口福~不幸と幸福の交わる言峰とシスターの仄暗い日常~ (アイコ)
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絶世美人

 冷たい風が背後から吹いてくる。この先の不幸を暗示させるような、死が手招きしているような感覚は何度も味わったことがあるが、今回もそれに相違ない。

 首筋を這う低い温度に身体を一度震わせ、シスター服を着た女は腹をくくって教会の敷地に入った。サナトリウムにでもいそうな陰鬱な表情をした美女が歩くたび、かつかつと音が鳴る。赤いビーズ――もしかしたら本物の宝石かもしれない――をチェーンでつなげたロザリオを左手で握りしめ、入口へと向かう。

 風は止まない。

 なびいて顔に当たる髪を左手で押さえながらも、禁煙を始めたばかりの口が寂しくて右手でガムを取り出し口に入れる。噛むとメンソールの味が口内いっぱいに広がった。

 扉を開き教会の中へ入る。典型的なカトリックの教会らしく御堂が広がっていた。

 これから上司となる神父だろう男が一番前の座席に座っており、私が入ってきた音を聞いて立ち上がり、こちらを向いた。

 

「私とて忙しい身だ」

 いきなりの言葉に戸惑うも、その通りだろうと首肯し続きを促す。

「わざわざ君を待っていたわけではない。だが、教会の意向というのなら、君を歓迎するとしよう」

「ええ、承知の上だわ。わたくしも早く聖杯戦争の後片付けを終わらせて、元いた部署へかえりたいもの」

「そう簡単にことが運ぶかな。まあいい。君の部屋へ案内しよう」

 

 神父もそうだが、シスターにしても教会に住み込みらしい。教会とはいえ、男女がひとつ屋根の下に住まうというのは少々不健全ではあるまいか。そう思うも、神父を一目見て思う。この美丈夫は女性に不自由しないだろう。手を出されるならば、むしろ美味しいくらいだ。

 好みかそうでないかでいえば、彼の外見は女の好みの範疇だった。

 

「そうだ。既に聞いているだろうが、私は言峰綺礼という。君の資料に名は添付されていなかったな」

「そうね。わたくし、信頼できない人には名を明かさない主義なの。名を知らぬ者には、何人たりとも傷つけられない。そうやってつくられたから」

 

 ここで初めて神父――言峰は表情を変えた。面白そうに笑いながら、冗談めかして言葉を発する。

「出し惜しみをされると、余計に興味深い。いつか聞き出してみせよう」

「教えることなんてなくてよ」

 

 ツン、と私が澄まして言うも、気にした様子はない。それどころか慣れている様子で受け流し、首から掛けている十字のペンダントを弄った。

 

「では、こちらだ。ついてくるがいい」

 

 奥の扉をくぐり、回廊を歩く。食事をするための食堂、浴室など生活に必要な施設は大体教えてもらった。最後に一つの部屋の前で、言峰は立ち止まった。

 

「さて。ここが君に与える部屋だ。質素倹約を好む聖堂教会のシスターなら充分だろう。私には職務がある。そう暇ではないが、ある程度の片付けもしておいた。……が、まあ、気に入らなければ、自由に模様替えでもするんだな」

「きっと充分よ。ご丁寧にありがとう、言峰神父」

 

 女が礼を言ったことに、驚いた様子の言峰に「なんですの」と追求すれば、「素直だったので、少々……」と言葉を濁す。

 

「あら、わたくしだってちゃんと感謝くらい伝えられますわ。失礼な人ね」

「悪かった、手のかかる子どもを思い出してしまった」

「子ども?」

「後見人を務めている子どもがいる。少々と言わず、生意気でね」

「そういうの嫌いそうなのに」

「師の遺言だ。従わないわけにはいかないだろう?」

「事情がおありなのね」

 

 意外なこともあるものだと目をぱちくりさせれば、少し気まずそうに言峰は視線を逸らした。

 

「さあ、早く寝るが良い。いつまでも女性の寝室の前に立ち往生する趣味はない」

「そうね、朝も早いわけだし……明日からよろしくお願いします」

 

 言峰が去っていく背中を目で追って、そうしていても仕方がないとばかりに女はドアノブに手をかけ、部屋に入った。

 

 

 

 

 鳥の鳴き始める頃に目が覚めた。

 目覚ましはかけなくとも、いつもこの時間に自然と起きだしてしまう。

 与えられた部屋は思いのほか広く贅沢に感じるも、軽い運動をするのにちょうど良い。何せ女は事務処理もそうだが、一番は聖杯戦争に関わった言峰の護衛のため、派遣されてきたのだから。

 

(わたくしに、それが務まるのだろうか)

 

 女は人を殺したことがない。

 そういう意味では、代行者をやっていたこともある言峰自身の方がよっぽど腕がきくだろう。彼女ができるのはせいぜい、その体質を利用して『盾』となることだけだ。

 一瞬の隙も見せてはならない。責任が体中にまとわりつくように重い。アイシーンの五ミリを探そうとして、禁煙していることを思い出し舌打ちをした。

 もうすぐに朝食だというのに、手放せなくなっているガムを口の中に放り込み、奥歯で噛んだ。染みわたるメンソールの味、だけど物足りないニコチンの要素にイライラしながらストレッチをしていると、バターの良い香りが漂ってきた。

 十中八九、言峰だろう。今朝の朝食を作ると申し出てくれた彼を待たせるのも悪いと思い、まだ味の残っているガムを捨てる。未だ馴染んでいない自室から出て、食堂へ向かった。

 

 

 

 

 食堂へ辿り着いて驚いたのは言峰の他に、まだ年若い青年がいたことだ。当たり前のように座席に着席している。金髪の、おおよそ日本人ではない顔つきをした青年は何が面白いのか、にやにやと笑い、こちらを見ている。

 

「言峰、貴様の嫁がようやくやってきたぞ」

「ギルガメッシュ――彼女は私の部下だ。そういう関係ではない」

 

 どこかで聞いたことのあるような、大層な名前だ。聖書の元になったとも言われているギルガメッシュ叙事詩なんてものをふと思い出してしまったのは、職業病だろうか。女が考えている間にも、名に恥じない態度の青年は話し続ける。

 

「だが、この国では男女が共に暮らすというのはそういう関係だと聞き及んでおるぞ。なあ?」

 

 突然こちらを向き、話を振ってきた青年に何と答えればよいのか測りかね、女は沈黙を選んだ。途端、おもしろくなさそうにむすっとし「面白味のない女か」と呟いた。

 

「言峰神父、こちらどなたなんですの? 大層失礼な御方だこと」

「気にする必要はない。少々訳ありでな」

「まるで王様のようね、美味しい所しか食べないみたい」

 

 パンの耳を切り取ったトーストを食べている彼に、そう言うと目の色を変えた。表情の良く変わること。女がそう思っている間に満足そうにうなずいた青年は「よし。貴様は我のことを王と呼ぶことを許そう」と言い、スクランブルエッグを持ってきた言峰を見る。

 

「案外好い拾い物をしたのではないか、言峰」

「まだ仕事ぶりを見ていないから、何とも言えん」

「器量は……雑種にしてはなかなかだ。貴様に似合いだぞ」

 

 二人で自分に対し妙な評価を下そうとしているのに頭痛がしてきた女は、話を切り変えるべく頭を押さえながら言葉を発する。

 

「……王様のことを突っ込むと、面倒なことになりそうだわ。神父、わたくしはパンの耳もちゃんと食べてよ」

「なんだと! 貴様、家畜の食い物を食うというのか!?」

「あら。わたくしなんて、王様にとっては家畜も同然ではなくて?」

 

 女がそう言えば、彼は言葉に詰まったらしい。黙りこんだギルガメッシュを見て、言峰が四人掛けのテーブル、ギルガメッシュの向かいの席につきながらにやりと笑った。

 

「お前がしてやられるのは、愉快だな」

「言峰、無礼だぞ。女、貴様もだ」

 

 神父はその言葉を無視して、十字を切る。女もそれに倣うように手を動かし、食事を始める。

 食卓は静かなものだった。

 女を含め、その場にいる全員が基本的に食事中は喋らない主義だったからだ。ラジオが無感動に流れており、たまに外で鳥の声や風の音が聞こえてくる。

 全員が全員、カトラリーの音を立てないのもそれぞれの教養と育ちの良さを物語っていた。

 それぞれが食事を終えた頃、朝食を用意してくれた言峰に代わり女が後片付け――当然、まだよく知らない場所なので指示されながらだが――をする。これからはきっと交代で食事を作ることにもなろう。

 

 

 

 

 冬木教会では平日もミサを行う。それ以外にも信徒たちのお話を聞いたり、聖書通読をおこなったりと忙しい。

 新しいシスターに興味津々の子供たちに囲まれた際や、耳の遠いおばあさんの案内をする際には特に気を使わないといけない部分もあって困った。

 言峰はここで慕われているらしい。良い神父さんだから、シスターも心配しないでねと何度言われたことか。あんな胡散臭い神父もそうはいないだろうと思いながら、笑顔で「ご心配なく、よくしていただいていますわ」と答えておいた。

 目まぐるしく、冬木教会での一日目は過ぎ、夕食を済ませ、女は風呂へ入った。

 

 風呂から上がった女は、廊下で言峰と鉢合わせた。もう今日は疲れ切っていて、泥のように眠りにつきたいところで彼と鉢合わせて、舌打ちをしそうになったのを堪える。

 言峰はくっ、と笑ってそんな女に話しかけた。

 

「疲れたか。いや、そのようなこと聞くまでもないな。表情を見ればわかる」

「見知らぬ土地で愛想を振りまくのは慣れていないの。まさか、シスターとしての本業までやらされるなんて。なんて人使いが荒いのかしら」

「忘れないでほしいのだが、先の聖杯戦争の後処理が君の本来の役目。この程度は日常業務にすぎん」

「勿論、わかってるわ」

 

 女が囁くように言うと、言峰は「まあいい」と言って付いてくるように指示をした。

 

「初日の労をいたわってやろう。なに、歓迎会というやつだ」

「そんなの望んでないのを分かっていて、よく言うわ」

「あいつも待っているぞ」

「あいつって、王様?」

 

 首肯した言峰に、逃げられないことを悟った女はしぶしぶ付いていった。

 案内されたのは言峰の自室。窓のない薄暗い室内は彼の性格と好みを表しているのだろう。女は自分の自室までこうでなくてよかったと思いながら、部屋に足を踏み入れた。

 ギルガメッシュが一人で赤いソファを使っている。赤ワインの入ったグラスを揺らしながら、言峰と女を見る。

 言峰は扉の近くにある同じ柄のカウチを指差しながら「座りたまえ」と告げた。彼自身は慣れたように部屋の奥のカウチに腰かける。

 女は「お言葉に甘えて」と言峰に続き、腰を落ち着けた。ふかふかしていて座り心地の良い。

 

