存在しない方舟 (からす the six hands)
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寒きに哭く
「ドクタ〜ただいま〜。」
長期の任務が終わり、ドクターの執務室の扉を開ける少女が1人。黄色の髪をしたコータスは、その大人びた顔に笑みを浮かばせていた。
部屋に入り、ソファに彼女が荷物を色々置いている時、背後から迫る影が一つあった。
「あっ、そうそうドク…。」
彼女がドクターに話しかけようと、振り返った時彼女は迫ってきていた人物に抱きしめられた。彼女は数秒ほど理解出来なかったようで硬直していたが、理解した瞬間顔に少し朱を差した。
「あのぉ…ドクター、どうしたのぉ?」
彼女は気恥ずかしさを隠しながら抱きしめる人物に問いかける。しかし、強く抱きしめるだけで何も言わない。少しした後、抱きしめるドクターは口を開く。
「クルース、君は寝ないのか?」
その質問に彼女…クルースは逡巡を挟む。しかし、意図を理解するのに、今のクルースには一瞬もいらなかった。
「眠たい私はあの時私が殺したよぉ。」
その答えを聞いたドクターは肩を少し震わせる。すぐに収めたが確かに震えた。
ドクターは抱擁をやめ、彼女の肩を掴む。彼女からは顔を見れないバイザーが、ドクターからは閉じた目がそれぞれの視界に写る。
嗚咽が混じった、上擦った声でドクターは言葉を紡ぐ。
「君は、休むべきだ。」
「私は休んじゃいけないんだよドクター。」
「そんなの誰が決めたんだ。」
「私が、決めたの。」
ドクターは目を合わせない。項垂れながらも立っている。クルースはドクターを見つめる。信念と鍛えられた体で一本の柱のように立っている。
「ドクターは、眠たい私が好きなんだね。」
「違う。君が好きなんだ。」
「でも今の私は嫌なんでしょ?」
目の前の人は何も言わない。少し意地悪な物言いをした自分に嫌気が刺す。
「辛くは、ないのか。」
口を突いて出てしまう。言ってはいけない事が、出てしまう。取り消そうと、慌てて顔を上げるが、そこには笑顔を貼り付けたクルースの顔が、あった。
「今は大変だけど、辛くはないよぉ。それじゃ、私はいくねぇ。」
そう言って彼女はソファに置いていた荷物をそそくさとまとめて部屋を出て行く。その振る舞いはいつものようで、部屋に明るい雰囲気が戻ってくる。
しかし、ドクターはそのバイザーの下で絶望の表情を浮かべている。部屋の扉を閉める彼女に伸ばすドクターの手は届かない。
「待って…。」
か細く呟いたその一言は、彼女に届くこともなく部屋に染み込んだ。
扉に寄りかかる彼女は一つ上を向いて溜め息を吐く。
「休んだら、だめなんだよ。失うのは、眠れないのよりも辛いから。」
彼女は決心を固めて歩き出す。誰かに訪れる明日のために。
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灰狼白馬
カジミエーシュのなんか大事なものを奪って逃げるペン急をプラチナが追撃するところから始まります。
ビルの壁面の窪みに座り、部下に指示を出す少女が1人。白い髪のクランタ族の少女だ。
「うん…うん…そのまま追撃して。そっちは周辺を警戒しつつ包囲網を…」
視界の先にはカジミエーシュの路地裏を逃走する4人の影。赤髪のサンクタ、青髪のループス、ペンギン、橙髪のミノス…要するにペンギン急便だ。ビルの影に時折隠れ、距離は1キロ近く離れてはいるが、その姿はプラチナの目にはしっかりと映っている。故に、先回りするルートなどを容易く構築できるのだ。
連中が次の角を曲がったところから少し離れたところに位置する廃倉庫、そこに潜ませた狙撃部隊のところに誘導してチェックメイト、それが彼女の計画だ。今のところ特段異常を伝える通信も入らない。計画通りに作戦が進むことに安堵の息を吐く。
そして、奴らは角を曲がった。無数のクロスボウのボルトに射抜かれ、死体と化す未来を見ていた。だが、現実は違った。何も起こらない。奴らは何事もないように路地裏を駆けている。油断させるために緩めた包囲が仇となり、包囲網が容易く突破された。
現状に愕然としながらも、早急に狙撃部隊に通信をかける。
