ARIA 蒼い惑星のエルシエロ アフターストーリーズ (DOH)
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姫屋編 Fenice
Fenice 01 夢の続き


 夢のかたちは様々だけど。

 

 夢の行く手も様々だけど。

 

 揺るがぬ夢を目指して真っ直ぐ、やってきました水の惑星!

 

 トラブルミラクル押し寄せて、オール片手に悪戦苦闘。

 

 落ち込んだりもしたけれど。迷ったりもしたけれど。

 

 折れたままではいられない、アニエス・デュマは水先案内人。

 

 私は……アニエス・ディマは、今も、ここにいます!

 

 

 

 

「はいっ、お手をどうぞっ!」

 

 元気良く、溌剌に。精一杯の笑顔を浮かべて、私、アニエス・デュマは桟橋から手を伸ばした。

 

「ありがとう、楽しかったよ」

 

 私の手を握る、大きな掌。今日最後のお客様は、人の良さそうな大きな男の人だった。

 

「デュマ部長の推薦だったんだが、アニー君に頼んで正解だったよ。いつかまた来るときは、一人前の君に頼みたいな」

「あはは……恥ずかしいからお父さんにはあまり話さないでくださいね」

 

 お客様……マンホームから旅行に来ているという、お父さんの部下さんの笑顔に、私は顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしくてたまらない。顔から火が出てたりしなければいいけど。

 

「本日は、姫屋のゴンドラのご利用、誠にありがとうございました」

 

 戸惑う私に天の助け。ゴンドラの上から見守ってくれていた、晃さんの助け船が飛んできた。

 

「まっ、またのご利用お待ち申し上げておりますっ!」

 

 晃さんの素敵な笑顔に続いて、ぺっこりと頭を下げる。勢い余ってずり落ちかける帽子を慌ててお手玉する私に、お客様は吹き出しそうな笑顔のまま、手を振って宇宙港に去っていった。

 

「さてアニー、帰るか」

「はい、晃さん」

 

 ぽんと私の頭に手を置いて、ずれた帽子を直してくれる晃さん。藍華さんいわく『レディキラー』の微笑みのせいだろうか、さっき火照った頬も冷めやらぬまま、私は姫屋に向けてオールを仰いだ。

 

 

 

 

「アニーちゃん、ご苦労様~」

「お帰りなさいです、アニーさん」

 

 寮の部屋に戻った私を、いつもの顔ぶれが出迎えてくれた。

 

 ミルクティーのカップを片手に掲げて、春の陽気そのままのような笑顔を見せてくれるのは、ARIAカンパニーの灯里さん。その隣では、いつも一緒の火星猫、アリア社長が灯里さんの真似をしてカップを上げて見せている。

 

 バナナをはぐはぐと頬張っている火星猫のまぁ社長を抱いて、微笑を浮かべているのはオレンジぷらねっとのアリスちゃん。彼女が顔を上げると、抱かれたまぁ社長が名前通りに「まぁ」と鳴く。

 

「お疲れさま、アニー。今アニーの分入れるわね」

 

 そして、優しい笑顔でそういいながら立ち上がるのは、我らが姫屋の跡取り娘にして、私のルームメイトの藍華さんだ。

 

「あ、ありがとうございます、藍華さん。……よっこらしょっと」

 

 私の姿を見て、それまで私のクッションに陣取って丸くなっていたヒメ社長が、藍華さんのクッションに移動するのも、すっかりいつもの光景だ。ヒメ社長の頭をそっと撫でて感謝を伝えつつ、私も自分のクッションに腰を下ろした。

 

 そして、改めて視線を巡らせてみる。ARIAカンパニーの灯里さん。オレンジぷらねっとのアリスちゃん。そして、姫屋の藍華さんと私。

 

 私がアクアに来てから地球歴で一年、すっかりお馴染みになった顔ぶれだ。

 

「はい、アニー。お砂糖は入れておいたからね」

 

 と、キッチンから出てきた藍華さんが、暖かいカップを手渡してくれた。暖かなカップからは、湯気と一緒に紅茶のかぐわしさとミルクと砂糖が織りなす甘い香りが漂い、疲れ切った私の身体にきゅうっと染み込むような感覚が広がってゆく。

 

「ありがとうございます、藍華さん。……あは、甘~い」

 

 少し口に含むと、味覚が嗅覚の正しさを証明してくれた。

 

 ややいつもより多めの砂糖が、ふわりと舌の上に広がって、身体の疲れに溶けていくような感じ。口の中で踊るミルクと紅茶の香りも手伝って、そのままクッションの上で眠ってしまいそうなくらいに気持ちがいい。

 

「こらアニー、居眠り禁止!」

「ええ~……」

 

 そうは言われましても、天国をふわふわ飛んでいるようなこの心地よさ、なかなか振り払えるものではありません。特にこれだけ身体の芯まで疲れ果てているならば……。

 

「アニーちゃん、よく頑張ったものねえ」

「そうね。シングルが予約で一杯だなんて、そうそうあることじゃないし」

「藍華ちゃんの時も凄かったもんね、映画のCMの時」

「あの時の晃さんと藍華先輩、でっかい素敵でした」

「やめてよ、恥ずかしいじゃない。あの時は晃さんの方にほとんどのお客が流れたからまだマシだったけどね。……ともかく。アニーの性格考えたら、人一倍クタクタになって当たり前だわ」

「なるほど、それで藍華先輩、わざわざアリシアさんにおいしいミルクティーの入れ方を教わってから姫屋に戻ってきたのですね」

「こ、こここ後輩ちゃん、情報漏洩禁止!」

 

 などと、先輩方が何やらわいわい騒いでいたのだけれど、

 

「すわっ! お前達、今何時だと思っている!」

 

 と、ドアを開け放ちつつの晃さんの一喝に、しんっと静まりかえった。騒がしい乱入者に、「はわわっ」と、夢見心地だった私の瞼もぱっちりと見開かれる。

 

「騒ぐのはまた明日にしておけ。今日でアニーブームもひとまず終わりだからな」

 

 そう言って、晃さんがウインクして見せる。

 

 そう、先日の雑誌特集(とサイレンの悪魔事件)からはや一ヶ月、ようやく予定表から、私の指名がなくなったのだ。

 

 私を特集した雑誌が発売された直後は、写真をせがまれたり指名予約が入ったりと大騒ぎだったのだけれど、雑誌に次の号が発行されて、私の姿が人々の目に触れることがなくなると、私の指名も徐々に静けさを取り戻し始めた。

 

 それでも、シングルのウンディーネがこんなに指名を受ける事は、前代未聞……とまでは言わないものの、珍しい。そして、シングルが指名を受けると言うことは、その仕事のたびにプリマが指導員として添乗する必要があるから、シングルが指名されると言うことは、プリマの空き時間がその分消費されるということでもある。

 

 そしてプリマの手を煩わせると言うことは、プリマが指導するシングルやペアの時間をも消費すると言うことで……。

 

「晃さん、藍華さん、灯里さんにアリスちゃん、お仕事のことといい、サイレンの事といい、本当にありがとうございました」

 

 改めて申し訳ない気持ちが沸き上がってきて、この場にいる皆と、そしてお世話になったたくさんの人たちに、私は深々と頭を下げた。

 

「うん、本当にいろんな事があったよねえ」

 

 ぺこりと頭を下げた私に、軽やかな笑顔を見せてくれる灯里さん。

 

 彼女の何の打算も屈託もない笑顔は、ちょくちょく霞がかかる私の心を、一瞬で晴れやかに洗い流してくれた。

 

「練習だけではわからないことがでっかい一杯でしたね。勉強になりました」

 

 アリスちゃんが、優しい笑顔を浮かべている。

 

 プリマの晃さんとはまた違う、私と近い視点からの助け船は、まだまだ操船も未熟な私にとって、とてもためになる事ばかりだった。

 

 二人とも、姫屋のウンディーネではないのに、私にこんなにも親身になって手を貸してくれた。

 

 どんなに感謝しても、し足りないし……そして。

 

「ふふん、アニーがちょくちょくチョンボしてくれるから、私も何に気をつければいいかわかって助かるわー♪」

 

 一番私の隣で見守ってくれていた、藍華さん。

 

 少し意地悪を言うこともあるけれど、それは私をからかってリラックスさせようとしているのだと、今ならわかる。

 

 だから、私も少し戯けて悲鳴を上げてみせた。

 

「うわ、それは酷いですよ藍華さん!」

「ほぉう。藍華、するとお前はアニーのミスを全部わかっているんだな。なら、明後日までにレポートと改善点をまとめておけ」

 

 そう言うのは、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた晃さん。思わぬ方向からの一撃に、藍華さんは一瞬目をぱちくりとさせ、そして自分の悲運を嘆いた。

 

「ぎゃーす! 藪蛇だわ!」

「あははは、藍華さん、酷いこと言った罰ですね」

「何笑ってるアニー。当事者のお前もに決まっているだろう」

「ええ~~!?」

「ちゃんとこっちは今日のミスはリストアップしているからな。一つでも見落としていたら二人とも、次の休日はないと思え?」

「「ぎゃーす!!」」

「お二人とも、でっかい墓穴です」

 

 声を揃えて悲鳴を上げる私と藍華さん。アリスちゃんがくすくす笑い、灯里さんがはわわわと狼狽える。

 

 そしてそんな私たちを、晃さんがちょっと意地悪な、だけど優しい笑顔で見守ってくれている。

 

 ……生まれも、育ちも、会社も違う人たちが、この場に集って笑っている。

 

 それは、まるで水の惑星が導いてくれた奇跡。暖かい人と海と街が、私を包み込んでくれている。

 

 これが幸せでなくて、何が幸せだろう。

 

 ――ふと、くらっと意識が遠のいた。

 

 泥の中に沈んでいくような、抗いがたい睡魔。心地よい疲れが、眠りの泥濘から手を伸ばし、私の意識を引きずり込んでゆく。

 

「ん、アニー、疲れたのか。ほら、お前達、そろそろお開きだぞ」

 

 眠りの帳の向こうから、晃さんの言葉が遠く聞こえる。

 

 ――あ、ベッド、行かなくちゃ。

 

 そう思っても、もう意識は身体から離れてしまっている。

 

 そして、抗いようもないまま、私の意識は眠りの海に沈んでいった。

 

 

 

 その時は、まだ何が起きているのか、誰一人としてわかってはいなかった。

 

 だけどその時、アニエス・デュマの運命の輪は、既にぎしぎしと軋みを上げ始めていたんだ。

 

 軋み……その影がはっきりと姿を見せ始めたのは、それから一週間が過ぎた頃のことだった。

 

 

 

 

 

「ゴンドラ、通りまーーーっす!!」

 

 市街地の細い水路にて、角を曲がる直前。私があげた大声に、灯里さん、藍華さん、アリスちゃんが揃って目を丸くした。

 

「はひっ」

「アニーさん、でっかい大声です」

「んー、元気でよろしい」

 

 併走するゴンドラから灯里さんとアリスちゃん、そしてこちらのゴンドラから藍華さんが、口々に私の声を評してくれる。

 

「あはは、元気だけが取り柄ですから!」

 

 そう笑って、力こぶを作る真似をしてみせる。操船も接客も舟謳も、何一つとして先輩達に及ばない私だけれど、元気だけは誰にも負けない。そういう気迫で頑張っている。

 

「ふっふーん、後輩ちゃん。アニーより声が小さいんじゃ、先輩としてちょっとまずいんじゃなーい?」

「でっかいお世話です。アニーさんは後輩ですけど、歳はアニーさんの方が上ですから、腹筋とかが強くて当然です」

「ほほー、そうきましたか-」

「藍華さん藍華さん、私アリスちゃんみたいにオール捌き綺麗じゃないですし」

「お黙りっ。生き馬の目を抜く水先案内人業界では、一つ油断したら後輩が先に行っちゃうのよ。アニーはムラはあるけど頑張り屋だし、泣くのが嫌ならさあ歩けー!」

「あ、藍華ちゃんそれマンホームの古典だねー」

 

 わいわいと騒ぐ藍華さんに、ちょっととぼけた灯里さんの突っ込み。そんな二人のやりとりにクスッと笑った私は、隣で櫂を握るアリスちゃんの方からも、クスクスという忍び笑いの声が聞こえてくるのに気づいた。灯里さんがよく言うところの、アリスちゃんの素敵な笑顔。何となく、見入ってしまう。

 

「…………っ」

 

 私の視線に気づいたのか、アリスちゃんが少し頬を赤らめて仏頂面を作った。その仕草の可愛さに、ついつい吹き出してしまう私。アリスちゃんの仏頂面が更に堅くなってゆく。

 

「アニーさん、お先に失礼します」

 

 ぷいっと顔を背けて、アリスちゃんが併走していた船を先に進めてゆく。どうやら拗ねさせてしまったみたい。

 

「わわ、急ぎすぎだよアリスちゃーん」

「ぷいにゅーっ!」

 

 ゴンドラが急に加速したために、バランスを崩しかけてしゃがみ込む灯里さん。アリア社長もその足にしがみついて……ああ、違った。まぁ社長がもちもちぽんぽんに噛みついてるだけだった。

 

「負けるなアニー! 小生意気な後輩ちゃんに姫屋根性を見せてやれー!」

「はいっ、藍華さん!」

 

 先を行くアリスちゃん達の船に、そうはさせじと藍華さんが拳を突き上げながら檄を飛ばす。体育会系だなあ……と思いつつも、それに元気よく返事をしているあたり、私もまったく人のことは言えない。十二ヶ月以上の時間は、私を姫屋色に染め上げるに十分すぎた。

 

 櫂を水面に突き立てる。切り裂いた水が櫂を押して、その流れを私に伝えてくれる。その流れに逆らわず、切り裂くように、或いは溶け込むように、櫂を流す。

 

「よーし、もう少し! 全力で漕げアニー!」

「了解であります藍華さんっ!」

 

 やいやいと騒ぐ声で、私達が近づいた事に気づいたのだろう。ちらりと、先を行くアリスちゃんがこちらを見て、私と目が合った。

 

「…………」

 

 ぷいっと顔を背けて、更に櫂を早めるアリスちゃん。一見するとただの意地悪だけれど、私もさすがに十二カ月も一緒に練習していない。アリスちゃんの口元が、楽しそうに小さく微笑んでいるのを、私は見逃さなかった。

 

 ゆっくりと、私の舟がアリスちゃんに追いついてゆく。もちろんこちらは全速力だけど、アリスちゃんの舟に追いつくのはそれだけが理由じゃない。

 

 アリスちゃんは、こちらに合わせて櫂繰りの手を緩めている。

 

 それは、私達を待ってくれている……だけじゃない。

 

 アリスちゃんは、私達が横に並んだ瞬間に、本気で抜きちぎるつもりなんだ。

 

 どうせ勝負するのなら、同じところからスタートしなければならない。そんな感じの自分ルールを思いついたのだろう。アリスちゃんにはよくあることだ。

 

 だから、私もその挑戦に乗った。そうしなくちゃ、面白くないし、アリスちゃんに失礼だ。

 

 あと、五メートル。力いっぱい櫂を振り上げる。

 

 あと、三メートル。櫂を水面に突き立てて、一番奇麗な形で前に押し込む。

 

 あと、一メートル。隣舟のアリスちゃんが、スタートダッシュに力を蓄えるのが見える。

 

 そして、舟が並んだ、その瞬間。

 

 

 耳の中で何かが歌うような声が、聞こえたような、気がした。

 

 

 

 

 気づいた時、私は息をしていなかった。

 

 頭がぼんやりする。考えがまとまらない。酸素が足りないんだと、本能が警告しているのだけれど、それを理解する脳がまともに働いてくれない。

 

「アニー! しっかり! アニー!」

 

 誰かが私を呼んでいる。泣きじゃくるような濡れた声。

 

 声が私を呼ぶ度に、私の身体がゆさゆさと揺れているのがわかった。

 

 肺のあたりが圧迫されて、何かが喉をせり上がってくる。

 

 たまらず、私は咳き込んだ。

 

「げほっ、うっ、ごほっ!!」

「アニーちゃん! しっかり!」

 

 引き裂くような肺の痛みと一緒に、体中を酸素が駆け巡る。私のにぶい頭もようやくまともに仕事をするようになったようで、何度も咳き込みながらも周囲を見回す余裕が生まれた。

 

 最初に、藍華さんの顔が一番近くにあって、目許に涙を溢れさせていた。

 

 見れば私の身体は川岸に寝かされていて、すぐ側で青ざめた顔の灯里さんとアリスちゃんが私をのぞき込んでいる。

 

「んっ、けほっ…………あれ?」

 

 胸の痛みがようやく落ち着いた私は、そこで初めて気がついた。

 

 制服の胸を握りしめた手から、水滴がしたたっていることに。

 

 それは胸だけじゃなく、髪も靴も下着に至るまで全部が、水でぐっしょりと濡れていることに。

 

 更に、私を見下ろして深々と安堵のため息を吐きだしている藍華さんも、全身濡れ鼠であることに。

 

「え、えっと……藍華さん、一体何が……」

「何がじゃないわよアニー! 覚えてないの!?」

「えぁええええ、ちょ、ちょちょちょ、藍華さん待って、待って~」

 

 もの凄い剣幕で肩を揺さぶる藍華さん。首がかっくんと折れそうな勢いに目を白黒させつつ、私は灯里さんに助けを求めた。

 

「えっと……アニーちゃん、舟から落ちちゃったんだよ」

 

 舟から……落ちた? 私が?

 

 ……確かに、服はひどく濡れているし、身体も冷え切っている。正直寒くてたまらないのだけど……だけど。

 

「でっかいびっくりしました。私の隣に来たちょうどくらいに、こう、ぐらっと」

 

 手真似で、どんな風に私が落ちたのかを教えてくれるアリスちゃん。確かに、私の記憶は大体そのあたりで途切れているのだけど。

 

「足でも滑らせたの? 気をつけなさいよね、ウンディーネが溺れたなんて格好悪いったらないんだから」

 

 ぷいっと顔を背けて、藍華さんが私を叱咤する。冗談めかしてはいるけれど、その目元が赤く充血しているのを見れば、藍華さんがどれほど心配してくれたのか、手に取るようにわかる。

 

 ……そうか。藍華さんもびしょ濡れってことは、落ちた私を藍華さんが飛び込んで助けてくれたんだ。

 

「ごめんなさい……藍華さんっ……はくしょっ」

 

 謝ろうと頭を下げたら、そのままくしゃみが飛び出してしまった。

 

「あー、流石に春とはいっても、濡れたままじゃ風邪ひいちゃうわね。ってーか寒寒寒寒っ」

「ここからなら、ARIAカンパニーが近いよ。藍華ちゃん、アニーちゃん、急ごう」

 

 灯里さんの提案を、断る理由なんてどこにもない。灯里さんの舟とアリスちゃんの舟にそれぞれ分乗して、私たちは一路ARIAカンパニーに向かったのだけれど。

 

 その道中、私の頭の中で、ずっと一つの疑問が渦巻いていた。

 

 ……一体いつ、どうして私は落ちてしまったのだろう?

 

 

 

 

 そんな訳で、私たちはARIAカンパニーにやってきた。

 

 お風呂を戴いて、濡れた服を着替えてひと心地。ちなみに濡れ鼠二人のうち、私は灯里さんの制服の予備を、藍華さんは灯里さんの私服を借りている。

 

「アニーは意外とARIAカンパニーの制服も似合うわねー。あの時姫屋に来なくても良かったんじゃない?」

 

 藍華さんが言う「あの時」とは、私が姫屋に入社し損ねそうになった時の事だ。

 

「アリシアさんも乗り気だったし、アニーちゃんなら私も大歓迎だったんだけどねー」

「アテナ先輩も、アニーさんがうちに来てくれてたら楽しかっただろうって、言ってたことがあります。私も割と同感です」

 

 ARIAカンパニーの灯里さんと、オレンジぷらねっとのアリスちゃんが口々に言う。

 

 そう、私には姫屋以外にもこんなにも選択肢があった。結局初志貫徹のつもりで姫屋にお世話になっている私だけれど、もしARIAカンパニーやオレンジぷらねっとにお世話になっていたら、私は今頃どんな私になっていたのだろう?

 

「意外と変わらないんじゃない? 頑張り屋で、アップダウンが激しくて、アンジェさんの事で騒いで、親が来たらまた大騒ぎして……」

「あはは、そうかも知れませんね」

 

 藍華さんの容赦ないコメントに、やや冷や汗混じりに愛想笑いを浮かべる私。あまりそのあたりをほじくられるとまたちょっと気分がダウン気味になってしまいそうになるのだけれど。

 

 その時、ばたんと扉が開け放たれ、晃さんの怒号が飛び込んできた。

 

「アニー! 運河に落ちたって本当か!?」

「ひゃぁっ!? あ、晃さん!?」

 

 アリシアさんの暖かいカフェオレを戴いていた私は、晃さんのあまりの勢いに驚き、思わずカップを取り落とすところだった。

 

「あらあら、いらっしゃい、晃ちゃん」

「ああ、アリシア。連絡ありがとうな。……アニー?」

 

 台所から顔を出すアリシアさんに片手を上げて挨拶した晃さんが、改めて私の方に歩み寄る。その剣幕の厳しさに、私は思わず何か言われる前に頭を下げてしまった。

 

「す、すみません、ご心配をおかけしましたっ」

「あ、いや……反省しているならいい。そんなことより大丈夫かアニー?」

「だ、大丈夫ですよ、ほら。お風呂も貰ったし、身体はすっかり元気ですから!」

 

 ガッツポーズを取って見せる。それは別に誇張でもなんでもなく、本当に身体の調子は万全、むしろいつもより元気なくらい……なんだけど。

 

 ……だとしたら、私はどうして運河に落ちたりしたんだろう?

 

「春とはいってもまだ水は冷たいんだからな。油断はするなよ」

「あ、はい、晃さん」

 

 ほっとしたように、微笑を浮かべる晃さん。本気で心配してくれていたことがわかるその表情に、嬉しくなった私も笑って見せたのだけど……そんな私と晃さんのやりとりに、どこか拗ねたように藍華さんが頬を膨らませた。

 

「あのー、晃さん。濡れ鼠は私もなんですけどー」

「ああ、風邪をひかないようにな。まあひいたらひいたで抜け出さないようプリンは買ってきておいてやるが」

「ぎゃ~~す、話が漏れている……!!」

 

 がーん、と藍華さんがショックを受けて、どこかの絵画のような顔になる。

 

 ……藍華さんの打ち明け話を、うっかり晃さんに話してしまったのは私だということは、ばれるまでは秘密にしておこうと心に誓う。そのためにも、藍華さんが『話を漏らしたのは誰なのか』と、追求するべく視線を巡らせる前から逃げ出したいところなのだけど……。

 

 藍華さんの視線が、挙動不審な私のところでじとーっと停滞したところで、晃さんが藍華さんの頭をぽん、と叩いた。

 

「だが、よくやったな藍華。あまり救助訓練は時間を割けなかったから、心配だったんだが」

「は、はい。そりゃまあ、基礎教練の一つですし」

「ああ。だが、華やかなようでいて、ウンディーネもまた、お客様の命を預かる仕事だ。あるべきでないことだが、何らかの理由でお客様が運河に落ちる事もあるだろう。事故を起こさない努力は当然のこととして、起きてしまったときのリカバリができるのとできないのとでは天地の差がある。……今日、アニーを救った感覚を忘れるなよ」

「は、はい、晃さんっ!」

「うふふ、藍華ちゃん頑張ったわね」

 

 晃さんとアリシアさんに褒められた事で、情報漏洩の件は頭から吹っ飛んでしまったらしい。顔を赤くして笑顔を浮かべる藍華さんに、私も改めて礼の言葉を贈ろうと思ったのだけれど、その前に晃さんの矛先がこっちを向いた。

 

「アニーもだ。救われる側だったとはいえ、自分の状況はわかっていただろう? その感覚を活かして、自分が救う側に立った場合の事を考えておくんだ。いいな?」

「あ、は、はい…………」

 

 晃さんの言う事はわかる。自分でも活かしていきたいとは思う。思うのだけれど……。

 

「……? どうした、アニー」

 

 歯切れの悪い私を訝しみ、晃さんが私を覗き込んでくる。本当はこんなことをわざわざ話したくはないのだけど、私が、晃さんの目に勝てるはずもない。

 

 だから、私は正直に白状した。

 

「それが……私、いつどうやって水に落ちたのか、全然覚えてないんです」

「何だと……?」

 

 晃さんの表情が、ぎゅっと引き締められた。

 

 どうやら聞き捨てならない話だったみたいで、アリシアさんも、形の奇麗な眉を潜めている。

 

 一方で、先輩方は話がよくわかっていないようで、小首を傾げてひそひそと話すばかりだ。

 

 念を押すように、晃さんが問い質した。

 

「……足を滑らせたんじゃないんだな?」

「はい、多分。アリスちゃんの舟に追いつこうとして、もうちょっとというところで、記憶がぷっつり……」

「落ちる前からもう意識がなかったのか……すると、落ちたから失神したんじゃなくて、失神したから落ちたということか」

「確かに、水をあまり飲んでなかったですから、そうかも知れません」

 

 晃さんの分析に、アリスちゃんが同意を示す。アリスちゃんはこういうところの知識や分析力は大したものだ。

 

「…………お医者様に看て貰った方が良くないかしら」

 

 アリシアさんが、表情を硬くしたままそう提案する。アリシアさんにそんな顔をされると、本当にまずい状態なのではないかと不安になってくるのだけれど……。

 

「そうだな……まだ結論を出すのは早い。まずはしばらく様子を見よう」

 

 晃さんがそう言って、その話はそこまでということになった。

 

 

 そうして、取りあえず、この件については保留ということにはなったのだけれど。

 

 アリシアさんと晃さんが、最後まで深刻な面持ちを崩さなかったのが、私の何処かにひやりと冷たい予感を忍ばせていた。

 

 

 そして現実はまったく予感を裏切らず……。

 

 私は次の日、また意識を失った。

 

 



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Fenice 02 サイレンの呼び声

「大丈夫、アニー?」

 

 目を覚ますと、目の前に藍華さんの顔があった。

 

「あ……藍華さん」

 

 ぼんやりとした頭を、柔らかい何かが抱き留めているのがわかる。それが藍華さんの膝の感触で、私が藍華さんに膝枕をされていると理解するのに、大体一分くらいが必要だった。

 

「ご、ごめんなさい藍華さん、私、また」

 

 身体を起こして、藍華さんに頭を下げる。そして周囲を見回して、今が夕方で、灯里さん達との合同練習の帰り道であったことに気がついた。

 

 ――また、眠ってしまったんだ。

 

「良いのよ、アニーが目覚めてくれる方が、何倍も大事だもの」

 

 そう藍華さんが笑って見せるけど、私はそれに、堅い笑顔を返すことしかできない。作り笑いなのは一目で分かるだろう。だって、藍華さんにも、晃さんにも、私が無理して作った笑顔を、飽きるほど見せつけてきたのだから。

 

 だからだろう、藍華さんの笑顔に、少し困ったような……晃さんと良く似た色が覗く。困らせている。それがわかっているのに、私は満足な笑顔を浮かべることができない。

 

 何しろ、私がこうやって眠りこけてしまうのは、今日だけでもう三回目なのだ。

 

 『眠り病』……そう言い出したのは誰だったのか。そんなささいな事はもう思い出せないくらい、私の意識は失われ続けた。

 

 症状はいつも同じだった。前触れもなく、スイッチを切り替えるように、私の意識が途切れる。意識を失う直前、身体が浮き上がるような感覚の中で、かすかに耳に残る、歌声めいた音だけを残して。

 

 いつ起きるか。どのくらいの長さなのか。まったくわからない。起きない日もあれば、今日のように一日に何度も起きることもある。

 

 練習中、ゴンドラを漕いでいる最中に倒れたことも、既に五回。皆も慣れたもので、私が漕ぐ番の時は、さりげなく椅子を漕ぎ手の近くに寄せてくれる。私が倒れそうになったら、いつでも受け止められるように、という配慮だ。

 

 お陰で、最初のあの一回以来、一度も私は海に落ちていない。それはとても有り難いことだし、嫌な顔ひとつ見せず、私の練習に付き合ってくれる先輩方には、本当にどれほど感謝してもし足りない。

 

 だけど……先輩方の手を借りなければ、もう何度海に落ちていたかわからない。それは、つまり…………。

 

「アニー、アンジェさんからの返事はあったの?」

 

 努めて考えないように、考えないようにと自分に言い聞かせていた事に意識が向きかけた瞬間、藍華さんが聞いてきた。

 

 少しほっとして、頭を藍華さんの方に切り替える。

 

「はい、まだみたいです。アンジェさんも忙しい時ですし……」

 

 藍華さんが言うのは、先日私がアンジェさんに送ったメールについてだった。

 

 私の病気『眠り病』。それが三度目に発症した時、晃さんは何も言わずに私を捕まえ、病院に連れて行った。

 

 病院の先生は、私の身体を隅々まで調べた。そしてわかったことは、私の身体がすこぶる健康だということだけだった……『眠り病』を除いて。

 

 その結果に当たり前のように不満を表した私達は、次の策を練った。もし私の眠り病が病気であるなら、過去に同じような症例があるのではないか。それを知っている人がいるならば、それは誰だろうか……そう首を捻って唸る私達に、アテナさんがぽつりと呟いたのだ。

 

「アンジェさんなら、色んな伝承に詳しいし、何か知っているかも」

 

 アンジェさんは、ネオ・ヴェネツィアの生き字引とすら呼ばれるほどの博識だ。図書館で古い資料を掘り返している姿をアテナさんも頻繁に目にしていたという。彼女なら、誰も知らないような病気の事を知っているかも知れないし、そうでなくても何かのヒントを持っているかも知れない。

 

 マンホームにいるアンジェさんの手を患わせるのは不本意だったけれど、今は少しでも手掛かりが欲しかった。「何か思い当たることがあったら教えて欲しい」と書いたメールを送ってから、もう一週間くらいになる。研修で忙しい時期だろうに、その日の夜には「なんとか調べてみる」と返信があったのだけれど。

 

 いつもなら、バッグにこっそりPDAを隠し持っているのだけど、今はいつ倒れて壊してしまうかわからないので、持ち歩いていない。だから、メールの確認は部屋に帰ってからになる。

 

 もしかしたら、アンジェさんが何か掴んでいるかもしれない。知れないのだけど……。

 

「藍華さん。私、今日は図書館に寄って帰ります。先に戻っていてくれませんか?」

 

 他の人が頑張ってくれているのに、私自身がぼんやりしている訳にはいかない。図書館の本で、私の病気について何か分からないか調べてみるつもりだった。

 

「え? 何言ってるのよ。そういうことなら手伝うに決まってるでしょ? いい加減にアニーは遠慮癖直しなさいよね」

「ありがとうございます、藍華さん」

 

 これもすっかりいつものやりとり。藍華さんだって、もうすぐプリマ昇格試験の噂が聞こえてくる身分、時間が有り余っている訳ではない筈なのに、いつも私を手伝ってくれる。本当に、どんなに感謝してもし足りない。藍華さんと晃さんに出会えたことは、私が姫屋に来て最も幸運な事だったと、今なら迷いなく言い切れる。

 

 そして、私達は図書館に向かい、いつも通り収穫なしで帰途に就いた。

 

 

 その時、水面下で、私にとって大変な事が起きていたのだけれど。

 

 私は、まだその事実を知る由もなく、ただただ自分の幸福に酔いしれていただけだったんだ。

 

 

 

 

 晃・E・フェラーリは、目の前に積み上げた資料に、低く唸り声を漏らした。

 

 物量としては、いつもの事務仕事の半分にも満たない。そもそも姫屋は老舗の水先案内人企業として、事務と実務で労務区分がはっきりしている。流石に新鋭のオレンジぷらねっと程システマチックではないにしても、超小人数主義のARIAカンパニーなどに比べれば、プリマ・ウンディーネにかかる事務処理の労務は物の数ではない。《白き妖精》アリシアの、そしてそれを補佐する灯里の労務内容の多様性は推して知るべしだ。

 

 一度藍華もあちらに派遣し、現場のみならぬ経営そのものの経験を積ませるべきだろうか、などという思考もちらついてくるが……ともあれ、今目の前の書類は、そういう類いのものではない。

 

「……アンジェさんには、本当に手間をかけさせているな」

 

 それは、医療書の抜粋だった。マンホームにかつて存在したドイツ語……現在では医療語として使われることが多い言語で書かれた原文を、機械が自動で翻訳したものだ。ドイツ語にまでは造詣が及ばない晃にとって、抜粋者アンジェリカの配慮はとても有り難い。

 

 それは今日、地球から晃宛てに送られて来た資料だった。

 

 内容は、地球の資料館から取得した、医術資料の抜粋。今やほとんど存在すら知られていない奇病、アキュラ・シンドロームの資料だった。

 

 アキュラ・シンドローム。アキュラはイタリア語で鷹を意味する言葉だが、病気の名前には最初に発見された患者や発見者の名前が与えられる事が多く、病の内容と直接には関係ないだろう。自分の名前と響きが似ているのはいささか気に入らないところだが、言っても始まらない。

 

 アンジェリカが調査した資料によれば、その症状は突発的かつ深刻な意識の途絶。ウイルス性であり、同じく眠り病の類であるナルコレプシーと現象が似ているために混同されやすく、また症例が少ないために、誰にも知られる事なく資料の山に埋もれていた病である。

 

「……日常生活には深刻な影響はなく、命にかかわる事もない、か。ひとまずは安心だが」

 

 ほっと息を吐き出す。もしかしたらあのまま目覚めなくなるなんて……という漠然とした恐怖に苛まれていた晃としては、それがはっきりしただけでも随分気が楽になる。

 

 だが、問題はそれに続く一文だった。

 

『現状において、根本的な治療の手段なし』

 

 そこだけ浮き上がるように、淡々とした一文。これを書く時の、アンジェリカの躊躇いと苦悩が手に取るように伝わってくる。

 

 アンジェリカの苦悩の理由。それは、晃が恐れていたもう一つの事柄そのものだった。命に別状はないとはいえ、治療の見込みなし、という事実は、ある冷酷な結果をアニエスに突き付けることになる。

 

 アンジェリカが、頼りを送ったアニエスではなく晃に伝えることを選んだ理由。それは、晃に全ての苦悩を押し付けようとしたのだろうか。いや違う。アンジェリカ自身、恐らくどうしていいのかわからなかったのだ。だから、晃を頼った。事実を知らせない訳には行かないから。だが……。

 

「……恨みますよ、アンジェさん」

 

 嘆きの息を吐き出す。口では恨み言を吐き出しつつも、これは確かに自分の役割だ。一人前になって、他人に責任を持つということは、こういうことなのだ。

 

「……どんな顔をして言えっていうんだ。こんなことを」

 

 端正な顔を歪ませながら、晃は資料の最後の一文を睨みつけた。

 

『この症例は、意識途絶時に患者に歌声に似た幻聴をもたらすため、伝承にちなみ、通称《サイレンの呼び声》と呼ばれている』

 

 サイレン。偶然の一致なのだろうが……あの悪魔は、まだアニエスの夢を切り裂こうというのだろうか。

 

 

 

 

「アニー。今日からお前がゴンドラに乗ることを禁止する」

 

 朝食前の私達の部屋に顔を出した晃さんが、色のない顔でそう宣言した。

 

「!!」

 

 テーブルを拭く私の手が止まった。息が詰まり、頭からさっと血の気が引いて行くのがはっきりとわかる。

 

 でも、私以上に激しいリアクションを見せる人がいた。

 

 かしゃぁん、と陶器が砕ける音。藍華さんが手にしたカップを取り落としたのだろう。

 

「どっ、どうしてですか晃さん! いきなりそんな!!」

「藍華っ! 話より先に破片を片付けろ!」

 

 一喝で、台所から飛び出そうとする藍華さんを制する晃さん。不承不承という風で引き下がった藍華さんは、いつにない手早さで砕けたカップ(ああ、あれは藍華さんのお気に入りだった筈なのに)を片付けて、三分の後には三人そろってテーブルを囲んでいた。

 

 全員が揃ったものの、晃さんはタイミングを逸してしまったのか、暫く唇を重く閉ざしたままだった。どう切り出していいのか思案しているようで、沈黙が居座る時間に比例して、部屋の空気もどんどん重さを増しているような気がする。

 

 ゆらりと立ちのぼるカップの湯気が、晃さんのため息で切り裂かれた。

 

「……会社の決定だ。理由はわかるな、アニー?」

「あ…………はい……」

 

 晃さんが言う「理由」はわかっていた。多分、いずれはこうなるだろうと、頭のどこかで理解していた。

 

 合同練習で。普段の練習で。私は何度も気を失った。そしてその度に、誰かの助けを借りていた。そして目を覚ます度に、私は背筋を凍らせていたんだ。

 

”もし、誰も助けてくれなかったら”

 

 今はいい。側にはいつでも誰かがいる。だけど、もし一人前のプリマ・ウンディーネになったら、私の側には誰もいない。舟から落ちても誰も助けられない。更に、お客様を巻き添えにしてしまう可能性すらあり得る。

 

 そんな私を、ゴンドラに乗せ続ける事はできない。

 

「…………はい、わかります。お客様を危険に晒すことだけは、絶対にできませんから」

「そんなこと、わかっていたことじゃないですか! 晃さん、どうして今になってそんなこと!」

 

 藍華さんが食ってかかる。

 

「……アニーの病気がわかったんだ。マンホームのデータベースの奥の方にあった。……アキュラ・シンドローム。ウイルスのせいでバランス器官の機能が飛んで、気を失ってしまう病気らしい」

「ウイルス? だったらワクチンとか血清とかそういうので治療できないんですか?」

 

 藍華さんの問いに、晃さんは悲しげにかぶりを振った。

 

「それが駄目なんだ。症例が少なすぎて、治療できた例が記録されていないらしい」

 

 空気がずんと重くなった。部屋に漂うスクランブルエッグの匂いも白々しい。

 

「…………それって、つまり」

 

 藍華さんが、強ばった目で私を見る。きっと、私も同じような目をしているのだろう。藍華さんの言葉に続いた私の声は、自分でもびっくりするくらい平坦だった。

 

「……治らない……ってこと、ですよね」

 

 

 

 

 それから、晃さんは色々と事情を説明してくれた。

 

 華やかなようでも、姫屋は観光サービス企業、つまり営利企業だ。

 

 ペアは完全な扶養社員だし、シングルにしてもお客を取るにはプリマの添乗が必要だから、先行投資の意味合いを除けば、未熟なウンディーネは会社にとって負担になる。特に姫屋やオレンジぷらねっとは社員を巨大な寮で養っているから、出て行く費用は更に膨れ上がる。

 

 つまり、姫屋には、ゴンドラに乗れない人間を養うことはできない。プリマになれるウンディーネは限られていることもあって、ライトスタッフのふるい分けは頻繁に行われている。そのなかには、健康上の理由からゴンドラを降りる娘も珍しくない。別に私が特殊な訳ではないし、特例を認められる理由もない、ということだ。

 

 姫屋の事務スタッフに回せないかと、晃さんが提案してくれたらしい。でも、会社の事務職などの多くは既に定員を満たしているし、そうでなくとも引退したプリマ・ウンディーネの転職先として、非現場社員の席は多くが予約されているらしい。

 

 だから、私は姫屋を去らなければならない。

 

 晃さんの尽力で、来月の頭まではいられることにして貰えたけれど、そこが限界。もし、それまでにこの病気が完治でもしない限り、私の姫屋での日々は終わりを告げる。

 

「だから、アニー。お前には二つの選択肢がある」

 

 晃はさんは、指を一本一本折りながら、その選択肢を提示して見せた。

 

 一つは、マンホームに帰り、じっくり病気を治すこと。

 

 もう一つは……姫屋を辞め、このネオ・ヴェネツィアのどこかに転職すること。

 

「どうしても水先案内人業界に残りたいなら、アリシアに話をつけてきた。あそこは小人数主義だが、事務専門の社員を一人抱えるくらいはなんとかできるそうだ」

 

 流石は晃さん、見事な手回しだった。きっとずっと前から……病気が発症してからすぐに、私の解雇の話は持ち上がっていたんだろう。それを今まで食い止めていてくれたのも、万が一に備えてアリシアさんに話を通しておいてくれたのも、晃さんの尽力故のことに違いない。

 

(でも、これ以上迷惑はかけられないよね……)

 

 すぐに結論は出た。とても悲しかったけれど、それが避けられないなら仕方がない。目許が熱くなるのを感じながら、私は返事を……マンホームに帰ることを口にしようとしたのだけれど。

 

「待て。お前の事だから、また”迷惑をかけたくない”とか言って、マンホームに帰るつもりだろう?」

 

 あっさりと、先手を打たれてしまった。

 

「えっと、その……」

「ちょっとアニー! そんなこと簡単に決めないでよ!」

 

 藍華さんがばんっと机を叩いた。憤激に顔を真っ赤にして、目元がふるふると震えている。

 

 ああ、迷惑をかけている。そう感じると、私の心はきりきりと痛む。この一年の間に、何度も私を蝕んだ呪縛が、またぞろ鎌首をもたげているのがわかる。

 

 そんな私の様子を見透かしたように、晃さんが言い含めるように言った。

 

「まだ時間はある。今月はまだ一週間残ってる。その間、じっくり考えるんだ。いいなアニー?」

 

 真摯に覗き込む瞳に射竦められ、私は是を返すしかなかった。

 



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Fenice 03 迷い猫

 ゴンドラなしで巡るネオ・ヴェネツィアは、どこまでも続いているかのように感じられた。

 

 さんさんと輝く太陽は、冬の面影をすっかり背中に覆い隠して、爽やかな詩歌を青く高く奏でている。

 

 空ってこんなに高かったんだ。そんな間の抜けた感想が漏れ出して、私は苦笑した。なんだ、まだ結構余裕あるじゃないか。

 

 あれから……私の解雇宣言から、二つ夜が明けた。

 

 今月が終わるまで、あと五日。私がウンディーネでいられるのも……このままなら、あと五日。

 

 晃さんは、じっくり考えろと言った。自分が本当はどうしたいのか、ぎりぎりまで考え続けろ、と言った。そうでなければ、絶対に後悔すると言った。

 

 でも、残された大切な時間なのに、私は、どうしたらいいのかわからない。ゴンドラに乗れないから合同練習に顔を出す訳にもいかず、寮に居座っていても、陰鬱な感情が溢れて溺れそうになる。かといって外出したとしても、行くところも思いつかない。

 

 だから、私はただ、小道を歩いていた。

 

 ウンディーネは、休暇の私用でもゴンドラを持ち出すことが多い。私もその例に漏れず、町に出掛ける時はいつも水路の上だった。

 

 だから、道の上から町を見回すのは本当に久しぶりで……そして、酷い違和感を感じた。

 

「ああ……そうか」

 

 原因はすぐにわかった。私が知っているネオ・ヴェネツィアは水路が中心で、陸路の道の繋がりは、あまりはっきりとは覚えていなかったんだ。

 

 だから私は、複雑怪奇な小道に惑わされ、気が付いた時には今いる場所を見失ってしまっていた。

 

「参ったなあ……」

 

 と口には出してみるけれど、実のところ私としては、道に迷ったのはむしろ好都合だった。

 

