マギアと呼ばれた男の物語 (ちょう☆こーが)
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序章
魔法剣士ロベルトのこれまで


 

 

 

 道に迷ったロベルトは、森の中でユリアンと名乗る毛むくじゃらの怪物と出会った。かつては気弱な若衆であった彼は、呪いによって姿を変えられ、「鮮血」と「真実の愛」でのみ呪いを解くことができるのだという。ユリアンは今は水の精霊エヴェリナと暮らしていて、もとの姿に戻るつもりはないと言うが、ロベルトはエヴェリナの真の姿に気づく……………

 

 

 

 

 

 ロベルトはシュチェビンという街で、古い友人の魔法使いアルトゥルに再会し、怪物退治を依頼される。この地域では、月食のあとに生まれた娘は成長するにつれバケモノへと変異し災いをもたらすと信じられ、殺されたり、幽閉されたりしていた。アルトゥルはかつて王女レナータを〃いずれ変異する者〃と診断し、レナータは荒野に捨てられたが、ひそかに生き延び、殺し屋となって執拗にアルトゥルの命を狙っていたのだ。ロベルトは、ノームの一団を率い街に現れたレナータに会い、復讐をとどまるよう説得するが……………

 

 

 

 

 

 シェロナ国にやってきたロベルトは、〃シェロナの雌狼〃と呼ばれるヨアンナ女王の依頼で貴族になりすまし、宮廷の晩餐会に出席していた。

 王女ヨランタが十五歳になるこの日、晩餐会には各地から求婚者が集まった。宴たけなわのころ、鎧兜に身を包んだアドリアンと名乗る男が現れた。アドリアンは十五年前、今は亡き国王と交わした誓いにもとづき、ヨランタを花嫁としてもらいにきたという。

 この日を待っていたいうアドリアンが兜を取ると、そこには棘に覆われた怪物の顔が現れた。が、ヨランタは彼についてゆくと答える。女王はヨランタを奪われるのを阻止すべく、アドリアンを殺すためにロベルトを雇っていたのだ。だが、ヨランタの意志が固いことを知り、女王はふたりの結婚を許す。それによって魔法は解け、怪物アドリアンはヨランタの恋人であるダミアンに戻る。謝礼に何が欲いかと訊かれたロベルトは、数年後、ヨランタが身籠っている子と自分の運命を確かめに来ると告げて去った。

 

 

 

 

 

 ロベルトと友人の吟遊詩人マクシミリアンは、草木が豊かな《花の谷》で農夫と出合い、畑を荒らし穀物を盗む悪魔を追い払ってほしいと頼まれる。村人たちは予言者である少女リリスから怪物を殺してはならないと言われていたが、悪魔に穀物を盗まれ年貢が足りなくなり、ロベルトに助力を乞うことにした。だが、悪魔の姿をした怪物が穀物を盗むのには理由があった……………

 

 

 

 

 

 ロベルトとマクシミリアンは川で石の壺を見つけた。中から現れたのは、三つの願いを叶えるジルという精霊。ジルは強大な力を持ち、願いを叶えてくれるが邪悪な性質も持っていた。ロベルトは辛くも、ジルに捕らわれていた女魔法使いパトリツィアを助け出しふたりは結ばれる。が、ほどなくしてロベルトは彼女のもとを去り、旅を続けるのであった。

 

 

 

 

 

 ロベルトは、ツォメリク国の都ヴァウジで、ジグムント王から住民を襲う怪物を退治してほしいと依頼を受けた。ストリガと呼ばれる怪物の正体は、十数年前にジグムント王が実妹のアギと交わって生まれ、産後すぐに死亡した娘を媒体とした死霊であった。ロベルトは怪物と戦い呪いを解き、もと通りの姿に戻してやることに成功した。だが、その際に首に深い傷を負い、女神マリアレの寺院で巫女ニェシュカによる治療を施される。

 やがて、ロベルトは引き止めるニェシュカを振り払って旅立った。巫女によって予見された、不吉な未来へと向かって。

 

 

 

 シェロナ国が南方のプウォジューフ帝国の侵略を受け、王族がことごとく殺されるのはそれから二年後のことである……………

 

 

 



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第一章
悪い夢





 


 

 

 

 汝らに告ぐ ー 剣と斧の時代は近い。獅子の吹雪の時代は近い。白冷と白光のときは近い。狂気のとき、屈辱のとき、テッド・ダリーター ー 終末のときは近い。世界は霜の中に滅し、新たな太陽と共に蘇るであろう。それこそ、世界にまかれた古き血脈 ー ヘン・セチェル ー の種が蘇るとき。種は芽吹くのみならず、炎となって燃え上がるだろう。

 シャ=トゥース・エイ!かくなるべし!徴を待ち受けよ!それがどのようなものであれ、最初に地上にはアエン・テーゼ ー エルフ ー の血が流れ………

 

 ーイスリン・エグリ・ライル・エヴェニエンの予言の書ー

 

 

 

 

 

 街は燃えていた。

 濠と近くの高台に通じる狭い路地は煙と火の粉を吐き、密集する藁葺き屋根の家屋を炎がむさぼり、城壁をなめつくそうとしていた。港門のある西の方から聞こえる叫び声と激しい戦闘の音と破城槌の鈍い響きが、次第に大きくなってくる。

 侵略軍はいきなり街を包囲し、僅かな兵と、鉾槍を持った一握りの住民と、ギルドから派遣された数名の石弓兵が守っていた防塞を破壊した。黒い馬飾りをなびかせた馬群が亡霊のように柵を飛び越え、騎兵隊の眩しく光る剣刃が逃げ惑う防衛軍の間に死の種を撒き散らしてゆく。

 ディアを鞍の前に座らせた騎士が拍車をかけ、叫んだ。

 「つかまれ、つかまれ!」

 シェロナ国の軍旗を掲げる騎士団が後ろから追いつき、全速力でプウォジューフ兵に向かっていった。鋼のぶつかる音、刃と盾がぶつかる音、馬の嘶きが辺りを満たし、視界の隅で青地に金の軍服と、黒いマントが狂ったように渦巻き ー叫び声が上がった。いや、声じゃない ー 悲鳴だ。

 「つかまれ!」

 怖い。馬体が揺れ、引きつけ、跳ねる度に、手綱を掴んだ両手に痛みが走った。脚は痛みで強張り、身体はぐらつき、煙で目がうるむ。身体にまわされた腕で喉が詰まり、肋骨が押さえつけられて息ができない。聞いたこともないような悲鳴がさらに大きくなった。一体何が、これほどの悲鳴をあげさせるの?

 怖い。怖くて動けない。息もできない。 

 鋼がぶつかる音。馬の嘶き。周囲の家並みが渦を巻き、さっきまで死体と、逃げ惑う住民が捨てた荷物が散らばるだけだった狭い路地に窓が浮かび、炎が噴き出した。鞍の後ろに座っていた騎士があえぐように咳き込み、手綱を握る手に血がほとばしった。悲鳴があがり矢がかたわらをかすめ飛ぶ。

 ディアは落馬し、痣ができるほど激しく甲冑にぶつかった。蹄が脇を駆け抜け、馬の腹と擦り切れた腹帯が頭上をかすめてゆく。さらにもう一頭の馬の腹と黒い馬飾りが通り過ぎた。木こりが木を切り倒すときのような力のこもった唸りが聞こえる。でも、これは木じゃない。鉄と鉄がぶつかる音だ。くぐもった低い叫びとともに黒く大きな塊が血を噴き、パシャッとディアの脇のぬかるみに倒れ込んだ。武具をつけた足が震え、ばたつき大きな拍車が地面をえぐっている。

 その瞬間、ディアが誰かにぐいと掴まれ、別の鞍の上に引き上げられた。つかまれ!気がつくと、またしても疾走する馬の背上にいた。ディアは死にものぐるいで掴まるものを探した。馬が後ろ脚で立ち上がる。つかまれ!………でも、掴めるものは何もない。何も………何も……………あるのは血だけ。馬が倒れた。飛び退きたいけど動けない。どんなにもがいても、鎖かたびらに覆われた腕を振りほどけない。頭と肩に血が降りかかる。

 ディアは馬から放り出され、ドサッと地面に落ちた。馬の背で激しく揺られたあとでは、地面にじっとしている方がかえって怖い。馬が立ち上がろうとして、あえぎ、嘶き、蹄鉄の響きとけずめと蹄が脇を駆け抜けた。黒い馬飾り、黒いマント。怒号。

 通りが燃え、赤い炎の壁がうなりを上げた壁の前に、騎乗の騎士の影が燃え盛る屋根より高く浮かび上がった。黒い飾りをつけた馬が跳ね回り、頭を仰け反らせて嘶いた。

 騎士がディアをじっと見下ろした。猛禽の羽でふちどられた巨大な兜の隙間から、光る目が見えた。下ろした手に握った剣の幅広い刃に炎が写っている。

 騎士がディアを見ていた。ディアは動けなかった。死んだ騎士の腕が腰に巻きつき、重くて血まみれのものが太ももの上に横たわって、地面に押さえつけられている。

 ディアは恐怖に凍りついた。胃がひっくり返りそうだ。傷ついた馬の嘶きも、炎のうなりも、住民の断末魔も、蹄の音も聞こえない。そこに存在し、意味を持つのは恐怖だけだ。恐怖が羽つき兜の黒騎士となって、猛り狂う赤い炎の壁を背に凍りついたように立っていた。

 騎士が、馬に拍車をかけた瞬間、兜の翼が猛禽の飛翔さながら羽ばたき、恐怖にすくみ上がる哀れな獲物に向かって飛び立った。鳥が ー いや、騎士が ー 恐ろしげに、残酷に、勝ち誇ったように叫んだ。黒い馬。黒い鎧。はためくマント。その向こうには ー 燃え盛る炎。炎の海。

 怖い。

 鳥が甲高い声を上げた。翼が羽ばたき、ディアの顔を叩く。怖い!

 助けて! どうして誰も助けてくれないの? たった一人で放り出され、なす術もないあたしを………。動けない。喉が詰まって声も出ない。どうして誰も助けに来ないの?

 怖い、助けて

 羽のついた大兜の隙間越しに目が光った。次の瞬間、黒マントが全てを覆い ー

 「ディア!」

ディアは悲鳴を上げて目を覚ました。全身が痺れ、汗びっしょりだ。自分の悲鳴の余韻が辺りを満たし、身体の奥 ー 胸骨の下 ー でなおも振動し、渇いた喉にやきついている。両手は痛いほど毛布を握りしめ、背中が痛い………。

 「ディア。落ち着け」

 暗く、風の強い夜。周囲の松林梢が音楽のように絶えずざわめき、枝と幹が風にきしんでいる。燃え盛る炎もなければ、悲鳴も聞こえない。聞こえるのは森の優しい子守歌だけだ。焚き火が光と熱を放って揺れていた。炎が馬具の留め金に反射して輝き、地面の鞍に立て掛けた剣の、革と鉄帯で巻かれた柄を赤く照らしている。それ以外に炎や鉄はどこにもない。ディアの頬に触れた手からは血ではなく、革と灰のにおいがした。

 「ロベルト ー 」

 「ただの夢だ。悪い夢を見ただけだ」

 ディアは身体をギュッと丸め、激しく身震いした。

 夢。ただの夢。

 焚き火が消えかかっていた。カバノキの薪が赤く光り、ときおりパチっとはじけて小さな青い炎を放つと、身体を毛布と羊の毛皮で包んだくれる男の白髪と鋭い横顔が浮かび上がった。

 「ロベルト、あたし ー 」

 「ここにいる。眠るんだ、ディア。休め。まだ先は長い」

 音楽が聞こえる ー ふとディアは思った。木々のざわめきに交じって………音楽が聞こえる。リュートの音。人々の話し声。シェロナ国の王女………運命の子………古き血脈の子……… ー エルフの血 ー 。マギアのロベルト。《白獅子》。その運命。いや、あれはただの伝説だ。詩人の創作だ。王女は死んだ。脱出の途中で殺された………。

 つかまれ……! つかまれ………。

 

 

 

 「ロベルト?」

 「なんだ、ディア?」

 「あの人はあたしに何したの? 何があったの? あの人は………あたしに何をしたの?」

 「誰のことだ?」

 「騎士………羽のついた兜をかぶった黒い騎士………何も思い出せない。覚えているのは、怖かったこと………とても怖くて………」

 ロベルトが顔を近づけた。焚き火の炎がロベルトの目の中で火花を散らした。不思議な目。とても不思議な目だ。最初は怖くて目を合わせられなかった。でも、それは遠い昔。はるか昔のこと………。

 「何も思い出せない」ディアは呟き、原木のように堅く、ざらざらするロベルトの手を探った。「黒い騎士が ー 」

 「夢だ。ゆっくり眠れ。もう悪い夢は見るな」

 これまで何度もそんな言葉を聞かされた。何度も、何度も。夜中に自分の悲鳴で目が覚めるたびに、ディアはなだめるような言葉をかけられた。でも、今度のは違う ー ディアは思った。今度だけは信じられる。ロベルトの言葉だから。マギア。マギアのロベルトは戦いと死と絶望の中からあたしを見つけ、救い出し、決して離れないと約束してくれた。 

 ディアはロベルトの手をきつく握ったまま、眠りに落ちた。

 



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吟遊詩人






  

 

 

 吟遊詩人は首を少しかたむけ、静かに ー 弟子の伴奏より一音だけ高いリュートに乗せて ー 口承説話のリフレインを繰り返し、歌い終えた。

 あたりは水のように静まりかえった。音楽の余韻と、かすかな葉擦れの音と、樫の巨木の枝のきしみが聞こえるだけだ。樫の老木のまわりの荷馬車につながれたヤギがメーと鳴いた。それが合図だったかのように、大きな半円状になって座っていた聴衆の中から男が立ち上がると、金モールでふちどりしたコバルトブルーのマントを肩ごしに払いのけ、ぎこちなく形式張ったお辞儀をした。

 「ありがとう。マクシミリアン」大きくはないが、よく通る声だ。「僭越ながら、わたくしビャウィンスルト・アカデミーの魔法学講師スダニワフが聴衆を代表し、素晴らしい演奏に感謝と賞賛の言葉を捧げたい」

 スダニワフは聴衆を眺めまわした。少なくとも百人はいそうだ。地面に座る者………荷馬車に座る者………樫の根元に小さな半円を描いて立つ者………それぞれがうなずき、囁き合っている。拍手する者もいれば、両手を挙げて詩人に呼びかける者もいる。女たちは感動して鼻をすすり、涙を拭った。何で拭うかは、身分、職業、そして懐しだいだ。農婦は肘と手首のあいだや手の甲でごしごし擦り、商人の妻は麻のハンカチで目頭を押さえ、エルフの女と貴婦人は目のつんだ高級綿のハンカチを押し当てている。はやぶさ狩りを中断し、側近とともに有名な吟遊詩人の演奏を聴きに来たリシャルド男爵の三人の娘たちは、上品な苔緑色のカシミヤスカーフで大袈裟な音を立てて鼻をかんだ。

