「あむ……」
これまでずっとボクは……いや。それまでずっとの方が正しいか。
ボクには信じているものがあった。あったんだ。そう、過去形で。
「はぐ……」
ボクには前に出るだけの才能と賢さと華やかさがあるってことを、心底から。信じて疑わなかったんだ、誰も否定しなかったってのもあるだろうけど。まあたぶん、いわゆるところの才能ってやつがあったんだ、ボクには。努力の必要とか練習の大事さとかは前提条件としてあるにせよ、ボクがやることなすことは大体全部上手くいった。それをパパやママ、友達に先生が応援してくれたりするもんだから、楽しさや嬉しさが相乗効果になっていってさ。前向きに取り組んでいたんだ、さまざまなことに。走って踊って歌って学んで。その都度褒められていくたびに自分の価値を自覚した。
「ん~……」
才能のあるものこそ、檜舞台に上がらねばならないのよ。親戚のおばさんがいつかに言ってくれたある種のおまじないが、ずっとずっと心の中の大事なところに突き刺さっている。物事に絶対はない、だからこそ勝ち方を極めたい。尊敬する会長がどこかのインタビューで語っていた言葉は、ボクを成り立たせる土台の基部に組み込まれている。
結果ってのはどこまでも冷酷なヤツで、事実だけしか教えてくれないものだ。その代わりとしてなのか、結果如何ではあるけれど勝者には必ず権利が、実力を誇るための機会と大義名分が与えられる。だからボクは結果さえ伴えば大口を叩くのは構わない、むしろそうするべきだとさえ思っている。
「……はぁむ……」
だけど、守りごともある。増長だけは決してしない。慢心はいつかボクの足を引く。王子様を気取りながら冷静に周りを俯瞰して、自分の明日を主観する。いつでも最高の勝者であれるように、ボクはボクを戒め続ける。けれど、そこまで徹底していてもなお。レースに付き物な仄暗いモノたちは、ボクの想いを知ることもなく、土足でもってずかずかと入り込み、ボクの心を踏み荒らす。
「あぐっ……」
不調、思うように伸びない足、痛み、嫌な軋みがふくらはぎを貫く、ああ、またやっちゃったらしい。信じていた拠り所が形を失い崩れていく。胸のあいだから抜け出ていく複雑な想い、熱く熱く燃えようとする魂はやがて体力を失って、溜め息じゃなく褪せた涙になって外側へ出ていく。才能の山を抱えながら、一年。一年、かれこれもう長い時間が経つ。そうさ、前は向けているけれど、ボク自身が持ち得ていた、水の豊かな入り江はもう涸れた。その代わりに、ボクは別の源泉を手にしていた。
「おいしい、テイオーちゃん」
噛まれた腕から透明な糸が引く。肺と舌がつくりだした熱っぽい文字列が、肘の裏側をなまめかしく這いずり回る。一秒と半分遅れて奥歯を噛み締める。
「……マヤノ」
手入れも忘れられたような学園の一角、古びた資料と煙たい埃で山積みになったこの倉庫内で、ボクは。世間が騒ぐほど愛ってものは晴れ間にないことを、躾のなっていない犬みたく腕に噛みついてくるマヤノから知る。
「うう~……」
今の呻きはボクのじゃない。マヤノが立てる喜びの吐息。ボクが痛がってるのを分かってるくせに、この子の目はずっと嬉しそうなままだ。比喩でもなんでもなく分かる、ボクの目の前で尻尾が揺れているから。ふんふんとカワイクも荒い鼻息が、腕の産毛にまで伝わってくるから。腕から痛みがずれる。親指の付け根に臼歯が挟まり、続いて犬歯が突き刺さる。鈍くて新鮮な痛みが、色んなところで脈打っている。血は出ない。まだ出ていない。思うにボクらはまだ冷静らしい、加減と程度は出来ている、らしい。あくまで自分の認識でしか無いから、不確かな推量でしか物事を紡げない。そういうのってすこぶる不便だと思えてならなくて、身体がまた少し強張る。
「ここもっ……」
マヤノの好物は腕と肩、あとふくらはぎ。好き嫌いってのはどんなものにも存在しているらしくて、なんでかボクのからだも同じだそうだ。ここは美味しい、この場所は固い、あの辺は苦い、とか。現在進行形で噛まれている二の腕は曰く、マンダリンオレンジみたいな甘酸っぱい味がする、らしい。よく分からないけど。
「ぐっ、う……」
シトラスの香りなんて一つもしない腕を噛まれて、ちょっとだけ視界がうるむ。ボクらは腐ってもウマ娘だ。諸所にあふれる力の全部が、フツーのヒトを遥かに上回っている。肌も肉も柔くてもろい。噛み切れる脂身を弄ぶような雰囲気と感覚で、二度三度にわたって甘く痛烈に噛まれるのは、その、まだちょっと怖い。
「まぁだ……」
「……はい、マヤノっ! もーおしまい!」
いつもの感覚が背中の筋にほとばしる。これ以上は、あの、上手く表現できないんだけど、その。なんとなく良く、ない。恐怖映像を想像したタイミングで、マヤノの耳近く、藤色がきれいな冬服の二の腕あたりを強めに叩く。
「もっと……だめ?」
ハニーシロップじみた、とろんとした瞳で首を傾げられたって、ボクの意志はわずかにも揺らがない。頬を膨らますマヤノを押しのけて、ボクはまくり上げていた袖を元に戻す。
「だめ。授業遅れちゃうよ?」
本業の合間に過ごす蜜月。うーん……蜜月なのかな、これって。誰に聞いているのかも分からない疑問は、結局答えられることもなく。積み上げられた古い本とわら半紙の隙間に逃げ込んでいく。ポケットからコンパクトを取り出して、リボンとか諸々がズレていないかを確認する。よし、大丈夫。スカートに付いた埃を払って、パイプ椅子に座るマヤノへと手を差し伸べる。するとこの子は、ちっちゃい子がイヤイヤするみたいに頭を振って、恨みがましげな瞳をボクに向ける。
「やーだぁ……」
「こらっ、もうさせてあげないよ?」
いつもこんな感じだからもう慣れた。諦めてボクの手を取るまで、換気用なのか明り取り用なのか分からない、天井近くの窓へと目をやる。背の高い樹木の、枯れかけたような色に染まった葉っぱが見える。楽しい夏はいつの間にか過ぎてて、美味しい秋も気付けば終わっていた。来たんだ、ジャパンカップも終わって、有マがすぐ目の前に迫ってきた、冬が。衣替えも終わったとはいえ、長袖をまくれないのは結構ツラい。授業中とか暑いんだよね、割と。弊害は体育とかトレーニングとかでも起きている、汗かいてもジャージ脱ぎたくなってもさ、気楽にシャツ一枚になれないんだ。あーあ、良く分からない運命のいたずらに茹だっちゃいそうだ。
「だってえ……」
でも一番の問題はボクにある。イヤイヤを示すように尻尾を振られたって困る。そう、ボクは困っている、だけ。止めてとも嫌だとも告げられて居ない。袖に縋ろうとするマヤノをぺいっ、と追い払ったらボクは立ち上がる。それからマヤノに向かって手を差し伸べた、今日はまだ噛まれていない方を。
「わかった?」
甘えようとするとき、マヤノはいつもよりもだいぶ幼くなる。いつもの立ち居振る舞いを忘れたような緩みっぷりはなんというか、おっきな妹って感じだ。ボクが立てばマヤノの意識も切り替わる。歯を立てるんじゃなく、手を取ってすっくと立ち上がる。まあ、ものすごく不満げな表情で、だけど。
「ほら、お直しするよ。ここずれてるなあ……動かないでね」
「……テイオーちゃんってマメだよね?」
「そう? これぐらいフツーでしょ?」
服についた埃を払い、歪みの付け足されたリボンを正常な位置に戻してやる。
「マヤノだって身だしなみには気を遣ってるじゃん」
「んー……まあそんな感じ、かなぁ?」
「はは、なんで自信無さ気なのさ。よし、おっけー! 大丈夫だよー」
「ありがとー、後ろ、マヤもやったげるね!」
「はーい、お願いしちゃうね」
自分じゃ見えないスカートの裏、背中のあたりとかを叩いて貰いながら。手持ち無沙汰なボクは、焦れたような痛みの残る自分の手、いいやネイルのあたりに視線をやった。どう隠したらいいだろう。漫画のキャラよろしくでハンカチでも巻いてみようかな。いや、流石に怪しすぎるかな。
「はいっ、服装チェックよし! カクニン、おねがいしまーす!」
「ふんふん……うん、大丈夫。ありがとね、じゃ行こっか?」
隠しきれない場所に付けられた刻印を擦りながら、ボクらは秘密の部屋を後にした。そうだなあ、傷痕には湿布かガーゼでも貼っておこうか。些細な怪我っぽく装っておけば、手袋をしたり包帯を巻くよりは誤魔化しが効くはず、突っ込まれにくいだろう。それにいつも通りなら、痛みが引くころには肉の弾力によって痕は無くなっている、はずだから。ティーンの肉体、ポテンシャルにお祈りしよう。お昼休みまであと一時間と半くらい、授業はあと一コマある。それぐらいあれば、きっとボクは元通りに戻る、はずだけど。二時間ちょっとも満たないうちに、この傷痕がバレてしまわないかってことだけには、いつも通りほんの少し不安があった。
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2.Peter Pan Syndrome
別に何か特別な理由があったわけじゃないって思うんだ。
秘め事にせざるを得ない奇癖のやり取りが始まったことについては。
転換点、ターニングポイント。そういう手合いなやつはたぶん、こそこそ忍び寄るように訪れていて、そいつらがボクに見えたのが一年とちょっと前、クラシックの中頃ぐらいだった。あの頃のボクには色々と考えなきゃいけないことが多過ぎて、正直余裕があまりなかった。でも、そんなときに。そんなときだからこそ突き刺さったんだろうけど、本当に何でもないようなタイミングで、マヤノがボクの腕を揺すった。
「なあに、マヤノー?」
「テイオーちゃん、親指、かませて?」
「……へ?」
ニンゲン、あまりにも世界の違うことを言われると思考が停止してしまうらしい。ベッドに腰かけながら小説を読んでいたときボクは、マヤノから突然そんなことを告白された。聞いたとき確かボクたちの部屋には、カフェっぽい落ち着いた曲が流れていたはずだけど、ほんとうにしーんとなったんだ。
音のない世界を経験してから、いくら経っただろう。ええと、三百六十五掛ける二十四は、八千とんで七百六十。それだけの時間が経ったようだけど忘れやしない、忘れられない。あんまりにもセンセーショナル過ぎて、一万を臨むような時間が経ってもなお鮮明に克明に思い出せる、この続きだってそう。素っ頓狂な声を上げて固まるボクを無視してマヤノは続けた。
「なんかね、なんか、えと……その……そう、分かる気がするの!」
「ん~……へえ……?」
「もーっ! テイオーちゃんマジメに聞いてるうっ?!」
「いや聞いてるけどさあ……流石にヤダよ?」
ボクからのにべもない却下に、マヤノは目を大なり小なりみたいな形にしてぷんすか怒っている。にしてもなんというか。こんなに突拍子もない子だったっけ、ボクのルームメイトって。言い方が悪くなっちゃうけど、マヤノは別に頭の悪い子なんかじゃない、むしろ逆。フィーリング主体ではあっても、ロジックを突き詰めて答えに向かうタイプじゃないとしても。地頭は同年代の子に比べて一歩も二歩も先を行っている子だ。
「分かるって何が……?」
「だから、分かるったら分かるのー!」
人となりをある程度理解しているが故に、ぶつけられている理不尽な怒りに戸惑う。女の子を好きになるって気持ち自体は、正直な話トレセン学園じゃ珍しくもないってのがホンネなところ。そう、ここはトレセン学園。選ばれたウマ娘たちだけが通える実質的な女子校だ。だから同年代の男の子なんていないし、密接な関係になるとしたら……担当になってくれたトレーナーとか、外部からの講師とか、学校の先生くらいなもん。あとは幼馴染とかそういうところじゃないかな。ノーマルよりアブノーマルが先行バとして存在するような、変な話危うい場所だから、いつか誰かがキューピッドの矢を放ってきてもおかしくはないって。理解はしていた、頭では。
「こうすればいいって、そんな気がするの、マヤには」
どきりとした、微妙に。物事の本質を貫くための、真面目な顔が真正面からボクを捉えた。はあ仕方ない、こうなったらテコでも動かない子だ。諦めを乗せた溜め息を吐いて、二、三瞬きして生命に覚悟を示したら、不条理を引きずる余地がボクの中からつゆと消えた。
「……一回だけ、ね?」
お姫様が騎士に手を差し出すように。手の甲をそっと彼女の口元に近づける。骨に届く、肉に割り込む音。表現すると笑っちゃいそうな、濁音まみれの擬音。悦にでも入るような痛烈な刺激がボクを貫いたのも今や昔――
