内政? ハーレム? 立身出世? そんなことよりレベル上げだ!(仮) (トシアキウス)
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初めてのレベル上げ

見切り発車の習作。ド直球な異世界転生ものです。
ガバガバ適当ナーロッパで無自覚サイコパス系主人公がひたすら俺TUEEEをする話。
モチベ上げのためとりあえず執筆済みの分まで。徹夜明けのテンションで投稿します。続くかどうかは不明。


 転生者ケン・シースレスが初めてレベルアップを体験したのは、十歳になった年の春のことである。

 月明かりの明るい夜であった。風も凪いで暖かく、猫のうなり声が響いていた。春の陽気でさかりがついたのは獣ばかりではない。ケンが家族と暮らす村外れの一軒家に、三人の若者が押し入った。

 

 リーダー格は村長の三男で、冒険者になろうと都会に行って出戻りしたが落ち着かなかった。悪童二人と徒党を組み、剣とバックラーをちゃらつかせて村を練り歩いては、若い娘にちょっかいをかけたり、強請たかりをしたりした。厄介者であったが、村長の息子ということで村人は強く出られなかった。村長はというと、田畑を継げず、夢を目指してもうまくいかなかった三男の気持ちを慮り、どうにか穏便に済ませようと一軒一軒住人に詫びて回った。

 三男に率いられる悪童二人は冒険者志望の乱暴者で、弟分でもあった。真っ当な武器と防具を持ち、都会の冒険者らしい振る舞いを教えてくれる兄貴分を慕い、慕われる三男は、都会にいた頃と正反対の扱いを受けて段々と気が大きくなって行った。

「俺たちは冒険者のパーティだ。三人一緒なら、今度こそうまくいく」

 悪童二人が成人したら三人で村を出ようと約束した。訓練と称して往来でチャンバラをするようになった。度胸付けのため村人を脅し、それで得た戦利品で酒宴を開いて三人の仲間は絆を深めた。何もかもが順調で、自分はきっと再起できる。そんな良い気分は長く続かなかった。父親である村長が小言を言い始めたのである。無粋にもほどがあった。

 人間は苦労すると、良い成長をするときと良くない成長をするときがある。三男の場合は後者であった。みじめにさせまいという親心が効き過ぎたせいでもある。

 

 夜の空き地で焚き火を囲み、不貞腐れて飲み始めた酒が頭に回って来ると、あることを思い付いた。

「ジャンの家に夜這いに行くぞ」

 ジャン・シースレスの嫁さんのランは気立ての良い美人で評判であった。なんであんな小作人上がりのさえない旦那にと村の男たちは羨んでいた。娘のリンもまた、母の血が濃いのか村一番の美少女であった。

「リンだっているしな。お前ら、そろそろ童貞捨てたいだろ」

「けど、リンは兄貴の兄貴の嫁になるんじゃ」

 リンはこの年、村長の次男に嫁入りすることが決まっていた。

「どうせ俺らは村を出るからどうなったっていい。それにあの野郎への嫁入りは政略結婚ってやつさ。水飲みなりのな。リンが中古嫁だってばれればジャンは底辺に逆戻りだ。泣き寝入りするしかないだろうさ」

「でも兄貴」

「一端の、男らしい男になるための通過儀礼だぞ。それにこいつは冒険だ。冒険しない冒険者はただのカスだって俺、言ったよな? 冒険者になりたくないのか? なるよな? なろうぜ。出世してハーレムをするんだろ。童貞のままじゃ無理だぜ。将来の予行演習がいる。ジャンはヘタレだしちょうどいい。二三発ぶん殴りゃ、言いなりさ。俺らはおもてなしを受けるんだ。いざって時にはこいつもある」

 これみよがしに鯉口を切った。包丁や農具とは違う、他者を殺傷するためのちゃんとした武器である。このショートソードに、父に持たされた支度金のほとんどを費やした。夢を抱いて都会に出て、唯一手にした成果であった。

 シースレス一家はたった四人の家族である。父親のジャン、母親のランと娘のリン、そして残った息子のケンはぼんやりしたところのあるただの子供に過ぎず、男手は実質ジャン一人で、あとは女子供だけである。自分たち三人ならどうとでもなる。

「ああそれと、リンは俺が貰うからな」

 仲間には言わないが、たとえジャンが泣き寝入りせず村長に訴え出ようとも、むしろ村長のほうこそが不祥事の隠ぺいを図ってくれるだろうという下心があった。なんとなれば発覚すればシースレス一家のみならず村長にとっても身内の不名誉である。もしリンの腹が膨らんだとしても、自分と兄は同じ血だ。何かにつけなあなあで済ませたがる父親は兄の子として育てさせるに違いない。

 不公平にも、次男の兄はなぜか自分と違って分家を許されている。新雪を踏む快楽もあるが、目の上のたんこぶに意趣返しをする暗い喜びに胸を躍らせて、村外れのジャンの家へ向かった。

 

 扉を蹴破る勢いで蹴りつけると木の香りが散った。

「ジャーンーくーん。あっそびましょー」

 反応がない。

「居留守はだめっしょジャーンーくーん」

「ヘタレかよジャンくん」

「よわよわかよジャンくん」

 ひとしきり騒ぎ立てると、たまりかねてジャンが扉を半開きにした。

「こんな夜更けになんだ。帰ってくれ」

「遊びに来たっつってんだろーが! 空気読めねーのかよ愚図!」

「帰れ」

 すかさず扉に体を手足を挟み、三人がかりの腕力差で押し入った。

「なんだ、なんのつもりだ」

「ちょっとくらいいいだろジャン君。俺ら仲良しだろ」

「酒臭い。酔ってるのか?」

「そう意気がんなよ。びびってんのばればれだぞ」

「帰れ。今すぐ帰るなら、村長には言わないから」

「チクリかよ、雑魚。ランとリンはどうした。奥の部屋か?」

「ランは子供を連れて実家に泊まりだ。家には今日僕一人だ」

「嘘つけ。晩飯四つ出しっぱだぞ」

「嘘じゃない。二人に何の用だ」

「ちょっくら夜這いに。うちの特権で昔ながらの風習っての? 弟の義務として兄嫁に男を教えに来た。まあ奥さんはついでだがね。ランママにはこいつらの童貞を切って貰いたい。初めて同士の交換でとんとんだろ?」

「どどど童貞じゃない」

「ちょ、ばらすなよ兄貴」

「馬鹿を言うな。今すぐ出て行け」

「聞き分けの無いやつだな。奥さーん、いまからこいつボコっから。さっさと表出て来いや!」

「家には誰もいない! 帰れ!」

「かーえりーませーん」

 茶化して三人で笑い合うと、ジャンを押し退けて奥へ向かおうとした。

「こら、まて、やめろ!」

 不意に視界が回って頭に衝撃を受けた。遅れて痛みがやって来る。

「え? あ?」

「兄貴? 頭血ぃ出てる」

 ジャンに掴みかかられて引き倒されたのである。家具の角に頭がぶつかり切れていた。

「ちょ、ま、なにおま」

 めまいが治まると、ジャンがこちらを見下ろしていた。

「今すぐ、ここを、出て行け」

 表情にも声色にも、恐怖の色はもはやない。

 日ごろの温厚さとは裏腹なジャンの目つきは、次兄のそれを彷彿させた。

「なんだよ、その目。なんだその目は!」

 発作的であった。柄に手をかけ振りかぶって振り下ろす。体が勝手に動いていた。

 気が付けばジャンの首元に剣の刃が薪割りのように食い込んでいた。咄嗟に引き抜くと、ジャンは血液のこんこんとわき出る傷口を押さえながら少しふらつき、間もなくくずおれた。

「ちがっ、俺、そんなつもりじゃ」

 弁明すべく振り向けば、悪童二人は「ひっ」と声を上げた。

「おい、おい。おい起きろ」

 血まみれになるのも構わず揺すったり顔を叩いたりする。しかしジャンは動かなかった。完全に死んでいた。

 

 物音がした。

「あなた?」

 ジャンの妻のランであった。奥の扉から身を乗り出し、呆然と見つめたと思えば、絶叫した。

「人殺し!」

「うるせえ黙れ!」

 ドン、と机を叩くが、ランは怯まず、ジャンの死体にすがりつき、狂乱したまま人殺し人殺しと繰り返した。

「ほんの弾みだろうが。ついカッとなったんだ。俺じゃない他のみんなでもこんな失敗するはずだ。ガン飛ばすから、俺をカッとさせたからだ。俺のせいじゃない。こいつが生意気すぎるせいだ」

 誤解を解こうとしてもランは聞く耳を持たなかった。人殺しと一方的に責められ続け、三男はつい逆上した。

「さっさと黙れやクソ女! 犯すぞ!」

 ようやっと反応し、夫の亡骸をかき抱いたままにらみ付ける。月明かりに照らされた青ざめた肌がいやになまめかしく見えた。

「……そうだった。俺たちは夜這いに来たんだった」

 勃起していた。

「夜這い? 夜這いってなんで? 兄貴は今人殺しを――」

「――冒険者なんざ人を殺して一人前だろうが! 殺す覚悟が、男だろ! びびってんじゃねえ!」

「でも」

「でもでもだってとやかましい! いいからセックスだよ! はなっからそのつもりで来たんだろうが!」

 ランを押さえつけるよう命じてベルトを外した。

 

 数分後、ふぅ、と血塗れの床から立ち上がって息を吐く。夫と貞操を奪われた女が、ぐったりしてすすり泣いている。

「次はお前らの番だな」

 達成感があった。あまりの心地よさににやけていた。おすそ分けしようという気分にもなる。

「遠慮すんなよ。こいつは必要なことでもある。通過儀礼って言ったろ? それにお前らもやる気じゃねえか」

 行為を見せつけられた悪童二人のズボンはすっかり膨らんでいた。殺人の衝撃を上塗りしようという精神の働きもあり、入り交じった体液の匂いと規則的な水音とに促されて、下半身の衝動がわき上がっていた。

「俺たちは仲間で家族だ。みんなで犯るから尊いんだ。絆が深まるんだ」

 だらしなく手足を投げ出したランの姿に、二人が生唾を飲み込んだ。

 

 殺人現場でのイニシエーションは次第に乱交の様相を呈して、衣服を身につけるのは死体ばかりとなった。

「そういやリンを忘れていた」

 男と女と男とが、嬲るの文字通りにひとかたまりになってうごめいている。熱中している仲間を尻目に、血塗れの剣をぶらつかせて立って行った。

「仲間はずれはよくないもんな」

 姉弟は奥の部屋のクローゼットに身を隠していた。抵抗されるが罵声を浴びせて引きずり出し、剣をちらつかせて怯ませる。

「お父ちゃんみたいになりたくないならお母ちゃんみたいに大人しくしろ。言い付けを良く守ればいい子いい子してやる」

 父親がおねんねしているすぐ横で、母親が男二人と仲良しするのを見せつけてやった。

「いいご両親だな」

 姉弟は絶句していた。嫁入り前の少女と思春期前の少年には、不倫現場の光景は刺激が強すぎたようである。

「寝取られパパと阿婆擦れママでお似合いだぜ」

 からかってやると、弟のケンがピィと笛の音に似た声を鳴らして泣き出した。腕で顔を覆って、いかにも子供らしい号泣であった。

「クソガキがきったねえ声で泣くんじゃねえ! 萎えんだろうが!」

 拳骨を食らわせてやれば、顔を隠したままよろめいて食卓にもたれかかり、食器をぶちまけながら床にうずくまった。

「ケンくん!」

 と駆け寄ろうとするリンの髪をつかみ、顔を寄せてぺろりと舐める。

「弟殺すぞお姉ちゃん」

 剣の腹で足を叩くとびくりと震えて大人しくなった。

 

 先ほどまで裸体ばかり目にしていたせいか、薄手の寝間着の控えめな膨らみが、いやに欲望をかきたてる。這わすというより揉みくちゃにするような勢いで手を動かしてみるが、剣を持ったままの片手ではやりづらいし物足りない。

「仰向けになれ」

 剣を置く。スカートをたくし上げ、両足首をつかんで持ち上げる。お楽しみはまだまだあって中途半端であるが、もはや我慢ならぬ。

「いや、やだ、助けてママ!」

 いよいよとなって少女が腕を振り回す。こんな体勢ではか弱い抵抗に過ぎない。あざ笑った。

「お前がママになるんだよ!」

 いざ、と腰を突き出そうというそのときであった。不意の異物感に、一拍遅れて身体の中心から凄まじい激痛が広がった。息が止まる。声が出ない。リンが後ずさりしていた。意識が明滅すると、横倒しに身体を丸めている。両手は少女の足首ではなく、己の股間を押さえていた。

 

 ケン・シースレスであった。うつむいて泣きじゃくっていたはずのその少年は、男が地獄の苦しみを味わうのを能面面で観察していた。中腰で宙ぶらりんという無防備になったその瞬間、急所を全力で蹴り上げていたのである。少年の左右の手には、くすんだ食器のナイフがあった。

 剣を求める手が床を這う。何もない。見ればなぜか手が届かない位置に移動していた。

「てめっ、死んだぞ、ガキィ!」

 四つん這いで顔を上げて凄む。まだ身体の自由が利かないが、今に思い知らせてやると闘志を燃やす。

「兄貴!?」

 結合状態のまま硬直しているものの、仲間もこちらの様子に気付いている。

「お前ら俺を助けるんだよ!」

「兄貴うしろ!」

「へ?」

 振り向くと目玉にナイフが突き刺さった。

「あっ、ひぃ?」

 そのことを理解して絶叫した。唐突に視界が欠け、痛みを上回る欠損の恐怖に無事な片眼までも瞑ってしまい、暗闇のなかでのたうち回る。

「やめっ、たすけ、ごめんなさ――」

 固いものが首にごりっと差し込む感覚がした。もはや助からなかった。

 

 ケンの目の前で、村長の三男が瞼と首からナイフを生やして痙攣していた。もはや何をせずとも息を引き取るであろう。

 不意打ちでリーダーを仕留めたものの、残る取り巻き二人と真正面からやり合うのは子供の非力な身体では難しい。父親の仇のうち、どうにか一人は討てたので及第点といえる。

 泣き喚き、食卓に向けて倒れ込んで武器となる食器のナイフを二本確保する。顔を覆う泣き真似を続け、目を瞑ったと見せかけて機会をうかがう。最も無防備になる瞬間を狙って忍び寄り、確実に動きが鈍るであろう一撃を食らわせる。床に置かれた剣を蹴飛ばして拾えなくする。片方のナイフと引き替えに片眼を潰し、パニック状態に陥らせて反撃を封じる。残ったナイフを両手持ちで、全身全霊を込めて、首をめがけ、致命傷を負わせる。綱渡りであった。

「兄貴が死んだ?」

「この人殺し!」

 呆然としていた三男の取り巻きが立ち直った。今は手元に武器がない。ナイフは再利用してもいいが心許なく、転がっているショートソードは子供の腕力では満足に振れないであろう。己が生き残るのに最善の手段は逃亡であるが、母と姉を置いてはいけない。

 取り巻き二人がそろそろと身動ぎして立ち上がる。縮こまって自然と連結が外れている。母が人質にされないのは僥倖ではある。今し方兄貴分を殺されたにもかかわらず、相手が非力な子供であるという認識は拭いきれなかったのか、あるいはまだそこまで頭が回らないのか、いずれにしても、そうした油断や隙を最大限利用しなければと思考を加速させたとき、突如、もの凄い感覚に襲われた。

 

 それを無理矢理例えるならば、少年が精通の間際に感じる、射精を快楽と学習するより以前の安心感に似た暖かみを、途方もなく拡大した感覚である。それでいて肉の喜びにあるような余韻がない。刹那というよりもいっそ、時間感覚を超越した法悦であった。白昼夢のようなあやふやな時を過ごしたと思えば、現実ではまったく時間が流れていないのが直覚される。視界の中、足を踏み出しかけた取り巻き二人の姿は、法悦の以前以後で寸分違わず同一である。

 

 不意に、こいつら弱そうだなという錯覚に襲われた。もちろんそんなはずはない。もうじき大人になろうという十四五歳の若者二人と十歳の子供の自分とでは腕力において比ぶべくもない。

 ないはずであるが、試しに拳を握ってみた。ぎちりという音がした。

「よくも兄貴を」

 すかさず身を翻して得物を拾う。やはり、思ったよりも重くない。

「それは兄貴のだぞ!」

 怒りを募らせる二人を尻目に素振りする。剣というものを手にするのは初めてである。一振り目はショートソードの重さに身体を持って行かれ、二振り目にはぶれが残り、三振り目で腕に馴染んだ。上昇した身体能力も把握した。

 いける、と確信した。

 ケンは相手の懐へ忍び込むように踏み込んだ。

「おわっ」

 わざと一拍置いての切り上げに、相手は腰を引っ込める。回避行動を許したので手応えは軽い。だがそれでいい。致命傷狙いではない。剣の尖端を滑らせるような振り方は、精密だが非常に軽い。片方の無力化を目的としたこの奇襲は全裸だからこそ狙いやすい。

 幼子のような悲鳴が上がった。股の間でぶらつくそれが、切れ目を入れすぎたソーセージのように千切れかけていた。

「ひぇっ、ま、魔族だ……」

 惨劇にもほどがある。兄貴分の仇への怒りは消え失せた。もはや恐怖しかなかった。一方は患部に触れることも足を動かすこともできずに泣き喚き、もう一方は無表情で凶刃を振るった子供が恐ろしくて戦意喪失した。一対一に持ち込むどころか、戦いにもならなかった。

 この様子ならばと、ケンは上段に構えて微笑んで見せた。

「く、来るな……来ないで……ひゃあっ!」

 相手が恐怖に耐えかねて逃げ出そうと背を向けると、未来位置を狙った飛び込み斬りがふくらはぎに命中する。

「もうやだ。痛いよぅ……」

 びっこを引いてなおも逃げようとする。追撃でお尻を切り裂くと仰け反った。人体を斬ってみた感覚からして一撃で致命傷を与えるのは謎の現象で強化された腕力でも難しい。

 あまり時間をかけては割礼攻撃で足止めしておいたもう一方が根性を発揮して立ち直りかねない。聞きかじりの急所を試している暇は無い。

 よってとりあえず学習を兼ねて裸体を滅多切りにした。程なく頸動脈に当たって失血死した。

 

 残るは後一人となった。相手は無防備かつ負傷していて、こちらは武器を持っている。戦力がやや勝っている今ならば、殺害以外の選択肢も見えてくる。

「姉さん」

 と、まだ生きている悪童に剣を突きつけながら、

「物置にロープがあったよね。それでこいつを――」

 横目で見れば、姉のリンは青ざめた顔でこちらを見つめている。どうも怯えきっている様子である。

「俺一人じゃ無理なんだ」

 声をかけるがびくつくばかりで動かなかった。拘束は任せられそうにない。母のランの方を見ても、目を開けたままぼんやりになっている。父のジャンは言わずもがなである。

「助けてください……お願いです……謝るからごめんなさい……」

 今は股間から血と糞便を垂らして命乞いしているが、村の乱暴者であることに変わりない。単純な腕力においては今のケンと同等で、再び暴れ出せば母と姉に被害が及びかねない。

 ケンは溜め息をついてショートソードを振りかぶった。

「だ、駄目!」

 姉の声であった。人殺しはいけないことであり、今まさにそのいけないことをしようとしている弟を思いとどまらせようと、手を伸ばしていた。

 ケンは少し考えて、それから武器を振り下ろした。あからさまにほっとした顔が絶望に歪んだ。

 父を殺し、母を辱めた三人の若者は三人とも死体になった。



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事件の後

 厄介者の三人組がシースレス家に押し入り、旦那を殺して女房をひどい目に遭わせたが、二人の息子の手によって皆殺しにされた。大事件である。この村で起きる流血沙汰といえば水争いの小突き合いで事故があったときくらいなもので、人死にが出る事件も男女関係が拗れて猫いらずを飲むといった具合であり、今回の事件のような凄惨さはあまりない。

 村長の三男がとうとうやらかしたかと思えば子供の反撃で仲間ごと殺された。被害の痛ましさや仇討ちの痛快さもあるが、若者三人を殺してのけた十歳の子供の不気味さが際だって印象される。事情聴取を盗み聞きした物見高い野次馬によれば、最後の一人が命乞いをした際に、姉の制止を振り切って止めを刺したという。

 元々ケン・シースレスは変わった子供として知られていた。回りの子供に馴染まないでいつも独りぼっちでいる。受け答えはぼんやりしてしばしば素っ頓狂な言葉を返す。発音の仕方も少し独特である。そのくせ勉強はよくできて、殊に計算なんかは大人顔負けである。いわゆる知恵遅れの天才の一種ではあるまいかと思われていた。

 そうした可愛げは事件を経て一変した。柔らかい表現をするなら、悪い意味で何考えているか分からない子供になった。荒くれや気難し屋とは一線を画すような、生まれながらの精神的片輪の片鱗が言動の節々に表れていたような気がしていた。

 

 村の大人たちと違って子供たちは割合のんきであった。ケンの家やケン本人に向けて「人殺し」だとか「殺し屋ケンちゃん」だとか度胸試しにからかい、それで何かしら反応があると「殺される」「助けて」と笑いながら蜘蛛の子を散らすように逃げ出して、そのまま鬼ごっこの亜種へ移行する。

 一人がケン役の鬼をしてそれ以外の全員が三男役の逃亡者である。ケン役は手ぶらで、三男役は皆棒切れを装備している。ケン役が三男役を捕まえると、三男役は棒切れを奪われて斬り殺されてしまう。その際に思い思いの死に様を演じるのが三男役の腕の見せ所である。なかには開始前の時点で威張り散らして往来を闊歩してみせる演技派もいる。事情通なのかわざわざ服を脱いでから逃げ回ることもある。

 ケンごっこと名付けられたこの新しい遊びは村の子供たちの間で大流行したが、不謹慎に過ぎるとして村長直々に禁止令が出された。今の村長は事件の責任をとって隠居することになったので、この禁止令は彼の村長としての最後の仕事であった。出来の悪い子ほど可愛いということで、子供たちの間でやられ役に貶められた三男の名誉を少しでも守ろうとしたのかはわからない。後にこの遊びは隣村に伝わって変則的な鬼ごっことして定着し、ケンと三男の名とともに代々受け継がれていくことになる。

 

 ケンが咄嗟の仇討ちとはいえ若者三人を殺めたこと自体については、村長と神父と駐在と意見するために集まった年寄り連中とが夜っぴて談合し、過剰防衛といえなくもないが正当防衛の範疇ということで落ち着いた。判断能力の無い十歳の子供であることを考慮した上での無罪放免である。

 この結論にしてもあっさり折り合いがついたわけではない。村長が喧嘩両成敗で済ませたがったのに対し、反村長派の年寄り連中が義憤を燃やして勢い付き、村長派と反村長派であわや乱闘となりかけた。長年の確執はその意固地さでもっていかなる悲劇であろうと喧嘩の種にするので、中立である神父と駐在は両者を仲裁する羽目になった。反村長派をなだめながら、ここはぐっとこらえて年寄り連中に花を持たせてやるべきだろうと村長を説得した。

 

 お咎めなしとはなったものの、三男を殺された村長と取り巻きの悪童二人の家族にしてみれば面白くない。いつか歴史に名を残すと意気軒昂たる青年であった三男が、一晩で食器用ナイフを生やした全裸の死体に変わった。乱暴ではあるが下の子には優しい兄が全裸でずたずたに切り裂かれた。幼い頃は素直で今はちょっと荒れているだけの息子が息子をぶつ切りされた全裸のまま、脳天をかぼちゃのように切り割られた。あまりにもむごたらしい息子たちの末路に遺族は悲憤慷慨した。下手人のケンは父を殺され母を犯されているが、それはそれこれはこれである。そもそも手口からして残忍で狡猾なので後ろめたい同情心の湧く余地がない。第三者の気持ちのつもりで見れば、ここまでしなくてもいいだろうと思わざるを得ない殺しっぷりである。

 十歳の子供がこれをした。出来てしまった。そのような存在は村社会どころか人間社会全体からみても異物である。迫害するに支障はないが、そうはならなかった。田植え前である。事件の起きたこの時期は忙しくて暇がない。農村の住民はほとんどみんな、陰湿な気晴らしに励むより自分の田んぼを優先する。

 

 ケンの殺人行為への風当たりは農繁期に流されたこともあり立ち消えになったが、シースレス家の家庭内は落ち着いたとはいえなかった。

 白痴のようになっていた母のランは事件の翌々日にはひとまず立ち直って見せた。居間に飛び散った血や体液は掃除したし、葬式も大急ぎで済ませた。夫との別れの場面では毅然として女傑ぶりを感心され、葬式の後は近隣にお礼とお詫びをして回った。そうして事件の後始末が済み、次は田植えというところで限界が来て、泣いて暮らすようになった。

 母のランは布団にくるまり涙を流すばかりなので姉のリンが家事を一手に担った。田んぼの方は姉の婚約者が手伝いに来てくれた。父の死で失った男手を補い、ケンの身体能力も増している。労働力自体は足りていたが、実作業は思うように行かず苦労をした。指示出しをする家長とその補佐が不在なのである。ケンもリンもこれまで両親に命じられた通りの作業しかしてこなかった。大まかな流れはわかるが細ごましたことは十全には教わっていない。姉の婚約者にしてもよその田んぼでは勝手が違う。うろ覚えの知識をすりあわせて段取りを組み、姉の婚約者を仮の家長として、ときには母の実家の人に助けてもらい、どうにか田植えを終わらせることが出来た。

 

 ここで一番辛い思いをしたのは姉であったろう。農作業の後、家事に加えて泣き暮らす母親の世話もある。気が休まらずしだいに精神の均衡を崩して行った。事件前とまるで変わらぬ様子で澄ましている弟に当たるのは必然であった。

 日中は婚約者への乙女心で普通でいるが、夜に居間でケンと二人きりでいるとヒステリーめいた言動をする。冷血漢だとか人でなしだとか非難を浴びせ、我に返ると謝罪して押し黙る。それが何日も続いた。ケンは言い返さなかったが、その態度がかえって姉を追い詰めた。そうして口さがない主婦たちが姉のほうもおいたをされたと噂した夜、とうとう決定的な言葉が口をついて出た。

「私を囮にしたくせに!」

 事実である。あのときは無防備になる瞬間を狙うため、姉が三男に股を開かされるのをあえて見逃した。宙ぶらりんの急所を攻撃するにはそれが最適であった。しかしケンにとってはそうでもリンにとってはそうではない。ことの直前に至った精神的苦痛は察するにあまりある。

 有り体に言えば、ケン・シースレスは外敵の円滑な殺害のためなら平然と家族を囮にすることができてしまう。そういう性根の人間であった。魂の殺人という一点においては三男の共犯のようなものである。この事実に気付いてしまえば、もはや弟とは思えない。もう家族じゃない。

 

 心理的な絶縁をした姉とは逆に、姉の婚約者はケンと仲良くなろうと気安く話しかけるようになった。村長の次男である彼は姉とは恋愛結婚である。将来の義弟が、反目していたとはいえ弟と弟の舎弟を殺したことに思うところはある。けれども恋人の貞操を守り通してくれたことへの感謝の気持ちもあって、実地に確かめたことで好感が上回った。

 思い詰めた姉のためにケンが物置で寝起きし始めると、姉の婚約者が女子供だけでは不安だろうからという名目でシースレス家に泊まりに来るようになった。婚約者との一足先の同棲生活は部屋住みより余程居心地が良いらしい。週五くらいは寝泊まりした。

 おかげで姉は持ち直して、ケンと家族のように振る舞えている。人前では他人行儀にならないし、義兄が兄貴風を吹かせようと張り切っているのから察するに、ケンが三男の乱暴するのを放置したことは内密にしてくれている。

 母のランも家事を手伝ったり教会に通ったりできるくらいには回復した。姉と二人で台所に立ち、花嫁修業の楽しげな声を響かせる。しかしそこにケンが顔を出すと尻窄まりに静かになる。ケンは母親から怯えた目で見られていた。

 

 ようやく前を向き始めた家族である。その妨げにはなりたくない。ケンはなるべく外へ遊びに行くようになった。

 村を歩けば大人たちからは遠巻きに警戒され、子供たちの間ではケンごっこなる遊びが流行っている。煩わしさはなくもないが、こそこそすればかえって後ろ暗いことがあると思われる。直接的な被害は子供に石を投げられる程度なので、ケンは堂々と村を歩いた。向かうのは河原か山のひとけのない場所である。入会地なので荒らさなければ後ろ指は指されない。

 ケンはそこで一人遊びに耽った。

 棒切れを振ったり、岩の上を駆け回ったり、石投げをしたりである。寂しい子供のやることであるが、ケンにとっては訓練であった。

 

 事件の直後のことである。事情聴取を兼ねて神父さんと話をした。

 前々から神父さんは勉強ができるケンに目を掛けていた。教会の蔵書を自由に読ませたり神学の個人授業をしたり、神学校に推薦してやろうとお世辞を言うほどであった。ただ可愛がっていたばかりではない。四人分の死体の前で村人の同情を引くためにケンは泣き真似をした。それを二人きりの話し合いのなかで咎めたことから、ある程度はケンの性根を見抜いていたと思われる。

「女神の救いは、あなたのような者にこそ、必要なのでしょうが」

 ひどく無念そうであった。まあ人殺しを聖職者にするわけにはいくまい。

 道徳的な話がひと段落するとケンは己の身に起きた身体能力の上昇について尋ねた。神父さんによれば、それはレベルアップと呼ばれる現象だという。世界の理の一つであり、慈悲深い女神の苛烈な側面でもある。宗教的な解釈は子供には難しいので割愛してもらい、具体的な内容を教わった。

 レベルアップは人間が生き物や魔物を殺すと起こる現象である。レベルアップした人間は身体能力や魔力が上昇する。

 何かを殺すたびに起こるわけではない。大抵の人間は普段の暮らしの中で虫や小動物を殺している。そんなでは世の中超人ばかりになる。

 殺した相手から流れ込むとある力があって、便宜上――誰が言い出したかは知らない。嘆かわしいことだが――経験値と呼ばれているそれが一定値まで溜まったときになってようやくレベルアップが起きる。

 体の中にゴム風船を想像するとわかりやすい。風船に経験値という空気が送り込まれる。空気の量が少しなら膨らむばかりで何ともない。しかし何回も空気を入れたり、一気に大量の空気を入れたりすれば、ついには風船は破裂する。それがレベルアップである。

 風船そのものの大きさは人によって異なる。大きかったり小さかったりして、膨らんでも時間が経つと空気が抜けて縮んだりもする。なので百姓をする人間はまずレベルアップしない。殺生といえば鶏の締めや害獣駆除くらいなもので、その程度の経験値では自然と抜けてしまう。

 人間の場合だが、殺した相手のレベルが高ければ経験値も増えるとされている。それに加えて、レベル差があるほど獲得量が上乗せされるともいわれている。

 ケンが最初に殺した村長の三男は一応冒険者崩れではある。その成果は出戻りなので覚束無いが、最低でも二三回はレベルアップを経験したと思われる。そして人間である。人間の経験値はゴブリンなどの魔物と比較して何倍もある。これに二三レベル分とレベル差補正とが合わされば、子供一人の風船など、容易く破裂してしまう。

 ちなみに風船で例えたのは神父さんである。この世界にはなぜか近代的な避妊具が存在し、ゴム風船も子供の玩具として一般的である。子供たちが水筒にして面白がるのはどの世界でも変わらない。

 

 取り巻き二人を殺した後にレベルアップは起きなかった。経験値の大小か必要量の変化かといった考察は、生き物を殺して回るわけにもいかないのでする気はない。

 ケンが一人遊びで探るのは、今のレベルで何が出来るかである。

 腕力自体は成人男性にやや劣る。けれども体重は約半分なので、身軽さにおいては段違いといってもいい。宙返りや壁面走りといった軽業師めいた動きができる。

 

 剣の修行の真似事もした。前世におけるちょっとした事情や巡り合わせもあり、棒状のものを武器として振るった経験はなかった。そのためか一振りするたびごとに新たな発見があって面白い。

 横木打ちを試したがすぐ壊れてしまったので一度で懲りた。伝統的な稽古法を素人工作で再現するのは無理があったということだろう。

 岩割りなんかもやってみた。楽しかった。あまり景観を損ねては村の人に怒られるので、それも止した。ただ一カ所だけ、大岩を球体に削る遊びは大目に見てもらうことにした。前世で読んだ漫画の内容の再現は良い気晴らしになった。

 主にやる形稽古もどきでは、例の三人の幻影を相手にした。始めは全裸のそれらが躍りかかって来るのを打ち倒した。次は服を着せ、武器を持たせて戦った。それに慣れると三人のレベルを上げ、ついでに飛び道具として投石もさせた。危なげなく勝利するようになると、腕を増やしたり首無しでも動くように改変したり、色々と試してみた。数も増やした。十二人以上はそれほど変わらなかった。自分自身の幻影とも戦ったが、決着が長引くのであまりやらなかった。

 

 一人遊びの空想のなかとはいえ投石の厄介さを味わうと、こちらも飛び道具が欲しくなる。異世界での飛び道具といえば魔法である。

 神父さんによればケンの魔法使いとしての素質は、魔力量からいえば中の下くらいになるらしい。数でいえば五人に一人の才能で、専門に鍛えればものになる。換言すればなくはない。その程度である。

 何年か前に魔法を教えて欲しいと頼んだときは年齢を理由に断られた。曰く、幼すぎる人間が魔法を覚えるのは色々と不都合があるという。独学など以ての外で、座学ならともかく、魔力鍛錬なんて試したら将来早死にしてしまう。子供に武力を持たせる危険性ではなく、健康上の危険性である。爾来ケンはその言い付けを守って魔法を覚えも試しもしていない。

 よって現時点で飛び道具を求めるとなると、投擲が手頃な方法になる。

 ケンは河原で手頃な石を見繕い投石の的当てをした。右投げと左投げの両方とも馴染ませ、様々な体勢から静止目標を狙う。そして訓練の締めには空を飛ぶ鳥を動目標にした。事前に義兄経由で狩猟許可を貰い、一日一羽を狩って帰って夕飯のおかずにした。

 大きめの釘の頭を削った即席の棒手裏剣を試すこともあった。石と違ってかさばらないし投げやすい。鳥を狩るときの損傷も少なくなる。しかし姉にどうやって仕留めたか尋ねられ、釘手裏剣を見せるとぎょっとした目で見つめられた。

 

 家に居づらいとはいえ連日外出して奇行めいた訓練をするのには無論、ケンなりの理由がある。姉と義兄の結婚が本決まりになった少し後、義兄を交えた夕食の団欒で切り出した。

「家を出て冒険者になろうと思います」

 事件の後からそう考えていた。

 家族と気不味くなり、村での立場も怪しくなった。このままここで暮らしていては回りに迷惑をかけるばかりである。ならばいっそ、村を出てしまうのが手っ取り早い。流民として浮浪児を出すのは村にとって不名誉なので職を得ねばならないが、奉公に出るにしても人殺しをした子供を雇う物好きはいまい。なれそうなのは年齢・経歴不問の冒険者である。ケンは一応、法的には前科者でないので最低条件は満たしている。