「待っていたぞ、雑種。この我をどれだけ待たせるつもりだ?」

「あら、王様はもう一人で始めているじゃない」

「たわけ。何故我が雑種如きを待ってやらねばならない?」

 

 香りを嗅いで、ワインを一口。金髪の青年の、その動作はふてぶてしいまでに様になっていた。

 

「貴様もどうだ、言峰の秘蔵の品だぞ。早く注いでもらえ」

「でも、悪いわ……」

「貴様が飲まんと言うのなら、我が全て飲み干すだけだ。さあ」

 

 そんなやり取りをしている間に言峰はすべて承知したかのように、ワイングラスを二つ棚から取り出し、ワインを注ぐ。無言で手渡されたそれを、言峰のもつグラスとぶつけ乾杯してからひとくち、口に含むと芳醇な香りが喉を通り鼻の奥に広がった。

 

「まあ! とっても美味しい!」

「貴様、さてはいけるクチだな。いいぞ、おもしろくなってきた」

「わたくし、これでも元居た部署では〝酒飲み殺し〟と呼ばれていたものよ」

「言峰、貴様は飲まんのか」

「……いや、少々驚いていただけだ。品行方正なシスターかと思っていたからな」

「そんなことなくてよ。わたくし、タバコも嗜みますもの。赴任にあたり、禁煙中ですけれどもね」

 

 女がグラスの中身をグイっと一気に飲み干すと、ギルガメッシュは喜んだ。言峰は酒をたしなみながらも「言葉遣いのわりに品がない」と零す。

 

「いいじゃない。生臭坊主が何を言うの?」

「私は神父だが」

「でも、あなたからは魔術の匂いがするわ。魔術協会に赴任していた時期があるのは知っているけれど、それだけじゃないわね」

 

 言峰は瞬きをする。その間に何を考えたか、女には計り知れない。ただ、藪蛇だったことだけは分かった。「いい度胸をしているな」女の言葉に答えるのはなぜかギルガメッシュの方で、ぞっとした。彼がもしかしたら魔術師なのかもしれない――

 

「何も聞かなかったことにしてやろう、少々お前は軽率だ」

 

 それが何かしら魔力に関わることを今現在も行なっていると肯定したことと同義なのはさすがの女にも理解ができる。

 酔いが醒めてしまった。

 女はここで辞することを告げ、言峰もギルガメッシュも止めはしなかった。



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デッド・ラインダンス、デス

 女がこの教会にきて、半年以上が経った。戦後の処理は少しずつ進んでいるものの終わる目途が付かず、さすがの言峰も、女自身も嫌気がさしてきた頃合だ。

 今日の夕食は外で済ませてきた。品行方正で理想的なシスターを歓迎する冬木の中では、あわよくば彼女とそのような関係になろうとねらう男たちもいるのだ。女はうまくそういう男達を誘導して食事と酒を奢らせて、その気にさせたところで教会に帰宅をする。彼女なりのストレスの発散方法だった。

 

 

 

 

 夜道は好きだ。

 ただし今日は事情が少し違うと、女はため息を吐いた。

 物分かりの悪い男はたまにいる。いいや、男は誰も彼も馬鹿なのかもしれない。美しい肢体を目の前にしたら、跡をつけてまでモノにしようと考える者もでてくるのだ。

 素人み溢れる追跡にわらいを堪えながら、どうしようか考える。面倒なことになったものだ。無意識に立ち止まると、後ろから腕を掴まれた。

 

「どうしてだ! あんなにも甘やかに笑ってくれたじゃないか。今夜は俺と過ごすとばかり!」

 

 予想通り、つけてきていたのは先ほど奢らせた男で、その未練がましさに呆れが混じる。逃した魚は大きいのかもしれないが、シスターを落とすことが出来た男は未だ冬木にいないというのに。女は淡々と告げる。

 

「わたくし、神に捧げた身ですもの。神の血を共には出来ても、夜までは共にできませんわ」

「どうせ神父には抱かれてるくせに! この阿婆擦れ女」

 

 女は目をぱちくりさせた。素直に驚いたのだ。言峰と女がそういう関係にあると見られていることに。そういえば、自分だって神父とシスターとはいえ、ひとつ屋根の下、生活を共にするのはどうなのかと思ったくせに。

 

「言峰神父は無体を働きませんわ」

「嘘をつくな。冬木の女は皆あの神父に憧れるんだ!」

「わたくし、神に誓って嘘はつきません」

 

 どうしたものかと思案していると、暗い影の中からひときわ目立つ金髪が姿を現した。無言で女を掴む男の手を外す。「いてて、何だお前は。お前もこの阿婆擦れにしてやられたか」男が叫ぶと、大きくため息を吐いて、金髪の青年は男に向かって言う。

 

「醜い言い争いを我に見せるな」

 

 特段脅すような言い方ではなかった。だがギルガメッシュの言葉には言い知れぬ凄みがある。「ひぃっ」男は情けない声を上げて、その場から逃げ出した。

 

「助かりましたわ、王様」

「あの程度の下衆、己の器量で処さぬか、雑種」

「王様はここで何を?」

「貴様を迎えに来たに決まってるだろう。言峰が心配している」

「あら。光栄なことね」

「それに、今宵は良い酒が手に入った。飲むぞ」

 

 片手をあげ、赤ワインの瓶を見せると歩き出す。女も慌てて歩み始めた。

 ギルガメッシュは唯我独尊でいて女の扱いには慣れているのか、歩調を早めなくても良く、隣を歩いていて気分が上がる。先ほどの男のことなど、もうとっくに忘れていた。

 

 教会につくと、一度解散した。女を心配したというのはあながち嘘ではないようで、言峰は女の姿を確認すると無言で去っていく。

 

「素直じゃないのが、昔からあいつの面白いところでな」

 

 ギルガメッシュは何かを思い出しながら、くくっと笑った。

 

「さっさと風呂に入れ。十分間待ってやる」

「女性には短すぎる時間だわ」

「王が待つには長すぎる時間だ」

 

 それ以上粘るのはそれこそ時間の無駄だと思い「はいはい」と頷いて、浴室へ向かう。髪を洗うのは諦めた。そんな背中に「言峰の私室で待ってるぞ」と言葉が追ってくるが、振り返ったらもういなかった。不思議なひと。

 ひとなのかどうかも判断できない、名前も知らぬ青年に、女は好感を抱いていた。彼女に対し、女性を求めず、等しく雑種扱いなのが楽なのかもしれない。

 

 

 

 

 女は顔と身体を洗い流し、申し訳程度に保湿すると、急いで言峰の私室へと向かった。ぬぐいきれなかった横髪から滴る雫も気にせずに扉を開く。

 言峰とギルガメッシュはいつもの定位置に腰かけていた。

 

「遅い」

「なんですの、ちゃんと十分じゃない!」

「一分過ぎてる」

「横暴ね、王様ったら」

 

 女がくすりと笑うと、ギルガメッシュは多少むっとした表情をしたが「座れ、注いでやる」とグラスを差し出した。女も定位置に座り、受け取ったワイングラスを傾けた。ギルガメッシュは先ほど持ち歩いていたワイン瓶を持ち、片手で注ぐ。

 グラスの中で赤い液体の跳ねる音がする。とぽとぽ、とぽとぽ。充分に注がれた神の血の香りは重厚で、胸がときめいた。

 口にする。舌で転がした後、喉に流れていくアルコールの熱さが心地よい。

 

「ん……これ、美味しい……」

「雑種のわりに、貴様は味がよく分かるな」

「何しろ、ギルガメッシュが自分で探してきたワインだからな」

「それは美味しいのも当然ですわ」

 

 ギルガメッシュの審美眼は女も認めている。

 

 

 

 

 ご機嫌な酒宴だった。

 通常よりもかなり大きいはずのワイン瓶の中身はすっかり目減りし、残すはあと一杯分といったところだ。瓶に手を伸ばすと、右側からも伸びてくる手があった。瓶を掴む寸前で、お互いが静止する。シン、静まり返った場で視線を交わす。

 先に動いたのは女だった。

 ギルガメッシュの右手を掴み、捻りあげる。

 しかし青年は見た目によらず、力が強い。並の男なら圧倒できるはずの女が逆に引っ張られ、肩が無理な角度に上がる。

 

「う、ぐぅ……」

 

 痛みに顔をゆがめる女を露とも気にせず、ギルガメッシュは左手で酒瓶を取ろうとする。だが、引っ張る力が強すぎた。そのまま女が倒れ込んでくるのを、王は受け止めるほかなかった。

 ギルガメッシュの驚いた顔を、女はにんまりと見ながらその胸の中へ自ら飛び込んだ。勢い付いたままソファに倒れ込む二人。世間に言わせれば美男美女のカップルだというのに、その状況にも微動だにしない。

 

(王様ったら、着やせするのかしら……)

 

 押し倒した状態、案外分厚い胸板に顔があたり、そんなことが頭によぎる。しかし、右腕は彼の右手を拘束したまま、反対の手でギルガメッシュの顎から首筋を撫で、挑発する。

 だが、ギルガメッシュもそれに乗る性格ではない。

 

「最後ぐらい、レディに譲りなさいよ」

「王たる我が最後の一杯にふさわしかろう?」

 

 二人がピリピリとにらみ合っていると、「まあ、そう熱くなるな」と言峰が足を組み替えながら言う。薄暗い部屋の中、それでもしっかりと見えた。絡み合った二人が手を出せない状況で、彼がゆっくりと酒瓶に手を伸ばし、自分のグラスに注ぐのを。

 

「なっ」

「ああっ」

 

 ギルガメッシュと女は声を失う他なかった。

 

「子どものような喧嘩をするくらいなら、家主である私がもらってやろう」

 

 ククッと笑いながら、言峰はグラスの中でワインを転がしつつ、女を見やる。

 

「ああ。それと、シスター」

 

 そこで一拍置いて、言峰は続ける。

 

「明日、会わせたい人物がいる。夕方、時間を空けておけ」

「ええ、ええ。そうでしょうとも。家主であるあなたに従いますわ」

 

 女が厭味ったらしく言う。しかし、それに堪えた様子はない。最後のワインを惜しげもなく飲み干して、フッと笑った。

 

「こちらから会いに行くからそのつもりで――ああ、気負う必要はない。会いに行くのは小さな子どもだ」

 

 子ども――それが意外で少し酔いが醒めた。と同時に今の自分の姿勢を思い出す。ギルガメッシュの右腕を離して、自席に戻った。

 