 迷っている間は、歩き続けることができるから。

 

 答えの見えない問いから目を背け、あてどもなく彷徨うことができるから。

 

 広場に出る度に、適当に道を選んで進んで行く。足がきりきりと疲労を訴え始めても、まだ歩き続ける。

 

(どうして、こんなことをしているのだろう)

 

 そう、私の中の誰かが問いかける。

 

(何も理由なんてないよ)

 

 と、誰かの中の私が答える。

 

 何も理由なんてない。目的もない。義務もない。ないない尽くしの道行き。

 

 敢えて理由を探すとしたら。

 

(――それは、いつものように、逃げ出しているだけだよね)

 

 そう、私の中の誰かが囁いて……私の足は、止まった。

 

 目の前には、水路があった。静かに水を湛えたそこには、空と、壁と、そして酷く陰鬱な顔が映っていた。

 

「あは……これじゃ、駄目だよね。私は約束したんだから」

 

 無理に、笑顔を作ってみた。水面の私は、ぎりぎりと軋む音がしそうなくらいに歪な笑顔を浮かべていた。

 

 アンジェさんや皆さんに助けられたその後、私は心に決めた。決して心を閉ざさないと。

 

 背を向けて逃げないと約束した。自分の殻に閉じこもらないと誓った。だってこんなにも大切な人たちが、私の事を見てくれているのだから。だから……。

 

「約束……したもん。強くなるって、お父さんと、お母さんと、アンジェさんに……」

 

 大切な人の名前を一つ一つ唱えると、だんだん笑顔がそれっぽくなってきた気がした。

 

 どうにか渾身の空元気を絞り出し、顔を上げる。そうだ、こんなことで負けていられない。絶対負けるもんか。私だって変わっている。一人で全部背負い込んで、圧し殺していた私は、もういなくなった。今の私は、私を思ってくれる人たちを、信じることができる。だから……きっと大丈夫。

 

 さあ、まずは先に進もう。そうすれば、何かが変わるかも知れない。立ち止まっていても何にもならないのだから。

 

 まず一歩、更に一歩。その角を曲がれば、きっと新しい世界が広がっている。そうやって自分に言い聞かせながら、私は、その角を、曲がって。

 

 

 ぱぁっと、視界に青が飛び込んできた。

 

 大好きな、ネオ・ヴェネツィアの姿が見えた。

 

 青い海と、高い空と、浮島と、カンパニーレと、そして広い広い運河。

 

 そこには、本当に大好きなものが溢れていた。

 

 ゴンドラと、ウンディーネと、大好きな友達。

 

 何の偶然なのだろう。ただ、道に迷っただけなのに。

 

 運河岸に飛び出した私は、偶然にも。

 

「さあ、お手をどうぞ」

「後輩ちゃん、また顔が怖い!」

「アリスちゃん、リラックスリラックス」

 

 ……皆が練習している河岸に、出くわしていた。

 

 

 

 

 三人は、いつものように練習を繰り返している。

 

 灯里さんが、ついついどこかに気を散らしたり。

 

 アリスちゃんが、仏頂面でぼそぼそ喋りだしたり。

 

 藍華さんが、それを細々と叱ったり、からかわれたり。

 

 

 ――ふと、考えたことがある。

 

 私が来る前から、藍華さん、灯里さん、アリスちゃんは一緒に練習を続けていた。

 

 彼女たちと私が一緒にいられるのは、私がアクアに来たあの日、最初に出会ったのが、アリア社長だったから。

 

 アリア社長が、灯里さんと巡り合わせてくれた。灯里さんが、アリシアさんを。アリシアさんが、晃さんを。晃さんが、藍華さんと、そしてアテナさんとアリスちゃんと巡り合わせてくれた。

 

 だから、今の私がある。藍華さんと同じ部屋で暮らし、彼女たちといつも一緒にいる私がいる。

 

 だけど……私がもし、普通に姫屋の門を叩いていたならば。

 

 手違いとは言え、実際姫屋の新人枠に空きはなかったのだから、私はきっと、他の小さな会社に回されていたのではないか。

 

 たとえ、そうなっていたとしても、私はウンディーネになることを諦めはしなかっただろうけど。

 

 少なくとも、私は藍華さん達と、こんなにも親しくなることはなかっただろう。

 

 ……そして、たとえそうだったとしても、きっと。

 

 私とみんなが出会わなかった世界でも、藍華さん、灯里さん、アリスちゃんの三人は、こうして楽しげに合同練習をしていることだろう。

 

 ……異物なんだ、私は。

 

 私がいなくても、皆の輪は、何事もなかったように回り続けるんだ。

 

 だから。

 

 きっと、私がいなくなっても、きっと。

 

 皆は、何事もなかったように、楽しく日々を過ごして行くだろう。

 

(――あ)

 

 ふと、視界がぼやけた。

 

 ぎりりり、と胸が痛む。

 

 何か、熱いものが溢れる。

 

 ぽろり、ぽろりと零れ落ちるのは、私の涙。

 

 ――私、泣いている。

 

「あ……れ?」

 

 ぽろぽろ、ぽろぽろ。

 

 何故だろう、涙が止まらない。

 

 ううん、理由はわかっている。

 

 ――怖い。

 

 ――悔しい。

 

 あの場所に、戻らなくてもいいことが。

 

 あの場所から、消えてしまうことが。

 

 あの場所から、消えなくてはならないことが。

 

 どうしょうもなく――怖くて、苦しい。

 

「…………アニーちゃん?」

 

 気が付くと、灯里さんが私を見上げていた。

 

 いつの間に気づかれていたのだろう。本当に灯里さんは”何か”を見つける天才じゃないんだろうか。

 

「灯里さん……っ、ご、めんなさい……」

 

 「大丈夫」と答えるつもりだったのに、ぐしぐしと涙を袖で拭いながら私が紡げたのは、そんな謝罪の言葉だった。

 

 そんなつもりはなかったのに。灯里さんの顔に、陰を落としたいなんて思ってもいなかったのに。

 

「うん。大丈夫だよ。ほら、みんなも来るから」

 

 にこりと、普段なら見るだけで元気になる笑みを湛えて、灯里さんが目配せする。それにタイミングを合わせた訳ではないだろうけど、その先は丁度、アリスちゃんと藍華さんが駆け寄ってくるところだった。

 

「灯里先輩、何を……あっ」

「ちょっとアニー、大丈夫!?」

 

 二人も、灯里さんの側に私がいることに気づいたのだろう。更に足を速めてこちらに駆け出す。

 

「藍華さん……アリスちゃん。……ごめんなさい」

 

 また、私の口から出るのは、謝罪の言葉。灯里さんの隣に辿り着いて、息を荒げる藍華さんとアリスちゃんが、それぞれ目を丸くする。

 

「なぁにいきなり謝ってるのよ、この娘は」

「でっかい唐突です、アニーさん」

「でも……だって」

 

 何故と言われても言葉に詰まる。折角楽しく練習していたみんなの輪を崩してしまったこととか、心配かけてしまってることとか、色々な感情と事情がないまぜになっていて、考えがまとまらない。

 

「だから……ごめんなさ」

「はい謝るの禁止!」

「あうっ」

 

 ぽこん、と藍華さんのチョップが入る。目を丸くする私に、向けられる藍華さんの表情は、いつもの凜とした笑顔。それが苦笑交じりに小さくため息を吐き出して、

 

「まあ、あんたのことだから、そんな事じゃないかと思ったわ。だから言ったでしょう、アニーみたいな娘は、一人でいたら駄目なんだって」

 

 と、また軽くぺん、とチョップを飛ばした。

 

「ふふ、藍華ちゃんはアニーちゃんのこと、本当によくわかってるんだねー」

「そりゃまあ……半年も四六時中一緒に過ごしてれば、色々わかるわよ」

「でっかいいいコンビです。最初は灯里さんが増えたみたいだ、とかツッコミ半分受け持ってくれ、とか言ってましたけど」

「はい古い話蒸し返すの禁止。……とにかく、こういう気分の時はプリンね、生クリームどーんと乗せたプリン」

 

 唐突に、藍華さんがそう言い出した。

 

「プリン……ですか?」

「……あ、なるほどぉ。そうだね、ふふふ」

 

 あんまりに強引な話。小首を傾げるアリスちゃんだけど、灯里さんは何やら得心しているようで、にこにこ笑っている。

 

「何よ灯里、意味ありげな笑いなんて似合わないわよ」

「だって…………ねえ、アリスちゃん」

「あ……そっか、そうですね。ある意味藍華さんらしいです」

 

 見透かしたような微笑みの灯里さん。その表情は、なんだかどことなく、アリシアさんを彷彿とさせる。そのせいなのか、それとも何か照れる事でもあるのか、藍華さんはツンと顔を背けた。

 

「うっさいわね。とにかくプリン買いにいきましょ。それからまた一緒に練習。アニー、反論は許可しないわよ」

「え、でも私、ゴンドラは禁止……」

「漕がなきゃ大丈夫よ。漕ぐだけがウンディーネじゃないでしょ。観光案内とか、舟謳とか、練習できることはいくらでもあるんだし、一週間もサボるなんて、時間が勿体ないわよ」

 

 私の反論に畳み掛けるように、藍華さんがまた私ににじり寄って、ぴっと指先で鼻の頭をつつく。いささか強引な話だし、そもそもウンディーネ不適格の私が、今更どんなに練習しても意味はないと思うのだけれど。

 

「うふふ、アニーちゃん。藍華ちゃんは、アニーちゃんと一緒に練習したいんだよ」

 

 灯里さんの言葉が、私の”でも”を振り払った。

 

「こら灯里、勝手に決めつけるの禁止!!」

「でもでっかい事実です。それに私も、アニーさんがいないとちょっとつまらないです」

「うんうん、私も、藍華ちゃんと、アリスちゃんと、アニーちゃんとで一緒に練習するのが好きー」

 

 ……また、目の奥の泣き虫が騒ぎ始めた。

 

 胸が熱い。心臓が早鐘を打つ。体中が踊りだしたいくらい嬉しいのに、目尻は熱く涙を溢れさせる。

 

 どうして、こんな人達と出会ったのだろう。

 

 どうして、こんなにもすばらしい人達と、共にいることができたのだろう。

 

「……もう、しょうがないわね」

 

 いつしか泣きじゃくっていた私を、藍華さんがそっと抱き寄せてくれた。

 

 ……どうしたらいいのか。

 

 ……どうするのが正しいのか。

 

 わからない。わからなくなってしまった。

 

 だけど……私は。

 

 私が望むことが許されるのならば。

 

 私は……皆と、肩を並べて歩みたい。

 

 どうすれば、そうであれるのか、わからないままだったけれど。

 

 全てを見通すように微笑む灯里さんと、僅かに戸惑いを交えつつも親愛の笑みを浮かべるアリスちゃん、そして私の背中を優しくさすってくれる藍華さんに囲まれて。

 

 私はそう願いを確かにして……。

 

 

 またあの歌声を、聞いた。

 

 

 

 

 そして、また目を覚ました私の耳に、とんでもない言葉が飛び込んできたんだ。

 

「おい、アニー! 見つかったぞ、治療法!!」

 



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Fenice 04 マンホームより

 一日ほど前……アクアとマンホームの間では一日の時差があるため、暦の上では二日前のことである。

 

「……次の資料、アキュラ・シンドロームの来歴について検索。抽出条件は……」

 

 アンジェリカが口頭で指示を与えると、彼女の周囲に無数の立体映像のウィンドウが開かれ、次々とデータを映し出し始めた。

 

 データの内容は、専門的な医学論文、或いは過去のアクア入植者達の記録だった。アンジェリカは次々と表示されるデータウィンドウに視線を走らせては、落胆交じりで中空をペンで叩く。そうするとそれまで中に浮いていたデータウィンドウが閉じられ、次の資料が映し出されるのだ。

 

 合理化が極端に進んだマンホームでは、既に書物を集積した図書館そのものが姿を消している。今のマンホームでは、資料館とは効率よくデータの検索や閲覧が行える個室を指すものであり、昔ながらの、古書を蓄えた図書館があるネオ・ヴェネツィア育ちのアンジェリカにとっては、未だに違和感が拭えない空間である。

 

 高度に情報化されたデータベースを、たどたどしい手つきでめくってゆく。本当なら、書物に実際に触れて、その内容を五感を総動員して堪能したいところなのだが、どうやらマンホームでは、旧態依然とした書物そのものが、既に趣味物扱いとされているらしい。

 

 ネオ・大英図書館には、世界の書籍が一堂にかき集められているというのだが、今アンジェリカがいる土地からでは、いささかブリテン島までは距離がある。人類発祥の地ではどんな希書に巡り会えるのかと、アンジェリカは密かに楽しみにしていたのだが。落胆を禁じ得ないところである。

 

 だが、今のアンジェリカには、自身の読書リテラシーなどを問題にしている余裕はなかった。

 

 一刻も早く、アニエスの病気を治療する方法を見つけなければならないのだ。

 

 アニエスの病状を知ったのは、いつものアニエスからのメールによってではなく、アニエスの友人である水無灯里のメールマガジンによってのことだった。彼女は普段から日頃体験している事柄をメールマガジンに投稿し、太陽系全域に公開している。何でもアクアに来る以前からの習慣だということで、マンホームのウンディーネファンの間では、密かに名が知られる存在であるらしい。

 

 彼女が「良かったらどうぞ」と、メールマガジンの事を教えてくれたのは、アンジェリカがアクアを立ち去る直前の事だった。元々メールという手段が苦手だったアンジェリカだったが、灯里の豊かな感受性で綴られたメールマガジンの魅力は手放しがたく、アニエスからのメール共々、日々楽しみにしているものだったのだが。

 

 灯里のメールマガジンに投稿された、「友達が辛い病気で苦しんでいます。どなたか、このような症状の病気に心当たりのある方はおられませんか?」という記述と、それとタイミングを合わせたように途絶えたアニエスのメールを合わせて考えれば、「辛い病気」の患者がアニエスであることは容易に想像がついた。

 

 早速、アンジェリカは資料館に走った。灯里の提示した僅かな、しかし精一杯のヒントから、不慣れな電子化資料館を駆使して病気の正体を探る。

 

 もちろん生兵法でそうそう真実を掴める筈もなく、一日目の調査は空振りに終わった。

 

 しかし、二日目。灯里のメールマガジンに、こんなコメントが投稿されたのだ。

 

『投稿者:にゃんにゃんぷう それは、アクアの古い風土病、アキュラ・シンドロームかも知れません』

 

 投稿者である「にゃんにゃんぷう」というハンドルネームの人物(確か児童向けアニメの主役の名前だ)が何者かは知らないが、早速アンジェリカはその病名を元に調査を進め、資料の奥で眠っていた、眠り病の一種であるアキュラ・シンドロームを発見した。

 

 そして、その治療が、現在の医療技術で容易に治療できるものではないということも。

 

 アンジェリカは、まず晃に現状の経過をメールし、どうにか治療法を見つける時間を稼ぐよう促したのだが……昨夜届いた晃からのメールを見ると、どうやら自分のメールが契機となって、アニエスの解雇が確定してしまったらしい。

 

 どちらにせよ時間の問題だった、とは晃の言だが、結果としてアニエスの夢に止めをもたらしたのが自分であるのは間違いない。

 

”もう絶対に、アニーの手を離さない”

 

 それは、サイレンの悪魔事件の時に誓った事。それはサイレンの脅威が去った今でも反故になった訳ではない。

 

 だから、アンジェリカは今日も資料館の住人となっていた。

 

 ツアーコンダクターとしての勉強には、ひとまず休みを取った。今年中の資格取得は難しくなるが、自分の夢は一年くらい遅らせても問題はない。ましてマンホームの一年はアクアの半分。それくらい、アニエスの夢を繋ぐことができるならば、安いものだ。

 

 この資料館に入り浸ってから、早くも一週間。左右を板で仕切られただけのブースにも、すっかり慣れてしまった。背後を通過する警備員や司書達も、時折アンジェリカの後ろで足を止め、「御苦労様です」と会釈をして行く有り様である。

 

 今し方も、通りがかりの司書の労いの言葉に会釈を返したアンジェリカは、再び資料に意識を戻す。データベースには「治療法なし」と書かれていたが、普通に触れられるデータベースは所詮一般人向けのもの。専門家が現在進行形で進めている研究については、まだ記載がなくてもおかしくはない。

 

 逆に言えば、そんな僅かな希望しか、アンジェリカには残されていなかったのではあるが……。

 

「とにかく、アキュラ・シンドロームを専門にしているお医者さんを探してみないことには……」

 

 誰に聞かせるという訳でもなく、自分に言い聞かせるように呟いた、その瞬間の事だった。

 

「いやぁ、流石に難しいと思いますがねえ、それは」

 

 突如背後から聞こえてきた声に、アンジェリカは身を縮み上がらせた。

 

 慌てて振り向いたアンジェリカの視界は、大きな影に覆い尽くされていた。

 

「きゃ……」

「おっと、お静かに。私は怪しい物ではありません」

 

 思わず悲鳴を上げかけたアンジェリカの前に、ふっくらとした男の人差し指が立てられる。

 

 見れば、それはブースの出口を一杯に埋め尽くす程の巨漢だった。溢れんばかりの体躯をコートに詰め込み、目深に被った帽子は、男の顔をそっくり覆い隠している。

 

 ……これを怪しくないと自称されても、困る。

 

「いや、これは失礼。たまたま聞き覚えのある病気の名前が聞こえてきたものでしてね」

 

 そういう男は帽子を脱ぎ、やや仰々しく礼をして見せた。恰幅の良い体躯にはやや不釣り合いに吊り上がった黄色い目に見据えられ、アンジェリカはこの人物にどこかで出会ったことがあるような感覚を覚えていたのだが。

 

「アキュラ・シンドロームをご存じなのですか?」

 

 疑問よりも、先に確かめる事があった。

 

「ええ。と言っても私が専門という訳ではないのですがね」

 

 アンジェリカに問われ、紳士はぴっと、革手袋の指先を立てて見せた。

 

「アキュラ・シンドロームは、アクアで発生した病気で、しかもアクアではウイルスがすっかり絶滅してしまった病気です。今では専門に研究しても、それを求める人間がほとんどいない。専門家を捜すのは、至難の業と言えるでしょう」

 

 予想通りの回答に、思わず肩を落としてしまうアンジェリカだったが、

 

「でも、どうしてもアキュラ・シンドロームを治療したいと言うのであれば、希望はないでもありません」

 

 それに続いた紳士の言葉に、ぱっと顔を上げて紳士を凝視した。

 

 思わせぶりに、指先をちっちと振る紳士。その様子は巨躯の割に愛嬌があるものの、アンジェリカに更なる不審感を煽らずにはいられない。だが、それとは裏腹に、問い返さずにはいられないのもアンジェリカの立場である。

 

「希望、ですか?」

 

「ええ。実は、知人にアキュラウイルスの変異元を専門に扱っている者がいるのですよ」

「変異元……?」

「ええ。元々アキュラ・シンドロームというものは、かつてマンホームで発生した致死性のウイルスが、アクアの環境に適応した結果、変異したものなのです。そして、そのウイルスの振る舞いは、致死性か眠り病か、その一点しか違いがない」

「と、いうことは……?」

 

 その紳士が、何を言おうとしているのか。問い返す言葉が、何かの予感に震えている。

 

 そんなアンジェリカの様子に、紳士は帽子をちょっと気取った風に傾けて、茶目っ気たっぷりにウインクして見せた。

 

「……恐らく、変異元に対する処置は、アキュラ・シンドロームに対しても効果があるのではないか……そう私は考えているのですよ」

 

 男の言葉を理解するのに、アンジェリカはたっぷり30秒を必要とした。

 

 そして、その言葉の意味を飲み下したアンジェリカは、ばんと机を叩いて立ち上がって……。

 

「そ、そのお医者様を紹介してください!」

 

 コート姿の男の襟につかみ掛かり、早口に詰め寄ったのだ。

 

 

 

 

「……つまり、マンホームで治療を受ければ、私の病気は治るんですか?」

 

 半信半疑で、私アニエス・デュマは難しい顔の晃さんに念を押した。

 

 私が目を覚ましたのは、姫屋の藍華さんと私の部屋。気を失ったままの私を、藍華さんや灯里さん、アリスちゃんがここまで運んできてくれたらしい。流石は、日頃からゴンドラを漕ぎ続けるウンディーネ、みんな見かけより体力はある……というのはともかく。

 

 晃さんがそのニュースを携えて飛び込んできたのも、この部屋だった。

 

「ああ、少なくとも、専門家に近い医者を見つけて話を通したと、アンジェさんのメールには書いてあった。アニーにも行ってる筈だから、後から確認しておけ」

 

 頷いて言う晃さん。その言葉に、藍華さん、灯里さん、アリスちゃんがぱっと顔を輝かせた。

 

「でっかい凄いです。アンジェさん」

「本当だねー。アンジェさんってば、こんなに早く調べてくるなんて、これはもう凄い奇跡だよ」

「マンホーム暮らしも、こういうことは悪くないのかもね。やれやれ、ちょっと肩の荷が下りたわ」

 

 口々にそう言って喜色を明らかにする先輩方なんだけれど……私は、晃さんの表情に、堅さが抜けていないことが気になっていた。

 

 そう、晃さんなら、私の病気が素直に治るならば、もっとはっきりと喜んでくれるはずなんだ。

 

 なのに、今の晃さんは、どこか言葉を選んでいるような顔をしている。どうやって切り出そうかという、前のメールが来た時と同じ、堅く強ばった表情。

 

「晃さん……?」

 

 私が気づくくらいだ。もっと付き合いの長い藍華さんも、晃さんの様子に気づいたようだった。

 

 不安げな色を宿した藍華さんと目配せを交わして、私は晃さんに問いかけた。

 

「……晃さん、何か……まだ、あるんですか?」

「……ああ。そうだな。隠すことでもないし、アニーへのメールにも書いてあるはずだが……」

 

 そこまで口にして、晃さんはすーっと息を吸い込んだ。

 

 そして肺の中の空気と一緒に言葉を暖めて、短く簡潔に吐き出したんだ。

 

「……治療に、どれだけかかるか、わからないらしい」

 

 

 

 

 緊張が部屋を覆い尽くして、誰もが口を開くことを躊躇っていた。

 

「どれだけって……お金の話ですか?」

 

 そんな中、最初に口を開いたのは、何かと思い切りの良いアリスちゃんだった。

 

「いや、時間の方だ。マンホームに戻って入院したとしても、完全に治療が終わるまで、最低でもマンホームで一年、もしかしたらもっとかかるらしい」

 

 藍華さんたちが、一斉に息を飲むのがわかった。

 

「一年以上……」

「でっかい、長いです」

「どうして、そんなに時間がかかるんですか? アキュラ・シンドロームに似た病気は、特効薬があるんでしょう?」

 

 藍華さんにそう問われ、晃さんはメールの抜粋を見せながら、かい摘まんで理由を説明してくれた。

 

 アキュラ・シンドロームの変異元は、致死性の病気であるために、効果優先でとても強い薬が使われるのだということ。

 

 この薬を使うと、体に深刻な副作用が生じ、そちらのリハビリに相応の時間がかかってしまうということ。

 

 更に、アキュラ・シンドロームに薬を使った臨床例がないので、動物実験に成功しないと、薬を使うための認可が下りないということ。

 

 それらを含め、最低でも一年、恐らくは三年ばかり、マンホームで治療を受け続けないといけないだろう、ということを。

 

「三年……」

 

 呆然と呟くしかなかった。

 

 あまりのことに、思考がぱったりと停止していた。

 

 三年。今の私は十六歳だから、三年治療を受けたら、十九歳になっている。

 

 プリマウンディーネへの平均昇格年齢は、十八歳から二十歳。まだぎりぎり間に合う。でも、シングルになってからプリマになるまでの訓練期間は、通常二年から三年。三年のブランクがあるなら、ペアから修行をやり直すようなものだから、かかる時間はもっと長い。

 

 ……間に合わない。やり直すには遅すぎる。

 

「……治療にはそれ相応のお金はかかるし、薬の副作用で身体を壊してしまう可能性もある。これを希望と見るかどうかは……アニー次第だ」

 

 そう言って、晃さんは深々と息を吐き出した。

 

 私は勿論、藍華さんも、灯里さんも、アリスちゃんも。

 

 誰ひとりとして口を開くことができない、そんな重々しい沈黙が舞い降りた。

 



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Fenice 05 渡し船の妖精

 私には三つの選択肢がある。

 

 

 一つは、全てを諦めて、マンホームに帰ること。

 

 同じような眠り病、例えばナルコレプシーの患者などは、症状を緩和する薬が存在し、それを服用し続けることで、社会生活を問題なく過ごすことができる。

 

 でも、アキュラ・シンドロームには、そういった薬が存在しない。あるのはとびっきりの副作用がある、強力無比な治療薬。効果があるかもわからない。私自身が人体実験に供されるも同然の、リスクばかりが高い薬があるだけ。

 

 でも、リスクを避けたとして、ウンディーネへの道を断念した私に、合理化が進みきったマンホームで、どれほどの仕事があるだろう。勉強をやり直して、アクアに来る前のところまで戻ったとしても……アキュラ・シンドローム患者の私に、できる仕事は限られる。

 

 メリットは、家族と一緒にいられること。いつ気を失っても、家族が近くにいてさえくれれば、まだ対処のしようはあるし、安全管理に神経質なくらい気を遣っているマンホームならば、道端で意識を失っても、そうそう危険なことにはなりにくい。

 

 デメリットは……これまでアクアで培ってきた私の全てが、どこかに消えてしまうと言うこと。

 

 

 もう一つは、ウンディーネであることを諦めて、アクアに残ること。

 

 合理化からは縁遠いアクア、特にネオ・ヴェネツィアでは、まだまだ人の力を必要としている仕事は数多い。それに、なんだかんだ言っても私はウンディーネになるために訓練を続けてきた。ネオ・ヴェネツィアについての知識はそこそこのものだし、ウンディーネ業界についての知識もある。

 

 もちろん、アキュラ・シンドロームのせいで気を失う事には代わりはないから、危険な仕事などには就くことができないという点は変わらないし、水路端で気を失ったら、水の中に真っ逆さま、という危険が伴うのが難点。でもそれは気をつければいいことだし、この町の人々なら、きっと何とか助けてくれるのではないだろうか……と期待したい私がいる。

 

 それに、アクアで働き続けるのであれば、晃さんが、ARIAカンパニーへの転職を斡旋してくれている。

 

 実働社員がアリシアさんと灯里さんだけというARIAカンパニーは、ウンディーネとしての舟漕ぎ以外に、会社としての体裁を維持するために、様々な仕事がある。今はそのほとんどをアリシアさんが一人でやっているようなもので、頻繁に彼女がゴンドラ協会の会合に顔を出すのも、そのあたりの関係があるらしい。そういった事務仕事などの雑務を私が担当すれば、アリシアさんや灯里さんにかかる負担を軽くすることができるのではないか……というのが晃さんの提案だ。

 

 正直、魅力的な提案だと思う。姫屋にはいられなくても、アクアにいて、灯里さん達の側にいることができれば、藍華さんや晃さん、アリスちゃんやアテナさんとの繋がりが失われる事はない。どうせ働くのであれば、大切な人たちのためになる事をしたいというのが本音でもあるし。

 

 問題は……多分、この選択肢を選んでしまったら、私の心には生涯、負い目が澱のように凝る事になるだろう、ということ。

 

 

 そして、最後の一つ。マンホームに戻って、アキュラ・シンドロームを根本から治療すること。

 

 ……これは、賭けだ。それもかなり分が悪い。そして、時間がかかってしまえば、私は健康の代償に、ウンディーネとしての時間を失う事になる。

 

 身体が壊れるかも知れない。心が折れるかも知れない。でも、もし全てがうまくいけば、失おうとしている全てのものを、取り戻すことができる……かも知れない。

 

 でも、それには時間がかかる。本当に取り戻せるかどうかもわからない。

 

 つまり……この選択肢の肝心なところは、私が、今失おうとしているものを、どれほど取り戻したいと思っているのか、にかかっている。

 

 私が失おうとしているのは、このアクアで生きてきた一年という時と、それに関わる人々と、そして大切な夢と、いくつかの未来。

 

 それを取り戻すために私が失うのは、このアクアで、あの愛おしい人たちと共にいられる時間。時間がかかりすぎれば、更に夢すらも失われる。

 

 折角アンジェさんが見いだしてくれた希望。でも、そこに至るまでの道は茨に覆われていて、私には踏み出す勇気がない。

 

 だって……茨道の向こうに、本当に希望があるのか、わからないのだもの。

 

 茨道に傷ついて、血を流して、それでも前に進んだ先に、私の希望は本当にあるのだろうか……。

 

 

 

 

 更に二日が過ぎた、四日目の昼前。

 

「なーにしてんの、キミ?」

 

 姫屋社屋のロビーの片隅、壁にもたれ掛かって、ぼんやり指先を眺めていた私に、誰かが声をかけてきた。

 

 顔を上げると、見知った顔のウンディーネがそこにいた。赤毛というには色の濃いシャギーの髪の下で、ぱっちりと丸い瞳が私を見下ろしている。

 

「あ……あゆみさん」

 

 思い出すのに一瞬時間がかかった。同じ姫屋のウンディーネといっても、私は姫屋の跡取り娘である藍華さんと共にいることが多いので、他のウンディーネからやや敬遠されがちだ。結果、他のウンディーネとの繋がりが少なく、ただでさえ大所帯ということもあって、顔と名前がはっきり一致しない人も少なくない。

 

 その中で、あゆみさんは比較的顔と名前が一致しやすい人だった。それはそのさっぱりとして気っ風の良い性格と、最初から渡し船トラゲット専門の漕ぎ手を目指しているという特徴があるからなのだけれど。

 

「アニーちゃん、だったね。今日は藍華お嬢と一緒じゃないの?」

 

 きょろきょろと周囲を見回して、藍華さんの姿がないことを確かめるあゆみさん。姫屋のウンディーネからは、私は藍華さんのお付きとか金魚のフンとかのように見られているらしく、私は藍華さんとセットで覚えられている事が多い。まあ、姫屋の中でも唯一、同室の同僚がいる、しかもそれが跡取りの藍華さんとなれば無理もないことなのだけれど……閑話休題。

 

「今日は藍華さんは後輩指導です。私は……一応シングルですけど、ゴンドラ禁止ですから」

 

 愛想笑いに苦みが混じるのは抑えられない。それを感じ取ったのか、あゆみさんはちょっと眉をぴくりと動かし、少し思案顔を浮かべた。恐らく、私に関する噂とかを思い出しているのだろうけれど……。

 

「ふーん、すると今暇なんだね」

 

 しばし思案しそう呟いたあゆみさんは、そのまま私が何か言う間を与えず、ぐいと私の方に顔を近づけて、

 

「じゃあさ、ちょっと手伝ってよ、トラゲット」

 

 と、突拍子もないことを言い出した。

 

「え、あの、その、私、その、経験ないですよ?」

「大丈夫、誰でも最初は初めてだって」

「でも、そもそも私ゴンドラ禁止ですし」

「岸辺でお客さんの誘導とかしてくれるだけでもいいよ。トラゲットはいつでも人員不足だからね!」

 

 すぱん、すぱんと斬り捨てられるかのような勢いが気持ちが良い。そんなあゆみさんの強引さに、結局私は是としか応えることができなかった。

 

「私、ゴンドラ禁止なのに。……本当、後でどうなっても知りませんよ?」

 そう釘を刺してはみたのだけれど、あゆみさんは「いいからいいから」と言って手を引っ張るばかりだった。

 

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアを貫く大運河の岸辺、市場の側に、トラゲットの船着き場の一つがあります。

 

 大運河は、通行する舟の量と景観維持の関係で、橋はリアルト、スカルツィ、アカデミアの大きな三本がかかっているだけ。旧ヴェネツィアでは第四の橋が駅前に造られようとしたと記録には残されていますが、モーゼ計画の頓挫と自然死主義の台頭の煽りで架橋計画は中止され、ネオ・ヴェネツィアではその再現は行われなかったと伝えられています。

 

 自動車はおろか自転車すら禁止されているネオ・ヴェネツィアの町では、橋まで迂回するにはいささか遠すぎます。そんなネオ・ヴェネツィアの市民の足として、トラゲットは重要な役割を果たしているのです。

 

 ……以上、「ウンディーネのための初歩の観光マニュアル」より、抄訳。

 

 

 あゆみさんに従い、人で賑わう市場を抜けて大運河に向かうと、そこには地元の人々の行列ができ上がっていた。

 

 トラゲットの順番待ちの、市場の買い物客達だ。

 

 いつもこんなに人が多かったっけ? と、乏しい記憶を掘り返していると、

 

「こんにちは、あゆみお姉ちゃん」

「やあ、今日は遅刻かい?」

 

 私達……特にあゆみさんの姿を認めたのだろう、出航待ちのお客さん達が口々に声をかけてくる。

 

 みんなあゆみさんとは顔見知りのようで、丁度灯里さんがそうであるように、旧来からの友達であるかのように笑顔を交わしている。

 

「アトラちゃんと杏ちゃんだけだから、今日はどうしたのかと思ったよ」

「あはは、ちょっとヤボ用があったもんで。急いで準備するから、あと少々お待ちくださーい」

 

 にこっと営業スマイル……というには自然な笑顔を浮かべたあゆみさんが、お客さん達の列を擦り抜けてゆく。

 

 その後ろについて歩く私なのだけれど、

 

「お、また見ない娘だね。あゆみちゃんの後輩?」

「あ、えっと……」

「あら? そういえば、何処かで見たことがあるような……」

「確か、この間の……月刊ウンディーネの表紙になってた娘じゃないか?」

「えー? 月ウじゃなかったと思うよ。確か全系誌の週刊ネオ・ヴェネツィア……」

 

 などと、井戸端めいた気さくさでお客さんが話しかけてくるのだ。

 

 なんだか居心地が悪い。あの件でもてはやされるのは、有りがたい事ではあるのだけれど、どこか心に引け目を感じてしまう。

 

 それは多分、もっと尊敬されるべきなのに、そんなことを気にもしていない先輩達の存在に対して、申し訳なさを感じているからなのだろうけど……。

 

「あーっと、そうそう、ウチの後輩のアニー。ちょっと急ぐからまた後でね」

 

 しどろもどろになっている私を、あゆみさんが腕を掴んで引っ張りだしてくれた。

 

「キミ、結構有名人だな?」

「あははは……面目ないです」

 

 足早に桟橋に向けて歩きながら、ぱっちりとウインクするあゆみさんに、微妙な笑顔で応える私。それにしても、意外と雑誌の効果はまだ残っているらしい。

 

 気を取り直して人垣を抜け出すと、桟橋に係留し、お客様を概ね吐き出し終わった長舟が見えた。

 

「あれ? あゆみちゃん?」

 

 長舟の上で、櫂を点検していた黒髪おかっぱの女性が声を上げた。

 

「あら、今日はお休みじゃなかったの?」

 

 その声に、怪訝な声を上げつつ、係留ロープを結んでいた眼鏡の女性が手を振る。

 

「あー、うん、暇だったから仕事しようと思ってさ」

 

 そう破顔しながら、あゆみさんも同じように手を振り返す。相手の人は二人ともが姫屋のライバル店、業界第一位であるオレンジぷらねっとの制服を着ているのだけれど、あゆみさんとは馴染みの相手のようだ。

 

「ほら、こっち増援。ウチの会社のアニー」

 

 私も手を振り返すべきかどうかを悩んでいる間に、あゆみさんが私の背中を押し出した。

 

「ア、アニエス・デュマです。どうぞよろしくお願いします」

「アニーはウチの藍華お嬢と、あの灯里の友達なんだよ。今日はなんかクサってたから連れてきた」

「へぇ、灯里ちゃんの……。私はアトラ。よろしくね」

「杏です。よろしくお願いします」

 

 波打つ金髪をポニーにまとめたアトラさんと、黒髪おかっぱの杏さん。二人とも、どうやら灯里さんの事を知っているらしい。……まあ、灯里さんなら、ネオ・ヴェネツィアの住人の半数と知り合いでも驚くには値しないのだけれど。

 

「ええと、それで私はどうすればいいんでしょうか」

 

 連れてこられたはいいけれど、何しろ私はゴンドラ禁止の身の上だ。増して相手はお客は立ち乗り、バランス命のトラゲット。今の私が櫂を握れる相手じゃない。

 

「アニーはこっちの岸で、係留と離岸、お客の乗船の手伝いを頼むよ。それなら大丈夫だろ?」

「は、はい。それなら多分……」

 

 陸の上なら、万一アキュラ・シンドロームが襲ってきても、倒れるか一人で運河に落ちるだけで済む。後はお客さんを巻き込まないように倒れる方向を気をつけることができれば、多分大丈夫だ。

 

「それじゃ、アニーちゃんは早速お客様を誘導してください。お待たせしました、乗船手続きはじめまーす!」

 

 杏さんが舟に飛び乗り、桟橋に向けて手を差し伸べた。それを合図に、乗船待ちだった人の列が、ざわざわと桟橋に流れ込み始める。

 

「は、はい、こちらにどうぞーっ」

 

 勝手が分からないなりに声を張り上げて、人の列に流れを作る。要は人の注意を引き付けて、あとは手振りで誘導すればいい。それはゴンドラの上で、観光案内をするときと要領は同じ……だと思う。

 

「じゃ、頑張りなよ」

 

 ゴンドラの定員まで人が乗り込んだのを見届けて、あゆみさんが私の背中をぽんと叩く。腕まくりをしながら長舟の後操舵台に取り付いて、まるでそうであるのが当たり前であるかのように、自然に櫂を担いで声を張り上げた。

 

「準備よーし! それでは間もなく、ゴンドラ出まーす!」

「ゴンドラ、出まーす!」

 

 杏さんの声が重なって、そして長舟が桟橋を離れた。

 

 

 

 

 トラゲットの仕事は、ウンディーネの仕事でありながら、観光案内とはまた大きく異なっている。

 

 一応、姫屋のシングル指導の一環で、基礎講習だけは受けている。だから重量バランスが違うとか、力のかけかたが違うとか、そういう技術面の事は頭に入っているのだけれど、講習だけでは現場の雰囲気までは掴めない。

 

 観光案内は、ほとんどの場合、同じお客を二度乗せることはない。だから、ウンディーネは素早くお客の性格や要望を捉えて、限られた一回の時間で、できる限りお客が満足できるようにサービスをすることが必要になる。

 

 だけどトラゲットはそれとは正逆で、お客は立ち乗りだし、乗っている時間は場所にもよるけどせいぜい五分。待っている時間の方が長いくらいで、その間お客はめいめい世間話をしたり、本を読んでいたりと様々な時間の過ごし方をする。そして……通勤や通学などで、同じ人が繰り返し乗る事が多い。

 

 ウンディーネが精一杯の接客をする観光案内であれば、お客の方も個人差はあるけどそれなりに真摯に耳を傾ける(そのためにお金を払っているんだし)。だけどトラゲットの場合、時間が短い上に他の乗客が多いので、単なる交通機関としての利用法をする人が多い。だからお客の方もウンディーネにそう手厚いサービスを期待している訳ではなく、どちらかというと待ち合わせの際の話し相手や『桟橋の花』としての役割の方が重要みたいだ。

 

 そんな訳で……ゴンドラ禁止の私は、『桟橋の花』としての役割を、存分に果たすことになった。

 

 幸い、アキュラ・シンドロームは今日は大人しくしてくれているようで、休憩中に一度、くたりと意識が飛んだだけで済んだ。それ以外は、トラゲットを利用して学校から帰る子供、市場での買い物帰りの主婦、タルのように大きなカートを抱えた男性など、様々な人々と触れ合いながら、桟橋へと送り出してきたし、桟橋から迎え入れもしていたんだ。

 

 世間話をして、人が舟に乗ってゆく。舟を見送る人がいる。舟を迎える人もいる。そこにあるのは、観光案内だけでは得られない、ネオ・ヴェネツィアという都市に息づく人の営み。

 

 今、私はネオ・ヴェネツィアの血管なんだ。ふと、そんな考えが浮かび上がり、私は思わず苦笑した。人々の営みを、繋ぎ、導き、そして運んで行く。そしてネオ・ヴェネツィアという大きな生命を動かしてゆく。

 

 外から来た血を優しく抱きとめるのがウンディーネならば、中を巡る血の日々の営みを癒すのもまた、ウンディーネの役割。火炎之番人が星を暖め、地重管理人が魂を引き付け、風追配達人が想いを巡らせる。彼らと同じように、空と大地を繋ぐ水の如く、星の血を抱きとめ、共に安らぎ、笑顔へと変えてゆく。それが水先案内人の役割なんだろう。

 

 そう想うと、身体が震えてきた。

 

 もっと、誰かに出会いたい。

 

 もっと、海を征きたい。

 

 この愛しい惑星の、火と、風と、土と、そして水。それぞれの思いが紡ぐアリアを、全身いっぱいで感じたい。

 

「ははっ、恥ずかしい台詞禁止だね」

 

 うっかり口から零れていたそんな呟きに、あゆみさんが容赦なく突っ込みを差し込んだ。

 

 



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Fenice 06 星の在処

 ……考えがまとまる前に、日が傾いてしまった。

 

 日が屋根の向こうに消えて、お客の姿が見えなくなってしばし。本日最後の長舟が、あゆみさんと杏さんの漕ぎ手で対岸に出発した頃合いのことだ。

 

 桟橋に本日閉店の看板をかけた私は、水辺に腰を下ろし、心地よい疲労感に身を浸しながら、赤と青が入り交じった空を見上げていた。

 

 こんなに沢山のお客を相手にするのは初めてだったし、そもそもお客を相手にすること自体、アキュラ・シンドロームにかかってから初めての事だった。そのあたりの事情もあって、慣れない仕事、慣れないお客、そしていつアキュラ・シンドロームで気を失っても、絶対にお客を巻き込まないようにという警戒。結果、日が傾く頃には、舟を漕いでもいないのに、立ち上がるのすら億劫なくらいまで疲れ果てていた。 

 ただ……その疲れは不愉快なものではなくて。

 

 誰かと触れ合うたびに、身体に疲れが溜まると同時に、何か暖かいものの小さな粒が、心の小瓶に飛び込んで来るような。

 

 そんな感覚が心地よかったから、私はくたくたにへたばっていても、心だけはわくわくと昂らせていたんだ。

 

「お疲れさま、アニーちゃん」

 

 アトラさんの声がして、私の目の前に、水玉模様の何かがぶら下がった。

 

「ハッカのキャンディー。疲れた時にはよく効くわよ」

「あ、ありがとうございます」

 

 水玉模様は、キャンディーの包み紙だった。手のひらを差し出してキャンディーを受け取り、口の中に放り込む。すぅっと口の中に爽やかな甘みが広がり、疲れた体に染み渡っていく。

 

 そんな私の横顔を、隣に腰を下ろしたアトラさんがじっと見つめていた。

 

 彼女は、私の事情を知っているのだろうか。あゆみさんとは随分仲が良いようだったし、杏さん共々、話を聞いていても不思議はない。

 

 少なくとも、私に漕ぎ手をやれ、という話が一度も飛んでこなかったところを見れば、二人とも、少なくとも私がゴンドラを漕ぐことができないことは認識しているとは思うのだけれど。