 聞き覚えのある台詞を言い出したケンに、義兄は苦い顔をした。

「ケン君は突然どうしたんだ。家と出るといっても、成人した後のことだろう」

「いいえ。お二人の結婚式の前には村を発つ、その予定です」

「予定って、あんまりにも急じゃないか」

 あまり時期を遅らせると村の住民に暇ができる。気晴らしの余地が生じたとき、家に住むのが純粋な被害者だけなら手心を期待できる。

「支度は? 路銀は? まさか夜逃げするわけじゃあるまい」

「村長さんに相談しました」

「相談? 親父だと?」

 息子の仇がやってきて、己を追放してくれと申し出る。憎いと同時に気味が悪かったに違いない。村の平和を守る。事件の印象を薄れさせる。そのために危険人物かつ当事者はいなくなったほうがいい。少し違えば脅し文句となりかねぬような主張をケンは並べた。支度金やら手続きやらは、付き添いで交渉してくれた神父さんの手柄である。

「リンはどうなんだ。冒険者なんか切った張ったのやくざ仕事じゃないか。ケン君はたしか、まだ十歳だったろう」

「私はいいと思う」

 姉が流し目でケンを見た。

「よせよ。ケン君は大人だ。弟をからかうのは楽しいだろうが、今は真面目な話なんだ」

「私、真面目だよ。冒険者って、うん、冒険者って悪い人や魔物をやっつける仕事でしょ。ケンくんみたいな子には向いてると思うよ」

「だから十歳の子供が向いているとか向いていないとか、将来の話じゃないんだぞ」

「向いてるよ」

 ぴしゃりと打つような断言であった。根拠を求めれば容易ならぬ内容まで立ち入りかねぬ気配があった。

「ランさ、ああいや、ん。なあケン君。そんな急に村を出なくたっていいと俺は思うんだが」

 途方に暮れた義兄が母に助けを求めかけてごまかした。事件以来少し気がおかしくなった母は、この類いの話題では姉以上に危うさを孕んでいる。

「……お父さんの、お父さんの仇を殺したみたいに、人殺しをしに行くの?」

 母の言葉が響いた。義兄はいよいよきまり悪そうに口を噤んだ。

「違うよ。仕事だよ。冒険者がするのは魔物退治とかで、犯罪者の対処は行政の管轄のはず」

「でも人殺しはするのよね」

「たぶんしないと思うよ」

「でもいざとなったら殺すでしょう?」

「規則とか法律とかがあるから、なるべく殺さないんじゃないかな」

「あなたは殺すわ。殺せるわ」

「そうかな」

「そうよ」

「止さないか二人とも、物騒な話は」

 どこかかみ合わない母子の会話に耐えかねて義兄が割り込む。姉は微笑んでいた。

「物騒かしら」

「物騒ですよ。今日のところは仕舞いにしましょう。なあケン君。あすにでも二人で話をしよう。冒険者云々はひとまずいい。君が決めたことだからな。だが村を出るとなると、とりあえず跡継ぎのことを決めなきゃならん。君は長男でジャンさんの息子だ。この家の田んぼはみんな君のになってる。婿の僕が勝手にどうこうしちゃいけないし、したくない。だからちゃんと明日、二人で落ち着いて相談しよう」

 義兄はそう締めくくると、「今日は月がきれいだから行かないか」と姉を誘い、夜道の散歩に立って行った。父のジャンもそうであったが、家長というものは気苦労が多いようだとケンは思った。

「切れ味が鈍かったのを忘れてたわ」

 いつもはもう寝る時間なのに、母が道具を広げて包丁を研ぎ始めた。この日の夜中は、蛙の声が喧しかった。



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カッコウの巣立ち

 出立の日が来る。

 その少し前ごろから、気晴らしに棒切れで削り出した岩の大玉が村の子供たちの遊び場になっていたので、ケンは訓練を取りやめて家の手伝いや旅立ちの準備に専念した。準備といってもケンが一人でしたのは釘手裏剣の加工くらいなもので、あとはおんぶに抱っこであった。通行手形を兼ねた身分証を駐在さんに頼んで発行してもらう。都会までの足は村長が手配する。乗っ取りと邪推されぬよう家と田畑を母の名義にして、義兄には相続権を譲渡した。気前よさげに聞こえるが残していく家族の世話と責任を押し付けたようなものである。

 新婚で気持ちが上向くであろう姉ならまだしも、愛する夫を殺された直後に三人がかりで乱暴された母は、今もまだ、ちょっとおかしいままでいる。ふとぼんやりしていたり、何かの弾みでひどく怯えたり、子供のようにきゃっきゃとはしゃぐこともある。しかし不仕合わせな未亡人の少女めいた仕草にはえも言われぬ色気というものがあるらしい。近所のやもめのおじさんがヤマメを釣っておすそ分けに来る。富農のご隠居がケンと出くわすとお菓子をくれる。教会通いに熱心なお婆さんがケンか義兄を捕まえて小一時間説教する。焼き餅焼きで有名な村長の後妻が村長を連れて文句を言いに家に来て、居合わせた義兄まで巻き込んで愁嘆場を演じたこともある。後々の義兄の気苦労を減ずるため、母の再婚や妾奉公について自分には事後承諾でかまわないと言ってみたが、それはだめだろうと叱られた。姉にはぼそりと「そういうとこよ」と咎められた。その態度にわずかながらも家族の気安さを垣間見た気がして嬉しかった。

 良いことは他にもあった。冒険者稼業に必要な装備について、都会で買うつもりでそれまでの間に合わせに物干し竿からクォータースタッフでも作ろうと考えていたところ、思い掛けず真っ当な武器が手に入った。三男のショートソードである。父のジャンを殺害して三男の取り巻きを切り刻んだ凶器であるそれは、村長の息子の形見とするには不体裁かつ物々しく、しかし高額品なので廃棄するのもためらわれた。もてあますので折をみて見舞金の足しに売り払うと聞き、どうせならとケンが駄目元で所望してみると、渋々であるが、支度金の減額と引き替えに受け入れられた。村長は手渡しながら「鬼っ子めが」とぼやいていた。もらえた付属品は鞘だけで、剣帯やバックラーといった他の武装は三男の形見にするとのことである。

 防具といえる一張羅も手に入れた。神父さんが夜なべをして旅人の服とでもいうような、丈夫な服を用意してくれた。元となった赤いカソックは神父さんが昔使っていたもので、冒険用に仕立て直したことでデザインが様変わりしたが、頑丈さは折り紙付きのままである。元々付与されていた魔法効果の大半は解除した。ただ呪詛を防ぐのと、身体の成長に合わせた寸法変化、回復魔法による修復の三つは残してある。いかにもファンタジーな性能で、手触りも意表をつかれるきめ細かさがあった。いやな予感がしてもし金銭換算すれば何ほどになるか聞いてみたが、再生品なのでお金はまったくかかっていませんと笑っていた。

 冒険服の対価とまではいわないが、犯罪はなるべくしないこと、悪所には決して通わないこと、もし将来成功したとして、もう遅いと言ってこの村の人たちをいじめないこと、以上の三つを約束させられた。うち二つは問題ない。しかし悪所などは付き合いもあるので難しそうですがと言うと「適性が落ちて回復魔法が使えなくなりますし、レベルアップの効果も薄れますよ」と忠告された。ケンは約束をちゃんと守ろうと決意した。

 

 出発の前日には義兄が家族だけのちょっとした送別会を開いてくれた。義兄の実家から貰った鶏のすき焼きに真っ白い銀シャリといったごちそうで、義兄秘蔵のウイスキーも、子供なのでちょっぴりであるが飲ませてくれた。二人きりで盃を交わしながら、

「重ね重ねすみませんが、二人を頼みます」

「ああ」

「手紙と一緒に仕送りします」

「変に気を遣わなくていい。弟なんだ」

 そんなふうなやり取りをした。

 

 待ち合わせ場所は村の出口の看板よりずっと離れた位置にある。都会まで便乗させてもらう行商さんとはそこで合流する。村での商いを終えた行商さんの馬車が来るまで、ひっそりと一人で待つ。ケンがいなくなることは村の者には知らせていない。今この時間、義兄と姉は畑仕事をしていて、母は教会で祈っている。人知れず逃げ出すように村を去る。その予定である。事後承諾で当事者がいないなら反村長派は事を荒立てられない。詮索はされるだろうが大騒ぎにはなるまい。

 大騒ぎといえば、村長の三男のときは村ぐるみで壮行会を催した。村長、神父さん、駐在さん、ご隠居さんや他大勢、何人もの村の有力者が順番に挨拶とお話をして、各々激励の言葉を贈っていた。この日のために取り寄せた葡萄酒が参加者全員に振る舞われ、広場では豚の丸焼きが焼かれていた。もはやちょっとしたお祭りで楽しかった。皆が満腹になるまで飲み食いした翌日は、村の看板の前に勢揃いしてお見送りをした。大人たちは二日酔いなせいか、どこか精いっぱいなところがあった。子供たちは元気いっぱいで別れの言葉を、面白がったこともあり、兎にも角にも大声で叫んでいた。ケンも子供たちに同調して涙声の取り巻き二人に負けぬよう声を張り上げた。行商さんの馬車から身を乗り出した三男も、涙ぐんで手を振っていた。

 行状はともあれ三男は村長に愛されていた。愛されていたから孝行息子であったに違いない。一方ケンは親不孝である。前世で先に死んだ転生者なので、二重の意味で親不孝である。

 

 見納めしようにもこの場所からは木々に遮られて村の姿は全く見えない。行商さんが店開きするのを確認してすぐに旅支度を済ませて家を出たから、合流まではまだまだかかる。

 暇つぶしに荷物から武器を取り出して装備することにした。このあたりでは魔物も盗賊も出現しない。平和にも平和な土地で、武器はまったく必要ない。村を発つなり目に入る村人なりの完全武装の出で立ちは、いかにも子供らしいはやり気と思われるが、いざというときもたつくならば微笑ましい恥かき程度は受け入れる。

 三男はショートソードを剣帯で釣っていた。前世の時代劇なんかでは刀を腰に差していた。ケンは漫画みたいに背負うことにした。なんとなれば剣帯は無く、腰に差すのも鞘当てという語があるくらいだから、素人の自分では動作が制限される気がしたのである。走るのにもこちらのほうが楽でよい。柄の位置は両利きなので左右問わないが、左腰に釘手裏剣のポーチを付けた都合上左側にした。左手で投擲しつつ右手で抜剣するという格好になる。

 鞘を身体に結ぶ紐は、結び方もそうだが紐自体が有り合わせなせいかどうにも頼りない。上質な服の生地との調和の無さで、ごっこ遊びに見られがちな貧乏くささも目立っている。

 指に止めたハチのお腹にある黒とオレンジの縞模様を眺めつつ、ちゃんとした剣帯はいくらくらいするだろうかと考えていると馬車が来た。一頭立ての幌馬車で御者とは別にもう一人、馬車の前を片手剣とバックラーを腰に下げた四十過ぎの男性が歩いて来た。

「待たせたな坊主」

「ケン・シースレスです。今日からよろしくお願いします」

「おう。まあとりあえず乗ってくれ。後ろ開いてますか?」

「のけてあるから乗ってもらえ」

「子供でも狭いだろうが我慢しろよ。一応空箱ばかりだが商品もあるから気を付けてな」

「うんざりすんなら御者台に来てもええよ」

「大丈夫ですかねお義父さん」

「こっちゃ銭を貰ってんだ。お客様だからな」

「ありがとうございます。ひとまず後ろに乗らせてもらいます」

 人目を憚るのでと馬車に乗ろうとすると、足音の気配がした。

「ケン」

 母であった。息を切らせて小走りで駆けていた。

「これ、おべんと」

 息継ぎもそこそこに押し付けるように包みを渡す。懐炉に似た温かさを手に感じた。

「さっき炊けたの。おにぎりだから、それだけだけれど」

 母の手は真っ赤になり、よく見れば包みにも潰れた米粒が付いている。火傷しながら大急ぎで作ったのであろう。

「早くフタをとったから固いかも」

 母はきまり悪そうに顔を背けている。生まれてから今日まで十年来の付き合いである。危うい場面はいくつもあった。ケン自身、迂闊に過ごした自覚がある。たとえ事件がなくたって、こんな日がいつか必ず来たはずだ。

 今回の事件はただのきっかけに過ぎない。ごく普通の家族としての日々が破綻して、これまで無意識に目を逸らしていた事実を直視せざるを得なくなった。父ジャンとともに、息子のケンもいなくなった。否、そんなものははじめからいなかった。ケンは彼女が察しているのを察していた。

「ごめんね、わたしお母さんなのに」

 言うか言うまいか迷って言った。

「ラン・シースレスさん」

「やめて」

「ごめんなさい。私はあなたがたの子供にはなれませんでした」

 母親でいてくれた人が泣き崩れた。

「さよなら。終わりました! 出発して下さい!」

 母子の別れに気を利かせて離れていた二人が怪訝顔で戻って来る。馬車に繋がれた馬は道草を食っていた。

 馬車に揺られながら、巣立ちするカッコウの雛の気持ちとはどんなものだろうと思いを巡らせた。前世で読んだ本によるとカッコウの雛は餌乞い声の声真似で本当の子供の四羽分もの声を出すという。つまり、四倍の餌をよこせというのである。そして成長すると八羽分の声を出す。それくらいに厚かましい。巣立ち後もしばらくは仮親に甘えるらしいので、もしかしたら雛自身は心底から負い目なく、仮親を本当の親であると信じ切っているのかもわからない。そう仮定するなら他の卵を落とすのは、口減らしで親の苦労を減らしてやろうというお節介に違いない。むしろ自身を負担と思い、自ら巣から落ちて死ぬ。そんな巣立ちもあるだろう。

 

 さて道中である。前々から思っていたが、このあたりの植生は異世界らしさがあまりない。ほんの細部に相違はあるが、日本の山林とほとんど一緒に見えている。村のほうも大正だか明治だかの山村の田園風景が下地にあって、その上に石やレンガ造りの建物を乗っけてある。いうなれば洋風かぶれにかぶれた日本の田舎の村である。そこに異世界らしいカラフルな髪色の住民が暮らしていて、本来不調和なものを生活感による力業で調和させている。

 文化の形成にどうも意図的なものが感じられるが、道路においてはそれどころではない。

 ほぼそのままであった。

「国道に入るから少し飛ばすから、落ちんようにな」

 御者をする行商の主人が知らせてくる。馬車の揺れが少なくなる。というより、滑らかになる。馬車はアスファルト舗装の路面を走っていた。

 かすれていたり堆積物に隠れたりでとぎれとぎれの白線が路肩に引かれている。崖のカーブに差し掛かると、薄汚れたガードレールがにゅっと出る。過ぎ去って行く白いポールの上には、柔らかい逆三角形をした青の標識があり、番号が書いてある。

 前世における子供の頃自動車の後部座席から見たのと同じ光景を、異世界でたった今馬車の荷台から眺めていた。(※当時、後部座席のシートベルトの着用は義務化されていなかった)

「この辺だとな、おにぎりが沢山残ってて道がいいんだ」

 標識の俗称も日本のものと一緒である。

「だからもそっと上げようか」

 馬車の前を先導するように駆けている男性に向けて主人が言う。

「もう少ししたら狭隘区間に入るんで気を付けてくださいよ」

「峠で一等賞取ったこともある。馬もそんときみたいな調子だし、こっちとそっちとで勝負すっか」

「お客さんを乗せてるって言ってたでしょうに、お義父さんこそが」

 馬車の音に負けぬよういずれも大声なので怒鳴り合いみたいに聞こえていた。

 

 今から約千年前か二千年前、あるいは一万年前に、この大陸の大半を国道王コーダン一世が統一した。彼は土木魔法の使い手で、現在用いられている土木魔法とは体系づけられない、いわば神がかった天才であった。彼は大陸中にアスファルト舗装の道路を建設して、国道と名付けて番号を振った。その方法は大量の奴隷を酷使したとか、画期的な工法を考案したとかではない。彼自ら、彼個人で行ったのである。言い伝えによれば、彼の歩いたその後ろには舗装道路が出来たらしい。地に手を触れれば一瞬で砦が建ち、腕を振れば大河が流れを変えたという。日に千里を駆ける馬に乗り、日に千里の道を作った。彼が山に「どけ」と言うと、山は「はい」と答えて脇にどいた。そんな怪しげな伝説もある。彼は道以外にも、トンネル、港、ダム、水道橋、長城、ピラミッド、天に伸びる塔、空中都市に地下都市、水上都市に水中都市、ゲンパツという名の謎の施設、大迷宮や穀倉地帯といった様々なものを作り上げた。

 彼は二百年生きた。遺体は灰にして地に還すよう遺言したが、仏舎利のごとく分割、かさ増しされ、大いなる力をもたらす聖骸断片として、彼の後継者を名乗る者らの間で取り合いになった。彼の王国は彼の死後まもなく滅びた。百八人のコーダン二世が全滅したこと自体はそれにはあまり関係がない。魔界大陸からの魔族の侵入、魔物の発生するフィールドの出現、魔王による人類の家畜化、時空災害、その他無数の人災と立て続けに起きた様々な災害により、大陸は政治的、物理的、時間的に分割されて、現代までそれが続いている。

 国道王コーダン一世の足跡は度重なる文明の衰退と崩壊に巻き込まれて大半が消えてしまったけれども、ケンの暮らすこの神聖ベンセレム王国は数少ない例外の一つである。この国には国道王の建造物が当時の原形を保った姿で多数残っている。しかも史跡扱いではなく、今現在もインフラとして用いられている。大陸全体から見ても、ベンセレムの国道といえばちょっとした観光資源として有名である。

 国道という呼び名についてであるが、国道は遺跡道路やコーダン道路というふうには呼ばれず、ただ国道と呼ばれている。これは大陸全体で共通している。我が国はコーダン一世の後継であるから、コーダン一世の道路は我が国の道路であり、即ち国道である。大陸に林立した国家のそういった政治的主張が、いつしか慣習になった。なのでこの世界では国道とはコーダン一世、コーダン・ドゥーロの作った日本風のアスファルト舗装道路であって、それ以外は国の管理する道路でも国道とは決して呼ばれない。○○街道だとかの固有名詞である。

 

 馬が疲れたので、国道区間の終わったあたりの草むらで休憩をとった。行商の主人は馬車の点検をし、婿養子と思われる男性は馬とケンの世話である。汗はないが手ぬぐいで顔を拭いて、それを首にかけると、彼は作業をしながらケンに色々と教えてくれた。

 男性は元冒険者で、アナーケ・カンナムと名乗った。出身はここではない遠い国で、実家の商売を継ぐのがいやで冒険者になって色んな国を旅していた。そんな生活を十五才から二十年くらい続けたが、この国で主人の娘さんと出会い、あれよあれよという間に深い仲になってしまった。娘さんとの年の差は二十二歳で、アナーケと親御さんとはほんの数年しか違わない。女道楽はしたことがないし、中央ギルド所属の冒険者として品行方正に努めていたつもりである。自分でもなんでこうなったのかわからないが、しでかした以上責任はとらねばならぬ。年齢差があるから尚更である。そしてこの機会に思い切って冒険者の仕事を引退することにした。この先現役ではいられるが上を目指すのは難しい。もう若者ではなく、所帯を持って死ねなくなった。かつては自負した才能に見切りを付けたというのもある。中央冒険者免許を返納して国籍を取得して、今は護衛役を兼ねて義父から家業を学んでいる。そういった来歴を聞かせてもらった後、写真館で撮ったであろう子供たちの写真を見せつけられた。

 五歳の娘と三歳の息子ののろけ話はともかく、アナーケのしている作業は興味深い。彼は輪っかになった長い紐を三つ取り出すと、なるべく平らな草むらの上で図形を作った。三角形にした紐に逆三角形にした紐を重ね、それぞれの頂点を通るよう一番長い紐を円にすると、大きな六芒星が完成する。

「出来たぞ、こっちに来い」

 呼ばれた馬はこちらを向くがひとりでには歩かない。それどころか興味をなくしてそっぽを向いた。アナーケは諦めてなにやらつぶやき始めた。念仏ではない。魔法の詠唱である。魔力光と呼ばれる燐光が彼の腕から漏れ出て六芒星の紐に伝わった。馬はその光を見て耳をぴくぴくさせ、のっそりと六芒星の真ん中まで進むと、足を畳んでその場に座った。

「アホなのか賢いのか。気持ちいいから覚えただけか」

 光を送りながら愚痴を言う。馬は草むらで背中をかくように寝返りしたり、前足で地面を叩いて立ち上がりかけたと思えばまた寝転んだり、寝たまま草を咀嚼したりと、六芒星の上で気ままにくつろいでいた。

「魔法陣にしっぽを引っかけるなよ」

 固い路面はひづめや足に負担をかける。だから国道を走らせた後にはこうして回復魔法をかけるという。効果は気休め程度だが時間をかければ消耗分は取り戻せる。蹄鉄いらずで装蹄師には削蹄だけしてもらう。昔からある馬を長持ちさせる工夫で、近年では効果が疑問視されているが、蹄鉄代の節約と馬の御機嫌取りにはなるので続けている。

 六芒星の魔法陣は単純だが汎用性が高く、それ単体でも魔法発動の補助になる。ここでは、長時間じっとしていられない動物や子供のための範囲指定する媒体として機能している。

 三つの紐の輪は魔石の粉を練り込んだ手製の補助具である。簡粗でとても魔道具とは呼べない代物であるが、どこでも手早く簡単に大型の六芒星を構築できて、しかも繰り返し使えて安上がりなのでアナーケは冒険者時代も愛用していた。長さや本数の組み合わせで別な図形にもなる。

 こういう仕方もありなのかとケンは感心した。これなら地面に線を描いて消す手間も、神父さんのするような空中投影の技術も必要ない。雑で魔力効率も悪いだろうが最低限には機能する。ありあわせの技術と物の組み合わせといういかにも冒険者らしい工夫に思われた。

「その仕方は、冒険者をしていて覚えたんですか」

「いや、尋常小学校で習った。たしか三年の理科の時間だったか。しかしこっちの義務教育、村の教会の授業でも魔道具の基礎くらいはやったろう?」

 訳知り顔で質問したが、ただの教育格差であった。出身国で普通教育を受けたアナーケと比べて、学校のない田舎の百姓の子が無知なのは当たり前である。けれどもケンは少し恥ずかしかった。転生者としての知識で神童ぶっておきながら、こんな単純な応用すら思い付かなかった。

「寺子屋じゃ読み書き計算くらいだろうから、そっち方面は習わんよ。だいたいうちの国にゃ義務教育なんてもんはない。孫だって私学に通わせる予定だろうに」

 ケンを擁護するように行商の主人が口を挟んだ。

 アナーケは二児の父として何年もこの国で暮らしていながら、出身国との教育制度の違いに今更気付いたらしい。主人に聞こえぬよう小声で「道理でたまに文盲が」「地方ギルドだからではなかったのか」などと呟いていた。

 アナーケのうっかりは他人事ではない。ケンも生まれて十年過ごしたにもかかわらず未だ常識に齟齬がある。

 

 ケンが馴染むのに苦労した常識を一つ挙げると、この世界は土地によって時間の流れる速さが違うというのがある。ある国で一年過ごせば、別な国では二年の年月が流れていることがある。時の流れが十倍の地区もあれば十分の一の地点もある。そうして二倍のところでは一日の時間が二倍になる、というわけではない。地球式にいえば、ちゃんとそれぞれ一日が四十八時間ではなく二十四時間であり、三百六十五日で一年となり、季節もそれに応じている。時差で昼夜の隣り合う境界を歩くと太陽が目まぐるしく昇沈し、天動説や地動説の説明ではその辻褄合わせに一神教の女神の存在が使われる。

 時の流れの違いは距離以上に技術格差や文化の相違を大きくして、そこに生きる人々の世界観をそれぞれ異なったものにした。

 世界暦という共通認識は一応あるが世代が変われば考え方も食い違う。例えば十歳くらいの少年同士が十年後に再会すると、一方は十年もう一方は二十年の年を重ねて、二十代と三十代になっている。独身者と所帯持ちでは飲み代に使える金額が違う。さらに十年経てば三十代と五十代である。重荷に思うのと老後のあてにするのとで、家族への認識が違っている。これが少年ではなく少女同士ならどうだろう。大げさに再会を喜びながら内心で蔑み合うかもわからない。そういった食い違いの積み重ねが、この世界では国同士の規模で起きているのである。

 したがって常識知らずという点でいえば、他国に来た冒険者も異世界に生まれ変わった転生者も、似たようなものだろう。



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剣才

雑な俺TUEEE描写。


 日が傾いたので峠越えはせずに野営した。その翌朝である。

 野営のやりかたなどを教わったのと同じお客様扱いの一環で、剣の稽古をつけてもらうことになった。

 稽古に使う木剣は、村の子供らの遊び相手をするためにいくつか常備してあった。お互い同じ片手剣サイズの木剣を、アナーケはバックラーと一緒に片手で、ケンは両手持ちで使用した。

「冒険者志望だというのなら、実戦想定で乱取りをしてやろう」

 アナーケはバックラーを突き出す腕に刀身を乗せるように木剣を構えた。胸を貸すというからおそらく防御重視の構えであろうが、どうも気持ちよく打ち込ませてくれそうには思われない。馬鹿正直に打ち掛かれば確実に受け流される。試合開始時、いやな予感に従い使い慣れた八相をよして正眼に構えておいて正解であった。ケンが構え直そうとすればその隙を、アナーケは嬉々として突いてくる。実戦想定と言ったからには接待するつもりはないのであろう。しかし上位者として初手は譲ってくれている。ならば主導権はこちらにある。ハンデというなら充分過ぎる。

 早朝の澄んだ空気が鼻孔を冷やす。草地を踏み込む摩擦力は朝露でわずかに低下している。対峙するケンたち二人を見物しながら、行商の主人が両切り煙草に魔熱式ライターで火を付ける。馬は自分の出したぼろを嗅いで、いやそうに頭を跳ね上げている。

 広げた知覚で拾った余計な情報は排除する。アナーケ一人に集中する。

 二十年間の冒険者生活で経たレベルアップの回数は相当なものだろう。技量と経験を抜きにしても、一目見て「あ、これは無理だ」と思わされる存在感がある。もしこれが実戦なら、その質量差でもって捻り潰されるに違いない。

「……来いよ坊主」

 けれどもこれは模擬戦である。有効打が勝利である。畢竟間合いと機会である。これまで見た呼吸が三味線弾きでないのなら、勝機は確実に存在する。

 相手は構え、こちらに注意を向けている。今このときこの瞬間こそ、学習の好機である。一を二に、二を三に、三を四にと、瞬間瞬間学習を積み重ねる。万に一は、いずれは万に万となる。

 構えながらも構えを捨てる。呼吸の仕方を忘却する。筋肉、内臓、骨格、血流、脳にひしめく意識と無意識、肉体に染みついたあらゆる所作を消し去って、ゼロから再構築を試みる。己の全存在を次の一刀のため最適化する。口からよだれがたらりと落ちる。

「っと」

 しかし失敗した。意識の間隙を逃がしていた。捉え損ねていた。見てからでは遅い。予測してからでもまだ遅い。

 僥倖にも己はまだ無事でいる。見逃された。ならば再び次の刹那で、学習と構築をやり直す。

「やめだ」

 ふいにアナーケはそう言って構えを解いた。ケンの感覚も元に戻る。

「木剣でも打ち合うのは危ないからな。乱取りはやめにする。その代わりは、そうだな、息抜きに使える素振りの仕方を教えてやろう」

 ケンが武器を下ろしたのを見届けてから、アナーケは間合いを離して両手剣用の剣舞を実演した。体育の授業で教わったという基本の型で、全く実戦的とはいえないが、様々な事情が窺えて面白かった。

「国民保健体操の一つでもある。昔うちの国の政府が、ウォストアの剣聖を招いて作ってもらったそうだ」

 あえて発展性を排除する。美しく完成された剣技であった。一見すると政治的な意図と虚飾にまみれているが、少し掘り下げればそれを蔑む心は作者にはなく、依頼とは真摯に向き合って作り上げたのが感じられる。実戦を度外視したある種の芸術品であった。様々な方面から怒られたりご指摘を受けたりするのを前提に形容するなら、純粋な美術品としての日本刀に似ているように思われた。

 

 無表情だがどことなく楽しげに剣を振る少年の姿を観察しながら、アナーケ・カンナムは戦慄していた。息遣いや立ち振る舞いから察していたが、対峙してみて確信した。

(こいつは、やばい)

 反社会性を指してではない。人品は可もなく不可もなしという感じで、村の神父から神童と聞いて大人をやり込めるようなのを想像したが、素直で拍子抜けしたくらいである。ついごろつきを殺してしまう。親を泣かせる。そういった失敗も、冒険者の間では別段珍しい過去ではない。

(冒険者は、中央は才能の世界だ)

 中央ギルドの訓練場で、親切心で新人に稽古をつけて回るベテランが、構えも覚束ない少女に叩きのめされた光景を見たことがある。燃えさかる街の中、自分より強い五歳くらいの子供と臨時パーティを組んで魔族に挑んだこともある。

(この坊主は連中と一緒で、ずば抜けた側にいる)

 魔法も異能もレベルもない。聞けば、剣を手にしたのもつい最近であるという。

(はじめから強かった。ただ強いから強い。そういう類いの天才じゃあるまい。権能(チート)持ちでもなさそうだ。となれば学習能力、その速度が異様なのか?)

 お仕着せの型を自身の体躯に合わせた足運びや握りに、どこか急拵えな青臭さが残っている。我流故の洗練の欠如は、習慣による固着がなく、発展性を絶やさずにいるとも換言できる。

(荒事に無縁の暮らしで眠らせていた才能が、例の事件をきっかけに表に出たというわけか。口には出せんが村長のドラ息子はお手柄だな)

 道場を持たず、武器もめったに振るわない、そんな武術の流派がある。師匠も弟子も、普通に働き普通に暮らす。日常そのものを修行の場とし、呼吸や所作の一つ一つに気を配ることこそが肝要であると、流派の弟子が言っていた。その弟子とは手合わせしたがひらりひらりと躱されて、三回やって一回負けた。

(あれと同じ事を、頭で考えてじゃなくて、たぶん感覚だろう、事件で才が目覚めてから、常に成長し続けている)

 休憩で馬車から姿を見せるたび、武器との一体感とでもいうのか、背中の剣の収まりが良くなって行った。

(それでいざ意識すればああもなる。たまらんな)

 太刀筋を見極めるべく、一番得意な構えをして向かい合った。攻防一体という点において片手剣とバックラーの組み合わせに勝るものはないとアナーケは考えている。使い手の技量以前に、武器術そのものが洗練されているのである。国道王以前の時代から決闘や喧嘩で用いられ、改良を重ねられて来たという歴史には、それだけの重みがある。ごく一部の頭のおかしいオカルト剣技なんかは別として、その堅牢かつ柔軟な待ちの姿勢を正攻法で崩すのは至難の業といえるであろう。少年も例外ではなかった。

 少年の佇まいは様になっていた。見た感じ手強くはある。町道場の高弟あたりと比べても遜色ないが、アナーケにはどうにでもなる程度であった。ひとまず指導のため、隙を指摘してやろうと誘いをかけた。少年もそれを感じたのであろう。すぐに雰囲気を変えた。

(無駄を省け、一太刀一太刀惜しめとは言うが、まさか一切動かなくなるとは)

 アナーケは観られていた。武器や顔や足下を注視されるのではなく、ただ観られていた。気が付けば、少年の気配が変わっていた。アナーケは視線を動かさず、瞬きもしていない。なのに変化の瞬間を見逃した。しかしアナーケもカカシではない。一度強敵とみなせば次は認識できた。じわりと滲むように少年は己を高め続けていた。機を探り合うという対峙の中で、少年の側だけが学習を重ねていた。もはや木剣を構える前とは段違いである。

 虚ろな目でよだれを垂らしたときは危なかった。経験による直感が無ければやられていた。

 殺されたとは思わない。殺し殺されの段階へ行くには、レベル差による肉体性能の差が大きすぎる。しかし昏倒くらいはさせられたろう。木剣が粉砕されるので威力に限度があるといっても、打ち所の悪い打ち方など、少年は本能的に心得ている。

(あのベテランのようにこじらせる羽目にならなくてよかった)

 ベテラン冒険者は次の日にはけろりとして、自分を倒した少女にあれこれと世話を焼いては恐縮されていたが、アナーケにとって才能の差を思い知らされるのは面白いことではない。身に染みる痛みとともにわからされる、それがイイんだと語ったベテランは、以前よりいっそう熱心に新人の模擬戦相手を買って出ていた。彼のように高踏的な嗜みをするにはアナーケは真っ当に過ぎる。

 

 剣術に関してアナーケがケンに教えられることはそう多くない。放っておいても勝手に強くなるであろうから、逃げるが勝ちしたごまかしついでに、玩具代わりとして剣聖が作ったと名高い国民保健体操を教えてやった。案の定、少年はそれをひとめ見ただけで完全に模倣した。しかも型に秘められた目的だとか理念だとかの内容を読みとって咀嚼したのか、一回目から既にその完成度はアナーケを上回っている。二回目はさらに理解を深めたらしく、国民体育大会の剣術部門で入賞できそうな出来映えであった。技術点はほぼ満点、演義構成点は審査員にもよるが、平均くらいは行けるだろう。

「俺の祖国の剣はどうだ。冒険には役立ちそうか?」

 言いづらそうなので意地悪せずに言い添えた。

「正直に言っていい」

「……多分ですがこの剣は、鍛えれば鍛えるほど弱くなる、そういう剣だと思います」

「正解だ」

 この剣を極めても実戦には役立たない。むしろ逆効果である。あらゆる動作で一拍遅れる。攻撃は急所を逸れ、ちょうど切っ先三寸で力が抜ける。防御は崩されやすく、どう受けても死に体へと構え自身が誘導する。所作は流麗で見栄え良く、激しい動きで要らない筋肉を酷使するので、鍛えたつもりにだけはなる。

 それだけならただの剣舞に過ぎない。実戦で使えないと見切りをつけて、別の真っ当な剣術を学べば良い。たちが悪いのは、この型から、この型で染みついた動きから逃れようとすればするほど、後から覚えたまともな剣まで歪なものになるのである。その影響は剣術に限らない。鍛錬で鍛えられた要らない箇所の筋肉が悪さをするのか、身体のバランスが妙になり、武芸全般に限ってぎこちなさが残ってしまう。それでいて健全とされる徒競走や球技になどには影響がなく、むしろ怪我を防止する柔軟体操として有用ですらある。

「国民の牙を抜く。そのための剣で、サーカスも兼ねている。さすがは剣聖というべきか、俺もこれでついた癖を無くすのには苦労したよ」

 駆け出しの頃はまだ毒が残っていた。それでもそれなりに活躍し、かつ生き残れたのは、恵まれた肉体と無謀さによるゴリ押しである。

「毒抜きのコツというか罠があるんだが、坊主ならわかるだろう?」

「捨てすぎないことですね」

「そうとも。取捨選択ってやつだな。お偉い先生方が課題としてこっそり出して下さった、クソみたいな自主性さ」

 アナーケの祖国は賢明な国家であった。国民もまた賢明であった。教育制度により、誰もが知識を持っていて、誰もが無知を弁えていた。人は愚かであってはならないが、しかし幸福は人それぞれである。そう言い聞かされて育ったアナーケは、愚かな暴力を事とする冒険者になって国を出た。

 それが今では二児の父で、賢明な父親という役割を演じて、似たような文句を子供の躾けに使っている。冒険者になるのを反対した父親のしたり顔が目に浮かんだ。

「……素人なりの感想を言うならですが、この剣にはほんの少しだけ不純物として作者の想いが表れていて、なんというか、独占欲に似たものを感じます」

「独占欲?」

「後方彼氏面、は通じないし意味が少し違うか。高嶺の花の女性に恋をして、自分が恋人になれる見込みは薄いけど、他の男が女性に近付くのもいやだ。彼女の良いところを知っているのは自分だけでいい。自分だけがいい。もちろん現実ではそんな望みは叶わないから、せめて彼女に近付くのは自分と同じか、自分以上に、わかっている男がいい。例えるならそんな感じですが、わかりますかね」