「――トレーナー、どう?」
「うーん、少し落ちてるかも。ちょっと内容見直してみるね、十五分休憩で」
こくんと頷き、手にしたスポドリを喉に流し込む。薄くて苦あまい、そのくせ浸透するのだけは早い。
「やっぱり苦手だなあ」
「なんかね、一応はちみーっぽい味のスポドリとかもあるらしいよ。そっちに……あはは、ごめん。やめとくね」
相当不満げに聞こえたんだろう、たぶん。トレーナーの口元でからかい上手ないたずら悪魔が、意気揚々と飛び跳ねてすぐ消える。
「はあ、まあいいや。マヤノー、今日は慣らしの並走、よろしくね」
「こちらこそ! 気抜いたらマヤ、勝っちゃうからね~?」
不敵な笑みを浮かべ、横髪あたりにピースサインを添えて。マヤノはそう宣言した。これまで特に違和感なく受け入れてきたものが、何故だかいま明確な異物となって喉の入り口でつっかえた。
「……ちょっとおトイレ行ってくるね、トレーナー」
「はいはい、行ってらっしゃい」
ノートに目を落としたトレーナーを確認したら、ストレッチをしていたマヤノに小声で話しかける。
「……ちょっといい?」
「……うん、いいよ?」
悟ったような目つきへと変わったマヤノの手を引き、練習場を離れる。もやもやが消えない。ああ、誰か教えてよ。ここは祭壇ってヤツなんだろうか。何かを捧げて祈って、満足するためにあるだけの場所なんだろうか。きっと違う、でも違う理由はまだ分からない。理解できない憤懣を、抑えきれない衝動で打ち消す。マヤノはきっと言わずとも分かってる、あの顔は間違いなくその感傷をボクに伝えてくれた。
戦うための場を二人で抜け出して、優しい温もりで満たされているだろう逃げ道へ身体を動かす。練習場の隅に置かれたトイレへ向かい、着いたら即座に彼女を個室へと追いやって、一人きりにしないようにボクも雪崩れ込む。
「テイオーちゃん?」
「うん……」
「噛んでほしいの?」
「……うん」
くぐもった頷きだけを渡して、ボクは無言を貫く。うんの後は頷きもしない、一言だって発さない。だけどそれで、それだけすべて理解してくれる。ボクとマヤノは既に『そういう』関係になれていた。
親指から始まったはずの秘め事は、いつしかボクのからだ全部に波及している。何者にもなれないボクらが起こす、色付かない透明な嵐は、狭い個室の中でも一切構わず吹き荒れる。嵐のもとに噛み付かれた瞬間、自分にわからない激情が全身に満ちていって、内側で淀んでいたすべてを掃き散らしてくれる。ホント便利だよね、からだって。
「マヤノ、ドラキュラみたい」
奪われていないボクの片手が飽いているから、さらさらした手触りの、綺麗な橙の小振りな頭を撫でてやった。手櫛で梳いてあげるついでに、マヤノのつむじをマッサージする。くすぐったそうに身体をよじらせる姿がなんだか面白くて、つい、とうなじから首筋までをなぞってしまう。
「ひゃっ……!」
「わっ、ごめん」
「やめてよもぉ、えっち」
ぽっ、バカなこと言って頬を赤らめるマヤノの頭をはたく。
「いったーい!」
「じゃあ、走りにもどろっか」
「もぅ、テイオーちゃんのいけず」
「はいはい、そうだね」
ぷんすかするマヤノを一蹴したらポケットをまさぐり、日常に戻るためのふきんを探す。用意は周到に行うべきものだから、練習着にだって当然忍ばせてある。いざというときのために常備した、ぺらぺらのおしぼりを探り当てる。開いて取り出して傷口をぐっと拭い取る。甘いしびれに満たされた、感じ慣れた傷の痛みが、足首のあたりに縛鎖となって絡みつき、天からボクを引きずり落とす。
「テイオーちゃん」
「うん、何?」
どんな問いかけになるか、想像するまでもなかった。マヤノの表情がすべてを悟らせてくれた。
調整に調整を重ねた、長い一年の最後。
「有マ、大丈夫そう……?」
行けるはずと踏んで決めた輝かしい復帰戦、それがもうすぐ訪れる有マ。
「……あははっ、ボクはテイオーさまだよ? トーゼン、大丈夫!」
胸を張って、そう答えて。心の奥がしくしく痛む。
「心配しないでよ、マヤノ。ありがとね!」
虚勢じゃないのかな、いまのぜんぶ。心配そうにボクを見つめるマヤノの、茶色に明るい頭をわしゃわしゃと撫でてあげる。多分それだけでこの子は理解する、内心に抱えるボクの不安を。
「でも……そうだなあ、ボク……」
有マ、本当にこのままで……
勝ちを目指して行けるのかな……ボクは。
「……練習終わったら、マヤ。また噛んでもいい?」
「うん……いいよ」
そうこぼしてしまったら、頭の中で描くだけだった物語が形になってしまいそうでこわい。それに不安を眉に載せてしまうとボクはまた甘えてしまうから。噛むことと噛まれることを拠り所にして現実から逃避する。そう、今はただひたすらに。支配されたいわけじゃないって思い続けるよりほかに。ボクにやれることは悲しいけれど、走ることぐらいしか有りはしなかった。
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3.にげかた
練習が終わった。一日が終わった。明くる日が始まり、また一日が終わったなら、有マはもうほど近い。蹄鉄の鳴る音、ボクに近づいてくる有マの足音が聞こえる。雌伏の終わりが近い。終点に近づいていく列車の悲鳴が鳴り響いている。あと、一週間程度時間が経てば、復活するために励んできたすべてを、ぶつけるための舞台が始まってしまう。
「……あーむっ」
「……いった!」
譲りたくない夢の戦いが目前に来てなお、ボクらのやり取りはついぞ変わらない。ボクらだけの寮室に鍵をかけて今日も秘め事に興じている。
「こら、もー……」
「えへへ……」
「ワザとやったでしょ。血出ちゃうよ」
本気で顔をしかめたボクに対して、悪びれる様子もなく。
「テイオーちゃんもかんでみる?」
いつもと同じくらいの小悪魔っぽい瞳の色で、唾液に濡れた艶めくリップで、ボクに囁く。
「ボク……? ボクは……」
顎に手を当て少しだけ考えてみる。噛めるのかな、ボクは。当然の疑問を消化するために脳みそを回して、すぐ答えに辿り着く。
「……やめとくかな」
ボクがマヤノを噛むことはまだ出来ない。ボクが携えた牙で噛み付いてしまえば、確実性のあるキリングバイトに成り得てしまう、そんな気がする、
「えー、ちょっとザンネン……」
ほっと息を吐いて苦笑いする。マヤノを噛むことはやっぱり、出来そうにない。噛めば何かを失うような、殺してしまうような気がするって、そんなところまでしか自己解釈が進んでいない。噛むということ。そこに理性だとか理由だとかを付加させて、もっともらしい意味を捻り出すことが出来ていない。
「テイオーちゃん、なんでだめなの?」
「んー……なんかりんご味しそうだから?」
差し出された首筋を押し退けて、枕を抱き締めるように壁を向く。
「えー、べつにいいにおいなのになあ。テイオーちゃんが教えてくれたやつなのに、キライなの? グリーンアップルのスキンミルク」
「まあイヤじゃないけどさ、それじゃ味わかんないじゃん」
程度のいいマッサージに思えるようなぽかぽかなんて殴り付けに、くすぐったいものと仄暗いものを覚えてしまう。傷にならない痛めつけは、気付かれないように息を吐いて、自虐する。ボクは噛まれることに快感を覚えている、のかな。純粋培養されてきたはずの女の子にあるまじき思考の帰結、だと思うけど。増えていく生傷を確かめる余裕すらなく時間だけが過ぎていくと、色々と凝り固まるんだ。それでも、最後のラインだけは越えてはいけないって。ボクは心底から思えている、まだ。それだけは救いだと思い込めている。
「においで打ち消されちゃうんだから、食べたってわかんないよ」
「じゃあ……」
思い込めている、はずなのに。
「……マヤノ?」
とさり。音がするかしないか、はっきりしないぐらいの強さで。腰掛けていたはずのベッドに押し倒される。機嫌の悪い猫みたいにボクの体に手と足をついて。動けないように胸とお腹をおさえて、憂いのある瞳で心に訴えかけながら。
「本当に味がしないかどうか、試してみよーよ」
「ちょっと、マヤノ……やめてって、あはは、冗談になってないってば!」
「冗談じゃないもん」
「……え?」
逃げのために用意した笑みが、本気に抵抗できずに死んでいく。
「マヤのこと、すき?」
そんな日に限ってマヤノは、ボクの心への距離を詰めてくる。差し込むように、レースみたいに、逡巡のひとつも許さない速度で。
「どうしたのさ、急に?」
ボクは優し気な微笑みを顔に貼り付けて抵抗を試みる。
「だって、イヤじゃないんでしょ?」
でも、マヤノはおかまいなし。弱気に拒んでも無駄だと言わんばかりの、獲物を前にした爬虫類の瞳でボクをみつめる。
「ねえ、こたえて……?」
深い戸惑いに論理的な思考が勝てない。
「マヤのこと、好き……?」
教えてもらわなきゃ理解できそうにない、女の子の感情を叩き付けられて。息の出来なさに喘ぐばかり。
「マヤ、ノ……」
うごけない、うごけないから。受け入れるしか残されてない。
「テイオーちゃん……」
感覚神経をちりばめた、はなぶさの一部を。
「もらっちゃうね……」
噛もうと、食べようと、ボクらという二人の関係を終わらそうと、唇の奥の犬歯が近づく。
ああ、ボクにとってそれが、たぶん初めてのキス。そんなものになろうとしている。
ふれたもの、みえたもの、ふれてしまったもの、みえてしまったもの。
なにもかもすべてが水色に透明で、ビビッドをパステルに変えていく。
掛け合わされて混ざり合って。これまでが色を変えてゆくなかでボクは。
ゆめかうつつかわからぬままに、かつてのボクを想起しようとして。
「むり、しないでね……」
受け入れそうになったそこで、たったそれだけのいたわりを聞いて――
「……やっ」
温度と質感に触れかけた瞬間、ボクは。
「えっ……」
決して強くはない力でマヤノを突き飛ばして。
「ダメ……」
散りかけた好きな花、ボクの好きなアザミの花を。
控え目に、例えようもなく、守り抜く。
「ダメだよ」
薄桃色に染まった、夜間際の目つきから感じる。
あなたのことが、すき。
「ちがう」
肺の底から呼び出された、重たい息の温度から感じる。
あなたのことを、あいしてる。
「違うよ」
違う、違う、全部違う。噛み合わないんだ、その全部が。ボクの思考と、マヤノの判断がてんで噛み合わない。信じてきたものじゃない、したくてするキスじゃない、こんなものボクは知らない。
「ダメ」
否定を並べ立てるたび、つややかだったはずの心が泥に塗れていく。
「ダメだよ、マヤノ」
マヤノのボクにしか、いいやボクにも判別出来ない煩悶を、どこにも放出できないまま、何が何かを掴めないまま。勢いよく部屋を出るなんてこともなく、苛烈に引き留められることもなく。気付けばボクは極めて静かにその場から逃げ出していた。
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4.Destination Nowhere
「はっはっは……」
着の身着のままの状態で、冬の空気を裂くように二十数キロの速度で走る。生まれて初めてのことだ、こんな深夜に一人きりで逃げ出して、きらめく夜空の星を眺めるだなんて。消灯以降の無断外出。バレたら反省文どころじゃ済まないけど、やってしまった以上過去のことだから、必要以上に苦しんだって損だ。身体が外に出てしまったついでとしてボクは、お気に入りのランニングコースを流している。十数分は軽く走っただろうか、うっすらと汗ばみ、学園と寮の姿がすっかり見えなくなったあたりで周りを見渡した。
ふしぎだ、深夜の遊歩道は極端なまでにリアルから置き去られていて、驚くほど居心地がいい。どこにも居場所のない人間を、抱き締めてくれるためだけに存在してるかのようにすら感じさせる。悲しみに結び付いた嬉しさが消せない。無造作に設置されたベンチに腰掛け、ボクは冷静に自分を見つめ始めた。背もたれに身体を預けながら、だらしない恰好で空を見上げる。
もしかしてを空に投げて、返ってくるのは自問自答だ。
ついに子供をやめるときがきたってことなの?
でも子供を辞められたからってすぐさま大人になれるものなの?
そもそもアレはほんとうのことなの?
ほんとうなんだとしたら、ボクはキミに何をすべきなの?