 

 私が人心地ついて息をひとつ吐き出したのを見計らってか、アトラさんが私の顔を覗き込んできた。

 

「どうだった? 今日は」

「はい、凄く……」

 

 問われて、言葉に詰まった。楽しかった、のも確かだ。くたびれた、というのも確かだ。役に立たなくてごめんなさい、というのも確か。でも、今の気分を表現するのに、それだけじゃ足りない。どんな感想が、今の気分を一番ストレートに表せるだろうか。

 

 言葉を切って、数秒目を閉じて考えた。心の中でさざめく気持ち。

 

 溢れてくるそれを、素直に口に導いた。

 

「……ありがとうございました、アトラさん」

「えっ?」

 

 予想もしない言葉だったようで、目を丸くするアトラさん。無理もないとは思う。自分でも、まさかこんなことを口にするなんて、思いも依らなかった。

 

「かーーっ、つっかれたーーっ……ん? どしたの二人とも」

「アトラちゃん、アニーちゃん、どうかしたの?」

 

 二人して戸惑っている所に、いつの間にか戻ってきていたあゆみさんと杏さんが、こちらにやってきた。

 

「あゆみさん、杏さん……今日は、本当に……ありがとうございました」

 

 また、頭を下げる。謝罪の意味ではなく、単純な感謝の気持ち。

 

 まだ、私の心に見つけた気持ち、その正体は掴み切れていないけど。

 

 だけど、こうして、私が見失いかけていた何かを掴む切っ掛けをくれた人たちに。

 

 私は、感謝の言葉を贈りたかった。贈りたくてたまらなかったんだ。

 

 杏さんとあゆみさんは、お互いの顔を見合わせ、少しふっと頬を綻ばせると、

 

「……あたしは、何もしてないですよ。」

「そーだね。ウチらは単に仕事を押しつけてただけだし?」

 

 と、それぞれの笑顔を浮かべながら、惚けて見せた。

 

 

 

 

 気づけば、空はすっかり光を失って、星がちらちらと瞬いていた。

 

 西から東へ空を横切る、ルナツー。小さく輝くルナスリー。かつてはフォボスとダイモスと呼ばれていた兄弟。大運河の岸辺で、私は彼らをぼんやりと見上げていた。

 

「……どうしたら、いいんだろう」

 

 膝を抱えて、呟く。日が落ちると共に、あれだけ高揚していた気分が、霧散してしまったのを感じる。

 

 それは、絶望したからじゃない。あの暖かさは、まだ胸にはっきりと残っている。

 

 ……むしろ、胸が温かいからこそ、その暖かさが、痛い。

 

 今日が終わってしまう。私がウンディーネでいられる時間が、また一日が終わろうとしている。

 

 今月はあと三日。今日が終われば、あと二日しかない。この愛おしい時間は、もうそれだけの時間しか残されていない。

 

 その時間が過ぎる前に、私は決断しなければならない。

 

 全てを諦め、マンホームに帰るか。

 

 ウンディーネを諦め、アクアで転職するか。

 

 それとも、マンホームで病気に立ち向かうか。

 

「ウチには、アニーが選びたい答えは、もう決まってるように思えるけどね」

 

 長舟の舟床を掃除していたあゆみさんが、さらりと言ってのけた。

 

 私の事情は、後片付けの間に話した。もう時間がないこと。私に残された選択肢。それぞれの問題点の、全てを。

 

 それを理解した上で、あゆみさんはさらりと言った。私には、もう答えが出ているのだと。

 

「私の選びたい……答え?」

「そうね。私もそう思う。……だって、アニーちゃんは、どこまでもウンディーネなんだもの」

 

 アトラさんもあゆみさんの答えに同調する。だけど、私には彼女たちが言うことがよくわからない。首を傾げて杏さんの方を見ると、

 

「アトラちゃんとあゆみちゃんが言うとおりだと思います。だって、今日アニーちゃんは、凄くいい顔で接客していたから」

 

 と、杏さんまでが同意した。思わず頬が熱くなる。

 

「で、でもそんなの当たり前じゃないですか。私はウンディーネで、お客様に接するのにいい顔するのは当たり前……」

「その当たり前が、誰でもできる事じゃないんだよな、これがね」

 

 あゆみさんが、肩を竦めた。

 

「今日、私たち二人だけで長舟を漕いでいたの、おかしいと思わなかった? 四人でもあれだけ忙しいのに」

「それは……」

 

 確かにそうだ。観光案内と違って、トラゲットは舟を漕ぐにも体力が必要だし、ひたすら同じ場所を往復し続ける。お客が多くなると、休憩時間も思うように取れない。お客の誘導や整理の仕事もあるし、少なくとも交代要員がいなければ、とても長くやっていられる仕事ではないと思う。

 

 私も何度、手伝おうと思ったかわからない。そして、それができないからこそ、手の届く範囲の全力で、お客をもてなそうと思ったんだ。

 

「時々いるんだよ。会社の指示でトラゲットに来たはいいけど、これはウンディーネの仕事じゃないとかいって、帰っちゃうシングルがね」

 

 悲しそうな笑顔で、あゆみさんが言う。彼女のトラゲットへの想いは本物だ。だからこそ、それを否定する人に対して、色々と思うところがあるのだろう。

 

「今日はここ担当のウンディーネは四人だったんですけど、一人は来る前から風邪ひいてて、早々にダウンしちゃいました」

「もう一人は今日が初めてのトラゲットだった上に、負担が増したせいで嫌になったみたいで……ね。『こんなの私のやりたい仕事じゃない!』って言って……」

 

 杏さんとアトラさんも、ため息を吐き出す。そんな状態では、午前中はさぞかし多忙だったことだろう。私たちが来たとき、妙に桟橋で待つお客が多いと思ったのも、二人だけでやっていたために、お客を捌ききれなくなっていたからなんだと思う。

 

「それで、たまたま通りがかった藍華お嬢が場を見かねて会社に連絡して、オフだったウチが駆り出されたって訳」

 

 そしてその途上で、あゆみさんがたまたま私を見つけて引っ張り出した、ということなのだろうか。

 

 ……いや、多分違う。

 

「でも……それと私のことは」

「関係あるさ。ゴンドラを漕ぐのがウンディーネの仕事。なのに、キミは嫌な顔もせず、ずっとお客をもてなし続けてた。舟の上で、お客が褒めてたよ。キミのことをね」

「それだけじゃなく、さっきまでも凄く嬉しそうな顔をしてたものね。貴女は、本当にウンディーネという仕事を……ううん、ウンディーネという仕事を通して、この街のすべてと触れ合うことが好きなんだと、見ていてわかったわ」

「だから……アニーちゃんの答えは、きっともう決まってます。……ウンディーネを諦められない、そうでしょ?」

 

 杏さんの言葉が、はっきりと、私に答えを突きつけた。

 

 

 頭が、がぁんと殴られたように揺れた。

 

 心にかかっていた雲が、ぱぁっと晴れていくのがわかった。

 

 ――そうか。

 

 そうなんだ。言われてみれば、確かにそうだ。

 

 私は、ウンディーネのアンジェさんに憧れて、アクアにやってきた。

 

 そして、ウンディーネの藍華さん、晃さん……更に他の会社の皆さんに出会って、様々なことを教えられて、そのたびに彼女たちに魅せられていった。

 

 この星の、ネオ・ヴェネツィアの全てが、私を包み込んでくれた。そして、その全てが、私を惹きつけていった。

 

 私は、ゴンドラが好きだ。

 

 私は、人に笑顔をもたらすのが好きだ。

 

 町中で、海上で、大陸の上で。このネオ・ヴェネツィア、このアクアの全てにある、ウンディーネの仕事が好きで好きでたまらない。

 

 そのウンディーネが、私の手から離れてしまうなんて、そんなこと。

 

 そんなこと……認められるはずがない。

 

「そう……ですね」

 

 ぎゅっと、服の下のペンダントを握りしめて、私は是を返した。

 

 認めるしかなかった。

 

 私の答えは、決まっている。

 

 なら、何故それを選べないのか。

 

 それは……怖いから。

 

 アキュラ・シンドロームが消えるまでに、過ぎていく時間が。

 

 その間に、失われてしまう全ての機会が。希望が。夢が砕け散ってしまうのではないかと思うと、怖くてたまらない。

 

「……だって、何年もかかっちゃうんですよ」

 

 声が震えるのを。俯くことを、抑えることができなかった。

 

 今日が初対面の人たちの前なのに、涙が溢れそうになる。

 

 三年経てば、私は十九歳。そこから、シングルの修行をやり直したとすれば、二十歳を軽く超えてしまう。

 

「アクアに戻ってきたとき、もうお前じゃプリマになれない……なんて言われたら……」

 

 結局、そこなんだ。

 

 茨の園を潜り抜けて宝物を手にしても、それがもう朽ち果てていたとしたら。

 

 それが、怖い。どうしょうもなく怖くて、呼吸にしゃくり声が混じるのを、抑えられない。

 

 ……今日が初対面の先輩達に、吐き出す事じゃない。そんなことはわかっているのだけど。

 

 私の感情の吐露を浴びて、先輩方は嫌悪の表情を浮かべているだろう……またぞろ鎌首を持ち上げた後悔に駆られて、顔を上げる。

 

 すると、先輩方は、驚いたように顔を見合わせていた。

 

 杏さんが、頷いた。

 

 あゆみさんが、目配せをする。

 

 そして、アトラさんが、何かを諳んじるように、口を開いた。

 

 

「いつでも、どこでも、何度でも、チャレンジしたいと思った時、それが真っ白な出発点」

 

「自分で自分をおしまいにしない限り……きっとさ」

 

「本当に遅すぎることなんて、きっとないんです」

 

 あゆみさんと杏さんが、順繰りに言葉を引き継いだ。

 

 まるで、魔法の呪文のように。心に染みこんでいく言葉。

 

「それって……」

「ある素敵なウンディーネの言葉よ。私が怯えて迷っていたとき、この言葉をくれたの」

 

 そう言って、アトラさんは微笑んだ。

 

「不思議よね。彼女に救われた私が、彼女に頼まれたわけでもないのに、アニーちゃんに出会って、彼女に貰った言葉を贈っている」

 

 そう、まるで優しさのヴェールが、風に乗って人から人へと渡っているかのように。

 

 誰かの優しさが、誰かを通じて、風が髪を揺らすように、私の心を静かに揺らしている。

 

 そんな、不思議な奇跡があるのが、この惑星。人の心に花の咲く星、アクア。

 

「まあ実際、怖いよな。もう遅い、なんて言われたらと思うと」

「でも、それでも前に進まないと、夢には絶対届かないんです」

「だから……アニーちゃん、自分の心に素直になって」

 

 先輩方の言葉が、優しさが、私の心を揺らす。

 

 胸が熱くて、暴れ出しそうなくらい揺れていて。

 

「…………はい」

 

 ようやく、私はそれだけを絞り出した。

 

 

 

 

「藍華お嬢~~、そろそろ出てきてもいいんじゃ?」

 

 あゆみ・K・ジャスミンが、そう物陰に声を投げかけた。

 

「ごめんなさい、やらなきゃいけないこと、一杯あるの忘れてました」と言って、アニエスが一足先にと運河端を去っていった、その少し後のことである。

 

「……あー、あゆみさん、気づいてましたか」

 

 そんな言葉と共に、物陰から音もなく、闇夜に紛れるような色のゴンドラと、その櫂を操る白と赤の制服が、街灯に照らされて姿を現す。

 

 運河端に舟を乗り付け、陸に上がってきたのは、他ならぬ藍華・S・グランチェスタである。

 

「それだけ長い間隠れてれば、誰でも気づくってもんで……ああ、でもアニーは気づいてなかったかな」

 

 あゆみが肩を竦め、杏とアトラがころころと笑う。彼女らも、夕方あたりから、藍華がこっそり物陰に隠れていたことに気づいていたのだ。それに気づかないふりを続けていたのは、姉が妹を心配する様そのままの藍華の様子に、微笑ましさを感じたからに他ならない。

 

「ごめんなさい、あゆみさん。オフなのにアニーの事任せてしまって…………くしょっ」

 

 二歳年上のあゆみに対し、敬語で頭を下げる藍華。その勢いでくしゃみを一つして、ぶるっと身震いする。春とはいえ、日の落ちた後はそれなりに気温も下がる。水の上で身を隠したままでは、身体もすっかり冷えてしまった。恰幅のいいアリア社長ならともかく、スマートなヒメ社長を抱いているだけでは、いささか限界というものがある。

 

「藍華ちゃん、はい、お茶をどうぞ」

「あ、ありがとうございます、ええと……杏さん」

 

 杏が差し出した湯気を上げるコップを受け取り、藍華は頭を下げた。

 

 アトラと杏の二人とは、以前会社のトラゲット教習の際に、ベテランのあゆみに付き従って話したことがある。今朝方、後輩指導の途上で彼女らの窮地を見かね、あゆみに増援を頼むよう連絡を入れたのも、その時の縁あってのことだ。

 

 そしてついでにアニエスを引っ張り出して、強引に働かせることを依頼したのも藍華の仕業である。

 

「でも、思った以上に効果があったみたいで、良かったです。アニー、このままだとマンホームに帰っちゃうんじゃないかと思ったから……」

 

 ほっとしたような顔をしているのは、お茶の温かさによるものだけではあるまい。カップを両手に抱え、丸くなったヒメ社長を膝の上に眺めつつ息を吐き出す。そんな様子を眺めて、あゆみは内心で「あー、アニーは実際帰っちゃうとは思うんだけど」と呟くが、ひとまずそれは心の内に秘しておくことにする。

 

「本当に、藍華ちゃんはアニーちゃんの事を心配しているのね」

 

 にこにこと微笑みながらのアトラの問い。

 

「当たり前です。大事な……妹分なんですから」

 

 そう言って、藍華は不味いことを言ったという風情でそっぽを向いた。その頬が茹で上がったように赤くなっているのは、幸いにして夕闇の中に溶けて、アトラ達の目には届かなかったが……見られなければわからないというものでもない。

 

「さて、それじゃそろそろ戻ります。皆さんもお疲れ様でした」

 

 照れ隠しも交えて、藍華が立ち上がった。ヒメ社長を襟巻きのように首に巻き付かせつつ、ぱんぱんと腰についた砂埃を払う。

 

「うっし、お疲れさーん」

「うん、お疲れ様」

「お疲れ様です」

「今日はありがとうございました、あゆみさん、アトラさん、杏さん。……あゆみさん、また何かあったらお世話になります」

「かーっ、誰も彼も、ウチは便利屋じゃないっつーの!」

 

 櫂を仰ぐ藍華に請われ、悲鳴のように声を上げるあゆみ。またころころと笑うアトラと杏。口ではこう言っているが、何かと面倒見のいい性格のあゆみは、姫屋の中でも親しみやすい先輩として日頃から頼られることが多いし、あゆみ自身、そうやって誰かの手助けをするのが嫌いではない。

 

 そんな性格を見込まれ、あゆみは後に姫屋カンナレージョ支店が開店したとき、支店長を任された藍華に初期スタッフとして招かれる事になるのだが……それは別の物語である。

 



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Fenice 07 別れの決意

 以前、私の歓迎会に供されたレストラン・ウィネバー。そのオープンテラスに、これまた以前集まった顔ぶれが揃っていた。

 

 つまり、藍華さんと晃さんの姫屋組、灯里さんとアリシアさんのARIAカンパニー組、アリスちゃんとアテナさんのオレンジぷらねっと組だ。もちろん、いつも彼女たちと一緒の三大社長も例に漏れていない。

 

 藍華さんたちシングル・ペア組はともかく、水の三大妖精である晃さんたちまで集まれたというのは、珍しいことだ。

 

 それは、今日という日が予めわかっていたものであり、彼女たちにとって重要なものであった故のことなのだろうか。……どれほど感謝してもし足りない。

 

 そう、今日は六月最後の日。私が姫屋にいられる最後の日だった。

 

「……結論は出したか?」

 

 どこか緊張感を孕んだ食事が一段落して、言葉がふっと途切れた瞬間、晃さんはそう私に問いかけた。

 

「はい。決めました」

 

 晃さんの目をはっきり見据えて、私はそう答える。

 

 そう、答えはもう得た。何がしたい、何が欲しい、何処へ行きたい。全ての答えは、最初から私の中にあったし、私の側にあったんだ。

 

 晃さんは、先週のあの時以来、私に何も聞かなかった。全ての答えは私が出さなければ意味がなかったし、どんな答えを出したとしても、考え抜いた末であれば認めてくれる。そんな信頼からの事であると、今ならわかる。

 

「アニーちゃん……」

 

 灯里さんが、不安げな顔で私を見つめる。アリスちゃんも同様だ。彼女たちには、あれから会う機会がなかった。私が……部屋の片付けに忙しかったからだ。私物はさほど多くなかったのだけれど、それでも一年以上の時間を過ごしたあの部屋には、私にとって、そして一緒に暮らした藍華さんにとっても、大切な思い出が溢れている。

 

 それを一つ一つ箱詰めする私を、もちろん藍華さんはじっと見ていた。何も私の答えを聞こうとしなかったけど、それは多分……藍華さんは、私の口から答えを聞くのが怖かったんだと思う。

 

 ただ、てきぱきと部屋を片付けていく私。それを黙って見つめていた藍華さん。その心がどれだけ苦しかったことか。申し訳ない気持ちで一杯だったけれど……それでも私は、藍華さんが聞かない以上、ぎりぎりまで言わないことを選んだ。

 

 だから、藍華さんは私の方を見ていない。何かに耐えるように拳を作って、じっと下を向いて俯いている。好物のマルゲリーテも、ろくに喉を通らなかったみたいだ。

 

 アリシアさんとアテナさんは、静かに私を見つめている。彼女たちは私からは少し遠かったけれど、サイレン事件の時には一生懸命に私を捜してくれたし、何かあれば必ず手を差し伸べてくれた。きっと、頼れば幾らでも手を尽くしてくれただろうし、実際アリシアさんに頼るという選択肢は、まだ私の手の中に残っている。

 

 でも、アリシアさんは、私がどう考えているのかわかっているように、静かに私を見つめている。

 

 ……私が、アリシアさんの所に行く選択をしないと、わかっているかのように。

 

「じゃあ……教えてくれ。アニー、お前はどうしたい?」

 

 晃さんが、先を促した。

 

 時間が、終わる。

 

 最後の時が、始まる。

 

 その先触れの言葉を、私は発しなければならない。

 

 ごくりと、喉が鳴った。

 

 口にすれば、もう戻れない。

 

 口にすれば、そこから、私の戦いが始まる。

 

 だけど、戻れない。戻るために、戻らない。戻らないために、戻ると、決めた。

 

 ペンダントに……アンジェさんとの思い出の品に触れそうになる手を、ぎゅっと握りしめた。

 

 ……頼っちゃいけない。これは私の決断なんだから。

 

 だから、私は、はっきりと……決断を、口にした。

 

「はい。私は……マンホームに、行きます」

 

 

 

 

「どうしてっ!!」

 

 机を叩く音を圧して、藍華さんが、絶望を喉から迸らせた。

 

「アリシアさんの所なら、ずっと一緒にいられるのよ!? ウンディーネになれなくても、一緒にいられるならっ……!!」

「黙って聞け、藍華!」

 

 身を乗り出し、私に食ってかかろうとする藍華さんだったけど、晃さんの一喝で、言葉を飲み込んだ。

 

 でも、涙までは止められなかった。目の下に、つぅっと水滴が流れ落ちる。

 

 ずきりと、心が痛んだ。

 

「マンホームに、『行く』のね?」

 

 アテナさんが、確かめるように問う。灯里さん達が、怪訝そうな顔でアテナさんの顔と、私の顔を交互に見る。そのニュアンスの違い……『帰る』ではなく『行く』と言った、私の言葉を問い質しているんだ。

 

「はい。マンホームに『行きます』。そして……必ず、『帰ってきます』」

 

 その答えで、その場にいる全員に、私の決心が伝わった。

 

「病気……治すの?」

「凄く苦しい事になるんですよ? なのに……それでも?」

 

 恐る恐るという顔で確かめる灯里さん。僅かに青ざめた顔で確かめるアリスちゃん。だけど、私の答えはもう変わらない。

 

「はい、決めました」

 

 頷いて答える私の様子をじっと見つめていた晃さんだったけど、深々と息を吐き出し、「そうか」とだけ呟いた。

 

「準備は大丈夫なの?」

「はい。荷物はもう梱包してありますし、もう両親には伝えてあります。マンホームへの旅券は、三日後の便を取りました。マルコポーロ宇宙港に、お母さんが迎えに来る事になってます」

「それまでの宿とかはどうするの? 良かったら来たときと同じに……」

「いや、それはうちの役目だろう。幸いまだ藍華達の部屋にベッドはあるし、数日なら文句も言われないさ。……いいな、藍華?」

 

 アリシアさんの提案を封じる晃さん。水を向けられた藍華さんは、俯いたまま黙って首を縦に振った。

 

「じゃあ、三日後の時間がはっきりしたら連絡してくれ。必ず私たちも見送りに集まる。……皆、いいな?」

 

 晃さんの言葉に、一人を除いた全員が、是の答えを返した。

 

 ……藍華さん、一人を除いて。

 

 さっきから、口も開かず、ただじっと俯いている藍華さん。その頬に輝く涙の筋は、未だに光を失わない。

 

 ずっと、涙の筋が、濡れ続けている――。

 

 結局、その日それから姫屋に戻るまで、藍華さんは私と一度も目を合わせず、口を開くこともなかった。

 

 

 

 

 部屋に戻っても、藍華さんは口を開かなかった。

 

 私など何処にもいないかのように、ぱっぱっと服を着替え、ベッドの上に寝転がる。

 

「あの……藍華さん」

 

 声をかけるけど、返事はない。

 

 私に背中を向けたまま、微動だにしない。

 

 ……いなくなってしまう私など、もういないものと考えているのだろうか。

 

 また、心がずきり、と痛んだ。

 

「藍華さ……」

「もうすぐ、《海との結婚式》があるのよ」

 

 私の言葉を抑えて、藍華さんの声。

 

 思わず、そのまま言葉を飲み込んだ。

 

「アクア・アルタだって、アニーは見たことない。床上浸水、ひっどいばかりなのに、アニーは楽しみにしてたじゃない」

 

 そう、楽しみにしていた。アクアの夏はイベントが一杯で、目が回りそうだと話していた。

 

「レデントーレも、夏祭りも、一緒に楽しもうって約束した。夜光鈴、一緒に結晶になるのを捜そうって、約束したのにっ!」

 

 肩を震わせて、声を震わせて、藍華さんが。

 

 叫ぶように、血を吐き出すように、苦しみを吐き出すように、声を上げる。

 

「妹ができて、一緒に暮らして、そんな日々がずっと続くって、信じてたのに――――っ!!」

 

 もう耐えられなかった。

 

 気がついたら、藍華さんの背中にしがみついていた。

 

「――続きます」

 

 びくりと、藍華さんの背中が震えた。

 

「続かせるんです。そのために……そのために、私はマンホームに行くんですから」

 

 藍華さんのパジャマの背中に顔を埋めながら、そう囁く私。

 

「でも、でも、何年かかるかわからないのよ? それに、もし、かしたら、下手したら、薬のせいで、死……」

 

 その先の言葉を、藍華さんは言えなかった。

 

 でも、言いたいことはわかる。その可能性もゼロじゃない。私に使われるのは、それほどに強い薬。

 

 後遺症が残るかも知れない。元の私でいられないかも知れない。そんなものに、立ち向かう必要なんて無い。何度も、そう思った。

 

 ARIAカンパニーに転職すれば、何事もなかったように、藍華さんたちと一緒にいられるんだ。

 

 でも、それでも、私は。

 

「私は……」

 

 私の望みは、違うんだ。

 

 ARIAカンパニーの事務に転職すれば、確かに一緒にはいられるだろう。

 

 でも、それは私の望んだ未来じゃない。

 

 毎日練習に……あるいはもっと未来、三人がプリマになって、海に漕ぎ出していく様を、見送るばかりの日々。

 

 それは、嫌だ。

 

 私が望むのは、違う未来。

 

「私は……藍華さんたちと、肩を並べて行きたいんです」

 

 ぎゅっと、藍華さんを抱きしめる手に、力が籠もる。

 

 三艘の舟を、見送っていく日々じゃない。

 

 四艘の舟が、並んでいく日々こそが、私の願い。

 

「だから……」

 

 待っていて、という言葉を口にしかけて、ふと言葉を止めた。

 

 待っていて、というのは違う。

 

 私が、みんなに望むことは…………。

 

 私の口は、その答えを紡ごうとしたのだけれど。

 

 それより先に、私の耳があの歌声を聞いていた。

 

 

 

 

 夜中、目が覚めると、私は藍華さんの腕の中にいた。

 

 藍華さんは、まるで私を手放したくないとでも言うかのように、ぎゅっと私を抱きしめていた。

 

 藍華さんの頬は、眠っていても濡れて光っていた。

 

 本当――泣き虫ですね。

 

 ささやきは胸の奥に仕舞い込んで、私は藍華さんの体温を感じたまま、眠ることにした。

 

 再び意識が、今度は心地よい闇の中に沈んでいくのに、そう時間はかからなかった。

 

 

 そして、寝相の悪い藍華さんの膝が私の鳩尾に入ったり背中から上にのし掛かられたり、何かと大変な目にあったことは、藍華さんの名誉のために心の内に留めておくことにする。

 

 

 

 

「皆さん、本当に、アニーがお世話になりました」

 

 お母さんが、一堂に介した先輩達に、ぺっこりと頭を下げた。

 

「それじゃアニー、私は乗船手続きを済ませてくるから、遅れないようにね」

「わかってる。もう、いつまでもいつまでも……」

 

 心配そうに言うお母さんに、ちょっとわざとらしくむくれてみせる。

 

 でも、無理もない。あんな啖呵を切ってアクアに残ったのに、ほんの数ヶ月でマンホームに戻ることになってしまったのだから。

 

 しかも、どこで拾ったのかもわからない病気つき。心配するのも当然だと思う。我が身の不甲斐なさにため息しか出ないけど、ひとまずそういうことは後に回しておく。

 

 ……私の、旅立ちの日。藍華さん、灯里さん、アリスちゃんはもちろん、晃さん、アリシアさん、アテナさんも、私の旅立ちに立ち会ってくれた。

 

 観光シーズンも盛りで、忙しい時期だろうに、強引に時間を作ってくれた素敵な先輩達には、感謝してもし足りない。

 

「…………」

 

 お母さんが受付に行って、微妙な沈黙が下りた。

 

 何を話すべきだろう。何も思いつかない。

 

 一昨日と昨日は、藍華さんたちとネオ・ヴェネツィア中を巡った。思い出の場所、まだ知らない場所、あちこちを。

 

 私が、マンホームに行っても、忘れないように。

 

 私が目指す宝物が、この場所に溢れていることを、心に刻みつけるために。

 

 その間に、幾つもの言葉を交わした。

 

 何度も泣いた。何度も怒られた。

 

 そんな時間が、ずっと続くといいのに、と思った。

 

 でも、今日という日は、来てしまった。

 

 時は、止まらない。

 

「アニーちゃん、元気……でね」

 

 灯里さんが、涙ぐみながら、口火を切った。

 

「アニーさん、でっかい負けちゃ駄目ですからね」

 

 アリスちゃんが、そう声援してくれた。

 

「まぁ」

「……みー」

 

 何を考えているのかわからないまあ社長が、アリスちゃんの腕の中で鳴き、ヒメ社長もどこか寂しそうに小さく声を聞かせてくれた。

 

「貴女が帰ってくるのを、ずっと信じていますから」

 

 アリシアさんが、崩れそうになる表情を懸命に結びながら、信頼の言葉をくれた。

 

「……ううう、アニーちゃぁん」

「ぷいにゅ~~ぅ」

 

 アテナさんが、隣のアリア社長そっくりの様子で涙腺を存分に決壊させながら、私の手を握ってくれた。

 

「お前が選んだ道だ。絶対に……帰って来るんだぞ」

 

 晃さんも、厳しい言葉を紡ごうとしているけれど、その目元に涙が溢れるのを、抑えられていない。

 

「……アニー、これ」

 

 そして、藍華さん。

 

 誕生日に、ブレスレットを貰った時の仕草そのままに、つんとそっぽを向いて差し出した掌にあるのは、小さなボイスレコーダー。

 

「私たちと、今日来れなかった人達の声が入ってるから。……無くさないでよ」

「……はい」

 

 掌に載せられたそれを、ぎゅっと胸に抱きしめる。

 

 無くしはしない。絶対に無くすものか。

 

 私は、これを取り戻すために、行くんだから。

 

「ぐすっ……アニー、絶対、絶対帰ってきなさいよ。待ってるから、何年でも待ってるから」

 

 藍華さんが、ついに必死に我慢していた涙をこぼしながら、そう言ってくれた。

 

 だけど……その時、思い出した。

 

 アキュラ・シンドロームに封じられて、あの時口に出来なかった願いを。

 

「藍華さん……駄目です、それ」

 

 ぎゅっと、藍華さんの手を両手で握りしめながら、私が言う。

 

 それじゃ、駄目なんだ。忘れるところだった。

 

「駄目……って?」

「藍華さん……灯里さんも、アリスちゃんも、私を待っちゃ駄目です」

 

 私の言葉に、藍華さん達の表情が、凍り付いた。

 

 赤くなる。青くなる。険しくなる。三者三様の、怒りと困惑の色。気持ちはわかる。だけど、私はこれだけは、絶対に譲れなかった。

 

 私が、みんなを心の支えにできるように。

 

 みんなが、私を心の枷にしないために。

 

 呼吸を継ぐ間も惜しんで、言葉を続けた。

 

「私、何年かかるかわかりません。その間ずっと足踏みです。だから……だから、私を待っちゃ駄目です。進み続けてください。夢に向かって、真っ直ぐにっ」

 

 気づけば、頬から熱いものが流れ落ちていた。

 

「でも、そんなこと、言ったら」

「追いかけますから!」

 

 灯里さんの反駁を、全力の涙声で押し返す。

 

「全身全力で、追いかけますから。必ず、追いつきますから! だから……次に会うときは」

 

 涙が止まらない。だけど、泣き顔は見せない。渾身の笑顔を浮かべて、そして。

 

「素敵な、新しい水の三大妖精って呼ばれるくらいに素敵なプリマの姿を、見せてくださいっ!!」

「アニーッ!!」

「アニーちゃんっ!!」

「アニーさんっ!!」

 

 藍華さんが私にぶつかるように抱きついた。

 

 その上からアリスちゃんが、そしてその上に灯里さんが、私を包み込むように抱きついてくる。

 

 みんな、泣いていた。

 

 灯里さんも、アリスちゃんも。

 

 アリシアさんも目尻を押さえ、アテナさんはアリア社長と一緒になって、晃さんもこちらに背中を向けて肩を震わせる。

 

 藍華さんなんて酷いもので、顔を埋めた私のネクタイが、ぐしゃぐしゃになるくらいに泣きじゃくっていた。

 

「あはっ、はっ、藍華さん、本当に泣き虫です」

「そういうアニーだってっ、涙ぼろぼろじゃないのっ」

「私のは……ぐすっ、いいんですっ。だってっ」

 

 藍華さんの泣き顔を真っ直ぐに見つめながら、私は。

 

 溢れる涙はそのままに、渾身の力を込めて。

 

「涙は流れても、泣き顔じゃありませんからっ…………!!」

 

 満面の笑みで、別れの幕を閉じた。

 

 

 

 

『本日は、太陽系航宙社、ネオ・ヴェネツィア=パリ便のご利用、誠にありがとうございます』

 

 アナウンスの声が聞こえて、身体にかかる重力が消えた。

 

 一瞬の酩酊感に続いて、身体にかかる重力が、元に戻る。

 

 ……窓の外で、ネオ・ヴェネツィアが20度くらい傾いているけれど。

 

 星間連絡船が、離床したんだ。

 

『大気圏離脱までのしばしの間、水の惑星の名残をお楽しみください』

 

 そうアナウンスが聞こえて、座席の足下がモニターになって、眼下の光景が映し出された。

 

 行きの船で知ってはいたけれど、これは何度見ても感動するし……驚く。

 

 気にする必要はないとわかっているのだけど、思わずスカートの裾を抑えながら、眼下の光景を凝視した。

 

 ……いた。

 

 星間連絡船の上昇航路に合わせて、六隻の舟が並んで、こちらに向けて手を振っている。

 

 手を振り返しかけて、相手からこちらはまったく見えないことを思い出す。

 

 その時、藍華さんに貰ったボイスレコーダーを思い出した。

 

 だんだん小さくなってゆく舟の列から目を離さないようにしながら、ぱかっと二つに分かれたレコーダーを、耳に押し当てる。

 

「アニーちゃんへ。灯里です」

 

 録音されたメッセージが、再生された。

 

「えっと……私たちの想いが、アニーちゃんの未来を照らす光になりますように。必ずメールするからね」

「アリシアです。今は辛くて苦しいかも知れないけれど、それを乗り越えた貴女の素敵な未来に出会える日を、楽しみにしています」

「アリスです。アニーさん、どうかでっかいでっかい元気になって帰ってきてください。どちらが先にプリマになれるか、競争です」

「アニーちゃん、アテナです。どんなに苦しくても、貴女の目指す希望を忘れないで。私たちはいつでも応援しています」

「アニー、晃だ。……その、何だ。マンホームでもシミュレータがあると聞くし、身体をこわさない程度に鍛錬を欠かすんじゃないぞ」

「アニーへ、藍華です。……ええと、その……きっちり病気治しなさいよ。それと、あんまり遅いようだったら、引きずってでもアクアに連れ戻すんだからね!」

 

 ここでも、藍華さんの声は涙声だった。それを隠そうとした、ちょっとぶっきらぼうな物言い。

 

 ……またぞろ、涙が溢れてきた。

 

『アテンション・プリーズ。本船はこれより赤道軌道に遷移し、スイング・バイの後に加速を……』

 

 アナウンスが聞こえて、舟が傾いだ。

 

 窓の外一杯に広がる、浮島と、ネオ・ヴェネツィア。

 

 浮島の外周を巡るレールウェイが、大きく映し出される。

 

 そこに小さく、いくつかの人影が見えた。

 

「暁だ。んー、どうもこう言うのは苦手だ。後輩っ子よ、後輩っ子返上のため、絶対戻ってくるのだぞ!」

 

「アルです。藍華さんが寂しがりますから、頑張って早く帰って来てくださいね」

 

「ウッディーなのだ。アクアの風は、いつでもアニーちゃんを待っているのだ」

 

 奇しくも、ボイスレコーダーの声は、浮島出身組のものになっていた。

 

 まさか、あそこに見えるのが暁さんやアルくん、ウッディーさんということはないと思うけど……。

 

 私の視力では、その人影の正体を見極めるには至らない。目をこらしている間に、星間連絡船はぐんぐんと高度を上げてゆく。

 

「アニー、こちらあゆみ。……ええと、戻ってきたら今度は漕いでもらうからな! またな!」

「アニーちゃんへ、アトラです。次に会うときは、必ずプリマになった私を見せます。旅立つ貴女に誓って……ね」

「杏です。アニーちゃん、これから、一番堅くならないといけないんだろうけど、どうか、自分らしいしなやかさを忘れないでいてください」

 

 ボイスレコーダーから、あゆみさん達の声が聞こえてくる。

 

 藍華さんたちは、彼女たちにまで声をかけてくれたんだ。そして、彼女たちも、私のために、こんな暖かい言葉を残してくれた。

 

 胸が、熱くなる。

 

 そして、更に船は高度を上げた。

 

 足下のネオ・ヴェネツィアが、遠くなる。

 

 雲の中に、消えてゆく。

 

 そして、視界一杯に広がってゆく、青と白の惑星。

 

 空と大地を、深く深く繋ぐ水の惑星、アクア。

 

 私とアクアは、繋がっている。私の心のこの熱と、ボイスレコーダーの優しい声が、その証。

 

 それは、光の羽根のように、私に力を与えてくれるだろう。

 

 だから、どんな困難も、どんな願いも、貫き通せる。

 

 

 ――そして、宇宙船が大気圏を突破した。

 

『これより亜光速加速に突入いたします。スターボウの旅をお楽しみください』

 

 アナウンスと共に足下のスクリーンが無機質なパネルに戻り、外の光は窓から届くものだけになってしまった。

 

 そして、それを待っていたかのように、私の耳に、あの歌声が聞こえ始めた。

 

 身体から力が抜けてゆく。心が闇に沈んでいく。

 

 ……今は、勝てないかも知れない。闇に沈むしかないかも知れない。

 

 だけど、いつか必ず、打ち負かしてみせる。

 

 だって、私は、アクアに帰るんだから。

 

「お前になんて、負けてやらないんだか……ら……」

 

 そして、私の意識は、闇色の微睡みの中に、消えていった。

 

 

 

 ――最後に、一つ、私が見た不思議な話をしておこう。

 

 

 アキュラ・シンドロームで眠りについた私は、連絡船の中で、ふと目を覚ました。

 

 深夜なのだろうか、船内のお客は誰も眠っていて、物音一つしない静けさに満ちている。

 

 窓の外は星が静かに瞬いていて、星灯りが柔らかく船内を照らし出していた。

 

 ――ふと、船首の方から、ちかちかと光るものが見えた。

 

 星虹? と思ったのだけれど、どうも違うみたい。

 

 光るものは、徐々に大きく近づいてくる。大きく、大きく。

 

 そして、汽笛のような音が聞こえたと思うと。

 

 窓の外を、列車が駆け抜けていった。

 

 私たちの逆に、マンホームの方から、アクアの方へ。

 

 煙を吐き出しながら、鋼鉄の列車が、駆け抜けてゆく。

 

「銀河……鉄道?」

 

 呆然とそれを見送る私を、客室の灯りが瞬いて照らし出す。

 

 そして、その客室の、無数に並ぶ窓の一つに。

 

 私は、間違いなく見た。

 

 黒いコートに身を包み、鷲鼻が目立つ仮面を被った、恰幅の良い紳士を。

 

 その紳士は、まるで私が見えているかのようにこちらを向いて、帽子を外して仰々しく一礼した。

 

 そして仮面を外し、黄色い目でウインクして見せたんだ。

 

 黒くて、恰幅のいいその紳士の正体は。

 

 黄色い目をした、大きな大きな、猫だった。

 

「……ケット・シー?」

 

 そう、私が呟いたときには。

 

 銀河鉄道は、もう遙か後方に飛び去ってしまっていた。

 

 

 私の記憶は、そこで途切れている。

 



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Fenice 08 紅の不死鳥

 A.C.0077 春――。

 

 

 私、藍華・S・グランチェスタがアニエス・デュマと別れてから、アクアには夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が訪れた。

 

 その間に、私たち三人は揃ってプリマ・ウンディーネに昇格し、それぞれ多忙な日々を送っている。

 

 アリシアさんの引退、アテナさんのオペラ歌手デビュー、私のカンナジョーレ支店長就任と、この一年は本当にきりきり舞いの日々だった。

 

 プリマにすらなったばかりだというのに、いきなり支店長ということで、私はいきなり荒波のど真ん中に放り出されたような状態だった。

 

 それを支えてくれた沢山の人々がいたからこそ、どうにか無事に一年を過ごすことができたのだと思う。

 

 だけど、一番本音を言うならば。私の隣で、姫屋の支店長でもなく、プリマウンディーネでもない、私自身を支えてくれる、そんな相棒がいてくれたら、と思っていたのも事実。

 

 灯里もアリスも、それぞれがいきなり世間の荒波に放り出された状態で、お互いを支えるにもどうにも時間と力が足りない。アルくんとは、まあその、今でも十分頼りになってるというか、あっちも一人前のノームになったばかりで、今甘えたら負けのような気がするというか。

 

 そんな中で、相棒候補の筆頭だった娘は、一番忙しくなる時期の直前に、マンホームに消えてしまった。

 

 「これから、ちょっと大変になる」という手紙が送られてきてから、もう半年以上連絡がない。マンホームの暦では一年になる。

 

 あれだけ言ったのに。必ず追いつくって言ったのに。諦めてしまったんだろうか。それとも、返事をすることすらできなくなってしまったのだろうか。

 

 考えれば考えるほど、絶望が心に忍び寄ってくる。それが怖くて、私は日頃の忙しさに任せて、考えるのをやめた。

 

 そんなこんなで、どうにか支店も軌道に乗ってきたかな、と思えるようになってきた、そんなある春の日の夕方のこと――。

 

 

 

 

「調子はどうだ、藍華?」

 

 今や名実ともにトップウンディーネ、姫屋でも全てのウンディーネを統括するチーフとして活躍する我らが晃さんが、前触れもなしに、支店の私を訪ねてきた。

 

「あの、私今日ゴンドラ協会の会合で忙しいんですけど」

 

 未処理の書類束を抱えて、私が言う。それは晃さんも見てわかると思うのだけど。

 

「ああ、まあそうだろうな。だが、まだ話をするくらいの時間はあるだろう?」

 

 と、さっさと歩いて逃げ出そうとする私に、ぴったりと歩調を合わせてくる。

 

「そうですけど……」

 

 ため息混じりに答える。こういう風に強引に話を押し込んでくるときは、大抵また無理難題なんだ。そりゃまあ親愛なる晃さんの頼みとあれば、大概のことは聞いてあげたいとは思うのだけれど。

 

 晃さんの持ち込んできた話は、またとんでもないものだった。

 

「もう藍華もプリマになって一年、そろそろ弟子の指導をしてみないか?」

「弟子ぃ?」

 

 思わず声が裏返ってしまった。

 

「ちょっと待ってくださいよ、私がどれくらい忙しいか知ってますよね?」

「わかってるんだけどな。一人見所のあるのが来るんだが、本社の方には今空きがないんだ。できれば私が指導したかったんだが、流石にこっちももう一人だけを見るって訳にもいかなくなってるし」

「それ言ったら私だって。ただでさえ支店長の仕事で、プリマとしての経験が灯里達に遅れてるって言うのに……」

「だからこそだ。一足先に弟子を取ってリードしてみるっていうのはどうだ?」

 

 なんというか、ああ言えばこう言う、の見本のような話。口車では、どうにもまだまだ先輩方には及ばないことを自覚する。

 

「まあ、いいから資料を見ろ。見たらお前も気が変わるから」

 

 そう言って、晃さんは手にしたファイルを私の手の中に放り込んだ。

 

 まったく、どうしてこうも強引なのか。仕方ない、顔くらいは見てやるか……そう思って、嘆息混じりに私は渡されたファイルのページをめくって……。

 

「……………………!!!!」

 

 そして、未処理の書類束が、ばさばさと音を立てて、床に散らばった。

 

 だけど、私はそちらには目もくれず、食い入るように、そのファイルに書かれた名前と、写真を凝視する。

 

 間違いない。間違いっこない。少しやつれているけど、そのちょっと男の子のような笑顔は。

 

「……な、気が変わっただろう?」

 

 散らばった支店の重要書類を拾い集めながら、悪戯っぽく晃さんがウインクした。

 

 でも、それに答えている余裕はない。急いで備考欄を捜して、到着時間を確認する。

 

「…………今日の……午後六時、パリア橋!」

 

 時計を見る。あと三十分、急げば間に合う。

 

 でも、それではゴンドラ協会の会合に出席できない。支店長として、これを無断で欠席する訳にはいかない。だけど。

 

「遅刻するって、連絡しておいてもいいんだぞ?」

 

 そんな晃さんの提案に、私が乗らない理由はどこにもなかった。

 

 

 

 

 オールを引っ掴み、ゴンドラを引っ張り出す。このネオ・ヴェネツィアで、私たちウンディーネにとって、舟より速い乗り物はない。

 

「お、《薔薇の女王》、お出かけかーい?」

 

 大運河を突っ走る途中で、岸の方からそんな声が聞こえるけど、相手をしている暇もない。適当に片手だけ挙げて応えつつ、更に櫂をかき回す。一分一秒でも早く、パリア橋に辿り着きたい。気ばかりが急いて、櫂の繰り手がどうしても粗雑になる。仕事中だったら言語道断の有様だけど、知ったことか。

 

 リアルト橋の手前で脇道に逸れ、後は慣れ親しんだ小運河を疾走する。リアルト橋からパリア橋……つまりため息橋までのコースなら、目を瞑っていてもたどり着ける。あまりの勢いにすれ違った荷運びの舟が目を丸くしているけれど、反省するのは後で良い。

 

 やがて、ため息橋が見えてきた。時間帯的に、その周辺にはカップルを乗せた舟が多い。流石に彼らの側を爆走する訳にもいかないので、逸る気を鎮めながら櫂を手繰る。

 

 そして、ため息橋を潜り抜けると、パリア橋が見えてきた。

 

 赤く染まった橋の上に、見えるいくつかの影。そしてその橋の手すりに背中を預けて、ぼんやりと空を見上げている影が一つ。

 

 逆光で、姿はよく見えない。だけど、近づくにつれてその輪郭がはっきりしていく。

 

 見覚えのあるショートカット。ほとんど変わっていない背格好。少し大人びたシルエットのコート。

 

「アニーーーーーッ!!」

 

 周囲の人が驚くのも構わず、声を張り上げた。

 

 びくりと、人影の肩が揺れる。

 

 光の中で振り返る。そしてこちらを見下ろす。

 

 最初に見えたのは、驚愕の色。そしてそれが崩れて浮かび上がる、笑顔と泣き顔のハーフ&ハーフ、そして。

 

「藍華さーーーーーんっ!!」

 

 手を伸ばして、叫び返したんだ。

 

 ……変わっていなかった。

 

 少しやつれたかも知れない。少し大人びたかも知れない。だけど、その髪型も、笑顔も、声も、アニーがアニーである事は、何も変わっていない。

 

 そう。

 

 こんな状況で、パリア橋から飛び降りるような、無茶苦茶な所も含めて――――っ!!