「うむ。わかりづらい」

 色恋を絡めた十歳の少年らしからぬ例えに、実はこいつませガキではあるまいかと思ったが、それはそれとして思い当たることはなくもない。いつも妻子と一緒に行く教会で、巨乳のシスターが聖歌を歌っているとき、後方や壁際のあたりに、腕組みをしてうんうん頷きながら独り言を呟いている連中を見かけることがある。連中はお互いの存在に気付くと、目配せで合図し合い、それ以降は妙な一体感を醸し出してシスターの歌声に聴き惚れている。エスプレッソ魔道具のあるカフェに故郷の味を求めて行くと、連中がしんみり何やら語り合っているのに出くわしたこともある。この手の怪しい会合に過敏反応するのは職業病である。すわ邪教かと中央ギルドに問い合わせると、あれはただの聖女オタクというやつですよと笑われた。異国文化がわからぬアナーケに職員はあれこれ解説し、要するに、彼らはただ恋してる、それだけらしい。

「それでその、高嶺の花とやらは何を指して言ってるんだ? ウォストアの女王様か?」

「剣です。剣術を含めた意味での剣そのもの。剣という存在に、作者は独占欲を抱いています」

 意味を理解して、アナーケの声が荒くなる。

「つまり何か、才能の無いやつは目障りだから、剣を持つなと剣聖様はおっしゃるわけか。そのうえでご丁寧にお遊戯の踊りを授けて、凡人の剣への望みを、どうせ大したことのない剣才ごと、根絶やしにしといてやろうというわけか」

「おおむねその通りでしょう」

「ふざけるな」

 そんな勝手なこだわりで自分は何年無駄にした。剣聖様が意図して仕立てたなまくらで、命を何人取りこぼした。

「そうです。ふざけてる。単に政治的意図を果たすだけならここまでする必要はない。入念にも入念過ぎる。しかしその割には……」

 少年が例の聖女オタクのように独り言を呟きながら剣を振った。元の型とは、その見かけを言語化するならほぼ同じ動作である。しかし重心や筋肉の使い方、流れる力の操作法などが改善され、格段に実戦向きになっている。

「私ならこうして使い手が潰れるその瞬間までわからぬように煽ててやる。死に体だって命は一つなのだから決定的な一つでいい。元のは手ぬるく悪意が足りない。使い手に罠と非才をわからせすぎる。やはり妥協か」

 今まで猫を被っていたのか、少年は薬物でも打って変わってしまったようになって、剣を振りながら早口で怪しげなことをまくし立てては一人で納得していた。アナーケに聞き取れたのは最後のひと言だけである。少年の眼球がこちらにぐるんと振り向いた。

「妥協です。わかっている男ならばというやつです。さっきの例えの後半ですよ。才を潰すことについて、考え方を逆にする。すなわち剣才を篩にかけるんです」

「すまんが抽象的にでなく、具体的に言ってくれ」

「才能のある者だけがこの剣を振り払い、己の剣を手にできる。排他的かつ嫉妬深い剣聖から見ても、剣士を名乗るに相応しい使い手になれる。この剣に触れてしまった生半な剣才や凡人は、決して剣士になれません。才無き者を絶対に切り捨てる。そうなるよう入念に作られています」

「いつまでもくっちゃべってないで出発すんぞ!」

 待ちくたびれた義父がとうとう怒声を浴びせてきた。馬車に繋がれた馬が今にも寝入りそうになっている。

「すいません! ほら坊主、急ぐぞ。忘れ物はないだろうな」

 急いで身支度を調える。ちょっとしたお遊びが長引いて朝食を食べ損ねて、行動食で済ませる羽目になってしまった。妻が子供たちと作ったショートブレッドは好物なのに、走りながら食べるのでは味もへったくれもない。

 子供の与太話に付き合ったからこうなった。話の流れで不愉快な思いもした。一度も直接剣を打ち合っていないくせ、天才肌でも気取るのか抽象的な物言いが多く、昔の自分を思い出すようで気恥ずかしい。逆説教は食らわずに済んだが、神童呼ばわりされるだけあって、やはりどこかこまっしゃくれている。お客様相手とはいえ、散々であった。

(そうか。俺には才能があったのか)

 足取りはなんとなく軽かった。



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魔物について

初戦闘。


 この世界には馬がいる。猫もいるし犬もいる。村には牛や豚や鶏が飼われていて、ネズミとモグラも害獣扱いであるが暮らしている。山に行けば悪さをする猿がいて、たまに人里にやって来る熊や猪は猟師の火縄銃に撃ち取られる。イタチなんかも相変わらず邪知暴虐の獣であり、鶏小屋の鶏を一羽残らず噛み殺しては濡れ衣をキツネあたりに着せている。神父さんは養蜂の名人で、その蜂蜜は村に供給されるのみならず、遠い国から偉い人たちが変装して直接買い付けに来るほどである。そもそも虫が好きなのか、毎年秋になるとカブト虫の幼虫を堆肥ごと掘ってきて子供たちに育てさせる。魔法の手助けがあるから子供のそそっかしい世話でも大半が羽化するが、ケンの幼虫は毎年黒くなって死んでしまい、夏には神父さんのさなぎを分けてもらっていた。

 動物図鑑を見ればゴリラがいる。インドゾウもいるしキリンもいるしライオンだって大写しで書いてあり、ウサギとカメ、イルカとクジラに羊とチワワ、チンパンジーにミヤイリガイ、つちのこにチュパカブラと、ページをめくればほぼ必ず、地球と同じ生き物の地球と同じ生態が載っている。

 ゴブリンやグリフォンにドラゴンといった項目は動物図鑑にはない。子供向けの生き物図鑑も同様である。それらはみな魔物図鑑に書いてある。

 魔物は動物とは全く別な存在として扱われているらしい。そもそも生き物ではないとされている。では何かと問うならば、魔物は魔物であり、魔物という呼び名の生き物っぽい何かである。

 魔物の定義について義兄に質問しても魔物は魔物だろうと同語反復なので、神父さんに聞いてみた。

「魔物とは何か、ですか。その説明をする前に今の大陸の状況を理解する必要があります。少し長くなりますよ」

 中央冒険者ギルドの筆記試験に出るというから短くしてはもらえなかった。大陸の歴史や女神の御業は後々の課題としてノートに書いておくとして、現状では魔物のことだけ記憶に留めた。

 

 魔物はフィールドと呼ばれる土地で発生する。なにか元となる生き物があってそれが変化するというのではなく、ただ虚空から誕生する。

 

 魔物はフィールドの外では生きられない。フィールドには魔素と呼ばれるものが満ちている。魔物にとって魔素は人間にとっての空気のようなものである。魔物はフィールドの外に出ると、窒息したように苦しみもがいて息絶える。

 

 魔物は生き物を真似たみたいに、食べて出して成長して生殖して死んで文字通りの塵になるが、その過程における質量の増加と減少は明らかに釣り合わない。食い荒らした自然ごと無に帰る魔物があれば、飲み食いせず増える魔物もある。魔素の存在が保存則の辻褄を合わせているという仮説がある。

 

 魔物は現世で長期間新陳代謝を続けた末に、受肉することがある。フィールド外で活動可能になり、殺せば塵とならずに完全な死体を残すようになる。受肉した魔物は半魔と呼ばれ、一部の罰当たりな国家では家畜として扱われている。

 

 魔物は邪悪である。魔物は大抵人間を、食らうか、苦しめるか、犯すかする。とにかく邪悪な行為を好む。

 

 魔物は擬態する。ふわふわで丸っこい魔物や人型の魔物がいじらしい仕草を見せても、騙されてはいけない。

 

 魔物は邪悪なので、半魔を発見したら駆除しなければならない。殊にサキュバスやインキュバスといった半魔は根絶やしにすべきである。ひとくくりに淫魔と呼ばれるそいつらは人間の純潔を好んで食らう。純潔は万人が生まれながらに持つ女神の加護であり、魔法の資質や人間の半神性に関わってくる。その力を奪い取り我が物とすることで、淫魔どもはより強大になろうというのである。淫魔娼館などという罰当たりな施設を見かけたら、たとえ国家の法に背いても即刻火をかけるべきである。その国家は人類に背いている。もしためらうのなら淫魔の正体を思い出せば良い。受肉する前の淫魔は醜い怪物の姿をしていて、受肉した後の可憐な容姿は、受肉するためむさぼり食った人間の、その脳味噌を啜って読みとった理想像の具現化に過ぎない。

 

 魔物は邪悪だが人間はもっと邪悪だろうなどとほざく不心得者に耳を貸すな。その者自身が魔物のように邪悪であるから、そんな言葉を吐けるのだ。

 

 魔物は邪悪である。邪悪であると定められている。邪悪であれと願われて、彼らは邪悪に生まれてきた。

 

 だいたい以上のような話であった。魔物はフィールドで生息地が隔離されていて、とにかく邪悪であるとケンはひとまず理解した。

 気になることといえば、根絶やしにすべき邪悪と名指しで念押しされたサキュバスについてである。見た目は脳から啜った理想像を、性格はその邪悪な性質を反映するとなると、サキュバスは悪の女幹部みたいなお姉さんか、ざーこざーこと罵る生意気な女の子かのいずれかに変態するのではあるまいか。そうあくまで子供らしい素直な発想を述べると、神父さんは呆れながらも少し安心したように苦笑した。

 神父さんの補足によると快楽のためのやり取りが悪とされたある時代には、頭陀袋を被ったふくよかなサキュバスが人心を惑わしたという。時代に合わせて姿を変える。その時代に生きる人の横しまな心を反映する。まさに魔物の邪悪さの象徴のような存在に違いない。たしかに現代ではケンの想像したようなタイプのサキュバスはそれなりに蔓延っている。しかし大概の淫魔は猫かぶりなので、その上辺の性格をいうなら多種多様である。脳味噌から嗜好の情報もある程度取得して、その通りになりきりする。お母さんごっこみたいに振る舞う幼い少女や、姉か妹を名乗る浮き世離れした女性、色事に疎い恥ずかしがり屋の年増女なんかもある。どこか病的な擦れっ枯らしや、時代がかった女騎士を気取るような悪知恵の働くのもある。しっくりきすぎる性格の美人に言い寄られたらまずサキュバスを疑えと、冒険者の間ではいわれている。なるほど、聞けば聞くほど邪悪ないきものである。ぜひとも遭遇してみたくなくもない。

 

 冒険者生活が長かったであろうアナーケにも聞いて見た。

「サキュバスか? ませてやがるな。よくある質問だからこっちも慣れてるが、まあ教会の依頼でそれなりに斬ったことはある。どいつもこいつも胸と尻が無駄にでかくて奇形みたいな感じだったか。そういや一度、ブス専で有名な知り合いが受肉前のやつに脳味噌をかじられたことがあったな」

 パーティ戦で、淫魔が変態を済ますころにはその知り合いは回復のため戦線離脱していた。しなを作られたが居たたまれなかった。

「それはそうともう少しでフィールドだから気を引き締めろ。坊主は念のため抜いておけ。いざ戦うとなって抜剣にもたつくのはよくあることだ。新人なら特にな」

 ケンは現在、馬車に乗らず小走りでアナーケと並走していた。町へ向かう国道にフィールド圏内を通り過ぎる区間があって、良い機会だからと実戦訓練を勧められたのである。

 

 ぼうぼうに生えた草が緑のセンターラインを描いている。見るからに放置された舗装道路という感じであるが、これでも路面状態はそう悪くないうちに入るらしい。百年くらい前にフィールド化するまでは幹線道路として使われていて、路面状態も今とそう変わりなかった。

 当時とある貴人が都落ちして晴耕雨読を志したが土地の者にいじめられて憤死して、このあたりの集落を含めた一帯がフィールドと化した。外法の嗜みがあったともひたすら恨んで願掛けしたともいわれるが、人一人の怨念によるフィールド化の規模なんか通常はたかが知れている。魔物が発生するほどの魔素もなく、ひと月くらいで元に戻る程度である。けれども場所が悪かった。たまたま中規模のフィールドが近くにあり、こぼれた水の横に別な水滴を落とすと表面張力で繋がるような形でそこと一体化してしまった。憤死した貴人が狙ってそうしたのかもわからない。フィールド化をどうにかしようと何度か建てた慰霊の祠もゴブリンが遊んで壊されるので、結局土地の者は集落を捨てて、この区間も幹線道路として不適とされた。

 新たに整備された迂回路はアスファルト舗装の国道と違って路面状態が安定せず、しかも遠回りで倍以上の時間がかかる。なので結構な割合の通行者が危険を承知で近道する。心得た地元民なんかは町に野菜を売りに行く際、リヤカーに竹槍を積んでいる。ゴブリンを薙ぎ払う武器としては草刈り用の大鎌が適切であり、冒険者がゴブリンの集団を狩るのに頻用されるくらいであるが、農家からしてみれば大事な農具を武器にするのは罰当たりである。農村の若者が勝手に持ち出すと大目玉を食らう。

 

 フィールドに入るときは、それとわかる違和感があった。三密の空間に足を踏み入れるのに似た感覚で、しかし息苦しさはない。例えるなら無人の狭い更衣室にあるような、人の気配の名残の気配が空気全体に満ちている。

 視界を凝らす。五感以外の感覚を総合する。

「これが魔素か」

 字面が似ている魔力とはだいぶ感じが異なる。魔力が無色透明なのに対し、魔素は雑然と濁っている。よくいえば生命力、それらしく表現するなら生への意志、悪し様にいえば邪悪さに満ちている。

「薄いってのに鋭いな。その感じは魔素の濃い深層だと蜂蜜みたいに固くなる」

「あそこあたりとあのあたり、不自然な偏りがあるのはガスのような重みなんでしょうか」

「……さてな。そういうのは図書館で調べてくれ」

 警戒しながら道を進む。木々の隙間から廃集落の名残らしき石壁がちらほら見える。ゴブリンの巣になっていて地元の者は近付かないが、地方ギルド所属のクランなんかが新人のレベル上げに使っている。増えるたびに間引きされるので大がかりな群れにはまずならない。

 以前ここの集落跡はとある大手クランが縄張りとして独占していたらしい。町から近い場所で通行人は急いで通り抜けるから、よからぬことをするにはもってこいといえる。ちょっとした違法取引なんかは地方ギルドの慣習扱いで目溢しされていたが、攫って遊んだ村娘を投棄してゴブリンの養殖に再利用したという事件が新聞に載った。それからは縄張りにすること自体が国の命令で禁止され、中央の冒険者の巡回が入るようになった。

 

 アナーケが主人に合図して馬車を止めたので、ケンはこの先の気配が魔物のそれだと確信した。

「お義父さんは罠じゃないと思いますが気を付けて。おそらくゴブリンが複数だ。行けるか、坊主」

 頷くと、背中を強めに叩かれた。

「声もそうだが足音なんかも普通に歩け。下手に隠密を気にすると却って体が固くなる。向こうが気付けばこっちも気付く。そんなもんで充分だ」

 アナーケがごく普通に駆け足するのを追いかけた。

 

 アナーケの言った通り、道の先ではゴブリンが四人、道路の上で遊んでいた。予習した通りに毛無し猿から鼻を削いで耳を尖らした見た目をしている。ただ図鑑と違って腰布がない。丸出しであった。そのくせ棍棒はきちんと所有しているらしく、遊びの邪魔にならぬようガードレールに四本とも立てかけてあった。

 鳴き声は人間の子供のそれがそのまま濁ったギャッギャといった感じであり、甲高い奇声を上げればほとんど同じに聞こえるだろう。往来の真ん中でおもちゃを囲んではしゃいでいる。そのあたりも同じといえる。

 遊び相手は狸であった。不幸にも迷い込んだらしく、弄ばれてぐったりしていた。血はそんなに流れていないが、穴という穴に指を突っ込みほじったのか目玉はない。今はメンコか癇癪玉みたいに、アスファルトの固い路面に打ち付ける遊びに使われていた。

 単純に力一杯叩きつける。しっぽを持って振り回し、その遠心力を効かせて打つ。踵で何度も踏み付ける。割れてぐにゃぐにゃの頭部を路面の凹凸ですり下ろす。代わる代わるやり方を試してはお互いを褒め合うように笑い声を上げていた。熱中してケンたちには気付いていない。

 アナーケが武器を抜かずに目配せした。一人でやってみろということらしい。ケンは前傾姿勢で駆け出した。

 

 手始めにポーチから出してあった釘手裏剣を投擲する。下手打ちでジャイロ回転をかけられたそれはやや直線的な軌道を描き、ゴブリンの目玉を貫通して脳まで至る。一匹がふらりと揺れて絶命したことで、もう三匹が敵襲に気付いてこちらを向く。ショートソードを両手持ちに構え直しつつ、歩幅と位置取りを調整する。ゴブリンたちが身構えて、威嚇するべく息を吸う。再加速して踏み込んだ。身長はケンより低く、並んだ二匹の首の位置は、だいたい同じ高さにある。間隔もちょうど良い。綱引きめいた大仰な体勢で、水平斬撃を繰り出した。

 剣を身体より遅れて出す。刃が首に吸い込まれる。肉と骨の抵抗を溜めとして、斬撃をもう一段加速させる。威力は出たが最初よりも刃筋は甘い。が、二本目の首を刎ねるには十二分に過ぎる。最後に残る一匹が威嚇の声を出しかけるのとほぼ同時に、回転斬りの勢いを繋げて飛び越えるように跳躍し、すれ違いざま両足で頭を挟んでひねり折る。

 アスファルトで靴底を削りながら着地する。ゴブリンたちに息がないかを見定める。最初の一匹は釘を生やして動かない。次の二匹は頭が無い。四匹目は首のすわりを頼りなくして事切れている。歯磨きをしないのかむき出しの歯が汚らしい。

 存在感が色あせている。そう感じると、現実の死骸も急激に色あせ始めた。飛び散った血液なんかは既に灰のようになって、血振るいがまだのショートソードには煤に似たものが付着している。

「魔物は死ぬとこうなる。レベルアップはしたか?」

「いえ」

 ガードレールを見ると黒く汚れていた。棍棒も体の一部であるらしい。

「よくやった。満点だ。満点だが……遊んだな?」

 投擲で一匹、回転斬りとその勢いで残り三匹を仕留める。けん制を除けば一呼吸で済むようにした。あっという間のことで戦いにもなっていない。アナーケには浮ついているのを見抜かれた。

「最短最速を心掛けたにしても凝りすぎだ。綱渡りだとか隙が云々とは言わん。だがこんな曲芸みたいな戦法はたかがゴブリン相手にするもんじゃないし、先達としての立場でいえばもっと堅実にやれと言わざるを得ん。今回は教材だから坊主もこうしたんだろうが、次は手抜きをして戦うといい」

 ケンの頭をくしゃりと撫でた。

「ともかく、よくやった。魔石を取ったら狸の供養をしてやろう」

 アナーケがゴブリンの死骸に足先を突っ込んで、足刀で撫でるように掻き分けた。死骸自体はもろりと欠けて崩れて行く。探り当てた硬い欠片を手にとって、息をふっと吹きかける。

「こいつが魔石、厳密には精製前の原料だが」

 手渡された魔石を光に透かす。表面に汚れはなかった。大きさは指先ほどで、透明度は低い。内部は真っ黒い粒子で燻したように濁りきっている。照らされた輪郭にエメラルドに似た色が微かに見える。魔石本来の色であろう。

「緑魔石自体は低級の屑石ってわけでもないがゴブリンだからな。ちゃちいのしか落ちん。買い取り額も重さあたりだ。地方じゃシノギの類いと聞くが、中央だと討伐だとかの依頼報酬がメインだな。ほれ、坊主もやってみろ。ゴブリンは心臓のちょい下あたりだからわかりやすい」

 アナーケを真似て足を入れる。ゴブリンは灰で成型した模像のようになっていて、肉の名残の感触はまるでない。似ている感覚といえば、土作りに使うくん炭を崩したときのそれである。一カ所崩れれば周囲も連鎖して崩壊する。表面の形状が薄皮となってかろうじて形を保っている。そういった状態である。

 魔物の塵はくん炭よりずっと軽くて細かくて、密度が異常なほど低く、一旦形を失えば灰の山にもならなかった。大半が空気中に溶けて消え、路面には灰色の跡しか残らない。

「風が吹くとも限らんから全部崩しとくのがマナーだぞ」

 灰色の像でも遠目ではぎょっとする。通行人ならまだしも馬が暴れ出せばお茶目では済まされない。

 

 ゴブリンを片付けると狸を埋葬した。

「ひでえことをしやがる。痛かったろうに」

 しんみりと言いながら穴の中に亡骸を横たえる。スコップなどは使わない文字通り手掘りの墓穴で、素手ですいすいと掘り返して埋め直した。ゴブリンに掘り返されぬよう墓標などの目印は立てず、ほぼ元通りの地面にした。身体能力の高さゆえの漫画じみた手早さに、ケンは文化の相違を感じてしまってどうにもしんみりしきれなかった。

「さて」

 アナーケが手の平を重ねて呪文を唱える。合掌ではない。日本で祈りの作法のそれは、この世界では禁忌にあたる。アナーケの手元からちょろちょろと水が湧き出した。

「坊主も洗うか?」

 灰は払ったがまだ少し粉っぽいので、アナーケの水をもらって手を洗う。

「生活魔法は冒険者の仕事に役立つぞ。荷物が少なくて済む。中央ならギルド魔法で習いやすいしな」

 手を清めるとアナーケは、狸を埋めたところへと向き直って剣を抜いた。

「化けて出るなよ」

 そう言って十字に斬り付ける仕草をした。食事のときにするのと同じ、霊魂を再び殺す儀礼である。

 この世界の人々は食前に祈りや感謝は行わない。食材となった者の感情を逆撫でするからと一般的にはいわれている。歴史的には、かつて人類を家畜化した魔族が料理に「イタダキマス」をしていたことも関連している。

 死者への儀礼も食事の儀礼と同様である。死霊というのはどうしたって生者に妬みを抱いてしまうものであるから、悪さをさせぬよう退治しておく。あるいは故人の名誉のため、悪霊になるのを予防する。そういった意味合いがあるらしい。

 成り立ちでいうなら食事と供養のどちらが先かはわからない。ともあれ料理や死体を前にしたら、ナイフや手刀を振って霊魂を斬り殺す。それが作法であり、現世を彷徨う霊魂への気遣いである。ちなみに葬式なんかで再殺儀式に使う武器は、大がかりであればあるほど良いとされる。例えば神父さんは繊細な装飾のかっこいい大鎌を儀式用に秘蔵していて、父ジャンの葬式で参列者に振らせていた。

 この儀礼は重んじられているので、ケンも若者三人を殺した直後には罰当たりを避けるため、血振るいした剣を四回素振りした。この回数は三男たちに、父親の分を含めている。その敬虔な行為をじっと見つめた姉のリンが「どうして」と呟いたのを覚えている。日常的な所作ではあるが、葬式があるというのに先にするのはマナー違反かもしれなかった。

 

 やり方は土地や宗派によって様々で、アナーケは十字に切ったが、ケンの生まれた村では縦にまっすぐが主流である。食前は食器用ナイフかチョップもどきばかりで殺人直後のそれもとりあえずという感じがあり、真っ当な剣の振り方で行うのは初めてといえた。

 構え、振りかぶり、振り下ろす。儀礼というのはすごいもので、ただそれだけなのに神妙な心地がする。

 魔物の被害者とはいえ、野生動物をわざわざ埋葬するなんて普通はしない。せっかくの近道で却って時間を食っている。これは蓋し、親切心からの情操教育であろう。

 そう考えれば同情心も湧いてくる。ゴブリンと戦うときには気にならなかったが、狸はさぞ苦しい思いをしたのだろう。まだ暖かかったのでおもちゃ遊びは死後ではなく、生きているまま始められて、その最中に苦しみ抜いて息絶えた。そうであったかもわからない。生きたまま目玉をほじられる恐怖と苦痛は、ケンも三男に試したから予想がつく。それくらいしか手段のなかったケンとは違い、ゴブリンは楽しむためにそれをした。

 

 村の子供たちのトンボ取りが思い出された。村では秋になると時たま、赤トンボが大量発生することがある。四方八方、どこを向いても無数のトンボが飛んで、ただ指を立てるだけで捕まえられる。そこに虫取り網を持ち出して振るえばそれこそ大漁みたいに捕獲される。二三匹まとめてとったり、虫取り網に入れたまま再度振るい、二匹、三匹、四匹と、どんどん網の中に溜めていく仕方もある。

 虫取り競争が終われば残るのはその成果である。子供というのはたいてい欲張りなので、虫かごに大量にひしめくトンボを逃がしてやるのはもったいないと思ってしまう。しかし数匹ならともかく、何十匹もいれば有り難みが薄くなる。ただ観察するのとは違う、別な活用法を見出だしてしまう。羽根をもぐ。頭を弾く。気を付けながら羽根を引っ張りその身を裂く。剥き出た肉のにおいを嗅ぐ。欠損状態でどう動き回るか実験する。虫かごごと水に沈めたりなんかもする。それを無邪気さといっていいかはわからない。ただ楽しいからやっているだけで、子供たちは殺生という罪を犯しているつもりはそんなになく、自分はよい子のままであるとも思っている。

 子供のそれをゴブリンのそれに結びつけるのは短絡的かもしれない。己の喜びのために弱い生命をおもちゃにする。行為の時点では同一だがその後は違う。子供は大人になって反省するが、ゴブリンはゴブリンのまま在り方を変えられない。トンボを虐殺してはしゃいでいた悪戯っ子は、激怒した神父さんに魔族ごっこがしたいならとその死骸を口にねじ込まれてからは、命を大切にする心優しい少年に変わった。ゴブリンはどうだろうと図鑑のページを思い返せば、よりずる賢くなると書いてあり、彼らは道徳的な感性を持たないと補足してある。ゴブリンは生まれながらに邪悪であり、成長してもひたすら邪悪であり続ける。

 すべての魔物はゴブリンに通ず。国道王の名言をもじった魔物学者のそんな言葉がある。ゴブリンの生態や気質は魔物という存在の在り方を最もよく表しているというような意味の言葉で、偉い学者がいうのだから本当のことなのだろう。

「魔物は邪悪だと、神父さんには教わりました。他の魔物もゴブリンみたいに邪悪なんでしょうか」

「そうだな。たとえば坊主が興味津々なサキュバスなんかは、ゴブリンよりか悪辣だ。連中はその手練手管で人間の男を伴侶にする。そこまではいいが、その後がひどい。伴侶とは別な男に抱か……別な男と仲良しをして、その有様を伴侶に見せつけるんだ」

 言い直したのは思春期前の少年への配慮であろうが、あまり意味を成していない。

「まあその、あれそれを色々比べたりしてだな、前とは逆な手練手管で、最終的に、伴侶のほうはみじめを通り越して絶望する。そんな具合に絶望した人間の脳味噌がサキュバスの大好物らしい。サキュバスの本性は脳味噌食いだ。魔物らしく人間を苦しめるのが大好きだから、寝取ら……手酷く裏切られた人間の苦しみや悲しみそのものも好んでいるが、それは料理の香りみたいなもんで、味わうのはその絶望した脳味噌だ。脳内物質がどうとかこうとかで、そうなるよう美味しく調理したわけだ。教会のお偉いさんがいうには、サキュバスは脳を破壊するだそうだ。業界用語なのかいまいち意味が食い違う気もするがな」

 世の男性の願望を打ち砕く、あまりにも邪悪な生態であった。やはり魔物は邪悪である。神父さんの言うことはいつだって正しかった。

 その後もフィールドを進んだが、再びゴブリンと遭遇することはなかった。

「どっかのクランが間引きでもしたんだろう」

 ケンは拍子抜けした。

 



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中央と地方

 馬車に馬糞受けをつけてクルエル市の市街地に入る。路面は土木魔法による土系舗装がされていて、ぬかるみを気にしたのか石畳のところも多少ある。レンガか石か木造か、どのような建材をどのように用いているかは知らないが、都会の建物は村のくたびれた感じのそれと比べ、新築にしろ築古にしろ佇まいが垢抜けているようにも思われた。ときおり見かけるいやに真っ白い箱形の建物は魔法建築で、いわゆる安普請になるらしい。仮設住宅用の魔法を転用しているとも、基礎が怪しいともいわれているが、購入者が直接苦情を言うことはめったにない。これを主力商品としている建築業者は地方ギルド所属の大手クランと仲が良い。

 巡回中の衛兵に出くわすと、アナーケが声をかけた。

「ご苦労さまです」

 赤いラインの入った灰緑色の軍服で胸の膨らみに刀帯が斜めに食い込んでいる。二十代中頃の女性であった。

「アナーケさんは今お帰りですか」

「ええ。ほら坊主、世話になるかもしれないんだ。挨拶しとけ」

「ご苦労さまです。ケン・シースレスです」

「お若いのにしゃんとしてますね。ご友人のお子さんですか」

「まあそんなところです。冒険者になるってんでね、こっちに来させました。まだほんの子供ですが将来有望ですよ。ゴブリン程度なら、数がいても一瞬です」

「それはそれは」

 衛兵の女性の視線は全く動いていないのに、全身を子細に観察されているのをケンは感じた。なんとなく、魔力とは別の妙な力の流れがあった。

「そうそう。こいつ手癖が悪いんで、スキルの動作なんかも盗みかねませんよ」

「……それはいけませんね」

 衛兵の女性は目を元に戻すと、ケンの頭を優しく撫でた。アナーケもそうであったが、ケンの頭はどうも撫でやすい形状をしているらしい。

「アナーケさんは元二級冒険者で『絶壁』の二つ名持ちです。あなたの師匠は、それはそれはすごい方なんですよ」

「よしてください。それに弟子とかじゃあなくて、ただ連れてきただけです。ものになるかはこいつ次第です」

 衛兵の女性と別れてしばらく歩くと、アナーケが小声で言った。

「覚えたか? グーチョキパーのどれだ?」

「最強のやつです」

 視界の端で出された手を、視線を動かさずに判別する。少し目が疲れるが、きょろきょろせず都会人ぶれるので重宝しそうである。

「人形めいて気味が悪いからやめておけ。国軍のシステムスキルで完全八方目というスキル名も有名だしな。人力再現でも大っぴらには使うんじゃないぞ」

 知らない専門用語もそうだがそれより気になったことがある。

「さっきの人が装備していた銃は、火縄銃とは違う感じでしたが」

 衛兵の女性の格好がなぜかしっくりきて、どこかで見覚えのある気がしていた。

「Gew98か? ベンセレム国軍の標準装備だが。ああ、村じゃライフルなんて見ないもんな」

 思い出した。前世で見た第一次世界大戦の写真である。

「大賢者アリサカコフの遺産の一つだ。各国の王家や政府が複製技術を持っているから、昔はともかく今の時代、国軍といえばボルトアクションライフルが主流だな。うちの国だとたしか、三八式歩兵銃だったか」

 火縄銃からフリントロックやら何やらを飛び越してボルトアクションであった。転生者のケンにとって魔法や魔物より現実味があるせいか、この世界の危険度が跳ね上がったような気がした。

「アナーケさんはその、ライフルという武器を装備した敵とは」

「国軍とはもちろんないが、邪教徒のAK-47、連射式のやつなんだが、そいつとやり合ったことはある。面倒だったよ。盾が抜かれたんで剣で弾いてたんだが刃がまくれてな。結局研ぎ直す羽目になった」

 自動小銃を持ち出す邪教徒もそうであるが、それを面倒だったで済ますアナーケの態度を見ると、冒険者を志したのは早まったろうかと思ってしまう。

「そもそもアリサカコフ由来の火器は国軍のシステム契約で管理されているから盗んだとしても使用不能だ。犯罪者や地方ギルドの連中に出回ることはまずない。邪教徒のAKとかにしても、さっき言った通り坊主だったらもうちょいレベルを上げれば剣で対処できる程度だろう。だが慢心するなよ」

「できません」

 そもそも対処できるわけがないという意味を含めての本心である。

「例えば国軍の使うライフルなんかは毎日磨くことで概念強化されていて、そこにシステムスキルの上乗せがあるから威力は段違いだ。特例で所持を認められた一級もいたな。ごちゃごちゃした銃でM16といったか、高位魔族の多重障壁を金魚すくいのアレみたいに貫通していた」

 剣と魔法のファンタジーな異世界で近代兵器のファンタジーな運用を語られる。頭痛が痛くなりそうなので別な質問をした。

「銃についてはわかりました。それで今の話にもあったシステムとか、スキルとかいうのは何でしょうか」

 レベルアップ以外にもRPGゲームめいた設定があるのかもしれない。

「大規模契約魔法の一種で、その通称だ。契約すればレベルアップと同様に強化されるのと、それからそのシステムに登録された剣技や魔法なんかを使えるようになる。契約者は誰でも、その素質に関係なくな」

「便利ですね」

「便利だが対価もある。力を行使するのが国内に限られたり本来のレベルアップができなくなったりな。契約が切れれば力を全て失うし、対策はされてるだろうが魔法契約である以上、契約経由で呪詛を流し込まれる危険性もある。それでもそれ以上に有用だから国の兵隊やダンジョン都市の探索者で使われているが、国外を冒険する中央ギルドの冒険者は使っていないし使えない。便利過ぎて法規制もあるしな。まあライフルとかと一緒で、兵隊専用とでも考えればいい。坊主が冒険者をする以上、システム契約をする機会はないだろうさ」

 この人なんでも知ってるなとケンは思った。少し質問すればすらすらとこの異世界の事情を詳しく解説してくれる。自分が世間知らずだという自覚はあるけれども、それにしたって物知りすぎやしないだろうかと思ってしまう。村人から同世代の義父にぺこぺこする中年婿養子と侮られた行商見習いの顔とでは食い違いがある。神父さんと同じで、明け透けに見せかけた底知れなさが感じられた。

「そういや、直接聞き損ねて今更だが、坊主はどっちに所属するつもりなんだ。中央か、地方か」

 この世界で冒険者ギルドと呼ばれる組織は二種類ある。中央ギルドと地方ギルドである。

 

 本社と支社といった関係や、行政でいうところの中央地方関係ではない。紛らわしいが、それぞれ独立した別な組織である。業務内容はだいたい同じで、腕っ節に自信のある者が所属するという点も同じである。わかりやすい相違といえば中央ギルドがよくありがちな国際機関であるのに対し、地方ギルドはその国家やその土地で完結していて、換言すれば地元に密着しているのである。

 中央ギルドと地方ギルドとは組織同士も人間同士も仲が悪い。商売敵なせいだろう。一方に所属しながらもう一方に所属することは無論禁止されている。

 中央所属の冒険者は地方冒険者をならず者呼ばわりで見下しているし、地方所属の冒険者は中央のやつらをお高くとまっていけ好かない連中だと毛嫌いしている。関わりのない人々からするとどちらも同じ冒険者であるが、所属する当人らにしてみれば様々な違いがある。

 例はいくつも挙げられる。

 中央ギルドの職員はお役所仕事でそっけないが、地方ギルドはアットホームでやりがいがあり、受付嬢が美人である。

 中央ギルドの冒険者の階級は三級二級一級の三つしかないが、地方ギルドにはFランクからSSSランクまであり、実力がわかりやすくて肩書きも格好良い。

 中央ギルドは長くて面倒な試験を合格しなければ所属できないが、地方ギルドは名前を書くか代筆してもらうかすれば、即日冒険者として活躍できる。

 中央ギルドの仕事はたいてい、危険すぎる討伐依頼か危険すぎる採取依頼かの二択である。地方ギルドはその二つ以外にも、溝浚いから土木工事、物資輸送や倉庫内の軽作業、お店の用心棒や貸金業者の手助けなどバリエーション豊かな依頼があり、手軽に始められ手軽に儲けられる。