「責任……」
ツーバイフォーの日本語を闇夜の草影に投げ捨てる。バカだ、投げたって仕方ない。一時しのぎにもなりゃしない、無駄だらけの行為だってわかってるのに。ボクがボクである以上、この問いかけは捨ててもまた拾わなくちゃいけない、必ず解かなきゃいけない難題だって理解してるのに。だってそうでしょ、目前にある結論を放り出して、現実に起こったことから目を逸らしてのうのうと生きるなんて、哲学でもなんでもなく率直に死んだも同じ話なんだから。ポケットに放り込んでいたスマホを取り出し、電源ボタンに触れる。点る画面の数列、時間はもう一時が近い。あとメッセージの通知が数件。はあ、にしたって、帰ってから何を言えば良いんだろう。ごめんね、ボクが悪かったよ、傷ついてないかな。許されたいわけでもないのに、頭の中では謝るための言葉がたくさん浮かび上がってくる。
「てゆーか……」
噛まれるのはいいのに、キスされるのは嫌だなんて。なんだか変な話だと思う。食べられてしまうより、奪われてしまう方がこわいだなんて、理由にならないというか。考えようによらなくても、虫が良すぎるんだ。からだを噛んでもらうっていう、キスより危ない橋を既にわたっているのに。そのへんのふわっとした感情に、ボクは上手くカタチをあげられていないから。たぶんだけど、このタイミングで考えたって無駄なんだろう。
「ボクらは……」
どうあるべきなんだろう、やっぱりその一点に何もかもが収束する。ただの友達として受け入れられる範疇なんてとうの昔に越してしまっているし、だからといって今更イロとテとシナを変え関係性を刷新しても、そんなことにどれだけの意味があるのか分からない。
キスをすれば変わるのかな?
キスを断れば終わるのかな?
たぶん、たぶんそんなことは無いんだろう。二人して自分に納得できないと一生このままの関係性から離れられない。噛むことをキスにすり替えても、ボクらの世界は何も変わらない、死ぬまで夢を見続けたままだ。
「帰らなきゃ」
バカだけどさ、言うだけならタダなんだ。本当はまだ帰りたくない。朝になっても帰れるか分からない。考えても考えても、マヤノが見せてくるあの景色に、ボクは答えを返せそうにない。
マヤノ、キミはどうして。ボクを噛みながら無理をするなと囁くの。無理ならとうにしてるのに。気付かないほど鈍感なキミじゃないのに。どうして、ボクを噛もうと思ったの。どうして、どうしてなの。自問自答しか出来ないボクは自分の手を見た。傷痕は無い。無傷で透明の肌色が頼りない夜の明かりに照らされているばかりだ。
「あ……ぐ……」
思考を巡らせるより早く噛み付いて、自分で与えた痛みに目が潤む。痛い、美味しくない、何が甘いんだこんな肉の塊のどこが、良いって言うんだ、マヤノは。親指の付け根から歯をはずすと、残した傷痕には血が滲んでいた。痛いだけの傷、快感のない痛みだけの傷。そうだ、マヤノは。なんで、一年前に。突然点と線が繋がり出す。そういえば、これまでずっと考えてなかった。そうだ、どうして。
どうして、マヤノはボクのことを噛もうと。そう、思ったんだろう。
「……ただいま」
「あっ……テイ……!」
誰にもバレないよう慎重に部屋へと戻ってきてすぐ、マヤノはボクに近寄ってこようとした。でも、ボクはどうしたらいいか分からなくて、視線を彷徨わせて、謝ることもできず、呼吸もままならなくて、あえぐ前に息を止めた。
「ゴメンね。マヤノ、ただいま。寝よ?」
「うん……」
二つ三つ言葉を交わして、汗の始末だけを軽く済ませたら。ボクはベッドに身を預ける。刺さる視線に背を向けて、掛け布団を羽織り目を閉じる。言葉で交わせない感情って、こんなに始末に負えないものなんだなあ。明日、起きたら。どんな顔してマヤノにおはようって言えばいいだろう。どうして、ボクはこんななんだろう。自信に満ちていたボクはどこへ行ったのかな。らしくないやりきれないや、考えることが多すぎるよもう、イヤになっちゃう。
そうしていつの間にか眠りについて、レム睡眠の合間に色彩の薄い、淡い、淡い夢を見る。ボクは海の真ん中に沈んでいて、ただ落ちていくばかりで、一つだって浮上することはない。だけど、手を伸ばし続けている。上に、かすかな光の見える上の方に。てんで意味のないことだって分かっていてなお、届きもしない空に向かって手を伸ばし続ける、ただそれだけの夢を。
息が出来ないことはない。だってボクは魚のようなものだ。水の中から酸素を取り込み、自分の身体に転化できる。逆説的に陸では生きられない存在で、塩水の中だけに生を見出すことが出来ると信じている、みたいだった。
信じているみたいだなんて曖昧なことしか言えないのは、ボクが多分ひとだからだ。もっと正しく説明するなら、ボクが女の子だからだ。ひとは、女の子は、息ができなきゃ生きてけない。真実は曖昧に溶けていき、瞬き一つに連なってその色を変える。ああ、そろそろ目覚めが近いっぽいや、そんな気がする。
起きる前にすこし。愚痴を言わせてよ自分自身に。仮にボクが、キミに噛まれることに命を感じて、その反応だけを糧に今を過ごしているのなら。
ボクのこの気持ちは誰のもの?
ねえ、マヤノ。
わかってるならおしえてよ。
すきって、いったいなんのこと?
『ごめんね……』
ボクが問いかけただけなんだから謝らないで、そう言葉にしようとしたとき、ふと嗅ぎ慣れた香りがした、ような気がした。ボクのほっぺた、少しだけ骨の浮いた場所にぱちぱち、瞳を何回か瞬いてみると、寝ぼけ眼は朝焼けにかすむ。ああ、考えてるうちに寝ちゃってたんだ、ボク。肩口の温もりを確かめようと軽く首を傾ける。布団がはだけてしまった部分に、ボクのじゃないタータンチェックのブランケットが、カラダを労るように掛けられていた。
ああ、じゃあさっきのはぜんぶ夢、かあ。なんだか、ちょっとだけ疲れるなあ。だとしたらまあ、きっと。魔が差したってやつなんだろう。でも、一応確認しておかなきゃ。夢だとすればボクの妄想に過ぎないはず、まどろみが作った幻に過ぎないはずだもん。
仮定と理想に縋りつきながらボクは、キミの姿が見えるように寝返りを打つ。律動的な寝息を立てるマヤノの、ほのかに日焼けが残る頬を眺めながら。ボクはかすかに残る感触の方へと指を寄せて。目尻と頬の真ん中あたり、辿り着いた唇のあとを、ぱちぱちと。指の腹でもって小鳥のようについばむ。確かめに確かめきったら、指先を滑らせて鼻先に持っていき、くん、と息を吸えば。ふわり、マヤノの好きな乳液の香りが、わずかにかすかにだけどやっぱり確かに漂った。桃色にシトラスが滲むような香りが、そうきっと。マヤノにしてみればボクだけのものなはずの場所から。いい匂いなのに不思議なもので、なんだか嫌いになれそうだった。
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5.うつろう
ぎこちないままの朝が明けて、午前中だけの授業が終わって。レースのためトレーニングに励んでいたら、よそ事なんか考える暇もなく時間は過ぎる。追い込みを掛けなきゃいけない時期だけど、今日はいつもより早上がりだ。トレーナーはそういう機微にすごく敏い。流石大人だって思うけど、どうにも素直に喜べないのが本音ではある。
だってマストが早く済んだって、そもぎくしゃくってのは時間じゃ解決できないものだ。わだかまりってのは話し合ってようやく溶かしてやれるものだ。現実問題としてボクたちは、話し合うことすら出来ていない。故に何も変わってはいない。唇を奪われかけたあの時から、凍ってしまったんだ。
唇を這わせたのなんて昨日の夜のことだってのに。まだ、いまだに感覚が触れ合った場所に残り続けている。あの出来事に脳の一角が占有され続けたまんまだ、寝ぼけなんかのごく一般的なものとは違うものによって。
時計の進み具合はええと、昼ご飯はとうに過ぎたけど、晩ご飯まではだいぶありそうな感じ。首元で留めたフェイスタオルで汗を拭う。冬の空気で冷ややかになったタオルは、ボクの気持ちよりも冷たくなくて、どうしてか憎たらしい。
鬱屈とした気持ちを抱えたまま夕暮れもまだな府中を歩いて、ボクの身長の何倍もするようなビルたちに目をやって、世界のちっぽけさを改めて知る。あてどなく歩いて、歩いていたらいつの間にか町外れの広い公園についていた。朝の芝生に寝っ転がりながらボクは空を見上げる。絵筆を軽く走らせただけの、薄白く光にけぶる蒼の海。はあ。綺麗だ。綺麗が過ぎて気が落ちる。そのせいか、益体もないことばかりが浮かんでは消えて、繰り返し繰り返しとループし始める。
幸せにってさ、どうやってなるんだろう。
ボクは何のために生まれてきたんだろう。
ボクの欲しかった生きている実感ってのは。
この一分一秒のなかの、どのあたりで右往左往しているんだろう。
「わかんない」
声に出しても問題は解決しやしない。何もかもわからないままだから空を見限って、芝生と視線の境を無くす。むせ返るような青い枯葉の匂いが鼻を刺す。味付けが濃すぎて分からないから、部屋に戻る前に整理しよう、一旦。このままじゃ何を見ても何を貰ったとしても、どんな感情よりも先に困惑が立ってしまうから。そうだ、体を動かせば少しは気が晴れるかな。いや、身体は昨日散々動かしたなあ。もう少し考えよう、ここで。芝に背中をあずけたまま。綺麗だ、空がずっと。綺麗が過ぎて、幻が形になりそうなくらい、きれいだ。
誰かがボクのすぐそばに寝転がる。イマなら元鞘に収まる事もできるんだよ。誰かが耳元で囁く。ほら、後ろを向いてごらん。キミを優しく受け入れてくれる、素敵な関係性が手招きしているよ。誰かが、見も知らぬ誰かたちが、ボクを誘って――バカな想像だ、ぐしぐしと目元を揉んで考えるのをやめる。すると、呼応するかのようにぐう、ひどく能天気な音が鳴った。
「お腹空いたな……」
空腹を紛らわしたくて空の一番明るいところを注視する。そこには雲に化けた大きな鳥が窮屈そうな素振りもなく翼を広げていて、それがどうしようもなく羨ましくて。なぜボクはあんなふうになれないんだろうと少しだけ憂鬱になった。
空を見上げてセンチメンタリズムに浸ってとぼとぼした歩調で寮に戻れば、自然と時間は経っていたようで、晩ごはんの香りが廊下の奥からふわり漂ってきていた。流れるように食堂へと向かい、美味しいはずの夕食を無味乾燥のまま流し込み、十分そこらで平らげたのに部屋に戻ることも出来ず、食器を下げてうじうじ悩む。情けないことこの上ないけど、あと少し時間を進めてあげる必要があった。
どうせ入らなきゃだし、お風呂にでもいこう。替えの下着やジャージとかは肩に提げてたカバンに一式入っている。着替えを持ち歩くのはボクのちょっとした癖だから、別にこういう機会を予測していたわけじゃない、けれど。常に清潔で居たいっていう、偏執的な用意周到さにちょっとだけ救われた気持ちになった。
ぼうっとお風呂に浸かって一時間。上がって、一息ついて、湯冷めしてしまう前に部屋へ戻ろうか、いや、でも。時計を見るとまだ、まだ八時にもなっていない。ああダメだなあ、ボクらしくないけどさ、勇気が出ないんだ。長風呂のあとは休憩室に寄って時間を潰した。うとうとしたり、窓の外を眺め続けた。スマホは、覗く気になれなかった。
更なる時間が牛の歩きのスピードで経っていく。有マ、ケンカ、ボクの不安。色んなものに答えを見つけてあげる必要がある。声をかけに来る友だちや、先輩後輩とのとりとめのない会話をする合間に、ボクはほんの少しだけ考えた。理由を見つけようと試みた。この鬱屈とした悩みを解消するためにはどうするべきかを。考え抜くことはしなかったけど導き出せた、誰かに気持ちを吐き出したいってことを。たぶん、たぶんだけどこの気持ちは、ひとりで抱えていても解決できないものだって。小一時間ぼうっと物思いにふけってわかったから。ボクはいま、栗東寮のつやつや明るい廊下を歩いている。もちろん、足の向いているさきは自分の部屋じゃない。
今日は土曜日、つまり明日は学園もトレーニングも多分おやすみ。そういう日は大体の生徒が夜更かしさんになるって相場が決まっている。ということは少しばかり迷惑を掛けてもさほど問題はないはず。時刻は八時。寝るには流石に早すぎる時間。部屋に籠っているだけじゃ解決できないのなら、信頼できる助っ人に頼るしかない。辿り着いた扉の前、こんこんこんとノックして、起きてるだろう友達が戸口にやってくるのを待つ。
「はーい、どちらさま~?」
ドアの奥、見えないところから聞き慣れたゆるい声がして、廊下と部屋をつなぐ短い道にスリッパが鳴る。かちん、ロックの外れる音。見えてくる、甘栗みたいな髪の毛の色。
「あれ、テイオーじゃん。どしたの急に」
