って、自分のキャリーケースを掴んだので、田上もベンチの方に歩いた。そして、自分の大きめのバッグを背負った。

 バッグを背中に負うと、田上は聞いた。

「随分と話が弾んでたみたいだけど、お母さんと話をしてたのか?」

「ああ、私の母と妹だね。…あの人たちは、ごちゃごちゃとうるさいよ。……まぁ、話せてよかったとは思っているがね」

 そう言うと、タキオンは田上を少し見た後歩き出した。

「ああ!思ったよりも時間を食ってしまった。時間なんて食ったって何の腹の足しにもならないのに。…さぁ、早く行こう、トレーナー君。お昼が私たちを待っている」

 田上は、タキオンの後ろを黙って歩き出した。さっきまで温めていた手足は、冬の寒さに負けて凍るようになっていた。

 雲が出てきて、太陽を覆った。すると、尚のこと寒さが身に染みた。少し前を歩いていたタキオンが、田上の遅れがちな足に気が付いて、心配そうに隣に並んだ。

「調子でも悪いのかい?」

 タキオンはそう聞いたが、田上は言葉を発することはせず、横に首を振っただけだった。

 

 長い間二人は黙って歩いた。途中から、太陽を覆っていた雲は雪雲となった。細かい雪がぽつぽつと降ってきた。

「雪だ…」

 タキオンは、そう呟いたが、田上は顔を一度上げたばかりであとは何も言わなかった。今になって、緊張がぶり返してきた。昨日、「もう後には戻れない」と啖呵を切ったはいいが、できる事ならその日に戻りたい気持ちの悪さがあった。

 田上が、うつむいていると、隣にいたタキオンと手が触れあった。冬に強いウマ娘の暖かい手が田上に触れた。すると、その手が田上の手を握ってきたから、田上は驚いてタキオンの方を見た。タキオンもまた田上を見ていた。

「なんだい?」

 タキオンが聞いた。田上は、言葉のないままタキオンの顔を見つめた。その前髪にほろりと雪が舞い降りた。そして、消えた。まだ、言葉は出なかった。そうなると、タキオンもやがては顔を背けて前の方を見つめた。田上もタキオンの方ばかり見ていられなかった。前を見て歩かねば、街路樹に当たってしまう。しかし、握られた手を振り払うことはしなかった。

 その代わりに、慎重に確かめるようにゆっくりと、タキオンの手を握り返した。隣でタキオンが、ふっと笑うのが聞こえた。田上は、突然、何かを言ってみようかと思ったが、その言葉は中々でなかった。そして、古びたアパートが見えた時、ようやく二人は手を放し、田上はタキオンにこう言うことができた。

「ありがとう」

 そして、数瞬後、再び言った。

「暖かかった」

 田上が、そう言うと、タキオンは困ったように笑って言った。

「こちらこそ」

 アパートの父の部屋の前には人影が見えた。うずくまって寝ているようだった。身動き一つ取らなかった。そこに田上たちは、慎重に近づいて行った。



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四、父の家へ(後編)

 アパートの二階の方にその人はいた。アパートの金属の柵ごしに駐車場の方から姿が見えた。田上は、その人を見て訝しく思ったが、顔が見えなかったので何も言わなかった。そして、駐車場脇にある不安げに軋む階段を階段を上って、その人と同じ高さまで行くとその人は顔を上げた。

 その人は、田上もよく知る人物、弟の幸助だった。幸助は、兄の姿を見とめると嬉しそうに、横にあったバッグを持ち上げて立ち上がった。

「兄上ぇ!」

 ふざけたように幸助はそう呼んだ。

「よくぞ参られた」

 田上は、面倒くさそうな顔をしながら、弟に言った。

「お前、なんでここにいるんだよ。中に入れよ」

「鍵を忘れたんだよ。父さんいると思ったらいないし、圭一も帰ってくると思ったら、俺より遅いし、一体どうなってんの?」

「そんなもん知るか。どいてろ、鍵を開けるよ」

 そう言って、田上は半ば押すようにして幸助をどけるとドアの鍵に、自分が持っている合鍵を挿した。すると、今まで田上に隠れて様子を窺っていたタキオンが、幸助の目に留まった。

「あれ?えっと…、誰?」

 幸助がそう言ったが、タキオンは答えることをせず、ただ黙って幸助を見ていたので、田上が代わりに答えた。しかし、田上の方も弟に説明するのが恥ずかしいやら面倒やらで少しぶっきらぼうになってしまった。

「タキオン。俺が担当している子。テレビで見たことあるんじゃないか?」

 そう言って鍵を開けた。

「だよねぇ!そうだよねぇ!どうりで見たことがある顔だと思った。有名人じゃん!サ、サイン!サイン貰っておいた方がいいな!」

「後から俺でもタキオンのでもいくらでも書いてやるから、とりあえず今はそっとしておいてやれ。お前、タキオンに警戒されてるんだから、大学生、…まず、お前が中に入れ」

 幸助は、「圭一のなんていらないけどね」と言いながら、仕方なく家の中に入った。それから言った。

「今日、父さん仕事?」

 スニーカーを脱ぐのに少し手間取っていた。

「…いや、俺は何も聞いていないけどね」

 狭い玄関だったので、後がつかえていた。だけども、田上は何も言わずに、ただ立って、幸助に圧を与えていた。

 幸助は何も気づいていないようで、スニーカーを丁寧に脱ぎ終わると、知らん顔で部屋の奥の方に歩いて行った。その時に、「スニーカー、新しいのだから踏むなよ」という言葉も添えて。

「タキオン、次入りな」

 田上がそう言った時、道路の方から駐車場に車がゴロゴロと入り込んできた。父親の青い車だった。

「父さんだ…」と田上が呟いたので、タキオンも後ろの駐車場の方を振り返った。だから、田上は「早く入れ」と言った。

 部屋の奥の方から、「父さん、帰ってきたの~?」と言っているのが聞こえてきたが、大声を出すのが面倒臭かったので何も答えなかった。そうすると、幸助は、玄関まで確かめに来て、タキオンを少し押しのけて、駐車場の方を見た。

「父さん、帰ってきたね」

 田上が家の方を見ると、幸助の影にタキオンが物凄く迷惑そうな顔をしてたのが見えたので言った。

「お前、邪魔だわ」

 すると、田上の言葉の意味に幸助も気が付いたようで、「ごめんごめん」と言いながら、タキオンに頭を下げた。タキオンは、黒の低いヒールが付いた靴を脱ぎ、安っぽい黄色で塗られた冷たい玄関に立つと、田上が中に入ってくるのを待ったが、田上が玄関に入る前に外の方から父の呼ぶ声が聞こえた。

「お~い、圭一。ちょっと、買ってきたもの運ぶの手伝ってくれ」

 そう言われると、田上は父の方に行かざるを得なかったが、タキオンを一人にするのが気がかりだった。実際、タキオンは少し不安そうに田上の方を見ていた。だから、こう言った。

「タキオンも運ぶの手伝うか?」

 田上が、そう言うのを待っていたかのようにコクリと頷くと、また靴を履き直した。そして、駐車場の方まで下りて行った。二人の背後では、扉が音を立てて閉まった。

 

 田上とタキオンが下りていくと、父が忙しそうにレジ袋をどう持とうか試行錯誤していた。そして、チラと田上の方に目をやった途端、にっこり笑った。田上の後ろにタキオンが見えたからだ。

「こんにちは」と父が言うと、タキオンも「こんにちは」と小声で言って頭を下げた。それは、田上にとって少し馴染みのない姿だったので可笑しくて、思わずニヤリと口角を上げてしまった。すると、タキオンが眉を寄せて睨んできたので、猶更可笑しくなって、もっと口角を上げた。

 父が言った。

「アグネスさんも運んでくれるのかい?」

 タキオンは、コクリと頷いた。

「じゃあ、これ、…を圭一が持って」と言って、大きな袋を二つ田上に渡した。そして、自分も大きいのを一つ持って、それから、タキオンに小さな袋を一つ手渡した。あからさまに田上をいじめてたので、抗議しようと口を開きかけたが、タキオンと目が合うと、その目がニヤニヤ笑っていたのでどうでもよくなった。けれども、重いものは重くて、階段を上るときは、一つをタキオンに持ってもらった。相当重かったはずなのだが、タキオンが楽々持っているのを見ると、――やっぱりウマ娘なんだなぁと田上は考えてしまった。

 それから、家に着くと、父が「冷蔵庫の前まで持って行ってくれ」と言ったので、そこまで玄関から距離のない冷蔵庫まで重い荷物を引っ張っていった。タキオンは、階段を上るときに田上に渡されてから快くそのレジ袋を持ち続けていて、父に言われてからも快く冷蔵庫の前まで持って行って置いた。田上もレジ袋を持った指が痺れて、一度置きはしたものの、最後まで持って行った。

 タキオンは、その間田上を待っていた。どうやら幸助がいる部屋で二人きりになるつもりはなかったようだ。田上が、「あー、疲れた」と言って、脇を通り過ぎるまで、じっと待っていた。そして、田上が先に部屋を入ったら、タキオンも入ってきた。しかし、入った後で田上の袖を引いて言った。

「君、私のキャリーケースはどうすればいいんだい?」

「ああ、車輪についてる砂を払ったら、隣の部屋に持っておいていいよ。ついでに俺のバッグも…」

 田上は、頼もうとしたが、タキオンに睨まれたので言うのをやめた。そして、幸助がすでに入って温めておいた炬燵に入り込んだ。すると、唐突な温もりに大きなため息が出た。悲哀のため息なのか喜びのため息なのか分からなかったが、田上は、もう一度息を吸うと言った。

「あ~~、やっと帰ってきた」

 そう言うと、お昼の空腹を忘れて眠り込んでしまった。

 

 田上は、タキオンに肩を揺られて起きた。まだ、全然寝た気がしなくて、起こそうとしてくるタキオンの手を振り払おうとしたが、怒ったタキオンに思い切り腕をつねられた。

「君、お昼はいらないのかい!いらないのだったら、私が君の分も食べてしまうが!」

 その言葉を聞いて、田上は慌てて飛び起きた。空腹を思い出したからだ。

「お昼は何だ?」

 田上はそう聞いたが、答えは聞かずとも知っていた。目の前にラーメンが置いてあったし、言えば、起きる前から香ばしい豚骨ラーメンの匂いがしていた。

「ラーメンか…」

 田上としては、別に嬉しくないわけではなかったのだが、思いがけず自分の声の調子が低くなってしまって、その後に慌ててこう付け加えた。

「ま、美味いことには間違いないけどね」

 そう言ってから、タキオンを見たが、タキオンの方はと言うと、田上なんて見ようともせず夢中でラーメンを啜っていた。前髪が邪魔だったらしいので、ヘアピンをして、綺麗なおでこの一部を見せていた。

 それから、田上が、目の前に置かれた二人前の量のうち半分を食べ切った頃、もうタキオンはとっくに食べ終わっていて、物欲しそうに田上の器を見ていた。

「欲しいのか?」

 田上が、そう聞くと、「うん」と食い気味に頷かれた。田上は、苦笑しながら箸から汁を切るとタキオンの方に皿を押しやった。それから、立ち上がると、まだ台所にいるであろう父親に声をかけた。

「タキオンは二人前じゃ足りないぞ。四人前くらいないと」

 そう言うと、父親の驚く声が聞こえた。

「えっ、ウマ娘って四人前食べるの?」

「個人差が大きいけど、一般的には余裕でそんくらい食べる。むしろ、タキオンは小食な方」

「嘘…」という父親の驚愕した声が聞こえた。

「えっ、つまり、家にウマ娘の姉妹と母親の三人がいた場合、父親を含めると最低でも…八、十二…、十三人前作らないといけないの!?食費どうなってるの?」

「そこらへんは、色々なサービスで賄われてるよ。公的なものもあるし、店が独自でやってるサービスもある」

「へー」と感心した声が聞こえた。

「じゃあ、まだアグネスさん食べ足りなかったりするのか?」

 父親が、心配そうな声を出したので、タキオンの方を振り返った。見ると、もう麺の残りかすを摘まんで口に運んでいるところだった。

「タキオン、もう腹は減ってないか?」

 タキオンは箸を口に入れたまま答えた。

「ほうはいじょうふ(もう大丈夫)だよ」

 そう言って、口から箸を出すと、もう麺を摘まむことはせず残り汁までもあっという間に平らげた。

「ごちそうさま」

 タキオンは、田上の方を見ながら手を合わせた。それから、立ち上がると田上に聞いた。

「トイレはどこだい?」

「ああ、ここから左の茶色いドア」

 田上はそう言ったが、少し間を開けた後、トイレに行こうとしているタキオンの背に言った。

「…本当に大丈夫なのか?」

 そう聞くと、タキオンはニヤリと笑って言った。

「本当は、腹六分目くらいさ。でも、お昼にしては今は少し遅い時間だ。満腹にならないくらいが夜食の時間にちょうどいい」

 そう言うと、タキオンは通路の陰に消えた。田上は、あまり納得がいっていなかったが、父の方を見るとこう言った。

「父さん、今度買い物行くときは俺も連れて行ってよ。ウマ娘用のクーポンを持ってるから」

「ああ」と父は頷いた。それから、また台所の壁を見つめると、無言で皿を拭きだした。

 田上は、あまり落ち着かないまま炬燵の方に戻った。炬燵に座っている弟の方を見てみると、スマホを机の上に置いて、携帯ゲームを両手に持ってうつむいて遊んでいた。

「何のゲームをしてるんだ?」

 田上は聞いた。すると、幸助は言った。

「異世界時空」

「…ん?…ああ、あのゲームか。俺も少しならやったことがあるな。ただ、FPS(一人称視点のシューティングゲーム)だろ?俺の肌にはあまり合わなかったな」

「へー、そうなんだ」

 幸助は、あまり兄の話が聞こえていないようだった。それもそのはず、オンラインゲームをしているのだ。リアルタイムで状況が動いていくというのに人の話なんて聞けるものではないだろう。田上もそのことは身をもって知っていた。ただ、田上の場合はオフラインのゲームでも人の話が聞こえない場合がある。幸助のように返事をしているだけマシ、というものだろう。

 田上自身もバッグの中に自分の携帯ゲーム機を忍ばせていたのだが、どうにもそれをする気にはなれなかった。その理由は、今やっているゲームが半分飽きていたというのもあるし、現在少し落ち着かないというのもある。

 だから、田上は何をしようかと考えていたのだが、不意に幸助の方を見た時、後ろの立った時の腰くらいの高さの棚に見覚えのある写真がいくつか飾られていたのを見出した。それは、前回の帰省の時にはなかったものなので、きっと父親が飾ったのだろう。三枚の家族写真が飾られていた。一つは、父の賢助と母の美花がまだ若く、そして、圭一と幸助が、まだ小さい時の写真。二つ目は、圭一が中学生、幸助が小学生の時の写真。それから、最後が、母の美花が病院服姿の時の写真。この時、田上はまだ中学三年生だった。

 ただ、写真立て自体は、あと一つあった。しかし、その中にまだ写真はなく、空のケースにキラキラした縁取りが施されていた。鳥や花の模様なんかもあった。田上は、それを見て不思議に思ったが、それ以上に思うことはなく、見直すと三枚の家族写真を手に取りに行った。それから、じっくり眺めようと、炬燵のところにそれを持って行った。ちょうどその時、タキオンがトイレから帰ってきたところだった。タキオンは、田上と出会い頭にぶつかりそうになると無言で驚いて、田上を見上げたが、田上はぶつかりそうになったことにすら気が付かず、夢中で手に取ったものを見ていた。

 タキオンは、炬燵に戻っていく田上の後ろについて、自分も炬燵に入った。そして、夢中で写真を眺めている田上に聞いた。

「それは…なんだい?写真?」

 田上の頭には初めのうち、タキオンの言葉が届いていなかったようだが、暫くすると、ようやく気がついて言った。

「ああ、…ああ!写真だよ写真。まだ、母さんが生きていたころの…」

 そう言うと、田上はまた押し黙って自分の手に持っている写真を眺めた。この写真を眺めていると沸々と思い出してくるものがあって、その中には怒りにも似た感情を持つものがあった。これは、田上自身が怒っているということを言いたくないのだから、怒りにも似た感情と言ったが、実際のところは怒りと言ってもいいだろう。ただ、怒りと言うとあまりにも直接的すぎるから、『焦げ付くように赤い夕空』と言ってみるのもいいかもしれない。夕空というのは田上と深い関わりがあった。しかし、今のところはこの事を話すべき時ではないのかもしれない。だから、現実の田上の方に話を戻すと、田上は、やっぱり押し黙ってじっと家族写真を眺めていた。

 タキオンは、話しかけたかったが、本人の様子を見るにそれは難しそうだった。なので、探りを入れるためにも、自分でその写真の一つを手に取った。さすがに田上も全てを一遍に見るわけにもいかないので、タキオンが写真立てを取るのを横目で見ても何も言わなかった。

 タキオンが手に取った写真は、田上がまだ小学生くらいの時であろう写真だった。皆、笑顔で大した情報はなかった。タキオンは、もう一つの方も手に取った。もう一つは、田上がまだ幼く、可愛いと言える年頃の頃のものだった。こちらも大した情報はなかった。皆、揃いも揃って幸せそうだった。

 タキオンは、これらの写真から何も得るものがないと分かると、二つの写真を机に置いて、田上が持っている写真に少し首を傾けて見てみた。天井の照明がガラスに反射していてほとんど何も見えなかった。だから、タキオンは、首を傾けるのをやめて、暇そうに前の方を見た。すると、ちょうどオンラインゲームの空き時間に炬燵の上にあるお菓子を摘まもうとした幸助と目が合った。幸助が、ふざけてバチッとウインクをしたので、タキオンは思わずフフッと笑ってしまった。その後に幸助は、自分のゲーム機を見て、慌ててゲームを再開したので、またタキオンは暇になった。

 机の上にあったお菓子を自分も摘まんだ。丸いチョコレートを食べた。そのチョコレートは、甘くタキオンの好みの味だったが、たまに顔を出す得体の知れないほんの少しの苦味が、タキオンの顔を僅かに曇らせた。だが、他に美味しそうなものはなかったので、もう一つだけタキオンはそれを摘まむと、炬燵から立ち上がった。

 

 炬燵から立つと、やることもないので本を読もうと思った。だから、くるりと振り返ると後ろにある襖の方を向き、隣の部屋に置いてある自分のキャリーケースのところに行った。

 キャリーケースは、襖を開けるとすぐのところに事前に置いておいたので、さほど襖を開けないで、その隙間から手を伸ばして半分手探りで本を手に取った。

 そして、本を手に取って再び立ち上がったとき、襖のそばにある仏壇を眺める機会ができた。その仏壇には、笑顔の女の人の写真が飾られていた。先程見た家族写真の母だろう。それをタキオンは、不思議そうに見つめた。

 暫く見つめていると、背後から急に声がしたので驚いた。見ると、声の雰囲気から自身のトレーナーだと思っていたのだが、実は弟の幸助の方だった。幸助は、先程のふざけた顔とは似つかない、深く考え込むような黒い瞳を持っていた。タキオンの後ろに立って、仏壇の母の写真を見つめながら、幸助は独り言のようにこう言った。

「人って死ぬんだよなぁ」

 まるでさっきの幸助じゃなかった。だから、タキオンはその言葉に返答なんかできないで、ただただ幸助の顔を見つめていた。幸助のその眉間には、深い皺が刻まれていた。

 やがて、田上もその後ろについた。家族写真から不図目をあげると、二人が傍に立っていて、仏壇をじっと眺めていたからだ。

 その後ろに立った時の顔は、弟の幸助にそっくりだった。

 それから、田上は物悲しそうにこう呟いた。

「ああ、母さん...」

 玄関にある台所の方から、水の流れる音が聞こえた。そして、栓を締めるキュッキュッという音が聞こえると、家の中はすっかり静かになった。

 田上は、一歩前に進んでタキオンの肩を軽く掴むと「ちょっとどいて」と小さく言った。タキオンは、初めのうちは田上が何をしようとしているのか分からなかったが、蝋燭に火を灯すのを見てからやっと、線香に火をつけようとしているのに気が付いた。田上は、仏壇の前で静かに足を畳んで、蝋燭から線香に火を点けた。そして、それを軽く振ると火は見えなくなり、先の方が赤く発光しているのみとなった。

 そこで田上は振り返った。まだ、後ろで立っているタキオンと幸助を見上げた。幸助は、田上に何も言われずともすぐに自分も足を畳んだが、タキオンは――自分も手を合わせたほうがいいのだろうか?と迷い、幸助のすぐ後には続けなかった。

 だから、田上は優しく言った。

「あんまり気を使わなくてもいいぞ。タキオンが、手を合わせないのならそれでいい」

 田上にそう言われたが、タキオンはあまり納得できていない表情で田上の顔を見つめた。その理由は、ここまできたらどうしようもなかったからだった。目の前に仏壇があって身近な人が手を合わせるというのに、自分が手を合わせないなんて場違いにもほどがあるだろう。多少ムカムカしながらもタキオンは、膝を曲げて他の二人に揃えて正座をした。

 そして、タキオンが座るのを見た田上は、仏壇の鐘をカーンと鳴らした。

 再び静寂が訪れたが、今度は、玄関にいる父親の足音が妙に響いて聞こえた。特に、タキオンには。田上と幸助は、一生懸命手を合わせて、目を瞑っていた。何を思っているのかは知らないが、それはそれは長いこと目を瞑っていた。タキオンは、早々に飽きてしまって目を開けると、他の二人を見つめた。田上は、目の前にいたから、背中しか見えなかったが、幸助の顔をよく見ることが出来た。やはり、田上と兄弟なのだろう。類似する点がよく見つけることが出来た。鼻や口元が特に似ていた。他にも何かないか探していたら、幸助は顔を上げて、目を開けたのでタキオンはできるだけ平静を装って目を静かに逸らした。

 田上は、まだ目を瞑って祈っていた。タキオンが、後ろから見た背は案外大きかった。いつもは舐め腐っていたが、こうして見ると田上も立派な男だった。骨張った肩が、洋服を引っ張っていた。

 それから、ようやく田上が顔を上げると、まず火を、小さい鐘の様なものに細い棒がついたものを被せて消した。そして、振り返って、タキオンを見つけると言った。後ろに居たのはタキオンだけだった。幸助の方はと言うと、もう田上の背中なんて見続ける気はなく、一人でゲームを再開していた。

「ああ、タキオン。改めて紹介すると、これが俺の母さんだ。田上美花っていう名前だ。名前も分かんないのに祈ったってしょうがなかったな。ごめん、タキオン」

 田上は、さっきのタキオンのムカついた顔を見とめていたようだ。そうすると、タキオンは少し申し訳なくなって、「美花さんね…」とごまかすように呟いた。

「ほら、炬燵に入って」

 田上が急かすように言った。もう、思いは吹っ切れたようだった。まだ、机の上に置いていた家族写真を元の棚の上に戻すと、不思議そうに空の写真立てを見てからタキオンの横に戻ってきた。

「雪、明日積もるかなぁ?」

 田上としては、この言葉は誰に言うともなく言った独り言の様なものだったが、本を読み始めていたタキオンはそれに一言返した。

「どうだろうね。あんまり積もる気はしないけど…」

 雪は、深々と振り続けていた。それは、夜になってカーテンが引かれたその裏でもまだ降っていた。しかし、残念ながら夜の間に雪は止むだろう。そして、朝になればまた日は照り輝く。寒い朝に負けじと頑張る人々の背をなるだけ温めようとして。

 

 夜食が運ばれてきたのは、夜の六時だったが、その時に、風呂をどの順番で入るのかで少しもめた。一番、気の狂ったことを言っていたのは、幸助だった。

「圭一とタキオンさん、二人で入れば一件落着じゃん」

 別にそんなことはなかった。問題は、タキオンを最初にするのか後にするのか?ということだった。だから、幸助の意見は全くの見当違いであり、からかい目的のものでしかないものと思われた。しかし、当の本人は全然嘘などついていないような真面目な顔で言っていたものだから、田上とタキオンを混乱させた。

「お前、気ぃ狂ってんのか?」

「そうだそうだ。脳外科に行きたまえ」

 そう口々に叫んだが、傍にいた父親が苦笑しながら幸助に言った。

「お前は、何か誤解しているかもしれないが、アグネスさんは何か俺たちのことに興味があってここに来たんだそうだ。決して、俺たちの甲斐性なしの兄貴と交際しているとかそんなものじゃない。それだったら何か言うことがあるだろ?」

 父は、甲斐性なしと呼ばれて不満そうな田上の視線を無視しながら、幸助に言った。幸助は、父親に注意されたのが響いて、少し言い淀んだがこう言った。

「ご、ごめん、タキオンさん」

 タキオンは、困ったような不満そうな微妙な顔をしながら、微かに許すように頷いた。そして、その後、幸助が言った。

「それにしても、…どうなの?トレセン学園ってドラマの中みたいに、付き合っている人いたりするの?」

「…まぁ、いるって聞いたことはあるけどね。でも、そういうのはほんの一部で、大体は隠れて付き合っていると思うんだよねぇ…」

 田上が、幸助にそう返すと、また質問を繰り返してきた。

「え、ということは、圭一の友達とかに心当たりがある人とかがいるの?」

 田上は、曖昧に頷いた。すると、幸助が興奮して高い声を出した。

「ふぅ~~~!トレセン学園のトレーナーになれば、ウマ娘と付き合えるなんていいご身分してるな!俺もトレーナーになっておけばよかったか?」

「…そう言えば、お前はどこに就職するつもりなんだ?」

 田上がそう言うと、さっきまで興奮していた面持ちを幸助は曇らせた。

「今んとこ分からんのよね。あんまり将来に展望がないというか…」

「あんまり急かすようなことはしたくないけど、しっかりと考えてはおけよ。考えなしにそこらへんの企業に就職したら痛い目に合うからな」

「圭一は痛い目に合ったことないだろ。女の子引っかけて自分の家に連れ込んでいるだけだろ」

 幸助のその言葉が田上の怒りの琴線に触った。突然にダッと立ち上がると、幸助の傍に掴みかかるために寄っていこうとしたが、父親がそれを食い止めた。

「女の子の前でくらい仲良くせんか!お前らいい年して、まだ仲が悪いんか!…そして、幸助!お前の言い方が悪い。圭一のお節介にイラついたのも分かるが、お前の言い方はアグネスさんも傷つける言い方だぞ。兄弟喧嘩ならせめて周りを傷つけるようなことはするな!」

 田上は、舌打ちを一つすると思い切り幸助の方を睨んだが、その後にタキオンの顔を見た途端、なんだか具合が悪くなって、「ごめん」と一言呟いた。

 父の賢助は、その様子を見とめていたが、最後にこう言った。

「よし、順番は決めた。まず、幸助。お前が入れ。そして、次に俺。その次に圭一。それから、最後にアグネスさん。これでいこう。異論は?」

 誰も何も言わなかった。それから、幸助が無言で立ち上がると、夕食も食べないで自分のバッグから着替えを取り出して、風呂の方に歩いて行った。まだ、湯も沸かしていないのだから、向こうでずっと待つつもりなのだろう。寒い夜なので、炬燵なしでは厳しそうだった。賢助もそのことには気が付いていたが、今更気を遣うこともせず、田上を挟んで向こうのタキオンの方に話しかけた。

「ごめんね、アグネスさん。こいつらまだまだ子供だから」

「…いえ、男兄弟だとこんなものになるんですね。私は、妹しか、しかも年の離れたものしかいないからこういうのは味わったことがないですね」

「へー、妹がいたと。初耳だけど、どのくらい年の離れた妹さん?」

「十歳離れています。今小学一年生で、来年二年生ですね」

「へー」と賢助は言ったが、それ以上はなにも質問がなかったようだ。ゆっくりと目を逸らすと、自分のご飯に手をつけ始めた。

 暫く田上は、ご飯に手をつけずにぼーっとテレビを見ていたが、タキオンに心配そうに肩を叩かれると目覚めたかのように体をビクッと震わせた。そして、怯えるようにタキオンの方を見るとまた言った。

「ご、ごめん」

「なに、君が謝ることはないよ。あっちの方が少なからず無礼だった。君に対しても私に対してもね。だから、君がいきり立つのも無理はない。あれは、人の尊厳を傷つける言葉だった。…と言っても、君も少々お節介が過ぎたのだろう。君が、弟君の触れてはいけない場所に触れたのも事実だった。あんまり年若い人の将来のことになんて触れるべきじゃないんだよ。それにね。ちゃんと会社を選んだほうがいいとは言ったが、人生は長いんだ。本人が学んで成長していくこともたくさんあるんだよ」

 タキオンに説かれるのもなんだか癪に障ったが、それはほんの少しの感情で、後は素直に頷く激情の後の反省の心があった。しかし、タキオンはなおも話を続けたから、田上はそれは鬱陶しく思ってしまった。「君、あんまり怒っちゃいけないよ」とか「争いは自分をも傷つけるんだ」とか、タキオンが田上の事を心底心配して言っているであろうことは分かっていた。そして、田上の激情に不安になっていたであろうことも分かっていた。だが、あんまり説かれるのも面倒なので、「分かったよ」と言うとその後に「ご飯を食え」と言った。タキオンは、そう言われると、ぽつぽつとご飯を食べ始めた。

 

 幸助がお湯を沸かして、風呂に入って、あがってきたとき、もう機嫌は直っているかのように思われたが、兄の顔を見ると途端に顔を歪ませた。しかし、それは一瞬の出来事だったので見とめていたのは、タキオンしかいなかった。

「父さん、風呂」と幸助が明るく言ったが、炬燵に入る時には正面の席の兄の方は極力見ないようにしていた。それから後は、テレビしか見なかった。ご飯を食べるときも体ごとテレビに向けていて、炬燵の上にある茶碗を交互に持って箸を進めていた。

 田上もまた幸助の方など見るつもりはなかった。田上の方が、幸助より怒っていたと言ってもいいだろう。その目は、テレビの前を通った幸助に注がれる事はなかったが、その代わりに見ていたテレビの肝心の内容の方は、幸助の存在を意識しすぎていて全く頭に入っていなかった。

 タキオンに話しかけられていることに気が付いてから、ようやく、自分が何を思ってどうしていたのかに気づき反省した。――頭を冷やさないといけない。そう思った。だから、そのためにもタキオンの話を聞くことに注力した。タキオンは、テレビから連想して思い出された事柄を一生懸命田上に話していて、田上も一生懸命聞いていた。その様子を隣で聞いていた幸助は、一瞬鼻を鳴らしたが、それは誰にも聞こえておらず、もし田上に聞こえていたら起こっていたであろう出来事は起こらずに済んだ。

 一触即発の空気であろうことはタキオンも分かっていたから、田上の気を紛らわそうといろんな話をした。そして、その後タキオンに風呂の順番が来て、湯船に浸かりながら思たのが、自分の全く見当違いの方向で疲れ切っていたことだった。二人の兄弟喧嘩の間を取り持つなんて予定にはなかった。――トレーナー君に償いをさせなければいけないと思った。ただでさえ、慣れない家で疲れていたのだ。自分の気も紛らわしてもらおうと思った。その方法を考えている間に、幸助か圭一かが、脱衣所にあるトイレに出入りしたので少し緊張してしまい興が削がれてしまった。もういいや、と思ってタキオンは、湯船に深く浸かり直した。それから、誰かがトイレから出て行く物音を聞くと、自分も風呂から出て行った。

 

 夜は寝るまで長く感じたようだった。元々、この家族は自分から進んで話すのが幸助からしかいないからなのだろう。家の中は静まり返って、人の息遣いとゲーム機のボタンの音、衣擦れの音しか聞こえてこなかった。テレビは消されていた。誰も見る人がいなかったからだ。一番暇そうな父親でさえも、「最近のテレビはつまらねぇなぁ…」と呟きながらテレビの電源を消していた。それから、何をしたのかと言えば、寝床の場所を話し合わなければならなかった。まず、初めに父親から話し始めた。

「おい、お前ら、重要な話がある」

 物々しくそう言ったので、自分の物事に集中していた兄弟もタキオンも顔を上げた。

「一大事だ。…布団が三枚しかない。…どうする?」

 誰も何も言わなかった。だから、賢助は少し顔をしかめるとこう言った。

「俺は、別に布団がなくてもかまわない。…うん。それで、我が家のお客様であるアグネスさんには布団が必要だ」

「いらないですよ」とタキオンは言ってもよかったが、この父親はそういうところは譲らなさそうなので何も言わなかった。

「しかし、隣の部屋には残念なことに布団が二枚しかしけない。お前たちの身長では、三枚しくには狭すぎるだろう。だから、隣の部屋で二人、こっちの部屋で二人寝ることになると思うけど…。…だけどもだ!こっちの部屋に寝るのも俺と二人で寝るのであれば、物凄く狭くなる。炬燵が邪魔だ。そして、俺は狭いのは嫌いだ。確実に寝ながら人を蹴る自信がある。…となると、あっちに三人寝たいが、一人が布団なしでうずくまって寝るとかそのような格好になってしまう。…俺がそれをしてもいいけど…」

 最後の言葉は大変嫌そうな顔をしていた。そして、皆の顔を見回したが、一番最初に口を開いたのは田上だった。

「俺がうずくまって寝てもいいよ。どうせ俺が寝るんならあっちの部屋だし、寝る格好なんてどうでもいい」

 田上がそう言うと、賢助は幸助の方を見た。

「……圭一がそれでいいなら、どっちでも…」

 幸助はそう言った。

「じゃあ、幸助はどっちに寝る?こっちに寝るんだったら、炬燵どかして布団敷かないといけないし、あっちに寝るんだったら、圭一と一緒になるけど……」

 幸助は、圭一の方を見た。兄の方もまた弟の方を見たが、弟はすぐに目を逸らすと頭を掻いて言いにくそうに言葉を発した。

「……もういいよ。ごめん。俺の言い方が一番悪いってのは分かってたから。圭一の言葉に少しむきになってたから、ごめん。…タキオンさんもごめん」

「いいよ」

 タキオンが、そう言うと、少し間をあけてから田上も「いいよ」と言った。

「じゃあ、これで一件落着だな。二十五歳に二十一歳。兄弟喧嘩。もうこれから後はないことを願っているよ。…それで、じゃあ、幸助はあっちの部屋で寝るってことでいいんだな?」

「圭一が良ければそれで」

 幸助はさっきより多少元気の出た声で言った。

「俺は全然大丈夫。…タキオンの意見は聞いてなかったけど、…何か要望とかございますか?」

「うーん…、特に」

 タキオンはそう答えた。

「よし、決定。じゃあ、寝るときはそれで!」

 そう言うと、また各々は自分たちの興味のあることに目を向けた。空気はさっきよりも微かに軽くなったような気はするが、代わりに少しのぎこちなさが残ったような気がする。タキオンは、そう思うと、本に集中した。

 

 夜も更けたころになってようやく皆は寝ようかという話になった。タキオンは、もうその時には眠たかった。本を読んでいたものの、眠気で何度も欠伸をしていた。そのことに気が付いた田上が、その話を切り出したのだ。

「もう寝ようか…」

 田上がそう言うと、皆もぞろぞろ動いて、寝る支度を始めた。まだ、布団は隣の部屋には敷かれていなかったから、それを敷くところから始まった。タキオンの布団は田上が敷いてくれた。行く前には、世話はしないと言っていながら、何を思うこともなくタキオンの世話をしていた。タキオンが、そのことに気が付いてクスクス笑っていたら幸助に話しかけられた。

「なんで笑っているんだ?」

「…いや、君の兄貴がね?こちらに来る前には、お前の世話なんかしないからな!って言っておきながら、今こうして何の疑問もなく私の世話をしていると思うと可笑しくって」

 そう言ってまたクスクスと笑った。幸助の方も笑い出した。あんまりバカにした笑いにならないように、小声で笑っていた。田上は、それをしっかりと両の耳で聞いていて、タキオンたちが笑っているのをわざとらしいしかめっ面で睨んだ。それから、言った。

「厄介な妹が増えたな」

 その言葉にタキオンたちは、今度はハハハと笑った。

 そして、布団が敷き終わると、途切れ途切れにしていた会話も終わらせて、電気を消すと眠りについた。だが、タキオンはあまり眠りに集中はできなかった。それと言うのも、慣れない匂いが脳裏にこびりついて離れなかったからだ。タキオンは、落ち着かなかった。

 タキオンの頭の上の方では、田上が古びた小さい毛布に包まって、寝息をすうすうと立てていた。彼なら、この状況を打破できると思った。

 元々、この家に来てから慣れない匂いに苛まれていたのだが、いよいよ布団を被るという段になって、それが出てきてしまった。ウマ娘の鼻の良さだ。ウマ娘は、体の筋力や体力なんかが人を遥かに凌駕しているが、嗅覚についても例外ではなかった。遠くのカレーとハンバーグの匂いだってかぎ分けることができるのだ。他人の家の布団の匂いなんて強く感じることは造作もなかった。

 だから、タキオンは普段感じている田上の匂いの方を強く感じれば、まだマシになるのではないかと考えた。だけど、田上は今はすっかり眠っていて手が出し辛かった。

 

 それから、暫くタキオンは落ち着かない微睡みの中で漂っていたが、田上が不意に出したくしゃみの声で目を覚ました。まだ、時間はそんなに立っていなかった。外の明かりが田上の顔を照らしていたが、田上はそれを嫌がるように顔を背けると体勢を変えて壁に顔を向けた。

 この時、タキオンの方に背を向けていたのだが、毛布の間から田上の背中が見え、それからその肌が見えた。うずくまっているので寝巻が引っ張られて、肌が露出したのだろう。そして、くしゃみが出たのもこれのせいだろう。

 タキオンは、これを見て、――これを逃したらもう安眠の機会はないと思って、布団から這い出すと田上の肩をそっと叩いた。外を車の通る音がして、不意に明るくなってまた、元の明るさに戻った。

 田上は、全然タキオンが肩を叩いているのには気付きもしなかった。当然と言えば当然で、タキオンは本当に起こす気があるのかと思うくらい、そっと肩を叩いていた。しかし、それも意味がないと分かると、少しずつ強くなっていって、最後には田上の頬を強めに突っついた。そこで、ようやく田上は起きた。

 まだ眠たいようで、意識もそこそこにタキオンの話すことを聞いた。タキオンは小声で話しかけた。

「トレーナー君、一緒に寝ないか?」

「…?なんで?」

「落ち着かないんだよ。分かるだろ?ウマ娘の嗅覚は君たち人間とは比べ物にはならないんだ。他人の家の布団なんて君たち人間でも落ち着かないだろ?それじゃあ、私たちはもっと落ち着かないんだ。君がどうにかしてくれ」

「…でも、なんで俺?」

「なんでもどうしても、君が一番普段感じている匂いに近いだろ?なら、君を傍に置くのが妥当だろ」

「…でも、それって少しまずいんじゃ?」

 その後に田上は大きく欠伸をした。それに少し怒ってタキオンは言った。

「君は分からないんだろうけど、寝にくいんだよ!」

「なら、来なければよかったのに…」

 そして、また欠伸をした。その様子を見ると、タキオンも遂には頭にきて、田上の頬をつねった。すると、田上は、「分かった分かった。痛い痛い。寝るから、一緒に」と言って、タキオンの後から布団に入った。その時に、少し躊躇うと、タキオンはしばらく見ていないあざとい顔を見せて、「はーやーくー」と言った。

 田上は、仕方なく一緒の布団に入った。そして言った。

「お前のその顔、久々に見たよ」

「…?どの顔のことだい?」

「いや、なんにもないよ」

 田上は、そう言った後、ぴったりと寄り添ってくるタキオンに向かってこう言った。

「お前、もうちょっと離れられないのか?…少し…ダメだぞ」

「いいや」とタキオンは答えた。

「ウマ娘は腰に尻尾の骨があるから、仰向けに寝るのは大変なんだ。そうなると、君の方に寄るのは仕方のないことだろう?それにこの掛布団も若干小さいし、敷布団も面積がないから、一緒の布団に入るんだったら離れることは叶わないよ」

「それにしてもなぁ…」と田上は困ったように頭を掻いて言った。さっきから心臓がうるさくて堪らなかった。母以外の女性となんて一緒の布団で寝たことがなかったし、ましてや、今恋している相手だ。冬だというのに緊張の汗が止まらなかった。

 それに追い打ちをかけるようにタキオンは言った。

「トレーナー君、こっちを向いてくれ。…ああ、その感じだ。そして、君の腕を私の頭の下に…。よしよし」

 ほとんどタキオンのされるがままに、田上は動かされた。いよいよ二人の距離は近くなって、田上の心臓はこれ以上は高鳴ることはないと思われた限界のその先まで行き、うなりを上げた。

 もうだめだった。田上は、苦しそうに言った。

「タ、タキオン、さすがにこれは…」

「いや、今日の分のつけは払ってもらうよ。君と弟君の喧嘩にこちらも付き合わされたんだ。その心労たるや測り知れないものだろう。だから、君にはせめて隣にいて償ってもらわなくては」

「俺じゃなくても自分の持ち物でそれはできないのか」

「おや!…まぁ、できないことはないが、もうここまできたんだ観念したまえよ。…そうだなぁ、今度は、父親のように私を寝かしつけてくれよ。子守歌でも歌って」

「子守歌って…、俺はお前の父親なんかじゃないぞ」

「それと同等くらいはあるだろう?」

 そう言われると、田上は言葉に詰まった。父親と同等と言われて、喜んでいいのか悔しがればいいのか分からなかった。しかし、その後に思ったことがあって、言った。

「お前、もしかして、自分の家の方が良かったんじゃないのか?今になって後悔したのか?…お前が良かったら、明日、せめてトレセン学園の方に帰してやるくらいはするぞ」

 田上がこう言うと、タキオンは少しの間黙って、その後ほんの微かに震えている声で言った。

「……自分の家に帰ればよかった、とは、思ったさ。だけど…今思ったんだけど、家に帰っても別に大したことはないんじゃないかって。…だって、私は高校生で、帰れば自立目前の大人なんだ。君の周りで適当にふざけたりなんかもできないんだ。だったら、ここでこうしている方が、私には一番楽しいかもしれない。君の懐に抱かれているときの方が、楽しいのかもしれない。…まだ子供でいた時のあの頃には戻れない。父の懐になんて何年も入っていない。元々私は、親から離れるのが早かったんだ。何の気の迷いもしないで、父親から離れ、母親から離れた。そして、あそこには妹がいる。あそこは私の場所じゃないんだよ」

 田上は、思いがけずタキオンの心の深層に触れたような気がして、戸惑った。そして、その想いが自分が普段持っているものと酷似していた驚いた。ただ、それは簡単に話せるものではなかった。しかし、タキオンの心に触れた今、自分の心も動かされて、思わず話した。

「俺だって、戻りたい気持ちがある。俺の方がずっと強いかもしれないし、タキオンの方がずっと強いかもしれない。……多分、誰もが皆抱えているものじゃないかな?あの頃に帰りたいって想いは。だから、夕焼けを見れば人は堪らない心苦しさに襲われるし、夕日に延ばされた影を見れば、もう戻れない事を知る。……タキオンも分かるか?」

 田上の腕の上でタキオンがコクコクと頷くのが感じ取れた。

「きっと、タキオンはまだ思春期だから、大人にもなれずに子供にもなれずに、その境界線を彷徨っているんだよ。そして、今俺がいることで一時の休息所が見つけられた。…俺としては迷惑千万極まりないけどね」

 田上がそう言うと、暗闇の中でタキオンがフンと鼻を鳴らした。

「…ゆっくり眠れ。こういう時には、眠るのが一番だ。頭が夢を見るのに任せて、朝起きたらその夢の意味を考えろ。人はそうやって、転げて跳ねて踊りながら成長していく。夢の世界の住人は何もお前だけじゃない。俺もいるし、父さんもいる。お前の父さんもいるだろう。俺の弟もいるし、お前の妹もいる。数え上げればキリがない程、皆夢の世界に迷い込むんだ。そして、起きた時こう思うんだ。――ああ、今日も一日が始まる」

 田上が、そう言い切るころにはタキオンはすやすやと眠っていた。だから、田上は家族に一緒に寝られたところを見られたらまずいと思って、元の場所に行こうとしたが、その時には、田上にも睡魔が優しく手を取って、夢の世界に案内してくれていた。

 朝起きると、隣の布団で寝ていた幸助がぎょっとしたのは言うまでもないだろう。

 



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五、冬とシンガーソングライター(前編)

五、冬とシンガーソングライター

 

 幸助が起きたのは、布団の隙間に流れ込んでくるほんの少しの寒さが理由だったが、隣を見てみると、自分より情けなく身を縮めて寝ているだろうと思っていた兄が、その教え子と寝ていたのに驚いた。そして、少し羨ましいとも思った。と言うのも、二人は身を寄り添い合っていて暖かそうだったし、その様子を見ると自分の彼女のことを思い出したからだ。今年の夏の終わりにできた彼女。名前は、今田夏希という。ポニーテールの可愛い子で、幸助は「なっちゃん」と親しみを込めて呼んでいる。しかし、その子は、年末は家族と一緒に過ごすらしかった。幸助は、年末は東京なんかに遊びに行ったりして、遊園地や繁華街を楽しみたかったが、なっちゃんがそれを嫌がるのならば仕方がなかった。幸助は、がっかりしつつも今年も家へ帰ることを父にメールで告げたのだ。…まぁ、父は嬉しそうだったので、特に問題はなかった。

 幸助は、少しの嫉妬で兄の頭に軽くデコピンをすると、襖を開けて父の寝ている部屋へと抜けた。今日も寒い朝だった。幸助は、まずトイレに行った。まだ、父の賢助すら起きていなかったので、自分の足音が大きく聞こえた。

 そして、トイレから出ると、玄関のドアを開けて、外を見た。昨日の夜雪が降っていたが、朝に大きく積っていることはなかった。外は、まだ薄暗かった。日がまだ出ていないのだろう。幸助は、一面の雪を期待してはいたが、叶わなかったことを受け止めるとつまらなさそうに鼻からフンと息を出し、玄関の戸を閉めた。すると、後ろの方で白色の引き戸が開いて、父親が恐る恐る覗き込んできた。そして、玄関にいるのが幸助だと分かると、ほっと安心した声を出した。

「なんだ、お前かぁ…」

「驚かせてごめん」とバツが悪そうに幸助は言った。それから、父との間に数瞬の間が置かれると言った。

「雪、積もらなかったね」

「そっちの方がいいだろ。雪がない方が事故が減る。それにアグネスさんが、もっと食べるって知ったから、もう少し飯を買ってこないとなぁ…。後、今年も前田家とお前のじいちゃんばあちゃんがこっちにくるって言ってたぞ」

「正月に?」

「そう。初詣に行くけど…、アグネスさんは大丈夫だろうか?」

「どうせ、圭一が面倒見るって。…そうそう!あの二人一緒に寝てたよ?あれ本当に付き合ってないの?」

「えっ?どういうことだ?」

「ちょっとこっちに来て見てみてよ」

 幸助がそう言うと、炬燵のある部屋を通り、隣のまだタキオンたちが寝ている部屋の襖を少しだけそっと開けた。それを二人は覗き込んだ。

「ほら、見て。二人とも抱き合うようにして寝てるよ」と幸助が最初に言った。

「本当だ。…本当に付き合ってないのかな?」

「どうだろう?でも、圭一が教え子に手を出すとは思えないんだよね」

「だろうなぁ…。うーん…、一緒に寝るほど仲がいいってことなのか?」

「でも、圭一がタキオンさんの布団に勝手に入った可能性もあるよ」

「…それはまずいな。最悪刑事事件になりかねんぞ」

「まずいな。…消すか?」

 ニヤリと笑って幸助が言った。それに父が答えた。

「何を?」

「圭一をだよ。今のうちに殺しておけば問題はない」

「そうだな」

 父もそれに乗って、ニヤリと笑った。それから、二人は悪だくみをするボスのように「クックック」と笑うと、次に揃って笑い吹き出した。

「まぁ、なんとかなるだろう。あの二人がくっつくんだったら、うちの甲斐性なしにも引き取り手が見つかって言うもんだ」

「そうだそうだ」

 二人はニコニコしながら、そう言った。

 そして、この三十分後に何も知らないタキオンが、見慣れない朝の風景に少し戸惑いながら起きてきた。

 

 タキオンも朝起きると、田上の顔が目の前にあって少しぎょっとしたが、すぐに昨日の夜に一緒に寝たことを思い出すと可笑しそうにクククと笑った。そして、大きく息を吸うと田上の顔に息を吹きかけた。しかし、田上はそんなことをされても目覚める気配がなかったため、タキオンはつまらなさそうに鼻を鳴らし、田上を寝かせておくことに決めた。

 そして、襖の外に出て行くと、予想外の明かりに目をしばたたかせ、見慣れない人々に驚いた。それから、自分が田上家にお邪魔していることに気が付いた。

「おはようございます」

 タキオンはそう言った、すると、炬燵の対辺と対辺に座っていた人々は、「おはよう」とそれぞれに言った。

「アグネスさん、いい眠りにつけた?」

 賢助がそう聞いた。

「ええ、おかげさまでぐっすり眠ることができました」とタキオンが答えると、驚いたように二人が見つめてきた、しかし、タキオンはとりあえずトイレに行って、顔を洗いたかったのでその視線は無視して、玄関に続く引き戸を開けた。

 それから帰ってくると、開口一番に父の賢助が聞いてきた。

「アグネスさん、その…息子と一緒に寝てたのを目撃してしまったんですけど、もしかして、息子が無礼を働きましたかね?」

 タキオンは一瞬きょとんとしたが、賢助がこんなにも丁寧に伺いを立てている理由に察しがつくとクスクスと笑って言った。

「いえ、私が一緒に寝てくれと頼んだんです」

「何で!?」と賢助が素っ頓狂な声を上げたから、タキオンはこれまたクスクスと笑った。

「いえいえ、本当に一緒に寝てほしかっただけなんですよ。ウマ娘と言うのは、嗅覚が動物くらいに優れているから、こう…知らない人の家にいるとですね。あんまり落ち着かなくて…」

「それでうちの息子をぉ…」

「へー」と幸助も頷いていた。そして、「いいなぁ」と呟いたから、賢助が驚いて幸助の方を見た。

「お前、まさかアグネスさんと!?」

 幸助はそう言われて、慌てて答えた。

「いや、まさかそんなことあるわけないでしょ!俺は……彼女ができたんだよ」

「えっ、彼女?どこで拾ったんだ」

「拾ったものじゃないよ」と幸助は父親を睨んだ。タキオンは、その間にするりと幸助の横を通りその隣に座った。

「今年の夏終わりに付き合うことになったんだ。もう少し軌道に乗るまで、黙っておくつもりではあったんだけどね。ここでばれてしまったのならしょうがない」

 そう言って、幸助はスマホをいじると父親の方にそれをかざした。その画面に映し出されていたのは、なっちゃんの写真だった。

「おお!中々に美人さんじゃないか!いい人を見つけたな!」

 幸助は少し照れたのをごまかすように鼻を鳴らした。

「私にも見せておくれよ」

 タキオンもそれに興味を持って、聞いてみた。「ほら」と少し得意げになって幸助はタキオンの方にもスマホの画面を見せた。

「おお!確かに、いい笑顔じゃないか。綺麗に取れてる。これを写したのは君なのかい?」

「ああ、上手く取れてたのは他にもあるんだ。…ほら、これ」

 そう言うと、一枚二枚と彼女の写真を見せて、最後には彼女の自慢をタキオンに聞かせた。これにはタキオンも少し参ってしまって、困ったように父親の方をチラチラ見ながら、幸助の話を聞いていた。父親は、それを熱心に聞いていたので、タキオンの視線には気が付いていないようだった。

 最後に、「俺の彼女もここに連れてきたかったなぁ」という嘆きの言葉で、幸助は話を終わらせた。賢助が苦笑しながら言った。

「…まぁ、お前の彼女までこっちにきたらそれこそ大所帯で、お前たち兄弟は皆狭い布団で一緒になって寝るしかなかっただろうな」

 幸助は、「それがしたかった」と言いたかったが、それを言ってしまうとさすがに気持ち悪いと思ったので何も言わなかった。

 

 それから、また暫くすると、今度は寝ぼけた顔の田上は寝室の襖をあけて入ってきた。

「おはよう」

 田上が、そう言うと、皆揃って「おはよう」と返した。そして、ちょうどテレビで田上の好きな歌手の特集が組まれていたから、父がこう言った。

「おい、圭一。これ、お前の好きなバンドだろ?『大きな蛇』。違ったっけ?」

「いや、それだよ。俺の好きなバンド。また、アルバムでも出たの?」

「いや、ライブがあったらしい」

「ああ、ドームツアーね。…俺は、そんなにライブには興味がないからなぁ」

「そうなんだ…」

 賢助は、そう言ってテレビを見たが、驚くべきことがあってまた息子の方を見た。

「おい、ライブで新曲を発表したらしいぞ」

「…俺も今見てるよ。うるさいから黙ってて」

 そう言って、田上は真剣にテレビを見つめた。テレビで言っていたのは、今から新曲の一番だけを特別に流してくれるそうだ。これは、『消えたらリフレッシュ』というアルバムの中に収録されている『ハロー鬱病』という曲だということだ。田上は、少しニヤリとした。『ハロー鬱病』なんて題名から予想するに、過激な歌詞が出てきそうだからこれは地上波で流してもいい曲なのだろうか?と思ったからだ。

 実際に聞いてみると、一番だけでも十分に風刺が効いていて、これを流した番組スタッフは相当勇気があるか、バカで無謀なのかのどちらかなのだろうと思った。

 その歌詞の内容はこうだった。

 

 

  ハロー鬱病 君と散歩して歩こう

  ハロー鬱病 君と空にかかる虹を渡ろう

 

  最近いろんなところで暗いニュースを見るね

  いいことなんてある気もしなくて

  小さい小さい僕がこんなにも無表情なんだよ

  

  僕のもとには来ないと思っていた

  消えたいくらいのどでかい気持ち

  君のもとには来ることはないだろう

  僕が全部君の防波堤になってやるから

 

  ハロー鬱病 人を殺して回ろう

  ハロー鬱病 君を無残に殺そう

  ハロー鬱病 消えたいくらいの孤独

  ハロー鬱病 最後に残ったのは誰?

  ハロー鬱病 自分を殺して

  ハロー鬱病 世界は平和

 

 

 こうして、この曲はフェードアウトしていった。番組のアナウンサーも何を言ったらいいか分からない様子だった。だから、苦笑しながらとりあえず「こんな曲今までに聞いた事がありませんね」と言った。このアナウンサーのコメントは、とりあえずは間違っていなかったと言えるだろう。なぜなら、誰も聞いた事がないからだ。…まぁ、ただ田上の知る限りでは似たような曲はあった。だが、こんなにも苦悩に満ちた曲は見たことがないだろう。この『大きな蛇』というバンドが昔から出している曲の中には、たくさんあるかもしれないが、そこらへんのバンドだったらこんな曲は作れないだろう。

 田上は感心しながら、テレビの画面をしばらく見つめていたが、もう何もないと分かると、洗面台顔を洗いに行った。

 帰ってくると、タキオンの隣が幸助で埋まっていたので、田上は仕方なく別の場所に座った。

 幸助とタキオンはすっかり打ち解けたようだった。何のことだかわからないが、誰か他人の話で盛り上がっていた。田上は、恐らく自分用に置かれたであろう朝食のみそ汁と納豆を前にすると、少しずつ箸を進めた。

 

 田上が、ぽつぽつとご飯を食べ進めて、ようやく残りも少なくなってきたころタキオンが話しかけてきた。

「なぁなぁ、トレーナー君?」

「…なんだ?」

「君、私の体が鈍らないようにトレーニング表を用意するとか何か言っていなかったかい?」

「…ああ、もう今渡した方がいいか?」

「そうしてくれ」

 タキオンがそう言うと、田上は箸を置いて、隣の部屋の自分のリュックの所まで歩いて行った。そして、帰ってくるとバッグから取り出した一枚の紙をタキオンに渡した。

 その紙は、この町の地図で、少しだけ線が引かれていた。

「これが走るルートだ」

 田上は、地図の道に沿って引かれた線を指差しながら言った。

「最低、四キロは走ってもらう。それから、プラスするかしないかはお前の自由だ」

「ふむ…、了解だが……」

「…何か問題が?」

「いや、あんまりこの地図じゃ分かりづらいな、と思って。それに線は四本あるが、これはどういうことなんだい?」

「ああ、これはタキオンが飽きないように同じ四キロの道を別々に取ってみたけど…、いらない?」

「う~ん…」とタキオンは少し唸ったが、その後に言った。

「…この道だけに絞って、もう少し長く距離を取らないかい?ちょっと四本あっても多いような気がするし、道を覚えながら行くのではペースも狂ってしまう。…やはり、一本のみに絞った方がいいと思うのだけれど…」

 タキオンがそう言った後、横で見ていた幸助が口を挟んできた。

「すげぇ、本当に圭一がトレーナーしてる」

 弟に珍しく褒められて田上はどういう顔をしていいか分からず、混乱した後にニヤリと不敵に笑った。

「なんだよ、その顔」

 幸助が、バカにしたように鼻を鳴らした。すると、田上が何か言い返そうとしたが、その前にタキオンが田上の注意を引くように頬を叩いて言った。

「トレーナー君、この道とこの道、どちらが簡単だい?」

「…ええっとね。…多分、大通りに面しているから、こっちの方が簡単かな?」

 田上が、そう自身がなさそうに言ったから、タキオンは不思議そうに聞いた。

「君、ここの出身じゃないのかい?」

「…?いや、違うよ。ここには、俺が中学の時に引っ越してきたんだ。母さんの病気の都合でね。だから、俺はここに……中学最後と高校の時しか住んでいないな。それでも、この町は好きだから、色々と歩いて回ったことはあるよ。ただ、タキオンに走らせる方面はね、あんまり歩いてないから詳しくないんだ」

「じゃあ、君はよくわからない道を私に走らせようとしたのかい?」

「いんや、ちゃんと調べたよ。特に、危ない道は避けるようにして、景色のよさそうな所を探したよ」

「ふーん」とタキオンは頷いた。

「じゃあ、この大通りに面している道を私は走ろうかな。ウマ娘用のレーンもあるわけだろ?」

「…どうかな?田舎だから分からないけど…、とりあえずはそんなに速く走らなくてもいい。人が前から来たら立ち止まるんだ。絶対に無理に通ろうとして、ぶつかって怪我をさせるような真似だけはするなよ」

「言われなくても。……で、距離をもう少し延ばしてほしいんだ」

「ああ、そうだな。四キロじゃ不満か。ならもう一キロ足すか?」

「そうしよう」

「じゃあ、ここに線を引いて…、縮尺はこのくらいだから…、ここら辺までかな?…ああ、ここは知ってるな。いつも大安売りの張り紙を貼った魚屋だ」

「…私は知らないな」

「そうだろう」と田上はフフフと笑った。

「タキオンが知ってたら驚きだわ。…ここはね、中学の時に通っていた道だから…。と言うことは、多分道にはウマ娘用の場所はなかったな。道が広くなって、俺の知らない間に追加されていたら別だけど。…まぁ、そんな速く走ってくれる必要はないんだ。スピードを出さないんだったら、ウマ娘のレーンにいたって邪魔だろ?」

「ふむ」とタキオンは頷いた。それから、うんと一つ唸ってから田上に言った。

「一回歩いて確かめないかい?」

「歩いて?そんなに不安なのか?この道は結構単純だぞ」

 そこでタキオンが、言いにくそうに「う~ん」と唸ったから、幸助が横から口を挟んだ。

「女の子が散歩に誘ってるんだから男は黙ってその手を取れよ」

「うるさい!」

 田上は、噛みつくように幸助に怒った。そうすると、「ごめんなさーい」とふざけて謝って、ニコニコしながら見てきたから、余計に腹が立った。しかし、一瞥をくれただけで幸助にはもう何も言わなかった。

 その後で困ったように頭を掻いてタキオンに言った。

「うーん、どうしたもんかな。俺はもう少なくとも外なんて歩く気なんてなかったからな。…それに外は寒いし…」

「また私が手を繋いでいてあげるよ」

 タキオンがそう言うと、田上は嗚呼と頭を抱えた。幸助がその言葉に反応したからだ。

「また!?もしかして、何回か手を繋いだことがあるの?」

「何、寒かったら手を繋ぐことくらい普通だろう?」

 タキオンがそう切り返したが、興奮した幸助の前にはその言葉は無意味だったようだ。

「普通じゃないよ!いくら友達だと言っても異性だったら手なんて繋がないよ。男同士でさえ繋がないんだ。ましてやこの!兄の!真面目ド畜生の圭一が、誰かと手を繋ぐと思うか?」

「もうやめてくれ…」と田上は疲れ切った様な声を出した。

「もう分かったから。タキオンと道の確認をするからそれ以上のことは言わないでくれ」

 そう言うと、幸助は飛び切りのニヤニヤ顔を見せたが、それ以上はもう何も言うことはなかった。田上は、聞き分けのいい弟に初めて感謝をしたかもしれない。

「じゃあ…、なんだ?今から行くのか?」

「ああ、そうしよう。着替えてくるから待っててくれ」

 タキオンはそう言うと、襖をあけて隣の部屋に入っていった。しかし、襖を閉めるような気遣いは見せなかったから、田上は、再び疲れ切った顔をするとため息をついて、そっと襖を閉めた。

 

 タキオンが着替えて、田上も着替えて、外に出る段になると、「俺もついて行こうかなぁ」と幸助が言ったが、その声は無視してタキオンたちは外に出て行った。身を切るような冷たさだった。日は昇っていたが、冬の冷たさをどうこうできるはずもなく、ほんのかすかな温かみを田上たちに与えただけで、後は冷たいベールの上の方に輝く宝石のようにただ飾られているだけだった。

 タキオンが、「手を繋ごうか?」と言って手を差し出してきたが、田上はそれを断った。そうすると、タキオンはニヤリと笑って、「君さっきの弟君の話に惑わされたのかい?」とからかうように聞いてきた。腹が立ったので頬をつねろうとして、頬に触れたら予想外の温かさに思わず本来の目的を忘れてしまい、田上は、じっとタキオンを見つめた。

「なんだい?」とタキオンが聞いた。しかし、暫くの間は、何も喋ることができずに、ようやく冷たい風が二人の間を通ったところで言った。

「ウマ娘って、やっぱり体温高いんだよな」

「そりゃそうさ。あんだけ速く動くんだ。相当な代謝が必要だ。……まぁ、その代わり、夏は暑くて暑くて堪らないけどね。さぁ、行こう。私と手は繋がないのかい?」

「いや」と田上は断ろうとしたが、タキオンがその答えを言わせまいと先に言葉を発した。

「いや、ダメだ。拒否することは私が禁じよう。…君、昨日の夜言ったろ。俺が一時の休息所だって。じゃあ、休息所は休息所らしく私をわがまま放題にさせたまえ」

「休息所だって一人で休みたい時はあるよ」

 田上は、そう一言文句を言ったが、半ば無理矢理に、半ば自分からタキオンに手を取られ、道を歩き出した。

 

「君の手あんまり大したことないよね。私の手の方がずっと暖かくて、君の手は凄く冷たい」

「文句言うんなら、手を繋ぐなよ」

 道の半ばまで歩いたところでタキオンとこんな会話をした。

「いや、君と手を繋ぐこと自体に意義があるんだ」

「父親の事を思い出すってこと?」

「うーん…、どうだろうねぇ。別に父親の事を思い出したいから、君と手を繋ぐ訳ではないんだけどね。うーん…、でも君と手を繋げば父親のことも思い出せるような気もするし…」

「ふーん…。タキオンのお父さんってどんな人だったんだ?トレーナーだってことは知ってるけど」

「それを知っているのならば話は早いさ。別にそれ以上でもそれ以下でもない普通の父親だよ。普通に娘を愛でて、普通に娘を育てて、普通に娘の扱いに困って、…そういう父親だよ」

「へー」と頷いている所で、道路の反対側からまだそれ程年のいっていない小さいお婆ちゃんが、横断歩道もないのに渡ってきているのが見えた。車が通っていないタイミングを見計らって来たのだろうが、お婆ちゃんから見て反対車線の方は、あまり遠くないところから車が来ていたので見ていてハラハラした。

 そして、そのお婆ちゃんが渡り切るところに田上たちは歩いて行って、そこでそのお婆ちゃんと目が合った。タキオンと田上を一人一人見ていって、にっこり笑うと「こんにちは」と丁寧に言った。田上たちもそれに「こんにちは」と返すと、お婆ちゃんの横を通り過ぎようとしたが、三歩歩くとお婆ちゃんが「あーー!」と叫んでこちらに歩いてきた。

「あなたたち、ひょっとしてタキオンちゃんと田上さん!?」

 そう言われると田上とタキオンは顔を見合わせた。果たして「そうです」と頷いてもいいものだろうかと思ったからだ。しかし、このおばちゃんにはむしろ正体を明かして口止めをしておいた方が変に噂が広まらないかもしれない。田上はそう考えると、「ええ、そうですけど…」と答えた。

「ほらー、やっぱりーー!」

 冬だというのに永遠の元気の良さがあった。

「あなたたちどこかで見たことがあるわー、と思って少し考えたんだけど、テレビで見たことがあったのよ。まさか本物に会えるとは思わなかったわー。…ところで、今どうしてここにいるのかしら?帰省じゃないわよね?二人とも同じではないだろうし。…はっ、もしかして、新婚旅行?んなわけないわよねぇ、はっはっはっは」

 自分の言った冗談にお婆ちゃんは、一人でバカ笑いしていた。

「あら、ごめんなさいひとりで笑っちゃって、私ったら最近一人でゲラゲラ笑う事が多いもんだからさ。もうガサガサの古びた松みたいな旦那に、お前は動物園のサルよりうるさいぞ!って言われてもう、あっはっはっはっは」

「それでね。私はサルと言うよりオットセイだわって答えたら、なるほどって旦那が感心しちゃったのよ。私冗談のつもりで言ったのに本気にされて悲しいわー。本当にもう別れちゃおうかしら。あら!あなた、うちの旦那より『よかにせ』ねー。知ってる?鹿児島弁でイケメンのことを『よかにせ』って言うらしいわよ。私全然使う機会がなくて、今か今かと待っていたんだけどやっと使えたわー。多分、もう忘れて使わないわね」

 そう言うと、またお婆ちゃんは、あっはっはと笑った。この人の話が無限に続くかに思われた。しかし、田上が、隙を見計らって、すばやく会話の間に割り込んだ。

「あの、僕たちもう行かないといけないので…」

「えー」とお婆ちゃんが言った。それから、また話し出した。

「そうだタキオンちゃん。のど飴あげようか?」

「いらないです」

 そうタキオンは冷静に突っぱねた。すると、お婆ちゃんは急に肩をがっくりと落として、もう十歳も更けたような気がした。いや、これが元々の年齢なのかもしれない。急に元気のなくなったお婆ちゃんは、両手に持っていたレジ袋が限界まで重たくなったかのように低く持った。そして言った。

「あんまり話すのも体に悪いものねぇ。…私ったら、ついついはしゃいじゃうんだもの。若いカップルを見ると。ごめんなさいね。もう行きますよ」

 そう言うと、小さいお婆ちゃんはもっと小さくなり、寒さに体を震わせながら、寂しいコンクリートの道を歩いた。田上は、なんだか申し訳ない気持ちになった。タキオンは、田上の手をお婆ちゃんと反対の方に引き、「行こう」と呼びかけたが、田上にはその言葉に応えることができなかった。だが、タキオンの事も優先したくて、もがくようにタキオンの方を見た。タキオンは、田上の顔を見、瞳を見ると、その思いを汲み取り言った。

「いいよ、私もついて行こう。ちょうどお婆さんの買い物袋を持ちたいと思っていたところだ」

 そう言うと、とぼとぼ歩いているお婆ちゃんの所まで二人は歩いて行った。

 

 その背中に声をかけるときに田上はどうやって声をかけたらいいか戸惑ったが、その戸惑いを吹き消すかのようにタキオンがお婆ちゃんの肩を叩いて声をかけた。

「お婆ちゃん、お荷物重いようだけどお持ちしましょうか?」

 タキオンがそう言ったが、お婆ちゃんは拗ねているようだった。

「あんたなんかに大事な買い物袋持たせられますか!いいですよ。最近の子は知らない人から飴を貰ってはいけないという、さぞ高尚な教育をなされているようですからね」

 タキオンは、困ったように笑って田上の方を見たから、田上も話しかけた。

「お婆ちゃん。……さっきの話ですけど、僕たちの事カップルって言ってませんでした?」

 田上はできるだけお婆ちゃんが喜びそうな話題をもって話しかけた。

「でも、僕たちカップルなんかじゃありませんよ」

 そう言うと、お婆ちゃんは驚いた顔で田上を見つめた。

「あんれまぁ!てっきり手を繋いでいたもんだから、デキてるものかと思っていたけど。…!違ったのねぇ…」

「そうです。たまたま手を繋いでいたところをあなたに見られていただけだったんです」

 隣でタキオンがふっと笑うのが聞こえたが、そちらの方に視線は向けないでお婆ちゃんの話を聞いた。

「へー……、本当にたまたまなのかしら?」

 お婆ちゃんがニヤリと笑って、顔に生気が戻ってきた。

「本当の本当に?たまたま繋いでいるときがあるのかしらぁ?…あなたたちの事情も分かるわよ。大丈夫。このことは私の信用の置ける人にしか話さないから。…ああ、袋持ってくれるの?」

 その時タキオンが、お婆ちゃんの袋を「持ちましょうか?」と言って触ったのでお婆ちゃんはこう言った。そして、視線は田上に常に向け続けながら話を続けた。

「本当の事を話してごらん。大丈夫だから。もうおタエさんとキヌさんにしか話さないから。ほら、何で手を繋いでいたの?」

「……ちょっとそれはお話はできませんね」

 そう困ったように田上が言うと、お婆ちゃんは嬉しそうに「あんらぁ!!」と黄色い声を上げた。

「お話しできないことなの?やっぱり一般人に話してしまうとまずいのね。そうよね?そうよね?」

 そう聞かれても田上は黙って微笑むだけだったので、お婆ちゃんは尚のこと興奮した。

「あらあらあらあら。もしかしたら、新婚旅行ってのもあながち間違いじゃないかもしれないわね」

「いや、それは違います」

 田上は、そこだけは訂正した。隣にはタキオンがいたから、明確な言葉が出てきた場合は否定しなければいけなかった。しかし、このお婆ちゃんが中々の曲者で、田上がそういうとまた再びがっかりして、顔から生気が消えた。田上と視線を合わせなくなり、大きく深いため息をはいた。

「…まあ、そんなところだわね。…ぁぁ、もう家に着くわ。もうそこの曲がり角を曲がったらすぐ。買い物袋を返して頂戴」

 お婆ちゃんがタキオンから無理に奪い取ろうとして、タキオンもどうしたらいいのか分からなくなったのだろう。助けを求めるように田上の顔を見た。田上は、「もういいよ」と言った。それから、自分でも知らないうちにこう言った。

「少しお婆ちゃんと話すからさ。タキオンはさっきの場所に戻って待っておいてくれ」

 タキオンは、不思議そうに田上の顔を見たが、何も言わずに頷くと今来た道を戻っていった。

 

 タキオンが、戻っていくのを確認すると、田上は言った。

「お婆ちゃん、少しタキオンの見えない場所で話をしたいんです。だから、お婆ちゃんの家まで行って、玄関先で話しませんか?その間に僕が持っておいてあげますよ、その荷物」

 お婆ちゃんも不思議そうな顔をしながら田上に荷物を渡した。

「話したい事って?」としわがれた声で聞いてきたが、「まだです」と答えるとお婆ちゃんと道を共にした。

 そして、道を歩いていくにつれ、――自分は何でこの話をしようと思ったのだろうという後悔が強くなっていった。

 不意にお婆ちゃんが、「ここが私の家」と言って敷地に入っていくと、田上は両手にレジ袋を持ったまま躊躇ってしまった。

「どうしたの?玄関先で話をしようと言ったのはあなたじゃないの?」

 お婆ちゃんは何気なくそう言ったのだろうが、田上にはその言葉が自分を試す惑わしの言葉のように聞こえた。

「お婆ちゃん」

 どうすることもできなくて、田上はそう呟いた。お婆ちゃんの声は、なおも田上を試すように響いてくる。

「入ってきなさい。お茶は準備した方がいい?」

 田上は口をパクパクさせて、最後にやっと「いらないです」と言葉を絞り出した。

「早く入って来なさいよ。私の買い物を持ち逃げする気?」

 お婆ちゃんもあまり穏やかではない雰囲気になってきた。そして、「入ってこないと警察呼ぶわよ」と言った時、田上は意を決して玄関の方まで歩いて行った。

「すみません」

 田上がそう言うと、イラついたようにお婆ちゃんが言った。

「あんた、そんなに躊躇うような最初から話をするなんて言わなければ良かったのに」

「すみません。僕もそう思ったんですけど、どうにも引っ込みがつかなかったんです」

 田上がそう謝ると、お婆ちゃんは不機嫌そうに田上の顔を見たが、言った。

「…で、話は何?私をここまで待たせたんだから、絶対に最後まで聞かせてもらうわよ」

 田上は、無言で自分の心を確かめるように頷いた。そして、後ろを振り返って、誰も家の前にいないか確かめると、ほんの少し声を抑えてこう言った。

「僕は、…僕は、実はタキオンが好きなんです。…これで機嫌が直ってもらえましたか?」

「あら!あなたタキオンちゃんが好きなの?」

 その言葉を聞くと体が燃えるように熱くなって、どうしようもない痒みに襲われた。胸の奥が痒かった。けれども、ただ掻いただけじゃ治らない痒みがそこにあった。

 田上は、もう殺される寸前の人のようにこう言った。

「誰にも言わないでください。お願いです。この気持ちは秘密なんです。なのにあなたに言ってしまった。無遠慮で作法のない田舎のお婆ちゃんに」

 お婆ちゃんはそう言われて、不愉快そうに眉をひそめたが何も言わずに田上の話すことを聞いた。

「どうしても、どうしてもこれは言わないでください。絶対です。これがばれたら僕は死んでしまいます。もう嫌なんです。こんな気持ち抱えるのは。だから、あなたに話したかったのかもしれない。無遠慮で作法のない田舎のお婆ちゃんなら笑い飛ばしてくれると思った。なのに、あなたは違う。どうして笑ってくれないんですか?」

「……話される寸前まで不機嫌だったのに笑えるわけないじゃない。もういいわ。誰にも言わないから早く出て行って」

 田上は、懇願するようにお婆ちゃんを見つめたが、ダメだった。お婆ちゃんは首を振ると日本家屋の廊下の奥に消えて、見えなくなった。「玄関の戸は閉めてね」と言う言葉を残して。

 田上は、暫く今度は恨みを持つような目つきでお婆ちゃんの廊下の奥を見たが、やがて後悔のため息をつくと玄関から出て行った。



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五、冬とシンガーソングライター(後編)

 タキオンを見つけたのは、お婆ちゃんの家に行く曲がり角の所だった。

「なんでここにいるんだ」

 田上はそう話しかけた。

「君が来るのが遅いからさ。それに、あの時頷いたはいいが、君がどのくらい長い話をするのかもわからなかったからね。私は、待つのは嫌いだ。行けばそこにある方が好きだ。分かるかい?」

 タキオンがそう聞いてきたから、田上はとりあえず頷いた。もう考える気力がなかった。――あのお婆ちゃんのせいでめちゃくちゃだ。田上はそう思った。せっかく忘れかけていた胸の疼きを呼び起されたのだ。田上は、深いため息をはいた。すると、タキオンが心配そうに言った。

「あのお婆ちゃんはどうだったんだい?あれほど、変に不愉快なお婆ちゃんは見たことがないよ。老人ってのは、皆愉快なもんだとばかり思っていたんだけどねぇ。…少なくとも私の祖父母はそうだった。…いや、あれはもしかしたら、自分の孫子だけに見せる特有の顔なのかな?…いや、そんなことはないだろう。大阪のおばちゃんだってあんな顔をして、飴を配るイメージがある。…ということは、ただ単にあの人の頭のネジが年のせいで少し緩んでいただけか。…元気出せよ、トレーナー君。しょぼしょぼしてたら君らしくないぞ。ぼけ老人に負けて落ち込んで帰ってくるなんざ、成人済みの大人がするもんじゃない。…ほら、手を繋ごう。精神が不安定というのは、実験にも影響するからね」

 田上は、タキオンに励まされて元気が出そうだったけど、どうにも上手くいかず、戸惑うようにタキオンの顔を見た。

 タキオンはこう言った。

「あんな老人、気にすることはないさ。そこらの人に聞けば、どこにでも同じようなのいる事が知れるよ。もしかしたら、その人たちにとっては、自分の両親だったり、祖父母だったりするんだろう。そうじゃないだけマシだろ?…さあ、行こう」

 こうして田上は、タキオンの差し出した手を取って歩き出した。大安売りと書かれた張り紙のある魚屋まではそこから十五分かかって歩いた。そして、そこから折り返すと、いくつかの横断歩道を渡り、何人かの人とすれ違って、タキオンたちは家に辿り着いた。

 

 家に帰るとえも言われぬ、暖かさが二人を包んだ。別に空気の温度を調節するようなものなどこの家にはなかったが、どんなに優れた温める機械よりもこの家は温まっているように感じた。

 タキオンたちは、引き戸を開けて、ぞろぞろと尚のこと暖かい部屋の中に入っていった。その部屋の様子は、大体一時間くらい前に出て行ったきり何も変わっていなかった。

 幸助たちは、兄たちの鼻が寒さで真っ赤になっているのを見ると、「早く炬燵に入れ」と言った。しかし、田上たちはまず手を洗う方が先だったので、洗面台に行って、それから炬燵の中へといそいそと入った。

 その間になぜかタキオンは田上の傍から離れようとしなかった。元々、この家では不安がって、一人でいるのを拒んでいたタキオンだったが、今日は特にそうだった。それだから、田上が、炬燵の長方形の長い方の一辺に座っている弟の隣に座ったとき、三人入るには狭い一辺にタキオンも無理矢理入り込んで来ようとしたから言った。

「お前は、なんでこんなにも俺の傍から離れないんだ」

 田上がそう聞くとタキオンがこう答えた。

「なんとなくさ。たまにはそういう日もあるだろう?」

 タキオンは、愉快そうにフフフと笑った。タキオンの心境に何の変化があったのだろうか?田上には何も分からなかったが、とりあえず、狭い隙間に入ってきたタキオンを押しのけて、広いスペースを取ろうとした。しかし、中々にタキオンも抵抗するから、横で見ていた幸助が、「ほら、詰めな」と言って、自分の場所を明け渡した。そして、自分は短い方の一辺に座り直した。

 こうして一日は昨日と変わらないように過ぎていったが、今日は寝るときは二人とも初めから一緒の布団で寝ていた。というのもタキオンがやっぱり離れたがらなかったからだ。

「タキオン…」

 まだ、幸助が布団を敷いていて照明の消されていない明かりの下、間近にあるタキオンの顔を見つめながら、田上は困ったように呟いた。すると、タキオンが「なんだい?」と返してきたから、田上は言葉を続けた。

「あんまり近すぎると困るんだよ」

 近くで幸助が「そうだそうだ」と茶化したから、田上は「うるさい!」と一喝した。

「…なぁ?タキオン、昨日も言ったけど俺はお前の父さんじゃないんだ。いくら人恋しいからと言って、付き合ってもいないような異性に抱きつくのは間違っているぞ」

 田上は、自分でこう言っていて空しくなったが、それはタキオンのキラキラしたお目目に圧倒された。

「何が間違いかだなんて君が決める事じゃない。私のものだよ、ルールは。特に君のルールは私のルールに属するんだ。私とトレーナーの契約を結ぶとき、誓ったろ?」

「俺はそんなことは言っていない」

 田上がそう言った後、幸助が「電気を消すよー」と言って、カチカチッと二回鳴らすと部屋を真っ暗にした。しかし、そこでタキオンが言った。

「もし、弟君が迷惑じゃなければ、もう少しトレーナー君と話していたいのだけれどいいかい?」

「ああ」と暗闇の中で返事をする声が聞こえた。すると、タキオンがもう一つ言った。

「なら、常夜灯を灯していたい、というのは?」

 幸助は暫く黙った後、「いいよ」と言って、また電気の紐を引っ張りカチカチッと二回鳴らした。オレンジ色の明かりがぼうっと灯った。

「ありがとう」

 タキオンがそう言った。その後に、田上が言った。

「タキオンも大分この家に慣れてきたな」

「なんでだい?」

「だって、最初の時は、幸助と口なんて聞く気もない、って顔をしていたのに、今では大分踏み込んだお願いもしてるから、…ね?」

「ふぅん」とタキオンは田上の顔を見つめながら、声を出した。そして言った。

「あんまり自分の変化というものには気付きがたいね。弟君とは、朝に仲良くなったんだよ」

「朝?」

「そう、君は知っているのかな?……おい、幸助君。君の、あの朝のことは言ってもいいのかい?」

 布団を被っているくぐもった声で、「いいよ」というのが聞こえた。

「いいそうだ。じゃあ言うけどね。君の弟君には、彼女ができたらしいんだ。普通に可愛い女の子だったよ」

「えっ、あいつ彼女できたの?マジで!?」

 隣の幸助の布団からフンと鼻を鳴らす音が聞こえてきた。

「マジらしい」

 田上はそれを返事と受け取ると、そう言った。それにタキオンは答えた。

「そうマジなんだよ。君、異性と交際の経験は?」

「……ないよ」

「ハッハッハ。じゃあ、君は無様に弟に追い抜かれたというわけだ」

「まだ追い抜かれたわけじゃない。もし幸助が若気の至りで付き合ったというんだったら、俺はまだ何とか切り抜ける余地はある。結婚が全てだ。俺は結婚以外は認めんぞ。兄として、弟の結婚は断固阻止させてもらう」

 田上がそう言うと、とうとう堪え切れなくなったかのように隣の布団で幸助が顔を出して言った。

「せめて、別の話題にしてくれないか?寝つきにくってしょうがないよ」

 幸助に怒られると二人は顔を見合わせた。そして、お互いの顔を見ながら可笑しそうにクスクス笑った。

「君だぞ、怒られたのは」

「いやいや、最初に彼女の話を持ち出したのはタキオンだろ」

「うるさい!」と幸助の方から喝が飛んできた。

 すると、慌ててタキオンが声を低めて言った。

「いやいや、この家に厄介になっているのは私なんだ。ちゃんとこの家の人の言うことは聞かないとね」

 子供のようにタキオンはそう言うと、田上はその様子が堪らなく愛おしく思えた。だから、思わず手が伸びて、タキオンの髪を優しく手で梳いた。

「なんだい?トレーナー君」

 タキオンがそう聞いてきたので、田上はゆっくりと髪を梳かしながら言った。

「あんまりタキオンとのこういう機会ってないなぁ、って思うと、なんだか…」

 田上はここで言葉を終わらせた。

「ふむ。なんだか…人恋しくなっちゃって、とか?」

 そうタキオンは言ったが、田上はゆっくりと首を横に振った。

「あんまり言うと野暮だよ」

 そう言うと、田上はタキオンの髪をなおも撫でて梳かしながら目を閉じた。タキオンは、田上が言ったことについて暫く考え込んでいたが、チラリと目を上げて田上が目を瞑っているのを見ると考えるのをやめた。そして、就寝の挨拶を告げた。

「おやすみ」

 オレンジ色の明かりが三人を照らし、随分と寝付きにくそうではあったが、少なくとも田上とタキオンはすんなりと眠れた。幸助の方は、布団に潜り込んではいたので、寝付けないのは何も明かりのせいだけではなかっただろう。先程、兄が言った言葉を考えていたのだ。――結婚が全てだ。この言葉は、以外に幸助の胸に深く突き刺さった。というのも、幸助自身も彼女と上手く結婚するまで漕ぎ着けられるか心配だからだ。彼女は、俗にいう最近の人だと幸助は思っている。なんでもかんでも自由ばかりを求めたがって、物事の本質を見失っている人だ。それが、幸助には不安だった。彼女は、もしかしたら自由と結婚であれば、自由の方をとるかもしれない。そう考えてしまうのだ。嫌な考えだった。だから、幸助は、布団の中でうずくまっているのだからいけないと思って、顔を外に出した。寒さが頬を打ったが、空気の新鮮さの方が身に染みた。そして、隣の二人がもう寝息を立てていることを確認すると、仕方がなさそうにため息をはき、立ち上がると、部屋の電気を消した。

 真っ暗な部屋にカーテンの隙間から一筋の光が差して、田上の背後の壁に照り輝いていた。それは車が通るたびに明かりを強めたり場所を移動したりしていたが、それも車の通りそうのない全くの真夜中となると、動くことをやめた。そして、なおも照っていき、朝になるまで微動だにしなかった。

 

 田上が起きると、目の前にタキオンがいて自分の腕で抱き抱えていたので、驚いた。昨日は、田上が起きていた時にはもうタキオンはいなかったから、こんな思いはせずに済んだ。しかし、タキオンより早く起きてしまった今、田上はどうしたらいいか分からない胸の高鳴りに苛まれた。

 とりあえず、そっとタキオンをどかしてみようと思ったが、これが案外難しかった。どう引っ張ってもとれないし、田上がタキオンを剥がせば剥がそうとするほどタキオンは引っ付いてきた。

「どうにかしてくれよぉ…」と半ば泣きそうになって、タキオンを見つめた。相変わらず、朝の顔でも可愛かった。今日は、子供の様な可愛さがあった。自分の胸に顔をうずめて必死に離れまいと抵抗している姿は、我が子のようでもあったし、愛しい彼女のようでもあった。――こんな日々が訪れたらどんなに幸せだろうか?田上は、そう思ったが、慌てて首を振ると自分に言い聞かせた。――高望みはしてはいけない。彼女はウマ娘で、俺はトレーナー。タキオンは皆のアイドル。俺一人で独占していいようなものじゃない。

 そう考えると幾らか冷静になった。そして、タキオンを落ち着かせるように頭をぽんぽんと叩いてみた。押してダメなら引いてみろ、と言うことだ。すると、その言葉の示す通り、タキオンからゆっくりと引き下がってみると、タキオンは少し何かを探すように手を動かしはしたものの、田上を掴むことができずにやがて布団の上に落ちて行った。幾らかの罪悪感が田上の心に残ってしまったが、少しの間、布団の上に座ってタキオンの顔を見つめただけで、後は隣の部屋へと歩いて行った。

 

 隣の部屋に行くと、昨日と同じようにテレビがついていて、幸助と賢助が座っていた。ご飯はまだできていないようだった。テレビを見てみると、ちょうど田上の気になりそうな話題、『大きな蛇』というバンドのことを話していた。

『大きな蛇の、消えたらリフレッシュ、というアルバムは、今日リリース!サブスクでの配信もされているので皆さんもぜひ聞いてみたら如何ですか~』ということだった。

 田上は言った。

「あれ?今日からアルバム聞けるんだっけ?」

「…そうだよ。昨日の朝の番組でも言ってたじゃん。何聞いてたの?お前」

 幸助が結構辛辣に言ってきたから田上は苦笑いした。

「よく見てたつもりだったんだけどなぁ。そんなこと言ってたかなぁ?」

「言ってたよね?」と幸助が父の方に向かっても言った。

「言ってた言ってた」と父が頷いたから、「そうかなぁ…?」と怪しみながら首の後ろに手を当て、田上は顔を洗いに洗面台の方に歩いて行った。

 

 顔を洗うついでにトイレにも行って戻ってくると、ちょうどタキオンが襖から顔を出した所だった。なんだか不満そうな顔をしていたが、田上にはその理由が分からなかった。タキオンは、まだ眠たそうな顔でじっと田上の方を睨んでいた。そして、無言で手招きをした。

 田上は、何が起こるのか不思議に思いながら、タキオンの後について行った。タキオンは、田上を手招きすると襖の奥の方に引っ込んでいっていた。

「何かあったのか?」

 田上が、隣の部屋に入って聞くとタキオンが言った。

「眠い。君も一緒に寝るんだよ」

 ああ、なるほど。と田上は納得した。だからと言って、一緒に寝ることにはまだ納得していなかった。だから、こう言った。

「あのなぁ、タキオン。何度も言うが、…いや、何度でも言うが、俺はお前の父親じゃないんだ。お前はもうほとんど成熟した大人で、俺も成熟した大人なんだ。大人同士でこんな事をするなんてバカげていると思わないか?」

「いいや。…さあ、一緒に寝よう」

 タキオンはそう言って寝転がると、田上も入りやすいように掛け布団を大きく広げた。

「タキオン…」

 困ったようにそう呟いて田上は立っていたが、タキオンは「早く」と言って睨んできた。田上は、少しの葛藤の末、妥協案としてタキオンの隣に腰を下ろして胡坐をかいた。

「タキオンはいつになったら大人になれるんだ?」

 田上は、タキオンにそう聞いた。すると、欠伸交じりにタキオンがこう言った。

「大人になんてなりたくないよ。一生君の隣がいい。永遠に私を甘やかしておいてくれ」 

「……永遠なんてないよ」

 田上がそう言うと、タキオンが目を光らせてこう言った。

「いや、どうかな?死後の世界とやらは君は見たことがあるのかい?死後の世界は永遠じゃないと?そんなこと、見もしないで決めつけるなんてどんなに愚かしいことか分かっているのかい?」

「俺はそんなことについて話しているんじゃない。状況の話だ。いつまでたっても同じ状況というものはないだろ?」

「いや、それも分からないね。それは私たちの物差しで測っているからにすぎなくて、別の物差しで測ってみたら、永遠という長い時間がそこにはあるのかもしれない」

 タキオンは、そう理屈をこねた。ただ、田上も負けてはいなかった。

「……でも、そんなこと言ったって空しいのは分かっているだろ?俺たちが見てるのは俺たちの物差しで測った世界でしかないんだ。それ以上でもそれ以下でもない。…分かるだろ?なら、俺たちの物差しでは測れない永遠なんてものは信じないで、前を向かなきゃ。お前はいつまでも子供でいるわけにはいかないんだよ」

「なら、君がいつまでも傍にいてくれよ。私を子供のままでいさせてくれよ」

 話は堂々巡りだったが、田上は辛抱強く話した。

「永遠なんてものはないってさっき言っただろ?俺がいつまでも傍にいるって言ったって、それは気の変わりで簡単に崩れていくかもしれない。タキオンが、俺に飽きて結局は一人で生きていくかもしれない。未来なんて分かりはしないんだ」

 タキオンは寝転がったまま目だけを動かして田上を見た。そして言った。

「なら、どうしたらいいんだい?私に大人になる方法でも教えてくれるというのかい?何をすればいい?どんな行動でそれは実現できる?」

「それを一緒に探すのが俺の役目だ」

 田上は、真剣な目をしてタキオンに言った。タキオンの目は、涙に歪んでいるかのように見えた。しかし、尚も言葉を続けた。

「それなら、君は一緒に居続けてくれるということじゃないか。私は今のところは安全じゃないか。…一緒に寝ておくれよ。私を包み込んでおくれよ。楽しいだろ?そっちの方が」

「いいや。自分の状況から目を逸らし続けているようじゃそれは叶わない。一時の楽しさもやがては空しさに変わる。…生きるために金を稼ぐとか、死なないために薬を飲むとか、そんなものを俺は求めているわけじゃない。ただ、お前が心地よく過ごせたらどんなに幸せだろうか、と願っているんだ。だから、こんな話をしているんだ」

 田上が、そう言ってタキオンの方を見たが、タキオンは顔を伏せて黙りこくっていた。田上は、大きなため息をついた。それから、言った。

「今日のところは仕方がないけど、俺の言ったことの少しだけでも考えてくれたら嬉しいよ」

 そう言って、タキオンの横に潜りこんだが、タキオンは微動だにしなかった。田上は、隣にいるのはいいが何も変化が訪れないので段々と落ち着かなくなってきた。自分のいる意味がないような気がして、起きて隣の部屋に行こうかと思った。

 すると、タキオンは突然何かを感じたかのように田上の袖を握りしめて言った。しかし、顔は伏せたままだったから、声はくぐもって聞こえた。

「君の言うことが分からないでもないけど、……もし一つだけ願いが叶うなら、私は永遠がほしい。若さや不死なんかに興味はないけど、あの時、その時、この時を永遠に留めて置ける水晶玉がほしい…」

「…それこそ空しさを感じるだけだよ。お前は水晶玉の中になんか生きてはいないんだから」

 田上は、再び落ち着いた。

「あんまりタキオンを追い詰めたくはないから、俺もどうしたらいいか分からないけど、答えはきっとあるさ。案外、この布団の暗がりを覗いたら見つかるかもしれない」

「……答えなんて本当にあるのかな?」

 タキオンが呟いた。

「さぁねぇ?そこのところが一番の難題だ。――果たして答えがあるのか?その答えとはなんなのか?自分が探し求めていたものだったのか?……きっと偉い人だったら、言葉に表せられるんだろうけどな。……タキオンの知り合いの偉い人にはいないのか?答えの出せそうな人」

「…伝手を頼ればいるかもしれないが、そもそも私にはそんなには人脈はないよ。ただのしがない科学者さ」

「でも、自分の足を治したじゃないか。凄いことだぞ。歴史に残る事じゃないのか?」

「どうだろうね。私はそのことを公表しようとは思わない。全部自分のためにやっただけだ。他人を助けるためになんかする義理もない」

「じゃあ、まだ実験とか研究とかを続けている理由は何なんだ?」

「…楽しいからさ。それこそ永遠というものを感じれる瞬間があるからかもしれない」

「永遠?」

「そう、時間なんて気にせず考え事に没頭する。自分のしたいことだけを突き詰めて、トレーナー君を光らせて迷惑かけて、そして、ここに来て…。一体私の考えるべきことって何だろう?」

 タキオンがそう言うと、田上がフフフと笑った。

「そう言えば、タキオンがここにきた理由があったな。…俺には話したくないことだっけ?」

 タキオンは黙って頷いた。

「なら、父さんと二人きりになれる時間を作ろうか?」

 田上はそう聞いたが、タキオンはすぐには答えないで暫く黙った後言った。

「君の弟君とも話したいと思った」

「なら、幸助もいるときがいいなぁ。そして、俺がいないときか…。俺一人で出かけて、どこかで暇を潰すしかないな」

「……パチンコかい?」

 タキオンがそう聞くと顔を上げて、田上が布団に入ってから二人は初めて目を合わせた。もう、タキオンは平気なようだった。からかうように田上を見ていた。

 田上は苦笑して言った。

「パチンコなんて触ったこともないよ。…そうだなぁ、ゲームコーナーだったら小さい頃よく行ってたな。百円入れてアニメのキャラのカードを使って敵と戦うんだ。…最後にやったのは何年生の時だったかな。小五?いや小六かな?」

「君は小さい頃そんなことをやっていたのかい?」

「ああ、今思うと、あの金を貯めていたら、欲しかったゲームソフトなんて余裕で買えたな」

「…君はゲームが好きなんだね」

「ああ、タキオンは小さい頃何かしてたのか?」

「…もっぱら研究とか…。採集もしていたな。家に帰れば、まだ確か蝶の標本が飾られていたような気がする」

「へー、採集か。俺も昔はクワガタとかカブトムシとか捕まえていたような気がするけど、小学校高学年の時には触れなくなったな」

「どうしてだい?」

 タキオンがそう聞くと、田上は顔をしかめた。

「ムカデにな、噛まれたんだよ。草の中ガサガサ漁ってたら、たまたまムカデに手が当たっちゃってさ。最初は、強い痛みだけで何が起こったのか分からなかったんだけど、逃げていくムカデを草の外で見つけて、ああ、こいつか、ってなったんだよ。あれはこの世にいていい存在じゃないよ。あいつはいつか人を殺す虫だね」

 それから、田上は、はははと笑った。

「…でも、それでクワガタを触れない理由にはなっていなくないか?君はムカデの罪をクワガタになすりつけようとしているだけじゃないか?」

 タキオンが真面目に疑問を持ってそう田上に聞いてきたので、田上はハハハと笑った。

「実際のところはそうかもしれないな。…まぁ、別にいいだろ。虫なんて触らなくたって」

 田上がそう言うと、タキオンはニヤリと笑って言った。

「ちなみにね。私はまだ虫を触れるよ。ついでに言うと、蛇も触れる。君は蛇を触れるかい?」

「蛇なんてそもそも、触る機会がないだろ。ここの家に引っ越す前の家の近所の川で、泳いでいるのは見たことあるけど、そんな間近では、死にかけのやつくらいしか見たことないな」

「それに触った事は?」

「…ない」

「それでは私の勝ちだ。大差、圧勝、ゴールイン」

 そう言って、タキオンはふふっと笑った。田上もにこやかにそれを見つめて言った。

「もう起きたらどうだ?朝飯は何かな?」

 田上は、体を起こそうとしたが、それはタキオンに止められた。

「ああ、待ってくれ。もう少し話そうよ。幸せなんだよ。永遠とはいかずとも、せめて私が飽きるまで」

 タキオンは、田上の袖を引っ張って無理矢理布団に食い止めた。田上はまたしても困ったように言った。

「お前も分からないやつだなぁ。なんでこんなになったんだ?この家に来る前はこんなんじゃなかっただろ」

「そんなことは決まっているさ。環境が変化したからだよ。子供は環境の変化にすぐには対応できないんだ。だから、保護者がしっかりと世話をする必要がある」

「…俺は、世話なんてしないって、来る前に言ったんだけどなぁ…」

「君はそんなこと気にせずに私の布団を率先して敷いてくれたじゃないか。君は私の保護者なんだよ。私を守りたまえ。しっかりと傍でね」

 そう言うと、タキオンは布団の中に隠されている田上の両手を探し出すと手に取った。それから、しっかりと逃がさないように握りながら、田上の手で鼻歌を歌いながら遊びだした。あんまりにも子供らしくて、田上はどうすればいいか分からなかった。本当に自分が保護者だと錯覚させられんばかりに、タキオンは子供だった。鼻歌を歌って、時には音程を外して、そうかと思えば田上の手を殊更に強く握って、「逃げないでね」と言ったり。どうすればいいか分からなかったが、とりあえずこのままでは自分は暇だということが確定していたので、田上は言った。

「タキオン、スマホを取ってさ、音楽を聴きたいから一旦手を話してくれないか?」

 タキオンは、「やだ」と言ってその願いをはねのけたが、そう言われて困った田上の顔を満面の笑みで見ると言った。

「いいよ。できるだけ早く取ってくるんだよ。私を待たせないでくれたまえ」

 そう言うと、タキオンは手を離した。田上はこのまま逃げてしまおうかとも思ったが、それはあまりにも可愛そうなので、スマホを取るとまた戻ってきた。そして、「ちょっと待ってね」と言うと、音楽を聴く準備をした。今日リリースされた『消えたらリフレッシュ』というアルバムを聴くつもりだった。それに、暫く手間取ってしまったので、無防備だったわき腹をタキオンにくすぐられて大変だった。

 それから、音楽をつけて、田上はタキオンの横に潜り込んだ。だが、音楽はあまり聞けなかったと言えるだろう。タキオンが、今度は延々と話しかけてきて途切れることがなかったし、音も小さかったので田上の耳にも届きづらかったからだ。

 その田上に聞こえない歌詞の内容はこうだった。曲名は『消えたらリフレッシュ』という。

 

 

  存在っていうものを確認しない

  職人がここにいるよ

  欠けたハンマー カンコン 槌の音

  壊れたあのガラクタ人形

 

  職人にも昔にはあったの

  人形で遊ぶ時間が

  それを失くして削って手に入れた

  代々伝わる手の職

  

  そんなことに意味は見つかるの?

  節くれ立った手の平

  今更後悔しても遅いんじゃない?

  険しい目の皺

 

  どうしたらこの先歩けるの?

  落とすハンマー

  家族手に入れ掴んだはずの

  幸せな未来

 

  もう何にも知らないよ

  夜の町に

  繰り出す人の波に

  紛れ笑顔

 

  そう!ここは消えたらリフレッシュ

  夜の街を手に入れ 走り出そう 走り出そう

  僕の節くれ立った手の平掴んでくれる人を

  一夜限りのパーリーナイツ!

  踊れ踊れ 落ち込んだ手の平を

  そっとふわっと包み込む

  優しいあの笑顔 罪悪感すら包んで!

 

  泣けよ泣けよ 怖い怖い

  この身を襲うモンスター 

  僕の心を癒す術は一体全体あるのかい?

  決心したぞ 家に帰る

  ここは僕の居場所じゃなかったのよ!

  そして街は再び静まる

  君の再来をいつまでも待っている

  「HEY!MISTER!」

 

 

  そして、各々の楽器を最後に思う存分掻き鳴らし打ち鳴らすと、この曲は終わっていった。結局、タキオンと田上の二人の幸せな一時は、しばらくした後に幸助によって破られたが、タキオンは満足そうだった。

「また明日もね」

 タキオンがそう言うと、田上はしかめっ面をしたのちに、仕方がなさそうに頷いた。幸せな冬の一時だった。寒いはずなのに寒くない。二人しかいないのに賑やか。そんな矛盾した世界の中で二人は話をしていた。これから、ここを去るまではそうだろう。去ってからはどうなのか知らない。だが、確実に二人の関係は行く前と行った後で違いが出てくるだろう。カフェはその違いにため息をつくかもしれない。スカーレットは、不思議そうに二人を見つめるだろう。

 まだまだ、この帰省は続く。



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六、どうしても冬(前編)

六、どうしても冬

 

 竜之終の街の田上の父の家に来てから、三日目の朝を迎えた。今日は、三十一日だ。大晦日である。この家にいる人たちはどことなくそわそわしているように感じたが、タキオンだけはいつも通り田上から離れないで寄り添って過ごしていた。まるで親猫と子猫のようだ。田上が立てばタキオンも立つし、田上が座ればタキオンも座る。田上は、ほとほと参ったが、やっぱりこのタキオンの変化はどうすることもできなかった。

 そんな時だった。父の賢助が田上の方にこう話しかけた。

「圭一、買い物に行こう。車を出してくれ」

 父も車は運転できるが、田上に頼んだのは訳がある。それは、田上は車の免許を持っているのだが、持っているだけでは勿体ないのでいつか使う時のためにせめていつでも運転はできるようにしておこうと考えているからだ。そのために田上は、いつも帰省した時には父が運転するのではなく、自分が運転してその勘を維持しておこうと考えている。だが、今日のところは、少し問題があった。子猫のタキオンがいたのだ。

 勿論、タキオンは田上が買い物に行きそうな雰囲気を感じると不満そうな表情をしたが、発言したのが田上の父だったため何も言えなかった。田上は、そのタキオンの表情に気が付いていた。だからこう言った。

「一緒に来るか?」

 タキオンとしては家にいてほしかった。しかし、そんな融通も利かないだろう。そのことを察すると、タキオンは「行く」と一言言って、田上より先に立ち上がった。そして、父親の方に聞いた。

「今から行くんですか?」

「えーっと…、あと十分くらい待っててくれ。少し何やかやしてから行く」

「分かりました」

 そう言うとタキオンは、また田上の隣に座った。だが、今度は田上が立ち上がった。すると、タキオンも慌てて立ち上がろうとしたので言った。

「俺はトイレに行くんだよ。まさかトイレの前で待つわけじゃないだろ?待っててくれ」

 冷静にそう言うと、田上は引き戸を開けて、閉めて見えなくなった。タキオンは不満そうにその様子を眺めていたが、正面の炬燵の方に向き直ると幸助と目が合った。幸助は、好奇心と誠意がせめぎ合っているような顔を無表情の内に見せていて、タキオンを困惑させた。

 それから、タキオンと目を合わせたまま、少しが過ぎたが、短い時間のうちに好奇心の方が勝ってしまったようだ。タキオンに無遠慮な質問をした。

「…もし、もしもね。タキオンさんが、気分を害さないで聞いてくれるのなら、答えてほしいんだけど…。もしかして、タキオンさんは圭一の事が……好きだったり~……するのかな?」

 タキオンは怪訝そうに眉をひそめた。

「私が?…そんなことはない。トレーナー君は、トレーナー君だ。それ以外の何者でもない。…それに、今私は恋人を作りたいとは思わないんだ。あんまり良く分からないしね。…そして、もうそれ以上口を利くな。そんな戯言がここのところぐっと増えた。いい気分はしないな。...それから、君は学習したらどうなんだ?あんまり人にそんな口を利くんじゃないって」

 タキオンは、半ば怒って、半ば呆れて幸助にそう言った。幸助は、反省しているのか分からないニヤニヤ顔で「はーい、ごめんなさーい」と舌を出した。その顔が、タキオンの腹を余計に立たせたが、その直後に田上が戻って来るとどうでもよくなった。そして、幸助がタキオンに戯言を言ったことを報告した。

「トレーナー君、君の弟まるっきり反省なんてしてないよ」

「...?何があったんだ?」

 田上は、なんのことだか分からず聞き返した。

「この期に及んで、私が君のことを好きじゃないかと聞いてきたんだ」

 これを聞くと、田上は、自分の心臓が奇妙な音を立てて歪んだような気がした。答えは聞きたくなかったが、同時に全て分かっているようでもあった。

 田上は、少しの間目を泳がせてから言った。

「ど、どうなんだ?」

「どうなんだ?それを聞いてどうするんだい?...まぁ、別に大したことじゃないから言うけど、トレーナー君は、トレーナー君だよ。それ以上でもそれ以下でもない。...それなのに見りゃ分かることを君の弟は聞いてきたんだ。なんとか言っおくれよ」

 田上の心臓は、押し潰されて最後の抵抗をするかのように激しく波打った。頬も上気して、目も潤みそうだったが、なんとかこう言った。

「そりゃ、幸助が悪い。...うん」

 そう言って、幸助を見たが、返ってきたのは哀れみの眼差しだけだった。これで、田上は確信した。幸助が自分の気持ちを知っているということを。すると、沸々と怒りが湧いてきた。この怒りは幸助とは、全く無縁のものだったが、どこかにぶつけないと気がすまなかった。だから、幸助に憎しみ込めて言った。

「余計な!ことを!言うな!この木偶の坊!役立たずの浪費家!そんなんだからお前は大学生なんだよ!」

「俺、元から大学生だよ」

 幸助が心外そうに言った。タキオンは、田上の思ってもみなかった反応に驚いた。こんなに激昂するとは思わなかった。せいぜいちょっとした注意をするだけだと思っていた。それなのに、今目の前にいる自身のトレーナーはもはやタキオンのためでなく自分のために怒っているように見えた。タキオンは困惑して、掴んでいた田上の袖をそっと放した。

 ちょうどそこに賢助が「なんだなんだ?」と言って入ってきて事態は収まった。田上は父の顔を見ると急に頭から熱が引いて、ついでに顔からも血の気が引いた。そして、急いでタキオンの顔を見た。怯えていた。――こんなつもりじゃなかったのに。田上は、そう思ったが遅すぎた。タキオンはもう田上を見てはくれていなかった。あまりに怒りすぎた。

 田上は、何も言うことができずに父親を呆然と見つめた。父親もまた憐れんだ眼差しを持っていた。

「……本当に運転するのか?久々の運転をするから気が立っていたんじゃないのか?」

 父の言葉には真実も含まれているような気がしたが、それだけではないことが田上には分かった。ただ、その内容が分からなかった。しかし、田上は自分を奮い立たせると言った。

「…運転はするよ。…タキオンは、本当に行くのか?来なくても怒りはしないぞ」

 自分で言ってて空しくなったが、どうすることもできずにタキオンを見つめた。タキオンは怯えた幼児のように田上の顔をチラと見たが、何も言わずに田上の袖を握った。田上はそれを肯定の返事と受け取った。

「なら、行く準備をしろ。…もう行くんだろ?」

 最後に田上は父にそう聞いた。賢助は、頷いて「もう行くぞ」と言った。それから、幸助の方を向いて、「お前は行くのか?」と聞いた。

「俺はいいよ。留守番しとく」

 幸助はそう答えた。そうすると、田上とタキオンは立ち上がり、出かけようとした。タキオンは、出る前に「トイレ」と呟いて、田上の元を離れたがすぐに帰ってきた。そして、三人は駐車場に出た。

 

 田上が車の運転席に座ると、助手席に父が、田上の後ろの席にタキオンが座った。タキオンは、本来なら助手席に座りたかったのだが、賢助が乗ってしまった以上、田上の後ろに座る外なかった。だが、この席も案外悪くはなかった。田上のうなじを見つめ、タキオンは先程の激昂のことを考えた。

 何が彼をあんな怒りに導いたのか分からなかった。確かに、一昨日の幸助と喧嘩になりそうなものの怒りは分かった。――家に女を連れ込む。それはまるで節操のない人の様な言い回しだ。これにはタキオンも怒りが理解できる。しかし、今日のところはタキオンが変なことを言われたのだ。しかもそれ程侮辱的でもないだろう。言ってしまえば、よくあることだ。恋の話が好きな保健室に寄り集まっている人たちからも、そういうものをよく聞く。だから、タキオンは田上に言ったのだが、それが裏目に出たのはなぜだったのだろうか?あんまり真相も掴めそうになかったのでタキオンは窓の外を眺めた。

 車はまだ進んではいなかった。田上は、車を進めるのに相当の気合が必要だったようで、このために気が立っていたという理由もあながち間違いではなかったみたいだ。タキオンは再び田上の方に目をやった。こんなことを何回も繰り返しているのが聞こえた。

「よし。シートベルトよし。助手席よし。タキオンもよし。サイドミラーよし。バックミラーよし。後方よし。前方よし。それから…、財布よし。シートベルトよし…」

 父親は、こんな田上の毎回見てきたのか何も言わなかった。しかし、それでも中々進まなかったので、遂にはタキオンが口を挟んだ。

「…一万二万三万…、金額よし」

「もう、早く行きたまえよ」

 タキオンがそう言うと、田上は後ろを振り向いて嬉しそうに笑った。そして言った。

「もう行きます!…じゃあ、最後の確認」

 そう言って、最後に確認をしてから、本当に車は進みだした。実のところ自分の声を待っていたんじゃないかとタキオンは思った。あの田上の顔は相当に嬉しそうだったからだ。なんという気の変わりの早い男だろうと思ったが、そこが田上らしさでもあった。情緒が不安定という言い方もできるが、彼も彼で悩みを抱えているのだろう。彼は、「タキオンと一緒に考える事が役目だ」と言っていたが、その役目もまたタキオンの役目だろう。事実、母を想って泣いた彼を放っておくこともできなかったのだ。乗りかかった船を最後まで乗りこなしてやろうとタキオンは考えた。

 

 そうして車を乗り進めていくと、タキオン一行は少し遠目のところにあるスーパーセンターに着いた。田上の先程の怒りは完全に冷めているようだった。だから、タキオンは安心して田上の手を繋いで隣を歩いた。だが、運転の興奮は暫く冷めやらぬようだった。店の中に入ってからも声の音量の落とし方を忘れ、大声でタキオンに話しかけていた。これは、田上がタキオンと仲直りできてほっとしたのも原因の一つだった。嬉しかったのだ。…まぁ、だからと言って、運転もせずにここまで来ていたなら、これ程に大声になることにはならなかっただろう。

 賢助の方は、少しの疎外感を感じたが、娘がもう一人できたような気がしてほっこりしていた。そして、本当の娘になってくれたらなぁと思っていた。――本当の娘になってくれたら、俺たちは幸助の彼女も合わせると五人家族になるのか…。爺さん婆さんも合わせたら大所帯だな。そう考えて、心の中でニヤニヤしていた。子煩悩もここまで行くと迷惑なものだろう。まだ、結婚すると決まっていない人たちの分も数に入れているのだから。

 そうして、三人は衣服売り場を通り過ぎ、お菓子売り場も通り過ぎて、食料の調達へと出た。そして、野菜売り場まで来た時賢助が言った。

「年越しそばをいくつかと正月のためのご飯をたくさん買おう。爺ちゃん婆ちゃんが今年もくるからな」

「ああ、そうか。今年も爺ちゃん婆ちゃんが来るのか…。タキオン、俺たちの爺ちゃん婆ちゃんが毎年四人とも来るんだけど、お前は大丈夫か?」

 このころには、田上の声も落ち着いていた。

「私を何と思っているのかい?別にそのくらい大丈夫だよ」

「いや、結構家の中がごちゃごちゃするから大丈夫かな?と思って」

「問題ない。君が傍にいてくれるのならそれでいいよ」

 そう言われると、田上は頭を掻いた。

「お前も本当にどうしてそうなったんだ?そんなに人に依存する奴だったか?」

「私は…、トレーナー君の傍にいたいだけだよ。どうしてこうなったかと聞かれれば、それは環境が変わったからと前も言っただろ?」

「あんまりにも変わりすぎだよ。お前、元々寂しん坊だったりしたんじゃないのか?」

「ん~…、そうかもしれないね。それが理由ならば、君は許してくれるのかい?」

「いや、永遠に問い続けるよ。もし、学校に戻ってもずっとそうだったら。…さすがに学校ではいつものタキオンに戻るだろ?」

「…どうかな?…何とも言えないよ。私だってこのことを考えたりはしているんだけど、どうにも君の隣が落ち着くんだ。まるで、私が生まれた時から君の隣が私の場所だと定められているようにね」

 あんまりにも臭いセリフだったが、タキオンにそのつもりはなく、ただ、可笑しそうに田上を見上げていた。田上もそのことは承知していたが、それでも心が揺らがないことはなかった。――もしかしたら…。その想いが心に触れる度、田上はその手を振り払って自分に言い聞かす。ダメだダメだ、と。

 

 それから、一行は年越しそばのカップ麺を四つ買い、その他諸々の食料を買い込んだ。賢助は、正月料理を振舞う気はなかったが、飯はたくさんあった方がいいので美味そうなものをたくさん買い込んだ。ウマ娘のタキオンもいたから猶更そうだった。

 そして、買うときには息子が持っていたクーポンが役に立った。――随分とお得な買い物ができたものだ。賢助は、レシートをまた見るともなく見ながらそう思った。案外、このことが嬉しかったので、その行動は家に帰ってからも度々続いた。

 タキオンたちは、荷物を持たされた。いや、タキオンは自分から持ったと言った方が正しいだろう。そのレジ袋を両手に持ってから、田上と手が繋げないことに気が付いたが、田上がタキオンの方を見もしようとしなかったから諦めた。どっちみち田上の両手も塞がっていたので、タキオンが片手だけにレジ袋を持っていたとしても手を繋ぐことは叶わなかっただろう。

 そうしてまた車の前まで戻っていった。

 

 車の前まで戻っていくと、隣の車の所に人がいた。母親と息子の二人のようだ。息子の方は、まだ背が低く幼い感じが残っていて、母親の周りをうろちょろしていた。ちょうどその時にタキオンたちはやってきた。

 タキオンたちが近づいてくると、まず先に母親の方が気が付いたようだ。車と車の間隔が狭かったので、うろちょろしている子供を叱って、車の中に入れようとした。しかし、子供が車の中に入ろうとしたとき、タキオンの事に気が付いて叫んだ。

「あー!!ママ、この人知ってる!タキオンだよ、タキオン!アグネスタキオンだ!本物なの?」

 タキオンはその子供の言葉には答えないで、ジロリと睨んだだけだった。すると、母親が子供を抑えにやってきた。

「あー、すいません。うちの子が。こら、あんまり失礼なこと言うんじゃありません。…本当にすいません。うちの子、レースが好きだから、ウマ娘を見つけたらこういう絡み方をしてしまうんです」

 母親の方が、ぺこぺこと頭を下げていたので、タキオンも問題ないですよという風に頭を下げた。

「でも、本当にアグネスタキオンだよ。皐月賞と菊花賞を勝ったアグネスタキオンだよ」

 息子の方は、今度こそ真実なのに母親が信じてくれないから、一生懸命に繰り返した。

「この顔見たことあるよ。髪の毛の色も同じだよ」

「こら」とまた母親に叱られていた。

 その様子を田上たちも隣から見ていたが、タキオンが何も言わずにそこを立ち去ったので後に続いた。だが、タキオンは車のどこに荷物を詰めていいか分からなかったので、やっぱり賢助と田上を待って振り向いた。

 田上は、振り向いたタキオンに小声で言った。

「いいのか?あの子お前のファンみたいだったぞ」

 そう言うと、タキオンはむすっとした顔をした。

「…私は無礼な子供は嫌いなんだ。特にああいう、うるさい餓鬼は嫌いだね」

 タキオンの言葉遣いが荒くなったので田上は苦笑した。

「あんまり怒ってやるなよ。お前も昔はあんなんだったんじゃないのか?」

「いいや、私はもう少し静かだったよ。少なくとも知らない人に向かって、あ!あぐねすたきおんだー!とは言ったりしないね」

 タキオンは、さっきの子供をバカにしながらその物真似をした。そして、乱暴にレジ袋を車の後ろの方に詰めてから、慌ててそれを取り繕うように少しレジ袋を整えた。幸いなことに、卵などの危険なものは入っていなかったから惨事は起きずに済んだ。田上もその後にレジ袋を入れると、車の後ろの大きなドアを閉めた。

 それから、運転席に乗り込もうとしたが、その前にタキオンが独り言だが主張するように言った。

「あーあ、今ので気分が優れなくなったよ。誰かを隣にして帰りたいなぁ」

 田上は、自分の運転でそれどころではなかったので、「うるさい!」と一喝すると気合を入れ直して、運転席に座った。

 

 その後は比較的穏やかに運転ができたというだろう。しかし、一回だけ田上がヒヤッとする場面があった。それは、スマホを見ながら自転車を運転していた十代後半、二十代前半くらいの男の人が、もうとっくの昔に赤信号になっているというのにぎりぎりまで気付かずに横断歩道まで入ってこようとしたからだ。

「あの糞バカ!!」

 スマホの人が止まったのを確認すると、田上はそう叫んで車を走らせた。その後暫くは、ぶつくさ文句を言ってはいたが、帰るころには落ち着いていて、しっかりと駐車場に駐車ができるとすぐに外に出て行って大きく伸びをした。そして言った。

「うっわ、寒い」

 タキオンはそれを後ろから見ていたが、自身のトレーナーの意外な一面が見れて、驚きと共に興味も湧いて出た。それだから、田上の後ろに近づいて手を取ると言った。

「君はなんで運転をするんだい?」

「ん?それは、勘を鈍らせないためだよ」

「何のために?」

「何のために?う~ん、まぁ、結婚したら車が必要になるだろ?」

「東京に住んでいるなら必要ないじゃないか」

「そうか…。そうだよなぁ。…まだ結婚する予定もないからなぁ…」

 そう言った田上の頭には、タキオンの顔がよぎったが、よぎっただけですぐに通り過ぎて行った。そして呟いた。

「うーん、…結婚ねぇ。夢みたいなもんだよ」

 田上は、車の後ろまで歩いていくと、タキオンの手をほどき自分が持つレジ袋を持った。だが、タキオンは自分の分を持とうとはしなかった。

「トレーナー君が持って行っておくれよ」

 そう言って、田上と手を繋ぎたいほうのレジ袋を奪い取ると手を繋いだ。

「私はこうしていたいんだ。……」

 そう言って、タキオンは田上の顔を見て何か言おうとしたが、何も言わなかった。ただ少しだけ強く手を握り直した。タキオンは今もなお子供と大人の境界線を彷徨っている。田上が父親代わりなのかなんなのか分からない。しかし、その気持ちが今のタキオンにケチなんてつけようがないくらいに今が楽しい。タキオンは、何往復かして二人でレジ袋を運ぶとトレーナーに言った。

「散歩をしようじゃないか。運動靴を忘れてしまったし」

 田上は、嫌そうな顔をした。

「外は寒いぞ。一人で行って来いよ」

「なら、君は私が帰るのを外で待っててくれ」

「よし、そうしよう。階段に座って待っておくよ」

 田上がそう言うと、タキオンは慌てて言った。

「冗談だよ、冗談。一緒に行こうじゃないか。我儘言わないで」

 それを聞くと田上は怒った。

「俺じゃないだろ!我儘言ってるのは」

 すると、タキオンも怒り返した。

「そうさ!私さ!君がいいんだよ。君じゃなきゃ嫌なんだよ。ついてきてくれよ。君がいないと私はもう家出する!」

「ここはお前の家じゃないだろ!……はぁ」

 ここで田上は疲れたようにため息をつくとこう言った。

「一回家で休憩しよう。話はそれからだ。まだ時間はあるんだから、俺を休憩させてくれ。見ただろ?運転している俺を。しっかりと見たんだったら分かってるはずだ。俺がどんなに疲れているかってことを…。な?」

 タキオンは、一瞬不満そうな顔を見せたが、田上の話を完全に理解するとこう言った。

「じゃあ、休憩したら一緒に散歩に行こう」

「いや、話は後からだ」

 そう言うと、田上はタキオンが言葉を発する前に、引き戸を開けて炬燵のある部屋に入っていった。扉の向こうから、「大変そうだな」という声と、それを肯定する返事が聞こえてきた。二つの声は似通っていて分からなかったが、恐らく「大変そうだな」と言ったのが幸助の方だろう。返事をした声の方が疲れた声の様な気がしたからだ。しかし、判別は難しかった。タキオンは、二つの声の事を一生懸命考えていたが、やがて――どうでもいいやと思うと、家に入り、ヒールのある靴を脱いで引き戸を開けた。

 暖かい空気がタキオンを出迎えた。

 

 それから、田上は午後三時半から四時まで休憩して、いよいよタキオンが騒ぎだしてから家を出た。先程運動靴を忘れたとタキオンが言ったのを聞いただろうか?あれが発覚したのは昨日のことだった。昨日の午後に自分のキャリーケースの中を見ていたタキオンが、突然静かになって、固まったのだ。タキオンは、「すぐに戻る」と言って、炬燵にいる田上の傍から離れたので、その様子をしっかりと見ていた。タキオンは一度固まった後、もう一度、キャリーケースの中身を漁っていたが、さらに再び固まった。

 そして、そっと田上の方を振り向くと目が合ったので、申し訳ないような可笑しいような顔をしながらタキオンは言った。

「トレーナー君、ジャージ類を持ってきたはいいが、肝心の運動靴を忘れてきたみたいだ」

 田上は、驚いてこう返した。

「お前…!なんでよりによってヒールのある靴を履いてくるんだよ…」

「あれでも走れないことはないさ。実際、駅まで走ってきたのは覚えているかい?」

「あれは軽くだろ?」

「このランニングも軽くと言っていたじゃないか」

 そう切り返されると田上は頭を抱えて、一生懸命考えながら言った。

「あれは!…走る用の靴じゃないだろ。そんなに高いヒールじゃないと言っても足が変になる。……本当に靴なんて一つでいいのに」

「あら、トレーナー君。私だって女性だよ。いろんな靴を持っているものさ」

「服のサイズは考えないで買うのにか?」

「おや!そこを突かれると弱い。…それとこれとは別だよ。服は、一旦買ってそれから試着だよ。着れない服であれば、デジタル君か、誰かに譲り渡す」

「さすが富豪のやることは違うね。…もう…とりあえずは散歩でもなんでもしたら?靴がないんだったら仕方がない。足を痛めないことの方が優先だ」

 そう言って田上はタキオンを許した。

 そして、今に至った訳だ。やはりタキオンは田上から離れたくないらしい。自分から散歩に行くと言っておきながら、田上はついてきてほしいというのだ。これでは、もしランニングできてたとしても、田上から半径一メートルでも離れたらすぐに戻ってきたのじゃないだろうか?

 今日の天気は生憎の曇りだったから、薄暗い住宅街を二人は歩いた。昨日のお婆ちゃんがいた方向とは正反対の方向だ。それは、お婆ちゃんをタキオンが嫌がったのもあるし、田上としてもこちらの方が歩きなれた道だったからだ。昨日よりも少し寒かった。風などは吹かなかったが、それがより空気の冷たさを感じさせたようになり、深々と冷え込む午後四時となった。雲がなければ日が沈むのが見えるころだっただろう。紅い夕焼けとなって空を照らしたかもしれないが、今となっては無意味だった。

 しかし、そんな中でもタキオンは田上に甘えながら歩き、熱々のカップルでもしない距離で歩いて田上を困らせた。タキオンはウマ娘で体温が高いから真冬でも比較的軽装だ。灰色のパーカーに黒色のジーパンを穿いていた。これは、サイズがぴったりあったものをタキオンは選んできた。タキオンは、普段適当に一人で出かけるなら、サイズの合わない服でも着ていくが、田上などと出かけるときは別だった。特段、おしゃれが嫌いなわけではないのだ。ただ、肝心なところで少し面倒臭がってしまうというだけで。

 田上の服装もあんまりタキオンと変わらなかった。黒色のパーカーに黒いズボンというもので、寒いことには寒いのだろうがこちらはタキオンのよりずっと生地が厚くてふわふわだった。このふわふわに頬を擦りつけるのも好きだったので、タキオンはこれまでにない程密着していた。

「トレーナー君いい服買ってるねぇ」

 そう言って頬を擦りつけていた。



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六、どうしても冬(中編)

 そんなこんなしていると前の方から小学生らしき一団が現れた。田上は、こんな恥ずかしい姿を見られたらまずいと思って、タキオンを引き剥がそうと、または離れてくれと頼んだのだが、タキオンは「いいじゃないか、小学生なんだし」と言って離れようとしなかった。

 小学生は前からこれまでにないくらいくっついているカップルを見つけて、それに好奇の視線を送った。子供だから遠慮なんてするはずもなく、ひたすらに興味深げに田上たちを眺めていた。特にタキオンの方に視線を送っていた。

「あの人、アグネスタキオンだよね?」

「そうだよね?ウマ娘の」

 すれ違う時にそんな声が聞こえた。ひそひそ声のつもりのようだったが、確実に田上の耳に届く声ではあった。その小学生たちとすれ違った後、田上は言った。

「タキオン、お前やっぱりマスクとかサングラスとかして、顔を見せないようにした方がいいんじゃないのか?」

「マスク?サングラス?そんなもの顔につけていたら邪魔でしょうがないよ。それにね。君、何かを心配しているようだけど、私は芸能人じゃないんだ。CM女王じゃないし、月九のドラマの主演を務めたこともない。言わば、ただのスポーツ選手だ。サッカー選手なんかと知名度は変わらないよ」

「知名度は、サッカー選手よりあるだろ。視聴率もサッカーよりいいらしいし」

「そんな程度だよ。例えば、君の好きなバンド…えっと、大きな蛇だっけ?それよりも私の方が知名度は低い」

「それは当たり前だよ。俺が小学生の頃から活躍してた天才だぞ?天と地がひっくり返っても知名度においてお前は勝てない」

「おや、やけにその人たちの肩を持つね。いつもだったら、タキオンが凄いんだぞって自慢をするのに」

 タキオンは少し不満そうに言った。

「それは…、俺の好きなバンドだからな。…まぁ、言ったろ?『知名度』においてはお前は勝てないんだ。その他諸々の事だったら、お前が余裕で勝ってるさ」

「その言葉を聞いて安心したよ。なんだか、最近は君の知らないところばかり見るからね。特に運転とか。君の暴言聞いたよ?」

 そして、ニヤニヤしながらタキオンがからかおうとしてきたから、田上は慌てて話題を逸らした。

「そういえばさ。この道を右に曲がったら公園があるんだ。そこにいってベンチで一休みでもしないか?」

「まだ、そんなに歩いてないよ?」

「歩いたとか歩いてないとかそんな問題じゃなく、ただ単にそこで休みたいんだよ。あの公園に久々に訪れたいし」

 そう言って、田上は前を見た。タキオンには見えない何かを見るかのように、前方を見つめていた。

「……俺が引っ越す前の街にこの街は凄く似ているんだよ。それを言ったら、日本なんてどこもかしこも似たようなものかもしれないけどさ。ここはよく似ていて、特にあの公園なんか遊具こそ違えど、木が鬱蒼としているのは同じなんだ」

 タキオンは、少し田上が遠くに行った様な気がして、絡めている田上の腕を逃さないようにぐっと締めた。そして言った。

「今、君が住んでいるのはその街でもなく、この街でもなく、トレセン学園内にあるトレーナー寮の一階の狭い木造の部屋なんだからね。あんまり遠くに行っちゃだめだよ」

 タキオンは、唐突に涙が出そうになったが、最後の言葉が少し震え声になっただけで涙は落ちてこなかった。だが、タキオンは涙が落ちてきた方が都合がよかったかもしれない。田上は、タキオンの顔こそ見たもののその震えた声には気づかず、それどころか少し迷惑そうに眉を寄せて「分かってるよ」と言った。

「ほら、公園がある…けど今は冬だからな。鬱蒼とはしていないか。…まぁ、この感じも好きだけどね。タキオンはどうだ?」

「…私は嫌いだ」

 タキオンは、拗ねてそう言った。田上には、突然の出来事に思えたので、驚いた。そして聞いた。

「なんでそんなに機嫌が悪いんだ?俺、何かしたか?」

 タキオンは、鼻の皺を寄せて鼻を鳴らした。

「…女心が分からないようじゃまだまだだね。結婚も夢のまた夢だ」

 すると、今度は田上がむっとする番だった。

「結婚の話は違うだろ。俺に結婚する気がないだけでしようと思えば…」

「できるのかい?」

 タキオンが話に割り込んできた。

「君はいつでも女を手籠めにできると?私には、君にそんな器量があると思えないね。あー、……」

 ここでタキオンは悪口雑言を言おうと思ったのだが、それを考えているうちに口が閉じて冷静になった。悪口なんて言わない方がいいと思ったからだ。だが、時はすでに遅くて、田上は酷く傷ついたようだった。それは、あまり表に出そうとしなかったが、さっきのむっとした時より、さらに寄っている眉がそれを物語っていた。

 タキオンはそれを察すると何か優しい言葉をかけてあげようと思い、考えたが、上手くは出てこなかった。ただ、こんな言葉が出てきただけだった。

「あー、…あんまり君を傷つけようとは思わなかったんだけどね。……もし、君に結婚の準備ができて相手が欲しいってときは紹介してあげるよ。私の人脈を総動員して、君の好みを探してあげるから」

 タキオンはそう言って田上の顔を見たが、嫌そうな顔をされただけだった。

「結婚相手なんてタキオンに頼らずとも自分で探すよ。あんまりバカにすんな」

 そう言うと、田上は前だけを見て、公園の中に入っていった。

 

 あんまりタキオン相手に機嫌を悪くしたくないのは、田上の常だったが、それでも抑えられないときは例え思春期の女の子相手でも機嫌を悪くしてしまう。そんな自分が田上は、どうしようもなく嫌いだった。自分を好きだなんて思ったことは一度もない。いつも暗くて、ゲームしてばかりで、人の幸せを妬んで。そんな人を好きになれる人間があろうか?タキオンは今のところは懐いてくれているみたいだが、これもいつまで続くかは分からない。いつか正面からぶつかって弾け飛んでしまうんじゃないかと恐ろしかった。

 タキオンは、田上の横についてベンチに座った。公園には、もう暗くなってきているというのに、小さいウマ娘の子と同じくらいの年の男の子が砂場で遊んでいた。ベンチは、公園を正面から入って一番奥の所に座った。ちょうど葉のない木が左右に二本生えている場所だ。そこからだと公園が一望できた。その場所に来る前の滑り台近くのベンチに田上は座ろうと思っていたのだけど、それはやめておいた。理由は、公園の道に沿ってベンチに座ると、すぐ後ろの方から子供たちの話し声がするからだった。

 小さい子供だったのに、その親の姿はどこにも見えなかった。見たところ、まだ小学校に入る前と言ったところだろう。家がこの公園から近いからかは知らないが、暗くなっても小さい子を放置するのは危ないだろう。万一、帰るときに車に引かれでもしたら大変だ。田上は、その子達を心配そうに見つめていた。

 タキオンと田上は、座ると共に自動的に離れた。田上は、あまりそのことに気付きはしなかったが、さっきまであった温もりが感じられなくなったことはなんとなく気が付いた。だが、それに注意を置くでもなく、田上は子供たちを見つめていた。

 それから、少ししてから突然タキオンが言った。

「人って難しいよね」

「え?」

 田上が、タキオンの方を見ると、タキオンはうつむいて体を半分ベンチに預けて自分の手を見つめながら真剣な顔をしていた。

「人の心ってやつさ。…どこにトラップがあるか分かったものじゃない。自分だって分からないだろう。私にも、分からないことが分かる。今、悩んでいる最中だからね。そして、君もだ」

 タキオンは体勢を変えないで不安そうにチラと田上を見た。

「機嫌が悪くなったら怒鳴っていいから、これだけは言わせてほしいんだ。……あんまり君も私に説教できないくらい強い悩みを持っているだろ?」

 そう言って、今度は強く田上を見た。田上は、あまり答えたくはなかったから、曖昧に首を縦に振った。すると、タキオンがもっと強く言った。

「声に出して言ってくれ。君は問題を持っているか、そうじゃないか」

「……そうと言えば、そう。そうじゃないと言えばそうじゃない」

 やはり田上には正確な答えは出せなかった。タキオンもこのことは予期していたようだ。ふーとため息をつくと、体勢を変えてベンチに背をもたれて田上と目線が合うようにした。それでも、タキオンの方がいくらか小さかった。

「君、見てごらんよ。あの子達を。さっきから心配そうに見ていたけど、君はどうするのかい?」

「……そりゃあ、親が迎えに来るまでここで待っとくよ」

「永遠に来なかったら?」

「その時は、俺があの子たちを家まで送り届ける」

「よし、じゃあそうしよう。もう暗い時間だ。私たちも家に帰っていいだろう」

「…まだ、歩いてもいいんだぞ?」

「おや!珍しく私を素直に甘やかすね。だが、今日のところはこれでいい。私たちだっていつかは帰らないといけないんだ。それが早まったって何の損もあるまい」

 まるでさっきまでのタキオンらしからぬ物言いだった。だが、そう言って立ったタキオンは田上が立つとすぐにその腕に引っ付いた。そして、二人は公園の明かりがぼんやりとついている砂場で遊んでいる子供たちのところに向かった。

 

 田上は、この光景を見たことがあるような気がした。ぼんやりとした明かりが照らす中、親が帰りを待っていることも知らずに友達と延々と遊び続けていた光景を。だが、その光景は、一歩歩くごとに薄れて消えていった。そして、子供たちに声をかけるころには、どうでもいい思い出の一つとなっていた。

「おい、そこの」

 そう呼びかけると男の子が顔を上げた。顔まで泥で汚れていて、洗うのが大変そうだった。

「何?誰?」

 男の子はそう答えた。

「何?……俺たちは、トレーナーとウマ娘だ」

 田上がそう言うと、タキオンが「私がウマ娘だよ」と言った。

「え、トレーナーとウマ娘?本当に?もし本当だったら嬉しいなぁ~。僕たち、二人でにっぽんダービー勝つって約束してるから」

 男の子は、にこやかにそう言った。だが、ウマ娘の方はと言うと、警戒心が剥き出しだった。

「嘘だよ。こんなところにウマ娘がいるはずないもん。田舎はウマ娘が少ないって母ちゃんが言ってたから、こんな簡単に現れるわけないんだよ。しかもトレーナーとセットで。…絶対嘘だよ」 

「えぇ、嘘なのぉ?」

 男の子が残念そうに田上の方たちを見た。すると、タキオンが言った。

「いや、実はね。嘘じゃないんだよ。ほら、私の顔が見えるかい?アグネスタキオンだよ」

 タキオンが、そう言うと男の子は目を輝かせて、ウマ娘の方は疑い深い目で見てきた。そして、言った。

「まやかしだよ。たった君、私たちまやかしにかけられてるよ」

「えぇ、まやかしって何ぃ?マリちゃん」

「魔法だよ、魔法。私たち悪い魔法にかけられてるんだ。こんなところにアグネスタキオンがいるはずないもん。それによく見たらトレーナーの方も田上トレーナーだから本物だし、いよいよ怪しいね。セットでお得は怪しいって母ちゃんが言ってた」

「…でも、これは全然お得じゃないよぉ。僕、トレーナーの方はいらないし」

 男の子がそう言ったので、田上は少し傷ついて、タキオンは愉快に笑った。そして、またウマ娘の子が言った。

「ああいやだ。魔女が高笑いしてる。帰ろ、たった君」

 ウマ娘の子は、男の子の手を取ると、そそくさと公園から出て行った。

「追わないのかい?」

 タキオンがそう言ったので、トレーナーは首を横に振った。

「あれを追ったらいよいよ俺たちは不審者になるぞ。…けど、せめて家に入るところまでは見届けたいな」

「じゃあ、そっと後を追おう。左の方に帰っていってたぞ」

 そう言うと、二人は小走りになって思いがけず帰り道を帰っていった。そして、その子たちは案外早く見つかって、家から漏れ出ている光が道に照らしこんでいた場所にいた。

 二人は、母親に怒られているらしかった。「こんなに泥んこにして」とか「早く帰ってきなさいよ」とか聞こえてきた。

 タキオンはその声が聞こえてくると、嬉しそうに言った。

「あの子たち帰ったみたいだね」

「そうだな。良かった良かった。道も反対じゃないから、帰る時間を無駄に長くせずに済んだぞ」

「おや?歩いても良かったんじゃなかったのかい?」

「それは、お前が歩きたいと言った時だけだ。帰るとなったら俺は早く帰りたい」

「君ってやつは、本当に何を考えているのか分からないね。言葉っていうものが転々としすぎだよ」

「んん?転々とはしていない。ただ、口にしていないだけだ。だから、少ない情報の中でお前が判断するとなると食い違いも生まれるわけだ」

「あんまり、誇らしそうに言わないでおくれ」

 タキオンがそう言った時に、ちょうどその家の前を通ったので、タキオンたちに気が付いたウマ娘の子が叫ぶのが聞こえた。

「魔女だ!魔女が追っかけてきた!怖いー!!」

 母親の怒っている声が聞こえてきた。しかし、それには耳をかさないでタキオンは言った。

「薬を持ってきていればよかったかな。もう少し魔女らしいことをして、あの子を脅かしてやればよかった」

 そう真剣に言ってから、不図、田上の顔を見ると二ッと笑った。

「それもあんまり可哀想か」

 冷たい北風が吹いてきた。住宅街にある明かりは少なく、薄ぼんやりな街灯もたまにしかなかった。家々から漏れ出る光を後にして、二人は進み続けた。タキオンは少しの間、田上から離れていたかのように見えたが、もう一度冷たい北風が吹くと田上の方に身を寄せた。田上たちが置いて来た明かりからは二人の会話の内容は聞こえなかったが、後ろ姿から楽しんでいるようなことは分かった。しかし、もう一度冷たい北風が吹いて、二人は身震いした。

 外の空気は、二人で楽しく笑い合うには、どうしても冬だった。

 

 夕食も食べて風呂に入ったその日の夜。大晦日で長い特別番組もやっていたのだが、二人はそんなことは気にせず布団に入った。タキオンが「もっとトレーナー君と話す時間をとりたい」と言ったからだ。当然トレーナーも一緒の布団だ。田上としてはやっぱり不満なわけだったが、タキオンの嬉しそうな顔を見るとそれも行き場を失って、困ったように笑うだけになる。

 タキオンが、嬉しそうに笑いながら今日の出来事を振り返った。特にあのウマ娘の子についてだ。

「君、あの子の顔見たかい?ウマ娘らしからぬ表情だったよ。例えるならば、意地の悪いおばちゃんみたいな」

「あんまりそんなこと言ってやるなよ。俺たちを魔女の一行だと思ったからあんな顔になったかもしれないんだぞ」

「ふむ、それも面白い。あの子少し用心深すぎやしないかい?いくら知らない人について行っちゃだめと教育されていたとしてもだ。さすがにねぇ…。まやかしなんて言葉どこで覚えたんだろう?見たところ、まだ小学生にもなっていなさそうだったよね?」

「そうだなぁ。絵本を読むにしてもまやかしなんて言葉は使わなさそうだし、何だろうなぁ…。母親に教えてもらったんじゃないのか?」

「それこそどういう経緯で教えてもらっていたのか気になる。どんな場面があったら、まやかしなんて言葉を教える?」

「う~ん…、色々あるだろ」

「例えば?」

「う~んと…、旦那がキャバクラ行ったときとか?」

 そう言うと、タキオンがハッハッハと笑った。涙が出るほど笑っていた。永遠に笑い続けるものだから、田上もいたたまれなくなって困ったように「そんなに面白かったか?」と言った。すると、タキオンがようやく言葉を発した。

「面白いも何も、君の発想が…」

 そう言うと、またタキオンは笑い転げた。二人は、布団の中でお互いに向き合って話していたのだが、その状態を自ら破ってしまうほどタキオンは可笑しかったようだ。

 そして、暫く満足するまで笑った頃、自分の目に浮かんだ涙を指で拭いながら言った。

「はー、君の発想力たるや。時として私の想像を遥かに凌駕するね。それにしてもキャバクラとは…」

 そう言ってまた笑いそうになったが、今度は鼻をフスフス言わせただけで、全力では笑わなかった。

「いや、思いがけずツボに入ってしまったよ。本当に今でも笑いがこみあげてくる。…それで、キャバクラか。…何の話をしていたんだっけ?」

「まやかしって言葉を教えてもらった経緯だよ」

「そうだそうだ。なんで旦那がキャバクラに行くとまやかしという言葉を教えてもらえるんだい?」

 タキオンは終始ニヤニヤしていた。

「う~ん…、まず、旦那がキャバクラに行くだろ?そこで帰りが遅くなる。すると、お母さんは呆れる。…それから、娘に愚痴をこぼすだろ?でも、自分から愚痴をこぼすわけじゃない。旦那がキャバクラに行ってることもまだ確定しているわけではないからな。…で、娘がお母さんにこう聞く。お父さんはどこに行ってるの?と。そうすると、お母さんも言うわけだけど、その言葉のままでは言えないわけだからこう言うわけだ。お父さんは、まやかしをかけられていて早く帰ってこれないのよ」

 ふむふむとタキオンが相槌を打った。

「そうしたら、娘がまやかしって何?って聞くから、お母さんが、それはね。悪い魔法のことなのよって答えるんだ。どう?」

「どう?……いや、君はやっぱりバカだと思ったよ。効果も知らない薬を三本一気に飲めるくらいにはバカだ」

 これは、タキオンと田上が出会った時の話で、タキオンのトレーナーになりたかった田上が、タキオンの薬を飲んでその覚悟を身をもって見せた事件に由来する。

 タキオンにそう言われると、田上はむっとした。

「薬飲んでくれて嬉しかっただろ?その頃には碌な実験体もいなかったんだから」

「ああ、嬉しかったさ。同時に驚愕もしたし、興味も持った。…けど、君のことは好きだよ。恋愛感情とかそんなのは抜きに」

 田上は、そう言われて嬉しかったのだが、あんまり嬉しそうな顔をするといけないと思って、口を変に歪ませた顔をしてしまった。

「なんだい?その顔は。あんまり嬉しくなかったかい?」

「いや、嬉しかったのは嬉しかったんだけど、…こういう時の顔ってどういう顔をすればいいんだ?」

「素直に喜びたまえ。素直なのはいいことだよ。とっても分かりやすくて、とっても賢い。素直であればあるほど、人とのコミュニケーションは円滑になる」

「じゃあ、俺には無理だな。あんまり素直になんかなったことはない」

「いいや、案外君も分かりやすいところはあるよ」

「…?例えば?」

「例えば?…そうだなぁ。君、お腹空いたときはお腹空いてそうな顔してるね」

「…本当に?」

「…やっぱりあんまり分からないや。…ただ、君のことが分からないんじゃなくて、言葉にする方法が分からないってことだからね。お腹が空いたとかそんなのじゃなくてもっと心と心が通じ合っているような…」

「そりゃあ、大変だ。心と心が通じ合ってたら俺の考えがタキオンに丸分かりだな」

 田上は、自分の恋愛感情を思い出しながらそう言った。

「いやいや、その心と心が通じ合うことと言葉に表すことは別だよ。…全く、昔の人もすごいよね。自分の気持ちを伝えようと頑張って言葉を作ったんだから」

「…案外ロマンチストなんだな」

「いや、ロマン…と言うより、思慮深いと言ってくれたほうが助かるね。私は、なにも星々が綺麗、という言葉だけで終わらせることはないよ。それがなぜ綺麗なのか?なぜそれを綺麗だと思ったのか?私は最近心理学に興味があってね。科学で言えば、星々がなぜ綺麗なのかは、科学的に分かる範囲で言うのかもしれないが、心理学だと人の心を中心に考えるから、心に残った映像はその人と密接な関わりをしていないか調べるんだ。…まぁ、ただ「綺麗だ」と言うことについてはあんまり心はくっついてはいないだろう。心から何年経っても離れなくて、それを思い出すとどうしようもない感情が湧いて出る。そういうものがあるかい?」

 タキオンは、最後にそう聞いてきた。もしかしたら、田上の母親の事を聞けるかとも思ったのだが、それはダメだったようだ。田上の心に不図思いあがったのは、中学の時の好きな女の子に告白した様子だったが、そのことはあまり話したくはなかった。だから、ただ首を横に振った。

「まぁ…、ぱっと言えるほど心ってのは甘くないものだよ。私だって、あんまり自分の状況について分かっていないし。…ね、トレーナー君。ずっとこのままでいてくれよ。私が寝たら君も眠るんだぞ。私が起きたら君も起きるんだ。あんまり遠くに行かないでおくれ」

 タキオンは不安そうに言った。田上は、そんなタキオンの様子を見ながら、静かに穏やかにこう言った。

「もう電気を消そうか?眠たくないか?」

「嫌だ。もう少し話していたい。君はすぐそうやって遠くに行こうとする。それが私をどんなに不安にさせるか分かっているのかい?」

 そこで襖がザッと開いた。そして、幸助がこの場には場違いな声の音量で言った。

「残念だったな。俺はもう寝るんだ。電気は消させてもらう」

 タキオンは、物凄く嫌そうな顔をした。

「冗談だよ。また、常夜灯でいいんだろ?」

 タキオンは黙って頷いた。

 そして、幸助は電気を消して、オレンジの薄ぼんやりとした明かりにすると、就寝の挨拶をした。それに二人とも、「おやすみ」と答えた。

 

 二人は暫く黙っていた。田上は、タキオンがぴたりと横に寄り添っているものの、仰向けになって寝ようとした。しかし、数分の沈黙の後、タキオンが田上の頬を突きながら言った。

「トレーナー君、起きてるかい?」

 どうやら沈黙には我慢ができなかったようだ。少し不安げにタキオンはそう呼びかけた。

「起きてるよ」

 顔は全く動かさずに田上はそう答えた。

「トレーナー君、こっちを向いておくれよ。顔を見せておくれよ」

「…もう見えてるだろ?横顔が」

「そんなんじゃ嫌なんだよ。正面から君の顔が見たい」

 タキオンがそう言うと、田上は仕方なくもぞもぞ動いて、タキオンの方を見た。しかし、まだ寝るつもりはあったようだ。目を瞑って寝ようとしていた。

「目を開けたまえ」

 タキオンが怒って言った。田上は、まだ仕方なさそうに微かに目を開けた。すると、タキオンが尚の事怒って言った。

「私たちが同じ布団に入っているのは、おしゃべりを楽しむためなんだよ。今日、早く布団に入ったのもおしゃべりを長く楽しむためだ。君はまだ寝ちゃいけないんだ。目を開けたまえ」

「……俺が同じ布団に入っているのは、匂いがあって不安だったからじゃないのか?」

「それもあるけど、君とたくさんおしゃべりしたいんだ」

 じれったそうにタキオンは言った。

「早く目を開けておくれ」

「…タキオンも寝ろよ。明日だってあるんだから、今日無理に俺を起こさして明日の俺を使えなくするよりも、今日英気を養って明日も同じくらい遊べばいいだろ?」

「んん…」

 反論できずに不満そうな声を上げた。しかし、タキオンはそれでも田上と会話をしたくて我を押し通した。

「だけど…、だけど、明日だって私は君を無理に連れ回すから。今日だって君が好きだったけど、明日だって君が好きだから」

 だが、眠い田上の耳にはあまり届いていないようだった。田上は、ただ諭すようにこう言った。

「あんまり人に好きとかいうなよ。勘違いする奴がどこかにいるかもしれん」

「そりゃ、好きと言えば勘違いする奴なんてざらにいるだろうけど、君は分かってくれるだろ?そんな察しの悪い奴じゃないだろ?」

「んん…」

 田上は、眠たそうな声をあげて返事をした。そして、それっきりタキオンに真面な返事は返さなかった。朝になって田上は、このことにドキドキしたが、タキオンの言葉にそれ以上の意味がないことを知っていた。――好きなんて言葉の使いよう幾らでもある。そう思うと、タキオンの隣で朝ご飯の焼いた食パンをぽりぽり食べた。



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六、どうしても冬(後編)

 タキオンは、今日の朝は素直に起こしてくれた。特に表面的には何の不機嫌さも見せず、いつものように過ごしていた。

「あけましておめでとう」

 タキオンがそう言うと、田上も「あけましておめでとう」と言った。あんまり正月らしからぬ朝だった。正月というのに、朝はパンだしテレビはついていない。不満は特になかったが、今年は冬を満喫できていないようでどこか寂しかった。昨日の大晦日もタキオンに付き合って、早く寝たのだ。年越しと言うことすらあまり実感できなかった。

 田上は、大して美味しいとは言えない食パンをかじりながら台所にいる父に聞いた。

「爺ちゃん婆ちゃんが来るのは今日?」

 すると、少しだけ開いている引き戸の向こうから返事が聞こえた。

「いや、明日だよ」

「じゃあ、明日初詣に行くんだね?」

「ああ」と聞こえてきた。隣にいたタキオンは、起きてからトイレに行くとそのまま食卓について、田上付近にあったパンをとると自分もかじっていた。今日は、なんだか二人の間が離れているような気がした。田上としては、こちらの方が好都合だったはずだが、あの状況に慣れてしまっていた自分の心が「寂しい」と嘆いていた。だからと言って、そのことについてなにも言うことはなかった。ただ、「明日は忙しくなるよ」とタキオンに言っただけだった。タキオンは黙って頷いていた。

 あんまり嬉しくはなかった。タキオンが、不機嫌そうな兆しも見えないし、いつも通りと言えばいつも通りだから、これと言った理由も見つからないのに、タキオンが変わって見えるのは。田上は、複雑そうに時折、チラッチラッとタキオンを見つめていた。そして、タキオンがその視線に気付く度に田上は目を逸らすのだが、何回か繰り返すとタキオンも確実に自分の事をトレーナーが見ていることに気が付いたようだ。少し不機嫌そうになって聞いた。

「君、私の事をさっきから見ているようだけど、何の用があって私を見ているんだい?」

「それは……、今日のタキオンが…何か違うから」

「違う?何がだい?」

「何と言うか…。大人になったと言うか…」

 そこでタキオンは田上の言いたいことに気が付いたようだ。ああと相槌を打って言った。

「私が君にくっついていないことだね?…別に、君としてはいいじゃないか。私が離れていることくらい」

 田上は、さらに複雑そうな表情を見せた。

「なんだい?その顔は。…だってそうだろ?君は散々私に離れろ離れろ言ってきたんだ。そこで私も昨日の事で堪忍袋の緒が切れたね。もう君から離れることに決めた」

「昨日の事?」

 田上は、何のことだか分からずに聞いた。

「昨日の夜のことだよ。君、私と話すために布団に入っておきながら私の話を全然聞こうとしなかったじゃないか。追い出そうかと思ったくらいだよ。…けど、それは私の温情でやめた。……だけどね、私はそれで傷ついたよ。私が何か言えば眠そうに生返事。起きろと言っても眠そうに生返事。これでは私は何に話しかけているのか分からないよ」

 それを聞くと田上も昨日のことを思い出して、申し訳なさそうに「ごめん」と言った。

「ごめんで済むんだったら、私はこんなに怒っていないね。君は!私の心をないがしろにしたんだ。心と心が通じ合っていると言ったのがバカみたいだよ。私は何だい?君のために踊る道化師かい?それとも可愛い可愛いストリッパーかい?」

「ストリッパーなんて言葉、どこで聞いたんだよ」

 田上が呆れて言った。

「この際、そんなことはどうでもいいし、例えなんざそれでなくてもいい。肝心なのは、君が私を何だと思っているか、だ!私は、君のちっちゃなちっちゃな可愛いタキオンとでも思っているのかい?」

 ここで幸助がタキオンの怒りに気が付いて見ていたスマホから顔を上げた。すると、タキオンは「こっちを見るな」と声を荒げたから、幸助が苦笑いを浮かべながら再び自分のスマホを眺めた。しかし、その画面には集中はできなかったようだ。終始、タキオンたちの会話に耳を澄ませていた。

「いや、俺は、別にあの時は眠たかったからで…」

「言い訳なんて聞きたくないね。私はあの時何回も君に話しかけたんだ。それなのに君は、生返事ばかりで眠いの一点張り。もう眠いなんて言葉は聞きたくない!」

「…いや、俺はお前のことは……、お前のことは…」

 田上は言葉を言うのに躓いた。本当の事を言えないのは分かり切っていたし、例え本当の事を言ったとしてもこの場がますます拗れる事だけは分かっていた。だから、タキオンの顔を見ると、怒っている赤子に仕方なく謝るように言った。

「ごめん、タキオン。別にお前の事を怒らすつもりはなかったんだ。取返しならつくんだから、ほら、ね?今日もたくさん遊んであげるよ」

 田上はそう言って、手を微かに広げた。タキオンに許してほしいつもりで、少し手を広げて抱きつくのを無言で許可した。タキオンもそれに気が付いたようだ。座っている二人がぎこちなく抱き合おうとすると、タキオンが急に田上の右肩と後ろ頭を掴むと首筋を広げさせて、そこにガブッと噛みついた。田上の首に鋭い痛みが走った。それは十秒以上続いた。幸助も突然の出来事に驚いて見ていたが、何をすることもできずにただ呆然と見続けることしかできなかった。

 田上は、痛みで声を発することもできずに、ただもがくように後ろに倒れただけだった。それでも、タキオンは文字通り食らいついてきた。タキオンとしては血が出るまでするつもりだったが、口を離した後、噛み後しか残らなかったのを見ると、――私もまだまだ甘いな、と思って立ち上がった。そして、寝転がってる田上に言った。

「あんまりウマ娘を舐めるんじゃないよ。その気になれば噛みつくんだ。君なんかが適当に相手をしていい代物じゃない。そんなつもりで私と触れ合おうというのなら、君との契約を即解除するつもりだ。……そして、こんな家、君がいる以上いるつもりはないよ」

 そう言うと、タキオンはまだパジャマであることにも構わず、隣の部屋にあったキャリーケースを持つと家の玄関に立った。そこで父が心配そうにタキオンに話しかけた。

「俺の息子が何かアグネスさんの気に触ることでもしたのか?」

「いえ、ほんの喧嘩です。…短い間でしたがお世話になりました。こんな急に帰ることになって、お礼も口でしかできずにすみません」

「いやいや、そんなことはいいんだけど…」

「私の分の食品もたくさん買い込んでいたでしょう?少ないかもしれませんがこれを…」

 タキオンはそう言うと、キャリーケースの中から財布を急いで取り出し、金を出した。

「いやいや、それは受け取れない。アグネスさんが持っていてくれ。…どうしてもだ」

 タキオンが迷うような顔をしたので、賢助は最後にそう念を押した。そして、付け加えた。

「アグネスさん、逃げるなら早くした方がいい。圭一は、満足できないことがあったら、必ずそれにケリをつけに行きますよ。その結果が、不幸でも幸でも」

 その言葉を聞くとタキオンもニヤリと笑った。

「ええ、私もそのことは承知です。あなたほどではないにしても、約二年間傍で彼を見てきましたから」

 ここで田上が引き戸を引く音が聞こえた。

「彼が来たようです。では、また会うことになるかもしれませんが、また会わないことになるかもしれません。その時は、私の顔を忘れてやってください」

 タキオンはそう言うと、ドアを開けて走り出した。キャリーケースはお金とスマホだけを持つと、玄関の近くに置いて来た。どうせ、トレーナー君はトレセン学園に所属しているトレーナーなのだから、自分がこのまま帰ってもあの人がこれを持ってくるだろうと考えたからだ。だから、走るときに必要のないキャリーケースは置いて出た。

 スマホとお金は、もし電車に乗るタイミングがあれば必要だと考えた。スマホがなければ、現在地の確認が難しいし、お金がなければそもそも電車に乗れない。自分の足で帰ることも考えたが、電車で三時間かかる場所から帰るのはさすがに無理がありそうだ。タキオンは、そう思って、まずは素直に駅の方角ではなく、昨日行った公園の方に決めた。こっちの方が、田上を混乱させることができそうだと考えたからだ。

 タキオンは、駐車場までの階段を降り、道に出ると、右に舵を取った。

 

 田上は、暫くの間、何が起こったのか分からずに首の痛みに呻いていたが、段々と意識を取り戻せて来ると、タキオンが獣のように素早く動いて自分の首筋に食いついたのを思い出した。しかし、その後に立って言っていたことは思い出せなかった。痛みに涙が出そうだったからだ。それ程に痛くて、冷や汗もかいた。その冷や汗が、噛まれていたところを押さえていた手を濡らすと、いよいよ血が出てきたのかと思ったが、そうではなかったことが自分の手を確認して分かった。そうすると、首筋の痛みもいくらか薄れたように感じた。それでも痛くて、田上はよろよろと立ち上がると、タキオンが立ち去ったはずの玄関に続く引き戸に手をかけた。

 その時に何か話し声が聞こえ、タキオンが話しているであろうことが分かった。その声の調子は先程のものとは打って変わって、落ち着いたものだったので田上は嫌な予感がした。引き戸を開け切ると、もう玄関の扉が閉まるところで、タキオンの尻尾の先が見えたような気がした。田上は、父に聞いた。

「タキオン、なんて?」

「お前に追いかけてほしいってさ」

 賢助が、苦笑しながら言った。それを聞くと、田上の嫌な予感は的中した。タキオンは、今度は街の中で鬼ごっこをやろうというのだ。秋頃にも運動場でこういうことをしたような気がしたが、今度はその比じゃない。タキオンは田上に余裕を持って距離を取るだろうし、その逃げる範囲も知れたものではなかった。行こうと言えば、隣町にも余裕で行けるのだ。田上は、はぁと大きなため息をついた。すると、賢助がまた苦笑をしながら言った。

「そんな顔をするなよ。お前にチャンスをくれてやるって言ってるんだぞ」

「……そうだろう。…そうだろうけど、実際にはそうじゃないんだ。あいつは、俺があいつを捕まえれたら許す気でいると思う。もしかしたら、追いかけ始めた時から許す気かもしれない。…でも、同時に捕まえられなかったら許す気はないんだ。今度はそうだ」

「今度?前もそんなことがあったのか?」

 賢助は、靴を履いている息子にそう聞いた。しかし、田上はもう父の話など無視した。一刻も早くタキオンを見つけて捕まえなければいけない。そう思ったからだ。

 田上は、靴を履いて外に出ようとしたが、首の痛みに呻きつつ後ろを振り返った。暖かそうな炬燵と明るい光が引き戸の奥に見えた。あそこにいれば、タキオンなんかに煩わされることもなく気持ちよく過ごせるだろうと思った。しかし、父の声で我に返った。

「圭一!女の子を待たせるつもりか?」

 田上は、そう言った父の顔を見て言った。

「うるさい!そんなことを言うやつは消えちまえ!」

 そう言うと、田上は思い切りドアを開けた。そこでキャリーケースを見た。それで、少なくともタキオンには帰る意思があるのかもしれないことを読み取った。だが、その意思に喜ぶことはできない状況ではあった。

 田上は、乱暴にキャリーケースを家の中に放り込むと、その中に財布もスマホもないことを確認して、外に出て行った。タキオンは、もうどこにいるのか皆目見当がつかなかった。しかし、田上は探さなければならなかった。愛する人を。愛しい我が子を。

 

 田上は、タキオンの目論見通り、とりあえず駅の方に向かう他なかった。キャリーケースの中に財布がなかったということは、お金を使う何かをする予定があるということだ。――いや、ないかもしれない。田上は、心の中でそう否定した。

――お金なんて持ってるだけで役に立つものだ。俺から逃げるのにも大いに役に立つだろう。……くっそ!もうどうすればいいんだよ。なんでこんなに寒いんだよ。

 田上も急いで出てきたので、靴下も履いていなかったし、格好も寝巻のままだった。灰色の長ズボンと黒の袖の長い服を来ていた。特に、足が寒かった。靴を履いていると言っても、靴下を履いていないから実質裸足なのだ。かじかむ足を靴の上から温めようとして、時折立ち止まってはつま先を揉んでいたが、一向に暖かくなる気配はなかった。

 そして、そのまま駅まで行った。駅には少しの人の移動があって悪い予感がした。田上は、急いでこの前見た元気なおじさんを探した

 おじさんは、回収した切符を片手に人の波を見つめて去っていくのを眺めていた。そのおじさんに田上は慌てて話しかけた。

「も、もう電車って行きましたか?」

「え?ええ、行きましたよ」

 この頃には、もうおじさんは田上のことを忘れていて、知らない寝間着姿の人が急に話しかけたのだと思った。

 田上はなおも言葉を続けた。

「そ、そこに女の子はいませんでしたか?白いパジャマを着た女の子です。ウマ娘です!みませんでしたか?」

「ウマ娘?…多分見ていないですね。白いパジャマを着てたんでしょ?…それなら、猶更分かりそうなものだけどね」

「ほ、本当に見てないと断言できますか?」

「う~ん、降りる人は多かったけど、乗る人は四,五人だったからね。多分、見てないと思うけど…。う~ん…」

 そう言って、おじさんは答えを曖昧にした。おじさんの言い分だと、断言はできないけど、ほとんど見なかったと言っていいのだろう。田上は、その言葉に少しだけ心を躍らせたが、すぐに自分を抑えると「ありがとうございます」と言ってその場を離れようとした。その時におじさんが「その格好だと寒いよ」と呼びかけてきたのだが、再び「ありがとうございます」と言ってその場を後にした。

 

 次に行くべき場所は、田上が設定したタキオンが走るはずの道だった。とりあえず、この町でタキオンが知っていそうな場所にあたるしかなかった。もう一つには、昨日行った公園があるのだが、それは走る道に比べると駅から遠かったし、田上としては長くて面倒な走る道の方を先に片付けて、それから公園の方に向かう事の方が気が楽だった。しかし、走る道は走る道で思ったよりも簡単には行かず、さらに度々立ち止まってかじかむ手足を温めようとしているのだから猶更時間がかかった。八時ごろに家を出た田上が、走る道を往復してその途中にあるショッピングモールの所の交差点に戻ってくる頃には、十時を回っていた。

 寒さと疲れと焦りで頭がおかしくなりそうだった。そのうち、タキオンは、本当は電車に乗ってもう帰ったんじゃないかと思った。おじさんが見ていないと言ったのは自分の希望的観測でしかなく、本当のところはもう電車に乗って遠く離れた所に行っている。そして、自分との契約解除を進めようとしている。その考えが頭をよぎると吐き気がこみあげてきたが、何回か嗚咽をしたのみで何も出てくることはなかった。

 どうしようもなく寒くなった。もうかじかむ手足に感覚はなく、後は必死に動いている心臓の音だけが感じられた。もう全てを投げ捨てたかった。家に帰って暖かい炬燵に入って、タキオンのことなんて忘れていたかった。だけども、タキオンもまたこの寒い中で自分を待っている可能性があると思うと、せめて公園までは行かなければならないと思った。だから、田上は、家に帰る方向には舵を取らず、その交差点からそのまま公園の方に行ける道に舵を取った。

 そこで、小雨が吹いてきた。この寒いのに雪にはならず、ただ雨となって田上の体に吹き付けた。まるで、霧雨のように細かい雨だった。それが田上の肌を濡らし、服を濡らした。

 しばらく歩くと田上は命の危機を感じるようになった。細かい粒ではあるのだが、確実に田上を濡らしていき、やがては体の芯までも凍らせようとしてきた。公園まではまだ長かった。そして、その場所にもうタキオンはいないのかもしれないと思うと、余計に足取りは重くなった。長い長い道のりだった。寒さに頭は朦朧として、体の表面を伝う雨も段々と感じることができないように感じられた。

 自分の吐く息は、もはや虫の息だろうということが感じられた。浅く息をして、時折、ゴロゴロと妙な音が喉から聞こえてくる。自分の体が異常を来たしていて、早く家に戻れと頭の中で別の声が叫んでいるのが聞こえた。しかし、一目だけでも公園を見てから…と思うと、足は死ぬことを恐れずに前に進みだした。

 田上は、もう自分の意思で歩いているとは言ってはいけないだろう。その心にあるのは、タキオンの事と暖かい炬燵の事だった。早く、早く帰るために田上は足を動かした。目の前が霞んでいくような気がした。しかし、それも公園をしっかりと見なければ、という思いで、一時は回復した。だが、一時だけだ。その後はもうダメだった。田上は、十歩歩くごとにうずくまって、やがて、七歩歩くごとにうずくまって、そして、五歩歩くごとにうずくまった。そこで、遠くの方に人影が見えるような気がした。その人は、何かを叫んでいたが、もう田上には何も聞こえなかった。

 気が付くと、家の風呂で服を着たままタキオンと一緒にお湯に浸かっていた。

 

 それから遡ること三時間前。タキオンは、公園に来ていたのだが、田上がここまできたらどうしようかと考えていた。逃げるルートとしては、駅で電車に乗るか、この町をひたすら逃げ回るかのどちらかだった。だが、タキオンの心の上では、そのどちらも定まってはいなかった。やっぱり、田上が来たらもうそれでおしまいにしてしまおうかと考えたのだ。――だけど、トレーナー君は絶対に来るだろう。そう考えるとタキオンは自身のトレーナーにこの試練を課した意味がないように思えた。タキオンは今複雑な心境の中にあったのだが、田上と本気で別れたいのかと問われれば、それはどちらでもあると答えるだろう。別れたくないし、別れたい。自分を赤子のように扱ったことは、今でも許せなかった。トレーナーの心の奥底が見えたような気がした。同時に、トレーナーの心はもっと奥が深いんじゃないかとも思った。何も心にあるのは、タキオンの事だけではないだろう。その別のものが、今回タキオンを田上に赤子のように扱わせたのじゃないかと思う。だが、そうは考えても、タキオンの心は未だに決定しなかった。だから、田上が来るまでは待とうと決めた。そして、その後のことは、公園に来る時の田上の顔を見て決めようと考えた。

 だが、田上は待っても待っても来る気配はなかった。このことは、タキオンも予期していたことではあった。街は広いのだ。道はいくつもあるのだ。そのどれもを探しているとなると、到底一日では済まないだろう。ただ、タキオンとしてはもう少し早く来てもいいのじゃないかと思う。この公園に来たのは、一番記憶に新しい昨日の出来事なのだ。幾ら駅に行ったとしても、もうそろそろ来てもいいのじゃないかと思う。すると、タキオンの頭に一抹の不安がよぎった。

――トレーナー君は、まさか私が電車に乗ったと思って後を追ったのでは?

 そう思うと居ても立っても居られなくて、タキオンは公園のベンチから立ち上がった。そのベンチは、滑り台の近くにあるものだ。だが、何の気なしに砂場を見やると昨日の子たちが作ったであろう砂の山が見えて、立つのをやめた。もう一回ベンチに座るとこう考えた。

――別にトレーナー君がこの街にいなくたって、私は逃げ続けるよ。何年かかって、トレーナー君が私のことを忘れようとも私は逃げ続ける。そう決めたんだ。今更、この想いを捩じ切るつもりはないぞ。

 そう思うと、ベンチを座り直し、砂の山を見つめ続けた。時折、近くにある滑り台やブランコや鉄棒を使って遊んだりもした。しかし、そのどれもが空しいものだった。自分のために作られたわけではない低い鉄棒で逆上がりをしてみたり、もう成長して大きくなった肩や尻が滑り台でつっかえてみたり、すぐに地面に足がついて全然漕げないブランコに乗ってみたり、…あんまり楽しいものではなかった。

 そのうち、小雨が降ってきたので、タキオンは木の下のベンチの方に避難した。葉が全然ついていないので碌な雨宿り場所ではなかったが、それでもないよりはマシだった。タキオンは、まだ体力の持つ限り田上を待つ気だった。

 

 しばらくすると、タキオンもさすがに命の危険を感じるようになった。だが、まだ待つ気ではいた。傘を差した幸助が歩いてくるまでは。

 タキオンが、ベンチに座って震えていると、遠くから傘を差した人が歩いてくるのが見えた。一瞬自身のトレーナーかと思って、大声を上げそうになったが、それは堪えた。例え、トレーナーだったとしても喜びの歓声を上げるわけにはいかなかった。タキオンはうつむいてできるだけその人を見ないようにした。

 すると、その人の足音が段々と近づいてきて、タキオンの座っている前まで来るのが分かった。それでも、タキオンは顔を上げなかった。

 その人は、暫くの間戸惑ったように、タキオンを見つめるばかりだということが本人にも分かった。しかし、それでも何も言わず、ただサーッと流れる雨の音だけが聞こえてきた。

「…タキオンさん?」

 その人がようやく話しかけてきたとき、タキオンは物凄く複雑な心境に陥った。目の前にいる人が幸助だと気が付いたからだ。タキオンは気を悪くしてすぐには答えなかった。しかし、幸助がもう一度「タキオンさん?」と声をかけてくるとさすがに可哀想なので、ノロノロと顔を上げた。

「…なんだい?」

「ああ、よかった。生きてるね。……圭一は?」

「そんな人知らないよ。一体誰のことだい?」

 タキオンはすっとぼけたが、幸助が困ったように笑ったのを見ると、面倒くさそうに言った。

「まだトレーナー君は帰っていないのかい?」

「うん。さすがにあの格好で傘も差さずにこの気温は無理があるよ」

「……」

 幸助がそう言うと、タキオンは押し黙った。自分のせいだと思ったが、それを認めたくはなかった。しかし、じっとしてもいられなくてタキオンは立ち上がって、八つ当たりに幸助に怒った。

「わかったわかった。私が探せばいいんだろ!いっつもこうだ。トレーナー君は足手まといの愚図なんだ。ドジで阿保で間抜けなんだ。ああ!くそ!イライラする。なんで私が、彼を探す側に回らないといけないんだ」

 タキオンはそう言って起こっていたが、幸助が口を挟んだ。

「お前も家に帰って風呂に入れよ。とりあえず、お前の体も温めないと話は始まらないぞ。圭一は俺が探すから安心しろ。別にお前のせいじゃない」

「いや、完全に私のせいだね。私がわざわざこんな日に外に出て、トレーナー君を追いかけさせたからこんなになったんだ」

「あんまり自分を責めるな。…ほら、行くぞ」

 そう言って幸助がタキオンの手を軽く引っ張ろうとしたから、尚の事タキオンは怒った。「私の手に触るな!」

 すると、その言葉にカチンときたのか、幸助も少し怒り気味にこう言い返した。

「一体お前は何なんだ!圭一の彼女でも何でもないんだろ!それなら、圭一の事なんか振り回さないで大人しくしてろ!」

 突然の幸助の怒りにタキオンはたじろいだ。しかし、まだ反論する元気があるようでこう言った。

「…私は、…私は、トレーナー君の恋人でも何でもないけど…、何でもないけど…」

 その言葉は尻すぼみになって言った。

「じゃあ、大人しく俺についてこい。お前ら二人は、俺の癇に触るんだ。いっつもイチャイチャしやがって、それでいて、恋人関係じゃないと抜かす。ほんっとうに腹が立つ」

 タキオンは、少しむっとしたが、もう反論することはできずに幸助と少し距離を取りながらその傘の中に入っていった。

 

 公園の外まで歩いて行ったとき、正面の道が見えた。その道はうねっていて、すぐに先が見通せなくなるのだが、タキオンは何かを見たような気がして立ち止まった。幸助は、それに気が付かないで三歩歩いた。

「おい、何してるんだ?」

 幸助が少しイラついたように言った。

「……いや、気のせいかもしれないけど、何かを見たような気がするんだよ。…何か」

 タキオンが、不思議そうにそう言って、その道の先を見ようとしていたので、幸助も仕方なさそうに言った。

「その道の先に圭一がいなかったら、帰ろう。どっちみちお前も圭一も危ない」

 幸助はそう言って、タキオンを傘に入れて、公園の正面の道を歩き出した。しかし、その道を歩いても何も見つからないように思えた。二人は少し歩いて、何もない十字路に出た。この道は相変わらずうねっていて先が見通せなかった。

「この道の先だけ見て帰ろう」

 タキオンが幸助にそう言った。幸助も頷いたので、二人は公園の正面の道を十字路に出てもまっすぐ歩いて、見通しのきくところまでやってきた。

 すると、一見すると何もないかのように思えたその道の先にタキオンは何かを見つけた。うずくまって震えている生物だ。タキオンはその生物に見覚えがあるような気がした。そのことを頭で理解する前にタキオンは駆け出した。

「トレーナー君!!!」

 そう叫んで駆け出すと、幸助を見る見るうちに置いて行って、田上の傍に駆け寄った。

「トレーナー君どうしたんだ?…ああ、答えてくれトレーナー君」

 タキオンはもう泣きだしそうになっていた。少ししてからようやく幸助が追いついた。タキオンは、必死に田上の手をさすりながら温めようとしていた。

「ああ、聞いてくれ、幸助君。トレーナー君が、圭一が冷たい。なんでこんなに冷たいんだ?死んでいないよね。起きてくれトレーナー君」

 タキオンはそう言って、田上の頬を叩いた。すると、田上の意識が一時的に微かに戻ったようだ。タキオンの声を聴いてこう言った。 

「タキオン?そこにいるのか?」

「ああ、いるとも」

 タキオンは必死になって言った。まるで自分と話していることで田上を現世に繋ぎ止めようとしているかのように。

「よかった…。契約は、…解除はしないよな?」

「そんなこと聞くな!君は今虫の息なんだ。そんなこと気にしている場合じゃない。君の命がかかっているんだぞ!ああ…。ああ!どうしたらいい幸助君?」

 タキオンは何が何だか分からなくなって幸助に聞いた。幸助もまた、混乱しているようだったが、タキオンよりはマシだったようだ。

「きゅ、救急車だ。救急車を呼ばなきゃ」

 その声を聞くと、タキオンも幾らか冷静になった。

「いや、ここに救急車を呼ぶのは無謀だ。雨に打たれ続けながら待つなんてバカのすることだ。家だ!家に呼んでくれ。私が、この子を運ぶ!」

 タキオンはそう言って田上を背負おうとしたが、自分の手がかじかんで上手くいかないようだ。何度も何度も落としそうになって、ようやく幸助が手伝って自分の背に乗せることができた。幸助は、自分が雨に濡れるのも厭わないで、タキオンを手伝った。

 そして、タキオンが背に兄を乗せるのを確認すると言った。

「俺が、救急車を呼ぶから構わず行け!死なせちゃだめだぞ!」

「分かってる!」

 タキオンはそう叫ぶと、田上を背負って走り出した。ヒールを履いていたし、パジャマが水を吸い込んで重たかったし、何より田上を運んでいるからいつもの様なスピードをタキオンは出せなかった。それでも、足の回る限り、できるだけ速く走った。その様は、まるで小説の中の主人公のようだった。

 タキオンは、田上に懸命に話しかけながら走り続けた。自分が話していないと田上が死んでしまうような気がして恐ろしかった。

「トレーナー君、生きるんだよ」

 タキオンは走りながらそう言った。

「生きていないと何にも成し遂げられない。夢も希望も、生きていないと何もないんだ。死んだらそれまでなんだよ。生きてくれ。自分の生にしがみついてくれ。私だ。私が君の生きる綱だ。私に懸命にしがみついて、生きているってことを実感するんだ。私も冷たいかもしれないが、君よりずっと暖かいだろ?君ときたらまるで死人みたいだ。…いいや、こんなことは言いたくない!生きてくれ!頼む!お願いだ!」

 最後の方は悲鳴のようになったが、田上はその声を聞くと目を覚まし微かに言った。

「タキオン…」

「なんだい!」

「俺は、あんまりいい男じゃなかったけど、お前の支えになれたのかな?」

「なれたさ!十分なってる!これからもだよ!」

 そう言うと、田上が微かに笑う吐息がタキオンの首筋にかかった。それに、「くすぐったい!」とタキオンは叫んだ。また微かに田上が笑った。そして言った。

「あんまり俺にこだわらなくても代わりはいる。俺なんか、バカで甲斐性なしの仕方がない奴だから、お前に飽きられてもしょうがないけど、お前は幸せになってほしい。いつか俺を捨てて、孤独になったとしても、いい男を見つけて健やかに生きてほしい。それが、俺の幸せなんだ」

「生憎だけど、私に結婚の予定は当分ないね!」

 タキオンがそう答えると、田上は口をへの字に曲げたが、タキオンは気が付かなかった。ただ、もうひと踏ん張りスピードを上げるとこう言った。

「私の結婚式に君も招待するんだから、生きるんだ!生きてまた笑うんだ!死ぬなんてしょうもないこと許さないよ!」

 その後もタキオンは田上に一生懸命話しかけながら、自分も足を動かして懸命に家まで走った。そのおかげで、家には案外早く着いた。

 賢助が、驚きながら、タキオンたちを出迎えた。タキオンは、自分の息を精一杯整えながら言った。

「トレーナー君が危ない。風呂場に…だけど、ゆっくりと…」

 そう言いながらも、ふらふらしながら、田上を風呂場まで運んだ。賢助は、終始足手まといだった自分を恨んだ。息子の措置はタキオンが取った。まずはゆっくりとぬるいお湯で田上の体を温めた。タキオンは慎重に慎重に温めながら田上の様子を見ていた。上半身を裸にして、その筋肉のない薄い胸を触りながら、タキオンは泣きそうになったが、ぐっと堪えると、田上をそのまま風呂に入れた。

 そして、ようやく落ち着いたようにタキオンが言った。

「……うん、心臓にショックもいっていないようだ。脈も正常、後はトレーナー君の意識が戻るのを待つだけだ」

 それから、数分後にトレーナーは目を覚ました。ゆっくりと目を開け、まだぼんやりとした様子だったが、タキオンは喜んだ。自分も体を温めるために風呂に入っていたので、トレーナーが目を覚ました時は、喜びのあまり抱きついた。そして、自分が噛んだ痕に気が付いた。それに少しの申し訳なさを感じたから、軽く唇を押し当てて、トレーナーの顔を確認した。ここがどこか、あまり理解していない様子だった。

 その時、ちょうど救急車の音が聞こえて、家の前で止まったのが分かった。幸助はまだ帰ってきていなかった。それからは、タキオンもあまり覚えていない。記憶にあるのは、絶対にトレーナーとは離れたくなかった想いと救急隊員の驚いた顔だけだった。



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七、素敵なディナー(前編)

七、素敵なディナー

 

 それから、二人は驚異的な回復を見せて、病院の人を驚かせた。タキオンもウマ娘といえど、その体温は雨風に奪われて、死にかけのはずだった。病院の人が言うには、「あの状態であそこまで走ったのは奇跡に近い」とのことだった。タキオンの体も冷え切っていて、病院への入院を余儀なくされたが、それも夕方近くになればもう回復していた。だが、田上は、まだ寝たり起きたりを繰り返していて、体温も通常までは回復していなかった。診てくれたお医者が言うには、「もう大丈夫だ」と言っていた。タキオンに感謝の言葉も告げられた。

 タキオンは、誉め言葉には何の感慨も抱かない性質だったが、今回ばかりは、少し胸の奥からこみあげてきそうなものがあった。それをぐっと飲み込むと、「元々は私のせいでしたから」と答えた。お医者は、不思議そうな顔をして内容を聞こうと思ったが、代わりにこう言った。

「君たちのことは一応、トレセン学園の方にも連絡したよ。もう大丈夫だろうけど、何かあると困るから」

 タキオンは面倒くさそうな顔をした。すると、お医者が苦笑して言った。

「あんまりそんな顔しなくても怒られたりはしないと思うよ。今回のことは事故なんだから。怒る方がどうかしてる」

「…だが、トレーナー君は?監督不行届で罰せられたりはしないかい?」

「そこのところも大丈夫なんじゃないかな?もしものことがあれば、君が断固抗議してみるといい。世間は、子供の声には多少甘かったりする」

 そう言うとお医者はニヤッと笑った。

「君の行動が批判されているのをどこかの記事で見たことはあるけど、それも被害者面をしておけば案外声は少なくなるものさ」

 そして、お医者は部屋から出て行った。その後は、看護婦さんが出たり入ったりして、田上の様子を確かめてから、また静かになった。

 タキオンと田上は、同じ部屋に二人きりになった。タキオンは落ち着かなかった。田上が心配なのもあったが、起きた時田上が何と言う言葉を発するのか。

「お前のせいでこうなったんだぞ!」と言うのだろうか?それとも「もう俺はお前を諦めたよ」と言うのだろうか?

 そのどちらも嫌なことだった。早く起きて、元気になった姿を見せてほしかった。

 

 ベッドの上に座って田上の顔を眺めていたタキオンは、暫くすると乗っていたベッドから降りて田上に近寄った。その顔は、あんまり安らかとは言えない寝顔だった。眉間にしわを寄せて、唇をきつく結んでいた。どちらかと言えば、泣きそうな寝顔だろう。それとも、泣くのをこらえている寝顔と言った方が正しいのだろうか。賢助の家で散々田上の寝顔を見てきたタキオンだったが、ここまで苦しそうな寝顔を見たのは初めてだった。

 自分の言葉のせいでこんな風になってしまったのだろうか?とタキオンは考えた。自分の言葉で田上をここまで傷つけて、夢の中にまでその傷を負わせているのだろうか?

 そう考えると、鬱々とした気分になってきて、その思いを払うようにゆっくりと首を振った。だが、あんまりそれも叶わなかった。鬱々とした気分は続いてきて、夕日がその部屋に差し込んだ。 

 ベッドと田上の影が黒く伸びた。窓から見える夕日は、どこか不気味で物々しく感じた。紅いはずの夕日は、黒く濁っているように感じたし、黒く伸びる影は、タキオンを闇の世界に連れて行っていくように感じた。

 タキオンは、田上のベッドのわきに膝をついてうつむいていた。もう自分ができることはないかのように感じられた。その時、田上がもぞもぞと動いて、「誰か…」とかすれた声で言うのが聞こえた。その途端に、黒い影はただの影に戻った。夕日は、いつも通り赤く燃えていて、街を照らしていた。

 タキオンは、ゆっくり立ち上がると田上の顔の傍に行った。まだ、目は開けていなかったが、タキオンが顔を近づけると再び呻くように「誰か…」と言った。

「トレーナー君?」

 タキオンも囁くように言った。

「どうかしたのかい?どこか痛むかい?腹?足?」

 タキオンの声が聞こえると田上も安心したようだ。

「いや……、水」

 そう微笑みながら呟いた。タキオンは、傍の机に置いてあったコップを手渡そうとした。しかし、そこで田上が起き上がらないと飲めないことに気が付いた。

「トレーナー君、君が起き上らないと飲める水も飲めないよ」

 タキオンはそう言った。すると、田上がまだ目を瞑りながら言った。

「起こして…」

 タキオンは、面倒臭そうに、しかし、どこか嬉しそうにため息をついた。

「全く、君ってやつは…」と言うと、田上の頭と背を抱えながら起こしてあげた。だが、力が入らなかったのか田上は、タキオンが手を離すとまた後ろに転がってしまった。

「君、力を入れてしゃんと立たないと…」

 そう言うと、タキオンはもう一度立たせた。だが、また「いいかい?」と言って手を離すと後ろに倒れた。その顔は、目こそ瞑っていたものの嬉しそうにニヤニヤしていた。

「君、さてはわざとやってるねぇ?」

 タキオンがそう言うと、田上はこう返した。

「わざとじゃないよ。力が入らないのは本当だ。…タキオン、手を貸して」

 田上は、そう言うと布団の中から手を出した。その手を不思議そうに握ってタキオンは聞いた。

「これに何の意味があるんだ?」

 タキオンの言葉を聞くと、田上は微かに目を開けてタキオンを見てから言った。

「へへへ、暖かい」

「…とうとうイカれたか。一回死にかけて、頭がおかしくなってしまったらしい」

「そんなことないよ」

 田上は、微笑んでタキオンを見上げながら言った。

「おれは、お前の背に揺られてる時か、それともここに運ばれて眠っているときか分からないけど、夢を見たんだ。…暖かい大地の眼差しを受けている夢だった」

「…?意味が分からないぞ?」

「何と言うか、神様に包まれている気がしたんだよ。大きな大きな手の平で、人を何人も包み込めるような手。だけど、俺はその手の中に一人だけだった。一人だけで草原の上に立っていた」

「そこで何を思ったんだい?」

「ああ、タキオンの所に戻りたいなぁ…って。そこには俺一人だけだった。木も草も花も生えていて、動物なんかも寄ってきてそこら中、命から漏れ出る光で溢れていた。だけど、俺は一人だった。その動物たちは、よく懐いていて、ある種の機械的な感じもあったんだけど、とにかくよく懐いていた。そして、俺を引き留めるように袖を噛んだり戯れようとしてきた。まるで、俺を自然の一部にしてこようとしているみたいだった。だけどな。それを俺も一時は楽しんだけど、やっぱり空虚なんだ。空っぽなんだ。命はあるけど、そこに想いはない。心がないんだよ。感情はあるのかもしれない。…俺を引き留めようとしている…一番近い言葉で『悲しみ』かな?だけど、それも違うと言えば、大きく違うし、違わないと言えばぴったり当てはまるようでもある。…それは、俺の感じ方次第だったのかもしれない。

…とにかく、俺は戻らなくちゃと思った。タキオンもいるし、幸助もいるし、父さんもいるし、トレセン学園にも数々の友達がいる。そいつらの顔が思い上がった途端、母さんの顔も出てきた。母さんはどこにいるんだと思った。俺には、母さんが俺の戻りたいと思っている場所にいるとは思えなかった。…これは当然だろう。母さんは同じ場所にはいない。もうあの世に行ってしまったんだ。だけど、だからと言って俺の夢の中に現れることはなかった。…俺は、もしかしたらこれがあの世の光景かとも思ったんだけどな。そして、俺は母さんを探して歩いた。森や草木、花びらの裏を探して、母さんを呼んだ。その間に、友達もたくさんできた。鹿やウサギや熊や狼、それにちっちゃなミツバチとも友達になれた。だけど、蛇とは友達にはなれなかったな。それから、しばらく歩いていくと、俺の好きなバンド、『大きな蛇』のボーカルの木下一抹が出てきた」

「私はずっと疑問に思っていたのだけど、そのボーカルの人の名前って本名なのかい?」

 唐突にタキオンが口を挟んだ。

「いや、本名じゃない。確か…本名はあまりにもダサいから、言いたくないって言ってたな。何かのインタビューで。…で、話を続けてもいい?」

「いいとも」

「ありがとう。…それで、木下さんが出てきたところまでは話したな。それからなんだけど、その木下さんが俺に向かって言ったんだよ。――お前のいるべき場所は本当にここなのか?と。すると、俺の友達たちは怒った。熊も狼も吠えて、その人に襲い掛かったけど、その人は陽炎のようにそれを避けて俺に話を続けた。――もしも、お前の心の中に大切なものがあるのなら、それを見つけに行った方がいいぞ。そして、俺の胸を指差したんだ。すると、そこには空っぽの何も入っていない空洞があった。先は見通せなかった。そこで光を全て吸い込んでいたんだよ。そしたらな、そこで俺の友達たちが皆俺の胸の中に飛び込んできた。熊だって飛び込んできた。俺は、一瞬殺されるかと思ったんだけど、何事もなくて後ろを振り返ってみたら、俺の知ってる、と言っても顔は見たことがないたくさんの人が立ってた。…これは、俺の友達が胸に飛び込んでそのまま通り過ぎた姿だと思うんだ。だって、熊も狼も鹿もこの胸に飛び込んだら忽然と消えたからね。そして、その俺の後ろに立っていた人たちが口々にこう言ったんだ。――行かないで!――消えないで!――あなたがいないとこの世界がなくなっちゃう!――君の心がないとこの世界は終わるんだ!――あれは私たちの宝物だぞ!あの人たちの言葉は、段々と怒りに変わっていった。そして、最後にはこう言った。――そうだ!こいつを縛り上げよう。出れなくすれば、もう大丈夫だ!これより後に起こることは心配がなくなる。こいつの心があればこの世界は平和だ!そう言って、俺の方に襲ってきた。人の姿だったけど、あれは見るもおぞましい怪物の姿となって襲ってきた。人が半壊した姿の様なものだ。所々、腕がなかったり、足がなかったりしていた。そこの部分は、黒いドロドロとしたもので覆われた。嫌だった。逃げるのも嫌だったけど、それよりも森や草や花の美しかったはずのものまで黒々と変貌を遂げていくから嫌だった。俺は、ひたすらに走って森の奥から飛び出た。すると、そこでまた『大きな蛇』のボーカルの木下さんが現れたんだ。あの人はいつもつけているサングラスを外して言った。その目は閉じられていて見えなかった。

そして、言ったんだ。――道はこの先にある!得るものはあるさ!だって世界はこんなにも広いんだ!そういうと、俺の背を押した。途端に足取りが軽くなって風のように走った。後ろを振り返ってみると、もう木下さんは小さくなっていた。しかし、神々しい大きな光を放ってその怪物たちを食い止めていたのははっきりと見えた。すると、一匹のミツバチが俺のところに不意に飛んできたんだ。そして、俺の前に回り込むと、胸の中にふいっと入った。その時の俺は無謀だったのかなんなのか分からなかったが、立ち止まって後ろを振り返ったんだ。そしたら、見えたのは当然人だった。しかもよく知っている人だ。母さんだった。母さんは俺にこう言った。――私のちっちゃな坊や。下りてきなさい。…俺が走っていたのは少しの上り坂だったからね。そして、また言った。――私の可愛い坊や。いい子だから下りてきて。これは坂の話にしては変な話だよな。木の上に上っていたならまだしも、俺は坂を上っていただけなんだ。…まぁ、俺はその声を聞くと堪らなく嬉しくなったよ。だけど、同時にお前、タキオンのことも思い出したんだ。俺は言った。――俺は、タキオンの所に帰らないといけないんだ。母さんダメだよ。そっちにはいけない。すると、母さんは一歩詰め寄ってきた。――いいから。私の可愛い坊や。…少し怒っているみたいだったな。――坊や。愛しい愛しい坊や。あなたが全てなの。私の全てなの。ここで俺は、この母親が絶対に偽物だということに気が付いた。母さんは俺が全てなんてことは言わないからな。それに気が付くと、同時にいろんなことが起きた。その母親は小さな黒いミツバチに変わり、そこにさっき友達になれなかった蛇が出てきた。そして、そのミツバチをパクリと食べた。すると、大きな叫び声が聞こえて、衝撃波の様なものが走ったし、眩い光も起こった。まるで、ゲームで最後の敵を倒した時みたいだったな。そして、それがしばらく続いたので終わるまで待つと、蛇は賢い物を言いそうな顔でこちらを見てきたけど、何も言わなかった。ただ、ふんと鼻を鳴らすと俺が今来た道に消えていったんだ。これは、タキオンみたいだったな。生意気な感じがよく似てる」

 そう言うと、タキオンはむっとした顔をしたが、何も言わずに話を続けさせた。

「そして、俺は石畳の街道を歩いて行ったんだ。もうなにもない。ただ、自分の足音に耳を澄ませて歩いた。そして、ようやく終点に辿り着いたんだ。終点は街道がそこで途切れた崖だった。先がボロボロとしていて、踏む場所を間違えれば落ちていきそうだった。それから、俺はその崖の先に自分の心を見つけた。空中に浮いていたよ。なんだかよくわからない綺麗な紫色の光の粒みたいな物が寄り集まっていてできていた。だけど確かにそれは俺の心だった。俺は、それに触れるのかすら分からなかったけど、とりあえずそれに飛び込むしかなかった。えい、えい、ってね。怖かったよ。それを掴めなかったらどうしようかと思った。だけど、結果は大丈夫だった。光の粒に触れるとそれは俺の手にまとわりついてきて、一個の大きなボールとなった。俺は、それをしっかりと握ると胸の中にはめ込んだ。風がビュービュー鳴ってやかましかったけど夢はそれで途切れた。…いつ見た夢だったんだろう?描写的には、生死の間を彷徨っているようだったけど…」

 田上は、そう言うと身を起こしてタキオンを見た。タキオンもまた田上を見つめ返した。

「私は、……その夢が話す内容がとても面白いことのように思うけど、…今日のところは頭を使うのをやめないか?私は…、私は…、君が起きていてくれるだけで嬉しくて」

 タキオンは、しおらしい淑女のように田上を見つめた。夕日を顔に受け眩しそうだった。田上は、そのことに気が付くと言った。

「カーテンを閉めよう。電気をつけよう。ここはどこだ?病院であってるよな?」

「ああ」とタキオンは頷くと、カーテンを閉めに窓辺に歩いていった。最後に名残惜しそうに夕日を見つめると、カーテンをシャッと閉めた。

 その日の夜は、田上がもう起きていることに驚かれた。賢助も幸助も今日のところは碌な話はできないだろうと、病院のロビーで待っていたそうなのだが、田上が起きたと聞くとこちらもやはり大きく驚いた。そして、病室で賢助が言った。

「よくやった。お前は男だ。命の糸を何とか繋ぎ止めた」

 そう言うと、ニコニコ笑っていた。幸助も嬉しいようだったが、何も言わなかった。ただ、面会時間が過ぎて病室を出て行くときに最後に言った。

「お前が生きてるのは、タキオンさんが一生懸命運んだからだぞ。そのことに感謝してもしつくせないくらい感謝しろよ」

 およそ幸助らしくない声のトーンと言葉だったが、田上はその言葉に頷いた。そして、タキオンの方を向くと言った。

「改めて礼を言うよ。命を救ってくれてありがとう」

「…よしてくれ、なんだか気持ちが悪い。私は君のためにやったんじゃない。君が死んでほしくないから運んだんだ。私の勝手な感情だよ」

 タキオンは、面倒くさそうにそう言って、ため息をはいた。

「幸助君も余計なことを言わないでくれたまえ。この子はすぐに真に受けるんだ。あんまりいろんなことを吹き込むんじゃないよ」

 タキオンにそう言われると、幸助は嬉しそうに笑って、「了解」と言った。そして、部屋から出て行った。その後には、訳も分からない幸福感が部屋を包んだ。皆が笑顔になるような幸福感ではなかった。ただ、今にもむずむずと笑いがこみあげてきそうで、一度誰かが突けば、笑いが爆発してしまいそうな幸福感だった。

 タキオンは、ベッドに座りながら言った。

「……本当に君が生きていてくれて助かったよ」

「…何でだ?」

「だって、私の目の前で君が死んだとあったら、罪悪感が一生付き纏うだろ?あの時こうできたんじゃないか?あの時、あんな話をしなければよかった。後悔しても意味のない後悔ばかりを繰り返すことになる」

「それもまた一興じゃないか?」

 そう言うと、タキオンは面白い発見をしたという顔で言った。

「どの口がそう言うんだい?もし私が君の目の前で死んだとあったら、君もまた自分のことを一生責め苛むだろう?」

「…いいや、それも一時の名残惜しさに過ぎないね。十年後には忘れているかもしれない」

 田上は、そう言って母の顔を思い浮かべた。タキオンもまた同じことを思ったようだ。こんなことを言ってきた。

「それでは、君の母親はどうなんだい?…あんまり答えたくなかったら答えなくていいけど、君の母親のことを忘れられるというのかい?」

「…」

 田上は、押し黙ってゆっくりとタキオンを眺めた。あんまり長い時間眺めたので、タキオンもじれったくなってこう言った。

「分かった、分かった。すまない。この話はしたくないんだな?ならば、謝るよ。すまない。だから、そんなに見つめるのはやめてくれ」

 そう言われると、田上はふっと微笑んだ。

「いや、話したくないわけじゃない。ただ、タキオンと別れるのはいつになるんだろう?と思って」

「私と?」

 タキオンは笑った。

「貴重なモルモット君だからな。…そうだなぁ、私が、君の言っていた『いい男』を見つけるまでは傍を離れさすわけにはいかないな」

 そう言うと、田上は寂しそうに笑ったが、タキオンはちょうど欠伸をしていて、それを見ていなかった。

 欠伸をした後、タキオンは言った。

「私も疲れたみたいだな。明日に備えるために、早く寝よう。…病院食はいつだ?」

「…さぁ?もうすぐ来るんじゃない?」

 その言葉の通り、これの五分後には夜食が運ばれてきた。タキオンは、量が少なくて不満そうだったが、田上は黙って食べた。考える事が次々に湧いてきた。あの夢の事だったり、タキオンに運ばれている朦朧とした意識の中の事だったり、いろんなことが湧いてきたが、結局は上手くまとまらずタキオンの不平不満を聞くだけだった。

 なんだか、今日のタキオンは文句が多かった。「あー、寒い」だの「この味噌汁、熱っ」だの、子供のように不満を垂れ流していた。そして、田上と目が合うと嬉しそうにニコニコした。田上は、その笑顔を見て複雑な気分になった。しかし、夜になると、体が力を取り戻そうと田上を強制的に寝かせた。そのおかげで次の朝には、田上はすっきりと目覚めることができた。タキオンもそうだったようだ。

 元旦は散々な目にあったが、二人ともそんなことは頭の中になかった。ただ、お互いがお互いを助かってよかったと思っているだけだ。

 

 二人は朝になると検査を受けたが、特に引っ掛かることはなかったようだ。なぜか知らないが、風邪をひくこともなく二人は復帰した。これには、医者の方も首を傾げていたが、タキオンによる田上の奇跡的な救助を目の当たりにすると、そういうこともありえるのでは?という考えになってしまった。

 タキオンは、医者と会うたんびに奇跡奇跡言われるので機嫌が悪くなってしまった。機嫌が悪くなってからは田上の傍を離れようとしなかった。田上もこれには大いに困ったが、話し相手ができてちょうどよかったとも言える。ただ、タキオンが話し相手に適任だったのか?と問われればそうではなかっただろう。元々二人とも自分から話す方ではないのだ。田上としては、聞き役として誰かと話をしたかったのだが、タキオンは用がないときは話すこともしないので、そういう相手としては不適任だった。

 ちょうどその時、タキオンのスマホに電話がかかってきた。見ると、自身の母からだったようだ。しかもテレビ電話をしたがっていたようだ。

「トレーナー君、君も当然一緒にするんだろうね?」

 テレビ電話を面倒臭がってか、タキオンがそう言った。田上は、暫く考えた後、頷いて少し体勢を整えた。

 タキオンは、隣のベッドから離れると田上のベッドに座り、田上に近寄った。しかし、二人で見るはずだったスマホの画面を天井の方にかざすと、田上に言った。

「面倒臭い母親だから、少しくらい混乱させてやった方が身のためだ」

 そう言うと、通話開始のボタンを押した。

『もしもーし、タキオン』

 画面の見えないスマホから調子のいい声が聞こえてきたが、次の瞬間には疑問の声に変わった。

『タキオン?…何これ?どこ?…もしもーし、タキオン。いるんでしょー』

「…はい」

 タキオンは、やっとスマホを天井にかざすのをやめて自分の顔が見えるようにした。田上は、無理にその画面に入りたいとは思わなかったので、そっと後ろに身を引いた。タキオンは気が付いていなかったようだ。自分の家族と電話をしていた。

『タキオン、大丈夫?タキオンの方は大丈夫って聞かされてたけど、田上さんの方は?』

「元気だよ」

 そう言って、タキオンは後ろを振り返ったが、そこには誰もおらず田上が後ろに身を引いているのを見ると怒った。

「君も一緒にするって言ったろ!」

 そう言うと、タキオンは田上の袖を引っ張って、無理矢理田上の体を起こさせた。

『あ、田上さん』

 田上の顔が映るとタキオンの母がそう言った。

「こんにちは、花さん。ご無沙汰してます」

 この花さんとは、タキオンの母の渾名でお母さんの方からそう呼んでくれと田上に頼んだのだ。

 田上が申し訳なさそうに返した。すると、母親の方も少し苦笑しながら言った。

『私の方も連絡をしていないので大丈夫ですよ』

 これは頓珍漢な返答に思えたが、その場の誰も指摘することはせず話は進んだ。

『体調の方はいかがですか?』

「すこぶる元気です。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

『いえいえ、…あんまり事の成り行きを聞いていませんでしたのでお伺いしたんですが、私共の娘が何かしてしまったのでしょうか?それならば、後日また謝罪の機会を…』

「いやいや、そんなことはないですよ。僕が彼女を怒らせてしまったんです。まだ首の痕が残っていると思うんです。ほら、ここに…」

 田上が、着ていた物をずらして、首筋の噛み後を見せたから、タキオンが慌ててスマホをずらして見えないようにした。

「君、気でも狂っているのかい!?そんなもの見せるんじゃないよ。少し怒っただけじゃないか。そんな噛み後くらい」

『何?噛んだの?』

 伏せたスマホからそう声が聞こえてきた。心配しつつも面白がっていた声だった。田上は、それに答えた。

「首をガブッとやられました」

 すると、「首!」と言ってゲラゲラ笑う声が聞こえてきた。それはちょっとの間続いて、笑い終わった後、タキオンがスマホを元の位置に戻した。

『私の娘がすいません。首だなんて、…痛かったでしょう?』

「ええ、それは痛かったんですけど、娘さんも僕が傷つけてしまって大変心を痛めたから、こんなことになったんだと思います。…すみません」

『謝らなくてもいいんですよ。結果良ければ、全ていいんですから。仲直りはできたんでしょう?タキオン』

「…ああ」

 タキオンは、少し機嫌が悪そうに言った。そして、すぐその後に思い立って、その言葉を撤回した。

「…いや、まだ仲直りはしてないね。君からまだごめんの一言も貰ってないや。謝ってもらおう。今ここで」

『タキオン、やめなさい。田上さんもする必要はないですよ。いつもの我儘ですから』

「…いえ、ここで引き下がってはトレーナーの名が廃れます。それ以前に男としてどうかしています。謝らせてください」

 田上は、そう言ったが、どこからどう話せばいいのか分からずしばらく間が開いた。そして、一言ずつ話し始めた。

「お前が、何に怒っているのか、聞いてなかったけど、お前はそんな簡単に明かすつもりはないんだろうと思う」

 タキオンが、頷いた。ちゃんとスマホも二人の様子が見える位置に立てかけていたので、母親はハラハラしながら見守った。

「だから、俺が考えたのは、やっぱりその直前の行動だろう。俺も省みてみると、確かにタキオンの腹が立つ部分はあった。それは、俺の考えてもみなかったことだ。…お前は、やっぱり俺の知らないうちに大人と子供の境目で葛藤していて、俺の知らないうちにそれから脱しようとしていた。そして、その最中で俺が、お前をバカにしたんだろう。俺は全くバカにするつもりはなかったんだけど、確実にバカにしていたことは認める。悪かった。すまない」

 スマホの中からぱちぱちと小さく拍手をする音が聞こえたが、それには何も言わずに田上は言葉を続けた。

「これで許してもらえるかは分からないけど、俺もこれから行動を改めるよ。お前は、俺の可愛い娘じゃない。大人になろうとしている立派な少女だ。俺はそのことを忘れないと誓うよ」

 それから、田上はまだ言葉を続けようとしたのだが、口を微かに開けただけで何も出てこなかった。スマホの中の母親は、それを何が起こるのかと思って見つめていた。

 少しの間、沈黙の時が流れたが、タキオンが口を開いた。

「やっぱり君は卑怯だ。バカだ。ここまで結論を出しておいて、なぜその先が言えない?絶対に謝りたくないとでも?」

「いや、違うんだ。…ただ、…ただ、この言葉が結びの言葉になっていいのかと思って。だって、ごめんって言うのは、どこか不自然だろ?」

 田上がそう言うと、タキオンはフフフと笑った。

「不自然か。確かに不自然だな。…では、ごめんの後にこんな言葉をつけてみたらどうだい?――ごめん、タキオン。これから君にいい男が見つかるその時まで、モルモットとして君の傍にいることを誓うよ。…これはどうだい?」

 田上は、物凄く嫌そうな顔をしたが、タキオンがからかって「早くしろよ。甲斐性なし君」と囃し立てると、ノロノロと言った。

「ごめん、タキオン。これから君にいい男が見つかるその時まで、モルモット……としてだけじゃなくて、一人のトレーナーとして、一人の友人として君の傍にいることを誓うよ」

「おやぁ?君も言うようになったね。私の友人かい?そんなことは当たり前だよ。トレーナーとしても当たり前だ。他にも、私専属の料理人としても当たり前だな。それに、勿論、モルモットとしても当たり前だ。元より、君がトレーナーになる条件は私のモルモットになることにあったのだから」

 すると、スマホの方から「ブラボー!!」と聞こえてきて、指笛をピーと吹きならす音が聞こえてきた。その下には、いつの間にか小さい女の子が、「お母さん何してんの?」と足元にくっついていた。

 タキオンの母が、またタキオンの顔を見ることに集中するとその顔とカメラの距離が縮まって、より巨大に見えた。しかし、その中に小さい女の子が割り込んできた。この子の名前は、田上も知っている。桜花だ。だが、そんな気軽に名前を呼べる関係でもないから、田上は黙ってその子のことを見ていた。

『お母さん、お父さんもお話ししたいって言ってたよ』

 その女の子はカメラの事には気が付いていないようで、しきりにお母さんと話していた。すると、タキオンが言った。

「桜花?私が死にかけてたこと知ってるかい?」

『わ、お姉ちゃん。久しぶり、でもないね。このまえ電話したよ。…死にかけてたの?どうして?デートしてたんじゃないの?』

 タキオンが、桜花の最後の言葉に「わ!」と驚いて持っていたスマホを落としそうになったが、危うく太ももの上に落ちて助かった。タキオンは、桜花の戯言が田上の方に聞こえていないか確認したが、その頃には田上も後ろに身を引いていて、タキオンと目が合っても不思議そうな顔をしただけだった。タキオンは、この様子に安心してスマホの方に向き直ったが、田上は桜花の言葉をバッチリ聞いていた。しかし、そんなに本気にはしていなかった。――どうせ子供の戯言だからな、と思うと、タキオンに気を使って聞こえないふりをしていただけだった。

 

 タキオンは暫くそのまま、家族水入らずで楽しく話をしていたようだった。その途中で父親も来たようだった。田上の容体を心配そうに聞く声が聞こえたが、タキオンがこちらを見ると、急いで首を振って自分は話したくないことを伝えた。未だに、タキオンの父親と向かい合って話すのは勇気が必要だった。別に、貫禄も威厳もあるような父親ではないのだが、この父親の娘を自分が今好いていると思うと、相当の覚悟が必要だった。タキオンの父としては、自分の娘を好いててくれてもいいので、同じ娘を知る者同士で仲良くなりたかったのだが、敬遠されていると分かるとそれも落ち着いた。どっちみち、話す相性としては良くないようで、二人とも聞き役の方が好きだった。

 そして、スマホの通話の時間も終わりが来たようだ。

 突然、タキオンのスマホがピロンとなって、充電が残り少なくなってきたことを伝えた。タキオンもそれを言うと、「最後に…」と母親がこう聞いてきた。

『病院からはいつ出るの?』

「えっと、確か今日だったと思うけど、詳しい日時はトレーナー君に聞いた方がいいと思うよ」

 タキオンがそう答えたから、田上は悪い予感がした。

『じゃあ、申し訳ないけど、田上さんの方に代わってくれる?出てくれないって言うんだったら、もう聞くだけでいいんだけど…』

「トレーナー君、どうなんだい?」

 タキオンが、そう聞いてきたから、田上は仕方なく頷いた。今になって、やっぱり父親の方にも顔は見せておいた方がいいだろうと思ったからだ。

 田上がスマホの方に顔を映すと、父親が第一声を上げた。

『おお、田上さん。元気そうでなによりです。うちのタキオンが迷惑かけてすみませんでした』

「いえ、娘さんに迷惑をかけたのは僕の方ですので、謝る必要はないです。むしろ僕の方が謝るべきかと…」

『謝らなくていいわ。さっきタキオンに謝ってたでしょ?…それで、退院はどうなっているのかしら?』

「えっと、昼の一時にうちの父親が車で迎えに来ます。検査等はもう済ませましたので、それを待つのみです。そして、今日は初詣に行く予定でしたけど、どうなんでしょう。そこまでは予定は立っておりません。父に伺いましょうか?」

『いえ、それだけ分かればもう大丈夫です。ありがとうございます』

 そのやりとりを、タキオンは不思議そうに見ていたが、口を挟んだ。

「トレーナー君……、君はやっぱり一人の人間なんだよな」

「…?どうしてそう思った?」

「だって、君は、私の母さんと丁寧に話してる」

「…そりゃあ、当たり前だろう?」

 スマホの向こうで父親が、微かに笑う声が聞こえた。

「そうだよ。当たり前と言われたら当たり前なんだけど、それがどうも不思議で……。なんで君は私の母に敬語を使うんだい?私には使わないだろ?」

「お前に使わないのは、それは仲がいいからで、それでお前のお母さんに使うのは…」

 ここで何と言えばいいか分からず、困ってしまって、スマホの中のタキオンの両親を見た。すると、タキオンの母親が言った。

『タキオン。大人って言うのは相手に敬意を持って話すの。それくらいのことは分かるでしょ?』

「…そうすると、なぜ敬意を持つんだい?そして、なぜ私には敬意を持たないんだい?」

 タキオンが田上に聞いた。

「俺は…、やっぱり人によって話し方を変えるよ。別に大人だからって敬意を持てない人はたくさんいるし、子供でも敬意を持てる人はたくさんいる。ただ、その人にあった話し方をしてるだけだよ。タキオンにはタキオンの、タキオンのお母さんにはそれ相応の。…あんまり深く考えないでもタキオンの思ってるままでいいんじゃないか?…タキオンだって俺に敬語は使わないだろ?」

「そりゃあ、君はモルモット君だからね」

「それと同時にトレーナーだ」

 田上はタキオンの言葉にすぐさま切り返した。

「…トレーナーか。…ふむふむ、ちょっと分かったぞ、トレーナー君。…つまり、こんな事はどうでもいいってことだな?」

 田上は苦笑した。

「…まあ、そんなところだ。いくら考えたって、答えの出ない、というより、疑問の尽きない物はあるからな。突き詰めていくと世の中の事なんてどうでもよくなる」

「そしたら、どうしたらいいんだい?」

 タキオンが不思議そうに聞いた。

「その時は、近くの頼れる人に頼って、生きていかなきゃだめだな」

「ふぅん…」

 タキオンは、あまりよく分からなそうに言ったが、その時に、スマホの中から幼い女の子の声が聞こえてきた。

『お姉ちゃん、それにお姉ちゃんのトレーナーさん』

「なに」と二人で聞いた。

『今度の大阪杯私も行くから、それまでにあか…』

 そこでタキオンが、急にテレビ電話をぷつっと切ったから、田上が驚いた。

「桜花ちゃんが今話してるところだっただろ!?」

「いや、最近悪知恵が付いてきたからね。あの後に何か余計なことを言いそうな気配がしたから切った」

「余計なこと?」

 田上が聞いた。すると、タキオンが半ば困ったように怒りながら言った。

「余計なことは余計なことだよ!全く、最近の小学生と来たら、なにするかわかったもんじゃない」

 タキオンは、そうぶつぶつ言いながら、スマホを充電コードに繋げ、自分のベッドの方に向かった。それから言った。

「…と言うことは、今日の昼に帰るんだね?」

「退院の事?…そうだね。今日の昼から帰るけど、初詣はどうなるんだろう。俺としては、元気だから行っておきたいけどな」

「私が嫌だと言ったら?」

 タキオンがそう言ったから、田上はむっとした。

「それなら、置いていくか、俺がお前と留守番するしかないな」

 田上の顔にタキオンはハハハと笑った。

「冗談だよ。…初詣か。どこの神社に行くんだろうね?」

「毎年、車で一時間半の所に行ってるけど、…まあ、今年はどうなるのか分からない。爺ちゃん婆ちゃんも来ているのかすら分からないし」

 田上は、そう言って、言葉を切った。それから、何か迷ったように手を彷徨わせてから、テレビのリモコンをつけると、部屋にある小さなリモコンをつけた。

 テレビでは現地取材をしている女の人がこんなことを言っていた。

『私は、今京都のでっかい神社に来ています。新年に入って二日目ですが、まだまだ人で賑わっています』

「もう一月二日か…」

 タキオンが、そのテレビを見ながら呟いた。独り言のようなものだったが、田上はそれに返答した。

「そうだな。俺たちがドタバタやっている間に、世間はもう新しい年を二日も味わってる」

「あんまりいい気分はしないな」

 そうタキオンが言った。すると、田上も少し笑った。

「いい気分…しないな。新年だ。…ウマ娘とトレーナーの契約は、最初の三年が肝心だと言われてるけど、もう三年目に入る。…時間って早いなぁ。タキオンがもう十八だよ。俺と初めて会ったときは、まだまだひよっこだったのに」

「時間ってのは、私たちの気も知らないで、自分たちのペースで経っていくよ。それに抗う術なんてあるのだろうか?」

「……ないから、俺たちは今ここにいるんだろう。時間が経っていくから、俺たちはこの大地を踏みしめているんだ」

 田上が、そう言うとタキオンは黙った。そして、暫くしてから、またぽつりと言った。

「……トレーナー君。…私が二日?三日前の朝に話しただろ。永遠が欲しいって」

「ああ」

「私は、まだ欲しいよ。時間の流れを感じる度にそう思う」

 田上は、黙ってタキオンの顔を見つめた。

「…もし時間に抗う術があるのなら、私たちはこの大地を踏みしめられなくなるんだろうか?今そう言ったね?君は」

 タキオンが、田上の顔を見て聞いた。田上は、ゆっくりと慎重に言葉を選びながら答えた。

「時間に抗う術がどんなものかは俺には分からないけど、大地を踏みしめられなくなるのは確かな事だと俺は思う。だって、その大地を感じられなくなるのは自分だから、…時を遡ったり、時間を閉じ込めたりして、その『時』に漂っても、そこにいるのは自分じゃないってことは自分が一番わかる…はずだと思う。…記憶や映像や写真の中にそれがあるから輝いて見えるんだ。その時を生きている人間は、星々を眺めて「綺麗」としか言わないはずだ。だから、その星々を思い出して、妙に切なくなった時、初めてその星の綺麗さが分かるんだ。濃い青の中に光る小さい大きい、明るい暗い、赤い黄色い、様々な星を見るんだ。…分かるか?」

「……やっぱり、心って言うのは複雑だ」

 タキオンが、疲れた様にそう言った。

「心があるから、人は皆苦悩に打ちひしがれる。…心なんてなかったらいいのに」

「今自分で言ったろ?心があるから、人は皆苦悩に打ちひしがれる。…だけど、皆が皆じゃないだろ?中には、その心の中に意味を見出して、自分の苦悩の中の美しさに気がついた人もいる。それが、美しいと思わなかった人もいるだろう。様々な心が地球には住んでいるから面白いんだ。タキオンだってそうだよ。今抱えている問題の中の面白さに気が付かないか?」

「…私は、気付きたいとは思わないね。幻想でいいからそれに浸っていたい」

 タキオンは、そう言った。田上は、「そうか…」と残念そうに呟くとタキオンの顔を見た。タキオンもまた田上の顔を見ている。

 タキオンの顔は、何かをこらえているかのように感じた。だから、田上はそれを察すると、ぎこちなく腕を広げた。そして、言った。

「今度は、バカにするつもりはないんだけど、お前が何かを求めているような気がしたから…。ほら、今日昨日は、あんまりベタベタしてなかったから、その…久々にくっついてもいい。…嫌なら首を横にでも振ってくれ」

 田上がそう言うと、タキオンは田上を見つめるともなく見つめながら、こちらにゆっくりと歩いてきた。そして、あの時のように二人はぎこちなく抱き合おうとした。タキオンがゆっくりと体重を預け、トレーナーに寄りかかっていく。しかし、田上の体勢が悪かったか、田上が姿勢を崩すと二人ともベッドに倒れてしまった。

 タキオンはそれでも田上に抱きついて離れなかった。ただ、黙ってじっとしていたが、暫くすると、体が震えて、鼻をすする音が聞こえてきた。泣いていたのだ。これが堪えていたものだったのだろう。タキオンは、大声で泣きこそしなかったが、これを一時間後に看護婦が入ってくるまでしていた。その間、田上はタキオンの髪を撫でながら、途方に暮れつつ、鼻歌でも歌ってやった。できるだけ落ち着く歌を選曲したが、タキオンにどう効果があったのかは分からない。ただ、タキオンが看護婦さんに引き剥がされたときは、鼻水がだらだらで涙も出ていて、物凄く恥ずかしそうだった。



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七、素敵なディナー(中編)

 それから、二人は昼食の時間になるまで、他愛ない話と、自分たちが少しのニュースになっていたことを知り、そして、昼食の時間になると、いい匂いのするご飯をたくさん食べた。今度は、タキオンの満足な量だったようだ。 

 昼食を食べ終わると、家に帰る支度をしなくてはならなかった。短い間だったが、田上たちには一日という時間に見合わない量の時間を過ごしたように感じた。特にタキオンはそうだった。意識のある時間が田上より多かったというのもあるが、一番は田上が起きるまでの時間が物凄く長く感じられたからだろう。そして、田上が起きれば、それは楽しいものとなり、永遠とまではいかずとも長い長い時間を二人で過ごすことができた。タキオンは、田上の事が大好きなのだ。恋とか愛とかそんな一言で言い表せるような無粋なものではなく、ただ、田上と一緒にいることが楽しくて楽しくて仕方がないのだ。だから、二人でいる時の時間は大切に大切に扱って、できるだけ長く楽しもうとする。時には、それが裏目に出ることもあるのだろうが、特に差し障りは無かった。二人は必ず問題に向き合う。それが、いかに難しそうだろうと手強そうだろうと、なにも手をつけないで問題を見捨てることはしない。それが、二人でいることのよさだった。

 

 一時になると、父が迎えに来た。タキオンたちの今日着る服も持ってきたので、最後に病室で着替えた。着替えをするときに、仕切っているカーテンの向こうからタキオンが話しかけてきた。

「学園の方で風邪を引いて寝込んだのは、ここに来る前のことだったよね?」

「ああ、確かそうだった」

 田上は答えた。

「なんだか遠い昔のような気がするなぁ…」

 カーテンの向こうで、タキオンが感慨に耽っていた。

「俺もそんな感じがするよ」

 田上も同意して、最後にズボンを穿き終わった。

「タキオン、俺はもう着替え終わったぞ」

「ああ、私ももうすぐ着替え終わるよ。少し待っててくれ」

 そう言って、カーテンの向こうでガサガサ動く衣擦れの音が聞こえ、それが終わるとカーテンがシャーと開かれた。タキオンが、ニコニコしながらそこにいた。

「なんだか、いつもに戻った気がするね」

 そう嬉しそうに言った。

「まだまだ、旅行はあるぞ。…でも、それもあっという間だろうな」

「いや、そんなことはないさ。特に、これからの初詣は私は楽しみだな。…一体、何時に出かけるんだろう?」

 そこで、ちょうどよく賢助が入ってきた。

「やっぱり病院は暖かいな」

 そう言いながらニコニコしていた。

「父さん、初詣はどうするの?そもそも、爺ちゃん婆ちゃんは来てるの?」

「ああ、来てるよ。アグネスさんが来ているのには、めちゃくちゃ驚いてたし、入院してるのも心配してた。…だけど、ここでゆっくり話す訳にもいかないから、置いて来た。別に連れてこなくてもよかっただろ?」

「うん…。ただ、さっきも聞いたけど初詣は?」

「初詣はお前ら次第で、それももう少し近い神社に行こうって事になった。皆、車に一時間半乗って、大きな神社に行くのは疲れるみたいだったし。…で、どうする?…明日は、…さすがに無理だろうな。寝る場所がない」

「俺は行けるし、…タキオンも行けるんだよね?」

 田上がそう聞くと、タキオンは「うん」と頷いた。賢助もタキオンの方を見て、本当に大丈夫なのか顔色などを注意深く見て、それから、こちらも「うん」と頷いた。

「じゃあ、婆ちゃんにそう連絡をしておく。…それとアグネスさん、あなた、うちの年寄り連中から大人気になると思いますよ。今のうちにあいつらに落ち着くよう呼びかけておきましょうか?」

 賢助にそう言われて、タキオンは困ったように笑った。そして、助けを求めるように田上を見た。

「まあ、別に連絡して言わなくてもその場で言っておけば大丈夫だろ?それに、まだ当分は移動とか何とかで碌な話す機会も与えられないと思うから」

 そう言うと、話はまとまった。

「じゃあ、帰ろうか」と言うと、賢助は部屋を出て行った。タキオンは、以前の通りに田上の左隣についた。田上は、しつこくからませようとしてくるタキオンの手をうまい具合いによけながら、せめて病院を出るまでは手を繋がなかった。

 病院を出ると、そこには因縁の車があったが、今日は田上は運転しなかった。タキオンと後部座席で、愉快そうに話をした。話の内容は、極々くだらないものだった。

 

 家に着くと四人の爺ちゃん婆ちゃんが揃って出迎えた。皆口々に「おかえり」やら「もう大丈夫ね?」やら聞いてくるので、どれに答えようか田上は迷った。すると、隣でタキオンが「初めまして、アグネスタキオンです」と自己紹介したので、歓声が上がった。老人と子供は、ウマ娘が大好きなのだ。ここにいる老人たちもその例に漏れず、紙にサインなどを欲しがったが、それを遮って賢助が言った。

「おい、爺様婆様共!今日、あなたたちが来た予定の方が先だ。いつもは、でかい神社に行っていたけど、今回はもうあそこにはいかねえんだな?」

「あそこ程は大きくないけど、ここの比較的近い大内神宮がいいでしょ?」

 母方の方の祖母である前田家の少し太り気味の婆ちゃんが言った。

「私はそっちの方がいいわ。だって、あそこは大きくて人が多いだけだったじゃない。無駄に時間を食っていたような気がするわ」

 父方の祖母である田上家の、こちらも同じく小太りの婆ちゃんが言った。すると、前田家のがりがりの灰色の髪をした爺ちゃんも言った。

「そうだそうだ。あそこは、なんだかもう穢されちまっていけねぇ。神様のいるところなのに、人が騒々しくて敵わんわ」

 田上家の厳めしい顔の爺ちゃんも頷いていた。

 そして、賢助は、皆の顔を見つめ言った。

「じゃあ、満場一致で決定だな?大内神社で、あそこも遠いっちゃ遠いが、一時間くらいで着くだろう。高速にも乗らなくて済むからその分安くて済む。…幸助もそれでいいか?」

「ああ、俺は元々あそこは人が多すぎて嫌いだって言ってたけどね」

 幸助は、少し恨みの含んだ声で言ったが、賢助はそれを無視すると言った。

「じゃあ、決まりだ。この十分後に出発する。皆、トイレとか何とか行く準備を済ませるんだ。十分したら行くからな」

 そう言うと、賢助も動きが慌ただしくなって、部屋を出たり入ったりした。皆、準備しろと言われたが、それは片手間にタキオンの所に寄り集まった。田上とタキオンは、無理矢理炬燵に座らされ、今回の出来事の諸々の事情を吐かされた。その過程で、田上の首筋にある。噛み痕もバッチリ見られて、タキオンはいたたまれない様子だった。田上は、タキオンを庇って、「皆準備しろ」と追い散らそうとしたのだが、この老人たちは中々に手強かった。そして、遂には「タキオンちゃん、私の孫はどう?」と聞いてきたから、田上は怒った。

「お前らくだらないことしないで、さっさと準備しろ!そういう冗談は、タキオンが嫌いなんだ!」

 タキオンは、今では老人たちにすっかり打ちのめされてしまって、田上に寄りかかって、「私、この人たち嫌いだ」と言った。

「ほら、お前らがほっとかないから嫌われたんだぞ!」

 田上は、そう言ったが、老人たちはニヤニヤしたばかりで、何にも打撃を食らっているようには見えなかった。まるで、「これが私たちの仕事のなのよ」と言っているようだった。腹が立ったが、もう老人たちは何も言わなかったので、怒るべき場所を見失った。それで、タキオンを見て心を落ち着かせた。

「ごめんな」

 田上はそう言った。

「俺が、あいつらを追い散らすつもりだったんだけど、ここまで酷いとは思わなかった」

「あら、そこまで酷くはないわよ」

 自分のバッグを取りに来た前田家の婆ちゃんが言った。

 田上は、「うるさい!」と一喝した。

「あんたらが、うるさく言うからタキオンが落ち込んじゃっただろ!」

「落ち込むとどうなるの?」

「…あんた人の心ないのか?落ち込んだら悲しいに決まってるだろ」

 すると、婆ちゃんが田上の肩にもたれかかっているタキオンに聞いた。

「タキオンちゃん、本当に悲しいの?うちの孫が慰めてくれるよ?どうだい?いい男だろ?」

 今度こそ田上は、大声を上げて追い散らすことに成功した。そこで、タキオンがクスクス笑って言った。

「いい男だって。君が」

「悪かったな。悪い男で」

 田上は、不機嫌そうにそう言った。

「いやいや、君が別に悪い男だとは言わないよ。ただ、いい男かと問われると…」

 そこでまたクスクス笑った。

 そして、開いた引き戸の向こうから「もう準備はできたかー?」と賢助の大きな声が聞こえた。

「タキオン、もう準備はいいか?トイレは?」

「…行っておく。ちょっと待ってて」

 タキオンはそう言って、今更トイレの方に駆け出した。もう、老人たちと幸助は靴を履いて外にぞろぞろと出ているところだった。

 田上は、玄関でタキオンが出てくるのを待っていた。すると、同じく最後に家の鍵を閉めるために待っていた賢助が田上に言った。

「お前らも大変だな。方々で人気者だったり、余計なことを言われたり。...やめようとかは思わないのか?」

 賢助がそう聞いてきたが、田上は、最初は答えに迷って頷くだけだった。しかし、暫くすると口を開いた。

「...それは彼女次第だよ。あいつが何もかも放り投げるって言ったら、俺にできることはなにもない...」

 その言葉が、少し怒っているようにも聞こえたから賢助は「ごめん」と一言謝った。そして、田上と同じくトイレの方を見つめると、最後の客人を待った。

 タキオンは、トイレから出ると苦笑した。これは、苦笑せざるを得なかった。大人の男二人が、自分がトイレから出てくるのを真剣な顔で見つめながら待っているのだから、これはいたたまれなくなるだろう。いたたまれなくなったから、苦笑したのだ。

 タキオンが、「すまないすまない」と言いながら歩いてきた。そうすると、男二人の顔も和らいだ。田上が玄関のドアを開け、狭い玄関から抜け出そうと体を半分外に出したところでタキオンが慌てて言った。

「待ってくれ、トレーナー君」

 この言葉に田上は苦笑して言った。

「分かってるよ。タキオンが靴を履きやすいように外に出ただけだから」

 そこで言葉を切ると、また言った。

「変わんないな、タキオンは...」

「いいや、変わるさ。...少なくとも変わるつもりでいる」

 田上が、またも苦笑したから、タキオンが険しい顔をして田上を睨んだ。

「なんだい?その顔は。私を舐めてるね?」

 タキオンがそう言うと、田上は今度は慌てて言った。

「違う違う。舐めるとかじゃなくて、...タキオンの変わり方の予想がつかなくて」

「やっぱり舐めてるじゃないか!...まぁ、今度は怒ったりはしないよ。もう二度とあんなことになるのは御免だ」

 そう言ってタキオンは靴を履くと、当然のように田上の左腕にくっついた。それを見ると、なんだか切なくなって田上は静かに言った。

「こんなことを教える立場が言ったらダメなんだろうけど...、あんまり変わんないでほしいなぁ...」

 そうすると、タキオンは喜んで言った。

「おや?君も永遠が欲しくなったのかい?」

「そんなんじゃないけど...、お前が急に変わったら俺の心が対応できる気がしないよ」

 タキオンは、ふふふと笑った。

「安心してくれたまえ。変わるときはアナウンスをしてあげよう。――迷子の子供がショッピングモール一階の迷子センターに来ています。服装は、黒いトレーナーに青いジーパン。お名前は、田上圭一くん」

「なんで俺が迷子センターにいるんだよ。お前のアナウンスだろ?」

「ああ、そうか。じゃあ、これは違うね。...つまりこれか。――今、大怪獣アグネスタキオンが姿を変えようとしています!」

 ここで会話の終わりを待っていた賢助が、待ちくたびれて言った。

「鍵を閉めたいし、そこで話してると時間も遅れるから車で話してくれ」

 タキオンたちはそう言われると、軽く返事をして進み始めた。金属の階段を下りると、カカカッ、コココッと二人の足音が小刻みに響く。そして、階段を下り終わると二人は車に乗った。タキオンが、一度「君が運転しないのかい?」とからかいまじりに聞いてきたが、それは、「うるさい」と言って無視した。タキオンは、「私の扱い酷くないかい?」と聞いてきたが、それも一笑に付して黙らせた。

 幸助は、助手席に乗っていたので、二人で後部座席に乗ることができた。と言っても、後部座席に幸助が座っていたとしても、タキオンがなあなあ言ってどかしたのは間違いがないだろう。

 老人たちは、ここには飛行機で来たようだから、車をレンタルして行くようだ。ここからは、見えないところで、タキオンが居なくとも楽しく愉快に話をしていた。

 そして、賢助が車に乗り込むと、二つの車はそれぞれで進み始める。タキオンにとっては、楽しい車の旅が始まった。それは、どうやっても田上と離れることのない車の中だからだ。

 車は、音を立てて駐車場から出て行った。

 

 車の中では、最初のうちはタキオンも田上に話しかけていたが、段々とそれも衰えていって、最後には田上の肩に寄りかかってぼーっとする他なかった。田上は、もうタキオンが近くにいることは慣れっこだったので、何も言わずに自分の肩に寄りかからせた。時々、タキオンのウマ耳が頬をくすぐるときがあった。そんな時は大抵、タキオンがわざとウマ耳を動かしているときで、暇すぎて田上と遊びたいときだった。田上は、それをされると少しの間我慢するが、やがてくすぐったさも痒みに達して、タキオンに怒った。すると、タキオンは嬉しそうに笑って、田上に「ごめんごめん」と謝るのだ。

 賢助と幸助は、その後ろのやり取りを微笑ましそうに聞いていたのだが、自分たちも話をした。大学卒業後の展望だったり、彼女とのこの先だったり、幸助は話していてあまり嬉しそうではなかったが、話しかけているのは父親だったので、黙ってその話を聞いた。そして、時々反論した。

「父さんも似たようなもんだろ」

 これを言われると賢助もぐうの音も出ずに、「そうだな、ごめん」と笑って謝った。それを聞けば、幸助の機嫌も回復したようだ。やがて、この先のことについて自分が思っていることを父に少しだけ話した。父は、その話を難しい顔をして聞いていたが、やがて幸助の話が終わると言った。

「あんまり難しく考えてもいけないからな。大事なことを見失わずに頑張れよ」

 幸助は、「はい」と返事をして、その後は自分のスマホを眺めた。

 

 そうこうしているうちに一行は、大内神宮についた。毎年行っていた神社より小さいとは言いつつもここも大きな神社だった。そして、同じように人で込み合っていた。

 それを見ると、タキオンは嬉しそうに言った。

「これは、君と手を繋がないとはぐれてしまうね」

 タキオンの嬉しそうな顔を見ると、田上も苦笑が出てきた。しかし、同時に嬉しくもあった。

「ああ、手を繋がないとな」

 田上もタキオンの手を取った。そして、二人は先に歩き始めた。幸助と賢助の後に続いた。

 幸助と賢助は、二人とも付かず離れずでぶらぶらしながら歩いた。山の頂に見える大きな社を指差しては、「ここでも全然よかったな」と言って楽しんでいた。

 人々の群れは、坂を上っていけば行くほど多くなっていった。坂は、まだ広い駐車場の中頃である。なので、神社に上る階段程人は多くはなかった。

 その坂には、屋台が三つほど立っていた。それぞれ、『たこ焼き』『クレープ』『焼きそば』と書かれた暖簾を提げて、人を集めていた。

 タキオンは、人混みの上にそれを見とめると、「クレープ...」と一言呟いた。しかし、田上が言った。

「ダメだ。まずは、爺ちゃんたちと合流しないと。...その後でクレープでもなんでも買って貰えるさ」

 タキオンは、不満そうな顔をしたが、素直に頷いた。そして、尚のこと田上にぴったりくっついた。田上は、歩きにくそうだったが、少しの幸せを感じた。この歩きにくさは、やがては別のものに変わってしまうのかもしれないと思うと悲しくなったが、その幸せを左腕に目一杯感じながら歩いた。奇妙に波打つ自身の心臓の音が聞こえた。その奇妙さは、どこかに置いて来たものを取り戻したいと切に願うものだった。田上には、その正体など分からなかったし、その奇妙さを言葉にすることも叶わなかった。だから、それから脱するように、こうタキオンに言った。

「俺もお前と一緒にクレープが食べたいよ」

 タキオンは、田上の声にどこか物悲しさを感じたから、不思議そうに隣にある顔を見上げた。それは、田上が時々見せる、ここではないどこかを見ている顔だった。タキオンは、その顔があまり好きではなかった。だから、田上の言葉にこう返した。

「あそこのベンチだったら、もしかしたら私たちが食べるときに空いているかもね」

 タキオンは、何の根拠もない理論を論じてベンチを指差したが、田上は、やっぱりその方向を見たとしてもそこを見てはいなかった。だから、田上の悲しさは段々タキオンの方にも伝染していった。ただ、悲しいと言っても田上とタキオンの悲しさは違うものだった。その乖離を感じると、タキオンはより一層悲しくなったが、もう次の瞬間には田上はここにいるタキオンを見ていた。

「あんまりくっつくと歩きにくいし、それにここは人の目が多いから俺たちがこんなにくっついてたら勘違いされるぞ」

 田上の瞳に自分が映っているのを確認すると、タキオンの心は微かに高揚した。そして、言った。

「いいや、木の葉が隠れるなら森の中、人が隠れるなら人混みの中、と言うだろ?特に、問題はないさ。それよりも問題にすべきは、あのご老人たちの事さ。あの人たち、私たちの名前を大声で呼んだりしないだろうか?騒ぎになるというより、とっても迷惑だ」

 タキオンがそう言うと、田上も苦笑した。

「あの人たちも悪い人たちではないんだけどね。タキオンが来たから少し興奮したみたいだ。あんなに面倒だとは思わなかったけど…。けど、まぁ、今度こそ言えば分かってくれるよ。少なくとも、大声で呼んでくれたりはしないはずだ」

「本当かなぁ…」

 タキオンは、訝しみながら前方の方を見た。田上もまた、その視線につられて前を見た。賢助と幸助から少し離されていた。

「タキオン、少し急ごう。スマホがあると言っても、はぐれるのは少し面倒だ。せめて、合流するところまでは、一緒にいないと」

 そう言って、二人は少し小走りになった。それでも、やっぱりくっついていたので走りにくかった。そして、一回互いの足が絡み合ってこけそうになったのを境に、少し離れることにした。それから、二人は幸助と賢助の後ろに着くと、田上が賢助に聞いた。

「爺ちゃん婆ちゃん、どこにいるって?」

「え?…ああ、もう少し上の方の駐車場だって、この階段が始まるところで合流しようということになった」

「オッケー、了解。…別にさ。先に行っててもいいんじゃない?あの人たちが来ても、特に俺たちはうるさくなるだけだし」

 田上は、タキオンに配慮して言った。

「ああ、いいかもな。じゃあ、お前らだけでも先にいったら?…でも、そうすると、お前たちが少し暇になるかもよ。それだけ早く終わるってことだから」

「う~ん、じゃあ、あれでいい?…いや、…う~ん……」

 田上は、少し悩んでいるようだったが、最後にタキオンに答えを求めるように見た。だから、タキオンは提案した。

「私は、先に行きたいな。それで、クレープを買って食べて待ちたい」

 タキオンの言葉に賢助が反応した。

「ああ、クレープね。それがいいかもしれない。…お金渡そうか?」

 賢助が、田上の方を見て行ったのだが、その時にまるで学生かのように扱ったから、田上は言った。

「俺を何だと思ってるんだ?あんたよりいい給料もらってるんだぞ。……だけど、何にも金は持ってきてなかったな」

「だろうと思ったよ」

 賢助は笑った。

「だったら、お賽銭も必要だろ?初詣だし、五百円でも渡そうか?」

「いや、いいよ。五十円くらいがちょうどいいし。なんでもかんでも大きくしたってしょうがないだろ?」

「その通りです」

 賢助は、息子の尤もらしい言葉に負けて笑って、財布から五十円を取り出した。

「穴の開いた硬貨は、見通しがよくなるってことだからな。今のお前たちにぴったりだろう。…そう言えば、次のアグネスさんが出走するレースは?」

 賢助がタキオンと田上の両方を見つめながら聞くと、田上が答えた。

「大阪杯。三月三十一日だね」

「そうか……。たまには俺も現地に見に行ってみようかな」

「やめておいた方がいいんじゃない?まあまあうるさいよ」

「大阪杯は……大阪でするんだっけ?」

「いや、兵庫県の宝塚」

「宝塚か~。遠いな~。でも、一度は見に行きたいな~」

 賢助が困ったように言った。

「大阪杯の次はまだ詳しくは決まってないけど、千葉とか東京とかそこらへんでしないことはないと思うから、その時に来れば?」

「そうか、東京か。東京観光ついでに行くのもいいな」

 賢助は、そう考えながら言った。

「東京観光つっても、一人だけだと寂しいだろ?」

 田上がそう言ったのだが、これが賢助の癇に障ったようだ。

「それならお前と一緒に行こう。もうアグネスさんも置いて二人で行こう」

「分かった、ごめんって」

 田上が、賢助の怒りを察知して、笑いながら謝った。そこで、話は終わったようだ。田上は、少しの間、落ち着かなげにタキオンと坂の下の方を眺めた後、賢助に言った。

「俺たちはもう行くよ。タキオンもいいだろ?」

 タキオンは、「うん」と頷いた。そして、二人は階段を上る列に加わった。

 

 階段を上る列は、ごちゃごちゃしていて人のうるささが不快だったが、それでも、列の動きは順調だった。長い長い階段を二人は、列が動くたびに一段、また一段と上って行った。

 階段の所には、坂のところ以上に店があった。なんだか、奇妙なお面を売っていたり、アクセサリーを売っていたりした。その中の一つのアクセサリーにタキオンは、興味を持った。赤いガラス細工が綺麗に輝いていた耳飾りだった。

 興味深げにそれを屈んで見つめているタキオンに、店の中にいるおっちゃんと言うべきおじさんが言った。

「お、これまた可愛いウマ娘さんが来たね。これに興味を持ったのか?」

 突然話しかけてきたおっちゃんにタキオンは少し警戒しながら、頷いた。

「これは、またいいのに目を付けたね。そして、この赤色。ウマ娘さんの目の色とそっくりだ。あんた綺麗な色をした目を持ってるよ」

 タキオンは、おっちゃんにそう言われて何と思ったのか、「別にそんなことを言われた例なんて…」とぶつぶつ口の中で言った。おっちゃんは、「え?」と聞き返してきたが、タキオンがそれ以上物を言わなさそうだったので商売話を始めた。

「これはね。確か、名匠・滝切渓村が作ったと言われるガラス細工だよ」

「…なぜそんなものがここに?」

 横で見ていた田上が口を挟んだ。

「おや、兄ちゃんも興味を持ったのかい?」

「…いや、別に…」

「そんならいいけどさ。これは、ここらへんで適当に歩いている人には手が出せない金額だよ」

「どのくらい?」

 田上がそう聞くと、おっちゃんは嬉しそうに言った。

「ざっと数十万」

「数十万!?なんでそんなものがここにあるんですか?こんな野ざらしで、箱にも入れないで盗まれないんですか?」

 そうすると、おっちゃんは微妙な顔をしながら言った。

「一回盗もうとした奴はいたさ。だけど、すぐに捕まえられた。……俺は、ここのやつら皆を信用してんのさ。子供も大人も皆いい奴だと思ってる。中には、盗むやつもいるだろうけど、この階段を上る奴は皆いい奴さ」

 田上は、不思議そうにおっちゃんの顔を見た。とても礼儀がよさそうな顔立ちとは言えなかった。日に焼けて、顔も年季が入っていて、海の男の様な感じだった。

「……なんで、そう言い切れるんですか?」

 田上は聞いた。

「そりゃあ、勿論、何年もこうしてここに野ざらしにしてるが、取った奴は一回しかいねぇ。こいつの値段を聞いてきた人は何人もいるが、盗もうと思ったやつは奴以外いなかった。だから、俺はここが好きなんだ。この階段でお前さんたちみたいな人たちを待ってんのさ」

 その言葉を最後にタキオンは立ち上がって言った。

「いいものを見せてもらいました。ありがとうございました」

 田上は、びっくりして隣を見たが、タキオンが「行こう、トレーナー君」と言うとその手を引いて階段を進もうとした。田上は、店のおっちゃんに「ありがとうございました」と言って、頭を下げるとタキオンに引っ張られて階段を少し上った。そして、列の行き当たりに来ると立ち止まって聞いた。

「タキオンは、もしあれが買える値段だったら買ってたか?」

 すると、タキオンは首を振ったから、田上は「なんで?」と聞いた。

「なんで?…それは、…私の目と似ていると言われたからだよ。何だか癪だ。気持ち悪いじゃないか。宝石のような眼だねって褒められるのは」

「じゃあ、あの宝石なんかじゃなくて、おっちゃんが嫌だから買わないのか?」

「ああ、その通りだ」

 タキオンは、そう言った。その後に、田上は、タキオンに言いたいことがあって口を開いたが、果たしてこれは言ってもいいものかと思って、また口を閉じた。その様子を見ていたタキオンが聞いた。

「何か言いたいことでもあるのかい?」

「いや、……俺はお前の目が好きなんだけどな。…なんかあんまり嬉しくないようだから…」

「ふぅん…」

 タキオンは、さっきの耳飾りを見た時よりも丁寧に田上を見つめた。

「あんまり目のことを褒められたことはないんだけどね。今日は、なぜか二回も褒められたよ」

「…だって、タキオンの目、赤くて暗くて少し不気味だけど、その不気味さの中に垣間見えるあどけなさが素敵なんだよ」

「素敵なんだよ?」

 オウム返しにそう聞くと、タキオンはハッハッハと笑った。

「君もお世辞が得意になったな。いつからそんなに得意になったんだい?」

「さあね」

 自分の言ってることが、あんまり信用されなくて安心したのか残念がったのか分からず、曖昧な答えを田上は返した。

 そして、その後にもう一度何か言おうとしたが、再び躊躇うと口を閉じた。この時のタキオンは、田上の顔を見ておらず、田上のもやもやは抱えられたものとなった。

 

 それから、二人はぐんぐんと上って行って、遂には頂上の社まで辿り着いた。この階段を上るのには大した手間はなかった。長くて急な階段ではあったけど、二人とも楽しむことができたからだ。タキオンは、あのアクセサリーの店以外にも、様々なお店に目を付けた。「あの店のあれが可愛いね」だったり「あのおみやげは誰が買うんだろう」だったり、まるでデートをしているカップルみたいな会話をしたので、田上は自分が何者であるかを再確認しなければならなかった。タキオンは、そんな田上には気付かずに悠々と自分の楽しい時間を過ごした。

 二人が、社まで着くとそこはさらに人でごった返していて、もはや何が列かは分からなかった。だが、列としての形はなくとも、機能としては働いているようだ。タキオンたちは、前の人が動くたびに少しずつ動くことができた。

 社のところでは風がビュウビュウ吹いていて、殊に寒かった。人混みが、風除けとなってくれる節もあったが、それでも寒いのは寒く、田上などは歯をカタカタ言わせた。

「トレーナー君、寒いのかい?」

 昨日のこともあって、タキオンは心配そうに聞いた。

「いや、寒いっちゃ寒いけどね。一回寒さで死にかけた身からすると、まだ余裕かな」

 田上は強がったが、その強がりがタキオンを余計に心配させた。タキオンは、急に田上の前に回り込むとその頬を両手で触った。

「うん、やっぱり冷たい。…どうすればいいだろう?君の体が温まりそうなもの…」

 そう言って、タキオンは目を泳がせた。そして、あるものを見つけた。

「自販機!…があるけど、君、クレープの代金そういえば貰っていたかい?」

 そこで田上も気が付いた。自分のポケットを探ってみたが、出てきたのは五十円玉だけだった。

「二人で百円か…」

 タキオンは、自分の五十円玉を持って残念そうに呟いた。

「クレープは、もう車の中で食べればなんとかなるよ。…それに、俺はそれほど寒くないからね」

 田上は、歯をカタカタ言わせながら、そう言った。勿論、タキオンもそれに気が付いていて、じろりと睨んだがその後にはぁとため息をついた。

「まぁ、本当なんだろうね。昨日がとんでもない状況だっただけで、本来はこういうものだ。…でも……」

「でも?」

「なんだか君のことが心配なんだよ。本当に大丈夫なんだろうね?急に倒れたりしない?」

 タキオンは、表情を曇らせて、田上に言った。田上は、こう返した。

「急に倒れたりはしないよ。倒れるときは言うから」

「そういう問題じゃないだろ…」

 タキオンは、どうしようもなさそうにため息をついた。そして、言った。

「どうしてだか分からないけど、君が倒れるのがあんまりにも怖いから。傍に寄らせてもらうよ」

 タキオンは、そこで田上にぐっと近寄った。階段を上るまでは、せいぜい手を繋ぐくらいだった距離が、今では田上の左腕を掴んで寄っている。そうすると、タキオンも少し落ち着いたようだ。少し笑顔になりながらこう言った。

「せめて君の左腕くらいは暖めないとね。君が凍えてもらっちゃ困るから」

「…ありがとう。左腕が暖かいよ」

 田上は、少し皮肉っぽく感謝の言葉を告げたが、タキオンにはその言葉に含まれたものには気づかなかったようだ。

「どういたしまして」と嬉しそうに返してきたから、田上は申し訳なくなった。だから、もうその後は口数を少し減らし、タキオンが指差す方向を見たり、話に相槌を打ったりするだけになった。それから、二人は進んで、果たしてどんな順番だったのかは分からないが、お賽銭箱の前まで来た。そして、各々ポケットから五十円を取り出すと、カチン、コロ、チャッと音を立てて賽銭箱に投げ込んだ。

 タキオンが鈴をガラガラと鳴らすと、田上もガラガラと鳴らした。そして、二人は一緒に神様に祈った。田上は、これからのことを祈った。それから、自分とタキオンを救ってくれてありがとうと、お礼も告げた。タキオンは、祈りたいことが何も浮かばなかったから、とりあえず、トレーナーを救ってくれてありがとうと神様に感謝の言葉を告げた。その想いが強かったのか、夢中になって感謝を告げていて、隣の田上に肩を叩かれるまで目を瞑って祈っていた。

「ああ、ありがとう」

 タキオンは、ぼーっとしたように田上の顔を見た。それから、言った。

「君が生きていてくれて本当に助かったよ」

 田上は、前も聞いたその言葉を聞いて、苦笑して言った。

「俺もタキオンが生きていて、本当に嬉しいよ」

 タキオンは、その言葉を聞くと少し照れたようだったが、口角を少し上げただけで何も言わなかった。

 そして、二人は、帰りの階段に立った。

 

「あんまり、手を洗ったり、頭に煙を浴びたりしなかったね」

 タキオンが、帰りの階段で夕日を浴びながら言った。

「ああ、俺も気がついてはいたんだけど、面倒臭かったから何も言わなかった」

 それを聞くと、タキオンはふふふと笑った。

「君らしいよ。面倒臭くなったら投げ出してしまうところ」

「人聞きが悪いなぁ」

 田上は、嫌そうな顔をしながら言った。

「別に貶しているわけじゃないさ。ただ、それが君の君らしいところって言うものさ」

「ふぅん…」

 田上は、曖昧に頷いた。それと言うのも、目の前に見える夕日が、あまりにも眩しくて落ち着かなかったからだ。タキオンもそれに気が付いたのだろう。田上に言ってきた。

「夕日が眩しいね」

 田上は、何も答えなかった。ただ、胸がざわざわする想いを秘めて、どうすればこれが治るのか考えているだけだった。

 それから、二人は歩き続けた。賢助たちの姿はどこにも見当たらなかったので、どこかで気が付かないうちにすれ違ったものじゃないかと思う。

 途中で、危ない階段が何個かあったから、田上はタキオンに注意して自分も気を付けて降りた。

 夕日は、その間も自分たちを照らし続けた。あんまり胸の内がざわつく想いは、消えなかった。――多分、夕日が照り続けている限りはこの想いは消えないのだろうと、田上は、また危ない段差をタキオンに手を貸しながら思った。

 そして、その段差を下りた時、タキオンが言った。

「君、この階段を降りるとき、ずっと心ここにあらずみたいな様子だけどどうかしたのかい?」

 田上は、思わず握っていたタキオンの手を強く握った。タキオンはそれを感じて、尚の事不思議そうに田上を見つめた。

 田上は、数秒の間黙っていたが、後ろの人が待っているのに気が付くと、「行かないと」と言って、タキオンの手を引いた。タキオンは、やっぱり田上を不思議そうに見つめていた。

「君、本当に大丈夫なのかい?」

 隣からそう言う声が聞こえてきたが、田上は首を振って答えた。

「なんにもないよ」

 そう言うと、また夕日を見つめた。なんだか、心の全てが見透かされているような気がして不安だった。

【挿絵表示】

――こんな夕日を前にも見たことがある。田上はそう考えた。それは、中学の時の出来事だった。そう、田上が好きな人に告白しているときだ。

 田上は、体の右半身に夕日を浴びながら校舎三階の渡り廊下であの子に告白をした。緊張して、上手く口が回らずなんども躓きながらやっとの思いで、田上は「好きです」という言葉を言った。それなのに、それが受け入れられることはなかった。――俺の努力はなんだったんだ。田上は、心底絶望した。それが、何年たっても心の中から消えないくらい絶望した。忘れることができるなら忘れたかった。ただ、その中に、何か別の道があったんじゃないかと思うと、忘れることもままならなかった。

 特に、こういう夕日を見れば思い出す。田上は、思い切り何かを叫びたい衝動に駆られた。「死ね!」だろうか?それとも、「糞食らえ!」だろうか?どちらにしろ、悪口であることには変わりがなかった。

 ちょうどその時、田上は、何もない階段の上で躓いた。「あっ」と言葉が出た。前には、人がいた。50代くらいのおばちゃんだろうか?何も気が付かずに話をしている。田上は、その人にぶつかる瞬間をスローモーションのように感じたが、その時、腕がぐっと引っ張られて、田上はぶつからずに足を軸にぐるりと回って階段で脛をぶつけただけで済んだ。だが、それはとても痛かった。

 田上が、痛みに思わず脛を抑えて悶絶していると、タキオンが安心したように言った。

「いや~、よかったよかった。君、ぼーっとしているからこんなことになるんだよ」

 どうやら、腕を引っ張ったのはタキオンだったようだ。しかし、田上はそのことに例を告げることもできずに、痛みを抑えようとひたすらに脛を擦っていた。

 そして、ようやく立ち上がれた時には、後ろを塞いでいたので、道のそばによけなければいけなかった。まだ、歩くのにはちょっと抵抗があるくらい痛かった。

 タキオンが心配して聞いた。

「そんなに痛かったかい?」

「いや、もう痛みはありえないほどあるけど、多分骨は折れてない。…ありがとう、タキオン」

「どういたしまして。…ちょっと触ってみてもいいかい?」

 そう言って、タキオンが田上の脛に手を伸ばしてきたので、手をどけるとタキオンの手がちょうどぴったり痛いところにあたって、田上は思わず「いてぇ!」と声を上げた。

「ごめんごめん」とタキオンが謝って、ぱっと手を離した。

 そして、再び聞いてきた。

「やっぱり君、ぼーっとしていただろ?なにかあるんだったら私にも話してくれ。私は君の教え子と言う立場だけではないんだ。友人であり、モルモットを見守る飼い主なんだよ」

 タキオンが、そう言うと、田上はなにが可笑しかったのか痛みに顔を歪ませながらもハハハと元気なく笑った。

「俺は、やっぱり夕日が嫌いだ。あんな夕日があると、悪いことばっかり起きる」

「悪いこと?」

「タキオンには言いたくないことだ」

 田上は、そう言って顔を背けた。タキオンは、まだ話したいようだったが、その時に別の声が飛び込んできた。

「おう、誰かと思ったら、圭一とタキオンちゃんじゃねえか」

 前田家の爺ちゃんがそこにいた。そして、その後にぞろぞろと一行が下りてきて、最後には賢助と幸助が下りてきた。

「何かあったのか?」

 およそ状態のよくなさそうな兄の顔を見て、ニヤニヤしながら幸助が聞いた。

「こけて脛をぶつけたんだよ。ニヤニヤするのをやめろ。腹立つなぁ」

 田上は、少しイラっとして言った。

「立てないのか?」

 尚もニヤニヤしながら幸助が聞いたから、田上も怒りに任せて立った。

「ほら、立てますよ。帰りましょう。もう暗くなる」

 もう四時も終わろうとしているころだった。夕日は沈み、代わりに暗い夜空が空に広がろうとしていたが、まだ西の空の端には夕日の名残である赤みがあった。

 そして、一行の中にタキオンと田上が入ると、婆ちゃん二人組に話しかけられながら、階段を一段ずつ下りて行った。

 

 帰りは、クレープは断念することになった。暗くなったとは言え、まだまだ人が多くクレープ屋の行列の幅は狭まることを知らなかったからだ。それに暗さが一行を急かしたのも理由の一つだった。時刻は五時。田上家、前田家の爺婆が帰るのは、八時だったためまだ少し時間の余裕はあったが、暗くなってきたことにいくらかの不安を感じて、賢助は先を急ごうと言った。

 タキオンは、最後に残念そうにクレープやを眺めていたが、田上が慰めるようにこう言った。

「別に東京の方に帰ったら、クレープ屋なんて幾らでもあるだろ?たまに、学園の前に売店が来てたりするし、食べる機会なんて幾らでもあるよ」

 そうすると、タキオンが怪しげに企んでいる顔をして言った。

「クレープ?…一人で行くのは面倒臭いな。…モルモット君の実験ついでに行ってみるか?」

「クレープ屋で実験するの?」

「いや、あんまりアイディアはまとまっていないが……、そう言えば、ここでまとめる予定だったのに、すっかり忘れていたな。キャリーケースの奥の方にノートをしまいっぱなしだった。…どうしようか。今更、慌ててまとめたとしても…。ただ、あそこはあんまり私の集中できる場所じゃないからなぁ」

 タキオンの歩みが遅れがちになってきたので、田上は引っ張って急かした。

「とりあえず帰るぞ。今日は、ご飯がたくさんあるってよ」

「本当かい?」

 タキオンは、考え事から急に覚めて、田上を嬉しそうに見た。

「ああ、朝のうちに父さんが半分ほど作っていたらしいから、帰って温めたらすぐに食えるって」

「それは良かった。私、お腹がぺこぺこだよ」

「奇遇だな。俺もだ」

 一行は二手に分かれると、再び車に乗った。そして、暗い夜道の中を下って行って、建物のある街中へと出た。田上には、神社のある山を下っていく道の両側にある林が妙に目に焼き付いた。街灯などは一切ない真っ暗な道だ。そこを車で下っていくのだが、その車のライトが林の中を映し出した。獣一匹いない林だ。もしかしたら、今は見えない場所に隠れているのかもしれないが、その人気のなさはどこか不気味だった。上の上までそびえる針葉樹。低い下草。枯葉などもたくさん落ちているだろう。

 その道を車は通っていた。タキオンは、少し疲れたのか、帰りは話すことなど最初から忘れて、田上の肩に寄りかかってぼーっとしていた。田上も疲れがあったのかどうか、欠伸が一つ出てきた。もしかしたら、外の真っ暗闇が眠気を誘ったのかもしれない。

 帰りの車の中は、極々静かなものだった。



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七、素敵なディナー(後編)

今まで、pixivの方でしか投稿していなかった挿絵を今日、追加しておきました。良かったら見ていってください。挿絵のある話は、『二、厨房事変』と『七、素敵なディナー(中編)』にそれぞれ一枚ずつです。
11月11日 記


 家に帰り着くと凍り付くほど静かな家が出迎えたが、それも一瞬で賑やかさに打って変わった。明かりが煌々とつき、人は賑やかにまだ冷えている炬燵に入った。

 すぐに老人たちも到着して、賑やかさは一層増した。田上は、父の手伝いをしてフライパンの上のものを温め直したり、食卓に飯を運んだりした。その過程で、全員が一つの炬燵に入るには、どう考えても少ないだろうということで、低くて小さい丸テーブルを一つ物置から取り出した。それを隣の部屋に少しはみ出す形で置いた。ここは、田上とタキオンの席ということになった。

 賑やかな一団から田上は少し離れることとなったが、田上としてはそちらの方が嬉しかった。どうにも賑やかなのは好みじゃない。タキオンは、ご飯が入っている皿が遠くなるということで少し不満そうだったが、田上に付き合って、自分も丸テーブルにつくことにした。どっちみち、田上からは離れる気がないようなので、タキオンに選択肢はないも同然だった。そのため、可哀想に思った田上が丸テーブルの方にも一つ、唐揚げが山と積まれている大皿を置いてあげた。タキオンは、これで万事解決だったようだ。

 食卓の上に皿が並べられると各々、食べ始めた。テレビをつけて、音がなって、光が瞬いた。暫くは、田上も給仕なんかをして忙しそうに動いていた。だから、タキオンは田上が席に着くまで食べないで待っていた。田上が、「食べててもいいんだよ」と言っても、ただ静かに首を振って田上を待っていた。内心、唐揚げを目の前に積まれて、涎が垂れそうなほど腹が空いていたタキオンだったのだが、田上がこないとやっぱりつまらないので、来るのをひた待っていた。

 田上は、それから十分ほどして、タキオンがまだ待っているのを確認すると、台所にいる父親にもう給仕をやめることを告げてから、小さい丸テーブルの所に向かって行った。賢助は、出来立てのものもあった方がいいと思って、朝は半分しか作っていなかったので、もう半分を今一生懸命作っていた。

 田上は、タキオンの方に寄っていくと、狭い襖の間をタキオンを半分跨ぐようにして、隣の部屋へと移った。少しだけ賑やかさが薄れて、部屋の照明も暗くなったような気がした。

「ああ、まだカーテンを閉めていなかったね」

 田上は、隣の部屋のベランダに続くガラス戸を見て言った。そして、その前まで歩くと外の星空を見つめた。しかし、空に輝くはずの星は、部屋の明るい光に照らされて見えず、代わりに見えたのは、自分の顔だった。あんまり見たくもない顔が映ったので、田上は、嫌な顔をしながら、カーテンを閉めた。

 それから、振り向くとタキオンの方を見て言った。

「ご飯食べててもよかったんだぞ?」

 タキオンは、静かに首を横に振って言った。

「あんまり一人でモリモリ食べててもつまらないじゃないか。…君も食べるのを見たい」

 タキオンの言葉に田上は不思議そうな顔をした。

「…お前もそんなことを思うんだな。…別に向こうに行って、皆と一緒にご飯を食べてもよかったんだぞ?一人が寂しいってことなら」

 田上は、テレビを見ながら笑いさざめく向こうの部屋を指差して言った。タキオンは、それを暫く見つめたが、やがてぽつりと言った。

「君との方がずっと楽しいよ。…少なくともあっちの方がずっと大変だ」

 その言葉に田上は苦笑した。

「まぁ、絶対にどっちの婆ちゃんも話しかけてくるからな。そりゃあ、大変だ」

「ああ」

 タキオンは、また静かに頷いた。そうすると、田上もタキオンがなぜこんなに大人しいのか気がかりになって、本人に聞いた。

「タキオン、今日は随分と大人しいな。まだ、眠気が覚めないか?」

 タキオンは、車の中で田上の隣でいつの間にか眠っていた。だから、タキオンより先に寝てまた目覚めていた田上は、横で寝ているタキオンを疲れているのだと思い、家に着くまで眠らせた。だが、まだ眠いのかタキオンはいつもより大人しかった。

 田上の言葉にタキオンはこう返した。

「…まだ、眠いのかもしれないけど、それだけじゃないよ。こういう気分なんだ。静かにものを話したい気分。分かるかい?」

「分かるよ。俺もそういう気分になるときがある。考え事をしたい時とかな」

 田上は、丸テーブルにつくと唐揚げを一つ箸でとって自分の皿に入れた。それから、白飯がないことに気が付いて立った。

「タキオンの分も取ってくるからな」

 そう言うと、田上は台所の方に白飯をつぎに行って、ついでにコップも二つ持っていった。

 そうして帰ってくると、タキオンは眠そうに目を擦っていたから言った。

「やっぱりお前眠たかったんじゃないか」

 田上は、丸テーブルにご飯とコップを置いて座った。すると、タキオンが今度は決定的に眠たそうな声で言った。

「私は眠たい…けど、ご飯も食べたい。…どうしたらいい?」

「眠ってご飯を食えばいいんじゃないか?」

 田上が、そう言うと、タキオンは「それじゃあ」と言って、座って胡坐をかいている田上の太ももの上に頭を乗せた。

「君が食べさせてくれ」

 タキオンは、食べさせてくれと言ってる割には小さく口を開けた。だが、それに食べさせてやろうとも思わずに、タキオンの頬を叩くと言った。

「やっぱり寝ながらご飯を食うと喉に詰まらせる。起きて食え。起きて」

「えー」とタキオンは声を上げた。そして、こう言った。

「なら、起きるから君が食べさせてよ」

「なんでそんなことをしないといけないんだ。お前が自分で食えよ」

「いやだよ。君が食べさせてくれよ。そうしないと私は、箸すら持たないね」

 田上は、嫌そうにタキオンの顔を睨んだが、一つため息をつくと仕方がなさそうに言った。

「お前もどうしようもない奴だな。俺は、お前のことが全然分からないよ。どのタイミングでどういう風に変わるのか」

「分からないから私なんだよ」

「じゃあ、この帰省中は特にお前だな」

 田上は、自分の皿に置かれた唐揚げを一つ掴むと半分に割って、タキオンの口に放り込んだ。タキオンは、もぐもぐしながら「ご飯も」と言って、次いで口を開けた。

「行儀の悪い奴だな」

 田上は、そう言ったが、タキオンは気にしなかったようだ。ニヤリと笑うと、口をもぐもぐさせた。

 これは、タキオンもいたく気に入ったようだ。その後も、田上がその場にいなかったとき以外は、田上に口まで運んでもらった。

 その様子を見ながら、田上が言った。

「お前、ここに来てからどんどん幼児になっていってるぞ。そのうち、ママのおっぱいとか言い出すんじゃないか?」

 ちょうどタキオンに口の中一杯に詰め込んだ時だったので、タキオンは言葉を発することができずにただ首を横に振った。そして、「んんーんーんんん、んっんんんんんんんん」とわけの分からないことを伝えようとしてきた。

 田上は、それに半笑いで返した。

「なに言ってるか分からないよ」

 タキオンは、田上をじっと睨むと口を急いでもぐもぐさせて、それから、中のものを飲み込むと言った。

「トレーナー君からは、おっぱいは出ないだろ!」

 その時、隣の部屋の一番近くにいた前田家の婆ちゃんがその言葉を聞きつけて、田上たちの方を振り向いた。

「あんたたちなんの話をしてんね?」

 田上は、少し慌てて「何にも」と返したが、婆ちゃんにはしっかりと会話の内容が聞こえていたようで、「圭一からおっぱいが出る出ないの話で何にもと言うことはなかろ?」と言ってきた。田上は、責めるようにタキオンを見たが、その頃にはタキオンは我関せずという顔で水を飲んで唐揚げを食っていた。

 田上は、仕方なく婆ちゃんの対処をした。

「タキオンが、大変だからこういう話になったの。あんまり話す気はないから、前向いてテレビを見な」

 前田家の婆ちゃんは不思議そうな顔をしたが、孫の言うことに素直に従ってテレビの方を見た。

 

 時間はあっという間に過ぎ去っていくようだった。皆は、だらだらとご飯を食べていたが、老人たちが「もうそろそろ出ないとね~」という雰囲気になった。そこで、賢助が「忘れてた!」と声を上げた。

「記念写真撮るよ。記念写真」

 賢助はそう言うと、写真が飾ってある棚の一番上の引き出しを開けてカメラを取り出した。

「圭一とアグネスさんも出てきて、皆で取るよ」

 タキオンは、田上の方を見た。あんまり写真には写りたくないようだった。田上は、その顔を見ると、父に言おうかどうか迷ったが、さすがにここで「写真に映りたくない」は場違いだろうと思って、タキオンに言った。

「タキオン、ほんの一瞬でいいから写真に入りにいかないか?これは、皆で映るやつなんだ。タキオンだけいないってなると寂しいだろ?」

 タキオンの不満そうな顔は変わらなかったが、田上が丸テーブルをどかして自分たちの入れる隙間を作ると仕方なくその隙間に入った。そして、二人で四つん這いになって賢助のカメラの準備が整うまで待っていると、タキオンが言った。

「あんまり私が入ってもしょうがないんじゃないか?…ここに客としてきたわけだし」

「そんなこと言うなよ」

 田上が苦笑しながら言った。

「タキオンだって客人だけど…、客人だけど…」

 ここで田上は自分の言おうとしていることに気が付いた。タキオンは、田上の客人であって、家族ではなかった。ここにきて、より一層タキオンとの距離が近くなって忘れていたが、タキオンと自分は家族ではなかったのだ。それどころか、交際すらしているわけではない。あまりに驚いたので、田上は言葉が出てこなくてタキオンを悲しそうに見つめた。

 タキオンは言った。

「客人だけど…、なんだい?まさか家族とでも言うつもりだったのかい?」

 あっさりタキオンに見透かされて田上は戸惑ったが、こう言い返した。

「家族とか、そんなもんじゃないよ。友達だよ」

「友達ぃ?」

 タキオンはハハハと笑った。

「あんまり脈絡がないな。やっぱり家族とでも言おうとしたんだろう?…答えなくてもいいけど、私もちょっと君と密接に過ごしすぎてしまったみたいだ。あまりいい兆候ではないな」

「なんで?」

 その言葉を聞いて、田上は少しがっかりした。

「なんでもどうしても、あんまり君に肩入れしすぎると、別れるときに辛くなるだけだよ。私は、その人とさよならをするときはね。あんまり未練たらしくはいたくないんだ。できるだけあっさり別れられた方が、自分にとっても都合がいい」

 タキオンは、そう言葉を切った後に、少し間を空けると言った。

「…だけど、君と別れるときは少し未練たらしくなってしまうかもね。だって、最低でも三年は一緒に過ごすんだもの。情が湧かない方が不自然だよ」

 その時、賢助が「もう撮るよー」と言うのが聞こえたから、二人はテレビ付近にいる賢助の方を見た。

「アグネスさんの方に寄ってくれ」

 賢助が三脚の上にあるカメラを覗きながら全員の場所を調整していた。

 田上が、タキオンの方に寄ると、タキオンがニヤリと笑って言った。

「君の方から寄ってくるなんて意外だねぇ。人肌が恋しくなったのかい?」

「うるさい。前の方を見ろ」

 田上は、タキオンの顔をあえて見ずに言った。ここでタキオンの顔を見てしまうと、恥ずかしさで死んでしまうような気がした。タキオンが言った通り、田上の方から寄ることなんてほとんどなかったから、タキオンのことをより意識してしまった。どこまで寄っていいものかも分からずに顔がごく近いところにあるのは、中々の緊張具合だった。

 そのうち、もうタキオンから離れてしまおうかと思った頃に、やっと賢助の納得のいく具合に仕上がったようだ。再び、「撮るよー」と言うと、カメラのボタンを押して、自分は幸助の隣に行った。

 パシャと一枚撮れた。そして、次いで二枚目が撮られたので、皆三枚目があるのかどうか訝しんで動けなかった。だが、そこで父の賢助が動いて、カメラを確認しに行った。すると、「ああ」と落胆の声を上げて言った。

「お義母さん、あなたのピースしている手がアグネスさんの顔を塞いでました」

「あら、ごめんなさい」と前田家の婆ちゃんが謝って、少しタキオンから離れるように移動した。

「私も実はそんな気がしてたんだよ」

 タキオンは、田上に小声で言った。

「じゃあ、お義母さんピースしたいんだったら自分の体の前でして、それで、アグネスさんと圭一は、もう少し前に出てきてもらえるか?」

 言われるがままに、二人は四つん這いのまま前に進み出た。

「オッケーオッケー。それじゃあ、次、三枚撮るんで我慢して待ってて」

 賢助は、またカメラのボタンを押した。

 パシャ、パシャ、パシャ、と三枚が撮れた音がした。そこで、皆の脱力したため息が聞こえた。賢助の様子から察するに、これは上手く取れたようだ。ニコニコしながらそれを見ていた。そして、「よし」と言うと、こう続けた。

「父さんたちもう帰らないといけないんだろ?」

 田上家の爺ちゃんが、炬燵の上にあるウインナーを一つ掴んで食っていた所に賢助がそう聞いたので、爺ちゃんは慌ててもぐもぐしながら言った。

「そうだ、そうだな。もう帰らなくちゃなんねぇ。…一瞬だったなぁ。…また会えるのはいつになる?」

 賢助にそう聞いた。

「次?……予定が立つかなぁ?うーん…、圭一と幸助がこうしてまた揃うのは、命日の時だけど、今回はその命日も兼ねてんだろ?それにあんたたちももう若いとは言えない年だし、そんなに移動を繰り返してたら倒れるよ?」

 息子にそう言われると、爺ちゃんは悩まし気に唸った。そして、言った。

「まぁ、気が向いたら来るかもしれないからな。その時は連絡する」

 そう言って、爺ちゃんが立つと他の老人たちも自分たちの荷物をまとめつつ、立ち上がって玄関の方へと向かい始めた。まるで侘しい行進のようだった。タキオンと田上は、その後に続いて、最後に幸助が行進に加わった。

 老人たちは、各々悲しげな顔をしていたが、もう本当に出て行くという段になると、次の希望を待つ顔になった。

「タキオンちゃん、またこっちに来るかしら?」

 田上家の婆ちゃんが聞いた。

 タキオンは、困ったような顔をして田上の方に助けを求めた。

「タキオンは、もう来るか来ないかは分からないよ。多分、来ない確率の方が多いかもしれない」

 田上は、自分で言ってて悲しくなったが、その言葉の正否を問うようにタキオンを見た。タキオンは、こくりと頷いた。

「そう…」

 婆ちゃんも悲しそうな顔をしたが言った。

「あなたをこんな間近で見れてよかったわ。タキオンちゃんのトレーナーを圭一がしてることは知ってたけど、こんな機会に巡り合えるとは思わなかったもの。…私が、最後に言いたいのは、ぜひうちの孫をあなたのお婿に推薦するってことね」

「婆ちゃん、やめてくれよ…」

 田上は、もうほとほと老人の戯言には飽きたと言うように、首を振った。すると、婆ちゃんは言い返した。

「じゃあ、圭一は結婚するつもりはあるの?」

「…ないけど」

「それなら、タキオンちゃんに拾ってもらった方が楽じゃない」

「それは、タキオンの気持ちを考えてないだろ?…あんまり変な冗談はやめてくれ。対応に疲れる」

 そこで、婆ちゃんは何かを言おうとしたが、玄関の外の方から「おい」と爺ちゃんに声をかけられると、一歩引いて、その後につかえていた前田家の二人が靴を履けるようにした。

前田家の二人は、それぞれ「タキオンちゃんばいばい」と軽く手を振って、その後の身内連中にも手を振ってから外に出た。

 賢助たちも靴を履くと、見送るために外に出た。タキオンは、それにはどうも気が乗らないようだったが、田上が行くとなると自分もついてきた。

「車に轢かれんなよー」

 賢助が、レンタル車を駐車している場所に向かう四人に向かって行った。四人は、暗い夜道にすっかり溶け込んでいた。元々、田上たちの方が光源であるから暗い方は見えないのは当然だった。しかし、それにしても見えなかったので、田上は少し心配だった。そこにタキオンは、ちょっかいをかけてきた。田上の脇を少しくすぐったのだ。途端に、田上は身をよじってくすぐったさに悶えると、タキオンに「何するんだよ」と言った。

 タキオンはその言葉を無視して、暗がりの方を指差した。

「ほら、あそこに見えるよ」

 田上は、タキオンの指差した方を眺めた。確かに、微かに四人の影が見えたような気がした。その中の一つが不意に振り向くと、「ばいばーい」と手を大きく振った。

 タキオンは、何を思ったのか、微笑んで小さく手を振り返していた。田上は、それを見ながらも横で誰か分からぬ陰に手を振った。やがて、それも完全に闇の中に溶け込んで見えなくなった。

 一番最初に玄関に足を向けたのは、タキオンだった。少し淡白な気もしたが、タキオンからしてみれば余韻なんて浸るだけ無駄なんだろう。田上は、そう思うと、タキオンの後について玄関の方に戻っていった。

 

 家の中に戻ってみると、タキオンが言った。

「やっぱり家の中の方が暖かいね」

 誰に言ったのか分からない独り言のような言葉だったが、田上はそれに「うん」と反応した。すると、タキオンは不思議そうにこっちを見て、「君に言ったんじゃなかったんだけどなぁ」と言ったから、思わず「ごめん」と謝った。

 タキオンは、その言葉を聞いてハハハと笑った。

「謝らなくてもいいよ。別に怒ったわけじゃないんだから。…でも、君はこういうのが多いねぇ。どうしてかな?私は独り言のつもりだったんだけど、君が入り込んでくるときは多々ある。う~ん…、まぁいいか。別にそんな事には大して興味がないしね」

 タキオンはそう言うと、炬燵の中の方に入っていった。

「ん~!…この炬燵、あのお婆ちゃんたちの香水の匂いがするよ。君だ。君の匂いが必要だ。今すぐ私に寄りたまえ」

 タキオンがそう言わずとも田上は炬燵に入る予定だったので、タキオンの隣に座った。タキオンは、炬燵の中に寝転がっていたのだが、田上が来るとその足元にぴったりとくっついてその後に言った。

「あの人たち、まあまあ香水がきつかったね。特に、年寄りって言うのはそう言うものか。…でも、私の祖母そんなきつい香水はつけてなかったな」

「…タキオンの祖母?」

 田上は、食卓の上に散らばっているご飯の残りに手をつけながら聞いた。

「君も知っているだろう?オークスを勝ったウマ娘さ」

「ああ、あの人ね。そういやそうか。タキオンの祖母か」

「そうだよ。君の祖母連中とは大違いさ。…全く、最後まで面倒だった。…走るルートを確認しに行ったときにさ。君があの厄介な老人に落ち込まされて帰ってきたじゃないか」

「ああ」

 田上は、あんまり思い出したくないことを思い出すことになってしまって、顔をしかめたが、そのことには気づかず話は続いた。

「あの時、私は、――ああいう人が君の身内にいなくてよかったろ?って言ったような気がするけど、あれは、少し私がバカだったな。君の祖父母を確認しないでそう言っていた。あれは君を慰めるために言った言葉だ。前言撤回するよ。あれは、どうにもこうにも厄介だ。なんであんな人たちと話せるのか、君が不思議でならない」

 タキオンの言葉に田上は苦笑した。

「本当に、本当にね。昔はいい人だったと思うんだけどね。…変わっちゃったのかな?いや、でも、元気具合は変わってないからな…。多分、俺がまだ未婚なのもあって、それで元気が爆発しちゃったんだろうね。――孫が家に女の子を連れてきた!ってね。実際はそんなんじゃないのに、……あの人たちそういうドラマが好きなんだろう」