 中央ギルドの冒険者は個人主義である。一方地方ギルドの冒険者たちの間には助け合いの精神が生きている。先輩が後輩を指導して、後輩は先輩から受けた親切を絶対に忘れないので、そのまた後輩にも同じように指導する。薫陶を受けた者が薫陶を与えるというサイクルがしっかり機能している。クラン活動も盛んで、一部の大規模クランなんかは初心者救済を掲げて、新人教育を専門にしているくらいである。

 中央の冒険者は国家間を渡り歩く根無し草なので地元愛というものがない。地方の冒険者は地域に根差して活動するので、地元業者とは懇意であり、持ちつ持たれつの根深い関係を築いている。

 中央は儲からない。冒険のための冒険というお題目を掲げて、経済活動に寄与しないのである。地方は違う。大手クランにはスポンサーが付き、逆にクランのほうが経営をする側に回ることもある。単純な金銭面ばかりでなくクランという組織力もあり、力ある者ならば、世に言うところの立身出世が可能である。大手クランのリーダーには、一夫多妻に多夫一妻といった事実婚も多く見受けられる。タフな男たちが仲良しのあまり多夫多夫の婚姻生活を営む例もある。

 中央に所属してしまった冒険者は、たまに訪れる世界の危機に身命を賭さねばならない。地方にはそんな人権を無視した規則はない。己の命の賭けどころは、己で選ぶ自由がある。

 

 事前に調べた中央と地方の比較内容を思い浮かべて、ケンは答えた。

「中央を受験します。この世界を見て回りたいんです」

 年少の子供の憧れといえば中央所属の冒険者である。地方ギルドにはいわばアウトローな印象が付きまとい、主に思春期を迎えた子供が転向して憧れる。

 十歳というケンの年齢もあるが、異世界転生者としての好奇心もある。

「中央は旅券いらずだものな。たしか一次試験は月初めだから明後日か。すぐだな」

 一応、無為徒食で宿代を浪費せぬよう日程を調整したつもりである。

「ちょっと待て? 願書は七日前までのはずだぞ」

「本当ですか」

「ああ、今年からな。去年までは前日でもよかったが、規則が変わったんだ」

 新しい副支部長がやり手なうえ、事務方に優しいらしい。

「そういうことなら試験は来月になりますね」

 うっかりである。途方に暮れたいがそんなお金の余裕はない。

「木賃宿の相場はいくらでしょうか。それから討伐系でなくてもかまわないので、地方ギルドには子供でも受けられる依頼はありますかね」

 気持ちを切り替えて試験までの一ヶ月を下積み期間とみなして考える。地方ギルドで経験を積み、レベルを上げてから受験する。そのような中央冒険者志望も珍しくないと聞く。

「……それは駄目だ。やめとけ。あとで紹介状を書いてやる。明日それと一緒に申し込めば、明後日の試験は受けられるはずだ。それから寝床も下手に節約しようと考えるな。あえて誇張して言うが地冒向けの安宿なんてのは雑魚寝かロープか発展場だ。子供がのこのこ泊まったら装備も加護も盗まれる。まともな宿を紹介するからそこにしろ。中央と提携しているところだから、そのまま試験期間中もそこで暮らすことになる」

 至れり尽くせりであった。

「わざわざありがとうございます。アナーケさん」

「なに、運賃のうちだ。宿に荷物を置いてからになるが、紹介状のついでにうちで飯を食ってくといい」

 アナーケの厚意に甘えることにした。

 

 アナーケの家では具だくさんのすいとんをごちそうになった。アナーケの故郷ではごちそう扱いの彼の好物で、泊まりがけの行商の後にはいつも奥さんが食べさせてくれるという。ベンセレムでは醤油などの調味料が一般的なので行商の主人は貧乏くさいと恥ずかしがっていたが、若妻が食べさせ飽きた父親より夫の好みを優先させるのはよくあることであろう。姉のリンも義兄好みの淡い味付けに変えていた。

 アナーケの奥さんの実年齢は十八才以上であるが、姉のリンより若そうで、いっそケンの少し上くらいともいえる見た目であった。所帯窶れもしていない。衛兵の女性の言った絶壁という二つ名が頭をよぎる。出くわしたサキュバスを胸と尻が無駄にでかい奇形とアナーケが評したのは果たして一般論であったのか、どうも頼りなく思われた。また同時に「すごい。性癖を全うしたんだ」という畏敬の念もわき上がった。奥さんの母親も同じくらいに背が小さく、若々しく見える女性なので、おそらく血筋であろう。アナーケは行商の主人に対してやらかしの入り婿らしく下手に出るが、行商の主人もアナーケに対して居丈高になりすぎぬようどこか気を遣っている。

 奥さんによればアナーケとは世界暦の生年月日が一緒らしい。異なる時の流れに生きた二人は、同じ日に生まれていた。地方冒険者に絡まれているのを助けてもらったという馴れ初めもあって、いかにも運命的に思われた。それからは手作りのお菓子でお礼をしたりお弁当を差し入れしたり買い物に付き合ってもらったりして、中央ギルドの職員にも顔を覚えられたという。結ばれるまでの詳しい過程は気になるが、子供たちが遊んでとせがむので奥さんとの話は中断した。アナーケが紹介状を用意する間にした冒険者ゲームという双六遊びは、一位が奥さんで、二位が奥さんの母親という大人げない結果に終わり、子供たちが拗ねていた。幼い子供たちに得意顔を向ける姉妹のような祖母と母と同じく、ケンも本気で挑んだが最下位であった。運のからむ遊びは前世の頃からなぜか苦手であり、それは転生しても変わらなかった。

 

 子供たちにさよならをして宿屋までアナーケに送ってもらう。街の夜道には村と違って魔石灯の明かりがある。酔っ払いや物乞いや、夜遊びの冒険者らしき人々とすれ違う。橋の真ん中で聖典のようなものを手に大声で朗読する僧衣姿の人がいるが、役者でないとするなら異端の宗派の人であろう。神父さんに教わった内容に引っかかる。この国は宗教にも異端にも寛容なので大っぴらに「イタダキマス」でもしなければしょっ引かれることはない。

 武器一式は宿屋に預けてある。ケンもアナーケも、目に見える武装はしていない。仕事帰りでもないかぎり夜の盛り場で武器をちゃらつかせるのは、絡んでやるし絡まれてやるという符丁になるらしい。ツンツン、モヒカン、ハンバーグといった気合いの入った髪型の若者たちは、抜き身の剣を剣帯にそのままか、金属の輪っかにただ通しただけという格好で携帯している。何かの拍子で怪我をしそうに思われたが、視線をやらずに観察すれば、刃をわずかに潰してあった。喧嘩の作法というやつだろう。

「地冒だな。中央は鞘無しだと罰金になる」

「なんだあ、てめえ」

 アナーケの解説が聞こえたのか、若者たちが揃ってこちらを睨め付けた。中央所属も地方所属もお互いに、本当の意味での冒険者は、自分たちこそがそうであると自負している。なので中冒地冒という略称が気になって蔑称と思ってしまう者もいる。

「待て、こいつ知ってる。中冒だ。元二級のアナーケ。絶壁のアナーケだ」

「絶壁? ガチのやつか」

「ああ、ガチすぎて引退した、あの絶壁だ」

「やべーな」

 若者たちが恐れをなして道を譲る。アナーケの涼しい顔にケンは釈然としないものを感じた。

 

 宿屋に着き、お礼を言ってアナーケと別れると、受付で荷物と鍵を受け取って部屋に向かう。宿屋は大きく、食堂などサービスを提供する施設のそばに、三階建てのアパートをそのまま増築したような建物であった。食事は朝夕食堂でとり、昼食は事前に伝えておけば弁当を用意してもらえる。酒は出ない。お一人様専用かつ連れ込み禁止とも注意書きされているが、若い女中や女性客もいるので風紀については何ともいえない。

 それなりに運動できる広さの庭もあった。夜なのに木剣を素振りする十代後半くらいの少女がいた。熱心に汗をかいているが、掛け声や息遣いでうるさくして迷惑をかけぬよう気を遣っているのか、怖々とした剣筋であった。目が合ってしまったので声をかける。

「こんばんは」

「え? あ、お晩です」

「中央を受けるんですか」

「どうして。ああはい。ええ」

「僕もなんです」

「いや、あなた子供でしょう? 記念受験だとしても無理があるわ」

「そうなんですか」

「筆記だけじゃないのよ。ゴブリンくらいはやっつけられなくてはね」

「一応、倒したことはあります」

「そのときにレベルアップはしたかしら」

「いえ」

「なら難しいわね。子供のままの体力では戦うことすらままならないもの」

 少女が指を二本立てた。

「二時間よ。実技試験では二時間走り続けてから、その後に戦わなければいけないの」

「そんなに長時間走り続けたことはありませんね」

 朝から晩までの形稽古はともかく、マラソン訓練はしていない。

「兵隊と一緒で冒険者の仕事は走ることよ。走ることは武器の使い方よりずっと大事。大前提といってもいいわ。ほら、見なさい」

 ズボンの裾をめくって見せる。

「私は靴下を二重にしてる。野暮ったいけど、これが冒険者だもの」

「なるほど。ためになります」

「まあ、あなたくらいの年齢なら、不合格での二年待ちも問題ないでしょう。今回は怪我をせず無事に済ませることに集中すべきね」

「ご忠告感謝します」

「どういたしまして。冒険者は助け合いだもの。今は同じ試験を受ける者同士、ライバルだから助言くらいしかできないけれどね」

 ケンが別れを告げると少女は素振りを再開した。遠慮の気持ちが和らいだのか剣筋は思い切りが良くなり、わずかながら掛け声も聞こえてくる。名前は聞かなかった。

 

 廊下で部屋番号を探していると話しかけられた。

「そこな君、幼いようだが受験者か? 受験者の部屋は一階だったろ」

 気配を見るに現役の冒険者と思われる青年である。神経質そうな眼鏡をかけていて、手洗い帰りなのか塩素臭に似た清浄魔法の名残が微かに感じられた。能力配分は魔力が多めなので魔法使いかもしれない。ケンは部屋鍵を見せた。

「三階の鍵をもらいましたが、手違いでしょうか」

 青年が開いた中指と親指で眼鏡を整える仕草をした。顔を覆いながら指の隙間から観察の目を走らせたのがわかった。

「なるほど、誰かの推薦かな? ああ、名前は言わなくていいさ」

「紹介状はありますがそれが推薦になるのなら」

「三階に部屋を用意したということは相応の新人だということさ」

 名刺を差し出されたので片手で受取る。名刺交換の場面で恭しい所作をするのは魔族に強いられた偶像崇拝を連想させるので、ぞんざいなやり取りこそがマナーとされる。奴隷制のある国では名刺に土下座させるという躾もある。家畜に鰯の頭の絵を崇めさせたという魔族文化の名残である。

「リジン・デバンナス、我流の自称ではあるけど魔法使いさ。ここに住んでるのはしばらく現金を貯めたくてね。奇遇だけど隣の部屋だよ」

 名刺には三級冒険者という肩書きと、中央の冒険者番号が書いてある。

「ケン・シースレスです。ご迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」

「今は無難な依頼を選んでるんだ。君のレベル上げが早いなら、仮免期間中でも一緒に仕事ができるかもしれないね」

「そうなれるよう頑張ります」

「無理はよくないよ。カンスト教の経験値チャートというのも手に入るけど、あれはあえてレベルダウンした二週目の命知らずのやり方さ。ともかく、焦らないことだね。受験者でここの三階に泊まれるっていうお墨付きなんだ。怠けなければ三次試験、本試験までは問題はないさ」

「やはり難しいんでしょうか」

「本試験はダンジョン都市での見世物だからさ。運もからむ。胴元は中央だけど賭け事ならば、地冒連中が八百長の受験者を送り込むしね。けどそれをはねのけてこそ、中央ギルドの冒険者さ」

 そうした困難を乗り越えて今があるという自負がリジンから感じられた。元二級のアナーケは様々な意味で評価されていたが、一般的には三級も一角の冒険者として扱われる。そもそも中央に所属できているというその時点で、地方を含めた冒険者全体から見れば上澄みといえるのである。そうでもなければ世界規模の移動の自由という特権は与えられない。

「嫌みったらしく聞こえるだろうけど忠告だよ。下の階に泊まる受験者とはあまり仲良くしないほうがいい。かかわるとしても二階住みだね。今は関係ないけど、仮免をもらって二次試験期間が始まれば仕分けされる。半月もすれば一階の住人はどんどん出て行くし、ギルドの配慮で二階三階に移る受験者もいる。パーティを組めと集団で迫る奴らも出るだろう。いってしまえば実力主義だからね。中央を目指したくせに地冒めいてくるのは仕方がないことだとも思う。まあその、はじめから住む世界が違うと、そう考えておくほうが気が楽さ」

 配慮もあるが割り切っている。リジンやアナーケはケンなら問題ないだろうという口振りで内輪の事情を話しているが、不合格者が多数出る狭き門と思えば安穏とはしていられない。

「ところで、冒険者は足回りが大切だと聞きましたが、靴下は二重履きしますか」

「予備は持ち歩くけど、そういう工夫は足下の感覚がずれるからやらないね。冒険者の仕事は兵隊の調練じゃないんだから、足や体力を消耗するような移動は普通はしない。体力作りとかならともかくね。そして実戦はノルマ付きの訓練じゃない。移動で疲弊して戦いに挑むのは、そもそもの実力が足りないということさ。靴擦れなんかもレベルが上がればまずならないよ」

「なるほど、ためになります。リジンさん」

 ケンはお礼を言った。




設定語りが……設定語りが多い!!


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公園にて

 翌朝、朝食の前に庭に出ると混んでいた。中央試験の受験者であろう十代の少年少女が早朝鍛錬に励んでいる。各々自由に素振りをしたり、組になって打ち合いをしたり、追い込みをかけるのか汗だくで真剣を振り回して迷惑がられているのもいた。乱取りに熱中したのか鼻血や土で手ぬぐいを汚した二人組などは、受験前日であるから取っ組み合いにならぬよう堪えざるを得ず、泣き笑いで口喧嘩していた。

 地方で下積みしていそうな受験者はいない。リジンの話によれば、地冒経験者はたいてい、ろくにレベルアップしないうちに先輩の悪所通いか硬派的な行為に付き合わされて女神の加護を失うので、なんとなくわかるという。加護を失うと魔法適性のみならずレベルアップ時の恩恵も減少する。思い返せばアナーケに退けられた若者たちも、存在感はあるにはあるが、どことなく厚みというものに欠けていた。ちなみにこれは男性の場合である。女性はそのまま転職することが多いので元地方の中央受験者はめったにいない。

 地元民は家から通う。元地方所属者は今までの拠点がある。この宿に泊まる受験者はケンと同じく、よそから来た冒険者志望であろう。お互い探り合いをしながらも、旅先での気安さがわずかに顔を出している。

 魔法を使える少年が同輩に実力を示すため、頭上に炎の魔法を放つ。現役の冒険者らしき男性がやって来て、少年を叱りながら物陰へ連れ去った。公共の場所での攻撃魔法は御法度である。しばらくしてうつむいて出てきた少年に、他のみなはけちをつけるでも馬鹿にするでもなく、慰めの言葉をかけていた。受験者たちには今はまだ、思いやりを示す余裕があった。

 ざっと見たところ受験者たちのレベルは地元で上げてきたのか、ほとんどがケンと同等かそれ以上である。常人より強化されているが元々の腕力や体重が大人とさほど変わらないので子供のケンほどに劇的な実感はなく、本来の体格から一段階鍛え直したくらいであろう。厳密に計算するならケンの強化の度合いは個人差なのか少し大きいかもわからない。

 レベルアップ経験のない受験者は男女一人ずついた。長い銀髪の少年のほうは剣術の嗜みがあるのか、レベルで格上の相手を次々と負かしている。黒い前髪で目を隠した少女のほうは、棒術の棒を他の人の邪魔にならぬよう気を遣いながら、ただもう振り回すだけというふうに振っている。見るからにおどおどしていたが胸が大きいので少年たちは親身に接した。そんな男子から守ろうと動く女子もいる。昨夜にケンと会話した二重靴下の少女であった。少年たちを追い払った彼女は目隠れ少女にあれこれ口出ししている。目隠れ少女はこくこくと頷くと助言どおりに棒を振って見せてから、か細い声で靴下少女にお礼を言った。

「おはよう。慣例の早朝鍛錬は見学に……せざるを得ないね、この感じなら」

 庭の隅っこで受験者たちを見ていると、リジンに声をかけられた。

「年長の方ばかりで気後れします」

「そういうことにしておくよ」

「あら、あなた昨日の子よね」

 靴下少女がこちらに気付いて駆け寄ってきた。

「明日にそなえてみんなで合同訓練をこれからするのだけれど、よかったら一緒にどう? そういえば、名前聞いてなかったわね」

「待て。悪いが彼とは朝食の約束がある」

「あ、ごめんなさい。気付きませんでした。冒険者の方ですよね。中央の。あの、その子とはいったいどういったご関係で?」

「ちょっとした友人さ。仕事関係のね」

 リジンに連れられて食堂に向かう。

「すまないね。多少強引に思われたろうし、お節介だったかな」

「いえ、ありがとうございます」

 靴下少女と名乗り合えないのはご縁がなかったものと割り切った。

「それで、君の目から見てどうかな。他の受験者たちは」

 ケンは少し言葉を考えてから言った。

「レベル無しの二人が気になりました。長い銀髪の男の人は剣を使うようですし、長い前髪の女の人は、その、目立つ感じです」

「現状ではたしかにその二人だけだろうね。あのなかで中央で通用するのはさ」

 他の受験者への態度のように、はっきりとした物言いであった。

「銀髪少年の技量は頭一つ抜けてるね。努力と才能の比率はわからないけど総合的に見れば一定水準はある。レベル上げもある程度までは順調に進むと思う。とはいえあくまで一定水準だから、本試験突破にはもう何段階か壁を越える必要があるかな」

 太刀筋と足運びの整わせ方から察するに、幼い頃から剣を振り続けて来たのであろう。

「でもあの目隠れおっぱ……目隠れ少女に比べれば見劣りするね。いや、えっちい意味じゃないよ?」

「あ、はい。大丈夫です」

「あの少女はレベルアップで化けるタイプだよ。今は素人同然だけど武器選びのセンスがあるから、技量もすぐに上がるだろうね。何より目がいい。反応速度もだ。力や魔力と違って神経関係はレベルアップでもめったに強化されないんだ。単純な速度は上げられてもすばしこさには限界があるのさ。システム風にいうなら、素早さは固定値というやつだね。始めから高いというのはそれでもう才能だよ」

 指先大の赤い魔石が横顔に飛んできたので摘んで防ぐ。

「っと、君のようにさ」

 不意打ちで指弾されたそれはルビーに似た赤い魔石で、微細な魔導回路が内部に刻んであった。

「試して悪かったね。それはお詫びと、先行投資を兼ねて進呈するよ。一定以上の魔力を込めれば五秒後に爆発する。威力はそれほどでもないけど、いざというときや大型の魔物の体内にねじ込むといい。所持許可申請もこっちで出しておくからさ」

 おっかない小石である。魔力遮断のされてある神父さん特製のお守り入れに仕舞った。

 

 朝食の後に向かった中央冒険者ギルドクルエル支部は、前世の物語にあったような酒場に併設した形式のものではなかった。建物はコンクリート建築で体育館やグラウンドなどもあり、その敷地のぐるりを高さ二メートルほどの塀で囲ってある。前世ふうに例えるなら公民館付きの役場や学校である。市街地にもかかわらず土地を広く使っていて、いざというときには避難所として機能するらしい。

 ちなみにクルエル市にある中央ギルドの施設はここ一つきりであるが、地方ギルドのほうは酒場形式で大小何十軒もあり、それらを統轄する本部施設が市街地の中心から見て中央ギルドとは逆側に建っている。機能や裁量が各支部に分散されているので敷地面積では負けているものの、建物の高さでは勝っている。中央が殺風景な三階建てなのに対し、クルエル市地方ギルド本部は五階建てで天守閣も増築してあり、玄関ホールには歴代SSSランク冒険者の大理石像が沢山並んでいる。Bランク以上の冒険者か職員以外は門前払いされるので施設自体も清潔に保たれている。

 話に聞く地方の豪邸本部とは違い、中央ギルドの守衛のお爺さんはケンのような子供でもつまみ出したり見物料を要求したりはしなかった。始めは見学の子供と勘違いされたが、事情を説明すれば受付まで案内してくれて、受付の人に紹介状の偽造を疑われたときにもケンの弁護をしてくれた。アナーケほどではないがリジンより上くらいの存在感があったので元冒険者かもしれない。

 別室に案内されてちょっとした面接を受けるなどしたが申し込み自体は無事に終わり、明日の試験を受けられるようになった。

 ギルドには沢山の冒険者がいるから、受付に居座ったり施設を見学するなどして彼らを観察すれば、良い見取り稽古になるだろう。しかし明日の試験の準備がある。ケンは手続きを済ますとすぐにギルドを出た。

 

 次に向かうのは武器屋である。

 現在このクルエル市において冒険者向けの小売業のほとんどは元冒険者か現役の地方冒険者が経営している。地方冒険者のパーティが共同経営したり、冒険者でなくてもAランク冒険者が身内であったり、大手クランの直営店なんかもある。そうしていずれの店も困ったお客様をあしらう手段を備えている。そのためか商人ギルドや鍛冶ギルドの影響力が及びにくく、冒険者村と揶揄されるある種の閉鎖社会を形作っている。

 昔ながらの工房直営店や純粋な武器商人は地方冒険者系店舗の営業努力で大半が廃業し、今のクルエル市にはほとんど残っていない。こうなったのには十数年前にとある人物がSSランク冒険者となり、市内の力関係が地方ギルドに傾いたことも影響している。

 アナーケによればこの町で駆け出しが身の丈に合った買い物をするのは難しいという。殊に武器屋は古物商を兼ねたところが多いので目利きや信用が試される。一見さんお断りや馴染みの強制なんかは優しいほうで、客引きに捕まった若者が継ぎ接ぎの全身甲冑で店を出て、時間を置くとしょんぼりしたというのもざらにある。

 アナーケに紹介された武器屋は中央ギルド近くの大通りを少し入ったところにあった。二代目の店主は副業の呪物取引を専業にしたいらしくあまり商売熱心ではないが、無難な価格で無難な品質の商品を売るので新人に評判がよく、それなりに繁盛している。ケンが入店したときにも仲の良さげな若い男女の先客が、均一価格の安売りナイフを選んでいた。

「すみません。可能なら今日中にこの剣に合う剣帯と、整備用品も欲しいのですが」

 鞘に収まったショートソードを荷物から出して店主に声をかける。

「そのタイプの鞘ならたいていの規格は大丈夫だろう。サイズ調整に少し時間を食うが。しかしその剣は、ふむ。少々拝見しても?」

「どうぞ」

 革のマスクをつけ、片眼ルーペのようなものを装着し、手に乗せた袱紗に似た布で刀身を支える。たかが冒険者の仕事道具を見るにしては大がかりな鑑賞作法であった。

「貰い物か?」

 鑑賞を終えて剣を返すと店主が言った。

「そんなところですが、どうかしましたか」

「この剣は魔物以外も斬っている」

 店主が指を三本立てたのは、安売りコーナーでいちゃつき始めた先客に物騒な話を聞かせぬためであろう。

「それについては、ええ、知っています」

 むしろ当事者で、三つ中二つはケンの手によるものである。

「ならいいが」

「すごいですね。そういうこと、わかるんですか」

「この剣みたいなのは素直だからな。呪物商のはしくれなら誰しも、と言いたいところだが、細かく知るには、ほれ」

 片眼ルーペを手渡される。

「魔眼鏡だ。起動魔力の込め方はわかるか?」

 魔力操作の基本は村を出る前に神父さんから教わっていた。手に持ったそれを通してショートソードを見ると、靄のようなものがわき出ていて、刃文とは別な淡い模様を刀身に描いている。色取り取りで変化もあり、見続けていると引きつけられる感じがする。

「どうだきれいだろう。そこから由来を推測するのも、呪物鑑賞の楽しみなんだ」

「きれいですが実用品としては大丈夫でしょうか」

「ちょっとばかり気配が違うだけで、剣そのものの性能は問題ないぞ。帯びた魔力にしたって呪いとも付与ともいえん程度のものだ。ほんの気持ち、対人で切れ味が増すかもしれんがな。あえて名付けるならショートソード+1ってところか。無銘だろうが剣としての格も新人が使うにしちゃなかなかだな」

 聞けば武器や防具にも、人間のレベルアップに似た現象が起きるらしい。魔物や人間を殺し続けた武器は攻撃力が増し、大事に使い続けた防具は守備力が増す。

「とはいえ普通はそうなる前に武具本体がお釈迦になるから」

 そう言って見せられたゴブリン殺しという銘の大鎌は、ゴブリン狩りで使い潰した武器の鉄くずから作り上げたという。出来たゴブリン殺しをまたゴブリン狩りで使い潰し、その鉄くずから更に新たなゴブリン殺しを作る。あらかじめ複数作っておいて、最終的に一つの武器に統合する。そういった重ねの工程を何度も繰り返すことにより、実用的な呪物としての武器が完成する。完成品のゴブリン殺しの攻撃力はゴブリン限定だが凄まじく、ゴブリンが豆腐のように切れる切れ味と、ゴブリンを即死させる呪詛を傷口から流し込む追加効果がある。武器としてばかりでなく美術品としても心を打つ。魔眼鏡越しに鑑賞すると、ゴブリンをぶち殺したいという気持ちがわいてくる。

 呪物のことで饒舌になった店主の蘊蓄を聞いていると、思い付くことがあった。

「これなんかはどうでしょうか」

 ケンが取り出したのは二本の食器用ナイフである。三男用に使用済みのを実家で普段使いするわけにもいかず、始末に困って持ってきた。

「ふむ、珍品だな。実用の食器というより再殺用の飾りだろう。元は引き出物あたりか?」

 普段の食事は箸でして、このナイフは食前儀礼のためにとりあえず食卓に置かれていた。食事そのものには使用されず、磨くのも大掃除のときくらいの安物なのでくすんでいる。

「使用箇所は?」

 先客は少し前に店を去っていた。子供と話し込む店主に辟易したというより男女の雰囲気になったのであろう。ケンは答えた。

「目と首です。首のほうがとどめです」

「二本の間にパスが繋がっているな。面白い。使った相手、由来は尋ねて大丈夫か?」

「父の仇です」

「なるほど、たしかに仇討ち物の風格がある。しかしいいな、これ。計画的だったり格下相手だったりだと、この自然な感じは出せん。有り合わせで咄嗟の死にものぐるいだからこその、ほっとする味わいだ。ほれこのあたり、死者の呪詛を仇討ちの聖気が打ち消しているだろう? 物の作りは粗いが呪物としての形式はいかにも正統派だ。双子というのも珍しい。良い仕事をしたな、少年」

 人殺しを咎められないどころか、そのやり方を褒められたのは初めてであった。冒険者村の住人の感性とはこういうものなのかもしれない。

「買い取りはしてもらえますか」

「いいのか? いいものだぞ、これ」

「門外漢が持っていても仕方ありません」

 実用としてはお話にならないが、観賞用としてはなかなかのものだという。店主は結構な額を提示して、オークションにかければ倍以上の値が付くとも付け加えた。ケンの名前と詳しい由来を公表する許可をもらえれば、色をつけるとも提案された。物語付きの武器は好事家に喜ばれるそうである。

 新品の剣帯と小物を買い、三角錐剣先の六角棒手裏剣を特注しても、食器を個人情報付きで売却したお金はまだ余っていた。

「毎度あり、ケン坊。また面白い殺し方をしたらその武器を見せてくれ。期待してるぞ」

 思わぬ臨時収入でそれなりの装備を揃えて懐も暖まった。けれども店主の好事家としての態度を見ると、姉がケンを人でなし呼ばわりした気持ちがわかるような気がしてくる。あのナイフは父を殺した三男を討ち取った武器で、いわば思い出の品である。目先の金銭のため売り払うのは軽率であったかもしれない。

 

 買い物はひとまず終えたが、このまま中央ギルドへ見学に戻るのも少しきまり悪いので、ケンは街を散策することにした。宿に装備を置いて平服に着替えると、見た目では町の子供と同じになる。貧民窟や地方ギルドにでも近寄らないかぎり面倒事に巻き込まれることもないだろう。

 蕎麦屋で奮発して玉子閉じ蕎麦を昼食に食べた後、公園を見かけたので入ってみた。草木や噴水にベンチといった休憩や逢い引きの場所ではなく、むきだしの地面の上に無数の遊具が配置された純然たる子供の遊び場であった。

 ジャングルジムにすべり台、砂場にブランコといった定番の他に、空中シーソーや箱ブランコ、遊動円木や回旋塔なども置いてある。回旋塔なんかはこの世界でも人気なのか、あるいは年長組が独占しないよう配慮したのか、小中大と三つも設置されていた。前世では結局触れる機会のなかった憧れの遊具である。それら以外にも一見どう遊ぶかわからない拷問器具に似た形状の遊具も色々あり、遊具ばかりで所狭しといったふうで、肝心の広場部分が申し訳程度の面積になっている。外周にめぐらしたモチノキも木登り用にちょうど良い。景観や安全性をまるで考慮せず、子供の理想を雑に詰め込んだような公園であった。

 ケンの肉体は十歳の子供であるが、転生者なのでその精神は無論大人である。テーマパークに来たみたいにわくわくするのは、異世界らしからぬ光景を前にしたからに違いない。前世の遊具というものは個人の日曜大工などでないなら主に工業製品であったりスクラップの再利用であったりした。見たところこの公園の遊具はいずれも木製ではなく金属製で、おそらく鉄パイプであろう。魔導工学か純粋科学かはわからないが、異世界の製管技術を知るのにうってつけの資料といえる。ものを知るには実際に触れてみるのが一番である。

 看板に市立公園と書いてあるので私有地でないにもかかわらず、どうしてか公園にひとけはなく、ケンひとりきりであった。もはや貸し切り状態である。

 ケンは思案した。手始めに定番を一巡りするのは準備運動を兼ねているので確定している。前世でいうところの危険遊具を試す順番が問題である。本命の回旋塔を先にするか後にするかが悩ましい。本来複数人で遊ぶものなので、一人で使ったら物足りなくてがっかりするかもしれない。

 ひとまずはとピラミッド型ジャングルジムに飛び乗った。手でよじ登るのではなく足だけで駆け上り、中心にあるポールの天辺に直立して、腕組みなんかをやってみる。前世の漫画で一番好きなキャラクターの真似である。肌を緑色に塗り、白いマントとターバンをつけたくなってくる。

 歓声が聞こえた。咄嗟に危険行為と咎められぬよう飛び降りて登り直す。しがみついた格好で振り向くと、大勢の子供たちがはしゃぎ声を上げながら公園に入ってきた。年齢は五歳くらいから十二歳くらいまでで、三十人以上いる全員が名札付きのおそろいの服を着ていた。引率らしきエプロン姿の大人も四人いる。いずれも腰にトンファーをぶら下げた筋骨隆々たる男性で、エプロンのアップリケはそれぞれネコさんにイヌさんにウサギさんにチュパカブラさんと、四人とも違っていてわかりやすい。

 先頭を駆ける子供と目が合った。

「だれだおめー? ここはうちの縄張りだぞ。ネコせんせー! よそ者がいまーす!」

 子供に呼ばれてネコさんアップリケの男性が近付いてくる。禿頭に入れた鷲の入れ墨が目立っていて、レベルの感じはリジンと同等くらいであった。衛兵のスキルから模倣したやり方で視線を動かさずに観察すると、四人ともリジン並みかそれ以上である。威圧的な気配と髪型を見るに、偏見ではあるが地方ギルドの冒険者と思われる。ケンは脱力の仕方をレベルアップ以前のものに変えた。

「おう坊ちゃん、この時間にここにいるってんだから、ここいらのガキンチョじゃねえな。今からうちが使うからよ、さっさと退去してくれや」

「まあまてやネコ先生よ。あんまり脅かしてやるな」

「だがなウサギ先生」

 禿頭のネコ先生をたしなめたウサギ先生は、リベット接合装甲のように顔中ピアスだらけであった。

「すまんな。ネコ先生はうちの子供たちがいじめられやしないかと心配してんだ」

「この町のガキンチョはクソ揃いだろうが。どいつこいつも親無しと馬鹿にしやがる」

「おうおうどうした? 学園生のカチコミか?」

 額から頬にかけて斜め傷のあるイヌ先生までやってきた。

「いいや。珍しくよその子供がいたんでネコ先生がな」

「んだよ。うちの子供らに先生をしてやれる、いい機会だと思ったんだが」

「おいイヌ先生、こっち流のやり方は娑婆じゃ先生的とはいえんぜ。学園のボンボンどもは官憲にチクるからな」

「ネコ先生の言う通りだ。どうせ向こうは何も出来んにしても、ヘロス様のお手を煩わせるわけにはいかんだろ?」

「あらあらあらあなた達、肝心のこの子をうっちゃっておしゃべりするのは関心しないわ。ほら、厳ついおじさんたちに囲まれて、途方にくれてるじゃない」

 雑談に入りかけた三人に口を挟んだのは、青薔薇の眼帯とチュパカブラのアップリケをつけた男性である。身長も肩幅もレベルも一番大きいその男性は、内股でしゃがんで目線の高さをケンに合わせた。

「ボク、お名前いえる?」

「ケン・シースレスです」

「この辺りの子じゃないみたいだけど、お引っ越しかしら? お家はどっちにあるの」

「あっち。越して来たのは昨日です」

 宿の方角を指さして言った。

「そう。素直ね。これからうちの子供たちがここで遊ぶのだけれど、ねえ、あなたも一緒に遊ばないかしら?」

「おいおいチュパ先生、よそのガキンチョと一緒なんて、そりゃまずいだろ」

「大丈夫よネコ先生。ヘロス様は寛大だし、うちの子供たちにとっても良い機会よ。この子と遊ばせてよその子供との接し方を学ばせましょう。こんな世の中だもの、仲間を増やす経験は貴重だわ。ねえボク」

 と、ケンの手を取って目を合わせた。

「うちの子供たちにはパパとママがいないの。そのあたりの配慮はできるかしら?」

「配慮だとかんなこと、こんなガキンチョに言ってもわからんだろ」

「いいえ、この子の目には理性があるわ。こういう子は年の割に賢いものよ。おっとごめんなさい、話が逸れちゃったわ。それで、どうかしら?」

「僕も父を亡くしているので、そういった気持ちはわかるかもしれません」

「辛いことを言わせてしまったわね。ごめんなさい。でも、やっぱりあなたは賢いのね。ちゃんと言葉に気を付けてるみたいだから、ママがいるのを自慢するなんてこともないでしょう。それじゃあ、遊びましょうか。みんなに紹介してあげるわ。先生たちもいいわね?」

「カチコミじゃないならどうだっていい」

「チュパ先生がそう判断したなら問題ないが、イヌ先生はともかくネコ先生はどうだ?」

「チュパ先生、あんたほどのおと……お姉さんがそういうなら、頷くしかねえじゃねえか」

「おい今なんて言いかけた」

 少し揉めた後、禿頭の入れ墨に手形を赤く上書きされたネコ先生が年長の子供を数人見繕ってくる。猫撫で声に戻ったチュパ先生に促され、ケンはぺこりと頭を下げて自己紹介した。