「王に口付けのひとつでもしないのか」

「あなたほどのひとなら、わたくしからのキスなんて必要ないでしょう?」

「美人からの請いに応える、これが好かぬ男などおるまい?」

 

 女は自分に対して美人と評するギルガメッシュに驚きを得たが、それよりも言峰に言うべき嫌味を見つけられず彼女に当たる様子がそれこそなんだか小さな子どものようで、声を立てて笑った。

 

 

 

 

 坂道の多い市街地を抜け、とある屋敷に辿り着く。うろこのような瓦が壁一面に貼ってあるのが特徴的なその屋敷の主は、玄関先で言峰の後ろに女がいるのを見て、こう言い放った。

 

「ふぅん。綺礼と一緒にいるなんて、あなた趣味が悪いのね」

「ええ、仕事だから」

 

 さらっと流されたのにむっとしたのか、ツインテールが特徴的な女の子――遠坂凛は「この人を信用しちゃだめよ」と続けた。

 

「あなた、どうしてこんなに嫌われているの?」

「最初から馬が合わないらしくてな」

「まあ、わたくしでもあなたを信用しようとは思わないけれど」

「クッ……酷い言われようだ。一応、師……いや、彼女の父親に後見人を任されている身なのだがな」

 

 まだ幼い小学生の女の子に本性を見抜かれているなんて情けないわねと思ったが、それよりもこの男の本性を見抜けなかった父親の方が情けないのかもしれない。

 よりにもよって言峰綺礼が後見人だなんて、この子もかわいそうなものだ。

 

「初めまして。私のことはシスターって呼んでくれたらいいわ。あなたのことは何て呼べばいいかしら」

「初めまして、お姉さん。私のことは凛でいいわよ」

 

 彼女がツンとした態度を崩さないのに苦笑していると、言峰は話を進める。

 

「凛、まずは中に案内してもらっても良いかな。客人を玄関先に立たせるものではないぞ」

「別に私が招いたお客さまではないもの。でもいいわ、応接室に案内してあげる」

 

 凛が先導するのを、言峰は慣れた様子でついていく。

 女も慌てて二人の後を追った。

 

 

 

 

 応接室の赤いソファに言峰と並んで腰かける。凛は小学生ながらもこの屋敷に一人で暮らしているそうだ。母親が生きていた頃は共に住んでいたようだが、その母親も今は他界しているとのこと。

 ちいさな身体、それでも慣れた様子で紅茶を持ってくる。

 

「お姉さんはお砂糖とミルクいる?」

「ええ、ありがとう」

 

 言峰には何も確認せず出すものだから「私には用意してくれないのかね」と言い出した。

 

「いつもはいらないって言うじゃない!」

「今日はほしい気分かもしれない、と言ったら?」

「じゃあ、今日の綺礼にはお砂糖とミルク必要かしら?」

「では、お気遣いに甘えよう」

「もう~! 自分から用意させたくせに!」

 

 子ども相手にもからかって遊ぶのかと思うと、そのおとなげのなさが面白くなって女はくすっと笑った。それも凛の逆鱗に触れたらしく「お姉さんも酷いったら!」と両手をぶんぶんと振り回した。

 

「ごめんね、凛ちゃん。紅茶、頂くわ」

 

 そう言って一口。子どもが用意したとは思えないほどの味で思わず「美味しい」と感嘆の声が出た。

 凛は女のその様子に満足したようで、ようやくソファに腰かけた。

 

「で。今日はどうしてその人を連れてきたの?」

「凛も知っていると思うが、この女性は今、教会で私の手伝いをしてくれているシスターだ」

「ちゃんと喋ったことはないけどね。知ってるわ」

「すっかり忘れていたのだが、凛にもきちんと紹介しておかなければと。私が忙しいときは、この女性が君の生存確認に来る」

 

 初耳なんですけれども……と思いながらも、仕事の一環だろう。

 

「今まで通り、体術は私が教えに来るが――彼女もそこそこの手練れだ。凛の相手くらいはできよう。身体が鈍らないように、彼女にも相手をしてもらうと良い」

「いつも聞くけど、魔術師に体術が必要なのかしら」

「今日び、自分を助けるための技術はいくらあっても損はないわ。この言峰神父みたいな方が万一にも敵に回ったら――そう思うと、少しでも強くなっておいたほうがお得でしょう?」

「そりゃあ、そうだけど……いつまで綺礼が私を傷付けないかもわからないし」

「こんなにも面倒を見てやっている私にそれを言うか。私とて暇じゃないのだが」

「わたくし相手にも、そんなこと仰っていましたわね」

 

 暇ではないのは知っている。だが、わざわざ厭味ったらしく言うのが言峰らしくて、おかしい。

 

「いつもそんなこと言うのね、綺礼は」

 

 凛と女は二人で笑うと、言峰はふてくされたように紅茶を飲んだ。

 久しくなかった、清々しい昼だった。開け放してある窓から風が入ってきて、机の上に置いてある書類を飛ばす。言峰が慌てて掴んだ様子がおもしろくて、また笑った。



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ほれっ・ぽい

 ちゅんちゅん、と鳥の鳴く声で目が覚めた。外が思ったよりも明るくて跳ね起きる。携帯電話で時計とカレンダーを見てホッと一息をついた。

 そうだ、今日は言峰が朝食を担当する日だ。

 いつもより少し朝寝坊した女は、それでもいつも通り軽くストレッチをした後、修道福に着替えてゆっくりと食堂へ向かう。

 

「遅かったではないか」

 

 相変わらず、パンの耳を切り取ったトーストを手に取ったギルガメッシュが女に目をやった。

 

「あら、王様こそ。もう食べ終わっていると思いましたわ」

「今日は無性に卵が食べたい気分でな。あいにく切らしていたから探しに行っていた。貴様がおれば、行かせたものを」

「あら、本当。目玉焼きがあるのね」

「君の分も用意しておいた。ソースか醤油。どちらを用意すれば良いかね」

 

 言峰は両面焼きの目玉焼きをフライパンから皿に移し、女に手渡す。受け取りながら彼女は「気になさらなくてよろしくてよ」と告げた。

 

「わたくし、塩コショウで十分ですの」

「この極東の地のショウユというものは、格別だぞ」

「知っておりますけれど、素材の味というものを大事にしたいのですわ」

「煙草で舌が使い物にならなくなった雑種がよく言う」

「相変わらず、失礼なお方」

 

 フン、と鼻で笑って流されるのにも慣れてしまった。女は受け取った目玉焼きをトーストの上にのっけて半分に折る。最初からトーストの上に乗せてもらえば、洗い物が一つ減ったな、と今更どうしようもないことを考えながら。

 言峰は最後に自分の分の目玉焼きを焼いたらしい。女と同じことを考えたのか、彼は空っぽになった女の皿を手に取り、それに自分の分を置いた。

 

「目玉焼きにはケチャップだと相場が決まっている」

 

 それだけ言うと、言峰は黙々と朝食を口に運び始めた。

 三人だけの静かな空間。これが日常であることに慣れてしまった。女は整った顔立ちだけが共通で別方向に美丈夫な二人の男を前に、平穏だけがあるのに対して違和感を持った。

 

(最初はあんなにも気の重い任務だったのに)

 

 もうメンソールのガムも必要となくなってしまった。当然、煙草も口にしていない。それだけの年月が経ったのだと実感させられる。

 朝食を食べ終わり片付けを手伝っていると、ふと思い出したように隣に立つ言峰が言う。

 

「今日は外に出てほしい」

「というと?」

「隣町の教会へ届け物があってね。君に行ってきてもらいたい」

「郵送ではなく?」

「郵送するより速い上に確実だろう」

 

 時々そういう事があった。聖堂教会同士で大切な書類のやりとりする際に、シスターを走らせることが。郵送だと事故があった際に困ることが多い。

 女が来るまではそれも自分で届けていたそうだが、女がここにシスターとして赴任してきてからというものの、彼女をうまく使っている。

 

「わかりましたわ、言峰神父。大切なお役目、仰せつかいます」

「ゆっくり帰ってきていい。今日は業務も比較的少ないのでな」

「お気遣い、感謝いたしますわ」

 

 片付けもちょうど終わった。女の礼には、言峰は気にするなと言うように彼女の方を向かずに首を振る。女が振り返るとギルガメッシュはとうにいなくなっていた。

 さて、と、狭いキッチンから離れようとして思わず肩と肩がぶつかり、お互いが謝罪をしたので、女はなんだかおかしくなった。

 

 

 

 

 隣町の教会は近いので、タクシーを拾って迎えばすぐに辿り着いた。この辺りの立地は東西は行き来しやすいのだが南北には動きにくいので、坂も多いことだし今日は風も強いしとお金に任せて行動することにしたのだった。

 

(楽をしたことがバレたら、また嫌味を言われるわ……)

 

 女はそう思い、タクシー代の請求はしないことにする。煙草ぐらいが女の出費だったのに、それもなくなった今、お金に苦労はしていない。それでも帰りはタクシーも捕まえにくいので歩いて帰ろうと決意して、隣町の教会から出た。

 用事は本当に荷物を運ぶだけだった。立ち話もそこそこに切り上げて――ここの神父の長話は有名だ――女は歩いて帰った。冬木市の駅前でパスタを食べてゆっくりと歩いて帰ると、教会の前でギルガメッシュと鉢合わせた。

 

「なんだ、もう帰ってきたのか」

「ええ。長々と無駄話に付き合ってても仕方ないでしょう?」

「違いない」

 

 今日は風が強い。はためく修道服を抑えながら、向かいの彼に問う。

 

「あなたが昼間に教会にいるのも珍しいわね。どうしたのかしら?」

「勘だ」

「えっ?」

「何か面白い物が見れる予感がした故、こうして見張ってるわけだ」

 

 ギルガメッシュのいる位置はちょうど教会内部から死角になる位置で、彼の視線の先には言峰がいた。老婦人とにこやかに会話している。

 

「言峰神父が何か?」

「確証はない。だがこの教会で何かあるとすれば奴か、あるいは――」

 

 また強い風が吹いた。言峰は自分の衣服がはためき髪が風に流されるのも気にせず、老婦人を気遣っている。吹き飛びそうになるストールをつかまえて、倒れ込みそうになる老婦人を支えているその姿は女の理想をしていた。

 どくん、どうしてだか言峰をみると心臓が高鳴るのを自覚する。朱が走った頬をギルガメッシュに見られたくないが、もう遅い。

 

「なるほどな」

 

 ニヤニヤと笑う彼が何を納得したのか、気付きたくなかった。

 言峰は女とギルガメッシュのことなんて意識もしないまま、風に吹かれた髪を直した。その姿がまた――

 