 「深く感動したぞ、マクシミリアン。決してお世辞ではない」大学講師にして魔法使いであるスダニワフが続けた。「そなたは我々を内省と思考に駆り立て、我々の心を動かした。心より感謝と敬意を表する」

 マクシミリアンは立ち上がり、サギの羽根のついた洒落た帽子を膝の前でさっとひるがえして、お辞儀した。弟子の少年も演奏をやめ、ニッと笑ってお辞儀したが、マクシミリアンに睨まれて小声で注意されると、頭を下げ、再び静かにリュートを爪弾きはじめた。

 聴衆がざわめきだした。隊商の旅商人たちは同業者同士で囁き合い、ビールの大樽を樫の根元に向けて転がした。スダニワフはリシャルド男爵との内緒話に没頭し、鼻をかみ終えた男爵の三姉妹はうっとりとマクシミリアンを見つめている。だが、当のマクシミリアンは、辺りを気取って歩く、もの静かなエルフの一団に笑いかけ、片目をつぶり、歯を見せた。笑いかけるのに忙しく、全く気づいていなかった。お目当ては、オコジョの毛皮の小さな縁無し帽をこれみよがしにかぶった目の大きな黒髪の美少女だ。だが、ライバルが多すぎた。大きな瞳と美しい縁無し帽の女は注目の的で、騎士や学生やさすらいの書生詩人らがこぞって視線を送っている。エルフの美少女は明らかに視線を楽しむように、シュミーズドレスのレースの袖口を摘んだり、まつ毛をぱちぱちさせたりしいているが、女を囲むエルフの男たちは、そんな周囲の視線に露骨に嫌悪の表情を向けていた。

 樫の大木 ー ブレオブへリス ー がそびえる空き地では、よくこうした集会が開かれる。ここは寛容と開放性で知られる旅人の休憩所であり、さすらい人の出会いの場だ。老木を守るドルイドたちは、この木を《友好の座》と呼び、訪れる者は誰でも喜んで受け入れた。しかし、〃世界的に有名な吟遊詩人の公演〃という希有な場面にあっても、旅人のあいだにははっきりしたグループ分けがあり、互いに交わることはなかった。エルフはエルフ同士。隊商の用心棒に雇われることの多い完全武装のドワーフ職人も同族で寄り集まっている。両グループの近くで野営できるのは、ノームの鉱夫かハーフリングの農民くらいだ。非人間族は、みな人間から離れ、人間も彼らとは距離を置いた。人間同士にも区分けはある。貴族はあからさまに商人や行商人を見下し、兵士と傭兵は羊飼いと羊皮のにおいを嫌い、少数の魔法使いと弟子は完全に孤立し、どの集団に対しても尊大な態度を取った。そのまわりで遠巻きに様子をうかがうのは、地味で大人しく、結束の強い農民たちだ。熊手や三叉、殻竿を持ちじっと立つ姿は森と変わらず、彼らに注意を払う者は誰もいない。

 例外は子どもだけだ。演奏中大人しくさせられていた子どもたちは、曲が終わると同時に歓声を上げて森へ駆け出し、幸せな子ども時代に別れを告げた者たちにはとうてい理解できないルールの遊びに熱中し始めた。あらゆる種族の子どもがいた。エルフ、ドワーフ、ハーフリング、ノーム、ハーフエルフ、クォーターエルフ、そして ー 今のところ ー 族名も社会的区分もわからない謎の種族………。

 「そのとおり!」支柱のように細い騎士が空き地の端から声を上げた。右前足を上げて歩く三頭の獅子が描かれた赤と黒のチュニックを着ている。「まさに魔法使いの言うとおりだ! 実に美しいバラッドだった。誉れ高きマクシミリアン殿、我が領主の城があるホジュローヴァの近くを通るときがあれば、遠慮なく立ち寄っていただきたい。王子のごとく ー いや、ヴォスミル王その人ごとく ー 歓待されるだろう! これまで数多くの歌を聴いてきたが、我が剣にかけて、あなたにかなう者はない。騎士になるべくして生まれ、騎士の使命を与えられた我々一同より、その才能に敬意と賛辞を送りたい!」

 今こそ絶好のタイミングとばかりにマクシミリアンは弟子の少年に目配せした。少年はリュートを脇に置き、賞賛を形で表してもらうための小さな集金箱を掴んで一瞬躊躇い、聴衆を眺めわたすと、小箱を地面に戻し、脇の大きなバケツを掴んだ。マクシミリアンは思慮深い弟子に承諾の笑みを向けた。

 

 

 



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詩の力


 


 

 「親方!」荷馬車に座る巨体の女が呼びかけた。小枝細工を満載した荷馬車の横腹には[レヤ・カタジェンハヴォナと息子たち]の文字。だが、息子たちの姿はどこにもない。母親が苦労して稼いだカネを、どこかでせっせと浪費しているに違いない。「マクシミリアン親方、これはどういうこと? このままやきもきさせて終わる気かい? バラッドはあれで終わりじゃないんだろ? 続きを歌っておくれよ!」

 「歌とバラッドに終わりはありません、親愛なるご婦人」マクシミリアンはお辞儀した。

 「詩は永遠不滅であり、始まりもなければ、終わりもなく ー 」

 「あのあと何が起こったんだい?」女行商人カタジェンハヴォナは、マクシミリアンの弟子が差し出すバケツにジャラジャラと気前よく硬貨を投げ入れながら食い下がった。「歌がだめなら、せめて教えておくれ。名前はなかったけど、歌に出てきた魔法剣士が有名な《白獅子》ロベルトで、ロベルトが熱愛する女魔法使いが同じくらい有名なパトリツィアってことくらい、みんな知ってる。そしてロベルトと運命づけられ、誓によって、生まれたときからロベルトと結びつくと定められた《驚きの子》は侵略され、破壊されたシェロナ国の不幸な王女ディア ーだろ?」

 マクシミリアンは謎めかした、素知らぬ顔で微笑んだ。

 「ぼくが歌うのは普遍的なこと ー すなわち誰もが経験する感情で、特定の人物のものではありません、寛大なるご婦人どの」

 「はぐらかさないで!」群衆の中から声がした。「誰だって、さっきの歌が魔法剣士ロベルトのことだって知ってるわ!」

 「そうよ、そうよ!」リシャルド男爵の三姉妹が濡れたスカーフを乾かしながら声をそろえた。「先を歌ってくださいな、マクシミリアン! 次はどうなるの? ロベルトと魔法使いのパトリツィアは最後に会えるの? 二人は愛し合っていたの? 幸せだったの? 続きを教えて!」 

 「もうたくさんだ!」ドワーフのリーダーが腰まで伸びた立派な赤毛のあごひげを揺らした。「王女の話も、女魔法使いの話も、運命も、愛も、女たちの奇妙な話も、全部でたらめだ。言わせてもらうがな ー 大詩人殿 ー 今のは全部、嘘だ。話を美しく、泣けるものにするための作りごとにすぎん。だが、戦のくだりは見事だったぞ、マクシミリアン!シェロナの大虐殺と略奪。トルラダムとグダンの戦い。あの歌に銀貨を一枚、進ぜよう。戦士の魂に喜びを! このシュルティアン・ズルットスが断言する ー 戦の場面には一グラムの嘘もない。儂には真実か嘘かがわかる。なぜならグダンにいたからだ。儂は斧を片手にプウォジューフの侵略者の立ちはだかり ー 」

 「このトリエのドミニクもグダンにおける二度の戦に参加した!」三頭の獅子のチュニックを着た細身の騎士が声を張り上げた。「だが、あんたの姿はなかったぞ、ドワーフ殿!」

 「ふん、どうせ野営地の見張りばかりしてたんだろう! 儂が最前線で戦ってるときにな!」

 「言葉に気をつけろ、ひげ親父!」ドミニクは顔を真っ赤にし、剣帯に差した斧をパンと叩き、仲間のドワーフを振り返ってニヤリと笑った。「あの男を見たか? へぼ騎士め! あの紋章を見ろ。はっ!盾形紋に三頭獅子だと? 見ろ、二頭は糞の最中で、もう一頭はぐるぐるうなってるぞ!」

 「場所を弁えろ、お前たち! ここはブレオブへレス ー 世界中の論争と反目を見てき

た古い樫の下だぞ! しかも大詩人マクシミリアンの前で争うとは何ごとか。我々がバラッドから学ぶべきは、争いではなく愛だ」

 「その通り!」汗で顔を光らせた小太りの司祭が賛同した。「汝らは目を持ちながら何も見ず、耳を持ちながら何も聞かぬ。なぜなら神の愛を持たぬからだ。汝らは、まるで空樽の

ごとく ー 」

 「樽と言えば」横腹に[鉄器製造販売]と書かれた荷馬車から、鼻の長いノームが金切り声を上げた。「もう一樽、転がしてくれ、ギルドの旦那! マクシミリアンは、きっと喉がカラカラ、俺たちの喉も泣いたり笑ったりでカラカラだ!」

 「 ー まさしく汝らは空樽のごとく!」司祭は鉄器売りの言葉に流されまいと、強い口調で続けた。「空樽のごとく、マクシミリアンのバラッドを少しも理解せず、何も学んでおらん! バラッドに歌われた人の運命というものがわかっておらん。我々は神々の玩具にすぎず、我々の土地は神々の遊び場にすぎない。ここに描かれた運命は、我々全ての運命だ。魔法剣士ロベルトとディア王女の伝説は ー 本当にあった戦を題材にしてはいるが ー 所詮はひとつの例えにすぎん。わかりやすいように詩人の想像力が生み出した ー 」

 「お説教はたくさんだよ、神父さん!」女行商人カタジェンハヴォナが荷馬車の高いところから叫んだ。「何が伝説だって? どこが想像力の産物だって? あんたは知らないかもしれないが、あたしは魔法剣士のロベルトを知っている。この目で見たんだ ー ヴァウジの街で、ロベルトがジグムント王の娘の呪いを解いたときにね。そのあと[商人街道]でも見かけた。ディクシアの頼みで、隊商を襲おうとした獰猛なグリフィンを斬り殺し、善良な人々の命を救ったんだ。これは伝説でも、御伽話でもない。マクシミリアン親方が歌ったのは嘘偽りのない本当の話だ」

 「その通り」太い三つ編みの黒髪を背中に垂らした細身の女兵士が言った。「わたしテラリア国のレーナも、有名なモンスタースレイヤー ー 《白獅子》のロベルト ー を知っている。魔法使いのレディー・パトリツィアにも何度か会ったことがある。グディーニク国に出かけ、パトリツィアの生まれ故郷ジェレードーラを訪ねたものだ。もっとも、二人の恋愛については知らないけれど」

 「でも、きっと本当でしょう」オコジョの毛皮の帽子をかぶったエルフの美女が突然歌うような声で言った。「あんなに美しい愛のバラッドが本当でないはずがないわ」

 「そうよ!」リシャルド男爵の娘たちが声を上げ、号令がかかったかのようにそろってス

カーフで目を拭った。「本当でないはずがないわ!」

 「魔法使いの旦那!」カタジェンハヴォナがスダニワフに呼びかけた。「二人は愛し合っていたのかい? パトリツィアとロベルトに何があったのか、知ってるんだろ? 教えておくれよ!」

 「歌にそうあるのなら、そうなのだろう」と、スダニワフ。「そして二人の愛は永遠に続く。これこそ詩の力だ」

 「噂によれば」リシャルド男爵が口を挟んだ。「ジェレードーラのパトリツィアはグダンの丘で死んだらしい。そこでは数名の女魔法使いが殺され ー 」

 「それは違う」トリエのドミニクが反論した。「パトリツィアの名は墓碑銘にはなかった。わたしはあの近くの出身で、よくグダンの丘に登り、墓碑銘に刻まれた名前を何度も読んだ。あそこでは三人の女魔法使いが死んでいる。レギナ・バルバーリス………ユーフラの名で知られるルタ・カネバ………それから………あと一人は、誰だったか………」

 ドミニクはスダニワフを見たが、魔法使いは無言で微笑むだけだ。

 「その魔法剣士 ー パトリツィアを愛したロベルトとかいう男 ー も、きっと今ごろは砂を噛んでいるに違いない」と、シュルティアン・ズルットス。「ロベルトはヴェルデラのどこかで殺された。今まで数多くの怪物を斬り殺し、ようやく敵わない相手に遭遇したってわけだ。剣で戦う者は剣で死ぬ ー そういうもんだ。どんな剣豪も、いずれはもっと強いやつに出くわす。そして硬く冷たい鉄を味わわされる」

 「それはどうだか」細身の女兵士レーナが血の気のない唇をゆがめて地面にあらあらしく唾を吐き、鎖かたびらで覆った腕をガチャリと組んだ。「白獅子のロベルトより腕の立つ人物がいるとは思えない。彼の剣さばきを見たことがあるが、そのスピードたるや人間業ではなく ー 」

 「そのとおり」と、スダニワフ。「人間業ではない。魔法剣士は突然変異の産物だ。人間ではないのだ。つまり反射神経が ー 」

 「魔法使いの言葉は難しくてよく分からないが、」レーナはさらに苦々しく唇をゆがめた。

 「これだけはわかる ー これまで見た中で《白獅子》こと魔法剣士のロベルトほど優れた剣士はいない。〃剣で負けた〃というドワーフの言葉は信じられない」

 「〃どんな剣士も、敵が多けりゃクソ剣士〃」ズルットスが気取った口調で言った。「エルフのことわざにあるようにな」

 縁無し帽の美女の隣に立つ金髪で長身の[古代種族]、すなわちエルフの男が反論した。

 「エルフはそんな汚い言葉は使わない」

 「そうよ! そうよ!」リシャルド男爵の娘たちが緑色のスカーフの後ろから金切り声を上げた。「あの魔法剣士のロベルトが簡単に殺されるものですか! ロベルトは運命の子ディアを見つけ、魔法使いのパトリツィアと再会し、三人は末永く幸せに暮らしたんだ! そうなんでしょう、マクシミリアン?」

 「これはバラッドだよ、お嬢さん方」ビールが飲みたくて仕方ない鍛冶屋のノームが欠伸をしながら言った。「なぜバラッドに真実を求める ?詩と事実は別物だ。例えば、いいか ー その子の名はなんだ ー ディアか? かの有名な《驚きの子》だ。こいつは間違いなくマクシミリアンの創作さ。俺は何度もシェロナに行ったことがあるが、王と后に子供はいなかった。娘も、息子も ー 」

 「それは違う!」アザラシ皮の上衣を着て、額に格子柄のハンカチを巻いた赤毛の男が叫んだ。「シェロナの雌狼と呼ばれたヨアンナ女王にはヨランタという娘がいた。ヨランタは海で嵐に遭い、夫と共に溺れて死んだんだ。

 「ほら、これでわかっただろ?」ノームは〃皆が証人だ〃とでもいうように周囲を見まわした。「シェロナの王女の名はヨランタだ。ディアじゃない」

 

 

 

 



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《友好の座》

 

 

 