 

「――――っ!!」

 

 とっさに、櫂を放り捨てた。

 

 天を仰いで、舞い降りる少女に両手を差し出す。

 

 コートがひらめき、光が交錯する。

 

 それは、まるでアニーの背中で、天使の翼のように輝いて。

 

 そして……アニーは、私の腕の中に、飛び込んだ。

 

 がくんっと、舟が揺れる。とっさに腰を落として衝撃を殺す。ぐらぐらと揺れる舟から振り落とされないように、お互いの身体をしっかりと抱き留める。

 

 そして、舟が静まるまでの数十秒。一言も口を開かないまま、私たちは抱き合っていた。

 

 どんな言葉を言えばいいのだろう。どんな言葉なら、この気持ちを伝えられるだろう。

 

 何秒も、何十秒も考えあぐねて、私はもっとも素直な感想を述べるところから始めようと思った。

 

「……少し、痩せたわね」

「……藍華さんは、ちょっと背、伸びましたね」

 

 約七百日ぶりに交わす会話は、そんな言葉から始まった。

 潮に流された舟が、ちょうどため息橋の真下を通り過ぎた、そんな夕方の事だった。

 

 

 

 

 それからの事を、少し話しておこう。

 

 

「本当、大変だったんですよ? 本気で死にかけましたから!」

 

 場所はレストラン・ウィネバー。マルゲリータを片手に、アニーが戯けて語った。

 

 マンホームに戻ったアニーは、アンジェさんと再会した後、専門医(アレクサンドロという人物だったらしい)と面会した。

 

 アレクサンドロ氏は、事前の話でもわかっていた通り、アキュラ・シンドロームの専門家という訳ではなく、その変異元を専門としていた。そのため、アニーの治療は、まずは変異元に有効かどうかの検証から始まった。

 

 アニーから採取されたアキュラウイルスを投与して、マウス相手の検証にかかった時間が、約六ヶ月。その間、アニーは体力を落とさないようにジムでトレーニングの傍ら、シミュレータで毎日のように舟漕ぎの練習を続けていたのだという。

 

 そのあたりまでの顛末は、私はアニーからの手紙で聞いていたのだけど……。

 

「手紙が来なくなったのはどうしてなのよ? 心配したんだからね?」

「あはは……実は、特効薬の認可申請があんまり時間がかかるものですから……」

 

 御定まりの例に漏れず、治療法というのは見つかっても、人間に使うには何年もの検証期間が必要なもの。動物実験をする限りでは特効薬の有効性は証明されていたものの、副作用のせいで命を落とす実験体が多く、人間への使用は当分認可されないだろう、という結論になってしまった。

 

 そこで、アニーは一計を講じた。

 

 ――どうせ副作用で死にかけるなら、いっそ特効薬を使ってもいい状態になってしまえばいい。

 

 もちろん、アレクサンドロ医師は反対した。だがアニーはアレクサンドロの資料室から変異元ウイルスのサンプルを見つけだし、勝手に自分に投与してしまったんだという。

 

 致死性の病原体だ。もちろん、ただでは済まない。

 

「あはは、もう本気で死ぬかと思いました……」

「当たり前だっ!! この馬鹿っ!!」

 

 とりあえず一番はっきり聞こえたのが晃さんの声だったけど、私はもちろん、灯里やアリス、アテナさんに至るまでが一斉に声を荒げた。

 

 灯里やアテナさんが怒るのを見るのは本当に珍しいのだけど、まあアニーがやっちゃったことは流石に許し難い。アリシアさんが蒼白になるだけで済んだのがむしろ残念なくらいだ。

 

「ご、ごめんなさい、でも無茶の甲斐あって、両方まとめて一網打尽にできましたから!」

 

 大体それをやらかしたのが前の秋の入りで、手紙が届かなくなったのもそのあたりの事情だったようだ。

 

「それから隔離病棟行きになって、先月までの間ずっと出してもらえませんでした。手紙も出すのを禁止されて……まあ、数カ月の間はそもそも手紙を出す気力もなかったんですけど」

 

 それから、ウイルスの根絶が確認できるまでずっと寝たきりの状態だったという。あまり成長して見えないのと、どこかしらやつれて見えたのもそのせいらしい。

 

「それで、もう大丈夫なのね?」

 

 アリシアさんの問いに、アニーは力強く頷いて見せた。

 

「はい。私の中のウイルスは完全に撲滅されましたし、特効薬の調整で、アキュラ・シンドロームだけを狙い撃ちにする薬もできあがりました。……もう二度と、サイレンに惑わされる人は現れません」

 

 私達は顔を見合わせた。晃さんは知っていたようだけど、アキュラ・シンドロームは別名を《サイレンの呼び声》というらしい。まあ、今となってはどうでもいいことだけれど。

 

「それからもずっとリハビリ地獄で、やっと体力が戻ったのが先々週で……なんとか、予定より早く帰ってこれました」 

 

 そこまで話して、ようやくひと心地ついたように、アニーは息を吐き出した。

 

 思わず、私も深々と息を吐き出していた。他のみんなも程度の差こそあれ似たようなものだったらしく、吐き出した息と一緒に、緊張感のようなものが溶け落ちていくような感覚を覚える。

 

 舞い降りる違う空気。欠けていたピースが揃った、懐かしくて、そして新しい、そんな暖かな空気。

 

 それを、みんな感じ取ったのだろう。一人一人がほんのりと笑みを浮かべてゆく。

 

 そして最後に、難しい顔を取り繕おうと必死になっていた晃さんが白旗を揚げた。

 

「いろいろまだ言いたい事はあるが……な、藍華」

「そうですね。……それでは、我らが愛すべき後輩の完全復帰を祝いまして……乾杯!」

「「「乾杯!!」」」

 

 かちぃん、というグラスの音が、まるでアニーの前途を祝福しているかのように、響き渡った。

 

 

 

 

「で、これからアニーちゃんはどうするの?」

 

 灯里の問いに、アニエスは少し困ったような顔を見せた。

 

「ええと……できれば元のように晃さんの下で指導を、と思ってたんですけど、思った以上に晃さんが多忙のようで……」

「今や姫屋のチーフ・ウンディーネ、絶対無敵の《真紅の薔薇》です。でっかい無理もありません」

「ですよね、それで……」

「それで、なんと、この私がアニーの指導員として、カンナレージョ支店で引き取ることになりました!」

 

 灯里とアリスが、一斉に歓声を上げた。

 

「うわぁ、藍華ちゃん凄い!」

「でっかい指導員一番乗りですね」

「ふっふーん、幸か不幸かブランクの分アニーはペアに降格になったし、この際弟子の飛び級昇進目指すわよー」

「いや絶対不幸なんですけどねそれ」

「あの宣言、でっかい本気だったんですか」

「とーぜんよっ! アリスに負けっ放しでいられるもんですか。明日から早速ビシバシ鍛えてあげるからね!」

「……今すぐマンホームに帰っていいですか?」

「ノー、断じてノー! 恨むなら最初にウチの門を叩いた自分を恨めー!」

「ひぇ~っ」

「わ~ひ、藍華ちゃんもアニーちゃんも頑張れー」

 

 

 やいやいと姦しく騒ぐ四人娘をやや遠目に、晃・E・フェラーリはワイングラスを傾け、ほっと小さく息を吐き出した。 

 

「……少し、軽くなったかしら」

「ああ、前より四キロも痩せたらしいぞ、アニーは」

「違うわよ、晃ちゃんの心の荷物。藍華ちゃんが無理して頑張ってたの、随分気にしていたでしょう?」

 

 アリシアの予想外の言葉に、晃は目を丸くした。そして自分の手と、子供のように抱き着いて騒いでいる藍華とアニーの姿を交互に見やって、思わず口元を綻ばせる。

 

「……そうだな」

不死鳥(フェニーチェ)は、炎の中に燃え尽きても、灰の中から再び雄々しく舞い上がる。今のアニーちゃんにピッタリよね」

 

 いつものように、柔和な笑みを浮かべ、アテナはそうアニエスを評した。

 

 なるほど。薔薇の女王の隣に佇む、紅蓮の不死鳥。なかなか絵になるじゃないか。

 

(……いずれ、藍華に提案してみるか)

 

 ペアに降格されたばかりのウンディーネの二つ名を考えるとは、いささか気が早すぎるきらいは拭えないが。

 

 きっと、今のアニエスならば、必ず試練を乗り越えられる。

 

 どれだけ苦しくても。どれだけ辛くても。どんな困難も振り払い、このアクアへと想いを届けた、アニエス・デュマならば。

 

 ……夢を叶えられない、筈がない。

 

 そう、内心では思っていたのだが。

 

「不死鳥か……燃え尽きる時に辺りかまわず灰にするのは勘弁して欲しいけどな」

「え~~」

「あらあら……」

 

 そう、親愛の気持ちにちょっぴりの皮肉のスパイスを交えつつ、晃はグラスを掲げたのだ。

 



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オレンジぷらねっと編 Donna Stella
Donna Stella 01 嘘と憂鬱


本章より、オレンジぷらねっと編となります。

ゲーム『蒼い惑星のエルシエロ』のメインシナリオ分岐である、三社のどれに入社するか。ここでオレンジぷらねっとを選んだエンディングの後の物語です。

Donna Stellaはアリスとアニエス、アリスとアテナの関係に注目しつつ、ゲームで描かれなかった原作エピソードを後日談として描いた物語となります。しかし、原作やアニメを見ているだけでは、見慣れない登場人物がいくつか見受けられると思います。

多くは、小説版『ARIA 水の都と哀しき歌姫の物語』『ARIA 四季の風の贈り物』の登場人物を引用したものです。細かい事件なども小説版のエピソードありきで描写されているので、予習しておくと色々わかりやすくなるかもしれません。

……本作の原作ともども、今となっては入手性にかなり問題がありますが。


(前も、こんな事があったわね)

 

 食堂の皿を十日連続で割らなかった事を賞賛された帰り、アテナ・グローリィは、どこか既視感を覚える心持ちで、既視感を覚える道筋を歩いていた。

 

 こんな憂鬱な気分は久しぶりだった。確か前に同じような気分になったとき、アテナはペア昇格試験の試験官を依頼されていたはずだ。

 

 確かあの時の季節は秋。今は春。もう少し気分が軽やかになっても良さそうなものだが、実際のところ、アテナの気分の落ち込みようは、先秋のそれよりも遙かに深刻だった。

 

「アテナね? どうぞお入りなさい」

 

 アテナが目的地の扉をノックすると、即座に返事が返ってきた。

 

 失礼します、と扉を開けた向こうに見えるのは、そろそろ見慣れた部屋。『無駄なものが何一つない』と形容される、オレンジぷらねっと水先案内人管理部長室である。

 

「アテナ、彼女の調子はどう?」

 

 と、前置きもなしに問いかけて来るのは、この『無駄のない部屋』でも『もっとも機能的な部品』と評される、アレサ・カニンガム管理部長である。

 

「彼女、というのはどちらの彼女のことですか?」

 

 大体アレサが誰を指しているのかはわかっていたのだが、今のアテナには、愛弟子が二人いる。一応そう聞き返したアテナに、アレサは小さく吐息を漏らしてから、続けた。

 

「わかっているでしょう? その様子だとまだ気乗りがしていないようね」

「そんなことは……」

 

 そう反駁しようとしてはみるが、実際のところ、気乗りがしているかどうかというならば、それは断じて否と言える。

 

 先秋にこの部屋を訪れたとき、アテナはやはり気乗りしない気分でこの部屋を訪れた。それは、一等大事な後輩であるアリス以外の、とあるペア・ウンディーネの昇格試験を任されたが故のことだった。今でこそわざわざ直接の指導員ではないアテナがそれを任じられる訳もわかっているが、当時は「何故こんな役目を私が」などと考え、それはそれは憂鬱だったものだ。

 

 しかし、今回の憂鬱は、以前のものよりも更に根深く、更に深刻だった。

 

「協会の理事長から、『例の件』の承認が出たわ」

 

 アテナの憂鬱を他所に、アレサがきっぱりと、それだけが要点だと言わんばかりの切れ味の言葉を発した。

 

「承認が……出たんですか」

「ええ。過去に例のないことだけれど、彼女はもう既に特例措置でシングル向けの指導も七割方受講しているし、次世代を担う俊英には相応の待遇を与えてやってくれ、ということよ」

 

 感情の読み取りづらい顔で、そう言うアレサ。その様子からは、彼女が賛成派なのか、それとも反対派なのか伺い知れない。

 

(できれば、反対派であって欲しいのだけれど)

 

 人材管理部長であるアレサの権限ならば、その気になれば会社の決定の一つや二つくらいなら引っ繰り返すことができる。そうなれば、アテナはこの憂鬱から解放されるし、アリスが過剰な負担を抱えるような事にもならないだろう。

 

 だが、逆に言えば、人材管理部長ほどの人物の賛成なしに、このような計画が審議にかかることもないのだ。

 

「私は……」

「貴女が反対しているのは分かるけどね」

 

 アテナの問いよりも、アレサの言う方が早く、そしてアテナの言いたいことを先取りしてすらいた。

 

「私は、あの娘がやり遂げると信じているわ。直接指導してきた貴女だからこそわかることもあるでしょうけど、直接接してきたからこそ見えないこともるんじゃないかしら」

 

 言葉に詰まる。アテナは確かにアリスを信じている。だが、信じているからと言って、今までに例のない程の期待と負担を彼女に背負わせるのが、正しいことなのだろうか。

 

「まあ、貴女が迷うのもわかるわ。それに協会の方も、一度アリス・キャロルの実力の程を見極めておきたいという意見もあるし、近々お披露目をしたいと思ってはいるのだけど」

 

 お披露目。おそらくはそこで、本当にアリスが『例の件』に相応しいかどうかを見極めるのだろう。

 

「いつ試験をするかは、貴女に任せるわ。お披露目の事も含めて、どんな風にするのか考えておいてちょうだい」

 

 アレサはそう言って、全ての引き金をアテナに委ねた。

 

 だが、そう言われても、未だに『例の件』の是非を迷っているアテナに、その引き金を引く決断ができるはずもない。

 

 アテナにとって、この春はまだまだ、憂鬱な日々が続きそうだった。

 

 

 

 

 親愛なるアンジェさんへ。ツアーコンダクターの勉強は順調でしょうか?

 

 私、アニエス・デュマがシングル・ウンディーネになってから、三カ月程が過ぎました。

 

 春の風が緩やかに頬を撫でる日々。シングルになったことで、私には数多くの新しい世界が拓かれました。

 

 

 まず、シングル向けの教本。シングルへの昇格試験場である『希望の丘』や、迷宮化している旧開拓村や廃教会など、ペアの技量では危険なために存在すら教えてもらえない土地が、私の地図に追加されました。

 

 次に、トラゲット。シングルになったことで許可される、大運河の渡舟営業。専門の長舟を使い、多くのお客さんを乗せて運ぶ、立派な営業活動です。

 

 我らがオレンジぷらねっとでは、最低一度の基礎講習の受講が推奨されています。私はまだ講習を受けていないので、トラゲットを体験したことはないのですけど、最近アリスちゃんと仲良くなった杏さんやアトラさんがトラゲットをよくやっているので、そのうちご指導をお願いしようと思っています。

 

 さらにご存じ、指導員を伴っての実地営業。ウンディーネとしてもっとも重要な、舟にお客を乗せての観光案内です。これについては、週刊ネオ・ヴェネツィアに掲載されたことで、随分経験を積ませて貰いました。この辺りの顛末は、サイレン事件の時にアンジェさんもご存じでしょう。(あの時は本当にありがとうございました!)

 

 そして、今回初めて体験した、ペア指導。そう、オレンジぷらねっとでは、シングルがペアと組をつくって、シングルが組のペアを指導するという制度があるのです(そういえば藍華さん曰く、姫屋にも同じような制度があるそうですね)。

 

 シングルになって、初めて体験するペア指導。これまではずっと教わる方でしたが、今度は日頃灯里さん達と練習している成果を、精一杯後輩達に伝えよう……そんな意気込みを漲らせていたのですけど。

 

 実際には、ちょっとややこしいことになりました。

 

 何故かと言うと……。

 

 

 

 

 どうしよう。

 

 これは予想してなかった。

 

 冷や汗が、じわじわと額に浮かぶ。

 

「ペア指導、大変だろうけど頑張ってね」

 

 と、アトラさんが言ってくれた意味、今なら心から理解できます。

 

 ペア指導は、シングルがペアについて、一対一で指導をするもの。

 

 その組み合わせは、大抵ペアの方からシングルの人にお願いする形となる。

 

 私の場合、アリスちゃんがムッくんファン繋がりで仲良くなった杏さんや、その友達のアトラさんなどのお世話になることが多かったのだけど。

 

 アリスちゃんは、いつも黙って、最後に余ったシングルの人に指導を受けていた。

 

 そしてそこから戻ってくる度に、アリスちゃんは機嫌を悪くしていた。だから、あまりアリスちゃんはペア指導が好きではないのだろうと思って、その話題には触れないようにしていたのだけれど。

 

 その日に限って、緊張が漂う組み分けの輪の中で。

 

 まるでモーゼが海を割るように、私と彼女の間の人波が割れた。

 

「では、今日は宜しくお願いします」

 

 と。

 

 彼女はきっぱりと、私に頭を下げた。

 

 ペアに走る動揺のどよめき。シングルに走る安堵のため息。

 

 そんな二つの波に挟まれて、私は金縛りに遭ったかのように、身体を強ばらせていた。

 

 今から思えば、アリスちゃんを指導するシングルの人は、誰もが悲壮な顔をしていた。

 

 多分、今の私も、彼女たちと同じような顔をしていることだろう。

 

 そっか。

 

 そーだ、そーなんだ。

 

 私がシングルで、アリスちゃんがペアだということは。

 

 つまり、いずれはどこかでこういうことになるということだったんだ!

 

「アニーさん、早く行きましょう」

 

 アリスちゃんが、急かすように言った。

 

 あの、仏頂面で。

 

 心なしか、普段より三割増くらい怖い顔で。

 

 ああ。

 

 どうしよう。

 

 針の筵とは、きっとこんな状況を言うに違いない。

 

 

 

 

 私の初のペア指導は、実にまあひどいものだった。

 

 いつも先輩たちに教えて貰っていたように、ペアが陥りがちな技術的ミスや気配りの要点の指摘。ペアだけでは難しいコースの選定。前の晩に夜なべして作り上げた私のプランは、アリスちゃん相手には何の意味も成さなかった。

 

 考えて見れば当然だ。私もそうではあるのだけど、私とアリスちゃんは、いつもシングルの灯里さんや藍華さんと一緒に行動している。つまり、ペアだから入れないだとか、ペアだから難しいという場所について、わざわざ意識することも少ない。

 

 特にアリスちゃんは操舵の腕前だけなら、シングルはおろかそこらのプリマにすら匹敵する(と噂される)腕前。藍華さんあたりが計画するプランについていけなくて櫂を降ろすのは私だけで、アリスちゃんは難無く藍華さんたちに追いついてしまう。

 

 ウンディーネとしての気配りや観光案内についても、私にはいつも灯里さんや藍華さんがやっているような指導はできない。お二人が持つ、ウンディーネに囲まれて育ったことで積み上げてきた経験と、天性の感受性。それらの洗礼を浴び続けた時間も、アリスちゃんは私より一回りも二回りも長い。

 

 ……私には、アリスちゃんに指導できるような、立派なものは何もない。

 

 とりあえず、当初計画したプランに沿って、運河をゆらゆらと巡った。ペアの子に操舵してもらうつもりだったから、少し時間に余裕を見て計画していたのだけれど、アリスちゃんの手にかかれば、少々の難所もお茶の子さいさい。はっきり言えば、私が操舵したときよりも、明らかにペースが早い。

 

 そして、一日かけてゆっくり巡るつもりだったコースは、お昼前にすべて攻略され尽くしてしまった。

 

「……やっぱり、アリスちゃんは凄い」

 

 真っ白になってしまった頭を抱えて、お昼ごはんに貰ってきたサンドイッチをほお張った。私の視線の先では、アリスちゃんがまあ社長にお弁当のバナナをぶら下げて、ちょうだいちょうだいをさせている。

 

 その表情は、どこか堅い。というより、どこかつまらなさそうにすら見える。

 

 確かに、つまらないだろう。私だったら午後のお茶までかかるくらいの課題でも、アリスちゃんにとってはいつものお散歩コース。そんなものを巡るだけでは、彼女が退屈してないはずない。

 

 何とかしないと。

 

 何とかしないと。

 

 焦りばかりがこみあげてくる私に、突如アリスちゃんが口を開いた。

 

「……アニーさん。午後の指導なんですけど」

「は、はいっ!?」

 

 思わず、敬語で答えてしまった。

 

「――っ、……午後は、ちょっと試したいコースがあるんですけど、お付き合い願えますか?」

 

 礼儀正しい、どこかよそよそしい声音。一瞬その顔が強ばったように見えたのは、気のせいだろうか。

 

「う、うん。ええと、どのコース? 地図にあるかな」

「いえ、地図には乗っていません。少し遠出ですけど、でっかい大丈夫です」

 

 そうでっかい太鼓判を押して、アリスちゃんが向かった先は。

 

 

 

 

 …………やばい。

 

 これは、やばいです。

 

 また、冷や汗が吹き出した。

 

 私の前に広がるのは、延々と続いて行く、細い水路。

 

 逆流が続き、交通量も多く、かつとても狭い、丘に続く高架水路。

 

 『希望の丘』に続く、あの細くて長い道。

 

「前々から挑戦してるんですけど、なかなか最後まで到達できないんです」

 

 悔しそうに口をへの字型に結びながら、アリスちゃんが水路の先、山向こうに覗く風車の頭を睨みつけた。

 

 アリスちゃんは、普段の学校のない日の多くを、ウンディーネとしての座学や合同練習に費やしている。そのために自由になる時間が少なく、あまり遠出の経験がない。早朝の合同練習や放課後の自主トレではまとまった時間は使えないし。

 

 『希望の丘』へのコースは水上エレベータの待ち時間などもあって、行ってくるのに往復三時間は見ておかないといけない。加えて、年齢のこともあってあまり体力のある方ではないアリスちゃんには、この水路を上流に漕ぐのは大変だろう。とすれば、いつも体力と時間のどちらかが切れて、悔しい思いをしているんじゃないだろうか。

 

 なるほど、アリスちゃんにとって、まさしくこの水路は壁。ペアであり、学生とウンディーネの兼業であるがゆえに、大きくそびえ立つジェリコの城壁。

 

 だけど、当面一番問題なのは。

 

 この『希望の丘』は、ペア・ウンディーネがシングルに昇格するための、試験場であるということ。

 

 別に、ペアの侵入を禁止されている訳じゃないのだけれど、協会が発行するペア向けの教本に、この場所の事は掲載されていない。私もアテナさんに連れてこられるまでこの水路の存在すら知らなかったし、昇格してからも、ペアにはここの存在を教えないように、と釘を刺されている。

 

 さあ、どうする。

 

 別に、一緒に行ってしまってもいい。アリスちゃんは自らの意思と向上心で、あの丘を目指している。今日は時間が十分にあるし、私が荷物になっていても、多分問題なく丘の上に到達できるだろう。

 

 でも、そこで思い出す。あの、オレンジに染められた風車の丘で、手袋を外されたあの瞬間の感動を。

 

 空と海と風と太陽、アクアの全てが私を祝福してくれているかのような。

 

 できることならば、アリスちゃんにも、真っ白なままで、あの感動を味わって貰いたい。

 

「うーん、と……、アリスちゃん。この先は水上エレベータがあって、そこの待ち時間が凄く長いんだよ。だから、予定をちゃんと立ててからでないと、帰るのが日が暮れた後になっちゃったりするから……」

「そこの丘のところまでですから、エレベータといっても二つか三つです。待ち時間は確か登りで三十分くらいですよね? アニーさんがいてくれれば、きっと大丈夫です」

 

 うう、理性的な反論に交えて、またしれっと心を揺さぶるフレーズ。こういう信頼の言葉がアリスちゃん流の甘え方だとわかっているからこそ、アリスちゃんの望みに応えてあげたいと思う。

 

 でも、私は知っている。アテナさんが、どれほどアリスちゃんのシングル昇格を楽しみにしているか。あの丘の上で、オレンジの光に包まれながら、アリスちゃんに「おめでとう」と言う日を心待ちにしているのか、知っている。

 

 それに加えて、アリスちゃんが希望の丘を目標に頑張っていると知れば、尚更だ。長年の目標達成と同時にシングル昇格だなんて、蚊帳の外から見ても最高じゃないか。

 

 だから、私は、嘘をつくことにした。

 

「え、ええと、そうだ。後輩指導はあまり遅くなり過ぎるといけないから、その、練習はそこまでくらいにしておこうよ、ね?」

 

 …………もう少し、なんとかならないのか、私。正直は美徳、誠実さは美しさとか言うけど、この瞬間ほど、もっと口車が回る性格に産んでくれなかった両親を恨んだ瞬間はなかった。

 

 案の定、アリスちゃんの視線が痛い。じーっと見つめる視線が、私の真意をまさぐるように感じられる。

 

 お願い、勘弁して、後でパフェでも何でも奢るから。

 

 視線を逸らして、冷や汗をだらだらと流す。一秒が一分、一分が一時間にすら感じられるような痛い沈黙の果て、無言のままにアリスちゃんが櫂を握った。

 

「……会社に戻ります」

 

 それだけ言って、アリスちゃんは舟を反転させた。

 

 それきり会社に戻るまで、私たちは無言のままだった。

 

 アリスちゃんが漕ぐ櫂の音だけが、いつになく耳障りにちゃぷちゃぷと騒ぎ、白い水波を描いていた。

 

 

 

 

「アニーさん」

 

 会社に戻り、トンネルの壁に櫂を並べているとき、ようやくアリスちゃんが口を開いた。

 

 見ると、私の事を呼んだにもかかわらず、アリスちゃんはこちらを見てはいなかった。

 

 片付けた櫂に手をかけたまま、僅かに俯いて。

 

 小さく、呟いた。

 

 身体が、強ばった。ずん、と全身が重くなった。

 

 アリスちゃんが足早に立ち去るのを、追いかけることもできなかった。

 

 耳の中で、小さなささやきが、何度も何度もリフレインする。

 

 アリスちゃんは、こう言ったんだ。

 

 小さく、感情を押し殺した声で。

 

「――残念です」

 

 

 何かが、軋んでしまった。

 

 そんな気がした。

 



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Donna Stella 02 すれ違い

 深く、息を吸い込んだ。

 

 深く、息を吐き出した。

 

 真っ直ぐに、前を見据える。閉ざされたドアを睨み付ける。

 

 左手を握ろうとして、鈍い痛みに顔が歪む。気を取り直して、右の拳を握り直す。

 

 拳をこう堅く握って、裂帛の気合いを込めて、戸板に向けて振り下ろ――

 

「ほぁ……、アニーちゃん?」

 

 ――そうとした私の目の前で、ぐったりと力の抜ける声と一緒に、ドアが開いた。

 

 その奥から覗き込む、銀髪のとぼけた顔。夢遊病半歩手前くらいの寝ぼけ顔を強打しかけた拳を慌てて引っ込め、頭を下げた。

 

「おはようございます、アテナさん。……アリスちゃんは?」

「ふぇ……ええと……カバンないから、もう学校じゃないかしら~~~」

 

 ふらふらと、低血圧な身体を持てあましつつ部屋に戻って、銀髪のぽやぽやとした顔の女性……つまり我らが《天上の謳声》アテナさんが言う。

 

 覗き込んでみると、確かに、アリスちゃんの机の上にあるはずのカバンが見えない。つまり、アリスちゃんは今日も、早朝練習をさぼって、学校に出かけてしまったということだ。

 

 時計を見る。午前六時。始業時間には相当余裕がある。つまり、アリスちゃんは純粋に、私と顔を合わせないようにと学校に行ってしまったということ。

 

 肩が落ちるのを押さえられない。これがもう、三日繰り返されている。

 

 この間の後輩指導から、アリスちゃんの態度は明らかに変わった。簡単に言ってしまえば、私を避けるようになったということだ。

 

 例えば、早朝練習。いつも朝が弱めの私(とアテナさん)を、これまではアリスちゃんがたたき起こしてくれていた。のろのろぐずぐずとする私(とアテナさん)に、アリスちゃんが檄を飛ばしていたからこそ、私は無事に早朝練習に参加できていたんだ。

 

 一日目は、てきめんに遅刻した。気が付けば学校も始業時間で、単に前の晩寝付けなかった私を、アリスちゃんが気を遣って起こさずにいてくれたのかとも思ったのだけれど。

 

 実際には、アリスちゃんは早朝練習より早い時間に登校してしまっていたと、わかったのが昨日のこと。

 

 学校から帰ってきても部屋に引きこもり、お風呂の時間すらいつもとずらしているアリスちゃんに、ようやく私は自分が避けられているのだと気が付いた。

 

 どうして、どうしてだろう。

 

 思い当たることは、やっぱりこの間のペア指導。アリスちゃんにちゃんと指導できなかったり、折角のチャンスなのに『希望の丘』到達を手伝わなかったり、その辺りがアリスちゃんの逆鱗に触れたりしたのだろうか。

 

 でも、私事だからかも知れないけど、これ自体は、そんなにアリスちゃんを怒らせるような事ではないと思うのだ。

 

 だったら、一体何が悪いのか。多分だけど、アリスちゃんはそれがわからないまま頭を下げても、それで許してはくれないと思う。

 

 ……わからない。どうしてなのか。どうしたらいいのか。わからない。

 

「……うう、しょうがないよね」

 

 幸い、こんなときのために、先人達はとてもありがたい格言を残してくれている。

 

 ――バカの考え、休むに似たり。

 

 おとなしく、一番頼りたい人に相談することにした。

 

 

 

 

 問題は、『頼りたい人』であって、『頼れる人』かどうかはわからないという事だった。

 

「アリスちゃんに、避けられてる?」

 

 私が一番『頼りたい人』アテナさんが、アールグレイにミルクを注ぐ手を止めて、眉を寄せた。

 

「はい……」

 

 応える私の声に、暗雲が立ちこめているのが自分でもわかる。

 

「アリスちゃん、昨日も一昨日も早朝練習に出てこなかったんです」

「昨日の夕方街で見かけたときも、ふいーっと逃げちゃいましたしねー」

 

 灯里さんと藍華さんが、二人ともちょっと困った顔で補足してくれる。

 

 それぞれ同業他社の制服を纏う彼女たちだけど、内部から手引きをする私たち(私、アリスちゃん、アテナさん)の存在もあって、すっかり我が寮の玄関をフリーパスで通過するようになっている。

 

 今日の合同練習で、私は灯里さんと藍華さんの二人に、アリスちゃんに避けられているのだと話した。元々ここ数日姿を見せないアリスちゃんの事を気にしていた二人は、今日アテナさんに相談をするつもりだと言うと、一緒に話を聞きたいと申し出てくれたんだ。

 

 そんなわけで、集まったのは私の部屋。オレンジぷらねっと社員寮の、贅沢にも二人部屋を一人で占有しているものだ。

 

 部屋を広く使えるために、私が混ざった会社の未熟者同士のお茶会などでは、大抵私の部屋が会場になる。もちろんアテナさんを交えての時は、アテナさんとアリスちゃんが暮らす部屋を会場にするのが普段の話。だけど、今日は特別に、アテナさんを私の部屋に招いて話を聞いて貰っている。

 

 理由は簡単。私がアリスちゃんの部屋に陣取っていたら、アリスちゃんが帰って来にくいのではないか、という危惧。藍華さんなどに言わせれば「余計な気遣いだと思うけどねー」ということなのだけど、私がアリスちゃんに避けられている今、アリスちゃんの居場所を奪うような真似だけは、絶対に避けなければならないと思ったんだ。

 

 だから、アテナさんにはわざわざこちらにご足労を願った。

 

「……何があったの?」

 

 そう少し影を落とした顔で、アテナさんはつとととと、とミルクをカップに注ぎ込む。すこぶるつきのドジっ娘なアテナさんのことだから、またミルクを入れすぎるのではないかと警戒していた私なのだけど、その時に限っては、ついっと適量でミルクの口が上げられる。

 

 それを見届けたところで、私はため息を交えながら、あの時の顛末を語った。

 

「この間のペア指導の時に、ちょっと……」

 

 少し、声が重くなる。

 

 ペア指導に張り切ったものの、まるでアリスちゃんを指導する役に立っていなかったということ。

 

 アリスちゃんが自力で『希望の丘』を目指していて、まもなく丘の上まで到達してしまうだろうということ。

 

 今丘を制覇してしまっては、シングル昇格試験に差し障るだろうから、なんとかその場はごまかしたのだということ。

 

 それらの話に、アテナさんはずっと静かに耳を傾けていた。

 

「それにしても、自力で『希望の丘』に挑戦してるなんて、アリスちゃんって凄~い」

「まあ、いつも私たちについて来ていれば当然よね、当然」

「……いつも先輩方と一緒に漕いでる私は一苦労だったんですけど、あそこ」

 

 私の抗議に、「んぁ~、そう、まあねぇ」と曖昧な笑みを浮かべる藍華さん。言外に「まあアニーと後輩ちゃんじゃ漕ぎの腕前はダンチだからしょうがないわよねー」と言っている顔だ。

 

 まあそれ自体は事実なので、しょうがない。とりあえず藍華さんにべっと舌を出してから、改めてアテナさんの方に向き直ったのだけど。

 

「……ごめんなさいね、アニーちゃん」

 

 と、いきなり謝られた。

 

「え?」

「アリスちゃんのために、悪者になってくれたんでしょう?」

 

 目を白黒させる私を、少し上目遣いで見やるアテナ先輩。

 

 思わず顔に血が上った。別に、意識的に悪者になろうとか、そういうつもりはなかったのだけれど。でも、結果的に嘘つきになる事を選んだ動機は、アリスちゃんを後々楽しませたいと思ったからで。

 

 ばたばたと手を振って否定しようと思ったのだけれど、確かに言われてみれば、悪役を買って出たような形になっている。

 

「……ん……そんなつもりなかったんですけど、結局そうなっちゃいましたね」

 

 それで、アリスちゃんに避けられている、と落ち込んでいるのだから、我ながら世話はない。

 

「考えすぎなのよ、アニーは。……なんか後輩ちゃんが伝染ったんじゃない?」

 

 浮かんだ苦笑いに、藍華さんが容赦なくツッコミを入れる。いやはや、本当に面目ない。

 

 でも……どうせ嘘をつくなら、ちゃんと奇麗につき続けられれば、こんなことにはならなかったんだろうか。

 

「そうね……でも、嘘は、すぐに心を霞ませるわ。アリスちゃんはカンのいい子だから、アニーちゃんが嘘をついてるとすぐに気が付いたでしょうね」

「ですよねえ……」

 

 また、気分が落ち込んでくる。

 

「……どうすれば、よかったんでしょうか」

 

 嘘をつかなければ、アリスちゃんは『希望の丘』に到達していた。それができないとすれば、どうすれば良かったのか。またぐるぐる回り始める私の思考。結局、これからも嘘をつき続けるしかないのだろうか。アリスちゃんと、そして私たちの心に傷を付けながら。

 

「そうね。アリスちゃんが自分で望むんだったら、今度は丘の上まで行っちゃっていいと思うわ」

 

 なのに、こともなげに、アテナさんは前提そのものを引っ繰り返した。

 

「え、でもアテナさん。それじゃあ昇格試験はどうするんです?」

「どんな試験も、過去問とか練習問題をやるでしょ? 他の人が問題を教えるんじゃなく、アリスちゃん本人が挑戦する事なんだから、それは尊重してもよかったと思う。たまたま、練習してた問題が試験の問題と同じだったっていうだけのことなんだもの」

 

 聞き返した藍華さんも私も、頷くしかなかった。

 

 なるほど。確かにアテナさんの言う通りだ。

 

 私は、アリスちゃんにあの感動を味わってほしいと思った。あの素晴らしい気持ちを、真っ白なカンバスにオレンジの絵の具を乗せていくような、新しいはじまりを、心一杯に感じてほしいと思った。

 

 だけど、そのために嘘をつく事に意味はない。私がどんなに考えて、アリスちゃんの目指す目標に価値を付け加えようとしても、それが形を見せるまでは、アリスちゃんにとってはただの足かせにしかならない。

 

 私は、また私の独りよがりで、誰かを傷つけてしまった――。

 

「……私、駄目ですね。結局ちっとも、変われてない」

 

 ため息が喉の奥から沸き上がろうとするけど、それを飲み下して考える。私のやったことが間違っていたのはわかった。それならば、これからどうすれば一番良いのかを考えなければいけない。

 

 胸の中に溜め込んだ嘆息が痛い。思わず、服の上から指先でペンダントに触れる。それだけで、あの音色が耳の奥に蘇る。旅人達が紡ぐ、希望の歌が。

 

 心の音色に身を浸しながら、深く息を吸い込む。深く息を吐き出す。胸の疼きは消えないけれど、ずんと重い気持ちだけは、少しだけ吐き出せた気がする。

 

「今、心が痛いのは、アニーちゃんが本当に優しい子だからよ」

 

 そのとき、憂鬱を吐き出した心の隙間に、アテナさんの涼やかな声が、するりと滑り込んできた。

 

「え……」

「アニーちゃんの答えも、間違ってはいなかったと思うわ。だって、アニーちゃんはアリスちゃんのためを思って苦しんだんでしょう?」

 

 多分今、私は凄く間抜けな顔をしていると思う。表情を取り繕う事もなく、きょとんとアテナさんの顔を眺めているだけ。

 

 そのアテナさんが、私の視線に返すのは、しっとりとして優しい笑み。

 

「アリスちゃんもここ数日、とても辛そうにしていたわ。何か、とても大切なものを壊しちゃったみたいな、そんな顔」

 

 アテナさんの笑みに、陰りが混じる。そうか、アテナさんはアリスちゃんと同室。つまり、機嫌を悪くしたアリスちゃんといつも顔を合わせている。ただでさえアリスちゃんのことが大好きなアテナさんのことだ。アリスちゃんの表情が陰っていれば、辛くないはずがない。

 

「アニーちゃんもアリスちゃんも、お互いのことを大事に思っているのは変わりないと思う。だから、アニーちゃん。どうかアリスちゃんの側にいてあげて。いつも通りのアニーちゃんで、いつも通りのアリスちゃんに接するように」

 

 いつも通りに振る舞うということは、あなたといつも通りに接したいですよ、という暗黙のシグナル。そうしていつも通りに触れ合えば、私達はまた元のように仲良くできるだろうか。

 

「大丈夫よ、きっと」

 

 アテナさんが、嬉しそうにでっかい太鼓判を押す。その笑顔に勇気づけられない人などいないだろう。

 

「うん、私も大丈夫だと思う。私も頑張って協力するから!」

「灯里、アテナさんの話聞いてたの? いつも通りにするのに、頑張ったらいつも通りにならないじゃない」

「……はれ?」

 

 灯里さんと藍華さんのとんちんかんなやりとりに、思わず私は吹き出した。

 

 ……私は、相変わらず本当にだらしない。だけど、そんな私を助けてくれる、素敵な先輩達がいる。

 

 こんな素敵な人達に救われたから、今の私はここにいる。ここにいることができる。

 

 その中でも一等素敵な年下の先輩と、ちゃんと仲直りするために。

 

 明日、アリスちゃんと会おう。

 

 ちょっと無理してでも、会って話をしよう。

 

 謝る事でもなく、釈明する事でもなく。ただ、いつものように。

 

 まずは、そこから。そこから始めないと、何も始まらない。

 

 そう心に決めると、心がすっと軽くなったような気がした。

 

 

 



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Donna Stella 03 色のない世界

 アリス・キャロルは、はっきり言えば、拗ねているのですらなかった。

 

 アニエスに、余りに余りな誤魔化し方で『希望の丘』……アリスは『風車の丘』としか知らなかったが……への挑戦を拒絶された時。アリスは、酷く裏切られたような衝撃を受けていた。

 

 そもそも、それ以前からが不愉快だったのだ。大事な物が歪んでしまったような些細なずれが、アリスの心にしこりとなってわだかまっていた。その原因は、アニエスにあると言えばそうだし、アリス自身にあるとも言える。

 

 だから、ペア指導の帰り道、一番率直な感想を、小さく一言だけ、抗議のつもりでアニエスに伝えた。

 

「残念です」と。

 

 その言葉は、アニエスに少なからぬ衝撃を与えた。それは、そのまま立ち尽くして動かないアニエスの姿を見れば、一目瞭然だった。

 