「理想的な神父の姿に焦がれるのは私の生来の性質だもの」

「ほう」

 

 自分に言い訳をしたつもりが隣のギルガメッシュが楽しそうに相槌を打ってきて、女は動揺した。

 口をひらけば開くだけ面白がらせると分かっていながら、言い訳が止まらない。

 

(だって、そうじゃなきゃ私があの人に気があるってことじゃない)

 

 神父としてのあの姿は作り物だってわかっている。信仰は本物だ。だが、必要とあれば指の先まで作り込むことのできる男に、どうして気が許せようか。

 

「私は神父様に助けていただいたのよ。だから、どうしたってああいう姿には焦がれてしまうの」

「それだけじゃないように見えたがな……しかし、我の勘は当たったようだ。これからの貴様の身の振り方が楽しみだな、雑種よ」

 

 それだけ言うともう興味は失せたとばかりに、ギルガメッシュは教会前から立ち去った。

 取り残された女が呆然と立っていると、老婦人を伴った言峰が門の前にやってきた。

 

「おや、シスター。早かったな」

「ええ、まあ。ええ……」

「あらあら。あらあら」

 

 切れの悪い返答に訝しむ言峰だが、老婦人の方は何かに気がついたように楽しそうにコロコロと笑った。

「お似合いだと思ってたんよ、おふたり。そうやわ、今度、なにかお祝いをしなくちゃいかませんわ」

 

 女よりよっぽど、女の子らしい上品な仕草で言うものだから、否定するのも躊躇われた。変に否定して言峰に意識されたくなかったのもある。曖昧に笑うと、言峰はそっと老婦人に言う。

 

「悪戯は控えめにしていただきたい。あなたももう歳なのだから」

「あら、そんな大そうなことじゃないんよ。ねぇ、シスター」

「え、ええ」

「ほんなら、今日はこの辺でお暇するわ。神父さん、タクシーの手配ありがとう」

「今日は風が強いですから……ご無理をなさらずよう」

 

 にこにこと笑う老婦人を見届けた後、言峰はため息をついて振り返った。

 

「それで君はこんなところで何をしていたんだ?」

「先ほどまで王様が居られましたの。立ち話をしていてよ」

「あいつが? 珍しい」

「そう思って話し込んでおりましたの。大したことじゃありませんでしたわ」

「私に聞かれたくない話かね」

「そんなことは……ああ、そうだわ。荷物はきちんと届けましたので、ご報告しておきますわ」

 

 図星を刺され、深く追求される前に女は報告だけすると足早に立ち去った。

 

 

 

 

 深夜。胸の奥にくすぶるもやもやだけを抱えて、女は部屋から食堂へ飲み物を取りに向かった。言峰のことを考えるだけで胸が高鳴ってしまうのはどうしたものか。まなざしにも明確な熱がこもっているのを自分でも感じている。

 

(これじゃあ、いけないわ。わたくしの使命にも、信仰にも影響が……)

 

 食堂への途中、浴室から通じる廊下で考えながら歩いていると、ちょうどそちらの方から不意に出てきた人影があり、避ける間もなくぶつかった。

 

「きゃっ」

「ん」

 

 言峰だった。

 分厚い胸板に頭をぶつけ、壁のようだわと思いつつも女はまず謝罪する。

 

「ごめんあそばせ……考え事をしておりましたわ」

「いや、私もぼんやりしていた」

「珍しいですわね、あなたがそのようにされるのは」

「君の様子が気になっていた」

「あら……なんですの」

 

 そう言って改めて言峰を見た女は、言峰の格好を見て仰天とする。「あら、まあ……」いつもふさふさと生えている髪は濡れてしんなりとしているのがまず目に入り、そして服装も当然ながらいつもの礼服ではなく、Tシャツと短パンという簡素な出で立ちだった。

 女はまたしても自分の頬が赤く染まるのを感じ両手で頬を抑えて、とっさに目を伏せた。

 

(変だわ、こんなこと、何度もあったのに……)

 

 今までもあったこと――さすがに漫画のように脱衣所でばったりと裸を見たり見られたりするようなことはなかったが、このような簡素な寝巻を着た姿を見ることはお互いにあった。

 その時にはこんな反応はしなかった。ただ普段通りにやり過ごすだけだったというのに、今回は如実にいつもと違う対応をとってしまった。

 

(認めざるを得ないわ……わたくし、この方に恋をしてしまった)

 

 この年になって初めて知る感情。認めると、更に心臓がどくん、どくんと主張をする。

 女を見ていた言峰は、ひとつ頷いて考えこむ。

 

「ふむ……」

「な、なんですの?」

「……そうか、君はそうなのだな」

 

 言峰は納得のいったように呟いて、女を見た。無機質な中に揶揄いを湛えたまなざし。女はそれを受けて目を伏せた。

 

「なるほど、弱ったな……分かりやすい女だ。そういうものは然るべきタイミングまで伏せておいてほしかったのだがね」

 

 そう言いながらにやりと笑った、(ああ、)言峰本人にもきっと知られてしまっている。その表情にもときめきを覚えるのだから、もう仕方がない。

 

「然るべきタイミングと言いましても!」

「ククッ、良いだろう。サービスしてやる」

 

 言峰は揶揄うようにそう言って、廊下を先導した。立ち止まったままの女に向かって振り返りざまに「おいで」と囁くように言う。掠れた声が静かな廊下と、女の鼓膜に響き、振動する。

 

「部屋に行こう。わざわざお使いに行ってくれた、我が教会の優秀なシスターを労わってあげようではないか」

「……っ」

 

 言葉にならない声をあげ、女はようやく着いていくしかできなかった。

 

 

 

 

 薄暗い廊下から、言峰の私室に移動してふと女は思う。ここでふたりきりになるのは慣れないと。

 

(いつもは王様がいるもの)

 

 ギルガメッシュのいない状況に気付き、また心拍数が上昇する。言峰が何か用意している間、先にいつもの席に座りながら、胸を押さえた。

 言峰はグラスを女に手渡す。入っている液体が透明で、女は首を傾げた。

 

「水だ。別にこの部屋ではワインしか飲まないと決めているわけではない」

 

 てっきりワインを手渡されると思っていた女は図星を指され、黙り込む。他方、言峰も黙ってしまった。言峰なりのジョークだったのだろう。気まずい空気が流れた。女は慌てて話題を変える。

 

「では、サービスと仰っていたのは? 良いワインではないんですの?」

 

 藪蛇だったと気付いたのはすぐだった。

 

「足を触らせてもらう」

「えっ」

 

 唐突な言葉に戸惑いつつも、頷いた。だが、もう寝る予定だったので、スリッパに素足の状態だった。直で触られるのを想像して身が震える。

 

「なに、軽いリラクゼーションだ。たくさん歩いただろう?」

「え、ええ……」

 

 タクシーを使ったなんて言えないと思いながら、頷いて肯定した。

 

「痛かったら言ってほしい。その場合、力加減が強すぎるんでね」

「わかりましたわ」

 

 言峰は椅子に座っている女の前にしゃがみこんで膝をつく。自分の視線より下に言峰の顔があることに慣れていない。女は見ていられなくなってそっと視線を外した。

 そんな反応を見てクツクツ笑いながら、言峰はそっと女の左の素足を撫でた。右手でスリッパを抜き取り、踵を支え左手でふくらはぎを。

 

「……っ」

 

 女の漏らした吐息に満足そうに頷いて、言峰はオイルを取り出した。その間に女は手に持っていたグラスの水を飲み干して、テーブルに置く。

 

「そうだな、その方が安全だろう」

 

 女はこの状況に混乱していた。その間にも言峰が女のパジャマをふとももまで上げ、左足からオイルを塗る。手の中で温まったそれは肌になじむ。

 撫でられているだけでも気持ち良かった。そこに力を入れられ両手でふくらはぎを揉まれ、単純に気持ち良い。

 

「痛くはないか?」

「大丈夫ですわ」

「それなら良い」

 

 それを最後に無言の空間が続いた。今日はタクシーを使ったとはいえ、毎日が立ち仕事だ。脚が凝っていないわけではない。

 ふくらはぎのもみほぐしを終え、するすると両手が足裏に移る。足裏のリフレはたまに行くが、それを上回る気持ち良さで「ん……」思わず声が出た。

 言峰はそれに満足そうに頷いて施術を続ける。

 また無言の時間が続く。静かな空間に時折、女から漏れる声が響きわたって、それが少し恥ずかしい。しかし生理的に出てしまう声は仕方がなかった。

 とある箇所を強く押され、女は思わず今度は痛みに声を上げる。

 

「ああ、言峰神父。少しばかり痛いですわ」

「ここだろう?」

「あっ……」

 

 言峰が面白がるように、再度押してみせた足裏のツボ。痛みに身体が緊張する。

 女は抗議をしようと思ったがそれより先に言峰が、揶揄うように言う。

 

「肝臓が疲れているぞ、酒の飲み過ぎではないか」

「あなたに言われたくないですわ」

「そうかな。私が摂取しているのは適量だが」

「毎日のように飲んでいるじゃない」

 

 女の精いっぱいの反撃に対して、言峰は「飲み歩いてはいない」と飄々と告げる。女は、男性たちを弄んで酒を飲み歩いていたことがバレていたと知って、ぎくりとする。ギルガメッシュが告げたのだろうか、否。彼はそんな野暮なことはしないだろう。言峰自身の伝手で知ったのだ。

 女はこの気持ちを抱いた相手に良くない所業を知られていたことが少し憂鬱になるも、きっと彼はそのようことで気にする性質ではないだろう。

 それに――

 

「もう、しませんわ」

「それは心情の変化か?」

「分かっている質問をしないでくださいませ」

「ククッそうだったな」

 

 気持ちを知っているくせに、と女は拗ねる。言峰はそんな女の様子に笑った。

 施術は右足に移る。右の方が凝っていたのか、それとも緊張が緩んだせいか声が先ほどよりも出やすくなった。女のあえぐような声に、言峰は再び笑いを溢す。

 

「んっ……ああっ……」

「良い声で鳴くではないか」

 

 揶揄いを込めた言葉に、女は反論する。

 

「はあ……ん、そうさせてるのはあなたでしょう?」

「そうだな」

 

 言峰は否定をしない。

 女はこの段階になっても、今の状況が信じられなかった。

 恋を自覚した相手から、そのすぐあとに脚だけとはいえ、肌に触れられるなんて。それに部位も部位だ。脚は普段人に触られる場所ではない。そのうちに、言峰は手を止める。

 

「今日はこのくらいだ」

 