 「ディアは溺れ死んだヨランタの娘だ」と、赤毛の男。「つまり、ヨアンナ女王の孫娘だ。ディアは王女じゃないが、シェロナの王女の娘であるのは間違いない。ディアこそ魔法剣士ロベルトに運命づけられた《驚きの子》だ。マクシミリアンが歌ったとおり、ヨアンナ女王はディアが生まれる前に、ロベルトに託すと誓った。だが、ロベルトはディアを保護することも、見つけることもできなかった。ここだけが事実と違うところだ」

 「たしかに事実とは違う」筋骨たくましい若者が口を挟んだ。傑作を作り、親方の試験に合格する前に旅をしている職人といった風情だ。「魔法剣士ロベルトの運命は誓どおりにはならなかった。ディアはシェロナが包囲されたときに殺された。ヨアンナ女王は塔から身を投げる前、その手で孫娘を殺した。 ー 生きてプウォジューフの餌食になるよりましだと考えて」

 「違う、でたらめだ!」と、赤毛の男。「王女の娘は虐殺の街から逃げようとして、殺されたんだ」

 「いずれせよロベルトはディアを救えなかった!」と、鍛冶屋のノーム。「詩人は嘘つきだ!」

 「でも、美しい嘘ね」縁なし帽のエルフが、背の高い金髪のエルフにすり寄った。

 「詩の話じゃない。事実かどうかの問題だ!」と若い職人。「王女の娘は祖母の手にかかって死んだんだ。シェロナに行ったことがある者は、誰だって知ってる!」

 「だから、王女の娘は脱出する途中で殺されたと言ってるじゃないか!」と、赤毛の男。「俺はシェロナの出じゃないが、戦時中はシェロナを援助したクアレッジ諸島の軍にいた。知ってのとおり、シェロナの国王エンハンスト・ジェルーチカはクアレッジ諸島の出身で、クアレッジの軍司令官の叔父に当たる。俺は司令官直属の部隊にいてトルラダムとシェロナで戦い、敗北したあとはグダンで ー 」

 「ここにも退役軍人か」ズルットスが周囲のドワーフたちに向かって歯を剥き出した。

 「ここは英雄と戦士だらけだな。おい、一人くらい、トルラダムとグダンで戦わなかった者はいないのか?」

 「そんな皮肉は通用しないぞ、ズルットス」長身のエルフが〃お前たちに手出しはさせない〃とでも言うように、帽子の美女の腰に腕をまわした。「グダンで戦ったのはきみたちだけではない。私も参戦した」

 「どちら側で戦ったものやら」リシャルド男爵がわざと聞こえるような声でスダニワフに囁いたが、エルフは気にする素振りもない。

 「周知のとおり」エルフはリシャルド男爵とスダニワフには目もくれずに言った。「二度目のグダンの丘の戦いでは十万人の兵士が戦場に立ち、少なくとも三万人が負傷もしくは死亡した。この有名かつ悲惨の戦いをバラッドにし歌い、不滅のものにしたマクシミリアンの功績は賞賛されるべきだ。わたしはこの歌詞と旋律から、戦争讃美ではなく、警鐘を聞き取った。改めて、この作品を生んだマクシミリアンに賞賛と永久なる名声を捧げたい。この歌は、必ずや将来、グダンの戦いのような残酷で無用な悲劇の再来を防ぐだろう」

 「なるほど、貴君はバラッドから非常に興味深いメッセージを読み取られたようだな、エルフ殿」リシャルド男爵が挑むようにエルフを見た。「無用な戦い、だと? 悲劇の再来を防ぐ、だと? すると何か ー 再びプウォジューフが攻撃してきたら降伏しろっていうことか? プウォジューフの支配を黙って受け入れろと?」

 「命はかけがえのないものだ。なんとしても守らなければならない」長身のエルフが冷ややかに答えた。「大量殺戮と人命の犠牲を正当化するものは何もない。グダンにおける二度の戦いは ー 勝ち戦も負け戦も ー 殺戮と犠牲を伴った。いずれの戦いでも何千という人命が奪われた。それによって、あなた方は想像できないほど多くの潜在的 ー 」

 「エルフのほら話か!」ズルットスが歯を剥き出した。「くだらん! あの戦いは、民衆が平和にまっとうに暮らすために払わなければならなかった代償だ。それとも何か ー 民衆が鎖につながれ、目を潰され、塩鉱や硫黄鉱で強制労働させられた方が良かったと言うのか? 英雄的な死を遂げた者たちは、自分たちの家で守ることの大切さを教えてくれた。マクシミリアンのおかげで、英雄たちは儂らの記憶の中で永遠に行き続ける。歌ってくれ、マクシミリアン、みんなにバラッドをもっと聴かせてやってくれ。あんたの教訓は無駄にはならん。いつかきっと役に立つ。いいか、よく聞け。プウォジューフはもう一度襲ってくる。今日ではないにしても、明日はわからん! 今はまだ傷口を舐めているが、黒マントと羽つき兜が再び現れるのは時間の問題だ!」

 「目的はなんだい?」と、カタジェンハヴォナ。「どうしてあたしたちを虐げようとする? どうして平和な暮らしをぶち壊そうとする? プウォジューフ人は何が欲しいんだ?」

 「我々の血に決まってる」と、リシャルド男爵。

 「いいや、俺たちの土地だ!」とひとりの農民が叫んだ。

 「そして儂らの女だ!」ズルットスがすごみのある声で唸った。

 何人かが ー 静かに、こっそりと ー 笑い始めた。ドワーフ以外に誰が不細工なドワーフ女を欲しがるだろう? 考えるとおかしくてたまらないが、それをネタにからかったり、ふざけたりするのは危険だ ー 特に、腰帯の斧と短剣を一瞬で握る、背が低くてがっちりしたひげ面の種族の目の前でやるべきではない。しかも連中は、どういうわけかドワーフ以外の全種族が自分たちの妻や娘を狙っていると思っており、この話題になるとすぐにカッとなる。

 「いつかは起こることだった」白髪にドルイドが言った。「起こるべくして起こったことだ。我々は世界にいるのが自分たちだけではないことを ー 全ての創造物が我々のまわりだけで回転しているのではないこと忘れてしまった。淀んだ池に棲む、怠惰で愚かな太ったヒメハヤのように、我々はカワカマスがいないと信じ込んだ。我々は世界が池のようにどろりと淀み、ぬかるむにまかせてしまった。まわりを見るがいい ー 罪と悪が蔓延り、強欲と利潤の追求、争いと不和で溢れかえっている。古き伝統は失われ、価値あるものへの敬意は消えつつある。我々は自然にならった生き方をやめ、自然を破壊し始めた。その結果はどうだ? 溶鉱炉が吐き出す悪臭で空気は毒され、河や小川は食肉処理場となめし革工場からの排水で汚れ、森の木々はやみくもに切り倒されている……… 見ろ! 聖なるブレオブへリスの生きた樹皮にさえ ー ちょうどマクシミリアンの頭上だ ー 卑猥な単語が刃物で刻みつけられている。しかも、つづりが間違っているところを見ると、どこかの野蛮人の仕業に違いない。何を驚いておる? こんなひどいことになったのは ー 」

 「そのとおり!」太った司祭が賛同の声を上げた。「目覚めよ、汝、罪人たちよ ー 手遅れにならぬうちに。神々の怒りと復讐は汝らの頭上にある! イスリンのお告げを忘れたか? 罪に汚れた種族にどのような天罰が下るかを! 〃屈辱のときが来て木々は葉を失い、つぼみは萎れ、果実は腐れ、種は苦くなり、峡谷には水ならぬ氷が流れる。白冷のあとに白光が訪れ、世界は雪風の下で朽ち果てる〃。予言者イスリンはしかと語った!そしてそのときがが来る前には目に見える予兆があり、疫病が世界をむしばむのだ。忘れることなかれ! プウォジューフは我々に対する神々からの罰だ! プウォジューフは神々から汝ら罪人に与えたもうた鞭だ。それゆえ汝らは ー 」 

 「黙れ、聖人気取りのもうろくじじい!」ズルットスが重いブーツを踏み鳴らした。「あんたの迷信めいた戯言には反吐が出る! はらわたがひっくり返りそうだ ー 」

 「言葉に気をつけろ、ズルットス」長身のエルフが笑みを浮かべて言葉を遮った。

 「他人の信教をからかうものではない。不快で礼儀知らずのばかり………危険だ」

 「からかっちゃいない」と、ズルットス。「儂だって神の存在を疑っちゃいない。だが、神を現実世界に持ち込み、どこかの狂ったエルフの予言を利用して目をくらまそうとするのは我慢ならねえ。プウォジューフ人が神々の手先だと? くだらん! 遠い昔の記憶を探ってみろ ー 伝説の国王デズモンド、ランヴィルマン、サルバクルの時代を………ナグリッドと《古き樫》の時代を! 覚えちゃいないだろうな。あんたらの命は短い ー まるでカゲロウだ。だが、儂は覚えてる。あんたたちの祖先がヤダニル川の河口からポーター国の三角州に乗り上げ、小舟から降り立ったあとのことを教えてやろう。海岸についた4艘の小舟から三つの王国が生まれた。強国は弱小国を吸収して発展し、力を強めていった。他人の縄張りを侵略・制圧し、領土を拡大し、ますます強大になった。今プウォジューフが同じことをやっている。それは、プウォジューフが結束の固い、団結した、統制のとれた強国だからだ。あんたらも結束しないと ー 賢いドルイドの言葉どおり ー カワカマスがヒメハヤを呑み込むようにプウォジューフに呑み込まれるぞ」

 「やれるものならやってみろ!」トロイのドミニクが獅子の紋がついた胸を膨らませ、鞘に入った剣を振った。「我々はグダンの丘でやつらを完膚なきまで打ちのめした。もう一度やれないことはない!」

 「たいした自惚れ屋だな」と、ズルットス。「忘れているようだがな、騎士殿、グダンの丘の戦いの前に、プウォジューフは鉄ローラーのようにあんたたちの土地を蹂躙し、あんたのような勇敢なやつらの死体をトルラダムとヴェルデラのあいだにこれでもかと撒き散らした。プウォジューフ兵を食い止めたのは、あんたのような大口叩きの自惚れ屋じゃない。ツォメリク、レダニツァ、グディーニク、コシャウェン各国による連合軍だ。協力と団結が敵を食い止めたんだ!」

 「それだけではない」魔法使いのスダニワフがよく通る冷ややかな声で言った。「忘れれてもらっては困る、ズルットス」

 ズルットスは大きく咳払いして鼻をかみ、もぞもぞと足を動かしてから、スダニワフに小さく頭を下げた。 

 「あんた方の協力を忘れちゃいない。グダンの丘における魔法使いたちの英雄的団結を認めない物は、とんだ罰当たりだ。彼らは勇敢に陣地に立ち、共有の目的のために血を流し大いに勝利に貢献した。マクシミリアンもバラッドで歌ってる。忘れてはならない。[四王国]の戦士がレダニツァ国のヴォスミル王の命令に従ったように、魔法使いたちは従った。だが、残念ながら、結束と協力が続いたのは戦時中だけだ。平和が訪れると、さっそく分裂が始まった。ヴォスミル王とジグムント王は関税と貿易法を巡って首を絞め合い、グディーニクのパマヴェン王とコシャウェンのセンクルト王は[北境界域]を巡って争い始めた。北方のヘンフォレス同盟とコヴィリのシッセン王朝は相手にもしていないがな。聞けば、魔法使いたちにも、かつての協調精神は無いらしい。つまり、儂らには結束力も規律も団結力もないってことだ。だが、プウォジューフにはそれがある!」

 「プウォジューフの皇帝エヴォミルは、鞭と首つり縄と斧で服従を強いる独裁者だ!」と、リシャルド男爵。「何が言いたいのかね、ドワーフ殿? どうやって団結せよと言うのだ? プウォジューフと同じような独裁政治を行えと? きみの意見に従うとして、どの国の王が、どの国に従属するのか? 誰が笏と革鞭を持つと言うんだ?」 

 「知ったことか」ズルットスは肩をすくめた。「それは人間の問題だ。誰を王に選ぼうと、ドワーフが選ばれるはずはないからな」

 「それを言うなら、エルフもハーフエルフも選ばれない」長身のエルフが帽子の美女の腰を抱いたまま言った。「人間たちはクォーターエルフでさえ人間よりも劣っている種族だとみなし ー 」

 「しっぽが出たな!」リシャルド男爵が笑い声を上げた。「君の言うことはプウォジューフ人と同じだ。やつらも平等を掲げ、我々を服従してこの土地から追い出し、古い秩序を取り戻すと宣言している。君たちが夢に見、語り、ふれまわる〃団結と平等〃と同じではないか!プウォジューフはその実現のために、きみたちを買収している! 親密なのも無理はない。なにせプウォジューフ人にはエルフの血が流れ ー 」

 「バカな」エルフが冷ややかに言った。「まったくの戯言だ、男爵殿。どうやら人間優位主義に目がくらんでおられるようだな。プウォジューフ人はあなた方と同じ人間だ」

 「何を言うか! プウォジューフ人は黒いエルフの末裔だ。誰だって知っている! やつらの身体にはエルフの血が流れているのだ! エルフの血が!」

 「では、あなた方の身体には何が流れている?」エルフはあざけるような笑みを浮かべた。「人間とエルフは何世代も、何世紀にもわたって ー よかったのか悪かったのかは分からないが ー 非常に上手く混じり合ってきた。ところが、二十五年ほど前から人間は混血を禁じ始めた。皮肉なことに、こちらは上手くいっていないようだ。もし、シーデ・イチェル ー 古代種族の血 ー が一滴も混じらない人間がいるなら、今ここに連れてきてもらおう」

 リシャルド男爵の顔がみるみる赤くなった。レヤ・カタジェンハヴォナも顔を赤らめ、スダニワフは俯き、咳をした。なぜか帽子のエルフの美女までもが顔を赤らめている。

 「我々はみな母なる大地の子だ」白髪のドルイドの声が静寂の中に朗々と響きわたった。「我らは母なる自然の子だ。我々が敬意を忘れ、悩ませ、痛みを与えても、母は我らを愛す。我ら全てを愛す。《友好の座》に集まりし者たちよ、思い出そうではないか。誰が最初に来たかは問題ではない。ひとつのドングリが海から打ち上げられ、そこから最古の樫である偉大なるブレオブへリスが育った。我々は、その木の下に広がる原始の根の間に立っている。我々が同じ根から生まれた同胞であることを思い出そう。これからの根を生み出した大地のことを思い出そう、そして、大詩人マクシミリアンの歌詞を思い出し ー 」

 「そのとおり!」と、カタジェンハヴォナ。「ところでマクシミリアン親方は?」

 「行っちまったよ」シュルティアン・ズルットスは樫の下のぽっかり空いた場所を見つめた。

 「カネだけ持って、別れの挨拶もなしに行っちまった。実にエルフ流だ!」

 「ドワーフ流だろ!」と、鉄器売りのノーム。

 「いや、人間流だ」長身のエルフが言うと、帽子の美女が男の肩に頭をもたせかけた。

 