 それこそが、アリスにとっては予想外の事態だった。自分の率直な物言いには、アニエスとて慣れているはず。ならば、この程度の一言くらいで傷つく事はない。精々じゃれ合い程度の意味合いで済む、そう思っていたのに。

 

 半年(地球歴で一年)も一緒に過ごしているのだから、そのくらいはわかって貰えている。そんな甘えが、瞬時に打ち砕かれた。

 

 そして、甘えの破片は、アリスの心に大きく爪痕を残したのだ。

 

 アニエスと顔を合わせない理由は、半々。

 

 アニエスが自分を裏切ったという憤激と。

 

 アニエスを自分が傷つけてしまったという負い目と。

 

 だから、アリスはアニエスと顔を合わせられなかった。それは拗ねているのですらなく、もっと内向的な感情。

 

 アニエスと顔を合わせられない最大の理由、それは。

 

(…………怖い)

 

 怯懦。それこそが、アリスの心を縛る、もっとも太く、もっとも堅いくびきだった。

 

 普段から歯に衣着せぬ物言いをしているだけに、誰かから拒絶されるのは慣れていた。少なくとも、誰かから拒絶される前に自分から拒絶することで、固く心を守っていた。

 

 でも、今は違う。大好きな人が増えた。友達も増えた。自分から手を差し伸べたい大切なものが、数え切れないほどに増えた。

 

 だからこそ。

 

 大好きな人に、拒絶されるのが、怖くてたまらない。

 

 だって、そこに鎧はないから。

 

 大好きだという手を差し伸べているそこに、自分を守る鎧はないから。

 

 だから、怖い。

 

 拒絶されているかも知れない相手と、出会うのが怖い。

 

 アリスがアニエスと、そしてアニエスと繋がる灯里や藍華を避けているのも、結局それが最大の理由だった。

 

 

 だけど、アリスは飽きた。

 

 一人で過ごす時間は、余りにも退屈だったし、一人でいると、恐ろしい考えばかりが浮かび上がってくる。

 

 時間を置けば置くほど、取り返しのつかないことになってしまうのではないか。

 

 連鎖反応のように、アリスが大好きな人たちが、次々とアリスを拒絶するようになるのではないか。

 

 冗談ではなかった。

 

 大事な人達を失うことはもちろんのこと。

 

 そんな陰鬱な思考に囚われて、足踏みを続ける自分自身も、冗談にしても格好悪すぎる。

 

 だから、アリスは決意した。

 

 アニエスと、話そうと。

 

 三日かけて、ようやくたどり着いた答えは、そんな当たり前すぎる事だった。

 

 

 

 

 部屋に帰ると、まぁ社長だけがいた。

 

 アリスのベッドの上で大の字になっていた火星猫の子猫は、アリスの足音にぴょこんと跳び起き、ころりんころりんとベッドの上で転がり始める。

 

「ただいま、まぁくん」

 

 性別が雌だとわかっても、語呂がいいからという理由で使い続けている愛称で、アリスは小さな社長に声をかける。

 

「まぁ」

 

 ひょこん、と身を起こし、ベッドの上に直立するまぁ社長。火星猫は地球猫とは骨格からして違うのか、まぁ社長やアリア社長はしばしば猫にはあり得ない二足直立の姿勢を見せる。

 

「アテナ先輩はお仕事ですか?」

「まぁ」

 

 まぁ社長を抱き上げ、顔を覗き込んで訊ねる。火星猫の知性は人間並であるとはいえ、子猫のまぁ社長に意味のある返事を期待していた訳ではないのだが。

 

「まぁ」

 

 まぁ社長は、いつもの声と共に、びっと前足を壁の方に指し示した。

 

「……え?」

 

 壁にあるのは、衣装棚がひとつ。かつて、まぁ社長がまだ「まぁくん」でしかなかった頃、アリスがこっそり彼女を匿っていた場所だ。

 

 ……衣装棚の中? と一瞬考えて、その思考を振り払う。いくらアテナが時折突拍子もないことをする人だからといって、衣装棚の中に隠れているなどということがあるはずがない。

 

「……うん、あるはずない」

 

 衣装棚の戸を閉じて、溜息を吐き出す。すると彼女はどこに行ってしまったのだろう。

 

 もう一度、衣装棚の方を見る。その向こうにあるのは、寮の廊下。そして更にその先にあるのは。

 

「……アニーさんの部屋?」

 

 ちらりと、腕の中のまぁ社長の方に視線を配る。当の子猫社長はアリスの呟きを聞いているのかいないのか、アリスの制服の袖を咥えてぶらぶらゆらゆらと遊んでいる。その様子からは、これ以上意味ある情報は得られそうにもない。

 

 改めて、考える。確かに、アテナがアニーと話をしている可能性はある。ペアのアリスと違い、アニエスはシングルだ。アテナとしても、ペアにはまだ必要ない指導をすることもあるだろう。どうやらシングル以上には、ペアには教えられない秘密があるようでもあるし。

 

 部屋の空虚さ故だろうか。アリスの胸に、ちくりと小さな痛みが差し込む。

 

「ちょっと行って見ましょうか」

 

 まぁ社長に言うように振る舞いつつ、その実自らに言い聞かせるアリス。アニエスの部屋にアテナがいるとすればむしろ好都合、いないとしてもそれを口実に、一緒にアニエスと夕食にでも行けばいい。それできっと、この胸のもやもやは消えてくれる。

 

 決断すれば、行動が早いのが自分の長所だと思っている。まぁ社長を部屋に残して、廊下を歩く。業界最大を誇るオレンジぷらねっとの寮だが、そこで迷うのは浮かれたアテナくらいのものである。程なくアリスは目的地、すなわちアニエスの部屋の扉の前に辿り着いた。

 

 扉の向こうに、人の気配がする。僅かに聞こえる、アテナやアニーの声。

 

「それにしても、私演技力が……声量はそれなりに自信があるんですけど」

「大丈夫よ、私だって最初は案内の台詞を忘れて、必死に歌って誤魔化したもの」

「……それはさすがに……」

 

 どうやら、二人は技術指導の相談をしているように聞こえる。

 

 今ならば大丈夫だろう。アリスは深呼吸をする。吸い込み、吐き出す。もう一度、繰り返す。

 

 よし大丈夫、ここにいるのはいつも通りのアリス・キャロルだ。何も変わらない。何も怖くない。

 

 だから、アリスは拳を握って、いつものように扉をノックしようとして。

 

「ふ~~ん、するとアニーは棒読み台詞の棒子ちゃんね」

 

 藍華の声が聞こえて、アリスの手が止まった。

 

「えぇ~~っ、それはないですよ藍華さん」

「藍華ちゃん、なんだかそれ、暁さんみたい」

「なんですと、誰がポニ男じゃ、もみ子~~~~っ!!」

「はひぃ~~~っ!? 藍華ちゃん髪引っ張らないで~~~っ」

「ええと、ええと……」

「ああああ藍華さん落ち着いて~~っ」

 

 姦しい声。藍華が逃げ回る灯里の長く伸ばしたサイドを掴み、アニエスが藍華を止めようとして、アテナがその背後でおろおろしている。そんな光景が、声を聞くだけでアリスの瞼に浮かび上がる。

 

(……あれ?)

 

 違和感があった。

 

 何故、アリス・キャロルはここにいるのだろう。

 

 アリス・キャロルの居場所は、この扉の向こうだったはずじゃなかったのか。

 

 いつもなら、暴れる藍華に突っ込みの一つでも入れて、後は素知らぬ顔で本を眺めていたり、あるいはそろそろ槍玉がこっちに向いてきている頃ではないか。

 

 なのに。

 

 アリス・キャロルはここにいて。

 

 壁の向こうでは、輪が完成してしまっている。

 

 どうして。

 

 足りないピースは、ここにあるのに。

 

 身体が金縛りに遭ったように動かなかった。

 

 ノックをする直前の姿勢のまま、凍りついてしまっていた。

 

 心まで、凍ってしまえばいいのに、と思った。

 

 心が凍りつけば、これ以上考えなくていい。

 

 これ以上考えたら、多分、大変なことになる。

 

 何も考えるな。

 

 何も考えるな。

 

 いいから今すぐ、ドアを叩け――!!

 

「あ……アニーちゃん、そろそろ私は部屋に戻るわね」

 

 力を込めた拳が、またアテナの声に縛られた。

 

「え? まだいいじゃないですか。夕ごはんもまだでしょう?」

「うん、でも、もうアリスちゃんも戻ってくると思うから」

 

 いけない。

 

 輪が、閉じていく。

 

 アリス・キャロルというピースを欠いたまま、輪が閉じてしまう。

 

 それだけは。それだけは駄目だ。

 

 だって、あそこは私の場所。私がいていい、私が一番大切な場所。

 

 なのに、どうして。

 

 なのに、どうしてあんなにも、遠い。

 

 たった壁一枚なのに。

 

 ノック一つで打ち破れるはずなのに。

 

 なのに、越えられない。

 

 なぜなら。

 

(……駄目)

 

 私のいるはずの場所に。

 

(……それは駄目)

 

 私の場所を、彼女が

 

「それだけは、駄目――――ッ!!」

 

 思考を、怒声で切り裂いた。

 

 それは、絶対に考えてはいけないこと。

 

 それを考えてしまったら、アリスは、自分を許せなくなる。

 

「アリスちゃん!?」

 

 アテナの声が、はっきりと聞こえた。

 

「アテナさん、今の……っ」

 

 アニエスの声も、はっきり聞こえる。

 

 駄目だ。

 

 彼女らに、合わせる顔がない。

 

 気が付いた時には、アリスは走りだしていた。

 

 逃げ出していた。

 

 安らぎから、遠ざかるために。

 

 罪を、否定するために。

 

 

 どこかから、にゃーう、と嫌な響きの猫の声が聞こえていた。

 

 

 

 

「アリスちゃん!」

 

 率先して飛び出したのは、もちろんアテナだった。

 

「アテナさん、『水の三大妖精』たる貴女が、そんなばたばたと……」

「おばさん、アリスちゃんは何処に!?」

 

 はしたなくも駆け出した先の廊下で、目を丸くしている寮母を見つけ、つかみ掛かるように問いかけた。いつになく慌てた様子のアテナに、寮母は丸くした目を更に白黒させる。

 

「今そこを下に走って行きましたよ。でも一体」

「ありがとう!」

 

 寮母のお小言をすっぱりと斬って捨てて、アテナは走り出した。それに続き、アニエスがぺこりと頭を下げてアテナを追いかけ、更に同業他社の制服が二つ、寮母の前を駆け抜けて行く。

 

「一体なんだというのですか、まったく最近の若いウンディーネは!」

 

 ぷんすかと頬を膨らませて憤る寮母だったが、当然のように、悠長にそれに耳を傾ける人間はいなかった。

 

 

 

 

 外にアリスが飛び出すと、世界は灰色に染まっていた。

 

 雲は厚く垂れ込み、貪欲なことに傾いた陽光の名残を残らず呑み込んで、地上にはわずかなおこぼれだけを投げかけている。

 

 視界を埋め尽くす、色を失った街。今の私みたいだ、と、アリスの冷静な部分が呟いた。太陽に照らされている間は美しく輝いていても、悲しみが空を閉ざせば、途端に灰色の中に沈み込んでしまう。

 

 アリス・キャロルにとっての太陽とは、あの愛おしき先達たち。

 

 舟を漕ぐことばかりに目がいって、ウンディーネというありかたを、人と人が触れ合うことの価値を知ろうともしなかったアリスの心に触れて、新しい世界に引っ張ってくれた人々。

 

 それまでは、自分で輝いていると思っていた。否、輝いていなくてもいいと思っていた。誰に気づかれることもなく、ただ気ままな彗星のように、ゴンドラをこぎ続けていられれば、それだけで十分幸せなのだと思っていた。

 

 なのに、その狭隘な世界が砕け散った。砕け散った後に気がついた。誰かと同じ輪の中を巡る心地よさ。同じ太陽の回りを巡って、同じ光を浴びて、きらきらと輝く惑星のありかたを。

 

 だけど、その太陽系の軌道に、新しい星が加わった。遠くから飛び込んできたその星は、アリスの軌道のすぐ側で安定し、同じような軌道でぐるぐると太陽を巡り始めた。

 

 それだけならよかった。むしろ心地よかった。先達として、新たな星を導き、或いは導かれていくうちに、アリスの心は以前よりもずっとしなやかに、ずっと柔らかに振る舞えるようになったと思う。

 

 なのに、それだけでは終わらなかった。巡る星々の間には、緻密な引き合う力のバランスが成り立っている。そこに異分子が飛び込めば、当然のバランスは崩れ、星の軌道は千々に乱れてしまう。

 

 アリスの軌道のすぐ側であるからこそ、アニエスの星の重力は、アリスの星の軌道を揺らした。

 

 そして気がつけば、アニエスの星は、アリスのそれよりも一つ先の軌道へと飛び出してしまった。

 

 暖かな太陽のような人達に、より近い軌道へと。

 

 まるでそうであるのが一番自然であるかのように、楽しげにくるくると巡る、シングルの星々。その姿を、アリスは一人遠い軌道から眺めていた。眺めるしかなかった。

 

 だって、アリスはペア・ウンディーネだから。

 

 シングルの星々は、シングル同士で踊るのが一番だから。

 

”――だから、アリス・キャロルは、その輪の外にいるのが相応しい”

 

 そう、内なる声が告げる。

 

 でも、それは嫌だった。

 

 この身体を柔らかに包む暖かい光。香りそよぐ爽やかな華の香り。女神が優しくしろしめすようなあの場所。それを今更、手放すことはできない。手放すことができる程大人ではないし、手放した痛みと失った虚ろに気づかずにいられる程子供でもない。

 

 だから、苦しい。

 

 欲求と理性があまりにも相反している。

 

 だから、苦しさのあまり、子供じみた感情があふれ出すのを止められない。

 

(どうして、私はペアのままなんだろう)

(どうして、私はアニーさんのように笑えないんだろう)

(どうして、私の場所に)

 

「駄目……」

 

 思考を振り払おうと、かぶりを振る。それは考えてはいけないこと。それを考えてしまえば、アリスは大切なものを失ってしまう。

 

 なのに、その否定の言葉は、酷く弱々しいものだった。

 

”――どうして、アリス・キャロルの場所に、アニエス・デュマが”

 

「やめて……っ」

 

 内なる声が囁く。思わず耳を両手で塞ぐが、声が聞こえるのは自分の心から。どうやっても、止められはしない。

 

 それはその声が語る言葉が、真実であるから。

 

 否定しようのない、醜い感情の発露であるから。

 

”否定する必要なんてない。それはアリス・キャロルの一番正直な感情。もっと素直になればいい”

 

 甘い囁き。心が揺れ動く。まさしく悪魔の誘いのように、心の鎧を一つ一つ引き剥がしてゆく。

 

 そう、素直になればいい。

 

 どうせ誰もアリスを見ていない。

 

 大好きな人達も、もうアリスのことなんて見ていない。

 

 何故ならば、アリス・キャロルがいた場所には。

 

 アリス・キャロルより努力家で。

 

 アリス・キャロルより社交的で。

 

 アリス・キャロルよりも笑顔の似合う。

 

 

 ――アニエス・デュマが入れ替わってしまったのだから!!

 

 

「あ…………」

 

 膝が折れた。

 

 心も折れた。

 

 考えてはいけないことを、考えないようにしていたことを、ついに心が理解してしまった。

 

 それは、紛れも無い嫉妬の感情。

 

 いつの間にか先に行って、様々な活躍を見せるようになった、年上の後輩。彼女に対する、嫉妬と、恐怖と、羨望。

 

 恥ずかしい。とても耐えられない。アリス・キャロルともあろう者が、こんな感情に振り回されているなんて。

 

 だけど、消せない。拭い切れない。一度燃え上がった感情の炎は、容易に消すことなどできはしない。

 

(助けて)

 

 アリスは、心の中で悲鳴を上げた。

 

 誰かに助けてほしかった。

 

 この荒れ狂う感情を、静めてほしかった。

 

 だけど、一番大好きな人達には、合わせる顔がない。

 

 こんな醜い感情を吐露して、あの笑顔を曇らせたくない。

 

 だから、この感情は、胸の奥で殺しておかなければならない。

 

 

「アリスちゃんっ!!」

 

 その時、アリスの心の悲鳴に応えるように。

 

 今一番聞きたくて、今一番聞きたくない声がした。

 

 

 

 

「どうしたの、アリスちゃん」

 

 駆け寄る足音。弾む吐息。背中を撫でる、優しい気配。

 

 振り返る必要もなかった。その声、その気配、アテナ・グローリィ以外の誰のものでもない。

 

 アリス・キャロルだからわかる。その息の弾み具合。会社から方々を駆け回ってきたのだろう。少しひゅうひゅうという、喉に絡んだ音が交じっている。

 

 ああ、《天上の謳声》は喉が命だというのに。まだ季節は春、対策もなしに夜闇を駆け回るには、大気は冷たすぎる。

 

”その原因を作ったのはアリス・キャロル自身でしょうに”

 

 内なる声が、そう揶揄する。その通りだ。こんな形で飛び出さなければ、こんな子供じみた感情に振り回されていなければ、アテナはこんな所に飛び出してくる事もなかった。

 

「……こんな夜に出歩いて、喉を痛めたらどうするんですか」

 

 振り向かないまま、声だけを送り届けた。

 

「だって……」

「私のことはいいです。アテナ先輩はオレンジぷらねっとのエースなんですから、ご自分のことを一番に考えなきゃ駄目です」

 

 そう、彼女は特別だ。《水の三大妖精》であり、オレンジぷらねっとのみならず、水先案内人業界全てを底支えする偉大な《天上の謳声》。

 

 こんな、いじけたアリス・キャロルのために、時間を費やしていてはいけない。

 

 だって、アリスは未熟者だから。何の役にも立たず、会社に、アテナに負担ばかりを積み上げていく存在だから。

 

 せめて半人前、シングル・ウンディーネになれば、まだ役に立てるのに。こんな忌まわしい負い目からも解放されるのに。

 

”どうして、アリス・キャロルは――”

 

 内なる声が囁く。それは、心の奥でずっと燻っていながら、敢えて見ないようにしていた疑問。わずか火星暦で半年のうちに、ペアからプリマまで駆け上がったアリシアの逸話を耳にするたびに、ちくちくと心を突き刺していた疑問。

 

「でも、アリスちゃん。私は」

「――どうして」

 

 アテナの言葉を、問いで押し返す。

 

 それまで、心の奥底に押し込まれていた疑問が、ついに鎌首をもたげる。

 

「アテナ先輩。どうして、私はシングルになれないんですか?」

 

 そしてアリスは、アテナに背中を向けたままで、その問いを放ったのだ。

 

 



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Donna Stella 04 誘い

「アテナ先輩。どうして、私はシングルになれないんですか?」

 

(…………!!)

 

 背中を向けたままの、そんな、引きつったような声での問い。

 

 それは、誰よりもアリスが大好きなアテナにとっては、心臓の表面を硝子で引っ掻かれるような痛みをもたらした。

 

 アテナ・グローリィにとって、その問いは鬼門以外の何物でもなかった。

 

 何故、アリスはシングルになれないのか。そこには、いくつかの重大な問題が内包されている。それはオレンジぷらねっと一社のみならず、水先案内人業界全体の問題であり……その結果、アリスの昇格試験を、アテナの一存で行うことができない、そんな状況を作り出している。

 

 既に、協会はその問題にゴーサインを出している。あとはアテナが認めるかどうか、それだけ。だが、アテナはまだ迷っている。アリスに、これ以上の負担をかける事を躊躇っている。そして何よりまずいことは……アテナは、その問題について、アリスに話す事を厳重に禁じられているのだ。

 

「それは…………」

 

 言い訳めいた前置詞だけが、口からまろび出る。でも、その続きの言葉が出てこない。ミドルスクールを卒業するまでの辛抱、と言えればいいのに、それすら言うことができない。学校を卒業したからといって、アリスに即座に試験を受けさせられるかどうか、まだわからないのだから。

 

 言葉の続きが出てこない。沈黙が、まるで頭上の空のように重い。

 

 どうすればいい。アテナは懸命に言葉を探す。

 

 奇しくも、これはアニエスが『希望の丘』について問われた時と、同じ状況だ。真実を答える訳にはいかず、かといって嘘をつけば、アリスの心に更なる傷を穿つ。

 

 そもそも、アテナは嘘が苦手だ。先日記憶喪失を装おうとして、早晩うっかりアリア社長の名を呼んでしまったばかりでもある。

 

 それに何よりも、アテナはアリスに嘘をつきたくなかった。どこまでも、アリスとはありのままの自分で触れ合っていたかった。

 

 だから、アテナは言葉を紡げない。沈黙が時間だけを食い散らかしてゆく。

 

 ――いつもならば、それで良かったのだろう。

 

 アリスはアテナの意図を汲んで、少し拗ねては見せるものの、概ね穏やかに事を過ごすことができたはずだ。

 

 なのに、今日は。今夜だけは、その沈黙が重い。痛みすら伴って、アテナとアリスの二人を切り刻んでいる。

 

 にゃーーう、と、どこからか猫の鳴声が聞こえた。

 

 酷く耳障りな声。聞くだけで心がざわめく。心の弱いところ、醜いところを晒け出させられているかのような、そんな戦慄をかきたてる声。

 

 背中を向けたままのアリスの背中が、びくりと揺れた。

 

「答えられない……んですね」

 

 まるで猫に後押しされたかのように、アリスの背中が呟いた。

 

「そうですね。私、悪い子ですから。奇麗に笑えないし、声は小さいし、ひねくれ者ですし」

 

 ぼそぼそと、陰鬱な声。心が内に籠もってしまった時、アリスはよくこんな声で呟く。でも、今日のこれは、いつになく重たい。アリスの凜とした声が好きなアテナには、受け入れ難い暗さを纏っている。

 

「それに……アニーさんに嫉妬しているような悪い子は、シングルにすらなれないんです」

 

 断定するように力強く、しかし今にも泣き出しそうなくらい湿った言葉が、アテナの耳から飛び込み、心を袈裟懸けに切り裂いた。

 

「ち、違うわ、アリスちゃん、そんなことない!」

 

 必死に否定する。そんなことはない。アリスは何か、とんでもない思考のループに陥っている。自己否定の連鎖。何かと考え過ぎることが多いアリスにしても、いくらなんでもこれはおかしい。

 

「違わないんです!!」

 

 しかし、アリスは頑なに、アテナの言葉を切り捨てた。

 

「アテナ先輩も、こんな私よりアニーさんを指導してる方が楽しいに決まってます。灯里先輩も、藍華先輩も、ペアの私より、シングルのアニーさんと一緒に練習した方がいいに決まってます」

 

 次々と、自己否定を繰り返す。その言葉の一つ一つが、アテナとアリス双方の心を抉ってゆく。

 

「だから、私の事なんて放っておいてください。私は……一人でもやっていきますから!」

 

 まるで、泣きじゃくるように、そう言い捨てて。

 

 アリスが、駆け出した。

 

「待って、アリスちゃん!」

 

 アテナも、その後を追おうとするのに。

 

 その足元を、さっと黒い影が駆け抜け、たたらを踏む。

 

 思わず膝を突いてしまったその目の前に、音もなく舞い降りる、黒い猫の姿。

 

 見る者全てを魅了するような、そんな妖しい光を宿した、黄色い双眸。

 

 魅入られたかのように体が強ばる。動けない。立ち上がれない。

 

 今すぐに、アリスを追いかけなければいけないのに。

 

”あの娘は、もう心配いらないわ”

 

 内なる声が、そうアテナに囁いた。

 

”だから、あなたはもういらないの”

 

 まるで、その猫がそう喋っているかのように。

 

 黒猫の目が、すっと細められる。

 

 びくり、と身体が震えた。何か忌まわしいものに触れられたかのように、心が凍りついてゆく。

 

 そして、アテナの心は停止した。

 

 

 

 

 ――雨が、降り出した。

 

 まだ冷たい、春の雨。アリス・キャロルの髪にぱたぱたっと降り注ぎ、髪をべったりと濡らしてゆく。そして髪が抱え切れなくなった雨水は、額から眉へ、眉から目尻へと濡れた跡を刻んで行く。

 

 もっと降ればいい、と思った。

 

 もっと降り注いで、この胸で荒れ狂う、正視できない感情を洗い流してくれればいい。

 

 ――最悪な事を考えてしまった。

 

 ――最悪な事を口にしてしまった。

 

 アニエスを傷つけた。アテナを傷つけた。きっと灯里と藍華も傷つけただろう。大事なもの全てに爪を立て、だくだくと血を流させてしまった。

 

 だから、凍えてゆくこの身体は、きっと罰だ。

 

 罰だと思えば、濡れて冷えて強ばってゆく身体も、むしろ歓迎すべきもののようにすら感じられる。

 

(おかしいな)

 

 そう思った。

 

 これは、アリス・キャロルの思考ではないと思う。

 

 こんな鬱屈した感情は、どちらかと言えばアニエスが持て余していたもので、アリス・キャロルがこんなものに苛まれるなど、あまりにも……らしくない。

 

”でも、罪は罪。穢れは穢れ”

 

 なのに、そう思い至った思考も、ネガティブな思考が押し寄せてきて、悔恨の渦に飲み込まれ、見えなくなる。

 

 そうして、心ここにあらずという状態のまま、ふらふらと小道を歩いて行くうちに、ぱっと世界が見覚えのある姿を見せた。

 

「サン・マルコ広場……」

 

 ぽつりと、その名を呟いた。かつて英雄が『世界で最も美しい広場』と呼び慣わした、古都ヴェネツィアと、そしてネオ・ヴェネツィアの象徴。

 

 雨が降りしきる夜の広場に人影はなく、カフェ・フロリアンの建物も闇の中に黒く沈んで、煌々と輝くのは窓の明かりばかりだ。

 

 確か、あの部屋は、ゴンドラ協会がしばしば会合に使っている部屋だ。以前、会合の終わりを待つ灯里とに付き合って、その部屋に出席者であるアリシアがいることを確かめたことがある。

 

 そういえば、もうすぐ《海との結婚式》がやってくる。自分たちウンディーネにとって、数年に一度の大イベントだ。特大のゴンドラ『総督船』が引っ張り出されるイベントということもあり、運河の交通整理や人員誘導などのため、協会が果たすべき役割は多い。

 

 今頃、あそこでは協会の重鎮たちが、イベントをつつがなく執り行うための準備を進めていることだろう。

 

 普段であれば、うまくすれば今年の総督役が誰なのかを知る絶好のチャンス、などと考えるところなのだろうが……。

 

(でっかい、そんな気分じゃないです)

 

 かぶりを振るアリスだったが、カフェの中で誰かが窓際に立つのが見えて、さっときびすを返した。こんな姿、誰にも見られたくない。

 

 カフェ・フロリアンの明かりから逃げ出し、誰もいない雨の夜を駆け抜ける。パリア橋の方は、星間連絡船や島間フェリーの乗客達が見えたので、途中で踏みとどまり、人の見当たらない反対側へと足を向ける。

 

 そして、二頭の有翼獅子が柱上から見下ろす、サン・マルコ広場桟橋の前で、ふと足が止まった。

 

 冷たい闇の中で、以前聞いた話を思い出す。この場所にまつわる、いくつかの伝説を。

 

『サン・マルコ広場は、かつて罪人の処刑場だった』

『《噂の君》は、サン・マルコ広場から、サン・ミケーレ島まで乗せてくれと、ウンディーネを誘う』

 

 そういえば、確かかつて灯里が《噂の君》に誘われたのもここだったというし、アニエスが最初に毛皮のサイレンに出会ったのも、大体このあたりだったはずだ。

 

 そう思って見ると、照明の光が雨に散らされ、淡いオレンジに染められた広場は、闇の中にぼんやりと浮かび上がるようで、背筋をぞわりと撫で上げるような不気味さを漂わせている。

 

 逢魔ケ刻――まさしくそんな形容が相応しいその時間。なるほど、こんなサン・マルコ広場であれば、《噂の君》でも《サイレンの悪魔》でも、出てきても不思議はない。

 

(いっそ、私を連れて行ってくれれば)

 

 一瞬浮かんだ思考を、頭を振って振り払う。おかしい。アリス・キャロルはこんなことで迷ったりはしないはずなのに。

 

 なのに、弱々しい思考を振り払うことができない。

 

 何故なら、今のアリス・キャロルには、どこにも帰っていい場所がないのだから。

 

 寮には帰れない。アテナに、そしてアニエスに合わせる顔がない。

 

 友達の所にも行けない。彼女たちの側から逃げ出したのは自分だ。

 

 家にも帰れない。ゴンドラ漕ぎたさに飛び出した自分が、どんな顔をして逃げ帰れるというのだろうか。

 

 だから、アリスは、雨に打たれ続けるしかない。

 

「……どこに行けばいいんだろう」

 

 目尻がじわりと熱くなる。ここまで必死に押さえ込んでいたものが、あふれ出しそうになる。

 

 

 その時、背後から、包み込むように暖かい声が聞こえたのだ。

 

「じゃあ……一緒に来る?」

 

 

 

 

「アテナさん!?」

 

 アテナ・グローリィが意識を取り戻したのは、その肩を揺さぶる手によってだった。

 

(……あれ?)

 

 目をしばたたかせる。今まで何をやっていたのか。確か、アリスと話していたのだ。何とか連れ戻そうと言葉を探したのに、アテナの思いを伝える言葉は見つからなかった。

 

 そして、アリスが駆け出してしまって……それから。

 

 それから、どうしたのだろう?

 

 アテナ・グローリィは、何故こんなところにいるのだろう?

 

「アテナさん、しっかり!」

 

 そう叫びながら、アテナの肩を揺らすのは、アニエス・デュマ。アリスと並んで、今やアテナの大事な教え子の一人。

 

 その手が、肩を揺さぶる度に、ぐしゃぐしゃと濡れた音が聞こえる。

 

 どうして、アニエスの手が濡れているのだろう? と思って、そこでアテナは、濡れているのが自分の身体の方なのだと気づいた。

 

 見上げれば、アニエスが手にした傘が、アテナの頭上でぱたぱたと音を立てている。

 

 ――いつの間にか、雨が降り出していた。

 

(雨に濡れているのにも気づいていなかったということ?)

 

 愕然とした。いくら自分が鈍い方だとしても、下着まで濡れるほどの間、雨に降られ続けて気づかないなんて。

 

 身体が濡れている事に気づいた途端、寒気が襲ってきた。季節は春とは言え、夜の雨は冷たい。くしょっと小さくくしゃみをするアテナを、アニエスが心配げに見上げる。

 

「アテナさん、アリスちゃんは見つけたんですか?」

 

 ポシェットからハンカチを取り出してアテナに手渡しながら、アニエスが尋ねた。

 

「ええ……さっきまで、そこにいたのだけれど」

 

 連れ戻そうと話をしたのだけれど、そのまま走り去ってしまったのだと、アニエスに説明する。

 

 ……その時アリスが漏らした痛切な叫びについては、言葉にすることを躊躇ってしまったのだが。

 

 歯抜けの説明ではあったが、アニエスはアテナの言葉にひとつ頷くと、

 

「わかりました。じゃあ、後は私が探します。アテナさんは先に戻っていてください」

 

 と言いながら、手にした傘をアテナに押し付け、ポシェットから折り畳みの傘を引っ張り出し始めた。

 

 準備の良いことだ、と心の片隅で感心しつつ、しかしアテナも退く訳にはいかない。

 

「でも、私もアリスちゃんを……」

 

 そんな反駁を、アニエスはぴしゃりと制した。

 

「そんな格好でこれ以上外を歩き回ったら、風邪ひいちゃいますよ」

「でも……」

「いいから! ただでさえここしばらくの風邪は喉に来るんですから、早く戻ってお風呂入って待っていてください! いいですね!」

 

 アリスを彷彿とさせる勢いで、アテナを叱り飛ばすアニエス。これではどちらが年上なのかわからない。

 

 火星暦で半年も一緒に暮らすうちに、アニエスはアリスの呼吸をも吸収してしまったのだろうか。そうアテナが内心で小首を傾げる間に、アニエスはぱっと白い傘を開いて、小道を駆け出して行ってしまった。

 

「……本当に、強くなったのね」

 

 冷えきった心が少しだけ暖かくなったようで、アテナの口元に微かな笑みが浮かぶ。アンジェリカの幻影に惑わされ、泣き暮らしていたのはついこの間の事だったと思うのに。

 

 試練は人を試し、乗り越えた者を大きく育てるとは言うけれど……。

 

「……くしょっ」

 

 ほんわかと浮かび上がっていた思考が、鼻の奥から迫り上がる衝撃に吹き散らされた。身体から一気に空気が吐き出されたせいか、急に身体が冷え込んだような気がする。

 

(早く帰らないと、アニーちゃんの言う通りになってしまうわね)

 

 ぶるっと身を震わせながら、アテナはその場に背を向けた。

 

 アリスの事は、ひとまずアニエスに任せよう。このまま自分が捜し回っても、同じことを繰り返すばかりのような気がする。

 

 そう、思いながらも。

 

 アテナは寮に戻るまでに、濡れ鼠のままに心当たりを数カ所巡り、冷えきった姿を寮母にこっ酷く叱られることとなった。

 

 

 結局、その晩、アリスは帰ってはこなかった。

 



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Donna Stella 05 レールの向こう

「アリスちゃーーーーんっ!!」

 

 殴りつけるような風圧に負けないように、私、アニエス・デュマは声を大きく張り上げた。

 

 頭上にあるのはどんよりとした曇り空。眼下にあるのは石碑の森。

 

 サン・ミケーレ島の上空から、私はアリスちゃんの姿を探していた。

 

「アニーちゃん、どうなのだーっ!?」

 

 私が足場にしているエアバイクの運転席から、風追配達人であるウッディーさんが聞いて来る。それに私はかぶりを振ろうとして、ウッディーさんが前しか見ていないことを思い出し、声を張り上げた。

 

「見つかりませーん! 多分ここじゃないと思います!」

 

「そうかーっ! なら本島に戻るのだーっ!」

 

 ウッディーさんがフットレバーをキックすると、エアバイクが鈍い音を立てて加速した。

 

 最後に一回だけ、ぐるりとサン・ミケーレ島を周回する。

 

 サン・ミケーレ・イニーゾラ教会とサン・クリストフォロ教会がある、墓地の島。名前は知らないけれど、この島にしか咲かないというあの花が、今もなお島一杯に咲き誇り、花吹雪を散らしている。

 

 あの花を見る度に思い出す、ついこの間、私が《サイレンの悪魔》に連れ去られかけた、この場所。

 

 思い起こす度に、あれが現実だったのか、それとも夢だったのか、よくわからなくなる。確かに私は何度も《サイレンの悪魔》と出会っているはずなのだけど、時間が過ぎるにつれて、どんどん私の記憶が薄れていくような気がする。

 

 灯里さんは結構細かい所まで覚えているけど、アリスちゃんやアテナさんなどは、「そういうことがあった」程度にしか覚えていない。不思議なことというのは、覚えようとしっかり心に留めておかないと、すぐに消えてしまうものなのかも知れない。

 

 ――いけない、そんなことを考えている場合じゃない。私は、頭を叩いて思考を正――そうとして、風に吹き飛ばされそうになり、慌てて手摺りにしがみついた。

 

 

 

 

 昨夜、アリスちゃんがいなくなって、アテナさんと別れた後、私はずっと町中を捜し回っていた。

 

 その最後に立ち寄ったサン・マルコ広場で、私は一匹の黒猫が、不貞腐れたように何かを引っ掻いているのを見かけた。

 

 そのどこかで見たような気がする猫が弄んでいたのは、丸くてもこもこなキャラクター『ムッくん』のストラップだった。私の記憶が正しければ、アリスちゃんがポシェットに付けていたものと同じだ。

 

 もしかしたら、アリスちゃんは誰かに攫われたのかもしれない。

 

 そう思うと、いてもたってもいられなかった。幸い雨はすぐに止んだので、私は舟も引っ張り出して、ネオ・ヴェネツィア中を駆けずり回った。

 

 それでも成果がなく、一旦会社に戻って休んだのが、大体夜半過ぎ。疲れ果てていた私はそのまま眠ってしまって、目覚めたのは大体夜が明ける直前くらいだった。

 

 そして、アリスちゃん達二人の部屋を伺って、アリスちゃんがまだ戻っていない事を確認した私は、再度アリスちゃんを探して飛び出した。

 

 その途中、今日はお休みだそうで、朝から空を泳ぎ回っていたウッディーさんを見つけ、協力を仰いだのがついさっきのこと。

 

 かくして、現在に至る。

 

 

 マンホームではエアバイクが飛べる所は限られているし、家族の誰も免許を持っていないので、エアバイクに乗るのは初めてだった。ウッディーさんの運転は少々(?)荒っぽく、危うく振り落とされそうになることも数回だったけど、風を切って高い所を飛び回るのはすばらしく気持ちがいいことで、風追配達人も悪くないな、なんてことまで一瞬考えてしまった。

 

 これで、アリスちゃんを探すという目的がなければ、自由な空のドライブを満喫できる所なのだろうけど、そういうわけにもいかない。

 

 最初にサン・ミケーレ島に向かったのは、アリスちゃんがもしかしたら《サイレンの悪魔》に連れられてしまったのかもしれない、と思ったからだった。

 

 最近のアリスちゃんは、明らかにおかしかった。少なくとも、私をあんな風に避けるなんて、彼女らしくない。何か感情の動きを、悪い方に悪い方にとコントロールされているような、そんな感じがした。

 

 今から考えると、私が《サイレンの悪魔》に攫われた時もそうだった。あの悪魔は、重要な所で私の前に様々な形で現れては、弱った私の心に小さく刺を残して行った。痛みを更に深く、辛くするために。そして私がとんでもないミスをして落ち込んだ瞬間に、私をサン・ミケーレ島まで運んできてしまったんだ。

 

「だけど、サン・ミケーレ島にはいなかったよね……」

 

 夜にならないといないのかも知れない、とか、教会の中にいるのかも知れない、とも思ったのだけど。

 

 夜にならないといけないなら今はここにいてもしょうがないし、教会の中は早朝と言っても人がいない訳がないから、《サイレンの悪魔》が人を匿うには不向きだと思う。

 

 そもそも、私がどういう風に攫われて、どういう風に助け出されたのか、私は詳しいことをほとんど聞いていない。灯里さんは説明に要領を得ない所があるし、他の人はみんな、あの時の記憶が急激に薄れてしまっているらしいし。

 

「もっとしっかり聞いておけばよかったなあ……」

「どうかしたのかーー!? アニーちゃーん!」

 

 私の呟きが聞こえたのか、ウッディーさんが半身をこっちに向けて聞いてくる。途端にエアバイクがぐらっと揺れて、私の世界が40度くらい傾いた。

 

「うわわ……っ、い、いいえー! なんでもありませーん!」

 

 風の流れが変わったせいか、ばたばたとスカートがはためく。でも、それを気にするよりも、手にした地図と、何より自分の命が一番大事だ。振り落とされないように、必死に手摺りにしがみつく。思い切り握ったせいで左手がずきっと痛むけど、構っている場合じゃない。

 

 その時、私を呼ぶ、よく知った声がした。

 

「あーー! アニーちゃーーーん!!」

 

 恐る恐る見下ろすと、洋上に小さな木の葉のような舟。その上で櫂を片手に、こっちを見上げてぽかんと口を開けている姿が見えた。

 

 あの青いラインの制服と、特徴的な長く伸ばしたサイドの髪は、見まごうはずもない。ARIAカンパニーの水無灯里さんだ。

 

「おお、灯里ちゃん、おはようなのだー!」

 

 もちろん、共通のお友達なウッディーさんも、いつもの元気な顔で手を振っている。アンジェさん曰く、灯里さんの事を知らないネオ・ヴェネツィア人はいないというし、ウッディーさんも当然その例に漏れない。

 

「灯里さーーん! アリスちゃんは見つかりましたかーー!?」

 

 声を張り上げて尋ねる。灯里さんも、昨夜からずっとアリスちゃんを捜し続けている。もちろん藍華さんも昨夜から駆けずり回ってくれているし、杏さんを始めとした私とアリスちゃんの友達も、手の空いている人の多くが、この朝からアリスちゃん探しに協力してくれている。

 

「ううん、まだーー! でも、あのね、アニーちゃん、あのね」

 

 そう、困ったように灯里さんが声を張り上げ返す。なるほど、ここは本島からサン・ミケーレ島を目指してガイドビーコンが立ち並ぶ、ヴァポレット航路の上。それを本島の方から舟を漕ぐということは、灯里さんもアリスちゃんを探してサン・ミケーレ島に向かおうとしていたところなのだろう。

 

 よし。私も頑張るぞ。アリスちゃんが家出する発端を作ったのは、多分私だ。だから、私がまずアリスちゃんに謝って、それから手を引っ張って来なければならない。

 

「まだですかー、じゃあ私、もうちょっと空から探してみますー!」

「うん、でもその、あのね」

「よっし、じゃあウッディーさん、このまま岸伝いにお願いします」

「了解なのだー! 灯里ちゃん、またななのだー!」

「サン・ミケーレ島はアリスちゃんいませんでしたから、私はこれから海岸端を巡ってみますからー!」

「待ってーーー! アニーちゃん、しましまーーー!!」

 

 手を振って何か声を張り上げている灯里さんだったけど、今振り向くと、下手をするとまたバランスを崩してしまうかも知れない。

 

 ウッディーさんがスロットルを引き絞ると、エアバイクがきゅるるるとうなり声を上げて、大きく高度を跳ね上げた。間もなく灯里さんの姿も小さくなってわからなくなってしまう。

 

「アニーちゃん、しましまとはなんのことなのだー?」

「さあ……?」

 

 思い出したようなウッディーさんの問いに、首を傾げる私。

 

 その間にもエアバイクは更に加速して、私の制服がばたばたと音をたててはためいた。

 

 

 ――私が、灯里さんの叫びの意味を理解したのは、わりと後になっての事だった。

 

 最悪ですけど、アリスちゃんを探すために必要な事だったのだと、自分をごまかす事にします。

 

 

 

 

 しましまの謎に気づかないままの私とウッディーさんは、そのままネオ・ヴェネツィア本島の周囲を反時計回りに巡った。

 

 もちろん、海岸端にアリスちゃんがいないか、目を凝らすことは忘れない。それらしい人影を見つける度に、ウッディーさんに頼んで、エアバイクを降下させてもらう。

 

 しかし、そうやって近づいてみると、そこにいたのは背格好が似ているだけだったり、同じ学校の制服を着ているというだけだったり。

 

 肝心のアリスちゃんの姿は、尻尾の一つも掴む事ができないままだ。

 

「アニーちゃん、そろそろ降りてバッテリーを換えないといけないのだー!」

 

 アリスちゃんを捜して下を眺めていた私に、ウッディーさんがそう警告する。空を自在に泳ぎ回るエアバイクといっても、無限に飛び続けられる訳ではない。

 

「わかりました、じゃあ駅のあたりでどこかに降りましょう」

「わかったのだー!」

 

 私が駅を提案したのは、この場所からサンタ・ルチア駅から伸びる鉄道橋リベルタ橋が見えていたということもあるし、それだけでもない。

 

 もしかしたらアリスちゃんが駅にいるかも知れないし、駅の構内はエアバイクでの飛行が禁止されているから、徒歩で調べないといけない。エアバイクのバッテリーを交換するだけの広場もあるし、何か足りないものがあってもエアバイク屋さんもあったはずだからだ。

 

 ウッディーさんは私の提案を受けて、ゆっくりと高度を下げ始めた。どうやら、鉄道橋の下を潜るつもりみたい。

 

「どうして鉄道橋の上から行かないんですか?」

「もうすぐ列車が来るのだ-。走ってる列車の上を泳ぐと危ないのだー!」

 

 なんでも、エアバイクの重力制御装置と列車の制御装置が干渉して、エアバイクのバランスがおかしくなることが昔あったそうで、その頃からの慣習なんだそうだ。

 

 気にしない人は全然気にしないけれど、気にする人は今でも念入りにコースを選んで泳いでいる、というのがウッディーさん曰くのところ。

 

 マンホームでは当たり前のようにエアカーと列車が何重にも交差していたと思ったので、そう気にする程の事でもなさそうなのだけど……まあそこは本職の人の言う事を尊重するべきだろう。万一落ちたらたまらないし。

 

 それに、ウッディーさんのそんな繊細さのお陰で、私は『それ』を見つける事ができたのだから。

 

 ゆっくりと降下するエアバイク。目の前に近づくリベルタ橋。その上を、列車がとかたん、とかたんと音を立てて横切って行く。

 

 そして、ちょうどエアバイクと、列車の窓が水平に並んだ瞬間。

 

 どんな奇跡だろう。

 

 どんな偶然だろう。

 

 列車の方をふと見やった私の視界に。

 

 俯いたままのアリスちゃんの姿が飛び込んで来たのだ!