 言峰が一度部屋を離れている間に、女は息を整える。

 彼は温かい濡れタオルを片手に戻ってきて、女の足についたオイルのふき取りを始めた。

 女はゆっくりと声を出して、礼を言う。

 

「ありがとうございます。意外な才能、でしたわ」

「効率的に攻撃を入れるには人体を把握していないとならない」

「代行者時代に身に付けたのね、おかしなひと」

 

 ふき取りが終わり、再度水を渡される。

 身体が水分を欲していた。ごく、ごくと喉を鳴らして飲み干すと、グラスを言峰に返す。

 飄々とした顔で受け取る彼に情を抱いてしまっているのだと、もう、誤魔化せない。今の今まで自分に触れていた、筋張った手に欲情を抱いてしまう前に女は立ち上がった。

 廊下へ出る扉の前に向かう。自然と言峰も着いてきていた。内開きの扉を開けると、彼は閉まらないように扉を支えてくれる。

 

「言峰神父、」

「なんだ」

「……おやすみなさい」

 

 危うく言いそうになった、好きよ。の三文字、今はまだ大事に心の底に沈めておこう。女はそう決意して、就寝の挨拶に置き換える。

 

「ああ、おやすみ」

 

 女の気持ちが伝わったのかもしれない。それでも何も追及することなく、言峰もそう返してくる。女はそれを受けて、廊下へ足を進めた。自分の部屋へと帰るために。



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かげろう

 そろそろ、薄々気が付いていた。この教会が暗い秘密を抱えていることを。

 教会がというよりも言峰とギルガメッシュの二人が、というのが正しいだろうか。

 情を持った相手のすることだからと見逃してはきたものの、いい加減、この仄暗い裏事情を把握しなくてはなるまい。

 

(今夜。今夜、絶対に尻尾を掴んで見せますわ)

 

 女はそう決意をして、ひとり自室の中で息巻いた。

 いつもなら就寝するはずの時間。だが、女は眠りにつかない。風呂に入ってパジャマを着ていたが、再びシスター服に着替え直して深夜を待った。

 

 

 

 

 零時を回った頃、女は動き出した。

 この広い教会の中、手がかりがないのでまずは言峰の私室へ向かった。二人で何かを話しているならそこだろうとあたりを付けたからだ。

 しかし、扉の向こうには人のいる気配がない。

 

(ここじゃあ、ないのね……)

 

 念のためノックをしてから扉を開け、私室の中を見てみるが、めぼしいものは何もない。いつもの景色がそこに広がっているだけだった。

 特に怪しい書類等もなく、ここではないと再び結論付け、部屋を出た。

 

(では、教会のどこに……?)

 

 何かがあるのは、あの二人のふるまいからして明らかなのだ。

 ふらふらと歩きながら考え事をしていると、不意に廊下の陰に階段があるのが目についた。

 

(こんなところに、階段なんて……)

 

 覚えがない。少なくとも自分は降りたことがない。女はゴクリと唾を飲み込んで、逡巡したが、そろりと階段を降りた。

 

 

 

 

 薄暗い廊下よりも更に暗いそこは、礼拝堂だった。

 

(地下に礼拝堂なんて)

 

 現在使われているなら最初に紹介があったはずだ。では、ここは……? 女は怪しみながら足を踏み入れる。

 埃は溜まっていない。誰かが定期的に利用しているということだ。それに、ホルマリンのツンとした匂いが鼻を刺激する。放置された場所ではこんな匂いは立ち込めないだろう。

 

(あたり、ね)

 

 嫌な予感は嫌な予感で終わってほしかった。けれど、この先きっともっと決定的な場を押さえることになる。ただ、もう引き返すことはできない。

 暗い礼拝堂を進むと、さらに奥に扉があった。悩む理由はなかった。ドアノブを開くと外開きの扉が開く。

 

「ん……」

 

 立ち込めたホルマリンの刺激臭がさらに増す。

 中に入ると薄暗い小部屋で、部屋中になにかがいる気配がした。生きている気配がない、それでもなにかが無数にいる気味悪さに女は身体を震わせた。

 箱がいくつか乱雑に放置されている。のぞき込んでみるとミイラ化した子どものようなものがあり「ひっ」女は思わず声を上げた。

 次の刹那、背後に気配を感じ振り返る。言峰とギルガメッシュの二人が立っていた。見慣れた無表情の言峰と、にやにやと笑いを湛えるギルガメッシュの二人さえも気味悪く見え、女は息絶え絶えに声を絞り出す。

 

「言峰神父。これはいったい……」

「ふむ……とうとう、か。否、ようやく、か」

 

 腕を組んだまま、言峰は頷いた。

 

「言峰、言ってやればいい。お綺麗な修道女様に我と貴様の悪行を」

「そうだな……そのためには第四次聖杯戦争の真実を話さなければなるまい。その覚悟がこの女にあると思うか、ギルガメッシュ」

「立ち去らないところを見るに、相当の覚悟で以ってここにきたのだろう。話してやれ」

 

 本当は足が動かないだけだった。

 立ち込める匂いと嫌な予感に胃が収縮する。もう少しで吐きそうだ。だがおそらく、きっと、もっと唾棄すべき真実がここにあるに違いない。

 

「つまり、わたくしは道化だったってこと?」

「他に真実を知る者はいない。仕方のないことだった」

「何かにつけ断ろうとしたそうね、派遣を。こういうことだったのね」

「ああ。ありがた迷惑にもほどがある……まあ、君が来てくれて結果的には助かったが」

「どういうこと」

「言わないだろう? 聖堂教会には」

 

 わかったように言われるが、どうやって心のうちに秘めておこうと考えていた女はどきりとした。

 どうしてこの男は。

 

「言っときますけど、これはあなた方への情があるからではないのよ」

「怠慢がばれるのを恐れている、大方その程だろう」

「その通りよ。こんなに長い間、この真実に辿り着けなかったなんて、任務をしていなかったと取られても仕方がないもの」

「ククッ、君はそういう人間だ。ありがたいことに我々にとって非常に都合の良い人物が派遣されてきたということだな」

「そこについても言峰、貴様の計算通りだろう?」

「まあ、そろそろだとは思っていた。ここに辿り着いた優秀なシスターに真実を話してやろう」

 

 聞いてしまえば、引き返せない。そう思ったが既に引き返せない場所にいることに女は気付いてしまった。

 そうして聞いた真実はあまりにも凄惨で、自分が後処理を行なっているこのほとんどがこの二人によって引き起こされたものだと知ってしまう。

 そして、このミイラ化した子どもたちは、第四次聖杯戦争の最中、冬木市で生き残った子どもたち。その全員が身寄りがないからと教会で引き取られたのだが、言峰によって成長しない様に加工され、魔力を搾り取るという目的のためだけに生かされていた。

 魔力を得る目的は彼が第四次聖杯戦争時のサーヴァントであり、彼を顕現させたままにするためであった。女はそこまで聞かされると、はっと思い当たる。

 

「では王様の、ギルガメッシュというその名は……」

「真実、我の名だ」

「ああ、どうしましょう。どうしましょう」

 

 

 

 

 ギルガメッシュが古代バビロニアの王で、真に王様であったことを。本来、女のような人間が、気安く『王様』などと呼べる相手ではなかったのだ――

 

「まあ、もうこの子どもたちもそろそろ壊れてきているがな」

 

 もってあと十年程か、と言峰が呟くのを見て、女は決意した。

 

「事情は、ええ。分かりましたわ。でもこの悪行、教会の者としてこのままにしておけません。神の名に誓えないことを見過ごしてはおけませんもの」

「ではどうする? 君はここにいるギルガメッシュを消せというのか」

「いいえ。これでは、どうでしょう。代わりにわたくしの魔力を分け与えるというのは。これでも魔力は、他の人よりも多いはずです」

「どうだ、ギルガメッシュ。それで納得するか」

 

 おかしそうに言った言峰に対して、ギルガメッシュもまた笑う。

 

「興味深い提案だ。では、どのようにしてそれを果たすというのだ、雑種」

「これでいかがです?」

 

 女は護身用に持っていた短剣をシスター服の中から取り出して、左手の中指と人差し指を切り裂いた。ぽたぽたと赤い血液が垂れる。そのまま、その手をギルガメッシュに向かって差し出した。

 

「ほう」

「直接……はお嫌でしたわね、どうしましょう」

「否。構わん」

 

 ギルガメッシュは女の指を口に含む。ざらついた舌が指に絡みついた。聖杯に召喚された英霊とはいえど、人間と同じ触感なのだと知ってざわざわとした気持ちになった。

 

「ああっ」

 

 ギルガメッシュはわざと舌先で女の傷を刺激する。女が思わず声を上げると、面白そうに笑った。ぎり、と最後に指を噛み、染み出てきた血液を舐めとると、ギルガメッシュは口を離した。

 唇を手の甲でふき取ると、言葉を発する。

 

「案外趣味なのではないか、雑種。どう思う、言峰」

「何、興味深い状況だ」

 

 女は急に恥ずかしくなった。咄嗟の思い付きであったが、あろうことか言峰の前でこんな姿を晒してしまうなんて。頬を染め俯いた女に向かってギルガメッシュは更に言葉を重ねる。

 

「我は接吻程度を考えていたが、これはこれで良いものだ」

「簡単に乙女の唇は差し上げなくてよ」

「だそうだ、言峰」

「何故、言峰神父に話を振るんです!?」

「分かり切ったことを」

 

 女はこのままでは話が変な方向に行くと悟って、舵を取り直した。

 

「それで、この子たちの苦悩はもう必要ありませんわね」

 

 言峰が「そうだな」と頷いて「楽にしてやると良い」と告げる。

 いざとなると手が震えてしまう。

 未だ、女は人を殺したことがなかった。右手に持ったままの短剣の先まで震えが伝わっているのが情けない。

 

「何、君ができないというのなら、私が手を下しても構わないが?」

「やりますわ」

 

 挑発するような言峰の言葉に、女は端的に答える。

 震える手に力をこめて、子どもたちの首に刃を入れていく。裂いたそこからは僅かながらも血液が流れていて、この子たちは間違いなく生きていたんだと知り、何故だか涙がこぼれてきた。

 そんな女の元に言峰が近づいてくる。切り裂いた指先にそっと触れて「治療をしよう」と言い、そのまま反対の手で女の涙をふき取った。

 

「外道は君にはない。神は分かっているだろう」

「あなたには分かって? わたくしのこの気持ちを」

「想像は出来る」

「ええ、ええ、そうでしょうとも。でも、決して分かりえないわ」

 

 女がはらはらと泣きながら言うと、ギルガメッシュは心底めんどくさそうに言った。

 