 

 




 


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自信過剰

 

 

 

 「ちょいと、吟遊詩人の旦那」女将のラントリエがヒヤシンスと汗とビールと燻製豚肉のにおいを漂わせながらノックもせずに部屋に入ってきた。「お客さんよ。どうぞ、ご貴族様」

 マクシミリアンが髪を撫で付け、彫り物のある大きな肘掛け椅子の上で姿勢を正すと、膝に座っていたふたりの少女が飛び上がって身体を隠し、乱れた服を引き下ろした。『娼婦のつつしみ』か………ふむ、バラッドの題材としては悪くない。マクシミリアンは立ち上がって腰帯を締め、胴着を引っ張りながら戸口に立つ男を見つめた。

 「やれやれ、よくここがわかったな。幸運な人だ。もう少しでぼくはふたりのどちらかを選ぶところだった。さすがにふたりぶんは払えないからね、ラントリエ」

 ラントリエが気の毒そうに微笑んで両手を打ち鳴らすと、ふたりの娘 ー 色白でそばかすのある内陸人と黒髪のハーフエルフ ー は素早く部屋を出ていった。戸口の男はマントを脱ぎ、小ぶりだが、良く膨らんだ財布と一緒に女将に渡した。

 「お許しください、親方」男はテーブルに近づき、くつろいだ態度で呼びかけた。「お邪魔だとは思ったのですが、気がついたら樫の木の下からいなくなってしまわれたので…本街道を追っても見つからず、この小さな街で足取りが絶えるとすれば、おそらくここではないかと……。決してお時間は取らせません ー 」

 「皆そう言うが、本当だったためしはない」言いながらマクシミリアンは腰を下ろした。「ふたりにしてくれ、ラントリエ。しばらく誰も通さないでくれ。さて、ご用件は?」

 マクシミリアンは男をじっと見つめた。涙を溜めているかのように潤んだ黒い目。尖った鼻。薄い、醜い唇。 

 「単刀直入に申し上げます」女将が扉を閉めるのを待って男が言った。「あなたのバラッドに興味を引かれました。正確には、歌の中に登場した人物に。バラッドに出てきた英雄たちの本当の運命が知りたいのです。私の勘違いでなければ、樫の木の下で聴いた美しい作品は、実在する人物が元になっているんでしょう? 私が知りたいのは………シェロナ国の少女ディアのことです。 ヨアンナ女王の孫娘の」

 マクシミリアンはテーブルに指を打ちつけ、天井を見つめた。

 「ご貴族殿」マクシミリアンが淡々と言った。「奇妙なことに興味をお持ちだな。実に奇妙な質問だ。どうやらあなたは、ぼくが思ったような人物ではないらしい」

 「どんな人物だと思われたのです?」

 「さあね。あなたがぼくたち共通の友人からの言いづてを伝えるつもりなら話は別だが……… 最初にそうすべきだったのに、なぜかお忘れになったようだ」

 「忘れたわけではありません」男はセピア色のビロード地のチュニックの胸ポケットに手を入れ、さっき女将に渡したものよりひと回り大きい、同じように膨らんだ財布を取り出すと、ガチャリとテーブルに置いた。「我々に共通の友人はいません、マクシミリアン親方。でも、そこはこの財布が埋め合わせできるはずです」

 「しけた財布で何を買うつもりだ?」マクシミリアンは不満気に口を尖らせた。「ラントリエの売春宿と敷地全部か?」

 「芸術を ー 芸術家を ー 援助したいのです。その作品について語り合うために」

 「それほど芸術を愛しているのか? 芸術家と話すことがそんなに重要か? 基本的な礼儀も忘れ、自己紹介もせずにカネを押しつけるほど?」

 「会話を始めたときは」 ー 男は黒い目をかすかに細め ー 「私が誰か、気にもしなかったではありませんか?」

 「今気になってきた」

 「隠すほどの者ではありません」男は薄い唇に微笑みを浮かべた。「リエンヌと呼ばれている者です。ご存じないのも当然です、マクシミリアン親方。あなたはとても有名な方だ。崇拝者のひとりひとりを知っているはずがない。でも、あなたの崇拝者は皆、あなたを友人のように感じ、ある程度の気安さは許されると思い込むのです。私も例外ではありません。誤解だとは分かっています。どうか寛容なる心でお許しください」

 「寛容なる心で許すとしよう」

 「では、質問に答えて ー 」

 「いや! 断る」マクシミリアンは気取ったような口調で相手の言葉をさえぎった。「今度はあなた(・・・)の寛容なる心でぼく(・・)を許してもらいたい。ぼくは作品について ー インスピレーションの出所、登場人物、架空か真実かについて ー は語らない主義だ。それを話すと、作品の詩的な雰囲気が消え、陳腐なものになってしまう」

 「そうでしょうか?」

 「そうだよ。例えば、粉屋の陽気な妻のバラッドを歌うとしよう。もし、“これは実は粉屋のレータの妻キャヴィンテのことで、キャヴィンテは夫が市場へ行く木曜日には誰とでも寝る”と言ったら、それはもう詩ではない。ただの下劣な中傷だ」

 「ああ、なるほど」すかさずリエンヌが相づちを打った。「でも、それは極端な例でしょう。私は他人の過ちや罪に興味はない。私の質問に答えても、誰かを中傷することにはなりません。知りたいのは小さな事実です。シェロナ国女王の孫娘ディアが本当はどうなったのか。街が包囲されたときに殺されたというのが、専らの噂です。目撃者の証言もある。でも、バラッドを聴くと、どうやら娘は生きているらしい。これがあなたの想像の産物なのか、それとも真実なのか、知りたいのはそこです。真実か、それとも嘘か?」

 「そこまで興味を持っていただけるとは感激だ」マクシミリアンはニッコリ笑った。「笑うかもしれないが、それこそ、ぼくがバラッドを作る目的だよ、見知らぬご貴族殿。聴き手を興奮させ、好奇心をかきたてることが、ぼくの望みだ」

 「本当か、嘘か?」リエンヌが冷ややかな声で繰り返した。

 「それを言ったら作品の衝撃がなくなってしまう。ごきげんよう、友よ。これ以上はお相手できない。ぼくにインスピレーションを与えてくれるふたりの娘が外で待っている ー ぼくがどっちを選ぶだろうとそわしわしながらね」

 リエンヌは黙り込み、なかなか去ろうとしなかった。冷たい、潤んだ目で見つめられ、マクシミリアンは急に不安になった。売春宿の大部屋から楽しげな声が聞こえ、時折女の甲高い笑い声が響く。マクシミリアンは顔を背け、相手を見下すような、傲慢な態度を装いながら、部屋の隅までの距離を目測した。部屋の奥の壁には、水差しの水を胸に浴びるニンフを描いたタペストリーがかかっている。

 「親方」リエンヌが片手をセピア色のチュニックのポケットに忍ばせた。「教えてほしい。お願いです。どうしても答えが知りたい。とても重要なことだ。おそらく、あなたに

とっても。あなたが自分から答えたら ー 」

 「答えたら?」

 リエンヌの薄い唇に恐ろしげな笑みが広がった。

 「無理に口を割らせる手間が省ける」

 「いいか、よく聞け、この悪党め」マクシミリアンは立ち上がり、すごんでみせた。「暴力や力づくは嫌いだが、今すぐラントリエを呼んで、グラジオを連れてくることもできる。売春宿の用心棒という、誇り高く責任ある任務を果たす男で、その道の達人だ。グラジオに尻を蹴られたら、屋根を越えて吹き飛ばされると思え。その時間に空を見上げた人々は、白鳥座と見間違うかもしれないな」

 リエンヌが素早く動き、手の中で何かが光った。

 「女将を呼ぶ時間があると思うか?」

 マクシミリアンは確かめるつもりもなければ、待つつもりもなかった。リエンヌが小剣を握る寸前、彼は部屋の済にかかるニンフのタペストリーの裏に飛び込むと、隠し扉を蹴り開け、古びた手すりを掴んで巧みに向きを変えながら、螺旋階段を猛スピードで滑るように降り始めた。リエンヌが追ってきたが、詩人は高を括っていた ー 秘密の抜け道のことなら隅から隅まで知っている。金貸し、嫉妬深い夫、韻や旋律を盗まれて劣化のごとく起こったライバ吟遊詩人たちから逃げるため、これまで数え切れないほど利用してきた。階段を三周まわると回転扉に手が届く。そこを開けると、地下室に通じる梯子がある。それを知らない追っ手は途中で止まれず、そのまま階段を降りて落とし戸を踏み、豚小屋に落ちる。追っ手は痣だらけになり、フンにまみれ、豚につつかれ、追跡を諦めるという寸法だ。 

 だが、予想は見事に外れた。突然、背後で青いものが光り、両手両脚が痺れた。感覚が麻痺して動けない。脚が言うことをきかず、回転扉に近づいても速度を落とせない。マクシミリアンは叫びながら階段をゴロゴロと転がり落ち、狭い通路の壁にぶつかった。そのとたん、足元の落とし戸が乾いた音を立てて開き、マクシミリアンは暗闇と悪臭の中に転げ落ちた。そして汚れた床に頭をぶつけ、意識を失う前に、ふと思い出した。そういえば女将のラントリエが言っていた ー “今豚小屋を改修中なのよ”。

 

 

 



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豚小屋

 

 

 

 マクシミリアンは手首と肩の関節が外れそうな痛みで目を覚ました。叫びたくても声が出ない。口の中に粘土を詰め込まれたかのようだ。気がつくと背中で手首を縛られ、汚れた床に跪いていた。手首を縛るロープが背後から引き上げられるたびに、きしみを上げた。立ち上がって肩の痛みを和らげたいが、両脚も縛られていて立ち上がれない。マクシミリアンはあえぎ、むせながら、ぎりぎりと手首を引っ張るロープの力を利用して、ようやく立ち上がった。

 目の前にリエンヌが立っていた。邪悪な目が、二メートル近くありそうなひげ面の男がかかげるランタンの光を受けて光った。もうひとり、同じくらいの背丈の男がリエンヌの後ろに立っていた。男の呼吸が聞こえ、すえた汗の匂いがする。屋根の梁を通ってマクシミリアンの手首につながるロープを引くのは、このくさい男らしい。

 マクシミリアンの足が床から浮き上がった。なすすべもなく、マクシミリアンは苦し紛れに鼻からシューッと息を吐いた。

 「やめ」リエンヌが命じた。短い時間だったが、マクシミリアンは永遠に思えた。足が床に着いた。膝をつきたいが、張りつめたロープが、なおも弦のようにマクシミリアンの身体を引っ張っている。

 リエンヌが近づいてきた。なんの感情も読み取れない。潤んだ目の表情もまったく変わらない。声も淡々として、静かで、どこか退屈そうだ。

 「おい、へぼ詩人。チビ。クズ野郎。自惚れ屋のカス。俺から逃げようとは、大した度胸だ。いままで俺から逃げおおせたやつはひとりもいない。話は終わってないぞ、こに道化め。あれほど丁寧に質問してやったのに、おまえは答えなかった。だから、これからおまえは、はるかにひどい状況で俺の質問の全てに答える ー そうだな?」

 マクシミリアンは必死に頷いた。リエンヌが笑みを浮かべて合図を送ると、ロープと両腕が後ろに引き上げられた。関節がねじれてボキボキ音を立て、マクシミリアンは声にならない声を上げた。

 「おまえ喋れない」リエンヌは、ぞっとするような笑みを浮かべた。「それに痛い、だろう? 言っておくが、おまえをこうやって吊り上げるのは趣味だ ー 俺は人が苦しむのを見るのが好きでね。さあ、もう少し引き上げてみるか」

 マクシミリアンは息が止まりそうなほどあえいだ。

 「やめ」リエンヌはマクシミリアンに近づき、シャツのひだ飾りをつかんだ。「よく聞け、チビ野郎。これから魔法を解いて喋れるようにしてやる。だが、必要以上にその美声を張り上げたら後悔することになるぞ」

 リエンヌが片手で合図し、指輪でマクシミリアンの頬に触れると、顎と舌と口蓋に感覚が戻ってきた。

 「これからいくつか質問する」リエンヌが淡々と続けた。「即座に、淀みなく、分かりやすく答えろ。一瞬でも口ごもったり、躊躇ったり、少しでも嘘の匂いがしたりしたら………下を見てみろ」

 マクシミリアンは言われるままに下を見て、ぞっとした。足首を縛っているロープの結び目に短いもうひとつのロープがつながれていて、その先に石炭がたっぷり入ったバケツが結ばれてある。

 「これ以上おまえを高く吊り上げようものなら」リエンヌは冷酷な笑みを浮かべた。「このバケツも一緒に持ち上がる。すると重みが加わり、お前の手には二度と感覚が戻らなくなる。そうなったらどうなる? 多分二度とリュートを弾けなくなるだろうな。だから、おまえは正直に俺が知りたいことを話す ー そうだな?」

 マクシミリアンは答えられなかった。あまりの恐怖に首も動かせず、声も出ない。リエンヌは構わず続けた。

 「念のために言っておいてやるが、おまえが本当のことを言っているかどうかはすぐ分かるからな。おれを騙そうとしたって無駄だ。俺に気取った言いまわしや、ごまかしは通用しないぞ。それを見破るのは、俺にとっては ー 階段でおまえを麻痺させることくらい ー 朝飯前のことだ。だから、言葉づかいにはくれぐれも気をつけろ、クズ男。よし、時間の無駄づかいはもうやめて本題に入ろうか。さっきも言ったとおりだが、おまえの美しいバラッドに出てくるヒロインのことを知りたい。シェロナ国のヨアンナ女王の孫娘のディア王女 ー 《驚きの子》と、そう呼ばれている娘だ。目撃者の話によれば、ディアは二年前、街が包囲されたとき(・・・・・・・・・)に死んだ。だがおまえは、ディアが伝説的な謎の人物………魔法剣士の………ロベルトだかロベルトだかに出会ったさまを生き生きと感動的に歌ってくれた。運命に関するもってまわったセリフや、天の定めとかいう戯言は別としても、あのバラッドを聞くと、少女はシェロナの戦い(・・・・・・・)を生き延びたように思える。あの話は本当か?」

 「知らない………」マクシミリアンはうめいた。「神に誓って、ぼくはただの詩人だ。いろいろ話を聞いて、あとは………」

 「あとは、なんだ?」

 「あとはぼくが創った。創作だ! ぼくは何も知らない!」リエンヌがロープ男に片手で合図を送ると、ロープが締まり、マクシミリアンが叫んだ。「嘘じゃない!」

 「なるほど」リエンヌは頷いた。「たしかに嘘じゃなさそうだな。嘘を言えば分かる。だが、おまえは何かをはぐらかしている。何の根拠もなく、あのようなバラッドを思いつくはずがない。何よりおまえは、その魔法剣士の知り合いだ。一緒にいるところをしょっちゅう誰かに見られている。さあ、マクシミリアン、関節が大事なら全て話せ。知っていることを全てだ」