 

「――――ッ!!」

 

 その姿が見えたのは、ほんの一瞬。でも、この私がアリスちゃんを見まちがう筈がない。いや、さっきまでは遠目だったからであって、今は真横から顔が見えたんだから、間違いということはない。絶対にない!

 

「ウッディーさん、列車追いかけて!」

「ど、どうしたのだー!?」

「見つけたんです、アリスちゃん、列車の中!」

「よしきたなのだー!」

 

 ウッディーさんがフットレバーを蹴りつけると、ぎぃぃぃんとバイクのエンジンが吠え猛り、一呼吸遅れてがくん、と身体が後ろに引っ張られた。

 

 一瞬自分の後頭部が見えたような錯覚を覚えつつ、私は必死に手摺りにしがみつく。ベルトで固定しているといっても、思いっきり加速したバイクの慣性を真っ向から受けたら、どうなるかわかったものじゃない。

 

 視界の端で、レールが流れてゆく。駆け抜けた列車の背中を追いかけて、エアバイクが疾走する。列車も加速するから、距離はなかなか縮まらない。少しずつ、少しずつ、列車のお尻が近づいてくる。

 

 もう少し、もう少しだ。もう少しで、アリスちゃんに手が届く。

 

 なのに。

 

 その時、エアバイクの前の方から、鋭い警告音が聞こえてきた。

 

「アニーちゃんまずいのだー! バッテリー切れなのだー!」

「ええ~~っ!?」

 

 ウッディーさんの声にタイミングを合わせたように、列車のお尻がどんどん遠ざかってゆく。

 

 アリスちゃんを乗せた列車が、遠ざかってゆく。

 

「アリスちゃん……」

 

 それを、鉄道陸橋の上に不時着した私達は、成す術もなく見送ることしかできなかったんだ。

 

 

 

 

「あ、アニー、アレサ管理部長が探していたわよ」

 

 アリスちゃんを見失い、ウッディーさんと別れて会社に戻った私を、会社の先輩のそんな言葉が出迎えた。

 

「アレサさんが……?」

 

 アレサ・カニンガム管理部長は、オレンジぷらねっとのウンディーネを総括する役割を担っている人だ。

 

 なんでも、若いころはあのグランドマザーに続くべく、勤続最年長ウンディーネを目指して苛烈なスケジュールをこなしていたという。

 

 体力的な問題で勤続年数はグランドマザーには及ばなかったものの、精神面でのタフネスは、今でもまったく損なわれていない……らしい。

 

 私としては、アテナさんの指導をしていた大先輩ということで、尊敬すると同時に、ちょっと苦手意識のある人でもある。

 

 私がオレンジぷらねっとに入社してから火星暦で半年が過ぎたけれど、アレサさんと話したのは、入社直後の会社説明とか、そのあたりのオリエンテーションの時くらいのもののはず。

 

「特別に呼び出されるような事、したかな……?」

 

 考えられるのは、アリスちゃんに関係する事くらいだ。元はと言えば、私が原因でこんな事になったのだから、それについて叱られるとか、何かペナルティがあってもおかしくない。いきなり会社をクビってことはないと思うけれど。

 

”……でも、アレサ管理部長に呼び出された後、会社を出て行って戻らなかったペアの娘がいるとか……”

 

 そう考えると、色々不安になってきた。もし私がいることで、アリスちゃんが帰って来れないということであれば、将来有望な天才少女のアリスちゃんと、落ちこぼれ寸前の私では、会社がどっちを採るかは考えるまでもない。不安だけが、心にもくもくと広がってくる。

 

 でも、そうだ。そんなことより、今は偉い人に伝えないといけないことがある。アリスちゃんの行方、そのヒントを手に入れて来たのだから。

 

 電車の発車時刻は調べて来た。その時に、駅員さんから、アリスちゃんらしい制服の女の子が、上品な女性と一緒に改札を通っている事も聞き出している。

 

 その女性が何者なのかはよくわからないし、何処行きの切符を買ったのかまでは教えて貰えなかったけれど……私に聞き出せなくても、会社の方からお願いすれば、なんとかなることもあるんじゃないだろうか。

 

 そんな訳で、決意と共に管理部長室に向かった私なのだけど。

 

 

 

 

「ああ、その件ならこちらでもう手配しているわ」

 

 と、開口一番で顛末を話した私に、アレサ管理部長はこともなげに言ってのけた。

 

「手配って……」

「アリス・キャロルが何処に行ったのか、こちらでももう調べているということ。ちゃんと信頼できる人にお願いしているから、貴女は気にせず、普段どおりにしていなさい」

「でも……」

 

 アレサ管理部長がそう言うけれど、私としても納得はできない。アリスちゃんはついさっき、何処かに連れ去られてしまったのだ。折角その手がかりを掴んだというのに、それを無為にしてしまうなんて、我慢できない。

 

 そんな、なんとか反駁しようと言葉を探る私の様子を、同僚のウンディーネ達から《鋼鉄の魔女》などと揶揄されるアレサ管理部長が、渾名の通りに鋼鉄製を思わせる表情で見つめている。私の隣に同席するアテナさんも、声も出さずにおろおろするばかりだ。

 

 そして、言葉を得られないまま数分の時間が過ぎて……アレサ管理部長がどこか呆れたように、ほっと息を吐き出した。

 

「アニエス・デュマ。貴女はオレンジぷらねっとの一体何だったかしら?」

「えっ?」

 

 思わぬ問いに、思わず目を丸くしてしまう。

 

「貴女は、一体何?」

「え、ええと……オレンジぷらねっとの、シングル・ウンディーネです」

 

 再度問いかけるアレサ管理部長に、思いついた答えを訥々と答える。そう、それくらいしか思いつかない。『お荷物』とか色々憂鬱な修飾語は思いつくけれど、それは多分ここで必要な答えじゃない。

 

 そんな私の答えに、アレサ管理部長は少し頷いて、

 

「そう。貴女は警察官でもないし、探偵でもない。貴女がやるべきことは、一日も早く自分を磨いて、立派なプリマ・ウンディーネとなることよ」

 

 と、一気呵成に私を打ちのめした。

 

 確かにそうだ。私がどんなに足を棒にして駆けずり回ったとしても、どんなに聞き込んで回ったとしても、それで得られる情報はとても少ない。駅員さんを捕まえても、肝心な行き先の情報が得られなかったように、私のできることはとても限られている。

 

「貴女が見つけてきたヒントは、確かに受け取ったわ。でも、ここからは本職の仕事。貴女は貴女がやるべきことをなさい。……わかった?」

 

 アレサ管理部長はそう言って私を言い含めようとする。だけど、それじゃあ、私の気がおさまらない。だって、アリスちゃんは、私にとって一番大切な友達なんだから。

 

「でも……私のせいでアリスちゃんが行方知れずになったのに、私が何もしないのは、納得できないです」

「そこがそもそもの間違いよ。貴女のせいだなんて、誰が言ったのかしら? 内罰的なのは過ぎると害毒にしかならないわよ、アニエス・デュマ」

 

 びしり、びしりと、語調は穏やかなのに、有無を言わせない迫力がある。これが噂の《鋼鉄の魔女》の所以なのだろうか。

 

 その後も私は何とか食い下がろうと二、三反駁したのだけれど、結局鋼鉄の面皮を揺らがせることすらできないままに終わった。

 

「大丈夫、必ずうまくいくから、貴女は今はただ信じていなさい。どうしてこうするのが正しいのか、いずれかならず解る時がくるから」

「…………はい」

 

 そんな感じで、結局私はアレサ管理部長の指示に従って、午後はいつもの練習に戻る事を受け入れざるを得なくなった。

 

 俯いたまま退室する私だったけれど、もちろん内心では、どうにかしてアリスちゃんを探すべく、必死に策を練り上げていた。

 

 

 だからなのだろう。

 

 アテナさんがその時、一言も口を開こうとしなかったことに、私は結構後まで気づくことはなかったんだ。

 



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Donna Stella 06 スタンド・バイ・ミー

 トンネルを抜けると、そこは山国だった。

 

「ふわぁ…………」

 

 ぱっと明るく照らされる、窓の外の景色。昨日の曇天が嘘のように晴れ上がり、地平一杯に広がる新芽の絨毯を、鮮やかなグリーンに染め上げている。

 

 体に響いてリズムを刻む、とかたん、とかたんと規則正しい音。ゴンドラの他は、エアカーやエアバイクといった重力制御車にばかり慣れている私には、格別に新鮮なリズムだ。

 

 私こと、アニエス・デュマが今揺られているのは、古式ゆかしいレールウェイ。かつては化石燃料で動いていたものをアクアに運び、動力だけを無公害エンジンに入れ替えたものだと、乗り換え駅に説明書きがあった。わざわざエンジンの駆動音と振動を、昔ながらの音と振動になるように調整してあるあたりは、流石『昔ながら』を大切にするアクアだと思う。

 

 そういった解説に必ず目が向くようになったのも、観光案内が主体のウンディーネらしい職業病なのだろうか。少し困ったような、少し嬉しいような不思議な気分を弄びながら、車窓の外に広がる世界に目を向ける。

 

 アクアというと青い海というイメージばかりが強いのだけれど、少し陸地に踏み込むと、こういった山岳地帯が広がっている。特に、オリンポス山周辺は有名だ。海面上昇で10キロ近くが水没していながら、なおも太陽系内では最大の標高を誇り、登山家達のメッカになっていると聞いたことがある。

 

 今私の目の前に広がっているのは、ネオ・ヴェネツィアにも色濃く文化圏の痕跡を残している、日本列島をモデルにして開拓が行われた土地だ。

 

「四季折々の自然を豊かに蓄え、いつでも様々な色と香りで訪れる人々を迎え入れる、そんな暖かさが溢れる場所なのです……っと」

 

 ここまで遠いと、ウンディーネとして観光案内する機会などないとは思うのだけれど、何となく口に唱えてしまう。まったく、自分ながらすっかりウンディーネ色に染まったものだ。

 

「まぁ!」

 

 何となくクスリと微笑んでしまった私の膝の上で、まぁ社長が同意するように声を上げた。

 

 

 

 

 さて。なぜ私がこんな所にいるのか。そろそろそっちに目を向けよう。

 

 昨日、アレサ管理部長にやんわりと、しかしぴしりと行いを咎められたこの私。管理部長のおっしゃる事は理解できたけど、もちろん感情的には納得できるものではなかった。

 

 灯里さんたちに相談しようとそれぞれにも連絡を取ってみたのだけれど、灯里さん達もまた、アリシアさんや晃さんに釘を刺されていたようだった。電話口で、特に藍華さんがぶちぶちと愚痴を呟いていたのが印象に残っている。

 

 ともあれ、そんなこんなで、私は気が明後日の方向に向いたまま、昨日を練習に費やしていた。もちろん、気が抜けた上に半徹明けの頭で、まともな練習ができたはずもない。

 

 そして、その夜遅く。自己嫌悪を抱えて帰宅した私を、またもアレサ管理部長の呼び出しが出迎えた。

 

「アリスの居場所がわかったわ。アニエス、貴方が迎えに行ってちょうだい」

 

 いきなりな展開に目を丸くする私に、アレサ管理部長は目的地までの地図と交通費を手渡し、明日の朝一番に出発するようにと勧めた。私としては今すぐにでも出発したかったのだけど、この時間になっては、乗り換え駅の先の列車がないと言われては仕方がない。

 

 そして次の朝、まぁ社長を引き連れた私が、列車に揺られて数時間。乗換駅で列車を一両編成に乗り換えて、更に数時間。朝一番に出発したというのに、目的地の駅が見えてくるころには、すっかり太陽が高く昇ってしまっていた。

 

「次は~、城ヶ崎村~。城ヶ崎村~。お降りの方はお忘れ物のなさいませんよう~……」

 

 運転手兼車掌さんのアナウンスを聞き、私はひとつため息を吐き出して、ハンガーにかけていたお気に入りのコートを羽織った。

 

 ちなみに、今の出で立ちはいつものウンディーネの制服ではなく、お気に入りのワンピース。窓から差し込む光を浴びて、左胸に付けたブローチの花が、きらりきらりと光り輝いている。

 

 このワンピースは、前の誕生日にアンジェさんから貰ったもの。そしてブローチは、アリスちゃんから貰ったもの。

 

 ふと、ブローチに触れながら想う。これを貰ったのはあの《サイレンの悪魔》事件の直前くらい。

 

 あの頃はもちろん、つい最近まで、アリスちゃんとは普通にふれあえていたはずなのに、どうしてこんな事になってしまったのだろう。

 

 そしてそもそも……アリスちゃんはどうして、こんな所まで来てしまったのだろう?

 

 

 

 

 とかたん、とかたんと軽快な音を残して、シックなブラウンの列車が走り去ってゆく。

 

 それを遠くに見送って、私は周囲のぐるりを一通り見回した。

 

 このあたりは農村地帯のようで、広大な稲の畑(田んぼというんだったっけ?)が、平地に緑のタイルを敷き詰めたように広がっている。駅舎の側の柱から伸びる黒いケーブルに沿って視線を巡らせると、緑の絨毯の合間に、飛び石のように一つ、また一つと民家の姿が浮かび上がっている。

 

 遠くの山裾に見えるひときわ大きな建物は学校だろうか。畑道の途中に見える小さな小屋は、確かジゾーとかいう宗教シンボルだったか。あまりネオ・ヴェネツィアでは見かけない様式の家屋が、この地方独特の雰囲気を醸し出している、と思う。

 

 PDAにダウンロードしておいた地図を片手に、今いる場所を確認する。目的地は、田園地帯を抜けて行った先の、小さな民家らしい。

 

 地図にはアメツチ家……と書いてあるけど、この家は一体アリスちゃんとどういう関係なのか、そもそもアレサ管理部長はこんな正確な居場所をどうやって手に入れたのか、疑問は次々浮かび上がっては、解決されないままにわだかまっていく。

 

(ああもう、わからないことだらけだよ)

 

 地図を上へ斜めへと傾けながらそんな事を考えていたものだから、私はいつの間にか背後に近寄っていた人影に、気づく事ができなかったんだ。

 

「こんにちは、アニーちゃんね?」

「へっ?」

 

 予想もしない所からの声に、私は間抜けな声を漏らして振り返った。

 

 そこにあったのは、上品な装いの女性の姿だった。

 

 『綺麗な女性』という表現がとても相応しい。元は豊かな金髪だっただろうけど、年輪によって銀色を孕んで緩やかにカールする髪の下で、そうであるのが当たり前であるかのように自然な笑顔が湛えられている。若々しい魅力とは違うけれど、人としての美しさを損なわないまま歳を経てきた、そんな独特な魅力。すっかり身体は小さくなってしまっているけど、若い頃は相当な美人だったんじゃないだろうか。

 

 そんな人が、私の名前を知っている。慌ててPDAのメモを確認して、恐る恐る上目遣いで問いかけた。

 

「ええと……天地秋乃さん、でしょうか?」

「ええ。アレサちゃんから話は聞いているわよ。アリスちゃんを迎えに来たのでしょう?」

 

 そう、秋乃さんが微笑む。なるほど、彼女は概ね全部の事情を知っているみたいだ。

 

 そして彼女の所にいるということは、アリスちゃんはどうやら《サイレンの悪魔》に誘拐された訳ではなかったらしい。少し、胸のつかえが軽くなった気がする。

 

 それにしても……アレサ『ちゃん』。あの《鋼鉄のアレサ》をちゃん付け。

 

 この秋乃さん、一体何者?

 

「それじゃあ、付いていらっしゃい。アリスちゃんは今、家にいるから」

 

 内心で疑問符を弄ぶ私を余所に、秋乃さんはいつのまにかすり寄っていたまぁ社長を抱き上げると、日傘を小さく振って見せた後、畦道を先に歩き始めた。

 

「あ、は、はいっ……お世話になります!」

 

 慌ててその後を、小走りに追いかける私。程なく追いついた私を、秋乃さんはとびっきりの優しい笑顔で仰ぎ見る。

 

 その視線が驚くほど暖かくて、私は思わずどきりとして立ち止まってしまった。

 

 ――やっぱり、この人、ただ者じゃない。

 

 そう思いはするのだけれど。

 

 いつもの事と言えば、いつもの事。私は少し考えればわかりそうな事に、全然気づく事ができないのだった。

 

 

 

 

 程なくして、石垣の上に鎮座した、タイル敷きの屋根(瓦屋根と言ったっけ)の家が見えてきた。

 

 縁側があって、引き戸が沢山あって、瓦屋根の家。石垣の下には畑だろうか、多分キャベツだろう、緑色のボール草の列が挟んだ土壌に黒いビニールシートが敷き詰められ、その隙間からさっき見た稲を大きくしたような苗が頭を飛び出させている。

 

 多分こういうのを、典型的日本家屋っていうんだろうな……などとぼんやり考えていると、

 

「こっちよ、アニーちゃん」

 

 と、身体は小さくなっても足取りは淀みなく、秋乃さんが坂を上りながら呼びかけてきた。

 

「す、すみません、きょろきょろしちゃって」

「うふふ、こういうところ、珍しい?」

「ええと……はい。マンホームにいた頃は、あまりこういうところに興味がなかったですから」

 

 少し迷ったけれど、正直に答えることにした。私が生まれた地方にもこういう田園風景はあったのかも知れないけれど、現在のマンホームは合理化が進みすぎて、海は泳げない、古代の史跡はみんな資料映像ばかり。都市部は環境整備がこれでもかというくらい行き届いてるし、春夏秋冬もありもしない。食料生産も教育機関も娯楽施設ですら、極めつけに合理化が進められている。

 

 私と同じマンホーム生まれの灯里さんは、そんなマンホームに物足りなさを感じていたらしい。一方私はというと、実のところ小さい頃からずっとマンホームの中でも特に合理化の進んだ場所(つまるところ病室)に缶詰だったせいか、合理化一辺倒のマンホームの社会そのものも、目立って不満があるわけではなかった。どんな場所でも、病室よりはマシだった、というわけ。

 

 アクアに来た理由は、単に不満のない場所よりも憧れる人がいて、憧れる場所があったというだけ。今から考えると、随分贅沢なことをしたんだな、と思う。

 

「それじゃあ、今はどう?」

 

 少し遠い目になっていた私に、滑り込む秋乃さんの問いかけ。それに私は、少し小首を傾げて思案して……少しばつの悪い心持ちを返した。

 

「どっちも大好き……じゃ駄目ですか?」

 

 そんな私の答えを肯定してくれるように、秋乃さんはにっこりと、満面の笑みを見せてくれた。

 

 

 

 

 目の前には、背の高い草が青々と生い茂っていた。

 

 と言っても、無秩序にぼうぼうと緑が盛っている訳じゃない。土の盛り上がったあたりに鉄棒が立てられていて、根本から生えている蔓草が、その棒と、棒の間に張り巡らされたネットを這うようにして空を目指している。

 

 多分野菜なんだろうけど……と思いながら房の一つを眺めてみて、この畑がえんどう豆を栽培しているのだとわかった。豊かに実った莢が、蔓から鈴なりにぶら下がっている。

 

「えーーっと……」

 

 いつものウンディーネの手袋ではない、無骨に厚手の手袋を填めた手を眺める。傷ついたり落としたりしたら嫌なので、ブローチは外し、その上からエプロンをかけている。

 

「お昼を用意するから、アニーちゃんはちょっとアリスちゃんを手伝ってきて頂戴」

 

 そう言って、秋乃さんは私にこの軍手と、小さな裁ち鋏を手渡してくれた。

 

 なんでも、アリスちゃんは今、裏の畑で野菜を収穫しているのだという。お世話になっているのに何もしない訳にはいかない、と彼女が自分から引き受けた事だというのだけれど……。

 

「そうだ、アリスちゃん……」

 

 改めて、目的を思い出す。私はアリスちゃんを探しにここまで来たのだ。

 

 家の裏手の山裾に広がるこの畑は、苗の密度は凄いけれど、広さ自体はそう驚くほどじゃない。大体、オレンジぷらねっとの寮の部屋より少し狭いくらいだろうか。だから、ここでアリスちゃんが収穫を続けているなら、いくらなんでもすぐにわかると思うのだけれど……。

 

 そんな事を考えながら畑のぐるりを回った私は、足下に籠が、鋏と揃えて置いてある事に気がついた。中は緑の莢で半分くらいが満たされている。

 

 多分、アリスちゃんがここで収穫をしていて、道具をここに置いて行ったんだろう。アリスちゃんはやることを途中で投げ出す娘じゃないし、多分、近くで休憩しているだけなんじゃないだろうか。

 

「まぁ!」

 

 突然、まぁ社長が私の肩から飛び降りて、とことこと何処かに駆けだした。

 

「あ、待って、まぁ社長!」

 

 まぁ社長は、行動がいまいち予想できないところはあるものの、そうそう勝手に私たち(アリスちゃんとか、アテナさんとか)の側を離れる事はない。

 

 だとしたら、彼女の向かう先には、誰かがいる。まぁ社長が大好きな、誰かが。

 

 そう思って再び周囲を見回す私は、風の音に交じって、小さく囁くような声が流れてくる事に気が付いた。

 

「これって……」

 

 聞き覚えのある歌詞、聞き覚えのあるメロディー。それは、私があの時、お父さんとお母さんと仲違いした時、伝えたい気持ちのすべてを込めて歌った、『イル・チェーロ(Il Cielo)』。

 

 別に特別な歌という訳じゃない。私がさらっと出てくるくらい、ウンディーネの舟歌の中ではありふれていて、今では格別に歌う人も少ない、そんな普通の歌。

 

 だけど、だからこそ、その歌を口ずさむ人には、それなりの理由がある。

 

 歌は続いている。山肌に沿って、石垣の向こうに伸びる道の先。

 

 風に流されて、日に照らされて。岩陰の向こうで、風に流されたプラチナブロンドが、エメラルドのように輝いている。

 

 歌声は、その向こうから。風になびく髪が、ハープとなって奏でているかのように。

 

 

 だれが歌っているのか、どんな願いを込めているのか。

 

 それがわかるから……私はまぁ社長を抱き上げると、岩壁に身を寄せて、すぅっと息を吸い込んで。

 

 そして、歌声を重ねた。

 

 歌が、空に溶ける。

 

 重なった歌声が、優しい風に乗って、梢を揺らし、髪を流して、空に還ってゆく。

 

 そして、私は空を見上げたまま、風の音に耳を澄ませていた。

 

「…………アニーさん?」

 

 風の音に交じって、そんな呼び声が、私の耳を撫でて。

 

 私は、囁き返したんだ。

 

「……アリスちゃん、みーつけた」

 

 

 

 

「…………うわぁ……」

 

 石垣の上から眺める世界は、空と緑の二色で一杯に塗り分けられていた。

 

 空の青には雲の白が点々とちりばめられ、大地の緑はちょこちょこと下地の茶色を覗かせている。これが夏には空はもっと青く白く、大地は一面の緑に覆われるだろうし、秋には空は高く深く、大地は黄金色に輝いて、風が波になって穂先を揺らしてゆくのだろう。

 

 遠くに見える黄色は、菜の花の畑だろうか。駅からでは見えなかった遠くの世界が、ここからならば手に取るように伺える。

 

 そんな景色を眺める私の身体を、風が優しく撫でてゆく。ワンピースの裾が揺れる感触が気持ち良い。

 

 春の風。優しい風。暖かい風。空と大地と風に包まれた、ここはまるで天国のような場所。

 

「ここ、素敵だねー、アリスちゃん」

 

 文字通り舞い上がるような気分で、隣に座るアリスちゃんに笑顔を向ける私なのだけど。

 

「………………」

 

 当のアリスちゃんは、黙ったままでじっと膝を丸めて、眼下の光景を眺めていた。

 

 顔を強ばらせ、いつもより三割り増しに怖い顔。

 

(うぁ…………)

 

 内心で、私は呻いた。これでも駄目ですか、アリスちゃん。

 

 私が姿を現した時から、アリスちゃんはこの顔のままだった。堅く強ばって、私の方を真っすぐに見ず、拒絶するように膝を抱えるばかり。

 

 さっきまで、あんなに透き通った声で歌っていたのに。

 

 くすんだ心では、あんなに綺麗に歌うことはできないはずなのに。

 

 私のせいなんだろうか。

 

 私が姿を現したから、アリスちゃんは心を強ばらせてしまったのだろうか。

 

 いや、違う。だってあの歌は、思いを届ける歌。届かない想いを空に預けて、風の応えに耳を澄ます歌。

 

 あの歌のお陰で、私はお父さんとお母さんに、想いを届けることができた。それを間近で目にしていたアリスちゃんにとっても、この歌に意味がないはずがない。

 

 あの歌が私に向けたものだと考えるのは傲慢かも知れない。だけど、今はその細いよすがに頼りたいと思う。

 

『いつも通りに接してあげて』

 

 アテナさんの言葉が思い起こされる。そう、アテナさんは、いつも通りに接しろ、と言った。そうして、私は貴女を受け入れられるのだと、態度で示すべきだと言ったんだ。

 

 でも、いつも通りに話しかけてみたけれども、アリスちゃんの頑なさは解れそうにもない。

 

 では、どうするの、アニエス・デュマ? どうしたら、アリスちゃんに私の想いを届けられる?

 

 ……そもそも『いつも通り』とは何だろう。いつも通りに接するというのは……平静を装って話すことなんだろうか。

 

(それは……違うよね)

 

 だとしたら、私の『いつも通り』はどんなものだろう。私の『いつも通り』、アリスちゃんの『いつも通り』。そう、『いつも通り』と言いつつも、人の関係は環境や条件で刻々と変わってゆく。

 

 だとすればどんなものが『いつも通り』なのか……そんな事を考える事自体が、そもそも間違っている。着目すべきは、『私のいつも通り』ではなく、『私とアリスちゃんのいつも通り』なんだ。

 

 私とアリスちゃんのいつも通り。私とアリスちゃんの関係。年下の先輩、年上の後輩。同じ水先案内人で、同じ会社にいて、同じ先輩に学ぶ。お互いを同じ高さから見つめ合って、悩みを打ち明けて、励まし合って、喜びを分かち合う、先輩後輩というよりももっと近い、親友とかパートナーとか、そんな関係。

 

(ああ……そうか)

 

 ぱっと、心の霞が晴れたような気がした。そう、私は悩むことなんてなかった。

 

 確かに私はアリスちゃんの気持ちが分からない。何が彼女を傷つけてしまったのかわからない。鈍い私がどんなに頭で考えても、答えは見つかりそうもない。

 

 でも、答えはわかる必要なんてない。お互いの事なんだもの。私が一人で考えるより、もっと簡単で、確実な答えがそこにあるじゃないか。

 

 だったら、まずは心の枷を取り払おう。正しい答えを探すよりも、もっと先にやるべきことがある。

 

 拗れてしまった、綾なす心の糸を、解きほぐすために。

 

 目指すは、風に靡くエメラルドグリーンの髪の姫君。

 

「アリスちゃん……ちょっといい?」

 

 精一杯真剣な顔で、じっとアリスちゃんの横顔を見つめる。私の様子が変わった事を察したようで、アリスちゃんはきょとんとした顔を私に向ける。

 

 ひやりと、心が冷たくなる。これで拒絶されたら後がない。そうなってしまったら、私はどうしたらいいだろう。

 

 ううん、大丈夫。私は私に微笑みかける。信じるべきは、ありのままの私。私が私を信じるからこそ、私は相手を信じられるし、相手も私を信じてくれる。

 

 だから、私は心を決めた。

 

 ぱんっと両手を打ち合わせて、心持ち頭を下げて。

 

 何の装飾も気負いもなく、ただの本心だけを晒け出して。

 

「あのね……ごめんなさいっ!!」

 

 ……まあ、私が私らしくなんて言っても、できるのはこんなことくらいなのだった。

 

 

 

 

「あのね……ごめんなさいっ!」

「まぁ?」

 

 横で大の字になったまぁ社長が代弁するように声を上げていたが、最初にアリス・キャロルの意識を埋め尽くしたのは、ずるい、という言葉だった。

 

 何が、もなく、どうして、もなく、ただ感情の赴くままの謝罪。そこには細かい理屈もなにもない。

 

 こんな謝り方をされたら、何も言い返せないじゃないか。

 

 アニエスよりも、アリスの方が、何倍も何倍も悪い。少なくともアリスはそう思っている。発端は確かにせいぜい五分五分。なのに、弱った心に惑い彷徨ううちに、いつの間にかアニエスやアテナ、灯里や藍華、その他多くの人に、大変な迷惑をかけてしまった。それが、アリス・キャロルが自覚する罪である。

 

 ここに来てから、アリスの心を燻ませていた忌まわしい感情は、すっかりどこかに消えてしまっていた。それは土地を変えたせいか、それとも時間が過ぎたからなのか、偉大なる彼女がかけた魔法か何かのように。

 

 だからこそ、わかった。自分がどれほどみっともなく喚いていたのか。取るに足らない感情(と、自らを言い聞かせようとしているフシはあるものの)に振り回され、どれほどの人に迷惑をかけてしまったのか。

 

 だから、謝りたかった。謝って、そこからもう一度話をしたかった。それがアリスの仲直り大作戦のスタートラインだったのだ。強ばった仏頂面は、どう言っても謝ったものか、気持ちがまとまらないうちにアニエスが現れたことへの緊張故の事である。

 

 なのに、アニエスに先に謝られてしまった。それじゃあ、アリスはどう切り出せばいいのか。

 

 少し考えて、そんな事はどうでもいいのだと、気づいた。少し拗ねたように顔を俯かせ、口をとがらせる。

 

「アニーさん、それでっかいフライングです」

 

 そう口にしてみると、なんだか気持ちが軽くなった気がした。

 

 ふっと、息が漏れた。気が抜けたせいか、それとも吹き出してしまったのか。

 

 絶不調だった心のエンジンが、軽やかに踊り始めた気がする。

 

「でも、いいです。私も……でっかいごめんなさいです」

 

 アリスも、シンプルな謝罪を送り出した。

 

 弁解も理屈もいらない。ただ言葉と気持ちを交わして、お互いがお互いらしくあればいい。

 

 そう、アリス・キャロルはアリスらしく。

 

「……ふふ」

 

 アニエス・デュマも、アニエスらしく。

 

「……あはは」

 

 誰もが誰もらしく、笑い、怒り、喜び、泣く。そうすることで、世界は紡がれているのだから。

 

 

 

 

 高台から天地家までの道すがら、まぁ社長を抱いて歩きながら、アリスちゃんはこれまでの事情を話してくれた。

 

 そもそもの始まりであるあの晩、アリスちゃんは雨の中を彷徨っていたところ、たまたまネオ・ヴェネツィアを訪れていた秋乃さんに見つけられたのだという。

 

 酷く落ち込んで、降り出した雨に濡れそぼったアリスちゃんを、秋乃さんは自分が宿泊していたホテルに連れて帰った。(なんでも秋乃さんは、サンタ・ルチア駅前のホテルに宿泊していたらしい。オレンジぷらねっと宿舎のすぐ側だ)

 

 そして朝になって、まだ落ち込んで帰りたくないままだったアリスちゃんを、秋乃さんは自宅に連れて帰る事にした。そのためにホテルから列車に乗り、その瞬間をたまたま、私がエアバイクから目撃したという訳だ。

 

「今から考えると、グランマは出かける前にどこかに電話をかけていましたから、その時に会社に私の居場所が伝わったのだと思います」

 

 アリスちゃんがそう推測する。なるほど、アレサ管理部長がこの場所を知っていたのは、そういう理由だったのだろう。……だとすれば、早い内に会社に戻っていれば、もっと早く事情を知る事ができたのだろうか。

 

 ……いや、それは違う。私が会社に戻った直後、アレサ管理部長は『信頼できる人に任せた』とは言ったけれど『居場所がわかった』とは言わなかった。アリスちゃんの推測が正しければ、アレサ管理部長はあの段階でアリスちゃんの行方を知っていたはずだ。なのに、私が彼女からアリスちゃんの居場所を聞いたのは、その日の夜遅くになってからだった。

 

「考える時間を……くれたってことなのかな」

 

 多分、あの朝すぐにアリスちゃんの居場所を知ったならば、私は即座に飛び出してしまったことだろう。そうなったら、心の整理ができていないアリスちゃんと鉢合わせして、またとんでもないすれ違いをしてしまったかも知れない。

 

 お互い、冷却に一日を費やしたからこそ、今落ち着いて話し合う事ができている。

 

『どうしてこうするのが正しいのか、いつか必ずわかる時が来るから』

 

 アレサ管理部長の言葉が思い起こされる。アテナ先輩の師匠でもあるという《鋼鉄の魔女》。全ては彼女の掌の上だったということなのだろうか。

 

「……まあ、いいよね」

 

 少し釈然としない気分は残ったものの、私はふっと笑みを漏らした。アレサ管理部長に踊らされていたとしても、その結果こうしてまたアリスちゃんと並んで歩けるようになったのだから、それはそれでいいじゃないか。

 

 そんな事を考えながらお家の角を曲がると、これまたアレサさんに躍らされた若手二人の声が飛んで来たのだった。

 

「あーっ、帰って来た! アリスちゃーーん! アニーちゃーーーーんっ!」

「ぷいにゅーっ」

「遅かったじゃない。何やってるのよ二人とも」

 

 晴れやかな笑顔で手を振る灯里さん。その足元で同じようなポーズで手(前足)を振るアリア社長。灯里さんより少し後ろで、怒ったような態度を取りつつも、その頬を少し綻ばせている藍華さん。声の主は案の定、私服姿の先輩方だった。

 

 どうして、彼女たちが此処にいるんだろう。いや、考えるまでもない。アリスちゃんが心配なのは、彼女たちも私と変わるところはない。どうにかしてアリスちゃんの居場所を知った彼女たちが、ここにたどり着いたとしても何の不思議もない。

 

 そう考えると、全ての謎に絡み付いた糸が、するすると解けて行くのがわかった。

 

 そう。私達は完全に、アレサ管理部長と秋乃さんに、『してやられちゃった』んだな、と。

 



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Donna Stella 07 偉大なる大妖精

 お昼ごはんは、春の山菜のおうどんだった。

 

 筍、わらび、ぜんまいといった春野菜が、おろした大根と一緒に、あっさり味のダシに浮かんでいる。主役の麺もしっかりと太くてコシがあり、歯を立てるともちもちとした食感を楽しめた。

 

「これ、おいしい!」

「こういう麺類もたまにはいいわね」

「ぷーいにゅっ!」

 

 と、三者三様という感じで好評の快哉を上げた後、食卓を囲んだ私たちは、どうして灯里さん達が此処に来たのかを聞いていた。

 

 今朝方に、灯里さんと藍華さんもまた、アリシアさんや晃さんを経由して、アリスちゃんの行方を聞いたのだという。

 

 それで急いで私に連絡を取ろうとしたものの、その時既に遅し、私は城ヶ崎村に向かった後だった。それがわかった灯里さん達は、すぐさま準備を整えて私の後を追ったのだという。

 

 ……私がアレサ管理部長からアリスちゃんの行方を聞いたのは、前の晩遅くだった。もう列車がない、でも明日の準備をするには十分な時間だ。

 

 一方で、灯里さん達がアリシアさん達から話を聞いたのは、朝早く。朝一番からお二人に居場所の連絡があるとも考えにくいから、アリシアさん達も、前の晩から事情を知っていて、敢えて黙っていた可能性が高い。示し合わせたように朝一番に話をしたのも、恐らく本当に示し合わせていたからと考えるのが妥当だと思う。

 

 つまり、この絶妙なタイミングのずれは、やはりアレサ管理部長や、アリシアさん達偉大なる妖精達の仕込みだったという訳だ。

 

 

 

 

 そしてお昼が終わった後。私たちはアリスちゃんが引き受けた仕事……つまり畑の収穫や手入れを引き続き行う事になった。

 

「じゃあ、アリスちゃんとアニーちゃんは上の畑でえんどう豆を採ってきてね。灯里ちゃんと藍華ちゃんは、下で雑草抜きを手伝って頂戴。どの草を抜いて良いかは最初は難しいから、私が一緒にやりましょうね」

「わーひ、グランマと一緒だー」

「後輩ちゃん、大好きなグランマ取っちゃって悪いわねー♪」

「でっかいお世話です。それより藍華先輩、間違えて苗引っこ抜いたら駄目ですよ」

「むーっ! 生意気禁止!」

 

 そんな感じのいつものやりとり。アリア社長を抱いた秋乃さんに引き連れられて坂を下って行く先輩方を見送って、アリスちゃんは私の方に振り返った。

 

「じゃあ、行きましょう、アニーさん」

「うん、アリスちゃん……あれ、まぁ社長は?」

「まぁ社長なら、さっきからずっとここです」

 

 と言ってくるりと振り向くアリスちゃん。見れば、その背中にまぁ社長がびしっと張り付いている。

 

 なるほど。アリスちゃんがいなくなってしまって、まぁ社長は随分寂しい思いをしていたのだろう。普段は飄々としているけれど、やっぱり子猫だということなのだろうか。

 

「ふふ、社長、わたくしめの背中ではお気に召されませんか」

 

 ちょっぴりの嫉妬をスパイスに、アリスちゃんの背中に張り付いたままのまぁ社長の頭を、指先でうりうりとつつく。それでも微動だにしないあたり、まぁ社長は本当にアリスちゃんが恋しかったのだろう。それが大体わかっていたからこそ、私もここにまぁ社長を連れて来た訳なのだけれど。

 

「まぁ社長はアニーさんの事も大好きだと思いますよ」

 

 と、フォローしてくれるアリスちゃんだけど、悲しきかな、世の中には序列というものがあるのです。ましてや、まだ「まぁくん」ですらなかった彼女を最初に抱きとめたアリスちゃんと、彼女を優しく見守っていたアテナさんより上に行こうなんて、いろんな意味でおこがましい。

 

「あ、そういえば……」

 

 それで思い出した。心の隅っこで気になっていたことを。

 

 というのは、ARIAカンパニーのアリア社長が、秋乃さんに飛びつくように抱きついていたこと。

 

 アリア社長は人懐っこい猫だけれど、灯里さんとアリシアさん以外に飛びつく姿を見るのは初めてだ。よっぽど大好きな相手でないとあれをやらないとすれば、秋乃さんはARIAカンパニーの関係者なのだろうか。

 

 いや、それにしてはちょっとおかしい。アリスちゃんを連れて帰ったことなどから、最初はアリスちゃんの親戚さんかと思っていたけど、それにしては灯里さんも藍華さんですら秋乃さんを『グランマ』と呼んでいた。アリスちゃんの親戚だとしたら、皆からも『グランマ』と呼ばれるのはちょと不自然。

 

「どうかしましたか? アニーさん」

「あ、うん。秋乃さんってアリスちゃんとどういう関係なの? アレサ管理部長にも顔が利くみたいだし、ただものじゃないって感じだけど」

 

 折角水を向けられたのだから、一応確かめておこう。そう思って聞いてみたのだけれど、アリスちゃんはびっくりしたように目を見開いた。

 

「え? アニーさん、知らずにここに来たんですか?」

 

 ……えっと、何ですか、その物知らずを見るような目は。

 

「天地秋乃さんといえば、《伝説の大妖精》グランドマザーじゃないですか」

 

 ………………え。

 

 言われて見れば、秋乃さんの顔には見覚えがあった。確かアンジェさんの記事が掲載されていた月刊ウンディーネにも、当時いまだ現役のトッププリマであったグランドマザーの顔があったはずだ。

 

 改めて、記憶の中のグランドマザーと秋乃さんを比べてみる。

 

 ……なるほど。背丈は随分縮んでしまっているけど、面差しはそっくりだ。

 

「あ、ああ~~~~っ!」

 

 余りのことに頭を抱えた。私はウンディーネ全ての母とすら言える人を相手に、なんと失礼な態度を取っていたことか!

 

「相変わらず、アテナ先輩ばりのでっかいボケボケですね」

 

 唖然から苦悶へとシフトする私の顔を、そうアリスちゃんがじとりと見上げるけど、実際どうにも面目ない話だった。

 

 ……天然ボケって、感染るのかなあ?