「ああ、女の面倒なところだ。共感を求められても同じ存在ではないと、同じ思いは絶対に得られないというのに」

 

 王故の傲慢さでもある。女はそれを聞いても腹が立たなかった。ギルガメッシュには分かってほしいと思わなかったからだ。言峰こそに分かってほしかった。

 

「わたくしも生まれは特別だから、そのくらい分かっているわ――つまり、つまりわたくしの元の生まれは魔術協会の被検体なのよ。この子たちと同じ。魔力が多いという理由で飼い殺されていたの。私はこれ以上歳も取らなければ、真名さえ知られなければ死ぬこともないの」

「ふむ……」

「使い捨ててくれて良いわ。わたくしはそのために来たのだから。魔術協会から哀れに思って引き取ってくれた神父様に、報いるために」

 

 今晩知ってしまった真実は、自分を長く冬木の地に留めるだろう。隠ぺい工作にも、悪いことにも手を積極的に手を染めなくてはいけないかもしれない。

 

(人を殺したわたくしが、もう許されるわけはないのだけれど)

 

 不意に言峰は女を抱き寄せた。そっとギルガメッシュが姿を消すのが目に入るのを最後に、視界は言峰に覆い尽くされる。

 代行者時代の名残だろう、礼服の上からは分かりにくい筋肉質な腕、胸板に包まれてそっと気持ちが落ち着いてくるのを感じる。

 

(良いの、かしら……)

 

 そう思うも弱った心は誘惑には勝てなかった。抱き寄せられたのに甘え、女も弱々しく手を言峰の腰に回す。それを感じたのだろうぎゅっとさらに強まる言峰の腕。

 彼の鼓動が聞こえなくとも、不謹慎にもしあわせだと思ってしまって、女は自分を恥じた。

 そんな女の心の動きを知ってか知らずか、言峰は邪悪に笑う。何か面白いことを思いついたかのように。女はそんな彼の心の動きを知らないまま、言峰に身体を預けていた。



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マリオネット

 冬木市から電車で一時間くらいの温泉地に行くことになった。

 というのも、信徒の方から善意で言峰神父とシスター相手に、と温泉旅館のチケットを頂いたのだ。それも、ペアチケットを。

 言峰と女は思わず顔を見合わせたが「いつも気ぃ張ってらっしゃるから、ゆっくりしていらっしゃい」と微笑まれて、ひきつった表情を隠せないままに頷いた。

 信徒の老婦人は寄付もたくさんしてくれており、この冬木の言峰教会にも長く通われている方で聖堂教会自体でも顔の利くので、ご丁寧に教会の上の方にも根回ししてくれていた。

 その上、その場に居合わせたギルガメッシュも愉快そうに、行かせることを約束してしまったので、女はこっそりとため息を吐いた。

 

(完全に面白がられているわ)

 

 言峰に対する恋慕はとっくに皆に知られてしまっている。

 言峰自身も知っているくせに、結局、女と二人で行くことを承知していた。

 どんな気持ちで朝を迎えれば分からないまま、当日を迎えてしまった。

 

 

 

 

 本当に二人で行くとは朝の朝まで思ってなかったというのが、女の本音だ。

 朝方は本当にいつも通りだった。朝食に始まり、朝のミサを終わらせ、信徒さんに聖書の解説をし、夕方の業務に向けて休憩を取ろうかというときだった。昼食を取ろうと食堂に向かおうとすると、言峰は「食事は外でとろう」と言う。

 昼間は好きにふらついているらしいギルガメッシュもいないので、「ええ、わかりましたわ」承知の旨を伝えると、なんとそのまま温泉街に向かうと言うではないか。慌ててタオルと着替え、基礎化粧品等を荷物詰めして、言峰に待たせた旨を謝った。

「全ての想定に対処できるよう、次からはあらかじめ準備しておくように」

 特別怒ってはいないようだったが、上司としての注意を女は素直に受け取った。

 そして職務をこなす時と同じ礼装のまま言峰と女は食事をとり、電車に乗る。温泉街の玄関口までは乗り継ぎが多少面倒ではあったが、荷物もそう多くないため問題なく到着した。

 

 

 

 

 駅の目の前にはコンビニがある。向かうのは高級旅館だ。何も持っていかなくたって旅館の方で用意があるだろうが、念のため飲み物だけ購入してタクシーを拾う。女は歩いていけると思っていたが、この辺りは坂道が多いと言峰が言うので従った。どうせ言峰も女も金は余らせている。

 真昼の温泉街は思いのほかにぎわっていた。今日は平日だというのに、存外人は出かけるものなのだなと冷静に思いながらタクシーの窓から覗く。食べ歩き、サイダー、それから手をつなぐカップル達。もしかしたら運転手には自分たちもそう見えているのかもしれないと思い、胸が高鳴った。

 言峰の方をこっそり見やるが、彼は涼しい顔を崩さない。過去に妻を失ったと聞いたことがあるが、その時もこんな風に余裕を失わなかったのだろうか――と考えて、嫉妬で胸を焦がしそうになるので、思考を打ち切った。

 美しいひとだったと聞く。

 自身も美しさでは他者に引けを取らないと思うが、それが言峰に有効だとは思えない。

 このように一緒に旅行に行く程度には好意は持たれていると考えてよいだろうが、それがどの程度のものなのか、女には分からなかった。

 

 

 

 

 宿の前に着いた。老舗の宿のわりに綺麗にしていて、さすが高級旅館だと感じる。エントランスを入るとガラスの窓越しに中庭が目に入り、池の中、涼し気に鯉が泳いでいた。

 言峰がチェックインをしている間、広いロビーで出してもらったお茶を飲んでいると、宿の係員が「奥様」と女のことを呼んだ。

 初め、自分が呼ばれたと認識できなかった女も、何度か「奥様、お部屋にご案内します」と言われ、ようやく気が付き、何度も呼ばせてしまったのと奥様と呼ばれるのと、二重の恥ずかしさで頬を染めた。

 

「やだ、わたくしったら」

 

 係員の人が微笑ましそうに笑うのが、余計に恥ずかしい。

 

「ではこちらになります。お荷物お持ちいたします」

「いいわ、そんなに持ってきてないもの」

 

 係員の隣にいる言峰を見ると、笑いをかみ殺している。まったく、人の恥を笑うんじゃない。

 道すがら、大浴場への行き方を案内されつつ、部屋に着く。食事の時間を確認し、今からだとまだ数時間あるなと思いながら、部屋に入った。

 スイートルームと言うべきか、非常に広い部屋だった。食事をするであろうちゃぶ台のある部屋、そして既に布団のひいてある――二枚の布団がくっついているのが妙にこそばゆかった――寝室。

 そこの窓から覗くのは大自然だったが、ふと見慣れないものが目に入った。近づいてみると、部屋には扉が付いていて、窓から見えるのは露天風呂だった。

 

「なっ!」

「あのばあさんは、いらない気をまわしたようだ――もっとも、これに入るかは自由だがね」

「相当高かったんじゃない?」

「あの人からすれば、ほんの些細な金額だ。私のことを孫か息子か、そんな風に思っているのだろう」

「確か息子さんを失くされたのでしたわね」

「ああ」

 

 信徒さん達は何かしら事情を抱えている人が多い。

 そうでなければ、こうも熱心に信仰心を抱かないだろう――今の日本人は特にそうだ。

 私たちは、特殊なのだ。ちらりと、言峰を見てそう思う。この人は本物の信仰心を持っている。それでも歪んでいる自分に自傷の気持ちさえ抱いてそうだけれど――

 触れられたくない傷にあえて触れる趣味はない。ましてや、それが自分をも傷つけるなら。

 女はそう考えて、その場を離れた。部屋を散策していると、引き出しの中からタオルセットと浴衣を見つけ、言峰を見る。

 

「夕食の前に、大浴場に行きたいですわ」

「異論はない。時間はしばらくあるからな。ここの露天は金泉しかひいていなさそうだ。銀泉にも浸かりたいだろう」

「部屋の露天風呂を使うとは言っておりませんわ!」

 

 クッと笑った言峰にからかわれたことを知る。それでも悪い気分にはならなくて、足取り軽く大浴場へ向かった。

 

 

 

 

 広い風呂に浸かるのは、それだけで久しぶりだった。

 建物の高層階にある大浴場は、まず浴室から見える景色もいい。そもそもこの宿自体が、この温泉地のだいぶ高いところにあるのだからそれも当然と言えよう。

 浴室内に人がぼちぼちいることを確認し、女はまず洗顔した後、髪を洗う。丁寧に流し終わった後、身体を洗い身を清めた。そして、まずは銀泉――透明の温泉――から浸かる。少し熱いくらいだった。

 この熱が身体の芯まで刺激して、心地よい。足を伸ばしてしばらく浸かっていると、筋肉もほぐれてきた気がする。

 ただ少しのぼせてくる気配がしたので、一度湯から上がって、水風呂から足元へ冷たい水をかけた。

 二、三度そうした後、ゆっくりと今度は金泉――茶色く濁った温泉――の方へと向かった。金泉の方が湯がぬるかった。のぼせる心配が少ないことにホッとしながらも、段差に腰かけ、半身だけ湯につかる。露天と浴室を行き来する人がいるせいで時折冷たい風が入ってくるのが気持ちよかった。

 露天風呂に人が少なくなったタイミングで女は外へ向かう。金泉の壺風呂に入ると、じゃばん、と音を立てながら湯が溢れた。

 

(そういえば、部屋にも露天があったわ……)

 

 あれを使えば、必然的に言峰に肌を晒すことになる。それが嫌ではないどころか、心の底では望んでいるのが、自分のことだけに分かってしまう。彼にすっかりまいっているのを、この感情をどうすればよいのか、女は持て余していた。

 

 

 

 

 浴衣を着て部屋に帰るとちょうど夕食時だった。濡れた髪はある程度乾かしたがまだ半渇きである。言峰はそれを見て呆れたように言う。

 

「なんだ普段よりだらしがないではないか」

「気を抜いたっていいでしょう、ここにはあなたしかいないんですから」

「気を抜いても良い相手だと認識するには、いささか不用心とは思わないのかね」

「そんなの今更でしょう?」

「まあ、なんだ、君がどう思うかは君の勝手だが……」

 

 言葉を濁すのは言峰らしくない。どうしたのか問おうとしたところで、女将さんが食事を運んできたので、その疑問は永久に解決することはなかった。食事時は静かなものだった。普段からそうなのだが、言峰は食事中あまり会話を好まない。

 淡々と会席料理を食した後、二人はサイダーを片手に向かい合った。

 