「ふぅん」とタキオンが、相槌を打つ声が聞こえてきた。田上は、話していくうちに段々と自分の理想とかけ離れて言っているような気がして、気分が悪くなってきた。

――もうここで話は仕舞いかな。

 田上が勝手にそう思っていると、タキオンが話しかけてきた。

「君はさ。お婆ちゃんたちに――結婚するつもりはあるの?って聞かれて、ないって答えたよね?」

 田上は、何も答えなかった。

「でね?君、私にはいい男を見つけて幸せになってほしいって言ってたじゃないか」

 またしても、田上は何も答えなかった。だから、タキオンはここでこう言った。

「……君、ちゃんと私の話を聞いてるかい?」

「…なに?」

 ここで田上は初めて口を開いた。

「なにって、ちゃんと私の話を聞いてたかい?」

「…うん」

 田上の反応がいまいちなのでタキオンは、困ったように頭を掻いた。

「う~ん、要領を得ないなぁ…。まぁ、話を続けるとね?君のさ、結婚の価値観はどうなっているんだい?私にはいい人を見つけて幸せになってほしいと言いながら、自分はその『いい人』を見つける気はないと言う。これって矛盾しているじゃないか。もし君が、結婚すれば幸せになるというのなら、君の選択は幸せにはならないということだ。一体、どういうつもりなんだい?」

「…言ってる通りだろ。幸せになるつもりなんてないんじゃないか?」

「ないんじゃないか?…そんな他人事みたいに…」

 そう言って、タキオンは顔をしかめた後言った。

「君にとっての幸せって何だい?」

「幸せ?……こうして、正月のご飯の残り物を食べているときかな」

「それが?」

 タキオンが、炬燵から体を起こした。そして、食卓の上のものを眺めた。

「これが君の幸せなのかい?」

「ん?うん」

 ちょうど卵焼きを口に運んだところだった。

「これが君の幸せってことは…、一生その、正月の残り物を食べていくことだけを続けていけば、君は幸せな人生と言えるんだね?」

 田上は、卵焼きを暫くもぐもぐした後、飲み込んで言った。

「こういうのは、たまにあるから幸せなんだよ。そんな毎日あったって、段々と胃もたれしていく一方だろ?」

 タキオンは、驚きの混じった不思議そうな顔で田上を見た。

「そりゃあ…、そうだ。…でも、……う~ん、私には理解ができないなぁ。確かに、いい人を見つけてその後を幸せに生きていくって事は、正しく理想の姿なんだろうけど、…なにかが腑に落ちないんだよ」

 玄関の方で幸助たちも帰ってきたであろうドアの開閉音が聞こえた。そして、話し声がすると、その話し声は部屋の中まで入ってきた。

 タキオンは、それにとても迷惑そうな顔をしたが、幸助、賢助、両名共にそれには気が付かなかったようだ。楽しそうに会話をしていた。だから、タキオンが微妙な気分の顔をして言った。

「この家では、考え事は難しいようだね」

 田上は、少し口角を上げて、「その通りだ」と頷いた。それを聞くとタキオンは、ふーーと長いため息をついて、また炬燵に倒れこんだ。

 そして、暫くぼーっとした後言った。

「トレーナー君」

「…ん?なに?」

「……案外今日はいい一日だったのかもしれない」

 そう言われると、田上は不思議そうな顔をした。

「なんで、そう思ったんだ?」

「なんで?…う~ん、そうだなぁ。…なにか、とっても充実した気分だよ。君が元気になって、すぐに退院できて、それで、面倒臭かったけど君の祖父母も知ることができて、神社に行って……、君はあの夕日のことを嫌いって言ってただろ?」

「うん…」

「私は綺麗だと思ったけどね。高いところから見る夕日はとても綺麗だ」

 田上は、曖昧に返事をしたばかりで何も話さなかった。その様子を見ると、タキオンは苦笑した。

「君もあんまり大変なやつだなぁ。私だって大変だけど君だって大変だ。特に、君は相談できる相手がいない分大変じゃないのかい?…それとも私の知らないところで誰かに相談してたりするのかな?」

 田上は、今度はもう何も答えなかった。すると、タキオンは再び起き上って、食卓のあるものを摘まんで口に放り込むとまた寝転がった。そして、もぐもぐしながら言った。

「君の言う幸せってのも分かるよ。確かに、お正月の残り物を食べる時間は、普段と逸脱しているという感覚があって楽しい。もし、楽しいというのが、幸せと言うんだったらね」

 そこで、幸助が「何の話をしてるの?」と聞いてきたから、「君には関係のないことだよ」とタキオンが返した。幸助は少し不満そうだった。

 その顔を見ると、自然と田上の顔に笑みが浮かんできた。隣では、タキオンがまた起き上がり、何かを摘まみ、また寝転がった。

「おいしいおいしい」言いながらタキオンは行儀悪く食べていた。その様子を微笑ましく思い、田上の顔にはさらに笑みが浮かんだ。

 そして、言った。

「あんまり言うと怒るかも分からないけどさ」

「…ん?」

 タキオンが、寝転がりながらティッシュで自分の汚れた指を拭いていた。

「タキオンは、…タキオンは、すごく、なんというか、…いい奴だよ。思春期とか子供とか大人とか、そう言うの関係なく、お前はいい奴だよ」

「…?それに私の怒る要素があるのかい?」

「いや、あんまりにも抽象的だから、捉え方によっては怒られるのかなって」

 タキオンは、分からなさそうに「ふぅん…」と頷いた。そして、言った。

「…まぁ、君もいい奴だけどね。大変な人だけど、根本はいい奴さ。私が言うんだから間違いない」

「そう、なのかなぁ?」

 田上は照れたように笑った。すると、タキオンも少し恥ずかしくなったようだ。食卓のものをもう一つ摘まむと言った。

「私の言うことを疑うんじゃないよ。…ただ、それ程深くも考えないでくれたまえ。いつ、恥ずかしいことを言っているのか分からない」

 そして、近くにあった爪楊枝でウインナーを突き刺すと田上の方に突き出した。

「食うんだ。もっと食うんだ。ここから帰ったら、君をいじくり回して、こねくり回すからね。覚悟しておけよ」

 タキオンが、そう言って田上の口に無理矢理押し込もうとしてきたから、田上は困った。だけど、嬉しかった。嬉しくて笑いが込み上げてくると、その開いた口にウインナーが押し込まれた。

 もうなにで笑ったらいいのか分からなかった。タキオンにいい奴と言われたもの嬉しかったし、ウインナーを無理矢理口にねじ込まれたのは可笑しかった。田上は、喉にウインナーがつまらないようにしながら、一生懸命笑った。タキオンもその様子を見て、可笑しそうに笑った。

 その笑い声は、賢助の心を温め、幸助の心も嬉しさに変えた。街の明かりは、夜を照らしていたが、タキオンたちが笑った時、一際明るく輝いたような気がした。

 車の走る音が聞こえる。自転車が走る音も微かに聞こえる。猫の鳴く声も聞こえる。その中に、タキオンたちの笑い声も微かに混ざっていた。



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八、幸助と別れる日(前編)

八、幸助と別れる日

 

 朝になると、誰かが自分たちと同じ部屋で鞄をごそごそと漁っている音で目が覚めた。タキオンが、目を開けると、そこにはいつものように田上の顔があって、目を瞑って眠っていた。恐らく幸助か賢助のどちらかだろうと思って、タキオンは、キョロキョロすることはせずに田上の顔を見つめ続けた。思わず邪魔したくなるいい寝顔だった。だが、そんなことはせずにタキオンは息をひそめて、鞄を漁っている人物が部屋を出るのを待った。

 その人は暫く、ゴソ、ゴソゴソッと鞄の中を漁っていたが、やがて「ここにあったのか…」と小声で呟くと、鞄を床に置いて歩き出した。そして、タキオンの横の布団をバフバフと踏んで隣の部屋に抜けていった。声から察するに、鞄を漁っていた正体は幸助だったと思われる。タキオンは、それを確認するために田上から体を離すと、隣の布団の中身を見た。やはり、そこには人の影はなかった。タキオンは、体を元の場所に戻した。田上は、まだ眠っている。そこで、タキオンはどうしようかと考えた。

 目の前にいる田上を無理矢理起こして、自分の相手をさせるか、それとも、一人で起きて、田上の家族に朝の挨拶を告げるか。前者の方が魅力的に思えたが、その時には少しの申し訳なさも発生するだろう。今のタキオンはそうだった。だからと言って、前者を軽々しく捨てることも忍びなかったので、タキオンは田上の頬を軽くちょんちょんと突いた。

 田上は起きない。

 もう一回、ちょんと突いた。けれど、田上は起きなかった。その後暫く、息を吹きかけたり、顔をいじったりもして、田上が起きることを願ったが目を覚ますことはなかった。仕舞いには、鼻を塞いでみようかとも考えたが、それをすると絶対に起こしてしまいそうだったので、それはやめた。代わりに顎の肉を少し引っ張ってみたが、やっぱり田上は起きず、タキオンはため息をついて天井を見た。丸い電灯が、今は朝の日差しに暗く浮かび上がって見える。この、程よく侘しい感じがタキオンの好みではあったが、すぐに目を逸らすと田上の顔を見てそれから起き上がった。

 体を半分起こしたところで、枕元に置いてある田上のスマホを見つけた。そこで、時間を確認するともう八時になってはいるようだ。タキオンは、名残惜しそうに田上の顔を眺めると、遂に意を決して立ち上がった。

 あんまり大した冒険じゃないのはタキオン自身も理解していたが、少し田上から離れるのが億劫に思えたので、嫌なものであるには違いなかった。別に危険な敵も罠も何もないが、何かが怖くて進みたがらなかった。

 タキオンは襖の前に立ち、もう一度振り返ると、――トレーナー君の所に戻ろうかなぁ、と思ったが、その頃にはもう隣の部屋に行くことを決めていたので、タキオンは大きく息を吸うと隣の部屋へと続く襖を開けた。

 

 思った通りであったし思った通りではなかったが、タキオンが「おはよう」というと炬燵に入っていた幸助から「おはよう」と返ってきた。ただ、今は自分のゲームで忙しかったようだ。言葉を返すには返したが、タキオンの顔を見ていなかった。

 タキオンは、そのままトイレの方に歩いて行き、台所にいる賢助にも挨拶をした。「おはようございます」と言うと、「おはよう、アグネスさん」と返ってきた。実ににこやかな人で、ちょうど鍋に火をかけているところだった。

「今日の朝ごはんにみそ汁を作ったけど、基本的に朝から昼にかけて、昨日の正月の残り物を消化してもらう予定なんですよ。アグネスさんは、それで大丈夫?…もし、あれだったら、別に何か作ってもいいですが…」

「いえ、全然大丈夫です」

 タキオンは、そう言って、トイレの方に歩いて行った。

 それから帰ってくると、炬燵の方に行こうかとも思ったが、やることもなさそうなのでタキオンはもう一度寝室の方に戻ってトレーナー君の懐で温めてもらおうと考えた。

 そうして隣の部屋に行くと、田上はまだ寝ていたのでしめしめとタキオンは喜んだ。少しの冒険をして見事帰ってきたタキオンは、田上と同じ布団に入ると嬉しくて抱きしめそうになったが、どうにも体勢が上手くいかなかったのでそれはやめた。さすがに、田上の上に乗って全身を預けて抱きしめるというのは、今の田上を親のように甘えるようなタキオンでも恥ずかしいことだったのでしなかった。

 それでも、交際してすらいないのに同じ布団に入るという行動はした。タキオンにとってはこれくらいがセーフゾーンであったし、第一、目的としては安心感を得ることだったので、同じ布団に入る以外の選択肢がなかった。

 タキオンは、田上の懐に入ると、嬉しそうに田上を見つめ、それからもぞもぞした。ここであっても暇なのは同じことだった。タキオンは、田上の顔ばかり見つめているわけにもいかないので、何をしようか考えていた矢先、田上が大きな大きな欠伸をした。その時、タキオンは少し田上から離れた場所にいたので、すぐにごろごろ転がっていくと、田上の懐に入り言った。

「おはよう、トレーナー君。まだ眠いのかな?」

 田上は目を開けることもままならず、珍妙な顔のまま頷いた。すると、タキオンが言った。

「おや、ならば二度寝は良くない。朝ごはんを食べて、眠気を飛ばそう。なにより私が暇なんだ。あっちの部屋に行って、共に過ごそう」

 タキオンの言葉に田上は適当に頷いた。タキオンは、それに少し気を悪くしたような顔をして、田上の頬を突きながら言った。

「君は、また私の機嫌を損ねたいのかい?早く起きたまえ。ほら、早く」

 最後に二回強く頬を突いたが、田上は目も開けなかった。その代わりに早口でこう言った。

「まだ眠たいんだ。頼むからもう少し寝かせてくれ」

 そう言うと、大きな手の平でタキオンの頭を掴み、その口を塞ぐように自分の胸に抱き寄せた。タキオンはそんなことをされても悪い気はしなかったようだ。ニヤッと笑うと、田上の胸の中から顔を出して言った。

「君、寝ぼけて何しているのか分からないんだろうけど、私が学園にこれを告げたら大問題だよ」

「……うん、大問題でもなんにでもなっちまえ。…今は、とにかく寝かせてくれ」

 田上はとことん眠たいようだった。タキオンは、その言葉を聞くと、寝かせてあげようかと大人しくなったが、次に一度暇になるとこう言った。

「やっぱり君も起きろよ。暇だ。ほら、起きろ起きろ起きろ起きろ…」

 ここでタキオンが田上の頬を何回も何回も突いたので、田上は鬱陶しそうに首を振りながら、次いで大きな欠伸をした。

「起きるよ」

 そう言っても、田上は目を瞑っていたが、同時にタキオンの髪の毛を手でくしゃくしゃにした。

「うわぁ、やめろよ」

 タキオンが、情けない声を出したので田上は目を閉じたまま、ニヤリと笑った。そして、再度欠伸をすると、ようやく目を開けてタキオンを見た。それから、「おはよう」と一言声をかけた。

「おはよう。やっと起きたか、この寝坊助め」

 タキオンは、少し怒りながらそう返した。その言葉に田上はニヤリと笑ったが、「あーああ」と言うと、天井を見た。

「今日が三日、明日は四日。そして、明後日は五日か…。思ったよりも早かったなぁ…」

 タキオンもそれに賛同した。

「…確かに、思ったよりも早かったね」

 タキオンも天井を見た。先ほど見た時より日が昇ったのか、少し天井が明るくなっていた。

「帰ったらどうなるんだろう?」と田上は言った。

 その後に「タキオンと離れたくないなぁ」と言いたかったのだが、さすがに言ってしまえば、女々しくて気持ち悪いだろうと思って、その言葉をぐっと飲みこんだ。そもそもタキオンとは付き合ってすらいないことを田上は確認しないといけなかった。この家に来てからタキオンとの距離というものを感じなくなったが、その感じがなくなると一気に勘違いに転じてしまいそうで恐ろしかった。神社に行った時などもこの思いを感じたが、どうにも厄介だったから、少しだけ、ほんの少しだけ田上の胸の内に――早く帰りたいという思いが在った。大半は、――勘違いでもいいからタキオンとこの生活をもうちょっとだけ続けたらなぁという思いだった。

 

 田上は、一つため息をつくと、傍にいるタキオンを避けながらノロノロと起き上がった。タキオンは、田上が起き上がると、「起こしてぇ」と赤子のように手をバタバタさせた。

 田上は、タキオンの両手を持つと「ん!んん!」と力を込めてタキオンの半身を上げさせることに成功した。そして、言った。

「女子高生を起き上がらせることなんて、一生に一度あるかないかだ。…もう、なくてもいいな」

 それを聞くと、タキオンはニヤリと笑って、体を後ろに倒した。そして、再度「起こしてぇ」と赤子のように手をバタバタさせた。田上は、物凄く嫌そうな顔をしたが、持ち前の優しさを見せてタキオンを起こしてあげた。今度は、両足で立つまで手を引っ張ってあげた。

 そして、「もうするなよ?」という目つきでそっと手を離すと、タキオンが笑い出した。

「そんなに警戒しなくてもいいよ。二度あることは三度あるって言うけど、あれも言葉の綾だよ。何回もあれば、それを警戒しなさいよ、ってことだよ。…おや?そうすると…君はそれを実践してたわけだ。いやー、すまないすまない」

 全然すまないという声の調子ではなかったが、田上はそれを聞くと「いいよ」と返して、自分はさっさと隣の部屋の方に行った。

 そこで、タキオンが言った。

「ああ、私はここで着替えておくから、入ってくる時は気を付けてね。君、そういうのにこだわるから」

 最後の一言は余計かに思われたが、田上は何も言わず、ただ「オッケー」と返した。そして、自分は幸助と賢助に「おはよう」、「おはよう」と言いながら、トイレの方へと歩いて行った。

 

 田上が、トイレから帰ってくるとタキオンはもうそこにいた。出来立てのご飯とみそ汁を前に、昨日の残り物を食べていた。夢中になって食べていたタキオンだったが、一度自身のトレーナーを見つけるとこう言った。

「ほら、早くトレーナー君も食べなよ。昨日の残りがまだあるって」

 タキオンは、そう言って自分の右隣のスペースを少し開けた。田上は、そこに入り込むと、目の前に少しそわそわしている幸助を見つけた。目の前に財布も置いていたので、田上は気になって聞いた。

「何かあるのか?」

「ん?…いや、ちょっとお土産を買いに行こうと思ってるんだけど、店が開くのが九時からなんだよね。あんまり急がなくてもいいんだけど、落ち着かなくて」

「何を買うんだい?」

 横からタキオンが口を挟んできた。

「いや、和菓子をちょっと…ね?」

「和菓子!」

 突然タキオンが大きな声を上げた。

「和菓子か。これは、私の好みだねぇ、トレーナー君」

 いやに猫撫で声で田上にそう言ったから、嫌そうな顔をして田上は言った。

「なんだよ。金ならあるだろ?自分で買いに行けよ」

 そう言うと、「えー」という声が隣で上がった。

「君も一緒に行こうじゃないか。昨日、クレープを食べることができなかったんだし、行こうよ。君の分も買ってあげるよ?」

「高校生に奢られて喜ぶほど、俺も落ちぶれちゃいないよ」

「そんなこと言わないで」

 タキオンが少し詰め寄ってきた。

「和菓子はおいしいよ?とっても甘いんだ。紅茶にもよく合うよ。…ほら、私を助けると思って、ねえ?行こうじゃないか。店によってもオリジナルの和菓子があったりするものだ。私はそれが食べてみたいなぁ」

「…いやだよ。それにクレープはどうするんだよ、クレープは。帰ったら食べに行くんじゃなかったのか?二度手間か?」

「二度手間!?スイーツを食べに行くと言うのに、それを手間だって!?......君、まだ従順なモルモットとしての自覚が足りないよ。私がなにかをしたいと言ったら、君の返事は『イエス』か『はい』しかないんだから」

 田上は、何も言うことはなかったが、物凄く嫌そうな顔をした。

「そんな顔をしないでおくれよ~。……そうだなぁ、何か…何か欲しいものはあるかい?買ってあげるから」

「俺は五歳児か。欲しいものなんてもうとっくに自分で買ってるよ」

 タキオンの落胆する声が聞こえたが、田上は自分の前に置いてあった箸とみそ汁をそれぞれ手に取ると朝ごはんを食べ始めた。

 朝ごはんを食べている間中、タキオンは和菓子のプレゼンをして田上をついて来させようとしていたが、それも終盤になると幸助の「どれ、もうそろそろ行くかな」という言葉で焦りに変わった。

「君、君!一緒に行こうよ。私は幸助君と二人でなんて嫌だよ。さすがに気まずくてやってられないよ。だから、ね?行こう?美味しいものもあるし」

 タキオンは、そう言って田上の肩を揺さぶった。そこで田上もため息をついて言った。

「あんまり行きたくないけどなぁ…。ここでタキオンがついていったら、幸助の方が可哀想だし」

 田上は、そう言うと立ち上がり、また言った。

「幸助、タキオンがついていきたいって言ってるから、少し待っててくれ。俺が、着替えないといけない」

 幸助は、「うん」と頷いて、それから、壁にもたれかかってスマホを見始めた。

 

 隣の部屋で着替えて出てくると、幸助はうんと一つ伸びをして、田上に言った。

「お前の子供の面倒はお前が見ておけよ」

 そうすると、タキオンは怒って言った。

「君、いつも私を舐めているかのような口ぶりで話すけどね。君、大学生なんだろ?あんまり年も変わらないじゃないか」

「大学生だって高校生より成長してるよ。特にお前よりかは。…だって、見てみろ。親でも何でもない圭一に甘えっぱなしじゃないか。少なくとも俺にはそう見えるね。俺に舐められたくないんなら、少しは圭一から離れろ。そして、物を言え。そうしないと俺は一生お前を舐め続けるね」

 この言葉にタキオンは何も言い返すことができずに打ち負かされてしまって、反論しようにもできなかったので気晴らしに田上の手を少し強く掴んだ。

「早く行こう、トレーナー君。君の弟、嫌いだ」

 そう言うと、タキオンは田上の手を引いて玄関まで連れて行った。その後でこう言った。

「弟!早く来たまえ。君がいないと和菓子屋の場所が分からないだろ?」

「お前も俺の事大概に舐めてるだろ!」

 引き戸の向こうで幸助がこういうのが聞こえた。

 その会話を終始、半笑いで眺めていた田上だったが、台所にいた賢助も同じ顔をしているとわかると、二人揃って吹き出した。

 賢助が言った。

「アグネスさんも馴染んできたみたいで嬉しいよ」

 タキオンは、その言葉をいい意味として捉えていいのか判じかねていたが、やがていい意味だと捉えると、顔を微妙に歪ませて微笑んでいた。

 そして、幸助が引き戸の向こうから現れると、玄関の扉を開けようとしたが、その時に思い出したように言った。

「君、財布は持ったんだろうね?」

「え?タキオンが買うんじゃないの?」

 田上はそう聞き返した。

「私が買うにしろ、君が買うにしろ、大した違いはあるまい。...と、私は思うんだけど、さすがに自分のお金で買った方がいいかな?」

 途中でタキオンの良心がその心の中に現れたようで、言い方ががらりと変わった。その変わりようを田上は少し可笑しく思ったが、微かに笑みを表情に浮かべただけでこう言った。

「いや、別に使う予定のない金だ。お前ぐらいにだったらくれてやるよ」

「あ、じゃあ、俺にもくれてもらっていい?」

 横から幸助が口を挟んだが、それには「いやだ」とはっきり答えた。

「金があるのに俺から集るな、阿保め。赤子の時から出直してこい。俺がしっかりと教育してやるよ」

「おや、君、運転しなくても暴言が出たね。元々そういう性質なのかい?」

 今度はタキオンが横から口を挟んだ。だから、もう田上は鬱陶しくなって「うるさい」と一喝した。タキオンは、その言葉を聞いてハハハと笑ったが、すぐに気を取り直すと「さあ、早く財布を取ってきてくれ」と言った。

 

 そして、一行は家から出掛けて行った。しっかりと尻ポケットに財布を入れた田上は、寒い寒いと言いながら外に出て、タキオンの手の温かさを感じた。幸助は、誰も手を繋ぐ相手がいなかったので、一人ですたすたと前を歩いた。幸助にとってはあんまりいい気分とは言えなかっただろう。後ろでは終始、疑わしい関係の男女が歩いているのだから。兄の方は、タキオンに気があることを幸助は察していたが、タキオンはどうにも分からなかった。やってることは恋人同士なのに、本人はそうではないというのだ。これについては兄も同じことを言っていた。「だったら何なんだよ!」と幸助は叫びたがったが、そう叫んだら「トレーナーとその担当している子です」と返されるのが関の山だろう。

 あんまり面白くもなかったが、幸助は別にそんなことを理由に断る術を持ち合わせていないので、少なくとも兄がうるさい子供の面倒を見てくれるのならいいか、と思い、和菓子屋についていくことに何も言わなかった。

 だが、和菓子屋も近くなった頃、後ろからタキオンに声をかけられた。

「ねぇねぇ、君。君って、確か今日帰るんだったよね」

 タキオンが田上から少し離れて、幸助の横についた。幸助は黙って頷いた。すると、タキオンは後ろを振り向いて田上の方を気遣わしげに見たから、何があるのかと思って、幸助も振り向いた。

 田上は、「俺のことはいいから」と手を振って追い払う仕草をした。そうなると、タキオンも幸助の方を向いて言った。

「いや~、君の兄貴を引っ張り出してきたのは良かったけど、実は私には用というものがあってね。君と、君のお父さんに聞こうと思っていたものだが、トレーナー君には聞かれちゃいけないのだよ」

 タキオンがそう言うと、幸助は悪い予感がして、「何だよ。…嫌だよ?俺は」と言った。

 タキオンは、困ったように笑っていた。

「そう言わないでくれよ。実のところ、今まですっかり忘れていたからその機会がなかったんだよ。だから、この機会にぜひ君と話しておこうと思ったんだ。…なに、長く時間は取らないし、別に迷惑をかけるつもりもない。二、三個聞き取りをさせてもらえればいいんだよ」

 タキオンは、「最低限譲歩しているんだよ?」と言っている風に首を傾けた。幸助は、本当にあんまり嬉しくないことではあったが、タキオンがその話の後に提示した、「君と二人で店の中に入って、田上君には話を聞こえないようにするだけでいい」という提案に、これ程かと嫌な顔をして頷いた。

 タキオンは、相変わらず困ったように笑いながら、「トレーナー君、君もすまないね」と後ろの方に声をかけた。

 その後は、幸助の方に少し興味を持ったようだった。タキオンは、田上の横を離れ、幸助の横についた。田上は、寂しさを感じて、幸助の隣で楽しそうに話しているタキオンを見ると心が切なくなった。――いずれはああなってしまうのかもしれない。田上はそう思った。

――タキオンがもし、タキオンにとってのいい人を見つけてしまったならば、俺の見る景色はこうなるだろう。もしかしたら、後ろからすら見れないかもしれない。…いや、きっとそうだろう。

 田上の心は沈んだ。もう、あんまりタキオンの楽しい顔は見たくなかった。田上の胸は堪らなく苦しくなり、心臓は早鐘のようになった。何かを叫んで、タキオンの注意をこちらに向かせたかったが、見えない壁があるような気がして、それも無意味に思えた。

 こちら側の世界。あちら側の世界。住んでいる場所が違う。

 田上の足は、遅れがちになった。ノロ、ノロ、ノロ、と一歩ずつ歩くようになった。どんどんとタキオンが遠ざかってゆく。膝から崩れ落ちてしまいたくもあったが、タキオンの背を追うことは田上の使命であった。

 昔、こんな歌を聞いたような気がした。

『愛より素晴らしいものはない。愛があれば世界は平和で、人生は豊かになる』

 尤もらしい言葉だったが、それが愛と言うならば、田上の持っているタキオンへの愛はそれとは違うということになるのだろう。田上にとって愛とは、肺を動かすための力だった。心臓を脈打たせる力だった。だが、それを素晴らしいと思ったことはない。

 田上は、大きなため息を吐いた。――これで、幸せというものが逃げていくなら、そのようにすればいい。田上は半分自暴自棄だった。

 しかし、田上の前に光明が差した。不図目を上げると、タキオンが心配そうに後ろを振り向いているのが見えた。あんまり見てほしくない気持ちもあったが、その顔を見ると、思わず笑顔になりそうだった。実際のところは、笑顔にはなっていない。だが、ほんの少しばかり大きく目を見開いて、口元に活力を戻らせた。

 タキオンは、田上が遅れているのを見ると、幸助に別れを告げて田上を迎えにやってきた。

「やあ、トレーナー君。君、もう少し早く歩いたらどうだい?」

 ごく普通の言葉だったが、田上はそれだけで嬉しくて、口角を上げて「うん」と頷いた。声の調子はごく普通のものだった。しかし、タキオンはそこから何かを読み取ったのだろう。田上にこう言った。

「…君は、目を離したらすぐにこうなってしまう。…どうなっているのかは分からないが。……それでも、私は心配だよ。あんまり遅れずついてくるんだよ」

 タキオンは、田上の手を軽く引いた。田上の足取りは軽くなった。すぐにタキオンに連れられて幸助の隣まで行くと、「今日も寒いね」と弟に強がった。

 弟は何も気が付いていなかったようだ。

「ぜひ、お前の教え子もそう思って、菓子屋なんかについてくるって言わなければよかったのにな」

 まだ、先程のことを引きずっていた。

 

 それから、しばらく歩くと和菓子屋についた。店の名前は、『竜之甘味処』という名前だった。それなりに繁盛している店のようで、広い店舗の中に数か所の食べるスペースもあり、テラス席も存在していた。

 ここの店にひとまずタキオンたちが入った。田上は、待たされることとなったが、「絶対に待っててくれよ。話はすぐ終わるから」とタキオンに言われて、田上は少し嬉しそうに頷いた。その後でタキオンはあることに気が付いたようで、幸助にこう聞いた。

「……あれ?会計はどうするんだ?田上君に財布を持たせたが、別にそうする必要もなかったんじゃないか?」

「…俺は、お前らを待つ義理もないから先に帰るときは必要なもの買って帰るけど、…ここの店は普通に食べられる場所もあるぞ」

「ああ、そうか。あるよね、こんだけ広いお店なんだから」

 タキオンは、顎に軽く人差し指を当て、納得していた。

 こうして店の外で待たされていた田上だったが、段々といたたまれなくなった。寒空の下で身を切るような冷たさに晒されていたのもあったし、道行く人の目に何もせずぼーっとしている男として晒されているのもあって、タキオンが早く来るのを願った。

 タキオンは、田上の予想よりかは早く帰ってきた。本当に二、三個の質問だったようだ。田上が、二分待ったか待っていないかくらいで、タキオンは駆け付けた。

「トレーナー君。中を見てごらんよ。東京では聞いた事がなかったが、案外美味しそうだぞ。場合によっては、今後もここから取り寄せたりするかもしれない。…とりあえず、美味しそうなもの全て買わなければ」

 タキオンの興奮した面持ちに、田上は苦笑しながら言った。

「話は終わったのか?」

「ん?…ああ、終わったさ。…まぁ、普通の回答を得られたよ」

 タキオンは、その話で少し落ち着いた。

「…君の父さんの話も聞いてみないと分からないね。…案外、それ程の成果は得られないかもしれない」

 タキオンは、顔を曇らせた。しかし、その後に続く言葉が何も出てこないと、こう言った。

「……中に入ろう。…中で食べていくのかい?それとも買って帰るのかい?」

「タキオンはどっちにしたい?」

「私?う~ん、そうだなぁ。…私は、家に帰って食べてみるのもいいけどなぁ。ここで食べるのも捨てがたい。だが、しかし……。ん!」

 タキオンは、悩み始めそうなところで声を上げた。

「いい案を思いついたぞ!それに、ちょっと私の心の中で引っ掛かっていたことでもあったんだ。君のお父さんにお土産を買って帰ろう。私は、出て行くと言っておきながら、のこのこ帰ってきてまだ何も言っていないのが、ずっと引っ掛かっていたんだ。君のお父さんに美味しいものを渡して、それで――すみませんでした、と謝ろう。うん、いいぞ。トレーナー君もこれでいいと思うよな」

「別に俺の父さんはとっくに許してると思うぞ」

「君のお父さんの問題じゃないんだよ。私の問題だ。さすがにこればかりは、謝らないと気が済まない。多大なる迷惑をかけてしまったんだからね。これで、私がまだヘラヘラ笑って、あの家にいるようじゃ、不誠実かつ礼儀のなっていない人間だと思われてしまう。そんなことはごめんだね。…よし!君の父さんにもとびっきりのものを買ってあげよう。…君の金でね」

 最後は、少し後ろめたかったのかタキオンがそう言った。だから、それを察した田上はこう返した。

「じゃ、父さんに渡すのは俺たちがかけた迷惑のお詫びの品だ。二人で渡そう。元はと言えば、俺が原因を作ってしまったんだし。…これで問題はないだろ?」

 タキオンは、嬉しそうに頷いた。すると、店の自動ドアが開いて、幸助がもう出てきた。手には、薄いピンクで塗られた桜が描いてある小さな紙袋を持っていた。

「もう買ってきたのか?」

 田上は聞いた。幸助は、そう言った田上の方を何とも言えない顔で見つめると、次にニヤッとして「ああ」と頷いた。なんだか妙に腹の立つ顔だった。――タキオンが聞いた事と何か関係があるのだろうか?田上はそう思ったが、そのことは聞かず、また少し興奮の戻ったタキオンと一緒に店の中に入った。

 

 店の中に入ると、途端に暖かくなってタキオンと繋いでいた手に汗が滲んできた。田上はそれに気が付くと、手を離したくて堪らなくなったが、いくら手を振り解こうとしてもタキオンががっちり掴んでいたのでそれはもう諦めた。

 タキオンは、あちらこちらへと田上の手を引いては連れ回し、試食できるものがあると絶対に食べたし、田上にも食べさせた。田上は、あんまり試食するのも良くないと思って、タキオンを引き留めようとしたが、逆に口に甘いものを詰められてしまう始末だった。

 タキオンが気に入ったのは、餅の中にまろやかなチョコをたっぷりに詰め込んだものだった。しかし、田上は、これがあまり好みではなかった。それは、甘すぎたのが理由だった。タキオンにとっては、甘すぎるという方が丁度いいのだろうが、田上にとっては甘さ控えめの、むしろ渋いと言ったものの方が丁度よかった。これでは、二人の好みも全くと言っていい程合わなかったようで、田上が「おいしい」と言ったものがあれば、タキオンは微妙な顔をし、タキオンが「おいしい」と言ったものがあれば、田上が微妙な顔をした。

 ただ、田上の味覚の方は賢助のお土産を選ぶのには適していたようだ。賢助も田上も家族で、さらに同性だからか、あんまり味覚に違いはなかったし、田上も自分の家族の事なので父のことをよく知っていた。だから、田上はタキオンが「これ君のお父さんにいいんじゃないか?」と言ったものは、ほとんどそれに当てはまらないことを伝えた。タキオンは、不服だったようだ。

「だったら君が選べばいいんじゃないか」

 そう言ったが、その後に田上がこう提案した。

「じゃあ、俺とタキオンで一つずつ買っていくか。今タキオンが上げたものも父さんが絶対に嫌いと言うわけじゃないんだ。タキオンが買ってきてくれたものだったら何でも食ってくれるし、そもそもここの店はなんでも美味いんだ。当たりはあっても、はずれはないよ」

 田上が、そう言うと、遠くの方でレジの受付をしていた店員さんが微かに笑ったように見えた。田上は、それを見とめたが何も言わないでタキオンの話を聞いた。

「じゃあ、さっき言ったあの物凄く甘そうなやつにしてしまおう。あれは美味そうだぞ。…あれを目の前に出されて喜ばない人なんていないだろう」

 タキオンが、そう言うと、さすがに田上も口を挟んだ。

「できれば、あんまり極端な奴じゃない方が父さんも素直に喜びやすいかも」

 タキオンは再び不服そうな顔をしたが、すぐに気を取り直すと「それもそうか」と言って、慎重に選び始めた。

 その過程でタキオンは、自分の家族にもお土産を買って行こうということを言い出した。田上は、別にこれを否定しなかった。――ご自由にどうぞ。そのくらいの姿勢だったが、タキオンはその時に「家族の分は自分で出す」と言って聞かなかった。田上としては、どちらでもよかったので、一度「無理はしなくてもいいんだぞ」と言えばその後は何も言わなかった。タキオンはこれで満足だったようだ。その後もお菓子を選び続けた。

 

 それから時が流れて、二人はたくさんのお菓子類を持ってレジに並んだ。タキオンの家族へのお土産の分、田上の父への詫びの分、田上が自分で食う分。これらもそれなりに量があったが、一番はタキオンが自分で食べる分だった。これが大半を占めていた。

 少なくとも、店の八割の種類の菓子を一つずつ手に取るとタキオンはレジに並んだ。田上は、それに少しげんなりしたが、とやかく口出しすることもせず、ただ一応念のためこう告げた。

「俺は、あんまり口うるさくするのはしたくないけど、……お前はアスリートなんだぞ」

「ん?そんなの常識じゃないか。アスリートは甘いものをたくさん食べて体を作るんだ」

 タキオンは、ニコニコ顔でそう言っていた。こうなってしまえば、もうこれ以上言うことはタキオンの機嫌を損ねることに繋がる。その事を田上は知っていたので、不服そうにタキオンの持ってる菓子の山を見つめた後、ため息を一つついただけにした。

 そして、レジの会計へと進んだ。

 

 レジの会計を終えると、二人はまた寒い道を進んだ。タキオンが勝手気ままにお菓子を手に取って持つために離されていた手も、店を出ると繋がれた。菓子を入れた紙袋は、二つに分かれ、タキオンの左手、田上の右手に持たれることとなった。

 タキオンは終始笑顔だった。自分の大好きなトレーナーと手を繋ぐことができているし、それに自分の大好きな甘いものも食べることができる。これ以上にいいことはないだろう。

 寒い道を信号に差し掛かった時言った。

「トレーナー君」

「ん?」

「何だか……」

 ここでタキオンの言葉が止まった。話しかけたはいいものの、話す内容が大したものではなく、さらには段々と恥ずかしいことのようにも思えてきたからだ。だから、タキオンはこう言った。

「私も落ち着かないといけないね。あんまりにもはしゃぎすぎてしまっていたよ。私は、子供じゃないんだ…」

「…お前は子供だよ」

 田上はそう言った。すると、タキオンは少し驚いたような顔をした。

「あんまり急いてもいけない。子供でいれるときがあれば、子供でいていいんだ。特にお前はな。幸せでなくちゃいけないんだ」

 ここで目の前から、横断歩道を渡ろうとしている自転車が通りかかったから、田上はタキオンの後ろに避けた。そして、再び横に戻ってくると言った。

「あんまり俺も急かしているような事を言ってる時があるけど、それは大人になるための道を示しているだけで、なにもその道を全力で進めと言ってるわけじゃない。言っただろ?俺は休息所だって」

「一人で勝手に休みたがる休息所だけどね」

 タキオンは、少しからかいまじりようにそう言い返した。だから、田上はこう言った。

「…この表現やめようかな。あんまり大したことのないような気がしてきたし、それになんかキザで物凄く恥ずかしい」

「おや、君がやめるというのなら、私が使う君のあだ名にもう一つ加えてあげよう。モルモット君に休息所君だ。いついかなる時でも私が呼べば来てくれ、それから休ませてくれる休息所君。…ただ、これは少し言いにくいな。もう少し言いやすく…」

「やめようか。あんまり俺をいじめちゃだめだよ。休息所で休みたくなる」

 タキオンは、フフフと笑った。

「その時は私が君の休息所として働いてあげよう。お客様に出す飲み物は、当然私の開発した薬も混ぜてある。私の元で休むというのなら、実験に参加しないわけにはいかないよなぁ、トレーナー君」

 田上は苦笑した。

「そりゃあ、当然だ。休んでいる間もモルモット君だ。薬を飲まなきゃ休ませてもらえない」

「……ふむ、人聞きが悪いな。君は、喜んで薬を飲むからモルモット君なんだろ?休んでいる間も君から進んで薬を飲むんだ。…無論、君が壊れてしまってはこちらとしても困るので、休むときはしっかりと休んでもらおう」

「言ってることがめちゃくちゃだよ」

 田上が指摘した。すると、タキオンはニヤリと笑って言った。

「要するに、君が大事ってことだ。そして、私も大事だ。だから、君の取るべき選択肢は、私のもとでしっかりと休みを取りながら実験をしてもらうってことだ。これから君も忙しくなっていくだろうが、自分のことも私のこともないがしろにしちゃだめだよ。しっかりと健康は保ってもらわないと困る」

 最後の方はタキオンも真面目な顔をしていたので、田上はどんな反応をしたらいいのか分からなかった。だから、少し顔を曇らすと「できたらね」と呟いた。その言葉にタキオンは不服そうな顔をしたが、何も言わずに前を向いた。

 田上は少し申し訳なく思ったのか、それに一つ言葉を付け加えた。

「休めるときがあれば休むさ」

 しかし、その言葉にはあまり効力がないように思えた。タキオンは相変わらず不服そうで、不満そうにこう言った。

「君の健康を願うのは少し場違いだったのかな?…昨日の初詣で健康祈願もしておけばよかったよ」

 今度はもう田上にも何も言うことはなかった。その時、一度田上の手がタキオンから離れようとしたが、指先がもう離れてしまうというところでタキオンは繋ぎ直した。そして、少し痛めつけるように手を握った。

 その手の痛みに田上は、思わず顔をしかめたが、あまり顔の曇りは取れなかった。その後もタキオンが何度か話しかけはしたが、顔の曇りは中々取れず、家に着く前にようやく気を取り直そうとため息を一つ吐いて、首をぶるぶると振った。そして、無理に明るい声を出してこう言った。

「タキオン、お前の手は本当に暖かいな」

 タキオンは、急に話しかけられて話が頭に入って来なかったようだ。数秒後にようやく「あ、ああ」と頷くと、今度はタキオンが顔を曇らせて田上の方を見た。

 なんでなのかは、田上には皆目見当もつかなかった。ただ、また少し肩を落とすと、家に帰り着くまで黙っていただけだった。



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八、幸助と別れる日(後編)

 家のドアの前まで来ると、田上はタキオンを先に入らせてそれから自分も入った。タキオンは手を放したがらないようだったが、田上の顔を見るとその抵抗もやめてしまった。田上としては、特に何の感情も抱いていない顔のつもりだったが、タキオンには田上が少し怒っているように見えた。こちらもなぜなのかは分からない。田上が、なぜ怒っている顔をしているのかは田上自身も気が付いていないことなので、聞かれても説明はできないだろう。それを察したので、タキオンは何も聞かなかったのか?と問われれば、それは別だが、とりあえず田上の顔は家の中に入っていくにつれ和らいでいった。家の中の、寒さを防ぐ暖かさがそうさせたのかもしれない。

 タキオンは、少し緊張しているようだった。少し紙袋を持つ手に力が入っている。田上は、それを見とめると言った。

「もう、渡してしまった方がいいんじゃないか。…な?事は早い方が」

 タキオンは、少しどもりながら「ああ」と答えた。

 賢助は、炬燵の部屋で寛いでいた。そして、タキオンたちが入ってくると「おかえりー」と声をかけてきた。タキオンは、それに答えることができずに、自分も炬燵に入ると正座になり早速言った。

「トレーナー君のお父さん」

 急に畏まって言われたので、賢助は驚いた顔をして背筋を少し伸ばした。そして、答えた。

「はい、なんでしょうか」

「……先日の件で、大きな迷惑をかけたのにかかわらず、まだ謝罪もお礼の言葉も言えていなかったのが、私の引っ掛かりとなっておりました」

 タキオンは、ここで少し目を泳がせたのだが、賢助の隣で幸助がニヤニヤしているのを見て、ちょっと苛ついた。賢助は、タキオンの言葉に「…はい」とまだ驚きの混じった声で答えていた。

「…ですので、今それができればいいなと思い、お詫びの品を買って参りました」

 タキオンが、ここまで丁寧な言葉を使うと田上も少し可笑しくなって、顔がにやけそうになったが、それはいけないと思い必死に堪えた。

 タキオンは、その様子を勘付いてはいたが、何も言わずに自分の紙袋から田上と自分が買ってきたものを差し出した。

「これで許していただければ幸いです」

 田上も少し口を挟んだ。

「こっちがタキオンが買ってきたもので、こっちが俺の買ってきたもの。俺もあの騒動の原因だったので、買ってきた。…迷惑をかけてすいませんでした」

 田上がそう言うと、タキオンも後に続いて「すみませんでした」と言った。

 賢助は、戸惑いながらも「いや…大丈夫だけど」と言って、その菓子を受け取った。そして、少し笑った。

「…いや、こちらこそ感謝の言葉を告げるべきなんだよ、アグネスさん。あの件のこともそうだし、俺の息子と仲良くしてくれていることもそうだ。アグネスさんには、感謝してもしきれない恩がある。ありがとう」

 そうやって、賢助が頭を下げると今度はタキオンが戸惑う番だった。だから、困ったような顔をして、田上の方を見た。それを見てしまうと田上はもう堪え切れなくなった。口角を上げて、鼻をひくひくさせると、我慢できずに笑い声を漏らした。

 顔を上げた賢助もニコニコと二人の様子を見守っていた。タキオンは、双方の顔を見て、困ったように笑い、そして言った。

「私は、あんまりこういう場は苦手です」

 そこで田上が口を開いた。

「分かった分かった。じゃあ、父さんがそれを一口食えば、これはもうお終いだ。ほら、父さんが食わないとタキオンが安心できないって」

 田上は、そう父に向って言うと、賢助も急いでタキオンが買ってきた方を開け、タキオンに向かって「いただきます」と言った。

 タキオンは、少し緊張気味にそれを見ていたが、賢助が「これ、おいしいなぁ」と顔を綻ばせば、タキオンも少し安心したようだった。だが、それは賢助の前では出したくなかったのだろう。

「トレーナー君、ちょっとこっちに来たまえ」と言うと、隣の部屋に抜けていった。

 

 田上が隣の部屋に行くと、タキオンが薄暗い部屋の畳の上にだらしなく足を広げて、一息ついていた。田上が来ると、「襖を閉めてくれ」と言い、それから襖が閉まったのを確認すると大きくため息をついた。このため息は、襖を通って父の方にも簡単に聞こえるのだが、賢助はあえてそれに耳を澄ませるということはせず、耳に入ってくる言葉言葉に時折微笑みながら、息子の良き友人が買ってくれたお餅を食べていた。

 タキオンは、大層疲れていたようだった。無理もないだろう。慣れない正座に緊張が重なったのだ。精神的疲労がタキオンに溜まっていた。

 田上は、そのタキオンの横に胡坐をかいて座った。そして、言った。

「成功したな」

「ああ」とタキオンは、力なく答えた。まだ、疲れが取れず、答える気はないようだ。そうすると、タキオンは、体を支えるためについていた手を外し、ゆっくりと後ろの方に寝転がった。それから、大きなため息を再び吐いて、息を漏らしながらこう言った。

「あんまり疲れるのも嫌だな。…今、これまでにないくらい疲れたよ」

「なんで?」

「なんで?……そりゃあ、君の父さんとこれまでにないくらい丁寧に話したからさ。他になにがあるって言うんだい?」

 タキオンは、胡坐をかいている田上に目をやった。

「…俺は、そんなに畏まらなくても、普通に父さんと話せば良かったんじゃないかと思ったけど。…まぁ、それも無理な話だろうな」

「そうだよ、無理な話だよ。君のお父さんは君じゃないんだ。君だったら、君が君の父さんに話すように、――すいませんでした、と軽く言えばいいんだろうけど。…」

 ここでタキオンは、少し声を落とした。

「君のお父さんだよ。私の父さんじゃないんだ。そう簡単にはいかないよ」

 田上は、少し笑った。

「あんまり父さんもそんなことを気にしているとは思えないけどね」

 タキオンは、不機嫌そうに田上をじっと見た。それから、少し間を空けてこう言った。

「なんだか少しトレセンの方に帰りたくなってきたよ」

 すると、田上が少し不安そうな顔をした。だが、言葉は何も見つからずに、背中を丸めうつむいた。その様子を可哀想に思ったのか、タキオンがこう続けた。

「…別に君の家族が悪いってわけじゃないんだけど、もうそろそろ私の研究室にも戻って、なんやかや進めたいし」

 田上は、目を上げた。田上には、もう少しで訪れる未来が見えていた。この家を去っていく未来だ。父を一人置いて、またしばらくの孤独を味わわせる未来。あんまりいい未来じゃなかった。また、田上自身もこの家から離れたくないのもあっただろう。しかし、彼は帰りの電車は必ず迎えにやってくることを知っていた。少なくとも、タキオンをそれに乗せないといけないことも。

 田上の目を上げた先にはタキオンがいたが、それを見ていない。タキオンは、自分に目が合わされてると思い、不思議そうに田上の方を見つめ返した。しかし、何も起こらないとなると言った。

「帰ったらトレーニングをまた再開しないと。私、この休暇でだいぶ太ったろうなぁ。今から、お菓子もたくさん食う予定だし、そもそも炬燵の上にあるお菓子もたくさん食ったし。…トレーナー君、帰ったらまず、体力を戻さないと」

 タキオンのその言葉で、田上は無理矢理今へと戻ってきた。そして、言った。

「戻りたくないなぁ」

 そう言って、後ろに寝転がり、また言った。

「もうあっちに帰りたくない」

 すると、タキオンが不思議そうな顔をして言った。

「なんでなんだい?…あんまり不満ある生活には見えなかったけどね」

「そう思っているのなら、勘違い甚だしいね。俺は、あっちにいる時点で少し不満だ」

「へぇ、そうなのかい?」

「そうだろ。タキオンがどうなのかは知らないけど、親の膝元で休めるのと、自力で休むのとじゃ大きな違いだ」

「……私は、ここも十分好きだし、自分の家も十分好きだけど、トレセンの方も十分好きだよ。特に、もうあそこでしか満足に研究ができないから、あそこに帰らないと私は非常にまずいんだ」

 タキオンがそう言うと、田上は寝転がっていたタキオンの方に少し身を寄せ、軽く手に触れた。タキオンは、それを拒絶するように手を少し引いた。

 田上は、今少し不安だった。その不安を誰かでごまかせたらと思い、タキオンの手に自分の手を忍ばせたのだが、タキオンはそれをよくは思わなかったようだ。その手を引いた。そうすると、田上の不安は行き場をなくして、心臓の鼓動へと変わった。ドクンドクンと脈打ち、不安の来訪を告げる。どうしようもなくなって、息が詰まりそうになったが、ここでタキオンがこう言った。

「どうにもダメだね。何と言うか、君も私も人に頼りすぎて訳が分からなくなってる。ここで、一回リセットしないと」

 タキオンは、そう言って立ち上がると、襖を開けて隣の部屋に行った。それから、炬燵に座るとこう言った。

「君もおいでよ。さっき買ってきたお菓子を食べよう」

 だが、田上は、そちらに行く気はなかった。薄暗い部屋の向こうから、タキオンたちのいる明るい部屋を眺めた。まだ、脈打つ心臓の音が聞こえる。何度こうしたことがあるだろうか?遠い世界にタキオンがいるような気がする。田上が見ているのは、まるでうつらうつらした微睡みのようだった。

 その様子をタキオンが見とめると、仕方なさそうにため息をついて、それから言った。

「君が動かなきゃ何も始まらないよ。君自身もそのことは理解しているはずだ」

 そう言うと、もう田上のことは放っておいて、自分のお菓子に舌鼓を打ち始めた。田上は、また一つタキオンとの世界が遠くなったような気がしたが、ここで踏み止まった。なぜだか分からないが、元気が湧いて出た。

 田上は、すぐに立つと何事もなかったかのようにタキオンの隣についた。そして、言った。

「俺のお菓子はどこだ?」

 タキオンは、一瞬田上のことを心配そうに眺めたが、それは本当に一瞬ですぐに表情は元に戻り、こう言った。

「君が持ってきたところから動かしてないよ。もっとも、その包みの中にも私のものが入っているから、私に渡してもらわないと困るがね」

 そして、ニヤリと笑い手に持っている菓子を口に入れて、それから「おいしい」と顔に喜びを満たした。

 

 昼食時とお菓子を食べたその境目はなかった。特にタキオンはそうで、田上は自分の分は一個しか買ってきていなかったから、すぐに食べ終わって、ゆったりスマホでもなんでもしていたが、タキオンは、少しずつ少しずつ味わいながら食べていって、遂には食べ切らないまま昼の時間になってしまった。だからと言って、田上に明確な昼の時間があったのか?と言えば、そうではなかった。机の上には終始、お正月の残りが置いてあって、それをだらだらと食べていた。だから、昼になっても明確にお腹が減っている感覚はなく、またガツガツとした食欲も湧いてこなかった。

 そうして、田上がだらけきっている頃、父の賢助が慌てたように言った。ちょうど、タキオンが「さすがに肉も食べたいね」と言って箸を伸ばそうとしているときだった。

「ああ、どうしよう!写真を撮っておかないといけないんだった」

「また、写真撮るのか?」

 父の誰に言ったのかも知らない言葉に田上は返した。すると、賢助は田上の方を見て言った。

「いや、二日に皆で撮ったのもあるけど、最初は、俺たち三人で撮ってこれに入れておこうと考えていたんだ」

 そう言って、賢助は小さい棚の上に置いてある空の写真立てを指差した。

「ただ、あの写真も中々良かったから、どうしようか悩んでいるんだ。……ほら、統一感がないだろ?あの全体写真だと」

 確かに、家族写真が三枚、ほとんど同じ構図とくると、昨日の祖父母やタキオンも入れた写真は統一感がなくなるのは否めなかった。そこで、幸助が口を挟んだ。

「早くしてくれないと、どっちにしろ、俺、昼を食べ終わったらもう帰るからね?」

「う~ん、そうだよなぁ…」

 賢助は、腕を組んで悩んでいた。そして、タキオンが肉をパクパク食べながら、事の成り行きを見守っていると、チラと見てきた賢助と目が合った。なにかタキオンのことでも悩んでいるようだった。まだ、う~んと言って悩んでいる。

「とりあえず、撮ってしまえば?損はないし」と田上が言った。

「そうだよなぁ…。だけどねぇ…」と悩む賢助。

「何を悩んでいるんだよ。さっさと決めろよ」と幸助が急かした。

 賢助は、息子二人に急かされながらもまだ決めきれない様子だった。だから、不図思いついたタキオンはある提案をした。

「私が、この場にいたら邪魔でしょうか?邪魔でしたら隣の部屋までどきますが」

 すると、賢助がさらに頭を抱えた。

「邪魔じゃないんですよ。邪魔じゃないんですけど、……ただ、アグネスさんを家族写真に加えてもいいものかと…」

 途端に、場は騒然としたのかしていないのか分からない心地になった。というのも、皆口では黙っているのだが、頭の中では様々な事を言っていたからだ。

 幸助は、「なんだよ。そんなことかよ…」と呆れていたし、田上は、「家族!?いや、ダメだな。倫理的に」と否定していた。そして、賢助はこのことでタキオンの機嫌を損ねたくはない一心で、タキオンの方を見つめていた。タキオンも賢助が言いたがらなかった理由が分かったようだ。家に招き入れた息子の客人を家族扱いするなど、勘違いも甚だしいということだろう。しかし、賢助にはどうしてもその願いを叶えて欲しかったようだ。息子が連れてきた女の子を娘と思いたかったようだ。

 タキオンは、その場ではもうどうしようもなくなったから、こう言った。

「私を家族写真に加えてしまって、後でどう思うおつもりなのでしょうか?」

「良き思い出です」

 賢助は、澄んだ瞳でそう返した。

 タキオンもそれを見ると、何も言うことはなく、自身のトレーナーである田上の方を見た。田上は、少し焦っていた。父が自分の思いを汲み取って、少しばかりのご褒美を与えようとしているのではないかと思えたからだ。タキオンと家族になれるなんて、夢のまた夢だから、一生叶うことはないと思っていたものだ。それが、今ここで実現されていようとしている。少し怖かった。だから、何も考える事も叶わず、焦るように田上はこう言った。

「タキオンがいいんだったら、俺はいいけどね」

 だが、幸助は反対だったようだ。

「家族で写真を撮るのはいいけど、タキオンさんを入れて後で後悔しないか?本当に?だって、たまたま来ただけの人だろ?そいつを写真立てに飾ろうって言うんだから、それなりの覚悟がないといけない」

 幸助がそう言うと、賢助が怒った。

「こら、幸助。お前は少し口を慎まないと」

「いや、こればかりは俺は納得がいかないね。なんでタキオンさんが入るのか?その理由を明確にしないといけない。なあ、圭一?」

 幸助は、少し意地悪そうに田上に言ったから、動揺した田上がこう口走った。

「父さん、幸助の言うとおりだ。タキオンはあんたの娘じゃないぞ」

 そう言われると、賢助も困ってしまったようだ。

「そうか……。そうだよな。すまない、アグネスさん」

 そう言って、遂には謝った。タキオンとしては、もう変な論争にはうんざりだったから、自分が写真に入るにしろ入らないにしろ、早く済ませてほしかったのだが、幸助がまたこれを蒸し返した。

「父さんは、本当にそれでいいのか?良き思い出じゃないのか?」

 すると、父は迷惑そうな顔をして言った。

「いや、これではアグネスさんに迷惑をかけるだけだと思った。もうこれ以上の話はいい。…アグネスさん、ご無礼を働いてしまい申し訳ない」

 再びタキオンの方に頭を下げた。その後は、少しいたたまれない空気になった。田上も少しがっかりしているようだった。タキオンは、写真のことなどどうでも良かったのだが、こうもいたたまれない空気になるとさすがに面倒だった。だから、田上の方に囁いた。

「君、いますぐ何かしろ。何か、この空気をどうにかしろ」

「ええ…?俺が?」

「そうだ。君だ。何か代替案を考えろ」

 タキオンにそう言われて、田上が「う~ん」と考えると、いい案が思いついた。だから、一時この話は終わりかと思われていた写真の話を蒸し返して言った。

「じゃあ、父さん。もう写真立てに飾るのはあの全体写真でいいから、お正月を一緒に過ごした記念としてタキオンと写真を撮ろうよ。それがいいよ」

 その田上の提案に賢助も顔を輝かせた。

「おお、それがいいな。幸助もそれだったら問題ないだろ?」

 幸助は、微妙な顔をして「うん」と頷いた。

「ほーんと、最初からこうすりゃよかったのに、どこで食い違ったんだか」

 田上は、そう言って、タキオンの方を見た。タキオンもそれで場が明るくなるのだったら満足だったようだ。しかし、その後でどうやって写真を撮るかで少し揉めた。だが、こちらの対応も全て田上の方に任せて、タキオンは一人で黙々とご飯を食べていた。

 それから、写真を撮る段になって、タキオンは箸を止めて賢助の周りについた。そして、賢助と幸助を前、田上とタキオンを後ろにして膝立ちさせると、真正面の方にカメラを置いて、写真を撮った。それは、とてもいい一枚になって、賢助が自分のスマホのロック画面にしたばかりか、田上もその写真を欲しがって、遂には幸助もその写真を欲しがった。

 タキオンは、記念として貰っておいたが、その出来栄えには少し感慨を抱かざるを得なかった。まるで、自分が田上家の一員の様な気がしたからだ。しかし、その思いはあまりタキオンの好ましからざるもののように思えたので、振り払った。自分は、まだアグネス家の中にいた。少なくとも、誰かと結婚するまではそうでなくてはならないのだ。

 その思いは、少しの間タキオンの心の中でくすぶったが、やがて昼食を食べて腹を満たしていくにつれ、その思いは鎮火していった。

 

 十二時半になると、幸助は「俺はもう行く」と言って、あらかじめ準備してあったバッグを肩にかけると家から出ようとした。写真騒動で満足に食べていられなかったように思えた。だから、父の賢助はせめてご飯をラップの中で丸めたものだけでも持たせようとしたのだが、幸助は「いらない」の一言で済ませた。

 そして、見送る人々に握手をして回った。これは、母が生きていた時からの定例だった。出て行く人を握手で見送る。学校に行くときなどは、毎日母がこうしていた。しかし、母と最期にしたのは、入院する前の時だっただろうか?田上には、よくも思い出せない遥か昔のことだった。

 まず、幸助は田上に握手した。少し物言いたげな顔をしてから、その言いたいことの半分だけを田上に吐き出した。

「お前の気持ちもわかるよ」

 田上には全く見当もつかなかったが、とりあえず、握手をするとその後にその意味を考えた。結局、何のことだかは分からなかった。

 次に幸助は、賢助と握手をした。

「父さん、また次の母さんの日にね」

 そう言うと、殊にきつく握手をした。

 そして、最後にタキオンの方を向いて握手をしようとしたのだが、手を伸ばそうとしたところで思いとどまった。しかし、タキオンの方は握手する気があったようだ。手を伸ばしてきたので幸助も慌てて手を差し出した。

「お前……」

 何も言うことを考えていなかった。

「…お前…は、あんまり圭一を困らすようなことはするな。それに、次のレースも勝てよ」

「ああ」とタキオン不敵に微笑んだ後言った。

「君のなっちゃんによろしくね」

 幸助は、最後の最後に痛いしっぺ返しを食らったようだ。物凄く嫌そうな顔をすると、こう言った。

「お前にだけはなっちゃんに会わせないから」

 タキオンは、ハハハと笑った。それから、幸助はこの場にいた全員に「バイバイ」と言うと玄関のドアを開けて出て行った。

 田上はそれで良かったのだが、父の賢助がまだ別れを惜しむようで、急いで靴を履くとドアを開けて自分も外に出て行った。

 

 幸助が出発した後、田上とタキオンは誰もいない部屋に戻った。なんだか、人が一人いなくなっただけだと言うのに、それ以上のものが消えたような気がした。すると、田上のその様子を感じとったタキオンが言った。

「君、弟のことは嫌いとか言っていなかったかい?」

 それを言われると、最初は何を言っているのか理解できなかったが、暫く後に理解できるとこう言った。

「...まぁ、あいつはいけ好かないやつだよ。ただ、...家族だからな。いなくなると寂しくなるもんだよ」

「そんなものかい?」

 タキオンがニヤニヤしながらからかうように聞いたが、そんな様子には全く気付かずに「そんなもんだよ」と返した。

 二人は炬燵に入った。タキオンは、もう田上にくっつこうという気はなかった。田上はそれを少し寂しく思って、チラとタキオンの方を見たが、当の本人は何も気が付かないようで不思議そうに見つめ返すだけだった。それをされると田上にはもうどうしようもないから、残念そうな顔をして昼飯をだらだら食べながら面白くもない正月特番を見た。

 タキオンは、昼飯をある程度食べると、今度はお菓子を食べながら読書タイムに移行するようだった。ただ、本が手元になかったから、一度隣の部屋に置いてある本を取りに立った。それから、戻ってくるとタキオンは田上の隣に座ったのだが、田上にはその距離が先程よりも近しいもののように思えた。さっきは、肩と肩なんて触れ合わなかったのに、今は、それが触れ合っていて、優しく擦りつけてくるようでもあった。

 こうなると、田上もタキオンの態度が、今一体どうなっているのか分からなくて、少し緊張した。手に汗が滲んだ。そして、遂には耐え切れなくなると、そっと少しだけタキオンのいない右の方に動いた。すると、田上の思惑とは外れて、タキオンも少し右に寄ってきた。本ごと移動して、少し右にずれたのだ。田上は、それを見て嬉しく思ったが、同時にやっぱりどうしたらいいか分からなくて、とりあえず、離れてみようとまた右に少しずれた。すると、タキオンも右に来る。もう一度、それを繰り返すと、タキオンが本から顔を上げてこちらを見て言った。

「君、なんでそんなに移動を繰り返すんだい?本に集中できないじゃないか」

 タキオンの声は、平静そのものではあったが、ほんの少しだけ怒りの成分も混じっていた。田上は、そのことは気にも留めないで言った。

「タキオンがあんまり近いから、俺も少し嫌になっちゃって」

「嫌?」

 タキオンが、不安そうにそう聞き返したから、田上は慌ててこう返した。

「別に嫌ってわけじゃないんだけど、ちょっとくっつくのが…」

 最後は曖昧にした。すると、タキオンはまた少し怒りの成分をにじませてこう言った。

「くっつくのくらいこの帰省の間、ずっとしてきただろ?何を今更躊躇っているんだい?」「だって…」

 そう言いかけたところで、引き戸が開いて父の賢助が入ってきた。どうやら、駅まで幸助を追いかけることはしなかったようだ。早い帰りだった。

 賢助は、家に入ると、二人が少し言い争う声を聞いた。だから、何事だろうかと思い、この部屋の中に足を踏み入れた。

 賢助の第一声はこうだった。

「何だ?喧嘩か?」

 途端に二人が、驚いた顔をしたので、賢助は少し場違いな所に迷い込んでしまったような気がした。しかし、用もないのに台所にいるわけにもいかず、賢助は田上たちとは対辺の炬燵に潜り込んだ。そして言った。

「喧嘩ならどうぞご自由にやってくれて構わないが、声は荒げないようにしてくれよ」

 実際、田上たちは声なんて荒げてはいなかったが、一触即発の雰囲気はあったので赤らめた顔に反省の心を抱いてこう囁き合った。

「トレーナー君、とりあえず、落ち着いてくれよ。肩を寄せるくらいどうってことないだろう?」

「…いや、俺はいつもどうにかあったんだけどね。お前が、大変そうだから仕方なく付き合ってあげたんだよ」

「それなら、今も付き合えばいいじゃないか」

「それは、お前、今は大変そうじゃないもん。学校に早く帰りたいって言ってたじゃん」

「そんなものは気持ち一つ次第でどうにかなる。今は、少し君に…」

 ここでタキオンの理性が働いた。今、自分が恥ずかしいことを言おうとしているのではないかと思ったからだ。しかし、ここで話を止めてしまっては、得られるものも得られないので、恥を忍んでこう言った。

「君にくっついてほしいんだよ。ここに来てからのいつも通りの私だよ。君に、ほんの少しだけ甘えたいんだ」

 こう言われると、田上も少し嬉しくなって、顔がニヨニヨしてきそうになったが、手でせめて口元だけでも隠すと、たどたどしくこう言った。

「俺、もう炬燵で寝るから好きにすれば?」

 そう言って、机の上に腕を組むとその間に顔を伏せて、自分のニヤけた顔を見せないようにした。だが、寝ると言ったのは、口から咄嗟に出た嘘だったのですぐに起きると落ち着かなくタキオンのことを気にした。

 タキオンは、それはもう心地よい読書時間を過ごせたようだった。甘いお菓子を食べながら、隣にトレーナーを置いて、自分の興味のある事柄について書いてある本を読む。これ以上にいいことはないかに思われた。だが、それでも途切れ途切れのことであったようだ。それは、落ち着かなかった田上が頻繁に立ち上がっては座ることを繰り返していたからだ。

 タキオンは、このことについて迷惑などは感じたが、特に不安な感情は感じなかった。それがいい兆候なのかどうかは分からない。ただ、少しだけもう少しだけ自身のトレーナーと一緒にいたいという感情は、芽生えつつあった。

 

 それから時が経って、賢助が幸助のいなくなった部屋を寂しく思っているうちに夕飯の時間が来た。今日の夕飯は一人分少なく作った。最初は、いつもどおり作ろうと手を動かしていたのだが、途中で気が付き、切ってしまった野菜の分は冷蔵庫に保管した。

 正月の残り物はもうなくなった。昼に田上が、だらだらと食っている時点で、もう残り少なかったのだ。だから、もう少し田上がだらだら食うと、最後に残っていた野菜の切れ端も綺麗さっぱりなくなって、少し汚れた皿が食卓の上に残った。

 賢助は、それをすぐに洗って片付け夕食に備えさせた。だが、夕食にその皿は使わなかったようだ。一枚残ったその皿は、また再び来る次の機会へと棚の中に預けられた。

 タキオンは、夕食になると、自分の読んでいた本を片付けて、食卓に夕食が並べられるのを待った。その間、田上と一緒にテレビを見ていたのだが、その内容は夕方のつまらない子供アニメだった。こんな時は、幸助がいるときであれば、ゲームに飽きた幸助と田上の会話に耳を澄ませたりもしていたのだが、生憎、幸助は自分の場所へと戻ってしまった。そして、今のところ田上は会話をする気はないようだった。死んだ目をしながら、つまらなさそうに頬杖を突いて、熱心に子供アニメを見ていた。

 試しにタキオンは、田上の前でテレビを遮るように手を振ってみた。だが、反応はなかった。そうすると、タキオンは、田上が子供アニメなんて見ていないことに気が付いた。目は、熱心にテレビに注がれていたが、実は見てはいなかったのだ。なので、次にタキオンは、田上の無防備に開かれた脇腹を突いた。すると、目だけが動いて、迷惑そうにじろりと睨まれた。田上の注意を引くことができれば、タキオンの意中だったので、嬉しそうにクククと笑って言った。

「君の脇腹があんまりにも無防備だったからくすぐってみたくなったよ」

 だが、迷惑そうな目は相変わらず迷惑そうにタキオンに注がれていた。すると、タキオンも困ってしまって、苦笑しながらこう言った。

「…なんだい?もしかして、君の逆鱗にでも触れてしまったのかな?」

 ほんの冗談のように言ったが、その顔は変わらなかったので、少し面倒臭くなったタキオンはその鬱憤を晴らすために「ここが君の逆鱗だったのかな?」と言いながら、その脇腹をもう一度なぞった。その途端に、田上は、くすぐったそうに「ああっ!」と声をあげて、脇腹にあるタキオンの手を払った。

 そして、少し顔をにやけさせてこう言った。

「お前、暇なんだろ?なら、黙ってテレビでも見て待っとけ」

 タキオンは、顔をしかめた。

「あのアニメ面白くないだろ?実際、君もつまらなさそうに見ていたじゃないか」

「俺は…、少し考え事をしていただけだ」

「考え事ってなんだい?」

「考え事だよ。帰ってからとか、そういうもの」

「なら、君はもう戻る気でいるんだね?」

 タキオンがそう言うと、今度は田上が顔をしかめた。

「俺は別に戻らないなんて言ってない。戻りたくないだけだ」

 タキオンは、田上の言葉を聞くと、面白そうに、そして試すように田上をじっと眺めた。それから、賢助がタキオンの席の前に置いた皿を「ああ、ありがとうございます」と言って受け取ると田上に言った。

「私が戻りたくないなんて言ったら、君はどうするつもりなんだい?」

「…お前が?……どうしてもダメだって言うんなら、頑張る」

「どういう風に?」

「それは、懇切丁寧にタキオンに接して、悩み事なんかを聞くしかないだろ?」

「それで分からなかったら?」

「それはその時だよ。あんまり先のことで悩んだって仕方がないし、…それにお前は帰るつもりなんだろ?」

 田上がそう言うと、タキオンは少し目を逸らして、再び戻すと言った。

「…勿論、そのつもりさ。ただ、…やっぱりここにきて君に甘えたくなったりしたから、帰るのに少し不安になったり…もしてね。それで、君は私をどういう風に扱うのか聞いてみたわけだよ」

「ふぅん…」と田上は、頷いた。それから、賢助が運んできた皿を自分の方に寄せてくれるようにタキオンに頼んでから言った。それを言うことに少し照れが残っていて、ぶっきらぼうになってしまったのはタキオンも気付いていた。だが、言ったことと言えば、田上らしい優しい言葉だった。

「別に不安…とかにならなくとも、俺は…その…あんまりタキオンのことをないがしろに扱うことはないから安心してほしい」

 明るい電灯がチラチラと瞬いた。

「…だから、……タキオンはきっと帰れるよ。トレセンにだって、自分の居場所がないと言っていた家にだって」

 田上がそう言うと、タキオンは鼻をフンと鳴らしてテレビの方を見た。ちょうど、子供アニメが終わり、別の番組が始まろうとしていた。すると、それを見た田上が、「次の番組、嫌いだから変えていい?」と聞くと、タキオンがハハハと笑って言った。

「なんだか雰囲気ぶち壊しだよ?その言葉」

「いや、だって、この番組に出てるタレントが、なんか変で嫌いなんだよ」

 田上はそう主張した。それに、タキオンがまだ少し笑いを堪えながら、「いいさ、変えても」と言ったので、田上は少し納得のいかない顔をしつつも番組を変えて、ただのニュースにした。

 それから、一定の間隔を空けて賢助が皿を運んで行き、行っては戻り、夕食は炬燵の上に並べられていった。タキオンは、まだ皆が食べ始めるまで時間がありそうだったから、そばに置いていた本をまた手に取ると、鼻歌を軽く歌いながら読み始めた。それは、タキオンが田上を布団に無理矢理おいた時にかかっていた曲だった。その事に田上は気が付いた。だから、聞いた。

「それ、『大きな蛇』の曲だろ。好きになったのか?」

 タキオンは苦笑した。

「いや、頭に少しのぼっただけの曲だよ。…そんなに食いつかなくてもいいだろ?」

「いやいや、タキオンもあのバンドを好きになったって言うんだったら、おすすめの曲とかも教えてあげるつもりだったんだけど」

「そしたら、そんなのは願い下げだね。教えてもらえるのはありがたいが、好きになったのなら自分で調べるさ。特に、君の好きなバンドは歌詞が深いんだろう?」

 田上は、その言葉に少し嬉しくなった。あんまりタキオンとこういう話をすることはなかったからだ。

「分かってもらえてありがたい。そう、歌詞が深いんだ。深海ほどに深いよ」

 タキオンは鼻で笑った。

「私は、歌詞が深いからと言っても、音楽を聴くのはあまり趣味じゃないがね。君が垂れ流しているというのなら、聞いてやってもいいよ」

 そう言うと、田上が「じゃあ…」とスマホを持ち出してかけようとしたので、それを冷静に手で制した。そして言った。

「今じゃない。するべき時を弁えたまえ」

 タキオンに冷静に諭されて、田上は自分のスマホをしまった。その頃には、賢助も来ていたので、ニコニコしながら二人のやり取りを見ていた。そして、一人「いただきます」と言うと、ご飯を食べ始めた。

 田上たちもそれに倣った。それから、夕食の時間が始まった。一番賑やかな人が一人消えたので、幾分静かになったが、それでも楽しい夕食だった。時折会話する息子とその客人の姿を視界の端に捉えながら、賢助は密かにほほ笑んだ。

 

 夕食が終わると、段々に時間は過ぎていって、寝るまでは特に何も起こらなかった。しかし、布団を敷くという段になって田上はあることに気が付いた。

 田上は、もうすでに二枚敷いた布団の片方に立って、隣の部屋にいるタキオンに呼びかけた。

「…おい、タキオン」

「どうかしたのかい?」と向こうの部屋から聞こえてきた。

「…布団が二枚あるぞ」

 田上は、わざとその意味を説明しないで曖昧にし、タキオンに考えさせようとした。タキオンは、最初のうちは何も分からなかったようだ。「それがどうしたんだ?」と疑問に思いながら田上の方に行こうとしたが、その途中でやっと気が付いた。そして、何も言えずにただしかめっ面をして隣の部屋を覗いた。

 その顔を見ると田上はダメそうだと思ったが、とりあえずこう言った。

「幸助が消えたから俺たちも布団を一人で一枚使えるってことだけど…」

 タキオンは、相変わらずいい顔はしていなかった。ただ、タキオンは何も言わないので言葉を続けた。

「お前も布団の匂いは、慣れてきただろうし、そもそも俺たちの匂いが馴染んできた物だと思う。だから、俺も一人で布団で寝てもいいよな?」

 この質問は少し意地悪だったかもしれない。なぜなら、今のタキオンの顔はどう見ても答えは一択のような気がしたからだ。だけれども、タキオンはそれには答えず、答えを沈黙にして代わりに田上に答えさせようとした。ただ、田上としてもいつまでも女子高生と一緒に布団に寝るわけにもいかないので体裁としてはこの姿勢を貫かないわけにはいかなかった。タキオンが何か言わない限り。

 なので、布団を敷いて、もう寝る準備を始めた。自分は幸助が寝ていた布団に入り、タキオンは二人で寝ていた布団に入らせようとした。だが、「もう電気を消すよ」というタイミングで、それまで黙っていたタキオンが、布団の上に座りながら拗ねた声でこう言った。

「…意地悪だ」

 もうそろそろ言う頃合いだと思っていたので、田上は冷静に「なにが?」と返した。すると、もっと拗ねた声をしてタキオンは言った。

「君だよ。…なんで、私に優しくしないんだ?君だって、分かっているだろう?私が、一枚の布団に一人で寝るのは嫌だってことが…。それなのに君は見て見ぬふりをした。重罪だぞ。死刑判決だぞ」

 タキオンは、少し眠そうな目で田上を睨んだ。田上はそれを可笑しく思ったが、やっぱり冷静にこう返した。

「俺だって、いつまでも女子高生と一緒に寝るわけにはいかないよ」

「こんな時だけ『女子高生』だ。嫌になるね」

「そんなに怒らなくても…。少なくとも、お前は女子高生なんだ。こんな時だけじゃなくて、いつも」

「それじゃあ、女子高生だから寝るときは一人でお休みなさいって?結局、君は私を大人にしたいんじゃないか。道を示しているだけと言いながら、いつもこうだ」

 タキオンらしくない捻くれた物言いだった。それに、田上は少し頭を抱えて言った。

「別に……こう、……俺だって恥ずかしいんだよ。お前は、俺と寝れていいかもしれないけど、俺の恥ずかしさも分かってくれよ。…だって、お前は…華の『女子高生』だろ?」

 そう言うと、タキオンもカチンと来て、こう言い返した。

「華の女子高生なんてくだらないこと考えてないで、私の布団に来い!どうせ君はそのくらいしか役に立たないんだ!」

 これは、田上の癇に障った。タキオンもそのことに気が付いたのだろう。すぐに「ごめん」と繰り返したが、田上は、乱暴に自分の布団を剥いでタキオンの布団に行くと、何も言わないで目を瞑った。

 タキオンは、それを不安に思って、田上の頬や手にそっと触れて注意を引こうとしたが、遂に寝てしまうまでそれは叶わなかった。田上の心の中には、タキオンの言葉を聞いた時からずっと靄がかかっていて、それを気にするあまり、いい眠りにはつけなかった。それに、眠りにつくのにも大分時間がかかった。タキオンが、悲しそうに「トレーナー君」と囁く声が聞こえるし、さらにどこそこに触れてくる。これを無視して、安眠になどつけるはずもなかった。

 夢の中でもタキオンの声が聞こえてくるような気がした。



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九、帰らねば…(前編)

九、帰らねば…

 

 翌朝、目を覚ましたのは、誰かが家から出て行く音を聞いたせいだった。田上は、始めのうち、誰が出て行ったのか全く見当がつかなかったが、起きていって冷えた炬燵の上に置いてある紙を見てから昨日の夜父が言っていたことを思い出した。

 昨日の夜、寝る前に父は不意に思い出したように言っていた。

「あ、そう言えば、明日から俺は仕事だったけど、大丈夫だよね?毎年こんなもんだし。アグネスさんの昼もお前が作れるよね?」

 田上は、「分かった」と頷いてその言葉に反応したが、それを覚えていたのは就寝前までだ。その後は、タキオンとのいざこざで忘れてしまったのだろう。田上は、軽くため息をついて、また自分の布団に戻った。だが、そこに潜りはしなかった。布団に寝ているタキオンの傍らに座ると、その顔を見つめながら物思いに耽った。トレセンに帰るまで、あと一晩しかない。そのことに少し驚きだったが、同時にほっと安心もした。あそこだったら、昨日の夜の様ないざこざも大分減る。ここに来てから、何回そういういざこざ的なやり取りをしたのか分からない。何回、気分が落ちこんだのか分からない。

――激動の一週間だった…。

 田上はそう思った。そして、タキオンの方に不意に手を伸ばすと、その髪の毛を触り、頬をなぞった。安らかな寝顔だ。田上にとって最愛の、この世界で一番の愛しい人の寝顔だった。その顔を昨日は自分のせいで曇らせた。この一週間で何回も曇らせた。――果たして自分はトレーナーとしての役割を遂行できているのだろうか?田上は、そう考えると、頬をなぞっていた手を止めた。

 タキオンの顔が、儚さに霞んだ。まるで、触れない幻影かのようにその存在が怪しくなった。座っている足元がおぼつかなくなり、落下している感覚さえあった。

 その時、本当に少しだけ揺れた。地震だ。大きな地震ではなかったが、確かに電灯の紐を見てみると揺れていた。スマホも大きな音を立てて鳴った。すると、途端に目が覚めたタキオンが、田上の顔を見て寝ぼけた様に聞いてきた。

「…ん?なにがあった?地震?」

 自分のスマホを取って、その画面を覗いた。

「なんだ、大して大きい地震じゃないじゃないか。こんなことで私を起こさないでくれ」

 タキオンはぶつぶつ文句を言うと、また布団に寝転がった。そして、不図気が付いたように田上の方を見て言った。

「君は何をしているんだ?君もあのバカでかい音で目が覚めたのか?…いや、もうすでに起きていたよね?なにしてたんだ?」

 そう聞かれると、田上は困ってしまって、ごまかすように苦笑いした。タキオンは、それを不思議そうに見つめ返した。

 ただ、このまま黙っているだけではまずいと思った田上は、こう言った。

「寝て起きて、少しぼーっとしてただけだよ」

「ふぅん…」

 タキオンは、田上が言葉を発する前にあった謎の間隔に納得していないようだったが、あまり踏み込むのもその心が良しとしなかったのだろう。田上には、運よく何も聞かないで、その場を過ごしてくれた。だが、その目はじっと田上の方に注がれていたから、少し困った。

「なに?」と聞いても、「なにも」と返すのがタキオンだったので、田上はなおも苦笑しながらタキオンが何か言うのを待った。

 そして、暫く田上を眺めた後、タキオンは言った。

「君も布団に…入りなよ」

 この躊躇いは、昨日のことを引きずっているようだった。田上は、それを憐れに思ったが、それと共に自分を憎らしく思ってしかめっ面をした。そのしかめっ面をタキオンが勘違いした。自分と布団に入ることを拒絶されたと思ったのだろう。少し不安そうな顔をして、田上が何か言うのを待っていた。

 田上は、その顔を見て慌ててしかめっ面を崩して言った。

「ごめん。…布団に入るよ」

「嫌なら入らなくていいんだよ?」

 その言葉に田上は答えようがなくて、布団の中に入った後暫くタキオンの顔を見ていたが、やっと言葉の整理がついて言った。

「何度、こういうことをすればいいんだろう」

 タキオンは、自分のことを言われたのかと思って不安げな顔をしたが、田上が言っていたのは自分自身のことだった。

「俺は本当にお前のトレーナーでいいのか?人の上に立つ立場でいいのか?」

 タキオンは何も答えなかった。

「お前をそんなに不安にさせて、怯えさせて、それで上の立場にいるって言うんだから、これはもうトレーナー失格と言ってもいいんじゃないか?」

 やっぱりタキオンは何も答えなかった。

「自分の心の中でタキオンのことを一生懸命育てるなんて言いながら、その育ちを阻害しているのは俺なんじゃないか?…今までこうして布団の中でお前の気持ちが落ち込まないようにたくさん話をしてきたけど、実際はただの戯言で、言えばお前が考えて解決していった方がよかったまであるかもしれない。それなのに、俺が今トレーナーでいる理由って一体何なんだ?…答えなくていい。タキオンだって、俺が情緒不安定の精神病者だってことは分かっているはずだ。その上で接してくれてるのだからお前の優しさは計り知れないよ。……俺もお前みたいになりたい」

 田上の話をじっと聞いていたタキオンだったが、田上の話が終わるとこう言った。

「君だって優しいさ。なにせ、こんな私のトレーナーになったんだから」

「それが、俺の心の平穏を保つための技だったら?お前は、俺の心のために利用されてるんだ。…俺には、一体何が真実で何が嘘なのか分からない…。ぐちゃぐちゃだ」

「そんなことはないさ。君に言ったろ?君の心の根元の方は、優しいって。優しくて清らかだ。決して人を傷つけたがらない。だから、今こうして悩んでいる。心底からの悪人だったら、悩みなんてしないさ。もうすでに気が狂っている。悩めるということはまだ救えることなんだよ。心のどこかに解決策があるはずなのに、それが見つからないから悩んでいるんだ。悩んでいるから異常なんじゃない。情緒不安定だから異常なんじゃない。異常な奴って言うのはもうすでに異常なんだよ。…だから、君はそうじゃない。その心の片隅に答えはあるかもしれないだろ?」

 タキオンは、そこで言葉を切ると再び続けた。

「それに、君が話してくれたのだって大いに私の心を勇気づけてくれた。感謝してもしきれないくらいさ」

 そうすると、田上が反論した。

「俺がお前を深みに道連れにしようとしているのかもしれない。これがずっと不安なんだ。できることなら、人を巻き込みたくない。今だって実際、互いに依存してるような関係になっている。タキオンは、もしかしたら本当に俺のことを慕っているのかもしれないけど、俺に同情して慕ってくれているんだとしたら?いつかお前が俺の手を離せなくなった時に気付くかもしれない。もう沼の底から這い上がれないってことに」

「それなら、『その時』さ。君の好きな言葉だ。…これは、的を得ている。考えを捨てたっていいときがある。大抵そういう時は、悩みで頭がパンクしそうになっているときだ。すると、いらない情報ってのは、勝手に脳が排除してくれる。これは、私の持論さ。脳が削ぎ落してくれた情報ってのは、ほとんど役に立たないものかただの空想さ。大事なことだけを君は覚えていればいい。…君は何だい?どこから来たんだい?そして、どこに行くんだい?」

 田上は、タキオンの顔を見た。タキオンもまた田上の顔を見ている。田上は、小さい声でゆっくりと答えた。

「俺は…、トレセン学園でトレーナーをやってる。…二十五歳。担当している子は、アグネスタキオン。危なっかしい奴で、一人で勝手に事を済ませるときもあるけど、いい奴で、最高のパートナー。俺の友達は、そんなにいないけど、霧島に国近に鳩谷(はとや)に田中(たなか)が、特に仲がいい奴ら。赤坂先生も話すときは話すな。それにタキオンの友達には、カフェさんだったり、スカーレット君だったり…、それにあの魔女の帽子を被った女の子だったり」

「スイープ君ね」

 タキオンが口を挟んだ。

「あの子はそんな名前なんだな。……そして、俺は、鹿児島からここまで引っ越してきた。母さんの病気が難病だったから、ここの近くの病院に入院しろってことになった。だけど、治療が遅れたのか死んでしまった。それから、竜之終の町は、少し面白かった。この街の資料館にもいったりして調べた時があったけど、案外ここの竜伝説は面白かった。話そうか?」

 田上がそう言ったが、タキオンは「話が逸れるよ」と言って、話の筋を元に戻させた。

「そして、高校の最初で躓いて、だけど、頑張って最後まで行って卒業して、一年か二年、どっちだったかな?浪人して、いいとこのトレーナーになれる大学に入った。大学は、話せるやつは数人いたけど、今の友達程仲が良かったやつはいないな。皆同じところを目指してたはずなんだけど、今はもうどうなっているのかは分からない。そして、俺はトレセンのトレーナーとしてあそこに所属した。で、タキオンに出会った」

「そう、私に出会った。それから、どこへ進む?」

「俺は、……」

 タキオンの目をじっと見つめた。赤い瞳が柔らかに微笑んだ。もうここで言ってしまおうかと思った。タキオンへの想いを、洗いざらい。今だったら、タキオンも受け入れてくれるような気がした。だが、その時にピンポーンと玄関のチャイムが鳴ると雰囲気は全て吹き飛んだ。

 田上は、半身を起こして、「宅配かな?」と言ったが、タキオンは田上の腰あたりに抱きついてこう言った。

「宅配でもなんでも、君が進む場所を言わないとこの手は放さないよ」

「じゃあ、俺は玄関に進む」

 田上は、そう言って、タキオンを引きずったまま玄関の方へと歩いた。途中でタキオンも諦めて、それでも諦めきれなくて、田上の後ろに抱きついたまま玄関へと歩いて行った。

 田上が玄関のドアを開けると、変な格好をしたおかしなおばさんが立っていて、手には何枚もの紙を持っていたから、田上は怪しんだ。後ろから見ていたタキオンも怪しんだ。なんだか臭いぞ、と思いつつもその人の相手をすると、その人は怪しげな自己紹介をした後にこう言った。

「あなたは幸せですか?」

 田上は、そう言われて少し迷った。すると、そのおばさんは怪しげな本を取り出して、「これに幸せになる方法が書いてありますよ。お代は結構ですのでぜひ読んでみてください」と無理矢理手渡そうとしてきた。田上は、曖昧に頷きながらそれを受け取ろうとしたものだからタキオンは驚いた。こういう手合いは、正面から向き合わないのが基本だろう。そう思うと、タキオンは後ろからしゃしゃり出て言った。

「うちはそう言うのはお断りでね。そもそもこのうちの人じゃないんだ。明日には帰ってしまうんだから、放っておいてどこかに行きたまえ」

 おばさんは、突如現れた憤怒するウマ娘に驚いたが、まだ田上の方に話を続けようとしたため、タキオンは無理矢理扉を閉めようとした。しかし、それまで曖昧に頷いていた田上が、「ちょっといい?」と言うとタキオンが閉めようとした扉を開け、もうすでに去っていこうとしているおばさんの背に呼び掛けた。

 そして、おばさんが振り向くと言った。

「僕は幸せです。少なくとも今は。…ありがとうございます」

 そう言うと、アパートの古びたドアはガシャンと音を立てて閉まった。おばさんは、何が起こったのか分からないようにきょとんとその扉を見つめていたが、やがてため息をつくと、別のドアに向かってにこやかに笑みを作った。

 

「君は今、幸せなのかい?ついさっきまではそうは見えなかったけど」

 ドアを閉めるとタキオンがそう言った。心配しているようでもあったが、からかっているような調子もあった。田上は、それに少し困惑しながらこう答えた。

「幸せ?…確かに幸せだ。……お前と語らい合うことができたんだからな」

 自分が凄く恥ずかしいことを言っているような気がしたが、田上は最後まで言い切った。すると、タキオンは物言いたげな顔をして田上を見つめたが、一度不意に目を逸らすとこう言った。

「そう言えば、聞いてなかった。君はどこに進むんだい?」

「…俺?」

 田上とタキオンは、炬燵に行くことはなくまた布団の方に戻って、そこに寝転がった。

「俺は……」

 田上は、天井を見つめながら、そう考えた。そして、暫く考えた後言った。

「俺は、勿論、トレセンのトレーナーとして先に進むよ。例え、いくつもの別れがあったとしても先に進まなくちゃならない」

「先に進まなくちゃならない?…それは義務なのかい?」

「義務?…義務。そんな感じでもあるし、そんなとは全然違う。要は、暗い負の感情があったとしても前に進もうってことを言いたかったんだよ」

「…それは、つまり負の感情がある前提だと?」

「う~ん、…面倒臭いなぁ」

 田上が困ったようにそう言うと、タキオンはハハハと笑った。

「でも、これってとても大事なことじゃないのかい?負の感情を抱えながら生きていくってとてもつらいことじゃないか。それなら、最初から持たない方がとっても楽だろ?」

「最初から持たないって、タキオンは人のことを言えないだろ?俺も、人のことは言えないけどさ。…そりゃあ、最初から持つことをしないんだったら、俺もそうしたいけどさ。持つことになってしまったらしょうがないじゃん。それをどうにかしないと」

「それはその通りだ。私だって人に言えたもんじゃない。だけど、最初から負の感情を持つことのない人だっているんじゃないか?だったら、それを真似して生きていくってことを考えたほうがいい」

「そんな人がいるのか?」

 田上は、この話が早く終わればいいと願っていたのだが、突然話をちぎるのも可哀想だったのでこう聞いた。すると、タキオンの返事が返ってきたのだが、それはあんまり大したものではなかった。

「そんな人?……私は会ったことがないねぇ。いるのなら会ってみたいものだよ」

 その言葉に田上は呆れた。

「お前は見たこともない人の話をしてたのか?それじゃあ、この話には何の意味もないよ。もっと実のある話をしよう。それとも、これよりずっと身にならない話」

「えーー、でも、これが私たちの理想の姿なんじゃないのかい?何の苦しみも抱かずに生きることが」

「それをできる人間をタキオンが知っているというのなら話は別だけど、知っていない以上は夢物語でしかないよ」

 そう言うと、田上は、体をもぞもぞと動かして、再び体を起こした。

「ああっ、君、どこに行くんだい?」

「もう起きるんだよ。朝ごはんも食べたいだろ?タキオンも起きたら?」

 タキオンは、もう少し布団で寝ていたいというような不満げな顔をしたが、お腹の中に空腹もあったのだろう。田上に引きずられるようにして、くっつきながら起き上がった。

 

 それから、二人は朝食のパンをのんびりと食べながら、話をしたりテレビを見たりして過ごしていった。それは、午前中の間ずっとそうだった。タキオンは、本を読む気にはなれなかったので終始田上にちょっかいを出して、気を引いていた。田上は、それに相手をしているときもあったが、同じくらいスマホを見て相手にしていない時間もあって、中々タキオンの思い通りとはいかなかったようだ。タキオンは、それに不満を持っていたようでもあったが、やっぱり時々は相手をしてくれているのでその不満は不発に終わった。

 そして、昼が来ると、田上は昼食のラーメンを作りに台所へと行ったのだが、そこにもタキオンはついてきた。まるで、トレーナーとの一時を一瞬たりとも逃したくない幼い子供のようだった。そのタキオンの様子を見ながら、田上はこれまで以上に心配になった。

 タキオンは、終始くっついてはいたのだが、その顔にはこれまでより色濃く不安が張り付いていたように思えたからだ。何が不安なのかは田上には見当がつかなかった。これから、あと一日で家に帰ると言っても、それはタキオンが気にしている事のようには思えなかった。なぜなら、本人はあそこに戻りたいと言っていたし、朝の布団の時も田上より落ち込んでいるようには見えなかったからだ。だからと言っても、タキオンが弱音を吐いていないことはなかったので、田上は慎重に言葉を選びながら聞いてみた。

 まだ、ラーメンの麺を茹でている最中だった。

「…タキオン」

「ん?なんだい?」

 後ろの方にくっついていたタキオンがにこやかにそう答えた。本人は後ろにいるので顔は見えなかったが、声を聞くと不安な様は確認することができなかった。だけども、一度見たあの顔は確かに何かに不安をしているようだったから田上は話を続けた。

「…あんまり無理をしてほしくないから言うけど、帰りたくないんだったらはっきりそう言っていいんだからな?無理をするのが一番よくない」

「無理?私が?…そんなつもりは…、ないとは思うんだけどな。どうしてそう思ったんだい?」

「いや、お前が少し不安がっているように見えたからさ。…勘違いだったんならそれでいいんだけど、勘違いじゃなかった場合が、タキオンを無理させることだけになると思って」

「私が不安ねぇ……。あんまりそんな感覚はないけれど、どこら辺がそんなふうに見えたんだい?」

「うーん……。別にお前が不安じゃないならそれが本当に一番なんだけど、今日の寄り添い方がいつもと違うように思えて」

「いつもと違う?」

 タキオンはオウム返しにそう聞いた。

「そう。だって、今日のタキオンは、…少し大人しいというか落ち着いているというか。本当にただ俺の傍に居たいだけという気がするんだよ。そして、表情もあんまり変わらないから、何かに怯えているのかな?耐えているのかな?って思うんだよ。…俺がやっぱりダメなのかな」

 後ろに張り付いていたタキオンは、何か考えているのか、暫く押し黙った後言った。

「……あんまりよく分からないけど、私は帰るつもりではいるよ。少なくとも明日には。…ん、そういえば、君のお父さんの方とはまだ聞き込み調査を終えていなかった。…君のお父さんに私が聞き込みしたいってこと言っていたかな?」

「…言って……、いたかな?タキオンが知らないんだったら俺も多分知らないよ」

「ふむ…。…確か、明日は私たちを見送るために、午前中は家にいると言っていたよね?」

「ああ」

「それで、君は何時にここを出るつもりなんだい?」

「…えっと、昼飯後の一時の電車。だから、十二時半には、この家を出る」

「ということは、それまでに私は君のお父上とお話ししないといけない。…君は、当然聞こえない場所にいてほしいから、外に散歩でもどっか近くで買い物でもなんでもしておいてくれ。そして、その間に私は話を済ませておく」

「ふーん…。それは、今日の父さんが帰ってきてからじゃダメなのか?」

 田上が、そう言うと、タキオンが少し体を離して考え込んでいるのを感じた。

「帰ってきてから……。君を家から追い出すわけだから、暗いし寒いし危険だろ?君の父さんが帰ってきてからでは、もうそんな時間になっていると思うけどね」

 タキオンが言い終わったところで田上は、麺を茹で終わり、タキオンに「どいて」と呟いた。それから食器棚から大きめの器を取り出すと言った。

「…まぁ、俺に少しでも配慮してくれるのならありがたい。…けど、別に俺は構わないけどね」

 田上は、炬燵の方に移動しながら話し、タキオンもまた移動しながら話した。そして、タキオンは座ると、言った。

「君が構わなかったとしても、私は構おう。これから、トレセンの方に帰ろうという体だ。健康を損なってもらって、せっかくできた薬を飲み損ねてもらっては困る」

 そして、こうも言った。

「飯だ。早く持ってきたまえ」

 田上は、それに対して一目見ることだけしか反応せず、それ以外は何もしなかった。それは、言われるまでもなく飯を早く持ってくるつもりだったからだ。田上は、タキオンの分の鍋を持ってくると、机に置いた器に麺と汁を一緒くたに注ぎ、そして、タキオンの前に無言で差し出した。

 タキオンは、「ありがとう」と満面の笑みで受け取ると、田上にも笑いかけた。だが、田上は、まだ台所へと向かわねばならなかった。そして、麺を茹でなくてはならなかった。

 田上は、麺を注ぎ終わると、面倒臭そうにまた台所へと向かった。すると、タキオンもついてきて言った。

「なんなら、私が作ってやってもいいんだぞ」

 田上は、その言葉を嬉しく思ったが、そんな様子はおくびにも出さないでこう言い返した。

「飯を食いな。伸びるよ」

 タキオンは、不満そうな顔をしたが、田上の言うとおりだったので炬燵の所に戻ると自分のラーメンをずるずると啜り始めた。実のところ、タキオンは、まだ田上離れたくなかったのかもしれないが、ラーメンという時間制限付きの食べ物に対して抵抗ができなかった。

 タキオンは、一人で静かに麺を啜りながら、お昼のニュースをじっと見ていた。

 

 昼ご飯は、妙に落ち着かないまま過ぎていった。これは、タキオンにとってもそうだったが、田上にとってもそうだった。

 特に田上は、あれからずっとタキオンの様子が気がかりだったが、あまり変わった様子はないようだった。相変わらず、いつもよりも大人しく、構ってくる様も猫のようなものだったが、聞いてみればいつもと変わらないという。

 タキオンの中に隠れ潜んでいるものが何なのかは、田上には分からなかったが、午後は少しだけ多くタキオンの相手をしてあげた。

 それから、夕方になれば父が帰ってきたが、その時には田上もタキオンも暇すぎて炬燵の中で眠ってしまっていたので、出迎えるものは誰一人としておらず、帰ってきた十分後に田上が起き上って「おかえり」と寝ぼけた声で言った。

 父親は苦笑しながら「ただいま」と言って、早速夕食の支度をしていた。

 そして、夕食の時間にもなったが、これも相変わらずだった。田上とタキオンは、見ようによっては夫婦と見間違うほどに、慣れた手つきで食卓を囲んでいた。それを、賢助は、幸せそうに眺めていた。

 夕食の時間も終わって、後はただ時が流れてゆくだけの時間になった。タキオンも少しは本来のトレセンにいたころの自分に戻ってきているようだった。タキオンの心が帰る支度を始めているのだろう。隣で本を読んでいるタキオンの横顔を時折見つめながら、田上はそう思った。心の中にはやっぱり寂しさが流れてきた。

――夢のような一時を過ごしていたのは、自分だった。

 田上は、そう思うと、浅く息を吐いて時が流れていくのに身を任せた。



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九、帰らねば…(中編)

 気が付いたのは、賢助が「もう寝るかな」と言って立ち上がった時だった。田上は、手にスマホを握ってこそいたが、何も見ておらず、だからと言って何も考えてもいなかった。半分寝ていたようなものだ。

 なので、賢助の声を聞くと、目を開けているのに目を覚ましたように少し驚いて、それから、次いでスマホに目を向けた。すると、隣にいたタキオンも賢助の言葉に反応したからなのか、本を閉じるとこちらのほうを見に来た。

 田上は、後ろの壁に寝転がるようにして寄りかかっていたので、タキオンが田上のスマホを覗き見るときには、少し覆いかぶさるようになっていた。

 田上の顔に影がかかった。電灯を塞いで田上に覆いかぶさるその影は、楽しそうにそのスマホを覗きに来ていた。

 田上は、嫌そうに「何か用?」と聞いた。すると、その影は今度は田上の方を向いて、面白そうに笑いかけた。

「君はずっとニュースを見ていたのかい?」

 田上のスマホは、ニュース画面のままだった。田上は、その画面をチラッと見て、それから、タキオンを見ながら電源を消すと言った。

「あんまり」

「じゃあ、今までの間何をしてたんだい?」

「なんにも」

「なんにも?…それなら呼吸も?」

 田上は、タキオンをジロリと睨んだ。タキオンは、からかうようにこちらを見つめている。相手をしてほしいのかもしれない。田上は、そう思うと、はぁとため息をついて、タキオンの体をどけながら自身の体も起こした。

 それから、トイレに行っていた賢助が戻ってくるのを見てこう言った。

「もう寝ないとな」

 だが、タキオンはこれを聞いて、少し頬を膨らませた。

「君、昨日のような事はしないでくれよ」

 その言葉に田上は少し驚いたから、こう返した。

「…お前、結構空気を読まないというか、度胸があるよな。普通だったら、あんまりそういう話題には触れたがらないぞ」

「度胸があることくらい、君なら当然知っているだろう?」

「それは、当然だけど、やっぱり今日のタキオンを見てると、お前の不可解さが身に染みる」

「それは面白いだろう?…ぜひ、私を理解できるようにしたまえ。その方が色々と都合がいい」

「都合?」

「都合さ。君は私の助手でもあるんだから、私を理解できた方が言葉いらずに色々なサポートをしてくれて楽だろ?」

 タキオンがそう言うと、田上は先程のタキオンの面倒くさい絡みを仕返すようにこう言った。

「今でも俺は、大分言葉いらずなサポートを頑張っているつもりなんだけどな」

 タキオンは、眉をひそめた。田上のしようとしていることを理解したからだ。

「君も意地悪な物言いをするなぁ。…今まで以上に、だよ。今まで以上。別に悪い意味で言ったわけじゃないさ」

 そう言うと、タキオンは立ち上がった。

「君、先に…布団で寝転がっていてくれ。この際、どっちの布団でもいい。私は、君の寝ている方の布団に寝る」

 そして、トイレの方へと歩いて行った。だが、田上もトイレに行ってから寝たかったので、タキオンを待って、それから、少し眉を寄せて布団の部屋に行ったタキオンを残して自分はトイレに行った。

 

 トイレに行って帰ってくると、父親に就寝の挨拶を告げて、田上は隣の部屋に入った。そして、襖を閉めた。襖を閉めると、中は真っ暗になった。どうやら、もうタキオンは寝転がっていたようだった。布団は、昨日の夜の時から畳まれないまま今まで敷かれていた。だから、タキオンは田上が敷くのを待たずして寝転がっていたというわけだ。

 暗闇の中からタキオンの「踏まないでくれよ」という声が聞こえた。ただ、暗闇にまだ目が慣れていない田上が、無様な姿を晒さずにタキオンの元までいくのは難しかったから、これ幸いとその襖近くにあった、幸助が元々寝ていた布団に腰を下ろし、そして、寝転がった。すると、また暗闇から声が聞こえてきた。

「君、私の隣で寝るんじゃなかったのかい?」

「目が慣れていないんだよ。お前を踏みたくないから、ここで寝る」

 田上は、そう言い訳をした。途端に、隣の布団でガサガサと衣擦れ音がして、何か大きなものがこちらに来るのが分かった。それは、タキオンだった。

「まぁ、君がこの布団で寝るというのなら、私も移動するまでなんだけどね。それで逃げ切れたつもりかい?」

「そりゃあ、超高速のタキオン様から逃げ切れる気なんて毛頭ありません」

 田上は、わざと畏まった口調にして、自分の不満を少しだけ表現した。その表現なんて意に介さずにタキオンはこう言った。

「そうだろう?そうだろう?せっかくの最後の夜だ。今日は、朝まで起きていよう?」

「お前はバカか!明日帰られなくなるだろ」

「一夜、寝ないことくらい君にも私にも造作のないことだろ?」

「そうだけど、寝てないって気分自体が悪いときもあるの」

「そんなことはないさ。慣れてるんだから」

「ある!」

 田上は、そう断言した後、こう言った。

「この襖の近くで話すのは不味い。父さんに話し声が聞こえる」

 もう隣の部屋の電気も消えていて、襖から差す微かな光も消えていた。そして、静寂のみがこの家を包んでいた。だから、小声で話していても聞こえるような気がするその声を、襖の傍で話すわけにはいかなかった。田上としては、父親に夜にこそこそと仲良さげに話しているのは聞かれたくなかった。だが、タキオンは違ったようだ。「えー」と不満の声を漏らすとこう言った。

「今更、移動するのは面倒臭くないかい?それに、私はこの場所気に入ったよ。壁の近くに寄り集まってると、特に君の逃げ場がなくなっているようで安心する」

 タキオンが、そう言うと、田上は心外そうに「俺は逃げやしないよ」と言ったが、「さっき逃げようとしたじゃないか」と逆に言い返された。そして、隣にいて掴んでいた腕を殊に強く握りしめて、田上を痛めつけた。

「やめてくれよ」

 田上は困ったように言った。すると、タキオンはその言葉に気を良くしたようで、掴んだ腕を自分の枕にしながら「すまないすまない」と軽く謝った。それで、田上は動けなくなったかのように思えたが、やっぱり父親に聞こえていると思うと居心地が悪かったのでタキオンにこう頼み込んだ。

「タキオン、向こうの布団を動かしてあげるから、せめてあっちの壁際で話そう?ね?なにも変わらないと思うけど、どう?」

 タキオンは、少しの間考えた後、「いいよ」と返事をした。

「早くしたまえよ」

 そう言われると、田上は、起き上がって移動を始めた。暗闇の中だったが、目が慣れてきたので大分スムーズに布団を動かすことができた。田上は、布団と壁の間にあった僅かな隙間を埋めると、そこに寝転がった。

 タキオンは呼ばないでも来た。田上は、タキオンをわざと呼ばなかったのだが、その魂胆を見抜いていたようで、「君は少し意地悪になってきたな」とぶつくさ文句を言いながら、壁際の田上に詰め寄ってきた。そして、その腕をまた枕にして、田上と布団の中で向かい合った。

 それから、暫くは二人とも喋らないでこのまま寝ていくかに思えたが、タキオンだけは目をしっかりと開けて田上の顔を見つめていた。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、部屋の中を明るく照らしていた。タキオンは、この目の前の男にしがみついて最大限甘えたい衝動に駆られたが、唾を飲み込んだだけで何もしなかった。代わりに、こう話しかけた。

「もう、最後の夜だよ」

 微かな囁き声だったが、田上はぱちりと目を開け、タキオンの顔を見た。目は瞑っていたものの全然眠たそうではなかった。

「最後の夜だよ」

 そう返した。タキオンは、少し寂しくなって、田上の左手を握った。すると、田上もその手を握り返して、再びこう言った。

「もう帰らないといけない」

 暗闇の中に澄んだ瞳が輝いた。だが、タキオンはその輝きには目を留めずに言った。

「まだその時じゃない。まだ、もう少しだけ時間はある」

「いいや、帰らなくちゃならない。時間はすぐに過ぎ去る。…腹を括れ。怯えるな。…もう引き返すことはできない」

 田上がそう言うと、タキオンは少しの間黙し、次いで言った。

「君は、行くときもそんな事を言っていたな。――後戻りはできない。…そんなことを言っていたよね?」

「…どうだったかな。分からない」

「いいや、言っていたさ。私はしっかりと聞いたね。……また、あそこに帰らないといけないのか。あんまりいいもんじゃないよね。土壇場になって私の気持ちがどうなのか分からなくなってきたよ」

「帰りたいのか帰りたくないのか?」

 田上の言葉にタキオンは、曖昧に頷いて、こう言った。

「君がさっき――もう引き返せないと言っていたけど、もうその心は決まってしまったのかい?」

「…少なくとも俺は。ただ、お前が残るというのなら、俺も残るよ。絶対にお前を一人にしないし、無理もさせない。…俺は、お前の良いトレーナーでありたいから」

「良いトレーナー……」

 タキオンは、そう呟いた後、タキオンは暫くの間押し黙り、田上がその目を閉じて再び眠りにつこうとしたときに、やっとこう言った。

「トレーナー君、少し、ほんの少し私を抱きしめてくれないか?」

 田上は嫌そうな顔をして、「なんで?」と聞き返した。

「…抱きしめられるって、何と言うか……落ち着くだろ?だから、…こう、私の明日への不安も静められるかな~って」

 タキオンは、しどろもどろになりながら、こう答えた。

「……抱きしめられないと不安は消えないのか?」

 田上は静かに言った。タキオンは、暫く返答に迷った後こう言った。

「抱きしめてほしい」

 タキオンの胸は、今や心臓の脈打ちで張り裂けそうになっていて、息も少々荒くなっていたが、それでも大分平静を保ちながら話した。田上の方はと言うと、普段の様子から見るに、これは冷静すぎた。まるで、話の半分も現実の事とは受け止めていないかのようだった。しかし、だからと言って、適当にタキオンを抱きしめようとはしなかった。

「いやだ」と一言言うと、田上は、話は終わったと言わんばかりに目を閉じた。決して、物凄く眠たくて、気分がうつらうつらしているというわけではなかったのだが、どこか夢現な雰囲気があり、それがタキオンを困らせた。

 タキオンにしてみれば、頑張って言ってみたのだが、それを真面には取り合ってもらえなかった。だから、怒ってみればいいのか、悲しめばいいのか分からずに、暫く田上の眠っている顔を見つめた後、少し悲し気に眉をひそめてこう言った。

「嫌だ?……それは、もう少し融通は利かないのかい?」

 田上は、またパチリと目を開けた。そして、再度「いやだ」と繰り返すと、またその目を閉じた。とうとうタキオンは困り果てて、にっちもさっちもいかない状況になった。田上に迷いなど微塵もなさそうだったから、そこに漬け込む隙も当然なく、タキオンは行き場のなくなった自分の想いと一人で布団の中で戦う羽目になった。

 タキオンは、不安そうに田上の顔を見たが、月明かりに微かに浮かぶその顔は普段の優しさが消えて、冷酷無情な石の仮面のように見えた。少し恐ろしくなって、タキオンは体を身じろぎさせた。だが、身じろぎをしただけで、その場から動くことはなかった。やっぱり田上の懐の方が居心地がよかったからだ。それでも、嫌な感じは残っていて、そのことにタキオンは段々腹が立ってきた。だから、タキオンはこう言った。田上が起きていようがいまいがどちらでもよかった。少なからずストレス発散のためで、少なからず田上を起こすためだった。

「ケチ、意地悪、バカ、阿保、間抜け、クソ野郎、バカ、ケチ、意地悪」

 そう言うと、田上の頬をグリグリと拳で押して、自分は眠りにつこうとした。田上は、頬に痛みを感じたが、身じろぎ一つしなかった。タキオンは、田上が何か言うのを期待していたのだが、目を瞑って耳を澄ませても何も聞こえないと分かると、いよいよ怒ってふて寝しようとした。しかし、それには時間がたくさん必要で、田上が本格的な眠りについた二十分後にようやく眠りにつくことができた。

 タキオンは眠りにつくと、夢を見た。だが、その夢の内容は、起きた時には忘れていて、タキオンの口から語られることはなかった。一つだけ言えることは、いい夢ではなかったということだ。

 

 朝起きると、タキオンは昨日の怒りをすぐさま思い出して、田上を起こした。そして、それと共に今日が最終日だということを思い出して、途方もない寂しさも感じた。それもあって、タキオンは田上が起きると、感情の行方が分からなくなり、不機嫌そうに「おはよう」とだけ言った。田上は、平気そうに伸びをして体を震わせ、次いで大きな欠伸をし、「おはよう」と呂律の回っていない口で言った。

 タキオンは、田上が平気そうなのに腹が立った。だけども、その怒りを最大限見せないようにしながら「今日で帰るんだね」と話しかけた。田上は、その言葉に「そうだね」と返した。全くもって平気そうである。それが、ますますタキオンの癇に触り、少し強めにこう言った。

「君、やっぱり優しくなくなった。前は、もっと私のことを気にかけてくれていたのに、私が不機嫌だってことも分からないじゃないか」

「それは自分で言うことか?」

 田上の言葉を聞くと、タキオンは大きな声を上げた。

「聞いたかい?今の言葉。やっぱりどうかしてるよ、君。私は悲しくって悲しくってしょうがないよ。だって、君が優しくないんじゃ、その唯一の取り柄が失われたも同然だからね」

 タキオンの芝居がかった口調に、田上は眉をひそめた。そして、言った。

「その戯言ばかり言ってる口を閉じろよ。……それにしても、もう昼で帰るのか。…寂しくなるなぁ」

「…人の話なんて聞こうともしないんだな。本格的に見損なったぞ、トレーナー君」

 タキオンが、そう言っても田上は何も聞いておらず、タキオンは不機嫌になるばかりだった。

 田上が、起きて隣の部屋に歩いていくと、まだ父親は起きてはいないようだった。だから、田上が戻ってくるかもしれないと思って、タキオンはまだ布団の中で待っていた。しかし、田上は隣の部屋に行って、そのままトイレに行った後、戻ってくることはなかった。やはり、タキオンの事は無視して、炬燵に潜ると自分のスマホを見つめ始めた。

 タキオンは、何度も隣の部屋に呼びかけて、自分の布団の所に来るよう呼びかけたが、返事一つ返ってこないともう諦めて、トレーナーの悪口をぐちぐちと言い始めた。それでも、気を引くためにいろんなことも言ってみたが、何一つ効果はなかった。だから、もうタキオンは本格的に諦めて、自分の本を読み始めた。この本は、もう昨日の夜には読み終わっていたが、それ以外の本を持ってきておらず、だからと言って暇つぶしに自身のスマホを見つめる気もなかったため、タキオンは適当にページを捲りながらこれから田上をどうしてやろうか考えた。

 契約解除を盾にして脅すことも考えたが、それほど大きな問題でもないからそれは却下された。だが、それ以外の方法がどうにも頭の中でまとまらなかった。パラパラと捲っている本が集中を掻き乱したせいもあったし、田上への怒りが集中を掻き乱したせいもあった。それが、どうしようもなくなった時にタキオンは一度天井を見て落ち着こうと考えたが、すぐにそわそわしだして、またページを捲り始めた。

 それからは、もう田上のことなど考えないで、本の内容だけに集中した。そうすると、時間は上手い具合に過ぎていって、朝八時となった。

 

 賢助が起きて、朝食はパンだということを田上に言っているのが聞こえた。それを聞くと、タキオンも朝食を食べようかな、と思い立ったが、隣の部屋に田上がいることを考えるとそれをやめた。そして、パラパラと本を捲りながら、タキオンは自分が賢助と話をしたいことも思い出して、どうしようかなと思い悩んだ。

 中々、タキオンの都合通りにいかないようだった。だから、そのことを思うと、再び怒りが湧いてきて、その怒りが原動力となって起き上がった。そして、田上に何も言わないまま、賢助に朝の挨拶をして、トイレに行き、そして朝食のパンを食べるために座った。相変わらず、田上の隣に座ったが、その距離は今までになく開いていた。

 田上も何も言わなかった。まるで、他人同士のように何の言葉も発さずに、何の会話もしなかった。タキオンは、その時に微かな淡い期待を抱いていたのだが、それすらも打ち砕かれた。田上は、人が変わってしまったようだった。いつもの優しい気配はない。

 その事に父親の方も少し困惑しているようだったが、パッと見た限りでは何も変わらなかったから、何も言わなかった。タキオンは、父親の方とぽつりぽつりと会話しながら、朝食を食べた。田上も父親と話こそしたが、タキオンとは口をきかなかった。別に、何か目に見える形で大きな喧嘩をしたわけではないのだが、田上はなぜかタキオンと話したがらなかった。

 田上にしてみれば、普段と変わらず動いているつもりだった。少し帰ることに対して緊張こそしていたが、なるべく普段通りに振舞っているつもりだった。ただ、タキオンに対しては少し気丈なふりをしていたのだが、これがいけなかった。田上の頭には、固い壁があるようで上手くタキオンの声が通らなかった。気丈なふりも度を超せば、ただの冷たい男になってしまうのだ。田上がこれに気が付くまでには、まだ少し時間が必要だった。

 タキオンは、まだ暫く怒っているようだったが、田上にふと気が付いた事があって、こう言った。

「お前、父さんと話したいことがあるんじゃなかったのか?」

 すると、タキオンは少し驚いたような顔をした後、黙って頷いた。

「いつするんだ?今から?それとも後で?」

 田上がこう続けたから、タキオンも話さざるを得なかった。だから、暫く上の方を見つめて考えた後に言った。

「じゃあ、今からしよう」

 そして、父親の方に向かっても言った。

「お父さん、今回の旅の目的にトレーナー君の家族と話すことがあったんです。…言いましたっけ?」

 賢助は、急に話しかけられて戸惑ったが、その後に言った。

「……多分、……言われてない?と思いますね」

「では、今から話す時間をいただけますか?トレーナー君には席を外していただいて」

 タキオンは、そう言って、チラリとトレーナーの方を見た。そうすると、田上もタキオンの雰囲気を察して、そそくさと立ち上がった。そして、言った。

「俺は、外にいたほうがいいみたいだね。…話が終わったら、どっちか電話かメールかどっちでもいいから寄こしてね。俺は、あの交差点付近にある店でなんかしてるから」

 その言葉にタキオンは無言で頷き、賢助は「ああ」と返した。そして、田上が出て行こうとするのを見送った。タキオンは、当然立ち上がりもしないで、手元にあった暖かいお茶を啜った。



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九、帰らねば…(後編)

 賢助が戻ってくると、タキオンは早速話を始めようとしたが、その前に賢助が口を開いた。

「圭一がアグネスさんに何か意地悪をしましたか?」

 あまりに雰囲気が悪すぎて、賢助もこうならないと聞けなかったようだ。タキオンは、その言葉に動揺こそしたが、そんなことは関係ないとばかりに怒りに満ちた声でこう言った。

「あの人が私に何をしようと、何をされまいと、知ったことではありません。私が、一方的に怒っているだけですので、お気になさらずに」

 そう言ってからタキオンは少し後悔した。賢助は何にも関係がないのだ。それなのに、感情に任せて怒りをぶつけてしまったから、タキオンはどうしようもなくなって、「すみません」と謝った。賢助は何とも思っていないようだった。ただ、こう言った。

「もしあいつが何か悪いことをしたなら、すぐに見捨ててやってください。気を病むことはありません。元々、この家の子供です。社会に出て砕けるようでしたら、この家で面倒を見てやります。…ですから、アグネスさんが、あいつにかまけて不幸になることがあるようでしたら、僕が無理矢理引っ張ってでも連れて帰りますよ。他人に迷惑をかけるわけにはいきません」

 賢助がそう言うと、タキオンもいくらか落ち着いた。だから、こう返した。

「トレーナー君も同じことを言っていました。そして、悩んでおりました。いつか自分がタキオンを深みにひきずりこんでしまうのではないか、と。……親子ですね。考え方がよく似ております」

 外のすぐ近くの道路をバイクの通る音が響いた。しかし、その音が去ると静寂が続いて、明るい電灯の下、二人の息をする音が鮮明に聞こえた。賢助は、正座に座り直した。タキオンが、元々正座だったからだ。そして、二人の目線が合うと、賢助が言った。

「そして、聞きたいこととは?」

「簡潔に言いますと、トレーナー君は母を想って泣くような趣味はおありでしょうか?」

「母を?……う~ん、あいつにそんな感じは、感じたことがなかったけどなぁ。泣いたんですか?」

「人伝にそれを聞きました。私にもイメージが湧かなかったので、不思議に思い、詳細を調べてみようと思ったのです」

「それは間違いないので?」

 賢助は、少し身を乗り出して聞いた。

「はい。噂などではなく、見た本人からの信頼できる情報です」

「へー」と賢助は頷きながら、また座り直して今度は胡坐に変えた。どうやら、正座は我慢ができなかったようだ。しかし、タキオンは、今の所足の痺れを堪えるための身じろぎ一つせずに話をしていた。

 賢助が言った。

「じゃあ、それが理由で圭一をこの場に同行させたくなかったわけだ。…あんまり好きそうな話じゃないもんな。圭一の。…あいつがこれを聞いてたんだとしたら、それは少し怒るな。怒るし、傷ついて少し塞ぎこむだろうな」

「それを避けたくて彼を他所へやりました」

「ふむ、なるほど。…それじゃあ、用件は?聞きたいことは最初の事だけじゃないだろ?」

「そうです。…まず、トレーナー君と母親の関係性について聞きたいのですが、具体的に仲が良かった悪かったとかあるでしょうか?」

「仲……?う~ん…、普通に良かったと思うよ。家は、離婚も再婚もしてないから、生まれた時から母親も変わらないし、俺の嫁の方も幸助が生まれてから少し大変だったけど、分け隔てなく接していたし。……うん」

 タキオンが、何の返事もしなかったので、賢助は最後に申し訳程度に締めくくりの言葉を置いて、話を終わらせた。タキオンは、顎に手を当てて考え込んでいたが、やがて、ゆっくりと顔を上げると言った。

「幸助君の方にも質問しましたが、同じような事を言っていました」

「あ、幸助の方とももう話したんだね。…いつの間に?」

「和菓子を買いに行ったときに、店の外にトレーナー君を置いて、軽く話をしました。…それで、次に質問したいのが、あなた方夫婦の関係とあなたから見た兄弟の関係」

 一度に、二つ質問が来たから、賢助は戸惑った。

「えーっと、じゃあ、俺とその嫁、美花の関係から」

 賢助は、誰が美花か分かりやすいように後ろの棚から、家族写真を一枚取ると、その手元に置いて話を始めた。

「馴れ初め……。馴れ初めから話した方がいいのかな?」

「どうぞご自由に。大切だと思う情報から話してもらって構わないです」

「…じゃあ、もう分からないから、馴れ初め…から話していくと、大学に入った当初に知り合ったんだよな。それはもう、一番初めから。あいつが財布を落としてたのに、全然気が付かないで歩いて去っていくから俺も戸惑ったよ。結構気づきそうなものだけどね。案外気が付かないんだな。…そして、財布を拾ってあげたのが一番初めの出会いで、その後、俺がバンドやってるサークルに入ると、また美花がいた。もうお互い顔見知りだったから、そこで結構仲良くなった。で、段々好きになっていって、その年の夏に付き合うことになった。……やっぱり、これは話す必要がないかもしれないな」

 自分の話してしまった事に少し照れてしまったようで、そう言った。タキオンは、そのことを可笑しく思って、クスリと笑いながら「どうぞご自由に」と答えた。

「じゃあ、単純に仲が良かったかそうでなかったというのなら、仲は良かった。離婚もしてないからな。あのまま順調に行ってれば、死ぬまで仲が良かったと思うよ。…まぁ、死んだらどうしようもないんだけどな」

 賢助がそう言うと、タキオンの頭には不図ある考えが浮かんできた。

「……ちなみに再婚というのは…?」

 少し失礼かとも思ったが、タキオンは思い切って聞いた。賢助は、それを聞くと、少し気分を害したようだ。表情を曇らせ、こう言った。

「再婚は、圭一にも幸助にも何度か勧められたけど、するつもりはない。…俺が、一番引きずっているのかもしれないなぁ。忘れたいと思うけど、どうにも忘れることができないよ」

「それは、仏壇を置いているからでは?」

 タキオンは、思わずもっと踏み込んだ質問をしてしまったが、賢助はやっぱり表情を曇らせただけでその気分を表す言葉は吐かなかった。ただ、こう言った。

「仏壇?……やっぱり忘れることはできない。そして、できるだけもうこれ以上このことに踏み込まないでくれ」

 賢助がそう言って、やっとタキオンは無礼を働いてしまった事に気が付いた。「すみませんでした」と言うと、こう続けた。

「兄弟のことは?」

「兄弟?…小さい頃はしょっちゅう喧嘩してたな。…今でも仲が悪いのかどうかは知らんけど、ここに来た一番最初の日を見てみると、あんまり変わったものではないかな」

「トレーナー君は、幸助君のことが嫌いだと言っておりました」

「嫌いと言っても、それは心の底からじゃないだろう?多分、アグネスさんの手前、格好つけたのか。それとも、男兄弟のよくある仲の悪さなんじゃないのか?あんまり、男同士で仲良くしてもしょうがないしな。…まぁ、初日が最悪だっただけで、特に仲は良くも悪くもなかったのは見ただろう?子供の時も、少し喧嘩が多かっただけであんまり変わらなかったよ」

 そこでタキオンは、また考えに耽るために暫く押し黙った。そして、考え終わると言った。

「トレーナー君に弟が生まれてから、どのくらいトレーナー君に対しての母親の対応は変わりましたか?努力の話ではなく、結果の話です」

「幸助が生まれてからは、大変だったから、俺も圭一の世話をするようになって、その分圭一と美花の触れ合う時間は減ったかな?」

「それはどのくらい?愛情を感じるのに大きな差はありましたでしょうか?」

「愛情?……あんまり分からないなぁ」

 ここでタキオンは、賢助が言葉を濁したのを感じ取った。ただ、それを指摘しても話は終わらないから、質問を変えた。

「では、育てるときに何かモットーにしていたことはありますか?」

「モットー?…それは、心根の正しい人間になってほしいと思って育てたけど、あんまり意識して育てた覚えはないな」

「では、トレーナー君が小学生の時などに嫌がっていたことは?」

「う~ん…、習い事をいくつかさせたけど、どれもすぐに嫌がってやめたな」

 タキオンは、そこである考えに至ったのだが、これを言ってもいいものか迷った。これは、明らかに失礼に当たるからだ。しかし、タキオンの心は抑えることができず、遂には口を開いた。

「お父さんは、先程から自分の事ではないかのように話していらっしゃいますが、ここの家庭で言うと、育てるのを熱心にしていたのは、お母さんの方で?」

 これは、できるだけ丁寧に言うことに成功した。タキオンは、なるべくなるべく父親を責めている口調にならないようにした。その甲斐あってか、賢助は困ったように頭を掻いただけで、怒りはしなかった。

 賢助は、躊躇いがちに言った。

「…まぁ、そういうのの主導権を握っていたのは、美花だけどね。俺も口を挟みはしたよ。特に、圭一が嫌がったときなんかは」

 これで、タキオンに合点がいった。もう話す必要はなかった。最後に、「ありがとうございました。もうこれでお終いです」と言うと、話を終わらせた。

 タキオンの合点がいったのは、田上は母親から圧を受けていたということだった。これは、父親の最後の言葉から想像がついた。田上の母親は、父親が口出ししないと止まらなかったのだ。まだ、問題の本質のところは謎のままだったが、この会話で一番の収穫だった。

 タキオンは、満足げに頷いたが、まだ田上に腹を立てていることを思い出すと、急に表情を曇らせた。その表情の変化に賢助は少し不安になったが、「俺が電話をしますよ?」と言うと、タキオンが頷くのを見て、電話をかけた。

 

 ショッピングモールで雑貨を見ながら、――タキオンたちは何を話しているんだろう?と田上は想像していたが、大きなぬいぐるみを目の前にすると、その考えは吹き飛んだ。そして、丁度その時に父からの電話があった。

「もしもし、終わった?」

 開口一番に田上は、そう言うと、電話の向こうから低い声で「終わったよ」と聞こえてきた。

「案外、早かったんだな」

『ああ』

「じゃあ、今から帰ります」

 そう言って、田上は目の前にある自分の身長を優に超えた大きい熊のぬいぐるみのことを報告しようかとも思ったが、それは少し大人げないのでやめた。代わりに、「バイバイ」と言って電話を切った。

 だが、そこからすぐに出口に向かうことはしなかった。まだ大きなぬいぐるみを見ていたかったし、この雑貨屋をもう少し見て回りたかったからだ。

 雑貨屋の中はたくさんの物で溢れていた。大きなクマのぬいぐるみは、店頭に飾られていたのだが、中の方にも小さいがクマのぬいぐるみやその他動物、アニメのキャラクターのぬいぐるみが飾られていた。雑貨屋というより、手芸屋だったが、店の名前は『MARYの雑貨店』という名前だった。全国展開をしている大きなチェーン店というわけではなさそうだった。だが、その中身は、大変に見ていて面白く、田上も子供に帰りそうな魅力あるキラキラしたもので溢れていた。

 人もたくさんいた。どうやら、地元では人気の店のようだ。その大半が女性だったから、田上は少し居心地が悪かったが、それもおしゃれな棚を見ていれば忘れた。

 その棚は、三段の引き出しが付いた、小さな棚だった。その上には、この店の人の遊び心か、小さい人形が三人ちょこんと並べられていた。一つは、男の人、一つはウマ娘、一つは女の人だった。田上は、これに堪らなく興味を持った。値段表はどこにも見当たらなかったし、店の中を探してもこれと同じものは何一つ見当たらなかった。

 ウマ娘の小さい人形は、タキオンと同じ栗毛だった。ピンクの服を着て、男の人の人形と隣同士に座っていた。女の人は、少し離されていたが、別の世界線にいるのではなく、少し離れた所からウマ娘の人形と男の人の人形を見守っているようだった。

 田上は、これを動かしたくなったが、さすがに大の男の大人が、人形遊びをしていると見ていられないので、動かそうとした手は押しとどめた。すると、代わりに、人の好さそうなウマ娘の店員が話しかけてきた。

「この人形気になりますか?私が作ったんですよ。ほら」

 そう言うと、その人はウマ娘の人形を持って、ちょこちょこと動かした。まるで、遊びに誘っているようだったが、田上が動かないとなるとその人は、男の人形を持って田上に渡してきた。

 そして、人形を口元に持ってきて、ままごと遊びのようにこう言った。

「今日は、何の御用でこの店を訪れたんですか?」

 これは田上にもそうしろということらしい。田上は、自分の持っている男の人形を見つめながら暫く迷ったが、いつまででもその店員は待っていたので、田上も付き合ってあげた。しかし、付き合ってあげたと言っても平気なんてものではなく、顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。

 田上は、店員の言葉にこう返した。

「ぼ、僕は、ちょっと暇潰しに」

「そうなんですか?何のためなんですか?ただ、暇だったから?それとも時間を潰すため?」

 道行く人の目がこちらを見ていて、それに押し潰されそうになったが、店員は相変わらず人形を介して話しかけてくる。田上も、一度始めたからには応じないわけにはいかなかった。どこかで、クスクスと笑う声も聞こえてきた。

「じ、時間を潰すためですね。友人が、ちょっとやりたいことがあるそうなので?」

「ズバリ、その友人とは?」

 田上は、その質問の意図が分からず、「友人?」と聞き返したが、店員はただ頷いただけだった。だから、田上は必死に考えてこう言った。

「ゆ、友人とは、少し仲のいいただの友達です。ここに一緒に遊びに来ただけです」

「では、その友人が何かサプライズを用意しているのでは?」

「…それはないと思います。元々、目的があって一緒にここに来たみたいだから。それに、記念日の様なものも特にないし、その記念日すらも友人は頓着はしません」

「じゃあ、なぜ、その友人と仲がいいのかな?」

 店員がそう聞いてきたところで、田上はもう限界となった。持っていた人形を棚の上に戻しながら、「もうやめませんか?」と呼びかけた。店員の方は、笑って「いいよ」と返してきたから、田上は拍子抜けした。こんなことなら最初から、この変な遊びに付き合わなければ良かったと思った。しかし、そのことは口には出さないで、田上はその場からそそくさと離れようとした。すると、店員も一緒についてきたから、驚いた。田上は、「何か用ですか?」と思わず、邪険に扱ってしまったが、店員はニコニコ笑うとこう言った。

「その友人さんの所に今から帰るんですか?」

 田上は、まだ少し店の中を歩こうかとも思っていたが、店員にそう聞かれると面倒臭くなって「そうです」と答えた。

 すると、店員はまた言った。

「あなたって面白い人ですね。あの遊びに付き合ってくれた人、それも初対面で付き合ってくれた人は中々いませんよ」

「…あれは、皆に吹っ掛けてるんですか?」

 田上は、気になったので聞いた。そうすると、店員は顔を笑みでいっぱいにして、嬉しそうに「はい、そうです」と答えた。

「ただ、私が作ってきたものを熱心に見てる人だけですけどね。…そういう人も、私があんなことをすれば、急な用事ができたり、トイレに行きたくなったりする。…だから、あなたは中々の強者だよ。誇っていい」

「あんまり誇れるようなものじゃないですね」

 田上が、顔をしかめて言うと、その顔が可笑しかったのか店員がけらけら笑い出した。その笑いに、田上はもっと顔をしかめて、「それじゃあ」と言うと、その場を立ち去ろうとした。しかし、店員は慌てて笑うのをやめてこう言った。

「もしかして、あなたの友人って、ウマ娘だったりします?」

 田上は、急な質問に固まったが、暫くするとゆっくりと首を横に振った。

「そうですか。私の読みは外れましたか。…はい、これあげます」

 店員は、いつの間にか手に持っていた男の人形と、ウマ娘の人形を田上に差し出した。ただ、田上は、それを売り物だと思っていたから、戸惑った。そして、「これは売り物なんじゃ?」と恐る恐る聞くと、店員は「全然違いますよ」と言った。

「さっき言いませんでしたか?私が作ったものです。売り物なんかじゃありません。ただ、あそこに置いていれば可愛いと思ったんです」

「…盗まれないんですか?」

「盗まれますよ。盗まれるために置いているんです。ただ、あんまりしょっちゅう持っていかれると困るので、そういう人の顔は覚えていて、絶対に張り付いています。そういう人以外、...つまり、あなたのように直接渡す人は、信用しているので、多分今後盗むなんてこともないでしょう」

 店員はにやっと笑って、田上を見た。

「これ、貰ってやってください。この子たち、あなたのことを好きだと思うんです」

 店員が差し出した手に、田上は恐る恐る手を広げてそれを受け取った。しかし、一つ気になることがあって、その手を引っ込めずに聞いた。

「もう一人の人形がありませんでしたか?」

「…ああ、ありましたね。…ちなみにどんな関係に見えました?あなたの目線から」

「…母親だけ少し遠くに離れた親子?」

「つまり、ウマ娘ちゃんの人形が子供で、後の二人が親、ということですね?」

 そう言うと、店員は答えを求めるようにこちらを見たので、田上は頷いた。

「私も最初はそう思っていました。しかし、並べてみると、あんまりしっくりこないんですよ。それで、なにかな~なにかな~って思っていると、今日、あなたを見て分かりました。…この子たちは、ウマ娘とその大好きな男の人。つまり、恋人同士。あのもう一人の人形は、その男の人の母親だけど、そのカップルにはあまり関係がない。…もう一つ、父親の人形を作らなければならなくなりました。だって、母親一人だけでは寂しいですからね。…その人形は大事にしてくださいよ。いつかあなたの身に、愛する人を抱けるまで。…恋人はいないんですよね?」

 店員の最後の言葉は余計だったので、田上は曖昧に頷くと、人形を持ってその場を後にした。まだ、雑貨屋の方から幾つかの視線を感じたが、それはもう気にしなかった。

 この人形を貰えたことが少し嬉しかった。その人形は少し温もりがあるような気がした。それを大事そうにポケットにしまうと、田上は、寒い道を家まで歩き続けた。

 

 家に帰ると、相変わらず暖かい部屋が田上を出迎えたが、タキオンが少し怒っていそうなのが気がかりだった。だからと言って、田上も大した用事があるわけでもないので、タキオンの隣に座ると持ってきた人形を机の上に置いて、眺め始めた。

 もう父親が料理を作っていた。まだ、お昼には早い時刻のように思えたが、賢助が言うには「早く作って、早く食べて、お前たちが電車に乗っていくのを俺も見送りたい」とのことだった。その駅まで行くのも少しのんびり歩きたいそうだった。

 それを聞くと、田上にももういよいよという感じが増してきて、タキオンと話すために口を開く気もなくなった。しかし、タキオンの方から話しかけてきた。

「……それは、…何だい?」

 右隣から急に話しかけられて、田上は戸惑ったがこう言った。

「人形。店で貰った」

「貰ったということは、配っていたのかい?」

「いや、たまたま変な人に会って、知らないうちに貰った」

「知らないうちに…」

 タキオンは、まだ話すことがありそうな口調をしていたが、何を思ったのかそこで口を閉じた。そこで、田上もこう話しかけた。

「お前、もう帰る準備をしておけよ。昼には出るんだからな」

 タキオンは、そう言われると、最初はキョトンとして話を聞いていたのか疑わしいくらいに黙り込んでいたが、やがて、少し眉を寄せるとこう言った。

「私、やっぱり帰らない」

 この言葉に田上は仰天した。

「帰らない!?どうして!?」

「君が帰らなくていいって言ったんじゃないか。だから、私はその選択をしただけだよ。それ以外に理由があるかい?」

 少し怒っているようだった。田上は、その事に気が付いたが、特に何も言うこともできず、「は、はぁ、…分かった」と呟くだけだった。すると、またタキオンが言った。

「やっぱり帰る」

「え!?どういうこと!?……は!?」

「やっぱり帰るんだよ。トレセンに帰ることにする」

「……えっと、どういうこと?なんでそんなに言うことが変わるの?」

「どうでもいいだろ!そんなこと!それよりも、君が帰る支度をしてくれよ。自分でやるんじゃ面倒臭い」

 田上は、また「分かった」と困ったように呟いたが、すると、タキオンもまた言った。

「…やっぱり帰らない」

「え!?どういうこと!?何が起こってるの!?…なんで!?」

「帰らないんだよ。君の耳はただの穴なのかい?ちゃんと言ったろ?帰らない」

「え、…いや、タキオンってそんな言うことが二転三転するやつだったか?」

「するさ。私の何を見ているんだい?もしや、君の目も節穴だって言うのかい?あーあ、これはトレーナー失格だねぇ。残念だ。トレセンに帰ったら、君と契約解除の手続きをするよ」

「は!?…え!?何が言いたいんだ?やっぱり俺が何かしたのか?」

 田上がそう言うと、タキオンの堪忍袋の緒が切れたようだ。これまでになく激昂して田上に怒りをぶちまけた。

「何もしてないんだよ!!…何のための私のトレーナーだ!!私の言葉をことごとく無視しやがって。この野郎、この野郎」

 タキオンは、田上を座ったまま足の裏で踏みつけ始めた。中々に力を込めてやっていたので、田上は後ろに倒される他なかった。

「ごめん、ごめん」と終始謝っていたが、タキオンの怒りは冷めやらなかった。

 賢助は、その声を聞いていたが、止めに行くことはしなかった。もう勝手にすればいい、と思って、その場を息子が解決することに託したのだ。

 タキオンの言葉は続いた。

「昨日の夜からそうだった。何を思ってるのかは知らないけど、私の言葉を聞け!自分だけの世界に入ろうとするな!気持ち悪いんだよ!!なんで私の話を聞かないんだよ!私のトレーナーだろ!抱きしめろと言ったら、抱きしめるんだよ!話聞いてるのか!!?」

 田上から何も反応がなかったのでそう聞くと、「聞いてます聞いてます」とうずくまった田上の口から返事が聞こえてきた。それを聞くと余計に腹が立ったが、もう言うことがなくて、迷った末に田上の尻を思いきり蹴った。田上の呻く声が聞こえた。妙に小気味よかったが、それでも怒りは晴れなくて、「むしゃくしゃする!!」と叫びながら、炬燵に座り直した。それから、机にあった人形を二つ引っ掴むと、田上に投げつけた。

 

 昼食が出来上がるころには、その場はすっかり収まってはいたが、タキオンの怒りがまだ抜けきっていないため雰囲気だけは最悪だった。田上にはどうしようもないかのように思えた。田上が、何か言おうとすれば「うるさい」と言われ、口を開くことすら許されなかったからだ。

 それは、いつまで続くか分からなかった。タキオンの子供のように短気な怒りかとも思えたが、田上自身にも思い当たる節があって、それを大変申し訳なく思った。どうにも自分のことが嫌いになった。嫌になった。どうしようもなくなった。口を開けばうるさいと言われ、かと言ってこのまま口を閉じていても解決はしそうにない。そんな状況で、ただ飯を食べている自分が嫌になった。

 これは、昼食を食べ終わり、いよいよ帰るよという時も続いていた。

 タキオンは、もう帰るつもりだったようだ。自分で勝手に荷物をまとめると、真っ先に家から出発した。

 田上は、行くときに被っていた『K』の文字が付いた帽子を被ると、自分も家を出た。少し名残惜しかったが、また来ると思うと、すんなりと家を出ることができた。出た時にタキオンにこう言われた。

「君、その帽子似合ってないぞ」

 ただの難癖かと思われるし、田上に帽子を脱ぐという選択肢はなかったため、その言葉を意に介さなかった。

 そして、家を出ると、タキオンが先頭に立ち、田上と賢助が話をしながらその後ろをゆっくりと歩いた。賢助には、先程の喧嘩について触れる気はなかったようだ。ただ、それでも心配が抑えられなかったのか、「仲良くしろよ」と一言だけ言ってきたときがあった。

 

 駅には、思ったよりも早く着いてしまった。タキオンが、ずっと先を歩いていて、そこで立ち止まっては田上たちが来るのを待っていたので、自然と歩く速度も早くなっていったのだ。タキオンは、歩いている間、何も話さなかった。例え、田上と目が合ったとしても話す気は毛頭なかったようだ。田上を冷たく見据えているだけだった。

 だが、駅のホームに着いて賢助がトイレに行くと、話しかけてきた。

「仲直りしないか?」とのことだった。

 田上は、タキオンを驚いたような目で見つめただけで、何の反応を寄こさなかった。だから、タキオンは話を続けた。

「もううんざりなんだよ。こうやって喧嘩をするのが。……君から何か言ってほしい」

「……ごめん」

「もっと他には?」

「…タキオンの事、無視したり、何も考えなくてごめん」

「そうだ。その通りだ。…仲直りのハグは?」

 タキオンは、そう言って、今まで線路の方に向けていた体を田上の方に向けた。そして、腕を軽く広げた。田上は、戸惑いながら「人の目が…」と躊躇った。

 すると、タキオンがこう返した。

「私が人の目を気にしたことがあったか?…さぁ、早く」

 田上は、タキオンが広げた腕にぎこちなく入っていった。だが、タキオンはその手で田上を包むことはなく、代わりにこう言った。

「君が私を抱きしめてくれ」

 田上は、戸惑いながらも言われたとおりに抱きしめた。駅の待っている人たちの視線がちらほらこちらに向いた。田上は、自分が物凄くまずいことをしているような気がしてならなかった。まるで、人の弱みに付け込んで、そこから出てくる甘い汁を啜っているようだった。

 タキオンが鼻をスンスンと言わせ、田上の匂いを嗅いでいるのを感じた。耳が、燃えるように熱くなるのを感じた。

 田上は、時を忘れてタキオンを抱きしめていたが、賢助が戻ってくると、途端に時の大波が田上を襲った。冷や汗が体中を這い回り、首を絞めてこようとするのを感じた。

 体を離すと、タキオンは不満そうな顔をしたが、どこか気持ちよさそうな顔もしていた。タキオンは、「もっと」と甘えるような声を出したが、田上が青ざめた顔をしているのを見ると、自分も後ろを振り向いて賢助がいるのを確認した。すると、タキオンも少々居心地が悪くなったが、賢助は何も見ていなかったようにこう言った。

「今何時だ?」

 時計は、電車が来るまで残り五分を示していた。

 田上の動悸は、まだ冷めやらなかった。タキオンが、右隣でまだ手を繋いでいた。何をしたいのか分からず、その手を振り解こうとしたが、タキオンは決してその手を離さなかった。

 

 やがて、電車が来た。それに乗った。ドアが閉じる。ゆっくりと動き出す。父の笑顔が見える。遠い。遠い。過ぎる。去ってゆく。小さく。小さく。ため息が聞こえる。自分の物かそうでないのか分からない。タキオンの物のような気がした。もう父は見えない。電車の影に霞み、見えなくなる。背後の山もまた、電車の影に霞む。規則正しい振動が、過ぎていった日々を見送っている。左手を握られる。小さな暖かい手が、自分を包む。例えそれが、過ぎていった山々よりも小さくとも、田上を包んでいた。

 

 ガタン  ガタン  ガタン  ガタン  タッ  ガタン  ガタン

 

「トレーナー君」

 電車の音に支配されていた頭の中に、タキオンの声が響いた。

「トレーナー君」

 田上が返事をしないので、もう一度呼びかけてきた。すると、その声に「何?」と返すと、タキオンがこう言った。

「さっきはありがとう」

 田上は、何も答えなかった。ただ、流れゆく景色の中に自分を置いて、その流れの中で時の早さを感じるだけだった。



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十、トレセン学園

十、トレセン学園

 

 トレセン学園に帰り着くと、真っ先に歩いていたフジキセキに会った。

「おや、今日がご帰還か。あっという間だったかい?」といつもと変わらず、陽気な様が見てとれた。しかし、それとは反対にタキオンはフジキセキと会うと気分を悪くしたようだった。喋りかけられた途端、眉を寄せて不機嫌そうな顔をし、フジキセキを笑わせた。

「私と会うのがそんなに嫌なのかな?…トレーナーさんと二人きりでいたかったとか?」

「それがあるから嫌なんだよ。いい加減その恋愛脳をどうにかしたらどうなんだい?…それとも私が、そのような脳の働きを抑える薬を作るべきか…」

 タキオンが、そう言って考えに耽り始めると、フジキセキは「おお怖い。君から貰う飲み物は当分飲まないことにするよ」と言って、その場を後にした。田上は、これによって考えに没頭し始めたタキオンを引っ張って寮まで連れてこなければならなくなった。

 陽が当たり、微かに暖かさを感じる冬の午後だった。田上は、タキオンの手を引きながらウマ娘寮まで歩いた。

 寮まで歩くと、タキオンはそのまま中の方に入っていったが、田上と離れなくちゃならないと分かると名残惜しそうにその手を放した。そして、その後にこう言った。

「荷物を置いたら少し話さないかい?私が、寮の前で待ってるから」

 田上は、黙って頷いた。それから、二人は一時的に分かれて、別々の道を取った。

 

 タキオンは、部屋に着くと同室のアグネスデジタルに出迎えられた。デジタルは、少し興奮した面持ちで「タキオンさん、おかえりなさい」と言った。タキオンは、少し疲れた様に「ただいま」と言うと、自分のベッドに腰を下ろした。今ここで寝転がろうかとも思ったが、それはやめた。トレーナーと話す約束をしていたからだ。

 タキオンはノロノロと立ち上がると、部屋を出て行こうとしたが、そこでデジタルに呼び止められた。

「帰ってきたばかりなのに、もう行かれるんですか?…どちらへ?」

「……トレーナー君のところさ」

 やっぱり疲れているようにそう答えた。その様子を察して、デジタルは心配そうに見ていたが、やがて「いってらっしゃいませ」と言うとタキオンを見送った。

 タキオンは、自分の寮を出て、トレーナー寮の方へと向かった。歩みは寮に近づくにつれ遅くのろまになったが、これは体調によるものではなかった。確かに、疲れた感覚はあったが、それはこれ程までに足がのろくなるものではなかった。単純に、トレーナーに会うのが気が進まなかったからだ。これは、寮に入ってからそうだった。

 寮に入り、いよいよ休暇が終わった現実が突き付けられたのだ。次トレーナーに会った時には、帰省に行く前の時に戻っているような気がした。

 

 トレーナーは、案外遅く寮から出てきた。別にタキオンから中の方に迎えに行くことができたのだが、それは気が進まなかった。タキオンは、寮の前のベンチで田上を待ち続けた。そして、トレーナーが出てくると、すぐに立ち上がった。

「ちょっとゆっくり歩いて、私の研究室の方へ歩いて行かないかい?」

 田上は、先程と変わらない様子で黙って頷いた。

 そうすると、二人は歩き出し、タキオンは話し始めた。と言っても、最初は降り出したばかりの雨のようにぽつりぽつりと言葉を発した。

「……終わってしまったねぇ」

 田上は、それから暫く後に「うん」と頷いた。

 次にタキオンが言葉を発したのは、校舎に入る直前だった。

「……もう戻れないのかなぁ」

 田上は、それから暫く後に「ああ」と頷いた。すると、タキオンはまた話した。

「楽しかったなぁ」

「……それは良かった」

 また、沈黙が続いた。

 それから、次に言葉を発したのは、三階に行く途中にある階段をくるりと回ったところだった。

「……トレーナー君」

「……何?」

「……今日で終わりだよ」

「……そうだよ」

「……君は何も感じないのかい?」

「…………感じるよ」

「……なんて?」

「…………寂しいなぁって」

 田上がそう言うと、タキオンは鼻で笑った。

「……私は、……こんなに寂しいものだとは思わなかったよ」

 そして、その後にこう続けた。

「……いつの間にか、君と居るのが当たり前になってる。なんでだろう。私にもそんなつもりはなかったのに」

「……なんで何だろうね」と田上は呟いた。それが聞こえたのかどうかは分からなかったが、タキオンは話を続けた。

「……君は、ここに帰ってきても変わらずに接してくれるかい?」

「ああ」と田上は答えた。

「……抱きしめてくれるかい?」

 今度は、答えなかった。タキオンが、田上の顔を見ると、顔を赤くさせたり白くさせたり困っているようだった。だから、タキオンはこう言った。

「…安心してくれ。あのことは誰にも口外しないから」

 だが、そうは言っても安心はできなかったようだ。これから、研究室に入るまでタキオンの話にしどろもどろになりながら答えていた。

 

 研究室に入ると、中の方にカフェがいた。一人で静かにコーヒーを啜っているようであったが、中に入る前に少し話し声も聞こえたような気がした。だが、そんなことはよくあることで、タキオンも意に介さずにカフェに挨拶した。

「やあ、カフェ。相変わらずかい?」

「ええ」と微かに頷く声が聞こえた。そして、こうも聞こえてきた。

「お早いお帰りだったんですね。もっといれば良かったのに」

 これは、タキオンには聞こえなかったようだ。タキオンは、自分のトレーナーを引っ張ると、金属でできた丸椅子に座らせた。そして、自分はふかふかの椅子に座り、田上と向き合った。だが、向き合ったまま何も話さなかった。二人は見つめ合って、何かが起こるのを待っていた。

 その間、カフェが身動きする音が微かに聞こえてきた。

 

 田上が堪え切れなくなって、合わせていた目を外に向けた時に、やっとタキオンは話を始めた。

「抱き合った時に起こる動悸が、走りに活かせるか調べてみようと思うんだ」

 田上は、タキオンの言った訳が分からず顔をしかめた。すると、タキオンはフフフと口の中で笑みを漏らしてこう言った。

「案外、人の温もりというのはいいものだね。特に抱きしめられるのは。…だから、これからも君に抱きしめてもらおうというわけだ。寂しくなったときとかにね?」

「抱き合ったんですか?」

 突然、暗い声が部屋の向こうから聞こえてきた。カフェだった。興味深げに黄色い目を光らせて、こちらを見ていた。

 タキオンは、カフェのことなど頭になかったようだ。自分が大声で勝手に垂れ流していたことを聞かれて、不機嫌そうな顔をした。

「…あんまり君に聞かせるつもりはなかったんだけどな」

 そう言うと、今度は困ったように田上の方を見つめた。

「この部屋が最適解かとも思ったんだが、そう言えば、カフェがいるんだったな」

 この言葉に田上は答えようがなく、ただ黙って曖昧に頷いただけだった。

「どこがいいと思う?」

 タキオンはそう聞いた。またも田上には答えようがなく、ただ、曖昧に頷いただけだった。すると、タキオンは何かを察したようでこう言った。

「ああ、なるほど。…君は私を抱くのに反対派なんだな?」

 田上は、顔を微妙に曇らせただけの反応を示したが、タキオンにはしっかりと伝わったようだ。

「何が悪いんだい?君にとっても人の温もりというのは感じれるはずだが?」

 タキオンがそう言うと、今度は田上も口を開いた。

「…倫理観の欠如」

 タキオンとは目を合わさず、独り言のように言ったその言葉だったが、タキオンは大きく反応をした。

「倫理観!?そんなものを気にしていたって言うのかい?今まで散々一緒に寝ていたくせに」

「寝ていた?」

 またカフェが口を挟んできたが、今度はタキオンも「うるさい!」と噛みつくように言って、田上と話を続けた。

「だって、君、一度私を抱きしめたじゃないか。それをノーカウントとは言わせないよ」

「あれは…」

「それに君は寝ぼけていて気が付いていなかったのかもしれないけど、私を強引に胸に抱いたこともあったからね?」

「…嘘?」

「ホントだよ。あの時は、私が――大問題になるよ、と言ったら、そうなっちまえ、みたいなことを言っていたけど、大問題には私がさせないから。見つかって君が怒られそうになったら、私が責任を取るから」

「……取れないだろ。……それに、俺は責任どうこうの問題じゃなくて、単純に人としておかしいと思うからしたくない」

「寝るのはいいのに?」

「それを言われると弱いけど、ともかく、俺から抱きしめるのはもうしたくない」

「では、私からならいいと?…私は抱きしめられたいんだけどね」

「どっちもいや。絶対に嫌。教える立場として、やることじゃない」

「なら、モルモット君としてしよう。それがいい」

 そう言うと、タキオンは椅子ごと自分の体をくるりと回して、一周回ると立ち上がって田上の所に行った。

「君は結局私を抱きしめてくれるから、こんな議論は無駄じゃないかい?」

「無駄じゃない。俺はもうしないと決めたんだ。…一緒に寝るのだってしない」

「それは機会がないじゃないか」

 タキオンが口を挟んだが、田上は話を続けた。

「そもそもタキオンはなんで俺に抱きしめてほしいんだ?」

「そりゃあ…、さっき言ったじゃないか。人の温もりが欲しいからだよ」

「じゃあ、俺じゃなくたって、カフェでもいいわけだろ?」

 田上が、そう言ってカフェの方を指差すと、カフェは物凄く嫌そうな顔をして手に持っていた本を閉じた。そして、立ち上がると表情は崩さないでこちらの方に来た。

「あなた方、さっきから何の話をしているんですか」

「カフェには関係のないことだよ」

 タキオンが、そう言ったが、カフェは何の反応も示さないで座っている田上を見下ろして言った。

「……難儀ですね」

 そう言うと、もう興味がなくなったのか、また自分が座っている椅子に戻った。その間に、部屋の中央にあるカーテンを引いて、少なくとも視界的には接することがないように部屋が二つに分かたれた。

 それを見届けるとタキオンが言った。

「少し冷静になって議論をしないかい?」

「議論の余地はないと思うけど」

 田上はそう言ったが、タキオンは無視をして話を続けた。

「まずカフェのことだが、あの子はガリガリで背も高くないから人の温もりというものはないね。その点君は、男性ということだけで高得点だ。そして、私よりも背は高い。…いいだろう。いいだろう。…他に問題は?」

「…俺以外でもいいんじゃないのか?」

「君以外の男性と?」

 田上は無言で頷いた。

「それは、少し薄情と言うか、これこそ君の嫌がりそうなものだけどね。…つまり、私がどこそこで道行く男の人にハグを求めるということだろ?私はやっても構わないけど、できれば君がいいなぁ。…君もその方がいいだろ?」

 田上は、渋々頷いた。すると、これにタキオンは活気づいて、一気に攻めてきた。

「ほら、君もその方がいいんじゃないか!…なに、少しでいいんだ。少しの間、私を抱きしめてその出来事から起こることを検証していくんだ」

 タキオンは、元気そうに言ったが、その反対に田上は顔をしかめて肩を落とした。

「君、あんまり落ち込むなよ。ちょっと、ほんのちょっとだから」

 タキオンが田上の肩をぽんぽんと叩くと、田上は大きくため息をついてこう言った。

「やっぱり、家に帰らなければよかったなぁ。あれがなければ、こんなことにもならなかったのに」

「遅かれ早かれなっていたことさ。むしろ、今なってよかっただろ?対応がしやすい。これが、外とかで急になってみてごらんよ。君は、外でする羽目になるんだぞ」

「…俺が、お前をハグしたのも外だっただろ」

 思いがけない田上の反論に、タキオンは「そうか…」と呟いて少しの間黙ってしまった。しかし、すぐに気を取り直すと言った。

「こんなになるとは思わなかったけどさ。諦めなよ。もう一度してしまったんだ。後戻りはできないよ。…そうなれば、私の実験に協力をして…」

「だから言っただろ?人としておかしいって。そういうのは、付き合っている男女がやることだ。少なくとも日本では。…おかしいんだよ。距離が近すぎるんだよ。お前は女子高生だぞ」

「また女子高生だ。私は、そんな称号はどうでもいいんだよ。どうせ君にとって、女子高生であるかどうかよりも、女性であるかどうかの方が重要なんだろ。それならば、その言葉を盾にしないで、正直に言ったらどうなんだい?私は、女性とハグはしたくありません、って」

「私は女性とハグをしたくありません」

 田上がそう言うと、タキオンは目を真ん丸にさせて、次いで笑い出した。

「いや~、君も折れないね。……じゃあ、こういうのはどうだい?私は君に抱きしめられたい。君は私を抱きしめたくはない。日本人だから。…そうなると考えられる結論は、海外に行って普通に抱き合う文化圏で抱き合えばいいんだ」

「そういう問題じゃない」

 田上は冷静に指摘したが、そうするとタキオンもため息をついた。

「折れてくれよ。別に抱きしめることくらいどうってことないじゃないか。…私は構わないよ。もう何度も君と寝たんだし」

「語弊があるな…」

「語弊って、…本当の事だろう?実際、君と旅行にいった期間は全部一緒に寝てるんだから」

 タキオンがそう大きな声で反論すると、田上も困ってしまって「はいはい」とタキオンをできるだけ焚きつけないように返事をした。

 すると、段々タキオンも気を悪くしてきたようで、「早く折れればいいものを」ぶつくさ言い始めた。だが、田上はそれには断じて「イエス」と頷くことができないから、口をつぐんだままタキオンを見つめた。

「何だい?その目は」

 タキオンは不機嫌そうに田上に言ったが、田上は答えなかった。すると、タキオンは大きなため息をついた。

「価値観の相違ってのは大変だよ。私は、仲の良い男女であれば、ハグくらいは別に問題ないと思うんだけどねぇ。……あの時は何でしてくれたのかなぁ?」

 タキオンは田上の顔を覗き込んだ。

「…まぁ、何も言わないんだったらいいけどさ。君は一度やったんだ。何で二度目はできないんだ?」

「学んだからだ…」

「そうだねぇ。学んだ。それが問題だ。……分かったぞ!どうにも君の言い分が納得できないと思ったら、これは最初から価値観の相違なんてものではなかったんだ。単純に君がハグが嫌いだから、嫌がっていたんだ。……けど、これだと話はまた堂々巡りだ。…別に私が無理矢理君を抱きしめることはできるけど、それだとダメなんだよなぁ。私は抱きしめてほしいんだ。ちょっと苦しいくらいが好きなんだ。…う~ん……」

 その時、カーテンの向こうでガラガラとドアの開く音が聞こえ、それから男の人が話すのが聞こえた。しかし、それは微かでタキオンのウマ耳をもってしてもはっきりとは聞き取れなかった。

 その声に耳を澄ませながら、タキオンは「松浦トレーナーか」と呟いた。

 松浦トレーナーはカフェのトレーナーで、田上と同い年だったが、トレセンに入ったのは田上より早く、もう最初に担当していたウマ娘は三年目に入っていた。そのためか、同い年であるのにも関わらず、田上は松浦のことを敬遠していた。田上には、松浦が秀才のように見えた。さらに人も良いし顔も良いので、ますますいい男に見えた。タキオンのようなウマ娘が結婚するんだったら、こんな奴なんだろうなぁ、と思う日もあった。

 タキオンが考え込んでいるのを見ていると、暫くじっと床を見つめた後でタキオンが急に動き出した。そして、何の前触れもなしにカーテンを思い切り引いたから驚いた。田上は思わず立ち上がって、タキオンの行く末を見守ったが、そんなことには気づきもしないでずんずんと歩いて行くと松浦トレーナーの前で立ち止まった。そして、言った。

「今、ハグによる効果の実験をしようと思っていたのだが、トレーナー君が中々したがらないから君で試してみよう。君で試して、一度トレーナー君とやったものと同じ気持ちを実感できれば他の人でも試してみよう。…さぁ、私をうんと強く抱きしめてくれ」

 タキオンは、一人で長々と話したが、その言葉に反応をできる者はこの場にはおらず、かろうじて松浦が困ったように、助けを求めるようにカフェを見つめただけだった。

 すると、カフェが静かに言った。

「嫌、だそうです」

「君には聞いていないだろ!」

「いえ、言わなくてもいいくらいに私のトレーナーさんの表情に出ています」

 松浦は、変な顔をして、ハハハと元気なく笑った。カフェは、話を続けた。

「それに後ろの方も同じくらいに表情に出てますよ」

 カフェが指差すと、タキオンも振り向いてこちらを見た。田上は、突然の出来事にぽかんと大きく口を開けて呆然としていたが、タキオンたちが振り向くと慌てて口を閉じた。しかし、口を開けていたのはタキオンにしっかりと見られていたようだ。こう言われた。

「あんなアホ面見たって、聞き分けがないことくらいしか分からないよ」

 タキオンは、怒っているように言っていたが、カフェはまた静かに言い返した。

「……本当にそうでしょうか?」

「そうだよ。何回言っても聞かなかったんだ。今更、変わるなんてことないだろ?」

 タキオンがそう言うと、カフェはじっと田上の方を見据えた。隣ではタキオンが、「それで君はどうなんだい?」と松浦に詰め寄る声が聞こえたが、田上はカフェと目が合った時から、自分の目を離すことができなかった。金色の瞳の中で何かが渦巻いているように見えた。それは時々黒に変わり、次いで赤に変わった。全ては、田上の幻覚だったが、突如として、後ろにあったカーテンがシャッと開いて陽光が差した。この部屋では時々こういうことがあった。怪奇現象なのか何なのか、カフェにはそういうものと関わりがあるそうだったが、田上は自分たちに危害を及ぼさないのですっかり慣れていた。

 カーテンが開くと、やっと田上はカフェの目から自分の目を離すことができた。そして、カフェも田上を見つめるのをやめた。それから、自身のトレーナーの方を見やると、もう少しで押し切られそうな松浦に向かって言った。

「そんな人、田上トレーナーに預けてしまえばいいんです」

 そう言うと、カフェはまた田上を見た。すると、今度は胸に微かな希望が湧いて出て、呆然とした心から立ち直り、タキオンの下に寄るとこう言った。

「抱きしめてやるから、あんまり松浦さんに迷惑をかけないでやってくれ」

 タキオンは、急いで後ろを振り返って田上の顔を見ると嬉しそうに「はー!」と奇声を上げた。

「ほら、やっぱり最後には君が折れるんだ。そうだと思ったよ」

 田上は、はしゃいでいるタキオンの背中を押して、元のタキオンの場所へと帰らせた。そして、部屋を分かつカーテンを閉めようとしたとき、またカフェと目が合った。金色の瞳が絵の具のように粘り気を帯びて、流れていくように感じた。時間を何倍にも感じるかのように思えたが、それは一瞬にして、タキオンの「トレーナー君?」と言う呼びかけに遮られた。

 田上は、急いでカフェから目を離した。すると、もう夕日になりかけている陽光が目に入り、思わず目を細めた。

「私をハグしてくれるのだろ?」

 タキオンは田上にそう聞くと、田上は黙って頷いた。

「よし来た。……でも、今すぐにと言うわけにはいかないな。着替えをして、ハグをした後の記録を取らなければ。…しかし、普段の私とは明らかに体が鈍っているから記録の取り方も変えないといけない。…ふむ、どうしようか。トレーナー君の記録を測るという点でもやる価値はありそうだ。…しかし、…しかし」

 タキオンは、それから暫くぶつぶつ言いながら、一人で考え込んでいたが、どうにも雲行きは怪しそうだった。机に向かってあーでもないこーでもないと言いながら、最後にはふーーと疲れた長いため息を吐いた。そして、ゆっくりと田上の方に向き直ると言った。

「まず、今日のところは心拍数の変化から調べていこう」

「…いいのか?他にやりたいことがあったんじゃないのか?」

「いや、今日のところはそれは叶わないだろうから、見送ることにするよ。…一番は、君とハグをしたい」

 タキオンは、そう冷静に言ったが、言ってる内容はどうにも恥ずかしいことだったので田上は困ったようにそれに笑いかけた。すると、タキオンはしかめっ面をしてこう言った。

「今更、嫌だは言わせないからね。男だったら、一度言ったことに責任を持たなきゃ」

 田上は「分かっていますよ」と返事をした。それから、言った。

「もうするのか?」

「…えー、…まず心拍を測ってからだね。さぁ、腕を出して。私が測ろう」

 そう言われると、田上はいつもやっているように、少し丸椅子をタキオンの方に近づけて、袖を捲り、手首を差し出した。タキオンは、それを取ると同時にストップウォッチも取り出して、言った。

「じゃあ、ゆっくり呼吸をしてくれ。一分間の心拍数を測る」

 田上は、ゆっくりと息を吸い、そして、吐いた。目を瞑り、視界の全てを遮断した。今は、自分の手首に触れる細い指しか感覚になかった。

 

 田上の一分が経過すると、今度はタキオン自身が心拍を測る番だった。さすがにアスリートなだけはあって、田上とは段違いに心拍数が低かった。その数値を確認すると、タキオンは満足げに頷いてこう言った。

「さぁ、今度は私を抱きしめておくれ。うんと強く」

 先程は、自分の手で心拍を測っていたタキオンだったが、今度は機械を使わざるを得なかった。それと言うのも、タキオンは抱きしめられることに集中した方が、結果は色濃く出るだろうとのことだった。それに、タキオンでも二人同時に心拍を測ることは難しかった。タキオンが欲しい情報は、ハグの前と最中とその後の経過だった。そのため、必ずハグの最中は二人とも手が空かなくなるのだ。そして、その時を測るには機械が必要だった。

 タキオンが、二人の手首に時計型の心拍計を取り付けると言った。

「よしよし、これで準備は完了だ。今度こそ私を抱きしめておくれ」

 タキオンが立ち上がり、田上もノロノロと立ち上がった。そして、タキオンと正面から向かい合うと途端にどっと汗が噴き出してきたような気がした。研究室は、陽光が差して大分暖かくもあったが、寒気がし始めた。

 田上が、タキオンを見つめたまま、一向に抱きしめようとする気配がなかったから、タキオンは心配そうな顔をして、「大丈夫かい?」と聞いてきた。田上は、すぐに気を取り直そうと腕を広げて、タキオンを抱きしめようとしたが、それは本人に止められた。

 田上の心拍数を一度確認しようとのことだった。

 見てみると、先程の数値より大幅に上昇しており、タキオンを驚かせた。それは、タキオンが同情するほどに大変な数値だった。

「君!......まだ、抱きしめてもないのにこんなになってるのかい?...さすがに、緊張しすぎなんじゃないのかい?」

 田上は、もはやタキオンが何を話しているのかすら理解に及ばなかったが、とりあえず腕を広げてタキオンを抱きしめようとした。

 しかし、ここでタキオンが躊躇ったから、田上は混乱した。

「君、本当に大丈夫なんだね?」

 手を上げて静止したタキオンを田上は見つめた。もう二人の距離は、肌と肌が触れ合うような距離にあった。

 タキオンは、挑戦するように田上を見つめた。田上は、脳の中の思考が上手くまとまらなかったが、タキオンを抱きしめるつもりはあったので素直に首を縦に振った。すると、タキオンは、ニヤリと笑って、一歩前に進み田上にくっついた。それから、こう言った。

「私をう~んときつく抱きしめておくれ」

 言われた通り、田上はタキオンを覆うように強く抱きしめた。夕日が田上の顔に照り輝いた。顔が燃えるようだった。恥ずかしさがあったが、それ以上にこそばゆい嬉しさもあった。自分の腕の中で小さな肩が嬉しそうに身動きした。

 そして、田上の腕の中でこう呟くのが聞こえた。

「んん、いい感じだ。…心地よいストレス。…いい」

 そう言うと、鼻をスンスンと言わせ、匂いを嗅ぐのを感じた。今日で二度目だったが、一回目は遠い昔のような気がした。今度は、田上もタキオンを感じた。栗毛の髪が頬を撫でた。頭のウマ耳が優しく擦れた。そうすると、タキオンもくすぐったそうにフフフと笑うのが聞こえた。

 二人は、じっとハグをしたまま動かなかった。時々、タキオンが心拍数を確認するために、田上の計測器を見て、自分の計測器を見たが、それが終わるとまた二人は元の姿に戻り、そのままずうっとずうっと動かなかった。

 

 そして、夕日の赤色も最後の輝きを起こして、空を真っ赤に染めた時、タキオンを抱きしめたまま田上が言った。

「……タキオン」

「ん?なんだい?」

 一生懸命匂いの渦の只中にいたタキオンは、田上に声をかけられて驚いたものの、平然としてそれに答えた。

 田上は言った。

「…気持ちいいのか?」

「うん、とっても」

 タキオンは嬉しそうに答えた。すると、田上はゆっくりと体を離し、腕を解いた。そして、不思議そうに田上を見ているタキオンに向かって言った。

「もっとしてほしいか?」

 タキオンは、さらに不思議そうな顔をして、はっきりと頷いた。田上は、もう一度言った。

「今度は少し撫でてみていいか?」

 タキオンは、ゆっくり頷いた。その様子を田上は、確認するともう一度タキオンの体を抱きしめた。それから、今度は、タキオンの後頭部に自分の手を回すと、下から掬い上げるようにタキオンの髪を梳き始めた。タキオンは、それをされると、始めはくすぐったそうにクスクス笑っていたが、やがて慣れてくると、目を閉じてうっとりとし始めた。

 田上が、その様子を知っているのかそうでないのか分からなかったが、そのまま田上はタキオンの頭を撫で、髪を梳き続け、時に愛おしそうにその髪を乱れさせた。そうすると、決まってタキオンはもっと深くに顔を埋めた。手が使えず、田上のなすがままにタキオンはその身すらも田上に預けた。

 幸せな空間だった。もう夕日は空の彼方に沈んでいた。見えるのは、闇が空を覆いつくそうとしている間際だけだった。

 田上は静かに言った。

「ずっとこうしていたい」

「……できないよ」

「……させてくれよ。幸せなんだよ、今」

「それでも、私たちはここに帰ってきてしまったんだから別れなきゃ」

「……逃げよう。一緒に」

 田上がそう言うと、タキオンがフフフと笑った。

「逃げるのは至難の業だな。ここには、追うのが得意な人たちが山のようにいる。その人たちから逃げるとなると、…大変だ」

 タキオンの言葉が終わると、幾許かの時間が過ぎ、まだタキオンを抱きしめ、そして、タキオンも抱きしめられたまま、田上が言った。

「…タキオンも逃げたくはないのか?」

「……私は逃げないさ。ここに帰ってきてしまったんだから」

「じゃあ、ここに帰る前だったら、逃げてくれたのか?」

「……どうだろうねぇ」

 タキオンは、最後の言葉を曖昧に濁した。そして、また幾許かの時間が過ぎ、田上が言った。

「こんなことして何になる?…夕闇が空を覆う。俺たちはそれからは逃げられない。なんでだ?なんで俺は、お前を抱きしめているんだ?」

「それは、私が抱きしめてくれと言ったからさ」

 タキオンがそう言うと、田上は急に体を離し、タキオンの両肩を掴みながら悲し気にその顔を見た。そして、何か言おうとしたが、その声は微かで、その上途中で萎んでいったから何も聞こえなかった。タキオンにかろうじて聞こえたのは、田上は「…俺は…俺は」と口の中でもごもご言っていることだけだった。

 タキオンは、何も質問しなかった。それをしてはいけないだろうということを察したからだ。その代わりに、タキオンは田上の首に一度抱き着いた。そして、万力込めて愛情を表現してから、こう言った。

「さぁ、また心拍数を測ろう」

 田上は、深く考え込むようにしかっめ面をしながら、自分の丸椅子へと座った。その後、十分くらいタキオンに拘束されたが、やがて解放された。

 なんだか自分がいいように使われただけの気がしてならなかった。タキオンの寂しさを紛らわすだけなんてことは、田上が望んでいるようなことではなかった。しかし、最後に抱きしめてきた時のタキオンの満面の笑みを思い出すと、それも泡と消えるような気がした。

 複雑な心境だった。好きな人に利用されるということは、耐え難いことだった。それでも、田上はタキオンが好きだった。この上なく好きだった。どうしても好きだった。ただ、それを信じることはできなかった。好きであるという事実が、どうしてもこの胸で揺らいで離れないでいるのに、信じることはできなかった。

 愛という得体の知れないものに振り回されているというのに、田上は振り回されてることに気付きもしなかった。田上は、愛という天使と悪魔の両面の顔を持つ者に気付くことができるだろうか?残念ながらそれは分からない。

 しかし、田上の心の奥底にある『愛』は嘘などついていなかった。

 

 研究室に残っていたタキオンは、不図、部屋を仕切っているカーテンが揺れ動くのを感じて、後ろを振り返った。しかし、そこには誰もいなかったから、勘違いかと思ってまた前を振り向くと今度は確かにカーテンが動いた音がした。

 振り向くと、カフェがカーテンの影に立っていて、手招きをしているのが見えた。タキオンがつけた電灯を眩しく思っているのか、その目は細められていた。そうすると、カフェはタキオンが動き出すのを見もしないでカーテンの奥に行き、見えなくなったから、タキオンは不思議に思って椅子を立った。カフェが、タキオンを呼ぶなんてことそうそうあることじゃなかったからだ。

 タキオンは、すたすた歩くと、カーテンを捲り、その奥を少し恐る恐る覗き込んだ。中の様子は、タキオンが最後に見たものとほとんど変わらなかった。一つだけ違う点があるとすれば、松浦がいなくなっていたことだけだった。だが、松浦がいないことはこの部屋では基本的に当たり前のことなので、タキオンはきょろきょろ探すなどという、無駄なことはせず部屋の中へと進んだ。

 カフェは、部屋の片隅に立てかけてある全身鏡を見つめながら、タキオンを待っていた。タキオンは、その後ろ姿に話しかけた。

「君から用があるってのは珍しいねぇ。…何かあったのかい?」

「…何かあったのはタキオンさんの方だと思うんですが」

 カフェは、静かにそう言って、タキオンの方に振り向いた。金色の瞳が、照明に反射して怪しく揺れた。しかし、黒く長い前髪が揺れてその瞳の片方をすぐにタキオンから見えないようにした。

 タキオンは、そんなことには気付かずにこう言った。

「私が?…何かあったつもりはないんだけどね」

「いえ…、ほら、何かあったでしょう?…例えば、男女の関係とか何とかで」

「……男女の関係?色恋ってことかい?…それなら、全く思い当たる節はないのだけれど」

 タキオンがそう言うと、カフェも声こそ出さなかったが目を丸くして驚いた。そして、言った。

「…あなた、田上トレーナーとどこかに遊びに出掛けたんでしょう?その時に…」

「君まで私たちのことをカップルって言うのかい?そんなことは向こうで散々言われたよ。今更それで私を煩わせないでくれ」

「でも…」

「『でも』でも『鴨』でも、私はそんな話題で君と話したくないね。そのことを話すんだったら、私は研究室の方へ帰らせてもらう」

「…では、一つだけ教えてください」

 カフェの言葉に、タキオンはしかめっ面になりながらも「なんだい?」と聞く優しさは見せてくれた。

 カフェは言った。

「あなた、先程田上トレーナーにハグされて、――気持ちいい、とか言ってましたが、そこに好意はないんですか?」

 カフェによるタキオンの悪質な物真似に、タキオンは難色を示したが、こう言い返した。

「ないね」

「なぜ?」

「二回目の質問だ。それ以上は受け答えない」

「なんで、あなたはハグをしたがったんです?私は、――君とハグがしたい、と言うのを聞きましたよ。これは好きだからなんじゃないんですか?」

 カフェが問い詰めるように早口で捲し立てると、タキオンも嫌になって怒り出した。

「うるさい、うるさい!私がどうしようと、私の勝手だろ?例え、トレーナー君とどこかへ行こうったって、君が探っていい了見はないはずだ!私だって君の色恋を探ろうとは思わないはずだ」

「それは嘘です」とカフェは冷静に指摘したが、それが逆にタキオンを逆撫でした。

「ああ、探らないとも、金輪際一生探らないから、私のことも探らないでくれ!」

 タキオンは、そう言うと、カーテンを乱暴に開け、乱暴に閉め、向こう側へと消えていった。しかし、そこにもカフェはついてきた。

「では、あなたは田上トレーナーに女の人ができても、全く問題はない、と仰るんですね?」

「それとこれとは別だろう?…それに、しつこい人には私はあまり話したくはない」

「…では、田上トレーナーにそのように伝えておきます」

 カフェは、カーテンの裏側に消え去ろうとしたが、今度はタキオンが慌てて聞いた。

「そのようにってどのようになんだい?…そもそもそんなこと伝えてくれる必要はないだろうに」

「…田上トレーナーに恋人ができても問題はないとタキオンさんが言っていた、という風に伝えておきます」

「おいおい、私が言ったことと全然違うじゃないか。それとこれとは別だって!」

「…では、どのように?」

 カフェがそう聞き返したところで、タキオンには自分に逆らう術がないことを知った。タキオンがここでカフェと話すのをやめれば、あることないこと言われるのだろう。タキオンは悔しそうに、歯ぎしりをした後言った。

「カフェがこれ程までに意地悪だとは思わなかった。…なぜ、そんなに興味があるんだい?君には関係のないことだろ?私とトレーナー君の関係なんて」

「…なんとなくです」

 カフェは、フフフと楽しそうに笑みを浮かべて、それから「どのように別なんです?」と聞いた。

「私の家族…みたいなものだよ。言うなれば、モルモット、言うなれば、おもちゃだ。勿論、そこに君が言うような好意はない。あるとすれば、家族愛みたいなものだよ。……父親のように思う気持ちもあるね」

 タキオンは、そう言葉を切った後、不機嫌そうな顔にし「なんでこんなことを君に話さなくちゃならないんだ」と呟いた。

 カフェは、その言葉を無視してタキオンにこう言った。

「あなたは父親にハグを求めるのですか?」

「…今は求めないさ。トレーナー君だからできてるんだよ」

「なぜ?」

 カフェにこう聞かれると、タキオンは躊躇ったが、結局は言った。

「…寂しさとか、…そう言うのだよ!胸に溜まったものをトレーナー君に解消してもらっているだけさ」

「そこに、本当に好意はないんですか?」

「ない!…分かったら、さっさと帰ってくれ。暫く私を一人にしてくれ」

 タキオンが、そう言うと、カフェとしてはまだ深堀したかったのだが、できなさそうと見ると諦めてカーテンの裏に隠れた。

 

 カーテンの裏に隠れると、自分がいつも座っているソファーにカフェは腰を下ろした。そして、タキオンがさっき言っていたことを考えていた。

――家族愛みたいなものだよ。

 カフェは、タキオンが旅行に行っていたことを知っていたが、それは行くと聞かされていたのではなく、姿が見えなかったからどこか帰省にでも言っていたのだろうと思っていた。それが、まさか自身のトレーナーと旅行に行っていたものだとは思いもしなかった。カフェは、そこでなにかあったのだろうと予想をつけた。ニュースを毎日確認していれば、タキオンたちが病院に担ぎ込まれたことをカフェは知っていたのだろうが、生憎それはカフェの知るところではなかった。

 カフェは、そこでタキオンが田上の事を好きになったと思ったのだが、二人の距離は縮まっただけで恋人同士にはなっていなかったようだ。田上の方が、タキオンのことを好きだということは、カフェは確実なことだと思っていた。本人の口から聞いたことはなかったが、タキオンの事を見る目が、恋をしている中学生そのものだった。これは、カフェでなくても気付いているように思う。二人をパッと見れば、男の方が想いを寄せていることは、余裕で気付けるのだ。これに気付けない人がいるとすれば、当の本人かよっぽどの鈍感だけだろう。(つまり、当の本人はよっぽどの鈍感)

 カフェは、空になったマグカップを見つめた。底の方には、一筋の黒い流れが見えた。それを見つめながら、田上の事も思った。先程、見つめ合った時のできごとだった。田上は、確かにカフェの目に惹かれていた。カフェの目に連れて行かれそうになっていた。カフェ自身も自分の目が吸引力を持っていたのを感じたが、それはカフェがしようと思ってしたことではなく、また、自分の霊と関わりのある事でもなかった。

 カフェには、自身が『お友達』と呼んでいる、仲がいいんだか悪いんだか分からない幽霊が近くにいて、それになぜか気に入られているようだったが、今回はその幽霊が引き起こした出来事ではなかった。むしろ、その幽霊は田上、またはカフェをも助けたのだ。あそこで、カーテンが引かれ太陽の光が入ってこなければ、カフェにもどんな不思議な出来事が巻き起こったのか分からなかった。元々、この部屋は不思議で危ないもので満ちているのだ。タキオンが、持っている怪しい化学薬品などではなく、カフェすらも見る事のできない怪しい気配でこの部屋は満ちていた。

 タキオンが来る前がどうだったのかは分からないが、使われなくなった教室であることを見るに、恐らく何かあったのだろう。タキオンのお守り役としてこの部屋を使えと言われた時には、カフェも嫌な顔をしたが、この部屋を見た途端気が変わった。霊を見れるものが見てしまえば、この部屋にいるのは自殺行為だった。ただ、カフェにはそういう悪しきものを大人しくさせる能力、というよりも効果があったから、カフェとしては安全だった。だが、タキオンはそうではないだろう。そもそも化学薬品を扱っているという手前、いずれ事故でもなんでも起こしてしまいそうだったから、カフェはこの部屋を二つに分け、自分の場所を確保した。

 そうして、ここまで来たわけだが、今日は突飛なことが起こった。今まで起こらなかったことだった。不思議なことなど、お友達の幽霊が物を動かしたりする以外は、起こるはずのないことだった。それが、田上によって引き起こされた。田上によって持ち込まれたのか、それとも、この部屋のモノが活性化したのか分からなかったが、とりあえず、田上に嫌なことが起きようとしているのは確実だった。

 それを警告した方がいいのかどうかには、まだ情報が足りなかったが、とりあえず、カフェは空のマグカップを置いて、外に出た。暗い廊下が、人を吸い込むように伸びていた。しかし、カフェはそれに臆することなく歩き続け、見えなくなった。再び見えるようになったのは、まだ人がいる教室から漏れた明かりに照らされた時だった。




帰省編はこれにて終了です。次週からは大阪杯編です。普段からご愛読くださっている方々、本当にありがとうございます。


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大阪杯編
十一、ダイワスカーレット①


十一、ダイワスカーレット

 

 田上たちが帰ってきた数日後、スカーレットとタキオンは、偶然相見える機会ができた。一月九日の出来事だった。タキオンは、今日も研究室に行こうとしていたところだった。今は冬休みなので、誰もいない廊下を一人でスタスタ歩いていた。今日のトレーニングはなかった。ついでに言うと、昼食もなかった。それは、自身のトレーナーである田上が、遊びに出かけるからということだった。それならば朝に作る分には関係ないじゃないか、とタキオンは文句をつけたが、その言葉は通らなかった。どっちにしろ、田上には、この日にタキオンの弁当を作る気がなかったのだ。田上にそのことを言われると、タキオンは「冷たいぞ!」とまたも文句の言葉を投げかけたが、上手くあしらわれただけだった。そのため少し機嫌も悪かったのだが、スカーレットと会うとその機嫌の悪さも途端に引っ込んでしまった。

 スカーレットは、長いふわふわしたスカートの様なズボンと、その上に七分丈の白い服を着ていた。そして、暗い廊下をふらふらと歩いていたのだが、タキオンを見つけると途端に笑顔になって「タキオンさん!」と呼びかけた。

「タキオンさんのトレーナーさんって、まだ就寝中だったりしますか?トレーナー室に行ってみても誰もいなくて…」

「トレーナー君に用があるのかい?」

 タキオンが不思議そうに聞くと、スカーレットは「ええ」と少し躊躇いがちに答えた。その様子をさらに不思議に思いながらも、タキオンはこう言った。

「トレーナー君なら今日は出掛けるはずだけど…、何も聞いていないなぁ。…今、十時頃だろ?トレーナー室にいないってことは、…いないのかなぁ?」

 そう言って、タキオンもスカーレットに聞き返す始末だったから、スカーレットは困ったようにハハハと愛想笑いをした。

「…では、タキオンさんもご存じないんでしょうか?」

 スカーレットが気を取り直してそう聞くと、タキオンは考え込むように唸った。そして、言った。

「生憎、スマホも今手元にはないからなぁ。…多分いるんじゃないのか?トレーナー寮に。なんなら今呼んできてもいいが」

「いえ、大丈夫です。自分で行って確かめてみますので。…お手数おかけしました」

 スカーレットがそう言って、頭を下げ、そそくさと去っていくのをタキオンは、少しぼーっとして見ていたのだが、不図思いつくとスカーレットの背を追いかけ言った。

「私も行ってみるよ。トレーナー君に少し小言を言いたくなったからね」

「本当ですか?」とスカーレットは、顔をにわかに輝かせたが、すぐにその輝きを落として、考え込んだ。何か悩みがあるようだったが、タキオンが何か言う前にスカーレットはその顔にまた輝きを戻らせてこう言った。

「すみません、少し考え込んじゃって!では行きましょう」

 タキオンにはやっぱり何が起こっているのか分からず、隣で歩いている横顔をじっと見たが、スカーレットがこちらを見つめ返すと、慌てて、考えていた事とは別の事を言って気を逸らした。

「君の服、いい感じだね。どこで買ったんだい?」

 タキオンは、いい話題を持ってこれたようだった。大先輩であるタキオンに服のことを褒められてスカーレットは嬉しそうに頷いて、「~~で買ったんです!」と言った。それから、トレーナー寮の前まで話を弾ませながら二人は歩いた。

 

 トレーナー寮の前に着くと、数人の男の集団がいたが、タキオンはその中に田上の姿を見つけて、喜びの滲む大きな声を上げた。すると、男たちがそれぞればらばらにタキオンの方を振り向いて、その中でただ一人ベンチに座ってスマホを見ている田上に声をかけた。

 田上が目を上げると、すぐにタキオンを見つけて顔をしかめた。すると、タキオンはその顔を見たから、途端にこっちも顔をしかめて表情を曇らせた。そして、スカーレットに田上の方を指差しながら言った。

「あの顔を見てごらんよ、スカーレット君。私を見てあんな顔をしたぞ。酷いなぁ、トレーナー君は」

 タキオンが、嘆き悲しみ被害者の様な面をしてそう言うと、その演技らしさが可笑しかったのかスカーレットがクスクス笑い声を立ててこう言った。

「相変わらず、仲がよろしいんですね。お二人は」

「そんなことはないさ!」

 タキオンが、少し大きな声を上げた。

「昨日も少し口論をしたばかりだよ。お弁当を作ってくれないから」

 タキオンがそう言うと、さらにスカーレットはクスクス笑って、タキオンを見つめた。そして、田上の方を見ると「私にもお二人の様に仲の良くなれる人が見つかるでしょうか?」と独り言のように言った。

「どうだかね…」

 タキオンは、少し機嫌を悪くしたようで、ぶっきらぼうにそう言うと前の方を見つめた。相変わらず、田上はしかめっ面で、迷惑そうにタキオンを見ていた。

 

 タキオンが田上の方に近づいていくと、田上の柱の様な友人らしき男たちの中から田上が声をかけてきた。

「何か用か?」

「いや、スカーレット君が用があるって言うんだよ」

 タキオンが、そう言って隣のスカーレットを見た。すると、スカーレットは不安げにこう言った。

「もしかして、今から出掛けるところでしょうか?」

「いや…」と田上は、否定しようとしたが、仲間たちがいることを思い出して、慌てて座っているベンチから仲間たちの顔を見上げた。仲間たちもまた困惑しているように田上の方を見返したが、その中にいた霧島がこう言った。

「少しくらいだったら俺も大丈夫だけど」

 すると、この中で一番背の低い、スカーレットくらいの身長の田中が言った。

「俺も全然大丈夫」

 その声に続いて、全員が「大丈夫だよ」と口々に言うと、田上は今度はスカーレットの方を見て言った。

「少しだけなら大丈夫って言ってるけど」

「……少しって具体的にどのくらいでしょうか?」

 そう言うと、田上は霧島の方を見上げた。霧島が、この遊びの予定を立てた企画立案者だったからだ。だから、あまりこの計画会議に参加していなかった田上は、予定も分からないので霧島を見上げた。すると、霧島が困ったように頭を掻きながら言った。

「少し?……一応、予約して場所借りて遊ぶからなぁ。……あんまり時間はとれないかも」

「そうですか…」

 スカーレットが力なくそう答えた。そこで、タキオンが少し興味を持って聞いた。

「どこで何をして遊ぶんだい?」

 田上が答えた。

「お前には関係のない場所」

「ちょっと冷たくないかい?」

 タキオンが少し表情を曇らせ、怒りながら言った。すると、霧島が諫めに出てきた。

「あんまり冷たくするなよ、田上。…今日は、体育館でバドミントンをしに行くんだ。一つのコートしか借りられなかったから、皆で休憩しながらするんだけど、アグネスさんとスカーレット?さんもくる?」

「いや、やめとこう?ウマ娘混ぜても俺たちがボコボコにされるだけだし」

 田上が、慌てて霧島の狂言を止めようと入ったが、霧島はハハハと笑っただけで田上の言葉は無視した。そして、返答を求めるように二人のウマ娘の方を見た。

 タキオンは、乗り気のようだった。ただ、まだ少し考える時間が必要だったようで、顎に手を当てながら、「ふむ、バドミントンか…」と呟いた。しかし、スカーレットの方は、言われた当初から参加する気はなかったようだ。困ったように愛想笑いをした。それでも、断る事ができなかったようで、何も言うことをしなかった。それを見かねたタキオンが「別に君は行かなくていいんだよ」と言った。すると、またもスカーレットが不安げな顔をしたから、「何かあるのかい?」とタキオンは聞いた。

 スカーレットは、至極言いにくそうに言った。

「……私、どうしても近くタキオンさんのトレーナーさんとお話をしたいんですけど」

「…だそうだけど」とタキオンは、田上の方を見たから、田上も言った。

「じゃあ、…いつ話す?俺は明日にでも時間取って話してもいいけど」

「では、明日の昼にお食事しながらカフェテリアの方でお話しできますか?」

 田上は、「ああ、いいよ」と頷いた。すると、会話の中にタキオンがしゃしゃり出てきて言った。

「それなら、私も同行していいかい?カフェテリアだろ?スカーレット君に悩みがあるのなら、私も相談に乗りたいし」

 スカーレットが、少し考えた後「いいですよ」と答えたから、タキオンはまた言った。

「そしたら、トレーナー君。明日の昼食もいらないや。作らなくていいよ」

「了解」と田上は、頷いた。そして、そこで話は終わりかに見えたが、霧島が田上にとって余計な一言を発した。

「…それで、二人は一緒にバドミントンしに来るのか?」

 その言葉に田上は、しかめっ面をしたが何も言えなかった。それは、タキオンがすぐさま「私は行くよ」と答えたからだ。

「ちょうどトレーナー君と試したい薬があったんだ」

 そうタキオンが言うと、仲間たち数人がクスクスと笑い声をあげた。田上はこれが嫌だったのだ。ただでさえ、タキオンとどこかに出かけるには気を遣わなければならないというのに、その気遣いを仲間たちにはからかわれるのだ。だが、どうこう言っても、タキオンはついてくるのだろう。それに、仲間たちの手前、タキオンがついてくるのを止めるのもままならないだろう。田上は、さらに深くしかめっ面をし、ふぅとため息をついた。

 スカーレットは、今度は「私は遠慮しておきます」とはっきり言って立ち去っていった。それを見送ると田上は、一応タキオンにこう提言した。

「お前が来てもつまらないだけだぞ。なんて言ったって、俺たち人間なんだから。バドミントンで何人でかかったって、お前に勝てないんだから」

「それなら、つまらないなりに楽しむさ。…勿論、つまらなくて暇で暇でしょうがなくなったときは、君が相手をしてくれるのだろう?それに、今回の薬の効果は身体に影響を及ぼすものなんだ。バドミントンがてら、体を動かしてくれれば、私は楽しめるよ」

 実のところ、田上にはこの遊びであまり体を動かす気はなかったのだが、この言葉で少なくともタキオンが満足するまでは体を動かさねばならないことが決まってしまった。どのくらいで満足してくれるのかは分からないが、こういう時にタキオンがすぐに満足することはまずあり得なかった。

 

 やがて、タキオンと霧島が二言三言話した後、タキオンは動ける服装をしに寮に着替えに行った。そのついでに研究室から薬も取ってきたらしかったから、ただ着替えてくるよりは時間がかかった。

 タキオンは、学校指定の体操服で帰ってきた。上の方にジャージを着ていたが、下はただの体操ズボン一着だった。ちなみに田上たちは、揃いも揃って学園から支給されたトレセンのマークの入った黒いジャージである。一度だけ見てしまえば、まるで部活動をしている学生の集団かと思ってしまう程だった。

 赤と白のジャージを着たタキオンがトレーナー寮前のベンチに到着すると、ようやく出発の時が訪れた。田上は、少し憂鬱だった。これから、タキオンの前でバドンミントンを負け続けて恥を晒すと思うと億劫だったし、どんな薬を飲まされるのかと思うと猶更億劫だった。田上は、トレーナーにしてはあまり運動が得意ではなかった。というより、他の四人ができすぎているのだ。他の四人もゲーム好きであまり運動もしていないというのに、一度運動靴を履かせればよく跳ねた。たまに、運動不足解消として、霧島がこういう遊びに誘うのだが、その時は一番背の低い田中とどうにかやりあえるくらいで、後の鳩谷、霧島、国近には勝てたものではなかった。しかし、霧島たちもそれを分かって手加減などをしてくれてはいたので、田上も遊びに行けばそれなりに楽しむことができた。

 だが、今日はタキオンがいた。あまり仲間内で気を遣われているのを見られたくはなかった。だから、今日はあまり試合に参加しないで居たかったのだが、それもタキオンに薬を渡されれば違ったものになるのだろう。――せめて、タキオンに圧倒的実力差でボコボコにされるならいい、と願いながら、田上はタキオンの隣を歩いた。予約していた体育館は、駅を一つ越えた所にあったから、六人はぞろぞろと駅に入ると、電車を待ってそれに乗り、一駅乗るとすぐに下りた。そして、体育館までまたぞろぞろと歩いた。

 

 体育館に着くと、霧島が事務員としていたのだが、その間にタキオンが話しかけてきた。田上の肩を叩いて「トレーナー君」と小声で呼びかけた。二人は、六人の群れの最後尾にいた。なぜかと言えば、タキオンがやっぱり部外者感があって、それについて田上も自然と後ろに行ったのだ。

 タキオンが呼びかけると、田上が「何?」と答えたが、彼女の手に持たれている物を見ると顔をしかめた。それは、限りなく透明に近い水色をしたタキオン特性の『お薬』だったからだ。田上は、そのお薬を気色悪そうに眺めながらこう聞いた。

「この薬の効果は、何なんだ?」

「この薬は、ウマ娘の体にあるのではないかと噂されているウマムスコンドリアの発想を元にして作った、人間の身体機能を著しく高める薬だ」

「…ふーん。…つまり、ドーピングってことだな?」

 田上は、少しニヤリとして言った。

「君たちが今から試合をするのであれば、そのようになるが、公式試合でないのなら問題あるまい。ただの素人の遊びだ。…そして、私はこれを飲む」

 そう言って、タキオンは今後は再度の高いピンク色をした薬を自分の肩から胸に斜めに掛けたバッグから取り出した。それを見ると、田上は再び顔をしかめて聞いた。

「今度は何なんだ?」

「ウマムスコンドリアの存在を確かめるものさ。この薬が効けば、ウマムスコンドリアの存在が証明され、それによる活動が低下される。…つまり、ウマ娘としての身体機能がなくなるということだね。普通の人間の少女並みになる」

「そんなことして大丈夫なのか?」

「大丈夫さ。この私を何だと思っている?これは、検証を重ねて作ったものさ。時間経過で効果は消えるし、実を言えば、私の体で実験を行ったからほとんど結果は分かっているんだ。これは、その最終段階だよ」

 タキオンは、ここで言葉を切ると、再び続けた。

「むしろ、君の方が心配だと言えるね。まだ、検証が少ないからそれだけ効果も不安定だ。……だが、心配するには及ばない。もし最悪が起こったとしても、それは高熱に浮かされるくらいさ。…そして、私は君と同じ物をもう一本持ってきたんだけど、……飲んでくれる人はいるかな~?」

 タキオンは、そう言って前の人たちを眺めたが、田上が慌ててこう言ってタキオンの気を逸らした。それは、純粋に仲間を想っての行動だった。

「タキオン、俺、さっさとこの薬飲むから他に注意事項とかないの?」

「…注意事項?……えっと、効果が出るまでには三十分かかるね。それに、……ああ、そうだ!物凄く苦いんだった。私のバッグの中にめちゃくちゃ甘いチョコを入れてきたんだよ」

 その時、六人の列が動き始めて、体育館の中に入っていったので、大切なことを忘れていて慌てたタキオンがさらに慌てた。

「タキオン落ち着け」と言って田上は、とりあえずその場からタキオンを動かした。後ろにまたもう一団体が来ていたからだ。

 脇に避けると、タキオンはバッグの中をごそごそ漁り、「あった!」と言ってラップで包んだ大きなチョコの塊を取り出した。それから、言った。

「私特製のチョコさ。苦みに耐えられるように飛び切り甘くしておいた」

 タキオンがそう言うと、田上は少し不安になった。これまで、こういう実験でタキオンが苦みを和らげるために何かを作ってくれたことなどなかったからだ。大抵は、蜂蜜か何か、市販の甘いものを田上に寄こしただけだった。

 田上は、飲み薬を用心深く見つめながら、「そんなに苦いのか…」と呟いた。すると、タキオンがその呟きに反応した。

「めちゃくちゃに苦い。十分覚悟して飲んだ方がいいよ」

 田上は、いよいよ薬を飲むのに緊張してきて、生唾をごくりと飲んだ。それを見て、先程まで真面目な顔をしていたタキオンが笑った。

「そんなに心配しなくてもいい。私がちゃんとチョコを作ってきたんだし、…勿論これには他の薬とかは入れてないよ?…それに、いざとなったら、私が何かして助けてあげるから」

「…何か?」

「……応援とか?」

 タキオンが頼りなさげにそう言ったから、田上はもう不安で不安で仕方がなくなった。しかし、一度気合を入れるとこう言った。

「俺がゲロを吐いたら後始末を頼む」

 そう言って、グイと飲み込んだ。途端に強烈な嫌な臭い、それから計り知れないほどの苦みが訪れた。田上は、それをひとまず手に持っていた水筒で口の中をすすいだ。それから、チョコの包みを開けて待機していたタキオンの手からチョコを引っ掴むと、急いで舌の上でそれを転がした。チョコが口の中に入ると、それだけで少し楽になり、舌の上で転がせばもう苦みは消え去った。田上は、ほっと一息ついて、タキオンに「ありがとう」と言った。タキオンは、田上のあまりの対処の早さに少し苦笑しながらも「どういたしまして」と答えた。すると、体育館の入口の方から鳩谷の低い声が聞こえてきた。

「…何してんだ?」

 鳩谷がそう言うと、あまりのドスの効いた声にタキオンがびっくりして振り返ったが、見覚えのある顔だった事を確認すると、こちらもほっと一息ついた。それから、鳩谷の質問にこう答えた。

「ただの実験の下準備さ。君たちをあっと言わせてみせるよ」

 タキオンの言葉に鳩谷がにやりと笑った。

「光るのか?」

「それもあるけど、今回はトレーナー君の本気を見せてしまうかもしれないねぇ」

「へぇ、それは楽しみだ」

 なんだか宣戦布告を勝手にされたようで田上も戸惑ったが、とりあえずタキオンの脇に立って、百八十四センチもある浅黒い肌の巨体の鳩谷に向かって言った。

「おうよ、お前なんかけちょんけちょんのぼっこぼこにしてやるわ!積年の恨み、ここで果たしてやるからな!」

「果たしてお前がアグネスさんの力を借りても勝てるかな?」

 鳩谷は、悪人のような真似をして言った。

「けちょんけちょんよお!」

 田上は、そう言うと、体育館シューズを履くために、地面に置いていた袋を持ち上げて、その袋から靴を一足取り出した。タキオンもすぐに自分の薬を飲むと、それに倣って体育館シューズを履いた。その間に、鳩谷は体育館の入り口から消えていた。

 タキオンは、その事を靴を履きながら確認すると、田上にこう言った。

「さっきの君の小者みたいな演技、最高だったね」

「おうよ!」

 田上は拳を振り上げた。行く前とは打って変わって、勇み足が良好なようだった。そして、拳を下げるとタキオンに言った。

「俺はあいつらに負け続けてんだ。今日こそ、あいつらを負かしてやれるぞ」

「君、弱いんだ。……まぁ、体力を測ってみるに貧弱だからそんな気はするけど、…そんなに弱いのか」

 タキオンが少しがっかりしたように言ったから、田上は困惑して聞いた。

「俺が弱かったら何か都合が悪いのか?…実験もこれまで、問題なくしてきただろ?」

「もちろんさ。変化を調べたいのだから君が貧弱でも構わないが、…強い肉体もいいものだろ?鳩谷君だっけ?さっきの人」

「ああ」

「鳩谷君にしろ、霧島君にしろあまり運動をしていないと言うのに、中々に図体が良い。さっき君がそう言ってたよね?運動してないって」

「鳩谷は少し筋トレとかをしてるっぽいけど、それも大した量じゃないらしいから、…まぁ、そんな感じ」

「それならいい。実にいい。あの二人のどちらかにも今回の薬を飲ませてみたい。…それに、君があの中で最弱なのかい?」

 田上は、また少し躊躇いながらも頷いた。

「君が、最弱というのなら他の二人も気になる。どのくらい君との差があるんだろう?」

 タキオンは、そう言って自分の世界に入り込んでしまったので、田上はタキオンの手を引いて体育館の少しの喧騒に包まれた中まで連れて行った。

 

 体育館には、スポーツクラブのチームが大半を占めていて、卓球やらバスケやらを行っていたが、田上たちはそこから少し外れたコートの一角を借りていた。そして、そこに今バドミントン用の網を張っている最中だった。もうすでに網を引っかける長い鉄の棒は持ってきていて、体育館の床に突き立てていた。

 そこに田上たちはのんびりと歩いて行って、声をかけた。

「誰VS誰からするんだ?」

 網を張っている霧島と鳩谷のどちらに言うともなく言ったが、霧島が答えた。

「誰からでもいいよ」

「じゃあ、俺はパス」

 田上は、そう言うと、体育館の横の座る場所で談笑している田中と国近の近くに行った。だが、その隣には座らないで、少し離れた所にタキオンと二人で座った。タキオンは、まだぶつぶつ言ってしきりに、鳩谷と霧島の事を見つめていた。田上は、タキオンがいつか駆け出して二人に薬を飲むようせがみに行くんじゃないだろうかと思っていたから、注意深く見守っていたが、田上が止める間もなくタキオンは急に立つと二人のもとに走っていった。その手には、しっかりと田上と同じ薬が握られていた。

 田上は、慌てて自分も立ち上がって「おい!」とタキオンに叫んだが、「君は少し黙っておいて!」と返されると、なす術なく呆然と立ち尽くした。どっちにしろ、苦いと言うだけで重いものではなさそうだったので、田上はタキオンの説得をしないうちから諦めて、元のベンチに座り直し、タキオンが霧島に言っているのを聞いた。きっと説得の成功率の高そうな人の良さそうな方から試しているのだろう。

「霧島君」

 タキオンがそう言った。

「君、この薬を飲んでみないかい?」

「…薬?」

 タキオンが差し出したものを受け取ると、訝しそうにそれを眺めた。そして、言った。

「田上に飲ましたんじゃなかったんですか?」

「それはそうさ。だが、実験体は多い方がいいだろう?それで、君を抜擢したって言うわけだ」

 そう言われると、霧島は困ってしまって、助けを求めるように田上の方を見た。田上は、元からもう助けるつもりなんてなかったから、わざとらしい笑顔を作ると、右手を上げて親指を立てた。そして一言「頑張れ!」と言った。その言葉に、霧島はさらに困った表情をして言った。

「あんまり飲みたくないんだけど…」

「あんまり?…つまり、私の説得次第では飲んでくれるという解釈で間違いないかな?…それでは、話だけでも聞いてくれ。…まず、この薬は…」といった風にタキオンが話し始めたものだから、霧島は困ったように頭を掻きながらとりあえずその話を聞いた。元々は、話が終われば、断るつもりだったのだが、ここで愉快な仲間たちの介入があった。

「飲めば?」

 遠くの方から国近が、ニヤニヤしながら言ってきた。すると、その横に鳩谷がいるのを見つけた。先程まで反対側の棒で網を張っていたはずだったのだが、タキオンが来るとさっさと終わらせて、自分だけそそくさと逃げたようだった。霧島は「薄情者め!」と心の中で叫ぶと、タキオンにこう言った。

「ちょっとまた後日ってことは…」

「後日にしたってしょうがないだろう?今にしよう。今に。…その方が、手っ取り早く事が過ぎ去って君も気持ちよく朝を迎えることができると思うし。……トレーナー君もそう思うよね?」

 タキオンが、後ろの田上にそう聞くと、田上は飛びっ切りの笑顔を見せて、「そう思う!」と答えた。そして、霧島から見て一番右端にいた田中もついでに「そう思う!」と賛同した。この場には、敵しかいなかった。すると、霧島は諦めた様にため息をついて、自分の持っている薬を眺めた。今回の物は、幸い見るだけで吐き気がするような色ではなかったから、霧島も飲んでもいいような気がしてきた。

 そして、それを見たタキオンが言った。

「飲めるかい?」

 少し大人しく、先程の様な興奮した子供のものじゃなく淑女のような声でタキオンが言ったから、霧島も心を決めた。

「飲む」と言うと、試験管についていた栓を開けた。そして、一気に飲もうとしたのだが、タキオンに慌てて止められた。物凄く苦いから注意してほしい、とのことだった。すると、ここで田上も立ち上がって霧島の方にやってきた。普段からタキオン特製の薬を飲んでいるスペシャリストの登場だ。田上は、丁寧に飲み方を教え、苦みをできるだけ取り除く方法を伝授した。

 そうすると、隣でタキオンがにこやかに笑った。自分のトレーナーの案外頼もしい部分を見て、嬉しくなったのだ。そして、田上に「チョコはもう一つあるのか?」と聞かれると、「あるよ」と言ってバッグからそれを取り出し、包みを開けて待機した。

 いよいよ霧島が飲む番となった。霧島が緊張したように生唾を飲むと、先程のタキオンと同じように田上は「心配しなくていい」と言った。霧島は不安げに田上を見つめたが、何も言わずにまた自分の手に持っている試験管を見つめ直した。そして、一息を入れて、グイと飲み込んだ。だが、水筒を開けるのに手間取っているようだ。顔を歌舞伎役者の化粧の様なしかめっ面にさせて、慌てふためきながら急いで水筒を開けた。田上は、それを見て、顔を笑みに歪ませそうになったが、それは我慢した。その辛さは自分も知っていたからだ。ただ、後ろの方で国近か田中のどちらかが大声で笑っているのが聞こえた。鳩谷は、こんな風には笑わないし、国近の声にしては少し甲高いので、きっと田中なのだろう。それを田上はわざわざ注意する気もなく、霧島に「大丈夫か?」と少し同情気味に言った。

 霧島は、チョコを口に入れて、その甘さに顔を綻ばせていたところだった。暫く田上の方を見つめたが、何も言わなかった。そして、その甘さに十分口を楽しませた後、こう言った。

「お前って、いつもこんなん飲んでんのか?」

 田上は、顔に照れを滲ませて「いや」と答えた。すると、霧島は少し期待が外れた顔をしたが、それでも顔を尊敬の色に変えて「でも、こういう対処をさらっとするあたり、お前はすげーやつだよ」と言った。田上は、もう照れを隠し切れずに、満面の笑みを讃えて「それ程でも…」と答えた。タキオンは、それを見てると自分も嬉しくなって顔を綻ばせ、そして霧島に言った。

「効果は三十分ほどしたら現れるからね。…うん、効果時間も一時間ほどだし、今日一日遊ぶ君たちには問題あるまい。薬の効果を存分に楽しんでくれ」

 そう言うと、タキオンは田上の後ろについて、元の座る場所に戻った。そして、田上の横に座ると、こう言った。

「なんだか楽しくなりそうだねぇ」

 田上も同じ意見だった。黙って頷き、タキオンの意見に賛同すると、仲間たちが話していることに耳を傾けた。

 まず初めに、鳩谷と国近がするようだった。霧島は、チョコを食べたとは言え、さっきの苦みのショックがまだ抜けきらず、一番初めにするのは棄権するそうだった。田中は、もとより一番初めにする気はなく、のんびりとストレッチをしながら初めの試合を観戦するそうだった。

 すると、田上とタキオンに白羽の矢が立った。点数をカウントして、審判もしてくれとのことだった。これは、田上だけに言われたことだったのだが、タキオンも隣に人がいないと自身が暇になるため、田上と一緒にすることに名乗りを上げた。別に止める理由もなかったので、田上は快くその申し出を受け入れた。初めから凄い試合だった。鳩谷、国近、両方譲らず、数分後にやっと鳩谷が一点を取った。十五点の勝敗分けまでに大分時間がかかった。結局二人とも、最後の方まで粘ったが、鳩谷が十六、国近が十四で勝敗が決した。まさかの延長戦まで行ってしまった。いつもは、国近が鳩谷に少し劣るくらいだったので、善戦できた国近は喜んでもいたし、悔しがってもいた。しかし、選手は次の人に変わり、ラケットは霧島と田上に渡された。二人ともふくらはぎと腕が薄ぼんやりと光り輝いていた。



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十一、ダイワスカーレット②

 ラケットを持つと、二人はコートの上に歩いて行って、煽りながら笑い合った。

 霧島がこう言った。

「おい、田上。助っ人が必要なんじゃないか?アグネスさんを呼んで来いよ。お前一人じゃ勝てないぞ。なんせ、俺はウマ娘並みの薬を手に入れたんだからな」

「いやいや、俺も飲んだぞ。見ろ!このふくらはぎを!」

 田上はそう言って、自分の右足を突き出してパァンと叩いた。タキオンが、点数板の横でクスクス笑ったのを見ると、田上もニヤリと笑った。

 そして、霧島が言ってきた。

「お前の教え子にかっこいいところを見せたいか?…残念ながら、それは無理だ。お前は今から俺にボコボコにされる」

「やってみなきゃ分からないだろ?俺は、今、薬を飲んで最高に体が軽いんだ」

 田上はそう言って、軽く飛び跳ねて、自分の調子の良さをアピールした。実際に、普段の田上より軽々とさらに高く飛んでいた。それに霧島は少し驚いたが、自分も田上の真似をして軽く跳ねると、ニヤリと笑った。そして、言った。

「俺もお前ほどに高く飛べるよ。しかし、バドミントンの実績はどうかな?お前は俺には勝てない。諦めるんだな」

 霧島がそう言うと、田上がこう言い返し、戦いの火ぶたが切って落とされた。

「ごちゃごちゃ言ってる時ほどつまらないものはないな。貴様のその傲慢な口塞いで見せるわ!」

 田上はそう言って、自分の手に持っていた羽を高く放り投げ、そして、打った。羽(シャトル)は、大きく弧を描き霧島の方に伸びていった。いい感じに啖呵を切った割には、緩やかな球だった。すると、二人の猛合戦が始まった。霧島が、いきなり飛んで強く打ち返したからだ。田上は、それに反応すると、掬い上げるように打ち返し、相手の陣地のネットのすぐ近くを通るようにした。霧島は、それに反応しきるには少し距離が遠いかのように見えたが、目を見張るような速度で動くと、田上の球を何とか掬い上げ、また向こうの方に返した。今度は、田上の番だった。霧島が、打ち返した球を、飛んで勢いよく打った。霧島のその時の体勢は不安定なものだったから、田上の球に追いつけないかに思えたが、なんとかその球を打った。しかし、ひょろひょろと打ちあがった球は、ネットを越えず、さらに霧島もその球を打った時に地面に倒れ伏してしまったので、例えネットを越えたとしても次の田上の球を打ち返すことはできなかった。

 ベンチと点数板の方から拍手が上がった。皆、呆然として二人の合戦を見ていたようだった。最初は、まばらな拍手だったが、時が経つにつれそれは確かなものとなり、田上を称賛する声が聞こえた。タキオンまでもが、最初のうちは呆然としているようだったが、やがては顔に笑みを浮かべてこう言った。

「君、案外動けるじゃないか。運動音痴というわけじゃなかったんだな」

 タキオンにそう言われると、田上は嬉しかったのだが、息をするのに精一杯でにっこり笑って頷くことしかできなかった。しかし、まだまだ田上は動けそうだった。立ち上がった霧島からシャトルを受け取ると、球を放つ位置を移動し、霧島が待機する姿勢に入ってから打った。今度も鳩谷も国近も田中も到底及ばない、壮絶な戦いが始まった。シャトルは、常に両陣地を行き来し、白い影となって網の上に伸びていた。一点、また一点と入るうちに、時間はどんどん過ぎていき、丁度十一点を巡って二人が争っていた時だった。

 田上の動きが不図止まった。その目は点数板の方に注がれていた。霧島の放ったシャトルは、床にポロリと落ち、コトンと音を立てて転がった。その場の誰もが、何が起こったのかと思って田上を見たが、田上が点数板を見ていると思うと、自分たちもその方に頭を巡らせた。そこには、ぐったりと点数板に寄りかかっている具合の悪そうなタキオンがいた。その隣には、田中がいたのだが、タキオンの具合が悪そうなことに初めて気が付いたようだった。しかし、ここで田中を責めることはできないだろう。皆、試合に夢中になっていたのだ。田上だってそうだった。タキオンは、田上が九点を入れた時から具合が悪そうだったのだが、しっかりと点数を変えてはいたので誰もしかと見とめようとはしなかった。

 田上は、タキオンの方に駆け寄って、心配そうに言った。

「…おい、タキオン、大丈夫なのか?」

 そう言って田上は、タキオンの肩に手を置いたが、その手はタキオンの熱を持った手によって払われた。田上は、その手の熱さに驚いた。ウマ娘というのは、普通の人より体温の高いものだったが、それにしても熱すぎた。ただ、その時にタキオンがこう言ったから扱いに困った。

「私のことはいいから、試合の方を続けておくれ。実験はまだ終わっていないのだから」

 そうは言ってもタキオンを放っておくことはできなかった。そのうち、ベンチに座っていた鳩谷も国近もなんだなんだと近寄ってきたので、タキオンは自分よりも背の高い五人の男に囲まれた。なんだか、タキオンに威圧感を与えてしまっているようだったから、田上は不安になって一歩進み出て言った。

「タキオン、お前はとりあえず安静にしないと。……薬の副作用なのか?大丈夫か?…死ぬことはない?」

 タキオンの手を引いてベンチの方に歩いて行くと、タキオンが頷くのが分かった。その後ろに、少し心配そうな顔をした国近が一緒についてきた。だが、タキオンがさっき言ったように、放っておくということはしないでひとまず田上はタキオンを座らせて、自分もその横に座った。タキオンは、田上の肩に持たれて、ぐったりとしていた。

 霧島が、近寄ってきて「アグネスさんはどうなんだ?大丈夫なのか?」と聞いてきた。タキオンは、その時には田上の膝を枕にして、辛そうに息を荒げていた。田上は、分からないといった風に首をかしげて、それからタキオンを見た。額に大粒の汗が浮いていて、顔を熱で赤くして、見るからに辛そうだった。あまり置いていきたくはなかったのだが、タキオンが少し強くこう言ったから、田上も仕方なしに立ち上がった。

「私は、本当に大丈夫だから!君の友達のうち誰か一人を見張りにつけておけば、急に死んだりすることもない。…だから、もう少し実験の結果を見させてくれ。…本当に、熱以外はすこぶる順調だ。……行ってくれ!」

 タキオンは、田上の体を無理に押した。今は、ウマ娘と同じくらいの力を持っているので、それごときで敗れる田上ではなかったが、国近が「俺が見とくよ」と言うと、仕方なしにコートの方に戻った。

 

 それからは、田上にとって散々な試合になった。田上の超人的な集中力が途切れたのだ。タキオンの様子が気になって気になって仕方がなく。球を霧島の方に打ち返す度、タキオンの方を盗み見ようとして、返ってきた球をぎりぎりで打ち返して、そして、点を入れられる。このようなことが数回続いて、あっという間に田上は負けた。しかし、田上はそのことを悔しがりもしないで、試合が終わると手に持っていたラケットをすぐさま地面に置いて、タキオンの方に近寄っていった。

 タキオンは相変わらずだったが、田上がベンチの方に帰ってくると力なく「おかえり」と言った。そして、こう続けた。

「いい感じだったよ。…もう君は続けないのかい?」

「ああ、コートは一つしか借りてないからな。…それに、お前の事が心配で試合に身が入りそうになかったし」

 タキオンがフフフと笑った。

「見てごらん。次は、霧島君と鳩谷君、田中君…だっけ?あの小さい人。…の二人対一人だそうだ。…それでも勝てないだろう。……さっきの君の動きは、とても良かったぞ。もっとも最後の方は、見ていられなかったが。…私のことはいいって言ったろ?」

「そう言われて、はいそうです、って答えるやつは、いくつもの戦場を潜り抜けて気の狂ったやつか、それとも、元からヤバい奴かのどちらかだよ」

「なんだい?その例えは」

 タキオンが、息を苦しそうに吐きながら小さく笑ったから、田上は自分もベンチに座るとこう言った。

「俺の太ももに頭を乗せたらどうだ?……首の高さが合わないかな?」

「いや、ありがとう。存分に使わせてもらうよ」

 タキオンは、そう言って田上の太ももに頭を乗っけた。その時にタキオンが足をベンチの上にのせて伸ばそうとしたから、国近が邪魔になった。ただ、タキオンが「どいて」と言ったその時に国近が点数のカウント係として呼ばれたから、国近が無理にどかされることなく、タキオンは足を伸ばすことができた。その様子を見ていた田上が苦笑しながら言った。

「国近だって、お前のことを心配してたんだぞ。…それを、どいてって…」

「うるさい。あんまり言うと拗ねるよ。……何しろ、頭がぼーっとするんだ。少し頭痛もするかな?……とりあえず、もう目は開けない。…だけど、そうしてるだけじゃつまらないから、話をしようね」

「…話って?」

 目を瞑ったタキオンに聞いたが、タキオンの反応は今一つだった。

「…話だよ。…ほら、君、何か言ってみたまえ」

 タキオンがそう言うと、田上は暫く考えた後に言った。

「…霧島の方はもう見なくていいのか?」

「……んん、…別にもう君の活躍も散々見たし、いいかな」

 もう目を閉じたタキオンがそう答えた。そして、話を変えて続けた。

「……それにしても、君が一番弱かったって本当かい?私にはどうもそうは見えなかったぞ」

「…それは、俺も驚いてるよ。別に俺も中学高校のときとか運動神経悪い方ではなかったからあれなんだけど、それでも霧島とかあいつらと比べると俺の運動音痴っぷりが輝いていたから、俺の運動神経も失われたものとばかり思っていた。…だけど、案外いけるもんだね。タキオンの薬のおかげだけど、久々にあんなに動けたよ」

 ここで田上は、少しばかりの礼を言った。すると、タキオンはこう返した。

「礼には及ばないよ。別に君を強くしてやろうと思って、やったことじゃないんだから。…君が強くなったのはついでだよ、ついで。だから、私に礼を言うんじゃなくて、自分を褒め称えてやるべきなんじゃないか?……それに、私は思ったのだけど、君にもっと運動負荷を与えてやれば、ウマ娘並みとはいかずとも、それこそ霧島君並みに動けるようになるんじゃないのかい?」

「そんなことしたってしょうがないだろ?俺は、運動は嫌いなんだ」

「おや、驚いた!それは、初耳だ。…それなら、なぜウマ娘のトレーナーなんかになったんだい?中央トレーナー資格が必要だから、おいそれとなれるようなものじゃないだろう?」

「……別に、運動は嫌いだけど、見るのは嫌いじゃないよ。実際、俺はお前の走りを見るのが好きだし」

 タキオンが、パチリと目を開け「照れるねぇ」と口を挟んでから、また目を閉じた。それに、田上は苦笑しながらこう言った。

「トレーナーには、いつなりたいって思ったかなぁ?………あれだ。あの録画した番組をテレビで見た時からだ」

「…どんな番組なんだい?」

「なんか、中央のトレーナーの特集をしてたんだよ。それで、ウマ娘のトレーニングを指導している風景とか、トレーニングメニューに悩んでいる風景とか。……その人の担当しているウマ娘は、もう三年目で実績も出せずにこのまま契約が解除されていくだけだったんだ。俺たちも実績が出せなかったら、そうなっていたかもしれない契約内容だからな。…今のところはもう大丈夫だけど。……そして、最後のGⅢのレースがやってきた。そのウマ娘は、走りに走った。今まで注目されてこなかった舞台だ。テレビにたまたま取材されて、最後のレースで少し緊張しているようだった。だけど、走りに走った。俺は、もうその子以外見えなかったよ。一着がゴール板を抜けた。二着がゴール板を抜けた。三着が、……その子だった。今となっては、もう名前は覚えてない。…何だったかな?最初の文字が『ノ』から始まってたかな?……まぁ、そんなことはどうでもいいけど、ゴール板を三着で抜けきったその子は肩を落として、トレーナーの所に戻った。GⅢを三着と言ったら、それは凄いことなんだぞ。GⅠを二つも獲ったお前には分からないかもしれないが。……テレビのスタッフもその子の控室について行っていたけど、何も言えなかった。…言える雰囲気じゃなかった。その子の初の快挙、初の掲示板内だったけど、トレーナーもその子もただこの先の別れしか見ていなかった。そのうち、その子はさめざめと泣き出したよ。――トレーナーさんに一着を獲って上げたかった、って。ちなみに、そのトレーナーはその子で担当するのが二人目だったんだけど、一人目は怪我で早々に引退してしまったんだ」

 その時にタキオンが、自身の熱で苦しそうに唸ったから、田上は「大丈夫か?」と声をかけた。すると、タキオンが「頭を撫でながら話してくれ。…二つに割れそうなくらい痛い」と言ったから、田上は自分の荷物から一応持ってきておいたタオルを取り出すと、タキオンの額の汗を拭いながら「話すのを止めようか?」と声をかけた。

「……その話が終わるまで続けてくれ」とタキオンが、唸るように言ったので田上は話を続けた。

「トレーナーは俯いて、ただ静かにその子が泣くのを聞いていた。時々、テレビって下から本人の顔を映そうと覗き込むだろ?その番組のスタッフは、それをしなかったなぁ。多分、皆その場の雰囲気に飲まれちゃったんだよ。カメラマンは、ただ、二人の事を交互に映していた。……そのうち、その子の涙が落ち着いてくると、トレーナーの方が声を出した。――ありがとう、って。…字幕がないと分からないくらいぼそぼそした声だった。すると、その子は驚いたような顔をして顔を上げた。…あの顔は、映してほしく無かったろうなぁ。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていたから。今、本人が見たら消してくれと頼むくらいだな。……そして、顔を上げたその子だけど何も言わずに、トレーナーを見てた。言えなかったと言ってもいいな。大きな声で泣いてたから、息が荒かった。それから、トレーナーがまた言った。――俺に夢を見させてくれてありがとう、って。今度は字幕がなくても聞こえる声だった。すると、またその子が何も言わずに泣き出したんだけど、トレーナーは立ち上がるとその子の背を優しく叩いて慰め始めた。次の時間には、ウイニングライブがあった。負けても胸張って、ファンのために踊らないといけないと思うと、なんだか少し可哀想になるけどその子は泣き腫らした目もメイクで何とかして舞台に立ったよ。センターじゃなかったし、踊りもそんなに上手くなかった。だけど、これまでの経緯を見てたら、一番輝いているように見えたよ。……そして、二人は別々の道に立ち、新たなスタートを切った。…特に、これと言って特徴的な物でもないけど、俺はそれが凄く面白そうに見えたから、ワクワクして、俺もトレーナーになって困っている、助けを求めている人に手を差し伸べたいって思ったんだ。……それが、成功しているかどうかは別だけど…」

 田上は、そこで話を終わらせて、太ももの上のタキオンの顔を見下ろした。苦しそうに唸りながら、眠っているように見えた。田上は、声をかけようとも思ったが、ここで眠りかけのタキオンを起こしてしまっても申し訳ないから、何もしないで体育館のベンチの後ろにある壁に背をもたれさせて、バドミントンの試合を眺めた。丁度、霧島が点数を入れたところだった。薬の効果は十二分に現れているようで、シャトルが一筋の線となって床に叩きつけられていた。「ぬわー!!」と田中の悔しがる声が聞こえた。あまり試合は見ていないが、田中のああいう声がずっと聞こえてきていたから、負けているのだろうということは分かった。霧島が得意げに笑っているのが聞こえた。鳩谷が、田中に何かを耳打ちしていたが、あれは作戦を考えているのだろうか?――どっちにしたって勝てなさそうだけど。田上は、そう思って、顔をタキオンの方に戻した。額に汗をびっしりと浮かばせていた。相変わらず、苦しそうに唸っていたから、田上はまたタオルで汗を拭きながら額を撫でた。長い前髪を器用に避けて拭きながら、タキオンの顔を眺めた。すると、何か言いたくなって口を開いた。出てきたのは、子守歌だった。しかし、田上が作詞作曲したオリジナルの物。田上が適当に歌っているだけだった。

 田上は、タキオンの顔を見つめながら、歌い続けた。国近は、その声を点数板の横で聞いていたが、何も聞いていないふりをした。後ろは二人だけの世界だった。そこに自分が無作法に介入してしまっては、田上を酷く動揺させてしまうだろうということが分かった。ただ、それでも後ろで勝手に二人だけの世界を作られてしまっては、気になって仕方ないので、田上が早く歌い終わるように望んでいた。

 田上が、適当に作った歌は、タキオンをなだめるための歌だったが、同時に自分をなだめる歌でもあった。そのことを自分で理解はしていないが、自分の言葉を聞けば、田上はどこか落ち着けた。

 その言葉の内容は、こんなものだった。

 

 

  眠れ 眠れ アグネスタキオン 

  額に汗を浮かべようとも

  

  眠れ 眠れ アグネスタキオン

  傍にはトレーナーがついている

 

  眠れないというのなら 

  子守歌を歌って聞かせよう

 

  ある日の蒸し暑い午後

  畳の上で母さんに聞かせてもらった子守歌

 

  布団ほどに快適な眠りではなかったけれど

  母さんと夢の世界に行く幸せな眠り

 

  眠れ 眠れ アグネスタキオン

  お前はまだまだ子供だから

  大人の階段を上っていたとしても休憩しないといけないよ

 

  頼りになる相棒がお前の心の中にいるのなら

  それに頼ることを躊躇わないで

 

  いつかお前が旅立つその日まで

  母さんは子守歌を歌う

 

 

 田上は、変な抑揚をつけながら、時々歌詞を考えるように口を止めて、長々と歌い切った。国近はそれを聞いていて、笑いそうになったが、それはしなかった。さすがに親しき仲と言えどそれくらいの礼儀はあったし、また国近も田上の歌を少し良く思ったからだ。国近は、目の前のバドミントンの試合を見ながら、自分の過去を振り返った。自分にもそういう過去があったような気がした。洗濯物を畳んでいる母さんの横で、夏の暑さに唸りながら、それでも寝ようとした時が。あまりに朧げで儚げな妄想でしかなかったが、国近はその光景を思い出し、大きく息を吸い込むとはぁ~と大きなため息を吐いた。そして、堪え切れず、後ろを振り向くと田上に言った。

「お前、歌の才能あるんじゃないか?」

 田上は、聞かれているつもりがなかったから、顔を真っ赤にして「そうかもな」頷いたが、声も震えていたし顔も熱を帯びている自覚があったため、その後にごまかすように咳を吐いた。そして、丁度その時試合の方でまた霧島が一点を決めて、田中が「ぬあー!!」と声を上げたので、国近の注意が逸れた。田上は、大いにほっとして、自分も試合の方を眺めた。国近が「ラスト一点」と言っていたので、もう終わるころなのだろう。田上は、もう一度試合に望んでみたくなったが、薬の副作用で光っていた腕は、もう微かにしか光っていなかったので、それをするのは諦めた。タキオンの薬がなかったら、ボコボコにされるのは田上の方だったからだ。だから、田上はもう一度タキオンの汗を拭き、霧島が一点を入れるのを眺めた。

 

 試合はすぐに終わり、それぞれが一旦休憩となった。国近が試合をしたそうに田上の方を見ていたが、田上は敢えてそれを無視したというよりも、霧島が話しかけてきたので、それに反応を示さなかった。霧島は、汗をたくさん掻いて上着も脱いだようだった。田上の隣に座ると、楽しそうにこう言った。

「アグネスさんの薬、すごいなぁ!…あんなに苦くなければ。…それでいて、副作用も腕と足がぼんやり光るだけだろ?……寝てるのか?」

 ここで霧島が田上の太ももを枕にして、静かに寝ているタキオンに目をやった。タキオンの眠りは、大分穏やかになっていた。田上の歌が、効いたのかどうかは知らないが、田上が歌い終わると途端に息が落ち着き、穏やかな眠りとなった。

 霧島の言葉に田上は黙って頷くと、霧島も「なら、静かにしとかないとな」と小声で言った。そして、こう続けた。

「それにしても、お前ってあんなに強かったのか?…正月になんかした?」

「…薬のせいだよ」

「薬って言っても、俺とお前は同じ物を飲んだわけだろ?なのに実力差はめちゃくちゃ縮まったじゃん。…多分、あのまま田上の気が散らされないで最後まで続けられてたら、俺も負けてたぞ」

 田上は、得意気に少し頷いたが、何も言葉を返さなかった。だから、霧島はゆっくりと目を逸らして、立って次の試合を今か今かと待機している国近に言った。

「…いや~、凄かったよな。…なぁ?」

「え?…ああ、凄かったよ。……だけど、俺も二人のどっちかと戦いたいんだけど」

 霧島がハハハと申し訳なさそうに笑った。

「残念ながら、薬の効果が切れてきたみたいなんだ。……なんかさ、筋肉痛?みたいなのしない?薬の副作用じゃないよね?」

 霧島は、話の途中でまた田上の方を向いて言った。確かに、霧島の言った通り田上にも筋肉痛の様なものがあるような気がした。田上は、不思議そうに自分の腕を触りながら言った。

「確かに、腕がなんか痛いわ。そりゃ、あんだけ動けば、筋肉痛にもなるだろうけど、…この場合どうなんだ?ウマ娘並みの速度で動いた代償が来るのか、それとも、普通の運動不足に来る筋肉痛が来るのか、どっちなんだ?」

 霧島もまた、田上に倣って自分の腕を触って「どっちなんだろうなぁ…」と呟いた。

 その様子を見ながら、国近はやきもきしていた。

「じゃ、じゃあ、もうできないのか?」

 二人の話の間に割り込み、そう聞いた。すると、田上と霧島は顔を見合わせて、それから、また国近の方を見て言った。

「できない」

 途端に、国近は「カー!!」と悔しそうな声を上げた。

「俺だけ、二人とできなかったのかよ!……あ~あ、やってみたかったよ」

 国近がそう言うと、横からまだ息を荒げている田中がこう口を挟んだ。

「ムリ。絶対ムリ。…ありゃあ、勝てねぇわ」

 隣で鳩谷が賛同するように、水を口に含みながら頷いていた。すると、国近が尚の事悔しそうな声を上げて言った。

「え~、それならもっとやってみてぇし、それに、お前らも何回か点は入れてただろ」

「それは、霧島のミスが重なったときで、さらに俺たちは二人でしてたからな。ぎりぎりで戦えてたこともあったよ。…だけど、一人じゃさすがにボコボコにされるだけだろ」

 国近は、不満そうな顔をしたが、それ以上言うことがなかったから「誰かラリーしよう」と声をかけた。鳩谷がそれに応えて、立ち上がった。

 

 笑い声と共に白い羽がふわりふわりと跳ねていって、体育館の中を舞った。そのうち、田中が立ち上がって、「俺もする!」というのが聞こえた。霧島と田上は、座ったままそれを眺めたが、田上には段々と筋肉痛がひどくなってきたように思えた。特に、薬の副作用で光っていた部位が。――これは、本当にただの運動不足の筋肉痛だろうか?筋肉が裂けるように痛むが、それを真顔で我慢しながらそう考えた。冬だというのに、大粒の汗が流れてきた。筋肉痛は段々と酷くなっていく一方だった。

 そして、とうとう堪え切れなくなって、霧島にか細い声で言った。

「……お前、筋肉痛どうなった?」

 霧島の声も少し焦りの滲む声になっていた。

「……痛い」

「…そうだよな。……薬のせいかな?尋常じゃないくらいに痛むんだけど」

「アグネスさんの頭を乗せてるから余計に痛むんじゃないか?」

 霧島が、安らかに眠っているタキオンの顔を見ながら言った。

 二人は、その会話をしだすと、どうやら痛みが酷いのは自分だけじゃないということが分かった。しかし、だからと言って、安心して痛みが引くことはなく、痛みを自覚することによって余計に痛むような気がした。

 霧島は、しきりに自分の体を擦って、痛みを和らげようとしていた。田上もそれに倣ったが、あまり大した効果はなく、やっぱり腕と足を中心に痛みは増していった。



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十一、ダイワスカーレット③

 やがて、時間が経って、お昼の時間になった。このコートで一日中遊ぶ予定だったが、体育館での食事は禁止だったため、近くのコンビニで買ってきた焼きそばパンも代わり番こに外の駐車場近くで食べた。なぜ、代わり番こだったかと言うと、それはタキオンを寝かせていたからだ。田上の太ももから下ろす時にも眠りこんでいたので、大分ぐっすり寝ていたようだ。その様子を田上は、心配そうに見ながら、国近らにその場を預け、自分も外でご飯を食べた。相変わらず、筋肉痛は酷かったが、動けないほどではなかったから、まだ良かったと言えるだろう。今日のバドミントンは、いつもと変わることをしていないのに、タキオンの薬のせいで早くもタキオン、霧島、田上の三人が倒されそうになっていた。

 

 そして、少し時間が経つと、タキオンも起き上がった。田上は、その時はタキオンの横で霧島と鳩谷が試合をするのを見ていた。どうやら、聞くところによると、田上の症状よりも霧島の方がずっと軽いようだった。それでいて、田上と同じくらいの様子を見せるのだから、大袈裟なものだ。田上は、それを痛みのせいか普段よりも少し意地悪になって、僻むように言った。すると、霧島は、慌てて弁明するようにこう言った。

「本当に!本当に、お前と同じくらい痛いときがあったって!…ただ、今はそれも少し治まって、運動できるくらいには動けるようになっただけだから!…本当に!」

 田上は、あまり信用していない目をしたが、タキオンがむにゃむにゃと声を上げると、そちらのほうに気を取られた。そして、その間に霧島は鳩谷に誘われて、試合に臨んでいた。

 田上は、筋肉痛を耐えながら、それを恨めしそう眺めた。そうするうちに、タキオンは、目を覚ました。

 初めは、ただ眠たそうな唸り声を上げて、もぞもぞと動いているだけだったが、暫くすると、田上の太ももが頭の下にないことに気がついて、目を瞑ったまま手探りで探し始めた。田上はタキオンの頭のすぐ上に座っていたからすぐに見つかったが、タキオンが枕として使おうとするのを嫌がった。

 タキオンが、まだ残っている頭痛と眠気に苛つきながら理由を問うと、田上は「筋肉痛が酷いから」と答えた。

 すると、タキオンは、少しの間固まったまま動かなくなった。目を瞑ってはいたが、何か考え込むように唸っていた。そして、唸り声は段々と熱を帯びてきた後、急にはぁというため息に消された。疲れたようにため息を吐いた後に、もう一度息を大きく吸って、吐くと、タキオンは体を半分起き上がらせて田上に言った。

「...特にどこら辺が痛むのかい?...足?腕?」

「そこら辺が主だけど、...まぁ、全身満遍なく痛い」

 タキオンは、またため息をついて寝転がった。そして、言った。

「あ~あ、実験は失敗かぁ...」

 田上は、タキオンの独り言に反応してもいいのか迷ったが、堪えきれずに聞いた。

「実験は失敗だったのか?...なんで?」

 タキオンは、寝転がったまま頭の上にいる田上をじろりと睨み、そのまま言った。

「...筋肉はね、使わない予定だったんだよ。ウマムスコンドリアから着想を得たと言ったろ?ウマ娘の肉体には筋肉こそあるが、その重さには似合わないパワーを持っている。それを再現したかったのだが、筋肉が痛むのだったら失敗かな。...まだ、他にも可能性があると思うけど、......頭が痛くて何も考えられないや...。...それにしても、私の薬も上手くいかなくて、君の薬も上手くいかなくて、...今日は何も得られなかったなぁ」

 田上は、最後の声が震えているのに気がついて、タキオンを見直した。タキオンは、顔を腕で隠して、静かに涙を流していた。そのうちにヒックヒックと声を出して泣いていたが、自身のトレーナーに頼ろうとはしなかった。田上は、戸惑いながらもその腕に軽く触れ、こう呼び掛けた。

「タキオン、......あんまり落ち込むなよ。また、次があるだろ?」

「......次がある...」

 タキオンが呟いた。その声には怒りとも憎しみともつかないものが混じっていた。

「次がある。…その次もある。そして、次。次。次。次。…次だ!」

 タキオンの少し大きな声に驚いて、近くに座っていた田中がこちらを見た。しかし、田上はそのことに気付きはしても、田中の方にチラとも目を向けないで、タキオンに話した。

「…それが『永遠』だろ?お前が望むものじゃないのか?」

 タキオンは、また体の半身を起こして、トレーナーを睨んだ。

「それが『永遠』だ!そうだ!それがだよ!…失敗したら次をして、また失敗したら次をする。成功しなければ、次、次、次と続いていく。それが『永遠』だ!…空しすぎるだろ!空虚だろ!……私は『永遠』が欲しいと言ったが、こんな『永遠』は欲しくない!もっと実の詰まったものであってほしい!…分かるかい?トレーナー君。私の想いが…」

 タキオンの怒りは静まり、代わりに悲しそうに田上を見た。

「…分かるよ。帰省した時に何度も言ったろ?そして、俺自身もそう願っている。…ただ、実の詰まった永遠なんて探しても見つからないと俺は思うよ」

「…なぜだい?」

「やっぱり俺たちは、この時間の中に生きている生物だからさ。永遠の中に生きているのであれば、それは実の詰まったものを見出せることができるかもしれないが、…俺たちは時間の中に生きている。過ぎていく時間の中に、楽しさだったり空しさだったりを見出している。…あの町からトレセンに帰っていく電車の中でそう思ったよ」

 タキオンは、前髪を下に垂らして項垂れた。そこから、また一粒、二粒と涙が垂れるのが見えたから、田上は言葉を続けた。

「あんまり落ち込むなよ。お前は、今、熱と頭痛で辛いんだろ?気持ちを静めて、また横になったらどうだ?」

 自分で言ってて、大した言葉にならなかったと感じたが、タキオンは素直に首を縦に振ると田上の太ももを枕にして寝ようとした。そうされると田上も堪らなかった。タキオンに「やめてくれ」と少し強めに言うと、タキオンも一つため息をついてゴロリと体育館の壁を見る形で横になった。

 

 時間は、ゆったりと流れる川のように静かに過ぎていった。タキオンは、それから帰る時間になるまで起き上がらなかった。どうやら起きているようではあったが、田上が二,三回話しかけても反応は示さなかった。田上は、それに心配をしながらも自分にも眠気が来てしまって、少しの間眠ってしまった。少しの間と言っても、本当に少しの間だった。三十分程だろう。三十分ほど寝て起き上がると、霧島に体調の良し悪しを聞かれたが、寝る前と変化はない、と少し腹を立てているように答えた。霧島は、それに苦笑して、「頑張ってな」と言ったが、それが田上の怒りを膨らませた。だからと言っても、怒っている様子は微塵も見せず、ただ体育館の壁に背を持たれかけさせ、国近と田中の試合を見ていただけだった。

 午後三時頃になると、もう帰らなければという話になった。予約をしているので当然時間は決まっている。霧島は、三時半までの予約と言っていたので、その前にコートの掃除なんかをしていると試合をできるのは余裕を持って三時までだった。鳩谷、国近、田中などは、まだ物足りなさそうにしていたが、霧島も薬を飲んだことによる筋肉痛とたくさん遊んだ疲労とで早く帰りたがっていたし、田上も元から長時間なんて遊ぶつもりはなかった。例え、タキオンの薬を飲んでいなかったとしても、二,三試合したらこうして椅子に座って、最悪の場合は一人で先に帰ることもあり得ただろう。だが、今日のところは、タキオンもいたし、自身も満身創痍で自分から立ち上がって帰る気には到底なれなかった。

 田上は、いよいよ帰る準備に入る段になると、重い体をのろのろと立ち上がらせて体育館の床を掃除するモップを倉庫の方に取りに行った。途中で霧島に「筋肉痛が辛いならしなくてもいいぞ」と言われたが、それには「全然大丈夫」と返して、倉庫に入っていった。

 田上がモップを持って戻ってくると、タキオンが座ってぼーっとしていた。口を少し開けて体調が悪そうに床を見つめていたから、田上はそれを見て少し元気になった。口を開けたタキオンが、可笑しくて可愛かったからだ。田上は、少しばかりの笑顔を作ってタキオンに話しかけると、タキオンは悲しそうに眉を曇らせてこちらを見てきたから、田上はタキオンがつい数時間前までは落ち込んでいたことを思い出した。そして、反省した。タキオンに謝ると、本人は何が起こっているのか分からない様子でこちらを見て、言った。

「今から何をするんだい?」

「帰るんだよ。トレセンに」

「…そうか。もうそんな時間なのか…」

 相変わらず、タキオンはあまり物事を理解してはいなさそうだったが、それからはぼーっと床を見つめることを止め、自身のトレーナーが筋肉の痛みに呻きながら床を掃除しているのを眺めた。

 

 鳩谷が、最後にのんびりと網を片づけ終わり、一行は帰ることになった。その時には、タキオンも自分の意識を取り戻すくらいに回復していたが、代わりに田上に甘えて仕方がなかった。

「おんぶ!」

 そう言うと、タキオンは梃子でも動かなかったから、田上は筋肉痛に軋む自身の体を無理矢理にでも動かしてタキオンを背に負った。タキオンは、自分が女の子だということを意識していなかったから、平気で胸でも何でも当ててきたのが、田上には居た堪れなかった。しかし、一つだけ幸いなことがあったとすれば、それは仲間の誰一人として田上がタキオンを背に負うことをからかわなかったことだ。むしろ、田上とタキオンの荷物を持ってくれたりして、気遣いが途方もなくありがたかった。

 タキオンと田上は、一行の最後尾で軽く話をしながら、歩を進めた。

「トレーナー君」

 最初に声をかけてきたのは、タキオンの方だった。妙に声が落ち着いていて、田上の心をざわつかせたが、タキオンとしては別に大したことのない報告だった。

「私は、研究やら実験やらをやめるよ」

 田上はぎょっとして聞いた。

「なんでだ」

「なんで?…別に大したことはないさ。ちょっと止めようと思っただけだよ」

「なんで止めようと思ったんだ?小さい時から続けてきたものじゃなかったのか?」

「……まぁ、私の目的、…つまり、足の脆さを克服することは成功したんだからもういいのかなって。…別に君が困る事じゃないだろ?」

「俺?…俺は、…最初の契約の時の条件は、俺が実験体のモルモットとしていることだっただろ?……俺はどうなるんだ?」

「…それは、別に昔の話なんだから忘れてくれたって構わないよ。…それに、君のもう一つの条件は私に好きにさせることだったんだから、それさえしてくれていれば本当に構わない。現にこうして好きにさせてくれているだろ?」

 タキオンはそう言って、耳に息を吹いてくすぐるという悪戯をした。田上は、「ああ!」と叫んで首を振ったから、田上たちの前に居た鳩谷が後ろを振り向いた。

「なんにもないよ」

 田上はそう言って、鳩谷を前に振り向かせたが、前を向く直前に鳩谷の口元に微かに笑みを見て取った。やはり、仲間たちは自分をからかいたかったのだろう。田上は、そう思うと少し幻滅したが、鳩谷には何も言わずにタキオンに話しかけた。

「もうそろそろ重いんだけど、降りてくれないか」

 すると、驚くべきことにタキオンは素直に頷いた。聞くと、「背負われるのも案外疲れる」とのことだった。田上は、「背負う方がもっと疲れる」と切り返すと、タキオンはハハハと笑って、「許してくれ」と謝った。田上は、しかめっ面で「許す」と言った。

 

 それから、二人は歩き続けて、今度は電車の中となった。終始二人は、仲間たちの最後尾を歩いていたが、ここで荷物も持たされ、最後尾にいることも終わりとなった。だが、仲間たちとは少し外れることができたようだ。タキオンたちは、席の方に座らされたが、仲間たちは何かの気遣いがあったのか二人を立って囲むということはせず、だが近くに立って何の気なしに話し込んでいた。

 それだから、田上とタキオンは電車の中でも話すことができた。

 田上は、タキオンにこう話しかけた。

「タキオン、お前もう熱と頭痛は大丈夫なのか?」

「うん、...問題ないよ」

 タキオンは、自分の状態を慎重に確認しながら言った。

「そう。それは良かった...」と田上は言ったが、その声はどこか落ち着きがなく、タキオンの頭に疑問を浮かび上がらせた。

「...何かあるのかい?」とタキオンは聞いた。すると、田上は表情を曇らせて、タキオンの方を見たが、その後に言った。

「...あんまりここでするような話でもないんだろうけど、少しだけ言わせてもらうと、...別に実験を止める必要なんてないんじゃないか?...それとも、ただ単に飽きただけ?」

「うむ...。...確かにこんなところでする話じゃないな。…話せることはあるから帰ったら、少し落ち着いて話そう?君のトレーナー室で」

 この返答で田上の知りたい気持ちは静まらなかったが、不納得ながらも頷いた。

 ガタンガタンと電車が動いた。

 タキオンと軽く話をしながら、電車の中を過ごしていると、途中で霧島と目が合った。あっちの方は、田上と目が合うと笑いかけてきたが、田上の方はそれにしかめっ面で返した。到底、笑う気持ちにはなれなかった。

 

 トレセンに帰ると、田上はタキオンと話す約束をしたことを後悔した。疲労と筋肉痛が田上の体を苛んだからだ。その上、眠たくて眠たくて堪らなかった。一度、そのことをタキオンに言って、また後日に話してもらおうと提案したが、その提案はタキオンの不満そうな顔によって打ち破られた。と言っても、タキオンが打ち破ったのではなく、不満そうな顔に耐え切れなかった田上が自身の身の内に宿る優しさに屈し、白旗を振ったのだ。タキオンにしてみれば、こんな扱いやすくて面白い動物など他にいないかのように思えたが、そのことは口に出さずにただ微笑んだ。田上は、その笑みの真意が分からなかったが、それを見たからと言って気分がよくなるわけでもなかった。田上は、トレセンに戻ると、寮に戻る仲間たちと別れ、自身のトレーナー室へとタキオンと共に歩を進めた。

 トレーナー室に着くと、二人はどこにどう座ってどう話し合うのかを迷ったが、結局、いろいろ言った後、この部屋にある低い机を挟んだ二つのソファーにそれぞれ座って、向き合って話し合うことに決めた。田上は、ドアから遠い、部屋の右隅にあるソファーに座り、タキオンがその向かい合ってドアに近い方のソファーに座った。だが、あまり真正面から向かい合うのはタキオンのお気に召さなかったようだ。すぐに立ち上がると、田上のデスクにある車輪付きの椅子に座り、それをガラガラと動かして田上のソファーの近くに寄った。そして、満足そうな声を上げると言った。

「何から話したらいいかな?」

 田上は、椅子に座って上から目線のタキオンに少したじろぎながら、言った。

「別に研究をやめる必要なんてないんじゃないか?……これは、強くそう主張したいんじゃなくて、ただ単に疑問になっただけだ。……今まで、趣味だったんだろ?……」

 最後に田上は、もう一言言いたそうにしたが、それは余計な言葉だと考え飲み込んだ。それをタキオンは、しかと見届けたが何も触れずにこう言った。

「まず、最初に言いたいのは、……君に八つ当たりしてしまった事だ。体育館での事。…あれは、すまなかった。君に怒るべきじゃなかった」

 田上は、口の中でごにょごにょとしながら許しの言葉を与えた。タキオンは、それを感情の分からない顔で見つめていたが、田上の言葉が終わると言った。

「…その上で言いたいのだが、…私が研究をやめるといったのは、もううんざりしたからなんだよ。終わりもしない探求の旅に。…別に珍しい話じゃないだろ?うんざりしたからやめるんだ」

 タキオンの言葉に田上は、ふーとため息をついて、考え込んだ。そして、考え込むために下げた頭を上げると言った。

「…俺が、疑問に思ってるのはな?…ちょっと早計過ぎやしないかということだ。…別に、俺に言うこともなく研究をやめたって良かっただろ?それをわざわざ俺に宣言したってところが、…何と言うか、…腑に落ちないんだよ」

 田上の話が終わると、タキオンはふむと顎に手を当てて、椅子を回転させながら移動させた。そのうちに、田上は自分がタキオンより低い物に座っていることに居た堪れなくなって、立ち上がって本棚の傍に寄ると、その本棚から本を取り出して落ち着かなげに読みだした。

 タキオンは、暫くふむふむ言いながら椅子を回転させ、天井を見ながら考えていたが、やがて、本棚の前で本を読んでいる田上の方を向いて言った。

「確かに、私にとっても腑に落ちることはないが、……別にそんなことはどうでもいいんじゃないか?他でもない信頼できる君だからこそ言った言葉じゃないのか?」

 タキオンの言葉が嬉しくて顔が綻びそうになった田上だったが、それでも神妙な顔は崩さないでこう言った。

「…タキオンの信頼できる者であってありがたいけど、信頼できる者としてはやっぱりその問題は見逃せないように思う。タキオンに考える気がないなら仕方がないけど、俺が少しおかしく思ったってことを覚えててほしい」

 田上は、そう言うと、手に持った本を棚に戻した。タキオンは、田上の言葉を聞くと、少し目を落として、落ち込んだように見えた。――少し責めすぎたのかもしれない、と田上は心配したが、特に大変な落ち込みようではなかったようだ。ただ、落ち込むには落ち込んでいて、タキオンは椅子から立つと両手を広げて、こう言った。

「ハグをしてくれ」

 田上は、嫌そうにしかめっ面をした。しかし、タキオンはそんなことは気にしないで、「ん」と声を出してハグを催促してきた。幾ら三度目と言えど、幾ら自分の好きな人と言えど、自分から抱きしめるのには大きな抵抗があった。

 田上が、しかめっ面のまま固まっていると、タキオンは両手を広げたまま一歩近寄ってきて言った。

「ハグをしておくれよ。…もう二度もしただろう?君の緊張も幾らか解れてはいないのかい?」

 田上は、しかめっ面のまま、こう言い返した。

「...解れるわけないだろ。女性の経験なんて一度もないんだ。...だから、もう俺を追い詰めるのはやめてくれ。戻れなくなるような気がする」

 田上の言葉にタキオンは、最初悲しみの色を見せたが、その後にハグするために上げていた腕を下ろして言った。

「戻れないのは、初めからだろう?私たちが、あの家の布団の中で悩みを打ち明けてから、戻れるものも戻れなくなった。...それに、...言ったろう?先日のハグのとき、ーー逃げようって。戻ることは君の望みなんじゃないのかい?」

 田上は、タキオンから顔を背けて、また本棚に目を向けた。そして、一冊の本を探して、手に取ると言った。

「 君があれこれ言うのなら殺してあげよう

  君が未来を望むのなら目を塞いでしまおう

  永久に

 

  一度足りとも君を見捨てはしない

  一度足りとも君を離しはしない

 

  永遠の中で、愛を望もう

  深淵の中に

  猛り上がる炎の中に

  身を切るような冷たさの中に

  答えは、きっとあるはずだ

  それを探しに

  私は地獄三丁目 」

 田上は、それきり言葉を切ったまま、話さなくなった。また、目も合わさずにじっと本を眺めていた。その表情には、色濃い苦悩が浮かび上がって貼り付いていた。タキオンは、田上の事を憐れに思ったが、自分の事も尚、重要だった。また一歩、田上の方に近づくと、その肩に手を置き、本を覗き込んだ。古びて、茶色くなっている一冊の小さな詩集のようだ。その開いていたページには、田上が先程読んだ詩が載っていた。

「今君が言ったのは、それのことかい?」

 タキオンが聞くと、田上は頷いて話し出した。

「……これが、未だに分からないんだ。作者は、何を想ってこれを書いたのか。なんで、作者は永遠の中で愛を望んだのか。……お前には分かるか?」

 タキオンは、眉を寄せてそれを暫く見つめて言たが、やがて、ゆっくり頷くとこう言った。

「……私には、なんとなく分かるよ。…これは、作者が苦悩していたんだろう。自身の行く末を想って。…そうしていくうちに、深淵を覗き、猛り上がる炎を歩き、身を切るような冷たさの中を彷徨い探して、いつのまにか地獄の三丁目まで来てしまった。――ああ、私はどこに行くんだろう?……そういう詩じゃないのかい?」

 田上は、タキオンの言葉を聞きながら、険しい顔で小さな本を見つめた。そして、そのあとに小さく呟くように言った。

「……俺たちは、これからどうなるんだと思う?」

「私たち?……う~ん、…とりあえずは三月末に大阪杯があるだろ?それに、まだまだトゥインクルシリーズだけじゃなくて、別のレースにも出てみたいし、…いっそのこと海外GⅠでも目指してみようか?…って感じで、まあまあ長くいることになる。これが君の求めていた物かい?」

 田上はゆっくり首を横に振った。しかし、何も言わなかったから、タキオンがまた言った。

「じゃあ、何なんだい?君の求めているものは」

「……俺は、…タキオンのモルモット君じゃなくなった」

 ここで、田上が問うようにタキオンを見つめたから、タキオンも同じく問うように見つめ返した。そして、ふっと笑うと、「続けてくれ」と言った。

「研究をやめるってのは、そういうことだろ?…モルモット君じゃなくなるわけだ」

「そうだ。……だけど、それはさっきも話したろう?別にモルモット君じゃなくても、トレーナーでいていいって」

「…俺は、タキオンに引っ張られてここまで来たと思ってる。…少なくとも今は。……お前は一人で万事を解決しただろう?お前の足の事なんて気付きもしなかった俺が、今後もトレーナーとしていれるのか?もっと有能な奴でいいだろ?モルモットとして用済みになった俺なんか捨てて、どこかの優しい奴でも拾って来いよ。…たくさんいるよ。俺の代わりなんて。一人が死ねば、別の誰かが輝き、また死ぬ。そして、また別の誰かが輝くんだ。そうやって社会は回ってるんだ。…タキオンも俺にばっかり依存してないで、別の誰かを拾って来いよ。…俺の出番は終わったんだ。帰省が終わって、トレセンに帰り着いてから、そればかりが心に浮かぶようになった。…そして、今日、お前の言葉を聞いて、確信に変わった。俺には、お前の傍にいてやることはできない」

 田上は、目頭が熱くなるのを感じた。何かとんでもない間違いを犯しているような気がした。しかし、田上の心とは裏腹にタキオンは、「やれやれ」と笑いながらこう言った。

「君も大変な奴だなぁ。…私も大概だけど、君も大概だ。…いや、むしろ君の方が大概かもしれない。……落ち着きたまえ。私は君を引っ張ってきたつもりなんてないし、また用済みになったとも思っていない。それに、君の代わりがいるとも思えない。この言葉は、どれも真実だ。君の代わりなんていないんだよ。君は君自身で、ついでに私は私自身だ。他の有象無象なんかでは到底ありえない。私が、君を必要とすれば君が必要だし、君が私を必要とすれば私が必要だ。時々、個を全と勘違いしそうになる時があるだろう?…私にも勿論ある。厄介なものさ。それは、偏見と呼べるもの。個を全、全を個と錯綜させてしまった時、取り返しのつかないことをしでかしてしまったり、そこまでいかなくとも、苦しい想いに苛まれたりする。…今の君だ。……さぁ、こっちへおいで。君は君なんだ。私がハグをしたいのは他でもない君であって、どこかの優しいトレーナーじゃない。…さぁ、おいで」

 タキオンが両手を広げても、田上は微塵も動こうとはしなかったが、タキオンが無理にその手を動かすと、田上もゆっくりと動いてタキオンを包み込んだ。今度のタキオンは、田上を抱きしめてやるつもりだったのだが、反対に抱きしめられて少し困った。

 タキオンを抱きしめた田上は、何も言わなかった。その表情は、どこか不気味ではあったが、同時に落ち着きを取り戻したものでもあった。田上は、眉一つ動かさずにタキオンを抱きしめ続けた。その様子にタキオンは、心配を覚えたから、田上の腰あたりを軽く一定のリズムでポン…ポン…と叩きながら言った。

「…大丈夫だから落ち着いておくれ。…少なくともいい男を見つけるまでは、君と離れないと前に言ったろ?ここは共学じゃないし、私はそんなに人と触れ合わないからいい男なんて寄ってこない。ここ暫くは、安泰だよ」

 タキオンは、田上を落ち着かせるつもりでそう言ったのだが、田上はそうはならなかったようだ。タキオンの言葉を聞くと、体に変に力が入り、タキオンを引っ掻きそうになったから慌てて体を離した。タキオンは、「もう終わりかい?」とからかうように言ったが、そのからかいに普段通り対応することはできず、力なく肩を落として「もう終わりだよ」と返した。

 タキオンは、少し不満そうだった。しかし、田上の生気のなさを見ると、憐れになって到底自分の我儘を押し通す気にはなれなかった。

 この後、夕食のカフェテリアに行ったが、田上はおにぎりを一つだけ貰うと、心配そうなタキオンを置いて先に帰った。

 そして、こういう時の常として、寝るときになると嫌~な夢を見た。暗闇をただひたすら走っている夢だった。光なんて一切見えず、時折ある大きめの石に躓いてこけたり、なぜか目の前に出てきた石の壁に正面からぶつかっているだけだった。ねずみの声が聞こえてきたような気がしたが、それは微かで聞き取りづらかった。どこから聞こえてくるのか周囲を見渡したが、そういう時は決まって、そこが生命のない場所のように静まり返っていた。そのようになると、段々と怖くなってきたが走ってみれば平気だった。ただ、走るのは嫌だった。こけるし、ぶつかるし、息も切れる。

 やがて、最後に転んだ時「こん畜生!!」と叫んで地団太を踏んだ。自分を転ばせた石を見つけて叩き割ってやろうかと思ったが、その石は自分の転んだはずの場所にはなかった。全くの平らであった。そうすると、今度は自分に腹が立った。何もないところで転んだ運動神経の鈍い自分に腹が立って、地面に頭を打ち付けた。血が目にダラッと零れてきたのを感じたが、結局視界なんて目を開けてても閉じてても変わらなかった。

 田上が、地面に頭を打ち付けたのは一回限りだった。その後は、もう頭がフラフラして、地面にバタリと仰向けに寝転がった。

 そして、こう言った。

「あ~あ、疲れちゃった」

 その声は、儚く暗闇に吸い込まれた。



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十一、ダイワスカーレット④

 朝起きると、田上は体の筋肉痛に苛まれたが、昨日ほどの痛みではなかった。むしろ、程よい痛みが刺激になって気持ちいいとも言えるだろう。だからと言っても、万全とは限らなかった。田上は、枕元の棚の上から眼鏡を取ると顔にかけた。

 今日は、トレーニングの予定はさほど決まっていなかったが、やるとしたら午後からだろう。田上は、そのように考えて、髭を剃った。スカーレットとの約束は覚えていたが、憂鬱だった。大してできた人間でもないのに相談されるのは、その身に似合わず重い物であったし、タキオンと相見えることも重い物であった。ここに来て、タキオンへの想いの整理がつかなくなった。本人に好意があるなしに関わらず、「他でもない君だからこそ」と言われるのは気持ちがよかったが、それ故に田上の心を悩ませた。踏ん切りがつかなくなったのだ。いつかは別れるもの、と静めていた心が、可能性に喜び上がっていた。だが、今のところはそれもまだ落ち着きのある方だった。喜ぶくらいならまだマシな方だろう。田上は、今日は少し元気だった。

 

 陽気な日和だった。そうは言っても、冬なので寒くはあったが、快晴により気温は通常よりも高いような気がした。

 そんな中、田上の寮にタキオンが訪ねてきた。「散歩をしないかい?」とのことだった。ちょうど、暇つぶしにゲームをしていたところだったので、田上は外に出たがらなかったが、タキオンがもう少しごねれば、困ったように頭の後ろを掻きながらも、少しの喜びに胸を躍らせて田上はタキオンと出掛ける準備をした。もうすでに着替えてはいたので、その上にジャケットなどの羽織るものを着て、そして、靴を履いて出掛けた。

 タキオンは、田上の寮の部屋のドアの近くで待っていたのだが、その間に田中に絡まれていた。タキオンは、終始鬱陶しそうにその話を聞いていたが、田上が出てくると途端に笑顔になって、田中をふっと笑わせた。

 田上の部屋は、寮の共有スペースの近くにあるので、大抵の人は田上の部屋の前を通って行くのだが、迷惑千万極まりなかった。その途中で声をかけてくるのだ。ここが、共有スペースの近くでなければ、友達もあまり通らないし、ついでに声をかけてくる、ということもないだろう。一度、寮長に部屋を変えられないか掛け合ってみたが、返答は「今すぐには少し難しい」とのことだった。それが、去年の今頃にあたるので、田上は一年近くも部屋が変わるのを待っている。と言っても、半分諦めていて、もうこの場所を享受し仲間たちが来るのにも渋々慣れていた。一方、寮長の方はと言うと、こちらも半分忘れていた。勿論、田上の要望書をもう一度見返せば、思い出すには思い出すのだが、なにせたくさんのそういう要望書を一人で管理していたので、田上の要望書が時期が来たにも関わらず見出されないのは、本棚の一番上の本の間に挟んでしまっているからかもしれない。

 

 田上は、タキオンと共に陽の出ている午前十一時を歩いた。それは、幾らかの緊張を伴ったが、田上にとって心地のよいものとなった。

 田上は、昨日の出来事にいつ触れられるかひやひやしていた。自分の通常ではない状態に触れられるのは、大きな痛みを伴ったし、それがタキオンなら尚のことそうだった。それにも関わらず、田上にはその事が話題に上らないよう祈ることしかできなかったから、もうどうすればいいのか分からなくなった。幸いなことに、タキオンはこの事に触れることはなかったが、終始、何かを伝えたそうに会話の間にそわそわした沈黙を置いていることが、田上に分かった。分かったからと言って、田上の予想した通りのものだと、タキオンに気遣いをしても自分の立場が危うくなるだけなので、それをすることはなかった。

 ただ、タキオンが一言それらしいことを言ったのだが、これは上手くはぐらかすことができた。それは、こんな言葉だった。

「トレーナー君」

 まず最初に、タキオンが呼び掛けた。ちょうど、パンジーの花がぽつりぽつりと生えている花壇に差し掛かったところだった。

 タキオンは、花壇のパンジーをしゃがんで指差しながらこう言った。

「見てごらん。パンジーの花が咲いてるよ」

 田上は、花に興味などなかったが、タキオンに合わせてしゃがんみこんで「ああ、そうだな」と答えた。

 二人は、暫くパンジーの花を見つめて黙っていた。タキオンは、パンジーの花にそっと触れ、嬉しそうに笑ったが、田上は土の上を歩いている蟻をじっと眺める以外のことをしなかった。

 やがて、パンジーの花を愛おしそうに眺めながらタキオンは言った。

「こうして散歩をしてみるのもいいものだよね。...気分転換になるし、何より楽しいし」

 田上は、数瞬の沈黙の後に答えた。

「なんで俺を誘ったんだ?...別に一人でも良かっただろ?」

 すると、タキオンは信じられないという顔をして、田上を見た。

「君との方が楽しいだろ!?…うん。......それに、君にも少し楽をさせてあげたかったし...」

 田上は、静かに「ありがとう」とだけ返した。その声には、それ以上の言葉を押さえつけるものが秘められていて、口を開いてまた話を続けようとしたタキオンの口からは何の物音も聞こえず、その口をただ閉じさせるだけとなった。タキオンの表情は少しの間、曇っていたが、残念ながら田上はその事には気がつかなかった。

 

 それから後は、歩いていくうちにタキオンも機嫌を取り戻し、木や街灯の上に鳥を見つけては「あれは、あれあれこうこうと言う名前でね、こんな生態を持っているんだ」とお得意の雑学を披露し、自身と田上の足音が、トレセン学園内の石畳の街道にとんとんと鳴っては嬉しそうにふふふと笑った。手こそ繋いでいなかったが、二人の後ろ姿は竜之終の町にいたときと変わらなかった。ただ、一つ変わったところがあるとすれば、二人はあまり話さないで歩いていたことだった。田上が話したがらなかったのが原因だろう。タキオンが二言三言話しかけても、田上は真面な返事をせずにすぐに話しを終わらさた。別にタキオンもそれ以上のことを求めていなかったので、二人は優しい時間を過ごすことができた。

 話の中でスカーレットの話題が出てきた。これも長く続く話題ではなかったが、タキオンが少し続けたい話題ではあったので、田上の返答が短いなりに長くは続いた。

 それは、こんな調子だった。

 再びタキオンの「トレーナー君」という呼びかけから会話は始まった。田上はこれに答えなかったが、タキオンは話を続けた。

「今日のスカーレット君との約束は覚えているだろうね?」

 田上は、「ああ」と答えた。

「昼からなんだろ?それなら昼まで私と共に時間を潰そうじゃないか」

 これには、田上は答えなかった。タキオンは、不満そうに鼻を鳴らして言った。

「なんとか言ったらどうなんだい?」

 田上は、「ああ」と答えた。タキオンは、今度は不満そうに鼻を鳴らしたが、何も言わなかった。

 そして、少しだけ経った後に言った。

「今度は何を話すつもりなんだろうね?彼女は。...おそらく、また何かレースやそれに関わるものなんだろうということは分かるけど…。君はどう思う?」

 田上は、タキオンの話を何も聞いていなかったようで、急に我に返ったように「え?」と聞き返した。タキオンは、田上にも分からないくらいの一瞬に顔をしかめ、そして、言った。

「スカーレット君は、何を話すんだろうね!」

 その声が、怒気を孕んでいることには、たちまちのうちに気がついて、田上は慌てて「ごめん」と謝った。タキオンは、その言葉に満足げな表情を見せ、話の続きを催促した。

 田上は、不図、足の下でカシャカシャと踏まれて崩れていく枯れ葉に落ち葉に目を止めて言った。

「何を言われても、俺には俺の答えられる範囲のことでしか答えられないよ」

 そして、突然吹いた北風に身を震わせた。

 

 二人は尚も石畳を歩き、体育館に行く渡り廊下も散歩して回った。そして、高笑いをしながら通り過ぎていく女子生徒の横をすれ違った時、誰かのスマホがピロンと鳴った。

「ああ、私のだ」

 自分の物が鳴ったのかと思って、尻ポケットを探っている田上に、タキオンは声を掛けた。そこで田上はそもそも自分がスマホなんて持ってきていなかったことに気がついた。

 だが、田上には、こんなことよりも興味のあることができて、今まで半端だった口を開いた。

「お前、今日はスマホを持ってきていたんだな。ただの散歩なのに」

「スカーレット君との約束を考えてね。...私たち、カフェテリアで話す約束はしても、具体的な約束はしていなかっただろ?それで、スカーレット君の方から何か連絡をよこしてくるもんじゃないかと思って、こうして散歩にも関わらず、スマホを携帯していたというわけさ。...勿論、私が君と昼まで時間を潰すという話は聞いていたんだろうね?」

 田上は、申し訳ないような顔をして、首を横に振った。

 タキオンは、ため息をついて言った。

「まぁ、そんな気はしてたよ。......そして、ここで、スカーレット君からの連絡だ。――カフェテリアの前でお待ちしておりますが、お手数ながらトレーナーさんの方にもご連絡いただけますでしょうか?...おや!もうそんな時間か!よし、行こう。トレーナー君」

 タキオンは、そう言って、田上の手を繋ぐように軽く触れたが、その手は無情にも振り払われた。これは、田上の無意識が勝手にしでかしてしまったことなので、田上自身はそのことに気付きもしなかった。タキオンもその手を繋ごうとしたことは、あまり期待したものではなかったが、それでも少し残念そうに眉を寄せた。

 その顔には、田上は気がついた。だが、なぜタキオンがそんな顔をしているのか分からなかったので、不思議そうに首を傾げてタキオンを見返した。そこで、タキオンはまた田上の手を繋ぐことに挑戦した。今度は、田上も反応を示した。

「やめてくれ」

 そう言いながら、しかめっ面をしてタキオンの手を払ったが、逆にタキオンは満足そうな顔をした。そして、嫌がる田上の手を、少しだけ控えめに、人差し指だけ握った。そうされると、田上も怒っていいのか分からなくなり、何とも言えない顔をして前を向いた。

 二人は、静かな陽の光の下、その陽の光に負けないくらいの陽気さを醸し出して、カフェテリアへと歩いた。

 

 カフェテリアに近づくにつれ、田上はそわそわしだして、いよいよもう多くの人が見えてくると、タキオンが握っていた人差し指を振り解いた。田上が、思ったよりもあっさり解けたので、なんだか拍子抜けだったが、タキオンが可笑しそうにクスクス笑っているのを見ると、不機嫌そうな顔をした。すると、またタキオンはクスクス笑った。

 カフェテリアに近づいていくと、スカーレットの姿が見えた。カラフルに色付くウマ娘の髪の毛の森の中でも、その深紅の長い髪は見つけやすかった。

「タキオンさんにトレーナーさん!」

 タキオンたちを見つけると、スカーレットは嬉しそうに声を上げた。タキオンもまた、嬉しそうな笑みを作って、それに答えた。そして、その次に田上も挨拶をした。スカーレットは、田上の方にも嬉しそうに挨拶をしたから、田上も嬉しくなって思わず笑顔を作った。それを見て、タキオンもさらに嬉しくなり、溢れるほどの満面の笑みを作った。

 スカーレットと出会うだけで、二人の雰囲気は変わった。スカーレットの元気の良さに救われたのか、何なのかは分からなかったが、タキオンはそれがとてもとても嬉しくて思わず、田上にこう言った。

「君は、笑顔が一番素敵だよ」

 途端にスカーレットが、目の前の二人の雰囲気に黄色い声を上げた。

「お二人は、付き合ってらっしゃるんですか!?」

「そんなんじゃないよ」

 タキオンは、怒ろうにも相手がスカーレットだから、そんなにムキにはなれず、中途半端に渋い顔をして言った。それに気づいたスカーレットが、「すいません」と反省の色のある小さな声で言った。

 一方、田上はタキオンの突然の褒め言葉に面食らって何も言えなくなっていた。顔のことなんて褒められたことがなかったから、なんて返したらいいか全く思い付かなかった。しかし、そう考えているうちに、話はどんどん進んで行って、田上が答えを出す必要はないかのように思えた。田上は、それが安心できるようでもあったが、同時に、なにか返事をしてみたかったという、後悔に似た念に少しの間苛まれた。

 だから、田上は、女性陣が前を歩き、昼食を受け取る列に並んでいる間も一人で、楽しく喋っている二人の後ろについて、悶々と考え込んでいた。

――なんて返せば良かったんだろう?...タキオンの笑顔も素敵だよ、かな?それだと少し気持ち悪いか?...それなら、別にそんなことないよって謙遜しておけば良かったか?...それも微妙だな。...何が正解だったんだ?