 「ディアは」マクシミリアンはあえぎながら言った。「魔法剣士ロベルトに運命づけられた子だ。《驚きの子》と呼ばれているのは有名な話だ。ディアの両親はロベルトに娘を渡すと誓い ー 」

 「親が突然変異した狂人に大事な娘を渡すと思うか? 人殺し専門の傭兵のような男に? 嘘だな、へぼ詩人。そんな話は女どもにとっておくんだな」

 「本当だ ー 母親の魂に誓って。」マクシミリアンはすすり泣いた。「信用できる筋から聞いた………魔法剣士のロベルトは ー 」

 「娘のことを話せ。その魔法剣士の方には興味ない」

 「娘のことは何も知らない! 知っているのは、戦争が始まったとき、ロベルトがシェロナから娘を救い出そうとしたってことだけだ。ちょうどその頃、ロベルトと再会した。ロベルトはぼくからシェロナの大虐殺(・・・・・・・・)とヨアンナ女王の死を聞いて、孫娘のことをたずねてきた………でも、シェロナの住民は皆殺しにされ、最後の砦でも生き残った者はひとりもいないと ー 」

 「続けろ。飾り文句はいらない。事実だけ話せ!」

 「シェロナの大虐殺(・・・・・・・・)と陥落を知ったロベルトは旅を中断し、ぼくと一緒に北に逃げた。アルフォンスで別れ、それきりもう会っていない………でも、ロベルトは道中………このことを………ディアとかいう名前の娘のことを………運命のことを少しだけ話してくれた………それで、このバラッドを書いた。それ以上のことでぼくが知っていることはもうない。本当だ!」

 リエンヌはマクシミリアンを見据えた。

 「その魔法剣士は今どこにいる? 雇われモンスタースレイヤー ー 運命を語るのが好きな詩的な殺し屋はどこだ?」

 「言ったとおり ー 最期に会ったのは ー 」

 「それは聞いた。おまえの話はよく聞かせてもらった。今度はおまえが俺の話をよく聞け。俺の質問に正確に答えろ。そのロベルトだかロベルトだかを誰も見ていないとすると、どこに隠れているんだ? そいつの隠れ家はどこだ?」

 「どこにあるかは知らない」マクシミリアンはとっさに答えた。「嘘じゃないぞ。本当だ ー 」

 「まあ慌てるな、マクシミリアン、そう慌てるなって」リエンヌがニヤリと笑った。「口が滑ったな。おまえはずる賢い、その狡猾さで今まで生き抜いて来たんだな。だが、うっかり屋でもある。どこにあるかは知らない(・・・・・・・・・・・) ー おまえはそう言った。つまり、場所の名前(・・)は知ってるってことだ」

 マクシミリアンは怒りと悔しさに歯ぎしりした。

 「さあ」リエンヌが後ろの男に合図した。「魔法剣士はどこに隠れているんだ? なんという場所だ?」

 マクシミリアンは答えなかった。いや、答えられなかった。ロープが締まり、両手がギリギリとねじれ、足が床から浮き上がった。マクシミリアンの悲鳴は、すぐに途切れた。リエンヌが魔法でマクシミリアンの喉をふさいだからだ。

 「もっと上げろ」リエンヌは腰に手を当てながら言った。「いいか、マクシミリアン、俺は魔法でおまえの頭の中を探ることもできる。疲れるからやらないだけだ。それに、痛みで目玉が飛び出るところを見るのはおもしろい。まあいい、いずれおまえは全てを話すことになる」

 そうなりそうだ ー 足首にくくりつけられたロープがピンと張り、石炭入りのバケツが床に擦れて音を立てた途端、マクシミリアンは観念した。と、そのとき ー 

 「親方」ランタンを持った男が灯りをマントで覆い、豚小屋の扉の隙間から外をうかがった。「誰か来ます。女のようです」

 「言われたとおりにやれ」リエンヌが囁いた。「灯りを消せ」

 男がロープを放した途端、マクシミリアンはドサリと床に落ちた。倒れた角度から、ランタン男が扉の脇に立ち、刃の長い刀を持った男が反対側で待ち構えるのが見えた。板の隙間から宿の明かりが差し込み、歌声や騒ぎ声が聞こえる。

 豚小屋の扉がキーッと開き、小柄な人影が現れた。マントを羽織り、ぴったりした円い縁なし帽子をかぶっている。人影は一瞬躊躇い、足を踏み入れた。ロープ男が飛びかかり、影の喉元を狙って思い切り刀を振りおろした。だが、刃は空を切り、男はガクンと膝をついた。まるで煙を切りつけたかのように。事実、人影は煙の塊で、すでに消えていた。影が完全に消える寸前、別の人影が豚小屋に飛び込んだ。暗闇に紛れてよく見えないが、イタチのようにすばしこい。人影がランタン男にマントを投げつけ、ロープ男に飛びかかった。手に光るものを握っている。次の瞬間、ロープ男のあえぎと、グッと喉が詰まった声が聞こえた。ランタン男がマントをかなぐり捨て、飛び上がっ刀を振りおろした途端、黒い人影から稲妻がシュッと飛び出し、ランタン男の顔と胸を直撃したかと思うと、火のついた油のように身体中に燃え広がった。耳をつんざくような悲鳴が上がり、肉の焼ける、いや、焦げるいやなにおいが豚小屋にたちこめた

 リエンヌが反撃に出た。リエンヌの投げた魔法が青く光って暗闇を照らし、男装した細身の女の姿がはっきり見えた。女が両手で奇妙な形を作ると、青い光はパンという音と目を眩むような閃光とともに消えた。リエンヌは押し倒され、豚小屋の木の壁に激しく倒れ込んだ。壁がバキッと割れ、リエンヌは怒りのうめきを上げた。男装の女が小剣をひらめかせ、リエンヌに飛びかかった瞬間、空中に眩しく光る楕円の《(ゲート)》が開いて金色の光が溢れ出し、豚小屋が明るくなった。リエンヌは汚れた床から飛び上がり、空中の楕円に飛び込んで、あっという間に姿を消した。女は消えかかる《門》に駆け寄り、片手を伸ばしてわけのわからない言葉を叫んだ。何かが割れ、擦れる音がして、消えかけた《門》が勢いよく燃え上がった。遠くからくぐもった音が聞こえた。痛みに苦しむ悲鳴のようだ。やがて楕円は完全に消え、再び豚小屋は真っ暗になった。マクシミリアンは、喉を締めつけて力が消えるのを感じた。

 「助けて! 助けてくれ!」

 「わめかないで、マクシミリアン」女はかたわらに膝をつき、小剣でロープの結び目を切った。

 「パトリツィア? きみなのか?」

 「わたしの顔を忘れたとは言わせないわよ。それに、音楽家の耳が私の声を忘れるはずないでしょう。 立てる? 折れてないわよね?」

 マクシミリアンはよろよろと立ち上がり、痛む肩を伸ばしてうめくと、床に転がったふたりの男を指さした。

 「どうする?」

 「調べてみるわ」パトリツィアはカチッと小剣をしまった。「ひとりはまだ生きているはずよ。ニ、三、聞きたいことがあるわ」

 「こっちはまだ生きてるかもしれないな」マクシミリアンはロープ男を見おろした。

 「どうかしら」そっけない口調だ。「気管と頸動脈を切断したから、呟くくらいはできるかもしれないけど、もう長くはないはずよ」

 マクシミリアンは身震いした。

 「喉を、掻き切ったのか?」

 「虫の知らせがしたの。最初に幻影を送りこんでいなかったら、今頃そこに転がってるのはわたしの方だったかもしれない。もうひとりの方は………おやまあ ー 立派な体格のくせに、あのくらいも耐えられないなんて。残念だわ ー 」

 「こっちも死んでるのか?」

 「ショックに耐えられなかったみたいね。殺さないくらいに調整したはずなんだけど、やっぱり難しいわね。いや、こいつらが弱すぎるのよ。見て、歯まで焦げてる ー どうしたの、マクシミリアン? 気分でも悪い?」

 「ああ」マクシミリアンはもごもごと呟き、身体を折り曲げて豚小屋の壁に額を押しつけた。

 

 

 



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感謝と警告

 

 

 

 「それで全部?」パトリツィアはグラスをテーブルに置き、チキンの串焼きに手を伸ばした。「何か隠してることはない? 言い忘れたことは?」

 「ないよ。”ありがとう“以外はね。ありがとう、パトリツィア」

 パトリツィアはマクシミリアンの目を見つめて軽く頷き、つやのある黒い巻き毛をひねって肩に垂らすと、チキンを木皿に載せ、ナイフとフォークを使って器用に切り分けはじめた。このときまでマクシミリアンは、ナイフとフォークでチキンの串焼きを食べる人間をひとりしか知らなかった。ロベルトがどうやってナイフとフォークの使い方を覚えたのか………誰から教わったのかがようやく分かった。不思議はない ー ロベルトはジェレードーラで一年間、パトリツィアと暮らした。パトリツィアのもとを去るまで、奇妙なことをたくさん教えこまれたに違いない。それでいろいろと礼儀も知ってたわけだ。マクシミリアンは串からチキンをはずすと、いきなり腿肉を引きちぎり、これみよがしに両手で貪り始めた。

 「どうしてわかった? 危ないところをよく助けてくれたな?」

 「あなたの演奏中、わたしもブレオブへリスの下にいたの」

 「気付かなかった」

 「気付かれないようにしてたのよ。それからあとをつけて街に来て、この居酒屋で待っていた。まさかあなたを追って、あのいかがわしい快楽と淋病の館に入るわけにもいかなかったし。結局、待ちきれなくなって店の庭をぶらぶらしてたら、豚小屋の方から声が聞こえた気がしたの。最初は男色者か何かかと思ったけど、耳を澄ましたら、あなたの声だった。ちょっと、亭主! ワインを追加して!」

 「かしこまりました、貴婦人どの! ただいますぐに!」

 「さっきと同じものをお願い。でも、今度のは水なしでね。浴槽に入った水はいいけど、ワインに入った水は我慢できないわ」

 「はいはい、仰せのままに!」

 パトリツィアは木皿を脇に押しやった。居酒屋の亭主一家の朝食になりそうなくらいは、まだ肉がたっぷり残っている。ナイフとフォークはたしかに優雅で上品だが、あまりにも効率的ではない。

 「本当に助かったよ」マクシミリアンは重ねて礼を言った。「もう少しであのリエンヌとかいう男に殺されるところだった。全部白状させられて、今頃ヒツジのように切り刻まれていたかもしれない」

 「そうね、危なかったわ。」パトリツィアは自分とマクシミリアンのグラスにワインを注ぎ、グラスをかかげた。「あなたの無事の救出と健康を祝って乾杯。」

 「そしてきみにも、パトリツィア」マクシミリアンもグラスをかかげた。「今日から、機会があるたびにきみの健康を祈るよ。きみには借りができた。大きな借りだ。ぼくはその借りを歌で返すとするよ。“魔法使いは他人の痛みには無関心で、哀れで不幸な見知らぬ人間を助けることはめったにない”という通説は間違いであったと、ぼくの歌でみんなに聞かせる」

 「どうかしら」パトリツィアは美しい紫色の目を半開きにして微笑んだ。「その通説にも一理あるわ。まったく根拠がないわけじゃない。でも、あなたは見知らぬ人間じゃないわ、マクシミリアン。わたしはあなたを知ってるし、あなたのことは好きよ」

 「本当か?」マクシミリアンも微笑んだ。「今まで隠してたな。ぼくのことは“疫病よりも我慢ならないやつ”じゃなかったのか?」

 「そんなときもあった」パトリツィアは急にまじめな顔になった。「でも、考えが変わったのよ。あなたには感謝してる」

 「感謝って、何に?」

 「気にしないで」パトリツィアは空のグラスをもてあそんだ。「もっと大事な質問に戻りましょう。豚小屋で関節が外れそうになるほど腕をひねられて訊かれた質問のことよ。本当は何があったの、マクシミリアン? ヤダニル川の河岸を去ってから、本当にロベルトと会ってないの? 戦争のあと、ロベルトが南に戻ったことを知らなかったの? ひどいケガをして ー 死んだという噂まで流れてたわ。本当に何も知らなかったの?」

 「知らなかった。ぼくは、ポンド・ヴァイアのエルドリエ・ヒッセンの宮廷にいた。それからアルフォンスのニーダミアの宮廷に行って ー 」

 「知らなかったのね」パトリツィアは頷き、チュニックの前を開けた。黒いビロードのリボンを巻いた首から、ダイヤモンドをはめ込んだ黒曜石がぶら下がっている。「傷が治ったあと、ロベルトがヴェルデラに行ったことも知らなかった? だったら、彼が誰を捜していたかも知らないわね?」

 「それは分かるよ。でも、その子を見つけたかどうかは知らない」

 「そう、知らないの………。いつもは、なんでも知ってて、なんでも歌にするのに ー 他人の心の内のような、とても個人的なことまで。バラッドをブレオブへリスの下で聴いたわ、マクシミリアン。あなたは素敵な詩を歌ってくれた」

 「詩には正義がある」マクシミリアンはチキンを見つめながら呟いた。「それを聞いた人が不快に思ってはならない ー 」

 「“カラスの羽を思わせる黒髪は夜半の嵐のごとく………”」パトリツィアが大げさな口調で引用し始めた。「“………紫色の瞳には稲妻が眠り………”。こんなふうだったかしら?」

 「それが、ぼくの記憶の中のきみだ。」マクシミリアンはかすかに笑った。「これが嘘だと言うやつがいたら、ただじゃおかない」

 「ひとつ分からないのは、いったい誰の許しを得て、わたしの内面を歌ったのかってことよ」パトリツィアは唇を尖らせた。「どんな言葉だったかしら? “彼女の心は、首元を飾る宝石。ダイヤモンドのように硬く、ダイヤモンドのように冷ややかで、黒曜石のように鋭く ー ”。これもあなたの創作? それとも……?」

 パトリツィアは唇を震わせながら歪めた。

 「……それとも、誰かの告白と嘆きを聞いたの?」

 「それは、ええと………」話がまずい方に行きそうだ。マクシミリアンは咳払いをして話題を変えた。「それで、パトリツィア、最期にロベルトに会ったのはいつだ?」

 「ずっと前よ」

 「戦争のあと?」

 「戦争のあと……」口調がかすかに変わった。「いいえ、戦争のあとは一度も会っていないわ。長い間………誰とも会わなかった。本題に戻りましょう。何も知らず、何も聞いていないあなたが密偵につけられ、天井の梁から吊るし上げられたとは意外ね。ねえ、何か嫌な予感がしない?」

 「する」

 「いい、マクシミリアン?」パトリツィアはグラスをドンとテーブルに置き、鋭い口調で言った。「よく聞いて。あのバラッドをレパートリーから外しなさい。二度と歌っちゃだめよ」

 「それは、つまり ー 」

 「わかるでしょう? プウォジューフとの戦いを歌ってもいい。ロベルトとわたしのことを歌ってもいいわ。それで誰かが助かったり、傷ついたりするわけじゃないし、何かが良くなったり、悪くなったりするわけでもない。でも“シェロナの仔狼”のことだけは歌っちゃだめ」