「あのばあさん、余計な気をまわしたと思ったが。存外良いものだな。温泉というのは」

「ええ、こういう機会でないとなかなかゆっくりできないから、わたくしも結果としては喜ばしい思いですわ」

 

 ぱちぱちと口の中で炭酸がはじける。

 気にしないようにはしていたが、タオルで水分をふき取ったであろう言峰の、それでもしっとりと湿った肌艶や、普段見慣れない浴衣姿がどうしても目については心臓が跳ねる。

 

「結果としては、とは?」

 

 それを分かっていて言峰は追いかけてくるのだから性質が悪い。

 女はもぞもぞと身体を動かし、手に持った瓶をゆらゆら揺らし、「想像の範囲の事ですわ、言峰神父」と誤魔化した。

 

「さあ? 知っての通り、私は他人の感情の機微に疎くてね……」

「わたくしの何が知りたいと言って?」

 

 のらりくらりとお互い交わしあっていると突然、言峰が仕掛けてきた。

 

「まだ名は明かしてくれないのか」

「え、」

「名は明かしてはくれないのかと聞いたのだが」

「ええ、ええ……聞こえてますわ」

「返事にはなっていないようだがね」

「それ、は……」

 

 女は発するべき言葉を忘れてしまったようだった。かろうじて意味もない音を何度か出すと、突然張り詰めた空気を壊すように「わたくし、お風呂に入らせていただきます!」と叫ぶようにして言い、言峰がわらいを堪えているのを横目に、部屋に備え付けの温泉へ向かった。

 

「わたくし、わたくしは……」

 

 女の名前には意味があった。

 それは彼女を守る魔術──通常の防御魔術とは比べ物にならない鉄壁の守護。かつて多くの魔術が魔法であった時代の遺物だ。

 だから簡単に教えていいものではない。

 

「ああ、神様」

 

 女の信仰心も本物だった。浴衣に着替えてなお、首から下げていた赤いビーズに繋がれたロザリオを握りしめて、深呼吸する。

 

「そう。そうよ、教えてはならないの。わたくしの感情ひとつで決めていいものじゃないから」

 

 少なくともいまは言峰を守る任務がある。誰にも教えたことのない秘密を、誰が聞いてるとも分からないこの場所で明かすべきではない。

 あとのことは考えていなかった。浴衣を脱ぎ捨てて、ロザリオをその上に置き、檜の湯舟に浸かる。熱に浮かされて、この動揺が分からなくなってしまえばいいのに。

 

(名前を教えてしまいたいと思った自分が、確かにそこにいたのよ……)

 

 込み上げてくる感情は、罪悪感かそれとも他の何ものかか。

 景色を見て、気持ちを紛らわしていると、ガラッと扉が開く音が鳴って「きゃっ」女は驚きのあまり短い悲鳴を上げた。当然だが立っていたのは、言峰だった。

 

「そんな反応をされると、こちらも些か傷つく」

「レディの入浴中に黙って入ってくるのが悪いのよ」

「せっかくだから一緒に堪能しようかと思ってな。二人くらいは入れるサイズだ」

「わたくし、許可してませんわ」

「許可など取らん」

 

 言峰がサッと湯舟に入ると、彼の大柄な体躯の体積分だけ、お湯がまた溢れた。代行者だった頃の名残か、その体は上から下まで鋼のような筋肉が覆っている。女は言峰の裸体を見て、サッと目を逸らす。

 湯につかってしまえば濁り湯で全て隠れてしまうが、時折肌が当たると、その部分がカッと熱くなったような気がする。気のせいだとわかりつつも、この気持ちは抑えられない。

 こんな短時間でのぼせたのか、それとも違う要因か。どきどきと高鳴る鼓動だけが、女の頭の中を駆け巡っている。

 

「……あなたにしては珍しい行動ね、言峰神父」

「どうしても――」

 

 言峰は掠れた声を出した。腰に響く低音は女の心臓を加速させる。

 

「どうしても、お前の名前を呼びたい」

 

 この人は今までこうやって女を口説いてきたのかしらん、と女は妙に冷静になってしまった。それでもそのまま手を引かれ、いつもの礼装からではわかりにくいその筋肉質な胸に抱き寄せられると、理性も朦朧としてくる。

 

「だめよ」

「どうしても?」

「どうしても。ええ、どうしても、よ」

 

 言峰は女の言葉を奪うようにしてそのまま口を塞いだ。上唇と下唇の間を舌が行き来して、優しく撫でる。唇を許したのは、油断があったからだ。それでも、女は満足だった。

 このまま部屋に戻ったら、身体を暴かれるのだろう。女はきっと、それを望んでいる。



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オマモリ

 天気の良い日だった。あまりにも強い日差しに、今日はさすがの女も日傘をさして目的地に向かった。

 お屋敷の前に辿り着くと、そこの主である遠坂凛はドアにもたれかかるようにして待っていた。

 

「今日はあなたひとりなの?」

 

 もう中学も三年生になった彼女は、最初に会った時より随分と立派になった。魔術師としても優秀だと聞く。体術も師に鍛えられ続けているようで、しまった身体がより彼女を魅力的に見せていた。

 

「ええ。今日は言峰神父がお忙しいから」

 

 言峰は、教会で結婚式を挙げたいという洗礼を受けていない現代的なカップルに、教会の教えを説いている。

 基本的に信徒ではないカップルの結婚式は受け付けていないのだが、このようにある程度の教義を学んでもらえば神前式を行なうことも許される。

 

「教会式に憧れるカップルが多いのね。私は綺礼に見守られながら結婚なんてごめんだけど」

「冬木では信頼される神父様よ、言峰神父は」

「ま、綺礼に惚れてるひとに言われると説得力が増すわね。お姉さん」

 

 私にはどこがいいのかさっぱり分からないわ、と言われ女は苦笑した。

 女としても、あんな外道は世界中探したって何人いるものか分からないと思っているけれど、落ちてしまったものは仕方がない。恋は罪悪とは、昔の作家はよく言ったものだ。

 

「立ち話もあれね。どうぞ、いつもの紅茶しかないけれど」

 

 凛は扉を開け、応接室へ案内した。

 紅茶を用意するのも危なげがなくなっていて、安心して待てる。母を亡くしたあと言峰が後見人となったが、遠坂家の雑事を行なうのはいつも女だった。言峰は繊細そうに見えて、めんどくさがりだ。

 

「今日はどうしたの?」

「様子を見てこいってことですわ」

 

 女が肩を竦めると、凛もため息を吐いた。

 

「雑なのよね、綺礼って」

「でも、わたくし、個人的にあなたに用事があったからちょうどよいわ」

 

 言峰に指示されるのではなく、個人的に女が凛に対して何かを行なうのは本当に珍しいことだったので、凛は驚いて目を見開いた。その間に女は首に掛かっているロザリオを外す。

 

「これをね、あなたに差しあげようと思って」

 

 凛は言葉を失くした。

 そんな凛の様子を見ながらも、女はつとめて感情を出さないようにしながら、淡々と言葉を発する。

 

「いいえ、何もあなたに洗礼を受けろと言っているわけじゃないのよ」

「それ、は……わかってるつもりだけれど。それなら、どうして」

 

 女はロザリオの部分を掴み、じゃらりと首から下げるビーズの部分を見せる。赤く繋がれているビーズの珠は本物の宝石の輝きをしていて、それだけで簡単に譲り渡せるものではないと分かる。

 しかも、その赤い宝石のそれぞれに濃い魔力が含まれているのが魔術師たる凛にはすぐに分かった。はっ、と息を呑むほどの代物に彼女は触れるのすら躊躇った。

 

「いくつか消費してしまったけれど、凛ちゃん、あなたならうまく使えるでしょう?」

「どうして」

 

 凛はもう一度繰り返す。女はようやく笑って言った。

 

「わたくしの任務はもうすぐ終わり。きっとわたくしにはもう、必要なくなるから」

 

 輝く宝石の一部、くすんでいる箇所をなぞりながら、女は言った。

 ――わたくしにはもう、必要なくなるから

 それが、凛には『女自身が必要なくなる』と聞こえて、凛はやはり受け取るのを躊躇った。その様子にしびれを切らした女は「どうかあなたの助けになりますように」と無理やり押し付けて、笑った。

 

「わたくしからも、あなたに何かしてあげたいと思ったの。他の人には秘密よ」

 

 

 

 

 その夜、女が教会に帰り入浴を済ますと、廊下でばったり言峰と鉢合わせた。女が何かを言う前に言峰は目を見開く。女の胸元を見て、静かに声を発した。

 

「チャームポイントがなくなっているようだが?」

「ロザリオのことかしら? よく気が付かれる方ね」

「あれだけ目立つものを欠かさずつけておいてよく言う。捜索するなら手を貸さんでもないが」

「いいのよ。もう必要がないから」

 

 女が呟くとなぜか近づいてくる言峰。納得していないような表情で、そっと女の肩に手を置く。

 

「そうは思えないが」

 

 先日の温泉地でのことを思い出させる距離感。耳元に口を寄せられ囁かれる。

 

「信仰は捨てたのか」

「形がなくとも、信仰はずっとありますわ」

「形がなくとも……か」

「ええ」

 

 言峰は逡巡した後、少し離れて重々しく口を開く。

 

「君に話がある」

「なんですの、急に」

「部屋で話そう、付いてきなさい」

 

 礼服の裾を翻し、私室へと足を進める。女はそれに黙ってついていった。

 

 

 

 

 言峰の私室に二人きりでいるのはなんだか、落ち着かない心地だった。いつもここにはギルガメッシュが座っているのに。座る様に指示されたソファはふかふかで良く沈む。気持ちも同じように沈んでいった。

 

「話ってなんですの」

(早く終わらせたい。終わらせなければ、きっと――)

 

 予感に身を震わせて、早々に切り出すが言峰は話し出すのを渋っている様子。

 

「そう早まらなくていい」

 

 言峰は慣れたように女にワイングラスを手渡した。注がれる主の血。だが、口にする気は起きない。自分自身のグラスにも同じ様に注いだ赤ワインだが、彼も飲む気はないようで、そのままテーブルの上にグラスは置かれた。

 

「……凛は、元気だったか?」

「ええ、いつも通り」

 

 それだけじゃ言葉足らずだったと思って「とても元気そうでしたわ」と付け足した。

 

「君が遠坂の面倒を見てくれているのは、非常にありがたく思っている」

「あなた、意外とおおざっぱですものね」

「得意とする作業でないのは認める」

 

 ばつの悪そうな顔をした言峰を見て、女はくすくす笑う。話を変えるように言峰は「結局、それはどうした?」ロザリオがなくなった理由を尋ねてきた。

 

「女の秘密ですわ」

 