「ネイチャ、話、聞いてもらえる……?」
「ん……? あー、まあネイチャさんは別に構いませんけど……本当に一体どうしたの?」
「わっ、テイオーだ! お話聞く聞く、マーベラース! 入って入ってーっ!」
ちらり、ネイチャの背中ごしからキラキラ輝く瞳が見える。相変わらずこう、すごく素直な子だ。思わず口元が緩む。
「あがっても、いい……?」
「あー、はいはいどうぞどうぞ、大した座敷じゃございませんが……」
「ネイチャ変なキャラー! おばちゃんみたいだよ!」
「うっさいよー、ネイチャさんは平常運転ですよー。とりあえずおあがんなさいよ」
許可をもらったボクは靴を脱いで上がり框を踏みしめる。
「さささっ、テイオーこちらへどうぞーっ!」
「はいはいどんどん進んで下さいなー」
ネイチャとマーベラスに連れられ部屋の中央までやってきて、来客用なのか良く分からないちっちゃな椅子に座らされる。
「よっし。んじゃアタシはちょいとお茶汲んでくるから。そのあいだは、マーベラス頼んだからねー」
「りょーかい! でもでも、先に聞いときたいよテイオー。今日のご用件はなに?」
玄関先で全部聞かんでよーと口にしているネイチャを無視して、マーベラスは言う。
「あのね……」
込み上げてくる想いが大きくて喉元でつっかえる。言葉にしたくはないけれど、遅かれ早かれ言わなきゃいけない。だってそのためにボクはここに来たんだから、足踏みしたって意味は無いんだ。なら、もうここでぶちまけてしまってもいいはずだ。
「うーん、なになに?」
「マヤノにキス、されちゃったんだ」
「んー……ん?! へ?! ほんとに!?」
驚愕するマーベラスとほぼ同タイミングで、どたばたがたがた、雷でも落ちたみたいなけたたましさが、四分の三開きぐらいになった扉らへんで轟いた。驚きつつ振り向いてみればどういうわけなのか、ホラー映画にでも出てきそうな振り向きポーズでネイチャが固まっていた。
「へっ……? だいじょうぶ、ネイ……」
「ア、アタシは大丈夫。テイオー、ちょっと待ってて。ちゃんと聞くから。マーベラス、本題進行は一旦ストップで、ちょっと、ホントにちょっとだけ待ってて」
「ふんふん、わかった! でもたぶんここで驚いてちゃダメだよネイチャ!」
「ダイジョーブ、わかってる、わかってるから。でも落ち着かせて……いや、アタシのことは良いわ、とりあえずホント、ちょっと待ってて、ね」
そう言い切ると壊れるんじゃないかって勢いで扉が閉じられた。あそこまで慌てるとは思ってなくて、ぽかんとしてしまう。
「んー、ねえねえテイオー。ネイチャが戻ってくるまでどうしよっか?」
「ええと、ボクはぼうっとしててもいいけど……」
「まっててって言ってたし、そうだなあ、マーベラスとゆびすましよーっ!」
そんでちょこちょこゆびすましてたら、二、三分くらいでネイチャが戻ってきた。何故だか汗だくで、息も絶え絶えの状態で。
「走って来なくても良かったのに」
運んできたお茶とお盆を机の上に置いて、一息ついたあと。ネイチャはそんな疑問を諌めるような口調で言った。
「いや、ほっとけんでしょ数分でも……」
「おひとよしだよね、ネイチャって!」
「マベきち、アンタに言われたくないっての!」
軽口を叩くマーベラスを慣れた風にあしらいつつ、ネイチャは折りたたみ式のちっちゃい座卓をベッド下から引き出して組み上げる。薄く埃の被った表面がウエットティッシュでさっと拭かれれば、人数分のお茶と何故かお茶請けまでもがリズミカルに置かれた。
「なんかおばあちゃんちみたい☆」
「はいはい、お仕置き罪でマーベラスのぶんは無しね。テイオーさんやぜんぶ食べていいですよー」
「がーん……」
「うそうそ。本気で沈みなさんなって、アンタの分もちゃんとあるから。お食べやマベ。んで、テイオー。さくっと本題。ええと、ちゅー、的なやつじゃなく?」
「うん。多分あれはキス……かな?」
「まうまう……うまうま……ひゃー……ホント?」
想像以上の驚きようなせいで、逆にボクがてんやわんやする。おほん、咳払い一つおいて、暴れ回る二人の尻尾が落ち着いたのを確認してから、もう少し詳しく分かるように伝え始めた。いわゆるところのマウストゥマウス、ってやつじゃなく。ほっぺた上方に交わされたきらめくような浅瀬のキスのことを。
「むぅ、なるほど」
「なるほどねえ……」
話を聞く気があるんだかないんだか。神妙な面持ちで頷くとかいう、おんなじような反応が二人から返ってくる。
「……ゆめ。だったのかも知れないんだけどさ」
「でも、テイオー。アンタには夢には思えなかったんでしょ?」
「うん……でも……」
「でも?」
「夢だったらいいのになって」
本質ってやつはいつも本心から転び出る。夢だったら何もかも許容できた、かも知れないから。汚い自分の心を表側に晒しながら、しかし自分を腐らせすぎないよう、ぺろりと舌を出して続ける。
「……そう、ほんのちょっとだけ。思っちゃったんだよね」
現実は酷で非情だ。水深数センチのキスに足を取られているんだから、本当キスってやつは恐ろしい。消えない傷を残してくれる、噛まれるよりもよっぽど。
「ん、まあ……なるほどね……」
「夢かどうか。分からなくなって、どうしたらいいかわからなくなって……」
「色んなひとに聞いてみようってなったの?」
「……うん。で、さ。ネイチャは、好きな人からキスされたら、どうする?」
「ん~……アタシは……ってはあ?!」
「マーベラスは?」
「んーと、アタシは嬉しいよ、すっごく。誰かが好きになってくれるのって、それだけでスゴイことだもん! ホントーにそれだけでも嬉しいの、マーベラス!」
「あはは。マーベラスらしいや、ありがと。じゃあネイチャは?」
「いや、そりゃアタシも嬉しいけど……そうじゃなくない?!」
「でも、ネイチャ。トレーナーのこと好きでしょ?」
あんまりにも直接的なマーベラスの一言に、ネイチャは困ったような表情を浮かべて、照れくさいのかぽりぽりと頬を掻く。
「まあ……そうね、まあ。たはは……」
「事実から目を逸らして照れちゃダメだよネイチャ!」
「にゃああ、うっさいもう! あーダメだなもぉ~なあ~……」
「良かったら……聞かせて?」
他人の気持ちを慮るために、察せられるものは幾つでもあって。絞り出したようなボクの願いにも、同じだけの質量が乗っていたらしい。チョコの包装紙を剥がしながら、ネイチャは口からじゃなく鼻から溜息を吐いた。目を瞑って、開けた直後の面差しは、夏日のような温度感を伴っていた。
「……ま、他ならぬテイオーさんの頼みなら、しょーがない喋ってあげちゃうかあ」
「ありがと、ネイチャ……」
「借りとか思わんくていいからね……でもまあ、改めて喋ろうとするとなんだろ。アタシは夢みたいに思っても、夢だったらいいなとは思わないかもしんないや。突き放すみたいになっちゃうけどさ。アタシが思う好きって気持ちと、テイオー、アンタの思う感情は一緒のところにないんじゃないかなとは思うから。キスに込める想いが同一かどうかは……アタシにはわかんない。それが本音なんだ」
「……好きだから、するんじゃないってこと?」
「ん~、ちょっと違うんじゃないかね。もちろん、好きって気持ちはあると思うよ。それこそ当たり前のように。でも、それだけじゃないと思う。どうしようもなく身体を動かす燃料みたいなヤツってさ、それだけじゃ火は付かないって思うから。なんかボヤっとしててゴメンって感じなんだけどさ、アタシの言わんとしてること。マーベラスわかる?」
「わかる、わかるよネイチャ! 言いたいこと分かるよ、そこが一番大事だよねっ!」
一番大事とうそぶかれるそれに、ボクは全く見当が付いていなくて。何も知らないこどもみたいな純粋さで訊ねた。
「一番大事って、何?」
「大事なのは……ほら、マーベラス言ってやりな!」
「おっけー! テイオーは、マヤノにキスされて、どんな気持ちになったのってこと!」
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6.Starlight out of…
「どんな気持ち、かあ……」
マーベラスに言われたフレーズを反芻しながら自室に戻る。足取りは依然重いままだ。こういうときアニメとかのヒーローだったら、真紅のベールかマントなんかを翻して、戦うべき舞台に向かって本気だぞって気合を入れられるんだろうけど。お生憎とボクにそこまでの力はない、ほとんど理解できている物事の、その本質を見つめることなんてしたくもない。力ない歩みで戻った部屋には、朝と同じく暗澹とした雰囲気のみが漂っていた。
「おかえり」
「ただいま」
どんなにこじれてしまっても、形式通りのやり取りだけは交わしてしまう。日常に紐づけられた言動って、ホント笑っちゃうよね。とっくに壊れているはずのものなのに、インプットされた昔を忘れられずに繰り返してしまうんだから。
「ねえ、聞かせてよ」
顔を合わせないようにベッドに座り、彼女がボクに声かけようと振り向くよりも早く。
「マヤノはさ」
声に出して、吐き出して、わかる。行き場を失った感情のカタチを。こんなにどろどろしてたっけ、苦しみに彩られてたりしたっけ。ボクの信じてた好きって気持ちは、心の底から恋するって思いは、こんなノロイみたいなモノなんだっけ。漫画やアニメで見るヤツは、もっと甘いモノだった気がするんだけどなあ。飴よりはちみつよりケーキよりも甘くて、なのに不思議とさわやかに飲み下せるモノだったはずなのに。
「ボクのこと、好きなの?」
どうしてここまで、好きは、愛は、恋するって、なんでこんなに粘っこいんだろう。舌の上で転がすたびに甘さが、重たく、苦しくて、泣きそうになる。しくしく、代わりに泣くのはボクの脚。過去に波及する痛みがボクらの現実と未来を蝕み、うすももいろした想いたちをいともたやすく捻じ曲げてしまった。
「噛み付いてしまうのって、そういうことだったの?」
優しい二人だから明言してなかったけれど。ボクには分かるのさ、好きと大好きには乗り越えられないほどの隔たりがあるってことぐらい。乾いた血の色した自嘲で内側を嬲って、仄暗い悲しみをかすかに明るい喜びに変換し、無聊の慰めに充当する。
「ボクを、ボクなんかを?」
どうして、こんなに。自分から率先して傷付くことを望んでるんだろう。
「ボク、好きになってもらう資格なんて、あるのかなあ」
「……っない」
ベッドの端で俯くボクの、頭上に暗い影が掛かる。
「……マヤノ」
見上げればそこにマヤノが居て、ひらがな一文字の疑問符が連鎖して、口をついて出るより前にマヤノは続けた。
「わかってないよ」
「……え?」
遅れて飛び出るクエスチョンを弾き飛ばしながら、まだ続ける。
「マヤが思ってること、伝わってるって思ってた。でもテイオーちゃん、なんにもわかってない。噛んできたことも、噛ませて貰ってたことも、ぜんぶ、ぜんぶ、全部分かってない!」
悲し気に眉根を下げて、裏切られたような顔をして、心底から悔しそうに歯噛みしてマヤノはその視線をボクから遠ざける。
「マヤのこと、本当に何にも。テイオーちゃん、わかってない」
叩きつけられた見下しの三行半に、はちきれんばかりの怒りが呼応する。
「……勝手に!」
握り潰した空気たちが破裂して、手のひらのもっと内側で苦しそうに爆ぜる。気付かぬうちに用意されていた戦いの幕が、知らずのうちに切り落とされる。地球に引かれて落ちて行く、体裁上なんてコドモらしくないマジックワード。
「分かってるとか分かってないとか、何もわかんないよ!」
決めつけないでよ。
「じゃあ、じゃあボクはなんなのさ!」
キミの、マヤノの、好きなようにしてきたのに。
「勝手はどっちなの?!」
ボクの叫びが昏い場所でぬらりと光る。光の質感と味わいが、果実を噛んだときみたいに爽やかでないのは、叫ぶ都度跳ね返ってくる後悔のせいだ。立ちはだかる『二人の』壁。目の前には二人いるんだ。実体のあるマヤノも、リアルな幻のボクも。二人とも悲しそうな目で、憂いや憐れみを感じる色で、ボクを見つめている。
怒りが抑えきれない。子供だ、ボクは。お子様だから見えるものすべてに苛立ちを感じる、まぼろしだと割り切れない、ボクの偽物に取って代わられる恐怖感だけが増していく。
ねえ、ニセモノ。本物のボクはどこ。
ねえマヤノ、みえないよボク。前が、半透明に濡れて見えない。
キミはいまどこにいるの。ボク、もう止まれないよ。
いつもみたいに噛んで、せきとめてよ――
「押し付けないでよ、マヤノ!」
止まれなくなって、走り始めようと身体はうごく。
速度に乗って走り去ってしまいたくて、いますぐ逃げた過ぎてたまらない。
走り続けていたい、内心で渦巻くこの力に従ったまま。