 

 

 

 

「助かったわ。ちょっと調子に乗って育て過ぎちゃったみたいね」

 

 山のような収穫物を前に、秋乃さん……つまりはグランドマザーがほくほく顔で笑った。

 

「つっかれたー!」

「お腹すいたねー」

「ぷいにゅいぷぅ~~~い」

 

 こういう時にたいてい最初に声を上げる藍華さんに続いて、灯里さんとアリア社長が同じようなポーズでお腹を押さえる。

 

 まあ、私アニエス・デュマもまたその例に漏れず、空っ腹を持て余しているところなのだけど。

 

 何しろもう日も傾き、世界は焼き付けたようなオレンジ色に染め上げられているのだから。

 

「御風呂の準備をしておいたから、順に入っておいでなさい。皆上がったら夕御飯にしましょうね」

 

 グランドマザーはそう言って台所にぱたぱたと入って行ったのだけど、残された私達は、誰からともなく顔を見合わせた。流石に遊びに来ている(訳ではなかったのだけど、結果的にそうなっている)身の上で、グランドマザーに料理まで任せてしまうのは気が引ける。

 

「……先輩方、ここはグランマを手伝うべきだと思うのですが」

 

 アリスちゃんの提案は、私の考えを先取りするものだった。

 

「んー、そうねえ……じゃあ私と灯里で手伝って来るわ」

「え、でも……」

「ここは日頃から自炊してる者にお任せよ」

「うん、アリスちゃんとアニーちゃんは、先にお風呂を貰っておいで」

 

 灯里さんにも口を揃えられては、私達にこれ以上反駁する余地があるはずもない。お風呂は一緒に入れるのは二人がいいところということでもあり、配膳や片付けは後輩組が担当すると決めて、私達はお風呂を戴くことにした。

 

 

 

 

「うっわぁーーーー」

 

 お風呂の戸を開けると、むっとする熱気に乗って、濃厚な木の香りがあふれ出した。

 

 この香りの源は、湯船にあった。厚手の堅い木材をつなぎ合わせて作られた湯船は、蓋を開けると更にその香りを強く吹き上げる。

 

「もしかして、これが桧のお風呂?」

「多分、そうだと思います」

 

 私の推測に、アリスちゃんが曖昧ながら是を返す。なるほど。流石は和風家屋、マンホームでは想像もできないようなものが幾つもあふれている。

 

 本物の木材、特に桧みたいな高級な素材を使った浴槽なんて、マンホームでは超がつきそうな贅沢品だ。ましてや、木材燃料……薪で沸かすお風呂なんて論外なくらい。

 

「~~~~~~♪」

 

 ほかほかと湯気を立ちのぼらせる水面。いかにも暖かそうなそれに、鼻歌交じりの私は、早速洗面器を突っ込もうとして……。

 

「あ、いけません、アニーさん!」

 

 アリスちゃんの、はっと迸らせた警告は、残念ながら一歩間に合わなかった。

 

「え? ……て、あ、熱ーーーっ!?」

 

 水面に差し込んだ左手に、かっと灼熱するような痛み。とんでもない熱湯に手を突っ込んでしまったと気づいたのは数秒後で、その時にはアリスちゃんが、蛇口から流す冷水で、尻餅を突いた私の左手を冷やしてくれていた。

 

「大丈夫ですか? もう少し冷やしておきましょう」

「うう……なんでこんなにお湯が熱いんだろ」

「薪のお風呂は、熱いお湯が上に溜まりやすいんです。下からお湯を吸い込んで、上から過熱したお湯を戻していますから。だからしっかりかき回した後でないと、不用意に触れられないんです」

「そ、そうなんだ……」

 

 なるほど、マンホームの家では、お風呂はいつでも水温が調整されていたし、オレンジぷらねっと寮の大浴場も、サイズがサイズだけに、いつも大体一定くらいに調節されていた。私の人生で、こういう風なお風呂に出会う機会はこれまでなかった訳なのだけど……。

 

「まったく、アニーさんはほとほとドジッ娘ですね」

「……うう……面目ないです」

 

 グランドマザーの件といい、どうにもこうにも、私はアリスちゃんに頭が上がらないのだった。

 

 

 

 

「……んっ、ふ~~~~~~」

 

 湯もみで湯船の中をかき回し、どうにか水温を丁度よい塩梅に調節してしばし。肩まで湯に浸し、小さく息を吐き出すアリス・キャロルの隣で、アニエスがぐぐっと腕を延ばし、気持ち良さげに伸びをした。

 

 どこまでも自然体。彼女を長く蝕んでいた陰はすっかりその姿を潜め、内罰的な性質は努力家として、没頭しがちな性格は揺るぎない信念として、よりプラスな方向に作用しているように見受けられる。

 

 今のアニエスならば、灯里や藍華と並んでも、さほど遜色はあるまい。同僚ということで過大評価があるかも知れないが、それだけ今のアニエスは、アリスの目に魅力的に映っていた。

 

 そこには、アニエスがアリスより先にシングル・ウンディーネに昇格したが故の、半ば強迫観念的な贔屓目も含まれているのだが……ともあれ。

 

「ん……どうかしたの?」

「あ、いえ、大した事ではありませんから」

 

 視線に気づいたアニエスが小首を傾げて訝しむのを、丁度器用にもぷかぷかと仰向けに浮かんだまま流れて来たまあ社長を抱き上げてごまかす。そう、全くもって大したことではない。

 

(大したことではないのに、私は、どうしてあんなにも拘っていたんだろう)

 

 アリスとアニエスの歯車のずれ。その発端は、実につまらないことだった。今ならば、それが本当につまらないことだったとわかる。

 

 アリスの不満の原因は、実のところ極めてシンプル。アニエスに『敬語を使われた』事にあったのだ。

 

 アニエスは基本的にとても礼儀正しい。三大妖精の先輩達相手は当然として、灯里や藍華といったシングルに対しても、年が近いながらも、目上の人間ということで敬語を使って接している。

 

 アリスだけなのだ。アニエスが、砕けた口調で語りかけてくるのは。それは同じペア・ウンディーネであるからということもあったろうし、出会った時に「さん」ではなく「ちゃん」と呼ぶように願った事にも起因しているかも知れない。

 

 だが、原因はともあれ。天才少女として名を知られるアリスにとって『気さくに接してくれる』友人は、少なくならざるを得ない。そんな数少ない友人の中でも、もっとも近い立場でお互いをフォローし合える相棒、アニエス。そんな彼女に『敬意』を表された事に、アリスは『隔意』を感じてしまったのだ。

 

(そんなこと気にしなくても、アニーさんはアニーさんでしかないのに)

 

 今ならば、そう言い切れる。まったく、度し難いのは数日前の自分の不甲斐なさだ。

 

「……ん、えっと……だ、大丈夫だよ、アリスちゃん。そんなに熱くなかったし。痛かったのはケガのせいで……」

 

 アリスの視線を、手のことを心配されたと思ったのだろう。アニエスがそう言って左手を振って見せる。そのちょっと赤く火照った手のひらには、手の腹あたりの擦り傷や指先の切り傷など、小さな怪我が幾つも散っている。

 

(そういえば、このところずっと絆創膏が消えていないような)

 

 思い起こしてみる。一週間近くアニエスと一緒に練習していないが、最後の合同練習でも、後輩指導の時も、ずっとアニエスの手には傷があった。

 

「そういえば、そのケガは……?」

 

 折角なので、理由を聞いてみることにした。

 

「ああ、これ? ……うん。ほら、私ってそそっかしいでしょ? ついつい壁とかに手を突いて、ちょくちょく怪我しちゃうんだ」

「でも……以前はそんなに怪我をすることもなかったのに」

 

 そう言って、アリスは気づいた。そう、アニエスが怪我をする理由は明らかだ。そそっかしさは変わらないのに、今になって怪我をする理由。それは、彼女の手から手袋がひとつ消えたから。

 

 そもそも、ウンディーネの手袋が昇格とともに外されるのには理由がある。漕ぎ手の熟練に応じて、手にできるマメや傷が減って行くからだ。最初は両手を守り、次は利き手だけを守る。それが、漕ぎ手の上達のバロメータでもある。

 

 アニエスが手を怪我しているということ。それは、ペア・ウンディーネではない、シングル・ウンディーネへと成長を遂げた事による、環境の変化に戸惑っていたということ。それまで保護してくれていたものを取り去り、成長する事を強いられているということ。

 

 以前、晃が姫屋のウンディーネから陰口を言われていた時、ぽつりと誰かが零した言葉を思い出す。

 

『手袋が守ってくれていたのは、中の手だけじゃなかったんだ』

 

 守られる立場から、守る立場へ。自分のあり方を見失って、戸惑って、悩んで、迷って。

 

 手袋が守っていたのが中の手だけじゃなかったように、アニエスが傷ついていたのは、裸の左手だけではない。

 

 そんな戸惑いの中で、どういう訳か階級を追い越してしまったアリスに、アニエスがどう接して良いのかわからなくなったのも、無理もないこと。

 

(……なのに、私は自分のことばっかり)

 

 ふっと、軽いため息が口から漏れた。

 

「本当に、でっかいお子ちゃまです」

「……え?」

「なんでもありません。さ、早く上がりましょう。あまりゆっくりしているとのぼせちゃいます」

 

 アリスの呟きに、怪訝な顔を見せるアニー。それをにっこりと笑顔でいなして、アリスはさばっと湯船から身を立ち上がらせた。

 

 

 自分が子供であるということ。

 

 それを自ら認めることが、大人へと成長するための重要な一歩。

 

 そういう意味で、アリス・キャロルは確かに、大人に至るための大きなステップを踏み出していたのだが。

 

 もちろん、当人にそんな自覚がある筈もなかった。

 

 

 

 

「……っふー、終わったー」

「ご苦労様です、アニーさん」

「いえいえ、アリスちゃんこそお疲れ様」

 

 エプロンを外し、まくり上げた袖を戻しながら、私たち……つまり私アニエス・デュマとアリスちゃんは、洗い物でふやけた手を見せ合うようにして笑い合った。

 

 エプロンには、細々と飛び散った洗剤の泡が残っている。もっとうまくやれれば、エプロンを汚さずに洗い物をすることもできたのだろうけど、そこはまあ、私たち二人はまだまだ未熟者だ、ということで。

 

 夕ご飯の食卓には、グランマ特製の豆ご飯と、春野菜のお煮染めなどといった、土地の特産物をふんだんに使った料理が並んだ。

 

 それは普段食べている食堂の和食と比べても遜色無い、というよりも明らかに美味しかった。

 

 材料的には食堂も相当気を使っているとは思うのだけど、ネオ・ヴェネツィアはなんだかんだいってイタリア料理が主流。その日に注文があるかどうかもわからない和食の料理を、しかもすぐ出せるようにしておかなければいけないのが食堂の辛いところ。

 

 それに対して、最高のタイミングと最高の材料で作ることができる家庭料理では、まあ家庭料理に軍配が上がっても不思議じゃない。

 

 まして、それが《伝説の大妖精》の手によるものだというならなおさらだ。

 

 それに……この時の私達には、格別強力なスパイスが二つ用意されていた。

 

 一つは、とびっきりの空腹。

 

 もう一つは、この材料のいくらかを、ついさっき自分たちで収穫して来たのだという事実。

 

 これで、最高の味わいにならないはずがない。

 

 こういう和食はなにかと手がかかり、私アニエス・デュマやアリスちゃんなど、普段あまり自分で料理をしない人間では、料理の手伝いにもならないということがよくわかった。

 

 そんな訳で、配膳と後片付けを任せられた私達が居間に戻る頃には、外はすっかり薄暗くなってしまっていた。

 

「お疲れ、後輩ちゃん、アニー」

「二人ともお疲れさま。大変だったでしょう?」

 

 縁側には、浴衣姿の藍華さんと、黒猫を撫でるグランマの姿があった。灯里さんの姿は見えない。

 

「藍華先輩、灯里先輩は?」

「さあ、アリア社長がどこかに飛び出していっちゃったんで、それを追いかけて行っちゃったわよ」

「アリア社長が? 何かあったんでしょうか」

「大丈夫よ。猫って気まぐれなところがあるし。そういう意味じゃ、あんたたちの社長なんて極め付けじゃない」

 

 と言う藍華さんの視線の先にあるのは、アリスちゃんの浴衣の肩に『ぺた』と張り付いているまあ社長。確かに、まぁ社長の行動は、火星暦で半年も一緒に過ごした私ですら、掴みかねているところはあるわけで。

 

「そういえば、猫といえば……」

 

 思い出したように、藍華さんの視線が滑る。それを追って行くと、そこにいたのは笑顔で猫を撫でているグランマ。その腕の中にいるのは、透き通したかのような黒を纏った大きな猫。

 

「前はあの子、いなかったのよね。グランマの飼い猫かしら」

 

 訝しむ藍華さんの視線の先で、ごろごろと喉を撫でるグランマの手に、気持ち良さそうな、そしてどこか諦めたような顔で身を任せる黒猫。びっくりするくらい器量のいい猫なんだけど、どこか……。

 

 ……どこか、なんだろう?

 

「グランマ、そちらはグランマの子ですか?」

 

 黒猫のヒメ社長といつも一緒の藍華さんは、奇麗な黒猫となると並々ならぬ興味があるらしい。そっと首を伸ばしてグランマの膝の上を覗き込む。

 

「いいえ、この子は昨日くらいから、時々家の近くで見かけていた子よ。とっても奇麗でしょう?」

「ええ、そう思いますけど……」

 

 グランマはそう言うけど、何か引っ掛かる感じは拭えない。どこかで見た事があるような。そんなはずはない。私はほとんどネオ・ヴェネツィアの近くを出た事がないのだから、この城ヶ崎村の猫を目にする機会なんてない。

 

 なのに、どこかで出会ったことがある、そんな感覚が拭えない。

 

 じっと見つめる私の視線が居心地悪いのか、黒猫はするりとグランマの腕を抜け出して、そのまま茂みの中に潜り込んでしまった。

 

「あらあら、ふられちゃったわね」

「猫は気まぐれですものね」

 

 ちょっと残念そうに微笑むグランマと、苦笑気味の藍華さんが顔を見合わせた。

 

「すみません、グランマ。私が居心地悪くしちゃったみたいで」

「いいのよ。猫はいつでも自由な生き物ですもの。……それよりアニーちゃん」

「はい?」

 

 急に改まって名を呼ばれ、居住まいを正す私。そんな私にグランマは「そんなに堅くならないで」と笑う。

 

 ちなみにさっきの食事中、『グランドマザー』と呼んでいた私が、『グランマ』と呼ぶようにお願いされた時も、同じようなやり取りがあった。まったく、私はなかなか成長できない。

 

「ねえ、アニーちゃん。……今日は、どうだった?」

 

 深呼吸する私を優しく見つめて、グランマはそんな、とても抽象的な問いを示した。

 

「今日……ですか?」

 

 戸惑いつつも、改めて思い起こす。

 

 そう、今日はとても複雑な日だった。アリスちゃんを助けにくるつもりで列車に乗り込み、駅で乗り換えて更にしばし。降りたところでグランマに出迎えられ、裏山でアリスちゃんを見つけた。

 

 そして、グランマの家に戻って来た時には、そこには先輩たちがいた。アレサ管理部長たちの……素敵な陰謀とでも言うのだろうか。私達は大先輩たちの計らいで、こんな素敵な時間を過ごすことができたんだ。

 

 皆と一緒に畑仕事。一緒に薪の御風呂。熱くて手を少し火傷してしまったこと。美味しい山菜料理。一緒の配膳と片付け。そして、こんな穏やかで、優しい時間。

 

 アリスちゃん曰く、前にここに来たときは、グランマと一緒に丸一日遊び惚けていたらしい。そしてその時、何事をも楽しむ日々の過ごし方を教わったのだという。

 

 一方、今回は(最初にアリスちゃんが申し出たからとはいえ)日がな一日農作業。マンホームでは地肌に畑を作ることがすっかりなくなってしまったので、あちら生まれの私としては生まれて初めての野良仕事だ。

 

(お野菜作るのも大変だよね……)

 

 身体の芯に何かが詰まったような、重たい感覚。初めて櫂運びの練習をした時や、晃さんにご指導戴いた時のような、今まで使われていなかった筋肉がじんじんと熱を放っている。

 

 明日は筋肉痛、確定。突っ張った体のままゴンドラを漕ぐ事を考えるとちょっと憂鬱になるけれど。

 

 ……この身体の火照り、実のところ、そう不愉快なものではなかった。

 

 働いて、その結果手に入れるいろんな喜び。成し遂げる喜び。手に入れる喜び。育てる喜び。悲しいことや辛いことだって一杯あるだろうけど、それを糧にして、更に大きく高く伸び上がって行く。

 

 だから。それが感じられるから。私は今日という日を、一つの言葉で締めくくることができる。

 

 私は、グランマの目をじっと見る。小さい体なのに、何もかもをとても大きく包み込むような、大々々先輩。そんな彼女の優しい目に、私は素直な感情を口にした。

 

「はい……とても、とっても、楽しかったです!」

 

 そう言うと、自然に笑みが零れて、グランマもまた、輝くような微笑みを見せてくれた。

 

 グランマはもちろん、いつの間にかアリア社長を抱いて戻って来ていた灯里さん、藍華さん、そしてアリスちゃん。皆が、私を見て、どこか満足そうに笑っている。

 

 鏡に映したように、というには、まだまだ私の輝きが足りなかったけれども。

 

 太陽が月を照らし、月は大地を照らす。そして大地もまた、月を、そして太陽を照らし返している。

 

 そんな風に、私も笑い返せていればいいな。

 

 そう、私は心から願っていた。

 



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Donna Stella 08 宵闇の明星

 山奥だけに、日が落ちてしまうと、星が見えるのも早かった。

 

「わぁ…………」

 

 空一杯の星。天の川が空に大きく横たわり、きらきらと輝いている。

 

「こんな星空、初めてです!」

 

 庭先に飛び出して、くるくると回りながら空を見上げる。浴衣の袖がドレスのようにひらめいて気持ちがいい。

 

「アニーはマンホームからの船で、宇宙の星を見たことあるんじゃないの?」

 

 藍華さんがそう疑問を口にするけど、星間連絡船からの宇宙は映像加工されたものだ。亜光速航行中の星虹とか、地上からは見られないそれはそれで素敵な光景は見られるのだけど。

 

「宇宙からは、星、瞬かないもんねー」

 

 縁側に腰掛けて、私と同じくマンホーム生まれの灯里さんがフォローしてくれる。そう、どっちがいいかというのは置いておいて、宇宙からと地上からでは、見えるものが違っていて、そして。

 

「どっちも素敵なんですけどね。地上からはキラキラ宝石箱みたいな星空。宇宙からは、黒いカンバスに描かれた絵みたいな星空」

「はい恥ずかしい台詞禁止」

「えぇ~~~」

 

 というお約束のやりとり。アリア社長を抱いた灯里さんが吹き出している。アリスちゃんはクスクスと笑いを堪えているような顔。すまし顔の藍華さんも悪戯っぽく舌を出し、私も思わず顔を綻ばせる。

 

 四者四様、それぞれ違う笑顔。だけどみんな、同じ空の下で、同じ喜びを共有している。

 

「じゃあ、マンホームではどうだったのですか?」

「んー……」

 

 少し、言葉が濁った。

 

「マンホームは……街が明るいからね」

「テレビで見る絵では、凄いわよね。あの街の光」

 

 アクア生まれの藍華さん達も、写真や映像でくらいはマンホームの情景を知っている。そんな皆さんの言葉に、私は頷いた。

 

「ええ、まさしく光の洪水です。その光が大気中のチリで乱反射して、夜空が全然黒くないんですよ。その中に埋もれちゃって、星の光は全然見えません。見えるのは、月と……ほら、ちょうど今見えてるあの金星くらいです」

 

 地平線の側あたりに見えている、一際明るく輝く星を指さす。しかし、アリスちゃんははて、という顔で首を傾げた。

 

「アニーさん、それ金星じゃありませんよ」

「え?」

 

 そうは言うけれど、宵の明星と言えば金星。夜中になると姿を隠す、黄昏と暁の使者。あれより明るい星は、月くらいのものだったはずだけど。

 

 首を傾げる私に、灯里さんがクスクスと微笑む。彼女には思い当たるところがあるのだろうか。

 

 参ったなあ。本気でわからない。多分凄く当たり前の事を、私は見落としてるんだろうけど。

 

「本当に、アニーさんはでっかいボケボケです」

「ねぇ?」

 

 顔を見合わせて笑う、藍華さんとアリスちゃん。むむむ、なんか悔しい。膨れっ面になっていくのが自分でも分かる。

 

「ふふふ……藍華ちゃん、アリスちゃん。そろそろ教えてあげようよ」

 

 見るに見かねてか、灯里さんが差し出す助け舟に、藍華さんが「そうね」と乗っかった。

 

 そして少し勿体つけるように指を回して見せてから、山の向こうの宵の明星をびしっと指さしたんだ。

 

「アニー、ここがどこなのか忘れたの? あんた、あそこから来たんじゃない」

 

 

 

 

「え、ええ、あれ、マンホームなんですか!?」

 

 数秒の沈黙の後、アニエスが素っ頓狂な声を上げる。

 

 そんな様子を眺めながら、アリス・キャロルはどこか納得したように息を吐き出していた。なるほど、やはりアニエスはマンホーム生まれだ、と。

 

 あの星がマンホーム、つまり人類の故郷である地球であるのは常識的な話だ。少なくともアクアで暮らす人々にとっては、太陽とルナツー、ルナスリーの次に身近な星である。ネオ・ヴェネツィアでは盛んではないが、マンホームが一番よく見える夜に祭をする土地もあるという。

 

 マンホームは、アクアよりずっと内軌道を巡っている。金星は更にその内側。故にアクアから見ると、マンホームが丁度金星のように見えるのだ。

 

「金星は、あっちの光の弱い星ね」

 

 藍華がそう言って、マンホームから少し外れた位置の星を指さす。金星はアルベド(反射能)がマンホームの倍以上ではあるものの、距離がマンホームの倍近く離れていることもあり、マンホームから見るよりも若干暗く見える。

 

「でも、青くないですよ?」

「宇宙からのマンホームの写真、見たことがあるでしょ? 青だけじゃなく、白と灰色でいっぱい。それに、えーと、アルベドだっけ? あれが地球は低いから、水の色をそのまま映し出す訳じゃなくて……えーと」

「藍華先輩、それアルさんからの受け売りですね?」

「後輩ちゃん、ねたばらし禁止!」

 

 藍華のしたり顔をちょっとへこませたところで満足したアリスは、アニエスの方に向き直る。

 

「…………」

 

 当のアニエスは……何を考えているのだろう。ぼんやりと、天を仰いだままで、どこか青みがかった白い光を見つめている。

 

 ……その瞳の端に、星の光を映して煌めくものが見えたのは、アリスの気のせいではなかった。

 

「アニーさん……?」

「……え? 何、アリスちゃん……あれ?」

 

 恐る恐る呼びかけるアリスに、アニエスははっと現実に引き戻されたように顔を下げた。その勢いで、蓄えられていた涙の堰が崩れ、星灯りに煌めく筋を残して流れ落ちる。アニエスはそこで初めて自分の目尻の熱いものに気づいたようで、ぽろぽろと溢れる水滴を戸惑いながら指先で拭った。

 

「あれ、私……どうして……」

「ちょっと、どうしたのよ、アニー」

「はわわわ、アニーちゃん、大丈夫?」

「ぷいにゅー?」

 

 流れる涙を拭い続けるアニエス。そんな彼女の周りに心配げな顔で仲間が集まる。大丈夫。貴女にはこんなにも暖かな仲間がいる。そんな事実を確かめさせるように、ある手は背中をさすり、ある手は二の腕にそっと添えられ、ある手はハンカチを差し出し、ある手(前足?)は足首をぽてぽてと叩く。

 

「泣くはずないのに。悲しいことなんて何もないのに……どうして」

 

 どうしてなのだろう。こんなにも暖かいのに。どんな悲しみでも拭い去ってくれそうな人達と一緒なのに。

 

 それでも、涙は止まらない。

 

 それは、何故なのだろう。

 

「アニーちゃんは、マンホームも大好きなのね」

 

 その時、そんな言葉が、するりとアニエスの心に飛び込んだ。

 

「え?」

 

 涙でかすんだ目を拭うと、そこにあったのはグランドマザーの笑顔だった。その手には湯気をほわほわと巻き上げるココアが、人数分トレイに載せられている。

 

 「ぷぃにゅっ」と独特の声とともに、アリア社長がグランドマザーに飛びつく。そしてその手からトレイを受け取ると、素早く全員の手にココアを配って回り始めた。

 

 グランドマザーの配慮に感謝しつつ、面々は暖かいココアを口に含む。

 

 暖かいもので一心地ついたところで、おずおずといった風で、アニエスが問いかけた。

 

「そうなん……でしょうか?」

「ええ、私たちウンディーネは……いいえ、アクアの住人達は、黄昏時のオレンジ色に、私たちの故郷の色を見るというわ。アニーちゃんはきっと、あの青白い光の向こうに、故郷の色を見いだしているのね」

 

 グランドマザーがついっと夜空を見上げる。その視線を追って顔を上げるアリス達。

 

 地平の彼方に煌めく青白い星は、どこか冷たく、余所余所しく輝いている。そう考えるのは、アリスがアクアの生まれだからなのだろうか。同じように空を見上げる灯里は、そしてアニエスは、あの光の中に暖かい故郷を思い起こしているのだろうか。

 

 そう考えると、アリスの心を”ちくり”と痛みが刺した。

 

「……私は、どこまでいってもマンホーム生まれなんでしょうか」

 

 そして、アニエスもまた、星への想いは正逆でありながら、同じ痛みを味わっているようだった。寂しげに空を見上げ、きゅっと胸の前で拳を握る。誰もが持っている素敵な玩具を、自分だけ持っていない事に気づいた子供のように。

 

 ”ちくり”が”ずきり”へと変わった。

 

「そんな……」

「そんなことはありませんっ!」

 

 計らずも、灯里や藍華の反駁の声を圧倒して迸ったのは、アリスの声だった。

 

 

 

 

 驚いたように目を見開いて、灯里、藍華、アニエスがアリスを見つめた。

 

 そんな仲間の様子に一瞬気後れするものの、アリスにはどうしても伝えなければいけない言葉があった。

 

「マンホーム生まれということなら、灯里先輩だってそうです! だけど、灯里先輩なんて、誰よりもアクア人、ネオ・ヴェネツィア人らしいウンディーネじゃないですか!」

「そうね。アリスちゃんの言うとおりよ」

 

 アリスの反駁を、一つ頷いてグランドマザーがフォローした。

 

「そしてもう一つ。……『違う』ということはいけないことかしら?」

「違う……こと?」

「そう。これまで長い間ずっと、ウンディーネはアクア人だけのものだったわ。だけど、灯里ちゃんやアニーちゃん、多くのマンホームからの娘達がやってきて、ウンディーネに、そしてネオ・ヴェネツィアに新しい水を運んできてくれる」

 

 多くのウンディーネは、十五歳前後から修行を開始する。つまり、高等教育に至る前に、わざわざウンディーネになるために移民してくるような娘は、どうしても希少になる。必然的に、ウンディーネを志す娘たちは、その大半がネオ・ヴェネツィアかその近傍の生まれに限られる。

 

 しかし、例外はゼロではないのだ。週刊ネオ・ヴェネツィアや月刊ウンディーネのような専門誌は、《水の三大妖精》に代表されるような、綺羅星のような妖精達の存在を全系に知らしめている。彼女たちに、そしてネオ・ヴェネツィアに憧れて、海を、空を、そして星さえも飛び越える者達を招き入れている。

 

 合理化の洗礼を受けて育まれた異邦の妖精は、新たな仕組み、新たな発想をネオ・ヴェネツィアにもたらす。それはあるいは拒絶され、あるいは受け入れられ、淘汰の果てによりよいものが、次の世代へと受け継がれて行くのだ。

 

「マンホームからの水は、藍華ちゃんやアリスちゃん、大勢のアクアの水と触れ合う。そして混じり合って、響き合って、そこから新しい世界が生まれていくの」

 

 そう言って、グランドマザーは締め括った。

 

 グランドマザーの言葉を噛みしめるように、皆が目を閉じて心を澄ました。灯里も、藍華も、アニエスも。それぞれが、それぞれの心に、新しい世界をイメージする。それにアリスもまた倣う。新しくて、アリスが望む未来をイメージする。アリス・キャロルを構成する、多くの人達が当たり前のようにそこにいて、微笑みあう世界。

 

 アリスが望む世界なのだから……そこにアニエス・デュマがいないはずがない。

 

「……私が、いてもいいんですよね?」

 

 恐る恐る問いかけるアニエスを、全肯定するかのようにグランドマザーが頷いた。アニエスの強ばった顔が、ぱっと安堵の色に入れ替わる。ちらりとアリスの方を向いたアニエスの視線に、当たり前です、と微笑みを返す。

 

「でも、私達が新しいものに変わっていっていいんでしょうか?」

 

 ふと、藍華が疑問を口にした。そう、アクアは……特にネオ・ヴェネツィアは、過去のマンホームにあり、現在は失われてしまったものを懐かしむ場所だ。

 

 しかし、そんな疑問を、グランドマザーは笑って否定した。

 

「まあまあ、それを言い出したら、私達がゴンドラを漕いでいる事も、昔のヴェネツィアではあり得ないことだったのよ」

 

 そう、かつてのヴェネツィア市では、ゴンドリエーレは男性のみの職業だった。今でもウンディーネ以外の職で、女性がゴンドラを生業とすることはない。

 

「本物のヴェネツィアには、浮き島もない、地重管理区画もない、空の配達人もいない。何より、ここはマンホームですらない。ネオ・ヴェネツィアなんて言っても、ヴェネツィアそのものには絶対になれないわ。どうしたって、変わって行くことは止められないし、それに」

 

 まるで、アリス達を見定めるように、しかし同時に慈しむように見回して。

 

「変わらない事が大切じゃないの。今を大事にして、そしてそれぞれにとって、素敵な方向に変わって行くことが大切なのよ」

 

 人も、街も、世界ですら、生きている限り、変わることは避けられない。それでもなお変わらない事を求めるならば、変わらないことが素敵だと思えるならば、変わらないように変わって行くしかない。

 

 ――変わることは避けられない。”ずきり”と心が痛む。

 

 変わってしまったら。この幸せな仲間たちとの関係が変わってしまったら。アリス・キャロルはどうなってしまうだろう。それは、自分を形作る大切なものが欠けてしまうようなものだ。結構気に入っている、まだまだ発展途上の自分自身が、崩れるようなものだ。

 

 でも――変わることが避けられないというのなら。

 

「大事なものを見つけて……それだけを握り締めて、あとは新しい素敵を一杯に詰め込んで、歩いて行けばいいんですね」

 

 灯里が、ふわりと笑顔を閃かせた。透き通った海のように、暖かく、穏やかに。

 

 藍華を見る。アリスを見返すのは、大輪の薔薇のように華やかな笑顔。

 

 そして、アニエスを見る。マンホーム生まれの異邦人、だけど今ではアリスの一番の親友である彼女は、再び空の彼方、地平の向こうに消えつつある青白い光を見つめていた。

 

 自ら光ることはなく、ただ孤独に生きていた星が、今では自分で輝き、誰かの道標となっている。孤独も絶望も飲み込んで、憧れすら抱いて空に望まれる《宵闇の明星(ドナ・ステッラ)》。

 

(……アニーさんみたいだ)

 

 ふと、アリスはそう思った。

 

 黄昏の後に来る、遠き故郷の光。

 

 そのアリスの感想は、図らずも自らの未来と奇妙に符合するものだったのだが。

 

 勿論、この時点のアリスが、そのような事実を知る由もなく。

 

「まあまあ、おほほほ」

 

 健やかに育つ後輩を慈愛に満ちた目で見つめるグランドマザーだけが、全てを理解しているかのように微笑んでいた。

 

 

 

 

 さて、そんな訳で。

 

 私アニエス・デュマと、親愛なる三人の先輩達は、翌朝の列車でネオ・ヴェネツィアに戻ることとした。

 

 畑の隙間を縫うように走る鉄道路線、最寄りの駅である城ヶ崎駅。発車待ちの列車が佇むホームの上で、私達はグランマとの別れを惜しんでいた。

 

「本当にお世話になりました、グランマ」

 

 ぺこり、と礼儀正しく頭を下げる藍華さん。それに続いてアリスちゃん、灯里さん、そして私も藍華さんに倣う。

 

「またお会いしたいです、グランマ。また機会を見て遊びにきても良いですか?」

 

 ちょっと図々しいかと思ったけれど、私はそう尋ねた。それが飾らない本音。先輩方に違わず、私もこの二日間の間に、グランマが大好きになっていたのだから。

 

「ええ、勿論。歓迎するわ、アニーちゃん。でも……」

「でも?」

「会いに来るより、一足先に会えるようになるかも知れないわね」

 

 そう、秘密めいて微笑むグランマ。何か隠し事でもあるのだろうか。グランマの策略なら、それはきっと素敵なものなのだろうけど。

 

 一応その言葉の意味を尋ねてみようと思ったその時、列車の発車ベルが鳴り響いた。

 

「それでは、失礼します、グランマ」

「はひっ! どうかお元気で!」

「ええと……それではまた!」

 

 ばたばたと列車に飛び込んで行く藍華さんと灯里さん。私もぺっこりと頭を下げてから、列車のステップを踏み上がる。

 

「その…………またお会いできるのをでっかい楽しみにしてます、グランマ」

 

 そして最後に、格別名残惜しげにしていたアリスちゃんが、ステップを踏み出した時。

 

「そうそう、アリスちゃん」

「はい?」

 

 列車に片足をかけたところでグランマの声がかけられ、アリスちゃんが怪訝な顔で振り返る。

 

 そこには、どこか意味ありげに微笑むグランマの顔があった。

 

「大変だろうけど、頑張ってね」

「? ……はいっ!」

 

 思い掛けぬタイミングの激励に、アリスちゃんはきょとんとした顔をするのだけど、すぐに満面の笑顔を浮かべ、元気良くそう答えたんだ。

 

 

 

 

 グランマの意味ありげな態度。その意味が分かったのは、春が終わりを告げようとした頃のことだった。

 

 それは、とても素敵な物語。新しい始まりの物語。

 

 でも、今はまだ、そのことについて語る時期ではないと思う。

 

 なにしろ……。

 

 グランマの所から戻ってきた私達は。

 

 

 ――早速とんでもないトラブルに見舞われる事になったのだから!




オレンジぷらねっと編、前編です。

姫屋編でトラゲット三人娘を登場させたのだから、今度はグランドマザーを出したい。そういうコンセプトから紡ぎ出した物語ですが、焦点はどちらかというとアリスの方に合わせられています。

これは、ゲームのシナリオの都合もあり、アリスより後に入社しておきながら先にペアになってしまうアニエスに対し、アリスがどんな感情を抱くのか、ということを考えた結果です。《サイレンの悪魔》が人の心を弱らせて誘う特徴があるため、本編よりもアリスの心を弱らせ、コンプレックスに向き合う機会を描いてみました。

自分の居場所を奪われたと感じて、感情をコントロールできなくなるあたりの描写は、後に『あまんちゅ!』二十三話で同じようなエピソードを見て『我が意を得たり』と思ったのをよく覚えています。

ちなみに、ここから先のエピソードでも、アニエスのメンタルはどんどん強くなっていきます。これは時系列的におかしな点も生まれてきますが、おそらく最終章のARIAカンパニー編で理由を理解していただけると思います。


この章を書き上げたあたりで、『ウンディーネ』などの作詞家で歌い手の河井英里さんが亡くなりました。

次章は、その思いを踏まえた物語となります。


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オレンジぷらねっと編 Silent Seiren
Silent Seiren 01 セイレーンの沈黙


”空に溶けた、二人のセイレーンの歌声に捧ぐ”
”私たちが、貴女たちを忘れないことの誓いとして”


「……まったく、人騒がせな娘たちね」

 

 城ヶ崎村からの電話を切って、アレサ・カニンガムは一つ大きなため息を吐き出した。

 

 アテナ・グローリィにとって、そのため息はいささか判断に悩むところだった。若干の憤り、呆れ、更には安堵の息すらブレンドした複雑な味わいのそれは、現在のアレサの感情を如実に表したものだったろうか。

 

 そんなアテナの伺うような視線に気づいて、アレサは少し気恥ずかしげに咳払いをして見せた。

 

「あの娘たちが、城ヶ崎を出発したようね。昼過ぎくらいには帰って来るかしら……言わずもがなだけど」

 

 アテナは頷く。事をグランドマザーが預かってくれた以上、心配することは何もないとアテナは思っていた。

 

 何しろ《伝説の大妖精》はアテナの親友アリシアの直接の師匠であり、アリシアと懇意にしていたアテナや晃もまた、グランドマザーの薫陶を少なからず得てきたのだから。正直な所を言えば、アテナの指導員であったアレサよりも、信頼度の上では……まあ、拮抗している、というくらいのところか。

 

「何、何か言いたそうね、アテナ?」

 

 と、胡乱なことを考えた瞬間に、アレサの鋭い指摘。余程顔に出ていたのか、それとも彼女は心でも読めるのか。慌ててふるふると首を振るアテナに、アレサは不審げに眉を潜めたが、

 

「まあ、この件はこれでいいわ。……問題は、むしろそちらの方ね」

 

 そう言って、アレサは眉を更に難しげに歪めた。その視線は、アテナの……より正確にはアテナの首のあたりに差し向けられている。

 

 そこには、アテナを《天上の謳声(セイレーン)》足らしめるすらりとした喉が……見えなかった。

 

「全く、あの娘が大事なのはわかるけど、貴女はウンディーネを代表する《水の三大妖精》なのよ? それがそんな状態になるなんて、自覚をもうちょっとしっかり持ってもらわないと困るわ」

 

 深々とため息を吐き出すアレサ。いやいや、まったくもって返す言葉もない。

 

 もっとも、今のアテナは、返す言葉どころか話す言葉すら失われているのだが。

 

 今、アテナの喉には、サポータがぐるりと巻き付けられていた。湿布を織り込んだそれは、アテナの天上の美声の源である首回りをすっぽりと覆い隠している。

 

「……まだ、声は出そうにないのかしら?」

「…………」

 

 ふるふると首を振る。今口を開いても、出て来るのは咳だけだ。

 

 雨の中で冷えきった身体のまま、アリスを探して春の夜の町を駆け回った代償がこれだった。抵抗力の落ちたアテナの身体に侵入した風邪の菌は、ピンポイントでアテナの喉を狙い撃ったのである。

 

 体調そのものは、二日が過ぎたことですっかり元どおりになった。しかし、肝心の喉だけが、しゃがれ声一つすら絞り出せないくらいに痛め付けられているのだ。

 

「稼ぎ頭の貴女がダウンしたことで、予約はキャンセル、代理のプリマはお休み返上で穴埋めの真っ最中。シフトはぐちゃぐちゃで、我が社の損失はかなりのものだわ」

 

 若干の刺を帯びたアレサの言葉。ちくちくと心を苛むのも、自らの粗忽が招いた事であるから仕方ないと割り切りつつも、アテナは首を傾げる。アレサが皮肉やあてこすりをするのは珍しい。意味のない言葉は時間の無駄だと言うのが常である彼女の事であり、その言動には必ず意味がある。

 

 そして、アテナのそんな洞察は、まさしく正鵠を射ていたのだ。

 

「罰という訳ではないけれど……原因になった娘たちには、それなりの義務を果たしてもらいましょうか」

 

 来た、と思った。先程の皮肉は、今から自分が押し付ける無理難題を受け入れさせるための枕だったわけだ。

 

「そうねえ……」

 

 視線だけで「一体どんな事を?」と問いかけるアテナに、思案するように宙に視線をさ迷わせるアレサ。

 だが、そもそも彼女が悩む所をアテナは見たことがない。悩んでいるように見えたとしても、それはポーズでしかない。そんな姿を晒した時には、既に結論を出しているのが彼女なのだ。

 

 だから、アテナはまるで処刑を待つ罪人のような心持ちで、アレサの言葉を待つしかなかった。

 

 そして、アテナの覚悟が程々に決まったように見受けられる頃を見計らって、アレサは悪戯っぽく笑ったのだ。

 

「トリアンゴーレなんて、どうかしらね?」

 

 

 

 

 日が中天から傾くころ、グランマの所から戻ってきた私達……つまり灯里さん、藍華さん、アリスちゃん、そして私ことアニエス・デュマだったのだけれど。

 

 そんな私達を、アテナさんの言葉が……出迎えなかった。

 

「え、ええ~~~~~っ!?」

 

 会社に戻って来て、部屋に戻ってきた直後。迷惑をかけた人達にお詫びをして回ろうと、最初に巡ったアレサ管理部長の部屋で、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

 はしたないな、と思いはするけれど、だからといって自重できるものでもない。そもそも、そういう事を真っ先に突っ込んでくるアリスちゃんですら、私の隣で顔をぽかんと口を開いたままでいるのだから。

 

 なぜ、そんなことになっているのかと言えば。

 

「ほ、本当なんですかアテナさん!? 声が出ないって!」

 

 上ずった声で問いかける先は、そういえばあの夜以来声を聞いた覚えがない、我らが《天上の謳声》アテナ・グローリィさん。今日に至っても一言も口を開こうとしない彼女は、目を伏せ、こっくりと頷いて見せた。

 

 その顔に、病の気配は見えない。でも、その普段ならすらりとした喉が見えているはずの場所には、ぐるぐるとマフラーが巻かれ、そこから僅かにハーブの爽やかな香りが漂っている。

 

「風邪の熱自体は、一昨日でもう引いたみたいなのだけれどね。喉を酷く痛めているから、当分は声を出さないように、とお医者様に言われているのよ」

 

 言葉を発することができないアテナさんに代わって、アレサ管理部長が説明する。それに追従してアテナさんがこくこくと首を縦に振っているから、アレサ管理部長の言葉に間違いはないのだろうけど。

 

 むしろ、そうなると、心配なことは別にあった。

 

「わ、私の……せいです」

 

 とっさに振り向いた先にいるのは、私の隣で顔を青ざめさせ、身を震わせるアリスちゃん。無理もない。経緯はどうあれ、アテナさんが風邪をひく大元の原因を作り出したのは……私と、アリスちゃんに他ならないのだから。

 

 そして、それに追い打ちをかけるように、アレサ管理部長の言葉が続いた。

 

「お陰で、プリマのシフトは滅茶滅茶。動けるプリマは休日返上で、アテナの空けた穴をフォローしているわ」

 

 事実だけを述べているのに、まるでナイフを突き立てられているかのよう。私ですらこうなのだから、アリスちゃんの心の痛みは想像を絶する。

 

 アレサ管理部長も、あてこすりとかをする人じゃないと思うのだけど。なのにこれはちょっと酷いんじゃないですか? そんな恨みがましい目で管理部長を睨みつける私なのだけれど、当然のように、《鋼鉄の魔女》の顔を揺るがせるには、私の眼力では到底力が及ばない。

 

 涼しい顔のアレサ管理部長。それに相対して、顔を青くするアリスちゃん。その前に立ち塞がるようにして管理部長を睨みつける私。そして、その間に、挟まれて、声を出せないままおろおろするアテナさん。

 

 そんな緊張の図式を崩したのは……やはり四者の頂点に位置する、アレサ管理部長だった。

 

「でももうちょっとだけ、手が足りないのよね」

 

 そう言ってアレサ管理部長は、小さく……どことなく芝居がかったため息を吐き出す。

 

「三日後、団体のお客の予約があるの。人数は五人。一隻では無理だし、プリマ二人を引っ張り出す余裕も……いいえ、そもそもその日程で出てこられるプリマは今のところゼロ」

 

 会社の稼ぎ頭のアテナさんは、観光シーズンともなれば、ほとんど休みもなく働き続けている。そのスケジュールが、予約だけ残してぽっかりと空洞化してしまえば、それを補填するのに普通のプリマ数人分の力が必要だ。

 

 それを既に一人前以上の仕事を引き受けている他のプリマたちに分散しなければいけないのだから……どうしたって、どこかに限界は来る。

 

「本来ならアテナのお客だし、我が社をいつも贔屓にしてくれている方々だから、失礼のないようにしたいのだけれど、このままだとちょっと困ったことになるわ」

「それは……でっかい大変です」

 

 アリスちゃんが呆然と呟く。そうだ、事態の規模は、私がうっかり仕事をバッティングさせてしまった時の比じゃない。

 

 ……とんでもないことになってしまった。頭の中を、その言葉ひとつが幾重にも反響し、埋め尽くす。

 

 その時。まるで自分の言葉の意味が浸透するのを待っていたかのように。

 