「ケン・シースレスです。みなさんとお友達になりにきました」

 いい年こいた転生者のとち狂った物言いであると思わなくもない。けれども地方ギルドの実力者で、おそらく大手クランの幹部級と思われるむくつけき男たちに囲まれている以上、ただの子供のふりをし続けるより他はない。ちょっとした散策のつもりが面倒事になりかねぬ局面に立ち至ってしまった。

 子供たちはケンを歓迎した。ウェーイという盛り上げ声は地球も異世界も同じらしい。村で聞くことのなかったのは、都会の子供が世慣れているからか、先生役の神父さんが静謐を好むからか、あるいはケンが仲間はずれであっただけかもわからない。

「あれもそれも、みーんなヘロス様がきぞーしたんだぜ。だからここの公園はずっと友愛党の縄張りなんだぜ。新入りのオマエに使い方を教えてやんよ。どれがいい?」

「僕、あれやってみたい」

 一個上くらいの少年に手を引かれ、ケンは回旋塔を指さした。

 



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友愛党

作者も忘れがちな人物メモその1
ネコ先生 鷲タトゥーのハゲ。仕切り屋。
ウサギ先生 顔面ピアスだらけ。一応頭脳派。
イヌ先生 傷づらのおっさん。かませ犬系。
チュパ先生 マッチョのオカマで青薔薇の眼帯つき。ママ。



 遊んでいる最中に何度か泣き声を聞いた。喧嘩なんかは傷跡顔のイヌ先生が「オラッ、ごめんなさいしろ!」と喧嘩両成敗の拳骨で丸く収めるが、遊具や危険行為で怪我をする子供もいる。その際はチュパ先生の出番となる。魔法で傷を洗い、薬剤を沁み込ませたガーゼを当て、回復魔法を唱える。てきぱきとした手際で、擦り傷打撲や捻挫などは数分もすればすっかり治り、子供は遊びに復帰する。腕を骨折した子供には固定具を取り付け、大事を取って激しい動きをしない砂場などへ送り出す。子供たちも慣れた様子で、誰かが血をだらだらと流しても大騒ぎしない。どうせ回復魔法ですぐ治るのだからと、負傷を小休止のきっかけくらいにしか思っていない。

 異様な光景であった。日本では保護者の金切り声が飛び交うであろうし、この異世界の基準でも回復魔法のこのような濫用は普通ない。アナーケなんかはごく自然に使っていたが彼は二級冒険者である。またその効果もチュパ先生ほどではなく気休め程度にとどまっている。一般的には回復魔法の使い手は希少であり、日本でいうところの医師と同じような扱いをされている。加えて高度な回復魔法は脳内麻薬の操作や肉体改造、花嫁の初夜支度などに応用できるので、その能力の行使は国の法律や教会の規則などで制限されてもいる。

 例えば神父さんなどは回復魔法を惜しんで使う。ちょっとした怪我はごく普通の手当てで済ませ、大怪我して教会に運び込まれた村人を回復すると「なにもなかった。いいですね」と融通を利かせる。なんとなれば高度な魔法治療は高額な治療費を請求せざるを得ないのである。

 身内向けの脱法治療であるにしても、チュパ先生ほどの回復魔法の使い手なら表社会でも裏社会でも引く手数多であろうに、エプロンをかけて孤児の向こう見ずの尻ぬぐいをする。実力にも外見にも違和感がぬぐえない。性差を超越するほどにあからさまな母性はともかくとしてである。どうでも良いことであるがチュパ先生には地方冒険者や恋愛経験豊富そうな趣味の持ち主にしては珍しく、先生四人の中で唯一加護持ちの気配があった。すなわち、彼がネコ先生を折檻しながら繰り返した乙女心という決まり文句は正当であったということになる。

 

 遊び始めて二時間ほど経った。「冒険する人この指とーまれ」にとまったケンは、冒険者ごっこの配役ではチュパ先生役になった。お客様扱いによるそこそこの当たり役である。一番良いヘロス様役は今月が誕生月の年少の男の子に割り当てられた。

 冒険者ごっこは何人でも参加可能であるが、正義の味方側の役者は六人だけである。

 本当はSSSランクより強いけれどあえてSSランクでいるヘロス様役は、いわゆる絶対に強い主役であり、味方のピンチを助けたり最後の最後で敵のボスに止めを刺したりする。

 本当はSSランクであるけれど力を隠してSランクでいるインスエスお嬢さま役は女子が演じる紅一点で、ヘロス様ほどではないが見せ場も頻繁にある。

 本当はSランクでもAランクの肩書きのままでいるチュパ先生は、敵に負けて帰った先生たちを癒やしたり、胸がもがれて力が出ないインスエスお嬢さまを直したりする回復役である。

 本当はAであるがBであるネコ先生は味方の盾になって戦闘不能になる場面が多く、演技力が試されるので年長向けである。

 本当はAでBのウサギ先生は常識人であると同時に頭脳派でもあるので、敵の策略を前に、とりあえずヘロス様に指示を仰ぐという最適解をとることができる。

 本当はBランクで実際にBランクのイヌ先生は喧嘩っ早い噛ませ犬であり、味方側のやられ役である。

 以上の六役以外の参加者はみな悪役を演じることになる。邪悪な魔物に敵対クランの地方冒険者、城狐社鼠の国軍将校に中央冒険者と、実在の人物も実名そのままで演じられていたが、ケンは世事に疎いので一人くらいしかわからなかった。子供を攫おうと企む言葉巧みな中冒変質者、アナーケ・カンナムである。

 ヘロス様がジャングルジムでの激戦の末、伝説のアイロニスト、ロウェンタ・ブリトンとのアイロニング勝負に勝利した。ヘロス様の神業的なアイロンさばきで奇跡が起きたことにより、これまでの戦いで敗れて死亡した悪役たちとイヌ先生は全員生き返った。彼らはヘロス様の慈悲深さに感激し、恩を返すためにヘロス様のクランである友愛党の仲間にして欲しいと申し出た。新たな仲間とともに手と手を繋いで輪となって、円陣の中心に立つヘロス様役の年少の子を褒め称えての大団円である。

 ケンはチュパ先生役をどうにか無事にこなすことができた。男らしさを秘めた母性という難しいテーマであったが子供たちの評判は上々で、女の子とは気安くなり、一部の男の子にはオカマ野郎とからかわれた。

 

 冒険者ごっこが終わり、さあ次は何しようと肩を組まれたそのときである。ケンの身体がこわばった。少し遅れて、ピアス面のウサギ先生が懐中時計を片手にホイッスルを鳴らした。子供たちは遊びを中断して、石畳の広場へと駆けて行く。年長の子を捕まえていったい何が始まるんですと聞けば、

「ヘロス様だよ。来られるんだから行儀良くだぜ。ケンは後ろで俺らの真似をすりゃあいい」

 と、ヘロス様の本物がお出ましであるという。ネコ先生の号令で子供たちが整列する。

「並べ! 前へならえ! いややっぱちょっと小さく前ならえ!」

 最後尾のケンが石畳からはみ出したので言い直した。

「服に着いた土をはたいて落とせ。後ろや隣のやつは背中に汚れがあったら教えて手伝ってやるんだ。お互いにな。見苦しくないよう、ヘロス様に会うんだぞ」

「身体から力を抜いて、身を任せなさい。さ、きれいにするわよ」

 ネコ先生の言う通りに子供たちがある程度汚れを落とすと、チュパ先生が武器を構えて詠唱した。魔力光を纏ったトンファーが高速回転して光の円盤のようになる。

「清浄魔法――ユーリン」

 魔法名を叫びながら光円の縁でもって、手近な子供の顔面を殴りつけた。特殊環境の福祉施設にありそうな虐待まがいの躾ではない。殴られた子供の後ろ姿はわずかによろめくばかりで、痛みを堪えたような気配も感じない。

「ふっユーリン! はっユーリン! せいっユーリン!」

 子供たちはユーリンという言葉とともに、順々に殴られて行き、ケンの番が来た。

「洗うだけの魔法よ。怖くないわヌンッ」

 棒で叩かれるというよりも、粘性のある空気の塊が通り過ぎたというような殴られ心地であった。顔や髪の汚れが皮脂ごと光に持って行かれたから、清浄魔法の分類としては魔力光を水代わりにした界面活性系というやつで、石鹸魔法と俗に呼ばれる。美容に良いとは言いがたいが魔力効率が良く、安全性にも優れている。頭だけを狙うのは服の生地を傷めるのを避けるためであろう。

「次は手よ。出しなさい」

 首から上と同様に光で手を打たれて行った。 顔の皮膚が突っ張り、手のひらも乾燥している。いざというときの感覚がずれるのでケンは手の皮脂の分泌速度を速めた。

 魔法洗浄の後、先生方が見て回り、男子の襟や女子の髪型を整えるなどして身支度が完了する。

「身綺麗になったな、ヨシ! 気をつけーェッ、笑え!」

 ネコ先生が号令すると、子供たちが一斉ににっこりした。

「笑顔が一番大事なの。心の底から笑いなさい」

「そうだ笑え! 口角を、唇の端っこをしっかり釣り上げるんだ!」

「えくぼを恥ずかしがっちゃ駄目よ」

 まるで接客業のようなことを言う。

「ケン君は照れがあるのね」

 顔面を指で押されて、笑顔に矯正してもらう。

「離すわね。いいわ、そのまま、その感じよ。ちゃんとニコちゃんしているわ」

 公園に近付く気配で表情が硬くなってしまっていたが、どうにかごまかせそうである。

「お嬢さまのおかげで時間どおりかどうか。よーしそのまま、公園の入り口、ヘロス様のお姿にタイミングを合わせるんだ」

 ネコ先生が入り口側を向いて気を付けをすると三人の先生も同じようにした。

「合唱! ヘーロス様っ、こーんにーちはー!」

「ヘーロスさまっ、こーんにーちはー」

 子供が合わせて言いやすいようゆっくりとリズムをとっているものの、都市生活者と田舎者とでは言葉のなまりが少し違う。あやうく調子外れになりかけたケンは途中から発声を止めて口を動かすだけにした。

 

 そして来た。友愛党首領ヘロス・トラートが歩いて来た。

「本日も幸せを見せてくれてありがとう。俺様は子供たちの笑顔が好きだ。たとえそれが無理矢理であろうともな」

 それは小男であった。顎はたるみ、大玉の宝石や太めの金鎖などの装飾品をいくつも身につけ、十本の指には十本とも指輪がはまっていた。やや長めの髪はやや広めの額の上できれいに撫で付けられている。髭はなく、色白の肌には染み一つなかった。肌つやと装飾品だけを見るなら、成金商人の坊ちゃんが中年に成長して親の格好を踏襲したというような感じであろう。しかしそこに動物柄のオーバーオールという幼児的な服装と俺様という一人称が加われば、名状しがたい人物像となる。

 ヘロス・トラートは先頭の子供をぐりぐりとなで回して笑みの形に口を歪める。目つきはまったく変わらなかった。

「可愛いねぇ、いい笑顔である。しかしこれは奴隷の、奴隷の躾ではあるが、なあに、感情は肉体に隷属し、笑ってさえいれば現世は幸福であるともいえる。俺様が奴隷の暮らしで学んだことだ。先生たちの格好つけは許してやろう」

「あ、ありがとうございます、ヘロス様」

 他の三人の先生がありがとうございますを続けて言い終えると、ネコ先生は子供たちに号令する。

「よーしお前ら、甘えてヨシ!」

 歓声が上がった。子供たちは我先にとヘロスに群がった。俺俺僕僕私私と己の話を聞かせたがり、腰に抱き付く、おんぶしてもらおうと背中にしがみつく、手のひらに頭を押し付け撫でられようと背伸びする子供もいる。

「ええい、これでは甘えられるばかりではないか。インスエス!」

「はい。お父様」

 そう答えて出てきたのは、一見して十四歳くらいの少女であった。冒険者ごっこにも登場したお嬢さまのインスエス・トラートである。レースやフリルやリボンに彩られたドレス姿はいかにも目立つが、ケンにとってはともに現れたヘロスの気配が衝撃的に過ぎて印象が薄れていた。

 インスエスが一抱えもあるがま口鞄を、子供を押し退けてヘロスに渡す。

「お菓子だ。お菓子を持ってきてやった。しかもおまけ付きである。だったな? ウサギ」

「来月うちが友愛せんべいを設立する、その試作品です。お煎餅を三角形に畳んだ中に鉛製の人形やベーゴマを入れてあって、それと黒糖味です」

「チョコは? チョコはないのか?」

「チョコ味はコストがかかるので断念しました。無難な黒糖味でない水飴味というのも一応ありますが、味がちょっと冒険的というか、どうも歯茎に貼り付くような甘じょっぱさなのでおまけ目当てで遺棄されかねません。そのおまけにつきましてもプレイバリューとコレクション性のどちらを優先するか未だに」

「わかった、かまわん、一任するからいちいち言わんでよろしい。しかし鉛製というからには子供たちよ、おまけを食べたり口に入れるんじゃないぞ。俺様との約束だ。チュパも良いな?」

「鉛毒は古来よりお酒やお化粧とともにありましたので、その治療法は古い術式ですが心得ておりますわ」

「お菓子をとるのは年長から先で年少は後だ。日ごろは兄さん姉さんをしているのだろう? ずるくはあるが先に選ばせてねぎらってやれ」

「お前たちはさっさとお父様を離して並びなよ。お父様はボクのお父様なんだぞ」

「やきもちはめーよ、お嬢さま。今はこの子たちに譲ってあげなさい」

「ボクは道理を説いているだけさ」

 ヘロスが子供に語りかけ、インスエスが口を挟み、チュパ先生がたしなめる。そんな彼らを笑顔の子供たちが囲んでいる。部外者はぽつねんとするしかない内輪の団欒である。しかしケンが動けないのは気恥ずかしさによるコミュニケーション不全ではない。彼は彼の肉体が恐怖して震えるのを、ひたすら堪えていたのである。

 

 なんだあれはとケンは思った。あんなものが存在するのがこの世界なのかと、あんなものが存在して、なぜこの世界は世界としての形を保っていられるのかとケンは思った。ヘロス・トラートにはその体付きとは裏腹な、万象を圧し潰しかねぬ存在質量とでもいうようなそれがある。何レベルであるとかアナーケ何人分であるとか、そういった次元ではない。アナーケの秘めた気配を高層ビルに例えるなら、ヘロスは大地震といった自然災害そのものを人間の形状に押し固めたような存在であった。冒険者ごっこにおけるヘロス様の設定どおり、絶対に強いのである。

 こうも感じ取れてしまうのは、先だって武器屋で呪物の気配の感じ方を覚えたせいでもある。武具がレベルアップするという例えのように、人の身が呪詛を帯びるということもできる。いうなればヘロス・トラートの肉体は、万人の流血によって研ぎ澄まされた刃金であった。成金趣味に見える無数の装飾品は、死者の怨嗟を打ち消すための魔道具であるかもしれない。当人の強大さゆえに自家中毒にはなるまいが、垂れ流しにすれば周囲の者が衰弱しかねぬ呪詛であった。

 

 チュパ先生がこちらを見た。ケンが心細そうにしているのに気付いたのか、ちょいちょいと手招きした。実際ケンは心細かったが、どうせなら放っておいて欲しいというそれである。

「ヘロス様ヘロス様、今日はゲストが来ていますよ。サプライズですわ」

 サプライズではあるけれども、心停止しかけるのはゲスト側である。

「お引っ越しして来たよその子ではありますが、気後れしなくて、かしこいよい子なんです。ケン・シースレスくーん! こっちにいらっしゃい。ヘロス様がお菓子をわけてくれるわよ」

「なるほどケン・シースレスか。先生たちや俺様に気後れせんとは珍しい」

 覚えられてしまった名前を呼ばれ、返事も接近もできないくらいには気後れしている。蛇に見込まれた蛙とは身体反応によるものであるとケンは知った。思考は働いても身体は言うことを聞かない。脱兎の如く駆け出したいという肉体の衝動と動きを見せればその瞬間に丸呑みされるという肉体の反応がせめぎ合い、身動ぎひとつできなくなる。

「お父様に呼ばれていながら来ないじゃん。いい子だなんてチュパの見込み違いじゃないか」

「恥ずかしがってるのよ」

「なら気後れだよ。やっぱりチュパ流のお世辞で、相変わらず嘘つきだ」

「誓ったでしょう? お嬢さまに嘘はつかないわ。ほんと、どうしたのかしら」

「そう決まり悪がらせてやるな。チュパには好ましい子供なのだろう? 照れ屋さんならば俺様から歩み寄ってやろう」

 ヘロスはしがみついた子供たちを引きはがして身軽になると、ケンの方へと一歩一歩近付いて来て、数歩ほどの間合いで立ち止まった。

「ふむ」

 じっと見つめられる。なんとなしの視線ですら質量を伴って感じられた。ケンは意を決して自分から声をかけた。

「あの」

 間合いを詰められたのはケンの発声とほぼ同時である。一瞬のことであった。予備動作も見えなかった。気付けば眼前に色白の鎖骨があり、口元だけを笑みの形に歪めた男に見下ろされていた。

「撫でてやろう」

 吐息がかかる。脳が活性化して目の前の光景が遅くなる。指輪だらけの手がゆっくりと持ち上がり、ケンの頭上にかざされた。ケンに触れようとするそれは、ヘロス・トラートの肉体のうち、最も呪詛の濃密な部位であった。漏れ出る気配は指輪で辛うじて抑え込まれているものの、何千か何万か、並みの呪物とは比較にならぬようなおびただしい数の苦痛と怨嗟が押し固められていた。

 そんなもので撫でられてはたまらない。赤面するどころか頭がどうにかなりそうに思われた。こんな思いは無論、当人の日常生活が出来ている以上取り越し苦労に過ぎない。しかしこのときのケンは愚かであった。不意を打たれた狼狽もあったろう。本能的な警鐘に身を任せてしまった。ケンは咄嗟の反応で小手を取って崩しをかけた。

「ぬっ!」

 ヘロスの足下の石畳が音を立ててひび割れる。ケンは体を沈ませながら、引っかけるように相手の手に触れていた。石畳とヘロスにかかった衝撃は、崩されまいと強引に踏ん張ったヘロス自身の力によるものである。反動が膂力に比例する。受け手がヘロスであるからこそ、石畳を割るほどとなった。

「力の流れを操作したか、俺様の」

 まずい、と跳び退いたときにはもう遅い。ネコ、ウサギ、イヌ、チュパの四人の先生は据わった目で身構えていて、インスエスなどは既に両手にトンファーを装備して、今にも飛びかからんとしている。子供達は突然臨戦態勢となった大人たちにおろおろとするしかない。ケンの攻撃を受けたヘロス本人はというと、そんな中でただ一人、平静なままであった。手首を回して調子を確かめながら、世間話のように切り出した。

「俺様を崩しかけるとは子供らしからぬ技量である。しかし解せんな。中央の回し者にしては駆け出し程度のレベルと見た」

 ひどい誤解である。

「僕は田舎から出て来て中央受験をする、ただの冒険者志望です。そういった意味の後ろ暗いところなんて、ありません」

 人殺しではあるが、ギルド間の揉め事に首を突っ込むつもりなど全くない。

「あなた方とかかわることになったのも偶然です。おいたをしてしまったのは、その、あなたがただ恐ろしかった。それだけです。申し訳ありません」

「この俺様が恐いだと」

「あらためて謝罪します。技をかけてすみません」

 ぺこりと頭を下げる。今のケンは黒塗りの高級車に追突してしまったような状況にある。恐怖に駆られて先に手を出したのは失敗であったとつくづく思った。頭を下げたまま裁定を待つと、ヘロスの気配は読み切れないが、先生四人組の視線が困惑に変わったのが感じられた。ケンの思惑どおり、場の雰囲気がずれ始めた。

「……まあよい。子供というのはむずかるものだ。無理に撫でようとした俺様にも落ち度がある。頭を上げなさい」

 ヘロスの言葉に、どうにかこの場を切り抜けられそうだとケンは思った。しかし頭をあげかけた数瞬後にはそうではなくなった。ケンの脳天を狙ってトンファーの一撃が迫っていたのである。

「避けたのならァ、やはり密偵ということだ!」

 トンファーがケンの頭のあった位置を通り過ぎて地面を砕く。インスエス・トラートであった。

「お嬢さま!?」「おい!?」「お嬢!?」「ちょ!?」

 先生四人の反応からして独断であろう。怪しい気配を感じていたが、不意打ち気味の直接攻撃をしてくるとまでは思わなかった。

「そのレベルは! 偽装しているのだろう!」

 そんなはずはなく、身体能力の差は圧倒的である。両手のトンファーで繰り出される連続攻撃を、ケンは紙一重で躱し続けた。その一撃一撃には、かするだけで肉を抉りかねぬ威力がある。そんな攻撃をすれすれで掻い潜るのは、余裕があってのことではない。あまりの速度差に、最小限の動作でなくては回避行動が間に合わないのである。ケンが身じろぎする間に、インスエスは一撃放てるほどの差があった。その身体能力をレベル換算するならアナーケに匹敵する。

「ダメよお嬢さま! 子供の、一般人なのよ! 人殺しになるつもり!」

「ならなぜどうして当たらない! ふざけてェ!」

 相手の喋った隙を突き、こちらも声を出してみる。

「お嬢さまなら、大人の言うことを、聞いてくださいよ」

「オスガキがァ!」

 説得と挑発とで半々であったが、後者が当てはまったらしい。攻撃の威力が増したが粗くなる。以前に一度、アナーケに懇願して彼の本気の動きを見せてもらい、その攻撃速度に目を慣らしていたのは僥倖であった。おかげで今現在、ぎりぎりではあるが立ち回れている。インスエスはレベルだけでいうならアナーケと同等であっても彼ほどの技量はない。それに加えて若さからか、こちらを叩き潰さんとむきになっているので先読みもやりやすい。力まずにただ当てることだけに徹されれば、こうも躱し続けてはいられなかったろう。レベルを誤解されていることが有利に働いていた。とはいえそれも、インスエスが冷静になってしまえば無意味である。状況を動かす必要があった。

 相手の大振りに合わせて全力で踏み込んだ。攻撃ではない。前方への回避行動である。懐に這入り込むようにすれ違い、両腕は相手ではなく地面に向かい、獣のように四肢で加速すると、そのまま疾走した。

「逃げるか!」

 脚力差ゆえに徒競走をすれば即刻追い抜かれる。逃亡先は公園の出口ではなく、ジャングルジムであった。一足で追いつかれるが、意表をついたことと方向転換とで移動時間は稼げた。背骨をへし折ろうとトンファーを振りかぶったときにはジャングルジムの目の前である。ケンは減速せずに飛び込んで、向こう側に降り立った。

「魔力なしの透過能力? 権能(チート)持ちか!」

 すりぬけたように見えたろうが、鉄パイプの隙間を、勢いのまま身をひねりながら通り抜けただけである。身軽で小柄な子供の肉体であるからこそ可能な曲芸であった。

 

 呼吸を整えながら、ジャングルジムを盾にして向かい合う。見渡せば先生四人と子供たちはみな、呆気にとられた顔をしている。ヘロスはというとどうしてか、にやにや笑いを浮かべていた。この場の絶対者がそんな態度をとっているからには、窮地はまだまだ続きそうである。

「インスエス・トラートさん。先ほどからかったのは謝罪します。ですが、そろそろ冷静になってください」

 お互いに動きを止めた状態でジャングルジム越しに語りかけると、チュパ先生とウサギ先生が慌ててこちらへ駆けて来る。母親役と参謀役の二人が来たのは、加勢ではなく説得のためであろう。

「お嬢さま、もう止めて。相手はその、子供なのよ。暴力はいけないわ」

「ヘロス様が手打ちにすると仰ったんだぞ。お嬢といえど勝手は許さん」

「こいつはお父様に手を出して、ボクの攻撃を避けたんだぞ。明確な驚異ならば、排除しなきゃ駄目じゃないか」

「落ち着きなさい。ケンくんはあなたを傷付けようとしなかったわ」

「そうだ。このガキが何者であろうとはっきりと敵対したわけじゃない。気持ちはわからなくもないが、だがお嬢も友愛党の一員である以上、とにかく勝手な暴力行為は認めん。友愛せんべいのブランドにも傷が付くからな」

 しかし大人たちの言葉は逆効果であったらしい。

「うるさいなぁ……」とうつむいたと思えば、「こんなときだけ大人ぶって、良識面してさ。お父様に群がるウジ虫のくせに。うるさいよ、ほんと」と、小声で独り言を呟いた。難しい年頃でホルモンバランスが崩れてでもいるのであろうか、それは激昂の予兆であった。

「お父様に近付くこまっしゃくれたオスガキはァ、叩いて潰すべきだろォ!」

 インスエスがトンファーを握ったまま両腕のブレスレットを擦るように打ち合わせる。真紅の火花が散った。魔力光を帯びた血液である。

「魔装闘気――鉄血」

 魔法名とともに真紅の光のラインが入れ墨のように腕に走り、手にしたトンファーにも続いていく。気配からして強化魔法の類いであろう。

「やめ!」「よせ!」

「邪魔だァッ!」

 二人を遮るジャングルジムを、轟音とともに破壊した。

 凄まじい衝撃により鉄パイプは歪むか千切れ飛ぶかして、連結を保った大部分はまるごと地面から引っこ抜けて飛んでくる。しかしケンの姿はそこにない。ジャングルジムへの攻撃とほぼ同時に、通り抜ける隙間とインスエスの死角を兼ねた空間へと踏み込んでいたのである。いかに魔力強化された絶大な威力の一撃といえど、大振りは大振りである。反撃を試みる絶好の隙であるのに変わりなかった。

 インスエスが認識したときには胸の膨らみに掌底を押し当てられていて、次の瞬間、心臓の内部をかき回されるような強烈な不快感が走った。

 ケンの用いたのはとある流派で浸透勁と呼ばれている技である。話の種にとアナーケに教わったこれは、魔力放出を組み合わせた体術で、決まれば内臓を直接まさぐるような感覚とともに、相手をごく一時的に無力化できる。通常は身体能力に差がありすぎればいくら格闘で打撃を重ねても、それは撫でるのと変わりない。しかしこの技はレベルで格上の相手にも通用する数少ない体術の一つで、格上殺しとも呼ばれている。とはいえ知っていれば対処可能であるのに加え、相手が無防備に食らったとしても肉体に残るダメージはレベル相応に過ぎない。

 幸いにも技は成功した。成功したが、ケンは感触に違和感を覚えた。技をしかけるにあたって如何わしい気持ちは無論ない。ないのであるが、予期したとのは異なる弾力、いわば偽物のそれを手のひらに感じてしまったのである。

「おま、え……ボクの胸を……」

 全身の異物感を堪えながら声を振り絞るインスエスを、ケンは見た。骨格、重心、手に残る感触といった情報が統合される。ケンはうら若き乙女を相手に大立ち回りを演じているはずであった。しかしそうではなかった。

 ケンの気付きに彼も気付いた。インスエスの形相が凄まじいものとなる。

「犯したなァァァッ!」

 感情に応じて増大した真紅の魔力光を身に纏い、インスエスは憎悪のまま戒めを振り払うと、トンファーで突きかかった。ケンは衝撃的な事実に戸惑いつつも、鉄パイプの切れっ端を蹴り上げて引っつかみ、武器として確保していた。




人物メモその2
ヘロス・トラート 野生のラスボス(小太り)
インスエス・トラート Sランク冒険者(地方基準)のゴスロリ美少女。ヘロスの息子。


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アウトレットガールズメイカー

タイトルは英語がわからないので適当。


 二人の影が交差しようという寸前である。

「そこまでだ」

 と、ヘロス・トラートが割り入っていた。武器を持つ二人の腕をそれぞれ押さえ、お互いがお互いを傷付けられぬよう制止していた。いつか止めに入るだろうとは思っていたが、瞬間移動したかのごとく、ほとんど察知できなかった。つかまれた腕もびくともしない。ヘロスほどの存在にしてみれば、自分とインスエスの戦いなど虫けら同士のじゃれ合いに過ぎないのであろう。

 にやにや笑いでヘロスが告げた。

「お前の負けだ。インスエス」

 トンファーの尖端は虚空を貫き、鉄パイプの断面は目玉の前に位置していた。

「……ボクはまだ本気じゃありません」

「丸腰の少年を相手にか? さすがは淫売の息子だな」

 インスエスは押し黙り、ヘロスが手を離してもケンを睨むばかりでもはや暴れだそうとはしなかった。

「さて少年」

 ヘロスが向き直り、ケンは身構えようとするのを我慢した。

「良いものを見せてもらったがインスエスが失礼をした。そのレベルではさぞ肝が冷えたろう。詫びさせてもらう」

 ヘロスに頭を下げられた。インスエスに命を狙われる以上にひやりとする光景である。

「いえ、あなたがいる以上、命のやり取りにならないのはわかっていました。良い訓練になったと、そう思うことにします」

 焦りからか少し言い過ぎたと言ってから気が付いたが、顔を上げたヘロスの機嫌は良さげであった。

「たしかケン・シースレスといったか。ケン少年、いや、ケン君。俺様は君が気に入ったぞ。我が友愛党に入って俺様の後継者にならんか?」

「いったい何を」

「子供たちとは違う、俺様と真の親子にならんかと問うている」

「ヘロス様?」「お父様……!」

 出し抜けの提案にチュパ先生らが呆然とし、インスエスから歯ぎしりが聞こえた。

「僕とあなたとは初対面ですよ」

「久しく胸がときめいたのだよ。これからお互いを知り合えばいい」

 ちらと見渡す。

「何もかも君の自由にやらせてやろう。俺様の後継者とはそういうことである。どうせこちらの人材は君の才能の足しにはなれん。しかし金と立場だけはある。加護が要るから女はやれんが、それ以外は思いのまま、ケン・トラートとしてクルエル市の王様にしてやろう。俺様の本当の息子になるのだから誰にも口出しはさせん。で、どうだ?」

 いかにもな大言壮語であるが、町の王というのもまるきり出任せとは思われない。例えるなら彼は核爆弾入りの黒鞄を持ち歩いていて、しかも当人は爆心地でもけろりとしていられる人間である。大きいことを言える大きい人間の勧誘を躱すには、小さいことを引き合いに出すより他はない。ケンはインスエスを出しにした。わざとらしく彼に向けた視線を上下させてから言った。

「せっかくの提案ですがお断りさせてもらいます」

「誤解である。俺様の趣味ではない。嗜みはあるが君との関係にそれを持ち込むつもりはない。不純であるからな。どうか信じてくれないか、いや、口実であるか。まあ良い」

 見抜かれたが気勢をそぐのは成功した。

「富も権力にも興味がないと、そういう気質であるのだな。ますます好きになったぞ」

 買いかぶりであった。通行人に札束を渡されて突き返すのと似た心境に過ぎない。子供らしく知らないおじさんからものをもらってはいけないと考えているだけである。

「だが身内の不始末の詫びはせねばならん。さて……」

 ヘロスは少し考えて、指輪を二つ取り外した。気配が一瞬開放されて元に戻り、ケンの身体がびくりとした。ヘロスが微笑む。

「その敏感さは、なるほど、俺様が恐ろしいというのも納得である。受け取れ。賠償と褒美である。換金するなり好きにするといい」

 勧誘を辞退した手前、受け取り拒否は難しい。ケンは手を差し出した。

「また技をかけてくれるなよ」

 ヘロスからしてみれば茶目っ気であったろうが、周囲の者らは鋭い目つきで反応した。

 ケンが指輪を受け取ると、

「気が変わったら友愛党のギルドへな、俺様の真の息子へなりに来い。いつだって歓迎するとも。俺様はな」

 と、他の党員に釘を刺した。注意がわずかに逸れたのに乗じて、ケンは公園を後にした。

 

 追っ手を警戒して町を歩きながら、都会は恐ろしいところだとケンは思った。地方ギルドの厳つい冒険者たちに囲まれる。キレる若者に襲われる。恐ろしく強いおじさんに目をつけられる。公園の遊具を見て、少しばかり童心にかえっただけでこれである。

 先に手を出したことや公園設備の破損といったこちら側の過失は有耶無耶になった。それどころか高価な魔道具と思われる指輪を手に入れたのは、結果的に運が良かったといえるかもわからない。ヘロスから発せられた呪詛をため込んだそれは見るからに禍々しく、贈り主の心証を考慮すればすぐさま売り払うというわけにもいかないから持て余すことになる。お守り入れに入れなければ元の持ち主の強烈な気配を、染みついた体臭のように垂れ流すかもしれなかった。

 

 ケン少年の去った後のことである。公園の後始末はウサギ先生とイヌ先生に任せて、子供たちを孤児院に送り届けた。インスエスは不貞腐れて直帰してしまい、ネコ先生はそのまま孤児院の宿直である。暮れなずむ街の魔石灯がぽつぽつとともり出す。チュパ先生は鼻歌交じりのヘロスに三歩下がってついていく。馬車や人力車を使わず、取り巻きも連れていない。成功者らしからぬ二人きりでの徒歩移動はヘロスによくある気紛れである。一般人は普通にすれ違うが、冒険者なんかはぎょっとして道を譲る。いきなり「ご苦労さまです!」と叫びながら地べたに頭突きせんばかりの勢いで頭を下げる若者にも遭遇した。友愛党傘下クランの新人であろう。真面目な気質に挨拶教育が行き届きすぎて、お忍びの機微というものがわかっていない。チュパ先生が「お黙り」と低い声で叱りつけると消え入りそうになっている。

「今日の俺様は機嫌が良い。一発で許してやれ」

 白けさせた代償は平手打ちで済ませてやった。この場での暴力は、後日上役連れで菓子折を持ってくるなどされるより面倒がない。だいぶ手加減したので脳震盪にはならないであろう。この期に及んで「修正ありがとうございます!」と直立不動の姿勢をするのは調子外れであったが、意気込んだ新人にはよくあることでもある。

 このやりとりをきっかけにチュパ先生が切り出した。

「公園でのことですが、よろしかったのでしょうか」

 ケン少年の処遇についてではない。手出し無用と命じられた以上、肉体的な制裁も強引な勧誘も厳禁である。ヘロス様の命令は絶対である。蒸し返そうとは考えない。チュパ先生が問題にしたのは、インスエスの暴走についてである。あんなふうにいきなり暴れ出して止まらないのはどうも不可解に思われた。

 彼の気性はたしかに激しい。激しいけれども、それをあからさまにするのは身内の前くらいなもので、日頃は猫を被っている。強くて可憐な少女冒険者というのが彼の外面である。本当の性別はばれていない。戸籍には女性で登録されていて、それはチュパ先生も同じなので問題ではない。

 少年口調で少々気むずかしいのは天才にありがちな愛嬌と見られている。楚々とまではいかないがお嬢さまとしての品格も備えている。少女趣味にも少女趣味な格好とそれと釣り合う顔立ちから、男たちのあこがれの存在として扱われている。あのヘロス・トラートの娘であるから高嶺の花にせざるを得ず、年頃の少女にもかかわらず他の男のものに絶対ならないので偶像視するにも支障はない。見た目ばかりでなく実力も相当なもので、年下のお姉さまと慕う女性もいるくらいである。