走ってるつもりでいるの、お願いだからこのままでいさせて。
止めないでよ、お願い。止めてほしくないんだ。
暴言とも付かない感情たちが、無数にある傷口から吐き出されている。
ボクらは走ることを辞められない。なら、走ったまま苦しみから逃れたい。生まれ変わりたい。古い自分を、忘れてしまいたい。
「待ってよ、行かないで、テイオーちゃん!」
逃げ出そうとするボクの身体が、マヤノに腕を引かれたことで大きく前につんのめる。
「離してよ!」
「離さない!」
前と後ろにかかる力が、平行な天秤みたいに均衡している。まったくと言っていいほど動けないのに、横目で見る風景は高速で移り変わっていく。めくるめくスクリーンのなかで、手を伸ばせば届きそうな位置にいつでもあるのが、プレパラートを割っちゃうぐらいの容易さで破壊できそうな、大人と子供の境界線。神さまの定めた因果のレールは、古めかしいスケルトンカラーで出来ていて、あるんだかないんだかボクにはもうわかんない。
「マヤは、押し付けてなんかない!」
「だったらなんだって言うのさ!」
「マヤは、マヤは……うぅ~……!」
一雨来そうな光景から目線を外して、限りなく冷徹に自分の内心を見つめる。ああ、目の前に見えるなにもかも、壊しちゃうべきなのかな、どうなのかな。ここはきっと駅のホーム。ボクはいま前に進む電車と、後ろに帰る電車とにサンドイッチされている。そのどちらもどこに行くか、どこが終着なのかはわからない。電光掲示板も路線図もなにもない無人駅にいまボクとマヤノだけがいる。
「言いたいなら、言えることがあるんなら言ってよ!」
燃える涙を振りかざし、
「だって、傷つくようなこと、いいたくない!」
猛る想いで攻撃すれば、
「言えもしないならなんだって言うのさ!」
叫びに耐えきれずはちきれる、
「言葉にしてよ、マヤノ!」
確かめることのできない他人の心。
「まえを……っ、前を向いてよ、テイオーちゃん!」
それを最後に。ボクは呼吸が、出来なくなった。
「まえ、を……むいて、ない、なんて」
「マヤ、くるしいの……わらってよ、テイオーちゃん……」
「決めつけ……」
ないでよ、と。吐き捨てようとしたのに、舌がもつれて言葉が出ない。ぐずる赤ん坊のように脚が泣く。痛い、あの日と同じくらいに泣いている。
「――入るからね、二人とも!」
遠く遠くから寮長の声。けたたましく開かれる部屋のドア。ああ、ここにきてまさしく、ボクの世界は変転を始めた。変わりたくなんてなかったはずなのに、世界はボクの意思と噛み合わずに進んでいく。放置していた剥き出しの牙が、拒めないところまで食い込んでしまった以上、もう。マヤノに腕を引かれている現状じゃ、この子に見せないよう拳を握ることなんて出来ないから、代わりに奥歯を噛み締めて。終わりの始まりを静かに受け入れるより他に何も出来なかった。
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7.きざはし
「テイオー、少し落ち着いた?」
「うん……ごめんね、トレーナー……」
怒って、怒り返されて、また怒って。あの不毛で仕方のないやり合いから、気づけばもう十数分は経つ。ここにいるのはマヤノではなく、ボクのトレーナーその人だ。騒ぎを聞きつけた寮長が閉じられた部屋にやってきて、わりかし手慣れた感じもってでボクらを引き離した。ボクら二人に割り当てられたあの部屋には今はもう誰もいない。ボクが居るのは寮に備え付けられている、来客用の応接室。寮長はマヤノを連れて別の部屋へと向かった。ボクはここにいるよう伝えられ、それから数分としないうちにボクのトレーナーがやってきた。なんでも学園内で残業していたらしくて、すぐ来れたんだってさっき言っていた。
「ごめんだなんて。」
「でも……」
「ふふ、いいの。気にしないで。あと、助っ人をもう一人呼んでるから。来るまでちょっと待ちましょうか」
ボクのトレーナーは気休めが好きだ。誰も傷つかなきゃ全部優しく収まるって心から信じてる。もうすぐ三年、一緒にいるからもうわかる。助っ人ってコトバの意味するものが何かも。ほのかな笑みのあと、厚い木を叩くノック数回。ゆるやかに開け放たれていくドア、わずかに出来た隙間から覗くのは。
「……トレーナー君、テイオー。お邪魔するよ」
「カイチョー……」
「いらっしゃい、ルドルフ。美浦からありがとうね」
「はは、構わないよ。フジキセキと……まさかトレーナー、君から緊急事態だって言われたらね。まったく、夜更かしもたまには役に立つものだね?」
まったくもって予想通りに現われる、尊敬するシンボリルドルフ生徒会長。その姿にああ、本当にボクってば何やってるんだろうと悲しくなる。内心で苛立ってみてはいるものの、何もかもボクが悪いってのは分かり切っているから。外面のボクは激烈に怒り抜く選択なんて出来るはずはなくて。
「ふたりとも……ごめんなさい……」
ひどく気の抜けた身体からこぼれ出るのは、気の抜けきった後ろ向きな謝罪。そんな有様のボクを一瞥すると、カイチョーは微笑みながらボクの頭に手を乗せて、ほんのり強めにわしわし撫でさすってくれる。
「謝るなよ、テイオー。私も、トレーナー君も。肝心のことは何も聞いていないのだから。気分転換、だ。まずはそれらしい形へと、心を調えて行こうじゃないか」
ウインク一つ空に投げて、会長はボクの隣へと流れるように腰掛けた。合わせるようにして、かちゃり。トレーナーの手によってボクの前にカップとソーサーが置かれ、つやめき光る陶器の肌を滑るかのようにして、オレンジよりも随分と濃い紅が収まるべき場所へと注がれていく。
「相変わらず淹れるのが上手いな、君は?」
「お世辞でも嬉しいわ、ありがと」
「可愛げが無いな、全く」
談笑を巻き込みながら、カップの中で花開くカモミール。そんな茶葉の匂いに身体はてんで高揚せず、逆にひどく肩が落ちた。華やげない、シュガーポットを開ける気力すらない。香りも確かめないまま軽く呷っても。熱いだけ、味の一片も分からず仕舞いだ。
「はあ……」
「テイオー、聞かせて?」
何があったの、そう優しく問いかけながら、テーブルを挟んで対面にトレーナーは座る。柔和な雰囲気で、どこか困ったようなしぐさで、軽く身を乗り出してはにかんで。ボクの目にかかった白い流星を梳く。
「言ったって……何にもならないよ、きっと……」
お決まりの動きだ、ぜんぶ。これまでもこうして慰めてくれたことを覚えてる。カイチョーだって同じだ、泣きついてきたボクを抱き留めて、決して締めず緩やかな拘束だけを施して手許に置いておく。二人は優しい、本当に踏み込んで欲しくない場所にまではその手を伸ばさない。
「ずるいから、二人とも」
だから、続く世界が映らない。目蓋の裏に広がってるのは奈落の底、解決策の糸口すら見えない真っ暗い闇だ。話したところで答えなんて見つかりそうにないんだから、言葉にしたって何の意味もないって、そんなこと言う気なかったのに、ボクの気持ちと身体はそれを我慢できなかった。
「あっ、ごめん……! なんで、ボク、なんで……」
お門違いの怒りをぶつけて返ってくるものなんて、青く燃える正論以外にないと思い込んでいたのに。ボクの目の前に現れたのは、張りつめていた感情の八割方が抜けていく、断続的で不格好な微笑み交じりの空気だった。
「……バカにしてるの……?」
「違うよ。一緒くたにされたくはないと思うけど、なんだかいつかの自分に覚えがある気がしてね」
「いつかの、自分?」
「うん、そうね……ほんの少しだけ。質問……うーん、でもこれ質問じゃない方がいいかなあ?」
「ではトレーナー君、質疑応答……いやこれだと固すぎるか。クイズ形式で問いかけてみないか?」
「それいいね、ルドルフ!」
咳払いひとつ置いてから、すっとんきょうな明るさで。
落差と含みのある単語を、トレーナーは口にした。
「あるところに、好き合ってた子たちがいたわ」
カイチョーはテーブルに置かれたコップの縁を擦り、ほんの少し悲しげな表情を浮かべた。
「好き合っていた二人は、一緒に永遠を分かち合えると心の底からそう思っていた。しかし……」
意味深な微笑みを湛えたまま、シュガースプーンから二掬いだけ流し込む。カモミールティーに透明な砂粒が溶け込んでいく。かちり、かちり。陶器の縁が銀で鳴る。溶かし切ったらカイチョーはゆっくりとカップを口元へ運んでいく――
「……それって、二人のこと?」
――直截的過ぎるボクの言葉に、がたがたがた、コントみたいに二人は体勢を崩した。
「お、おほん。私たちのことではないんだけど……」
「じゃあカイチョー、嫌いになったから別れたの……?」
「……まあ、私でもないんだが……別れたとも、嫌いになったからとも違うんだ、テイオー」
自分でもどうかと思うボクからの問いかけに、そう答えたあと。二人は顔を見合わせて、そして幸せそうに微笑んだ。
「あはは、そうね。そんなの今でも……」
「そうだな、好きに……決まってるじゃないか」
「好きなのに……?」
「好きだからこそ、二人でいることをやめたの」
「ひと一人で居る必要があると、そう理解できたから。その二人は離れたんだ」
「ええと……」
さっぱりと言いのける二人の心情が、ダメだ、いまひとつ解釈しきれない。簡単に読み解いて自分のものにするには重たすぎる。ボクにぶつけられたメッセージは、あまりに他意を含み過ぎている。
「その、二人にとって好きって……なんなの?」
ボクの信じる好きって気持ちは、手を繋ぎ合いながら確かめるものだ。好きだから別れるだなんて、知識として持ってない。
「思うだけで、いいってこと?」
「……そうね。思うだけなら誰の損にもならないから……ねえ。答える前にもう一つ質問してもいいかな?」
無言で頷くと、トレーナーは憂いを帯びた眼差しでボクを見つめた。
「才能って、どういう意味だと思う?」
「ボクは……」
思ったままを言おうとして、言葉に詰まる。ボクにとっての才能は、まずもって自分で知覚するものじゃない。誰かに名前を付けられて初めて、あるかないかを判断できる、頭上に浮かぶ名刺みたいなものだと思っているから。しかもソイツらはだいたい大人からのレッテル貼りで、ボクら子供は無力なまま意識的に判断の力を使わされる。使わされた結果がこれなら、才能なんてものに本質はない。
「ボクにとっての才能は、誰かの期待に応えるための、エネルギー……」
「そっか。そうなのね。テイオー」
絞り出すみたいに言ったものにトレーナーは静かに頷いて、それから納得したみたいに目を瞑った。
「私はね、才能は愛を示すもの、そして互いに信じ合うものだって思うの」
「あい……? どうして……?」
「与えられて初めて輝いて、理解してさらに輝くもの、だから。私にとっては、ね?」
「そんなの……」
言葉遊びと何が違うの、そう続けようとしたとき、ボクのトレーナーが二の句を継ぐ。
「喋っちゃうかな~独り言……ねえ、ルドルフも聞いてよ、私のはなし」
「……あまり聞きたくないな、君の自分語りは」
居心地悪そうにカイチョーは明後日の方を向く。カップの取っ手を爪の先で弾きながら、どことなく呆れたように溜め息を漏らす。ボクの前じゃ見せないような姿に、少しだけ食指が伸びた。
「どんな話なの?」
「待て、テイ……まあいいか、仕方無い……」
「ふふ、じゃあ話しちゃお。いつだったかなあ、私は高校生だったから……」
「はあ……十年は前、だろう?」
「あはは、そっくりそのまま覚えてるんじゃない、ルドルフ」
「何度君に聞かされたと思ってるんだ。過猶不及。私の耳にピアスとなって残っているぐらいなのに」
経験したことのない雰囲気が漂い続けている。カイチョーも、トレーナーも。これまでに見たことのないような感じで話していた。
「あらそうなの、あんまりうんざりしてないみたいだから、忘れちゃったかと」
「バカは休み休み言ってくれ。ほら、話の続き」
「はいはい。あのね、私、高校生の頃。進路とか、夢とか、色々を直視しなきゃいけないタイミングがあって。何もかもが嫌になっていた日があったわ。あれは……薄く雨の降る、どんよりした空の下だった。そこでね、全国の小学生のトップを決めるレースが開かれていたの。自分が本当に分からなくなっていたとき、そう本当に何となく。ネットかなんかで近くでやるって書いててね。興味も何も無かったのに、ただ熱気にあてられたくて。私、学校サボってレースを見物しに行ったの。そこにね……」
「ちらちら見ないでくれないか、全く。まあ、そこに私が出走していたのさ。話はそれだけなんだ」
「……それだけ?」