 こんな調子で考え込んでいたが、明確な答えは出てこず、頭に浮かんだ案は何もかもくだらないもののように思えた。

 

 昼食を受け取ると、三人は、全員が座れる席を探したが、中々見つからなかった。あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしても見つからなかった。そのうちに、タキオンも人混みに少しくたびれてきたが、田上はと言うと、二人の後ろをついてまだ先程のことを考え込んでいたので、人混みはさほど気にならなかった。

 一度、田上が逸れそうになってからは、タキオンにも警戒されてしまったので田上は自分の考え事に集中できなくなった。だから、仕様がないので、田上も席探しに付き合うと、すぐに目の前の席の人が立ち上がって、三人分の席が空いたのを確認した。よって、三人はその席にすぐに座り込んだ。

 そうすると、すぐにスカーレットの気分が優れなくなったかのように思えた。タキオンが、話しかけてもぽつりぽつりとしか答えず、三人の座っているテーブルはカフェテリアの中の喧騒に飲み込まれた。

 

 しばらくして、しょぼしょぼとした雰囲気の中、タキオンが頭に思い浮かんだことを適当に田上に言っている時、スカーレットが突然口を開いた。しかし、その口から言葉が出てこなかったのを田上は確認した。スカーレットは、再び口を閉ざして、スープを啜った。だから、田上はここがタイミングだろうと思って、話しかけた。勿論、タキオンが田上に話しかけ終わった時にそうした。

「スカーレット君は、今日話があるって言っていたけど、どのタイミングではなすのかな?...食事が終わってからがいい?」

 スカーレットは、突然話しかけられて、大層驚いた様子だったが、しどろもどろになりながらも「今、話してもよろしいでしょうか?」と聞いた。

「いいよ」と田上も答えた。

 すると、スカーレットは躊躇いながらも話し出した。

「......私、やっぱり不安なんです。これから、デビューできるか。トレーナーさんにスカウトしてもらえるか。......トレーナーさん、これから私はどうすればいいでしょうか?...私と同年代の人にもデビューしている人はたくさんいます。その中で、勝った人も勝てなかった人も両方いることを知っています。...私は、どちらになるのでしょうか?...選抜レースに向けて、最低限のことはしています。トレーニングもしっかりしました。けれども、私の不安は収まらないんです」

 スカーレットの話は、そこで終わった。すると、タキオンは田上に憐れみの眼差しを向けた。なぜなら、今、スカーレットがした話は、田上自身も答えを見つけ出せずに悩んでいることだったからだ。

 田上は、その質問に酷く動揺したが、自分の様子に出してしまうことはなんとかこらえた。しかし、スカーレットの質問に対する答えなんて出てきそうもなかった。これは、田上のその可哀想な知恵を超えた問いだった。タキオンもまたその事を理解して、助け船を出した。

「...それは、トレーナー君には重すぎる問いなんじゃないのかい?彼は、一介のトレーナーに過ぎないよ」

「そうなんですか...?」と、失礼なことにスカーレットは、がっかりしたように言った。これは、田上としては全く面白くなかった。実に苦々しい出来事だった。勝手に期待されて、答えを求められたあげく、その問いの答えが返って来ないとなると、勝手に失望するのだ。迷惑以外の何者でもないだろう。そして、それに加えて、自分の好いている女性に憐れみの目を向けられ、助け船を出されるのだ。これによって、田上の自尊心は酷く傷つき、有りもしない答えの面影をくだらないことと思いながらも、無理矢理に導き出した。

 田上は、スカーレットの無遠慮な問いに少し腹を立てながら答えた。

「あるよ。...タキオンも失礼だな。自分のトレーナーを信用しろよ」

「私は、別に君を疑っている訳じゃないよ!?」

 タキオンは、心底驚いた!という面持ちで、田上に言い返したが、田上はそれを無視して言った。

「先行きが分からなくて、不安なときはな、心の中でこう念じればいいんだ。――私は、絶対に強くて、何もかも上手く行って、不安なことなんて何一つなくて、きっと最後に笑うのは私なんだ!」

 ここで、スカーレットが「そうすればいいんですね!」と嬉しそうに目を輝かせたから、タキオンは驚愕を隠せなかった。

「おい、待ってくれ!それじゃ、胡散臭い宗教となんら変わらないじゃないか!思い込みだよ、思い込み!そんなんじゃ、鬱病よりも酷いことになるだけだぞ!」

 田上は、鬱陶しそうにタキオンを眺めるだけだった。スカーレットもこの乱入者に少し腹を立てたようだった。

「なら、どうすればいいのか、タキオンさんには、分かるんですか?」とつっけんどんに聞いた。

「分からない!」

 タキオンは、素直にそう言ってから話を続けた。

「ただ、トレーナー君の話を信じちゃいけないってのは分かる。...スカーレット君にそんなことを吹き込むだなんて見損なったぞ!トレーナー君!」

 タキオンの本気の恨みが籠った眼差しに、田上はたじろいだ。

「だって、答えを出さなきゃ...」

「だっても何も、そんなに急く必要なんてないんだ。…分かるかい?トレーナー君。君には、時間はたっぷりあるし、私も傍にいるんだ。まさか、まだ私をか弱い女の子か何かだと思っているんじゃないだろうね?それなら、もう一度考えを改めたまえ。今、君の目の前にいるのは、『個にして全』であり、『全にして個である』アグネスタキオンだ。それ以外の何者でもない」

 タキオンの堂々たる発言にスカーレットも田上も恐れおののいたが、次の瞬間にはタキオンも普通の可愛らしい少女に戻った。

「さあ、トレーナー君。スカーレット君に何か言いたまえ」

 その口調は、少しくたびれているようだった。タキオンらしくもない凄みを出して、疲れてしまったのだろう。今にも消え入りそうなため息を吐いた。

 田上は、その様子を怯えて警戒しつつも反省し、普段通りの優しく憐れな田上へと戻った。その様は、まるで今までやんちゃをしていた犬が、飼い主に見つかり怒られて項垂れているようだった。

 田上は、今にも泣き出しそうな震え声で言った。

「ごめん、スカーレットさん。俺は、それに答えを出せるような高尚な人間ではないんです。自分の教え子に怒られるくらいのくだらない人間です。すいません、俺よりももっと良い人間はいます。保健室の赤坂先生に聞いてみてはどうでしょうか?まだ、マシな答えが返って来ると思います」

 そう言って、不安そうにタキオンを見た。タキオンは、初めのうちは、田上がこちらを見つめて、何を伝えたいのか分からなかったが、スカーレットの方にも田上が目を向けるとやっとその意味が分かった。

 だから、こう言った。

「その時には、私も同席しよう。私は、あの先生とは仲が良いんだ。...それに、そう言う悩みを持つ子は度々来るんだ。君だけじゃないから、赤坂先生もきっと言えることはあるはずだよ」

 スカーレットにそう言うと、今度は、田上の方を向いて言った。

「...君は、......来なくても良いだろう?もう君の領分ではなくなった訳だし」

 田上は、黙って頷いた。

 こうして、また、スカーレットの悩みも解決できずに、変に不安な雰囲気のまま、タキオンの話し声とカフェテリアの喧騒だけが耳に入ってくるかに思われた。しかし、不思議なことにスカーレットはにこにこしながら、残りの昼食を食べていた。これを不思議に思ってタキオンが聞くと、スカーレットからこう返ってきた。

「私、目標ができたんです」

「目標?」

 タキオンは、スカーレットの突拍子もない発言に、思わずそのまま聞き返した。すると、スカーレットはもっとにこにこして、言った。

「お二人の様になりたいんです」

 これには、話を聞いていただけの田上も怪訝な顔をした。それにも、スカーレットは、可笑しそうににこにこ笑った。

「...そうです。お二人の様になりたいんです」

 今度は、田上の方を向いて言った。だから、田上が首を傾げると、また言った。

「私は、先程のお二人のやり取りを見てて、思ったんです。――ああ、こうして、言いたいことが言えて、二人して助け合って、まるで気心の知れる親友のような関係になれたら、私も楽しくレースができるんだろうな、って」

 スカーレットがそう言うと、田上とタキオン二人揃って顔を見合わせた。二人とも考えていることは一緒だった。それを、タキオンがスカーレットに代弁した。

「私たちのことを、君は、まるで少年漫画のキャラクターか何かかと勘違いしているようだけど、私たちだって苦労しているんだぞ」

「あら、タキオンさん。少年漫画のキャラクターだって、苦労しているんですよ?」

 この言葉でタキオンは完敗だった。田上の方を向くと、どうしようもなさそうな顔をして、助けを求めた。すると、今度は田上が言った。あまり元気はなかったが、スカーレットを喜ばせるくらいのことはできた。しかし、それは田上の思っていた結果とは異なっていた。

 田上は、こう言った。

「スカーレットさん、あんまり高尚な人間ではありませんよ。...僕は。タキオンには助けられてばっかりです」

 すると、タキオンが口を挟んだ。

「何言っているんだい。君がいるだけで、私の助けになることもあるんだぞ。...それに、私も到底高尚な人間とは呼べないし、むしろ他人に迷惑をかけていたりする。そういう時に助けてくれるのが君さ。...分かるかい?そう落ち込むんじゃないよ。昨日から変だぞ、君は」

 とうとう触れられたくないところに触れられたが、それは、会話の波に瞬く間に流されていった。

「そういうところです!」

 スカーレットが、少し身を乗り出して言った。

「お二人のそういうところが、私はとても好きなんです。もう、本当に気心が知れているじゃないですか。言いたいことが言えているじゃないですか。その姿に私は憧れを抱くんです。それこそが、パートナーのあるべき姿なんです。タキオンさんには、分かりますか?」

 スカーレットの勢いがいつにも増して、物凄いのでタキオンはたじろぎながら「デジタル君みたいなものだな。こんな様子は」と呟いた。

 それから、三人は楽しく昼食を取った。今度は、スカーレットが会話の音頭を取ったが、何に配慮してか、前に話していた話題はその昼食中二度と取り上げなかった。これにより、田上は心地よく食べることができたし、タキオンも一々渋い顔をせずに済んだ。

 そうして、時間は過ぎて行き、三人は昼食を食べ終わり、スカーレットとは別れの時となった。田上とタキオンは、もう少し昼食の腹ごなしに歩きながら会話をするようだ。スカーレットにそれを知らせると、クスクス笑い出したので、田上とタキオン揃って似たようなしかめっ面をした。すると、またそれが可笑しくなってクスクス笑いをさらに高めたが、タキオンがなぜ笑うのか理由を聞いても、それはついぞ言うことはなかった。

 

 帰り道、寮の前で別れるとき、二人は向かい合って両手を繋いだまま話していた。

 それは、タキオンが田上と別れたくないとごねたからだった。

「もう、君と別れなくちゃならないのか。時が経つのは早いなぁ…。…もう少しいてくれよ」

「…また、離れたくなくなったのか?」

「そんなことないさ!」

 タキオンは、強がった。

「…ただ、もう少しだけ君と話していたいなぁって」

「そりゃあ、無理だろう。夕食も今日は食堂の方で取るつもりだし」

「なぜだい?別に、カフェテリアにちょっと歩いても構わないだろう?」

「それが、構うんだな。…もう、足がクタクタで棒みたいなんだよ。それに、筋肉痛だって、昨日の今日でまだ全然治ってない。残念ながら、お前との夕食は今日は無理だ。そもそも、夕食自体、帰りついた時に食べる気力が残っているのかも分からないし」

 そして、二人は段々と離れていって、明るかったのが日が落ちるまでの時間となった。タキオンは、一旦寮に帰って、また夕食をとりにカフェテリアへと戻ったが、田上は自身が予言した通り、自分の部屋に辿り着くと夕食どころではなくなって、辛うじてシャワーだけを浴びると、後は昏々と眠りについた。それは、昨日の夢とは違い、気持ちよく安らかに寝れる眠りだった。

 その夢の中で、田上はタキオンを描いてニヤリと笑った。タキオンもまたどう時刻に、田上の夢を描いていたが、それは田上への幾らかの心配が含まれたものだった。

 しかし、二人とも朝起きたときには、そんな夢はすっかり忘れ果てていた。



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十二、新年一回目の選抜レース①

十二、新年一回目の選抜レース

 

 今年も選抜レースの時期がやって来たが、その前に少し前回のタキオンたちのその後を語るとしよう。

 スカーレットと話をした次の日、タキオンは、保健室を訪れた。勿論、スカーレットを交えて赤坂先生と会話をするわけではない。タキオンの少しの私用だった。それは、田上のことで、内容は、田上と母親の関係性についてだった。別に、赤坂先生に報告する必要もなかったのだが、元々赤坂先生からの報告で田上の哀しみが発覚したから、その恩義に報いて、今回の帰省での事を赤坂先生に話した。

 赤坂先生は、最初、タキオンが入ってくると、今回の帰省での思い出を話すよう催促した。赤坂先生は、ニュースでタキオンと田上が同じ所に旅行に出掛けていたのを知ったのだが、タキオンの元気そうな顔を見ると、今まで心配していたものも落ち着いた。

 そして、電車で三時間ほどかけて竜之終町に行ったことや、田上の家族の事や、霧雨と冬の寒さで死にかけたこと、その次の日には、風邪もひかないで奇跡的に全快して初詣に行ったことも話した。それから、最後に田上の父に聞いた事を話した。

「トレーナー君のお母さんはね。言っても聞くような母親じゃなかったようだよ」

「ほう」と興味深げに赤坂が答えた。

「それなら、なぜ田上は母親のことを泣くほどに好いているのだろう?…そんな母親なら恨みを持ってもいいんじゃないか?」

 赤坂がそう言うと、タキオンが返した。

「そんなこと私にも分かりっこないよ。何しろ、彼、複雑なんだよ。溜めこんでいるんだよ。身の内に宿る想いを。私の事なんて、頼ってくれようともしない。…孤独が好きなのかねぇ…?」

「…そんな人間はそうそういないよ。大抵は、自分を孤独へと追い込んでいる。知ってか知らずか…、多分知らないんだろう。例え、自分が一人になったとしても、なんにも救われることなんてないってことを。…自分自身ですら救われない」

 その時に、タキオンは自分がもう戻れないことを想って、田上の懐で泣いた事を思い出した。それを、赤坂先生にも相談してみようかどうか迷ったが、結局のところ口を開こうとはしなかった。しかし、その様子は察せられたようだ。赤坂先生が、不思議そうな顔をすると、「なにかあったのか?」と聞いた。それには、タキオンも参ってしまった。もう田上だけにしか話さないでおこうと心に決めたのに、そこに話してみろと顔突っ込んできたのだ。これには、どうしようもなく、だが、少し躊躇いながらも話し出した。

 タキオンは、少しバツが悪いような感じで話した。

「……少しね?……私も泣いてしまったんだよ」

「泣いた?」

 赤坂が、怪訝そうな顔をした。

「勿論、私のはトレーナー君のよりずっと分かりやすかったよ。自覚している分。……それでも、少し…何と言うか、ちょっとトレーナー君に頼り気味になっちゃってね」

「へ~。…まぁ、タキオンがしっかり分かっていると言うんだったら、あんまり深入りはしないけど、ちゃんと田上にも頼ることを忘れるんじゃないぞ。それで、自分の事も見失うんじゃないぞ」

「そこのところは、全くもって大丈夫さ。むしろ、今はトレーナー君の方が重要で、…昨日なんかはスカーレット君に胡散臭い宗教みたいな事を吹き込もうとして…。勿論、彼も真面な人間ではあるんだよ。君も知っての通り。…ただ、やっぱりどこか不安定な箇所があって、そこを私はなんとかしてあげたいと思っているんだ」

 タキオンがそう言うと、赤坂先生は険しい顔をして、保健室の床を見つめていた。丁度、タキオンの座っている足元だったので、その時間が長くなるとむず痒くなって、タキオンは少しだけ足を動かして視線の左の方にずれた。

 すると、赤坂先生は話し始めた。

「…まぁ、あなたたちは、私から見てもいいパートナーだから、あんまり心配することもないと思う。多分、解決には導くことができると思う。…ただ、それが長い長い道のりになって、死ぬときになっても治っていないかもしれない。私は、それが心配だわ。…いずれ別れは来るし、それ以前に心の病が悪化したりするかもしれない。…タキオンにも田上と一生を添い遂げる覚悟はないでしょ?」

 赤坂先生がそう聞くと、タキオンは躊躇いながらも頷いた。

「私は、できるだけ彼の傍にいてやりたいと思っているよ。…ただ、……そんな…結婚なんて…」

 そう言うと、タキオンはなぜだか知らないが、心臓がどぎまぎして、顔が熱くなってきたような気がした。だが、そんなことを深く考える間もなく、タキオンの熱を冷ますように赤坂先生がこう言った。

「あんまり中途半端な覚悟で、結婚なんて望んじゃいけない。その人と一生を添い遂げる覚悟が必要なんだ。タキオンにそんなものがないんだったら、ただの憐みの感情なんかで傍にいるのは間違っている」

 その言葉を聞くと、タキオンは意気消沈したように「ああ」と頷いた。赤坂には、残念ながらその様子を察することはできなかった。ただ、話の終わりの「頑張ってね」という言葉を言うと、タキオンを保健室から帰らせた。

 これが、一月十日の出来事だった。

 

 それから時が流れて、一月二十五日金曜日。今年初めの選抜レースが行われる二日前となった。田上は、スカーレットに「トレーニングを見ていただけませんか?」と誘われ、タキオンといつも行っている運動場に足を向けた。このところ、レースのトレーニングもしておらず、のんびりと休養していたので、ここに来るのは久々だったが、相変わらずというわけにはいかなかったようだ。選抜レースの手前、たくさんの生徒がトレーニングをしようとここに押し寄せていた。一応、その場を管理する人はいるにはいるのだが、どうにも元々ここに来ているのがトレーニング慣れしていない未熟な生徒たちだったので、たった数人で管理するのは大変だったようだ。それでも、なんとか秩序は保って、柵の立てられた芝生の周りを大勢がぐーるぐると回っていた。

 こんなことでは、真面なトレーニングはできそうになかった。だからと言って、他にもある敷地内の運動場に行ったとしても、ここと同じような光景が見えるであろうということが予想された。

 田上は、頭を困ったように掻きつつも、スカーレットの走りをしっかりと見てみたかったので、ちょうど人のいない運動場のすみっこで短距離走として、瞬発力を計った。結果は、上々の出来で、選抜レースに出て勝つには申し分ないように思えた。しかし、それだけでは勝てると結論付けることはできないだろう。スカーレットの出る千八百メートルのタイムも計ってみたかったのだが、生憎、先程言った通りで、真面なタイムは計れそうになかった。しかし、ここは無理も承知で、たくさんいる人を避けてもらいながら、スカーレットに走ってもらうことにした。これは、やはりダメだったと、田上は思った。すると、ここまでついてきていて、今まで土手の草の上に寝転がって本を読んでいたタキオンが、田上に近寄ってきて言った。

「…これは、ダメそうだね。…今回は、ただ、走らせて様子を見るだけにしておいたらいいんじゃないのかい?彼女もトレーニングをしているようだし、選抜レースも一回じゃないんだから、こんな人のごった返した面倒臭いタイミングでしなくてもいいだろう?」

 田上は、その言葉に難しい顔をして、こう返した。

「…ただ、俺がこのまま放り投げて路頭に迷わすのもなぁ…」

「それなら、私から言ってやろう。…なに、彼女も分からない人間ではないし、そもそも有望株ではあるんだ。一日ごときのトレーニングで、選抜レースくらい負けはしないだろう」

 そう言うと、タキオンはちょうど目の前の方に人を避けながら走ってきたスカーレットを手を上げて制した。

「おーい、止まってくれ」

 タキオンがそう言うと、スカーレットは困惑した表情をしながら、タキオンを見、そして、後ろの方にいる田上を見た。

「何かあったんですか?」

 スカーレットがそう聞くと、タキオンが言った。

「私とトレーナー君とで話し合ったんだが、これは、いくらやっても無駄だ。人を避けながら、トレーニングなんてストレスが溜まるだけだ。…少なくとも、私はそうだが、…君もそうなのだろう?」

 スカーレットはタキオンの言葉に上手く反応できずに、困ったように田上を見た。すると、田上は言った。

「別に、走りたいなら走ってもいいんだけど、人を避けなくとも、この学校周辺の道路にあるウマ娘用のレーンで走った方がストレスは少なくすみそう。…そして、見た限りは、走り方にも特に問題点は見つからなかったから、選抜レースの心配はあまりしなくてもいいんじゃないか?」

 だが、この言葉でもスカーレットには上手く伝わらず、今度は、また困ったようにタキオンの方を見た。すると、タキオンは言った。

「要するに、選抜レースが不安で走りたいんだったら、君の好きなようにすればいいわけで、それが、道路であろうと運動場であろうと好きにしたまえ、ということだ。選択肢があるのは、トレーナー君なりの優しさだよ」

 その言葉でやっとスカーレットの理解は得られたが、それとは裏腹にスカーレットは少しの間思い悩んだ。というのも、やっぱりまだ、自分が力不足なんじゃないかと心配で、信頼できる人たちに見ていてもらいたかったのだ。タキオンは、それを察すると、思いついたようにこう言った。

「ん!…それなら、一度、私と競争しないかい?最初にやった、短距離走で。…あれでも分かることはあるのだよ?スカーレット君。…そして、GⅠウマ娘としての経験の違いってものを見せつけてあげよう」

 タキオンはそう言うと、「ひとっ走り着替えてくるよ」と言って、寮の方に駆けて行った。

 残されたスカーレットは、嬉しそうだった。なぜなら、二人はまだ一緒に走ったことなんてなかったからだ。それは、スカーレットが誘わなかったからで、もしスカーレットが誘っていたならばタキオンは喜んでそれに応えただろう。だが、スカーレットには、大先輩のGⅠウマ娘であるタキオンには到底敵いそうにないという思いがあって、今までそれを避け続けてきた。

 そして、今日、思いがけず競争する機会を掴めたが、スカーレットは先ほど言った思いとは逆に、大先輩と一緒に走れる、それも競争できることにワクワクしていた。これには、スカーレット自身も少し驚いた事であったが、それ以上にワクワクが勝って、タキオンが体操服に着替えてくるまで嬉しそうにニコニコしていた。

 

 タキオンが戻ってくると、三本先取の勝負が始まったが、そのどれもにスカーレットは負けて、叩きのめされた。一度、惜しいところまで言ったように思ったが、それでも届かないものは届かなかった。タキオンは、田上の方を向いて、ふふっと得意気に笑った。これが、GⅠウマ娘の貫禄だった。だが、これによってスカーレットが酷く落ち込むということはなく、むしろタキオンへの尊敬の念を強めた。

 これで、スカーレットは、一区切りついたようだった。

「外の方を軽く走ってきます」と言うと、田上の「あんまり走りすぎないように」との忠告を受けて、正門から外走名簿に名前を書いて走りだして行った。

 その後ろ姿を見ながら、タキオンが言った。

「私たちももうそろそろトレーニングを再開しないとね」

 タキオンの言葉に田上は、「うん」と頷いた。なんだか元気がないように思えた。

 もうすぐ、空が紅に染まる時間だった。その兆候は見え始め、空の端の方がぼんやりと赤く染まり出した。

「もう、今日からしてしまおうか」

 タキオンが、もう一度田上に言った。今度は、田上も答えなかった。少し心配そうに田上の顔を眺めた。

「…何を思い悩んでいるんだい?」

 タキオンが聞いた。すると、田上が答えた。

「……スカーレットさんは、…速いだろう?」

「勿論さ。当たり前の事を聞いてどうするんだい?」

「…もしかしたら、別の道だってあっただろ?走らないで絵を描いたり、詩を書いたり…。…それなのに、どうしてお前たちウマ娘は走るんだ?三冠やGⅠを志すんだ?」

「…それは、…私には難しい質問だけどね。…一つだけ言えることは、私が走ることを志さなかったら君と出会えたことなんて万に一つの可能性もなかっただろうって事だね」

 そう言うと、田上が顔に少し笑み作った。

「…なら、案外悪くないことのような気がしてきたな。…ウマ娘って」

 薄暗くなってきた。雲も立ち込めてきた。紅に染まるかと思われた空は、灰色のどんよりとした雲に覆われた。田上たちは、今日のところは帰ることにした。ただし、暗くなるまで学園内を散歩した後でだった。

 二人は、一言もしゃべらず、ただ、足の向くままに任せた。時々、二人が別々の道を取ろうとすると顔を見合わせてニコッと笑い、そして、どちらかの選んだ道に舵を取った。どちらの選んだ道に舵を取るのかは、その時その時だった。タキオンの時もあれば田上の時もあって、その判断の仕方なんて二人にはなかった。ただ、あどけない雰囲気に合わせて、舵を取った。

 

 そして、土曜が過ぎた。土曜は特に何もなかった。一度、タキオンが「暇だ」と言って、訪ねてきたこと以外は、平穏そのものだった。タキオンは、暇だから田上の部屋に入りたそうにごねていたが、田上は、それをドアの前で何とか追い払った。その様子を終始寮の誰かが見ているので、田上は顔から火が出るかと思うくらい顔が熱くなった。

 タキオンは、田上が「何か相手をしてやるから」と言うと落ち着いて、それ以上ごねなくなった。それから、田上は自分の部屋に立て籠もる事の出来る機会を掴んだのだが、それはしなかった。タキオンが部屋の前で待っていることを知っていたし、もしそれをして、タキオンの呼び出す声が聞こえてくれば逆らえないのは、身に染みてわかっていたからだ。

 田上は、寮の共有スペースの方にタキオンを連れて行き、そこで「トランプでもなんでもしてどーぞ」と言った。タキオンも初めのうちは乗り気のようだったが、田上のトランプの腕が想像以上に弱いことを知ると飽き始めて、遂にはそこらへんのトレーナーにちょっかいを出し始めた。

「君、何か面白い話をしたまえ」とか「君の五十メートルのタイムはいくつだい?」とか、友人でなければ反応のしようがない面倒臭い絡み方をした。その度に田上は、タキオンとその人の間に割って入って、「すみません、うちの子が」とまるで実際の親のように謝った。そうすると、タキオンは面白がってクスクス笑った。田上が、それに面倒臭そうにため息を吐くと、さらにクスクス笑った。

 その後は、いよいよタキオンも何もないと知ると、落ち着きを取り戻して、共有スペースのテレビを見ては「そいつは見当違いだな」とか「見ろ、トレーナー君。北海道で熊が出たそうだ。…これは生中継しているやつなのか?」と声を掛けた。その度に田上は顔を上げて、それに答えた。特に何もない土曜日だった。

 それから、もう寮に帰る時間になると、タキオンを見送った。別に不審者なんてこの学園にいるはずもないし、そもそもウマ娘に敵う男なんているはずもなかったが、暗かったので田上は一応タキオンに付き添って寮の前まで送った。

 寮の前まで着くと、タキオンと田上は別れの言葉を交わして、そのまま別れた。田上には、タキオンから「転ばないように気を付けてくれよ」という心配の言葉が授けられた。

 寮の方に戻ると、今まで共有スペースで二人でソファーに座っていた様子を見ていた霧島にからかわれた。実のところ、霧島は田上とゲームをしたかったのだが、それが叶わなかったので、ちょっとした鬱憤を晴らしたかったらしい。田上には、それが霧島の口調で分かった。分かったからと言って、そんなやつの相手なんてする気になれずに、食堂の方に行くと、飯を食ってそのまま部屋に帰った。

 

 日曜日になった。今日は、朝から騒がしかった。皆それぞれが興奮して、いつも遅くに起きている人でも早く起きているらしい。田上が準備を整えて共有スペースに行くと、そこにはワクワクした顔の人たちがいくつもいくつも並んでいて、うんざりするほどだった。田上も今日は、選抜レースを見に行く予定だったので、早くに起きた。自身のトレーナー室からあれこれの必要なものを取っていかなくてはならなかったからだ。

 選抜レースは、まだもう少し遅い時間、九時から始まるが、田上が起きたのは六時半だった。これでは、田上もトレーナー室から荷物を取りにいかなければならないと言えど、興奮して起きてしまった事には言い逃れができなかった。

 田上は、共有スペースの中に友人たちの顔を見つけたから、ここで話しかけられては面倒だと思い、こっそりと隠れるように外へと出ていった。

 

 外に出れば、そこも人でごった返していて、まるで祭のようだった。生徒がトレーニングに使うものではない、レースとして使うレース場は、トレーナー寮の傍ではなくもっと先の方にあったのだが、それでも人は大勢いた。

 この時期から、新規のトレーナーが入ってくる。十一月くらいに中央トレーナーの資格を取る試験を済ませて、そして、一月くらいにトレセン学園内へと入ってくる。普通の企業などであれば、年度末などを基準にするのだろうが、この学園は時間の進みというものを気にしていないようだ。世間とのズレなど気にせずに、自分たちの思うがままにやっていた。

 それでいて、トレセン学園を主な就職先としたトレーナー専門の大学でさえ、卒業の時期が少しずれていたりもするので、その齟齬に田上は苦労したりもした。

 だが、今年のトレーナー諸君は見たところ大丈夫なようだった。心配で腹の調子を崩している人もいなさそうだし、広いトレセンの中で迷子になる人もいなさそうだった。どの顔も満ち足りていて、幸せそうでうんざりした。この中の何人が、トレーナーという職を嫌になってやめるのだろうかと思ったからだ。だが、それは実際のところは、ただの妬みでしかなかった。自分自身に一瞬たりともなかったその希望の表情を、嘘の仮面だと思って、見下しているだけだった。

 

 田上は、人の流れに逆らいながらトレーナー室へと向かった。この時期は、不審者にも注意しないといけない。知らない顔が次々と入ってくるので、誰が誰でこれがあいつなんて、分かる人はそうそういないのだ。それだから、たまにそういう騒ぎがあったりする。だが、トレセン内の警備がすぐに駆けつけ、騒ぎを起こす奴はすぐに連れて行かれた。何人雇っているのかは知らないが、トレセン学園の財力は底が知れなかった。トレーナーも数知れず居るし、ウマ娘もそれ以上に数知れず居る。

 知らないウマ娘もたくさん入ってきていて、人の流れの中にいた。たまにぶつかったりすると、ぎろりと睨まれたが、こちらが「すいません」と言うと、途端にその顔を食い入るように見つめて、隣の女子に囁いた。

「あれ、アグネスタキオンさんのトレーナーさんじゃない?…あれ。…あの……、田上トレーナー」

 これは、全部田上に聞こえていたが、無視して先に進んだ。

 

 ウマ娘寮の前にも人だかりができていたが、これは新しい人たちではなく、ぞろぞろとやってきた新しい人たちを見る、興味津々なウマ娘っ子の集まりだった。その中の一番後ろの方に、タキオンのアホ毛が伸びているのが見えたような気がしたが、気のせいだと思うと、田上はトレーナー室へ歩を進めた。

 その途中で田上が声を掛けられることもあった。大抵は、今年は入ったトレーナーばかりで、度胸の据わってない人でなければ、田上の厳めしい顔に話しかけることなどできなかった。そして、そういう人たちは、決まってGⅠウマ娘を育てたコツなどを聞き、田上から碌なものが聞けそうにないと知るとがっかりして去って行った。これには、田上も気分が悪くなった。なぜ、見ず知らずの他人にがっかりされないといけないのか?

 そして、今月十日のスカーレットとの出来事を思い出した。あれには、自分も痛くなるほど反省していたので、そのことを掘り返されて、苦々しい気分になった。

 そんな時だった。タキオンが後ろから走ってきたのは。

「おーい、トレーナーくーん」

 そう後ろから声が聞こえてきた。見ると、人の波を掻き分けて、タキオンが近づいてきているのが分かった。白目を剥いて死んでいるデフォルメされたライオンが描かれている服を着ていた。恐らく部屋着か何かなのだろう。それくらいに軽快な服装だった。

 あんまり変な服だったし、公衆の面前でタキオンと会うのも何だか恥ずかしかったため、田上はその呼びかけを無視して先に行こうと腹を決めた。しかし、その直後、タキオンの「あイタ!」という声が聞こえ、思わず振り返った。タキオンは、人混みに紛れて見えなくなっていた。

 田上は、タキオンに何事があったのかと心配になって、すぐに後ろの方に戻った。すると、人混みから外れるようにタキオンがヨロヨロと出てきた。そして、出てくると、すぐにそばの花壇に腰かけて、自分の足を眺めていたから、田上は近寄って「大丈夫か?」と声をかけた。

「何かあったのか?」

 田上がそう聞くと、タキオンが足の指を抑えてこう言った。

「足を踏まれたんだよ。…すみませんと謝りはしたけど、ウマ娘の足がどのくらいに大切か分かっていないようだねえ。すぐに、先の方に歩いて行ったよ」

 タキオンは、それから自分足を眺めた。冬だというのに、サンダルで出歩いていたから田上はぎょっとした。

「お前、なんでサンダルでここに来たんだ?」

「ん?…君を見つけたからだよ。何か急いでいるようだね?どこに行くつもりだったんだい?」

「…別に急いではいないよ。トレーナー室に荷物を取りに行っているだけ」

「それなら私も同行しよう」

 これは、タキオンの方が急いでいるようだった。タキオンは、急いで立ち上がると、田上に「行こう!」と呼びかけた。なんだか様子のおかしいウマ娘に引っ張られながら、田上は仕方なしにその後について行った。

 

 トレーナー室に着くと、タキオンは少しそわそわしているようだった。田上が、荷物を取りに行くだけと言っているにも関わらず、本棚の前に立ってどの本を読もうか選んでいるので、タキオンは田上の横に付いて「はやくしろ」と急かした。

 これには、田上も良く思わず、タキオンに「何かあったのか?」と聞いた。すると、タキオンは何かに気が付いたようにはっと目を見開き、そして、落ち込んだように肩を落として言った。

「…すまない、トレーナー君。少し興奮していたようだ」

 タキオンは、そう言ったが、田上の質問に明確に答えていないことは、田上にも分かった。だから、こう聞いた。

「なんで、興奮してたんだ?」

「なんで?」

 タキオンは、オウム返しにそう言うと、急に固まった。そして、「なんで…?…なんで…?」と繰り返しながら、その顔は次第に熱を帯びていった。田上には、何でタキオンがこんなにも言う事に詰まっているのか不思議でならなかったが、わざわざそんなことに触れるのも悪いだろうと思ってこう言った。

「もう荷物を取ったから帰るぞ」

 途端に、タキオンが「ああ!待ってくれ!」と大きな声を上げたから、田上は、怪訝な顔をしてタキオンを見つめた。この顔は、タキオンには少し堪えた様だった。驚いて「どうしたんだ?」と声を上げてくれれば、タキオンも話しやすかったが、そうやって怪訝な顔をして心配そうに見つめられると、出てくるものも出てこないかのように思えた。

 だが、タキオンは、無理矢理言葉を捻り出した。ここで言わねば、今後、言う機会がないような気がしたからだ。もしあるとすれば、それは喧嘩になったときくらいだろう。そんなことはごめんだった。

 タキオンは、小さく自分の言う事を恥じるように言った。

「……君、もう新しい子のスカウトなんかをする気なんだろう?」

 タキオンが何を話したいのかまだ分からなかったが、田上はとりあえず頷いた。

「…そうなのか……。ならば、その話はもう少し早く私に伝えてもらえると助かったんだがね」

 今度のタキオンは、少し怒っているようだった。ただ、それでも理解できずに、田上は曖昧な口調でこう言った。

「…俺は、大丈夫だと思ったんだけど…。お前にも、俺がスカウトするつもりがあるって、バレてしまったし」

「バレたことが許可に繋がることには思えないだ。私は。…それに、君は大阪杯まで私の環境を変えないつもりだということを言っていただろう?それは、どうなったんだい?」

「…それは、…もう大丈夫だとばかり思っていたから…。ごめん…。…なら、もうこの荷物もいらないか」

 田上が、がっかりしながら机の方に荷物を置いたので、タキオンは慌てて言った。

「別に、君の事を責めたいんじゃなくて……、ねぇ、分かるかい?ちょっと私にも気を遣って欲しかっただけで、君を貶したいんじゃないんだよ。ただ、……」

 ここでタキオンは顔を赤らめた。どうも、赤坂先生と話したあたりからおかしかった。田上と一生を添い遂げる覚悟なんてないはずなのに、そのことが頭の中にチラついて仕方がなかった。しかし、タキオンはここで踏ん張りを見せると、最後まで言い切った。理由は、やっぱりこれを言わなければ、今後後悔してしまうような気がしたからだ。

「…ただ、…君にこの前私を抱きしめてくれたような温もりが欲しいだけなんだよ。…それが、なくならないかが心配であって、君にどうこう言いたいわけじゃない」

 タキオンは、そう言うと、ここで全力を使い切ったようにふーとため息を吐いた。田上は、タキオンの言葉を聞くと、苦々しげな顔をした。田上にとって、タキオンを抱きしめた事は良い思い出とは言えないからだ。しかし、タキオンは田上に返答を求めるように見つめていた。世界が傾いていくような気がした。こんなことに答えなんて出したくなかった。

 そのうちに、世界は真っ白になった。

 

 気が付くと、目の前にタキオンの顔があって驚いた。慌てて起き上がると、周囲を見渡した。ここは、淡い光の差し込むトレーナー室だった。そして、どうやら自分はタキオンに膝枕をされていたようだった。なぜ、そうなったのかは分からなかった。ただ、立ち上がるとすぐにフラッときて、机の端にしがみついた。すると、タキオンが心配そうに寄ってきて言った。

「大丈夫かい?どこか痛む場所などないかい?…君は今倒れたんだよ」

「倒れた?」

 オウム返しに聞いた。

「そう、君は今、倒れたんだ」

「…どのくらい?」

「ついさっきさ、一分も経たないうちに君は起き上がったよ」

「……なんで膝枕をしてたんだ?」

 田上が、苦しそうにそう聞くと、タキオンがこう言った。

「君の事が好きだからさ」

「好き?」

 田上の心臓が飛び跳ねながらも、またオウム返しに聞いた。

「そう。君の事が好きで好きで堪らなくて、愛しいその顔を眺めていたかったのさ」

 田上は、何も言えなかった。遂に念願の夢がかなったと思ったからだ。しかし、同時にあることにも気が付いた。それは、目の前にいるのはタキオンではないという事だった。

 それに気が付くと、再び世界が傾いた。そして、ぐるんと一回りすると、田上は、トレーナー室の天井を見つめて、寝転がっていた。

「トレーナー君!?」

 タキオンの悲鳴が聞こえてきた。先ほど見たのは、夢だった。しかし、現実のぎりぎりまで近づいたリアルな夢であった。実際に、田上は倒れていた。

 田上の見た夢は、初めのうちは鮮明に覚えていたが、タキオンが心配して駆け寄ってくるぱたぱたという足音が近づいてくるにつれ、その夢は朧げになっていった。その夢の名残を掴もうと、田上は空中に手を伸ばしたが、その先には本物のタキオンが現れた。田上の伸びた手を握ると、心配そうに言った。

「君、大丈夫かい?頭打ってないかい?意識は?…あるね。…生年月日は?名前は?どれもこれも言えるかい?」

 田上は、フラフラする頭を無理にでも動かしながら、体を起こした。タキオンは、なおも心配そうに田上の傍にいたが、田上はタキオンに構う余裕などなかった。堪らなく悲しくなったからだ。朧げな夢の先に見えたタキオンの姿が。あんな夢を見たことが。

 田上は、大きく疲れを絞り出すようにため息をついた。隣には手を握って、タキオンがいた。田上は、その手を解こうとしたが、これはタキオンが頑として受け付けなかった。すると、また一つため息をついた。

 タキオンは、聞いた。

「…何がそんなに悲しいんだい?」

 田上は、これに答えることはできなかった。喉に腫れ物ができて、その道を塞いでいるように思えたからだ。ただ、静かに首を横に振った。目頭も熱くなってきた。タキオンの前で泣きたくなどなかった。それを一生懸命堪えるように、田上は息を荒くした。

 タキオンには、今、田上の中でのっぴきならない事が起こったのを感じ取った。しかし、本人がそれを我慢しようとしている以上、何も言うことができなかった。――せめて、私を頼ってくれたらいいのに。タキオンは、そう思った。

 田上の悲しみは、タキオンにも伝染した。タキオンも田上の顔を見ていると、段々と悲しくなってくるような気がした。しかし、自分が感情の渦に飲まれてはいけないと心を強く保ち、そして、自分自身と田上を励ますように殊更に強く手を握った。

 すると、田上はゆっくりと落ち着きを取り戻してきた。荒ぶっていた田上の息も次第に普段の状態に戻った。それでも、タキオンは手を離そうとはしなかった。タキオンは、田上の手が白くなるまで強く握っていたが、これは無意識にやっていたことだったので、田上に「痛い」と言われて初めて、自分がこんなにも強く手を握っていたことに気が付いた。

 ただ、「痛い」と言わせたことで、田上の口を開きやすくすることはできたようだ。タキオンが、何が悲しかったのかもう一度聞くと、一応、口を開いてくれた。しかし、それは何にもならず、もう何が悲しかったのかは覚えていないという旨を伝えられただけだった。

 タキオンには、どうしようもなかった。ただ、田上の容体はもう大丈夫そうだという事を確認すると、立ち上がってこう聞いた。

「今からどうするんだい?」

 田上には、これから選抜レース場に行く予定があった。しかし、それをタキオンに伝える努力はしなかった。代わりに立ち上がることに全力を割いた。フラフラとおぼつかなかった。タキオンは、それを支えた。答えは聞いてなくとも分かっていた。今のは、念のために聞いただけだった。

 タキオンは、田上の傍にぴったりと寄り添って、その体が進むのを支えた。ドアを開け、荷物を持ち、体を支えているその様は、まるで長年を共に過ごした老夫婦のようでもあった。しかし、それは紛れもない田上とタキオンで、田上も普通に歩けるようになると、タキオンの体の支えを解いて、離れて歩こうとした。しかし、それはタキオンが許さなかった。

強引にその手を掴むと、人の流れの中に身を置き、流れが一歩一歩進むたびに、タキオンたちも一歩一歩進んだ。

 不思議なことに大衆の面前だというのに、タキオンと手を繋ぐことはさほど恥ずかしくはなかった。ただ、胸の内にえも言われぬむず痒さができて、その心地よさに口元に微かに笑みを作っただけだった。



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十二、新年一回目の選抜レース②

 選抜レース場の観客席の椅子に座ったが、日頃の疲れが出てしまったのか、タキオンの方に寄りかかって田上は、昏々と眠ってしまった。これで、初めてタキオンが田上に楽をさせてあげることができた。と言っても、できたのは寄りかからせてあげることだけだったが、それでも、田上はとても安心して深く眠っているように見えたので、タキオンは嬉しかった。

 昼食の時間になっても、田上が起きる気配がなかった。さすがに、タキオンもこのままじっとしておくというのは難しかったので、田上を慎重に横にすると、席を三つくらい使って田上を寝やすい体勢にしてあげた。それで、ついでに自分も楽な姿勢になった。席を三つ使ったことについては、他の人たちに奇天烈と思われていそうな目を向けられたが、タキオンは気にしなかった。今は、田上に楽をさせてあげたかった。田上の頭を自分の太ももの上に乗せると、その顔をなんとも言えない感情を持って見つめた。少し緊張するようでもあったから、自身の心臓の音なども聞こえてきて、それが、タキオンに揺さぶりをかけた。

 田上の顔がとても愛おしく見えた。不健康で青白いその顔が、髭の濃い顔が、今まで幾多の苦悩に見舞われてきたその顔が、今はとても愛おしく思えた。タキオンは、田上の頬をそっと撫でた。まだ、自分の心に整理はついていなかった。第一、タキオン自身、愛や恋なんて自分には分からないもの、と決め込んでいたから、田上を想うこと自体、計り知れないことだった。

 冬の寒さが、田上の体を冷やしていた。タキオンは、一生懸命、田上の手を温め、頬を温め、首を温めた。この時程、ウマ娘であってよかったと思ったことはないだろう。その感情は、母性に近いまであった。タキオンは、そのことに気が付くと、急に赤坂先生の言葉を思い出した。

――ただの憐みの感情なんかで傍にいるのは間違っている。

 すると、タキオンは同情で田上を想っていたのかと考えて、なにがなんだか分からなくなった。母性に近いその感情は、実は、ただの同情だった。この声が、頭の中を占めてきた。そんなことは、嫌だった。タキオンは、自分が自分として田上を想っていると信じたかった。しかし、考えれば考える程、信じれば信じる程、自分の想いは分からなくなった。

 タキオンは、黙って、田上の顔を見つめた。冬風に吹かれて寒そうだった。さらには、その風に雪も混じってきた。もうここにはいられなかった。田上を起こすと、「もう帰ろう」と小さく言った。

 田上は、目を覚ますと、タキオンの顔が目の前にあって、それで、夢の事をふっと思い出した。しかし、それはタキオンの儚げな「もう帰ろう」という声によって打ち消された。確かに、冷たくて寒かった。しかし、まだ、競走は終わっていなかった。

「俺はどのくらい眠ってた?」

 田上は、慌ててタキオンに聞いた。

「君の腕時計を見れば具体的な時間は分かると思うけど、ざっと四,五時間は寝たんじゃないのかな」

「じゃあ、昼飯は食い損ねたわけだ。……一時五十分。スカーレットさんのレースは、まだ終わってないみたいだな」

 タキオンが、「もう帰ろう」と言ったのにも関わらず、田上は、まだウマ娘のスカウトを続けるようだった。タキオンは、悲しそうな顔をしたが、田上は、今は寝て元気が有り余っているようで、芝の方を見つめては、「二時から始まるのには間に合えたようだな」と言った。

 タキオンは、田上の気を引くようにその袖を引っ張った。すると、田上は、タキオンの方を振り返ったが、何か言う前にもう一度前の方を振り返った。というのも、前の方から声をかけられたからだった。

「あの~、すいませ~ん」と女の人の声が聞こえてきた。見ると、成人した女性のようではあったが、髪は美しい金髪の、頭にはウマ耳を、腰には尻尾を生やした正真正銘のウマ娘だった。しかし、小柄ではあったので、果たして生徒としてここにいるのかトレーナーとしてここにいるのか、田上には判断がつかなかった。その間にも、タキオンは「帰ろう」と言って、田上の袖を引っ張るので、田上は軽く混乱して、「えーっと…?」としか言えなくなった。

 田上が混乱しているのを察してか、その女性はこう言った。

「私、今年からトレーナーになったんです。ナツノマテリアルと言います。…えっと、私の間違いでなければ、田上圭一トレーナーですよね?」

 田上は、タキオンの手を「やめてくれ」と言って軽く叩くと、今度はマテリアルの方に向かって「ええ、そうですよ」と答えた。マテリアルと名乗るウマ耳の生えた女性は、田上がタキオンと少し揉めているのを見ると、話しにくそうにしたが、自分の用件ははっきり言った。

「私、田上トレーナーの下で暫く学ばせて貰いたいのですが、よろしいでしょうか?」

 マテリアルが、こう言うと、タキオンも袖を引っ張るのをやめて、驚いたように目の前にいる女性を出会ってから初めて見つめた。端正な目鼻立ちに、綺麗な肌、その表情は、どこか女としての自信があって凛々しさが透けて見えた。その表情にタキオンは、ドキッとした。だが、綺麗なそのブロンドの髪は、気の強い女の人のように後ろの方でぴっしりとポニーテールに括られていて、その美しさは、気の強さに半分持っていかれているような気がした。

 田上は、マテリアルの要望を聞くと、困ったように頭を掻いて、そして、タキオンを見た。その時、タキオンはマテリアルに見とれていて、田上の視線には気がつかなかった。だから、田上は、もう一度マテリアルの方に振り替えるとこう言った。

「生憎、今は補佐とかを使う必要もないから、…人員はいらないんだよねぇ」

「そこをなんとかできませんか!ぜひ、田上トレーナーの傍で学ばしてもらいたいんです!」

「学ばしてってねぇ…」

 田上は、マテリアルの勢いにタジタジになりながら、後ずさりもできないため、少しだけ身をタキオンの方に傾けた。

 すると、また「ぜひ」と言って、マテリアルが詰めてきた。田上は、またも困ったようにタキオンを見ると、今度は、ちゃんと目が合った。しかし、その顔は少し恍惚としていた。

「私は、…良いと思うよ」

 口調も恍惚としたままタキオンは言った。その様子に田上は困ってしまったし、言った事にも困ってしまった。田上の予想した通り、タキオンが賛成の意見を述べるとマテリアルはすぐに調子に乗ってこう言った。

「ほら、アグネスさんもこういっていることですし、ぜひ、私を補佐に加えていただけませんか?本当に、…本当に田上トレーナーの下で学びたいのです」

「…学びたいって言ってもねぇ…。…学べることなんて何一つないと思うよ。俺は、ここまでタキオンに引っ張ってこられただけだから、むしろ、ここからがトレーナーとしての本領を試される正念場で、一人を育てたからと言って、それだけで判断するのは些かまずいのでは?」

 田上は、口だけのトレーナーの様な偉そうな口調を真似して、この場からマテリアルを追い払いたかったのだが、マテリアルからはこうも言われた。

「私は、田上トレーナーだけでなく、今、活躍中であるアグネスタキオンさんの走りを見させてもらうことにも意義があると思います。GⅠウマ娘がどのように考えて、どのように走るのか。また、普段からどのようにトレーナーと触れ合いながら、トレーニングをしていくのか。それを、肌で感じながら学ばせてもらう。そのことに、私は大変な意義を感じます」

 これには、田上も頭を抱えた。マテリアルは、絶対に譲らない人のように思えた。今の口調からも、意思が固い人であることは感じ取れた。だからと言って、田上の方もなんだか面倒臭そうという思いは譲れないので、こう言い返した。

「なればこそ、あなたのように熱心な人は、私の傍に置いていくことはできません。彼女たちウマ娘は、走るためにここに来ているのです。決して、新米トレーナーに自分の走りを学ばせるために来ているのではありません。…厳しいことを言うようですが、他を当たってください。補佐じゃなくてもトレーナーはできるし、僕じゃなくてもGⅠウマ娘のトレーナーはいます。…他を当たってください」

 田上は、きっぱりと言葉を区切ったのだが、その直後にマテリアルはタキオンの方を向いて、言った。

「アグネスさん、今の田上トレーナーの物言いについて、どう思われますか?」

「えっ、私?」

 タキオンは、急に話しかけられて驚いたが、隣の田上の「何も話さないでくれ」という顔は全く見もしないで言った。

「…私は、マテリアルさんが補佐になっても構いません。…走りを見られたとしても、それで集中を乱されるような私ではないし、トレーナー君に関しては、……まだ私に引っ張られてここに来たと思っているのかい?」

 タキオンは、最後に田上に聞いた。これには、田上も答えたくなかったが、マテリアルの手前渋々答えた。

「俺は、…まだそう思ってるよ。実際に、お前のためにできたことなんて何一つないんだから」

「あのねぇ、君がいてくれるだけで私の励ましになったんだ。君がいたからこそ菊花賞を優勝することができたんだ。…私は、引っ張ってきたつもりもないし、これからも引っ張っていくつもりもない。また、置いていくつもりも断じてない。そのことは分かってくれ。…それとも、君は置いて行かれたいのかい?」

 田上は、タキオンの顔を見つめたまま何も答えなかった。すると、横からまたマテリアルが口を挟んできた。

「その感じです!私が学びたいのは、二人がどう切磋琢磨していくかです。その景色こそ、美しいとお思いになられませんか!」

 田上はしかめっ面をしたし、タキオンもどうもその表現は好きになれなかったようだ。少しだけ眉を寄せた。

 それから、田上が言った。

「なら、もう学べたのではないでしょうか?これが、僕たちの全てです」

「いいえ。私は、そのこれからが見たいのです。一つの場面を切り取って、これが全てなんてことはあり得ないのです!」

 美しく凛々しいその顔が、今は興奮に満ちて、輝いていた。

「もし、田上トレーナーが良ければ、それを間近で見させてください。どうぞ、よろしくお願いします」

 そう言って、マテリアルは頭を下げた。周囲が、少しだけざわついた。道行く人の目が、通る度通る度、田上たちを――何があったのだろうと見つめて去って行った。田上には、その視線が痛いほど突き刺さって、慌ててマテリアルに言った。

「ちょっと頭を上げてください。…とりあえず、…とりあえず、明日まで返答は待ってもらえますか?」

 田上の言葉にマテリアルは、顔を輝かせて、思わずガッツポーズをした。その後で、気の緩そうなニヤケ顔を作って、タキオンに向かって言った。

「お隣、座らせてもらってもよろしいでしょうか?」

 タキオンは、快く了承した。田上としては、これ以上二人に仲良くなっては困るのだが、タキオンはマテリアルに興味津々だったようだ。マテリアルが隣に座ると、早速こう聞いていた。

「君、随分と肌が綺麗だねぇ。…ただ、化粧が濃いわけでもないようだし、…何か食生活に気を付けていたりするのかい?」

「へ?食生活?」

 マテリアルは、素っ頓狂な声を出した。よほど、田上に押し勝ったのが嬉しかったらしい。今は、気が抜けて凛々しさも美しさも消えて、代わりにウマ娘らしい可愛らしさが残った。だが、田上はと言うと、この後のレースを全てつまらなさそうに眺めて、一着で走り終えた子をスカウトしにいく素振りも見せなかった。ただ、スカーレットが走ったときは、重い腰を上げて、行ってみようかな?という気にもなったが、隣で楽しそうにしているタキオンとマテリアルを見ると、その気も失せた。終始、二人は楽しそうに話していて、どうやら完全にタキオンはマテリアルの味方になっていたようだった。

 今度、遊びに行ってみようかという話を聞いた時は、田上も慌てたが、会話の弾んでいる者の常として、その話はいつの間にか忘れられていて、田上も気付かないほど自然に別の話に移り変わっていた。

 タキオンが気になっていたのは、マテリアルのその美貌だった。どのようにしてその美しさが保たれているのか、どのようにしてその凛々しさがあるのか、タキオンは知りたかった。だから、話が移り変わっても、思い出してはそのことを聞いていた。すると、マテリアルは決まってこう言った。

「大したことはしていませんよ。ただ、私には女としての誇りがあるだけです。それがあるだけで、顔つきは変わって見えますよ」

「ふむ、…なら私はどうだい?女としての誇りがあるのかな?」

「それは、田上トレーナーの方に聞いてみてはいかがですか?」

 田上には、この会話が聞こえていたから、なんでこんな面倒臭いことを自分に押し付けてくるんだろうと、恨めしくなった。

 タキオンが聞いてきた。

「私の顔に女としての誇りがあると思うかい?トレーナー君」

「…そんなものなくてもいいんじゃない?タキオンはタキオンだから」

 田上が、そう言うと、タキオンは奇妙なものを見た、という顔つきをした。そして、背もたれに寄りかかって目の前に広がっている芝のコースを見やった。北風が、急に顔に吹きつけて、なぜだか帰りたくなった。

「トレーナー君、帰ろう」

 タキオンは、また田上の袖を引っ張って言った。すると、田上は振り返ってタキオンを見たが、次にマテリアルの方も見た。マテリアルは、「どうそ、続けてください」というようにニコニコ笑っていた。

 田上は、話すことも面倒臭かったが、仕方なしにこう言った。

「あと一つのレースで終わるから、それを見たら帰ろう」

 しかし、タキオンは「嫌だ」と言って、田上の袖をもっと強く引っ張った。田上には、どうしようもなかった。すると、マテリアルが立ち上がってこう言った。

「私は、もう立ち去らせていただきます。…今日の予定は、もう済んだので。……明日には、返答を聞かせていただけるのですよね?どこに伺えばよろしいですか?」

 田上は、タキオンとマテリアル双方の対応に追われながら、なんとかマテリアルに言った。

「明日は、トレーナー室にいておきます。中校舎の一階で、トレーナー室の前には名前が書いてあるのでそれで判断してください。それでも分からなかったら事務室で。...タキオンやめてくれ!」

 田上が、そう言うと、マテリアルは去っていった。その後は、田上はタキオンの対応に追われた。

 タキオンは、こう言った。

「君、もう今日はスカウトするつもりなんてないのだろう?なら、帰ろうじゃないか、一緒に」

 こう言われると、田上も弱かった。タキオンに言う通り、もう今日はスカウトすることを半分諦めていた。寝てしまったし、途中で邪魔が入ったし、何より、タキオンとの不満のいざこざはまだ解決に至ったように思えなかったからだ。しかし、その言葉が逆にスイッチとなって、田上はタキオンに言った。

「俺は、まだスカウトしたいと思っているよ」

「嘘だ。君、全然、走り終えた子にスカウトしようとしなかったじゃないか!」

「…大変なんだよ。見極めるのは。…それに、お前たちが隣で騒がしくて、集中できなかったし」

 すると、タキオンは言葉に詰まったが、無理矢理にその言葉を消化するとこう言った。

「…ねぇ、帰ろう。ここにいたって意味がないじゃないか。それだったら、まだ、君が部屋に戻って、マテリアルさんの処遇を考えたほうが意義があると思うんだよ」

 タキオンが、そう言うと、田上は思い出したように言った。

「タキオンは、ナツノさんが補佐に入ること、本当に良いと思っているのか?」

「…え?…ああ、うん。私は、構わないよ。彼女、ちょっと話しただけだけど、良い人間ってことは分かるし、ちゃんと筋も一本通ってるってことが分かる。もしかしたら、君なんてすぐに追い越して、GⅠウマ娘を何人も育て上げてしまうかもしれないね」

「……そうであってくれる事を願うよ」

 田上は、タキオンの話を途中で聞くのを止め、生返事だけを返した。

 もう暗くなってきていた。最後のレースがこれから始まろうとしているが、それはもう少し先となるだろう。タキオンが、また袖を引っ張って言った。

「…帰ろう、トレーナー君。もう寒いよ」

「…先に帰ればいいんじゃないか?別に、お前一人ででも帰れるだろ?」

「そ、そりゃそうだけど!…君は、…君は、私が帰ろうって言わないと帰らないだろ?」

「このレースで帰るよ。何言ってるんだ」

 田上の心ない一言にタキオンは項垂れた。それを見やると、田上も仕方なさそうな顔をして言った。

「だって、お前は、別に関係ないだろ?あと一レースくらい見て帰ったっていいじゃないか?お前には、何の支障もないぞ。…それに、俺はちょっと眠れたから元気なのは元気だぞ」

「…でも、倒れたじゃないか。すぐに、意識が戻ったと言っても、倒れたっていうのは不健康な証拠だぞ。もっと自分の体に気を遣いたまえ」

 タキオンは、少し拗ねたように言っていた。田上もそのタキオンの言い草に困ってしまった。的を得ていると言えば的を得ているのだが、実際のところ、今の田上はすこぶる元気だった。だから、どうしようもなさそうに言った。

「そりゃあ、タキオンが心配してくれているのは分かるけどさ。たかが、残り一レースだ。これで、健康にも不健康にもなりようがないだろ?」

 田上の正論にタキオンは、もう何も反論できなくなった。ただ、田上を恨めしそうにぎろりと睨むと、こう言った。

「私は、もう帰る!勝手にすればいい。私の気遣いなんてなんのそので、綺麗な女性でも見つけて鼻の下でも伸ばしておくがいい」

「鼻の下?…ナツノさんのことを言っているんだったら、俺は鼻の下なんて伸ばしていない。むしろ、鼻の下を伸ばしていそうだったのはお前の方だったぞ」

「…君は、失礼なことを言うな。…ああ、そうさ。仮に彼女に鼻の下を伸ばしていたとしよう。…それで、何になる?君は、一緒に帰ってくれるというのかい?」

「お前は、俺と一緒に帰りたいのか、俺を心配しているのかどっちなんだ。話し方が面倒臭いぞ」

「私は、…私は~、君と一緒に帰りたいし、君が心配でもある」

「一つに絞れ!」

 業を煮やした田上が、タキオンを叱責した。すると、タキオンは初め驚いた様な顔をして、その次に悔しそうな顔をして言った。

「もういい。本当に帰る。もう、誰でもなんでもスカウトしてろ!」

 タキオンは、そう吐き捨てると、席を立って観客席から離れていった。再びタキオン、そして、田上の方に視線が集まった。どうにも面倒臭かった。なんで、自分が突然機嫌の悪くなった子供の相手をしないといけないのかと思った。しかし、そのままタキオンを放っておくこともできないので、田上はため息をつくと立ち上がった。そして、できるだけタキオンの背が目の届く範囲にあるように、ノロノロと歩き出した。

「タキオン、なんでそんなに機嫌が悪くなったんだ。別に、俺の事なんてお前には関係のないことだろ?…俺たちが帰省した時のように、…ちょっと落ち着かなかったりするのか?」

 距離があってそれなりに大きな声だったので、帰省した時の出来事は他の人に勘付かれないように曖昧に話した。すると、タキオンが振り返りもしないでこう言った。

「落ち着かない?…いいや、そうじゃないね!…関係のないこと?……これもそうじゃない!」

 ここで、タキオンは振り向いた。そして、田上が追いつくまで待って言った。

「君、私との関係がないと言っているが、本気でそう思っているのかい?」

 タキオンが、詰め寄ってきたので、田上はたじろいだ。それから、どもりながら言った。

「あ、ああ、そうだよ。だって、俺がいつ眠ろうが、お前には関係のないことだろ?そりゃ、前だったら、研究如何実験如何で健康な人間が必要だっただろ?…でも、今は違う。お前は、研究をやめると言ったんだ。それだったら、お前には俺の健康なんてどうでも良いはずだ」

「どうでもいいわけないだろ!」

 タキオンは、声を荒げた。

「…はぁ、これで、やっと分かったよ。…君、私に対して情があるとか、結構前に言っていたことがあるけど、それは嘘だね?君、私の事が嫌いなんだ。だから、こんな意地悪をするんだ」

「いや、お前の事が…」

「いいや、嫌いだね。正直に言ってごらん。私は、何とも思わないから。…どうだい?私の事が嫌いなんだろ?」

「別に、嫌いってことは…ないけど…」

 田上は、しどろもどろになって答えた。タキオンの事は、好きなのに、このままでは勘違いされてしまいそうだった。

「じゃあ、嫌いじゃないって言うんなら、なんなんだい?……ほら、答えられないだろ。じゃあ、つまり、君は私の事が嫌いなんだ。…心配しないでくれ。契約は、このままにしてあげるよ。その代わりに、これからのコミュニケーションは必要最低限だ。余計なことは喋るな」

 タキオンは、そのまま言いたいことだけ言うと、逃げるように、まるで何かに責め立てられてるように去って行った。田上は、その後を追うことはできなかった。タキオンの足は、まるで今日がGⅠ競走であるかのように速かったからだ。田上は、すぐに追うのを諦めた。そして、振り返ると、自分の荷物が椅子の上に置かれていることを思い出した。それから、もうすぐ今日最後のレースが出走する合図も聞いた。しかし、レース場の方に足は向かなかった。ただ、薄暗くどんよりとした曇り空の夕方の下、自分の寮へと戻った。自分の荷物を取りに戻る気はなかった。その元気がなかったからだ。頭の中は、タキオンの事で一杯だった。なぜ、あんなことを言われたのか分からなかった。嫌いだとか嫌いじゃないとか、そんなことが田上の脳裏で渦巻いた。

 頭の中で整理がつかなかった。あまりにも突然の出来事だったからだ。それを、田上が真面に食らっていたならば、今頃悲しみに打ちひしがれて涙を流していたかもしれないが、幸か不幸か、涙は一つも出てこなかった。もしかしたら、田上は不幸だったのかもしれない。もし、タキオンがそう言った後すぐに泣いて謝れば、タキオンも戻ってきて、田上を許したのかもしれない。しかし、こうなってはどうしようもなかった。ただ、タキオンの言う事が嘘であって、明日になったら普通に話してくれるかもしれない、と願うだけだった。

 

 田上は、寂しい道を歩き、寂しい寮に帰った。その途中で、トレーナー男子寮の寮長に声をかけられた。本の間に挟まっていた田上の部屋を変更させてもらう要望書を見つけたから、ちょうど部屋の空きがあって、今すぐにでも変えていいとのことだった。しかし、田上はこの知らせに喜ぶことはできず、却って、悩みを深まらせるばかりとなった。自分の部屋の荷物を一人で運びきることなんて、田上にはできなかったし、また、手伝ってくれる当てもないように思えた。実際の所であれば、友人たちに一度声をかければ、瞬く間に喜んで集まったと思うが、田上にはそんな考え自体なかった。ただ、タキオンに、言わば裏切られたように感じ、目の前が真っ暗な深い絶望に覆われた。

 タキオンに嫌われてしまえば、田上の依るところなどなんにもないように思えた。

 夜は更けていった。田上は、眠りについた。しかし、あまり落ち着きのある眠りじゃなく、終始、なぜだろうなぜだろうという疑問がついて回った。

 

 一方、タキオンは、田上と別れた後に涙を流していた。走りながら、その想いを振り切るように瞬きをし、より一層速度を速めた。そのためか、寮までは一瞬で着いた。タキオンの心は、まだ整理のせの字もないくらいぐちゃぐちゃに汚れていた。涙もぽろぽろと零れていた。あんなことを言ってしまった自分こそ意地悪なんじゃないだろうかと思った。田上が、自分のことを嫌いでないことは知っていた。けれども、秋頃に夕日の下で言われた矛盾に気が付くと、その事が勝手に口をついて出た。自分の未熟さを呪った。田上もまた未熟であるのに、あんなことを言って傷ついてしまったろうと思った。しかし、謝る気にはどうしてもなれなかった。――これこそが、自分の未熟であるところなのだろう。そう思うと、なぜだか涙は引いた。だから、タキオンは、寮に入ると、自分の部屋までこそこそと歩いて行った。今日出会った尊敬すべきマテリアルとは、全く逆のことをしているような気がした。

 そうしていくうちに、何人かの友人に話しかけられたが、そのどれもにタキオンは返事を真面に返さず、ただ自分の部屋だけを目指して、視線に怯えながら急いだ。



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十二、新年一回目の選抜レース③

 ドアを開けると、机には同室のアグネスデジタルが座っているのが見えた。デジタルは、タキオンがドア開けて入ってくると、暫くは机に向かって集中していたが、やがて一区切りつくと振り返って、タキオンに言った。しかし、それはすぐに心配の声に変わった。

「おかえりなさい、タキオンさん。……目が、…腫れていますけど、どうかなさったんですか?」

 タキオンは、デジタルに話しかけられて、ビクッと怯えたが、その後にまた涙がぽろぽろと零れてきた。

「タ、タキオンさん、大丈夫ですか!?やっぱり、泣いていたんですか!?…誰が、タキオンさんを泣かせたんですか!デジたんが、そいつをとっちめてやりますよ!」

「……トレーナー君だよ。私の。……君にそれができるかい?」

 タキオンの言葉にデジタルは、動揺した。そんなに踏み込んだものだとは思わなかったからだ。

「え、えっと、…トレーナーさんなら仕方がありませんね。…なっ、仲直りの手伝いをしてあげましょうか?」

 途中で声が裏返ったり、どもったりして大変だったが、何とか言い切った。しかし、次のタキオンの言葉はデジタルにはもっと大変だった。

「…仲直りなんて、あっちが望まないかもしれない。…私は、トレーナー君に酷い事を言ったんだよ、デジタル君。君にそれが分かるかい?」

「わ、分かりません…」

「分からないだろう?分からないなら、その口を閉じてくれ。…そして、できるなら、一晩私を放っておいてくれ」

 タキオンは、そう言うと、箪笥から自分の洋服を取って、また部屋の外に出て言った。恐らく、大浴場に入りに行ったのだろう。まだ、そんな時間ではないのに、風呂に行ったタキオンは、デジタルにはどこかおかしく見えた。

 デジタルは、その後を追いかけようとも思ったが、タキオンに怒られたのが想像以上に身に堪えて、その場から動くことができなかった。決して、怒鳴るような恐怖を与える起こり方ではなかったが、「心底そう願っているぞ」というようなある種脅しの様なもので、それもデジタルを縛り付けた。そして、結局は、動けるようになっても、タキオンを追いかけにはいかず、自分の机についた。自分の収集した数々のウマ娘のグッズが目の前に広がっていた。壁につけてある棚、棚、棚にグッズが置いてあり、それから、机にも二つぬいぐるみが置いてあるのだが、机の両脇にタキオンを模したぬいぐるみ、デジタルを模したぬいぐるみがそれぞれ置かれていた。それを見やると、何だか切なくなった。

 

 そのうちに、タキオンが風呂上りの良い香りを漂わせて、部屋に入ってきた。デジタルは、話しかけようかかけまいか迷ったが、そう思って振り返って見たタキオンの目は、「絶対に話しかけるな」と言っていた。だから、デジタルは、そのまままた前の方を向いた。だけども、まだ諦めることはできずに、少しそわそわしたまま、机にある汚い部分を見つめた。そうすると、ベッドに寝転がってスマホを眺めていたタキオンが話しかけてきた。お風呂に入って少しだけ元気を取り戻したようだった。

 タキオンは、こう言った。

「デジタル君、…君、私が風呂に入る前、私のトレーナー君をとっちめてくれると言ったね?」

「えっ?……デ、デジたんは、そんなことは言っていなくて、…何か、不良にいじめられたのなら、あたしがとっちめてあげようかな?と思って、言った物でございます」

 すると、タキオンがハッと小バカにしたように笑った。

「…不良?…君、本気でそう思ったのかい?そう思ったのなら、君も随分バカだねぇ。私が、不良なんかに負けるわけがないじゃないか。その気になれば、噛みついてでも抵抗してやるさ。…ただ、まぁ、賢い私であれば、戦うよりも逃げる方を選択するよ。喧嘩を吹っ掛けてくるようなバカの相手なんて、真平御免だからね」

 そこで話は終わったかのように思えたが、暫くした後、タキオンが話を続けた。

「それで、話があるんだけどさ。…君、ちょっと私のトレーナー君にちょっかいをかけてくれないか?」

「ちょ、ちょっかいですか!?…あたしには無理ですよ!」

 デジタルは、話が途切れた後もタキオンを心配そうに見ていたので、話にすぐに反応することができた。しかし、その反応の速さも空しく、タキオンにこう切り捨てられた。

「いや、君ならできる!」

 そして、タキオンは続けた。

「むしろ、君にしかできないことなんだ。…いいかい?話をよく聞いてくれ。…明日、私のトレーナー君は、トレーナー室にいるはずなんだ。何の用かは知らないけど、とにかく居るという話は聞いた。…それで、トレーナー君がいるはずだから、そこに君がこう言って飛び込むんだ。――タキオンさんのトレーナーさん!あわわわわ、タキオンしゃんが…タキオンしゃんが…。もう、そう言うだけでいい。すると、トレーナー君は話も聞かずに飛び出すはずだ。だから、君は、それを屋上の方へ誘導してくれ。あたかも、私が自殺をしようとしている風に見せかけてね。…でも、騙す言葉は使ってはダメだよ。あくまでもトレーナー君の勘違いなんだから」

 ここで、デジタルが不安そうに「難しそうですね…」と呟くと、タキオンは言った。

「問題ない問題ない。彼は、結構騙されやすいから、芋芝居でも何とかなるよ。それよりも大事なのは、故意に騙さないこと。私たちは、悪いことをするんじゃないんだ。あくまでも彼の勘違いに繋げるということを忘れないでくれ」

 デジタルは、頷いた。もうこの話に、不完全ではあるが乗り気のようだった。デジタルが頷くと、タキオンもまた満足そうに頷いて言った。

「…それで、君が屋上の方に連れて行けば、四階の階段の途中で私がいる。そして、私が紙を投げつけるんだ」

「…紙、…ですか?」

「そう、紙だ。――正直者はバカを見る!屋上の私を助けに頑張ってね、モルモット君…と書いてある紙だ。そして、それを読んでいる頃には、私はもう立ち去っている」

「…それじゃあ、あたしはどうなるんですか?」

「君?…君は、ネタばらしでもしていたらどうなんだい?それで、トレーナー君のがっかりした顔を楽しむとか」

「あたし、タキオンさんのトレーナーさんのがっかりした顔を見て楽しむなんてこと、やろうと思ってもできませんよ!」

 デジタルは、そう抗議した。すると、タキオンは、眉を寄せて有無を言わさない口調で言った。こういうのは、大抵、自身のトレーナーにする口調だったが、今日のターゲットはデジタルだった。

「君、いつもは私の頼みだったら、素直に聞いてくれるというのに、今回はどうしてそんなに抵抗するんだい?普段通りに振舞えよ。普段通りに」

 タキオンが、そうチクチク刺すように言うと、デジタルは困ったように言った。

「あたしは、…デジたんは、タキオンさんとトレーナーさんが喧嘩しているのなんて見たくないのです。…喧嘩した後に仲直りする姿は、真に尊ぶべきことだと思います。…でも、その前には必ず悲しみとか恨みとかがあります。…デジたんは、それを見たくありません。できることなら、皆でそれを鑑賞しながら、――昔はこんなこともあったよね、と言いたのです。…当事者になんてなりたくありません」

 タキオンは、そう言ったデジタルを少し憐れに思ったが、次にはチクチク刺すような口調は変えずにこう言った。

「君には、使命があるんだ。別に、私とトレーナー君の仲直りをしなくたっていい。そもそも、これは私の鬱憤晴らしなんだ。喧嘩なんてものじゃない。ただの……、私の!勝手な意地悪だよ!」

 タキオンは、そう言い切るとキッとデジタルの方を睨んだ。デジタルは、それに怯えたが、そんなことは気にせずにタキオンは続けた。

「君は、してくれるんだろうね?万に一つも断るなんてことはしないだろうね?」

「……デジたんは、タキオンさんの頼みとあらば、なんでも成し遂げます」

 デジタルは、俯いて床を見つめながら言った。

「例え、火の中水の中。…どこへ行こうと、ついて行って見せます。…タキオンさんのトレーナーさんを騙す……勘違いさせることだって…。…けれども、二人の仲が破滅に向かっていくのは見たくはありません。…タキオンさんは、本当にトレーナーさんと仲直りしないおつもりですか?」

 デジタルが、そう言うと、タキオンはたじろいだ。

「あ、ああ、そうさ。仲直りなんてするつもりはないね。だって、彼は、私の事なんてどうでもいいんだ」

「…でも、タキオンさんは、帰ってきたときに涙を流しながら、――酷いことを言ったんだよ、と言いませんでしたか?あれは嘘だったんですか?」

「う、嘘に決まっているじゃないか。気が動転してたんだよ。彼の言い分に」

 タキオンは動揺しつつもそう言ったが、デジタルは、タキオンには読めない表情でタキオンの事を見つめていた。それは、まるで「本当にそうですか?」と言っているようだったが、それがタキオンには分からず、ただもやもやとした思いを抱えるのみとなった。

 

 その後は、デジタルは、結局タキオンの意地悪に協力するという形で、話が終わっていった。タキオンは、夕食を食べる気にはなれなかった。元々、風呂に入った時からその気持ちはなかったが、先程のデジタルの顔を見れば、その気持ちはもっと失せた。

 デジタルは、夕食を食べに部屋から出ていった。やっぱり、タキオンの事を心配そうに見つめていたが、話が終わってからは、そのような顔をすることはあっても、タキオンは話しかけなかったし、デジタルもまた話しかけなかった。タキオンは、デジタルが出ていくとその部屋の電気を消し、眠りにつこうとした。しかし、中々眠れずに、時計はチクタクと過ぎていき、途中でデジタルが夕食を食べて戻ってきた。デジタルは、部屋の電気が消えているのを見ると、驚いたように固まったが、タキオンが寝ているのだろうと思うと、音を立てないようにこそこそと歩き、今度は、自分の着替えを持って部屋を出て行った。デジタルもまた、大浴場に行くのだろう。タキオンは、デジタルがしっかりと閉め切らなかったドアの隙間から伸びる光に目をやった。誰かが通ったのだろうか?その光は度々遮られて、目に鬱陶しかった。だから、仕方なしに立ち上がると、タキオンはドアをしっかりと閉めに行った。

 そして、やっとうとうととした微睡みに到達することができた。しかし、まだ眠ってはおらず、目なんて半分開いていて、デジタルの帰りをぼんやりながらも感じ取ることだできた。デジタルは、できるだけ音を立てないように動いていたが、自分の机の前までくるとさすがに電気はつけた。まだ、なにかしたいことがあったのだろう。机に向かうと、その後は、何かを一生懸命書いてる音しか聞こえなくなった。

 タキオンは、さらに微睡みに誘われ、デジタルの輪郭もおぼつかなくなった。すると、タキオンのベッドからは机に向かっているデジタルの背が見えるのだが、それが、段々とある日の田上の姿に見えた。こんな背中は見た覚えがなかったのだが、それは確かに田上に見えた。だから、タキオンはその背にこう呼びかけた。

「トレーナー君…」

 それは、言葉になっていなかったかもしれない。何しろ、微睡みの最中で、呂律が回らなかったのだ。その上は、声もふにゃふにゃとしていて小さく、デジタルに聞こえたのかすら怪しかった。しかし、タキオンがそう言うと、デジタルが微かに身動きした。そして、タキオンの方を振り返ると、暫く見つめてから、近寄って行った。これは、タキオンには全て田上がしているように見えていた。だから、デジタルが近づいてくると、口の中で何かふにゃふにゃ言って笑った。それから、眠りについた。デジタルは、タキオンの床に落ちそうな掛け布団を正そうと近づいて行ったのだが、思いがけず笑いかけられて少し戸惑った。しかし、タキオンが寝ぼけていたのだろうと思うと、デジタルも微かに口元に笑みを浮かべた。そして、タキオンの布団を落ちないように正した。タキオンは、デジタルのおかげで少しだけ安らかな眠りについていた。しかし、その時に見た夢は、生臭い嫌なにおいのする夢だった。自分を責める夢だった。そのことでタキオンは、多少嫌な思いもしたが、朝起きてみれば、何もかも忘れていた。ただ、田上に意地悪をすることだけを考え、田上が、それを受けてどんな思いをして帰るだろうかという事を考えた。しかし、そこで問題が発生した。なんと、今日から冬休みが終わり、三学期の始まりだった。サボり魔のタキオンは、三学期などどうでも良かったが、デジタルは違った。いつでもできるというわけにはいかなかった。だから、こう提案した。

「二時間目の休み時間にしましょう。一揆です。そこで、一揆を起こすんです。あたしの中のデジたんは、総動員ですよ。必ず、憎き田上トレーナーめを滅ぼして見せます」

 デジタルは、自分を奮い起こそうと躍起になって、どこのだれともつかない、農民とも武士ともつかない人の物真似をしていた。これには、タキオンも少し引いた。

「別に、憎くは…」

 そう言ったが、デジタルはそれを遮った。

「時を待ちましょう!機会は必ず訪れます!その度は、私が何よりも高らかに響く角笛を吹きとうございます!お許しいただけますか!」

「あ、ああ…」とタキオンは、デジタルの勢いに挫けそうになりながら了承の返事をした。今や、何よりも田上を打ち滅ぼそうとしているものは、デジタルだった。タキオンは、軽いお遊びのつもりだったのだが、デジタルがこうなってしまっては止めようがなかった。自分も急いで田上に投げつけるための紙に文字を書いた。――正直者とバカモルモット。こんなくだらない遊びに付き合わされて、さぞ大変だったろう。もうどこにでも行ってしまえ!

 少しむしゃくしゃしながら書いたら、昨日言ったこととは、異なることを書いてしまったが、最後まで書ききれたし、内容は田上さえバカにできれば良いので書き直すことはしなかった。ただ、紙の下になにも敷かずに油性ペンで濃く書いてしまったので、机の方にインクの黒い染みが残ったのが、タキオンには残念だった。しかし、もうすることもないので、タキオンは自分も教科書の入ったバッグを持つと、デジタルの後に続いて、校舎の方へと歩いて行った。それは、久々の授業だった。

 

 先生は、タキオンがいることに大層驚いているようだったが、タキオンの出席を確認すると嬉しそうに顔を綻ばせた。このクラスに友達は少なかった。何人か話しかけてくる人はいたが、それは大体興味本位であって、タキオンと友達だからではなかった。大抵の人は、タキオンを敬遠していた。GⅠウマ娘であって、その上、怪しげな実験ばかりしている変人。これが、タキオンに貼られたレッテルだろう。実際のところは、そんなに怯える程タキオンは変人ではなかった。ほとんどの人と話が合うことはないが、カフェやその他友人と話すことはできるのだ。会話などに難があるわけではなく、タキオンが、そういうつまらない輩と話したくないだけだった。

 ただ、このクラスにも友人はいる。トーキョーアルトという名前の子と、ハナミビヨリという名前の子だった。タキオンとしては、この子たちと一緒にいるのが一番楽だった。他の子のようにひっきりなしに喋ったりしないし、例え、一緒に歩いていたとしても無理に会話をしようとしない。つまり、タキオンに気を遣わせないのだ。だから、タキオンがたまにしか来なくても、友達でいてくれるし、久々に話してもつい昨日会ったかのように話してくれる。これが、タキオンにはとても楽だった。

 タキオンは、窓際の一番後ろの中庭に面した席だった。その中庭は、正門に面した一番大きい校舎、南校舎と中校舎の間にある中庭で、一般的には、「綺麗な方の中庭」と呼ばれていた。それは勿論、もう片方が汚いからで、北校舎と中校舎の間の方はなぜか年がら年中芝生が枯れていて、例え夏になったとしてもその草が伸びることはなかった。それで、学園の抵抗として、花壇をそこに据えているが、枯草の前にはそれもあまり輝かなかった。

 タキオンは、綺麗な方の中庭を見つめていた。すると、そこに田上が現れた。何をしているのかは分からない。ただ、中庭を横切っているように見えた。あんまり見たくもない後ろ姿だったが、なぜだかタキオンは、食い入るようにその背を見つめた。今は、一時間目の授業中だったから、外を見ているタキオンの耳に、先生の声が念仏のように聞こえた。女の先生の甲高い声だった。それが、波のように大きくなったり、小さくなったり、高くなったり、低くなったりして、タキオンの耳に纏わりついた。

 田上は、南校舎と中校舎を繋ぐ渡り廊下のところまで来ていた。先生の声が、タキオンの頭を占めるようになってきた。甲高くひび割れるように、その声は聞こえ、タキオンはそれを嫌がった。しかし、田上から目は離せなかった。そして、渡り廊下の手前で田上は立ち止った。これから何をするのか、タキオンはじっとそれを見ていたのだが、驚くべきことに、田上は振り返るとそのまま探すようなそぶりも見せないで、真っ直ぐにタキオンを見た。その目は、タキオンは憎むように睨んでいた。タキオンは、その目を見たくなかったから、いよいよ目を離そうと思ったが、顔は動かそうと思ってもびくともしなかった。先生の声は、耳鳴りとなった。もう右も左も分からないまま、田上を見つめていた。すると、田上はふっと、その場から消えた。タキオンには、何が起こったか分からなかった。どうして、田上が消えたのか。しかし、それが起こったおかげでタキオンは、顔を動かせるようになった。窓の外から目を離し、クラスを見回した。誰も何も、田上が消えたことには気が付いていないようだった。先生の甲高い声も、前と同様多少の不快さはあったが、タキオンに耳鳴りを与えたような物凄い嫌な気分にはさせなかった。

 そして、タキオンは授業を聞きながらうとうととした。眠気などは何もなかったが、自然と強制的に眠りへと誘われた。

 それから、目が覚めると、先生が横に立っていて、「アグネスさん、起きてください」と声をかけていた。すると、タキオンは、今まで見ていたのが、夢だったのに気が付いた。境目が分からないほどのリアルな夢だった。これが、何を暗示しているのか…。それが、タキオンには分からなかったが、とりあえず、先生の言う事を聞いて、一時間目の授業はそれから眠らずに終えた。と言っても、授業の話なんて聞いておらず、さっきの夢の事をタキオンはむっつりと考え込んでいた。

 

 授業が終わると、一時間目の休みが入った。だから、タキオンは、久々に会う友人に話しかけに行った。休み時間だったから、皆がそれぞれ好きに立ち歩いていて、アルトとハナミもそうだった。アルトは、自分の席から動いていなかったが、ハナミがアルトの前の席に移動していた。アルトの前の席の人は、友達とどこかに行ってその席にはいなかったからハナミが座っていても問題なかった。タキオンは、アルトの席の左隣の、これもまた空いている席に座って、「やあやあ」と呼びかけた。すると、二人とも右の方向を見て話していたのだが、タキオンの声がした方向に振り向きこちらも言った。

「やあやあ、アグネスタキオンさん。今日もおはようございます」

 のんびりとアルトが言った。

「やあやあ、アグネスタキオンさん。ご機嫌はよろしくて?」

 明るくハナミが言った。すると、タキオンは、ふふふと笑って言った。

「久々だねぇ、君たち。今日もおはよう。ご機嫌も…まあまあよろしくて」

「あら、まあまあ?…何かあったのかしら?…心配ね?アルトのお嬢様」

「心配だわ。顔を見てごらんなさい。…授業中ぐっすり眠った顔をしてる」

 そう言うと、二人ははははと明るく笑った。その様子にニコニコしながら、タキオンは言った。

「君たち二人もお変わりないかな?」

「ああ、変わりはないよ」

 アルトがそう言った。

「元気元気。冬の寒さも脳天をカチ割るくらいには元気」

 ハナミもそう言った。

 タキオンは、満足げに笑った。しかし、次の瞬間には二人に話そうと思っていた授業中の夢の出来事を思い出して、顔をしかめた。すると、二人ともタキオンの顔を見つめて、それからアルトが心配そうに言った。

「…タキオン、どこか痛いの?」

「え?…いいや、別に痛いってわけじゃないんだけど、さっき夢を見たんだよ」

「夢?」

 ハナミが聞いた。

「そう夢だ。…ただ、やっぱり君たちに話すような夢じゃなかったかもしれない」

 タキオンがそう言うと、急にアルトが表情を変えて言った。

「おいおい、なんだよー。そこまで言っといて、躊躇うのか?最後まで話せよ。最後まで」

 それから、タキオンの膝をちょんちょんと突いた。すると、タキオンも煩わしさを感じたが、それは奥の方に秘めて、微かに口角を上げて言った。

「だって、君たちに夢の話をしたってしょうがないだろ?」

「しょうがない?…まぁ、しょうがないっちゃしょうがないか」

 アルトは、タキオンの微笑みで、その内に秘めているものに気が付いたようだ。反省したようにそう言ってから、ハナミの方に助けを求めるように見た。だから、ハナミが言った。

「私たちに話してみてもしょうがないけど、人に話してみて初めて分かることってあるでしょ?順序良く言葉にしてみれば、見てみたくないものも見たいと思っているものも見えてくるんじゃない?」

 ハナミの言葉にタキオンは、――もっともだ、その通りだ、と思ったので、渋々ながらも言った。

「私、物凄くリアルな夢を見たんだよ。…夢と現実の境目も分からないくらいリアルな夢をね?」

 すると、タキオンが、そこで話を止めてしまったので、アルトが、「それで、それで?」と聞いた。話を聞いてくれる観客としては、二人は申し分ないもののように思えた。タキオンが、言葉に詰まると上手く話を引き出してくれたし、盛り上げ方もくどくなく、それがさらにタキオンに話しやすいようにしてくれた。

「…私、中庭でトレーナー君を見たんだよ。…私の席があるところの視点からね。…トレーナー君は、中庭を横切って歩いてた。それで……」

「そして、どうなったの?…まさか、いきなり服を脱ぎだしたとか?」

 これは、ハナミが言ったのだが、これには、タキオンも少し笑った。そして、話を続けた。

「いや、そんなんじゃないさ。…ただ、歩いていただけ。…するとね、先生の声が、急に耳鳴りのように聞こえだしたんだよ。初めのうちはまだよかったんだけど、時間が経てばもう頭がおかしくなるくらい。…それから、トレーナー君がこっちを見たんだ……」

 ここでまた話が途切れたから、ハナミが言った。

「どんな様子だったの?」

「…どんな様子。……どんな様子。…どんな様子?……忘れてしまった。…思い出せないや。トレーナー君は私を見て、どんな顔をしてたんだろう?」

「忘れたの!?」

 アルトが、少しだけがっかりしたように言った。それから、こう続けた。

「…まぁ、忘れたんだったら仕方がないけどね。また、思い出したときくらいに私に言ってよ。私、他人の夢の話聞くの、結構好きなんだよね」

「なんで?」とハナミが聞いた。

「その人のちょっとした物語じゃん。夢って。…それで、その人がどんなことに悩んでいるんだろうとか、どんなことに怒っているのだろうとか知ることができれば、それは大層な物語に化けると思うんだ」

 すると、ハナミが「アルちゃんってそういう本好きだもんねー」と相槌を打ったから、タキオンも同じく相槌を打って、こう聞いた。

「君がこれまで聞いた事のある夢の中で一番傑作だった夢ってなんかあるかい?」

「ない」

 アルトは、きっぱり言い切った。その後に、のんびりと穏やかな笑顔を作って言った。

「だって、夢って、すごく難しいんだもん。一生懸命、分かろう分かろうとしても、一遍だって最後まで分かり切ったことはない。…まぁ、それでも面白いものは面白いんだけどね。大抵の夢は、難しすぎるから忘れてしまう」

 すると、タキオンは目を丸くした。

「君、分からないと言っても、分析しようとしているのなら、それは凄いことじゃないか。大抵の人は、それを見過ごすんだよ」

「えへへ、そ~お~?」とアルトは、タキオンに褒められて嬉しそうにしていた。だから、ハナミもそれが羨ましくなって、「私も次から分析してみようかな…?」と呟いた。それにタキオンは、反応して言った。

「おや、やってみたまえよ。アルト君の言う通り、結構面白いよ。自分の夢というのは。ただし、分析するのはこれまたアルト君の言う通り、難しい。簡単に行くようなものじゃないし、私もあんまりコツは分かっていないから、外しているときがあるかもしれない。…今回も分からなかったしね」

「…どう?田上トレーナーの様子思い出せた?」

 唐突にアルトが聞いたが、タキオンは、暫く考え込んだ後、黙って首を振った。

「そうかぁ…。…もしかしたら、投げキッスをしてたとか?あの顔でそんなことされたら、私だったら、嬉しすぎて舞い上がっちゃうな~」

「どうしてだい?」

 タキオンが、少し不安になって聞いた。アルトは、その様子に気が付いたが、何にも触れないで少し微笑んでからこう言った。

「だって、可笑しいんだもん。田上トレーナーに投げキッスされたら、タキオンでも笑っちゃうでしょ。私もこそばゆすぎて、ぞわぞわして舞い上がっちゃうもん。…と言っても、田上トレーナーにそんなサービス精神があるとは思えないけどね。……あっ、もうすぐ授業始まる。どっちか一緒にトイレに行かない?」

 ハナミとタキオンは、揃って「嫌だ」と返した。それを聞いたアルトは、にやっと笑って「薄情者」と言った。それから、席を立ち上がり、トイレの方に急いで駆けて行った。

 タキオンたちもここで解散となったようだ。ハナミとタキオンは、それぞれ「バイバイ」と言うと、自分の席に戻って行った。途中でタキオンは、ハナミの方を振り返ると、ハナミもまたタキオンの方を見ていた。ハナミの方が席が近かったから先に座っていた。座ってニコニコしていた。そして、タキオンと目が合うと、もっとニコニコとし、それから、口パクでこう言った。

「た・の・う・え」

 その後に、手でハートマークを作った。なんだか、いやらしくて下品な仕草に思えたので、タキオンはそれを無視して自分の椅子に戻った。しかし、その後からずっと、今度はハナミの仕草が気になり始めた。実のところ、近頃、自分は田上の事が好きなんじゃないかと思い始めていたところだった。だが、これは、まだ皆にカップルやら夫婦やら言われて、勘違いをし始めただけのような気がしていた。まだ、タキオンの中で確定のしていない、面倒臭い難問だった。

 しかし、それも今日で終わりだった。あの紙を投げつければ、タキオンの気は晴れ、田上もタキオンにうんざりするはずだ。自分が田上に恋なんてしていようがいまいが、これでもう田上との親密な縁は切れる。ただの距離の遠い、トレーナーとその担当ウマ娘となる。――これが一番良い。タキオンはそう思った。親密な人などいない方が楽なのだ。田上が、大変だってどうしていたって、親密でなければ何の関係もないのだ。田上もそう思っているのだろう。だから、タキオンには関係がないと言い、人の心配をよそに帰ろうとなんてしなかったのだ。

 だが、これは大変な間違いだった。自身のトレーナーを大変な奴だ、大変な奴だ、とこれまで幾度となく繰り返し言ってきたにも関わらず、その事を念頭に置かずタキオンは考えていた。そのタキオンもまた大変な奴だった。偉そうに人に説教できるような人間ではなかった。しかし、タキオンがそれに気が付くのは、まだもう少し後だった。



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十二、新年一回目の選抜レース④

 さて、話を田上の方に移らせると、田上は、朝起きた時にはもう気分が最底辺まで落ち込んでいて、ベッドから一歩も動きたくないように思えた。半分鬱を患っていた。しかし、そうもこうも言っておられず、ドアの外を歩く人たちの足音が聞こえると、田上もノロノロと起き上がった。

 その後もノロノロと朝の支度をして、朝食なんて食べる気にもならず、もっともっとノロノロとした。人の足音も次第に消えて、後は少し急ぎ気味の慌ただしい足音しか聞こえなくなった。その中に、一つのしのしとゆっくり歩く、聞き覚えのある足音があった。その足音は、田上の部屋の前で止まると、コンコンとドアを二回鳴らした。田上は、そいつの顔を見たくなかったから、ドアを開けることはしなかった。すると、またコンコンと二回ドアが鳴った。また、田上は出なかった。その次には、コンコッココンだった。それでも、田上はでない。ココココココン。田上は出ない。コココン、コココン、ココッコンコン。田上は出ない。ドンコッコドンッコッコドンドドンコッココココドンコココドン。これでも、田上は出なかった。

 すると、ドアの外の方で話し声がした。

「何しているんですか?部屋に誰かいるんですか?」

 寮長の声だった。

「…いや、僕の友人がいるはずなんですが、今日は見なかったので、もしかしたら部屋にいるのかなぁって」

 バツの悪そうな鳩谷の低い声が聞こえてきた。

「そんなにドアを鳴らして出てこないんだったら、いないんじゃないですか?」

「どうかなぁ…」

 鳩谷の声は、寮長の言ったことを信じてはいなかった。だから、次の瞬間には、鳩谷はまたドアをコココココココココココと叩いて、「田上~」と呼びかけた。その後には、幾許かの沈黙が続き、寮長が言った。

「やっぱり居ないんじゃないですか?」

「…そう、みたいですね」

 鳩谷は、まだ信じられないという声色をしていたが、それも寮長に促されると渋々ドアの前から離れていった。そして、その後に田上のスマホに鳩谷からの電話が入ったが、田上はそれには出なかった。しかし、鳩谷が立ち去っていくと、なんだかその面白さからか元気が湧いて出て、自身のトレーナー室に行こうという気が出てきた。

 

 部屋を出ると、もう誰もおらず、共有スペースの電気は消されていてがらんとしていた。いつもよりも随分寒かった。それでも、田上の気は変わらなかった。ただ、ゆっくりと歩いて、トレーナー室へと向かった。

 トレーナー室に着けば、そこのドアの前にはもうマテリアルがいて、不思議そうにそのドアを見つめていた。そして、田上が左の方から来るのに気が付くと、途端に顔を輝かせて「やっぱりいらしてなかったんですね」と比較的大きな声で言った。今日もマテリアルは、美しさを最大限に発揮していたが、田上には、美しさなどどうでもよかった。今は、ただタキオンに嫌われた喪失感だけがあった。

「おはようございます」

 田上は、穏やかにそう挨拶をした。すると、マテリアルはまた不思議そうな顔に戻って、きょとんとしながら「おはようございます」と返した。それから、ちょっとの沈黙を置いた後、田上に言った。

「…体調でも悪いんですか?」

「……いいや、…実は、昨日ナツノさんと別れた後、タキオンと口論をいたしましてね。…タキオンは、――君は私のことが嫌いなんだ、と言ったんです。…そんなわけないのに。……それで」

「あのー」とここでマテリアルが口を挟んだ。

「とりあえず、部屋に入ってからお話しませんか?ここ、廊下ですし」

「ああ、そうだね…」と田上も頷いて、トレーナー室の鍵を開けて、中に入った。中は、静閑としていて、電気もつけていなかったので薄暗かった。

 そして、自分の持っている荷物をデスクの横に置くと、また話し出した。

「なんで、タキオンはあんなことを言ったんだろう?…嫌いな素振りなんて一遍も出したことがないのに。……言うことを聞かなかったから、その鬱憤晴らしだったのかなぁ?」

 マテリアルは、自分がトレーナー室に入ってどこに座ればいいのか迷いながら、「どうでしょうねぇ」と返した。その様子に、田上が気が付くと、「ああ、そこに座ってください」とドアから遠い方のソファーを指差した。

 マテリアルは、そこに座ると、暫くそわそわしていた。というのも、田上は一向にマテリアルの正面のソファーに座ろうとせず、自分の荷物をがさがさと漁ったまま顔を上げなかったからだ。それで、少し後にようやく顔を上げたが、別に何か取ってきたというわけでもなく、ただ、無作為にバッグの中を漁っていただけのようだった。

 田上は、座ると、そのまま話し出さずに暫くそわそわした後、「紅茶を淹れましょうか?」と言った。マテリアルとしては、紅茶なんてそんな好きなものではなかったし、喉も乾いていなかったから淹れなくても良かったのだが、その紅茶を淹れる事が田上の話しやすくなるルーティーンなのかな?と思うと、「ええ、どうぞよろしくおねがいします」と言った。

 田上は、紅茶を淹れている間に忙しそうにあっちこっちに行っていたが、やっていることといえば、単純に紅茶を淹れていることだったので、それは意味のない行動だった。恐らく、さっきの荷物を漁る行動と言い、これと言い、田上は落ち着かないのだろう。落ち着かないから何かをして気を紛らわせているだけなのだ。それをマテリアルは分かっていたから、田上の事なんて気にせず、ゆったりと今日持ってきた資料を読んでいた。

 

 やがて、紅茶が出来上がった。紅茶を渡すときに、田上は「これはタキオンのだから、もしかしたら怒られるかもしれませんけど…」と口の中でごにょごにょ言っていたから、マテリアルはそれが可笑しくて、ちょっとだけ笑ってしまった。すると、田上がマテリアルの方を見てきょとんとしたから、「すいません」と言って、咳をしてそれをごまかした。

 紅茶を一口飲むと、田上が話し出した。と言っても、これは回りくどい前置きだったのだが、田上にはこれが必要だった。そのことを察して、マテリアルもそれにしっかりと答えた。

「…えーっと?…今日は、何の話でここにお越しに?」

「補佐として、田上トレーナーの下で働かせてもらえるかの交渉です。あなたは、明日、ここで返事を聞かせると仰いました」

「ああ、そうでした。……これは、タキオンも呼んで一緒に話をしようかと思っていたんですけどね。……君とは必要最低限のコミュニケーションしかとらない、と言われました。……どうです?バカでしょう?滑稽でしょう?…僕はそのくらいの人間なんです。学べることなんてありませんよ」

 田上は、急に肩を落として言った。すると、マテリアルは言った。

「アグネスさんのそれは、ただの子供の癇癪なのでは?」

「ただの子供の癇癪。…それでも、僕の身には十分堪えますよ。……ただ、相手はただの子供ではなく、大きな高校生ですからね。癇癪と言ったって、子供のようにすぐに気が変わって、お菓子なんかを食べて機嫌を直したりなんてしませんよ。高校生は、意思の固め方を知っています。タキオンなら、尚の事です。動かないと思ったら、てこでも動こうとはしないでしょう。……それでも、僕の下で働きたいんですか?」

「それには、はっきりと――はいとお答えしたいところですが、…まさかこのまま諦めるつもりじゃないでしょうね?私には、タキオンさんは、必ずあなたの下に戻ってくると思いますよ。それを、自分から手を離すおつもりですか?」

 マテリアルの言葉に田上は顔をしかめたが、その後に考え込みながら言った。

「…実のところ、僕にはなんでタキオンに怒られたのかが分からなくて、……ただの子供の癇癪なら原因も分かりやすいんでしょうが、…その口論に持ち出されたのが、新年が来る前の秋の出来事ですよ?僕だって、ほとんど覚えていません。あなたには、秋の時自分が何をしてたか覚えていますか?十月とか十一月のたった一日の一言一句まで」

「…秋頃は、試験の勉強で忙しかったと覚えておりますが、さすがに一言一句までは…」

「…そうでしょう。確かに、タキオンが言ったことは――そんなこともあったなぁ、くらいには思い出せますけど、タキオンがそのことについて何か思う程、覚えていたとは思わなかったです」

「…あの、…ちなみに、タキオンさんが言ったこととは?」

 マテリアルが、一向にタキオンの言った事の内容を話さない田上に、少し苦笑しながら言った。だから、田上も「ああ、すみません」と言ってこう続けた。

「タキオンは、多分、秋頃に僕が他の子もスカウトして、育てるってことを聞いたんです。それで、その時に少し悩んでいて、――君には私に対する情けがあるかい?…たしかこう言ってきたんです。だから、僕も情があると答えたんですが、つい昨日、それは嘘だと言われました」

「…それは、昨日スカウトしようとしたからですか?」

 この質問には、田上も考え込んで暫く黙った。そして、考えに多少まとまりがつくと、こう言った。

「……多分、そのように思います。少なくとも、スイッチはそこで入った?と。……どちらにしろ、くだらないことです。……いいでしょう。ナツノさん」

 田上は、呼びかけた。途端にマテリアルは、元々美しく伸ばしていた背筋をもっと美しく伸ばして「はい」と答えた。

「補佐になってもかまいません。…書類はありますか?」

「はい。……ちょっと待ってください。バッグの方に今……、ありました。これですね?」

「はい、これです。…これは、もうハンコを押すだけでいいので、……ちょっと待ってください」

 そう言うと、田上は一気に年老いた様に、長年の疲れがその身に溜まったように、ゆっくりと立ち上がって、机の方にハンコを取りに行った。そして、一番上の小さい引き出しからハンコを取り出すと、またノロノロとソファーの方に戻った。

 そして、ソファーの間に挟んでおいてあるその低い机の上に置いた書類に目を留めると、自分の方にそれを向け、ハンコを押そうとした。しかし、その直前にマテリアルが口を挟んだ。

「待ってください」

 そう言われると、田上は、書類からゆっくりと目を上げて、マテリアルの顔を見た。その顔は自信に満ちていて、あたかも田上にもその自信を分け与えるかのように言った。

「タキオンさんとは、仲がいいですよね?」

 田上の心には、その顔を見つめているうちに、自信の様なものが湧いてきたような気がしたが、それも目を逸らすとすぐにしぼんでいった。しかし、その心に自信の種火はしっかりと残っていた。

 そのせいか、田上の元気も少しは回復したように思えた。田上は、ふっと小さく笑うとこう言った。

「子供の癇癪であることを願っています」

 マテリアルは、その返答に不満があるようだったが、田上が少しでも前向きになれたのを確認すると、満足そうに笑って、顔を輝かせて言った。

「よろしくお願いします!田上トレーナー!」

 マテリアルの元気が影響して、田上も小さな笑みを絶やすことはなかった。彼女が立ち去るまでは。今日のところはいい、と彼女に告げると、彼女も素直に出て行った。そして、その背を見送った後、自分のデスクに座ってみると、大きな疲れがどっと溢れてきた。例え、誰かに元気を分け与えられたとしても、元気をずっと保ち続けるのは大変な労力のいる疲れる作業だった。田上は、机の上に顔を突っ伏した。疲れたので、このまま寝てしまおうと思った。どうせ、昨日の今日だし、タキオンもトレーニングがしたくてこの部屋を訪れはしないだろうと思った。田上は、その後、デジタルが入ってくるまで、死んだように微動だもせず眠り続けた。

 

「トレーナーしゃん、トレーナーしゃん、トレーナーしゃん!タタタタタタキオンさんが!…!タキオンさんが!」

 突然の耳慣れぬ少女の声で起こされた。随分慌てた様だったが、何しろ田上は眠りから起こされた直後だったものだから、何が起こったのか分からず、また、眠たくて眠たくて思わず顔をしかめた。

「そんな顔をしている場合じゃないですよ!タキオンさんが…!…屋上で!……!とっ、とにかく立ってついてきてください!」

 田上は、喋っている少女が、タキオンの同室のデジタルだとようやく気が付いたところだった。物凄い勢いで捲し立てていたので、驚いた。しかし、その言葉までは飲み込めず、田上は、まだ席を立とうとしなかった。デジタルは、タキオンの言ったように上手くいかず、内心慌ててたが、そんなことはおくびにも出さず、ただタキオンから受けた任務をひたすらにこなそうとした。

 田上が、中々立ち上がろうとしなかったので、デジタルはじれったくなって、田上の傍まで行って、その手を引き、立ち上がらせた。田上は、デジタルがこんなに強引なことをするとは思わなかったので、またもや驚いたが、段々と目が覚めてくると、気の動転していたデジタルからタキオンが危ないらしいということを聞かされた。

 本当の事なのかどうか怪しかった。というのも、デジタルが全く詳しい内容を言おうとしないからだ。それでも、デジタルのとんでもない勢いに押されて、田上は階段を駆け上がった。二段飛ばし、三段飛ばしで懸命に走って、途中でデジタルに「あなたしかタキオンさんを止められる人はいないんです」と励まされて、走りに走った。そして、四階に到着しようとしたところで、デジタルに「止まってください!」と言われた。何が起こったのか分からずに、肩で息をしながらデジタルを見やると、デジタルは急に我に返ったように「……タキオンさんが…」と小さく言って、階段の上の方を指差した。田上がそちらの方を振り向くと、たくさんの道行く生徒の中にタキオンが階段の前で仁王立ちしていた。

 田上は、まだ肩で息をして、訳が分からないという風にデジタルを見た。デジタルは、今や階段の隅で小さく丸くなって、「ごめんなさい…」と呟いていた。たくさんの生徒がいるはずなのに、一時の静寂が訪れた。田上は、動くことはせず、タキオンも動くことはしなかった。

 暫く緊張のある見つめ合いをした後、田上が言った。

「何かあったのか?」

 すると、タキオンも口を開いた。

「今更、そんな心配したような口調はしないでくれ。吐き気がする。…夢の中の君と同じだ。思い出せた。…そんな目をしていた」

「……何の話だ」

 田上の息切れは、まだ少しだけ続いていた。

「…君には、関係のないことだよ。私もまた君と関係のないようにね」

 ここで、他の生徒が階段を使いに来たので、田上は横にどかざるを得なかった。そして、言った。

「…もう、俺の事は嫌いなんじゃないのか?」

「私が?…冗談言うな。君が嫌いなんだろう?」

「俺は、お前を嫌った事なんて一度もない」

 この言葉にタキオンは怯んだ。マテリアルと話したときに授かった自信の種火が、未だ種火のままであるにも関わらず、静かに燃えていた。その事を、無意識で感じ取って、タキオンは自分から失せてしまったものを田上の中に見つけたのだ。種火は、パチパチと音を立てて燃えていた。

 タキオンは、その場から逃げ出したくなった。もう、後は、紙を投げつければ、それでタキオンのしたいことは終わりなのだ。しかし、躊躇いを覚えた。田上の小さな黒い瞳がしずかに燃ゆる。タキオンをじっと見つめていた。タキオンは、とうとう逃げ出したい気持ちを堪え切れなくなって、こう叫んだ。

「嫌いなんだよ!そのいやらしい目つきが!…そんなに私の事が心配か?そんなに私の事が大切か?…それなら、そこにいるデジタル君のように、例え火の中水の中と忠誠を誓いたまえ!」

 タキオンは、そう言うと、手に持っていた丸めた紙を階段下の方へ投げつけ、タキオンから見て左手の方に駆けて行った。田上は、追いかけなかった。何が邪魔したのかは分からなかったが、元よりタキオンを追いかけるつもりはなかった。ただ、田上の後ろの方で小さく丸くなっている可哀想なデジタルに、膝を折って屈みこんで優しく語りかけた。

「…デジタル君。…一体、これはどういう事なんだ?」

「……あたしより、タキオンさんを心配してあげてください…」

 デジタルは、呟くように言ったが、田上はそれを否定した。

「タキオンだって、デジタル君のこんな姿見たら後で絶対後悔に襲われる。それを、今は解決しないと。問題を先延ばしにしていたって始まらない」

 田上の言葉を聞くと、デジタルも怯えるのをやめた。それから、躊躇いながらもこう言った。

「……タキオンさんは、その紙を読んで欲しかったそうです。それで、トレーナーさんを一杯食わせようと…」

 デジタルが指差した、今は床にぽつねんと転がっている紙の丸めたものを、田上は取りに行った。そして、中の物を読んだが、あまり意味が分からなかった。だから、またデジタルの方に歩み寄ると、「これの意味ってなんだ?」と聞いた。

 デジタルは、てっきり昨日に言った事がそのまま書いてあるものだとばかり思っていたから、――なんで意味が分からないんだろう、と思って覗き込んでみて驚いた。確かに、意味は分かりにくかった。

「…正直…者とバカモルモット?………もうどこかに行ってしまえ…。…これ、あたしが昨日聞いた物と違うことが書いてあります。…うん」

「昨日聞いた物?」

 田上は、そっくりそのまま返した。それに、デジタルが答えた。

「ええ、昨日からこの話は持ちかけられていたんですけど、その時は、――正直者はバカを見る。でした。その後に、トレーナーさんを煽る文句を書きたいと言っていましたが……」

 ここで、デジタルは話すのを終えた。だから、田上はもう一度紙の文字を見つめ、考えた。そして、思いついた事を言った。

「…この、正直者とバカモルモットは、もしかして、正直者ってのはデジタル君の事かな?…でも、何でこの紙にデジタル君のことも書いてるんだろう?」

 田上が、不思議そうに言うと、デジタルが躊躇いつつもこう答えた。

「…もしかしたら、あたしに対する贖罪と言うか、謝罪と言うか、タキオンさんの心の中でやっぱり何かが咎めたんじゃないでしょうか?…ほら、タキオンさんってああ見えて優しいから。…慣れない意地悪をしようとして、心に傷を負ったんじゃ…?……ああ!こうしちゃいられない!デジたんだけでも慰めにいかなくちゃ!」

 デジタルが慌てて立ち上がったから、田上と頭を打ちそうになった。だから、田上は反射的に避けようとしたのだが、今度は壁に頭をまあまあ強くぶつけてしまい、左こめかみに見るも痛々しいたん瘤を作った。デジタルは、「ごめんなさい!」とすぐに謝ったが、田上はそれに「いいよいいよ」と返すと、話を先へと進めた。

「…俺も行っていい?」とまだ痛む瘤をそっと触れながら言った。

「へ?どこに?」とデジタルが返すと、「タキオンの所に」と田上も返した。

「ああ、それなら一緒に行きましょう!」

 デジタルは、そう言って、タキオンが駆けて行った方に向かおうとしたが、田上がそれを止めた。そちらの方には、いないと思ったからだ。

「多分、タキオンは研究室にいる。三階の向こうの方だから、急ごう。もうすぐ授業が始まるよ」

「いいえ、デジたんは、タキオンさんのためならどこへだって行きます!例え授業だって何のそのですよ!」

 その後に何か言葉を続けようとしたのだが、それは恐らく田上への気遣いでデジタルの腹の中にしまわれた。そして、二人は廊下を走って、タキオンの研究室まで着いた。

 

 研究室の前だけ、廊下の電気は消されていて薄暗かった。そして、そこに近づいていくと、すすり泣く声が聞こえてきた。時折、大きくなったり小さくなったり、それから、自分をバカと罵る声も聞こえた。デジタルは、生唾を飲んだ。声は、カフェの部屋の方から聞こえていた。だから、田上は、少し心配そうに聞こえるか聞こえないかくらいの大きさの音で、ノックをした。

 途端に、泣き声がやんだ。そして、足音が聞こえた。かさ、かさとドアの向こうの方で、音が鳴って、それから、ドアの前で立ち止まった。田上たちは、ゆっくりとドアの開くのを待った。

 カフェは、引き戸を少しだけ開けて、その隙間から田上を見た。

「ああ、あなたでしたか...」

 少々疲れたような声だった。その後に、こう続けた。

「あなた、タキオンさん泣かせて、これ程遅れて来るなんて何しているんですか?私は、タキオンさんの子守りじゃありませんよ」

「ごめんなさい。…...タキオンは?」

 田上が、少ししか開けていないドアから、部屋の中を覗き込もうとしたから、カフェはドアの隙間を田上の見えるくらい広げて、指差した。

「あそこの隅の方でうずくまっているのがタキオンさんです。あなたたちが来た途端、泣き止んでその影に隠れました。......私は、もう行きますよ?授業に出ますので」

 その後にこう付け加えた。

「できれば、タキオンさんを私の部屋から移動させてください。…そして、あんまり私の部屋で騒がないでください」

 カフェは、そう言うと、立ち去って行った。ちなみに、カフェが立ち去って行ってもこの部屋に住んでいる悪霊の件は、問題がなかった。カフェにも仔細は分からないのだが、今の所は、そのようなモノが騒ぎそうな気配はなかった。ただ、正月休みから帰ってきたその日に、初めて何かが起こっただけだった。

 田上は、薄暗い部屋に入ると、そっとそっと近寄りつつタキオンに呼びかけた。

「タキオン?」

 しかし、何の反応もなかった。ただ、死んだように身を固くして、体操座りで蹲っていただけだった。田上は、もう一度「タキオン」と呼びかけた。すると、今度は反応があったが、田上には聞き取れず「え?」と聞き返した。後ろについてきていたデジタルには、勿論聞こえの良いウマ耳があるので、タキオンの声は届いていた。その内容を田上の方に伝えようかどうか迷ったが、結局何も言わずに、そこで立ち止まって、後は田上がタキオンの方に進むのを眺めていた。

 タキオンは、田上に聞こえるように大きな声で言おうとした。「来ないでくれ」そう言おうと思ったのだが、大きな声を出そうと思うと、中々腹に力が入らなかった。そして、その代わりに嗚咽が漏れた。そうなると、後は濁流のようだった。タキオンの涙は次から次へと流れ出て、嗚咽も止まらず、そのうち吐き気がしてきた。腹の中には、出せるようなものなど何もなかったが、タキオンは何度も何度も戻そうとして、何も出なかった。すると、タキオンはもっと泣いた。もっと泣くと嗚咽も酷くなった。悪循環だった。田上には、どうすればいいのか分からなかった。だから、デジタルの方を振り向いた。しかし、デジタルは田上の方を見ておらず、ただ、ひたすらにタキオンの事を心配そうに見つめていた。この時のデジタルは、田上が見ていることに気が付いていたが、その目を合わせることは絶対に避けた。自分にはどうこうできるものではなかったし、田上こそが、今の状態のタキオンを救ってやるべきだと思ったからだ。この突き放すようなやり方は、デジタルの好みではなかったが、そうは言ってられなかった。可哀想な二つも年上のタキオンの姿を、じっと見つめていた。

 デジタルが、振り返らないので、田上は自分でやる他なかった。と言っても、心は不思議と据わっていた。苦しそうに咽び泣いているタキオンの横のソファーに座ると、田上は無言でタキオンの背を叩いた。擦った。体勢は、普段使っていない筋肉を使っていて、長時間やっていると辛くなってきたが、それでも田上はタキオンの背を叩き擦り続けた。すると、段々とタキオンの苦しそうな咽び泣きは終わり、次は、しくしくと静かに泣いて「どこかに行ってくれ」と頼み込む声が聞こえだした。

「君たち皆、嫌いなんだ。関わらないでくれ。…頼む。…頼むよぉ」

 それでも、田上はタキオンの背を叩き続けた。それでも、デジタルはタキオンを見つめ続けた。薄暗い部屋の中にタキオンの泣いている声だけが、静かに広がった。

 やがて、その泣き声も落ち着いてきた。すると、タキオンは無言で立ち上がると、ソファーに座っている田上の右横に腰を落ち着けた。そして、暫く、泣いてたくさん使ってしまった息を整えると、デジタルの方を向いて、それはそれはひどいしゃがれ声で言った。

「デジタル君……、君には負担をかけてすまなかった」

 そう言い切ると、タキオンはまた体を前に倒して思い切り泣き出した。また、田上はその背を優しく叩いた。タキオンの体は、涙が落ち着いていくうちに田上の方に傾いて行った。だから、田上もそれを避けて背を叩き続けようとしたのだが、デジタルと目が合うと、思い切り睨まれているのに気が付いて、委縮してその場から動かなくなった。勿論、デジタルが睨んでいた理由は、せっかくの尊ぶべき場面が、田上の消極主義的な性格のせいで台無しにされそうだったからだ。それは、少し安直な考えではあったものの、デジタルの見たかったものは見ることができて、デジタルはタキオンに振り回されたのにも関わらず、大いに満足げだった。

 タキオンは、田上の肩に寄りかかったまま、泣き腫らした目をぼーっと空中に向けていた。そして、ある時、正面にまだ突っ立っているデジタルを見つけると、震え声でもう一度言った。

「デジタル君……、ごめん。私の我儘に付き合わせてしまって」

「そ、そんなことないですよぉ!」

 デジタルは、少し嬉しそうに言った。

「デジたんは、タキオンさんのためなら例え、火の中……」

 そこで、デジタルの言葉は萎んでいった。というのも、デジタルは、階段の所でタキオンが投げ放った言葉がずっと気がかりだったからだ。――デジタル君のように、たとえ火の中水の中と忠誠を誓いたまえ!別に、デジタルとしては、タキオンに好きで忠誠を誓っているわけで、それがトレーナーにまで及ぶなんて考えもしていなかった。それで、また自分がこのことをタキオンに思い出させてしまって、二人の仲が壊れてしまったらどうしよう、と恐ろしくなったのだ。しかし、火の中、まで言ってしまったのなら、もう遅いと言えよう。タキオンの耳にはばっちりと届いていて、タキオンはこう言った。

「例え、火の中水の中?」

「え、ええ…」

 そう言われると、デジタルは頷く他なかったが、その後にこの後起こる嵐に耐えようと顔を俯かせた。だが、嵐は起こらず、むしろ、笑いが起こった。

「例え火の中水の中。…私が言った言葉を気にしているらしいよ。デジタル君は。…トレーナー君はどう思う?」

「どう?…ん~、そうだな、…もう一回謝った方がいいんじゃないか?」

 タキオンに寄りかかられて、少し居心地が悪そうだったが、声色はそれ程変えないで田上が言った。すると、タキオンは苦笑した。この部屋に来て、初めての笑顔だった。

 タキオンは言った。

「それもそうだな。彼女には何回謝っても謝り切れないくらい酷いことをした。…すまないデジタル君。君のお望みとあらば、何回でもこうやって謝罪する。何なら土下座をしたっていい。…嘘じゃない。今して見せよう」

 そう言ってタキオンが立ち上がったので、デジタルは慌てて止めた。タキオンは、自分の誠意が見せられずに少し不満そうだったが、デジタルの言う事を大人しく聞くと、また田上の隣に座り、その肩に寄りかかった。

 その後に、デジタルは暫くモジモジとしていたから、タキオンは「何か言いたいことでもあるのかい?」と聞いた。タキオンがそう聞くと、デジタルは少しだけ興奮の色を顔に浮かべて、早口に捲し立てた。

「タ、タキオンしゃんと田上トレーナーしゃんと一緒に記念写真を撮りたいのですが、お手数ご面倒でなければ、このデジタルめと一緒に映っていただけますか?……ああ!ちょっと待ってください!あたしのスマホを寮に忘れてきてしまいました!あわわ、どうしましょうどうしましょう」

「取ってきたまえよ」

 タキオンが苦笑しながら言った。その言葉にデジタルは、嬉しそうに「はい!」と頷いて、あっという間に部屋から出て行った。その間に少しだけタキオンと田上は、二人きりで話す時間ができたのだが、デジタルが帰ってくるまでのほとんどの時間を躊躇いのある沈黙で過ごして、結局デジタルが帰ってくる数秒前の「トレーナー君、…ごめん」の二言しか言えなかった。

 

 デジタルが帰ってくると、すぐに自分は間の悪いタイミングで帰ってきたことに気が付いた。二人とも先程と別段変わった様子もなかったが、デジタルにはそれが感じられた。だから、部屋に入るとバツの悪そうな顔をしたが、タキオンに「おや?写真は撮らないのかい?」と聞かれると「撮ります撮ります!」と言って、タキオンの方に駆けた。

 タキオンと田上は、デジタルがどう撮りたいのかが初めのうち分からなかったが、「そこから離れないでください」と言われると、デジタルの様子を見守った。

 デジタルは、「ちょっといいですか?」と言うと、タキオンのソファーに膝を突いてそこに立った。そして、暫く調整しながらごにょごにょしていると、唐突に「ああ、この感じです。これで行きましょう」と言った。デジタルが、スマホを自撮りするために持って、その横にタキオン、そして、その奥に田上という順番だった。田上は、写真を撮られるのがあまり好きじゃなかったから、途中でタキオンに「これ、俺がいなくても良くないか?」と囁いたが、デジタルにもしっかりと聞かれていて、「居た方がいいです!」と揃って怒られた。だからと言って、田上が素直に写真に映るはずもなく、デジタルが「撮りますよー」と言っても部屋の空中ばかり見つめていた。だから、それを見かねたタキオンが腕を組んで、田上をカメラの方に向けると、デジタルから「うひょーー!!」という声が上がった。彼女は、こういう男女の物が何より好きで、この件で一番のご褒美を頂いた。強引に腕を組むウマ娘とそれを嫌がりつつも振り解けない男の人。デジタルは、興奮で顔がおかしくなりそうだったが、写真を撮ることを考えると、慌てて顔を整え言った。

「写真を撮りますよー」

 今度は、田上もカメラを見ていて、上手くいった。デジタルは、にんまりと満面の笑みを浮かべた。この写真が撮れたことも何よりのご褒美だった。――役者をした甲斐があった。デジタルは、そうしみじみと思った。

 それから、デジタルは帰ることとなった。帰るときには、楽しそうにタキオンとこんな掛け合いをしていた。

「九番、アグネスデジタル。今から先生に怒られに行って参ります!タキオンさんにはお世話になりましたが、これからも私の事を忘れずに!」

「デジタル君!…世話になったのは私の方だ!長い間、苦労をかけてすまなかった!」

「散り行く者に謝罪の言葉は要りませぬ!いつかまた黄泉の国で会った時!その時こそ、改めて罪を告白したまえ!いざ!コードネーム正直者!敵地へ行って参ります」

「行け!そなたの事は一生忘れぬ!」

 その掛け合いが終わると、デジタルは部屋の外に出て行った。その後の部屋には、心地よい静閑さが残った。

「行こうか、隣の部屋へ」

 タキオンが呟くように言うと、田上もまた呟くように「行こう」と言った。二人は手を繋いで、隣の暫く使っていなかったタキオンの研究室に行った。

 

「埃っぽいな...」

 カフェとタキオンの部屋を分かつカーテンを開けるや否や、タキオンがそう言った。田上もそれに気付いて顔をしかめたが、また別の事に気が付くと、慌てた顔をして言った。それは、タキオンの椅子の上にレースで使う勝負服でもある白衣が掛けられて、埃まみれになっていたことだった。

「お、おい!なんで白衣がこんなところにあるんだ!」

 田上がそう言うと、タキオンも物事の重要性に気が付いたようだ。しかし、反省はしておらず、ただ軽く「忘れちゃった」と言った。田上は、項垂れた。

「忘れちゃったって...。...勝負服なんだからしっかりと管理しておけよ。肝心な時に盗まれでもして着れなくなったらどうするんだ」

「その時はその時さ...」

 タキオンは、少しだけ上の空で言うと、田上の手を離して、自分の勝負服にゆっくりと近寄って行った。そして、辿り着くとこれまたゆっくり勝負服を手に取り、埃を払った。それから、その袖に手を通した。田上は、その様子を後ろから見つめていた。

 白衣に袖を通したタキオンが振り返った。それは、制服に白衣という普段では見られないタキオンの姿だった。タキオンの後ろの窓から光が差した。

「どうだい?」

 タキオンがそう聞いたから、田上は思わず「可愛いよ」と返した。自分でも少し照れが残った様に感じたが、タキオンはそれ以上に感じた。一瞬、タキオンが顔を赤くしているように見えたが、それは窓から差す日の光によって見えなくなった。それでも、タキオンが照れたことは分かった。口の中でぶつぶつと言っていたからだ。それは、田上にはこう聞こえた。

「トレーナー君のくせにお世辞なんて言うなんて...」

 田上の言葉は、お世辞ではなかったが、あえてそれを正す事はしなかった。ゆっくりと研究室を見回した。

 すると、タキオンもそれに気が付いて、田上の方に寄った。田上は、タキオンが近付いて来ると、避けている様子をできるだけ見せないように、そっと離れた。タキオンは、当然、田上に近寄れば近寄る程遠くに行くのに気が付いた。それは、タキオンがどんなにゆっくり近付いたってそうなってしまうので、どうしようもなかった。タキオンの心には、また自分が嫌われているかもしれないという思いが芽生え始めた。

 田上は、チラッとタキオンを見てみて慌てた。タキオンの顔は、憎しみににも似た泣き顔になっていた。

「タキオン、ごめん!」

 田上は、そう言って駆け寄り、その手を取った。すると、タキオンは今まで押し込めていた息を解放するように大きく吐いて、田上の胸に入り込んだ。その震えている小さな肩は、泣きこそしていなかったが、今にも泣きそうに頼りなかった。

 田上は、タキオンの体をそっと抱き締めようとしたが、躊躇いがそれを止めた。しかし、このままタキオンを胸の中に放っておくこともできなかったから、その両肩を掴んで引き剥がし、言った。

「…俺には、やっぱりお前を抱き締めることはできない。…お前がタキオンで、俺が圭一だからだ。圭一は、人を抱き締めることはできない。人と触れ合うのが怖いからだ。…分かってくれ、タキオン」

「嫌だ!分かりたくない!」

 タキオンは、そう返すと、無理矢理田上の胸に体を戻した。田上は、驚きもしたが同時になぜか安心もして、タキオンの肩をゆっくりゆっくりゆっく~~りと抱いた。タキオンは、腕の中で嬉しそうに笑った。

 それから、暫くそうしていたが、唐突にタキオンが言った。

「トレーナー君。私、勝負服を変えようと思うんだ。...問題はないだろう?」

「勝負服?…多分、問題はないけど、…なんでなんだ?」

「…研究はやめると言ったのに、その服を着続けることは、些かちぐはぐだろう?だから、別のデザインにして心機一転を図ろうと思ってね」

「…どんなデザインがいいんだ?」

 ここで田上が、話しやすいようにタキオンから体を離そうとしたが、タキオンは頑として受け付けず、田上の体を強く抱いた。

「炎をテーマとした赤系の色を主体にデザインしてみたいんだ」

「…別に、デザイナーの方に任せても良いんだぞ」

 田上がそう口を挟むと、胸の中でタキオンが首を横に振るのを感じ、その時に髪の毛が田上の首をくすぐって鬱陶しかった。

「私がデザインしてみたいんだよ。次は、大阪杯だよね?それまでに間に合うかい?」

「タキオンの頼みとあらば、間に合わせて見せるよ」

 タキオンは、この言葉を聞くと急に押し黙った。何か思うところがあったようだ。小さな肩が少しだけ震えてきた。だから、田上は、またその背をぽんぽんと叩いた。すると、タキオンは落ち着いてきて、こう言った。

「……ごめん。君の事嫌いなんて言ったりして」

「…俺の方こそ、タキオンに心労を掛けてごめん。俺が、大人じゃないから、まだ完全ではないから、タキオンが傷付くことになってしまった」

「……いいや。私も我儘だったんだよ。もう少しだけ大人にならねば、ちょっとだけ、少しだけ大人になってトレーナー君の役に立たねば」

「俺の役に立つ必要はないさ」

 この田上の言葉にタキオンは顔を上げ、食い気味に返した。

「いや、あるさ。今君が言ったじゃないか。――大人じゃない。完全じゃないって。なら、私も助けてあげなきゃ」

「助けたところでなんになる?結局、タキオンは別の所へ行って、俺は別の道を歩む。…人は一つじゃないんだ。道は幾つもあるんだ。その中で、無理に一つの道に入って、ふらついた俺に押されでもしてみろ。お前は途端に奈落の底だ。……俺には、無理なんだよ。誰かに助けて貰うなんて事。…そりゃ、たまにタキオンに弱音を吐いた事もあったけど、あれは…、何と言うか、苦しさの嘔吐物をタキオンに吐きかけただけで、助けを求めてはいない。……あのまま仲直りしない方が良かったかもしれない。俺がここに来ない方が良かったかもしれない。じゃなきゃ、俺の吐いた物でタキオンまでも汚してしまう」

「なら、その吐いた物まで私は飲み下してしまおう。大丈夫。胃は強い方なんだ。君の嘔吐物くらい難なく消化できる。……でも、こんな軽口では、君は満足してくれないだろう。…それで、私が胃なんかではなく、心がひ弱なことを君は知っている。それを知っていては、私を頼ってくれてなんかいないだろう。…どうすれば君は納得してくれる?どうすれば、君の心は安らかになる?」

 田上は、そう言ったタキオンの顔を見つめ、その後に、「知らない」とむっつりとした口調で答えた。タキオンは、口元に苦笑を浮かべ、口の隙間から小さくため息の様な物を漏らした。

「………やっぱり、君が私に情があるというのは嘘だった。…しかし、嫌いなんて事はなかった。君の心は、今の所、自分の事だけで精一杯だ。私の事まで気にかけている余裕なんてないだろう。…それにも関わらず、君は私を心配しているものだから、凄い。凄く優しい。私なんて真似できたもんじゃない。……でもね。私だって負けてられないよ。私は、君に対して情というものがあるんだ。ちょっとやそっとじゃ崩れないものだ。…それがある限り、私は君を気に掛ける。君が、自分の心との話し合いに決着がつくまで。…待っててくれ。私は、君の傍に居るから」

 タキオンがそう言うと、田上はそれに何か返そうとしたが、口を少しだけ開けたところでやっぱり止めた。そして、最初思った事とは別の事である「ありがとう」という感謝の言葉を告げた。タキオンは、これには大いに満足そうだった。

「どういたしまして」

 そう言うと、ぎゅっと田上を抱き締め、満足のいくまで強く抱きしめてからその手を解いた。タキオンの顔は、泣き腫らしていた目が赤くなっていてみすぼらしかったが、顔は晴れ晴れとしていた。ただし、田上の顔は反対にいつも通りではあったものの、曇っていた。自信の種火は、その力を火が消えるぎりぎりまで使ってしまっていて、今やこれ以上火が大きくなるのかも怪しかったが、とりあえずは、まだ残っていて、再びその力を蓄えようとしていた。これ以上、火が大きくなるのかは分からない。今はまだ曇り空だった。しかし、その空に雨が降ったとき、その火は今までよりさらに大きくなるだろう。本物の火というものは、雨では消えないものだった。雨を乗り越えるその火こそが、本物の火だった。

 今はまだ、曇り空の下、火は燻っていた。しかし、雨が来た時こそ、その火の真価は試されるだろう。田上自身に如何なる災禍が振りかかろうとも、その火のが今後消えることはなかった。



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十三、愛とは?①

十三、愛とは?

 

 冬は変わらず続いていて、寒さは絶えず人の体をいじめようとつけ狙っている頃。二月十日だった。全国の男児たち、いや、大人げない男たちまでもが、そわそわとする季節だった。タキオンは、ある事に頭を悩ませていた。それは、決して田上には相談のできないことで、友人たちの中でも特に秘密の守ることのできそうな人にしか話せない内容だった。所謂、恋バナ。所謂、好きな人。所謂、片思いだった。最後の方は、実際の所は、片思いとは言えないのだが、どちらも思いを中々言い出せず、タキオンとしては片思いとばかり思っていたからそう呼ぶことにしよう。

 タキオンの中で、田上に恋する心があるのは、ほとんど決定していたが、一つだけその思いを邪魔するものがあった。それは、田上の方がタキオンを好いてくれていないだろうという思いだった。これを秘密の守ってくれそうなカフェに相談してみると、返ってきた物は「今頃、トレーナーさんの事を好きになったんですか?もうとっくに秘密裏に交際しているものとばかり思っていました」と煽る言葉だった。これには、タキオンもむっとして言い返した。

「私がトレーナー君と付き合っている訳がないだろ。何を見てそう思ったんだ」

 最後の質問が余計だった。タキオンは自ら墓穴を掘ったのだ。

「ハグをしてくれ、トレーナー君。…トレーナー君とは家族みたいなものだよ。家族愛」

 カフェが、以前にタキオンが発言したことを淡々と言うと、タキオンも慌てて「止めてくれ!」と叫んだ。

「そんな意地悪しなくたっていいじゃないか。……確かに、これまでトレーナー君と距離が近かったのは認めるよ。認めてやるさ。ただね、あんなに距離が近くたって付き合ってないものは付き合っていないんだ。そこの所を誤解されてもらっちゃ困るよ」

 タキオンがそう言うと、心なしかカフェがニヤッと笑ったように見えた。

「……あなた、トレーナーさんと交際したいのかしたくないのか、どちらなんです?言ってる事と言ったら、一月の頭の時に言った事と変わっていませんよ。――トレーナー君とはカップルでも何でもない。…確か、こんなことを言っていませんでしたか?」

「う、うむ。…確かに、そんなことを言っていたが、今は状況が変わったんだ。…私は、あの人の事が好きなんだよ」

 今度は、カフェがふふふと笑うのがはっきり分かった。

「…あなた、いつの間に人の事を好きと言うようになったんです?てっきり人の事なんてどうでもいい変人だとばかり思っていました」

 カフェがそう言うとタキオンが答えた。

「ううむ…、どうにも君はやりにくいなぁ。私は、相談しに来たんだよ。彼が私の事を好きなのかどうか」

 すると、「あら、すいません。惚気話をしに来たのかと思っていました」とまた煽られた。これには、どうしようもなかったから、タキオンは「君は松浦トレーナーの事をどう思っているんだい?」と半ばやり返すように聞いたら、「私は、良いトレーナーさんだと思っていますよ」と平然と返された。どうやら、カフェは松浦に恋という名の感情は何一つ抱いていないようだった。だけども、タキオンはまだやり返し足りなかったので、続けてこう言った。

「君と出会ったのは、トレセンに入った中学の時だったけど、小学校の時に恋はしなかったのかい?」

 そう聞くと、カフェはじろりとタキオンを見た。タキオンは、これで憎まれ口でも叩かれて話は終わりかと思ったが、驚いたことにカフェはこう言った。

「……私は、…ちょっとだけ恋をしたことがありますよ。…まだ、十七年しか生きていませんが、好きになったのはこの人だけですね」

 本当にカフェが返してくれるとは思わなかったので、タキオンは少したじろいだが言った。

「そ、それは誰なんだい?」

 カフェは、またタキオンをジロリと睨んでから言った。

「…名前なんて教えたって何にもなりませんよ。この想いは、コーヒーの渦の中に沈んで行ったんです。……すぐに溶ける白く甘い砂糖のように」

 いつになく詩的な表現を使うカフェにタキオンはドキドキした。

「ど、どんな思いなんだい?」

 相も変わらず、タキオンが質問してくるので、カフェの方も相も変わらず睨み返した。

「……人に言えるものじゃありませんよ。…あなたのようにあれこれ言える方が不思議です」

 この言葉がタキオンの癪に障ったから、少し怒ったように言った。

「私の想いが嘘だって言いたいのかい?」

「いいえ、そんなことはありませんよ。人に話せる話せないは、人それぞれです。そこに裏も表もありません。…ただ、タキオンさんの話を聞いていると、いつになく思います。…あの人が愛しい愛しい、と」

 ここでタキオンが首を傾げた。今の言葉は、何だか嘘臭かった。

「……君、今の話は嘘かい?」

 そう言うと、カフェはふふっと笑った。

「ええ、嘘です」

「なんだ…。…どこから嘘なんだい?」

 タキオンががっかりしたように聞くと、カフェは静かに微笑み返すだけだった。これが、タキオンをさらにドキドキさせた。

「え、…どこからが嘘なんだい?」

 もう一度聞いても、カフェは静かに微笑み返すだけ。タキオンは、これに非常に感心した。

「君も案外大人なんだな。…少なくとも、それっぽい雰囲気は感じ取れる」

「そうでしょう?」

 そうカフェが答えると、その後に苦いコーヒーを飲んだ。

 

 それから、お昼頃まで時は流れた。タキオンは、用もないのに相変わらずカフェの部屋の方に入り浸り、自分の研究室の方には戻らなかった。カフェは、自分がコーヒーを飲むのを邪魔しなかったから、仕方なくタキオンが居るのを許していたが、あの話が終わってから一声でも話しかけてくれば、邪険な顔をして部屋から追い出すつもりだった。幸いなことに、カフェのコーヒーを飲む時間は、平穏無事に守られた。

 やがて、ゆっくりとコーヒーを飲み終わると、カフェは立ち上がった。ちょうど、タキオンがカフェが部屋に置いている金色の天秤を眺めていた時だった。

「おや、もう帰るのかい?」

 立ち上がったカフェにタキオンがそう呼びかけた。「ええ」とカフェも頷いて、部屋を出て行こうとした。この時に、「なら、私も出るとするよ」とタキオンが言ったから、カフェはタキオンに部屋に出るよう催促せずに済んだ。

 部屋を出ると、二人は暫く黙ったまま歩いたが、二階に降りる階段に来たところでタキオンが言った。

「君、愛って何か分かるかい?…普段から超常現象に触れ合っている君なら、また違った答えが返って来るかもしれない」

「…愛…ですか…?」

 カフェは、不思議そうに聞き返した。

「そう、愛だよ。私には、どうにもこれが分からなくってね。…愛って一体なんだい?」

 タキオンが期待を込めてそう聞いたが、カフェから帰ってきた言葉はこうだった。

「……分かりません。あなたの愛するトレーナーさんにでも聞いてみたら如何ですか?」

「おい、カフェ!そのことはどこそこで言わないでくれ。この学校はどこに目や耳があるんだか分かったもんじゃないんだから」

 タキオンが慌てて、辺りを見渡し、そして、音を聞いて誰もいないことを確かめた。確かに、誰もいないようだった。

「本当に、気を付けてくれよ…」

 珍しく憔悴した声を出したタキオンだったので、これにはカフェも少しの罪悪感を感じて、「すいません」と返した。しかし、その後にこう続けた。

「しかしながら言わせて貰うと、あの人は、あなたの事をそんなに嫌っていないってことは分かるでしょう?…一度、想いの告白でもなんでもしてみては?」

 そんなに嫌ってないどころではなく、タキオンの事が好きなんだろうということは一目瞭然だったが、タキオンが気付いていないという事は、そういう事なので本当の事は言わないであげた。

 タキオンは、カフェの言葉にこう返した。

「そんなの、上手くいくんだったらとっくにやってるさ。でも、彼は、好きであろうとなかろうと、必ず――お前の気持ちには答えられないって答えるよ。それで、私が、――なぜ?って聞こうものなら、……これ以上は言えないか…」

 タキオンは、「トレーナー君は、――俺がトレーナーでお前が担当だからだって答えるよ」と言おうとしたのだが、これでは何処かにあるかもしれない目や耳が一度聞けば、二人が誰の事を話しているのか分かってしまうので、言うのを止めた。カフェには、タキオンが言おうとしていたことが分かったので、こう話を続けた。

「タキオンさんが考えていることが、私の考えに当てはまっているなら言いますけど、…私もそんな風に思いますね。あの人じゃ、まず無理でしょう」

 カフェがそう言うとタキオンは、少しむっとした。

「君が彼の何を分かっているんだい?…まぁ、私も無理だと思う。…あ~あ、もっと楽な物ができたならなぁ…」

 タキオンの声が、階段に響いた。すると、カフェが言った。

「…それが、愛なんじゃないんですか?…それが愛…」

 こう唐突にカフェが言ったから、タキオンは暫く言葉を飲み込めずに黙って考えてから言った。

「…まぁ、そんな答えなんだろうね。持っていて楽な物ではない。…そんな事は誰でも分かっているよ。でも、私はなぜだかそんな言葉じゃ納得できないんだ。…世の中に溢れていて、使い回しにされ過ぎた言葉なんだろうね。だから、その言葉の本当の意味を失ってしまった。大衆的な言葉になってしまった。……愛ってのは、簡単に言える大衆的な言葉じゃないんだ。もっともっと深い名作の様な物の中に現れるのが、本当の言葉なんだ。それが、大衆的な言葉である愛とニュアンスが少し違っても、その人にとっては愛とはそれなんだ。……と言っても、私には分からないんだけどね。…自分の言葉を作り上げたことなんてないし。…あ~あ、私にも名作が簡単に作れたらなぁ」

「…なんでも望みますね」

 そろそろ鬱陶しくなったのか、カフェがぼそっと嫌味たらしく言った。すると、タキオンがハハハと笑って返した。

「望むさ!手に入れられるものだったら!望める物なら望んでおいたほうが得だよ。いざ目の前に、本当に望んでいた物が現れた時、それを取り逃してしまう可能性があるからね。彼もまた然りさ。望める物なら望んでおいて、それが目の前に流れて来たらこの身を汚してでも取る。まぁ、心の底から望んでいる物を自覚してたら、そう思わずともこの身を汚して取るだろう。そんなものさ。…君には、望んでいるものはあるかい?」

 タキオンがそう言うと、カフェが少し考えてから言った。

「タキオンさんに勝つことですね。天皇賞・春の話はどうなりました?まだ、考えていますか?早くしないと、出走登録ができなくなりますよ」

「いやぁ、君もしつこいね。そんなに私に勝ちたいかい?」

「ええ」と食い気味にカフェが返した。

「あれを聞かれたのは失敗でしたが、聞かれたのなら、無理矢理にでも一緒に走らないと気が収まりません。私と走りましょう、タキオンさん」

 タキオンは、困ったようにカフェに笑いかけた。

「それは、多分、走らないよ。まず、トレーナー君との相談が必要なんだ。それに、私は、もうあんまり長い距離は走りたくないんだ。URA区分で長距離とされているものはね。…菊花賞にはほとほと参ったよ。疲れるも疲れる。三千メートルって三キロだろ?ゆったり走るとなれば気持ちのいいものだが、競走するとなると疲れるんだ」

「それは、二千メートルも一緒でしょう?」

「その通りだ。しかし、気の持ちようというものもあるだろう?三千メートルは、私には些か長すぎるんだよ」

「有馬記念もですか?…出走資格は十分あったのに」

「まぁ、概ねその通りだね。トレーナー君が、大阪杯を走らないか?と聞いたから、私もうんと頷いたわけだ。…有馬記念も二千五百メートルだが、区分としては長距離だからね」

「そうですか…。残念です」

 無理矢理にでも、と言ったわりに、カフェは潔く引き下がった。その様子を見かねてか、タキオンが言った。

「…そうだ。君、昼からトレーニングがあると言っていたね。久々に併せないかい?…と言っても、本気のトレーニングではなく、ただ一緒に走りたいだけなんだけど」

 タキオンの言葉にカフェは暫く考え込んでから言った。

「…良いでしょうと言いたいところですが、まずは、松浦トレーナーに掛け合ってみないと。私以外の子も受け持っているので、練習場所を変えるというのは、難しいと思いますよ」

 タキオンとカフェの普段の練習場所は違って、タキオンの練習場所とカフェの練習場所は、校舎を大きく挟んで向こうの方にあった。だから、松浦が移動して見るとしても、中々難しいように思えた。しかし、タキオンはこんな提案をした。

「いやいや、君は私の田上トレーナーが見てくれるから、心配ないだろう。それは、そっちの松浦トレーナーの方が分かっているはずだ。…問題は予定だな。私としては、あんまり本気で走るつもりはなくて、それなりのスピードで君と話しながら走りたいのだが」

「……どっちにしろ、双方のトレーナーに相談しないと決まりませんよ」

「それじゃあ、相談してから決めよう。決まったら、はいでもいいえでもLANE(メッセージアプリ)で連絡してくれ。…じゃあ、また昼にね。私はトレーナー君の所に行ってくるよ」

 タキオンがそう言うと、今まで心持ち落ち込んでいるような顔をしていたカフェが、ニヤッとからかうように笑った。タキオンはそれをしかと見た。あんまりいい気分はしなかったが、カフェが「では」と言って立ち去っていくと、また「じゃあね」と返した。

 しかし、次の瞬間には、田上の下に行くと思うと、心を弾ませた。田上の事が好きだと自覚し始めてから、タキオンは毎日が幸せのような気がした。田上の方は、相変わらず、陰気な面をしてタキオンに接していたが、そんな田上がタキオンは好きだった。――トレーナー君も好きでいてくれたらいいのに。そう思うと、少しだけ心は沈んだが、田上の低い声を聞けば、再び心は浮上する。タキオンは、半ば早足になって、トレーナー室に向かった。

 

 トレーナー室に着けば、まだ田上がいた。タキオンとしては、田上がもう先にカフェテリアに向かったのじゃないかと心配になっていたところだったが、その姿を見つけてほっと胸を撫で下ろした。

 ここ最近は、田上のお弁当は、なしと言う事になっていた。この理由は明々白々で、元々タキオンが研究室で集中しながら閉じこもりたいがために作っていた弁当だったので、研究をしなくなった今、田上がそれを作る必要はなくなった。これには、タキオンも納得はしていたが、少しだけ作ってほしいという気持ちもあった。今は、田上とトレーナー室で二人きりで話すということが楽しくなっているので、その時間ができるだけ長く続くようカフェテリアの時間さえもこのトレーナー室で二人きりでお弁当を食べられたらと思った。しかし、弁当を作るために田上が、少し早起きしているというのも事実だったため、タキオンはその言葉を飲み込んだ。どっちにしろ、カフェテリアで話していてもタキオンにとっては楽しかった。

 部屋に入ったタキオンは、難しい顔をしてクリップボードに貼った書類を見ている田上に「やあ、こんにちは。ご機嫌いかがかな?」と声をかけた。午前中は、ほとんどカフェの部屋にいたので、今日のうちで田上と話すのは今が初めてだった。田上は、書類から顔を上げてチラとタキオンを見て、「こんにちは」と返した。相変わらず、陰気臭い低い声だったが、今は集中していたためか普段よりもずっと低くなっていた。だから、タキオンは言った。

「どうしたんだい?やけに元気がないというか、難しい顔で紙を見つめているが…。もう昼だよ?」

 タキオンが、そう言うと、田上は黙って時計を見上げて、昼という事を確認してから「先に行っててくれ」と言った。これには、タキオンは不満だった。「嫌だ」と言うと、「君と一緒にお昼を食べたいんだけど」と続けた。すると、田上はタキオンの事をジロリと睨んだ。それは、タキオンを見つめながら考え込んでいる顔だったので、タキオンは平然と「どうするんだい?」と聞いた。

 暫くタキオンを見つめた後、田上はため息をついてから言った。

「…まぁ、お腹も減ったからな。昼飯を食うしかないか」

 そう言うと、立ち上がって大きく伸びをして、欠伸をした。

「眠い」

 一言そう発してから、田上はタキオンの事はお構いなしにカフェテリアに行った。タキオンは、その後に嬉しそうについて行った。

 

 カフェテリアに着くと、タキオンは早速聞いた。

「トレーナー君。今日のトレーニング、カフェと一緒に走りたいけど、いいかな?」

「カフェさん?…どうして?」

 田上がそう聞くと、タキオンは先程のカフェとの会話を思い出して、少しどぎまぎしてしまったが表情には出さずに言った。

「ちょっと話したくなったんだよ。カフェの方は、まだ連絡が来ていないから分からないけど、一応乗り気ではあるみたい」

「……それは、二人で競争するってことか?」

「え、ああ、いや違うよ」

 ここで、昼食を受け取って席を探し始めたので、話がいったん途切れた。そして、広いカフェテリアの中にたまたま残っていた二人用の席を見つけると、そこに座って話が再開された。

「…で、タキオン。じゃあ、カフェさんと何をするつもりなんだ?」

「え?…ああ、カフェとちょっと話がしたいから、ゆっくり走りつつ、今日は休憩かな~と思っているんだけど…」

「休憩…」

 その後に、田上は昼ご飯を食べながら、考えるために黙り込んでしまったので、タキオンもご飯を黙々と食べた。そのためなのか、考えながらゆっくりと食べている田上よりもずっと早く食べ終わってしまって、タキオンは暇になった。田上は、変わらず黙って食べていた。しかし、タキオンも暇になってしまったので、田上の方に話しかけた。

「まだ、考えはまとまらないのかい?」

「え?」と田上が聞き返した。タキオンは、仕方なさそうに微笑んで、また同じことを繰り返した。すると、田上も言葉を飲み込めたようだったが、すまなそうにこう言った。

「ごめん、全然別の事考えてた。……うん、いいんじゃない?松浦さんが、良いって言えば、俺は良いと思うよ。…練習する場所は違うけど、どうするの?」

「それは、私たちの場所でしようと思っているのだけれど、…あっちじゃ難しいだろ?君と違って、あっちは何人か持ってるんだから」

 これは、田上の自尊心を少しだけ傷付けたようだった。しかし、一瞬だけ顔をしかめこそしたのみで、その後にこう言った。

「…まぁ、そうだろうな。…別にタキオンがあっちに行ってもいいんだけどな。迷惑をかけなければ」

「それは、私があっちに行くだけで迷惑になるだろう?結局、仕事として面倒を掛けることになるんだから。……それとも、君と一緒にあっちに行けばいいのかな?」

 タキオンがそう言うと、途端に田上が返した。

「あっちは嫌だよ。なんか、広すぎて嫌になるし、見る奴見る奴自信に満ちていて、俺にはやりにくい」

「なら、カフェがこっちに来るしかないようだね」

 タキオンがそう言うと、話は終わりだったようだ。田上が、ご飯も食べ終わって立ち上がって、こう言った。

「ダメだ!もう眠い!ちょっとトレーナー室で寝てくる!」

 田上は、そう言って自分の食器を持ち、厨房の方に戻しに行ったが、その時に戻ってきて言った。

「トレーニングは二時から!それまで、寝てるから起こしに来てくれ!」

 今度こそ田上は立ち去って行った。タキオンは、その後ろ姿を眺めつつも、自分の食器を戻しに歩いて行った。

 

 昼食が終われば、タキオンもどこに行こうか迷ってしまった。と、そこで、タキオンは自分が連絡できるスマホを持っていないことに気が付いた。確か、寮か研究室の隣のカフェの部屋かのどちらかだったから、タキオンは寮の方に探しに行った。

 寮の方は、共有スペースの所にいつもより人が少ないように感じた。しかし、タキオンにはそんなことはどうでもよくて、自分の部屋に行ってスマホを探した。

 スマホは、すぐに見つかった。カフェの部屋の方には初めから持っていってなくて、朝に机の上に置いたきりだったのだ。タキオンは、それを掴むとその中身を見た。中には、カフェのメッセージが届いていた。

『よろしいそうですが、私の事について、何点かあなたのトレーナーさんの方にお伝えしたいことがあるそうです。何時開始かを教えていただければ、その時間にそちらに伺う、との事です。』

 タキオンは、これを見て心の中で少し笑った。というのも、田上は、カフェのトレーナーの事が少し苦手そうだったからだ。――これを伝えたら嫌な顔をするだろうな、と思いつつも、タキオンにはそれが可笑しくて少し笑ってしまった。

 タキオンは、LANEを使って、カフェの方にメッセージを送った。

『私の方も大丈夫。二時から開始すると言っていたから、まだ少しかかる。もし、君のチームのトレーニングの方が、早く始まるのなら、少しだけやっていても構わない』

 そう送ると、満足そうにニヤリと笑ったが、すぐに――何かが足りないな、と思った。それで、タキオンは良い事を思いついた。――そうだ。トレーナー君の寝顔を撮って送ってやろう。そう思うと、自分のジーンズのポケットにスマホをしまって、おもむろに部屋を出た。



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十三、愛とは?②

 タキオンは、一応、トレーナー室にノックして入った。ノックして、返事も聞かないで入った。

「トレーナーくーん。居るかーい」

 これは、少し小声だった。田上が、寝ているものとばかり思っていたからだ。ノックをしたのは、気が向いたからだった。もしかしたら、田上が寝ている所に入るのに、少し罪悪感を感じたからかもしれない。しかし、これは先日のデジタルを巻き込んだものに比べれば恐るるに足りなかった。

 タキオンは、誰もいないと思っていた部屋に呼びかけたが、返事が返ってきてびっくりした。すぐに、声の聞こえてきた右手の方を見やると、手前のソファーに田上がだらしなく寝ていて、その奥のソファーの方にマテリアルが優雅に座ってお茶を飲んでいた。タキオンは、少し顔をしかめた。いつ入ってきたのかは知らないが、トレーナー君と二人きりでいたなんて少しずるいと感じたからだ。そのしかめ顔に何と思ったのか、マテリアルは、笑顔を作ってこう言った。

「ああ、タキオンさん。今、タキオンさんの紅茶を頂いていた所です。タキオンさんの言っていた通り、凄く…何と言うか、心地が良いです」

 あんまり笑顔だったものだから、タキオンも不機嫌であることを段々と忘れさせられて、田上の写真の事も忘れさせられた。

「ああ、そうだろう?…その茶葉はね、香りがとてもいいんだ。…ただ、トレーナー君は、この匂いが嫌いらしくて、私がこれを飲むといつも主張するように咳をしたり、キーボードを強く叩くから、私はいつも気にしないようにしているよ」

 マテリアルの「へ~、そうなんですね」という声を軽く聞き流しながら、タキオンはソファーに寝転がっている田上の顔を覗き込みに行った。

 田上の顔は、うなされているのか、いつにも増して悩ましげな顔だった。寝ているというのに、幸せそうな面をしないで、眉間に深い皺を寄せていた。なんだか、可哀想になった。どう生きてきたら、寝ている間までもこんな顔になってしまうんだろう、と思った。タキオンは、さらに田上の顔に自分の顔を近付けて、見つめようとしたが、それはマテリアルの少し空気の読めない声によって破られた。

「タキオンさんもお飲みになられますか?ちょうど、お湯を多く作りすぎてしまったんです」

 マテリアルがそう言うと、タキオンは田上の顔からぱっと自分の顔を引き剥がし、マテリアルの方を見やった。

「…ああ、頂こうかな。せっかくトレーナー君が寝ているんだし」

 タキオンは、田上を見つめることを邪魔されたのには何とも思わず言うと、途端にマテリアルが立ち上がって「タキオンさんは、奥の方に座って田上トレーナーの顔でも眺めていてください。私が、用意いたしますから」と言って、電気ケトルの方に歩いて行った。だから、タキオンは仕方なしに言われたとおりに、ソファーの奥の方に座り、マテリアルが座る分も空けて、席についた。

 タキオンは、マテリアルが鼻歌を歌いながら準備をするのを眺めていた。田上の顔も一時は見ていたが、さすがに好きな人の顔と言えども、何の変化も無いとなるとつまらなかった。

 マテリアルは、調子の早い曲を歌っていた。タキオンの知らない、または分からない物だった。タキオンは、一生懸命聞いて何の曲か理解しようと思ったが、タキオンが――ん?と思った時には、もう別の曲に変わっていた。しかし、どれも終始早い曲調の物だった。その中の一つに田上が聞いていた事のある曲があったように思えた。だが、それはやっぱり――ん?と思っただけで、判別はできなかった。

 

 マテリアルの鼻歌は、たまに言葉になったりならなかったりした。その中に、恋歌らしき言葉を聞いた。「ああ、愛する人よ」とか「さぁ、一緒に行こう。愛しきあの場所へ、愛しきあの人と」とか聞こえてきたので、恋歌なのは明らかだろう。すると、タキオンの頭の中に思い浮かんできた物があった。だから、マテリアルがタキオンの分の紅茶を持ってきて、隣に座ると聞いた。

「君は、恋とかはしたことがあるのかい?」

「恋…ですか?」

 紅茶を一口飲んでから、マテリアルが答えた。それに、タキオンが頷いたから、マテリアルは少し考えた後に言った。

「...恋はした事がありますよ。……だけど」

「君は、あんまりそういうところで苦労した事はないんじゃないか?」

 ここで、タキオンがマテリアルの話が終わったと勘違いして、続きの言葉に自分の話を被せてしまったから、慌てて「すまない」と謝った。マテリアルは、「こちらこそすみません」と言ってから、再び話し出した。

「...タキオンさんの言う事も分かります。自慢じゃないですが、一つの季節ごとに絶対に一人から告白されていました。……でも、私、男運がないのでしょうか?付き合う人付き合う人、悉くヘタレで、――やっぱり荷が重かったとかなんとか言われて、未だに半年以上続いたことはありません。...私も交際が、恋から始まらないのがいけないものと思います」

「それは、なんでなんだい?」とタキオンが聞いた。

「…私、本気の恋?と言うものをしたことがなくて、告白してきた人は大体が私の恋している人じゃありませんでした。それにも関わらず、私はその告白を受け入れました。私にとって、恋とは、ただ単に――この人かっこいいな、とか、――この人優しいな、という物なんです。だから、何となくこれが本気の恋ではないんだろうな、と思います。…タキオンさんは、本気の恋という物をしたことがありますか?それとも、今してる?」

 これは、タキオンには少し意地悪な質問だった。マテリアルの真意は分からなかったが、その笑顔がタキオンには意地の悪い笑みに見えた。と言っても、悪い人ではない事を知っていたから、タキオンは嘘を交えつつも、その事について正直な所を答えた。この時に一番苦労したのが、寝ている田上の方に視線をやらないことだった。思わず、視線でもやってしまえば、マテリアルに察せられる可能性があった。

「…私は、本気の恋という物をしたことがあるよ」

 あえて過去形にした。勿論、これは田上の事だったが、正直にいうと不味い。それと同時に、タキオンはこんな事にも気が付いた。それは、田上が初恋の人だということだ。今まで、愛というのは分からないと思って、避け続けてきた恋だったが、ここでなぜか好きになってしまったのが、田上だった。

 タキオンは、その事は口には出さないで、話を続けた。

「…私も君と同じ様にだけど、何となくあれが本気の恋だって分かる」

「ちなみに、その恋の結果は?」

 マテリアルが、口を挟んできたが、ここで、計らずもあの時のカフェと似た微笑みを作って、マテリアルの息を飲ませた。

「…大人の女ですね…」

 マテリアルが、感心して言った。それには、タキオンもこう返した。

「そんな事はないさ。君の方がずっと大人だよ」

「いえいえ、私なんて、ただちやほやされているだけで、精神面はそんなに大人じゃありませんよ」

「でも、君の方が、トレーナー君や私よりずっと落ち着いて見えるよ」と言おうと思ったが、もし田上の方に聞こえていたら可哀想だと思ってなにも言わなかった。実は、田上の意識は、もうとっくに目覚めていたが、目の前で女子会トークをされていると、起きようにも起きれなかった。さらに、タキオンの恋の話も出てきて、益々起き上がることができなかった。田上は、タキオンの話を聞いて、少し悲しくなった。タキオンは、意味深な沈黙をしていたが、今のタキオンに好きな人がいるとしても、きっとそれは自分の事ではないだろうと思ったからだ。田上の瞼の裏には誰にも好かれることのない、自分の背中がポツンとあった。

 タキオンは、先述の言葉を飲み込む代わりにこう言った。

「…ところで、今日も君はトレーニングについてくるのかい?」

「はい、今日も伺います。…もうそろそろ大阪杯が迫ってきているので、近頃は頑張っていますね」

「ああ、そうだね。あと約二か月と言ったところか。…まぁ、今日は少し違うよ。カフェと一緒に走るんだ」

「模擬レースですか?」

「いや、ちょっとした休憩日と言う事で、カフェと走りながらゆっくり喋るんだ」

「へ~、そんな日もあるんですね」とマテリアルは、相槌を打った。それから言った。

「大学で実地の研修も何回かしましたが、そんな事をするとは聞いた事がありませんでした。それは、GⅠを走るようなウマ娘たちは皆していることなんですか?」

「GⅠを?」

 この質問にタキオンは少し笑ってしまった。

「…まぁ、どうだろうね?私だって今回が初めてだよ。たまたまカフェと話したくなったから、トレーナー君に相談して、こういう機会を貰ったんだ。勿論、カフェの方もね。…だから、皆しているというよりも、トレーナーの指導方針によると思うよ」

「ほう」とマテリアルは頷いた。それから、田上の顔を見た。まだまだ、眉間に皺を寄せていた。マテリアルは、その苦悩に満ちた顔を見つめた。タキオンもそれにつられてその顔を見つめた。途端に、写真の事を思い出した。

「ああ、そうだった」

 そう言うと、ポケットからスマホを取り出して、田上の方にかざした。

「何をしているんですか?」

 紅茶を飲みながらマテリアルが聞いた。

「え?…ああ、カフェにトレーナー君の写真を送ろうと思ってね」

「カフェさんは、…あのカフェさんですよね?菊花賞二着で、有馬記念を優勝した」

「そうだね。あのカフェだよ。次の天皇賞・春も獲れるんじゃないかな」

「そのカフェさんが、田上トレーナーの写真を欲しがっているんですか?トレーナーのファンなんですか?」

「え?…いや、違うよ」

 マテリアルの勘違いに気が付くと、タキオンは笑ったが、同時に胸がドキドキした。カフェが田上の事を好きではないのは分かっていたが、他の人がそうなる可能性があった。特に、田上は今後もウマ娘をスカウトしていくだろう。そうなれば、タキオンも危ない状況に立たされるかもしれなかった。しかし、――今の所は、大丈夫。今の所は…。と自分の心に言い聞かせると、話を続けた。

「…カフェはね。…いや違う。私がね、カフェに一方的に送りつけるだけだよ。カフェがトレーナー君のファンなんてことはあり得ないし、第一、こんなトレーナー君にファンが付くほどの器があるわけないだろう?」

 タキオンがそう言うと、話を聞いていた田上は、ここらが潮時だと思って、むくりと体を起こすと眠そうに言った。

「失礼だな。ファンくらい付くよ」

 途端にタキオンは、驚いて声を上げた。

「わ!?き、君いつから起きてたんだい!?」

「……恋の話の時から」

 これには、マテリアルの方も驚いて、そして、怒った声を上げた。

「じゃ、じゃあ、私の話も聞かれてたってことですか!?田上トレーナー、それはダメですよ!ちゃんと起きたのなら起きたと言ってくださいよ!」

「お前らが俺に聞かせたくない話をしていたなら、俺のいない所でしろ!俺だって、起きるタイミングはコントロールできん!」

 その後も田上とマテリアルは激しい口論を交わしていたが、タキオンは人知れず顔を赤くさせていた。話をほとんど最初から聞かれていたということは、タキオンの胸の内も、嘘を交えているとは言え、少しだけ明かしてしまったのだ。何より勘違いだけはしてほしくなかった。本気の恋の何とやらが、田上にどう影響を与えたのかは分からなかったが、タキオンはそう願うことしかできなかった。

 

 田上が起きたくらいが、一時半だったので、トレーナー室に居た皆はぼちぼち準備を始めた。田上が、「ここで着替えるから出て行ってくれ」と言うと、マテリアルが顔をしかめて言った。

「私が、ここに入ってきて、たまたま田上トレーナーが着替えている所だったらどうするんですか?入ってきて、キャーじゃ済みませんよ?あなたの尻を蹴りに行きますよ?」

 田上は、マテリアルの半分冗談に困ったように笑った。そして、そのまま笑いでごまかすと、二人を外に追いやった。それで、着替えようと上着を脱ぎ始めたのだが、タキオンが舞い戻ってきた。

 タキオンが、扉を開けた時、田上はもう自分が一人だと思って鼻歌を歌っていたので、タキオンと目が合って固まった。それから、不愛想に言った。

「何の用だ?」

「いや、ちょっとね」とタキオンが言った。その後に、部屋の中にそっと入ってきた。田上はもう、自分の着替えをとってそれに着替えようとしていたところだったから、その服を机の上に置くと、仕方なさそうにタキオンを見やった。タキオンは、決してそわそわした様子ではなかったが、それでも、落ち着かないように部屋をぐるりと見やった。その時に、田上とも暫くの間目が合ったのだが、何も言わなかった。

 田上は、もう一度聞いた。

「何の用なんだ?」

 すると、また「ちょっとね」という曖昧な返事が返ってきた。それで、タキオンを見ると、棚の方に行って本の背表紙を眺め始めたから、田上はその近くに寄って聞いた。

「何か必要な本でもあるのか?どれなんだ?」

 タキオンは、田上が寄ると少し遠くに離れた。それを田上はしっかりと見て感じ取っていたから、いよいよもう避けられ始めたな、と思った。

 タキオンは、「それを取ってくれ」と言うと、棚の一番上の物を指差した。田上は、タキオンよりも高い背を活かして、その本を取ってやった。それは、田上が普通に気に入っている赤い表紙の本で、ファンタジー物語だった。田上には、タキオンがそんな話が好きとは知らなかったから、「これファンタジーだぞ?読むのか?」と聞いた。タキオンは、「うん、ちょっとね」と田上を見上げつつ言った。それから、少し嬉しそうにして、その本を胸に抱えて立ち去って行った。

 これで、ようやく田上が着替えることができた。今の時間だけで、十分間消費した。早く運動場の方へ行かねばならなかった。早いマテリアルなら、もう着いている頃だろう。少なくとも、マテリアルより遅れるのは確実だった。マテリアルは、田上があまり強く言わないから、結構自由奔放にやっていて、言葉遣いなんかは一応敬語を挟んでいるものの、完全に田上を舐め腐っていた。別に、田上としては、補佐に舐められようが何されようが、自分のやりたい事を邪魔してこなければ何でもよかったので、それをしないマテリアルは田上に容認されていた。

 田上は着替え終わった。着替え終わり、クリップボードにまとめた幾枚かの書類をそれごと持っていって、運動場へと向かった。

 

 一番遅かったのは、田上だったようだ。少なくともタキオンよりは着替えるのが早かったはずだが、のんびりし過ぎたのか、タキオンもすでに着いていて、カフェも着いていて、さらに松浦もいた。タキオンは、田上にこの事を伝えることをうっかり忘れてしまっていたので、田上が来ると「君、松浦君が伝えたいことがあるって言っていたのを伝えるのを忘れていたよ」と言ってきた。それで、状況が飲み込めた。マテリアルも早々にいたが、松浦と田上が話していたので、田上が一番遅かった事に何も言う事はせず、自分もその会話に加わって話に耳を澄ませた。勿論、学びを得るためだった。

 松浦の話は、長くなかった。何点か、「カフェを○○キロ以上走らせないようにしてください」とか「本日のスピードはこのくらいでいいですか?」などタキオンの予定も加味しつつ言ったのみで、田上もそれに二つ返事で答えた。松浦の提示したものは、タキオンが言った通りゆっくり走りたいという要望に答えられていて、田上もこれ以上の事は言いようがなかった。そして、マテリアルは、真面目な顔で二人の話を聞いていた。

 マテリアルは、ジャージに着替えても尚、その美しさを損なわなかった。マテリアルを初めて見るカフェは、タキオンに紹介されて「よろしくお願いします」と言った後、マテリアルが立ち去ってトレーナーたちの会話に加わっていっても、その姿を見つめていた。だから、タキオンに少し笑われた。それで、カフェが「タキオンさんはナツノさんを初めて見た時どう思ったんですか?」と半ば怒って聞き返した。すると、タキオンはぐうの音も出なくなった。自分が、カフェとまるっきり同じような反応をしていたと記憶していたからだ。それだから、タキオンは話を逸らしてこう言った。

「ほら、あの三人を見てごらんよ。…何だか、面白い構図だよねぇ。トレーナー君に部下がいるなんて。あの人そんな柄じゃないだろ?」

 タキオンが聞くと、カフェは失礼なことだと思って声には出さなかったが、頷きはした。

「何だか、時が経つのは寂しいけれど、ここ最近は喜びだってあるんだ」

 タキオンがおもむろに言って、カフェの方を振り向いた。カフェは、恐らく田上を好きになったことだろうと思って、「ええ、そうですね」ととりあえず頷いた。

 

 暫くしてから、カフェに「今日も頑張って」と言うと、松浦は他の自分の教え子の方に帰って行った。カフェは、それを少し笑って、手を振って見送った。

 その後に、田上がカフェの方に近づいてきて言った。

「松浦トレーナーから、二、三個言われたが、ゆっくり走るのであれば問題ない。あんまりスピードは出さないようにとのお達しだ」

 カフェの代わりにタキオンが返事をした。

「それについては全然問題ないよ。何しろ、私たちは、走りながら話すんだから、そのうち脇腹抑えてぜえぜえはあはあ言っている可能性もあるよ」

 タキオンの言葉に田上が苦笑した。

「そうなったら、潔くリタイアしてくれ。勿論、無理はしちゃいけないし、カフェさんに至っては元々俺の担当じゃないから、本当に気をつけて走ってくれ。何しろ、俺じゃ責任は取れないんだ。契約上の責任は、松浦さんの方にあるから、それを忘れないでくれ」

 カフェは、「はい」と静かに頷いた。

「それじゃあ、ストレッチをしてから運動だ。…俺は、土手の方に居るから、何かあったら呼んでくれ。…ちゃんと見てはいるからな」

 最後にそう付け加えて、田上は土手の方に立ち去って行った。

 それで、やっとタキオンとカフェの会話が始まったかに思えたが、最初のうちは、二人とも黙々とウォーミングアップをして、体をほぐしていた。タキオンが早速話しかけるものだと思っていたが、そこはしっかりとやるようだった。

 そして、走り始めた途端に、タキオンはこう言った。

「カフェは、本当に恋をしたことがあるのかい?」

 カフェは、暫く黙っていたが、決して考えていたからなどではなく、ただ単にその瞬間に声を発するのが億劫なように思えたからだ。冷たい冬の風が二人の頬を撫ぜた。

 二人が黙々と走っている時に、カフェは唐突に言った

「あの話は本当ですよ?」

「あの話?」

 タキオンが聞き返した。そして、二人が話すとなると徐々にスピードも落ちていった。

「あの話です。午前中に部屋でした話。小学校の時に好きな人がいたのは事実で、その後に好きな人がいない事も事実です。しかし、そんなに相手の事を想っていたことはありません。名前も朧げにしか覚えていませんから」

「その名前は?」

 性懲りもなくタキオンは午前中と同じ質問を繰り返したから、カフェが呆れて言った。

「あなたに名前を言ったって、しょうがないでしょう?それとも、その名前を聞き出して、スキャンダルでもしたいつもりですか?今時流行りませんよ?そんなこと」

「そうじゃないんだよ。単純に気になるだけだよ。…でも、そう言えばそうか。…私たち、一応アイドルだものね。交際でもしたら、スキャンダルになるのかな?」

「私には分かりませんが、たまにみるウマ娘とトレーナーの交際発覚では、大分世間に容認されている雰囲気はありますけどね。…タキオンさんは、…どうでしょう?誰と付き合っても、批判されそうな気はしますけどね」

「えー?…なんでなんだい?何で批判されるんだい?」

「あなた、元々、問題行動で批判され気味でしたし、名前が大きくなればなるほど熱烈なファンが多くなるのも当然でしょう?…もしかしたら、刺されるかもしれませんね。タキオンさんの交際相手になったら」

 カフェがそう言うと、タキオンは慌てた。それで、隠すことも忘れて田上の方を見つめてから、そのことに気が付いて、殊に小声で言った。

「そんな脅さないでおくれよ。あの人が刺される?もし、そんな事があったら、私は一生誰とも交際できないじゃないか」

「誰かと交際したいんですか?」

 カフェも小声で返した。すると、タキオンも言う事に詰まってたじろいだ。それから、見ているカフェでさえ恥ずかしくなるような赤面で、モジモジしながら言った。

「…私だって、付き合いたい人はいるさ」

 消え入りそうな声だったが、カフェの耳にはしっかり届いた。カフェは、それには何も触れず、黙ったままタキオンの隣を走った。

 タキオンは、暫く頬の熱が引かないまま、考え込んでいたが、やがて、カフェと一緒に走っていたことを思い出すと言った。

「君は、初恋の人以降好きになった人はいない。さっきの言葉の解釈はこれでいいのかな?詳しく言っていなかったけど」

「ええ」とカフェが返した。

「なら、君は、これより先、人を好きになれると思うかい?誰でもいい。出会いがあれば、人を好きになれると思うかい?」

「…人を……。…私には、あんまり想像がつきませんね。確かに、人を好きになったことはありますが、それは遠い昔の事で、ただの子供の戯言に過ぎないと思っています。それこそ、タキオンさんが意味を探し求めている『愛』がなかったのだろうと。……人を好きになるには、愛が必要なんじゃないんですか?」

「では、なぜ、離婚する人がいるんだい?その人たちの間には、愛がなかったと?一度、裸までも見せあった仲だろうに」

「…それは、…愛がなかったんじゃないんですか?」

 カフェは、碌な考えを持っていなかったので、こう返した。タキオンは、その言葉にやれやれと言って、首を振った。

「愛って一体何だろう?それが分かれば、彼への想いもまだマシな感じに持ち続けることができるのに。……分かるかい?カフェ。私は揺れているんだよ。愛と依存の狭間で。彼には、私が依存しているように見えているらしい。これは、帰省した時に口走っているのを聞いたよ。…だけど、これはれっきとした愛なんだよ。……難しいねぇ、愛って」

 タキオンは、しみじみ呟いた。



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十三、愛とは?③

 それからは、二人とも軽口を叩いたり、ただ黙ったりして、ゆっくりと走った。タキオンは、途中で田上の事が気がかりになった。田上は、マテリアルと二人きりで、土手の方に座って何か話していた。勿論、仕事の話だったのだが、タキオンにはさすがに遠すぎて何も聞こえない。そうやって、タキオンがそわそわしているとカフェが言った。

「そんなに心配なら、ナツノさんに断りに行けばいいのに。――彼に近づくのは止めてくださいって。…それとも、もうとっくにしてますか?」

 カフェの話を聞くと、タキオンはまじまじとその顔を見た。それから、ため息を吐いて言った。

「…君の案は、初めて頭に思い浮かんできたけど、…いかんせん、私の秘密を明かすには、マテリアル君の信用度は私の中であまり高くないんだよ」

「…なぜですか?」

「…だって、彼の事嘗め切っているんだもの。…そりゃあ、トレ…彼は、そんな事気にしないからあんな風になっているんだろうけど、いくら美人だからって、…ねぇ?決して悪い人じゃないんだよ。マテリアル君は。…ただ、彼が舐められているってだけで」

「あなたも舐めてここまで来たのでしょう?」

 カフェの言葉にタキオンは苦笑いした。

「それだけ聞くと語弊があるな。…まぁ、あながち間違いではない。最初の方は、御しやすそうだと思ったんだから」

「今はどうですか?」

「今?…今ねぇ?」とタキオンが真面目に考えていると、隣の方から肩を叩かれた。そちらの方を見てみると、カフェが声は出さずに、口だけ動かして「好き」と言っていた。途端に、タキオンは顔を真っ赤にして怒った。

「ああ!!からかったな!カフェめ!人が真剣に考えていたというのに君ってやつは、ずるいぞ!」

 タキオンは、仕返しにカフェの頭を軽く叩こうとした。しかし、これは避けられた。だから、二回目は手を叩こうとしたのだが、これも避けられた。カフェが、煽るようにハハハと笑った。空が、赤くなり始めていた。雲は、白とも赤ともつかない色に変わった。ぽつりぽつりと帰る人も現れ始めた。

 ここで、田上はタキオンたちに声を掛けた。怪我をしてはいけないと言っているのに、大勢がいる所で追いかけっこを始めたからだ。

「おーい」と呼びながら近づいて行った。その後ろには、マテリアルがいたから、少しタキオンと追いかけっこを楽しんで興奮した面持ちのカフェが、「今言えばいいじゃないですか?後ろの方に居ますよ」と言った。すると、一度は落ち着いたかに見えたタキオンが再び、カフェを追いかけ始めた。だから、田上はこう叫ばざるを得なかった。

「おい!タキオン、やめろ!お前の体より、カフェさんの体の方が大切なんだぞ!」

 そう言うと、まだトレーニングをしているウマ娘の間から、くすくす笑いが起こった。タキオンは、恥ずかしさと怒りと夕日で顔を真っ赤にさせて叫んだ。

「君、まさか担当の私よりも、カフェの方が大事だっていうんじゃないだろうね!!!」

 田上も負けじと大音声で返した。

「そうだ!!!何でもいいからこっち来い!!二人とも!!」

 タキオンは、不機嫌そうな顔をして、ぽつぽつと歩いた。カフェもその横に立って、してやったりという顔をしていた。

 今や、トレーニングをしているウマ娘までもが立ち止まって、田上一行の事を見ていたので、田上は恥ずかしさで顔から火が出るかと思った。

 田上は、タキオンを叱った。

「タキオン!お前、怪我をさせちゃいけないって言ったろ?勿論、お前も怪我をしちゃいけないんだぞ」

「そうさ!その通りだよ!けど、今の言葉は聞き逃せないね。…私の方より、カフェの方が大事だと?なら、私なんかじゃなくてカフェの方をスカウトすればよかったじゃないか」

「俺は、そんな事を言っているんじゃない。お前の方は、まだ責任が取れるけど、カフェさんの方は責任が取れないんだ。松浦さんに迷惑が掛かるんだ。ちゃんと初めの方に言ったろ?…で、なんであんな事をしたんだ?タキオンも理由もなくそんな事をしないだろ?」

 田上が、少しでも自分の事を分かってくれていると思うと、タキオンも落ち着いた。しかし、先程の事を思い出すと再び怒りが湧いてきた。湧いてきたのに、その事を言えなくて、タキオンは恨めしそうにカフェを睨んだ。田上には、タキオンが何を思っているのか分からなくて、その見た方向にいるカフェを問うように見つめた。すると、カフェが自白した。

「すみません。私がからかったのでタキオンさんがこうなりました」

「からかった?」

 田上は、何も分からないので、当然こう聞き返した。カフェは、タキオンを見やった。タキオンは、夕日に栗毛色のウマ耳を赤く染めて、首を横に振った。

「タキオンさんにとって恥ずかしい事のようなので、お話しすることはできません。…それとも、今した方がいいですか?」

 まだ、からかいたがっているカフェを睨んで、タキオンは怒った口調で「良くない。叩かれたいのか?」と言った。さすがに、これ以上の平手打ちは避けれないし、田上にもさらに怒られるだろうし、もっと言えば、タキオンに叩かれずとも挽肉にされてしまうだろうと判断したカフェは、「…だそうです」としか言わなかった

 田上には、今の話があまり飲み込めなかったが、先に仕掛けたのがカフェであれば、「もうタキオンを苛めないでくれ」と頼み込んで、解放した。それから、ちょうどいいタイミングで松浦が、カフェの事を見に来たので、田上は事の成り行きを言った。松浦は、苦笑いしてからタキオンの方に謝り、カフェの方に叱った。

「カフェ。追いかけっこは、追いかけっこする時間にしなさい。皆で追いかけっこがしたいのなら、その時間を設けるから。きっと、他の子たちも喜んで追いかけっこしてくれるぞ」

 これは、カフェに大きな打撃を与えることができたようだ。カフェは、縮こまって「すみません。もうしないので、…追いかけっこは止めさせてもらえるとありがたいです」と言った。それを見て、タキオンも気が晴れた様だった。空が夕焼けになってから初めて笑みを作って、今度はタキオンがカフェをからかった。

「おやぁ?カフェ。心なしか、君の顔が赤いように見えるぞぉ?夕日のせいかなぁ?」

「タキオン、止めろ」と田上が叱ったので、タキオンはすぐにカフェを見る事を止めて、田上を見た。そして、言った。

「君、さっき私の方は責任が取れるって言ったけど、もし私が怪我でもしたらどう責任取るつもりだったんだい?」

「ん?…お金を払う以外にないだろ?」

「じゃあ、私が一生動けない怪我でもしたら?」

「タキオンの一生分のお金を死に物狂いで働いて返す」

「それでも足りなかったら?…つまり、今の君の収入で。…だって、担当したウマ娘に依るだろ?レースで貰える賞金の額は。それなら、一生働いたって、担当しているウマ娘がGⅠを勝てずに、返せない可能性だってあるわけだよ?それはどうなんだい?」

「それは、別の仕事して返すしかないだろ。一生だよ。トレーナーで安定した収入が見込めないのなら、安定した収入のある仕事に転職して、一生かけて返す。…別に心配しなくたって、今の所、金ならタキオンが勝ってるからたくさんあるし、そもそもトレーナーになれるくらいだから他の会社からも引く手数多なんだよ。…なんでこんな質問を?」

 田上が、そう聞くと、「いや、なんでもない」とタキオンが返した。

 それでトレーニングの時間は終わりになった。タキオンは、あの質問をした後、むっつりと黙り込んでいて、田上とマテリアルが世間話で盛り上がっていても、その横についていただけで、何も話さなかったし、何も聞かなかった。あの質問では、タキオンの満足のいく回答を得られなかったのだ。田上が一言、「お前の傍に一生居続ける」と言ってくれたら、タキオンは満足したのだが、田上はひたすら金で解決するとしか言わなかった。むしろ、「傍に居続ける」と言う事を意図的に避けているようにも思えた。ただ、これはタキオンの主観でしかなかったので、何とも言えなかった。何とも言えないまま、田上とマテリアルが話す時間を横で過ごした。

 

 暗くなってきた所で、田上が「もう帰らないと」と言った。タキオンは、まだ隣にいた。マテリアルも話し続けていた所だったので、田上がそう言うと、マテリアルも「ああ、そうですね」と頷いた。

 タキオンは、ずっと田上のジャージの裾を握ったまま、考え事をしていたので、田上に腕を触られて「行くよ」と呼び掛ければそのままついてきた。ただ、寮の前でこんな話が聞こえてきて、タキオンは考え事から覚めた。その話の内容は、田上とマテリアルが、食堂の方で一緒に食べながら、これまでの話の続きをしようというものだったので、除け者にされたタキオンは堪ったものではなかった。

「ずるいじゃないか!私も話に混ぜたまえ!」

 タキオンがそう主張すると、田上は迷惑そうな顔をし、マテリアルは、駄々をこねている他人の小さな子供を見るような顔をした。タキオンには、マテリアルのその顔が気に入らなかった。その顔こそが、まるで相手にしようとしていない顔だった。だから、タキオンはマテリアルの顔面に一発パンチを食らわせたくなったが、それを押しとどめて言った。

「今からフジ君に、トレーナー君の部屋で寝てくると言ってくる。それまで、待ってるんだよ」

 タキオンは、眠たくて正常な判断ができていないということを田上は察したから、タキオンの手を取ってそれを一旦止めてこう言った。

「俺たちの話なんか、お前にとっちゃ、ゴミの話を楽しくしているようなもんだぞ。それに、男性トレーナーの寮に泊まる事は禁止されているから、それはいくら優しくされてもフジさんには了承できないはずだ」

「なんでなんだい?」とタキオンは不思議そうでかつ怒っている口調で言った。

「君との旅行はセーフだったのに、寮に泊まることは禁止されているのかい?」

「そりゃあ、寮は近いんだから、簡単に行き来できるし、それで、慢性的に寮に泊まられでもしたら、管理が大変なんだろう。第一、お前の部屋があるんだ。自分の寮の食堂で食べて寝ろ」

「それはあんまりだ。二人だけ楽しんで、私は蚊帳の外かい?それじゃあ、私は、一人ぼっちで死んじゃうよ。…ああ、良いとも。君ら二人は私が死ねばいいんだろ。ならば、お望み通り、一人で死んでやるさ。じゃあね」

 そう言うと、タキオンが田上の手を振り解いて、早足で立ち去ろうとした。マテリアルと田上は、困ったように顔を見合わせたが、次の瞬間にはマテリアルが、去って行くタキオンの背中にこう言った。

「私の部屋だったら、泊まれると思いますよ」

 田上は、驚いてマテリアルの方を見た。タキオンも振り返ってマテリアルの方を見たが、その顔はどう見ても「トレーナー君の部屋の方がいい」と言っていた。マテリアルは、苦笑して「別にトレーナー寮の食堂で食べて、自分の部屋に帰っても良いと思いますよ」と言った。タキオンは、その提案を聞いて、不思議そうにマテリアルを見つめた。それから、「ふむ、その手があったか…」と呟いた。

 それから、ちょっとの間タキオンは考えて言った。

「いや、マテリアル君の部屋に泊まろう。ちょうど言いたい事があったんだ」

「言いたい事…ですか?」

「そうだ。君の部屋に泊まれるんだったら、その機会がちょうどいい。それじゃあ、フジ君の所にひとっ走り行ってくるよ。マテリアル君の部屋に泊まるって」

 そう言って、タキオンはそそくさと寮の方に歩いて行った。その背を見つめながら、田上が言った。

「良かったんですか?多分、言いたい事って碌なことじゃありませんよ。言いたい事ですからね。多分、相談したい事じゃありません。…小言を言われますよ」

 田上の言葉を聞いて、マテリアルはふふっと笑った。

「果たしてそうでしょうか?私には、きっと面白い事のように思えます。なんて言ったって、まだ日が浅い私に言いたい事があるんですからね。小言でも相談事でも、私は大歓迎ですよ」

 田上は、楽し気な笑みを浮かべているマテリアルを、珍しい物でも見た、という目つきで見やった。それから、また目を逸らすと、タキオンが戻ってくるのを待った。

 

 タキオンは、すぐに戻ってきた。手には、ビニール袋を持っていて、何なのか田上が聞いたら、「下着とパジャマと明日の服だよ」と答えられた。田上は、何だかばつが悪くなったが、タキオンがそれを言った後も平然としているのを見ると、田上も何も言えずに歩いていく二人の後ろについて行った。

 三人は、そのまま食堂へと直行した。田上としては、マテリアルとの話も一度落ち着いて、もう続きをしなくてもいいかな、という雰囲気になっていたのだが、いざ、話してみれば、再び話は弾んだ。ただ、その前にタキオンと食堂の修さんからこんな事を言われた。

 修さんが、まず最初に、田上に料理を渡すときに言った。

「圭一君。タキオンちゃうん弁当ば、作ってやらんたい?」

 皺くちゃの顔が、ニコッと笑ってもっと皺くちゃになっていた。その顔は、田上を見て、横のタキオンを見て、それから、後ろのマテリアルを見た。

「後ろんあん人ば、圭一君の知り合いけ?」

「ああ、僕の補佐になったナツノマテリアルと言います。ナツノさん、こちらは食堂でご飯を作ってくださっている…えーっと…修さんだ」

「長村修です」

 修さんは、田上が自分たちの苗字を忘れていたであろうことにニコニコしてい言った。マテリアルが、「どうも、ナツノマテリアルです。お世話になります」と言った。

 それから、修さんは、タキオンの方を向いて言った。

「こん子が、タキオンちゃん?テレビで見ったて。菊花賞、凄かったもんなぁ」

 タキオンは、田上と修さんが仲が良い事を不思議に思いながら、「どうも、アグネスタキオンです。トレーナー君がお世話に…なっているのかな?」と言った。最後の言葉は、田上に向けられたものだった。田上は、こう返した。

「お前もお世話になっていた人で、お前の弁当は、全部ここで作らせて貰っていたんだぞ」

「おお、じゃあ、めちゃくちゃお世話になっていたじゃないか。今までありがとうございます」

 タキオンが修さんに頭を下げた。すると、修さんがこう返した。

「そげ頭下げんでもよか。そいよい(それより)もタキオンちゃんん聞きたいことがあっで、…圭一君ん弁当、また食べたくならんたい?」

「弁当を…またですか?」とタキオンが聞き返すと、修さんが頷いた。これは不味いと思って、田上は話に割って入った。

「タキオンは、もう研究室で集中することもないんだから、弁当はいらないだろ」

 修さんを見ていたタキオンは、今度は話し始めた田上の方を見たが、田上がそう言うと修さんの方を向いて言った。

「実は、私、最近トレーナー君のお弁当が恋しくなってきたんですよ。…ただ、本人は大変とか何とかでやりたがらないんです。実際、普段より早く起きているようだから、私も強く言えなくて…」

 タキオンが、そう言うと、修さんはますますにこにこして、だが、悔しそうなふりをして言った。

「かーー!そうか!圭一君、タキオンちゃんんため頑張ってたって。あー、残念たい。残念。圭一君んお弁当、タキオンちゃんも食べたかとにねぇ」

「残念です。もうトレーナー君のお弁当が、一生食べられないと思うと、涙が出てきます」

 タキオンはそう言って、田上ににやっと笑いかけた。絶対に涙の出そうな顔ではなかった。田上は、それに答えようかどうか迷ったが、結局有耶無耶にして、料理を受け取り三人で席に着いた。

 それから、先程も言った通り、マテリアルとの会話を弾ませることができた。タキオンは、つまらなさそうだった。なぜなら、この会話のほとんどがゲームに関する話だったからだ。だから、タキオンは、話には入らず、かと言って聞くこともせず、運動場にいた時と同じように田上の隣に座って、ぽつぽつとご飯を食べていた。

 

 やがて、時間は経っていった。田上との別れの時が来た。タキオンは、なんだか、正月の時のように戻ってしまって、田上と離れたくないと少しだけ駄々をこねた。だが、食堂のキッチンの方から見ている老人たちの顔を見ると、途端に恥ずかしくなって駄々をこねるのをやめた。

 タキオンが、駄々をこねたのは、食堂のテーブルに他の人が誰一人いなかったからかもしれない。いや、一人二人はいたかもしれないが、それはタキオンの気付かないずっと端の方だった。それ故に、田上との幸せだった旅行の事を思い出して、マテリアルと話し込んでいる田上に甘えたくなったのかもしれない。だが、もう今の所は大丈夫だった。タキオンは、田上に少しだけ寂しそうに「バイバイ」と言うと、マテリアルについてトレーナー女子寮の方へと歩いて行った。

 田上は、その後ろ姿を見て不安になった。やっと落ち着いたかに思えたタキオンが駄々をこねたというよりも、また、タキオンが帰省の時のようになって、田上に甘えてくるかもしれないと思ったからだ。そんな事は、田上にはもう堪えられなかった。タキオンが、思春期らしく田上に隠し事をして、そのまま立ち去って行ってくれた方が良かった。

 タキオンは、一度、曲がり角で長い廊下の方を振り返った。田上は、まだそこにいた。何を思っているのか、タキオンには分からなかったが、身動き一つせずにタキオンがいたはずの廊下を見つめていた。タキオンは、もう角に消える所だった。田上とは目が合わなかったが、そちらの方に小さく手を振ると、途端に田上にも意識が戻ったのか、身じろぎをして、不愛想な顔のまま手を振り返してくれた。タキオンは、嬉しそうにふふふと笑うと、マテリアルの後を追いに、曲がり角へと消えた。

 田上は、その曲がり角に消えた影を人が来るまで暫く見つめていた。

 

 タキオンは、マテリアルの部屋にやってきた。整然とされていたが、どう見ても二人が寝れるような広さはなかった。けれども、マテリアルは、そんな事には気付きもせず、「シャワー浴びます?それとも、大浴場にします?」と聞いた。タキオンは、今更風呂に行くのも面倒臭かったから、「シャワーで」と言うと、マテリアルがこう返した。

「なら、私は大浴場の方に行ってきますので、ご自由に使っておいてください。シャンプーもリンスも一応置いてあります。いざって時にないと困りますからね。今がその時です。…じゃあ」

 そう言うと、早速マテリアルは部屋を出て行った。知らない人の知らない匂いがする部屋だった。すると、タキオンは、正月の出来事を思い出した。田上の知らない一面をまた一つ知ることができたあの頃、あの場所で、永遠ともいえる長い時を過ごした。まるで、家族のようだった。――あの時に戻れたらなぁ…。タキオンは、不図そう思ったが、そうすると、この自分の想いまでもリセットされてしまうことに気が付いて、慌てて頭を振った。そして、こう思った。

――永遠なんてものはないとトレーナー君が一生懸命説いてくれたじゃないか。トレーナー君もまた、私に教えを説いている裏で永遠がない事に絶望しているんだ。私が、助けてやらねば、誰が助けてやる?…いや、誰でもいい。死に物狂いでトレーナー君を助けるんだ。恩とか愛とか、そんなものはどうでもいい。私が、助けたいから助けるんだ!

 タキオンは、そうやって考え事をしながら、服を脱いでシャワーを浴びた。そして、また、薄暗い脱衣所の方に戻ると、パジャマに着替えた。ここで、タキオンにある案が思い浮かんだ。それは、さっきの考えとは、まるっきり関係のない、タキオンの言わば悪だくみとも呼べるものだった。

 タキオンは、ピンク色に白い水玉のあるパジャマを着ていた。もう外は真っ暗だった。田上が、どうしているかは分からないが、少なくとも寮の中に入るだろう。部屋の中に居れば、尚良い。タキオンは、まだ大浴場にいるであろうマテリアルに『トレーナー君を探してくる。ちゃんと戻ってくる』と書き置きを残して、そそくさと立ち去った。



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十三、愛とは?④

 トレーナー寮は、ウマ娘寮と違って、比較的静かだった。特に、女子寮の共有スペースは、本当に静かで、誰も大きな声を上げて笑う事をせず、誰もソファーの上に立って、床にジャンプなんてしていなかった。勿論、ウマ娘寮もそういう分別のない子が寝る時間になれば静かにはなるのだが、いつも静かだとなるとタキオンも羨ましかった。タキオンは、共有スペースを利用する時間、というよりも風呂上りなどにゆったりとする時間がそれなりにあったので、こうも落ち着けるとなるとトレーナー君の部屋と言わず、普通に女子寮でもいいから、ここに住まいたくなった。しかし、そうも言ってられないので、タキオンは、男子寮の方へと急いだ。女子寮の方からウマ娘がやってくると、物珍しそうに男子たちはタキオンを見つめたが、すぐに自分たちの話に戻った。

 男子寮は、女子寮ほどではないにしても、静かだった。というのも、女子寮の方は声を上げて笑う人はほとんどいなかったが、たまたまタキオンが来た時だけなのか、がははと無遠慮に笑う人が数人いた。それが、あまりに耳障りだったので、タキオンは田上の部屋へと急いだ。

 

 田上は、ちょうど風呂上がりだったようだ。首にタオルを掛けて、廊下の奥の方からスタスタと歩いていた。少し解れた心地だったのだろうか、鼻歌を静かに歌いながら、所々電気の付いていない廊下を歩いていた。

「トレーナー君!」

 タキオンが、まだ自分に気が付いていない田上に呼び掛けた。それが、静かな共有スペースにあまりに大きく響いて聞こえたようだったから、男たちの笑いがちらほら聞こえた。タキオンは、顔を赤くして、田上の方に歩み寄って、そして、自身のトレーナーに八つ当たりをした。

「君が、あんまりにも遠くにいるもんだから、大声を出してしまったじゃないか。君のせいであの人たちに笑われたぞ」

 これも共有スペースにいた人たちに聞かれていたようだ。何人かのハハハと笑う声が聞こえ、さらにあの耳障りながははと笑う声も聞こえた。タキオンはもう腹が立ってしまったから、共有スペースにいる人たちにこう言った。

「みっともないぞ!大の大人でありながら、子供の事を笑うなんて!それでも君たちはトレーナーか!」

 また、笑い声が起こった。そして、「俺たちはトレーナーだぞ!」という声がどこかから湧きあがった。この調子は、まるでタキオンを煽るようだった。だが、タキオンはそんな調子には気付かず、こう言った。

「よし!今、言ったやつ立て!私が直々にその不遜な面を拝んでやる!」

「俺です!」と言って、一人の青年のように若々しい男性が立った。

「お前か!」とタキオンが言うと、そちらの方に歩いて行こうとしたから、田上がその手を取って「もういいだろ?タキオン」と不安そうに言った。田上は、こんな風に注目されるのは嫌いだったのに、運動場の時と今とで、今日二度目だった。

 そんな田上を見て、タキオンは思い止まった。しかし、怒りまでは止まり切れずに、最後に若々しい男性にこう吐き捨てた。

「もう二度と私のことを笑うな!」

 男性の周りで笑い声が起こった。タキオンの腸は煮えくり返る思いだったが、田上が再度「もうやめてくれ」と言うと、タキオンも渋々引き下がった。

「あの人たち、酷くはないかい?」

 田上が、自分の部屋に連れ込むこともできないので、タキオンと一緒に廊下の奥に逃げるとそうタキオンが言った。田上は、困ったような顔をして言った。

「ああいうのは、どこにでもいるんだよ。それに一々怒っていたら切りがないだろ?」

「そりゃあ、勿論、そうだけどさ。私は悔しいんだよ、トレーナー君。笑われて黙っているなんてことできないだろう?」

「できるよ。だって、それで怒って、厄介な輩に絡まれでもしたら、この上ない面倒だろ?」

 そこで、田上は階段の方に舵を取り、タキオンにも行こうという事を仕草で伝えた。タキオンは田上の横を歩いて、階段を上りながら言った。

「確かにそれはそうだけど、でも、やっぱり私は怒りたいんだよ」

「なんでなんだ?」

「……頭に怒りがチラつくからだよ」

「なら、その怒りを抑える練習をしろ。その怒りに身を委ねてちゃ、何にもならないってことはタキオンにもわかるだろ?」

 二人は、一歩一歩階段を上り、屋上の方に近づいて行った。

 タキオンは言った。

「でも、…でも、…うん。納得はできる。…ただ、抑えられるかなぁ」

「それは、まだ不安定な時期だからしょうがない。段々やっていくんだよ。段々」

 それから、二人は、階段の上の方を見つめながら、屋上まで歩いて行った。屋上に出るドアには、鍵が閉められていなかった。ここの扉は、本来は門限の時間に閉められるのだが、こうして夜に外の風を吸いに来る人もいるので、閉まっている日いない日はまちまちだった。

 屋上のドアを開ければ、冷たい風がぴゅうと吹いてきて、田上は思わず身震いした。タキオンも身を縮こまらせて、「寒いねぇ」と呟いた。静閑な屋上だった。田上は、この静閑な屋上を見に来た。田上は、この屋上が好きだった。校舎よりかは低かったが、それでも十分に高い所。そして、寝転がって見れば、明かりは目に入らず、ただ星空だけが見える場所だった。ただ、今日は、寝転がることはしなかった。あまりに寒すぎたからだ。

 田上は、白い息を吐きながら真っ暗な空を見上げた。女子寮の明かりが、目に入ってきたが、それを無視してみてみれば、やはり静閑で、綺麗な星空だった。田上は、美しい星空をぽうっと眺めた。タキオンもその横に立って、空を眺めてみたが、あまり大した感情は抱かずすぐに飽きてしまった。そして、隣の田上を眺めた。田上は、寒さで鼻の頭を赤くさせているのにも関わらず、夢中で星空を眺めていた。目はあっちへ動きこっちへ動き、色んな星を探していた。まるで、小さな子供のようだった。田上の子供の頃を垣間見たような気がした。それを見ると、タキオンはなんだか寂しくなったが、同時に嬉しくもあった。こんなに顔を輝かせているのは、タキオンをスカウトした時ですらない。あの時が、一番、田上の感情が高まったときだろうと、タキオンは思っていたがそんなことはなかった。今の田上の顔を見れば、それが分かる。そのくらいに顔を輝かせていた。

 やがて、田上は、タキオンがいる事を思い出すと、地上の方に目を向けたが、タキオンが「君、一生懸命星を探していたようだけど、どれがどの星とか分かるのかい?」というと、嬉しそうに「ああ」と低い声で頷いて、星空を指差した。

「あそこの方に見える星が分かるか?」「…えーっと?…あのちょっと小さいのの横にある星の事かい?」「多分それだ。その星が北極星。…それくらいだったら、タキオンも知ってるか?」「いや、知らないよ。私は、星の事に関してはからっきしなんだ。…ほら、続けてくれ」「…じゃあ、あの星は分かる?冬の大三角形の星だけど」「ああ、…あれだろ?多分、シリウス」「残念」

 こんな風に二人は話していった。タキオンは、ここがチャンスだと思ったから、少しずつ距離を縮めた。田上が星空を指差す度、そっと寄って、田上がこちらを向けばふっと微笑む。そして、最後には田上の腕と腕を組んだ。田上は、タキオンが寄ってきていたことには気が付かなかったが、さすがに腕を組まれると気が付いたようだ。星空を見つめて楽しそうに喋っていた声が止み、次に口を開いた時には、いつもの疲れ果てた男の声に戻っていた。

「もう、寮に戻ろうか」

 田上が言った。タキオンもまさかこんな風になるとは思わなかったので、思わず「ごめん」と謝った。

「いや、いいんだよ」

 心なしかいつもより疲れているような声だった。風呂上がりの熱気は、寒空へと奪われた。田上は、今はもう誰も寄せ付けない背中をして、体を小さくさせて、寮へ帰ろうとした。タキオンは、今にも叫びだしたくなった。「実は君の事が好きなんだ!」と。しかし、それもまた渇いた寒空へと奪われた。タキオンは、口を開けこそしたが、言葉は何も出てこず、そのまま口を閉じた。そして、田上の後に続いて、建物の中に入ると、屋上のドアを閉めた。

 

 その後は、二人とも別れ際の「バイバイ」という言葉しか交わさず、歩いて行った。そして、それぞれ別れると、田上は自分の部屋へ入り、タキオンはマテリアルの部屋の方に行った。少し迷子になりかけたが、何とかマテリアルの部屋の前まで辿り着けた。そこで、タキオンが部屋の取っ手に手を掛けた時、タキオンが来た反対の方からマテリアルが来た。無表情のタキオンにマテリアルが不思議そうに話しかけた。

「タキオンさん、田上トレーナーを探すって、迷子にでもなったんですか?あの人」

 マテリアルは、風呂上がりのタオルをまだ首の方に掛けていた。タキオンは、その言葉に少し笑って、こう返した。

「いや、ただ、トレーナー君の正確な居場所が分からないからそう書いただけだよ。本当は、トレーナー君の所に遊びに行っていただけだよ」

「そうなんですか」

 マテリアルは、嬉しそうにニコッと笑った。マテリアルは、例え肩にタオルを掛けていたとしても絵になった。その様にタキオンは少しの間見惚れた。全く油断も隙もあったものじゃなかった。マテリアルの美しさは、絶えずタキオンを魅了していた。そして、タキオンがその魅了から覚めると、少し活力の戻った頭で思った。この美しさに眉一つ動かさず、耐えられるトレーナー君は一体何者だろうか?と。タキオンはどんな人、例え同性である女でさえもこの美しさには見惚れない事はできないだろうと思った。ウマ娘の中でも抜群の美貌をマテリアルは持ち合わせている。それによって、誰もが彼女に見惚れるのだが、不思議なことに田上にはそれがなかった。――もしかしたら、悟りでも開いた仙人なのか?タキオンは、本気でそう思い始めたが、――なら、私の出る幕がないじゃないか、と思うとその考えを頭から振り払った。――トレーナー君は、きっとやっぱり自分の事に悩んでいて他の人の事を見ている時間がないんだ。そう思った。だが、そうは言っても、これからマテリアルに言う事は止めなかった。

 タキオンが、マテリアルに言いたい事とは、運動場でカフェと話した、田上とマテリアルの仲を牽制しておくことだった。もう、マテリアルが田上に惚れているのであれば、タキオンに成す術はなかったが、まだ日が浅いマテリアルなら惚れてはいないだろうと思った。それを早速言おうと思ったのだが、マテリアルはタキオンが話し出す前にこう言った。

「タキオンさんは言いたい事があるんでしょ?それなら、一緒にお布団に入って話しましょうよ」

「なんでなんだい?…第一狭いだろ?」

「その方が、何か仲良しで良いじゃないですか。私は、その方が話しやすいです」

「私は、その方が話しにくいんだけどねぇ」とタキオンが返したが、マテリアルに「さあさあ」と背を押されて、ベッドの奥の方に押し込まれた。

「このまま寝るのかい?」

 タキオンが聞いた。

「ええ。…狭いのが嫌でしたら、寝るタイミングで私が床で寝ますけど」

 タキオンは、「私が言い出したんだから、私が床で寝るべきなんじゃないのかい?」といおうとしたが、マテリアルの「私が下で寝るのは当然ですよね?」という顔を見ると、それを言う気も失せて、「いや、狭いのは嫌いじゃないよ」と言った。

 そして、二人は、話し始めた。ただ、このまま寝るというので、タキオンはその前に一度トイレを済ませに立った。それから、いよいよ話が始まった。

「それで、話っていうのは、小言ですか?相談事ですか?」とまず初めに、マテリアルが聞いた。それが、あまりにもすらすら出てきた言葉だったので、タキオンは半笑いで「なんだい、それは?」と聞いた。

「タキオンさんが、寮に荷物を取りに行ったときに、田上トレーナーが話していたんです。――きっと小言だぞ、って。だけど、私はタキオンさんと話すことができるのが嬉しいので、――小言でも相談事でもドンと来い、って返したんです」

「なるほど、トレーナー君には後で、小言を言っておかないとな」とタキオンがお道化て返すと、マテリアルからハハハと楽しそうな笑いが起こった。タキオンがそれを静かに微笑んで見つめていると、マテリアルもやがて笑い終わりこう言った。

「最初から話が逸れましたね。でも、私、これって凄く学生の時の修学旅行みたいで楽しいです」

「んん?修学旅行に憧れがあるのかい?」

 タキオンが不思議そうに聞いた。

「ええ、私、小学校中学校では、仲の良い人がいませんでしたから」

「高校は?」

「熱で途中リタイアになりました」

 マテリアルは、世間一般から見れば、悲しそうなことを明るく言った。タキオンは、その明るさに苦笑して、聞いた。

「それは、悲しい事なんじゃないのかい?」

「そうですけど、今がまあまあ楽しいですからね。田上トレーナーを選んだ甲斐がありました。あの人、とっても優しいですね。あとは、不機嫌そうな顔を直してもらえたら、完全パーフェクトなのに」

 途端にタキオンは、胸がざわついて、話の脈絡なんて何の関係もなしに言った。

「君、あまりトレーナー君に近寄らないでほしいんだ」

 マテリアルが、ニヤリと笑った。

「それが、言いたい事ですか?」

「そうだ」とタキオンが答えた。そして、少し沈黙が流れたが、再びタキオンが言った。

「君がトレーナー君に近寄って貰われると困るんだ」

「誰がですか?」

 マテリアルは、相変わらずニヤニヤしている。その顔に、タキオンは少しむっとしながらも言った。

「私がだよ」

「何でですか?どうしてですか?まさかタキオンさん、田上トレーナーの事が好きなんですかぁ?」

 マテリアルは、意地悪な質問を重ね、遂にタキオンの核心に触れた。タキオンは、それを言われると、怒って何か言い返そうと思ったが、口を開いても何も出てこず、次には項垂れて、下を向いた。うつ伏せに肘を立てているので、シーツに皺が寄っていた。タキオンは、その皺を伸ばそうと、少し頑張ってからやっぱり諦めた。マテリアルは、何も言わずにその様子を眺めていた。タキオンの返答を待っているのだ。こうなると、タキオンも言わざるを得なかったから、渋々、渋々言った。

「……トレーナー君の事は好きだよ。……でも、君の事は嫌いだ。そんな意地悪な質問をする人だとは思わなかった。…これもやっぱり話すべきじゃなかったかもしれない。…ねぇ、言わないでくれよ。私は君の事を信頼してこの事を言ったんだ。君が、もしトレーナー君に言ってしまえば、私は、もう走れなくなるよ。君は私の滅ぶ様を見に来たんじゃないだろう?」

 マテリアルに話した事を後悔したタキオンが、慌てて言った。マテリアルもそれを暫くニヤニヤしてみていたが、やがて、こう言った。

「まぁ、私は、秘密は守りますよ。守ってほしいのであれば。…勿論、生まれてこの方、誰かの秘密を漏らした事はありませんよ」

「本当かい?」

 タキオンが不安そうに聞いた。すると、マテリアルも暫く考え込んで、「…二つ、三つは漏らした事があるかもしれませんね」と言った。タキオンは、悲鳴のような声を上げた。

「二つ三つ漏らしていれば、十分じゃないか!…ああ、もう駄目だ。私は、終わった。マテリアル君に全部漏らされて私は、終わるんだ。まず、トレーナー君の方から避け始めるだろう…。ああ、想像しただけでも嫌だ」

「本当に言いませんから」

 タキオンのあまりの落ち込みように、マテリアルもとうとう優しくなって、タキオンの手を落ち着かせるようにとんとん叩いた。

「本当かい?」

 タキオンが聞いた。

「本当ですとも」

 マテリアルが答えた。そして、続けた。

「もし、漏らしたら目一杯私の顔面を殴ってください。そして、なんとか田上トレーナーの方に交渉してみます。……案外、あの人押しに弱そうだから、頑張ればいけるんじゃないですか?私が漏らさずとも、明日タキオンさんがぐいぐい攻めれば」

 タキオンは、少し俯いて考えてから言った。

「多分、あの人は押せば逃げるし、追い詰めたら余計言う事聞こうとしないと思う。それが、他人であればあるほど…。…ねぇ、私は、トレーナー君の人間関係の中でどのくらいの距離にいると思うかい?」

「タキオンさんが?…普通に一番近いんじゃないですか?あの人、そんなに交友関係は広くないでしょう?」

 マテリアルがそう言うと、タキオンが少し呆れて言った。

「君、まだ日が浅いのに、もうトレーナー君の交友関係まで知っているのかい?…答えは聞いていなかったけど、私の――トレーナー君に近寄らないでくれ、という頼みはどうなったんだい?」

「私は、…田上トレーナーとは、補佐とその上司という適切な距離感を保ちますよ。…ただ、友達のような感覚で、私も田上トレーナーも接してきているので、その辺の区別が大変ですね」

「…何とかしてくれよ?」

 タキオンが不安そうに言った。

「勿論、それはタキオンさんと約束します。できうる限り、体を寄せるなどの無駄な接近は取り除きます。それに、タキオンさんの秘密をあの人に言わないことも誓います」

「トレーナー君だけじゃないからね。他の人にも言っちゃだめだ。それに、例え私と話す時でも名前は出しちゃだめだ。誰かに聞かれでもしたら面倒だ。…誓うかい?」

 マテリアルは、ニヤッと笑って「誓いましょう」と言った。それから、不図思いついたように言った。

「…でも、タキオンさんが田上トレーナーと付き合っちゃえば、それもなくなるのではなくて?」

「…簡単そうに言うけど、相手があのトレーナー君となると難しいよ。……ついさっきも失敗したばかりだ」

「…失敗?」

「……うん、失敗だ。少し腕を組んでみようとしたら、避けられた。本当に嫌そうだったよ。……もしかしたら、私の事が嫌いなのかなぁ?……ああ、嫌だ…」

 タキオンは、そう言ってベッドに顔を伏せた。マテリアルは、ぽんぽんとその背を優しく叩いた。

「あんまり悩んでみてもしょうがないですよ。それに、田上トレーナーは、多分あなたの事が嫌いではないと思いますけどね」

 タキオンは、顔を伏せたまま「本当かい?」とくぐもった声で聞いた。

「本当ですよ。……あんなに仲が良いんだから」

 マテリアルは、最後の言葉を本当の所は、「むしろ、好きなようにも思いますけどね」と言おうとしたが、これを言ってしまっては、少々つまらないように思えたので、変わりの言葉で補った。ただ、やっぱり自分を抑えられなくなって、その後にこう言った。

「次の木曜、バレンタインですよね?そこで、想いを伝えてみては?」

 タキオンは、顔を伏せたまま暫く黙り込んで、その後に言った。

「…どうせ成功しないよ。トレーナー君が、私の事を好きであっても嫌いであっても、結局は逃げるんだ。私は、トレーナー君がそういう男だということを知っているよ」

「じゃあ、どうするんですか」

 マテリアルは、何とかタキオンを焚き付けたくて、煽るように言った。すると、タキオンからは、「その口調はやめてくれ」という言葉が返ってきた。それから、こう言われた。

「とにかく、今は、バレンタインの事を考えるよりも大阪杯の事の方が大切だ。今年でピークが終わるかもしれない、先の見通せない私では、愛よりも競技を優先した方がいい」

「では、田上トレーナーの事はどうでもいいと?」

「……そんなことはない。…ただ、トレーナー君だって、もう少しは待ってくれるだろうって事だ。…私は待っててくれ、と言った事があるから、トレーナー君は待っててくれるはずだ」

「いつ、そんなプロポーズ紛いなことをしたんですか?」

 マテリアルが驚いて言った。

「…プロポーズなんかじゃないよ、本来の目的は。…私が、トレーナー君を助けたいんだ。…私のただの我儘だよ。…、…、…もう、寝るから話しかけないで…」

 タキオンは、消え入りそうな声で最後にそう言って、すぐに寝息を立て始めた。タキオンは、狭いベッドで寝返りもできないのに、一番寝にくそうな体勢で寝始めたので、マテリアルは仕方なしにベッドから立ち上がると、タキオンの体勢を整えてあげた。タキオンの寝顔は、恋する乙女のように少し悩ましげだった。しかし、同時に美しくもあった。美しく儚かった。その儚さすらも秘めた顔は、マテリアルが体を動かすと、口をもにょもにょ動かしながら「トレーナー君…」と言った。マテリアルは、嬉しそうに微笑んだ。そして、タキオンの体を整え終わると、その顔をこれまた嬉しそうに眺めやった。それから、タキオンの鼻を指でちょんと突いて、自分のその隣に寝転がった。暫くは、考え事をして眠れなかった。二人の行く末を想像すると、とても楽しかったからだ。星の見えるレストランの屋上で田上がタキオンにプロポーズとか、反対にタキオンがレースに勝利して、田上に大勢の前でプロポーズとか色んなシーンを考えた。しかし、その後に少しだけ空しくなった。自分の事を考えたからだ。色んな人と交際したのにも関わらず、そのどれもに立ち去られてしまった。別に、皆悪い人たちではなかった。普通の人もいれば面白い人もいて、皆それぞれに楽しませて貰った。ただ、マテリアルに負い目を感じただけだった。マテリアルが、その背を追いかけようとしなかったのが、いけなかったのかもしれない。誰か一人でも引き留めていれば、今も続いている交際になったかもしれない。マテリアルにとって、これまで生きてきてただ一つの心残りはそれだった。

 マテリアルは、惚れっぽい人で妄想家でもあったから、田上と出会って、――この人ならもしかしたらいけるかもしれない、と淡い淡い期待をほんの少しだけでも覗かせていたのだが、それもタキオンの話を聞けば簡単に砕け散った。到底、タキオンに勝てそうなものではなかったし、そもそも失恋と呼べるほどの大きさの恋ではなかったからだ。ただ、そう思っていただけだった。だから、タキオンの想いを聞いて、恋敵と思うこともなかったし、想いを聞いて勝てなさそうなことに、嫉妬することもなかった。ただ、思っていただけなのだ。すると、マテリアルは、少しだけ落ち込んだ。――それくらいの女なんだ、私は。そう思った。少しだけ涙が出てきそうになって、慌ててそれをごまかすようにタキオンの方に体ごと向きを変えた。すうすうとタキオンは穏やかに眠っていた。それを見れば、マテリアルの心に再び元気が湧いて出た。

「頑張ってね」

 そう呟くと、タキオンの頬をそっと撫でた。ぷにぷにしていて柔らかかったから、暫くそうした。それから、マテリアルも眠りについた。我慢していた涙が、今になってようやく出てきたが、それは重力に基づいてシーツにぽたりと落ちただけだった。そして、それはシーツに飲み込まれて、朝にはとっくに痕跡すらも消えて、乾ききっていた。

 

 田上は、タキオンに腕を組まれて、それを拒否した後部屋に戻ると、堪らなく苦しくなった。今回のタキオンの腕組は、今までの甘えるようなものではないと、田上は感じた。それは、女らしさのある、人を愛そうという腕組だった。ただ、田上の頭の中では、まだ勘違いの可能性を捨てきれなかった。それでも、胸が苦しくなった事実は、消しようがないのだが、田上は勘違いだと思いたかった。

 心臓が、バクバクとなって頭を占めた。まさか、あんな詰め方をされるとは思わなかった。田上には、どうしても人の気持ちには答えられないという想いがあった。それは、前にもタキオンに話した通り、人と触れ合うのが怖いからだ。人と触れ合えば、やがては、自分の心を見透かされる。それが、怖かった。他人に自分の心を見てほしくなかった。まれに、澄んだ瞳の持ち主に、心を見透かされることがあるが、それが嫌だった。自分の心とは、おぞましいものだった。少なくとも田上はそう思っていた。何か一つ、汚れが落ちても、次にはまた別の汚れで穢れている。それは、偏に自分の心の奥底が、荒んでいるからだと田上は考えた。実際にその通りだった。他人どころか自分でさえ触れる事のできない心の奥底では、水のない渇いた海が広がっていた。その剥き出しの海は、人と触れ合えば触れ合うほど露わに見えてくるようになり、おぞましく見えてくるようである。田上にとって。それは恥ずかしい事だった。忘れたい事だった。だから、タキオンに弱音を吐いた時なんかはいつも後悔した。タキオンと抱き合えば抱き合うほど、心の距離が近くなっていくような気がした。――それもいよいよ詰めなのか?田上は、そう考えた。だが、やっぱりその考えは嫌なことだったので、田上は、自分に言い聞かした。

――タキオンが今日腕を組んだのは、いつものあいつらしい触れ合い方で、タキオンの方と言ったら何も考えてはいないんだ。

 そう思って、眠りについた。なんだか変な夢を見たが、それは起きた時には忘れていた。



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十四、バレンタイン①

十四、バレンタイン

 

 田上は、朝起きると、すぐに体をむくりと起こしたが、その後に大きな大きな欠伸を一発かました。今日は、二月十一日、建国記念日。祝日だった。この日になると、入寮してくるトレーナーが増えた。特に、今まで地方に住んでいた人たちなどが、ここの休みを目指してやってくるのだろう。少し遅いくらいだったが、四月までに寮に入れば、一応の所問題はないので、のんびりやっている人は多かった。それに、今回が三連休だったというのも大きな原因なのだろう。寮の中は、朝から人の移動で騒がしかった。

 今日の所は、タキオンのトレーニングはなかった。これは、元々その予定である。休息がてらにタキオンとお出かけに付き合わされることもない、田上にとっても正真正銘の休みだった。だが、それにしては、部屋の外が騒がしいだろう。それもそのはず、大体の人がここを通って自分の寮の部屋に行くのだ。田上は、この前、寮長に部屋を変えてもいいという話を持ち掛けられたのだが、それは二月に入ってちょっとした時に断ってしまった。それを、今、やっぱり後悔した。その二月の頭の時は、この部屋に情が湧いてしまって、寮長からこの話題を持ち掛けられた時は、思わず断ってしまった。その情とは、今までタキオンとか友達とかが来て、思い出のある部屋を手放すのが惜しいと思った事なのだが、今朝になると、その情も薄らいで自身の安寧を求めた。――どうせ、別の部屋に行っても思い出はできるんだ。そう思った。

 田上は、早速起き上がった。昨日の夜の事は、心の奥の方にしまい込んでもう忘れていた。だから、田上には、心もとない活力があった。その事に田上は気が付いてはいないのだが、とりあえず活力があるので、てきぱきと自分の体を動かしていた。寮長にもう一度頼み込んでみるのだ。まだ、部屋はありますか?と。あの時、断ってしまった負い目が田上にはあるのだが。それでも、この騒々しさには耐え切れず、寮長に直談判しに行った。

 朝起きて、顔を洗い、髭を剃り、鏡の前で少し表情筋を動かす。それから、着替えて、眼鏡をかけて部屋を出た。寮長の部屋はすぐそこである。と言う事は、寮長もこのうるささにくたびれているかもしれなかった。

 

 田上は、寮長の部屋のドアを叩いた。共有スペースのすぐそこには、寮長室があって、寮長はそこで寝泊まりをしている。そして、そのすぐ隣に田上の部屋があるのだ。

「おはようございます、柊さん。少しお話ししたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」

 ドアの内側の方から大きな声で、「はーい、少し待ってください」という声が聞こえてきて、暫くしてから扉が開いた。

「ああ、あなたでしたか。…何の御用でここに?」

「実は、折り入って頼みがあるのですが、先日、僕が断った部屋の件で、…もう部屋は満杯になってしまったのでしょうか?」

 田上が、そう言うと、寮長の柊さんは露骨に嫌そうな顔をしたから、申し訳なくなった。それでも、柊さんはこう言った。

「えっと…待ってください。一部屋くらい空きがあったと思います」

 そして、柊さんは、田上に「そこのソファーの方でお待ちしていてください」と言って、目の前の共有スペースにあるソファーを指差すと、部屋の方に引っ込んでいった。田上は、ソファーに座れと言われたものの、素直にそこに落ち着くことはできずに、少しの間扉の前に立って、共有スペースを見回した後、ゆっくりとソファーの方に歩いて行った。

 ちょうどその時に、タキオンが、女子寮に続く廊下の方から「おはよう」と言って出てきた。まだ、パジャマだった。

「何で、出てきたんだ?」

 田上は、ぎょっとして聞いた。このソファー周りには、数人のトレーナーがいたから、そのトレーナーたちが「何だ、あれ?」という目つきでタキオンの事を見ていた。

 タキオンは、こう答えた。

「君に会いに来たんだよ。君がもう起きているものなのかどうか気になって」

 タキオンは、まだ少し欠伸をしたり、目を擦ったりしていて、眠そうだった。

 田上は、「ああ、そう…」と答えて、何をしようもなかったからテレビを見つめたが、タキオンがそこに立ったまま動こうとしないから、「何で来たんだ?」ともう一度聞いた。

「マテリアルさんは?」

 その後にこう付け加えた。

「まだ、寝ているよ」

 そう答えて、タキオンは田上のソファーの隣に座ってきた。その途端に田上は、昨日の夜の出来事を思い出した。そして、タキオンが座ると同時に、タンと立ち上がった。タキオンは、田上に寄り掛かろうと半分重心を傾けていたので、田上が立つと寄り掛かるものがなくなって少し座ったままよろめいた。

「なんで立つんだい?」

 タキオンが聞いた。田上は、最初のうちタキオンの声が聞こえなかったふりでもしようと思ったのか、ぴくりともせず立ったまま正面の壁を見つめていたが、やがて、思い出したように座っているタキオンを振り向いて言った。

「ちょっと落ち着かなくてな。寮長さんと話してて、今、待っている最中だったんだ」

「何を話していたんだい?」

「……それは、決定してから言うけど、…お前にもちょっと手伝ってもらうかもしれないから、…手伝ってくれる?」

「それが何なのかによるけど…」

「…部屋の事なんだ。…ほら、あそこって人がたくさん通るだろ?」

 田上は、共有スペースから見える自分の部屋を指差した。

「だから、俺もいい加減別の部屋にしたくって、その引っ越しできる部屋があれば、タキオンに手伝って欲しいんだけど…。物の移動とか」

「ああ、それならお安い御用さ。いくらでも運んであげるよ」

「ありがとう」と田上は、感謝の言葉を告げて、それから、落ち着かなげに柊さんの部屋のドアを見た。まだ、柊さんは出てこなかった。

「座ったら?」

 タキオンが少しの期待を込めて言ったが、田上は「いや、いい」と言うと、場所を移動して共有スペースの壁に寄り掛かって、難しい顔をしてテレビを見始めた。明らかに避けられていることをタキオンは察した。やはり、昨日の接近は失敗だったと思った。少し悲しかった。どうにも、自分の思い通りにはいかなかった。田上とは、そういう男なのだ。頑固で、常に険しい顔をしていて、悩ましい顔をしていて、それなのに一人で抱え込んで、タキオンなんて頼ろうとしないで、自分から逃げ続けて、何もかもから逃げ続けて、人の話なんて聞こうとしない。そして、とても優しいのだ。他人に迷惑をかけること以外だったら、何もかもでも許してくれる。――自分の事も許してあげれたら、とタキオンは思う。だが、それはまだまだ深い遺恨なのだろう。田上の覗きたくないものなのだろう。タキオンには、それが分かるが、どうにも簡単に田上の遺恨を取り除いてやることは難しくて、同時に、自分の恋も遂行させねばならなかった。田上も自分の事を好きだという事実を知らないタキオンには、大変難しい事だった。

 タキオンは、遠くに行ってしまった田上を眺めやった。田上もタキオンが見ていることには気が付いていただろうが、田上はかたくなにそちらの方を見ようとしなかった。だから、そのままソファーにいることもつまらなかったタキオンは、田上の所に行こうとしたが、そこで田上を呼ぶ寮長の声が聞こえ、出鼻を挫かれた。しかし、タキオンは、それでも田上の方に歩いて行き、寮長と話している田上の横に立って、その手に持たれている書類を覗き込んだ。柊さんは、怪訝な顔をしてタキオンを見つめやったが、「トレーナー君?これが、引っ越しの書類かい?」とタキオンが言ったのを聞くと、事情を察した。

 田上は表面的にはタキオンに鬱陶しそうに返したが、その声の調子は、少しだけ明るかった。

「ああ、できるって。しかも、めちゃくちゃいい部屋だ。三階の窓の大きい角部屋だぞ。こんな部屋、なんで早くに埋まらなかったのか不思議だ」

 すると、柊さんが「あるんじゃないですか?…知らないうちに物が動いてるとか、夜な夜な女の人のすすり泣きが聞こえるとか、赤ちゃんの泣き声とか、誰かの足音とか」と田上をからかうように言った。田上は、その言葉を少しだけ真に受けて、背筋をぞくっとさせながら「冗談はやめてくださいよ」と困ったように言った。そこで、タキオンが口を挟んだ。

「君の部屋が移るというのなら私も気を付けないといけないね。間違えでもしたら面倒だ」

「そもそも来てほしくないから、部屋を移したんだ。…それに、来る必要もないだろ。もう研究をしてないんだから、出来上がった薬をすぐに届ける必要もないんだし」

「そう度々、研究の事を引き合いに出されると、私も困るじゃないか。思い立ったときに、君の部屋に行っちゃ、何がダメなのかい?」

「じゃあ、せめて、スマホを使って俺に連絡しろ。そんなアナログな方法じゃなくてな。…お前には文明の利器があるだろ?」

 目の前で言い合いをされている柊さんは、困ったように二人のやり取りを見ていた。

「ああ、そうともさ。だけどね。アナログだって良い事はたくさんあるんだぞ」

「例えばなんだ?」

 田上が少し面倒臭そうに言った。

「例えば……」

 ここでタキオンは、今自分が言おうとしたことに恥ずかしくなってしまった。「君に一目でも会えるじゃないか」と言おうとしたのだが、これはあまりにも直球のように感じた。だから、別の事を言った。

「例えば、…目が疲れない…とか?」

 田上は、呆れた。

「お前、そんな手札で俺に勝負しようとしてたのか?いつものお前だったら、もう少し真面な返答ができるだろ。…まぁ、別に良いけど」

 それから、前の方に目を向けると待っている柊さんに気が付いて、田上は慌てて「すみません」と謝って話を続けた。

「もう、これに名前書いておけばいいんですよね?引っ越しは今日でも問題ないですか?」

「はい、問題ないですよ」と柊さんが返した。それで、話は終わった。

「引っ越しが完全に終わったら、絶対に私に言ってください。それから、壁の汚れなんかは、こちらの方で掃除させていただきますので、なさらなくても問題はないです。していても問題はないですけどね。3××号室です。鍵は、これで」

 そう言うと、柊さんは奥の方に引っ込んでいった。

「こんなものでいいのかい?」

 タキオンが不思議そうに聞いた。すると、田上は隣にある自分の部屋に足を向けて言った。

「寮だから、こんなもんじゃないか?…後は、部屋番号の変更の手続きとか、まだまあまあ残ってるけどね。それは、この書類を出せば済む話だよ」

「ふーん…」とタキオンは、あまりよく分からなさそうに頷いて、田上の後について行ったが、部屋に入ろうとしたところで止められた。

「なんで入ってくるんだ?」

 田上が、少しぎょっとして言った。タキオンは、不思議そうな顔をして返した。

「何って、引っ越しすんじゃないのかい?今から」

「ああ、…今からじゃないよ。少なくとも荷物を適当に纏めるのに一時間くらいはかかると思うから、それまで待っててくれ。…それに、お前、まだパジャマだろ?服を持ってきたんだったらそれに着替えろよ」

 田上が、そう言うと、タキオンは自分が寝巻のままであったということに初めて気が付いて、「ああ、そうか…」と少し顔を赤くさせた。しかし、田上はそれを見ておらず、ただ「俺が呼んだら来てくれ」と言うと、ぱたんとドアを閉めた。タキオンは、なんだか、少し腹が立った。なぜなのかは分からなかったが、田上がこうも冷たいと、自分の事をぞんざいに扱われているようで気分が悪かった。一度、――呼んでも行ってやらないことにしよう、とも思ったが、その場合は、タキオンをあてにしている田上が可哀想だったので、その考えは取り消した。そして、タキオンは、また、マテリアルの部屋の方に戻って行った。

 

 タキオンが戻ってくると、マテリアルが下着姿だったので、ドキッとした。だから、そそくさと「ごめん」と言って扉を閉じると、居心地が悪そうにマテリアルの顔だけを見つめていた。マテリアルは、何も気にしていないようだった。だから、ゆったりとズボンを穿きながらタキオンに言った。

「ああ、タキオンさん。どこにいらしてたので?」

「トレーナー君のとこだよ」と――早く着替え終わってくれないかな、と思いながら、タキオンは返した。マテリアルは、その様子に気が付いたようだ。ニヤッと笑うと、まだブラジャーしかつけていない上半身の方をタキオンに見せびらかしながら言った。

「どうです?この肉体。色が白くて、私の髪色とよく合うでしょう?」

 タキオンは、顔が赤くなるのをごまかすようにしかめっ面をして、こう返した。

「そりゃあ、よく合うけど、…君はそうやって誰にでも自分の体を見せびらかすのかい?こっちは、緊張して居心地が悪いよ」

「タキオンさんは、緊張しているんですか?」

 尚の事ニヤニヤして、マテリアルが言った。

「でも、誰にでもじゃないですよ。勿論、男性にはそれなりに深いお付き合いをした人にしか見せないつもりです。…でも、女性同士でしょう?そこらへんは、私は問題がないと思うのですが、どうでしょう?」

「どうでしょうって言われても、それは、育ってきた環境の差でしかないじゃないか。…それで、私は少なくとも、同性であれ、自分の体を目一杯見せるような環境に育ってはいないからね。…私の前では、止めたまえ」

 タキオンが怒ってそう言うと、マテリアルは、ニヤニヤ顔を止めてニコッと笑って言った。

「タキオンさんの前で下着姿になる機会なんてそうそうありませんよ。…つまり、もっとお泊り会をしてくれるんですか?」

「もう、何でもいいから、早く着替えてくれ!」

 タキオンは、いよいよマテリアルに抗しきれなくなって、投げ出すようにそう言った。すると、マテリアルもニコニコして上の方を着始めた。「寒いですね」と独り言なのか、タキオンに話しかけているのか分からない調子で言ったから、タキオンは何も返さなかった。

 マテリアルは、相変わらず、美しかった。「着替えてくれ!」と叫んで、顔を伏せたのにも関わらず、もう一度、チラと顔を上げてその体を盗み見るくらいには美しかった。その様をマテリアルはしかと見ていて、タキオンと目が合うとにこりと笑いかけた。それを見ると、タキオンの頭には不意に浮かび上がってきたものがあったが、それは一筋の恥ずかしさに押さえつけられて、中々言葉にできず、タキオンは、無表情のまま、ただマテリアルを見つめ続けた。

 マテリアルは、彩度の低いピンク色の長袖を着て、その上に、デニム生地のジャケットを羽織った。その服装を見ていると、タキオンには先程の事とは別に、思い付いた事があった。これは、恥ずかしくもなんともなかったので、すぐに聞いた。

「今日はどこかに出掛けるつもりなのかい?」

「え?...ああ、タキオンさんには言ってないんでした。今日、一緒に駅前のお店に行って買いませんか?」

「何を?」

「バレンタインのチョコをですよ。一緒に買いに行きましょう?」

 その途端にタキオンは、大声を出した。

「君!昨日も言っただろ!どうせ成功しないって!君は人の話を聞かないのかい?」

 タキオンの怒りにマテリアルはふふふと笑って言った。

「別に愛を伝えるだけのためのものではないでしょう?バレンタインは。...去年はどうしてました?田上トレーナーとは去年からの付き合いでしょう?」

 すると、タキオンは「去年は、そもそも、まだそういう感情はなかった訳だけど...」と言いながら、去年のバレンタインを思い出そうとした。

 去年は、作り上げた薬がちょうどバレンタイン近日だったので、ついでにと思い、チョコに染みこませて、タキオンは田上に渡した。勿論、田上は薬の副作用で光ることには光って、タキオンの求めていた実験も成功した。思い出すと、タキオンには少し恥ずかしかった。去年の自分に間違いがあったとは言わないが、それでも、あんな風に自分が田上に接近していたとなると、あの頃に羨ましさのある恥ずかしさがあった。

 タキオンは、思い出したことをマテリアルに言った。

「去年は、渡すには渡したさ。…ただね。あの頃の私には何の恥じらいもなくて、今、トレーナー君に渡そうと思ったら、それこそ恥ずかしくて顔から火が噴き出しそうだよ」

「だから、愛の告白なんかじゃなくて、日頃の感謝でもいいじゃないですか」とマテリアルが反論した。タキオンは、反論の反論を少し考えて言った。

「日頃の感謝を告げることだって恥ずかしい事じゃないか。私を何だと思っているのかい?マッドサイエンティストなんて呼ばれたこともあったけど、感情は確かにあるんだよ?」

 タキオンの必死ともいえる訴えにマテリアルは少したじろいだ。そして、投げ出すように言った。

「ならいいですよ。タキオンさんが嫌なら。私一人で買ってきます」

 その途端にタキオンが声を上げた。

「それはダメだよ!君だけ抜け駆けするつもりかい?…それに、昨日近寄らないと言ったじゃないか!その矢先でこれかい!?」

「その矢先でも何でもいいですけど、私は、――これからよろしくおねがいします、という意味で田上トレーナーにお渡しするんです。抜け駆けなんかじゃありませんし、私は、田上トレーナーの事は好きではありません。…どうするんですか?タキオンさんの言う抜け駆けを止めたいのなら、タキオンさん自身も私に張り合って走らないといけませんよ」

 そうマテリアルが冷静に言った後にこう付け加えた。

「GⅠウマ娘に張り合うなんて、私もまだまだ捨てたもんじゃありませんね」

 それから、ニコッと笑った。その笑顔にタキオンは不覚にもドキリとしてしまった。少しの間、考える事ができなかった。そして、ようやく自分の気を取り戻した時、まだ胸をドキドキさせながらも言った。

「残念ながら、私は今日は用事があるんだった」

「用事ですか?何の?」

「今朝、トレーナー君に会いに行ったときに、今日引っ越しをしたいから手伝ってくれと言われたんだ」

「引っ越し?あの人、どこかに越すんですか?」

「寮の部屋を移動するだけらしいよ。何でも、部屋の前をたくさん人が通るから嫌らしい」「へ~」とマテリアルが頷いた。それから、こう聞いた。

「じゃあ、もう今日のうちはできないんですか?タキオンさんが私と一緒に店に行きたいのなら別日に無理矢理とってもいいですが」

 タキオンは、マテリアルの言葉に短い間悩んで、それから言った。

「…私は、君が渡すのなら私もその時に一緒に渡したい…と思う。…しかし、…あの人、トレーナー君は、勘違いしないだろうか?」

「何をですか?」

「……その、…私が好きだって事」

 タキオンがそう言うと、マテリアルが可笑しそうにハハハと大きな笑い声を立てた。

「タキオンさん、それは勘違いではなくて、本当の事でしょう?それに、勘違いしてくれた方が、こちらにとっては都合がいいじゃないですか」

 マテリアルの指摘にタキオンは複雑な顔をして答えた。

「勘違いではないのはそうだが、都合がいいかどうかは別だろ?昨日も言った通り、私は避けられるんだよ。…今朝も少し避けられた。…やっぱりダメだったなぁ…」

 こう言うと、タキオンは落ち込んで項垂れた。それを励まそうと、マテリアルは苦笑しながらタキオンの背を叩き、言った。

「それなら、ちゃんと日頃のお礼として、担当されているウマ娘としての位置付けを行えばいいじゃないですか。バレンタインがそのチャンスですよ」

 しかし、それでも、タキオンに励ましの言葉は効かなかった。俯いたままこう言った。

「チャンスと言っても、昨日もチャンスだと思って飛び込んだんだ。…それで、失敗だよ。…日頃のお礼と言っても、それでトレーナー君に担当ウマ娘とトレーナーという線引きをしっかりとされてしまえば、もう私の土俵はなくなる。立つ場所さえ奪われる。…トレーナー君だって根っからのバカじゃないんだから、なんとなく私の気持ちに気付いている可能性もあるけど、それでもあの様だよ。…トレーナー君は何を考えているんだろう?それが分からない。…分かりたくない。…ああ……」

「タキオンさん、そんなに落ち込まないで。嫌われていないのであれば、チャンスはきっとありますよ。…今日は、田上トレーナーの手伝いがあるんでしょう?それであれば、二人っきりで会話なんかをして、探りを入れてみるのもいいのでは?」

「会話なんかで探りを入れられるなら、私はこんな苦労はしないよ。そもそもトレーナー君とはまだまだこの先もいる予定はあるんだ。そんなに急く必要はない。…そうだ!そんなに急く必要はないんだ!」

 そう言うと、タキオンはにわかに元気を取り戻して、立ち上がった。マテリアルには、タキオンに何が起こったのか分からずに、ただ顔に苦笑を浮かばせるしかなかった。

「それでいいんですか?」とマテリアルが聞くと、タキオンがこう答えた。

「そうさ、まだ急く必要はない。少なくとも、君は牽制できて、彼の周りには彼に影響を与えられるような女性はいないのだから」

「では、バレンタインは?」

 マテリアルが、そう言うと、タキオンは考えてから言った。

「別にしてもしなくてもいいが、…これは今日の予定次第だな。…どのくらいの量を運んで何時に終わるんだろう?…トレーナー君に聞かねばなるまいな」

 そこでタキオンは部屋の中を見回したのだが、あることに気が付いて急にクククと笑いだした。だから、マテリアルが不思議そうな顔をして聞いた。

「何が可笑しいんですか?」

「…いや、呼んだら来てくれと言われたんだが、…恐らくトレーナー君はスマホに連絡するつもりなんだろう。それなのに、私はスマホを持っていなくてね。…それが可笑しくって」

 そう言うとタキオンはまた笑い出した。どうやら、落ち込んだ反動で変に陽気にでもなったようだ。マテリアルは、そんなタキオンに戸惑いながらもニコニコ見つめた。

 タキオンは、ひとしきり笑い終わると、今度はそわそわしだした。聞くと、「普段着に着替えたい」と言った。それで、仕方がないので、客人に「脱衣所で着替えてください」と言うわけにもいかず、マテリアルは部屋の外に出た。女子寮も慌ただしく動く人たちが見えた。しかし、その人たちも廊下の遠くの方で動いているばかりで、廊下のこちらの方は、心地の良い静閑そのものだった。マテリアルは、大きく息を吸った。何とも言えない、いつもの匂いが鼻を占めた。だが、すぐにタキオンが扉を開けて出てきた。そして言った。

「トレーナー君の所に行こう。仔細を聞きたいんだ。君も同行したまえよ」

 タキオンは、ベージュの二ット服に黒のジーパンを穿いてそこにいた。

「お似合いですね」

 お世辞でも何でもなく、ただそう思ったのでマテリアルはそう言った。すると、タキオンは嬉しかったようだ。顔を素直ににこりとさせ、しかし、口は正反対に「お世辞は嫌いだね」と言った。マテリアルもにこりとした。それから、二人は田上を求めて、男子寮へ向かった。



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十四、バレンタイン②

 ドアを開けると、迷惑そうな顔をした田上が出てきたが、普段ここでは見慣れない二人を見ると、すぐに驚いた顔に変わった。そして、「何の用だ?」と怪訝な顔で聞いた。

「まだ、荷は纏め終わってないけど」

 そうタキオンの方を向いて言ったが、タキオンが答える代わりにマテリアルが口を挟んで言った。

「引っ越すんですか?この寮の中って聞きましたけど、具体的にどこに?」

「三階の角部屋」

 淡白に田上が答えて、それから、また問うように二人を見つめた。だから、今度はタキオンが口を開いた。

「マテリアル君が、私と一緒に出掛けたいと言っていてね。けど、今日、君の手伝いをするって言ったろ?だから、君の引っ越しがどれくらいかかるかによって変更しようと思うんだ」

 すると、田上は眉間に皺を寄せた。何か悩んでいるようだったが、一度、自分の部屋の方を振り向くと、渋々言った。

「…実は、荷造りはあんまり進んでなくてな。肝心の纏めるのが、一人でするとさすがに大変なんだ。別に、これまで手伝ってくれとは言わないけど、……もしかしたら、今日中にできないかもしれない。…いや、できないから二人で店で遊んできてていいよ。…タキオン、また後日、…来週の日曜に頼めるか?その日のトレーニングを休みにするから」

 珍しくあまり揮っていない自身のトレーナーを不思議そうに見つめ、「いいけど…」と頷いた。そして、やっぱり気になったのでこう聞いた。

「君、進んでいないって、どのくらい進んでいないんだい?」

「そりゃあ、…別にタキオンに言わなくてもいいくらい」

「となると、全然進んでいないんだな?手伝ってあげようか?」

「いや、いいよ。一人でできるし」

 この言葉を聞くと、タキオンは悲しくなった。悲しくなって、思わず言った。

「もっと私を頼ってくれてもいいんだよ?トレーナー君」

「え?」

 この言葉に田上は驚いたようだったが、次の瞬間には再び眉間に皺を寄せ言った。

「別に、一人でできる量なんだ。お前に手伝って貰わなくたって、次の日曜にはできてるさ」

「そうかい…」

 タキオンもあまり強く言えなくて、ここで引き下がった。その様子を見ていたマテリアルが、見かねて言った。

「田上さん!あなた、女の子が手伝うって言っているのに、その申し出を断るって言うんですか!?それは、男として如何なものかと思いますよ」

「俺は、男とか女とかそういう、縛る物言いは嫌いなんだ。それを出汁に俺に言う事を聞かせたいって言うんならやめてくれ」

 そう田上が疲れたように言うと、マテリアルもさすがに不味いと思ったのか、「すいませんでした」と謝った。しかし、この後も少しだけ続けた。

「でも、なら、タキオンさんが手伝うって言っているのに、それを断るっていうのはどうなんですか?」

 マテリアルの言葉に田上は、暫くの間反応せず、ただ慎重に間合いを測るようにタキオンを見つめてから言った。

「…別に構わない。タキオンは、俺の中でそんなに大きな存在じゃない」

 その瞬間に目の前に居た二人が揃って、息を飲んだが、それに田上は気が付かなかった。タキオンは、何も言えなかった。田上からこんな言葉を聞くとは思えなかったからだ。マテリアルは、怒りのあまり何も言えなかった。そして、タキオンの方を心配そうに見やると、その衝撃を受けた顔が見えて、田上への怒りよりもタキオンへの心配の方が勝った。どっちにしろマテリアルは、面と向かって田上に何か言う事はできなかっただろう。それは、田上がその言葉を言った後すぐに、場の異常な沈黙に気付いてか気付かずか、そそくさと逃げるように扉を閉めたからだ。その時に言った言葉は、冷静というよりも冷酷そのものに聞こえた。

「それじゃあ、俺はまだ荷造りしないといけないから」

 たったそれだけの言葉だったのだが、それが、またさらにタキオンを落ち込ませた。もういよいよ泣きそうになってきたので、マテリアルは、恨みの籠った目で田上の入っていったドアを見つめた後、「外に行って新鮮な空気を吸いましょう」と言って、タキオンを外へと連れだした。その際に、もうそのまま買い物に行こうと思って、財布と必要な諸々入れたバッグを取ってきた。そして、外出する事を事務員に言うと、マテリアルとタキオンは歩いて駅前の方へと向かった。

 

 タキオンは、終始、黙りこくって、浅く呼吸していた。その呼吸音が、マテリアルの耳について離れなかった。恋する乙女とは、時に無情な風に晒される。今がまさにそうだった。タキオンにとっては昨日の今日だったのだろう。チャンスを掴もうと思って接近して、それが大失敗して、今度は、その恋している人に直接、無情な言葉を浴びせられたのだ。タキオンは、自分を責める事しかできなかった。マテリアルは、それを一生懸命慰めようとして、時に田上を貶したりもしたが、それでもタキオンは、俯いたままマテリアルの隣を歩いて、一言も発さなかった。

 そして、駅前の店に入り、バレンタインのチョコレート売り場に来た時、ようやくタキオンは言葉を発した。

「……トレーナー君は、…」

 そこで言葉が途切れた。何かを言おうと思ったのだが、タキオンにはその言葉の続きが思いつかなかったからだ。だから、マテリアルが聞いた。

「あの人が何ですか?」

「……あの人は、…私の事を本当に何ともないと思っているのだろうか?本当に何ともないと思って、あの発言をしたのだろうか?」

 店の中でも、特にバレンタインのチョコ売り場は、わいわいがやがやとしていて、うるさかった。その為、マテリアルにはタキオンの言葉が聞き取りづらかったのだが、辛うじて聞き取るとこう言った。

「私は、田上トレーナーが、タキオンさんの事を何ともないと思っている事はないと思っています。少なくとも、あなたをスカウトして、二人きりでここまで来たんですから」

 マテリアルがそう言うと、今までチョコを見つめて、ぼーっと話していたタキオンがマテリアルの方を向いて悲しげにニコッと笑った。

「…そう言ってくれると嬉しいよ。…ただね、そのことについて、前にトレーナー君、…あの人と話をしたんだ。私は言ったよ。――君は私に情があると言ったのは嘘だ、と。…別に悪い意味じゃないんだよ。今の状況を整理しただけなんだ。…それをトレーナー君は、真に受けてしまったのかな?…それとも、元々そんな風に思ってたのかな?……大きな存在じゃないって。……別に構わないさ。彼の中で私が大きくたって小さくたって…。…だけど、彼の口からそんな事は聞きたくなかった。…彼は、…もっと優しい人間だと思っていた。……遂に、気でも狂ってしまったのかなぁ?…あの人、悩みの深い人だから」

 そう言うと、またチョコの方に目を戻した。マテリアルもタキオンに釣られて、チョコを見た。手の平大の大きなハート形をしたチョコレートが、そこには並んでいた。そして、そこから一つを手に取ると、タキオンはそれを眺めやりながら言った。

「こんなもの渡せば、トレーナー君をどうにかしてやることができるのかなぁ?」

「……どうでしょうねぇ…。…少なくとも、動揺くらいはすると思いますが、発言の内容は変わるのかは分かりませんね」

「…私もそう思うよ。……はぁ」

 タキオンは、話の最後にため息をつくとそれきり、話さなくなった。ただ、無言でチョコを選んではぽいとマテリアルの持っている買い物かごに投げ入れ、四,五個選ぶと、後はマテリアルの後について行くのみとなった。

「…田上トレーナーは、甘さ控えめの物の方がお好きなんですね」

 タキオンが投げ入れたチョコを見ながら、マテリアルが不意にそう言った。すると、タキオンも今まで閉じていた口を開いて言った。

「そうなんだよ。…彼、甘過ぎると嫌がる性質でね。何度か、ぼやいているのを聞いた事があるよ。…それに、正月の時にお菓子を買いに行ったときも試食の時から私たちは全くの正反対だったし…。…こうなるのも運命なのかねぇ。もしも運命というものがあるとしたらの話だけど…。君はどう思う?世に言う『運命』とは存在すると思うかい?」

「運命ですか?…私にはあんまり分からないですけど、過ぎ去ったことのみに対して『運命』という言葉は、当てはまると思います。…というより、『運命』とは一種の慰めるための言葉でしょう。…それを未来に使うのであれば、逃避に当てはまるのではないでしょうか?」

「私も概ね同意見だ」とタキオンが頷いた。

「しかし、逃避もまた慰みになるのではないかな?」

 タキオンの難しい話にマテリアルは、顔を曇らせたが、しっかりと答えた。

「そう言う事もできますが、それだと、そもそも『運命』という言葉は、在りもしない空想の言葉になりますね」

「空想の言葉…。そうさ、その通りさ!…だから、私たちは前に進まなくちゃならない。言葉なんかに頼らずともね。…だけど、頼るものがないとなると、苦労ばかりが続いてしまう」

 にわかに活気づいたタキオンだったが、すぐにまた声の調子を落とした。マテリアルは、それを励ますように言った。

「頼る物は『運命』を信じる事なんかではないでしょう?結果を『想像』することです。いかに大変な苦難が待ち受けていようとも、その苦難を乗り越える自分を想像して、どんなときにもめげずに生きていく。それが、生きる術ですよ」

 すると、タキオンは驚いたようにマテリアルを見つめて、その後に失礼にも「君がそんな事を言えるとは思わなかった」と言った。これが、あまりにもタキオンの心からそのまま出てきた言葉だったようで、それが顔に現れていたので、マテリアルは笑った。そして、笑いながら「失礼ですね」と言った。

「私だって、言えるときは言えますよ。タキオンさんは、私が見た目だけの女だとお思いですか?それは違いますよ。私には、女としての誇りがあるんです」

 マテリアルは、胸を張って言ったが、タキオンの次の言葉にマテリアルは胸を張るのを止めてしまった。

「でも、君は男女関係は色々失敗してきたのだろう?」

 不思議そうにタキオンは聞いた。

「そ、そこを突かれると弱いですが、私はまだまだ発展途上だと思っています。いつか本当に好きな人が現れれば、意地でも成し遂げて見せますよ」

「ふ~ん」とタキオンは頷いて、それから言った。

「マテリアル君は、どのチョコを選ぶんだい?」

 マテリアルは、まだ一つも選んでいなかった。買い物かごに入っていたのは、タキオンの選んだ五個のチョコのみで、マテリアルはと言えば、タキオンの様子が気がかりでまだ何も選んでいなかったのだ。だから、マテリアルは、少しの間バレンタイン期間中に特設されたピンク色が目に眩しい一画を回ってから、「これ!」と決めた。

「時代の風雲児味?何だいこれは?」

 タキオンが、マテリアルの持っている手の平に収まる大きさのチョコを覗き込んで聞いた。

「分かりません」とマテリアルが答えて、そのチョコの裏に書いてある原材料を見始めた。

「……辛い…やつが結構使われてますね。勿論、甘い物であるのも変わりはないですが、…食べてびっくりする商品でしょうか?…それにしても、…辛い物をこの量は人を苛めてませんか?…案外、美味しかったりするんでしょうか?」

「ふ~ん…、私も買ってみようかな。……と言うか、私は財布を持って来ていなかった。君、持ってきたのかい?」

「私はバッチリ持ってきましたし、最初から、タキオンさんに奢るつもりでここに来ましたよ?」

「それだと、何だか申し訳ないなぁ…」とタキオンが悩ましげな顔をしたからマテリアルが言った。

「少なくとも、今は財布は持っていない訳だから、ここは素直に私の厚意を受けてくれないとチョコが買えませんよ」

「それもそうだけど…、チョコを五個はやりすぎかな。…少し減らすとするよ」

 そう言って、タキオンが買い物かごから幾つかチョコを取ろうとしたのだが、マテリアルがタキオンから慌てて買い物かごを遠ざけて言った。

「いけませんよ!五個あれば、その五個でいいんです!それが、タキオンさんのあの人への愛じゃありませんか!」

「ちょっと待ってくれ、そんなに大声で話してもらっては困る」

 マテリアルの大きな声にタキオンも慌てて、二人は暫く押し合い圧し合いしたが、やがて、何について争っていたのか焦点を見失って、二人とも笑い出した。そして、タキオンが言った。

「分かった。今回は君に奢らせてもらおう。五個全て。それに加えて、その時代の風雲児味も食べてみたいのだけど、いいかい?」

「ええ、いいですよ」とマテリアルがにっこり笑って答えた。これで、タキオンの気分も少しは上がったようで、それから、帰るまでは二人で陽気に話していた。

 

 タキオンの表情が重くなったのは、トレセン学園が見え始めてからだった。ここで、――やっぱりタキオンさんは、まだ田上トレーナーの事を気にしている、と気が付いた。だから、状況の整理と励ましも兼ねて言った。

「これから、学園に帰ってどうします?」

「ん?……ああ…、自分の部屋で過ごすよ」

「じゃあ、田上トレーナーとは?…このままトレーニングをしていくと、いつか怪我を招きますよ?」

「……それは、…機会を待つさ。少なくとも動きがあるのは、バレンタインだろう?あそこで何も起きなければ、いよいよトレーナー君を招いて、談判を始めないといけない。――なぜ、あんな事を言ったのか?とね」

 まだ、タキオンの表情は重かった。マテリアルは、見ていて心苦しくなった。それが、タキオンに伝わったのだろうか?こんなことを言った。

「…そんな顔をしてたら、君のその顔が台無しだろう?もう少し、明るい顔をしないと」

「タキオンさんの方が台無しですよ!…私の顔なんて、皆からちやほやされているだけで、在って無いようなものです。…しかし、タキオンさんのその顔は、その瞳は、私には唯一とも言える輝きを持っていますよ。誰もタキオンさんを真似できません。誰もタキオンさんになれません。…そのくらい、タキオンさんの顔は、良い顔ですよ!…だけど、私の顔が暗いというのなら、タキオンさんの顔の方がもっと暗いですよ!元気を出しましょう。田上さんは、きっと分かってくれます!」

 マテリアルは、必死になって訴えかけたが、タキオンは「そう上手くいければいいんだけどねぇ…」と呟いただけだった。その後の沈黙は、マテリアルには破れないものだったから、暫くタキオンの顔を見つめた後、どうしようもなくなったように空を仰いだ。今は、この二人の気分と同じように沈んだ曇り空が、目一杯に空に広がっていた。

 

 それから、二人はトレセン学園に着くと、一度、女子寮の方に戻った。タキオンの着替えが必要だったからだ。タキオンは、マテリアルが「取ってくる」と言って、寮に入っていった間、外の方で待たされた。その時、タキオンは、生唾を飲みながら、終始、男子寮の方を凝視していた。

 そして、マテリアルが戻ってくると、タキオンは自分の着替えを持って寮の方に帰った。チョコは、マテリアルが保管することとなった。女子寮にある冷蔵庫に保管しようと思ったらしいのだが、もうすでに誰彼のチョコレートで満杯になっていて入れられなかったらしい。タキオンも自分の寮の共有冷蔵庫に保管する気持ちもなかったし、今は冬だから野ざらしにしても大丈夫だろうと言う事で、マテリアルの部屋で保管されることに決定した。となると、マテリアルは部屋を暖めてはいけないわけなのだが、生憎、引っ越してきたばかりで碌な暖房器具も揃えていなかったマテリアルは、部屋を暖めずとも自分の体を温める術を知っていた。それに、ウマ娘なので、元々体温も高かった。このような要因やら何やらがあって、マテリアルの部屋に保存されるわけになった。

 タキオンは、後は、バレンタイン当日を待つばかりとなったが、その気は重かった。次の日になって、授業に出て、合間の休み時間に陽気な二人の友達、ハナミビヨリとトーキョーアルトに声をかけられてもその気分が上がることはなかった。ハナミビヨリとトーキョーアルトは、そんなタキオンを心配したが、いくらタキオンの中にある心配事を聞き出そうと思っても、タキオンは上の空で全く人の話を聞こうとしなかった。だから、二人は屋上に続く階段(だが、そこはいつも閉められているので、誰もそこを利用せず、屋上に行きたい場合はもう一つの別のドアで屋上に行く)で話し合った。

 まず初めに、アルトが言った。これは、アルトの方が「ちょっと話そう」と言って、ハナミを連れ出したからだった。

「今日のタキオン、少しおかしいよね?ずっと上の空で、耳とか首の後ろとか触っても、何の抵抗もしなかったよ?」

 アルトがそう言うと、ハナミが笑った。

「抵抗はしてたじゃん。それも上の空だったけど。…何かあったのかな?もしかして恋?遂にあの子も色付いてきたのかしら?」

「タキオンって、恋するとあんなに上の空になるの?研究の途中だったのに間違えて授業受けに来た時みたいじゃん。…ありゃあ、大丈夫なのかな?普通に悩んでたりしない?」

「…う~ん、どうだろ?私には、田上トレーナーの事をやっとタキオンが気になりだしたのだと思ったけど」

「それだとしたら厄介じゃない?あのトレーナーの顔みりゃ、恋なんてしなさそうなことは分かるし、それが年下の担当しているウマ娘だったら尚の事なんじゃない?」

「……う~ん、…私には分かりませんなぁ。何しろ、小学校の時から女子校住まいで、同級生との恋なんて、漫画やドラマの中でしか見た事がありませんから」

「そりゃ、結構なこってすけど、私には、なんだかタキオンが可哀想に見えるなぁ…。上の空って言っても、落ち込んでいるように見えるだろ?」

「…そりゃあ、否めない」とハナミが言った。

「でしょ?…でも、どうしたら、タキオンに協力してあげられるかな?私、少なくとも、あんなタキオンの顔を見続けるっていうのはしたくないよ?」

「そりゃあ、私もだけどさ。私たちにできる事って、結局、タキオンにとっては邪魔なことだったりするんじゃない?少なくともさ、今は、碌なコミュニケーションが取れないんだから、もし私たちがタキオンにお節介を焼いて、空回りして、それがタキオンだけに降り注ぐってなったら、嫌だよ?せめて、タキオンが何について悩んでいるのかが知れればいいんだけど」

 そこで、驚くべきことにタキオンの声が聞こえた。

「何を話しているんだい?」

 小声で話していたことが功を奏してか、タキオンには今の話が伝わらずに済んだが、それが伝わらなくて良かったのかどうかは分からなかった。だから、二人は、驚いて顔を見合わせまま、何も話せなかった。

 やがて、アルトが笑いでごまかしながら言った。

「いや~、タキオン、今日元気がないなって思って、二人で話してたんだよ。どう?調子は」

「……絶好調さ」

 明らかに不自然な間があったことに二人は気が付いて、顔を見合わせた。タキオンは、顔に心許ない笑みを浮かべていた。すぐに消え去りそうだった。タキオンが、強がりをしているだろうという事が、二人には分かった。分かったからと言って、その笑みを見ていれば、何も言う事はできなかった。ただ、「私も話に混ぜてくれよ」というタキオンの言葉を了承して、それからは、できるだけタキオンを楽しませようと二人は明るく話すのだった。

 

 ここ数日は、矢の様に過ぎ去って行って、田上には何だか重苦しかった。それと言うのも、タキオンが明らかに変わってきているからだ。良くか悪くか田上には分からないが、タキオンは田上から離れてゆき、その表情に変化を見出せなくなった。また、再び菊花賞の時のような事が起こるのを田上は恐れた。自分の見ていないところで、タキオンが何かを乗り越えてしまう。それが恐ろしかった。それがあるとすれば、自分が何のために必要なのか分からなかった。そして、今では、タキオンに言葉一つもかけてやれない状況なのだ。大阪杯への練習は続いていて、一月末に出走登録をして、レースに出るウマ娘が決まってからは、ダンスのレッスンも始まった。ダンスが、何の為の伝統なのかは田上には分からなかったが、不思議なことにタキオンはこれまで一つの文句も言わずに喜んでそれをしていた。今回もそうだった。まだ、研究していた頃はデータ収集のためだとばかり思っていたが、研究をやめた今でも文句一つ言っていない。勿論、今の状況でタキオンの文句などが聞けるとは思えなかったが、たまに体育館を覗けば、一生懸命に頑張っている彼女の姿が見えて、胸が苦しくなった。

 その時に流れている歌も聞いたのだが、これもまた、田上を苦しくさせた。それは、たまたまタキオンがセンターを踊っている時で、それも歌は彼の有名なバンド『大きな蛇』のボーカル、木下一抹が作詞作曲した『走れウイニングライブ』という曲だったからだ。木下の濃い葛藤がその曲には込められていて、それにあてられて田上の目からは涙が出そうになった。その曲は、もう何年も前の曲だというのに、まだ色褪せずに人の心を震わせた。

 

 そして、遂に二月十四日となった。この日は、朝から天気が悪く、生憎の曇り空、そして、雪の予報まで出ていた。田上が、トレーナー室に行くために外に出てきた時は、まだ雪は降っていなかったが、今にも降り出しそうなくらい空気は冷えていた。田上は、寒さに身を震わせた。今日が、バレンタインデーなど田上には関係がなかった。男子寮の方にも、朝から渡そうと早速小さいウマ娘たちが来ていたのだが、その中に当然タキオンの姿はなかった。――当然の事だろう。去年くれたと言っても、それは研究のためだったんだから。空風がびゅうと吹いた。田上は、トレーナー室に急いだ。今日も淡々と仕事をこなすためだ。マテリアルが補佐になってからは、色々教えながらしたりもした。しかし、ここ最近は、マテリアルまで余所余所しくなってきたように感じた。相変わらず、一緒に仕事をして、たまに話もしたりするのだが、目はこちらに向いていないように感じた。

 

 二月十四日。田上は歩く。トレーナー室まで。寒さに身を凍えさせて短い外の風あり。トレーナー室に行っても暖房は無く、毛布で体を温めることくらいしかできない。それでも、田上は歩く。トレーナー室まで。今は、もう孤独が身に染みて、人の温もりを忘れる。それから、田上は歩く。トレーナー室まで。たった一人の虚像を見つめ、明日を見つめ、亡者に夢を見る。亡き母に夢を見る。田上は歩く。止まったことなんて一度もない。ただ、歩き続ける亡者のように。



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十四、バレンタイン③

 田上は、昼まで何事もなく過ごした。いや、なさ過ぎたと言ってもいいだろう。その理由は、マテリアルが来なかったからだった。いつも田上より遅れてくるマテリアルだったが、普段であれば、昼までには来ていた。しかし、十一時になってもマテリアルは来なかった。別に、補佐であれば大した用事もないので、トレーニングの時間までに来れば、何事もないのだが、田上は――どうもおかしいぞ、と思った。思ったところで、出勤を催促する気もないので、田上はマテリアルに連絡一つ寄越さなかった。そして、昼が来れば、昼食を食べる気もなかったので、田上は、鳴るお腹を我慢して、一人でデスクで寝ようと決めた。

 丁度そこだった。マテリアルとタキオンが来たのは。タキオンは、入ってきて眼鏡をはずして寝ようとしている田上を見つけると、マテリアルに言った。

「ほらね、この人は、ここ最近こうなんだ。不健康すぎて、いつ倒れるんじゃないかと私は心配だよ」

「そうですね」とマテリアルがニコニコしながら頷いていた。田上には、何が何だか分からず、慌てて眼鏡を付け直すと、問うように二人を見つめた。だが、二人は田上の視線なんてなんのやらで話し続けている。

 タキオンがこう言った。

「私、もう少し売店の方で何か買ってきた方がいいだろうか?あの人は、誘ったら一緒に昼食を食べてくれるかねぇ?」

「分かりませんね」とマテリアルは困ったように頷いた。

 二人は、田上の方には行かず、ソファーに座って暫くの間話していた。その話の中に出てくる人物が、「あの人」とか「この人」としか言わないが、自分の事を話しているであろうことは分かった。というのも、そう言う度に、タキオンがこちらをチラと見てくるからだ。――言いたい事があるんなら、はっきり言えばいいのに。田上はそう思ったが、口には出さずに、また眼鏡を外して寝ようとした。

「寝るつもりのようだよ、彼」というタキオンの声が聞こえたが、田上はそれも無視した。できるだけ人の声を聞かないように、器用に耳を両の手で塞いで、田上は寝た。決して、右手で右耳、左手で左耳をガシッと抑えるという、不格好なものではなくて、右手と左手を反対にして、それを机にうつ伏せで寝た。結局の所、その格好になるための試行錯誤は、タキオンにじっくりと見られていたので、不格好でも何でも意味がなかった。

 タキオンは、田上が俯いて寝始めるとすぐに立って、悪だくみをしている顔で声を立てないように田上の方を指差して、マテリアルに知らせた。マテリアルは、何だろうと思って、田上の方を振り向いたが、田上が両耳を抑えて寝ているのを見ると、タキオンと同じようにニヤリと笑った。

「トレーナー君に悪戯するんだったら、どんなものが良いと思う?」

 タキオンが小声で聞くと、マテリアルも小声で返した。

「う~ん、……悪戯って言っても、私が渡す辛いチョコレートも悪戯のような物ですよ?」

「…そうか。……じゃあ、塞いでる耳に突然息を吹きかけるしか方法はなさそうだね」

「そうですね」

 マテリアルが頷くと、二人は机の両側に立ち、それぞれタキオンが田上の左、マテリアルが田上の右につくと、合図するようにコクリと頷いてから、田上の手をどけて耳に思いきり息を吹き込んだ。

「ああ!!」と叫び声を上げて、田上は即座に起き上がったから、タキオンたちは頭がぶつからないように慌てて左右に避けた。田上は、初めのうち何をされたのか分からなかったが、段々と状況が掴めて来ると、半ば本気で怒っているような顔をして、「何をしてんの?」と聞いた。

「君を起こそうと思ってね」

 田上の怒った顔に自分のやったことを少し後悔しながら、タキオンが言った。それから、ソファーにあるレジ袋を持ってくると、田上に手渡した。

「何だこれ?」と言って、田上がその袋の中を覗き込むと、チョコのお菓子が何個も入っていた。田上は、慌てて顔を上げてタキオンを見た。タキオンは、少しだけ笑みを浮かべて、田上を見ていたが、その心の内は心配そのものだった。これから、何と言われるのか。タキオンには、これが少し怖かったが、田上の言葉と言ったら、動揺した「あ、ありがとう」だけだった。タキオンは、少しほっとして、マテリアルの言っている言葉を聞いた。

「私も一つ買ってきたんですよ」

「ど、どれを?」

「えーっと、赤い包みの……ああ、それ、時代の風雲児味です」

「何の味?」と言って、田上が裏を見て原材料を調べようとしたから、慌ててマテリアルが止めた。

「それは、食べてからのお楽しみですよ!こんな分からない名前の味、きっとおかしいに決まっているじゃないですか!」

「おかしい物を俺に食べさせようとしているのか!?」

 田上は、驚いて言ったが、マテリアルからは無慈悲にも「そうです!食べてください!」と言われた。だから、田上はもう一度袋を覗き込んで言った。

「…これ、二つあるけど、二つとも食べろってことじゃないよね?」

「ええ、一つはタキオンさんが食べてみたいって言って買ってきたんです」

 田上は、タキオンを興味深そうに見やってから、またもう一度袋の中を覗き込んだ。実は、とても嬉しかった。女子二人に囲まれてこういう物を渡されたとなると、いよいよ男としての株が上がってきたように感じた。しかし、自惚れだと思うと、慌てて雑念を頭から振り払うように聞いた。

「この…一、二、三、…五個がタキオンの買ってきた物?」

「ああ、そうだよ。君、あんまり甘い物は苦手だろうから、甘さ控えめの物を買ってきたけど、どうだい?これで良さそうかい?」

「ああ」と田上が頷くと、タキオンは嬉しそうに笑った。これで、タキオンの気持ちも少しだけ救われた。それから、マテリアルが口を挟んできた。

「これ!早速食べてみてくださいよ!タキオンさんも一緒にどうですか?」

「…じゃあ、私も食べてみようかな」

 そうタキオンが言うと、まだ椅子に座っている田上は、隣に立っているタキオンを不安そうに見上げたまま、赤い包みを一つ手渡した。タキオンがその包みを開けて見た感じでは、普通の市販のチョコ菓子そのものだった。原材料名にあった辛そうな物など、微塵も感じさせなかった。そして、タキオンが包みを開けても田上が不安そうに見ているのを見ると、タキオンが言った。

「どうしたんだい?君も食べるんだろ?…と言うか、君も食べたまえよ。一緒に食べるために買ってきたんだから」

 田上は、自身がなさそうに「ああ、そう…」と言うと、自分もレジ袋から包みを取り出し、そのついでに眼鏡も掛けて、開けて見てみた。田上の方も、見た限りでは普通のものと何ら変わらなかった。

「食べてみてください」

 マテリアルの言葉に促されて、田上は、一口だけチョコをかじった。タキオンもまた、一口かじった。二人とも、何事もないかのようにどんな味なのかを感じながら、チョコを食べていた。もぐもぐ、もぐもぐとしていた。そのうちに、タキオンが妙な顔をし始め、田上も妙な顔をし始めた。二人の表情の変移をマテリアルは笑いを堪えて見つめていた。それは、二人とも全く同じ表情でチョコの味を確認していたからだ。しかし、ここで笑ってしまっては興が削がれると思って、マテリアルは笑いを堪えていた。

 二人の顔はついに、眉間に皺を寄せるまでとなって、次には、田上が立ち上がった。

「どんな味ですか?」

 マテリアルが聞いたが、二人は何も答えなかった。ただ、揃って妙な顔をしたまま、廊下の方に歩いて行った。マテリアルが何をしに行ったのかと思って見ていたら、二人は、廊下の水道の水を急いで口に含んで、吐き出し、一生懸命その身に起こった辛さを引き剥がそうとしていた。時折、ひーとかはーとかいう二人の声が聞こえて、ここでマテリアルは耐え切れなくなって、笑い出した。タキオンが、一度、自分でそれを選択したのにも関わらず、マテリアルを責めるように見てから、また口を漱いだ。

 それで、暫くしてから、二人は一斉に話し出した。

「なんだこれ!?風雲児味!?強烈過ぎるだろ!」と田上がまだ残りの二口分くらいのチョコを憎そうに見つめて言った。

「このイカれた商品を考え出した奴は誰なんだ!見つけたら、その体をバラバラに裂いてやらないと気が済まない!」とタキオンが叫んだ。

 その言葉にマテリアルは、さらにハハハと笑った。その様子すらも憎そうに見つめて、田上が言った。

「マテリアルさん、俺に食べさせたんだから、あなたも食べなきゃ俺が損だ。…ほら、俺のこっちの方はまだ口をつけてないから、そっちを食いな。これは、上司命令だぞ」

 田上が脅すように言ったが、マテリアルは元からその味に興味があったようで、素直にあーんと口を開けた。すると、タキオンが横から入ってきて言った。

「ちょっとトレーナー君!君の魂胆は見え見えだぞ!どうせこれを全部マテリアル君に食わせて、自分の食い切れなかった分は処分しようという考えなんだろう!それはずるいぞ!マテリアル君、私のを食べてくれ!」

 タキオンが割り込んできたので、マテリアルは口を閉じた。そして、問うように二人を見比べた。田上には、そういう魂胆はなかったのだが、タキオンがそう言うと、マテリアルの口にタキオンが言うより早く放り込まなかったことを後悔した。こうなってしまえば、どうせ選ばれるのはタキオンだった。しかし、マテリアルは、二人を見比べた後に、諭すようにタキオンに言った。

「タキオンさん、ダメですよ。あなたは、自分で選択して、これを買ったんでしょう?それなら責任が伴います。田上トレーナーには、私が無理を言って買ってきたので、私に責任があるでしょう」

 そう言うと、マテリアルは田上の手にあったチョコをぽっと掴んで、自分の口に入れた。暫くもぐもぐしてから、田上たちと同じように身悶えして、水道の方に駆けて行った。タキオンは、残った自分の分のチョコを悲しそうに見つめた。それから、助けを求めるように田上を見つめた。これも田上の予想していたことの一つであった。結局、タキオンに根負けして、自分が食べる。もう、タキオンと言い争うのは面倒臭かったから、田上は仕方なさそうに言った。

「タキオン、俺がそれを食べてやるよ」

「本当かい!」

 タキオンの顔が嬉しそうに輝いた。その輝きに田上は、なぜだか涙を流しそうになって、慌ててタキオンの手から風雲児味のチョコレートを受け取った。それは、間違いなく風雲児味だった。――もしかしたら、これはジョーク商品でも何でもなく、ちゃんと開発した紛れもない一つの商品なのかもしれない。田上は、そう思った。そう思うほどに、その風雲児味の名前と味は一致していた。田上は、そのチョコを一生懸命噛んだ。辛さで、涙が出そうなのをごまかせるかと思ったが、逆に辛すぎて涙が出てきた。口一杯に頬張って、辛さが鼻を突いて、一粒二粒と田上の目から涙が出てきた。タキオンは、それを見て初めのうち笑っていたが、どうやら田上の涙が辛さによるものだけじゃないのを察すると、急に心配そうな声色になってこう聞いた。

「何か思うところがあるのかい?」

 田上は、思わず首を振ってしまって、後悔した。だから、もっと涙が出てきて、もういよいよ止まらなくなった。開いているドアから聞こえてきた水道の水音は、今やもう聞こえなくなっていたが、マテリアルが部屋に入ってくる気配がなかった。

 田上は、タキオンの顔をどうしたらいいか分からない面持ちで見つめた。タキオンは、田上が一度首を振ってしまったから、もう話してはくれないだろうという、諦めた面持ちで田上を見つめ返していた。田上は、涙が出る程辛いチョコを飲み込みたくはなかったのだが、自然と自然と口の中にあったそのチョコは量を減らしていって、最後には田上は自分から飲み込んでしまった。そして、口を突いて出たのはこんな言葉だった。

「ずっとずっと、気掛かりだったんだけど、…数日前の俺の言葉は正しかったのか?」

「どんな言葉だい?」

 タキオンには、結果が分かっているように思えたが、田上の話を聞き出すために聞いた。

「………あれだよ。お前は俺の中で大きな存在なんかじゃないって。…今の俺は、そんな事思っちゃいないんだけど、あの時の俺は不思議と心の底からそう思ってたんだよ。…でも、今考えたら、あの時のお前の顔って、凄くショックだったようだから、俺、本当に悪い事をしてしまったのかなって」

「そりゃあ、勿論、悪い事さ。女の子を大きな存在じゃないなんて、男の言う事じゃない。男であれば、どんな女の子でも、例えお世辞であっても、大きな存在だ、と言わなければならないんだよ?分かるかい?君の優しさは、唯一の物だと私は思っていたけど、それでも、綻びがあって、それを引っ張ると糸が抜けて汚くなってしまうんだ。その犠牲になったのが、この私だ。君は、私の事を何でも動じない生物だと思っているのなら、即何としてでも契約を解除してやるけど、本当はそうじゃないんだろう?たまたま私に厄が降りかかっただけなのだろう?」

「たまたま?……いや、そうじゃないんだ。確かに、あの時はタキオンの事をそう思っていたんだよ。何にも動じないやつだって。…そう思ってしまえば、お終いだ。俺はとうとう気が狂ってしまったんだ。一番大切にしなきゃいけない人でさえも傷付けてしまった。……頼む。タキオンから言ってくれた方が気が楽だ。俺と金輪際会わないって言ってくれ。俺は、トレーナーを辞めるよ」

 田上がそう言うと、マテリアルが勢いよく部屋の中に入ってきて言った。

「何でやめるんですか!まだまだこれからじゃないですか!あなた、三人くらい担当したいって言ったじゃないですか。まだ一人もスカウトしいませんよ!…それに、私は!私はどうなるんです?あなたからは、まだ何も学んでいません!」

「いや、正直言ってもう何もないんだ。教える事なんて。俺も一人の新米トレーナーでお前も一人の新米トレーナー、俺がダメだっただけだよ。今からでも精神科に受診すれば、何か異常でも見つかるだろう。そうすれば、鬱でも何でも診断されて、俺は家に帰ることができる。…ああ、家に帰りたい。今、俺に必要なのは休息なんだ。たった一時でもいいから俺に休息をくれ」

 田上は、遂に身の内に宿る疲れを曝け出して、助けを乞いた。それは、これまでのあまりの疲れに憔悴しきった憐れな一人の男だった。タキオンは、疲れた様にもう床に座り込んでいしまった田上を見下ろした。田上が見上げ返した。二人の間に暫く、沈黙が流れた。その間にマテリアルが何かを話したそうにもぞもぞしていたが、何も言わずに二人を見守っていた。

 暫くしてから、静かにタキオンが言った。それは、優しさもあったが、同時に厳しさもある落ち着いた声だった。

「……それでは、君は私を置いて行きたいと言うんだね?」

 田上は、タキオンの顔を見つめたまま何も答えなかった。だから、タキオンはもう一度言った。

「……それでは、君は私を学園に残し、去って行きたいと言うんだね?」

 田上は、それでも黙ることを続けたが、この後に、タキオンが何も言わなかったので、渋々口を開いた。

「……俺だって、お前を残して行きたくはないけど、……もう疲れたんだよ。今すぐ死んでもいいくらいに」

「では、私との約束はどうするんだ?契約は?私は、誰に教えを乞えばいいのかな?」

「……それは、霧島にでも誰にでも任せるよ」

「そうやって、人に任せるということが、本当に正しい事なのかな?…確かに、人に頼るという事は重要だ。だが、今の君は人に頼るというよりも、人に全てを任せて逃げ出すという行為そのものなんだぞ!私を置いて行くということはそう言う事なんだぞ!」

 タキオンの語気が荒くなった。そして、そこで一息入れると再び続けた。

「君が悩んでいるのは分かっている。苦しんでいるのは分かっている。…けれどね、今、一人ぼっちの女の子を置いて行くというのなら、それは容認できない!君は、何のためにこの学園に来たんだい?綺麗な女の子を口説くためかい?レースに勝ってお金を稼ぐためかい?…そんなんじゃないだろう!君は、あの日見た冴えないトレーナーとウマ娘に感動してここに来たんじゃないか!なのに今はどうだ!私と一緒に皐月賞と菊花賞を勝ちこそしたものの、今の君は、絶対にどの冴えないトレーナーよりも冴えていないぞ!!」

 タキオンは、涙を流して、田上に訴えかけていた。それに、田上は呆然として、何も言い返すことができず、ただタキオンの世界一美しい赤い瞳を見つめていた。

 タキオンは、尚も続けた。

「私が、悩んだこともあった。君が悩んだこともあった。しかし、そのどれもを一緒に乗り越えようとしてきたじゃないか!それを…!今更、疲れたからリタイアするって!?私は何なんだ!!なんで君の隣に居続けたんだ!!これじゃあ…、これじゃあ、まるっきり…私がバカじゃないか…」

 そう言うと、タキオンはしくしく泣き始めた。すると、田上はおろおろと立ち上がって、「大丈夫か?」と声をかけた。タキオンは、泣きながら首を横に振ったから、田上はどうしようもなさそうに周りを見渡した。そこで、マテリアルが後ろの方に心配そうな顔をして、佇んでいるのが見えた。田上は、マテリアルに目線で助けを求めた。しかし、マテリアルは田上の方なんて見てはおらず、タキオンをただハラハラとして見つめていたのだ。田上は、泣いている思春期の女の子をまた見つめ直した。田上に顔を見せないようにして、必死に零れ落ちてくる涙を拭っていた。それでも、涙は次々に零れ落ちてくるから、タキオンが手で涙を拭うのも間に合わず、床にぽたぽた雫が垂れていた。

 部屋の中には、タキオンの泣いている声だけが聞こえていた。中々に近寄り難かった。二十五のおじさんが、思春期の女の子を慰めたってどうしようもないように思えたのだ。だから、田上は心配そうにタキオンを見やることしかできなかった。

 

 やがて、タキオンの涙が引いてくると、今度は田上の机に置いてあるレジ袋を引っ掴みその中から、チョコ菓子を二つ掴み取った。そして、次に田上の方に向き直ると、そのチョコ菓子を袋から出して無理矢理口の中に押し込もうとし始めた。当然の如く、田上はタキオンが何をしようとしているのか分からなかったので、抵抗した。すると、タキオンが怒って言った。

「食え!私の気持ちが受け取れないというのかい!!」

 そう言われると、田上も仕方なしに口を開いてタキオンにされるがままにチョコ菓子を放り込まれた。そこで、田上の口の中に忘れていた風雲児味の辛さが蘇ってきた。だが、それもチョコ菓子を食べていたら、あんまりよく分からなくなった。タキオンは、チョコ菓子の銀色の包みの中に入っていた小さな丸いチョコを何個も何個も田上の口の中に放り込んだ。田上が、一粒食べ終わっただろうと思えば、次の一粒を入れ、また一粒食べ終わっただろうと思えば、次の一粒を入れ、その数が一つの包みの中だけでもたくさんあったので、田上にはいつ終わるのかの目途が見えなかった。それに、ちゃんと田上が噛んで飲み込むのを見てからタキオンが次を口の中に入れてくるので、一粒一粒がとても長く感じた。

 いつしかタキオンの手は、入れる度に少しずつ付いたチョコやら田上の唾やらで汚れ始めたが、それでもタキオンは田上の口にチョコを入れるのを止めなかった。

 二つ目のチョコ菓子に移った。次のも数がある種類のチョコ菓子だったが、タキオンは自分もチョコを食べ始めた。それでも、田上にしっかりと食べさせはしていた。時折、優しく「美味しいかい?」と聞きもした。田上が、「美味しい」と答えれば、満足していたので田上は全てに美味しいと答えた。

 腹に溜まらないチョコ菓子ばかりだったので、田上はお腹がだんだん空いてきた。たまにマテリアルがいる方から、腹の空いたぐぅという音が聞こえてきたが、その部屋にいる人でそれに触れる者はいなかった。田上の腹もぐぅと鳴った。恐らくタキオンにも聞こえているだろうと思ったのだが、タキオンはその音を聞いてにっこりと笑っただけで、次のチョコ菓子を「食べたまえ」と差し出すだけだった。いい加減、田上の口の周りもチョコで汚れてきた。だから、素直に食べさせてもらうのは止めて、タキオンに言った。

「タキオン、…ちょっともうちゃんとしたお昼を食べたい気分なんだけど」

 田上がそう言うと、タキオンがきょとんとして田上を見つめて言った。

「…もう、気分は大丈夫なのかい?死んでもいいとか言わないのかい?」

 その声は少し震えていた。それを暫く黙って見ていると、タキオンの目から再び涙が、ぽたりぽたりと垂れてきた。田上は、どう反応すればいいのか分からず、ひたすら無表情でその顔を見つめた。

 タキオンがもう一度言った。

「もう大丈夫なんだよね?死ぬとか言わないよね?…何とか言ってくれ、トレーナー君」

 そう言われたから、田上は答えた。

「……今の所は、死なないよ。精神科に行く気も失せた」

「…それじゃあ、あんまり意味がないじゃないか。――今の所は、なんて問題をただ先延ばしにしただけじゃないか。…私の涙は、君の為に流れたというのに、君の考えを変える一助には到底なれなかったのかい?」

 田上は、無言で頷いた。すると、後ろから頭を強めに小突かれた。振り返ると、マテリアルが眉間に皺を寄せて、悲しそうな顔をして立っていた。

「……田上さんは、学ばなかったんですか?そこに女の子がいたのなら、嘘でもいいから強がるのが男ってもんです。タキオンさんを安心させてあげてくださいよ」

「……でも、…」

「…でも?何ですか?」

「…でも、ここで嘘をつくのは、タキオンの為にならないし、嘘をついても見破られるだろうと思った…」

 田上が低い声で、真面目そうに言った。マテリアルは、また口を開けて、田上を嗜めようとしたが、それを遮ってタキオンが言った。

「いや、いいんだ。マテリアル君。少なくとも、また前の様に話せるようになった。今日の収穫はこれだよ。私は、これを収穫しに来たんだ。今回の件は、トレーナー君の心とはまた別の出来事だったんだ。それを収穫できただけマシだよ。…どうせ春は来るんだ。時が経てば、何かが変わる。良くか悪くかは私には判断がつかないが、それでも、その時に私にできる事はこの人の傍に居る事だけなんだよ。この前もそう誓ったんだ」

 それから、タキオンは、マテリアルの方から田上の方に目をやった。

「まだ、君の心は治まらないようだね?」

「ああ」

「まだ、私と走り続けるつもりはあるかい?」

「ああ」

「私の具合が、トレーナー君の様に悪くなってしまった時は助けてくれるかい?」

「ああ」

 心なしか、この時の返事は少しだけ強かった。

「君の具合が悪くなってしまった時は、絶対に私を頼ってくれると誓うかい?」

「…」

 田上は、答えずに顔を俯かせた。

「じゃあ、マテリアル君は?」

 これにも答えなかった。タキオンは仕方なさそうにため息をついた。

「君は、どうしても私には頼れないようだけど、私は君を助けるって誓ったんだ。少なくとも、君の未来に一筋の輝きが導き出されるまでは。……だから、私にとって君は他人でも何でもなく、君が先ほど言ったように、私も君を一番大切な者の中の一人だと思っているんだよ」

「……ありがとう」と田上がむっつり黙りこくった後言った。

「どういたしまして」とタキオンが返した。そして、時計を見やった。今からカフェテリアに行っても、食べ終わるには及ばない時間だった。だから、タキオンはまた田上の方に向き直り言った。

「ここに居る皆は、今日はお腹を空かせて午後に挑むようだね。少なくとも、今すぐに売店で買えるない私はそうだろう。…マテリアル君、付き合ってくれてありがとう。君は、私たちのこんな姿を見たくて来たわけだろ?それなら、君はとっても変わってるよ。こんなもの見たって疲れるだけなのに。……そして、トレーナー君。顔を上げて私を見てくれ」

 言われるがままに田上はタキオンを見た。

「君は、いつも大変なようだから、できない事があったり、その事柄について踏ん切りがつかない事があったら、遠慮なく相談してくれ。私を舐めるんじゃないぞ。少なくとも、科学分野において、私の方が優秀なのだから。…それに、マテリアル君もいるわけだから、私に相談しにくい大人の悩みという物があれば、そちらに相談すればいい。別に、これは強制じゃないから聞き流してくれたってかまわない。ただ、私たちがそう願っているって事を知ってくれればいい。…マテリアル君もそう思っているよね?」

「勿論ですよ!田上トレーナー、私、結構モテるんで彼女欲しかったら、人を引き付けるコツとかを伝授しますよ!」

 マテリアルの意気込みは素晴らしいものだったが、それは、田上にとってもタキオンにとってもずれたものだったようだ。田上としては、部下にそこまでの世話をされたくなかったし、タキオンは、「私がトレーナー君の事を狙っていると言わなかったかな?」と半ば軽蔑するような目付きで見た。マテリアルは、二人の顔に瞬時に気が付いて、今言った言葉を訂正した。

「あっ、…やっぱりこれじゃなくて、普通に相談してくれたら乗りますよ。むしろ、恋愛の相談は受け付けられませんね。絶対にしません」

 そこで、タキオンの方に視線がいきそうになったから、マテリアルは必死に田上の顔を見た。田上には、マテリアルがなんでそんなに必死なのか分からなかったが、一応「分かった」と返して、話を終わらせた。すると、タキオンが言った。

「私は、もう少しこの部屋に居たかったりするけど、午後の授業が始まってしまうから、もう自分の教室に行くとするよ」

「あっ、じゃあ、途中まで私もついて行きます」とマテリアルが、言ってその後について行った。何だかニヤニヤしていたので、話すことでもあったのだろう。田上は、そう思うと、はぁとため息をついて、眼鏡を外し自分の顔を少し揉んだ。涙を流してしまったので、大分疲れていた。だから、その眼鏡を外すと、田上はそのまま眠りについた。

 そこで、また一つ不可解な夢を見た。それは、童謡から始まった夢だった。

「とーりゃんせとおーりゃんせ」とどこかで誰かが歌っているのが聞こえた。子供たちが大勢で歌っている声だった。田上は、その声を探し求めて歩いたが、どこにも子供たちは見つからず、途方に暮れた。

 そこは夕暮れの街だった。知らない街の知らない住宅街。その住宅街は永遠と続いているようで、まるで、田上が見たことのある。ホラーゲームの世界のようだった。夕日も落ちることなくずっとそこに居て、田上を照らしていた。あの童謡は、まだ続いていたが、遠くなったり近くなったり、全く居場所は分からずじまいだった。

 歩いて行くと、そのうちにタキオンに出会った。タキオンは歌っていた。

「とーりゃんせとーりゃんせ、行ーきはよいよい帰りはこわい」

 細く、伸びる声が、田上の耳に届いた。タキオンは、夕日の方からやってきた。そして、田上の方に歩いて行き、その手を取るとニコニコして言った。

「行かねばなるまいよ。行くのさ。私と共に」

 田上は、そこで一つ咳をした。すると、大量の血が口から出てきた。まるで、喉に詰まっていた淡が一気に出てくるように、その血は出てきた。そのせいなのか、一気に胸のつかえが取れたような気がした。だけども、田上は言った。

「行くのはいいが帰りはどうだ?」

「行くことさえできれば、もうここには帰ってこないさ」

 タキオンがそう返した。田上は、一度後ろを振り返った。遠くで、中学生くらいの女の子が手を振っているような気がしたが、それは朧げで視認するのは難しかった。田上は言った。

「遠くに居るのは誰なんだ?」

「誰だっていいじゃないか」

 タキオンが、今度は急かすように言った。そして、田上の手を取ると、「行こう」と呼び掛けた。だが、田上は動かないで、後ろの子を見つめた。笑い声が聞こえたような気がした。それが、なぜだか耳について離れなかった。すると、またタキオンが来てから止んでいたあの童謡が聞こえ始めた。その歌は、どこから聞こえるか分からない。田上は、キョロキョロと辺りを見渡して、タキオンに聞いた。

「あの歌はどこから聞こえてくるんだ?なんであんなに大勢の子供たちが歌っているんだ?お前は何で歌いながらこっちに来たんだ?」

 タキオンは、何も返さずに、ただ遠くにいる女の子の方を指差した。田上もそちらの方を見た。すると、タキオンが静かに話し出した。

「…紅い光もあそこまでは届かない。…もうどうすることもできないのさ。…前に進まなきゃ。進むんだ。どうやっても、時が進むのは止められないのだから」

 子供たちの歌が、ワーーンと鳴って大きくなった。歌は、まだ田上の頭を破壊せしめんとばかりに続いている。田上は、泣きたくなった。もう止めてくれ!と懇願したくなった。しかし、そうしようと思って、顔を上げた時には、タキオンはもういなかった。そこには、電柱が一本立っていた。――なんだ、俺は電柱と話してたのか…。そう思うと、田上の夢は途切れた。

 

 タキオンは、マテリアルと一緒に長い廊下を歩いた。マテリアルは、今すぐにでも話したそうにうずうずしていたが、タキオンに「せめてここでは話さないでくれ」と言われると曲がり角までは黙る決断をした。そして、曲がり角を曲がる途端に言った。

「タキオンさん、あれプロポーズじゃないですか!――この人の傍に居る事だけなんだよ、って並の女じゃ言えませんよ!」

「あんまり大きな声で言わないでくれ」

 鬱陶しそうにタキオンは言った。すると、マテリアルも少しは声を落として言った。

「なんで告白なさらないんです?」

「まだ、その時ではないからさ」

「その時とは?」

「…あの人が落ち着いた時さ」

「落ち着いたらどうするので?なにか具体的な予定は?その時に、三十くらいになっていたらどうしますか?」

「三十になってたら、……のんびりするさ。…とにかく、私はあんまりこの話題は好かないな。私が、想いを伝えると決めたらその時なんだ。その時こそが想いを伝えるときなんだ。君にごちゃごちゃ言われる筋合いはないよ」

「そうですか」

 マテリアルは、その言葉ににこりと笑った。ちょうどここで、タキオンが前の方に二人の友達を見つけた様だった。少し目を見開いて、前を見つめて言った。

「見てごらん。前の方に私の友達が見える。君は会ったことがないだろう?」

「はい。…どんな人なんです?前の二人共が友達でいいんですか?」

「ああ、二人とも面白い人たちだよ。私を見ても何とも言わないし、変人扱いしない。一緒に居て気が楽だね」

「タキオンさんの想い人とはどっちが気が楽ですか?」

 マテリアルが、そんな意地悪な質問をすると、タキオンがむっと顔をしかめて言った。

「どっちも同じくらいだよ。そんな事に優劣をつけようとするな。…少なくとも、君は、人をからかうのがお好きのようだから、一緒に居て気が楽にはならないね」

「ごめんなさい」とマテリアルは、ふふふと笑いながら言った。そして、続けた。

「でも、私が疑問なのはタキオンさんがなぜあの人を好きになったのか?ですね」

 マテリアルはそう言って、タキオンの顔を見たのだが、タキオンは前の二人の方を見ていた。それで、マテリアルの話は聞いていなかったようだ。こう言った。

「ああ、そう言えば、私は、なんでここに来たんだろう?私の教室は、北校舎じゃないじゃないか」

 マテリアルの質問は結局聞かれず仕舞いとなって、話は終わった。前の方から引き返した友達たちとタキオンが合流すると、話の中心は、若い子供たちの物となったからだ。だから、マテリアルは、最初の方に質問攻めにされると、もう面倒臭くなりその場を去った。タキオンは、渡り廊下を戻り、階段の方に行くと友達と楽しそうに話した。ハナミとアルトは、そんなタキオンを見て、少しほっとした。いつものタキオンに戻っていた。

 マテリアルの耳には、春を迎えた若い子供たちの笑い声が、いつまでも響いていた。



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十五、命日①

十五、命日

 

 冬も少し収まりが付いただろうか?少なくとも、田上の引っ越しは収まりがとてもよかった。バレンタインの次の日曜日には、タキオンとマテリアルが駆けつけてくれて、田上の荷物を上の方まで運ぶのを手伝ってくれた。部屋から見える景色は、一階から見えるものと違い、まるで高いマンションの最上階まで来たようだった。それは、少し言い過ぎかもしれないが、田上にとってそれくらい嬉しい事だった。しかし、数日もすればそれも飽きた。飽きこそしたが、やっぱり一階の部屋の時より、人の足音という物が聞こえなくなったので、田上には楽だった。来客の頻度は、あまり減ったようには思えなかった。タキオンも来る時には来たし、その他田上の友人たちも来る時には来た。その上、マテリアルもスマホで連絡して聞けばいいのに、わざわざ田上の部屋まで訪ねて、「ここのこれはどうどうこれこれですね?」と質問してくるから、田上は参ってしまった。訪ねてくる客が一人増えてしまった。だが、まあまあ、それさえ見過ごせば、いい部屋になったのだろう。田上にとっては、静かになったのが、何よりの喜びだった。

 

 二月は、タキオンも田上も忙しく過ごした。ご飯の量を調整して体重管理をしたり、日頃のトレーニングをしたり、努力を地道に地道に重ねて行った。勿論、タキオンにはダンスレッスンもあった。ウマ娘におけるウイニングライブが何を指すのか、田上には分からなかったが、タキオンに聞いてみても「分からない」と答えられた。

「ただ、私たちは、歌って踊って人を笑顔にできるのなら、それをするだけさ」と言った。田上には、それがますます分からなかった。と言うのも、田上が思う普段のタキオンのイメージとはかけ離れている発言だったからだ。人を笑顔にしたいだなんて、タキオンが言うとは到底思えなかった。その事をタキオンに行ってみると、タキオンはハハハと笑ってこう返した。

「私にも分からないねぇ。そもそも、ウマ娘自体が何のために生まれてきているのかが分からないんだ。人間のようでありながら、ある種人間とはかけ離れた異質な存在。それが、ウマ娘だ。その生まれてくる条件も定かでない今、私たちは自分たちが何のためにいるのか問わなければならない。戦後になってからウマ娘の数は、年々減少して来ているんだ。最近は、横這いになっているらしいけど、それでも少しずつ少しずつ下がってきている。昔は、たくさん居たそうだよ?しかもその多くは、レースなんかを志さずに、自分たちの力を使って農耕を主に手伝っていたそうだ。…科学技術の発展なのかどうかは分からない。…ウマ娘自体が、分からないことだらけだからね。…もしかしたら、ウマ娘はこのまま世界から消えて行ってしまうのかもしれないけど、…そうなったら少し寂しいね。あんまり楽しそうな世界じゃないよ」

 田上は、それに同意して頷いた。

 

 それから、三月に入った。三月に入ると、田上は今年も母を偲びに命日の日に家に帰る事をタキオンに告げた。去年も同じことをしたので、タキオンも理解はしていたはずだが、今年は「私も行きたい」と少し駄々をこねた。だから、田上はこう言ってタキオンを諭そうとした。

「一日で帰って来るし、あんまり長居もしないから、タキオンが来たってしょうがないだろ」

 それでも、タキオンは諦めようとしなかったのだが、マテリアルと二人がかりで静めようとすれば、タキオンも諦めた。しかし、恨めしそうにこう言った。

「来年こそは行ってやるからね。六泊七日だ。六泊七日で行ってやるからね!」

 田上は、はいはいと適当に相槌を打って、駅の方へ出た。すると、タキオンもついてきた。どうやら、駅まで見送るつもりらしい。仕方がないので、田上はタキオンを横に話しながら、駅へと向かった。

 

 駅に着くと、二人は改札の手前で別れた。別れの時は、タキオンが名残惜しそうに田上の指先を握ってこう言った。

「絶対に帰ってきてくれよ。私は待っているんだから」

 田上は、「ああ」と頷いた。それから、改札の方に行くと、振り返ってタキオンの方を向いて言った。

「心配しなくても俺は必ず帰って来るから」

 日曜日の人の波が、タキオンを隠れさせた。しかし、田上にはしっかりとタキオンが微笑んだのが見えた。そうやって、二人は別れた。半ば田上が人の波に押し流されて、不本意なものではあったのだが、あの笑顔が見えたのならいい別れと言えたのではないだろうか?少なくとも、変にタキオンが駄々をこねたりしない、潔い別れであった。

 田上は、電車に乗った。タキオンは見えなかった。それが、少し寂しくもあって、窓からずっとタキオンを探していた。すると、電車が徐々に速度を上げていく線路の横の道にタキオンが見えた。タキオンの方からは、田上が、見えなかったようだ。必死に電車の中を探しているタキオンの顔が、切なそうで面白かった。暫くは、電車の中でその顔を思い出しては、笑いを堪えていた。そして、その笑いも落ち着いた頃、田上は、外の風景を眺めながら、故郷への道に差し掛かっていた。

 

 また、田園が見え始めてきた。竜之憩町だ。電車は揺れながら、次の駅へと走る。外の道には、男の子や母と娘が散歩をしているのが見えた。男の子は、携帯ゲーム機でゲームをしながら、歩いていた。きっと友達の家に行く途中なのだろう。電車の窓から見える一瞬しかその様子を確認できなかったが、田上はそう思った。

 やがて、駅に着いた。人は誰も入ってこなかった。しかし、駅のベンチには、座って待っている七十代八十代くらいの白髪のお婆ちゃんが見えた。次の電車を待っているのだろうか?田上は思った。それから、少し停まってから、また電車は動き出した。竜之終町まではあと少しだ。田上は、強張った体を解そうと大きく伸びをした。それから、思わず電車内に居る皆に聞こえる声で大きな欠伸をしてしまった。幸いなことに、二,三人しか乗客はいなかったのだが、少しクスクス笑う声が聞こえたような気がした。

 田上は、顔を真っ赤にさせて、また外の風景を眺めた。

 微睡みの様な時間だった。時間が行っているのか来ているのか区別がつかなかった。その内に、田上も眠りについて、夢を見たような気がした。夢と言ってもそれは、途切れ途切れで記憶を振り返っているようなものだった。タキオンの目が在った。赤い瞳がこちらを向いていて、笑いかけていた。次に母さんの目が在った。こちらも同じように笑いかけていた。次のは父さんだった。父さんは、運動会で田上が泥んこになって帰ってきたときと同じ大笑いをしていた。何がおかしかったのかは分からなかったが、それにつられて田上も大笑いをした。次は、幸助だった。幸助は、仏頂面でこう言っていた。

「どうでもいいんだよ。そんなことは」

 それからは、幸助と遊んでいた少年時代の町の風景が流れた。まだ、鹿児島に居た頃の記憶だった。砂利道を歩いて知らないところに探検に出たり、あぜ道から田んぼに入って、オタマジャクシを取ったり、草の上に寝転がって青い空を目を細めて見たり、木の上に登ってぶら下がってみたり、色んな事をした。その時々に喧嘩こそしていたが、今ではどれもいい思い出かもしれなかった。ただ、やっぱり弟の事は嫌いで最後に出てきた弟はこう言っていた。

「タキオンさんがいるだろ?タキオンさんが」

 意地悪な奴だと思った。それを平然として言うんだから、猶更意地悪だ。根っからの意地悪なんだろう。夢現の中で田上はため息をついた。丁度その時、「竜之終駅~」と聞こえてきたから、田上は慌てて立ち上がって、電車のドアから出て行った。次の駅はさほど遠くなかったので、もう一駅くらい行ってもよかったかもしれないと、田上は心の中で少し思った。もう少し、あの幸せな少年時代を思い出せたかもしれなかったからだ。しかし、これではタキオンにまた怒られてしまうだろうと思うと、その邪念は振り払って駅舎の中から出て行った。春の欠片が、駅舎の影から出ると降り注いでいた。もうすぐ桜の季節だ。花色めく季節だ。田上は、ため息を一つ吐いた。

 

 駅舎から出ると、田上はいつものように左に舵を取った。父の家の方向だ。――幸助はもう来ているだろうか?そんな事を思いながら、田上は歩いた。まだまだ寒いが、日光が暖かく、田上は心を和ませて歩くことができた。心なしか、人の往来が正月に来たときよりあるような気がした。特に、散歩をしている親子連れが多かった。暖かくなってきたので、家から這い出て来たのだろうか?――そう思うと、なんだか面白くなって一人で、顔に笑みを浮かべた。

 丁度交差点に差し掛かった所だった。赤信号に待たされていると、後ろから一組の親子に声をかけられた。

「あの~、すいません。もしかして、田上トレーナーですか?」

 普段、田上の方に声を掛けられることなんてなかったから、田上はなんだなんだと用心して振り向いた。そこにいたのは、ただの人の良さそうな主婦と四、五歳くらいの小さな女の子だった。

 田上は、戸惑うようにその二人を見つめてから、首を横に振った。どうせ、ファンサービスをして喜ばれるわけでも無さそうだったからだ。およそ、テレビでたまたま見たことのある顔だったから、声を掛けたのだろうと思った。だから、タキオンのファンであっても、自分のファンでないのなら答える義理はなかった。だが、驚いたことに田上が首を振ると、母親が残念そうな顔をした。てっきり、何も知らない娘に「ほら、これがアグネスタキオンのトレーナーだよ」と見世物にされるとばかり思っていたが、そうでもなかったようだ。

 田上が、また前を向いて、赤信号が青に変わるのを待っていると、女の子がこう言った。

「あの人、田上トレーナーじゃないの?」

「そうみたいね」と母親が、田上に遠慮した小さな声で言った。

「でも、あの人、田上トレーナーに凄く似てた。私、トレーナーになってタキオンちゃんと一緒にレースに出たいんだ~」

 青に変わった。田上は、歩き出した。もう少し、この親子の会話を聞いていたい気もしたが、常にこの親子の傍にいることもできないので、田上は少し早足で歩いた。だから、すぐにあの親子の声は聞こえなくなって、冷たい風に揺れる草の音が聞こえてきた。

 最後に聞こえてきた声は、女の子のこんな言葉だった。

「私、トレーナーになって、タキオンちゃんと一緒にけんきゅうするんだ~。私がピカーって光ったら、お母さん驚くと思う」

 田上は少し鼻から息を出して笑った。田上が光る事まで知っているとなると、相当熱心なファンのようだった。その事は、あんまりメディアの方に出ていることはなかったからだ。首を振ってしまった事に少し胸が痛んだが、田上は先へと歩いた。昼前には、父の家に着くことができた。父は家にいたようだ。車が駐車場にあったのが見えた。

 田上は、家のドアを開けた。そして、「ただいまー」と言うと、家の中に入って行った。

 

 家に入ると、まだ幸助は来ていないようで、靴は父の賢助の分しかなかった。賢助は、田上が来るとわざわざ部屋から出てきて、田上を出迎えた。嬉しそうに顔をニコニコさせて賢助は、「おかえり」と言った。

「幸助は?」と田上が聞くと、賢助は「まだ来てない」と答えた。そして、田上が靴を脱ぎ終わるのをそわそわと待って、脱ぎ終わるとそそくさとテレビのある部屋の方に移動した。田上には、その部屋がまだ正月の時と変わらないように思えた。それが、少し寂しく思えた。変わっていないのであれば、タキオンが来ていてもいいような気がしたからだ。そうは思っても、どうしようもないので母の仏壇に香をあげた。

 母が死んでから、十一年という月日が流れた。その顔は、今やもう写真や映像の中でしか見れなかった。何年も前から変わらず仏壇に飾ってある母の写真を見つめた。――天国に行った母はどうしているだろうか?不意にそう考えたが、ため息をつくと蝋燭に火を点け、線香にも火を点け、田上は手を合わせた。何の音も聞こえなかった。また、聞かなかった。田上は、一生懸命母に語り掛けていた。――そっちはどうですか?――元気ですか?――お変わりないですか?――天国はあるんですか?――もう一度会えますか?