 そうしたよそ行きの顔をかなぐり捨てて、インスエスはケン少年に襲い掛かったのである。

「捨て置け。十四にもなって俺様の足下へも寄り付けんのは、あれは俺様の血が薄いということだ。躾とは見込みがあるからやるのだろう」

 インスエスは戦闘能力だけならチュパ先生をも上回る。十四歳でSランク冒険者に至るのは天稟といって差し支えない。世間的にはそうでも、ヘロスにとっては違うらしい。

「とはいえ出来損ないには出来損ないなりの、半端な才はあったらしい。だから肌で感じた。ケン少年との差に。絶対に覆せぬ、どうしようもない才能差というやつである。凡才らしく鈍いから自覚があるかは知らんがな。嫉妬がヒステリーに発作したのは、お前の施術で精神もメス寄りだからなのだろう」

「ケン君。あの少年には、それほど才能が」

 どうも腑に落ちない。子供たちと遊んでいるときは少し賢いだけのただの少年にしか思われず、インスエスに襲われた後も気配が豹変したようには見えなかった。

「偽装が上手いし目も良いか。チュパよ、気付いていたか? 彼は見抜いていたぞ。お前たちと俺様のレベルを、正確にな」

「そんなばかな」

 人間のレベルというものは魔眼や権能(チート)といった特殊能力でもないかぎり、正確に見抜くのは難しい。普通はそれなりに経験を詰んだ冒険者が、相手の身体能力や魔力量、加護の有無などから逆算して、おおよその見当をつけるくらいである。

 チュパ先生を始めとする高レベル冒険者は日常生活では力を抑えて動いている。ヘロスにおいては言わずもがなで、更に魔力などの力の気配そのものを魔道具で何重にも封じてある。ただ見たり感じたりするだけで正確なレベルがわかるはずがない。

「それが才能というものだ」

 と、ヘロスはその疑念を才能のひと言で片付けた。

「なんとなくで相手の力量を見抜けてしまう。ガキの頃の俺様と一緒である。ああ、俺様にそっくりだ。ケン君の才は俺様並み――いや、俺様以上かもしれん」

 とんでもない冗談であった。チュパ先生は思わず否定の声を上げようとして、固まった。

「ヘロス様、笑っていらっしゃる?」

「何だ? 俺様はいつも笑顔でいるだろう」

「そう、ですわね」

 辻馬車が来たので二人して脇に退くと、御者が礼をして通り過ぎる。

「妄言は許す。今の俺様は気分が良い。たいへん良い。今日は子供たちの笑顔を見た。ケン君とも知り合えた。お夕飯にはカレーライスが待っている。しかもハンバーグ付きである。こんな俺様は幸福だ。幸福だから――」

 と、股間を押さえて整えた。

「こうもやる気になるのだろう。チュパよ。水揚げ間際は何人いる?」

「申し訳ありません。先月にチャリティーオークションパーティがあったばかりですので、二人しか」

「いやだ。五人は欲しい」

「しかしまだ教育が。粗相をさせるわけにも」

「いつものパジャマパーティは省略する。今晩は俺様だけが、気持ちよくなるだけである。ああそれから、ケン君は十歳くらいだったからな。彼とは純粋な気持ちで接したい。残り三人は一桁がいい。全員女の子でな」

「了解しました。選定しておきます」

 下半身の突っ張りでときおり窮屈そうにしながらも、ヘロスの足取りは軽かった。

「ああ、幸福だ。俺様はなんて幸福なんだ。お家に帰ればご飯にお風呂にお布団に、好きなものだけが待っている。俺様は子供が好きだ。子供とセックスするのも大好きだ。特別な俺様だから味わえる、特別な幸福だ」

 友愛党の経営する孤児院は二つある。ヘロスが父親としての幸福を満たすための孤児院と、ヘロスが男性としての幸福を味わうための孤児院である。後者には職場兼職業訓練所としての側面がある。

 

 女神の加護というものが実在する以上、純潔というものは様々な意味合いで尊重されている。商売としてみるならヘロスの行為は商品価値を損なうことに他ならないが、そもそも孤児院経営自体、ヘロスの楽しみのためのものなので、彼を優先するのは当然のことである。顧客に振る舞うのはおこぼれに過ぎない。とはいえもったいないのはもったいない。新品とそうでないのとで、殊に買い切りの売価ではかなりの差額が出る。そこでチュパ先生の回復魔法の出番となる。

 加護を失っても肉体は取り繕える。感じられる気配にしても、レベルの無いのが前提の無力な女子供なら、加護の有無による違いはない。

 チュパ先生の育ての親は、色町や青線地帯などで違法な医療行為を生業とし、魔女とも因業婆さんとも呼ばれる魔法使いの一人であった。花嫁が花婿に誠実を証明するために必要な美容外科の秘伝というものを、彼も受け継いでいた。

 寝室に少女たちを届けると、チュパ先生は自室に籠もってヘロスの行為の後始末の支度をした。今日の様子では少女たちは荒っぽく使われるであろう。できる限り手を尽くすつもりであるが、手足が修復不能なら改めて切除して、欠損趣味のお客様向けの商品作りをせねばならない。あえて健康な目玉をくり抜くなどの大手術である。それに肉体をどうにか整えても、精神に変調をきたす可能性もある。心の加工に必要な麻薬の在庫を確認する。インスエスの母親のときのように、ヘロスの気紛れで大量に消費するかもわからない。

「再生手術に使う浮き袋が心許ないわね」

 ひとしきり確認して呟いた。フィールド素材なので直接採取しに行かねばならない。チュパ先生はこの類いのことに仲間たちを巻き込むまいと決めていた。最も後ろ暗い行為に手を染めることで、最もヘロスに近い立場にいる。わざとらしい罪悪感に苛まれながらも、そういった想いがないともいいきれない。

「チュパ、居る? 居るなら入るよ」

 ノックの返事を待たずにインスエスが入って来た。ふて寝して夕食に出てこなかったが、微かに匂いがするので部屋の扉の前に置いたカレーはちゃんと食べてくれたのであろう。

「お嬢さま、寝る前に歯磨きはしなきゃダメよ」

「もちろんするさ。チュパが注射をしてくれたらね。忙しいなら薬だけ出して。自分で打つよ。たしかそこの棚にあったよね」

「待ちなさい。一昨日したばかりでしょう?」

「効き目が薄いんだよ。チュパが薄めたりなんかするからさ」

「薄めたりなんて、出来ないわ」

「ならなぜなんでこいつが言うことを聞かないのさ。こいつが、こいつが!」

 突如激昂して、儚げなネグリジェに不調和な突起を叩く。血液を媒介とした強化魔法でインスエスの血行が良くなったその夜に、何らかの拍子で昂ぶってしまったらしい。

「やめなさい! 潰れちゃうわ!」

 生理現象を力尽くでどうにかしようとする手を押さえるが、力負けして止められない。

 インスエスの情緒不安定ぶりは思春期というばかりでなく、女体化薬と呼ばれるホルモン注射の副作用である。ここ最近、彼は彼の男性自身を発作的に痛めつけようとしてはチュパ先生に制止されたり、回復魔法を使われたりしていた。

 そんなにも厭わしいなら取り去ってしまえばいいと簡単に言うが、彼にとっては到底承伏できるものではない。何となれば偉大な父の血を残す手段は、その父に見限られかけている今、最後の拠り所となり得るのである。

 

 なだめながらチュパ先生が忠告した。

「前にも言ったでしょう? レベルが上がればお薬の効き目も弱くなる。強くなればなるほど、身体を本来の状態に戻そうという再生力も高まるの。これについては投与量を増やしたってどうにもならないわ。むしろ反動が出て逆効果に、お髭が生えるかもしれないのよ」

「それはやだ。チュパみたいになりたくない」

 この偽娘張り倒してやろうかと、思うだけでとどまった。母親代わりの大人としての矜持である。いざ殴り合いになれば腕力負けするというのもある。

「ミルクを温めてあげるから、今日はもう休みなさい」

「睡眠薬が欲しい」

「お昼寝なんてしたからでしょう?」

「眠れないよ。だって今もお父様はよろしくやっているんだろう」

 息を飲む。インスエスは打って変わって平静な顔つきで、じっと見つめていた。

「ボクは、ボクだけはお父様の子供だからさ、わかっているんだ。お父様のことはね。するから御機嫌なんじゃあなく、御機嫌だからするんだよ」

 肉親の秘め事である。父親が我が子より、幼い子供に腰を振ることの決まり悪さもあって返答に窮してしまう。

「回復魔法とは便利だね。うちの商売のことはよく知らないけれど、チュパの技術というのはちょっとした財源なんだろう? 今夜およばれしたやつらの何人かはあの女みたいになるのかな。親無したちの母親気取りの誰かの手でさ」

 あの女とはインスエスの実の母親のことだろう。チュパ先生は思わず言い返した。

「そうやって私の良心を、ケン君に負けた腹癒せにつっつきに来たのかしら」

「あんな雑魚に負けてない! ボクは本気じゃなかった!」

「失言だったわごめんなさいね。けれどでもお嬢さま、ケン・シースレスにちょっかいをかけようったって、それは厳禁よ。お友達をけしかけるのもね」

「ボクは本物のSランクだぞ。ギルドの汚らしい下衆どものようなみみっちい真似をするとでも」

「信用はしたいけれど、そんな人たちだらけの環境で育ったのだから、警戒するのは一般論でしょう?」

「そうかい。一般論ね」

 もの言いたげに間を置いてから、鼻を鳴らした。

「わかってるよ。お父様の命令だ。クズどもは使わないし、真っ向からの闇討ちだってやりはしない。ボクのほうが強いんだ。見逃してやってもいい」

「頼むわよ」

 話が終わったので作業を再開しようと思ったが、インスエスはいつまで経っても退室せずに、足を組んで頬杖をついている。

「ミルクをさ、温めてくれるんだろう? 蜂蜜も入れてよね」

 チュパ先生は溜め息をついた。こういったふてぶてしさだけは、父親に似たのであろう。

 インスエスはミルク三杯分居座ってから「おやすみ」をして去って行った。チュパ先生は扉を見つめながら「哀れな子」と独り言して溜飲を下げた。

 後継者に相応しい強者になれば父親としてのヘロスに振り向いてもらえる。情欲をそそる美しい人形になれば男性としてのヘロスに振り向いてもらえる。親に愛されない子供というありがちな家庭事情が根底にあるにしては物々しく、倒錯している。どっちつかずでもある。レベルを上げるほど男性的な肉体に近づいて少女的な美しさが損なわれる。その身を捧げれば女神の加護を失ってレベルアップしても大して強くなれなくなる。一方が叶えばもう一方は叶わない。しかしどちらか一方に専念するほど思い切れてもいない。この所の伸び悩みもそれが一因であろう。現状維持の先にあるのは女にも男にもなりきれない半端者という結末である。

 妬ましい女顔で、才能で上回り、性格もよろしくない。そんなインスエスをチュパ先生が内心でも見捨てきれないのは親代わりの愛着というばかりでなく、同族意識も多分にあった。

 

 ヘロス・トラートについて夕食時、宿の食堂で同席したリジンにケンは尋ねてみた。

「地方ギルド最大手クラン友愛党の首領。地方冒険者のくくりで見るなら、いや、中央を含めても、最強と評される冒険者のうちの一人だね」

 リジンが長芋のとろろに口をつけてから麦飯をかっ込んだ。ご飯にかけないで食べる別々派らしい。ちなみにケンの父のジャンは口内調味の苦手な真・別々派で、おかずはおかずで食べきるのでご飯には母手製のふりかけが不可欠であった。リジンの咀嚼を待つ間、こちらも麦とろに手をつけた。思ったよりも出汁が薄い。醤油を回しかける。かけすぎた。しょっぱいので多めに飯を頬張った。

「いわゆる上位陣は化け物揃いで、雲の上のことだから正確な順位づけはわからないとはいえ、その強さは本物だ。けれどまあ、彼は厳密には冒険者とはいえないな」

「冒険者ではない?」

「ヘロス・トラートに冒険者としての功績はない。彼は純粋に力だけでこの町の頂点に君臨した。圧倒的な、彼個人の力でね。その力にしたって冒険者をして得たわけでもない。力ある人間が冒険者の肩書きを持っているだけなんだ」

 口中の塩辛さを番茶で和らげる。

「イザカヤンという国を知ってるかい? 禁術の奴隷紋の普及で国民皆奴隷を実現した国だ」

 神父さんの蔵書に、その国についての著作があったのを覚えている。五十年前に刊行された本では契約魔法による国民統制の合理性が説かれていて、二十年前刊行のものでは際限なく付け上がる階級固定社会の人間性が罵られていた。いずれも同一の著者である。

「奴隷国家イザカヤンでその支配権を持つ上級国民を鏖殺し、彼らに成り代わろうと企てた無数の革命家をも始末した。それがヘロス・トラート。単身で国家に戦いを挑んで勝利した、奴隷解放の英雄だ」

 ちなみにその後のその国は、無政府状態になったことで教会が介入したらしい。

「それほどの人物が、なぜ外国のこの町で地方冒険者を」

「さあ? 俗っぽく考えるなら、人心ごと荒廃した祖国に比べて住み良いからかね。地冒になるというのはまあ、在野の強者によくあることだ。玉座に都合の良い椅子が、地方ギルドだっただけだろう」

 友愛党というクランは他の地方によく見られる犯罪者紛いの大手クランに比べれば、多少は真っ当なクランといえるであろう。一般市民に手は出さず、慈善事業にも熱心である。けれども児童売春疑惑に彼の威を借る地方冒険者の増長もあって、中央冒険者からの評判は芳しくない。

 ヘロス・トラートはわざとらしい幼児性や御山の大将ぶりから、「堕ちた英雄」と、そう呼ばれている。非公式の二つ名ともいえる。

 




次話で今回の投稿は終了。
この主人公いつまでたってもレベル上げしねえな。


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中冒試験開始

 中央試験一次試験の筆記は、中央冒険者ギルドクルエル支部にある研修室や会議室で行なわれる。異世界らしからぬコンクリート建ての広大な施設の内部構造は、慣れぬ者にとっては殺風景に過ぎ、どこを歩いても似たような景色に見えて方向感覚も狂いやすい。かといって日本の公共施設のようにいちいち矢印付きの案内が廊下にあるわけでもない。受験者が筆記試験会場にたどり着くには、受付に掲示してある案内板の簡粗な平面図を読み取る必要がある。

 迷った受験者がギルド職員に道案内を頼んでも受付の案内板まで案内されるだけであり、試験会場はいくつかに別れているので他の受験者の後ろについていくというのも堅実ではない。田舎出身でこの類いの大型施設に馴染みがない受験者や、己一人では空間認知に自信が持てない受験者は、案内板と睨めっこすることになる。試験開始時刻が迫るなかまごついても、ギルド職員は何もしてくれない。しかしそんな彼らに助け船を出す奇特な受験者たちもいる。

「私は303研修室だけれど、あなたたちは?」

 先日ケンと会話した靴下少女であった。

「ちなみにこの子は第四会議室よ。他の場所の人もいるから、一緒だったら一緒にどう?」

 靴下少女たちはいくつかのグループを組んだ上で集団行動していた。グループはそれぞれ冒険者パーティ単位で、その全体を靴下少女が統率する。同宿の受験者の過半数はいずれかのグループに属している。昨日やっていた合同訓練の参加者のほぼ全員であろう。冒険者を志す若者という我の強い人種を相手に、凄まじい行動力と指導力である。

「あらあなた、今朝は姿がなかったけれど、体調不良じゃなさそうね。会場はどこかしら?」

 と、離れてやりとりを観察していたケンにわざわざ水を向けてきた。友愛党との因縁に巻き込まぬよう避けられていたのが却って気にかかったらしい。ケンの試験会場は第四会議室で、靴下少女がこの子と呼んだ目隠れ少女と一緒である。

「ちょうどよかったみたいね。そこはこの子だけだったから。ほら、この子はこんな感じじゃない? 一人じゃ危なっかしいもの」

 答えた途端、どうしてか目隠れ少女と同道することになってしまった。

「よ、よろしくおねがいしましゅ……ます」

 噛んで言い直しながら頭を下げるその瞬間、上半身の豊満な揺れに男子たちの視線が集中する。靴下少女の目に軽蔑の色が混じる間も、ケンの視線は健全な位置にあって動じなかった。国軍スキル、完全八方目のおかげである。

 

 リノリウムの廊下をしばらく進むと他のグループと別れて二人きりになり、間を持たせるためにこちらから話しかける。

「初めまして。ケン・シースレス、十歳です。お姉さんは?」

「トゥ、トゥアナ……トゥアナ・ハメラルです。じゅ、十四歳です」

 冗談交じりで自己紹介に、幼児がするように年齢を付け足してみると真っ正直に返ってきた。子供の自虐のケンとは違い、どうにも危うい反応である。ここから続けざまに出身地やら恋愛経験やらスリーサイズやらを聞き出せば、如何わしい映像作品のインタビューの如くとなる。異世界知識のちょっとした活用はさておいて、少し探りを入れてみることにした。彼女は現役冒険者のリジン・デバンナスから見ても、最も評価の高かった人物である。

「ハメラルさんは――」

「あ、アナでいいです。その、カズノちゃんもそう呼んでくれるから」

「あのお姉さんですか? 昨日もアナさんとご一緒されていましたが、仲が良いんですね」

「カズノ・コテンジオさんです。カズノちゃんはすごいんです。物知りで、経験豊富で努力家で、独り立ちした強い女性で、冒険者に相応しい人で……とにかく、すごいんです」

 靴下少女の姓名を思いがけなく知ることになった。出身も年齢もバラバラな受験者集団のリーダー格に上り詰めるのはたしかにすごいといえるであろう。ケンには不可能である。けれども、彼女と初めて会ったときの様子も思い出された。人前での明け透けな態度とは裏腹に、一人で素振りする彼女の剣筋は、怖々と遠慮したものであった。

「お二人は同郷で?」

「い、いえ。そういうわけじゃ……」

「こちらに来てから親しくなったと?」

「は、はい。カズノちゃんは独りぼっちだった私を、パーティに誘ってくれたんです」

 カズノ・コテンジオの世話焼きぶりはともあれ、目の前の少女の中央受験の動機は友達付き合いではなさそうであった。

 たった一人で離郷して冒険者を目指すというのは普通、ガキ大将や跳ねっ返り、武者修行といったいかにも腕に覚えのありげな人種のすることである。トゥアナのような引っ込み思案な少女が中央受験をし、しかも見るからに下積みなしの素人と変わらないというのは、どうも不自然に思われた。かといってこれ以上詮索するのはぶしつけであろう。ケン自身、人殺しをして村を出たという後ろ暗いことが冒険者志望のきっかけなのである。

 

 試験会場に着くまで、試験の内容や宿の食事といった当たり障りのない会話を続けた。トゥアナは宿で弁当に持たされた握り飯の梅干しが、ちょっと苦手であるそうだ。シャケが大好物とも言っていた。朝食のおかずは目刺しであった。

 

 第四会議室には黒板と教卓、三人がけの長机にパイプ椅子が並んでいる。前世を思い起こさせる設備であったが、そこに完全武装の冒険者の卵らが着席しているのは、違和感のぬぐえない光景といえた。いずれも冒険服やローブや全身甲冑といった格好で、剣や槍や長杖を席の脇に立てかけてある。もしここが地球であるなら彼らは物騒なコスプレ集団か、さもなくば役所で研修を受けるファンタジー世界の住人である。

 受付で渡された受験プレート番号334の席に向かい、剣は背もたれに当たるので剣帯ごと外して腰を下ろす。雑談をする者はいない。馴染みのない施設環境というのもあるが、教卓にいる試験官から発せられる威圧感が受験者たちの逸り気を押さえつけていた。腕組みで瞑目する筋肉モリモリマッチョマンである。禿頭かつ、上半身もむきだしで艶めいていた。

 

 柱時計が八回鳴った。他の部屋からも同じ音が聞こえてくるが、ゼンマイ式で誤差があるのか揃っていなくて落ち着かない。時報が鳴りきり静かになるまで、一分以上かかっている。

「時間だ。これより一次試験を開始する」

 試験官が立ち上がる。

「今回の試験を担当するトゥルマン・ガバケッツだ。覚える必要は無いし質問も受け付けん。本日行なわれる一次試験は一般常識と素質を確認するためのものであって、あくまで最低限の足切りだ。うだうだ質問するような理解力のないアホ、自分の名前すら書けんアホ、常識的な振る舞いのできんアホ、そういったアホどもを切り捨てるためのものだということだ。よって現在ただいまこの場で着席していない者は失格とする。指定した時間に指定した場所に座っている。そういった社会常識すら守れんなら、問答無用で失格ということだ」

 筋肉量に劣らずレベルも高い。三級冒険者のリジン以上で、この部屋にいる受験者の全員を上回っている。跳ねっ返りの未熟な受験者相手なら、取っ組み合いになっても容易に制圧できるであろう。

「ここ中央に、常識知らずのアホはいらん。たとえドラゴンを倒せる腕前があろうとな。これから始める筆記試験のボーダーはたったの六割だ。この程度の問題でこれ以下の点数しか取れんのなら、親切心として忠告するが、中央は諦めて地方へ行け。真っ当な社会生活すら困難な水準といえるからな……ではテスト用紙と筆記具を配布する。番号を呼ばれた者から取りに来い」

 一人一人、テスト用紙と鉛筆を受け取って席に戻る。ケンは受験番号と同じく最後であり、受け取り際にほのかにであるが、値踏みするような目を向けられた。

「全員受け取ったな。年に何人かは部屋を間違えて失格になるアホがいるものだが、ないならないでそれで結構。取り押さえる手間が省ける。さて、開始は俺の合図の後だが、念のため注意事項を言っておく。言うまでもないがカンニングは発覚次第失格だ。試験中の離席は認めん。催しても体調不良でもだ。漏らしても失格だから我慢しろ。オムツに出すのは事前準備のよろしさということで認めてやろう。それから鉛筆が折れたらだが、声を上げずに挙手をしろ。俺が削ってやる。一人二回まででそれ以上は失格だが、使い慣れん鉛筆でもその程度の力加減はしてみせろ。さて……こんなところか。では試験開始だ」

 トゥルマンは告げた後「やっぱさみぃな」と小声で呟いて上着を羽織った。寒いのかよという指摘は、私語とみなされて失格になりかねないので誰もしなかった。

 

 名前を書けというのが問1で、姓を書けが問2、問3には姓名を書けとある。全10問で、九九の二問にギルドの住所の穴埋め記入を足せば、六割正解の合格点となる。そういった試験であった。最後の問題だけややこしい魔法術式の問題であったが、一芸採用の見極めか何かであろうから正答できずとも問題ない。

 見直しに飽きて顔を上げれば、試験時間は半分以上残っている。他の受験者もケンと同じらしく、頬杖をついたり腕組みをしたりで筆記音はない。聞こえるのは受験者の息遣いと、トゥルマンが鉛筆を削る音くらいであった。

「お前は二回目だ。次に折れたら以降は空欄提出だ」

 しばらくして芯の折れる音が響いた。

 筆記具といえばつけペンが主流であるが、子供のケンにとって馴染み深いのは石盤と石筆である。村においては子供が教会の授業に通う年頃になると、祖父母が新品の石盤を買い与えるという慣習がある。いわば入学祝いのランドセルなのでしっかりした造りと値段の物となり、清貧な家の清貧な服装の子供が、木枠に豪奢な彫刻の入った石盤で書き取りするというのも珍しくない。落としたり喧嘩に使ったりで割れてしまい、泣き出したり親に折檻されたり、乱暴な子供なんかは破片に小さく書き込んでいたり、平べったい漬け物石で代用したりする光景もしばしばある。物持ちが良い姉のリンの石盤は勉強道具としての役目を無事に終え、メモ書き用に家の壁にかけられている。

 ケンの物は現役ではあったが旅立つ際に置いて来た。重くて割れやすい石盤は冒険には適さない。神父さんに貰って使い続けている立派なつけペンやらノートやらの筆記具は荷物にあるが、腰を据えて書くならともかく歩きながらでは使いにくい。よって冒険中に使う冒険手帳と鉛筆をアナーケに注文することになった。

 万年筆ほどの高級品ではないが、鉛筆は輸入品なのもあるのか中々に値が張った。仕事用ならともかくも、子供が書き取りや落書きで使い潰すには気が引ける額である。庶民がものを書くにはペンで事足りることもあって、それなりに裕福な家庭でなければ日常的に使うことはなさそうであった。

 試験用に貸し出された鉛筆は試験のたびに使い回しているのか長さは半分以下で、焦げ茶色の塗装が所々剥がれている。三つの菱形が刻印されたこれは、ケンの購入したのと同じメーカーの物であった。

 

 試験終了の時刻となった。鉛筆とテスト用紙がトゥルマンの手で回収される。

「次は実技試験だ。時間までに装備を調えてグラウンドに集合しろ。実技の班分けもそこで行う。休憩時間中に用足しと、それから行動食と水分は自前で用意すること。そのための休憩時間でもある。万一のためこちらが提供する用意はあるが、その場合は減点対象になるぞ。食料と水筒は売店に、水は無料の水道がある」

 トゥルマンが退室して受験者たちは行動を始める。試験の手応えについてお喋りに興じる者はあまりいない。準備不足で手洗いと売店と水飲み場に寄るとするなら、急いで開始時間ぎりぎりになるくらいの日程である。行列ができるのを考慮するなら、用足しだけでも時間を食う。

 念のため手洗いに行く道すがら、ほぼ同時に退室したトゥアナとなんとなく歩速を合わせることになった。顔見知りの気安さもあるが男女で連れ立つ気まずさもある。学友でもないのに筆記の簡単さを云々するのは無作法な気がするので、次の実技試験を話題にあげた。

「班分けと聞きましたが、実技はパーティを組んでの試験ですかね」

「カズノちゃんなら私をパーティの仲間になろうって、そう誘ってくれたんですけれど、あ、あの、ケンくんも良かったらですけれど、一緒しませんか。わ、私がカズノちゃんにお願いしてみますから」

「いや、それは」

 女所帯に挟まるのは気後れする。

「折角ですが遠慮します。僕は子供ですからね。足手まといになるかもしれません」

「ふぇ? で、でもケンくんは強いよね? 私たちのなかじゃ一番なくらい」

 出し抜けの問いでケンはトゥアナに振り向いた。目元は隠れてよく見えないが、小首をかしげ人差し指を立てている。

「カズノちゃんだって、だからケンくんとも仲良しなんですよね」

 彼女がケンに話しかけるのは、幼い少年への親切心からであろう。

「そんなわけありませんよ。レベルが低いし経験も薄いんですから。コテンジオさんは僕が子供だから心配なんですよ。強いだなんてのも気のせいです。アナさんは買いかぶってお世辞を言ってくれているんでしょう?」

「……そうなんですか。残念です。ケンくんなら、私なんかよりずっとカズノちゃんの助けになれるのに」

 己一人でも精いっぱいな身の上で、知り合ったばかりの他人の助けになるのは難しい。ケンは苦笑でごまかした。

 

 少し急いだつもりであるが、ケンがグラウンドに着いたときには既に、結構な人数の受験者が待機していた。学校で教練を受けた日本人と違い、この世界の住人に整列の習性はない。とはいえ広々としたグラウンドでめいめい散らばっているのは体裁が良くなさそうで、号令台を目印として、その周囲に受験者たちが集まるような形となった。

 空は青く、日差しも強くなりつつある。体力温存のため腰を下ろす者がいる。車座で談笑するグループもある。元気を持て余して柔軟体操を続ける者や、兜も脱がず直立不動の全身甲冑もいた。独りぼっちとそうでないのとで半々といったところであるから、「はい、二人組つくってー」の言葉で途方に暮れて戦慄する。そんな恐れはなさそうであった。

 屋外時計の示す集合時間が近づくにつれ受験者の人数も増えてゆき、駆け込みの受験者がたどり着いた頃には百人近く集まっていた。試験官らが現れたのは、それから五分あまり後である。試験官は二十人以上いた。いずれも現役の中央冒険者と思われる高レベル者であり、足切りに過ぎぬ一次試験とはいえ、片手間でないのがうかがわれた。

 拡声器らしき魔道具を手に号令台に上がるのはトゥルマンである。試験官の代表役はケンの筆記を担当した彼が務めるらしい。

「あー、テステス。ではこれより実技試験を開始する。試験内容は単純だ。ただ今ここから指定のフィールドへ移動し、そこで魔物を討伐し、それからここへと帰還する。つまりは最低難度の討伐依頼をやってもらい、実際にそれを果たせるのか試すだけだということだ。ただし試験中はこちらが指定したパーティを組んでもらう。受験者五人と試験官の六人パーティだ。メンバーの振り分けは公正となるようくじ引きで決めた。ついさっきな。言っておくが試験官は皆、現役の冒険者だ。たとえ途中で脱落者が出て、パーティ人数が減ったとしても不利にはならん。その分は試験官がフォローする。さてこれからパーティの班ごとに受験番号を呼ぶ。呼ばれて来なければ欠席とみなして失格だから注意しろ。第一班、受験番号――」

 間隔は割合短く、呼ばれた受験者たちが担当の試験官の下に集合するべく慌ただしく駆けて行く。

「第十三班、受験番号334、受験番号――」

 ケンの番号が呼ばれた。試験官は三角帽子の目立つ女性である。長杖の槍に似た先端を振って合図している。行くと、小走りで身体を揺らすトゥアナが来て目が合った。どうやら同じ班になったらしい。

「五人揃ったね。打ち合わせは日陰にでも行くとしようか。運動会の練習じゃないんだ。直射日光下でグラウンドの真ん中なんてのは間抜けだものね」

 試験官は返事を待たずに歩き出す。

 服装は短めのスカートにローブといういかにもファンタジー漫画風な魔女衣装であったが、露出はそう多くない。首から上を除くなら指抜きグローブの指先と、スカートとニーソックスの隙間くらいで、そこに肌の白さが覗いて見える。

 ローブ自体は身体の線を隠している。けれども上質な生地がどうにも滑らかすぎるせいか、微風など、何かの拍子に時折貼り付き、視線誘導してしまう。しなやかな所作からして当人にそんなつもりはないだろうが、それだけに後ろを歩くと垣間見える腰のラインに決まり悪さを覚えてしまう。一瞥すると鼻の下が二つ伸びていた。班の受験者のうち後二人は、女性のトゥアナと顔を隠した全身甲冑である。

 

 木陰に来たが地べたに落ちた毛虫を見て、腰を下ろさず切り出した。

「僕の名前はセヴァリア・マナイン。君ら十三班を担当するご覧の通り魔法使いさ。さて受験者諸君はまずそれぞれ自己紹介といこうか。大ざっぱでいいから戦い方の申告も忘れずにだ。仮とはいえパーティを組むのだからね。ではそこの君から」

 セヴァリアが杖で指したのは男子二人の片割れであった。担当が見目麗しい妙齢の女冒険者で顔が緩みかけていたところを立て板に水の勢いで促され、多少きまり悪そうに咳払いをした。

「あー、自分はオラッサ・イーミン、元地冒ってやつッス。だからまあ、経験はそれなりにあるんで、よろしくオナシャッス。得物はこいつッス」

 オラッサが腰のホルダーから武器を取り外した。環状の刃で、円弧の一部分が握り手になっている。

「珍しいね。チャクラムというやつかい」

 投擲よりも格闘寄りで、厳密には中国の風火輪のような武器であろう。

「一応、遠近両方イケるッス」

 オラッサがチャクラム(仮)をわざと手放し落として見せると、地面に触れる寸前でヨーヨーのように手元へと舞い戻った。手袋から魔力糸が繋がっているのを見るに、それ用の魔法が仕込まれているらしい。

「中々個性的じゃないか。じゃ、次は君ね」

 今度はもう一人の男子であった。オラッサのときとは違い心の用意が出来ていて、ポンチョをさっと翻して名乗りを上げる。

「オレの名はエヴィオ。エヴィオ・スジョーだ。こう見えて魔法使いさ。こう見えてな」

 エヴィオの手がぶれる。その一瞬後には、人差し指と中指で挟むようにして指揮棒形の魔法の杖を構えている。

「短杖早撃ち、無詠唱回路を使った決闘向けのやつだね。近頃流行りの」

 西部劇で拳銃の代わりに短杖を使うといえばわかりやすい。他にもホルスターに何本か短杖が差してあるのは使い分けのためであろう。

「フッ……さすがは中央。よくご存じだ」

 わざわざはっきり声でフッと笑うと、エヴィオはロッドスピンの披露で自己紹介を締めた。ロッドスピンといっても指揮棒形の杖であるから、ガンスピンの派生というよりペン回しの派生である。とはいうもののペン回しでいうところのAFI(アルティメットファイナルインパクト)を一発成功させた勢いのまま短杖をホルスターに収める一連の流れは中々に見応えがした。

「おー上手上手。はい次」

 雑に褒められて些かしょんぼりするエヴィオをよそにセヴァリアが次に指定したのは、全身甲冑の受験者である。

「……シガ・ケイン。武器はこれ」

 くぐもった声でハルバードを軽く上げて、それきりであった。

「へぇ、もしかしてケイン一族かい?」

 シガは無言であった。

「まあいい。詮索はしないさ。次、君ね」

 個性派三人の次である。狼狽えたトゥアナの声が上ずった。

「ひゃ、ひゃい! トゥアナ・ハメラルでしゅ……です。え、えっと、私の武器は、その……」

 飾り気のないクォータースタッフと、簡粗な駆け出し向けの防具である。個性的で整った三人の装備と比較して見窄らしく思ってしまうのも無理はない。

「あー君、魔法は?」

 ふるふると首を振る。

「それなら棒術使いで、前衛ということだね」

 こくこくと首を振った。

 顔の見えないシガはともかく、男子二人に悪印象はなさそうであった。オラッサはセヴァリアとトゥアナのやり取りに眼福そうな顔をして、エヴィオはトゥアナがあたふた身体を揺らすたび、ちらちら視線を揺らしている。

「では、最後は君だ」

 セヴァリアがこちらを向いた。ケンをそのタンザナイトを思わせる眼で見据えている。

「ケン・シースレス。剣士です。皆さんよろしくお願いします」

「剣士ね。ところで君、いくつだい?」

「十歳になります」

「随分若い。君くらいの年頃で冒険者なら、魔法が得意そうだけれど」

「いえ。魔法は覚えていません」

「そうかい。素質はあるのに珍しいね。ところで魔力を増やす鍛錬なんかはしていたかい?」

「していません」

「ならいいさ。幼いうちの魔力鍛錬は健康に良くないからね」

 ケンが子供なせいだろう。ひと言二言では終わらずにセヴァリアの側からあれこれと質問される。魔法使いとして話の内容に疑問点があったのかエヴィオが口を挟む。

「ちょっといいか。魔力鍛錬が健康にとはどういうことだ?」

「自分で調べたまえ。これで全員、自己紹介は済んだね。では次はパーティの役割分担となるわけだけれど――」

 セヴァリアはエヴィオの質問を流すと受験者五人を見渡しながら役割を振っていく。棒術使いのトゥアナと全身甲冑のシガが前衛で、飛び道具使いのオラッサと魔法使いのエヴィオが中衛、ケンは後方警戒を兼ねた後衛となった。前衛2、中衛2、後衛1という形である。

「まあこれは暫定だ。今回はあくまで試験だからね。場合によっては入れ替えもするし、実力を見るため実戦時にはソロで戦ってもらうこともある。警戒役も持ち回りにして、抽出した分は僕が穴埋めしよう」