 客が少ない時間にもかかわらず、パトリツィアは盗み聞きを警戒してあたりを見まわし、テーブルを片付けに来た女給仕が厨房に戻るのを待ってから小声で続けた。

 「それから知らない人と一対一で会わないこと。共通の知り合いからの言いづてを伝える前に名乗るのを忘れるような人物にはとくに注意しなさい。わかった?」

 マクシミリアンが驚いて見返すと、パトリツィアはニッコリ笑った。

 「フォルテニアからの伝言よ、マクシミリアン」

 マクシミリアンはおどおどとあたりを見まわした。あまりの慌てっぷりにパトリツィアはからかうような笑みを浮かべた。

 「そのことだけど」パトリツィアはテーブルの向こうから身を乗り出して囁いた。

 「フォルテニアが報告書を欲しがってるわ。エルヴェット王の宮廷でどんな噂が流れていたのか、ウォーデンから戻ってきたばかりのあなたから聞きたがっている。こう伝えるように言われたわ ー “今回の報告書は的確で詳細なものであること。どんな状況でも詩による報告は認めない”。つまり、散文で書けということよ、マクシミリアン、散文で」

 マクシミリアンはごくりと唾をのんで頷き、無言のまま質問を考えた。

 パトリツィアが先まわりして言った。

 「困難な時代が近づいているわ」静かな口調だ。「困難で、危険な時代よ。変化のときが近づいているのに、それは良い方に向けようともしないまま歳を取るのは悔しいわ。そう思わない?」

 マクシミリアンは頷き、咳払いした。

 「パトリツィア?」

 「何?」

 「さっきの豚小屋の男たち……やつらが誰なのか、何が目的なのか、誰が送り込んだのか、いろいろ知りたい。きみはふたりとも殺したけど、噂によると、きみは死者からも情報を引き出せるんだろう?」

 「降霊術は魔法院の命令で禁止されているという噂も一緒に聞いたことなかった? そんな考えは忘れなさい、マクシミリアン。いずれにせよ、あのごろつきたちは大したことは知らないでしょう。でも、逃げた方の男は………ふん………あれはまた別ね」

 「たしか、リエンヌとかいうやつだ。やつは魔法使いなんだろう?」

 「そうね。でも、それほどの腕じゃないわ」

 「それでも、やつはきみから逃げた。逃げるところを見たよ ー あれは、瞬間移動してたんだろう?このことから何が分かる?」

 「リエンヌを助けた人物がいるってこと。リエンヌには空中に楕円の《門》を開けて保っておける時間も力もなかった。あのような《門》は簡単にできるものじゃない。他の誰かの魔法によるものなのは間違いないわ。リエンヌよりも遥かに力のある人物。そう判断したから追わなかったの ー あの《門》がどこに通じているかも分からないし。でも、かなり高熱の贈り物を投げてやったから、おそらく大量の魔法と火傷によく効く魔薬が必要ね。しばらくは火傷が残るはず」

 「やつはきっとプウォジューフ人だ」

 「そうかしら?」パトリツィアは背を伸ばし、ポケットからすばやくリエンヌの小剣を取り出し、手の中でのくるくるとまわした。「最近は誰でもプウォジューフ製の小剣を持ってるわ。持ちやすくて、使いやすい ー 胸の谷間にだって隠せるし ー 」

 「剣のことじゃない。ぼくに質問したとき、やつは“シェロナの戦い”とか“街が包囲されたとき”とか、そんな言葉を使ってた。あの出来事をそんなふうに言うやつはいない。我々にとって、あれは大虐殺以外の何物でもない。《シェロナの大虐殺》。他の呼び方をするやつはプウォジューフ人だけだ」

 「さすがね、マクシミリアン。相変わらずいい耳を持ってるわ」パトリツィアは片手をかざし、爪を見つめながら言った。

 「ただの職業病さ」

 「どの職業のことかしら?」パトリツィアはなまめかしい笑みを浮かべた。「でも、教えてくれてありがとう。貴重な情報だわ」

 「これでぼくも、変化を良い方に向けるのに貢献できたわけだ」マクシミリアンはニッコリ笑った。「それにしても、どうしてプウォジューフのやつがロベルトとシェロナの娘にこれほど執着してるんだろう?」

 「その件には首を突っ込まない方がいいわ」パトリツィアは急に真顔になった。「言ったでしょう ー ヨアンナ女王の孫娘の話は忘れなさい」

 「たしかにきみはそう言った。でも、ぼくはバラッドの題材を探してるわけじゃない」

 「だったら何を探してるの? 災難?」

 「仮に ー 」マクシミリアンは組み合わせた手の上に顎をのせ、パトリツィアの目を見て囁いた。「仮にロベルトが本当にその娘を見つけ、助けたとしよう。ついに運命の力を信じ、その子を引き取ったとすると、どこに連れてゆくと思う? リエンヌはぼくを痛めつけ、聞きだそうとした。でもきみなら知ってるはずだ ー ロベルトがどこに隠れているのか」

 「ええ」

 「そして、そこへ行く方法も知ってる」

 「ええ」

 「警告すべきじゃないか? “リエンヌのような輩がおまえとシェロナの娘を捜している”と。ぼくがそこまで行ってもいいが、本当に知らないんだ ー それがどこにあるか………場所の名前は言わない方が………」

 「ええ、絶対に口に出しちゃだめよ、マクシミリアン」

 「ロベルトの居場所を知ってるなら、行って警告すべきだ。きみはロベルトに借りがあるだろう。なんといっても、きみたちの間には何かがあったわけだし………」

 「ええ」淡々とした口調だ。「たしかにわたしたちの間には何かがあった。だから、わたしはロベルトのことを少しは知ってる。あの人はおせっかいが嫌いよ。それに、本当に困っているなら、そのときは信用できる相手に助け求めるわ。あれからもう一年くらい過ぎたけど………なんの便りもない。それに、借りという点では、あの人だってわたしに借りがある。お互いさまよ」

 「だったらぼくが行く」マクシミリアンが頭を上げた。「場所を教えてくれたら ー 」

「だめよ。あなたは正体が既にばれてる。またやつらが追ってくるかもしれない。知らないにこしたことはないわ。ここから消えて。レダニツァ国のフォルテニアとフィルマ・ザネラウスのところへ行って、ヴォスミル王の宮廷でじっとしているのよ。もう一度言うわ ー シェロナの仔狼のことはきれいさっぱり忘れなさい。そんな名前は聞いたこともないというふりをするの。言うとおりにして。あなたには不幸な目にあってほしくないの。あなたのことは好きだし、あなたには大いに借りがある ー 」

 「さっきもきみはそう言った。いったいぼくにどんな借りがあるっていうんだ?」

 パトリツィアは顔を背け、しばらくしてから言った。

 「あなたはロベルトと一緒に旅をした。おかげで彼はひとりぼっならずにすんだ。あなたは彼の友人で、彼のそばにいてくれたわ」

 マクシミリアンは目を伏せ、呟いた。

 「ロベルトにはなんの得にもならなかった。ぼくとの友情から得たものなんて、たかが知れてる。ぼくのせいでいつも迷惑ばかりかけた。いつもぼくを窮地から救い出し………手助けし………」

 パトリツィアはテーブルごしに顔を近づけると、無言でマクシミリアンの手に自分の手を重ね、ギュッと握りしめた。目に悲しみが浮かんでいる。

 「レダニツァに行って」しばらくしてパトリツィアは繰り返した。「首都ソレスディーニャに行って、フォルテニアとフィルマに匿ってもらいなさい。英雄ぶっちゃだめ。あなたは危険な目にあって頭が混乱してるのよ」

 「分かってる」マクシミリアンは顔を歪め、痛む肩をさすった。「だからこそロベルトに知らせたい。やつの居場所を知ってるのはきみだけだ。そこへの行き道も知ってる。たしかきみは以前………あそこに招かれて………?」

 パトリツィアは顔を背け、唇をぐっと引き結んだ。頬の筋肉が震えている。

 「ええ、昔はね。」パトリツィアの声にはなんともいいがたい、奇妙な響きがあった。「以前はときどき招待された。でも、押しかけたことは一度もないわ。」

 



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運命

 

 

 

 激しく唸る風が廃墟に生い茂る草の間を吹き抜け、サンザシの茂みとイラクサがざわざわと音を立てた。雲が月の表面を通り過ぎ、束の間大きな城跡を照らすと、影に揺れる淡い光の中に、濠とわずかに残る城壁と骸骨の山が浮かび上がった。骸骨はぼろぼろの歯を剥き出し、ぽっかり開いた黒い眼窩から虚空を見つめている。ディアは小さく叫び、ロベルトのマントの中に顔を隠した。

 ロベルトの踵でつつかれた雌馬は慎重にレンガの山を踏み越え、壊れた屋根付き回廊を進んだ。敷石に当たる蹄鉄の響きが壁にはね返って不気味にこだまし、吹きつける強風の音にかき消された。ディアは身震いし、馬のたてがみに両手を突っ込んで呟いた。

 「怖い」

 「怖いことは何もない」ロベルトは片手をディアの肩に置いた。「世界中でここより安全な場所はない。ここはネィワ・シュテン ー 魔法剣士の砦だ。ここにはかつて美しい城があった。はるか昔だ」

 ディアが無言でうつむくと、雌馬のノースがディアを安心させるかのように静かに嘶いた。

 馬に乗ったふたりは、ところどころに柱と屋根付き回廊が残る暗くて長い黒いトンネルに入った。ノースは漆黒の闇をものともせず、確固とした足取りでぐんぐん歩んでゆく。蹄鉄が床に当たって、澄んだ音を立てる。

 目の前にトンネルの出口が見えた。一本の縦線が赤く閃き、次第に高く広くなって扉になった。扉の奥では、松明が壁にかかる鉄の燭台で燃え、ちらちらと淡い光を放っている。明かりを背に、扉の前に立つ人影が黒くぼんやりと浮かび上がった。

 「誰だ?」威嚇するような、金属質の声。イヌが吠えたかのようだ。「ロベルトか?」

 「そうだ、ゼンベル。おれだ」

 「入れ」

 ロベルトは馬を降り、ディアを鞍から下ろして立たせ、小さな手に荷物の包みを押しつけた。ディアは包みを握りしめたが、身を隠すには小さすぎた。 

 「ここでゼンベルと待ってろ」と、ロベルト。「ノースを馬小屋に置いてくる」

 「明るい方に来い、ぼうず」ゼンベルと呼ばれた男が轟くような声で言った。「暗いところで動くと危ないぞ」

 ディアは男の顔を見上げ、恐怖の叫びを呑み込んだ。人間じゃない。二本脚で立ち、汗と煙のにおいがして、人間の服を着てるけど、人間じゃない。あんな顔の人間がいるはずがない。

 「どうした、何をしてる?」と、ゼンベル。

 ディアは動かなかった。闇の奥にノースの蹄鉄の響きが遠ざかってゆく。そのとおき、柔らかくてキーキーと鳴くものが足の上を駆け抜け、ディアはビクッと飛び上がった。

 「暗いところでじっとしてると、ネズミにブーツを食われるぞ」

 包みを握りしめたまま、素早くディアは明るい方に大股で移動した。ネズミがディアの足の下でキーッと鳴いて走り去った。ゼンベルは身をかがめて包みを受け取り、ディアのフードを後ろにずらして呟いた。

 「なんてこった………女の子か。こいつは驚いた」

 ディアはおそるおそるゼンベルを盗み見た。笑っている。よく見ると人間だ。口の端から頬を通って耳までいたる、長くて醜い半円状の傷で歪んではいるが、間違いなく人間の顔だ。

 「よく来た。ネィワ・シュテンにようこそ。名前は?」

 「ディアだ」暗闇から現れたロベルトが代わりに答えた。ゼンベルが振り向き、次の瞬間、ふたりの魔法剣士は無言で抱擁し、がっちりと肩を抱き合って、すぐに離れた。

 「《白獅子》よ、生きてたか」

 「ああ」

 「よかった」ゼンベルは腕木から松明を取った。「来い。熱が逃げないように内門を閉めておこう」

 三人は通路を進んだ。ここもネズミだらけだ。壁の下を駆けまわり、暗い闇の底や枝分かれする通路から鳴き声を上げ、松明が描く光の円から逃げまわっている。ディアはロベルトとゼンベルに遅れないよう、早足で歩いた。

 「誰が冬越しをしている? ヴェッセルの他には?」

 「ベルナートとリリエンだ」

 滑りやすい急な階段を下りると、階下にかすかな光が見えた。話し声がして、煙のにおいがする。

 広間は大きく、大きな暖炉が放つ光で明るかった。轟々と燃える炎が煙突の底に吸い込まれている。広間の中央には、十人は座れそうな大きくて重い木のテーブルが置いてあり、三人が座っていた。三人の人間。いや、三人の魔法剣士 ー ディアは心の中で言い直した。暖炉の火が眩しくて、影しか見えない。

 「よく来たな、《白獅子》。待っていたぞ」

 「やあ、ヴェッセル。やあ、みんな。やはり家はいいものだな」

 「誰を連れてきたんだ?」

 ロベルトは一瞬、黙り込んだあと、ディアの肩に手を置き、軽く前に押し出した。ディアはおずおずと前に進み、背中を丸め、うなだれた。怖い ー 怖くてたまらない。ロベルトに見つけられ、助けられたとき、もう怖いことはないと思った。もう過去のことだと思った………。でも、今あたしはネズミと不気味なこだまに満ちた、暗くて今にも崩れそうな見知らぬ古城の中で、またしても炎の赤い壁の前に立っている。不吉な黒い人影が見える。敵意に満ちた、恐ろしげに光る目があたしを見つめている ー 

 「この子は、《白獅子》? この子は誰だ?」

 「この子は、おれの………」急にロベルトが口ごもった。ディアは肩にロベルトの硬くて力強い手を感じた。その途端、恐怖は跡形もなく消え、燃え盛る赤い炎はぬくもりになった。感んじるのはぬくもりだけだ。そして黒い人影は友人たちの影になった。あたしを守ってくれる人たち。その光る目に浮かぶのは好奇心。思いやり。そして、不安…………。

 ロベルトがディアの肩をギュッとつかんだ。

 「この子はおれたちの運命だ」



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魔女とおチビ

 

 

 まこと魔法剣士ほど怪物のように恐ろしく、自然に背くものはない。彼らは汚れし魔法と妖術の所産である。高潔も道義も良心もなき悪党にして、殺戮にのみ相応しき真に悪魔的生き物である。善良なる市民社会に彼らの居場所はない。

 今こそ、彼ら悪名高き生き物たちが巣くう忌まわしき修行の地ネィワ・シュテンを地表から抹殺し、その跡に塩と硝酸をまけ。

 

 ー作者不詳『怪物(モンストルム) ー もしくは魔法剣士の生態』ー

 

 

 