 あんまり一生懸命語り掛けていたから、田上の眉間には皺が寄っていた。しかし、母からの返答など聞こえてくるはずもなかった。田上は、母に語り掛け終わって、もう話すこともなくなったが、それでも一生懸命に手を合わせていた。もう、考えは今後の事に移り変わっていた。この先、タキオンとどう向き合えばいいのか。それが、今の田上にとって一番の難題だった。タキオンは、傍に居ると言っていた。それが、本気なのかどうかは田上には分からなかったが、とにかく、本人の口からはそう聞いた。愛の告白かどうかも分からないものだった。一歩間違えばそのようになってしまうだろう。田上も勘違いしてしまいそうになる言葉だった。その言葉が、嬉しくもあったが、同時に怖くもあった。田上を助けるために傍に居る。その事が、彼女の縛りになってしまえば、田上にとっての幸せは築けなかった。田上としては、自分の事なんてどうでもいいので、タキオンは好きにやってほしかった。ただ、今更そんな事を言ったってどうにもならないだろう。タキオンの目が、本気なのは間違いがなかった。

 田上は、ふーと頬を膨らまして息を吐いて、目を開けた。

「随分、長い事祈ってたな。悩み事でもあるのか?」

 賢助がそう聞いてきたから、田上は「ちょっとね…」と曖昧に返した。それで、賢助も話したくない事なんだろうと思ってあんまり深入りはせずに言った。

「今日は、一緒に酒を飲まないか?皆で一本ずつ買ってきたんだ。…ほら、お前らが酒を飲めるようになってから、飲んだことってほとんどないだろ?…何時に帰るんだ?」

「三時には帰るつもり」と田上は返した。

「じゃあ、酒は飲めないか…」

 賢助が、少し気落ちしたように言ったから、田上が仕方なしに聞いた。

「どんくらい強い酒なの?…弱い奴だったら、飲んで帰ってもいいよ」

「ああ、それは心配ない。ちゃんと弱いのを買ってきたよ。何しろ、この家に居る皆、飲みなれてないからな」

「じゃあ、昼飯時に飲むつもり?」

「…そうだな。そんな感じだ」

 そこで、話が途切れた。二人は、同じように机を向くと、まるで通夜の様に黙りこくった。それから、やがて、田上が自分のバッグからゲーム機を取り出すと、ゲームを始めた。賢助は、息子がゲームを始めると、自分はテレビをつけて見始めた。二人共、あまり楽しそうに見えなかったが、田上の方は、時折「あ」とか「う」とか声を上げて、ゲームをしていた。

 そして、幸助が来た。

「ただいまー」と玄関の方から声が聞こえた。賢助は、立ち上がると、玄関の方に幸助を出迎えに行った。ちょこちょこと話す声が聞こえた。どうやら、今後の事について軽く話しているようだったが、田上には関係がなかったので何も聞かなかった。賢助は、そのまま帰ってこずに台所で昼食を作り始めた。幸助は、部屋に入ってきて、田上を見ると言った。

「ただいま」

 たまたまゲームの合間で手が空いていたので、「おかえり」と返した。それから、幸助は、田上の脇を通り、仏壇に手を合わせた。幸助も田上と同じように、長く長く祈っていた。田上は、その様子をじっくり見こそしなかったが、ゲームの合間合間に手を止めて幸助の方を見やると、――まだ手を合わせてる、と驚くくらいには長く祈っていた。

 やがて、幸助は手を解いた。そして、後ろを振り返ると、田上に言った。

「次の年はどうですか?」

「次の年?…まぁ、順調だよ」

「そうですか…」

 やけに丁寧な口調だったが、仏壇の前で正座をしていたからかもしれない。実際に、正座を崩して田上の対面の方に座ると言った。

「俺は、面倒臭くて面倒臭くて仕方がないよ」 

 そう言って、自分のバッグをごそごそ漁ると、田上と同じゲーム機を取り出して、それで遊び始めた。こちらも田上と同じように、時折、「お」とか「ん?」とか言っていた。

 テレビは、まだ付いたままだった。賢助が幸助を迎えに行くタイミングで消さずに行ったからだ。当然、この部屋にはゲームに夢中で、テレビの音なんて耳にも入らない人しかいないので、テレビが消されることがなかった。ただ、不意に気が付いた田上がぱっとテレビを消した。それは、丁度やっていたニュースが、子供が殺される事件を報道したからかもしれない。勿論、田上にはゲームに夢中で話の内容までは聞こえていなかったのだが、不意に――うるさいな、と思うと、そのテレビの電源を消した。それからは、台所で賢助が、料理を作っている音と、ゲームの音しか聞こえなくなった。と言っても、炬燵に座っている二人には、自分のゲームの音しか聞こえないだろう。

 やがて、賢助が大量の唐揚げを持って来れば、良い匂いに田上と幸助は顔を上げて、ゲームを止めた。

 

 賢助が唐揚げを持ってくると、昼ごはんが始まった。また、テレビはつけ直され、誰も話さない静かな食卓だった。酒は、昼飯の後にちびちび飲もうということに決まった。田上も幸助も二人共日帰りだったので、あまり酔いたくはなかったのだが、父の頼みとあらば少しは飲んだ。

 まず、最初は腹ごしらえだった。三人は、黙々と食べて、たまにぽつりぽつりと話をした。大体が、最近あった事の話だった。田上は、補佐が付いた事を話した。賢助は、嬉しそうだったが、反対に幸助はあんまり気に入らないようで、「ハーレムだな…」と呟いていた。これは、ばっちり田上の耳に届いていたのだが、今更喧嘩するのも面倒臭いので、それは聞き流した。

 そして、酒を飲み始めた。賢助が嬉しそうに缶ビールを三本持って来て、それぞれに手渡した。そして、ビールを一口飲んでから、「さあ、何を話そうか?」と言った。田上と幸助は、揃って笑い出してしまった。あまりにも頓珍漢な言葉と嬉しそうにニコニコしている顔が、絶妙に組み合わさって笑いを誘ったのだ。賢助は、その雰囲気に乗り切れていない様子だったが、息子たちが笑い出したのを見れば、それで幸せだった。

 田上も幸助も一口ずつお酒を飲んだ。一応、度数の低い物を買ってきたらしかったので、田上はまだ平気だったが、賢助と幸助は、すぐに顔が赤くなっていった。田上が二人よりお酒に強いのは母親の遺伝らしかった。ただ、幸助はまだマシな方だろう。耳の方が赤くなっていっただけで、賢助の顔の赤さよりはマシだった。

 ただ、上機嫌になった賢助が、次に驚くべきことを言った。

「もし、これで酔わなかったらどうしようと思って、スーパーの売り場にあった缶ビールでちょっと度数の高い奴を買ってきたんだ。せっかくだから、今皆で飲もうよ」

「え~!!」と酒が回ってきて声量が大きくなった田上と幸助が、揃って言った。

「何で買ってきたんだよ!!」と田上が言って、「俺たち、もう二、三時間後には帰るんだからな」と幸助が言った。それには構わず、賢助は台所の冷蔵庫の所に行って、ニコニコ顔でそれを持って帰ってきた。

「俺たち飲めないんだからな!」と田上は言ったが、賢助は構わず開けた。最初の一本の方はちびちび飲むと言っていたわりに一気に飲み干してしまった。だが、田上はまだちびちび飲むつもりでいたので、その度数の高いものが回ってきても田上は受け取らなかった、幸助は、一口飲んだようだが、一瞬で顔が真っ赤になっていた。賢助もこれでダメだったようだ。揃いも揃って酒に弱い家族だった。田上も母の遺伝と言ってもそれ程強くはなかったので、ちびちび飲んでいくうちに顔がだんだんと赤くなり始めた。頭が、ふわふわとし始めてきたので、この先にまだ度数の高いものがあるかと思うと、頭が痛くなるような気がした。二人は、「もうこれは飲めない」と言って、田上の方に押しやった。田上は、父を恨めしそうに見やって言った。

「なんで買ってきたんだよ…」

 すると、「……酔いたかったんだよ…」と返ってきたから、田上は不思議そうな顔をして言った。

「なんか仕事で失敗したりしたのか?」

「……いや、なんだか最近は美花の顔がチラつくようになってなぁ…。お前らが来たら一緒に飲みたかったんだ」

 田上も幸助も何も言わなかった。ただ、田上は酒を一口飲み、度数の低い方の酒を終わらせた。次は、目の前にある開けられた酒だった。あんまり酔いたくもなかったのだが、このまま放置すれば絶対になくならないだろう。下手すれば、田上が次に帰って来る時まで冷蔵庫に保管されてあるかもしれないので、田上はそれに一口手をつけた。そして、「うぅん」と唸った。味はあまり美味しいと言えなかったが、酒のせいで味覚にそれ程自信はなかった。田上は、それもちびちび飲んだ。もう三人はあまり話さなくなった。まるで、三人とも父の言葉に思うところがあったのか、黙りこくって考え込んでいた。

 すると、不意に幸助が言った。

「タキオンさんを連れてきたら良かったのに…」

「……なんで?」

 ぼーっとする頭で田上は聞いた。

「…そうすれば、もっと賑やかになっただろ?正月の時みたいに…。父さんもあの時が不意に楽しくなったから、母さんの顔がチラつくんだと思う」

 幸助は、隣に居るもう酔いつぶれて寝ている父を見た。釣られて田上も見た。黒髪の中に白髪が二,三本見えた。それを見つめた後に酒を飲みながら言った。

「……タキオンも連れてくればよかったかな。…来たいとは言っていたんだけどね」

「来たいって言ってたんなら連れてくれば良かったのに…」

「……でも、タキオンは家族じゃないんだから、今日みたいな日に連れてくるのは不味いでしょ」

 田上がそう言うと、幸助は黙ったまま何も答えなかった。そして、ようやく田上は酒を飲み終わった。

「ああ、疲れた」と田上がため息をついた。時計を見ると、帰るまであと三十分だった。田上は、まだ冴えない頭で、タキオンの事を考え、そして、自分のスマホを取り出した。タキオンに何かLANEでメッセージを送ろうと考えたのだが、そうする前に、タキオンからメッセージが来ていたのに気が付いた。

『何時に帰るのか連絡してくれ』

 ちょうど田上がこの家に辿り着いた時くらいに来たメッセージだった。――なんで気が付かなかったんだろう?と田上は不思議に思ったが、そんなに考える問題でもないので、構わずこう返した。

『三時の電車に乗って帰る。駅で待っててくれるか?六時頃にそっちに着く』

 そう送ると、すぐにタキオンからメッセージが返ってきた。

『了解。元よりそのつもり』

 田上は、ふふふと笑って、スマホをバッグにしまった。



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十五、命日②

 その後は、ゲームなんかをして時間を潰した。あまり集中できなくて、ゲームの成績を上げることはできなかったが、少なくとも暇つぶしにはなった。二時半になると田上は、立ち上がって父親を起こした。賢助は、すんなりと起きこそしてくれたが、あまり芳しい状態とは言えなかったようだ。田上は、それを心配しつつも、後の事は幸助に預け、自分は帰りの道を辿った。

 陽は、まだ差してきてはいたが、朝より風が強くなっていた。だから、とても寒かった。その内、雲も流れてきて、日を遮ってきたのでもっと寒くなった。しかし、その頃には田上は駅に着いたので、そのまま電車に乗った。乗る電車を間違えないように何回も何回も確認しないと、間違えそうで不安だった。

 電車に乗ると、今度は人の視線が不安だった。自分はきっと物凄く酒臭いんだろうと思った。なんだかよく分からない眠気にとも格闘した。ここで瞼を閉じてしまえば、もう二度と起き上がれないと思って、必死に瞼を上げようとして白目にもなった。

 そんなこんなして、やっとこさ東京の駅に着いた。午後六時だった。田舎の駅と違って、人の多さが半端ではなかった。田上は、改札を出るとタキオンを探した。スマホで連絡すればいいのだが、まだ酒が残っている田上の頭だと、それは考えられなかった。キョロと右を見回した。タキオンの栗毛頭は見えない。キョロと左を見渡した。ここにもタキオンの栗毛頭は見えない。どうしたものかと思って、田上は駅の中をぽつぽつと歩いた。実は、この時にタキオンから連絡が来ていたのだが、バッグの奥深くにスマホをしまっていたため、それを通知する音も振動も田上には伝わってこなかった。タキオンは、駅の横の道で待っていた。朝、田上を見送った場所だ。ただ、連絡をしても田上から返事が返ってこないので、その内そわそわし始めた。周りには、人がちらほらいたが、そのどれもが田上のようではない。それを確認すると、タキオンは駅の中に足を踏み入れた。

 

 タキオンもやはり、田上の居場所なんて見当もつかない。何にしろ人が多すぎた。その人の波を見ると、探す前から諦めて、タキオンはもう一度スマホから田上に連絡を送った。暫く、入り口近くの壁に寄り掛かってスマホを眺めていたが、田上からの返事は一向に来なかった。別に、心配はしていなかった。昼前に田上にメッセージを送った時の様に、二,三時間してからメッセージを読まれることは多々あったからだ。だが、メッセージが読まれないとなると、どうにも手が付けられない。一度電話もかけてみたが、これにも田上は出なかった。タキオンは、入り口で人の波を見つめながら、じっと田上を待つことに決めた。そこで、一つため息を吐いた。

 田上は、十分後にようやく来た。田上の方から入り口を見つめているタキオンを見つけたのだ。田上は、タキオンに会うと、申し訳なさそうに「ごめん」と言った。あまりにしょんぼりしていたので、タキオンは文句の一つも吐かずに「いいんだよ。君が見つけてくれたんだから」と言った。そうして、タキオンは田上と一緒に帰ろうとしたのだが、田上は立ち止まったままついて来なかった。タキオンの顔を見ると、何か思うところがあったようだった。悲しそうな顔をしてタキオンを見つめていた。ここで、タキオンは田上が酒の匂いを漂わせていることに気が付いたから言った。

「…君、酒を飲んできたのかい?」

 田上はゆっくりと頷いた。後ろで人の波が移動していた。外は、もう真っ暗だったが、駅構内はまだ明るかった。

「まだ、酒が残っているようだね。…ここまで帰って来るのは少し苦労があったんじゃないのかい?」

 また、田上はゆっくりと頷いた。そして、次には涙をぽた、ぽた、と一粒二粒流した。すると、タキオンが慌てた。

「え、君!私が何かしたかい?君を探しに行けばよかったのかい?」

 今度は、首を横に振って、田上が言った。

「いや、…少し酒で涙もろくなってるだけだよ。…この所、涙腺が弱いな…」

 それで、自分の涙を袖で吹くと、田上は無理に明るい声を出して言った。

「帰ろう。門限に遅れる」

 少し涙声で掠れていた。だから、タキオンが心配して言った。

「ちょっとくらい私に頼っていいんだよ?」

「……じゃあ、少し、…少しだけ手を繋いでくれ」

 そう言われると、タキオンは嬉しそうに笑って、田上の手を取った。少しだけと言われたので、指の方を軽く握った。そして、二人は帰り道を急いだ。街灯の下を通る度通る度、タキオンは田上の方を向いて話しかけた。だが、田上は頑としてタキオンの方は見ようとせずに、ただ、まっすぐに前を向いてタキオンと話していた。その様子は、どこか緊張しているようで面白かった。いつもの田上の疲れた顔ではなかった。それが、なんだか嬉しくもあった。タキオンは、ニコニコしながら田上に話しかけ、その返答を聞いた。そして、話しつつも早々にトレセン学園へと着いた。それから、寮の前でタキオンと田上は別れた。田上の酔いは、夜風に当たって完全に冷めた様だった。タキオンに手を繋いでほしいと頼んだことを何だか恥ずかしがっていたみたいで、手を放したときにぼそりと「ごめん」と謝っていた。タキオンに伝える気が合ったのか分からない声量だったが、それにタキオンは「どういたしまして」と返した。すると、田上は不思議そうな顔をして、次いで少し口角を上げた。

 そうやって二人は別れた。田上は、ここに帰ってこれて何だかほっとした。父の家の方でなれない飲酒をして疲弊したからだろうか?それは、分からなかったが、今日の田上はぐっすりと眠ることができた。星降る綺麗な夜だった。もう冬も終わるだろう。その星空には、どこか暖かさがあった。

 

 タキオンの方も今日は概ね楽しい一日と言えたのではないだろうか。特に、最後の方には、恋をしている男の人と手を繋ぐことができたのだから良かっただろう。それも、本人から求められたのだ。田上の方が、タキオンに恋しているのか、それとも、ただ単に他人に甘えたくなっただけなのかは分からなかったが、タキオンにはこれが大きな進歩だと思えた。ただ、その後に、酒を飲んでいたことも思い出したので、そうそう素直には喜べなかった。酒で田上がちょっと揺れてしまえば、こうなることも十分にあり得るのだ。タキオンは、田上に心からそうなってほしかった。酒で一時的にそうなってしまえば、全くの無意味なのだ。しかし、今日の所はどうしようもなかったので、寝るときになれば時折、あの時の田上の温もりを思い出した。正月の時などもベタベタしてはいたのだが、それは、思い出すのには少し恥ずかしかったので、今日タキオンにとっては良い思い出ができた。こちらもぐっすりと眠った。とても安らかな眠りだった。同室のデジタルも眠っているし、部屋はとても静かだった。

 タキオンの今日の一日は、ほとんどを友達と過ごした。前日には、マテリアルとトレーニングか、休暇かの選択を迫られたが、マテリアルとトレーニングをする気にもなれなかったので、休暇の選択肢を取った。その考えをそっくりそのまま、マテリアルも聞いている場で田上に伝えたら、マテリアルは「まだまだ私も精進しないといけませんね」と悲しそうに言ったから、タキオンは少しだけ嫌な気分になった。

 田上を見送ってからは、特に予定を立てていなかったのだが、昼食後にハナミとアルトに会うと「一緒に散歩しながら話している」と言ってきたので、タキオンもそれに混ぜてもらうことにした。と言っても、タキオンは二人が話している横に付いて、黙って二人の話を聞き、綺麗な花や小さな虫なんかを見つけては立ち止まって見つめていた。二人もタキオンが話をじっくり聞きたいのだろうと言う事を察すると、無理にタキオンに話しかける事はせずに、タキオンが立ち止まれば自分たちも立ち止まり、タキオンが「歩こう」と言えば前の方を先導して歩いた。

 それでも、色恋の話題となるとタキオンを放っておくことはできなかったようだ。ハナミとアルトは、それぞれアルトが右、ハナミが左に陣取ると、タキオンを挟むようにして話をした。

 まず初めは、二人の会話からだった。ハナミが言った。

「アルトはさ~、今来てるなって思う芸能人だれ?特に、男男、好きな男」 

「男ぉ?……う~ん、近藤大地?」

「あ~、近藤大地ね。あのドラマに出てたよね。恋してなんぼの辰太郎。あれ、結構面白かったよね。それこそ、近藤大地の演技が良かったわ~。…え?アルトはああいう人が好みなの?」

「私は、ああいうむさ苦しい人よりは…、芸人の方が好きかな?あの、顔の良い芸人いたよね?…あれ、…あいつ、…名前が出てこない」

「…腹巻きサメ肌の小さい方?」

 ハナミがそう雑な感じでそう言うと、タキオンは少しだけ笑った。

「いや、違う。…あれよ、あれあれ」

「あれじゃ分からないって」

「あの~、…あれ。…あの、あれって何て言ったっけ?…ビッグ佐藤スモール佐藤だっけ?」

「え~……あの、なんか二人とも言うほど大きくも小さくもない田中だよね」

「そうそう、それ!」

「でも、あの二人って漫才微妙だし、顔も特徴ないし、大会優勝したのにテレビにあんまりでないし、微妙じゃない?」

「聞き捨てなりませんね」

 アルトの芝居がかった声が聞こえた。そして、まるで眼鏡をかけているように、くいっと目の所で眼鏡を上げる仕草をした。

「あなた、ビッグ砂糖スモール砂糖の事を貶しましたね?あの二人がどれ程に素晴らしいか教えて差し上げましょう。…まずですね、漫才は微妙じゃありません!大会優勝したんです!そして、顔もかっこいい!」

 それから、「あの人たちは云々かんぬん」と早口で捲し立てて、こう言った。

「ちなみに、私はあのよく髪の毛の色を変えてくる方は好きじゃありません」

「なんで?」

「あの人がピンでやってるラジオ聞いたけど、なんか意味の分からんこと言って笑ってて、しかもその笑い方も気持ち悪いんだよね。ぎゃははって笑ってて、――もうこいつのラジオは聞かねーなって思った」

「そりゃあ、ご愁傷さまで」

 こう言ったのは、他に言う言葉が見つからなかったからのようだ。そして、そう言った後、話が続かずに二人とも空中に目を泳がせた。何か話題を探しいるようでもあったし、ただ単にぼーっとしているようにも見えたが、次にハナミが思いつくと後ろを振り向いて、道横の少し大きめの石を見ていたタキオンに言った。

「タキオンって、好きな芸能人いる?…好きな人でもいいよ?」

 これは、ハナミが、タキオンが田上の事を話すのを期待していたのが見え見えだった。だから、タキオンは少しむっとした顔になったが、それでもこう言った。

「私が知っている芸能人はね…。あんまりドラマは見ないからね。…う~ん、斎藤成吉とか?…ただ、あの人は顔が好みじゃないね」

 タキオンがそう言うと、アルトが不思議そうな顔をして聞いた。

「タキオンに顔の好みってあるの?」

「…まぁ、あってもなくてもどっちでもいい物ではあるね。私は、好きになった人を好きになるから」

 途端にすぐさまハナミが口を挟んできた。

「例えば、どんな人?」

 タキオンはまた顔をしかめて言った。

「君、面倒臭いね。…君の魂胆は分かっているんだからね。どうせ、私にトレーナー君の事が好きとか言わせたいんだろ。…残念ながら、私はそんな風には思っていない。これ以上、そういう面倒臭い質問はするな」

 しっかりと嘘をついて誤魔化したが、ハナミはあまり信じていないようで、まだニヤニヤしていた。それでも、タキオンの言う面倒臭い質問はそれ以上しなかった。それから、またアルトが聞いた。

「強いて言うなら、タキオンの顔の好みって何?」

「好みぃ?……髭?…いや、違うな。…鼻?…それでもないな。目…。……やっぱり、私は好きになった人を好きになるよ。そりゃあ、目鼻立ちがいいのは分かるけどさ。それは、今時の流行であって、そんなものは時代と共に移り変わっていくわけだろ?眉が濃いとか、肌が白いとか、二重とか、そんなものを好きになったって、あんまり意味がないじゃないか。それじゃあ、爺さん婆さんになったとき、肌が白くなくなったからその人を嫌いになるのかい?私は、そうじゃないと思いたいね」

 そうやって、偉そうにタキオンが論じると、アルトが苦笑しながら言った。

「じゃあ、好みはないんだ。本当に、好きになれば、その人を好きになるんだ」

「そうだね。むしろ、男の人と縁がなかったら、好きにならないから、アプローチもしないだろう。すると、この中で一番最後まで売れ残るのは私かもしれないな」

 ここで、タキオンの尻ポケットからスマホが音を出して知らせてきた。タキオンは、おもむろにそれを取り出して見ると、二人に知らせるつもりはなかったのだが、思わず口から言葉がでてきた。

「あ、トレーナー君からだ」

 すると、横から二人がスマホを覗き込んできたので、鬱陶しそうに「散れ!」と言った。

「君らに見せる義理はないんだよ」

 そう言うと、二人に見えないようにスマホに手をかざしたが、アルトが器用にその隙間から覗き込んで声に出して言った。

「三…時の…電車に?……乗って帰る。……駅で……んん?…待っててくれ…」

「分かったよ。もう好きに見ればいい。君たちもしつこいね」

 タキオンが、やれやれと言った口調で話すと、ハナミが「しつこい私たちの友達で居てくれてありがとう」と返された。これには、少し対応が面倒臭く、真面目に返すと恥ずかしさがあったが、「私こそ君たちが友達で居てくれて感謝しかないよ」と言い切った。しかし、これは二人とも聞いておらず、タキオンのスマホを見るのに夢中になっていた。一度アルトが、「え?」と聞き返したが、タキオンは「二度も言うつもりはないね」とつっけんどんに言って、アルトを苦笑させた。

「タキオンは何て返すの?」

 タキオンとアルトの会話なんて聞いてもいないで、タキオンのスマホを一生懸命見ていたハナミが言った。すると、何を返そうにもこの二人に田上との会話を見られてしまえば、恥ずかしいような気がして、タキオンはこう言った。

「それは、君たちには見せるわけにはいかないな。ちょっと私のスマホから離れてくれ」

「なんで?」

 これは、思いがけず面倒臭い質問だった。勿論、ハナミも先程タキオンを面倒臭がらせた時のようなつもりではなく、純粋に疑問が湧いたから聞いただけだった。それが、猶更面倒臭くタキオンはどう説明しようか迷った。しかし、何の説明の文句も出てこなかったので、強気にごまかそうとして言った。

「なんでもどうしても、君たちには見せたくない物さ。だから、理解してもしてなくても少し避けたまえ。邪魔だ」

「ふ~ん」とまだ不思議そうにタキオンを見つめながら、ハナミはタキオンの言う事を素直に聞いて、スマホを見ないようにタキオンの顔だけを見つめた。妙な所で鈍感なハナミだった。この事の真相、つまり、タキオンが仲のいい二人に見せたくない恥ずかしさが、自身のトレーナーとの間にあるという事に気が付けば、ハナミもニヤニヤ顔が止められなかっただろうに、残念ながらそれはできなかった。アルトは、タキオンの事はなんとなく察せたが、ハナミが気付いてないのなら、敢えてそれを言うということはしなかった。また、後からハナミに「実はどうどうこうこうなんだよ」と教えることもしなかった。それは、全てハナミが気付くに任せた。だから、今のアルトは、二人の様子を見つめてただ微笑むことしかしなかった。

 タキオンは、嬉しそうに文を田上に送った後、顔を上げると横の二人が揃ってこちらの顔を眺めていたので「何見ているんだよ」と不機嫌そうに言った。アルトは、「別に」ニコニコして言って、その後にハナミも不思議そうにタキオンの顔を見ながら「別に…」と続けた。それから、ハナミが自分の気を取り戻して言った。

「どこまで話したっけ?」

「…えーっと、…芸能人の話をして…」とアルトが返した。

「芸人の話をしてたね」とタキオンが言った。「ビックの佐藤がスモールとかなんとか」

「ああ、そうそう。それで、タキオンの方に話が行ったんだ。好みはないって言ってた。…で?」

 アルトがそう言うと、ハナミがその後を続けた。

「それで、…タキオンが――売れ残るのは私かもしれないなって言ったんだ」

「そうだそうだ。そうだった」とアルトが声を上げた。そして、またハナミが言った。

「そこで、田上トレーナーからLANEが来て、タキオンがそれに返事を返したんだった。…それで、タキオンは田上トレーナーに何て返したの?」

「迎えに行く、とだけさ」

 タキオンは、別に、送ったメッセージの内容を、そっくりそのまま言っても良さそうなものだったが、嘘をついてごまかした。ハナミは、尚も不思議そうな顔をしていたが、それもここでやっと終わった。

「それでさ、私、反論があるんだけど、タキオンが売れ残るって言うのは聞き捨てならないね」とハナミがいつもの通りに戻って言った。

「何でなんだい?」と今度はタキオンが不思議そうな顔をして聞いた。

「だって、タキオンに言い寄ってくる男の人は絶対いるよぉ?…それだったら、男の人と縁がないなんて事絶対ないと思うんだけどなぁ」

「私もそう思う」とアルトが右の方で同意した。すると、タキオンは眉を寄せて暫く考えた後、言った。

「…私は、…私自体が、あんまり男の人と付き合うつもりがないからなぁ。勿論、もし職場で一緒になったりしたら、話すことには話すと思うが、気に入ったのじゃなければそんなに濃い関係にもならないね」

「じゃあ、田上トレーナーは気に入ったんだ」とアルトが質問してきた。これには、タキオンも少し心臓が高鳴ってしまって、急いでアルトの方を見やった。すると、ニヤニヤ笑いの影がうっすらその穏やかな顔の中に見えた。だけども、ハナミの方はアルトの言葉の真意に気付いていないようだったから、そんなに強くは言えなかった。だから、タキオンはアルトを少し牽制するように睨みながら言った。

「勿論、トレーナー君の事は気に入ってるさ。何せ、従順で大事なモルモット君だからね」

 それから、こうも言った。

「あんまり私を話に巻き込まないでくれ。私は、今、静かに過ごしたいんだから、君たちが話しているのを後ろで聞いているのでいいんだよ」

 それを言われると、アルトも少しバツの悪そうな声で「はーい」と返事をして、後は二人で話を続けた。二人は、ありがたいことに暗くなるまで夢中で話してくれた。そうしてくれた方が、タキオンにとって暇潰しができて都合がよかった。タキオンは、研究をしなくなってからというもの、それ以外の趣味が今までなかったので、暇で暇で仕方がなかった。最近は、スマホなどを見て暇を潰すが、スマホで暇を潰すのは何だか癪だった。どうせだったら、ただ怠惰にスマホを眺めるよりも外で木や花や虫を見つめながら、ゆったりとした一時を過ごしたかった。それが、二人のおかげで叶えられた。それに、二人もタキオンの願いを叶えようと思って、願いを叶えたわけではないようだった。その証拠に、二人が話を止めた時に出てきた言葉は、「あれ?もう陽が落ちそうなんだけど…」という物だった。その頃になれば、タキオンも田上を迎えに行かなければならなかったので、二人と別れた。ここでは、アルトもハナミも少しニヤニヤしているようだったが、それは口調にはおくびにも出さなかったので、タキオンは怒るに怒れず、少し表情を曇らせたまま田上を迎えに行った。

 そうして、タキオンはずんずんと歩いていき、田上を見送ったときと同じところで、帰って来る田上を動く電車の中に見つけようと待機していた。しかし、それは叶わず、田上とは人混みの中で再会したのだった。

 

 タキオンは、今やぐっすりと眠り込んでいた。暗い夜が、和やかにトレセン学園を包み込んでいた。タキオンが、今見ている夢は何だろうか?本人の寝顔を見てみれば、不安な物を伴った夢でないことは確かだろう。もしかしたら、今日田上と手を繋いだことを思い出しているのかもしれない。もしかしたら、田上が自分からタキオンに手を繋ぐことを求めてきたことを思い出しているかもしれない。もしかしたら、手を繋いでいた時の田上の少し緊張した顔を思い出しているのかもしれない。そんなタキオンの寝顔だった。

 

 この三月十日は、タキオンと田上に焦点を当てて話していたが、その裏でもう一つ起こっている事があった。中山記念、GⅡだ。今回の中山記念には、タキオンと同じ世代で、田上の友達である国近の担当、ハテナキソラが出走していた。ハテナキソラは、大阪杯にもすでに出走登録していて、今回は、その前哨戦だった。本番を迎えるために、状況に慣れを加えようという物だった。残念ながら、ハテナキソラはこのレースでは、二着と敗れてしまったが、今や、国近とハテナキソラの二人の闘志は、燃え上がらんばかりに強まっていた。今の所、一番期待されているであろうアグネスタキオン。そのウマ娘を射殺さんと、ハテナキソラは、その瞳を鈍く輝かせていた。

 勿論、田上もタキオンもハテナキソラを軽視しているわけではなく、後日、このレースをじっくりと見て、ソラの出方などを調べた。それに、父の家に行った時も、実はハテナキソラの話題が出ていた。それは、父がハテナキソラの勝負服をデザインしたという話だった。賢助の仕事はデザイナーだったそうだから、会社にハテナキソラの勝負服をデザインするという話が来たら、賢助がその仕事を引き受けた。しっかりと相手の要望も聞いて、綿密な談議の末、ソラの納得の衣装が仕上がったと賢助は語っていた。これは、昼食時に唐揚げを頬張っていた時の話だった。田上は、試合の敵の話なので、その話にどう反応すればいいのか分からずに困ったが、賢助の言葉を聞くとニヤリと笑った。

「俺は、ソラさんの服をデザインしてしまったからな。今回ばかりは、お前たちじゃなくて、ソラさんの方を応援するわ」

 田上は、それの後にニヤリと笑ってから、「応とも」と答えた。賢助もそれに答えるようにニヤリと笑った。



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十六、ホワイトデー①

十六、ホワイトデー

 

 母の田上美花の命日から四日後、タキオンには少し期待していたことがあった。だが、それはどうにも難しそうだという事がその胸中でもあった。その内容とは、勿論、三月十四日のホワイトデーの事だった。バレンタインデーのお返しを貰えるかどうかだった。別に、貰えないことで悲しくなるということはないのだが、あればタキオンにはそれが嬉しかった。去年のバレンタインデーのお返しはタキオンは貰っていなかった。これは、渡した時の雰囲気が実験なのかバレンタインデーだったのか曖昧だったからかもしれない。しかし、今年こそは正面切って渡してやったのだ。口に運ばせてもやった。それならば、いくらトレーナー君でも返してくれるのが筋だろう、というのがタキオンの考えだった。ただ、それにはやはり問題があって、これがタキオンの期待を少量の物にさせていた。それは、田上があまりにもイベント事に疎いと言う事だった。疎いという事であれば、それを忘れている可能性があるという事。それに、最近は大阪杯のトレーニングで忙しい。普通の人でも忘れているのは無理がないかもしれなかった。ただ、見たところ、大阪杯で一緒に走る予定のウマ娘の子は、手に小包を持っていて、それがなんだか羨ましかった。

 タキオンは、二時間目の休み時間と三時間目の休み時間に田上の下を訪ねた。幾つか話をしたが、ホワイトデーの話題は全く出てこなかった。それで、タキオンが半分諦めて、四時間目が終わり、次は昼食を一緒に食べるためにトレーナー室に誘いに行ったところ、一緒に居たマテリアルが田上に聞いていた。丁度、カフェテリアに行く渡り廊下に差し掛かったところだった。

「あれ?そう言えば、田上トレーナー」

「ん?」

「トレーナーって、バレンタインのお返しはどうしました?」

 マテリアルがそう言うと、田上は少し固まって、マテリアルの顔を見つめた。そして、マテリアルを挟んだ向かい側に居るタキオンをチラッと見た。

「…あれ…って、絶対に返さないといけないんだったっけ?」

「絶対ですよ!女の子の誠意を無下にするつもりですか?」

「……いや、少なくとも、マテリアルさんの物は誠意じゃなかった。あんなもん勝手に買ってきて渡してくるとか、誠意なんかじゃないだろ」

 田上が、そう決めつけるように言うと、マテリアルも対抗するために強く返した。

「誠意ですよ!これからよろしくお願いしますね、っていう誠意ですよ」

「もし、その気持ちであんな不味いもんを買ってきたんだったら、喧嘩を売っているとしか思えないね。今から戦いの鐘が鳴る気しかしない」

 田上のこの言葉にタキオンが、ふっと笑った。マテリアルは、それを少し見た後に、田上に言った。

「別に私のはいいですが、少なくとも、タキオンさんには買ってきてやるべきじゃなかったんですか?彼女のは、誠意ですよ」

 それを言われると、田上も困ってしまったが、そうするとタキオンが横から口を挟んだ。

「私のは、別に構わないさ。バレンタインが、誠意の押し売り販売日というのなら、トレーナー君は返さなくちゃならないが、私はそんな事を望んでしたんじゃない。ただ、トレーナー君に喜んでほしかっただけさ」

 その言葉に田上は、もっと困ってしまった。それに追い打ちをかけるように、マテリアルもニヤニヤしながら、「だそうですよ」と言った。田上は、暫く変に唇と眉を歪ませた顔で悩んでいたが、やがて、三人で昼食を食べているときに言った。

「……じゃあ、正月の時にタキオンがクレープを食べたがっていたから、それでそうだ?」

 田上が突然口を開いたから、タキオンは聞き取れずに「え?」と聞き返し、田上に同じことを二回言わせた。すると、「ああ」と頷いて言った。

「そうだね。それがいい。一番のお返しだよ。ありがとう」

 タキオンは、嬉しそうににこりと笑った後、ウマ耳をピクリと動かした。そう言われると、田上はなんだか恥ずかしくなって、逃げ場を求めるようにマテリアルにも話しかけた。

「マテリアルさんも来ます?僕が奢りますよ?」

 途端にマテリアルが、目を丸くさせてタキオンを見た。タキオンも少し、「ん?」と疑問に思っているような顔だった。マテリアルは、その様子を確認すると慌てて言った。

「私は、クレープは食べませんよ。お二人で行った方がよろしいんじゃないでしょうか?私なんて、居たって邪魔なだけです」

「…そんな事は、ないと思うけど…、ねぇ?タキオン。別に、マテリアルさんが居たって構わないだろ?」

 タキオンは、困ったように眉を寄せながら、半分頷きかけた。しかし、それを途中で止めると、田上にこう言った。

「やっぱり私は、君とがいい。マテリアル君が来たくないのなら、それでいいだろ?なんでそこで引き留める必要があるんだ」

「ま、まぁ、そうか…。…本当にクレープはいいんですか?」

 田上は、少し考えた後、そう言った。

「はい。私は、後日適当に行っておきます。たまには、二人もいいんじゃないでしょうか?特に、最近は私が居て、二人になれる機会もなかったでしょうから、この機会に、菊花賞の頃を思い出して熱意を高めてみては?」

 マテリアルの論は、少し強引とも思えたが、田上は、タキオンがそれでいいというのなら、自分も同意した。ただ、少し不安だったから、もう一度マテリアルの方を問うように見た。すると、マテリアルは、「どうぞ、頑張ってください」と言うように真剣な顔でコクリと頷いた。そうされると、田上もなんだか自信のようなものが湧いてきたような気がしたが、さらに再びタキオンの顔を見つめれば、それも心許ない物のような気がした。タキオンは、田上の気持ちには気が付かなかったが、マテリアルが自分を応援してくれているのだろうという事に気が付くと、少し嬉しくなった。それで、ご飯を一口食べた。

 

 クレープをお店に食べに行くのは、次の日曜という事になった。今が、十四日の木曜だから、次の日曜は十七日だ。タキオンが、それが楽しみで楽しみで、デジタルに少し自慢をするために言ったりもした。すると、デジタルの反応が素晴らしいもので、「ひょえ!」と声を上げるとタキオンを拝み始めた。タキオンは、それでもっと嬉しくなって、カフェにもこの事を告げた。だが、カフェの反応は今一で、「あなた、その店で告白をすればいいのに…」と嫌味を言われた。当然、タキオンにはまだ告白をするつもりがなかったから、これは分が悪いと思うと、カフェの下からそそくさと離れた。

 もう二人の友達、アルトとハナミには何も言わなかった。少しだけ、自慢してみてもいいのかな?と思いもしたが、これで本格的にからかわれてしまっては元も子もないので、その気持ちが少し動く度にしっかりと抑えて、二人の前では平静に努めた。そのため、アルトもハナミも何も気付かずに、金曜日を終え、土曜日を終え、日曜を迎えた。その前に少しだけ話すことがあった。

 田上からタキオンが借りていた本の事だ。それは、土曜の朝にタキオンと田上が親しげにに話をしていた時だった。本棚を見ていた田上が不図気がついて言った。それは、本と本の間にあるはずの本がなく、空間ができていたから気が付いた事だった。

「タキオン、お前、あの本は読み終わったのか?」

「本?」とタキオンが聞き返した。どうやら、本を借りていたことはすっかり忘れていたようだった。だから、田上は少しだけ自分の認識が定かであるのか不安になった。そうなりつつも、タキオンに言った。

「お前、……確か、二月の初めくらいに本をここから取っていっただろ?あの本は読み終わったのか?」

 その言葉で、タキオンはようやく思い出したようだった。少し大きな「ああ」という声を上げると、言った。

「読み終わったよ。読み終わった。あれは、面白かった。特にあそこがよかったよね。…あの屋敷のメイドが、主人の為に自分の命を捨てて、敵を切り刻むところ。隻眼で剣の扱いが上手いメイドなんて聞いた事がないけど、あれは、…良いね。トレーナー君もあの本が好きなんだろ?あれで、どんなシーンが好きだったんだい?」

「『閉じられた物語』の中でどんなシーンが好きかって?…う~ん、…。…う~ん、……そうだなぁ。少し曖昧だけど、あの主人公のサムが竜の背に飛び乗るところがあっただろ?」

「ふむ。…あったね。そこが好きなのかい?」

「いや、そこで竜を殺した後に、その竜の最後の一吹きで腕を火傷するシーン。そして、竜の死骸が見る見る変貌を遂げて、闇の王に成ろうとするところ」

「そこで、古の王と仲間たちが助けに来たね」とタキオンが口を挟んだ。

「そう。その一連の流れが好きだね。中々に闇が深いけど、それでも希望を見失わずに前に進もうとするのが、あの作者らしくて良い」

「私もそう思うよ。思いがけず、いい話を読んだよ。あの本は、明日、君と会う時に返そう。私が君の寮まで訪ねるから、君は部屋で待っていたまえ」

「え、でも、俺に直接渡さなくても、お前がこの部屋に持って来てくれた方が俺には楽なんだが…」

「いや、忘れてしまうと困るから、君の部屋まで持っていくよ。君は待っていたまえ」

 タキオンは、「どんな言葉も受け付けませんよ」といった口調で田上に言ったから、田上は仕方なく「まぁ、それでいいです」と答えた。すると、タキオンは満足げに笑ってから言った。

「見た所、君、本も結構読んでいるようだから、何か私にお勧めできる面白い本などはあるかい?私も、賞を取ったものはたまに読んだりはしているが、どうもそういう物語のような本には疎くてね」

「面白い物…?…う~ん、……俺がお勧めするのであれば、最近読みたいな~って思っている『人斬り』?」

「お、待ってくれ。それ、どこかで聞いた事があるような気がするぞ」

「ああ、」

「待ってくれ!あと少しで思い出せそうなんだ!…えっと、何だったかな?…確か、確か、何かの教科書で見たような気がする。ああ!こんな時に度忘れするなんて!…なんだったかな…」

 そう思い出そうと悶絶しているタキオンを見ながら、田上はニコニコしていた。それで、タキオンが幾ら待っても思い出せなさそうだったから言った。

「俺が正解を言おうか?」

「……うむ、さすがにここまで来たら降参だ。ぜひ、答えを言ってくれたまえ」

「正解は、明治から大正にかけてに活躍した文豪の高松信夫(たかまつのぶお)でした」

「ああ~!それだそれだ!なんで思い出せなかったんだろう!代表作はあれだね。『人斬り』に『飛行機』、それに『パリ旅行記』、『嫁』、『礎』、『沢下り』。いや~、何で思い出せなかったんだろう。…それで、『人斬り』だね?…私は、信夫作品は『パリ旅行記』と『飛行機』しか読んだことはなかったんだ。『人斬り』ね…。確か、信夫作品の中では一番人気があるものだよね?」

「ああ、そうだね。勿論、全部素晴らしいっちゃ素晴らしいんだけど、人斬りが一番大衆受けしたんだろう。そして、一番暗い世界観でもあるしな。どこか、合致したんだろうけど、俺も人斬りが一番好きだね」

「それは、どうしてなんだい?」

「あんまり言うとネタばらしになってしまうから言えないんだけど、人斬りと一人称での語りがとても面白いから、読めるならぜひ読んでほしい」

 田上は、熱意高々にそう語った。

「なら、それはどこにあるんだい?その本棚の中にあるのかい?」

 田上が、一向にその本を棚から取り出そうとしないから、疑問に思ってタキオンがそう聞いた。すると、田上が返した。

「残念ながら、人斬りはこの本棚にはないんだな。図書室にあるのは確認したから、そこで借りてくれば?」

 田上がそう言うと、タキオンが「えー」と面倒臭そうに声を上げた。

「君、この部屋に信夫作品ぐらい全部置いておきたまえよ」

「一つは置いてるよ」

「…なんだい?」

「沢下り」

 タキオンは、田上の言葉に大きなため息で返した。それから、独り言のように呟いた。

「図書室……借りに行ってみるかなぁ…」

「行ってみれば?」

 田上が、タキオンの独り言に口を挟んできたので、タキオンは「うるさい」と一喝した。それから、土曜のトレーニングの時間となった。タキオンは、とりあえず、後日、図書室に行っていることに決め、トレーニングに臨んだ。調子は、順調だった。足取りは軽く、気分も良好。タイムも自分の記録に限界まで近づくことができた。しかし、超える事はできなかった。それが、タキオンに悪い気持ちをもたらしたのかと言えばそうではなく、今日は、いい記録が出せたという前向きな気持ちでトレーニングも終われた。タキオンは、今や今日のトレーニングの疲れさえ吹き飛ぶくらいの楽しみに体を震わせて明日を待ち焦がれていた。よく、明日が楽しみだと眠れないというのを聞いた事があるが、今日のタキオンはむしろ早く眠ることができた。トレーニングの疲れは、良い塩梅にタキオンを眠りにつかせたのだ。そのせいかタキオンは早く起きることができたので、何だか得をしたような気分になった。田上との約束の時間はまではまだまだあったが、そんな事はどうでもよくなった。寮の扉が開く時間になると、一目散にタキオンは駆け出して田上の部屋へと目指した。勿論、片手に赤い表紙の本も持っていた。

 

 田上は、タキオンとの約束を半分忘れたまま、眠りについた。これは、田上らしからぬ事だったが、その日だけはたまたま明日の予定のカレンダーを見ていなかったのだ。田上の疲れた脳みその中にあったのは、早く寝る事だけで、布団に入れば瞬く間に眠りについてしまった。

 朝起きたのは、どこかで扉をノックしている音が聞こえたからだった。最初は、夢か何かかとも思って、放置していたのだが、それが段々と大きくなってくると、不意にタキオンとの約束の事が頭の中に映し出され、飛び起きた。扉を叩いている人は、タキオンだろうということが分かっていたから、田上は寝過ごしてしまったと勘違いして、時計も見ずに慌てて謝るために扉の方に駆けよった。そして、開口一番「ごめん!」というと、不思議そうな顔をしたタキオンが見上げて「何を言っているんだい?」と言ってきた。

 タキオンも最初、田上が何で謝ったのかが理解できなかったが、それ以上に、状況を理解できていない田上の顔を見つめていると、徐々に状況が理解でき始めた。だから、田上をからかうようにこう言った。

「ははあ、分かったぞ。君、私が来たというのに眠っていたから、寝過ごしたと思ってびっくりしたんだ。…それにしても、もう寮が開く時間で私との約束がある日なんだから起きてても良さそうなものだったけどな。もう少し後に起きるつもりだったのかい?」

 タキオンがそう聞くと、田上も状況が理解できたようだ。その途端に顔を赤くさせて、タキオンに白状した。

「…実は、すっかり忘れていたんだよ。…タキオンとの約束を」

「えー!君、自分からクレープ屋に連れて行くとか何とか言っておきながら、忘れてたって!?そりゃないよ、トレーナー君!」

「俺だって忘れたくて忘れたんじゃなくて、昨日はたまたまカレンダーを見るのを忘れてたんだよ」

「私は、カレンダーなんて見ずとも覚えていたけどね」

 タキオンが責めるように言うと、田上も困ったように頭を掻いた。

「それは、本当にごめんなさい。…けど、タキオンが朝早く来たおかげで約束の時間には間に合えたんだから、結果良ければ全ていいだろ?機嫌を直してくれなきゃ、俺もやってられないよ」

「私は最初から怒ってなんかいないし、怒っていたとしても、君と出掛けることができさえすれば、機嫌なんてすぐに直る。…でも、少し虫の居所が悪いから、君の部屋に上がらせてもらおう。そうすれば、虫もちょっとは落ち着くだろう」

 タキオンがそう言って、田上に部屋に入っていいか聞こうともせずに、その脇を通って無理矢理入ろうとしてきたから、田上がタキオンの肩を掴んで、なんとか押し止めた。今日のタキオンの服装は、肩の露出した袖が親指の付け根まで長い紫色の服だった。これは、前に購入したサイズの大きい物から調整した、新しく買った服だった。タキオンにしては珍しく、あのサイズの大きいものが中々に気に入ったので、サイズも調整して袖の長さも長いくらいの物を買ったのだ。田上には、これが中々にやりにくく、押し止めるときもできるだけ手が触れる肩の面積が少ないようにして押し止めた。それにタキオンが気が付いたのだろうか?一度押し止められはしたものの、ニヤリと笑うと田上の手に自分の肩を押し付けるようにして、再び田上の部屋を目指した。今度は、田上にも押し止める事はできずに、これはダメそうだと思うと、すぐに手を肩から放してタキオンに言った。

「俺の部屋に入ったってしょうがないだろ?お前が、引っ越しを手伝って入れてくれた時から何も変わってないよ」

 だが、タキオンは人の話も聞かずに、人のベッドに寝ると言った。

「ご自由に準備してくれて構わないよ。…何、少しの間だけさ。別に約束の時間と言わず、準備ができたら行ってもいいだろう?」

「行ってもいいけど、クレープ屋が開くのはまだ先だぞ」

「構わない」

 タキオンは、そう言うと、手に持っていた『閉じられた物語』を開くと、仰向けに寝転がりながら読み始めた。

 

 田上は、洗面台の方で、顔を洗って髭を剃って服を着替えた。その間に、タキオンは一度洗面台の方を訪れた。丁度、田上が髭を剃っていた時だった。

「君、髭以外のムダ毛はどうしているんだい?見た所、すね毛は剃っていないのを確認したことがあるが」

「髭以外は何もしてないよ。…あっち行っててくれ」

 迷惑そうに田上に言われると、タキオンもぺろりと舌を出して「すまないね」と言うと、素直にまたベッドの方に戻っていった。タキオンが、一度来てしまうと、二度目も来てしまうのではないかと思って、田上はやりにくかった。しかし、結局は来なかったので、朝の気分としては今一と言えるくらいに釈然としなかった。

 タキオンは、『閉じられた物語』を読み返していると、気になったことがあったので、着替え終わって出てきた田上に聞いた。

「トレーナー君、…この主人公のサムは、閉じられた物語をまた開くために冒険の旅に出るんだよね?…それで、竜を殺すんだよね?そして、この竜を殺せば、闇の王が新たに出てくるわけだが、…すると、竜の中に居た闇の王ってものは一体何なんだい?古の王たちは、その存在を知っていたようだから、昔にも居たんだろうけど」

「それは、…俺にも分からないけど、闇の王ってのは実は概念的な物なんじゃないか?っていうのが、俺が読んだことのある考察だね。――どんな人の中にも闇の王が潜んでいる。…確か、そんな言葉が作中にあっただろ?」

「あー!あったあった。確かにあったよ。…それだね。ふむふむ、そうすると、私も読解力がまだまだ足りないね。…さあ、もう行こうか。君の本はベッドの上に置いておくよ。貸してくれてありがとうね」

 タキオンはそう言って立ち上がり、赤い表紙の本をぽんとベッドの上に置いた。それを見ると、田上が「ベッドの上に置かれてもなぁ…」と苦言を呈したが、タキオンが反論するために口を開こうとすると「やっぱりなんでもないです」と言って、その開いた口を閉じさせた。それから、二人は廊下に出て行った。田上は、Kの文字が付いた黒い帽子を被っていこうとしたのだが、それはタキオンに外された。タキオンによると「どこかに移動するならその帽子はいいが、二人でクレープ屋さんに出掛けるというのにその帽子はどうなのか?」という事だった。田上としては、帽子があった方が頭が落ち着いて良かったのだが、タキオンにそう言われると、仕方なしというより半ば強制的にその帽子を部屋に置いてこさせられた。タキオンは、それで満足だったようで、にこりと笑うと自然と田上と腕を組んで歩きだそうとした。だが、田上にとってはまだ誰かの目が光っているであろう学校の中だったし、何をするのか分かったものではない女子高生と腕を組みたくなかったから慌てて振り解いた。その訳を説明すると、タキオンも一応は納得して、自分の行いを悔いてくれた。だが、表情が少し曇ってしまった。それに、田上はしっかりと気が付いてはいたが、――どうせ歩いて行けばそのうち機嫌は回復するだろう。また、回復するくらいの落ち込みようだろう、と思って、何も言わなかった。暫くは、タキオンも田上と手を繋ぎたそうにその手に少し触れていた。それが少しくすぐったくもあって、一度、タキオンの方を無言で睨むように見れば、タキオンも止めてくれた。そして、二人は電車で二駅乗り、大きなショッピングモールへと到着した。



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十六、ホワイトデー②

 この頃になると、田上の予想通り、タキオンは明るさを取り戻して、自分の気になるものを見つけては、「ほらあそこに何々があるよ」と指差した。その時に、タキオンは真正面から田上に「手を繋ごう」と言ったから、田上はタキオンの真剣な顔に面倒臭くなってこう言った。

「…この前みたいに軽くね」

 少し後ろめたさがあったのかもしれない。この前は、自分から手を繋ごうと言ったのに、タキオンが言えば、それを断ってしまうのは、自分勝手すぎると感じたのかもしれない。それは、田上には分からなかったが、街中で女子高生と手を繋いでいる大人の男が自分であるということが、居心地が悪くて仕方がなかった。おまけに、タキオンは、田上がすぐ隣にいるというのに大声を上げて、「ほら、見てごらんよ!あれも美味しそうだねぇ!」と通りの店を指差すので、道行く人の注目を引いてさらに居心地が悪かった。タキオンと手を繋げるということが嬉しくないわけではなかったのだが、田上は、最近は自分の気持ちが何だかよく分からなくなっていた。タキオンが好きなのか嫌いなのか、手を繋いで嬉しいのか嬉しくないのか、タキオンは何なのか。そう言う事が分からなくなって、混乱していた。タキオンとの距離は、菊花賞の頃よりも掴めなくなった。今の様に物凄く詰め寄ってくるときがあれば、少し距離を置くときだってある。思春期特有の物なのか、もう大人になろうとしているのか分からなかったが、今現在は、――手を放してほしいなぁ、とタキオンの話を聞きながらぼんやりと思った。

 タキオンは、まんまと田上と手を繋ぐことができて有頂天になっていた。その為、声も抑えきれずに大きくなっていた。田上の顔は、いつもの通り仏頂面で、決して、タキオンと手が繋げて嬉しい顔には見えなかったが、そんな顔は、タキオンにとっては見慣れた田上の普段からの顔だったので、気にすることなんてせずに田上に色々と話しかけた。

 

 その内に、大きなショッピングモールに着いた。都会のショッピングモールだから、田上の父の家の近くにあるショッピングモールとは大違いで、どでかい上に人もたくさんいて、まるで羽虫の様にざわざわと鬱陶しかった。モールに着くと田上の眉間の皺はより深まったが、反対にタキオンの足取りは楽しみで速まった。田上は、半ば引っ張られるようにして、予定していたクレープ屋『spoon』まで歩いた。

 そして、その店に前に辿り着くと、なんと、予想しておくべきだった店が開くのを待つ列ができていた。モールはもうすでに開いていたが、当然のごとく店は開いていない時間であるのは知っていた。まだ、店の開く時間の一時間くらい前だからだろうか。人は、それ程並んでいるようには見えなかったが、店が開く前から並んでいるくらいだからこれより後になればもっと人は増えるだろう。田上とタキオンは顔を見合わせて話し合った。

「君、どうする?もう人が並んでいるけど、これに並ぶかい?…まだ一時間くらいあるけど」

 田上は、店の方を睨みながら少しの間悩んだ。それから、言った。

「一時間待つのは好きじゃないな。…三十分後にここに来て、人がこれより多く並んでいたらさすがに並ぼう。じっとしているのは、俺の性に合わない」

「ならばそうしよう。どこに行く?朝ご飯は食べていないんだ。少し摘まむのもいいんじゃないか?」

「…朝ご飯は、ご自由にしていいけど、俺はクレープを存分に食べたいから食べないよ」

 田上がそう言うと、タキオンは「う~ん」と唸りながら、言った。

「…じゃあ、ハンバーガーを一つほど頂こう。それと、その前に洋服を見に行こうよ。君の新しい服を見繕ってあげようか?君、いつもおんなじ服だし」

 田上は、少ししかめっ面をしたが、口では「いいよ」と答えた。それが、何だか可笑しくって、タキオンはふふふと笑った。

「君、本当は嫌なんだろ?それならそうと言えばいいのに。…分かった。君の服は、買うか買わないかはその場で決めよう。君は、今からモルモット君ではなくて、私の着せ替え人形なのだから反論はしちゃだめだよ?」

 田上は、しかめっ面で「オーケー」と答えた。それから、タキオンが田上の指先を軽く手に取って、歩き始めた。行き交う人の波の中に、何人か振り返ってタキオンと田上の姿をもう一度見ようとする人が居たが、タキオンはそれには構わず、田上を引っ張って洋服屋まで行った。その店は、ピンクを基調とした和やかな店だった。

 

 服屋に入ると、タキオンは田上をあっちへ引っ張りこっちへ引っ張りつつ、まずは自分の見たい服を見ていた。ベージュ色のゆったりとした長いスカートを見ては、「これ、私に似合うかな?」と田上に聞いてみたり、人面ピーマンの描かれた服を見ては笑い、「君に似合っているよ!」とからかってみたり、まるで夫婦か、それでなければ親子の様にタキオンたちは過ごした。そうしていくと、田上は自分が段々と分からなくなってきた。幸せ過ぎると、田上には毒なのだ。その毒は、田上の全身に気が付かないうちに回り、田上の体を蝕み始めた。そして、ようやく田上自身が、その毒に気が付いた時に、慌ててその毒を取り除こうと今まで繋いでいたタキオンとの手を放した。これは、田上も予期していないことで、田上の無意識が勝手にそれをしてしまったのだ。そうすると、田上はタキオンより一歩後ろに置いて行かれて、タキオンが不思議そうに振り返った。

「手を、繋がないのかい?」

 ゆっくりとタキオンが聞いた。すると、田上は何が何だか分からなくなって、悲しそうにこう言った。

「俺、…なんでここに来たんだろう?」

 タキオンは、その言葉を聞くと、尚も不思議そうに田上を見つめていたが、不意に気が付くと自分の袖を捲って、手首の時計を見て言った。

「ああ!時間が経つのは早いね。もう、クレープ屋を見に行く時間だよ。…どうする?行くかい?」

 タキオンは田上の方に近寄って、その手を取った。そして、田上が静かに頷くのを見ると、その手を引っ張って歩いた。田上は、あんまり急いで歩きたい気分ではなかったし、また、大して急ぐような時間でもなかったが、この時ばかりはなぜかタキオンが急かすように田上の手を引っ張った。楽しみで足取りが早くなっている物とは、また別の引っ張り方だった。

 

 タキオンたちが、再び店の前に着くと、列の人数は増えていてどうやら並んでいておいた方がよさそうな気配がした。ここに来ると、田上はタキオンの手を解こうと指をもぞもぞさせたが、どうにも取れる事はなく、それに気が付いたタキオンが振り返って言った。列の最後尾に着いた時だった。

「君、なんでここに来たんだろうって言ったけど、君がここに来ようって言ったからじゃないか。…君は、その質問をたまにするね。不安になったからなのかい?それとも、本当に自分の居場所が分からなくなったからなのかい?」

 タキオンは、心配そうに田上に問い詰めた。田上は、その顔をじっと見つめた。田上には、タキオンが本当に自分を心配してくれているだろうと言う事は分かったが、分かったところで何も話す気にはなれず、ただ微かに首を横に振った。ほんの僅か揺れたか揺れていないかくらいの首の動きだったが、タキオンはそれを見分けて悲しそうにこう言った。

「…あんまり心を閉ざさないでおくれよ。…前にも言ったろう?君は私の大切な人なんだ。なくてはならないパートナーなんだ。強制はしないけど、悩みを話してほしいって願っているんだよ」

 それでも、田上は何も言わなかったから、タキオンは諦めて列の前に居る人の背中をただ見つめ続けた。無表情でその背中に寄っている皺を人の顔の様に思いながら見つめ続けた。すると、後ろに並んでいた女子高生の二人組から声をかけられた。女子高生と言う事は、タキオンとほとんど同い年と言う事だろう。その二人組は、タキオンの肩をそっと叩いて呼び掛けた。

「あの~、すいません」

 そして、タキオンが振り向くと言った。

「もしかして、アグネスタキオンさんですか?」

 田上も振り向いて、女子高生を見た。タキオンは、黙ったままゆっくりと頷いた。二人組の女子高生の方が身長が少し高かったから、タキオンが何だかいつもより小さく見えた。

 タキオンが頷くと、その女子高生ははしゃぎ声を上げて、相方と嬉しそうに手を合わせた。それから、タキオンに言った。

「私、タキオンさんのファンなんです!サインとか頂けますか?握手は?」

「…サインは無理だけど、握手なら…」

 タキオンは、若干女子高生の勢いに押され気味のようだった。それが、少し可笑しくて田上はふふと鼻を鳴らして笑った。それで、女子高生が隣の髭の濃い男性の事を思い出したようで、タキオンに「隣の男性の方は…?」と聞いた。タキオンは、「トレーナー」とだけ不愛想に答えた。すると、再び女子高生がはしゃぎ声を上げて、今まで話していなかった、髪の側面を一筋赤く染めた女子高生が言った。

「もしかして、二人はお付き合いとかなさっていらっしゃるんですか?そうですよね!だって、休日に二人でこんなお店に来るなんて、付き合っていなきゃしないですよね!」

 女子高生は、特に不気味な髭の男性を見て、そう思ったようだ。それが、田上にも感じられたから――無礼な奴だ、と心の中で文句を言った。

 タキオンは、女子高生の勢いにたじたじになりながら「違うとも…」と答えた。女子高生は、自分の読みが外れてがっかりしたようだ。そのせいか、丁寧な口調も少し雑になった。

「じゃあ、お二人はなぜここに?」

「…私用だから、あんまり首を突っ込まないで貰えるとありがたい。少し落ち着いてもらえるかな?」

 ここで、ようやく自分の気を取り戻したタキオンが、冷静に女子高生に告げた。そして、前の方に向き直ったから、女子高生も怒らせたと思ってそれ以上話しかけてはこなかった。タキオンは、気晴らしに田上に話しかけようとも思ったが、先程、少し笑った田上はどこへやら、また重苦しい空気が漂った。それだけであれば、タキオンも話すことができたのだが、今や後ろの女子高生が聞き耳を立てていると思うと、喋ろうと思っても口なんて開きそうになかった。

 

 そうしていくうちに店が開いて列が進み始めた。ここで、タキオンは口を開いて「楽しみだね」と田上に言った。タキオンの予想通り、田上はタキオンの顔なんて見ようともしないし、口も開く気なんてなかったようだ。予想通りであったので、タキオンはそのまま田上の横に付いて店員に誘導された席へと座った。正面から向かい合う、二人掛けの席だった。タキオンはそれに座ると、正面に座った田上を覗き込むように、からかうように微笑みながら見つめた。そうされると、田上も居心地が悪かったようで、左の方に見える窓から外を見つめた。あんまり大したこともない街並みとその上にある空が見えた。それを一生懸命田上は見つめたが、机の上に置いてある手に物が触れる感覚がすると、思わず視線をタキオンの方に戻した。タキオンはメニューを持っていたようで、それが偶然田上に当たってしまったようだ。しかし、タキオンは田上がこちらを向いたのに気が付くと、まるで偶然当てたのが全て計算ずくでしたとでも言うように、ニヤリと笑った。それから、こう話しかけた。

「君は、何が欲しいんだい?何か色々な種類のクレープがあるし、クレープじゃないものもあるよ」

「……チョコたくさんかけたやつ…」

「…すると、これかな?ほんたらかんたらチョコクレープ。生クリームもたくさん入っているようだね。私好みだ。…そう言えば、君は甘いのって嫌いだったんじゃないのかい?」

「…いや、別に嫌いじゃないし、今日はクレープを楽しみに来たんだから、美味いクレープを食うつもりでいる」

 相変わらず陰気な物言いの田上に、タキオンは少し呆れて「そうかい…」と返事をした。それから、自分の分も選び始めた。「これは多分、死ぬほど甘そうだぞ」とか「ほう!見てごらんよ、トレーナー君。中々にイカレた具材が盛り込んであるぞ。…ミニハンバーグ?これ、クレープの生地と合うのかねぇ?…どう思う?トレーナー君」とか語り掛けてきて、田上は大いに面倒だったが、できるだけ返事をするようにはした。そのせいか、タキオンは少し機嫌をよくしてニコニコ顔になった。それで、店員を呼んで注文をすると、タキオンが机の上に置いている田上の手をいじりながら言った。その段になると、少しニコニコ顔が落ち着いた。

「……君は、…君なんだろうなぁ…。どうしても私には動かせないものなのかなぁ。…手遅れになる事だけが一番怖いよ」

「手遅れ?」

「君が自殺してしまうことさ。それが、一番怖い。前も死んでもいいって言ってただろ?あれが成長してしまうと、自殺に繋がってしまうんだ。……忘れないでおくれよ。君は多くの人から愛されているんだ。無くなっていい存在じゃないんだよ。私は君の事が大切だし、マテリアル君だって君が大切だろう。それに、君のお父さんだって、幸助君だって、君が大切だし、テレビの向こう側にいるファンだって君の姿を見て影響を受けているかもしれないんだよ。君の心の中にあるものは、孤独かもしれないけど、実はそうじゃないんだって事を受け止めてほしい。私は、今や君がいなけりゃ、アグネスタキオンここに在り、とは言えないんだよ。君は色んな人の心に影響を与えたんだ。…頼むから、その事を忘れないでほしい」

 タキオンは、そういうと、田上の手を殊に強く握った。少し痛いくらいだった。まるで、この痛みと共に今の言葉を忘れさせないようにしているようだった。田上は、無表情のままタキオンを見つめた後言った。

「やっぱり、お前に俺の心は動かせないよ。他人の心ってのはそんな簡単じゃないんだ。例え、タキオンが心を動かされた物語であろうと、他人はそれを良しとはしないかもしれない」

 そう言うと、タキオンが反論した。

「でも、君は『閉じられた物語』は好きだと言ったじゃないか。同じように感動したじゃないか」

「…あれは確かに面白かった。…切なくて響くようだった。…でもな、所詮他人は他人だ。俺じゃないんだから、俺の事なんて分かりっこない」

「それは、君が心を閉ざしているからじゃないか?君が、人と触れ合うのを避けているからじゃないか?前に言っていたじゃないか。人と触れ合うのが怖いって。そういう事じゃないのかい?」

 これには、田上にも思う事があって、言葉に詰まったが丁度いい時にクレープが運ばれてきて、田上はタキオンが美味しそうなものに興奮して話が逸れるに任せた。タキオンは、メニューの中にあった普通のハンバーグも頼んでいた。残念ながら、先程、ハンバーガーを食べに行くと言った時に、洋服屋を先に行ってしまったせいで、それを食べ損ねたのだ。タキオンとしては、ちょっと洋服を見るつもりだったのだろうが、それは、夢中になっているうちに長く延びてしまった。

 クレープは、チョコがたっぷりかけられていて、田上の口の中に涎が溢れた。だから、それにすぐにかぶりついた。すると、タキオンが笑い声を上げて言った。

「君、それはチョコかい?髭かい?分からないよ」

 田上は、慌てて口の周りを手で拭うと、親指にチョコが付いたのでそれを舐めとった。

「卑しいねぇ」とタキオンがニヤニヤしながら言ったから、田上はこう言い返した。

「卑しくて結構。俺は、大人になってもアイスの蓋を舐めるから」

 タキオンはまた笑った。その和やかな一時はしばらく続いたが、タキオンがハンバーグを食べ終わり、注文していたクレープ三つに移行すると、それが運ばれてくる前の話に急に戻って、田上をドキリとさせた。

「それで、…君さ。人と触れ合うのが怖いと言っている割に、今私と触れ合っているじゃないか。今の笑いは何だったんだい?触れ合い以外の何物でもないだろう?」

 そう言われると、田上は急に仏頂面に戻って目を空中に泳がせ始めた。その様子を見ると、これは不味いと思ったのか、タキオンが慌てて言った。

「別に、君に触れ合わないでほしいって言っているわけじゃないんだよ。ただ、触れ合うのが怖いと思った時に、今の様な一時を思い出してほしいだけで。…本当は怖くないんだよって事を君に知ってほしいだけさ」

 田上は、何も答えなかった。ただ、タキオンの顔を見つめた後、再びクレープにかじりついた。それを見ると、タキオンも仕様がなさそうに鼻からため息をついて、自分のクレープにかじりついた。口の中に甘さがぎゅんと広がった。それにタキオンは嬉しそうな声を上げて、田上を見た。何か言いたかったが、クレープを口に頬張っていたので、食べながら喋るという行儀の悪い事はできなかった。勿論、両手でクレープを持っていたので、手で口を隠すということもできなかった。その様子を察したのだろうか。田上は、自分のクレープを一旦皿の上に置くと、儚げに言った。

「美味しいか?」

 タキオンは、それに答えるために急いで口を動かして、中身を飲み込もうとしたから、田上が「そんなに急がなくてもいいぞ」と声をかけた。だが、それは無視されたようで、尚ももぐもぐと早く口を動かして中身を飲み込んだ後、タキオンは笑顔になって、「おいしい」と答えた。

 最近は、幸せという物も分からなくなった。前の自分であれば、今のような状況こそが幸せであると感じることができただろう。文字通り、それを肌で感じただろう。しかし、今タキオンの笑顔を目の前にすると、――幸せとは一体なんだろう?と考え込んでしまう。片思いの女子高生と遊びに行くのが幸せなのだろうか?そう頭の中で言葉にしてみると、少し違うような気がした。だが、具体的な言葉はそれ以上の物はなく、いつしかその事について考えるのを止めた。答えなんて出てきそうになかった。田上は、タキオンがクレープを頬張る姿をただ見つめ続けた。

 

 その後に再び、前の洋服屋へと戻った。タキオンが、まだあの店の服を見たいと言ったからだ。田上は、クレープを食べて今すぐにでも帰っていいという雰囲気を醸し出していたが、そんなことを気にするタキオンではなく、田上の手を放さないようにしっかりと握って引っ張って行った。

 タキオンは、今度はしっかりと田上の服を選ぶつもりだったようだ。人面ピーマンの服など目もくれず、一生懸命チェック柄の服を田上に重ね合わせて、「これは合わない」「これはいいかも」とぶつぶつ呟いていた。店にはたくさんの人がいた。もう昼近くだから、家から這い出てきた人が多いのだろう。その店の中に、カップルがちらほら見えて気まずかった。店から早く出て行きたかったが、この分では当分タキオンは田上を開放してくれそうにはなかった。田上は、終始無言のまま、タキオンのなすがままに任せて退屈そうに欠伸などもした。

 タキオンは、尚も彩度の高い青色の服を田上に重ね合わせて、服を選んでいた。元より、服に興味のなさそうな田上に意見を聞く気はなかったようだ。それは、長く長くかかって、やっと黒い服が並べられている手前で田上に言った。

「君、普段から無地の物しか着ないし、お洒落なんてしようとも思ってないから、君に服を選ぼうと思ってもちぐはぐになってしまうんだよ。…いっそのことあのピーマンの服が一番良いかもしれないな」

 タキオンがいよいよ狂った事を言ったから、田上がしかめっ面で「それだけは止めてくれ」と言った。すると、タキオンは「冗談だよ。冗談」と返した。それから、また目の前にあった服を眺め始めた。今度は、田上に話しかけながら、それを眺めていた。

「……君の好みの服はあったりするのかい?」

「…ない」

 面倒臭そうに田上が返すと、タキオンが苦笑した。

「そう邪険に扱わないでくれよ。今は、君の服を選んであげているんだぞ?」

「…言っておくけど、選んだところで俺は買わないよ?」

 そう言うと、タキオンが服から目を離して、田上の方に顔を向けた。

「勿論、それは承知の上さ。私が君にプレゼントしてあげるんだ」

「…金は持ってきたのか?」

「当たり前だとも。遊びに行くのに金を持ってこないバカがどこにいる?」

「…ここに」と田上が不機嫌そうに言ったから、タキオンが不思議そうな顔をして聞いた。

「…でも、今日は持ってきただろ?」

「それは、クレープをお前に奢るって約束したからだ。後は、服を買えるような金なんて持って来てないよ」

「じゃあ、何のために遊びに行くんだい?ぱっと見た物を買ったりはしないのかい?」

「そんな事はしないし、ぱっと見た物であれば、買うのくらい我慢できる」

 田上がそう言うと、タキオンが「ふ~ん」と頷いて、また服の方に目を向けた。

「まあ、君はそんなとこだろうね。…もう少しくらい欲を持ってもいいんじゃないか?金なんて余るくらいにあるんだろうから、…君、酒もあまり飲まないんだろう?この前の時は飲んでいたけど」

「酒は飲まないけど、ゲームはするよ。ゲームにはお金を使うよ」

「ふ~ん、…君、根っからのインドア派という事かい?なれば、お洒落もあんまりしないか…。う~ん、この服、…君にお洒落なものを着せてあげたいんだけどねぇ」

 タキオンは、今度は黒い布に白の線だけでゲームのコントローラーが描かれた服を手に取った。

「君、こんなのもいいんじゃないか?」

 田上の体に合わせて見てみる。別に似合わないことはなさそうだったが、田上は面倒臭そうにこう返した。

「…もういいだろ?俺は、プレゼントなんて要らないし、そもそも、クレープ屋に連れて行くことが俺のプレゼントだったんだ。ここで俺がプレゼントを貰っちゃ、何が何だか分からないだろ」

 そう言うと、タキオンは少し悩ましげな顔をして田上を見つめた。それから、言った。

「……君と少し遊んでもみたかったんだが、あんまりそういう雰囲気でもなさそうだね」

 独り言のように言うと、タキオンは田上の手を取り、気を取り直して言った。

「なら、フードコートに行って何か食べよう?君は着るより食べる方が好きなようだから」

 田上は、もう帰りたい気分ではあったが、またもやタキオンに無理矢理引っ張られてフードコートまで連れて行かれた。

 

「君は何が食べたい?」

 そこに着くや否やタキオンがそう聞いてきた。田上は、あんまり食べたい気分でなかったから、「なんにも」と答えると、タキオンは不満そうな顔をして言った。

「君、あんまり遊んでてて楽しい人じゃないな。もう少し元気を出したまえよ。私とせっかく遊びに来ているんだよ?もう少し笑顔になりなさい」

 そう言って、田上の口角を無理矢理上げようとするために、タキオンの手が田上の顔を触ろうとして来たから田上は身をよじって避けた。すると、横にあった柱に頭を思い切りぶつけてしまって、痛そうなたんこぶをおでこに作った。ちょっぴり涙が出そうにもなったが、それはぐっとこらえて言った。

「食いたいもの買ってこい。俺はあそこの席で待ってるから」

 それから、壁際の席を指差した。タキオンは、「すまない」と一生懸命謝っていたが、田上にそう言われると、少し不満そうな顔をした。田上と一緒に食べたかったのだろう。だが、今、自分が傷つけてしまった手前、強くは言えなかった。だから、仕方なく自分一人で何かを買いに行った。その間に田上は歩いて行って、壁際の席に座った。まだ、おでこのあたりがズキズキと痛むような気がした。ただ、それ以上に座ってみると、眠気が襲ってきて、田上は目を閉じた。壁に寄りかかって、まるでぼーっとしているようだったが、その目は瞑られていた。

 暫くすると、タキオンがたこ焼きを二つ持ってやってきた。一つは田上の分だ。田上が座っていた席は丁度、タキオンが来た方からは壁があって見えない死角となっていた場所だったので、予め場所は教えられていても――そこにいるのかな?と恐る恐るその席の方に顔を出した。勿論、田上はいる事にはいたのだが、眠り込んでいたので、タキオンは少し笑ってしまった。タキオンは、田上が本当に眠っているのか調べるために声をかけた。しかし、返事は返ってこなかったので、タキオンは妙に可笑しくなって口角を上げた。その後に座ったのだが、すると、今度は――この後どうしようか、と途方に暮れた。さすがのタキオンでも、寝ている人を無理矢理引っ張って行こうとは思えなかった。だから、たこ焼きを一つ食べた。それが熱くて熱くて、思わず涙が一粒ポロリと出てきた。それを手で拭うと、タキオンは田上の顔を見た。愛おしいその顔は、未だタキオンの為に笑ってくれそうにはなかった。今は、ただ口を開けて寝苦しそうに壁に寄りかかっていた。

 その内、タキオンはたこ焼きを自分の分の最後の一つと田上の分を除いて、全て食べ終わった。それから、居ても立ってもいられなくて田上を揺り起こした。田上は、本当に熟睡していたようだ。揺り起こすと、寝ぼけ声で「あ?」と間抜けな声を上げた。それに少しふふふと笑った後、寝ぼけている田上に向かってタキオンが言った。

「すまなかった。もう帰ろう。…嫌がる君を連れ回したりして本当に申し訳ない」

 そう言われると、寝ぼけながらも田上は頭を使えたようだ。少し目を細めて言った。

「…別に、嫌って訳じゃなかったけど…」

「君が何でも構わないけど、少なくとも私は嫌がる君を連れ回してしまったんだ。すまない。…実の所、楽しくて少し浮かれていたって言うのもあったんだ。他でもない君だからね。君が私を楽しくさせたんだ」

 タキオンは、何だか謝っているのだか、褒めようとしているのだか分からない口調で言った。それに田上が少し戸惑いながらも「ああ…」と返した。それから、差し出してきたタキオンの手を取って立ち上がると言った。

「今何時だ?」

「三時過ぎだよ。…もう帰ろう。……やっぱり、君との付き合い方はこんなものではなくて、花を見ながら散歩くらいの方が良かったんだ」

 田上には、タキオンは落ち込んでいるように見えたから、それを慰めるために言った。

「それはそうだけど、お前に引っ張られるのも…悪くはないんだ。ちょっと楽しいと感じると、すぐに疲れてしまうだけで」

「…本当かい?」

 その問いに田上は黙って頷いた。

「なら、やっぱり花を見ながら散歩くらいの方が良かった。元より、君はこんなところには興味はないんだもんね。クレープ食べればすぐに帰ればよかったよ」

「…でも、タキオンは服を見て楽しかったんだろ?」

 今度は、タキオンが黙って頷いた。

「だったら、俺もそれで良かったんだよ。お前が楽しかったのならそのくらいがいい」

「…でも、……でも、他人の楽しみの為に我が身を捧げるってどうなのかい?本当に良い事なのかい?…う~ん…、分からない。…でも、そう考えてしまうと、私はとんでもない大罪を犯してしまったかもしれないな…」

 これ以降は、タキオンはこの事に触れなかった。また、言葉数も少なくなって、帰りの電車でいくつか話したくらいに留まった。

 そうやって、バレンタインデーのお返しは終わっていった。後味はいい物とはならなかった。無論、次の日になりさえすれば、タキオンはまたいつものように戻っていたのだが、その日は終始黙りこくって考え込んでいた。田上は、タキオンがショッピングモールで最後に言った事が何か関係があるのだろうと思ってはいたのだが、これについては自分も分からず、助言なんてしてやれそうもなかったから、何の声もかけてやらなかった。タキオンも田上に声をかけてほしいとは思っていなかった。だから、後日、マテリアルの方にこう聞いた。

「我が身を捧げるとは、どういうことなんだろう?」

 すると、こう返ってきた。

「人を愛すると言う事ではなくて?」

 それは、タキオンの考えている物とは違った。少なくとも、タキオンは田上にあてはめて考えているので、それに当てはめて考えてみると、我が身を捧げるというよりも、我が身を委ねると言った方が正しかった。この問題について、タキオンが出せたものはこれだけで、これによって田上にどんな影響が出るかまでは把握できなかった。それで、一つ思ったのが、この胸の内に宿る想いを田上に伝えることができたらどんなにいいだろうか、という事だった。タキオンは、夜を昏々と眠り続けた。



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十七、二回目の選抜レース①

十七、二回目の選抜レース

 

 大阪杯の前の週まで来た。ここに来ると、選抜レースの日もやってきた。今回の選抜レースも日曜日に開催だった。そこに田上は、トレーニングの休暇日を置くと、「今回こそは!」と意気込んでスカウトをするためにレース場に向かった。タキオンは、今回はついて来ず、田上はマテリアルと二人で行った。タキオンは、土曜の時にその話を聞かされて、行くか行かないか迷っているような素振りを見せたから、「迷っているくらいなら、体の疲れを取るために休め」と田上が助言した。そして、タキオンはその助言通り、今日は、部屋にある本を読んで暇を過ごした。そこで丁度、信夫作品の『人斬り』の事を思い出したが、残念ながらトレセン学園の図書室は日曜は閉まっていて、今更思い出しても借りることはできなかった。――まぁ、大阪杯が終わるまでは、ゆっくりもできないだろう。タキオンはそう思うと、デジタルと軽く話しながら、本をぺらぺらと捲った。

 だが、一度、少し外が気になって、様子を見ようと靴を履いて出た。賑わいはいつもより激しかったが、一回目の時よりかは落ち着いていたような気がした。いくらかのウマ娘が、スカウトされたからなのだろうか?詳しい事はタキオンには分からなかったが、外のひんやりとした空気を吸ってみれば、美味い事は分かった。

 田上の下に行ってみようかと思った。別に一日中いる事はないが、田上と話をするためにレース場に行ってみるのもいいかと思った。ただ、たくさんのトレーナーの中から田上を探すのが面倒臭そうなので、部屋に戻って連絡するためにスマホを取りに行った。それから、レース場に向かいながらタキオンは、田上にスマホで電話をした。

 タキオンは、田上が電話に出てくるのを少し待った後、出てきた田上に言った。

「君、どこにいるんだい?探すの面倒臭いから場所を言っておくれよ。そこに向かうから」

 すると、電話の向こうからいつも通りの低い声で『客席の右前の方。レース終わったら、終わった子にスカウトしに行くかもしれないから、違う場所にいるかも』と返ってきた。それにタキオンは少し笑った後、こう言った。

「なら、とりあえず、そこに行ってみるよ。もう出走するのかい?」

 すると、『イエス』と聞こえた後にぷっつりと電話が切れた。どうやら、田上はレースを見たいらしいということが分かって、タキオンは少しむっとしながらも口角を上げた。

 タキオンは、草木を見ながらぼちぼちに歩いた。レース場からどよどよと大勢の声が聞こえたが、そんな事はお構いなしに、立ち止まっては花を撫でて朝露を落とし、上を見上げては鳴いている鳥を眺めた。少しの寒さが、タキオンの体を心地よい緊張で満たし、少し足を速めた。声は段々と大きくなって、ざわざわと聞き分けられるものが増えてきた。そうすると、タキオンも田上の事を探し始めた。

 

 田上の姿はすぐに見つかった。綺麗な金髪と共にレースを眺めていた。どうにも難しい顔をしているようだった。

「調子はどうだい?」

 そう声をかけながらタキオンは近づいたが、田上はあんまり芳しくない調子で「んん…」と唸った。だから、タキオンは「悪いのかい?」と聞くと、また「んん…」と返ってきた。レースが終わった後のようだった。大勢のトレーナーが、コース脇の芝に集まって、各々、気に入ったウマ娘をスカウトしようとしていて、幾つかの群れが出ていた。残念ながら、その群れに加われていないウマ娘も幾つか居た。レースに負けた子達だろう。遠くの方に小さく見えた。

 タキオンがそれを無心になって見ていると、唐突に田上が口を開いて独り言のように言った。

「あの黒い髪の子は…、どうなんだろう?」

 タキオンが聞くより早く、マテリアルが「どの子ですか?」と聞いた。さすがに、タキオンより熱心なだけはあった。

「…ほら、あの子だよ。髪が長くて、人混みから外れてる子」

「…んん?確かあの子、七着でレース中もずっと仕掛けようとしなくて、そのまま垂れていった子ですよね?」

 マテリアルが言うと、田上が予想外に驚いた顔をして、言った。

「お前、…よく見てるなぁ…。他の子も全部そうやって見ているのか?」

「ええ、そうですよ。あのオレンジの髪の子は、十一着で最後のカーブに差し掛かったところで前を塞がれて、そのまま抜け出し切れませんでした。あの黒髪の短髪の子は、カーブでは上から三番目のところ居ましたが、スタミナが切れたのかそのままバ群に飲まれていきました。中距離は難しかったというところでしょうか?…それで、あの長い黒髪の子が気になるんですか?」

「…いや、なんで仕掛けなかったんだろうな、って思って。少し話を聞いてみたいんだけど…」

 田上がここで言葉を終わらせたから、タキオンが口を挟んだ。

「話を聞いてみたいんだけど…?なんだい?聞きたいなら、聞きに行けばいいじゃないか。早くしないと、あの子どんどん向こうの方に行って帰ろうとしてるよ。ほら、少し期待しているように振り向いた。今がチャンスだよ。早く行きたまえよ」

「…でも、…恥ずかしいじゃん」

「恥ずかしい!!?」

 タキオンは驚いた後に、すぐさま笑い出した。

「君、恥ずかしいからって理由でトレーナーが務まるかい?それなら、私の時はどうだったんだ。私の時は恥ずかしくなかったとでも言うのかい?」

「お前の時は、退学しそうで少し心配だったのもあるし、お前の走りが凄かったのもあるんだよ。…ただ、今回は、話を聞きに行くだけで、スカウトはどうもこうもやるかやらないかは相手の返答次第なんだよ。それで、こっちの方から話しかけて、やっぱりいいやって断ってみろ。絶対に恨まれるじゃないか」

「見ず知らずの赤の他人に嫌われたって別に問題ないだろ。それよりも君が、恥ずかしがって話しかけに行けない事に問題がある。…どうする?私が引率者として一緒に話しかけに行ってあげようか?」

 田上には、明らかにタキオンが自分の事を焚き付けようとしているのが分かったが、自分にとっても焚き付けてもらった方が都合が良いので、しかめっ面をした後こう反論した。

「お前が引率者になるって言うんなら、俺はこの学校の理事長にでもなってやるよ。…仕方がないから行ってくる。ちょっと話しかけるだけだからな」

 田上は、観客席を駆け下りて行って、暫くの間建物の陰に隠れて見えなくなった。その影を追うように田上が消えた曲がり角をタキオンが見つめていると、マテリアルが聞いてきた。

「お二人の馴れ初めってどういう物だったんですか?状況として」

「馴れ初め?…んん、…まぁ、…生徒会長のご慧眼があってね。私が、適当なモルモットもいないしここを退学して別の所で活躍の場を広げようと思っていたら、生徒会長が彼を連れてきたんだ。そして、会長の思い通り、まんまとくっつけられたというわけさ。…見破る人ってのは居るもんだね。しっかりと私好みの男を捉まえてきたよ」

 タキオンがそう言うと、マテリアルがニヤリとからかうように笑った。きっと「私好み」と言ったのが不味かったのだろう。タキオンとしては、そんなつもりで言ったのではなかったのだが、マテリアルと来たら、そういう話が大好きな女だった。だから、弁明するようにタキオンは言った。

「その時はモルモットとして、だからね。モルモット。これを忘れて貰っちゃ困るよ」

「そして、今はぞっこんですね」

 これは、言い過ぎたのだろう。眉を寄せたタキオンに無言でこめかみを強めに小突かれた。「痛い」とマテリアルは声を上げたが、その声は嬉しそうな物だった。

 やがて、遠くの方に走っていく田上が見えた。ただ、長い黒髪のウマ娘の方は、とっくに先の方に行ってしまっていたので、それは長くかかった。途中で一度、やっぱりいいかと言うかの様に田上が振り返るのが見えた。そして、次にタキオンたちの方を見たように思えた。すると、田上はまた走り出した。遠くから見ると、中々無様な走り方だった。それを見ていると、タキオンがこう提案した。

「ねぇ、私たちも行ってみようよ。どんな話をするのか興味があるし」

「興味……そうですね。私も、もしあそこで話すと言っておきながら勝手にスカウトしてきたら、後学になりませんもん」

 そうすると、二人も観客席を降りて行って、田上の後を早足で追った。途中で、タキオンが競争するように走り出したから、マテリアルは持っていたメモ用紙が吹き飛ばされないようにしながら、それを追いかけなければいけなかった。

 

 田上の方に近づいて行くと、話はまだ始まったばかりだった。タキオンたちが来るまでに少しの押し問答があって、田上が無理矢理ねじ込むようにその話をしたのだろう。黒髪の女の子の声は、低く不機嫌そうだった。

 田上がこう言っているのが聞こえた。

「ほんの少しでも話してくれたら嬉しいんだけど、本当に何であそこで仕掛けなかったんだ?タイミングはいつでもあっただろ?十分出られたはずだ」

「…うるさいですね。スカウトする気もないのに、どこぞの馬の骨とも分からないトレーナーに訳を話したって何にもならないじゃないですか」

 そう言われると、田上は暫く黙って、ごまかすようにキョロキョロと辺りを見回した。それで、近寄ってくるタキオンを見つけて、「丁度よかった」と声をかけた。

「ほら、俺、アグネスタキオンのトレーナーだよ。な、タキオン。そうだろ?」

「…え?そうだけど…急に何だい?」

 タキオンが、訳も分からないまま田上に返事を求められたので、戸惑ってそう言った。すると、黒髪の子がタキオンに言った。

「本当にトレーナー何ですか?こんな冴えない人が?」

「冴えないとは何だい。これでも私のトレーナーだぞ。あんまり貶してもらっちゃ困る」

 この言い方もどうかと思えたが、一応タキオンは田上の為に怒った。それで、黒髪の子も田上の事をアグネスタキオンのトレーナーだと言う事を認めた様だった。しかし、田上に対してというよりも大先輩のGⅠウマ娘に怒られて委縮し、反省しているようだった。

「すいません」と小さく謝った。そして、その後に気を取り直すように聞いた。

「では、タキオンさんは、このトレーナーの事をどう評価しているんですか?」

「どう…?…まず、このトレーナー、という呼び方を止めていただきたいね。君は、形なりとも敬意を示せない無礼者なのかい?先程、私のトレーナーだと言ったはずだ。それなのに君は、呼び方を改善せずにトレーナー君に謝ろうともしない。選ぶ権利は勿論君にもあるが、こちらにもあるわけだからね。君が世界の王様じゃないんだ」

 途中で田上も見かねて「もういいから」と止めに入ろうとしたが、タキオンはそれを遮ってもその子に説教をした。その子は、タキオンにそう言われると、いよいよ委縮して、田上に「ごめんなさい」と謝った。田上は、「別にいいんだよ」と言ったが、どうにもこのピりついた雰囲気は破れずに困ってしまった。それで、田上はタキオンに言った。

「俺も少し強引な話しかけ方をしてしまったんだよ。それでこの子が、どこの馬の骨とも知らないトレーナーに警戒しただけなんだよ」

「それでも、形だけでも敬意は示すべきだった」

 タキオンが睨むと、黒髪の子はまた委縮して「ごめんなさい」と謝った。田上は言った。

「もう謝ってるし、この子は今年入ってくる子なんだから、優しくしてあげて。まだ、小学六年生なんだから」

「嫌だね。私は前にも言ったはずだ。無礼な餓鬼は嫌いだと。それで…」

 ここでもう田上はタキオン言葉を遮って、黒髪の『ファーストリリック』と呼ばれる子に言った。

「ごめんね、このお姉さんちょっと気性が荒いから、あんまり人と話すのには向いていないんだ」

「人と話すのに向いていないとは何だい!」とタキオンが今度は田上に向かって怒ったが、田上はそれを無視して話を続けた。

「僕のただの疑問だったから、答えたくないんだったらもういいんです。ご迷惑おかけしてすいませんでした。…本当にごめんなさい。少し強引過ぎました」

 田上はそう言って、頭を下げてタキオンに「ほら、行くぞ」と言うと、また観客席に戻っていこうとした。リリックは、その後ろ姿をぼーっと突っ立って見ていた。憧れの先輩の後ろ姿があったが、それは気付かぬうちに去って行こうとしていた。

 それを見ていると、なんだか胸に込み上げてくるものがあって、リリックはどうしようもなくなった。どうすればいいのか分からないので、ただおろおろとして、手をもがく様に動かした。午前のターフの上に風が吹いた。すると、マテリアルのメモ用紙が一つだけ風に吹かれてリリックの前の芝生に舞い降りてきた。マテリアルは気が付いていないようだった。メモ用紙はまだ風に吹かれてどこかに飛び去ろうとしている。この時を逃せば、あの三人に話しかける機会はもうないだろう。そう思うと、リリックは地面にあるメモ用紙を掴み取って、三人の後ろまで駆けて行った。

 最初は、タキオンの方に話しかけてメモ用紙を渡そうと思ったが、それは、あまりに頓珍漢なことだと思い直すと、美しい金髪が風に吹かれて輝いているマテリアルの方に声をかけた。トントンとマテリアルの肩を叩いた。すると、その黒い目が振り向いた。

「なんですか?」

 マテリアルがそう聞くと、リリックが言った。

「あの……紙を落としましたよ」

 そう言って紙を差し出すと、マテリアルが飛び切りの笑顔で「ありがとうございます」と返してきたから、リリックは暫くの間見惚れてしまった。そのうちに田上とタキオンはリリックには気づかず、少しの口論をしながら先の方に行っていたので、マテリアルもそれに追いつこうと、「では」と話を切り上げて先に行こうとした。そうすると、リリックは我に返って慌てて言った。

「あの…!…あの…、田上?トレーナーとお話しできる機会ってありますか?今は忙しいでしょうか?」

 マテリアルは不思議そうにリリックの顔を見、そして、歩いている田上の背中を見た。それから、またリリックの方を見返すと言った。

「伺ってみましょうか?」

 リリックは、嬉しそうに頷いた。マテリアルは、その顔ににっこりと笑い返してから、田上の方に走っていった。遠くでマテリアルが笑顔で田上に何か言っているのを見るともなく見つめた。すると、田上がこちらを見てきたので、うしろめたさから慌てて目を逸らした。目を逸らした方には人がたくさんいた。まだ、一着だった子にはたくさんのトレーナーが積極的に話してくれていたようだ。それを見るのは、なんだか嫉妬心が湧いて嫌だったから、リリックは仕方なくまた田上の方を向いた。田上は、もうこちら側に歩いてきていた。それだから、リリックの心臓は悪い方に高鳴った。横には、タキオンも居た。タキオンと目が合うと、まだ少し機嫌が悪いように感じられたので、リリックは少々落ち込んだ。だが、先に駆け寄ってきたマテリアルに話しかけられるとまた元気が出た。

「リリックさん、田上トレーナーは、今からでも話して良いそうですよ」

「そ、そうなんですね」

 マテリアルが、あんまりにも綺麗で返事の返し方が分からなかったが、今はそんな事を気にするよりも目の前の田上の事を気にしなければならなかった。

「何か用でも?」と白々しくも田上が聞いてきたので、リリックの心には何だか知らない敵意が湧いた。しかし、先程の去って行く後ろ姿を思い出すと、一生懸命その敵意を抑えて言った。

「わ、私、怖いんです。……その、東京ってあんまり知らなくて」

 田上が、優しく相槌を打った。

「そ、それで、前回の選抜レースの時も誰にもこ、声をかけられなくて、…それで、入学できたは良いんですけど、このまま私、誰にも声を掛けられなかったら嫌で、…でも、どうすればいいか分からないんです」

 これには、田上も唸ったから、隣に居たタキオンが田上の顔を見た。タキオンのその顔は、少し田上の事を心配していた。田上も似たようなものじゃないかと思ったからだ。だが、その事は口に出さずに田上の次の行動を待った。田上は、暫く唸ってから言った。

「同室の子とか同じ学年の子とか、友達はいないのか?」

「……いる事にはいます」

「…なら、その子たちに相談をしたりしないのか?」

 これは、新中学一年生には少し酷な質問だったようだ。それきり何してもどうしても話さなくなったから田上が言った。

「…今日は帰って休みなさい。明日は、寮の前の方にある練習場でトレーニングしてるから、そこで俺たちを探してみると良い。相談があるなら乗るけど、今日の所は、少し落ち着いた方がいい。…土手の所に座ってると思う。分からなければマテリアルさんの金髪を目印に探してくれ。さぁ、帰りなさい。…ばいばい」

 田上がそう言うと、リリックは小さい肩をさらに小さくさせて、無言で帰っていった。もうすぐ桜が咲くというのに冷たい風が吹いた。

 

 田上たちは、リリックが見えなくなるまでその背を見送った。そして、見えなくなって、もう歩き出そうとしたときにタキオンが言った。

「良かったのかい?あのまま帰して」

 田上は、暫く黙り込んだまま、こちらも肩を小さくして歩いていたが、観客席前に差し掛かると言った。

「トレーナー室に行ってくる」

 どこか塞ぎ込むようだったから、タキオンとマテリアルは顔を見合わせてそれぞれ不思議そうな顔をした。それで、話を聞かないとどうしようもなさそうだったから、タキオンが聞いた。

「急にどうしてそんな風になったんだい?まだまだ、レースはたくさんあるよ?それは見て行かないのかい?」

「見て行かない」と田上が返した。またもタキオンは困ったようにマテリアルと顔を見合わせて、今度はマテリアルの方に田上への質問をバトンタッチした。

「田上トレーナー、午後からはどうするんですか?午後は見るんですか?」

 すると、「それは午後次第」と返事が返ってきた。話して見た所、真面な会話はできるようなので、タキオンとマテリアルはそれ以上の質問をせずに、ただ不安そうに田上の後ろについて行った。途中で、「なんでお前らついてくるんだ」と煙たがられたが、それにはタキオンもこう返した。

「なんでもどうしても、君がトレーナー室に行くと言ったからじゃないか」

 それに田上は何か良い返そうと大きく口を開けて声が出てくるのを待ったが、何も出てこず、思い直したように口を閉じた。それで、田上が「ついてくるな」とは言わなかったので、タキオンとマテリアルは尚もついて行った。

 そして、トレーナー室に着くと田上が扉を開けて中に入って行ったので、タキオンもマテリアルもその中にぞろぞろと入り込んだ。田上は、真っ直ぐ自分のデスクに向かって行ったが、タキオンとマテリアルは田上がどうするのかを窺っていたので、いつも座っているソファーの方には座らずに入り口付近で立って田上を見つめていた。しかし、田上は何をすることも、話すこともしないで、デスクに座るとそのまま眼鏡を外して眠ろうとし始めた。それではついてきた意味もないので、タキオンはとうとう口を開いて再び田上に聞いた。

「君はなんでトレーナー室に来たんだい?」

「考え事があるから」とくぐもった声が返ってきた。

「それなら、私たちにその考え事を一欠け分けてはくれないのかい?」

 今度は、長い沈黙が流れた。誰一人として身動きしないで、誰かが動き出すのを待っているようだった。最初に動いたのは、マテリアルだった。この沈黙が田上の言い淀みだとすると、自分がここに居ると邪魔なんじゃないかと考えたからだ。

「あっ、私、用ができたのでちょっと寮の方戻りますね。昼くらいまで戻らないので、昼になったらまたレース場に行きましょう」

 その場をごまかすために日本各地で散々使われてきた謎の『用』をマテリアルも用いて、阿保らしくも去って行った。しかし、阿保と呼ばれるにはしっかりと雰囲気の読めていた行動だった。マテリアルが考えた通りに、田上は言い淀んでいて、マテリアルが去った途端に田上が話し始めたのがそれを証明していた。勿論、マテリアルはこの事は昼に来た時に察することしかできなかった。こそこそドアの裏で聞いてみるという考えも心のどこかには潜んでいたが、卑怯で狡い事なので当然それをすることはない。人には誠実でいたいというのがマテリアルだった。

 マテリアルが去ると、田上はふーっとため息をつき、目を擦りながら顔を上げた。そして、実際にタキオンしかその場にいない事を確認すると、ゆっくりと躊躇いながら言った。

「……あの子は、…どうだろうね?」

「…走りの事かい?それとも、悩みがあることについてかい?」

「…悩み」と一言だけ言って、田上は机の上に体の半身を預けて、ぐでっと腕を伸ばした。どうやらタキオンに何か言ってほしいようだったから、タキオンは言った。

「…私は君とあの子が似通っているように感じたね。あれのつい前に、君が――恥ずかしい、と言っていたじゃないか。それがあの子にもあるように感じる。…つまり、迷っているんだろうね。だから分からないんだ。君はどう思ったんだ?」

 田上は暫く黙った後言った。

「……俺もそんな感じだよ。…あの子をスカウトしてみて、…どうなるかなぁ?」

「私はあまり賛成しないね。同情だけで人は動いちゃダメだ。それで動くことを癖づけてしまったら、何が自分だか分かったもんじゃない。…それに、あの子はまだ学園に来て日が浅いんだ。単なる故郷恋しさから出た言葉かもしれないよ」

 いつものことながら田上は、タキオンの言葉の後にむっつりと黙り込んだから、タキオンは紅茶を飲もうと支度を始めた。田上の分も作ってあげた。タキオンが出来上がった紅茶を田上の机に置くと、田上は「ありがとう」と言ってそれを受け取った。その後に紅茶を飲みながらタキオンは言った。

「君は、優しいからあの子の事を気にかけているんだろうけど、物事の本質は見失っちゃいけないよ。君はトレーナーで、あそこは気に入ったウマ娘をスカウトする場だ。速かったり、個性的だったり、気に入る部分は人それぞれあるけど、同情なんかでそれを選んでしまっては本末転倒だ。君はあの子に何かを見出さなくちゃならないんだよ。速さかい?個性的かい?改善の余地はあるかい?」

 タキオンがそう説くと、田上には何か気が付いた事があったようだ。長く紅茶を一啜りしてから言った。

「…何にも分からないんだよな。あの子は、そもそも仕掛けようとしなかったんだ。その事は聞けてない」

「ならどうするんだい?」

「聞くしかない。……明日、俺の所に来ると思うか?」

「んん、…どうだろうねぇ?来なかったら行けばいいんじゃないのかい?」

「そうか…」

 田上は少し躊躇うように頷いたが、次には「そうか」と再び自分を鼓舞するように言った。タキオンはそれを見てにんまりと笑った。それから、紅茶を一口飲むと言った。

「ただ、明日は私のトレーニングもあるんだからね。それを忘れて貰っちゃ困る」

 田上は、少しだけ顔に笑みを浮かべて頷いた。

 昼までにはもう少しあったので、田上とタキオンはトレーナー室で少しだけ過ごしたが、生憎、タキオンは軽装の部屋着だったのでもう少しちゃんとした物に着替えに行った。ただ、着替えたと言ってもただの灰色のパーカーにだった。

 昼になると、どこに行ってたのやらマテリアルが午前の姿のままで再び現れた。もしかしたら、レース場に足を運んでいたのかもしれなかったが、タキオンたちは何も聞かないでカフェテリアへと昼食を食べに行った。タキオンは現在大阪杯のため食事制限中だったが、今日は少しだけ多く食べていた。「たまにくらいいいだろ?」というトレーナーを舐め腐った顔でタキオンが見つめてきたので、田上は仕方なく何も言わないでそれを見過ごしてやった。勝つための食事制限もした方が良かったが、それ以上にストレスを与える方が良くないと判断した。タキオンは、満面の笑みでそれを食べていたので、どうも田上の判断は正しかったようだ。



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十七、二回目の選抜レース②

 昼食が終わり、また田上がレース場に戻ろうとするとタキオンが言った。

「一緒に散歩をしないかい?」

 あまり期待はしていない誘いだったが、田上が思いの外悩んでくれていたので、タキオンは少し嬉しくなった。ただ、それでもやっぱりレースは見たかったようで、こう言った。

「あと二、三レース見させてくれ。それで散歩しよう」

 タキオンは嬉しそうに頷いて、田上の横に立った。その時にマテリアルとも目が合ったのだが、タキオンをからかうように「仲がよろしいですね」と言ってきた。これには、タキオンも少し腹を立ててこう言い返した。

「羨ましいんなら、君も仲のよろしい男の人を探してきたらどうだい?」

 すると、田上がこれに反応した。

「そう言えば、マテリアルさんって交際とかした事があるんですか?顔は、ウマ娘の中でも美人な方だと思いますけど」

「私よりも美人かと思うかい?」

 ここでタキオンが面倒くさい絡み方をしてきたから、田上が面倒臭そうに眉を寄せて、躊躇いながらも言った。

「タキオンだって、ウマ娘って時点で十分綺麗だと思うぞ」

「そうじゃないよ。マテリアル君に劣らず美人かな?ってことだ」

 田上はタキオンとマテリアルの顔を交互に見比べた後に、もう投げ出すように言った。

「なんでそんなこと聞くんだ。別にいいだろ、そんな事は。……で、マテリアルさんは、交際は経験あるんですか?」

 先程はタキオンが口を挟んできたからよかったが、今度は誰も口を挟んでこず、マテリアルは慌てふためいた。それは、タキオンにする話であっても男性にする話ではないのだ。「何人か付き合ったけど全てにフラれてしまいました」なんて自分の株を下げるだけの事だった。それを言って、「この人、何か裏があるんじゃ?」と田上に思われた日には、マテリアルにはどうしようもなかった。裏なんて作ったつもりはないのに、もしも他人に見える形で存在していたら、自分の知らないうちに他人に軽蔑されることになってしまう。今まで、友達に距離を取られたことなどほとんどないマテリアルにとって、この質問をどう答えるかは少し重要だった。マテリアルは、できるだけ嘘は言わないように、誤魔化しながら答えた。

「私は、交際の経験はありますね。…田上さんは?」

「僕は……、ないことにはないですが…」

 マテリアルは、ここが攻め時だと思って、一気に踏み込んだ質問をした。

「では、今気になっている人は?…田上トレーナーは、堅物そうに見えるから誰かを好きになるなんて思えませんけど」

「まあ、その通りです。あんまり人には興味がありません」

 これは、中々に名演技だった。いつもの田上を崩さずに、はっきりと嘘をつくことができた。これを聞いて、田上に想いを寄せているタキオンは、少しショックだったし、マテリアルもこれ程までにはっきりとした答えが返ってきてショックを受けた。てっきり、田上トレーナーならば少しぐらいの動揺を見せて否定するだろうと思っていた。そうなれば、一番近くにいる女性のタキオンにも見込みがあるとなって、その想いの告白の一助になると思っていた。だが、マテリアルがショックを受ける間もなく、田上が再び聞いてきた。

「以前、かなりモテるとか言う事をマテリアルさんから聞いたような気がしますが、…何人くらいから告白されたことがあるとか教えてくれたりしますか?…モテる人って一体、何人から告白されるのか気になるんですけど」

 今日の田上は妙にしつこいながらも面倒臭い質問を重ねてきた。マテリアルは、それに多少苛ついたが、その感情は胸の内に隠して外面は優しく言った。

「それは、あんまりにも酷い質問ですよ。女性にする質問ではないです。田上トレーナーは、少し分を弁えてはいかがですか?」

 田上は、「ごめんなさい」と一言謝った。そこで、話が終わった。何だかやりにくい雰囲気になってしまった。タキオンは、――本当にトレーナー君に好きな人はいないのだろうか?と考え込んでいたし、田上は話を失敗して落ち込んでいたし、マテリアルは、心の中でため息をついていた。他人に図らずも心の中を突かれたように気持ちが悪かった。決して、マテリアルにそんな話を持ち掛けた田上を恨んではいなかったが、たかが恋愛話ごときで動揺している自分に疲れてしまった。しかし、レース場について田上と少し質疑応答や議論を重ねれば、それも次第に忘れて行って自分の気を取り戻すことができた。

 タキオンは、田上の隣に座ってレースを見ながら考えていた。先程の田上の言動を。明らかにタキオンには矛盾した物に思えた。田上は以前にタキオンの事を「大切な人」だと言っていた。これだと人に興味がないというのは嘘だろう。恋愛的な感情を抜きにしても『人』に興味がないという点では嘘だった。そして、このような口調だと、まるで自分を何にも興味のない『堅物』のように見せているような気がした。――何か隠したい事でもあったのだろうか?ただ、それでもタキオンを疑問にさせたのは、田上の名演技だった。タキオンは、あまり見ない田上の名演技に混乱してしまった。田上も碌でもないところで名演技を出してしまったものだ。ここで、動揺して顔を赤くさせてみたら愛嬌などが出た物を、名演技をしてしまったから田上の事を本当に堅物と見紛うほどだった。

 

 そして、そのままタキオンの疑問は結論を迎えないまま、二レースが終わって田上が立ち上がった。どうやらもうレースは見ないようだったので、タキオンも立ち上がり、さあ散歩に行こうとした。だが、マテリアルもそのまま帰る方と思ったら、立ち上がらなかった。だから聞いてみると、まだここに居るようだった。

「分析することが好きなので」

 そう言うと、後ろで結んでいた髪の毛を解き、金髪をさらっと垂らした。タキオンは、少しの間、見惚れてしまった。微かにいい匂いもしたような気がした。タキオンが見惚れていることに気が付くと、マテリアルはにこっと笑った。これが彼女の悪気のない常套手段だ。タキオンは、胸をドキリとさせて、さらに顔も赤くさせてその顔を逸らした。田上圭一という想い人がいるにもかかわらず、こんな女の人に顔を赤くさせている自分が少し情けなくなった。田上は、相変わらず、マテリアルには興味がないようだった。例え、少しいい匂いがしたからと言って、田上がする行動は顔を赤らめるなんて事ではなく、ただ顔をしかめる事だけだった。こんなものでは、益々堅物としか思われないだろう。勿論、田上は自分の気持ちを隠すために堅物のような嘘をついたのだ。その事について疑念の余地はないが、果たして、自分の気持ちを隠すのが良い事なのかどうかには疑念の余地がある。やはり、隠すためには嘘をつくというのだから、知らず知らずのうちに自分の心に負担を課してしまうだろう。外から見て平気そうに見えても、自分から見えて平気そうに見えても心が苦しんでいる事があるのだ。しかし、田上はまだその事を意識して感じる事はできなかった。

 

 二人は、冬の過ぎゆく春の石畳の上を一緒に歩いた。タキオンは、まだ少し考えていた。先程までに深く考えてはいなかったが、田上の方とチラと見ては考えて、もう一度チラと見ては、また考えた。そうしていくうちに田上が、タキオンが何か話したそうにしていることに気が付いて、聞いた。

「何かあるのか?」

「……いや、ね。…君、さっき――人に興味はないって言ったろ?その事が少し気になってね」

「それが?……う~ん、人に興味がないってのは言い過ぎたかもしれないな。…ただ、恋愛事に興味はないからなぁ。それは、本当だ」

 これは、タキオンの予想通りだったが、予想通りでしかなく少し落ち込んでしまった。田上もつくづく妙なところで嘘の上手い人で、自分の気持ちの隠し方が大変上手かった。田上の言葉には真実味しかなかった。それでも、タキオンは藁にも縋る思いで田上に探りを入れてみた。

「じゃあ、君は、本当に好きな人はいないんだね?同僚のトレーナーの中にも、知り合いの中にも」

 田上は「ああ」と頷いた。やはり、嘘偽りないように思えた。タキオンは、田上の黒い瞳を見つめると、少し語気を強めて問いただしたい気持ちになったが、それは束の間の出来事で後は浅くなっていた呼吸を整えて、石畳の上を歩いた。

 暫くすると田上は菜の花の花壇の前で立ち止まり、しゃがみこんだ。そして、菜の花の茎から何かを取る動作をすると、また立ち上がり水を掬い上げるようにした手の平の上を見せてきた。そこに居たのは赤いてんとう虫だった。それを覗き込んで見たタキオンだったが、田上がそれを見せた後何も言わなかったので、再び田上の顔を見上げて言った。

「てんとう虫だね?」

「そうだ。てんとう虫だよ」

 そう言って田上は、得意気に口角を上げた。その様子はまるで、ちっちゃな男の子が、母親に「見て見て!」と声をかけて自分の成し遂げた大それた事を見せびらかしているかのようだった。それにタキオンはどう反応すればいいのか迷って、暫く黙った後言った。

「…赤いね」

「そうだね。…赤くてとっても綺麗な色だ」

 タキオンは、田上と一緒になっててんとう虫を見ていたが、その言葉を聞くと、田上の顔をチラと見やった。すると、田上の方もこちらを見ていたから、タキオンが聞いた。

「なんだい?」

「……いや…、なんだったかな」

 田上がごまかすように言った。だから、タキオンがからかうために少し何か言ってやろうとした時に、田上の声がそれを遮った。

「あっ、てんとう虫が…」

 てんとう虫が羽を広げて飛び去って行こうとしていた。それは、目で追えるような速さだったので、今のタキオンなら叩き落とせそうな気がした。しかし、そんな節操のない事はしないで、てんとう虫が高く高く昇って行くのを見送った。二人して石畳の上に突っ立ったまま空を見上げた。空は快晴だった。綺麗な空色が、二人の目には映った。そして、今は小さく豆のようになったてんとう虫も。それもやがて、空に飲み込まれて見えなくなった。タキオンが空を見上げていると、やがて田上のため息が聞こえた。そして、こう言われた。

【挿絵表示】

 

「タキオン、行こう」

 そこで、やっと地上の方に目を戻した。目の前に田上がいた。すると、それがなんだか感慨深くなって、声を詰まらせてタキオンは言った。

「ああ…、トレーナー君。君が居てくれてよかったよ。私一人じゃ成し得ないことがたくさんあった」

 その言葉を聞くと、田上はまた得意気に口角を上げた。だが、言った事は「行こう」の一言だけだった。それを言うと田上は歩き出した。タキオンは、田上の背を見る事となった。その背の横にはぶらぶらと揺れるごつごつとした手があった。タキオンはその手に自分の手を重ね合わせたくなった。だが、田上は去って行くばかりでタキオンの方を振り返りそうになかった。それが、タキオンにはなんだかやりきれなくて、ため息を一つ吐いた。すると、もう手を繋ごうという気はなくなって、ただ田上の傍に寄って歩き出した。

 二人の後ろ姿は、儚さの入り混じったあどけないものだった。

 

 それから、二人は日の暮れるまで学校の敷地を歩き続けた。何度も行ったり来たりした道だったが、それでも二人は飽きずに歩いた。

 二人が別れたのはちょうどウマ娘寮の前に来た時だった。その時に偶然寮に帰って来るところだったハナミとアルトに出会った。タキオンは、田上と楽しげに話していた所だったから、これは不味いと思った。そして、案の定不味かった。田上の手前、ハナミもそれ程表に出しはしなかったが、それでもにこやかに笑いながらタキオンに言った。

「タキオンさん、今日も仲がよろしそうですなぁ」

 タキオンは思いっ切り顔をしかめて何か文句でもつけてやろうとしたのだが、その前に田上がタキオンだけに「俺はもう帰るから」と言った。これは、益々不味いというよりも、もうすでに時遅く手の施しようがないだろう。見られてしまった時点でタキオンの運命は決まっていた。それが、今田上がさらっと帰る事で早まっただけの事だった。

 田上はタキオンに「バイバイ」と声をかけ、タキオンも田上に「バイバイ」と声をかけた。穏やかな別れだったが、自分の行く方を見やればそれは前途多難だった。ハナミは、田上がいなくなったので顔をにんまりさせて近づいてきた。もうドアを開けて入ろうとしていた所だったが、それを止めてまでタキオンをうりゃうりゃと小突きたかったようだ。――帰ればいいのに…。そう思ったが、今の所、ハナミを黙って帰らす術はないように思えた。

 ハナミは、タキオンに十分近づくと言った。

「タキオンさん、やっぱり仲が良いんですね?どうです?最近は」

「上々だね。ついさっきもトレーナー君と話してたとこだよ」

 社交辞令のようにタキオンも返した。すると、ハナミが尚の事顔をにまにまさせて言った。

「いや~、それでは、田上トレーナーとは仲が良いんでしょうなぁ。…それが、やはりGⅠを勝つ秘訣ですかな?」

「いや、どうかな。自分のトレーナーと仲が良い人なんてざらにいるだろ?それだけじゃあ、GⅠを勝てるとは言えないね」

「いや~、ごもっともなお言葉です。これは一本取られましたな。…ですが、自分のトレーナーと二人きりで一緒に歩いて楽しくおしゃべりするウマ娘は、そうざらにはいませんでしょう。…今日のトレーニングは確か、お休みでしたよね?」

「ああ、そうだけど何か文句でもあるのかい?」

 タキオンは、このやり取りに飽きて少し喧嘩腰になった。それを聞くと、ハナミも少し不味いと思ったのか、頭をへこへこして上辺だけでも丁寧な態度を取った。

「そんな文句なんて…!ただ、少し気になっただけですよ。トレーニングのない日に暗くなるまで田上トレーナーと何をしていたのか」

「散歩をしていただけだよ。彼が、しようって言い出したんだから、私のせいじゃない。大方、トレーニングのない日でも運動はさせたかったんだろう。なにせ、大阪杯の直前だからね」

 タキオンは大嘘をついた。これは、嘘をつく他ハナミを黙らせる手段がなかったからだろう。ここで、バカ正直に「私が散歩をしようと言ったんだ」と言ってしまえば、ハナミが興奮するのは火を見るよりも明らかだった。こんな理屈をこねたのでハナミも何も言い返せずに「左様ですか」とだけ言葉を発した。これでタキオンの作戦は成功だったが、その後にハナミのにやにや顔がぴたりと止まって、真顔でタキオンを見つめ始めたので、先程の嘘もあってかタキオンが動揺した。

「な、なんだい?今のは嘘じゃないからね。本当の事だからね?」

 そう言った時に、寮のガラス扉から漏れる明かりの所で待っているアルトの顔が目に入った。こちらは、微笑ましそうにタキオンたちを眺めていた。そして、再びハナミの方に目を戻すと、こう言われてしまった。

「タキオンって、田上トレーナーの事好きだったりしないの?」

 途端にタキオンの心臓が跳ね上がった。しかし、できるだけ平静を努めようと、一呼吸あけてから言った。

「そ、んな訳ないだろ…。なんで私があの人の事を好きにならなきゃいけないんだ。顔もいいわけじゃないし、性格だってそんな良くはない。これで好きになる要素はないだろ?」

「…でも、タキオンは好きになった人の事を好きになるって言ってたよね?私覚えてるよ。…だとすると、今の言葉はさっき楽しそうに話していた様子と重ならない部分があるんだよね。…性格が良くない?私がこれまでタキオンから聞いた話によると、異常なまでに献身的でタキオンの事を想っているように感じるんだよね。そして、さっきの様子は、どう見ても性格が悪い人と話しているようには見えなかった」

 ハナミは、終始真面目な顔でそれを語っていた。これによって、タキオンの逃げ場は大きく塞がれて、最後の手段である、話を逸らすという戦法に打って出ようとした。

「待った待った。…君はどうしてそんなに私の色恋に興味を持つんだ。別に他人の色恋なんざ腹の足しどころか畑の肥やしにもならないだろう?それなのに君は私の事が気になるというんだ。どうかしてるよ」

「…どうか、…してるかもしれないけど、気になる事ではあるんだよね。人がどう進んでいくのか。人生って、たった一つの事で変わる事があるでしょ?私は、それを見て触って感じてみたいんだよ」

「どうかしてるよ…」とタキオンはもう一度呟いた。そこで、アルトもタキオンたちの方にやってきた。

「中々話が終わりそうにないね」

 穏やかな口調で彼女は、向かい合って話している二人に言った。すると、ハナミが「ちょっと黙ってて、今良いところだから」とアルトの言葉を遮った。それでタキオンはもういよいよだと思って言った。

「私はもう帰らせてもらうよ。今日は、これ以上話しかけないでくれ。私は違うと言っているのに探ってくる君の探偵ごっこにはもう飽き飽きだ」

「ああ、待って」

 ハナミが言った。

「待たない」

 タキオンが返した。

「じゃあ、私が田上トレーナーに告白するって言ったら?タキオンは許す?」

「許す?…許すわけがないだろう。トレーナー君は私の大事なモルモットなんだ。勝手に君に絆されちゃ困るよ」

 待たないと言ったにも関わらず、タキオンは寮に行こうとしていた足を止めてハナミに言った。

「でも、実験はしてないんでしょ?それなら、私が告白しても変わらないよ」

「…それは、…それとして、それじゃあ今度は私の大切なトレーナー君なんだ。トレーナーとして恋愛などというお粗末な事に現を抜かさず、しっかりと私の育成に励んでもらいたいね」

「恋愛がお粗末?本当にそう思っているの?」

「そうとも。それでは私は寮の方に帰らさせてもらう。さようなら」

 タキオンは早口にそう捲し立てると、誰の声も聞かないように寮の方へさっさと歩いて行こうとした。しかし、イライラして耳がそばだっているからか後ろの方で二人の声が聞こえた。

「怒らせちゃったみたいだね」とアルトが言うと、しばらく間が開いた後、「少し詰めすぎたかな…」とハナミの落ち込んだ声が聞こえた。その後は、二人が来るのなんて当然待たずにタキオンは寮の扉を開けて中に入った。そして、一度心を落ち着かせようと、部屋の方に向かった。同室のデジタルにでも愚痴を聞かせてやろうと思った。

 

 タキオンは、部屋のドアを開けるとまず最初に「デジタルくーーん!」と叫んだ。すると、デジタルが「はい、なんでございましょうか?」と椅子を引いてドアの方を首をひねって見やってきた。

「もうあの二人が面倒臭くて面倒臭くて堪らなかったよ。…いや、正確にはハナミ君の方は、か」

「…面倒臭いって一体?」

「それは…面倒臭いって事さ。根掘り葉掘り聞こうとしてきて、私を追い詰めて捕えようとしてきて。…GⅠウマ娘だったらあのくらい逃げるのはわけないさ。...ただ、やっぱり面倒臭かったよ。あんな風に詰められたんじゃ、気持ち悪くってしょうがない。…なんであんなことを聞くんだろうねぇ…」

 タキオンが、面倒臭い事の詳しい内容を何一つ話そうとしなかったから、デジタルは何一つ内容の分からないままタキオンの話を聞いた。タキオンは、自分のベッドに腰かけながら尚も話を続けた。

「君だけだよ。私のあれこれに首を突っ込もうとしない輩は。それとも、本当は私の事に首を突っ込みたくてたまらないのかな?」

「いえ、滅相もない」とデジタルは驚いた様子で答えたが、その内心は先程の言葉とは違ったもので言うなれば「大好きなウマ娘ちゃんの事はたくさん知りたい!」といったタキオンの意向とは沿わないでいるが、極めて彼女らしい望みだった。だが、それを言ってしまえば、勿論、タキオンもそれ以上愚痴が言えなくなってしまうだろうから、それに配慮しても言わないでおいた。

 デジタルがそう言うと、タキオンは「ふ~ん」と言ってデジタルを見つめた。タキオンの目は、あまりデジタルを捉えてはおらず、自分の考えの方に向けられていた。少しの疑心があったし、そんな驚いたような反応をされると出てきそうだった言葉が引っ込んでしまったからだ。だから、暫く間をあけた後タキオンは言った。

「…デジタル君。君はもう夜食は済ませたかな?」

「はい。もう済ませてしまいました。…お望みならば、ご一緒に食堂に行ってもよろしいですが?」

「いや、いいよ。私一人で食べてくる」

 少し気乗りしないようだったが、タキオンはよっこいしょと立ち上がると、部屋を出て食堂の方に歩いて行った。その後ろ姿を見送りながらも、デジタルは何も言わずにまた自分の机の方へと向かった。

 

 その後、タキオンが飯を食べて帰ってくると、今度は二人で大浴場に行くことになった。タキオンが、「一緒に行かないか?」と誘ったのだ。デジタルもまだ風呂には入っていなかったので、ありがたくその誘いを受けて、タキオンの愚痴を聞きにお湯に浸かりに行った。

 タキオンは相変わらず、ハナミとアルトが面倒くさかったことについての内容は言おうとしなかったし、デジタルは部屋での会話以降、それについて深く聞こうとはしなかった。元より、深く聞いてきたことについてのタキオンの愚痴だったから、色々と質問をしてしまうのはその神経を逆撫でする行為でしかなかっただろう。そういう配慮もあってデジタルは何も聞かなかった。しかし、聞かなかったのならば、普通の人であればその内容を聞かずに話を合わせる事は至極困難だろう。少なくともこんな場合の田上などでは困難で、すぐに話を聞くことを面倒臭がったはずだ。だが、デジタルは違った。話が合わないなら合わないで、質問できないならできないで、タキオンの話を一生懸命聞いて、一生懸命頷いた。その努力が実ってか、タキオンの愚痴も大分すんなりと風呂のお湯に溶かされたようだった。

 ちょっとぺちゃくちゃと話してから、次の話題に移った。タキオンと田上との間にあった最近の出来事に関することだった。これは、デジタルにも分かるように説明されて、デジタルは大喜びだった。デジタルは、この手の話が大好物だった。タキオンとしては、トレーナーといちゃいちゃしているようなつもりで言ってはいないのだが、デジタルの頭の中にはありありと嘘か真か定かでない、二人の楽しげないちゃつく姿が見えた。勿論、タキオンの言った話の中には、どう見てもいちゃついているだろうという話もあったし、いちゃついていない話もあったが、デジタルには全部が全部いちゃついているように見えた。最後には、デジタルが興奮しすぎて鼻血を出してしまったので、二人は風呂から上がった。

 そして、着替えて部屋に戻ると、二人はそれぞれ暫く自分のしたい事をして過ごした。タキオンは、暇潰しにスマホでも眺めて、デジタルは自分の趣味に興じていった。夜は段々と更けていき、タキオンが先に寝る事になった。部屋の電気はいったん消され、デジタルは自分の机にある明かりの下で趣味の絵描きをすることになった。ただ、タキオンにとってはいくら部屋の電気を消したと言っても、寝るときになれば少し離れた机の明かりでさえも眩しく感じるので、それからは体ごと背けて寝始めた。いつも通りの眠りだった。あれこれ色々考えながら、タキオンは眠りに落ちていった。

 

 次の日になると、タキオンはいつものように起きていつものように校舎に行く支度をした。カフェテリアで田上から言われた分量を守りつつ、適当に朝食を食うと教室へ向かおうとした。しかし、なんだか今回は気が乗らなかった。特にこれと言った理由はなかったのだが、なんとなく教室に行くのは嫌な気がして足を止めた。朝に蠢く人々の中に一人タキオンはいた。誰もタキオンなんて見ようとしなかった。少し遠くを見知った人が行くのが見えたが、その人もタキオンには気が付いていないようだった。その人が過ぎ去っていくのを見ると、不思議とタキオンの心の中にある考えが浮かんで、次の行動はそれだと決まった。片手には、色々と入ったバッグを持っていたが、タキオンはお構いなしにその行動に乗り出した。それは、トレーナー室に行って、田上と話をすることだった。なんでもいい。昨日の事の愚痴だっていいから、タキオンは田上と話がしたかった。だから、タキオンはまずトレーナー室へと歩き出した。

 トレーナー室に行くと、ちょうど部屋に入ろうとしている田上に会えた。タキオンが、田上の後ろ姿を見つけたので、田上はまだタキオンに気が付いていないようだった。だから、タキオンは少し走って近寄ると、その背に声をかけた。

「おい、トレーナー君」

 そう言うと、田上は振り向いて怪訝な顔でタキオンを見つめた。それから言った。

「朝に来るなんて珍しいな。また、研究でも再開するのか?」

 これは、タキオンが研究をしていた頃、普段からではないにしろ朝一番に昼のお弁当を受け取りに来ることが多々あったので、その事を指した物言いだった。それにタキオンは少し冗談気味に言った。

「君のお弁当を食べられるのなら研究を再開する価値があるかもね」

 それを言うと、田上が物凄く嫌そうな顔をしたので、タキオンはハハハと笑った。

「冗談だよ冗談。…君のお弁当は今も尚食べたいけどね。…私はそんな事を話しに来たんじゃなくて、…もっと…何と言うか…、骨のある話をしに来たんだよ。少し君と話したくなったから、何か話してくれ」

 そう言われると、田上も少しドキリとした。女性に「君と話したい」なんて言われたら、勘違いしてしまうのが男の性だろう。しかし、田上は――タキオンはそんなつもりで言ったんじゃない、と自分の心に言い聞かせると、喜んでいる心臓を落ち着かせて冷静に言った。

「話したいだなんて言われても、俺に話せることなんて何一つないぞ」

「いや、別にトレーニングの事でも構わないんだ。本当に君と少し話がしたくなっただけで、大した話を論じろとは言っていない」

 その言葉で再び田上は、勘違いしそうになってきたが、その想いは飛び切りのしかめっ面に込めて忘れさせた。そして、それをした後は田上はタキオンに何も言わなかったが、言わないなりにトレーナー室のドアを開けてタキオンに中に入るよう催促をした。タキオンは、からかうような目付きで田上を見た後、その前を通って部屋の中に入った。冬の終わりそうな空気がそこにはあった。

「桜の見頃は大阪杯辺りだそうだね」

 タキオンがソファーに自分のバッグを置きながら言った。それに田上が「ああ」と答えつつ、田上も自分のバッグを机の横に置いた。そして、その部屋を見渡しながら、躊躇いがちに言った。

「…この部屋も…狭くなりそうだな…」

「狭く?」

 タキオンがオウム返しに聞いた。田上は、それにすぐに反応はせず、ゆっくりとタキオンに目を合わせて言った。

「ほら……、俺の担当するウマ娘が増えるとなると、この部屋じゃ持て余すだろ?…だから、大阪杯が終わった一週間後辺りに、ここも引っ越したいなぁって思ってるんだけど…」

 タキオンは、そう言われた後に部屋をゆっくりとっ見回して言った。

「…行く当てはあるのかい?」

「いや、ここ最近そう思ってただけで、申請してもどうなるかは知らない。…ただ、…やっぱり大人二人に子供四人?ってなると狭いだろ?そこは何とかしたいんだ」

「ふ~ん」とタキオンは事も無げに頷いた。だが、その実、心の内では少し波風が立っていた。この部屋を離れるのは少し嫌だった。その想いがタキオンの脳裏に浮かび上がったが、その事はおくびにも出さずに言った。

「私はいいと思うよ。引っ越しはどうするんだい?私も手伝った方がいいのかい?」

「ん~、…まぁ、手伝ってくれた方が嬉しいよ」

「じゃあ、私も手伝うとしよう」

「ありがとう」

 田上がそう答えると、話は終わりとばかりに自分の椅子に座った。それをタキオンは見ていたが、田上は自分のパソコンの電源をつけて早速自分の仕事に入ろうとしていた。それは、なんだかタキオンにはいけ好かなく感じたから、田上の机に近寄るとその集中を乱そうとするように言った。

「なぁなぁ、今日のトレーニングはどんなものだい?何か普段と違ったものはするのかい?」

 すると、田上から一言「普段と違ったものはない」と返ってきた。そして、再び自分のパソコンの方を見つめ始めたので、タキオンは益々気を悪くした。だから、突然頭に思い浮かんだことを言った。

「トレーナー君。私、やっぱりここから引っ越すなんて嫌だ」

 そう言うと、田上も面倒臭そうにしながらもタキオンの方を見つめて言った。

「どうして、急にそんな事を言い出したんだ」

「不図、そう思ったんだよ。…だってそうだろ?ここは私たちの思い出が詰まった場所じゃないか。あのソファーで紅茶を飲んだり、君が薬の副作用で輝きながら反射するパソコンで作業をしたり、いろんな話をしたり…。…そうだろ?君は、あんまりそうでもないようだけど」

「俺だって、この部屋を気に入っていたりはしたけど、前に進むって言うんならここには居られないよ」

「…うん、…それは分かってるさ。…分かっているけど、どうしても少し納得できないな」

「何で?」

 田上は、少し距離の近いタキオンから離れようと自分の椅子を引いて離れてタキオンを見上げた。タキオンは、そう言われると、何も言い返せずに渋い顔をして暫く黙ってしまった。そこで、田上は部屋にかけている時計を見やった。時計は、もうすぐ教室に生徒が集まらないといけない時間になっていた。だから、田上は言った。

「…とりあえず、授業に出てきたらどうなんだ?最近は、…というか、研究をやめてからはずっと行ってるんだろ?頑張ってこいよ」

 すると、今度はその言葉が癪に障ったので、向きになって言った。

「嫌だね。別に、サボったって今まで平気だったんだから、一日くらいサボったって平気なのは変わらずさ。そんな事で、私の気を逸らそうとしないでくれ」

 タキオンがそう言うと、田上が「悪かった」と謝った。それから、タキオンが前の言葉の勢いに任せて言った。

「大体、君は考えていることがあんまり分からないんだ。もう少し私に打ち解けて話をしてくれたらどうなんだい?例えば、一言でいいから、この引っ越しについてどう思う?」

 田上は、タキオンの突然の質問に目を泳がせながら言った。

「か、悲しい?」

 それにタキオンはやれやれとため息をついた。

「あんまり君にあれこれと求めるのもダメなんだろうな。私の悪い性だ。…改めよう」

 これでは、タキオン一人で勝手に話が進んでしまって、田上は自身が不当に扱われているように感じた。だから、田上も少し向きになって言った。

「俺だって、悲しい事には悲しいさ。嘘は言っていない。…それなのにどうしてお前はそんなに上から目線な態度を取るんだ」

「あー…、すまない。これもダメだな。…あんまり向きになりすぎた。すまない。……だけどね。……何と言うか…、…ああ!言葉にできない!分かってほしい!君に分かってほしんだけど、どうすれば君に誤解なく言えるかが分からない!………まぁ、少し私の言葉も考えていてくれ。ここを引っ越すというのなら、私はそれに従う他ないさ。じゃあ、行ってくるよ。…バイバイ」

 タキオンは、そう言うと自身が寂しいのか、それとも田上を憐れんでいるのか分からない目付きで田上を見て、それからドアを開けて去って行った。田上は、再び仕事に戻った。自分のキーボードを叩く音が聞こえる。集中へと誘う音だった。いつしかタキオンの言葉など忘れ果てて、自分の仕事だけが目の前にあった。それは、昼になると一度は途切れたが、次には眠りに邪魔されて、タキオンの言葉など考えなかった。田上は、タキオンが思う程暇な男じゃなかった。常に、別の事が気がかりだった。



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十七、二回目の選抜レース③

 田上が、目を覚ましたのは、タキオンとのトレーニングが始まる三十分前だった。自分のセットした目覚ましが音を鳴らして起こしてくれた。眠たい目を擦りつつ、体を起こした。そして、一つ欠伸をした。念のための三十分前だったので、まだ暇だったが、やることもないのでもうジャージに着替えてトレーニングの場所へ行くことにした。急ぐ必要はないのでできるだけノロノロと着替えた。この頃になると、暖かくなってきているので、真冬の時よりかは着替えるのが楽だった。

 田上は、少し鼻歌を歌った。タキオンが、大阪杯のウイニングライブで踊る曲だ。これもこの頃、タキオンが鼻歌を歌っているので、それが田上にうつってしまった。『走れウイニングライブ』という曲の題名が指す通り、ウマ娘としての『走り』ではなく、『ウイニングライブ』に焦点を当てた曲だった。レースの後のライブで、勝っても負けても皆でしなくちゃならないウイニングライブに、『大きな蛇』のボーカル木下一抹は何か感じる所があったのだろう。これまでにウマ娘が歌って踊ってきたウイニングライブの楽曲とは、大きく感じ方も変わったが、それでも万人が万人「これをウイニングライブで選曲してくれて良かった」と言える代物だった。田上としては、これをタキオンがセンターで歌ってくれれば尚の事良いだろう。

 ぼちぼちと田上はトレーニング場に歩いて行き、いつもの土手に着くと、そこにどさっと寝転んだ。他のトレーナーもぽつぽつと散らばって自分の担当しているウマ娘を待っているのが見えた、田上は、それよりも空の方を眺めた。青い空に所々雲があった。――こうしてゆったりと雲を眺めたのはいつ頃が最後だろうか…。田上は、深く呼吸をしながら思った。すると、また眠気が訪れた。と言っても、空が眩しく目を開けていられなかったせいかもしれない。田上は、ゆっくりと目を閉じて、少し口角を上げた。そして、そのまま風に吹かれて、とろとろとした微睡みに溶けていった。

 浅い眠りの中で夢を見た。食べ物の匂いがしたかと思ったら、今度は、雪の匂いがした。次に、海の香りがした。その時に田上は、海に行きたいと思った。そして今度は、暑い夏の匂いがした。嗅ぎ慣れたコンクリートの匂いがする。と思ったら、今度は、コンクリートを雨が打つ匂いがした。――もうそろそろ雨が降りそうだ。田上はそう思った。すると、本当に雨が降ってきた。これは、楽しかった。雨に濡れた洋服の匂いがする。寝ているはずの田上の寝顔も自然と笑みを浮かべた。それから、泥の匂いがした。きっとべちゃべちゃに汚れたのだろう。さぞ楽しかったろう。ここで、春の陽気の匂いがして、田上は目を覚ました。目を開けると、また眩しい空が目の前に広がっていて、とんと目を閉じてしまった。そして、大きく息を吹いた。すると、横から声が聞こえた。

「トレーナー君、…起きたのかい?」

 その声がタキオンの声だったから、田上は慌てて身を起こして言った。

「今何時だ!?…ごめん、寝てた!」

 タキオンは、田上の横で田上と同じように寝転がって、微笑んでいた。

「安心したまえ。まだ、時間はそれ程経っていないよ。…つい、十分くらい前に私も来た所さ。…もう少し寝転がったらどうなんだい?こうして、空を見るのも気持ちが良い…」

 タキオンはそう言って、田上から視線を外して空を見上げた。そして、嬉しそうにふふふと笑っていたから、田上も迷いながらも寝転がって空を見上げた。すると、また、先程と同じような心地良さが田上に吹いた。田上も思わずふふふと笑った。低く小さく笑ったつもりだったが、タキオンには聞こえていたようで、「今笑ったね?」と彼女らしい好奇的な目に光を宿して田上に近寄ってきた。田上は、それから身をよじって逃げようとしたが、タキオンに「待って」と少し強く言われるとぴたりと体を止めた。そして、タキオンは田上の横にぴたりと貼り付いた。田上は、いつもそうされるのと同じように、居心地悪そうにした。タキオンは、ニコニコとしていた。それから、言った。

「青い空はいいね。穏やかな気分にさせてくれる」

 田上は、居心地悪そうにしながらもタキオンと同じように空を見ていた。先程のような心地良さはやってこなかった。だが、穏やかに続く青い空を見ていると、不図、さっきの夢の事が口をついて出た。

「……海の夢を見た…」

「ん?…海の夢?……それは、夏合宿の時の夢かい?」

「……そうかもしれない…」と田上はぼそぼそと返事をした。

 この学園では、毎年、希望者は納涼地である東北の方の学園所有地に夏の間滞在する。その近くには海があって、そこでトレーニングを行うこともあった。タキオンも研究やら資料やらは学園の研究室にあるので、あまり行きたがらなかったが、田上の説得もあって去年は行くことになった。一昨年は、出会って日も浅かったため、田上はそもそも行こうと説得する気すら起こさず、タキオンが行かないなら行かないで打ち解けるために苦心していた。

 田上も海は好きだった。小学生の頃などは、両親に連れられてよく海などに行っていた。泳ぐのは苦手だったのであまり潜ることはしなかったが、丁度行った時が干潮であればその干潟で蟹やヤドカリや濡れた砂の上を流れる海水の筋を眺めたりもした。時々、水たまりに魚が見つかれば、声を上げて喜んだりもした。しかし、タキオンと行った時の海は違った。仕事であったのと、大人になってはしゃいでしまうのは少しみっともないと感じたから、蟹など見つけたとしても大抵は見て見ぬふりをした。

 田上の見た夢は、もしかしたらタキオンと行った海の夢だったかもしれないし、家族と行った時の夢かもしれなかった。だが、それを正面切って「分からない」と答えてしまうと、話が伸びてしまいそうで面倒だったのでそのように答えるのは止めた。本当は、家族と行った時のような気もしたが、それをそうだと断定するのは尚の事面倒だった。だから、田上が返事をした後には何とも言えない沈黙が流れた。タキオンも田上がこの話をあまりしたがらなさそうに見えたので、この話を他の質問をして広げる事に迷いを持ったのかもしれない。しかし、それは結局、田上とのんびりと話したい欲求と単純な好奇心には勝てず、タキオンによって沈黙は破られた。

「……海に行きたいのかい?」

 こうタキオンは言った。その時に、心地良い風がさーっと二人の顔を撫でて通り過ぎて行った。

 暫くして、田上が返した。

「……そうかもね」

「…なら、大阪杯が終わって暇ができたら一緒に行くかい?」

「……なんで?」

 タキオンが少し微笑んだ。

「君が行きたいかも、と言ったからじゃないか。…本当は行きたくないのかい?」

 これには、田上がさっき空けた言葉の間よりももっと間を空けて、田上が返した。

「……行きたい、と思うけど、もうあの時の様に楽しめないような気がするな…」

「別にあの時のように楽しまなくたっていいじゃないか。君が、どの『あの時』を指しているのかは分からないけど、どうせその時からは良くも悪くも変わっているんだ。同じように楽しむなんて不可能だよ。…その理想を目指すよりも、今の君が存分に楽しむ方法を見出す方が、幾らか得だったりするんじゃないか?」

 タキオンがそう言うと、田上は一度タキオンの方を向いてその顔を見た後、ゆっくりと体を起こした。

「トレーニングをしないとな」

 いかにも今から嫌なことをしますよ、という低い声だったから、タキオンは少し心配の入り混じった声で怒った。

「君、そんなに嫌そうな声を出すんならもう少しここで寝ていたまえ。そして、もっとゆっくりとのんびりと話そうじゃないか。GⅠも所詮一つのタイトルさ。ここを逃しても来年があるし、なんなら一生逃したって死にはしない。私の心意気はそんなものさ。…だから、ね?もう少しのんびりと行こうじゃないか。寝転がって」

 タキオンはそう言って、草地をぽんぽんと叩いた。しかし、それで田上がタキオンの言う事を聞いて寝転がる前にマテリアルがのそのそと土手の上の方からやってきた。

「あなたたち、いつまでそうして話しているんですか?トレーニングは?あなたたちが、二人で楽しそうに話をしているから、私入らないでおいたんですが、さすがに少し長いんじゃありませんか?」

 やる気は満々と言った様子だった。ジャージに着替えて、手にはクリップボードも持って、それでも待ってくれていたというのだから、大いに気を遣ってくれたのだろう。田上は、そう考えると、急いで立ち上がろうとしたが、それはタキオンに袖を握られていてできなかった。

 タキオンは、マテリアルに向かって言った。

「トレーナー君がね。私ともう少しこうやってのんびりしていたいって言うんだよ。…せっかくだから君も寝転がるかい?案外気持ちいいよ」

 このタキオンの言葉の途中で田上は心外だと反論しようとしたが、そのまま遮るように話を続けられてしまい、遂に反論はできずにタキオンの話は終わってしまった。すると、タキオンが返答を求めるようにマテリアルを見たので田上も釣られてみてしまった。タキオンは、尚も田上の袖を握っていた。マテリアルは、その様子を見てタキオンの嘘も田上の疲れ具合も察したようだ。こう言った。

「…たまには寝転がるのも良いかもしれませんね」

 そういうが早いか、さっきまでのやる気はどこへやら、マテリアルはぐてんと大きく土手の草地に寝転がった。そして、笑いながら言った。

「田上トレーナーも寝転がったらどうです?のんびりしていたいんでしょう?」

 この言い方で田上もマテリアルが、タキオンの言った事が嘘であることを見抜いているのが伝わったが、それで気分がよくなるという物でもなく、むしろ、それをからかってきているように感じた。しかし、その言葉には迷いながらも従った。マテリアルは、田上の右隣の方に寝転がっていたから、田上は女性二人に挟まれることになり、少しぎこちないながらも草地に寝転がった。再び、心地良い風が吹いた。タキオンは、田上が寝転がるとそっと袖から手を放し、横に寄り添った。

「君は、何をするときが楽しいんだい?…やっぱり趣味のゲームかい?」

「……ゲームもやっぱり楽しいけど…」

 ここで田上が言い淀んだからタキオンが促すように言った。

「けど?」

「……あんまり人に言う事でもないな…」

 本当は「タキオンと居るのがなんだか楽しい」とでも言おうとしたのだが、さすがにこれは、照れも激しいし、(正確には勘違いではないのだが)タキオンに勘違いさせてしまいそうで怖かった。タキオンは田上の答えに「えー」と残念そうな声を上げた。しかし、それでも田上は話そうとしなかったから、少し赤くなっているその耳にふぅ!と勢いよく息を吹いた。途端に田上は起き上がって鬱陶しそうに「うわぁ!」と声を上げた。タキオンは、その様子を見てハハハと笑ったし、ついでにマテリアルもハハハと笑っていた。起き上がった田上は、笑っているタキオンを恨めしそうに見つめて言った。

「トレーニングをするぞ…」

「ああ!待ってくれ!すまない。今のはほんの出来心なんだ。君の気を悪くするつもりはなかったから、どうか怒らないでもう少し一緒にのんびりしよう?」

 別に脅すつもりで言ったわけじゃなく、もう切りが良いのでトレーニングを始めたかったのだが、タキオンが慌ててそう懇願するものだから、田上もなんだか申し訳なくなって再び寝転がった。すると、マテリアルの隠し笑いが田上の耳に入ってきて、田上はマテリアルの方を向いた。マテリアルも田上の方を向いていて、暫くにやにやしているマテリアルと目が合った後、言った。

「髪の毛に草が付いてますよ」

「んん?草?…付きますよ。そりゃ、寝転がっているんですもの」

 そこでタキオンが横で体を起こす音が聞こえたから、田上がマテリアルと反対の方に居るタキオンを見上げた。タキオンは、土手の上の方を見上げて言った。

「昨日の子だ…」

 その言葉が聞こえると、田上も寝転がったまま土手の方を見た。ふらふらと不安そうな足取りでリリックが来ていた。田上たちの方にはまだ気が付いていないようだった。それを見ても田上は「こっちだよ」と呼び掛ける気にはなれなかったが、タキオンが田上の代わりに手を上げて呼びかけた。

「そこの子!用があるのはこっちだろ?」

 リリックは、タキオンを見ると嬉しそうに目を見開いたが、すぐにその目は不安に淀んだ。しかし、タキオンの呼びかけには応じて、土手を下ってタキオンの所にやってきて言った。

「何をしているんですか?」

 すると、タキオンは「昼寝をしていた所さ」と陽気に答えた。リリックは怪訝な顔をして「昼寝…?」と言ったから、誤解されては不味いと思って田上が口を挟んだ。

「今からトレーニングをするところだったんだよ。…たまには、こうして休憩してみるのもいいから」

 その言葉にタキオンとマテリアルがクスクス笑ったので、せめてタキオンだけでも黙らせるように少し眉を寄せて睨んだ。タキオンは、顔をニコニコさせたままくすくす笑いを止めた。リリックはまだ怪しんでいるようだったが、とりあえずは田上の事を信用して、その顔をじっと見つめた。何を言えばいいのか分からなかったからだ。田上もそうやってじっと見つめられると、何を話していいのか分からなくなり、助けを求めるようにタキオンを見た。すると、タキオンも田上の様子を察して、リリックの方を向いて言った。

「君、名前は?」

「あっ、ファーストリリックです。友達とかには、リリーとかリリとか呼ばれてたこともありました」

「ふ~ん」とタキオンは、あまり興味がないように頷いた。だから、こちらも話が弾みそうにないので、タキオンが田上の方を見つめ返した。それで、田上も心の準備ができて、リリックに聞いた。

「ファーストさんは、走るのは好き?」

「は、い…」とリリックは考えながらも頷いた。田上は、その返答を聞いて少しリリックを見つめたが、次の質問をした。

「じゃあ、競走をしたときに勝ちたいとは思わないの?」

「勝ち、たいとは思います。…はい」

 ここで田上は次に質問をするのを躊躇った。このまま矢継ぎ早に質問を重ねてしまうと、この子がまた話さなくなってしまうのではないかと考えたからだ。だから、躊躇ったのだが、次はタキオンの方から質問をしたい事があったようで、リリックを見上げながらこう言った。

「君、適正はどのくらいだい?…どのレースに出てたっけ?トレーナー君」

「えっと、確か2000メートルだったよね?」

 リリックにそう聞くと、リリックは黙って頷いた。だから、田上が代わりに話を引き継いでタキオンに「だそうだけど」と言った。

「なら、私と同じ距離を走ったんだね?…走ってみるかい?私と並走してみるかい?」

 タキオンがリリックに言うと、リリックは慌てて首を振った。

「そんな!勝てるわけないじゃないですか!無理です!」

「無理とは限らないじゃないか。聞けば、君は選抜レースで七着だったらしいが、仕掛けなかったんだろ?なら、まだ私にも追いつけるチャンスがあるんじゃないか?」

 タキオンが煽るように言うと、リリックは言葉を詰まらせて、きょろきょろと辺りを見回した。まるで、逃げ道を探しているかのようだった。だから、田上にはそれが憐れに見えて助け舟を出すためにこう言った。

「君は、あれ以降に誰かトレーナーから声をかけられたりした?」

 リリックは、首を横に振った。

「スカウトされなくて不安なんだよね?」

 リリックは、今度は首を縦に振った。すると、その質問に反応して田上の振り向いて、タキオンがその目で田上の顔を睨んできた。――君、昨日の事は覚えているだろうね、といった目で田上に語り掛けてきた。田上もタキオンがそのような反応をするだろうということが分かっていたから、少し眉を寄せて――黙ってて、と目で語り掛けた。タキオンは、何も言わなかったが、その目は静かに田上を見据えていた。それを無視して田上は、う~んと唸った。タキオンの言いたいことは分かっていた。――同情なんかで動いちゃだめだ。 この言葉に偽りなんてないだろうと思うのだが、田上の心は今一つ決めきれずにいた。やっぱりこの子はなんだか可哀想だった。見てみると、長い黒い髪をあまり整えていないのだろう。少しぼさっとしているのが、田上から見えた。雰囲気はカフェと似ていた。そのこの周りに漂っているであろう不安さえ取り除けば、カフェの様に落ち着いた子になるだろうと思った。そこで、田上はまたタキオンを見つめた。タキオンは、尚も田上を見つめている。その顔を見てどうしようかと考えたが、とりあえず何か話さねばならないと考えて、田上はタキオンに向かって口を開いた。

「…ファーストさんは、カフェに似てるよね?…髪が長いところとか」

「…カフェ?…う~ん…」

 そう言って、タキオンはリリックの顔を見つめて、それから言った。

「…うん、…目の色も一緒だし、髪も整えればそれなりに似ているんじゃないか?…ただ、カフェは死人みたいに色白だからね。そこらへんかな。似ていないところは」

 それでリリックの方が口を挟んできた。

「カフェ?…もしかして、今年の有馬記念を優勝したマンハッタンカフェさんですか?」

 それにタキオンが少し得意になって「ああ、そうとも」と答えた。タキオンが得意になったのは、リリックの方が興奮した面持ちだったからだ。

 リリックは尚も興奮した面持ちで言った。

「じゃ、じゃあ、お二人は知り合いなんですか?いつから?…菊花賞の頃からでしょうか?」

「私が中学の時にここに入って、研究室を持ちたいと言った時からさ」

 タキオンがそう答えると、リリックは嬉しそうに「へー!」と頷いた。

「…それじゃあ、…その、…田上?トレーナーの方も…光ったりするんですか?…テレビで少し拝見したことがあるような…。その時は、指先が光っていたんですけども」

 これをいう時は少したどたどしかった。きっとリリックには、昨日、田上の事を邪険に扱ってしまった事が気がかりなのだろう。だから、話の流れとしてはタキオンが次に返答する番のように思えたが、田上がリリックの不安を和らげてあげようと口を開いた。

「最近は、タキオンが研究を止めたからなんともないけど、やってた頃は、指先だけじゃなくて髪の毛が青く縮み上がったり、ほくろが真っ赤に変色したり、目が光ったりもしたよ」

 田上が急に口を開くと、リリックは少し怯えもしたがその話を聞いて行くうちに可笑しそうに口角を上げた。そして、クスクスと笑って、田上に言った。

「じゃあ、本当にモルモット君なんですね」

 そう言われるとタキオンも田上も顔を見合わせた。こんな風にこの呼び方をされてみるとは思わなかったからだ。だから、最初に田上が若干苦笑をするように口角を上げると、タキオンも同じように口角を上げた。それから、二人の口角はぴくぴくと浮かび上がって、やがては、声に出すような笑いに変わった。ただ、田上は顔を背けて口を変な形に歪めたまま目を瞑って笑いを堪えた。タキオンは、クククと笑って、それからリリックの方を振り向いて言った。

「そうさ。モルモット君だよ。…今でもモルモット君だ。言えば何でも聞くからね。……君は、モルモット君に指導をしてほしいのかい?」

 そう質問した時には、少し真面目な顔に変わっていた。だから、リリックもそれに釣られて口元の笑みを消して真面目、または少し怯えた顔になって頷いた。それを見ると、タキオンは田上の方を見つめて言った。

「君に指導してほしいそうだよ。……君はどうしたいんだい?」

 そう言われると、田上は迷った。しかし、昨日のタキオンの言った事を思い出せばこう言う他なかった。

「……俺は、ファーストさんが仕掛けなかった理由とファーストさんの出しうる限りを知りたい。……面倒じゃなければ……うん…」

 ここで田上が何かを言うのを躊躇ったから、タキオンが聞いた。

「何か言いたい事があるのかい?」

「ん?……いや、…今、どうしようか迷って…」

「迷って恥ずかしがったんだろ?……聞いてくれ、ファースト君。この人照れ屋なんだ。ただ話を聞くだけでも恥ずかしがる時がある。困ったものだよね。…君からも言ってみてくれ。…ぜひ、アグネスタキオンの飼いモルモット君に」

 上手く助け舟を出されたのか、単純にバカにされたのか分からず、田上は少しもやもやとしたが、とりあえず、タキオンの言葉で救われた節もあったのでそれについては心の中で感謝を告げた。リリックもまた、そのような雰囲気をなんとなく察して、少し様子を窺うために黙っていたが、つい悪戯心が働いてしまったのだろう。こう言った。

「こ、この照れ屋モルモット君!」

 途端にタキオンがハハハハと笑い出して、リリックはそれを見て顔を真っ赤にさせた。言った後で不味いと気が付いたのだろう。田上の顔を恐る恐る見つめていた。しかし、今度は怯えているリリックに優しくするどころではなく、自分自身もリリックの言動に驚いて少しの間固まってしまった。それでタキオンが田上の代わりに何か言ってあげるわけでもなく笑っているので、今まで話を黙って聞いていたマテリアルが初めて口を開いた。

「ファーストさん」

 そう呼びかけると、リリックはマテリアルの方を向いた。そして、マテリアルが続けた。

「今のは、ちょっと不味かったかもしれませんね」

 そんな事は百も承知だったが、そう言われると、リリックはこれにどう収集をつけないといけないかが分かったから、マテリアルに微かに頭を下げると田上の方を向いて言った。

「ごめんなさい、田上トレーナー。モルモット君は早過ぎました」

 すると、やっと収まりそうだったタキオンの笑い声が再び盛り返してきた。田上は、リリックのその言葉で我に返って言った。

「…いや、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだよ」

「ハハハ!…じゃ、じゃあ、ファースト君は、今後も君の事をモルモット君と呼んでいいわけだね?…大丈夫と言う事は」とタキオンが横から口を挟んできたが、それの答えは分かり切っているバカバカしい質問だったので、田上はタキオンの言葉を無視してリリックに言った。

「ファーストさんは、…あれは何か理由があって仕掛けられなかったの?それとも、ただ単にあれ以上は走れなかったの?」

 田上がそう言うと、リリックは途端に目を泳がせ始めて動揺したが、田上はその顔をしっかりと見据えた。すると、リリックの視線は段々と定まってきて、やがては田上と目を合わせた。すると、また少しの間だけ、リリックは田上から目を逸らしたが、それもようやっと治まって田上に言った。

「………あ、あんまり分からないし、どう言えばいいのかも分からないんですけど、……前に進もうと思うと、足が思うように動かないんです。…まるで、誰かが引っ張ってるみたいに、…纏わりついてるみたいに重くなって走りにくいんです…。タ、タキオンさんを指導してきた田上トレーナーには、原因が分かったりしますか?…なんだか、あの時はいつも以上に酷かったんです」

 そこで少し冷たい風が、リリックの黒髪を揺らして田上の方にびゅうと吹いた。田上は、乾いた風に吹かれて瞬きをした。そして、タキオンの方を見た。タキオンは、もう笑うのは止めていて、今は田上が話すのを静かに見つめて待っていた。今、この場にいる全ての人が田上の発言を待っていた。後ろに居て表情が見えないマテリアルでさえも待っているであろうという事が田上には分かった。

 田上には、昨日、トレーナー室でタキオンと話し合った事が再び頭に浮かんできそうになったが、その考えは頭の中のゴミ箱に捨てて、簡単に思い浮かんだことを言った。

「……う~ん、…多分、緊張が主な理由だと思うよ。あんまり人に見られてした事もなかったんじゃないか?…そういうのが仕掛けられない理由だったのなら、これから経験を積めばそれは解消されていくと思うよ」

 そう言うと、すぐさまリリックが言った。

「でも、いつも苦しいんです。小学校の運動会でも同じ苦しさはありました」

「…でも、足が速いからこの学園に来たんでしょ?」

 田上がそう返すと、リリックは言葉に詰まりながらももどかしそうに言った。

「足が速い事には速いです!……でも、この学園には小学校で一番足の速い人がたくさんいるんじゃないですか!…そしたら、私なんてただのごみくずで、ただの傍観者なんです!……あんまり人の役には立てません…」

 それを言われると田上はタキオンと顔を見合わせた。これにどのような声をかけてあげればいいのか分からなかった。タキオンには、同情するなと言われているのだ。田上には、これに同情せずに声をかけるなんてことができなかった。だから、タキオンも立ち上がって、手を握り締めて地面を見つめているリリックの傍に寄って言った。

「ファースト君。…こっちを見てくれ」

 その声にリリックは反応しなかったので、タキオンはため息を一つ吐いた後言った。

「…私は君に興味はないんだけどね。…私のトレーナー君が、君の事について迷っているらしいから、助言してあげよう。……それじゃあ言うけどね。…半端な気持ちでここに来るのは止めたまえ。私たちも君の悩みを真摯に聞いてあげる程暇じゃないんだ。今からトレーニングもあるんだ。覚悟を持たない君にここに居る意味はないよ」

 そして、ここで一息空けると今度は田上の方を向いて言った。

「君もだよ、トレーナー君。君だって、半端な気持ちでこの子を呼んだんだ。スカウトするのかしないのか、それを今この場で決められないのなら、この子には帰ってもらうしかないよ」

 タキオンの矛先が、急に田上の方に向いたから、田上はしどろもどろとして頭を掻いた。そして、胃液を吐くような思いをしながら言った。

「……今は決められない…」

 そう言うと、喉が痒くなりだして、田上は摘まむように自分の首の皮を引っ張って、痒みを和らげようとした。タキオンは、田上の言葉を聞くとリリックに優しく言った。

「だ、そうだ。……話をしたいんだったら、いつでもここにおいで、話し相手ぐらいはしてあげよう。…でも、自分の道は自分で掴むんだよ。いつまでも話してたって、道は開けないからね。君自身が開拓者になる必要がある。なぁ、トレーナー君」

 タキオンが田上にそう呼び掛けると、田上は動揺しながらも「ああ」と頷いた。それにニコッと笑いかけると、タキオンはリリックに言った。

「君はどうするんだい?今から帰るのかい?それとも、少し私のトレーニングを見ていくかい?」

 その選択肢を提示されると、もう帰ろうと思っていたリリックの心が僅かに揺らいで、傍に居るタキオンに恐る恐る言った。

「見ていってもいいですか?」

 そう言われるとタキオンは田上に「見てってもいいだろ?」と聞いた。田上は、神妙な顔こそしていたが、はっきりと分かるように頷くと、自分も立ち上がった。すると、マテリアルもそれに続いて立ち上がった。何とも言えない生温い風が田上たちの顔を撫でた。田上は、その風を感じるとなんだか物悲しくなったが、反対にタキオンはニヤリと笑うと急かすように田上に言った。

「早く土手から下りろ。そして、今日のメニューを言え。…大分、時間を食ってしまったぞ。巻き返さないといけない」

 田上は、「はいはい」と頷きながら、背中をタキオンに押されつつ土手を下った。そして、マテリアルもそれに追従した。その後ろ姿を見ながら、リリックは土手の一番上の方に腰を下ろした。その時に不図、――あの中の一員になりたい、という思いが、リリックの胸に宿った。ただ、今は手が届きそうになかった。三人の後ろ姿が、去って行くのを見るだけだった。すると、タキオンが後ろを振り向いてリリックの方を見た。――君、見たいんじゃないのかい?と聞いているような目つきだった。だから、リリックは――自分はここでいい、という気持ちを表明するために、心ばかりの笑顔を作り右手を上げて小さく手を振った。すると、その気持ちが伝わったのか、タキオンがにやりと笑うと右手を軽く上げて、――分かった、というような合図をした。その様子にリリックはふふふと笑った。

 それから、三人の様子を一時間ばかり見て、リリックはタキオンに手を振って、そして、他の二人に手を振って寮に帰った。



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十七、二回目の選抜レース④

 タキオンのトレーニングは、まだまだ続いていたが、それをここで話すことはなく、トレーニングも終了し、マテリアルも帰ってしまってタキオンと田上の二人だけになってしまった時に移る。

 春の夕日は、もうとうの昔に沈んでいて、寒く暗い夜空が二人の上に広がっていた。二人は、土手の上の方に座って寒々と広がる空を見つめていた。二人が、トレーニングが終わったにも関わらず、なぜ帰らないのかというと、タキオンが田上に「少し話をしよう」と呼び掛けたからだ。しかし、二人は暫くの間話さなかった。田上は少しそわそわとしつつもタキオンが話し出すのを待っていたのだが、タキオンは一向に話し出す気配がないので、田上も同じように空を見上げていた。

 タキオンが話し出したのは、田上が大きな欠伸をした時だった。隣にいるトレーナーを見つめ言った。

「……君は、私の言った事を少しは考えてくれたかい?」

「…?言った事?」

 田上には全く見当もつかず、その様子を見たタキオンは呆れた様に鼻から息を吐いた後、再び星空を見つめながら言った。

「もう少し私に打ち解けてほしいってことだよ。……ほら、今朝言ったろ?」

「…ああ、朝の事ね。……タキオンは分からないって言っただろ?」

「うん」

「……なんか、……こう、トレーナーとしてこう言うのはどういう物かと思うんだけど、……俺だって分からないんだ。…分からないことだらけだよ。前に進むったって、どういう風に前に進めばいいのか分からない。這いつくばればいい?マンガの主人公みたいに、ただひたすらに突き進めばいい?それとも、気でも狂えば少しはマシに前に進めるのか?……俺が今前に進んでいるのかだって分からない。今はたったの二十五歳だ。世の中を完璧に知るにはまだ少し若すぎる。六十になったって世の中を知っているのかどうかすら怪しい。そんな中でお前の気持ちをどうして知れる?どうして窺える?俺は自分の事をトレーナーって言ってるけど、人の上に立てたもんじゃないって言うのは、お前が一番知っているだろ?」

 田上がそう言うと、そこでタキオンがふふふと田上の顔を見ながら笑い出した。田上は少しむっとしてタキオンの顔を見つめていたが、タキオンが笑ったまま何も言わないので遂には田上の方から口を開いた。

「何が可笑しいんだ」

「ふふふ。…いやいや、いつもの事じゃないか。君はそうやって悩んでいるんだろ?それなのに今更畏まって言っているのが何だか可笑しくって」

「悪かったね。滑稽で」と田上が言うと、タキオンも少しは真面な顔をして言った。

「滑稽だから笑ったんじゃないさ。和んだから笑ったんだよ。そのくらい分かるだろ?」

「…分かりますよ」と田上が不機嫌そうに言った。

「おいおい、拗ねないでくれよ。ちょっとしたお遊びじゃないか。こんなことより話したい事はもっとあるんだ」

「…例えば?」

「例えば?…だから、さっきの続きで言うと、私は君が悩んでいるのを承知で君と付き合ってるんだ。私が世に言うマッドサイエンティストであれば、とっくに君の事は見放しているさ」

「…つまり、同情って事か?」

「…う~ん、…違うだろ。…これも君は分かっているだろう?要は、私は君と対等な立場にあると思っている。対等な立場にあると言う事は、別に同情なんて感情はなくても簡単に君を助けてやれるものさ。…分かるかい?」

 田上は、タキオンの言葉の意味を考えながらも頷き、そして言った。

「……立場が逆転してるな。…俺がタキオンに指導してもらっているのか?」

「それも不正解。立場なんて初めから、君はモルモット君で今もモルモット君だ。…今日もモルモット君だったね?あの時の君の驚いてる顔と来たら傑作だったよ」

 タキオンがそう言って、思い出し笑いでクスクス笑うと、田上も少し苦笑した。

「あれは本当に驚いたんだよ。…だって、あれは…突然だっただろ?もう少し大人しい子かと思っていたんだけど、急にあんなこと言うから反応のしようがなくて…」

「反応の仕様がない君ってのもまた面白いもんだ」

 そう言って、タキオンは空を見上げた。そして、何か言おうとしたのだが、それを躊躇うように唾を飲んだ。それから、涙が出そうなのか、見上げたまま顔をしかめて黙りこくった。田上は、その様子を横から見ていたから言った。

「…どうかしたのか?」

「………君は星が好きなんだろ?……また、あの時の様にどんな星がどこにあるのか教えておくれよ。夜空の様相も時が移り変わって大分変っただろ?」

 すると、田上はいつかの寮で夜空を見た時を思い出して、嫌な思いをした。だから、それを押さえつけるように舌先を前歯で軽く噛んだ。そして、一度目を閉じて心を落ち着けると言った。

「北極星は変わらないよ。ずっとそこにある」

「……そうか。…そうだよね」

 タキオンもまた心を静めるようにそう頷いた。それから、二人は暫くの間星を見つめ続けたが、タキオンにはどれがどの星なのかさっぱり分からなかった。田上は、薄ぼんやりとした頭でかつかつと星を数えていた。それで、北風が吹いて身震いをすると、我に返ってタキオンに言った。

「もう帰ろう。やっぱり寒い」

「……ああ、そうだね」

 タキオンは、田上の方を見ないままそう答えた。それを見ると、田上も心配になってタキオンの肩を叩いた。

「帰ろう」

 そこでタキオンが振り向いて悲しげに言った。

「……いつか意味の分かる日が来るのかな?」

「意味?」

「私たちが生きている意味だよ。こんなにどったんばったん暴れて必死に生きているというのに、意味は私に語り掛けてくれたことはない。……いつか人は報われるのかな?」

「報われ…るなんて俺の知る事じゃない。努力だって泥を浴びるんだよ。何にも成し遂げないで死んでいく人たちがいる。…そんな中の一人に俺がいるかもしれない」

 田上がそう言うと、タキオンはこちらを向いてこう返した。

「…そうだよね。ウマ娘なんて案外そんなものかもしれない」

 そう言ってからタキオンは立ち上がったので、田上も一緒に立ち上がった。再び冷たい風が吹いた。その風に揺られるようにタキオンは田上から少し離れた。それを見ると、田上は少しだけ寂しくなったが、タキオンが田上よりちょっと前の方を歩いていたのでその横顔さえ見る事はできなかった。

 そうやって二人は帰っていった。二人が去った運動場にはまだ人がちらほらいた。

 

 次の日は、タキオンの最後の大阪杯のウイニングライブ練習のため、トレーニングはなかった。だから、その日にタキオンに会うことはなかった。思えば、これが普通のトレーナーとウマ娘の関係なのかもしれない。

 田上は頬杖を突きながら、指先で机をこつこつと叩いた。

 トレーニングがなければ、別になんともない男と顔を突き合わせることなんてしないだろう。今までが異常だっただけだ。トレーニングでもないのにこの部屋に入り浸って、仲良く話をする。そんなのトレーナーのする事じゃない。何より好意なんて自分より年若い女の子に寄せてはいけないのだ。田上はそう考えると、座っていた自分のデスクから立ち上がった。そして、トレーナー室の窓の外から中庭を眺めた。芝生が青々茂っているのが見えた。だが、これは特に田上に感慨を抱かせなかった。それよりも田上の目に留まったのは、窓の前の出っ張りに置いておいた数々のタキオンを模した人形だったり、思い出の品々だった。しかし、それも感慨という物までにはいかなかった。

 田上は、その中の一つである、今年の正月の時の帰省に訳の分からない店員から貰ったウマ娘と男の人形を手に取った。ピンクの服を着たウマ娘は、タキオンを模して作ったのかと思うくらいタキオンに似ていたが、男の方は田上には似ておらず、色白で髭も濃くなく、目元がすっきりとしていた。それを見て、田上はいつの間にか止めていた自分の息を吐いた。そして、元の場所に戻した。それから、部屋を出て行き、トレーナー室替えの申請をしに行った。

 

 その申請は淡々と行われ、田上は眉一つ動かさずに書類に文字を書いた。それは、事務室の方で行われたのだが、その担当をしていた老人は優しいおじいちゃんで、瞬きすらしなさそうに見える田上を心配そうに見つめていた。だから、書類に文字を書き終えた後、礼を告げると共に親切に「ここがこれこれで…」と教えてくれたお爺ちゃんに報いるために、口元を少し緩ませて笑いのようなものを作ろうとした。しかし、それは笑いにはならずに口元も本当に緩んで見えているのかどうかは田上には分からなかった。分からなかったが、どうしようもないのでそのまま事務室から去って行った。

 その後に今日はやることがないのでこのままトレーナー室に帰ってもどうしようもないだろうという事に気が付いた。今は放課後だ。タキオンもダンスの練習をしている頃だろう。ならば、トレーナー室にタキオンが今後訪れる事もなかった。だから、田上はトレーナー室には向かわずにいつものトレーニング場へと向かった。足が自然とそちらの方に向いたからだ。トレーニングもしないのにそちらの方に向かってしまった。田上は、その事に少し後悔もした。このままトレーナー室に行って荷物を取って寮の部屋に帰れば、趣味のゲームもできて楽に過ごせただろうと思った。しかし、向かってしまったものは仕方がないと思うと、何もすることのないトレーニング場へ田上は向かった。

 

 何を期待していたのかは知らないが、案の定トレーニング場に指導する相手はいなかった。だから、少しため息を吐くと田上は土手に座り、そのまま体を草の上に寝そべらせた。トレーニング場には、霧島などの見知った顔を見かけたが、そいつらに話しかけようとは思わなかった。あちらの方から話しかけてくるなら別だが、今の田上には陽気に他人に話しかけていく元気はなかった。

 ここの土手には昨日の様に気持ちの良い風が吹いていたから、そこで田上は安らかに気持ち良く過ごした。時折聞こえてくる大きな呼び掛け声に耳を傾け、おっさんのでかいくしゃみを鼻で笑い、土手の上の方を通るウマ娘たちに変な目を向けられながら、田上はそれでも草の上で優雅に過ごした。時の流れは、とろとろと蕩けるように過ぎて行き、遅々として進まず、やる気を失くした蟻のように動かなかった。田上は、その中で生きていた。そのとろとろと流れる時を楽しんでいた。終始目を瞑ったままニヤニヤとその時を過ごしていた。一秒一秒をその肌で感じて、その心地良さに酔いしれていた。しかし、そういう時には必ず終わりが来る。その事を考えずに田上は過ごしていたので、土手の上の方から自分の名前を呼ばれた時は大層驚いた。

「田上トレーナー!」

 リリックの声だった。これが知らない人の声だったら、田上も一言目では気が付かなかったかもしれない。二言、三言言っても気が付かなかったかもしれない。しかし、唐突の知っている声だったので、急激に現実の時の流れへと引き戻され、「うぉん!?」という変な声を出してしまった。

 そして、体の半分を起こして土手の上の方を見上げると言った。

「ファ、ファーストさん!?…用事?」

「そうです、用事です。…私をスカウトしてください。覚悟を決めてきました。……タキオンさんは?」

「タキオン…さんは、今日はダンスレッスンですけど…」

 そう言って、田上もいい加減腰を捻ってリリックを見るのが辛くなったので、体勢を変えて四つん這いになってリリックを見上げた。これはこれで今度は首が痛くなった。

 リリックは、田上の返答を聞くと「そうですか…」と少し残念そうに言ったが、気を取り直すと田上に言った。

「ファーストさんじゃなく、リリーって呼んでください。そっちの方が馴染みがあります。…そして、…何をすればいいですか?」

「何?」

「スカウトの条件です。二千メートル走ったタイムですか?それとも、…何か、……スクワット何回できるとか?」

 そう聞かれると、田上も少し慌てた。こんなことをするのは予定になかったからだ。そもそもリリックについてもほとんど考えていなかったので、どのような選考基準を示すのかも何も考えていなかった。だから、咄嗟に出てきたのはこうだった。

「三十メートルシャトルラン、……どのくらいできるか…」

「んん?それでいいんですか?」

「…えっと、…じゃあ、タキオンと模擬レース?」

「タキオンさんと!?それじゃあ、敵いっこないですよ。シャトルランでいいです。…どこでするんですか?」

「えっと、…じゃあ、ここの端っこでしよう。あそこでするからついてきて」

 田上は、迷いながらもトレーニング場の隅の方を指差した。リリックは、なんだか頼りない田上に不満げだったが、黙ってその後ろをついてきた。リリックのその髪型は今日は後ろで結ってきていた。一つの束にして、長い黒髪を後ろに垂らしていた。彼女なりの覚悟の表れなのだろう。黒髪が縛られているとなると、彼女の顔も晴れやかに見えた。しかし、田上にはそんな事は関係なく、緩やかな午後の一時を邪魔された不満だけが胸の中に少し残っていた。

 

 田上は、自分が指差した端の方に来ると、三十メートルを自分の歩幅で測って、リリックに示した。

「ここからあっちだ。ファー、…リリーさん」

 その呼び方にリリックは、多少不満そうな顔を見せたが、それはやがて頷きへと変わって田上に言った。

「走ればいいんですよね。…目標は?」

「………自由でいいよ。結局、ウマ娘は走ってみるまで分からないし。……リリーさんの場合は特にそうなんだろ?」

 田上がそう言うと、リリックは不意に目を落とした。そして、何かを求めるように地面を見つめたが、やがて田上に言った。

「……走るのは好きです。これは、自分の中にずっと存在します。……しかし、同時に訳の分からない自分も居ます。…田上トレーナーにはこれが分かりますか?これを解決へと導くことはできますか?」

「解決は……」

 田上は自分の状況を思い、言葉を続けるのを躊躇した。しかし、結局は言わねば話は進まないと思い、言った。

「解決できる保証はない。…俺もそんなもの分かろうと思わないし、また、分かりたくないからだ。…だけど、その分からない自分で人が苦しんでいるんだったら、俺はそれを救うために尽力する。それは、約束する。絶対に苦しさにもがいているまま放置したりなんてしない。もうあんな事はしない」

 すると、リリックは不思議そうな顔をして聞いた。

「あんな事?」

「……一人で戦地へ赴くことだよ」

「…タキオンさんの事ですか?」

「……走れ」

 リリックの面倒くさい質問に田上はしかめっ面で凄んだ。しかし、その効果にあまり大したものはなかったようだ。リリックは、スタート地点についたものの田上の凄みなんて気にせずに可笑しそうに笑っていた。

 それから二人は、シャトルランを始めた。と言っても、この場にカウントをできるものがなかったので、田上が一旦トレーナー室にカウント計を取りに戻った。それからようやくリリックは走り始めた。事は淡々と進んでいった。リリックは、田上の予想外に粘った。リリックの走りを見た時は、――この子はマイルから中距離向きかな?と思ったが、それ以上にリリックは走り続けた。その様子を見ていると、自分の限界をも超えて走り続けているようで心配になったが、ちょうど百五十を超えたあたりで音を上げてへたへたと座り込んだ。そして、息も切れ切れに田上に言った。

「…ス、スカウトできそうですか?……これが私の全てです」

 そう言われると、田上も何かを迷うように眉を寄せたが、結局は頷いて言った。

「スカウトさせてくれ。持久力は申し分ないよ」

 それでリリックは疲れた様にへへへと笑った。

「……一回で済んでよかった。……もし、これでもダメだったら、あの手この手でどうにかして認めさせるつもり…でした。…ありがとうございます…」

 そして、リリックは疲れた頭で羞恥心なんて忘れ果てて、足を畳み頭を地面に擦りつけて感謝を告げた。それをされると田上も慌てて「いいからいいから!」声を上げて、土下座を止めるように頼んだ。すると、リリックはまたへへへと笑って言った。

「タキオンさんと一緒にトレーニングするのが楽しみです」

「……そんなにタキオン…さんの事が好きなの?」

「ええ、憧れの人ですよ。ウマ娘は皆あの人の様に走ってみたい」

「…でも、クラシック期のどこかの雑誌を見れば、タキオンは俺を実験動物として扱っているみたいに悪く書かれている記事が出てくるぞ」

「…そんなことは承知ですよ。…でも、田上トレーナーとタキオンさんの様子を見てみれば、そんな関係じゃないってことは丸わかりじゃないですか。ただのトレーナーとウマ娘じゃありませんよ。……まるで、対等な友達ですよ」

 リリックは、そう言うと田上の返答を待たずにふーっと疲れを抜くように大きく息を吐いて立ち上がった。そして、ニコニコ笑いながら言った。

「トレーニングはいつからですか?デビューは?」

「…デビューは、六月からが決まりだ。そこから、デビュー戦が始まる。…だから、無闇に焦ってスカウト先を探さなくても良かったんだぞ」

「…別に大丈夫です。タキオンさんと一緒にトレーニングができるなら」

「…そうか…」

 田上は、そう言って目を落とした。そして、再び目を上げると言った。

「俺がリリーさんのトレーナーで、デビューさせるには契約が必要だから、近々、親御さんの方とも話をしないといけなくなる。勿論、直接でもただの電話でもいい。…でも、保護者の許可が必要だからな。色々と書かないといけない。…大丈夫?」

「...大丈夫です。久々に母さんと話がしたいと思っていた所です」

「…最後に会ったのは?」

「親の事ですか?……えっと、…ここに越してきてからだから…、二月の三連休?です…。その後も電話とかで話はしたけど…」

 田上は、「ふぅん」とあまり興味がなさそうに頷くと、その後に何を言おうか迷って、こう言った。

「とりあえず、トレーナー室の場所を教えるから明日来てくれ。そこで、書類やらなにやらを渡す。マテリアルさんとタキオンにも紹介するから放課後には必ず居てくれ」

「今日じゃダメなんですか?」

「今日はダメだ。トレーナー室に行っても誰もいない。誰も来ないからな。…今日はもう休憩だ。じゃあ、トレーナー室の場所を言うからな。良く聞けよ」

 そして、田上は自分のトレーナー室の場所を口頭で伝えた。その後に、分からなかったら事務室で聞け、とも伝えた。それから、口早に「さようなら」と言うと、田上はそそくさと自分の寮へと帰っていった。リリックは、まだ自分の寮に帰る気にはなれなかった。体が疲れて軋んでいるようだったが、その軋みはまだ帰りたくないと自分の脳に告げていた。だけども、体は疲れ果てていてこれ以上運動をする気にもなれなかったから、リリックは田上が寝転がっていた土手に自分も寝転がった。すると、草の間をするすると抜けて心地良い風がリリックの首筋をくすぐった。そのくすぐったさを暫くは我慢していたのだが、やがては大きな笑い声に変わった。人目もはばからず、リリックは気の赴くままに笑い声を大きくしたり小さくしたりして、笑い転げた。それくらいに自分の覚悟が報われたことが嬉しかった。田上に認められたことが嬉しかった。タキオンと同じ師を仰ぐことが嬉しかった。

 リリックは笑いに笑い転げた。その笑いは、今の所陽が落ちるまで止まりそうになかった。しかし、リリックに声をかけられた田上の様に、リリックにも笑いの終わる時が訪れた。

 突然、土手の上の方から「リリックちゃん?」と声をかけられて、リリックの頭は一気に冷めやった。むしろ、一気に冷え切り、凍えるように――不味い、という後悔の念が押し寄せた。ただ、土手の上から声をかけてきたリリックの同室の子は、リリックが考えたような事は言わずにこう言った。

「リリックちゃんってそんな風に笑うんだね。…そこに寝転がるとそんな風になるの?…それとも、リリックちゃんは元々そうなの?」

 決して意地悪なからかいのような物言いではなく、リリックはほっと安心したのだが、その質問には困り切ってしまった。どちらも答えとして当てはまっているように感じたからだ。別にどちらか選べと言われたわけではないのだが、選択肢を提示されるとどうにも迷ってしまった。それを感じたのだろうか。リリックの友達はこう言った。

「私もそこに寝転がって見ていい?」

 それには、リリックも「どうぞどうぞ」と答えて、場所はいくらでもあるにもかかわらず、自分が寝ていた位置から少し移動した。そこにリリックの同室の子と、その子が連れていたリリックの知らない友達が寝転がった。

 それから、リリックの同室のオータムはニコニコしながら言った。

「リリックちゃんの気持ちが分かる。……ここに寝転がると、笑い出したくなるね」

 そう言うと、オータムの友達が突然に笑い出した。それをリリックが驚いて見ていると、少し間を空けてからオータムも笑い出した。先程リリックがしていたように人目もはばからずに大口を開けて笑い転げていた。リリックには、それが理解できずに呆然と眺めていた。リリックは寝転がらずに、ただ二人を見つめていたが、オータムがそれに気が付くと言った。

「リリックちゃんもとりあえず寝転がりなよ。じゃないと、始まらないよ?この笑いは」

 そう言われたから、リリックはオータムの言う通りなんとなく寝転がった。その時は少し緊張していた。オータムと知らないウマ娘の笑い声が、リリックの頭に鳴り響いていた。しかし、ようやって草の上に寝転んでいるうちに、今度は風ではなく何かの匂いが鼻を突いた。――何の匂いだろう?…そうやって鼻をすんすんとさせて匂いを嗅いでいるうちに、なんだか口角が上がってきた。けれど、笑いまでに立ち上がろうとはしなかった。横の二人は尚も笑い続けていた。その内、寝転がっているのに自分だけ笑っていないのが、なんだか気まずくなった。だから、居心地が悪そうに体をモジモジさせた。春風が、リリックの体に吹きつけたが、到底笑う気にはなれなかった。それでも、二人は笑い続けている。いい加減、リリックはこの場を抜け出したくなって言った。

「…帰っていいですか?」

 途端に二人の笑いが収まって、両方の顔がリリックの方を見つめてきたので、リリックは怯えた。しかし、オータムはリリックの怯えなど関係なしにこう言った。

「帰りたいんだったら、いつでも帰っていいよ。私たち、まだここで笑っていたいし。…ね?」

 そう言って、オータムは自分の友達の方を向いた。その友達は、「いいよ」と答えたが、体の半身を起こして、リリックをよく見ると言った。

「名前、何て言うんですか?」

「……ファーストリリックです…」

 そう答えると、青白い髪の子はふふっと笑って言った。

「私の名前は、イツモ。イツモちゃんって、オーたんは呼んでる」

 オーたんと呼ばれたオータムが、二人の間に挟まれて寝転がったままニコッと笑った。それから、イツモは続けて言った。

「リリーって呼んでいい?私の事も渾名で呼んでいいし、普通にイツモって呼んでいいから」

 それから、返答を誘うように首を傾げた。だから、リリックも言った。リリックは、実の所びっくりしていた。小学校の頃と同じ呼び方を、この子もしてくれるというのだから。そのためか、少しその子の事を警戒していたリリックの口からも簡単に言葉が出てきた。

「リリー…でいいです。…教室ってどこですか?」

「教室?…私は、Aの1だけど」

「よかった!…私もそうなんです。オータムさんもそうでしたよね?」

「…私もそうだけど…」

 そう言ったオータムの顔は少し怒ったように頬を膨らませていた。

「…私抜きで仲良くなろうだなんて、少し傲慢じゃなくって?…真ん中に私が居るんだから、私こそ真っ先に仲良くなるはずでしょ?…それなのに…オータムさん?ほらっ」

 そう掛け声を発すると、オータムはリリックの脇をくすぐり始めた。すると、突然のくすぐりに抵抗できず、かと言って抵抗しようにもそれ程仲が良くないので気が引けて、リリックはただくすぐられるのみとなった。イツモもオータムと一緒になってリリックの脇をくすぐっていた。だから、リリックはせめてイツモだけでもと思うと、笑いながらもその脇に手を伸ばして、くすぐるように突っついた。すると、「ひゃん!」と声が上がって、オータムが手を止めた。イツモは女性にしては声が低い方だったので、こんな声を出すとは思えなかった。

 イツモは、自身も信じられないという風に口に手を当てて黙っていた。それから、二人の視線に気が付くと、顔を赤くさせて「私~、脇が弱くって」と言った。途端に、オータムとリリックはにやりと笑った。そして、二人して一斉にイツモにとびかかった。今度は、イツモの甲高い笑い声が周囲に響き渡った。トレーニング場で、自分のウマ娘を指導していたトレーナーが思わず振り向いて、「元気なウマ娘がいるなぁ」と呟くくらいには、笑い転げていた。イツモをくすぐっていた二人もいつしか笑い転げていた。いつの間にか脇から手を放したのかは分からない。しかし、三人とももうすでに脇をくすぐられていないというのに、未だに笑い転げていた。

 すると、リリックには分かった。これが笑うと言う事だ。なぜ二人が笑っていたのか。それは、心底楽しいからだ。その事に考えが至ると、尚の事笑いが込み上げてきた。でも、何か叫びたくなって、三人で笑い転げている最中、こう叫んだ。

「楽しい!!」

 それはどこまで届いただろうか。大分、遠くまで聞こえたようにも感じたが、リリック一人だけにしか聞こえていないようにも感じた。実際に、他の二人はリリックの叫びなんてお構いなしに笑い転げていた。聞こえたか聞こえていないのか分からない叫びも、リリックの笑いに吸収されていった。それから、三人は、イツモが笑い疲れて、ぜぇぜぇ言って「もう帰ろう」というまで、笑い転げた。リリックはとっても楽しかった。

 その土手には、明るい夕日が差していた。その夕日を見て、リリックはその陽に自分の手をかざし、自分の手の血の赤さを眺めた。

 同じ時刻に田上は、自室の窓から校舎に隠れゆく夕日を眺めた。眉間に皺が寄っていた。それも、暫くするとため息をついて部屋のカーテンを閉めた。そして、部屋に明かりを灯した。



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十八、大阪杯まで①

十八、大阪杯まで

 

 次の日、三月二十六日の火曜日となった。大阪杯までは、あと五回寝るばかりだ。リリックの学校生活はまだ始まっていない。授業を受けるどころか、教室で顔を合わせる事すらしていないのだ。勿論、寮の中で歩けば、同じ学年の子や同じクラスの子が見つかるだろう。しかし、この先どうやっていけるのかも分からないまま、友達を作ろうというのはリリックには困難だった。だから、昨日、今後付き合いの長くなりそうな友達を作れたことはリリックには幸運だった。同室のオータムとは、以前よりもっと打ち解けて話しやすくなり、リリックにとっての日々のストレスが解消された。

 それは、リリックにとってストレスだったのだ。その事をオータムと仲良くなってから、リリックは気が付いた。これが他人との付き合い方だとリリックは思っていたが、そんな事はなく、ただの人見知りだった。これが、あと一月二月も立てば自然と仲良くなり、人見知りも気付かぬままに通り過ぎて行ったのだろう。――そうじゃなくてよかった、とリリックは思った。こうやって劇的に環境が変化してくれたおかげで自分を見つめ直すことができた。このまま、人見知りとしての自分に気づかぬうちに知らない人と関わって苦労するのなら、人見知りとしての自分に気が付いてそれに対処法を見つけたほうがやりやすかったのだろうと思った。

 今朝も寮の共有スペースでイツモを見つけることができた。短い髪を後ろで縛っている彼女に手を振ると、そちらの方も笑って手を振り返してくれた。それを見ると、リリックももっとにこやかになって、るんるんで朝の食事へと急いだ。イツモと食事をしようという考えは、初めから頭になかったが、食べている最中で誘っておけばよかったと思った。しかし、朝に共有スペースに居たイツモの様子を思い出すと、なんだか忙しそうに見えた。オータムもそのような感じだった。二人とも走れる人らしかったから、きっとトレーナーからの勧誘などで忙しいのだろう。そう思うと、また一口ご飯を食べた。

 

 リリックの今日の行き先は、トレーナー室と決まっていた。あそこで一日を過ごしてしまおうと決めた。寮の部屋に居たってスマホを見るばかりで特にすることもないし、トレーナーがいるのなら話し相手になってくれるだろうと思った。オータムは、そういう意味では役に立たない相手だった。部屋に居るときは専ら勉強をしている、優等生気質だった。――何が好きで勉強をしているんだか…。特に勉強が好きでないリリックは、オータムの事を少しバカにしていた。別にオータムの事を、真面目気取っているというような否定はしないのだが、熱心に勉強をしたって得られない物はたくさんある。というのがリリックの考えだった。仲良くなった今、この事について議論を持ち掛けてみてはどうか?とも思ったが、――熱心に勉強しているのなら、その邪魔はしないであげよう、と思い、わざわざ喧嘩を吹っ掛けるような真似は止めた。

 リリックは、トレーナー室の前に着いた。あんまりこの学園にも詳しくないので不安ではあったが、恐る恐るながらもそのドアをノックした。すると、中から田上であろう声が「どうぞ」と言ってきたので、ほっと一安心してドアを開けた。中には、金髪の綺麗なお姉さんと田上が椅子に座って待っていた。綺麗なお姉さんは、入って右側にあるソファーの近くに突っ立って、入ってきたリリックを見ていた。だから、リリックとマテリアルの目が合うと、マテリアルがニコッと笑いかけて「おはよう」と言ってきた。それにリリックも「おはようございます」と返した。

 それから、部屋の中に入って行くと、田上が言った。

「おはよう。…早かったな。……えっと、…何から話せばいいかな…」

「じゃあ、私からいいですか?」

 マテリアルが手を上げて意気揚々と言った。それに田上は「じゃあ、どうぞ」と返すとマテリアルがリリックに向かって言った。

「初めまして…ではないですが、私の名前は、ナツノマテリアルです。ファーストリリックさんですよね?名前は存じていますよ。…よろしくお願いします」

 そう言ってマテリアルが白く綺麗な手を差し出してきたから、リリックもその手を躊躇いながらも握り返した。すると、予想以上に肌がすべすべで驚いた。リリックは、暫くの間、マテリアルの手を放さずに、その手を見つめながら呆然と握っている方の手の親指でマテリアルの手の甲を擦り続けた。それにマテリアルは苦笑して言った。

「私の手がそんなに好きですか?」

 そう言われた途端に我に返って、こう返した。

「…いえ、…私の母の手ってもう少しごつごつして、汚かったんです。…だから、女の人の手って大体あんなものだと思っていたんですけど、…こんな手もあるんですね…」

 そう言いながら、またマテリアルの手を擦った。今度は、何を許されたのかと思ったのか、左手でマテリアルの右手を掴み、右手でマテリアルの手の平を丹念に触っていた。その二人の様子を見ていた田上は、何を見せられているのかと呆れて、そこから目を逸らした。その目を逸らした先は、回転する椅子をぐるりと巡らした窓の方で、窓の方を向けば色々なタキオンのグッズが目に映った。――これも片づけないとな…。窓から差す陽の光が、タキオンを模した大きい人形に影を落とし、それが田上の目に移りこんだ。しかし、田上は何の感慨も抱かずに、その目をまた部屋の方へと向けた。向けたところで、時間は十数秒しか経っていなかったので、状況は何ら変わっていなかった。だから、田上が言った。

「マテリアルさんの手もいいけど、俺が話もしてもいい?」

 そこでようやくリリックが慌てて手を放し、言った。

「タっ、タキオンさんは?」

「タキオンは、来るか来ないかは分からないけど、放課後にトレーナー室に来るようには連絡はつけた。…昨日は来なかったから、今日も来ないかもしれない」

 田上はそう言うと、一つ間を残してから言った。

「今は大阪杯間近だから、本人も戦意が高ぶってるのかもしれない。…集中したいんだったら、タキオンの好きなようにしてやるさ。…で、リリーさんの書類だ。ちょっと待っててくれ」

 そう言って田上は、自分のデスクの引き出しを開けて、がさごそと書類を探し始めた。そして、二、三枚の書類を取り出すと自分の席を立ってソファーの方に行き、リリーにもそこに座るように合図した。すると、マテリアルは、当然の様に田上のデスクの方に行き、田上の椅子にドカッと座って足を組んで、ソファーにいる二人の様子を眺め始めた。

 そのマテリアルの様子を見て、田上はふっと笑ってから、リリックに言った。

「これが契約の要項の紙で、これが色々書くやつ。それに、これが親御さんが書く用のだ。リリーさんがこんなに早く来ると思わなかったから、これの見本用のコピーをまだ印刷していない」

 リリックが、うんうんと頷いたのを見ると、田上がまた続けた。

「俺がこれから、見本用の奴をリリーさんとその親御さんの分を印刷してくるから、ここで何かして待っててくれ。…何かあれば、マテリアルさんにな」

 そう言うと、田上はソファーの前の低い机に広げた書類を集め直して、立ち上がって出て行った。すると、部屋は一気に静かになって、リリックにとっては気まずい沈黙が流れた。しかし、マテリアルにとっては違ったようだ。田上が出て行ってから少し黙った後、軽くこう聞いてきた。

「ファーストさん。私もリリーって呼んでいい?凄くおしゃれなあだ名だから、私も使ってみたい」

 リリックは、マテリアルが座っている田上の椅子に背を向ける形で、ソファーに座っていたのでマテリアルを見ようにも少しばかりの緊張であまり体を捻らせることができず、中途半端に後ろを向きながら「は、はあ…」と曖昧な返事をした。

 マテリアルにリリックが緊張しているのは、決して人見知りだから、という理由だけではなかった。あんまりにも綺麗なお姉さんだから、自分が酷くちっぽけに見えて、このぼさぼさの髪が情けなく思えたからだ。ただ、リリックには、美容の事なんて母に教えられたこともなく、友達からも聞いた事がなかったから、今更どうしていいのか分からずに手の出しようがなかった。その考えを知ってか知らずか。マテリアルは、立ち上がってリリックの向かいのソファーに座ると言った。

「リリーちゃんは、…髪とか、整えないの?せめて、櫛だけでもしたら綺麗な黒髪だと思うよ」

「えっ、…えっと…、ナツノさんは化粧ってどのくらいしているんですか?」

「私?私は、自慢じゃないけど、元の顔が良いから化粧なんてほとんどしてないよ」

 そう言いながら、マテリアルがにやっと笑った。どうやら、冗談のつもりのようだったが、それに反応するようなことはリリックにはできずに次の質問をした。

「……私って、化粧とかした方がいいですか?」

「化粧は、…してもしなくてもいいんじゃない?結局人それぞれなんだし、リリーちゃんは十分綺麗な顔をしていると思うよ?」

 そう言われると、リリックは小さく「ありがとうございます」とお礼をした。すると、次はマテリアルの方から聞いてきた。これは、リリックには少し鬱陶しかった。

「リリーちゃんは、好きな男の子が小学校に居たりした?それとも、この学園でかっこいいトレーナー見つけた?田上トレーナーとかどう?あの人独身だよ?」

「田上トレーナー?」

 少し嫌な顔をしながらも律儀に話に乗った。

「…田上トレーナーって、何歳ですか?」

「二十五だね。もっと年が近い方が好み?」

「いや、……あの人、四十くらいの顔してませんか?」

「え?…つまり、老け顔って事?」

 リリックの言葉を聞いて、マテリアルが一気にニヤニヤしだした。その様子にリリックは気が付いていたし、言ってる事も本人に聞かれたら不味い駄目な事だと分かっていたが、マテリアルの顔に流されてリリックはそれに「はい」と答えた。すると、マテリアルがハハハハと笑い出した。リリックは、他人の悪口を言って人を笑わせたのが良い事なのかどうか判別に迷って、とりあえず、マテリアルに合わせて自分も口の端を上げた。

 そこでガチャとトレーナー室のドアが開いて、リリックは飛び上がって驚いた。今のを聞かれていたら、どう弁明しようかと焦る頭で瞬時に考えた。しかし、入ってきたのはタキオンで、部屋に入ってくると不思議そうな顔をしながらこう尋ねた。

「何か可笑しい事でもあったのかい?」

 リリックに目を向け、マテリアルに目を向けて、タキオンはそう聞いていた。リリックは、当然、自分の失言とも言える代物を広めたくはなかったので、それには答えなかったが、代わりにマテリアルがタキオンに答えてしまって、その話を聞いている間冷や汗が止まらなかった。

 マテリアルは、こう言った。

「あのね。リリーちゃんが、…いや、タキオンさんは田上トレーナーの顔をどう思います?」

 タキオンが田上の事を好きだと知っているマテリアルがそう聞いてきたのだから、タキオンは喧嘩を売ってきているのかと思って、少し苛ついたがリリックの手前平然としてこう答えた。

「…まぁ、良からず悪しからずと言ったところだろうね。…まさか、君たち私のモルモット君の顔に点数つけて遊んでいたんじゃないだろうね?」

 タキオンが眉を寄せながらそう言うと、マテリアルも不味いと思ったのかリリックを庇いながら弁明した。

「いや、別に点数をつけてバカにしてたんじゃありませんよ。…ただ、リリーちゃんに――田上トレーナーが何歳くらいに見えるか?って聞いたら、――四十歳くらいに見えるって答えたから、笑ってたんです。事故ですよ、事故」

「ふぅん」とまだ怪しんでいるような声を出して、二人の顔を眺めたが、その顔から眼を話すと田上の椅子の方に歩いて行き、そこにドカッと座って言った。

「まぁ、ファースト君の言う事も分かるよ。確かに、彼、四十に見えるくらいに疲れた顔して、突っ立ってるんだから」

 すると、またドアがガチャと開いた。今度は、田上が入ってきた。タキオンの言葉の最後の方で入ってきたから、何か話してたまでは聞こえていても、何を話していのかまでは聞こえなかったようだ。だから、田上の椅子に座っているタキオンに聞いた。

「何か話してたのか?」

「…いや、君が四十歳に見えるってマテリアル君が…」

「えっ?」と田上が、まあまあ大きなショックを受けてマテリアルの方を見た。すると、マテリアルも何か言おうとしたのだが、それはぐっと堪えた。本当は、「私じゃなくて、リリーちゃんですよ!」と言いたかった所なのだが、こんな所で中学一年生を生贄にするのは、大人の立場として見過ごせなかったので、代わりにこう答えた。

「よ、四十って良いと思いますよ!男が出来上がる年齢です!ハリウッドの俳優だって、四十くらいのおじさんが一番かっこいいじゃないですか!」

 これは、上手く田上を黙らせることができたようだ。納得が行くには至らなかったが、有無を言わせない言葉選びだった。さすがの田上もハリウッド俳優を差し合いに出されたら、自分がその器でないと分かっていながらも黙る他はないだろう。だから、複雑そうな顔をしながらもソファーの前の低い机の前に行くと、膝をパキパキ言わせながらしゃがみこんだ。そして、リリックの方を見ながら二つの封筒を差し出した。二つとも油性ペンで文字が書かれていた。一つは、封筒に直に『ファーストリリック』と書いてあり、もう片方には封筒に養生テープで『保護者』と書かれていた。

 それを手に持ちながら田上は言った。

「これがリリーさんのだ」

 すると、突然にタキオンが口を挟んできた。

「リリーさん?君、いつの間に仲良くなったんだい?」

 それを言われると田上は鬱陶しそうに眉を寄せたが、事のあらましをタキオンに言っていなかったことに気が付くと今度は立ち上がってタキオンの方を向いて言った。

「そう言えば、タキオンさんには言ってなかったな。…リリーさんをスカウトした。今、トレーナー契約の準備をしてるところだ」

「んん?…私、君を怒らせるようなことをしたかい?君、いつもタキオンって私の事を呼んでただろ?」

「してない。俺が決めた。今までの距離が近すぎたから、今日からはお前と適切な距離を取っていこうと思う。以上だ」

 そうして、田上がまたリリックの方を向こうとしたから、タキオンが慌てて言った。

「ちょっと待った。…益々分からない。今までそんなこと気にして無かったろ?何で今頃?」

「気が変わったからだ。振り回してすまない。だけど、適切な距離を取らないと、今のままでは駄目だと感じた」

「何でダメなんだい?別に、これまで私が君を実験体として扱ってきて批判されたことはあったけど、距離の近さで批判されたことなんて一度もないよ?…それとも、いよいよ人が怖くなりだしたのかい?私でさえ怖いと?」

「………お前だから怖いんだ。これ以上、近づかないでほしいんだ。…これまで通り、お前のサポートは全力でするから、俺の事は放っておいてくれ」

「なら、そのサポートの一環として私の名前を従来の通りに呼びたまえ」

「なんで?」

「なんで?私がそう呼んでほしいからだよ。今まで通りの呼び方をして、私の名前を呼ぶ度に変な緊張が走らない方がいいだろ?少なくとも、君が今後その呼び方をするのなら、その度に私は君の事を睨みつけるよ」

 そう言われると、田上も何か反論しようと口を少し開けたが、それはすぐに閉じてしまった。そして、代わりに「分かったよ…」と消沈した声で言った。タキオンは、ふーっとため息を吐いて、田上から顔をそらして、田上の机の方に向かった。そして、暫く黙った後、田上の説明を受けているリリックに言った。

「リリー君」

 リリックは、話している田上とタキオンの呼びかけ、どちらに反応すればいいのか分からずに、首を中途半端に向きたいほうに動かしていたが、田上がタキオンの方を見たのを確認すると、自分もタキオンの方を向いた。リリックがタキオンの方を振り向くと、そのまま言った。

「君、今のを見ていただろ?このトレーナー、腕はそこそこに立つけど、このトレーナー程に不安定なトレーナーは居ないよ。それでも、君はこのトレーナーに教わりたいのかい?」

 その事にはリリックもちょうど迷っていた時だった。田上の話を聞きながら、自分がこの場に馴染めるのか不安になっていた。そこに助け舟なのか、ただの泥舟なのか分からない質問が飛び込んできた。ただ、この質問に答えようにも、自分の不安な心境を話してしまえば、田上の失礼になってしまう事極まりないのでリリックは答えられなかった。だから、苦し紛れに田上をチラッと見た。すると、田上と目が合い、聞いてきた。

「俺は、リリーさんを精一杯指導するつもりだけど、こうなってしまう可能性もあるかもしれない。また、このチームにいる以上、タキオンと俺がこうなってしまう場面が多々あるかもしれない。…俺もできるだけこうならないようには努めるが、避けられないものは避けられないだろう。別に、もうここを立ち去ってもいいけど、決めるのは、俺じゃなくてリリーさんだから煮るなり焼くなり、何でも言っていいよ」

 そう言われると、少し考え込んでから、今度はタキオンの方に体を向けると言った。

「タキオンさんは、なんで田上トレーナーと契約をしたんですか?」

「契約?…別になんら普通の人と変わらない、――モルモットとして使う代わりにトレーナーとして契約をしてあげるよ、という物だよ」

 普通の人と何ら変わらない、という大嘘を吐きながらもタキオンは、平然と自分の手の爪を見つめていた。

 それに、リリックは言った。

「じゃあ、今は研究をしていないと聞きましたが、それでも、田上トレーナーを師として仰いでいる理由は何ですか?」

「師ぃ…。ん~、そうだな。……そりゃあ、友達だからだ。と言ってもいいけど、それに特に意味はないね。今、トレーナーを探さねばならないとなったら、全然別のトレーナーを見つけてくるかもしれない」

「…そうですか…。じゃあ、田上トレーナーにタキオンって呼んでほしい理由って何ですか?」

「んん?面倒臭い質問ばかりするなぁ、君は。…そうだねぇ。…そりゃあ、トレーナー君に離れてってほしくないからだ。せっかく仲が良くなったのに、それをわざわざ故意に壊しに行くなんて勿体ないだろ?…そうだろ?トレーナー君」

 すると、田上は眉を寄せて「そうかもしれません」と答えた。その次にタキオンが言った。

「ほら、こんな調子だ。トレーナー君の下についたって意味がないかもしれないよ?」

「…そうかもしれません…。そうかもしれないんですけど…、分からないんです。…私の質問が悪いのかもしれません…。……じゃあ、タキオンさんは田上トレーナーの事が好きで田上トレーナーの下に居るんですか?」

「好き!?」

 リリックの言葉にタキオンの心臓と田上の心臓が一緒になって飛び上がったが、二人ともリリックの言葉に夢中になって、お互いの様子を観察する暇などなく、敢え無くお互いの好意に気付けそうな場面を見過ごしてしまった。その様子を見ていたマテリアルだけがクスクス笑って、大きな笑いを堪えていた。

 タキオンは、少々早口で言った。

「…まぁ、嫌いなことはないし、人として好きだから傍に居るわけだけど…」

「なんで、田上トレーナーの事が好きなんですか?――振り回して済まない、ってさっきトレーナーが言っていましたが、これまでもこういうことがあったんじゃないですか?すると、田上トレーナーはタキオンさんを振り回している屑男と言う事になりますよ?」

「屑男ぉ?」

 リリックから好きなのかと聞かれた時よりも素っ頓狂な声をタキオンは出した。それから、渋い顔をしながら言った。

「いや、トレーナー君は別に屑じゃないんだよ。金銭とかそういう物をせびったりしないし、私に頼って自堕落な生活を送っているわけでもないし…」

「でも、タキオンさんを振り回しているというのなら、それは浮気ばかりをして結婚しないで、――お前が本命だよ、ってずっと言っている屑彼氏と同じ物なんじゃないですか?」

「君も踏み込んだ物言いをするね。すぐそこにトレーナー君がいるんだよ?」

 田上は、リリックの心ない言葉の数々が、冗談事ではなく心に突き刺さってしまって、大分落ち込んでいたが、表面上は平然そうに取り繕って、リリックに次の言葉を促した。

「タキオンさん、答えてください。なぜ、屑彼氏をそれでも愛し続けるんですか?」

「屑彼氏屑彼氏って。…そりゃあ、トレーナー君は屑彼氏じゃないからね。少なくとも、自分からそうなりたくてなっているわけじゃない」

「無自覚にタキオンさんを傷つけているというわけですか?」

「傷付けて?……やっと分かった。君がなぜ分からないのかが。言葉という物には自分では気が付けない齟齬という物があるからね。君は、それが何なのか必死になって探していたんだよ。…つまり、こういうことだ。私は、トレーナー君に振り回されて傷付いていたりなんてしていない。その理由は後で話すが、先に君のことを言うと、君は私がてっきりトレーナー君に振り回されて傷ついていると思っていたのだが、様子を見てみるとどうも違う。平気そうだ。そう思ったわけだね?…すると、どうにも自分の認識と食い違っていて気になる。言葉にできない。本当は違うはずなのに、それが無意識下での出来事だから、それに気が付けない。だから、君は私に聞いて確認したかったはずだ。自分がてっきりこうなんだと思い込んでいたものが、実は違う可能性も秘めているんだ、という事を。そして、言葉を変えて議論を重ねて行くうちに、その言葉とあの言葉、つまり、屑彼氏と人を傷つけるという言葉が必ずしも繋がってはいない事に気が付いた。私がだけどね。…まぁ、私が説明せずとも君の中でも今の私の回答で決着がついただろう。あと二、三質問を重ねれば、君も議論を終えたはずだ。…今の話は、君に理解できたかな?」

「…ええっと、…あんまり…」

「じゃあ、簡潔に言おう。…要するに、君は屑彼氏の事を人を傷つける人の事だと思っていた。しかし、私を見ても分かるだろうし、トレーナー君を見ても分かるだろう。君の言う屑彼氏という物は、絶対に人を傷つける人ではなく、また、人を振り回す人は全員屑彼氏というのも間違いで、君の中に存在する偏見と差別によって、可哀想にトレーナー君は屑彼氏呼ばわりされてしまったわけだ。…トレーナー君を見てごらん。あんな風に平然としているわけだが、心の内では相当に傷付いているはずだ。自分の偏見と差別によって田上トレーナーの事を傷付けてしまいました。ごめんなさい。と謝りたまえ。無礼な餓鬼は嫌いだよ」

 タキオンは、そう言い切ると、リリックから目を背け再び自分の爪を見つめ始めた。だから、リリックは田上の方を怯えながらも向いて、「ごめんなさい」と頭を下げた。それで田上が何も言わなかったので、リリックも頭を上げるに上げれず、小刻みに揺らしながら恐る恐るその顔を窺った。そして、田上と目が合うと、田上が「いいよ」と返したので、今度は「ありがとうございます」と返した。

 実は、タキオンが話している最中に朝の集いのチャイムが鳴っていたのだが、タキオンがチャイムを流して話し続けたので、それは何だか有耶無耶になっていた。タキオンは、自分が遅れていることに気が付いていはいたが、元々、授業の事を気にしていない性質だったし、最悪、朝の集いなど遅れても問題はないと思っていたから、余裕綽々と田上の椅子に座ってリリックと田上を眺めていた。

 タキオンは、そこで話は終わりと思っていたのだが、なぜ傷付いていないのか?という事について話すことをすっかり忘れていた。だから、田上とのやり取りを終えて気を取り直したリリックが言った。

「…タキオンさんは、なぜ傷付かないんですか?」

「おや!それの事について話すのを忘れていたねぇ。…まぁ、ホントの事言うと、少しは傷ついてるさ。少しは」

 そう言って、タキオンはからかっているのか責めているのか分からない目付きで田上を見つめた。

「バレンタインの時なんかは酷かったねぇ。…君は私の事をないがしろにして、あたかも友達でも何でもないというような口をきいたね。…まるで、ついさっきの君のようだ」

「…ごめん」と田上が口を挟んだが、タキオンはそれを無視して続けた。

「そして、死んでもいいと言ったね。…まぁ、あの時の様子じゃ、死にたいと同じ意味だろう。…これも十分傷付いたな。…リリー君、君には私が何で傷付いたか分かるかな?」

「え?…えっと、…死んでほしくないから?」

「まぁ、半分正解だ。もう半分はね…。トレーナー君、君には分かるかな?」

「……いや、分からない」

「分からないだろう。君は今も変わっていないようだから。…正解は、目の前に居るであろう私の事をちっとも気にかけていないからだよ。…トレーナー君、私の事が見えてるかい?」

「…見えてないことはないよ」

「なら、私の努力はちっとも報われそうにないね。……君、立って」

 突然、タキオンはそう言うと、自分も立ち上がり田上の所に歩み寄った。田上は、ずっとしゃがませていて強張った足を少しフラフラさせながら立ち上がった。そして、タキオンと向き合った。

 タキオンの方に向き合った後も、タキオンは歩みを止める気配がなかったから、――もしかしたら抱きついてくるのかも、と少し身構えたが、そんな事はなく、ただ田上の両手を取って、その手を持ち上げて親指で円を描くように擦りながら言った。

「どうやったら、君は落ち着くんだろう。…頭を撫でてあげようか?」

「いやだ」と田上が即座に答えると、タキオンは口角をニヤリと上げて言った。

「今の言葉は、本気じゃなかったんだが、君の答えを聞くと俄然やる気が上がったね。ほら、頭を下げたまえ。もう少し撫でやすい位置に頭を置くんだ」

 タキオンがそう言うと、田上が頭を下げる前より先に、その首根っこを掴んでタキオンの肩まで頭を下げさせたので、田上は膝は半端に曲げて変な体勢になった。これをマテリアルやリリックに見られていると思うと、田上は恥ずかしくなって一つもがいてみたが、これはものの見事にウマ娘の腕力に封じ込められてしまった。だから、田上は首根っこを掴まれて恥ずかしい体勢ながらも、大人しく頭を撫でられることになった。

 タキオンの肩に頭を抱えられていたので、その髪の毛が田上の顔をくすぐった。タキオンの跳ねた髪が顔に刺さってチクチクと痛かった。そのせいがあってかなくてか、タキオンの頭撫でが下手なのか、田上は到底落ち着きそうにはなかった。少なくとも、寮の部屋に帰って布団で寝たほうが、まだ落ち着いた。

 タキオンの方こそ、自分は頭を撫でられていないというのに目を瞑ってうっとりしているようだった。時折、鼻を鳴らして田上のうなじの匂いを嗅いでいるようだった。それを田上は不快に思って、もう一度もがいた。すると、タキオンが優しく言った。

「あんまり抵抗するんじゃないよ。気持ちいいかい?君の頭を今撫でているんだよ」

 その猫を撫でるときのような声を聞くと、田上の不快感は増し、段々と怒りに変わっていった。しかし、ここで怒鳴るわけにもいかないので、低く呟いた。

「自分が中心で世界はできてるのか?」

「え?」

 聞き取れなかったのか、タキオンが聞き返してきた。すると、隙ができて腕が緩んだので、するりと田上はタキオンの手から頭を抜け出した。

「あっ」とタキオンは、縋るように田上の頭に手を伸ばしたが、田上はその手を掴み無理矢理下ろさせた。タキオンは、田上のいつもの様子と違うのを感じ取ったのか、無理矢理下ろされたのに抵抗しなかった。

 田上は、下ろしたタキオンの手を放すと、何かを言いたそうに暫くタキオンの顔を見つめていたが、やがて目を逸らすとリリックの方に向き直って、しゃがみこんだ。そして、淡々と「封筒がこれでこう」と説明を始めた。この部屋には、息の吐けない空気が流れた。誰もが息を飲み、田上をタキオンを見守っていた。タキオンは、自分を無視して話を始めたこの冴えない男の後頭部を蹴り飛ばしたくなったが、それは手を握ったり開いたりを何回も繰り返して我慢した。そして、代わりに暇そうなマテリアルに言った。

「紅茶はいるかい?」

 すると、マテリアルが「…タキオンさんは、教室の方には行かないんですか?」と母親のような事を言ってきたので、鬱陶しそうにしかめっ面をして言った。

「行く気にはなれないね」

「……じゃあ、頂きます」

 マテリアルは、不思議そうな顔をしながら言った。――私が怒っていることも、トレーナー君が怒っていることも全部わかっているくせに、飄々としやがって。タキオンは、紅茶を淹れる支度をしながらそう思った。そして、そうやって苛ついて注意を疎かにしたせいか、カップを一つ落としてしまった。

パリン

 陶器の白いカップの砕け散る音が聞こえた。後ろで全員が振り向いたであろうことが、タキオンには感じ取れた。タキオンは、無表情で下に落ちてしまったカップを見やった。――元々、ひびの入っていたカップだった。そう思うと、タキオンは自分の心を静めようとしたが、どうにもしゃがみこんでそれを拾う気にはなれなかった。だから、下を向いたまま、何かが動くのを待った。

 カップが割れてから一番初めに動いたのは田上だった。ふーっとため息を吐くと、膝を鳴らしながら立ち上がってタキオンの方に行った。そして、「どいてろ」と言うとタキオンを横に押しのけて床に落ちた陶器の破片を拾い始めた。タキオンは、魂の抜けた人形のようになってそこに突っ立って窓の方を見ていた。すると、窓の下の所に自分のグッズが並べられてあるのに気が付いた。無性に叩き潰したくなった。――可笑しくもないのに笑いやがって。行き場のない憎しみが人形たちに沸々と湧いて出た。すると、陶器を拾い終わった田上がタキオンの方から腕を伸ばして、その中でも一際小さく不細工な人形の前に、その人形に見合った大きさの陶器の欠片を置いた。何を入れるでもない、カップなんて原形も留めていないただの欠片だった。だが、それを見ると、なんだか心のわだかまりが解けて、タキオンの顔に生気が戻った。それで、急いで田上の方を見やった。田上は、集めた陶器を机の上に並べて、どう処分しようかと思案しているようだった。その時の田上は、なんだか話しかけやすそうに見えたので、タキオンは聞いた。

「それはどうするんだい?」

 少し怯えが混じってしまったのはどうしようもなかった。だが、その怯えには気が付いていない様子で田上は言った。

「これを紙に包んで不燃ごみの所に持っていくかな…。……うん」

「それを持っていくときは私が同行してもいいかな?」

「タキオンが?…何でお前が来るんだよ」

「別にいいだろ?ついて行って何かあるわけでもないし」

「じゃあ、ここに取っておくから、お前が持っていけよ」

「えーー?一緒に行かないのかい?」

「お前が行くんだったら俺はいかなくていいだろ。これは業務外だ。一々、お前の言う事に付き合う義理はない」

「でも、お弁当は作っていたじゃないか」

「それとこれとは別だ!…うるさいからもう黙っててくれ!」

 リリックとマテリアルは、田上たちを迷いながらも静かに見つめていた。

 田上が噛みつくように言うと、それでもタキオンは意に介さないように言った。

「君、また私を拒絶したがっているだろ?また同じ過ちを繰り返すのかい?」

「うるさいなぁ!そもそも、元々は薬を飲む飲ませるくらいの関係だったはずだ!なのにお前は何だ!君を助けたいだの、救いたいだのと抜かして、あたかも俺が間違っているかのように仕向けてくる!違う!違うんだ!元々は違ったんだ!ああ、嫌だ!あれからだ!あの時から駄目だったんだ!…お前と居ると気が狂いそうになる…」

 この言葉に唾を飲んでマテリアルがタキオンを見つめた。タキオンは、焦点のあっていない目で田上を見つめていた。そして、「私か…」と一言呟くと、ドアを開けて部屋から出て行った。その様子を珍しく眉間に皺を寄せてマテリアルが見ていた。それは、悲しみを堪えるようにして出た表情だった。田上の心はあまりに重く救いようがなさそうだという事がマテリアルには感じ取れた。同様に、いや、それ以上にタキオンも感じ取っただろう。今初めて、救いようのない田上の心に打ちのめされた。田上は、突っ立ったまま動かずマテリアルたちからは顔が見えなかった。ただ、田上の向こうの窓から見える外の光が、春陽々としていて眩しい事だけが分かった。

 リリックは、部屋を出て行くときのタキオンの表情が気がかりで居ても立ってもいらなかった。しかし、立ちあがろうにも雰囲気がそれを許さず、マテリアルが何かを言ってくれるように必死にキョロキョロしながら見つめていた。マテリアルは、じっと動かずに眉を寄せて田上の背を見つめていた。しかし、リリックが助けを求めるようにキョロキョロしているのを見ると言った。

「トイレ?」

「そうですトイレです!行ってきます!」

 マテリアルから格好の口実を貰うと、リリックはすぐさま部屋を飛び出し、憧れの先輩を追いかけに行った。



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十八、大阪杯まで②

 憧れの先輩の背中は、廊下の左の遠くの方に見えた。もう遠くに離れていたが、自分の教室に向かうような素振りは見せていなかった。ただ真っ直ぐに、校舎の外の光の射す方へと向かっていた。リリックは、それを後ろから見つめながら懸命に追いかけた。それには、一生かかっても追い付けないように思えたが、案外簡単にその背中は自分に近づいてきた。その事に少し驚きつつも、リリックはその背中に近づいて「タキオン先輩」と声をかけた。

「君に先輩と呼ばれる筋合いはないよ」と答えたタキオンの口調は気落ちしていたものの、いくらか平然としているように聞こえた。そうすると、リリックも少し戸惑ったが、次にこう聞いた。

「先輩って、...トレーナーの事が好きなんですか?」

「...さっきも言ったはずだよ。嫌いじゃないって...」

「そういうことじゃなくて、異性として好きか?ってことです」

「...なら、私は再び同じように言うだろう。嫌いじゃないって」

「それは、好きって事なんですか?」

 人気のない廊下にリリックの声が響いたように感じた。だから、タキオンは鬱陶しそうに振り向いて言った。

「あんまり大きな声で話すな。...外に行って話をしよう」

 リリックは、静かに頷いてタキオンの隣に進んだ。そして、すぐそこの開いた扉から春の朝の陽光の下にタキオンたちは足を踏みいれた。

 

 扉からは草の生えていない石畳が右の方に続いていたが、タキオンはそちらの方には進まず、左手の校庭の端の方へと足を進めた。タキオンは、校庭の端にあるベンチに座ってから話を始めようと思っていたのだが、リリックが待ちきれなかったのか口を開いて聞いてきた。

「トレーナーのどんな所が好きなんですか?」

 その言葉にタキオンは眉を寄せて見やることで返答をしたつもりだったが、リリックはタキオンが返答に悩んでいると思っているのか、一向に目を逸らそうとしなかった。だから、タキオンは仕方なく話を始めた。

「君に一つ言いたいことは、トレーナーと言うのは止めてほしいということだ。これからは、あの人この人と曖昧にして話してほしい」

 リリックは、素直に「はい」と頷いた。それから、タキオンは話を続けた。

「...まぁ、あの人のどんな所が好きか考えた事はあるけど、君に話したってしょうがないからなぁ」

「...じゃあ、それについては答えなくていいです。...なら、あの人って物凄く屑じゃないですか?仲のいい人にーーお前といると気が狂いそうになる、だなんて大の男が言うことじゃないですよね」

「それを好きと言っている相手に賛同を求めるのかい」

 タキオンが、少し責めるように言ったが、リリックは意に介さず「どうなんですか?」と聞いてきた。すると、タキオンの怒る気も失せて、困った顔をして言った。

「君もつい先日までは、トレーナー君みたいにおどおどしてたのにいつの間にそんなに物を言うようになったんだい?」

「これが、元々の私です。年上だろうと年下だろうと、間違った事や疑問があれば私は地の果てまでもそれを追求します」

 すると、タキオンは「若いねぇ...」と呟いてから言った。

「あの人は屑じゃないってさっきも言っただろ?」

「でも、先輩は傷ついていませんでしたか?傷付くってのは不幸な事じゃないんですか?」

「ええ?まったく、君も面倒臭いね。もう少し大人しければ、こっちもやり易いんだが...。...私が傷付いている以上に向こうは傷付いていると思うよ」

「何でですか?」

「何で?たまには、君も考えてみてごらん。何で、向こうの方が傷付いているか」

「いえ、私が言いたいのは、何で先輩は傷付いているのにそんなにあの人の事を気にするんですか?」

 ここで、ようやくタキオンの目指していたベンチに到着したので、リリックにも座るよう促しつつ自分も座った。ベンチは、春の朝の冷たさを孕んでいて、初めに座った時に濡れているのかと思って、思わず立ち上がってしまった。その様子を見てリリックが笑いながら、「大丈夫ですよ」と言った。

 それから、また話は続いた。

 まず、タキオンが言った。

「で、何の話だったかな?」

「とぼけないでください。何であの人の事を気にかけるのか?ですよ。私には、あの人を好いたって不幸になる未来しか見えません。大阪杯なんて、動揺して勝てる物なんですか?」

「大阪杯は心配要らないよ。トレーニングもしたし、何とかするさ。これで、私が負けたとあっちゃ、あの人は自分の事を責め立てるだろうしね。私は負けられないよ」

「それです!それですよ!先輩優しすぎるんです!あの人の事なんて簡単に見捨ててくださいよ。そっちの方が絶対にタキオンさんにとって幸せですよ」

「何が幸せかは、私の決める事だ」

 タキオンが反論すると、すぐさまリリックが返した。

「じゃあ、タキオンさんは今は幸せなんですか?はっきりと私は今幸せで幸せで堪りませんって言えるんですか?」

「そりゃあ…、言えないさ」

「ほら、言えないじゃないですか!」

「でもね、話を最後まで聞きたまえ。…でもね、私は、彼を見てしまったんだよ。一度、彼と仲良くなってしまったんだよ。すると、君は、仲の良い親友とも呼べる友達の事を見捨てるというのかい?」

「時にはそうした方が幸せな時があるんじゃないですか?」

「時には?君は当事者じゃないからそんな事が言えるんだ。いいかい?親友だよ。心の底から大切にしている友達だよ。その友達を君は、面倒臭いから捨てて逃げるって言うんだ。分からないのかい?」

「分かりません。それは、自分の幸せを捨ててまでも成すべきことなんでしょうか?」

「大概の人は、幸せなんて目の当たりにしたことがないよ。トレーナー君もそうだ。君もそうだ。恐らく、幸せが何たるかを分かっていないから、そんな事を言うんだろう。…いいかい?幸せって言うのは、ちょっとやそっとじゃ手に入らない物なんだ。幸せがそこらへんに転がっていると思うかい?幸せが簡単に手に入ると思うかい?道端の石が不図した瞬間に気が付いたら、幸せに変わっていました、何て歌を聞いた事があるけどね。私に言わせてみりゃ、そんな舐めた態度で幸せをつかもうっていうんなら出直してきたほうが良いね。 幸せっていう物を手に入れるには、惜しみない努力と愛が必要不可欠なんだよ。道端の石ころが幸せに変わってるんだったら、今頃世界中は幸せだらけだよ。…なのに、なんで世界中の人が幸せじゃないのか分かるかい?今も、世界のどこかで戦争だったり喧嘩だったり殺人だったりが起きてるよ?その人たちに君はわざわざ――幸せですか?と聞きに行くのかい?いかないだろう?それは、目に見えて幸せじゃないことが分かっているからだ。そして、この世の浅い所には、幸せそうに見えて幸せじゃない人たちがいっぱい転がっている。私もそうかもしれない。彼と居れればそれでいいんだと願い続けているけど、一向にそれは叶いそうにない。彼は私を拒絶し続ける。しかしね、私はそれでも進み続けなくちゃならないんだ。自らの幸せを掴むため、見捨てていった友を後悔しないため、私は進み続けるんだよ!」

 タキオンの熱弁にリリックは圧倒されて、暫く口を開いても言葉が出てこなかった。そして、ようやっと絞り出した言葉はこうだった。

「......すみませんでした」

「分かったならいい。…それに私も言葉にしてみて分かったことがあるよ」

「何ですか?」

「ん?…私は、愛とか恋とかそれ以前に、後悔したくなかったんだ。彼を見捨ててしまえば、絶対にそれ以後の私の人生に後悔が付きまとうだろう。それは、もしかしたら時が経てば薄れていくものかもしれないが、私は今を生きているんだ。今、想像しうる未来があって、それがもし後悔だというのならば、私はそれを避けたい。後悔が嫌というわけではないんだ。ただ、それには愛も絡んできて、あの時こうしていれば…なんて苦痛に私は抗うことができない」

 そう言うと、タキオンはバカみたいに広いトレセン学園の校庭を眺めた。校舎もバカみたいにでかいのだ。校庭もバカみたいに広いだろう。その校庭に少し冷たいが、心地の良い風が吹いた。そして、二人は暫く黙って校庭を眺めていた。景色は、青空に伸びる雲以外は何も変わらなった。すると、突然リリックが「ん~」と考え込むように言った。

「タキオンさんは、これからどこに行くんですか?」

「んん?…そうだなぁ、トレーナー君の所に戻ってみるかなぁ…」

「……怖いですか?」

「んん?怖くは…ないさ。…ちょっと戻りづらいかな?ってくらいで」

「それを怖いって言うんじゃないですか?」

「怖くても進まねばならないときがあるさ。…今が、その時だ。さぁ、立とう!」

 タキオンはそう言って、えいえいと立ち上がった。そして、一緒に立ち上がったリリックの方を向くと言った。

「私の事を追いかけてきてくれてありがとうねぇ。…君も私のモルモット君になるかい?」

「嫌です」とリリックがはっきり答えると、ハハハとタキオンが笑った。

「本当は、彼の方が追いかけてきてくれるべきだったんだ。それなのに、君はなぜ私の事を追いかけてくれたんだい?大して仲は良くないだろう?」

「それは…、私がタキオンさんが心配だっただけです。凄く悲しそうな顔をしていたから」

「ふむ…。となると君もトレーナー君に似て相当なお人よしのようだね」

「似てるんですか?」

「ああ、似てるとも。危ういところも似ているように感じたんだけどね。今はそうでもないようだ。…それとも、レースになると安定さを欠くのかな?」

 すると、タキオンの言葉に動揺して、リリックが「あ、ああ、…はい」としどろもどろになりながら答えた。その様子を見てタキオンが、ハッハッハと笑った。

「君、トレーナー君の下につくのだろう?」

「……はい」

「なら、心配はいらないさ。やるときはやる男だよ、トレーナー君は」

 すると、リリックが恐る恐るながらもニヤリと笑って言った。

「そんな所が好きなんですか?」

「あ!その顔!カフェにも似てるよ!く~、憎たらしい奴だな!たった十歳ちょっとにこんな美味しいネタ持たせるんじゃなかった。…いいかい。絶対に、絶対に私以外に他言するんじゃないぞ。もし他の人に言ったら、君の足の骨を再起不能なまでに叩き折ってやるからな!ホントだぞ!」

 タキオンが、言ってしまえば本当に足を折ってきそうな必死の形相でリリックにそう言ったから、リリックも思わず「はい」と頷いて、――絶対に言わないと心に誓った。

 そして、二人はトレーナー室の方へと向かった。

 

 廊下は、静寂に包まれていてタツタツと歩くタキオンたちの足音が妙に響いて聞こえた。そんな中をタキオンたちは進みトレーナー室のドアを開けた。

 開口一番にタキオンはこう言った。

「トレーナー君、しっかりと気は保っているかい?」

 タキオンは、田上が落ち込んだりして、もしかしたら、出て行った時と変わらないままに過ごしているかとも思っていたが、案外、田上は自分の机に座っていた。ただ、やっぱりタキオンが入ってくると動揺したのか、背筋を伸ばして不安そうな目付きでタキオンの方を見た。

 田上と目が合うと、タキオンは次にこう言った。

「私が、助けに来た!」

 リリックも入ってきて、トレーナー室のドアを閉めてソファーに座った。そして、タキオンと田上のやり取りを観戦し始めた。

 田上は、助けに来たと言ったタキオンに、眉を寄せて言った。

「助けてほしいなんて言ってない」

「いや、言ってた。君の心が」

「言ってたとしても助けなんて欲しくない」

「じゃあ、私が出て行く前に言ったように、気が狂いそうになって仕方がないのかい?」

 この質問には、田上は目を伏せながら「ああ」と答えた。

「それは、少し悲しいけど、私と居て気が狂いそうになるからそれから逃げるだなんてこと、私は見逃せないな。徹底的に原因究明をしないと」

「それが嫌なんだ」

「でも、そうでもしないと、君の気が狂うよ?」

「原因究明くらい自分でできる…」

「お!大きく出たね。…それじゃあ、私の協力は必要ないと?」

 マテリアルが、リリックの向かいのソファーで紅茶を啜る音が聞こえた。しかし、その音は二人には聞こえず、議論は続いた。

「ああ、お前の協力は必要ない」

「う~ん、そう言われると困ったね。私の出る幕がない。…本当に自分で解決できるのかい?決して、自分の心から目を背けないと誓えるかい?」

 田上は、少し躊躇ってから「ああ」と頷いた。

「…う~ん、…少しだけでも私を頼ってくれないかな?君には、荷が重すぎると思うんだ」

「バカにしてるのか」

「いやいや、バカになんてしてないさ。…ただ、私を遠ざけたいばかりに自分から孤独に飛び込もうとしている憐れな男を見逃せなくてね」

「やっぱりバカにしてるだろ」

「いや、私は君を放っておけなくてね。居るだろ?世の中には可愛くて可愛くて放っておけない男という物が。そして、それが私にとっては君なんだよ」

「俺は可愛くなんかない」

「私にとっては可愛い坊やさ。それとも、かっこいい坊や、と言った方がいいのかい?どっちなんだい?圭一坊や」

「バカにするな」

 すると、タキオンがハハハと笑った。

「すまない。今のは少しバカにした。でも、私にとっての可愛い坊やってのは本当だよ。…可愛い坊やは、何でも嫌々言う時期に入ったのかな?」

「入ってない」

「なら、お母さんに甘えたりはしないのかい?」

「お前は、母さんじゃない」

「そう、それだ。なら、私は君にとって何なんだい?」

「教え子」と田上。

「もう一声」とタキオン。

 そして、「ない」と田上。

 途端にリリックがハハハハと笑った。そして、二人がこちらを見ているのに気が付くと、慌てて口をつぐんで「続けてどうぞ」と言った。

「リリー君もこう言っているんだ。もっと、議論を重ねよう」

「…お前、授業は」

「そんなものとっくに念頭にないね。今は君だ。…君が、私の助けに素直にはいと頷けば、私はもっと早く授業に出れるのになぁ」

 そう言うと、田上の心が動かされたのか何なのか、今日、初めて心の内を明かした。

「……どうすればいいか分からないんだ」

「何がだい?」

「助けを受け取ると言ったって、そんな簡単なものじゃないんだ。ただ、手を取るだけだったら俺もそうするさ。…だけど、俺はこんな時にどう助けを借りたらいいか分からない。方法が分からないんだ」

「その方法を教えたら、君は私の助けを受け取るのかい?」

「…分からない」

 田上が俯いて答えると、タキオンも「ふぅん」と言って少し考えてから言った。

「とりあえず、私の手を取ってみようよ。私の手を取るだけでいい。それから、一言言うんだ。――タキオン、って。それ以外は言わなくていい。…やってみるかい?」

 田上は、恐る恐る頷いた。

「よし、じゃあ私の手を取ってみてくれ」

 タキオンは、座っている田上の前に寄ると、手の平を差し出した。田上は、その手を見つめたまま、その手を取るか迷った。細く白く綺麗で、母以外で初めて田上の印象に強く残ろうとしている女性の手だった。――女性の手。そう思うと、田上は自分の事が気持ち悪く感じられた。まるで、心底いやらしい小汚い男のように感じた。次に田上は、タキオンの顔を見た。「どうしたの?」と言うようにタキオンは顔を傾げた。それを見ると、田上は笑いそうになったのだが、笑っていいのかも分からなくなって、微かに上げた口角をすぐに下げた。

 すると、タキオンが言った。

「怖いかい?」

「…ああ」

 タキオンは、にやっと笑った。

「正直でいいね。…実は私も少し怖いんだ」

「…何で?」

「…君の手を握ってしまえば、私は君を絶対に助けないといけないだろう?別に、それが嫌なわけじゃないんだ。ただ、本当に君を助け出せるかどうかが不安なんだ」

 タキオンがそう言うと、田上は再びその手を見つめた。今度は、少し震えているように見えた。そこで、タキオンの声が聞こえた。

「さあ」

 その声を聞くと、田上も意を決してタキオンの手を掴み立ち上がった。二人は、机越しに固い握手を交わした。そして、田上は一言「タキオン」と呼び掛け、二言目に「タキオン」と呼びかけ、三言目に「タキオン」と呼び掛けた。タキオンは、その度に「ああ…ああ!…ああ!!」と返事をした。それから、感極まってしまったのかタキオンは田上と手を繋いだまま机を回り込んでその傍に寄ろうとした。しかし、そうすると田上は急いでタキオンの手を振り払って、タキオンと反対の方に机の周りを回った。

 タキオンが言った。

「なんで逃げるんだい!」

 田上が答えた。

「人が怖いからだよ。助けろ!」

 また、タキオンが言った。

「逃げられちゃ助けられないじゃないか!」

 すると、また、田上が答えた。

「逃げても男くらい捕まえられるだろ?ウマ娘なんだし。さぁ、俺を助けろ!」

「じゃあ、そこで待っててよ」とタキオンが言いながら、机を右に回ると田上も右に回って距離を取った。タキオンは、口を笑いに歪ませながら言った。

「ちょ、ちょっと君、助けろと言っておきながら逃げるなんてどういうつもりだい?」

「いやいや、逃げるのが俺の性なんだ。そのくらい捕まえられないでどうする!さぁ、俺を助けろ!机の上の物は落とさずにな」

 すると、そこで小さな追いかけっこが始まった。タキオンが右に行こうとして、左に行く騙し打ちをしたり、純粋に後ろからひたすら追いかけたり、机の上から手を伸ばして田上を掴もうとしたり。色んな事をタキオンは試したが、田上はよくよく逃げた。まるで、子供の様に笑いながら、息を切らして逃げていた。しかし、事はあっけなく終わった。

 机の上には、割れた陶器の欠片があった。タキオンは、田上を追いかけるのに夢中でそれの事をすっかり忘れていた。だから、田上に騙し打ちを再び仕掛けようと、机の端を掴んだ瞬間、陶器の欠片ごと掴んでしまって「痛っ」と声を上げた。田上は、「大丈夫か?」と駆け寄って行ったのだが、その心配をよそにタキオンは田上のシャツを掴み「捕まえた」とニヤリと笑った。それに田上は苦笑しながらも言った。

「お前、手から血が出てるぞ」

「手当したまえ。君が、無意味に逃げたせいでこうなった」

「そりゃあ、すまん」

 タキオンの言葉で田上が、予想外に落ち込んでしまったので、タキオンが慌てて言った。

「別に君を責めるつもりはないさ。ちょっとした冗談だよ。全部自分でするから」

 タキオンはそう言ったが、そうするまえに田上が棚から絆創膏を持って来て、タキオンに渡してきた。

「あ、ああ…、ありがとう」

 タキオンは、戸惑いながらもそれを受け取った。すると、田上が言った。

「絆創膏も貼ってあげようか?」

 もう渡してきた後だったし、いつもの田上にしては珍しい子供のような口調だったから、タキオンはさらに戸惑った。しかし、「ああ、よろしく頼むよ」とだけは答えた。田上は、少し笑いを我慢するような変な口の形をしながら、タキオンに絆創膏を貼った。リリックも隣に来てそれを見ていた。マテリアルは、相変わらず紅茶を飲んでいたが、その顔はニコニコとしていた。

 血が垂れていたので、絆創膏を貼る前にその血をティッシュで拭きとった。その時の田上の頭は、タキオンの手を握っているドキドキで満たされていた。タキオンも田上程のドキドキではないが、同様に好きな相手に手を握られてドキドキしていた。すると、リリックがその顔を見てニヤニヤしていたから、タキオンは「なんだい!」と噛みつくように言った。

 田上は、丁寧に血を拭いた後、これまた丁寧に絆創膏を貼った。それが、なんだかくすぐったくてタキオンは笑いを堪え切れずに「ふふっ」と口の端から笑いを漏らしてしまった。すると、またリリックがニヤニヤしていたから、今度は「足の骨折るぞ!」と脅した。リリックは、少し怯えた様に眉を寄せて、「折らないでほしいです」と言った。その言葉に田上も言った。

「そうだ。リリーさんは、俺の担当なんだから足を折らないでくれ」

「…ふむ。ありがとう」

 ここで田上が絆創膏を貼り終えた。そして、そのまま続けてリリックに言った。

「今一度聞きたいが、君は本当にトレーナー君でいいんだね?あの時はトレーナー君が封筒の事を勝手に説明していたが、君の答えは聞いていなかった」

「私は、面白そうだからいいですよ。全然、大丈夫ですし、タキオンさんが――トレーナー君はやる時はやる男だからって言ってたから」

 これは、明らかにからかいが含まれていたが、田上はそれに気が付かず変に照れた口調でタキオンに「ありがとう」と言った。すると、タキオンは顔を赤くさせてリリックを睨みつけてから、田上に「別に本当の事を言ったまでさ」と返した。リリックは、――いつか本当に足の骨を折られそうだなぁ…と思いながらも、ニコニコとニヤニヤと二人の様子を見ていた。

 そこで遠くで紅茶のカップを空にしたマテリアルがリリックに向かって言った。

「この二人って面白いでしょう?面白いから、この人の補佐を止められないんですよ。…どこまで突き進んでいくのか、見てみたいですよね」

 リリックは、その言葉に嬉しそうに「はい」と頷いた。この場面では影の薄かったマテリアルだったが、その座っているだけの存在は、田上とタキオンに置いてけぼりにされそうになっているリリックにとって、大きな支えとなった。これからもそうなるだろう。マテリアルは、田上トレーナーの補佐として十分すぎる程優秀だった。



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十八、大阪杯まで③

 それから、その日は過ぎていった。タキオンは、一時間目の授業をかっ飛ばし、二時間目の授業を蹴っ飛ばしながらも、リリックとマテリアルと楽しく会話を弾ませて、時折、大きな声を立てて騒いだ。それも三時間目の授業になると、タキオンは出て行った。

 タキオンは、出て行くときに今まで全く話していなかった田上に目を向けた。そして、何も話さないまま、口角を少し上げ、ちょこちょこっと手を振った。田上も同じようにして手を振り、そして、二人は笑い合い、別れた。タキオンは、ドアを閉めて出て行った。その後を田上は暫く見つめた後、はぁとため息を吐いた。

 その様子をリリックもマテリアルも見つめていた。田上が、タキオンと手を振り合って、笑い合って本当に嬉しそうなのを見ていた。すると、リリックは思わず言った。

「タキオン先輩って、本当に可愛い人ですよね」

「ん?…ああ、可愛い奴だよ…」

 田上はそう言うと、眠くなったのか眼鏡を外して、腕を枕にして机の上で寝始めてしまった。それだから、リリックは続けて質問できずに、マテリアルの方に向き直った。そして、マテリアルと目が合うと、マテリアルが悪戯っぽく目を輝かせて、口元に人差し指を当てて「しー」と言った。これは、田上が寝ているからなのか、タキオンと田上の関係にあんまり茶々入れをしないように促しているのか、リリックには分からなかった。だけども、とりあえず頷くと、静かに言った。

「マテリアルさんって、男の人と付き合った事ってあるんですか?」

 すると、マテリアルは、眉を寄せて口の隙間から「しー」と再び言った。それをリリックは、まだ押せると思って「教えてくださいよ」と詰め寄った。けれど、マテリアルは、今度は「止めてください」ときっぱり言ったので、リリックはこれは駄目なんだという事を知った。それなので、話題を変えてタキオンのトレーニングが始まる放課後まで、マテリアルと楽しく話すことに徹した。その甲斐あって、今日は存分に楽しむことができた。

 そして、タキオンのトレーニングも終わって、夜ご飯も食べて、布団について、オータムと少し話して、リリックは眠りについた。少し胸がざわざわしている、今後への期待なのか不安なのか分からないものが、リリックについて回ったが、朝起きれば再びオータムと一緒に楽しく話した。

 

 次の日の二十七日になると、タキオンは、いよいよそわそわしだしたが、努めて平静に過ごした。田上もタキオンのその様子を気にかけて、トレーニングには水筒にタキオンの好きな紅茶を入れて持っていってあげた。その計らいは、功を奏したようだ。タキオンは、大変に喜んでくれて、トレーニングも大分落ち着いてしてくれた。

 そのトレーニングが終わるころに田上が言った。

「明日は、模擬レースに出るぞ」

「ああ、いつものやつだね。いいとも」

 いつものやつとは、タキオンがこれまでに出た幾つものレースの前に田上はいつも模擬レースを計画していたのだ。これは、ウマ娘の闘志をレースに向けて燃え上がらせる役割がある。本番に近いようにレースをすることで、レースの実感を湧かすという物だ。タキオンは、これに大いに賛成だったので、初めに田上が「模擬レースをしよう」と申し出た時から田上の計画した模擬レースには文句も言わず出走していた。今回の模擬レースは、十人立てのレースで、大阪杯のフルゲート十六人とまではいかなかった。しかし、これは良くあることだ。GⅠを優勝したウマ娘と競走をしたって敵いっこないというのが、模擬レースに出るウマ娘たちの本音なのだろう。田上が、模擬レースを予約したころには出走したという人が十四人くらいいたと思うのだが、いつのまにかそれは消えていた。しかし、十人も残っていればまだいい方だろう。少ないときには、六人や七人の時もあった。タキオンもそれは承知で模擬レースを受けた。重要なのは、本番に向けて走るという事なのだ。

 田上は、タキオンに模擬レースに出ると言った後にこう続けた。

「一応言っておくけど、大阪杯に出るメンバーも何人か模擬レースに出てたけど、それは避けておいたからな」

「了解了解。初めから結果の分かっているレースなんてつまらないからね。そちらで構わない」

 そう言うと、トレーニングは終了した。

 そして、次の日となった。

 

 二十八日になれば、今日から大阪杯までの授業免除の日となる。つまり、授業に出なくていいという事だ。これはタキオンには少しつまらなかったようだ。どうやら、トレーナー室に居ると暇なようで、頭の後ろで腕を組みながら鼻歌を歌い、時折、「トレーナー君、面白い話をしてよぉ」と呼び掛けた。その度に田上は、「面白い話なんて知らん」と真面目に返したから、タキオンはもっとつまらなくなった。

 そうやって、朝を過ごして昼近くになったときに「あっ、そうだ!」とタキオンは、寝転がっていたソファーから飛び上がった。そして、田上に言った。

「私の新しい勝負服、君はまだ見ていなかったよね。今から着て見せてあげようか?」

「今から?いいよ、別に。大阪杯の時に見れるんだから」

「そんな事言わずに、見たいだろ?結構似合ってると思うんだ。今から着てくるね」

 そう言うと、タキオンは田上の返事も聞かずにトレーナー室を飛び出して、恐らく自分の寮へと向かった。タキオンの勝負服はもうデザインを提出していて、先週の初め辺りにもう手元に届いていたが、田上はタキオンに「一度着て、サイズが合ってるか確認してみろ」と丸投げしたばかりで、タキオンのサイズ確認の報告を聞いてからは何も手をつけていなかった。実の所、少し恥ずかしいのもあった。タキオンの考えたデザインは、あまりにもタキオンに似合っていそうで、どんな反応をすればいいのか分からなかったからだ。それでも、タキオンが着て見せてくれると言った時は、少し嬉しくてタキオンが帰って来るのを期待半分不安半分でどきどきして待っていた。

 タキオンは割と早く、トレーナー室へと返ってきた。

「少々、着替えるのに手間取ってしまったよ」と言った割には、田上の予想時間より早かったので、タキオンは思っている以上に手際がいいのか、田上がごたごたしていると思った服が思っている以上にシンプルで着やすいのか、田上はそのどちらかだと思って感心した。

 そして、タキオンが着てきた服にも感心した。田上の思った通りタキオンによく似合っていた。タキオンの瞳の様に赤いその服は、裾が長くゆったりとしていた。この衣装でもウマ娘は、難なく走れるというのだからすごい物だろう。少なくとも、田上であればあんな裾の長い服を着て走れば、「転びそう」以外の感想は出てこなかった。

 タキオンは、この服を『炎』をテーマにしていると言っていた。その言葉の示す通りに、その服は、ゆらゆら揺れる度に見える色の濃さが変わって、まるでタキオンが炎の中に立っているようだった。

 タキオンは、田上に見せるために田上の机の前で一回り回って見せた。すると、田上は思わず「おお」と声を出して小さく音を立てないように拍手をした。そして、言った。

「綺麗だ…」

 タキオンは、珍しく照れるようににこりと笑った。そして、少々体をモジモジさせながら言った。

「それだけかい?」

 言った後でタキオンは自分の顔が火の様に熱くなるのを感じたが、幸か不幸か田上はその事には気づかずに、感動した面持ちで言った。

「…いや、本当に、…タキオンは元々お嬢様だったんだなって」

「それはどういう意味だい?」

 なんだか自分が褒められているのか、逆にバカにされているのか分からなくて、少し眉を寄せながら聞いた。すると、田上は真面目に感動しながら言った。

「タキオンの元々の気品と言うか、美麗さと言うか、そんなものが引き出されているように感じる。それでいて、普段のタキオンの真面目に不真面目みたいな感じがあるから凄い。……うん、凄いよ」

「褒めてくれてありがとう」

 自分の褒めてほしかった方向性と違いながらも、一応はタキオンの事を褒めてくれていたので感謝の言葉を告げた。

 タキオンは、髪型も変えていた。前髪は、ヘアピンで左の方によけて、肩まである少し長い髪は後頭部の下の方で一緒くたにして軽く結んでいた。その結んでいるゴムは、小さな蝶の飾りつけのある赤いキラキラとしたゴムだった。タキオンは、後ろを向いてそれも田上に見せた。残念ながら田上には、蝶は小さすぎてはっきりとは見えなかったが、それでも、後ろから見たタキオンの露になっている小さな肩も綺麗だったので、「綺麗だよ」と頷いた。そう言われると、タキオンは女子高生の様ににへへと笑って、田上の方に向かって言った。

「君にそう言って貰えて嬉しいよ」

 あまりに純粋な笑顔で田上は目が眩みそうになったが、それを振り払うように急いで言った。

「こちらこそ、見せて貰えて嬉しいよ」

 少し頓珍漢な答えだったかもしれない。あまり話の筋に沿った答えでなかったし、その後に妙な沈黙も流れた。だが、田上が思っているよりも変な答えではなかったようだ。タキオンは、自分のヘアゴムを解くと何事もなかったように言った。

「この蝶の細工、私結構気に入っているんだ。…この渦巻きを見てごらん」

 タキオンはそう言うと、手の上に乗せた金色の蝶の細工を田上に良く見えるように近付けてきた。田上は、「ふ~ん」と言いながら、感想を告げた。

「良くできてるね。…これもタキオンがデザインした奴だっけ?」

「いや、これは違うんだ。向こうには、蝶の飾りのヘアゴムをくれと言っただけだよ。私は、こんな代物くれと言った覚えはない」

「すると、こういうデザインを考えた人がいるわけか…」

「凄いよね。私なんかじゃ、こんなものは生み出せそうにないよ」

「なら…」

 そう言いかけたところで田上は言うのを止めた。本当の所は、「なら、お前の勝負服もデザイナーに任せた方が良かったんじゃないか?」と聞こうとしたのだが、この質問はあまりに無神経だったし、答えも分かり切っていたものだったから、慌てて口をつぐんだ。タキオンは、それに「何だい?」と反応をしたが、田上が「何でもない」と言うと、それ以上追及することはなく、田上の机の上でその蝶を鑑賞し始めた。

 

 模擬レースは昼からだったから、朝はこうして過ごして行った。しかし、もう昼飯を食べに行くという段になると、田上はタキオンを急いで体育服に着替えさせた。昼飯で汚れてしまうのを防ぐのは勿論だし、昼飯の後からは、模擬レースのためのウォーミングアップが待っていた。昼飯から模擬レースまでは、少し間が開いていた。その時間を有効活用しなくてはならなかった。だから、田上はタキオンを急かしたのだ。

 タキオンは、急かされるのを嫌がりつつも田上の言う通り、早く着替えてカフェテリアまで訪れた。田上は、もうタキオンの分の料理までテーブルに持っていって、自分の分の料理を口に運んでいた。その反対に、タキオンは席に座ると、ノロノロとご飯を食べた。どうやら、田上に急かされるのを楽しんでいる様子らしかった。だから、途中でその事に気が付くと、田上はもう急かすのを止めてタキオンの好きにさせた。すると、タキオンはそれなりに早くご飯を食べ終わった。

 そうもこうもしていられないと急いでいた田上だったが、昼飯の後にすぐ運動するのはタキオンも苦しいだろうし、ウォーミングアップを始めるには、まだ時間は早過ぎた。それなので、田上とタキオンはいつものトレーニング場所で、二人で語らい合って過ごした。時には、タキオンが田上をからかいもした。すると、田上は決まって不機嫌そうに眉を寄せたが、タキオンが頬をつんつんとつつくと、照れ笑いなのかこそばゆかったのか、途端に口角を上げて恥ずかしそうに顔を背けた。その田上をタキオンは思う存分からかい尽くした。

 そして、ウォーミングアップを始める時間となり、二人はそれぞれの場所につき、それも終わりの時間に近づくと二人はまた隣に立った。それから、模擬レースのために選抜レースもあったトレセン学園特設のレース場へと向かった。

 

 二人が、余裕綽々な様子で模擬レース場へと歩んでいくと、やけに真面目な顔をした男が現れた。田上の友達の国近だった。恐らく、こんな真面目な顔をしている理由は、国近の担当のハテキナキソラの出走する大阪杯の事だろう。

 田上が観客席の入口の方に居る国近の方に近寄っていくと、あちらの方から話しかけてきた。

「おい、圭一。調子はどうだ?」

「まあまあって所かな。…何か用か?」

「……敵情視察だ。今日、出走するんだろ?」

「ああ、そうだよ。…敵情視察か。俺もしておけば良かったな。全く頭になかった」

 そう田上は言った。田上もハテナキソラが、午前中の模擬レースに出走することは知ってはいたのだが、先に述べた通り全く頭に入っていなかった。ハテナキソラが走ったのは、ちょうど田上がタキオンの勝負服を褒めちぎっていた所だろう。

 その田上の様子を見ながら国近が言った。

「あんまり余裕にしていられるのも今のうちだけかもしれないぞ。とりあえず、うちのソラは、模擬レースで一着を獲った。レース予想もタキオンさんに続いて二番人気だ。状態は良い。万全でお前らに挑むぞ」

 すると、田上がこう返した。

「挑むのはお前だけじゃないぞ。幾ら人気が下だからと言っても、レースは始まってみなけりゃ分からない。去年の大阪杯を優勝した奴もいるし、まだまだウマ娘は大勢いる。タキオンが囲まれて抜け出せなくなるかもしれない。途中で転べば、競走中止になる可能性もある。戦ってるのはお前らだけじゃない」

 そう言われると、国近は難しい顔をして押し黙ってしまったが、一度目を瞑って開くと、いつものような陽気な友達に戻って言った。

「それもそうだな。俺もお前らに闘志を燃やしすぎた。ごめん。……でも、お前だけには一度勝っておきたいんだ」

 そう一言言った後、国近は観客席の方に一人で歩いて行った。その後ろ姿を見つめながら、田上とタキオンは不思議そうに見つめ合った。それから、タキオンが言った。

「君、国近君と何か因縁があるのかい?」

「…いや、ないはずだけど…」

「…じゃあ、何か一方的な感情をぶつけられたのかな?…例えば、恨みとか…?…いや、君に限ってないか」

「…うん。…恨みを持たれるようなことはした覚えはないし、つい最近も普通に話をしたからな…」

「じゃあ、ただの闘志かな。担当しているウマ娘に影響を受けた可能性もある。…となると、私も彼女にただならぬ闘志を燃やされているかもしれないな」

「え、でも、ソラさんってそんな人かな?」

「いやいや、ああいう温厚そうなのがいざという時怖いんだ。それに、二番人気の実力も伊達じゃない。前走の中山記念を二着で過ごしたというのに、その一着を押しのけて私の下に来たんだ。いつもそうなのに変わりはないが、今回も特別頑張って行こう」

 タキオンがそう言うと、模擬レースの出走準備のアナウンスが鳴った。だから、田上は急ごうと言って、タキオンと一緒に観客席に入り、そこからレース場に入れる所でタキオンと別れた。

 遠くにタキオンが少し駆け足で行っているのが見えた。すると、途中で田上の方を振り返って手を振ってきた。飛びっきりの笑顔を見せて手を振っていたのだが、それを観客席にいたトレーナー陣がファンサービスだと思ったのか、タキオンに拍手を送り始めた。途端にタキオンは、手を振るのを止めて不機嫌そうに田上の方を見た。この田上の方を見たというのは、田上からはそう見えただけであって、本当にタキオンが田上を見ていたかは分からない。だけど、田上にはタキオンが「この拍手を止めてくれ」と不機嫌そうな顔で訴えているように思えた。それでも、田上はこの拍手をどうこうできる人間ではないので、ただ黙って周りに合わせて拍手をすることもせず遠くのタキオンを見ていた。すると、タキオンはもう拍手が収まるのを待つのを諦めたのか、振り向いて自分の入るゲートの方へ入って行った。そうなると、拍手も段々とまばらになって終わっていった。田上は、少し可笑しくもあったが、同時に、先行きが怖くもあった。GⅠという舞台で何度も聞いてきた轟くような拍手よりも今回の拍手は小さかったが、それでも、このような舞台に居て拍手を聞くと、その音の大きさに不安になった。それが、先行きへの不安へと繋がった。ちょっぴり涙も出てきそうだったが、ぐっと堪えると、タキオンの競走を見守った。

 

 そんなに人も居ないため、競走は音もなく始まったように感じた。最後に来たウマ娘がゲートに入れば、粛々とゲートは開いた。タキオンの出だしは順調と言ったところだろうか。枠は四番だったので少し前に行き過ぎたのか、タキオンは先頭に立っていた。これは、タキオン本来の走りに沿って居なかったし、本番を見据えたレース運びともならなそうだったので、タキオンはすぐに走る速度を調整した。すると、二番手にいた子が前の方へと出て行った。二バ身くらい離れた位置でその子は、速度を一定に保った。

 この模擬レース場は、全く坂のない整地されたレース場であった。本当のレース場ではないから、適当に済ませたのだろう。田上たちも実戦に限りなく近いものにしろというつもりもなかったので、このレース場はそれなりに利用されている。

 このコースは一周二千メートルだ。タキオンたちの一団ももうすぐ最終コーナーへと差しかかる。ここらへんで、二,三人が動き出した。タキオンを囲もうとする素振りを見せたが、タキオンはそれを器用に避けた。そして、最終コーナーと辿り着き段々と曲がっていった。タキオンは、そこで外の方に飛び出し、バ群から一人ポツンと離れた。ゴール前の直線に入った。先頭とタキオンの差は、四馬身くらいだ。後ろからもウマ娘たちが詰めてくる。そして、タキオンが仕掛けた。タキオンが、仕掛けるとその後はあっという間だった。ぐんぐんぐんぐんと先頭との差は縮まっていき、最終的に三バ身離してタキオンは一着でゴールした。やはり、この中でただ一人のGⅠウマ娘は圧倒的だった。観客席から拍手が鳴った。タキオンを湛える拍手だ。すぐ近くで誰かが「強ぉ」と言っているのも聞こえた。田上は、得意気にもなりたかったが、拍手が鳴り止むまではそうもできそうになかった。だから、タキオンが帰って来ると、汗拭きタオルを渡して、そそくさと観客席から二人で離れた。

 その後に田上はタキオンになんともなかったように聞いた。

「どうだった?歯ごたえはあったか?」

「歯ごたえ?…は、まあまあだったけど、走りごたえはあったよ。やはり、私は二千メートルが一番好きだね」

「それは良かった」と田上はあまり切れのない返事を返した。すると、タキオンが先程の田上のそわそわとした様子を思い出したのか、こう質問してきた。

「君、観客席で何かあったのかい?あんまりあそこには居たくなさそうだったけど」

「そう?別にそんな事はなかったと思うけどね」と田上は本心を隠した。だが、タキオンは何か見抜いているような無表情で田上を見てきた。そして、言った。

「トレーナー君、手を出して」

 言われるがままに手を出すと、タキオンはその手に自分の手を繋いで固く握手をし、そのまま田上の目を見つめ言った。

「タキオン?」

 田上は、タキオンの言いたいことがすぐに分かった。助けが欲しいなら自分に求めろという事なのだろう。握手をして「タキオン」と呼べという事なのだろう。しかし、今の田上にはそれすらも億劫に思えた。だけども、手はタキオンに固く繋がれたまま離せそうになかったから、仕方なくぼそっと言った。

「タキオン」

「…いいだろう。別に今じゃなくてもいいんだよ。いつか君が私を頼れる日が来たら、私が存分に力になってあげるから」

 そして、その後に一呼吸空けて言った。

「それじゃあ、今日はこれで終わり。明日は、午前中にトレーニングだね?あまり大したことはやらないと言っていたが、具体的にどんなことをするんだい?」

「あっ、それをタキオンに聞こうと思ってた。…明日は、大したことをしないって言ったけど、タキオンの気分次第ではきつめのトレーニングをしていいよ」

「私の気分?…う~ん、…明日。…私のメンタルケアとして君と話す時間が多々ほしいな。勿論、トレーニングもするよ?だけど、君と話す時間もその合間に取りたいな」

「例えば、いつもの場所で走るんだったら、その休憩に一緒に話すって事?」

 そう田上が聞くと、タキオンは「うん」と頷いて言った。

「それなら、トレーニングもできて君と話もできて一石二鳥だろ?」

「…でも、お前に話せることなんてあんまりないぞ。面白い話なんて知らないし、為になる話も俺が言うんじゃあんまり説得力がない」

「別に君に話せって言ってるわけじゃないし、話さないなら話さないで、黙って二人で居るのもいい」

「なら、トレーナー室に居た時とあんまり変わらない感じか?」

「そうだね。…そうなるけど、最近はマテリアル君がいるからあの時のようとはいかないねぇ。…明日のトレーニングには、マテリアル君は来るのかい?」

「え?いつもと同じように来ると思うけど」

「ふむ」

 そう言って、タキオンは顎に手を当て考えた。それから言った。

「…マテリアル君。…マテリアル君は、明日は欠席願えるかな?…そう言えば、今日は何で居なかったんだい?」

「熱があったらしい。微熱だけど、タキオンの大阪杯もあるし大事を取って、休ませた」

「そうか、季節の変わり目だものね。…という事は、明日は?」

「明日は、どうだろう。熱が下がってれば来ると思う。…多分、熱は下がってそうだけどね」

 田上がそう言うと、タキオンは不満そうに眉を寄せて、もう一度言った。

「マテリアル君に明日欠席願うことはできないかな?」

 あんまりにもタキオンがマテリアルの事を邪魔者扱いするので、田上は苦笑しながら言った。

「そんなにマテリアルさんが来るのが嫌なのか?」

「嫌?…別に嫌じゃないが、君と二人で話せたらなぁって」

「俺とそんなに話したいの?マテリアルさんと三人じゃダメなのか?」

「あんまり何度も言わせないでくれ。とにかく、マテリアル君は明日来るのか来ないのか、どっちなんだい!」

「…じゃあ、連絡してみるよ。マテリアルさんの事が嫌いなわけじゃないんだろ?」

「ああ、それは違うよ。ただ、ちょっぴり邪魔なだけさ」

「じゃあ、そのように連絡します」

 そう言うと、田上はタキオンと別れて自分の寮の方へと行こうとした。しかし、そうすると、タキオンは去ろうとしている田上の背中に不満そうな声を上げて、呼び止めた。

「トレーナー君、やっぱり今日ももう少し君と話してたいのだけれど!」

 少し面倒臭そうに田上は振り返った。そして、タキオンの顔が不満満々であることを確認した。すると、はぁとため息を吐いて言った。

「散歩でもするのか?」

「散歩?…いや、あの土手に寝転がって寝よう?」

 これは、田上にとって一番良策な申し出だった。無理にタキオンと話をしなくていいし、眠るんだったらいつでもできた。

 二人は、とつとつと歩いて土手の方に行った。そして、そこで田上は目を瞑って過ごした。タキオンは、田上に話したそうに隣でもぞもぞしていたが、田上がいつまでもいつまでも目を瞑っていたので、ついに話すことを諦めて自分も草の上で目を瞑った。隣の田上の方から風が吹いて、その嗅ぎ慣れた田上らしい匂いが草の匂いと混じり合い、タキオンの鼻をくすぐった。そしてまた風が吹き、それはどこかへと洗い流され、草の匂いだけになった。その中でタキオンは、目を瞑ったまま眠らずに落ち着いて過ごした。田上は寝たのだろうか?それはタキオンには分からなかった。隣から聞こえてくる息は落ち着いているようには感じたが、どうにも眠っているという雰囲気ではなかった。しかし、田上はタキオンに背を向けて横向きに寝たまま、次に起きるまで身動き一つ取らなかった。これもタキオンには田上が寝ているのか起きているのか分からない要因だった。普通の人ならば、寝ている時であれば身動きの一つや二つや三つ取るだろう。だが、田上ならば身動き一つしないで寝ていてもおかしくないように感じた。根拠なんて一つもないが、タキオンにはどうにも田上の事が気がかりだった。

 そして、先に起きたのは田上の方だった。寝転がってから、何分経ったのかは分からなかったが、長い時間を草の上で過ごしたような気がした。しかし、目を開けてみれば日はそれほど落ちておらず、田上は時間が経ったというよりも飽きたから起きた様だった。

 田上は、目を瞑って起きているタキオンの肩を揺すりながら言った。

「俺は、もう帰るぞ」

 そう言うと、タキオンが聞こえていなくても帰るつもりだったのだろうか、タキオンが何も答えず目も瞑ったままでいるというのに、隣で立ち上がる音が聞こえた。それだからいけないと思って、タキオンはパチリと目を開けて言った。

「もう帰るのかい?」

「ああ、タキオンはここに居るのか?」

「…私も帰ろうかねぇ」

 そう言ってタキオンは、よっこらしょと立ち上がった。その時に田上が手を差し出してきたから、有難くその手を取ってタキオンは立ち上がった。そして、そのまま手を放すつもりでいたのだが、急に気が変わって田上の手を握ったままタキオンは、田上の顔を見つめた。やはり寝ていなかったのだろう。顔からは、あまり疲れが取れていないように見えた。だから、田上と見つめ合ったまま何も話さなかったタキオンは、口を開いた。

「君、マテリアル君を休ませるのはいいけど、君も休まないと駄目だよ。何せ私はマテリアル君より君の方に大阪杯に来てほしいからね。だから、今日は早く寝たまえよ。そして、それでも疲れが取れないって言うんなら、明日は現場監督はマテリアル君に任せて君は部屋でゆっくりしていたまえ。邪魔なんてしに行かないから」

 そのタキオンの言葉を受けても田上は、タキオンの顔を見つめたまま、黙りこくっていたが、タキオンが「大丈夫かい?」と聞くと、「大丈夫」と言って話し出した。

「お前の言う通り、今日は早く寝るとするよ」

「じゃあ、その際は私に――おやすみとLEANでメッセージを寄こしたまえ」

「なんで?」

「一人で寝るより二人で寝たほうがいいだろう?…何時頃に寝るつもりなんだい?」

「…今から、部屋帰ってシャワー浴びて、寝てみるのもいいかもしれない」

「ふむ…、ご飯は?」

「ご飯…?」

 田上はあまり乗り気じゃないというような声を出した。それでタキオンが少し怒った調子で言った。

「君、結構ご飯を抜く癖があるだろ。その癖は直したまえ。人の食事を管理するものとして、自分の食事を管理できていないとは何事かと私は言うぞ。…少なくとも今日は私とカフェテリアで食って行こう。君が寝るのはその後だ」

 タキオンは、そう言うと田上の手をがしりと握り直した。しかし、まだ夜ご飯というような時間ではないことが、まだ高いところにある陽を見れば分かった。だから、タキオンはそうやって手を握ったまま暫く迷った後、田上にこう言った。

「…もう少しここに居るかい?」

 トレーニング場には、もう授業が終わった人たちがちらほらと来ようとしているのが見えた。田上は、それを静かに見つめた後言った。

「寮に帰ろうかな」

 すると、タキオンが即座に返した。

「ダメだ。それは許さない」

「どうして?」

 田上が、疲れた様に面倒臭そうに言った。それにタキオンが返した。

「さっきも言ったろ?ご飯を抜くなって。今帰らせたら、それこそ君の思う壺じゃないか」

「ちゃんと食べるから…」

「本当かい?どうせ、食べなかったら、私に嘘でもつくんだろうねぇ」

「嘘はつかないから」

「その言葉は私には信じられない。君は、面倒事を避けるためだったら平気で嘘をつく人間だ」

「人聞きが悪いなぁ」

「だって、その通りじゃないか!今の――ちゃんと食べるから、も私の誘いを断るための体のいい嘘に違いない!」

 そう言うとタキオンは、もっと強く田上の手を握り締めた。それをされると、田上の反逆心が燃えたのか、静かな怒りを含んだ声で「痛いんだけど」とタキオンに言った。タキオンは、「すまない。君の為に少々力が入ってしまってね」と言いながらも手の力は全く緩めなかった。いつの間にか二人は喧嘩の様になってしまっていた。田上には、この喧嘩で、腕力でも口論でも勝ち目はなかったのだが、それでも、なんだかタキオンの事が嫌になってしまって、何が何でもタキオンに抵抗するためにタキオンの顔をじっと見つめたまま、押し黙るという事をした。それでタキオンが何を話しても田上は口を開きそうになかったため、タキオンも田上と同じように顔を黙って顔を見つめるという事をし始めた。これを道端でしているので二人のただならぬ雰囲気に、行く人行く人が――なんだろう?と振り返るのだが、それでも田上はタキオンが根負けするまで諦めるつもりはなかった。

 しかし、田上とタキオンが握手をしながら睨み合い始めて、三十分ばかり経った頃に田上に最大の邪魔が入った。友達の霧島が、土手の下の方からやってきて、田上に話しかけてきたのだ。霧島は、この場の雰囲気が読めていないのか、友達だから大丈夫だと思っているのか、平然としながら田上に話しかけた。

「よう、田上。お前、何してんの?永遠にそうしてるな」

 田上は、ようやくタキオンの顔から目を背けて、煩わしそうに霧島を見た。――面倒臭い奴め。そう思ったが、思った瞬間には霧島が「じゃあ、俺はもうトレーニングの指導をしないといけないから」と言って土手を下っていった。わざわざこの場をぶち壊しに来ただけのようだった。そうして、下りていく霧島の背を見送ると、タキオンが口を開いた。

「私と三十分くらい見つめ合って、気は変わったかな?私と一緒に食事はとるかい?」

「……はぁ」

 田上は、重苦しい疲れたため息を吐いて、握りしめていたタキオンの手を緩めた。そうすると、タキオンも田上が諦めたのを感じ取ったのか、握手していた手を自ら解いてくれた。そして、田上は土手の上の道端に体育座りの格好で座り込んで、がっくりと項垂れた。タキオンもその横についた。まだ、陽は高い。一日は終わりそうにないし、タキオンからは逃げれそうにない。そう思うと、食欲なんて湧きそうになかった。だから、項垂れながらタキオンに懇願した。

「俺は、あんまり体力を使わないから腹は減らないんだよ。…だから、カフェテリアについて行ってやるから、俺は何も食べなくていいだろ?」

 その様子があまりにも憐れでタキオンは、悲しげに眉を寄せたが、こう言った。

「無理に食べさせるのもあれなんだろうけど、今の君は体力を使ってないから食べないんじゃなくて、落ち込んでいるから食べないんだろ?食欲がないのは気分の問題だろ?…大丈夫さ。食べればきっと元気が出るよ。…別に君の料理を頼まなくていいから、私のを一口二口分けてあげようか?…いや、分けてあげよう。君についてきてもらうんだ。そのくらいのことはしなくっちゃ」

 それには、もう田上は何も返さなかった。ただ、俯いて地面を見つめたまま、カフェテリアに行く時間を今か今かと待ち続けた。隣に座っていたタキオンの顔も見ていないし、声も聞いていないので、タキオンが何を考えているのか分からなかった。怒っているのだろうか?軽蔑しているのだろうか?そう思うと、堪らなく胸が苦しくなったが、その時に隣から微かに鼻歌が聞こえてきたような気がした。悲しいのか楽しいのか分からない調子だった。それに、あんまりにも微かで朧げな鼻歌だったから、その内に田上は――本当にタキオンが歌っているのか?自分の幻聴じゃないのか?と思い始めた。そうすると、どうにもその事が気になって仕方がなかったから、俯いていた顔をチラと上げてタキオンの方を見た。顔を上げると、タキオンと目が合った。最初からこちらを見ていたのかは分からなかったが、目が合うとタキオンが首をかしげて言った。

「どうかしたのかい?」

 いつものタキオンだった。その事を感じると、今度は泣きそうになって、それを堪えるために一度目を瞑った。そして、開くとこう返した。

「いや、なんでもないよ」

 その後は、顔を少し上げて、カフェテリアが開く時間まで動いている人々を見つめた。タキオンも同じようにしていたが、こちらは時々首を右に向けて田上の顔をチラと見たり、少し田上の裾を引っ張ったりした。勿論田上は、そちらの方を向こうともしなかった。タキオンがこちらをチラチラ見ているのは、なんとなく感じ取ってはいたが、今更何か言う事もなかったし、先程までタキオンに怒りを覚えていたのだから合わせる顔がなかった。



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十八、大阪杯まで④

 陽はようやっと落ちてきた。その頃には、カフェテリアも開くので、田上とタキオンは口数少なく、二人で歩いて行った。田上の怒りは冷めたというものの、食欲はあるとは言えず、タキオンに「ちゃんと食べたほうが体にいいよ」と言われても自分の料理は食べなかった。そして、テーブルについてタキオンの食事をぼんやりと見ている時に田上は後悔した。口の中は、涎が溢れてきて止まらなかった。しかし、田上にも一度言った事は曲げたくないというプライドがあるので、その事はおくびにも出さなかった。だけども、腹が鳴る事だけは押さえられなかったようだ。田上の腹が、テーブルの下でぐぅぐぅぐぅぐぅと鳴っていた。――どうかタキオンに聞こえていませんように。そう願って、田上は素知らぬ顔でタキオンが食べる姿を見ていた。すると、タキオンはニヤニヤしながら田上に言った。

「君、お腹鳴ってるだろ?やっぱり、食べたほうがいいんじゃないか?」

 そう言われると、田上は顔を背けて「食べない」と言ったから、タキオンは少し後悔した顔をして、「この言い方は不味かったか…」と呟いた。

 田上は、タキオンの食べる姿を見ながら、延々と口の中に涎を溢れさせ続けたが、タキオンの誘いを受けても一向に自分の料理を食べようとはしなかった。しかし、タキオンが「ほら、あ~ん」と言って寄越したものは、一度だけ食べた。食べ物の匂いの誘惑に抗えなかったし、タキオンに「一口だけでも食べてくれ」と頼まれたからだ。すると、田上の口に食べ物を詰めたタキオンはにやっと笑って言った。

「これ、恋人みたいじゃないか?」

 途端に田上は、嫌~な顔をした。口の中で食べ物をもぐもぐしていたので、何か言う事はしなかったが、それより後には絶対にタキオンから食べ物を食べさせてもらおうとしなかった。それなら、とタキオンは自分のスプーンを渡して田上に自分で食べさせようとしたが、それはそれでやる気が起きずに断った。タキオンも少々ごねたが、田上が「もうここから出て行くぞ」と脅せば、不満そうな顔をしながらも、食べる事を催促するのは止めた。

 そして、タキオンは食べ終わった。食べ終わる頃には日が暮れていて、暗い夜道を二人は歩いて帰った。と言っても、道脇にしっかりと明かりは灯されているので、真っ暗ではなかった。その道を二人は途中まで歩いて行き、寮の前で田上とタキオンは別れた。その時に田上は言った。

「いよいよだな」

「ああ、いよいよだね」

「明後日に、阪神の方に移動だ。だから、明日にはもう準備をしておかないといけないんだぞ」

「分かってる。今日の夜にはあらかた準備をしておくさ。…それで、明日のトレーニングは結局マテリアル君は来るんだっけ?」

「来ないように連絡するつもりではあるけど…、やっぱりマテリアルさんが可哀想じゃない?」

「私も…少しそう考え始めたところだ」

「じゃあ、どうする?連絡はしなくてもいい?」

「連絡?う~ん、…ちょっと待ってくれよ。………う~ん、…まぁ、…まぁ、あの人くらいなら居ても問題ないか。トレーニングと言っても遊び程度で私はしたいんだ」

「じゃあ、遊び程度のトレーニングと伝えて、その上で来るか来ないか聞く?」

「そりゃあ、聞く聞かないは君の勝手でいいが、トレーニングと言っても本当に遊ぶよ?午前中だから、あそこ誰もいないだろうし、バク宙でも側宙でも何でも楽しむつもりだよ?」

「じゃあ、俺も来なくていいんじゃないか?」

「いや、それはダメだ。君は来なけりゃならない。君分かるかい?側宙って何か」

「知らないけど…」

「いや~ダメだね。君は全くなっちゃいない」

 そう言ったタキオンは得意気だった。

「側宙ってのは、側方宙返りの事さ。つまり、側転を手を使わないですることだね。私、幼い頃は、体操もしてたんだ」

「へ~、…でもタキオンがそんなのをしたところ見たことないけど、今でもできるのか?」

「最後にやったのが小四の時だから、その後は全然やってないけど、まぁ、今も運動はそれこそ第一線で続けてるし、できるだろ」

 タキオンは、軽めに言ったが、それには田上も動揺して慌てて言った。

「お前、週末に大阪杯を控えてるんだから、それだけはマジで止めてくれ。できるだろ、でできなかったらどうするんだよ」

 それでもタキオンは「できると思うんだけどなぁ」と引こうとする気配を見せなかったから、田上はもっと語気を強めて言った。

「本当にダメだから!せめて、大阪杯が終わった…後もダメだ。お前に怪我をしてもらっちゃ困る」

 すると、タキオンが「何で困るんだい?私で金を稼がないといけないからかい?」とニヤニヤしながら聞いてきた。これは、どっちに転んでもタキオンの嬉しそうな顔は避けられそうになかった。もし、「お前で金を稼がないといけないからだよ」と答えれば、タキオンの予想通りの田上の言動で嬉しそうにニヤニヤ笑うだろうし、もし、「お前が大切だからだよ」とでも答えれば、それはそれで純粋に嬉しそうな笑顔でニコニコ笑いそうだった。田上には、その二つともがなんだか癪だったから、眉を寄せて返そうとしたが、その不機嫌そうな顔を見てもタキオンはニヤニヤしながら「え?どうなんだい?」と聞いてきたから仕方なく田上は答えた。

「怪我をしたら痛いだろ?」

「それは私の身を案じてくれているという事でいいのかな?」

 田上は、最低限の捻くれた言い方をしたが、それもあっさりタキオンに見破られて嬉しそうな顔をさせてしまった。だから、もうどうでもいいやという気持ちになり、田上は「そうだよ」と返した。すると、タキオンの顔はもっと嬉しそうになった。

「君はいい子だね」

 嬉しそうな顔のままタキオンは唐突に言った。その言い方が自分をバカにしているように感じたから、田上は眉を寄せて「なんで?」と聞いた。すると、タキオンはこう言った。

「君って素直で嘘の吐かないいい子じゃないか。今も素直に私が大切だと言ってくれた」

「言ってないし、お前、俺の事を平気で嘘を吐く人間だと貶してなかったか?」

「おや!そう言えばそんな事を言ったね。あれは、数少ない君の欠点の一つであり、また、個性でもあるのさ。さっきは、ちょっとイライラして言ってしまったから、強く聞こえたかもしれない。すまない。許してくれ」

 タキオンが少し笑みを落としてそう言うと、田上は不機嫌そうな顔を限りなく無表情に近い不思議そうな顔にして言った。

「…いいよ…」

「そう言ってくれるとありがたい。これからも頑張ろうね」

 タキオンはそれから田上の肩をぽんぽんと叩くと「じゃあね」と言って、自分の寮の方に行ってしまった。そして、田上は少しタキオンの行動の速さについて行けないながらも、小さく手を振って「じゃあね」と返した。

 思い返してみれば、この一連の会話は田上にとって全く妙であった。いくらタキオンでも、いくら大切にされているのが嬉しいからと言っても、四十と例えられるような老け顔の二十代にあんな顔をするだろうか?勿論、田上はタキオンの親ではない。父親代わりにされそうなときもあったが、今のタキオンはその時よりも大分落ち着いているように見えた。だから、益々おかしい。なぜ、あんなにも嬉しそうにできたのだろうか?田上には全く持って不思議であった。

 その事を帰りながら、寮に着きながら、シャワーを浴びながら、考えていると出てきた答えは、――タキオンが自分の事を好いてくれているのでは?という物だったが、あまりに気持ちの悪い考えだった。――大の大人が、十七に恋してどうする。そう頭の中で唱えて、自分を戒めた。思えば、田上も今年で二十六になってしまう。まだまだ、結婚への焦りという物は出てきそうになかったが、それでも三十、四十になった自分の姿を考えれば、一人ぼっちでいかにも惨めそうな未来しか見えなかった。

――十七に恋しているからそうなんだろう。もっと落ち着いた考えを持って、同じトレーナー職の中から良さそうな人を探すんだ。…例えば、マテリアルさんなんてどうだ?俺に気はなさそうだけど、もし、本当に恋人がいないのなら、交際くらいはしてくれるかもしれないぞ。

 そうすると、また別の田上が頭の中で反論した。

――いや、あの人は美人過ぎて駄目だ。隣に立ってる俺が惨めすぎる。それに、交際したってお前の心の汚さが露呈するだけだ。お前が、自分の事で唯一知っていることと言えば、顔の出来が悪い事と心の狭さだろ?