 役割分担を済ませると折りたたんだ紙を配られる。藁半紙に印刷された地図で、目印に赤線が引いてあった。

「これから向かうフィールドは国道425号線。ベンセレム三大国道の一つだ」

 長大な路線が丸ごとフィールド化したベンセレムでも最大規模のフィールドの一つである。元の国道自体が秘境ともいえる山地の山越えをする酷い道であり、そこにフィールド化の影響で天候不順や時空の歪み、魔物の奇怪な生態系が重なることで、より過酷な環境を形作っている。三大国道として有名なこともあり、国道425号線全線踏破は一流の冒険者の証とされ、金にならないにもかかわらず毎年挑戦者が現れてはその大半が挫折している。とはいえ踏破を目指さずに冒険者の仕事場としてみるなら手頃である。

 フィールドの形状が国道に沿う形で細長く、難所続きの地形に加えて交差する道が少ないため、侵入するにしても脱出するにしてもアクセス面などでいえば良くはない。けれどもフィールド深度すなわち魔素濃度のむら(・・)や魔素溜まりが目立つことから、初級者が下位の魔物を相手するのと、上級者が上位の魔物を狙うのとで、目標深度への所要時間の差が少なくて済む。浅層から深層へ順々に向かう通常の大規模フィールドとは違い、上手く道を外れれば一足飛びに深層へと到達可能なので、日帰りでの大物狩りなんかも不可能ではない。

 国道425号線はその路面状態はともあれ三大国道の名にふさわしい主要フィールドであり、中央地方を問わずクルエル市の大半の冒険者の仕事場であった。浅層と深層とで所要時間がそう変わらないというのは、上位の冒険者になるほどありがたいものである。なんとなれば冒険者の仕事時間のうち、かなりの割合が移動時間なのである。

 

 端のあちこちが欠損した路面を水溜まりを避けながらジョギングほどの速度で走り続ける。苔むした法面は国道王の仕事ではなく、おそらく近代になってからの補修工事によるものであろう。おにぎりと呼ばれる国道標識は古代文明の魔道具の一種であり、万全ではないとはいえ、数千年の時を経た今現在も自動回復の効果を発揮し続けている。そのため、補修跡のほうが古びて見える。

 デリネーターやカーブミラーにもおにぎりと同様の効果があるらしいが、壊されたり盗まれたりでその数は心許ない。それぞれ魔道具としての構造そのものはマーカーの類いであるから流用しても使い道がないものの、素材の希少性や好事家受け故に、今も昔も窃盗犯が絶えぬという。極刑が人道的な絞首刑や銃殺刑となった現代においても、唯一残った鉤針付きの鞭打ち刑がその刑罰となっていることから、ベンセレム国民の国道への思い入れには並々ならぬものが察せられる。所々張られた落石防止ネットの製造はライフル銃などと同じく王家の秘匿技術である。

 日当たりが悪く葉が茂っているので崖の先は見えづらいが、切り立った急カーブの下の高低差はおそらく数十メートル以上ある。もしレベルアップ無しで今のペースで走り続けていたのなら、いずれ疲労で目が回り、何かの拍子で崖から転落してもおかしくなかったろう。

 国道425号線における冒険者の死亡原因の多くは戦闘中の転落事故である。冒険者は頑丈なので転落死そのものは少ないが、転落で負傷したり行動不能になったりしたところを、崖下を縄張りとする魔物の群れに嬲られるのである。高所恐怖症というより崖恐怖症を生還者が患うのも無理はない。

「離合だね。少し待とう」

 セヴァリアが声をかける。前方で大型のリヤカー同士がすれ違いに苦戦していた。この辺りの道幅は1.5車線ほどしかなく、小型リヤカーならともかく馬車や大型リヤカーは待機所を使わなくてはすれ違いが難しい。ちょうど道幅自体が狭いうえ、見える範囲に待機所はなかった。

 

 現在、第十三班は試験場所となる国道425線へ移動していた。目的地までのマラソンである。前方のリヤカーのような交通サービスは、試験なので利用できなかった。

 国道425号線の付近では、リヤカーに何人もの冒険者を乗せてフィールド区間まで運ぶという仕事が盛んである。いわば乗り合いの人力車で、元冒険者か現役の冒険者が副業でやっている。レベルアップした人間は馬並みかそれ以上の馬力を発揮する。路面は国道のアスファルト舗装なので走りやすい。何より市内や街道と違って馬車や人力車のギルドの支配力が及ばず、新規参入し易いのである。

 

 コイントスの後、一方のリヤカーから乗客が全員降りる。空になったリヤカーを山側に立てかけると、それで開いた空間を、乗客の乗ったリヤカーが通り過ぎる。コイントスはどちらが譲るかとなったときの決まり事なのであろう。

 すれ違いを待つ時間、セヴァリアが雑談をした。

「この辺りなら落ちても怪我で済むだろう。けれどこれから赴く425号線の崖下は、ここ数年でボブゴブリンの出現地帯になりつつある」

 ボブゴブリンとは借り腹で単為生殖をするゴブリンの調整種である。鶏姦で腸内に卵を植え付けて繁殖することから、ホモゴブリンとも呼ばれている。母胎として人間の雄は無論のこと、ノーマルのゴブリンをも駆逐するゴブリンで、二十年ほど前に天才魔導師ボブ・ヘッチマーが魔族の手を借りて作り出した。権力者のやんちゃな息子の戯れで幼なじみの恋人をゴブリンの苗床にされたことが彼の執念の根源であるのは有名な話である。

 フィールドで外来種の魔物を放して繁殖させるとフィールドが情報を記録し、以後、その外来種が発生するようになるという法則がある。ボブゴブリンはノーマルのゴブリンより強靭であるが、ノーマルよりやや大きい魔石がとれる。そのことから一時期、ゴブリン狩り専門の冒険者たちが飲み代を増やすため、ボブゴブリンをよそから捕らえて来てフィールドに放すという違法行為が流行した。日本でいえばブラックバスのようなものだろう。流行の結果、飲み代が増えたのはごく一部ばかりで、ゴブリン狩り冒険者のほとんどは発端となった権力者の息子と同じ末路をたどった。変異した肉体に通常の回復魔法は効きづらく、適切な治療法の広まった現在でも妊産夫死亡率でいうなら八割を切らない。たとえ巣から生きて逃れても経産の排泄器官は性器と違い、元には戻らないのである。

「人間の業だなんだと嘆くにはあんまりにも汚らしい話さ。アレな類いの魔物なんてね。女の子がいるのにしたいものでもないが冒険者ならこの新種の魔物の危険性は知っておくべきだ。強さの数値でいうならボブゴブリンは単体では通常の1.3倍くらいだろうが、それが集団になれば脅威度は三倍以上になる。群れの力とはそういうものさ」

 すれ違いのリヤカーが通り過ぎていく。乗客はフィールド帰りであろう。崖から転げ落ちでもしたのか傷だらけで、あちこち汚れて疲労の色も濃く、ケンたちには見向きもせずに俯くか惚けて空を見上げている。膝を抱えた手の下では紐を通した金属板が揺れていた。指先に引っかけるように持たれた二組のそれは、地方ギルドの認識票である。




今回の投稿はここまでです。
次話以降の予定は未定。遅筆なので。

徹夜明けテンションでの投稿&色々と雑なので、もしかしたら消すかもしれません。


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堕天

クソ長回想回。
主人公は登場しません。


 彼女の祖父は暴君であった。入り婿の父は気弱で、母も祖父の言うことに逆らわない人間であった。兄は頭の働きが良くなくて、それは生まれつきのものであった。社会生活にハンデを背負った反面、腕力には恵まれていた。元冒険者という猟師のおじさんの角張った筋肉質の腕と比べ、兄の腕は不均衡に太くたるんでいるが、異様な力を発揮して青竹を握りつぶすほどであった。そんな兄のお世話をするのが、家庭内における彼女の役目であった。

 祖父と父母、兄と彼女の五人家族である。祖母は母が子供の頃に亡くなっていた。村人の噂によれば祖父と曾祖母にいびり殺されたという。祖父の亭主関白ぶりは有名で、後添いを迎えられなかったのもそれが原因であるらしい。

 祖父は事あるごとに怒鳴り散らした。怒鳴っていないときは不機嫌そうにむっつりして、返答のたび何かしら怒気を表すから、農作業中仕事上のやり取りをするにしても、いちいち顔色をうかがう必要があった。機嫌が良いのは飲酒のときくらいである。激昂するか沈黙する癇癪玉のようなよくある人種で、彼女の家はそんな祖父に支配されていたせいか、彼女が物心つくころには大声に反応して身体が強ばる癖がついていた。

 祖父は兄には甘かった。家族の中で兄だけを可愛がっていたといってもいい。長男が第一という価値観もあるが、他の家族にするように家庭内暴力を試みたら逆に組み伏せられかねぬという予感もなくはなかったろう。祖父の兄への溺愛ぶりは食事の順番にも表れていた。彼女の家の食卓は二人がけである。最初に祖父と兄が出来立ての料理を食べ、次は働き手の父と母で、最後に彼女が残り物を食べて後片付けをする。偉い順番で食べるという家庭内規則である。彼女が口にするご飯は冷たかった。そうでない食事をするには、その順番が繰り上がるまで年月が過ぎなければならなかった。

 彼女が十二歳の頃、祖父が卒中で死んだ。葬式では兄がずっと泣き喚いていて、父と母は兄をなだめながらも、どこか晴れやかであったのを覚えている。酒飲みの卒中は生き延びることが少なくないといわれている。もしそうなれば兄に加えて体の不自由な祖父となり、二人分のお世話を家族がせねばならなくなる。葬式のごちそうの余り物で作ったシャケの握り飯は、ほっとする味がした。

 

 食卓の順番は、母と兄、父と彼女というふうに変わった。祖父という働き手が減った一方で酒代の必要がなくなったので、農作業の負担は増えたが家計には余裕ができた。成長期に充分な栄養を得たことで彼女の肢体は女性らしい丸みを帯び、村の少年たちにからかわれたり、男性の視線を感じたりすることが増えた。

 肉体が成長する一方で、家庭内環境は改善したとはいえなかった。母が金切り声を上げるようになったのである。母は祖父に代わり、家庭内における新たな支配者となっていた。祖父ゆずりの暴君ぶりは抑圧された母本来の気質からなのか、父のふがいなさからなのかはわからない。入り婿で遠慮することの多かった父はびくびくする生活を長年続けたせいか、祖父のいなくなった後も大人しい性格を変えられなかった。

 

 祖父が彼女に対する以上に、母は彼女に冷淡になった。祖父が生きていたころは祖父に虐げられる女性同士というある種の連帯感があって、辛い境遇を慰めてくれたりこっそり食事を分けてくれたりした。前提としての親子の情は無論ある。しかし祖父から解放されて連帯感がなくなるとともに親子愛も薄らいだのか、何かにつけ彼女の生活態度にけちをつけ、「いやらしい」とか「淫売」とか教育的な発言を繰り返した。幼児から娘へと美しく花開く年頃である。実際、そういった教育は必要であった。いわゆる鄙まれな少女に彼女は成長しつつあり、世間体に気を遣わねばならなかった。教育方法が嫌味や体罰だけなのも仕方なかった。母は祖母を幼くして失い、小間使いとしてはともかく女性としての教養は不足していた。化粧がへたくそで、精神的な負担からか若くして小じわが増え、父と結婚したときも年上の父より一回り年取って見られていたらしい。

 人間は何かを愛さずにはいられないという言葉がある。減った分の愛情は他方で補填されるというその習性に従い、かつて父と彼女と兄に分散して向けられていた母の愛情は、兄一人へと向けられるようになった。農村にありがちな長男至上主義ではない。もっと人間的な理由であった。きっかけはおそらく祖父の葬式である。皆が皆世間体から悲しんで見せているなか、兄だけが心の底から悲しんで、祖父のための涙を流していた。その様子に後ろめたさを感じたのかもわからない。肉親にもかかわらず悲しむどころか厄介払いで仄かに喜んでさえいる。そんな自分自身と、兄以外の己の家族とが、ひどく罪深いように思われてならなかった。母はただただ打算なく悲しむ兄の純心さがまぶしくて、心を打たれたのであろう。兄を溺愛するようになって「天使ちゃん」とたびたび呼んでいることからもそれが察せられる。

 彼女も母と同様に祖父の死を悲しめない罪悪感を覚えはしたが、母とは違い、それが兄への愛情に転化するには至らなかった。何となれば彼女は兄のお世話係である。頭が悪くて力が強い。しかも強制された役目である。うんざりさせられたことは数え切れない。信仰や憧れといった一方的な好意というのは大抵、対象への距離に比例するといわれている。人間の顔面に近付けば近付くほど小じわや毛穴といった粗が見えるように、ひたむきな愛情を抱くには、彼女は兄に近すぎた。母の気持ちに共感できない。兄の純粋さに感激しない。そういった態度も、母が彼女を嫌う一因であったろう。

 

 存命の頃祖父は暇があれば兄を遊びに連れて行った。釣りや昆虫採集、つちのこ探しなどらしい。それ以外は聞いていない。二人して泥だらけで戻ったこともあるが、何をしていたのかはわからない。彼女は祖父に遊んでもらったことがない。朝お弁当を手に家を出て、夕暮れに帰って来ることもあった。二人とも、楽しそうだった。祖父は上機嫌で、兄は心底幸せそうな笑顔を浮かべていた。そのとき獲れたつちのこの蛇拓は今でも居間に飾ってある。つちのこを売ったお金は酒代になった。

 兄だけが祖父に遊んでもらえる。いいなと思わなくもないが、不満はなかった。祖父が兄をかまっている間は、兄の世話から解放されて、一人きりになれたのである。彼女は自分のために時間を使えた。

 彼女は自由な時間を得るといつも、一冊の本を開いて過ごしていた。とある偉い冒険者の冒険譚とその偉大さを書き記した本で、装丁は立派であった。

 猟師のおじさんに貰った本である。古巣のしがらみで何十冊もの在庫を抱える羽目になり、村人相手に押し売りするわけにもいかずに自腹で済ませ、子供たちに配っていた。

 他の子供たちと同様に彼女も本を持ち帰ったが、その際母は、祖父が健在の当時にしては珍しく激怒した。

「こんな、こんなもの勝手に貰って。お礼をしなきゃならないでしょ」と彼女をさんざん折檻すると、野菜か何かを包んで猟師のおじさんにお礼しに行った。

 そうした入手経緯のせいかこの本を手に取るたびに頬を打たれた痛みが連想されて、反射的な罪悪感にぞくりとした。しかしそれでもこの本は、彼女にとって宝物であった。

 彼女の所有物は玩具も勉強道具もみな兄のお下がりで、薄汚れていた。この本は始めから自分だけのものである。手垢や唾液にまみれていない。きれいな新品であった。

 彼女の家にこれ以外の蔵書はない。昔は父のものが何冊かあったらしいが売り払われた。祖父が兄に兄の読めぬものを買い与えるわけもない。

 本の中身自体は、空想的な物語とやけに現実的な内容の継ぎ接ぎで矛盾も多い。何度も読み返しながら年月を重ねれば、首を傾げることも増えた。思い返せば彼女は本の内容に感銘を受けたというより、読書という行為そのものに夢中になったのであろう。

 ひとけの無い納屋の脇に腰掛けて、手洗いをしてきれいになった手でページをめくる。眼が疲れると顔を上げてぼんやり空を見上げながら文章を咀嚼する。後書きを読み終えれば、また前書きから読み始める。同じページの同じ文章を同じように読み直した同じ頭の働きを、心地良く味わった。

 本を開いている間は、怒鳴り声にびくつきながら家の手伝いと兄の世話に費やされる生活を忘れていられた。前はここまで読んだ。次はあそこまで読める。そればかりを楽しみに日々の暮らしをやりすごした。年中行事や四季の移り変わりなどより、何ページ読んで読めるかが念頭に置かれていた。他の子供のように将来のことなどはまるで考えなかった。どうせ思い悩んでもどうにもならないのだから、こんな生活の合間合間に訪れるわずかな時間の幸せを想うことこそ健全であった。

 

 兄にかまってやる祖父が死に、母は愛情を示すばかりでお世話自体はほとんどしない。いよいよ読書の暇もなくなりそうに思われたが、僥倖にも、彼女の拘束時間はそんなに変化しなかった。祖父に代わって兄の遊び相手をするお友達が出来たのである。年少の子供たちであった。

 彼らは頭の成長がひどく遅れている兄を、図体の大きな同世代として扱った。こういう点で田舎の村社会というのは案外に大らかである。力持ちで色々な遊びを知っていて、玩具も沢山所持している。年少の子供たちの間で兄はたちまち人気者になった。この子供受けぶりは、ある意味で祖父の教育成果といえる。この頃には兄自身も成長して年少と同等くらいはあったので、友達とやり取りする分には支障なかった。祖父の躾からか腕力を誇示して年上面することがない。悪意を察する能力が無いからいじめられても反撃せずに微笑する。そういった気質も子供たちには気安かったろう。一緒に遊ぶ仲間をやるだけならば、もはや年齢は関係なく、図体の大きさも個性の一つに過ぎなかった。

 

 子供たちとの交流が始まると、兄の精神は急速に成長して行った。「いってきます」や「こんにちは」などの挨拶を自主的にするようになり、「ママだいすき」と話して見せては母を涙ぐませた。この調子ならいつかは人並みになってくれるかもしれない。そんな希望もあってか、母は「天使ちゃん」を褒めそやし猫可愛がりした。褒めて伸ばすという教育方針を、赤ちゃん口調で実行したのである。

 見るに堪えぬ母の振る舞いの甲斐あって兄は成長した。やろうと思えば一人で着替えもできるくらいになった。けれども実のところ、お世話係の彼女の負担はむしろ増していた。兄は愚図るようになっていた。

 母の前では一人で着替えて見せるくせ、彼女と二人きりのときは手伝いなしでは服を着ない。断れば腕を振り回すなどして全裸のまま暴れ出す。生前の祖父や頑是ないお友達から癇癪という行為を学習したのであろう。あるいは母が甘やかした兄の眼前で妹の彼女をさんざんに叱責する様子を見て、それで彼女を召し使いであると見なしたのかもわからない。

 

 母は祖父の子で、兄は母の子であった。それなら自分は何なのだろう。母に叩かれた頬と兄に打たれた肩の痛みを堪えながら、愚にも付かぬことを考える。母と兄がああなってしまったように、自分はこうなってしまった。そのように人間が成長した。家族への奉仕という名目であらゆるものを奪われながら、読書という束の間の安息だけを慰めに生きて行く。己はそういう人間なんだと彼女は諦めていた。このときはまだ、彼女の精神の均衡はそれなりに保たれていた。

 均衡が崩れたのは彼女が十四歳になった年の春先である。

 

 発端は彼女の兄と同い年の青年の思い付きであった。年少の子供社会の中とはいえ、出来損ないのあいつが我が物顔でいるのがなんとなく気に入らない。嫉妬というほどではなく、ただあれの振る舞いのおかげで、同じ年上の自分まで侮られているような気がしてならなかった。あれを基準にされたくない。あれが下でこちらが上だと、年少連中にわからせたかった。ガキ大将ぶっての制裁は大人げなく、そもそもあれに恨みがあるわけでもない。当人は馬鹿力であるし、むしろ妹が美少女なので外面では仲良くしたい。とにかくあれとあれに懐いた子供たちに、兄貴分の威厳を見せつけてやろうと考えた。

 思春期を経た青年と年少の子供との差違で最もわかりやすいのは、欲が一つ多いことである。青年は無垢な子供たちに見せつけてやるべく、秘蔵の本を持ち出した。

 

 中綴じの薄い本である。真っ当な成年向け書籍と違って教会への税金は支払われていない。違法ではあるが取り締まり切れないので見逃されている。若者思いの行商のおじさんが村の出口で休憩中、こっそり販売してくれる。玉石混淆で海賊版まがいのものすらあるが、安くて種類が多いので、金のない田舎暮らしの青少年や、恋愛を自粛する駆け出し冒険者や冒険者志望者にとっては、ある種の生命線でもある。

 

 青年は「いいものを見せてやろう」と子供たちを河原に集めると、もったいぶった動作で「いいもの」を開いて見せた。

 少年社会によく見られる自主的な性教育活動である。必ず大人に隠れてやる。場所が河原なのは作法である。鑑賞会が済んだら口止めと、入手方法の伝授をする。自然と代々行うこれは、男社会において教会の儀式に次いで一般的なイニシエーションであった。

 青年は子供たちの反応を見た。恥じ入って顔を逸らす。むっつりした顔で耳だけを真っ赤にする。「エロだ」「ばっちい」と言いつつも口元をにやつかせる。この類いの違法本は白黒で印刷が粗いので、写真ではなく線画や漫画といった内容であり、ある程度見慣れなければのめり込めない。今回は初心者向けに劇画調のものを選んだのが功を奏した。写実的な生々しい絵なら、子供の単純な想像力でも現実に結びつく。

 あれこれされる質問に答えながら、青年は子供たちの尊敬のまなざしと、己が大人であるという自負を存分に味わった。例のあいつが気に入らないという始めの考えはすっかり忘れてしまっていた。青年は子供たちとのやり取りが忙しくて見逃していたが、当の彼は口を半開きにして一見ぼんやりした顔で、本の中の女体を凝視し続けていた。

 

 秘密の集会は連日続けられた。子供たちはどんどん知識を吸収して、青年が口頭で説明した自己処理方法を試してみて、成功にこぎ着けた者が出たほどであった。ここまで来ると青年も子供たちの勤勉さに辟易し始めた。仲間内という閉鎖環境での性の追求は行きすぎると男色の気配を帯びてくる。ある子供が自己処理学習の成果を他の子供の前で自慢げに実践して見せたのには閉口させられた。

 青年は集会の終了を宣言して、続けたがる子供の不満を逸らすため、数冊の薄い本を回し読み用に寄贈した。子供たちが青年に懐いていたのは青年本人を慕っているからではなく、青年の蔵書を閲覧したいがためであった。そのことに気が付けばむなしさと羞恥心が湧いてくる。

 河原を離れながら振り向いて子供たちの様子を見ると、子供たちの共有物となった薄い本を例のあいつが一人で開いて見つめていて、その手は股間に伸びてゆさゆさと揺れていた。その仕草にどうもいやなものを感じて落ち着かなかった。そういえばあれの母親は頭のおかしい婆さんである。自分のことが発覚すれば「天使ちゃん」にいらぬ知恵をつけたことを追求しに、家まで怒鳴り込んで来かねない。そんな予感のせいであろう。

 

 その日、彼女はいつものように読書をしていた。納屋の脇で木製の酒瓶ケースを二つ重ねて腰掛ける。閉じた膝に本を乗せる姿勢は、最近は胸が邪魔で読みづらくなりつつあった。用がなければ誰も寄り付かず、家や道路からは死角になって見えない。ここなら自分の好きなことをしても、誰からも怒鳴られないし打たれない。気兼ねせず一人でいられる場所であった。しかしその日は足音が聞こえた。

 兄であった。本を閉じて隠すように後ろに置いて、どうしたのかと尋ねてみる。どうも様子がおかしい。兄は彼女に向かって歩きながら、ズボンのなかに手を突っ込んで上下させている。股ぐらが痒いのであろうか、「天使ちゃん」の珍しくもない奇行である。しかし声をかけても止まらずに彼女のそばに寄ってくる。

 思わず「あっ」と声が漏れる。こちらがまごついている間に、すんすんと匂いを嗅がれるほどに近寄られていた。いやな気配がした。

 彼女は咄嗟に逃げようとしたが、しかし腕を素早く掴まれていた。万力のごとき力で骨が軋んだ。不意の痛みに声を上げる。大声を出すのに慣れないせいか、か細い悲鳴であった。それに反応して兄は、笑いを漏らしたような音を発した。

 兄の目は血走っていて、その口元はいやらしく歪んでいた。

 

 どれくらい時間が経ったかわからない。兄は一人でズボンを穿くと去って行った。

 体じゅう痛かった。起き上がり、服を集め、一歩一歩ふらつきながら歩いて行く。動作や呼吸の度毎に、身体の芯にこびり付いたような重い痛みが走った。途方もない罪を犯したような心地であった。おのれ自身の大切な一部分が永遠に損なわれたように感じられた。

「洗わなきゃ」

 そう呆然と呟いた。川の水に血の付いた服を浸けてぐしゅぐしゅともみ洗いする。初めての生理のときが思い出された。涙でぼやけた視界のなかでいやに鮮やかな血の染みが、水に流れてかすれて行った。肌で粘つく体液は外気に触れて冷え切っていた。水を吸った衣服を絞ってまとめて持つ。立ち上がる。取り落とした。濡れた布の塊が地べたの上に広がった。不意にへたり込み突っ伏すと、彼女はひたすら嗚咽を漏らした。

 

 一度だけ、母に己の将来について質問したことがある。

「馬鹿言わないで。あんたは天使ちゃんが結婚するまでお嫁さん代わりをするんだよ。大事な大事な家族のためよ。嫁になんてやるもんか」

 こんな人間には兄の所業を告発しても、逆に「天使ちゃん」を誘惑したからだと責められるであろう。父にしても耐えろとしか言わないに違いない。どうせ誰も助けてくれないんだ。彼女はそう思い込み、兄に己がされた仕打ちを誰にも打ち明けようとはしなかった。

 

 性の悦びを知った兄は春の陽気もあってかさかり付いた。人前では普通でいるくせ、彼女と二人きりになった途端に、後ろから抱き付いてへこへこと腰を振る。幼子(けだもの)のごとく純心で、幼子(けだもの)のごとく自制心に欠けている。人形遊びのように手足を痛めつけても、衣服を破ることはなかった。癇癪の次は悪知恵を覚えたのである。

 彼女もただやられているわけではない。最初のうちは何度もいいようにされていたが、ここ最近は不穏な気配を感じると、さっと身を躱して逃げ出せるようになった。兄の腕を掻い潜ったり、怪力による拘束からするりと抜け出したりである。何彼につけ母にけなされて自信を持てない自分にも、身体を動かす才能があるのを知った。今さらだった。その場を切り抜けた後は兄の昂りが静まるまで、隠れん坊のように隠れて過ごした。

 接触を避ける機会が増えれば、身の回りの世話の頻度も減って行く。見窄らしい兄の格好を見て母が「天使ちゃんのお世話が滞っているようだけど」と嫌味を言った。

「色気づいてでもいるのかしら。生意気よ」

 村の誰かと逢い引きでもしているのかと勘繰った母に、頬を腫れ上がるまで繰り返し平手で打たれた。

「この面なら余計なことは出来ないね。天使ちゃんのお世話に専念するんだよ。あんたなんかを育ててやった、あんたの役目なんだからね」

 顔がそうなっても兄はお構いなしであった。彼女は逃げ続けた。寝不足で隈が増え、母の体罰と兄の暴行とで身体の痛みも引かなかった。肉体と同じように、彼女の精神は日に日に追い詰められて行った。兄もまたその欲求を我慢させられて、しだいに不機嫌そうな表情を浮かべるようになった。祖父と似たむっつり顔である。

 

 ある日、本を隠しておいた場所が荒らされていた。

 千切られたページがあたりに散らばっている。背表紙から真っ二つに裂かれて分割された表紙には、泥か糞便を指に付けてした茶色い落書きがあった。呆然と膝をつく彼女の後ろに兄が現れた。

 兄の支離滅裂な言動を普段のように察するには、頭がちゃんと働かなかった。こんなものがあるから自分から逃げるんだ。そんなような意味の言葉を発している様子であった。兄が背後から覆い被さり彼女の身体をまさぐった。彼女はされるがままであった。

 事を終えた兄が心底幸せそうに息を吐く。肉の衝動から解放されて、天使のような微笑であった。

 

 汚されて台無しになった身体で、同じように犯された本の残骸をかき抱く。

 相手を虐げることで言うことを聞かせる。己の欲を満たすため、積極的に他者を害する。家族からは癇癪を学習し、友人からは悪知恵を覚え、そうして兄は我と我が身の衝動から、悪意というものを獲得した。

 それは人間性と言い換えられるかもしれない。しかし兄には理性はない。理性のない悪意に満ちた人間性、そんなものを持つ邪悪な存在は、この世界に生きる者なら誰しもが知っている。魔物である。

 もはや兄は魔物であった。邪悪な魔物になってしまった。

 

 靴下を手に河原で手頃な石を見繕う。靴下では生地が破けるかもしれないので、予備の手ぬぐいでも試しておく。あの本で学んだ仕方であった。

 決行の機会は間もなく訪れた。息を荒くして抱擁してきたのを以前のように躱してやると、てっきり逆らわれないと思ったのか意表をつかれた顔をされる。そのまま逃げ出して身を隠す。彼女を探してきょろきょろ辺りを見回す姿を観察する。しばらく待つ。諦めて股間をいじりながら歩き出した背後へと、足音を殺して近付いた。即席のブラックジャックを振り回し、遠心力を充分に効かせて後頭部へと打ち付けた。鈍い音とともによろめくと、うめき声を上げてこちらを見る。次の一撃を放つべく石入りの靴下を回転させた。

「いたいよ」「やめて」「ごめんなさい」と情けない声を上げている。暴力を振るうのには慣れていても、振るわれる側になるのは初めてであろう。しかし腕力は向こうが強く、反撃という行為を学習するおそれがある。今のうちに畳み掛けねばならなかった。四肢や胴体を打ったが分厚い脂肪と筋肉に阻まれて手応えが心許ない。痛みは与えられているがろくな怪我にはならないであろう。狙いを頭部に集中させた。顎先をかすめて膝が抜けた。ふらついて四つん這いになるが、それでもなお這って逃げ出そうと動いている。打ち損ないで背中を打つたび、「いたいいたい」と鳴いている。靴下に穴が開いて石が抜けた。手ぬぐいに切り替える。頭蓋を殴る手応えは、こちらの方が頼もしい。念入りに石を包んだ手ぬぐいは血を吸って真っ赤に染まり、打擲音も湿っていった。

 本を読んで冒険者になりたいと思ったことは何度もある。そのたびに諦めていた。

 しかし今は憧れた冒険者と同じ行為をしていた。冒険内容は魔物退治で、対象は図体のでかいゴブリンである。被害者も依頼者も実行者も自分自身で、報酬はこの人間に擬態した魔物からの開放である。武器から用意する初めての冒険であった。

 絶叫が聞こえた。魔物()はだいぶ前から血溜まりに沈んで呻くばかりで力尽きている。母であった。血の気の引いた顔で震えていた。何度か大声で鳴かれたので、それを聞きつけて来たのであろう。

「あ、あんた、いったいなんてことを……」

「私、冒険者になりたかったんです。だから、あ、あの、褒めて下さい。魔物退治、私なんかでも、ちゃんとしっかり出来たでしょう?」

 それからのことはあまり覚えていない。母に続いて何人もの大人の人がやって来て、彼女に手枷をしてから教会の物置に閉じ込めた。

 

 頭のおかしかった兄が頭のおかしい母の前で頭のおかしくなった妹に頭を割られた。単純な暴行事件と片付けるには問題があった。犯人である妹は、日常的に母からは虐待を、兄からは性的なそれを受けていたことが取り調べで判明した。ある意味で正当防衛である。情状酌量の余地があった。目撃者が多数いて、被害者である兄が有名なこともあって、事件内容とその経緯はあっという間に村中へと広まった。犯人が実の兄に手籠めにされていたのも、村人の知ることとなった。噂の種としては大物であるが、大っぴらに批評するには極めて繊細な問題である。この類いの話は新聞に載ったら慈善団体の反発が予想される。この田舎では関係ないが都会では地方ギルドの飯の種である。村の名誉にもかかわってくる。村長は村人全員を集めて箝口令をしいた。

 紆余曲折を経て、家庭内の事故として片付けられることになった。母による虐待は処罰するのが難しく、兄のそれは肉体的な被害と相殺する。そのような裁定であり、名目のために村長は見舞金を出した。その大半は兄にかけた回復魔法の費用である。妹の方は教会の無料診察を受けた。念のため洗浄器で洗浄された後、薬を処方された。

 

 兄は死ななかった。教会の神父の魔法治療のせいで一命を取り留めた。けれども身体の半分が頭のように不自由となり、前までのような怪力は発揮できず、びっこを引いて歩くようになった。ほとんど蚊帳の外であった父はというと、噂好きの村人に兄の片棒を担いだと下種な勘繰りをされて、以前にも増して肩身が狭くなった。母は言った。

「あんたなんか産まなきゃよかった」

 長男を生み損なった女が何を言う。そう言い返す気力は彼女にはなかった。

 母は兄のお世話による負担でやつれ始めた。そして自分が辛い思いをする原因に向かって「家から出て行け」と繰り返した。

 彼女はその通りにした。

 

 数日後、彼女はクルエル市の路上に立っていた。家族から開放され、念願の冒険者になる機会ではある。しかしその気力はまるでわかなかった。女神の加護を失った冒険者は大成できないと、彼女は本で読んで知っていた。働き口を探そうとはした。何度か面接してもらったが、全て断られた。自分という人間は鈍臭そうに見えるらしい。我ながらもっと必死になればいいとのにとも思うが、家にいた頃のように辛い目に遭うだけの日々が予想されて、どうも身が入らなかった。兄へ反撃したときの夢見心地が、今でもずっと続いているような心地であった。

「あの、結構前からそこにいましたけど、待ち合わせですか?」

 彼女に話しかける人がいた。身綺麗な男性で、優しい微笑を浮かべていた。丁寧な口調と物腰に促され、田舎から出て来たという身の上を告げた。

「食事をご一緒しませんか。もちろん僕のおごりです」

 ひどく親切な人であった。食事の前にドレスコードだからと、なぜか服屋に連れて行かれた。

「似合っていますよ。ええ、すごく」

 生まれて初めて身につける綺麗な服に、生まれて初めて口にする繊細な味付けの料理である。大好きなシャケにあんな調理法があるのを初めて知った。ムニエルというらしい。

 外は暗くなっていた。

「宿をとってあるんですが……どうです?」

 世間知らずの彼女にもなんとなく意味はわかった。自分はどうせとっくに損なわれている。断る理由はなかった。

 ベンセレムで立ちんぼの鑑札が発行されるのは十八才以上である。この優しい男性は俗に言うお父さん活動に熱心な慈善家で、働けない未成年の少女に援助するのが趣味であるという。無論、一夜限りではあるが恋愛関係にはなってもらう。

 彼女はこくりと頷いた。懐の生活費は心許なく、それに優しい男性である。村に来る役人さんのように紳士的であった。お金と引き替えに一時の我慢をするにしても、ひどいことにはならなそうであった。

 彼女は肩を抱かれて宿の部屋に入った。

 男性が豹変したのは、行為自体の始めである。

「なんで処女じゃないんですか!」

 彼女は突き飛ばされた。

「誰かの手垢にまみれてないと思ったのに! これじゃあハズレじゃないですか!」

 あまりにもあまりな言葉に彼女は涙ぐんだ。

「まあいいです。料金は最初の付け値を払いますよ。ただしですが……僕は初めてが欲しい」

 ぬっと伸びた指の先がとある箇所を圧迫した。まるで理解出来ない行為に怯える彼女の耳元に口をよせ、男が愉快そうに囁いた。

「女性が春を売るということはね、尊厳を売り渡すということなんですよ。勉強になったでしょう?」

 ひどい目に遭った。

 

 目を覚ますと一人であった。枕元には料金が二つに分けて放ってあった。言われた額の半額とそのまた半額で、合計すれば四分の三の額となる。独り決めに値切ったうえで思い直し、気前の良さを催してチップをはずんだ感じであった。それでも割引されて逃げられたのには変わりない。寝台の上に丸まって口惜しさに涙をこぼした。シーツは湿って冷たかった。ノックとともに女中の声がチェックアウトの時間であるのを知らせてきた。都会では悲嘆にくれるのにも延長料金が要るらしい。彼女は身体もろくに拭かず、逃れるように宿を出た。