 不寛容と迷信は、一般社会の中でもとくに愚昧なる領域であり、決して根絶されることはない。なぜなら不寛容と迷信は愚昧と同様に永遠だからである。こんにち山そびえる場所も、いつかは海になり、こんにち波うねる場所も、いつかは砂漠になるかもしれぬ。しかし、愚昧なるものは永遠に愚昧である。

 

 ーリコサド・ペ・マール著『人生と幸福と繁栄をめぐる瞑想』ー

 

 

 

 

 

 レギナ・バルバーリスは凍える手に息を吹きかけ、指を曲げて魔法の言葉を呟いた。レギナの去勢馬は即座に魔法に反応し、鼻を鳴らして頭を巡らせ、寒さと風で潤んだ目で女魔法使いを見つめた。

 「おまえにはふたつの選択しかないの」レギナは手袋をはめた。「魔法に慣れるか、それともどこかの農夫に買われて鋤を引くか」

 馬は耳をピンと立て、鼻から息を噴き出すと、木に覆われた山肌をおとなしく下り始めた。凍った枝が当たらないよう、レギナは鞍に身を伏せた。

 すぐに魔法が効いてきた。肘と首すじの刺すような寒さが治まり、悪寒も消え、肩を丸めたり、首を縮めたりするう必要もなくなった。身体を温める魔法は、この数時間レギナをさいなんできた空腹感も抑えてくれた。元気が出たレギナは鞍に座り直し、さっきより注意深く周囲の景色に目を凝らした。

 踏みならされた道を離れてからずっと、灰白色の山脈と、太陽が雲の隙間から現れるわずかな時間 ー たいていは明けがたか日没前 ー に金色に輝く冠雪した山頂を目印にしてきた。もうじき山脈だ。慎重に進まなければならない。ネィワ・シュテン周辺の地形は荒涼さと険しさで知られ、よほど慣れていないと、大事な目印 ー 花崗岩に挟まれた裂け目 ー を見つけるのは難しい。無数の峡谷や渓谷をひとつでも間違えると、たちまち身失ってしまう。レギナのように地形と道に通じ、山道がどこにあるかを知る者でさえ、一瞬でも集中力を失うことは許されない。

 森が途切れ、目の前に広い谷が開けた。谷中に巨石が散在し、反対側の切り立った山の斜面まで広がっている。谷の中心を流れるのはグウェンシュグラ川 ー 別名〈白石の川〉。川は急流に運ばれた巨石と丸太の間で泡立ち、渦巻いているが、ここ上流域では幅の広い浅瀬にすぎない。ここまで登れば、川越えも楽だ。これがコシャウェン国の中の高地まで下ると、川は深くえぐれた川床にぶつかって暴れ、うねり、かなりの難所となる。

 水に入った馬が、早く向こう岸に着こうと歩みを速めたので、レギナは軽く手綱を引いた。水は軽くけづめの深さしかないが、川床の石は滑りやすく、流れは強くて速い。水はさかまき、馬の脚のまわりで泡立った。

 レギナは空を見上げた。山中で気温が下がり、風が強くなるのは暴風雪の前触れだ。だが、今夜も小洞窟や岩場の隙間で過ごすのは避けたい。他に手がなければ、風雪をついて旅を続けることもできるし、テレパシーを使って道を探し、魔法を使って寒さを感じないようにすることもできる。いざとなれば。でも、できれば避けたい。

 幸い、ネィワ・シュテンはもうすぐだ。レギナはできるだけ平坦ながれ場(・・・)に馬を向かわせ、氷河を水流に運ばれた石の山を越え、露出した岩にはさまれた狭い道に入った。両脇の岩壁が、はるか頭上まで垂直に延びていた。高くなるにしたがって壁の間はせばまり、ここから見える空は一本の線のようだ。気温が上がり始め、岩壁の上方でうなる風も弱まってきた。

 雨裂を抜け、谷に入るにつれて道幅が広くなり、やがて森に覆われた大きな窪地に出た。森は切り立った巨石の間に広がっている。レギナは歩きやすそうな窪地の縁を無視して森に入り、うっそうとした奥地に馬を進めた。乾いた枝がひづめの下でパリパリと音を立てる。レギナが倒木の幹を超えるようにうながすと、馬は鼻を鳴らし、足を踏み鳴らしつけた。レギナは手綱を引き、馬のふさふさした耳を引っ張って“この役立たず”と厳しく叱りつけた。馬は急に恥じ入ったかのようにあたりを見まわし、さっきよりも安定した、力強い足取りで茂みの中を進み始めた。

 やがて開けた土地に出た。涸れ谷の底をちょろちょろと流れる小川に沿って馬を進めながら、レギナは周囲に目を凝らし、目的のものを見つけた。涸れ谷の上方に一本の太い木の幹が巨石に支えられるようにう横たわっていた。黒い剥き出しの幹は苔に覆われ、緑色に変わりつつある。レギナは馬を近づけ、確かめた。たしかにここは《修練道》だ。さっきの木も、強風で偶然、倒れたものではない。念のためにレギナは、細くて分かりにくい小道を目で追った。道は森の奥まで続き、ネィワ・シュテンの古城をぐるりと囲んでいる。間違いない。ここは、《修練道》 ー 魔法剣士が脚力と呼吸の制御法を訓練するためのさまざまな障害物が置いてある道 ー だ。《修練道》と呼ばれるが、レギナは若い魔法剣士たちがこっそり《殺人道》と呼んでいるのを知っていた。

 レギナは馬の首にしがみつき、ゆっくりと幹の下をくぐった。そのとき、石のこすれる音がして、次にタッタッタッと軽やかに走る音が聞こえた。

 レギナは鞍の上で振り向き、手綱を引いて、音の正体が丸太の上に走り出てくるのを待った。

 予想通り、ひとりの魔法剣士が現れた。だが丸太の上では止まらず、矢のように丸太の上を駆け抜けた ー 速度も落とさず、腕でバランスを取りもせずに。素早く、滑らかで、信じられないほど優雅な動きだ。魔法剣士は近づいたり、隠れたりしながら、枝一本揺らさずに森の間を走り抜けたレギナは大きくため息をつき、信じられないと言うように首を振った。

 あの身長からすると、せいぜい十二歳くらいだろう。

 レギナは手綱を緩め、かかとで馬に合図すると、上流に向かって歩き始めた。《修練道》は、《小峡谷(ガレット)》とも呼ばれる場所で再び涸れ谷と交差するはずだ。レギナは、もう一度さっきの少年剣士を見たかった。ネィワ・シュテンで最後に子供の訓練が行われたのは、もう二十五年も前だ。

 急ぐ必要はない。細い《殺人道》は森の中をくねくねと周回している。少年がガレットにたどり着くには、近道を通るレギナよりはるかに時間がかかる。でも、ぐずぐずしてもいられない。ガレットを越えると《修練道》は再び森に入り、まっすぐネィワ・シュテン城に続いている。ガレットで行き違えば、もう二度と会えないかもしれない。ここには何度も来たが、魔法剣士たちは見せたいものしか見せない。彼らが見せるのはネィワ・シュテンのほんの一部だけ ー それに気づかないほど、レギナはうぶ(・・)じゃない。

 石だらけの小川に沿ってしばらく行くと、ガレットが見えてきた。育生の悪い、ねじれた木々が生い茂る苔だらけのふたゆの巨石の間に挟まれた、小さな渓谷だ。レギナが手綱を放すと、馬は嘶き、巨石の間をちょろちょろと流れる水に顔を近づけた。

 待つまもなく岩の上に少年の影が現れ、猛スピードで飛び降りた。着地する柔らかい音。しばらくして石のこすれる音と、どさっと何かが落ちる音がして、小さな叫び声 ー というより、悲鳴が聞こえた。

 レギナはさっと鞍から飛び降り、毛皮を肩ごしに払いのけると、枝や根につかまりながら、猛然と山肌を駆けだした。慌てて駆けのぼった勢いで、針葉樹の葉で足を滑らせ、気がつくと、石の上でうずくまる少年の隣に膝をついていた。少年はレギナを見るなりバネのように飛び上がって後ずさり、背中にくくりつけた剣を握った途端 ー つまづき、ネズミサシと松の木の間に倒れた。レギナは膝をついたまま少年を見つめ、驚いて口をぽかんと開けた。

 少年ではなかった。

 ぎざぎざに切った灰金色の前髪の下から、エメラルド色の大きな目が見つめていた。細いあご。上向きの鼻。小さな顔の中で、目だけがやけに大きい。その目に恐怖が浮かんでいた。

 「怖がらないで」レギナはおそるおそる声をかけた。

 少女はさらに目を大きく見開いた。息を切らしてもいなければ、汗もかいていないところを見ると、《殺人道》を走ったのは今日が初めてではなさそうだ。

 「ケガしなかった?」

 少女は答えずにぱっと起きあがると、痛みに息をのみ、左足に体重をかけて身をかがめ、膝をこすった。縫い合わせた(・・・・・・)というより貼り合わせた(・・・・・・)ような革の服を着ている。腕に自信のある仕立て屋が見たら、恐怖と嘆かわしさでわめきだしそうな代物だ。わずかなりとも新しく、身体に合っているのは、膝までのブーツと腰帯と剣だけ ー よく見ると子供用の小剣だ。

 「怖がらないで」レギナは膝をついたまま繰り返した。「あなたが落ちる音と悲鳴が聞こえて、それでここまで走って ー 」

 「足がすべったの」少女が呟いた。

 「ケガは?」

 「大丈夫。あなたは?」

 レギナは笑い、立ち上がろうとして足首を押さえ、痛みにうめいた。腰を下ろし、そっと足を伸ばして、またしてもうめいた。

 「ここに来て、手を貸してくれる、おチビさん?」

 「あたしはおチビじゃない」

 「そうね。じゃあ、何?」

 「魔法剣士(マギア)よ!」

 「そうか! じゃあ起きあがるのに手を貸してちょうだい、マギア」

 少女はその場から動かず、そわそわと足を動かし、指先のない羊毛の手袋をはめた手で剣帯をいじりながら疑わしそうにレギナを見た。

 「心配しないで」レギナは笑みを浮かべた。「追い剥ぎでもなければ、侵入者でもないわ。わたしはレギナ・バルバーリス。これからネィワ・シュテンに行くの。魔法剣士の知り合いよ。そんなに驚かないで。警戒するのはもっともだけど、考えてみて。知らない人間がここまで来られると思う? これまで一度でも《修練道》で誰かに会ったことがある?」

 ようやく少女は近づいて、手を差し出したが、レギナはほとんど助けなしに立ち上がった。本当は手を借りたかったのではない。近くで少女を見たかっただけだ。そして触れたかった。

 緑色の目に突然変異の兆候はなかった。手に触れても、魔法剣士特有の心地良い、かすかにピリピリする感覚は伝わってこなかった。背中に剣をくくりつけて《殺人道》を走っていても、この少女はまだ《月の試練》も《変化》も受けていない。それだけは確かだ。

 「膝を見せて、おチビさん」

 「おチビじゃない」

 「ごめんなさい。じゃあ、名前は?」

 「あたしは………ディア」

 「わかった。もう少し近づいてよく見せて、ディア」

 「このくらいなんでもない」

 「なんでもない(・・・・・・)がどんなふうか見せてちょうだい。ああ、やっぱり。なんでもない(・・・・・・)は、ズボンが破けて、かなり擦りむけてる。じっとして。怖がらなくても大丈夫」

 「怖がってなんか………いたっ!」

 レギナは笑い声を上げ、魔法を使ったあとのひりひりする手を腰でこすった。ディアは身をかがめ、膝を見て叫んだ。

 「うわあ、痛くなくなった! 穴も開いてない………今のは魔法?」

 「ご名答」

 「あなたは魔女?」

 「またしても正解ね。できれば“魔法使い”の方がいいけど。勘違いされないように、名前で呼んでくれる? レギナ。ただのレギナよ。さあ、ディア。馬が下で待ってるわ。一緒にネィワ・シュテンに行きましょう」

 「あたし、走らなきゃ」ディアが首を横に振った。「急に走るのをやめたら筋肉にミルクがたまるからよくないってロベルトが ー 」

 「城にロベルトがいるの?」

 ディアは顔をしかめてさっと口を閉じ、切り下げた前髪の下からちらっとレギナを見た。レギナはくすくす笑った。

 「わかった。きかないわ。秘密は秘密よ。あなたが正しいわ、ディア。出会ったばかりの人に秘密をばらしちゃだめよね。いらっしゃい。お城に行けば、誰がいて、誰がいないか分かる。それから筋肉のことは心配しないで ー 乳酸の対処法は知ってるから。ほら、あれがわたしの馬よ。さあ、手を出して ー 」

 レギナは手を伸ばしたが、ディアは素早く軽々と ー 勢いもつけずに ー 自分で鞍に飛び乗った。馬が驚いて脚を踏み鳴らすと、さっと手綱を取ってなだめた。

 「馬の扱いには慣れているみたいね」

 「あたしはなんでもあつかえる」

 「前へ寄って」レギナは片足を鐙に入れ、手綱をつかんだ。「もう少し場所を空けてちょうだい。それから、剣でわたしの目を突かないでね」

 レギナが拍車をかけると、馬は川床に沿って並足で進み始めた。別の涸れ谷を越え、山腹をまわりながら登ると、石の断崖を背に密集するネィワ・シュテンの廃墟が見えてきた。ところどころ壊れた台形の防壁………物見やぐらと城門の残骸………太くて先の丸い地下牢の柱………。

 馬は鼻を鳴らし、頭を振りながら、濠にかかる壊れかけた橋を渡った。レギナは手綱を引き、川床に散らばる朽ちかけた頭蓋骨と人骨を淡々と見つめた。これを見るのは初めてじゃない。

 「ひどい」突然、ディアが言った。「どうしてこのままにしておくの? 死者は土の中に埋めなければならない。塚の下に。そうでしょう?」

 「そうね」レギナが静かに答えた。「でも、魔法剣士たちは………忘れないためにこうしているの」

 「何を忘れないため?」

 「ネィワ・シュテンは襲撃されたの」レギナは壊れたアーチつきの通路に馬を進ませた。

 「ここで凄惨な戦いがあって、魔法剣士のほとんどが死んだわ。生き残ったのは、そのとき城にいなかった者だけだった」

 「誰が襲撃したの? どうして?」

 「さあね」レギナは答えをごまかした。「遠い昔のことよ、ディア。魔法剣士に訊いてみたら?」

 「きいたけど教えてくれなかった」不満そうな声だ。

 そうでしょうね ー レギナは思った。魔法剣士の修行をしている子供に ー しかもまだ変異していない少女に ー 話すべきではない。大虐殺の話を聞かせてはならない。かつてネィワ・シュテンに狂言者たちが押し寄せ、魔法剣士たちに浴びせた言葉を聞かせ、怖がらせてはならない。変異体(ミュータント)。化け物。神々に呪われた者。自然に背いた生き物。話さないからと言って、誰も彼らを責められない。わたしが同じ立場でも話さないだろう。話せない理由はそれだけじゃない。わたしは魔法使い。あのとき魔法使いの協力がなければ、狂人者たちは城を征服できなかった。街中にばらまかれた。『怪物(モンストルム)』という忌まわしい風刺分 ー あれが狂人者たちを鼓舞し、殺戮に駆り立てた。あれも間違いなく、どこかの魔法使いのしわざだ。でも、ディア、わたしは連帯責任を負うつもりはないわ。わたしが生まれる半世紀も前に起こった出来事を償うつもりはない。そして、忘れないための永遠のよすが(・・・)として放置された骸骨も、いつか朽ち果て、塵となり、忘れ去られ、山肌に絶えず吹きつける風に飛ばされて消えるだけ………。

 「彼らとて、こんなふうに打ち捨てられたくはない」突然、ディアが別人のような口調で言った。「呵責警告の象徴にはなりたくない。かといって飛ばされる塵にもなりたくない

 



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魔女とおチビ Ⅱ

 

 

 

 ディアの声の変化にハッとして、レギナは顔を上げた。たちまち霊気が押し寄せ、こめかみで血液がどくどくと脈打つのを感じた。思わず声を上げそうになったが、のみこんだ。いま声を出したら、目の前の現象を中断させ、邪魔をしてしまうかもしれない。

 「ありふれた塚 ー 」ディアの声は、ますます不気味で、現実離れした、冷たく金属質になった。「いずれ、イラクサに覆われる土の山。死は青く冷たい目を持ち、オベリスクの高さにも、刻まれた碑文にも意味はない。おまえ以上にそれを知る者がどこにいるというのだ、レギナ・バルバーリス ー 〈丘の十四番目の者〉 ー よ?