 その次に、三人目の田上が現れた。

――タキオンがいいよ。ずっと一緒に居てくれそうじゃん。君を助けるから待っててくれ、って言ったのを聞いただろ?俺は、待ってるだけでいいんだよ。

 それに一人目が反論した。

――俺は待つのは嫌いだ。別の案にしろ。

 二人目が出てきた。

――いっそのこと自殺しちゃえば?首なんてこの部屋でも簡単に括れるぞ?そうだ!週末にロープを買いに行こうよ!それがいい。その方がいい。…先の分からない道なんて進む必要はないんだ。リタイアしちゃえばいいんだよ。僕は人生に疲れました。ごめんなさいって。

――でも、それだとタキオンや父さんや幸助が悲しむ。…タキオンなんて、特にひどいだろうなぁ。俺の葬式があったら、喉が潰れるほど泣くかも。

 一人目のタキオンが言った。そして、その次に二人目が言った。

――そうだろうなぁ。そこが俺のピークとして華々しく飾るんだ。お前の写真の周りには、白百合がたくさん飾られるだろうなぁ。そして、そこでタキオンが泣くんだ。なんで死んだんだよぉって。傑作だろ?これ以上にいい物語はないじゃないか?あと五十年真面な面して生きれるのかなんて分からないだろ?今のうちに終わらせておくんだよ。

 まだ、二人目は話を続けたそうだったが、ここで三人目が口を挟んできた。

――タキオンに悲しい顔をさせちゃダメだろ?お前は、タキオンの事が好きじゃないのか?

――俺は、…タキオンの事は好きにはなりたくなかったんだ。あの時から全てが狂った。あの時までは、平常だったのにあの時から歯車が一つ取れて動かなくなったんだ。

 一人目が、三人目に返した。そして、二人目が言った。

――そうだ。タキオンなんて奴の事は考えなくていい。いっそのこと殺して刑務所に入るってのもいいな。どんなふうにして殺す?勿論、タキオンだ。殺す相手なんてそれ以外にいないだろ。

 そう言うと、一人目が言った。

――もう嫌だ!俺は、人なんて殺したくないし、タキオンなら以ての外だ!そんなこと言うんならお前の話はもう聞かん!

 一人目の田上がそう言って、二人目を意識の外に追いやろうとした。二人目は、抵抗しつつも意識の底に落ちていき言った。

――いつか後悔することになるだろう。俺の言う事に従わなかったことを。せめて、お前が死ねば良かったんだ。お前が死ねば、誰も傷つかずにタキオンもより良い男と一生を共にするぞ。

 しかし、この声はもう田上には届いていなかった。田上は、もうその事について何か考えるのを止め、眠りについた。それからすぐに眠りにつけたというわけではなかったのだが、長い時間はかからなかった。

 田上は、夢で何を見ているのか、唸りながら何度も苦しそうに寝返りを打っていた。その頃タキオンは、田上から『おやすみ』のメッセージが来ないかと、スマホをチラチラ見つめながら、本を読んでいた。そして、勿論の事メッセージは来ず、また、タキオンの送ったメッセージも読まれた兆しがないので、タキオンは仕方なく田上に『おやすみ。先に寝るね。君も早く寝るんだよ』とメッセージを送って眠りについた。

 

 翌朝起きても田上は、タキオンから来ていたメッセージに気が付かなかった。スマホを見た瞬間は何度かあったのだが、偶然にもLEANを確認する機会がなかった。それだから、タキオンからメッセージが来ていたのに気が付いたのは、トレーナー室にタキオンが来てそれを指摘されてからだった。

 タキオンは、トレーナー室に入ってくると、まず朝の挨拶をして、それから話し出した。

「おはよう、トレーナー君。君、スマホはどうしたのかな?故障でもしてしまったのかい?」

「故障?…いや、してないけど…」

「あれ?そうかい、てっきり故障しているものだから、私にLEANでメッセージを送って来ないものだと思っていたけど…」

 タキオンは、自分の予想が外れて少し呆然とした様子だったが、次の田上の言葉を聞くと、眉を上げて怒っているような可笑しいような、という顔をした。

「メッセージ?何か連絡することってあったっけ?」

「何ぃ?君、まさか私との約束を忘れていたわけじゃあるまいね?」

「約束?…あっ、マテリアルさんに連絡するのを忘れてた!今日来ちゃうかもな」

「それもそうだが、それは違う!なんで忘れたんだ!…私に――おやすみってLEANでメッセージを送るって言っていただろ!その為に私は夜遅くまで起きていたんだけどな!」

 タキオンはそう言ったが、田上はあんまりピンときていない様子だった。

「…。ちょっとスマホを確認してみていい?」

「ああ、いいとも!」

 そう言って、タキオンは拗ねた様子でぶつくさ言いながら、紅茶を淹れる準備をし始めた。そして、田上は自分の椅子に座りながらスマホを確認すると、今朝見落としていたメッセージが確かにあった。それで、それを読んでみると田上もあっと思い出して、同時に、申し訳なく思った。だから、田上は懇切申し訳なさそうにしながら、タキオンに言った。

「あの~、今思い出した。ごめん」

「あ~あ、君のせいで睡眠不足になっちゃたよ。何か、お詫びをしてほしいなぁ」

「お詫び?」

 田上がオウム返しにそう聞くと、タキオンが拗ねているふりをしながら言った。

「肩を揉むとか、何かするとか、何かするとかあるだろ?そのくらい自分で考えたまえ」

 すると、そこでマテリアルから田上のスマホに連絡が来た。『今日は大丈夫そうです。午前のトレーニングに参加します』と書いてあった。それをチラッと見て確認すると、今度はやっぱり拗ねた様にタキオンが言った。

「私のは今の今まで確認してなかったのに、どこかの誰かさんの連絡はすぐに確認するんだなぁ。…誰から来たんだい?」

「マテリアルさんからだよ。来るって」

「なら、今すぐそれに返したまえ。――今日はトレーニングではなく遊ぶ事になりました。来ない方がいいと思いますよ。来ない方が。来ない方がいい、とね?」

「なんで、そんなに来させたくないことを推すんだよ」

「そりゃあ、君と二人で居たいからさ」

 タキオンがそう言うと、途端に田上は昨日の夜の時の考え事を思い出して、胸糞悪くなった。だから、思わずしかめっ面をしてしまって、タキオンを少し動揺させてしまった。

「そんなに嫌がることはないだろう」

 タキオンは、顔に湛えていた笑みを落としてそう言った。それには田上は「ごめん」と謝って、それから、話し出した。

「…まぁ、お前の事も優先させたい節はあるけど、こっちにも都合ってもんがあるんだ。それに、昨日別れるときは居てもいいって言ってたじゃないか」

「ああ、そんな事を言ってたな。忘れてた。…あれは、気が変わったんだ。今はやっぱりダメだ」

「お前ももうすぐ十八になるんだから、そんな我儘言ってないで落ち着け。俺は、いつまでもお前のモルモット君じゃないんだぞ」

 そう言われると、意外なことにタキオンは素直に引き下がって、「分かったよ」と言った。これは、タキオンが成長した証拠なのだろうか?田上はそう思って、不思議そうにタキオンを眺めた。タキオンは、紅茶の支度を着々とこなしていて、そして、紅茶がようやっとできた時に田上と目が合うと「何か用でも?」というように首を傾げて見せた。そして、手にカップを持つと、紅茶を一口飲んだ。

「美味しいねぇ」

 飲んだ後にはそう言ってニコニコと笑った。それでも、田上は黙ってタキオンの事を見ていたので、タキオンはついに口に出して聞いた。

「何か用かい?」

「……いや、それ、俺のためのカップじゃなかったか?」

「ああ、火曜に割れてしまっただろ?だから、予備のカップはマテリアル君が使ってしまっているし、君ので済ませておこうと思って。…別にいいだろ?洗ってるし、君も大して使っていないんだから」

「…まぁ、いいけど」

 田上は、そう言うと、デスクの上にあるパソコンを触りだした。大阪杯の予想人気を調べた。相変わらず、タキオンは一番人気でハテナキソラが二番人気だった。田上には、正直、このレースの底が知れなかった。確かに、中山記念で二着だったハテナキソラは凄かった。一着と二着の人気を覆せるくらいに最後の走りは凄かった。位置取りさえよければ、一着を狙えただろう。だからと言って、皆が皆口を揃えて「一着より二着の方が凄かった」何て言うのだろうか?田上には分からなかった。それでいて、中山記念で一着だったウマ娘は、去年大阪杯で勝利したストーリーテラーよりも人気は下と来ていた。これにはいよいよ分からない。一着の子はあまりにも走りが下手だと大衆には感じられたのだろうか?田上には、そうは感じられない。すると、別の理由があるのだろうか?

 やっぱり田上には考えても考えても、人気についての推量はできず、マテリアルがトレーナー室へと入ってきて、やっと考え事は断念された。

 マテリアルは、意気揚々と入ってきて、今の物思いに沈んでいる部屋には不釣り合いな声の大きさで「おはようございます」と田上とタキオンに呼び掛けた。田上は、考え事を潰されぼそぼそと「おはようございます」と返し、タキオンは紅茶の最後の一口を飲んで軽く「おはよう」と返した。

 そうすると、タキオンは立ち上がって田上に言った。

「今日は何時からトレーニングをするんだい?」

「…ん?何時でもいいけど…」

「では今からは?」

「…いいよ」

 その田上の言葉を聞くと、今度はマテリアルの方に向かってタキオンが言った。

「だそうだと。…君も大丈夫だろ?…ちなみに今日は大したトレーニングはしないで、遊ぶ予定なんだけど」

「遊ぶ?何をするんです?」

 マテリアルが不思議そうな顔をして聞いた。

「特に何をすることもないが、私はトレーナー君と話しながら、何かするつもりだよ?」

「じゃあ、私は?」

 マテリアルがそう聞くと、タキオンが少し申し訳なさそうに返した。

「あんまり今日は何もないよ。ただ、遊ぶだけなんだ」

 すると、マテリアルは少し考えた後、顔を輝かせて言った。

「そうだ!ちょっと私と鬼ごっこしませんか?勿論私が追いかける方で!」

「…でも、君なんかじゃ私には到底追いつけないよ?」

 そう言った後に、タキオンはチラと田上に目をやって、その目を田上と合わせた。そして、また目を逸らし、マテリアルの方を見た。

 マテリアルは言った。

「追いつけないだろうって事は分かるんですけど、それでも挑戦してみたいんです!…ダメですか?」

 そうやってマテリアルは首を傾げて、タキオンに懇願した。すると、タキオンもマテリアルの美しさやあざとさに目が眩みそうになって、慌てて言った。

「いいよ。いい。…頼むからそんな顔はしないでくれ。ドキドキする!」

 あははとマテリアルは笑った。

 そして、三人は今から行こうという話になって、トレーナー室を出て行った。



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十八、大阪杯まで⑤

 タキオンは、朝来た時にはもうすでに体操服に着替えて、田上と話していた。だから、今回は寮に着替えに戻らずに、そのまま、トレーニング場へと行った。その道すがら、タキオンはマテリアルと話していたのだが、本当の所、タキオンは田上と話したがっていた。だから、タキオンはしょっちゅう田上の方を向いていたが、マテリアルはそれに気付かずにタキオンに嬉しそうに話しかけていた。タキオンと走れることが、マテリアルには相当嬉しかったようだ。タキオンの様子には全く気付かずに、延々と話し続けていた。

 そして、トレーニング場へと着いた。マテリアルも今日は午前だからと言って、ジャージできていた。田上は勿論いつもの白いワイシャツだった。そして、今日は大したトレーニングはしないというので、着替える気もなくそのまま来た。

 マテリアルは、早速タキオンを追いかけ始めていた。タキオンも最初は不満そうだったが、走り始めれば調子が乗ってきたようだった。マテリアルと楽しそうに追いかけっこをしていた。それを田上は、土手の上の方に座って眺めていた。マテリアルを寸前まで追いかけさせ、それを器用に身をよじって避け、走って離れる。そして、またマテリアルを挑発する。どこかで見たような光景だった。あの時は、寒い秋の夜だった。

 すると、田上は、――俺はなんでここに居るんだろう…、と思い始めた。別にあちらの方に行きたいわけではないのだが、自分がここに居る必要性が皆無のように思えた。今更、田上が混ざりに行ったって、ウマ娘の圧倒的な力の前に敗北を喫するだけだった。タキオンなんて足が速いんだから、尚の事そうだろう。田上は、一つため息を吐いた。すると、タキオンが田上の様子を見てたのかどうなのか、「お~い」と言って、マテリアルの猛攻を避けながら手を振ってきた。最上の笑顔だった。その笑顔を見ると田上は微かに笑ったが、手を振り返す事はせずにただタキオンを見つめていた。タキオンの笑顔を見るとちょっぴり元気が出たが、やはり――なんでここに居るんだろう、という思いは拭い切れなかった。

 タキオンは、尚も田上の事を度々見やりながら、マテリアルと追いかけっこをした。しかし、タキオンが飽きたらしい。急に立ち止まると、マテリアルに「君の負けだ」と言って、走って田上の方にやってきてその隣に座った。そして、楽しそうに息を整えながら田上に言った。

「浮かない顔をしているね。つまらないかい?」

「いや、…最高の気分だよ…」

 到底最高の気分とは言えない調子の声でタキオンにそう返すと、タキオンはハハハと笑った。

「冗談が言えるだけの元気はあるみたいだね。…君を放っておいて悪いね…」

 タキオンが静かにそう言うと、土手の下からへろへろになってマテリアルが上ってくるのが見えた。それを見ながら田上は言った。

「むしろ、放っておいてくれた方が俺の体には良い」

「…また、君の孤独理論かい?…いいかい?君には、私という君の身を案じてくれる友がいるんだから、君はそれに甘んじるべきなんだ」

「身を案じる?」

 田上がそう聞いたらマテリアルが、田上のタキオンと反対の方の右隣に座ってはあはあぜえぜえ言っていた。

 そして、タキオンが田上に返した。

「そう。何度も言ったはずだけどね。君には死んでほしくないって。去って行ってほしくないって。これを身を案じていると言わないで、何て言うんだい?」

「……我儘?」

「バカ言え。我儘なのは君の方だ。別に永遠にとは言わないが、せめて私の契約期間中からだけでも、私の下から去って行こうとしないでくれ」

 タキオンがそう言うと、マテリアルが意味ありげにふふふと笑った。田上には、マテリアルが普通に何かが可笑しくて笑ったように思えたので、それを無視した。タキオンは、さすがに無視はできなかったようで、チラと田上越しにマテリアルを睨んでいた。

「…お前は、契約が終わってからも俺と付き合いたいのか?」

「当たり前じゃないか!友情ってのは、君は契約でできていると思っているのかい?」

「…俺は、そもそもお前と友達ってのもあやふやなんだ。…最初は、ただのモルモットだっただろ?」

「ふむ。…そうすると、君は私との関係は最初の頃から何も変わっていないと言いたいのかい?」

「…いや、そうじゃない。…ただ、俺の頭の中身を更新できていないんだ。確かに…、確かに、お前は……友達、なのか?」

「ああ、そうさ」

 タキオンは田上に優しく言った。そうすると、田上も複雑そうな顔をしてタキオンに打ち明けた。

「俺は、担当しているウマ娘と友達になるって言うのに少し抵抗があるんだよな。…勿論、タキオンが悪いって言うんじゃないけど、友達って…友達ってどうなの?」

「…君が悩んでいるのはつまりこう言う事かな?…まず、君は私と仲が良い。これがあるね?…そして、次に君は私との関係をどう言い表せばいいか分からない。なぜなら、友達というのは君と私との関係を言い表す言葉ではないからだ。…そうすると、私は君にこう言おう。それは偏見である、と。友達とは、対等で気軽な関係を指す言葉であって、決して、女同士だから友達であるというわけでもなく、男女だから友達でないというのでもなく、ましてや、年の差があるから対等ではなく、友達ではないというのでもない。君の悩みどころは、私はここだと思う。年下に果たして友達と言ってもいい物なのかどうなのか。…世間一般では年下の人は、大体の所、部下と呼ばれていたり、後輩と呼ばれていたり、担当ウマ娘と呼ばれていたりする。それなのに、君と私はその枠組みから外れてしまっているんだ。…考えるなら、先輩後輩の関係が分かりやすいだろう。そこは、学校という場で言うと、年が二つ三つしか離れていないから、話題も合いやすく友達という対等な関係になりやすい。君も学生時代に見たことはないかい?部活動の先輩と後輩という関係であるにも関わらず、楽しそうにサッカーをしているのを。私たちは、それの延長線上だよ。年が離れているからなんだい!男だから!女だからなんだい!私たちの関係には、そういう物はあんまり関わってこないんだよ。友達。そう一言で呼べれば、それでいいんだよ」

 そう長ったらしくタキオンが説くと、その話し終わらせて田上の方を見てきた。田上は、あんまりにも長すぎて話の半分程も理解できていなかったが、とりあえず「なるほど」と言った。すると、その適当さがタキオンに見破られて、こう言われた。

「さては、君、あんまり良く分からなかったね?……これは、もう一度言うのは骨が折れるから言わないけど、君は友達という言葉に対してあんまり疑問を持たなくてもいいと思うよ?…ただ、君の思うままに私を友達かそうでないか言ってごらん?」

「俺は…、お前と友達で居たくはない」

「それはどうしてだい?」

 タキオンは少しショックを受けた様子なのが、田上にも分かったので慌てて訂正した。

「タキオンが嫌とかじゃなくて、人全般が友達になりたくないんだ。…ただの俺のダメなところだよ。タキオンが、俺に幾ら説教を垂れたって、治らないところだよ。もう、何もかも嫌なんだ。……生きるよ。精一杯生きる努力はするから、そんな顔はしないでくれ」

 タキオンの顔は、怒っているようであり、悲しんでいるようでもあった。そこで、マテリアルが口を挟んできた。

「友達と言えば、夢を語らい合いますよね?お二人は、この先したい事とかあるんですか?…ちなみに私は、絶対に担当したウマ娘にGⅠを取らせますけどね」

 マテリアルが、そう言うと、まずタキオンが言った。

「私はね。結婚して、子供たちに囲まれて死ぬのが夢かな。それに、一発、私の力でトレーナー君を心の底から笑わせるのも夢に追加しておこう」

 そして、タキオンが言い終わると、田上の順番がやってきて、迷惑そうな顔をしながらも田上は言った。

「…俺は、……」

 中々言い出せなかった。さっき、「精一杯生きる」と言った手前、「いつか死ぬのが夢かな」何て言ってしまえば、タキオンが怒るか悲しむか説教が始まるかするだろう。それだから、田上は考えに考えて言った。

「俺は、いつかここから遠く離れた田舎の町で、古くて汚い誰も管理していない神社にお参りするのが夢かな」

 あんまりにも触れづらい変な夢でマテリアルの「へ~」と感心したふりの声しか聞こえてこなかった。田上はそう思ったのだが、タキオンは、触れづらいから黙っていたわけではないようだった。無表情で田上を見つめた後言った。

「君、本当にそんな夢でいいのかい?…それなら、大阪杯終わった後くらいに行ってきてもいいよ。誰も管理していない神社くらい、ネットで探せば見つかるだろ?」

「…今は無理だな」

 田上がそう言うと、タキオンは眉をピクリと動かした。

「なぜ、今は無理なんだい?大阪杯の後なら暫くは時間があるだろ?それとも、私を天皇賞・春にも出させるつもりなのかな?」

「いや、それはしないけど。今は色々忙しいから…」

「だから、大阪杯の後に行っておけばいいと言っているじゃないか!忙しいというのは言い訳だぞ!…君は、本当は夢なんて何一つないんじゃないのかい?」

 最後の方は、タキオンも優しく言った。それでも、その前に少し声を荒げたことに不快感を覚えて、タキオンを睨みながら田上は言った。

「その通りだよ。俺は、夢なんて何一つ持っちゃいない。ただの惰性で生きてきた人間だ。意味のない人生にただ疲れる事をひたすらに繰り返しているだけだよ!」

 田上がそう言うと、タキオンが今度は悲しそうな顔をして言った。

「君には、所帯を持つとか、家を建てるとか、そんな夢はないのかい?」

「ない!所帯なんて持ったって何になる?家なんて持ったって何になる?人間、最後は死んで骨だけだ!夢を持って生きたって、叶えることができない者の中に俺がいる!所詮、夢なんてそんなもんだよ。夢を掴んだ奴だけが、可笑しそうに笑うんだ!」

「…でも、…でも、それじゃあ、死人と同じじゃないか。夢は人の原動力だよ。あれがしたい。これがしたい。君もそれがあったからトレーナーになったんだろ?」

「それもお前のトレーナーになって、一瞬で叶えられたよ。だけど、俺の心は満たされなかった。なぜだか分かるか?お前が一人で進んでいったからだ。それで、俺は分かったね。――俺にトレーナーは無理なんだって。……生きるためだけだよ。…今も続けるのは」

 田上は、そう言うと立ち上がって「今日は、トレーニングじゃないし俺がいなくてもいいよな」と言って、立ち去って行った。あまりにも、急な展開にマテリアルは「え?…え!?」と状況を把握しきれていなかった。

 そうして、タキオンとマテリアルは土手の方に置いて行かれた。タキオンは、足がすくんで追いかける事も立ち上がることもできなかった。ただ、田上の過ぎ去って行く後ろ姿を見つめてこう言った。

「逃げられることはできないぞ!」

 田上は、足を止める素振りも見せずにその後ろ姿を段々と遠ざからせた。タキオンは、その後ろ姿がもう振り返りそうにない事を知ると、手をどうしようもなさそうに振り上げた後、力無く下ろして、その後は体育座りで土手の下の方を気の抜けた様に見つめた。その様子を心配しながらマテリアルはタキオンに言った。

「タ、タキオンさん?」

「………なんだい?」

「私が、田上トレーナーを呼び戻して来ましょうか?最近のあの人は目に余りますよ。あまりにもタキオンさんの事を考えていません。お二人を見たいと言って補佐になった私ですけど、この際だから言わせてもらいます。…あの人は絶対に反省なんかしませんよ」

 すると、タキオンが相変わらず気の抜けた様だったが、しっかりと反論した。

「トレーナー君は、反省しかしてないよ。絶えず反省をして自分の心を苛め続けてる。あの人の心はもう限界なのかもしれない。きっと幼少の頃からそうなんだ。自分の心を消して母親の言う事を聞こうとしたんだ。私は、母親が聞かん坊だったって言う事を聞いた。その母の下で暮らせば、ああなるのだろうか?…ああ、きっと彼には誰も味方がいなかったんだ。父親の話も聞いたけど、トレーナー君が音を上げてやっと父親が止めに入った。でも、音を上げてからでは遅いんだよ。…トレーナー君は、そうやって苦しんで生きてきたんだ。私の苦しみに比べたら、彼の苦しみは年月とともに成長して計り知れないものになっているはずなんだよ。…私にも理解できないくらい…」

「でも、あなたが傷ついてたら元も子もないじゃないですか!」

「…それは、リリー君にも言われたよ。…だけど、…だけど、……辛いなぁ…。GⅠを優勝したって愛する人一人救えやしない。……トレーナー君は、もう救えないのかなぁ…?」

「残念ですが、あの人の言う通り、精神科に受診させた方が良かったです。このままあの人と付き合いを続ければ、タキオンさんの方まで身も心もボロボロになりますよ」

 タキオンは、そう言われると一つため息を吐いた。

「できうる限りの抵抗はしてみるよ。大阪杯。…せめて大阪杯まで待ってみよう。それから、彼を、あの聞かん坊二世をどうやったら勇気づけられるか考えてみるんだ。…その時は一緒に考えてくれるかい?」

「…勿論ですけど…、それができなければどうするんですか?」

「どうもこうもそれができなければ、トレーナー君と徹底抗戦するしかないよ。もう、出しうる限りの全てで彼に挑んで、それでも心を揺さぶることができなければ、私は…、私は、……それでも彼と共にいたい。……マテリアル君、…これは依存だと思うかい?…私は、彼の存在に依存して彼の横に立っていると思うかい?」

「……私には、あんまり良く分かりませんけど、私には無い物をあなたたちは持っていますよ。田上トレーナーもそうですし…。…田上トレーナーも女泣かせな人ですよ。こんなに美人で心底想ってくれている子がいるって言うのに、その子を放っておくばかりか、あまつさえ悪口を言って傷つけて…。…本当にどうなってるんでしょう…」

「…言える事と言えば、彼は苦しんでいるってことくらいだよ。…ああ、辛い。トレーナー君をどうしてあげられるだろう」

 すると、マテリアルがこの場の重い雰囲気を感じながらも、ついつい言ってみたくなり、こう言った。

「……気持ちを伝えてみては?…君の事が好きだって」

 マテリアルは、少し気持ち悪いニヤニヤ顔をしていた。これは、重い雰囲気に抗えなかった結果だろう。そして、タキオンは、その顔を見てしかめっ面をして返した。

「そうしたら、今の彼は逃げるだけさ。それこそ、今度こそ本当にどっかに行ってしまうかもしれない。マテリアル君は気付いていないかもしれないが、こんなに相手を想う人ってのはそうそう居ないもんだよ」

「でも、一度伝えてみたら、トレーナーの気持ちも変わるかもしれませんよ」

「…それはないだろう。私には分かる。あの人は、気持ちっていう物を変えようとしないんだ。さっきも言ったように、母親に虐げられてきた事実があるからね。一見虐待のように見えない物でも、心を虐げている事実がある。それは、法では裁けないし、また、見えないわけだから、本人たちですら分からない。よくよく観察する目を持った冷静な大人のような人でしか、それは見抜けないんだよ。…そして、決して母親が悪というわけでもないんだ。母親の方もトレーナー君と同じように親に虐げられてきたかもしれないからね。今となっては、それはトレーナー君の母方の祖父母しか分からないだろう。どんな育て方をしたのか?それを聞いてみれば、答えてくれるかもしれないが、あんまり大した返事は得られないだろう。あの人たちは老人だし、私は老人には優しくすると決めているんだ。それに、原因は分かっているんだから、今更老人たちを問い詰める必要はないね。…あの人たちは面倒臭かった思い出があるけど」

 タキオンがそう言うと、マテリアルは驚いて聞いた。

「え?田上トレーナーの祖父母と会った事があるんですか?」

「トレーナー君との帰省の時でね。あのご老人たちも一緒にやって来たのさ」

「そう言えば時々私の分からない話をしている時がありましたが、それってその帰省の事ですか?」

「そうだよ」とタキオンが答えると、マテリアルが今度は普通のニヤニヤ顔で言った。

「それで付き合っていないんですか?」

「うるさいなぁ。仲が良いんだよ。…仲が」

 そう言うと、途端にタキオンの声の調子が下がったから、マテリアルは慌てた。

「きっと、またトレーナーと楽しく話せますよ。田上トレーナーが、まるでタキオンさんを責めるような物言いで言ったのは、きっと何かの気の迷いですよ」

「……でも、あの事に心当たりがないわけじゃないんだよな」

「え?」

「……菊花賞の時だよ。…あの時もそれなりに仲は良かったんだけどね。私は、足の異常の事を隠してあそこまで来たんだ。…あれが、余程彼に堪えたみたいだね。…それとも、とっさに私を突き放すための嘘だろうか…」

 タキオンが静かに言っている横で、マテリアルも一緒に考えながら言った。

「う~ん、…でも、咄嗟に出た嘘であってもそれが気になっていないって事はないんじゃないでしょうか?咄嗟に出るわけだから、それなりに引っ掛かっているので口から出たのでは?」

「…まぁ、そうかもしれない。……これは、謝らないといけないかなぁ…。…それにしても、あそこまで根に持っているとは思わなかったね。私としては、もうとっくに過去の出来事だと思っていたんだけど」

 その後に暫く間が空いてからマテリアルが言った。

「…私がお二人をテレビで見ていた時から、徐々にずれはあったんですね。てっきり仲のいいお二人だと思っていました」

「私もそう思っていたよ。……辛い」

 タキオンはそう言って、体育座りの自分の膝の間に顔を埋めた。必死に息を落ち着けようとしていたから、肩が大きく動いていた。走った後に息を切らしていた時よりも苦しそうに肩を動かして息をしていた。その背中をマテリアルは優しく叩いてあげた。すると、すぐにではないにしても、徐々に徐々にその息を落ち着けて、最後にタキオンは顔を上げてマテリアルに言った。

「ありがとう、マテリアル君。もういいよ。今日は解散しよう。後の愚痴はデジタル君にでも聞かせるさ」

 マテリアルは少し顔を曇らせてその顔を見たが、タキオンは悲しげな表情のまま口角をにこっと上げてみせた。それを見ると、マテリアルも戸惑いながらにこっと笑い返した。そうすると、タキオンは立ち上がって再びマテリアルにお礼を言い、すぐに立ち去って行った。その遠ざかっていく背中は、普通に歩いているように見えたのだが、ぐんぐんぐんぐんと遠ざかっていった。

 マテリアルは、最後の人となった。やりきれない沈黙がマテリアルを襲った。そして、胸がなぜだかドキドキした。――明日への期待だろうか?マテリアルはそう考えたが、それ以上は考えないで、沈黙を打ち破るためにこう言った。

「ああ~~!…疲れた…」

 そして、暫く土手の上に寝転がって目を瞑った。

 

 田上は、自分の寮の部屋に戻ると、自分の情けなさにため息を吐いて、閉じたドアに背中で寄り掛かった。そして、軽く上を見上げるともう一つため息を吐いた。まだ、寝るような時間ではないから、このまま寝るわけにもいかない。けれども、今日は何も考えることができない。頭の中が後悔とか不安とか恐怖とかそんなものでぐちゃぐちゃになっていた。だから、田上はまず部屋の窓を開けに行った。すると、空気が流れてまだマシになった。田上の部屋からは、角度からしてタキオンたちのいる方向は見えそうになかったが、田上としては、視界に入らない方が好都合だったので、タキオンたちとは反対の方向を部屋から見た。奥の方には、灰色のビルが立ち並んでいたが、トレセン学園は緑に囲まれていた。方々に植えられた木は、春を迎え、葉を茂らせていた。桜ももうほろほろと咲いてきているのがあった。きっと満開になるのは、大阪杯と同じ頃だろう。例年、東京の方が三,四日早いのだが、気温の都合かあまり差はなかった。そんな事を考えていると、田上の頭には不図こんな考えが浮かんできた。――タキオンと満開の桜並木を散歩したかったな…。すると、どうしようもなく胸が苦しくなって、指が落ち着かなくなって、田上は喉のあたりをがりがりと掻きむしった。まるで、自分を殺そうとするかのように深々と爪を刺しこもうとしたが、幸か不幸かそれは叶わなかった。田上は、またため息を吐いてがっくりと項垂れた。そして、窓の傍から離れた。

 

 その後は、専らゲームなんかをして過ごした。夢中でゲームをしていれば、今までの嫌なことなど全て忘れることができた。しかし、それには今回は大きな時間を要すことにはなった。それに、途中でタキオンからLEANでメッセージが来たのも田上の心を乱す原因となった。せっかく、やっと精神を落ち着かせてゲームにのめりこめるようになったというのに、それのせいでもう一度ざわつく胸でゲームのコントローラーを手にしなければならなかった。

 タキオンは、こんなメッセージを送ってきていた。

『ちゃんと昼食も夜食も食べて、就寝も早めにして元気に過ごすんだよ。そして、就寝前にはおやすみをよろしくね。…もし私が寝ようと思っても、メッセージが全然来なかったら、今度はこっちから送るからね』

 まるで、マンガに出てくる母親のようだった。――お節介め。そう思いつつ、嬉しくなった自分に気が付くと、すぐに自分を律した。いつものように、端的に言えば、――不釣り合いだ、と。

 ただ、少々機嫌が戻りつつもあったから、一言だけ『了解』と返した。すると、そのメッセージの横に既読の文字がすぐにぴっと浮かび上がって、その後にタキオンのメッセージが返ってきた。

『元気にね』

 田上は、また胸が苦しくなった。そして、どうしていいのか分からなくなって、とりあえず、自分の首を掻いた。掻いていくうちに、心は段々と落ち着いてきたが、やはり、先程も言ったようにゲームには暫く動揺が走った。

 田上は、タキオンに言われたとおりに、せめて昼食だけでもとりに行った。夜食は、もう無理だったので、部屋の冷蔵庫にあった古びたサンドイッチで我慢した。

 昼食を食べに行った時には絶対に顔を合わせばならない人が一人、いや、二人いた。例の食堂の老夫婦だ。相変わらず、人の状態を見抜くのが上手かった。田上がどれだけ目を見開いて口角を上げて、元気そうにしていても「大丈夫け?」と聞いてきた。それだから、田上は尚の事無理に口角を上げて、「大丈夫ですよ」と返した。ただ、声だけはどうにもならなかったから、料理を受け取るとそそくさとその場から離れた。

 そして、昼食を食べ終わり、夜食はハムの挟まれたサンドイッチを美味い美味いと思いながら食い、タキオンの言う通り、早く寝た。今日は、タキオンの言った事を寝る前に覚えていたから、メッセージを送ろうかと思ったが、どうにも照れと罪悪感があって、メッセージを送る画面の所で止まって思い悩んでいた。すると、向こうの方からメッセージが送られてきた。

『おやすみ』

 田上には、目の前で起こった出来事が処理できなくて、スマホの画面を見つめたまま、ベッドの上で固まっていた。すると、暫く間が空いた後、またスマホが鳴って、画面にメッセージが現れた。

『あ』

――何なんだろうか?このメッセージに田上が訝しく思っていると、次は少しだけ間が空いた後にこうメッセージが来た。

『もしかして、君、私にどうメッセージを送ろうか悩んでいたりするかい?違うんだったらいいが、そうであれば何か言ってほしい』

 その後に『違うのであれば、おやすみとだけ送ってくれ』という言葉が添えられた。田上は、益々罪悪感が募って、どうしようかと考えた。画面の向こうではタキオンが待っているのだろう。そう思うと忍びない。しかし、自分だって罪悪感で胸が一杯だ。その二つの想いに苛まれながら、田上は目を瞑って眉を寄せて唇をきゅっと結びながら『あ』とだけ入力して、送った。

 すると、次に急に電話の音が鳴った。スマホからだ。掛けてきたのは、タキオンからだった。田上は、急な電話の音に動揺した。田上は、こういう職に就きながら、電話というものはからきし苦手だった。だから、動揺と言ってもそれはとてもな動揺で、思わずその電話を切ってしまった。すると、次がまた掛かってきて、ようやく田上はその電話に出た。

『なんで一回切ったんだい?』

 タキオンが開口一番に聞いてきたのはその事だった。田上は、少し怯えながら返した。

「ちょっとびっくりしたから、咄嗟に切った。…ごめん」

『ははは!なんだ、君らしいや。…別に謝ることはないさ。電話に出てくれたんだし』

 タキオンがそう言った後に、誰も何も言い出せない沈黙が流れた。一度、田上はこの電話を切って、スマホの電源を消して逃げ出してしまおうかと思ったくらいだった。しかし、そうは問屋が卸さない。明日は必ず会わなければならないのだ。責任ある立場として、タキオンと付き添って行かねばならないのだ。そう思うと、――こなくそといきり立って、思わず言葉が出てきた。しかし、それはいきり立っている口調とは真逆の物だった。

「タキオン…、ごめん。…ごめん。俺なんかいない方がお前にも良かったんじゃないのか?」

『う~ん、…客観的に見ればそうかもしれないね。自分に自信がないからって、他人を傷つけて逃げようとする卑怯者の下で指導を受けるなんて、一流のスポーツ選手からしたら狂気の沙汰だ』

 田上は、この言葉で大いに傷付いた。ただ、尚もタキオンは続けた。

『しかしね、私は、そうは思わないよ。君とは居るだけで楽しい友達なんだ。…だった、とでも言っておこうかな?君は、友達と言うのがあまり気に入らないようだし、それに私も今はちょっぴり君に対して怒っているからね。今、君と居ても楽しくはなれそうにない。…それでも、私が今こうして君と話しているというのは、……やっぱりあの時の様にまた君と楽しく語らい合いたいからなんだよ。…分かるかい?』

 タキオンの問いに田上は答えきれず、沈黙を貫いた。

『…まぁ、暫くこうして聞いててくれよ。…今、デジタル君に代わってみようかな』

 そう言うと、電話の向こうでタキオンがデジタルと少し揉めているのが聞こえた。デジタルは、電話に出たくないようだった。しかし、それもタキオンに言いくるめられて仕方なく、電話に出てきた。

『もしもし、田上トレーナーですか?』

 田上は、デジタルの手前渋々答えた。

「そうです。タキオンが迷惑かけてごめんね」

『いえいえ、滅相もない。……頑張ってくださいね』

「え?」

『タキオンさんとの喧嘩の事です。喧嘩するほど仲が良いって言いますが、喧嘩も程々にしてくださいね。デジたんの身が持ちませんから』

 デジタルがそう言うと、田上の心も少し和み、はははと笑った。すると、声は唐突にタキオンの物へと変わった。

『デジタル君を介して話してみる事をしてみよう。久々の実験だ。こっちの方が君の方が話しやすいんじゃないかと思ってね』

『あの~、デジたんも少ししたいことがあるのですが...』

 デジタルがそう言うと、タキオンの『ええ~?』という残念そうな声が聞こえてきた。それでもタキオンは引き下がろうとはしなかったから、諭すように田上が言った。

「タキオン、あんまりデジタル君を巻き込むんじゃないよ。...話してあげるから」

『...じゃあ、いいか。ありがとう、デジタル君』

 すると、『どういたしまして』という声が聞こえて、スマホの動かされる音が聞こえた。それから、タキオンがまた出てきて言った。

『話って言っても、それ程大した話題もないんだけどね。…何か話したい事はあるかい?…大阪杯?』

 田上にはそれは答えることができなかった。だから、タキオンが田上の返答を待ち続けて暫くの沈黙が流れたが、不意にタキオンがこう切り出した。

『……大阪杯の後の予定はあるかい?』

 何か物憂げな口調だったが、田上はそんな事は気にせずに言った。

「宝塚記念あたりに出たいと思っているんだけど、どうかな?」

『また、今まで程ではないにしても期間が空くね。…別に、全然かまわないよ。順当に行くとそうだろう。…また、のんびりとするのが楽しみだ』

 田上は、特に適当な文句が思い浮かび上がらなかったので、「のんびりね…」と呟くように返しただけだった。すると、再び沈黙が続き今度は、田上が唐突に言った。

「タキオン、ごめん」

 そこでたまたまタキオンが話し出そうとしたから、言葉が混ざってあっちゃこっちゃなってしまった。タキオンは、『トレーナー君は…』と話し出そうとしていたのだが、『自分の話はいいから』と言うと、田上に話させた。

 田上もタキオンに話させたかったのだが、どうにもタキオンに口では勝てない。だから、仕方なく言った。

「俺は、トレーナーの資格がないよ…。人としてダメなんだよ。お前が大阪杯に勝てなかったら俺のせいだ。…お前に何もかもなすりつけようとして逃げて、一番ダメだったのはお前の足の事を見抜けなかった俺なんだ…」

『そんな事はないさ。君の言葉が私の役に立ったと前に言わなかったかな?』

「でも、それはお前の為に言った事じゃないんだ、多分…。だから、俺はお前の為に何もしてやれなかったんだよ。つまらない感情をタキオンにぶつけて、逃げて…。…お前は、逃げられないぞって言っただろ。…その通りなんだ。俺はいつまで経っても変わらない自分から逃げる事はできないんだよ…」

『…まぁ、落ち込んでいるところ悪いけどね。私も少し謝りたい事がある。私の足の事だ。…菊花賞の後あたりに打ち明けただろ?…まぁ、君にひた隠しにしていたわけだ。ぼんやりとぼやかして君の踏み入れないようにして、モルモット君ごっこに興じていたわけだ。…君に話してしまうと面倒だったんだよ。君は、必ず心配して、自分も一緒になって私の事を助けようとするだろう。…私は一人でそれをしたかったんだよ。……今になってみればそれは間違いだったと感じる。マテリアル君が言うには、私たちは他のトレーナー陣より仲良く見えたらしい。しかし、それは…少し表面的とも言えるもの何だったんだよ。今は勿論違うよ。今は、心底君が大切だから、こうして打ち明けている。……今までは、研究者ごっこに君を巻き込んでしまっていた。…すまない。謝ったくらいで償えるものとは思っていない。必ず、君が幸せになるまで私が傍に居るから』

「そんな事はしなくたっていいよ…。…そう言ってくれただけでもありがたい」

 田上がそう言うと、タキオンが何かを言おうとその口を開いたが、田上はその言葉敢えてを遮って言った。

「誰がどう言おうと、俺は大した奴じゃないから…。だから、タキオンが俺の為に躍起になったって結局意味はないんだよ。俺は、元からこうだから」

『なら、私はこう言おう。――君は優しくて、かっこよくて、時々ぶっきらぼうで、それでいて、私の事は常に気にかけてくれていて、今は不安に苛まれているけど、その不安さえ取り除いてやれば、一人前の、世界で一番大したいい男になれる、と』

 タキオンの言葉に田上がはははと力なく笑った。そして、言った。

「あんまり意味はないんだよ。全部が全部。生きる事も死ぬ事も。愛する事も殺す事も。生ある者には、生が宿り、死にゆく者には、死神とお近づきになれる。何回も言っただろ?人間ってのにはさして意味はないんだ。…結局は死が訪れる」

『私はそうは思わない。人間というものには、歴史がある。感情がある。夢がある。君は紡がれてきた想いというものを感じたことはないかい?遠い遠いご先祖様に想いを馳せたことはないのかい?私たちは数々の命の中に立っている。遠い遠い昔には、私にも髭が生えたご先祖様がいただろう。その人が妻を持ち、子を産み、育て、次の世代へと伝えたことで私たちは今ここで生きているんだ。もしかしたら、君とも遠い遠い遠い親戚かもしれない。そもそも人間である時点で私たちは繋がっているんだ。言葉を介し、交流を重ね、愛を育んで、できたこの世界は、私たちにとって最も尊い物なんだ。その中で私たちはどう生きるか。答えは人それぞれだけど、一人一人にできる事がある。それは、次の世代へと想いを繋ぐことだ。私たちはそうやって生きてきた。今は混乱の時代だ。目まぐるしく行き交う価値観に自分自身を見失いそうになる時があるけど、これだけは忘れちゃいけないんだよ。私たちは、人類、いや、生命というものが誕生してから今まで育まれてきた命というものなんだよ。…結局は死が訪れる。そうさ、その通りさ。君の言う事は何も間違っちゃいない。けれども、今までの満足に生まれてくることもできない過酷な時代を生き残ってきたご先祖様を思ってみれば、……何か胸に来るものはないかい?』

 田上は、この質問にも答えることはできなかった。これついては、考える事に妙な抵抗があった。まるで、止めろ止めろともう一人の自分が語り掛けてくるようだった。だから、田上は、暫くの間沈黙を貫いた。それでも、タキオンは一向に話そうとして来ないから、田上は、羽虫のような靄が掛かって見えづらい頭の中で必死に考えて言った。

「………お前の言う事も分かる。確かにそうだ。凄いと思う。…だけど、お前は俺に結婚して幸せになれと言うつもりだろ?…残念ながら、俺は結婚ができる程器量良しじゃない。お前が今まで俺を見た様に、俺は性格が悪いんだ」

『そんな事はないさ』とタキオンが優しく言った。

『さっきも言ったじゃないか。私は、君の事を優しいし、かっこいいと思ってるよ』

「お世辞は聞きたくない」

『お世辞なんかじゃないさ。本当の事だよ。…君は優しくて、かっこいい』

「タキオン、……お前いつからそんな事を言うようになったんだ」

『う~ん…、いつからだろうねぇ。……あんまり遠い昔ではないと思うよ』

「……そうか…」

 田上がそう言って、暫くの沈黙が流れた。今度は、二人とも若干の照れがあるような沈黙だった。だから、タキオンがその状況を打破すべく、話題を変えるためにこう言った。

『君、明日の準備はもう済ませたかな?』

「ああ。今から寝る所だった」

『そりゃあ、すまないね。電話を掛けてしまって。…だけど、一回だけ君と話しておきたかったんだ』

「俺もお前と話せてよかったよ。…ごめん」

『いつまでくよくよしてるんだい!』

 そうタキオンが笑いながら言った。

『多分、この先何回もこういうことがあるかもしれない。私を傷付けて君が逃げる日があるかもしれない。だけど、私は君の事は信頼しているんだ。君は、いい男だからね。きっと上手くやれるさ。逃げたって恨みはしないから。もう限界で、死ぬ以外に道がないって時は私を置いて逃げたまえ』

「そんな事はしたくないよ…」

『まぁ、したくないならしなくてもいいけど、一番私を傷つける行為は死ぬ事だからね。自ら死ぬ道を選んだ事が私を一番傷つけるんだからね。…だから、元気にね』

 真剣な声でそう言った後、タキオンは快活な口調に戻し言った。

『関西に行ったら、少し暇ができるだろ?一緒に花見散歩でもしないかい?…いや、しよう?君も一緒に散歩するんだ。そうする方が、ホテルに籠っているよりはいいだろ?…それとも、土曜はレースを見に行ったりするのかい?』

「いや、見に行ってもいいけど、あんまりその気にはなれないな」

『なら、交渉成立だ』とタキオンは、田上の返事を聞きもしないで言ったのだが、田上も一度望んだことでもあったし、悪い気もしなかったので、そのタキオン言葉に「いいよ」と言った。すると、タキオンが嬉しそうにへへへと笑った。

『じゃあ、話はこのくらいかな。…何かまだ話したい事とかあるかい?あんまり寝るのが遅くならない程度には付き合うよ?』

「いや、いいよ。おやすみ」

『ああ、おやすみ』とタキオンの声が聞こえると、田上は電話を切って、スマホの画面の光を消した。そして、ごろんと仰向けにベッドに横になった。寝る前にタキオンと話すのは健康にいい、と言えるくらいには、心が充実していた。そして、安心もしていた。いつもと変わらないタキオンがいて、田上には凄く有難かった。勿論、タキオンに対しての複雑な気持ちは今も健在ではあったが、今はその優しさに甘える事しかできなかったし、また、甘えられることが嬉しかった。――これでは、益々タキオンから離れられないだろう。田上は、ぼんやりとそう思ったが、急激に眠気がやってきて田上はその考えを頭から吹き飛ばした。そして、立ち上がって部屋の電気を消すと眠りについた。



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十九、大阪杯①

十九、大阪杯

 

 朝は、誰かが扉をノックする音で田上は目を覚ました。それで、慌てて起き上がった。自分が寝過ごしてしまったのではないかと考えたからだ。結果としては寝過ごしていた。自分の掛けた目覚ましが、無意識のうちに消してしまっていたのか、それとも、そもそも鳴らなかったのか分からないが、とにかく田上は自分の掛けた目覚ましに気がついていなかった。しかし、誰かが起こしにくれてきた事により、被害は大きくならずに済んだ。

 ドアを叩いていたのは、タキオンだった。田上がドアを開ければ、ニコニコ顔でそこに立ってた。そして、田上の顔を見ると言った。

「おはよう、トレーナー君。一緒に朝御飯を食べに行こうよ」

「朝御飯?」

「そうさ、朝御飯だよ。...君、着替えていないね?今起きたのかい?」

「ああ、...目覚ましが鳴らなくてな」

「ふぅん」とタキオンは、頷いて続けた。

「じゃあ、着替えてきたまえ。まだ、バスに乗るまで時間があると言っても、着替えて、ご飯を食べて、荷物の再確認をしていたらあっと言う間に時間は過ぎてしまうぞ」

「分かったよ」と田上が言うと、扉を閉めて部屋に戻ろうとしたのだが、そこでタキオンが、田上が閉めようとしたドアを難なく開けて、その隙間からするりと田上の部屋に入ってきた。だから、田上は驚いてタキオンの顔を見つめるとタキオンは「どうしたんだい?」とあたかも田上の考えが全部分かっていて、その上で面白がっているような口調で言った。田上は、しかめっ面をして暫く考えた後、「まぁ、いいよ…」とタキオンを部屋の方へと入れた。だから、田上は自分の着替えを持つと、洗面所の方でそれに着替えに行った。どうせ、髭も剃らなければならなかったし、顔も洗わなければならなかった。

 

 タキオンの言うように、時間は大事に使いたかったので、着替えや洗顔諸々は少し急いで終わらせた。そして、タキオンの所に戻ると、タキオンはくつろいだ様子うつ伏せにで田上のベッドの上で目を瞑って眠っていた。田上は、それを見ると動揺して固まってしまったが、田上の気配を察したタキオンが起き上ると、自分のしたことは何でもない普通の事といった様子で「さぁ、朝食を食べに行こうか」と言った。田上は、もう過ぎてしまった事は仕方がないので、タキオンがくしゃくしゃにしてしまったシーツの裾を少し引っ張ると、タキオンの後に続いて部屋を出て行った。

 朝食の方は、カフェテリアには行かずにトレーナー寮の食堂の方で食べる事になった。タキオンがここに来るのは二度目となった。だから、タキオンを見かけると食堂の修さんがすぐに話しかけた。

「タキオンちゃん、久々がね。圭一君とは上手くやっとるけ?」

「ええ。相変わらず、お弁当は作ってくれそうにないですが、朝食を一緒に食べるくらいには上手くしてますよ」

 タキオンが皮肉っぽくそう言うと、修さんは、がははと笑って言った。

「それんば、今度大阪杯に出るって言っとったたい、そんご褒美んとして、けいいっ君にお弁当作ってもらうのはどうけ?…けいいっ君どげん?」

 その修さんの言葉に田上は顔をしかめて、タキオンを見た。修さんから言われて作ったのでは、双方共に意味はないだろうと思ったので、もう一度タキオンの顔を見て問うたのだ。タキオンは、田上の顔の様子を察して、顔に笑みをほんのり浮かべて言った。

「私からも頼むよ。大阪杯を勝ったら、とかどうだい?」

 田上は、暫く考えてから、タキオンにこう返した。

「…別に、勝たなくても作ってやるよ。たまにだったらいいよ」

「ありがとう」とタキオンは、特別喜んだ様子もなく、そう言った。しかし、田上はタキオンの目が嬉しそうに見開き、口角が前よりも少し上がったのを見逃さなかった。それだから、田上も少し嬉しくなって、「どういたしまして」と答えた。

 それから、料理を受け取って二人は席についた。ここには、普段から好んで出入りするウマ娘なんていないので、タキオンは一人浮いていて、行く人々にじろじろ見られていたが、二人は比較的楽しく話した。ただ、この比較的、というのは、田上にとってのことだった。まだ、タキオンに後ろめたさがあった。ごめんなんて何回言っても足りないだろう。それでも、今はタキオンの快活さに押されて、比較的楽しむことができた。タキオンは、素直に田上と話せて楽しくなっていた。時々声を大きくして笑ってみたり、ニヤニヤしながら田上の返答を聞いてみたり、それはもう陽気に過ごした。

 そして、朝食が終われば二人は別れた。もう一度自分たちの荷物を点検し、それを持ってバスのある学園の駐車場まで行かなければならないからだ。バスに乗れば、後は、空港まで行き、飛行機に乗って、大阪の方まで行く。そして、阪神レース場近くにある関係者用ホテルに行くだけだった。

 タキオンたちは、九時に出発するバスに間に合うように、十分前に部屋を出た。

 

 部屋を出たのが丁度同じくらいのタイミングだったので、田上とタキオンは寮の前で鉢合わせた。田上は、タキオンがまた自分に会いたくて時間を合わせて出てきたのでは?とありもしない疑いを持って、目が合うとしかめっ面をしてしまったが、どうもタキオンがその様子でないから、田上はタキオンの「君、人と目が合ったら急に顔をしかめるの止めたまえ」という言葉に「ごめん」と謝った。それから、田上は何かを言いたそうにタキオンの顔を見つめていたが、タキオンが「行かないのか?」と聞けば、「行くよ」と返してその隣を歩き出した。

 駐車場に向かう石畳の道には、タキオンと同じ大阪杯に行くであろうウマ娘とそのトレーナーが、ちらほら見えた。その中に国近とハテナキソラもいた。国近とソラは、タキオンたちの前の方を歩いていたから、後ろの方のタキオンたちには気が付いていなかった。田上は、その後ろ姿をじっと眺めていた。国近とソラは楽しそうに話をしていた。会話の内容までは聞き取れなかったが、国近の快活な笑いとソラの静かな、けれど、心から楽しんでいる笑いが聞こえた。田上は、それを聞いていると段々と惨めになってきた。今、国近たちの後ろにいる時は、タキオンと田上は全く話をせずに前の国近たちを黙って見つめていた。タキオンもなぜ黙ってしまっているのかは分からなかったが、それがより一層田上を惨めにさせた。だが、不図した瞬間にタキオンが田上に囁きかけた。

「あの二人も私たちと同じくらい仲が良いね。もしかしたら、付き合ってるんじゃないか?…どう思う?トレーナー君」

 こんな質問をされたら田上も困ってしまい、それが今の惨めさと混ざって表情の暗いままタキオンに答えた。

「あの二人が付き合っていたってどうしていたって俺たちには関係のない事だ。あんまりそんな口を利くな」

 そう言うとタキオンもさすがにバツの悪そうな顔をして、「は~い」と頷いた。それから、また暫く沈黙が続いた。

 

 沈黙が破られたのは、バスの近くにいるマテリアルの輪郭が見えた時だった。タキオンがこう言った。

「…私たちもさっきのように噂されていたりするのかな?」

 タキオンは、自分の言葉に少々照れが混じってしまって、トレーナー君に自分の好意を勘付かれやしまいかと少しドキドキしたが、残念ながら田上は気が付かず、その上こう言った。

「あんまり気持ちの悪い事を言うな」

 少し口が悪くなってしまったのは、田上の照れ隠しだった。ただ、タキオンの方も田上の照れには気付けずに、少し驚き失望して言った。

「気持ち悪いたぁ、なんだい!私は、華の女子高生だぞ!」

「だから何だ。…俺は、女子高生は嫌いだ」

「じゃあ、なんでこの学園に来たんだ!」とタキオンが憤慨して言ったが、田上はそれを無視して、今度は見送りに来ていたリリックの方に手を振った。リリックの方もまた、手を振っていたからだ。そして、すぐにタキオンの方に向き直ると、少しの微笑を返しながら「なんでなんだろうな?」と言った。だから、またタキオンが何か言い返そうとしたのだが、次はリリックとその友達方々の挨拶によってそれは遮られた。

 リリックは、オータムとイツモを連れて田上に挨拶をした。

「おはようございます」「おはようございます」「おはようございます」と三人がそれぞれに田上とタキオンに挨拶をして、田上も「おはようございます」とタキオンは「おはよう、中等部」と挨拶を返した。そして、リリックが友達を紹介した。

「田上トレーナーとタキオンさんを見たいって言っていたので、連れてきました。オータムとイツモです。…問題ないですよね?」

「ああ、問題ないよ。…大阪杯応援していってくれるの?」

 田上は、オータムとイツモに聞いた。すると、オータムは目をキラキラさせて「はい!」と頷いたが、イツモは申し訳なさそうな顔をして言った。

「大阪杯には姉が出るので、タキオンさんの応援は…」

「姉が出るの!!」と驚いたのは、何も田上だけではなかった。リリックもオータムも同じように驚いていた。

「誰?」とリリックが聞いた。すると、イツモはこう答えた。

「ストーリーテラーっていう私とおんなじ髪の人。去年大阪杯を勝った四番人気の…」

「へ~、ストーリーテラーさんの妹~」

 今度は、田上が感心してそう言った。そして、オータムが言った。

「なんで同じ学校行かなかったの?」

 ストーリーテラーは、他校から出走しているウマ娘だった。

 そして、イツモが答えた。

「私は、元々トレセン学園に入ってみたかったんだけど、お姉ちゃんが言うには――トレセン学園はでかいし強いから何か腹立つ、って事らしい。…あんまり私にはよく分からないけど」

 ここで、バスの近くで何かしらの手伝いをしていたマテリアルが駆け寄ってきて言った。

「トレーナー、バスの収納に入れたい大きい荷物などはありませんか?もうすぐですよ」

 そう言われると、田上もタキオンも中等部の話を断って、慌てて荷物を入れに行った。田上は、ただのバッグだったから手に持ってもよかったが、タキオンは田上の家に帰省した時と同じキャリーケースだったので、バスの収納に積みに行った。

 こうして全員が揃い、点呼も終わり、順番にバスに乗り込んだ。予め、席も決められていて、トレーナーがそれぞれ渡されていた席順で座ることになった。タキオンたちは、バスの真ん中あたりで、その後ろに国近たちが座る形だった。

 田上が自分の席に座り、丁度その後ろにいたマテリアルがその横に座ろうとした時、タキオンの口から思わず「あ」と声が漏れてしまった。誰がどこの席に座るという事ではなく、「あそこの三席が俺たちの席」と田上に伝えられていたので、てっきり自分が田上の横に座るとばかり思っていたタキオンだったから、思わず声が漏れ出た。すると、すぐに察したマテリアルがニコッと笑って言った。

「私が後ろの方がよろしいようですね」

 そう言って、マテリアルが田上の後ろの席に一人で座った。これは、タキオンにとって公開処刑のようなものだった。さすがのタキオンでも、皆に見つめられている場面で公然と田上と仲の良さを見せつけるのは恥ずかしかった。タキオンが、頬を赤く染めつつも「ありがとう」とマテリアルに言って田上の隣に座ると、後ろにいた二、三人がふふふと声を潜めて笑うのが聞こえた。その一人が、今回タキオンの最大のライバルになりうるかもしれないソラだったので、タキオンは思い切りその顔を睨みつけてやった。そして、気を取り直すと田上に言った。

「私、窓際の席が良いんだ。君、退きたまえ」

「は?…いいけど、今は無理だぞ。狭すぎる」

 田上がそう言うと、なぜかタキオンは向きになってしまって、こう言った。

「なら、君のバッグを持っててあげるから、今すぐ退くんだ。今すぐ」

 それから、田上の頬を人差し指でぐいぐいと押し、「分かったよ」と言わせた。

 田上は、そう言うと一旦自分の座っていた席にバッグを置いて、窮屈なバスの座席をタキオンとできるだけ触れ合わないようにしながら、バスの内側の席に移動した。その後に、自分のバッグを取ってタキオンに席を明け渡そうとしたのだが、そうする前にタキオンが窓際の席に座り、田上の大きい黒いバッグを奪い取ってしまった。初めは田上もタキオンが渡してくれるものだと思っていたのだが、幾ら待ってもタキオンがバッグを渡してくれないので、「おい」と少し怒っている調子で声をかけると、タキオンはこう言った。

「これは、私の物~」

 そして、力強く田上のバッグを抱き締めたから、田上は頭を抱えた。なんだか、どうしようもなさそうな様子だったから、タキオンはそのまま放っておいた。すると、田上が相手をしてくれなくてつまらなかったのか、すぐにバッグを手放して田上に「はい」と寄越した。

 バスの中では、今回の三月三十一日に阪神で開催されるレースに出走するトレセン学園一行を取り仕切る人が、あれこれ注意事項を話していた。このバスには、大阪杯だけでなく他のレースに出走する子も乗っていた。バスは二台がかりで空港へと人々を運ぶのだ。もう片方は、タキオンたちが乗っているのよりもまあまあ小さかったが、合計すればそれなりの人数が行くことになった。さすが天下のトレセン学園だった。大阪杯には、トレセン学園の生徒が八人ほど出走する。フルゲート十六人立てのレースだたから、半分はトレセン学園の生徒という事になるだろう。それだから、トレセン学園に帰ってくるときは、勝った子もいるが負けた子も多かった。

 その中の一番人気のアグネスタキオンと言えば、バスの前の方にいる人が話している事なんて全く聞きもしないで、一生懸命聞いている田上にちょっかい出したり、窓の外の方を見て――早く出発しないかなぁ…とぼんやり考えていたりした。空港についてからの動向についても説明していたので、その人の話は少し長かったが、とりあえず、終わることには終わって、いよいよ出発となった。バスはグルンと動くと、リリックとオータムとイツモが揃って「タキオンさん、頑張ってー」と言っているのが見えた。タキオンは、それににこやかに手を振って返した。バスは、駐車場を出ると徐々にスピードを上げて、空港へと走った。その間にタキオンは暇だったので、手に直で持っていたお菓子を開けて食べ始めた。そして、田上との談笑へと至った。

 タキオンは、田上にまずこう言った。

「久々だね。こうしてバスに乗るのは」

 田上は、「ああ」とだけ答えたから、タキオンがつまらなさそうに田上の顔を見て言った。

「君もお菓子いるかい?」

 すると、田上はまた「ああ」と答えた。これには、タキオンも少し怒った。

「君も愛想がないなぁ。…別にいいけど」

 そう言ってからタキオンは田上に一つお菓子を手渡した。

 バスの中は、静寂に包まれたとは行かないまでも、それぞれがそれぞれに配慮して適度な声量で会話をしていた。それなので、バスの中は田上にとって過ごしやすく、ついうとうとしてしまった。この男ときたら、寝れる場所があればどこでも寝てしまうのだ。それだから、田上は眠ってこっくりこっくりとして段々と体をタキオンの方に寄せて行き、遂には眠ってしまった。タキオンがそれに気が付いたのは、田上のバッグがタキオンの太ももに倒れかかってきたからだった。太ももにバッグの感触がして、田上の方を見上げてみれば、だらしのない顔で眠っていたから少し笑ってしまった。そして、このままバッグが落ちていくのを見ているだけなのはなんだか可哀想だと思って、そのバッグを田上から取って自分の足の上に置いた。それから、タキオンの肩に寄りかかってくる田上をまた見上げた。

 すると、後ろの座席からマテリアルの小声が聞こえた。

「田上トレーナー、寝てますか?」

「ああ、寝てるみたいだよ。ほっぺをつついても起きる気配がないし」

「なら、少し話をしてもいいんじゃないですか?」

「…ん?話ってあの事かい?」

 タキオンは、少し眉を寄せて身を捩って後ろの方を見た。後ろには、ニヤニヤした顔のマテリアルが、バスの席と席の間から顔を覗かせていた。

「あの事です。…寝てるんですしいいでしょう?」

「いや、いいわけないだろ。ここはバスの中だぞ。誰が聞き耳を立てているか分からないし、万が一、話の途中でこの子が目を覚ましたらどうするんだ」

 マテリアルは、不満そうな声を出したが、それを言われると大人しく引き下がった。それからは、バスはゆったりと進んでいって、トレセン学園を出て一時間ほどで空港の方へと着いた。その時には、もうぐっすりと田上が眠っていたので、タキオンは田上を眠りから覚ますのが忍びなく思ったが、そうは言っても仕方がないので田上を揺り起こした。田上は、自分がタキオンに寄りかかっていたと知ると、すぐさま「ごめん」と言って離れた。タキオンとしては、問題なんてあるはずもなかったので、「いいんだよ」と言うとその後に田上の顔を見つめながらこう言った。

「……君、愛想がないって言ったけど、あれは間違いだったよ。寝てる君の顔と言ったら、そりゃあ、愛想の塊だったよ」

 その言葉を聞くと、田上は出る準備をしながら暫く考え込んでいたが、タキオンにバカにされたと感じると、しかめっ面をして言った。

「そんなに可笑しかったか?」

「いや、…今は愛想がない」

 タキオンは、からかうような目で田上を見た。だから、田上もそんな顔をされると面倒臭いので、丁度来た自分たちの順番に任せてこの話を打ち切った。

 

 それから、順繰り順繰りと話は進んでいった。空港に着けば、飛行機に乗って空を飛んだ。そして、大阪に着けば、またそこにあるバスに乗って一行が泊まるホテルへと行った。時間はあまりかからなかった。トレセン学園から空港までが一時間程、そして、飛行機に乗っている時間も一時間程、大阪の空港からホテルまでは二十分程、計約二時間二十分であった。だから、もっと遅くに着くのでは?と予想していたタキオンは、その予想が外れて大いに満足していた。田上と桜を見る予定をまんまと遂行できそうだったからだ。今、時間は十一時半ごろだった。タキオンは、自分の頭の中で――昼食を食べ終わったら、トレーナー君と花見デートをしに行こう、と考えた。その事を「デート」という部分だけ表現を変えてホテルに行くバスの中で田上に伝えた。すると、田上は渋い顔をしつつもこう言った。

「…実は、俺もお前と歩きたいと思った事はあった。…あった」

 田上は、そう言った後に少し恥ずかしそうに顔を背けたから、タキオンは興奮して言った。

「君、愛想抜群じゃないか!どうしたんだい、君ぃ!」

「うるさい」

 興奮したタキオンを諫めるためにすぐさま普段の渋い顔に戻って田上は言った。そう言われると、タキオンも少しは大人しくなったが、代わりにからかうような口調でこう言った。

「分かるよ。君の気持が私にはうんと良く分かる。二人で散歩すると楽しいものねぇ。そうかいそうかい、君も私と散歩したかったか」

 再び田上は「うるさい」とタキオンを睨んで言うと、タキオンもこれ以上は不味いと思ったのか、その事については話さなかった。そして、バスを降りた時にこう言った。

「来る道で、もう結構桜が満開な公園があったね。楽しみだね」

 そうすると、田上も少し微笑んで「ああ」と言った。

 田上たちが降りると、バスは音を立てて走り去っていった。

 

 昼食は、各々の部屋に荷物を運んだ後に食べようとの事だったので、田上たちはそれぞれ割り振られた部屋に足を運んだ。

 田上とタキオンの部屋は隣同士だった。どのトレーナーと担当ウマ娘もそうであるから、特別な事ではなかったが、タキオンは嬉しかった。その理由が気軽に田上の部屋に遊びに行けるからだった。この荷物を置きに行く時でさえも、田上の部屋にお邪魔していた。

 自分の荷物をマテリアルとの相部屋に適当に放っておくと、タキオンは急いで隣の田上の部屋に行き、そして、その部屋の感想を言った。

「私の部屋とあんまり変わんないな」

 そのタキオンに田上は呆れつつも「何しに来たんだ…」と言い、その背中を押して退室を促した。タキオンもその時は、田上が昼食に食べに一緒に出る事が分かっていたので、文句も言わずに出て行ったが、これより後には何度も来ることとなった。

 部屋を出て行った田上とタキオンは、ホテル内のレストランへと向かった。やはり見たことのあるような気がするウマ娘がちらほらいて、その中に国近とソラがいた。向こうも田上たちと同じように、女の子右、男左という構図で歩いていて、背格好による二人の身長の差も同じように似通っていた。その二人をまた後ろから眺める事となった。今度は、話し声まで聞こえた。

 まず、国近が言った。

「おい、ソラ。俺、こういうレストランのお味、あんまり好かんのだけど」

 次にソラが答えた。

「仕方ありませんよ。…それに、今回は当たっているかもしれませんよ?」

「ええ~?貧乏舌の俺に当たり外れが分かるかなぁ?」

「恵(けい)さん、分かる分からないじゃなくて、分かろうとする努力をしてください。こういうホテルの料理が不味いという事はないじゃないですか」

「いや、それは分かってるんだけどね。料理ってまず見た目からじゃん。それで言うと、ホテルの料理は…ガツンと一発欲しいところだよね。野菜じゃなくて肉!って感じの」

「じゃあ、結局、肉が食べたいだけじゃないですか」

「ご名答。やるじゃん」

 そう言ってから、国近は親指と中指でパチンと鳴らそうとしたが、綺麗な音は出ずハスンという情けない音だけが聞こえてきた。すると、それが二人の笑いを誘ったらしく、国近もソラもケラケラと笑いだした。その笑い声を聞いていると、田上は再び惨めな気持ちに晒された。あんな風にタキオンを笑わせる事の出来ない自分を呪った。――こんな様で人を好きになっているなんておこがましいにも程がある、とさえ思った。だから、どうしようもない気持ちに駆られて思わずタキオンにこう言った。

「…タキオン、ごめんなぁ…。どうしようもない奴で…」

 すると、タキオンが答える前に田上たちの声が耳に届いた国近が振り向いて、田上に呼び掛けた。

「おう、田上。居るんなら声かけてくれればよかったのに。アグネスさんもこんにちは。大阪杯頑張ろうな」

 そこでソラも振り返ってタキオンと目が合うと、両者の間に一瞬火花が飛び散ったように見えたが、タキオンはすぐにソラから目を離した。そして、国近の方を見ると言った。

「大阪杯を頑張ろうについては何も言わないが、今、トレーナー君が何か話そうとしてたところなんだ。君に話しかけたんじゃないから、先に行っててくれ」

「ああ、そう…」

 国近は、タキオンの言葉の勢いに少し驚いて、声を小さくさせた。しかし、その後に田上が「別に問題ないよ」といつもの調子で言ってきたから、今度は困惑した。タキオンを見、田上を見て、そして、ソラを見て――どうなってるの?と目で語り掛けたが、ソラはにこっと笑いかけただけで特に意味ありげな目つきはしなかった。だから、――まぁ、田上が言ってるから良いのか?と思うと、タキオンを心配そうに見ながら田上に言った。

「調子はどうだ?大阪杯は仕上がったか?」

「ん?上々だよ。…上々だろ?タキオン」

「んん…」とあまり上々ではなさそうな調子でタキオンは返したが、それには構わず田上は国近に言った。

「俺はレストランの食事は好きだけどな」

 そう言われると、国近も困った顔をして「聞いてたのか」と少し笑った。そして、タキオンと田上も含め四人で歩き始めた。今度は、良く話す国近と田上を真ん中にして、女の子たちが両端についた。女の子たちは、それぞれのトレーナーともっと話をしたかったのだが、こうもトレーナーたちが楽しそうに話していては黙ってそれを見守る他なかった。タキオンは、少し不満そうだった。さっきの話をもう少し掘り下げたかったし、落ち込んでいるように見えた田上が国近の前ではすぐさま機嫌を取り戻したことも気になっていたからだ。ソラは、楽しそうに話す二人を微笑を浮かべながら見つめていた。この真意は分からなかったが、たまたま反対側の田上の隣にいたタキオンと目が合うと、その目がきらりと閃いたように感じた。



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十九、大阪杯②

 四人は、一緒になって昼食を取ったので、タキオンとしては物凄くつまらない事であった。田上と国近は相も変わらず、二人だけで楽しそうに話をしている。マテリアルは、どこかの知らない誰かと仲良くなって、田上に断って別の席で昼食を取っている。それだから、タキオンがつまらなさそうにため息を吐きながら昼食を食べていると、向かいの席に座っていたソラが唐突にタキオンに話しかけてきた。

「…タキオンさん、私、偶然聞いてしまっていたんですけど、…バスの中であの補佐の方と『あの事』と話していらしてたじゃないですか?」

 そこでソラが、恋愛話をするときのハナミやマテリアルのようなニヤニヤ顔になったので、慌ててタキオンが言った。

「ちょっと待った。君が『あの事』についてどんな見当違いな考えを抱いているのかは知らないが、それを今ここで言うのは止めたまえ」

「そうですよね。あの人がいますものね」

 そう言ってからソラが、意味有りげに田上の方をチラッと見たから、――ああ、もうダメだとタキオンは思った。きっと、あのバスの中のマテリアルとの会話だけでソラには、十分察することができたのだろう。タキオンは、あんな場所であんな話を持ち掛けてきたマテリアルを恨んで、――部屋で一緒になったらどう責め立ててやろうかと箸を乱暴にカチカチ言わせながらご飯を口に運んだ。このやり取りでさえも見る人が見れば勘付くだろうし、それが田上ならば、タキオンにとっては本当に不味かった。できるなら自分の口から伝えたかった。ただ、田上はやっぱりタキオンをつまらないと思わせた様に、国近と手をウマ娘に見立てて夢中でレース談議をしながら、ご飯を口に運んでいた。

 すると、ご飯を食べ終わったくらいの時にソラがまた話しかけてきた。

「タキオンさんは、昼食の後何かなさるおつもりですか?」

 これまたタキオンには都合の悪い話だったので、タキオンは嘘をつく他なかった。

「まぁ…、トレーナー君と作戦会議かな」

「作戦会議ですか?…今頃?」

「今頃でも何でもいいだろ!失礼にも程があるぞ」

 タキオンが怒ってそう言うと、隣で食後のゲーム談議をしていた田上と国近が驚いて、タキオンの方を見た。そして、田上が言った。

「何かあったのか?」

 これは聞かれちゃ不味い。タキオンはそう考えて、「いや…」と今の話を隠そうとしたが、それはまんまとソラに遮られた。

「タキオンさんが、昼食を食べ終わったら作戦会議をするって言っていましたが本当ですか?」

 それに田上が答えた。

「え?…いや、別にそんな事はしないけど…」

 そう言ってから、田上は問うようにタキオンを見つめた。――なんかあるのか?とその目が語り掛けていたからタキオンは、困った顔をして言った。

「ちょっと言いづらいじゃないか」

「散歩に行くことが?」

「そうそれだよ…」

 まさか田上の口から昼の後の予定を披露されるとは思わなかったので、タキオンは肩を落としてもう手遅れになったことを嘆いた。きっと、これでソラはいよいよ確信を深めただろう。タキオンがチラとソラの方を見ると、ソラの顔は――ああ、そういう事ですか、と言う風に眉が上がっていた。妙に憎たらしかった。すると、ソラはタキオンの方を向いて言った。

「タキオンさんもいけずですね。散歩をすることくらい、私に言ってくれても良かったと思いますけど」

「私は、君のことはあまり好かないね!」

 田上からしてみれば、なぜタキオンがこんなにも苛々しているのか分からなかったので、ただ嗜めようとタキオンの方を見たのだが、タキオンにキッと睨まれるとその口を閉じて、代わりにソラの方に言った。

「タキオンが大きな声出してごめんね」

「いえ、全然大丈夫ですよ。散歩なんて誰でもしますからね」

 ソラが丁寧にそう返すと、その横にいた国近が、はははと笑った。

「ソラがそんな感じで田上と話してると調子狂うなぁ。田上相手だったら、俺の時みたいに砕けて話してもいいんだぞ?なぁ?」

「ああ、いいよ。…そう言えば、恵さんって呼ばれてるんだな」

「え?…ああ、呼び方の事?そっちはモルモット君だろ?モルモット君に比べたら、こっちの呼び方なんて些細な事だと思うけどな」

 その言葉にタキオンがむっと眉を寄せたが、田上は気付きもしないでこう言った。

「恵さんは、俺にとっちゃ違和感しかないね。お前の名前は国近だよ」

「あら~、あたすにもれっきとした恵介(けいすけ)っていう名前があるんですけどね~。一歩間違えば、お前の名前とほとんど被ってたんですけどね~」

 そう国近が挑発するように言うと、田上もその口調を真似て言った。

「あら、恵さん。あたすの弟は幸助だし、父親は賢助ざんすよ。つまり、恵さんは、ほとんどうちの家族のようなものざんすよ」

「お宅の家族~?あたすは、国近家の者でございまして…」と飽きる事を知らずに続く茶番劇にタキオンは呆れて、ソラの方を見た。ソラもまた、タキオンの方を見ていて、その目と目が合うとソラがにっこり笑って言った。

「お散歩は楽しみですか?」

 タキオンは、返答をする気にもなれずにまた目を田上の方に戻した。田上は、タキオンの前では見せたがらないであろう顔で国近と話していた。それを感じると少し寂しくなって、タキオンは急に席から立ち上がった。昼食は、食べ終われば自由に行動していいとの事だったから、タキオンは立ち上がるとそのまま部屋に帰ろうとした。すると、田上が帰ろうとするタキオンに気が付いて国近にこう言った。

「あ、タキオンが帰るみたいだから、俺も行くわ。じゃあ」

 そして、タキオンの横に立って歩き始めたから、今度はタキオンが田上に言った。

「別に国近君と話しててもいいんだよ?」

「いや、俺はお前と居なきゃいけないし、それに散歩にもいくんだろ?」

「散歩に行くことには行くが、別に今じゃなくたっていい。そして、別に私と居るのも義務じゃない。いつも我儘を言っているが、今回ばかりは許してあげるよ。どうぞ、国近君と楽しく話してきたまえ」

 タキオンにそう言われると、先程まで国近と話していた余韻で口元に笑みを浮かべていた田上は、急に笑顔を引っ込めて立ち止まり、戸惑うような怯えるような表情を見せた。それから、タキオンに言った。

「俺は、お前との方が楽しいよ」

 この言葉にタキオンの心臓はドキリと高鳴ったが、立ち止まった田上を少し置いて行った後、振り返ってこう返した。

「なら、普段から楽しい素振りを見せてほしいね。私には君の気持ちはちっとも分からないよ」

「いや…、俺は…俺は…」

 そこで田上はいつものタキオンの前で見せる疲れた顔に戻り、はぁとため息を吐いた。

「俺は、ダメな奴だった。…ごめん、タキオン」

「謝ることはないさ。君の気持ちを分かってやれない私が悪い」

 タキオンは、つっけんどんに言い返し、ホテルの中の道を突き進んだ。敢えてエレベーターを使おうとはしなかった。追いかけてきた田上とエレベーターの中で二人きりなんて御免だったからだ。だから、タキオンは階段を使い、三階の方にある自分の部屋まで歩いて行った。後から田上が追いかけてくる気配はなかった。タキオンは、自分自身が追いかけてきてほしかったと考えていたのかそうでないのか、あまり心の整理はつかなかったが、自分の部屋の隣の田上の部屋を見ると、無性にその部屋に入って田上を待ちたくなった。しかし、勿論の事、田上の部屋には鍵が掛けてあって、鍵を持っていないタキオンには入ることはできなかった。その上、自分の部屋にも入ることができなかった。こちらは、マテリアルが鍵をかけて出て行ったからだろう。タキオンは苛立たしげに舌打ちをして、田上の部屋のドアの前に座り込んだ。先に来るなら田上の方だろうと考えたからだ。そして、実際に田上の方が先にやってきた。マテリアルは、まだどこかで誰かと話をしているらしかった。

 田上が、角をやってくると、部屋の前に座っているタキオンを見つけて立ち止まった。これは、立ち止まったと言うよりも固まってしまったと言った方が表現として適切だろう。固まった田上は、暫く曲がり角でタキオンを見つめていた。タキオンもまた曲がってきた田上の存在に気が付いて見つめ返していたが、双方とも何も言わなかったし、身動きもしそうになかった。

 田上が動き出したのは、どこからか人の話し声のようなものが聞こえたからだ。それが聞こえると田上は、ここに居てはどうしようもないだろう、と思い固まるのをやめた。だからと言って、タキオンに話しかけるのは少し難しかった。二,三歩歩いた後、再び立ち止まると、またタキオンを見つめ始めた。今度は、暫くの沈黙の後に話し出せるまでには至れた。

 田上は言った。

「……タキオンは、…散歩するのか?」

 タキオンは、体育座りでドアの前に座ったまま首を横に振った。すると、また廊下の奥の方で話し声が聞こえたから田上は言った。

「部屋に入って、一度昼食を腹の中で落ち着かせるか」

 今度は、タキオンは首を縦に振った。だから、田上はドアの鍵を開けてタキオンを部屋の中へと招き入れた。

 

 二人はあまり話さなかった。話すこともないし、話す雰囲気でもない。そんな中で田上は二言三言タキオンにあれするかこれするか聞いて、結局は、ベッドの上に二人で座った。田上は、この雰囲気に鬱々とした気分を感じて落ち込みそうになったが、何も話すことはできなかった。タキオンは、なぜか何も言わなかった。どんな場面でもタキオンという生物は、空気を読まずに異質な発言をしたりするものだったが、この時ばかりは、タキオン自身がこのような雰囲気を作っていることもあって何も言わなかった。だから、田上は体を起こしていることも疲れてしまって、ベッドに体を預けた。すると、隣に座っていたタキオンも同じようにベッドに体を預けた。田上が、戸惑って横のタキオンを見ると、タキオンもまたこちらを見返した。その顔は、ニヤリと笑っていた。

 タキオンは、口を開いて言った。

「トレーナー君、手を貸して」

 田上は言われるがままに、タキオンに右手を差し出した。すると、タキオンは自分の左手を田上の指に絡ませた。俗に恋人繋ぎとよばれる手の繋ぎ方だったが、タキオンはそれを顔色一つにやってのけた。田上は、緊張によって目が見開かれた。そして、タキオンが田上の手をぎゅっと握りしめた時、言った。

「散歩に行こう」

 そう言われると田上は、急いでタキオンの手を解いて立ち上がった。タキオンは、田上が手を解くことに抵抗しなかった。初めから抵抗する気などなかったのだろう。田上が立ち上がっても尚タキオンはベッドに寝そべったまま、じっと田上を先程から変わらない表情のまま見つめていた。田上は、その様子を薄気味悪く思ったが、手を差し出すとタキオンに言った。

「散歩に行くんだろ」

「…ああ」

 タキオンは静かにそう言った後、田上の手を取り体を起こした。しかし、未だ立ち上がろうとはせずに座ったままタキオンは言った。

「トレーナー君には私の気持ちは分かるかい?」

「…いや、…分からない…」

 田上の言葉が静かな部屋に吸い込まれて消えて言った。その空しさを感じると、タキオンはため息を吐いて自分で「よっこいしょ」と立ち上がった。

「私にだって君の事は完璧には分からないよ。ある一部分だけなら分かるかもしれないけど、君の全てと言われたら、未だ分かりそうにない」

「……俺は、誰だって何考えて生きてるのか分からない」

「なら、二人で分かって行かなくちゃね。……散歩に行こう?」

 今度は、タキオンが手を差し出した。きっと、これは手を繋いで歩いてほしいという意味なのだろう。ホテルの中なんて知り合いがたくさんいるだろうから、嫌で嫌で仕方がなかった。しかし、この差し出した手を取らないとタキオンは動きそうになかった。だから、田上は暫く迷ったように手をもじもじと動かしていたが、心が決まると渋々その手をタキオンの手と繋いだ。それから、二人は部屋から出て行った。

 

 廊下に知り合いがいて、ホテルの同じ部屋からタキオンと一緒に出てくるのを見られると誤解を招きそうだったから、田上がまず廊下の様子を確認してからタキオンを外に出した。恋人繋ぎでないにしても緊張で今すぐ手を放したかった。しかし、手に力を込めて――手を放したいですよ、と主張をしてもタキオンは知らん顔で、少し歩みの遅い田上を先導して歩いていた。

 幸いなことに、国近やマテリアルなどに見つからずに済んだと思って、田上はホテルを出ることができた。だが、マテリアルはホテルを出て行く後ろ姿をしっかりと見ていて、タキオンが帰ってきたら問い詰めてやろうとニヤリと笑って画策していた。タキオンにとっては迷惑千万極まりなかったが、今の所は、春の陽気と田上の手の温もりを感じていて幸せだった。

 田上は、背を丸めて顔を俯かせてタキオンに手を引かれるがままに歩いていた。初めは、固いコンクリートの地面ばかりが田上の視界に映っていたが、暫くタキオンの楽しそうな鼻歌を聞きながら歩いて行くと、桜の花びらがぽつぽつと地面に敷かれ始めて、もう少し歩けば、地面は桜色の花びらで一杯になった。そこでようやく田上は顔を上げた。いつの間にか公園に来ていた、土日だからか親子連れが多く、桜のない真ん中のだだっ広い芝生の方ではサッカーやバドミントンをして遊ぶ親子が見えた。その中でも、黄色いシャツを着たお父さんらしき人と青いシャツを着たお母さんらしき人が楽しそうにバドミントンをしているのを田上は見つめた。子供は、座って二人を応援していた。

 その様子を見ていると、タキオンが話しかけてきた。

「トレーナー君は、……桜は好きかい?」

「…桜?」

「そうさ、桜さ。綺麗だろう?良い陽気に桜の花が良く映える」

 タキオンはそう言って、上に咲いている桜を見上げた。それにつられて田上も上の桜を見上げた。陽光が木漏れ日となって田上たちに降り注ぎ、桜の花はひらひらと舞って田上の顔についた。右の眼の下あたりに付いたから、田上はそれを摘まんで捨てた。すると、その様子を見ていたタキオンが言った。

「君、頭に花びらが付いてるよ。前髪のあたりだ」

 そう言われると田上は、前髪を手で探り始めたが、一向に花びららしきものは取れなかった。そうするとタキオンももどかしくなってこう言った。

「花びら取ってあげようか?」

「いや、いい」と田上は断った。だが、タキオンは「遠慮しないで」と言うと、田上の頭に手を伸ばして花びらを取ってあげた。

「ほら」と見せてきたタキオンの手には、やはり花びらが摘ままれていた。それを持ったままタキオンはにこりと田上に笑いかけた。そうされると、そのタキオンの元気に反比例して田上の元気は減っていった。他人の笑顔は、今の田上には元気を誘うものではなかった。だから、あまりその様子をタキオンに見せたくはなかったのだが、タキオンの笑顔を見ると思わず疲れたため息が出た。そのため息にタキオンは少々ショックを受けて言った。

「そんなに花びらを取られるのが嫌だったかい?」

「嫌」と一言で答えたかった。だが、その言葉がなかなか出てこない。出そうにも、喉には何かがつっかえていた。だから、代わりに別の言葉で済ませた。

「……疲れただけだよ」

 田上がそう言うと、憐れむような目でタキオンは見つめてきた。その目は田上にとって屈辱そのものだったが、タキオンが「あそこのベンチで休もう」と言うと大人しくその誘いに応じた。

 勿論の事ながら、田上の疲れはベンチに座ったくらいで取れるものではない。本当ならば、ベンチに寝転がりたい気持ちでもあったが、タキオンが隣に座っていてはそれはできない。――とにかく全身の力を抜きたい。そんな思いが田上の中にあった。けれども、何と言ってもどうと言っても、それはできそうになかったので、田上は背もたれに寄り掛かることはせずに、体を前に折り曲げて手を足の上で組みながら再び疲れた様にため息を吐いた。すると、タキオンが言った。

「君、休みたいんなら私の太ももを枕にしてもいいんだよ?」

 女子高生とは思えないあまりにも狂気じみた発言に田上は思わず振り返って、背もたれに寄り掛かっているタキオンを見たが、すぐに目を逸らして公園の芝生を見ながら言葉を返した。

「頭のネジが外れてるのか?」

 途端にタキオンがハハハと笑いながら言った。

「き、君、ちょっと口が悪いなぁ。よし、君がそういう態度を取るって言うんなら私も強硬手段に出るしかないな。…それ!」

 そう言うとタキオンは田上の体を掴んで、簡単に赤子の手でも捻るように田上の体をタキオンの方に倒させた。あんまりにもさらりと素早くやってのけたので、田上は抵抗もする事も敵わず、タキオンの顔を見上げる事となった。タキオンは、無事田上を膝の上に落ち着かせると言った。

「案外こう言うのも恥ずかしいものだな。大衆の面前でやる事じゃない。ただ…」

 そこで、タキオンは田上の顔を見て優しく笑みを浮かべた。

「ただ、君のその様子を見てると、正解ではあるんだろうな、と思う。…どうだい?私の膝枕は君にとって落ち着ける場所かい?」

 田上は、まだあんまりタキオンの膝に寝ているという実感が湧いていなかった。ただ、無心になってタキオンの話を聞いていたから、質問されたことには気付かずに黙ってタキオンの顔を見つめていた。すると、タキオンは今度はふふふと笑った。

「まだ戸惑ってるね?面白い顔だよ。世界で一番かっこいい男の顔だ」

 田上は、そう言われると照れたのか、奇妙に顔を歪めて笑った。タキオンもそれに微笑み返した。そして、今度は田上の頭を撫でながら、子守歌を歌い始めた。それはそれは愛おしそうに田上の顔を覗き込んでくるものだから、田上も困ってしまって少し首を動かして、そっぽを向いた。向いた方向は、芝生の方だった。まだまだ、陽は照っていて、芝生の上に寝転がっている人々を暖かく照らしている。バドミントンをしている夫婦もまだいる。すると、突然に田上の手前の方を通り過ぎようとしている親子が視界の端から現れた。女の子と母親の組み合わせだった。その女の子は、とても仲のいい男女の二人組を――何をしているんだろう?と言った目付きで見つめながら、去って行こうとしていた。そして、タキオンに目を留めた時に「あ」と言った。

「アグネスタキオンだ」

 女の子が呟くように言った。そこで、――正体がばれたのならこうしているのは不味いと思って、起き上がろうとしたのだが、それはタキオンに封じられた。手で田上の目隠しをして、頭を押さえつけて、田上は見事に身動きができなかった。そして、タキオンは自分の正体に気が付いたであろう女の子をちょいちょいちょいちょいと急いで手招きをして言った。

「そこの君、ちょっとこっちに来てくれ」

 女の子も母親もタキオンの方へ、――何をされるのかな?と好奇心の籠った面持ちでやってきた。勿論、田上の存在に気が付いてはいたのだが、タキオンに敢えて目隠しをされて存在を隠されていそうだったので、その事について親子の方から訪ねる事はしなかった。この事はタキオンにとって大分好都合だった。

 タキオンはこう言った。

「私は、少し羽を伸ばしにここに来たんだ。あんまり騒がれてもらっては困るからね。黙っててくれよ?」

 タキオンは、女の子の方に向かって言ってから、母親の方にも顔を向けて頷いて念押しをした。親子は、二人ともうんと頷いたから、タキオンは「ありがとう」と言って二人を解放した。そして、去り際に母親の方が言った。

「明日の大阪杯、応援してます」

 それに、タキオンはまた「ありがとう」と言って手を振った。

 親子が帰ってもタキオンは田上から目隠しを取らなかった。子守歌を再び歌い始める気配もないので、きっと田上から何でもいいから言われるのを待っているのだろう。田上もその事を感じ取って、目隠しをされたままこう口を開いた。

「お前は、…ファンに対して結構優しいよな。…なんで?」

「なんで?……別にこれと言った理由はないけどね。だって、ファンであってもうるさい子供は嫌いだよ?」

「そうだよな…。でも、俺に対してそんな優しい口調をしたことあったか?」

 すると、タキオンは少し声高になって言った。

「なんで君にあんな口調で話しかけないといけないんだよ。もう友達じゃないか。……それに、あの子は子供だったからあんな風に話したんだ。もし、母親の方に話しかけたのであれば、もう少しマシな話し方をしたさ」

「そうか…」

 そう言うと、田上は話すのを止めて、自分の目を覆っているタキオンの手の平を感じた。汗をかいてきたのか少し湿っぽかった。けれど、その湿り気が田上にとって心地良く、なんだか母のいた頃に戻っていくような気がした。だから、次にタキオンに話しかける時には思わずこう言ってしまった。

「母さん」

 そう言ってから慌てて取り繕うように「タキオン」と言い直したが、時すでに遅くタキオンはケラケラと笑っていた。

「私が君の母さんか。それも存外悪い事じゃない。…どれどれ坊や?おねんねできまちゅか?」

「やめろよ…」

 興奮し始めたタキオンに田上がうんざりして言った。しかし、タキオンはやめろと言ったくらいで止まる女ではない。最終的に「ママのおっぱいを飲みまちゅか?」とまで言い始めたので、そこで田上は本気で嫌がってタキオンの暴走を止めた。田上が、自分の膝から起き上がろうとしたからタキオンは慌てて「もうやめるよ」と言って、自分の膝に寝るように田上を諭した。田上ももう起き上がりたい頃だったが、タキオンはまだまだこのベンチに座って田上を膝に寝かせてのんびりとしていたいようだった。それだけども、田上は女子高生の膝枕で妙に落ち着かないので、再び芝生の方を見始める。



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十九、大阪杯③

 バドミントンをしていた夫婦は、もう疲れてしまったのか、手を支えにして地面に腰をついていた。幼い男の子は、父親たちに「もっとしてよ!」とか「今度は僕と一緒にしようよ!」とかそんな様子で話しかけていたが、父親たちは疲れていてそれどころではなかったようだ。遠目から、「ダメダメ」という口の動きと、左右に手を振るのが見えた。タキオンも同じ人を見ていたのか、「遊んであげればいいのに…」と呟くのが田上の頭上から聞こえた。しかし、田上はその言葉には反応を示さないで、男の子を見続けた。男の子は、駄々をこねたり叫んだりバドミントンのラケットで父親の頭を叩こうとしたりして、必死に訴えかけ続けていたが、父親は全く取り合おうとはしなかった。すると、どこからともなく男の子の方に気の良さそうな男の青年二人がやってきた。どうやら、男の子とバドミントンをやってあげようという様子だった。男の子は、その二人組がぞろぞろとやってくると、初めは怖がっていたが、青年らが明るく陽気な人だと知るとバドミントンを恐る恐る手渡した。二人でバドミントンをしてくれ、との事だった。青年らは、笑いながら男の子に話しかけながら、二人でバドミントンの羽をぽーんぽんと飛ばし続けた。その内、男の子もバドミントンをしたくなったようだ。青年二人組の片方と代わると、ラケットを持って一生懸命降り始めた。当然、男の子は幼いので上手く羽を飛ばすことができなかった。何度も何度も失敗を繰り返し、その度に青年たちは大袈裟なリアクションを取って男の子を楽しませた。父親と母親は、その様子を見こそしていたが口出しなんてしようとせずに二人で静かに何かを話していた。

 やっとのことで男の子が羽を打ち出すことができた。しかし、その羽は青年の方まで飛んでゆくことはできずに、すぐそこにポトリと落ちた。男の子は、残念そうな顔をした。青年たちは、一生懸命「よくできたねぇ!」といった様子で褒めていたが、何が男の子の気分を悪くさせたのか、そのままラケットを放ると母親の方へと駆けて行った。青年たちは戸惑った。それは、母親の方に駆けて行った男の子が、一番初めに出会った時のような怯えた目付きに変わっていたからだ。そして、男の子に何か言われて、青年たちは困ったように頭をポリポリ掻きながら、親子に一礼してその場を去って行った。やはり、その様子を見ていたタキオンが呟いた。

「優し人たちだったのに…」

 その言葉が、なぜだか田上の心の中で木霊した。――優し人たちだったのに。この言葉で何か見知らぬようで見知った開かずの扉が開こうとするのを感じた。だから、慌てて田上はその扉を閉め直した。そして、タキオンに言った。

「あの男の子だって悪くはなかった」

「……いや、今まで楽しそうにラケットを振り回していたじゃないか」

「振り回してただけだ。それ以下でもそれ以上でもない」

 田上が意地を張ってそう言い返すと、タキオンも何か言おうとしたがそれはため息に押し込めてこう言った。

「今君と口論してもしょうがない。もう少しゆったりといこう?君と仲違いはしたくない」

 それには田上は何も言わなかった。田上も同じようにタキオンとは仲違いをしたくなくて、今反論していってしまった事をちょっぴり後悔していた。だから、暫くの沈黙でごまかした後にこう言った。

「ごめん」

 今度は、タキオンが何も返さなかった。ただ、悠然と芝生の方を見ているのが、田上の上の方に見えた。そして、ある時タキオンがチラとこちらに目をやった。田上は、タキオンの顔を下の方からじっと見つめ続けていたので、すぐに目が合った。そうすると、タキオンが笑みを堪え切れなくなったのか、田上の顔を見てにこりと困ったように笑った。

「そんなに見つめないでくれよ。恥ずかしいだろ?…私の顔が可愛くて可愛くて堪らないのは分かるが、そんな風に見つめられるとドキドキしちゃうだろ?」

 それでも田上は何も言わずにタキオンの顔を見つめ続けた。タキオンは、相変わらず困ったように笑っている。先程の冗談もあながち嘘ではないようだった。その事が田上に分かると、不意に目を逸らして芝生の方を見た。もうあの親子はどこかへ行ってしまっていた。そして、代わりにその場所には男女の仲の良い小学生たちが鬼ごっこをしている様子が見て取れた。春の陽気の下で走り回っているのが愉快で愉快で堪らないようで、小学生たちはこれでもかとくらいに笑って転んで走り回っていた。

 今度は、その子たちを暫く二人は見つめ続けていた。そして、先に口を開いたのはタキオンだった。タキオンは、「なあなあ、トレーナー君」と呼び掛けてから言葉を続けた。

「あの『Don't stop!』って書かれた青色の服を着てる男の子は、ツインテールの女の子の事が好きなのかな?」

 タキオンにそう言われて、田上はその二人に焦点を当ててよくよく見始めた。今は、男の子が鬼のようだった。なるほど、確かに青い服の男の子が鬼の番になると執拗にツインテールの女の子を追いかけているように見えた。他の子もたまに狙うような素振りを見せるが、結局、追いかけているのは女の子の方だった。しかし、女の子はウマ娘だった。これでは、自分より足の速い奴を追いかけて挑戦しているのか、好きな女の子だから追いかけているのかは分からなかった。その事をタキオンに言ってみると、タキオンはこう返した。

「どうかな?…私は、挑戦も確かにあるかもしれないけど、…純粋にあの男の子が女の子の事を好きなように見えるね」

「なんで?」

「…見れば分かる。あの子の顔を見てごらんよ。私には、あの女の子を追いかけている時だけ、殊更に輝いているように見えるね。…絶対に捕まえられないのに」

「捕まえられないことはないだろ。…ほら、鬼は二人いるんだから」

 田上がそう言っているうちに、ウマ娘の子が、前の方から迫ってくる子を避けようとして派手に転んでしまった。

「あらあら、大丈夫かな?」

 タキオンがそう軽く言った。

 ウマ娘の子は、地面に転んだ後、泣かずに芝生の上に座り込んだが、自分の膝から血が出始めていることに気が付くと、えんえんと泣き始めた。すぐさま青い服の男の子は駆け寄って行ってその子の背を安心させるように叩き始めた。しかし、それでも女の子は泣き止まず、少しするとその子の父親らしき人が出しゃばってきて、女の子は桜の木の下に父親と共に歩いて行った。青い服の男の子は、その様子を惜しそうに眺めていたが、ウマ娘の子の容体を確かめるために集まっていた小学生たちが一斉に散らばると男の子は走り始めた。ウマ娘の子ばかりを追いかけていたので男の子の足は遅いように見えたが、存外、ウマ娘を除きさえすればその集まりの中で一番速いようだった。すぐに別の男の子に触れて鬼を交代した。鬼を交代すると、一目散に青い服の男の子は桜の木の下で休んでいるウマ娘の子の方に駆けて行った。そこには、もうすでに一人二人の女の子がウマ娘の事ともにいた。鬼ごっこでよくある、休憩したい人が集まる寄合所のようなものだった。男の子が来ると、女の子たちは鬼の注意がこちらに向くかもしれないので嫌がったが、ウマ娘の子だけは男の子を優しく迎え入れて、自分の隣に座らせた。遠目からだったが、男の子は嬉しかったのだろうな、という雰囲気が伝わってきた。すると、田上は言った。

「……やっぱりあの男の子はあの女の子の事が好きかもしれないな」

「言ったろ?あの女の子がどうかは知らないが、男の子は絶対にクロだ」

 タキオンの自信満々な様子に田上はふふふと笑って再び、男の子の観察をタキオンの膝枕の上で続けた。初めの方から足はベンチからはみ出して宙に浮いていたが、それは気にはならなかった。

 男の子は、ウマ娘の子と楽しそうに話していた。他の二人の事なんてそっちのけで楽しくおしゃべりをしていたが、だからと言って、他の二人が気を悪くすることはなかった。それどころか微笑ましそうに二人を眺めていた。この男の子がウマ娘の子の事を好きなのは、どうやらウマ娘の子以外の周知の事実のようだった。――可哀想に、と田上は思ったが、口には出さなかった。尚も男の子は、ウマ娘に話しかけ続けている。しかし、終わりの時は突然に訪れた。男の子に近づいて行った一つの影が、その子に触れた。そして、何やら言っているのが見えた。きっと、「捕まえた。お前の鬼だよ」と言っているのだろう。青い服の男の子は、その場にいた他の女の子ら二人を見据えたが、見据えた頃にはもうどこか遠くに走り去ってしまっていた。その男の子は仕方なく、ウマ娘の子に別れを告げると誰かを捕まえに芝生の方に走っていった。田上は、その男の子を目で追おうとしたのだが、その前に青い服の男の子を捕まえに来た、黒い服を着た男の子が気になって、桜の木の下に目を留めた。すると、青い服の子よりも断然身長が高く、比較的女の子の中でも身長の高いウマ娘の子と釣り合った黒い服の男の子が、その隣に座って話し始めた。そして、その子が隣に来ると、途端にウマ娘の子の表情が変わった。例えるならば、恋する乙女の表情と言えばいいのだろうか?それにしては、あまりにも残酷すぎる表情の変わりようだった。これでは、青い服の男の子に勝ち目がないのは火を見るよりも明らかだった。折角足が速かったのに、背が低いだけでこんなにも差が生まれるとは。田上は青空の下を一生懸命走っている男の子が憐れで悲しくて、今度は思わず口に出して言ってしまった。

「…可哀想に…」

 そう言ってから、この言葉をタキオンに聞かせてしまった事を悔やんだが、悔やんだところでもう遅い。タキオンが、田上の言葉に反応して言った。

「あの青い服の男の子の事かい?」

「ああ…」

 仕方がないので田上は答えた。それで、次にタキオンが続けた。

「あの青い服の子がなんで可哀想なんだい?」

「……だって、タキオンが恋しているだろうって言っていた女の子を見てみろよ」

 そして、少しの沈黙の後にタキオンが「ああ…」と言った。

「残念だな。私には、あの子の恋が実ってほしかった」

「なんで?」

「…今日はよくその質問を繰り返すね。…なんで?そりゃあ、恋なんて実らないより実った方が良いに決まっているじゃないか」

「でも、女の子も黒い服の子に恋をしていそうじゃなかったか?あの子の恋はどうなるんだ?」

「それは、あの子がそもそも青い服の子に恋をしていれば良かったわけだよ。……ただ、あの青い服の子は私は好きだね。ひたむきなところが好きだ」

「なら、タキオンがその想いを伝えに行ったらいいんじゃない?」

 田上がからかうように言った。

「それはできない相談。私には、心に決めた人がいるんだ」

 途端に田上は驚いて固まった。前に、タキオンが恋をしたことのある話は聞いていたが、まさか今そうなるとは思っていなかった。一瞬のうちに様々な考えが脳裏に閃いたが、口からできた言葉はこんなものだった。

「あんまり本気にならないようにな。…お前は、まだ当分のうちは走らないといけないから、俺は男女間のいざこざなんて嫌いだ」

「…?どういう事だい?」

「…お前が交際を始めでもしたら、俺とお前の間には必ず変化が起きるだろ?それが悪い方に働くかもしれないから、せめて、走るつもりがあるうちは交際はやめておいてほしいんだ」

 なんだか、子供のような言い草にタキオンは少し可笑しく思ったが、それは表には出さずに田上と同じように真面目に答えた。

「まぁ、君の言うようにはするつもりさ。…少なくとも、君を膝の上に寝かせている間はね。…ただ、今後どうなるかも分からない。私の愛が燃え上がってしまう可能性も否めなくはないからね」

「…そうか」と田上の気落ちした声が聞こえた。だから、タキオンは田上を励ますために、その芝生を向いている顔を覗き込んで頬を突いて言った。

「当分は大丈夫だよ。相手方も大変そうだから、私も気を遣って簡単には想いを伝えないようにしているから」

 田上は、覗き込んできたタキオンの目をチラリと見返して、それから静かに言った。

「実は、…少し…寂しかったりもする」

「ははは、そんなことは、君の様子を見れば分かるよ。…それに、言ったろ?君が幸せになるまで傍にいるって」

「…でも、それでお前が幸せになれないんだったら俺は嫌だ」

「おやぁ?それではさっきの言葉と矛盾しているじゃないか。いいかい?もし、私が幸せになって君の知らない誰かとくっついたとしよう。すると、君は寂しくなるんじゃないのかな?」

「それとこれとは別だよ。…お前が幸せなら俺はそれでいいけど…。…見切りをつけるんだったら、お前の幸せが手遅れになる前に見切りをつけてほしい」

「じゃあ、今すぐ見切りをつけるしかないかな。さようなら、トレーナー君」

 勿論、これは冗談でさよならと言ったわけで、そう言ってもタキオンは微動だにしなかった。しかし、田上は少し真に受けてしまったようで、何も喋りこそしないものの、左腕を移動させてタキオンの太ももに手を置いた。そして、ようやっとようやっと絞り出すようにこう言った。

「行かないでほしい。…タキオンが行ってしまうと、…俺はいよいよ一人になる」

「君にも、マテリアル君や国近君とか友達はそれなりにいるだろ?それに、家族も二人いる」

 それを言われると、田上は何も答えられなかった。それに、言った後の後悔がじわじわと染み込んできて、心臓が奇妙に唸りを上げ始めた。しかし、田上がその唸りに耐え切れなくなる前にタキオンが再び口を開いた。

「…君も随分私に依存しているな。私なんていなくたって君はたくさんの人に囲まれているんだよ。……何がこうさせてしまったのかな?…私かなぁ?……確かに、トレーナー君に色々言って聞かせているのは私だけど、何も私に依存してほしいつもりで言っているんじゃない。…こっちを向いて、トレーナー君」

 タキオンの呼び掛けに田上は渋々体の向きを変えて、膝枕の上で仰向けになった。仰向けになると、タキオンがその顔を覗きこんだ。髪の毛がさらりと垂れて、田上の顎をくすぐった。奇妙なことに田上の感覚として、時間が動きを止め、全ての音が一斉に鳴り止んだような気がした。その異質な静寂の中でタキオンは、接吻でもするかの如く顔を近付け田上の黒い目を見つめた。田上の目には、綺麗な赤色の瞳が映りこんだ。

 タキオンは呟くように言った。

「どうにかして幸せになる道を探してあげたい。君の行く末をできうる限り照らしてあげたい。君の不安を取り除いてあげたい。…私にそれができるだろうか?私より他に適任な人はいるのだろうか?それとも君自身の手で簡単に掴めるのだろうか?」

 タキオンがそう言って、沈黙を続けると、段々と人々のさざめきが戻ってくるような気がした。田上は、それを恐れて、静かな一時を一秒でも伸ばすために言った。

「傍に居てほしい。行かないでほしい。俺の他に大事な人を作らないでほしい」

 田上は、それを言ってタキオンが喜んでくれるとは思わなかったが、まさか悲しむとも思っていなかったので、タキオンの顔を見ると傷付けてしまったのではないかと思った。

 田上を覗き込んでくるタキオンの顔は、悲しげに儚げに笑っていた。

「君の他に大事な人なんていないよ」

 そう言って唐突に田上の唇に自分の唇を重ねた。それは、栗毛の髪のベールに邪魔されて周りの人からは見えなかった。そして、田上が理解できるかできないかのうちに唇は離れていった。周囲の音は、奇妙に唸って高く伸びたり、低く縮んだりした。まるで、何も感じられない。タキオンの顔は、今は、にこりと笑いかけていたが、それが何なのかさえ分からない。仕舞いには、タキオンの頬に手を伸ばしたのが自分の手なのかさえ分からなかった。

 世界が奇妙に唸りを上げている。時間が進んでいるのか逆行しているのかも分からない。葉は茂り、落ち葉となって地面に儚く消えていく。都市は、年月を過ごすたびに人が減り、古びていき、ビルの倒壊する物音が聞こえる。かと思えば、夕日が昇って、朝日が沈んだ。人は若返ってゆき、死は意味をなさなくなった。虫は、卵に戻り、年寄りは次々と母親の腹の中へと戻っていく。田上の頭が、ガンガンとうるさく鳴った。――まだ、戻りたくない。まだ戻りたくない。田上は頭の中で必死に唱えて、奇妙な世界の中に居続けた。

 

 倒壊したビルの中を田上は知らない女の人と歩いていた。知らない女の人の顔は見えない。ただ、女の人ということが分かるだけだ。ビルは、まだ音を立てて崩れている。何時間そうやって崩れているのかは分からないが、田上の耳には轟音ばかりが響いていた。人の住むことのなくなった都市なので、当然の如く倒壊したビルの間に人の死体などなかった。しかし、田上が歩いていくとある時、猫が一匹死んでいるのに出会った。押し潰された様子ではなかったが、頭から血を流して倒れていた。それを見ると、田上は握っていた知らない女の人の手をぎゅっと握りしめた。怖さは感じたが、それに悲しみや怒りなどは感じなかった。すぐに引き返したかったが、こうも轟音だと次の行動に移る判断ができない。田上は、次第に手の力を強めながら、猫を見つめ続けていた。そして、ある時、不意にもう轟音が止んでいるのに気が付いた。とっくの昔にビルの倒壊は止まっていたのだ。田上は、きょろきょろと辺りを見回した。まだ、少し漂っている土煙の上に夕日が昇っているのに気が付いた。その後で――いや、朝日かもしれない、と思い直した。ともかく、陽が昇っていて、次へと進めそうな気配が出てきた。猫の死体にもう用などなかった。しかし、歩き出そうとすると、今まで田上について歩いてきていた知らない女性が、急に田上について来なくなった。田上は、一生懸命手を引いて先へ行こうと促した。しかし、それでもダメだった。女の人は梃子でも動かない。遂に田上が、「なんで?先に行きましょうよ?」と言うと、女の人が口を開いた。

「この猫を見なさい。あなたが殺したのよ。覚えていないでしょうけど、あなたが殺したの」

「いや、俺は殺してないよ。あなたも見たはずですよ。一緒に歩いて来たでしょう?歩いてきたときにはもう死んでいた」

「いえ、あなたが殺しました。あなたにはこれを朽ち果てて土に還るまで見届ける責任があります」

「嫌ですよ。なんでそんな事をしないといけないんですか。猫なんて死んでるのか寝てるのか分からないもんだから、生きていたって死んでいたって全然俺には関係がありません。そんなに見たいならあなたが存分に見てていいですから、それならこの手を放してください」

 田上がそう言うと、女の人がニヤリと笑ったのが分かった。

「私は手を繋いでいませんよ。あなたが私をここに連れてきたんじゃありませんか。殺した猫を私に見せたかったんでしょう?どうなの?圭一君」

「殺してないって言ってるじゃないですか。…それに、…それに、手だってあなたが繋いでいるから離れないんでしょう?俺は、力を込めていませんよ?」

「しっかりと見なさい。あなたが私の手を繋いでいるんです。私だって力を込めていません」

 そう言われて田上は自分の手の方を見つめた。そこは、なぜだか焦点が合わせづらくて、ぼやけたようになっていた。だから、田上は一生懸命目を凝らしてそこを見つめ続けた。すると、段々と薄く自分の手が見えてきた。自分の手、というよりそれは肉と肉が融合した何かだった。田上の手は手首から先が肉の塊となっていて、そこが女の人と繋がっているだけだった。それが分かった途端に田上は叫び声を上げて腰を抜かした。それは案外簡単に千切れたが、田上の手は肉の塊のままだった。

「俺の手じゃない!俺の手じゃない!」

 田上は腰を抜かしたまま、あたふたと女の人から逃げようとした。しかし、悠然と迫ってくる女の人が自分の手についている肉の塊を田上に差し出すと、田上の肉の塊は制御することもできずに再び女の人と繋がった。そして、女の人は可笑しそうにふふふと笑いながらこう言った。

「何人も逃げられることはできないのです。圭一君、自分の手を見たでしょう?最早、それはあなたの手ではない。猫を殺したのなら罪を受け入れなさい。猫はあなたが殺したのです」

 それから、女の人は田上を無理矢理立たせて、猫の下へと引っ張って行った。田上は、泣きながらそれについて行ったが、到底許してもらえるものでもない。自分の罪は自分で償わなければならないのだ。猫を殺した記憶なんて欠片もなかったが、もう田上は許しを請うあまり自分が猫を殺したと思い込んでしまっていた。田上は、再び猫の死体の前へと連れて行かれて、それを眺めた。確かに、息絶えている様子が見えた。体はピクリとも動かさない。そこで、女の人が言った。

「あなたの罪は何?」

 それを言われると、田上の心には後悔の念が流れ込み、それはそれは丁寧に涙を流し始めた。鼻からは鼻水も出てき始め、それを子供の様にずるりずるりと地面に垂れないようにしながら泣いた。それで女の人は満足したようだった。幸福な笑みで田上を見つめた。しかし、その場からは逃がそうとはしない力がその笑みの中に隠されていた。田上は、その笑みに逆らうまでもなく、猫を見つめて涙を流し続ける事しかできなかった。例えそれが、心の芯から出た涙でなくとも。

 

 何が起こったのか分からない。一瞬の間に幻覚や夢を見たのか、それとも、頭の中がこれまでになく働いたのか。そのどちらかではあったのだが、肝心の内容はすぐに忘れて、目の前にある悲し気なタキオンの顔に意識は移されていった。いつの間にか、奇妙な唸りは止まっていて、人のざわめきが鬱陶しいくらいに聞こえていた。そして、これまたいつの間にか、田上はタキオンの頬を撫でていた。タキオンは、田上の顔を見つめたままではあったが、自分の頬を撫でているその手に自分の手を添えて、しっかりと田上の手の感触を楽しんでいた。田上には、これからどうすればいいのか分からなかった。田上の手はしっかりと握られているし、体を起こそうにも今は上手く力が入りそうになかった。だから、田上は逃げ場を探して、再び芝生の方を眺めた。やはり、唇を重ねる前と変わらず陽は燦燦と降り注いでいる。もう、あの桜の木の下にはウマ娘の子しかいない。青い服の男の子を田上は探したが、どこに潜伏しているのか全く姿は見当たらなかった。すると、田上が目を逸らしたタキオンの方から声が聞こえた。いつものタキオンとは違い、少しか細い声だった。

「トレーナー君」と蚊の鳴くような声で呼びかけられた。それに田上はいつもと変わらない様子で「なんだ?」と振り返って答えた。これは、あまり大した返事ではなかったようだ。それどころか、悪いと言えるような代物で、そう答えた後にはタキオンは少し泣きそうな顔になっていた。もう、顔を覗き込まれはしなかったから、田上には安心感があった。

 タキオンは、泣きそうな顔になった後、泣くのをぐっと堪えて言った。

「トレーナー君は…、…トレーナー君は、桜の…。トレーナー君は、ここから…。トレーナー君は」

 タキオンは言うのを躊躇ってばかりで、一向に話を進ませようとはしなかった。言葉を捻り出すには大きな時間が必要なようだった。だから、その時間を短縮させつつ、自分で話を終わらせようと思って、タキオンの顔を見てこう言った。

「……もうあんなことはするなよ。お前には好きな人もいるんだし、今後もあるんだ。軽率に人にキスするもんじゃない。もし、報道されでもしたらどうするんだ。お前の好きな人にも俺とお前が付き合ってるって勘違いされるぞ」

 タキオンは、その言葉にもどかしそうな様子を見せたが、それには構わずにこう提案した。

「もう帰ろう。…少なくとも膝枕はやめないといけない。…すまなかった。俺が弱音を吐いたばっかりにタキオンに迷惑をかけた」

 そして、田上は起き上がった。タキオンにはそれを引き留める事はできず、田上に「帰るか?」と聞かれれば素直に頷いた。それから、二人は手を繋いで帰った。田上もなぜなのか自分の考えは分からなかったが、手を繋ぐことは許していた。タキオンの手はやっぱり湿っぽかったが、自分の手も湿っぽかった。きっと春の陽気のせいだろう。手に滲む汗は、タキオンと田上の手の中で混ざって二人の間を密接に繋ぐ橋となっていた。



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十九、大阪杯④

 ホテルの前まで来たら、さすがの田上もタキオンの手を放したくなって、タキオンにそう働きかけると思いの外素直に手を放してくれた。だから、二人はこれといった諍いもなく、ホテルの中に入ることができた。ホテルの中は、奇妙なほど静かだったが、人の気配はちらほらあってそれがなんだか少し恐ろしかった。その田上の様子を感じ取ったのか、タキオンは田上に肩を寄せて小さく言った。

「手を繋いであげようか?」

 本当は、手を繋いで欲しい気持ちがどこかにあったのだが、その事には気付かず田上は「遠慮しておく」と返した。それでも、タキオンが田上と手を繋ぎたそうに手と手を触れさせてきたので、田上の手はハエでも払うかのように振って、タキオンの手を追い払った。タキオンは、不満そうではあったがその不満を口に出すことはせずに黙って田上の隣にくっついて歩いた。手は繋いでなくとも恋人同士であると勘違いされるような距離でタキオンは歩いていた。しかし、田上はなぜだかそれを許してタキオンを傍に居させた。

 とうとう二人は、自分たちの部屋の前まで来た。部屋に来るまで見たのは二、三人だけだったが、特に好奇の視線を浴びせられるでもなく、可笑しそうに声をかけられるわけでもなく、普通に通り過ぎることができた。これは、田上は大いにほっとした。別にタキオンと恋人同士と勘違いされることは構わなかったが、声をかけられるとなると、途端に動揺して何をしゃべればいいのか分からなくなる自分が容易に想像できたので、声をかけられなかったのは幸いだった。

 田上は、タキオンがどちらの部屋に入るのだろうかと思って、隣にいる赤い瞳を見つめた。その赤い瞳は微かに迷うように揺れた後、田上の部屋の扉を選択して、先に中に入って行った。だから、田上もその後に続いて入った。廊下に出てくる人の気配には、殊に集中して気を配っていたので、誰も見ていることは確認済みだった。そして、部屋の中に入ると、ようやく田上は口を開いた。

「……どういうつもりだったんだ?」

 これを聞かずにはいられなかった。言うか言うまいか大分悩みこそしたが、その質問を妨げる考えは、聞きたいという欲には勝てなかった。

 田上の部屋に入るとすぐにベッドに寝転がったタキオンは、平然として答えた。

「…別に。…君の唇が美味しそうだったから食べようとしただけだよ」

「…どんな味がした?」

「どんな味?」

 オウム返しにそう聞いたタキオンの顔は、田上の素っ頓狂な質問を面白がって、顔に笑みが滲み出ていた。そして、タキオンは続けて言った。

「そうだなぁ…。…あんまり覚えてないや。何しろ私も唐突にキスしてしまったものだから」

 その答えに田上は、ベッドの前の床の方に力なく座り込んだ。そして、頭を抱えて言った。

「あんな事するべきじゃなかった。……大阪杯に動揺が響いたらどうするんだよ」

「…動揺しているのは君だろ?」

「それにしちゃ、いつもみたいに声に覇気がないな」

 田上がそう指摘すると、タキオンも思うところがあったのか口を噤んだ。それから、暫くの沈黙が流れたが、田上が体勢を変えて、そのまま床ににうつ伏せに寝転がると言った。

「何がしたかったんだ?実験か?俺にキスして情けなく動揺するのかを調べたかったのか?」

「そんな事を調べて何になるんだい。……純粋に私の好意だよ。嘘偽りない私の好意」

「人が好きで、なんでキスをすることになるんだ」

「そりゃあ、そういう欲求が出るからだろ」

「…そういう欲求が出たのか?」

 すると、田上の言葉にタキオンが再び口を噤んだが、少し経てばこう言った。

「…あの時は少し違っただろうな。…君があんまりにも可哀想で可哀想で」

「つまり、同情か?」

「同情?…同情とは違う。あれは、私の紛れもない好意だ。なんなら今してやってもいい」

 そう言ってタキオンは寝転がっていた田上のベッドから体を起こした。田上は尚も床に寝転がったまま言った。

「もういい。……聞きたい事もないからこの部屋から出てってくれ」

「君がいるから無理だな」

「俺を避けて行ってくれ」

「いや、私は君に起きて見送ってほしい」

 タキオンがそう言うと、田上はゆっくりとその場に起き上がって胡坐をかいた。そして、「ばいばい、タキオン」と言うと、早く帰ってほしそうタキオンの顔を見つめた。だが、タキオンは田上が起き上がると、ニヤリと笑って言った。

「やっぱり帰らない。…ねえ、一緒にベッドに寝転がろうよ。そこにいるより断然気持ちがいいよ」

「ベッドに行ったらお前に何されるか分からないだろ。あれ以上はもうごめんだ」

「ごめん?君が行かないでほしいって言ったんじゃないか。それなのに君は嫌だっというのかい?」

「ああ、嫌だった。あんなところでタキオンにあんなことをしてほしくなかった!」

「だったら、別の場所だったら良かったというんだね?」

「いや、違う!あんな事どこでやったって同じだ!問題は、どうしてそんな事をしたのか?だ。…タキオン」

「私はちゃんと言ったじゃないか。君が好きだからやったんだ、と。何がそんなに気になるんだい」

「そうじゃない、そうじゃないんだ。……俺にはお前の事が分からない。好きだからって人にキスができるものなのか?」

「現に私がやってみせたじゃないか」

「でも、可哀想だからとも言っただろ?」

 これはタキオンの言葉を詰まらせた。確かに、好意もない事はないのだが、あの接吻の行動の意図としてはやはり田上が可哀想だからに変わりはなかった。決して、同情ではないのだ。同情ではないのだが、愛燃え上がった故の行動だった。田上は、タキオンが言葉に詰まると、勢いづいてこう捲し立てた。

「やっぱり、お前も何か勘違いしているんだよ。人を好きになるって言うのは、お前ぐらいの年齢じゃ理解できない事なんだからもう二度とあんな軽率な行動はしないでくれ」

 そう言われるとタキオンは不機嫌そうな顔を見せた。

「君、私の事をあんまり子供扱いしすぎじゃないかい?私は、もうすぐ十八だよ?子供なんていつでも産める年齢だよ?」

「子供でも何でも作って構わないけど、せめて俺のいないところでしてくれ」

「それじゃあ、あの時ベンチで言った事と矛盾してるじゃないか」とすぐさまタキオンが反論した。

「君は、私に行かないでほしいって言ったんだ。何回でも言うよ。行かないでほしいって言ったんだ!」

「ああ、言ったよ。だけど、それは錯乱したようなものだと思ってくれ。本当の俺じゃないんだ」

「それは確かにそうかもしれない。だけど、錯乱したなら錯乱したでその言葉にも確かに意味はあるんだ。それが本当の君自身でなくとも、君の心を映した鏡のような物なんだ。君は、確かに私に行かないでほしいと言っていた。これは本当の事だろ?」

「本当の事だけど、…本当の事だけど…、今はとりあえず出て行ってくれないか?」

「嫌だね。私はこの議論を止めたくない。元より君には、君が幸せになるまで一緒にいると働きかけ続けてきたはずだ。今更その言葉を忘れたわけではあるまいね?」

「忘れた」と意地を張って田上は答えた。すると、タキオンはそれを真に受けたふりをして「ひどい!」と答えた。一種の茶番劇だったが、両者とも譲れないものを持っていた。だから、この緊張状態は続いたまま、一瞬の空白ができてから再び言い争いが始まった。

 タキオンが言った。

「本当に私は君の事を好きだから言っているんだよ。机の周りを追いかけ回した時だって、バレンタインのチョコを食べさせた時だって、私は君の事が好きだった」

「なら、なんで俺にすぐに言わなかった」

「言うわけないだろ!?私を何だと思っている。純情なる乙女だぞ!何が楽しくて、好きになってすぐに君に気持ちを打ち明けなきゃいけないんだい?」

 タキオンがそう言うと、急に田上が黙り込んで考え始めた。しかし、これは田上には分かるものではないのですぐにタキオンに聞いた。

「……いつから俺の事を好きだったんだ?」

「…一月くらいから…。…いや、もっと前からの可能性もなくはない」

「…つまり、正月くらいからか?怪しかったのはそこらへんだよな?」

「いや、正月じゃないんだ。…私が自覚し始めたのは、一月末くらいで…」

「は?…正月は?正月はなんなんだ?あれ。明らかに距離感がおかしかっただろ?」

「あの事を持ち出されると少々恥ずかしい。あの時は私も錯乱していたと言ってもいい。むしろ、錯乱していたと言わせてくれ」

「今も十分錯乱している」

「今は違うさ!君の事が大好きだよ!」

「それが駄目だ。俺の事を好きになること自体間違ってる。いいか?お前は勘違いしてるんだよ。真面な思考を持った女子高生が、四十くらいにみえる老け顔の男を好きになるわけがない」

「それは偏見だ!女子高生が何を好きになったって関係がないだろ!」

「だから、お前は真面じゃないんだ。もう少し真面になれ」

「ああ!!君、それはトレーナーとして言ってはいけない事なんじゃないのかい!?私だって傷付くよ!自分の好意を否定されて踏みにじられた挙句、真面になれだなんて、君は男の風上にも置けないぞ!」

「じゃあ、ぜひ風下においてくれ。元々俺はこんなもんだ。お前がもう少し大人になって、人の事を理解できるようになったら自ずと分かる。自分の好きだった人はこんなにも人間の屑だったのかって」

「君は人間の屑なんかじゃない!」

「なら、糞だ。お前にこう言ってる時点でダメな奴だってわかるだろ?」

「ダメな奴だなんてとっくの昔から分かっているさ。それでも、一緒にやっていこうって言ったじゃないか」

「そんな事は知らない。嫌なら俺をトレーナーから外せばいい」

「君…、そんな脅しをする事こそが、私が君を愛しているという事を君が知っている証拠だよ」

 そう言われると、田上はその言葉の意味をすぐに理解できずに少しの間考え込んでしまった。タキオンは、その田上をじっと見つめて待った。勢いに任せて責め立てるという、愚かなことはしなかった。そして、暫くすると、田上が口を開いた。

「…俺はお前の愛なんてどうでもいい。知っていても知らなくても、お前の事を受け入れるつもりなんて毛頭ない。お前はまだ十七だ」

「そして、もうすぐ十八だ」

「十八くらいの小童に愛なんて語らせない」

「二十五の小僧に私を止められると思うか」

 タキオンがそう言うと、田上は床に座ったままじろりと睨んだ。そして、大きくため息を吐いた。

「今日の所はこれで止めよう。俺はもう疲れた」

「夕食は抜くつもりかい?」

「ああ。もう何も言わないでくれ」

「でも、君の分の夕食は用意されてるよ」

「...ああ、そうか。...そうだったか。...連絡を入れて、俺は食えないことを伝えようかな」

「...でも、明日に備えて何か食べなきゃ」

「別に俺は走らないんだから、食わなくたって問題ない」

「私は問題あるよ。君の不健康が気に掛かってレースに集中できない」

 そのタキオンの言葉に再び田上は、タキオンをジロリと睨んだ。そして、今度は、胡坐をかいている膝の上に頬杖を突いて、顔を背けてから言った。

「…そうは言っても、俺はこの顔であいつらに会うことはできない。あいつらなら、絶対に話しかけてくるだろ?」

「それなら、私が厨房の方に聞いてみるよ。部屋の方に食事を持ってこれないか」

「いや、…俺からこの大阪杯チームの引率に聞いてみるよ」

「今すぐ?」

 タキオンがそう問うと、田上はじっとその顔を見つめた後「今すぐ」と返した。それから、田上は責任者の方に電話をかけて聞いてみた。責任者も分からなかったようなので、その事をホテルに問い合わせるために少し時間が空いた。その間にタキオンが「私もこの部屋で食べたい」と駄々をこね出したので、田上は渋々頷いて責任者の方にタキオンも付き添うことを告げた。男女が同じ部屋にいるという事に責任者の人はあまりいい顔をしなかった(声しか聞こえない)が、タキオンがもうすでに田上の傍に居て、さらにタキオンからの働きかけも猛烈に受けてしまうと、こちらも渋々ながら頷いた。田上は、実の実を言うと、タキオンが一緒にご飯を食べてくれると言うと、ほんの少しだけ嬉しかった。立場上拒否をせねばならなかったが、自分が結局タキオンに負けてしまうという事は分かり切っていたので、安心して口論ができた。

 

 それから、夕食まで大きく時間が空いていたので、タキオンはとりあえず自分の部屋に帰らせた。その後に、自分以外が消え去った部屋を見て何をしようか考えたが、ゲームをする気にもスマホを惰性で見続ける気にもなれなかったので、ベッドに寝転がって寝るかぼーっとするかした。初めに寝転がったときにうつ伏せに寝た。すると、タキオンがここに寝転がっていたことを思い出した。タキオンの微かな匂いが鼻をついたからだ。それに気が付くと、田上は慌てて仰向けに寝転がった。仰向けに寝ても気まずい事には気まずくて、背中が気になって仕方がなかった。しかし、それを気にするのもいい加減疲れて、――もういいやと思うと、ホテルのベッドで思う存分寝た。変な夢を見た気がするが、それはタキオンに起こされた時に全て持っていかれた。その前に、少しタキオンの方も話してみよう。

 タキオンは、半ば田上から押されつつも部屋から出ると、その部屋の扉を不満そうに見つめた。しかし、もう出てしまったものはしょうがないから、自分の部屋に入った。すると、それ待ってましたとばかりに、部屋に入ってきたタキオンにマテリアルがニヤニヤしながら話しかけた。

「タキオンさん、田上トレーナーと手を繋いでいる所を見ましたが、もうお付き合いでもしたんですか?」

「は?…手を?…どこで見たんだい」

「ホテルですけど、違ったら不味いですか?」

「…いや、不味くはないけど…」

「けど?」

 マテリアルが、タキオンの続きの言葉を催促した。しかし、タキオンは続きは話さずにマテリアルをむっと睨むと言った。

「君に言う義理はないね。あんまり首を突っ込むと痛い目見るよ」

「そんなに首は突っ込んでいませんよ」とマテリアルは反論したが、その声は情けなく小さくバツが悪そうだった。だから、マテリアルは暫くタキオンに話しかけなくなったが、やはり堪え切れずにこう聞いた。

「手を繋いだって事は、仲が良いって事ですよね?」

 その時、タキオンはベッドに座って本を読んでいて、マテリアルの質問を受けると、寝転がりながら睨みつけた。しかし、睨みつけたもののこう言ってくれた。

「仲はいいさ」

 タキオンが上手く誘いに乗ってくれたので、マテリアルは嬉しくなったが、それはできるだけ表には出さないように次の質問をした。

「手を繋いでどこまで行ったんですか?」

「いった?」

 タキオンは、行ったというのが行動の事を指していると思って、まさか自分たちがキスをしてしまった事をマテリアルが知っているんじゃないかと思って焦った。しかし、マテリアルの答えは、タキオンの予想した物とは違っていた。

「行った。…どこまで行ったんです?レースでも見に行ったんですか?」

「ああ、そのことか。…いや、桜を見に公園の方に行ったよ」

「桜ですか。今日あたりが満開日ですもんね。私も行けばよかったな」

 そこでマテリアルはタキオンをからかう言葉を思いついてしまったが、それはぐっと飲みこんだ。本当は、「あ、私がついて行ったら二人きりになれませんね」とニヤニヤ顔でいうつもりだった。その代わりに、マテリアルはこう聞いた。

「明日はどうですか?順調そうですか?」

「ん?うん。順調だよ。…あ、そうだ。今日の夕飯は私とトレーナー君は、部屋の方で食べるから、君はあまり関係がないだろうけど、そういう事だから」

 そう言ってタキオンは本を読み始めようとした。ただ、さすがの優秀なマテリアルでも今の説明では完全に把握ができなかったので、慌てて聞いた。

「え?どういうことですか?ん?夕飯?」

 一回で理解できなかったマテリアルを面倒臭そうに見つめながらも、説明しない方が面倒臭いのでタキオンはやれやれと言った。

「そうだよ。夕飯だよ。トレーナー君の調子が悪いそうなんだ。だから、部屋の方にご飯を運んで貰ってそこで食べようって事になった」

「え?タキオンさんは、田上トレーナーの様子を見たんですか?それとも散歩している間にそうなったんですか?」

「ん~、帰ってきてからだね。トレーナー君から連絡が来た」

 タキオンがちょっぴり嘘を吐くと、案外マテリアルがそれに食い付いてきた。

「え?本当ですか?ちょっとその連絡見せてもらえませんか?」

「え?連絡?…今はちょっと難しいな」

「難しい事はないでしょう?スマホでちょっと見せてくれるだけでいいんですよ?」

「いや、難しい事には難しいんだ。特に今は読書中だ。見せるんなら後でだね」

「後とは?…いや、私から連絡して聞いておきます。わざわざタキオンさんの手を煩わせることはありませんでした」

 タキオンは、マテリアルが直接田上に連絡をつける事に不満を持っているようではあったが、そこまで口出ししてしまうと自分から墓穴を掘りに行くようなものなので、それ以上は何も言わなかった。それでも、気になりはしたので本に目を向けながらも、チラチラと電話をしているマテリアルを窺った。

 マテリアルは、早速、自分のスマホを取り出して田上に電話を掛けていた。その途中で不安そうに見つめてきていたタキオンと目が合うと、何を思ったのか自信満々に握られた拳の中で親指をそびえ立たせた。なんだかバカバカしくて気まずくて、タキオンはすぐに目を逸らした。逸らしている間も当然耳は澄ませている。マテリアルが「もしもし」と言うのが聞こえると、こんな具合に話しているのが聞こえた。

「タキオンさんが体調が悪いって言っていましたが大丈夫でしょうか?」

『大丈夫です』と田上らしい低い声が、電話の向こうからくぐもった声で言った。

「それで、晩御飯をタキオンさんと食べるとかなんとか聞きましたが、こちらも把握しているのでしょうか」

 再び電話の向こうから『大丈夫です』とくぐもった声が聞こえた。タキオンは、マテリアルが自分の事をあまり信用していないことに多少腹を立てつつも、続きの話を聞いた。

「もし、他の方に風邪をうつすのを気にされていらっしゃるのなら、タキオンさんもできるだけ隔離した方がいいのでは?」

 タキオンは、本に目を向けながら――余計な事を言うな!と心の中で怒ったが、田上は少しの沈黙の後こう言った。

『体が怠いだけなのであんまり問題はないと思います。部屋から出ないのは念の為です』

「そうですか…」とあまり筋の通っていない論理を自分に無理矢理納得させながらマテリアルは頷いた。そして、その後で急に思いついた事があって聞いた。

「田上トレーナーが、タキオンさんと手を繋いでいるのを見ましたが、お二人はどういうご関係で?」

 すると、少し間が空いて電話が切れた。切れたことに気が付かずにマテリアルは暫くの間田上が話すのを待っていたが、「トレーナー?」と二,三回呼び掛けて返事がないと、そこでようやく電話を切られたことに気が付いた。

「切られちゃった」

 そうマテリアルが呟くと、タキオンがすぐさま言った。

「君がそんな嫌な質問するからだよ」

「だって、タキオンさんの話を簡単に信じられますか?男女が手を繋いで歩いていたら、そりゃあ何かあったんじゃないかって疑うでしょう?」

「何にもないって言ったじゃないか」

「私は、その言葉は信じられません。告白でもなさったんですか?」

「告白は、…してないさ」

 タキオンは、頭の内では不味いと思ったが、告白と言われてしまうとそれ以上の事をしてしまった自分を思い出して、言葉と言葉の間に変な間が生まれてしまった。そして、案の定マテリアルは食い付いた。

「告白はしていない?じゃあ、何をしたんです?」

「何?何と言えば………、何だよ」

 どうにも上手く逃げる言葉が見つからなかった。タキオンは自分がどんどんと追い込まれて行っているのが分かったが、どうしようもない。もう話の流れに任せた。

「何?…例えば、キスでもしてしまったんですか?」

――この女は妙なところで勘が良い、と思いながら、タキオンは観念して言った。

「そうだよ。…してしまった。…あんまり衝動的になりすぎた。…トレーナー君の言うとおりだったなぁ。あんなところでするべきじゃなかった」

 途端にマテリアルが黄色い声を上げた。

「つまり、もう付き合っているんですか!ラブラブですか!」

「いや、違う」

 それ以上の言葉が出てこないから、タキオンは本に目をやってごまかした。すると、当然マテリアルが聞いてくる。

「違う?…キスしたのに付き合っていないってどういうことですか?」

「………あんまり私にも分からないんだよ。とにかく、私が衝動的にキスしてしまったから、トレーナー君は今少し困惑してる」

「ああ、それで体調が悪いんですね。…でも、夜食は部屋で食べるって言ってましたけど、まさか二人で食べるんですか?気まずくないですか?」

「気まずい事には気まずいさ。でも、あの人、そのままにしておいたら夜食を抜いてしまいそうだったから私も一緒に食べる事で見張ってあげるんだよ」

「別に私が代わってあげてもいいですよ。タキオンさんも田上トレーナーの面倒ばかり見ていたら大変でしょうから」

 マテリアルがそう言うと、タキオンが断りたいけど断り切れない微妙な表情を見せた。すると、マテリアルはそれを見て可笑しそうに笑った。

「いいですよ。タキオンさんが田上トレーナーと一緒に食べても。そんなに大好きなんですか?」

 マテリアルに心を見透かされて恥ずかしくなったのか、タキオンは顔を背けた後、「そんなことはないよ」と言った。声は心なしかおぼつかず、それがまたマテリアルの笑いを誘った。微笑ましいものだったが、それ以上は何も言わずに放っておいてあげた。隣の部屋でベッドの上で寝転がっていたら急に電話を掛けられた田上は、この頃になるとぐっすりとはいかない浅い眠りに入り込んでいた。



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十九、大阪杯⑤

 それから、大阪杯前日のそわそわと落ち着かない、だらだらとした午後が過ぎていった。タキオンは、もう一度外に出て軽く走ってくる気にもなれなかったので、持参した本で暇を潰していた。寮の部屋にある自分の物でもう何回も読んだ事があるが、何回読んでも面白いアメリカのある博士の本だった。これを初めて読んだ時期は焦っていた頃だったと思う。当時は焦っている自覚などなかったが、今思えばあの頃は焦っていた。あの頃とは、田上と出会う少し前の事だ。だから、焦って生き急いでいたタキオンは、田上に出会ってどれだけ安心したか知れない。これも、今考えると気が付いた事だ。しかし、不安が急激に安心に変わってしまうとその物事や人に依存してしまう。自覚のない事だ。田上もきっとタキオンのトレーナーになりたくて必死だったのだろう。なにせ、六月の最後の選抜レースの時まで誰もスカウトしておらず、誰かの補佐にもなっていなかったから、相当な不安だったはずだ。これは、今の田上を見れば分かる。そして、田上は今もその状況から抜け出せていない。変わっていくタキオンを必死に繋ぎ止めようとして、自分の身の回りの変化に怯えている。田上の父の賢助の家に帰省をしに行った時に、田上から「永遠なんてない」と諭されたことがタキオンにはあったが、それは今の田上に一番必要な言葉で、一番受け入れる事が難しい言葉だ。何しろ不安なのだ。今を変える事が田上にとって。かつてはタキオンも不安だった。帰省をしていた時は、変わってほしくないと田上に泣きつくようにして頼んだこともあった。だが、タキオンはいつの間にか解決してしまった。色々な要因があるように見えたが、一番は前に進もうとしたことだろう。解決したはずだった自分の足の研究実験をやめず、ぐだぐだとその状況に依存することをやめたのだ。田上にも前を向いてほしかった。何とかして自分の方を向いてほしかった。あわよくば自分に思いを寄せてほしかったりもしたが、これはまず田上に前を向かせてからだ。それ故に今日の接吻は失敗だった。田上の事を深く考えず、自分の感情のままにやってしまったのだ。まだ、タキオンの唇には田上の唇の感触が残っているような気がした。あの人らしい渇いた唇だった。田上もまた、接吻の事が頭から離れず、夕食の時間になってタキオンにベッドの上で揺り起こされた時、あまりにもタキオンの覗き込んでくる状況が重なって、思わず「やめろ!」と声を荒げてしまった。その後にタキオンの驚いた顔に気が付くと、怒声を上げてしまった自分に戸惑いながら「ごめん」と言った。タキオンは、田上には分からない妙な目付きでこちらを見てきていた。しかし、田上はあまり気には留めずに聞いた。

「夕飯か?」

「ああ、そうだよ。もう持って来てある」

 静かな声でタキオンは言って、後ろの方を振り返って見た。田上もタキオンが見た方に視線を動かすと、帰省の時に使ったような小さな背の低い丸テーブルに料理が置かれていた。

「私とマテリアル君で運んできたんだ」

 そこで田上の部屋のドアがばたんと開いて、騒々しいマテリアルが入ってきた。

「タキオンさん、飲み物忘れてましたよ!…あ、田上トレーナーも起きてらしたんですね。明日の大阪杯には体調戻してくださいよ。皆でタキオンさんを応援しないといけないんですから」

「はい」とあまり気が乗らない、または、マテリアルの勢いに押されて小さく見える返事が聞こえた。それでタキオンが言った。

「あんまり大きな声で話さないでくれ。こっちは病人なんだぞ」

「あっ、すいません。飲み物ここに置いて行きますね」

 マテリアルはそう言って、丸テーブルに水の入った容器を置くと部屋から出て行った。その時に「何かあったら私に連絡してくださいね」との言葉も残していった。

 その様子を見ながらタキオンはやれやれとため息を吐いて田上に言った。

「あの人、病人がいても静かにならないね。……さあ、食べよう?」

 タキオンは田上に手を差し出した。しかし、田上はその手を取らないで自分でベッドから降りて行った。

「なんで丸テーブルなんだ?」

 丸テーブルの横に躊躇なく座りながら田上が聞いた。それにタキオンも同じように反対側に座りながら答えた。

「この部屋に椅子がないだろ?だから、ホテルの人が寄越してくれたんだ。わたしは別にこれでいいと思ったんだけど、何か悪い事でもあったかな?」

「…いや、ホテルの部屋に不釣り合いな丸テーブルだから…」

 確かに安っぽい木の丸テーブルだった。全然お洒落でも何でもなくただの丸テーブルで、高そうなホテルでないと言えど洋風なホテルの中では、この絶妙なお茶の間感は拭えなかった。それが少し可笑しくもあったが、田上も眉をピクリともさせず、少しの笑い声も立てなかった。それだから、二人で夕食を食べ始めると奇妙な沈黙が流れ始めた。田上にはタキオンがどのような事を考えているか分からなかったが、少なくとも外見上では何事もなく黙々と食べ物を口へと運んでいた。それが何だか少し寂しかった。いつものように意気揚々と何か話してほしかったが、それをタキオンにさせるためには、まず自分から話しかけねばならないように思えた。それが、とても億劫で面倒だった。話しかけようとしてもため息しか出てこない。このため息を言葉に変えなければならない。この言葉に変えるのが、とても面倒なのだ。何しろため息しか出てこない。やっとの思いで言葉にできそうになったとしても次にはため息しか出てこない。その上、ため息を出せば出す程、田上の心は沈んでいった。タキオンは一向に話す気配がない。ただ、黙々とご飯を食べ続けている。その様子を見ていると、今度は田上の食欲が消えて行った。せっかくタキオンが運んでくれたと言うのに、残すわけにはいかない。田上は空いてない腹に無理矢理飯を詰め込んだが、それも長くは続かなかった。目の前の皿の料理はほとんど減っていないが、田上は箸を置いた。すると、タキオンがそれに気が付いて初めて田上に声をかけた。

「お腹が一杯なのかい?」

 声を掛けられたら掛けられたで、なんだか喉につっかえがあるような気がした。しかし、それも無理矢理押し通すと田上は「ああ」とため息まじりにそう返事をした。今度は田上にもタキオンの表情が分かった。田上の言葉に困ったような顔をしていた。それを見てみぬふりをすると、田上は「ご馳走様」と呟いた。それに迷ったように目を動かしてから、タキオンが言った。

「…もう少し食べてくれなきゃ困るよ。君も一端の人間なんだ。燃料がないと動けないだろ?」

 それには田上は答えたくても答えられない。今度は、喉のつっかえがしっかりと機能して、田上の言葉を塞いでいた。その様子を見ると、タキオンは自分のご飯を箸の上に装って、田上の前の方に差し出した。そして言った。その声は、少し泣きそうな声だったから田上は慌ててその顔を見た。すると、微かに目に涙が滲んでいるような気がした。

「私が食べさせてあげるから、ちゃんと食べておくれ。君には落ち込まないで生きててほしんだよ。今日の事は私が悪かった。すまない。謝るから食べてくれ。…頑張って生きてくれ」

 そう言われると、田上も雰囲気に飲まれて恐る恐るタキオンの持つ震える箸に口を開けた。その口に、タキオンがご飯を運んだ。田上は、慎重にご飯を噛みながらタキオンの顔を窺った。今にも涙が零れてくるんじゃないかと思っていたが、それはなかった。タキオンは、再び自分の箸にご飯を装って田上の方に差し出した。何かを我慢して歯を食いしばっているように見える。田上は、もぐもぐと咀嚼しながらそんな事を考えていたが、あまり現実感がなかった。自分がふわふわと浮いていて、第三者の視点でこの場を見ているような気がした。あまり感情がない。何かに揺さぶられない。そんな不思議な感覚がした。タキオンは尚も田上の口に食べ物を運んでいたが、不意に我に返ると田上は言った。

「もう自分で食べるよ」

「……本当かい?」

 今のタキオンの顔は、田上の事を睨んでいるように見えた。それに少し怯えながらも「本当だよ」と返して自分の箸を手に取った。それから、二、三口食べ物を口に運んでみたが、驚き情けない事にこれまた食欲が失せてきた。どうにも腹が空かない。これ以上入る容量がない。しかし、タキオンに食べると言った手前、何とか食べ物を腹に詰め込まないといけなくなった。

 今度は、吐き気を催してきて箸を皿の上に置いた。口に手を当て、お腹の具合の悪さを慎重に測る。吐き気こそするもののまだ堪える事はできそうだ。再び箸に手を伸ばそうとするが、田上のただならぬ様子を感じ取ったタキオンがそれを遮るように言ってきた。

「どうかしたのかい?」

 声は心配そうだったが、それには構わず田上は「いや」と否定して箸をもう一度取ろうとした。それで見かねたタキオンが言った。

「吐き気がするんじゃないのかい?」

 見事に言い当てられた田上は、箸に伸ばした手を力無く下ろした。そして、躊躇いながらも「ああ」と頷いた。すると、タキオンは思わず声を荒げてしまった。

「なら、食べなくてもいいよ!……いや、すまない。私だ。私のせいだ。君に無茶をさせてしまった。……裏目に出てしまった。…何が君の為になったんだろう。分からない。君に…、君に無理はさせたくなかった。…すまない」

 そう言うとタキオンは押し黙ってしまった。どうにもやりきれない空気が続くが、もう田上はご飯には手をつけなかった。それで力なく床に寝転がった。ホテルの綺麗な天井が見えた。染み一つないかに思えたが、隅の隅の方に三つ点々点と茶色の染みがあった。それが人の顔に見えた。なんだか不気味に笑っている。田上はそれを見て恐ろしくなったので、横向き寝転がり直した。ベッドのシーツの裾が見えるがそれ以外は何も見えない。タキオンの咀嚼音が聞こえるだけだ。田上の部屋は静かだった。静かな部屋の中にタキオンの咀嚼音だけが聞こえた。

 

 結局、田上の分もタキオンが残さず食べてくれたようだ。その上、タキオンが皿を片付けてくれると言うから田上も申し訳なくなって手伝おうとした。しかし、その後で「体調不良である君が動いてどうする」とタキオンからの指摘を受けると田上は仕方なくベッドに腰を落ち着けてタキオンが皿を下げていく様子を見つめた。途中でマテリアルも夕食から帰ってきて、皿を下げるのを手伝い始めた。その為にすぐに皿はなくなっていって丸テーブルも片づけられた。タキオンが、丸テーブルを片付けていくときにもう自分の部屋に帰ると言った。だから、田上はタキオンを呼び止めて言葉に迷いながら言った。

「……ごめん。……明日負けたら」

 ここでタキオンが田上の言葉を遮った。

「明日負けても君のせいじゃない。私が勝つんだ。負けたって気にしなくていい。負けたら私のせいだから、君は落ち着いて見ていてくれ。それが一番私の為になる」

「…ああ」

 田上の返事が聞こえると、扉は閉まって田上は部屋に一人きりになった。息が詰まるような沈黙がこの部屋にはまだ流れている。できる事ならタキオンに置いて行ってほしくなかったが、例えタキオンが居てくれたとしてもこの空気はあまり変わらなかっただろう。その空気に変化を加えたくて、田上は大きなため息を吐いた。すると、一瞬だけ可笑しさが込み上げてきたが、本当に一瞬で、すぐに田上は滲み出る不安に頭を支配された。その事を田上は自覚していない。ただ、何も考えられなくなっただけだ。何も考えられなくなると、田上はベッドに寝転がって天井を見上げた。先程の食事までは気が付いていなかった天井の染みが今は気になって仕方がなかった。だから、それを見ないように体ごと顔を背けた。ベッドは壁に寄せてあって、顔を背けるとすぐに壁があった。しかし、壁があるとなると、今度は背中が気になった。背中を守るものが何もない。天井の怖い染みにいつ襲われるか分からない。なので、次に田上は壁をぴたりと背にすると、天井の染みから目を離さないように体を横に向けた。これならひとまず安心で、染みに襲われる不安もなくなった。

 僅かなりとも食べたばっかりだったし、食事の前には眠っていたのもあって中々寝付けなかった。まだまだ、ゲームもスマホも見る気にはなれないから、その内に田上は染みの事を忘れて抜け殻の様になってベッドの上に横たわっていた。耳を澄ますと何かが軋んでいるような音がする。どこから聞こえてくるのかも分からないし、どっちみち田上は抜け殻なので、その音を耳に入らせているものの、頭には入らせていなかった。

 そして、夜が更けていった。いつの間にか田上は眠った。眠ってしまう前は刻一刻と近づいてくる大阪杯が怖くなっていた。しかし、案外眠れてしまうものだから猶更怖い。起きた時には、一瞬で時間が経っていて、夜のうちに風呂に入ることも忘れていた。だから、田上は慌てて朝に部屋の風呂に入り、ついでに髭も剃った。その時に、寝ている時の自分の夢の事を考えた。タキオンと言い争いをしている夢だった。どちらが悪いと言う事もない、些細なひび割れで田上は激昂していた。タキオンもそれに負けじと激昂していた。そして、田上は一回頬に平手打ちを食らった。そこは、レース前の控室である。タキオンはその部屋から出ようとせずに椅子に座り直すと言った。

「君の事なんて嫌いだ!!」

 その言葉を聞いて、田上はおいおいと泣いた。それから、タキオンがもう一つ言った。

「ここから出て行ってくれ!!」

 言われるがままに田上は出て行った。出て行くとそこは奈落だった。深い穴に真っ逆さまに落ちた。真っ暗で真っ暗で何も見えず落ちていく感覚があって、その中で田上はこう叫んだ。

「許してくれ!!!」

 しかし、その声は暗闇の中に吸い込まれて、到底タキオンの方へ響きそうにはなかった。

 そこで夢が終わった。思い出すのも少し疲れる夢だった。田上は、この夢が何を指しているのかは分からなかったが、どうか現実にはなってほしくないと思った。そう思って、風呂から上がった。

 朝は、この夢のおかげで早くに目覚めることができたので、風呂に入る時間が取れたのが幸いだった。予定通りの時間に目覚めていたらきっと自分の体が気になって仕方がなかっただろう。

 早朝だったからか、誰も起きていないようだった。田上は、何の気なしに自分の部屋の外に出てそう思ったが、そう思った直後に隣の部屋の戸がバタンと開いて、タキオンが出てきた。タキオンも早朝に起きてしまった口らしい。昨日よりは少し明るめに「おはよう」と田上に言ってきたから、田上も昨日より少し明るめに「おはよう」と返した。

「気分はどうだい?」

 昨日の事を考えてか、タキオンがそう聞いてきた。田上の今の調子は、寝たおかげなのか昨日よりマシな具合になっていた。だから、「大丈夫だよ」と少し無理をしていつもより明るく言った。すると、タキオンも安心したようだ。「それはよかった」と言って、にこりと笑った。その笑顔を見て、田上の胸は少し痛んだ。目の下には、僅かに隈があるような気がした。

「眠れなかったのか?」

 唐突にそう聞くとタキオンは精一杯の笑顔を作って「そんな事はないさ」と返したが、その後に眠そうに目をパチクリさせた。申し訳なさが田上の胸の中に広がった。それでも、気のきいた言葉一つかけてやれずにこう言った。

「今日は勝てそうか?」

「今日?…そうだな。…勝てるかな」

「…でも、目の下に隈ついていないか?…無理しないで言ってくれ。お前の健康管理も俺の仕事なんだから」

「…まぁ、眠れなかったと言えば眠れなかったけど…。決して君のせいじゃないからね!」

 表情を落とした田上に慌ててタキオンが言ったが、田上はタキオンの話なんて聞かずに手で顔を覆ってため息を吐いた。

「俺のせいだ…。これでお前が負けたらいよいよトレーナーを辞めないといけないかもしれない…」

「何でそんなことになるんだよ!」

 タキオンが勢いよく言っても、田上は一向に聞き入れようとはせずに続けて言った。

「だって、担当の体調管理もできないトレーナーなんてここには要らないだろ」

「それは!…仕方がないだろ。私が自分でしてしまった事について悶々と考えていただけなんだから。君は悪くないよ」

「いや、俺が悪いに決まってる。トレーナーとしての業務を遂行できてないから、お前の体調を悪くさせた。昨日の事だってそうだ。お前に隙を見せなければあんなことにはならなかった。…俺たちは仲良くなりすぎたんだよ。…トレーナーの実家に泊まるウマ娘なんて聞いたことがない」

「でも、紛いなりとも仲良くならなかったら、私の足の研究は絶対に停滞して成功し得なかった!君がいたから成し得たことなんだ!」

「それも本当なのか分からない。お前は俺が好きだったからこうやって引き留めているだけだろ。トレーナーとして無能なのかそうじゃないのかで言ってくれ」

「君は無能なんかじゃない!」

 タキオンの声がホテルの廊下に響いたから、田上は「静かにしてくれ」と少し鬱陶しがるように言って、それから続けた。

「お前が俺の事をどう思っていようが関係ない。心の内では、全然別の事を思っているかもしれないからだ」

「それじゃあ、君は何も信用していないじゃないか」

「…いや、お前の事くらいは信用してるよ」

「じゃあ、今の言葉を取り消しなよ」

「……いや、お前が信用できない」

「どっちなんだい!」

 タキオンは、思わず声を荒げるてから慌てて「ごめん」と言った。しかし、田上はタキオンの大声に動じる様子もなく暗かった。

「俺こそごめん。…もうどうすればお前のためになるか分からない。…分からないんだよ。それが、俺の無能である理由だ」

「分からないなら探せばいいじゃないか!私はそうやって生きてきたよ。これからもそうやって生きていく。君の幸せも探していくよ!別に私の事なんて好きでもそうじゃなくてもいいから」

「探しても探しても見つからないものはあるんだ。小さくなった消しゴムも失くしたきり一度も見つけたことはない」

「君の幸せはそんな小さな消しゴムじゃないよ。床を丁寧に丁寧に探して見つけるもんじゃない。皆があっと驚くような冒険をして手に入れるのが幸せだ」

「じゃあ、そんなのは俺には無理だ」

「無理じゃない!今君が差し掛かっているのが冒険の曲り道だ!えいっと踏み出すしかないんだよ。大事なのは勇気だけだ。おまけに君には仲間がいる。私が隣にいる」

 そこで、廊下のどこかのドアがばたんと開く音がした。これまた早朝に誰かが起きてきたようだ。廊下で口論をしている音を聞きつけたかもしれない。田上は、その音を聞くと、タキオンと話しているのを見られると不味いと思ったのか、すぐさま自室へ入ろうとした。しかし、それはタキオンが肩を掴んで食い止めた。そして、田上に「私も一緒に入ろう」と言った。田上は、これまでになく嫌そうで、これまでになく迷ったが、渋々頷いてタキオンを中へと招き入れた。

 

 タキオンは田上の後から中に入った。最初は、靴を脱がなければならない。だから、田上の後について狭い玄関口で待っていたのだが、前には田上の立派な背中があった。その横に二つ立派でないと言いつつも普通の手があった。この手がタキオンは好きだった。ごつごつとしたあまり肉の無い手だったが、それが父を彷彿とさせるし、男らしくもあって好きだった。その手を後ろから見つめていると、その手を繋いで横に立って歩きたくなった。ただ、今日の所はダメそうだった。今は失敗をしてはいけなかった。特に田上が落ち込んでいる時だ。ここで失敗をしてしまえば取り返しがつかないからタキオンは慎重に慎重に田上の後を歩いて部屋の中へ入った。

 この部屋には椅子がない。ベッドと小さい箪笥と机しかないから、二人どころか一人とて床以外に座る場所がない。だから、タキオンは田上の寝ていたベッドに座るのだが、田上はその横に座りたくないらしく、昨日の様に再び床の上に座った。タキオンが一度「私の横に座りなよ」と言って田上が座れるように横っちょにずれたが、田上は「いやいい」と言って自分の座った場所から動かなかった。それから、少しの話題を見つけ出す沈黙があって、タキオンが言った。

「君、朝風呂に入ったんだね。レース前の緊張を解すためかい?」

「……いや、……昨日入り忘れた」

 その言葉にタキオンが少し笑った。

「ははは、君、風呂を忘れるなんて大分参っているようだね。……やっぱり私のトレーナーで居るのは嫌なのかい?」

 最後の方の言葉は、真剣に言っていた。

「……ああ。……分からない」

「分からない?」

「……お前が俺の事を好きだから引き留めていたわけだろ?……それじゃあ、俺は何の為にここに居るのかが分からない。……俺は、お前の好きなモルモット君ではいたくないんだよ…。…トレーナーで居たい…」

「ああ…、そうか。…私は順番を間違っていたわけだ。…というより、順番という事を考えていなかった。…すまない。私は心配だったんだよ。君が今にも死にそうだったから…。…だから…。いや、そうじゃない。できるだけ長く私の下に引き留めておきたかったんだ。すまない。…許してくれ。…私は君をトレーナーとして見ていなかった。勿論、君は優秀だ。トレセン学園のトレーナーになれるくらいだから優秀なことは間違いがないだろう。…でも、…でも、…ああ、何て言ったらいいんだろう。肝心なところで私は分からない。…とにかく、…とにかく、………私の願いは君に私の事を切り捨ててほしくないって事なんだけど……、依存しているのかな…。…トレーナー君はどう思う?」

「……依存してるんじゃないか?」

「……そうか…。……でも、どうしても君と共に居れないか考えてしまう。ダメなのか?……一番の解決策は、君がこのまま去って行ってしまう事なのかな?」

 タキオンは田上に呼び掛けたが、田上はタキオンを見つめたまま何も答えなかった。だから、またタキオンは話を続けた。

「…トレーナー君、愛って何だと思う?…分からないんならいいけど、私もあんまりよく分からない。こうして君につい打ち明けてしまったけど、愛って…、愛って、このまま君が立ち去るのも許せるものなのかな?……そう言えば、君の口からあんまり話を聞いていなかったから言うけど、君は私の事はどう思っているんだい?…これだけは答えてほしいんだけど。私のキスが無駄に…はならないか…どう思う?」

「………好き………だった」

 田上が恐る恐る言うと途端にタキオンが活気付いて嬉しそうに目を見開いた。

「本当かい!本当なのかい!」

「…………今は分からない。…好きって気持ちも薄れていった」

 田上の言葉にタキオンは我に返って「…ああ、そうだよね…」と呟いた。

「……君が……。なぁ、私のキスってどうだった?嫌だったかい?」

「嫌?………分からない」

「…そうか…。少し眠いな…。…一緒に眠らないかい?」

 タキオンは田上のベッドに寝転がりながら言った。その言葉に田上が首を振ると、タキオンは残念そうに目を瞑った。

「そうか…。…私は…君が好きなんだけど…君の…、いや、君と傍に居れたらいいんだ。……君が…望めば……一緒に行く…よ」

 タキオンは次第に眠りにつきながらゆっくりと話した。タキオンの顔は、段々と安らかな寝顔に変わっていって、それが田上の安心にも繋がった。程よく肉の付いた丸いほっぺたを見ながら田上は少し表情を明るくして立ち上がると、タキオンの寝ているベッドへと近づいて行った。そして、そこに座って布団からはみ出しているタキオンの手を突いた。タキオンは身動き一つしなかった。もう寝ているようだ。その事を確認すると、田上は大きなため息を吐いて、言葉を零した。

「………分からない」

 そうすると、突然にタキオンの手がもぞもぞと動いてベッドの上に置いている田上の手をぎゅっと握った。慌てて田上が眠っているタキオンを見下ろすと、その目が眠そうながらも開いていた。そして、田上と目を合わせてにっこりと笑った。

「……できる事なら傍に居させてくれ」

 タキオンは、そう言うと今度はしっかりと眠りについていった。田上はその様子を用心深く眺めていたが、今度こそタキオンが眠りについたのを確認した。それから、眠ってしまったがために緩んでいたタキオンの手をぎゅっと握り返し、再びタキオンの顔を見つめながらこう言った。

「分からないな」

 その顔は少し笑っていた。しかし、次には田上も眠たそうな顔になって、こてんとタキオンの隣に寝転んだ。少々寝付きにくい体勢ではあったが田上はすぐに眠ることができた。その一、二時間後に起きたマテリアルは、隣のベッドにタキオンがおらず、田上のスマホに連絡を取ろうとしても繋がらず、大変に焦った。田上のスマホは、鳴ることには鳴っていたのだが、目覚まし時計としての効力は発揮できていなかったようだ。だから、マテリアルは恐る恐る隣の部屋に行って、その扉を開けた。鍵は閉めていなかった。その部屋の中に入ると、横向きに変な体勢で寝ている田上の後ろにタキオンの顔があってほっと一安心した。それから、寝ている田上の顔を強めに人差し指で突いて言った。

「朝ですよ」



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十九、大阪杯⑥

 田上は、目を覚ましたら目の前にマテリアルが居て、ここはどこかと焦ったが、幸いなことにそこは自分の部屋であった。一時間足して寝た田上だったが、まだ眠たそうにしてベッドのそばにあった時計を確認した。遅刻という時間ではない。それを確認すると再びマテリアルの方を見て言った。

「おはようございます」

 普段の田上よりも数段緩み切っていた田上の寝ぼけ声だったので、少し怒り気味だったマテリアルも思わず顔に笑みを作った。その後に顔を引き締めて田上に言った。

「…後ろの。…何ですか?」

「後ろ?…ああ、タキオンが寝てるなぁ。…不味かったですか?」

「不味いも何も、朝起きて隣のベッドが空だったら焦りますよ。なんで部屋に入れて、その上、一緒に眠ってたんですか?」

「……眠たかったから…」

 田上は、相変わらず眠たそうに要領を得ない返事をした。それに少し困りながらも口調は変えずにマテリアルは続けた。

「眠たかったらあなたは教え子と一緒に眠るんですか?もう少しトレーナーとしての自覚を持ってください」

 そう言われると田上はトレーナーとしての自覚を取り戻してきたようだ。頭に手を当てて少し焦った口調で俯き言った。

「……不味かったですかね?」

「そりゃあ、不味いに決まっていますよ。あなたたちは…」

 ここでタキオンが目を覚ましたようだ。むにゃむにゃと呂律が回らないながらも言った。

「マテリアル君。……トレーナー君は悪くないよ。……私がここに勝手に眠ってしまったんだから、わざわざトレーナー君が招き入れたんじゃない。……トレーナー君は優しい人だから、君の思うようなことは断じてしないよ」

「そんな事は分かっています。でも、トレーナーとしてタキオンさんが押し入ったら断ってください。いざとなったら私が駆け付けますから」

「でも、…君を起こすような時間じゃなかったし、そもそも君だってこの部屋に押し入っているじゃないか。……一体どういう了見でこの中まで入ってきたんだい?…トレーナー君にしっかり断ったかい?」

「そりゃあ…、寝ていたので断ってはいませんが…」

「それじゃあ、君も何も言えないじゃないか。ふぁ~あ、今何時だい?」

「七時半」と田上が答えた。

「じゃあ、まだ少し寝ていられるな」

 そう言うとタキオンは起こしかけた体を再びベッドの上に寝かせた。それを見て一度は論破されたマテリアルも勢いを取り戻して、タキオンに怒って言った。

「眠たいんだったら自分の部屋で寝てください」

「んん?…昨日もトレーナー君の部屋に入っていたんだ。今日も入っていたって問題あるまい。…何か問題でも?」

「昨日?……そう言えば、あなたたちいつから一緒のベッドで寝ていたんです?まさか昨日の夜からじゃないでしょうね?私が寝た後?」

 そう言われると、今度は田上が答えた。

「いや、今朝がたに俺が部屋に入れたんです。廊下で話してたら、誰か出てきた音がしてそれで慌てて部屋に戻ろうとしたら、タキオンも入りたいって言ったから…」

「今朝って…一体何時?」

 マテリアルがそう聞くと、「六時前くらい?」と田上がタキオンの顔を見ながら答えた。タキオンも「そのくらいだろうね」と言うと何ともないと言う風にマテリアルの方を見やった。マテリアルは、理解が追いつかないと言うように顔に困惑を滲ませながら、タキオンの顔を見返したが、その後に田上の方を見て言った。

「……六時前にあなた方は何をしていたんです?田上トレーナーが起こしにでも来たんですか?」

「いや、トレーナー君が外に出る音が聞こえたから私も出て行ったんだよ。…私があまり眠れていなかったからね。トレーナー君と話して暇でも潰そうと思ったわけさ」

「そう…ですか。……でも、タキオンさんももう自分の部屋で寝ていいんじゃないですか?」

「えーー、もう少しここで寝ていたのだけれど」

「でも、もうすぐご飯ですし、せめて、ご飯を食べてから寝てはどうでしょうか?」

 マテリアルにそう言われると、タキオンは田上の顔を見てどちらにしようか考えた。無論、朝食を取らないわけにはいかないし、朝食の時間になれば田上もどこかに行くだろう。そうなれば、この部屋で寝ていてもあまり意味はなかった。だから、タキオンは仕方なしにため息を吐くと、目を閉じながら言った。

「…まぁ、もう少ししたら動くよ。ちゃんとそっちの部屋には行くから君もあまり騒がないでくれ。トレーナー君と私の仲が良いこと自体は悪い事じゃないだろう?むしろ、君はその姿を見に来たんだから口出しは無用なはずだ」

 こう言われると、マテリアルも言い返す言葉が見つからずに、「分かりました」と言って部屋から出て行った。部屋から出て行ったマテリアルのドアの開閉音が聞こえた後、タキオンは田上に話しかけた。

「なあなあ、……君は……。いや、この話は止めとこう。そんなに早急にせずともいいはずだ。…多分。……今日の朝食は何だい?」

「知らない」と田上が答えると、そのぶっきらぼうな口調にタキオンがふふっと笑った。

「美味しいものだといいなぁ。……今日、勝てるといいね。……少し不安になってきたよ。そんな私の手を繋いでくれるかい?」

 タキオンは自分の被っている布団の間から手を出すと田上の方に差し出した。田上も初めはそれを掴もうとしたのだが、その寸前で躊躇いを見せるとそのまま手を引っ込めて背中を丸めて、「嫌だ」と言い返した。タキオンは目を瞑っていたからその状況は見えていなかったが、今の沈黙の間から田上がしたであろう行動はなんとなく予想できた。予想できたので、少し揺さぶりをかけるつもりでこう言った。

「ああ、悲しいな~。君が好きだったアグネスタキオンが手を繋いでほしいって頼んでいるのに、君はその手を取れないのか~。残念だな~。悲しいな~」

 そう言い切った後には田上の複雑な心境の読み取れる沈黙が続いた。そして、その後に田上が重そうな口を開いた。

「………あの話はなかったことにしてくれないか?」

「…あの話?」

 タキオンは何の話か当然分かっていたが、敢えて聞き返した。

「………お前が好きだったって話だ。あれは、気の迷いだった。お前の事なんて好きでも何でもなかった」

「……そりゃあ、ないだろう。ちゃんと君が言ったじゃないか」

「それを取り消さしてほしいんだ。あの時は気が動転していた」

 その後にタキオンの物思いの沈黙が続いたが、それはしっかりと自分で破ってタキオンは言った。

「君が取り消したいんだったらいいけど、私はちゃんと覚えているからね。それは、例え嘘であっても私には嬉しいものだったから。……君と改めて再び向き合うその日まで私はこの胸に取っておく」

 相変わらず、田上は言葉を出しづらそうにしていて、次の言葉もやっとの思いで言った。

「そんな日は……来ない」

「……悲しいなぁ」

 そう言ってタキオンは、上げた手を下ろした。タキオンの言葉に田上はもう返事を返さなかった。暫く、背を丸まらせて座ったまま物思いに沈むと、唐突に大きなため息を吐いて、ベッドの上にタキオンを潰さないようにして倒れた。先程寝ていた時と同じ体勢だ。その体勢が、タキオンが寝た時の手の位置と、田上の頭の位置が近くなる体勢だったので、タキオンがその事に気が付くともぞもぞと手を動かして田上の耳を指先でぎゅと掴んだ。しかし、それは田上が嫌そうな声を上げて振り払えば、簡単に離れた。その後に可笑しそうに静かにふふふと笑ってタキオンが言った。

「もう帰った方がいいかい?」

「んん」という曖昧な返事が聞こえた。タキオンはその声の明確な意図が分からなかったので、「うん?」と聞き返した。すると、今度はしっかりと田上が口を開いた。

「……帰っていいよ」

「帰っていい?…じゃあ、帰らなくてもいいって事かい?」

 これには田上は返事を返さない。だから、タキオンは少し笑いながら言った。

「君も随分と照れ屋だな。帰ってほしくないなら素直にそう言いたまえ。…抱き締めてあげようか?」

「それは止めてくれ。…さっさと帰れ」

「おや、今度は怒りっぽくなった。…はいはい、帰るよ。帰るとしようかな。……君は勿論朝食は食べに行くんだろ?」

「ああ、今日は行くよ」

 半身を起こしたタキオンを見上げながら田上は言った。すると、タキオンはにっこりと笑った。

「それは良かった。一緒に食べようね。もう祝勝会を開いていても良いかもしれないね」

「それはお前のコンディションにもよるな。…寝不足は大丈夫そうか?」

「う~ん、昼までにもう一眠り、しなくても目を瞑っているだけでも万全にはなりそうかな」

 田上はそう言っているタキオンの目の下の隈を眺めた。

「嫌だな。人の顔をじろじろ見ないでくれよ」

「……ごめんな。……何もできないトレーナーで」

「また君の君自身によるネガティブキャンペーンが始まった。いいかい?本当に君はできる奴なんだ。何回この議論をしたらいいんだ」

「……でも、今のお前の為にしてやれることなんて何一つないんだよ」

「人ってそんなもんだよ。君は神様じゃないんだからできる事にも限界がある。例え、一流のトレーナーだとしてもね。自分に迫ってくる女の子をかわしながら、その子のメンタルケアをするなんて尋常じゃない事だよ。話していくうちに情が移りそうになる。君はそれが怖いんだろうけど……まぁ、身を委ねるしかないんじゃないのかい?もう一度私を好きになってごらんよ」

「好きになった事なんてない」

 田上は、タキオンの事を憎むように睨みながら言った。

「おや、怖い。冗談だよ冗談。……けど、私は君から離れるつもりなんて毛頭ないぞ。引退後も君とは付き合いを続けるからね」

「……頑張れ」

 暫くタキオンの顔をしかめっ面で睨んだ後に田上はそう言った。しかし、表面的な応援の言葉の真意は、当然の様にタキオンには伝わった。これは誰であろうと伝わっただろう。口調がバカにしすぎていた。

「おやぁ?私の事を舐めてるね?…君の事を想って、早三か月。もう自分の想いを伝えるまでに至った女だぞ?永遠に君の傍に居てやる。君に美人の奥さんができたとしても、一生傍に居てやるからな」

「……幸せになるまでじゃなかったのか?」

「君が幸せになれば、次は私の幸せだよ」

「その時にはもう手遅れだぞ」

「手遅れだったら私は泣く。そして、生涯独身でも貫いてみようかな」

「……重いなぁ」

「そうさ。私は重い女だ。君を軽々しく見捨てたりしない。女子高生だからって舐めるなよ。もう一端に考える事はできるんだ。君が男なのか女なのか一目見ただけで分かる」

 タキオンが、最後に少しの冗談を述べると、田上がそれに見合う量の笑顔を顔の中に作った。それを見るとタキオンも同じように顔に笑みを浮かべた。それから言った。

「どれ、私もそろそろ戻ろうかな。マテリアル君がやきもきしているだろうし。帰ったら、何か小言を言われそうだ。……朝食は私が扉を叩くからその時まで待っていてくれ。一緒に行こう」

 田上はそれに「いいよ」とだけ答えて目を瞑った。目を瞑ると、もしかするとタキオンに何かされるんじゃないかと恐ろしくなったが、そんな事は今の雰囲気では当然なく、タキオンは「じゃあね」と言うとベッドから抜け出して自分の部屋の方に帰っていった。これで田上はやっと落ち着いた。再び眠りに落ちそうになったが、これから朝食だと言うのでその眠気は堪えつつタキオンが扉を叩く音を待った。

 

 すぐにタキオンは戸を叩いてきた。田上の頭は眠たさに少し朦朧としていたが、なんとか歩いて扉を開けた。扉を開けると、当然タキオンが待っていたのだが、少し心配そうな顔をして田上の事を見ていた。

「大丈夫かい?君の方が体調が悪そうだけど」

「大丈夫」と一言だけで答えると、田上はタキオンの横について半ば眠るようにしながら歩いた。今日の朝食はマテリアルも同じ席で食べるようだった。だから、マテリアルがタキオンの右にいて、田上がタキオンの左にいて歩いていた。マテリアルが、ぺらぺらと話す口だったので、タキオンはその対応に追われて田上の方をほとんど見ていなかった。田上は、目を瞑ったままふらふら歩いている。段々と歩みが遅れてきた。追いつこうと必死になって足を速めていたが、遂にもうダメだと思って、渾身の力で目を開けて廊下に置いてあるソファーの方まで歩いた。タキオンたちは気が付かずに先に歩いて行ったが、それを気にする暇はなかった。眠気と共に頭も痛くなってきた。締め付けるような痛みが田上を襲い、唸らせた。深呼吸をすれば少し楽になったが、それでも痛いものは痛かった。

 田上は深呼吸を繰り返しながらタキオンたちの声が聞こえてくるのを待った。しかし、一向にそれは聞こえず、代わりに今はあまり会いたくない人物の声が聞こえた。国近の声だった。「大丈夫か?」と田上に声をかけてきた。田上は、友人に隙を見せるのがあまり好みじゃないから、苦しそうに目を開けると、「大丈夫。…少し目を瞑ったら朝食を食べに行くから」と言った。国近はその言葉を聞いてソラと顔を見合わせているんだろうという事が目を瞑っている田上には分かった。それでも何も言えずにいると、「ごめんごめん」とタキオンの声が聞こえた。そして、国近に「おはようございます」と言っているマテリアルの声が聞こえた。後ろの方で大人の社交辞令が始まったが、それには構わずタキオンが田上の肩を叩いて呼び掛けた。

「どうしたんだい?苦しいのかい?」

 田上は、助けを求めるように頷いた。

「誰か呼んでこようか?何が苦しい?」

 次にタキオンがそう呼びかけると、大きく息を吐いて、痛みをこらえるためのしかめっ面をしながら言った。

「…誰かは必要ない。…頭が痛いだけ」

 そう言ってから立ち上がると、タキオンはその田上に手を貸そうとした。しかし、それは借りないで、国近が「大丈夫なのか?」と言ってきた言葉に「大丈夫」と返して歩き出した。頭の痛みは先程よりマシになった。もしかしたら、先程の行動は大袈裟だったのかもしれないと思う程にはマシになった。

 国近は、今日は別の席でソラと二人で飯を食べていたが、田上は仲の良い友達がいなくともできるだけ明るく快活に話した。すると、それと反対にタキオンの顔は悲しそうに田上を見つめていた。

 

 朝食が終わり、暇な時間ができた。タキオンたちが移動を開始するのは昼前からだ。午前中に走るウマ娘もまだここでは暇な時間ではあるが、タキオンたちより早くに出ないといけないのでどことなくそわそわしているように見える。今は八時半を少し過ぎた頃だ。タキオンと田上とマテリアルは、ホテルのロビーにあるソファーに座ってそこそこの会話をそこそこに弾ませていた。話のない沈黙が所々にあったが、それは当人たちにはあまり気にならず、その沈黙の間には、田上の隣に座っているタキオンがしている行動に視線が集まっていた。タキオンは会話にはほとんど参加していなかった。その代わりに田上の隣に座って、ソファーの目の前にある低い机の上に置いてある白いうさぎの陶器の置物を眺めたり、持参の紅茶を少しだけ飲んだり、田上たちの話に耳を傾けたりした。たまにタキオンが、田上の手を勝手に取って揉んだり触ったりしているが、そういう時には、話の間が生まれる。田上が嫌そうにタキオンの方を見ているからだ。そうすると、マテリアルも一緒にタキオンの方を見るが、タキオンはにっこりと笑って田上を見つめ返し、手遊びを続けるだけだった。

 田上には、むずむずとするやりきれない時間が続いた。田上の頭は、今もぼーっとする痛みのようなものが続いていた。それでも田上は、タキオンが自分の手を揉むのをやめるとマテリアルとぽつぽつと話した。話題は、タキオンの事だったり、しょうもない事だったり、転々とした。時間は、静かなざわめきの中過ぎていく。やがて、午前中の組の子が出発した。そうすると、田上の胃袋はなんだか緊張で気持ちが悪くなってきた。それをタキオンは目聡く見つけて言ってきた。

「君が緊張してどうするんだい。走るのは私だぞ」

 少し表情筋が強張っている田上は、変な顔をして笑い「平気だよ」と答えた。その答えを聞くとタキオンは顔を曇らせてちょっとの間考え込んだ後田上に向かって言った。

「私に対してくらい強がりはよした方がいいんじゃないか?」

「強がり?…してない。それに、お前に対してという理論が分からん」

「私だよ。仲が良いだろ?友達だろ?君を想ってるんだよ?」

「俺の事を想ってるんだったら猶更だ」

 それでタキオンが反論しようとしたら、マテリアルが「あれ!?」と素っ頓狂な声を上げた。

「タキオンさん、……あれの事は?あれ?…タキオンさん。告白したって事なんですか?」

「告白?」

 タキオンは、マテリアルの言葉を真正面から受け止めきれなくて、一度聞き返して受け流したが、その後に少し顔を赤らめてこう言った。

「ああ、君に言っていなかったね。……複雑だな。非常に複雑だ。…トレーナー君」とタキオンが聞こうとした途端に田上が「ダメだ」と返した。

「何も言っていないんだけど」

「言う必要はない。……マテリアルさん」

 田上がそう呼びかけた。すると、彼女らしからぬアホ面で目の前の二人のやり取りを見ていたマテリアルは、またも「はいぃ!!」素っ頓狂な声を上げた。

「…ちょっとした手違い、と言うか間違いみたいなのがありまして、タキオンが変な事を口走っただけです」

「手違いでも間違いでもないさ!」とタキオンは返したが、田上はその声を無視して続けた。

「だから、この件に関してあまり口出ししないでください。話し合いは済ませました。もう解決しました」

「解決?」とタキオンが疑問を投げかけると同時にマテリアルが「お言葉ですが…」と反論した。

「お言葉ですが、私は結構タキオンさんの悩みを聞いたりもしましたよ。解決したならいいですが、どうもそうではないようですし…」とタキオンの方を見やり、再び田上に目を戻した。

「タキオンさんの悩みを聞くに本当に手違いでも間違いでもないように思うのですが。…タキオンさん、どう」

「もうやめてくれませんか」

 マテリアルの話を田上が遮った。田上の視線は、今はもうマテリアルには向いておらず、机の方へと向かっていたが、その瞳に机は映っていなかった。

「…俺にその気はなかったんです。……愛とか恋とかそんなものはどうでもいいんです。生きるためには必要ありません。今は、タキオンが俺を引き留めているからここに居るだけです。…今すぐにでも…」

 田上はそう言いかけたが、その後には何も言わなかった。タキオンには、田上の言いかけた言葉は何となく察しがついたが、それを改めて問いただそうとはせずに、隣に座っている田上に向けていた体を正面に戻した。雰囲気は、通夜のように暗くなった。田上の胸には苦しさだけが残り、喉は異物で塞がった。そして、また喉が痒くなった。誰かに殺してほしい。そう切に願ったが、この場で田上を殺せるものは田上以外は誰一人としていない。ガリと摘まむように一回喉を引っ掻いた。

 暫くすると、マテリアルが立ち上がって言った。

「もうそろそろ準備をした方がいいですね。…タキオンさん、行きましょう」

 ぼーっと陶器の白いうさぎを見ていたタキオンは、その声で目が覚めたかのような反応をして、マテリアルの後について行った。ただ、マテリアルが声をかけても微動だにしようとしなかった田上を置いて行くわけにはいかないので、優しく肩を叩くと「一緒に行こう」とタキオンは呼び掛けた。それに、田上は渋々立ち上がると、マテリアルの後ろをノロノロとついて行った。今度は、田上の横にタキオンが旦那を介護する婆さまのように付いた。田上は、横に立たれるのを嫌そうにして、タキオンに――前を歩いているマテリアルの横に行け、と目で訴えたが、タキオンはそんな事は意に介さず田上の横を歩き続けた。すると、田上の気持ちも少し落ち着いた。

 

 部屋の前で田上たちは別れた。当然、タキオンも準備があるので、自分の部屋の方にマテリアルと共に入った。初めのうちは、勝負服や靴などを手頃なバッグに詰めていて穏やかな沈黙が続いていた。時々、マテリアルが「あれありますか?」「これありますか?」とタキオンに聞いてくるだけの穏やかな沈黙だ。まるっきり穏やかであることに間違いはないのだが、マテリアルが不意にそれを打ち壊すように言った。

「タキオンさんは…」

 そう言いかけたところで、タキオンが見事な反射神経で「なんだい?」と遮った。その声は、「これ以上言う事は許さないぞ」という語気を含んでいた。だから、マテリアルは少々驚いて、隣のベッドに置いてあるバッグの奥の方に立っているタキオンを見つめた。部屋の電気はつけていなかったので、窓から差し込む陽の光がタキオンの顔の場所でちょうど影になっていた。その影の中に赤い瞳が静かに揺らめいていた。マテリアルはそれを見ると、怖気が出てきた。GⅠウマ娘の貫禄かもしれないし、はたまたタキオン自身の想いの強さがそこに現れているのかもしれない。タキオンの体は、妙に妖怪じみて見え、マテリアルに次の言葉を言わせまい言わせまいと脅していた。それでも、マテリアルはどうしても気になって、目を泳がせて、もう一度泳がせて言った。

「………タキオンさんは、どうしてもトレーナーを捕まえておきたいんですか?」

 そうすると、タキオンの妖怪じみた気配がふっと消えた。だが、マテリアルに軽々しく喋らせない空気の重さは残った。

 タキオンは、はぁとため息を吐いて部屋の電気を点けに行った。そして、かちりと音を出して電気を点けると、口を開いて言った。

「私は、できればトレーナー君にはここに居てほしいと思っているよ。……想いを打ち明けてもあまり状況は変わらなかった。ならば、私はトレーナー君について行くつもりでいるよ。…どこまでも」

「……でも、田上トレーナーは、タキオンさんと離れたいんじゃないですか?」

「…離れたい?…離れたい。……私は、トレーナー君にもうこれまでにないくらい全力で拒否されたらどうすればいいのかな?」

「……それが、彼にとっても簡単な道になるんじゃないでしょうか?」

「簡単な道と言えば聞こえはいいが、それが不幸へと続く道だとすれば?私は、できるだけトレーナー君にそちらの道に踏み込んでほしくない」

「タキオンさんが、…そんなにトレーナーにお節介を焼かなくてもいいのでは?」

「お節介?……なら、君がお節介を焼いてくれるのかな?」

「私がですか?……」

「ほら、答えられないだろう?……私は、彼が好きだからという理由だけで動いているんじゃないんだよ」

「でも、辛いって言っていたじゃないですか!」

 マテリアルが少し感情的になって言うと、タキオンは眉間に深く皺を刻み込んだ。

「辛い事には辛いさ。私の好意を否定されるんだから」

「その先に何があると思いますか?…きっとタキオンさんの望む未来ばかりが待っているとは限りませんよ!」

「…あまり大きな声を出さないでくれ。……まぁ、私が望む未来が待っているとは限らないだろう。そのくらいは私も心得ているさ」

「なら、なぜそれでもトレーナーの傍に居たいと仰るんですか?自分の身が不幸になる可能性も十分にあると言うのに。…私は、正直に言って、田上トレーナーよりタキオンさんの方が幸せになっていてほしいです」

「これまた、正直すぎるね。……参ったな、トレーナー君には敵しかいないじゃないか」

「私は敵ではありません」

「いいや、敵だね。君はトレーナー君を切り捨てる事を選んだんだ」

「私は……、私は、田上トレーナーを切り捨てたいとは思っていません」

「なら、今の言葉は何なんだい。田上トレーナーよりタキオンさんの方が?君は本当にトレーナー君の事が分かってあげられているのか?君に言ったろ?トレーナー君は自分自身を苛め続けているって」

「その挙句にタキオンさんを苛めているのであれば、どうしようもありません」

「それを切り捨てると言うんだ。トレーナー君だって、心根は優しいんだ」

「それじゃあ、自分を傷つけさせてもいいと言うんですか?」

「ああ、良いとも。私の傷くらいトレーナー君の傷に比べればどうってことないよ」

「私にはそうは見えません。私には、………」

 ここでマテリアルには再びタキオンの顔が恐ろしく見えた。今度は、顔に影なんて掛かっていなかった。ただ、タキオンの目が冷たく睨んでいるように見えた。その目からマテリアルは視線を逸らしたが、これが彼女の性なのか、言いたいという気持ちはどうしても止められなかった。

「私には、…トレーナーの事を好きであればあるほど苦しんでいるように見えます。……何とか諦められないものでしょうか?別にあの人じゃなくたって良いトレーナーは一杯います。苦しんでいる人のお世話を、わざわざタキオンさんがしてやる必要はないでしょう?」

「………それと同じことをトレーナー君に言われたよ。……その時は何と言ったんだったかな?……忘れたけど、今言える事は、あの人が良いトレーナーだって事だよ」

「良いトレーナーは自分の教え子を無闇に傷つけたりしません。それに、心根が優しいからと言っても今がどうしようもないんじゃ、トレーナーとしてもダメです。……やっと私の言いたい事がまとまりました。…あの人は帰りたいんですよ。自分の家に。それで許してあげてくれませんか?あなたもそのトレーナーを引き留めて苦しんでいるんです。手放したら一件落着じゃないですか」

「だから、それは最初に言ったろう?こっちは良くてもあっちが駄目なんだ。不幸になる」

「実家に帰れば少し落ち着く人だっていますよ。帰らせてあげましょう?」

 マテリアルが必死にそう頼むと、タキオンの心も僅かに揺れて、顔が悲しみに歪んだ。そして、少し震えた声でこう聞いた。

「トレーナー君は私から離れたいのかなぁ?」

「……私は離れたほうが幸せだと思います」

 マテリアルは、睨まれるのを覚悟でそう言ったが、タキオンはそう言われると力なくため息を吐いてベッドに腰かけた。そして、もう一度ため息を吐いた後言った。

「……大阪杯。……トレーナー君に少しでも勇気づけてもらおうかな…」

 いつになく弱気なタキオンだった。



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十九、大阪杯⑦

 そのまま時間は過ぎていって、遂に阪神レース場へと出発する時間となった。その時間には田上が出てきてタキオンたちの部屋のドアを叩いて呼んだ。こちらも陽気そうな面ではなく、むしろ陰気と言った具合だったが、それ以上にタキオンとマテリアルの顔は落ち込んでいた。田上には何が起こったのかは分からなかったが、タキオンの落ち込んでいる顔を見ると自分が何かしてしまった事が影響したのだろうと思って、自分自身も落ち込んだ。しかし、皆の集まる場所に来ると段々と表情を明るくさせて、国近と話すときにはそれ相応に明るくなって接していた。ただ、タキオンの顔は暗いままだった。本来なら、国近は田上の体調を心配した後、「今日は勝てそうか?」と聞くつもりだったのだが、タキオンの表情は見るからに暗かったのでそれはやめた。その代わりに田上の顔が緊張で少し強張っているのをからかってみたり、自分も緊張しているとお道化てみたりした。

 そして、昼から走る組全員が集まると、そこまで遠くはない、むしろ近い阪神レース場にバスに乗り込んで出発した。タキオンは、暗い顔のまま田上の横に乗り込んで、田上の手を指を組み合わせて握った。田上は、それには何も反応を示さなかった。今は、奇妙な緊張に吐き気がしていた。その無視がタキオンには悲しかったが、何も言わずに握っている自分たちの手を眺めた。小さな細い手が、ごつごつとした大きな手に埋もれていた。

 

 すぐにバスは阪神レース場へと着いた。その周辺にはタキオンや有望なウマ娘を一目見よう映そうと報道陣と野次ウマが押しかけていた。しかし、バスはぴたりと入り口に寄せていて、控室へと向かう選手たちはほとんど野次ウマたちの目には映らなかった。タキオンが、出てきた時は歓声が上がったが、タキオンが見向きもしなかったためその歓声はすぐに止んだ。そして、観客の勝手な予想が始まった。「少し顔が暗くなかった?」という人があれば「いやいや、あの顔は絶好調だね。頗る冷静だ」と知った気になっている人もいた。勿論タキオンは、今は沈んでいる。田上も沈んでいる。マテリアルも沈んでいる。だから、この一行の周囲は雰囲気が異様に暗く、あまり人が寄りたがらなかった。国近でさえ、今は話しかけるのをやめようと思ったほどだ。

 三人は廊下をスタスタと歩いて行った。田上が先頭に立って、自分たちの控室の場所を探している。途中でタキオンが勝負服に着替える更衣室も見つけたが、それは告げずに通り過ぎた。今、タキオンを更衣室に送り出しても早すぎる上に、控室の場所がタキオンには分からないからだ。田上の腹は、廊下を歩いている今も気持ちが悪いし、頭も変に痛い。まるで、そこに痛みがあると言うのに自分はそれを感じていないような痛さだった。

 そして、三人は、自分たちの控室を見つけた。そこにぞろぞろと入って行った。当然、終始無言だったが、皆が入り切ってそれぞれ椅子に座ったときに田上が口を開いた。しかし、それはすぐに閉じた。喉が渇ききっていて、到底言葉が出そうになかったからだ。それに、喉も異物感もまだあった。タキオンは、ずっと物思いに耽って俯いている。やりきれない。どうにもやりきれない。――それなら、と思い、マテリアルは口を開いた。もうどうなったっていいから自分の胸の内を打ち明けてしまった方がいい。

「田上トレーナー」

 マテリアルが真剣な声でそう呼びかけると、田上は顔を上げ、次いでタキオンも顔を上げた。その顔は、少し恐怖に引きつっているように見えた。

 田上がこちらを向くと、マテリアルは言った。

「……私は、大人の意見として、田上トレーナーには休息が必要に思われます。バレンタインのときなんかには、タキオンさんの事を見ててほしいとか何かと言いましたが、どうにもそれは私が苦しくて見ていられません。もう、これ以上どうしようもないのなら、一度家の方に帰って、それから考えてみてはいかがでしょうか?」

 マテリアルは、タキオンがこの話ている間に何か口出ししてくるものかと思って、今か今かと待ち構えていたが、案外そんな事はなかった。だからと言って、タキオンの方をどうしているのかな?と見やるわけにもいかないので、マテリアルはじっと田上の方に視線を向けたまま聴覚でタキオンの動向を探った。当然の如く、見るようには分からなかったが、タキオンが身動き一つしないでいるのは分かった。今のタキオンもまた、田上にじっと眼を注いで、その動向を見守っていた。

 田上は、マテリアルにそう言われると、苦しそうにため息を吐いて黙りこくった後、変に引きつった笑みを作りながら言った。

「……どうすれば良かったんでしょう。マテリアルさんにまで、そう言われて…。…家に帰れば安泰でしょうか?もし、トレーナーを辞めて、引きこもりになって、その先に何があるんでしょうか?僕はもう二度と、社会に復帰できる気がしません」

「…でも、このままここに居ても苦しいだけでしょう?…タキオンさんに引っ掛かっていないで飛び出してしまえば、私は楽になると思います」

 そこで田上は一つため息を吐いて、ずっと自分を見つめてくるタキオンを眺めた。自分に恋しているのは薄々勘付いていはいたが、それに向き合うのは嫌だった。可愛い子供らしい顔がこちらを見つめてくる。その目が何を想っているのか分からない。幾ら自分を想っていると言っても、タキオンだって所詮は人なのだ。いつ自分を切り捨てて誰かの所へ行ってしまうかも分からない。

 そうして見つめている間もタキオンは微動だにせず、本当に自分を見つめているのかも怪しくなって、田上は目を合わせるのをやめた。すると、タキオンが口を開いた。

「こっちを見てくれ。トレーナー君」

 田上は、逸らした目をノロノロとタキオンの方に戻した。そして、目が合うとタキオンが言った。

「……私は、君の事が好きだ。とても信頼している。……けれど、最近はちょっぴり嫌いだ。少し私を遠ざけようとしすぎている。それは、私が詰め寄っているからなのかもしれない。……君の事が好きだからと言って、詰め寄るのはダメなのかな?少し私欲を優先しすぎているかな?」

 田上は、ゆっくりと首を縦に振った。

「…そうか。…改める。絶対に改めるけど…、私が君の事を好きだって事を忘れないでほしい。それだけは忘れないでほしい。……ダメかな?」

 今度も田上は、ゆっくりと首を縦に振った。これは、ダメではないという意味だったし、他の二人もその様に受け取った。それで、苦しい雰囲気は一旦終わりを迎えた。タキオンは椅子をガタガタと言わせて立ち上がり、気を取り直して言った。

「昼ごはんにしよう。こんな空気は嫌いだ。楽しくお昼ご飯を食べようじゃないか」

 それから、長机の端に三つあるお弁当を持ってくるとそれぞれに手渡した。マテリアルは、少し落ち着かないがらも受け取って、田上は戸惑いながらタキオンの顔を見つめて受け取った。その際に田上が何か言葉を発しようとしたのだが、タキオンが静かに自分の唇に人差し指を当てて黙らせた。

「お昼ご飯を食べよう?」

 それには何も言えなかった。ただ、タキオンの顔を見つめ返すばかりになった。そして、タキオンが、田上の隣に座ろうとしたのだが、ここで「あ!」と言って椅子に針でもあったかのように慌てて立ちあがった。田上がそれを不思議そうに見ると、タキオンは恥ずかしそうに笑って言った。

「まぁ、あんまり詰め寄っちゃダメだものね」

 そう言った後に椅子と椅子の間を空けるとタキオンが田上と離れた長机の端に座った。田上は、その様子をじっと見ていたのだが、不図「俺の隣に座ってもいいよ」という言葉を言いたくなった。しかし、田上の方を見ないで今から昼食にありつこうとしているタキオンを見ていると、言葉は出てこなかった。喉の異物感はまだあったが、それが原因ではなかった。ただの躊躇いが、田上の言葉を出させなかった。マテリアルは、その田上の様子を見ていたのだが、全てを察した上で敢えて何も言う事はしなかった。ただ、このまま二人が離れてくれさえすれば、安心してこの人たちを見ていることができると思った。

 昼食を食べている途中で控室にタキオンのお父さんとお母さんと妹の桜花が入ってきた。初めのうちは、補佐になってから初めて会うマテリアルに驚いていたが、それが落ち着くと今度はタキオンと話し出した。田上は、こういう時に家族の話に参加したりしないのだが、タキオンが父母と話していると小学一年生を終え、現在は春休み真っ盛りの桜花がとことことやってきて田上に言った。

「田上さん。お姉ちゃんとマテリアルさんどっちが好きなの?」

 その途端に飲んでいた緑茶が気管に入って、げほげほとむせこんだ。それで、タキオンたちが何事かと振り向いたが、「大丈夫です大丈夫です」と繰り返して家族を自分たちの話題に戻させようとした。だが、何かを勘付いたタキオンが桜花を睨んで言った。

「桜花、また余計な事を言おうとしたんじゃないだろうね」

「ううん言わないよ。言うわけないじゃん。何の事?」

 何の事?と聞かれるとタキオンも答えることができなかった。だから、桜花の事を睨みながらも渋々前の方を向いた。前の方を向いたタキオンは両親と話の続きをしようと思ったのだが、両親の方は桜花の方を興味深げに見つめていて話の続きという気配ではなかった。どうにも桜花と田上が話している構図が興味深いようだ。それにはタキオンも同じように興味深かったので、仕方なくまた桜花の方を振り向くとその小さい後ろ姿を見つめた。

「…それでどうなの?お姉ちゃんとマテリアルさんどっちが好き?」

「ん?んん?」

 田上の視点からはタキオンとその両親が見えいるのはバッチリ見えていたので、返答に困った。夫婦は、ニヤニヤと笑っているし、タキオンはしかめっ面で桜花の事を睨んでいた。田上は、答えるのをごまかしたくて笑うしかなかった。こういう話には耐性のない男で、どう返答するのが正解かも分からない。しかし、桜花はニコニコしながら田上を追い詰めてきた。

「もう笑ってないで答えてよ。お姉ちゃん?それてともマテリアルさん?」

「…え~っとぉ」

 田上も同じようにニヤニヤしながら助けを求めるようにタキオンを見ると、タキオンと目が合った。タキオンの顔は険しいながらも、助けを与えるようなことはなく、むしろ答えを期待しているように見えた。そう感じると、田上は桜花に目を戻し言った。

「俺は、あんまりどっちが好きっていうのは言いたくないかな」

「それじゃあ、つまらないよ。どっちが好きなの?」

 そこで困ったように田上が鼻から息を吹き出すと、お父さんの方が「桜花」と窘めるように言った。だけども、桜花は引き下がらずに「ちょっとだけちょっとだけ」というと田上の方に内緒話のように耳に手を当てる仕草をした。当然田上は答えるわけにはいかない。タキオンと答えてもマテリアルと答えても、結果がどうなるか予想が付かなかった。それで、もう一度タキオンの方を見やると、その動きを見つけた桜花が「お姉ちゃん?」と嬉しそうに声を上げて言った。すぐさま田上は「違う違う」と答えた。すると今度は、「じゃあマテリアルさん?」と少し気落ちした声で言った。次も田上は「違うよ」と答えたが、ここで外野からタキオンが言った。

「私の事、好きじゃないのかい?」

 慌てた後だったから心臓が異様にドキドキした。それに、タキオンが田上の事を好きだと知っている者同士からすると、その言葉は意味が違って聞こえた。タキオンは、さも冗談かのように言ったが、意味を知っていればこれは核心に迫っているものだと分かるだろう。きっと、タキオンの父母は冗談のように聞こえただろう。だが、事情を知っている田上とマテリアル、そして、純粋にそのまま言葉を受け止めた桜花はその言葉の意味を知っていた。だから、桜花が興奮して言った。

「お姉ちゃんもやっぱり田上さんがお嫁さんになった方がいいよね?」

「お嫁?」とタキオンが聞き返すと、自分の言葉に不安になった桜花が言った。

「あれ?お嫁って言うんじゃなかったっけ?」

「ああ、お婿の事じゃないかい?」

「あっ、それだよ。それ。友達が言ってたやつだよ。…お婿さん?になれば赤ちゃんができるって」

「あれ?チューしたらできるんじゃなかったかな?」とタキオンが悪戯っぽく返すと、「違うよ!」と桜花が熱心になって言った。

「チューしたら赤ちゃんができるんだけど、そのためには、結婚しないといけないんだよ。男の人がお婿さんで、女の人がお嫁さん。でも、一人しか結婚できないから、田上さんに今お姉ちゃんが良いかマテリアルさんが良いか聞いてたんだ」

 タキオンのお母さんが、くすくすと笑っている。それを窘めるようにしながら、タキオンが振り向いて、また目を桜花の方に戻すと口を開いた。

「マテリアルさんはそんな人じゃないよ。ちゃんと仕事としてここに居るんだ。そして、トレーナー君も。…だけど、最近は、トレーナーが担当するウマ娘に恋をするというドラマが流行っているらしいね。トレーナー君もその口かな?」

 タキオンは、そういう話をするときは、終始冗談をする口調に徹していて、両親に決して好意の戦いを悟らせないようにしていた。田上としてもそれはありがたかったのだが、何しろ先程まで「あんまり詰め寄っちゃ駄目だものね」と言っていたタキオンが、もうすでにそれを忘れたか何かして王手をかけようとしているのだから、田上は妙に腹が立った。しかし、それはタキオンと同じようにおくびにも出さないで言った。

「俺は、タキオンの事は好きでも嫌いでもないよ。嫁にしたいなんて思わない」

「それは悲しいねぇ。私は君の事好きだよ」

 タキオンがそう言うと、桜花がひゃあと声を上げた。

「お姉ちゃんやっぱり田上さんの事好きなんだ!ねえねえ田上さん、お姉ちゃん良いと思うよ。本当はお姉ちゃんの事好きなんでしょ?だから、結婚しよう。お姉ちゃんも好きって言ってるから」

 ここでようやっとタキオンのお父さんが本腰を入れて、タキオンの方に言った。

「タキオン、お前まで田上さんを困らせてどうする。田上さんにも立場があるんだぞ」

「おやぁ、自分の教え子と結婚したトレーナーが良く言うねぇ。お父上」

 そう言われると、嫌そうな顔でタキオンの事を睨んだから、タキオンがハハハと笑った。その横でお母さんの方もハハハと笑っていた。

「はいはい、分かったよ。ごめんね、トレーナー君。からかったりして」

「……いいよ」

 そして、一件落着かに思えたが、一匹まだ騒がしいのが残っていた。

「でも、田上さんとお姉ちゃんが愛し合っているんだったら、それは止めるべきじゃないよ」

 ここまで言うと、タキオンも困った顔をして笑った。

「桜花には、愛が何かわかるのかな?」

「好きって事でしょ?」

「好きって事に間違いはないが、愛と呼ぶのであれば、好きだけに留まる事じゃないよ。例えば、家族愛だったり、友情だったり。他にも、簡単に好きと言えない関係だったり。色んな事と愛は結びついてる。桜花にはそれが分かるかな?」

「う~ん…、私、とも君の事好きだよ」

「とも君!…おや、好きな人ができたのかい?」

「うん。とも君も私の事が好きって言ったから、大人になったら結婚するんだ」

「はは~。…母さん、ビッグニュースじゃないか。なんでこれを最初に言わなかったんだ」

「忘れてた」とタキオンのお母さんは、にこやかに答えた。その後に、タキオンは田上の方を見ると言った。

「ごらんよ。私の妹が春を迎えたぞ」

 それに田上は特に返す言葉もないので、「そうだね」と答えた。すると、横からお母さんが口を挟んできた。

「タキオンの小さい頃ってそういう話を全く聞かなかったけど、本当は誰か好きだったりしたの?」

「ん?…ああ、特に好きだったことはないよ」

「今は?誰か好きだったりしない?」

「今?出会いがないだろう。私が行っているのは女子校だぞ」

 タキオンがそう言うと、女子校で出会いを見つけた母親が「ああ、そうだね」と思うところがありそうに頷いて、それから田上の方をチラリと見た。娘の将来を目の前のある男の手に委ねたがっている母親の顔だった。田上は、その顔に気付いてながらも気付かぬふりをしてその場をやり過ごした。タキオンは、それには気が付いていなかった。気が付いていたら、もしかしたら良い顔はしなかったかもしれない。ただ、今のタキオンの顔は妹の桜花を見つめて、静かに笑っていた。

 

 事態が一段落着くと、今度は田上やマテリアルも交えて談話を始めた。田上の方は、今までの付き合いの中で分かっていることも多いし、そんなに話したがらないことも知っていたので二言三言「最近の調子はどうですか?」という話題だけで終わらせた。その問いには、田上は「そこそこです」とタキオン一家からすれば相も変わらない答えを返した。一番多く話題になったのは、やはりマテリアルだった。タキオン一家が来たのが昼食の途中で、まだ残りの昼食を口に含んでいるのにも関わらず、話し相手として相性のいいタキオンの母と早口に楽しく話し合っていた。その合間に、タキオンだったり桜花だったりが合いの手を入れていた。タキオンの父の方は会話に参加こそしていなかったが、熱心に耳を傾けて嫁たちの話を聞いていた。田上もここでスマホなんかをいじりだしたら、無礼甚だしいだろうからタキオンの父を見習って耳を傾けるふりをしていた。実際の所は、頭の中で刻一刻と迫ってくる大阪杯に気分が悪くなっていた。別に場慣れしていない田上ではなかったが、今回ばかりはどうにも調子が悪い。――あんまり行きたくないなぁ。というのが本音だった。しかし、そんな事を言ってられないので、田上はその声を押し殺し押し殺して、精一杯トレーナーとして立つべき場所にいようと努めた。

 

 やがて、タキオンが勝負服に着替えに行くことになった。タキオンの新しい勝負服を家族らは見ていないから、早めに着替えてもらおうという事だ。タキオンは、あまり乗り気ではなさそうだったが、不意に田上と目を合わせるとにっこりと笑って「よし、行こう」と言い出した。この時は田上も何の事だか分からずに、――行きたきゃ行けばいいじゃない、という気持ちで送り出したが、赤いドレスに身を包んで帰ってきたタキオンの言葉を聞いて――ああ、なるほど。面倒臭いな、と理解することができた。帰ってきたタキオンは、母親たちに「どうかな?」と見せびらかした後、田上の方も向いて言った。

「君は私にぞっこんだものね。なぁ、母さん。この人にこの服を始めて見せた時、感動しながら――綺麗だ、って言ってたんだよ。女ったらしに程があると思わないかい?」

 タキオンのお母さんは、ニコニコしながら「あら、そう!」と嬉しそうな声を上げた。娘の将来に希望が見えたような口調である。田上は、これにうんざりしながらも丁寧にタキオンに言った。

「綺麗だって思わなけりゃ、綺麗だなんて事言わないよ。服は綺麗だろ?…ゆらゆらしてて」

「服は?」とタキオンがからかうように聞き返すと、田上は怠そうに言った。

「…髪も結んでたり、ヘアピンで分けてたり、良いと思うよ。蝶も可愛い」

「そうじゃなくて、私はどうなんだい?綺麗だろ?」

「着飾ってていいと思うよ」

「んん…」と攻め切れずに不満そうな声をタキオンは上げたが、その顔は普段よりも満足そうなものであった。それもそうだろう。これは、田上にしてみれば大分サービスした方だった。家族の手前、変な事も言えないし、これが最善策だった。それがタキオンには嬉しくて、満足げな表情を作らせた。

 家族らは、タキオンの蝶の飾りのついたヘアゴムやら、ゆらゆらと揺れる炎のような服を存分に堪能すると、もうそろそろ客席に行こうかな、という時間になって出て行った。

 田上たちは、もう昼食を食べ終わっていた。白い長机の上には空の弁当箱だけが置かれた。家族らの方は、移動中に食べてきたようで、ここではタキオンたちが食べているのを見ているだけだった。

 もうそろそろタキオンが出ていきウォーミングアップの時間が始まる。さぁ、いよいよだ。いよいよこの時間がやって来た。田上の具合は、どんどん悪くなるばかりで一向に良くなる気配を見せない。タキオン一家が来たときは、それを忘れて少しは普段の調子に戻っていたが、帰った途端にぶり返してきた。タキオンも「大丈夫かい?」と笑い事ではないように心配していたし、マテリアルも同様に心配していて、少々鬱陶しかった。田上は、こうなったら行くつもりだった。死んでも殺してもどうやっても行くつもりだった。だから、タキオンが「大丈夫かい?」と聞いてきたら「大丈夫」と半ば切れ気味に半ば脅すようにそう言った。タキオンの心配は募るばかりだったが、マテリアルと顔を見合わせるだけでそれ以上は踏み込むことができなかった。

 田上は具合の悪さに顔の険しさを増していたが、ここでマテリアルがトイレに行った。もう出ようという五分前だ。タキオンもそわそわしていることにはしているが、田上の事も気になっている。田上は、先程から身動き一つ取らないで椅子に座り、机の上に手を置いて俯いていた。ばたんと戸を閉めて、マテリアルが部屋を出て行った。そうすると、一時の沈黙の後、田上が重苦しく、責めるような口調で口を開いた。

「……俺、…女の人とキスしたことなかったんだよ」

「……それは、…私が君の初めてを奪ってしまったという事かな?」

 タキオンが、後ろに小さく結んだ髪を揺らせて田上に言った。

「…別に、責めようってんじゃないけど……、なんか…俺が思い描いていた事って何だったんだろう…」

 今の田上は、意気消沈しているようだった。

「私のキスが不味かったと言いたいのかな?」

 レース前で少し喧嘩腰なタキオンが、できるだけ優しく聞いた。

「…いや、……言葉のままだよ。…想像してた物と違った」

「それは、…彼女ができて、それからすると思ってたって事かな?」

「…まぁ、そんなところだ。………何話してんだろう」

 田上は、そう言うとそれきりコース前のトレーナー席に行くまで話さなくなった。



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十九、大阪杯⑧

 マテリアルが、トイレから帰って来ると田上たちは出発した。タキオンは、先にパドックの方で客に手を振らないといけないので、途中で分かれていった。さすがの田上たちもわざわざタキオンがファンサービスをしているところをじろじろと見に行くわけにもいかないので、客席最前列のトレーナー用としてテントの張ってある席へと向かった。その途中で、心配したマテリアルが田上にこう聞いた。

「顔色が優れないようですが、本当に大丈夫ですか?控室の方で休んでいても構いませんよ」

 それに田上は、唸るように「大丈夫」と返した。あまり大丈夫な様相でないのは、マテリアルにも分かっていたが、こうも有無を言わさない調子で「大丈夫」と繰り返されるとマテリアルも他に言う事がなくなった。ただ、心配そうにそのやる気のない肩を見つめるだけだった。

 タキオンの方は、パドックに行く前に体重の測定と蹄鉄の検査を受けると、パドックに行く枠順に則る列に並んだ。もうすでに何かと因縁のあるソラが来ていた。タキオンは、ソラの一つ内側を走る番号である八枠十五番に位置していたのでその前にひょいっと割って入った。すると、ソラはにこりと笑いながらタキオンが入るスペースを大きくするために後ろに下がった。この時は、タキオンも「ありがとう」と言ってそのスペースを受け入れたのだが、黙って並んでいると妙にソラのにこりと笑った顔が気になった。バカにしているというわけではなかったが、何か含みのありそうな顔だった。それが気になって、どう考えても自分じゃ答えは出なさそうだと区切りがつくと、タキオンは振り返って聞いた。

「君、私の事嫌いなのかい?」

 しかし、ソラの返答を聞く間もなく、係り員から「入って」と指示があった。それでも、タキオンは返答を求めるようにソラの方を見ていたが、ソラの方と言ったら不思議そうに微笑むことしかしなかったので諦めて素直にパドックの中へと入って行った。

 パドックの中に入ると、様々な歓声が聞こえた。「タキオーン」と叫ぶ男の人の声があれば、「ソラー、こっち見てー」と女の人が黄色い声を上げているのもあった。それに、団扇なんかを用意して文字を書いているものもあった。まだ、ウイニングライブではないのだが、お祭り騒ぎのようなものだ。元々は、パドックも戦前にあった賭け事の判断の一つに使われていたものだ。それが、いつの間にか戦後のごたごたで賭け事だけが消えて、今ではファンの楽しみごとの一つになった。

 タキオンたちは、パドックを二三周した後順々に地下バ道を通ってコースの方へと歩いた。地鳴りのようなざわめきが聞こえた。これを聞くと、タキオンの胸はわくわくとときめき出した。少し口角が上がった。心地良いくらいのうるささが、タキオンの心臓を一歩一歩鼓動を速めさせる。陽の光の下へとタキオンは出て行った。もう、先頭の子らはウォーミングアップに勤しんでいる。タキオンは、わくわくしながら自分が出て行く番を待った。すぐにそれは来た。その途端に、タキオンは駆け出した。軽い芝の上、青い空の下、楽しそうに栗毛の少女が走っていた。

 

 田上は、タキオンが蹄鉄の検査をだらだらと受けている頃、トレーナー席に座っていた。トレーナー席の中でも最前列だ。田上は、一番後ろに座りたかったのだが、マテリアルが何も言わずに最前列へと座ったので仕方なくその横へと座った。マテリアルに後ろに座ろうと提案することは今の田上にはできなかった。人混みのごみごみとしたうるささに下の瞼が引きつって、心臓が握り潰されそうな感覚がする。そして、何より頭が痛い。田上は、ここから一刻も早く離れたくて、それを願って頭の痛みと自分を引き離そうとしていた。この頭痛は、自分のものではなく遥か遠くにいる別の誰かの物。別に田上が意識して思っていたわけではないが、無意識のうちにそう思うと昇天しそうな心地があった。

 そのうちにタキオンがレース前のウォーミングアップのために出てきた。自分たちの前を走っていく数々のウマ娘たちの足音が、ざわめきに紛れて微かに聞こえるが、田上は顔を上げてそれを見る気にはなれなかった。ようやく顔を上げた時は、マテリアルが「ほら、タキオンさんが来ましたよ」と言っている時だった。ここで、顔を上げなければマテリアルから酷い仕打ちを受けると思った。この田上が思っている酷い仕打ちとは、単なる「やっぱり控室でタキオンさんを待ちましょう」という声かけくらいなものだったが、これをされると田上には酷く追いつめられる自信があった。

 田上は、重い重い首を最大限に頭痛を感じながら上げた。上げると、芝の真ん中を楽しそうに通過していくタキオンの姿が見えた。こちらには見向きもしない。そして、スタンドの前をタキオンが通ったので、わぁ!!と歓声が上がった。楽しそうなタキオンを見ると、惨めな事この上なく、大きな歓声を聞くと意識が飛んで行きそうになった。隣にいたマテリアルもタキオンの方を目で追っていき、田上の事は見なかった。その方が有難いには有難かったが、段々と苦しくなっていく胸を田上は止められることはできなかった。タキオンの後にソラが芝の上を走って言ったから、隣に座っていた国近が「ソラー!」と叫ぶのが聞こえた。どうにもうるさい。耳を塞ぎたかったが、肝心の手が重くて重くて上げられなかった。体の重さにこのまま地面に沈み込んでしまうのではないかと思った。体に力が入らない。このまま座っている椅子から前の方に倒れこんでしまいそうだったが、どうにかそれは今の所堪えている。

 着々と時間は過ぎていった。田上の頭の中には、ぽわぽわとどことなく浮かぶ、タキオンとの日々の練習を思い出し応援する自分がいたが、苛立つような嘘臭さがあった。

 ゲートが用意され、その後ろの方にウマ娘たちが集まっていった。皆、円を描いてぐるぐると回っている。ひりひりとぽかぽかとする空気間の中、ウマ娘たちは出走の時刻を待った。

 

 ここでまたタキオンとソラは、近くを回っていた。この回っている時間は、出走するウマ娘が少し話をする時間にもなっている。タキオンとしては、この時間は集中をするためにあまり話すことはなかったのだが、これが相手の作戦なのかどうなのか、ソラの方から話しかけてきた。

「タキオンさん」

 ソラがそう呼びかけると、今まで集中していたタキオンが目だけを上げてソラを見た。今も微笑んでいたが、なんだか挑発しているような笑みでもあった。それに少しタキオンは苛ついたが、「何だい?」と一言返した。すると、ソラが言った。

「私、あなたをどうしても倒して一着にならないといけないんです」

 そう言うと、その場にいたウマ娘全員がソラの方を見たが、構わずに続けた。

「私のトレーナーが言ったんです。田上って奴はすげぇ、と。最初に担当したウマ娘に二つもGⅠを取らせやがった、と。あんなに事も無げな表情してアグネスさんと接しているんだからやべぇ、と。そして、次に言いました。頼むソラ。あいつの顔面に一発御見舞いしてやってくれ、と。あの適当に表情作っている奴の顔に、心底楽しそうな笑みを作らせてやってくれ、と。私にはどうにも分かりませんでした。菊花賞勝利後のお二人のインタビューなんかは、とても楽しそうに見えました。けれど、恵さんは言うんです。奴は、どうにも嘘臭ぇ。一回本気の喧嘩をしてみたい、と。お二方は、地方からやってきたっていう事で特別な仲の良さもあるようです。…そう仰いました。それに限らず、私にも調子に乗っているあなたを撃ち落としてみたいという気持ちはありますが、今日は別です。恵さんの夢を背負ってきました。あなたに負けるつもりはありません」

 ソラがそう宣戦布告をすると、場の空気に苛立ちが燃えた。誰もが一着を狙っている中で、個人に向けて言ったのだ。恨みを買っても当然であった。最早、案ずるのは一着ではなく自身への敵意であろう。複数のウマ娘から敵意を向けられ囲まれたら、それだけでも勝機は遠のく。今この場で言ったのは、勝てるという自信に満ちているからなのだろうか。そこらへんは分からなかったが、一層ひりついた空気になりながらウマ娘たちは回っていった。そして、宣戦布告を受けた当の本人はと言うと、何にも言い返さずにただ不思議そうな顔をしてソラの方を見つめ返しただけであった。これが、他のウマ娘たちにはもどかしく腹が立ったが、こちらもそんな空気には構わず、また集中を高めようとしだした。ソラは、それ以上は話しかけてこなかった。

 それから少し経つと、出走前のファンファーレが鳴り出した。田上は、これに頭が締め付けられて涙が出そうになったが、タキオンの方は、集中が完全に冴え渡り、一秒一秒を長く身近に感じ始めた。そのファンファーレが鳴り止むと、順番にゲートへと入って行く。タキオンは十五番、ソラは十六番だ。実況が話しているのが聞こえた。

『一番人気と二番人気は奇しくもそろった赤と蒼』

 これは、ソラの勝負服とタキオンの勝負服の事である。タキオンの勝負服は、勿論の事炎の色合いであるが、ソラの勝負服は、その目と同じ空色の勝負服だった。そして、偶然にもタキオンと同じようなドレスを身に纏っている。こちらは、服が揺れる度に空色の迷彩に隠れてしまいそうであった。国近はこれに「すげぇ」と評した。

 そして、朗々とアナウンサーは続ける。

『今年の大阪杯は、桜の下に蒼炎が舞い踊るのか、はたまた前年の覇者、青髪の武者ストーリーテラーが勝鬨を上げるのか。さぁ、桜の下で笑うのは誰だ?大阪杯…』

 その後は、もうタキオンには聞こえていなかった。ゲートが開き導かれるように外へと飛び出していった。芝を踏み、芝を踏み、横を見て位置取りを確認する。三番手にタキオンは着きたかった。これも田上と話し合った事だ。それぞれのウマ娘のレースを確認して、どこらでスパートをかけるか、それを考えると順当にこの位置に収まった。タキオンの最も得意な先行策だ。しかし、先行策を取りたいウマ娘はたくさんいる。当然、そこらの奪い合いになった。外枠であるタキオンは、そこに割り込んでいかないといけない。先頭の方では、二人がが争っていた。同じ一着をキープしつつ逃げ切りたいウマ娘なのだろう。タキオンは、その二人の少し後ろにつければよかったので、不利はありつつも外に膨らんで三、四番目あたりタキオンは並んだ。そして、一先ず位置取り争いは終わった。スタート直後の坂を上って行くと初めのコーナーになる。そこをぐるぐると回る。タキオンの後ろには、固まって多くのウマ娘が控えていた。これは油断できない。タキオンは、この一団よりも常に一歩前に居たかった。今では、それはキープできているが、二バ身三バ身空けた後にソラが付け狙ってきているのは感じた。ソラは、元々は先行策のウマ娘だったが、差しに変えた途端に伸び始めてきた。その代表が、前走の中山記念である。あの伸びには、タキオンも少々驚いたが、田上は「心配することはない」と言っていた。「タキオンの末脚も肝を潰すくらいに速い」だそうだ。これを真剣な目で言っているのだから、彼は生粋のトレーナーであることが分かる。――あんなに悩む必要はないのに。そう思ったのは、丁度半分に来たあたりのゴールとは反対側の直線だった。一瞬の気の緩みがあったからなのだろうか。ここで、タキオンは内側にいたウマ娘の存在を知っていたにもかかわらず驚き、よろめいた。よろめくと、少しの間歩調が乱れた。そのせいで何人かに追い越されて、ソラと同じ位置まで来た。よろめいたにしては立て直しは早かった。精々三四人である。この三四人が少々面倒臭いのだが、タキオンはとりあえずその位置に甘んじた。そして、丁度その時、トレーナー席の方では田上が倒れた。

 

 田上は、ウマ娘たちのウォーミングアップが終わる頃には、なんとか顔を上げ続けることができていた。ただ、ファンファーレのうるさいラッパの音が聞こえ、それに合わせた手拍子の音が聞こえると、どうしようもなくなって涙が出そうになった。この時ばかりは最前列が嬉しかった。ここであれば、誰も自分が涙を堪えている顔であるとバレない。その横の奴らにもばれないため、田上は指を組んだ腕を膝につけて上半身の支えにし、前のめりになりながら出走を待った。実況が聞こえる。アナウンサーが『スタートしました』と言っている。田上も自分の手に双眼鏡は持っていたが、それを覗いてみる気にはなれず、目線すらも動かしていなかった。ただ、タキオンが視界に入ってくるのを待つだけだった。右の方から、観客がわぁぁ!!と声を上げるのが聞こえた。それと共に田上の視界にウマ娘たちが走ってきた。だが、田上はタキオンをその中に探そうともしなかった。チラと真っ赤な服が見えたような気がしたが、敢えてそれに焦点を当てる事はしなかった。ウマ娘の群れが、コーナーを曲がって小さくなっていった。そこで少しタキオンが心配になったが、今の田上の頭を占めているのは観衆のうるささだけだった。最早、小蠅の様にうるさく耳に付き纏うまでの様になり、ぼんやりとした頭で田上は芝を眺めていたが、その時に、不意にぱっと前が暗くなって何も分からなくなった。

 再び目を開けると、両脇にいた国近とマテリアルが慌てた様子で自分の顔を覗き込んでいて、なぜか自分の体が地面に横たわっていた。マテリアルが「大丈夫ですか!?」と問いかけてくる。国近が「やっぱりお前体調悪いじゃねぇか!」と少し怒っている口調だがこちらも心配している顔である。田上には何が起こったのか分からない。何をしていたのかも分からない。キョロキョロと辺りを見渡して自分がいる場所を確認する。トレーナー席である。そして、再びマテリアルが慌てだした。実況で『アグネスタキオン、躓いたか?』と言っていたからだ。双眼鏡を取り出して見てみると、マテリアルからはタキオンが一瞬前に居た位置よりも後ろに下がっているのが見えた。そして、困惑したようにもう一度田上の方を見た。――こんな偶然あるのだろうか、と考えたからだ。しかし、そうも言ってられず、国近が「俺が救護室に運ぼうか?」と言ってきたのでマテリアルがそれに対して言った。

「いえ、私が運びます。…田上さん、頭はそんなに打ってませんよね?こめかみから血が出てますけど。…ただの眩暈ですよね?何か痛いところとかは?」

「……頭がぼーっとする」

「なら、多分ただの眩暈です。救護室に運ぶのでじっとしててください」

 そう言うとマテリアルは、田上の体を持ち上げて両腕に抱えた。お姫様抱っこだ。なんだか、気恥ずかしくもあったが、田上は聞いた。

「タキオンは?」

「タキオンさんは私が見るのであなたは黙っててください。今まで我慢してたんでしょう?」

 有無を言わさない態度だったので、田上は黙って大人しく運ばれた。

 

 タキオンは、第三コーナーを曲がり最終コーナーへと差し掛かった。各ウマ娘が一斉に位置取りを変え始める。タキオンも動き出した。狙いは一着だが、少し下がってしまった為に前を塞いでいる輩がいる。だから、タキオンは後方を確認しつつ、外の方へと膨らんで前へと飛び出した。遮る者はもういない。スパートをかけると黒髪と青髪の子を一気に追い越した。――勝てる。タキオンは、そこで確信した。一馬身二馬身と先頭を引き剥がして行った。かに思えたが、不意にタキオンの視界の端に青がしがみ付いてきた。その瞬間にぞっとした。ソラだ。ソラが追いかけてきた。スパートをかけてゴール前の坂を駆け上がっていくタキオンを、ソラは猛烈に追いかけてきた。あまりの速さにタキオンは驚いたが、だからと言って簡単に一着を譲るつもりは毛頭ない。タキオンもそれに合わせて怒涛の捲りを見せた。前に抜けているのは、最早この二人である。観衆が予想した青と赤の狂宴が始まった。二人とも前を譲らない渾身の鍔迫り合いである。ソラは、もうタキオンの横についている。ゴール板まであと少しだ。タキオンは、ぎりぎりで譲らない。譲らない。ソラは、必死に追いかけるがこれ以上は伸びなかった。タキオンは、アタマ差でゴール板を突っ切った。

 大歓声が上がった。物凄いレースが見られた。観衆は大満足である。タキオンコールも上がっている。しかし、タキオンは疲れ切ってしまって、それに答える事もできずにゴールの後の芝をとぼとぼと歩いて呼吸を落ち着かせた。隣を通り過ぎていく誰かが、悔しそうに声を上げるのが聞こえた。タキオンは、それにも顔を上げず、今の瞬間を思い出した。苦しかった。もうダメかと思った。勝てたのが幸運以外の何物でもないように思えた。そう思いながら少し呼吸を整えると、トレーナー席の方へと向かった。自分のトレーナーに勝利を祝ってもらおうと思ったのだ。だが、トレーナー席の方を見ると誰も居なかった。おかしいぞと思いながら、タキオンが近づいて行くと悔しそうなソラと一緒にいる国近からこんなことを言われた。

「田上が倒れて、マテリアルさんが救護室に連れて行った」

 その直後にマテリアルが息を切らして帰ってきた。建物から廊下を全力疾走してきたようである。そして、タキオンを見ると言った。

「タキオンさん良かった。…GⅠ三勝目ですね!本当に強いじゃないですか!」

「……トレーナー君はどこだい?」

 タキオンの勝利を祝わない悲しげな雰囲気を察すると、顔を輝かせていたマテリアルもその表情を曇らせて言った。

「トレーナーさんは、倒れたので救護室に居ます。今日の調子が悪そうでしたから、レース中にそれが出たんでしょう」

「そうか…」

 タキオンは、震えた泣きそうな声でそう返事をした。しかし、この後はウィナーズサークルで表彰式やら写真撮影にでないといけない義務がある。

「じゃあ、大丈夫そうなんだね?」とタキオンが聞いてマテリアルが「はい」と頷くと、タキオンはとぼとぼとウィナーズサークルの方へと歩いて行った。小さい囲いの中でタキオンは少し客の方に手を振ると、壁になっているカメラマンの方を向いた。この光景には、もう慣れた。最初は誰かに写真を撮られるのを待つ時間が嫌で嫌で仕方がなかったが、田上がどうしてもと言うから渋々じっとして待っていた。十何秒くらい写真を撮り続けた後、写真撮影は終わった。次は表彰式だ。タキオンは、レース後に渡された大きな大阪杯優勝レイを羽織ったままそれに出た。これが通例だそうだ。タキオンには、これを羽織る意味がよく分からなかったが、どうでも良い事なのでわざわざそれに文句をつける事はしなかった。タキオンは、見たことのあるような無いようなおじさんの横に立って自分が表彰されるのを待った。聞くと、この人は理事長だそうだ。こんな禿げ頭があの自由な校風を売り文句にした学園を作っていると思うと、なんだか可笑しかったが、そのおかげで自分が好き勝手やれたとなるとタキオンは考えを改め、その禿げ頭に感謝をした。タキオンの名が呼ばれ、タキオンは一歩前へと進んだ。その時に、皐月賞、菊花賞で田上がしていたように理事長に頭を下げて出た。理事長は、タキオンと目が合うと優しそうに微笑んで、軽く頭を下げ返した。そして、タキオンは表彰台に立ち、トロフィーと賞状を受け取った。そして、それをまた前にいるカメラマンに見せびらかした。カメラが、パシャパシャと鳴った。その音を聞いてタキオンの頭にはやっと誇らしさが出てきたが、同時に早く田上の下に行きたいという願いももどかしい程に強くなった。まだ、色々あった。少し喋って何かあり、優しい禿げ頭も小突きたくなるようになって、そして、勝利者インタビューがあって、それからやっとタキオンは解放された。隣には、田上の代理としてマテリアルがいたから、さっとトロフィーと賞状をそっちの方に放るとタキオンは一目散に救護室へと駆け出した。



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十九、大阪杯⑨

 救護室のドアを開けると、勢いが良すぎて大きな音が鳴った。だから、その部屋にいたおばちゃんがびっくりして入り口のタキオンの方を見た。しかし、タキオンは毛頭そんなおばさんの事を気にするつもりはなく、また余裕もなく、部屋の中を見回した。一番奥のベッドに座って田上が、ぼーっとテレビを見ていた。まるで、冴えない男を懇切丁寧に模した彫像のようだった。表情は、暗くはないが明るいとも言えない。体格も筋肉質ではない。背中は丸まっている。目は、焦点が定まっているのかはタキオンの位置からでは分からなかった。ただ、少なくとも言えるのは、大きな音を立てて入ってきたタキオンにピクリともしなかったであろうという事だ。だから、タキオンは田上が本当に彫像ではなく人間なのかを確かめるために恐る恐る呼び掛けた。

「…トレーナー…君?」

 タキオンがそう言うと、田上がこちらに首を向けた。その途端に嬉しいのか悲しいのか分からない、変な表情になって言った。

「タキオン、俺、お前のレースを見れなかった」

 それで、タキオンは涙が溢れてきそうになった。いや、もう出てきていた。少しは堪えようとしていたのだが、レースの時のソラとの一騎打ちの恐怖も相まって、抑えていたものが出てきてしまった。タキオンは、後ろに小さく結んだ髪の毛を解いて、田上の下に駆け寄った。そして、ベッドに座っている田上を押し倒し、抱き締めて、しくしくと泣き始めた。そこでようやっとマテリアルが追いついてきた。タキオンが田上を抱き締めて二人してベッドに寝転がっているのを見ると、マテリアルはぎょっとしてタキオンを引き剥がそうとし始めた。しかし、そうすると救護室にいるおばちゃんがマテリアルの肩に手を置いて言った。

「いいんじゃない?二人ともよくやったもの」

「は、はぁ」とマテリアルは、おばちゃんに急に話しかけられて驚きながら返事をした。そして、おばちゃんが見ている手前、引き剥がそうとしたタキオンから渋々手を放した。

 タキオンは、田上にしがみ付いたまま段々と段々と落ち着きを取り戻していった。田上もタキオンが落ち着きを取り戻せるように塞がれていない左手でぽんぽんぽんぽんと小さな肩を優しく叩いた。テレビが忙しなく鳴った。その音が耳障りに聞こえて、マテリアルはテレビの傍にあったリモコンを取って、その電源を消した。

 タキオンは、今や息を落ち着けるのみとなって、時折、鼻水を啜っている音がした。だから、おばちゃんが持ってきたティッシュをマテリアルがタキオンに勧めると、それでようやく田上からタキオンが離れて、鼻をかんだ。田上は、タキオンが離れた後もぼーっと天井を見ていた。それなので、タキオンは鼻をかんだ後、すぐにまた田上の首に抱き着いてベッドに寝転がった。今度は、うふふと嬉しそうな声を上げていた。その声を上げている小さな頭を田上は、無意識のうちに撫でた。その中でこれまた無意識にタキオンが触れるのを嫌がるはずであるウマ耳を撫でたのだがタキオンは何も言わずに田上の耳を見つめた。そして、唐突に田上の耳に息を吹いた。その途端に田上は「うわぁ!」と声を上げて、無意識の悩みから目を覚ました。

「私の耳がそんなに好きかい?」

 そうタキオンが聞くと、バツが悪そうに田上が「好きじゃないよ」と返した。それから、少し間を空けて脈絡無く「ごめん」と言った。これは、田上としては脈絡無く言ったつもりだったのだが、タキオンは耳の事を「好きじゃない」と否定したことに対する謝罪かと思った。だから、「本当は私の耳が好きだったのかい?」と聞き返すと、「え?」と田上の本気の疑問が返ってきた。その後に田上が少し照れた顔をして「別に嫌いじゃないけど」と答えた。その答えた顔が、好きな女子を目の前にしている少年じみて見え、タキオンは愛おしそうにその鼻を「このこの」と言って突いた。すると、田上が本気で嫌そうな顔をしたのでそれはやめて、次に言った。

「で、そのごめんは何に対するごめんだったんだい?倒れた事?」

「…いや、特に何にもない」

「何もない事はないだろう?君がごめんと言ったら、私に謝りたい事でもあるんだ。吐き出した方が楽になるよ」

「……なんで俺ってこんなに役立たずなんだろうって。……お前の為に何もしてやれなかった。それどころか、俺は…あそこから逃げ出したかった」

「逃げ出したい事が役立たずとは限らないじゃないか。君はあそこで不安になっただけだろ?それじゃあ、役立たずとは言えない」

「でも、俺はお前の事なんてどうでもいいと思ったんだよ」

「不安になれば誰でもそうさ。それに、私はレース前になると君の事を忘れていたからね。君が、確実にそうなるであろうという事は分かっていたのにだ」

「分かっていたってお前にはどうしようもなかっただろ。ただの眩暈なんだから」

「おや?その眩暈は、絶対に君のストレスから来たものだろ?何にもない人は眩暈なんて起こさないよ」

「…眩暈はお前には防げないだろ」

「…まぁ、そうさ。だから君のストレスを和らげる必要があった。…私は、それを怠った。謝罪するのは私の方だ。すまない」

 そう言ったところで、マテリアルが後ろから口を挟んできた。

「そう言えば、タキオンさん、途中で躓いてましたけど大丈夫でした?足の具合」

「え?…ああ、ちょっと気が散ったときにね、隣の子に驚いてよろけたんだよ」

「その時に田上さんも倒れたんですよ。私、あなた方が何かで繋がっているのかと思いましたよ。テレビで特集される超常的な双子みたいに」

 そう言われると田上とタキオンは不思議そうに顔を見合わせた。そして、タキオンが先に口を開いた。

「君、本当に私と同じ瞬間に倒れたのかい?」

「…いや、俺は覚えてない。何しろ倒れてたから」

 冗談というには些かお粗末で、口調がそうであったというだけなのだが、タキオンは田上の言葉にフフフと口元に笑みを浮かべると再びその首に抱きつき直した。そして、田上だけに聞こえるようにこっそりと「好きだよ」と言った。その途端に田上はタキオンの腕と自分の首の間に手をねじ込んで引き剥がしに取り掛かり始めた。タキオンは、ハハハと笑って余裕の力で田上を捻じ伏せたが、田上がどうしても諦めようとしないので、遂に自分から腕を解いて地面に立ち上がってしまった。そして、田上に手を差し伸べた。起きて立ち上がろうという意思表示だった。それを田上は察すると、その手を取ってベッドから立ち上がった。もうさっきの彫像のような男ではなくなっていたが、悲しさがその表情に滲み出ていた。タキオンは田上が立ち上がるのを見ると、手を繋いだまま救護室のおばちゃんに言った。

「もう、トレーナー君は連れて行って大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ。本人の具合が悪くないのなら、どこに連れて行っても大丈夫です」

 そこでタキオンは田上の顔を眺めた。こめかみのあたりにガーゼが貼られていた。怪我をしたようだ。タキオンは、その状態を聞くために自分のこめかみを指差して「大丈夫かい?」と聞いた。田上は、頷いたので次に「もう眩暈もないね?」と聞いた。それにも田上は頷いた。そうすると、この救護室からタキオンたちはようやく出て行った。救護のおばちゃんにそれぞれ「ありがとうございました」「ありがとうございました」と言うと、その扉を開けて出た。その時に、救護のおばちゃんからタキオンと田上の両名のサインを欲しがられたので、二人は適当に済ませた。おばちゃんは、ご丁寧にもサイン色紙を救護室に準備していたようで、すぐに取り出すと二人の名前を書かせた。マテリアルには、「あなたがGⅠウマ娘の担当になったときにサインをもらうからね」という訳の分からない気遣いを見せた。――お節介なおばさんだ、と思いながらマテリアルは、社交辞令の笑みを作って「頑張ります」と返した。おばちゃんは、「あらやだ。あなたモデルみたいね」と言うとマテリアルに手を振って送り出した。

 

 救護室の外に出ると、まだタキオンと田上は手を繋いでいた。指を絡ませた繋ぎ方ではなかったが、確かに手を繋いでいる。だが、田上は全然嫌がる素振りも見せずにタキオンと手を繋いでいた。まるで、恋人同士のようだ。ここが、レース場の廊下という場所でなければタキオンももう少し田上との距離を縮めて歩いていたかもしれないが、今はどこに人の目があるのか分からないので、それなりの距離を保って落ち着いた様子で二人は話していた。これは、二人だけの世界だった。後ろについてきているマテリアルには、その間に割って入る余地がなかった。それがなんだか妙に苛ついた。他の所を見れば確かに苦心している二人ではあったが、今この瞬間を見れば心の通い合った成功している恋人同士のように見えた。マテリアルは、未だに恋が何なのか分からない。小学生の時も中学生の時も恋をしたことはある。高校生大学生になれば、男女の交際もしたことがあった。それでも、分からない。自分が何に立ち向かっているのか。何と対峙しようとしているのか。その分からなさが、妙にむかつく。マテリアルは、楽しそうに話している二人の間に割って入って、その手を解きたかったが、それができずに悶々としていた。

 それから、三人は自分たちの控室の前まで聞こえたのだが、そこでマテリアルの前に居た二人が立ち止まって顔を見合わせた。部屋の中から、タキオン一家であろう話し声が聞こえたからだ。そして、田上が言った。

「手を、離さないと」

「……今更かい?」

「誤解されたら面倒だろ?」

「君は、誤解されるような事をしているのかい?」

「…いやぁ…」

 田上はそう言われると、余った方の手で困ったように頭を掻いたが、続けて田上が言葉を発する前にタキオンが言った。

「まぁ、私に任せてごらんよ。ちゃんと説明するから」

 そう言ってから、タキオンは田上の返事も聞かずに扉を開けた。田上の手が、するりと自分の手から抜けてしまわないようにしっかりと優しく力強く握っていた。その様子が、またマテリアルの心に傷を負わせた。

 田上は、いきなり開いたドアの先に自分と手を握っている女子高生の両親が居るのを認めると、恥ずかしいやら気まずいやらで自分を穴に埋めて消え去りたくなった。しかし、それはタキオンが許してくれなかった。そして、部屋の中に入ると二人が手を繋いでいる事を見つけた桜花が早速大声を上げた。

「ああ~!!お姉ちゃんと田上さんデートしてるじゃん!!結婚できるじゃん!!」

 その大声が廊下に響き渡らないようにタキオンは、マテリアルをさっさと中に入らせて扉を閉めた。それから、驚きと困惑の眼差しで二人の様子を見ている両親に良く見えるように繋いでいる二人の手を少し上げて見せた。桜花は、それを見て嬉しそうに声を出して笑っていた。タキオンの母が、何か質問をしようとしたのだが、それは手で制してタキオンは田上と一緒に椅子に座った。ドアの近くにいたマテリアルは、完全に場違いな自分を部屋の隅に追いやって息を潜めていた。

 タキオンは、ゆっくりと座って母親の顔を見、父親の顔を見、そして、田上の顔を見ると、田上に言った。

「トレーナー君、あんまり君に心労をかけたくはないんだけど、一度、私の両親の話を聞いてみるのも手だと思うんだ。……大丈夫かい?本当に気分が悪くなったら話をやめるから、もしそうなったら遠慮なく言ってくれ」

「……でも、俺はお前のトレーナーってだけなんだぞ。お前が、俺がホテルで言った事を気にしてるんなら重ねて言うけど、俺は、あれは勘違いだった」

「勘違いでも何でも良いけど、私は改めて整理したいんだ。冷静で経験豊富な大人がいる場所で、私の好意をしっかり君に伝えたいんだ」

「……俺は、……はぁ。いいよ。…どうぞ」

「俺は?なんだい?しっかり言ってくれ。君の意見を聞くというのも今回の題目に含まれるんだ」

「……俺は、……お前の好意くらい知ってる。今更話す必要もないだろ」

「ああ、それは、私がどういう未来を願っているのかとか君と添い遂げる覚悟を改めて」

「いかれてるのか?自分の親の前でそんなこと話して何が楽しんだよ」

「私だって、あんまり楽しくはないさ。ただ、君との関係を取り持つ助言でもくれればいいかなって私は思って」

「…でも、それによって俺の逃げ場はなくなるんだぞ。これは、お前が俺を追い詰めていることに他ならないのか?」

 田上がそう言うと、タキオンも言葉を詰まらせて考えた。それから言った。

「…私は、君を追い詰めたくない。……なぁ、父さん母さん、…こう…、言うのが難しい事情があるんだけど、私はトレーナー君の事が好きなんだ。で、トレーナー君は、私の事をどう思っているのか自分でも分からないらしいんだ。…一応、手を繋いで歩くくらいの事はする。…だよね、トレーナー君」

 突然、話を開始したタキオンに少しの憤りを感じながらも田上はそれに答えて頷いた。すると、母親の方が不思議そうな顔をしながら言った。

「…田上さんがタキオンの事を好きじゃないんなら、勝ち目は無いんじゃない?」

 これは、タキオンにも田上にも困る質問だった。この質問がタキオンだけでなく、なぜ田上にも困るのかと言うと、この後にタキオンが必ず田上の方を向いて何か言うだろうと言う事が容易に想像できたからだ。その想像通りにタキオン田上の方を向いて言った。

「……君が、私を好きじゃないんなら私に勝ち目はないだろうけど、……なぁ、これ言ってもいいのかい?」

 タキオンが田上にそう聞くと、田上は黙って微かに首を横に振った。そうすると、タキオンは困ってうんと唸った。それから、もう一度田上に言った。

「……君が私の事を好きじゃないとなると、この議論も意味をなさないからな。……参ったな」

 そこでタキオンの父親が口を開いて、自分の大きくなった娘に言った。

「あんまりあれこれ言いたくはないけどな。……タキオンも田上さんの事をそんなに心配しなくてもいいんじゃないか?タキオンも田上さんも他のトレーナーのとこよりも仲が良いのは分かるから、そのまま田上さんの事を見てたらどうだ?……俺には、田上さんの気持ちが分からないし、分かったところで俺がする事なんて何一つないだろうけど、さっきも田上さんが言った通り、追い詰めることに他ならないんだ。嫁に行くお前の姿も見たいけど、俺は田上さんと仲の良いタキオンも見たいよ」

 その父親の言葉を聞くと、タキオンはふむふむと頷いて、少し考えた後に田上に言った。

「これまで通り手は繋いでくれるかい?」

 田上はタキオンの目を見てゆっくりと頷いた。それだから、にこりと笑ってタキオンは両親、または父親に向かって言った。

「ありがとう。一応、私たちの間でも出した答えだったんだけど、どうにも我慢できなくてね。…私が我慢をする必要はなかったんだ。これまで通りトレーナー君と楽しくやるよ」

 すると、丁度いいタイミングで田上のスマホに電話がかかってきた。見ると、自分の父親からの電話だった。田上は、周囲の人間を見回して目で了解を取ると、立ち上がって部屋の隅に行き電話に出た。電話には、心配そうな声の父が出てきた。

『もしもし、圭一?』

「はい、圭一です。どうぞ」

『お前、レース中に倒れたって?どういうことだ?』

「ああ、ただの眩暈だよ。おでこに傷ができただけ」

『傷?』

「倒れた時にできたやつだよ。おでこを擦ったみたい」

『ああ、それだけか。…良かったな。…で、アグネスさん一着だったな。…レース中って言ってたけど、ゴールの瞬間は見れたのか?』

 田上の父が不意にそう言うと、田上は残念そうに返した。

「いや、見れなかったよ。もう、その時には救護室だった」

『そうか。それは残念だな』

「ああ」

『…幸助の方も心配してたから、何か連絡送っといてやってくれ。幸助の知らせで、俺もお前が倒れたの知ったんだ』

「ああ、ご迷惑をおかけしました」

『…それじゃあ、アグネスさんにおめでとうって言っといてくれ。電話を切るな。ばいばい』

 それに田上も「ばいばい」と返して、耳から電話を離した。電話はもう、賢助の方から切られていた。そして、幸助に連絡してやろうかとも思ったが、前の方で自分の帰りを待っているタキオンと目が合うと、そんな事はほっぽって隣の席へと移動した。移動するとタキオンはまた田上の手を絡めとって、繋いだ手を両親に見せびらかすように机の上に置いた。しかし、母親は桜花の相手で忙しくしていてそれを見ていなかった。桜花は、今の話があまりよく分からなかったようで、「お姉ちゃん結婚しないの?」としきりに母親に聞いていた。だから、母親は諭すように「お姉ちゃんが、子供を産んでも桜花は育てられないからね」と言っていた。桜花は、タキオンによく似た表情で「えーー!!」と残念がっていた。それを見て田上がふふふと笑みを零すと、タキオンが不思議がって「どうしたんだい?」と聞いた。それに田上は答えた。

「…やっぱり桜花ちゃんとタキオンは似てるよな。今の顔とかそっくりだった」

 そう言うと、田上の声に反応して桜花がこちらを向いた。そして、「あ、そうだ!」思いついた顔をして言った。

「私、田上さんのお嫁さんになる」

 その途端に両親が笑い出して、タキオンが慌てて聞いた。

「どうしてそんな考えになるんだ!桜花にも好きな人がいるんじゃないのかい?」

「私、田上さんも好きだよ。それで、田上さんとチューして自分の赤ちゃん産んで育てたい」

「ダメだよ。トレーナー君は私の物だぞ」

 女子高生が、小学二年生相手に意地を張ると、小学二年生も意地を張り返した。

「だって、さっきの話だと田上さんは、お姉ちゃんの事を好きじゃないって事でしょ?なら、お姉ちゃんの物じゃなくて私の物でもあるわけだよ」

 この論じ方が、これまたタキオンにそっくりで田上はフフフと笑った。フフフと笑うとタキオンがこちらを向いて言った。

「君は、誰の物なんだい?まさか、桜花の方に行くって言うんじゃないだろうね」

 田上は、タキオンをからかうように意味有りげにニヤリと笑った。それにタキオンもニヤリと笑い返し、それから桜花に言った。

「トレーナー君は、私の物のようだ」

「まだ、なんにも言ってないじゃん。ちょっと笑っただけだよ」

「そのちょっとが分かるようになれば、桜花もトレーナー君の事を分かるようになるさ。どうだい?トレーナー君。君、私の物だと言っていただろ?」

 そう言われると田上は、タキオンの様子に合わせて飯事遊びのように桜花に言った。

「桜花ちゃん、残念ながらトレーナーの契約を結ぶときにお姉ちゃんの物になるって言っちゃったんだ」

「えー、…じゃあ、チューして赤ちゃんができたら、遊びに来てね。私、とも君と一緒に赤ちゃんのお世話してみたいから」

「結局、とも君か」とタキオンは呆れたように笑い、田上は、桜花に「それはちょっと難しいな」とごまかし笑いをした。その後で、タキオンが不意に思い出したように言った。

「そう言えば、犬はどうしたんだい?正月頃に飼ったとか言っていなかったかな?」

 母親がそれに答えようとしたが、横から桜花が口を挟んだ。

「よー君って言うんだよ。母さんスマホ出して、写真見せよう写真見せよう」

 桜花にそう催促されて、タキオンのお母さんは自分のバッグに入れていたスマホを取り出して机の反対側にいるタキオンに見せた。その時に田上に言った。

「お正月の時は、うちの子を本当にありがとうございます。……もしかして、うちの子が告白したのってお正月の時だったりします?あそこらへんが怪しいのかなって…」

 その言葉に田上はどう返答したらいいのか困ってしまって、タキオンの方を見た。タキオンは、「へ~、かわいいね」と言って写真の犬を見ていたのだが、田上に見られると嫌そうな顔をして言った。

「なんでこっちを見るんだよ。自分で言えばいいだろ?…違うよ。正月の時じゃない」

「あら、そう」とお母さんは引き下がったが、それならいつ告白したのかを知りたそうにタキオンの方を見ていたが、タキオンはそれを完全に無視した。そうして、大阪杯は終わり、残すところレース後のウイニングライブのみとなった。これは、第一レースから第十二レースに出た全ての子が歌って踊るライブである。公演は夜まで続く。タキオンは、もう移動を始めなければならなかった。ウイニングライブ会場行きのバスが、タキオンを迎えに来る。田上は、それを見送る。普段であれば、田上もそのバスに乗って関係者席でウイニングライブを見に行くのだが、今日の所はまた眩暈で倒れられても困るからという理由で見送りになった。田上は、背の高いバスに乗って移動していくタキオンに手を振った。タキオンもそれに手を振り返した。そして、そのまま小さくなっていった。青空の中に所々黒い雲が見えた。それでも、ほとんどが空色に染まって綺麗で、田上はそれに一瞬目を留めた。しかし、目を留めたのは一瞬ばかりで、その後にはホテルに帰るバスへと乗った。



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二十、走れウイニングライブ①

二十、走れウイニングライブ

 

 タキオンは、それほど遠くないライブ会場にバスに乗って行った。他よりも一段高いその景色でトレーナー君の居ないつまらなさを味わいながら、無機質な車たちを眺めた。車たちは、通りを行ったり来たり忙しそうにしながら、バスの道を開けた。バスは、車の混雑の中を進んでいく。遅々として進まない。レース終わりはいつもこうだ。タキオンは、長い間車の中で待たされた。

 そうしていくうちに、後ろに座っていた国近とソラの方からタキオンは話しかけられた。ぎりぎりの所で自分らを負けに追い込んだ当の本人だというのに、のほほんとのんきそうにタキオンに話しかけていた。お菓子はいらないか?との事だった。タキオンは、ソラが座席の上に高々と掲げている紫色のグミを見とめた。別に、欲しい気分ではなかったし、こののんきそうな顔を見ると、猶更欲しい気分ではなくなった。――トレーナー君が居てくれたらなぁ。もう少し暇を潰せたのに。タキオンはとりあえず受け取ったグミをころころと口の中で転がしながらそう思った。すると、タキオンがグミを食べ終わった頃にもう一度後ろから話しかけてきた。せっかく考え事に浸れていたタキオンは、煩わしそうに後ろの方を振り向いた。見ると、国近が自分のスマホを持ってタキオンの方にかざしてきていた。その画面は、電話の画面のようでもうすでに誰かと繋がっていた。その名前の方を見てみると、田上圭一と書かれていた。タキオンは、顔を少し嬉しそうに輝かして、「いいのかい?」と聞いた。それに「いいよ」と国近がソラに似たにっこり顔で笑った。タキオンもニコニコしながらスマホを手に取って電話に出た。

『もしもし?』といつもの田上の不愛想な声が聞こえる。それを聞くともっと嬉しくなって、もっとニコニコしながらタキオンは言った。

「トレーナー君?今、国近君がスマホを渡してくれたんだけど、案外君の友達も気が利くものだね」

『俺に対しては気が利いてないな。何にも言われずにタキオンに渡されたんだけど』

「国近君なりのサプライズだよ。良かったじゃないか話すことができて」

『…バスはまだ着いてないのか?』

「そうなんだよ。暇で暇でしょうがなくて、その時に国近君が渡してくれたんだよ。思いやりも考えれば出てくるものだね。思いやりの中でも最高峰だよ」

『…まぁ、そうだね。俺には考えつかなかった』

「考えつかなくたってしょうがないよ。これは国近君だからできたことなんだから」

『…そうか。…どうするんだ?このまま話し続けるのか?国近のスマホだろ?』

「そうか。あんまり使うのもあれか。私のスマホに切り替えるよ」

 その途端に国近の電話が切れて、代わりにタキオンの電話が震え出した。マナーモードにしているので音は出ない。タキオンは、やれやれと思いながら、国近に「ありがとう」と言ってスマホを返すと自身のスマホを取って電話に出た。電話に出ると開口一番田上がこう言った。

『どう?早かっただろ?』

「ああ、早かった。私の足じゃ到底追いつけないくらい早かった」

 そう言うと、田上が電話の向こうではははと笑った。

『そんな子供をあしらうみたいに言うなよ。悲しくなるだろ?』

「大いに悲しめばいいと思うよ?」

 タキオンは、冗談交じりにそう返した。その後に田上の笑い声を聞いてから言った。

「そっちはどうだい?マテリアル君のノートパソコンで一緒に見るとか言っていたけど」

 マテリアルは、ライブの関係者席の数の中にそもそも入っていなかったのだ。その為、「一人で見ますよ」と少々寂しそうにしていたのだが、この度急遽田上が行けなくなったことによりマテリアルのノートパソコンが大抜擢された。田上は、スマホしか持って来ていなかったのだが、そんな小さな画面じゃあんまりライブを堪能できないだろう。そこでマテリアルが持って来ていたノートパソコンの出番だ。田上とマテリアルは、ホテルのロビーの椅子と机を借りて二人で、ライブ前の待機をしながら開始するのを今か今かと待っていた。その時に国近から電話が来て、タキオンとのお喋りを開始したのだ。

 田上は、机の上に置いてあるノートパソコンの画面をチラと見ながら、タキオンの質問に答えた。

「マテリアルさんと二人で、ライブが始まるのを待ってるよ」

『そうかい。楽しんで見てってね。……実は、ちょっとしたこともやってみようと思っているんだ』

「…アドリブって事?」

 なんだか怪しい雰囲気だぞ、と言う風に田上が聞くと、タキオンが「ううん、違うよ」と答えた。

『いや、正確には違わない事は無いんだが、一応一緒に踊る子達には伝えておこうと思ってね。私のアドリブで取り乱されて踊れなくなると困るから。…演出の人たちには、…伝えておいた方がいいかな?…なんか少しばかりの変更を嫌がる頭の固い大人だと困るんだけど』

「…伝えておいた方がいいんじゃない?本当に少しなの?」

『ああ、少しさ。冒頭の部分にメッセージを入れてみようと思ってね』

「冒頭?…あの語りの所?」

『うん。言っとくけど、内緒だからね。あれは見てのお楽しみさ』

「見れるかも分からないんだろ?」

 田上がそう聞くと、タキオンが困ったようにごにょごにょ言った。それから、不意に『あ、着いた』と言った。

『着いたからもう切るね。また、暇になるときがあるかもしれないから、その時は君に電話をかけるとするよ』

「はい、ばいばい」

『ばいばい』とタキオンが言って電話を切った。それから、満足げにため息を吐いて、視線を辺りに彷徨わせるとマテリアルと目が合った。マテリアルは、嬉しそうにニヤニヤしていた。

「田上さん」

 清々しい程にいやらしい声でマテリアルは呼び掛けた。

「タキオンさんと仲が良いですね~。ホントは好きだったりするんじゃないですか~?」

 田上は、それに特に嫌そうな顔をして返した。

「好きじゃないです」

「そんな事あってたまるもんですか。あんなに見せびらかすように手を繋いで、好きじゃないって事ありますか?...じゃあ、聞きますけど、あなた方の仲の良さは常軌を逸していますよ?普通の人は、仲が良くても異性と手を繋がないし、一緒に同じベッドで寝たりしません。...お分かりでしょう?」

 ここで、マテリアルはレース場で自分を除け者にした田上に仕返しを少しした。それから、返答を求めるようにその顔をじっと見た。田上としては、この仕返しは自分の心の見てみぬ振りをしていた部分を的確に抉ってきていて、中々話そうと思っても言葉が出てこなかった。だから、その田上の様子に憐れみを感じると、先程まで少しだけ憤っていたマテリアルも心を落ち着かせて、「もう良いですよ」と言おうとした。その言おうとした丁度その時田上が苦しそうに口を開いた。

「......僕は、......少し見逃して貰えませんか?ちょっとだけタキオンと居るのが楽しいんです。手を繋いでいるときだったり、話しているときだったり、...あの子が僕に好意を寄せてくれているのは分かっているんですが、もう少し何かを忘れてこの時を享受していたいんです」

 ホテルのロビーには、誰も居なかった。だから、聞いている人も当然居ない。ロビーの受付の人も今は席を外していた。その為、ロビーは静まり返っていた。

 そんな中、マテリアルは不満そうに鼻を鳴らしたが、出てきた言葉は反省の色味を含んでいた。

「...そんなに責めるつもりはありませんでした。すいません。...ただ、いつかその日が来ますよ。あの子と向き合わなければならない日が」

「分かっています」と田上は、再び苦しげに答えた。それを聞くと、もうマテリアルも話すことを止めて、パソコンの方に目を戻した。まだ、開演まではもう少し時間がかかりそうだった。

 

 パソコンの前で座して待っていると、一人の少女がやって来た。少女と言っても、もう背の高い頃なのであまりその呼び方は似合わないかもしれない。ただ、顔色は田上と同じく芳しいとは言えず、その訳を聞くと、レースに出たのはいいがその後に体調が悪くなってウイニングライブは欠席したそうだ。そして、ホテルに戻って部屋で安静に努めようとしたが、一人だとあんまり落ち着かず、こうしてロビーの方までさ迷い歩いてきたそうだ。その子は、田上とマテリアル(少なくともマテリアル)が優しそうな人であることが分かり、パソコンでこれからウイニングライブを見ると分かると、自分も混ぜてほしいと提案した。マテリアルも田上も快く了承して、その真ん中にコツキリュウオウという名前の女の子を座らせた。田上も別に邪険に扱った訳ではなかったのだが、コツキリュウオウは田上には好奇の視線を向けたばかりで、マテリアルの方によくなついた。マテリアルは、もうその子を渾名で呼んでいて、コツキのコをとって「こっちゃん」と呼んでいた。田上は、その仲の良さそうに話している二人を見つめながら、暇を潰した。それから、始まるまでは結局タキオンから電話は掛かってこなかった。あちらの方もそれなりに忙しいのだろう。田上は、タキオンの事を考えながらパソコンに映し出されたライブの映像を眺めた。年齢こそばらばらだったが、皆初々しさがあった。バックダンサーとして踊っている子は、まだちょっと複雑そうな顔をしているし、センターで踊っている子は嬉しさを抑えきれずに顔をにこにこさせていた。その点では、タキオンは初めっからプロ根性で歌って踊っていて、周りの子から少し浮いていた。弥生賞くらいから、タキオンの舞台となった。周りの子もしっかりと踊るようになって、よりタキオンが引き立った。

 そんな事を考えていると、ライブの最中であるにも関わらず、タキオンから電話がかかってきた。ここで、やっと暇ができたようだ。田上は、心に浮かんだ嬉しさを隠しながら、電話に出た。

 まず始めに苦情を入れた。

「今、ライブを見てるんだけど」

『こっちは、やっと暇ができたところなんだ。少しくらい付き合いたまえ』

「あい」と田上は適当に返事をしたが、その後にキッとマテリアルを睨み付けた。マテリアルがこっちゃんの方に「彼女からですよ」と囁いて、要らぬ知恵を吹き込んだからだ。それだから、こっちゃんは尚の事田上を好奇の視線で見つめ始めた。それにはどうしようもないので、もうマテリアルを睨み付けるのも諦めて、タキオンとの電話に集中した。

 タキオンは、田上の返事を聞くと次にこう言った。

『それでね。あのアドリブの了承はなんとか得られたよ。演出する人の方にもだ。説得する順番が良かったね。まず先に一緒に踊る子の方から説得したんだ』

 すると、そこで突然後ろのガヤガヤした声の方から一つ大きな声が出てきて、電話越しの田上にも聞こえるような声でタキオンに言った。

『あれ?もしかして、それ、噂のトレーナー君ですか?』

 タキオンが、それに答えようか答えまいか考えている時間があって、それから田上の方に言った。

『ごめんね、トレーナー君。アホに話し掛けられた。ちょっと黙らすから待っててくれ』

 そう言った後に少しの間音声が途切れた。田上は、――どうやって黙らしてんだろうなぁ、と呑気に思いながら待っていると、電話の音声が繋がった。タキオンが、困ったように出てきた。

『参った参った。アホが黙らなくて参る。アホが君と話したいそうだから少しの間だけ代わるね』

 そう言うが早いか、アホと呼ばれた女の子がタキオンの電話に大きな声で『田上さーん』と言った。あまりに大きな声だったので、びっくりして田上は耳から電話を離した。この大声はきっと、タキオンと電話の間に割って入ったからなのだろう。これには、さすがの田上も苛ついて、「うるさっ」と言いながらまた電話を耳元に戻した。すると、もうアホに電話は代わっていた。

『あはは、私の第一印象最悪ですね』と笑っていたので、今の田上の「うるさっ」は聞こえていたようだ。それでも、反省しようとしないから田上はもっと苛ついた。しかし、苛つきはしたが、できるだけ丁寧に聞いた。

「それで、話は?」

『いや、ちょっと声を聞いて話してみたかっただけです。もう満足したんで大丈夫です。タキオンさんを大事にね』

 そう言うと、もう次の瞬間にはタキオンに代わっていた。

『頭イカれてただろ?』とタキオンが聞くと、田上が困惑しながらも「イカれてた」と返した。その後に二人で笑い合うと話は別の題目へと移った。

 しかしながら、タキオンはまだ先程のアホに考える力を持っていかれていて、話のネタは何も思い浮かばなかった。だから、田上にタキオンが「何かないかい?」と聞いた。

「何か?」

 唐突な質問にオウム返しに田上が言ったが、何かと言えば何かあった。目の前にいるコツキリュウオウだ。パソコンに映し出されているライブを見つつも興味ありげに田上の方を見ていた。そこで田上は言った。

「今、第四レースに出てた子と一緒に見てるよ」

『四レース?調子でも崩したのかい?』

 こっちゃんは、今自分のことを話されてると思って、田上の方をじっと眺めた。田上は、それを見て「話題にしても良かった?」という意味で首を傾げて見せたのだが、こっちゃんには通じなかったようだ。あまりよくわからなさそうに首を傾げ返された。それだから、田上は苦笑をしつつタキオンに返事をした。

「崩したらしい。それで、一人で居るのも暇だったらしいから、ロビーで見てる俺たちの所まで彷徨ってきたんだそうだ」

『じゃあ、今そこに居るんだね?』

「ああ」と田上が答えると、タキオンはそれ程興味がなさそうに「ふ~ん」と頷いた。すると、田上側の方で興味の湧いたものが一人いた。田上が、まだ話している最中だというのにこっちゃんが話しかけてきた。

「田上さん、彼女さんですか?」

 田上は、少ししかめっ面をして首を横に振った。

「じゃあ、誰ですか?」

 少し面倒臭かったが、田上は黙ってスマホをかざして『タキオン』という文字が見えるようにしてから、また耳にスマホを戻した。すると、タキオンが話し出した。

『あ~…。あんまりここだと落ち着いて話せないから、また後で話そう?』

「俺は、もう少し話しててもいいぞ」

『ふふ。そんなこと言うなよ。話したくなっちゃうじゃないか』

「話せばいいと思うよ。別に話さなくてもこのまま電話を繋いでいてもいいんじゃないか?」

『ええ?やけに勢いがいいね。…だけど、こっちも集中しなくちゃならないんだ。もうすぐ私たちの出番だしね。じゃ、もう切るよ。ばいばい、トレーナー君。愛してる』

 これで、田上がちょっとタキオンに強く出た仕返しをされた。田上は、最後の言葉を言われると、思わず立ち上がってスマホを地面に叩きつける体勢を取ったが、ぎりぎりで理性を取り戻してそれは止めた。そしてすぐに自戒した。――あれくらいで気を取り乱していてはこの先どうしようもない、と。

 もうすでに電話は切れていた。タキオンは、言い逃げを計った。それに少し悔しそうにしながらも、田上は楽しそうにスマホの画面を眺めた。まだ、タキオンが軽く言う分気が楽だった。前の日常に戻ったような気がした。だが、マテリアルたちは突然立ち上がった田上をしっかりと見ていて、楽しさに浸っている田上に驚きながらマテリアルが聞いた。

「トレーナー。…何があったんですか?」

「…え?…あ、いや別にちょっとタキオンに腹が立ったから立ち上がっただけだよ」

 田上は、綺麗に嘘を吐いたが、マテリアルは怪しそうに「ふ~ん」と田上を見て、そしてこう言った。

「腹が立ったにしては、やけにニヤニヤしてますね。また、タキオンさんとイチャイチャしてたんですか?」

「イチャイチャ?してないよ。コツキさんもそんな顔で見ないで?ライブ見てくれ」

 こっちゃんは、田上の事をニヤニヤしながら見ていたから、田上も声が少し上ずってしまった。すると、こっちゃんが田上に言った。

「田上さん、思ったよりも面白い人なんですね。タキオンさんとのお姿は拝見したことがありますが、そんな顔をするとは思いませんでした」

「俺の顔より、ライブの方を見てくれ」

 その言葉にニヤニヤしながらもこっちゃんは「はい」と頷いて、ライブの方を見た。今度は、田上とも少し仲良くなって、田上の方をたまに振り向いて見たりしながらライブを鑑賞した。

 

 そうしていくと、タキオンの番がやってきた。田上は、少しドキドキしてパソコンの画面を見つめる。今は照明が落ちているから真っ暗だ。その真っ暗な場面でタキオンはどこにいるのだろうと田上は必死に目を凝らした。しかし、結局見つける事はできずに急にぱっとタキオンと二着のソラと三着のテラーに上から照明が当てられた。タキオンは、ダラララッダラララッとドラムの音が聞こえると声を出した。最初の語りの部分だ。ここでタキオンは何かあると言っていた。

「なぁなぁ、トレーナー君。明日駅で待ち合わせをしようよ」

 それに、テラーが答えた

「嫌だよ。お前の事嫌いだもん」

「ええー」とタキオンが悲しそうに言って暗転した。

 田上は、――これかぁ…と頭を抱えてしまった。まさか、自分を引き合いに出されるとは思わなかった。会場内も少しざわめいているように感じられる。マテリアルも田上をニヤニヤしながら見ていたが、田上はそれを無視して画面を見続けるしかなかった。

 テラーの語りが終わると、先程の「嫌いだもん」という言葉とは裏腹に明るいポップな曲調が始まり照明が付いた。ちなみに、テラーの言った「嫌いだもん」という言葉はタキオンの作ったものではない。テラー自身が作った言葉である。タキオンが作ったのは、「なぁなぁ、トレーナー君」の所だけだった。本来は、女子高生とその彼氏がただ会話をしている描写のはずだった。

 そして、前奏が終わるとまずソラが歌い出した。

「 よくできた砂のお城を壊して走っていくのは青髪の子

  その後に続いて栗毛に鹿毛に葦毛に…分からなーい」

 その後にテラーだ。

「 ターフの上に着けば入り乱れに掻き乱れて合戦

  この前僕が応援していたあの子はどこだ?