 

 彼女は歩いた。街の道路の硬い路面を踏むたびに、下半身に痛みが走る。雑踏で立ち止まる気にはそれでもなれず、ただ歩き続けた。彼女の足は自然と水場へ向かっていった。

 いつの間にか、橋の中腹に立っていたのに気が付いた。土手があり、河川敷がある。大きな川に架けられた大きな橋の上であった。国道王の土木遺産のトラス橋である。クルエル市の名所であった。何もかも大がかりで、汚れてしまった衣服と身体を洗うには無理があった。欄干の向こうは檻のような斜め鉄骨に阻まれている。

 都会に出たてでのこのこと知らない人に付いていき、貞操ばかりかお尻の穴まで玩具にされる。家族に搾取されて学習せず、赤の他人にもそうされる。下卑た人間なら面白がるような境遇である。みじめであった。

 

 生まれてきたのが間違いだとは思えない。家族の性質は別として、自分という人間は決して恵まれていないわけではない。平和なこの国に生まれ、かわいそうな外国のかわいそうな子供と違って飢えることはまず無かった。男の人の反応から、見目と体付きが良いのは自覚していた。それにあの兄を不随にできた。無事に事を進め、こちらは五体満足で終えられた。つまり冒険者に必要な暴力の才能があった。もし何もかも正しく行動していたのなら、あの本の冒険者のようになれたかもしれなかった。富を得る。愛される。そして誰かに尊敬されて、自分自身を好きになれる。でも今の自分はそうじゃない。未来の自分も同じだろう。

 家族に逆らう勇気が無い。境遇を変えようとする意気地が無い。変わりたくても変われない。理想を抱いて育みながらも諦めて、なりたい自分になれなかった。畢竟、自分は自分の人生をしくじったのである。もはや取り返しがつかなかった。

 

 橋の下の水面は黒々と波打っていた。重たそうな水に揉まれれば苦しい思いをするかもしれない。橋の高さはかなりあり、それなら中州はどうかと見れば、砂が多くて柔らかそうに思われた。上手く頭から落下して首を折りでもしない限り、半端に助かってしまうだろう。

 彼女は欄干を掴んで動かなかった。トラス橋の鉄骨が邪魔で、乗り越えるのが億劫であった。そもそもこういった場合、手足を縛る必要があると聞く。その状態では跳躍してもろくに距離を稼げない。欄干を乗り越えて転げ落ち、鉄骨に身体をぶつけながらというやり方になる。その痛みを避けるならばわざわざ不安定な鉄骨にしがみついて、落ちぬよう体勢に気を付けながら手足を縛る格好となる。いずれにしても一思いというには煩雑に過ぎた。心中が喧嘩別れに終わるのはそういう理由からであろう。ただでさえ少ない気力を振り絞り、その境界を乗り越える。それはこの先も生きて行くのと同じくらい、難しいことである。

 

 それでもと彼女は思った。最後の最後くらいは、こんな自分を変えたかった。勇気を出す。思い切る。我が身を縛るものはもういらない。とても苦しいだろうけれど頑張ろう。そう決意すれば、彼女を取り巻く世界の全てが鮮やかに色付いた。

 緑色の水は思いの外透き通り、川の流れがよくわかった。橋にはそれなりの人通りがあり、閑散として見えたのはその大きさ故であった。薄緑色に塗装された鉄骨に、錆の染みや鳥の糞などの汚れはほとんど無い。頻繁に清掃されているのであろう。河川敷で遊ぶ子供が見えた。敷物を敷いて、お弁当を食べる親子がいた。若い冒険者の集団が土手の上でランニングしていた。自分もあんなふうになりたかったが、まあ仕方ない。彼女は欄干に足をかけた。

「終わりにしたいの? お姉ちゃん」

 鈴を転がすような声が聞こえた。振り返る。誰もいない。声の主がくすりと笑った。

「こっちだよ」

 見上げると、上弦の鉄骨に腰掛けた少女が、足をぶらぶら揺らしていた。

 年の頃は彼女より少し年下であろう。二次性徴を迎えてわずかに膨らんだ胸と、女性らしくなりつつある腰つきがそれを示していた。体の輪郭がわかりやすい服装であった。ぴったりと張り付いた上衣は肩から脇、それから鳩尾からお臍にかけての肌色をすっかり晒してしまっていて、しかも下半身がいわゆるショートパンツである。活発そうにはたしかに見えるが、端的にいうとはしたない。寒そうでもある。

「あっはい。い、いえ……私は何も」

 しかしこういった女子には気後れしてしまうのが彼女のような人種である。咄嗟に誤魔化しの言葉が出た。

「うそだね。わかるよ。だってあたしもそうだったもの」

 ひどく穏やかな声音であった。その目には彼女を小馬鹿にしたりなじったり、悪意の色は見られなかった。それどころか心の底から同情している。そんな感じがした。

 

 少女は足を揺らした反動で宙返りして鉄骨の上に立つと、「ほっ」「やっ」「とおっ」と鉄骨から鉄骨へと飛び移り、彼女のそばにふわりと着地して欄干に寄り掛かった。冒険者なのであろうかもの凄い身体能力である。移動自体は目まぐるしいはずなのに、鉄骨を蹴る音や着地の衝撃はまるでなかった。単純な身軽というより、どうしてか羽毛のように淡く儚い感じがした。

 少女は面と向かって言った。

「もう一度言うよ。お姉ちゃんは、終わりにしたいの?」

 声が響いて、甘い香りがした。

「……もう。もういやなの。からだを滅茶苦茶にされて、心も滅茶苦茶になったこんな私が」

 言い出してからは止まらなかった。

「私、何か悪いことした? お爺ちゃんはいっつも怒鳴る。お母さんは私をぶつ。お父さんは助けてくれない。あいつは……きもちわるい。けがらわしい。くさい。きたない。それなのにあいつばっかり贔屓される。なにが天使ちゃんよ。動物で、言うこと聞かないペットじゃない。なんで私が我慢しなきゃいけないのよ」

 敬語を使わず話したのはいつ以来だろう。

「そんなやつらにいいようにされる自分自身が一番いや。奪われ続けている私が。変われないでいる私が。歪んで、けがれて、台無しになった私がいやなの。私はこんな私を抱えて、もう生きていきたくないのよ……」

 少女の手が、そっと両頬に当てられた。

「お姉ちゃんはとっても辛かったんだね。ごめん。さっきわかるって言ったのはやっぱり嘘になっちゃった。だってお姉ちゃんはあたしより、ずっとずっと苦しい思いをしてたんだから。あたしにはおにぃがいたけど、お姉ちゃんには誰もいなかったんだ」

「あなたのお兄さんは、優しいの?」

「うん。ざーこざーこ、ざこおにぃって言ってあげると喜んじゃう、よわよわなおにぃだけどね。あたしのためなら、なんでもしてくれるんだ」

「羨ましいな」

「えへへ。いいでしょー」

 照れ臭そうに自慢すると、欄干に飛び乗ってステップを踏んだ。手を後ろに組み、ふわふわとした足取りであった。狭い足場なのに危なげがなく、けれどもどこか病的に透き通って見えた。話が途切れたが、この沈黙は不思議と心地良かった。

「ねえ、お姉ちゃん」

 背を向けたまま少女が言う。

「転生って知ってる?」

「転生? 生まれ変わりってこと?」

 前世の自分が云々というやつであろう。普段使わない言葉であるが、女子の占い遊びには前世占いなんかもあるから意味は知っている。ちなみに自分の結果はモグラであり、一時期あだ名がモグラ女であった。目元が隠れた髪型に関連づけた悪口である。

「そ。今の自分を捨てて、新しい自分になるの。違う自分で違う人生。前の自分じゃ出来なかったことでも、新しい自分ならきっとできる。もちろん心や知識はそのままだよ。二度目の人生でやりなおすなら、自分が自分のままじゃなきゃ、まったく意味がないからね」

 教会で聞かされるような死後の世界の話であろうか、しかし少女の言うそれは妙な具体性があった。

「あたしはしたよ」

 上を向いて少女が言った。欄干を前後する足取りと同じく、浮ついた口調であった。少女に釣られて見上げた空はいやに青く、どこかからはぐれてきたのか、雲の欠片が頼りなく浮かんでいた。

「あたしは前までのあたしを捨てて、今のあたしに生まれ変わった。体が軽い。咳も出ない。こういうお腹が冷えちゃうような、カワイイ服も着ていられる。おにぃには『そいつはいかんぞえっちすぎるー』って叱られちゃったんだけどね」

 たしかに、同じ女性の自分から見てもふしだらと言いたくなる格好であった。開きすぎた脇から横胸の輪郭がくっきりと見えている。

「お姉ちゃんも……ううん。お姉ちゃんだからこそ」

 少しの間気弱な顔を浮かべると、それを誤魔化すように陽気な口振りで言葉を継いだ。

「気が合うし、すっごく仲良くなれそうなの。こんな気持ちは初めてかも。一目惚れっていうやつかな。えへへ、おにぃが焼き餅焼いちゃうね」

 彼女の反応を待たずに少女は続ける。

「あたし昔からね、おにぃのことは大好きだけど、お姉ちゃんも欲しかったんだ。だって女の子同士じゃないとやれないことってあるもんね。シーメルはどう? やっぱり? じゃあ……と、そういえばまだお名前を知らなかったね」

 なぜか独り言で虚空に話しかけた後、少女がようやく振り向いた。

「あたしはユルマ。ユルマ・ガバケッツ。お姉ちゃんのお名前は?」

 彼女は名乗った。

 ユルマは、舌に馴染ませるように彼女の名前を繰り返した。

「いい名前だね。うん。響きも好きになれそう。でも言う機会はあんまりなさそうかな。だってお姉ちゃんには、お姉ちゃんになって欲しいもの」

 ユルマが女兄弟を欲しがるのと同じで、彼女も彼女に優しい兄と妹が欲しいと、そう思っていた時期がある。けれども彼女の母親は長男でしくじったので祖父に女腹と見なされて、子作りを禁止されていた。真っ当な避妊具一つ買う金で、焼酎二杯は飲めるらしい。

「お姉ちゃん、か。なれたら、いいんだけれどね」

 ユルマと自分とは、初対面で何の繋がりもない関係である。

「なれるよ」

 こんな汚れた人間を、ユルマかユルマの兄が養ってくれるとでもいうのであろうか。邪悪な人間の子供を宿しているかはともかくも、変な病気にかかっているかもしれなかった。獣人、同性、変態行為と、教会での衛生教育が頭に過ぎった。その可能性に今さらながら思い当たり、彼女は後ずさった。心の汚れと違い体の汚れは伝染する。

「こないで」

「お姉ちゃんはきれいなままだよ……なんて言ってもお姉ちゃん自身は納得できないよね。だからさ」

 ユルマが欄干からそっと降りた。こちらへと踏み込むと、手を取って、告げた。

「転生しようよ、お姉ちゃん。新しい、きれいな自分に生まれ変わろう? あたしと同じように、あたしと一緒に、今までのいやな自分にさよならしよう? あたしのお姉ちゃんになって、人生をやり直そう?」

 ユルマのいう転生が、どういった意味の行為なのかはわからない。夢見がちな少女のたわごとならまだしも、田舎者を食い物にする地方ギルドの誘い文句という線もある。年上の男性に騙された次は年下の女の子に騙される。愚かな娘の末路としては手頃であった。

「ダメ、かな」

 ただ、そう問いかける気弱な様子が、自分自身と重なって見えた。彼女はこくりと頷いた。



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童話と童謡

 国道425号線のフィールド区間に入ったが、先行班が片付けたのか道中に魔物の気配はない。しばらく進むと、山側の赤看板の前に試験官のトゥルマン・ガバケッツが腕組みして立っていた。

 木々の隙間から差し込む日の光がちょうど禿頭に反射して、遠目からでも目立っている。高位の冒険者ともなると虫さされが気にならないのか、上半身はやはり裸であった。トゥルマンがこちらに気付いて腕組みを解いた。むき出しの乳首が目に入って視線を避ける。

 避けた先の赤看板には古代語で「転落死亡事故多発」と書いてあった。ジグラット語なので設置者の外連味でなければ国道王時代のものであろう。路面の崖側ではデリネーターが斜めに傾き、アスファルトのひび割れた皺が寄っている。足を滑らせるか大雨でいかにもずり落ちそうな感じがするが、目立つ補修跡がないのを見るに、この状態で千年以上保たれている。魔道具の自動回復効果である。始めからこのうらぶれた路面状態を考慮して設計したのか、あるいは国道王の妙なこだわりなのかもしれない。

「来たか。点呼だ。それと班ごとの持ち場の変更だな」

 最後方にいたセヴァリアが、ヨシヨシヨシと班員を一人一人指差しながら進み出る。

「十三班、全員揃ってる。でも変更なんて聞いてないよ。事前の持ち場じゃ駄目なのかい」

「上からのお達しで抜き打ちというやつだ。他の支部で不正でもあったんだろう。地図は……十三班ならこいつだな」

 地図の紙を渡しながらトゥルマンがざっと班員に目をやった。元地方冒険者のオラッサは大して疲れた様子もなく、腰や肩を回して柔軟している。早撃ち魔法使いのエヴィオは汗をかきながらも、疲労を悟られぬようそっと息を整えている。全身甲冑のシガはハルバードの石突きを立てて直立不動である。

 長時間で、しかも完全装備でのマラソンをしてもこの程度で済むのはレベルアップの恩恵である。筋力のみならず体力全体が向上する。ケンはそこまでのレベルに至っていないが、アナーケの走りを見て走り方のコツをつかんでいたので呼吸を乱さずに済んだ。レベル無しのトゥアナはというと、彼女だけは武器を手放した手を膝につき、ぜえぜえと息を切らしていた。武装しての長距離走は軍隊で武装走という訓練があるくらいの過酷な運動である。事前に鍛え上げてもレベルを上げてもいないただの少女なら、音を上げていないだけでも大したものといえるであろう。

「一枚しかないからな。小休止のついでにここで情報共有してくといい」

「この辺りの魔物は?」

「緊急の避難場所ということで俺が掃討しておいた。ちょいと薄暗いが看板を目印だ。結界も一応、探知と浄化の両方を張ってある」

「元神官かい?」

「神学校中退だが、資格はとってある」

「へえ……さて君たち、一旦休憩にしよう。地図を読んだら次の人に回してくれ」

 セヴァリアの指示で班員は思い思いに休憩しようと動き出す。ケンはトゥルマンに声をかけた。

「すみません。あそこには座っても?」

 少し先のカーブから突き出した草むらに敷物が敷いてあった。

「ああ、俺が敷いた。負傷者用だがな。一休みするくらいならかまわんさ。湿気で尻が汚れるもんな」

「ありがとうございます」

 礼を言うと、トゥアナに話しかける。

「アナさん。あっちで座りましょう」

「ふぇ? は、はい……ありがとう」

 年頃の女性に対して断りなしに肩を貸すのも憚られるので、転ばぬよう見守りながら先導した。

 敷物に二人で腰を下ろす。ちょうど木が開けていて眺望は悪くない。今まで走ってきた国道のつづら折りが顔を出し、別な班の走る姿を発見した。その光景を話題にするには間が悪い。疲労困憊のトゥアナは前髪に隠れた目をぼんやりとさせていた。

 セヴァリアはトゥルマンと何やら話し合い、シガは武器を手にしたまま手頃な岩に腰掛け、オラッサとエヴィオは一緒に地図を見ながらもたびたびこちらに視線を向ける。声をかけ損なったこともあってトゥアナが心配なのであろう。

 トゥアナの背中は汗でびっしょりになっている。ケンは水筒を取り出した。

「こうも走らされると、やはり喉が渇きますね」

 栓を抜いて一口飲んでみせる。

「あ……お水」

 ケンにつられて、トゥアナも水筒を出して口をつけた。ケンの物と同じ、竹筒と呼ばれる竹製の水筒である。金属製や袋のものに比べ多少不便ではあるが、安くて使い捨てても惜しくないので愛用する冒険者も多い。

 こくりこくりと微かに喉を鳴らして飲む音はすぐ止んだ。竹筒の容量の心許なさに、飲み過ぎると思ったのであろう。残念そうに口を離して栓をする。ケンはもう一本の竹筒を取り出した。

「どうぞ。予備で持ってきたんですがね。子供の胃袋ですから。飲みきれなさそうで、荷物になりそうなんです」

「そんな、悪いです。いけないですよ。こんな私なんかに……」

 施しは受けないというよりも自虐が勝って感じられた。押し問答となる間際、トゥルマンが通りがかって口にした。

「こいつは独り言だが、十三班の担当範囲には渓流がある。そこの水は水質検査で飲用可能とされてるらしいな」

 助け船であった。

「だそうです」

「……ありがとう。ケンくん、トゥルマンお兄さん」

「独り言だ」

 トゥルマンが赤看板のところへ戻って行く。独り言を言いにわざわざこちらへ来たらしい。素っ気ない素振りには、お兄さん呼びで若く見られた照れ隠しもあるかもしれない。

 予備の竹筒を飲み終えたトゥアナが提案した。

「あっあの、荷物になるなら、これ、私が預かってます」

 遠慮したが「大丈夫です」と押し切られた。親切のつもりが竹筒という荷物の分、却って負担を増やしている。結果的にケンの行為は御節介であった。

 

 その気配に気付いたのは幅員が広がり、山側も谷側も急勾配がやや緩やかになって安心感が出てきた頃合いである。影が動いて藪を揺らした。走り抜ける葉擦れの音に反応し、受験者四人が山側に顔を向ける。

「いい感じの歓迎だ。各時自由戦闘。助言はしないがフォローはする」

 セヴァリアが引き下がり、オラッサが大声を張り上げた。

「上から複数、奇襲ッス! だがこのパターンなら――」

「谷側の警戒は僕がします。挟み打ちの形ですね、上と下で」

 ケンは即座に志願した。息を潜めた様子であるが、気配ははっきり感じられた。

 エヴィオが短杖を引き抜きながら、颯爽と前に出る。

「先手必勝ってのをやってやるさ! ブレイズショット!」

 炎弾が続けざまに三発放たれて炸裂した。おそらく基本魔法のファイアボールの改良型であろう。持続時間を減らして弾速を上げている。魔法の火は燃え広がらずに即座に消えた。

「やったか?」

 と口走った不意を突き、エヴィオの頭上の藪中から飛びかかった魔物の影を、

「――ってない」

 と横合いからシガのハルバードが撃ち落とす。

「このオレが庇われ――すまん!」

「軽い。外した」

 身をひねって着地したのは狼の魔物であった。唸りながら間合いをはかり、ぐるんと頭を回転させる。首関節がないかのごとく、三百六十度以上の回転である。真正面から見て右回りに一回転すると、その過剰回転分にバネでも仕込んであるような勢いで逆の左回りに回転する。

 この不可解な首回しはこの魔物特有の本能行動で、息継ぎのごとく頻繁に行なわれる。脆弱に調整された心臓機能を補うため、馬が蹄を第二の心臓としているように、首回しによって血液を循環させるといわれている。

「バターウルフか!」

「首の可動域に注意ッス!」

 バターウルフが吠え立てる。すると上から援軍二匹が飛び出して、オラッサとトゥアナに襲い掛かった。

 シガがハルバードを向けてけん制している。オラッサは跳び退いて奇襲を躱して対峙した。トゥアナはというと、クォータースタッフを兎にも角にも振り回して魔物を近づけまいとしている。エヴィオは集団戦に慣れていないのか、杖を向ける先に迷いがあった。

 数のうえでは四対三であるが、実際の状況は一対一が三つであった。とはいえ、それぞれが中央を志す冒険者である。戦況はまもなくこちらの優位に推移した。

 シガは振りかぶると一瞬見せかけての素早い刺突で、バターウルフの胴体を貫いた。麻袋を破るように毛皮を裂いてハルバードの斧刃が飛び出した。

 オラッサは左右のチャクラムの連続投擲である。あえて浅い攻撃をヨーヨーのように繰り返し、負傷で動きが鈍ったところにとどめを刺した。握り締めたチャクラムでの脳天割りである。

 トゥアナは落ち着き、バターウルフの動きに慣れたのか、動作の出しなに打撃を差し込むことでその勢いを殺していた。バターウルフがしびれを切らし、助走を付けて跳躍する。そこに少し踏み込んで、宙に浮いた後ろ足を刈ってやれば、犬のように鳴いてひっくり返った。すかさず大振りの一撃を振るう。首に当たって押し込むと、頭部が素早くぐるんと回り、武器を咥えようと噛みついた。鰻みたいな狼である。犬猫相手のように首根っこをつかんでやろうとすれば囓られるであろう。トゥアナは先端を引っ込めると、あらためて打ち下ろした。遠心力を効かせた威力は凄まじく、頭蓋が砕けて頭の形が歪んでいる。その後は加減がわからぬのか、内臓の詰まったお腹の膨らみを滅多突きである。クォータースタッフの鋭く尖った先端は、突きに用いれば槍とほとんど変わりない。

 

 ケンは観戦もそこそこに小石を拾って投げつけた。藪に隠れた二つの気配に命中すると、ガードレールの向こうからバターウルフが二匹同時に襲い掛かって来る。

 一方はガードレールを跳び越えた上段で爪を振りかざす。もう一方はガードレールの下を潜った下段からの噛みつきで、よだれを散らして開いた口は、ぶら下がったものを咥えやすいよう横向きであった。睾丸狙いの噛みちぎりである。一方が怯ませ役で、もう一方の攻撃役が首回転を活かしてねじり取るといった作戦であろう。自然界の動物とは異なり対人に特化した魔物らしい邪悪な戦術であった。

 上段の爪にせよ下段の口にせよ、一方をその場で防げばもう一方を食らうことになる。選ぶべきは回避であるが、飛びかかりの爪はともかく、突進の噛みつきは大げさに跳び退かなければならぬであろう。首の可動域の誘導性で、紙一重で避けたつもりが食いつかれる可能性がある。かといって体勢を崩すほどの回避動作は面白くない。せっかくの相手の攻撃の隙を突けず、二対一のままで仕切りなおす形となる。

「ケンくん!」

 トゥアナの悲鳴とほぼ同時に、ケンは身をひねって跳躍した。

 同時攻撃は上段と下段である。ならば中段が空いている。空中で水平方向の姿勢ならちょうど攻撃は届かない。安定性と威力を得るべくきりもみ回転しつつ剣線を走らせた。いわゆるコークスクリュージャンプに斬撃を乗せた形である。

 攻撃をすりぬけられたバターウルフ二匹が方向転換を試みる。爪を躱された方は慣性で軽く走って弧を描く。食いつき損ねた方は立ち止まって振り返り、踏みだそうとしたところで、匍匐前進しかできないのに気が付いた。後ろ足が動かない。それどころか感覚からしてまったくない。麻痺ではなかった。斬られていた。背中から腹にかけ、まっすぐに断ち切られた断面から内臓がこぼれ出た。身体を前後に分断されたバターウルフは弱々しくひと鳴きすると、アスファルトに引きずったはらわたの跡ごと、まもなく灰となった。

「やるね」

 セヴァリアが口笛を吹いたが、褒められたやり方では決してない。アナーケにあきれられた曲芸戦法である。相棒を惨殺されたバターウルフが憎らしげに頭を回して唸りながら、跳び掛かる機会をうかがっている。そこへさっさと間合いを詰めると、今度こそ堅実にやろうと正眼に構えた。

 バターウルフはあっけなく近寄られたことで反射的に、威嚇の声を中途で裏返らせて飛び出した。その踏み込みを引きつけるように一歩下がって躱しつつ、剣の先端で斬り付ける。目潰しである。両眼球に刃を入れられた盲目で狼狽えたところを、続けざまに両前足を断ち切った。支えを失った上半身が地べたに着いて強制的にお尻を突き出し、犬でいうところのプレイバウの体勢になる。しかしそれも一瞬で、首回転の勢いで手負いの獣というよりも魚のようにのたうち回った。

「エヴィオさん。とどめを」

 花を持たせるのではなく、死に物狂いの反撃を警戒した安全策のつもりであった。

「お、おう。ファイアボール!」

 ボール大の火球が着弾して火達磨になったバターウルフは、燃え尽きる前に灰になった。

 

 ちょうど一人一体ずつ仕留めたことになり、受験者たちはそれぞれの灰の骸を漁り出した。ケンは経験がありそうなオラッサのやり方を真似た。灰に足を突っ込む前に、首回りに手を入れて探ってみると、粘土に似た感触を指先に感じ、崩さぬよう気を付けて取り出した。灰塗れのぶよぶよとした塊である。

「ウルフバター、こいつらは当たりッスね」

 魔物の灰が消失して乳白色が顔を出す。黄色みがかなり弱いが、まさしくバターであった。あまりにあっけなく灰が消え去るので、普通は不潔な灰塗れが却って清潔感があるようにも錯覚された。

「名前そのまま、バターウルフのドロップ品ッス」

 魔物は死ぬと、魔石以外に肉体の一部を現世に残すことがあり、それがドロップ品と呼ばれている。いわゆる魔物素材であり、様々な用途と魔物からしか採れないことから、乱獲で値崩れを起こさぬかぎり、結構な額で取引される。

「ちょっと失礼」と、セヴァリアがケンのウルフバターを手にとって重さを量った。

「バターウルフのドロップ率は時間式だから、これらの個体はそれなりに長生きしたんだろう。まあその分、悪知恵を付けたようだがね」

 ドロップ品の出る確率は時間式と確率式の二方式があり、バターウルフの場合は生存時間によって出現率と出現量が増加する時間式である。ウルフバターは絶えず行なわれる首回転による遠心分離で、脂肪分が変化したものであるといわれている。バターなのに常温保存が可能であり、エヴィオの魔法で熱せられても融解せずに残っている。魔物素材にありがちな不可思議な特性である。塩を添加すると通常のバターと同じ性質になるらしい。ぬめっとした感触は手汗に反応したのであろう。

 ちなみにゴブリンのドロップ品は棍棒であるが、ドロップ率が固定とされる確率式で非常に低く、最下級の魔物由来にもかかわらずレア素材として高額取引されている。ゴブリンの調整種であるボブゴブリンの方は睾丸で時間式であり、バターウルフのバターと同じく、長生きするほど出やすく、そして大きくなる。

「僕は使ったことがないけれどウルフバターはお高い化粧品の原料になるらしいね。美容に熱心なご婦人方は料理にも使うと聞く。オリーブオイルの上位品という感じにさ」

 うげげー、と舌を出していやな顔をする。

「虎みたいにぐるぐる回ってバターになる。こんなお誂え向きの生態は、ボブゴブリンと同じで調整種だからともいわれているね。大昔からいて、原種も定かじゃないけれど」

 人間か魔族かは知らないが、古代の創造者は狼型の魔物を経済動物とするために、英国の絵本に着想を得たのかもしれない。

「意味がわからん。なんで虎がバターになるんだ?」

「童話の話さ。通じないだろうがね」

 エヴィオの疑問に苦笑を浮かべながらケンにバターを返却すると、セヴァリアは「ユーリン」と手のひらのバターのぬめりを石鹸魔法で散らしてから、メモ帳を取り出した。

「さて、今の戦闘で全員が魔物の撃破に成功した。実技における最低限の合格基準はこれで満たしたことになる。早くもね。とはいえフィールド探索はまだ続けるよ。以降は追加点と、二次試験のための功績稼ぎに移項する」

「三次に行くのに必要な中央のギルドポイントってやつッスね」

「そ。雀の涙だけれどね。まあGP(ギルドポイント)については帰還後に説明があるだろうからここでは省くよ。そしてここからは僕も戦闘に参加する。あまり出しゃばるつもりはないがね、試験中と違って助言もする。見たところ君たちは皆初受験のようだから伝えておこう。お察しの通り一次試験の難易度は相当ぬるい。素人でもぎりぎり受かるくらいに調整されている。これは中央試験全体が、受験者の現状の実力よりもその才能を測る試験であるからだ。一次試験で最低限の足切りをし、二次試験の仮免期間でレベルを上げさせ、三次試験で成長後の実力を評価する。才能とは成長力だ。中央が才能の世界といわれるのはそういう意味でもあるわけだ。試験の過程で成長させる。中央では冒険者学校なんてものはないからね。学閥だとか癒着だとかを避けた上で、在野の才能を取りこぼさぬようこんな迂遠な仕方をする。こうして一次試験で班ごとにいちいち現役をあてがうのは、教導を兼ねているというわけさ。もうとっくに冒険者としての自負がある、という人にアドバイザーは鬱陶しいだろうけれど、今は我慢してくれたまえ」

 セヴァリアに嫌味のつもりはなかったろうが、地冒経験者のオラッサが慌てたように首を振った。

「とりあえず初戦闘の評価といこうか。ざっとだがね。まずはオラッサ・イーミン。仲間への警告に戦闘自体も無難に済ませた。地冒経験者だからか指摘すべき点は別段なく、満点といえる」

「ッス」

 オラッサが照れて頬をかいた。

「エヴィオ・スジョーはパーティ戦は初めてかな? しかし魔法の威力は申し分ないし、誤射もしなかった。せっかちであったのには自覚しているようだから次は改善できるだろう」

 エヴィオが真剣そうに何回も頷いた。

「シガ・ケインは地力勝ちだね。コミュニケーションも案外問題なさそうだ」

「……ん」

 シガがハルバードを担ぎ直した。

「トゥアナ・ハメラル。すぐに冷静さを取り戻したし、才能も感じる。レベル上げをすれば一気に成長できるだろう」

「が、頑張ります」

 トゥアナがクォータースタッフを谷間に立てかけた胸の前で、両手をグーに「むん」と握った。オラッサとエヴィオ、それからなぜかセヴァリアの目が動いた。

「ケン・シースレスはなんというか」

 少し言い淀む。オラッサとエヴィオが何ともいえない顔を浮かべ、シガの視線も感じた。

「鮮やか過ぎて逆にグロい」

 他の四人に甘めの評価をつけるなかで、ケンにだけはあんまりな言い草であった。

 

 その後は国道の舗装道路を進む間に何度かバターウルフと戦ったが、最初の五匹のような群れと遭遇することはなく、だいたいが一匹二匹といった感じであった。

「この道は他の班も通ったろうし、めぼしい群れは返り討ちに遭ったようだね」

 バターウルフとの戦闘時にはケンとトゥアナとシガが前衛三人であえて足止めをしたところを、オラッサとエヴィオが遠距離攻撃で仕留めるという戦法をとった。

「パーティ戦の基本の練習といこう。前衛組には物足りないだろうけれど、わちゃわちゃとやり合うよりは安全だ」

 セヴァリアの言う通り実際に楽ではある。適当に剣を振り回してけん制すれば、魔法かチャクラムが飛んできてダメージを与えてくれる。

「前衛で囲んで叩く。これも正解だ。バターウルフは逃げ出さないし、狂犬病にもかからないから訓練にはちょうどいい」

 シガのハルバードに怯んだところにケンとトゥアナで回り込んで、袋叩きにもした。バターウルフは野生の狼と違って人間への暴力衝動に支配されているからか、一対多でも果敢に襲い掛かっては討ち取られてくれる。勝手に繁殖して自主的に屠殺されにやって来る家畜と考えれば、調整種であるという説も頷けた。ドロップ率が高く、慣れれば強さも手頃である。色々と危険なボブゴブリンと比べるなら、調整種の成功例といえるであろう。

 

 脇道を少し上った小高い丘で、昼食休憩をとることになった。見晴らしが良く焚き火痕や石で組んだベンチがある。魔素濃度が低くて魔物が近寄りたがらないので、休憩所として頻用されているのであろう。ゴミとして端っこにひび割れ汚れた竹筒や紙くずが散らばって、虫の住処になっていた。

 昼食は三三に別れて交代でとった。三人が周辺警戒をしている間に他の三人が休憩するという形である。ケンはトゥアナとセヴァリアと一緒に弁当を広げた。

 ケンとトゥアナの弁当は宿で貰った握り飯である。三つ竹皮に包んであり、具は梅干しとおかかで、あとの一つは塩むすびである。白米なのが嬉しい。村で常食していたような雑穀米は、傷みやすいので弁当に向かないのであろう。このサイズの竹皮では一人前以上包めないので健啖な冒険者にしてみれば物足りなく、ほとんどの客は二つか三つ、まとめて包みを貰っていた。ケンとトゥアナは女子供なので一つで充分であった。

 セヴァリアが取り出したのはシルバーに輝くアルマイトの弁当箱である。曲げわっぱや漆器より頑丈で、しかも火属性魔法による温めができる。さすがは現役の中央冒険者であった。弁当箱からして近代的である。

 ぱかりと開けたその中身に、つい注目してしまう。俵形に詰めたご飯には生姜とごま塩が振ってあり、おかずはしいたけとふきとれんこんの煮物に、にんじん入りのきんぴらごぼう、それから山椒の佃煮であった。豪華といえば豪華といえるが、思ったよりも地味に見える。塩分も過剰なように思われたが、おかずの組み合わせになんとなく引っかかる点があった。

 ケンの視線に気付いてセヴァリアが笑った。

「茶色いだろう? ちょっとした思い付きをね、再現してみたかったのさ。見たとおり地味だけど、さくらんぼは邪道だしね……ま、酔狂だよ」

 漆塗りの箸でふきをつまむとぱくりと口に入れた。

「ん、おいし」

 そういえば食前の再殺儀礼の斬る仕草は、ケンとトゥアナが縦一文字のおそろいで、セヴァリアはZ字であった。前者が手刀を寸止めするのに対し、後者はさっと指先を走らせる感じである。気風の違いが見て取れた。

「箸、お上手ですね。出身はこの国ですか」

「いいや。でも来たいと思っていたんだ。ずっと前からね」

 ゆっくり噛んでご飯を食べる。

「ベンセレムのお米は美味しいね。国道王の国作りが残っているだけのことはある。ここだって今はフィールドになってしまったけれど、あそこやあのあたりなんかは、田んぼだった跡だろう?」

 丘から見える景色の中、こんもり茂った森の合間に、棚のように点在する平地を指して言った。

「郷愁というのかな。外国出身の僕が感じるのも変だろうけどね……僕のおかず、食べるかい」

「頂きます」

 ケンの返事にセヴァリアは、なぜかくすくすと笑い出した。

「ああごめん。頂きますは魔族の言葉に翻訳すると『イタダキマス』になってしまうんだ。それが何だかおかしくてね。さ、どうぞ」

 竹皮に煮物ときんぴらを乗せてもらう。

「ほら、君もどうぞ」

「は、はい」

 話に入れず黙食していたトゥアナにも、予備の箸でつまんだおかずを差し出した。

「人間がご飯を食べられる回数というのは、見方によっては案外限られているものだ。一日三回、満腹にだってすぐになる。人生のうちその限られた機会を何の感動もなく、ただ腹を満たすために過ごしては、いつかきっと後悔する。冒険者はいつ死ぬかもわからないんだ。食事はなるべく楽しむべきだよ。中央はそれなりに儲かるんだから変に節約なんて考えず、うんと美味しいものを食べるといい。まあ、仕事中は食べ過ぎには注意だけどね」

 いうまでもないが魔物との戦いには命の危険が付きまとう。今のこれが最後の食事になるかもしれぬと考えれば、セヴァリアの助言は尤もである。見ればトゥアナは感銘を受けたのか、一口一口噛み締めるように握り飯を食べている。そうして途中、梅干しにあたってすっぱそうに顔を歪めた。

 ケンも未だ、昔ながらの梅干しの強烈な塩分濃度には馴染めていない。油断せず慎重に齧り付いた。塩むすびであった。



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