「あはは、まあそうね。それだけ。才能を感じた、圧巻だった、本当にただそれだけね。たった千メートルの勝負の場。今にして思えばものすごく短い距離。でも、そのときは、そのときだけは。長くて……なのにひどく短くて……そこが私とルドルフの、多分最初の出会いだった……」
迷惑なお話なんだけどね。そう前置きしてトレーナーは懐かしそうに目を細める。
「不思議よね、今でも具体的な答えを見つけられてないの。自分がどうして悩んでいたのか。何に勇気付けられたのか。ただ、ルドルフの走る姿に、どうしようもないくらい惹かれて、前を向かされたの。それで私、感極まっちゃって。ウィナーズサークルで堂々とインタビューに答えてる、今のテイオーよりちっちゃいルドルフにね、ちゃんと伝わってくれるように声を上げたの。夢を見せてくれてありがとう、って……」
「思えば、そこでファンサービスを覚えたのかも知れないな。まあ正直、当時の私は不思議な人がいるものだなと思っていたよ。本格化も随分と先な、しかも親類縁者でもない人が。まだまだ稚拙な私のレースぶりを見て、どうやら本気で泣いているんだからな。でも、そこで理解したのさ、一つ」
かなり自意識過剰ではあるけどね、と独り言ちて。カイチョーは胸の前で腕を組む。
「本気で走ることで、誰かに何かを与えられるってことを。実体験で、ね」
茶目っ気溢れるカイチョーの口調にボクは、二人が何を伝えたいのかをようやく理解し始める。
「私たちが語る言葉は、遮二無二頑張る君へのエール」
「あなたたちはウマ娘だから。きっと。私があの日のルドルフに感じたものを、走り合うことで分かち合えるはず」
「私たちは才能に裏打ちされた世界で生きている。だからこそ、テイオー。酷なことを投げかけるようだが、決して腐らせるな、自らを」
「カイチョーと、トレーナーは。ボクに……才能を示せって、そう言うの」
呟きに返ってくる、無言の頷き。
「当然でしょう?」
「今更、だな」
「テイオー。あなたは何度でも輝いていい。私たちが保証するわ、あなたには輝くための才能がある。持てる限りの才能で走って、理解しあって。あの子を理解しなさい、テイオー。それが、あなたがこなすべき運命。運命を手にするの、テイオー」
「ああ、理解の先に未来はある。仮に賢くなくとも、競争に懸けてきた遺伝子が答えてくるはずだ。愛を示し、互いを信じ、生きるべき理由を見つめ直せ。負けるのが嫌だから、と。戦いの一切を放棄するのは違う。分かっているだろう、君なら」
「だけど……」
「それとも。逃げて全部諦めろ、って。私たちの口から、テイオー。言ってほしい?」
逃げて諦めろ、肺腑を抉る埒外の痛みが、ボクの背筋をまっすぐにさせる。
「ボクは……」
「……立ち向かえ。その一言で十分なはずだ、君ならば。そう、君が君であるならきっと。それだけで理解ができるはずだ。
「ありがとうね、ルドルフ……トレーナーとして、私が立ち会おうと思う。本当は二人だけで……って思うけど、万が一に備えて。ちょっと無粋かな?」
「いやいや。それぐらいならば神様だって構わないだろうさ。若者のために出来ることはすべてやりたくなるのが、何というか親心……的な物だと自覚しているからね」
カイチョーはそう言ってほがらかに笑った。
「分かち合って来い、輩よ。自身を、裸の己で、戦ってくるんだ」
「ふふ……調整、大変になるかも知れないね。すぐあとには有マがある……でも、戦うべきは今にもある。ここが前を向くべきとき。逃げられやしない、それがあなた……私はずっと、テイオーのトレーナー。あなたが好きなようにやっていくのを、叶えられる限りの範囲で応援したい。だから、まず。改めて。埒もないことだと分かっているけど。ここは正念場だと思うから。私はあなたの才能を、あなたという個人を、私は、ううん私たちは心の底から信じてる」
嘘偽りないことを誓うわ。それだけ言ってトレーナーは目をつぶる。
「受け止めて、この想いだけは」
トレーナーの肩に会長の手が寄り添う。トレーナーはその手を払いのけることなく、指先から温もりを貰うように指を重ねた。
「ああ、私たちは君の味方だ」
二人の視線と言葉が胸に染み込む。受け取って、自己解釈して、偽りがないことを飲み込めたとき、こんこんこん、厚くて重たい木を叩く軽い音が聞こえた。
「いいぞ、入って来てくれ」
カイチョーとトレーナーに背中を擦られて、ボクは何かを理解する。応接室に付けられた重ための扉がゆっくりと開いていく。
「――ほら、早く入れ。まごついてても仕方ないだろう」
ドア向こうの宵闇の隙間から、寮長とブライアンに押されるようにしてボクの前へとやってくる、マヤノ。指、震え、緊張、ぜんぶ大丈夫。伝える言葉なんて決めていたから、勇気付けの深呼吸は要らない。
「あの……その……」
ボクの前で立ち止まった彼女に、ボクは。
「もう、逃げない。だから」
まごつく暇も与えないように。
「マヤノ、走ろう」
そう、それだけを告げる、最期の道標にするために。
「マヤたち二人で……走る、の?」
止まれない、止まれない、ボクらはもう止まれない。
「うん」
ボクらはただの乗客だ、運転手でも添乗員でもない。
「ボクらは、まだ決まってない」
発車のベルは随分前に鳴り響いた、走り出した電車は徐々にスピードを増している。
止めることがかなわないなら、ううん。
無理に止めようと思わなくたっていいんだ。
ここはまだ、駅と駅の中間地点。遥か先をゆく道のりの途中。
「謝るとかありがとうとか、そういうの。言えないんだ、まだ」
ボクらの電車はとまらない。生半可な力じゃ止められもしない。
「わがままかも知れないけど」
ひとたび駅を離れたら、次の駅まで行くしかない。
噛まれていない腕や手が軋むように痛んだって、途中下車なんてもう出来ないんだから。
「決めようよ、ボクらを」
けたたましい電車の叫びに音量調整を施して、ひたすらに前へと進もう。
たったふたりでできることなんて、きっとそれだけだと思うから。
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8.RE:CREATE
陽が昇り、暮れて二十四を数えて四十八もまもなく過ぎる。ボクらにとってのこの二日は息を調えるためだけの時間だった。朝起きて、形式ばかりの挨拶を交わして、それ以上は何も声にせず一人で登校して、有マと運命に向き合うためによそ事を振り切れるぐらいトレーニングへと精を出して、話すのも面倒になるぐらいに疲れたらさっさと眠る。そんなことの繰り返しで昨日と今日を過ごした。
息苦しくないようにコミュニケーションすれば良かったんじゃないかって言われたって困るんだ。だってそう、事ここに至った時点で、仮面をかぶって接することにどれほどの意味があるのかって話だし、だったらもうレースで全てを詳らかにすればそれでいいんだから。
あれから結局激しい何事もなく。やっとこさで訪れたのは待ちに待った、なんてことは一切ない日。セツナって言葉の速度でもって、とうとうやってきてしまったこの日。トレーナーにいざなわれて、もう一つ産まれた運命の舞台であるここに。勝負服を身にまとい、模擬レース場に立つボクらは。語れるはずの言葉の一切を交わさないし交わせない。あと敢えて言わずとも察して貰えるとも思っていた。この想いの丈は脚でしか、レースでしか解消できないって理解していた。
腕を回す、軽く腿をあげる、目を瞑り想いを巡らせる、コンディションは悪くなかった。アップを兼ねて数周走って、スタートラインに付く。石灰で描かれたゲートのような形。白いラインだけじゃかけっこのしるしみたいなのに。なんでだろう、そこからは閉じる直前のゲートみたいな雰囲気が確かに漂っていた。夜の染みた白、ううん深緑の枠組に入って、ボクは左側に感じる気配へと目を向ける。
マヤノ。
やっぱり声は出さない。奥歯をなぞる舌の動きに留めるだけ。
ゲートに。ここに入った以上、もう何だって言葉は発せない。
この狭い内側で許されるのは、息をすることと胸の鼓動に耐えること。コンセントレーションの時間に、模擬も本番も関係ない。走るっていう生き甲斐をこなしたい、そんなウマ娘でいたいなら。否応なく思考を研ぎ澄まさなくてはならない、戦う直前のために用意された準備エリア。足を踏み入れた時点で震える意味はおろか、思い悩むことすら必要のないものに変化する。握り拳を作ったり、溜まった力を開いて放ったりを何度か繰り返して、俯き加減だった自分にお別れを告げるために前を、向いた。
勝とう。多分、この場において。勝敗を分けるものはスピードでもスタミナでもない。ただひたすらに覚悟と言う名の力だ、何もかもをまとめた、そんな力に違いないと思うから。あとは気持ちの問題なんだ、何もかも。
内バ場のなか、ラインすぐそばのラチ付近から。少しだけ気の抜けるような、位置について、よおいが響いて、すぐ。ゲートの開く音の代わりに、澄み切った夜空に向けて空砲が撃ち鳴らされた。
「はあ……っ!」
「……勝つッ!」
出足は良好。出遅れなんて許されない。この世界を先に行くためには最初こそが肝心だ。今日二人で戦う距離は二千と半分。年末の祭典と同じだけの長さ。別にボクが指定したんじゃない。もちろんマヤノが選んだんでもない。純然たる実力差を勘案して、その上で距離を決めるつもりだった。けど、ボクらの所在を証すならこの距離になるのかなって、ぼうっと思っていたら、知らず知らずのうちに結局この距離を走ることになった、ただそれだけだ。
内ラチに沿うように走るのはボク。その数メートル後方にずっと気配を感じている。右目で確認する、カーブと直線。左目で確認できないのは、マヤノの姿。ボクはずっと右に流れながら、前だけを見ている。風が頬を撫でるどころか、柔肌を切り裂いて後ろへ走り抜ける。前だけを見ている。だからほとんど同じ位置で走るマヤノをボクは見れない。数百メートルなんて秒で終わる。ハロン棒の数字は加速度的に減っていく。ボクは走りながら夢ばかりを見ている。あれだけカッコつけたセリフを吐いてたくせに、現実を直視するのがすごく怖かった。
走る、筋肉疲労でもなんでもないもので足がもつれそうになる。一位かドベか。最終的な結果として表れるのは二つのなかのどちらかだ。時間より光より想いよりも速く疾く走る。走り続ける、服の袖でラチに火花を散らせるくらいに。勝ちに最も近いだろう最短距離を攻めて攻めて対戦相手を打ち負かす。遠くに光る無数の星々に誇示するんだ、トウカイテイオーはまだ走れるんだって、咲き誇ったこの花はまだ散っちゃいないって、それを一足早く今日、みんなに証明するんだ。
走る、泥に塗れた短い芝が空に舞う、踏み込む、圧を掛けられた砂が煙となって空に散る。駆けて駆けてハロン棒、数字が回って一桁に変わる。中盤の終わり、終盤の始まりが、走っているだけで訪れた。
思わずともこの一年、ずっと傍らに恐怖があった。それは骨が折れたことじゃない。苦しかったリハビリでもない。単純に、心が先に折れてしまわないかってこと。心はもろい。だから。心の有り様について考えることすらこわかった。昔通りのストライドで芝を翔けているいまでも、まだこわい。
真剣に走りながらなのにボクは、どこか自己陶酔みたいな下らないことばかりを考えている。自分がもし今のままの気持ちで、美しいものを魅せつけられたなら。その輝きにボロボロになるまで打ちのめされたい、だとか。自分が最も美しいと思うもので殺し合えたなら、こんなに苦しくはなかったのかな、とか。やっぱり生きるには身体の存在が邪魔過ぎる。もっと、溶け合う方法は無いのかな、とか。
あはは。歳、取りたくないのかな。この一瞬に浸るだけで生きていけるのなら。ボクはそれでいいのかな。そんなことないと思う、夢を見ていたいだけで生きている訳じゃないって分かってる。でもさ、本当に。なんで走っているんだろう、ボクは。走るだけの理由なんてとうに見つけていたはずなのに。胸を張って答えられるモノを持っていたはずなのに。
なんで見えなくなるのさ、明日って。そんなに意地悪しないでよ、昨日のくせに。全力でレースを走れない日々ばかりが積もっていって、うず高く積み上げられたせいで見上げてももう何も見えなくて、希望に眩しかったあの近未来は、遥か彼方の更に向こうに行ってしまって、姿かたちはどんどん茫洋になっていき、そしてここに来てついに、ボクの足をブレさせる材料に変化してしまった。
もっと、戦うための理由がほしい。もっともっともっともっと、理由に意味がなくなるまでほしい、無敵になりたい、生きている意味をどうしようもなく知りたい、何も知らなかった頃と同じぐらいの熱情がほしくて、泣きたくなくて、唇の裏側を強く噛んだ。
その瞬間。
背後、ニアバイサイド。
ボクの真後ろで、無音の風が巻き起こる。
「なっ――?!」
抜かれる、そんな、この場所で?!