  …あれ?いないぞ?いないぞ?いないぞ?

  …どこだーー!!」

 テラーの低めの叫び声が会場内に響き、客の方から「ここだー!!」と返ってきた。そして、次にタキオンの出番になる。再び照明は落とされて、今度はタキオンだけに当てられた。タキオンは、しきりに何かを数える動作をしている。

「 一枚二枚三枚…四枚?

  一枚二枚三枚…四枚?

  一体、こりゃなんだ?全部ダメだぞ!何もかもダメだぞ!!」

 ここは語りの部分だった。そして、暗転してまた光が付くとそのままタキオンが歌を続けた。

「 洋服を脱げば気付くものだと思って海に行ってみたけど

  いくら肌を見せたって見えるものはなかったんだ

  熱く彼女を応援すれば何もかも忘れられると思ってスタンドに行ってみたけど

  気が付くと見えなくなっていた

 

  暑さに溶けて消えてしまいそう

  もうだめだ。このまま死んでしまいそう

  呼んでる声がする。そちらに行こう

  朦朧とした頭の中で…」

 タキオンのパートは、先程とは一転して暗いパートだったが、ここはサビの前に下げただけの場所である。ここからが本番だった。タキオンが歌い切ると、照明が一気についてステージから炎が噴き出し、会場が燃え盛った。

「 走れウイニングライブ彼を迎えに行こう

  逃げる魂私は逃さない

  ウマ娘の走りをなめちゃあかんのでしょう

  壊れかけた時計を直して

  時を駆ける躊躇い見せず

  その手を掴むから」

 そして、また舞台は暗転し語りへと入る。

 まず、タキオンがドラムの音がする中で言った。

「 初めっからそんなのなかったんだよな。恋とか愛とか、受け入れがたし。受け入れるべからず。これが基本なんだよな」

 この声が、パソコンで見ている田上には少し震えているように感じたが、タキオンの表情に変わったところはなかった。

 そして、その後にソラが出てきて言った。

「言う程の事無いんじゃない?いつもそうだよ。期待外れ。結局こうなんだ。俺ってば、運のない奴」

 それから、この語りとは正反対の明るい演奏が流れて二番が始まった。

 テラーが、最初に歌った。

「 暑い夏が終わり景色の狭間に溶けていって

  君と過ごそう幸せな日々 チクタクチクタクチーン」

 次にソラ。

「 壊れそうな残暑が今も僕を責めてくる

  奔流に乗って河口へと続くパラダイス

  そうさ、探すのさ。いつだって俺は探すのを止めない。…止めない…」

 そして、また暗転だ。タキオンの泣く声が聞こえる。スポットライトは点かない。タキオンが暗闇で泣いているだけだ。そんな中、タキオンは絞り出すように言葉を吐いた。

「生きて…、生きて、未来を掴むんだ…。トレーナー君」

 ここでもまたタキオンのアドリブが入った。勿論、作詞した木下はここにトレーナー君とは入れていない。田上は、アドリブは冒頭の所だけと聞かされていたから、驚いてしまった。それと同時にどうしようもない気持ちに駆られて、それを発散するように手を口元へと持ってきた。

 そこから、曲は二番のサビへと続く。

 照明が明るく光って、タキオンもソラもテラーもバックダンサーの子たちも踊り出した。ただ、タキオンは様子がおかしかった。目元が涙で濡れていた。――演技なのだろうか?田上は訝しんだが、演技とかそれどころではなくタキオンは口をへの字に曲げて歌うことができていなかった。声を出したとしてもそれは震え声だった。それでも、皆で歌うパートなので歌は聞こえてきた。

「 走れウイニングライブ明日へ飛び出そう

  暑い夕日と彼の背中

  西の雲を追いかけ空へと連れてくから

  ターフに吹いてるその風と

  君の声がちょっぴり似てる

  だから私は走ってる」

 ここでタキオンだけのパートになった。なぜタキオンが泣いているのか田上には分からなかった。タキオンは、暗闇の中にスポットライトを当てられてぽつんと一人残された。小さな手にマイクを握って一生懸命歌っている。それを見ているとどうしようもない、早く彼女の下に行って手を取ってあげたいという気持ちになった。しかし、タキオンはパソコンの中だから田上にはどうすることもできなかった。

 タキオンは、時折鼻水を啜りながら歌った。

「 思い出の木の下で未来の事を話したね

  刈ったばかりの芝の匂いを覚えているよ

  君は茨の道から抜け出そうともがいてた」

 タキオンの声が、会場内に長く響き渡り、次いでドラムの音が聞こえた。それは段々大きく段々大きく響いていって、会場内に木霊し始めた時、ウマ娘たちが「は~し~れ~」と盛り上がりを溜めた。そして、唐突にドラムがリズムを変えドラララッと素早く鳴らした。すると、最後のサビが始まった。

「 ウイニングライブ彼を迎えに行こう

  もがく魂そっと手を取る

  もう苦しまなくたっていいから

  この街に吹いている風は

  いつもと変わらず君に語り掛ける

  ようやく。ようやくだ、と。」

 最後にタキオンが半分泣いて半分笑っている奇妙な顔を映して、舞台は終わった。これより後の曲は無い。タキオンたちが最後を飾って終わる。外は、もう陽が沈んで暗くなっている。ガラス張りのロビーから外の景色が見える。後は、タキオンたちが帰って来るのを待つだけとなった。パソコンの画面では、司会者がなんやかんや言った後、今まで舞台でしか点いていなかった照明が点いて、それからパソコンの画面が変わり『本日のウイニングライブは終了いたしました』と出てきた。田上は、悩み顔で自分のおでこを擦った。マテリアルは、隣にいるこっちゃんと頻りに「タキオンさんは凄いですねぇ」と言い合っていた。そして、それを言って満足するとこっちゃんが田上の方を向いて言った。

「田上トレーナーは、タキオンさんに思われてるんですね」

 田上は、曖昧に「うぅん」と頷いただけでこっちゃんの方を見もしなかった。その頭にあるのはタキオンの事だけで、タキオンが帰ってきたらどう接してやればいいのだろうと悩んでいた。今の田上は朝の鬱々とした気分から抜け出していて、上機嫌とまではいかずとも程良く機嫌は良かった。そんな中でまた悩みの種が出てきたのだが、鬱になりそうな種類の悩みではなかった。ちょっとの期待と迷いの含まれた悩みだった。それをどうしようかどうしようかと悩んでいたら、察したマテリアルが言った。

「…私は、別にお二人がくっつくこと自体は構わないと思いますよ。私は、曖昧なままうだうだしている関係が嫌いなだけですから」

 察したと言っても答えは望んだものではなかった。それどころか聞いていたこっちゃんに誤解を与えてしまうようなものだったから、田上からしてみれば迷惑極まりなかった。そして、予想した通りこっちゃんが不思議そうにマテリアルに聞いていた。

「田上トレーナーは、タキオンさんと付き合うことで悩んでいるんですか?」

 視界の端でマテリアルが、こっちゃんに向かって深刻そうに頷くのが見えた。これは非常に鬱陶しい。人の気も知らないで知った気になっている。田上は、少々マテリアルにムカついたが、こっちゃんがこちらの方も尋ねてくるように向くと、誤解を解くために田上は言った。

「…タキオンと付き合いたいだなんて思っていない。…ただ、……引っ掛かる事があるんだよ」

「なんですか?それは」とマテリアルが首を突っ込んできた。その突っ込んできた首に正面からパンチしたい気分でもあったのだが、そもそもマテリアルも悪気があって言っているわけではないのでそれをぐっと堪えて返答をした。

「…分からない。自分が何に引っ掛かっているか…」

「そうですか…」とマテリアルは相変わらず田上の心を見て知っているかのように、深刻そうな顔で頷いていた。実際の所、これは鬱ではない。本当に鬱ではないのだ。だが、マテリアルはまだ田上が鬱に悩まされていると思っているから困る。悪気がないから猶更困る。その事に少し苛つきながら、田上はタキオンの帰りを待った。



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二十、走れウイニングライブ②

 タキオンはそれの四十分後くらいに帰ってきた。外の暗がりには雨が降っていた。ぽたぽたと流れ落ちる雨の音が聞こえる。車が、雨を跳ね飛ばしながら走っていく音も聞こえた。田上は今か今かと少し重い顔をしながら待っている。こっちゃんは、もう部屋に帰っていた。もしここに居て、自身のトレーナーに怒られでもしたら面倒だと言っていた。だから、ホテルのロビーにいるのは田上とマテリアルの二人とホテルの受付の人だけとなった。子供のいないがらんとした空間が田上の心に染みたから、田上は外の雨のかからない場所に立ってタキオンを待つことにした。マテリアルは、その間に一度部屋の方にパソコンを置きに戻った。そして、田上がマテリアルと二人きりでいることに抵抗を持っているのを察したのか、そのままロビーでスマホをいじりながらタキオンの帰りを待っていた。

 タキオンを乗せたバスは、ザーと降りしきる雨の中ホテルの駐車場へよっこらしょとやってきた。それから、玄関の前までバスが止まろうとしてきたので田上は横にずれた。バスは、ピー、プシューと音を立てて止まった。バスの中には、明かりが点いている。外から田上はタキオンの姿を探したが、前の方にその姿はなかった。それでも田上は心待ちにして通り行く女子高生たちをチラチラ見ながら人相を確認していくと、その中に国近がいた。――これはおかしいぞ?と田上は思った。タキオンは国近より前の席のはずだ。タキオンが勝手に移動したりしていなければ。そうでなければ国近の前にタキオンがいるはずだったが、田上はあの特徴的な栗毛の後ろ髪の生えた饅頭の様な頭を見ていなかった。だから、田上は国近を呼び止めて「タキオンは?」と聞いた。すると、国近がこう答えた。

「確か、なんか物を落としたとかで座席の下を探ってたぞ?一緒に探そうかって言ったら、――いい、って断られた」

「そうか」と礼も言わずに田上は話を終わらせた。そして、心配そうにバスの方を見上げた。まだ、疲れた人や楽しそうに話をしている人が次々と降りてきていた。田上は、段々と心配を募らせながら最後まで待った。すると、最後の人はタキオンではなく全然別の人だった。田上は、これで何かあったんじゃないかと思ってぎょっとした。丁度、一番最初に降りてきた今回の引率者が田上の近くにいたので、「え~、…タキオンは?」と話しかけるともなく話しかけた。すると、それに気が付いた引率者の人が「あれ?降りてませんでした?」と言ってバスの中に確認しに行った。田上も心配だったのでその後についてバスに乗り込んだ。バスに乗ると、通路の方にタキオンの栗毛の尻尾だけがぴょこぴょこ揺れているのがすぐに目についた。どうやら、引率者の人も気が付いたようで「何か探し物ですか?」とタキオンに呼び掛けた。その声が聞こえると、タキオンの顔だけがぴょこりと座席の上に覗いて、次いで、田上の姿を見つけると満面の笑みで田上の事を呼んだ。

「トレーナー君!丁度よかった。シャーペンがなくなったんだよ。君も探すのを手伝ってくれ」

 引率者の人はお呼びじゃないという口調だったので、前に居たその人が戸惑いながら田上の方に道を開けた。それで少しごたごたした。狭いバスの通路を大の男の二人がすれ違おうとするからこうなるのだ。ちょっとごたごたした後、田上はしゃがんで座席の下を確認しているタキオンの後ろに立って聞いた。

「どんなシャーペンがなくなったんだ?」

「去年の私の誕生日の時に君がくれたシャーペンだよ。ほら、ピンクと黄色の蝶が描かれたカラフルな奴」

「…ああ、あれか。まだ使ってたんだな」

「使うさ。何だと思ってるんだい?私の事」

「いや、…あんまり高くないシャーペンをあげたからもう壊れてるのかなぁって思って」

「まぁ、あれ、案外頑丈だね。…でも、今となっては思い出の品だから壊れたとしても保存するか、どうにかして直すよ」

「で、どっちのほうに転がって行ったんだ?」

「えぇ?…ああ、確か前の方に転がっていったと思うんだけどね。…中々見つからないなぁ」

「じゃあ、後ろの方を探すよ」

「頼むよ」というタキオンの言葉を聞いて、田上は後ろの席を探し始めた。探すとものの十数秒で見つけた。二席くらい後ろの席の下に何かあるかなぁ?と暗がりの中に濃い部分を見つけた後に、田上がそこを探すと余裕で見つかった。

 田上はタキオンに「シャーペンあったよ」と報告をした。それにタキオンは大きな喜びで返すことはなく、「ああ、ありがとう」と気のない返事をした。こういうタキオンを田上は見た事があった。特に、レースがあった日などはそうなっていた。つまり、眠たいという事だ。眠たいからあまり物事を考えられていないのだ。

 タキオンにシャーペンを渡すと、そのままバッグの中にそれをしまった。そして、ゆっくりのんびりとタキオンは歩き出した。その途中でタキオンは欠伸をしていたから、やっぱり眠たいのだろう。田上は、呑気そうなタキオンを穏やかな目で見つめていた。だが、バスを降りて少し雨に当てられるとそこからなぜか進むことができなかった。目の前に雨風を凌げる場所があるというのに、何の迷いからか田上はその先に進むことができない。しかし、タキオンは後ろで立ち止まっている田上に気付かずにホテルのロビーの中に入ろうとしていた。だから、田上は迷いながらも「タキオン」と助けを求めるように呼んだ。すると、タキオンは振り返って田上を見た。眠たげな眼だったが、田上が何かに怯えているのを察するとにっこりと微笑んだ。そして、とことこと田上に近づいてきて、その両手を自分の両手でそっと取ると言った。

「私は、君の事は恨んじゃいないよ。ライブでは、ちょっと感極まって泣いてしまったけど、君に対する想いは変わらない。君から去って行くつもりはない。君を追い出すつもりもない。ただ、君と一緒に居たいと願っているだけなんだ」

 田上は、冷たい雨を背中に浴びながら、タキオンのその挑戦するような目つきを眺めた。いつものタキオンだ。いつものタキオンだったが、田上には今一つ言葉が足りなかった。

「タキオン。…俺は…俺は…」

「どこへでもついて行くから。もう君を追い詰めるような真似も二度としない。ゆっくり、ゆっくりでいいんだ。私たちは急ぎ過ぎた」

「…でも、……俺は酷い奴だ。恨まれたってしょうがない奴だ。駄目駄目で最低の屑野郎だ。女の子一人も丁寧に扱ってやることができない」

「別に私の事を丁寧に扱ってくれなくて結構さ。君のしたいようにしてもいい」

「でも、……なんでそんな俺の事を大事にしてくれるんだ?」

「…なんで?…理由なんて特にないけどなぁ。……強いて言うなら。…強いて言うなら…、君が好きだから?…っていうとなんで俺の事を好きでいてくれるんだ?という話になるね。…う~ん」

 そこで、田上の顔を見てにやりと笑うと言った。

「君の事なんてお見通しだよ。何て言ったって、もう二年も付き合いがあるからね」

 そして、また考え始めた。

「う~ん、…君を好きで居れる理由…。……私は、…一度見つけた君を放っておけないんだよね。…すると、君は同情か?と問うわけだ。…同情…。同情ってわけでもないんだよね。私は、私のしたい事をしているだけだ。…すると?…どういうことだ?私の弱い足を治す薬を作った時よりも難しい。…何て言ったって君だ。君の事は、真剣に考えて真剣に見つめ合わなければならない。…う~ん、…もう君とは二年と言わず何年来何十年来の友人、そして、好きな人であるような気がするんだよね。もう、一緒に居るのが当然じゃないかと思うくらいに。これを同情と呼ぶのか?……君はどう思う?トレーナー君」

「………俺は、…タキオンの口から言ってほしい」

「よし来た。ならば言ってやろう。…という請け合いをしてみたはいいが、分からないな。これを何て説明すればいいか。…愛?いや、君はそんな安っぽくて曖昧な言葉で片づけてほしくはないだろう。……好き?…愛おしい?…これが一番近いような気がする。君に突然キスをした時があったろ?あの時、私は自然と体が動いてしまったんだ。愛おしさのあまり、とは言わないけど、何か言葉では言い表せられない別の力が働いていた。君を抱き締めたいとか、一緒に居たいとかそんなものだ」

「…母性?」

「母性…とは少し違う。憐みの感情なんかもある。たまらない愛おしさもある。なにもかも詰まっていたんだ。喜びだって、悲しみだって、愛しさだって、憎さだって、楽しさだって、空しさだって、過去だって、未来だって、皆詰まっているんだ。それを愛と呼ぶんだよ。今分かった。愛ってのは、好きとか恋とか良いイメージで語られていた。でも、実際の所は違ったんだ。愛には、全てが詰まっている。正なることも負なることも。私の呼ぶ幸せと同じようなものだ。愛には乗り越えなくてはならないものがある。それを乗り越えなければ、手に入れる事はできないんだ。一緒に行こう。私は待ってる。いつまでもいつまでも君の愛を待って、その愛を享受できなかったらたくさん泣く。その後に、それまで君へと培ってきた愛を倍の倍に膨らませて別の人と結婚するんだ。私には覚悟ができてる。行くんだ。どこまでもどこまでも、見えない夢を探し求めて」

 そう言ってタキオンは田上の手をぎゅっと握りしめた。田上には、それでタキオンがなぜ自分の事を好きで居てくれているのか納得がいった。しかし、雨の中を進み出るまでには及ばなかった。まだ、少し怖かった。この後に何が起こるのか、どれ程の事が起こるのか。それが知れないうちはホテルの方へと進めない。すると、その様子を見たタキオンが急に田上の首に腕を回し、顔を近づけた。そして、自分が雨に濡れるのもいとわず、田上と唇を重ねた。すぐにそれは離れた。田上は、またも不意打ちに面食らって、呆然とタキオンの顔を見つめていた。タキオンは、事も無げにニヤリと笑って言った。

「二回目だね。…どうだい?心地は変わったかい?」

 田上は、先程の唇の感触を思い出すように、自分の唇を触りながらタキオンに返した。

「…今のは…少し俺の思ったようなキスだった」

 それに、ハハハとタキオンは笑った。そして、田上に手を差し伸べて言った。

「これが私の愛だ。苦楽の詰まったキスだっただろう?君の相手をするのは骨の折れる仕事だから」

「……でも、これだけして、俺がお前の事を拒否したら?」

「拒否したら?…その時は泣くさ。少し罵ったりもするかもしれないけど、その時は許しておくれ。…でも、私は結構君とは良い線行けてると思っているよ」

「……なんで?」

「だって、一回目も二回目も私とのキスはあんまり嫌がらなかっただろう?二回目は猶更。それに、君が好きだったっていう事も聞いたし」

「その事は忘れてほしいんだけど」

 田上がしかめっ面をして言うと、タキオンは笑いながら「分かったよ」と言った。それがあんまり信用できなかったからしかめっ面を崩さないでタキオンを見つめていたら、次にこんなことを言ってきた。

「でも、やっぱり私のキスは嫌じゃないんだろ?」

「…嫌だ」と田上がその質問を嫌がるようにタキオンを睨むと、そこでマテリアルが大声を出しながら外の方に出てきた。

「ちょっとちょっとちょっとタキオンさん!今のは何ですか!田上さんもなんで普通に話しているんですか!…え?…どうなっているんですか!本当にお二人は付き合っていないんですか!」

「うん」とタキオンが頷いてその後に「君、ちょっと声量を控えたまえよ」と言った。

「なんでそんなに冷静でいれるんですか!お二人…!…今凄い事をしましたよ?」

「凄い事ってちょっとキスしただけじゃないか」

「キスですよ!なんであなた方付き合ってもないのにキスしてるんですか!なんであなた方そんなにずぶ濡れなんですか!」

「ああ、そうだね。トレーナー君、君もあんまり雨に打たれると風邪をひくよ。熱を出すよ」

 田上は、そう言われると雨に濡れたところと乾いたところの境目を見つめた。今は、タキオンの足が濡れた方にある。それを辿って今度は真正面で田上とマテリアルを見比べているタキオンの顔を見た。タキオンもこちらを見てきた。あんまり声が出そうにない。また、振り出しに戻ったような気がした。それでも、タキオンは田上の顔を見つめてくるから、田上は迷いながらこう言った。

「俺は…俺は…」

「…もう許してあげなよ。子供の頃の君が言ってるよ。――辛かった。死にたかった。って。その声に耳を傾けてあげよう?今の君はそんなに辛くはないんだから。…幼かった頃の君に言ってあげよう?――もう大丈夫だ、って。きっと辛い事や悲しい事がこの先一杯あるよ。そのどれもで死にそうになっていたら私も君を助けてあげられない時が来るかもしれない。その時に、自分一人の力だけでも生き残れるようにするんだ。もう大丈夫だよ。幼かった君には、今の大人になった君とそれより少し幼い私が付いてる。生きて行けるよ。君は、君が思ってるより軟な男じゃない。ここまで生きてこれたんだ。大丈夫。今日からも生きていけるさ」

 そう言うとタキオンは、田上の手をそっと握った。それで田上はどうしようもない感情に襲われた。もうこの感情は止められない。そう思うと、田上は、掴んできたタキオンの手を振り解いて、そっとタキオンを自分の体に抱き寄せた。タキオンも少し驚いたが、田上に包まれている喜びを感じると、両手で田上の腰のあたりをちょこんと抱き締めた。そして、少し震えている田上に言った。

「私たちは、たった一日限りの関係じゃないだろう?」

 田上は堪えた。堪えに堪えた。口から漏れだしそうな何かを。しかし、それももうタキオンを抱き締めている今、堪える事はできなかった。

「ありがとう」

 そう田上は泣きながら言った。大の男が、恥ずかしげもなく女の子の肩で泣いていた。マテリアルは、それを呆然としながら見つめた。自身の感覚や認識を越えた出来事だった。付き合ってもいない男女がこんなことをしていいはずがないと思ったが、なぜだか止める言葉は思い浮かばなかった。そして、次には深い敗北感に襲われた。この二人を止められなかった自分が酷く惨めに思えた。何にもできない駄目女に思えた。自分の信じていたもの全てが崩れ去った。だから、マテリアルは何も言わずにそこから去った。後には、田上とタキオンだけが残された。バスは、田上たちが話している間に立ち去っていた。ホテルのロビーから漏れる光が、雨に冷えた街の真ん中にいるタキオンと田上を照らした。車はまだ降りしきる雨の中走っている。その雨の中泣いていた田上は、唐突に泣き止むとタキオンの顔を見つめて言った。

「俺も行っていいんだよな」

「いいとも」

 その後にタキオンは何か続けて言葉を言いたそうに目を泳がせたが、田上が動き出すのを待った。田上も、自分から動き出してほしいのだろうなという事をタキオンが願っているのを感じた。だから、それに少し笑みを零すとタキオンの乱れた前髪を整えながら言った。

「お前の事が少し分かってきたよ」

 そう言うと、タキオンは満面の笑みかまたはニヤリ顔かを浮かべ田上に言った。

「それが愛さ。私の事が愛おしいかい?」

「…ああ。……でも、もう少し待ってくれないか?」

「待つ?」

「ああ。まだ、心残りがあるんだ。分からないことがあるんだ。その謎が溶けないと…こう、お前の前に立てないというか何と言うか」

「…じゃあ、私の前に来てくれるつもりはあるんだね?」

 タキオンの言葉に田上は少し目を逸らして躊躇った。そして、次にタキオンのその田上の愛しさに満ちた瞳を見つめると小さく口を開いた。

「ああ…。……お前の前に行くつもりはあるよ…」

 ざあざあと雨が降っている。その雨の重みに打たれるように田上は下を向いた。何だか気が重くなった。また、鬱が再発したのだろうか?だが、タキオンはそんな田上の様子には構わず聞いた。

「まだ、心の整理が付いていないんだね?…私を抱き締めて後悔が生まれる事があるかもしれないと思っているんだね?よろしいよろしい。後悔なんて誰でも持っている物さ。……でも……。どうしたらいいんだろう…」

 タキオンがそう言って考え込んだ。二人とも黙りこくって一瞬の沈黙が流れたが、次に田上がタキオンに呼び掛けた。

「タキオン、見てて」

 田上は、自分の足元を指差し、そして、一歩前に進み出た。これで、田上は乾いたところへと進み出た。タキオンが、雨の下に立ったまま不思議そうにそれを眺めていると、田上が、タキオンから見れば辛そうな笑い、自分の意識では普通に笑ってタキオンに言った。

「これで一歩前に出た。明日も一歩踏み出せれば儲けもんだな」

「…ああ、それはそうだけど……、あんまり辛かったら私に言ってね。私は、いつでも君の味方だから」

「いつでも?……確か、スカーレット君に講釈を垂れた時、タキオンは俺に対して結構怒らなかったか?」

「え?…ああ、私にも君以外に守らなければならないものがあるんだよ。私の世界に居るのは、君一人だけじゃないんだよ。でも、君が新たな世界に挑戦するときや大きな不安に押し潰されそうな時は、私は君の味方だから」

「じゃあ、いつでもじゃないんだな」と田上は揚げ足を取った。この言い方に腹が立って、タキオンは何か咄嗟に言い返そうとしたが、すんでの所でそれは止めて別の言葉にすり替えた。

「そんなに卑屈にならないでくれよ。私を突き放さないでおくれ。絶対に君の味方なんだから。君が助けを求めたら絶対に飛んで助けに行くから」

「本当に飛べるんだったら、今頃俺も母さんに会いに行ってるよ」と田上は小声で恨みがましく言った後、タキオンに向き直って言った。

「まぁ、お前のおかげで少し気が楽になったよ。ありがとう」

 そう言った田上の笑顔が、あまりにも辛そうで消え入りそうで、タキオンはどうしようもなくなった。だから、ホテルの方に立ち去ろうとしている田上の後ろにしがみついて、その歩みを止めた。だが、タキオンはなにも言えずにただ田上の服を握りしめているだけだった。

 それなので、田上は「どうしたんだ?」と聞いた。すると、タキオンはそれに答えて話し出した。

「私は...、君の事が心配だ。突然死んでしまうなんて事しないでおくれよ。君は、私の全てなんだから」

 そう言った後で田上は、タキオンの手を引き剥がしつつ後ろに振り向いて、雨の滴っているその顔を見つめながら言った。

「お前のおかげで気が楽になったのは事実なんだ。今更、お前の事を置いて行くなんて事はしないよ。...ただ、今はその想いに答えられないだけだ。...必ずお前の下に行くだなんて約束はできない。約束してしまうと、約束を破ってしまった時が怖いんだよ。俺は、これまで自分の事を善良で良心的で誠実な人間だと思って生きてきた。だけどな、こういう鬱になって思い返してみると、全然誠実でも良心的でも善良でもなかったんだよ。約束なんて、俺の心の未熟さのせいで破った数の方が多い。傷つけてしまった人も数知れない。きっと皆俺の事が嫌いなんだよ。それで、お前が俺の事を嫌いになってしまえば、俺はどうすればいいか分からない。俺に明日を生きる力なんてない。死にたい死にたいと思って毎日を過ごしてきた。...あの俺が昔見たビデオの人たちもそうだ。多分、死ぬほど辛かったんじゃないかと思う。担当するウマ娘を勝たせてやることができずに、そのまま離れ離れになるだなんて」

 後半の方になると田上はもう半泣きになって、タキオンに話していた。それでも田上は最後の言葉を言うと堪えきれずに、泣き出した。その顔をタキオンに見られたくないから、田上が手で自分の顔を覆い隠すと、タキオンがその手をそっと外しながら言った。

「その涙は自分を許すための涙だよ。なんにも恥ずかしいものじゃない。君は、泣くほど辛かったんだ。その辛さを今消化している最中なんだよ。何度でも泣けばいい。泣くのを我慢してしまうと、また君の中に鬱が溜まってしまう。...抱き締めてあげようか?」

 田上が、必死に鼻水をすすりながら顔を縦に揺らした。それを見ると、タキオンは田上の体をそっと抱いた。田上が、鼻水をタキオンにつけるのを嫌がって身を捩ろうとしたが、手すら動かせない程度にはそっと抱いた。すると、段々と田上も落ち着いていって、涙の後の疲れた声でタキオンに「ありがとう」と言った。

「ありがとう。…お前に会えて俺は…俺は本当に運が良かった。お前が俺に愛を与えてくれて本当に助かった。こんな屑でカスで何の取り柄もなくて自信なんて何一つない俺だったけど、お前のおかげで救われた。これからも少し揺らぐことがあるかもしれないけど、…その時は俺の傍に居て…くれるんですか?」

 最後の言葉の所で田上の頭に『プロポーズ』という五文字が過ってしまったから、少し言葉遣いが変になってしまった。しかし、タキオンはそんな事には構わないで彼女らしい表情で「ああ」と頷いた。

 二人はまだ抱き合っている。そこで、国近が登場した。夕食にいつまで経ってもやってこない二人を探しに来たのだ。

「何してんの?」と何の気なしに自動ドアを開けて外に出てきたは良いが、二人が抱き合っているのが分かると「ああ、ご苦労です」と言ってホテルのロビーに戻っていった。戻って行きこそしたが、田上たちに夕食の事を話さないといけないのでホテルのロビーに残って入り口の方から必死に目を逸らしていた。

 国近が来ると、田上もタキオンも離れた。国近の声が聞こえると、田上も一瞬ドキリと心臓を驚かせたが、あの声を聞いても全く動じなかったタキオンの身に触れているとそれは次第に落ち着いた。そして、体を離すと愛しく可愛げのあるその頬をそっと撫でた。まだ、二人は恋人同士ではない。だが、その様相は恋人そのものだった。そのようだから、手を繋いでホテルの中に入ってきた二人を見た時、言うまい言うまいと思っていたことを国近は思わず言ってしまった。

「お前ら付き合ってんの?」

 そう言われると、田上とタキオンは顔を見合わせた。今の自分たちの関係に名前など付け難かった。しかし、タキオンは口を開いて田上に聞いた。

「付き合っているとはちょっと違うよねぇ?」

「…ああ」

 田上は、国近の前で少し慎重になりながらも、正直に頷いた。そして、続けてタキオンが言った。

「愛し合っているとか?」

「…んん」と今度は躊躇うように恥じらうように田上が頷いた。それに国近が聞いてきた。

「え?…じゃあ、…付き合ってるって事?」

「いや、愛し合ってるって事さ」とタキオンが返した。国近は不思議そうな顔をして、田上とタキオンの顔を交互に見比べ、次いで不可解な事を考えるように眉を寄せた。それから、二三秒して言葉を発した。

「…つまり、難しいって事だな?」

「そうそう、難しいって事だよ。良く分かっているね、君」

 察しの良い国近に嬉しそうな声を出してタキオンは言った。田上もこれ以上国近が踏み込んでこなさそうでほっとした。しかし、ほっとしたのも束の間、国近が田上にこう言ってきた。

「ああ、お前、夕食はどうするんだ?お前らの分があるけど、出てこないから探しに来たんだ。…びしょ濡れだな。どうすんの?」

 当然、二人は雨に打たれながら話し合っていたし、雨に打たれながら接吻をした。だから、びしょびしょである。タキオンの方がまだマシといったところだろうか。それにしても、二人とも椅子に座ればその椅子に水を少々含ませるくらいには濡れていたので、田上がタキオンに言った。

「着替えはあるか?…急いでシャワーでも浴びて着替えよう。ビニール袋を貸そうか?何かの時のためだと思って、袋を持って来てたんだ」

「ああ、それを借りるよ」とタキオンが返すと、話が終わったと思った国近が口を挟んできた。

「じゃあ、着替えてから来るんだな。あんまり時間もないから急げよ」

 そう言うと、国近は立ち去って行った。

 田上たちは廊下を急いだ。しかし、タキオンが田上の手を繋いだままだったので、心だけは急いでいたと言った方が正しいだろう。ゆったりと歩いていた田上とタキオンは、さらに話もしていた。タキオンは、終始ニコニコ顔で話していて、たまに田上を可愛がって遊んでいた。田上は、不満そうな表情を見せたが、周りの人にはそう見えるだけで二人の間では笑い合っていると認識された。

 そんなこんなしているうちに部屋の前に着いた。田上は、部屋からビニール袋を取り、その一つをタキオンに手渡すと注くらと自分の部屋に戻って、シャワーを浴びた。冷え切った体に熱いお湯で最初はびっくりしたが、慣れてくると心地良い温度に感じた。ただ、慣れてきた頃には田上はシャワーをすぐに止めて、着替えて部屋を出た。脱いだ服は、ビニール袋に入れてしまった。

 部屋を出た田上は、タキオンを待つか待つまいかで迷った。今の田上は、できるだけタキオンと居たい気分だった。それ程にタキオンの事が愛おしく感じられた。ただ、ある事に考えを巡らすと、田上も行こうかなという気持ちになった。それは、――タキオンが先に行っているかもしれない、という事だった。特にこれといった約束はしていなかったので、タキオンが先に行っていることも十分にあり得た。そして、置いて行って後でタキオンに文句を垂れられる事も十分にあり得た。その事に考えが至ってしまっては、もうどうしようもないので田上は、レストランに向かおうとした。その時、未練がましく一度振り返るとタキオンがガチャリと扉を開けて出てきた。肩にタオルを掛けて、ほかほかの湿った栗毛が登場した。その栗毛が登場すると、田上は思わず表情を明るくして「あ、タキオン」と言った。その顔を見てタキオンがハハハと笑った。

「君の顔、私を見た途端に笑顔になったじゃないか。今の君の顔の移り変わりを君の友人らに見せてあげたいくらいだよ」

 そう笑われると、ーータキオンと出会えて折角嬉しかったのにそんな扱いされるんだったら俺の喜びを返してくれ、と言わんばかりに田上はぶすっと不機嫌そうな顔をした。それを見るとタキオンは尚の事笑ったが、少しの間笑ったばかりでその後はすぐに田上の横について手を繋いだ。田上も幸せそうにその手を握り返した。

 

 二人は、手を繋いだまま話しながらレストランに入っていった。もう、ほとんどの人が食べ終わっている。席を立って、誰か知り合いと話している人もいた。そんな中で国近が入ってきた田上とタキオンに手を振った。その隣には、マテリアルと二人分の食事があった。マテリアルはもう食事を食べていたが、そこにあったから食べていたというだけで、特段国近と仲良くしている様子もなく、田上が座る分の一席を空けて座って食べていた。マテリアルは、比較的後から来たようで皿の上にはまだ食事が残っていた。それを、あまり浮かない顔でぽつぽつとスプーンで掬って食べていた。

 田上は、マテリアルと国近の間に入って食事をとった。タキオンは、ソラの横に座って食事をとった。すると、ソラがタキオンに聞いてきた。

「田上トレーナーと仲が良いんですね。手を繋いでくるだなんて」

 どうにも不思議そうな顔だった。

 それにタキオンが平然として答えた。

「ん?まぁね、トレーナー君とは、デビュー当初から仲の良い関係としてやらせてもらっているよ」

「モルモット君ですか?…そんな風でしたか?…もっと仲の良さそうに…」

 そこでソラが言い淀むとタキオンが機嫌のよさそうな笑みを浮かべて言った。

「君のトレーナーは、もっと正直に聞いてきたよ。――付き合ってるのか?ってね。今思えばちょっと失礼だな」

「で、付き合っているんですか?」と国近の方をチラリと見やりながら、ソラが、今度は田上も含めて聞いた。国近は恥ずかしそうに笑って「すんません」と言ったが、その隣の田上は答えるのが難しそうな顔をしていた。だから、タキオンが言った。

「付き合ってないよ。ね?」

 最後の「ね?」は田上に向けたものだ。田上はそれに「ああ」と躊躇うように頷いたが、その田上にソラはもう一度聞いた。

「じゃあ、なんで手なんて繋いでいたんですか?私の記憶していた限りでは、手を繋ぐほど仲が良かったような気はしませんでしたが」

 田上の隣のマテリアルは、金色のウマ耳をじっと話に傾けていた。

 そして、田上の質問にタキオンが答えた。

「手を繋いでいない頃よりは仲が良くなったって事さ。君も案外失礼だな。…あんな場所で私に対して宣戦布告をしてきたり」

「宣戦布告?」と今まであまり口を開こうとしなかった田上が唐突に聞いてきた。それに、途中で話を遮られたタキオンが快く説明した。

「ん?ああ、この人がね。ゲートに入る待機をしている時に、――私は恵さんの夢を背負ってきました。なんてことを言ってきたんだよ」

 そう言うと、国近もソラも両名恥ずかしそうに顔を俯かせた。その様子を見やると、タキオンは口元に笑みを浮かべて、続けて田上に言った。

「この人たちも私たちに言えないくらい仲が良いよね。私は、この人たちの方こそ付き合えと良いと思うんだが」

 その途端に国近とソラがもぞもぞと居心地が悪そうにし始めた。チラチラとお互いを見合って、目が合うと国近がソラに言った。

「田上たちなら言ってもいいんじゃないか?」

「ええ?…一人二人知っておいた人がいた方が、いざという時に相談もしやすいですかね?」

「そうかもしれない。…言ってみる?」

「恵さんが田上さんとタキオンさんとマテリアルさんを信用できるというのなら、私は構いません」

「…信用できると思う?」

 国近が不安でに聞くと、ソラがタキオンの方を向いた。そして、もう一度国近の方に向き直ると言った。

「タキオンさんは、どうでしょう?不図した拍子に話しそうな気もします」

 すると、タキオンが当然の如く口を挟んできた。何の話なのかは、まだ全貌が掴めなかったが、自分が口の軽い奴だと思われていることは完璧につかめたからだ。

「ちょっとちょっと、君、私を何だと思っているんだ」

「あんまり秘密を守る人には見えませんね」

「そんなこたぁは分かっているけどね。私だって守るときは守るよ」

「守らないときは守らないんですか?」

「それは、私が守る価値がないと判断した時に話すまでだよ」

「では、守る価値とは?」

「絶対の絶対の絶対、と必死の形相で念押しされた時さ。それ以外は守る価値はないね。そして、君たちが今この場で話すのであれば、このどこに人の耳があるか分からない場所で話すのであれば、私も守る価値のない秘密だと判定するね」

 タキオンのその言葉を聞くと、ソラと国近は顔を見合わせた。そして、しばらく見つめ合ったまま目で語らい合い、それでも問答がつかなかったのか国近が口を開いた。

「先々を考えるんだったら、あんまり秘密にしててもしょうがないんじゃないか?…第一、俺たちは何も悪い事はしてないわけだし」

「じゃあ、…それでもあんまり広めたくはないですよ?」

「それは、俺もそうだ。アグネスさんは、別に自分から盛大にビラを配って広めたりはしないだろう?」

「それをしないと死んでしまうのであれば、君たちの秘密より自分の命の方が大事だからするさ」とタキオンが答えた。

 その言葉に、少しニヤリと顔を歪めた後、国近が言った。

「じゃあ、言うけど、…あんまり人に言うなよ。…俺ら、交際することになったんだ」

 一番驚いたのは、田上だった。「ええ!!?」と目を見開いて、声も一際大きくして信じられないというような大声を出した。だから、周りの人もなんだなんだと田上の方を見た。田上は、自分の手がコップに当たって、それが倒れそうになって慌てたし、周りの人の注目も集めてしまって、恥ずかしそうに顔を赤くした。それから、国近に「本当?」と聞いた。国近は、「本当」と余裕そうな笑みで田上に返した。田上であればこんな顔をできないだろう。田上は、国近という男を今少し尊敬した。いつもはへらへらした男だとばかり思っていた。

 その驚き様に国近は呆れつつ言葉を続けた。

「ライブの後になんやかんやあったんだ。それで、別に一緒に居るのが嫌いじゃなかったから、付き合うことになった」

 マテリアルも驚きの顔で、国近とソラを交互に見比べていた。だが、タキオンの方はと言うと平然そのもので、特に興味もなさそうに「へー」と頷いた。その平然さに国近は苦笑しかけたが、田上が質問をしてきたのでその顔を崩してその話を聞いた。

 田上は、戸惑いながらこう言った。

「え、…抵抗とかないの?…相手は、十七?十八歳だぞ?」

「特にないね。元々、俺も嫌いじゃなかったから、その内その内俺も何かどうしようかと思っていた所だった」

「そんなんじゃ、欲しいものも取り逃がしますよ」とソラが口を挟んできた。これは、タキオンが田上に向けるような楽しい目つきだった。それを呆然として見ながら、田上は一度黙って、口に手を当て考え込んだ。これでは、今の自分とタキオンの関係が滑稽に思えてきた。チラとタキオンの方を見てみた。タキオンは、今ある話に興味がないので黙々とご飯を食べていた。それをじっと見ていると、タキオンも田上の方を見てきて、それで目が合った。タキオンは、栗毛色の髪の毛を揺らして「どうかしたかい?」と言うように首を傾げた。田上は、それに答えるために首を微かに横に振った。それでも、田上がタキオンから目を離そうとしないので、タキオンも少し意地になって田上と見つめ合い続けた。すると、国近とソラは面白可笑しそうにその見物を始めた。急に始まった睨み合いは、国近たちが見始めるとあっけなく終わり、田上が鬱陶しそうに国近の方に「何?」と聞いた。それに、国近は言う予定ではなかったが、不図思い浮かんだことを言った。

「あれだ。あの、あいつらには言うなよ。気が付いたら教えてもいいけど、気が付いてないんなら敢えて気付かせる必要もない。説明するのが面倒くさかったら、俺の方に丸投げしてくれれば何とかするよ」

「ああ、オーケー」と田上は返して、夕食の続きを食べ始めた。

 それからは、タキオンと田上がゆったりと話すのを国近たちが可笑しそうに見たり、国近たちも交えてこのレースの振り返りをしたりした。マテリアルは、早々に食べ終わると、田上に「私はもう部屋に戻ります」と告げて帰ろうとした。その時のマテリアルの様子が何かおかしかったから、田上が「大丈夫ですか?」と聞いたが、マテリアルからはただ「大丈夫です」としか返答を得られなかった。まるで、田上の再来である。タキオンは、その様子を見て難しそうに眉を寄せた。



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二十、走れウイニングライブ③

 その後は、変わらず楽しそうに話しながら四人で食事を終えた。特に何を言うこともなく、ただタキオンと田上は軽く話して、国近とソラも軽く楽しく話した。それぞれ二人とも色々の事情の違いはあれど、同じようにお互いを見つめていた。

 タキオンと田上が先に席を立って、部屋の方に戻った。国近とソラは、まだ少し話したいと言って席に残った。席に残ったと言ってもレストランが解放されている時間は、もうそれほどないが、二人は限界まで一緒に話したかったのだろう。田上も同じ気持ちだったが、タキオンが同じ気持ちなのかどうかは推し量れなかった。二人は、ただご飯を食べ終わり話すことも段々と無くなってきたので、席を立っただけだ。その後は、手を繋いで廊下を歩いた。田上は、微妙な心持で視線をふらふらと辺りに彷徨わせた。しかし、目新しい物など特になく、ただのホテルだ。――もっと一緒に居たいと言ってもいいのだろうか?田上の心にはその葛藤が芽生えた。そして、チラとタキオンの顔を見た。二人は、黙って前を見て歩いていたのだが、タキオンが自分を見てきている目に気が付くと「何だい?」と聞いた。こう聞かれると田上は弱った。恋人ではないのに、恋人のようなことは言いたくなかった。これには、大きな矛盾、つまり、もうすでに恋人の様に手を繋いでいるではないか、という事が含まれるのだが、田上はこの状況に慣れてしまっていて、タキオンと手を繋ぐことを極々自然な事だと考えていた。それなんだけども、田上は、タキオンに向かって「もっと一緒に居たい」などと言うのは恋人がするようなことである、と考えているから、些か滑稽でもあった。

 弱った田上は、タキオンの顔を見つつ正面に視線を泳がせつつ、それでも逃げる方法が思い浮かばなかったため正直に躊躇いながら言った。

「お前と……一緒に……居たいかなぁって…」

 そう言うと、田上はてっきりタキオンがニヤニヤ顔で目の前にいる無様な男の頬でもつついてくるのかな?と思っていたが、実際の所は、彼女はただ口元に笑みを浮かべたばかりで田上にこう言った。

「いいよ。私も、そうしたかった。…だけど…」

 ここでタキオンが言い淀んだので、田上が聞いた。

「だけど?」

「…だけど、マテリアル君も少し気にならないかい?…私にはあの人が落ち込んでいるように見えたんだけど」

「…まぁ、俺にもそう見えたよ」と田上は言った。田上が、自分がそうであると感じた様に、マテリアルの目も虚ろで鬱を漂わせていた。

「だろう?だから、私もちょっと彼女と話をしておきたいんだ。君と楽しくお喋りしている間に隣の部屋で首でも吊られてたら困るだろう?」

「…そうだけど…、お前一人で話すつもりなのか?」

 田上がそう聞くと、タキオンはむっつりと黙り込んで少しの間考えた後、こう言った。

「私一人の方が、君が居るよりあの人も話しやすいと思うんだけどどうかな?」

「どう?…それは俺が男だからって事?」

「それもあるしそれもないけど、多分、あの人結構君の事見下していると思うんだよ。鬱でヘタレで何にもできないダメダメ。…私は、そんなこと思ってないよ。ただ、君が言ったようなことを羅列しただけさ。それに、あの人は自分の気に入らないことに対して結構敏感じゃないか。私たちの関係だったり、違う部屋に入ることだってね。だから、君がもし私たちの部屋に入ってきて話すのであれば、その事が気が散ってしょうがないと思うんだよね」

 タキオンがそう言い切ると、田上は少し悲しそうな顔をした。

「じゃあ、お前と話せるのはもっと後か?」

「事によっては今日は話せないかもしれないね」

「そうか…」

 田上は、悲しそうな顔から寂しそうな顔に変わってタキオンを見つめた。すると、それにタキオンは困ったように笑った。

「そんな顔をしないでおくれよ。…なんだか、君、大分想いが表情に出るようになっていないか?前は、あんなに思い詰めた顔をしていたのに」

「…そんな顔をしてたか?」と田上が言うとタキオンが「してたしてた」と返した。そして、会話はとつとつと進んでいって、それは部屋の前に着くまで続いた。部屋の前に着くと、タキオンと田上は名残惜しそうに自分たちの手を放して「ばいばい」と別れた。それから、タキオンはマテリアルと相見えた。

 

 タキオンが部屋に入ってくると、マテリアルは重そうにタキオンの顔を上げた。そして、「ああ、タキオンさんでしたか」と暗い声で言った。部屋も暗かった。カーテンを閉め切り、電気は一つも点けず、ただ手に持っているスマホの白い光だけがマテリアルの顔を照らしていた。部屋の中には、タキオンが開けたドアによって光が入ってきた。

 タキオンは言った。

「こんなに暗い部屋で何しているんだい?」

 そうすると、マテリアルは「ああ」と擦れた声を出して言った。

「電気を点けるのを忘れてました」

 そして、マテリアルは立ち上がり部屋の電気を点けにタキオンの近くまで歩いてきた。タキオンは、黙ってそれを見つめていて、マテリアルが元の場所へと戻って行くのも黙って見つめていた。マテリアルは、また自分の座っていたベッドに戻ると座ってスマホを見つめようとし始めたが、微動だにしないで自分の事を見てくるタキオンの存在に我慢がならなかったのか、顔を上げて言った。

「…何か用ですか?」

「…いや、君が少し心配でね」

「心配なのは田上トレーナーの方ではなくて?…行けばいいんじゃないですか?待っていらっしゃるんでしょう?あなたの愛するトレーナー君が」

「そうさ、待っているよ。だからこそ、少し早めに終わらせたいのだけれど、…何から話せばいいかな?」

「何にも話すことはないですよ。あなたには関係のない事です」

 マテリアルは、タキオンをどうしても突き放したいようだったが、タキオンはそれには構わず、自分のベッドに歩み寄って座り、マテリアルの方を見ながら言った。

「君、トレーナー君が私のせいで自信を失ってしまったと言った時、大阪杯でも彼に勇気づけられなかったら一緒に考えてくれると言ったよね?」

「ええ、言いました。言いましたけど、結局あなたが解決してしまいましたね。その愛する人のキスによって。分かりましたよ。田上トレーナーの目が大分優しくなっていました。今もその人相の怖さは変わりませんが、一二か月あの人の顔を見てみれば表情の在り方が変わったことくらいは分かります」

「なら、私も分かる事があるんだけど、今の君の表情はつい今朝までのトレーナー君のものと同じだよ」

 タキオンが、真剣な顔で正直に言うと、マテリアルは押し黙ってしまった。だから、タキオンは続けて言った。

「別に、責めようってんじゃないし、殺そうってもんでもないけど、…少し気になるんだよ。…私たちがくっつく事がそんなに嫌かい?君にも少しばかり相談もしただろ?応援してくれる気持ちにはならないのかい?」

「…なれません。だって、交際していないのにキスだなんて、不倫みたいなのと一緒じゃないですか」

 マテリアルのあまりの言い分にバカバカしくて、タキオンも思わず苦笑してしまったが、その事について丁寧に聞いた。

「なんでそう思ったんだい?不倫っていうのは、既婚の人が別の異性の方に寄っていくことだろ?トレーナー君は、正真正銘の二十五歳独身男性だ。それと私がキスだなんて問題あるまい。…第一、彼は私の事を受け入れてくれた」

「それが問題なんです。その事柄について責任ってものがないじゃないですか。あの人は、もう大人なんですから責任というものが何たるかは分かっているはずです。それなのにあなたと『付き合う』ということもせずに逃げ道を作っているんですよ?」

 これには、タキオンも反論に少し時間を要した。マテリアルの言っていることが強ち間違いではないという事が分かっていたからだ。だからと言ってタキオンが田上のことを庇わないわけにはいかなかった。

「…トレーナー君もまだ心の蟠りが溶けなくて苦しんでいるんだよ」

「苦しんでいる事に託けてあなたを弄ぼうとしているんですよ?」

「トレーナー君はそんな人じゃない」

「そんな人かどうかはどうでもいいんです。議論すべきことは、予想のできない『未来』の事なんかではなく『今』です!この時です!この時であれば、あの人がどんな人間か分かるでしょう?鬱で人を傷つけて、痛めつけて、あなたに辛いとまで言わせるクソ野郎です。それだけは絶対に変えられません。未来なんて分かりません。絶対にあなたの方には靡かないですよ」

「それは、バスから降りた時に二人で話した。それでも、私は彼を愛すると誓った」

 二人の議論は白熱してきた。

 マテリアルは、反論した。

「それは、あなたが希望のある未来を描いているからでしょう?あの人の少し優しくなった目に騙されたからでしょう?もしかしたらこんな未来が私の手元に来るんじゃないか。そう思ったんでしょう?そんなものは一切来ません。あの人の顔を見れば分かります。あの人は、元々そういう人間なんです」

 マテリアルが、そう言い切ると不気味なほどの暗い沈黙が舞い降りて辺りを包んだ。タキオンは、顔を俯かせていたが、マテリアルはそれを見ると少し怖くなった。必死な程にタキオンが怒りを抑えているような感覚があった。それでも、タキオンは努めて冷静な口調で言った。

「君は、私のトレーナー君を何と心得る?私の愛を否定した挙句、私のトレーナー君までバカにしようというのかい?」

「いや、私は…」とマテリアルはごにょごにょ言ったが、何も聞き取れなかった。そして、タキオンはそのまま続けた。

「君は言ったよなぁ?私たちの成長だか何だかを見てみたいって。その為に田上トレーナーの補佐になりたいって。君みたいな美人が来て私も心躍ったものだけど、今の君は私たちの邪魔をしたいだけなんじゃないのかい?」

 マテリアルは、タキオンの質問に何も返せずにもぞもぞと体を動かした。タキオンは、暫くマテリアルが返事をするかどうか待ってみたが、何も返さないという事が分かるとまた話を続けた。

「国近君とソラ君が付き合うそうだね。…君は、それについてはどう思った?」

「……付き合うんだったらそれでいいです」

「本当かい?私たちが付き合っても君は本当にそう言うのかい?心から私たちに対しておめでとうと言えるのかい?」

「……はい」

 マテリアルが、目を泳がせながらそう言うと、タキオンは一つ疲れたようなため息を吐いた。そして、言った。

「トレーナー君の次は君だよ。類は友を呼ぶって本当だね。それに、どっちかが上がればもう片方が下がるっていうのも。…君ばっかりはどう向き合えばいいのかが分からない。……君は、トレーナー君の事は尊敬しているかい?」

「……はい」

「…私にはそうは見えないけどね。今しがたクソ野郎と言ったばかりじゃないか」

 タキオンの言葉にマテリアルは何も言い返せなかった。ただ、俯くばかりで暫くの沈黙が流れた。それから、もう一度タキオンが疲れた様にため息をついて言った。

「君、友達は?」

「…?…昔はいましたけど…」

「今は?」

「今は…、連絡は取っていません」

「なら、連絡を取ってみればいいじゃないか。…その人とは親友なのかい?」

「…いえ、一番良く話をしたというだけで向こうが私の事を親友だと思っているのかは分かりません」

「分からない?……困ったな。…友達以外に何か吐き出せそうな人は居ないのかい?恩師とか家族とか、そういう愚痴の相手になりそうな人は?君、見た限りだとお喋りはそんなに嫌いじゃないんだろう?」

「ええ…」

「すると、トレーナー君とは相性は最悪なわけだ。そして、今も友達がいないわけで…。トレセン学園の職員の中でそういうサークルみたいなコミュニティはないのかい?」

「…ありますけど…、私はあんまりそういうのには疎くて。…サークルって何をすればいいんですか?」

「そりゃあ…、私もサークルなんて入ったことはないけど、何か皆でわちゃわちゃするんじゃないのかい?…サークルによっても色々特色が違うかな?…まぁ、私が思うに今の君は世間が狭すぎるよ。私たちでしか世間は成り立っていないだろう?そりゃあ、私たちが不倫しているだなんて偏見が生まれるわけだ。だって、実際は不倫なんてものじゃないんだから。…この議論は置いておこう。…私ね、ちょっと君と相性の良さそうな人に心当たりがあるんだ」

 マテリアルが、タキオンのした提案を聞いて不思議そうに目の前の顔を見返した。それと目が合うと、タキオンは少し眉を上げてお道化た仕草をして言った。

「保健室の先生の赤坂っていうやつさ。君と雰囲気は似ているし、喋るのもまあ好きだろう。嫌いだなんてことはないはずだ。保健室にはひっきりなしに人が来るからね。そいつらをいつも上手くいなしてるから、別に性格が悪いわけでもない。私との話も合っていたんだよね。最近は話していないけど。…どうだい?話してみるかい?」

「え?……友達は、少し欲しかったりもしますけど、タキオンさんと話の合う人ですか?」

「まぁ、奴は誰とでも話は合うんじゃないか?そもそも気の良い奴だから、相槌も上手い」

「…でも、私、これと言って話すこともありませんよ?」

「話すことは、見つかるんじゃないか?…遊びに行ってみるかい?私と君と赤坂君とトレーナー君も混ぜて。…トレーナー君は嫌がりそうだな。まぁ、彼には後で聞いてみるとして、君はどうだい?」

「えぇ?…どこに遊びに行くんですか?」

「ショッピングモールとか?動物園?水族館?テーマパーク?」

「ああ…、まだ予定が定まるのは先のようですね。…分かりました。少しその赤坂君って人と話してみたくなってきました」

 マテリアルがそう言うと、またある種の沈黙が流れた。タキオンが、何か言いたげにマテリアルの顔を眺めた。しかし、何か躊躇いがあったようだ。中々言えずにいる。その様子を認めると、マテリアルはタキオンに質問をしようとしたのだが、言葉が途中ですり代わってしまって、こう言った。

「赤坂君は女の人ですよね?」

「え?ああ、そうだよ。赤坂花織(あかさかかおり)っていう名前だよ」

 それから、一息つくとマテリアルようやく先程しようとしていた質問をした。

「それで、タキオンさんは私に何か言いたいことでも?」

「…いや、……君の付き合う付き合わない問題は結局の所解決していないから、今からトレーナー君の部屋に遊びに行っても良いものかと思って」

 そう言われると、マテリアルは急に目付きが険しくなって、タキオンの方を見なくなった。そして、考えながら言った。

「……私は、…確かに孤独感でストレスが溜まっていたことも事実です。それを、二人に少しぶつけていたのも。……でも、今も考えは変わりません。田上さんが、あなたとのキスの責任を取ろうとしていないことに変わりはありません。いくら愛し合っていると言っても、逃げ道を用意して向き合う愛なんて聞いたことがありません」

「それは、三人で話し合おうと言いたいところだけど、トレーナー君は追い詰めれば追い詰める程、今度は私から離れていこうとするからね」

「それは、愛とは言わないんじゃないですか?最愛の人を放っておいて逃げ出す男がどこにいるんですか?」

「それが、彼の難しい所だよ。私の事を好きには間違いないんだろうけど、それ以上の苦しみが彼の背中には乗っかっている」

「でも、勇気付けてあげる事ができたんでしょう?」

「案外そうとも行かない。確かに、落ち着いたよ。でも、今の所は、だよ。いつ彼がまた鬱気分になって死を考え出すかは分からない」

「その時に彼を救ってあげるためにタキオンさんは傍に居てあげるんですか?」

「そうだよ?」

 すると、マテリアルがタキオンの顔をじっと睨んで言った。

「どうもそこのところが分かりません。愛って自分を犠牲にして相手に尽くす物なんですか?華やかに彩られている、十代、二十代、三十代を捨ててまでもあなたは田上さんに尽くすんですか?」

「三十代になっている自分を想像なんてできないけど、そう悲惨な事でもないだろう」

「いや、分かりませんよ?その頃には、もうタキオンさんが待ち切れなくて結婚しているかもしれません。もしかしたら、トレーナーが限界になって自殺しているかもしれません。例え、結婚していたとしても、その結婚生活はタキオンさんが想像したものじゃないかもしれません。田上さんは、呑んだくれになってタキオンさんに毎日暴力をふるっているかもしれません。それとも、結婚もしないで引きこもりになって、それに献身的に尽くしているだけの都合のいい人になっているかもしれません。幸せな未来を一つ描くだけなら簡単ですが、不幸せな未来は幾つも幾つも描けます。きっと、昔友達だった人も今はこうなっているかもしれません。旦那と上手く行かずに離婚した人も普通にいるでしょう。愛ってそれでいいんですか?献身的に尽くすのが愛ですか?」

「いや、違う。相手を思いやるのが愛だ」

「じゃあ、思いやりって何ですか?今の日本社会ではなんとでも言えますよね?老人が重そうな荷物を持っていたら手伝ってあげましょう。それが思いやりです。困っている人がいたら助けてあげましょう。それが思いやりです。…思いやりって愛なんですか?こんなに無造作に愛が置かれていていいものなんですか?」

「いや、世間一般に囁かれているのは思いやりではないよ。ただのレプリカさ。本物の思いやりと言うのは、世間一般や君の言うことに当てはまらない。想像力を持ったものだ。私は、今日もその思いやりにあった。ライブ会場に向かうバスでの事だ。トレーナー君が居なくて私は暇だった。それで、ぼんやり外を眺めていたら、後ろから呼び掛けられた。後ろを見ると、国近君が自分のスマホを持っていて、それを私に渡してきた。見ると、スマホはトレーナー君と繋がっていた。これが思いやりだ。国近君は、後ろから私の事を見ていてきっと考えたのだろう。――田上が居ないから、アグネスさんが暇しているんだろうな、と。だから、私とトレーナー君を繋げてくれた。これが思いやりなんだよ。分かるかい?一概に電車で老人に席を譲る事を思いやりという訳じゃないんだよ。ただ、義務的にそれをするのであればそれは思いやりでも何でもなく、ただの義務だ。つまり、思いやりとは相手の事をしっかりと見て観察して、自分のやれそうな事を考える事なんだよ」

「それでは、国近さんはあなたに愛を持っていたと?」

「愛なんて一概にこれなんてことは言えないさ。友愛があれば性愛もあって親子愛もある。私は、トレーナー君にこう言った。――愛とは、良いことばかりではなくて、悪いこともあって成り立っている、と」

「…?何が言いたいんです?」

「私たちの事に君が口を挟む余地はそんなにないってことさ。私は、彼の傍にいると決めたんだ。決めたからには、それを実行して解決へと導く。どんな手を使ってもだ」

「……いや、分かりません。それでも分かりません。やっぱり何かが足りないんです。悪い事もあって成り立っている、と言いましたね?…それがどうもしっくりこないんです。悪い事の何が良いんですか?悪い事があってもトレーナーに固執する理由は何ですか?いくら好きだから愛しているからと言っても、自分の幸せな生活を捨ててまで愛する人と傍に居る必要はないでしょう?…タキオンさんは、自らを言葉で縛っているんじゃないですか?――彼の傍に居ると決めた。愛が、悪い事もあって成り立っていると考えたのは、自分の行為に対する正当性を見つけたかったからなのではないですか?」

 マテリアルの言葉に押されて、タキオンは動揺した。そして、少し目を辺りにちらほら動かした後、反論した。

「…別に、固執しているつもりはない。…ない。…ないんだけど、今の君の言葉のせいで心が揺れた。…いや、……愛ってなんだ?」

「あなたが先程言ったじゃありませんか。愛は、良い事も悪い事もあって成り立っている、と」

「違う。…それは、…ただ意味を広げたものってだけだった。…私が彼に向けているこの感情は何だ?性交をしたいから?種の存続?私は、それだけの為に生まれてきたのか?」

「私には、そんな事は分かりませんよ。ただ、言っておきますけどね。タキオンさんは、私に偉そうに講釈垂れてきましたが、なにも完璧な存在なんかじゃありませんよ。タキオンさんだってまだ十七年十八年しか生きていないのだから、世間を広くは見渡せてはいません」

「なら、いつその完璧な存在になれるんだ!…私は、トレーナー君の傍に居ていいんだろうか?…参った。なにか分からなくなってきたぞ。生きる意味ってなんだ…?」

 タキオンが、段々段々と背を丸めて俯いていくと、マテリアルが言った。

「とりあえず、田上トレーナーの下に行ってきたらどうです?待っていらっしゃるんでしょう?生きる意味も愛も人も定かではない今、私たちは再出発するしかないんです。それまで、好きな人の所でお喋りでも楽しんできてもいいでしょう」

「ああ、…そうだね」

 タキオンは、あまりに動揺した様子でそう答えた後に、少しふらふらしながら部屋から出て行った。マテリアルは、その後ろ姿を心持ち心配そうに眺め、タキオンが部屋から出て行くと、一区切りついたため息を吐いた。それから、風呂に入る準備をした。熱々の熱湯で頭を冷やしたい気分だった。



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二十、走れウイニングライブ④

 タキオンは、田上の部屋のドアを軽くこんこんと叩いた。すると、すぐに田上が出てきて、タキオンの顔を見ながら言った。

「マテリアルさんは、大丈夫そうだったか?」

「ん?…ああ。私たちが付き合う付き合わないには難色を示していたけど、とりあえず、一悶着越える事はできたよ」

「そうか…。ありがとう。本来は俺も参加すべきだったんだろうけど」

「断ったのは私だ。それが一番正しかった。そして、この事についてあんまりあれこれ言わないでくれ。…私は少し疲れた。…休ませてくれ」

 タキオンがそう言うと、田上は快く自分の部屋に入れた。そして、タキオンが「君と一緒に寝ながらベッドで語らいたい」と言うと、しかめっ面をしつつも少し口角を緩ませ頷いた。

 二人は、田上の父の家に帰ったときの様に、タキオンの頭の下に田上の腕枕を敷いて、向き合って寝転がった。そして、その上に布団を被さった。今夜は、少し気温が低かった。布団も存分に被った方がいいだろう。そう思って田上がタキオンの頭の辺りまで布団を被せると、タキオンがようやく笑みを作ってふふふと嬉しそうに笑った。田上は、その髪を梳く様にそっと撫でた。

「俺もお前の為にしてやれることがあればいいんだけど…」

 悩ましげにそう言うと、タキオンがこう言い返した。

「私は、十分にして貰っているよ。こうして撫でて貰っているし、布団にも入らせて貰っている。…欲を言えば、君がこうして私の事をずっと好きでいてくれたら嬉しいよ」

「…そうしたいのは山々なんだけど、今一自分というものが定まらないんだよな。俺は、なんでお前の事が好きなのか分からない」

 田上がぼそぼそと呟くように喋る言葉にタキオンがピクリと耳を澄ました。その様子を田上が感じて、タキオンに聞いた。

「何かあったのか?」

「……いや、…私もつい今しがたそれが分からなくなったばかりだよ。私が君を好きなのは愛が為と思っていたけど、それだと理由にならないんだ。愛って、…愛って、君の為にどう働くんだろう…」

「なるほど。…お前もまだまだ子供なんだな」

「君も子供だよ!…私もだけど。…知識がないのに走り出そうとしている。何か少し怖いんだ。愛ってものに決着をつけようとすると、知らないものが絡みついてきて私を引き留める。私は、意味のないことを追い求めて走り続けているのかもしれない」

 タキオンがそう言った後は、外からの雨の音に耳を澄ませるような沈黙が続いていたが、その実、田上が聞いていたのはタキオンのタキオンらしい呼吸の音だった。その音を聞きながら、田上はタキオンの髪を撫で続けた。すると、タキオンも少しは落ち着いてきたようでこう言った。

「君は、…私が傍に居ていいんだよな」

「できればそう願うけど、見捨てたいんだったらいつでも見捨てていいよ。タキオンが、引き留めてくれなかったら、そのくらいの男っていうことは決まっているから」

「嫌だよ。私は、君と離れることができないんだ。…ああ、もしかしたら、私は君に依存しているのかな?」

「どうしてそう思ったんだ?」

「私は、…私は、もう君無しの生活は考えられない」

「でも、もし俺がお前の事を好きじゃなくなったら、思いっきり泣いて思いっきり罵ってやるって言わなかったか?」

「それも今となっては分からない。強がりだったかもしれない。だって、考えてみると君がいなくなったら私はどうすればいいのか分からないんだ。まあ、もう走る事を志すのはやめるだろう。トレセンからは去っていくだろう。だけど、家にも帰れないよ。母さんも父さんも帰れば温かく迎えてくれるだろうけど、もうあそこは私の居場所じゃない。ならどうすればいい?私は、どこぞの会社に勤めてしがない、家に帰れば酒を飲んでテレビを見るだけのオフィスレディとして生きるのか?そんな中で新たなパートナーを見つけるのか?いや、こんな私を好いてくれる人なんて誰一人居ないんだ。…君だけだよ。稀代のマッドサイエンティストを愛してくれたのは。君と居るときだけなんだよ。未来を見通せるのは。私は、いつも悪い未来からは目を逸らして今日までやって来た。そりゃあ、君にフラれる未来を少しは想像した事があるけど、あんまり踏み込む事はしなかった。それが起きたらどうするかなんて考えもしなかった。いつも、すぐに幸せな未来に切り替えるんだ。君と同じ家に住んで、同じ時を過ごして、夫婦みたいな会話をして、子供がたくさん生まれて、その子供たちが成長するにつれ私も老けていって、君と一緒に過去に感慨を抱くんだ。私の脳裏にあるのは、そんな未来だ。…君と居る以外の未来が見えない。マテリアル君がさっき言ったよ。――望む未来なんて来ないかもしれませんよ。私は、それにいつも――彼を愛すると誓ったからそのようになる、と答えてきたんだ。答えてきたんだよ…。でも、今日はこんなことも言われた。私が、――愛は良い事も悪い事もあって成り立っている、と言ったら、マテリアル君は――それは自分の行為に対する正当性を見つけたかったからなのではないですか?と。君が私の事を見ようとはせずにそれでも尽くすのを見ると、マテリアル君は心が痛むそうだ。在りもしない未来を想像して私が君に尽くす、または固執しているのを見れば、私が先ほど言った愛の成り立ちも自分の不都合の正当性を示すものに見えるそうだ。…もし、私が依存的に君と付き合っていた、いや、ほとんどそうかもしれない。…依存的に付き合っていたとして、その依存から立ち直ったとしよう。私は、君に愛なんてなく、立ち去ってしまうかもしれない。その時に君を一人にしたくない。…そうだ。君を一人になんてしたくないんだよ。当初の私の目的はそれだった。後悔をしたくなかったんだ。それが、いつの間にか愛の話に擦り替わっていた。自分本位になってしまっていた。…どうしてなんだろう?」

 タキオンが、不思議がると田上が悲しそうに言った。

「行くのか?」

 その声を聞くと、タキオンは考え込んでいた目を上げて、同じ布団の中に居る田上を眺めた。その目は、行かないでほしいと訴えかけていた。その目を見ながら、タキオンは言った。

「…君のその目が私を引きずり込んだのかもしれない。…行かないさ。行くつもりはない。…だけど、ちょっと同じ布団に入るのは止めるよ。健全な付き合いをしよう」

 タキオンも自分の心に半信半疑だったが、ふっと田上への執着が薄れたような気がした。ただ、田上はそうも行かなかったようで、タキオンが布団から出て行くのを呆然として見つめた。そして、ベッドの端に座ったタキオンと田上の目が合うと、田上がそっと目を逸らした。

 タキオンは、その田上に声をかけた。

「…君が一人が怖いのは分かっているけど、私だって生きなきゃいけないんだよ。勿論、君の事は好きだよ。でも、君の心の事と私の好意は別々にしなきゃならなかった。君の依存心と私の好意が交錯してしまうと飲み込まれそうになるんだよ。私だって、心にちょっと引っ掛かっているものがある。家族の事だ。奴らとどう向き合って生きればいいのか、未だに決着が付いていない。だから、君に縋ろうとした。けど、それじゃダメなんだ。一人で生きていく力は身につかない。OLになったって、どっかの誰かの妻になったって、過去の全てを清算して生きて行かなきゃならない。マテリアル君がさっき言ったよ。生きる意味も愛も人も定かではないから、私たちは再出発をしなければならない。出発なんて何回でもするさ。生きる意味も一緒に考えてあげるから、自分の耳に都合のいい話は忘れて一緒に歩こう?私は、君への想いも一旦忘れるから、生きる力を身に着けよう?」

 すると、田上が目を逸らしたまま言った。

「忘れないで…。行かないで…。離れないで…。俺を愛するって言ったじゃないか…」

「愛するって言ったけど、君のわがままの通りにはできないんだよ。いつか、お正月に君の家に帰ったときに私に言ったろ?お前の父さんじゃないって。君も十分わかっているじゃないか?言葉としては、君の身に染みついているんだよ。今こそ、その言葉を頭の中で考える時だ。私は、君の依存対象ではないし、君の母さんでもない。君の母さんはもう死んでしまった。君の記憶の中にしか居ないんだよ。それを私で埋めようとしないでくれ。母さんの思い出を大切に保管しておいてくれ。もう君の前に二度と母さんは現れる事は無いんだから」

「…嫌だ。タキオンが良かった。俺を愛して…。もう、どこにも行く当てはないんだ。父さんだって、俺の事を愛してくれちゃいない。もう、楽しかったあの頃は無い。帰りたい。帰りたい。俺を連れ戻してくれ。あそこに帰りたい。あの公園に。もう、限界なんだ。許してくれ。俺を取り去ってくれ。消えたいんだ。もう何もかもいらないんだ。あの家にいつものように帰って「ただいま」って言いたいんだ。殺して。…お願いだよ。俺を殺してくれ。この先に幸せなんて見えない。もうダメだ…」

 そう言うと田上は、涙を流して身を縮めた。タキオンから必死に顔を逸らして、見えない何かに向かおうとした。瞼の裏にある懐かしい景色へ。しかし、タキオンはそれを許さなかった。強引に田上の体を仰向けにして、その上に乗った。田上は、それでも自分の手で顔を覆おうとしたが、その手もタキオンが掴んで食い止めた。田上は、涙を流しながら「やめてくれよ!!」と叫んだが、タキオンはそれでも止めなかった。代わりに自身の涙を田上の顔に滴らせてこう言った。

「やめないさ!!生きて行かなきゃならないんだ!!それがこの世に生を受けた者の使命なんだ!!恨むんなら、神様でも私でも母でも父でも恨むがいい!!それでも、君を残して世界は回っていく!!君の母さんが死んだって世界は回るんだ!!ちっぽけな男一人を残して去って行くことなんて誰でもできる!!見捨てられた?そうさ!!見捨てられても君は生きているんだ!!人間は皆一人だよ!!過去に縋っている生きている人が大半だよ!!いつか気が付いた時にはその人は多大なる空しさに襲われるだろう!!君は今気が付いた!!私だって、過去に縋りたい気持ちは良く分かる!!…けどね。けどねぇ。…今私の目の前に居て涙を流している憐れで可愛い私の愛しい人は誰なんだい?……君だよ。君なんだよ。いつだって幸せな事ばかりとは限らないさ。君のお母さんが逝ってしまえば、享受したかった愛が誰かに奪われることもある。恨み事なんて数えきれないんだよ。でも、…でも、君であれば生きていけるんだよ。他の誰でもない君だ。君が生きてさえいれば、心底笑えるようになる。今度は、大丈夫だなんて軽い言葉は言わない。君を許すような言葉は一切吐かない。君がその手で掴み取るんだ。私が手伝っちゃだめだ。それは、君にしか分からない事だから。君が、本当の宝物を見つけた時、心底笑うことができるんだよ」

 タキオンがそう言ってから、田上の額に浮いている汗を自分の手でそっと拭きとった。田上は、自分の顔に伸びてくるその手に少し怯えつつもされるがままに汗を拭きとらせた。そして、タキオンが額の汗を拭いて二人の目と目が合うと、田上が言った。

「でも、生きるって言ったって何を目標にすればいいんだよ。もう俺には何もないんだよ」

「別に目標なんて作らなくたっていいさ。その時、その時でやりたい事をすればいいんじゃないか?」

「衝動的に生きろっていう事か?」

「いや、違う。自分に後悔のない生き方を選ぶんだ。怒りに身を任せて人を殺めたり、絶望に打ちひしがれて自殺を図ったりしないような生き方をするんだ」

「でも、衝動的に生きても俺は人は殺さない」

「それは分からないよ?衝動的っていうのは予想もつかないことをするんだ。時に人を傷つけるつもりがなくても傷付けてしまう時があるだろう。そういう時に、後悔しないような生き方をするんだ。勿論、どうしようもない時だってあるさ。急に目の前に殺人鬼が現れる事を誰が予想できる?急に飛行機が墜落してしまう事を誰が予想できる?私には、予想ができないね。その時は、仕方がない。けれど、人を殺してしまって、自分を殺してしまって後悔しない生き方をするんだ。この自分を殺すというのは、肉体的にだけでなく精神的にも当てはまる。いつか年老いて死ぬ間際になって、今まで自分を殺して生きてきたことを知る人もいるだろう。そういう人にならないために私たちは努力しなければならないんだ。…だから、私は君を見捨てる事はできない。それは、君自身を殺すことだけでなく、自分すらも殺してしまうという事が予想できるからだ」

「義務なんだろ?」

「義務?…そんなんじゃないさ。誰かにああしろこうしろと言われて君の傍に居るわけじゃない。ただ、後悔しないために君を助けるんだよ」

「俺を助けた後は?どうせ、そのまま放って捨てるんだろ」

「そんな事を考えているうちは、まだ放って捨てないさ。君が放って捨ててもいい事が確認出来たら、私無しでも生きていける事が確認出来たら、放るでも何でもするさ。…そして、私が君の隣に居るのも、愛しているからだけじゃない。私自身が君の行く末を想って後悔しないためだ。だから、今は君の布団に居ることができない。許してくれ。少し振り回してしまった」

「振り回したって言ったって…、お前が俺にキスをしてきたことは無くならないぞ。どう責任を取るつもりなんだよ」

「それも……君に優しさがあるのなら、許してほしい。身から出た錆びな事に変わりはないが、今どうこうする術がない。全ては、君の事が片付いてから責めてほしい。罪は受け入れるから」

 タキオンにそう頼まれると、田上の視線は一旦タキオンの後ろの天井を見て、そして、またタキオンの顔を見た。その次に、抑えられている腕と体が気になって「降りろよ」と言った。タキオンは、「ああ、ごめん」と言って、腕を抑える事は止めたが体の上から降りようとはしなかった。だから、田上はまた「苦しいんだけど」と言った。タキオンは、田上の顔を見たまま動こうとしない。何か迷うことがあるようで、それはあまり表には出さなかったが、とにかく上から動こうとしなかった。それで、田上が振り落とそうともがいたら、タキオンがようやく口を開いて言った。こっちもこっちで苦しそうだった。

「…君に色々と言ってみたけど、それでも頭にあるのは家族の事だ。君と家族になれたらと私は思う。…私の至らないところだろう。私も解決しないといけないんだろう…。…父さん母さんか…。どう向き合えばいいんだろう?」

「そんな事知るか。俺はもうお前の事なんて嫌いだ。どっか行け」

 田上が、憎しみ込めてそう言うと、タキオンの顔がもっと苦しそうに歪んだ。

「君、本当にそう思っているのかい?衝動的に言葉を発していないかい?私が、本当に離れていったら後悔するのは君だろう?」

「いいよいいよ。このくらいの屑は一回落ちぶれて落ちるところまで落ちたほうが身の為になるんだ。もう俺の事は放っておいてくれ」

「私を困らせないでくれよ。私が君を手放さないことは君が一番知っているんだろう?頭の中で感じていなくとも、無意識のうちに君は感じているはずだ。私が、君を助けたいって事を。…それをあんまり利用しないでくれ。こっちも苦しいんだ」

「苦しいんだったら、さっさと手を放せよ。どこかに放れよ。お前が居なくとも、生きていけるって事を身を持って証明してやるよ」

「それで、君が苦しみの狭間で生きるというのなら私はもっと苦しい。…どうにも疲れる。君と向き合っていると精神を食われる。巨大な化け物に挑んでいるみたいだ」

「今度は、化け物呼ばわりか。ああ、そうだよ。化け物だ。お前なんて一飲みにしてやるから、さっさと部屋に帰れ。俺は、もうトレーナーを辞める。金輪際、人に教える立場になんてならん。お前ともこれっきりだ」

「ええ…?なんでそんな事になるんだよ」

「もううんざりしたからだよ。もうダメだ。高校の頃から積み上げてきた物をぶっ壊してゼロから始めてやる。それがいい。そっちの方がいい」

 そして、田上はタキオンの顔を不意に見つめた。だが、それはすぐに止めて続けて言った。

「お前との連絡先も全部消してやる。全部だ。着の身着のまま。保険証も運転免許も要らない。財布も要らない。ここから逃げてやる。大人なんて真平だ。だから、どけよ!」

 田上はもがいたが、当然ウマ娘の力には敵わない。それどころか再びタキオンに腕を押さえつけられて前の体勢に逆戻りとなった。だが、腕を抑えつけた田上の顔を見たまま何も言わない。なので、タキオンの事を多少睨みながら、田上は言った。

「なんだよ!」

「…いや、…私の連絡先を消させるわけにはいかないよ。例え、君がどこかに行ったとしても私とぐらい繋がってもらわなきゃ。着の身着のまま飛び出していくって言うんなら、せめて財布とスマホくらい持っていってもらわなきゃ。一人じゃさすがに寂しいだろ?時々は私が話し相手になってあげるよ」

「……止めないのか?」

「そりゃあ、男の船出を止めるっていうのは野暮なもんだろう。君が行くと言うのなら、私は君を見送るしかないんだけど、それでも、時々は便りを送ってほしいんだ。元気だよっていう事をみせてほしい」

「俺は…俺は……、…やっぱり行かない」

「おや!そうかい。それは嬉しいね」

 そう言いながらタキオンは顔に嬉しそうな笑みを浮かべた。その笑みをしかめっ面で田上は眺めた後、タキオンとチラチラと目を合わせながら言った。

「でも、トレーナーはやめる」

「おお?どうしてだい?」

「もう続けていく気力がない。リリーさんとも契約はできない。俺は、大人じゃない。我儘な餓鬼だ。我儘な餓鬼は、一つの事に熱中できない。お前の事もだ。お前を巡ってどうせ俺は不祥事を起こす。もしかしたら、手を上げてしまうかもしれない」

「なんで手を上げるんだい?」

「餓鬼だからだ。つまんないやつだからだ。力で人を支配したいようなバカだからだ。お前だって、ウマ娘じゃなかったら振り落としてた」

「ただ、私はウマ娘だった。それは君も分かっているだろう?」

「ウマ娘だからって暴力を振るっていい理由にはならない。俺はバカだ。いつでも誰かに暴力を振るいたくて、それを押し殺して今日まで生きてきた。だから、そんな奴は学校には居ない方がいいだろう」

「でも、君は暴力は振るわないと思うけどね。冷静な人ならば。…だって君は私がいつか割れたカップの欠片で手を怪我した時、本気で心配してくれたじゃないか。君の優しさは本物だよ。君が冷静であれば」

「冷静じゃない奴に冷静である場合の話をしてもしょうがないだろ」

「そこまで自分を見つめる事ができたら冷静まであと少しなんじゃないか?」

 そこでタキオンが微かに口角を上げて微笑みかけた。そんな顔をされると、田上はそれに反抗しようという気持ちがムラムラと湧いて出た。

「そんなら冷静になんてなりたくない」

 すると、次に部屋のドアがコンコンとなった。二人とも一瞬今までの事に想いを巡らすことを止め、ドアの前に立っている主にどう反応しようか迷った。そこで、今まで田上を見るために俯いていたタキオンが不意に目を上げて時計を見ると、もう消灯の時間だった。それで、タキオンには恐らくドアの前の主がマテリアルだろうという事の見当が着いたから、「どうぞ!」と声を上げた。無論体勢は変えていない。田上の動きを封じたままである。タキオンの呼び声を受けて扉がゆっくりとがちゃりと開く音がする。田上は、タキオンの顔を――信じられない、やめろという目付きで睨んだが、タキオンはただ不敵に笑い返すだけだった。

 ドアの前に居た人はマテリアルだった。マテリアルは、扉の中からタキオンの声で「どうぞ」と言われたので恐る恐るドアを開けた。何があったのだろうか?と考えたからだった。ゆっくーりとドアを開けて金色のウマ耳を次いで髪の毛を覗かせた。そして、部屋の中を覗けるようになるまでゆっくりゆっくりとドアを開けた。目が覗いた。と思ったら、ドアが開くのが止まった。今、目の前で起こっている情報を瞬時に整理することができなかった。だから、小さくタキオンに問いかけた。

「タキオンさん。……何してるんですか?」

「え?トレーナー君が私の連絡先を消すとか言うから押さえつけていたんだよ。…あんまり外に話を聞かれたくないからそこの扉は閉めておいてくれ」とタキオンが答えると、田上が即座に口を挟んだ。

「もうお前となんて幾ら電話をかけても口は利かない。だから、連絡先なんてあったってしょうがない。俺は家に帰るんだ」

 その言葉を無視してタキオンはマテリアルに言った。

「この通りだ。トレーナー君がちょっと話を聞こうとしてくれない」

「お前と話すことなんて何一つない。俺はトレーナーを辞める。これだけで十分だ」

「私は、それじゃあ十分じゃない。君が、家に帰った後で後悔するだろうという事が容易に想像できる」

 そう言った後にマテリアルが部屋に入ってくる足音が聞こえたので、田上が怒りの標的を急激にマテリアルの方に向けて「入って来るな!」と怒鳴った。だが、田上が予想したような反応をマテリアルは取らなかった。田上としてはてっきり自分の言葉に怯えてくれるものだとばかり思っていたが、そんなことはなく、田上に怒鳴られるとマテリアルはキッと睨み返して怒鳴り返した。

「私はタキオンさんを連れ戻しに来たんです!楽しく仲良く時間を過ごしていると思ったら、なんですか?これは!」

 これには田上の方が怯えたから、タキオンが田上の方を見つめながら苦笑して「そんなに怒鳴るのはやめてくれよ」とマテリアルに言った。ただ、マテリアルの憤りはそれでは収まらなかった。

「そんな風にしてたって事はどうせ田上さんもタキオンさんに怒鳴っていたんでしょ?それなら私が怒鳴ったって一緒です。タキオンさんは優しすぎるんですよ。このバカよりももっと優しいんですよ」

「そんなんじゃないさ。私は後悔したくないからトレーナー君の傍に居るだけだよ」

「それを優しいって言うんですよ」

「優しいとは言わないさ。優しいっていうのは万人に対して思いやりの心を持てる人の事だ」

「なら俺は違う」と田上がぎらぎらとした目付きで言った。

「俺は、もうお前にだけは優しくはできない。もうダメだ。クソ野郎のバカ野郎のアホ野郎だから、女の子一人にだって優しくはできない」

「私は、十分君は優しいと思うんだけどねぇ」

「そんな事は無い。俺がお前をどれだけ傷付けたと思う?どれだけ酷い言葉を投げかけたと思う?そんな男の事をお前は善人と呼べるのか?呼べない!呼べる奴は気違いだ!」

「それじゃあ、私は君の中では気違いかもしれないね。君は十分善人だよ。優しいという言葉に限らず、ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てるし、私を大切に扱おうとしてくれている」

「大切に…?扱ってないだろ?」

「努力は伝わるよ。さっきの言葉だって私に酷い言葉を投げかけたと感じているからあんな言葉が出てくるんだ。根っからの悪人なら酷い言葉が何たるかも分からないだろう。君は人の心を十分に想像できる善人だよ」

 タキオンがそう言うと、田上の顔が段々段々とくしゃくしゃになっていって、その両の眼から涙がぽたりぽたりと零れてきた。田上は、自分自身でもこの事に驚いた。自分の涙は、もう枯れ果てたものだとばかり思っていた。涙が顔を伝って零れ落ちていく。それを感じながら田上は震えた声で言った。

「お前は、なんで俺の事をそんな目で見つめてくるんだよぉ。……俺は、本当に良い奴じゃないんだ。もう、どうしようもできないくらいに心の汚れた救えない奴なんだよぉ」

「救える。救ってみせる。未来はある。君はその手で掴むことができる。長く困難な道になるかもしれないけど、君の周りには大勢の人がいる。マテリアル君だって君の事をバカと言ったかもしれないけど、君が前に進むというのなら味方になってくれるはずだ。それだけじゃない。君の父さんだって母さんだって祖父母や昔の友人たち皆君の味方だ。君を知っている人で味方になってくれない人なんていない。君が助けを求めれば、自ずと味方は増えていく。トレーナーじゃなくたっていいから、男じゃなくたっていいから、進め。私も勿論君の味方だ。君がどこかへ行きたいと言ったらどこへだって連れて行ってあげるよ」

「………海に行きたい」

「今かい?夏とかじゃなくて」

「今だ。大阪杯の後に海に行こうって言っただろ?行こう。二人で海を見に行こう」

「いいね。賛成だ。…今は春休みだから私はいつでも行けるよ?どの日にする?」

「水曜日にしよう。人がいない海岸線を見に行こう。…お前の事が好きだ。…腕を解いてくれ」

「ああ、ごめん」と言ってタキオンが体も起こしつつ腕も自由にしてあげると、田上もまた上半身を起こし始めた。タキオンは、自分が邪魔だと思って急いで田上の体から降りようとしたが、田上がそれを肩を掴んで止めた。なんだ、と思って田上の方を見やると、ふっと覆い被さるようにその体に包まれた。幸せの匂いがタキオンの鼻腔を突き、その低い声がタキオンの鼓膜を震わせた。

 田上はタキオンの体を抱き締めて言った。

「競走を引退したら一緒に過ごそう。お前の事が好きだ。…愛してくれてありがとう。」

「……それは、…プロポーズって事でいいのかい?」

 タキオンが嬉しさを必死に押し殺した声で聞いた。

「…ああ。お前さえよければ、俺の…俺の愛する人になってほしい」

「ああ、いいとも」

 タキオンの顔は、今や信じられないようなもう有頂天真っ盛りのような形容しがたい表情になっていて、その声も嬉しさは抑えきれていなかった。田上は、タキオンの体を抱くのを止めてその顔を見つめた。タキオンも見つめ返した。そして、田上はその唇にそっと自分の唇を重ねた。数えられない時をタキオンは過ごしたかのように感じたが、実際の所はほんの少しの間唇を重ねただけだった。それから再び田上はタキオンの顔を見つめて言った。

「後悔はしない。お前の事が好きだった。ずっとずっと前から」

「どのくらい前から?」

 タキオンが嬉しそうに聞いた。

「いつからかは分からない。ある時、不意にお前にずっと傍に居てほしいと思った」

「私は、気が付いたのはここ最近さ。だけど、これまでの君との生活が無かったら、君を好きになるって事はなかっただろう。つまり、君と過ごした時があって自ずと君を好きになった。私からも言うよ。愛してくれてありがとう。これからもよろしく頼むよ」

「こちらこそ」

 田上も少し嬉しそうに微笑んだ。その顔を見ると、タキオンももっと微笑んで田上を再びベッドに押し倒したが、今度はタキオンも一緒に倒れてその体をぎゅっと田上に抱き締めていた。田上は、ベッドの後ろの壁で頭を打ち付けるんじゃないかと思って咄嗟に声が出たが、案外そんなことはなく、田上の上に覆いかぶさって抱きついたタキオンも頭を打ち付けなかった。ただ、タキオンはこの体勢は好みではないらしく、田上の体を下がって下がって自分の顔と田上の顔が同じくらいの高さにくるように合わせた。そして、田上の体の上で寝転がった。

 その時にマテリアルが言った。

「私は何を見せられているんですか?タキオンさんを連れ戻しに来たんですけど。…公開プロポーズを見に来たんじゃありませんけど」

 二人はマテリアルの事をすっかり忘れていたから、その声が聞こえると驚いてそちらに顔を向けた。マテリアルは呆れた様にもう一度言った。

「タキオンさん、帰りますよ。もう消灯の時間を越えてしまったんですけど」

「ああ、帰るよ。…トレーナー君。いや、圭一君って呼んでもいいだろ?」

「圭一?ああ、いいよ」

「でも、圭一君は少し長いな。…圭君?」

「どちらでもどうぞ」

「圭一君…圭君。…圭一君かな。そっちの方がいいや」

 そう言うと、タキオンは田上の体の上から起き上がってベッドから降りた。そして、マテリアルに「先に行ってていいよ」と言ってから、ベッドの上で起きようとしている田上の方に向かっても言った。

「圭一君、明日も明後日も明々後日もその次の日もその次の次の日も私は、この気持ちが収まりそうにないよ」

「俺もだよ。ありがとう」

 それから、田上は部屋からタキオンを見送るために立ち上がった。「行ってていいよ」と言われたマテリアルはまだ部屋に残って二人の動向を見守っていた。田上とマテリアルの目が合った。そうすると、田上の笑みがさっと引いて、大人同士の真面目な顔となった。

 その顔にマテリアルが言った。

「浮かない顔ですね」

「…ええ、こうするのが正解だったのかが分かりません。…けど、後悔はありません。タキオンに言わなかったらいつかどこかで後悔していた。それは分かり切った事だった」

「それを伝える事ができてよかったです。……頑張ってください」

 そう言った後にマテリアルは後ろを向いてドアの方に向かった。いつも後ろ頭に一つ結んでいた金色の髪が、歩くたびに揺れていた。それを見送ると共にタキオンが動き出したので、田上も一緒に動いた。タキオンは、「また明日ね」と言うと部屋から出て行き、隣の部屋へと戻った。田上は、タキオンと小さく手を振り交わしてホテルのドアを閉めた。

 ドアは、ガタンと鳴って閉まった。その音が一日の終わりを告げた。ふーと息を吐いて田上はベッドに寝転がった。思い返せばまた頭痛のしてくるような日だった。タキオンに色々と酷い態度を取ってしまった田上を、なぜタキオンが許してくれているのかは分からなかったが、今はそれがとにかくありがたかった。鈍い頭の痛みが田上を襲った。――今日は疲れた。そう思うと、目を瞑った。一二回スマホの鳴るような音がしたが、動く気がない田上はスマホを取って確認しようとも思わなかった。



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二十、走れウイニングライブ⑤

 早朝、田上は寒さで目が覚めたので、急いで布団を自分の体の上までたくし上げて再び眠りに着いた。その時に夢を見た。何とも言い切れない夢だった。

 タキオンが居た。一緒に料理を作っている夢だった。幸せそのものと言えるだろう。タキオンが卵焼きを摘まもうとするのを叱ったり、一緒に人参を切ってあげたり。そして、それを作り終わると子供に弁当を持たせて、幼稚園へと送り出した。保母さんを先頭に長い列を作っている小さな子供たちの一番後ろに田上たちの子供はついた。田上とタキオンは、外に出てそれに手を振った。子供も手を振り返していたが、早々のうちに曲がり角を曲がって見えなくなった。

 田上とタキオンは、一緒にニコニコと笑い合いながらまた家の方に戻った。田上は、玄関で一度躓いた。それにはあまり気を留めずに進んだ。リビングに着いた。すると、田上が今までいた家のリビングとは違うリビングだということに気が付いた。それに気が付くと、どんどんと家の様相が違うことに気づく。あんなところに達磨の置き物なんてない。こんなところに家族写真は置いていない。そして、家の中の寝室や廊下を嫌だ嫌だと思いながら見ていき、再びリビングに戻った時、田上は信じられない光景を見た。タキオンが、違う男の人とのんびりお茶を飲みながら会話を楽しんでいた。田上が、その部屋に入って行くとタキオンは言った。

「君は誰だい?」

「俺だよ!」と田上は必死になって訴えかけたが、一向にタキオンは自分の事を思い出そうとしない。仕舞いには、男の人が田上の方に詰め寄ってきた。

「誰なんだお前は!ここは俺の家だぞ!俺の家族に手を出さないでくれ!」

 その男の人は、昔見たアニメのキャラクターで、優しく子煩悩の父親だった。田上は、その人に追い出された。外に投げ出される間際にタキオンの「大丈夫かい!?」という声が聞こえたが、田上に向けたものではなかった。そして、地面に這いつくばった田上の前で扉は大きく音を立てて閉まった。家は、田上を脅かすように巨大にそびえ立っている。

「俺の家だったのに…」

 その家を見つめながら、田上は呟いた。リビングの窓からは、タキオンとあの人が楽しそうに話しているのが見えた。すると、不意にカランと音を立てて田上の前にナイフが落ち、急に人が現れた。どうやら、その人が田上の前にナイフを落としたようだ。その人は、三度笠を被ってボロボロの衣服をまとった流浪の侍の格好をしている。腰には、鞘に収めた刀をぶら下げていた。

 その侍は、田上の前にしゃがみこむと言った。

「それで指を落とせ。そのナイフで。お前の罪を一つ一つ落とすんだ。お前にしかできない事だ。殺せ。やれ」

 田上は、言われるがままにそのナイフに手を伸ばした。まず、人差し指だ。じわりじわりと食い込んでいくナイフを声も出さずに見つめていた。すると、家のドアが開き、男の人が「何しているんだ」と言って田上の足を蹴ってまた引っ込んでいった。タキオンが「やめなよ」という声が聞こえたが、田上は自分のナイフから目を離さなかった。そして、人差し指を終えた。次は中指だ。今度は、侍が話しかけてきた。這いつくばって自分の指を切っている田上の上で、ぼそぼそと訳の分からない事を言った。大いに怖かったが、それでも田上は自分の中指を切り終えた。その次は、薬指である。これは、目の前に子供が出てきた。誰だか知らない子供だ。そいつが、「遊んで遊んで」と田上にせがんできたがそれを無視し続けていると、駄々をこね出して田上の顔を蹴りつけ始めた。田上は、「やめろよ!!」と叫んでその子供を追い払ってからまた自分の薬指を切り始めた。そして、薬指が切れた。今度は、小指だ。そこで家の方が騒がしくなったので田上は家の方を見た。見た途端にドアが開いてタキオンが田上の上に投げ出された。優しかったあのキャラクターは今は悪役へと変貌を遂げていた。タキオンを投げ出した悪役は、下品な声で笑っていた。それにむかっ腹が立ったから田上は立ち上がるとそいつの目の前まで行き、心臓を一突きした。すると、悪役は断末魔の悲鳴を上げて溶けて消えた。タキオンが「ああ!!トレーナー君!!」と叫んで逃げて行った。まだ、悪役の事を旦那だと思っているようだ。田上は、逃げて行ったタキオンの後を追おうとしたが、玄関先でしゃがみこんでいた侍がその手を取って止め、言った。

「お前には、まだ罪がある。早く小指と親指を落とせ」

 田上は、侍には逆らえず泣く泣くまた腹ばいになって指を切り落とした。小指を切った。すると、家を囲う塀の影からタキオンがひょいっと顔を出して「トレーナー君」と呼び掛けた。そして、子供も幼稚園から帰ってきた。田上は泣いて喜んだが、侍がその喜びに水を差すように「まだ親指がある」と言った。田上は、タキオンと子供に囲まれて指を切ろうとした。そのナイフを持った手にタキオンが手を添えた。田上がそれに驚いて、タキオンを見上げるとその顔をにこりと微笑を作って言った。

「要は、野菜を切るみたいなもんだろ?」

 その冗談に田上も顔に微笑を浮かべた。タキオンが、声をかけた。

「一、二の三で切るからね。一、二の、三。それ!」

 最後の指が切れた。そこで夢が終わった。後の事は何も出てこなかったが、ただ唯一、侍が笑っていたのは分かっていた。

 そして、田上は起き上がるのだが、その前に田上が寝付き始めた頃に話を戻そう。ただ、今度は田上の話ではなく、タキオンとマテリアルの話だ。タキオンとマテリアルは、寝る前に少し話をしていた。大したことを話すでもなく、マテリアルが手鏡を見つめて美容のなんちゃらをしている時だ。ぽつりぽつりと話をしていて、その間にタキオンは田上に一二個メッセージを送ったりもした。これが、田上の部屋でスマホが鳴った原因だ。しかし、田上がスマホを取らなさそうだということが分かると、タキオンはメッセージを送るのを止めた。そこらへんでマテリアルもやる事を終わらせたので、同じときくらいに二人は布団についた。タキオンが暗すぎるのは嫌だと言うので、薄明りは付けていた。そんな中二人は眠りにつこうとしたが、ここでマテリアルがちょいと気になってタキオンに声をかけた。

「…タキオンさん」

「…んん?」

 少し眠そうにタキオンが返事をした。

「タキオンさんは、田上さんと話して生きる意味は分かりましたか?」

「生きる意味?……私は、圭一君と居れたら楽しいけど…、まぁ、後悔しない事なんじゃないのかい?」

「では、愛は?」

「愛も……。多分、愛は私の言ったとおりだったと思う。確かに君が指摘した時は冷静ではなかったけれど、私の考えに外れはなかった。愛の美しさを知っている人は、愛は美しいなんて簡単には言えないはずだよ。その裏で様々な事をしてきたから。…だからこそ愛は美しいんだけど、やはり単純化して見てしまえば、愛というのは――美しい、というただ一つの意味しか残らない。簡単じゃないんだよな、愛って」

「…ふふ、有難いお言葉です」

「んん?今笑ったかい?まさか君、私の事をバカにしている?」

「いえ、そんなんじゃありません。ただ、そう言っている時のタキオンさんはトレーナーの事を思い浮かべているのかな、と思うと少し可笑しくて。……そういうキャラではなかったじゃないですか。田上さんはあなたのモルモットだったんでしょう?」

「…やっぱりバカにしてるな。いいけど。……まぁ、キャラでなかったというのも間違いではないな。私も二転三転して変わっていっている最中だし。…研究を再開してみようかな?」

「研究ですか?」

「…いや、以前研究をやめた時は、もう次から次へと出てくる自分の研究課題にうんざりして止めたんだ。少し義務だったところもあるのだろう。あの時の私には余裕がなかったと見える。…今ならば、少し研究を楽しめそうな気がするんだ。可能性なんて追いたい時に追うのが一番だろうしね」

「そうですね」

「……君は、もう私が心配しなくても大丈夫かな?」

「え?…ああ、あれは少し気が立っていたのもありましたよ。…けれど、良かったでしょう?あの人がああやって素直に言ってくれた方が良いんですよ。あの人も後悔はないって言ってました。タキオンさんも後悔はないでしょう?」

「後悔はないさ。後悔はないけど、君にそれを言われるとなんだか腹が立つな」

「でも、嬉しかったでしょう?」

「嬉しいよ。嬉しいからもうやめてくれ。動揺が凄い」

 そこで、マテリアルがはははと声を出して笑った。その後に、外の雨の音を聞いてからマテリアルが言った。

「でも、タキオンさんももう将来安泰か…。引退したら結婚するんでしょう?」

「結婚?…するよ。プロポーズ?って聞いたら、ああって答えたんだから」

「いいなー。私の所にも白馬の王子様が来てほしい」

「白馬の王子っていう柄じゃないだろ、圭一君は。どちらかと言うと、農村の真面目な男という感じじゃないかな?」

「言い得て妙ですね。......それで、農村の男に超高速のプリンセスが恋に落ちたということですか。今時の話ですね。冴えない男の人が王女様と恋に落ちるだなんて」

「あんまりバカにするなよ。その男の人は村じゃ人気者で、なんで結婚していないのか分からないくらいなんだぞ」

「なんで結婚していないんですか?」

「知らない。本人が結婚したがらなかったんじゃないか?」

「じゃあ、王女様がその心を溶かしてあげないといけないんですね」

「ああ、ようやっとそこら辺まで漕ぎ着けたところだよ」

「……超高速のプリンセスも恋をするんですね」

「するさ。当たり前だろ?私を何だと思っているんだ」

「人の事なんて興味のない、トレーナーを実験動物として扱っていて、その癖、その実験動物と仲の良い科学者」

「…概ね間違いでもないな。今はその実験動物の事が好きになっただけだ」

「…面白いです。その実験動物を引き留めるために涙を流しながらチョコを食べさせていたんですから」

「君もあんまり口が過ぎるな…。もう寝よう。おやすみ」

「ええ、おやすみなさい」

 そう言うと、二人はこれきり話さなくなり、部屋は雨の音だけが聞こえるようになった。その内、タキオンも薄明かりが邪魔になってきたから消した。すると、部屋の中は本当になにも感じなくなった。瞼を照らしていた薄明かりも消え、雨の音も静かなクラシック音楽となってタキオンを眠りへと導いた。ここで、タキオンも夢を見た。田上と散歩をしている夢だった。

 麗らかな午後の陽の光を浴びて、静かな住宅街を散歩していた。すると、そこに自転車が突っ込んできた。二人の仲を引き裂こうと画策したのかは知らないが、タキオンは田上を守るためにその自転車を蹴倒して助けてやった。田上は、「ありがとう」と言って、散歩を続けた。

 暫く歩くと、目的地である公園に辿り着いた。公園には誰も居ない。タキオンたちの為に作られた公園だ。その中の一つのベンチにタキオンたちは座った。手を繋いでいたから、春の温かさが手を滲ませて伝わってきた。こちらも田上と同様に幸せそうだった。楽しく話をした。このまま何も無いかに思われたが、人の見る夢の常としてやはり不思議な事が起こった。

 ベンチに座って楽しく話をしていると、突然に公園の遊具の影から男の人が現れて、タキオンたちの方に近づいてきた。タキオンはその人が怖かった。その人も取り付く島もないような怖い人相をした人だった。タキオンは怯えて田上の手にしがみ付いた。田上もあまり頼りにならなさそうな顔つきでその人に挑んでいたが、一応はタキオンを庇ってその人と対峙した。

 田上は、迫ってくる男の人に聞いた。

「何の用ですか?」

 すると、男の人はニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべるばかりで、何も話そうとはしなかった。男の人は、フードを被っていた。だから、顔は影がかっていて見えづらい。しかし、口元や不気味に光るその目だけは見えていた。

 男の人は、尚も近づいてくる。田上の制止も聞かずにタキオンの耳に触った。そして、一つ二つともぎ取った。次にタキオンの尻尾を掴み、引き抜いた。案外何ともなかった。男の人は、タキオンからウマ娘としての部分を引き抜くと公園から叫びながら去って行った。

「俺は自由だーー!!」

 そこで夢は終わった。起き上がればタキオンが人間の女性になっていた。なんて事はなく、ただ、その夢だけが頭に残った。その夢について、タキオンはこう考えた。

――私は、ウマ娘でいるのが嫌だったのだろうか?

 思い当たる節は一つだけあった。田上との未来だ。自分が競走を続ける以上は、田上との結婚生活も少しだけ遠のく物となる。ウマ娘の現役の期間は長くはない。大概が二十の前半辺りで辞めてしまう。それ程長くはない。その事はタキオンの頭の中に在ってはいたのだが、この夢を見るに無意識下ではそれを長いと感じているようだった。それによって、あろう事か自身がウマ娘であることに葛藤しているからあんな狂人が出てきたのだ。無理な事を覆せる程のイカれた奴が。

 この夢の問題点は、タキオンもその夢に賛成であると言う事だ。現役なんてさっさと降りて、田上の横で暮らしたかった。これは、きっと母の通ってきた道だった。三年走れば、それ以上グダグダする事もなく、ひょいと現役の座から退いてタキオンを産んだ。自身を見てくれていたトレーナーであるタキオンの父と一緒に。ただ、これはタキオンの一存で決めるにはどうにも難しい。走るのは、楽しくもあったが、どうにもどうにもタキオン一人じゃ考え切れなかった。だから、タキオンは起き上がるとすぐに着替えて田上の部屋へと向かった。

 

 田上は、あの夢を見て起きた後は普段通りに朝の支度をして、部屋から出て行った。朝食までまだ少しあり、ホテルの外を散歩しようと考えた。雨は、田上が起きる前に上がっていた。田上は、桜がどうなっているのか気掛かりだった。昨日の雨は、中々に強かったので散ってしまったのではないかと思った。しかし、土曜日に行った公園に行ってみると、桜はまだ咲いていた。地面に落ちていた花びらは湿って汚く見えたが、上の桜はまだまだ咲き誇っていそうだった。

 その薄桃色の花びらを見て歩いて行くうちに、タキオンと座ったベンチが見えた。それを見ると、どうしようもなく胸がざわついて、自分の下した決断が良かったものかどうか怪しくなり始めた。田上は、物事の判断基準が分からなくなり、その混乱から逃げ出すようにそのベンチの前を走って通り過ぎた。どうしようもなく嫌だったが、二つ三つ離れたベンチに田上は座り込んだ。その位置からはまだあのベンチが見える。それからふいと目を背けて、田上はベンチの上で背を丸めて俯いた。指を組んで膝の上にそれを置くと、地面を一心不乱に見つめ始めた。何も分からなかった。タキオンとキスをしたことが正しい事なのか。タキオンと添い遂げる事を決めたのが正しい事のなのか。それを黒い沼のような頭の中で田上は考えようとしていた。

 タキオンは、田上の部屋をコンコンと叩き、十数秒待って、もう一度叩いて誰も出てこないとなると、そのドアを開けて中に入った。田上は、ちょっと出て帰ってくるつもりだったので鍵を閉めていなかった。それだから、タキオンは中に入れたわけなのだが、当然中には誰もいない。がらんとして電気の付いていない部屋を見渡してタキオンは、一つ鼻を鳴らした。まだ、朝食の時間ではない。なので、ロビーあたりで何かしているのかと見当をつけて、タキオンは田上の部屋から出て行った。

 しかし、ロビーの方にも田上はいなかった。ロビーに置いてあるテレビの中でニュースキャスターがピーチクパーチクと話しているだけである。今度は、タキオンは田上がトイレに出ていてその時だけ留守だったのじゃないかと見当をつけた。それで、田上の部屋をノックもせずに開けて入ると、まだ誰もいない。全く以て出ないような便で無ければもうそろそろ帰ってきていてもおかしくないはずだ。

 タキオンは、――圭一君はどこにいったのだろう?と首を傾げながら、次にホテルの受付の方に向かった。人探しは、人に聞くのが一番だ。ちなみに、文明の利器であるスマホはベッドの上に置かれているのを確認した。

 タキオンは、受付の人に「渋い顔の男が出て行かなかったかい?アグネスタキオンのトレーナーの田上って人なんだけど」と聞いた。受付の人は、目の前のアグネスタキオンという大物に苦笑しながら、「出て行くのを拝見いたしました」と言った。「どこに行ったのかは?」とタキオンが聞くと、受付の人は苦笑をそのままに「存じ上げておりません」と答えた。タキオンは、「ありがとう」と言って出入口の方に立ち去って行った。

 ここまで来たら、タキオンのいくところは一つだった。昨日、足を運んだ公園だ。それ以外であれば、もうタキオンは諦めるつもりだった。通りには、出勤途中の人がぞろぞろと歩を進めている。その人の波を見つめながらタキオンは、公園へと歩いた。誰もタキオンには気が付かない。皆、前に歩くのに一生懸命である。各々スーツを着て髪型を整えて、真面目な顔をして歩いている。その人たちの間を通り抜けると、タキオンは公園へと足を踏み入れた。

 

 公園には、ちらほらベンチに座って桜を見ている人やスマホを眺めている人が目に着いたが、一際目を引いたのは地面を見つめてピクリとも身動きをしない田上だった。その状態からタキオンには田上の心が察することができた。恐らく、つい昨日の出来事であるタキオンと田上の関係性の変化についてだろう。タキオンは、どうしてやろうかな?という風に鼻を一つ鳴らして、田上の座っているベンチの方へと歩いて行った。

 田上は、ぐるぐると考えがまとまらずにじっと地面を見つめていた。そこで、隣にタキオンが座ってきたから驚いた。その拍子に顔を上げると、タキオンの赤い目が自分を見つめているのが分かった。分かりはしたが、あんまり嬉しいものではなかったから、タキオンから距離を空けるため、ベンチの上でタキオンのいる方と反対の方向にちょっとずれた。すると、タキオンも田上の方にずれて近づいてきた。田上は、困ってしまって無意識のうちに口に手を当てタキオンから顔を逸らした。タキオンは、それを覗き込むように身をかがめて言った。

「何か悩んでいるようだね?言ってごらん?未来の妻に隠し事は不要だ」

 その途端に田上は立ち上がった。自分でもなんでそんな事をしたのか分からなかった。しかし、考える間もなく自分の体は、タキオンから逃げるように公園の芝生周りの道を歩き始めた。タキオンもその事に多少驚きはしたが、難なくその横について一緒に歩き始めた。田上は、競歩にも近い早歩きで歩いていたが、タキオンはウマ娘だ。所詮、成人男性の競歩なんて恐るるに足らなかった。普段、田上と歩くときはなるだけ歩みを遅くしているのだ。タキオンは、自分の歩きたい速度で歩きながら、田上に話しかけた。

「桜は、まだ綺麗だね。君も桜が気になってここまで来たのかい?」

 田上は、何も答えなかった。答えなかったが、これはどうにもタキオンを振り切ることができなさそうだと考えると、唐突に近くにあったベンチの方に体の向きを変え、それに座った。タキオンは、半笑いになりながら「なんでそんなに私を振り切ろうとするんだい?」と聞いた。田上は、仏頂面を崩さずに、タキオンの方を向かずにこう言った。

「……お前と結婚するなんて…、俺には…俺には考えられない」

「どうして?」

「だって、……お前は俺の教え子だ。ただの女子高生だ。未成年だ。そんな奴と結婚だなんてバカげてるだろ」

「私はそうは思わないけどね。大体、昔の人は十六で結婚する人も居たそうだから、そこの所に大した意味は無いと思うのだけれど。しっかり考えることができて、子供も産める年齢になったら結婚なんてどうぞご自由に、という感じじゃないのかい?」

「…それだよ。未来が俺には描けない。子供を作るつもりがあるのか?」

 田上は、恐る恐る聞いたが、タキオンはこれまでのように難なく「勿論」と答えた。その答えを聞くと、田上は頭を抱えた。

「俺は、…俺は、どうすればいいのか分からない」

「性交が、って事かい?」

「いや、…いや、いや、いや、それもあるけど、…結婚ってなんだ?具体的にどうするんだ?」

「そりゃあ、子供作って料理作って家族になるんだろう」

「家族?お前と?」

「なりたくないのかい?」

 タキオンが少し眉を下げて言うと、田上の心に動揺が響いた。

「そうじゃないそうじゃない。怖いんだ。やっぱり、俺はまだ人と触れ合うっていうのが怖いんだ。お前だけじゃない。俺に触れてくる奴皆が怖いんだ」

「でも、私と共に生きる決断に後悔はないんだろう?」

「後悔?…お前に自分の気持ちを伝える事をずるずると引き延ばしていたら、いずれ後悔するだろうって事が分かったから言っただけだ。あの言葉に後悔はない。けど、どうすればいいのか分からない。お前とどう向き合えばいいのか。一昨日、お前が俺にキスした時からそうだ。何か、訳が分からなくなった」

「じゃあ、もう一度キスをしてみるかい?」

 タキオンが、田上を誘惑するように少し身を寄せると、田上は怒りに身を任せて立ち上がった。立ち上がったときは身に怒りをみなぎらせていたが、タキオンの顔を見た途端にそれはひゅうと萎んでいった。ここで悪口雑言をぶつけても何にもならないことは分かっていた。田上は、疲れたため息を吐くと力なくベンチに座り直した。

「もう二度とそんな真似はしないでくれ」

「…すまない」

 タキオンもまさかあそこまで田上が怒った顔をするとは思わなかった。

 

 それから、少しの間沈黙が続いた。頭上の桜からは、はらはらと花びらが舞い落ちてくる。その間にタキオンは少し妄想をした。田上と家族となってここに来る妄想だ。舞い散る花びらの中を楽しく話しながらこの公園を散歩する。誰も邪魔する人なんていない。

 そこで唐突に思い立ってタキオンは田上に呼び掛けた。

「圭一君…」

 田上は、また先程の時と同じ体勢をして、ぐるぐると頭の中でまとまらないことに何とかけりをつけようとしていた所だった。

「ん、なんだ?」と田上は答えた。それにタキオンが言った。

「私、…どうやらどうやらウマ娘では居たくなかったみたいだ」

 田上は、思いもよらない質問だったから、驚いて身を起こした。タキオンは、田上の方は見ずに話を続けた。

「私、今日夢を見たんだよ。君と散歩している夢だった。それはそれは、楽しかったんだけど、公園のベンチに座って話していると、ある時物陰からフードを被った男の人が出てきた。君はやめろって言ったんだけど、それでもその人は近づいてくるんだ。そして、私の耳と尻尾を引っこ抜いて公園から叫んで出て行った。――俺は自由だ~、ってね」

 そこで、タキオンは田上の方を向いて言った。

「これには思い当たる事があるんだ。君との関係性だ。…君は、私が…その引退したら結婚しようって言ったね?」

「…ああ」

「どうも、無意識下の私はそれじゃ納得がいっていないようだ。それをするくらいなら、ウマ娘をやめたいと思っている」

「…大変だ」

「そう、大変だ。だから、君に相談しなくちゃならないと思って、ここまで君を探しに来たんだよ」

「そうか…」

 田上は、さっきから他人事のように返事をしている。その田上にタキオンは聞いた。

「圭一君。…私は、三年いっぱいで現役から退きたいと思う。君はどう思う?」

「俺?………いいんじゃない?」

「今の間は?躊躇いがあったね?この事については、慎重に話さなきゃならないと思うんだ。後悔のない君の意見を聞かせてくれ」

「…俺、…俺?…俺は、…俺。…ちょ、ちょっと待ってくれ。タキオンは、走る事より俺と居る事の方が良いのか?」

「ああ。私は、それでいいと思うけど、なんなら今すぐにでも現役を退いてもいい」

「それで、俺と俺と入籍するつもりなのか?」

「ああ。多分、私の両親は、君とであれば何も言う事は無いと思う」

「それは分からない。こんなに精神が不安定な男だぞ。絶対にお前が不幸になるのは見え透いてる」

「まだそんな事を考えているのかい?それなら私は構わない。全部、受け止めて話し合うつもりだ」

 ここで、タキオンがまた少し身を寄せてきた。今度は、感情的になったからだった。だから、田上は立ち上がってタキオンから離れて言った。

「ちょっと待ってくれ。…俺は、…俺は、まだ定まっていないんだ」

「何が?私と結婚をすることがかい?昨日、あんなに啖呵を切ったというのに?」

「いや、…いや、そうじゃないんだそうじゃないんだ。……俺は、…俺は、…お前を…家族だなんて…」

 田上がそう言ううちにタキオンも立ち上がって、田上ににじり寄った。だから、当然田上も一歩一歩後ろに下がっていく。しかし、田上のすぐ後ろは茂みだった。すぐに下がる事はできなくなった。

「私は、君と共に生きたい。その覚悟はできてる。君も後は覚悟だけだ。…私を受け入れてくれ」

 タキオンは、両手を広げて田上の方に尚もにじり寄った。田上は、もうこれ以上下がれない。迷いに迷った。タキオンを受け入れるべきか、そうじゃない道を探すべきか。しかし、何も考えられない。何もまとまらない。どうすればいいのか分からない。頭が混乱の絶頂に達する。その時に、頭の中の田上は「待った」の号令をかけた。

「待って待った待ってくれ。今の俺には決められない。頭が働かないんだ」

「でも、そうも言ってられないよ。いずれ時は来るんだ。その時に決められなかったらどうするんだい?自分の咄嗟の選択に後悔する羽目になるかもしれないよ?…何がそんなに君を苦しめるんだい?私と添い遂げるのを拒否するのは君も後悔に繋がってしまうのは理解しているんだろ?」

「理解してるさ。理解してるけど、今はどうしようもないんだ。頭の整理が付かない。…もう朝飯の時間だ。行かないと」

 田上は、自分の腕時計を理由に咄嗟に逃げ出そうとしたが、ここは相手がウマ娘だ。例え、田上が走って帰ろうとしていたとしてもすぐに追いついて隣で詰問し始めた。

「君、昨日は私の手をしっかりと握ってくれていたじゃないか。今日は、どうだい?私の手を握ってくれるだろ?」

「嫌だ」と走りながら端的に答えた。

「逃げてもどうしようもないぞ。一緒に考えよう?パートナーだろ?」

「分からない」

「分からないじゃ済まないよ。君、何を想って私と一緒に過ごしたいだなんて言ったんだい?あれは、私を誑かす為の嘘だったのかい?」

「ああ」と初めにそう答えたが、不味いと思ったのかすぐに「違う。…けど、違わない」と曖昧に答えた。

 ここで息が切れて、田上は走りを歩みへと落とした。ただ、タキオンは尚も田上の横について言った。

「家族になりたいんじゃないのかい?私と一緒に過ごしたいんじゃないのかい?私の事が好きなんだろ?なら、正直になりなよ」

 田上はタキオンを睨みながら息を整え、その後に言った。

「分からないって言っただろ?今は答えが出せない」

「だから、私と一緒に考えようって言ってるんじゃないか」

「お前にだって答えは出せない」

「そんな事やってみないと分からないじゃないか。私の事を舐めてないかい?」

「舐めてる。舐めてるから、もう話しかけないでくれ」

「そいつはないだろ。私は君の事が好きだし、君も私の事が好きなんだったら、仲違いして口を聞かないのは全くの無意味だ。それに、私は君に話さないでくれと言われて、はいそうですか、とはいかないからね」

「じゃあ、せめて朝食まではもう何も言わないでくれ。とにかく、今は時間がない。朝食に遅れても面倒だから、何も言うな」

「二回も言う事はないだろ。分かったからそんなに睨まないでくれ。傷付く」

「悪かった」

 そう言って田上は前を向くと目を和らげる努力をしたが、どうしても目の周りの力の張りが取れなかった。だから、田上は前を向いて歩いた。タキオンも田上が、しきりに目の周りを揉んで力の張りを無くそうとしているのを見ていたから、「もう睨んでも良いから私の顔を見て話してごらんよ」と言った。しかし、田上は頑としてそれを受け付けず、ただひたすらに前を見てタキオンの横を歩いた。タキオンは、その田上の様子を悲しくもあり愛しさもある眼差しで見て、その後に田上の腕に引っ付いて歩いた。そして、頬もつんと一つ突いた。田上は、「やめろ」とタキオンの顔を睨んで言ったが、特に腕に引っ付いているタキオンを引き剥がそうとはしなかった。それだから、タキオンはホテルまではそうして歩いた。道行く人でタキオンたちを呼び止めそうな人は誰一人いなかった。皆、誰も彼も忙しそうだった。

 ホテルの近くまで行くと、タキオンの方から離れた。田上は、それを見て驚いたが、その後に疲れたようなため息を一つ吐いた。タキオンは、「どうしてそんなため息を吐くんだい?」と不思議そうに言ったが、田上の返事は「朝食かそれ以後に話そう。今後は、どうしても決めなくちゃいけない」ということだった。別に、その返事自体はどうでも良かったのだが、それを言った時の田上の顔があまりにも苦しさに歪んでいて、見ていて憐れだった。優しく頬を撫でて安心させてあげたかった。だが、そんなことをすれば、田上はタキオンの手を振り払い、もっと疲れた顔をするのだろう。田上の心を悩ませているのは、タキオンとの関係性なのだから。



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二十、走れウイニングライブ⑥

 ホテルに入るとロビーにあるテレビの朝のニュースが目に飛び込んできた。丁度、自分たちの事をやっていたからだ。

――アグネスタキオン、田上トレーナーを熱望か?

 恐らく冗談の見出しなのだろうが、冗談にしては性質が悪かった。テレビには、昨日のウイニングライブの映像の一部が使われていたから、話題になったとかなんとかでニュースに取り上げられたのだろう。幸いな事にそのニュースは、ニュースキャスターがちょっと状況を説明して、何か自分の考察を出したばかりで終わっていった。その考察は、概ね間違ったようなものではなかったが、田上にはそれが苛ついた。タキオンは、そのニュースを見ると、困った顔をして言った。

「ちょっと不味かったかな。君は、あんまりあのニュースは真に受けなくてもいいと、私は思うね」

「俺は…、生きるよ」

「…そう言ってくれるとありがたい」

 そして、二人は朝食を食べにレストランに行った。どうやら、余裕をもって間に合ったようで、先に座っていたマテリアルが国近と一緒に出迎えた。

「どこに行っていたんですか?」とマテリアルが聞いてきたから、タキオンが席につきながら「公園にちょっとね」と答えた。マテリアルは、不思議そうな顔をしながら「へ~」と言い、その後に不意に思いついたようにタキオンの正面の席に座った田上に言った。

「私が、田上さんの事を白馬の王子様と例えて言ったら、タキオンさんは――それは違うって言ってきたんです。タキオンさんが、言った例えって何だと思います?」

 田上は、唐突な問題に「え?」と聞き返すほかなかったし、横で聞いてたタキオンは「それを話すのかい?」と嫌そうな顔をした。それだから、マテリアルが「ダメですか?」と聞くと、タキオンは「ダメではないけど…」と田上の顔を窺いながら言った。

 それで、マテリアルがもう一度田上に説明をして、田上に答えさせた。田上は、農村の真面目な男なんて言葉を一度で思いつけるはずもないので、無難なところで「モルモットに乗った王子様?」と答えた。すると、横からタキオンが「モルモットは君だろ」とツッコミを入れた。マテリアルは、「ぶっぶー」と不正解の音を出した。だが、正解を言おうとはしなかった。だから、田上が、「もう分からないです。正解は?」と聞くと、「あともう一回だけ答えてみてください」と催促をした。あと一回と言われたので、田上も仕方なくタキオンを見つめながら考えた。様々な案が浮かんでは消え、浮かんでは消えたが、最終的に残ったのは案外惜しいものだった。

「……農村の役立たず?」

「惜しいけど、私が君に対してそんな事を言うわけないだろ」とまたしてもタキオンはツッコミを入れた。それから、マテリアルが正解を言うのを待った。

「惜しい!タキオンさんが言ったのはですね。農村の真面目な男です。白馬の王子さまって柄じゃないそうですが、農村の真面目な男って柄ではあるそうです。大分、あなたに対してぞっこんですよ」

 いらない事をマテリアルは言ったが、タキオンは田上の反応が気になったので敢えてそれを止める事はしなかった。けれども、顔に多少の熱が帯びていく感覚がした。

 田上は、その事を聞くとタキオンの方を見つめた。タキオンもまた田上を見つめ返した。田上は、一瞬疲れに歪んだ顔を見せたが、静かにこう言った。

「あんまり良いイメージじゃないのか?」

「そんな事は無いさ!君のイメージとして言っただけであって、そこに良いも悪いもないよ。ただ、爽やかな白馬の王子よりかは農村の真面目な男の方がイメージとしてより近いかなという事だよ」

 タキオンがそう言うと、横から国近が口を挟んできた。

「え、俺はどういう風に見える?」

「え?君?…落ち武者」

 タキオンは、面倒臭かったので雑に答えた。それが、案外国近の笑いを誘って、一時話すどころではなくなった。そして、国近が笑い終わってしまえば、マテリアルが口を開いて田上に言った。

「タキオンさん、あなたの事がよっぽど好きみたいで、農村の真面目な男の事を熱弁してましたよ。結婚していないのは心に蟠りがあるとかなんとか」

「それは君が聞いたからだろ!」

 少々怒り気味でタキオンが言ったから、マテリアルは「すみませんすみません」とへらへらしながら謝った。けれども、凝りもせずそのまま話を続けた。

「これは、私の妄想なんですけどね。あなたが、農村の真面目な男で、タキオンさんが、超高速のプリンセス。つまり、王女様って事ですけど、それって素敵じゃありませんか?」

「素敵?…そうかもしれませんね」

 田上は、求められた答えに苦笑しながら答えた。

「そうですよ。王女様が、農村の男の人に恋に落ちてその心を溶かしていくんです」

「もういいだろ。やめてくれ」

「ちょっと待ってください、タキオンさん。今、良いところなんです」

 そう言うと、不満そうな顔をしつつもタキオンは引き下がった。そこで、ちょっと田上の顔を見た。田上もタキオンの顔を見ていて、目が合うとタキオンにふっと笑いかけてきた。タキオンは、それをされるとマテリアルの話を遮って思わず言ってしまった。

「君、やっぱり女ったらしだろ!そんな風に笑いかけるなんてさぁ!」

 すると、瞬時にマテリアルがそれに対応して、聞いてきた。

「ドキドキしてしまったんですか?」

「んなわけないだろ!」

 マテリアルにそう言ってから再び田上の顔を見たが、田上と来たらさっきとあまり変わらない表情でタキオンの事を見ていた。途端に、また顔が熱くなった。手で顔を覆うと、その指の隙間から田上を見つめて、ぼそっと呟いた。

「君、十分かっこいいと思うんだけどな…」

「え?」と田上が聞いてきた。タキオンは、この言葉は今は聞かせる気は毛頭なかったのだが、面倒な事に横からマテリアルが田上に言った。

「君、十分かっこいいと思うんだけどな…、って言ってました」

 それで、田上は苦笑してしまったし、国近とソラは同じ様な顔でにやにやとタキオンと田上を眺めていたし、タキオンはマテリアルに怒ってその頬に拳をぐりぐりと押し付けた。マテリアルは、へらへらとして謝っていた。

 やがて、朝食の時間が始まった。今回の朝食はタキオンが振り回されるばかりとなった。マテリアルが、タキオンの事を面白可笑しく話してはタキオンが「やめろよ!」と言ってマテリアルの頭をぐりぐりして、その都度田上は苦笑していた。そして、タキオンと目が合うと、ふっと笑いかけたてきたから、より一層のタキオンの田上への惚れ具合が露わになった。

 こんな感じでてんやわんやしていたから、おかげで皆が朝食を食べ終わる頃にはタキオンはまだ食べ切っていなかった。だから、トレセン学園の大阪杯のチームの引率者が「皆さん、三十分後までに荷物をまとめて玄関口まで来てください」と言う時も急いで口にご飯を詰め込んでいた。そして、その人の話が終わる頃にようやく食べ終わる事ができた。

 

 朝食の後にゆっくり話ができると田上が思っていたのかは謎だったが、タキオンは手っ取り早く荷物をまとめると、すぐに田上の部屋へと向かった。田上は、あまりタキオンと話したがらないようだった。荷物なんて、そこまでぐちゃぐちゃにした覚えもないし、また、ぐちゃぐちゃにしたとしてもものの四五分で片付けることのできる量だ。タキオンを相手にするには、三十分では足りないにしても、朝食の後に二言三言話す時間は十二分にあったはずだ。それだけども、田上は忙しいだ何だと理由を付けて動き回って、タキオンが話しかけて来るのをのらりくらりとかわした。タキオンも今の隙間時間では、満足のいくまで話せないことは分かっていたから、そこまで問い詰めることはしなかったが、多少の不満は残った。朝食の後、というのは元々は田上の方から言い出したことだった。それを田上の方から破るのは少し裏切られた気がした。

 それで、タキオンがつまらなさそうに田上の部屋のベッドに座っていると、さすがにちょっとの後ろめたさがあったのか、田上とタキオンの目が合った。タキオンは、田上の動く様をじっと見つめていた。田上は、タキオンから必死に目を逸らそう逸らそう、忙しいふりをしようふりをしようとしていて、それが少し緩んでしまった時に目が合ったのだ。田上は、タキオンと目が合うと動きを止めてしまった。それだから、タキオンはもう話すつもりなんてなかったのだが、思わず「何か用かい?」と聞いてしまった。田上は、そう聞かれると目を泳がせて、何か考え込んだが、言いたいことが決まると言った。

「俺に人を愛するなんて事は無理そうだ」

「どうしてそう思ったんだい?」

 タキオンがそう言っている間に、田上は忙しいふりをするのも忘れて、ベッドに座っているタキオンの横に自分も座った。

「人を好きになるっていう事がどうしても受け入れられない」

「私は、大丈夫だと思うけどね。ほら、人って変わるだろ?君も、以前は好きな人なんていないという態度だったけど、今はこんなに私の事が好きだ好きだと言っているじゃないか。それなら、きっと変われるよ」

 その言葉が、恥ずかしかったのかどうなのか、田上はタキオンの顔をじっと睨んだ。タキオンは、――きっと恥ずかしかったのだろう、と見当をつけてその顔をじっと見つめ返した。二人は、そのまま十秒くらい見つめ合ったが、先に目を逸らしたのはやっぱり田上の方だった。目を逸らしながら、はぁとため息を吐いた。このため息は、自分の根性にうんざりしたから出たものだった。そうした後に、田上は言った。

「もう玄関に行こう。バスが待ってるよ」

 田上は、自分のバッグを持って立ち上がった。タキオンもまた一緒に立ち上がった。それから、田上に言った。

「私は、君の事が好きだし、君の事をいつまでも待ってるよ」

 すると、また田上は目を部屋の中にキョロキョロと泳がせ、最後にタキオンの方を見、言った。

「世界で一番望みのない選択をしたな。こんな愚図、さっさと見捨てりゃいいのに」

「それは、散々言ったろ。後悔するから君を見捨てないんだ。こんな可愛い奴を放っておける奴がいるか?いや、いないだろう。そのくらい私の中で君は大切なんだよ」

 そう言われると、田上はレストランでした時のような笑みを顔に浮かばせてタキオンにこう言い返した。

「だから、お前が好きなんだ」

 その途端にタキオンは、びっくりして顔を赤くして恥ずかしくなって慌てた。そして、そのまま手で顔を覆った。田上もその仕草に驚いて「どうかしたのか?」と聞いた。

 タキオンは、手で顔を覆ったまま、恥ずかしさのあまり声の調整の仕方を忘れて大声で答えた。

「私の顔を見ないでくれ!女ったらしめ!いつからそんな事が言えるようになった!」

「そんな事で動じるような奴だったか?自分からぐいぐい攻めてくるくせに」

「私もちょっとおかしくなった!君と想いが通じ合ったのが嬉しくて、君のその笑顔が嬉しくて調整が利かない!」

「…迷惑かけたな…」

「ああ、そうだよ!おバカモルモットめ!これからも迷惑をかけるつもりだろう!そんなら私にもっと優しくしろ!」

 その言葉が終わると、田上は、自分の顔を覆っているタキオンの手をそっと掴もうとした。それに、タキオンは、自分の顔を田上が見ようとしていると思って、抵抗してきたので、「いや、違うんだ」と声をかけてタキオンの手を緩ませた。タキオンは少しずつ少しずつ手の力を解いていって、田上の顔を見た。田上は、タキオンの顔ではなく手の方を見つめていたから、タキオンも自分の手の方に目線を移した。よく見る大きな手が自分の手を握っていた。窓から入る外の日差しが、その手を照らす。タキオンは、田上の方をチラと見上げた。田上は、何を想っているのか知らないが、しきりにタキオンの細い指を揉んでいた。だから、タキオンもまた自分の手に視線を戻した。すると、田上が口を開いて「タキオン」と言った。もう一度田上の方に視線をやったが、今度もタキオンの方は見ていない。どうやら、田上はタキオンの顔を見るのが照れ臭いようだった。それに少し愛おしさを覚えながら、タキオンは田上の話を聞いた。

 田上は、タキオンの指を揉みながら話した。

「俺は、…。俺のどこが好きなんだ?」

「どこ?…そんな事問われて、――はいこれです、なんて言えないけどな。全てだよ。君の全てが好き」

「そんなありふれた言葉は聞きたくない。なんで俺の事を好きになったんだ?後悔するしないにしても、俺は、愚図で鈍間で情緒不安定の老け顔だぞ。どこに好きになる要素があるんだ」

「まぁ、老け顔についちゃ議論の余地なく、私はかっこいいと思っている。君って素敵だよ?」

「素敵?人生で一度もそんな事言われた事がない」

「君のお母さんにもかい?」

「母さん?……まぁ、そんな事を言ってたような気もするけど、母さんはノーカウントだろ?大概は、褒めるようなもんだろ」

「それならそれでいいが、君の顔ってかっこいいよ。その少々渋めの顔も君のかっこいいところの一つさ。四十代って言われたのは、二十代にしちゃ少しだけ皺が多いって事かな。ちょっと君は疲れすぎだね。…でも、私は気にならないけどね」

 タキオンがそう言い切ると、田上が口を開いて何か反論をしようとしたが、言葉が出てくる前に部屋の扉がコンコンと鳴った。

「行かなきゃ」と田上が言った。まるで、喉の奥から出てこようとしていた言葉の波を一気にかき分けて、出てきた言葉のようだった。タキオンは、もう少し話していたかったが、さすがに時間の流れには逆らえない。田上の後について、部屋を出た。部屋の扉を叩いたのは、当然の如くマテリアルだった。もう、タキオンと田上が仲良くしていてもとやかく言う事は無い。ただ、タキオンと目が合うと少しニヤリとした。それでも、出てきた言葉は「もうバスに行かないといけない時間ですよ」だった。タキオンは、挨拶程度にニヤリとし返すと、田上の方を向いて言った。

「帰ったらもう一度話そう。…どこで話す?」

「俺は、あんまり話したくない。それに、トレーニングもないのにお前と会うのは業務外だ」

「恋人と会うってのに、君は仕事じゃないといけないのかい!?」

「お前は…お前は…、…どうしたらいいんだろう…」

 そして、あんまり事情の分かっていないマテリアルが、無神経に聞いてきた。

「あれ?まだ、心は定まっていなかったんですか?」

 これは、田上はされたら困る質問だ。だから、代わりにタキオンがそれに答えた。

「ああ、そうだよ。どうやら、私の事が好きなんだけど、どうにもどうにもらしい。…まぁ、初デートは決まったよ。海に行くんだ」

「赤坂先生って方と遊ぶのはどうなっているんですか?」

「それは、後からだ。まず、デートの方が先」

 そこで、田上が口を挟んだ。

「デート?」

「え?…ああ、そうさ。デートだろ?恋人同士が行くんだから」

「恋?…人同士は……」

 田上が言い淀むと、タキオンが「なんだい?」とその続きを催促した。だから、田上も少しずつ言った。

「恋人は、……ちょっとの間表現を控えてくれないか?…俺の心が定まっていないのに、そんな事言われると余計に定まらなくなる。…明日、トレーナー室に居るから、そこで話そう?」

「でも、トレーナー室だと二人きりになれないだろ?それじゃ話しにくいんじゃないか?」

「じゃあ、どこで話せばいい?」

「…研究室かな。あそこであれば、二人きりになれるだろ?」

「俺は…、あそこでまたお前と二人きりになんてなりたくない」

「じゃあ、どこがあるんだい。……まさか、君、トレセンに帰るなり事なかれ精神を出して、また前に逆戻りするんじゃないだろうね」

「……いや、そんな事は…ない」

「今の間はなんだい?私が、一番許さないのはそれだぞ。また、引き返すことだ。…研究室の何が不満なんだい?」

 そこで、部屋の扉が開いて廊下を誰かが通って行ったから、田上がそれを気にして動揺した。

「ここで話しちゃ誰かに聞こえる。筒抜けだ」

「ならどこで話せばいい?」

 タキオンが厳しくそう聞くと、田上も悩みに悩んでから言った。

「明日、……研究室に行く」

「…私は今日がいい」

 今度のタキオンは、頑張って決断をした田上に少し配慮した口調をとったが、その目は田上をじっと見据えていた。

「私たちの将来に関わる事だ。…できれば、今日がいい。…昼頃にあちらに帰り着くんだろ?」

「ああ。……だけど、……」

 田上は、中々話し出せない。マテリアルは、この場で二人を見つめていてどうした物か迷ったが、ここで自分が動き出して田上がそれに便乗してしまえば、タキオンに怒られそうな予感がしたので簡単には動き出せなかった。廊下は、バスに向かう人が現れだしてきた。中には、タキオンと田上を――何をしているんだろう?という目付きでじろじろと見てくる輩もいる。田上は、これにはどうしようもない。廊下の人が気になってどうしようもないし、タキオンも答えを出させようと見つめてくる。板挟み状態だ。それで、助けを求めるようにマテリアルの方をチラと見た。マテリアルは、田上の目を見ると、助けを求めてきているんだろうなという事がなんとなく分かったが、恐ろしく迷惑だった。それでも、自分も早くバスの方に行きたかったのでタキオンに提案した。

「バスの中で話したらどうです?」

「バスの中?」

 少し怒ったようにタキオンがマテリアルに聞き返した。そして、田上の方を一度見てからマテリアルに言った。

「バスの中なんてここより気が散るだろ?圭一君が話せないだろう」

「田上さんどうですか?」

 また、田上の方に矛先が向いた。田上としてはもう話をしたくなかった。どうしようもないことだらけで自分の殻に閉じこもっていたかった。なので、中々話し出さない。マテリアルもバスの時間が気になる。そこで、マテリアルはタキオンの方を説得しにかかった。

「タキオンさん、どっちにしろここでも話せませんよ。帰れば、時間はいくらでもあるんです。次走の話でもしながら、これについて話せばどうでしょうか?なんなら言われれば私がトレーナー室から出て行きますので」

 タキオンは、しかめっ面をした。しかし、自分の頭の中でもこれ以上話してもどうしようもならない事は分かっていたので諦めた。その代わりに、田上にこう言った。

「水曜日に、…海に行こうね。お洒落していくから、私に見惚れないようにしろよ」

 タキオンは冗談交じりにそう言ったが、田上は浮かない顔で「ああ」と答えた。それから、三人はバスの方に向かった。バスの中では、タキオンも田上もあんまり話さなかった。タキオンは、バスの窓から終始外を見ていたし、田上は何もすることがないので寝ていた。それは、飛行機に乗って帰るときも、また、バスに乗ってトレセンまで行くときも同じだった。二人は、必要な事だけしか話さなかった。それを、バスの後ろに居て見ていた国近は心配した。心配したが、何も言い出すことはできなかった。何が原因かも分からないので、適当に口出ししてしまえば、悪化の線もあるだろうと思ったからだ。――ひょっとしたらちょっとした、小さな喧嘩かもしれない。と国近は思ったが、あの田上に限って、小さなことで喧嘩をするのは考えられなかった。田上は、決して短気な男ではないのだ。国近はそれをよく知っていたが、前にあるしょんぼりとした背中をただ見つめる事しかできなかった。

 

 バスは、トレセン学園についた。トレセンに帰れば、タキオンは大勢に迎え入れられた。タキオンと同じクラスでありながら、普段はタキオンを敬遠している連中だ。バカみたいに笑顔を作って、「凄いね」「おめでとう」と言ってくる。こいつらも一週間すれば、またタキオンから遠ざかるのだ。そんな事を想いながら、人並みの中をかき分けていくと、親友の姿が見えた。アルトとハナミだ。こいつらもニコニコと周りの人と同じように笑っているが、小さく手を振るだけで何も言わなかった。タキオンは、この人らがこのまま何も言わないつもりなのだろうと思ったから、自分から近づいて行った。そして、二人の前に言った途端、こんな言葉が口から零れてきた。

「嗚呼、二人共。…疲れたよ」

「頑張ったね」とハナミが言って、「お疲れ様」とアルトが言った。タキオンは、二人の友に暖かく迎え入れられた。そして、人の波の一番端の方に見覚えのある長い黒髪と金色の怪しげな目が見えた。また、別の親友であるカフェだ。その顔を見ると、なんだか元気が湧いて出た。

「やあやあ、カフェ!君がここまで来てくれるなんて珍しいじゃないか」

「……元気そうですね」

「元気なものか!今回の大阪杯の旅は、私の十七年の人生の中で一番大変だったよ」

「…何があったんです?」

「それは、また後日のお楽しみさ。…あれ?圭一君は?」

 タキオンは、田上が座席で何か準備をしていたので、先に降りてきたのだったが、田上は一向にバスから降りてこなかった。何かあったのだろうかと思って、後ろを振り返ってみたが今は人の波の中で後ろに引き返すのは無理そうだった。

 ウマ娘の女子高生の頭の向こうにちらほらと黒い髪の男たちが見えたが、それらは皆人波を遠巻きにして帰ろうとしていた。タキオンは、田上があそこの中にいるに違いないと思った。田上との話はまだ終わっていない事は向こうの承知の事だろうから、それを避けるために先に逃げて自分の部屋に引きこもろうとしているんじゃないかと思えてならなかった。だから、タキオンは「ちょっと通してくれ」と言うと、強引に人の波を通り抜けていった。人波は、そんなに簡単に通れるものじゃなかった。誰もかれもタキオンの見てくるし、タキオンに一度触れておこうと手を伸ばしてくる輩もいた。その手がタキオンの鼻の穴を引っ張ろうとした時には、タキオンもブチ切れて「やめろよ、バカ!!」と怒鳴った。すると、人波はタキオンをすんなりと通し始めた。

 トレーナーたちの群れは、もう自分たちだけで寮に帰ろうとしていた。そこに田上が「圭一君!!」と呼び掛けた。群れの最後尾が、何人か振り返り顔が分かった。しかし、そのどれでもない。田上は、その群れの中間に居た。堪え切れなくて、タキオンの方を振り返ったようだ。その瞬間に目と目が合った。田上は、不味いと思ったのだろう。そこで一目散に道を駆け出した。寮まではあと少しだ。田上が走り出すとタキオンも追いかけた。自分の荷物はそこらへんに放っておいた。田上も全力で逃げているが、距離はそれほど遠くはない。五十メートルあるかないかだ。ただ、群れがその前に立ちはだかっていたから少々面倒だった。田上は、早々に群れを抜け出して、寮へ向かっていた。タキオンは、「圭一君!なんで逃げるんだ!」と叫びながら追いかけた。途中で茶々を入れてくる奴もいた。

「お、元気がいいな。頑張れよ」

 その人にタキオンは「うるさい!」と怒鳴って、田上の方へ向かった。結局、余裕で捕まえる事はできた。所詮ウマ娘と人間である。比べ物になるわけがない。とりわけ、本気のウマ娘相手では。

 タキオンが田上の背中に背負っているバッグを掴むと、そのまま走り続けようとした田上が、よろけて転びそうになったからタキオンがそっと抱き止めてやった。だが、逃げないようにその袖はしっかりと捕まえておいた。

 地面に足を投げ出して、息を切らしている田上にタキオンは聞いた。

「どうして逃げるんだよ。逃げたって何にもならないぞ」

 田上は、タキオンを睨んだまま、何も答えなかった。それだから、タキオンもその目に怒りを触発されそうになって苦しかった。そうやって苦しくなっているタキオンの隙を狙って、田上が走り出そうとするから尚の事苦しくなった。

「そんなに逃げないでくれよ。私の事が好きなんじゃないのか?」

「……好きじゃない」

 田上は、もっとタキオンを苦しくさせようとしてきた。それでも堪えて堪えて言った。

「そんな事言って後悔するのは君だろ?ちゃんと自分の問題に向き合わなきゃ」

「答えの出せない問題に向き合ったってしょうがないだろ」

「答えはあるよ。…何回これを言えばいいんだい。人間には苦しくったって投げ出したくなったって進まなきゃならない時があるんだよ。いい加減前を向いてくれ。死ぬときになって後悔したくないのなら、君は私の事をしっかりと見ないといけないんだよ」

「もう遅い。もう遅いんだよ。俺が、これまでどれだけ後悔してきたと思う?お前が、まだ母親の膝でぬくぬくと暮らしている時から後悔の連続だ。俺とお前じゃ分かり合えない。やっぱりこれなんだよ」

「でも、君は今の言葉を後悔してしまうだろう?死んでしまったらもう後戻りはできないぞ。今からでも後悔を払拭するんだ。今がそのチャンスなんだ。君の後悔は何だい?心に残って残って離れない物。それを見つけ出して取り除くんだ」

 そこが、トレーナー寮の前だったから、近くを横切っていく人たちがたくさんいた。またも田上の集中は削がれて、その人たちに怯えを見せた。タキオンもこのままでは話しようがない事が分かった。だから、田上を立たせるとその顔を見つめて言った。

「研究室へ行こう?そこなら、まだ真面に話ができるよ」

「…でも、俺は…」

 田上は、目を泳がせ躊躇いを見せる。タキオンもなんだか焦ってきたから、田上を脅すためにこう言った。

「早くしないと、公衆の面前でキスをするよ」

 答えは聞かなかった。強引に田上を連れて行くと、帰ってきて休む暇もなく研究室へと急いだ。田上は、自分の手を引いていくタキオンのその背を見つめながら、ぼんやりと考えた。タキオンに何を話そうか。どう逃げてやろうか。しかし、やっぱり考えはまとまらなかった。



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二十、走れウイニングライブ⑦

 研究室に入ると、タキオンはぴしゃりとそのドアを閉めて、カフェと自分の部屋を分かつカーテンを開けた。薄暗い部屋が広がった。タキオンは、そこの電気も点け、自分の所の電気も点け、田上を椅子へと座らせ自分も別の椅子に座って話し出した。

「それで、最近の君はどうだったのかな?何か気になる事でも?」

 今の田上はすんなり口が開いたから、タキオンにこう言った。

「……お前は、大阪杯で走って俺の所まで来た時、…泣いたよな?なんで泣いたんだ?」

「ああ。……それかい?…参ったな。今は君の話がしたかったんだけど。…まぁ、聞かれたのならしょうがないけど、あの時はちょっと精神が参ってしまったんだよね。何しろ、最後の直線で中々私の後ろから青い服の奴が離れようとしないんだよ。あれは、怖かったね。……だから、…少し君に頼った」

 それを話すとタキオンが少し気を落としたから、田上が場を取り持つようにトレーナーらしく言った。

「いや、それを聞けて良かったよ。…今後の走りには影響しそうか?」

「今後…?やるとしたら宝塚記念だろ?……少し、見送りにって事はできないかい?」

「なんで?」

「……まぁ、君との事もあるし、走るのも…楽しくないわけじゃないんだけど、ちょっと今やる気がないんだ」

 田上は、難しい顔をしてタキオンを見つめた。タキオンは、田上から少し目を逸らした。そのタキオンを見つめたまま、状況を整理するために田上が言った。

「それじゃあ、今後の予定は未定にしておこう。…天皇賞・秋は?」

「分からない」

「じゃあ、未定だ。タキオンだったら、一月でも十分に仕上げられると思うし、考えるのは宝塚の出走登録期間が始まったらって事でいいか?」

「ああ、それでいい」

 そうタキオンが答えると、その後に微妙な沈黙が流れた。話が終わりなのか終わりじゃないのか、まだ定まっていない状況だ。タキオンも田上に話をしたかったのだが、今の問答でどうにも精神が削られて、話すのが億劫になった。それでも、ひとしきり考えた後にタキオンは口を開いた。

「…君は、…私と結婚してくれるんだろ?」

「いや、…それは…どうすればいいのか分からない」

「…何がそんなに君の心を詰まらせるんだい?私が、女子高生である事がそんなにいけない事なのかい?…それも、卒業してしまえば無しになる。女子高生じゃなくなる。君と同等の関係だ」

「俺は、…お前をそんな目で見れない」

「けれども、私の事が好きなのかい?随分な女ったらしだなぁ。うんざりしてくるよ」

 タキオンは、先程の会話のせいなのか少し苛立っていた。その鬱憤を田上にぶつけてしまった。田上は、心の中でこそ動揺したが、その様子はおくびにも出さずにタキオンの鬱憤に答えた。

「なら、掃いて捨てればいいだろ。お前と正面から見つめ合えないんだ」

「私だって、ただの子供だ。限界がある。あんまり私を責めないでくれ。君の相手をするのに自分まで命を無くしそうになる」

 ここで、そんなに使用した時間も長くない天井の電灯が明滅した。二三度、パチパチとした後、また静かになった。田上は、それを見上げて「故障かな…」と呟いた。タキオンは、そんな事には気付く素振りも見せないで、田上にぼそぼそと言った。

「私は、君と一緒に居たい。ただ、それだけなんだ。あんまり難しい事じゃない」

 そして、次に勝手にタキオンの実験用の機器の電源が付いた。埃を被っている赤色のランプが光り、機器が唸りを上げた。

 その後にタキオンがもう一つ言った。

「君と一緒に居れたらどんなにいいだろうか?きっと、夢があって愛があって華があるんだろう。そんな暮らしを君としたい」

 その途端にシャッとカーテンが閉められ、電気が消えた。田上は、驚いて声を上げたが、それは暗闇に溶けていったように感じた。その闇の中で唯一見えるのは、タキオンの赤い目とそこからぼんやりと見えるタキオンの体だけだった。タキオンは、泣いていた。――圭一君、トレーナー君、と。――私の所に…私の所に来てくれ。

 田上は、体を動かそうとしたが、なぜだか自分の体の感覚がない。すると、右の方の暗闇からふっと自分が湧いて出た。「俺が愛しているのはお前だけだよ」とタキオンの頭を撫でる。見ていて吐き気がした。そんなのは自分じゃなかった。大声を出してタキオンに呼び掛けようとするが、いくら叫んでも声は出ない。その内落ちていく感覚がした。田上は、タキオンに必死になって呼び掛けた。しかし、自分だけは落ちていく。涙が出てきた。――やっぱり、お前は何もできないろくでなしだった。そう頭の中の自分が言っていた。そして、絶望の淵に落ちて落ちて落ちて行こうとした時、ガラガラ!!と大きな音が響いて、研究室に光が差し込んだ。田上は、落ちてはいなかった。しっかりと椅子の上に座っていた。開いたのは、研究室の方のドアではなくてカフェの部屋の方のドアだった。息を切らしたカフェがそこに居た。

「カフェさん…」と田上が呟いた。カフェは、余程全力で走ってきたのか、息を切らしてぜいぜいはあはあ言っていた。そして、そのままタキオンと田上を見つけて、じっと見つめてから「良かった…」と呟いた。田上には、何が何だか分からなかった。夢のような心地がした。今起きたことが、実際にあった事だとは信じられなかったが、いつの間にか、目の前にいたタキオンがしくしくと泣いていた。

 そのタキオンにカフェはそっと呼び掛けた。もう息切れは大分収まっていた。

「タキオンさん…、私の声が聞こえますか?」

「カフェ?…何も見えない。ここはどこだ?」

 そう言って顔を上げたタキオンの目には深淵が覗いていた。

「ここは研究室です。あなたの前には、トレーナーさんが居ますよ」

 その言葉の後にカフェは、田上にタキオンの手を握るように身振りで指示をした。田上は、恐る恐るタキオンの手を握った。

「タキオンさん、あなたの手を握っているのは、トレーナーさんです。感じますか?」

「…分からない。…何も分からない。私を愛してくれ、圭一君…。君の事が好きなんだ」

 すると、カフェが目を見開いて田上を見た。てっきり、タキオンの言葉に田上が動揺しているものだと思って見たのだが、予想外に落ち着いているのを見ると不思議な顔をして聞いた。

「トレーナーさん、あなたの事を今タキオンさんが好きだって言っていましたが…」

「……それは、本人から聞きました」

「…では…」

「何にも言わないでください。これは俺とタキオンの問題ですから」

 田上が殺気立って言うと、カフェもじっと睨み返した後、タキオンに目を戻して呼び掛けた。

「あなたが、立っている地面を感じますか?」

 その途端にタキオンの様子がおかしくなった。

「カフェ?カフェ?行かないで!待ってくれ!行っちゃだめだよ。ああ!圭一君!!!ああ!!!…ああ…」

 そして、タキオンの意識は事切れた。カフェの腕の中に倒れかかった。それだから、カフェも慌てて「何があったんです?」と田上に聞いた。田上もタキオンの頭の中までは分からないから、力なくカフェの腕の中にいるタキオンを呆然と見つめながら「分からない…」と答えた。すると、カフェは田上が自分の質問を勘違いしている事に気が付いて、もう一度言った。

「違います。大阪杯の事です。あなたとタキオンさんの間に何があったんですか?」

「何…?」

「言わないと始まりませんよ。タキオンさんは、心の隙間を侵されたんです。……この部屋の何かに…。お友達が私を呼んだからここに来れたんです。…多分、…この部屋の何かはあなたをまず最初に堕とそうとしたんです。…しかし、私が来てそれが失敗して、代わりにタキオンさんの心に入り込んだ。……タキオンさんの意識が消えたのはそれのせいです。……心の強い人は、悪霊なんかに侵されません。弱っていたからそうなったんです。なぜそうなったんですか?」

 カフェの語気は静かな怒りを孕んでいた。

「え…」

「早く言ってください。…このままでは、この部屋の何かに衰弱させられるだけです……」

 カフェは田上の顔を睨んでくる。

「いや…」

「何を躊躇っているんです…?あなたは、タキオンさんの事を好きじゃなかったんですか…?」

「なんでそれを…?」

「…見てれば分かります……。…さあ、早く…言ってください……」

「え、えっと…、何から言えば…」

「私は、タキオンさんが帰ってきたときに…お友達の二人に――疲れた、と言うのを聞きました……。…それと関係があるのではないですか……?」

「え、え、え?…関係…」

「あります。……恐らくそれでしょう……。…あなた自分の愛する人を救いたくはないんですか……」

「急に言われても…」

「いつだって何だって急です……。覚悟なんて決めてる暇がないから、皆苦しんで生きているんです……。あなただけじゃありません……。タキオンさんだってそうだったから、変な物に憑かれました……。あなたの代わりにタキオンさんが今苦しんでいるんですよ……」「でも、…俺は…」

「いい加減タキオンさんから目を逸らすのはやめてください……。…一端の覚悟も持たないで人を愛そうなんてバカのする事です……。あなたはバカなんですか…」

「バカ…で」

「……逃げたらタキオンさんが死ぬだけですよ…」

 カフェは不意に、瞬きもせず田上を見つめてきた。

「あなたが、見捨てたからタキオンさんが死ぬんです……」

「それは…!カフェさんがどうにかできませんか?」

 田上は苦し紛れにそう言ったが、カフェは全く取り合わなかった。

「あなたは、……タキオンさんの顔を見なかったんですか……?目がありませんでした…。五感がありませんでした…。私は、タキオンさんの中にいるタキオンさんに話しかけたから聞こえたんです……。タキオンさんは、自分を見失いました……。あなたが何も言わなかったら一生そのままでしょう……。私には、タキオンさんを見つけ出す程の力はありません……。自分ってとってもちっぽけなんです……。人の世界に入ろうとすれば、とてもとても大きい暗闇で、到底探し出せるものではありません……。その中をタキオンさんは彷徨い歩いているんです……。きっと悪夢みたいな場所でしょう……。先程の悲鳴をあなたは聞きましたか?あなたが今この場で動かなければ、一生その悲鳴に苛まれます……。タキオンさんの悪夢の中であなたに何かが起こったんです……。どうでしょう?……血まみれの惨殺死体にでもなっていたんでしょうか……?可哀想に……。タキオンさんは、一生それに向き合わなければならないんです」

「なんでそんな事になったんですか!」

 田上は、どうしようもなくなって大声を出して聞いた。カフェは相変わらず、瞬きのしない亡霊のような顔つきで田上を見てきた。

「心の隙間に入り込まれただけです……。タキオンさんの過去に何があったのかは知りませんが、いずれ向き合わなければいけない問題でした。……それが、この部屋にいる物に侵されたんです……」

「この部屋にいるものって何ですか!」

「……分かりません……。私が、たまたま見つけました……。いつからいるのかは分かりませんし、私も確かに見たことはありません。……『ある』のを感じるだけです」

 その話を聞くと、田上は今にも泣き出しそうな顔をして、カフェの腕の中にいるタキオンを見つめた。タキオンが起き上がらないのは嘘だと思えるような気がした。このまま、少し放っておけば一人で起き上がって、後ろから背中を叩いて呼び掛けてくれるような気がした。ただ、田上も同じ心霊現象に出会っていたから、放っておく事はできなかった。

 カフェが、田上に言った。

「さあ、タキオンさんとあなたに何があったんですか?」

「……どうしても、どうしても言うことができないんです!少なくとも、カフェさんには言えません。だから…」

 そう言うと、田上は立ち上がってタキオンの方に寄った。そして、カフェの代わりにタキオンを腕に抱き、持ち上げた。両腕にタキオンを抱き上げ、お姫様抱っこの体勢だ。それから、カフェに「ついて来ないでください」と言うと、タキオンを抱いたまま研究室を出た。タキオンに全く力が入っていないので、抱き上げながら運ぶのは大変だった。途中、幾度かこのまま下ろして立ち去ってしまおうかとも考えたが、どうしてもタキオンを野ざらしで放っておくことはできなかった。

 田上の目的地は、タキオンと散歩をしたことのある花壇だった。菜の花は、まだ咲いているはずだ。その花をタキオンに見せてやろうと思った。これと言った根拠があるわけではないが、菜の花を見れば、タキオンも目を覚ますのじゃないだろうかと思った。タキオンを迎えた人たちが駄弁りながら帰っていくのに途中であった。しかし、田上はその人らに絶対に目を合わさないで、自分の行きたいところだけを見据えた。

 

 黄色い菜の花の所まで来ると、田上も疲労が溜まってきて若干の息切れを起こしていた。それでも、タキオンを落っことさずに辿り着けたので、少々ほっとした。幸いな事に、近くに人はあまりいなかった。遠くに二三人が見えるだけで、後はのんびり穏やかとした春の午後だった。そして、田上は、タキオンを抱えたままその花壇の前に片膝を突いてしゃがみこんだ。

 菜の花が綺麗だった。彩度の高い黄色が春の陽気に意気揚々と輝いて、田上の目に色濃く映りこんだ。その中に小さな赤いてんとう虫が見えた。それを見た途端に、田上はふっとあの日の景色を思い出した。空に昇っていくてんとう虫をいつまでもいつまでも見上げた日。なんだかあの空に見惚れてしまった。タキオンも同じように空を見つめていた。――タキオンもあの空に見惚れたのだろうか?それが、不意に気になって、今度はタキオンの顔を見つめた。自分が惚れてしまった顔だ。今は、昏々と眠り続けている。――本当に起きないのだろうか?そう思いながら、田上はタキオンの長い前髪を掻き分けて、その可愛い顔を露わにした。その顔を見ると、田上は唐突に話しかけた。

「何でお前の事を俺なんかが好きになったんだろう。…なんでお前が俺の事なんかを好きになったんだろう」

 それを言うと、タキオンの顔が微かに笑ったような気がした。だから、田上も少し嬉しくなってもう一つ言った。

「お前の事が好きな事には間違いがないんだけど、どうしても何かが立ちはだかってて、途中で分からなくなるんだよ。……お前に迷惑はかけたくないんだけどな…。どうしても卑屈になったりお前を突き放したりしてしまうんだよ。……許してほしい。許してほしい。…お前に心の全てを打ち明ける日が来るまで、どうか、どうか許してほしい。…お前にも何かがあるんだろ?俺も一緒に考えるよ。お前だって苦しいのに、俺がお前の好意を盾にして攻撃してしまうからそうなったんだろ?弱い男でごめん。精一杯頑張ってお前の横に居るから、どうかもう一度俺を見てほしい。失敗してもどうか俺を許してやってほしい」

 田上はそう言うと、そっとタキオンの唇にキスをした。もうタキオンが起きるまで離さないつもりだった。すると、それ程経たないうちに晴れているのに雨が降ってきた。狐の嫁入りだ。田上の顔に雨が降りかかるが決してその唇は離さず、じっとじっと祈っていた。

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 菜の花が風に吹かれ揺れる音がする。周りには誰もいない。雨が静かに降り注ぐ音もする。田上の体は、肌着までびしょびしょになってきたが、それでもタキオンは起きない。田上は、じっとじっと待った。頭の中で――起きてくれ起きてくれ、と唱えていた言葉は、いつの間にか――愛してる愛してる、という言葉に変わった。やがて、雨が上がった。雨が上がるのにそれ程の時間はかからなかった。ものの二三分だ。それでもタキオンは起きない。田上は、一心に自分の愛をタキオンに注ぎ込みながら、起きるのを待った。

 

 ある時、びしょ濡れになった田上の頭から一筋の雫が垂れてきた。その雫は田上の頭から頬へ、頬から唇の方へ行き、タキオンと田上の唇を濡らした。すると、ピクッとタキオンの手が動き、体に力が入り始めた。けれども、田上はまだタキオンが起きたという確信が持てなかったから、そのまま唇を離さなかった。タキオンは、勿論起きていたが、田上がキスをしているという事に特段驚くこともなく、そのまま受け入れた。田上の首に手を回し、ゆっくりと後ろへ押し始めた。この頃になると、田上もタキオンが起きていることに気が付いていたが、もうタキオンにしがみ付かれていて離すことはできなかった。それに、自身もまた離すつもりはそんなになかったから、タキオンに押されるがままに地面に倒れた。二人の体勢が変わるたびに唇が離れそうになるからその都度、キスをし直した。二人の体を雨が伝って行き、田上は地面に寝そべり、その上にタキオンを乗せた。そこでようやく二人は、唇を離し見つめ合った。タキオンの赤い瞳が怪しげに水濡れた景色を反射し、田上を見た。

「君の声が聞こえた。真っ暗闇だったけど、はっきりと伝わったよ」

「それは良かった」

 二人はお互いを愛おしそうに見つめ合い、それからまたタキオンが言った。

「君からキスをしてくれたね」

「ああ、俺からキスをした」

「もう後戻りはできないかな?」

「できないだろうし、するつもりもない。お前を愛すると決めたんだ」

「それは、後から撤回になったりしないかい?」

「それは、…恐らくしないけど、したら俺の過ちだから絶対に止めてくれ」

「ああ、分かったよ。止めてみせる」

 そして、また二人はどちらが先と言う事もなくキスをした。

 見つめ合う時間が続く。二人とも嬉しさの絶頂に居るようだった。

「……君と、一緒に居れると思うと、涙が出てきそうだよ」

「俺もだ。いつか年老いてどちらかが死ぬその日まで一緒に居よう」

「死んでからもだよ。ずっと傍に居るから」

「俺もそうしよう。死んでも一緒に居るよ」

「ああ、そうしよう。そして、いつか二人で君のお母さんに会いに行こうね」

「そうだな。何十年も会わない事になるんだな」

 ここで、初めて田上はタキオンから目を逸らしてタキオンの向こうの空を見た。そして、タキオンに目を戻すと、タキオンが少し不安がった。

「あんまりお母さんの事を気にしてもらっても困るよ。私を見て」

「分かってるよ。……お前も大変だったんだな。…二人でだ。二人で助け合っていこう。俺がお前にばかり負担をかけてもしょうがないから」

「分かってるさ。…分かってるけど、それで自分を殺してしまったら駄目だからね」

「タキオンもだ。俺を助けるが為に少し頑張りすぎた。俺が言うのもあれだけど、もう少し落ち着こう。二人でするんだ。お前の問題は決してお前一人の問題じゃない。俺の問題も俺一人の問題じゃなかった。二人で生きて行こう」

「分かった。そうするよ。ありがとう」

 今度は、タキオンが田上の唇に軽くキスをして、すぐに離れた。田上は、そのキスを受けると嬉しそうに少し口角を上げたが、何も言わずにそのまま起き上がった。タキオンは、田上が起き上るにつれ自分も体勢を変えたが、決して田上の上から降りようとはしなかった。田上も下ろしたいわけじゃなかったので、タキオンが居場所を変えやすいようにゆっくりと起き上った。そして、最終的に田上が濡れた地面に胡坐をかいて座り、タキオンがその上に向かい合わせで座った。この場所に人がいないのが幸いだった。もし、人が通ったらその途端に二人きりの世界が終わってしまっただろう。それで、碌に話すこともできずに悶々としてしまっただろう。

 田上は、タキオンを膝の上に乗せて見つめ合いながら言った。

「綺麗だな、タキオン」

「かっこいいよ、圭一君」

「明日もまた話そう?」

「ああ、そうしよう。当分は君から離れたくない」

「それもいいな。何かあったら俺に言ってくれ」

「ああ、言うよ。君も何かあったら私に言うんだよ」

「そうするよ。……もう行くか?全身びしょ濡れだぞ」

「もう少しこうしていたい。……私は、どうしてここに?」

「お前が気を失って、カフェさんがお前の事を助けろって言ったんだ。だから、ここまで連れてきた」

「なんでここなんだい?」

 タキオンがそう聞くと、田上がふっと笑った。

「この菜の花を見ればお前が目を覚ますかと思ったんだけど、この菜の花の効果があったのは俺の方だった」

「どんな効果があったんだい?」

「勇気が湧いた。…少し違うかな?落ち着いた。……お前とこれを見たいと思った。これが一番だな。だから、…その、…お前にキスをした」

「私は、なんとなく君の事を感じていたよ。暗闇の中で君が私に語り掛けるのを聞いたんだ。そして、暖かい風が吹いて道ができた。だから、私はその道を歩いてここまでやってきた。…夢だったのかな?」

「いや、俺は、あれは夢のようには感じない」

「私もだ。するとなると、これは私は超常現象に出会ってしまったという事でいいのかな?」

 タキオンが、興味深げにそう言うと、田上はしょぼくれた顔をして言い返した。

「あれにはもう二度と会いたくないよ。…怖かった」

「私も怖かったさ。…いやだ。思い出したくない!」

 タキオンは田上の首にしがみ付いた。そして、少し震えた声を出した。

「君が、…君が死んじゃってたんだ。カフェを追いかけて行ったら。カフェが私に話しかけている時はまだ良かった。光が差していた。けど、カフェは急に回れ右して光の射す方向に消えていった。そして、最後には誰かが扉の閉める音がして急に暗闇になった。すると、そこに……君が死んでたから、無我夢中で逃げたよ。逃げたら、もう自分がどこに居るのか分からなくなっていた」

「大丈夫だよ。俺は、ここで生きているから」

 そう言って田上は、タキオンの背中をぽんぽんと叩いた。それにタキオンが嬉しそうな声を出した。

「ああ、君は生きてる。生きているって何て素晴らしいんだ。匂いも嗅げるし、光も見れるし、触れもするし、聞こえもする。それに、何と言ったって君が居る。これが一番嬉しい事だよ」

「俺も嬉しい。お前の目。…お前の目が、怖かったよ」

「私が、変になってしまった時かい?」

「そうだ。…あんまり言うのもあれかな?」

「いや、言ってしまった方がいいよ。今は明るい日の光の下だ。夜になってその事を思い出すより、今洗いざらい私に言ってしまった方がいい。その方が、一人で怖がらずに済む」

「そうか。二人でだもんな。…でもあれは形容し難いけど、…強いて言うなら、タキオンの目が暗闇に飲み込まれてしまったというか何と言うか。…とにかく、そこには何もなかった。タキオンの目が悪霊に憑かれたみたいに真っ黒になっていて、全ての光を吸い込んでいた。…怖かった」

 今度は、タキオンが田上を安心させる番だった。田上の後頭部の髪をくしゃくしゃと撫でながらタキオンは囁いた。

「怖いものを見たね。それが、自分の好きな人って言うんだから猶更だ」

「でも、タキオンは俺の死んだ姿を見たんだろ?」

「それに優劣はつけられないよ。君の、怖かった、という言葉は君の口から本音として出てきたわけだから、まずはそれを尊重しなくちゃ。私を心配するのはその後だ。…二人で、だろ?」

「ああ。…怖かった。それでも助けるのを渋った自分も怖かった。俺には、人の心がないのかもしれない」

「そんな事はないさ。君は私を起こしてくれたのだろう?最後には、勇気を出して私と長い長いキスをしてくれたのだろう?あれがなければ、私は暗闇の中から脱することができなかった。君のおかげでもあるんだよ」

「良かった。…そう言ってくれて。…報われた」

「今日まで頑張って生きてきたね。幾度か折れそうになったけど、よく生きてこられたよ」

「それは、タキオンのおかげだよ。俺をずっと堪えていてくれてありがとう」

「それで、私も報われるよ」

 そして、二人はより一層強く抱きしめあって、全身でお互いを感じた。陽の光によって、濡れていた地面も徐々に乾き始めてきた。空には虹が架かった。その虹を、タキオンは不意に顔を上げた時に見つけた。それから、思わず「あ、虹だ」と言った。それに田上が反応を示して、タキオンを抱きしめたまま「虹?」と聞き返した。田上は、周囲を見回して虹沿見つけたそうにもぞもぞしていたが、それはタキオンが許さなかった。「もう少し抱きしめさせてくれ」と言うと、田上の首が動かないように固定した。これは、ちょっとの意地悪だった。田上もそれが分かったから、――これは喧嘩を売っているのだろう、と思って、自分も少し意地悪をした。

「あ、人が歩いてきてる」

「え、本当かい?」

 そう言うと、タキオンの手が少し緩んだから、すぐに田上は、タキオンを気遣いつつも身を捩って虹を探した。虹は、田上の左の方にあった。それを見上げて、田上は「本当だ。綺麗だな」と言った。タキオンは、田上の言葉で騙されたのに少しムカついたが、それによって冷静にもなった。だから、虹の方を見ていた田上の顔を無理矢理自分の方に向かせると言った。

「もうそろそろ行かなきゃ。私たち、お昼ご飯を食べていないし、ここで抱き合っていても色々と不味い」

「不味い?何で?」と田上は甘えるように聞いた。今までの田上からすると、考えられない表情だ。その表情を見ると、タキオンも少し可笑しくなってニヤリと笑ったが、ニヤリと笑ったのみで後は真面目な顔をて言った。

「こういう場面を見られたくないのは君も一緒だろ?...それに、こうやって諭すのは君の役目とばかり思っていたんだけどな」

「俺は、今、タキオンに甘えたいお年頃なんだよ。...気持ち悪いかな?」

「いや、そうやって甘えてくれると、君も私に心を開いてくれていると分かるから安心するよ。...それでも、ここに居るのは不味い。とりあえず、カフェの所に行こう。そして、研究室が無事だって言うんなら、あそこに行こう。…カフェは研究室かな?」

「多分そうじゃないか?」

「うん、じゃあ研究室に行ってみるとする。…あそこなら、カフェと松浦トレーナー以外には邪魔されないし、また、あの人らもよってたかって私たちの恋路を邪魔しないだろうしね」

 田上は、それに「そうだね」と返事をして了承の意を伝えた後、少しタキオンをからかうような顔つきをして言った。

「お前、そう言えば、松浦さんにハグを求めたことがあったな」

「…ん?」とタキオンは初めは覚えていないふりをしていたが、段々と我慢しきれなくなったのか、その後に少し怒った口調になって言った。

「あんまり穿り返さないでくれよ。松浦君には実験として協力してもらおうと思ったし、それも君が私を抱き締めなかったからじゃないか」

「今は抱き締められるよ」

 田上が、挑発するように言った。

「じゃあ、やってもらおうじゃないか。もう一度抱き締めたまえ」

「分かった」

 そう言うと、田上はタキオンの体を抱きしめ、その栗毛に自分の顔を埋めた。雨の匂いの間にほんのりと香るタキオンの匂いがした。それを感じると田上は顔を埋めたままふふふと笑った。タキオンもその田上の吐息が首筋に掛かり、くすぐったそうにふふふと笑った。すると、その笑い声が田上を幸せにして、またふふふと笑わせた。その笑いの連鎖が少しの間続いた後、その連鎖を断ち切ろうとタキオンが田上の耳にふっと息を吹いた。それで、田上はむっと怒った顔をして、タキオンの首筋から離れ、タキオンの顔を見つめた。

 タキオンは、その顔に向かって微かに笑いかけながら言った。

「もう、ここでは十分だろ?着替えるか何かしてから研究室に向かおう。それから、カフェにも何か言ってやろう。あの人も君を説得するために頑張ったんだろ?相手が、君だったんならそれはそれは労力が必要だったはずだ」

「謝らないといけないな」

 その後に二人は見つめ合った。この場から離れようと言っているのに、一向に離れようとしない。まだまだ二人だけの時間を楽しみたいようだった。しかし、それもようやく終わりを迎えた。今度は、本当に道の向こうから人が現れたのだ。女の子の二人組だった。タキオンは、その二人を見ても誰なのか気付いていなかったが、田上は気が付いた。だから、その二人をただの通行人だと思って、その人たちに悟られないように、急いで立ち上がって田上から離れたタキオンに言った。

「あれ、お前の友達じゃなかったか?…確か、アルト君とハナミ君じゃ?」

「え?ああ…。不味い奴らが来たな。この場で一番うるさい人たちだ」

 その二人組は、じっと立っているタキオンと濡れている地面に座っている田上を見つめながら近づいてきた。そして、タキオンたちから二三メートルの場所まで来ると、じろじろと目の前の男女を見つめながら「田上トレーナー、こんにちわ」と言った。それから、タキオンの方を見て、田上の手前言いにくそうにしながらハナミが言った。

「何してたの?」

「別に。……ただ、雨が降っていたから遊んでいただけさ」

「抱き合って?」

 ハナミは、難しい顔をしながらも躊躇うことなくタキオンに聞いた。この少し無神経な質問に以前のタキオンなら怒った顔をしていたかもしれないが、今のタキオンは違った。なんてことないという顔をして答えた。

「好きだから抱き合っていただけさ」

 この真正直な答えにハナミは混乱した。確かに、タキオンの言葉は聞こえていたが、頭の中で理解ができなかった。今のタキオンの反応は、ハナミの知っているタキオンの反応ではなかった。その考えが、ハナミの思考を鈍らせたが、アルトと言えば、ただニコニコしながら言った。

「じゃあ、田上トレーナーと恋人になったって事なの?」

 タキオンは、座っている田上を見つめて「そうだよね?」と言った。答えの分かり切っていた質問だったが、まだ、明確な言葉としては聞いていなかったのでそう聞いた。それに田上は、タキオンを見つめて「そうだよ」と言った。すると、今度は、アルトが田上の方に聞いてきた。

「タキオンのどこを好きになったんですか?」

 初めに田上は思わず照れてしまった「え?」と上ずった声を出してしまったが、次にごまかすように笑いながら言った。

「色んなところかな。栗毛も好きだし、小さな手も好きだし、赤色の目も好きだけど、一番はタキオンが好きだよ」

「おお!!本当に好きなんですね。親友の事を好きになってくれてありがとうございます。私は、この子の将来が不安で不安で…。だって、研究に熱中していた頃は碌に教室に来なかったから。最近は、ちゃんと来るようになって面白いんです。…もしかして、田上トレーナーの事を好きになったから来るようになったの?」

 最後にアルトはタキオンの方に聞くと、タキオンは首を振って答えた。

「いいや。それとこれとは別さ。…でも、それも一概に違うとも言えないけどね」

 そして、話の終わった気配がした。その気配を感じて、今度はハナミが口を開いた。

「タキオンは、私に田上トレーナーの事は好きじゃないって言ったよね?しかも少し怒って」

「ああ、あれは嘘だ。すまなかった。けれど、こっちもこっちで色々あったんだ。君につっけんどんになったのは申し訳なかった」

「…謝る…んならいいけど、…こっちも悪かったしね。…ん~。…上手く言葉がまとまらないなぁ」

 そう言ってハナミは目を泳がせた。それで、ふっと田上と目を合わせると、そのまま口を開いて言った。

「トレーナーさんは、私が今、――あなたの事が好きですって言ったらどう答えますか?」

「え?…断るけど…」

 田上は、その言葉に別の何かが含まれているのじゃないかと思ってハナミを見つめたが、ハナミは田上の答えを聞くと、あっさりと今度はタキオンの方を向いて聞いた。

「タキオンはどうするの?」

「え、私かい?…普通に止めるよ。だって、私の圭一君だもん」

「…圭一君。…前は、トレーナー君って呼んでたよね?…モルモット君?」

「ああ、トレーナー君とかモルモット君とかだね。それがどうかしたかい?」

「…いや、…仲良くなったんだね」

「そうだね。大阪杯は、疲れもしたが有意義な旅になったよ」

「GⅠ、三度目の優勝なんて凄いね」

「ここまで来ると、日本ダービーを勝ち切れなかったのが惜しいくらいだね。四冠目を大阪杯にしてみたかった」

「日本ダービーは、他校の人だったよね。…凄いよ。タキオンは、私たちの期待の星だよ」

「そりゃあ、ありがとう」

 普段のハナミらしくない神妙な褒め方にタキオンも戸惑いながらも感謝の言葉を告げた。

 そして、またハナミが言った。

「どれもこれも田上トレーナーと一緒に居たから勝てたの?」

 その後にタキオンから田上の方に目を移すと、「田上トレーナー、いい加減立ち上がったらどうなんですか?」と真面目な調子で言った。だから、田上も「ああ、すみません」と思わず謝罪して、慌てて立ち上がった。タキオンは、その様子を見ながら、ハナミに言った。

「そうだね。圭一君がいたから勝てた。それは、モルモットとして私の実験に協力してくれたからだけではなく、私の心の支えとして大きな役割を果たしてくれたからだ」

「じゃあ、私にはそれが足りないのかな…」

「勿論それだけじゃないよ。ウマ娘ってのは、まず体が資本だ。資本がなければ何もできない。出資してくれるトレーナーにだって限度がある。ならば、ウマ娘にとってレースとは何なのか?私たちウマ娘は、ほとんどヒトと同じ種でありながら、その本質はヒトとは根本的に異なる。明らかに走るために生まれてきた人種だ。昔は、それを労働の糧として使用してきたそうだが、今は違うと言える。レースだ。レースが人々を熱狂させた。人は、自分よりも儚く力の弱そうな女の子に夢を見た。――こんな小さな女の子に物凄い底力があるのか…、と。つまり、ウマ娘にとってレースとは人々に夢を与える手段なのだよ。君もあんまり勝ち負けに拘らない方がいい。私たちは、恐らくそのために生まれてきた」

「じゃあ、人なんて好きにならない方がいいって事?」

 タキオンの長い話に、ハナミは頭を混乱させながら聞いた。

「それは、私の話を曲解しすぎだよ。私たちは人とは異なるけど、人としては暮らしていいんだよ。現に私は人並みに恋をしたんだから。ヒトとは異なるという私のただの仮説であって、夢であるだけだよ。根拠なんてあんまりない。…だけど、レースにおいて体が資本なのは事実だ。いくら頑張ったってできない事もあるんだよ。君は、トレセン学園にいて楽しいだろ?」

「…まぁ、それなりに充実してはいるよ」

「なら、私はそれだけでいいと思うけどね。私は、レースの才能を持って生まれたから、たまたまウマ娘として上手くいったけど、世の中色んな人がいるんだ。別に、ウマ娘だからって走る理由もない。皆、それぞれ走る事を楽しんでここから立ち去っていくだけさ。そのまま、自分のトレーナーと結婚して主婦になる人がいれば、様々な資格を取って専門職になったりする人もいる。今は、走る事が楽しくっても将来はどうなっているか分からないものだよ」

 ハナミは、まだあんまり分かっていなさそうだった。うーん…、と唸ってタキオンの顔をただ見るともなく見つめていた。だから、アルトが分かりやすいように横から口を挟んだ。

「つまり、レースやって楽しんで、それから学園生活も楽しんで、私たちと遊ぶことも楽しんで、何もかも楽しめばいいって事だよ。私は、楽しいよ?ハナミと居る時もタキオンと居る時もレースをしている時も。…そりゃあ、負けちゃえば悔しい時もあるけど、結構すぐに吹き飛んじゃうよね」

「私も…別に吹き飛ばない事はないんだけど……、何の話だったっけ?これ、元々は違う話だったよね?」

 そこで、タキオンが言った。

「ああ、私が圭一君が好きなのをどうたらこうたらで、急にハナミ君が――田上トレーナーと一緒に居たから勝てたの?って聞いてきたんだろ?」

「ああ、それだよ。…私たちのトレーナー、もう白髪の爺さんだからな~」

 ハナミがそう言うと、アルトも同調した。ハナミとアルトは、同じトレーナーの下で指導を受けている。

「あの人も優しい事には優しいんだけど、担当している子が多いからね。どうしても私たちだけには目を向けていられないからね」

「つまり、もっと白髪の爺さんに頼りたいって事かい?」

 その言葉を聞くと、ハナミも躊躇ないながらも頷いた。

「まぁ、…まぁ、間違いじゃないけどね。…それ程気にしている事でもないからなぁ。…でも、私もかっこいい人と付き合いたいなぁ…。出会いがないよ」

「なら、飛び出せばいいじゃないか。マッチングアプリなんかを使って、男の人と会ってみたらどうだい?」

「そんなん怖いに決まってんじゃん。もし、相手方がヤバい人で数人で来て、私をどっかに連れて行ったらどうすんの?」

「事件だね。警察が捜索するに決まってるよ」

「私は、まず事件に会いたくない!…となると、タキオンと田上トレーナーみたいに仲が良くなって、恋人になりたい。…そんな出会いありますか?」

「女子校に居るんじゃ大変だろうね。一番身近な人が男の人じゃなかったら、まずアウトだ」

「そうだよねぇ…。…田上トレーナー!タキオンじゃなくて私はどうですか!」

 ハナミが唐突にそう言うと、タキオンが隣の田上の腕を掴んで慌てて言った。

「なに人の恋人を取ろうとしてるんだい!君はお呼びじゃないんだからどっかに行け!」

「えー、田上トレーナーなら面倒見良さそうなんだけどなー」

「こいつが面倒見がいいのは私の時だけだよ!分かったら圭一君に構うのは止めろ!」

「えー、そう言われるともっと欲しくなっちゃうー。…冗談だよ冗談。タキオン、田上トレーナーの事好きすぎるでしょ」

「そんなに好きじゃない!」とタキオンは反射で言ったが、その後に慌てて田上の顔を見て弁解した。

「別に嫌いじゃないよ」

「じゃあ、大好きなの?」とハナミが横から口を挟んだ。

 それにタキオンは「うるさい!」と噛みつくように言った。すると、田上はそれが可笑しくってクスクスと笑い始めた。タキオンとハナミは、その顔を不思議そうに眺めた。アルトも、今まで終始ニコニコとしていたが、今回ばかりは不思議そうに田上を見つめた。この場に居る田上以外の全員が、その笑っている姿に驚いていた。田上も自分が笑っているせいで場の雰囲気がおかしくなっているのは感じ取っていたが、それでも妙にタキオンの言動が笑いのツボに入ってしまってクスクス笑いを止められないでいた。そして、一頻り笑い続けた後、ごまかすようにオホンと咳ばらいをして言った。

「何かあったの?」

 三人は、まだ不思議そうな顔をして見つめていたが、最初にタキオンが口を開いた。

「…君、そんな風に笑う事もあるんだね。いつも渋い顔してたのに」

「そうだね。まさか、そんな風に驚かれるとは思わなかったけど」

「それくらいに君の笑っている姿が希少なんだよ。…何が可笑しかったんだい?」

「…タキオンの言動だよ。…必死に俺の事を守ろうとしているのが、なんか猫みたいで」

 それを言うと、田上にまた笑いが込み上げてきて、ふふふと笑った。

「猫?…全部、ハナミ君のせいだけどね」

「おやぁ?でも、希少な希少な田上トレーナーの笑顔が見れて嬉しかったんじゃないですかな?」

 ハナミが、目を見開いてニヤニヤしながら言った。

「まぁ、嬉しいと言われれば嬉しいけど、君っていうのがなんだか癪だ。…でも、礼は言わせてもらおう。ありがとう」

 タキオンも若干ハナミの調子に合わせて感謝を告げた。そこで、田上がタキオンの気を引く様に小突いて言った。

「俺、もうそろそろ寒くなってきたから、もう帰るね」

「ああ。じゃあ、私も帰ろう。二人共また今度」

「ばいばい」とアルトとハナミが言って、それから、アルトが不図思い出した声を出して言付け加えた。

「ああ!タキオンの荷物。私たちが回収してデジタルさんに渡しておいたから」

「忘れてた。ありがとう。…じゃあ、私たちは行こうか」

 タキオンは、田上の右腕にくっついて歩きだした。アルトもハナミもニコニコしながらそれを見送った。ずぶ濡れで地面に寝転がった汚い背中が片方と、嬉しそうに渋い男の顔を見上げる可愛い顔が見えた。その二人は、黄色い菜の花の咲いている花壇を右手に、随分と幸せそうに歩いていた。タキオンの栗毛の尻尾がどことなく嬉しそうに揺れていた。

 その歩み去って行く二人を見つめて、アルトとハナミは「良かったね」「嬉しそうだね」と言い合った。

 狐が嫁に入った後の虹は、役目を終えて徐々に空に溶けていこうとしていた。



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二十、走れウイニングライブ⑧

 タキオンと田上は、寮の方に帰るとまず体を暖めるためにシャワーを浴びて、それが終わると別の服に着替えた。それから二人は、何をどうすると申し合わせわけでもないのに同じくらいの時に寮から出ていって、自然にお互いの寮の方に向けて足を向けた。そして、道でばったり二人が会うとタキオンが口を開いて言った。

「…同棲するのはいつになるんだろうね?」

 その言葉で田上は少し動揺したようだったが、できるだけ平然として「まだ先だな」と答えた。タキオンには、勿論田上が動揺している事が手に取るように分かったが、ただ「あんまり長くならない方が私には助かるね」と会話の答えを言ったばかりでそれを指摘することはなかった。

 その会話をした後に二人は、研究室兼カフェの私室へと向かった。今度は、タキオンも田上の腕に引っ付いたり、手を握ったりはしなかったが、そうすると、田上が少し不満げな顔をしていた。それで、中々本音が言えないようだったから、タキオンが聞いた。

「私に甘えたいのかい?」

 案の定、田上はその言葉で動揺していた。

「え…?…別に…別に、そんなんじゃあないけど…。……少し手を…繋いで…くれ」

 それに、タキオンは笑いながら答えた。

「そんなに苦しそうに言わなくったっていいじゃないか。今の君、睡眠薬を飲まされて朦朧としている人みたいだったよ」

「…早く…」

 そう言って、田上が睨んできたから、それに笑い返してタキオンは手を繋いであげた。タキオンの手に繋がれた田上の手は、初めのうちは居心地が悪そうにもぞもぞ動いていたが、タキオンと話しているとそれも次第に忘れていって、自然と手を繋いでいた。途中で、二三人とすれ違いもしたが、タキオンと手を離そうともがくことはなかった。ただ、その人たちとすれ違った後は、恥ずかしそうに、――これで良かったのだろうか?と考えながら変に口角を歪ませていた。だから、タキオンはその度に勇気づけ、また、その手を放さない為に少しだけ強く握ってやった。その手の微妙な力の変動に田上は気がついてはいなさそうだった。

 

 やがて、二人は研究室兼カフェの私室へと着いた。タキオンは、田上と手を繋いだままカフェの私室の扉を叩いた。すると、なんにもないのに扉は勝手にするりと開いた。タキオンも驚きはしたが、たまーにこういう事があるから、わざわざ声に出して驚くこともせず、田上の手を引いてカフェの私室の中へと入った。そして、中でソファーに座ってこちらを睨むように見てきているカフェにタキオンが軽く言った。

「やあ、ミス・超常現象。私を助ける手伝いをしてくれたそうだね。お礼を言いに来たよ」

「こんにちは、超光速のお姫様。大好きな王子様の口付けは如何でしたか?」

 カフェは、元気そうなタキオンに若干腹が立って、気だるそうにそう言った。その効果は抜群だった。タキオンは、その言葉を聞いた途端に「は!!?」と大きな声を上げたし、ついでに、田上が緊張して無意識のうちにタキオンの手から離れようとした。

 タキオンは、その後に、田上の手が離れようとしているのに気が付いて、急いで隣の顔を見上げたが何を言う暇もなく、田上が自分のしようとしていた事に気が付いて、「ごめん」と言った。だから、その言葉を聞くと今度はカフェの方を向いて、タキオンは言った。

「君!見てたのかい!?」

「いえ…。でも、お友達から聞きました」

「出た!君の幽霊だね?こっちにはプライバシーの欠片も無いのかい?」

 すると、カフェは空中を見つめて少し押し黙った後、タキオンに言った。

「お友達が言うには、――道端でキスをする奴にプライバシーも何もあるもんか。…との事らしいです。…タキオンさん、あなた、道端でキスしていたんですか…?とんだ破廉恥お姫様ですね……」

「違う!始めたのは私じゃなくて圭一君だよ!」

 タキオンが、恥ずかしさ紛れにそう言うと、田上が横から口を開いた。

「そうです……。すいません」

 恐ろしく気落ちした声だった。それで、タキオンも責めるつもりはなかったから、「君のせいじゃないんだよ」と慌てて取り繕ったが、田上はもうタキオンを見ておらず、かと言ってカフェでもない虚空を見つめていた。すると、また先程の様に電灯がカチカチと鳴って、部屋に置いてあった金の天秤が、キシキシと音を立てて右に落ち込んだ。その天秤の様子にはタキオンは気が付かなかったが、またあの時に自分に入り込んできたような暗闇を感じて怯えを持った。それでも、田上の事が心配で田上の視線に入り込むように前に立つと、繋いでいない方の手も取って「大丈夫かい?」と聞いた。電気は、何事もなく極めて平常な様子で再び調子を保った。

 カフェは、その電灯を見上げ、次に動いた天秤を見つめると、タキオンの言葉に「大丈夫…」と答えている田上を横に天秤の方に歩いて行った。そして、それを前の様に水平に戻した。金の天秤は、鈍く電灯の明かりを反射していた。

 そうすると、今度は、自分を不安そうに見てきているタキオンに向かって言った。

「…あなたたちも随分と不安定ですね。私が居るのにこんなになるなんて…」

「今のは君の幽霊かい?」

 タキオンがそう聞くと、カフェが答える前に、天秤と同じ低い棚の上に置いてあったノートが、一人でに空中に浮かび、そのノートに『違う』と書き殴られた。その事に困惑しながらもタキオンは、どこに居るのかも分からない幽霊にもう一度聞いた。

「じゃあ、今のは先程の暗闇と関係あるんだね?…それは何だい?」

『悪意』とノートに書かれた。

「悪意?そいつは君の同族という事でいいんだよね?」

 また『違う』と書かれた。しかし、今度はその後に電灯が再びチカチカと鳴った。そして、ノートに慌てたような文字で『ここでするような話じゃない』と書かれた。

「私もそのように思います。一旦、ここから離れましょう。そして、あなたたちは当分の内はここには来ないでください」とカフェが言った。

「君は?君は大丈夫なのかい?」

「私には、元々そういう体質があります。悪さを働く者を寄せつけない、大人しくさせるものが」

 その言葉を理解できなさそうにタキオンが、少し首を傾げて眉を寄せたが、何か言う前にカフェが口を開いた。

「行きましょう。…まだ話がしたいですか?私は、別にしなくて構いませんが」

「私はしたいよ。何か…何かがあの部屋に居るんだろ?ね?」

 タキオンは、話の最後に田上にそう呼びかけたが、田上は「ああ…、うん…」とぼんやりとした様子で返事をしたばかりだった。それだから、タキオンは尚の事田上が心配になって「大丈夫かい?」ともう一度聞いた後、カフェに「本当にこれは大丈夫なんだろうね?」と焦り気味の様子でそう言った。カフェは、ぼんやりとしている田上の目を見つめながら、「大丈夫です…」と言った。その言い方も的を得ないようなものだったので、タキオンは「本当に…?」と聞いた。

「ええ。…ただ、この人に女の子にキスをするくらいの度胸があったのが……。この部屋を出ましょう」

 田上やタキオンの心に変動を及ぼすと、どんな影響が出るのか分からないので、言いかけた言葉を飲み込んでカフェは外へと二人を促した。しかし、どこに行く当てもなかった。空き教室に行くのもなんだか微妙だし、かと言って廊下で話すのは落ち着かない、外のベンチに腰掛けるのは雨が降った後なので尻は確実に濡れる。その中で選択肢を絞っていった結果、渡り廊下にあるちょっとした四五段の階段に腰かけて話そうという事になった。最後までごねたのは田上だったが、タキオンが少し頑張って頼むと仕方なくそれを受け入れた。

 

 三人は、研究室の一番近くにある渡り廊下の方まで行って座った。その上には、まだ渡り廊下があってそれが屋根になって雨が降りこむのを防いでいた。風もそれ程強くなかったのは幸いだった。屋根があるといえど、端の方は少し濡れていたのでタキオンたちは中央寄りに座った。階段に座ったのは、タキオンと田上だけだった。カフェは、渡り廊下と校舎を繋ぐガラス戸に背をもたれかけさせ、しゃがみこもうとした。そこで、何が気に入らなかったのか再び立ち上がると、階段を上り切ってただの石の廊下になっている所に座って言った。

「タキオンさんもこっちに座ってください」

「なんでだい?」

 タキオンが不思議そうに聞くと、カフェが返した。

「あなたに見下ろされると妙に腹が立ちます」

 それを言われると、タキオンも苦笑をしながらカフェの指示に従った。カフェは、タキオンが何の抵抗もしなかったので拍子抜けになって、なんだか負けた気分がした。ただ、それをごちゃごちゃ言っても始まらないので、ゆったりとしたズボンが座った事により少し乱れたのを整えると言った。

「何から知りたいですか?手短に話してください」

「じゃあ、『悪意』とは一体何だい?君のお友達の話だと、幽霊ではないようだけど…」とタキオンが言うと、カフェのズボンのポケットから先程のノートがふわりと飛び出て、文字が書かれた。

『近しい物。しかし、何なのかは言えない。言うと、あいつが俺を苛めるかもしれない』

「そうなのかい?その『悪意』はあの部屋から出ても耳を澄ませているのかい?」

 そのタキオンの質問は、少し答えるには難しかったらしく、ノートに文字を書かれるまで間があった。その後に、こう書かれた。

『分からない。あいつが、起きているのか寝ているのか話しているのか、俺に推し量る事はできない』

「すると、部屋が『悪意』なのであって、君たち幽霊の様に実体?のようなものがあるわけじゃないのかい?…そもそも、君たち幽霊って一体どういう生き物なんだい?現在の科学では全く存在の確認ができないものではあるのだけれど。…何か私たちの知らない物質が関係しているのかい?」

 それの後に暫く間があって、またノートに文字が記された。

『分からない。カフェには私の存在が確認できる。カフェの体を解剖してみては?』

 カフェは、嫌そうにしかめっ面をして、「余計な事を…」と言ったが、ノートにはまだ続きが記された。

『それと、『悪意』の正体にこれ以上触れるのは止めてくれ。お互いにとって良くない。俺が、『悪意』と言ったのも忘れてほしい』

「分かった。なら、君について聞きたいが、……君の名前は一体何なんだい?」

 すると、ノートには『言えない』とただ一言記された。それだから、カフェが解説を付け加えた。

「私が、その人に名前を聞こうとしてもただ、――言えない、の一点張りでした。何回聞いてもどうしても言えないそうです。だから、私は、普段はTruth〈真実〉と呼んでいます」

「その言葉に何か意味でもあるのかい?」

「いえ、特に。……何か分かる事があればいいな、と思ってつけた名です」

「じゃあ、意味があるじゃないか。君は、そのトゥルース君に真実を教えてもらいたくてつけた名なんだろ?」

「あんまり望みはありません。だから、特に意味はないんです。……質問はそれで終わりですか?」

「いや、まだあるよ。…トゥルース君へ質問だ。いや、カフェでもいい。私は、あの時どうなっていたんだ?君の声は微かに聞こえた。それもすぐに去って行ってしまったが。…それで、暗闇に包まれたと思ったら、暖かい風が吹いて圭一君が起こしてくれた」

 そこでタキオンは田上の方を見たが、田上と言えば、その話を聞いた途端に目を落として気落ちした顔をした。それに何か励ましの言葉をかけてやりたかったが、それをする前にカフェが返事をした。

「私にもあなたが何を感じてたのかまでは分かりませんが、あの部屋の不思議なものはまず、田上トレーナーのことを狙おうとしました」

「…?それがなんで私になったんだい?」とタキオンが言うと、平然としてカフェが答えた。

「私が、飛び込んできたからです。…部屋に押し入ったのは間違ってはいないと思います。あれは、もし時間があれば、タキオンさんも狙っていた可能性が無くは無いですからね」

「君になんでその事が分かったんだい?」

「私が、部屋に押し入ったとき虚ろになっていく田上トレーナーが見えました。そして、今回の暗闇の元凶も。なんでああなったのかは聞きません。あなたたち同士で解決を目指せるのならば、私は干渉しません。ただ、今後は、落ち込んだ時はあの部屋に行くのはよした方がいいですよ。いつ、ああいう事が起きるか分かりません。私にもなんであれがあんなに動き始めたのかは全く分からないんです。…私は、襲われることはありません。そこらへんは、安心してていいです」

「そしたら、圭一君の事をその部屋の奴はどうしようとしてたんだい?圭一君を虚ろにしようとしてたんなら、わざわざ君が来たタイミングで私に乗り換えるようなことはしないだろう?」

「あなたのは、奴の鼬の最後っ屁です。どういう仕組みで成っているのかは分かりませんが、私には、田上トレーナーの事を抜け殻にしてその中にあれが入ろうとしていたのじゃないかと思います」

「入って何を?」

「私には分かりません。でも、本人に成りすまして生活するだなんて碌な事ではないでしょう。あれが、『悪意』というのなら、あなたを懐柔して弄ぶことも考えるでしょうし、もしかしたら、トレセン学園で殺害事件みたいなことを引き起こそうとたくらむかもしれません。…とにかく、私には詳しい事は分かりません。ただ、あれが日常に溶け込もうとしていたのは分かります。人間の生活を味わってみたかったのではないでしょうか?」

 そこで、今まで黙って話を聞いていた田上が初めて口を開いた。

「タキオン…」

 ぼんやりしていたのが転じて、今度は、気落ちした声になっていた。

「俺は…」

「別に君が悪いと言っているわけじゃ無いんだよ?」

 タキオンが、心配そうに口を挟んだが、それを否定して田上が言葉を続けた。

「いや、俺は、自分が怖い…。悪意が俺を抜け殻にしなくたって、悪意になってしまいそうな自分がいる。あれが、先に俺を狙ったのも納得がいく。一番、扱い易そうなのが俺だったんだよ。何もわからない、何もない、今にも正気を失いそうな男。いつどこで爆発するのか分からない…。もしかしたら、もう悪意は俺の中に居るのかもしれない」

 それを田上が言うと、タキオンが慌てて問うようにカフェの顔を見た。だから、カフェはタキオンではなく、田上に向かって言った。

「私が、見る限りあなたの中にあれが住んでいるようには見えません。……ええ、トゥルースもそう言っています。…ただ、御存知の通り『悪意』という言葉は人間にだって適用されます。自分の心からそれを産み出してしまうのです。…ですが、それはよっぽどの事ですのであまりお気になさらないほうが身のためかと…。…それに、トレーナーさんにはタキオンさんも居るのでしょう?苦しくなれば、可愛い奥さんの顔を思い出してみれば如何ですか?」

 若干、冗談めかして言ったが、話を聞いていた田上の方はただ悩ましげに自分の顔を指先で撫でただけだった。タキオンもその冗談を良くは思わなかったようで、カフェの顔をじろりと睨んだ後田上に向かって言った。

「例え君が悪意に侵されていたとしても、私は全然構わないよ」

「なら、俺の中身がすり替わっていたとしても良いって事か?」

「そんな事じゃないさ。ただ、君は悪意に侵されるほど軟な男じゃないって事さ」

「でも、俺は飲み込まれそうになった」

「飲み込まれそうになった?…君が虚ろになっていくときだね?どんな感覚だったんだい?私にも共有してくれ」

「……それと同じような夢を見た事がある」

「どんな夢なんだい?」

「……落ちていく夢だ。…深い深い穴に。…底は見えない。ただ、落ちていくだけ…」

「その夢は、落ちていくだけの夢かい?」

「…いや、……タキオンに嫌われる夢だった。――部屋から出て行け!って怒鳴られて、ドアを開けたら奈落に真っ逆さまだった」

 その事を聞くと、タキオンは優しく言った。

「君もバカな夢を見るなぁ。私が、君を嫌いになんてなるはずがないじゃないか」

「でも、嫌われてもいいようなことはたくさんしてきた…」

「君は、それを後悔してたんだね。…大丈夫だよ。私は、君の事は嫌いになったりしない」

 タキオンは、そう言って田上を安心させるためにその背に手を伸ばしたが、田上は「やめてくれ…」と言って手を追い払った。けれども、タキオンだって田上の事が心配だった。だから、何か言葉をかけてやろうとしたが、その前にカフェが言った。

「もう話は終わりですか?終わりならば、私は早く帰りたいのですが…」

「ああ、もう終わりだよ」

 そうタキオンが言うと、急に田上がスクッと立ち上がって言った。

「じゃあ、俺ももう帰る」

 そうすると、他の二人の返事も聞かずスタスタと歩いて行った。

「え…」とタキオンは呆然とした様子だった。自分も立ち上がって追いかける事ができず、ただ、その去って行く背中を見つめた。それから、我に返ったのはカフェに「タキオンさん…?」と呼び掛けられた時だった。田上は、渡り廊下から校舎に入り、廊下の角を曲がって見えなくなっていた。

 タキオンは、カフェに向かって怒り気味に言った。

「なんで圭一君は帰ったんだ」

「さぁ?…私に聞かれても分かりません。あなたが一番分かっていらっしゃるんじゃないですか?」

「……分かっているよ。…どうにもやりづらいよ」

「…それは、あなたも辛さを持っているからじゃないですか?…心に抱えているものがあるのでしょう?」

「…そりゃあ、…持ってるさ。だけど、どうにも向き合う時間がなくてね。心に抱えたままにしてる。…いつか分かるときが来るのかな?」

「私には分かりません。…けれど、真実は掴まなければなりません。…望みはないですが…」

「真実なんて、望んだって勉強したって簡単に手に入るようなものじゃないからね。…掴まないといけないよ」

 タキオンは、そう言うとノロノロと立ち上がった。そのタキオンにカフェが「いってらっしゃい。…そして、真実が分かったときは、ぜひ、私に恋の実らせ方を教えてください」と言った。タキオンは、気だるそうにその言葉を発したカフェの顔を見つめたが、その後に「できたら教えるよ。…何十年かかるかもしれないけど…」と返した。カフェは、にこりと口角を上げてもう一度「いってらっしゃい」と言った。タキオンは、もう何も反応せずノロノロとした足取りながらも最大限急いでいる様子で田上の去って行った方へ歩いて行った。

 

 結局、その日の内にタキオンが田上の背に追いつけることはなかった。タキオンも一応急いだつもりではあったのだが、田上が途中で走ったのか何なのかもう行方は全く分からなくなった。タキオンは、そこで田上が寮に行ったのだろうと見当をつけたが、寮の前まで歩いて行ってみて、誰も居ないのを確認するとそれ以上探す気力が失せた。だから、その後はそのまま寮へと帰った。

 帰ると同室のデジタルが出迎えてくれた。タキオンの大阪杯を見ていたらしく、「あそこのここが良かった」「ここがこうでどうこうで本当に素晴らしかった」とお褒めの言葉を述べた。それをタキオンは適当に聞き流したが、ウイニングライブの話に移りデジタルの質問が飛んでくると、そこで始めてデジタルの目を見た。

 デジタルは、ウイニングライブについてこんな質問をしてきた。

「タキオンさんのダンス、演技、本当に素晴らしかったです。その中で、歌詞にはないはずのトレーナーさんに言及していたのはタキオンさんの悪戯とかアドリブとかですか?」

 この質問が飛んできた時、タキオンはベッドにうつ伏せに寝転がっていて顔を枕に埋めていた。しかし、その質問でそれをやめてデジタルの方をじっと見つめ始めた。デジタルは、タキオンが答えもしないで自分の顔を見つめてくるのに戸惑った。だから、こう聞いた。

「…あの、…今の質問はダメでしたか?」

「…いや、ダメではないよ。ただ、この話をしたら君は喜ぶんだろうな、と思ってね」

「どんな話ですか?」と聞きながらデジタルは、もうすでに自分の頭の中で空想を繰り広げていたが、そのどれでもない答えが返ってきた。

「私と圭一君ね、…キスをしたんだよ」

「キスぅ!?キスですと!?それは、憐れなデジタルめをからかうための嘘ではなく?」

「この場で君をからかって何の意味があるんだい。本当だよ。全部本当。つい帰ってきた後もキスをしたばかりさ」

「あわわわわわ!!なななな、なぜ!なぜ、その様な行為を及んだのか後学の為に私めに教えていただけはしないございましょうか」

「後学?…別に言っても構わないけど、君も私の相談に乗ってくれよ」

「そそそそそ、相談!?ああ、ぜひともデジたんに言える事があれば仰ってください。何にでも答えを見つけて差し上げます!」

 そのデジタルの反応にタキオンは苦笑した。

「いつまでも君は騒ぐねぇ。…答えなんてあればいいけど。……私、一番初めのキスは思わずやってしまったんだよ。…気を引きたかったのかどうかは知らない。ただ、衝動的にやってしまったんだよ。彼が、――行かないでくれ、なんて言うから」

「行かないでくれぇ!!え?え?…トレーナーさん…圭一君!!?タキオンさん、先程田上トレーナーの事を圭一君と仰いましたか!?」

 デジタルは混乱に混乱を重ね、到底、言語では追えないほどに思考がひっちゃかめっちゃかになっていて、先程のタキオンの何気ない発言を今頃引っ張り出していた。タキオンもその様子を少し鬱陶しく思ったが、相談を続けたかったので、デジタルの話に真摯に答えた。

「そうだよ。圭一君さ。彼の名前だよ。大阪杯を終えた夜からそう呼ぶことにした。君も自分のトレーナーの事を名前で呼んでみたらどうだい?案外、楽しくなるんじゃないか?」

「あたしですか!…あたしは、…別にあんまりそういう気分じゃないので呼びません。…それで、…キスをしたという事は…?」

「…まぁ、…交際を始めたよ」

「おひょぉぉぉぉお!!」とデジタルが叫び始めたが、タキオンがそれを遮って言った。

「待った。騒ぐのは待ってくれ。こっちにも色々あるんだ。君に、前に迷惑をかけたことがあっただろ?言わば、それの延長線みたいなもんだ。…とりあえず、私の話を聞いてくれ」

「はい。聞きます」

 タキオンにそう言われると、途端にデジタルは大人しくなってその話を椅子に座って綺麗な姿勢で聞いた。

「私は、大阪杯の前日から今まで、計三回のキスをした。一つはさっき言った通りだ。少し衝動的にした。二回目は、ウイニングライブからホテルの方に帰った後だった。彼と通じ合えたような気がしたからキスをした。三回目は彼からだった。私を助けるためにキスをした。そして、二人で助け合っていこうと言った。…けれど、すぐに彼は再び心変わりをして、私から遠ざかって行った。…彼の心を救うにはどうすればいいと思う?」

 そうすると、デジタルは困ってしまった。まぁ、「答えを見つけて差し上げます」と軽々しく言った時には想像していない話だった。タキオンならまだしも、そのトレーナーである田上圭一とはあまり触れあっていないのだ。本人がどのような状態であるのかは、デジタルにはあまり分からないし、また、軽々しく助言をする事もできなさそうに思えた。後者の方は、タキオンが許さないように思えた。デジタル自身の足りない頭で考えるには、とてもとても難しい問題で、それについて答えを求めてきているのならば、タキオンの性格上、安易な答えでは簡単に却下されそうであった。それでも、デジタルは自分の考える以上の事は言えないので、躊躇いながらも口を開いた。

「…えっと…、…あたしには図りかねますが、…まだ時間が足りないのでは?二人で居る時間をもっと増やして、それから、トレーナーさんの経過を見てみてはいかがでしょうか?」

「…時間か。…私には、耐え切れそうにないな。…会う度にあんなになっちゃうんじゃ、私はどうしても疲れてしまう。…勿論、そんな簡単にはいかないって事は分かっているさ。分かっているけれども、今までだって一緒に話して、一緒に乗り越えようって約束してきたのにあんなになるんだ。デジタル君には、解決策はあるかい?圭一君をパッと変えてしまうような方法を」

「……あたしにはちょっと……」

「……そうか……。……私は、彼に自力で乗り越えてほしいんだ。私が居なくたって、生きていけるように」

「今は生きてはいけないんですか?」

「恐らく生きてはいけないだろう。私に、――行かないでくれ、と言ったのがその証拠だ」

「それなのにタキオンさんの事を突き放してしまうんですか?これは、大変な恋路ですね。あたしの頭の中では到底描けません」

「…?何の話だい?」

 デジタルは、自分が趣味で描いているマンガや小説の話をしていて、隙あらばこの話を元に何か話を描こうと思っていたのだが、それが口から洩れてしまっていた。それだから、慌てて「いえ、何にもないです!それで、タキオンさんはトレーナーさんの事をどうしたいのでしょうか?」と聞いた。

「…私は…。…ダメなんだろうなぁ。あんまり近道を考えすぎても。……トレーナー君に電話かけてみようかな」

「ああ、そうしてみたらどうですか。それが良いと思いますよ」

 デジタルがそう言うと、タキオンは悩まし気な目つきでその顔を見た。そして、怠そうに言った。

「私の荷物からスマホを取ってくれないか?手前のポケットに入れているはずだ」

 それにデジタルは「はい、ただいま」と言って、さっさっと動いてタキオンに手渡した。そして、電話を掛けようとしているその顔を、興味津々な様子で見つめた。タキオンも田上が電話に出てくるのを待っていて、目を泳がせている時にその視線に気が付いたが、特に嫌がる素振りも見せずにその目を見つめ返した。すると、段々とデジタルは恥ずかしくなってきてそれを堪え切れずにこう言った。

「まだ、トレーナーさんは電話に出ないのでしょうか!」

 タキオンは、デジタルの事を見つめながら「まだだねぇ…」と呟くように言った。



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二十、走れウイニングライブ⑨

 それからもタキオンは、じっとデジタルの事を見つめながら田上が電話に出るのを待った。しかし、田上は一向にタキオンの電話に出ようとしなかった。その頃にはデジタルもタキオンの視線を背中にひしひしと感じながら、自分の机の方に向かっていたが、一度気になって振り向いてみれば、前見た時と全く変わらない格好でタキオンが座っていたので驚いた。デジタルは、神妙な面持ちで「まだ繋がりませんか…」と聞いた。タキオンは、さっきと変わらない調子で「まだだねぇ…」と言った。それだから、デジタルは話を動かすのは自分しかいないのだと感じ、続きの言葉を言った。

「…もしかしたら、田上トレーナーのスマホはマナーモードになっているか、荷物に紛れて音が聞こえなくなっている可能性がありますね…」

 それに、タキオンは「そうだねぇ…」と心ここに在らずといった調子で答えた。

「もしあれでしたら、直接寮まで行って話してみてはいかがでしょうか?寮にはいらっしゃるんでしょう?」

「……それは、難しいねぇ…。今の私には、圭一君の寮に単身乗り込んでいくほどの元気はないよ…」

「なら私がお手伝いいたしましょうか?」

 デジタルがそう聞くと、タキオンは初めてデジタルをしかと見つめて言った。

「そういう問題じゃないんだよ。私は、彼を待ちたいんだ。追いかけていったって私の心は解消されない。私は彼を待ちたいんだ」

「そういう事なら…お好きなようにして構いませんが、…トレーナーさんが本当に出てくれるのかどうかは分かりませんよ?」

「…君も案外物を言うね」

 タキオンは、デジタルの顔をじろりと睨んだが、特にそれにデジタルが怯むということはしなかったので、そうすると一つため息を吐いた。

「…圭一君…。出ないかなぁ…」

 すると、耳元の電話から唐突に低い声が聞こえてきた。

「…長い。もうやめてくれ」

 そう一言言うと、電話は切られた。タキオンは、一瞬、自分の電話に幽霊が出たのじゃないかと思ったが、すぐにその後に田上の声だという事を確認すると切れた電話をもう一度繋ぎ直した。

 今度も少し電話に出るまで時間がかかったが、前ほどではなかった。比較的すぐに疲れた低い声が出てきた。

「…何か用か?」

「…君と話したくって」

 タキオンは、しおらしく言った。すると、それに迷惑そうに田上が答えた。

「…諦めてくれよ…」

「…他にすることがないから。……私と君は恋人だよね?」

「………分からない…」

「そうか…。…でも、キスはしてくれたよね?」

「……分からない」

「…私、君を追いかける事が疲れるようになってきた。…前程の元気がない」

 それに、田上は何も答えなかったのでタキオンは続けて言った。

「…水曜日は海に行くんだよね?」

「………行きたい、とは思っている…」

「…そう。…恋人みたいなことできるかな?」

「……できない…」

「…そうだろうね…。……昼食は?食べたかい?」

「いや。…お前は?」

「食べてない」

「…食べないと体が作れないぞ」

「それは君も同じだ。…購買に一緒にパンとか買いに行くかい?」

「…いや。俺はいい」

「奇遇だな。…私も買いに行く元気はあんまりないよ」

「…夕食は?」と田上が聞いた。

「…君はどうする?カフェテリアに行くかい?」

「…いや。冷蔵庫にあるもので済ます」

「…君と一緒が良かったけど…」

 その後に、田上の答えを待つような空白があったが、田上は何も答えなかった。その代わりにこう言った。

「…元気に過ごせよ」

「君と一緒に過ごしたい」

「…ばいばい」

「…ばいばい」

 田上は、タキオンの言葉を無視して強引に別れを告げた。タキオンも別れの言葉以外は何も言えなかった。言う元気がなかった。

 

 その後は、デジタルに励まされて夕食に行った時と風呂に入りに大浴場に行った時以外は、一歩たりとも部屋から出なかった。その時は、デジタルが良い話し相手になってくれた。何か話題を振ってみれば、よくコロコロと回る口でタキオンを飽きさせないように延々話をしてくれた。たまにお道化てタキオンを笑わせてくれるので、大分気が楽になった。

 それでも、田上とのいざこざは寝る時になってまた蘇ってきた。タキオンは、苦しい眠りに着いた。夢にうなされた。暗闇が迫ってくる夢だった。走っても走っても追いかけてきて、自分の手や服の裾を掴んで引き留めようとしてくる。学校の机の下に隠れても、菜の花の茂みを通って追っ手を撒こうとしても必ず見つけられる。暗闇が迫ってくる。暗闇が迫ってくる。

――もう助からない。

 そう思ったところでタキオンは、デジタルに揺り起こされた。自分の息が荒れているのを感じた。デジタルに起こされてようやく収まったのだ。体が火の様に熱く、汗をだらだらと溢れさせていた。

 起こされたところで、タキオンは一瞬状況を理解できていなかったが、自分んを覗き込んでいるのがデジタルだということが分かると息を整えてから「ありがとう」と礼を言った。

 ただ、デジタルは心配そうにタキオンに状況を告げた。

「…大丈夫ですか?…トレーナーさんの名前を必死に呼んでいましたけど、悪い夢でも見ましたか?」

「あ、ああ。…良い夢じゃなかったな」

「お水を持ってきましょうか?」

「ああ、そうしてくれるとありがたい」

 その言葉を受けて、デジタルはそそくさと水をコップに注いで、ベッドで体を起こしたタキオンの所へと戻ってきた。そして、手渡そうとした時、タキオンの手が少し震えているのを目聡く見つけて言った。

「怖いんですか?」

「いや、…。怖いかもしれない。ちょっとこの部屋に電気を点けてもらえないか?」

「ああ、気が利かなくてすいません。只今」

 それで、明かりがパッと点いた。

「ありがとう」とタキオンが言って、コップの水をグイと飲みこんだ。それから、自分の上に乗っている白い布団を見つめながらタキオンは言った。

「圭一君はどうしてるのかな?」

「…さぁ?寝ているんじゃないでしょうか?」

「…そうだよね。…電話を掛けたら迷惑かな?…今何時だい?」

「一時三十五分です。さすがにこの時間電話を掛けたら迷惑ではないでしょうか?」

「…そうだよね。…でも、どんな時でも私の相手をしてくれるのが彼だから…。…掛けてみてもいいよね…」

「私は別に構いませんが、怒ったりはしないでしょうか?」

「多少は怒るだろうが、関係がめちゃくちゃになるほど怒ったりはしないはずだ。彼は、いつだって私の我儘を許してくれた」

「なら、そうしてみてはいかがでしょうか?」

 デジタルがそう言うと、タキオンは枕元にあるスマホにおもむろに手を伸ばして、田上に電話を掛けた。案外すぐに出た。「もしもし」と寝起きでありそうながらもしっかりとした声が聞こえた。

 タキオンが、「圭一君」と呼び掛けると、田上が「何か用か?」と聞いた。その後にタキオンは何を言おうか少し迷ったが、「今回は電話に出るのが早かったね」と言った。すると、田上は「なら、出なかった方が良かったか?」と喧嘩腰で聞いてきたので、少し慌て気味に「出てくれた方が嬉しいよ」と言った。それから、続けて言った。

「でも、君にしては電話に出るのが早かったじゃないか。今まで起きてたのかい?」

「……いや、さっき目が覚めたから水を飲んでた。こんな時間に何の用だ」

「夢を見ちゃってさ。それが怖かったから君に電話したんだよ」

「デジタルさんは?起こしてないか?」

「いや、デジタル君が起こしてくれたんだよ。私、夢でうなされていたそうで、心配したデジタル君が起こしてくれたんだ」

「なら、俺に電話を掛ける間もなく寝たらどうだ?デジタルさんに迷惑をかけているんじゃないのか?」

「ああ、そうだね」

 そこで言葉を途切れさせると、自分のベッドで眠たそうにしているデジタルに向かって言った。

「君はもう寝てていいよ。その代わり、少し私は圭一君と話をするけど、君はあんまり構わないだろ?」

「え?…はい!そのお声をお聞かせいただけるだけでも私の幸せの極致でございまする」

「なら、手数をかけるが電気を消してくれないか?」

「はい、只今」

 そう言うと、デジタルは電気を消して自分のベッドに寝転がってさっさと寝てしまった。タキオンの顔にはスマホの明かりが眩しく照り始めたが、その明かりだけでは白く冷たく不安だったので枕元の夜寝る前の読書などに使うオレンジ色の照明を点けた。そして、田上に言った。

「君は勿論付き合ってくれるんだろうね?私のお話に」

「…いつまで?」

「私が眠りにつけるまで居てくれよ。怖いじゃないか」

「…どんな夢を見たんだ?」

「……今日の騒動の夢だよ。あの私の前に現れた暗闇が、また私に迫ってきた。私は、必死にそれから逃れようとしたけど無理だった。あれは、必ず私を捕まえに来た。…けど、君とこうして話すことができるのなら、見つけられても良かったかもしれないな」

「縁起でもない事言うなよ。あの時のお前の様子は大分おかしかったんだからな?それを自覚しろ」

「でも、君が相手をしようとしないのがいけないんじゃないか。私をそんな考えにしたくないのであれば、しっかりと君が私の相手をすべきだ」

「……相手をしてやりたいのは山々だけど、お前だって俺が自分の相手で忙しいってのは分かってるだろ?」

「そりゃあ、分かってるけど私たちってもう夫婦みたいなものじゃないか。妻を一人置いて行くのは夫としてどうにかあるぞ」

「俺は!…お前とは結婚していない…。その話はちょっとやめてくれ。そうでないとこの電話は切る」

「…でも、君が私にしたことは忘れないよ。君は私にキスをしたんだ。それでいて私の事を好きじゃないというのなら、君は女子高生に猥褻行為を働いた事になる。私が先生にチクれば簡単だぞ」

 そうタキオンがいやらしく言うと、田上は声を荒らげる他になかった。

「お前!……そんな事を言うような奴じゃなかっただろ…。…もうダメだろ。…ここまでしたんだ。ここまでしたのに、全く良くなる未来が見えない。…お前ももうそろそろ気が付いてるだろ?多分、俺たちは最初から出会ったら駄目だったんだ」

「…でも、君はつい昼頃に二人で助け合っていこうと言ったじゃないか。それで、もし自分が私の事を愛するのをやめたら絶対に止めてくれと言ったじゃないか」

「人にいやらしく先生にチクる事を仄めかすのが、俺を止める方法なのか?お前だったらもっと違う方法で俺の事を止めてくれると思ったんだが」

「…それは、…悪かった。確かに今のは私が悪い。悪かったから、許してくれるとありがたい」

「いや、…そう言えば、理事長の秘書さんから連絡があったんだ」

「…なんて?」

「お前のウイニングライブの話だ。別に歌詞に変更を加えたのはどうでもいいそうだけど、それでお前と俺の間に何かあるんじゃないかと、ファンから問い合わせが何件か寄せられたそうだ。今の所返信はしてなかったけど、とりあえず、交際はしていないって返しておくから」

「え…、でも、…でも、私の意志は?私には、どうしたいのか聞かないのかい?」

「聞いても話が長くてまとまらない事は分かってる」

「分かってるなら、猶更まとめる努力をしようよ」

「いや、まとめたとしても次の瞬間には紐が解けてバラバラになってるんだ。幾ら話したってキリがない」

 田上がそう言うと、タキオンは再びある事が心配になって言った。

「…君、本当に海には行くんだよね?絶対に断ったりしないよね?私は、あれを楽しみにしてるんだよ。その想いを踏み躙ったりはしないだろうね?」 

「多分しない。…本当に行くつもりではいる。いるけど、実際に行くとなってどうなるのかが分からない」

「お願いだから、ちゃんとしてくれよ。少しだけでもいいから、私を喜ばせてくれよ」

「そのつもりではいる。そのつもりでは…。その日に近くなってみないと分からない」

 そこで、二人の間に沈黙が割って入った。その沈黙は、暫く二人の間を漂っていたが、これ以上続けば電話を切ろうと田上が思ったタイミングでタキオンが田上に話しかけた。

「君、目が覚めたと言っていたけど、なんで目が覚めてしまったんだい?私と同じように悪夢を見たのかい?」

「……そんなところ」

「どんな夢を見たんだい?」

「…言いたくない」

「なぜ?」

「…お前に言えるような夢じゃないからだ」

「それは私だけ?デジタル君にであれば言えたりするかい?」

「誰にも言えない。…この話題もやめてくれ」

 すると、タキオンが一つため息を吐いて言った。

「…君と直接会って話をしたいよ。ほら、抱き合って話をした方が君も落ち着いて話ができると思わないか?私の見立てでは、そっちの方が君も落ち着いているような気がするんだ」

「…できない」

「…じゃあ、秘書さんに返信するのも待ってくれ。…それとも、秘書さんの方も直接会って話をした方がいいんじゃないか?秘書さんも物分かりが悪い人じゃないだろ?会ったことはないけど」

「…まぁ、お前がやらかしたことを俺に説教するくらいには物分かりの良い人だ」

「説教ってどのくらい?」

「二言三言タキオンさんに伝えておいてください、みたいな感じ」

「…。それを私は聞いた事があったかな?」

 タキオンがあっけらかんとして言った。

「そんな感じだったから俺も参った。…菊花賞を終わってみれば、それで良かったんだろうな…」

「……君は、まだ自分の事をダメなトレーナーだと思っているのかい?」

 タキオンは、そう唐突に聞いた。

「…そんなところだ。…今日はもう眠いから寝よう?もう二時になる」

「でも、そうすると私、怖くて眠れないよ。怖かったから君に電話を掛けたんだ」

「…でも、こっちだっていつまでも起きているわけにはいかない。…ちょっと部屋の電気を消すから待っててくれ」

 そう言うと、電話から田上の声が聞こえなくなって代わりに、ゴト、ガサ、ゴソと聞こえてからまた田上の低い声が聞こえた。

「お前、眠れそうか?」

「いや、結構元気だね。大分覚醒してしまったよ」

「…何か子守歌でも歌えば眠るか?」

「子守歌?」

 タキオンは、少し苦笑してオウム返しに言った。それから、続けた。

「子守歌っていうのは、電話越しにするもんじゃないよ。それに、私も子供っていう年じゃないからね」

「でも、夢が怖くて俺に電話を掛けたんだろ?」

「夢が怖いのは大人だってそうなるさ。いいだろ?男としては、女性から頼られた方が嬉しいんじゃないのか?」

「お前に頼られたって嬉しくはない」

 田上からぶっきらぼうな言葉が返ってきた。

「ははは。私と君の仲じゃないか」

「あまりに不安定だけど」

 そこで、タキオンが少し考えを巡らしてから言った。

「今の君はどうだい?大分、落ち着いたように見えるけど、私と交際することには賛成かい?」

 そうすると、田上も黙ってしまったが、返事はしてくれた。

「お前の事は心配になるな…」

「…?なんで?」

「……ダメ男を世話するのが癖になったら、お前の今後が心配だ…」

「ふふっ。そんな事を心配しているのかい?…大丈夫だと思うけどね。今後、君のような奴に出会うとも限らないし」

「出会わないとも限らないだろ。……今のうちに良い人を紹介しておこうか?」

「今?…そしたら、君はどうするんだい?」

「……潔く身を引く」

「それは、潔しとは言わないだろ。そういうのは、擦り付けて逃げるって言うんだ。…それに、良い人を紹介するくらい心配だったら、自分でちゃんと私の手を握っておけばいいじゃないか」

「それができないから心配なんだ。……俺を追いかけるのが疲れてきたって言ったろ?…その通りだよ。俺は、もう逃げるのが癖なんだ。この癖はもう…」と田上が言葉を続けようとしたところで、タキオンが少し大きな声でそれを遮った。

「直せる!君の気持ち一つで簡単に直せるよ。……君は、前にお母さんが死んだ時に暫く不登校になったと言っていたね?でも、その時にしっかりと復帰して今まで生きてきたじゃないか」

「まぁ…、そうだけど、……そうだね」

 そして、また暫くの沈黙が続いた。二人共何も話さないから、お互いがお互いを寝たのじゃないかと思って、ほとんど同時に「圭一君?」「タキオン?」と呼び掛けた。それから、二人の声が重なったのを可笑しく思って、クスクスと笑い合った。その後にタキオンが口を開いた。

「このままだと眠れない気がするな。…何かないかい?」

「何か?……ないな、今の所」

「…すると、私が、君が眠りに就けるように君の好きなところを一つずつ言ってあげようかな?」

「なんで俺なんだよ。眠れないのはお前だろ?」

「でも、君も怖い夢で目が覚めたんだろ?なら、平等にお互いが眠れるようにしなければならない。例え、君が今、――怖くないと言っても、電話を切って私の声が聞こえなくなったら怖くなる可能性があるだろ?」

「その時は、自分で音楽でもつけて怖さを紛らわすよ」

「そいつは狡い。卑怯だ。私は、君の声が聞きたいというのに、君だけ眠ってしまったら私は眠れないじゃないか」

「それを今お前はしようとしているんだろ。お前、もう眠たくて頭回っていないんじゃないか?今なら、すんなりと眠れそうじゃないか?」

「えーー。君の声を聞きながら寝たい」

「…じゃあ、童話とか読み聞かせてしてやろうか?」

「ああ!それがいい。それがいいよ」

 タキオンは先程の「私は子供じゃない」という言動とは裏腹に、恋人の優しい読み聞かせを喜んで受け入れた。すると、田上は苦笑しながら「じゃあ」と言って、自室の本棚から本を取ってきた。手に取ったのは、『雨の島』という題名の、ある作家の短編集だった。その『雨の島』というのは本の中に載っている短編の一つが本の題名になっただけであって、その本の内容は『雨の島』とは関係のない短編の方が多い。田上は、その中から手頃な読み応えのある短編を一つ選んで読み始めた。その短編の題名は、『猛暑日』というものだ。

『夏は暑い。ただ、今日の暑さは尋常ではないくらいに暑い。今日という日に生まれた子供は、残念ながら生き永らえる事には不可能な暑さだろう。すぐに暑さにやられて死んでしまう。幸いな事に、親族中に今日生まれそうな子供はいない。僕の家にたまに訪ねてくる従妹の親友が、秋頃に生まれそうという情報は持っている。従妹の親友と言ったが、別に親友が生まれてくるわけではない。親友のお腹の中に居座っている子供が生まれてくるという事だ。そこは、ご注意を願いたい。それと共に、どうかその子が生まれてくる日が、寒さにやられて死ぬような日じゃない事も願いたい。しかし、秋頃であればそんなに心配するようなこともないだろう。少なくとも、気温においては。

 だが、見てごらん。今日は、山の緑が今にも暑さに溶けそうに唸っている。僕の家は、比較的木に囲まれた場所にあるから、街中よりは大分マシだろうと思っていたが、それでも暑い暑い。今、故郷に置いてきた僕の母に手紙をしたためている所だが、動いてないのに汗がぽたりぽたりと紙の上に滴り落ちる。これでは、真面に文字が書けそうにない。すぐに紙が溶けて字が滲んでしまう』

 ここで、田上は、タキオンがもう眠ってしまったのかどうかが気になって、そっと電話に向かって「タキオン?」と呼び掛けた。すると、向こうから眠そうな声でむにゃむにゃと「んん」と返事が聞こえてきた。どうやら、眠りに落ちるまであと少しのようだ。田上は、次へと読み進めた。

『字が書けないのならば、ここでじっとしていてもしょうがない。僕は、気晴らしに街の中心の方へと出かける事にした。

 街へ出ると、尚の事暑い。やはり、木の葉も幾分の日除けにはなっていたのだ。この時ほど、木の葉に感謝し、木の葉を恋焦がれたことはない。余談は程々にして、僕はあるところへ向かった。僕の行きつけの街の喫茶店だ。そこに勤めている、僕より幾分若くて可愛げのあるお嬢さんが居るのだが、僕は昔この人に好意を持っていた。この『昔」、というのが肝だ。今は、綺麗だとは思っても好意は寄せていない。なぜなのか?そこの所が諸君は気になるだろう。良かろう。ならば、答えて進ぜよう。なぜ、今は好意を寄せていないのかというと、その人は街の好青年と結婚してしまったからだ。口惜しい限りである。僕が、先に声を掛けておけば、まだ嫁を貰えたかもしれないのに。

 今年で三十二となるが、まだ子供も居なければ嫁も居ない。母からは、つい一年位前までは見合いの話を持ち掛けられていたが、どんな話も断っていくうちに遂にここまで来てしまった。もう後戻りはできない。口惜しい限りである』

 そこで、また田上は「タキオン」と呼び掛けた。今度は、返事はない。電話口に耳を澄ませてみれば、微かにタキオンの寝息が聞こえてくるような気がする。その寝息がなんだか可笑しくてニヤリと笑みを作ってしまったが、その後は、何も言わずに電話を切った。

 それから、田上は仰向けに体勢を変えると、体の凝りを解し、またうつ伏せに本の方へと向き直った。その本の続きを読んでから寝るつもりだった。タキオンと同じように枕元の明かりを灯してそれを読み始めた。しかし、最後まで読み切る前に田上は眠りに就いてしまった。本のページは開いたままである。朝起きて、そのページがくしゃくしゃになっていれば、田上は少しショックを受けてしまうだろう。ただ、田上はそんな事には気付かないままに、昏々と眠り続けていた。

 



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二十一、海岸線、白く染まる①

二十一、海岸線、白く染まる

 

 次の日の朝。田上は、自分の部屋を叩くノックの音で目が覚めた。むにゃむにゃと体を起こすと、掛け布団の下に敷かれてページがくしゃくしゃになっている短編集を見つけた。それにしかめっ面をした後、田上はドアの方に顔を向けた。

 初めは、寝過ごしたのかと思って慌てていた。しかし、その次に今日は特に早く起きる用もない日である事を思い出し、ドアをノックした人については田中か誰かがゲームの誘いでもしに来たのかと思った。だが、実際の所は全く違った。眠たそうに目をパチクリさせながらドアを開けた先に居たのは、何の用事もなさそうなタキオンだった。だから、田上は思わず「タキオンか…」という少し失礼な言葉を発した。当然、タキオンがそれを見逃すはずもなく、ドアを開けた田上に言った。

「おはよう、圭一君、と気持ちよく朝の挨拶をしたいところだったのだが、君の第一声が――タキオンか…では気持ちよくとは言えないな」

 それでも、その後にタキオンが「おはよう」と言ってきたので、田上は素直に「おはよう」と返して、次の質問をした。

「海に行くのは明日だろ?」

「ああ、そうだよ。水曜日だと言ったじゃないか。ああ、それと、どこに行くかについては私が調べて提案してもいいかい?」

「ん?いいよ。…それだけ?」

「勿論、ここに来たのはそれだけではないさ。色々と積もる話もあるじゃないか。中に入れておくれよ」

 タキオンが、田上の目を見ながら言うと、田上の方は、その目を少ししかめ顔をしながら見つめ返した。

「少しだけだったら俺も見逃すけど、お前がこの部屋に居座るって言うんならダメだよ」

「そんな固い事を言わなくてもいいだろ?」

 そうタキオンが聞き返したが、田上が相変わらず難しい顔でタキオンを見つめ返すと、タキオンも妥協して言った。

「なら、君が着替えて準備を整えるまででいいよ。昨日のような気分の悪さはないんだろう?」

 田上は、また数秒タキオンを難しい顔で見つめてから、「ああ」と頷いて、廊下に誰も目撃者がいない事を確認し、タキオンを部屋の中に入れた。入れたら、後はいつも通り、タキオンは田上のベッドに座りに行った。そして、何か暇を潰せそうなものはないかときょろきょろと辺りを見渡すと、丁度ベッドの枕元に昨日田上が自分の為に読み聞かせてくれたであろう短編集を見つけた。それを手に取りながら、タキオンは、洗面台の方で服を着替えている田上に向かって比較的大きな声で言った。

「君、昨日の夜、私の為に朗読をしてくれたね。この枕元にある本かい?」

「ああ!」と服を着るために少し力が入ってしまっている声が聞こえた。その声を聞くと、タキオンは続けて言った。

「ありがとう。…私、結局君の話の途中で寝てしまったのだけれど、あの後どのくらい読んでいてくれたんだい?」

「んん?少し。そんなに読んでない」

「そりゃ、ありがたい」とタキオンは言いながら、洗面台に居る田上の方へ行った。結局、本を手に取っても田上が居ないとそわそわとして落ち着かなかったのだ。田上は、自分の髭を剃っていた所だった。鏡越しに目が合うと、そのままぴたりと動きを止めたが、その後は自分の事を見つめてくるタキオンをチラチラ睨みながら髭を剃り終えた。そして、顔を洗ってすっきりした所で、田上は「何かあるのか?」と仏頂面で聞いた。

 タキオンと田上は、そのまま二人でベッドの方に移動しながら話した。狭い廊下だったので、タキオンを先に行かせた。その為、タキオンが半身になって田上の質問に答えた。

「別に、恋人が二人で居るのに理由はいらないだろ?」

 それに田上が睨みながら言った。

「その恋人にはもう少し分別を持って、恋愛をしてもらいたいな」

「ハハハ。いいじゃないか。卒業したら、すぐ子供を作ってしまうかもしれないから、こういう時間は大切にした方がいいと思うよ」

 そこで、タキオンはベッドに座り、田上は自分のパソコンの前に置いてある椅子に座って、それを少し移動させてから対面した。今日のタキオンは、少しらしくないスカートを着ていた。まるで、どこかの礼儀正しいお嬢様みたいだ。田上は、その事を頭に思い浮かばせてから、タキオンの顔を眉を寄せてじろじろと見た。それに、タキオンは眉を上げて「何かあるかな?」と表情で問うてきた。声は出していない。それだから、田上は、その質問を無視し、唐突に椅子から立ち上がり言った。

「外に行こう。あんまり長居すると面倒だ」

 タキオンは、可笑しそうに田上の顔を見上げたが、素直にそれに従って外に出て行った。

 

 田上が、タキオンが外に出る時にあんまり警戒するから、呆れ笑いをしてタキオンが言った。

「そんなに警戒しなくとも、見ている人は居ないだろう?」

 そう言うと、田上はこう言い返した。

「いや、どこに目があるのか分からないんだから、警戒するに越したことはないだろ」

 その言い草も少し可笑しかったが、タキオンはこれ以上田上を焚き付ける事はしないでその横について歩き始めた。幸いな事に、出入りの瞬間を見た人はいなかったようだ。しかし、出入りを見ておらずとも時間の感覚として感じている者が一人、共有スペースのソファーの方に居た。タキオンと田上が、階段を下りて廊下の奥から出てくると、共有スペースを通り抜けてそのまま外へ行こうとしたのだが、そのまえにソファーに座ってスマホをいじっていた田中がそれを見つけて、声をかけた。

「よう、田上、アグネスさん。大阪杯おめでとう」

 思いがけないところに知り合いが居て、田上は少し動揺したが、その様子はできるだけ表には出さないで「ありがとう」と答えた。だが、その動揺は隠す必要はあまりなかったかもしれない。結局、タキオンは田上の腕に恋人の様に張り付いていて、田上が動揺してまでも隠したかった二人の関係がダダ漏れだったからだ。しかし、田中の方と言えば、田上を妙な目で見つめてきたばかりでその事には触れなかった。実の所、あんまり気にしてもいなかった。それよりも気にしていたのは、ここにタキオンが居る事だった。暫く田上の顔を見つめながら考え込んでいたが、やがて、田上が居た堪れない空気に耐え切れなくなって「もう行ってもいい?」と聞くと、田中は急速に頭の中で考えに決着をつけて、ニヤリと笑って田上に言った。

「お前、アグネスさんを部屋に上げたろ?」

 田上は、背筋が凍った。この後の田中の言葉次第ではタキオンから手を放すことも考えた。しかし、田中はその後に何も言わずに田上の返答を待っていた。これはこれで面倒だった。だから、田上は必死に頭を高速回転させて一番の最適解を探しに探したが、田上が何か言う前にタキオンが口を開いた。

「そうだよ。今日は、彼に用があったから私が押し入ったんだ」

「用?」

 田中が、――面白い事が始まった、と言うような顔つきで聞いた。

「別に君に言うようなことじゃないさ。あんまり首を突っ込むとその首叩き落とすよ」

 それから、タキオンが田上の方を同調を求めるために見てきたので、それに乗っかって田上も「お前の鼻をそぎ落とすぞ」と言った。

「はいはい、科学者コンビに言われたら、そりゃあ引くしかないですわ。…今度出るゲーム、田上は買うのか?」

「ん?…あれは、少し迷ってるな。最近忙しいから」

 すると、田中はタキオンの顔をちらっと見てから、「忙しそうだもんな」と言ってソファーに座り直した。

 

 そこで話は終わり、田上とタキオンは外の方に出た。少し肌寒かったが、そうは言っても我慢できるくらいの肌寒さだった。その中をタキオンたちは暫く歩き、手頃なベンチに座ると話を始めた。

「君は、ゲームは最近していないのかい?」

「ん~、ゲームは時間があればしてるけど、あんまりしてないな」

「それは私のせいかい?」

「タキオン…のせいでもないけど、あんまりする気がなくなったのが一番かな。最近は、専らネットサーフィンとか寝るとかそこらへんだよ」

「そのせいで、人生が詰まんなくなったりは?」

 タキオンが、田上の手を片手間で遊びながら聞いた。田上は、タキオンの顔から目を逸らし、その遊ばれている手を見つめ、考えながら言った。

「別に…そんな事はないよ」

「では、私と居れて楽しいという事でいいのかな?」

 タキオンは、期待の籠った目で田上を見つめてきた。それだから、田上もそのタキオンの質問に少しだけ動揺して、彼女の顔を見つめ返した。けれども、見つめ続けるにはやっぱり気力が足りなくて、ふいと目を逸らして地面を見つめた後言った。

「楽しくない事はない…。……だけど、お前と居ると少し大変だ」

「どんな風に?」

「そんな風に。…詰められるのはあんまり好きじゃない」

「そりゃ、すまない」

 そう言うと、タキオンは寄せていた距離を少し開けて、ベンチの上で座り直した。そして、今までずっと田上の方に注いでいた目を逸らして、目の前に広がっている芝生やら花壇の花々に目を向けた。いつの間にか日が照りだし、少し汗ばむかな?というくらいの気候になっていた。そこに、一つ涼しい風が吹いた。花々が揺れ、芝生や木の葉が擦れ合ってさらさらと気持ちの良い音色を立てた。だから、タキオンは涼しい空気を吸い込みながら言った。

「のどかだねぇ…」

 その声を聞いて、今まで地面をぼんやりと見つめていた田上も目を上げた。そこにはやっぱりタキオンが見た物と同じ景色が広がっていた。草があって、花があって、道があって、風がある。のどかには違いがなかったが、田上には今の風が少し冷たく感じて、少し体を強張らせた。

 その後は、暫く空白の間があった。タキオンは、景色と吹いてくる風を楽しむために黙り、田上は、景色なんて楽しむ気はないが、同時に何か話そうという気分でもないため黙って自分の手を見つめた。大したことのない手だった。毛が少し生え、爪は適当に刻まれている。手の平の皺に何の意味があるのかは分からない。ただ、生命線というものが長いという事だけは分かるが、それ以外の皺の意味は曖昧にしか覚えていない。頭脳線がなんちゃらで、感情線がなんちゃらという事だけだ。いや、もしかしたら、感情線というのはただの間違いで、環状線がこの手の平にあるのかもしれない。そんなものだけれども、田上は、小学生くらいの頃に見た手相の本の記憶を手繰りに手繰り寄せて、自分の手の平に意味を見出そうとした。

――この人差し指の下の線は、本数が多ければ生涯年収が一千万ずつ増えていくんだったかな?……四千万か…。少ないな…。

――ここの手の平のとこに罰点があれば、人生が幸せに上手くいくって本に書いてあったような気がする。…ある事にはあるけど、皺としてはあまりに薄いな。…幸が薄いって事かな…。

 あんまり碌な考えは浮かんでこなかった。だから、手相を考える事を止めると、ただ何を想う事もなく手の平を握り締めた。そうすると、隣で景色を見ていたタキオンが、田上が詰め寄られるのを嫌がっていたことも忘れて、肩を寄せて聞いてきた。

「君は何をしているんだい?」

「俺?…特に何も…」

「でも、今、自分の手を真剣そうに見ていたじゃないか」

 そうタキオンが聞くと、田上は自分の手にチラリと目をやって言った。

「手なんて見たって何にもならないけどね」

「そんな事はないだろう。手一つだけでも話題が生まれたりするじゃないか。こんな風に。君の手を見せておくれよ。手相ってどんなものだったか覚えているかい?」

 奇しくも、手を見て自分と同じ考えに行き着いたタキオンの顔を見つめながら田上は答えた。

「生命線くらいしか覚えてない」

「奇遇だね、私もだ。…ここの線は、なんだったかな?鎖状の線になってると何かになるって聞いたけど、感情線だったかな?」

 またしてもタキオンは、自分と同じ考えに行き着いていた。ただ、環状線だの何だのという考えを伝える事は少し躊躇ったが、のどかな日和のおかげかすんなりと言葉が出てきた。

「俺もこの線が感じる方の感情線かと思ったけど、なんか別の言葉があるような気がして、鉄道とかの方の環状線と間違えたのかな?って思った」

「環状線?でも、私たち二人共感じる方の感情線が出てきたから、これであっているんじゃないか?」

 その言葉を受けて、田上が「うん…」と少し沈んだ声で答えたから、タキオンは田上の手を見るのをやめてその顔を見上げた。田上としては普通の顔をしていたつもりだったが、タキオンから見ると、悲しげにしているように見えた。その悲しげな具合が、妙にタキオンの笑いを誘って、ふふふと笑いながら田上に言った。

「どうしたんだい?そんな顔して。今の私の返答が気に入らなかったかい?」

「いや、そんな事はない」

「そうなのかい?」

 それから、タキオンは一つ距離を詰めて、田上の体にぴったりと張り付き、その顔を近づいて眺めた。田上は、ベンチの上でちょっとずつ逃げようとしたが、その度にタキオンが近づいてきたので、結局ベンチの端まで行って止まった。そして、面倒臭そうに言った。

「何か言いたい事でも?」

「いやいや、そんなに邪険にしなくていいよ。ただ、今は君の顔を見つめていたい気分なんだ」

「なんで?」

「そんなこと聞く必要もないだろう?私たちは恋人同士なんだ。顔なんて幾ら見つめ合ったって良い」

 そうすると、田上が反抗するように「俺は良くない」と言った。しかし、全力でタキオンから逃げるようなこともしなかった。ずっとベンチには座って居てくれて、タキオンがじっと見つめてくるのを居心地悪そうに堪えていた。そして、何か別の事で気を逸らせないか逸らせないか考えていると、不図思いついたのでそれをタキオンに聞いた。

「お前の今日の服、落ち着いてるな」

「服?…まぁ、落ち着いているといえば落ち着いているかな。いつもは彩度の高い色の服を着ていたしね。今日はどちらかと言うと、薄めのお淑やか~な服装だ。君はこっちの方が好みかい?」

「別に、普段のタキオンでもいいけど、今日は、雰囲気も落ち着いているように見えるし」

「ふむ、落ち着いている…。やはり、服の影響かな?私としては、少し君と話せてウキウキしているわけではあるが」

「それはそうだな。…でも、ちょっと普通に座ってみて」

 田上がそう言ってみると、今まで田上に寄りかかっていたタキオンが姿勢を正し、手を膝の上に置いた格好をしてみた。しかし、それでは田上に近すぎたので、「もう少し離れてくれ」と田上が言って、タキオンがベンチのもう片方の端に行き、また同じ格好を取った。田上は、その格好をよくよく見つめてから言った。

「やっぱり、お前、お嬢様みたいな感じがあるな。なんか、その姿が様になってる。後は、髪をもう少し整えるだけだな」

「まぁ、少しばかりの所作は習ったからね。座るくらいなんてことないさ」

 そこで、田上が少し微笑んでタキオンに言った。

「そんなお嬢様だったのに、どうしてあんなに研究バカになったんだ?」

「そりゃあ、私も自分の足を直すのに分別なんて考えていられなかったからさ。そしたら、分別を気にしない君が居たものだから、私は大いに助かった」

「俺だってお前のトレーナーになれて良かった。…色々と酷い事もしたけど…」

 すると、タキオンが「ストップ」と言って、また田上のすぐ隣まで距離を寄せてきた。

「それ以上ぐだぐだ言うのは許さないよ。私はそんなに気にしていないんだ。別に、君に怒ってもいないし」

「でも、………俺に何か言う時もあっただろ?」

「あったね。…できれば忘れてほしいものだけど、私たち恋人になったからそれでいいじゃないか」

「……恋人もなぁ…」

 それで、タキオンが少し眉を下げた表情を取って「嫌なのかい?」と聞いてきたから、田上はやりきれなくなって目を瞑った。目を瞑ると、外は見えなくなり自分の考えだけに集中できそうかに思えたが、やはり隣にタキオンが居る手前ずっと黙っていることもできずに、少し間を空けると渋々口を開いた。

「恋人であろうとは思ってる。思ってるけど、中々…分からないんだ。何か引っかかってるんだ」

「なにが?」と相変わらず不安そうにタキオンは聞いた。

「それが分かったら苦労はしない。…お前の為に何かしてやれたらいいと思うよ。…思うんだけどね…」

「私と触れ合うのが怖かったり?」

「…それもあるのかな…」

「じゃあ、私ともっと触れ合おうよ。要は、慣れだよ慣れ。君の人怖さも私と触れ合えば慣れるよ」

 そう言うと、タキオンはぐいぐいと距離を詰めてきたが、今度は、田上はベンチからずり落ちて下の草の上に座り込んだ。その後に、嫌そうな顔をしながら陰気に言った。

「お前が、そもそも生徒って言うのも俺の抵抗の一助になりえてるんだよ。…恋人っていう言い方もやめてほしい」

「それじゃあ、私たちの関係を何て言えばいいんだい?」

「……科学者と実験動物」

「私は今は科学者ではない」

 タキオンは、頭の片隅に研究やら実験やら楽しい科学の遊びをまた再開しようと思っていたことが浮かび上がったが、それは今は言わないままにした。それから、話を続けた。

「君がさっきお嬢様みたいと言ったじゃないか。私は、君と結ばれるお嬢様がいい。だから、恋人が一番適切だ」

「……トレーナーと教え子」

「卒業したらどうするんだい?」

「…終わり」

「選手を引退して卒業するころには、二十四とかになっている可能性もあるよ。その時は私ももういい女だ。受け入れてくれてもいいんじゃないか?」

「その時は、もう俺の事もうんざりしてる頃だよ。何しても、大して変わらない俺がもう嫌いになってる頃だよ」

「私は、嫌いにはならないと思うし、君もあと六年も経てば変わってるよ。何しろ私が傍に居るんだ」

「六年あれば、俺の事を嫌いになるのに十分な時間だな」

「嫌いになんてならないさ」

「何を根拠に?」とすぐさま田上が聞いた。

 すると、「後悔しないため」とタキオンが答えた。それでも田上は続けざまに聞いた。

「けど、いつかお前の言葉が自分を苦しめる結果になるかもしれないぞ」

「それはない。断言する」

「なぜ?」

「私は、君が苦しんでいることを知っているからだ」

 そう言われると、田上は返す言葉に迷って黙ってしまった。しかし、何が何でも『恋人』という言葉は受け付けられないので、言葉を捻り出した。

「でも、変わらないぞ。変わらなかったらやっぱりうんざりするだろ」

「変わる。君はいい男だもの」

「でも、俺はいい男じゃない」

「いい男さ。もっと自信を持って良い。何しろ私が好きになったんだ」

「お前が好きになったにしちゃ、あまり不釣り合いな不細工だ。何か裏があるんだろ」

「不細工?」

 タキオンは、田上の思いも寄らない発言にからかうように首を傾げたが、その後にふふふと笑って言った。

「私、大阪杯の日にも君に言ったじゃないか。――君はかっこいい、って。それが信じられないのかい?」

「俺はもっと自分の事を正当に評価してる。俺は、お前が言う程かっこよくなんかないし、お前だって見る目が、…何かおかしい」

「なら言うが、この私が、好きじゃない人と昨日のような熱烈なキスができると思うかい?」

「あれは、しなければよかった。もっと別の方法を探せばよかった。勘違いしてた」

「何を?」

 これは、田上にとって少し意地の悪い質問だった。タキオンも話の調子に合わせて、軽く聞いてしまったので、この言葉は慌てて取り消した。

「すまない。…まぁ、分かってる事だ。君は、私の事を恋人と勘違いしてしまったというわけだね?…でも、その後にハナミ君とアルト君が来た時は恋人だと言ったじゃないか」

「あれは軽率だった。そんな簡単に言うべきことじゃなかった」

「じゃあ、話は変わるが、理事長の秘書さんから連絡が来たといっていたね。あれの返答はどうするんだい?まさか、キスをした者同士が――恋人じゃありません、なんてこと言えるわけがないだろう?」

「……どうすればいいと思う?」

「私は、別に隠すこともないと思うけどね。それに、後々バレそうなことじゃないか?今必死になって隠すより堂々と――私たちは恋人です、と言った方がいいと思う」

「…でも、俺は、そう言って責任をとれる気がしない。そう言ったら、せめて結婚するまで頑張らないといけない」

 そこで、タキオンがふふふと笑った。

「別に頑張る必要はないんだよ。君は、何かを妙に重く捉え過ぎてる。結婚なんて頑張ってするもんじゃないだろう。したいからするものなんだよ」

「でも、俺は生涯人を支えるなんてことは無理だ。このまま、根無し草の方が俺に合ってる」

「じゃあ、私の事は好きじゃないと?」

 そう言われると、田上も困る。腕を支えにして座っている草の上から、怠そうに首を傾げてタキオンを見上げた。すると、タキオンはベンチから降りてきて、開脚して立てている田上の足をどけてどけて、田上と顔を近づけた。田上も動きはしなかったが、終始嫌そうな顔のままタキオンを睨み続けた。そして、タキオンと田上は見つめ合って、暫く目で語る合戦をしていたが、キリがないのでタキオンが口を開いた。

「キスして確かめてみるかい?私と君の愛を?」

「嫌だ」と田上がすぐさま答えたが、タキオンはその口を塞ぐようにぴとと唇を重ねた。田上の心臓が震えて大量の血液を全身に送り始めた。その血液は主に上の方へと向かっていき、田上の顔を赤らめさせた。唇を重ねたのは一瞬だったが、その後はタキオンが不敵に笑いながら自分の顔を見つめてくるので、田上はタキオンの目から視線をずらした。その顔を見ながらタキオンが聞いた。

「どうだい?私の事が好き?」

 田上は、暫く何とも言えない面持ちで黙り込んだ後言った。

「好き。…だけど、それは少し狡いだろ。強引だよ」

 タキオンはにこりと笑った。

「それはすまない。だけど、私の事好きだろ?」

「好きだよ。…好き」

「じゃあ、秘書さんには何て言う?」

「……あんまり人に公表するような事じゃないよな」

「まぁ、私もその考えに一理はある。けど、聞かれたら答えるって言うのが義務なんじゃないのかい?」

「そりゃあ、そうだけど…」と田上が言葉に詰まるとタキオンが言った。

「逃げ道が欲しいのかい?自分に人を愛するのはまだ早いと?」

 これは、田上の言いたいことを全て言葉にしてくれた。だからと言って、それを肯定してしまうと自分を意気地無しと言っているようなものだったから、田上は答えを言えずに黙ってタキオンの顔を見つめ返していた。タキオンは、田上の考えが手に取るように分かっていたから、そのまま田上の体を草の上に押し倒し、その上に乗って田上の顔を覗き込むと言った。

「そこのところを秘書さんと話し合ってみようよ。会ったことはないけど、理事長の秘書であればその対応の道のエキスパートだろ?きっと良い考えが出てくるよ」

 その提案を受けて、田上は「うん…」と頷いた。それから、タキオンの顔を見て言った。

「それじゃあ、秘書さんに連絡を取らないといけない。お前と俺と秘書さんで三人で話すんだろ?」

「ああ」と返事をすると、タキオンは田上の体の上から降りてその横に寝転がった。田上はその様子を寝ながら目で追っていたが、自分の横に寝転んだタキオンと目が合うと言った。

「草の上に寝転ぶ種類のお嬢様は嫌いじゃないな」

「むしろ好きだろ?」とタキオンが軽く笑いかけた。それから、田上は体を起こすと自分のポケットからスマホを取り出し、秘書さんの方へメールを返した。その背中を、タキオンは愛おしく思いながら眺めた。



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二十一、海岸線、白く染まる②

 すぐに秘書の方からメールの返信が来た。田上とタキオンが、寝転がって傍に生えている木の枝から伸びる木の葉を見ていた時だった。

『話すことには話せますが、あまり時間は取れません。今日であれば一時から一時二十分までの間でなら、応接室で可能です』との文言だった。だから、田上はそれに『ありがとうございます。今日の一時にアグネスタキオンと共に応接室にお伺いさせてもらいます』と返して一息吐いた。その後、またすぐに秘書から『では、一時に応接室にて』と返ってきたが、今度は何も返す必要がなかったため、一度文言を確認すれば後は隣に寝転がっているタキオンを見た。タキオンは「どうだった?」と聞いてきたから、「ん?ただの最後の確認のメールだった。一時に応接室ね」と返した。それから、またタキオンが聞いてきた。