 レギナは凍りついた。ディアは両手で馬のたてがみを掴んでいる。

 「おまえはグダンの丘で死んだ、レギナ・バルバーリス」見知らぬ邪悪な目が、ふたたび語りだした。「なぜここに来た? 戻れ、いますぐに。この子を ー 古き血脈の子を連れて。この子をいるべき場所へ戻すのだ。さあ、〈丘の十四番目の者〉よ。そうしなければ、おまえはふたたび死ぬことになるだろう。丘がおまえを求める日がやってくる。巨大な墓が ー おまえの名が刻まれたオベリスクが ー おまえの命を奪いに来るだろう

 馬が頭をのけぞらせ大きくいななき、ディアはビクッと身震いした。

 「どうしたの?」レギナは動揺を隠してたずねた。

 ディアは咳こみ、両手で髪をかき上げて顔をこすった。

 「な………何も………」おずおずと呟いた。「疲れたみたい。だから………つい眠りこんで………あたし、走らなきゃ………」

 霊気が消え、レギナの全身を冷たい波が駆け抜けた。防御の魔法が消えつつあるせいだと言い聞かせたが、そうではないのはわかっていた。レギナは城の石垣と崩れかけた銃眼の黒い空洞を見上げ、誰かに見られているような気がして身震いした。

 蹄鉄が中庭の厚板にあたって音を立てた。レギナはすばやく鞍から降り、ディアに手を差し出した。手が触れた瞬間、レギナはそっと魔法の衝撃(インパルス)を出し、驚いた。何も感じない。反応も、応答も、抵抗も。たった今あんなに強い霊気を出していた少女の中には、魔法の痕跡がまったくなかった。今のディアは、ざんばら髪の、みすぼらしい服を着せられた普通の少女だ。

 でも一瞬前は、まったく普通ではなかった。

 奇妙なできごとに思いを巡らす間もなく、ふたりは装甲扉の格子の前まで来た。古びた城門の奥に暗い通路が続いている。レギナは毛皮のケープを払いのけてキツネ皮の帽子を脱ぎ、さっと頭を振って髪を振りほどいた。金色の光沢のある鮮やかな朱色の長い巻き毛はレギナの誇りであり、レギナがレギナである証だ。

 ディアがうっとりとため息をついた。レギナはディアの反応を見て、満足そうに微笑んだ。美しい髪を長く垂らした女はめったにいない。髪は女性の立場や地位を表す。長い髪は自立した自由な女性の象徴であり、普通の女性ではないという印だ。普通(・・)の娘は髪を三つ編みにし、普通(・・)の既婚女性はヘアネットやフードで髪を隠す。女王や王女を始めとする高貴な女性は髪を巻いて流行の髪型にし、女戦士は短く切る。長い髪を自然に垂らし、自立と自由を強調するのは、ドルイドと魔法使い ー それから娼婦くらいだ。

 いつものように、魔法剣士たちは音を立てず、どこからともなくレギナの前に現れた。みな背が高く、筋肉質ながらも細身で、腕を組み、体重を左足にかけている ー とっさの攻撃に備えた姿勢だ。魔法剣士たちはみな無意識のうちにこの姿勢をとるようにすり込まれている。ディアも同じような姿勢で男たちの隣に立った。おかしな服を着てポーズを取る姿は、ひどく滑稽だ。

 「ネィワ・シュテンへようこそ、レギナ」

 「こんにちは、ロベルト」

 ロベルトは変わった。歳をとった。生物学的にはありえない。もちろん魔法剣士も歳をとるにはとるが、普通の人間やレギナのような若い魔法使いに比べれば、その速度ははるかに遅く、大抵は気付かない。だが、レギナは一目でわかった ー 突然変異によって肉体的老化を遅らせることはできても、内面の老化は止められない。顔に深く刻まれたしわが何よりの証拠だ。深い哀れみが押し寄せ、レギナはロベルトの目から視線をそらした。あまりにも多くを見てきた目。その目に、レギナが見たかったものは全くなかった。

 「ようこそ。よく来てくれた」

 ロベルトの隣にゼンベルが立っていた。髪の色と頬の細長い傷を除けば、〈白獅子〉ロベルトと兄弟のようにそっくりだ。その横に、ネィワ・シュテンでもっとも若い魔法剣士のベルナートがいつものように陰険で子ばかにしたような表情で立っていた。ヴェッセルの姿はまだない。

 「ようこそ。さあ、なかへ」と、ゼンベル。「今日は誰かが首つりでもしたかのように寒くて風が強い。ディア、何をしている? お前を呼んだ覚えはないぞ。雲に隠れていてもまだ太陽は高い。訓練は続けられるはずだ」

 「ちょっと待って」レギナが髪を揺らした。「魔法剣士の城では礼儀が軽んじられているようね。ディアは最初にわたしを出迎え、ここまで案内してくれたのよ。少しくらい客の相手をしても ー 」

 「ディアは修行中の身なんだ、バルバーリス」ベルナートがゆがんだ笑みを浮かべた。ベルナートはいつもレギナを名前ではなく ー 敬称もつけず ー “バルバーリス”と呼ぶ。レギナはムッとした。「ディアは訓練生だ。召使頭じゃない。いくら大事な客だとしても、それを出迎えるのはディアの仕事じゃない。行くぞ、ディア」

 レギナは小さく肩をすくめ、ロベルトとゼンベルの困惑した表情に気付かないふりをした。言い返すのはよそう。これ以上ふたりを困らせたくない。ベルナートとはどうしても馬が合わないが、かといってふたりに迷惑をかけたくない。何より、ディアに興味があることを知られたくなかった。

 「馬を預かろう」ロベルトが手綱に手を伸ばすと、レギナはわざと触れるように手を動かした。ふたりの目が合った。 

 「いっしょに行くわ」さらりとした口調だ。「鞍袋から出したいものがあるから」

 「死んだんじゃないかと思ってた。きみは死んだと、そう噂されてた」馬小屋に入ると同時にロベルトが呟いた。「この目できみの立派な墓石を見た。グダンの戦いでの英雄的な死をたたえるオベリスクだ。つい最近になって、あれが間違いだと知った。間違いにしてはひどすぎる。」

 「長い話よ。そのうち話すわ。嫌な思いさせてごめんなさい」

 「あやまることはない。最近は嬉しいこともあまりないが、きみが生きていると知ったときは別だ。あれより嬉しかったのは、今日こうしてきみの姿を見れたことくらいだ」

 レギナの中で何かがはじけた。この城に来るまでの旅の間ずっと、ロベルトに会うのが怖い気持ちと、もういちど会いたいという気持ちとがせめぎ合っていた。だが、あの疲れはてやつれた顔と、すべてを見てきたかのようなうれいを秘めた冷たい目を ー 冷たくて隙きがなく、不自然なほど冷静なのに、激しい感情を秘めた目を見た途端………。

 気がつくとレギナはロベルトの首に腕をまわしていた。ロベルトの手を取り、自分のうなじに当てた途端、背筋に衝撃が走り、歓びが全身を貫いた。思わず声をもらしそうになり、レギナは唇をロベルトの唇に押しつけていた。強く唇を合わせるたびに震えが走り、高まる興奮にレギナはわれを忘れた。

 だが、ロベルトは違った。

 「レギナ………やめてくれ」

 「ああ、ロベルト………こんなに………」

 「レギナ」ロベルトはそっと身体を離した。「もうすぐ………誰か来てる」

 レギナは入口を見た。しばらくして他の者たちの影が近づき、ようやく足音が微かに聞こえてきた。さすがは魔法剣士だ。耳の鋭い魔法使いも、魔法剣士の聴覚には敵わない。

 「おお、かわいい子よ!」

 「ゼンベル!」

 ゼンベルは本物の老人だ。ここの魔法剣士の中では最年長者、ひょっとしたらネィワ・シュテンの古城よりも年上かもしれない。だが、足取りはきびきびと快活で、手の力も強く、握力も未だに衰えていなかった。

 「会えて嬉しいわ、ゼンベル!」

 「キスしておくれ。手にじゃないぞ。それは儂が棺に入るときにしてくれ。それも、もうじきだ。おお、トリス、待っておったぞ………お前の他に誰が儂を治してくれる?」

 「治すですって? 何を治すの? その子供っぽい行儀? 背中の手を退けなさい、おじいちゃん、その灰色のひげに火をつけるわよ!」

 「すまん、すまん。お前がもうすっかり大人だってことを忘れておった。もう膝に乗せて頭を撫でてやる歳じゃないんだな。だが、身体の方は………レギナ、歳の話は冗談じゃないぞ。最近は呻きたくなるほど、節々が痛くてたまらん。あわれな老人を助けておくれ」

 「いいわよ」レギナはクマのような抱擁から身をほどき、ゼンベルの隣りにいる魔法剣士に目をやった。ベルナートと同じくらいの若さで、黒く短いあごひげの下に、酷い疱瘡のあとが見える。めずらしい ー 魔法剣士は普通、伝染病にも強いはずなのに……。

 「レギナ・バルバーリスだ、リリエン」と、ロベルト。「リリエンがここで冬越しをするのは、これが初めてだ。リリエンはここよりもさらに北の方から来た。ポヴィスの出身だ」

 リリエンが頭を下げた。赤く充血した白目と異常に淡い琥珀色の虹彩が、変異の困難さと苦しみを物語っている。

 「さあ、行こう」ゼンベルがレギナの背中を押した。「馬小屋は客人を迎える場所じゃないが、待ちきれなかった」

 中庭の風よけの壁の奥で、ディアがベルナートに付いて訓練をしていた。鎖で吊るした丸太の上で器用にバランスを取って、革ひもで縛って人体に見立てた革袋を相手に剣を構えている。レギナは立ち止まって見つめた。

 「違う!」と、ベルナート。「また近すぎる! やみくもに切りかかるな! 言っただろ ー 人を相手にするときは剣先で頸動脈を狙え! 人間の頸動脈はどこだ? 頭のてっぺんか? どうした? 集中しろ、ディア!」

 なるほど ー あれは伝説ではなく本当だったのね。あの子が例の………。思ったとおりだわ。

 

 

 



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設定など
登場人物、地名の紹介


 

 

 

 〇人物

 ・ロベルト

 《白獅子》とあだ名される魔法剣士(マギア)。この物語の主人公。

 

 ・ディア

 シェロナの故ヨアンナ女王の孫娘。シェロナ国がプウォジューフ帝国に滅ぼされたとき、辛うじて生き延び、ロベルトと出会う。

 

 ・マクシミリアン

 吟遊詩人。ロベルトとは旧知の仲である。ロベルトの武勇を詩の題材にするために彼の旅に付いて回ることがある。口数が多く、女たらしでトラブルメーカーだが吟遊詩人としての腕前は確かで民衆から貴族にまで、その名は広く知られている。

  

 ・パトリツィア

 女魔法使い。ロベルトのかつての恋人である。奇形児として生まれ強い劣等感を持っていたが、とある魔法使いに魔法の才能を見いだされ、ツアレザで魔法使いとしての修行を重ねる。成長した彼女は魔法によって子宮と引き換えに美しい容姿を手に入れた。

 

 ・レギナ・バルバーリス

 女魔法使い。宮廷魔術師としてツォメリク国のジグムント王に仕える。ロベルトとは古くからの友人である。ロベルトに対して並々ならぬ想いを寄せているが、表面上ではそれを隠している。

 

 ・ニェシュカ

 マリアレ寺院の巫女頭。

 

 

 

 〇地名

 「北方諸国」

 コシャウェン、レダニツァ、ツォメリク、グディーニクの四王国とその他多数の小規模国家からなる、大陸北方の国家群。プウォジューフ帝国とは長年の戦争状態が続いている。

 

 

 

 「四王国」

 ・コシャウェン

 北東に位置し、山に囲まれた国。センクルト王が統べる。首都:ボスナ・カトレ。北東のはずれにはロベルトの故郷であるネィワ・シュテンがある。

 

 ・レダニツァ

 海に面した北側の国。ヴォスミル王が統べる。首都:ソレスディーニャ。南境のポーター川沿いに学術都市ヴェルデミアが、海沿いにソフィゴルトがある。

 

 ・ツォメリク

 海に面した南側の国。ジグムント王が統べる。首都:ヴァウジ。東の公国にはマリアレ寺院がある。北西の港湾都市ゴート・フォレンから橋でつながった場所にヨミッド島があり、そこには魔法協会の拠点であり魔法学校であるツアレザがある。

 

 ・グディーニク 

 南東に位置する内陸の国。パマヴェン王が統べる。首都:ジェレードーラ。ジェレードーラはパトリツィアの故郷である。

 

 

 

 「その他の主な小国」

 ・コヴァル

 ・ドガリア&ヒニィア

 ・ディアリス

 ・ウォーデン

 ・クアレッジ諸島

 

 

 

 [プウォジューフ帝国]

 大陸南方に位置する大国。皇帝エヴォミル・フェイ・エヴォニュイが統べる。かつては弱国であったがエヴォミルが統治するようになってからは強大となり、「偉大なる太陽」の旗を掲げ、ヤダニル川を越えて第二次北方戦争を仕掛けるようになり、各地を侵略し版図を広げている。プウォジューフの軍は黒光りする甲冑が特徴で「黒の軍団」と呼ばれ恐れられている。

 

 ・シェロナ 

 二年前に陥落して以来、プウォジューフの属州となっている。ブラトラの対岸にあたるヤダニル川沿いにはプウォジューフ軍が駐留している。

 

 

 



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