 女は正直に答えない。その方がきっと凛のためになると思ってうやむやにした。

 うふ、と笑った女に言峰の眉間の皺が寄る。明らかに苛立ちを感じた姿だが、女は気にしない。

 

「それで、遠坂家の面倒を見ているわたくしに、お礼でもしてくれるおつもりで?」

「必要か?」

「ええ、何で返してくれるのかしら?」

 

 揶揄い半分の女。うふふ、と続けて笑っている。

 言峰は意趣返しをするように淡々と告げた。

 

「寝室に来る覚悟はあるか?」

「それは、どういう……?」

「何、全身をほぐしてやるだけだ」

 

 今まで優勢だった女の余裕が崩れたことで満足した言峰は少し笑って言う。

 

「既に肌を見せた相手だ、別に構わないだろう?」

 

 口を付けられていないワイングラスが二つ、そのままに言峰は私室の奥へ誘った。

 

「寝室に招待するのは君が初めてだ。光栄に思いたまえ」

 

 どきりと心臓が鳴る。アルコールが入っていないはずなのに、体温が上昇するのを感じた。

 

 

 

 

 寝室に入り、女は指示されるがまま衣服を脱ぐ。

 いつかのようにオイルを取り出した言峰。「それって常備してありますの?」

「鍛錬の後に身体をほぐすために使うことがあるからな」「そういうところはマメですのね」タオルで身体の前の方を隠した女は、言峰の誘導に従ってバスタオルを敷いたベッドに横たわる。

 言峰の匂いが全身を包み込んで、また体温が上昇する。

 

(お願い、気が付かないで)

 

 気付いたところで、きっと揶揄うだけだろう。言峰のそういった悪趣味なところも魅力に感じてしまうから、ずるいのだ。

 普段の彼なら気が付いていた、女はそう思う。ただ、言峰は黙ったままだ。

 一言も発さないままそっと肌に手を滑らせる、それがなんとなく硬い気がして言峰の緊張を感じ取る。同時に、緊張が肌を伝って伝染ってきた。

 急かしたら藪蛇になる、分かっていて女は黙ったまま。肩から背中、背中から腰、腰から足先、時間だけが過ぎていく中、とうとう言峰が言葉を発する。

 掠れた声、それでもはっきりとした意思と主張が部屋に響いた。

 

「アー、君の全ての不幸を、私に明け渡す気はないかね?」

「……つまり? つまり、どういうことですの?」

 

 意味は分かっていた、分かっていたのに女は聞き直した。

 信じられなくて。信じたくなくて。信じて、裏切られたくなくて。裏切りたくなくて。

 言峰もそれを知っていて、回りくどいプロポーズをもっと端的なものに言い換える。

 

「君の生涯を見届けようと言っているんだが」

「言峰神父、それは――それは、教義に反しています。……だって、つまり、わたくしを娶ってくれるということでしょう?」

「そうだと言っている。内密に事を運んでしまえば今の時代だ、何も言われまい」

「ああ……神様」

 

 女はそう言うと不意に体を起こし、裸体からタオルがずれ落ちるのも気にせずに、頭から順に十字を切る。彼女なりの懺悔だったのかもしれない。

 だが、彼女が言峰を拒み切れるわけがなかった。鉄の女はついに陥落した。



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口福

 遠坂凛も、もう高校生となった。

 女はその事実に感慨深く思った。あの幼子がここまで成長するなんて。

 学校帰りの凛が一人で教会まで来ている事実が、時の流れを感じさせる。

 一人暮らしの彼女がわざわざここまで来たのは、言峰に用事があったからだ。なんでも近く、三者面談なるものがあるらしい――言峰が後見となっているのは事実なので、彼を招集するのは正しいが、言峰と凛が隣に座って教師と話している姿を想像するとなんだかおかしい。

 そう思っている女に対して、凛はぽつりと聞いた。

 

「本当に綺礼と一緒になるの?」

「さあ、どうなんでしょうね」

 

 女自身もまだ信じられてはいなかった。言峰と結婚するという事実も、言峰自身も。

 神父となった身では結婚できないのが、教会の決まりだ。それを破ってまで、言峰綺礼という男が自分を望むのか。女はあの夜から考え続けている。

 

(けれど裏のあるあの男を好きになってしまった、それがわたくしの罪だから)

「ほんっとに綺礼だけはやめたほうが良いと思うけど、あなたは分かっていてそんな綺礼が良いのよね」

「ええ。その通りよ、凛ちゃん」

「これでも、男の趣味が悪いことと名を明かしてくれないこと以外は、あなたのこと信頼しているのよ」

 

 いつの間にか、先ほどまで信徒と話していた言峰は、会話相手をギルガメッシュに変えていた。

 今、女と凛がいる庭からは、教会の中が見える。信徒はもう誰もいなくなっていた。

 珍しく何か楽しそうに会話をしている二人をしり目に、視線を凛に戻す。

 

「凛ちゃん」

「なんですか」

「わたくしが急にいなくなっても、気にしないでくださいまし」

「いや、気にしますけど。突然どうしたんですか」

 

 女は少し悩んだ後、慎重に言った。

「わたくし達の任務は突然どこかに行かされることがあるの。それも内密に。今回冬木に来たのだってそうだったわ。だから、挨拶は出来ないかもしれない」

「綺礼と結婚するのに?」

「そういうことは教会に関係ないから」

 

 ふぅん、と納得いっていなさそうに頷いた凛はまだ若いなと思った。けれど、女が突然こんなことを言い出したのは、ただ任務のためではない。

 なんらかの予感が彼女にはあったからだ。

 もしかしたら、このまま凛に会えなくなるかもしれない――

 風が吹いた。冷たい、不吉な風が女の首筋を撫でた。

 

 

 

 

 そこには、豪勢な音楽隊も何もなかった。

 教会にいるのは三人だけ、ここの主と仮宿としている二人だ。

 ギルガメッシュは神父の代わりに祭壇に立っている。ひとりでも着られる簡素なウェディングドレスを纏った女と、白い礼服姿の言峰がその向かいに立っていた。

 指輪を運んでくれる幼子もいないから、それぞれがリングケースを持っている。

 

「綺礼、貴様はこの女と結婚し、妻としようとしている。貴様はこの結婚を神の導きによるものだと受け取り、その教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて、変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の灯の続く限り、貴様の妻に対して、堅く節操を守ることを約束するか?」

「そうしよう」

「女、貴様もか?」

「ええ、約束します」

「ここに婚姻は成った」

 

 ギルガメッシュがそう言うと、ふたりは結婚証明書にそれぞれサインをした。女はここで初めて、名前を明かすこととなる、その重大性を考えてはいなかった。

 満足そうにうなずく言峰、「――」名前を呼ばれ、性急に唇を奪われる。両肩を掴んで引き寄せられた、そのしあわせに女は浸った。

 誓いのキスが成った、そのあと抱きしめられたかと思えば、言峰が唐突に詠唱を始める。

 女は瞠目する。何が起きたか、分からなかった。

 

「私が殺す。私が生かす。私が傷つけ私が癒す。我が手を逃れうる者は一人もいない。我が目の届かぬ者は一人もいない」

「神父……? 言峰……綺礼?」

 

 何事か、確認したくて離れようとするが背中に強く回された手がそれを許さない。

 

「打ち砕かれよ。敗れた者、老いた者を私が招く。私に委ね、私に学び、私に従え。休息を。唄を忘れず、祈りを忘れず、私を忘れず、私は軽く、あらゆる重みを忘れさせる」

「ああ、おやめになって。綺礼」

「装うなかれ。許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生あるものには暗い死を」

 

 言葉を失い、あえぐ女。もう彼の企みは女に伝わっていた。この男は自分を壊す気なのだと。やめて、と息も絶え絶えに言うが、言峰は詠唱をやめない。淡々と紡がれる言の葉のひとつひとつが、女の魂に突き刺さる。

 

「休息は私の手に。君の罪に油を注ぎ印を記そう。永遠の命は、死の中でこそ与えられる。――許しはここに。受肉した私が誓う」

 

 ギルガメッシュがにやりと笑うのが目に入った。彼は言峰の計画を初めて知るようだった。でなければこんなに楽しそうに笑わないだろう。

 女からは言峰の表情は見えなかったが、いつもと同じ真顔でいるのは声色から想像がついた。

 次の瞬間、詠唱が終わると同時に、女は意識を失った。

 

 

この魂に憐れみを(キリエ・エレイソン)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これをずっと計画していたのか、言峰」

 

 ギルガメッシュは壊れた玩具を見るように、倒れ込んだ女を見やる。言峰はそれに対して、淡々と返事をする。

 

「この女の保有する魔力は使い物になる。お前も血液の接種だけでは足りなかったろう?」

「かといって、この女と身体を繋ぐのは貴様が許さなかった」

「シスターも了承しなかっただろう」

 

 ククッと笑ってギルガメッシュは否定した。

 

「酷い言い訳だ。この女は貴様が頼めばそれこそ身体も差し出したろうよ」

「どうかな」

 

 相槌を打ちながら、言峰は魔術を使って女の体を腐敗しない様に加工していく。死んだのは魂だけ。身体はそのまま生きながらえている。花嫁を横抱きにして、地下の礼拝室に連れていく。

 白いドレス姿、用意していた棺桶の中に横たえて、腹のあたりで手を重ねる。左手の薬指にはきらりと光るリング。

 

「言峰、お前は死体愛好家か。まるで白雪姫のように眠っているではないか」

「私は王子なんぞにはなれん。キスで起こしたいならお前がなってやるんだな」

「おお、魂を破壊しておいてよく言いおるぞ。しかし、嫉妬ができるようになったのは良い傾向ではないか」

「何?」

「結局、貴様はこの女が誰かのものになるのが許せなかったのであろう? 神の御許に逝くことさえ許さなかったのは、それ故だ」

「……ふむ」

 

 いっぱしの所有欲が自分にもあったのかもしれない。かつての妻に抱いた気持ちとはまた違うそれを、何と呼ぶのか言峰には分からないけれど――

 

「そうかもしれないな」

 

 言峰は頷いた。この感情はきっと言峰を人間めいたものにしてくれるに違いない。ある種の救いでもあった。

 横たわる女を見下ろす、静かに眠っているだけのような彼女は、もう人形のように空っぽだ。

 

「ゆっくりおやすみ、――。約束は果たすつもりだ。君のことは生涯、私が見守ろう」

 

 

 

Fin.




「口福」は「絶望レストラン」よりフレーズを頂きました。

最後までお読みいただきありがとうございました。
手元に残しておきたい方は、ぜひ通販サイトをご利用ください。
→ https://mcrecord.booth.pm/items/4065806


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