「お昼は一緒に食べる?」

「食べてもいいよ?…購買でおにぎりを買ってここで食べるのもいいかもな」

「それもいいね。いよいよ、恋人らしくなってきた」

 タキオンがそう言うと、田上が複雑そうに顔を曇らせた。だから、タキオンは困ったように眉を下げて言った。

「私の事は好きなんだろ?」

「…好き。と言ってもいいのかどうなのか…」

「ああ、それを秘書さんに聞きに行くところだったね。今の質問は無粋だった。忘れてくれ」

「…でも、…でもな…」

「無理はしなくていいよ。私も君の気持ちは十分分かっているから」

「……好き…だよ。お前の事は好きだ。大切にしたい」

「嬉しいね…」とタキオンは木の葉を見上げながら呟いた。その様が、何か田上の不安を誘ったから、田上はタキオンの手を握って少し焦り口調で言った。

「本当に大切にするからな。…嘘じゃない…」

 そうすると、タキオンはゆっくり首を動かして田上を見てきた。そして、静かに微笑んだ。

「そんなことは分かってるよ。私の口調がおかしかったかい?」

「いや、…そんなことはないけど…」と今自分が言ったことを冷静に思い返し、少し不味いことをしてしまったという顔をしている田上が言った。それが少し可笑しかったので、タキオンはにやりと口角を上げて言った。

「嬉しいよ。君がそんな風に言ってくれるなんて」

「嬉しい?…やっぱり今のはダメだ」

「私を大切にしないということかい?」

「…そんなんじゃなくて、…少し本気にし過ぎた。バカみたいだ」

「私は、バカじゃないと思うけど…」

 そうタキオンが言うと、田上は今まで繋いでいた手を放した。

「バカだよ、俺は。…お前も大したことのないやつを好きになったもんだ。いずれ酷い目に遭うぞ」

「遭おうとも。どんな困難が待ち受けていようとも、私は君を絶対に見捨てはしない」

 そして、タキオンは田上と手を繋ぎ直した。田上は、自分を真剣な眼差しで見てきているタキオンと視線を合わせた。しかし、合わせこそしたものの、長くは耐えきれずにまた目を逸らした。視線を上げて上を見た先には、木の葉が風に揺れて揺らめき、田上の目に時折太陽の光を降らせた。その輝きに目を眩ませながら田上はため息一つ吐いて、言葉を発した。

「あんまり自信はないぁ…」

「何がだい?」

「んん?…これから先、生きていくことだよ。…何か、不図した拍子に死にそうだ」

「…死なないでくれよ。私も、もしかしたら、後追い自殺をしてしまうかもしれない」

「そりゃあ、大変だ…」

 その後に田上は、ははは…と力なく笑った。そして、唐突に体を起こすとタキオンに言った。

「購買に行っておにぎり買ってこようか?もうお昼近いだろ?」

「ん~、私も行こう。ここで一人で待ってるのもなんだか寂しいからね」

「じゃあ、そうしよう。体を起こせ。行くぞ」

 田上がそう言うと、タキオンが顔をニヤリとさせた。

「ええ~、体に力が入らないな~。起こして~。抱っこで連れて行ってくれよ~」

「抱っこは無理だ」

 それなので、田上はタキオンの手を引っ張って起こしてあげた。これが中々に手こずって、正月の時にもこのような事をしたことがあったのだが、それ以上にタキオンが抵抗したので難しかった。下が地面で、あんまりタキオンを汚すことにも抵抗があったのもその原因の一つだろう。しかし、タキオンの全力の脱力も中々のもので田上に全幅の信頼を置き、立つときに膝を曲げようとせず、常に後ろに重心を置いた。すると、田上もタキオンの体のどこそこを触りながら起こさなければならなかった。脇などを触られると、タキオンはくすぐったそうにクスクスと笑った。その内に、やっとの思いでタキオンと何故か抱き締め合うような体勢になって、その体を立ち上がらせる事ができた。その体勢になると、タキオンは急な衝動が襲ってきて、今自分を抱き締めている大好きな人の頬に短くキスをした。その田上という大好きな人は、キスをされると恥ずかしそうにニヤリと笑って言った。

「なんだよ」

「…私たちって想像以上にお似合いの夫婦だと思わないか?」

 その言葉を受けると、やっぱり田上は複雑そうな顔をして「どうだかな…」と言った。タキオンは、その顔を優しく撫でたがもう一度キスをすることはなく、ただ、「おにぎりを買いに行こう」と呼び掛けた。田上は、それに黙って頷いた。胸の内には、その柔らかな頬にキスをし返してやりたい想いが在ったが、その気持ちはそこにそのまま納めておくことにした。

 

 購買から帰ってくると、二人はベンチに腰掛けおにぎりをもぐもぐとしだした。あまり言葉は交わさなかった。二人とも景色を楽しんでいたし、話す内容もそれ程なかったからだ。それでも、体はぴたりと寄せていて、些か田上が窮屈そうに自分のおにぎりを食べていた。タキオンのおにぎりは、ウマ娘用のでかいおにぎり二つ組だった。田上も自分のおにぎりを二つ買っていたが、タキオンの物と比べると幾らか小さく見えた。二人の買ったおにぎりは中身がそれぞれ違っていたので、食べ比べる事もした。最初に食べ比べを提案したのはタキオンだったが、あまり乗り気でなかった田上もタキオンが自分のおにぎりを田上の方へ差し出せば有難く頂いて食べ比べをした。タキオンのは鶏そぼろの混ぜられたおにぎりだった。特別美味しいということはなかったが、タキオンのおにぎりを一口かじってもぐもぐしているうちに自分を見てきている赤い瞳と目が合うと、ニヤリと笑って言った。

「美味い」

 それを言うと、タキオンは何にも言葉を発さないままクスクスと笑いだした。それから、あーと口を開けると、自分の口に田上のおにぎりをくれるように催促した。田上のおにぎりは、ただのツナマヨおにぎりだった。これも、特に美味しくもなんともない。しかし、タキオンに食わせてみれば、大きい一口で美味しそうにニコニコ笑いながらもぐもぐしていたので、ツナマヨを買ってきて良かったと思った。

 そうやって時間は過ぎていった。なんだか今までの自分の人生に割が合わないような気がした。今まで、碌に人と接さず向き合う事から逃げてきた自分が、こんな形で報われていいものかと思った。タキオンと出会ったのは全くの偶然である。全くの偶然が、自分の人生を変えた。もしかすると、運命とも言うべきものかもしれないが、どちらにしろ自分に推し量れることではない。偶然も運命も全く持って似通っていて、違うものと言えば、言葉の意味の方向性だけであって、中身は全く同じだ。自分に推し量れるものではない。では、自分の人生とは偶然や運命に左右されて推し量れないものなのだろうか?いや、それでは少し有難くない。やはり、そこには自分の意思も少しは関係しているような気がした。

 ただ、タキオンと出会ったと言っても、出会いは生徒会長個人に引き合わされての物だった。こちらは、全くの策士である。慧眼にも程がある。田上が、タキオンの走りに夢を持って自分の身を捨ててもいい程に熱中するなど誰が思ったのだろうか?怪しい薬を持ったタキオンと相性の良い人物など限られに限られている。その中で、たった一人田上を選んだのだから意味が分からない。ここ最近は、生徒会長に会っていないので、また改めて挨拶をしておかないといけないと思った田上だった。

 

 早々におにぎりを食べると二人は麗らかな日和により、睡魔に襲われた。最初にうとうとし始めたのは田上の方だった。左隣に寄り添っていたタキオンに次第に体を預け、タキオンがそれに気付いて「私の膝で寝るかい?」と提案すると眠気に参ってしまっている頭で頷いて、その膝で寝た。すぐに眠りに落ちることができた。タキオンの膝枕で寝た記憶すらない。ベンチを占領して田上は横になって昏々と夢も見ずに眠った。その田上の顔を、少し微笑みながら見ていたタキオンも次第に睡魔に襲われて、うとうとと眠り始めた。背もたれのない椅子に座って寝ているので深い眠りには付けなかった。その代わりに、こっちの方は夢を見た。自分の父と母の夢だった。

 いくら「父さん」「母さん」と呼んでも一向に振り向いてくれない。父さんの方は、一度振り向いてくれたが、「ここはお前の場所じゃないよ」と言うとそれきり振り向かなくなった。母さんは、最初から振り向いてくれなかった。膝に抱いている小さな赤ん坊を嬉しそうにあやしながら父さんとだけ話をしていた。すると、そこに小さな猫が現れた。その猫はにゃあにゃあと鳴いてタキオンの気を引いた。タキオンも父母に呼び掛け続けるか、その猫の相手をするのか迷ったが、結局は猫の方の相手をした。猫の顎を撫でてあげると、嬉しそうににゃあと鳴き声を上げた。それから、急に猫は後ろを向くとスタスタと立ち去って行ってしまった。タキオンは、追いかける事もせずにその背を呆然として見ていた。すると、次に自分の後ろから背を叩かれた。振り向くと、そこに居たのは田上だった。今までのタキオンは、幼年時代の姿で夢の中にいたが、この時にトレセンに来た頃のタキオンになった。そして、タキオンは田上の姿を見ると、嬉しそうに「トレーナー君!」と言ってその体に抱き着いた。それで夢は終わった。田上が、夢の裏からタキオンを呼んでいる声がして目が覚めた。目が覚めると、固く広い手がタキオンの頬を撫でているのを感じ、自分の膝枕で寝ている田上と目が合った。その途端に自分の口から涎が垂れた。タキオンは、慌ててその涎を吸って自分の口へと戻そうとしたが、音を立てて吸ってもそれは下へ落ちていき田上の頬に垂れた。タキオンは、「ごめんごめん」と謝って自分の服でその涎を拭いてやったが、その間に田上が微笑みながら言った。

「涎垂らすときのお前、良い顔してたぞ」

 タキオンは、顔を赤らめて口を変に歪ませながら「恥ずかしいなぁ…」と田上に言った。そして、その後に田上がベンチに身を起こしながら言った。

「少し寝たくらいでよかった。危うく秘書さんとの話をすっぽかすところだったぞ」

「…ああ、そうか。そう言えば話があったんだね。すっかり忘れてた。ありがとう、私を起こしてくれて」

「どういたしまして。結局、お前が居ないと話にならないからな。起こす以外に選択肢はないんだけど」

 そう言って、二人は顔を見合わせると田上の「さぁ、行くか」という言葉を合図に立ち上がった。それから、手を繋いで寄り添って歩き出すと、タキオンが田上に言った。

「私、ここで交際の事を隠さないって事になったら、籍を入れても良いと思っているのだけれど」

 その言葉で、タキオンと手を繋いでいる田上が動揺するのを感じた。タキオンも田上がこのような反応をするのだろうと分かってはいたのだけれど、この質問をしてみたい気持ちは抑えられなかった。

 田上は、動揺こそしたものの返答はできうる限りした。

「俺は……」

 そこで躊躇うと、タキオンが口を挟んだ。

「私は、もう結婚できる年齢だよ?」

 すると、また田上はタキオンの顔をチラと見た後、「俺は…」と続けて言った。

「俺は…、正直、結婚なんて何か別の世界の話じゃないかと思うし、それに、俺たちは、まだあの時キスをしてから三日四日しか経ってない。時期尚早過ぎる」

「でも、私たちは出会ってもう二年は経っているんだよ?お互いがどういう人物かは結構理解しているものだと思うけど」

 タキオンがそう言うと、田上が意味有りげにタキオンの顔を眺めた。だから、タキオンは「なんだい?」と聞いたが、田上は「何にもない」と返して、先程の話を続けた。

「二年経ってても、俺がお前と向き合い始めたのは最近だ。俺だって、自分の事は完全には分からないし、お前の事も完全には分からない」

「それは、確かにそうでもあるけど、私はこれから先も君と添い遂げられる自信はあるよ」

「俺はない」と田上は淡白に返したが、その後で何か思う所でもあったのか「別に嫌いじゃない」と返した。その言葉に、まだタキオンとしては思うところがあったのだが、どうせこれを言ったとしても堂々巡りになるだけなので、堂々巡りにするならもっと落ち着いた場所で堂々巡りにしようと思い、言おうと思った言葉はまた後日かそれともこの後の秘書との議論に後回しにした。

 

 応接室に着くと、そこにはまだ誰も来ていなかった。ほとんど一時丁度ではあったのだが、向こうも人間だ。遅れるか何かあるのだろう。田上とタキオンは座って秘書を待った。理事長の秘書の名前は、柏田木之実(かしわだこのみ)という。タキオンが研究によってやらかしを行ってしまった時などに何度か事情を説明しに行った事がある。田上よりも年齢が上な人間なので、基本、田上には溜口で話している。最初から田上に、古くからの友人であるように話してきたときには何事かと思ったが、何度か話していくうちにこういう人なんだなと思うことができた。しかし、まぁこんなふざけたような人ではあっても仕事ができるという所が不思議なものだ。世の中、決して平等ではないという事がこの女性から見て取れる。同じような女性でも、こんな大きな学園の理事長の秘書になんてそうそう成れるものではないのだ。例え、ふざけていない「私は真面目です」と言える女性がその地位を所望していても簡単になれるものではないのだ。それをふざけている人が成ったのだから、何かと腹が立つ。賢い者は、堅物であるとの偏見は付きやすいものだが、例外はバカにしてはいけない。

 田上たちは、ぽつりぽつりと話しながら待った。その内容は、秘書の柏田さんの事だったりしたが、それとは関係なく、初めに座ったときに開いていたその距離は話していくごとに段々と縮まっていった。タキオンの緊張が緩んできたのだ。だから、最後にはタキオンは田上に肩を寄せて、その肩に頭ごと体重を預けていた。田上としては少し迷惑そうにしていたのだが、ここに柏田さんがドアを大きな音を立てて入ってくると、もっと迷惑になった。もうリラックスしてしまったタキオンは、柏田さんが部屋の中に入ってきても田上から離れようとしないで、そのままだらけた姿勢のまま柏田さんに「こんにちは」と挨拶をした。柏田さんもそれを咎めも何もしなかったので、これではタキオンの意のままだった。田上が声を上げるしかない。田上は面倒臭そうにタキオンに「もう少し離れろ。柏田さんに失礼だろ」と言うと、タキオンが田上の顔をニヤリと笑って見つめた。それから、田上の言葉を素直に聞いて、せめて体を預けるのは止めた。しかし、距離は相変わらずのままだった。田上もこれにはどうしようもないので、柏田さんの方を向いた。そちらの方を向くと、にやにやした柏田さんが居て、目が合った田上に言った。

「遅れてしまって申し訳ありません。話というのは?…交際の問い合わせ問題について話したい事があるということでしたよね?…あのメールには、交際の有無については書かれていませんでしたが、そこらへんのことはどうなのでしょうか?」

 柏田さんは、「あなたたちの関係なんて見れば簡単に分かりますけどね」という違っていたら失礼な目付きで田上を見て、タキオンを見た。田上は、ここぞという時に躊躇って何も言わなかった。ただ、体をモジモジさせて冷や汗をかくだけだった。それだから、タキオンが代わりに口を開いた。

「まぁ、隣の圭一君を見れば分かる通り、私と交際するのに迷っているようです。それで、返答にも迷っていて、あなたにご相談できればと思った次第です」

 すると、柏田さんの顔は見る見るうちに「おやおや、これは思ってたのと違うぞ」という顔になり、田上ではなくタキオンの方を向いて言った。

「するとぉ…、どういうことですか?てっきり私は、惚気話でも聞かされるものと思ってここに来たのですが、違うんですか?…迷っているというのは?」

 柏田さんがそう質問すると、タキオンは隣で体を強張らせて緊張している田上の手を握って言った。

「君も言わなくちゃならないよ。とりあえず、君が私をどう思っているかだけでも説明するんだ」

 そこで、田上は少し落ち着きを取り戻したが、やっぱり緊張して無意識のうちにタキオンの手を固く握り返しながら言った。

「僕は…、僕は、タキオンの事は好きには違いがないんですが、僕に自信がないもんですので、人と付き合うのが少し怖いんです」

「へ~」と柏田さんは頷いた。特に、何か厳しい事を言いそうな素振りもなく、ただ田上に次の質問をした。

「じゃあ、アグネスタキオンさんの事が好きなんだ?」

「はい…、まぁ、その通りになります…」

 躊躇いがちに頷いた田上だったが、柏田さんの興味は、次はタキオンに移ったようでこう言った。

「タキオンちゃんって呼んでいい?」

「ああ、どうぞ。構わないです」

 タキオンの方は妙に落ち着いていた。それが、なんだか田上には信じられなくて、首を動かすと隣のタキオンをチラッと横目で見た。すると、タキオンがその視線に気が付いたが、柏田さんにまた話しかけられたので、田上に対して言葉を発することはなく、ただ握られている田上の手をそっと優しく握り返した。そこで、田上も自分が緊張してタキオンの手を強く握りしめていたのに気が付いて、その力をふっと緩めた。手の力を緩めると、なんだか体の力も緩められて、田上は一息つくことができた。隣では、柏田さんとタキオンがこんな問答をしていた。

「タキオンちゃんは、勿論、田上君の事が好きなんでしょ?」

「はい」とタキオンが頷いた。その後に、柏田さんが再び「へ~」と相槌を打つと、今度はニヤニヤしてタキオンに聞いてきた。

「タキオンちゃんは、もう凄いウマ娘だけど、田上君のどこを好きになったの?」

 少し不躾な質問にタキオンはむっとしたが、田上に伝わるならそれでいいと思い、言った。

「全部です。この人には、何度も言っていますが、全部が好きなんです。固い手の平も、頼りがいのある肩も、私を受け入れてくれるその優しさも、全てが好きなんです。…なぁ、圭一君」

 タキオンが、話の最後に田上に聞くと、田上も少し慌てたが、タキオンには直接答えずに柏田さんの方を向いて言った。

「そのようです」

 それで、柏田さんはニコニコして言った。

「良い彼女じゃない~。今時、こんなにハキハキと物を言ってくれる彼女もそうそう居ないわよ。田上君、少しなよなよした草食系男子みたいなところあるから、タキオンちゃんよろしくね」

 すると、空気を読んでただ頷くことなんてタキオンはせずにこう反論した。

「お言葉ですが、圭一君はなよなよした男ではありません。その気になれば、私の事を何分でも何時間でも待ってくれる胆力があります」

 田上は少し驚いて隣のタキオンの顔を見つめたが、当の本人は、田上の方を見るとニヤリと笑って「だろ?」と同意を求めてきたし、柏田さんは嬉しそうにこう言った。

「そうよね。田上君、ただの男じゃないもの。数々のトレーナーの誘いを退けて選り好みをしてきたタキオンちゃんに選ばれた男だもの。そして、今、そのタキオンちゃんからこんなにも好かれている男だもの。ただのなよなよした男じゃないよねぇ!」

 そこで、柏田さんは不意に思い出したように、慌てて時計を見た。柏田さんが来たのは、一時から十分遅れた時だったので、話し始めた時からそれ程時間は残されておらず、今、時計を確認すると約束の一時二十分まで後に三分だった。それで、柏田さんは悔しそうな変な高い声を上げた。

「くう~ぅう!もっとタキオンちゃんと田上君と話したい!しかし、仕事は仕事だから仕方がない。本題をしましょ!交際については迷っているんでしょ?なら、対応は個人への問い合わせには対応しておりませんでいいか。そうよね、元々、ここはアイドル事務所じゃないもの。生徒と職員の個人情報を外に漏らす必要はないわ」

「ですが、一応、歌って踊ってグッズなんかも出してますが、そこら辺は大丈夫でしょうか?」と田上が心配そうに聞いた。すると、柏田さんは難しそうな顔をして言った。

「まぁ、…ファンへの対応ってのは難しいものね。実際に、あなたたちが交際しているか気になっているファンもいるでしょうしね。それに、週刊誌にだって付け狙われる可能性があるかもしれないわ。田上君、分かるでしょ?タキオンちゃんだって田上君だってもう、ただの個人ではないもの。その気になれば、週刊誌が何かスキャンダルをすっぱ抜きたくてうずうずしているはずよ。この前のお正月の時もあなたたち、大内県に二人で遊びに行っていたんでしょ?冬の雨の中追いかけっこして死にかけるのも中々なものだけど、次に二人で遊びに行くときは今度は記者も一緒に付いてくるかもね?」

 すると、タキオンが田上に向かって言った。

「圭一君、私は、週刊誌なんて気にしないけどね。気付かないうちに撮られるのならば構わないし、どうせ、外でそんなに痴態を晒すわけでもない。せいぜい私が君に抱き着くくらいさ。それならば、交際のなんちゃらも関係はないな。一番は、二人で居る時に口うるさく聞かれるくらいだな。…君はどう思う?」

「俺?」と田上は自信なさそうな小さな声で聞き返した。そして、少し考えた後言った。

「…俺は、もう週刊誌が勝手にすっぱ抜いてくれるんだったら、それでいいと思う…。ダメかな?」

 田上がタキオンにそう聞くと、タキオンは「私はそれでいいと思うよ」と返した。そこで、あまり時間の無い柏田さんが早く話をまとめるために言った。

「じゃあ、もう対応としては何も言わないでいいわね?」

 タキオンは、田上がそれに返答をしなさそうだってので、手を繋いだままその脇腹を肘で小突いた。すると、田上は慌てて「はい…」とこれまた自信なさそうに言った。

 それで、話は終わった。柏田さんは、田上が返事をすると、すぐにそそくさと自分の腕時計を見つめながら部屋から出て行った。その出て行く間際に柏田さんは、田上とタキオンに向かって言った。

「今度、私の暇ができたら、一緒にご飯食べに行きましょうね。もっと、田上君の話を聞きたいわ。この堅物が、なんでタキオンちゃんを好きと言えることになったのか」

 それにタキオンは、少し微笑みながら「堅物に間違いはないです」と答えた。柏田さんは、その答えを聞いてふふふと笑いながら応接室を出て行った。

 

 柏田さんが、応接室から出て行った後、まだ田上がそわそわと落ち着かなさそうにしていたから、タキオンがそれを和らげるために言った。

「君は、なんで私の事が好きなんだい?」

 そう唐突に聞かれたので、田上は初めのうちは「え?」と戸惑って聞き返したが、話を理解すると難しそうな顔をして言った。

「…言わなきゃいけないのか?」

「言いたくないんなら別に言わなくてもいいさ。ただ、君が私を好きになった理由ってなんだろうなー?って思ってね」

 それでも、タキオンは少し期待の籠った眼差しで田上の事を見つめたが、田上は首を振り振り言った。

「…あんまり分からん。何でお前を好きになったのか。好きでもいたくない…」

「そんな事言うなよ。悲しいだろ?私は、君の事好きだよ?」

「それは、分かってるよ。この三日四日で何回も聞かされた。でも、…あんまり良く分からないんだよ。お前の事が」

「んん?それは、どういう事かな?」

 タキオンがそう聞くと田上は、嫌そうな顔をして「言いたくもない…」と答えた。それだから、今度はタキオンが朗々と話し始めた。

「言いたくもない?それは自分の事だろうね?そうすると、君は秘密主義者という事でいいのかな?秘密主義者であれば、私にくらい打ち明けてもいいものだと思うけど」

「秘密主義者は、親友にも秘密は話さないよ。今のは、…少しお前の事が面倒臭くなっただけだ」

「ふむ、私の事が面倒だと。…じゃあ、どうすれば君に面倒がなくなるかな?」

 それに田上は、タキオンから目を逸らして「知らないよ…」と答えた。そして、その目を逸らした方向が扉の方を向いた事もあり、その直後に「帰ろう」と言って田上は立ち上がった。タキオンは、もう少し話したそうにもしていたが、結局ここは落ち着ける場所ではないので、そのまま田上後ろにくっついて部屋から出て行った。部屋から出ると、タキオンはこの後どこに行くのか聞いた。すると、田上はトレーナー室の方でリリックとの色々の手続きをしに行くと言った。その為、これからやる事もなかったタキオンは田上の横についてトレーナー室の方まで歩いて行った。今回は、手は繋がなかった。田上が繋ぎたいような雰囲気ではなかったし、校舎の中だと思うと人の目があるような気がして、タキオンも少し気が引けた。ただ、やっぱりタキオンが手を繋がなかった一番の原因は、田上が隙を見せなかったからだった。タキオンが、手を繋ぎたそうに傍に寄れば、田上は必ず固くこぶしを握り締めてそれを拒否した。タキオンも少し惜しかったが、そこで前述の人の目も少々気になるので、ここは大人しく引き下がった。それでも、田上とタキオンは、軽く会話をしながらトレーナー室へと向かった。



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二十一、海岸線、白く染まる③

 トレーナー室に着くと、田上は待っていたリリックと契約云々の話を始めた。リリックは、それを半分理解して、半分混乱しながらも聞いた。だから、田上は分かるまで優しく何回も何回も繰り返し説明したが、その事はタキオンには関係もないし興味もない事だったので、田上たちが話している間に暇ができた。なので、折角ならその暇を利用してやろうと、タキオンは明日行く海のことを調べ始めた。なるだけ人気のないところが良かった。人気があると、田上も嫌うだろうし、なにより二人で遊びに行く海としては雰囲気がない。タキオンとしても人気のない方が良かったが、それは決して人混みがなんちゃらという話ではなく、自分の恋人と一緒に人気のない海を眺めたかったからだ。特に、朝日を眺めたかった。誰にも邪魔されずに、二人で朝日を静かに眺める。それがタキオンの理想の姿だった。

――案外、自分はロマンチストかもしれない。

 タキオンは、そう思ったが、そう思ったところでこの事が楽しみで楽しみで仕方がないから、ふんふんと鼻歌を歌いながら、どこに行こうか調べていた。それを調べるのに使っているのは、トレーナー室に置いてある田上のパソコンだ。タキオンは、田上の机に座りながら、海の事を調べていた。別に、スマホでも良かったのだが、田上の机に座ったからにはそのパソコンを使いたかった。そうすると、田上が、嫌そうだが断れもしない妙な顔でこちらを見るので、それが面白かった。それであれば、田上の机に座らなければいいという話になるが、ソファーの方は、田上とリリックが話すために使っている。だから、タキオンは仕方なしにこちらへ追い込まれたというわけだ。

 そのうちに、マテリアルがやって来た。マテリアルが来ると、部屋の中にいる人たちはそれぞれ挨拶を交わした。その後に、マテリアルが座る場所を探したのだが、田上のソファーの横かリリックのソファーの横しかない。これは、大変手狭になってきた頃だが、今すぐ部屋を変えられるというわけではない。それなので、マテリアルは、田上をソファーの横に詰めさせて、その隣に入り込んだ。これには、少しタキオンも気になった。自分の恋人のすぐ隣に飛び切りの美人が座っているのだ。いくら田上がそれに動じないと言っても、タキオンの心に少し嫉妬心が湧かないわけにはいかなかった。だから、それとなくパソコンを眺めながらチラチラとマテリアルの方を見ると、すぐにニヤニヤしているマテリアルと目が合った。田上は、未だにリリックと真剣に話をしているので、タキオンの視線に気が付いているのはマテリアルだけだ。そのマテリアルと目が合うと、タキオンもチラチラと視線を送る事を止めて、正面から堂々とその目を見やった。恋人の隣に座っている女に文句をつける目付きだ。しかし、マテリアルと言えば、少しだけニヤニヤ笑いを引っ込めたのみで依然としてあまり変わることのないニヤニヤ笑いをタキオンに向けてきた。少しだけニヤニヤ笑いを引っ込めたのが、逆に鬱陶しいくらいだ。そんなわけで、タキオンの方も変わらずにマテリアルを睨みつけていると、あちらの方が口をぱくぱくさせてタキオンに何か伝えようとしてきた。しかし、生憎の事、タキオンは読唇術を心得ていなかったので何も分からないかったし、例え読唇術を心得ていたとしても分かりたいとは思わなかっただろう。あのニヤニヤ笑いから察するに、どうせ大したことではないだろう。そう思うと、タキオンもマテリアルを睨みつけるのがバカらしくなって、調べている海の方に目をやった。大方の目星はついた頃だった。少し遠くはなるし、朝早くに起きなければいけなくもなるが、タキオンの理想の場所だった。多少田舎で、人も少ないし、夏でもないのでさらに人が少ない。そして、それに加えて平日の朝でもあるのでもっと人は少なくなるだろう。ここで、一つ問題なのが朝の電車の混雑だったが、田上が居るならそのくらいの苦痛などすぐに楽に変わるだろう。タキオンは、パソコンを見つめて口角を上げた。そうすると、左から肩を叩かれた。何だと思って見てみたら、マテリアルだったのでしかめっ面をした。その顔を見て、マテリアルはクスクス笑いながら言った。

「今の顔、田上トレーナーにそっくりでした」

 その後に、マテリアルは田上の方を見たのだが、田上も自分の名前が呼ばれたと思ってタキオンたちの方を見てきた。マテリアルがクスクス笑っているので、バカにされていると思ったのか少々しかめっ面だ。その顔を見ると、マテリアルはさらにクスクス笑って、今度は「ほら」と田上の顔に指を差してきたので、田上ももっと怪訝な顔をすると、マテリアルも「何にもないですよ」と言って、田上を自分のすべき事へと戻らせた。田上は、リリックとまた会話を始めたが、マテリアルとタキオンの会話が気になってあんまり集中はできなかった。だから、時々言葉がひっちゃかめっちゃかになってリリックに「え?」と聞き返される始末になった。

 マテリアルは、田上をリリックとの会話に戻らせると、ニヤニヤ笑いを止めてパソコンに向かっているタキオンに向かって声を落として聞いた。

「私の事を睨んできてましたけど、何か用ですか?」

「ん?別に何の用もないけど」

 タキオンは、パソコンから軽く顔を背けてそう言った。すると、マテリアルは「そうですか」と返したのだが、その後すぐにこう聞いた。

「田上トレーナーと話すことはできましたか?決着は?」

 そう聞かれると、タキオンも答えづらそうにしたが、これを隠す程マテリアルとの仲が悪いわけでもないので結局は言った。

「決着は…ついたよ。圭一君と私は仲良しって事で」

 これでは、言葉を躊躇いすぎて意味が分からなくなっていた。仲良しという言葉では、友達で決着がついたのか、はたまた、恋人で決着がついたのか全く分からない。当然、マテリアルは、次の質問をした。

「仲良しっていうのは…、そのぉ…、付き合うって事ですか?」

「まぁ、そうだね」

 タキオンがそう言うと、すぐさまマテリアルは顔を輝かせて言った。

「じゃあ、いいじゃないですか!なんでそんなに言いにくそうにするんですか!田上トレーナー、度胸見せましたね。タキオンさんと付き合うって、中々できない事ですよ」

 マテリアルが田上に呼び掛けると、田上は「ははは…」と愛想笑いをそれに返した。あまりに嫌そうだったことは見え透いていたが、リリックの方はそんなことよりも好奇心の方が勝って田上に言った。

「え!田上トレーナー、タキオンさんと付き合うんですか!」

 そして、リリックは、タキオンと田上を交互に見た。田上は、妙な顔つきをしながら頷き、タキオンは、ゆっくりと確信を持って頷いていたので、話しやすそうなタキオンにリリックは言った。

「じゃあ、タキオンさんの恋は実ったんですね?」

 またも、タキオンは頷いたが、その後に言った。

「口を慎みたまえ。人の恋にあんまり首を突っ込むんじゃないよ。圭一君だって、そんな事は嫌がるはずだ。…ねぇ?」

 最後の問いは、田上に呼び掛けたものだったが、田上が頷くか何か反応を示す前に興奮して目をキラキラさせたリリックが言った。

「圭一君ですか!確か、大阪杯に行く前はトレーナー君って呼んでましたよね!大阪杯で何があったんですか?」

 今度のタキオンは、少し眉を寄せて頷いてから答えた。

「そりゃあ、付き合ってるんだから名前で呼ぶのは当然だろ」

 そこで、田上の方を見ると居心地が悪そうに固く唇を結んでいるのが分かった。だから、その後にタキオンは田上を庇うつもりでこう言った。

「もう、私に色々聞くのはやめろよ。圭一君もデリケートなんだから私の事が嫌いになってしまうかもしれない」

 これを聞いた田上は、自尊心を傷つけられた心地がして、なんだか嫌な気持ちになった。だからと言って、自分を庇ってくれた相手に反論することもできないので、心の中のもやもやを抱えたままで黙っていると、タキオンが言ってきた。

「君も根掘り葉掘り聞かれるのは嫌だろ?」

「嫌だよ」

 案外、自分の声がはっきりしていて安心した。自分の動揺が声に現れ出るものかと思ったが、そうでもなかったようだ。ただ、そうすると、何を思ったのかタキオンが独り言のように話しながら田上に言った。

「君の隣に座って明日の事を調べようかな?」

 それはもう決定事項のようだった。タキオンが、言葉を発している時には、もうパソコンの電源を消す準備をしていて、それが終わると田上の反応も待たずに立ち上がった。そして、田上の座っているソファーの前まで来た時、初めて不満そうな田上の顔を見た。その顔を見ると、タキオンは「いいだろ?」と軽く首を傾げて聞いた。田上も断る事はしないで、タキオンの問いに頷いた。それから、またリリックの話に戻った。リリックは、好奇の視線をタキオンに向けていたが、しっかりと聞くべきところは聞いて田上と会話をした。タキオンが田上の横に座ると、マテリアルはリリックの横に座った。大して広いわけでもないソファー二つに総じて四人が座っている。この上に、田上はあともう二人スカウトをする予定なのだから、これでは狭苦しいにも程があるだろう。今でさえ、田上とマテリアルとリリックは狭苦しそうにしている。(田上のはタキオンに触れたくない一心でソファーに縮こまっているせいもあるだろう。)しかし、タキオンはそんな事はお構いなしに田上に寄り添ってくるので、大変面倒だった。いくらタキオンの事を好きと言っても、公衆の面前で二人は恋人ですよ、という事はしたくなかった。特に、見知った人が近くにいるのなら猶更だ。タキオンもリリックとマテリアルの手前、田上の手で遊ぶなどの行為を控えはしたのだが、それでも田上にとっては配慮が足りなかったようだ。

 そして、話が終わるという段になった。リリックが、時を見計らって話し出そうとしている所である。田上は、そんなところだろうと思って内心嫌な気持ちでいたのだが、話が終わってリリックが話し出すという前に、タキオンがスマホを田上にかざして言った。

「明日、ここに行きたいのだけれど、どう思う?」

 田上は、一瞬だけタキオンに救われた心地になったのだが、察しの良いリリックは田上を救ってはくれなかったようだ。田上が、タキオンに「どう?ん~、…いいんじゃない?」と言い終わるのを待って、こう聞いた。

「明日、どこかに行くんですか?映画館?二人で行くんですか?私もついて行っていいですか?」

 矢継ぎ早に聞くものだから田上も困ったが、初めから答えるつもりはなかったので隣に居るタキオンの方を向いた。それで、田上と目が合うと、タキオンも――私が返答をするのかい?という面倒臭そうな目つきをしたのだが、リリックに向き直って言った。

「君は絶対に連れてはいかないよ。二人で行くんだから」

「じゃあ、デートですね?」

 リリックは目をキラキラさせていて、それと反対に、タキオンは眉を寄せてリリックを見ている。そして、タキオンが言った。

「デートにはデートだが、これは君の見せ物じゃないよ。私たちは、デートに行くといったら勝手に行くし、行かないといったら勝手に行かないんだ。一々、君に言うつもりはないんだから、君も色々言うのはよせ。面倒臭い事この上ない」

「でも、勝手に出かけるのはダメですよ。何してるのか気になるじゃないですか」

「じゃあ、気にするのをやめたまえ。私たち二人が居なくなる時は、大抵デートの時だと思えばいいし、何かあるのならその時に電話を掛ければいい。出るとは限らないが」

 そう言うと、タキオンはまたスマホを田上に見せて言った。

「ここに、明日の早朝に行きたいんだ。できればで良いんだけど、どうだい?」

「早朝?何時から?」

「明日の六時十数分の電車に乗って、一時間四十分くらいすれば向こうに着く」

「六時?…朝は鍵が開いてないだろ?」

「鍵くらい内側からなら自分でも開けれるから無いのと一緒だし、フジ君に聞けば簡単に許してくれると思うよ?それに、外出届も出すんだから大丈夫な事は大丈夫だろう?」

 タキオンにそう言われて、田上は少しう~んと悩んだが、その時にまたリリックが口を挟んできた。

「どこに行くんですか?」

 それに、タキオンは迷惑そうに眉を寄せたが、言った方が簡単なので「海」と簡潔に答えた。しかし、例え『海』一つだけでも話は広がるもので、タキオンの思った通りにはいかず、リリックがまた聞いた。

「どこの海ですか?」

「小山の海だよ」

 ここまで話して、その次を断ち切るのは面倒臭いので、タキオンはもうリリックの相手をすることにした。

 当然、リリックは話を続けて聞いてきた。

「小山の海?…どこですか?」

「神奈川の方にあるビーチだよ。人が少ないらしいからそこにした」

「へ~、そこに行って何するんですか?」

「散歩とかそこらへんだよ。私が行きたいから圭一君についてきてもらうんだ」

 そこで、リリックの標的がタキオンから田上に移った。

「田上トレーナーは、人と付き合った事はあるんですか?」

 唐突な上に不躾な質問だったから、田上はムッとした顔になって言った。

「なんで、自分の恋愛事情をわざわざ人に教えないといけないんだ」

「えー、気になりますよ。タキオンさんも気になりますよね?」

「ええ?私かい?…気にならないことはないが、君、キスも初めてだと言っていたし、以前に…」

 ここで、タキオンの油断が出た。リリックは、その油断を見逃さずに慌ててこう聞いた。

「え!?待って、タキオンさん。キスもしたんですか?田上トレーナーと?」

 ここまでで一番面倒臭そうな状況になった。これは、タキオンにも照れが残る。年下に自分の恋愛事情、ましてや接吻事情など明かす必要もないのだ。それでも、自分の口から溢してしまった以上は自分に責任がある。タキオンは、大人しく観念して言った。

「したよ」

「ええ!?三日?四日ですよね?その間にどれだけ事が進展したんですか?田上トレーナーもタキオンさんとキスをする程の度胸があるとは思いませんでした!」

 それに、田上は顔をしかめて、タキオンは言い返した。

「圭一君も苦心して私とキスをしてくれたんだよ。軽々しく口を挟まないでくれ」

「すいません」とリリックは謝ったが、その口調に反省の色はなく、その両の眼に好奇と感心を宿らせて、じっくりと田上を見ていた。

 

 その後のリリックは、田上にもタキオンにも質問することはなく自由に話をさせてくれたが、自分は自分でマテリアルと一緒にタキオンと田上の話をしていて、タキオンたちは話しづらくて仕様がなかった。それで、注意をしてみても、少しの間ヒソヒソ声で話すばかりで一度注意をされたことを忘れて話してしまうと、あとはもう遠慮会釈なくタキオンたちの事を話し合った。「タキオンさんずっと田上トレーナーの事が好きでしたからね」「タキオンさんが大阪杯に行く前に私に言ったんですよ」

 田上とタキオンが、付き合う付き合わないで揉めていたときに、田上を非難していたマテリアルまでもがそう言うのだから堪らなかった。しかも、話の内容は主にタキオンがどういう風に田上を思っているのか、または、思っていたのか、であったためタキオンはもっとやりきれなかった。その話を聞いて、顔を赤くさせているタキオンを見ると、田上もできるだけその話は聞かないように意識の外へ追いやっておいた。

 そうしながら、タキオンと田上の話は続いて、最終的には当初のタキオンの予定通り早朝に出掛けることとなった。特に、朝の門限というのはあってないようなものだったので、そこで落ち着いた。そうすると、話すこともないけれど、特に話したくない訳じゃない、話題を探す妙な時間になった。時計の針は、三時四十五分を指していた。今後の予定も特にない。話すことも特にない。となると、田上の頭には『帰る』という選択肢が出てき始めた。ただ、帰るには、女三人が行く手を阻んでいそうだった。タキオンは勿論にして、リリックもマテリアルも田上が帰るとなったらなんじゃかんじゃと文句をつけてきそうだった。タキオンは、今は田上の横でマテリアルとリリックの話をぼんやりとしながら聞いている。何を考えているのかは分からない。それでも、タキオンはしっかりと田上に寄り添って過ごしているので、田上が少しでももぞもぞとしだしたらすぐに気が付くだろう。だからと言っても、田上はここに居ては相当暇だ。リリックとマテリアルは、もうタキオンたちの話はしておらず、別の話題で持ちきりだった。ドラマか何かの話だろう。田上には、全く興味がない。寮の自分の部屋に戻って、ゲームでも何でもして過ごしたい気分だった。少なくとも、ここに居るのは嫌だった。だから、暫く様子を見て、良い頃合いになると田上は言った。

「リリーさんもこれで晴れて俺が担当することになるので、…上手くやっていこうね」

「はい」とリリックは言って、田上に軽く頭を下げたから田上も下げ返した。そして、そのまま必要な書類を持ってソファーを立とうとしたら、案の定、まずタキオンがその動きに気がついて言ってきた。

「どこに行くんだい?」

「ん?…事務室にこれを出して、寮の部屋に帰る」

 すると、それを聞いたマテリアルが口を挟んできた。

「ええ!もう帰るんですか?もっと話しましょうよ」

「今まで俺に話しかける素振りもなかっただろ」と田上が突っ込むと、今度はリリックが言った。

「じゃあ、質問があります」

「なんだ?」

 田上は、少し睨みながらつっけんどんに聞いた。

「えっと、…初めてのキスってどうでした?」

 リリックは、不味い質問をしていると自覚しながらもその質問をやめられず、タキオンを横目でチラチラ見ながら田上にそう聞いた。当然、田上もタキオンも同じようなしかめっ面をしてリリックを睨んだ。それでも、リリックも負けじと田上の目を見つめ返していると、田上ははぁとため息を吐いて言った。

「二十五歳のファーストキスの事を聞いてもしょうがないだろ。…そんなに幸せな物でもないし…。じゃあ、俺は行くので、さようなら」

 そう言うと、田上はソファーを立ってトレーナー室からスタスタと歩いて行った。引き止める間もなかったので、慌ててその後をタキオンは「待ってくれ」と追いかけていった。

 残されたリリックとマテリアルは、どうしようかと思って顔を見合わせたが、どうにも話すような雰囲気ではなかったので、マテリアルが「じゃあ、私たちも帰りましょうか」と提案するとリリックはそれを承った。その提案の後にマテリアルは、「トレーニングでも良いですよ?」ともう一つ提案していたのだが、それについてはリリックは承らなかった。

 そうして、トレーナー室には誰も居なくなった。

 

 タキオンと田上は、事務室に向かって廊下を歩いていた。当たり前のことではあるが、無事タキオンは田上に追い付くことができたようだ。田上は、ドアを開ければすぐそこにしたし、なんならタキオンの呼び掛けに反応して後ろを振り返えって少し待っていた。そのお陰もあってか、タキオンは走って追いかけず済んだ。

 後ろに追いつくと田上と手を繋ごうとしながらタキオンが言った。

「中々、君と二人で話せるような機会がないね」

 田上は、自分の手に纏わりついてくるタキオンの手を振り払いながら、その顔をじろりと見つめた。すると、またタキオンが言った。

「私とのキスは幸せじゃなかったのかい?」

「…幸せなわけはないだろ。何にも分かってないんだ。何にも認めてないんだ。それで、あんまり良く分からない子供とキスをして幸せで居れるんだったら、余っ程幸せな頭をしてるよ」

 田上の捻くれた物言いにタキオンはふふふと笑って言った。

「君は私の事は分からないのかい?」

「分からん」

「私は君の事をもっと知りたいよ。どんなゲームが好きなのか、とか、どんな風に私を愛してくれるのか、とか、私とのこれからはどういう未来を描いているのか、とか。……私、大阪杯に行く前に夢の話をしただろ?覚えてるかい?」

 田上は、ぱっと頭の中にタキオンが言った、思い描く夢の話を思い出した。結婚して、子供たちに囲まれて死にたいと言っていた。この『結婚』というのが田上の言葉を躊躇わさせた。タキオンが一月頃には田上の事を好きだった、という事を田上は覚えていたから、確実にその時にはすでに田上と結婚することを夢見ていたという事だろう。その事が、田上の頭の中では処理ができなかった。田上も頭の中で理解はしていた事だが、それでも心のどこかでは、タキオンが自分の事を好きだという事が信じられなかったのかもしれない。それが、今思いがけないところで、タキオンによって想いを伝えられていたという所だから、田上の頭の理解の範疇を越えた。それだから、田上は少し考え込むような間を取った後、「覚えてない」と答えた。タキオンは、またもふふふと笑って言った。

「まぁ、覚えてなくてもいいけどね。君と結婚して、子供に囲まれて死ぬのが夢なんだよ」

「死ぬのが夢なのは悪趣味だな」

 田上は、わざわざ意地悪な事を言ったが、相変わらずタキオンはニコニコしている。

「別に死ぬのが夢なんじゃないよ。子供に囲まれた幸せな家庭が良いっていう事だよ」

「じゃあ、俺じゃダメなんじゃないか?もっと気さくで優しい男を探した方が」

「いやいや、君だって充分気さくで優しい男じゃないか。桜花に接する態度を見れば分かるよ。君は、子煩悩になれるよ」

「なりたくてもなれないのが、残念ながら俺だ。度胸がないのが俺だ」

「君に度胸がないというのは随分な偏見だと思うけど。リリー君だって、大阪杯に行く前の君しか見ていないからそう言ったんじゃないか。今の君を見れば誰だって」

 そこで、田上はタキオンの話を聞くのをやめた。事務室の窓口に着いたからだ。幸い、待つことはなかったから、そのまま窓口の人と会話をした。その間中、タキオンが田上に無視された腹いせに会話を邪魔しようとしてきたが、それすらも悉く田上が無視をしたので、窓口の人はその二人の様子を見ながら苦笑していた。

 これで、ようやくリリックが田上のチームの仲間になった。チームを作る際に、チーム名が必要になった。昨今は、星の名前をチーム名にするのが流行っているらしいが田上はそんな事は気にせずにこう付けた。

『TRUTH』

 カフェが、自分のお友達に付けた名前と一緒だった。だから、タキオンは窓口でのやり取りが終わると、ぷんぷん腹を立てながらも聞いた。

「なんでカフェの変な幽霊と同じ名前を付けたんだい?」

 そう言うと、廊下に置いてあった近くの消火器がガタンと揺れた。あまりに妙な揺れだったので、タキオンも田上も何かに勘付いて顔を見合わせた。そして、タキオンが少し怪訝で神妙な顔つきをしながら言った。

「トゥルース君…かな?」

「さあ?…ここに居るのかな?」

 田上が、消火器を見つめながら答えた。消火器は、一度妙な動きをした以外は普通の消火器と変わりなかった。誰が居るのか居ないのか分からない。すると、タキオンも気味が悪くなって田上の手を引く「行こう」と呼び掛けた。田上は、元よりこの先に行くつもりだったから、タキオンと一緒に廊下を進んだが、角を曲がるときになってやっぱり消火器の事が気になって、もう一度見てみた。消火器は、いつものようにそこに佇んでいた。

 

 その日は、それ以上の事はなかった。一度、タキオンに部屋に帰らずに自分と話そうと誘われたばかりで、その後はタキオンとぽつりぽつりと話したり話さなかったりした。場所は、午前中に話していたベンチだったりそれぞれの部屋だったりした。このそれぞれの部屋というのは、電話をしたという事だ。もう門限の時間になればさすがのタキオンも帰らなければいけないので、田上に促されて大人しく自室に戻った。戻りはしたが、田上と寝る前に電話をするという約束付きだった。夕食を食べて、風呂に入る前に電話を掛けると、田上が

「もう寝るのか?」と少し驚いた調子で聞いてきた。タキオンは、それを面白がりながらまだ風呂にも入っていない事を伝えると、田上が面倒臭そうな声を出して「寝る前にかけろよ」と言った。そこで、勝手に電話を切らないのが田上の優しさである。タキオンは、その優しさに感謝しながら二言三言君と話せて嬉しい旨を伝え、電話を切った。

 それから、夜は更けていった。寝る前の電話の時は、田上も少しそわそわしていて、タキオンと同じかそれ以上にはそわそわしていた。それだから、タキオンはふふふと笑って「君は可愛い奴だなぁ」と言うと、田上は少し黙った後言った。

「俺よりも可愛い奴なんてこの世にはざらに居るよ」

 その後は、わちゃわちゃと可愛い可愛くない問答が始まったが、タキオンと同室のデジタルからするとそれはご褒美のようなものだった。デジタルは、タキオンが明日に備えて早く寝たため部屋の電気を消されたが、自分はすることがあったため机の明かりをつけて作業に向かっていた。そこで、自身の尊敬と憧れの対象であるアグネスタキオンさんがタキオンしゃんのトレーナーであり恋人でもある田上圭一トレーナーとイチャイチャしながら話をしているのだ。これ以上に良い作業のお供もそうそうないだろう。少なくとも、アグネスデジタル自身においては。昨日のタキオンと田上の電話は少し内容が重かったから、聞くに忍びなかったが、今日の電話は今の所はイチャイチャしているだけのようだ。デジタルにとっては、至福の一時だった。

 そのうちに良い頃合いになって二人共電話を切ったようだ。実に平和な電話だった。そして、それが終わると一気に部屋が静かになった。今はもうデジタル自身が紙に絵を描いている鉛筆の音しか聞こえない。カリカリカリカリという音を頭の中に響かせながら、同時に先程のタキオンたちの電話を回想していた。やはり、至福の時である。思い出すだけで顔がにやけて、涎が出てきそうになった。それでは、紙が汚れてしまうからいけないと思って、デジタルは慌てて自分の気を確かに持った。鉛筆の音が妙に心地良く頭の中に響く。すると、タキオンの寝息が微かに聞こえてきて、鉛筆の動きを止めた。それから、耳を澄ましそれが本当にタキオンの寝息なのかを確かめた。シンと静まった部屋の中に安らかな寝息が聞こえる。やはり、タキオンの寝息である。それを確認すると、再び顔がにやけてきたが、今度はニヤニヤというよりもニヤリの一つで終わった。タキオンの寝息が聞こえるという喜びよりも安心の方が勝ってしまったからだ。昨日の夜にタキオンが眠りながら息を荒げているのは驚いた。何が自分に知らせたのかは分からないが、タキオンが苦しみ出してから比較的すぐに起きることができたと思う。これはただの推測でしかないが、それでも早めに起こす事はできたと思う。その後の電話での田上の論争を鑑みても、結局の所は田上と仲直りはしたようだし、良かったのじゃないかと思う。総じて、タキオンさんを元気付けてやれる事のできた昨日の自分は誇るべき存在だ。ちなみに、タキオンたちの昨日に電話していたの時は夢現の中に聞いていたので、今日のタキオンと話す機会があった時にそれとなく聞いて確かめた所、夢現の通り紆余曲折あったようだ。

 そんなことを思っていると、また自然と口角が上がってくる。今度は、もう上がるのも下がるのもなるままに任せた。そして、自分の鉛筆の音に頭の中を支配させる。自分が何を考えて、絵を描いているのかは分からないが、その音が小気味良く自分の脳をくすぐっているのを感じて、デジタルはさらに集中の極致へと達した。その内に、眠る事も忘れてしまっていて、気が付いた時には二時になろうとしていた。



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二十一、海岸線、白く染まる④

 早朝、タキオンと田上は同時刻に起きた。田上は、約束事を忘れるのはクレープ屋での出来事で懲り懲りだったし、タキオンもその危険性があるのは重々承知だったので午後に二人で、スマホに同時刻の目覚ましを設定していた。それでも、田上は中々眠たくて、もう一度眠りに就きかけた。そこで、不図タキオンの顔が頭の中に浮かんできて慌てて飛び起きることができたのは幸いだった。そして、その起きた直後にタキオンからも電話がかかってきた。念の為のモーニングコールだそうだ。そのモーニングコールの声色が嬉しそうな声色だったから、田上の眠気も少し飛んで、電話口で朝の挨拶をした。

 着替えて出て行くと、寮の前にはタキオンがもうすでにいた。お洒落をするとまだレース場近くのホテルの方に居た時に言っていたのを覚えていたから、どんなものかと思って出て行ってみたら、見えたのは白い長いワンピースだった。今日は、若干霧がかっていたのもあって、少し背景に溶け込んでいたのが面白かったが、それでも十二分に白のワンピースはタキオンに似合っていたので、田上は、タキオンと再び朝の挨拶をした後言った。

「良いワンピースだな」

 そう言うと、タキオンは待ってましたとばかりに得意気な顔をして言葉を返した。

「そうだろう?今は若干季節に合わないような気もするけど、この服はあんまり着る機会がなかったからここで着れて良かったよ。可愛いだろ?」

 その問いに田上は微かに顔に笑みを浮かべた。

「ああ、可愛いよ」

 すると、タキオンは満面の笑みを作って「ありがとう」と礼を言った。

 それから、二人は手を繋いで歩きだした。田上の服装は、お洒落をしたものではなく、ただの普段着を着てきただけだったが、タキオンがそれに何か文句をつけることはなかった。本当に、ただ自分がお洒落をしてきたかったようだ。そのタキオンの服装が、あまりに軽く春の初めの早朝はまだ寒そうに見えたが、そこはウマ娘だった。手を繋いだ時に、自分の手より暖かいタキオンの手を感じて田上はそれを実感した。

 

 それからは、ほとんど何事もなく駅へと辿り着いた。しかし、駅についてみれば、思いの外人が居て、その目が田上は気になった。皆が皆ではないが、しっかりと服を着た人が多い中、タキオンは悪く言えばカーテンを羽織ったような格好であるし、季節外れにも腕の露出が多い。大衆から見れば、少し奇抜な格好かもしれない。そんな田上の心配も露知らず、タキオンは田上の横を楽しそうに歩きながら、ついでに二人分の切符も買ってきてくれた。それで、田上が何だか神妙な顔をしているとタキオンが言った。

「何か心配事でもあるのかい?」

 田上は、少しの間タキオンの顔を見て、自分の思った事を言うか言うまいか悩んだが、今日は素直な心地だったので言った。

「お前の肌の露出が多いから…」

「私のかい?…ん~、普段のあのオフショルダーになってしまった紫の服よりかは露出は少ないと思うけどね?」

「いや、…別に大したことじゃないけど…」

 そこで田上が言葉を切ると、タキオンが続きを聞いてきた。

「けど?どうなんだい?」

「……別に言う程の事じゃないんだよ」

 田上は、少し面倒臭そうに言った。

「私であれば、言っても良いものだと思うけどね。恥ずかしい事だって聞いて大丈夫だけど」

 田上は、また、少しの間タキオンの顔を見つめてから言った。

「…あんまり整理がつかない。…電車に乗ろう?」

 それで、タキオンは少し不満そうだったが、海へと向かう電車に田上と一緒に乗った。電車の中には朝日が差し込んでくる。途中、数分の間、電車が海岸線を走る事があった。朝日が、海の上に浮かび、水面がキラキラと眩く輝いていた。とろとろと揺らめく白い光の道ができ、その眼前の電車内では佇む人々が黒く映された。田上は、それをぼうっとしながら見つめていて、脳裏には綺麗という言葉しか浮かんでこなかった。タキオンは、朝日というよりも田上の事を気にしていた。朝日に見とれてぴくりとも動かない左に座っている田上をチラチラと見つめて、ここで声をかけてみようかどうしようか迷いはしたのだが、初めから声なんてかけるような気もなかったように思う。なぜなら、こうやって朝日を判然としない面持ちで眺めている田上を眺めている方が、タキオンにとっては、とっても面白くて愛おしいものだったからだ。この田上の顔を見ているだけで三時間は過ごして行ける自信がある。なんのちょっかいも出さずにだ。ただ、田上は不図した拍子に集中が切れてしまったらしく、右隣から自分の顔を覗き込んでくるタキオンの顔を見つけて、じろりと見てから「何?」と聞いた。タキオンは、満足そうに頷いてから、「何にも」と答えた。

 

 やがて、電車が高い金属音を立てて海辺の町へ止まった。時刻は七時四十五分を長針が追い越した頃だった。田上とタキオンが降りた後ろで、電車のドアがぷしゅうと音を立てて閉まり、また次の駅へと走っていった。二人の他にも幾人か人が降りていたが、大部分はまだ次への町へと行くようだ。この朝早くからご苦労な事だ。降りた人も次の駅へ向かう人も皆皆朝日を楽しもうというような気概は感じられなかった。普段から見慣れているからかもしれない。もう存分に朝日の良さは堪能していて、むしろ飽き飽きしているからかもしれない。タキオンは、その人たちの事を少し可哀想だとも思ったが、今はそんな人たちの事を気にしている場合ではない。田上と海へ来たのだ。春の海へ。残念ながら電車に乗っているうちに陽はあの時よりかは高い方へと昇ってしまったが、それでも念願の海へとやって来た。タキオンのワクワクは止まりそうになかったが、とりあえず、駅のホームのベンチに落ち着いた。特に、これといった理由はなく、田上が「ここに座ろう」と言ったから座っただけだ。強いて言うなら、ホームの出入り口の所で人がごたごたしていたから、それを避けるためかもしれないが、それは田上にしか分からなかった。

 田上は、「ここに座ろう」と言った切り一言も話さなかった。まだ、電車の中での気分が抜けていないのかもしれない。電車の中には、人が普通に居るので、普通に話すのでは憚られる。こっちの会話の内容は、電車の中の人に筒抜けだからだ。そんな中で話す気には、タキオンでもなれない。だから、ずっと黙って風景などを眺めていたのだが、…今はどうだろう?タキオンには、田上の考えていることがあまり分からなかった。田上は、今はひたすら前の方のみを見つめている。前と言っても線路の方だ。線路周りには草が生えているからそれを見ているのかもしれない。タキオンは、その頬を突いて気を引いてみる気にはなれなかった。どちらかと言えば、まだそのぼーっとしている可愛い顔を眺めていたい気持ちもあったのだかが、さすがにここまでくるとタキオンも不安になってくる気持ちもあった。そのせめぎ合いの中でタキオンは、田上に言った。少々小さい声だった。

「いつまでこうしているんだい?」

 自分がそう言っても、果たして田上に聞こえたものかどうかは分からなかった。田上は、相変わらずピクリともしない。その内に、タキオンの中では、本当に自分が声を発することができたのかどうかも怪しくなってきたが、その頃になって田上が静かに口を開いた。

「……行こう」

 ただ一言だけだったが、タキオンの目はしっかりと見て物を言ってくれた。だから、タキオンは少し安心して立ち上がった。横で同時に田上も立ち上がり、それから、どちらが先に手を取るともなく、二人は手を繋いだ。

 田上たちが駅舎を出るころには、二つ目や三つ目の電車も来ていたが、人混みに紛れることなく、自分たちの歩む速さを保ちながら海へと目指して行った。

 

 砂浜へと着いた。残念ながら多少陽は昇って、タキオンの思い描いていた通りの景色は見れない。しかし、波が寄せては返す音が耳に心地よく響き、海から吹く風にタキオンは深呼吸をすることができた。それでも、田上はぼーっとしたままだった。朝日を見た時から、何かがおかしい。田上の心の中で何が起きているのか、タキオンにも分からないので、海風を吸い込んで元気を取り戻したタキオンは田上に陽気に言った。

「何を湿気た面をしているんだい?海に来たんだよ?空気がおいしいじゃないか!」

「…ああ」

 田上は、顔はあまり動かさないで目だけを動かしてタキオンを見たが、その様がタキオンには何か迷っているように見えた。見えたといっても、確かなものではない。だから、タキオンは、自分の気を落ち着かせて田上と同じような調子にしてから聞いた。

「何か思う所でもあるのかい?」

 また、田上は目だけを動かしてタキオンの方を見る。今度は、長かった。答えるまで長くかかったから、その間に二人は、砂浜の脇にある松林まで来た。そして、そこにある枝や葉っぱだらけのベンチに座ると、田上が言った。

「……タキオン」

「ん?なんだい?」

「…お前、誕生日プレゼントに欲しい物とかあるのか?」

 唐突な質問だったが、タキオンは冗談交じりにこう答えた。

「ん~、指輪かな」

「指輪?」

 今までタキオンの顔を見ずに話していた田上が、驚きと疑念の入り混じった声タキオンの顔を見て聞いてきた。それに、タキオンはふふふと笑って「冗談だよ」と答えると、田上はまたタキオンを見るのをやめて、目の前にある松の木をぼんやりと見つめながら言った。

「指輪…。…お前欲しいの?」

「君がくれるって言うんなら欲しいよ」

「あげないって言ったら?」

「そりゃあ、貰わないまでさ。それが別の女にくれてやるって言うんなら、さすがに私も待ったをかけるけどね」

「…指輪ってどんくらい高いんだろう?」

「ん~、…指輪には私もあんまり興味がないからなぁ。…まぁ、千差万別あるだろ。別に、百均のをくれたって…、いや、百均はさすがに喜べないな。…三千円?そこらへんが線の引き所かな?三千円あれば、多少キラキラしたガラス玉の付いた指輪は買えるんじゃないか?」

 田上は、う~んと唸って言った。

「…指輪、欲しいの?」

「結婚するときにくれるんならいいけど、別に今年の誕生日はくれなくてもいいよ」

 そこで少し間が空いてから、田上が言った。

「……お前、本当に俺と結婚するつもりなのか?」

「当たり前だろう?それ以外に何の選択肢があるって言うんだ」

「…今までのは、全部嘘だったり…」

「嘘吐いて私に何の得があるんだい。君に嘘を吐くくらいなら、私はコロンブスの卵を立たせない研究をする方が、まだ性に合ってるね」

 タキオンの絶妙な冗談に、田上は苦笑とも何ともつかない笑みを浮かべてから、言った。

「あんまり良く分からん。…思う所があるのかい?ってお前、さっき心配してくれてたけど、なぁんにも分からん。…走ろう!タキオン、タッチ!」

 田上は、突然そう言って、立ったかと思うと、タキオンの肩を一瞬触ってスタコラサッサと松林から海の方へ走り出した。タキオンは、驚きのあまり一瞬程反応できずにいたが、田上が鬼ごっこを仕掛けてきたという状況が飲み込めてくると、ゆっくりと立ち上がって、ゆっくりと歩きながら、ゆっくりと数を数えた。十から零まで数えたら、田上を全力で追いかけるつもりだった。しかし、自分が今日履いてきたサンダルは走るのに適さない事に気が付いたので、松林を過ぎてから裸足になって追いかけようと思った。それでも、田上を存分に脅かすために大きな声を上げて、零まで数字を数えた。タキオンの予想した通り、十を数える間に自分が松林を抜けきる事はできなかったので、まずは軽い駆け足で松林から出ることにした。その過程で田上を探しながら、砂浜の方に出ると、遠くに全力で走っていく少年、または成人男性のような姿が見えた。ただ、あれだけ必死になって走っているのだから、成人男性が少年でも変わりはないだろう。顔を見てみれば、少年が必死になっている顔も成人男性が必死になっている顔もあまり変わらないはずだ。それで、タキオンが――圭一君の顔はどんなになっているんだろう、と考えて、必死な形相を思い浮かべてクスクス笑いながら、自分のサンダルを脱いで砂浜へと置いた。それから、おーいと田上に声をかけた。田上は、暫く走った後、立ち止まるとタキオンの方を振り返った。すると、そこに手を振っている白いワンピースを着た栗毛のウマ娘を見つけたのだが、敢えてそれを無視するとまた砂浜の奥の方へと走って行った。タキオンは、その様子を見てまたクスクス笑うと、軽く足を上げたり下げたりしてストレッチをしながら進んだ。田上は、最初から最後まで射程圏内だ。どう追い詰めようと調理しようとタキオンの勝手である。――どう追いかけるのが一番面白いか…。タキオンは、その事を考えた。ただ、適当に走って田上の背中に追いついてみせるのじゃあまり面白くない。どうせだったら、田上が必死にこちらへと走ってくる様を見たかった。しかし、そうも言ってられないから、裸足の駆け足で田上の背中をぼんやりと追っていると、段々と田上の足取りがもつれてきて、そして、前の方に滑るようにして転んだ。それから、遠目から見た限りではピクリとも動かなくなった。まさか、転んだ先に尖った岩があって、それが胸に刺さって死んだから、ピクリとも動かないわけでもないだろうから、タキオンは、変わらずの軽い駆け足で田上の方へと向かっていたが、それでもその胸の内はちょっぴり心配を滲ませていた。

 田上は、砂浜の反対の方へ行く半分の所を少し過ぎたあたりで、力尽きて倒れていた。タキオンも大分後には行ったのだが、その時でもぜいぜいと肩を動かして息をしているのが見てとれた。その傍らに寄って行くと、タキオンも田上が大丈夫そうだという事が分かったので、その全力で息をしている方に触れて「タッチ」と言った。これで、鬼が田上に移り変わった。それで、タキオンが終わりだろうと思って砂浜に座ると、驚くべきことに田上はまだ走る体力があったようだ。タキオンの足首を掴んで「タッチ!!」と全力で叫ぶと、また先の方へと走って行った。タキオンは、可笑しそうにその背中を眺めた。もう、先程のような元気さは無くなっていたが、それでもそれでも全力で走ろうとしている。何だか面白い。これがずっと続くのならば、面白いのでする価値がある。タキオンは、また軽い駆け足で田上の後ろを追いかけて走って行った。今度は、田上は先程の半分も走れずに地面に倒れ伏していた。だから、タキオンもそのすぐ後について田上の背中を軽く触ると「タッチ」と半ば笑いながら言った。すると、途端に、田上がタキオンの足首へと手を伸ばしてきた。タキオンは、ひょいひょいと小刻みに足を上げてそれを避けた。そして、田上の手の届かない所まで飛びすさるとハハハと笑い声を上げて言った。

「私を捕まえようなんざ、百年早いね!」

 田上は、息を切らしながらもタキオンの顔を睨んだ。それから、少し息を整えた後、タキオンに言った。

「タキオン、来て。良い事教えてあげる」

「良い事?」

 タキオンがそう聞くと、オウム返しに田上が「良い事」と言った。これでは、タキオンを誘き寄せて捕まえようとしているのが見え見えだ。それだから、タキオンはもう一度聞いた。

「良い事の内容はなんだい?」

「良い事だよ。何でもいいから、こっちに来て。…付き合ってるだろ?」

「おや!そうだ。そうだよ。私たち付き合ってる。今すぐ君の所へ行ってやろう」

 こうやって素直にタキオンが来てくれると、騙そうとしていた田上も何だかやりづらくなった。タキオンは、田上の寝転がってる傍らにしゃがみこんでその顔を見ながら、「良い事って何だい?」と聞いた。タキオンは、当然田上が騙そうとしていることは分かっていたが、自分が鬼に代わるなら代わるで面白いから、田上が触ってくれば素直に触られて鬼になるつもりでいた。ただ、田上の方は、素直に捕まえづらい。だから、田上は、タキオンに「少し触って良い?」と断ると、タキオンの指先を捕まえた。だが、これは、鬼の移るタッチではない。それは、タキオンに断っておいた。だから、これは、ただ田上がタキオンの手を触っているだけだ。

 春の陽気が、二人の頭上で輝いている。真夏の暑さでない、心地良く汗ばむ様な暑さだとしても、今全力疾走をしたばかりの田上は汗だくになって砂浜に横たわっていた。砂浜を松林と反対の方に抜ければ、そこには草がまばらに生えた地帯があって、その先にコンクリートで作られた堤防がある。田上は、せめてそこまで目指したかったが、未だ草地にすら辿り着いていない。田上は、次走る機会の為に砂浜と太陽の暑さを感じながら、必死で息を整えた。その間に、田上はタキオンの手を見つめていた。細くて小さくて綺麗な手だ。だから、田上はそのままその感想を言った。

「…お前の手、…綺麗だな」

 唐突に褒められたタキオンは、嬉しそうに「ありがとう」と言った。タキオンの方は、横たわっている田上の顔を見つめていた。時折、田上がタキオンの手から目を離してタキオンの顔の方を向くと、タキオンがにこりと笑いかけた。すると、また田上はタキオンの手の方に目を戻した。

 

 暫くして田上の息が大分整ってきたときに、田上がタキオンに言った。

「…もう堤防まで走る元気がなくなった…」

「そりゃあ、普段運動していない奴があれだけ全力で走ればそうなるだろう」

「……もう動きたくないんだけど、…どうすれば堤防まで走って行けるかな…」

「堤防?…君は堤防まで走って行きたいのかい?」

「…ああ。…このままお前と歩いて行くのは、なんだか癪だ」

 すると、タキオンがふふふと笑った。

「私と歩いてくのはダメなのかい?」

「…ダメだ。…お前とじゃ、…少しつまらない。別に、お前がつまらないっていうわけじゃないんだけど、俺は、堤防まで行ってお前に手を振りたい」

「ふむ…。…じゃあ、私はどうすればいいんだい?」

「…ここで俺が手を振るのを待っててくれれば…」

「でも、君は走る元気がないんだろ?それじゃあ、堤防までは行けないよ?」

「……それが問題だ。…もう、足を上げる気力もない」

 そう言うと、田上は今まで握っていたタキオンの手を放して、自分の手をポトリと砂浜へと落とした。タキオンは、その手を拾うと、今度は自分で田上の手を握って言った。

「足なんて上げなくてもいいけど、その格好じゃ一生足なんて上がらないよ。せめて、仰向けに寝転がったらどうだい?それじゃあ、息もしづらいだろう?」

「じゃあ、仰向けにさせて」

「仰向けにぃ?」とタキオンは少しだけ面倒臭そうな口調で言ったが、面倒臭いのは口調だけだったようで、体の方は素直に田上の要望に沿う為に田上の手を放して、田上の身の上の方に跨った。そして、「よいしょ」と掛け声を出すと田上の無抵抗無気力の体を仰向けへと変えさせた。田上の眼前には、栗毛の髪を垂らしたタキオンがあった。その向こうには、青空が広がっていたが、今はそれよりもタキオンの方が田上にとっては魅力的だった。しかし、タキオンは田上を仰向けにした後は、すぐに傍らによけようとしたから慌てて田上が言った。

「行かないで」

 どこかで聞いたような言葉だった。あれから、まだ一週間も経っていない。タキオンが、田上にキスしてしまった時の言葉だった。だから、タキオンは驚いて一瞬神経を尖らせたが、すぐに落ち着かせると田上の顔を上から覗き込んで「行かないで?」とオウム返しに聞いた。

 それに、田上は躊躇いながら言った。

「…いや、……行かないでほしくて」

「行かないって、私はここまで来て君の傍以外どこに行けばいいんだい」

「…そりゃ、そうだけど…、……いいよ。行けば?」

「どこに?」

 少し怒ったような口調になった田上だったが、タキオンは相変わらず田上の顔を覗き込みながら言った。すると、田上は、こう答えた。

「どこかに行けば?」

「なんで君の傍を離れなくちゃいけないんだ」

「……俺は、……つまんない奴だから」

「つまらない?…君は、自分の事をそう考えているのかい?だとしたら、私はその説が間違いだと提唱しよう。別に、君はつまらない奴なんかじゃないもの」

「……でも、…言いたい事も言えない奴だ」

「言いたい事って?」

「…………何て言えばいい?」

「何?…う~ん、…私の事が好き、とか?」

「……そんなんじゃない…。もっと、…言いにくい。……俺を…」

「俺を?」

 田上が、言葉に詰まるとタキオンがその先を催促したが、田上はそれきり燃え尽きたような目でタキオンを睨むだけだった。だから、タキオンが勝手にこんなことを言った。

「う~ん、大方、俺を…抱き締めてほしいとかそこら辺だろう。君は、甘えん坊な所があるからな。…さて、どうやって君に抱き着いてやろうかな。寝転がったままでいいかい?」

 そう言うと、驚くべきことに田上が腕を広げて、抱き締めてほしいという姿勢をとった。タキオンもまさかそっくりそのまま自分の思った通りだとは思わなかったので、途端にニヤニヤと顔に笑みを浮かべてしまった。それだけども勘違いはされたくなかったので「バカにしてるんじゃないからな。君が、私の思ったより何倍も面白い奴だったからニヤニヤしてるんだ」と言った。それが、果たして田上に効果があったのかどうかは分からないが、恐らく恥ずかしがり屋の田上の事だから、この言葉が少しの後押しになったのかもしれないと思う。無事、田上とタキオンは砂浜の上で寝転がりながら抱き合うことができた。タキオンが上で、田上が下だ。それでも、田上は終始無言のまま、遂には自分の顔をタキオンに見せないため手で覆い始めた。今までこんな距離幾度もあったので、タキオンには田上が何を恥ずかしがっているか分からなかった。だから、自分は平気そうに、田上の顔を覆っている手を「おーい」と言って突いてみたり、「君の恋人が待っているよぉ?」とからかってみたりしてみたが、田上は一向にその手を退けそうになかった。そうなると、次は天岩戸作戦だ。田上とは関係なしに楽しそうな事をしてみればいい。そうすれば、天岩戸、もとい、田上の顔を覆っている両掌は自然と開いてくるはずだ。しかし、肝心の『楽しい事』がタキオンには難題だった。具体的に楽しそうな事とは何をすればいいのか分からない。その事について、少し悩んでいると、天岩戸が少しだけ開いて田上の目が覗いた。タキオンは、それにすぐに気が付くと「圭一君?」とニコニコしながら呼び掛けたが、すると、また天岩戸はぴたりとその隙間を閉ざしてしまった。しかし、タキオンにはもうそんな事は関係なく、天岩戸作戦も放り投げて田上に先程よりも積極的に仕掛け始めた。「私、君の事大好きだからこの手を退けておくれよ」だったり、「また可愛い君の顔を見せてほしいな~」だったり、「ああ、君がそうして手で顔を隠せば隠す程、可愛く見えてくるよ」だったりと、それはそれは聞いていて恥ずかしい事を言ってきて、仕舞いには「おや?君の耳が真っ赤だ。可愛いね」と言ってきたので田上は顔を手で隠しながらくぐもった声で「恥ずかしい!」と半ば強めに言った。それに、タキオンはこう返した。

「恥ずかしいだろう?君が、その手を開けたらもっと恥ずかしくなるよ」

 これでは、田上の手を退けたいのか分からない口調だったが、それはとりあえず置いておいて、田上は暫く考えるために黙った後「何?」と再びくぐもった声で聞いた。

「恥ずかしい事さ。恋人の君にする恥ずかしい事だからね。このくらいの事はしてやらなきゃ」

 すると、田上の岩戸が少し隙間を広げた。また、田上の目が覗いた。タキオンがどんな恥ずかしい事をしているのか興味を持ったようだったが、タキオンが前に戸を開けた時と変わらなく、自分をからかっただけだと分かると、また田上の岩戸を閉ざした。それでも、先程より心地が変わったのか、閉ざした後にこう言った。

「俺は、お前より八年も長く生きてるんだ。そんなおっさんを恋人にしたいなんて、お前の頭はイカレてるよ」

「おっさん?二十五で自分をおっさんだと思っているのかい?今時のおっさんと言ったら、四十かそこいら、三十でも若々しい人は若々しいからね」

「でも、俺は、四十に見えるってマテリアルさんに言われた。十分おっさんだ」

「まだ、その事を引きずっているのかい?それに、あれはマテリアル君が言ったんじゃなくて、実の所、リリー君が言ったものだったんだよ?」

「…ん?…んん?…お前が、――マテリアル君が言った、って言わなかったっけ?」

「え~…、私だね。だって、あそこで――リリー君が言った、って言ってもしょうがないじゃないか。それだと、私がリリー君に罪を擦り付けているように見えるし、リリー君もそこで話を振られると対処は難しいだろ?だから、マテリアル君にするしかなかったんだ。…私だって、自分が言ったわけではないし、自分が言われたとも思われたくない」

 タキオンがそう言い切ると、田上が天岩戸を開いて言った。ただ、その岩戸はまだすぐに閉じれるように顔の横に設置されていた。

「タチが悪いな」

「私の事かい?」

「お前もそうだけど、リリーさんが言ったとなると、猶更タチが悪い。マテリアルさんの方が、まだお喋りな女の人としてイメージが湧くけど、リリーさんだと、もう完全に悪口の様にしか聞こえない」

 そこで、タキオンは少しだけ笑ってから言った。

「リリー君は、まだ中学一年生だし、女の子だからねぇ。女ってのは、くだらない事を言って笑ったりするもんだよ。人の顔をバカにしてみたり、人の悪い所の噂話をしてみたり。詰まる所、情報交換の広場みたいなものさ。女の子の話の輪の中ってのは。そんな中で、交換されるのはやっぱりくだらないものだったりするから、女の子の話はあんまり真に受けない方がいいよ。君は、私から見れば、好青年に…は見えないな。いい男に見えるから。そもそも、結婚するにしたって、絶対に同世代で若くてかっこいい男じゃないといけないというルールはないからね。私が君を好きだといえば、君は私の好きな人なんだよ」

 その話の中で、段々と田上の天岩戸は閉じていって、再び顔は手で覆い隠された。出てくることに関しては、天照大御神よりも数段チョロい事に間違いはなかったが、再び岩戸の中に引きこもっていくことに関しては、タキオンは無理矢理な事はしたくなかったため、閉じていく岩戸を見守る事しかできなかった。そして、また閉じた岩戸の中から田上が言った。

「未だに、お前が俺を好きな事に納得がいかない。俺は、大した奴じゃない。かっこよくもないし、性格の良い奴じゃないし…」

 ここで、タキオンがそれを遮って言った。

「君の性格は良いだろ。少なくとも、君は、世間一般のかっこいいじゃないにしても、性格だけは世間一般から認められてもいいくらいには大丈夫だよ」

「…でも、…大した奴じゃない。お前にだって苦労しか掛けてない。そんな中で、なんでお前は俺の事を好きになるんだ。傍から見れば、こんな暗い男好きになる方が難しい」

「君が、暗い男というのは大きな間違いだね。今さっきだって見てごらんよ。あんなに少年みたく全力で走ってた。あれを、大きな少年と言わずして何と言えばいいのかな?本当に暗い男であれば、こんな砂浜で人目もはばからず全力疾走なんてしないよ」

「あれは、……海に来て少しはしゃいだだけだ」

「はしゃぐならはしゃぐでいいじゃないか。どこに暗い男と言うような要素があるんだい?君は、自分が暗い男という事に劣等感を持っているようだけど、別に君はそこまで暗い男でもないし、言うなれば、暗い男が他より劣っているという事もない。別に、鬱病者だって生きているということは他の人と変わらないし、女だって男だって、日本人だってインド人だって、君と私だって、等しく生きてる。精神病者が、生きているという点において他の人より劣っていますか?話すという点において他の人より劣っていますか?と問われれば、例え、話すことができなくとも劣っているとは言えない。気が狂って自分の頭で考える事ができなくなった人も劣っているとは言えない。確かに、もう自分の頭で考えられなくなることは残念だが、その存在として、圧倒的に低いかと言われればそうじゃない。皆、等しく存在している。そこにある砂だって、ダイヤモンドより価値が低くはない。ダイヤモンドの価値は人間が決めたものだ。どこの海や山や炭素の塊の中を探したって、ダイヤモンドの価値は一億円ですよ、とは書かれていない。どれもこれも、勝手に人間が価値を決めたもの。それに対して、私たちが来たこの小山の砂浜は人間に価値が決められたものではない。確かに、人間が流動的に動くことによって、人の行き来が少なくなったり多くなったりするが、この海が無料で開放されている時点で決まった価値のあるものではない。この海は、万物より勝り、万物に劣るものだ。そして、万物と平等にある。君だって同じだ。君は無料であり、決まった価値は定められていない。時と場合によって、その価値は上下したりもするが、それは時と場合によって上下されるのみで、君によっては左右されない。等しく、この世に存在するだけだ。暗い男、つまり物静かでクールな男が皆に持て囃される世の中になれば、君は私含め、どこそこの女性からモテモテになるわけだ。――見て見て、あそこのアグネスタキオンを連れてるトレーナーさんを見てみてよ。ああ、あんな人と結婚できるなんて羨ましいわね~。…と、こんな具合だ。そして、精神病者が持て囃される時代になればどうだろう?――あの気が狂ったようなロックンロール!精神病者こそが、芸術家になれる時代だわ!…こんな具合だろう」

 そこで、田上が岩戸の隙間からふふふと笑い声を漏らした。だから、タキオンが「なんだい?」と問うと、田上がこう返した。

「精神病者が音楽をするのか?」

「精神病者だって音楽をするだろう。あの人、…あの『大きな蛇』の…」

「木下一抹?」

 名前が出てこなかったタキオンに田上は助け舟を出した。それで、タキオンは「それだ!」と声を出して言った。

「あの木下とかいう人は鬱病になったんだろう。だから、『ハロー鬱病』なんて曲を作ったんだ。果たして精神科に受診したのかどうかは知らないが、鬱になってどうすればいいのか分からなくなったからあの歌を書いたんじゃないか?」

「…そんなところだろうな…。…なぁ、タキオン」

 田上は、そう呼びかけると、遂に天岩戸を全開放し、すぐに閉めれるように顔の横に手を添える事も止めた。それから、そのまま続けて言った。

「俺、堤防まで走る。…少し元気が出てきた」

「いいよ」とタキオンが言って、田上の体から降りた。そして、そこで体育座りをすると、体を起こしている最中の田上に「頑張って」と言った。田上は、「んん」と曖昧な返事をした後に立ち上がった。遠くに見える堤防は、田上が思っていたより大分遠かった。もう少し走れば行けるものだと思っていたが、今の自分の全力の全力を出し切らなければ行けないもののように思えた。それだけれども、今の田上は走ると決めてしまったので、引き返してまた砂浜に横たわる事が頭の中に浮かんできても、それを採択する事はできなかった。

 田上は、覚悟を決めると、唾を一つ飲んでタキオンを見た。タキオンは、どうぞ行ってらっしゃいと言うような目付きで田上を見つめ返した。すると、また田上は堤防の方を望んだ。遠い。遠いが、行けない距離ではない。体が重い。体が重いが、動かせない事はない。途中で力尽きそうだ。その時は、またタキオンと話して休憩すればいい。田上は、そう考えて、足を一歩二歩と進めて、走り始めた。体が重かったが、案外、自分の思ったより速度が出た。だから、その速度のまま走っていこうかとも思ったが、すぐに体の重さに足を引っ張られ始めた。初めの速さは、ただ単に疲れをほんの少し忘れていただけだった。――やっぱりタキオンの所に居れば良かった…、という後悔の念が田上の頭の中に浮かんできた。その後悔に足をとられ、田上は少し走ったばかりの所でタキオンを振り返ってみた。何か一言でも声をかけてほしかったが、タキオンの方と言えば、ただ口角を上げたまま田上を見つめるばかりだった。だから、田上は、行く事を迷うように、もう行きたくないとタキオンに示すように、一度、堤防とタキオンを交互に見た。それでも、タキオンは体育座りのまま何も言おうとしないので、遂に田上はタキオンにすがる事を諦めて堤防を再び望んだ。体は、まだ重い。この先に走っていったって何の得になる気もしない。それでも、走らなければならないという思いがある。いつしか、田上はその思いに板挟みになって、砂浜に突っ立ったたまま足がすくんだ。だから、最後にもう一度すがるようにタキオンを振り返った。今度は、タキオンも言葉を発した。

「なにかあるのかい?」という非常に淡白なものだった。田上は、タキオンであれば自分の気持ちを察して何か優しい言葉をかけてくれそうなものだと思っていたが、そう上手くもいかないようだった。投げ掛けられた言葉と言えば、別に前に進む活力を与えてくれるものではなかったし、かと言って、田上を落ち込ませるものでもなかった。だから、田上は再び前を向くと、仕方がなさそうに怠そうに歩を進め始めた。非常にノロノロとして遅々として進まず、このまま倒れ伏しても問題ないような気がした。しかし、ノロノロとしながらも堤防の下にある波消しブロックの所までやって来ることはできた。特に達成感もないまま田上はタキオンの方を振り返った。遠くにタキオンが見えるが、それはもう体育座りで待ってはおらず、田上が堤防に辿り着いたと見えて、それを追いかけるためにスタスタと歩いてきていた。特に何の言葉もなく田上はそれを見ていたが、やがて、疲れに体が耐えきれなくなってくると、今度は田上がその場にしゃがみこみ、体育座りをしてからタキオンを待った。タキオンは、特に急ぐ素振りもなく田上の下へとやって来た。田上にはその時間が途方もなく長く感じられて、悠長にやって来たタキオンが少し恨めしくも思った。



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二十一、海岸線、白く染まる⑤

 タキオンが、田上の傍にやって来たときには、田上は体育座りのまま俯いて、膝と膝の間から下の地面を見ていた。だから、タキオンが来たのは、砂を踏みしめるザッザッザッという足音が聞こえたから分かった。だが、田上はタキオンが来たからと言って、顔を上げることはしなかった。その顔を上げたのは、タキオンに肩を叩かれ、「圭一君」と呼び掛けられてからだった。田上が顔を上げてタキオンと目を合わせると、タキオンのにこりと笑う顔が見える。次いで、「頑張ったね」という声が聞こえた。その声を聞くと、田上は涙が出てきそうになったが、それをグッと飲み込んで、「頑張った」と言った。しかし、自分の声が誤魔化しようもなく震えているのが分かった。タキオンもそれに気が付いて、笑顔をその顔に少し残したまま心配そうな目を田上に向けた。田上は、気丈なふりをしてタキオンを見ていたが、瞬きをしないでいたからなのかは分からないが、目頭が熱くなってくるような気がする。だから、田上はそれを誤魔化すために顔を背けて瞬きを何度かした。涙は落ちてこない。ただ、今にも落ちてきそうな気配は残っているから油断ならなかった。

 タキオンは、少し泣きそうになっている田上にどんな言葉をかけてやればいいのか分からずに、田上を見つめたまま頭の中で答えを探していた。しかし、あんまりしっくりとする答えは見つからない。「泣きたいのかい?」と田上に言ったとしてその心が楽になるだろうか?それとも、何も言わずに抱き締めてやればいいのだろうか?それでも、タキオンには今の田上の扱いが分からずに、やがて、目を背けた田上をじっと見つめたまま、横に体育座りで座り込んだ。まだまだ、午前中であるにしても、陽は妙に暖かく照らしてくるし、砂浜にはまばらに人がいる。田上が全力疾走で通り過ぎた所にも、一組の男女がいる。恐らく、恋人同士なのだろうという事は、二人の距離の近さから分かった。その二人組は、波打ち際で足を浸して話していたりした。遠目からでは二人がしっかりと上手くいっている恋人同士なのかは分からない。その内に、タキオンから目を逸らした田上もその二人組を見始めた。田上は、あの二人組がどんな関係なんだろうと考えた。

――さすがに、トレーナーと教え子なんてことはないだろうな…。

 女の人の方は、帽子を被っていたし、尻尾の方も見えづらくなっていたので、果たして、ウマ娘かどうかは分からない。

――じゃあ、何かな…。…大学の同級生とかかな?

 年齢的にはそこら辺が近そうだったが、大学生なのか社会人なのかは分かりそうにない。

――じゃあ、…タキオンがあそこに居たらどうだろう?

 田上の発想は飛躍した。今横に居るタキオンの事なんて考えもしないで、あの二人組の女の人をタキオンに照らし合わせていた。あの男の人は、実に好青年のようだった。髪型もしっかりと整えて、お洒落もして、髭も濃くなく、隣の女の人と明るく喋っている。あんな人の隣にタキオンが居ればどうだろうか?案外、想像しにくかった。タキオンが、あんな好青年と楽しく笑い合う姿にするには、これまでのタキオンを捨てて、大学生のギャグで満面の笑みになるタキオンにしなければならない。そんなのがタキオンであるとは、田上には言い難かった。それでも、好青年の方が自分よりもよっぽどマシで良い男に見える。良い男に見えるが、タキオンに似合うようには見えない。すると、田上は次に――タキオンに似合うような男って誰だ?という疑問に至った。タキオンに似合うという男であれば、まず、話し上手という以前にタキオンの我儘を全て受け入れる、度量のある男でなければならないと思った。

――そんな男は中々いないだろう。

 田上は、自分の事は棚の上に置いておいて、真剣に考え始めた。初めは、芸能人の中にそういう男がいないか考えたが、田上の芸能人の知識が乏しいのと、やっぱり芸能人はテレビの前では嘘を吐かなければならないから、田上にはその芸能人の本性が分からなかった。だから、次にマンガやアニメや小説の中のキャラクターで考えた。しかし、あんまりパッとしたのが見つかる前に、考えが逸れて行き、田上は――タキオンの相手は木下一抹ならいいんじゃないかと考え始めた。確かに確かに、考えてみれば、木下一抹こそタキオンにふさわしいような気がしてきた。第一に、木下にはしっかりとした度量がある。今は、奥さんがいるのでタキオンにくれてやる事はできないが、木下一抹のような度量を持った人間がタキオンには必要だ。そして、第二に、木下は自分の考えをしっかりと持っているが、それを押し付けたりはしない。これは、一つ目と意味は被るが、彼の歌を聞けば、悩みに悩んで辿り着いた答えを持っていることは分かるし、また、それをぐりぐりと押し付けたりもしない人間だという事は分かるだろう。タキオンの隣には、聡明な人間が必要だ。

 今出た田上の頭の中での研究結果をタキオンに報告しようと思って、田上は口を開けて「タキオン」と呼び掛けたが、その後に、自分が今まで何でタキオンと話していなかったのかを思い出して、心の中で不味いと思った。しかし、それを取り消すこともできないので、タキオンが「ん?」と返事をした数秒後にこう言った。

「お前の俺より良い相手を見つけた…」

「見つけた…?誰だい?」

「木下一抹。あの人、頭良いだろうし、多分俺より適任だ」

「木下ぁ?でも、あの人、いつもサングラスかけてるし、前衛的な髪型してるし、私の好みではないよ?」

「でも、俺より適任だろうと思う。あの人のインタビューとかラジオとか聞いてると優しい人だって事は分かるし」

「ええ?…でも、あの人既婚だし、もう四十とかそこらじゃなかったかい?」

「まぁ、既婚なのは既婚だけど、お前が付き合うんだったらああいう人がいいんじゃないかと思って…」

「ええ?…でも、私、君の事が好きなんだけど」

「俺じゃあ、お前を幸せにできそうにないもん」

 田上が、そう言うとすぐさまタキオンが切り返してきた。

「じゃあ、聞くけど、君はこの先どう生きるつもりなんだい?このまま私を強引に振ることができたとして、その先は?また、別の恋人を見つけてその人と結婚しようと言うのかな?それとも、結婚せずに、ただ怠惰に生きてそのまま死を迎えようと?」

 その質問に田上が、どうすればいいのかとぼんやりした頭で考えていると、タキオンが次の言葉を言った。

「私は、君にとっても私にとっても、今のうちに結婚しておいた方がいいと思うけどね。こんな出会いなんて、一生に一度あるかないかだよ?それで、私が君に振られてしまったら、大概の男は碌でもなく見えるだろう。少なくとも、君よりも良い男なんて今後現れないはずだ」

「なんで?」と田上が聞くと、タキオンが当然のように言った。

「君だって、私の事が好きだからだよ。私たちが相思相愛に成れたのは非常に好都合だ。なにせ、仲は良いと言っても、君と私の前にはまずトレーナーとウマ娘という関係性の壁があったからね。その壁に悩みながらも、君は私の事を好きだと言ってくれたじゃないか」

 この言葉に、田上は再びむっつりと黙り込んだ。タキオンの言った事は尤もだった。ここで今、自分でタキオンを振ったとしても、今後、タキオンより良い女が現れそうにはなかった。タキオンの言ったように、大概の女は碌でもなく見えるかもしれない。今の田上としては、タキオンに惚れていることは間違いがなかったので、そう考えると、自分にとってタキオンと一緒に居れることは都合の良い事しかなかった。そして、その考えによって段々と田上もタキオンと居る事を拒む必要がどこにある?という考えになっていった。けれども、やっぱり、自分の中の良心のようでどこか違う、理想を体現するための心が現れ出てきて、田上を悩ませた。その心にはどうにも抗いにくかった。その心はこう言っていた。

『お前は、優しい人なんだから、お前が言うべき言葉はタキオンを突き放す言葉だろ?そうでないと、タキオンが不幸になってしまう』

 どうにも抗い辛い。こういう心の声には反論しにくい。だから、田上は苦し紛れにタキオンにこう言った。

「タキオン。……お前は、本当に俺と一緒に居たいと思ってくれているのか?」

「ああ、勿論だとも。君以外の人はありえない。一生君だけを愛す」

「…それは、俺がもしお前を不幸にしたとしても?もしかしたら、結婚してみれば、俺はただのDV野郎になるかもしれない。それでも、お前は俺についてきてくれるのか?」

「君が呼ぶならどこへでもついていくし、呼ばなくてもついていく」

「……でも、傷付いたお前は見たくない…。……これは、…なんなんだろう?…もう少し、自分を労わるべきなのかな?」

 再び、田上の飛躍が起こったが、これは発想と言うよりも言葉の飛躍だった。だから、タキオンもあんまり意味が分からずにこう聞いた。

「…つまり、どういう事だい?」

「……俺は、…もう少し我儘に生きてもいいのかな?って。…傷付いたお前を見たくない俺は、お前と結婚することを拒んでいる俺で、俺自身としてはお前の事が好き…だ。だから、今の俺は二分されている状態で、お前と一緒に居たい俺とお前と一緒に居たくない俺が戦っている。お前と一緒に居たくない俺には、理由があって、その理由が…」

「私を不幸にしたくない」

 そこでタキオンが口を挟んできたので、田上は驚いてタキオンの方を見た。タキオンは、田上と目が合うと一歩近寄って、自分の肩を田上の肩に寄せた。そして、「邪魔してすまない。続けていいよ」と言った。田上の頭は、タキオンが自分の話に割って入って来たことにより多少の混乱を起こしていたが、しっかりと頭の整理をしつつ、話を続けた。

「そういう事なんだけど、お前は不幸になっても俺についてきてくれるって言った。……情けないな」

 田上の口から思わず、自分の考えに対する感想が漏れ出た。それに、タキオンは反応をし、聞いた。

「何が情けないんだい?」

「……俺が、お前に頼ろうとしていることが。…成人済みの社会人として、たかが一人の女子高生に頼るのは、…なんと言うか…、情けないだろ?」

「でも、君は私に頼ろうとしているんだろ?私だって君を頼るよ?そうやって、今まで君と一緒に生きてきた。走ってきた。君が居なかったら、私は菊花賞を走り切る事は成し得なかった。それに、今、こうして君と話しながら肩を寄せる事もできなかっただろう。私は、今、とても幸せだよ。君と共に居れる。君と共に生きれる。その未来が、目の前に広がっていると思うと、私は生きていて良かったと思う」

 中々に臭い台詞だったので田上は苦笑したが、それでも、タキオンがそう言ってくれたのは嬉しくて、少し口角を上げながら言った。

「お前は、そんなに俺の事が好きなのか?」

「勿論だとも。当然、結婚も視野に入れているんだ。今すぐに同棲を始めたって、私は構わないよ」

「同棲…?……どうするんだろう?」

 田上が、タキオンとの同棲の内容があんまり想像できずにそう呟いた。言い方が曖昧だったのは、まだ自分の中にタキオンと一緒に居る事を認め難い心があったからだった。タキオンは、その心には気が付かなかったし、気が付いていたとしてもあまり頓着はしなかっただろうから、普通に田上に言った。

「同棲は、…トレセンの家族寮に住むのかな?君は、私と結婚しても仕事は辞めないつもりだろう?卒業後すぐに結婚するのであれば、まだリリー君を担当している頃だろうしねぇ。…それとも、戸建ての夢でもあるのかい?」

「戸建ての夢はないけど…」と田上が言う事に詰まると、タキオンがおもむろに口を開いた。

「ないけど…、なんだい?まだ、何かあるのかな?」

「……お前の…お前と同棲って、あんまり頭に浮かんでこないんだよ」

「そりゃあ、何って同棲すれば、君と私は晴れて夫婦になったも同然だけどね。順番がどうなるのかは分からないが。君の仕事の関係で何かあるとしたら、同棲が先で籍を入れるのが後になるかもしれない。逆に、私が今年いっぱいで現役を辞めてすぐに籍を入れるのであれば、籍を入れることが先になって、同棲が後になるかもしれない。その時は、もう同棲とは言わないだろう。恋人じゃないんだから、同棲という言葉は使わずに、当たり前のように君を暮らすわけだ。夫婦が一緒に暮らすのに何か特別な言葉は要らないだろう。君が気になっているのはそこじゃないのかい?同棲って言うより、私と夫婦になるという事の方が想像しにくいんじゃないのかい?」

「まぁ、…そうだね」

 田上は、考えが頭の中で整理できないまま、タキオンの話に返事をした。その後に、またタキオンは話を続けた。田上とは裏腹に、調子は頗る上々のようだったから、饒舌だった。

「じゃあ、少し考えてみようよ。君と私が結婚したらどうなるのかを。まず、どうかな?私は、主婦かな?特にこれと言ってしてみたい仕事はないからね。でも、研究は趣味としてとっておきたい気持ちもあるね。あ、君に言っていなかったよね?私、研究を再開しようと思うんだ」

 ここで田上が怪訝な顔をして「再開?」と聞き返したのだが、タキオンが、ここで話が逸れちゃいけないと思って「軽く実験を繰り返すだけだよ。前のような頻度じゃない」と言うと話を続けた。

「それで、家族寮に住むにしても何にしても、私は家で君の帰りを待ってるよ。その内に、子供ができるだろうねぇ」

 すると、田上が「子供…」と呟いたから、タキオンが反応した。

「子供ができるよ。果たして私たちの子がウマ娘になるかな?私の家は、偶然か必然か祖母の時からずっとウマ娘で生まれてきたけど、そうそう上手くもいかないだろうね。それに、祖母の頃から受け継がれてきて、アグネスという冠名に期待が乗っかってきたけど、自分の子にそれを背負わせるのもなんだか可哀想な気もするね。特に、私がクラシック三冠を逃した立場だ。もし、私の子が走れる子だったら、それはもう期待の大きなものになるだろうね。…どうだろう?」

 タキオンの声色が神妙な物へと変化していき、最終的には田上に聞いてきた。ここで、田上はタキオンの心の一端に触れたが、それに気付けるはずもなく、自分の頭の中を占めていたのは、タキオンとの子供がどういう風に作られるかという事だった。

 田上は、タキオンの問いかけをぼんやりとしながら聞いていたが、頭にはしっかりと入っていて、こう答えた。しかし、あんまり的を得たものではなかった。

「………子供も…作るのか?」

「作る…だろう?…作らないつもりなのかい?」

「…いや、そんなつもりじゃないけど、…なんか、…子供?」

 田上は、自分の考えの整理がつかないままに話しているので、言葉が途切れ途切れになった。

「私と子供を作るのが怖いのかな?でも、夫婦になるなら避けては通れない道だと思うけどね」

「…んん…」

 田上は、曖昧に返事をした。やっぱり考えの整理がつかないので、タキオンの話を半分に聞きながら、もう半分で何かまとまらない事を考えていた。

 それをタキオンも薄々勘付いていたので、田上の考えの整理の一助となるように話を続ける。

「想像してごらんよ。私と結婚した君を。どうなるのかな?一年経っても二年経っても三年たっても、十年経っても一緒に居る。その内に私は三十歳となり、四十になるだろうね。その頃には、子供ももう成人しているか、もうすぐ成人か、という所かもしれない。どうなるのかは分からないけど。でも、もし君と一緒に居れるのであれば、もう死ぬまで君と一緒だと思うよ。今まであった君と私の生活の境目はなくなって、どんなときにも一緒に居る。ただ、子供を作るだけじゃないよ。お風呂にだって一緒に入るだろう」

 そこで、田上が言った。

「…それは、……俺でいいのか?」

 やっぱり曖昧なので、タキオンが「ん?」と聞いて、続きの言葉を催促した。

「……なんか、そういう生活って、あんまり俺に似合わないような気がする。…似合わないっていう言葉があっているのかは分からないけど…。…でも、俺ってそういう生活ができるのかな?今は、暇があるときにはゲームしたりして、それなりにだらだらとした生活を送ってるけど、なんか、結婚してるっていう言葉が俺には似合わないような気がして」

「ふむ…。じゃあ、君が目指す私との生活を教えてくれよ。一体、どんな生活を目指すんだい?」

 そう言われると、田上は黙って考え込んだ。遠くには、まだ波打ち際に座って話している知らない男女が見える。彼女の方は、妙に大きい帽子を被っていたので、田上はその帽子を引っぺがしてやりたい気持ちになった。少し苛々したからだ。お洒落をして、自分たちより上手くいっているように、楽し気に笑っている二人に。その二人を見ているうちに、男の方の顔面も殴りたくなってきた。前歯の二三本でも折って、鼻を変形させてやれば、面食いでステレオタイプに服従してそうな彼女もイケメンじゃなくなった彼氏に愛想を尽かすだろう。二人の間には、愛は無いのだ。それをどうにかして証明してやりたかったが、今の田上では到底そのような度胸はなかった。その内に、田上は自分の考えていることを忘れてぼんやりと海を見てしまっていた。

 

 春の太陽が、緩やかな暖かさをタキオンたちに放ちながら、夏の太陽程高くない位置に行き、正午になろうとしていた。タキオンは、自分が質問したっきり何も話さない田上を、少しの間気にしていたが、やがて、自分の話を忘れて海を見ているんだろうという事を察すると、答えを催促をしないで、田上の肩に本格的に寄り掛かって、自分も海を眺めた。

 正午近くになると、波打ち際で話していた男女もどこかへと立ち去ってしまっていたが、それでも田上は何も言おうとも動こうともしなかった。それだから、さすがのタキオンも朝から何も食べていないのもあって、田上に言った。

「圭一君、もうお昼になるよ…」

 返事はなかった。隣を見れば、確かに目は開いているし、息もしている。寝ても死んでもいなさそうだった。ただ、タキオンの言葉が頭に入っていないだけだろう。タキオンはそう考えて、もう一度、「お昼だよ」と誰に言うともなく呟いたが、当然の如く、ぼんやりとしている田上は返事をしなかった。すると、この冴えない顔で海を見ている愛する人をどうしてやろうかと、タキオンは体勢を整えて田上の顔をまじまじと見た。隣で、タキオンが身動きをしたというのに、田上はまだ気が付く様子もない。その間抜けさが、なんだかタキオンには愛おしく思えて、少し意地悪をしてみたくなってきた。この人の耳に息を吹きかけてみれば、ウマ娘と同様田上も嫌がる素振りを見せるだろう。その様子を見てみたいとも思ったが、その後のタキオンを見る怒ったような目つきを思い出すと、もう別にいいやと言う気持ちになった。けれども、田上に話すばかりでは埒が明かなさそうなので、タキオンは田上の頬を突いて「圭一君」と呼び掛けた。すると、田上は反応を示したのだが、その表情はタキオンが先程想像した、耳を吹いた時の怒った顔と同じだった。どうやら、指で突かれるのも嫌だったらしい。しかし、すぐに中空に目を泳がせると、怒った表情を消して「何?」とタキオンを見よう見まいとしながら聞いた。その表情も何だか愛おしい。タキオンは、今すぐにでも田上の頬を撫でてやりたい気持ちになったが、その気持ちは抑えて平静に言った。

「もうお昼だけど、さっきの答えはどうだい?私との生活に想像はついたかな?」

 そう言われると、先程までの話をすっかり忘れていた田上は、少し慌てた。ただ、ここで嘘を吐いても仕様がないので、正直に告白した。

「あー…、忘れてた。あの砂浜の上に居た人たちの事を考えてて、そのまま忘れた」

「まぁ、そんな所だろうと思ったよ。海は綺麗だったかい?」

 タキオンは最後に若干の皮肉を言ったのだが、田上はそれに「分からない」と答えた。その答えが、今度は、何だかタキオンの癪に障った。表面上には、平然たる顔をしていたが、今すぐにでも田上の顔を怒りながらつつきたい気分だった。この様子は、詳しく観察していれば田上にもすぐに分かったかもしれない。ただ、田上も今日はぼんやりし通しで、頭が上手く回っていなかった。だから、タキオンのわだかまりも解いてやることができずに、そのままお昼を食べることになった。

 

 お昼は、近くのファミレスに行って食べることになった。タキオンとしては、元々この予定だったのだが、想像以上に朝を食べていなかった事が響いて、お腹がぐうぐう鳴ってしまった。それが、少し恥ずかしくもあったが、二人でファミレスに入れば、ウマ娘盛りのカレーを頼んで大喜びでそれにありついた。しかし、田上は、海に居た時からずっと変わらない無表情、もしくは、暗い顔をしていた。笑ったのは、タキオンが田上にカレーを食べた大いなる喜びを伝えた時の愛想笑いくらいで、それより後は、無言で自分のカレーをスプーンで掬っては食べ、掬っては食べていた。その時に、タキオンは悲しくなって、今すぐにでも自分の想いを伝えたい気持ちに駆られたが、生憎、今はファミレスで、人でがやがやとしていたから話すわけにはいかなかった。だから、また海に戻ったときに、今度こそぼんやりとした田上に置いて行かれずに話をしてやろうと思って、田上の様子を眺めた。田上は、子供みたいにぼんやりとカレーを食べていて、時々、スプーンの上からカレーが落ちていた。それにも、田上はこれと言った反応を示さなかったので、もしかすると、カレーすら視界には入っていないかもしれない。――難航しそうだ…、とタキオンは思った。



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二十一、海岸線、白く染まる⑥

 ファミレスからまた海の方へと戻ってきた。本当に、今日の予定は海に来ることしかなかったため、もう座っていることに飽きた田上は、早く帰りたそうにしていたが、それをなんとかかんとか説得してタキオンは田上を海へと連れ戻した。連れ戻された田上は、なんだか悲しげだったが、先程からのぼんやりとした心地からは抜け出せたらしく、面倒臭そうに「何するの?」と聞いてきた。その態度の豹変ぶりが、これまたタキオンの癪に触ったが、それは抑えて、先程思ったことを田上に告げるため、まずは田上に呼び掛けた。

「圭一君」

 今度は、タキオンがサンダルを置いた砂浜辺りで話すことにしたので、そこら辺に座りながら、田上に声をかけた。田上は、海を見ると再びぼんやりとした心地が戻ってきたのか、遠くの水平線を見ようとし始めたので、タキオンは慌てて海に田上を持っていかれまいと、話し出した。

「私、少し思うのだけれど…」

 ここで、もう田上は海を遠く眺めていたから、タキオンが「こっちを見てくれ」と言って、田上の顔を両手で掴んで強引に自分の方を見させた。田上は、それで現実へと引き戻されたようで、迷惑そうにタキオンの方を見た。しかし、タキオンの顔が不安で少し強張っているのを見てとると、迷惑そうな顔を改めて、タキオンを安心させるように「何?」と聞いた。タキオンはそれでも安心できなかったのか、田上の顔をぎゅっと押し潰さんばかりに掴んだまま言った。

「君、さっきからぼーっとし過ぎなんだよ。このお出掛けは君が物思いに耽るために企画したものじゃないんだからね?私が君と楽しみたいから企画したものなんだ。それを忘れてもらっちゃ困るよ」

「うん」と田上が頷くと、すぐさまタキオンが捲し立てた。

「君と私は、誰がなんと言おうと恋人同士なんだから、もう少し彼女の心を労ってくれないと困るよ。君の彼女も自分を見てくれないと不安になるんだよ?それを分かっているんだろうね?もう君は君だけの物じゃないんだ。私と共にあるものなんだ。だから、しっかりと私を不安にさせないように見てておくれよ」

 そして、タキオンが次の言葉に迷った瞬間に、田上が真っ当な反論をした。

「それができないから、今、俺も悩んでるんだよ。急いだって結果なんて変わらないよ。それが嫌なら俺を捨てればいいだけの話だろ。俺を追いかけることに嫌気が差したなら、もう俺を捨てて構わない」

「なら、君が私を捨てろよ」

「嫌だよ。なんで俺がお前を捨てないといけないんだよ」

「だって、君、話すときはいつも自分が捨てられる前提じゃないか。それなら、私が捨てられたっていいだろ?君も私の事が好きなんだから」

「いや、…それは、日本語がおかしい。なんで好きな人を捨てないといけないんだよ」

「それはこっちの台詞だよ!私だって君を捨てたいなんて思わない。それなのに君は私の気持ちを考えもしないで、悩んだ次には――俺を捨てろ、だよ。そりゃあ、こっちも嫌になってくるさ。嫌になるけど、君を捨てる事はしない」

「いや、でも、それはお前を苦しめるだけになるから…」

「でも、例え不幸になったとしても君について行くって言ったじゃないか。まさか、それまで忘れてしまった訳じゃないだろうね?」

「…忘れてない。…けど」

「…けど、なんだい?」

 田上の顔を挟んでいたタキオンの両手は、いつの間にか力が緩められていて、その髭のチクチクする顎を時折、赤ん坊の頬を撫でるように動かしていた。

「……けど、お前は守るべき存在であって、…。…大切にしたいものだ」

「でも、愛すべき人だろ?二人で生きようって言ったろ?」

 そこで、田上は俯こうとしたが、それは、頬に添えられたタキオンの手に阻まれ、俯こうとした顔を上げられて、こう言われた。

「私を見てくれ。案外、ただの女子高生だ。矛盾を持って生きている。今は、私には矛盾の解決の仕方が分からない。だから、君を頼っている憐れな女だ。もし、君が私を憐れだと思うことができるのならば、どうかその目を私に注いで、どうかその体で私を抱きしめてほしい。愛してほしい。私の目を見てほしい。…嘘でもいい。演技でも何でもいいから、ずっとずっと私の体を抱きしめていてほしい」

 ぽたぽたとタキオンの目から涙が流れ始めた。

「君が居なければ、私の居場所はない。今まで散々偉そうなことを言ってきたけど、私もただのバカだ。精神病を偽って生きる事のできたバカだ。君に、何かを言える立場じゃない。でも、君の所にしか私の居場所がないから、…君が私のモルモットになれる覚悟を示してくれた時、私は、本当に安心したんだ。やっと頼れる人ができたんだと。だから、あんまり文句も言わないで、私の傍から離れるなんて言わないで、傍に居てくれたら嬉しいんだ。……嬉しいから、君を引き止めたかった。……私ってバカだなぁ…」

 タキオンは、そう言うと、田上との距離をぐっと詰め、泣きながらその唇に自分の唇を重ね合わせた。タキオンは、目を瞑って自分にキスしてくる。田上はどんな顔をすればいいの変わらなかった。ただ、タキオンの荒い息遣いが自分に触れてくるのを感じ、必死に自分の唇を田上と重ねているのを感じた。――撫でてやればいいのだろうか?そんな事を考えているうちに、キスをしたまま田上の体は押されていき、砂浜へと押し倒された。暖かい砂が、肌のある場所に触れたが、未だ田上が大きく感じているのはタキオンの存在で、タキオンは、田上を押し倒した後も泣きながら田上とキスをし続けた。しかし、それも長くは続かず、にわかにタキオンが唇を離したかと思うと、今度は田上の首を抱きしめて耳元で大声を上げて泣き始めた。うるさい事にはうるさかったが、それ以上に頭がごちゃごちゃしてきた。タキオンは、惜しげもなく田上の耳元で大声で泣いている。時折、思い出したかのように、田上にキスをしては、また泣き始める。自分の頬を田上の剃っている髭に擦りつける。田上は、自分が何をしているのか全く分からなかった。タキオンを励ましているのだろうか?勇気づけているのだろうか?否、そのどちらでもない。田上は、ただ砂浜寝転んでタキオンが抱き着いてくるのを受け止めているだけだった。

 まるで幼子のようにしがみ付いてくる女子高生を、田上はどう扱えばいいのか分からない。言葉をかけてやればいいのか?――違うだろう。田上には、どんな言葉を掛ければ、タキオンが元気になるのか分からないし、そもそもこれが元気じゃないのかも分からなかった。泣いているという事は、元気が無いという事かもしれないが、タキオンは、ただ泣いているという事ではなく、人の耳元でこれでもかとばかりに大声を上げて泣いているのだ。見方によれば、元気という見方もできるだろう。それでは、田上はタキオンに何をしてやればいいのだろうか?頭を撫でて、その有り余る元気を落ち着かせてやればいいのだろうか?しかし、生憎、田上は首から上をタキオンに掴まれているので、その頭の方には手が届かないし、かと言って背中をぽんぽんと叩くとなれば、なんだか億劫で仕方がなかった。

 田上は、先程の鬱屈とした心地から抜け出しこそしていたが、その代わりに、現実感が消えた。耳に大声が直接入ってくるのは変わらないし、タキオンの全体重が田上の上にあるのも変わらないが、考えだけは、どこかに分離されていて、タキオンが居る世界とは別の所で物を考えていた。田上が、もうタキオンの処理を諦めて、成すがままにし、考えていたことは、――なぜ自分がトレーナーになったのか、だった。トレーナーになりたいと思った動機は、以前の話である通り、テレビであるトレーナーとその担当のウマ娘の特集を見たからだった。しかし、トレーナーになってからの生活はどうだろう?確かに、トレーナーには幾千もの道があって、誰もが同じ道を辿るわけではないと承知の上だったが、この状況を見るに、なぜ自分がトレーナーになったのか、について思いを巡らさざるを得なかった。

 

 自分にとって一体トレーナーとは何だったのだろうか?優しくて、強くて、無欲な男が成るものだったのだろうか?いや、違うだろう。必ずしもそれに当てはまらないというのは、番組の特集を見て知っていたはずだ。あの番組に出ていたトレーナーは、担当していたウマ娘を勝たせてやることができなかった。強くはない。強くはないが、自分にはその人がどうしても強く見えた。鬱屈とした感情に弄ばれながらも、最後までやり遂げたあの人に自分は成りたかった。思えば、それが動機なのかもしれない。うだつの上がらない、ただのゲームが好きな高校生から卒業し、優しくて、強くて、無欲な男になりたい。理想の自分になりたい。ああすれば、自分も何もかもから認められるようになるだろう。右の人、左の人、電車に乗っている人、その人が担いでいる赤ん坊、その赤ん坊が持っている古びたクマのぬいぐるみ、錆びた缶コーヒー、いつもの日常、数々の栄光。それが、今はどうだろう?女子高生を泣かせて、自分にしがみ付かせているだけだ。これが、自分のやりたかった事なのだろうか?何か、何かあると信じたかった。何かになれる。自分でも何か成し遂げられる。

――俺は、皆の憧れの存在になるんだ!

 ただのバカだった。うだつの上がらない、ただのゲームが好きな高校生は、年を取ってトレーナーになっても、うだつの上がらない、ただのゲームが好きな二十五歳でした。女の子の悩み一つ聞いてやることができません。女の子ただ一人すらも、救ってあげることができません。僕は、うだつの上がらない、ただのゲームが好きな二十五歳です。森羅万象の理など、全く持って知りません。明星が地に落ちる事を、何故と説明できる奴ではありません。僕は、女の子一人に手をこまねいている、バカな人間の一人にすぎません。

 

 その時、タキオンがまた田上にキスをして、にわかに田上は現実の世界へと連れ戻された。タキオンは、一度うんうんと泣きながら田上と唇を重ねた後は、また暫く田上の耳元で大声を出す事に注力した。田上は、未だにどうすればいいの分からずに、空を見上げていた。本日は、快晴により陽が暖かく降り注いでいたが、午前中の時に東の空の方に見えた太陽は、今はもう西側へと舵を切って、沈む方へと向かっていた。陽の心地良い暑さが、田上を混乱させたのかは分からないが、段々とタキオンの泣き声が心地良く聞こえ始めた。これには、自分でも少し驚いたが、心地良くなってきたからと言って、何かするという事はなかった。相変わらず、田上にはどうすればいいのか分からない。

――いつまで泣くつもりんだろう?

 その疑問が、脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えた。まるで、泡のようだった。ぽわぽわと水面に浮かんでは消えてゆく。それとも、波を連想してもいいのかもしれない。寄せては返す白波。白く見えるのは、泡が立っては消えてゆくからだ。今生揺らめく波の泡と少年の頃の記憶を思い返しながら、田上は、泡になりたいと思った。泡の人生は、短くて儚げだ。たったの一瞬しかこの世に生きることは許されない。だが、そう考えた後に、田上は自分で自分の考えに反論した。地球の歴史を考えれば、自分も泡のような物だ。四十五億年かそこらの地球に比べれば、人間の一生など四十五億分の百だ。いや、百も生きれる人の方が少ないだろう。昔の時代で言えば、病や飢えや災害などにより五十生きれる人も少なかったはずだ。だから、この世に生を残すことに寿命など関係がない。五十も百も、昔の人も今の人も、そこら辺の爺さんもイヤホンを着けて歩いている若人も、地球が何歳であろうと関係なく、この世に存在しているのだから。それが、明日死んだって存在していたことに変わりはない。タキオンだって、いつか車に轢かれて呆気なく死んでしまうかもしれない。こんなに華奢な体で一生懸命にしがみ付いてくるタキオンも、明日には死んでしまうだろう。そう考えると、田上もタキオンがなんだか可哀想になった。けれども、何をしてあげるわけでもない。相変わらず、タキオンの声を聞き続ける。

 そして、また初めの疑問に戻った。

――いつまでこいつは泣き続けるんだろう?

 田上には、タキオンに声をかけてやる度量もないし、元気もない。ただ、しがみ付かれているだけだ。女子高生が、自分を頼ってくれているからと言って、元気が湧いてくるわけでもない。抜け殻でも何でも構わない。誰か、別の人と自分を入れ替えてほしい。でも、そうすると、タキオンは誰にも頼ることができなくなってしまうだろう。先程のタキオンの言い分ではそうだし、田上も薄々それには勘付いていたような気がした。タキオンには、不安定な部分があるというのは、本人が前々、と言っても大阪杯の頃だが、前々から言っていた事だ。それを、やっと今正面切って田上に打ち明けることができたのだろう。ただ、薄々勘付いていたと言っても、まさか、タキオンがこんなに溜めこんでいるとは思っていなかった。そのガス抜きをしてやれなかったのは自分のせいだろうか?…そうかもしれない。何て言ったって、自分はうだつの上がらない、ただのゲーム好きの二十五歳なのだから。

 すると、田上の頭に次の疑問が浮かんだ。

――タキオンはどうだろうか?

 ただの……何なのだろうか?田上には、あまりピンとこない。――研究好きの女子高生?十七歳?午前中には、研究を再開すると言われたばかりだが、それでも、一度嫌気が差して辞めたわけだから根っからの研究好きというわけでもないだろう。それでは、一体何なのだろうか?タキオン自身が考えている自分とは一体何なのだろうか?田上には、それが気になった。その時に、またタキオンがキスしてきたので、自分の考えに耽っていた田上は案外動揺してしまって、キスをされながら口の中で「んん」という声が出てしまった。すると、これまでのキスされるままの田上が違う反応を示したことに驚いたのか、タキオンが一度泣き止んで、涙でぐしゃぐしゃの顔で田上の顔を見つめた。それに、田上が見つめ返し、二人は暫くの間見つめ合ったが、唐突にタキオンが田上に唇を重ねると、再びスイッチが入ったのかタキオンが泣き始めた。田上の表情は、あまり変わらなかったが、話したいことができたので、静かな声で「タキオン」と呼び掛けた。あまりに静かな声で、タキオンの泣き声にかき消されでもするのじゃないかと、田上は自分で思ったが、そんな事はなく、むしろ拍子抜けするくらいにタキオンはすぐさま反応した。すぐにタキオンは泣き止んで、田上の顔を見つめた。それから、少し萎びた声で「なに?」と聞いた。田上は、それが少し可笑しくもあったが、自分の目的は忘れず、にこりともしないでこう言った。

「お前は、どんな人なんだ?」

「私…?」

 相変わらず、萎びた声でタキオンは不思議そうにそう答えた。

「お前。…どんな人なんだ?」

 それ以外、田上には言う事がなかった。ここで、「お前は研究者なのか?」と正体を提案するような質問をしても上手くはいかないような気がしたからだ。

 タキオンは、暫くぼんやりと田上の顔を見ていて、田上には、それが考えている顔なのかどうなのかは分からなかった。しかし、律儀に待つことはしていて、ある時、唐突にタキオンが再び田上にキスをすると言った。

「私は、…ただ、君が好きなだけだ。君を好きになってしまっただけで、他には走る事しか取り柄のない、ただの女だ。だけど、君が好きな女だ。…傍に居てくれ…」

「傍に居るってどうすればいいんだ?ただ、傍に居るだけじゃダメなんだろ?」

「私をしっかりと見てほしい。私だけを見てほしい。私の我儘をこれまで以上に聞いてほしい。私の我儘に何も言わないでほしい。ただ、素直に――分かったと言って、私がキスしてくれと頼んだら、キスをしてほしい。…でも」とタキオンが話を続けようとしたのだが、その前に田上が話し出した。

「キス…。キスが好きなのか?」

「好き…、…好き。君が嫌がっているのなら、尚の事好きだ」

「なんで?」

「…そっちの方が、君が私に尽くしてくれているという事が分かる。…キスしてくれ」

「…今?」

「今。君からしてくれ」

 そうすると、田上は少し考えてから、今、自分の体の上に乗っかって、自分を見下ろしているタキオンに言った。

「なら、体勢を変えよう。俺からするのに、この体勢じゃ不味い」

「ああ」と半ば嬉しそうに、半ば信じられないようにタキオンが頷いた。

 今の田上は、頗る冷静だった。タキオンを愛する心は在ったし、その心に真摯に向き合って、その言葉を告げた。キスも不思議と恐ろしくはなかった。阪神レース場から帰った日にタキオンにキスをしたのは、タキオンを助けたい一心で、必死のあまりにした事だった。それと今からするキスは違う。そのキスは、それをした瞬間からタキオンに身も心も捧げることを誓う、今生のキスだ。それをすれば、田上はもうタキオンに尽くすだけ尽くさなければならなくなるだろう。これは、タキオンが研究をしていた時の自分の態度のようでもあったが、今は関係が違う。このキスは、タキオンに身も心も捧げるキスだが、同時に、田上自身がタキオンを心の底から愛する覚悟を決めるキスでもある。タキオンは、もう覚悟は決めている。その覚悟は、正面切って伝えてくれた。ならば、今度は田上がそれに応える番だ。

 タキオンと共に体を動かすと、田上が上になりタキオンが下となる体勢となった。田上は、タキオンを見下ろし、その顔を眺めた。泣き疲れたような顔をしているが、今から起こる事を楽しみにしているように口角も上げていた。その顔を見、その赤い瞳を見つめながら、田上は覚悟を決めた。

「目を閉じて」と呟くように言った。タキオンは、深呼吸をしてから目を閉じた。その顔を見ると、田上は眼鏡を外して砂浜へと置いた。それから、ゆっくりとタキオンの顔に近づいて行き、その唇にキスをした。暫く二人は白昼堂々キスをしていたが、その内に、タキオンが田上の首の後ろに手を回し、体の距離を近づけさせた。ウマ娘の力だったので、田上はそれに抗うことができず、頭の中で苦笑しながらもタキオンの上に乗り、キスを続けてやった。

 田上も目を閉じていたので、時の流れが分からないままにタキオンがキスしていると、段々とタキオンの鼻息が荒くなっていることに気が付いて、目を開けた。タキオンの目を瞑っている顔が、視界に広がっていたが、その目の端から再び涙が漏れ出ているのに気が付いた。その涙は、タキオンの頬を伝って砂浜へと滴っていた。その事に気が付いて、田上がタキオンの上で身を起こそうと身じろぎをすると、田上を抱き止めていた腕がより一層力を増して、田上を抱き止めた。どうやら、どこにも行かないでほしいという事らしい。かと言って、こうも口を塞がれていると話が進まない。田上は、そのままタキオンを放っておくこともできないから、どうしたものかと考えを巡らせたが、田上の力でウマ娘の力に敵うわけがないので、そのままタキオンがキスをしてくるのを受け入れた。しかし、どうしてもどうしても、タキオンの荒い鼻息が苦しそうに田上に吹きつけてくる。タキオンと何とか話をしてやりたい。してやりたいと思うのだけれど、タキオンは田上をがっちりと抱き止めて離そうとはしない。身動きをすれば、尚の事、力は強くなるばかりだ。田上の頭には、段々と恥ずかしさも込み上げてきたが、恥ずかしさでタキオンと唇を離すわけにはいかない。受け入れる事には、受け入れる。しかし、気になる気になる。どうにも腹の奥がもぞもぞする心地に襲われる。このまま、タキオンとキスをしていていいものか、と疑問が頭に浮かぶ。しかし、それは受け入れる。田上は、タキオンを受け入れる。ただ、ここから脱出しなければならない。しなければならないのだ。そうすると、押してダメなら引いてみろ、という言葉が田上の頭に浮かんできたから、田上はその言葉を参考にして、何かをしてみることにした。

 まず、手始めに、体勢をちょっと変えた。それに、タキオンは反応して、田上を逃がすまいと力を込めたのだが、田上は逃げる気など毛頭ないので、体勢を変える事はできた。変えると言っても、少しばかりだったが、そうすることによって、力の入れ具合が変わって少しタキオンとキスをし続けるのが楽になった。

 次に、どうしてみようかと考え、田上はタキオンの脇を少しくすぐってみた。すると、タキオンが少し怒ったように「ん」と言い、腕の力を強めた。田上は、その反応がなんだか可笑しくて、少し鼻から息を出して笑ったが、息が続かずちょっと苦しくなった。

 その次に田上は、またどうしてみようかと考えた。押してダメなら引いてみろという言葉通りに実行するのであれば、自分はタキオンとこれ以上に深いキスをしろという事になる。それは、少し不味いから田上はもっと考える。すると、この考えに至った。

――そもそも、自分たちは両想いの恋人通しであるのに、押してダメなら引いてみろ、という恋人じゃない人がする駆け引きの言葉を参考にするのがおかしい。

 それで、また振り出しに戻った。どうしようもなくタキオンは、田上を引き留め続ける。喋るすきも与えたくないらしい。それは、もっともだ。これまで、田上がタキオンにした仕打ちの事を考えれば、こうなったタキオンが田上にしゃべらせたくないと思うのは、至極もっともなことだ。それまでに自分が酷い事をしてきたのかと思うと、段々と、今度は自分の方が涙が出てきた。こんなか弱い女の子を不安にさせるだけ不安にさせて、自分も苦しんで。一体、自分の人生はなんだったのだろう?という疑問が頭の片隅に浮かんできたが、それよりも強く思い浮かんだことは、もうタキオンを不安にはさせないという強固な意志だった。それでも、涙は数滴垂れて、タキオンの顔に滴った。すると、タキオンが微睡みから覚めた様に目を開けて、田上を見た。赤い瞳が、涙でゆらゆらと揺らめいている。その時に田上は目を閉じていたから、タキオンが目を開けたことには気が付かなかった。タキオンは、田上の顔をじっと眺めた。この人もまた、自分と同様に目の端から涙を垂らして泣いている。

――何故泣いているのだろう?

 タキオンはそう思った。また、自分を責めて落ち込んでいるのかもしれない、とも思ったのだが、その様な表情ではなかった。むしろ、何かを悔やんでいるような、叩いているような表情だった。もしかすると、自分を責めていることに変わりはないのかもしれない。

 それから、タキオンは田上を抑えていた腕をそっと解いた。もう、気が済んだような心地だった。だが、田上はタキオンが腕を解いてもタキオンから離れようとはしない。必死にタキオンと唇を重ね続けている。それが、タキオンには嬉しくて嬉しくて、田上がしてくれているのだから、自分もそれに身を委ねた。

 田上が、不意に身を動かして、自分を縛るものが何もないと気が付いた時に初めて唇が離れた。タキオンは、名残惜しげではあったが、目を開けて田上を見た。田上も不思議そうな表情をしてタキオンを見た。それから、言った。

「もう終わりでいいのか?」

「君が続けたいのなら、いくらでもしていいよ」

 自分の声が、思ったよりしわがれていて、タキオンは恥ずかしくなった。しかし、田上はそれには構わず、緊張の糸が切れたかのように息を大きく吐くと、タキオンの右へと大の字に仰向けになった。西へと進む太陽が目に焼き付いて、田上は一瞬自分の目を守るために目を瞑った。それから、左のタキオンの方に首だけを動かすと、言った。

「まだ、やりたいなら続けてもいいよ」

 左に居たタキオンは、田上と同じように砂の上に大の字になり、その口角を上げていた。その間、暫く話さなかったが、唐突に口を開いて言った。

「…もう気が済んだ。…さすがの私も、こう連日長いキスを繰り返していると疲れてきたよ」

 その後に、「ありがとう」とタキオンが呟くように言ったから、田上が「どうも」と答えた。二人は揃って同じような顔で空を眺めた。二人の目の端には、涙が少し滲んでいた。太陽がそれをキラキラと光らせる。すると、次には田上の大きなため息が聞こえてきた。余程疲れたらしい。そのため息にタキオンが苦笑しながら「大丈夫?」と聞いた。田上は、それに「大丈夫」と答えた。



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二十一、海岸線、白く染まる⑦

 それから、二人は暫く黙ったまま、空を眺めていた。すると、どこからともなく人の足音が聞こえ、その足音の主がタキオンたちに呼び掛けてきた。

「アグネスタキオンさん、田上圭一トレーナー」

 そう言われても田上は反応する気にはなれなかった。むしろ、自分たちに話しかけた人にはどこかに行ってほしいので、今まで開いていた目を閉じて狸寝入りを決め込んだ。だが、隣のタキオンが反応してしまったようだ。田上の見立てではその声の主は恐らく記者だったのだが、タキオンとその人が話して「私、東焼鳥社で刊行している週刊スポーツという雑誌で記者をしている泉夏芽(いずみなつめ)という者です。お二人の取材をさせてもらってもよろしいでしょうか?」と言っていたので、いよいよ記者だという事が分かった。そうなると、田上は面倒臭くて仕様がなかったが、隣からタキオンが「圭一君」と肩を突いてくるので起きないわけにはいかなかった。普段のタキオンであれば、もう少しマシな対応をして、一人で記者を言いくるめて返すこともできたかもしれないが、今は大号泣をした後だった。心身共に疲弊しきっていて、とてもじゃないが、迷惑な記者の対応はできなかった。田上もそれを分かっていたので、ノロノロと起き上がると、毅然とした態度をとって面倒臭そうに「取材は学園を通してから行ってください」と言った。それで、黙る記者ではなかった。驚くべきことに、「先程からあなた方の様子を拝見させてもらっていたのですが、それを記事にしてもよろしいでしょうか?」と言ってきた。これには、少し肝が冷えた。一体、いつからなのだろうか?想像もつかない。だから、田上は思わず、記者にこう聞いた。

「え、…見ていたって、……いつから?」

「朝からです」と泉とかいう女の記者は満面の笑みでそう答えた。恐ろしい程清々しい。まるで、自分に罪など一切ないという顔つきをしているから、田上も訳が分からなくなって隣のタキオンを見た。タキオンも田上の方を見返していたが、タキオンの口から「何か?」と聞かれるとこう返事をした。

「…気が付いてた?」

 観察眼の鋭いタキオンならば、もしかしたら、気が付いていた可能性もあったのかもしれないと思ってそう聞いていたのだが、タキオンの答えは当然「分からなかった」というものだった。

 それだから、田上もやる事がなくなって、再び泉記者の方を見た。泉記者の首からはごついカメラがぶら下げられている。そのカメラを見ながら、田上は適当に何も考えずに言った。

「写真は撮ったんですか?」

「あ、はい!撮りました!良い写真が結構撮れたんですけど見ますか?」

「はぁ」と田上が曖昧な返事をする間もなく、泉記者が座っている田上たちに見えるように屈みこんで、カメラを暫くいじってから、順々に写真を見せていった。

 まず初めは、朝方に電車に乗る時だった。タキオンが楽しげに笑っていて、田上が微妙な表情でそれを見ている。

 次に、二人で松林を歩いている時の後ろ姿の写真だった。中々に良く取れていて、田上が一枚欲しいと思ったくらいだが、同時に、これはどこから撮ったんだろうとも思った。自分たちが松林を歩いている間に、後ろに人がいたとは思わなかった。タキオンに聞いても気が付かなかったそうだ。それを聞いて、記者の人は誇らしそうな顔をしていたが、二人に「次」と催促されると慌てて次の写真が見れるようにカメラの画面を動かした。

 それから、今度は田上が砂浜を全力で走っている写真が映し出された。それを見た時、タキオンは思わず「おお」と言って、泉記者を見た。

「この写真、私のスマホに転送してくれよ」

 これまた、誇らしそうに泉記者は頷いたが、田上が「最後まで見よう」と次を催促すると、「また後で、転送します」と泉記者がタキオンに告げて、次の写真へと移った。

 その次の写真は、二人で砂浜の上で重なっている写真だった。先程のキスをしている時の写真ではない。これは、田上が自分の顔を手で覆って、タキオンのアプローチを耐えている時の写真だった。タキオンは「これも欲しい」と予約していたが、田上にはあんまり好ましくなかったのですぐに次を促した。

 次は、タキオンが田上と肩を寄せて一緒に海を見ている写真だった。堤防に辿り着いて、まばらの草地に腰を下ろしている時の写真だ。これも中々に良い写真だった。だから、田上は、タキオンがスマホに写真を転送してもらうタイミングで自分も声をかけて、松林の時の写真とこの写真を転送してもらおうと決めた。

 それから、現実の方では間に昼食が入ったのだが、そこではカメラを構えていなかったらしく、次にはタキオンが田上の顔を掴んで何か言っている写真になった。その写真を見た途端に田上の心臓はバクバクと激しく鳴り始めた。田上には、これの次には、タキオンが自分にキスをしてくる写真が出てくるのじゃないかという事の予想が付いた。タキオンも同じ考えに至ったようだ。少し眉を寄せた後、泉記者の方に「これの次は?」と神妙に聞いた。それで、さすがの罪の意識の低い泉記者も何かしらの反応を示すのかとも思ったのだが、泉記者は、相変わらず、変わらない調子で「これですよ!」と言って、次の写真を田上たちに見せた。タキオンが、泣きながら田上にキスをしている写真だった。それを見た途端に、田上の眉間に皺が深く刻まれた。しかし、そんな事など露知らず、泉記者がこう言った。

「これ、良い写真ですよね!何があったのかは知りませんが、これ以上に良い写真は、次の田上トレーナーがアグネスさんにキスをするやつしかありませんよ。でも、二枚ともいい写真で、どちらが良いと言うよりかは、二つで一つみたいなものですよね」

 そう言っている間に、次の写真に移り、田上がタキオンの上に乗りにキスしている写真となったが、これは、唇の触れ合っている所は巧妙に隠されていた。しかし、田上の眉間の皺は消えなかったし、タキオンもあまり芳しくない顔をして、「これは記事に使うつもりなのかい?」と聞いた。

「いえ、それは、お二人に任せたいと思うんです。私は、お二人がお付き合いしているのは正確な情報筋で聞いた事が無いのですが、どうなのでしょうか?それが気になって、私、トレセン学園の方に何とは無しに行ってみたんです。そしたら、門の方からお二人が出てきて、ここまでついてきてみたんです」

「ええ?…朝の六時だよ?偶然って事かい?」

 タキオンが、怪訝な顔をして聞いた。

「私、冬の朝って好きなんですよ。どんな季節の朝も好きですが、私、寝が浅いので結構早くに起きることがあるんです。そういう時には、カメラ持って散歩に出ます。それで、花を撮ったり、地面を啄んでいる鳥を撮ったり、そういう事をしていたんですが、今日はあなたたちを見たのであなたたちにしました」

「仕事は?」と田上が自分のキスの写真の事も忘れて、聞いた。

「仕事は、私の所の編集長の方に――アグネスタキオンさんと田上圭一さんの姿を見かけたから取材してきてもいいですか?って聞いたら、――おっけー、って返事がきました」

 すると、タキオンが泉記者の次の話が始まる前にこう聞いた。

「じゃあ、君の所は、スポーツ選手の追っかけとかもしているのかい?」

「えーっと、…まぁ、…緩い感じで、私の様にたまたまスポーツ選手を見かけて取材できるようでしたら、なんか適当に取材してきた物を記事にしてきたり、普通にインタビューもしたりしてますよ。話題の人を呼んだりとかもして。…田上トレーナーにも取材を申し込んだことがあるんですが、覚えてますか?」

 田上は、急に話を振られて少し戸惑ったが、う~んと考えながら答えた。

「ん~…、東焼鳥社の…」

「週刊スポーツ」と田上が思い出して口にする前に泉記者がそう言った。すると、タキオンが口を挟んだ。

「あんまり売れてないだろう?私のイメージでは、聞いた事があるにはあるけど、影は薄い雑誌というものだけど」

「そんなもんですね。編集長が大したことないので雑誌もあまり大した事はありません。けど、あそこで働くの楽しいですよ。あの編集長がバカなので、結構好き放題できるし」

 泉記者が、あんまり編集長の事を簡単に言うので、思わずタキオンは苦笑して言ってしまった。

「君の所の編集長は、そんなにバカなのかい?」

「いや、もう、バカも何も、笑う事しか能がないってのは本人が自分の口で言ってる事ですから、それ程にバカです。バカなんですけども、良い職場ですよ。私にぴったりの職場を見つけられました。それで、田上トレーナー覚えてます?」

「え?…覚えては…いるけど、何件かあったから、…まぁ、それですか?」

 後半は、田上も面倒臭くなって適当に言ったが、泉記者の方も適当で、田上の答えに「そんなもんです!」と明るく返した。それから、言った。

「ご取材よろしいでしょうか?私、取材させてもらうと今日の仕事の棒に振ったようなもので、さすがの編集長にも二言三言言われるので、取材を受けてもらえると嬉しいのですが…、…どうでしょうか?」

 ここで、田上とタキオンは顔を見合わせた。田上としては、幾ら人当たりの良さそうな人でもここまで尾行されて隠し撮りされていたらと思うと、本気で怒らないまでも面倒臭さが多量なほどにあった。だが、タキオンは良かったようだ。それが田上には不思議だったが、タキオンは泉記者に「どのくらい取材するんだい?」と聞いた。そして、泉記者の「三つ質問させていただければ」との答えを得ると、田上に「いいんじゃないか?三つくらい」と言ってきた。田上は、暫くタキオンの顔を見つめてどう返答をしてやろうか考えていたのだが、不意に頭に浮かんできたことをそのまま聞いた。

「どんな質問をするんですか?」

「お二人の関係性について質問したいのですが」

 そしてまた、田上はタキオンと顔を見合わせた。タキオンは「私は、別にそんな深く踏み込んだ質問なら断るつもりだし、良いと思うけど」と田上に言った。だから、田上はもう一度泉記者の方を見ると言った。

「面倒臭い質問が来たら断っていいですか?」

「ええ、勿論。…では、質問…してもいいですか?」

 泉記者が満面の笑みでそう言うと、田上は再びタキオンの方を見、それから「いいです」と答えた。

 

 質問はごく単純なもので、一番初めの質問は「お二人は交際しているのでしょうか?」との事だった。初めから田上にはきつい質問だったが、泉記者が人当たりの良い人だったので、タキオンはあくまでもまだ学生なので、という前提の上、お答えする事はできないと言う返答を残した。これは、少し自分たちの交際を匂わせすぎているかもしれないと田上は感じたので、この前提は記事には掲載しないで、「お答えできない」という返答だけであれば掲載してもいいという事にした。それが、本当に記事になるのかは分からないが、その後に一応こう付け加えておいた。

「しかし、大阪杯を乗り越えて、より一層強い絆を育む事はできました」

 泉記者は満足そうに、うんうんと頷いて、次の質問をした。

 次の質問は、「では、お二人の仲の良さの秘訣とは一体何なのでしょうか?」というものだった。この「仲の良さ」は、田上とタキオンが付き合う前からあったものだ。巷では、夫婦漫才なんて呼ばれ方もしたが、その呼び方をされたのを見つけた時の田上は、眉を寄せる事しかしなかった。今見つけたとすれば、…やはり、自分たちの事も知らないで発している少々無礼な物言いに眉を寄せるかもしれないし、そうでないかもしれない。ともかく田上はその質問にタキオンと顔を見合わせて、答えを確かめ合いながら言った。

「僕らは、…悩み事なんかを一つ一つ丁寧に話し合って、…きました。…ただ、僕の方が助けられた回数は多いかもしれません」

 そう言うと、タキオンが口を挟んだ。

「私だって、君に助けられたさ。確かに、悩みの始まりは君からだったかもしれないが、私はいつだって君が頼りだった。君を頼った回数なら、断然私の方が上だ」

「そうみたいです」と田上は、タキオンに愛しい人を見るような、それとも苦笑をしているような目を向けながら、言った。

 泉記者は、満面の笑みで頷きながら、話を元に戻すためにこう聞いた。

「つまり、お二人の仲の良さの秘訣は、お互いを信頼し合ってその身を委ねた、という事ですか?」

 田上には、その言葉では少し違うような気がした。少なくとも、これまで世間一般が認知していた自分たちではない。今の自分たちは、世間に開けっ広げに言えないにしても、関係性が以前とは変わったのだ。それでも、委ねるという言葉は間違っているような気がした。――ならば、何なのだろうか?田上は、疑問に思っている内に自然と隣に居るタキオンの方を向いていた。そして、そのまま「どう思う?」と聞いた。タキオンは、暫く考えた後、言った。

「…私は、委ねるというのは少し違うような気がする」

 どうやら、タキオンも自分と同じ事を考えていたようで、田上は安心した。それで、田上が「なんで?」と訳を聞こうとすると、その前に泉記者が言った。

「ふむふむ。どうしてでしょうか?」

「う~ん…、…委ねるのは違うよね?」

 タキオンが、二人の意見が同一の物であるか確かめるために田上に聞いてきたから、田上も答えた。

「あんまりしっくりとは来ないと思う」

「だよね…。う~ん、…委ねる…。委ねる、と言うよりかは、補い合う?…どう?」

 田上に再び聞いてきたから、答えた。

「補い合う…。それも、意識してしていることじゃないよな」

「じゃあ、助け合うかな?…でも、それだと、私はこれからは君に心底助けられようとしてる。助け合ってはいないんじゃないか?」

「う~ん、でも、長い目で見るのなら助け合っている事になるんじゃないか?…いや、でも、別に俺だってお前を助けようと思って助けるわけじゃないんだけどな。……助け合うのは当たり前。補い合うことは意識していない。委ねるのは違う」

 ここで、田上が言葉を整理するために黙ると、その言葉の後を継いでタキオンが言った。

「そうなるのであれば、仲の良さに秘訣なんてないんじゃないかい?私は、君の事選り好みして選んだんだもの。そりゃあ、相性が良いのは当たり前だ。私にとって、頼りがいがあって、優しくて、良い男を選んだ。…君はどうなんだい?…私は、…少し我儘すぎたかな?」

 タキオンが、少し神妙な調子でそう聞いてきたから、田上も戸惑って言葉に詰まった。ここで、すんなり言葉が出れば田上もやりやすいのだけれど、こういう時に限って言葉が頭の中で迷子になって出てこない。ん~?とかええ?とか悩んだ後に言った。

「俺は、……そりゃあ、少し我儘なとこもあるけど、どれもこれもひっくるめて、お前にはいつも感謝してるし、助けられてるし、良い所もある。我儘が丁度いいにくらいには良い奴だよ。…だから、…まぁ、何と言えばいいのかな?…お前の隣に立てたというのが俺の幸運だよ」

 すると、タキオンにしゃべる暇を与えず、泉記者がすぐさま切り込んできた。

「隣?隣に立つ、というのも仲の良さには欠かせなかったりするのでしょうか?」

 田上としては、仲の良さの秘訣の話はここで終わりと言わんばかりに話していたのだが、泉記者がまた話を蒸し返してきたので少し面倒臭くなった。しかし、それには真摯に答えた。

「仲の良さは、…多分、僕らだけの仲の良さです。互いに支え合ってきました。慰め合ってきました。そんな事をするトレーナーは、ほとんど居ないでしょう。…別に、他のトレーナーに――担当に心の内を打ち明けろとか言える事はありません。女子高生に悩みを話す酔狂は僕ぐらいなものでしょうから。それも、タキオンという他ではありえない存在があったからできた事なんです。簡単に真似できるようなものじゃありません」

 そこで、田上は話が一段落着いて、黙って泉記者の方を見たのだが、泉記者の方は、田上がまだ話すものだと思って、次の言葉を待っている顔をしていた。だから、一時の沈黙がこの場に漂ったが、タキオンがそれを打ち破って言った。

「もう終わりかな?」

 これは、泉記者に向けて言った言葉だった。それで、泉記者も田上の話が終わったのだと気が付いて、慌てて「あー、はいはい!」と言って、話をまとめた。

「つまり、これは、二人がそれぞれ居たからできたということですね?確かに、他のトレーナーの中ではほとんどあなた方の様に仲の良い組み合わせは見たことがありません。初めてウマ娘を担当して、マンツーマンで教えている人であっても、古株の人であってもお二人のような絡み方はされませんから」

 この言葉を聞くと、田上とタキオンは顔を見合わせた。きっと、この人が言っているのは、菊花賞辺りの田上とタキオンの事だろう。この人から見れば、菊花賞の頃の田上とタキオンがキスをしていてもありえない事ではないだろう、という風に思っているのかもしれないが、田上たちからすれば大いに違った。天と地ほどの差もある。がらりと変わったのだから、前と後ろの風景の違いだと言ってもいいだろう。しかし、泉記者の勘違いをわざわざ正す気にもなれなかったので、田上が泉記者の方を向いて「そんな感じです」と言って、その場をやり過ごした。

 次の質問で最後だったようだ。泉記者がこう言った。

「では、最後の質問ですが、今後の抱負などどうでしょうか?」

「今後?ですか…」

 これは、田上トレーナーに向けた質問だっとタキオンも思ったから、もう自分は関係ないと思って砂浜に寝転がった。泉記者は、二人ともに聞く予定だったが、タキオンの事は自由奔放なウマ娘だと思っていたので、目線で咎める事もなしに田上を見て、返答を待った。田上は、横で寝転がったタキオンをチラと横目で見ながらこう答えた。

「新しくチームを創設したので、そのメンバーを勝たせてあげられるように精進したいです」

「おお!新しくチームを創設したんですね!新しくチームに加入した方のお名前を教えてもらってもよろしいでしょうか?」

「えー、…今はまだ選抜シーズンが終わっていないので、名前の公表は控えさせていただきます」

「では、今の所分かっているメンバーはタキオンさん一人という事でしょうか?」

「そうです」

「ちなみに、チームとして競技に参加するという事はあるのでしょうか?あまりその様な選択をしないチームトレーナーも多くいらっしゃいますが」

「えー、…今の所は予定はないですね。タキオンとの競走もまだ一段落着いたとは言い難いので」

「では、まだまだタキオンさんとの競走は続きそうだ、という感じですかね」

「…はい、…まぁ、そんなところだと思います」

 それで、田上との話は終わったようだ。泉記者は、今度は、砂浜に寝転がってぼんやりしているタキオンに向かって言った。

「では、タキオンさんの今後の抱負はいかがでしょうか?」

「ええ?私にも聞くのかい?」とタキオンは、驚きながらも面倒臭そうにノロノロと起き上がった。そして、しゃんとして起き上がると、「それで?」と聞いた。

「今後の豊富です。例えば、次走はどのようになるのでしょうか?大阪杯を明けたばかりですが、今後のご予定は?」

 これは、田上にも目線を送って聞いていた。どちらにしろ、タキオンに今後の抱負を聞くという事は、田上も必ず関わってくることだったから、田上がもう自分の話は終わったと、砂浜に寝転がるわけにはいかなかった。それでも、タキオンがしっかりと曖昧にして答えた。

「一番可能性があるのは、宝塚あたりだと思うけど、まだあんまりやる気は湧いてない。追い追い、圭一君と話し合って決めるよ」

 そこで、泉記者は不思議そうな顔をしてタキオンの顔を見つめたが、次にこう聞いた。

「ちなみに、田上トレーナーを実験体、もとい、モルモット君として行っていた研究は今も続けていらっしゃるのでしょうか?」

「続けてたら、こんな場所にこんな格好では来てないね」

 タキオンが、メディアでの酷い言われようを思い出したのか、皮肉っぽく言ったが、所詮泉記者には関係がないし、また、泉記者には皮肉が通じないようなので、明るい顔は明るい顔のままこう言った。

「では、研究はもうしていらっしゃらないという事でしょうか?」

「今はしてないけど、近々するかもね。…まぁ、これも圭一君と追い追いやっていく」

 そう言い切ってタキオンは、これで話は終わりだろうという顔をして泉記者を見つめていたが、最後に泉記者はこう言った。

「本当に、最後の最後に申し訳ないんですが、お二人の正面からの写真撮らせてもらってもいいでしょうか?なにしろ、こっそり撮ったものですから、後ろ姿の写真しかなくて、顔が映っているのが田上トレーナーが砂浜で全力疾走している物しかないんです」

 これには、田上の方が嫌がったが、タキオンは乗り気になっていた。

「折角海に来たんだから、記念写真だと思って一枚撮ろうよ。スマホなんかよりかはずっと綺麗に撮れると思うよ」

 そうタキオンは言ったが、その後に田上が「記念写真を大衆に公表するのは、俺は嫌だ」と反論した。すると、泉記者が横から口を挟んできた。

「なら、これはどうでしょう?一枚は、私共の雑誌用に撮って、で、その後はお二人の写真を何枚か撮って差し上げます。後で、あなた方のスマホの方に送りますので、それはもう雑誌に使わないので安心してください。では、雑誌の方から撮ります?それとも、お二人のから?」

 強引に話を進められたのが、田上には少々納得がいかなかったが、タキオンが「それでいいだろう?」と田上に言うと、田上もなんだか悪いような気はしなくなってきて、それでも、嫌がった手前、表情は簡単には変えられないので仏頂面のまま「うん」と頷いた。それで、泉記者がもう一度、雑誌用が先か私用が先かを聞くと、田上が「雑誌用からで」と言った。

 田上は、写真を撮られるのが苦手だった。可笑しくもないのに、無理に笑顔を作るのが苦手だったからだ。だから、今回もそれに倣って、仏頂面のまま撮影に臨んだ。背景を海にして、砂浜の上に二人で立ってカメラを見た。泉記者は、「笑って笑って~」と言ってカメラを構えている。タキオンは微笑むことには微笑んだが、田上は固くなった表情を崩さずに後ろで手を組んだままだった。しかし、それで良かったようだ。パシャリと音が聞こえて、写真が撮られた。泉記者が、撮れた写真を確認している数秒の間があり、それから、もう一度「撮りますよー」「笑って笑って~」と掛け声が来ると、今度は、パシャリパシャリパシャリと三枚写真を撮られた。それから、また数秒の間があって「オッケーでーす」と声がかけられた。

 ただ、それでも気分は落ち着かないので、田上は黙ったまま、隣に立っているタキオンの方を見た。タキオンもまた田上の方を見てくれたが、その後すぐに泉記者に呼ばれて、そちらの方を向いた。

「記念撮影はどんな風になさるんでしょうか?」

「えー、…まずはこのまま撮ろうか。記念撮影」

 そう言うとタキオンは、後ろ手に組んでいた田上の腕に自分の腕を絡ませて、体を密着させた。動揺したかそうでないかで言えば、田上は動揺した方だったが、それは、あんまり表には出さないで、低い声でこう聞いた。

「どうするの?」

「もう少し恋人らしく撮ってみてもいいだろ?思い出作りに」

「いいけど…」と不服そうに田上がカメラの方を向くと、タキオンが言った。

「もう少し笑顔で写ってみてくれよ。後で見返したときに、不機嫌そうな顔だったら心配になるだろ?」

「…笑顔ってどう作るの?」

「…まぁ、作れないなら、ピースくらいしてみたらどうだい?それとも、奇特なポーズを私たちで編み出してみるかい?」

「ピースで…」

 タキオンの冗談に少し苦笑しながら、田上は左手を上げて、拳の中から人差し指と中指を計二本上げた。タキオンも嬉しそうに頷いて、自分もそれに倣い、右手を顔の高さくらいにまで上げて、ピースをした。左手の方は、勿論田上と腕を組んで寄り添うために塞がっていた。ちなみに、田上のピースは自分の胸の高さくらいにまで押し止めていた。

 その様子を満面の笑みで見つめながら、泉記者は「はいチーズ」と言って写真を何枚か撮ってやった。

 そして、田上がこれで終わりかな、と思って体から緊張を抜くとタキオンが後一枚撮りたいと言い出した、面倒臭いが断るほど面倒臭いことでもないため、田上は付き合ってやることにした。

 タキオンは、まず、田上と自分を向かい合わせに立たせた。場所は、先程と変わらない砂浜のままだ。それから、泉記者の方に向かってこう言った。

「ちゃんとカメラを構えて、写真を撮ってくれよ。圭一君が嫌がるかもしれないから」

 相変わらず、泉記者は満面の笑みで「はい!」と元気よく答えていたが、田上はあまり良い予感はしなかったので、怪訝な顔でタキオンの事を見つめていた。タキオンは、田上に一歩詰め寄り、田上の真正面、抱き合えるような距離まで来た。田上は、タキオンが何をしようとしているのか薄々勘付いていた。勘付いていたが、こうなってしまった以上、タキオンが強引に攻めてくるというのは間違いがなさそうなので、怪訝な顔のままタキオンを見つめ続けた。そんな田上を露知らず、タキオンはニコニコ笑いながらこう言った。

「あんまり抵抗しないでくれよ。普通に危ないし、私たち恋人同士だからね。君はちょっと気に入らないかもしれないから、私のためだと思って、少し堪えてね」

 そう言うと、タキオンは爪先立つと、田上の首に腕を回し、その唇に自分の唇を触れさせた。田上は、やっぱり予想通りだと思いながら、タキオンとキスをしていた。横で「おお!」と言いながら、カメラをパシャパシャ言わせている音が耳に付いたが、こんな状況どうしようもないので、田上はなされるがままにされた。ただ、自分が少し不格好に思えた。直立したまま自分より背の低い子とキスをしていると、背中が不格好に歪んだ姿になるのじゃないかと思えて仕方がなかった。しかし、それは田上にはどうしようもないので、タキオンに身を委ねる事しかできなかった。

 田上には、若干迷惑だった。タキオンの子供らしい、少し面倒臭い所が、面倒臭い場面によって発揮された。別に、キスをするのは構わないが、もっと別の場面で、こんなに面倒臭い絡み方をしないでキスをしてほしかった。タキオンは、何を想っているのだろうか?田上は、目を開けたままタキオンの顔を見つめていたが、タキオンは、嬉しそうにしながら目を瞑って田上にキスをしてきていた。あんまり碌な事は考えていなさそうだったので、田上も考える事を止めて、やっぱりタキオンのなすがままに任せた。



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二十一、海岸線、白く染まる⑧

 暫く、大人しく唇を重ねていると、不意に首に絡ませていていた腕が解かれて、唇が離れた。タキオンは、何が可笑しいのか知らないが、ニコニコニコニコしながら田上に「ありがとう」と言った。田上は、それを少々不機嫌そうに睨むだけだったので、タキオンはそう言ったすぐ後に泉記者の方を向いて、「どんな具合だい?」と聞いた。

 これで自分は用済みだろうと思ったので、田上はさっきから妙に重い体を砂浜へどさりと音を立てて下ろした。今にも寝転がりたい気分だったが、寝転がってしまえば、他の立っている二人が気になる。せめて、泉記者が帰って、タキオンと二人きりにならなければ、田上としては落ち着けそうにない。

 そんなところに、間の悪い二人組がやって来た。田上たちの隣という程ではないが、あまり遠くない波打ち際に腰を下ろした。そして、大きな声で話して笑っている。話の内容はあまり分からないが、それでも、耳に入ってくるくらいの大きな声だった。これでは、例え寝転がれたとしてもあまり寛げそうではない。そんな事を思っていると、タキオンの方から声をかけられた。「君のスマホにも写真は転送しておくかい?」との事だったが、田上は「タキオンのスマホに残るならそれでいい」と答えた。それよりもなんだか体が怠い。しかし、まだ話はあった。当然のことながらキスの写真は記事には載せないでほしいのだが、他に載せないでほしい写真を選べとタキオンに言われた。田上はもう、どうでも良かったのだけれど、一つ気掛かりな自分が全力疾走をしている写真があったので、それはやめてほしいと頼んだ。その後暫く、田上が海を眺めている後ろで話している、二人の会話に耳を澄ませた。どうやら、何もかも終わったようだった。タキオンと泉記者が終わりの言葉をいくつか話していたかと思うと、唐突に田上の方も叩かれて、泉記者に満面の笑みで「では、自分はこれでお暇させていただきます。本当に急なお声かけすみませんでした。今後のご活躍を心からお祈り申し上げます」と言い、それから「それでは、さようなら」と告げて砂浜に足跡を残して立ち去って行った。田上は、その後ろ姿を暫く見つめた後、不意に顔の向きを変えタキオンを目を合わせると、疲れたようなため息を一つ吐いて、砂浜にゴロリと力なく横たわった。そうすると、タキオンが近くに寄ってきて言った。

「あの人、大分切れた人だったね」

「…ああ、……やばい人だった……」

 あまりに力のない声にタキオンは、少し口角を上げたが、その後に田上を労わるように言った。

「今日は疲れたかい?」

「……あぁ、…疲れた…。なんか…、…もう、やる気なくなったよ…」

「もう一度私とキスしてみる?」

「…して…」

 田上が、生気のない顔をしながらそう言うと、田上の横に座っていたタキオンが屈みこんで、田上の唇にチュとキスをした。それから、タキオンが田上を見つめながら言った。

「やっぱり、君に苦労を掛け過ぎたかな…」

「…泣いたり、怒ったり、悩んだり……。俺はもう、……何が何だか分からなくなった」

「…私のせい?」

「…いや、…別に、お前のせいじゃない。…ただ、悩む事に疲れて、…そう思ったら、お前も大変で…。キスして、キスされて、お前が女子高生なのか何なのか分からなくなって、お前の事を想えば想う程疲れてくる…」

「…じゃあ、やっぱり私のせい?」

「…いや、…お前のせいじゃない。……ただ、…俺は、…人と人の間に壁を作る事に疲れたんだ。お前との間にも厚い壁があった。…結婚するには、それを除かなきゃならない。…今日、海に来て、お前とキスをしてそれを除くことができた。…ただただ、…詰まらない生き方をしてきた。もっと…もっと、…お前に心の底から預けるのを初めからしておけばよかった…」

 すると、タキオンが言った。

「でも、初めからは無理だったんじゃないか?…私も初めは君を利用しようと思ったわけだ。君も、初めは私の事をただの脚の速い狂人のようなウマ娘だと思ったはずだ」

 その言葉を聞くと、田上がふふふと先程よりかは力有りげに笑った。

「…的を得てる。…タキオン…」

「なんだい?」

「俺を……心の底から委ねさせて…。俺を許して…。俺は、…お前の事が、好きで好きで堪らない。…だから、…俺はお前と違って大人だけど、身も心もお前に包んでほしい。…疲れたんだ。生きていくのに…。でも、生きてなきゃいけないんだ…。…俺を、…俺を好きになって…。俺を、愛して…。時には、少し我儘になるかもしれないけど、辛くなったら膝で寝かせて…。俺は、今まで…、大変だったんだ。お前の事を想ってやれない程。…だから、辛くなったら休ませて…。休める場所が、俺にはないんだ。…家に帰っても、もう休めない。次には、仕事がある。友達と遊ぶ時だって休めない。…お前と一緒に居たい。…お前が好きだから、…傍に居てくれると安らげる…。気持ちが、ふっと和らぐ。…愛してくれてありがとう」

「…私もだよ。ほとんど君と同じことを想ってる。私とずっと一緒に居てね。健やかなる時も病める時も一緒に居れると誓える?」

「誓える…」

 そう言って、田上は寝転がったまま左手を上げて、タキオンの髪そっと撫ぜた。

 それから、二人は黙って海を見たり、お互いの顔を見たりして過ごしたが、ある時、唐突に田上が言った。

「今なら、ありありと想像する事ができる」

「…なにがだい?」

「…結婚した時。…多分、俺は疲れて帰って来る。お前は、それを出迎える。エプロンをつけてる。夕飯の匂いがする。お前が、満面の笑みで――今日の夕飯はカレーだよ!って言ってくれる。その後に、俺がスーツを脱ぐのを手伝ってくれる。風呂も沸かしてくれているかもしれない。リビングに行けば小さな子供がいる。…パパって呼ぶのかな?」

「…どうだろう?私たち二人の親の呼び方は、どっちも父さん母さんだろ?すると、君がもしパパって呼ばせたいなら、帰って来るたんびに――パパだよー、って言って抱っこしないといけないんじゃないか?」

「…名前はどうするかな?…一つ、男の子だったら候補があるんだけど」

「なんだい?」

「…高松信夫の『沢下り』に出てくるお父さんの名前」

「…分からないよ?読んだことないから」

「…燈太郎」

「とう?…漢字は?」

「燈篭のとうに太郎で燈太郎」

「ふむ、いいんじゃないかい?その名前」

「…タキオンは?…何かないの?」

「私はねぇ、…あんまり考えたことはないね…」

「…まぁ、子供ができるのは、まだ大分後だな…。まだ、十八にもなっていないお前はダメだ」

 田上がそう言うと、タキオンがにやりと笑った。

「おやぁ?後十日程もすれば私の誕生日になるが、その心はどうかな?」

「…引退までは、当分無理だな。…別に、お前が今すぐ引退して、俺と暮らしたいっていうのなら、結婚してもいいけど…」

 すると、次にタキオンの顔は急に険しくなった。田上を見つめていた目をふっと逸らして、宙を見つめた。だから、田上はタキオンを落ち着かせるために言った。

「…いいんだよ。お前の居場所もちゃんとあるから、自由に走るも生きるもしてくれ。…今までごめんな。お前の肩に重荷を大分背負わせた。…俺の命がお前にかかっていたようなものだったからな…」

 それでも、タキオンの顔の強張りは取れない。だから、今度は、田上は体を起こして、タキオンに言った。

「宝塚記念…、どうする?」

 タキオンは、緊張した顔で田上の目を見て、すぐに逸らした。

「お前、怖いのか?」と田上が再び聞いた。すると、タキオンが重い口を開いて言った。

「怖い…かもしれないけど、ギリギリまで考えるのはやめさせてくれ。前にも言っただろ?今は、そんなに考えたくない。…ギリギリでも間に合うことには間に合うだろ?」

 田上は、そう言っているタキオンを不思議に思いながら見つめていたが、その話が終わるとこう言った。

「そうだな…。走るにしても走らないにしても、一緒に居る事に変わりはないからな。…タキオン、…来て」

 最後の言葉は、砂の上に寝転がりながら言った事だった。だから、タキオンはおずおずと腕を伸ばし、地面に突いて体の支えにすると、田上の上に覆い被さった。それから、広げている田上の両腕に包まれて、ゆっくりとその上に体を下ろした。途端に、体の強張りが解けて力が入らなくなった。それとも、入らせなかった、と言った方が正しいだろうか?ともかく、タキオンは田上の上で少し変な体勢ながらも安らぎを感じることができて、ゆっくりと深い息を吐いた。

 その後に、田上がぽつりと言った。

「……疲れたな…」

 体の上でタキオンを抱いていると、これまで以上に疲れそうだった。しかし、同時にその身の温かさも感じることができて、田上は少し混乱した。次いで、タキオンの髪から、体から心地良い匂いを感じた。田上は、ため息を吐くともなく吐いて、タキオンの背を落ち着かせるようにぽんぽんと叩いた。

 波の音が、子守歌となって二人の頭に響いた。先程の騒々しい大きな声も今は聞こえない。海を見るのに飽きて、どこかに行ってしまったのかもしれないし、波の音がそれをかき消してくれたのかもしれない。ざざん、ざざんと寄せては返す波が頭の中に浮かんでいた。いつしか、二人の脳裏は海となって、安らかな眠りに就いた。朝日が遠くに見える。その光が、太陽の来訪を告げる。水平線が白く染まる。その白く輝く波は、いつしか田上とタキオンの下まで伸びて、海岸線を白く染めた。

 

 田上が、目を開けると白が目に映るのは言うまでもない。しかし、一番初めに目に映るのは、栗毛の頭で、次いで、空、その次に、白いワンピースだった。風に吹かれてぱたぱたと揺らめいている。田上は、それを見て自分が眠り込んでしまったのだと気が付いた。タキオンを上に乗せていたので、体が重苦しかったが、タキオンも寝ている事を確認すると、どうしたものかと考え込んだ。タキオンをもう少し寝かせてあげたかったが、トレセン学園の門限には間に合わなければいけない。ここは、心を鬼にしてタキオンを起こしてあげる他なかった。だから、田上はタキオンを本当に起こしたいのかと思う程、微かに揺すった。当然、そんな微弱な揺れではタキオンも起きるはずがない。しかし、田上もタキオンを起こさないといけないので、微弱な揺れを長く続けて、タキオンがそれに気が付くまで待った。タキオンもそこまでされれば、その揺れに気が付いて、目を覚ました。体の上に乗っていたタキオンは、田上とは反対の方に顔を向けて寝ていたので、どんな具合で寝ていたのか分からなかったが、目を覚まして顔を上げたタキオンを見ると、涎を垂らしながら寝ていたことが一目で分かった。だから、田上が「涎が出てるよ」と微笑みながら言うと、まだ寝ぼけているタキオンが自分の腕でその涎を拭った。そして、再び元の姿勢になって眠ろうとしたかと思うと、にわかに顔を上げて田上にキスをしてから、また元の姿勢に戻って寝ようとし始めた。その様子に思わず田上は苦笑してしまったが、やっぱり起こさなきゃいけないので、タキオンの小さな肩をそっと叩いて、「もうそろそろ帰らないといけないんじゃないか?」と囁いた。タキオンは、返事のような唸り声を上げて数秒した後、寝ぼけ眼の顔を上げて田上に言った。

「君、……あれ?…君とキスをしたのは夢じゃないよね?」

「どのキスの事?」

「…いや、…君と一緒に居たくて…」とタキオンは、言葉を詰まらせたから、次に田上が言った。

「多分、夢じゃないよ。今日で、もう一生分のキスをしたといえるくらいには、キスをしたよ」

「…私は、まだ一生分じゃ足りない。君の二生分も三生分もキスは私の物だ。誰にも渡さない」

「誰にも?…じゃあ、俺たちの子供にも渡さないと?」

「君は、自分の子供にキスをするのかい?」

 タキオンが、田上の体の上で怪訝そうに顔を歪めて聞いた。すると、それに田上が答えた。

「小さい頃なんかは、ほっぺにちゅーぐらいはするだろ?」

「ああ、ほっぺだね?それなら、構わない。ほっぺにチューくらいならぜひ子供の方にも分け与えてあげよう。…でも、君が赤ちゃんを抱いて、それにチューするなんてあんまり想像できないな」

「だろ?俺もつい午前中まではそれが想像できなかったから、どうすればいいのか分からなかった…」

「それで?君はどういう風に想像できるようになったんだい?」

 タキオンがそう聞くと、田上は少し苦笑してから言った。

「そりゃあ、お前が、傍に居てほしいとか、愛してほしいとか、言うから、…こう、…俺もお前の気持ちに応えて、一緒に居てやらなきゃな、っていう気持ちになったんだよ。だから、お前が俺にしがみ付く様にキスをしている間に必死に考えて、考えて考えて、お前の夫として横に立ってやろう、その生涯を支えてやろう、と、そう思ったけど、…これは少し格好つけてるかな?」

「まぁ、君にしちゃ、いつになく傑作小説の主人公のようだけど、それは本心の事なんだろう?」

 田上は、首を縦に振ってそれに答えた。

「なら、私はそれにあやかろう。…前にホテルで言った事があるだろ?…幸せはあっと驚くような冒険をして手に入れるものだと。君は、今、私という心の底からの幸せを手に入れることができたね」

「そうだろうな」と田上が微かに口角を上げると、タキオンが唐突にその顔を動かして、田上とキスをした。だから、田上が再び苦笑しながら言った。

「お前は、相当なキス魔だな。酒なんか飲ませたらもっとすごい事になるんじゃないか?」

「キス魔と言えばキス魔だけど、酒なんか飲んだって視界まで酒に支配されない限りは君にしかキスはしないよ。私が虜にしたいのは君なんだから」

「虜にしたいから俺にキスをするの?」

「…まぁ、…聞こえは悪いけど、そんな事で私を嫌いになったりしないよね?」

「しない事にはしないけど…、虜……。虜にはなったな。…思惑通り?」

「思惑…って程本気で虜にしたいとも思ってないよ。…ただ、…さっきも言ったろ?尽くしてくれているのを感じたいし、愛してくれているのを感じたくて、……嫌いにならないで…。君が嫌だって言うんならやめるけど…」

「別にやめなくてもいい。お前が不安になるようなら、俺も何でもするし、俺の居場所はお前でもあるんだ。もう、今更離れる事もできない。キスをしたいなら、何時間だって離してくれなくたって結構。俺もそれが嬉しい。…お前が、…俺を好きでいてくれるのが嬉しい」

 最後は、少し恥じらいが出てしまって、タキオンはその田上の様子を見つめながら、ふふふと笑って言った。

「やっぱり、私が好きになったのが君でよかった。ここまで、正直な人間もそうそういない。バカと言うべき正直かもしれないけど、私はそれくらいが好きだ」

 それから、恥ずかしそうに顔を歪めている田上と嬉しそうにニコニコしているタキオンが、暫く見つめ合った後、やっぱりタキオンが唐突に田上にキスをした。田上もそれを予期していたからあんまり動揺もせずにそれを受け入れて、言った。

「…今何時くらいか分かる?」

「えっと…」とタキオンが、自分の持っていた小さな手持ちバッグの中から紺色のスマホを取り出すと、その電源をつけて時間を調べた。午後四時三十七分頃だった。寝始めたのが、恐らく四時前頃と推測できるから、ざっと計算すると四十分近くは寝ていたわけだ。その事に考えが至ると、先程から田上の上に乗って過ごしているタキオンの重みが殊更に重く感じれるようになって、「タキオン、少し降りて」と声をかけた。タキオンもそこまで融通の利かない我儘っ子ではなく、さすがに人が一人自分の上に四十分も乗っていたら体も疲れるだろうという事は分かっていたので、素直にそれに「ああ、分かった」と返事をして、今度は大の字に寝ている田上の腕の上に頭だけを乗っけた。その様子を田上は物言いたげにじっと見ていたが、タキオンが「なんだい?」と口元に笑みを湛えながら言うと、田上はお道化るように口角を上げて「何にもない」と言った。そして、大きく息を吸い込んだ。タキオンの重みによって圧迫されていた肺に新鮮な空気を送り込む。それから、空気を入れ替えて、大きく息を吐いた。右腕に乗っているタキオンの頭がごろりと仰向けなって、空を見上げるのを感じた。二人で一時空を見たが、さすがにもう眠りに就くこともなく、田上も幾分理性が働いていたので、不意にヨッと起き上がると隣に寝ているタキオンに言った。

「何時に帰るんだ?もうそろそろ帰ってもいい頃だと思うけど。…少なくとも、あと十分二十分後くらいまでには電車に乗らないと、門限に間に合わない」

「じゃあ、その時に帰ろう。あっちに帰れば、二人きりの時間なんてそんなにないんだから…」

 そう言って、空を見ているタキオンを見つめながら、田上はタキオンへの反論を考えた。しかし、十秒後くらいに反論する必要が無いと分かると、田上もタキオンと同じように寝転がった。そして、タキオンの頭をまた自分の右腕の上に乗せると、今度はタキオンがむくりと体を動かし、田上の視界を塞ぐように覆いかぶさりながら言った。

「歩こう。このまま寝てるのはつまらない。ちょっと堤防沿いに海を歩こうよ」

 田上は、その顔をじっと見つめたまま、黙って何も答えなかった。タキオンも田上の顔をじっと見つめたまま何も言わない。二人共何も言わない。十数秒の沈黙が流れた。その後、田上が少し目を逸らし気味にこう口を開いた。

「……キスは?…しないの?」

「キス?」

 タキオンは、あたかも田上がそう言い出す事を分かっていたと言うように口角をニヤリと上げて聞いた。すると、田上も迷惑そうに恥ずかしそうに眉を寄せて、口を歪ませながら答えた。

「キス。………したそうな顔をしてる」

「私は今はしたいだなんて思ってないよ?それよりも君の方が幾分したそうな顔をしてるよ。…してほしいのかい?」

 タキオンが、からかうように言うと、田上は本格的に眉を寄せて、悩ましそうな顔をした。その頭の中で考えている事が、タキオンには手に取るようにわかって面白かった。

――タキオンにキスをせがもうか?でも、それだと、男として情けない。恥ずかしい。でも、少しくらいだったらいいんじゃないか。もう、将来を誓った仲だ。でもでも、やっぱり情けない。大の大人が、女子高生にせがむような事じゃない。これじゃあ、まるでバカップルだ。男は男として毅然としなくちゃいけない。でもでもでも、キスをしてくれたら嬉しい。タキオンだってせがめば、なんの躊躇いもなくしてくれるだろう。してくれるだろうが、せがむのが恥ずかしい恥ずかしい。

 こんな具合に田上が考えているのが、その表情から読み取れた。それでも、依然としてタキオンが田上の顔を見つめていると、とうとう田上も堪え切れなくなったのか、こう言った。

「…キスをしてほしいけど、…してほしいけど、あんまりからかわないで。そりゃあ、俺だって一人の人間だよ。お前とキスもしたいよ。したいから、あんまりからかわないでくれ。……キスを…して」

 嫌そうに言う田上をタキオンは微笑みながら見つめた後、「じゃあ、行くよ」と言うと、田上の唇に軽くキスをした。タキオンも田上がそれで満足しただろうと思って、顔を上げて田上の顔を見ると、田上はまだ少し物足りた無いというような表情で自分の唇をもぞもぞ動かしていた。それで、また田上が何か言いだすのかと思って、タキオンはその顔を見つめたまま待っていたのだが、一向に話そうとしないし、話さないなら話さないで動こうともしない。ただ、タキオンから目を逸らしたまま、自分の唇をもぞもぞと動かしているだけだった。だから、タキオンも、これはタキオンの方から話しかけてほしいのだという事を察して、こう呼びかけた。

「まだ、キスをしてほしいのかい?」

 その呼びかけで田上が数秒固まった後、チラリとタキオンと目を合わせて言った。

「……もう少し長く…」

 そして、またすぐにタキオンから目を逸らしたが、こう目を逸らされるとタキオンも話しづらいので、田上のほっぺを突きながら言った。

「もう少しってどのくらいだい?十秒?二十秒?三十秒?一分?」

「……タキオンの思うくらいで…」

 田上は躊躇いがちに言うが、タキオンはそれを気にしていたら何も始まらないので、次にこう言った。

「私?私の思うくらいであれば、五秒でも問題ないかな?」

 そう言うと、田上も言葉に詰まったが、キスをしてほしい事にはしてほしいので躊躇いながらも言った。

「……できれば、もう少し長く…」

「十秒?」とタキオンが聞くと、田上が「…それよりもしてくれても…」と恥ずかしそうに言った。それから、タキオンが「分かった」と言うと、田上の顔に自分の顔をゆっくりと近付けていった。それで、目を逸らしていた田上もタキオンのキスを受け入れるように目を閉じて、タキオンを待った。

 

 そのまま二人は三十秒、四十秒ほどキスをした。田上は、具体的な数字は言わなかったけれど、それくらいに長いキスをしてあげれば田上も満足したようで、恥ずかしそうに顔を歪めながらも先程よりかはすっきりとした顔をして、タキオンに「ありがとう」と言った。

 そして、二人は立ち上がった。まず、タキオンが「行こう」と言って立ち上がり、次に田上の手を引いて起こしてあげた。田上は、まだ少し恥ずかしそうだったが、タキオンと手を繋ぐことに躊躇いはなく、タキオンの行きたいと言った方向に手を繋いで行ってやることにした。

 タキオンが行きたいと言った方向は、松林と反対、つまり、田上たちが居る方向と反対の方の堤防だったが、田上が先程行きたがっていた海の方に突き出た堤防というよりは、海に沿って続いている長い堤防の方だった。勿論、その過程で海に突き出た堤防の横を通ることには間違いがないのだが、その突き出た堤防を歩くという事ではなかった。

 二人は、砂浜の上をざくざくと音を立てながら、この砂浜の入口の方へと向かった。入口の方からでないと、堤防を歩けないからだ。その入り口に向かいながら、二人は砂浜の様子を眺めた。午前の時は、まだ何人か人は居た。あのカップルと思わしき二人は勿論の事、それ以外にも少しばかりの人がそこに居た。しかし、今は人っ子一人居なかった。砂浜は、静かな波の音に満ちていて、ここを今去ってしまうのが、少し惜しいくらいだった。そこで、田上たちは入り口に行く手前にある階段を登り、砂浜よりも二三メートル高い場所に立って、今来た砂浜を見下ろした。その場所は、どの砂浜とも変わらないただただ平凡な砂浜ではあったが、また再びここへ訪れたいと思う、二人の思い出の場所でもあった。



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二十一、海岸線、白く染まる⑨

 それから、二人はコンクリートで固められた堤防の上を、海を眺めたり話に弾ませたりしながら歩いていったが、少し行ったところで海から外れて河口沿いへと道が続いていたので、どうしようか、ということになった。幸いなことに橋は今いる場所から見えて、そこを通ってまた海沿いを目指せば、また堤防の上を歩けそうだった。しかし、慣れない土地である上に時間も時間だった。あまり遠くには行けない。だから、田上とタキオンは話し合って、タキオンの海に沈む夕日を見たいという願いを聞き入れると、今来た道を後戻りして、海に突きだしている堤防の方へと向かった。

 堤防には、釣りに来ている人が一人居た。五十代かそこらの顔に皺の刻まれた中年の男性だった。この男を見ていると、田上も若々しい男性のように見える。ただの少しだけ髭が濃い男だ。そして、その顔にあった疲れも今は少し消し飛んでいた。タキオンとじゃれつくことで少し疲れが癒されたのかもしれない。

 その中年の男性は、堤防の先端の方ではなく、半ばの所で釣りをしていたから、田上たちは有難く先端の方へと向かわせてもらった。その男の人の後ろを通る時、タキオンは田上の方を見て少し笑いかけた。田上もその顔を見ていたのだが、特に何を想う事もなく、タキオンの顔を見つめ続けて、先端に着くと、夕日の見える方に腰を下ろした。もう、陽は傾いていた。水面に薄赤い光を煌めかせ、ゆらゆらと田上たちを誘っていた。秋の夕日程赤くはない。赤くはないが、二人で肩を寄せて見るには十分綺麗だった。

 暫くの間、二人は黙って夕日とその光によって煌めく水面を見ていた。おじさんの方もずっと黙って釣りをしていた。しかも、中々竿を上げないので、魚が餌に食い付いてはくれていないようだった。ただ、田上たちはそんなおじさんには興味がないので、目もくれなかった。

 不意に、タキオンが田上に言った。

「君もキスが好きだろ?」

「ん?」と、田上も聞こえはしていたが、誤魔化すためにそう言った。しかし、聞き返したところで質問というのは誤魔化し切れないものだから、例え誤魔化す意図が分かっていたとしてもタキオンはもう一度聞いただろう。ただ、今のタキオンはそんなこと気が付かずにもう一度聞いた。

「君もキスが好きだろう?」

 それで、田上はもう誤魔化しが効かないのを悟って、今度は、答えようか答えまいか迷う所に入った。しかし、わざわざ「答えたくない」と本気で言う程の質問でもないので、田上は迷った後に答えた。

「……嫌いじゃない」

「…でも、田上少年は好きそうな顔をしてた」

 田上は、自分がからかわれているのかとも思ったが、口調としてはからかっている口調でなかったため、再びどう答えようか迷った。タキオンは、そうやって話している間も田上の肩に寄りかかっているだけだった。だから、田上も夕日を見つめながら言った。

「田上少年?」

「…そう。今日の君、走っている時も私にキスをしてほしい時も少年のような顔をしてた。君もあんな顔をできるんだね…。私、少年の時の君を見てみたい…」

「…少年?…アルバムは、…多分、家の方に置いてきたな。…小学生の時が一番楽しかったな…」

「私は、今が一番楽しい」とタキオンが主張するように言うと、田上も少し苦笑して言った。

「俺もお前と居る時が楽しいけど、小学生の時は…、何と言うか…、楽だった。公園でひたすら遊んで、ちょっとの宿題をしておけば、何にも気にしなくてよかった。大人になるのは怖かったけど、…それも遠い遠い事だと思ってた。…それが、いつの間にか、仕事して、タキオンと付き合ってる。…あんまり分からん」

「…何が?」

「どういう風に俺が大人になっていったのか。…本当に、いつの間にかここに来たような気がする。子供の頃の俺には、恋人と夕日を見るなんて、夢のまた夢のような気がした。タキオンなんて人は全く知らない。お前が生まれていない時に、俺はもう小学一年生だ。小学一年生と赤ちゃんなんておままごと遊びしていてもおかしくない。そういう人が恋人になるわけだ。…人生って、…掴みどころがない。あの時、分岐点があるかと思えば、違う時のような気もするし、今がその分岐点なのかもしれない。でも、その分岐点を曲がったが最後、それは分岐点じゃなくて、ただの道になる。何をどう言い訳しようとも、この道を通った人は自分一人しかいなくて、後戻りしたくても、絶対にそれはできない。…お前と居れて良かったよ。…お前のモルモットとしてトレーナーになるって言った日は、人生で一番の分かれ道だったのかもしれない。けど、トレーナー、モルモットとしてお前の傍に居る事ができたのは、物凄い幸運だった。あの時の俺は、こうなるだなんて事想像すらしていなかった。ただ、お前の走りを支えるって決めただけだった。……後先考えなくても、なんとかなるもんなんだな…」

 その長い話が終わると、今度は、タキオンが反論した。

「ただ、…君の人生はこれからも存在するからね。私が、急に病気で死ぬかもしれないし、事故で死ぬかもしれない。何か、酷い事が次々と起こるかもしれない。…そんな事は、考えてないといけない。今は、君とキスできているだけで幸せだけど、いつか何かがあって永遠に分かれなくちゃいけないとなった時に…」

 タキオンがそう言っている最中にその話を遮って田上が「タキオン」と呼び掛けた。そして、タキオンが田上の肩から寄り掛かっていた体勢をやめ、田上の顔を不思議そうに見やると、田上は緊張しながらもその唇にキスをした。タキオンは、なんでキスをされたのか分からずに、でも少し嬉しそうにしながら、田上のキスを数秒受け入れた。それから、田上が唇を離すとその顔を見つめて、本人が話し出すのを待った。しかし、田上はタキオンの顔を見つめて固まったまま何も話しだそうとしないから、タキオンが可笑しそうに口角を少し上げて、田上の頬をつつきながら言った。

「何か用かい?」

 その言葉を数秒かけて飲み込んでから、田上はゆっくりと言った。

「……女の口はキスで塞げって…」

「キス?」と尚の事可笑しそうに口角を上げなら、タキオンが聞き返した。それに、微かに頷いて、恥ずかしそうに口を歪めながら田上が言った。

「ハードボイルドだろ?」

 それを聞いた途端にタキオンがクスクスと笑い出して、隣で釣りをしていたおじさんがチラリとこちらを見てきた。その人と一瞬タキオン越しに目が合ってしまったから、田上は恥ずかしかったが、幸いおじさんは何も言わずに何もせずにまた釣り竿へと向かっていった。相変わらず、魚の掛かっていそうな気配はなかった。

 タキオンはクスクスと笑いながら言った。

「ハードボイルド?…随分とハードボイルドな男がいたものだね。女の子にキスをねだるような可愛い男がハードボイルド?ふふふ、ハードボイルドなものだろうね。…私の口を塞ぎたくなったのかい?」

「……あんまり真面な話はしないでほしかったから…。…お前も自分の事をバカって言ってただろ?だから、考えるだけ無駄なもしもの話はしないでほしい…」

 田上がそう言うと、タキオンも一瞬目を逸らしたが、その後に田上と目を合わせると言った。

「なら、もっと私のバカな口を塞いでくれないか?どうやら、君が塞いでくれないと、自分の心配な事をぺらぺらと話続けてしまうような癖が私にはあるみたいだから」

 田上は、難しそうな顔をしてタキオンの顔を見つめたが、次には「いいよ」と優しく言って、体を寄せた。そして、タキオンの目が閉じられるのを確認すると、ゆっくりと顔を近づけ、また数秒の間キスをした。それから、唇をそっと離すと、田上はもう終わるつもりだったのだけれど、タキオンは目を瞑ったまま「もっと…」と呟いた。だから、田上ももう一度キスをしてやった。今度は、先程より長くキスをしてやった。それで、離してみると、タキオンも満足がいったようだ。口元に微かに笑みを浮かべながら、田上の顔をじっと見つめていた。だから、田上が言った。

「満足か?」

「満足だとも。君が私の恋人でよかったと心底思うくらいには満足さ」

 タキオンがそう言うと、向こうの方でおじさんが少々響く声で「おっ!」と声を上げたから、田上もタキオンもそちらの方を見た。どうやら、魚が釣れた様だった。先の方が海へと引っ張られている竿を持って、その糸をきりきりと引っ張っていた。中々に大物のような迫真の釣り芸だったから、田上たちは真剣な顔でそのおじさんの様子を見ていたのだが、するすると海の中から出てきたのは、水がたっぷりと溜まった大きな大きな長靴だった。それを見ると、タキオンも田上も顔を見合わせた。笑っていもいいものか、それとも、悔しがればいいものか迷ったからだ。迷ったけれども、またおじさんの事が気になって、二人は目を合わせた後すぐにおじさんの方を見た。おじさんは、田上たちが見ている事に気が付いているのかいないのかは分からなかったが、大きな長靴を自分の方へ手繰り寄せると、暫く呆然としてそれを眺めた後に、溜まっていた水を堤防の上にじゃばーっとひっくり返し、次いで、鬱憤を晴らすようにその長靴を大きく弧を描かせて海へとリリースさせた。そして、また、持参していた椅子に腰を落ち着けると、ここで初めて田上たちの方を見た。一瞬だけ目が合ったので、田上とタキオンは慌ててバッと目を逸らして、顔を見合わせた。それから、何が何だか分からずにもう一度キスをしておいた。二人の心情と共にその様子を見ていれば、その様は少し滑稽かにも思えたが、外から見れば、二人はただ夕日の光を浴びてキスをしているただの仲睦まじく、若々しい恋人同士だった。それを見て、おじさんは小バカにするようにふんと鼻を鳴らした後、自分の釣り竿に魚が掛かってこないか、海に浸っている糸で揺れる水面をぼーっと見つめた。

 田上たちは、お互いの唇を離した後に再びおじさんの方を見たが、今度は目が合わなかったので、少しほっとした。それで、次に夕日をちらりと見やって、一心地ついた後に田上が口を開いた。

「もうそろそろ帰らないといけないな」

「えー、…もう少し君と一緒に居たい。もう少しで陽が沈むだろ?それまで待てないかい?」

「沈むまで?さすがに、無理じゃないか?今でも少しやばい時間なのに」

「なら、キスしよう。最後にキスしてから帰ろう」

 そう言われると、田上も仕方ないのでキスをしてやる他になかった。ここまで立て続けにすれば、少しは飽きそうなものだけれど、田上がキスしようと決断するころには、タキオンはもうすでに田上の方に顔を向けて、目を瞑って、キスを待っている状態に入っていた。田上も――こいつはキスに飽きがないのか?と思いつつも、自分も飽きる様子はないのでタキオンにキスをしてやった。すると、タキオンに首の後ろに腕を回されて拘束されたので、動けなくなった。後は、タキオンの思うがまま、なすがままで、暫くの間、唇を重ねられた後、満足そうなタキオンに「さぁ、帰ろう!」と言われた。

 

 田上とタキオンは、それぞれ、田上が自分の右手を、タキオンが自分の左手を繋いで、駅へと向かった。この時点で、例え門限までに向こうの駅に着いたとしてもトレセン学園に着くまでにまた時間がかかるので、遅れる事は確定だった。だから、先に寮長たちに一報を入れておくことにしたのだが、タキオンが自分の分までしろと言うのだから困った。タキオンの栗東寮の寮長はフジキセキだ。面識があるにはあるのだが、如何せんほとんど関係がないので田上が電話をする必要がなかった。しかし、タキオンがしろと言うのだから仕方がない。先に自分のトレーナー寮の寮長の柊さんに一報を入れてから、フジキセキの方にも入れることにした。

 まず、田上は柊さんの方に電話をした。勿論、タキオンと手を繋いで歩きながらだったたので、やりづらい事にはやりづらかったのだが、タキオンはその横で平然そうに辺りを見渡しながら歩いていたので、田上も手を放すことはしなかった。

 その二人の姿は、なんだか奇妙に見えた。電話口で情けない顔をしてぺこぺこと謝っている髭の濃い男性と、その男性とのほほんとして手を繋いでいる白くて長いワンピース着ている年の若いウマ娘。まるで、父親と娘ともとれるようだったが、その二人の関係は確実に恋人だ。時折、ウマ娘の方が愛おしそうに隣の男性を見つめるのが分かる。こんな二人組はあまり見たことがなかった。まだ、親子なら分かりそうなものだが、その様はやっぱり恋人同士だ。奇特とも言えることができそうだが、言えばウマ娘の方は「そんな事はない」と断言するだろう。これが、何だか妙だった。外から見れば、確かに奇特、しかし、本人、少なくともウマ娘の方は一粒たりとも自分たちの関係に疑念を持っていない。好きならそれでいいじゃないか、と言うのが彼女だ。自分の好意に一切の疑念を持たない。その揺ぎの無い愛が、隣の情けなくも難しい顔のしている男性の心を溶かすことができたのかもしれない。

 

 田上は、柊さんがそんなに怒ってもおらず、田上を責める言葉の一つも吐いていない、むしろ、遅れる事を快く受け入れたというのに、何回も何回も「すみませんすみません。本当にすみません」と謝りながら電話をしていた。それから、柊さんとの電話を切って一息つけそうかと思うと、今度は、タキオンの寮長の方に電話だった事を思い出した。けれども、田上は、タキオンに面倒臭そうな顔をして言った。

「お前、フジさんと仲が良いだろ?自分でかけろよ」

「えー、…自分でかけるんじゃ面倒臭いじゃないか」

「でも、俺はフジさんの番号も知らないし、面識もそんなにない。俺がかけたら、向こうの方が驚くだろ」

「フジ君の方は驚いても構わないさ。あの人だったら、そんな事は気にしないと思うし、気にしたとしても説明すれば大概の事は聞いてくれる」

「なら、説明はどうするんだ?…普通にお前が自分でかければ良いと思うんだけど」

 そう田上が苦言を呈すると、タキオンも少し表情を変えて、迷ったような顔をした後に言った。

「あの人をからかってみようじゃないか。君も聞いた事があるんじゃないか?あの人、いつも私を超高速のプリンセスだとか何とか、雑誌で呼ばれてた二つ名を引き合いに出して、からかってきてたじゃないか」

「うん」と田上が合いの手を入れると、タキオンが続けた。

「だから、その仕返しにあの人を驚かせてみよう。戸惑わせてみようという作戦だよ」

「…でも、俺が電話をかけるだけでからかいになるのか?むしろ、俺の方がからかわれそうな気がするんだけど」

「…でも、からかわれると言ってもそれは本当の事じゃないか。――タキオンとデートをしているのかな?とあの面倒臭い口調で聞かれれば、――はい、そうです、と答えればいいだけじゃないか。それで、門限に遅れる事を伝えれば、君のミッションは終了だ」

「…でも、それだけじゃあ、済まないだろ?…多分、タキオンとデートしている事を伝えて、その上に門限から遅れるという事を伝えれば、何か言われるだろ?――お姫様とお遊びになるのがそんなに楽しかったのかな?って」

「それは、私も一緒だ。私がかけたところで、トレーナー君と一緒に出掛けていると伝えれば、やっぱりそんな風に言われる。となると、君が生贄になってくれた方が私も助かる」

「いや、…でも、俺たちの関係をフジさんに言うの?質問されて困るのであれば、俺の方がダメージはでかい。面識がないからぞんざいに扱えない。そうすると、お前がかけて、からかわれたら適当にあしらう方が、ダメージは少ないような気がするんだけど」

「…でも、…。言っちゃ駄目かな?」

「付き合ってるって事?…俺は、そんなに広めたくはない。…フジさんに言えば、広まったりしないのか?」

「…まぁ、口止めしておけば、広まる事はないと思うよ。あの人、口は堅いからね。…でも、結局、電話はかけないといけないんだし、君がかけておくれよ。言いたくないなら、別に言わなくていいから。私、あの人苦手なんだよ。…ね?お調子者と私の肌は合わないのは、分かるだろ?あの人の相手は面倒臭いんだ。相手をしなくていいなら、私はしたくない。…してくれるかい?」

 タキオンが、少しあざとく困ったような顔をしたから、田上も仕方がなかった。元来、タキオンには弱い男だった。例え、好きじゃない期間、出会ったばかりの頃だったとしても、こういう事をされれば弱い男だったので、仕方なくタキオンのスマホを受け取ると、そのスマホからフジキセキの方に電話を掛けた。

 ぷるるると二三回鳴ってから、フジキセキが電話に出た。

『もしもし?タキオンかい?何かあったのかな?』

「…いえ、タキオンじゃないのですが…」と田上が言うと、フジキセキは少し神妙な声色を出しながら、『タキオンのトレーナーさんかい?』と聞いてきた。

 それに、なぜか田上は少しほっとして、「ええ、そうです。タキオンのトレーナーの田上です」と答えた。

 すると、フジキセキが、今度は少し明るい声色でこう聞いた。

『確か、一緒にお出かけをしているんだったね?タキオンが出ないのには何か理由があるのかな?』

「いえ、別に、そんな理由はなくて、タキオンがただ僕の方に連絡をさせたいらしくて」

『ふむ。…まず、用件を聞こう。何か用があってかけてきたんだろう?』

「ああ、あの、今から帰るところで、電車で帰る予定なんですが、多分、門限までに間に合いそうになくて、それで門限から十分二十分遅れるかなー?という所なんです」

『ああ、そういう事だね。門限だったら構わないよ。連絡さえくれて、所在が分かれば、こっちも全然大丈夫だから。…今から、電車に乗るところかい?』

「…えー、…今、駅に向かって歩いてるところです」

『隣にタキオンは居るのかい?』

「……居る事には居ます」と田上はタキオンの顔を見ながら答えた。その田上を見つめ返しながら、タキオンは嬉しそうに微笑んだ。

『じゃあ、タキオンに少しばかりタキオンに伝えてくれるかな?王子様と遊ぶのは楽しかったかな?と』と当の王子様に向かって、フジキセキが伝言を伝えてきたから、田上も困った。困りながらもフジキセキの言うとおりに、隣のタキオンにそう伝えた。すると、タキオンが言った。

「バカ、と一言フジ君の方に言っといてくれ」

 田上は、それをそのまま言うのは忍びなかったのだが、もう一度電話の方に意識を集中すると、フジキセキが大笑いしているのが聞こえた。どうやら、タキオンの言葉が、田上を介さずともそのままフジキセキの方に伝わっていたようだ。それだから、田上も言う必要がなくなったので、フジキセキが笑い終わるのを待っていると、案外簡単に笑い終わった後に、愉快だ愉快だと言わんばかりに陽気な調子でこう言った。

『それじゃあ、トレーナーさんはタキオンと一緒に楽しく遊んできたのかな?』

「ええ、…まぁ、それなりに遊んできました」

『どんなことをしたのかな?』

「……海で…走ったり話したり…」

 そう言うと、隣でタキオンが「あんまり相手にしない方がいいよ」と呟くのが聞こえたが、田上は、未だに電話の切り所が分からずに、フジキセキの喋る調子に合わせて、こちらも話していた。電話をしながらも駅に向かう事には向かっていたので、問題はなかったが、それでも、タキオンが少しつまらなさそうにし始めたのが田上には分かった。けれども、まだ、タキオンも強くは言ってきていないので、田上はフジキセキと話を続けた。

『じゃあ、トレーナーさんは、タキオンと海に行きたかったんだ。…ちなみに、今回のお出かけに誘ったのはどっちなんだい?タキオンの大阪杯の気分転換がてらに、トレーナーさんが誘ったのかな?…あと、言いそびれていたけど、大阪杯優勝おめでとうございます』

「ありがとうございます。…誘ったのは、…タキオンです」

『へぇ、あのタキオンが?どういう風の吹き回しかな?あの子と言ったら、研究・実験・薬・薬だったような気がするけど、もしかするとそれかな?』

 それについては、田上もあんまりよく分からなかったから、電話の内容を聞いていると思って、タキオンの方に視線で助け舟を求めたのだが、丁度その時、タキオンは、通り過ぎていった家の庭に置いてあった大きめの陶器の小人に興味をそそられたようだった。田上に手を引かれながらも、その人形をしげしげと見つめていた。だから、田上は、タキオンから助け舟を得る事はできないと悟って、フジキセキにこう返した。

「どうしてかは、あんまり分かりませんが、確か、僕が前に――海に行きたいと言ったのを覚えていたからじゃなかったかと思います」

『おやおや…。すると、…タキオンは、君を喜ばせるために君を海へと誘ったというわけだね?』

「恐らく」と田上が答えると、顔を見ていなくても分かる悦に入った声で、フジキセキが言った。

『ふむふむ。それじゃあ、それじゃあというわけだ。…トレーナーさんは、タキオンの事をどう思っているんだい?』

 これも答えに困る。なので、田上は横のタキオンを見たが、今度は、電線の上に留まっている小鳥たちをしげしげと見つめていたから、田上も諦めてこう言った。

「それが本当なら、良い奴なのかもしれませんね」

『おやおや、タキオンが良い奴だなんてことは、トレーナーさんは最初から知っているんじゃないのかな?そんな事じゃなくて、もっとタキオンを可愛い女の子としてどう思っているかだよ』

 フジキセキがそう言うと、田上は横から肩をツンツンとつつかれた。隣を見てみると、タキオンが少し不機嫌そうな表情をして、手の平をこちらに向けて――そのスマホをくれ、という仕草をしていた。どうやら、田上が見ていたすぐ後に、聞こえのいいウマ耳で二人の会話に耳を傾けていたようだ。だから、田上もこれ以上のフジキセキの相手は面倒臭くなってきていたので、素直にタキオンにスマホを手渡した。すると、タキオンがそのスマホに向かって、怒り気味に言った。

「うちの圭一君をあんまりからかうんじゃないよ。彼は、君のおもちゃじゃないんだ」

 そう言ったが、ある事に気が付いたフジキセキはタキオンの様子なんて何のそので、こう聞いた。

『圭一君?…確か、君のトレーナーさんの下の名前だったよね?…いつ呼び方を変えたのかな?…前は、トレーナー君だったよね?』

「呼び方なんてどうでもいいよ」

『いやいや、どうでも良いなんて事はないだろう?あの、他人の事なんて全く意に介さないような、ただ一人孤独なまま先頭を走る超高速のお姫様が、その隣に立っているトレーナーというたった一人の相棒の呼び名を変えたんだ。これ以上の事件はないよ。…確か、君は、ウイニングライブで何か様子が変だったよね?』

 そこで、タキオンが反論しようと口を開いたのだが、先にフジキセキが口を開いた。

『ちょっと待った。私に話させてくれ。で、私は覚えてるよ。ニュースでも紹介されていたからね。――生きてくれ、トレーナー君?…これで辻褄が合った。君のトレーナーさん、落ち込んでいたりしたんだね?それで、君がトレーナーさんが以前行きたいと言っていた海に行こうと提案した。…前のタキオンから考えると、中々に情が深くなったと思うけど、これは、好きになるまで一歩手前という状態なのかな?』

「お好きに考えたまえ、名探偵君。どっちにしろ、君の想像なんて私に及ぶまでもないのだから」

『おや、じゃあ、お好きに考えさせてもらうと、…もうトレーナーさんの事好きだったりするのかな?ふふふ、あんまり君たちの所は見には行かないけど、相変わらず、仲は良いんだろうね。すると、もう告白までしてしまったとか?いやぁ、まさか、あのタキオンがあのトレーナーさんに告白をするのかな?どうなのかな?…してないのなら、告白をしてみればいいよ。人生は、一度きりだ。後悔の無いように生きなくちゃね』

 すると、タキオンも少し心が調子に乗ってしまって、フジキセキにこう言った。

「果たして、あの堅物そうな男に告白したとして、オーケーが貰えるかな?とてもじゃないが、学生と付き合うだなんてことはしなさそうだ」

 これは、田上にも聞こえている。田上には、話の完全な内容までは掴めていないが、自分の事が話されているという事は分かったので、タキオンの顔を見つめた。タキオンもまた、そう言いながら田上の顔を見つめていた。それから、また、電話に向かってタキオンが言った。

「キスも知らないような男かもしれない」

『ええ?隣にトレーナーさんが居るんじゃないのかい?大丈夫かい?そんな事言って』とさすがのフジキセキも心配そうな声を出したが、タキオンはまだまだ調子に乗ったまま言った。

「言うくらいなら訳ないさ。私のトレーナーは、堅物だが、話の分からない男じゃない。どんなに分からなくたって、私の話をしっかりと聞いてくれる奴だから」

『んん?それは、べた惚れという事で間違いはないのかい?今の言葉を聞いてるとそういう風に思うけど』

 フジキセキは、混乱していた。そこにタキオンが拍車をかけさせた。

「果たしてどうかな?べた惚れという言葉に間違いは無いかもしれないけど、そんな事圭一君の横で言うなら、私だって恥ずかしくてしょうがない」

『…現に言っているじゃないか』

「そうとも。しかし、私は恥ずかしくない。私は、圭一君にべた惚れだよ?でも、ここまではっきり言っても私は恥ずかしくない。…それじゃあ、もうそろそろ駅だから、電話を切るね。さようなら」

 そう言い残して電話を切ると、まだ、混乱の解けていないフジキセキをそのまま残して、タキオンはにやにやと田上に笑いかけて言った。

「やっと、あの、面倒臭い女に仕返しをしてやったぞ」

「どうだったの?」

「フジ君、私たちが、まだ、付き合っていないものだと思っているから、電話越しでも分かるくらいに混乱していた」

 それから、タキオンはくすくすと笑って、田上の手を握り直してから言った。

「いい気味だよ。これまで、散々仲の良い私たちをからかってきたからね。たまには、あの人も懲らしめられなくちゃいけない」

「でも、あんな言い方だと広まるんじゃないか?フジさんが、友達に聞いたりして…」

 田上が心配そうに言うと、タキオンも少し目を泳がせた。

「…まぁ、あの人も察しが悪い方じゃないからね。さすがに、私たちの恋愛事を他人にあれこれ聞きはしないと思うけど。…どうだろう?」

「…まぁ、噂の分にはいいんじゃない?それよりも、危なそうなのはあの記者の記事の方だけどね。俺たち二人で海に来ていたって方が噂が立ちそうだ」

「そうだね。…まぁ、いいだろう。いずれ、君と私も結婚する時が来るんだ。結婚するとなれば、仲良くなくちゃいけない。仲が良いのであれば、それを隠すのも大分至難の業だよ。私が次のレースで勝った時に、思わず君の下に走って行ってキスをしてしまうかもしれない」

 その言葉に顔をしかめて、田上が返した。

「公衆の面前でそれだけは止めてくれ。写真でも撮られたらどうするんだ」

「分かった。君をお姫様抱っこするだけに止めておくよ」

 それで、また田上が反論しようとしたのだけれど、その前にタキオンが口を開いた。

「あ、そうだ。君、あの写真を見ていなかったよね?私たちがキスしてる写真。見るかい?」

「え?…キスの写真?最後の?」

「ああ、それだよ」と言いながらタキオンは、田上の返答も聞かないで自分のスマホをいじって写真を画面に出そうとしていた。だから、それを見た田上も返事をする事は諦めて、タキオンが自分に写真を見せてくるのを黙って見つめながら待った。タキオンは、少し顔に笑みを浮かべながらその写真を探していたが、すぐに「あった!」と言って田上に見せてきた。中々に、幻想的に撮れていた。まるで、自分の不細工が嘘みたいに消え、むしろ、映画のような美しさでタキオンとキスをしていた。

「どうだい?いい写真だろう?良く撮れてるよ。伊達にごついカメラを持っているんじゃないんだね、あの人は」

「…んん。良い写真だな…。…だけど、…これ俺か?」

「君だろう?私は君以外の人とキスをした覚えはないけど」

「…ふ~ん。…もういいよ」

 確かに、良い写真だとは思ったが、それ以上の感想が田上にはなかったのでそう言うと、タキオンがこう返した。

「もういいのかい?もっと、眺めなくていいかい?愛する妻と君がキスをしている写真だよ?」

「別にいいよ。なんか、…あんまり良く分からん」

「分からない?何が?」

「……なんか、……俺には理解できない」

「…うん。…何が理解できないのかな?」

 タキオンがもう一度そう聞くと、田上は、隣のタキオンの顔を見つめた。それから、呟くようにこう言った。

「お前の事が…」

 それで、一瞬二人の間は静かになったが、次にタキオンが「行こう」と言うと、二人は、再び歩き出して駅舎へと着いた。

 駅舎に着くと、ほどなくして電車が来た。二人はそれに乗った。先程、少し沈黙が二人の間に流れた事で、気まずくなったりはしていなかった。浜辺で話していたように軽く微笑みながら話して、肩を寄せて、二人は帰路へついた。



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二十一、海岸線、白く染まる⑩

 トレセンの門まで来る頃には外はすっかり日が暮れていた。そこで、タキオンが最後にもう一度キスを…、とせがんできたのだけれど、さすがにここは街中だ。幾ら物陰でやろうとしたって、人の目はちらほらある。その上に、ここは、トレセン学園の真ん前だ。そこでキスをしているようなウマ娘がいれば、否が応でも、トレセン学園の生徒と結び付くだろう。そして、その人がタキオンの事を知っていれば、後は、噂になるでも写真を撮られるでもしてお終いだ。

 その事を説明すると、元々タキオンもあまり期待はしていなかったようで、「分かっているよ」と軽く答えると、二人でトレセン学園の敷地内へと入った。

 学園内の道を照らす明かりが妙に眩しいように感じられた。田上は、もっと暗い所に身を潜めていたかった。しかし、タキオンと手を繋いでいるのでどうしようもなく、その手を少し強く握ってタキオンに呼び掛けた。

「なぁ、タキオン」

「何だい?圭一君」

「…お前って、……本当に俺と結婚したいの?」

「…そりゃあ、したいさ」

「…もしも、お前の横に俺よりももっとかっこいい人間が現れて、俺よりももっと頼れる人間が現れて、その人に全幅の信頼を置け、全体重を預けられる、お前を素直に撫でてくれるような人が現れても?」

「……それは…、あまりにも空想的過ぎやしないかい?」

「…いや、…俺は、…ただ、お前に頼りすぎると、ふっと消えた時に物凄い後悔をするんだろうな…」

 田上の話には、前の言葉を締めるための結びの言葉があったのだが、その事を話してしまうと結びの言葉は続いて出てなかった。タキオンもその田上の言葉に少なからず動揺していたようだったが、あまり変わらない口調で口を開いた。

「でも、私たちは、お互いが無くては生きてはいけない。少なくとも私は…」

「…それだよ。お前に代わりの人ができてしまったら、俺なんてただのゴミだよ」

「でも、私は、君の事を見捨てはしないよ!」

 タキオンが、少し焦った調子でそう言ったが、田上は相変わらず、ぼんやりとした調子で言った。

「そうだと良いけど、…もし、それでも、俺の事をお前が好きじゃなくなったら…」

 また、言葉が続かなかった。タキオンもその言葉の続きを待ったが、田上がもう話せなさそうだと分かると、タキオンが口を開いた。

「私は、君の事をずっと好きでいられる自信があるよ?」

「…俺は、……どうしたらいいんだろう…」

「…君、疲れてるんだよ。一日中私が連れ回してしまったからね。今日は、早くに寝た方が良いと思うよ?」

「…そうしとく」と田上は陰気に答えると、それからは、自分から話すことはなかった。寮までの道すがら、タキオンが話しかけてくれば、答える事には答えたが、返事は短く憂鬱だったのでタキオンを心配させた。ただ、タキオンがその事を口にすれば、田上もタキオンの目を見て答えてあげたので、タキオンももっと何かを言うに言えなかった。

 けれども、寮の前に着くと、タキオンもキスをせがんだ。辺りには、見回した限りでは人は居ないかった。だから、田上はキスをしても良かったが、ただ、人が居ないからキスをするというのではなかった。人が居なくても別の場面であれば、キスをするのは面倒臭くて断っていたかもしれない。しかし、今の田上の頭は、ふわふわとしていて碌に考えることができなかった。タキオンの魅力的な目で見つめられながら、そんな事を頼まれると田上も悪い気がしなかった。ただ、街灯の下、寮の目の前でキスをするのはさすがに気が引けたから、タキオンを暗がりへ連れて行くとそこで二人でキスをした。街灯の下からは、タキオンの白いワンピースが暗闇の中に微かに揺れるのが見えるが、それを見ている人は誰も居なかった。

 二人は、暫く黙ってキスをしていたが、やがて、タキオンの方から唇を離すと、二人は目を開けて見つめ合った。それから、タキオンが手を引いて田上と街灯の下へ行こうとしたが、田上がその手をさっと引いてタキオンが掴めないようにすると、「ばいばい」と微かに口元に笑みを浮かべて言った。別れていく悲しさを押し殺した笑みだったが、タキオンはそれに気が付かず、ただ自分も笑みを浮かべて「ばいばい」と言うと、少し小走りになって街灯の下へ行き、寮のドアの前まで行った。そして、また、田上の方を向いた。田上は、自分の心が揺れていて、暗がりから動けないでいるのを悟られまいと手を振った。タキオンは、田上の事が見えづらかったのか、少し目を細めてから、再び「ばいばい」と言って手を振り、寮の中へと消えていった。

 そこで、ようやく田上にも一息吐けたが、それによって安心ができたというよりかは、疲れが己の体をどっと襲ってきて大変だった。今すぐにでも地面に座り込んで、そのまま眠ってしまいたい気持ちになった。明日の朝に風邪をひいても何でもいいので、ここで寝て、また目覚めたかった。しかし、そんな事をすれば、タキオンから心配されるだろう。「君には愛する妻がいるのだからその体を労わって…」とか何とか言うだろう。そんな心配はさせたくなかったが、それは、タキオンのためを想ってと言うより、自分の面倒臭さを解消するためだった。しかし、田上はその事は自覚しておらず、ただ、タキオンを心配させまいと寮の部屋に戻った。

 部屋に戻る事に成功はしたのだが、夕食なんて食べる気も起らず、シャワーをする事すらも忘れて、まるで、力尽きて死んでしまう人の様にベッドに倒れ伏した。

 

 次の日の朝、田上は、高熱に浮かされながら目を覚ました。もう、何をする気も起きないが、喉が渇いたので、水だけは飲みに行った。それから、誰かに連絡をしなくてはならない、今日の予定を伝えなくてはならない、と思ったが、マテリアルに連絡しようにもする気が起きなかった。代わりに、なぜだかタキオンにこうメッセージをスマホで送った。

『熱出た。死にそう。』

 そして、そのメッセージを送ると、そのまま、また眠りに就いた。

 

 どんどん、どんどんと扉を叩く音が聞こえて、田上は目を覚ました。部屋の外で誰かが呼んでいる。――出なくては、と思って、田上は朦朧とした意識の中、部屋の方へと向かった。途中で時間を確認しようとしたのだが、あまりに意識が朦朧とし過ぎていて、時計を見たのに何を見ようとしていたのか忘れてしまった。だから、また、扉の方へ向かうと、その扉を開けた。開けると、まず、目の前にタキオンが居て、その後ろに、霧島やら国近やらが居て、そして、またその後ろに知らない人が何事かと田上の方を見てきていた。田上は、顔からさっと血の気が引いたような気がしたが、引いても熱で熱くなっているので、どうしようもなかった。すると、廊下の奥の方から寮長の柊さんが心配そうな顔をしてやってくるのが見えた。しかし、その前にタキオンの怒っている顔が見えた。

 怒っているタキオンはこう言った。

「君!熱が出たんならもっと私に頼って、鍵くらい開けておいてくれよ!熱出た。死にそう、じゃないんだよ!それだけじゃ私も心配するじゃないか!」

 そして、タキオンが不意に後ろにいる人たちの存在に気が付くと、その人たちにも八つ当たりするように言った。

「何見ているんだい!これは見世物じゃないんだよ!私のトレーナーが熱出したんだから、君たちはどこかに行きたまえ!」

 そう言ってから、霧島と国近に向き直ると、タキオンは素直に「協力してくれてありがとう。もう、ここからは私が世話をするよ」と言い、田上を少し押しながら、一緒に部屋に入って扉を閉めた。田上は、勿論、熱でぼんやりしていたから、タキオンが入ってくるのを止める事もできずにそのまま受け入れた。そして、ぼんやりと玄関で突っ立ったまま、タキオンを見つめていると、タキオンが田上に向かって言った。

「君は、ベッドで寝てていいよ。後は私がするから」

 田上は、その言葉にそのまま従って、ベッドに腰かけ、それから、ゆっくりと寝転がった。タキオンが、「タオルはどこだろう?」とか「何か冷蔵庫にあるかな?」とか言いながら、部屋の中を動き回っているのが分かったが、それを気にする余裕はなかった。脳を溶かす様な熱が、田上を苦しめた。頭痛もあるのだが、熱と混ざり合ってそれが自身をどう苦しめているのかが分からない。ただ、人の声が幾らか聞こえるようになったので、ほんの少しだけ安心することができた。けれど、やっぱりほんの少しだ。もっと、何かが欲しくて、田上は朦朧とした意識の中でタキオンの名を呼んだ。タキオンは、「何かあるかい?水?水とかほしくないかい?」と聞いてきたが、田上には、何も聞こえてなかった。意識がある事にはあるのだが、何も感じることができない、という状態に近しいかもしれない。タキオンの声を聞きながらも田上は、タキオンタキオンと呼び続けて、タキオンを少し困らせた。しかし、タキオンには、田上が熱に浮かされながらも自分を呼んでくれることが、嬉しくもあったので、少し顔に笑みを浮かべながら「私はここに居るよ」と言って、先程見つけたタオルで田上の額の汗を拭ってやった。それでも、田上は落ち着かなかった。捨てられた子犬の様にタキオンタキオンと呼び続けて、その内に、目の端から涙を滴らせ始めた。こうなるとタキオンも自分の名前を呼んでくれる喜びよりも、田上が可哀想で堪らなくなってきた。なぜ、こんなにも自分の名前を呼んでくれるんだろう?タキオンは、疑問に思いながらも懸命に、田上の額の上に浮いてくる汗を拭ってやった。田上は、それでもタキオンタキオンと呼んでくる。キスでもしてやれば落ち着くんじゃないだろうかとも思ったが、ここでキスをして静めてやるのはなんだか場違いなように思えたし、無理矢理な事のようにも思えた。

 では、キスが無理矢理なら何をしてあげればいいのだろうか?こんなにも悲痛に自分の名前を呼ばれると、タキオンも早く何とかしてあげたくなる。しかし、方法が分からない。だから、とりあえず、田上の額の汗や流れてくる涙を拭いてあげながら、「私だよ。ここに居るよ」と呼び掛け、方法を考えた。すると、段々と田上の声は途切れ途切れになっていって、その後には、寝息が聞こえ始めた。あまりに呆気なく田上は寝てしまったので、タキオンは少し呆然としてその顔を見ていた。田上の顔は、いつか見た時と同じように難しそうに眉間に皺を寄せていた。その顔を見ていると、タキオンも少しムカついてしまったが、それでも、田上が愛おしいので暫く黙って見つめていた。

 

 時計の音がチッチッチッと秒を刻むのが聞こえてくる。その音を聞いているうちに、タキオンも我に返り、慌てて立ち上がった。立ち上がりこそしたが、またすぐに、慌てた所で何もする事はないのだと思って、田上のベッドの端に座った。そして、再び田上の顔を見ると、つい出来心が湧きあがった。だから、その心の通りにタキオンはニヤニヤ笑いを堪えるような変な顔を作ると、田上と一緒の布団の中に入った。

 出来心とはこれの事だった。田上と一緒の布団に入って共に過ごす。生憎、田上は熱で苦しんではいるのだが、今まで以上にもっともっと田上の傍に居たいタキオンにとって、この場面は好都合だった。一緒の布団で寝たのは、お正月に田上の父の家へ行った時以来だったが、あの時のようにはいかなかった。田上がこっちを向いてタキオンを包んでくれない上に、話すこともできないので、タキオンは隣に田上の事を感じながらも天井を見上げて、物思いに耽るか、少し頬擦りしてみるしかなかった。

 田上の服装が、昨日のままである事が気に掛かったが、まさか、ここで田上を裸にしてお湯を含ませたタオルで体を拭いて、また、別の服に着替えさせてあげるわけにもいかないのでタキオンは悶々としていた。しかし、やはり、田上の布団の中は何だか心地が良かった。田上と毎晩を共にしているシーツや掛布団に包まれていると、タキオンも田上に包まれているような感覚になる。嗅覚が嗅ごうとせずとも田上の匂いを感じ取ってくれるので、タキオンは嬉しくて少し顔に笑みを浮かべてしまった。けれども、それじゃいけないと思って、タキオンは、これから、今日一日をどうしようかと考えた。田上が使い物にならないのではしょうがないし、タキオンも熱を出して寝込んでいる田上を一人放っておいて、遊びに行くなんて事もできない。できるだけ、傍に傍に居てやりたい。タキオンと呼ばれたら直ぐに駆けつけてやりたいし、安心できるように、優しい言葉もかけてやりたい。

 すると、タキオンは、田上がなぜこんなにも自分の事を呼んだのだろう?という疑問を頭の中に浮かばせた。いくら好きな人だからと言って、熱に浮かされてる時にこんなに呼んでくれるものだろうか?幾ら熱を出したからと言って、こんなにも不安な心地になるのだろうか?

 そこで、タキオンは、不意に正月に田上の父の家へ行った時の動機を思い出した。田上は、母を想って泣いていた。それを、赤坂先生から聞いたから、タキオンは田上の父の家へ行こうと思ったのだ。

 タキオンは、体勢を変えて、寝転がりながら左手で頬杖を突いて、左隣に居る田上の顔を上から見つめた。相変わらず、眉根を寄せて苦しそうな顔をしていた。すると、タキオンはこの場面でならキスをしてもいいんじゃないかと思った。理由は分からない。ただ、田上の顔を見つめて可哀想可哀想と思っていると、自然とその唇にキスをしてやりたくなったのだ。だから、タキオンは、掛け布団をずらして床に落とそうとしながら、田上の上に覆いかぶさった。田上は、それでも起きそうにない。タキオンは、そのまま、田上とキスをした。そして、自分の満足の行くまでキスをすると、タキオンは唇を離した。田上の表情は、晴れやかとは言えなかった。――そんなに上手くもいかないだろうね、とタキオンは思いながら、床に落ちそうな掛け布団を整えて、また田上と一緒の布団に潜った。今は、まだ朝で、覚醒してから二三時間くらいしか経っていないので、そうして布団に潜ってもタキオンに眠気はやってこず、落ち着かずに田上の顔を見つめたり、天井を見つめたり、田上の汗を拭ってやったり、湿ったタオルを額に置いてやったりと、そわそわしながら過ごしていた。

 すると、ここで、マテリアルから連絡がメッセージで田上のスマホに来た。

『今日のご予定は?』との事だったので、タキオンは田上のスマホを取ると、熱で動けない田上の代わりにこう返した。

『圭一君は、熱で寝てる。私が、今、それを看病している。だから、今日は無理。』

 そして、その後に、自分が送っていると分かるように『タキオン』と付け加えた。それを送信すると、突然に電話がかかってきた。マテリアルからだ。タキオンは、その電話に出てもいいものか少し迷ってしまったが、隣で寝ている田上を起こしてはいけないと思って、そのうるさい着信音を消して、マテリアルを無下にしないためにもその電話に出た。

「もしもし、何の用かい?」と少し声量を落としながら、タキオンがマテリアルに言った。すると、マテリアルが、電話の向こうからでも怪訝そうな顔をしているんだろうな、と分かる口調でこう言った。

『タキオンさん…?…なんで、タキオンさんが田上トレーナーの電話に出るんですか?』

「連絡があったからだよ。私が、朝起きて少しのんびりしていたら、スマホの方に――熱が出た。死にそう、って。だから、慌てて私が圭一君の部屋へと押しかけたわけだよ。それで、圭一君が今寝てるから、起こさないためにも用件は端的に言いたまえ」

『えー…。…待ってください。……まぁ、いいです。あなたたちの事なんて私の知った事ではありません。疲れでもたまってたんでしょうか?』

「その可能性はあるね。少し私が引っ張り回しすぎてしまったかもしれない。これからは、もう少し彼の体調も考慮して引っ張り回すとするよ。…用件は終わりかな?」

『いえ、ちょっと待ってください。……タキオンさんは、今、田上トレーナーの寮にいるわけですよね?』

「そうだが?」

『規則は知っていますよね?』

「勿論さ。でも、確か、この寮の寮長だったような人を見かけたけど、何も言わなかったし、他にも大勢見られてたけど何も言われなかったよ?」

『…まぁ、いいです。どうしようもありません。…お体の具合は?』

「まぁ、悪い所は熱だけで、後はそんなに、咳も鼻水もなさそうだね」

『そうですか。じゃあ、また後で、田上トレーナーが起きた時に連絡しておいてください。明日のご予定など。リリーちゃんもトレーニングに慣れさせておかないといけないでしょうから』

 その後に、マテリアルが『それでは』と言うと、タキオンも「はい、さようなら」と言って、電話が切れた。そうすると、タキオンは田上のスマホを元あったところに置いて、次に、田上の顔を見た。相変わらず、眉は寄せていて苦しそうだった。ただ、もう、キスはする気にはなれなかったので、タキオンは、そのまま田上の横にうずくまりながら、布団に頭ごと潜り込んだ。ただ、少しだけウマ耳の先が出てはいた。

 暖かい布団の中に居るとタキオンも心地が良くなったが、少し経つとその暖かさが息苦しくなって、新鮮な空気を吸いに布団から顔を覗かせた。ひんやりとした空気がタキオンの顔に当たって、少し気持ちが良くなった。けれども、まだ、苦しそうにしている田上の横顔を見ると、タキオンも少し考えなければならなかった。

 やはり、本日の予定だ。どうにも、話し相手も居ないのに田上の部屋で、田上が起きるまで待つのはタキオンにとって苦痛であった。いくら隣に田上が居るといっても話せないのではタキオンも暇すぎる。

 そこで、タキオンは、布団の中からむくりと体を起こした。何をしようというわけではないが、少しでも暇を紛らわすために体を起こした。その後に田上の顔を、少しの間見つめるが、こちらも何をしようもないので、暇だ。ただ、そこで、タキオンは――額のタオルをまた湿らせてあげよう、と思って、立ち上がる事にした。一瞬だけ暇ではないことができたが、ただタオルを湿らせて田上の額の上に置くだけなので、直ぐに暇になる。それだから、今度は、タキオンは、本を持ってこよう、と思いついた。タキオンの頭の中には、熱で苦しんでいる田上を放っておくという選択肢が毛頭無かったため、本を持って、この部屋で読むのは当然至極の事だった。しかし、今度のタキオンの頭には、規則という面倒臭いものが存在していたため、田上の寮の部屋を出て、廊下を通り、自分の寮まで行って、また戻ってくる時には、できるだけ存在感を出し過ぎないように忍び足でそそくさと田上の部屋に戻った。それでも、田上の友達の田中とは目が合ったから、その人には睨み返すことで、何も話しかけられないようにしながら、横を通り過ぎて行った。

 

 タキオンは、自分の部屋にあった本を読みながら、たまに、田上の頭のタオルを湿らせ直してやったりして、田上との空間を共に過ごした。田上の寝息やたまに苦しそうに唸る声が聞こえるばかりだったので、タキオンにとって本を読みやすい事この上なかった。

 本を読み始めて、一時間か二時間か経った頃、田上がまた涙を流してタキオンタキオンと呼び始めた。こればかりは、タキオンも本を読んではいられなかった。

 また、「私はここに居るよ」と言いながら、田上の頬を撫でたり、手を触ってあげたりした。すると、田上がとろとろと眠たそうに、微かに瞼を上げた。田上は、横向きに寝転がっていて、タキオンがその顔をベッドの脇に膝をついて覗き込んでいる所だったので、田上が目を開けると二人の目はピタリと合った。しかし、田上は初め、タキオンが誰なのか判別がつかなかったようだ。タキオンが、「私だよ?」と呼び掛けても、頭に入ってこなかったようで、少ーしずつ少ーしずつ頭を覚醒させたのちに、寝ぼけた声で「タキオン?」と聞いた。それにまた、タキオンは「私だよ」と答えた。

 そして、再び静かになった後、田上が言った。

「なんでここに居るの?」

「なんで?…そりゃあ、私たち結婚しているから当然じゃないか。家族が君の看病してたら何か、君の都合に障るかい?」

 タキオンは、悪戯心を起こして、田上の家族になっているふりをしようとすると、田上も眉を寄せた。まだ、少し寝ぼけが残っている頭が、これが夢か現なのか判別しようと頑張っているのだ。タキオンは、その様子がおかしくておかしくて、今にも笑い出しそうになったが、顔に微笑みを浮かべたままでいるのは成功することができた。

 田上は、暫く考えていたが、唐突にタキオンに言った。

「今何歳?」

「私?今、…二十八だね」

「結婚して何年目?」

「十年目」

「…子供は?」

「今は、小学校に行ってるから居ないね。下の子は、今、隣の部屋で寝てるよ」

「隣の部屋?」と聞きながら、田上がニヤリと笑みを浮かべた。

「隣の部屋なんてあったか?」

「隣の部屋は…、然るべき場所にあるよ。ここは、実は、君の寮の部屋ではないんだよ?似せて作ってあるというだけで、歴とした私たちのマイホームさ」

 タキオンが、まだ田上を騙そうと話していると、田上がふふふと笑って言った。

「変な事を俺もしたんだなぁ。一軒家を建てて、その上、自分の元住んでいた部屋に似せて作ろうとしたのか。…つまり、この部屋を出ると、俺たちの家に繋がっているわけだ」

「そうとも言えるが、そうとも言えないかもしれないね」

 そこで、タキオンも跪いている体勢が面倒臭くなって、置いてある椅子に腰かけようとしたのだが、田上の手を放したときに田上が寂しそうに、残念そうに自分の顔を見つめてきたので、タキオンは嬉しそうに顔に笑みを浮かべながらまた、跪く体勢に戻って言った。

「どうしたんだい?そんなに寂しそうな顔をして。手を繋いでいてほしいなら、そう言いたまえよ」

「…繋いで」

 そう田上が言う前に、タキオンは田上と手を繋ぐ気満々だったので、「分かった」と言いながら、掛布団の中にある田上の手をまさぐって、その手を掴んだ。

 暫く、二人は微笑みながら見つめ合ったが、田上が口を開いた。

「今何時?」

 それを聞くと、タキオンは田上のパソコンのある机の時計を見るために、振り返った。

「今、十二時ちょっと前だね。何か食べたいものとかあるかい?冷蔵庫には、そんなに物がなかったけど、要るなら私が購買で買ってこようか?」

「なら、おにぎりで」と田上は言ったのだが、いざタキオンが立とうとすると、田上はタキオンの手を掴んで離さなかったので、タキオンも苦笑した。

「君も来たいのかい?」

 田上は、言いにくそうに暫くタキオンの顔を見た後、一度目を伏せてからまたタキオンを見て言った。

「…行かないで」

「おやおや、随分と甘え上手になったね。じゃあ、お昼はどうするんだい?」

「後で。…ここに居て」

「ふむ、それじゃあ、君退いてくれよ。私もその布団に入ろう?どうだい?熱の具合は」

「少し良くなったけど、まだ怠い」

「成程。昨日君を連れ回してしまったからね。私にも相応の責任がある。私が、熱で寝込むくらいにはなんでも申し付けていいよ」

「申し付け?…ここに居てくれれば」

 その会話の内に、タキオンと田上は、一緒の布団に潜りこんで二人で向かい合った。けれども、そうすると、急に恥ずかしくなってきたのか、田上が空中に目を泳がせ始めた。その様子が可笑しくて、タキオンは口元に笑みを浮かべながら言った。

「妻と一緒の布団に入るのが恥ずかしいかい?」

「恥ずかしい?…そりゃあ、自分より八つも年下のウマ娘が妻なんて恥ずかしいだろ」

「おや?その言い分だと、私が、妻として恥ずかしい女という捉え方もできるが?」

 その言葉に、田上は少し面倒臭そうにしながらも答えた。

「恥ずかしいのは俺だ。…こんな、…こんな恋愛事をするとは思わなかった」

「どんな恋愛事をするんだと思っていたんだい?」

「それは、俺の理想の恋愛事を聞きたいって事?」

「聞かせてもらおう。熱で少し頭が回っていないんだからさ。酒に酔ったと思って、私に話してごらんよ」

 そう言うと、田上とタキオンは、二人共挑戦するような目付きで見つめ合った。それで、やっぱりあんまり頭の回っていない田上は、後で後悔しそうな自分の理想の恋愛事をタキオンに吐露した。

「俺は、…もう少し同年代の人と付き合うと思ってた。年が離れてても、五歳差くらい?」

「そうすると、二十からが君の守備範囲なのかな?」

「二十…。いや、もう少し上かな。三歳差?そこら辺が、子供の頃の話だったりも合うよね?」

「…まぁ、重なる事には重なるんじゃないか?アニメ映画とか音楽とか特撮なんかは分かるだろうね」

「それで、職場なんかで知り合って、そのまま、結婚でもするんじゃないかと思ってた」

「でも、そこに、私が現れた」とタキオンが口を挟むと、田上が「今俺が話してるところだから」と言って、話を続けた。

「俺の恋愛って、…もっとシンプルだった。映画一緒に見たりするんだろうな。水族館に行くんだろうな。遊園地はジェットコースターが怖いから嫌だな」

 すると、また、タキオンが口を挟んだ。

「君、ジェットコースター苦手なのかい?」

「苦手だよ。あんな、高くて落ちそうな物、乗れる奴らの気が知れないわ。あんなのを楽しんで乗れる人間は、頭のネジがどっかおかしい。一本取れてる」

 ジェットコースターで相当怖い思いをしたのか、田上が早口でそう捲し立てると、苦笑しながらタキオンが「分かった。次のデートには、遊園地はやめておくことにするよ」と言った。すると、話が脱線していくにも関わらず、田上が聞いた。

「次もデートするのか?」

「君の体調次第だけどね。一日中連れ回して、疲れが溜まって、寝込んでしまうのであれば、君に無理のないスケジュールで連れ回さなくてはならない。遊園地なんかは、基本一日中遊ぶようなものだから、そういう意味でもやめておいた方がいいかもね」

「行くとしたらどこに行くんだ?」

「う~ん…、あんまり定まってはいないけどね。多分、その前にマテリアル君と赤坂君と私たちとで遊ぶ予定が入ってくる」

「…なんで?」

「マテリアル君が友達が居ないって言うから、私が、赤坂君と仲介してあげようと思って」

「…で、なんで俺がそこに居るの?」

「君だって知り合いだろ?そして、そこに私が居るだろ?なら、君もついてきていいんじゃないかい?」

「…俺が?…一番楽しくないのは俺じゃないの?」

「いやぁ、君かもしれないけど、一緒についてきてくれよ。私一人だけで、あの二人を仲介するのは大変だろ?」

「でも、お見合いじゃないんだから、俺たちが一生懸命世話してないであの人たちでウマが合うか合わないか決めればいいだろ?]

「そりゃあ、そうだけどね?…さすがに、二人を引き合わせて、それじゃあ私はこれで、って帰るわけにはいかないだろ?なら、君も居てくれれば助かる。悪いようにはしないよ。ちゃんと君と手は繋いいてであげるから」

 案外、真剣な顔でタキオンがそう言うと、田上も少し困惑してしまったが、嫌そうな表情は変えないで、聞いた。

「どこに行くの?」

「分からない。あの二人次第ではあるんだけど、ショッピングモールに行って色々眺めるというのが、無難な気はするんだよね。それに、赤坂君にはまだ連絡も取っていないから、果たして、赤坂君が誘いを受けてくれるのかも分からない」

 そこで、田上が「マテリアルさんの写真を見せてみれば?」と口を挟むと、タキオンが「何故だい?」と聞き返した。

「マテリアルさんは、普通に良い顔してるだろ?ここらでもそうそう見ない良い顔だよ。いくら、同性と言っても、赤坂先生も――この人凄い美人、みたいに食い付きそうじゃないか?」

「まぁ、食い付くことには食い付くだろうね?ここらじゃそうそう見ない美人だ。…私はどうだい?前にこんな質問をしたような気がするけど、私の事はどう思う?可愛い?美人?」

「タキオン?」とこれまた嫌そうに田上が顔をしかめた。

「タキオンの事は好きなんだから…、それなりに思ってるよ。それなりに。…綺麗だ、って言った事もあるだろ?」

「それは、嬉しいけどね。今言ってみてごらんよ。私の事どう思う?可愛いかい?」

「…まぁ、可愛くない事はないよ。…なんで言わなきゃいけないの?」

「君の恋人だからさ。甘い言葉を囁いてみれくれよ」

「…囁かれたいの?」

 少し意地悪な調子で田上が言うと、タキオンは真面目な顔になって「囁かれたい」と言ったから、田上も申し訳なくなった。だからと言って、囁くのは田上にとって恥ずかしい事だったのであまり言いたくはなかったのだが、タキオンが「お願い」ともう一声かけると、田上も渋々言った。

「……お前は、…凄く可愛い。可愛いし、…良い奴。俺の、好きな人。…これでいい?」

「もう少し」とタキオンが言ったので、また田上は言葉を探しながら言った。

「…お前を好きでよかった。本当に。…案外、優しい所も好き。俺を退屈させないために手を繋いであげようっていう提案は嫌いじゃない」

「お気に召したのかな?」

「…良い提案だと思った。手を繋いでれば、俺を無下にはしてくれなさそう」

「じゃあ、これから、君とお出かけに行くたびに手を繋いで上げないといけないし、複数人でのお出かけなら尚の事手を繋いであげないといけないわけだね?」

「そうしてくれるとありがたい。…そんなところが好きだ」

 そう言うと、タキオンは少し驚いたような顔をし、次いで、顔を赤らめてにやにやさせながら言った。

「君も酔狂だよ。とんでもなく優しい奴だよ。…いつもありがとう。私の我儘に付き合ってくれて」

「お前の我儘に付き合うのが俺の仕事だからな」

「仕事?…仕事で私に付き合っているのかい?」

「…そんな事はないけど」

 タキオンの言葉で一瞬ふらついた雰囲気に田上は動揺したが、それは自分でも気が付かない程微かな動揺で、タキオンに言葉を返すと、それもあんまり無くなってしまった。けれども、それ以降、二人の会話は途絶えて、いつしか田上も重たい瞼に促されて、再び眠りに就いてしまった。

 その顔を見つめながら、タキオンもうつらうつらと微睡みの中に入って行きそうになったが、目は開いていた。目は開いて田上を見たまま、タキオンは夢を見た。ただの空想と言っても良いかもしれないが、空想にしては少し微睡みに入りすぎて、現実との区別はつかなくなっていた。

 田上が、自分の為に一生懸命になってお弁当を作ってくれている夢だった。場所は、タキオンの父と母が住んでいる家の台所だった。そこで、田上が台所に立ち、自分はリビングに座って後ろ姿を眺めている。田上はせっせと働いている。タキオンの方を見ておくそぶりもないが、タキオンもわざわざ呼んで振り返らせようとはしなかった。

 そして、暫く経った頃、田上が「できた!」と言って、子供のような笑顔でタキオンにお弁当を見せてきた。タキオンは、それを受け取ると、一つ摘まんで口に運び「美味しい!」と言った。田上は、「ありがとう」と言って、リビングの机に座った。お弁当は、机の端に置かれた。

 田上とタキオンは、向かい合って座ったが、その内に田上が目を逸らして、リビングにあるガラスの引き戸から外を見始めた。暖かい日差しに照らされた庭が陽光を反射させて、きらきらと眩いばかりに輝いているのが見える。タキオンもそれを見つめたが、そうすると、田上が言った。

「タキオン、外に行ったらどう?」

 タキオンは、首を横に振って、嫌だと伝えた。すると、今まで陽光の反射によって明るくなっていた田上の顔が、急に険しく暗くなった。

 そして、俯いて言った。

「俺はもう疲れたよ」

 タキオンは、何かをしてあげたかったが、何をする事もできなかった。ただ、真向いの椅子に座って田上の事を見つめていた。その次に、田上は、急に立ち上がると、リビングの外へ出て行こうとしたから、タキオンが呼び止めた。呼び止めると、田上は立ち止まりこそしたが、ただ黙って首を横に振ったばかりで、また、歩き始めて、リビングを出てタキオンからは見えなくなった。

 リビングから出た部屋は、何もない畳の部屋だった。たった一つあるのは、窓ばかり、と言ったところで、田上は寝転がった。そして、深く息を吸い込むと、うずくまって胎児の格好をとった。タキオンは、未だにリビングから動けずにいる。果たして、田上を追いかけていいものかと迷っている。と、そこで、タキオンの父が現れた。顔は似ていなくとも、田上と父の二人の雰囲気は似ていた。二人共、寡黙な様子だ。父は、歩いてタキオンの横を通り過ぎると、今まで田上の座っていた席に座って言った。

「彼が好きなのか?」

 タキオンは、頷いた。

 すると、また父が言った。

「一緒に過ごす覚悟はあるのか?」

 タキオンが頷く。

 そして、また父が言う。

「お前を愛してくれるかな?」

 これにはタキオンも少し迷った。すると、その様子を見た父が言った。

「迷うなら見に行きなさい」

 だから、タキオンは立ち上がって、田上がリビングから出て行った方に向かった。丁度角で見えなかったところから、隣の方を覗くと、田上が体を丸めてすうすうと寝息を立てながら眠っていた。それを見ると、タキオンは少し顔を綻ばせて、田上の所へと歩いて行った。

 そして、とんとんと田上の肩を叩いて、田上を起こした。一度目は起きず、二度目も起きず、三度目のとんとんで田上は寝ぼけた顔でタキオンの方を見た。タキオンは、にっこりと笑って言った。

「君、私と生涯を共にしてくれるかい?」

 田上は、寝ぼけ顔から急激に眉間に皺を寄せたが、こう言った。

「俺は、ついて行くよ。お前の傍から離れるつもりはない」

「なら、私と一緒に来てくれ」

 そう言ってからタキオンは田上が起きるのを手助けしようと、手を伸ばした。田上は、その手を取って起き上がると、そのまま、手を繋いだまま、リビングに居るタキオンの父の下へと向かった。二人は、それぞれタキオンが左、田上が右に座り、父親と対峙した。父は、寡黙でありながらも田上とはどこか違う、穏やかな目つきで二人を見つめ、それから、ゆっくりと口を開いた。

「頑張れ」

 そう言うと、父は、席を立って、タキオンの横を通り過ぎ、見えなくなった。

 そこで夢が終わった。



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二十一、海岸線、白く染まる⑪

 夢の中に入るうちに、タキオンは、眠りには就いていたようだ。その眠りが終わりへと近づいて、浅くなっているうちに自分の頬を撫でる手の感触を感じると、タキオンは、驚いたように顔を上げ、その時目の前に見えた田上の顔に向かって言った。

「ここは?」

 先程、田上が起きた状況と酷似していたので、田上もタキオンを騙してみようかとも思ったのだが、さすがに、まさか自分たちが結婚しているとタキオンに言う度胸はなかったため、「俺の部屋だよ」と素直に言った。すると、タキオンは、驚きのあまり入れていた力を抜いて、ふふふと笑った。

「…夢を見たよ」とタキオンが田上に報告した。

「夢?」

「そう。…私と君と、私の父さんとで話している夢だった」

 それを聞くと、田上の眉が少し寄った。だから、タキオンは少し苦笑しながら言った。

「そう怖がらないでくれ。…まず、君がお弁当を作っていたんだよ」

「ああ」

「それで、私は、その背中を眺めていた。そうすると、君が――できた!と無邪気な笑顔で言い、私がそれを摘まんだ。それから、…君と私で、リビングに向かい合って座る。…で、確か、その後に、私と君とで何か話すと、君が急に機嫌が悪くなってリビングの隣の部屋に行った」

 その話で、田上は少し申し訳なくなって、口元を緊張させた。それは、微かな表情の動きだったが、タキオンはその事をしっかりと察して安心させるように言った。

「別に君が悪いんじゃないよ。君が大変だったことは、私もよく知っている。その事が、夢に出てきただけさ」

「でも、俺が夢に出るまで迷惑をかけたから、そうなったんだろ?」

「まあまあ、最後まで私の話を聞いてくれ。これは、重要だよ?…それで、…君が隣の部屋まで行った事は話した。そうすると、私の父が現れたんだよ。君とは違う方向、まぁ、玄関の方だね。…言い忘れてた。場所は、私の父さんと母さんの家だ。それで、父さんが現れると、さっきまで君が座っていた場所に父さんが座った。私の真ん前だね。そして、言った。――彼が好きなのか?――一緒に過ごす覚悟はあるのか?――お前を愛してくれるかな?……私はここで、迷ってしまった。……勿論、君が私の事を好きなのは分かっている。分かっているが私も迷っているのだろう。それで、父さんが、――迷っているなら見に行きなさい、って言ったから、私は、君の下へ向かった。君は、丸まって寝ていたから、それを起こして聞いた。…――私と一緒に生きてくれるか?って。君は、いつもみたいなしかめっ面をしたけど、私と一緒に生きてくれると言った。だから、私たちは、二人で父さんの元へと戻った。そしたら、父さんは、――頑張れ、って言うと、どこかに行った。…それで、夢が終わった。……すると、私思うのだけど…」

 そうタキオンが、田上の目を見つめながら言ってきたから、田上も「何が?」と聞き返した。

「今度のゴールデンウィークに一緒に私の家に帰らないかい?この前の正月は君の家に行った事だし、今度は、私が招待するよ」

「ええ?……でも、俺とお前とだと、…今度は少し意味が違うぞ?」

「意味って?」

「…そりゃ、…付き合ってる人の家に俺が乗り込むわけだから、それ相応の覚悟を決めないといけないし、お前のお母さんたちも俺たちがこういう関係だって事は知っているわけだから、ただじゃ済まない」

「そりゃあ、そうさ。私、それをしに行きたいんだ。一緒に私の父さんと母さんに報告しに行こう?私たち、晴れて結婚の約束までしました、って」

 タキオンの言葉に、一瞬田上は目を逸らしたが、すぐにタキオンの目を見て言った。

「今じゃないと駄目か?」

「今、しない理由はないだろう?それとも何かあるかい?」

「……少しだけ」と田上は悲しそうな顔をしながら、タキオンに言った。タキオンは、その言葉の真意を測りかねて、疑問を顔に浮かべながら聞いた。

「少し?…何かな?」

 田上は、言いにくそうに言いにくそうに目を逸らしながら、でも、最後にはタキオンにチラチラと目を合わせて、答えた。

「…まだ、少しだけ不安。…この先、何が起きるのかも分からないのに、お前の父さんと母さんに言うのは」

「…そうか。…どうしたらいいんだろうね?君の不安を取り除くには。…私は、君の事が好きだけど、君はそれが絶対ではないと思っているんだろう?」

「…そうだ」

「すると、…君の言う『絶対』って一体何だい?籍を入れたら絶対になるかな?もしそうであれば、今からでも、私の両親の許可を取って、役所に婚姻届けを提出しに行こう。…それが『絶対』だと君には言えるかな?」

「…言えない、かもしれない」

「ふむ。…すると、君の言う『絶対』は私との間に子供を儲ける事かな?」

 これも田上は、言いにくそうにしながらも「違うかもしれない」と慎重に答えた。

「ふむふむ。そうすると、君は、私と結婚したとしても、子供を作ったとしても、不安を感じるわけだ。…それじゃあ、君は何をしたら安心感を得られるんだい?」

 これには、田上も大いに悩んだが、最後にはしっかりと答えた。

「……お前と、傍に居ることができれば」

「ふむ。…ふむ。そうなると、私を抱き締めていれば、とか、私とキスをしていれば、という事も含まれるのかな?」

 田上は、ゆっくりと考えながら、頷いた。

「ふむ。では、これらをまとめると、君は、例え、私と結婚したとしてもそこに安心感は見い出せず、子供ができたとしても、そこに安心感が見いだせない。唯一、安心感を見い出すことができるとすれば、それは、今この時のような、私と傍に居て、一緒に語らうことができる時間である。これに間違いは無いかな?あったら訂正してくれ」

 田上が、再び頷いたのを見ると、タキオンは話を続けた。

「つまり、君は、結婚という言葉そのものに安心感を感じず、私が傍に居るという言葉に安心感を感じるわけだ。離婚というのは当たり前にあるからね。そういう事になってもおかしくない。結婚しても二人の間が縛られるという事はなく、そこには、『離婚する自由』というものがあるわけだ。勿論、暴力なんかを振るわれるんなら離婚はするでいいが、今は、自由という価値観にある種縛られている。その鎖に縛られた人類は、互いの相反する価値観が働いた時、その力の反発の物理法則に任せて、別れる事を選ぶ。これでは、個々は孤立していくばかりだ。君が不安なのはその事だろう。相反する価値観にどう抗って、私たちの間が繋がっていくのかが分からない。違うかな?暫く考えてみてもいいけど」

 タキオンがそう言ったので、田上は暫く考えみる事にした。たまに、「もう一回言ってみて?」とか「この意味は?」など、しっかりと頭の中で理解できるようにタキオンに聞いた。それに、タキオンは、真摯に答えて、田上の脳内処理の補助をした。

 その甲斐あって、田上はぼんやりとだが、その考えの輪郭を掴むことができ、タキオンに「分かった」と言えた。そして、またタキオンが話し始めた。

「それでは、君は、自分がこの考えに当てはまると思うかい?個々の自由という価値観が不安で不安でしょうがない」

「多分、そうだと思う」

「すると、その考えを解消するのには、大変な労力を伴う事にはなりそうだけど、私が居るから心配ないよ。私たち二人、心底、お互いを好きな者同士で巡り合えたんだ。繋がりは私たちの中にある。私は君と離れないし、君は私とは離れない。私たちの価値観は、世間では逆風が吹くかもしれないけど、その逆風の中を進まなきゃならないんだよ。私たちの繋がりは、皆が追い求めて追い求めて止まないものだ。だから、君の心を理解してくれる人は、私以外にもきっとどこかに居るよ。大丈夫。君は一人ぼっちなんかじゃなくて、私と共にこの大きな丸くて青い球の表面で、人類という数多くの仲間たちと暮らしている。私が居なくても、きっと、君の味方をしてくれる人はいるよ」

 タキオンがそう言い切ると、田上は顔に微かに笑みを作って言った。

「…ありがとう。…世話になってばかりだな。…本当に、なんで俺がお前に好きになってもらえたのか分からないよ」

「そればっかりは、運命と言ってもいいだろうね。数々の道の分岐点が私たちをここへと導いたんだ。君が君のような人間でなければ、私は君を好きにならなかっただろうし、そもそも、君自体、私のトレーナーにはなっていないかもしれない。君が私の走りに惚れ、もっと言えば、生徒会長のご慧眼に預かったから、私たちはこうして共に過ごすことができている。いずれ、生徒会長にも挨拶をしなくてはならない」

「…でも、確か、生徒会長は今年で卒業だろ?もう、学園にもいないんじゃないか?」

「そうか。そうだったね。…確か、あの人とフジ君は仲が良かったよね?」

「…俺に聞かれても困るよ。知らないよ」

「…確か、そうだった。…それに、生徒会長は辞めても走る事はやめていないんじゃないかい?まだ、私と同じトゥインクル・シリーズに居るかもしれない」

「それは調べればわかるかもしれないけど、確か、あの人は、GⅢを勝てるか勝てないかの人じゃなかったか?」

「まぁ、それは、分かってるけど、同じシリーズに居れば、また、競技場なんかで会う機会もあるかもしれないだろ?けど、私は、機会を作ってあの人に会いたいね。あの人には、測り知れない恩があるから」

「俺もそう思うよ。会長さんには、本当にお礼を言いたい。俺とお前を繋ぎ合わせてくれた一番の立役者だからな」

「そうとも。他にも様々な分岐点は在れど、あの人が居なければ、私たちは確実に出会う事はなかった。もし、私たちが、トレセン学園ですれ違っても気が付かない様な関係だったら、…何と言うか、…少し怖いね」

「…怖いな。俺が居なかったらお前は今頃どんな暮らしをしているんだろう」

「…まず、ここには居ないだろうね。この君の部屋にもトレセン学園にも。すると、私は海外に居るかもしれない。あの頃は、そんな事も考えていた。拠点を海外に移せば問題ないと。…だけど、拠点が君の隣で良かった。おかげで私は、君に頼って暮らせている。…私が重荷だったりはしないかい?」

「しないよ。俺もお前がいなきゃここにはいない。もしかしたら、もう死んでるかもしれない。生き地獄に嫌気が差して」

 そう言って、田上が目を伏せ、悲しげな顔をしたので、タキオンは、黙って田上の頬に手を伸ばし、その頬を優しく撫でた。すると、田上はまた目を上げて、タキオンを見ると言った。

「でも、お前と生きて、色々教えてもらって、これからもお前の傍で生きて行こうと思ったから、俺は今日も生きている。お前が、決して俺を見捨てなかったから、俺は今日も生きている。…なんか、涙が出てきそうになってきた…」

 田上が目の端を手で擦りながらそう言うと、タキオンは顔に微笑みを浮かべた。

「私も本当に君と居れて良かった。辛い事や大変な事がたくさんあったけど、それらすらも今に繋がっているんだと思うと、私のやってきたことは無駄じゃなかったんだと思える。…次のゴールデンウィーク、私と一緒に来てくれるかい?」

 これを聞くと、田上は少し目を逸らして考えたが、その後に聞いた。

「具体的に何をすればいいのかな?」

「具体的に?…私の家に行くだろ?それで、私がいつも帰る時は、父さんと母さんが布団敷いて寝てる横に荷物を置いたりはするが、…今回は、仏間で寝る事になるかもね。だから、そこに荷物を置くだろ?……それで、…どうするんだ?」

「…初めっから、お前の父さんと母さんに挨拶した方がいいのかな?」

「娘さんを僕に下さい、って?」

「…まぁ、事によれば、そう言うかもしれない」

「それに関しては、父さんも母さんも、――どうぞどうぞ、私の娘を貰いたいならご自由に上げます。みたいな姿勢だとは思うから、そういう展開にはならないと思うよ?」

「でも、いくら上げますって言っても、まさか、自分の大事な娘を誰それに上げるわけじゃないだろ?」

「勿論そうだよ。君なら、どうぞどうぞという姿勢だね。これが、もし、私が訳の分からない男を連れてきたなら、父さんも待ったを掛けるだろうね。そこで、――娘さんを僕に下さい!の出番だ」

「だとすると、俺も訳の分からない男にはならないか?大阪杯を見に来てくれた時、俺もまだ曖昧な姿勢だったから、悪く映る事があるんじゃないか?」

「あれは、私との交際を真剣に考えてくれてた、って事は向こうも分かると思うよ。私との関係を真剣に考えてくれていたからこその迷いだという事は、私の父さんも分かるはずだ」

「でも、あれは、俺は、どちらかと言うと、逃げようとしていた、って印象だと思う。…実際そうだった。…あんまり良い印象じゃないよ」

「まぁ、その時はまた説明すればいいさ。何しろ、どんなトレーナーにもなびかなかったこの私が、ぞっこんなんだ。今更、どうにかこうにか言って、私が君から離れないのは向こうも分かると思う。その時は、父さんも諦めるさ」

「…でも」と田上が言うと、タキオンは「君も心配性だなぁ」と少し笑ったが、それには構わず、田上は話を続けた。

「でも、恨まれるんじゃないか?何しろ、こっちは、悪い印象のある甲斐性無しの娘を安心して送り出せそうにないトレーナーだぞ」

「向こうは、鼻から私を安心して送り出せるとは思っていないさ。恐らく、例え迷っていたとしてもトレーナーとして私に尽くしてくれた君なら十分に安心して送り出せると思っていると思うよ。向こうは、そもそも私の嫁の引き取り手が居ないものだとばかり思っているようだから」

「そんな事はないだろ。お前、仮にもウマ娘だぞ」

「ウマ娘だよ?」とタキオンがニヤニヤしながら言い返すと、田上も嵌められもしていないのに、――嵌められたと思った。これは完全に田上の身から出た錆だったが、タキオンもその錆にすぐに気が付いて利用してきたので、田上がとっさに嵌められたと思うのも無理はなかった。タキオンが、田上の錆びを利用した理由は、今なら、田上から「可愛い」という言葉が引き出せそうだったからだ。先程も引き出せる事には成功していたのだが、田上が「可愛い」と言うのなら何度でもそう言われたかった。それは、タキオンの嬉しい事だからでもあったし、恥ずかしがりながらも「可愛い」と言う田上が好きだからでもあった。

 田上もこれには終わりがなさそうだという事には気が付いていたが、自分で蒔いた種なので今回は仕方なく回収しに行くことにした。

「お前は、…可愛いんだよ?」

「私は可愛いね。…それで?」

「…そりゃあ…、放っておく奴はいないだろ?」

「そう思うのは君だけさ。案外、君が思うより、私は危険人物認定されているんだよ?無闇矢鱈に体を実験に使われたら堪らないだろ?」

「でも、その実験で死んだことはない」

「死んだことは無くても体に何らかの影響を与えるだろ?例えば、光ったり、筋肉痛だったり。それが、君以外の男性諸君は嫌なのさ」

「いや…、でも、…絶対、お前、競走者としても優秀なんだから、それだけでもモテてたはずだ。現に、お前は、俺以外のトレーナーは断ったって言わなかったか?」

 すると、タキオンはニヤリと笑みを浮かべた。

「そうとも。私の嫁の当てがないと私の親が思う理由はそこにある。私は、君以外の男だったら選り好みするからね。君なら良いが、それ以外の男はダメだ。特に、伴侶として選ぶなら君しか居ない」

 その言葉で田上は少し恥ずかしそうに顔を歪めたが、次にこう言った。

「それは、嬉しいけど、やっぱり、俺は他の人から見たら、とんでもない甲斐性なしだと思うぞ。それに、将来の安定感もない。まだ、お前を担当しただけの頼りない実績しかないんだから、それに娘を預けるのは不安しかないだろ?」

「何言っているんだい?あの人たちだって、私たちの姿を見てきたはずだ。しかも、他の人じゃ見れない控室での姿も。なら、答えは、一つしかないと思うけどね。…君に娘を預けよう。それが最善の策だ。あちらの方から見れば、私も甲斐性なしの一員だ。君は不安定なイメージを持たれているかもしれないけど、私は、これを決めたら頑として受け付けないという確固たる、子供の頃から育まれてきたイメージを持たれているんだ。そして、実際そうなんだ。これで、結婚をしないという話になれば、親にとっては不安定な人間も全く動かない大仏も同じさ。親にとっては、私は、誰か安心できる人に託せればそれでいいんだよ」

 それを聞くと、田上がまた言った。

「でも、俺は安心できる人間じゃないと思うんだけどなぁ…」

 これでは、堂々巡りになってしまう。それに気が付いたタキオンは、話の方向性を変えることにした。

「じゃあ、分かった。こうしよう。君が安心できる人間かそうじゃないかはこの際、どうでもいい。私がこうする、と言ったら、あの家でどうこうできる問題ではないから。…だから、君はどうしたい?という質問にしよう。どっち道、結婚する上であの人たちに報告する事は避けられないんだ。それならば、もう、君の意思を問うしかない。君は、私と結婚するかしないか。例え、私の父と母に反対されたって私と結婚する意志があるのか。それが重要だ。どうなんだい?」

「俺は、結婚するよ。…でも、円満に結婚出来れば、それが一番いいだろ?」

「それが良いに越した事はない。しかし、これ以上、ああだこうだ言うのなら、その口をハードボイルドに塞ぐぞ」

 すると、田上が「塞いでみろよ」と挑発したから、タキオンもその気になった。ふふふと口から笑い声を漏らしながら、タキオンは掛け布団をぐちゃぐちゃにして、田上の上に覆い被さった。田上も腕を突っ張ったりして抵抗をしたが、それは本気の抵抗ではなく、二十五歳と十八歳の付き合い立ての恋人同士らしい、愛のあるじゃれあいだった。

 暫く二人で手と手を絡ませ合った後、田上の手の網を潜り抜けたタキオンが、田上の口をハードボイルドに塞いだ。田上もそうされると、大人しく塞がれたが、段々段々と可笑しさに笑いが込み上げてきて、ふふふと鼻から息を漏らしてタキオンの前髪を揺らした。すると、タキオンも田上と同じ気持であったようだ。こちらも、ふふふと鼻から息を漏らすと、遂には笑い、田上の唇から自分の唇を離し、ニコニコしながら言った。

「あんまりハードボイルドじゃなかったな。君みたいな独特の雰囲気を醸し出さないと」

「独特?…あの時、独特の雰囲気を出してた?」

「まぁ、夕日のおかげもあって、大分、かっこよかったよ。君」

 それで、田上は少し恥ずかしそうに眉を寄せて目を逸らしたが、それには構わずにタキオンが言った。

「君、熱はどうだい?今は、あんまり感じなかったけど」

「…まだ、少しぼんやりするくらい」

「風邪かな?」とタキオンが聞くと、田上は首を傾げながら「分からない」と答えた。それでも、タキオンはこう言った。

「一先ず、熱が収まったのなら、お風呂にでも行ってきたらどうだい?君、昨日の服のままだぞ。…それに、もしかして、君、昨日の夕食も食っていないんじゃないかい?」

 その答えを言わずに田上が黙ったままで目を逸らしていると、タキオンが、まるで母親の様に田上の視界に入ろうとしながら言った。

「君、夕食くらいは食わないと。いくら、熱でしんどかった…。…昨日から?熱は昨日からだった?」

「いや、…昨日は、何か、頭が働かないくらいだった」

「そうか。…私が気が付くべきだったな。そうすれば、君のための夕食を運ぶなり、なんなりはできたはずだ」

「無理だったんじゃないか?」

 田上が反論すると、タキオンは睨むに睨めない様な顔つきで田上を見て、言った。

「なら、君も少しは私に報告してくれ。頭が働かないなら働かないってね。そうすれば、私も君の動きに何らかの反応をしやすくなる」

「でも、それは、俺にも無理だよ。そんなに逐一報告するのは面倒臭い」

「…それもそうだが、…あんまり無理はしないで…、とも言いたいが、無理をさせているのは私だな。…まぁ、あの、…我儘で申し訳ないが、私の事と君の健康を大事にしてくれれば、私はそれが良い」

「分かった」

 そう田上が答えると、タキオンは、田上の上から降りて、掛け布団を直しながらまた寝転がろうとした。その合間に、タキオンはもう一度こう聞いた。

「君は、私と一緒にゴールデンウィークには来てくれるのかい?」

「…何日間になるんだ?」

「君の休みの取り方にもよるけど、大体、三日間から五日間という話になるんじゃないだろうか?」

「まぁ、詳細は後でいいけど…。…行くよ。俺は行く。…俺の態度に依れば、一日と持たずして放り出される可能性もあるんだろ?」

「その可能性もあるが、そんなに構えなくても良いと思うよ。私の父さんは、物分かりが良いんだ。君くらい頼れる人なら、父さんも快く認めてくれるさ。私たちの関係を」

 そして、完全に寝転がって田上の方を向くと、こう続けた。

「母さんも悪い人じゃない。君の好物を伝えておけば、美味しい料理を作って待っててくれているはずだよ」

「桜花ちゃんは?」

「桜花?…桜花は、私たちの周りをうろちょろして返答に困る事を一杯言うと思うよ」

 その話を聞くと、田上は苦笑した。

「それは嫌だなぁ」

 そして、その後、唐突に「起きよう」と言うと、タキオンが折角綺麗に整えた掛け布団を乱して、起き上がった。タキオンは、まだ寝転がったままで、体を起こした田上を見つめていた。その後に「もういいのかい?」と聞いて、田上が「もういいよ」と答えると、自分もゆっくりと起き上った。

 それから、二人が暫く、何をしようかと迷っている時間があった。この部屋に居ても何もする事はないが、これと言って外に出る用事もない。または、外に出たくはない。二人きりのままが心地いい。それだから、二人は、キョロキョロと辺りを見るともなく見回した後、やっぱり、お互いとお互いの顔に目が合って、見つめ合った。

 その後に、タキオンが言った。

「何するんだい?」

「…何しよう?…何かある?」

「何もない」

 それで、田上も困ってしまって、一瞬だけ目を逸らしたが、その次に言った。

「じゃあ、寝るか」

「そうするか」

 そして、また二人は寝転がった。特に何もする事がないので、田上は、タキオンと会話をするために、こう話しかけた。

「タキオンは、…よく、俺の事を好きになれたな」

「またそれかい?」とタキオンは苦笑しながら言い、その後に続けた。

「だって、私は、君の事が好きなんだから、それに理由なんてないだろ?まぁ、強いて言うなら、君が私の好みの男だったって事だ」

「それが、……あんまり良く分からん。だって、俺はこの一生で一度も女性に好かれた事はないぞ」

「それで?」

「それで?…俺は、好かれない人間だから、お前が俺を好きになるのはおかしい」

「ふむ…。次は?」

「え?…もうないけど」

「ふむふむ。…どうだろうねぇ。君、自分の事不細工だと思っているのかい?」

「まぁ、…まぁ」

「それなら言うけど、君、まさか、そこら辺のイケメンや芸能人に勝とうって言うんじゃないだろうね?その人たちに勝とうって言うんなら、君は今すぐ、転生するか整形するかしないといけないけど、別に、君の顔は見れない顔じゃないよ。十分に良い顔だし、十分に好きな人も現れる。…女性に好かれた事はない?…それは、何かの間違いだと私は思うね。君自身による自己肯定感の無さによって、その女性たちのアピールを無下にしてしまった可能性もあるし、または、君が好きな事を胸の内に秘めたままだった女の人も居るかもしれない」

「本当かぁ?」と田上が訝しげに言うと、タキオンがさらに反論した。

「本当だとも。いいかい?可能性の話だ。例え、限りなくゼロパーセントに近い確率であったとしても、誰もその心の内を君に明かしていないのであれば、それはゼロにはならない。もしかすると、誰か君を好きだった可能性がある。その主たる例が私だ。現に私が君を好きになっている」

「お前だけじゃないの?」

「ほほう。では、君は誰か私以外の人に好かれてみたいと、想いを伝えてもらいたいと言うわけだね?私という人がありながら?誰か別の女性の方が好きだと。君はそう言うわけだね?」

「いや、そんなんじゃないけどさ。……お前一人だけじゃん。『俺は、女性から好かれない』という法則をただ一人破ったのが、お前じゃん。すると、もっと他にこの実験にはあれこれの不備があったりはしないかと、調べるのが普通じゃん。法則から外れているんだから、何か、間違ったんだよ」

「んん?そうすると、私の何かしらが間違っているという事になるね?価値観だったり、好みだったりかい?…いや、待て。そもそも、その法則はしっかりと検証が行われていない。君は、周りにいる女子全員に――俺の事が好きですか?と調べたのかい?」

「調べてないけど…」

 田上は、少し考えに夢中になって興奮しているタキオンにたじたじになりながら、そう答えた。すると、タキオンは次に早口で言った。

「すると、君の法則は初めから存在しなかったことになる。その法則を検証しようと思ったら、君の小学校、幼稚園、中学校、高校、大学、全てを洗って探し出さなければならない事になる。君と出会った女性一人たりとも逃してはならない。その時の気持ちを絶対に話させるんだ。話せなければ、その時点でその検証は意味を成さない事になる。それに、君は、メディアでの露出もある。世の中色んな女性がいる。その上、私を担当してGⅠを勝利した、言わば勝ち組だ。勝ち組好きの女性には引く手数多なんじゃないか?」

「そんなので俺は、好かれたくない」

「なら、私で我慢しておくんだな。何せ、この世でただ一人君に想いを伝えることのできた女性だぞ?これ以上、君が大事にすべきものはあるだろうか?いや、無いだろう」

「無いよ。…でも、少しあれがあるんだ」

 田上が曖昧な物言いをしたので、タキオンは不思議な顔をして聞いた。

「あれ?」

「……こう、…感覚というか。…別に、気のせいと言えば気のせいでもいいし、俺が、タキオンと一緒に居る事は変わらない。でも、…昨日も言ったんだけど…」

 そこまで言うと、タキオンも田上が何を言おうとしているのかが分かったから、田上の言葉を継いで言った。

「ああ、昨日の帰りに寮まで学園内を歩いている時だね?」

「ああ」

「…それは、…私は、…多分大丈夫だと思う。…多分。…これ以上は私にも分からない。…私だって、君と居れればそれでいいという、少し頼り気味の感覚はある。けれど、君が離れていくという感覚はない。夢でも、君はついてきてくれると言っていたし、私は、それが感覚の中にあるのだと思う」

「…俺は、…ない。さっきの離婚する自由の話の様に、俺は、結婚にもあまり意味を見い出してはいないのかもしれないけど、…俺自身にも意味は見い出していない。俺は、…俺の代わりがあって、お前が興味を無くしてしまえばただのガラクタ…。…ついていく。お前にはついていくけど、…分からん」

「…私は、今は、…『今は』だよ?一先ず、私と君と二人で居れるという状況でいいと思う。それが、逃避であっても何であっても、私の傍には君が居てほしい」

 タキオンがそう言うと、田上の返事はより一層迷いに沈んだまま「ああ」と吐き出された。

 

 その後、二人は結局、夕食の時間になるまで同じ空間で過ごして、それぞれに本を読んだり、話しかけたりしてあまり時の流れを感じないまま部屋の中に居た。

 夕食の時間には、不意に時計を見たタキオンが先に気が付いて、そのまま、食堂の方へと出掛けた。田上は、最後まで服も着替えなければ、風呂にも入らないままでいた。もう、夕食頃までその格好で過ごしたのなら、また、今日の夜風呂に入るまでその格好のままで居てもいいだろうと思ったからだ。タキオンは、それについては、特に何とも思わなかったので、二人は、のんびりと修さんの料理を口に運んでいた。

 そして、夕食を食べ終わると、さすがのタキオンも自分の寮の部屋へと帰った。『泊まる』という言葉が頭の片隅にはあったのだが、それは、さすがに寮長も注意してくるだろうと思ったので、やめておくことにした。

 部屋に帰ってきたタキオンが、これまでになく、田上トレーナーの匂いを身に強く纏っていたので、デジタルは妄想的展開が繰り広げられたのだと思って、興奮を隠し切れない様子で何があったのかと聞いた。すると、タキオンが今まで田上トレーナーの部屋に居たと言うので、デジタルは、ひょええええ!!という事になった。

 

 夜は本日も更けていく。ふわふわと点いていた街灯の明かりが気が付かぬうちに消え、トレセン学園は暗く静かになっていく。




 大阪杯編もこの話で終了となります。大阪杯編が始まってから本日まで一年近く更新に時間がかかりましたが、この編もご愛読してくださった読者様に心よりの感謝を申し上げます。
 田上の片思いから始まったこの物語は、タキオンと田上の両片想いを経て、遂に二人が交際するまでに至りました。一人の人間としての感情や発せられる言葉をありのままに伝えてみようと、タキオンと田上という二人の人間を主人公に、これまで小説を書かせていただきました。読み手として、感じた事や考えた事は様々あるかもしれませんが、そういう思いを大切に心の中で吟味して、これからも引き続きご愛読下されば幸いです。
 次週からは、春光編となります。これからもよろしくお願いします。


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春光編
二十二、ササクレ①


二十二、ササクレ

 

 ササクレの顔と胸には火傷痕がある。その火傷を負った時には、ケロイドができた。ササクレの金色のウマ耳には、ピアス穴があった。その穴には、ケロイドができた。

 火傷の時の事は、ササクレは覚えていない。ただ、母親のドジによってその火傷を負ったということを聞かされていただけだ。ピアス穴を耳に開けたときは、中学の時だった。その時に、自分の耳が醜く膨れてしまうと、ササクレは悟った。自分は不幸の星の下に生まれてしまったのだ、と。

 母親と父親の仲は、小学校五年生の時に拗れてしまった。その時に別れて以来、父親には会っていないし、その行方を聞こうとは思わなかった。父親の事を話題にすれば、母親が動揺するのは目に見えていた。

 たまに、母親が、自分にすがって泣くことがあった。中学になれば、トレセン学園の寮へと入ったから、そういうこともなくなったが、休暇などで帰省したときには、母親は飛ぶように喜んで自分を出迎えた。

 母親に勝利を贈る事はあまりできなかった。一番の目標はGⅠであったが、それも自分のせいか、うだつの上がらない担当トレーナーの霧島のせいか、全く届きそうにはなかった。それでも、GⅢを二勝することはできたのは、もしかすると、自分のお陰かもしれない。トレーニングは、時折、さぼっている。保護者面をしてくる霧島が、多少うざったく思って、そういう時は霧島と会うのを避けたのだ。ただ自分が苛ついているだけという事は分かってはいるのだが、懸命に探してくれる霧島を見るとそれも解消されるので、度々、逃げる事をした。

 ただ、最近は、特に何ともないので、素直にトレーニングをやっている。いつもつるんでいる他よりガラの悪い友達に、「日和ってるのか?」とからかわれても、「うるさい」の一言で済ませて、自分はトレーニングへと出かけた。

 特に、勝ちたいという願望はなかった。霧島から「トレーニングをしよう」と誘われているのでしているだけだ。目標もない。霧島に、「あのレースを目指してみよう」と言われたから、そのレースを目指しているだけだ。ただ、日々を惰性で過ごしている。ついでに言えば、未来もない。想像しておらず、ただ言われるがままに日々を過ごしているのだから、未来なんてあるはずがない。ただ、不意にぽやーっと浮かんでくる自分の未来の姿は、母親と一緒に暮らしているんだろうな、ということくらいの頼りないものでしかなかった。

 これまで、男性に懇意を示した事はないが、一度、キスをしたことがある。それも、自分の担当トレーナーである霧島とだ。別に、あの人の事が好きとか嫌いとかそういうものではなかったが、怒りをぶちまけた拍子になんやかんやあって強引にキスをしたのだ。それでも、霧島は、キスをする前と後でも何にも変わらず接してくるから、ササクレにとっては、少し気味が悪かった。

 

 そんなある日、ササクレは、霧島にトレーナー室でこう言われた。

「この広い部屋を使いたい人が居るそうだから、今の所、俺も新しくウマ娘をスカウトする予定もないから、譲ってみようか?」

 ササクレは、それに即座に「嫌だ」と答えたが、これは、反抗期の一環のようなものだ。とりあえず、霧島のやる事なす事の反対をしておきたい。霧島もこれが分かっているから、「まあまあ、俺の話を聞いてくれ」と言うと自分で話を続けた。

「俺の友達のね?ササクレは知らないか?あのアグネスタキオンの担当をしている人だ」

「ああ、あのやけに疲れた顔をしてる自信の欠片も無さそうな男か。その癖、担当と仲が良いとか何とかで世間にちやほやされてる」

「こらこら、俺の友達なんだから、そんな邪険に扱わないでくれ。…そして、その人が、前の部屋が手狭になってきたそうなんだ。これは、その人が直接俺に頼んできたわけじゃないよ?事務の人が、たまたま一人でこの広い部屋を持ってる俺に声をかけてきたら、その相手が田上だったって言う事だ」

「それは良かった。もし、それじゃなかったんなら、自信もない上に礼儀もないのかと思った」

「本当に、俺の友達なんだからやめてくれ。あいつは凄いんだぞ?アグネスさんが幾ら足が速いって言ったって、そりゃあ、限度がある。GⅠを今回の大阪杯を含め三つもとっているんだから、それには、トレーナーとしての役目を万全に果たさなければならない。それをしているのが、俺の友人の田上だ」

「なら、その田上って奴から教わって、私の足をもっと速くしてみたらどうだ?それとも、才能の前には屈服せよってか?」

「それは、田上だって、アグネスさんとのトレーニングで忙しいんだから、俺も軽々しく聞くのは忍びないだろ?」

「それがトレーナーか?担当しているウマ娘の事を一番に考えろよ」

「それを言われると、俺もどうにも反論しにくいんだけどね?…GⅢを二つも取れたんだから、ササクレは十分に凄い奴なんだよ」

「友達からもそう言われるけどね。多分、GⅢ二つ取ったって、GⅠ三つ取ったって、大した違いはねえぞ?アグネスの奴も碌でもないって噂は聞くだろ?私の仲間内にも、試験管片手に脅されたって奴がいる」

「アグネスさんは、そんな人じゃないと思うよ。一回遊んだことがあるけど、…まぁ、脅されはしなかった」

「じゃあ、試験管を飲んだのか?」

 ササクレが、少し話に身を乗り出して聞いた。

「飲みはしたよ。物凄い苦い奴だったし副作用も凄かったけど、少なくとも、苦みだけはどうにかしてくれた」

「へえ~。…遊んだっていつ?」

「一月頃に、俺の友達と遊びに行こうって所に、たまたまアグネスさんが出くわして、そのまま遊びに行った」

「そんな奴なの?あいつ。てっきり、研究バカかと思ってたけど」

「あれも研究の一環らしいから、俺たちの遊びについてきたんだ。薬もちゃんと使えるかの検証が必要だろ?」

「そりゃそうだ」

「…それで、今日ここに呼び出したのは、田上の部屋を見に行こうって事だ。多分、順当に行けば、部屋を交換するだけの話になると思うから、…ササクレはどうする?」

「…私?…なんでこの部屋から動かなくちゃいけないんだよ。私ら以外にも、同じような境遇の奴は一杯いるだろ?そいつらに声を掛けりゃあいいんじゃないか」

「まぁ、とりあえず、考えてみますって返事はしたんだよ。返事はしたからには考えてみたいんだよ。それに俺の友達だしね?やれることなら、交代はしてあげたいんだよ。現に、見てくれ、ササクレ。この広い部屋を俺たち二人で占領しているわけじゃん。椅子なんて二個あれば十分なのに、八つもここに置いてあるよ。それを欲している人が居るというのに、自分だけ呑気にここに座っているのは少し――どれ私がその願いを叶えて進ぜよう、という気持ちになったりはしないか?」

 霧島にそう言われて、少し考えてみると、ササクレは段々とその様な気がしてきた。だから、神妙な面持ちになると、ササクレは霧島に向かって答えた。

「まぁ、行ってやってもいいかな。けど、断る時は断るから。どれくらい居心地が悪そうかによる」

 すると、霧島はぱっと晴れやかな笑みを顔に浮かべて言った。

「それは良かった。実は、もう田上と話は付けているから、後はお前だけだったんだ」

「はぁ?じゃあ、私が断った時はどうするつもりだったんだよ」

「それは、普通に断るつもりでいたよ。どうせ、お前に無理させたってしょうがないから」

 ササクレは、霧島が自分の事を分かっていてくれた嬉しさを隠す、妙な笑みを顔に浮かべると聞いた。

「いつ行くの?」

「もう今からが良いんだけど」

「嫌だ。今ゲームをしているから、もう少し待て」

「じゃあ、先方にもその様に伝える」

 やけに物分かりが良かったので、ササクレも拍子抜けだったが、それでも、今、霧島の話を聞きながらのんびりと続けていたゲームに意識を集中させた。霧島は、その前の席で、同じようにスマホを眺めていたが、それは、田上にメッセージを送っていたからだった。田上に霧島がこの話を持ち掛けたのは今日だった。田上の方は、霧島に部屋替えの相談が持ち掛けられたことは知らない。ただ、霧島が事務の人と話しているうちに、田上がトレーナー室を替えたい事をたまたま知っただけだった。それが、二三日前の事で、今日は、四月五日金曜日だ。昨日は、熱で寝込んでいて、担当しているアグネスさんに看病されていたらしかったが、それも今日は大丈夫そうだと言うから、この話を持ち掛けた。これが、田上とアグネスさんと霧島と三人で朝食を食べている時に、不図思い出した事だったから、ササクレには何にも伝えていなかった。

 ただ、ササクレのトレーニングは今日は休みの予定だったので、急に呼び出すと、その機嫌が悪くなる可能性がある。ササクレは、急な事が心底嫌いなのは、霧島も心得ていた。だから、朝食の場でその話が決まっても、その午前中の間にササクレを呼び出すのではなく、連絡はすぐにして、トレーナー室に来るのは午後からにした。なので、今は昼食を食べ終わった後の午後一時半を少し過ぎたくらいだ。田上にも長引くかもしれないというのは事前に伝えておいたので、スマホからメッセージを送ればすぐに『了解』という返答が来た。

 これに、霧島は少し安心してササクレがゲームが終わるのを待った。

 

 田上たちの方はというと、皆さん勢ぞろいして、霧島たちが来るのを待った。まず、田上の部屋の方を見てから、その後に、霧島の部屋を見に行く予定になっていた。田上たちが後なのには理由があったが、それはやっぱりササクレの事だ。この部屋交換の一番の難題は、ササクレが田上たちの部屋を気に入ってくれるのかどうかだったので、気に入ってくれさえすれば田上たちが霧島の部屋を見に行くのは二の次だった。

 ササクレが来たのは、丁度、窓際に田上が寄り掛かって、その近くの椅子にタキオンが座り、ソファーではマテリアルとリリックが話している時だった。田上の背には暖かな春日差しが暑いくらいに照りつけていた。その時、部屋の扉がコンコンと鳴って、今まで話していた一同が一瞬で静かになった。そして、田上はその体勢のまま「どうぞ」と言って、部屋の前に居る人物を招き入れた。

 入ってきたのは、やっぱり、霧島とササクレだった。霧島は、陽気そうに田上に昼の挨拶をして、その他のメンバー方には、丁寧に昼の挨拶を挨拶をした。ササクレは、小さい声で「こんにちは」と一度呟いたきり何も話さなかった。マテリアルや田上やリリックが挨拶をしても、小さく会釈をするだけで、後は警戒するように目をぎらつかせながら部屋の中を落ち着きなく見回していた。

 ササクレは、常に霧島の傍に陣取っていて、興味津々に見つめてくるリリックやタキオンなんかを無視して霧島と田上の話に耳を澄ませていたりもしたが、唐突に話題が自分の方へと振られると驚いて、「え?」と聞き返してしまった。その時に、タキオンがササクレの事を鼻で笑ったのが聞こえて、思いっきりそちらの方を睨んだが、春の日差しがタキオンにも降りかかっていて、暖かそうなのが何だか癪に触っただけだった。別に、ササクレも寒いわけではないが、あちらの席の方が心地良さそうで羨ましかった。けれども、敵地であるのにそんな事を口にする事も出来ないので、霧島の話を聞いた。

 霧島は、こう言っていた。

「ササクレは、どう思う?この部屋」

「…良いんじゃない?」

「この部屋に移るのは?」

 それを聞かれると、ササクレは部屋をもう一度見回してから言った。

「別に、悪かないとは思う」

「じゃあ、本当にこの部屋に行っていいんだな?」

「……そのソファー」

 少し悩んだ後にササクレは、自分たちの部屋にはなかったふわふわそうなソファーの事を口にした。このソファーで寝ながら霧島の話を聞けるのだったら、この部屋も案外悪くない。そういう考えがあったのだ。 

 それで、ササクレに近い方のソファーに座っていたリリックは、慌てて立ち上がって「はい」と返事をすると、ササクレが座れるようにソファーの横に立った。ササクレは、そこにおずおずと進み出て、皆の見ている前でソファーに座った。手触りや座り心地など、自分の想像した通りの物だったかを確認した。ちゃんとソファーはソファーらしくふわふわしていたので、ササクレはそのまま何も言わずに少しの間、座り心地を楽しんでいた。

 しかし、その最中に霧島から声をかけられたので、一瞬にして我に返らなければなくなったが、その心は案外満足できたものだった。これくらいふわふわな物の上に寝転がれるのだったら、部屋交換もむしろ積極的に受け付けたいまであった。

 そう思って、振り返ろうとすると、再び、椅子に座ってニヤニヤとして自分を見つめてきているタキオンと目が合った。どうもササクレにはこの女が好きになれなかった。先入観などの偏見によるものかもしれないが、どうにも、この女を見ているとムカついてくる。こんな小バカにしたようなニヤニヤ顔じゃなくても、腹が立つ。

 ピリリとした空気が部屋の中に漂ったが、一番初めに口を開いたのはタキオンだった。

「何か用かい?」とニヤニヤ顔を崩さずに言ったから、それに反発するようにササクレも言い返した。

「あなたこそ用があるんじゃないでしょうか?ジロジロ見ているんですから」

「…いや、特に用はないよ。見ていることが気に障ったならすまない。君が、ソファーに座りたいだなんて言うから」

「私がソファーに座っちゃ不味いでしょうか?何か、火傷からばい菌でも移ってしまうんでしょうか?」

「いやいや、そんな差別はするつもりはないよ」

 これは、タキオンも少し焦っていたが、ササクレは変わらず詰め寄るような口調で言った。

「差別しないと口では言っていても、あな」

「ササクレ」

 霧島が、嗜めるために口を開くと、ササクレもタキオンから視線を外して霧島の方を不服気に見た。すると、霧島はこう続けた。

「アグネスさんはそんなこと思ってないよ。…どうする?この部屋は?ソファーは気に入った?」

 そこでまたササクレがタキオンの方を見ると、丁度、田上とタキオンが目配せで何かを伝え合い、また、ササクレの方を見た所だった。

 目が合うと、タキオンは少し躊躇った後、「すまない。私も君の気に障る様な顔をしていた」と言った。それから、少しだけ頭を下げたが、あまり気持ちの籠ったものでもなかった。ササクレは、暫くその様子を見つめていたが、やがて、ゆっくりと振り向くと後ろで田上と一緒に立っていた霧島に向かって言った。

「別に、この部屋に移動してやってもいいよ。元々、ほとんどそのつもりでここには来てたから」

 大分ササクレの表情は険しかったが、それでも、霧島は嬉しそうに笑うと隣の田上に「だそうだ」と言った。田上は、ササクレの表情と言葉の違いに戸惑いながらも「ありがとうございます」と言って、深く頭を下げた。ササクレは、その頭をどこか足蹴にでもしてやりたい気持ちがあったが、その気持ちを別の所へ放っておくと霧島に言った。

「これで終わり?」

「えー、…ササクレはもう終わってもいいけど、…いつ引っ越す?」

 最後のは田上に聞いていたから、ササクレも田上の方に視線を動かした。

 田上は、こう答えた。

「いつでもいいけど、まぁ、そんなに引き延ばす必要はないんじゃない?」

「じゃあ、明日でもいいかな?」

 そう霧島が言うと、ササクレが横から口を挟んだ。

「明日にするならするでいいけど、私は、明日は手伝わない」

 すると、その次に田上が言った。

「俺たちもお前の部屋の分を手伝うよ」

「そうしてくれるとありがたい」とササクレに半分目をやりながら霧島が言うと、ササクレはソファーから立ち上がって言った。

「じゃあ、私はもう行く」

「ああ、ありがとう。休みなのに付き合わせてごめんな」

 霧島がニコニコしながら言ったが、部屋から出て行こうとしたササクレはその言葉で不意に足を止めて、霧島の顔をじっと見た。今度は、何が起こったのかと思って、田上は驚きつつ霧島の顔を見たが、相変わらず、顔に笑みを浮かべていてササクレの方を見ていた。それから、ササクレが何も話さなそうだという事が分かると、霧島が口を開いた。

「なに?」

「…いや、…失礼しました」

 礼儀正しく言いながら、ササクレはドアを開けて部屋から出て行った。

 その出て行った扉を見つめながら、田上が不思議そうに言った。

「案外、礼儀正しい人なんだね。ササクレさんって」

「え?」と霧島が聞き返すと、田上は別の事を言った。

「いや、お前が苦労してたりするのを見てたからさ」

 それだけで霧島は察することができたようだ。それに霧島は、微妙な笑みを浮かべながら答えた。

「いやいや、お前もアグネスさんの実験に付き合ったりしながら、一緒にGⅠを取るんだから、俺なんか足元にも及ばないよ」

「いや~…。え?ササクレさんってあんな人だったの?」

「ササクレ?」

「…何か、トレーニングサボったりする割に敬語とか使ってたから、…不思議だなぁって」

「ふ~ん。…ササクレ…。まぁ、俺もあんまりササクレがなんなのか分かってはいないよ。……お前が、アグネスさんとGⅠ勝てたのって何でだと思う?」

「え?…なんで?…う~ん、…俺に聞かれてもなぁ。…そもそもタキオンの走りが速くて、頭が良かった…」

 そこで、タキオンが口を挟んできた。

「私は、君なしじゃ勝てなかった。誰が何と言おうと、君が居なかったら、私は今の私たりえなかった」

 急に口を挟んできたタキオンを振り返って、田上はその顔を見つめたが、タキオンは何にも言わなかった。だから、また田上は霧島の方を見て言った。

「だそうだ」

「そりゃあ、今みたいにお前らが特別仲が良いって事は分かるけどさ。どうやったらそんなに仲が良くなれるの?」

 すると、また、タキオンが口を挟んだ。

「圭一君は私の心の支えだった」

 田上は、うるさいハエに苛つくようなそぶりでまたタキオンを振り返ったが、その後に霧島が話し出したので、再び、霧島の方を向いた。

「心の支えー?…心の支えって具体的に?」

「俺に言われても困るよ。聞くならタキオンに聞いてくれ」

 それで、霧島がタキオンに質問しやすい所に移動し、田上もそれに倣ってタキオンを霧島と二人で囲むように移動した。

「え、アグネスさんは、田上のどういう所が心の支えだった?」

「全部」

 田上は、それに嬉しかったか恥ずかしかったかを隠したかったのか、眉を寄せたが、それには気が付かずに霧島がまた質問した。

「全部って言っても、何か特徴的なところはあるでしょ?」

「ええ?……まぁ、強いて言えば、お弁当を作ってくれたことは私の大きな支えになったかな」

「へぇ、…でも、ササクレにお弁当を作って持っていったって、しょうがないしな。それに、必ずしもGⅠが勝てるようになるって訳でもなさそうだし」

「まぁ、おいそれとは行かないものだし、本格化だって微妙なところはあるからね。まだ、彼女は本格化が始まっていない時に、選抜レースに出て君にスカウトされたのかもしれない。すると、まだ、GⅠを勝てる見込みはあるだろう」

「ええ?でも、…でも、ねぇ?トレーナーとして俺にもっとやるべきことってないのかな?」

「それは、ぜひうちのトレーナー君に聞きたまえ。トレーナーとしてやるべきことは、圭一君が一番知っているはずだ」

「圭一君ねぇ…」と言いながら霧島は、田上の事を見つめたが、タキオンがこの前会った時とは別の呼び方で田上の事を呼んでいるのには気が付いていなかったようだ。田上は、また、指摘されるんじゃないかと思って一瞬身構えたが、霧島は、それには触れずにこう言った。

「田上は、アグネスさんをトレーニングするうえで何か考えてるの?」

「俺?…別に、学校で習った事をそのままやってるだけだよ」

「それに、情熱をほんの一摘み」とタキオンが口を挟んだが、霧島と田上は黙ってタキオンを見た後、それに何も答えないで話を続けた。

 霧島が言った。

「でも、俺も学校で習った事はやってるつもりだけどなぁ。…情熱もない事はないし」

「でも、ウマ娘本来の力の差もあるってのは常識だろ?俺は、たまたまタキオンをスカウトできただけだよ」

「なんでスカウトできたの?」と霧島が言ったのは、タキオンに向けてだった。

 タキオンは、自分に質問されると、霧島を見上げながら言った。

「なんでと言われても、それは、圭一君が私にぴったりだったからだよ」

「もし俺が、スカウトしてたらダメだった?」

「いや~、君には狂気が足りないだろうね。私の薬を三本一気に飲み干すくらいの」

 すると、霧島が驚いた顔をして田上に言った。

「お前、そんな事やったの?」

「…まぁ、やったことにはやったけど、…だって、あのアグネスタキオンのトレーナーになれるんだったら、誰でもできる事だろ?」

「お前、それは、イカレてるよ。誰でもはできないよ。誰でもは。お前だけだよ。俺なんか一本でも怖かったのに、それをお前は三本も一気に飲んだんだろ?そりゃあ、アグネスさんのトレーナーになれるわけだよ」

 その次にタキオンが田上に向かって言った。

「だから言っただろ?君以外の男性諸君は嫌なんだって」

 そのタキオンのニヤニヤ笑いに少々腹が立ったが、それは無視して、田上は霧島に言った。

「まぁ、俺はあんまり特別な事はやってないよ。…それよりも、お前の部屋を見させてくれよ。ここに居る人は全員簡単に座れるんだろ?」

「ええ?…いや~、それにしてもなんだろうね?アグネスさんは、この世代の中で飛び抜けて強いわけじゃん。菊花賞は、マンハッタンカフェが取るなんて言われながら、お前とアグネスさんとでかっさらったわけだろ?…何かあんのかな~?」

 霧島はどうにも納得が行っていないようだったが、それを言ったら、田上だって、自分がタキオンの恋人でいれる事どころか、GⅠウマ娘の担当である事すらあんまり納得が行っていない。今は、ただ、タキオンの傍で生きようと決めただけだった。それだから、田上も難しい顔をしながら「何にもないよ」と答えた。それから、また、霧島が話し出すと面倒なので、「お前のとこの部屋を見させてくれよ」と言った。その言葉で、霧島も田上に担当を勝たせる秘訣を聞くのは諦めたようだ。「ああ、そうしよう」と言うと、田上と一緒に出て行こうとした。

 田上も一緒にその後についていこうと思ったのだが、他のメンバーにも呼びかけないといけないので、部屋にいるそれぞれを見回すと、言った。

「どうする?」

「私は行く」とタキオンが最初に言うと、それに続いてマテリアルとリリックもそれぞれ「行く」と言った。

 タキオンは、椅子から立ち上がると、すぐに当たり前のように田上の隣へ行って、その手を掴んだ。田上も最早当たり前のようなものだったので、その手を握り返したが、その様子をしげしげと見つめながら霧島が言った。

「手を繋ぐまで仲が良いんだな…。前に遊びに行った時もおんぶしてたくらいだしな」

 これで、自分たちのしでかしたことに気が付くと、田上は、手を放したそうにもぞもぞさせたが、タキオンはニヤッと笑っただけでその手は放さなかった。

 そして、マテリアルとリリックもドアの前まで来ると、霧島と田上とタキオンを先頭に歩き始めた。と言っても、田上は、霧島のトレーナー室がどこにあるのか分からなかったので、常にタキオンを小脇に抱えながらも曲がり角が来る度にここで曲がりはしないかと警戒していた。そのせいもあってか、一行の進みは少し遅かったが、それでも、霧島のトレーナー室へと着いた。

 

 霧島のトレーナー室は、南校舎の三階にあった。丁度、そこを出てみれば、タキオンの研究室が見える場所だ。その部屋の前まで来ると、タキオンは、何か思う所があるのか、そこから自分の研究室を見ていた。しかし、田上がその後に手を引っ張って先へ進む事を催促すると、何も言わずに霧島のトレーナー室へと入った。

 タキオンは、それからも無言で、田上の横について霧島のトレーナー室を眺めた。田上は、満足げな表情を浮かべて、「大分広いな」と言いつつ、霧島と何個か話をした。それから、黙っているタキオンに向かって、こう聞いた。

「タキオンは、この部屋に何か不満とかないか?」

 タキオンは、暫く黙ったまま、何をしようとしているのか分からない面持ちで田上を見つめた後、言った。

「…ソファーが無いのが少し残念だね」

「ソファー?欲しいなら買ってやるよ」

「ありがとう」

 知らない所へ来たからなのか、タキオンは大分、落ち着いた口調で田上と話していた。田上は、それを不思議に思ったが、今は特段タキオンに何か聞くつもりはなく、また、霧島と二三個話をした。

 マテリアルとリリックは、窓から外の景色を見ていた。元々が一階だったので、ここは大分高く感じられたが、それでも見えるのは、コンクリートの街並みなので特別感動する事はなかった。リリックの方は、田上とタキオンの傍に居ても仲間外れ感があるだけなので、マテリアルの尻に引っ付いてきただけだった。

 二人して窓を開けて外のぽかぽかとした空気と涼しい風を感じた。今の二人の間に話すことは無かったので、二人は黙ったまま肩を並べて外を見て、田上たちの話が終わるのを待った。その間に、窓から吹き抜ける風によって、霧島のトレーナー室にあった書類の何枚かがひらひらと床の方へと舞い降りたので、それに気が付いたマテリアルが書類を拾い上げ、元の場所へと戻した。

 そして、丁度その時に、田上たちの話が終わったので、マテリアルがリリックに「窓を閉めておいて下さい」と頼んだのだが、その後に霧島が「あ、閉めなくてもいいよ。そのままで」と呼び掛けたので、リリックは少しの間混乱して立ち尽くした。マテリアルは、それを見ると、微笑んで「大丈夫ですよ」と安心させるように言った。だから、リリックは、疑いながらも窓を開けたままその場から離れた。



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二十二、ササクレ②

 霧島のトレーナー室から出ると、田上はメンバーの方に「詳細は追って連絡する」との言葉を残して解散しようとしたのだが、タキオンは田上から離れようとせず、マテリアルも「えー、暇ですねぇ」と言って動こうとはしなかった。それで、リリックはこの状況で自分一人だけ帰って友達と遊ぶことを選択してもいいものかと迷ったが、田上が「リリーさんはどうするの?」と問いかけると、途端に顔を晴れやかにして「友達と遊びにいってもいいですか?」と聞いた。その言葉に田上が、「全然いいよ」と答えると、リリックは「それじゃあ」と言って、廊下を走り気味に歩いて行った。

 田上は、まだ霧島と書類のやり取りやらで用事があったのだが、それにはノコノコとタキオンとマテリアルもついてきた。マテリアルとタキオンがついてきても、何もやる事はなく、暇が解消されるのかと言えば、そうでもない。タキオンは、単純に田上の傍に居たいから、田上の左側をその手ごと陣取っていたのだが、右側には霧島が陣取っていたので、マテリアルの入り込む余地はなかった。それだから、一番ノコノコと後ろをついてきていたのはマテリアルで、会話すらも入り込めはしないのかとも思えたが、いとも容易く食らいついてきて、会話の端々にマテリアルがいた。

 そして、順々に田上のトレーナー室へ再び戻り、必要な書類を取り、事務室で手続きをして部屋交換が行われた。これで、名義上の部屋交換は行われたので、トレーナー室の鍵は双方で交換するはずだったのだが、まだ、実質的な引っ越しは行っていないので、とりあえずは田上と霧島がそれぞれ自分の部屋の鍵を持っていた。

 その後に、引っ越しはいつするかの具体的な取り決めが行われた。明日は随分早急なように思われた。しかし、別に、引き延ばす理由もなかったので、いっそのこと面倒事は早くに終わらせたいという田上の意見から、引っ越すのは明日にする事にした。ただ、なるだけ簡潔に済ますことができるよう、今日から荷造りをやっておこうという話になった。

 そこで、田上と霧島は別れて、荷造りでもしタキオンやマテリアルの力が必要なら、皆で霧島の所に応援に行く事になった。トレーナー室の大きな物は、ほとんどがトレーナー室に備え付けの物だったので、動かすことはほとんど予定になかった。一番は、パソコンの中にあるデータだった。田上や霧島は、荷造りをしながらそのパソコンのデータをハードディスクに移す作業をした。時間は、まぁそれなりにかかったという感じだったが、漏れがないかを確認しなければならなかったので、それが田上には少し面倒だった。

 タキオンは、荷造りには参加しようとはせずに、田上の椅子を借りてその様子を怠そうに眺めるだけだった。そのため、椅子の無い田上はパソコンの作業を腰を曲げたり、しゃがみこんだりしてしないといけなかったため、その作業には若干の辛さも伴った。タキオンが、何を想っているのかは田上も知らないため、黙ったままで居るなら黙ったままで放っておいたのだが、ある時、タキオンが、目の前でしゃがみながらパソコンでの作業をしている田上に言った。

「……部屋が変わるのか…」

 これは、初め自分に向けて言われたと思わなかったので、田上はその言葉を無視してパソコンの作業をしていた。しかし、タキオンも田上に何か言いたかったので、もう一度呼び掛けた。

「本当に部屋を変えるのかい?圭一君」

「ん?…変えないとさすがに狭すぎるだろ?後二人は入る予定だし、今のままだとしてもお前の座る場所がないだろ」

「あるとも」

 タキオンが、少し表情と声色を明るくして言った。

「どこに?」

「君の膝の上。その上に私が座れば一件落着だろ?」

「ないよ。高校生を膝の上に抱えて、パソコンの作業ができると思うか?」

「やればいいだろ?私の恋人だ。それくらいの事はできるはずだ」

 そう言うと、田上とタキオンから少し離れた場所で屈みこんで作業をしていたマテリアルが口を挟んだ。

「トレーナー室で四六時中恋人同士のいちゃいちゃを見せつけられる私たちの身にもなってください。鬱憤しか溜まりませんよ」

「だそうだ」と田上が諭すようにタキオンに言ったが、タキオンはこう反論した。

「マテリアル君の鬱憤は勘定に入れたってしょうがないよ。彼女の場合は、私たちが恋人でいる時点で鬱憤が溜まっているようなもんだ。こうして私たちで話している間にも鬱憤は溜まってゆく」

「だそうですが、マテリアルさん」

 田上が半ばふざけた調子で、自分に向けられた言葉を上手くマテリアルの方に流した。すると、マテリアルは眉間に皺を寄せながら、立ち上がって言った。

「鬱憤なんてあなた方がいちゃいちゃしてる時点で溜まっていくんです。あんまり言うと蹴りますよ!田上トレーナーを!」

「ええ?俺ですか?」

 田上が笑いながらそう言うと、マテリアルが続けた。

「ええ、そうです!私が走ってタキオンさんを追いかけたところで、どうせ敵いっこありませんもん!だったら、田上トレーナーを蹴った方が効果的です!できるだけ痛めつけてやったら、タキオンさんだって、さすがに反省するでしょう」

 すると、次にタキオンが心外そうに言った。

「私だって普通に反省はするよぉ!…まぁ、大抵の事は聞き流すが」

「なら、普通には反省してないじゃないですか!」とマテリアルがツッコミを入れたが、これでは作業が終わらないと思ったのか、また、屈みこんで作業をし始めた。それを見届けると、タキオンは田上に言った。

「でもね、圭一君。ここは、私たちの思い出の場所だよ?考えても見てごらんよ。まだ、GⅠどころかオープン戦にも勝っていない頃、私たちの物語はここから始まったんだ」

「でも、お前は、最初は結構サボってばかりだったし、ここにもあんまり来なかっただろ?」

「そりゃあね。…まだ、仲が良くなかったわけだから、ここにも頻繁には訪れようとは思わなかったさ。でも、私の研究が行き詰まってきたときなんかは、ここで過ごしたじゃないか。私は、その思い出を忘れないぞ」

「俺だって忘れないけど、………じゃあ、どうすればいい?」

「…もう少し私を気にかけてくれ。もう少し私に何か聞いてくれればよかった」

「でも…」と田上が言いかけたが、それを遮ってタキオンが続けた。

「でも、もう無理なものは無理だから、もう少し私の相手をしてくれ。寂しいじゃないか、こんなにほったらかしにされると」

「…何かしてほしい事はあるか?」

 田上が仕方なく聞くと、タキオンがこう言った。

「紅茶を淹れてくれ」

「今は無理だ。今片付けようとしているのに、カップなんて出すのはダメだ」

「私だって嫌だ。もっと私を見たまえ、恋人君!君の恋人は誰だ?…私だ。…紅茶が駄目なら、もっと私の相手をしたまえ」

「…じゃあ、何が良い?」

 田上がそう言うと、タキオンは少し考えた後言った。

「君が考えたまえ。私の相手をする最善の策を。別に、紅茶なんて淹れなくたっていいから、私の相手をしたまえ」

「…じゃあ、一緒に片付けしよう。お前もマテリアルさんと荷造りしてくれ」

「君は?どうするんだい?」

「俺?…パソコンのあれこれが終わって、初期化したら、荷造りに参加するけど…」

「それは長くかかりそうかい?」

「…まぁ、…どうだろうな?…あんまり長引きそうな気配はない」

「じゃあ、それまで君の懐で休ませてもらうことにしよう」

 それから、タキオンは立ち上がると、田上の下へ歩いて行き、そのパソコンと田上の間に強引に割り込むと、そこから田上と一緒にパソコンを眺めようとした。しかし、田上もこれでは作業にならない。今まで辛い体勢だったのが、タキオンが割り込むことによってもっと辛い体勢になっただけだ。それで、田上はパソコンでの作業の手を止めてタキオンを脅すように見つめ始めたのだが、懐に入ったタキオンはそんな事にはお構いなしで、例え田上の顔を見つめても「なんだい?」と田上の言いたい事は分かっているくせにニヤニヤ顔で聞いてきた。田上は、どうにも怠くて仕様がなかったが、とりあえず、先へと作業を進めたかったのでパソコンに向かった。しかし、すぐに腰が痛くなり始めて、我慢の限界へと達した。だから、田上はタキオンに向かって言った。

「もう、どいてくれ!この体勢じゃきつい。膝に抱える方がまだマシだ」

「じゃあ、膝に抱えるかい?」

「抱えん!俺の傍に居たいなら勝手にすればいいけど、邪魔はするな!」

 タキオンもこれ以上田上を怒らせると不味いと思ったのか、そう言われると素直に退いた。それで、田上にはやっと椅子も手に入って、パソコンで真面な作業ができるようになった。タキオンは、田上の邪魔はなるだけしないように、周辺をうろつきながら荷造りをする事にした。その時に、タキオンが色々と田上に話しかけたが、これには田上もなるべく答えるようにした。田上の心にも少しは、タキオンの心を無下に扱ってしまったという罪悪感があったので、答えることでタキオンも許してくれたらいいな、との願いだった。タキオンは、それが特に嬉しいとは感じなかったが、それでも、田上が何も答えてくれなかったら、ああだこうだ言うつもりだったので、結果的には答えてくれた方が嬉しいに越した事はなかった。ただ、田上が集中したい時は「ちょっと黙っててくれ」と頼まれるので、そういう時は黙ってあげることにした。そして、田上が集中している様子を後ろから眺めるのが少し面白かった。ぶつぶつ独り言を言いながら考えている様は、なんだか子供のようでもあって、それが愛おしくもあった。

 

 そうしているうちに田上は「よし!」と一息付けた声を発すると、椅子から立ち上がって、部屋を見回した拍子にタキオンを見た。タキオンも田上の事を見ていたから、二人は暫くの間見つめ合ったが、マテリアルの咳が一つ聞こえると、二人は視線を外して、荷造りを進めた。この時の咳が、本当に喉の調子がおかしくて出た咳なのかは定かではない。本棚にあった本の大部分は、マテリアルがもう段ボール箱へと詰めてくれていた。別に、テープでしっかりと段ボールを閉める必要もなかったため、天井が開いているのも何個かあったが、その中に田上がいつか読んだ古びていて小さくて茶色く薄汚れた詩集を見つけた。

 マテリアルの非難する目にも気が付かず、田上が段ボールにしまわれたその本を取ってぱらぱらとめくってみた。そうするうちに、あの日見た詩を見つけることができた。地獄三丁目の詩だ。永遠の中に愛を望む詩だ。――あの時の自分は酷かった、と田上は、今その詩を読みながら省みたが、今の自分が良いのかと問われると、あまり成長はしていないような気がした。今も全く分からない。何が分からないのかが分からない。根本として、精神病者な面は変わっていない。今はただ、タキオンと一緒に恋人としていれる事だけが幸せだった。その後の事は考えないようにしている。考えても考えても解けない問題は、もう考えない事にした。――自分はタキオンと居れればそれでいい。そう自分に言い聞かせて、思い込むことに尽力している最中だ。タキオンがそれでいいというのなら、田上に考える必要はなかった。タキオンも自分と一緒に心中する覚悟でいる事をただ信じるだけだった。その事に、是も否もない。これに口出ししようとしてくる奴がいるのであれば、田上は、それを無視するか追っ払うしか無かった。

 今は、生きる事に必死だ。生命というものを限界まで限界まで落ち詰めて自分の心臓を動かしている。逃げる事は己が許さず、ただ、タキオンを見つめ続ける。それが、田上の役目だった。果たして、自分の存在意義というものがこれでいいのかどうかは、前述の通り考えない。考えてしまえば、生きる事に迷う。迷ってしまえばふらついてしまう。ふらつけばタキオンが不安になる。タキオンを不安にさせないためには、田上は、考えない事こそが最重要項目だと信じた。

 それ故に、今は、自分というものが少しあやふやではあるが、これも考えない。自分を考えるという事は、生きる意味を考えるという事だ。自分という意識の果てで、自分が何をしているのか。それに気が付いてしまう事は、タキオンを一人にしないためにも避けなければならなかった。自分自身がなんであるのかに気が付いて、その結果田上がタキオンを一人にしてしまう事が絶対にあるとは言えなかったが、タキオンと一緒に生きる上でそれを考えてしまってはダメだと感じた。

――タキオンを一人にしてはいけない。

 今の田上の心に下される命令は、それだった。

 

 田上が詩集を立ったまま黙って読んでいると、横からタキオンが覗き込んできた。脇には箱を抱えたまま、田上の肩に頭をくっつけながら、その詩集を見ようとしてくるから、田上は、タキオンが読みやすいように少し傾けて広げて見せた。

 すると、タキオンもその詩集の事を思い出したようだ。

「ああ、あの、まだ付き合っていない時に君が疑問に思っていた詩集だね?」と田上に語り掛けながら、その詩集をしげしげと見つめた。だから、田上が、タキオンが読み終わったかな?と思う時間になると、一ページめくってやった。すると、タキオンが「ふ~ん」と頷きながら言った。

「君のお気に入りの詩はあったりするのかい?」

「お気に入り?…今は、…この詩が浮かんでくるな…」

 田上は、そう言って、あるページを開いた。それは、最後の最後の方のページだった。

 

『 知的な探求心

  

  私は短刀を持って正座をする

  首の上に頭はない 血が滴っている

 

  私は恋人を待ち焦がれる獣

  腹の中に臓物はない 空腹もない

  

  良ければ私を殺してくれないだろうか?