想像以上に仕掛けが早い、追い込みにしても差しにしても早すぎる。自分に迫る圧力を視認しようと瞳が向ければマヤノは、真剣な眼差しと不敵な微笑みを合わせてボクを食おうと画策していた。
「こんなもの、じゃ、ないでしょ!?」
「マヤ、ノ……!」
走る、走る、ボクらの脚は回り続ける。
「前を向いて、マヤに負けるの?!」
負けるわけには行かない、そんなこと分かってる。
「負けたく……ない……!」
「勝つって、言ってよぉ!」
「う、あ、あああああああああッ――!」
「見せてよ、見せてみてよ、テイオーっ!」
そうだ、勝つ、勝ちたい、勝っていつかその先へ。
ああ。殺せ、殺せよ、過去の自分を。
嗚呼。進め、進んで、未来の自分へ。
だけどさ、それって要は理想だから。
わかるよ、ボクにだってそれぐらい。
焚きつけられて本意気で走って、脚が千切れ飛びそうになってもなお、ボクはどこか冷静だった。そうさ、ニンゲンそんなにすぐには変われない。変化ってのは経験を繰り返すことによって、気づきもしないぐらいあとに、本当に遅まきに訪れるもの。この場で世界の全部を変えられるような、地球を三回転は回せる意思の力なんてどこにだって持ち合わせがない。
「ボクは……ボクは……!」
だから、これはぜんぶ前から持ってたボクの衝動だ。そうに違いないってことを誓うよ、ボクという存在を証明するためだけに。誰にも恥じない自分であるために。止まれるか、止まれるもんか。力を燃やせ、走り抜けろ、ボクはなんのために生まれてきた、どこに存在を示すためにここにいるんだ、譲るな奪え掴み取れ、噛まれて出来た無数の傷たちが表皮の五ミリ下で疼こうとも、脚は止まらない、走ることを止められない、先に、前に、ボクは、ボクらは、ウマ娘だから、いや、それ以上に、トウカイテイオーとマヤノトップガンだからこそ――
「進まなくちゃ、いけないんだああああ――ッ!」
傷ついたまま、それでもなお透明であろうとし続けた自分を、切り捨てたい。痛みと、涙と、愛と、選ばなかった全部を、眩しかった過去を、明くる日の憧憬を、滞るだけの昨日までの自分を、いままでとこれからを積み上げて出来たいつかのボクを。生きているだけの意味と理由を、ああ、きっと。たぶん青臭い諸々を切り捨てられそうにないけれど。生まれ変わらずとも、ぜんぶぜんぶ引っくるめて、新しくなることは出来ると思うから。
「ボクは、勝つんだあああああっ!」
「マヤだって、負けられないんだからあああっ!」
無茶苦茶な走法で、息も整えずに叫びながら、ゴールテープのそのまた向こうを目指して走り続ける。横に並び走ろうとするマヤノはもう、顔を向けずとも左の視界の端っこに見えている。レースの終わりが近いってわかる、踏み締める芝の感触に、現実感が無くなってきている。通過点が終わる、終わってしまう。理想が近づいてきている、脚が止まるまできっと、あと数十秒しかないってわかる。わかって、わかってしまって、寂しさが込み上げる。
「――しいね!」
そんなとき、声。
隣から、笑顔が。
「楽しいね、テイオーちゃん!」
花火のように咲いて、聞こえた。
「あはは、うん!」
聞こえたから、笑い返して、ふと思ったんだ。
寂しさは、まだいらない。
だってまだ、ボクはまだ何者でもないんだろうから。
積み重ねた歴史だってまだまだちっぽけだ。
でも。
「ホントに、そうだね!」
それでも、きっと。
ボクはいま、ここにだけ、いる。
ここにきてようやく思い出せたの、バカみたい。
でも、でもさ。
これからなら、ずっと、遠くへ。たぶん、進めるよ。
ありがとう。ありがとう、みんな。
ボクは、トウカイテイオーだ。
トウカイテイオーは、ここにだけしか。いない。いないよ。いないんだ。
それだけは、絶対。
絶対に間違いなく証明、できる。
「マヤノ!」
誇りにするよ、それだけは。
どこまでも自分本意だけど、それだけは。
否定、できないんだ。
それだけは、紛れも無い事実なんだから――
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last.僕等は明日を夢見てく
捧ぐよ、キミとボクのために。
――走り終わって、アウトランも終えたから。芝生の上にお尻をつけて、ボクのトレーナーが差し出してくれた、嫌いな味のスポーツドリンクを飲み下す。あーやっぱり、すごくマズい。舌を出して空気の味で甘苦さを無理矢理誤魔化す。
「二人とも、大丈夫?」
「うん、平気だよトレーナー」
「マヤも大丈夫!」
「そう、なら良かった」
アイシングとかの道具一式を抱えたトレーナーは胸を撫で下ろした。ボクらの状態が問題ないことをちゃんと理解すると、いつもと同じようにてきぱきとレース後のケアを行ってくれた。
「速いなあ、やっぱり。マヤよりも」
「いろいろボクのほうが先輩なんだから、トーゼンでしょ」
「あーっ、カワイくない! テイオーちゃんカワイくないーっ!」
「へへーん、勝ったのはボクだもんねー!」
あれだけ色々あったけど、結局は七バ身差でボクの勝ち。それがボクらの、ボクらだけのレースの結果だった。当たり前の結果、だけど。これは勝って当然の結果じゃないってことを、走り切った今だからこそわかっていた。
「ふふ、テイオー?」
「んえ? なに、トレーナー?」
「言わなきゃいけないこと、あるんじゃない?」
「うん、マヤになんか言ってよ、テイオーちゃん!」
「……あはは、欲しがりだなあ」
「はーやーくーっ!」
「……ただいま!」
「……おかえり!」
「あのさ、マヤノ……その」
「ううん、言わなくていいの、たぶん。分かってるから」
「じゃあさ、色々。こうやって話すのって多分、初めてだから。ちょっとだけ聞いてもいい?」
「もっちろん! なんでもマヤに聞いてみてごらん、何でも教えてあげちゃうよ!」
自信たっぷりに胸を叩くマヤノに自然と笑みがこぼれる。ほっとしてそこで、自分に息が出来たことを知って、覚悟が決まる。
「……トレーナー」
「うん、何かあったらすぐ連絡してね」
三人だったレース場の傍らが、二人きりの空間に変わるまでおおよそ数分。
ボクらの耳にも去る足音が聞こえなくなったタイミングで。
ひとつ、聞いてもいい?
「うん、いいよ?」
静寂を割ってボクはマヤノに問いかけた。
一年間の疑問、その最たるところを。
他ならないマヤノの口から聞きたかった。
「なんで、あのとき。噛もうって思ったの?」
「……痛かったら、まぎれるかなって。思ったの」
全部、言ってもいい?
「うん、いいよ」
マヤノがボクに問いかける。
秘められていた想いは、ボクの許しと願いによって明らかになり始める。
「辛さを吸い出してあげられるかなって。走りたいのに、走れないって気持ち。でも、思いっきり全部をぶつけちゃ、よしよしってしてあげるだけでもダメだって。どうしてか思ったの。だから、噛もうって……わかる?」
「あんまし分かんないけど、わかるよ?」
「もーっ、マジメに言ってあげてるのにーっ!」
「ごめんってば、あはは。だってさ、まさか噛ませてーって来るとは思わないじゃん?」
「噛むのはキライじゃないよ?」
「そっか、キライじゃなかったんだ、ならいっか。いいのかなあ?」
「いいんだもん、あっ、勝ったごほーびに……ううん、もう。大丈夫だよね?」
「……そうだね、もう。大丈夫。マヤノ、優しくしてくれたのにも理由、ある?」
「理由……はないかなあ。あのね、うまく説明できないけど、そのマヤのおかげ……ううんマヤが誰かを助けてあげられたら、きっとみんなうれしいってそう思ったからかな?」
「ふーん、じゃあなんでボクにだけなの?」
「んーとね、んー……マヤのお気に入りだから!」
「あはは、なーんかゼツミョーに納得しない答えだなあ」
「まあいいでしょ! きっと、たぶん。答えなんかいらないよ、たぶん」
「そうだね、すごく。そんな気がする」
結局、どこまでいってもボクらは。二つの足で立ち尽くす、ちっぽけな動物に過ぎないみたい。そうさボクらは意地汚い動物だ。自分を明らかにするために、満ち足りない己を証すために、永遠に戦っていくしかない生き物だ。蒼くて、生っぽくて、汚くて見たくもない。でも、それがボクたちなんだ。落ち着けないけど心を調える、上手く吸えないから息を吐く。勝負服の袖で瞳の湿度を拭い取り、かまぼこの形をした月を見上げた。
まぶしいね、マヤノ。
そっちこそ、テイオーちゃん。
夜のレース場に笑い声がこだまする。ねえ。静寂を破るのはボク。
「マヤノはさ、ボクにどうしてほしい?」
「どうって?」
「諦めて欲しい? それとも立ち向かって欲しい?」
いつになく真剣な顔で、好きとも恋とも違う顔で、ボクを見つめた。
「……生きてて、ほしい」
「……うん、わかった」
真摯って熟語がぴったりハマるような、真面目な思いの詰まった瞳がボクを、ボクだけを見つめていて、見つめられたままじゃ切り替えせない気がした。弱みだけは見せないよう、ニッと笑ったらボクは背を向ける。一回、二回。すうとはあを行って、踵に力を込めて、百八十度回転した。
「マヤノ!」
「へっ、なに、テイオーちゃん?」
「どすこい! みたいな感じで手、出して!」
かたっぽでいいから、ボクがそうお願いすると、マヤノは一度自分の手のひらを見つめた。それから、伸ばしたボクの手へと自分の指先を添わせる。ほとんど同じ大きさの手から伝わってくる、うっすらと震えてるのが。微細な揺れは不安のリズムだ、きっと。だったら笑え、ボク。キミを拒絶するためにそうさせたいわけじゃないんだって、そう言葉に出来ないのなら。可愛くなくていいから、恰好良くなくていいから、不細工でいいから笑えよ、ボク。浮かべた笑いは多分恐らく泣き笑い。それでも、思った通りの笑い顔には違いない。
「ありがとう、マヤノ」
それだけを独り言ちて、心に伝わるすべてを、合わせたこの手からすべてを感じたままに受け取る。ああ、ボクらはいま、この世界で最もつながっていられている。ほとばしるのは、具体性に乏しい確信。爪の先から手の中へ腕を上り、心臓に届いた瞬間全身に満ちていく。
「本当に、ありがと……」
キスやハグ、コトバでしか知らないけどセックスとか。艶めいていて毒々しくて触れづらいような、生々しいなかで生きているものだけが、肌と肌を触れ合わせる方法じゃないし、お互いを証明できるわけでもない。それになにより、大人になろうって思っただけで実質問題ボクは子供だから。踏み出し方も繋がり方も分相応ってコトバの範疇に捕らわれてしまう。けれど、多分。いま触れ合っているこれは、ボクたちがいつの時代にいたとしても。間違いなく正解の一つなんだって深く頷けた。このおっかなびっくりした感じの方が、より深くまで繋がれているような気すらしていたんだ。それが、本当にたとえようもない事実だった。
「ああ……」
青く蒼い紺碧の下で。目を閉じる。涙がこぼれる。頬を伝ってやがて静かに、夜空に彩られた砂地を叩く。こんなに、こんなにも違うんだ。トーゼンだよね、ボクとあなたは同じじゃないんだ。指の高さ、血の熱さ、肌の柔さ。そう、何もかもが違う。だからこそ、その中に何を見出すか。そこが何よりも大事なんだ。テイオーとマヤノ。ボクらはどこまで行っても同一同質じゃない。だからこそ、だからこそ、ボクとキミで同じものは何なのかを探る。白く白く染まりゆく、心の響きをソナーにかえて。もっと更により深みで眠るものを探す。深くまで探して、心ゆくまで理解したいんだ。
「ボクのこと、わかる?」
こくん。マヤノが静かに頷く。真理と理解の入った宝箱は深みにない、一呼吸あれば拾い上げられる場所にあった。でも、これまでずっと気づきもしなかった、探せもしなかった。遠くを、一年間ずっと遠くだけを見ていた。だから不思議だ、こうしているとすごく落ち着く。心が通い始めた気にすらなる、この感覚は年月が与えるものなんかじゃない、だって産まれた時間なんて、数年としない一年と数か月の差だもん。
「……わかる」
でも、それでも。
一つ余さず分かる、分かるんだ。
不確かさなんてどこにもなく、マヤノは生きている。
マヤノが、いまここに生きていることを。
「生きてるよ、ボク」
伝えて初めて実感が胸を貫いて、全身に波及し始める。瞳は想いに呼応して、睫毛の端を更に潤ませていく。
「わかる。マヤ、分かるよ」