「何があった!何をしている!」
だが、誰も出ない。もしや壊滅?だとすれば通信があって然るべき…。そう思いながら返事を待つと、少しのノイズの後部隊員の誰の言葉でもない声が聞こえてくる。
「アハッ。随分焦ってるね。」
「…誰かな。」
「さあ誰だろうね、僕は。まあ、通りすがりの死神ってところかな。」
「ペンギン急便のメンバーにお前みたいなのがいるなんて聞いたことないけど。」
少しの沈黙の後、向こうから笑い声が響く。
「アハハハッ!まあ、君はその程度ってことさ。」
「何、煽ってんの?」
「まあ、君のお友達も弱かったし当然かな。それに、その焦りっぷりから見るに通信すらできなかったみたいだしね。」
「ッ…!」
通信を切り、壁を蹴る。部下が全滅したことへの焦りを消化しながらビルとビルの間を駆け抜ける。
数分後、真下に廃倉庫の屋根を捉え、それを蹴破って中に入る。中は新鮮な血液の匂いで満ちている。
「早かったね。」
そして、死体と血溜まりの中で返り血に身を赤く染めながら笑う灰色の狼が一匹、佇んでいた。
「私今計画崩されてイラついてるから笑わないでくれる?」
「崩された?…フフッ…面白い冗談を言うお馬さんだね。僕なんかに負ける奴らに、テキサスを殺せるわけないじゃないか!」
そう言い放つと灰色の狼は高らかに笑う。その笑いは狂気に染まっていた。白馬は笑う狂気に弓を引き絞り、矢を放った。黒い雷を放つ全霊、神速の矢。その矢は必殺の威力を持って狼に迫り、刺さる寸前で弾かれた。
「へぇ…悪くないね。ちょっとは楽しめそうだ。」
倉庫に響いていた笑い声が止む。細めた目は笑っておらず、膨大な殺気が溢れ出し、空間を満たす。白馬の背中にゾワりと悪寒が走る。意識せずとも心が勝手に恐怖してしまう。殺気は心臓を締め付け、呼吸が速くなる。
構えた、そう認識した次の瞬間には懐に、それがいた。殺気を纏って真下から放たれる斬撃をすんでのところで回避し、連撃のように放たれた横薙ぎをバク宙で回避する。
地面に着く前に素早く体を捻り、蹴りを繰り出す。狼は片手でそれを難なく受け止めると、もう片方の手を軽く振るった。
軽いながらも必殺の威力を持つと見るとすぐ、蹴るために伸ばしていた足を折り曲げ、相手の腕を蹴って跳躍し、距離を取る。距離の離れた白馬に、振るった刀は届かない。だが、その延長線上の地面が飛んだ刃の余波によって削られる。
それを横に転がり回避したところに、灰狼は跳躍し、両手に握られた刀を白馬に叩きつけた。とてつもない速度から放たれたそれは、並の人間が相手であれば一瞬で肉の塊に成り果てかねない威力を伴っている。
だが、それは白馬の柔肌を切り裂くことはなかった。当たるギリギリのところで弓で防いだのだ。白馬は真上に蹴りを放ち、弓に矢を番えて地面を蹴りながら三発同時に射撃する。足、頭、腕をそれぞれ狙ったものは全て弾かれたが、それでいい。その矢には、衝撃で爆破する源石が埋め込まれている。弾いたことで即死クラスの爆発の奔流が流れ出す…はずだったのに、ただ弾かれただけで終わった。
「ああ…仕掛けがしてあったみたいだね。普通の人間ならそれで死ぬだろうけど、僕には効かないよ。」
「はぁ、化け物だね。」
壁に張り付きながら逃走経路を画策していると、狼はゆっくりと歩いてくる。
「炎国の言葉ではこの状況は袋の鼠って言うんだっけ。さあ、ここからどうするんだい?お馬さん。」
「はぁ…また始末書書かないといけなくなっちゃったんだけど。」
「?どういう意味だ…。」
白馬が小さく呟いたその直後、狼の真上から黒い槍が…いや、矢が落ちてきた。それは地面を抉り、倉庫の中を土煙で充満させる。その隙に、白馬は入ってきた穴から逃げ出す。上司の姿は彼女には捉えられない。
任務の失敗がバレて憂鬱な気分を引きずりながら、彼女は帰路についたのだった。
赤と影のみが広がる廃倉庫の中で、1人蠢く影があった。
「無粋だなぁ。全く。」
流血を気にせずに狼は歩き始める。カジミエーシュの闇に消えたそれが次に出向くのは一体どこであろうか。
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