  それは無理だろうか? どうしてもだろうか?

  私に自死を選べというのだろうか?

 

  愛の中に救いはあったのだろうか?

  それとも無いのだろうか? 一途であればいいのか?

    

  恋の獣に一途を選べというのか?

  一途は人を殺す刀となり得るだろうか?

  

  短刀は私の言う事を聞いてくれるだろうか?

  それとも聞かないのだろうか? 手が震える

 

  死にたい 死にたい

 

  私は意を決して腹に短刀を刺す

  痛みは腹の底から湧き上がる

 

  もう一度引き抜き、刺す

  もう一度、刺す 刺す 刺す

 

  死ねない

 

  短刀は人を殺せなかった

  私は自死の道を歩めなかった

  それ故に私は再び立つ

 

  這いつくばってでも立つ

  恥ずかしくとも死にそうでも

  短刀は私を殺せなかった

  

  ならば、生きねばならない

  さようなら さようなら

  今日はもう死ねない               』

 

 それをじっくりと読んだ後に、タキオンがこう聞いた。

「なんでこれが思い浮かぶんだい?」

「…分からん」

「……じゃあ、私が当ててあげよう。…ん~、…自死。君、まだ、そういうのに惹かれていたりするかい?」

「…分からん」

「んん?…じゃあ、私と恋人同士になった事でまた考えることができたんじゃないかな?」

「…知らない」

「……まぁ、これからも仲良くしていこうね。君と私は恋人同士なんだから。この女の人のような悩みができれば、すぐに私に言いたまえ。一緒に考えるから」

「ああ」

 田上は、自分の心の内とは裏腹に、顔に笑みを作ってそう答えた。

 

 そして、また、荷造りを始めた。タキオンと田上が、詩集を見てイチャイチャしている間にもマテリアルは手際よく作業を進めていて、本棚の本はなくなっていた。後は、紙の資料が他の棚に幾つかまとめられて置いてあるだけなので、荷造りは今日のうちに終わりそうだった。これは、ほとんどマテリアルの功績だったが、マテリアルは敢えて褒められたいとも思わなかったので、何も言わずにただ黙々と作業を続けた。

 その作業で一番耳障りで目障りだったのが、田上とタキオンだ。荷造りをしていたとしても、マテリアルの周りでずっといちゃいちゃし続ける。マテリアルの劣等感に触れる事もそうだったが、単純に目を向けづらいというのもあった。どこへ目を向けても、視界の端で二人がイチャイチャしているのが感じられる。例え、離れていたとしても、そこでまた会話を始めるから、耳障りである。大抵は、タキオンから田上に話しかけたりくっついたりしてイチャイチャするものだったが、マテリアルは、タキオンと恋人という時点で田上は有罪だった。だから、マテリアルのイライラから田上が逃れる術はなかったのだが、今は、マテリアルもそれを作業に集中させることで発散させていた。それでも、聞こえたり見えたりするものは鬱陶しかった。

 タキオンは、簡単そうなものが全て終わったと見えると、もう田上の傍にしか居なかった。書類などは、面倒臭そうなので、田上がやるのに任せた。タキオンが今やる事と言ったら、専ら、田上の横で色々と喋ったり、隣の彼の様子を見る事だけだった。

 

 そんなこんなで、作業は終わりへと近づいて行った。荷造りは、マテリアルの手際の良さによって、案外早く終わった。床には段ボールが並べられ、窓にあったタキオンを模したぬいぐるみ達も棚に敷き詰めてあった本も一切合切無くなって、部屋はがらんとしていた。そこに、夕日が入ってきたのが、何だか心許なくなった。田上もタキオンも同じ気持ちのようであった。マテリアルがどうかは知らない。ただ、三人でこの部屋を暫く黙ってみると、マテリアルだけ「じゃあ、私はこれで帰ります」と言って帰っていった。その際に、明日の予定なども聞かれ、田上はそれに対応しなければならなかったが、マテリアルを見送って田上がまた元の位置に戻っても、タキオンは変わらずにじっと部屋を見つめていた。だから、田上が聞いた。

「寂しいのか?」

 これには、タキオンも答えなかったので、また、田上は言った。

「俺も少しは寂しいよ」

 すると、タキオンが口を開いた。

「私も寂しいよ。…こう、…何か、…色々あったのに、…色々あったのに、風景っていうのは簡単に形を変えるんだなぁ…」

 それから、タキオンは悲しそうにため息を一つ吐いた。その後に、田上が言った。

「簡単だよ。案外簡単だ。今までの日々は、たった一つの出来事で壊れていったりする…」

「………君のお母さんの事かい?」

「…それもあるけど、一番は、もう帰れない場所の事だ」

「…こことか?」

「ここもだし、俺の生まれた町もだ。もうあそこへは帰れない」

「そうか…。君、引っ越したんだっけ。大内県に」

「そう。鹿児島から大内に」

「その時、どんなことを想った?」

「……あんまり覚えてない」

 そこで二人の会話は途切れたが、それは、タキオンが田上の方に向き直ったからだった。

 向き直ると、タキオンは言った。

「私を抱きしめて…」

 田上は、無言のまま頷きもしないで、その体を抱き締めた。春の夕日が暖かく部屋に入り込んできていたが、それ以上に、二人の体温がお互いを温め合った。田上は、ひしとタキオンの体を抱きしめて、タキオンはそれにくっついていた。そして、暫く抱き締め合った時にタキオンが言った。

「寂しい…」

 田上は、何か答えようと口を開きかけたが、結局、何も言葉が出てこなかったので、再びその口を閉じただけだった。それでも、二人は抱き合ってお互いの寂しさを紛らわそうとはしていた。時を忘れるほどに、抱き合って、いつしか陽が沈んで部屋が暗くなっていった。

 

 田上だって、タキオンから離れたくなかった。今は、部屋から離れることが寂しいというよりも、タキオンから離れる事の方が寂しかった。タキオンも同じような気持ちはあったかもしれないが、田上よりかは、この部屋自体から離れることが寂しくもあった。

 けれども、こう暗くなってくると、さすがに離れなければならない。田上は、もういつまででもこうしているつもりだった。タキオンから何か言わない限り、田上も離れる術を持たない。そういう意味では、タキオンの方が幾らか理性的ではあった。タキオンが、不意に部屋が暗くなっていることに気が付けば、もうそろそろ帰らないといけないと思い始めた。しかし、こうも熱心に抱き締められてはタキオンも嬉しかったし、離れようとも言い辛かった。だが、いつかは別れないといけないので、タキオンの方から話を切り出した。

「…圭一君」

「……何?」

「そんなに私の事が好きなのかい?」

「…嫌いじゃない」

「恋人同士なんだからもっとはっきりと言ってもいいんだよ?」

「…嫌いじゃない」

 田上がそう言うと、タキオンは少し苦笑した。

「幾ら恋人同士になったといっても、君の照れ屋は直らないな」

「…タキオンがおかしいだけだ。俺には、率直な意見なんて言えない」

「まぁ、でも、言わないと好機を逃すこともあるだろ?それと同時に、率直過ぎると人間関係が少し厳しかったりもするが、そこは君の出番だ。ずっと私を支えてくれている君が、私の一番の頼りだ。…圭一君」

 タキオンが最後に呼び掛けてきたので、田上は「何?」と答えた。

「あんまり不安にならないでくれ。私は、私の安心も得たいけど、君も安心させたいと持っているんだよ。君が不安であると、私も少し不安になって来るしね。…私じゃ、安心できないかい?」

 それに田上は曖昧に首を傾げたまま、「分からん」と言って、タキオンを抱きしめていた腕を解いた。タキオンは、少し不満げな様子で田上を見ていたが、その後にこう言った。

「キスは?してくれないのかい?」

 田上は、しかめっ面のまま黙ってタキオンを見つめると、次に、少しタキオンと目線を合わせると、その頬の方にチクチクする髭と共に唇くっつけた。タキオンは、当然唇にしてくれるものだと思っていたから、頬にキスされた時は戸惑ったが、すぐに自分の気を持ち直すと、目の前でタキオンが言葉を発するのを待っている田上に言った。

「唇にはしてくれないのかい?」

「…連日唇ばかりだと、飽きるだろ?」

「私は飽きないよ」

「じゃあ、もう一回した方が良いのか?」

「ああ、君がしたいのならしてくれ」

 この判断をタキオンは田上に委ねたが、ここで、唇の方にキスをしない判断をしてしまえば、後で何か言われるのは分かっていたから、田上は、そこは素直にもう一度タキオンとキスをした。幸せな一時だったが、タキオンが思っているよりも早く、田上の方から唇を離してしまったので、タキオンはまたもや不満だった。しかし、唇にキスをしてくれ、抱き締められれば、十分な量の満足は得られたので、タキオンは何も言わなかった。代わりに、「帰ろうか」と一言言うと、田上の手をそっと取ってトレーナー室から出た。

 

 次の日になると、田上は怠惰なままベッドにてスマホを見ていた。朝起きたはいいが、今日は少し冷えているので、起きづらかったのだ。そうやって、スマホを何の気なしに見ていると、唐突に自分たちについて書かれている記事が目に飛び込んできた。この前の、自分たちが海に遊びに行ったところに突撃した記者の出来事の記事だ。田上たちについて、悪くは書かれていなかったし、むしろ、日常なんかを切り抜かれたようで、ひたすらに田上とタキオンの良い所が羅列してあり、なんだか面映ゆかった。すると、その記事が終わる頃にタキオンからLANEでメッセージが届いた。そのメッセージには、今田上が読んでいる記事に繋がるURLが乗せられてあり、その後に、こう文字が並んでいた。

『あの記者は、私たちのファンだったのかもしれない』

 田上にもタキオンの言っていることが分かったので、すぐに『俺もそう思った』と送ると、また、タキオンからメッセージが届いた。

『感想欄を見て。面白い事が書かれている』

 その文を見ると、田上は、その記事の感想欄を見に行った。そこまで、注目度の高い記事ではなかったが、様々な感想がその記事に寄せられており、その中にこれじゃないかと思うものを見つけた。それは、こう書かれていた。

『二人で海。つまり、デートに行ってたんだろ?記者さんもあんまり二人の時間を邪魔してやんなさんな』

 だから、田上は、タキオンに『デートに行ってたんだろ?のコメント?』と聞いた。すると、また、少しした後にこう返ってきた。

『そう。世間じゃ、案外私たちの事をもうカップルだと気が付いているのかもしれない。特に、ウイニングライブの事もあったし』

 そして、その後にもう一つメッセージが来た。

『君の所に行く』

 これには、田上も慌てた。まだ、自分は布団の中だ。着替えもしていなければ髭も剃っていないので、こんな姿をあんまりタキオンには見せたくなかった。だけども、幾分かは落ち着いていて、その情報の真偽や詳細を確かめるために、『いつ来るの?』と聞いた。すると、タキオンから『もう行く。朝』と返ってきた。幾ら時間を質問されたからと言って、その時間が直ぐ後では話にならない。ウマ娘寮から田上の部屋まで、全く以て時間はかからない。髭を剃る時間どころか、完全に着替えきるにも至らないかもしれない。だから、田上はもう諦めて、タキオンが来るのを待った。とりあえず、タキオンを出迎えて、それから色々と朝の支度をすればいいやという寸法だった。



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二十二、ササクレ③

 LANEのメッセージの通り、タキオンは直ぐに来た。いつもとあんまり変わらない服装でドアを開けて「やあ」と入ってきた。今度は、ノックもしないで入ってきたので、タキオンの意識として、ここはもうすっかり自分の家のつもりらしい。田上は、当然、ノックがあって、タキオンが中に入ってくるものだと思っていたから、そのつもりでベッドの上でスマホをぼーっと眺めていたのだが、タキオンは何の断りもなしに入ってきたので、田上は途端に心臓をバクバクさせながら、玄関へと続く通路の方を見た。そこから、タキオンは少し田上を部屋の中に探しながら顔を出した。そして、ベッドでまだ寝転がっていて、自分をしかめっ面で睨みつけている田上を見つけると、タキオンは、口元をニヤリとさせて再び「やあ」と言った。田上は、暫く混乱したままでいたが、やがて、自分も「やあ」と挨拶を返した。タキオンは、その返事を聞きながら、部屋に置いてある椅子に座ると、それを田上の方に向けて、ベッドに寝転がっている田上を見下ろしながら言った。

「さっき起きたばっかりかい?」

「…いや、…それより前には起きてた…」

「じゃあ、私と同じくらいに起きていたんだね。…それで、あの記事を呼んだだろ?…私、あの記事を呼んで思ったのだけれど、世間は、案外私たちをお似合いのカップルだと思っている可能性だ」

 そこで、田上が反論しようと「え、…」と口を開いたが、タキオンは自分が話をしたかったため、それを遮って言った。

「まあまあ、まずは私の話を聞いてくれないか?…まずね、記事自体がそうだったじゃないか。田上トレーナーとアグネスタキオンさんは、ここがこうこうでこういう所が素晴らしいパートナーだと思います。そんな文章が散見されただろ?」

「…まぁ…」と田上は躊躇いながら頷いた。

「それでは、少なくとも、あの記者には良いパートナーだと思われているわけだ。それに、私たちのキスも知ってあの記事を書いているのだから、良いカップルだと思われていると言っても過言じゃないだろう。そして、次に、感想欄の存在だ。君はあの感想欄を他にも読んだかな?」

「まぁ、少しは…」

「なら、分かると思うが、あそこは想像以上に私たちの仲について言及する感想が多かった。勿論、大阪杯の時のウイニングライブのせいでもあるかもしれない。また、インタビューでも君が交際の是非についてお答えできないと答えたせいもあるだろう。これは、君も満更じゃなかったんじゃないのかい?」

 タキオンはそう言って、からかうような笑みを顔に浮かべたが、すぐにそれを消すと言った。

「それで、君もあのインタビューは、本当に私たちの仲を隠したかったのであれば、平気で嘘を吐けばよかったんだ。別に、君を責めてるんじゃないからね。今は、事実を整理しているだけだ。だから、君が平気で嘘を吐かなかった以上、私たちのファンはそれ見た事かと大騒ぎだ。元々、仲は良いで私たちは通ってただろ?私は、意識して仲良くしたわけじゃなかったけど。…それで、ファンが交際しているのかもしれない私たちを見て湧きあがった感情は喜びだ。あの感想欄を見る限りでは私はそう思う。君はどうだい?」

「…まぁ、思わない事もない」

「うん。すると、だ。ここから本題に入ろう。君は、私とは釣り合わない、君にとって私は高嶺の花だ。そんな風に思っているだろ?…まぁ、付き合っている付き合っていない以前の話だ。私のトレーナーであることも君は何処か不確かでもいる。これも、君が前に言っていたことだ。つまり、君は、自分に対する評価が低いわけだ。ここで、君は本当はできる奴なんだってことは言わない。そんな事を言っても君は納得できないだろうからね。だから、今回は別の方向で攻めてみることにした。そう。…君が他人の目を気にして、自分の評価を不当に下げるのであれば、周りの様子を観察してみればいい、というのが、今回の題だ。何か、言いたい事はあるかな?圭一君」

「……首疲れた」

「ああ、見上げる形になるからね。…じゃあ、どうしよう?…私が君の布団に入ればいいかな?一昨日のような形で」

「いいよ」

 田上はそう言うと、布団を広げてタキオンが中に入りやすいようにした。そうして、タキオンが中に入ると、その顔を嬉しそうに歪ませてクスクスと笑い始めた。それが、少々長く続いたので、田上は一向に話を再開しないタキオンに話を進ませるために「何がそんなにおかしいんだ?」と聞いた。そう言われると、タキオンは、クスクス笑いを堪えながら田上に言った。

「いや、…ね?私たちは、こうして布団の中で話すのが一番性に合っているのかな?と思って。だって、君の家に行った時も私たちはこうして話し合ったじゃないか。もしかしたら、布団の中というのは人の中身を引き出してくれる性質があるのかもしれない。うん、布団はリラックスできるからね。そして、君という恋人もいるわけで、私という恋人がいるわけで、布団の中で話すというのは実に良い事なのかもしれない。それを、私たちは無意識のうちにやっていたようだ」

 タキオンが嬉々としてそう報告すると、田上は苦笑しながら言った。

「布団万々歳って事?」

「そういう事だ。…で、何だったかな?」

「布団万々歳」

「それじゃない。…えー、…周りを観察してみようという事だ。周りを丁寧に観察してみれば、君と私が付き合うことに異論を持っている人が案外少ないという事が分かるんじゃないか?」

「いや、でも、それこそマイノリティの可能性があるんじゃないか?あの記事は、そんなに話題にはなっていなかったし」

「ふむ。でも、そうなると、君は世界中の人に私たちの関係を認めてもらおうという事になる。これは、別に極論でも何でもない。世界中だって日本中だって、『人口の多い社会』という意味ではあまり大差はない。一億人か、八十億人かと言ったところだ」

「それは、日本の八十倍だよ。大差あるよ」

「なら、君は一億人と八十億人の違いをはっきりと感じ取ることができるかい?一つ二つ三つと数えきれるくらいならいいよ。だが、一億人だ。例えば、君が今から一億秒数えてみたとしよう。一つ二つ三つ…と数えていく。そうするとどうだ?君が一億秒数え切る頃には、約三年二か月が経過している」

「そんな事よく知ってるね」と田上が口を挟んだ。

「そんな事は常識だ。…問題は、だね。問題は、君が、その『一億秒を感じれるのか?』という事だ。一億というと、大昔の村社会ではその数字は必要なかった。一億秒なんて感じることができないからだ。…つまりね?一億秒なんてのは、感じることができないから、本来は在りもしない数字なんだよ。一億人も同じだ。それらは、最早、人間の感覚を超越しているが、数学や天文学などが発展していくにつれ、その数字が使われるようになった。これらの数字は、その数字が好きな人たちに任せておくのが良かったが、人類としての暮らしが豊かになっていくと普通の人たちもその一億という数字を、目の当たりになんてしていないが、目の当たりにしているように感じるようになった。本来、一億とは、生活には必要のない数字だ。しかし、それを義務教育なんかで習う過程で、疑似的に感じるようになってしまった。一があって、千があって、万があって、億がある。それらが意識の中に存在していると、どうしてもそれらを感じなくてはいけないもののように思ってしまうが、物事には限度がある。私たちが、今住んでいるのは、トレセン学園で、私たちを今見てくれているのは、私たちのファンや周りにいる人たちだ。あの、…国近君だって、青い人と付き合うとか何とか言っていたじゃないか。つまり、国近君は反対していないと断定できる。自分が教え子と付き合っているんだから、私たちを非難するのは間違っているだろう。それで、国近君がもし私たちを非難してくるのであれば、それは、もう友達をやめた方がいい。そんな理不尽に構ってはいられない。しかし、…どうだい?国近君は良い人のように思うけど、君は?」

「まぁ、悪くない奴ではある」

「その国近君に今から連絡を取ってみようって事になったら、君はどうする?」

「…なんで国近に連絡を取るんだ?」

「少しでも私たちを認めてくれる人がいた方が、君も少しは気が楽になったりはしないかな?国近君という仲間が君にできれば、心強くなったりはしないかな?」

「…でも、連絡とって、国近に何か言ったところで、その後どうするんだ?」

「その後は、――あんまり自分たちの中を否定してくる人はいないんじゃないか、という確信を得るための君の心の一助になるんだよ。…どうだい?別に、あの彼女の方には言わなくてもいいよ。国近君に、――私たちが交際してるって言ったらどう思う?とそれとなく聞いてみればいいんだよ。君のスマホを貸してくれれば、私が言ってもいいよ」

「でも、それとなく聞くって言ったって、それじゃあ、大体バレるだろ」

「バレる事にはバレるが、それは、あの記事を見たら大体察せられる。ほとんど、私たち手を繋いでいるじゃないか」

「でも…」と田上が言おうとしたが、言いたい事がまとまらず後が繋がらなかったので、そのままタキオンの目を見つめた。すると、タキオンが後を促すように優しく「なんだい?」と聞いてきたから、田上も少し考えながら言った。

「でも、……まぁ、この話は俺の自信を戻そうって話か」

「そうだよ」

「…じゃあ、…国近が一番適任なのかな?」

「なんなら、赤坂先生の方に報告してみてもいい」

「赤坂先生は止めてくれ。嫌な顔をしそう」

「確かに、嫌な顔はしそうだけど、私たちなら、黙って睨みつけた後に、君に――タキオンの事を一生愛すんだぞって言ってきそうではある」

「…そうだね」

「…それで、…それでだね。えー、…国近君に電話してみる?君、番号は知ってるかい?」

「まぁ、知ってるよ」

「それじゃあ、私がかけてみよう。君じゃ、少し話し下手だから、私が話す方がスムーズに話せると思う」

「そうしてくれ」

 田上は、そう言うと、枕元に置いていたスマホを手に取ると、国近に電話を掛けてから、タキオンに手渡した。そして、自分は布団に少しだけ深く潜り直して、その行く末を見守ろうとした。その様子を見つめながら、タキオンは国近が電話に出るのを待った。

 プルル、プルル、プルルと三回ほどなった後、国近が電話に出て軽く「もしもし~。ゲームする~?」と聞いてきた。

 その口調に少しタキオンが笑いながら言った。

「トレーナーという職種は、朝っぱらからゲームに誘えるほど暇なのかな?」

「…アグネスさん?…あれ?これ田上じゃない?」

「このスマホは圭一君の物だが、今は、私が掛けさせてもらっているよ」

「へ~、なんでですか?」

「残念ながら、その質問には答えられないが、こちらから質問したい事がある」

「何ですか?」

「…国近君は、もし、私と圭一君が付き合っていると分かったら、どういう反応をするかな?」

「どういう?なんで、そんな質問を…」

「それは今はどうでもいいんだ。答えを言ってくれ、答えを。私も答えを聞ければそれでいい」

「ええ…?…まぁ、付き合うんならそれでいいんじゃない?お似合いだと思うよ」

 この電話は、田上にも聞こえるくらいの音量で流されていたため、国近の返答を聞くや否やにんまりとした笑顔で――それ見た事か、とタキオンが田上の顔を見た。田上は、相変わらずの表情でその顔を見つめ返したが、一先ず、国近の会話を打ち切るため、タキオンがこう言った。

「分かった。その返答を聞ければいい。ありがとう。協力感謝するよ」

「ええ…」と電話の向こうで国近がまだ話そうとしていたが、その話は聞かないで、タキオンは電話を一方的に切った。

 そして、早速田上の方を見ると、先程のにんまりとした笑顔のまま、タキオンが言った。

「聞いたかい!お似合いだって!国近君も分かる男だよ。君と私は似合ってるんだって。…君はどう思う?」

「…本当に似合ってると思う?」

「似合って無いんだったら、あんなことは言わないだろう?…まぁ、そもそもあの電話を聞いたわけは、果たして、世間がどう私たちを評価するのか?という事だから、これで国近君は私たちの事を肯定的には捉えている。または、お似合いだと捉えているという事だ。…どうかな?君は、君と私がお似合いだと思うかい?」

 その質問をされると、田上は、微妙な顔をしたまま微かに首を分からなさそうに傾げた。

「ふむ。…じゃあ、次は、もっと私と二人であの記事の感想を見てみよう。布団から出てきたまえ、圭一君」

 すると、田上は出来心が働いて「嫌だ」と一言いうと、さらに深く潜った。タキオンもこれに乗らない程、田上の扱いが雑なわけではない。顔に微笑みを浮かべると、足を動かして、その足先で田上をつんつんとつつきながら、「出てきてくれよぉ」と言った。そう言われると、田上は布団の奥の方から顔だけを覗かせたが、タキオンが再び田上のスマホを持って、「見る?」と問うと、また「嫌だ」と言って、布団の中へ潜ってしまった。こうなると、タキオンも少々興奮してきた。自分も深く潜る姿勢になりながら、田上とじゃれついてやろうと考え、最後にこう聞いた。

「圭一君は出てくるつもりがないのかな?」

「無い」と布団の中からくぐもった声が聞こえると、タキオンはすぐさま布団の中に潜り込んで、暗闇の中に所々光の射しこむ中で、田上の脇をくすぐり始めた。布団の中から、あはははは…という楽しげな笑い声が二つ聞こえてきた。すぐに、布団は引っ剥がされて、二つの笑い声は露わとなって、ベッドを軋ませながら、その上で暴れ回った。タキオンも田上がやり返そうと、少し脇を触られたことがあったが、すぐにそれはウマ娘の力で押し返して、田上の脇だけをくすぐり続けた。にも拘らず、タキオンも田上と同じくらい声を出して笑っていた。田上とじゃれ合うのが楽しくて楽しくて仕方がなかったようだ。田上も、なんだか胸の底から楽しさが込み上げてきたので、目一杯遊んだのだが、その後すぐに「ぎぶ…」と言って、肩で息をしながらベッドの上で楽しさの余韻に浸っていた。タキオンも肩で息はしていないが、それでも十分に楽しめたので、自分も田上と一緒に楽しさの余韻に浸りながら言った。

「どうだい?記事を見る気にはなったかい?」

 そう言うと、田上は顔を上げてタキオンの方を見たが、ただ見つめるばかりで何も言わなかった。そうすると、また先程の楽しげな雰囲気が漂ってきて、タキオンが半身を起こした。それで、今から何かが起こるかもしれない気配を察した田上だったが、堪え切れない様な嬉しそうな笑みを顔に作ると、再び「嫌だ」と言って、布団の中に潜った。そこで、日本ウマ娘トレーニングセンター学園、ベッドの上、布、二メートル(短距離)の第二レースが始まった。二人は、暫く、布団を被せ合ったり、抱き合って手をわちゃわちゃさせたり、くすぐりあって過ごした後、また田上が「ぎぶ…」と息も絶え絶えに言った。今度も田上の負けだった。しかし、タキオンもなんだか楽しさが収まりきらなくなって、田上がギブアップをした後でも暫くの間、田上の腰にしがみ付いて離れないでいた。そうすると、田上も嬉しさがまた込み上げてきて、自分の体勢を胡坐に変え、その上にタキオンを自分の腰にしがみ付かせると、そっとのその栗毛の髪を梳いてやった。タキオンも疲れでは無いが、興奮と共に大分息が上がっていたようで、ふーっふーっと荒げた息をしていたのだが、田上に自分の髪を梳かれるにつれ、その息も収まっていった。そして、田上のタキオンに対する愛おしさと嬉しさも満足に達し、タキオンの興奮も大分落ち着いてきた頃、タキオンが口を開いた。

「…私たち、お似合いだよ」

 その言葉に、田上はふふふと笑うだけで、何も答えなかった。しかし、タキオンはその笑いを肯定の意味として受け取ったようで、また次のように言った。

「私たち、最高のパートナだよ…」

 

 それから、また暫く、田上がタキオンの髪を梳き、タキオンが黙って髪をいじられながら、田上の腰にしがみ付くとういう時間が始まった。田上のタキオンに対する愛おしさも収まるところを知らず、ただひらすらに愛おしそうにその髪を触り、いじり、梳いた。タキオンもその心地良さにただ身を委ねるばかりだった。しかし、ある時、はっと気が付くと、タキオンが言った。

「一緒に記事を読もう」

「……読まないといけないか?」

「読もう。そんな甘えたような声をしたって無駄だよ。とりあえず、読まないと話が進まない。それとも、君は、私の恋人であることを心の底から認めているのかい?」

「んん…」と田上は頼りない声を出した後に、またタキオンの言う『甘えたような声』を出して言った。

「もう少しこのままでいようよ」

「あー、…うーん…」とタキオンは悩んだ。タキオンも田上にそのような声で、大して悪くない現状から無理に脱却するのも面倒臭いような気がしてきた。その様な気がしてくると、どんどんその気持ちが加速していき、タキオンも田上から離れたくなくなったので、妥協案としてタキオンがこう提案した。

「一緒にくっつきながら読もう。私が、音読するのでもいいや」

「でも、俺は、まだ少しこうしていたい」

「したいならすればいいさ。私の髪を触りたいんだろ?私も君の胡坐の上に頭を乗っけながら音読するから」

 そう言うと、タキオンは田上の返事も聞かないで、ベッドの頭の方に手を伸ばすと、そこから田上のスマホを取って、再び、田上の胡坐の上に頭を落ち着けた。しかし、今度は、顔を仰向けにして、田上の胡坐の上に居たので、田上は、タキオンの前髪を梳くしかなくなった。だが、タキオンの前髪の長さは、普通の人の二倍ほどはあるので、それがスマホを見る邪魔にならないよう、目に掛からないようにしながら梳かなければならなかった。だから、田上は、タキオンの髪を少しずつ持ち上げて、ゆっくりと梳いていった。

 タキオンは、記事を探すのに少し手こずっていたようだから、その間に田上が言った。

「お前、あんまり髪を短くしたがらないね。なんで?」

「…可愛いだろ?」とタキオンがスマホから田上の方に目を少し動かして言った。

 それに、田上は少し微笑みながら、「良いと思う」と答えた。

 そして、タキオンが記事を見つけると、寝転がりながらタキオンが話し始めた。

「ああ、あったあった。…はいはい。…色んな感想があるけど…、まぁ、甲乙つけ難い程に皆揃いも揃って私たちの事が好きだね。…えー、…まず初めに、先程の感想をおさらいしてみよう。――二人で海。つまり、デートに行ってたんだろ?記者さんもあんまり二人の時間を邪魔してやんなさんな。

 この男性、または、女性は、非常に良く私たちの事を想ってくれているね」

「うん」

「えー、第一に、私たちがもう恋人同士だという事を見抜いた上で、それに反対しない。そして、第二に、記者の方に私たちの時間を邪魔するなと呼びかけている。…私たちを守ろうとしてくれているという事だ。持つべきものは、こういうファンだね、圭一君。君は、この感想に対して思う事はあるかい?」

「思う事…?…あんまりないかな。お前が言ったし」

「ああ、悪かった。言い方を変えよう。…この感想を聞いて、君の自己意識の低さはどう変わったかな?私たちの仲を認めあえるほどになったかな?」

「…そりゃあ、…あんまり良く分からない…」

「ふむ。じゃあ、次の感想に移ってみよう。どれどれ…?…これはどうだろう?――タキオンと田上トレーナーが付き合ってるって事? という感想だ。こちらも私たちの仲を見抜いてくれている。…が、そんなに分かりやすかったかなぁ?」

「手とか繋いでる写真があったからだろ?…仲が良いって言っても、まだ、クラシック期の頃は、手は繋いでいなかった。…お前と俺の父さんの家に帰省してからだよ。手を繋ぐようになったのは」

「そうか…。…そうだね。あの時に、君との距離が大分近くなった。一緒に寝食を共にして、布団なんて同じ布団を使っていたからね。…ああ、そうだ。ゴールデンウィークに圭一君と一緒に帰る事を母さんに連絡しないといけない。…本当に、行くんだよね?」

「行くよ」と田上は、少し緊張した面持ちで答えたが、タキオンはそれには触れずに「良かった」と顔に笑みを浮かべて頷いた。

「それじゃあ、近いうちに連絡しておいた方がいいな。多分、布団とかも足りないだろうから。…買うかな?それとも、また、私たち一緒の布団で寝るかい?」

「お前の家に行って一緒の布団に寝る程、俺の度胸は据わっていないよ」

「…どうだったかな?多分、布団も足りなかったはずだから、そこら辺も母さんに言っておかないといけない。…これからも、ちょくちょく君と帰る予定もあるからね。買っておいて損はないだろう」

 彼女のその言葉に、田上の顔が少し強張ったのをタキオンは見逃さなかった。口元に微かに笑みを浮かべながらタキオンは田上に言った。

「どうしたのかな?私の家に帰る事に何か不安があるかい?あるなら、ぜひ、私に言ってほしい。混乱は望むべきものじゃないからね」

「……まぁ、……まぁ、…あの……その、……なんだろう。…あの…」と田上が、答えられずにいると、田上の緊張の原因を見抜いているタキオンが助け舟を出した。

「私との仲が解けてしまうと思っているのかい?」

「…まぁ、それだと思う」

「ふむ。…じゃあ、ね。…君は未来が信じられないんだろうね。…どうすればいいかな?」と言いながら、タキオンはスマホに目を移して、それを眺め始めた。そして、暫くしてから唐突にこう言った。

「――タキオンも田上の物になっちまったか…。いつかはこうなると思ってたぜ…」

 田上は、初め、その言葉が感想を読み上げているのだとは思わなくて、びっくりしてタキオンの顔を見つめたが、すぐにそれだと分かるとこう言った。

「大分失礼な人だな…」

「うん。…失礼には失礼だが、…どうだろう?この人は、私たちの仲がこうなると予測していたようだ。いつ頃くらいからその様に感じ始めたんだろう?」

「…分からない」

「んん…。うーん…。恐らく…、私はね。…恐らく、君の事が気になり始めていたのは、菊花賞の後頃じゃないかと思うんだよ。君の傍に居たいという想いが、少し芽生えつつあった。けれども、やっぱり、君のお義父さんの家に行かなければ、これ程急速に関係は発展しなかったと思う」

「じゃあ、その人は、菊花賞頃からそう思っていたのかな?菊花賞の後は、メディアの露出もなかったし」

「…そうかもしれないが…、うーん…。…この人には分かって、君に分からないものって一体どうだったんだろうね?この人は、私たちを文字通り客観的に見て、私たちが交際する事を予測していたわけだ。勿論、私たちの事情をあまり知らない分、楽観的に見ていたというのもあるだろう。…私はどうだったかな?…あの時、私が桜の木の下で君に思わずキスをしてしまった時から、君と私の関係はこれも急速に発展していった。あのキスが無ければ、私たちはまだうだうだ悩んでいたころかもしれない」

 タキオンがそう言うと、田上が少し笑いながら言った。

「思わずキスをしてしまった、ってどういう状況?」

「どういう?…そりゃあ、君が急に行かないで欲しいだなんて言うから、私も少し慌ててしまったんだよ。だけど、今は、キスをして良かったと思ってる。言葉で伝えるんだとしたら、君は逃げる可能性があった。逃げられたらさすがの私も追えないよ」

「タキオンが?すぐに捕まえられるでしょ?俺が逃げても」

「追えないんだよ。君が、私の前から逃げる事を選択してしまったら、それは正真正銘振られたという事になる。ならば、私も女泣きをするしかないよ」

「女泣き?」

「できるだけ君に聞こえるように泣く。で、君が振り向いてくれるのを待つしかない」

「でも、俺は逃げるんだろ?」

「そこが、難点だが、優しい君と逃げ出したい君のどちらかが勝つまでせめぎ合う事にはなると思う。泣いている私を置いて逃げるのは、例えば、それがこけて泣いていたとしたら、君はすぐに駆けつけるだろう?」

「うん」

「そこで、告白されたというシチュエーションが加わると、君は、泣いている私を助けるべきか否か、それについて悩む事になる。結果は、その時にならないと分からない。誰かの話し声が聞こえて、君ははっとなってまた逃げようとするかもしれないし、また、その逆の事をするかもしれない。ただね。私はこれで良かったと思うよ。例え、初めが何処かずれていたとしても、私と君の道は重なる事に成功した。…私、君を大阪杯の内に何とか勇気づけたかったんだけど、なんとか、てんやわんやする内に君の安定を少しは取り戻すことができたようだ。嬉しい事だよ」

「そんなこと考えてくれてたの?」

「当たり前だよ。好きな人を助けない奴がこの世のどこにいるんだい?私は、君を好きだからこそ助けた。後悔したくないのは勿論だけど、好きだからって理由もちゃんとある。もっとも、君が私のトレーナーであった時点で、助けようとはしていたのかもしれない。しかし、…どうかな?君を好きでなければ、もしかしたら、救う事は叶わなかったかもしれない。今、君の事が好きで、君にキスをしたからこそ、君は私と通じ合うようになった。最初は、多少の混乱もあった。しかし、今はもうこんなに寛いで、駄弁ってしまっている。もう、半分同棲しているようなものじゃないか」

「そうだぞ。ここは、トレーナー寮だった。そうだった。忘れてた。お前、本当は入ってきちゃいけないんだぞ」

「じゃあ、今から私を追い出すかい?」

 タキオンがニコニコしながら、そう反論すると、田上は、少々変な顔でタキオンを見て、言った。

「別にいいよ」

「むしろ、ここに居てほしいんじゃないのかな?」

 それで、田上が答える番になったのだが、口に出すのは少し恥ずかしかったようで、微かに口角を上げながら、田上は頷いた。それを見ると、タキオンはもっとニコニコ顔になって言った。

「なら、その内、私の歯ブラシや衣服なんかもここに持ってこよう。生活の拠点をここに移してもいいかもしれない」

「…それだと、同室のデジタル君が寂しがらないか?お前の事を結構慕ってるだろ?」

「んん?まぁ、そうだね。デジタル君が居る…。なら、いっその事、デジタル君も一緒にここに移り住むのは?」

「それは、止めてくれよ。デジタル君は、お前とは仲が良いかもしれないけど、俺とはそんなんじゃないんだから、目が合うだけで気まずくなるだけだよ。それに、あっちもさすがに嫌がると思うよ」

「ンン…。中々上手くはいかないね。だけど、歯磨きくらいはここに持って来ても良いかもしれない。こうして日々を過ごすのであれば、夜にあっちに戻ればいいだけで、昼食などの後に君の部屋に戻れば、歯磨きなどはここで済ませることができる。今度、歯ブラシを買いに行こう」

「入るなら入るで俺は嬉しいけど、それでも、程々にしろよ?寮長さんに目を付けられると、面倒臭いぞ?」

「それもそうだ…。…まぁ、上手く言いくるめておくさ。それに、君のとこの寮長も顔を見た限りでは、悪い人ではなさそうだしね」

「悪い人ではないな」

「じゃあ、人目につかないように、できるだけ目立たずに君の部屋に出入りすれば問題ないか」

「そうしてくれ」と田上が言ったところで、一旦話が止まったが、すぐに今の話の前にしていた話の内容を思い出して、タキオンが言った。

「また、話が逸れてる!君と話すと、話が思うように進まないよ。…えー、何だったかな?…そう、この感想の人がなぜ私たちが交際する事を予測できていたのか?という事だ。傍から見たら、私たちはもう交際しているくらい仲良く見えていたのかな?それで、この人は、私たちが付き合っていない事にじれったくなっていて、今回の写真を見て、実際に私たちが交際していることを確信していた。…ふむ。――タキオンも田上の物になっちまったか…。これは、私に好意を寄せられていたのかな?」

「そうかもね。お前も、一応アイドルだから」

 田上が、少しそわそわと落ち着かなげにタキオンが握っている自分のスマホをチラチラと見ると、その様子に気が付いたタキオンが微かに笑いながら言った。

「アイドルにしては、案外、君との交際を喜ばれているし、隣に仲の良い男が居るというのに、グッズの売れ行きも好調なようだね」

「それでも、尚、ファンはお前の事が好きなのかもな」

 今度も少し落ち着かなげだったから、タキオンもそれに触れた。

「どうしたのかな?私が、ファンになびくとでも思っているのかな?」

「知らない」

 田上は、すぐにそう答えたが、タキオンも田上の事が気になったので、ここで初めて、体を起こすと、田上と向き合って言った。

「キスをしよう」

「嫌だよ」

「良いじゃないか。とりあえずキスだ」

 そう言うと、タキオンは遮ろうとする田上の手を強引に押し退けて、その唇と唇を重ね合わせた。そして、十数秒くらいキスをしてから、唇を離すと、田上に聞いた。

「どうして、私のファンが私の事を好きだと、君はそわそわするのかな?」

「…なんで言わないといけないんだよ」

 田上は、タキオンの事を少しばかり睨みつけたが、タキオンは全く意に介さず、静かに田上の事を見つめながら再び言った。

「嫌ならまたキスをしよう。君が、訳を話すまで、私は君にキスをし続ける」

 すると、田上は少し歯痒いような顔をした後言った。

「ずるいだろ。お前、ずるいよ」

「でも、キスは嬉しいだろ?」

「そうやって、俺の本音を引き出そうとするのはずるい。どうしようもできないだろ」

「でも、嬉しいんだろ?」

「嬉しいよ。嬉しいけど、…ずるい。女子高生のするような事じゃない」

「なら、君の愛おしい恋人のする事だろう。どうだい?また、するかい?」

 すると、田上は一度目を逸らし、迷ったような仕草をした後に「もう一回…」と消え入りそうな声で言った。それで、タキオンは再び田上にキスをしてあげたし、先程よりも愛しさが充填されるように長くしてあげた。

 そして、唇を離すと再びタキオンが聞いた。

「どうだい?言う気になったかな?」

「……その、……みっともない奴なんだけど、しょうもない理由なんだけど、他の人がタキオンの事を好きだと思うと……」

「うんうん。それも、君の心に繋がっているだろう。今の悩みはそれだ。君は、信じられないんだ。私ですら、君は信じていない。…もしかしたら、君は、今までの人生のどこかで信じる事をやめてしまったのかもしれない。言葉という物に、君は飽き飽きしてしまったのかもしれない。…これを溶くには、大きな戦いをしなければいけないかもね。…それでも、君には私が付いているから、あんまり心配しなくてもいい。絶対に君の傍から離れないから、安心していてくれたまえ」

 タキオンは、自信満々にそう言ったが、それと反比例するかの如く、田上の意気は消沈していって、タキオンの話が終わると共に暗い顔、低い声になって「分かってるよ…」と誰に言うともなく呟いた。

 それを見ると、タキオンは苦笑した。

「私の言葉を聞くと、君は落ち込んでしまうんだろうけど、下を向いてばかりではいられないからね。それこそ、私が沈んでしまう時があるかもしれない。その時は、私を助けてくれ」

 その言葉で田上は少し、ほんの少しだけ活気づいて、微かに顔を上げてタキオンに目をやると、「いいよ」と呟くように言った。



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二十二、ササクレ④

 それで、タキオンは満足して、また田上の胡坐の上に頭を乗せた。それから、田上のスマホで再び感想を読み始めると、暫くしてからこう言った。

「――アグネスタキオンさんと田上トレーナーは本当に仲が良いよね。正直、この二人は、いつか結婚するんじゃないかと思っている。アグネスさんの親御さんも確か、トレーナー婚の人だったし。……この人は、私たちがまだ付き合っていると思っているのかな?いないかな?文面からそれは読み取れないが、私たち、また予測されてる。…結婚するかな?」

 タキオンがスマホから目を上げて、田上を見て言った。

 それに田上が答えた。

「結婚…すると思う?」

「私は、まぁ、できるんじゃないかと思っているよ。私、君の事が好きだし、君も私の事が好き。これで結婚しない理由はない」

「でも、好き同士でも結婚しない人たちは居るんじゃないか?よくあるだろ?長年付き合っている彼氏が、中々、結婚してくれないので別れた、みたいな話が」

「ああ、聞いた事はあるね。…だけど、…本当にそれはお互いの事が好きだったのかな?君の言うように、結婚という言葉に希望が持てないとしても、それは、二人のつながりが不安定な時だけだ。長年付き合っていた上で結婚しないのは、何かにびびっているか、お互いの『恋人同士』という関係に依存しているだけかもしれない。だってね?考えてもみてくれよ?結婚と相対的に離婚があるわけだから、結婚しても意味はないとしても、結婚自体はしてもいいはずだ。お互いが繋がっているという証になる。これをしない理由はない。別に、結婚式なんて上げなくても、最低限、入籍さえすればいいだけだ。それをああだこうだ言って引き延ばしているとしたら、それは、全く結婚する気はなくて、ただ、二人で生活しているだけになる。もしかしたら、その彼氏はヒモ男で、彼女の事なんて全く好きじゃないかもしれないね。…君はどうだい?結婚してくれるんだろ?」

「…するつもりではあるよ」

「いつかな?具体的に何年後とかも考えておいた方が良いかもしれないね。私たちの場合は、状況が特殊だ。私は、まだ未成年だし、現役の選手でもある。…入籍だけなら問題ないが、…子供を作るとなると、ねぇ?」

「………怖くなってきた」

「何がかな?」

「……結婚が」

「でも、水曜に海に行った時は、――もう想像できるようになった、と言わなかったかな?」

「想像はできる。…けど、いざ目の前に来るとなると、怖くなってきた。…あんまり長くする事はできないよな。…お前にだって人生があるんだし」

「君にだって人生があるよ。…あんまり悲観しなくても大丈夫だとは思うけどね。…それとも、今こうして私と居る事が楽しくはないのかな?」

「…別に、楽しくない事はないけど、…怖くなってきた」

「また、想像できなくなってしまったかな?私が妻であることが。…なら、もっと私の女性的なところを見せてあげようか?胸やくびれや臀部。私との間に子供を儲けたい。そう思えるような形を見せてあげようか?」

「お前…、やめろよ…」

「でも、言わば、それが一番手っ取り早いような気もする。君、やっぱり私を女として見れていないんじゃないか?この、私と仲良く話しているという関係を持続させるために、今まで体良く話を合わせてここまで来たんじゃないのかな?」

「…いや、別に、お前の事が嫌いなわけじゃない」

「なら、私に性欲という物を抱いてもいいんじゃないのかな?私を襲いたいくらいの気持ちは抱いてもいいんじゃないのかな?」

 段々と議論が白熱してきた。これは、田上にとって望ましくなかったのだが、少し頬の上気し始めたタキオンはゆっくりと起き上がると、田上に向き直って「どうなんだい?」と怒り気味に聞いた。

 田上は、返答に困ってしまった。トレーナーとしての立場上、教え子と性交なんて考えるのは難題だ。例え、性交したいと言ったとしても、今すぐできないのは明々白々だった。しかし、答えなければならない。タキオンの赤い魅惑的な瞳は、今はもう、涙に潤み始めている。タキオンが冷静でない事も明らかだった。

 だから、田上は、非常に情けない怯えたような顔をしながらも言った。

「お前の体が魅力的じゃないとは思ってない…。…ただ、…ただ、…どうしよう?」

「今、答えを出してくれ!今ならできる!私はできる!」

「……避妊具は?」

「ない!私は、君と子供を作って良い!教えてくれ!君は一体どうしたいんだ!」

「………今は、……今は、待ってくれ!頼む!今は無理だ!お前に手を出す事はできない!」

 田上は、慌てながらそう言った。すると、タキオンの目からぽたり、ぽたりと涙が零れ落ち始めた。そして、ヒックヒックと泣き始めると、田上の方へそっと手を伸ばした。田上は、それが、どういう意図で伸ばされたのかが分からなかったから、それに困惑しながらもそっと触れた。すると、タキオンが、泣くのを堪えながら絶え絶えに言った。

「…抱き締め…させて…」

 田上は、「ああ…」と戸惑いながら頷いた。すると、タキオンはそろりそろりと顔を俯かせながら田上に近寄って、その胡坐をかいている腰に抱き着いた。それから、また、しくしくと泣き始めた。田上は、どうすればいいのか分からずに、とりあえず、その髪に触れ、また、髪を梳き始めた。

 さらり、さらりと梳く度に、栗毛の生えたウマ耳がピクリと揺れる。頭のてっぺんから長く伸びているアホ毛も田上は梳いて、タキオンの髪に撫でつけようとしたが、それは上手くいかなかった。何度やっても、栗毛の髪はまたぴよんとタキオンの頭の上に立った。そのアホ毛に苦心している時に、タキオンは、ほんの少しだけ落ち着いた泣き声で言った。

「…ごべん…」

「…いいよ」

「いや、……君が答えられないのは分かっていたのに、詰め寄ってしまった。私は、君の恋人失格だ…」

「お前が、恋人失格だなんて事はないよ。お前は、憧れの人だ。物凄い人だ。俺の好きな人だ。……俺もごめん。バカで、甲斐性が無くて、フラフラしてばっかりで、……お前に苦労しか掛けてない。謝っても謝っても、俺は変わってないから、何度もこういう事が起きる。……お前も俺が好きじゃなかったら良かったのにな…」

 田上がそう言うと、タキオンの泣き声が一際高くなり、その後に、震えた声でタキオンが言った。

「そんな事、…言わないで…。ヒック…。私、君の事が好きだから、本当に好きだから、こんなに悩んでる。……どうにもできないけど、せめて、私の隣に居て…」

 そして、その後にこう付け加えた。

「ヒック…。君は、変わってきてるから…。私と付き合う事にも抵抗感のあった君が今はもう、私とキスもする。……性交はしないけど…」

「………し……たいのか?」

「え?」

「………したいのか?」

「…したい」

 そう言った後に、タキオンはゆっくりと体を動かすと、田上を抱きしめるのを止め、田上の前に向き合った。そして、まだ、涙をこぼしながら言った。

「でも、君に、そんな顔をさせながらはできない」

 今の田上の顔は、深い自己嫌悪に苛まれていた。タキオンから目を逸らし、眉を凍らせて、目は虚空を見つめている。確かに、こんな状態の男と性交をして、楽しくなれるはずもなかった。

 けれども、タキオンはその後に言った。

「でも、…私の事が魅力的だと思うんだったらいつでも私は歓迎するから。君の事を突き飛ばしたりなんてしないから。…いつでも来たまえ」

 タキオンはそう言うと、再び田上の腰に抱き着いたが、今度はあまり大きな泣き声はたてないで、比較的大人しく田上の腰を抱きしめているだけだった。それを田上は見つめたが、今度はその髪を梳くことはせず、その髪の先のはねている部分をくるくるといじるだけに止めた。

 静かな時間がそこにあった。タキオンが時々、大きく息継ぎをする音とその胸が息を吸うために膨れる度に起こる衣擦れの音しか聞こえなかった。田上の息の音は、ほとんどしていなかった。

 

 そんな中、午前九時を過ぎた頃、霧島から連絡が来た。十時ごろから部屋交換を始めないか?という旨の連絡だった。この時の田上は、タキオンに話しかけるのが大変億劫になっていて、暫く躊躇っていたのだが、その事を察したタキオンがむくりと体を起こすと、田上に聞いた。

「さっき来たメッセージは誰からだったんだい?」

「……霧島」

「それで、内容は?」

「……引っ越しを十時頃から始めよう、って。多分、荷物まとめるのが、今日までかかってたんじゃないか」

「…それじゃあ、私たちは、十時から出発という事でいいかな?」

「……お前は残っててもいいぞ」

「私?なんで残らないといけないんだい?」

「……髪もいつもよりぼさぼさだし、涙で顔汚れてるし…」

「ああ、じゃあ、ちょっと顔洗ってくるよ。待ってて」

 そう言うと、タキオンは、ベッドからそそくさと飛び降り、ペタペタと足音を立てながら、洗面所の方へと向かった。そして、ジャーと水の流れる音を静かな部屋の中に響かせながら、顔を洗った。

 それから、顔を洗って帰ってくると、「はー、すっきりしたね」と田上に言いながら、ベッドの端の方に腰かけた。

「さっきはごめんね。君との事を考えたら、少し昂ってしまった。いけないね。私は、まだ未成年なのを忘れていたよ」

「別に、……してやってもいい…」

 田上が低い声で言うと、タキオンが苦笑した。

「さっきも言ったろ?そんな顔の人としたくはない。君が、もっと私を可愛がれるようになった暁には一緒にしようじゃないか」

 田上は、曖昧ながらも微かに笑って頷いた。そして、その後に、タキオンは雰囲気を変えるように大きな声を出して言った。

「気分転換に引っ越しの時まで、外で過ごそう!君もいい加減着替えたらどうかな?髭も剃ってはいないだろ?」

「ああ」と田上は答えこそしたが、それ以上動こうとはしなかった。それが、タキオンには何だか病人の様にも見えた。白いシーツを足の上にかけて、自分を見上げている。立ち上がっていたタキオンは、暫く田上と見つめ合ったが、痺れを切らすとこう言った。

「着替えさせてほしいのかな?」

「…そうすれば、俺の下着姿が見れるぞ」と田上は、低い声で冗談かも分からない内容の言葉を飛ばした。それにまた苦笑をしながら、タキオンは言った。

「君もいい加減その事から頭を離れさせたまえ。あの言葉を言うのに、君がどれ程の労力と精神を費やしたのかは良く分かるが、君も言ったように、今はできない。私もまだ現役中だ。さすがに、トレーナーとの子供を妊娠して、引退しました。となったら、私たちの善良なファンもそんな男に自分たちのタキオンを預けてもいいのかと迷うだろ?…私は、勿論、いつでも歓迎だが、とりあえずは、君が――お願いします。子供を作らせてください。と頭を下げてきてからだね。…君は、今すぐにでも頭を下げれるかい?」

 すると、田上が少しだけ頭を前後に揺らしたから、タキオンも笑った。

「違うよぉ。頭を下げるんなら、地面に頭を付けなきゃ」

 それで、田上が少し眉を寄せた。タキオンも、田上ができないと思った事が分かったので、こう言った。

「できないだろ?…私は、君に頼まれたいんだよ。子供を作らせてほしい、と。子供を作るんだったら、もっと、君と私が通じ合うような物にしたい。心を通じ合わせたい」

 そう言って、タキオンは、またベッドの端に座ったが、田上はそれと目を合わせないように視線を下におろして、シーツを見つめながら言った。

「…本当に、…通じ合えるのかな…?……不安だよ」

「それじゃあ、君には常に私といかにして通じ合えるか考えておいてほしい。不安を解消するには、考える事が一番だ。考える事が未来へと通じる。それから、夫婦にも通じる。体よりも先に、まずは、心で夫婦にならないとね」

 そのタキオンの奇妙な発言に、田上も思わず顔を上げて聞いた。

「心で夫婦?」

「…うーん、…つまり、…つまり、ね?…つまりぃ、…君と私の場合は大きな障壁に見舞われている。君が、人や物事、事象を信じられないという事だ。それが大きな妨げになっている。そんな中で夫婦になっても、あまり心の通じ合ったものではないだろう。だから、例え、書類や苗字や体で通じ合っていたとしても、心が通じ合っていなければ、それは、本当に通じ合っているのかな?という問題だ。…今の所、私たちは、その小指から辛うじて伸びている赤くて細い糸によって、ギリギリ結ばれている状態だと言える。それを、言わば、君の心臓から血液を送り出す動脈くらい太くして通じ合わせるんだ」

「…でも、……」

「なんだい?」

「…でも、………」

「なんでも良いよ。私が傷付いたら、君の懐で休ませてもらうだけだから」

「…でも、……俺は、捨てられたっていい奴だよ」

「またそれかい!?…うーん、……実に難しい奴だ。どうしようもなく難しいな。…私一人で解決できるかな?…いや、やらねばならない。……君は、通じ合うってどういう事象の事を示すと思う?」

「……分からない」

「分からない…。うーん、難しい。君の心の扉を開くのは容易じゃないな。何せ、恋人であり、また、数年を共に過ごした私が、こんなにも苦労しているんだからな。しかし、君もその心の扉を閉じるために私の想像のつかない様な苦労をしてきたはずだ。…違うかな?」

「…分からない」

「分からないだろう。…分からないだろう。…また、キスをする?」

 その言葉で、田上は、またぼんやりと目を上げ、タキオンを見、そして、微かに頷いた。すると、タキオンが田上の方に身を寄せて、その病人のような佇まいの男とそっと唇を重ねた。田上は、ただ受け身になって、そのキスを受けた。あまり感じるものはなかった。タキオンとキスをしている自分は、どこかあやふやで、空虚で、実体がないもののように思えた。しかし、タキオンは満足するまでキスをしたようで、唇を離すとニコニコしながら言った。

「今のは、私と君の唇が『繋がった』という事だ。分かるかな?想像できるかな?私は、ありありと想像できるが、私と君は、今この行為によって愛を伝えあっている。唇がつながる瞬間があるだろ?その時に、君の体と私の体は繋がっている。という事だ。その時は、君と私の体は二つで一つと化している。これを心でしてみよう。という事だ。今は、一時、唇を重ね合わせることでしか、君と通じ合えないかもしれない。しかし、心を繋げれば、いつでもどこに居ても君と私は繋がっている。実際に、繋がっていることもあるかもしれない。…今、思い出したんだけど、大阪杯の時君は倒れただろ?」

「ああ」

「その時、私も躓いたというのは記憶しているかな?」

「ああ」

「偶然だと思うかな?」

「…偶然」

「…うーん…、偶然かもしれないが、こうも思わないかい?――あの時、私たちは繋がっていた。どちらかというと、君を想う私の心が君に繋がっていたのかもしれない。だから、私も躓いてしまった。そう思うと、私たちの繋がりは見えてこないかい?」

 これには、田上は、何も答えずに、ただ自分のシーツを見つめ続けた。

「分からないかな?…まぁ、いい。でも、考えてみたまえ。君と私の繋がりは、色んな所にある。例えば、こうして手を繋いでみたり…」と言って、タキオンはシーツの上に力なく放っておかれている田上の手を取って、その指と指を交互に組み合わせてみた。

「君と私はキスをするし…」と言って、タキオンはそのまま田上をベッドの上に押し倒しつつ、キスをした。

「肌と肌が触れ合えば、私と君の体は一つだ」

 そう言って、タキオンは、田上の手を放し、その髭のチクチクする顎から頬をそっと撫でた。

「これが、夫婦だよ。一つになる。私たちは、一つになれる。愛を深め、情を抱き、心と体は一つになる。…これが夫婦だ。ここで、この話をするの時期尚早だったかもしれないが、君の悩みは分かった。君は、人間恐怖症だ。どうしてそこまでなってしまったのかは分からないが、恐怖症を克服するのは、その物事を理解するのが一番だ。特に、人間は怖い生き物ではないからね。私だったら、猶更だ。私が怖く見えるかい?」

「……怖い」

「まぁ、ちょっと、さっきは昂ってしまったからね。……私たちの相性って、ひょっとすると悪いのかな?君は、私たち、離れたほうが良いと思うかい?」

「……今更、…離れる事はできない…」

「そうだよね…。今更、ね…」

 タキオンは、そう言って暫く黙りこくってしまったが、やがて、再び立ち上がると言った。

「今度こそ、君も着替えなきゃ。どうせ、外に出かけなくちゃならない用事があるんだから、用意はしなくちゃいけないよ。ほら、立って立って。私が介護してあげようかい?」

 田上は、タキオンに急かされて、ようやくのろのろと立ち上がったが、タキオンの事は少し無視し気味ではあった。タキオンの方に、一度、チラリと目をくれてやっただけで、その後は、自分一人で黙々と朝の支度をしていた。途中、田上が洗面所で着替えをしている所に、タキオンが入ってくることがあったが、声も上げなければ、眉一つも動かさないで、ただズボンを腰まで上げた。タキオンは、少し寂しかったが、ここで声をかけてしまうと、田上の何かが崩れそうだったので、何も声はかけないでおいた。

 そして、田上が落ち着いて朝の何かもが終わったんだろうな、というタイミングでタキオンは「朝ご飯はどうする?」と声をかけた。田上は、やっぱり何も言葉を発しなかったが、ただ首を横に振ってそれに答えた。すると、タキオンは、「じゃあ、外に出よう」と田上に手を伸ばした。田上は、その手を取ろうか、一瞬だけ迷ったが、すぐにタキオンの手を取る事に決めると、その手を繋いで、自分の部屋の外へ出た。

 外は、田上の心とは正反対に大変に大変に心地の良い日和だった。眩い春の光が、田上たちを照らしてきた。それを浴びると、タキオンは伸びをして、嬉しそうな笑い声を上げた。その後に、田上に笑いかけた。田上も笑い返したが、それは、どこか悲しそうな笑みでもあった。けれども、タキオンは、それに気付けなかった。あまりに陽気な春の光に目が眩んでしまったのだ。だから、タキオンは田上の朧げな心には気付けずに、その手を引きながらあっちこっちへと連れ回した。

 

 十時になると、タキオンと田上は二人でトレーナー室に向かった。マテリアルにも事前に連絡をしておいたので、田上たちがトレーナー室まで行った時には、もうすでにそこに居た。そして、そこに田上たちが手を繋いでやってくると、少し物言いたげな顔をした後に、若干表情を和らげて、「仲が良いですね」と呟くように言った。田上は、それに黙って、微かに頭を下げるのみだったが、タキオンはこう言い返した。

「仲が良いなんてもんじゃないよ!なんせ、恋人同士なんだからね!今しがた、お散歩デートを楽しんできたところさ」

 そうすると、マテリアルは、先程と変わらない表情のまま、ふっと笑った。その後に、再びドアがガチャリと言って、霧島が入ってきた。今日は、初めから一人のようだった。この人は、今の場の雰囲気とは大違いに、春の陽気の様に明るい声で「おはよう!」と皆に呼び掛けると、田上に聞いた。

「今日は、どっちの荷物を先に運ぶ?どちらにしろ、混ざらないように気をつけておかないといけないんだけど」

 そう言うと、マテリアルが横から口を挟んだ。

「あ、私たちの段ボールの方には星のマークをつけておきました。それに、まとめてあるので、霧島トレーナーさんの荷物は、部屋の向こう隅にでもおいていただけれれば、絶対に混ざる心配はないと思います」

「あー、でも、俺の方は段ボールはまとめておいてないな。結構散らばってる」

 そう霧島が言った後に、田上が提案した。

「とりあえず、俺たちの荷物は廊下でもどこでもいいから運んでおいていいんじゃないか?あっちに行く時に、俺たちの荷物を運んで、帰る時に霧島の荷物を運べば、効率的だろ?」

「おお、お前頭良いな!さすが、アグネスさんを育てただけの事はある!…じゃあ、始めてもいいかな?」

「いいよ」「いいですよ」と田上とマテリアルが答えると、各々、段ボールを胸の前に抱えて、部屋から出た。タキオンも手伝わなければいけなかったので、段ボール箱二つ程を胸の前に抱えたが、廊下を歩く際に田上の横を陣取るのは止めなかった。しかし、今回の霧島は、マテリアルの方に興味があったようだ。先導は、田上とタキオンに任せて、後ろでマテリアルに色々と質問していた。

「ナツノさんは、やっぱりウマ娘を指導してみたくてトレーナーになったんですか?」と霧島が聞いた。

「ええ、そうですね。やっぱり、ウマ娘が切磋琢磨していくのを間近で見てみたかった。それが、大きいですね」

「やっぱり、ウマ娘っていうのは、夢ですもんねー。圧巻ですもん、あの走りは。ナツノさんは、競走の方は?」

「いや、もう私はからきしで、だから、トレーナーになって走りを見つめてやろうと思ったんです」

 こんな調子で、非常に他人行儀ではあったが、それなりに会話は弾んでいた。むしろ、田上とタキオンは、これ以上に弾んでいなかったと言えるだろう。タキオンが話しかけるし、田上もそれに答えていたのだが、それは、どこか恋人同士とは思えない距離があった。恐らくは、田上が、少し距離を開けているからだと思われる。まだ、部屋にいた時までの心地が心の中に残留しているのだろう。それにどう抗おうかと、心の中では必死のようだった。しかし、これをタキオンに気づかれないまでに表に出さなかったのは、田上の素晴らしき、そして、憎むべき無意識の仕業だった。田上は、心の中で自分が何かと戦っているのは感じていたのだが、それが心の深層のまた深層の方だったので、意識としては気付けなかった。ただ、気持ちが少しだけ暗くなるだけだった。少しだけ暗くなるだけなら、田上の意識は簡単にそれを除くことができた。タキオンが気付けなかったのはこのためだった。タキオンがそれに気付くには、田上の戦いはあまりにも奥深くすぎた。



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二十二、ササクレ⑤

 田上とタキオンと後ろで話している二人は、ぼちぼちに荷物を運んだ。先に、霧島の部屋の荷物を運び終わり、次いで、田上の部屋の荷物も運び終わった。それが、丁度、十二時少し前だったので、良い塩梅の時間に終わることができた。田上の手は、タキオン程に荷物を運んでいないとしても、筋力がなかったので、終わった時にくたびれてくたびれて仕方なかった。

 そこで、皆で昼食に行こうという話になったのだが、まず初めにタキオンが「行かない」と言い、次いで「圭一君も私に少し付き合ってもらうから」と言うと、場が神妙な空気になった。ここで、タキオンと田上に消えてもらっては困るのだ。いくら、マテリアルと霧島が、荷運び中に会話が弾んだと言っても、それは、荷運び中だからである。昼食にまで持っていくような話ではないから、話が弾んだのである。そして、霧島もマテリアルもお互い、昼食に話して弾む様な話題など何一つ持っていなかった。だから、その仲介役や話題運び役として、田上とタキオン、特に全員の共通の知り合いである田上が必要だったのだが、タキオンが霧島とマテリアルに「君たちはどうするんだい?」と問うと、二人は顔を見合わせた。そして、霧島が「どうします?」と聞くと、マテリアルも「霧島さんは、どうしますか?」と聞いた。二人共、初めから断るのは嫌だったのだ。だけども、この次の問答では絶対にどちらかが断らなければ、二人で昼食に行く流れになってしまうので、それは必ず避けなければならなかった。そこで、霧島が男として初めに断る事にした。

「僕は、…やめときます?」

「私もやめておいた方が良いと思います」

 この言葉をマテリアルは平然と言ったが、心の内では大いにほっと胸を撫で下ろしていた。それで、田上が横から「じゃあ、これで皆解散かな?」と言うと、霧島の部屋のドアがコンコンと二回鳴った。田上は、椅子に座っていて、タキオンはその横に立ち、霧島とマテリアルが二人田上たちの前のドアの近い方に立っていた。その中でも一番この状況で、元部屋主としても動くのに適している霧島が、「誰かな?」と言いつつドアの方に行き、そのドアを「はーい」と言って開けた。すると、外に居たのは、少し怯えながらも立っていたリリックだった。

 ドアが開くと、リリックは目の前に居る霧島を見つつ、奥の方に居る田上の方にも目を向けて、安心したような声で言った。

「やっぱり、ここに居たんですね。…もう引っ越しは終わったんですか?」

「ああ、終わったよ」と田上が答えた。

「もう解散したら、リリーさんに連絡を送るつもりだったんだけど」

「あー、…別に、私も手伝って良かったんですけど」

「ああ、手伝いたかった?」と田上が言うと、リリックは少し怒った。

「私もチームなんですから、ここまで除け者にされると寂しいです!」

「ごめん」

 そう謝りつつ、隣のタキオンの方に田上が目を移したので、リリックは、妙に腹が立った。しかし、マテリアルがこう声をかけると、若干ではあるが、その心も収まった。

「リリーちゃん、一緒にご飯食べに行かない?」

 そして、リリックが「あ、行きます」と答えたのだが、二人が出て行く前に、ここで、ようやく解散できそうな雰囲気になったのを察した霧島が「俺はもう行くよ」と田上に声をかけた。田上や他の人たちも、それぞれ別れの言葉と感謝の言葉を霧島に告げたのだが、霧島がトレーナー室からドアを開けて出て行こうとしたその時に、田上が慌てて言った。

「ああ!鍵鍵!鍵も交換しないと!」

 それで、霧島と田上は鍵も交換し、晴れて、部屋交換がここに成立した。その後に、霧島が出て行くと、リリックとマテリアルも続々と出て行き、最後にはタキオンと田上だけになった。そこで、二人は、暫く黙ったまま顔を見合わせた。今の田上の心境は、心地良い疲労に痺れて、大分穏やかになっていた。タキオンもまた同じように穏やかではあったが、その心の中には、朝頃の自分たちの様子が映し出されていた。目の前の田上の事もしっかりと見てはいる。見ているのだが、どうしようもなくその光景がタキオンの頭の中に浮かんできた。だから、タキオンは言った。

「……私たち、恋人同士だね」

「…?ああ」

「…私たち、恋人同士だよね?」

「ああ」

「…キスを、してくれないか?」

 これには、案外簡単に「いいよ」と田上も答えられた。心地よい疲れがそうさせたのか定かではないが、すぐに立ち上がると、タキオンの体に寄り添うと「良いのか?」と聞いた。タキオンもあまりの田上の対応の良さに少し戸惑いこそしたが、コクリと頷くと、目を瞑った。田上は、窓から外の景色が見えるのが少し気になったが、今更、カーテンを閉めに行くわけにもいかないので、そのままタキオンの体を軽く抱いて、唇を重ね合わせた。田上は、自分の満足やタキオンの満足を気にする事もせず、ただ単に愛を持ってキスをする事に成功した。これが繋がるという事だった。二人は、幸せな一時を過ごせた。どちらも離れる事をちっとも考えずに、ただその唇から二人の体が繋がっているという事を感じた。離れる時も、少しの心の名残はあったものの、ごく自然に離れることができ、お互いがお互いの目を見つめ合った。そして、再びキスをした。お互いが申し合わせることもなく、また、拒絶する事もなく、そのキスは丁寧に執り行われた。心の穏やかさが実に救いだった。穏やかであればあるほど、田上の心に安寧が訪れ、二人の時間がより親密になっていく。タキオンがまだ学生である事は気にならなくなり、自分が、ただの平凡な冴えない男であるのも気にならなくなる。

 ただ、繋がっていることを感じられる。

 繋がりが、繋がりとしてそこにある事を感じられる。繋がりは、繋がり以外の何物でもなく、ただ鼓動の高鳴りや肌の触れ合う感覚がそこに添え物として置かれているだけだ。今、田上の心に生まれて初めての、最高の安寧が訪れた。心安らかに温まる母の懐のような安寧。それを、田上は、今初めて感じた。繋がりは、愛を持って繋がった。より親密で、より近寄り難く、より強固で、より穏やかな繋がり。それを田上は感じた。このまま、二人でタキオンと溶け合っていたかった。幽霊を見る事よりも曖昧な二人の境界線は、春の暖かな日差しに照らされ、微かな吐息に混ぜられて、より境目の分からない境界線となっていった。二人は、何度もキスをし直したが、お互いの為の行為だった。お互いが、唇を離し、そして、また重ねる。その行為をしたいと思った瞬間に、緩やかにそれを実行し、愛を深め合った。このまま、二人は、何時間でもキスをしていそうな勢いだった。また、唇を離して見つめ合ったとしても、次の瞬間には、お互いの唇が重なり合っている。そんな状況だろう。しかし、そんなところにも入ってくる人はいた。

 ササクレだった。ドアがガチャリと開くと、スマホを見つめたままのササクレがテクテクと歩き、長机の前に並べられたパイプ椅子に座った。その時、片時もスマホから目を離さなかったので、唇を重ね合わせているタキオンと田上には気が付かなかった。そして、田上とタキオンもまたドアが開いたからと言って、簡単に唇を離しはしなかった。それから、少しの間唇を重ね合わせた後、お互いに申し合わせたように唇を離し、見つめ合ってから、今ドアを開けた人の行方を捜した。ドアを開けた人がササクレだったという事はすぐに分かったのだが、それは向こうも同じだった。今しがた、キスをした後に見つめ合っている様をササクレはしっかりと見ていて、愕然とした。トレーナーとその担当が、そんな顔をして見つめ合うなんて、ササクレには到底考えられなかった。あれでは、まるで、本当の恋人同士の様に見えた。お互いがお互いを愛おしく思い、慈しむ目を向ける。そんな眼差しをササクレは、今まで一度も見たことがなかった。少し二人の関係が羨ましくなってしまう程に、その穏やかな目を誰かに向けられたくなったが、その代わりに思い切り憎しむような目を二人に向けると言った。

「あなた方、今、何してたんですか?」

「ん?……軽く接吻をね」とタキオンが、平然として答えた。内心は、ほんの少しだけ焦っていた。

 その返答を聞くと、ササクレはもっと眉根を寄せて言った。

「接吻?あなた方付き合っているんですか?」

「まぁ、そういう事になる」とタキオンが答えたが、今度は、ササクレは、まだタキオンを抱いたままでいる田上に向かって言った。

「同意の上なんですか?」

「…はい」

 そう言われると、ササクレも難癖をつけることができなくなって、自分のスマホの方に目を逸らした。それでも、何か腹の虫が収まらなかったので、「気持ち悪」と一言呟いた。これには、タキオンと田上も顔を見合わせた。その言葉によって傷を負うなんてことはなかったのだが、いきなり人の部屋に入ってきて、いきなり二人の関係を否定されれば戸惑う事にはなった。けれども、田上もササクレが、トレーニングをサボる様な問題児である事は知っていたし、間違えてこの部屋に入ってきたんだろうという事も察せられたので、優しく言った。

「ササクレさん。この部屋は、もう僕たちの方に移ったのはご存じでしょうか?今、昼食が始まる前に、荷物を運び終わったばかりだったんですけども」

「…知ってるよ!」とササクレは、先程の礼儀正しい敬語も忘れて、乱暴に言い返した。それで、田上とタキオンは再び顔を見合わせた。――知ってるなら知ってるで、部屋から出ればいいのに、というのが、二人の頭に浮かび上がった考えだったが、ササクレは、相変わらずスマホを苛立たしそうに見つめているばかりで、ここで、再び声を掛けようものなら刺してきそうな気配がした。だから、二人は仕方なく、ササクレを刺激しないようにできる限り抑えた声で話した。

 田上が、タキオンに椅子に座るようデスクの方の椅子に座るよう促すと、タキオンも「君が座ればいいだろ」と遠慮したが、田上が「座っていいよ」と言うと、素直にタキオンは座った。そのタキオンが座ろうとしている間に、田上はササクレの方をチラリと見やったのだが、ササクレは、いつの間にかおにぎりを取り出して、それを口に運びながらスマホを見つめていた。どうやら、ここで昼食をとるようだった。これには、田上も参ってしまった。ぼちぼちすれば、自分たちも昼食をとりにカフェテリアに行く予定だったが、ここに部外者が居られては少々不味いのだ。別に、ササクレが何かを盗んでいくみたいなことは考えてはいなかったが、何かあった時に責任の所在を問われるのは自分だ。できるだけ、ササクレをここに一人残して立ち去りたくはなかった。

 それでも、ササクレは、もぐもぐと大きいおにぎりを口に運んでいるので、田上は静かにタキオンの方を見やった。タキオンは、目の前に立っている田上の事を見上げていたが、やがて、自分の膝を両手でパンパンと叩くと小さな声で「座るかい?」と聞いた。田上が、微かに笑って首を横に振ると、もっと田上と話をしたかったタキオンは「遠慮しないで」と再び小さな声で言った。ただ、小さな声と言っても、十分ササクレには聞こえる音量だった。聞こえの良いウマ耳には白い布の耳カバーをしていたが、それでも、タキオンの声が聞こえる度に、苛立ちを募らせるようにその耳は伏せられていった。

 タキオンは、田上が自分の膝に座る事を断ると、次に何を話そうか考えていたのだが、あんまり大した話題が見つからなかったので、やっぱり小さな声でこう言った。

「好きだよ」

 田上も頷いて、それに同じ気持ちである事に同意した。それでも、タキオンは田上の返答が聞きたかったので、「口で言ってくれ」と言った。

 その時に少しタキオンの音量が上がってしまったのが、原因かもしれない。ササクレが、ガタッと椅子の音を立てて立ち上がると、スマホをぎゅっと握りしめ、田上たちを睨みつけながら言った。

「なんで、あなたはトレーナーなのにアグネスタキオンさんと付き合っているんですか?」

 その声には、低い怒気が込められていた。田上は、それに多少驚きつつも、冷静に返した。

「タキオンと両想いだったからです」

「ええ?両想いなら、まだ未成年の女の子と付き合っていいと思っているんですか?」

 ササクレは、少しずつ田上の方に近づきながらそう言っていたから、なんだか妙な雰囲気だと思ったタキオンは、もしも何かあった時に田上を守るために立ち上がった。すると、ササクレが今度はタキオンの方に反応して言った。

「超高速のプリンセスさんは、なんで田上さんの事を好きになったんですか?」

「…かっこいいから」

「外見主義ですか?」

「そんな事はない。内面も含めてかっこいいと思う」

「…なんで、初めての人にそんな舐めた態度取れるんですか?明らかに上から目線ですよね?」

「すまない。この話し方が、癖になってしまっているんだ。今まで、特に注意もされてこなかったしね」

「足が速ければ注意されないんですか?」

「…まぁ、多少はそういう所も多めに見てもらえるだろうね。――この子は将来走れる子になる。または、走れる子だから、と思われれば、そうなるかもしれない」

「つまり、足が早い人は特権階級って事ですか?」

「別に、そんなんじゃないさ。足が速かったからと言って、恋がすんなり実りもしなかった」

「…実ってるじゃないですか。隣に居るトレーナーは一体何ですか?」

「恋人さ」

「……いい加減敬語使ってくれませんか?話していると苛々してきそうです」

 ここでタキオンが「もう苛々しているじゃないか」と揚げ足を取る選択肢も残されてはいたのだが、恋人が横に居るのならば、できる限り厄介事に巻き込まれないようとする心が働いた。けれども、どうすれば正解になるのかが分からなかったので、隣に居る田上の顔を見つめた。すると、田上と目が合ったので、一時二人は微笑みながら見つめ合った。しかし、すぐにササクレが怒ったようにダン!と足を踏み鳴らした。

「見つめ合うの止めてもらっていいですか?アグネスさんも田上さんに助けを求めようとしないで、自分で答えてもらっていいですか?」

 ここで、「いいとも」と答えてしまうのがタキオンだったから、下手に相手を刺激しないようにササクレを見つめたまま黙った。代わりに、恋人の窮地だと思った田上が口を挟んだ。

「俺からも注意しておくから、今回は見逃してくれないか?」

「喜んでモルモットになる様な変人が、敬語の出来不出来を注意するわけないじゃないですか!アグネスさんが何とか言ってください」

 ――あまりにもしつこい。タキオンはそう思ったが、ここで反発して田上を危険にさらすわけにもいかないから、タキオンは頭を下げて言った。

「ごめんなさい。私が悪かったです。今度から貴女と話す際には、敬語で話す事に致します。今までのご無礼をお詫び申し上げます」

 あまりにも丁寧過ぎたので今度は腹が立ってきたが、敬語の事には違いがないので、ササクレも無理に怒れずに、今度はその矛先を田上へと向けた。

「田上さんは、本当に隣の人の事が好きなんですか?」

「え?ああ、好きです」

「…気持ち悪いとは思いませんか?その人女子高生ですよ?」

「えー、まぁ、そうですね」

「気持ち悪くないですか?」

「えー、…まぁ、あの、タキオンも良いって言っているので、僕も甘んじてそれを受け入れるしかないのかな、と思います」

「でも、傍から見れば、おじさんと女子高生ですよ。気持ち悪いとは思いませんか?」

「まぁ、僕もその様に思いはしたんですが、タキオンが良いって言いましたので、それを受け入れるしかないのかな、と」

「気持ち悪いですね。犯罪ですよ。教え子に手を出したって事ですからね。強制わいせつ罪に当たりますよ」

 すると、タキオンがそのすぐ後に「当たりません」と答えた。

「同意の上ですので、圭一君がそのような罪に問われることはありえません」

 それに、ササクレが言い返した。

「なら、その同意を見せてください。…もしかすると、洗脳されているのかもしれません」

「その様な事はあり得ません。圭一君はれっきとした私の夫でございます」

「入籍したんですか?」

「今後、その予定があります」

 そこで、ササクレも言い返せなくなり、再び田上に向かって言った。

「結局は外見主義ですか?若くて、可愛い子供をこの学園で調達できて良かったですね」

 この言葉にタキオンがむっとして何か言い返そうとしたが、田上がその手を握ると、先にササクレに言った。

「僕は、タキオンをただの可愛い子供だとは思っていません。僕を慰め、救ってくれたヒーローです。タキオン以上に素晴らしい人間は居ないと思ったので、彼女の事を好きになりました。外見主義だと何だと言われようと、僕はタキオンの事が好きです」

 これで、田上の演説は終わり、ササクレは苦虫を噛み潰したような顔になった。隣のタキオンは少し嬉しそうに眉を上げてササクレを見ていた。ここで、もうササクレが田上にああだこうだ言う事はできない。嫌悪感という唯一の持ち札をいとも容易く破られてしまったのだ。けれども、ササクレの嫌悪感はまだ消えない。何か、この二人の仲を破ってやる良い手段はないかと考えていた時に、またドアがガチャリと開いて、一人の金髪で美人のウマ娘が「忘れ物忘れ物~」と言って飛び込んできた。マテリアルだ。

 陽気に飛び込んできたマテリアルだったが、机を挟んだ形で向かい合っているササクレと田上とその手を繋いでいるタキオンを見るとピタリと動きを止めた。ここに居るはずのないササクレにも驚いたし、険悪そうな雰囲気にも驚いたからだ。現に、マテリアルは入ってきた途端に、部屋に居た全員に静かに見つめられたし、ササクレにいたっては睨んできていた。それで、マテリアルもこの場に長くとどまっては不味いと感じたから、「私は忘れ物を取りに来ました~」と小声で言うと、田上の机の端に置いてあった自分のスマホを手に取って部屋から出ようとした。しかし、その時に、ササクレに呼び止められた。

「貴女の名前は何ですか?」

 ここで、マテリアルは聞かなかったふりをしてそのまま部屋を出て行く案が頭にふっと浮かんだが、その前に、声に反応してササクレの方を見てしまっていたから、それで逃げる事は、考えついた時にはもうダメだった。

 マテリアルは、できるだけ平然と「え?私ですか?」と聞いた。

「貴女です。名前は、何て言うんですか?」

「えー、ナツノマテリアル…と申します」

 その返答を聞くと、ササクレは田上の方に向き直って言った。

「なんでこの人を好きにならなかったんですか?」

「え?」と田上も困惑して固まったが、その後に続けた。

「…えー、…タキオンの方が好きだったから…?」

「なんでこの人の方を好きにならなかったんですか?どう見てもこの人の方が美人ですよね?」

「ええ?…まぁ、別に、タキオンも可愛くない事はないし…」

「じゃあ、外見主義ですか?」

「外見主義ではありません」

 田上も段々と優しく話す事に疲れてきて、きっぱりとそう言ったのだが、それがさらにササクレに火を点けた。

「なら、何主義なんですか?」

「…知りません」

「どうして知らないんですか?」

「…分からないからです」

「超高速の方を好きな理由が分からないんですか?それなら、別に大して好きじゃないんじゃないですか?」

「タキオンの事は好きです」

「じゃあ、何が好きなんですか?具体的に教えてくださいよ。彼女のここがこうこうであれのあれあれが好き、って」

「ええ?……別に、今ここであげる程突出して好きな部分はありません。全部好きです」

「じゃあ、外見主義じゃないですか!今、そこの人と私の中身だけが入れ替わったとして、あなたはその中身の超高速の人を好きになれるんですか?」

「分かりません。タキオンは外見だけじゃないけど、外見もまたタキオンです。それが急に入れ替わったっていうのなら、僕は、受け入れるのには少し時間が必要です」

「私だって、圭一君が入れ替わるのなら時間が必要です」とタキオンが横から口を挟むと、ササクレは、思い切りタキオンの事を睨んだが、その返答には触れないで、田上に言った。

「なら、なんで好きなんですか?私とあの人の違いを教えてください」

 マテリアルは、三人をハラハラしながら見つめていた。そんな中、タキオンが、もううんざりだ、とばかりに、田上にされた質問に敬語も忘れて答えた。

「君と私は根本から違う!!何が同じかと問われれば!それはこの世に生きているという事が同じなだけで、思想も立場も外見も圭一君を想う気持ちも何もかもが違う!君が何を知りたいのかは知らないが、迷惑なんだよ!」

 ここで、田上が「タキオン」となだめるように言ったが、それで止まるタキオンではなかった。

「何故君に敬語を使わないのかと問われれば、それは君がその様な人間だからだ!初めから、敵意を向けてくるような人間に敬語を使うはずもないだろう!」

「初めから、人を見下しているような表情をする人に言われたくない!」

 ササクレが、つかつかと机を回って、タキオンに詰め寄ってきた。場が騒然とする。田上には、ウマ娘同士の喧嘩など止めることができなかった。隣で、「タキオン。…タキオン!」と必死になって呼び掛けたが、興奮しているタキオンは田上の事なんて眼中にも入れないでササクレに言い返した。

「生憎だが、この顔だけは生まれつきだ!悪かったね!人を見下しているような顔で!!」

「マテリアルさん!!」と田上が悲痛な叫びをあげた。ササクレとタキオンは今にも衝突しそうになっている。田上にもどうしようもないとすれば、これを止められるのはマテリアルだけだった。しかし、マテリアルも生まれてこのかた、喧嘩なんていうのは弟としかしたことがないし、その喧嘩も中学に入って以降は一度もやっていない。今更、人を止める術なんて分からない。だけれども、この場を止められるのも自分しかいないと理解はできるので、マテリアルは急いで二人の下へと近寄っていき声をかけた。田上もタキオンを近寄らせまいと、必死に手を繋いで呼び掛けて、最後には肩を抱いて引き留めた。

 それで、タキオンも少しは我に返ったようだ。まだ、ササクレの方も警戒しつつはあったが、田上の必死の呼び声に応じて、「すまない」と謝った。田上は、タキオンを後ろから抱き締めつつ「落ち着いて…。行かないで…」と呼び掛けた。

 ササクレの方はと言えば、案外、マテリアルに押し負けていた。マテリアルも幾ら美人と言えど、ひ弱ではない。昔、弟と戦っていた感覚をすぐに思い出すと、ササクレと手をがっちり組んで頭を押し合いしていた。その内に、幾分冷静なマテリアルがササクレの押してくる力を利用して、くるんと一つササクレの体を回すと、見事にササクレを地面に組み伏せた。ササクレは、どうにか目の前の女を傷つけてやろうともがいたが、マテリアルの体重の落とし方も完璧で、ササクレは歯を食いしばった奥から唸り声を出す事しかできなかった。

 そして、マテリアルは自分の体の下に押さえつけているササクレに言った。

「何がそんなに不満なんですか!!」

 ササクレは、ただ唸った。

「火傷ですか?この顔の火傷がそんなに不満なんですか?」

 またも唸るだけだったが、先程よりももっと動こうともがいた。

「それが不満なら整形手術なんかで消せばいいじゃないですか!あなたの親御さんはそんな事をしてくれなかったんですか?」

 すると、唸り声が一際大きくなって、ササクレが言った。

「うちにはそんな金はない!母さんは、お金を出すって言ったけど、私はそれを断った!!この痕を抱えて生きていくんだ!!」

「なら、勝手に生きて行けばいいじゃないですか!」

「違う!世の中不公平だ!!私も美人で可愛くいれるならその方が良かった!!あなたのように美人のままだったら私の人生も変わってた!!きっともっと良い人生だった!!」

「十八ごときで何を言っているんです!人生なんて十八年で決まってたら、私は一生人と付き合えません!!」

「…嘘だ!!あなたみたいな美人はどうせ裏で隠れて付き合ってるに決まってる!!」

 これには、マテリアルも少し向きになった。

「残念ですが、今の所、付き合っている人はいません!!全員に振られましたよ!こん畜生!!」

 マテリアルは八つ当たりにササクレの頬をデコピンで弾いた。ササクレは、それに「イタッ!」と声を上げた。

「何するんですか!」

「あなたが世界で一番不幸みたいな面してるから腹が立ったんです!」

「でも!私みたいに顔に火傷のある人なんてほとんどいない!!」

「居て堪るもんですか!!火傷は不幸の勲章じゃありません!!不幸なんて人の数ほどあります!!この!田上トレーナーだって、中学の時に母親が死んだんです!!あなただけが不幸じゃありませんよ!!」

 そのやり取りをタキオンと見ていた田上だったが、自分を引き合いに出されると少し困った。つい今しがた、タキオンと幸福になったばかりだったからだ。

 ササクレは、その微妙な表情で見てきている田上を、少し驚いたような目つきで見た。それから、隣に居るタキオンも少し沈んだ顔で自分を見てきていることに不意に気が付くと、「見るな!!」と叫んだ。そして、マテリアルが油断した隙を突き、体をグイと動かすと、その体の下から抜け出した。マテリアルは、あっという間に床に転がされてしまったが、立ち上がったササクレはタキオンの向かう気配やマテリアルに仕返しをする気配もなく、真っ直ぐに自分の荷物を置いていた長机の椅子に向かった。

 その荷物を取るとササクレは、そのままマテリアルの横を通り過ぎて、ドアの前に立った。皆は、ササクレがどうするものかと思って見つめたが、ササクレは、振り返って部屋にいる人たちを全員見回すと、その後に、田上に向かって言った。

「死ね」

 そう言うと、ササクレは、ドアを乱暴に開け、乱暴に閉めてから部屋を出て行った。そこで、数秒してからやっと場の雰囲気がいつものように柔らかに戻り、田上が言った。

「はーー、怖かったぁぁぁ!タキオンもあんな挑発に乗らないでくれよ!」

「ごめん」とタキオンは落ち込んだ声で言ったから、田上もそれを慰めた。

「ごめん。俺ももう少し気の利いた返しをできれば、ササクレさんをもっと早く帰してあげることができたかもしれないのに」

 すると、タキオンは落ち込んではいるものの、田上に暗い声で言い返した。

「いや、あの人は、こうなるまで帰らなかったと思う。私を何とかして怒らせたかったんだ。私も初めの内は我慢できたんだけど、あの人が君をただ責めているのを見ると……。幻滅したかな?」

「幻滅?しないよ。する要素がない。俺もタキオンの気持ちは良く分かる。俺だって、あんなの嫌だったもん」

「…でも」とタキオンが言うと、田上がその両の頬をぷにっと持ち上げて、タキオンの顔で遊び始めたから、タキオンは「何だい?」と不機嫌そうな目で田上を見つめた。田上はニコニコしながらそれに答えた。

「今更、ここまでお前に助けられた俺が、お前を見捨てたりはしないよ。安心して。俺はタキオンの事が好きだから」

 そう言うと、机を挟んだ向かいの方からコホンコホンとわざとらしい咳が二つ聞こえてきた。だから、タキオンと田上がそちらの方を見ると、穏やかな目つきで二人を見ているマテリアルが居た。

「お二人でいちゃつくのは良いですが、私にも何か一言ありませんでしょうか?」

「ああ、ありがとうございます」と田上がマテリアルの方に頭を下げて、感謝の言葉を伝えた。

「マテリアルさんのお陰で、何とか無事に終わることができました。スマホを忘れてくださってありがとうございます」

「どういたしまして。お二人はどうするんですか?ご飯に行かなくても?」

 そこで、田上は時計を見た。後十五分も経たないうちに昼食の時間は終わるようだった。だから、もう昼食は購買の物で済ませればいいか、と思ったのだけれど、その前にタキオンがこう言ったので、時間以前に昼食の事を断念せざるを得なくなった。

「もう少しここに居たい。…良いだろ?圭一君」

 タキオンは、まだ、落ち込んだ声色だった。

「いいよ」

 そう田上が言うと、マテリアルは、自身のスマホをもう一度手に取り、今度こそ部屋から出るためにこう言った。

「では、私はこれで」

「ありがとうございました」と言う田上の声に見送られて、マテリアルは部屋から出た。マテリアルの機嫌は結構上々だった。乱闘を演じてしまったので、少し髪は乱れたが、それでもササクレを制圧できたのは、中々の武勲だと思った。田上が感謝しても、してくれなくても、ササクレを打ち負かせたのが、中々に嬉しかった。ここ最近は、マテリアルにとっても良い事がなかった。先行きが難しそうだった二人は、完全に恋人同士としてくっついてしまっていたし、自分には彼氏が居ないし、おまけに友達らしい友達もいない。その上、トレーナー補佐として自分の存在意義に疑問を見出していたこともあったので、彼女は、久々に鬱憤を晴らせた。ササクレも中々に可哀想な子ではあった。火傷をしていなければ、見れた顔であったと思うし、その金髪も丁寧に手入れが行き届いていて、マテリアルにもほんの少しくらい見劣りはしなかった。マテリアルには、あの火傷がササクレの人生にどんな影響を及ぼしたのかは全く知らなかったが、人生は十八年かそこらで決まらないのも事実であり、ついでに、不幸な人間がササクレこの世でただ一人でないのも事実であった。今日は、これが吐き出せてよかった。ここ最近、ずっと自分の胸に溜まっていたものはこれだった。

 マテリアルは、ルンルンと鼻歌を歌いながら、待たせていたリリックを迎えに行った。



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二十二、ササクレ⑥

 タキオンと田上は、マテリアルが出て行くと、再び向かい合ってキスをしていたが、これは、タキオンの方から仕掛けたものだった。けれども、田上も受け入れる準備はできていたので、愛を込めてタキオンとキスをした。タキオンが田上にキスを仕掛けた理由は、単純に少し心細かったからだ。感情が抑えきれなくなって、暴走してしまった自分を、田上が嫌ってしまうんじゃないか、という事が田上の言葉を聞いても尚恐ろしかったのだが、田上は、タキオンを嫌うなんてことは全く以てなかった。むしろ、今は、以前より愛があふれ出て堪らない。キスをしている間も、タキオンの肩を力強く抱いてやった。そうすると、タキオンも段々段々と落ち着いてきて、二人は穏やかにゆっくりとキスをするようになった。

 それから、満足の行くまでキスをすると、二人は、お互いの事を想いながら唇を離し、そして、見つめ合った。それで、タキオンが再びキスを始めようとしたのだけれど、田上がそれを拒否するという程ではないが、やんわりと断るように一歩後ろに引きさがった。タキオンは、思ったようなキスにならずに、不満そうな顔を田上に向けたが、田上はこう言った。

「お前がキスをしたいのも分かるけど、こうずっとキスばかりしていると飢えて死ぬ。それに俺はちょっと恥ずかしい」

「君が恥ずかしいのは分かっているさ。…最後だ。最後にもう一度しよう」

 そう言われると田上も断る理由はないので、最後に一度長めのキスをして、タキオンと唇を離した。

 キスを終えると、二人は購買に行き、それぞれのおにぎりを買って、前にそのおにぎりを食べたベンチで食べることにした。そこは、人もあまり通らないという事もあって、中々二人に適した場所だった。

 二人は、おにぎりを口に含みながら、話をした。

「俺、…明日買い物に行こうと思うんだけどどうする?」と田上が言った。

「買い物?…どうして?」とタキオンがおにぎりをまた一口、口に含んで言った。

「えー、…お前の誕生日プレゼントを買いに行こうかな、と思って」

 それを聞くと、タキオンは今まで平然としていた顔を急にニヤニヤ顔に変身させた。

「私の誕生日プレゼント?リングかな?婚約指輪?」

「…いや、ネックレスなんかが良いんじゃないかと思ったんだけど…ダメ?」

「いや、ネックレスもいいだろう。…お揃いにしないかい?」

「お揃いー?お揃いって言うと、…ロケットペンダントとか?」

「それもいいけど、単純にお揃いだよ」

「でも、同じ物を買ったってしょうがなくない?」

「なら、ペアのネックレスだ。何かあるだろ?」

「…でも、お前の誕生日なのに俺の分も買うの?」

「嫌なら私が出すが…」

「なら、俺が買うよ。ペアリングを割り勘は意味が分からない」

「ペアリング?」

 タキオンが田上の言い間違いを指摘すると、田上はむっと顔をしかめて「ペアネックレス」と言い直した。それをふふふと笑いながら、タキオンは言った。

「別に、一つは自分の物、だなんて思わないでさ、二つを私にプレゼントとしてあげて、それを私が君にまたあげると思えば、夫婦のようで素敵だろう?」

「夫婦ぅ?…まぁ、ペアネックレス自体は良いと思うよ。誕生日プレゼントはそれでいい?」

「あわよくば、婚約指輪は?」

「婚約の時に指輪は必要?どうしても欲しいなら、また、考えるけど」

「まぁ、ネックレスでも大して意味は変わらないと思う。私はネックレスでいいよ。…で、私はそのお買い物に同行させてもらえるのかな?」

「…同行…してもいいけど、…どうする?」

「どうする?…私に何を買うか言った時点で、サプライズにはならないが」

「うーん…、…まぁ、なんだろう。ネックレスでいいか確認したかったのは事実なんだけど、お前の誕生日が来週な事を考えると、目の前で買って、それを来週までお預け…は、なんか微妙じゃないか?」

「微妙であることに間違いは無いが、君が先にネックレスを着けている所を拝むのは少し面白いかもしれないね」

「俺が先につけるの?でも、それだと、ペアネックレスの包みを破る事になるよ?」

「それも些か……。うむ。…まぁ、包み自体はいいんじゃないか?店頭で買うんだろ?もうそこで、包んでもらうのは止めてもらえば」

「でも、お前の誕生日プレゼントなんだよ?」

「うーむ、困った。……ふむふむ。…なら、いっその事、もう買ってからすぐに首に着けて、そのまま帰るかい?」

「いや、だから、そのネックレスの目的はお前の誕生日プレゼントだろ?お前の誕生日は、来週じゃん」

「うーむうーむ。……私は、君が首にネックレスを着けているのを拝みたいんだよ。だって、君、普段からお洒落のおの字もないだろ?ネックレスなんて奇特な物、君が首にぶら下げているのを見てみたいんだよ」

「…なら、俺のだけ別に渡してもらえないか、店で聞いてみる?どういう方法で売られてるか分からないけど、ペアネックレスって言うくらいだから、一まとめにして売られているだろうし」

「…ちょーっと待ってくれよ。考えを整理する。…まず、これは、私の誕生日プレゼントだ。それを明日そのままもらうとすれば、少し整合性が取れない。そして、次に、ペアネックレスであるという事だ。これは、もう決定事項のような物だから、オーケー。その次が、私が、君のネックレスを着けている姿を見てみたいという事だ。これは、やはり、興味深い事象であり、見逃すのは得策ではないが、私の誕生日プレゼントという事もあり、これも圭一君だけ少し先に着けているのは整合性が取れない。…が、これは別にいいだろう。それは私の気にする問題であり、私としては、ネックレスを着けている圭一君を第一に見てみたい」

「俺は、俺とお揃いのネックレスを着けたお前を見てみたいよ」と田上がタキオンの独り言の中に口を挟むと、タキオンは少しの間、理解できていなさそうに田上を見た後、口角を恥ずかしそうに上げた。

「言うようになったね。…表情も少し明るくなっている。…私の朝の談議が功を奏したのかな?」

「まぁ、肯定しにくいけど、それだと思う。…なんか、こう、キスをすると、…お前と『繋がっている』という事が、明確に感じれるようになった。…と言うか何と言うか」

「…それは良かった。…で、何を考えて…、あっ、ネックレスだ。えー、…私は、君のネックレス姿を見てみたいし、…その間に期間が空けば、君の姿を見ながら楽しみにもできる。君との繋がりがまた一つ増える、と。…これが良いな。私はすごく楽しみだ。来週が」

「それで決定かな?」と田上が言うと、タキオンは田上の方を向いて言った。

「それで決定だ。別々で貰えないときはしょうがない。君の下にある包みを想像しながら、四月十三日を待つとしよう」

「ああ。…じゃあ、一緒に買いに行くってことでいい?」

「それでいいよ」

「俺もその方が、一人で行くより、選ぶときの楽しみがあっていいよ」

「そうだね。君と二人であれこれ言いながら、選ぶのは私も結構楽しいと思う。…楽しみだ」

 タキオンがそう言って、その話は終わり、二人はもぐもぐと残りのおにぎりを食べた。昼の一時を四分の三程過ぎた頃だった。

 

 おにぎりの最後の一口をタキオンが口の中に放り込もうとしていた時だった。田上がこう言ったのは。

「…たださ…、明日くらいにリリーさんのトレーニングも始めたいと思っていたんだよね」

「うん?」

「もうそろそろ始めないといけないと思ってたから」

「リリー君のトレーニングを?」

「うん。……できれば、初めのトレーニングは、休日のゆったりとしたタイミングでやらせたいと思っていたんだよ。授業の始まる前じゃなくて」

「うん」

「だから、明日頃が良いのかな~、と思っていたんだけど、お前の誕生日プレゼントも買いに行かないといけないんだよ」

「そうだね。君一人ならいいが、私と一緒に買いに行くとしたら、私の授業も明後日から始まるわけだから、授業が終わってから、少し慌ただしく買いに行かないといけない事になる」

「そうなんだよ。…ゆっくりしたいだろ?」

「ああ、君とウィンドウショッピングも楽しみたいと思っていたんだけど」

「だから、明日がいいかな~、と思っているんだけどねぇ。…リリーさんにもあんまりストレスはかけたくないし。初っ端から走る事に抵抗感を持ってもらうと困る」

「うーん。…じゃあ、選択肢は、明日リリー君の予定を優先して、私の誕生日プレゼントは慌ただしく買いに行くか、リリー君のトレーニングをもっと後にして、学校生活が落ち着いたタイミングでトレーニングを開始するか、…しかないんじゃないのかい?」

「……いや、…あと一つ俺が考えていることがあるんだけど…」

「なんだい?」

「…明日の朝頃、オリエンテーションのみを軽く済ませて、で、十時頃からお前と買い物に行く。…一日中遊ぶつもりだろ?」

「君が良ければ」

「俺は、それでいいんだよ。…で、少し億劫なのが、慌ただしいって事だよ。大体、一時間あれば、ほとんどの事は済ますことができると思う。ただ、俺も少し準備をしたりするから、余裕をもって十時の三十分前、九時半には、オリエンテーションを終えることが望ましい。すると、八時半から開始になるというわけだから、俺が起きるのは、七時半くらい。…案外余裕だな」

「私も一緒に行こうか?」

 タキオンがそう提案すると、田上が不図タキオンの顔を見つめて考え込んだ。タキオンがその顔を見つめ返したのだが、両者見つめ合うだけで一向に話さなかった。

 それで、田上の考えがまとまった時に、彼が口を開いた。

「…いいの?」

「いいとも。何か問題があるかな?」

「…いや、…俺もそっちの方が嬉しかったんだけど、お前が居なくてもできる事にはできるし、お前を、教える事に利用させてもらうって事がどうもね…」

「それなら、別に相談するくらいの事をしてくれよ。私たち夫婦だろ?」

 この言葉に、田上が少し口角と眉を上げた、恥ずかしさを堪えている顔をして、タキオンを見つめた。すると、タキオンは、その顔を「私が何か言ったかな?」と平然としている顔で見つめ返した。二人は暫く、見つめ合ったままでいたが、先程よりも早く田上の方が口を開いた。

「タキオン」

 そう言うと、田上はタキオンに体を寄せてその顎に手を添えた。それで、タキオンも次に何をするのかが分かったので、ただ田上の方に顔を向けて、目を瞑った。唇に今日は何度も感じた柔らかな感触がして、そして、思ったよりもすぐに離れた。タキオンは、少し物足りない顔をしながら田上の顔を見つめて、少しだけしかめっ面になっていた。ただ、これは、本気のしかめっ面ではなく、どことなく物悲しさを感じるしかめっ面だった。

 その顔をしながら田上は言った。

「お前が、俺の恋人で良かった。…ありがとう」

「今まで何回も聞いたよ」

「何回でも言うよ。お前が、俺の事を好きでなければ、俺は今頃どうなっていたのか分からないから。…ありがとう。タキオン」

「どういたしまして。…もう君も本当に大丈夫なようだね。…また、話しにくい話で申し訳ないが、子供はいつになるのかな?君も私の事を想ってくれているだろ?」

「…いや、…まぁ、ちょっと待たないといけないけど、引退か……そこら辺だろうな。…引退まではできないけど良いだろ?」

「まぁ、良いとも。私もなんだか走れるような気がしてきたし。…宝塚は走ろうかな?」

「走る?…走りたいのか?」

 田上がそう聞くと、タキオンは少し目を逸らしつつ言った。

「…走るつもりではあるよ」

 田上は、その様子にしっかりと気が付いてはいたが、今は無理に問い詰めるという判断をせずにこう話した。

「まぁ、お前が走れるならそれでいいけど、今度こそ、俺が支える番だ。今まで苦労掛けた分を全部取り戻す。絶対にお前と一緒に走るから」

 タキオンは、その話を聞くと、苦笑を顔に浮かべた。

「別に、そんな熱心にならなくても…」

「いいや、やるときゃやらないと、男としての名が廃る。今まで、本当にお前に苦労を掛けたんだ。その事は分かってる。分かってるからこそ、お前に報いないと俺の気が済まない」

「まぁ、そんなに言うんだったらいいが、ちゃんとできるかな?」

 タキオンにそう問われると、田上は今まで体に入れてた力を抜いて、少し笑ってから言った。

「お前の支えになれればいいんだ。それ以上の事は、あんまり考えてないよ。…ただ、お前の支えになって、お前がニコニコ笑って暮らせれば、俺はそれが一番好きだ」

 タキオンは、田上の話を聞くと、一瞬きょとんと不思議そうな顔をしたが、次に半ば恥ずかしそうにしながらもそれを堪えて言った。

「君も妻をしっかりと想ってくれるのであれば、それが嬉しいよ」

 それから、二人は暫くふふふと笑い合ったが、田上が次にはこう言った。

「そう言えばさ」

「なんだい?話がコロコロ変わるね」

「さっきの話に戻るだけだよ。…値段って…どんなもんだろう?」

「値段?ペアネックレスのかい?」

「ああ」

「うーん。…私も、まぁ、ネックレスは色々調べたことがあるけど、千差万別ではあるよ。…気に入ったのを買うんだろう?」

「…そのつもりではある」

「なら、十万でも二十万でも買ってみればいいんじゃないかい?」

「二十万!?無理無理。俺にはそんな高い買い物はできない」

「それなら、結婚指輪はどうするんだい?高い物を買うつもりではあるんだろう?」

「結婚指輪?………高いの?」

「……千差万別なんじゃないのかい?…さすがの私も結婚指輪の値段は調べたことがないよ」

「…まぁ、今は、ネックレスの話だ。…二十万は、…さすがにしないよねぇ?」

「いや、ブランドの店に行けばそれくらいはするだろ」

「……ブランド物がいいの?」

「別に、欲しいものであればそれでいいんだよ。例え、百均のだって気に入ればそれでいいさ。…私は、君とそういう…買い物をしたいんだよ。一緒に気に入る物を見つけよう?ブランド物じゃなくていい。君との思い出の品という物であれば、私は何にも代え難いから」

 タキオンにそう言われると、田上は少しの間黙って考え込んでいたが、やがて、こう言った。

「…分かった。…分かった分かった。…明日は、一緒に行こう。十時からだ。十時に…トレセン学園を出て、で、…駅から、前のクレープ屋のショッピングモールに行こう」

「いいとも。そうしよう。十時だね。…で、その前に、私もリリー君のオリエンテーションに協力しないといけないわけだから、…何時だっけ?」

「八時半。それくらいには終えないといけない事になる」

「…三十分前だろ?…シャワーを浴びるには充分か?」

「シャワー?」

「…いや、私がお手本として走る事にはなるんだろ?なら、汗を掻くかもしれないじゃないか。そうなると、私も汗臭いままで君と出掛けるのは少々気掛かりだから、シャワーを浴びておきたいわけだよ」

「多分、そんなには走らないと思うぞ」

「それならそれでいいが、…まぁ、それでいい。他に伝えるべき事はないかな?明日の予定に抜かりがあると困る」

「…ネックレスもクレカで払える…。明日は、十時にトレセンを出る…。八時半にリリーさんのオリエンテーションを始めて、九時半に終わる。…門限までに帰ってくる。…ざっとこんなもんじゃない?」

「それに、私は君の体調を気遣わないといけないのを思い出した。つい一昨日みたいに熱を出されても困るからね」

「さすがに、疲れも少しは取れたよ」

「いいや?…どうなのか分からない。君、昨日も今日も少し忙しかったはずだ。今日は、特に、君に心的ストレスをかけてしまったし。…おいで、少しの間私の膝枕で休みたまえ」

「ええ?…お前だって、少しは疲れてるはずだよ。お前こそ、たまには休まないと。…俺は大丈夫だよ。それより今は、お前の方が心配だ。…今まで俺の世話ばっかりで疲れてたんじゃないのか?もう、本当に俺は大丈夫だから。…俺の膝枕で休む?あんまり良いものじゃないかもしれないけど…」

 田上の提案を聞くと、タキオンは僅かに迷うそぶりを見せた。今まで田上の顔に向けていた目を一瞬だけ、膝の方にやった。しかし、その後に出てきた言葉はこうだった。

「いや、君が休んだ方がいい。私ならウマ娘だし、体力は人一倍あるから大丈夫だ。…おいで」

「いやいや、俺だって体力は人一倍ないにしても一昨日に熱を出して、お前としっかり休んだんだ。休んだ!お前と一緒に休んだ!これは、お前も知っている事実だ。十分休めたし、お前のお陰で大分心も楽になった。今度は、お前が休んでもいいんだよ」

 そう言って、田上が自分の膝枕の方を誘導するように見つめると、タキオンの視線も段々と田上の太ももへとずれていった。大して柔らかそうではなかったが、男らしい重厚感は有り、タキオンには何だかそこが魅力的な場所に思えた。それでも、タキオンはまだ思うところがあったので、田上を見つめたのだけれど、田上が優しく「いいよ」と語り掛けると、タキオンも迷いながらもその膝へとそろりそろりと頭を下ろした。

 タキオンは田上の膝枕に頭を乗せ、ベンチを占領して寝転がった。すると、不思議な事に段々と笑いが込み上げてきた。別に、下から見上げる田上の顔が可笑しかったからでも首筋を撫でる自分の髪の毛がくすぐったからでもない。ただ、田上の太ももの上に乗っかってみると、青く澄んだ空とそれを覆う木の葉と自分の愛すべき人である田上の顔が見えた途端、不思議と笑みがこぼれ始めたのだ。タキオンは、ふふふふと笑い出すと田上に言った。

「不思議だ。不思議だよ。君のただの膝枕なのに可笑しくて可笑しくて堪らない。ククク。…ああ、良かった。私も良かった。君が私の恋人で。君と私がパートナーで。…これ程良かったと思った事はない。可笑しい可笑しい。本当に、君の膝枕というだけの事なのに、笑いが止まらないよ」

 田上は、それには何も答えないで、ただタキオンの髪の毛を撫でてやった。すると、また、タキオンはクスクス笑い出して、田上にこう言った。

「良い男だ、君は。こうして私に報いてくれるんだから」

 そう言うと、タキオンは、覗き込んでくる田上から垂れさがった前髪を、手を伸ばして無邪気に触った。田上は、今度はふふふと笑ってからタキオンに言った。

「お前も良い女だよ」

 それから、田上もタキオンの前髪を触って、その顔が露わになるようにした。タキオンは、恥ずかしそうに口元を歪めたが、田上は相変わらず、愉快そうに口元に笑みを浮かべたままだった。

 そして、二人は何度かキスをし、話をした。「君の膝枕は一月の時以来だね」だったり、「もう四月だね…」だったり、他愛ない話をした。その後に、タキオンは眠りに就いた。すやすやと恋人の膝の上で安らかな眠りに就けた。ここ最近のタキオンの眠りの中で、一番の安らかさであったことは間違いがない。子守歌は、田上の低い声だったし、枕は田上の太もも、頭を撫でてくれるのは田上の大きな手だった。それはそれは楽しい眠りだった。田上もそのタキオンの顔を微笑ましそうに見ていた。愛おしい顔だ。手放し難い可愛い顔だ。その可愛い顔は、今は楽しい夢でも見ているのか、ニヤリと笑っていた。

 

 長閑な春の日和である。田上とタキオンはそのベンチの周辺で遊んですごした。結局、タキオンは眠りに就いた三十分後くらいには目を覚ました。しかし、その後が元気一杯で、田上を振り回しつつ、二人で愉快に過ごした。服が草まみれになるのも構わずに芝で転げ回ったし、稀に近くを人が通っても変わらずに笑ったり転げたりしていた。

 そして、暗くなると、二人も別々の寮へと分かれる事になった。その時に田上がこう言った。

「確か、家族寮自体は、別に何か条件があったわけじゃないから、もう少し生活が軌道に乗れば、そこに二人で移り住んでもいいかもな」

 その話にタキオンはにっこりと笑って頷いた。

 その後に、二人はお別れのハグをタキオンの寮の前ですると、別々に分かれてそれぞれの部屋へと帰った。

 部屋に帰ると、タキオンはデジタルに嬉々としてこう報告した。

「圭一君が、私と二人で家族寮に移っても良いかもしれないという提案をしてくれたよ。多分、まだ彼も色々とあると思うから、先の事にはなるとは思うけど、それでも、その話が彼の口から出たこと自体が私は嬉しいよ」

 口調は、幾分落ち着いていたものだったけれども、確実に嬉しさを一杯にしている声色ではあった。これには、デジタルも今年一番の衝撃を食らってしまい、鼻から血を噴出させた。それで、一時場は騒然としたのだけれど、デジタルは右手を上げ、拳を作り、そこに揺ぎ無い親指を上へとそびえ立たせると、死にそうな声でこう言った。

「了解です…。天に召しますは、我が命。如何なる時もあなたのお傍に…」

 そう言ってから、まさか死ぬわけではなかったが、デジタルが風呂に入るまでその鼻血は止まらなかった。

 

 タキオンは、喜びの有頂天へと達していた。人生でこれ程喜びに満ちた時間も無かっただろう。自分の足の脆さが克服できた時だってこんなには喜ばなかった。全ては、田上に費やした努力と時間が全て報われたからだった。

 喜びの有頂天へと達した彼女は、今はもうふわふわとした心地だった。やがて、眠りに就くが、明日もそのふわふわした心地は続いているだろう。今はもう、彼女の喜びを止める術はなかった。暗い闇も惨めな恐怖も今の彼女は、気付きすらしないだろう。

 しかし、気付きもしない暗い闇が、その日、田上の枕元へ舞い降りた。



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二十三、タキオンの誕生日プレゼント①

二十三、タキオンの誕生日プレゼント

 

 トレーナー室の引っ越しのあった日の夜。田上の下へ研究室に巣くっていたはずの『悪意』が訪れた。しかし、田上は全く『悪意』の存在なんて知らないし、姿かたちも分からない、どんな声をしているのか分からないので、初めの内は気付きもしなかった。

 『悪意』は、田上の夢の中へと現れた。田上の夢は、タキオンとピクニックをしている夢だった。その夢は、今日のような長閑な春の日で、まだ小学生だった時分に母親とピクニックに行った思い出を彷彿とさせた。すると、母親も出てきた。田上は、多少怯えながらも母親にタキオンの事を紹介した。母親は、タキオンの事をチラと見た限りで、後は、田上に向かってこう言った。

「今日はピアノのレッスンじゃなかったっけ?」

 田上は、タキオンの事について何も触れられずに愕然としたが、そこで、タキオンが田上を庇う為に出てきた。

「今日は、ピクニックをするために出てきたんだよ!」

 そう言われると、田上の母親は、黙ってその場を去って行った。

 何とも言えない空気が流れた。夢がまるで止まってしまったかのような雰囲気だった。タキオンは微動だにしないし、草はそよともさやがない。田上の意識は段々と、また深い眠りへ引きずられるか、覚醒へと向かうのかという心地がしたのだが、そのどれでもなく、ただ、背景としてベンチに腰かけていた灰色のパーカーのフードを目深にかぶった男が自分に近づいてくるのが分かった。

 田上は、まだ夢が続いているのかと思って、その男に「あなたは誰ですか?」と聞いた。男は、何も答えずにまだ、田上の方へと近づいてくる。

 そして、男が目の前まで来ると、立ち止まってそのフードをとった。そこにあった顔は、田上をうんと陽気にしたような顔だった。眼鏡は外しているし、髪は染めている。ピアスもしていれば、髭もお洒落に整えていた。しかし、骨格や目鼻立ちは紛れもなく田上そのものだった。

 ただ、何よりも灰色のパーカーの方の田上を陽気にさせていたのはその表情だった。それは、まるで別人だと見紛うほどにニコニコとしていて、田上は、それが自分だと気が付くまで数秒は掛かった。その後に、目の前にいる人が自分だという事に気が付くと、田上はうんと警戒して言った。

「誰ですか?」

 男は田上の質問には答えなかった。ただ、「タキオン」と呼ぶと、タキオンがその自分の顔の紛い物の方へと歩いて行って、その隣に寄り添うようにして立った。すると、田上の心臓が急に飛び跳ねて、顔からは汗が噴き出した。田上は激昂寸前の表情になったが、何も言わずにタキオンの方を見ると、今度は、タキオンが田上への方へと寄り添った。それで、男は、また「タキオン」と呼んだけれども、今度はタキオンもそちらの方へとは行かず、変わらない表情で田上の横へと寄り添った。男は、悲しそうに「こっちじゃ無理か…」と田上の声で言うと、田上の方に向き直って再び言った。

「こんにちは」

 田上は、自分の声で語り掛けられているものだから、警戒心剥き出しのまま何も答えなかった。その事に気が付くと、男は声色を少し変えて言った。

「田上君だよね?」

「……ええ。……あなたは誰ですか?」

「俺?…うーん。特に、決まった名前を付けられたことはないけど、…あの黒い髪のお嬢ちゃんは俺の事をなんて言ってたかな?」

 田上は、黙ったまま、隣のタキオンの手を固く握りしめて、警戒を解かないでいた。それには構わず、男は独り言のように話を続けた。

「えー…、確か、…あれだ。…悪意!酷いよなぁ。俺だって好きでここに居るんじゃないんだぜ?」

「なんでここに居るんですか?」

「なんで?…場所を変えよう」

 そう言って、男がカッと口の中で舌を鳴らすと、田上と男の間を境に、男の方の空間が真っ白へと変色していった。影も物体も何もない世界。そしてまた、男が指をパチンと鳴らすとこげ茶色の木のベンチが現れ、男はそれに座った。

 田上の方は、何も変わらず長閑な春の陽気がそこにはあったが、やはり、男の方まで行くと真っっ白となっていた。

 男はベンチに座ると言った。

「君も座らない?立ったままだと話づらいだろ?」

 田上はそう言われて、少し迷ったように視線を自分の足元へと迷わせたが、恐る恐る下手な指パッチンをやってみた。すると、タキオンと田上の分の椅子が二つ現れた。田上は、隣のタキオンを見ると、手を放して別々の椅子に座り、あの男と向かい合った。男と向かい合うと、不思議な事に、田上たちとその椅子以外を残して世界は真っ白になった。だが、その男は顔をしかめて言った。

「お前、その幻と一緒に俺と話すの?」

 男が「その幻」と言ったのは、田上の隣のタキオンの事だった。夢の中なので、当然と言えば当然なのだが、田上はそう言われて初めて、ここが夢の中であることに気が付いた。今までは、夢か現実など念頭になく、何にも理解はしていなかった。田上は、驚いたようにタキオンを見つめると、タキオンもまた田上を見つめてきていた。その目は優しく微笑んでいた。そこで、田上はまた、男の方に向かい合うと言った。

「現実のタキオンの方にも後で話す。…悪意?カフェさんが言っていた?」

「そうそうその悪意」と男は、鼻毛を抜きながら答えて、それからクシュンとくしゃみをした。そして、立ち上がると続けた。

「悪意って呼び方止めない?非常に不愉快だよ?」

「じゃあ、なんですか?」

「何?…何って聞かれると…。田上君、何か案を出したまえ」

「幽霊?」

「厳密には俺は幽霊ではなくて、『存在』だ」

「じゃあ、何が存在しているんですか?」

「何?また何かい?…俺はなんにでもなれる。例えば、動物だったり」

 男がそう言うと、椅子を立ち上がり、途端に大きな鬣に大きな図体をしたライオンになって、これまた大きな吠え声を一つ出した。かと思えば、また人間に戻りこう言った。

「例えば、暗闇にだってなれる」

 すると、男の体は消え失せ、代わりに大きな暗闇が真っ白だった世界を覆った。暗闇はすぐに引いて、また同じ所に男は立っていた。そして、次のように言った。

「だから、俺に具体性という物はない。ね?だから、俺に名前を付けてみてくれよ。お前につけてみてほしいんだ。あの部屋をあんな使い方をしたのは初めて見たぞ。それに、あんな風に、主人でもないただの女の子に尽くしている男も初めて見た。お前は一体何なんだい?」

 今度は田上が質問される番だったが、田上は顔をしかめるとこう返した。

「俺だって何でもない。田上圭一としてこの世に生まれただけだ」

「この世ってどの世だい?ここは夢の世界だぜ?お前はこの世界で生を受けたのかい?」

「…いや、俺の生活している世界がこの世だ」

「そうか…。じゃあ、俺とは違うわけだ。俺の生まれた世界は、夢と繋がっている世界だ。厳密には夢の世界ではなくて、夢の世界の『狭間』と言った方が正しいかもしれない。多分、奴も俺と同じ出身かもしれない」

「奴?」

「…あれだよ。…あの、お前の世界に住んでいる黒髪の子と仲が良い奴」

「…カフェさん?」

「のあれだな。あの黒髪の子は、一人で良く喋っているだろ?それのあれだ」

「あの、カフェさんがトゥルースって呼んでいる幽霊?」

「そう幽霊。…幽霊?…どうかな?奴はただの幽霊かな?俺にはそう思えないけど、奴は、俺と同じくらいには秘密主義だ。全裸で歩くようなことはしない。絶対に何処かを衣服で覆っている」

「トゥルースさんがどんな姿か知ってるのか?」

 田上は、少し好奇心が湧いてきて、男にそう聞いてみたが、男はにやりと笑うと田上にこう返した。

「奴の姿なんてのは分からない。奴だって姿は変える事のできる可能性がある。あの世界じゃ、誰も本当の姿なんて分からないのさ。…尤も、お前の世界だって本当の姿は分からなさそうに見える。…田上君、…君は、その隣の女の子は信用できるのかな?」

 男は、タキオンの方を顎で示して見せた。それで、田上がタキオンの方を見てみると、タキオンもまた田上の方を見てきていた。だが、今度は微笑む事のできる時間が発生する程に見つめ合う事はせず、田上の方から目を逸らして男に向かって言った。

「信用できる。俺は、タキオンの事が好きだ」

「そうかそうか。幸せそうで何よりだ。…で、俺の名前はどうかな?『タキオン』にしてみて良い?」

 そう言われると、田上は顔をしかめて言い返した。

「その前にその顔を変えろ。いつまで俺の顔でいるつもりだ」

「ええ…。良い顔じゃない?陰気臭いお前の顔から脱却した、言わば、お前の望む顔だぞ?」

「俺はそんな顔なんて望んでいない。見ていて気持ち悪いだけだ。止めろ」

「おやおや、田上君。君、夢の世界だと嫌に強気だねぇ」

「お前が怖いだけだよ。お前は、一度、俺たちに何かしようとしただろ。警戒するのは当然だ」

「警戒するにしたって、普段の田上君とは大違いじゃないかい?…もしかして、君、そのお隣の女の子に良い所を見せようと頑張っているのかな?」

「…別に、恋人の前で強気になって悪いか」

「でも、それは恋人じゃないよ?ただの幻だ」

 そう言って、男は指をパチンと鳴らした。田上は、タキオンに何かあったんじゃないかと思って、慌てて左隣の方を見やったが、タキオンは先程と同じように田上を見つめてきていて、ほっと胸を撫で下ろすことができた。

 男は残念そうに言った。

「やはり、田上君の夢では無理なようだ。…では、君のご注文通り別の姿へ変わってあげよう」

 それで、男は変身するために体の原型を無くしたのだが、その際の最後の表情が田上には気に掛かった。今までの陽気そうな表情の中に、意地悪な笑みが浮かんでいた。その表情について田上がなんだろうと思っていた束の間、男は田上の驚愕する人物へと姿を変えていた。それは、田上の中学時代好きだった人だ。肩くらいの長さの黒髪にパチリとした目、快活に笑う口元。完全に本人だった。田上は、驚きのあまり立ち上がって、聞いた。

「お、お前!その人」

「お前なんて呼ぶなよ圭一!あの時は悪かった。あいつらとは綺麗さっぱり別れることにしたよ」

「どの時だよ!」

「お前が告白してくれた時。私嬉しかったんだよ。本当は両想いだったんだぜ」

「で、でも、…でも、……ああ!待ってくれ!お前こんなことして何が楽しいんだ!名前を付けてもらいたいんじゃないのか!」

「名前?私の名前は、青葉(あおば)だけど?…そうか、お前と結婚すりゃ、田上青葉になるな」

「うるさい!お前の事なんてもうどうでもいいんだよ!なんで今出てきた!」

「お前の事が好きだからに決まってるじゃん。もう一回あの時の告白をやり直そうぜ。お前のあのバカ科学者の事なんて忘れてよ」

 田上は、そう言われて突然にタキオンの事を思い出して、慌ててそちらの方を見やった。タキオンは、不思議そうな顔をしてこちらを見てきていた。それで、田上がタキオンに呼び掛けようとしたその時に、青葉が指をパチンと鳴らして、今度はタキオンは風景にかき消されて見えなくなった。

 

 田上は、いつの間にか中学生時代の、大内県の竜之終町へ転校する前の自分へと戻っていた。学ランを着て、青葉を目の前にして立っている。右側からは夕日が差してくる。ここは、放課後の学校の三階の渡り廊下だ。渡り廊下の続いている校舎の方からは、生徒の話し声やざわめき声が聞こえる。丁度、あの時だった。まるで、タイムスリップをしてしまったかのような感覚に陥った。青葉を目の前にしてみれば、あの日の感覚が蘇り、自分の心臓の高鳴る音が気になる。しかし、同時に全てを知っている自分も居て、青葉の背後の渡り廊下の奥が気になった。青葉の交際相手達は、あのドアの影に隠れて自分たちを覗き見していたのだ。趣味が悪い事この上なかったが、同時に気付けなかった自分も中々に間抜けだと思った。青葉は、あの日と同じようなからかうような目で田上を見つめてきている。田上の心も段々段々と、その日へと戻っていく。田上は、戻りたくない戻りたくないと思って、必死に意識を保とうとしていたが、夕日の暑さはその意識をかき消すようだった。

「渡り廊下に呼び出されたけど何の用?」と青葉が、田上の顔を覗き込みながら聞いた。田上は、まだ、意識が微かにあったのだけれど、その目に覗き込まれると、とうとう意識は消え失せた。だから、田上はあの日のようにこう答えた。

「あいつらが、うるさかったんだよ。俺は、どうでも良かったんだけど、もうすぐ転校するからって……」

「ふぅん。…それで?」

「……大変申し訳なくて、気持ち悪いかもしれないんだけど、……もう母さんと一緒に大内県に引っ越すから会えないし、俺、スマホ持ってないから連絡先も交換できないし、……それでも、少しはアレだったから言うけど、…………」

 田上の言葉は出てこなかった。夕日が妙に暑く感じる。額には少し汗もにじんでいる。五感が奇妙に張りつめているが、声だけはなかなかどうして緊張して出てこなかった。それでも頑張って、頑張って、頑張って、ようやく田上はその言葉を口にした。

「好きです」

 途端に、渡り廊下のドアの陰から笑い声がゲラゲラと聞こえ始めた。田上は、呆然としてその方を見つめた。いつも、廊下などで、ふざけて笑っていたあまり心地の良くない声が、今はもっと気持ち悪く聞こえた。その声のする方角には、サッカー部やバスケ部のいつも一緒につるんでいる背の高い奴らが居た。他のクラスの奴で、名前は人伝にしか聞いた事がない奴らだ。田上は、なんでそんなに笑われているのか分からなかった。そこに人が居る事にも驚いたし、どうやら笑われている対象が自分であるという事にも驚いた。青葉の方は、分かっていたようだ。仕方なさそうに苦笑しながら、奴らの方を見ていた。田上には何も理解できない。何も分からない。その様子を見た青葉が苦笑しながら言った。

「ごめんね。私、彼氏がいるの。桐龍(きりゅう)君と付き合ってるの」

 途端に、田上の顔は火が出ているんじゃないかと思うくらい熱くなった。碌に考えをまとめる事もできず、「ああ、そう…」と言うと、近くに置いていた自分の鞄を背に負って、何かに追われるように、一段飛ばし、二段飛ばし、三段飛ばしで階段を駆け下りて行った。

 未だに状況は掴めていなかった。田上の目は見開かれたまま、ただ無心に階段を駆け下り、靴箱まで行き、そのまま走って学校を出た。学校を出た後も、田上は走り続けた。いつ止まればいいの分からなかった。止まれば、冷静に物を考えようとしてしまう。物を考えれば、全てが分かってしまう。止まりたくなかった。走って走って走って走って、いつまでも息は続くかのように思えた。しかし、ある時、目の前にタキオンが現れて、田上は立ち止まることができた。その途端に、田上の体は、学ランを脱ぎ捨て、元のトレセン学園に住んでいるトレーナーに戻った。

 タキオンは、「圭一君、そんなに慌ててどうしたんだい?」と言いながら近づいてきた。勿論、田上はどうしようもない気持ちに襲われた。今大好きなのは、タキオンのはずなのに、事もあろうか昔好きだった人に今告白をしてしまった。田上は、タキオンにどう近づいたらいいものかと考えあぐねたが、そんな事には構わずタキオンは近づいてきて、田上の右手を手に取った。

「落ち着いて言ってみてごらん?」

 それで、田上も言葉を頭の中でまとめて、タキオンに話をしようとしたのだけれど、そこで、後ろから声をかけられた。

「圭一ーー!!」

 後ろを見ると、青葉が追いかけてきていた。田上は、もう二度と青葉には会いたくなかったから、後ろの方に向かってこう言った。

「追いかけてくるなよ!!お前は青葉なんかじゃない!」

「青葉って誰だい?」と隣でタキオンが聞いてきたが、それを説明する暇はなかった。田上は急いでタキオンの手を取ると、「行こう!」と言って走り出した。田上の夢の中だからか、それは、車でも追いつけないくらいの速度で、田上たちは走っていた。田上は、見る見るうちに遠ざかっていく青葉を後ろの方に見やると、ハハハとタキオンの方に笑いかけた。タキオンも「速いねぇ」と感心している様子だった。それで、田上たちは最後に青葉を撒くために建物の角を曲がると、そこはまた元のように真っ白の世界になっていた。そして、そこには、青葉の格好をしているものの、不貞腐れた顔をしていた悪意が座っていた。田上は、元のように悪意の前の椅子に座り直したが、今度は、新しいソファーを出してタキオンと一緒に座った。それから、田上は悪意に向かって言った。

「お前は何がしたいんだ?…楽しかったか?俺を苛めることができて」

「…楽しかったかもな。次は、その女の子の所に行ってみるよ」

 悪意がそう言うと、田上は眉を寄せて言った。

「お前、そんなことしたら絶対にぶん殴るからな」

 すると、今まで不貞腐れていた悪意は、目を上げ、田上とタキオンを見て、お道化た様に言った。

「おお、夢の中だといつになく強気だねぇ、圭一君」

 その声が、タキオンの声に変わっていたので、田上は嫌そうな顔をして言い返した。

「金輪際そんな事はするな、気持ち悪い。お前は一体何なんだ。何がしたいんだ?悪意という名前が不愉快だって言ってたけど、そう呼ばれる所以がお前にはあるんだろ?」

「俺は、何でもないさ。何にでもなり損ねたやつと言ってもいい。悪意と呼ぶならそう呼ぶがいい。物にはそれ相応の名前がある。俺もきっとその程度の名前なのだろう。いいさ、分かった。今日の所はもう無理だ。女子高生を誑かして、幸せ一杯の田上圭一君には敵わないようだ。じゃあね、圭一。また来るよ」

「二度と来るな」という田上の言葉が聞こえたかそうでないかの内に、悪意は青葉の格好のままで姿を消した。辺りは、白い世界のままシンと静まり返った。いよいよ、夢ももう終わる時だ。その時に、横でタキオンがこう言った。

「眠たいよ」

 黙って青葉の居た所を見ていた田上だったが、その言葉を聞くと、優しく返した。

「ああ、分かってるよ。お前はここで眠れ。…俺が、また夢でお前を必要になったらよろしく頼むよ」

「了解。元気でね」

 そう言うと、タキオンは、田上が立ち上がって退いたところに、自分の体を置き、ソファーの上で横になった。そして、すぐに眠りに就いた。田上は、その寝顔を微笑みながら見ると、自分はどこへ行けば目覚めることができるのか、と辺りをきょろきょろと見回した。やはり、何かあるわけでもなく、扉があるわけでもなく、ただの真っ白の世界だ。暫く、タキオンの眠っているソファーからあんまり離れないようにしながら、ぐるぐると辺りを歩いてみたが、何も見つからなかった。

 だから、中指と親指で下手な音を鳴らして、扉を空間に出してみたのだけれど、それは出てきた途端に、ただの扉としてパタンと地面に倒れたのみで、何にもならなかった。それで、田上もどうすればいいか分からなくなり、疲れも溜まってきて、タキオンのソファーの下へと戻った。タキオンは相変わらず、安らかに眠っていた。そこで、疲れたので自分も寝ることにした。ただ、新しいベッドを作り出す気にはなれず、かと言って、タキオンと同じソファーで眠る気にもなれなかったから、タキオンのソファーの前の床で寝ることにした。固くて平たい床だったので、多少寝心地が悪かった。それでも、いつかは寝られるだろうと思って、暫くごろごろとしていると、唐突に上からフワッと毛布を掛けられた。見るとタキオンの毛布だったので、田上は上半身を起こしてタキオンの様子を窺った。タキオンは、田上の思った通り、ただ毛布を落としたのではなく、やっぱり起きていて、片目を開けると田上にこう言った。

「おいで。眠れないなら一緒に寝よう」

「ああ」と田上は返事をすると、少し嬉しそうにタキオンの横の狭いソファーの中に寝転がった。すると、案外簡単に眠りに落ちることができた。

 

 目覚めた時には、日曜日の朝になっていた。念の為つけていた目覚ましは、まだ鳴る前の時間だった。つまり、七時十五分だ。田上は、目覚ましが鳴る十五分前に起きた。それで、すぐに眠っている間の出来事を思い出したのだが、思い出してみると、少し信憑性が怪しくなった。一応、田上の眠っている間の出来事である。眠っているからには、自分が何を考えているのかは分からない。悪意は、本当は自分の夢の中には現れておらず、自分の夢が悪意という物を具現化してしまったのではないだろうか、と考えた。しかし、それにしてはあまりに意識がはっきりとしすぎていた。ピクニックの夢のように朧げでなく、悪意と確かに話したのを覚えている。また、夢の場面が移り変わるとしてもあまりに不自然だった。あの白い世界には、夢を見ると感じるような不思議な心地はなく、ただ見たままにある白い世界だった。こう考えると、田上には、本当に悪意が来たように思えた。けれど、何故悪意がよりによって自分の下へと訪れたのかが分からなかった。結局、田上の「なんでここに居るんですか?」という質問には、悪意は答えておらず、話は先へと進んだ。故意か偶然かは田上には分からなかったが、悪意が訪れたのは全くの偶然じゃないかと思う。それか、悪意の気紛れのような気がした。気紛れであるなら、それは、少し田上にとって恐ろしかった。気紛れでここを訪れてもらわれると、悪意がいつここへ来るのか分からないから、おちおち眠りにも就けない。その上、気紛れであるなら、別に田上の所でなくてもタキオンの所へと行っても良いはずだ。それも田上にとっては恐ろしかった。悪意と話す事はできたが、全貌は掴めていない。田上の心を読んだか何処かで知ったのかは知らないが、悪意は、田上の心の中にだけ居るはずの青葉に姿を変えた。今現在の青葉は、少なからず中学の頃の姿より変わっているだろう。もう大人になって、結婚していたっておかしくない。田上にもあの転校する前の中学の友達と今も付き合いが少しはあったのだが、そういう話はめっきり聞かなかった。その友達からは、時々、「テレビで見たよ」などと電話やLANEで連絡が来るくらいだ。最後に会ったのは、タキオンと契約する一月くらい前だった。

 

 田上は、悪意が次はタキオンの所に行ってみる、と言ったのをベッドの上で不意に思い出すと、急に心配になりだした。けれども、今はまだ七時である。約束の時間の三十分前どころか、田上の目覚ましすらなる時間ではない。それで、田上が電話を見つめて迷っている間に、目覚ましが比較的大きな音で鳴り出して、田上は慌ててそれを止めた。

 七時半を過ぎた。――タキオンは起きているだろうか?いないだろうか?と田上は、スマホを見つめながら悶々としていたが、ある時、ええいと思い立つとタキオンに電話を掛けた。案外すぐにタキオンは電話に出たが、その声は非常に眠たそうな物だった。

「ふぁ~~い、…圭一君。モーニングコールを頼んだ覚えはないけど、何か用かな?」

「えー、…タキオンは、今日は夢は見なかった?」

「夢?…見ていないが」

「…そう…」

 そこで、田上が次の言葉を考えていると、タキオンが言った。

「ここで夢という事は、君は怖い夢でも見たのかな?それで、不安になったから私に電話を掛けてきたと?」

「いや、そんなんじゃないけど…」

「けど?…なんだい?……もう今日は朝から忙しいんだ。あんまりのんびりもできないから、一緒に朝食をとりながら話そう?私が、着替えたら君の所に行くよ。…あんまり怖いようなら、電話を繋いでいてもいいけど」

「いや、いいよ。俺も着替える。バイバイ」

 タキオンも「バイバイ』」と返すと、田上は電話を切った。しかし、すぐに着替えに行く事はしないで、暫くベッドの上に座ってぼーっとしていた。やはり、あの悪意が来たことが少し気掛かりだった。けれども、その後に自分も着替えないといけないという事を思い出すと、田上は慌てて立ち上がって、髭を剃ったり動ける服に着替えたりした。

 

 タキオンは、田上が丁度ズボンを穿いている時に部屋のドアをコンコンと叩いたので、田上は慌てて、「は~い」と返事をして、ズボンを着なければならなかった。もう衣替えをする季節だったので、長ズボンはやめた格好にしていた。トレセンの体操服とあまり変わらない格好だ。ただ、トレセンの方は、色の選択の余地があったが、田上はただの黒い半ズボンと白い半袖のTシャツを着るだけにしていた。タキオンも色を黒で選択していたのでこれと一緒だ。色の好みが同じかは定かではないが、とりあえず、体操服は交際を始める前から同じ色だったようだ。

 田上が、部屋の扉を開けると、そこには、毎年春頃になると見れる体操服姿のタキオンが居た。冬の間は、その上にジャージを着ている格好なので、それが今日取り払われたようだ。タキオンは、ニコニコしながら「おはよう」と挨拶をすると、こう続けた。

「もう準備は済ませたかな?朝食を食べに行こうと思うのだけれど」

「ああ、ちょっと待って。クリップボードを持ってくるから」

 田上がそう言うと、タキオンが部屋のドアを支えて開け広げたまま、彼は部屋の奥の方へクリップボードを取りに行き、そして、戻って来ると言った。

「行こう。俺も少し話したい事があるんだよ」

 それから、二人は手を繋いで、修さんと節子さんが作っている食堂へと出かけて行った。

 

 田上とタキオンが、それぞれ自分の朝食を乗せたお盆をもって、長机の隣へと腰かけた。その座った時の距離が、あまりに近かったから田上は、口角をこそばゆそうにニヤリと上げた顔をして、隣のタキオンを見たのだけれど、タキオンの嬉しそうな顔を見ると、また黙って前を向き、両手を合わせて「いただきます」と言った。タキオンもまたそれに倣って「いただきます」と言って、朝食を食べ始めた。

 田上は、初めは話す気があまり起こらずに、黙っていたのだけれど、田上が白飯を二三口食べ始めた時に、タキオンが聞いてきた。

「君、夢を見たんだろ?どんな夢だったんだい?聞かせておくれよ」

 そこで、田上は一度隣のタキオンを見て、少し考えてから、茶碗を置いてタキオンを見ながら話し始めた。

「…夢。……まぁ、夢なんだけど、…何て話せばいいかなぁ…」

「ただ夢の話をすればいいだけだよ?」

「…ただの夢じゃないんだよ。…何て言えば…」と田上が悩んでいると、タキオンがこう提案をした。

「まず、初めに起こった出来事を話してごらんよ。夢には違いないんだろ?」

「じゃあ、…まず、一番初めに、…お前とピクニックをしている夢を見た」

「ほう。…嬉しいねぇ」

「ピクニックをしてたら母さんが出てきて、――ピアノのレッスンがあるんじゃないの?って言ってきた。いや、その前に、俺がお前の事を母さんに紹介した。そしたら、それを無視されて、ピアノのレッスンがあるんじゃないの?と言ってきた」

「…ふぅん」

「で、そこで、夢じゃなくなった」

「……夢じゃなくなった?…なら、何になったんだい?」

「それは、俺にもあんまり分からない。分からないけど、…お前は思い出したくないかもしれないけど、悪意が…来た?」

「悪意?…あの…変な奴かい?」

「そう。…あんまり信憑性は無いんだけど…」

「それで、その悪意はなんて言ったんだい?」

「…悪意は、俺の姿をしていて、…そこはまだピクニックの夢の時と同じなんだ。俺が、背景だと思っていた、ベンチに座っている男が急にこっちに来たんだよ。それで、その男がフードをかぶりながらこっちへ来た」

「フード…」

「俺は、なんか変な気分だった。夢が続いているのかいないのか分からない変な気分だった。…でも、その男がフードを取ると嫌な気分になった。その男の顔が、変に陽気な俺の顔だったから」

「君の顔?どんな顔だったんだい?」

「えー、…髪は染めてて、ピアスつけてて、…そんな感じの人」

「君とは正反対って事だね?」

「そう。で、タキオンもまだそこに居て、どちらかというと呼べば来る人形に近くて、悪意がお前の事を呼ぶとそっちに行った。それで、俺もちょっとお前が俺以外の人の傍に居るのが嫌だったから…」

 田上が言いにくそうにそう言うと、タキオンがこれまた嬉しそうに口角を上げて、「嫌だったのかい?」と聞いてきた。

「…お前も嫌だろ?俺が他の女の人と肩を寄せているのは」

「まぁ、話し合う必要は出てくるね」

「嫌だろ?」

 田上は、タキオンにどうしても「嫌」と言わせたくて、もう一度そう聞いた。すると、タキオンもその意図を汲み取って「嫌だねぇ。…少し嫉妬もするだろうね」と答えた。

「まぁ、それだから、タキオンにこっちに来てほしいと思ったら、タキオンもこっちに来たんだよ」

「ふむふむ」

「…長くなるな…」

「いいよ。君の話せる分だけ話してくれ」

「…まぁ、それで、悪意の方が――場所を変えようって言って、舌を鳴らすと、俺とその悪意との間を境に、悪意の方だけ真っ白の世界になった」

「ほう。…真っ白?」

「真っ白。何もない。影もない。そして、その後に悪意がパチンと指を鳴らすと、椅子が出てきて、悪意はそれに座った」

「ふむ。魔法のような物かな?」

「魔法…と同じなんじゃない?夢の中だし。…それで、俺もそれを真似して指をパチンと鳴らしてみると、俺も椅子を出せたんだよ。それで、お前と俺の分の椅子を出すと、そこに悪意と向かい合うように座った」

「…私もいるのかい?」

「…そりゃあ、夢だけど、心細いだろ?お前が傍にいた方が俺も安心したから、お前と一緒に俺も椅子に座った。すると、俺と悪意の境で分けられていた真っ白の世界とピクニックの世界が、一つになって、ただ世界が真っ白になった。その後に、俺と悪意は話をした。俺は、少し怖かったから色々質問をしたんだけど、…悪意はあんまり良く分からなかった。…まず初めに、…確か、俺が――なんでここに居るんですか?って聞いたんだよ。そしたら、世界が真っ白になった」

「ん?…じゃあ、つまり、君が――なんでここに居るんですか?と質問した後に、君と私は椅子に座ったという事でいいのかな?」

「それでいい。…で、悪意が俺とお前が一緒に居るのを嫌がったけど、結局はお前もそこに居て、次に、悪意が悪意って呼んでほしくないって言ったんだよ」

「ほう」

「だから、俺に名前を付けろって言ってきて、俺はそれに――幽霊?って答えた。すると、あいつは、――俺は幽霊じゃなくて存在だ、って言ってきた」

「存在?…存在って何だい?」

「俺も知らない。ただ、何にでもなれるって言って、ライオンとただの暗闇になった」

「暗闇、というと、それはあの時の君がキスをしてくれた時の物と同じ物かい?」

「あんなに一寸先も見えない様な暗闇じゃなかったけど、それがその悪意の力かもしれない。何にでもなれるから、幽霊じゃなくて『存在』なんじゃない?」

「……まぁ、そういう事だろうね。それが本当に悪意なのか定かではないが、君の考えならばそういう事になる」

「うん。…それで、なんかこうか話して、……あの…ね。………俺の中学時代好きだった人に、悪意がなった」

「うんん?なんかこうかって一体何だい?なんで、突然悪意が君の中学時代の好きな人になるんだい?」

「…いや、俺が、悪意に――俺の顔をするのをやめろ、って言ったんだよ。そしたら、悪意って名前の通り、俺を苛めるために中学時代の好きな人になった」

「ふぅん…。…じゃあ、当然の事ではあるけど、君が私の初恋の人ではないという事か」

 タキオンが露骨にがっかりした様子になると、田上は苦笑して言った。

「初恋の人が良かったか?」

「いや、そんな事はないさ。ただ、君も昔私じゃない他の人を好きだったという時があると思うと、…少し、思う所はあるよね」

「どんな?」と田上が少しからかう気持ちでそう聞くと、タキオンは半ば余裕のある照れた面持ちで田上を見つめてこう返した。

「君も私の事が好きだろ?」

「ああ」

「そして、私も君の事が好きなわけだ」

「ああ」

「そうすると、君の過去に思う所があっちゃダメかい?ただでさえ、君は私より長く生きているんだ。だから、君の過去は想像する事しかできない。君の学生時代なんてあんまり想像できないよ。…どんな学生時代を過ごしていたんだい?友達は何人くらいいたのかな?」

「友達は、…そんな多くはなかったけど、夢の続きを話してもいいかな?」

「まぁ、良いとも。今の話も後でじっくりと聞かせてくれ。私は君の事をもっと知りたい」

「ありがとう。…それで、どこまで話したっけ?」

「…えー、君の中学時代の好きな人になったわけだ」

「そうだそうだ。……話し辛いなぁ」

「…何か未練でもあるのかい?」

 タキオンが不思議そうにそう聞くと、田上は眉を寄せた。

「未練って訳じゃないけど、……後悔?に近いものではある」

「ふむ」

「……その人に俺は、……昔、……やっぱり話すのやめて良いかな?」

「気になるところではあるが、…君がそういうのなら仕方がない」と言ったタキオンの顔は、不満そうな顔をしていたので、田上は思わず苦笑してしまったが、それでも、その顔は些か気の迷いに満ちたものだった。だから、タキオンは少し田上の事が憐れになって、こう言った。

「話してごらん。私は、君の昔の好きな人なんかで、君を怒ったりしないよ」

「……まぁ、…中学の時にその人に告白したんだよ」

「ほう。告白…?結果は?」

「惨敗だったんだけど、今でも、もう少しどうにかならなかったのかなぁって思ってはいる」

「どうにか…。何があったんだい?」

「……その人、もうサッカー部の人と付き合ってた」

「付き合っていた。そりゃあ、…何と言うか、…君も残念だったね」

「もっと残念だったのが、その彼氏に俺の告白を盗み聞きされてて、大爆笑されたって事だよ」

「あら…。そこまで行くと、同情するね。…でも、良かったんじゃないかい?もし、君の告白が成功していた世界線があったとすると、私たちは出会う事すらなかった可能性がある」

 タキオンがそう言うと、田上はその顔を神妙な顔をして見つめた。

「…そりゃあ、お前とこうなっているのは、偶然だけでは言い表せられないけど、それでも、その時何かもっと…もっと別の方法があったと思わないか?」

「まぁ、私たちは、幾つもの分岐点を辿ってきてここに居る。そこの分岐点が腑に落ちない事もあるだろう。…君は、自分がバカだったと言いたいんだろう?」

「…そういう事かも」

「ただ、単純に気付けなかったことをどうやって気付ければ、あの事態を回避できたんだろう、とも思っているんだろう?」

「…それもあると思う」

「その矛盾が、君には解せないわけだ。…君は、確信があってその人に告白したのかい?」

「確信は、…ただ、その時は、仲が良かったから行けるんじゃないかという希望も少しはあったけどね」

「すると、例えば、どこどこで告白しようというのは、君から言ったりしたのかな?それとも、廊下で出会い頭に告白でもしたのかな?」

「それは、俺もちゃんとするよ。あんまり人の来そうもない三階の渡り廊下で告白するために呼び出した」

「それは、君の決断でしたのかな?…少しざっくり言わせてもらうと、君は少し臆病だろ?それとも、中学時代は、大胆不敵だったのかな?」

「あんまり変わってないとは思うよ。ただ、決断は、友達に勧められたからしただけ」

「どんなふうに?」

「…――お前、行けそうなんだから告白しなよ、って感じで勧められた」

「…その友達も君の好きな人が付き合っているのは知らなかったのかな?」

「…知らなかったんじゃない?さすがに、人を騙すような奴ではなかったと思うけど」

「なら、もしかしたら、君の好きな人は交際を隠すのが物凄く上手かったのかもしれないね。私たちのように、こんな感じで話す事もなく、学校の中では一切会っていなかったのかもしれない。遊びに行く時だって、友達が居そうなところは避けて、遠くの場所に行っていたのかもしれないね」

「どうなんだろうね…。俺は、本当に全然気付けなかったんだけど、もしかしたら、他の人は気付いてたりしたのかなぁ…」

「いや、それにしてもだよ。今気が付いたが、放課後にあんまり人が来ない所に呼び出すとなればだ。大概は、交際の申し込みなんかじゃないかと気づいてもよさそうじゃないかい?よっっぽどの鈍感でなければ、その事に気が付くはずだ。それを了承して、ましてや、彼氏に盗み聞きをさせたわけだから、その女は物凄く意地悪な女じゃないかい?」

「彼氏の言いなりだったっていう可能性もある」と田上は、あの夕日に照らされた苦笑を思い出しながらそう言った。

「彼氏の言いなりにしてもだよ。あんまり碌な女じゃないよ。…むしろ、それは良い出来事だったよ。君が、その碌でもない女と交際せずに済んだんだから。もし、その女と交際していたら、変な事に巻き込まれていたかもしれない」

「交際して無くても変な事には巻き込まれてるな」

 すると、タキオンが「ああ、変な夢だね」と言ったので、田上はその後にこう付け加えた。

「それじゃなくて…」

 それから、含みのある目つきでタキオンを見つめると、タキオンも田上の言いたい事を理解したのか、途端に口角をにや~っと上げて言った。

「君はよっぽど私の事が好きなようだね。今から、変な事に巻き込まれて良かったと思わせてあげようかい?」

 それで、タキオンが箸を置いて臨戦態勢に入ろうとしたので田上は慌てて言った。

「巻き込まれたとは言ったけど、嫌だったとは言ってない」

「おや、確かにそうだ。…でも、変という言葉は、肯定的には受け取ることは難しいんじゃないかな?」

「いやいや、変な事には違いないけど、俺は、それに巻き込まれて良かったと思ってるよ。巻き込まれなかったら、お前のトレーナーになれてない」

「それどころか、恋人にすらなれていない。嘆かわしいね。別の世界線の君はどうなっているのかが気になるよ。…で、君の夢の話じゃなかったかな?もう終わりかい?」

「いや、……これも話し辛い」と田上はさっきよりも幾分軽そうにそう言った。

「なら、私に話してみたまえよ。いざという時は、君を抱き締めてあげるから」

「抱き締める?」と田上がにやけながら怪訝そうな顔をして聞くと、タキオンは「おや、嫌かい?」と返してきたので、田上も少し困った。ここで、答えるべきなのは、「嫌じゃない」という返答だったが、生憎、正面切ってそう答えるのは田上には少し恥ずかし事だった。けれども、まぁ、昨今は言い馴れてきたことではあるので、恥ずかしくてはにかみながらも田上はこう答えた。

「嫌じゃないよ」

「嫌じゃないなら、今すぐにでも今すぐにでも抱き締めてあげようかな?」

 それは、田上もさすがに御免だった。知り合いの居る食堂の中で恥も外聞もかなぐり捨てて抱き合うというのは、田上にはできない相談だった。だから、それから逃れる策を探す田ために不意に時計を見つめると、田上はある事に気が付いた。それは、リリックのオリエンテーションまであまり時間が残されていないという事だった。少し夢の話が長すぎた様だった。田上は自分らの朝食の残量を考えると、これは、朝食を早く取っておいた方がいいように感じた。だから、その事をタキオンに提案したのだけれど、せめて夢の話を手短にでもいいから話してくれと頼まれたので、田上は、躊躇いつつも最後まで話した。また、好きな人に告白した事とタキオンと一緒に走って逃げた事と、田上が一番危惧している悪意がタキオンの方に行こうと言っていたことをなるだけ早く語った。田上だって、話していて気持ちい話ではなかったからだ。それで、話し終わるとタキオンは神妙そうな顔をして言った。

「…私の所に来るのかな?」

「…どうだろう。まだ、悪意が本物だったって決まったわけじゃないし、悪意がどんなことをできるのかも知らない。…でも、人の夢じゃあれこれ好き勝手出来無さそうな感じではあったよ」

「でも、君をまた嫌な告白の舞台へと立たせたわけだろ?…私の場合だとどうなるんだろう…」

「俺が、お前の事を嫌いになるとか?」

 田上がそう言うと、タキオンは机を見つめて少しの間考えた後、言った。

「君には苦労を掛けさせられたからな…。私のせいで夢がなくなったみたいなことも言われたし」

 タキオンは、独り言半分で物を言ったのだけれど、それは田上にもしっかり聞こえてる。そして、田上にもしっかりと心当たりがある。タキオンに心無い言葉を何回も言っていたので、田上としては悔やんでも悔やみきれぬ思いで、これまた神妙な顔をして言った。

「ごめんな。俺が、ダメな奴で…」

 そう言うと、場は妙に重たくなったのだけれど、考え事に頭を支配されていたタキオンが田上の言葉を数秒後にしっかりと頭に入れると、慌てて言った。

「ごめん。今のは君を責めたくて言ったんじゃないよ。過去は、ただの過去だ。今君と一緒に居れるなら、私はそれでいいんだよ」

「俺もそれでいい」と田上が、朧げな笑みを顔の上に浮かべたその後すぐに、田上はそのまま立ち上がりタキオンに「行こう」と静かに呼びかけた。タキオンも田上がまたこのまま過去へと逆戻りしてしまうのではないかと怯えたが、田上はただ、たった一週間ほど前の自分の行いと、タキオンの唐突なキスを思い出していただけだった。



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二十三、タキオンの誕生日プレゼント②

 リリックの方には、事前に連絡をしていたので、いちゃいちゃしていた田上とタキオンとは違い、しっかりと体操服を着て、早めに運動場の方へ来ていた。オータムとイツモは、今日のオリエンテーションの事を話したら、来たいと言ったので、今は土手の方でリリックの事を眺めたり、自分たちで会話したりしていた。リリックもその会話に混ざりたかったのだが、今は、田上トレーナーとマテリアルさんとタキオンさんを運動場で、ポツンと一人待っている最中だ。もうそろそろ約束された時間に達しようとしているが、マテリアルどころか田上の一人だって来ない。リリックとしては、田上はともかくマテリアルなら約束の時間を守っても良さそうと思っていたのだけれど、全然、来そうな気配はない。その内に約束の時間を過ぎ、三分程してから、田上とタキオンが手を繋ぎながら土手の方に現れた。田上は少し急ぎ気味だったのが、遠くからでも見てとれたが、タキオンの方はあんまり時間に遅れた事は反省していなさそうな面持ちで、田上に話しかけていたので、リリックは少し嫌になった。もしかしたら、トレーニングの度に、毎回この恋人たちを見せられるのか、と思ったからだ。

 そんなリリックの事は露知らず、田上は土手の上の方からリリックの事を見つけると大声でこう言った。

「ごめん、リリーさん!遅れた!」

 リリックは、それに答えることはせずに、向かってくる田上に自分も近づいて行った。近づくと、タキオンが「おはよう、リリー君」と挨拶をしてきたので、憧れの先輩に挨拶をされて心なしか嬉しくなったリリックは、「おはようございます」と小声で二人の方に挨拶をした。それで、田上も「おはよう、リリーさん」と挨拶をして、自分の持っているクリップボードから一枚紙を抜き取って、リリックに渡した。その後に、遅れてやって来たマテリアルがぜえぜえはあはあ言いながら、「おはようございます」と「遅れてすみません」をほとんど同時に言って、三人の輪の中に入ってきた。だから、田上も作っていた書類をマテリアルにも渡した。ただ、タキオンの分は残念ながら作ってきていなかったが、これは、二人がイチャイチャする口実となった。尤も、田上は初めからこうしたかったのではないが、タキオンをオリエンテーションに呼ぶか呼ぶまいかと悩んでいるうちに、タキオンの分の資料は作らない選択をしてしまったのだ。そのため、田上はクリップボードに挟んである自分の分の資料を、タキオンと一緒に肩を寄せ合って見つめながら、今からする事とこれからするであろうことの解説をした。

 そして、トレーニングの内容もタキオンのお手本を交えながら解説をした。リリックにも一二周運動場を走らせたりして、こんな感覚の物をこれからしていくという事を伝えた。それから、四人は、体育館やその近くのランニングマシンや筋トレに使う用具が置いてある方にも移動して、使い方などを解説した。しかし、ランニングマシンなどは雨の日などが主に使う時であることも伝えた。

 それから、体育館では、ダンスレッスンもする事を伝えた。これは、田上の管轄ではないから詳しくは言えなかった。だから、足りない所はタキオンが説明してもらったが、それにふ~んと感心したように頷いたのは、どちらかというとマテリアルの方だった。リリックの方は、興味がないというよりは、事務的にその話を聞いていて、ダンスレッスンに関してはあまり乗り気ではないようだった。しかし、トレーニングの話を聞いている時もあまり変わらない感じだったので、乗り気でないというよりかは、これから先の事に緊張していると言った方が正しいように思える。田上は、勿論それに気が付いていたが、元々口下手な方なので、気の利いた事の一つや二つを言ってみたいと思っても、中々口を開く事はできなかった。だから、丁度切りよく一時間たったくらいの時に体育館の外に出て、いよいよ解散となった時も、田上は少し躊躇いがちだったから、タキオンが聞いた。

「君、何か言いたい事があるんじゃないのかい?あるんだったら、そんな顔をしていないで言ってあげないと、リリー君は不安になるだけだよ」

 これをリリックの居る前で言ったから、田上は気まずそうにリリックの方を見たが、やはり言いたい事はあるので、タキオンの言葉に後押しされてこう言った。

「…まぁ、勝っても負けても他にも良い事はたくさんあるからな。気負わずに一緒にトレーニングをしてほしい、と俺は思ってる。とりあえず、リリーさんの目指す場所は楽しい学校生活だ。トレーニングは二の次だと思って良い。気軽に遊びに来るような感じで、トレーニングに参加してほしい」

 その言葉に、ただリリックは「はい」と頷いたが、少なからずこの言葉によって気が楽になった節はあった。その後に、田上が「じゃあ、これで…」と言ったので、皆は、それぞれ「ありがとうございました」と言って(タキオンは軽く頭を下げただけで)解散をした。それから、リリックは、走って友達の所へ行った。この後は、友達と遊ぶ約束をしていたからだ。体育館に行く際に、他の二人とこれからどうするのか、言葉を少しだけ交わしたので、そういう約束になった。今は、二人は、運動場周辺を歩いているはずだった。リリックは、その辺りが見える場所まで行くと、きょろきょろと辺りを見渡した。すると、そこで、二人して何かを見つめて屈みこんでいる後ろ姿を見つけた。リリックは、すぐに「おーい、終わったよー」と言いながら、喜びに満ちた顔で駆けて行った。リリックは、この二人の友の事が本当に好きなようであった。オータムとイツモもこの黒髪の少女の事を歓迎して、今まで自分たちが見つめていた物を見せてあげた。それは、ただの蟻の行列だった。しかし、彼女らにとっては興味深いものであるらしく、その後一時間くらいはこの蟻を見つめながら会話をして過ごしていた。

 

 マテリアルは、田上たちより早くトレーナー寮に帰ったが、その前に田上たちともう少し話したかったのかこう聞いた。

「田上トレーナーとタキオンさんはこれからどうするんです?」

 それに、田上が代表して答えた。

「僕とタキオンは、買い物に行くつもりです」

「ええ?買い物ですか?なんで?」

 すると、横からタキオンが言った。

「私の誕生日のプレゼントを圭一君と買いに行くんだよ」

 少し得意げに言っていた。それで、マテリアルもまた恋人事だと納得したので、田上に向かって少し意地悪くからかうように言った。

「私の誕生日は、今月の二十日ですけど。私とも買いに行っていただけるんでしょうか?」

「え…?…何か欲しいんですか?」と田上が困ったようにそれに返答したので、マテリアルはクスクス笑うと次の事を質問した。

「そう言えば、リリーちゃんの誕生日はいつでした?」

「三月の二日だったけど、…待てよ?…これだと、タキオンとリリーさんで誕生日プレゼントに差が生まれないか?」

 これを、田上がマテリアルの顔を見て言ったので、マテリアルも少し困ったが、その話にはタキオンが返答した。

「別に、リリー君だって私たちが付き合ってることくらい知っているんだから、あんまりその差については何も思わないんじゃないか?…だって、リリー君が君から高いネックレスなんて貰ったって、喜ばないと思うよ?」

「そりゃあ、…そうだけど、その差が、案外本人の疎外感に繋がったりはしないかな?現状、俺とマテリアルさんとタキオンとリリーさんの四人しかいないわけだ。このうちの二人が付き合っているとなれば、半分は付き合ってるっていう事になる。だから、付き合ってない人たちから見れば、仲が良すぎる二人っていうのは邪魔なんじゃないか?」

 それを付き合ってない人たちの一人であるマテリアルの目の前で、田上が遠慮なく論じたのだが、マテリアルがそれについて何か言おうとする前にタキオンが言い返した。

「けど、それはしょうがないだろ?今更、私たちは離れようがないし、仲が悪いふりをしろというのも、私は御免だ」

「でも、やっぱり、チーム内で一人ぼっちっていうのは不味いだろ。……マテリアルさんはどう思います?」

 ここで、やっとマテリアルが話のできる順番が来たので、少し嬉しくなって眉を上げてマテリアルは言った。

「付き合っていない側から言わせてもらいますと、別に、私の事は良いですが、やはりタキオンさんだけを特別扱いはダメですよ。デートをするな、までは言いませんが、田上トレーナーもちゃんとトレーナーなんですから、しっかりと担当の子のメンタルケアもしっかりとしてあげないと始まらないでしょう。タキオンさんだって、恋人なら彼の仕事の事も考えては上げないといけないんじゃないでしょうか?」

「まぁ、…確かにそうだね」とタキオンは少し考えながら頷いた。田上もまた同じような顔をして頷いていたから、マテリアルは良い物が見れたと思って再びクスクス笑ってから、最後にこう告げた。

「デートも良いですが、チームなんですから、皆でお出かけも楽しそうですよね。田上トレーナーの奢りで美味いラーメン屋に食べに行きたいです」

「僕の奢りですか!?」と田上が驚いているうちに、マテリアルは「それでは、さようなら。後で、美味いラーメン屋の場所をLANEで送っておきます」と言って去って行った。田上は、少し神妙な顔をして、その後を見つめていたが、その田上にタキオンが言った。

「私もあの案には賛成だね。仲を深めるには団欒の場所が必要だよ。私たちの場合は、それが研究室だった。…という事は、これからは、君は私だけの物ではないという事か。…少々、面倒臭くなったな」

「…お前も大人になったな」と田上はどことなく上から目線な口調で言ったので、タキオンはそれに対抗するように足で田上の脛を小突いた。

「うるさいよ。元々、君と付き合えるくらいには大人だ。…それとも、君は私の事を子供だと思って、付き合っているのかな?」

「……両方かな。…お前も、まだ少し幼い所があるよ」

 田上がそう静かに言ったものだから、タキオンもなんだか言い返し辛くなって、次の言葉を躊躇った。しかし、ここで言い返さないと、雰囲気が微妙なまま終わってしまうので、タキオンは次のように述べた。

「幼い?どういう所かな?言ってみたまえよ」

「まだ世間を知らないって所だよ。…多分、これから大人になっていくんだと思うよ」

「それじゃあ、君はロリコンって事でいいのかな?」

「…そんな事はないよ。…ただ、お前が好きだったってだけだよ」

「どういうことだい?」

 タキオンは、疑問を投げかけたのだけれど、田上は再び朝食の最後の時のように「行こう」と静かに言うと、タキオンの手を取って歩き出した。タキオンは、その田上に質問をする気にはなれなかった。それは、今質問しても田上は曖昧に答えるだけで、ちゃんとは答えてくれないだろうという事がなんとなく分かっていたからだった。

 タキオンは、自分たちが繋がっている意味を、その繋がっている手を見つめながら必死に考えた。なぜ繋がっているのか?なぜこの男の事が好きなのか?これから先、自分たちはどう繋がっていくべきなのか?

 あまりに難しい考え事だったので、田上とお出かけをするために、寮の自分の部屋に帰って準備をする間どころか、準備をし終わっても、電車に乗って目の前に立っている田上を椅子に座りながら見上げている時も、その答えは出てこなかった。

 

 タキオンたちが、ショッピングモールに着くと、早速アクセサリーショップに行くかどうかを話し合うことになった。女性とデートどころか、友達とこういうお出かけすらも碌にすることのない田上にとって、あんまり出掛ける時の予定という物は人生に絡んでこなかったからだ。だから、二人は、ショッピングモールの入り口の脇に避けて、立って話をした。

 まず、田上が言った。

「どうするんだ?もう、初めからアクセサリーショップの方に行くのか?」

「んん?どちらでもいいよ。決めてこなかったのかい?」

「…決めてきてはない。…ネックレス買いに行く?」

「…君が決めてごらんよ。私はどちらでもいいよ」

「……じゃあ、…今行く?」

「君がそうしたければ…」

 田上が幾ら聞いてもタキオンはそんな曖昧な調子だったので、彼はいよいよ困って、スゥと息を、口に当てた手の隙間から吸い込むと独り言のように言った。

「…今から…ってちょっと俺も大変なんだよな。…でも、昼からっていうのも、午前中がなんか曖昧になる…」

「そんなに重く考えなくてもいいけどね」とタキオンは少し苦笑しながら、田上の独り言に口を挟んだから、田上はその彼女の顔をじっと見つめると、暫く黙ってから言った。

「……別に、引き延ばす理由は特にないよな…」

「そうだね」

「……すると、…今行く?」

「君がそうしたいなら」

 タキオンはまた同じように答えた。それで、田上も今度は腹を据えてこう言った。

「じゃあ、行こう。先延ばしにしても意味はない。…でも、そうすると、ネックレスが昼食のときなんかに汚れたりしないかな?」

「その時は、入れ物に入れるなりなんなりをすればいいだろ?」

「…そうか。…ちょっと怖いな」

「何が怖いんだい?」とタキオンは田上に優しく聞いた。

「……これからだよ。…なんか、…こう、…一つ記念品ができるわけだろ?…そうすると、何か歴史が生まれるわけだ。…その歴史が、…後になってどう思い返されるんだろう?」

「…君は、私たちが別れる時の事を想像しているのかい?」

 タキオンは田上の事をじっと見つめた。その視線から目を少し逸らしながら、田上は答えた。

「…そりゃあ、未来に何が起こるかは分からない」とここで、田上が言葉を続けようとした時に、タキオンがそれを遮って言った。

「だけど、未来をそう悲観的に捉える必要もない。未来は、ただそこにあるだけだよ。君の思い通りに動くわけじゃない」

「動くわけじゃないから、少し怖いんだよ。最悪の場合は常にあるわけだ」

「何がその最悪か、君も私にちゃんと言ってみたまえ。詳しくだ」

「……お前と別れる事」

「それが本当に最悪なのかな?私や君が事故や病で死んでしまう事は最悪の事ではないかな?」

「…それもある」

「いや、私にはそれしかないように思える。天秤に乗せて比べてみたまえ。私が君の目の前で死んでしまうか、それとも、ただ単に別の道をとるか。しっかりと考えたまえ」

「…そりゃあ、死ぬのは嫌だけど、別の道に行くのも十分に嫌な事だよ」

「なら、その別の道に行くという根拠を述べたまえ。今の私は、君と別の選択肢を取るという事はないと思う」

「今のお前ならそうかもしれないけど、次の瞬間のお前はそうじゃないかもしれない」

「その心は?」

「心?…知らない」

 すると、タキオンは「知らない…。そうか…」と返しつつ、辺りを見渡した。そして、丁度よさそうな場所を見つけると田上にこう言った。

「キスをしよう。あの木の陰で」

 タキオンが指差したところには、観葉植物の気が二三本植えられていた。しかし、そこは隅と言うだけで、人は普通にいるし、暗がりに紛れる事もできない明るい場所だった。だから、当然の事、田上は「嫌だよ」と返した。けれども、タキオンも簡単に譲る事も出来ないので、こう言い返した。

「それなら、私も嫌だよ。こんな雰囲気のまま君とデートをしたくない」

「店に入れば、雰囲気も良くなるよ」

「店に入るまでが駄目だろ?だから、お互いの気持ちを確かめ合おう?君が安心するにはそれしかないよ思うよ」

「いや、さすがに、キスをするにしても、あそこじゃ不味いだろ。木の陰って言っても、あそこに隠れ切る事はできない。ただの大衆の目の前でキスをする人になるだけだよ」

「それならそれでいいさ」

「いや、良くないよ。前回は、たまたま記者の人が話の分かる人で良かっただけだ。ここで写真でも撮られてみろ。すぐにネットに上がって、ああだこうだ言われるだけだぞ」

「ああだこうだ言われないかもしれないよ?」

「分からん。風向きに依るけど、こんなところでキスしたって何の得にもならない。そりゃ、俺たちのファンは良いかもしれないけど、世間はそうじゃないかもしれないんだ。炎上したら損するだけだぞ。風向きが悪くなるだけ」

「炎上しないかもしれない。…とにかく、……じゃあ、分かった。私の頬を撫でて。撫でるくらいならいいだろ?私の頬を撫でて思い出してくれ。あの一週間、色々あっただろ?それで、私の事が心底大切になっただろ?それを撫でながら思い出してくれ」

 タキオンにそう懇願されると、田上も断りづらくなった。何より、タキオンが譲歩してくれたのだ。それを無下にするのは田上にもできなかった。だから、無表情のまま「いいよ」というと、タキオンと手を繋いで木の陰へと移動した。そして、タキオンを木の方へ深く押しやって、自分の体の陰にし、周りから何をやっているのかあまり確認できないようにすると、その柔らかな頬を撫で始めた。

 ただ撫でているだけではつまらないので、その頬を指で軽く摘まんだり擦ったりした。すると、タキオンは田上の目を見つめながらクスクス笑った。田上もその目を見つめていたのだけれど、見つめ合う行為に耐えられなくなると、そっと目を逸らした。それをタキオンは瞬時に気が付いて、自分も田上の頬を両手で掴むと言った。

「私の目を見て。どうだい私の目は?」

 田上は、チラッとタキオンの目を見ながら、「良いと思う…」と元気なく答えた。その答えにタキオンが満足できたのか分からなかったが、顔に微笑みを浮かべると、そのまま田上の頬を触り続けた。その後も、二人は黙ったまま、お互いの頬を揉んだり、撫でたり、摘まんだりし合ったので、何だか奇妙な構図ができた。物陰に隠れてやっている事と言えば、お互いの頬を触っているだけなのだ。他人から見れば奇妙で仕方がないが、二人は、少し満足しながら頬を揉み合っていた。田上は、タキオンの目を度々チラチラと見たが、目が合うと、その目を合わせる元気をなくして、直ぐに目を逸らした。どうにも正面から目を見つめるには活力が必要だった。タキオンは、何が可笑しいのか、飽きずにじーっと田上の顔を見つめてきていたが、田上にしてみれば少し視線が辛かった。だから、暫く頬を揉み合った後言った。

「……俺の顔が可笑しいか?」

「可笑しい?違うよ?」

「じゃあ、なんでそんなに俺の顔を見つめられるんだ?」

「なんで…?特に理由はないけど…、見つめてちゃおかしいかい?」

「…別に、おかしくはないんだけど、…そんなに人の事に興味を持てるのか?」

「…人って、…まぁ、全員じゃないけど、君の顔を見つめていれば思いは尽きないよ。かっこいいし、かわいいし、切ないし、可哀想」

「…バカにしてるの?」

「いいや、バカになんてしてないさ。言葉のままだよ。黙って頬を触られてる君は、普通に可愛いよ」

 タキオンは、その言葉の後に、田上をこれまでよりも少し目を開いて見つめた。そうすると、今まで会話をしている間は見つめていた目を、田上はすぐに逸らして、そして、またタキオンの顔をチラリとみてから言った。

「良い奴だよ、お前は」

「君も良い奴だよ。私を見ていてくれる」

「…そうだな…。…キスをしてやろうか?」

「おや?いいのかい?」

 今まで静かに話していた二人だったが、ここでタキオンが少し声の大きさを上げて、嬉しそうに口角を上げた。その後に、田上が「手を放して目を瞑って」と言うと、タキオンは大人しくそれに従って、田上のキスを待った。田上のキスは一瞬だった。タキオンと田上の唇が触れたその後には、もう離されていて、タキオンは少し戸惑いながら目を開けた。田上の体は、もう木の陰に隠れようとはせずに、タキオンと体を離していた。

 二人の体は、深く木の陰に入り込んでいたので、所々、小さな枝や葉っぱが付いていた。

田上は、目を開けたタキオンからその枝などを摘まんで取っていたが、タキオンは田上を見つめたまま動かなかった。田上は、タキオンの目は見ようとはせずに、淡々とタキオンの頭に付いた葉っぱを摘まんでいた。恐らく、田上もタキオンが不平満々に、自分の事を見つめてきているのは分かっているはずだった。しかし、絶対に田上はタキオンの頭に付いた葉っぱを取り終わるまで、その目と目を合わせたくないという気を感じたので、タキオンは黙ったままその顔を見つめ続けた。そして、田上が「はい…。終わったよ」と静かに言うと、タキオンは「君の頭にもついてるよ」と言って、田上の頭に手を伸ばして、小枝を一つ取った。それから、またその目を見つめると、田上が目を逸らすのを待って言った。

「君は私の目が見れないかい?」

「…見れない」

 田上は、意外にも正直に答えたから、タキオンはふふふと笑って言葉を続けた。

「別に、無理に私の目を見ようとしなくてもいいけど、…私を見るのは辛いかい?」

「辛くはない」

「じゃあ、ちょっと私の事を見つめ続けてみてくれよ」

 タキオンがそう頼むと、田上は渋々といった様子でタキオンの目を見つめた。しかし、それは、少しするとすぐに逸らされた。だから、タキオンは田上にできるだけ優しく言った。

「君は男の子だから、まだ、少し私に照れが残っているのかな?…それとも、何だろう…。やっぱり、見つめ合うのは辛いかい?」

「…辛くはない」

「…言い方を変えよう。…君は私と繋がっているだろ?」

 田上が、黙ったまま頷いた。

「それじゃあ、私の目を見る事なんて気にしなくていいんじゃないのかい?…恥ずかしいのかな?」

「…そうかもね」

「じゃあ、時が経てばその恥ずかしさも消えていくのかな?」

「…そうかもね」

「…なら、もっとキスをした方が良いと思う。時が経って恥ずかしさを忘れられるのは、私たちの仲がもっと深まるからだ。その時の事を想像できるなら、君はまだ捨てたもんじゃない。…キスをしよう」

 タキオンはそう言って、田上の顔を神妙な表情で見つめたが、田上は少し眉を下げてこう言った。

「帰ってからだ。今日は、それ以上はできない。ここでは少なくとも無理だ」

 田上の言葉は、的を射ていなくもなかったので、タキオンもここは渋々ではあるが大人しく引き下がって、その田上の固い手を繋いだ。そして、二人は歩き出した。目的地は、アクセサリーショップにすると定めた。その道中は、田上も少しは元気を取り戻したし、タキオンも田上がどうであろうと、その普段の調子を辞めずにいた。それが、少なからず、田上の調子を取り戻すことにも繋がった。しかし、アクセサリーショップの店内に入ると、田上は、先程と同じようにはタキオンに接しなくなった。それは、もしかすると、静かでお洒落な店内が田上をその様にさせたのかもしれないが、タキオンは、少し心配だった。少なくとも、道中の時よりは、田上は目を合わせてくれなかった。

 

 田上とタキオンは、二人で手を繋ぎながら、店内のネックレスを見て回った。どれもキラキラとしていて煌びやかで、ネックレスとしては申し分のないもののように思えたが、二人が欲している物としてはあまりに平凡な物のように思えた。けれども、タキオンは、田上と楽しくショッピングをしたかったから、どれそれを指差しては「これはどうかな?」「あれはどうかな?」と田上に聞いたが、田上は、曖昧な調子で「んん…」と否定の言葉を発するだけだった。その言葉を発する度に、タキオンは田上の顔を見つめたが、田上は、じっと今否定したばかりのネックレスに目を注いでいるばかりだった。だから、タキオンは念の為、もう一度是非を聞くと、その時になって田上はしっかりと否定の言葉を発した。

 一番初めに訪れた店には、二人の欲しそうな物はなかった。先程は、田上が否定する言葉を言っただけのように書き起こしたが、実を言うと、田上が否定していなければタキオンが否定していた所だった。やはり、どれもが単調で面白くなかったからだ。それは、二つ目の店も同じだった。二つ目の店には、面白そうな指輪が置いてあったが、生憎の所、今日は指輪を買う予定はなかったので見るだけで断念した。その時に、勿論田上との将来の事を空想したりもした。その空想の内容を田上にも言った。すると、田上は曖昧に口元に笑みを浮かべて、微かに声を出して笑った。それが、愛想笑いだったのかどうかは、タキオンにも分からなかった。何しろ、田上は全く目を合わせてくれなかった。目を合わせて、気を確かに話してくれればタキオンにも田上の感情がまだ分かりやすかったのだけれど、タキオンがどう目を合わせに行こうとしても、田上は巧みにその視線を避ける立ち位置について、決してタキオンの目を見なかった。

 その店では、指輪を試しに着けてくれるサービスをしていたので、タキオンはその指輪を薬指にはめてみた。そして、対になっている指輪を田上に渡して、「君も着けてみてごらんよ」と言ったのだが、田上は中々着けようとはせずに、その手の平に乗っている銀色の指輪をじっと眺めていた。どうやら、心ここに在らずといった心持ちであったようだが、タキオンがもう一度「着けてごらん」と言うと、田上はタキオンの方を見ずに、躊躇いを見せながら恐る恐るその指輪を薬指にはめた。タキオンは、別に「薬指に着けろ」とは頼んでいなかったので、何も言わずに薬指に着けてくれた田上に心躍ったが、それを言ってしまえば田上が嫌な顔をするだろうという事が分かっていたので、タキオンはニコニコとしながら「どうかな?」と聞くだけにした。田上は、暫く、また自分の薬指に着いている指輪をジーっと眺めた。近くに二人の為に指輪を持ってきた女性の店員も居たのだけれど、田上はその人の事なんて気にせずにじーっと見つめていた。タキオンも勿論気にしておらず、田上の事を見つめていたが、一つだけ、――店員が田上の邪魔をする事だけは無いように、とは願っていた。田上は、今、自分の心に整理をつけている最中なのだ。それをたかが店員に邪魔されては、続く物も続かない。しかし、店員も空気の読める人だったようで、しっかりと田上の長い指輪の観察の時間を待ってくれていた。

 田上は、暫くしてから二人の視線に気が付いて、タキオンの方を見た。今度は、普通にタキオンの顔を見つめていたが、タキオンが話し出すと、途端に指輪の方に視線を向けた。

「どうかな?指輪ってこんな感じだよ」

 田上は、また指輪をじっと見つめていたが、先程よりは早く言葉を発した。

「………これが、三十万か」

「正確には、両方で三十万だね」

 それでも、まだ田上がじっと指輪を見つめているのでタキオンが聞いた。

「三十万じゃ不服かい?」

「…いや、…不服じゃないけど…」

 田上が続きの言葉を躊躇うと、タキオンがそれを優しく掬い上げた。

「結婚の時は、この店で買うのも良いかもしれないね」

 そう言われると、田上はタキオンの顔を見つめたが、さすがの店員もここで痺れを切らして、セールストークを始めた。タキオンたちは、人気の婚約指輪を見せられた。中には、龍を模ったものもあったし、兎を模ったものもあった。しかし、元より指輪を買いに来たのではないので、そのセールストークは適当に受け流して、二人は次の店へと歩を進めた。店員は、残念そうではあったが、タキオンと田上に最後にこう言った。

「アグネスタキオンさん、田上圭一トレーナー。今後のご活躍を応援しております」

 この言葉にタキオンは少し顔を赤らめて、田上は動揺した。タキオンは、自分たちの正体が初めからバレていて、今の会話を聞かれていたのだと思うと、少し恥ずかしかった。田上は、今の内容がSNSなどに公開されて、変な騒ぎにならないかと不安になった。しかし、そこの所は店員もしっかりしている人なので、ウマッターという文章が主体のSNSにはこういう文章を投稿した。

『今日は、とてもとても素晴らしいカップルにあった。本当に、仲が良いんだなと思いました。結婚の時はうちの店に来てくれーー!!』

 

 田上は、その女性の店員が、余計な事を言わないかの不安を解決のできないまま、三つ目の店へと向かった。実の所、田上は、去り際に、余計な事を言わないでくれるよう、店員に頼もうかとも思ったのだけれど、タキオンと手を繋いで居ると、言い出せないままに一緒に歩いて、もう引き返せない所まできてしまった。それでも、田上は不安だったから、道中でタキオンに聞いた。

「…あの店員さんは、俺たちの事を何かネットで言わないかな?」

「私たちの事?…どうかな。…言わないんじゃないかな?さすがに、ここら辺の店は、ブランド物を扱っているんだから、店員の教育もしっかりとしていると思うよ?それに、あの人は、私が見るに良い人そうではあったけどね。君が指輪を堪能しているのを黙って待ってくれていたし」

 田上は、堪能という言葉に引っ掛かって、隣を歩いているタキオンの目を見つめたが、またすぐに逸らした。しかし、タキオンはそこの所を、田上が反応しそうだと思って言ったので、田上が何に引っ掛かって、なぜ自分の事を見つめてきていたのかは容易に想像がついた。だから、にこりと口角を上げると言った。

「堪能していなかったかな?」

「堪能?」

「ん?君はその言葉が引っ掛かって私の顔を見てきたのだと思ったけど」

「…まぁ、引っ掛かったけど」

 田上は、見事に見透かされたので、釈然としない様子ではあったが、素直にそう答えた。

「それなら良かった。…で、堪能は?」

「してたと思う?」

「おや、クイズか。難問だね。さっきのは冗談のつもりだったけど、…君があの指輪を見つめている時間で、何を考えていたのか、か。私には、そこまでは分からないが、…どうだろう?少し嬉しかったんじゃないのかい?」

「嬉しい?…そうかもしれない」

「じゃあ、正解かな?」

 タキオンが笑って言ったので、つられて田上も少し口角を上げてこう言った。

「いや、もう一つ二つあるかもしれない。嬉しい以外に」

「もう一つ二つ!?う~む、難問じゃないか。…嬉しい以外に……」

「悲しい?」

「君が言うなよ。気が散るだろ」

 タキオンがそう言ってから、前から来た人を避けるために少し体を田上の方に寄せた。

「…待ってくれ。…嬉しい以外に…、やっぱり、将来の事を考えていたんじゃないかな?私との生活を」

「…それもあるかもしれない」

「もう一つもあるのかな?」

「もう一つある」

「もう一つあるのか…。…う~む、圭一君、圭一君、圭一君…。…圭一君は、…思い出していた。私とのキスを」

「正解」

 田上は、そう優しく微笑んでタキオンの目を見つめながら言った。しかし、不意に我に返ると、またその目を逸らして、自分の薬指にあったかもしれないはずの指輪を空想した。龍のデザインの物は、中々に細かくて面白い指輪だと思った。見ていて飽きないものであったが、あれが結婚指輪だといわれると少し違う気もする。そう思うと、田上は自分の指に嵌っているはずの指輪はどういう指輪であるべきなのか分からなくなった。二人の一生物の品である。それを選ぶには後悔の無い選択をしなくてはならない。その『後悔の無い』というのが、田上には分からなかった。何が自分の後悔であるのか分からない。その考えに至ると、次にタキオンを見た。今日のタキオンの服装は、紺を基調とした服装で、下は長いスカートだった。腕は、海に行った時ほど露出しておらず、肘の手前くらいで袖の長さは止まっていた。所々に見れる白い布は、タキオンを良く飾り立てていて、タキオンらしい大人と子供の入り混じった可愛さを際立たせていた。そのタキオンを見ていると、なんだかその手を放したくなくなって、少し強めにぎゅっと握った。これは、全てタキオンが田上に話をしている最中の出来事であったのだが、田上がタキオンの手を少しだけ強く握ったのを、タキオンはちゃんと感じて、話を止めて不思議そうに田上の目を見た。田上も、タキオンの目をじっと見つめていた。その目は、愛おしい『今』を見つめているようでもあり、遥かな『未来』を眺めているようでもあった。しかし、田上は、やっぱり目を逸らして、それから、タキオンの話の続きに答えた。タキオンもそのまま話が進んでしまったので、それに乗るしかなかったのだけれど、店に着くまでは、その田上の顔をじっと興味深そうに見つめていた。

 

 三つ目の店は期待の持てそうな感じで、色んな種類のネックレスがあった。特に、田上たちはユニークな物が欲しかったから、そういうユニークさのあるネックレスがその店にはたくさんあった。中には、鳥獣戯画の蛙がネックレスの先についているものもあった。その品々を見ては、また、タキオンと田上は「これが良さそうだね」「あれが良さそうだね」と言った。その店のペアネックレスの置いてある区画には、二つを重ねると初めて形になる対の物が様々置いてあった。ハートの物がその代表だろう。ただ、そのハートを単純に分けさせるのでは縁起が悪いと思ったのか、田上たちが見た物は、太陰太極図のように別れたハートだった。タキオンはこれに大いに興味をそそられたようだったが、田上は、あんまりしっくりこずタキオンの顔を少しがっかりさせた。それでも、タキオンは諦められなかったのか、「君の選んだ奴と私の奴をちょっと見極めてから、今一度決めようね」と田上に言った。田上は、それに曖昧に頷いた。

 田上は、ぼんやりしながらそれらを見つめていた。種類は多く、形も様々で面白いとは思ったが、こう…、田上には自分が何を掴もうとしているのか、判じかねていた。果たして、何を選べば正解なのか…。田上には、それがあまり良く分からずに、タキオンの誕生日プレゼントとなるべき物と対峙していた。しかし、それでは始まらないと思ったので、田上はとりあえず、「これはどう?」と右手と左手が対になっている物を指差した。その言い方が曖昧だったので、タキオンは、田上のそのネックレスに対する興味が本物かどうか疑って、隣の田上の顔を考えながら見つめた。田上の顔は、相変わらず、タキオンの方を見ようとはしていなかった。それが少し悲しかったが、タキオンは一応自分の意見を述べた。

「私としては、これはあんまり好かないね。だって、これはつまり、鏡の世界とこの世の隔たりとしての解釈もできるはずだ。こっちでの右手は、鏡の世界での左手だからね。もしかしたら、デザインした人は、一心同体のつもりでやったんだろうけど、その解釈もできる。それに、私は、首元に手をぶら下げておくのはなんだか嫌だ。あんまりセンスはないだろう?」

 田上は、それに「そうだね」と簡単に答えたので、タキオンには田上がそのネックレスに何の思い入れが無い事が分かった。こうなると、暖簾に腕押しのような状態で、ネックレス選びにあまり手ごたえを感じることができなくなった。田上は、あれこれ指差して、タキオンの意見を聞き、否定されれば「そうだね」、肯定されれば「そうか…」と言って、また別のネックレスを指差してタキオンの意見を聞いた。タキオンとしては少しつまらなくなってきた。田上は、しまいには菩薩観音が付いたネックレスを指差して、「これはどう?」と聞いてきたので、タキオンは遂に少し感情を出して田上に注意した。

「あんまり色々聞かないでくれ。私だって分からないものは分からないんだ。君の好きな物を指差して私に提案してくれよ。それだったら、私も大好きなんだ。君が何を想っているのかは知らないけど、もっと見るものは他にあるだろう?」

「他?」

「そりゃあ、…私とか」

「…そう」

 田上はそう言って、話している間タキオンに向けていた目を、また、元のネックレスの方へと戻した。



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二十三、タキオンの誕生日プレゼント③

 午前中では、埒が明かなさそうだったので、二人は一旦三つ目の店を回り切らずに、昼食の為に外の方へと出た。二人は、手を繋いだままファーストフード店へと入った。特に何の予定もなかったし、食べやすいものが一番無難だろうと思って、タキオンがその店を提案したのだ。その提案を受けても田上は曖昧な雰囲気のままだった。ただタキオンの言葉に「うん」とか「わかった」とかだけで応じる人形のようだった。その様子に多少呆れつつも、店に入ったら何とかしてやろうと思って、タキオンは、ウマ娘盛りの大きなハンバーガーとポテトとオレンジジュースを注文した。そして、その横で田上がハンバーガーとオレンジジュース一つしか注文しなかったので、「もっと食べろ」とタキオンが言うと、田上用にポテトを一つ頼んだ。

 それらの食べ物を持って、二人は席につくと、暫くの間黙々とそれを食べ続けた。田上は、曖昧な人間なので元より、タキオンまでも何も話さなかったのは、自分から話しかけるのに疲れたのと、圭一君から話しかけてくれないかな…という淡い期待を抱いていたからだった。しかし、その期待も呆気なく打ち破られそうな気配がしたのは、田上が早々にハンバーガーを一つ食べ終わってしまった時だった。その後のポテトは、見つめたまま手をつけようとはしなかった。だから、タキオンはもう仕方がないと思って、自分から話しかけた。

「そのポテトはやっぱり無理だったかい?」

 田上は、ポテトから目を離しタキオンの顔を見たが、その顔を見るとまた悲しげにポテトに目を落としたので、タキオンはちょっと嫌気が差し来た、という調子で田上に言った。

「そのポテトはやっぱり無理だったのかい」

 少し強めの口調だったので、田上も口を開いて「いや、食べるよ…」と答えた。しかし、タキオンもその答えだけで満足できる気持ちにはもうなれなかったので、田上にこう問い詰めた。

「君の悩みは何なんだい?折角私と遊びに来ているんだよ?君が悩みの深い人だとは知っているけど、それじゃあ、あんまりじゃないか。もっと私を見てくれよ。もっと私に笑いかけてくれよ。それをしてくれないんなら、私たちは何のためにデートに来ているんだい?リリー君のオリエンテーションもこのために早く頑張ったんだろ?なら、もう少し楽しんでくれ。…何が君の前に立ちふさがっているんだい?せめて、それを私に言ってくれ。君の恋人なんだから、話せることはたくさんあるはずだろ?別にそれで君を嫌ったりはしないからさ。君ともっと一緒になって話したいんだよ。…それすらも叶えてくれないのかい?君のお悩み相談会でも私は十分に楽しいよ?」

 近くの席の人の視線が、タキオンには鬱陶しく感じられたが、最後までそう言い切った。それで、田上も少し様子が変わった。曖昧で何も見ていない表情から、痛ましい思いに悩まされている男の顔になった。タキオンとしては、そちらの顔の方がまだマシだった。この顔の時の方が、もっと口は簡単に開くような気がしたからだ。だから、タキオンはもう一度聞いた。

「君の悩みが解けるんだったら私はそれが良い。何かあるかな?」

「………ここでは無理だ。ここでは…」

「なら、今から帰ってから話すかい?」

 タキオンがそう提案すると、悩ましげな目で田上はタキオンの顔をいつものように見た。そして、暫く見つめた後、呟くように言った。

「帰ってからも、話せるかどうか分からない…」

「分かった。じゃあ、君は、トレーナー寮で話す事に抵抗があったりするのかな?」

「…ない事はない」

「まぁ、それも踏まえると、この場では話せないという事だ。人の目があるからね。一度、歩きながら話そうよ。店には入らなくていい。ただこのショッピングモールを歩き回りながら、君の疲れない程度に、…歩き回りながら、私に話してくれ。隠し事は無しにしてくれ。どんな些細な事でもいいんだ。少し今日は便の出方が悪かったとか、心に引っ掛かっている事、いや、引っ掛かっていなくても思いついた、頭の中に思い浮かんでいる事を私に話してくれ。でないと私も寂しいんだ。君もそれを分かってくれ」

 タキオンが悲しげに言うと、田上も顔に苦笑を滲ませて「分かった」と悲しげに答えた。それで、少し気分を回復した田上がポテトをポリポリ食べながら、タキオンにこんな事を聞いた。

「分かってるんだけどさ、お前の気持ちは。ただ、こんな男と付き合ったってどうせ碌な事にはならないぞ」

 その言葉に少し笑いながらタキオンは答えた。

「分かっているんなら、私が答える必要はないだろう?」

 それを聞いて、田上も少し口元に笑みを作った。

 

 ポテトを食べる間は、二人共それなりに駄弁ることができた。全ては、田上の気分が回復してくれたおかげだった。それで、タキオンも気分は上々、お腹は満腹でファストフード店の外へ出ることができた。

 外へ出ると、タキオンももっと田上と一緒に話したいので、早々に田上悩みの真相を聞いた。しかし、今度は、田上もただ曖昧に頷いて、話をはぐらかそうとしたので、これではつまらない。だから、タキオンは「圭一君!」と怒ったように言うと、悩みを打ち明けるように促した。田上も若干話し辛い事ではあった。それは、悩みの内容が恥ずかしいと言うより、悩みの内容が自分自身でも曖昧だからだ。それでも、タキオンに些細な事でも言ってくれ、と頼まれたので、田上はその正体を掴むように空中を見つめながら言った。

「俺にも、あんまり良く分からないんだよ。分からないって事が分からない。いや、何が分からないのかが分からない。その分からないものの正体が分からない」

「まぁ、そりゃあ、当然と言っちゃ当然だろう。初めから分かっているんだったら、君のように宙を見つめはしない。じゃあ、それが、悩みというわけだね?君の心を縛っていた物は、私の言葉をぼんやりとしか聞いていなかった、その頭を縛っていた物は、何にも分からないという思いだね?」

「そんな感じ」

「…そりゃあ、漠然としている。漠然とし過ぎているねぇ。…何か他に手掛かりはないかな?」

「何にも分からん」

「ふむ。じゃあ、まぁ、漠然とした不安のような物だろう。君は何かが不安なんだね?それは一体何だろう?…考えられるのは、一番は、ネックレスの事だろう。ネックレスの事は、君はその心でどう向き合っているかな?」

「分かんない物」

「具体的には?」

「あんまり…俺が何を求めているのか分からん」

「まぁ、今回のネックレス選びは、少し目的もぼんやりし過ぎていたね。…あれから、私たちは何を買えばいいと思う?観音像を買った方がいいかな?」

「観音像はダメだと思う」

「だけど、君はそれを私に提案、とまではいかなくとも、――どう思う?と聞いてきたわけだ。あんなの、カップルが誕生日プレゼントとして選ぶなら、初めから無しに決まってる。あれを買うのは、よっぽどの仏教オタクだけだよ」

「そうだな」

「なら、私の誕生日プレゼント、と考えてみたまえよ。私は何が欲しそうに見えるかな?」

「…可愛い物?」

「それも良いだろう。他には?」

「他にぃ?…お洒落な物?」

「お洒落とはあまり具体的ではないんじゃないのかな?君は、お洒落とは具体的に何、と言い切れるかい?」

「言い切れない」

「それなら、君はそんな事を、私と一緒にネックレスを選ぶときに考えていたんだ。失敗しないようにしなくちゃ。そう思いはしないかな?」

「…まぁ、思わない事もない?」

「だろ?ちょっと君は気負い過ぎていたように思うよ。もう少し私へのプレゼントと考えてくれ。一番初めに、君は可愛い物。と言っただろ?私は、君が選んでくれるならそれで十分だよ。そりゃ、多少のセンスは問われるが、君が可愛いと思って選んでくれたのなら、私にはそれが嬉しいんだよ」

「そう…」と田上が返事をすると、その眼差しが段々と遠くになっていくようだったので、タキオンは慌てた。こんなにフラフラと定まらない男の相手に、タキオンも疲弊しそうだったが、それでも、田上と一緒にデートを楽しみたかったので、急に立ち止まると田上の両頬を掴んで自分の顔の近くへ、キスをしそうなくらいに引き寄せた。それから、田上にしかめっ面を見せながら言った。

「私を見てくれ!じゃないと、大衆の面前でキスするところを見せつけるぞ!」

「この距離じゃあんまり変わらない」

「じゃあ、キスをしてもいいのかな?」

 田上の返答に多少苛立ちを覚えながら、このまま田上が自分を見ないようであれば、本当にキスをしてしまおうと思って、タキオンがそう聞いた。しかし、田上はまた悩ましげな男の顔に戻って言った。

「本当に分からないんだよ。…何を悩んでいるのか」

 すると、タキオンも田上が憐れになって、その両頬を押さえつけていた手を放して、田上を開放した。そして、元通り手を繋ぐと、歩き始めながら言った。

「じゃあ、もしかしたら、それはネックレスが原因じゃないかもしれないね。…私かな?私が原因かな?私とのデートはどうだい?あんまり好きじゃない?」

「いや、嫌いな事はない。…ネックレスが原因じゃないわけでもない。けど、ネックレス以外にもありそうな気はする」

「ふむ。…これまた難しい問題だよ。…何かな…。分からないんだろ?何が分からないのかが分からない。…心の引っ掛かりはあるが、それが曖昧で判然としない。しかし、分からない。分からない事が分からない。分からないから、私とのデートに集中できない。その上に、君のネックレス選びを、その分からないが妨害している…。そうだよね?」

「多分そう」

「ふーむふむ。成程、これは私にも分からない。ただ、実は君がこのデートが嫌だという線も十分に考えられる」

「嫌な事はない」

「そうかもしれないが、無意識という物は恐ろしい物だ。意識で感じ取るのが難しいから、君のように悩む事になる。無意識とは、その人の根本にある価値観の事だ。悩みを解決するとは、その根本の価値観を、今の自分の状況に照らし合わせて、統合するという事だ。何事も冷静に考えなくてはならないといけない、というのはそういう事だよ、圭一君。君には分かるかな?」

「あんまり分からん」

「分からないだろう。担当のメンタルケアの授業もやるはずだけどね。そういう事はトレーナー試験ではしなかったのかい?」

「多分しなかった。担当の精神状態に合わせたスケジュールの調整なんかが主な内容だった。ストレス発散とかそこら辺だったな。お出かけをしましょう、とか」

「まぁ、それだと多少の気の紛れにはなるが、気の紛れになるだけだ。再発させない、または、再発しても解決できるように導かねばならない。それが、トレーナーとしてウマ娘と向き合うならば必要な事だよ。トレーナーとして担当と向き合うのならばそれでいいのかもしれないけどね。君は、私とたまに対話を図ってくれたからそれが良かった」

「それでも、今迷惑をかけているのは俺の方なんだけどな」

「迷惑じゃないよ。私は私のためにやっているんだ。…そこら辺も、君は考えを改めてくれた方がいいように思うんだけどね。中々どうして、改まらないものだね。何度も君の事は大切だと言っているのに。……それは、やっぱり私が幼いから、真に受けてくれていないのかな?」

 タキオンは、少し心に引っ掛かって、今まで燻っていたことを田上に言った。それを聞いた田上の顔は、あまり変わらなかった。もしかしたら、動揺でもするのじゃないかと思って、タキオンはその顔を見守っていたのだけれど、田上はただこう答えた。

「別に、幼過ぎるという事もないけど、少しだけ幼さが残っているだけだよ」

「それは、私の外見についてかな?」

「それもあるけど、…それもある」

「ん?はっきり言ってくれないと困るよ」

「いや、…どう言えばいいかな…。俺は、…その幼さが別に好きでも嫌いでもないけど、ただ、その幼さがそこにある事を知っている」

「じゃあ、やっぱり、私の言う事は真に受けていない、信用していないという事にならないかい?」

 タキオンは、それを自分自身の口から言うのは、少し嫌そうだった。

「いや、信用してない事はない。これは、断言できる。だけど、お前も幼いんだよ」

「それは、やっぱり、信用していないという事なんじゃないのかい?」

「そんな事はない。これは本当だ。信用はしている」

「なら、何はしていないんだい?」

 タキオンが切り返すようにそう聞くと、田上も少しだけ顔をしかめた。

「そういう話の流れじゃない。お前は幼いけど、信用はしているって事だ」

「でも、それって大分矛盾しているだろ?」

 そこで、田上が「あそこのベンチに座って話そう」と提案したので、一旦会話が途切れた。そして、またタキオンが「矛盾しているだろ?」と聞くと、田上はこう答えた。

「俺としては、あんまり矛盾しているつもりはない。実際にお前の事は信用はしている」

 それを聞くと、タキオンも少しは嬉しかったのだけれど、顔を曇らせるばかりだった。

「でも、ね?お前は幼い、と言われてごらんよ。君とは対等な関係でいるつもりなのに、私だけ少し下のように思うじゃないか」

「じゃあ、俺も幼い。俺とお前は対等だ」

 田上が即座にそう返したが、その素早さがタキオンには納得いかなかった。

「そんなんじゃないよぉ。言うならもっと気持ちを込めてくれ。それに、それじゃあ、ちょっと納得が行かない。もっと行動で示してくれ。私は、幼稚なんかじゃないだろう?」

「幼稚だっていいだろ?俺も幼稚なんだから」

「共倒れってのは納得が行かないよ」

「でも、お前が求めてるのは、幼稚であるかなしかじゃなくて、俺と対等で恋人であるかどうかなんだろ?俺がお前の保護者じゃなくて、恋人である方がいいんだろ?」

「そりゃそうさ。そりゃそうなんだけど、ちょっと納得が行かない。私は上手くあしらわれただけなんじゃないのかい?」

「別にあしらってはないよ。俺も子供で、お前も子供だろ?」

「それが、果たして恋人のあるべき姿なのかな?子供と子供が付き合っているのなら、それは飯事遊びと大差ないじゃないか」

「まぁ、そりゃあ、大人の飯事遊びの可能性もなくは無いんじゃないか?」

「大人の飯事遊び?聞き捨てならないね」

 タキオンは田上の事を少し睨んだ。

「じゃあ、今の私たちの関係は飯事遊びと言っても過言ではないと?」

「過言かもしれないけど、少なくとも、俺はいまいち何をやればいいのか分かってないんだよ。ハグとキスとか言ったって、そんな簡単な関係でもないだろ?」

「まぁ、難しいには違いないが、それと飯事遊びは関係ないように思うのだけれど」

「俺は、いまいち恋人ってもんが、一体何なのか分かってない。これをすれば恋人だ、って言えればいいけど、手探りの内は飯事遊びとあんまり変わらないだろ?」

「まぁ、否めなくもないが、…君の気持ちは分かった。分かったが、あんまり良く分からない。どう解決すればいいのか…。…どう思う?」

「分からない」

「分からない、じゃしょうがないよ。君も何か案を出してみれくれ」

「案?…恋人らしい事をしてみる?」

「恋人らしい事?」

「…一緒に過ごす?」

「ダメだダメだ。それじゃあ曖昧過ぎる。それに、もうそれはすでにやっている事だ。…肝心なのは、なんだろうねぇ…。あまりにも曖昧過ぎて、私にも掴み難い。…さっきの、君の言動から鑑みるに、…君の視点として、私たちの間から、トレーナーとその担当という犯し難い壁が、取り除けていないのじゃないかと思う。だから、私の事は信用しているが、幼いと思っていると感じるんだ。君としては、トレーナーの立場として、一線を置くために、私の事を幼いと思わなければならなかったはずだ。しかし、トレーナーと担当以上に仲が良くなってしまった私たちは、その間に親密な信頼を築いてしまった。まだ、私と付き合っていないときは、その考えでも良かったんだろうけど、私と付き合ってしまうと、無意識の領域にまで食い込んでしまったその銃弾が邪魔なわけだ。その弾は、君が自覚しない限り、取り除くのは不可能な事のように思うよ。どうだい?私の推理は結構いい線を言ったと思うんだけど。…君の中に居る私の『トレーナー君』と、私の『恋人君』との間で、喧嘩を始めてしまっているんだよ。それを何とか収めてやるのは、中立的な君なんじゃないのかい?」

 タキオンにそう説明されると、田上はじっと考え込んだ。その際の口元に手を当てる仕草が、タキオンにそっくりだったが、二人はその事には気が付かなかった。そして、うーんうーんと唸った後に、ようやく田上は言った。

「分からない…」

「分からないかい?…それは、考える事を放棄したのではないかな?そんな事はない?怒らないから言ってごらん?」

「……正直、考えが纏まりそうにない…」

「まぁ、それが葛藤だ。…それじゃあ、今日は、ネックレスは選べそうにないかな?」

「…いや、選んではあげたい。選んではあげたいけど…、どうしよう」

「また、あそこに戻っても、君の考えは葛藤に邪魔されて纏まらないと思うよ?…それとも、まとめられないと分かっててもまた、あそこに戻るのかな?」

「いや、いや、分かる。分かるけど、それだとタキオンの誕生日プレゼントが…」

「私の誕生日プレゼントくらい後ででも充分大丈夫さ。今、無理矢理買って、後になって後悔する方が不味い。それは君にも分かるだろう?」

「分かるよ…。分かるけど、どうしようかなぁ…」

「まぁ、私とこのままデートを続けるという手もあるよ。もう今日の所はネックレスは諦めて、私とデートに来たのだと思って楽しめば、私もそれで十分だと思うけど」

「…でも、どうしよう…。いつ買えばいいかな?」

「別に、私の居ない時に一人で買いに行っても良いよ。私はどちらかと言うと、今日はネックレスを買う事より、君とのデートの方が楽しみだった」

「でも、ネックレスを一緒に買うのも、楽しみだったんだろ?」

「それは、勿論だよ。でも、君が買ってくれるのならそれでいいさ。大抵の物は大喜びできる自信がある。それでも不安なら、私の授業が終わった後に急いで行くかい?時間は十分にあると思う。門限は七時だから、ざっと四時間くらい?それくらいあれば多分大丈夫だ」

 タキオンがその予定を提示すると、田上は少し悩んだが、次にタキオンの思ってもみなかったことを言った。

「トレーニングはどうする?宝塚記念を走るんだったら、もうトレーニングは始めておいた方がいい」

「ああ…、そうか。…そうだね。いつだったかな?」

「六月九日。…本当に走るのか?」

 タキオンの顔に動揺が走ったのを、しっかりと感じ取った田上が、心配そうにそう聞いた。

「走る。…走ろう」

「本当に?」

「本当に」

「俺が止めたら?」

 その言葉を聞くと、タキオンは田上の顔をじっと見つめたが、次にはこう言った。

「止めないでくれ」

「…もう、走る事を辞めて一緒に暮らそうと言ったら?」

 すると、今度は、タキオンは目を見開いて田上を見つめた。それでも、返答は上手くいかなかった。

「宝塚までは私は走るつもりだ」

「じゃあ、その間に、俺がお前の事を嫌いになるかもしれないよ?」

 次は、悲しそうな顔をしてタキオンは言った。

「嫌いになんてならないだろ?」

「嫌いにはならない。でも、お前は本当にそれでいいのか?そんな顔をしてまで、お前は走るのか?」

 これには、タキオンも言葉を秘めて考え込んだが、一層辛そうに言った。

「走らせてくれ。…頼む」

 そのタキオンの顔を見ていると、田上も少し辛くなってきたが、こう言った。

「じゃあ、帰ったら出走登録しておくからな。…それでいいのか?」

 タキオンは、眉間に深い皺を寄せながら、「いい」と頷いた。その様子はどう見ても良さそうには見えなかった。

 

 その後に、二人は、気を取り直して、ショッピングモールを散策しつつ、店の色々を見ることにした。殊に、タキオンは服屋に入りたがって、田上の服をどうにかこうにか買わせようとした。どうやら、タキオンには、田上の服を選んでやるのが楽しくて楽しくて仕方がなかったようだ。それで、タキオンが、楽しんでくれているのなら仕方がないので、田上も、自分の興味の無い服選びに付き合ってあげた。たまに、田上が、ユーモアに溢れたTシャツを指差して「これはどう?」と言って見ると、タキオンはケラケラと笑い出して、「買ってみるかい?」と田上に聞いた。田上は、元から買うつもりのないTシャツを指差していたので、当然「買うわけないじゃん、こんな服」と言った。それを聞くと、タキオンは尚の事ケラケラと笑った。これによって、多少なりとも、タキオンの宝塚記念への恐怖が薄れた様だった。先程もタキオンが言ったように、これは気の紛れでしかなかったが、田上はその笑顔を大切にしなければならないように感じた。彼女の顔は、田上と居るととても嬉しそうな笑顔になっていた。それを崩すわけにはいかなかった。その為には、田上は、タキオンと共に過ごす覚悟をせねばならない。それは、田上の本望でもあったのだが、やっぱり、心の中の何かがそれを咎めた。その正体が何なのか、今でも全く掴めない。掴めないけれども、田上はやっぱりタキオンの傍に居るしかなかった。彼女の事が好きだったから。

 結局、田上は、自分の服を買う羽目になった。でも、そこまでお洒落な服は、普段着として着るつもりはなかったので、田上はそのようにタキオンに告げたら、こう返された。

「これから、私とたくさんデートに行くだろ?その時に着てくれればいいよ」

「でも、毎回同じ服装ってのは?」

 田上がそう聞き返すと、タキオンは笑いながら「構わないよ。その内、君の洋服棚を私の選んだ服でいっぱいにして見せるし、君が服を選ぶの面倒って言うのなら、私が選びに行ってあげる」と答えた。――まるで、女房のようだ、と田上は思いながら、微かに笑うと「ありがとう」と返した。

 買うときには、どちらが金を出すか(どちらも金を出したかった)で揉めたが、最終的には、タキオンがズボン、田上が上の服を買うことに決まった。どちらにしろ田上の物だったが、タキオンは田上に贈り物ができたという事で、少し喜んでいた。

 

 そして、二人は帰路についた。田上は、勿論ネックレスの事が少し気掛かりだった。その様子をタキオンに察せられて、「大丈夫かな?」と聞かれたが、案外大丈夫な事には大丈夫だった。むしろ、どちらかというと、田上の心は一人で買いに行く事の方に傾きかけていた。一人でじっくり悩む方が、タキオンと一緒に買いに行くよりも、遥かに買いやすいような気がしていた。無論、タキオンと買いに行くのが悪いと言っているのではない。ただ、今は、そちらの方がやりやすいような気がしてきたのだ。これが、『気がする』だけなので、実際の所はどうなのか分からない。しかし、その方が田上の性に合っているのは確かだった。

 この、一人の方が買いやすいかもしれない、という考えをタキオンに言ってみると、こんな答えが返ってきた。

「そうなんだね。私も、そっちの方がいいというのなら、君にそういう風にしてくれた方がいいよ」

「…そう。…俺も誕生日プレゼントを買う不安を、タキオンと行く事で紛らわせようとしたのがいけなかったのかもな。失敗できない不安もあったし…」

「それなら尚の事、君だけで行けばいいんじゃないのかな?」

「…そうしておく。…明日行こうかな?」

「明日?随分と急だけど」

「明日は、リリーさんのトレーニングを午後に入れる…。お前はどうする?宝塚に出るんだったら、もう明日からでも始めていいけど」

 田上がそう言うと、タキオンは目に見えて動揺し始めたので、田上はショッピングモールに居た時に言った事をもう一度繰り返した。

「本当に走るのか?」

 そう言われたタキオンは、大分苦しそうだった。

「…走る。…走るから、そんなに私を試さないで。…出来れば、君にももう少し頼らせてほしい」

「頼らせてって言ったって、俺は今以上にできる事はないよ?」

「できるよ…。…抱き締める回数を増やすとか…」

「それは、また難しい。普通のカップルくらいには、俺たちもハグはしていると思うけど」

「もっと…」

「もっと、ねぇ。…今日だって、ぎりぎりの所でキスをしたわけだから、どこそこでハグするわけにはいかないよ。俺の寮だってそんな頻繁に来られると、最悪お前が出禁になったりしかねない」

「…なら、もう同棲を…」

「それはもっと難しい。お前は、お前一人の体じゃないんだよ」

「誰かのための体ではいたくはない」

「それは尤もだけど、なら、もう走るのをやめるしかない」

 そう言われると、タキオンも黙りこくった。けれども、答えを聞かない事には予定の立てようもないので、田上は言った。

「俺もお前と一緒に居るつもりではあるよ」

「一緒に居るつもりなら、もっとその様子を表に出したまえ」

「それは俺も頑張りたいけど、とにかく、俺がどこそこの女に付いて行くようなことはしない」

「信じられないね」

 タキオンは少し顔を上げて、田上の事を睨んだ。田上もそれに負けじと睨み返して言った。

「信じられない?お前は、前の時の俺と同じことを言っていないか?」

「言ってない」

 タキオンは田上の事をもっと睨んだ。その様相が、一触即発の雰囲気になっていたから、田上は睨むのをやめて、なだめに掛からねばならなかった。

「言ってないならそれでいい。…俺の事は信じれくれないのか?」

「……信じる。…けど、信じれない」

「俺に直に信じれないと言っている時点で、お前は十分に俺の事を信じていると思うよ」

 田上がそう言うと、タキオンは迷うように少し目を逸らしたが、また、田上に視線を合わせた。

「信じる。けど、これまで以上に私を大切にしてくれ。これまで以上にだ。四の五のは言わせない」

「言わない。これまで以上に善処する。…ほら、笑え」

 田上はそう言うと、自分の手をタキオンの首筋に持っていき、そこらへんを指で擦ってくすぐった。タキオンも始めは堪えていたのだけれど、田上が執拗に続けると、「参ったよ」と困ったように笑って、田上の方に体を寄せた。

 帰りの電車の中は、少しゆったりできた。

 

 二人は、トレセン学園に帰ると、二人でできるだけ長く入れるように散歩をしたり、ベンチに座って話しこんだりして過ごした。その間に、何度か宝塚記念の話題が出てきた。相変わらず、タキオンと田上の対話は難航したが、せめて、明日のトレーニングをするか否かを言ってくれないと、と田上が頼み込むと、タキオンも渋々「嫌だ」と答えた。その為、明日のトレーニングは、リリック主体でする事になった。けれども、田上はタキオンが拒否した後にこうも提案した。

「お前も一緒にトレーニングに来ないか?するんじゃなくて、俺の隣で見とくだけ。…それも嫌?」

 タキオンは、少し悩んだようだったけれども、次には、田上の目を見て「分かった。行く」と答えた。田上は、その答えに満足そうに微笑したが、その後の余韻を引きずって、また、タキオンの気が変わってしまったら面倒だから、すぐに別の話へと切り替えた。ネックレスの事だったり、将来の事だったり、二人で色々と話し合った。そして、タキオンを十二分に満足な笑顔にさせて寮に帰らせると、田上も自分の部屋へと戻った。その後は、どんなネックレスが良いか、ネットで検索したりもした。ネットにもいろんなものがありそうだったが、田上は、ぜひあの店に行って買おうと思っていたので、興味本位で眺めていただけだった。ただ、良さそうなネックレスは、色々と見つけることができたので、あの店に行って何もピンとくるものが無ければ、また、ここで買おうと思った。寝る時に少し緊張したのは、明日行く店についての不安があったからだった。しかし、それは些細な不安に過ぎず、また別の、明日にするトレーニングの予定を、頭の中で反芻していれば、それはすぐに消えていった。

――明日には、どんなネックレスをタキオンに見せてあげられるだろうか?

 

 明日になると、田上は真っ先にタキオンに『今日の午前中に済ませる』とメッセージを送って、朝の支度を済ませて、寮を出た。その間に、タキオンもメッセージを返してきていたので、二人はこんなやり取りをした。

 まず、タキオンがこう返してきた。

『私も行きたい』

 寝ぼけているのかは知らないが、当然今日から授業があるので、『ダメ。授業に出ろ』と返すと、またタキオンから返信が来た。

『授業に出なくても良いとは思わないかな?どうせ、何もかも分かるし』

『ダメ。少なくとも、授業サボってやっていたことが、トレーナーとお出かけでした、となれば俺の信用度が地に落ちる』

『君の信用度は、どうでもいいとは思わないかな?』

『どうでも良くない。給料が良いんだから、これから暮らしていくためには、金は必要だ。無職の男と結婚したいのか?』

『分かったよ。私も授業に出るから、君も頑張ってきてね』

『頑張る』

 そう返すと、田上は寮を出、学園を出、電車に乗って、一人でまたショッピングモールへ来た。当然、あの店にも店員さんは居たので――あの人今日も来た、と思われはしないかと、田上は心配だったが、そこら辺を心配してしまっては、もう動きようがなくなるので、あるかもしれない恥を忍んで、田上は昨日の三回目に入ったネックレス店に、今日も入った。



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二十三、タキオンの誕生日プレゼント④

 田上は、昨日はあまり感じれなかった店内のお洒落さに少し怯えつつも、ペアネックレスの区画へとすぐに行き、ガラスの箱の中に並べられたネックレスの数々をまじまじと覗き込んだ。そして、少し反省をした。昨日タキオンに「これはどう?」と言った観音像があまりにも観音像だったからだ。これを少しでも誕生日プレゼントに良いかもしれないと感じる人は、タキオンの言う通りよっぽどの仏教オタクだと思った。それか、自分のような間抜けなアホか。これが、あんまりにも酷いもんだから、田上は観音像を顔を近づけてみたり、遠ざけてみたり、ため息を吐いてみたり、意味の無い事をずっと繰り返して、ようやく――全く自分はなんてあほな奴なんだろうなぁ、と思うと、目を離してまた別のネックレスを見た。そこの店には、当然、何も飾りのつけられていないものだったり、輪に連なって飾りのついたようなネックレスもあったり、飾りの中に写真を入れられるような物もあったのだが、田上はやっぱりそういう地味でも派手でもなくて、普通のタキオンが喜びそうな物を彼女に買ってあげたかった。かと言って、自分もつけなくてはならないので、ハートマークの物や女性に人気のデフォルメが施されたキャラクターが付いた物などは田上も避けたかった。だから、――やっぱり、見ていて綺麗なものが良いよなぁ…、と思いながらタキオンの誕生日プレゼントを選んだ。

 並べられたものの中には、絵文字を模った物もあった。あまり需要もなさそうなのに結構たくさんの種類があったから、――なんだろう?、と疑問に思いながら田上はまた隣の物を見つめた。

 その隣の物は、薔薇を模った物があった。勿論、ペア用なので金の薔薇と銀の薔薇が綺麗に細工されて並べられていた。その値段を見てみると、田上はちょっと驚いてしまったので、それを買うのはまた後ほど考える事にした。

 そして、また次の物を見ると、今度は、昆虫を模った物が色々あった。始めに目に留まったのは、蝶の飾りの物だった。丁度、タキオンが新しく作った勝負服の髪飾りとして蝶を採用していたのを思い出した。――タキオンは蝶が好きかもな…、との考えが田上に思い浮かんだが、とりあえず、それを候補に加えてまた別の昆虫も見比べた。クワガタやカナブンやカブトムシなどもあったが、それらは、少し現実味のある細工だったので田上には嫌だった。こんなのを送られて喜ぶタキオンでも無いだろうと思った。それも、もしかしたら、田上から送られれば素直に喜ぶかもしれないが。しかし、田上自身が嫌なので、それらは普通に却下された。他にも、蝶にも色んな種類があったし、程良くデフォルメされたトンボもあったし、てんとう虫にも種類があった。田上は、トンボは結構良さそうだと思った。トンボと言うと、決して弱い虫ではないし、速いし、複眼だし、男の子の憧れの的だ。タキオンもあまり嫌いではないだろうと思う。デフォルメされたトンボは、ただ、四つの羽に棒が足されたようなデザインだったから、決して現実には寄らず、かと言って、デフォルメされ過ぎてトンボ本来のかっこよさも失われてはいなかった。

 それも念頭に入れて、田上は今度はてんとう虫の方を見た。田上もてんとう虫は嫌いじゃない。子供の頃などは、アブラムシを食べるてんとう虫を一生懸命観察していたり、虫かごの中にたくさんのてんとう虫の幼虫を捕獲していたりした。むしろ、昆虫の中ではより身近で、好きな部類に入る。そのてんとう虫だが、ペアネックレスと言うと、少し微妙だった。金色の輪に彩度の高い赤のてんとう虫はあまり合わなかった。けれども、その色を金色に合わせて一色に統一してみた所で、それはそれで、てんとう虫感が薄れた。それに、赤いてんとう虫の対になっていた方は、青いてんとう虫だった。これは、なんでもかんでも色を対にしてみれば良いという物でもないので、田上の好みではなかった。

 それで、一応ペア用のネックレスは大体見終わった。もう一度、まじまじと見てみる必要はあるが、そこで田上の頭にはある考えが浮かんだ。――単純にお揃いでも良いんじゃないか?その考えは、どうすべきか否か悩むものだった。田上としては、単純にタキオンとお揃いでも十分に嬉しいと思った。果たして、タキオンが嬉しがるかは分からないけど、…と思ったところで、やっぱり田上はペアネックレスを選んであげようと思った。やはり、二つ同じ物を買うよりかは、二人で一つのようにデザインされた物の方が意味もあってタキオンも喜ぶだろうと考えたからだ。そして、また、田上は並べられたネックレスを見つめながら考える事になった。他の客や店員さんが何か動いたり話したりしているのは感じるが、それが終わっても田上はずっとネックレスを見つめて考え込んでいた。この店が、客を放っておいてくれる店で田上は随分と助かった。これで、店員に話しかけられでもしたら買う気も失せて、早く店から出て行こうとするだろう。それをしなかったこの店は、もしかしたら、接客の態度が物凄くいいのかもしれない。そんなくだらない事を考えながらもネックレスを見つめていると、田上は不図、今まで目に留まっていなかったあるネックレスに興味を惹かれた。それは、てんとう虫型の飾りではあったが、背に描かれた模様は地球。そして、対になっているてんとう虫には月のような物が描かれていた。これは…?と思った。田上の心は、今まではもうほとんど蝶の飾りで決まりのような物だった。しかし、まだ決められずにいたのは、これを待っていのかもしれない…。そう思うような美しさのある地球と月のてんとう虫だった。だが、ここでやっぱり田上の後悔したくない心が働いた。幾ら綺麗とは言っても、ぽっと出のネックレスよりも蝶のネックレスの方が、田上には優先順位は高かった。けれども、てんとう虫も十分に捨て難いので、悩みに悩んだ後にてんとう虫を買うことに決めた。すると、やっぱり蝶の方がいいような気がしてきた。それから、また、うんうんと顔を近づけたり遠ざけたりしながら悩んだ挙句、やはり、地球と月のてんとう虫が良いだろう、という事で田上は決めた。そして、店員さんを呼んで、「これを買いたいのですが…」と頼んだ。幸い、輪っかの方は自分で選ぶこともできるようだったから、あまり高くならないように、でもお洒落さは損なわれないように、なるだけ安い物を選んだ。それで、金額は二つ合わせて、四万円とちょっとになった。――来年はもっと安いのを買うだろうな。花とか、と思いながら田上はその金額を支払った。

 

 店を出たのは、一時間半後だった。思った以上に時間を食ってしまっていて、田上は少し慌てた。携帯は、音もバイブも鳴らないようにしていたので、タキオンからまた一件のメッセージが来ていた。『ネックレスは買えた?』との内容だったので、『今買って帰るところです。包装は俺とお前で別にしたけど良かったよね?』と送った。すると、その後すぐに『いいよ』と返事が来たので、田上は首を傾げた。タキオンは、今は授業中だったはずだ。田上も正確な授業の時間割までは覚えていないが、自分がたまたま休み時間に送ったのだろうか?それが少し妙だったので、またタキオンにメッセージを送った。

『お前、授業中じゃないの?』

 すると、再び『うん』と返ってきた。田上は、帰りの電車の中で眉を寄せて、スマホを見つめた。それから、ぽちぽちとまた文字を打った。

『授業を真面目に受けろよバカ。机の下でスマホいじってるんじゃないだろうな?』

『ご名答』

『今すぐ前を向いて授業を受けろ』

『でも、圭一君がメッセージ送ってくるからしょうがないだろ?』

『無視しろよバカ』

『君の悪口で私の心が傷ついた』

『知らないよ。付き合いたての恋人じゃないんだから、わざわざ授業中にLANEをするな』

 ここで田上も自分から無視を始めたほうが良い事に気が付いて、それ以降のメッセージに反応しない事に決めた。しかし、この段階ではもう手遅れだったようだ。田上がスマホをいじっていると、画面にタキオンからメッセージが来たことを知らせる通知が、何個も何個も来た。その通知は、文面も見れるようになっているので、田上はタキオンが何と言っているのかが見てとれた。

『付き合いたての恋人だろ?』という会話の続きから始まり、タキオンが田上から無視されている事を知ると、『あれ?私無視されているかい?』『本当に無視?』『悲しい』『授業は暇だよ。話そうよ』『おーい。見てるだろ?通知が出ているだろ?』『おーい』『おーい』『圭一くーん』『怒ってる?』『まさか、君に限って怒るはずもないよね?』『怒られたのかな?悲しいよ』『嘘だよ』『でも、これが君に本当にみられていなかったら。それこそ悲しい上に恥ずかしい。見てるよね?反応をくれよ』

 そこまで言われると田上も我慢できなくなった。こんなに遊び心のあるやつが自分の彼女になったのだと思うと、半分愉快でもあったし、半分引き気味でもあった。それでも、そんな彼女に構わないでいれる田上でもなかったので、こう返した。

『うるさいよ。いつまでスマホ見てるんだ。前見ろ前を』

『前なんて見なくたって、教科書を見れば大体の内容は分かるさ』

『先生が一生懸命話しているだろ?』

 そこで、会話が途切れた。恐らく、先生にスマホをいじっているのを見つかったのじゃないかと田上は予想できた。だから、自分もスマホをしまうともうすぐ電車から降りる事に備えた。

 

 トレセン学園に辿り着くと、タキオンにどうネックレスを渡そうか、と考えた。これは、タキオンの誕生日プレゼントを今日渡すのではない。田上の分のネックレスをタキオンに渡すのだ。勿論、タキオンから、君のつけている姿を見てみたいと言われたのだから、渡すほかにはないだろう。これは、二人の共通認識のはずだ。かと言って、二人の暮らしは、学校が始まってしまえばそれ程重なり合う事はなかったから、渡すときと言ったら、トレーニングの前くらいしかなかったはずだ。それは、少々恥ずかしい事になるかもしれなかった。マテリアルやリリックの前で渡すことになるかもしれなかったからだ。そういう事になれば、二人は興味津々で見つめてくるだろうし、茶化しもしてくるかもしれない。タキオンも人前での立ち振る舞いを全く気にしていないので、ネックレスを渡せば喜んでその場で田上に着けようとしてくるかもしれない。少なくとも、それを眺めたいのだから、「着けて」と言うはずだろう。その一部始終を眺められると、さすがに田上も居た堪れない気持ちになる。

 そんな事を考えながら、とりあえず、寮の方へと持ち帰った。しかし、そこから二十数分するとタキオンの方から連絡があった。

『休み時間になった。帰り着いた?』

『帰った』

『君のはどうするつもり?』

『いつでもいいけど、渡した方がいい?俺が着けとけばいい?』

『持って来て。すぐ。トレーナー室に』

 その言葉を受けて、田上は、一応両方のネックレスを持って部屋を出た。

 

 トレーナー室は、最近引っ越したばかりなので、一番初めはそこに向かって足を運んでいた。しかし、途中であっと気が付いて、その後は三階の新しいトレーナー室の方へ進路を変えた。

 部屋の前に辿り着くと、前に居たのはタキオンだけではなかった。タキオンの友達のアルトとハナミも一緒にくっ付いていた。話しているタキオンの表情から察するに、連れてきたくて連れてきたわけではないようだ。それでも田上も連れてこられると少々面倒なので、顔を少ししかめながら廊下をタキオンたちの方へ歩いた。そして、田上が廊下の向こうの方から来るのにタキオンが気が付くと、慌ててアルトとハナミに「教室に戻れよ」と睨んだ。睨まれた二人は、ニヤニヤしながら廊下の奥から来る田上とタキオンを見比べていたが、やがて、大人しくタキオンの言うことに従うと、田上がその場所に辿り着く前に帰ろうとした。けれど、帰る方向は、田上が来る方向だったので、すれ違いざまにアルトとハナミと田上の三人は、「こんにちは」「こんにちは」と挨拶を交わした。それから、タキオンの所に行くと、先程とは打って変わって、口元に笑みを浮かばせながら「どんな物を買ってきたんだい?」と聞いてきた。「綺麗なものだよ」と答えながら、田上は、タキオンと一緒にトレーナー室に入った。

 トレーナー室の中はまだ多少の違和感はあるし、開かれていない箱も幾つかあった。しかし、若干の馴染みのような物が、無きにしも非ず…と言った感じだったのは、もしかしたら、建物自体が変わってはいないからかもしれない。それでも、いつものように簡単にソファーに座って話すわけでもないので、田上は、一瞬どこに座るか迷った後に、長机に備え付けられている椅子の一番左端に座り、続いてタキオンもその隣に座って体を寄せてきた。この体を寄せてきた理由は、単純に田上との距離感が無いのと、ネックレスへの興味が津々だったからだ。タキオンは田上に「どっちがどっちだい」と聞いた。田上の持ってきた包装が二つだったからだ。その包装は、片方が青で片方が黄色になっていた。田上が覚えやすいようにそのネックレスの主体となっている色を包装の色にしてくれ、と店員に頼んだのだ。店員は、気軽にそれをしてくれたので、田上は内心ほっとした。

 田上は、二つの包装を並べてタキオンに説明した。

「まず、こっちの青いのが、地球を模したてんとう虫のネックレス」

 ここでタキオンが「てんとう虫?」と困惑していたので、田上もタキオンにがっかりされたらどうしようという心が出てきた。しかし、今更引き下がるわけにもいかないので、タキオンの言葉を無視すると説明を続けた。

「それで、こっちが月を模したてんとう虫のネックレス」

「対になっているというわけだね?」

「そう。で、どっちがどっちというわけでもないんだけど、どっちがいい?」

 田上としては、自分は地球が良かったのだけれど、タキオンの意思を尊重したいがためにそう聞いた。ただ、それを見抜けないタキオンでもなかったので、田上に聞き返した。

「君はどっちが良いんだい?」

「俺は、…地球の方がいいかなって」

「それは君が地球のネックレスを着けたいという事?」

「そう」

「まぁ、デザインした人も多分女性の方に月を着けてもらいたかったんじゃないかな?…月のてんとう虫って、一体どんなデザインなんだい?」

「お前のは、月が金の縁で覆われていて、そして、金のてんとう虫の頭と手足がある」

「リアルに寄った感じの物かな?」

「まぁ、リアルさはあるけど、それ以上に月が綺麗だから。結構、タキオンも実物を見たらおおっ、って言うくらいの綺麗さはある」

 いつになく田上が熱弁すると、タキオンが少し微笑んでそれを見つめた。

「じゃあ、こっちが君のになるのかな?」

 タキオンが机に置いてあった青い包みの方を手に取って、少し眺めてからまたそれを机に置き直した。

「ああ、そういう事になる。地球の方も良かったよ。透き通るような青の中に、所々霞の白を置いてるのが、また幻想的な感じにしてる」

「その中に日本列島はないのかい?」

「それを置いたら野暮すぎるだろ。大陸みたいなのはない。月があって初めて、これが地球だという事が確認できる」

「ほう。そういう意味でも対になっているのかな?」

「それは知らない。…どうする?早速着けてる所見せたほうがいい?それとも、また、誕生日の時にする?」

「…いや、今着けよう。今日から私の誕生日まで、それより後も毎日着けて私の前に立てよ?」

「プロポーズ?」

 田上が思い浮かんだことを脳と口を直接繋げて言うと、タキオンが困ったように笑った。

「まぁ、そんなものだろう。…一つ懸念点があるとすれば、そのてんとう虫の足の細工が脆いか脆くないか、だね。脆いとすると、君と気軽に抱き合えなくなるという事だ」

「そんな万力込めて抱き合う必要もないでしょ…」と田上は言うと、タキオンとの間にある青の包装を見つめて暫く黙った。タキオンも同じように黙っていて、どうやら、二人は、どう包装の開封を始めようか迷っているようだった。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかないので、田上が「…じゃあ、どうする?」と聞くと、タキオンが「…始めようかな…。包装開けるかい?」と聞き返した。それで、開けないという選択をするわけにもいかないので、田上は恐る恐る包みを手に取るとタキオンに「開けるよ?」ともう一度聞いた。タキオンも包みと田上を見つめながら「いいよ」と答えた。田上は、慎重に封を開けて、タキオンに、中にあった箱を見せた。その箱をまた開けると、中から美しい銀の細い鎖の連なりと、そこに繋がっている透けるような濃い青のてんとう虫が出てきた。そのてんとう虫は、背中は銀の縁で飾られていて、タキオンは少しの間黙ってそのてんとう虫を見つめていた。田上は、タキオンが何も言葉を発さないので、お気に召さなかったのかと心配になったが、その様子を感じ取ったタキオンが不意に目を上げると、そのネックレスを目の高さに上げて「綺麗だね」と田上に微笑みかけた。田上もそれに微笑を返したが、それに続いてタキオンが「着けてあげる」と言うと、その顔は少し強張った表情になった。

 タキオンが、「さあ、立って」と言いながら自分も立ち上がると、田上も大人しく言う事を聞いて椅子から立ち上がった。そして、タキオンに向き合ったのだが、田上にはネックレスを着ける作法なんて知らないので、この後にどうすればいいのか分からずに、タキオンの事を見つめた。タキオンは、ネックレスの留め金を外すのに少し手間取っていたようだったが、外し切るとタキオンよりちょっと背の高い田上を見つめて言った。

「君、少し背が高いな。ちょっとまた椅子に座ってくれよ。…いや、やっぱりいい。やっぱり立ってくれ。そのまま着けよう」

 田上は、座ったり立ったりを繰り返した挙句、また、タキオンの前に立ち上がって、タキオンがどうするのかを見守った。田上の見立ててでは、どうやら、タキオンは真正面から着けるようだった。「動かないでくれよ」と言うと、田上の首にしがみ付くように抱き着いて、田上の首の裏で手をごそごそとし始めた。金属のひやりとした感覚が首に伝わったり、タキオンの鼻息を首筋に感じたりして、少々こそばゆかったが、田上は、タキオンが自分にネックレスを付け終わるのをじっと待った。そして、タキオンが「できた!」とやっと言うと、そこで、授業の開始を付けるベルが鳴った。タキオンは、慌てる様子もなく、時計を見つと、その後に田上のネックレスを丹念に見て、こう聞いた。

「次の休み時間もここに居るのかい?」

「うーんと、…居るかな。午後のトレーニングについての整理もあるし」

「なら、また次の休み時間にここに来るよ。似合ってるよ。良いネックレスを買ったね」

 そう言うと、タキオンはトレーナー室のドアを開けて立ち去って行った。田上は、その立ち去って行ったドアを見つめて暫く突っ立っていたが、やがて、我に返ると、自分の首元にあるネックレスの冷たさを感じ、そして、それを奇妙な物のように見つめながら、自分のデスクへと座った。銀色に縁どられたてんとう虫は、窓から入る陽の光に照らされて不思議に青く輝いていた。

 

 次の休み時間になると、早速タキオンは来たが、一人だけではなかった。アルトとハナミを連れていた。田上には、これは滅法芳しくなかった。だが、タキオンだって芳しそうではなかった。トレーナー室に入るや否や、タキオンは田上に言った。

「この方々が、君のネックレスを見たいってさ」

 田上は、勿論それだけでは何が起こっているのかは分からないので、困惑した表情でタキオンを見つめ返した。すると、タキオンはもう一度田上に説明し直した。

「この二人が、何してたの?ってしつこく聞いてくるから言うしかなかったんだよ」

 それで、田上が二人の方を見つめると、その後にタキオンがもう一つ言った。

「ネックレスを外して見せてやってくれないか?この人たちも直ぐ帰るって言うから」

 そして、田上は自分のネックレスを外してやろうとしたのだが、これが中々外れなかった。だから、タキオンに助けを求めて、後ろの留め金を外してもらおうとしたのだが、これも中々恥ずかしかった。タキオンも少し苦戦していたし、田上は二人のウマ娘と正面から向かい合わなければならなかったので、二人が自分たちの事をじっと見つめているのが直に分かったからだ。もう少し目線をそらしてくれれば、田上もやりやすいのだけれど、二人はじっと見つめてくるばかりだったので、田上はタキオンが早く外し終わる事を願った。

 そして、タキオンが田上の首からネックレスを外すと、田上はそのまま椅子に、ネックレスは他の二人がいる机の方に持っていった。田上は、元からこの三人の会話に混ざる気はなかったのだけれど、三人の会話から逸れたアルトだかハナミだか田上には分からない方が、田上に話しかけてきた。

「タキオンちゃん可愛いですか?」

 二人だけで会話をしていたタキオンだったが、その言葉を耳聡く聞きつけて、田上とハナミを睨むように見つめた。田上もまさかここで嘘を吐くわけにもいかないので、「ああ、可愛いです」と答えた。すると、また調子に乗ってその子が言った。

「もうすぐタキオンちゃんの誕生日ですけど、その時に何か買う予定はあるんですか?」

 これには田上も返答に困った。だから、思わずタキオンの方に助けを求めるために視線を向けると、そこで、初めてその子が後ろを振り向いてタキオンの方を見た。もう、そこの二人の会話は終わっていて、もう一人の子も、田上と別の子の会話に興味を注いでいた。その子を一つ跨いで、田上と話している子がタキオンに言った。

「誕生日プレゼントの話題ってあんまりしない方がいい?」

 タキオンはしかめっ面をして、「しない方がいいね」と不愛想に答えた。すると、もう一人タキオンと話していた方の子が言った。

「タキオンの事ってどれくらい好きだったりします?」

「え…、言わないと駄目?」

「言わなくてもいいよ、そんな事」とタキオンが少し怒りながら口を挟んだ。そして、その質問をしてきたこの両肩を掴むと「さぁ、もうネックレスは見ただろ?」と言って、彼女たちを追い立て始めた。けれども、田上に始めに話しかけてきた方の子は、もう一つ田上に言った。

「タキオンちゃんの事大切にしてやってくださいね。田上トレーナーとのLANE見つめながらニコニコしてたし、あの休み時間が終わってからもずっとニコニコしてたんですよ。可愛い奴ですよ?あの子は」

「おい!」とタキオンは怒ったが、その声によってようやく連れてきた二人は大人しく部屋から出て行った。タキオンは、一旦部屋から出て行ってその二人がちゃんと帰るかどうか見てから、また戻ってきたが、戻ってきた途端に恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「別に、そんなにニコニコしてたつもりはなかったんだけどね…」

 どうやら、さっきの子が言った事をタキオンは気にしていたようだった。けれども、田上は少しニヤニヤしながら言った。

「でも、ニコニコしてたのか?」

 その言葉にタキオンは照れるというよりも、むしろ、面白がって田上の方を見つめた。

「んん?勿論、ニコニコはしてたけど、…そんなに興味があるのかな?」

 そう言われると、田上は少し目を泳がせてから「別に」と答えた。

 そこで、話は一旦終わったが、その後すぐにタキオンが言った。

「トレーナー君立って。もう一度着けてあげよう」

「いいよ。遠慮しとく。自分でできるよ」

 田上が少し嫌がると、タキオンは「なら、やってみたまえよ」とネックレスを手渡してきたから、田上はそれを持って首にかけると、手を後ろの方に回して留め金をごそごそとし始めた。しかし、そこはやっぱり不器用な田上だった。幾らやってもしっかりと留め金を着けることができずに四苦八苦した後、「ほら、私がやるから」というタキオンの言葉に従って、彼女のなすが儘にされた。この時、田上は椅子に座ったままだったので、先程よりもタキオンの体が田上の顔に覆いかぶさるような位置にあった。その為少し彼女らしい匂いが田上の鼻をくすぐったので、思わず息を止めた。タキオンは、そんな事には構わずに田上の首の後ろまで自分の顔を持って行き、ネックレスの留め金がどうなっているのか丹念に調べながら、田上の首にまたネックレスを掛けてあげた。そして、その作業が終わり、タキオンが再び田上の前に立ってそのネックレスを見つめてみると、「うん、いい出来だ」と言って頷いた。それから、タキオンは田上の膝の上に座ろうとしてきたので、田上は慌てて止めた。

「なんで座ろうとしてくるんだ」とぎょっとして聞いた田上だったが、タキオンは、まさかそんな顔をされるとは思わなかったので、こちらも少しショックを受けたような顔をして言った。

「え、だって、ここはトレーナー室だろ?別に、私たちも彼女を膝の上に乗せて恥ずかしがるような間柄じゃないだろ?」

「いや、…恥ずかしいよ。それに、俺の膝に座ったって何にもならないぞ」

「…まぁ、それもそうだ。でも、もっと君と居たい」

 そう言ったところで、また授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。今度は、タキオンも少し鬱陶しそうに時計の針を見つめた。それから、田上の方に向き直るとまた言った。

「もう授業をサボろうかな」

「行けよ。サボるのは良くないぞ」

「そう言って、君は、私が研究をしていた頃はあんまり何も言わなかっただろ?たまに、トレーナー室に入り浸る事もあった。でも、君は何も言わなかっただろ?」

「そりゃ、あの時はどうせ言っても聞かなかっただろ?」

「いや、聞いていたかもしれないよ?」

「それは知らないけど、今は聞いてくれないのか?…研究もしていないんだし、行ったらどうだ?」

「研究は始めようと思ってるよ」

 そう言いながら、タキオンは長机の方から椅子を引っ張ってきて、田上の前まで持ってくると、その椅子に座った。それを、田上は少し眉を寄せて眺めていたが、タキオンとの会話は続けた。

「何を研究しようかな、と思っている所さ。君の事をもっと知りたいから、何か時間を戻す、そうでなくても、あの時を呼び起こす薬を作れないものかな~と思っているんだよ。…ああ、それに、君はあの約束は覚えているだろ?」

「あの約束?」

「大阪杯に勝てばお弁当を作ってあげる約束だよ」

「…あれは、確か、勝たなくても作ってあげるって約束じゃなかったか?」

「あれ?そうだったかな?……まぁ、どっちにしろ、作って、と言うより、君と一緒に作りたい。私に料理を教えてくれよ」

「料理?別に、教える程大それた事はしてないよ?レシピ見て、勝手に作ればいいだけだし」

「じゃあ、君と一緒に作りたい。どうせ、花嫁修業もしないといけないんだ。君と同棲を始めるまでに何回か料理を作っておきたい」

 この同棲、という言葉に田上は少し動揺したが、あまり表には出さないでタキオンの言葉に答えた。

「同棲って言っても、お前、もしそこまで行けたらどうするつもりなんだ?働く?」

「働く?…いや、子供を作れば…忙しいのかな?」

 タキオンは少し恥じらいを持ってその言葉を言ったが、これには田上は気にしなかった。

「同棲してすぐに子供を作るのか?タイミングはあるだろ?」

「ああ、それもあるね…。…どうしようか?」

 それは、田上にも少し酷な質問で、本人としても明言はなるべくしたくはなく、曖昧に答えた。

「まぁ、同棲までまだまだあるし、その途中で何が起こるか分からないし、……お前は、今は授業に出ないといけないんじゃないのか?」

「いいよいいよ。授業なんていつでも出れるさ。今はもっと君と一緒に話したいんだ」

「お前、俺は、口説けば落ちる男じゃないぞ。さっさと授業に出ろ」

「でも、君は出す術を持たないんじゃないのかな?」

「出なさい。帰ってきたら、何でも話すから」

「ええーー、それじゃあ授業中がつまらないじゃないか。ある程度サボっても大丈夫なんだよ?もっと話そうじゃないか」

「社会性を営みなさい。これから、人の親として暮らす未来があるのならば、社会性は必要だ。ある程度の規範に沿えるような人間になりなさい」

 田上に言い包められたような気がして少し不満だったが、その言う事に一理はあるので、タキオンは渋々ながらも頷いて、それでも田上と一緒に居たかったので、クラスの前までついてきてくれるように頼みこんだ。これは、田上にも少し困った。学校の授業はもう始まってしまっているので、廊下は全く人気のない状態だ。そんな中を歩けば、それぞれの教室の中から注目を集めることはな間違いないだろう。さすがにそんな中でタキオンも田上も手を繋ぐ予定はないので、間違っても恋人同士だとは思われないだろうけど、それでも、注目を浴びるのは田上の好みじゃなかった。けれど、タキオンの要望を押し通せない程の意地でもなかったので、田上は仕方なくタキオンの横を連れ添って行った。たまに、タキオンがその癖からか田上の手を繋ぎたそうに触ってくることがあったが、田上はそれを無視したし、タキオンもその後すぐに慌てて手を引っ込めていた。タキオンの授業を受けるクラスの手前まで来ると、二人は小声で「ばいばい、圭一君」「いってらっしゃい、タキオン」と囁き合ってから、小さく手を振るとそれぞれ別れた。その際に、教室の廊下側の席にいた子の一人の中に、先程の休み時間にトレーナー室に来た、タキオンの友達の内の一人が居て、その子と目が合った。その目は、面白くて可笑しい物を見たかのように、ニコニコと笑っていた。



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