つたえたものがかえってくる。これは叫びだ、思い出の放つ魂の咆哮だ。噛み締めるようにつぶやくと、これまでの物語が繋がり、ボクらの曖昧さが分かり、判って、解っていく。ああ、わかるよ、ボクもわかる。わかるからさ、なにもかも。泣く必要なんてどこにもないじゃん、そんな顔しないでよ。つられちゃう、ボクまで泣きたくなっちゃうじゃん。あはは、ダメだなあ、つられたよ。肩口の布地に海と同じだけの塩味を吸わせた。
「マヤノ」
「うん」
「気付けなくて、ごめん」
「ううん、いいの……わかるでしょ?」
「……うん」
「マヤがそうしたかった、それだけだから」
「……ずっと、励ましてくれてたんだね」
「……うん」
「ずっと……」
胸に滲むもの、これが多分。愛、なんだ。知ったかぶりだったみたい、実は知ってなかったみたいだよ。人に愛されるって、こんなに激しいものなんだね。指先が光の粒になったみたいだ。冬にのしかかる寒い空気もぜんぜん痛くないし、猛るような胸の高鳴りも祝福のベルに聞こえる。痛くはない、響き伝わる思いの丈は、痛みよりも鮮烈な刺激で記憶を脳裏に刻んでいく。
「ごめんは言わない、言えないや」
合わせた手のひらが涙に濡れている気がする。そんなわけないよね、手と顔はだいぶ離れてるから。あーでも、手汗だとしたらちょっとばかし恥ずかしいや。仕方ない、もっと恥ずかしいことで上書きして、ボクは照れ臭さに対抗した。
「だから。これまで、ありがとう」
やわらかく広げられた手の平を握りしめるように、指と指のあいだをボクのてのひらで抱き締めて。さらに深く、深く深くまで彼女を理解するために。その温もりを受け渡し、そして取り込んで。
「ボク、わかっちゃった」
そうしてようやくハッとした、何故か分かった、わかっちゃいないと糾弾されたことの意味を、わかったつもりでいたのは違っていたんだってことを、少しだけ。マヤノが教えてくれたのかな。分からないなりに分かったんだ、いま。なら、ボクにはやるべきことが、伝えるべきことがあるはずだ。感傷にだけ浸るのをやめて、閉じてしまっていた目を開いて、端からこぼれ落ちる涙一滴を無視して、にこりと微笑む。
「負けたくない。だからさ、負けない」
ほんとうは、いつだってそこにある。
勝ちたい、ううん。負けたくない。
誰にも、誰にだって、自分にだって負けたくない。
「いま、ここで」
「……うん」
だからさ。手を離して、一歩離れて。
ボクは言うよ。
キミが掛けてくれた魔法を解くための、たったひとつの願いのコトバを。
「マヤノ」
「……なあに?」
「噛ませて、キミを」
最初で最後の傷跡を、遺すから。
運命よりも濃い誓いで、消えないように刻むよ。
「ボクを受け取って欲しいから」
「わかってたよ、テイオーちゃん」
こくり。いつかにボクがしたのとは違う、手を取ってと言わんばかりの差し出し方で。優し気な微笑みを湛えながら、マヤノはボクに左手を捧げた。小さくて柔らかかったマヤノの手の甲を、ボクの、ボクだけの手の平でうやうやしく包み上げ、そのまま、ゆっくり口元へ。指先を近づける。手を、顔を寄せていく。
これまでの幸福を失くすまであと数秒。
四を越えて、三をかすめて、二を終わらせて、一を数え切るよりも早く。
ボクは、マヤノの指先の。
林檎より甘く、マシュマロよりも硬い、小指の根元に、噛み付いた。
「ああ……」
「……泣かないで、おねがい」
噛み付かれてすごく痛いはずなのに、マヤノは優しくボクの頭を撫でてくれる。苦しい、痛い、どうして、どうしてこんなに、お肉を食べるのと一緒なことのはずなのに。どうしてこんなに涙が止まらなくなるんだろう。傍から見たらきっと、ものすっごく格好悪い体勢でボクは泣いているんだろうなって、ぜーんぶ分かっているはずなのに。マヤノにも泣かないでって言われたのに、ダメだ、ダメなんだ、ボク、ああ、キミが分かったことが全て分かってしまったから。込み上げてくる熱いものを、隠すことなんてもう一切出来なかった。
ずっと。ずっと思ってたよ。ボクはずっと。人に噛み付いて、何が分かるんだろうって。キミにされながらずっと、ずうっとそう思ってた。それがいま、さっき言葉でマヤノに伝えた以上に、自分のなかで途方もなくぜんぶわかりきった。ずっと受けてきた無償と有償の愛ってやつを、本当に心の底から。分かって、あまりにも分かり切ってしまった。
「あり……う、マヤ……」
肉を食みながらじゃ声も満足に出せやしない。肌に吸われて唇のあたりで震えるぐらいの力しかない。だったら、想いを。この祈りを。ボクの、テイオーの終わりを。キミに、マヤノだけにあげる。初めて噛んでわかったのは、渋くも甘い汗の味。これまでに理解しているものは、噛まれて、吸い上げられて、もう一度強く歯が食い込むあの感覚。
想起しよう、罪の精算を兼ねるために。痛みはやっぱり痛みだから、いまからかつてを想像することは容易いはずだ。この場でキミにボクが与えているだろうイマは、きっとボクがキミから味わったカツテと同じものなはずだ。
噛んで、舐めて、嘔吐きに堪えながら探し、ふかくを探り、根元に辿り着いてボクの意志で歯形を付ければ。がり。骨を噛む鈍い響きが、流した涙の裏側で弾け散る。理解するという喜びを、厳かに受け取った唇がわななく。
血の味はやっぱりしない。だけどものすごく濃厚な味だ。うまく形容できないのも当たり前。ボクに前を向かせようと応援してくれる、たった一人からしか噛み締めることのできない味だから、何かに例えようとしたって今のボクには。理解が、いや違うや。まだすこし、言葉がきっと足りていないんだ。
ひたすらに深く噛み締めて、分かるために強く味わって、ようやくキミを受け取ったのだから。ボクは、前を向く。前を向いて、二人向き合う。しばらくのあいだ静かな、音のない世界を過ごした。マヤノ。ボクが発した。テイオーちゃん。マヤノが口ずさんだ。それだけでもう大丈夫、今日の分で必要な言葉はたったそれだけで足り切った。途方もない時間のあと目をつぶれば、闇の中に星が散っていて、潤んで、溶けて、白く眩しくて、不思議なまでに心が熱くてたまらなかった。
キミがくれた全部の痛みと優しさを、返し切ることも出来ないまま、キミの身体から歯をよける。月の下でよだれの糸が艶めくように白くひかる。ポケットに手を突っ込んで、おしぼりを探して、手元に開けたらマヤノの手を拭いてあげる。ひとしきり拭き終わったら、今度はごみをポケットに突っ込んだ。
「えへへ、ありがと。キレーになっちゃった」
「そっちのが良いでしょ、やだった?」
「ん~、手のえーと、くぼみのなみだ。きれいだったからなあ」
「……マヤノってさあ、たまにシュミ悪いよね」
「ええっ、そんなことないよお! ……あ、ちょっとストップ、動いちゃダメだよ?」
そういうと、マヤノがボクの目元を自分の袖口で拭ってくれた。夜闇の暗がりの方がだいぶ強い、ポンコツなレース場のライトでも、マヤノの勝負服の袖が濃い色に変わっているのは目視出来た。
「そんなに泣いてたんだ、ボク」
「スーパーハリケーンってカンジだったね!」
「からかわないでよ、もうっ」
不格好になっても良いからと割り切ってボクは笑った。それを見てマヤノも笑ってくれた、ボクが言うのもなんだけど年相応の笑顔だった。ひとしきり笑って、笑い尽くすとボクら二人の息遣いだけが聞こえる世界がやってきた。星を見上げた。タイミングを見計らったかのように、星はキラめいた。
「ありがとう」
「ううん、マヤがしたかっただけだから、ぜんぶ」
「あはは、ありがとう。でも、うん。これで、ぜんぶ」
「うん」
「おしまいには、しよう」
マヤノの眉根が寂しそうに下がる。名残惜しさは感じないけど、周りの空気がどことなく悲しそうな雰囲気になる。
「そう、だね」
憂い気に呟くマヤノ。でもそこまでは想定内、ここからが運命の分岐点。躊躇う必要なんてない、これ以上湿っぽくなる前にボクは言った。
「でさ、提案なんだけどさ。代わりにね?」
「……んと、かわりに?」
「うん、代わりに。新しく始めようよ、ボクらを!」
「んーと、マヤたち、生まれ変わるってこと?」
「違うよ、生まれ変わるんじゃないの、新しくなるだけ!」
全部、これまでの全部。ボクらの大事な軌跡だから。
汚れてしまってもいい、穢れを残したって構わない。
大人になるってきっと、そういうことだから。ボクは胸を張って、堂々と伝えた。
「捨てなくていいって、分かったから。全部。大切なものだから。でも、時間は進むから。ボクらはきっと止まれない。だってボクたちはさ、走ることが大好きでしょ? だから、ここにずっとは留まれない。キミが与えてくれる痛みを、ここに居て良い理由にしちゃいけない……唐突かも、だけどさ。これまでずっと、ボクが辛い間ずっと。夢を与えてくれてありがとう……」
「……そっか。だから、新しくなる……んだね。嬉しい、けど……さみしいなあ……」
「えー……マヤノ。なんか勘違いしてない?」
「えっ? だってありがとう、って。そこまで言ったらお話おしまいでしょ? ちがうの?」
「ちっちっち、そんなわけないじゃん。ここで終わったら提案じゃないでしょ。こっからが本題。言ったじゃん、新しくなろうって。だから、ボクらはさ……」
ごくり。いつになく真剣な表情でボクの一挙手一投足を見つめるマヤノ。ちょっとだけからかいたくなっちゃうけど、そんなことしたら話の収拾がつかなくなっちゃうから。ひとつだけ咳払いを置いて、ボクは。今日初めてちゃんと、マヤノトップガンを見つめた。
「これまでよりも次のステップへ、新しくなるために! ボクらだけの新しい約束をしようよ!」
ボクらの最後を伝えるためにしっかりと、見た。
「未来に進むために!」
運命に恋した痕だけを残して、未来へと進むために、マヤノを見た。
「未来に行くために!」
優しいマヤノの胸を借りて、ボクは胸を張って叫ぶ。
「勝手だって分かってるけどさ、ワガハイは無敵のテイオーさまだから!」
流してしまった涙だけをここにおいていかなきゃ、ね?
「ボク、待ってることにしたからさ!」
終わらない夜を越えるために。
「未来で、キミを!」
途方もない旅の路を進むために。
「テイオーちゃん……」
「どう、マヤノ?!」
「……うん、わかった! 約束ね、テイオーちゃん!」
手を、差し伸べるよ。運命の残した傷痕を食らいつくすには。
新しい約束の後押しが必要だって思ったから。
もう、忘れるだなんて、どこにも意味がないんだ。
「約束ついでにさ、マヤノ!」
ボクは、ボクはいまから。
「有マ、ゼッタイ見ててよね!」
新しい私に、変わるから。
「見せつけるからさ、全部!」
少女の時間はもうおしまい。ボクのモラトリアムはここでフィナーレを迎える。別に一人称を変えるとかじゃない。単に覚悟の話なんだ、大人になるっていうのは。
踊るように進もう、眩しくて見えない未来の話へ。ゆこう、ゆくよ、ボクはきっと前へと歩いていくために、この脚とこの生を与えられた生きものなんだって、心の底からそう思っているから。
子供から大人に進んでいくために、ボクはボク自身を過去に飾る。これからは、そう。私の物語が始まるんだ。ボクは、私は、世界を壊していまこそ羽ばたく。物語の更に先へ進む。運命たちの傷痕は、そこでようやく一新されるはずだから。
「見せつけて、終わって、サークルの中まで、全部見終わったら!」
ねえ、マヤノ。
「マヤ、わかるよ! そのときに、約束しようって言うんでしょ!?」
もう二つぐらいワガママしてもいいかな?
「あははっ、そうだけどさ! でも言わせてよ、もうひとつだけ、約束をしようよって!」
ボクさ。
先明後日の朝を、ちょっとだけ前借りしたいんだ。
「……うん、アイコピー! ぜったい、ぜーったい待ってるからね!」
だからさ、渦巻いてるこの想いを。
「……ありがとう」
「えへ、どういたしまして?」
子供を過ぎ去ろうとするボクたちに捧ぐ、華やかな死出の旅路の糧にするよ。
「マヤノ!」
新しい道が出来たから、次に進むよ。道ができたなら行かなきゃだから。
でもその前に、最後にもう一個だけ、大人になる前に、もう一回だけ。
柔らかく熱い、ボクにとっての最高のはなむけを、振り向いた大輪の花束を。
ボクは、いまになってようやく。
ようやく此処で、抱き締めた。
涙が一粒だけ、聞こえない声と一緒に。
静かに、静かに溢れ落ちた。
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