「…………アテナ、貴女、三日後ならもう”身体は”大丈夫よね?」

 

 アレサ管理部長が確認するように問いかけた。

 

 見た感じ、アテナさんの体調は、喉以外はそう悪くはないようだ。明日、明後日と休養を取っておけば、多分身体の方は仕事できるくらいに回復するだろう。

 

 問題は、喉の方だ。一度痛めた喉は、じっくりと治さないと、なかなか元の声を出すのは難しい。今年の春風邪は特に喉に来るし、無理をすると、それこそ完全に喉を壊してしまう恐れすらある。

 

 つまり、アレサ管理部長の言う通り、三日後にアテナさんの体調は回復するだろう。でも、それは《天上の謳声(セイレーン)》の復活を意味はしない。

 

 ……だとすれば、アテナさんが仕事をするとしたら、それをフォローする誰かが必要になる。そう私が思い至ったのとほぼ同時に、アレサ管理部長が、私の推測通りの言葉を発した。

 

「アニエス・デュマ、貴女には三日後、《天上の謳声(セイレーン)》と一緒にトリアンゴーレ形式の水上実習をして貰います」

「……トリアンゴーレ、ですか?」

 

 思わず聞き返してしまった。

 

 トリアンゴーレというのは、オレンジぷらねっと独自のサービスで、二艘の舟を使うのが特徴だ。片方の舟にはプリマ・ウンディーネがお客を乗せ、もう片方にはシングル・ウンディーネが専門の指導員と共にお客を乗せる。

 

 大体四人以上の団体のお客を対象としたサービスで、シングルによる水上実習と違うのは、実習中プリマも普通に営業を行っているところだ。

 

 私はまだ、トラゲットと同じくトリアンゴーレも講習の経験がない。それでいきなり実践というのはちょっと……いや、凄く不安な話ではあるのだけど。

 

 ……でも、やるしかないよね。アテナさんの風邪は、私たちが原因なんだから。

 

「でも……プリマがアテナ先輩だとしたら、プリマ側の舟で喋る添乗員がいなくなってしまいます」

 

 アリスちゃんが、おずおずと口を差し込む。確かにそうだ。本来トリアンゴーレはプリマが普通にお仕事をしているから成立するサービス。今のアテナさんは喋る事ができないから、満足なサービスを提供する事ができない。

 

 しかし、私たちの疑問が向けられても、アレサ管理部長は全て承知の上、という顔のまま。

 

 彼女は少し意味ありげに微笑むと、私とアリスちゃんの間で視線を移ろわせて、

 

「そうね。……だから、アリス・キャロル。貴女に、特別に《天上の謳声(セイレーン)》に同乗し、彼女のフォローをして貰うわ」

 

 ……と、さらりととんでもない事を言ってのけたんだ。

 

 

「で、でも、私はまだペアです。水上実習はシングル以上でないと……」

 

 当然のごとく、アリスちゃんが声を上げた。

 

「確かに『シングルの水上実習にはプリマの添乗が必要』とは規約にあるけれど、それさえ満たしていれば、ペアがプリマをフォローしても、何の問題もないわ。ちょっと特例だけれど、この際重要なのは、お客様を満足させるサービスを提供する事よ」

 

 アリスちゃんの反駁も、《鋼鉄の魔女》の前には空しく弾かれるばかりだ。まあそもそも、シングルでないとプリマの営業助手にはなれないという制度も、実のところ割と有形無実。アリスちゃんはもちろん、私ですらペアの頃、こっそり営業助手として働いたことがあったりする訳で。

 

 ……考えてみる。私は幸い雑誌に特集を貰ったお陰で、シングルとしては営業の経験は豊富な部類だと思う。トリアンゴーレの経験はないけど、トラゲットと違って長舟を使う訳じゃないし、どうにかなる……と思う。

 

 問題はアリスちゃんの方だけど、彼女だって練習はシングル準拠のものをずっと積み重ねて来た。操船技術はプリマ級、接客だって、油断しなければ私より堂に入っている。

 

 覚悟さえ決めていれば、アリスちゃんはいつでもやってのけられる。そう、私は確信できる。

 

「……アリスちゃん」

 

 そっと、どこか不安げに指先を震わせている彼女の手を握った。ちらりと視線がこちらを向けば、私は元気づけるように一つこくんと頷いて見せる。

 

 それで決心が定まったのか、アリスちゃんはアレサ管理部長の方へときっと顔を向けて、そしてぺこりと頭を下げた。

 

「…………わかりました。お引き受けします。……いえ、させてください」

 

 そんなアリスちゃんを見つめる、アテナさん、そしてアレサ管理部長。

 

 不思議とその二人の眼差しは、私に向けられていた時よりも、どこか満足げな光を宿しているような気がした。

 



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Silent Seiren 02 対策会議

「……で、トリアンゴーレって、結局どういうものな訳?」

 

 プレッツェルをぽりぽりとリスのように齧りながら、藍華さんが疑問を呈した。

 

「オレンジぷらねっと独自の制度だよね。私もよく知らないけど」

 

 灯里さんも、ほかほかの湯気が沸き上がるカフェラテのカップを両手に包んで、興味深そうに聞いて来る。

 

 ここは、カフェ・フロリアンのオープンカフェ。サン・マルコ広場の片隅で、カフェ・ラテ発祥の店であると同時に、オープンカフェがカンパニーレの影を追ってくるくると場所を変えてゆく事で有名だ。

 

 アレサ管理部長にトリアンゴーレでの営業を任せられた私達は、灯里さん、藍華さんと合流して、今後の対策を練ることにした。

 

 アテナさんの声が出なくなったことを聞いて、最初は二人も泡を食ったようだったけれど、今は落ち着いて私達の相談に乗ってくれている。

 

「ええっと……」

「……トリアンゴーレっていうのは、基本的には水上実習と変わりません。違うとすれば、シングルと同乗するのがプリマではなく専門の指導員で、プリマは別の舟に乗って、通常の営業を行うところですね」

 

 思わず口ごもってしまった私をフォローして、アリスちゃんが説明を引き継いだ。

 

「ということは、シングルの舟とプリマの舟の位置関係が重要ね。細い路地に入る時とかのセオリーも、色々コツがありそうだわ」

「お互いの声がしっかり届くようにして、どっちの舟のお客様も満足して貰えるようにしないといけないね」

 

 ふむふむ。藍華さんと灯里さんの言葉をメモに取る。なるほど、教本にはいろんな操船のセオリーが載っているけれど、その意図するところまでは考えていなかった。

 

「操船については、プリマの舟はアテナさんが漕ぐんだから心配はないとして、問題はアニーの舟ね」

「……ま、まあ何とかします。できるといいな……」

「この三日間で練習すればいいよ。アニーちゃんなら大丈夫大丈夫」

「そうそう、足りなければ足せばいいのよ。諦めるのは全部やった後でもできるんだから」

 

 ついつい気弱になる私に、ぐっと両手を拳にした灯里さん、悪戯っぽくウインクしての藍華さんの声援。そうだ、諦めるのは後でもいい。私自身のため、アリスちゃん、アテナさん、そして何よりお客様のために、私ができることはいつでも、精一杯の自分で立ち向かうことだけだ。

 

 ちらりとアリスちゃんの方を見ると、彼女も大体同じような目線で私を見ている。こくんと頷き返して決意を新たにする。

 

 そんな私達を余所に、藍華さんが机に地図を広げた。その上でペンをくるくると回し、思案するように地図を一通り眺める。

 

「コースの選定とかはどうなってるの?」

「トリアンゴーレ向けのお勧めコースがあるみたいですけど、それを決めるのは大体プリマみたいで……」

「何言ってるの。アテナさんの声が出ないって事は、アニーと後輩ちゃんが決めないといけないじゃない」

「あっ……」

 

 言われて気づいた。そうだ、アテナさんが声を出せないということは、コース選定だけじゃなく、お客様とのお話や観光案内など、ほぼ全てのお仕事がシングルに回って来るということ。つまり事実上、私が二つの舟を同時にお世話するようなものになるんだ。

 

「……アテナ先輩の舟の案内は、何とか私がフォローします」

 

 硬い声で、アリスちゃんがそう言った。

 

 確かにアリスちゃんがどうにかしてくれれば、こちらとしても負担はぐっと軽くなる。他に選択肢がないというのも事実だ。

 

 でも、正直なところ、接客全般はアリスちゃんにとって苦手分野だ。緊張が高まると、彼女は表情が強ばり、声が小さく籠もったようになってしまう。

 

 そして……今のアリスちゃんは、明らかに緊張している。この状況で、彼女が自分で満足できる接客ができるのだろうか。

 

「やれやれ、こりゃー特訓が必要ね」

 

 私と同じ危惧を感じたんだろう、藍華さんが肩を竦めながら言った。まあ、どっちにしても特訓はするつもりでいたのだけれど。

 

 ……本当に、大丈夫だろうか。まだ、弱気の虫は、心の中でざわついたままだ。

 

 

 

 

「それで……後の問題は、やっぱり舟謳(カンツォーネ)だね」

 

 おかわりのカフェ・ラテのカップを両手に、灯里さんが言った。

 

舟謳(カンツォーネ)?」

「そうね。他のプリマのゴンドラならともかく、アテナさんのゴンドラともなれば、当然お客も舟謳(カンツォーネ)を期待してると思うし」

 

 怪訝な顔で聞き返すアリスちゃん。その前で、藍華さんが頷いて同意し、後を引き継いだ。

 

舟謳(カンツォーネ)……ですか」

 

 また、アリスちゃんの顔がぎこちなくなる。これもまた、アリスちゃんにとっては鬼門に等しい。

 

「まあ、アニーはイル・チェーロの実績があるからいいとして……」

「え、ええ~!? か、勘弁してください藍華さん! 私ついこの間、調子に乗って歌ったら音程めちゃめちゃになっちゃったばかりなんです!」

 

 それは、先日オレンジぷらねっとのシングルとペアで集まって、仕事抜きの歌唱大会をやったときのこと。まるで神か悪魔が乗り移ったかのように、はちゃめちゃな歌になってしまった。あの時の、生暖かい周りの視線。今思い出しても消えちゃいたいくらい恥ずかしい。

 

「まあ、アニーの都合はおいといて……」

「あ、ひどいです」

「上手下手は練習するしかないとして、問題は何を歌うか、ね。時間もないことだし、この際何か一曲を選んで、それだけでも満足してもらえるように練習するのが良いと思うんだけど」

 

 私の非難の声を何処吹く風で、藍華さんが指をぴっと一本立てて見せる。

 

「一曲……ですか」

「…………」

 

 藍華さんの指先を見つめて、ぼんやりと呟く私。アリスちゃんも同じようにして、じっと言葉もなく考え込んでいる。

 

 一曲。ただ一曲に、今の私たちのできる全部を詰め込む。それで満足して貰えるかどうかはわからない。だけど、今、私たちにできることは、私たちのできる限りで、お客様をもてなす事。できるかどうかではなく、やれる限りを尽くす事が大切……だと思う。

 

「とりあえず、まずは候補選びから始めましょ。アニー、オレンジぷらねっとの舟謳本はある?」

「あ、はい。ここに持ってます」

 

 携帯電話(スマート)、地図、そして教本と舟謳本。私がいつも携行してるものだ。何しろ忘れっぽい私のこと、教本と地図は必須。舟謳(カンツォーネ)もそろそろ本格的に指導をお願いしたいと思って、念のために持ち歩くようにしていたものだ。

 

「相変わらず色々入ってるねー、アニーちゃんのバッグ」

「他にも応急処置キットとか入ってますよ。ちょっと重いですけど、普段は舟の荷物入れに隠しておけますし」

 

 灯里さんに答えながら、藍華さんに舟謳本を手渡す。藍華さんはそれをテーブルの上で開くと、難しい顔でぱらぱらとページをめくった。

 

「練習時間も十分に取れないし、やっぱり定番どころでいくのがいいと思うんだけど……」

「シューベルトのアヴェ・マリアとか」

「勘弁してください、とても息続きませんからっ」

「じゃあフニクリ・フニクラとか?」

「著作権料大丈夫? ルイージ・デンツァ・カンパニーへの」

「さすがに大丈夫だと思いますけど……」

「じゃあ、『鬼のパンツ』の替え歌とか」

「どこの世界に仕事で『鬼のパンツ』を歌うウンディーネがいるのよ。それよりノン・ノ・レタとかの方が良いんじゃない?」

「あ、いいよねー、ジリオラ・チンクエッティ」

 

 好き勝手にタイトルを挙げて行く藍華さんと灯里さん。だんだんお互いの好きな舟謳自慢になってきている気がするので、ここらで一つ釘を刺しておこうか……。

 

 と思ったところで、藍華さんが正気に戻った。

 

「っとと、調子に乗りすぎたわね。えーと、じゃあ基本の基本、サンタ・ルチアあたりはどう……って、後輩ちゃん?」

 

 そこではたと、藍華さんが言葉を切った。そしてまじまじと見つめる先は、舟謳本をばらばらとめくり続けるアリスちゃんの姿。

 

 もう何度目を通したのか、まるで何か大切なものを捜すように、ぱらぱら、ぱらぱらとページを繰り返しめくり続ける。

 

 そして、私が見ていた限り、目次から奥付までを一通り三回眺めたところで、ばたんと本を閉じ、深々とため息を吐き出したんだ。

 

「どうしたの、アリスちゃん?」

「……ないんです」

 

 目線を動かさないまま、アリスちゃんがそう呟く。

 

「ないって、何が?」

「アテナ先輩の歌が……」

 

 灯里さんが問いかける。それに、アリスちゃんはじっと舟謳本を睨み付けるようにして見つめながら。

 

「……アテナ先輩の歌が、本に載ってないんです」

 

 と、眉をしかめながら答えた。

 

 

 

 

「本当ね、確かにないわ」

 

 藍華さんが、舟謳本をぱらぱらとめくって、そう同意した。

 

「アテナさんの舟謳(カンツォーネ)というと、『バルカローレ』とかだよね?」

「てっきりオレンジぷらねっとの秘伝だと思ってたけど……載ってないの?」

 

 灯里さんが首を傾げる。改めて私も舟謳本を眺めてみるけれど、確かに載っていない。『バルカローレ』『コッコロ』……思い当たるアテナさんの歌の題名を捜してみるけれど、本のどこにも、一曲も掲載されていないんだ。

 

「さすがにポピュラーなのは載ってるけど、十八番の奴はどれも載ってないわね。どうしてかしら」

 

 ぽん、と舟謳本を叩いて思案げに呟く藍華さん。「プリマ専用の特製謳本があるとか?」とか「まさか一子相伝?」とかぶつぶつと憶測を並べていたけど、やがてアイデアが尽きたのか、でっかいため息をひとつ吐き出した。

 

「まあ、いいわ。本にないんだから練習にもならないだろうし、この事についてはアテナさんが元気になったら聞いてみましょう。

 それよりもうちょっと定番を……」

 

 そう言って、再び藍華さんが、本のページをめくり始めた時だった。

 

「…………です」

「……え?」

 

 その声は、囁くようでありながら、藍華さんが本のページをめくる手を止めさせるには十分な力が込められていた。

 

 私は、声の主を見た。灯里さんも、藍華さんも、私と同じ方を見た。

 

 三人の視線が一点に集まった先。それは言うまでもなく、我らがオレンジぷらねっとの期待のプリンセス、アリスちゃん。

 

 そのアリスちゃんは、私達の視線に少し気後れしたようにごくりと喉を鳴らしたけれど、意を決したようにじっと前を見つめて、そして。

 

「嫌です。アテナ先輩の代わりにするなら、アテナ先輩の歌を歌いたいです」

 

 そう、一気に自らの願いを口にした。

 

 

 

 

「でっかい大変なのはわかっています。それでも、私はアテナ先輩の歌がいいんです」

 

 「大変だ、やめたほうがいい」という私達の説得も、アリスちゃんの決心を揺るがせるには十分ではないようだった。こうなると、アリスちゃんは梃子でも動かない。

 

「でも、舟謳本に載ってないんだよ?」

 

 灯里さんが心配げに問う。そう、とにかくそこが問題だ。例えば『バルカローレ』を歌うにしても、まずはその歌詞と旋律が必要。それが見つからない以上、練習を始めることも難しい。

 

「メロディはでっかい大丈夫です。いつもアテナ先輩が歌っているのを聞いていますから、ほとんどの曲の旋律は覚えています」

 

 そう言って、アリスちゃんは鼻歌で『バルカローレ』の旋律を諳じてみせる。なるほど、そういうことならば、ハードルはぐっと下がるかも知れない。私も、アテナさんの曲全ては無理でも、一部ならば結構覚えている……と思う。

 

「でも、歌詞はどうするのよ。アテナさんの十八番って、どれも意味が分からない言葉でできてるじゃない?」

「え、あれってイタリア語じゃなかったの?」

「タイトルやところどころの単語はイタリア語みたいだけど、ほとんどが知らない言葉でできてるわ。もしかしたら言語ですらないかも……」

 

 昔から、歌詞に複数の言語が入り交じる事は珍しくないし、歌のためだけに言語らしきものを作るものすらあったという。そう考えると、アテナさんの十八番の数々も、同じようにあの歌のためだけに用意されたものなのかも知れない。

 

 だとすると大変だ。その歌を歌おうと思えば、歌詞を見つけてくるだけでなく、発音から練習していく必要がある。

 

「それでも、それでも出来る限り頑張りたいです」

 

 それでも。『それでも』を繰り返して、アリスちゃんがぐっと両手を握る。そこまで彼女を突き動かす理由は何なのだろうか。視線で問いかけてみると、アリスちゃんは少し気恥ずかしそうに頬を染めて、自分の想いを語り始めた。

 

「私、今まで何度もアテナ先輩の歌に助けられてきました。……何度も、何度もです。今度もそう、私のせいで、アテナ先輩は喉を悪くしてしまったのですから、私が何とかしないと。アニーさんだけに任せられません。私が、私がやらないといけないんです」

 

 それが、アリスちゃんが自らに課したルールなのだろうか。自分が犯した罪なのだから、自分がそれを拭わなければならない。毅然として潔癖なアリスちゃんらしいといえばその通りだけれど……。

 

「でも、失敗できないことなんでしょ? 安全策を採った方が良くない?」

「…………う」

 

 藍華さんの言葉に、思わず言葉に詰まるアリスちゃん。確かにそうなのだ。今回の件は、お客様をもてなすというのが第一。自分自身の矜恃よりも、もっと優先すべきは、お客様を満足させるという事。それを忘れたら、本末が逆転してしまう。

 

 ……でも。

 

「……アテナさんは以前言っていましたよ。歌は想いを伝えるものだって。心からの歌とそうでない歌なら、絶対に心を込められた歌の方が、人の心に響くって」

 

 私の言葉に、灯里さんと藍華さん、そしてアリスちゃんが目を丸くした。

 

「悪かったのはアリスちゃんだけじゃない。私も悪かったんだから、私も頑張らないとだよ。だから……一緒に頑張ろう。そして、一緒に頑張るなら、心が一つになるような歌を捜して、それを歌いたい……よね?」

 

 口にしている間はすらすらと言葉が出てきたのに、みんなの視線がこちらに集まると、何だか頭が沸騰してくる。思わず、語尾が確認するように上向きになってしまった私に、灯里さんがにっこり微笑んで、藍華さんが『やれやれ』と言わんばかりに肩を竦めて見せた。

 

「……あー、もう。この姉妹ときたら」

「姉妹……ですか?」

「そうだね。二人はアテナさんの姉弟子と妹弟子。それだけじゃなく、心も姉妹みたいに一緒なんだね」

「そこ、恥ずかしい台詞禁止!」

 

 びしいっと、いつもの切れ味で灯里さんを禁止する藍華さん。そのやりとりがおかしくて、私はアリスちゃんと顔を見合わせ、くすっと笑いを漏らしてしまった。

 

 そんな私達の様子を伺って、満足そうな笑みを浮かべた藍華さんが、居住まいを正してびっと人差し指を立てて見せた。

 

「それで、結局どうする? 一本に絞って練習をするのは変わらないと思うけど」

「え? あ、そうですね……」

 

 藍華さんの問いは、どの歌に絞って練習をするのか、ということを意味している。私は少し思案する。どの歌が一番相応しいのか。歌の旋律が、歌詞が、曲名が頭の中をぐるぐると巡る。

 

 ちらりと、アリスちゃんの方に『どうしよう』の視線を送る。アリスちゃんもこちらを見返す。そうすると、なんだか答えが一つ、ぽっかりと浮かび上がってきた気がした。

 

 元気を出して欲しい人へ。元気の出るような歌を。リズムに乗って、誰もを楽しくするような、あの歌。

 

「……『コッコロ』かな」

「……『コッコロ』がいいです」

 

 そうやって呟いた私達の言葉は、寸分違わず重なった。

 

「……本当に息合いすぎでしょ、あんたたち」

 

 藍華さんが呆れ気味に息を吐き出して、私達は揃って赤面した。

 

 




▼「足りない物があれば足せばいいのよ」

 本来は藍華が晃の心を動かした大切な言葉だが、大変残念なことながら、今回のこれは藍華が自ら紡いだ言葉ではなく、直前くらいに晃から聞かされた思い出話からの引用。

▼「神か悪魔が乗り移ったかのような」

 ARIAネタではなく花澤香菜ネタ。アニメ「かんなぎ」の一幕をモチーフにした話。
 本作は花澤病をこじらせた筆者により、ちょくちょくバレにくい程度にゼーガペインネタなどが差し込まれている。


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Silent Seiren 03 Little Darling

 そうして、私達は行動を始めた。

 

 お昼が過ぎるまで、まずはオレンジぷらねっとの資料室探り。灯里さんと藍華さんは、自分たちの仕事を片付けた後、先輩達から話を伺った後で合流することになっている。

 

 もちろん目的は、『コッコロ』の旋律や歌詞探し。ついでに、トリアンゴーレについて書いてある本を探したのだけど、教本以上の情報がある本は見あたらなかった。

 

「しょうがないです。トリアンゴーレはここ数年で作られた方式ですから」

 

 そうアリスちゃんが言う。そう、そもそもこの方式は、かの《鋼鉄の魔女》アレサ・カニンガム管理部長が作り出した方式だ。そんなに資料が沢山あるとも思えない。

 

「まあ、こっちは教本があればいいよね。でも……」

「でっかい問題は、歌の方ですね」

 

 私とアリスちゃんが、そっくり同じタイミングで、ため息を吐き出した。そう、資料室の本を片っ端から引っ繰り返しても、『コッコロ』はおろか、アテナさんの舟謳の資料の欠片すら見つからなかったんだ。

 

「……アテナさんのファンブックみたいなのは見つかったけど……これじゃあね」

 

 資料室のデータファイルの中にあった、恐らくは週刊ネオ・ヴェネツィアの別冊付録か増刊号だろう雑誌。《水の三大妖精》を特集していた時期らしく、この号ではアテナさんを中心に特集が組まれている。

 

 データ形式になっているのが残念だけど、その分取材班が実際にアテナさんの舟でネオ・ヴェネツィアを巡った時のビデオが収録されているらしい。まあ、デジタルデータも善し悪しってことで。

 

「時間があったらゆっくり見ておきたいところだけど……」

「アニーさん、言うまでもないと思いますけど」

「わかってますって。今は急ぎだもんね」

 

 アリスちゃんが言うとおり、釘を刺されるまでもなく、今は『コッコロ』の歌詞を捜すのが先決。

 

 先決……なんだけれど。今のところ、手がかりのとっかかりすら手に入っていないのが実情な訳で。

 

「……どうしてないんだろうね」

「あるはずのものがないということは、そこには何らかの意味があるはずです。これだけ捜しても見つからないということは……」

「……最初から本がないものなのか、そうでなければ普通の形で見る事ができないものだってこと、かな?」

 

 思いつくのはそのくらい。本がないというのは、まず考えられるのがアテナさんのオリジナルの歌である場合。そして、文章化されてない形で伝えられてきたものである場合。普通の形で見る事ができないというのも、この後者にあたると思う。

 

「アテナさんオリジナルだと、大変だなあ……」

 

 頭が痛くなってくる。今、アテナさんは声を出す事ができないから、歌詞を聴く事ができない。例え文章化された歌詞を手に入れたとしても、現代語でないとしたら、発音などの指導をして貰わないと、完璧な『コッコロ』にはならない。

 

「どうしよう。灯里さん達と合流する前に、アテナさんに聞いてみる?」

 

 それは、本来なら最初にやって然るべきことだ。下手に私達が調べて回るより、おそらく一番『コッコロ』に詳しいであろうアテナさんに聞くのが、一番手っ取り早いに決まっている。

 

 でも、それをやらなかったのは、つまるところ……。

 

「……もう少し、私達で頑張ってみませんか? アテナ先輩はまだ療養中ですし……どうせならアテナ先輩には秘密で頑張りたいです」

 

 という、案の定当初と変わらない、アリスちゃんの希望故のことだったりするのだ。

 

「うん、わかった。じゃあ、ひとまずカフェ・フロリアンだね」

 

 ぱたんと開いていた資料を閉じて、私が腰を上げると、アリスちゃんも黙したままそれに追従した。

 

 ……その顔に、わずかな焦りの色が浮かんでいるように見えたのは、多分私の気のせいじゃないだろう。

 

 

 

 

 

「つまり、そっちも収穫はなし、ってことね」

 

 カフェ・フロリアンのオープンカフェ。その白い椅子をとん、と石畳の上に降ろしながら、藍華さんがそうため息をついた。

 

「私もアリシアさんに話を聞いてみたけど、詳しい歌詞は知らないって」

 

 こちらも、白い椅子をすとんと石畳に置く灯里さん。

 

「そうですか……だとするといよいよ八方塞がりですね」

「……でっかい、ピンチです」

 

 そしてそれに続いて、私とアリスちゃんの二人がかりで運んできたテーブルを、よいしょ、という掛け声と一緒に石畳に降ろした。

 

 周囲を見ると、同じようにしてウェイターさんやお客さんまでもが一緒になって、運んできたテーブルの並びを整えている。

 

 『影追い』だ。カンパニーレの影を求めてオープンカフェが移動して行く、ネオ・ヴェネツィアのカフェ・フロリアンの名物。

 

 そして、それぞれが椅子を並べ終わって一息ついたタイミングで、すっと差し込まれた逞しい手によって、カフェ・フロリアン一番の名物がテーブルに並べられた。

 

「お手伝いありがとう、ウンディーネのお嬢さん方」

 

 そう、器用にウインクして見せるのは、今代のカフェ・フロリアンの店長さん。恰幅の良い紳士で、灯里さんと仲が良いものだから、私達もすっかり顔見知りだ。

 

「あ、えーと……おかわりは注文してなかったと思いますけど」

「何、お手伝いのお礼と、午前中に先程と、今日は何度も御贔屓にして戴いておりますからなあ。ここは私からのサービスということで」

 

 また、妙に愛嬌のあるウインク。一見気難しそうな方なのに、実際に話して見ると、こういう茶目っ気も多い素敵な紳士だったりする。それは茶目っ気を見せて良いような、そんなほんわかとした空気がこの場所に満ちているからだろうか。

 

「だとしたら、それはきっと半分くらいは灯里さんの素敵な魔法のおかげかなあ……」

「ほへ?」

「アニー、恥ずかしい独り言禁止っ!」

「へ? 声に出てました?」

「はい、でっかいはっきりと」

 

 そんなとんちんかんなやりとりに、ほっほっほと笑う店長さん。そして自分も、近くのテーブルに腰を下ろして、自前の名物……つまりは元祖カフェ・ラテを片手で傾ける。その様は、さすがに自称『サン・マルコ広場を楽しむ達人』。実に様になっている……と思うのは私だけだろうか。

 

 私の視線に気づいたのか、店長さんは口ひげの下でにこっと笑うと、私が目の前に広げた資料に目を向けた。

 

「ふむ……舟謳(カンツォーネ)の勉強ですか。アニーさんもすっかりウンディーネですなあ」

 

 感慨深げに、そう言って顎を撫でる。

 

「ここで三社のパンフレットを眺めてうんうんと悩んでいたのが、もう半年も前の事ですか」

「え? ああ、そうか……そうですね。もう半年です」

 

 そう、火星暦で半年……地球暦で一年以上前のこと。ここから私のウンディーネが始まったと言っても過言じゃない。ここで私は道を探って、そして……ここで、そうとは知らないままにアンジェさんに出会って、また道を探す手伝いをしてもらった。

 

 そういえば、アンジェさんはネオ・ヴェネツィアの生き字引と呼ばれる程の博識だった……らしい。確かにお手紙をやりとりしていた頃、マンホームの私から見ると、アンジェさんの手紙はネオ・大英図書館に繋がってるんじゃないかと思えるほどだった。

 

 ……アンジェさん、どうしてるかなあ。メールで見る限りでは、頑張っているとは言うのだけど。もし余裕があるようだったら、アテナさんの歌について聞いて見るのもいいかも知れない。

 

 そう思った矢先に、店長さんがさらりと口にした。

 

舟謳(カンツォーネ)の勉強と言えば、アンジェさんが良く言っていましたな。図書館でよく《天上の謳声(セイレーン)》のアテナさんと出会うと」

「え?」

 

 ぴたりと、カフェ・ラテをあおる皆の手が止まった。

 

 もちろん、それは私も例外じゃない。みんな固唾を飲んで、店長さんの言葉を待っている。しかし店長はそんな私達の様子を気づいてか気づかずか、どこか遠くを見るような目をして話を続ける。

 

「元々彼女は勉強家でしてな。うちで働いている間にも、暇を見つけては図書館に通い詰めていました。

 その時に、しばしば図書館でアテナさんと会う、と話していた事があるのですよ」

 

 ネオ・ヴェネツィアで図書館といえば、あの紙媒体の書籍が山ほど集められている、ある意味でネオ・大英図書館と対をなす図書館だ。大量にある書籍は検索性が良くないし、あまり頻繁に利用されると本が痛んでしまうので、必要がなければあまり触れないようにするのが暗黙の了解な場所。

 

 私達の顔が、知らず見合わされた。

 

「……どうしよう?」

 

 灯里さんが、口火を切った。たった一言だけど、言いたいことはわかる。

 

 アテナさんがしばしば、滅多に人が訪れないような図書館に通っていた。それならば、もしかしたらそこにこそ、アテナさんの歌のルーツが眠っているかもしれない。

 

 そう、私達四人全員が例外なく思い至ったようで。

 

「……時間、あまり良くないですね」

 

 アリスちゃんの言葉に、それぞれが時計を確認する。もう夕方が近い。図書館で調べ物をするには少し足りないし……トリアンゴーレの練習をするにしても、そろそろぎりぎりのところだ。

 

「四人が揃って動ける時間を優先しましょう。舟謳(カンツォーネ)探しは一人でもできるけど、練習は四人いないと難しいわ」

 

 藍華さんのそんな提案。そう言いつつも、藍華さん自身、いますぐ図書館に駆け込みたいという顔をしている。

 

 でも、私とアリスちゃんには責任がある。正しい操船はその前提中の前提。その練習を欠かしたら、舟謳(カンツォーネ)の練習をしても意味がない。

 

 そんな覚悟がアリスちゃんにも伝わったようで、ぐっと気合を込めるように、両手に拳を作って見せた彼女は、

 

「わかりました。でっかい頑張って、今日中に基本の立ち回りをマスターしましょう」

 

 と、でっかく宣誓してみせた。

 

「わーひ、アリスちゃん、アニーちゃん、頑張れー」

「あんたも頑張るのよ。絶対将来の身につくことなんだから」

「うん、そうだねー。それじゃ早速れっつらゴーだよー」

「ほっほっほ、健闘を祈りますぞ、お嬢さん方」

 

 ……今日中かあ。大丈夫かなあ。

 

 そんな冷や汗交じりの私をよそに、アリスちゃんを含む先輩方が和気藹々と盛り上がり、店長さんは楽しげに髭を揺らしていたのだった。

 

 

 

 

 数時間の練習の結果。

 

「ふむ、多分これで九分通り大丈夫ですね」

 

 と、アリスちゃんは手ごたえ十分という顔をしてみせて。

 

「……ううう」

 

 と、疲れ果てた私は、ぐったりと机に突っ伏して、瀕死のカエルみたいな声で唸っていた。

 

 トリアンゴーレ形式の操船は、基本的に二つの舟の距離を、舟三艘分以内に近づけて行われる。シングルとプリマ、両方の声がお互いの舟に届かなければいけないからだ。

 

 そして、舟が近いということは、水の流れが前の舟によって大きく乱されているという事でもある。普通に漕ぐだけならば大した影響はないのだけれど、お客様を乗せていることを前提と考えるならば、舟の揺れは可能な限り小さく、安定させておかなければならない。

 

 というわけで、未だに水の流れに乗り切れない私は、前の舟によって変幻自在にうねる水流に翻弄され、身体の芯まで疲れ果ててしまった。

 

 もちろん、こちらが難しい方の舟をやっている、というのはあるけど、それも言い訳にはならない。時々舟の前後を交替したり、指導員役で同乗する灯里さんと漕ぎ手を交替してみたりすれば、皆は難無く水の流れを捉えて、奇麗な二本の軌跡を描いてしまうのだから。

 

「こういうのは慣れよ、慣れ」

「アニーちゃん、ちょっと肩の力が入り過ぎかな。もっと水と一体になる感じというか」

 

 という心温まるアドバイスを戴いて、目下アニエス・デュマは絶賛自信喪失中なのでありました。

 

「ま、まあまだあと二日あるし! これから頑張って取り戻せばいいよねっ! うんっ!」

 

 そう、空元気を絞り出して自分をごまかそうとする私だけど、司書カウンターのおじいさんにじろりと睨みつけられ、思わず縮こまってしまった。

 

 そう、ここは静謐を尊ぶ神聖なる図書館。ネオ・ヴェネツィアが誇る、紙媒体大図書館だ。

 

 日が落ちて、舟の練習をするにはいささか危なくなってしまった頃。私達は、素直に練習を解散することにした。

 

 そして、いつもならばそのまま寮に戻るところなのだけど、自炊しなければならない姫屋とARIAカンパニーと違って、社員食堂のあるオレンジぷらねっとの子である私達は、夕食時もある程度自由に調節できる。そんなわけで私達は、寮に戻る前の下準備として、図書館に足を向けてみた、という訳だ。

 

 ……しかし。

 

「この分量相手じゃ、調べ終わるまで何日かかるかわからないね」

 

 思わず弱気の虫が騒ぎだす。一応ジャンル別に区分されている蔵書は、詩歌関係だけで見繕ってみても、ざっと数百、もしかしたら数千冊。しかも表題からは内容を想像できないような本も多くて、片っ端から調べただけでは、一年かかっても目当ては見つかりそうにない。

 

「まずは、どの本が”それっぽい”かを確かめましょう。タイトルの意味がわかれば良いんですけど」

「藍華さんは、イタリア語っぽいって言ってたね」

 

 藍華さんの言葉を思い起こす。そもそも『バルカローレ』にしても、この町には旧ヴェネツィア時代から、まさしくバルカローレ通りという地名がある。その流れから考えれば、『コッコロ』もイタリア語である可能性は高い。

 

「スペリングは……"Coccolo"でしょうか」

「そうだね……あ、あった」

 

 イタリア語辞書をぺらぺらとめくっていたアリスちゃんがそう呟く。その手元を覗き込んでいた私は、早速目当ての単語を見かけて声を上げた。

 

「"Coccolo"……意味は、”親愛なる小さなあなた”」

 

 私とアリスちゃんは顔を見合わせた。

 

 親愛なるあなた。小さなあなた。元気に、健やかに育って行くあなたへ。私はあなたを見守りましょう。元気なあなたは私の喜びです。だから伸びやかに。だから健やかに。親愛なるあなたよ、私は歌いましょう。どうかあなたの道行きが、素敵で幸せでありますようにと。

 

 そんな詩が、心の中にふと浮かび上がった。

 

 それは、決して『コッコロ』の詩ではないだろうけど。

 

 でも、アテナさんの歌声を思い起こし、それに与えられた名が、"Coccolo"であるのならば。

 

 きっと、歌に込められた願い、その想いは、そう大きく外れたものじゃない。

 

 ――そう、信じられたんだ。

 

 

 結局、その日の図書館では、それ以上の成果は得られなかった。

 

 もちろん、精々一時間くらいの調査だし、目だった成果が得られる訳もない。それは理解しているけど。

 

「…………」

 

 無口に運河を眺めるアリスちゃんも、同じものを感じている事だろう。

 

 穏やかな、静かに頭上でルナツーが見下ろし、ルナスリーが駆け抜ける夜。そんな光の下で、私達は堪えようのない焦燥感に苛まれていたんだ。

 

 そして、一日目が終わった。

 



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Silent Seiren 04 オルガンの記憶

「『コッコロ』ですか?」

「『コッコロ』ねえ……」

 

 今日も今日とて運河の上。先輩たちを伴っての午前の練習なのだけれど。

 

 そう異口同音に思案げな声を漏らしたのは、先輩は先輩でも、いつものARIAカンパニーや姫屋の制服ではない、同じオレンジぷらねっとの先輩方だった。

 

「そもそも、私はその曲を聴いたことがないわ」

 

 そう申し訳なさそうな顔で言うのは、ふわふわの髪をポニーにまとめた先輩のアトラさん。そしてそれにうんうんと頷くのは、同じく我が社の先輩の杏さんだ。

 

「ごめんなさい、二人とも。力になれたら良かったのだけど」

「いえ、そんなことは……」

 

 ぶんぶんと手を振って、アトラさんたちの謝罪を振り払う。申し訳ないなどと思われる理由はない。そもそも、こちらが勝手に尋ねてみただけのことなのだから。

 

 

 そもそも、いつもなら灯里さん、藍華さんの二人と一緒に練習しているはずの私達が、これまたいつもなら姫屋のあゆみさんと一緒に居る事の多いアトラさん、杏さんと一緒にいるのは、これまた理由がある。

 

 昨夜までの調査で確たる成果を得られなかった私達二人は、灯里さんたちと合流する前に、もう一つくらい調べて行こうと話し合って決めた。

 

 昨夜から燻っていた焦燥感は、カレンダーの日数が一つ削れたことで、明らかに熱く燃え上がり始めた。あと二日しかない。練習時間の事を考えれば、今日中に何とか結論を出さなければ、全てが間に合わなくなってしまう。

 

 そこで私達は、早朝練習の前に、もう一度寮内を調べて回る事にした。具体的には、アテナさんや……その直接の師匠だというアレサ管理部長に話を聞いてみようと思ったんだ。

 

 ところが、アテナさんとアレサ管理部長は、私達が訪れた時には既に遅く、どこかに出かけていた(その事を知って、アリスちゃんは酷く憤慨していた。同室の私にも教えてくれないなんて! だそうだ)。

 

 日頃から多忙を極めるアレサ管理部長だけならまだしも、病み上がりで完調ではないアテナさんまでがいないとは思わなかった。

 

 そんな訳で、行き場を失って途方にくれていた私達を、練習に出掛けようとしていたアトラさんたちが拾ってくれた、というわけだ。

 

 

「それにしても、アテナさんの舟謳(カンツォーネ)に挑戦するなんて、二人とも頑張るわね」

 

 早朝練習に向かう途上、アトラさんが、心底感心した風でため息を吐き出した。

 

「そんな驚くような事ですか?」

「驚くようなことです。上手い人の歌を真似るということは、上手い人との技量の差を一番はっきり突き付けられるって事ですから」

 

 杏さんが、ぎくりとするような事を言う。確かにそうだ。私達が挑もうとしているのは、アクア一の歌い手の、それも十八番。聴けば劣化コピーの度合いは歴然だろうし、しかも今回の場合、歌うとしたらコピー元の目の前で、ということになる。

 

「そもそも、アテナさんの舟謳(カンツォーネ)は、他の人が歌っているのを聞いた事がないです」

「アニーちゃんが言うとおり、楽譜がそもそも存在しないのかも知れないわね」

「……なんでしょうか」

 

 気が滅入ってくる。私達は、無謀な賭けに出ようとしているのだろうか。今からでも、もっと上手くやれるような、無難な曲に変更するべきなのだろうか……。

 

 そんな事を考えているうちに、櫂から伝わる水の流れが変わった。目に刺さる低い太陽の輝き。ざわざわと騒ぐ、せせらぎの大合唱。気が付けば、舟は大運河にたどり着いていた。

 

 そして、広い運河に出てきて程なく、岸辺から溌剌とした声が聞こえてきた。

 

「おーい、アトラ、杏!」

「あ、あゆみちゃん」

 

 それは、姫屋の制服に身を包んだ、赤毛のショートカットが鮮やかな女性だった。聖ソフィア桟橋のアーチの側で、手を元気よく振り回す彼女に、杏さんが同じく手を振り返す。アトラさんも小さく笑顔を返すあたり、かなり親しい間柄なのだろう。

 

「アトラ、そっちの娘たちは、オレンジぷらねっとの後輩かい?」

「天才少女のアリスちゃんと、マンホーム生まれのアニーちゃんよ。二人とも、灯里ちゃんの友達なの」

「へぇ、灯里ちゃんの友達なんだ。あたしはあゆみ。よろしくねっ!」

 

 灯里さんの名前を中心に挙げるということは、あゆみさんも灯里さんと友達なのだろう。まあ、このネオ・ヴェネツィアで、灯里さんの名前は知らずとも、あの特徴的に長いもみあげ(暁さん談)を知らない人はそうはいないだろうけれど。

 

 ともあれ、アリスちゃんと私は、あゆみさんにそれぞれ簡単に自己紹介をした。

 

「アリス・キャロスです……どうも」

「アニエス・デュマです。アニーと呼んでください」

「アリスちゃんに、アニーちゃんだね。……あれ?」

 

 あゆみさんは私達の顔を交互に眺めて、何かに思い至ったのか、うーんと眉を寄せた。そしてしばらく考え込んでいたのだけれど、不意に顔を上げて、ぽんと手を打ち鳴らす。

 

「……ああ、思い出した。アニーちゃん、キミ確か以前、運河の真ん中で『イル・チェーロ』歌ってたろ? そういえば、あの時一緒にいたのはアリスちゃんだったような気がするな」

「……うぁ」

 

 顔がかっと熱くなった。そんなにはっきりと覚えられてるなんて。

 

 確かにあの時……私の家出騒動の時、私は運河の真ん中で、全身全霊の思いを込めて、あの歌を歌った。それはたまたまアテナさんが操るお母さんたちの舟に届いていたけど、それ以上に、沿岸や行き交う舟の人々の耳に届いていたんだ。

 

 あの時の暖かな拍手は、私が舟謳(カンツォーネ)を歌う時の、一番の原動力になっていると思う。

 

 でも、それを面と向かって話されると、さすがに恥ずかしい。

 

「よく覚えてますね。私、あの一回だけしか運河では歌ってないんですけど」

「んー、トラゲットずっとやってるとね。景色とか水の流れがあまり変わらない分、人の声とか顔とか、そういうのを覚えやすくなるんだよ」

 

 あゆみさんが自信ありげに”にまっ”と笑顔を浮かべる。なるほど、トラゲットを繰り返すという事は、いつも同じ道を行き来するだけに、日常の変化について敏感になるのだろう。

 

 観光案内が主のウンディーネの中ではやや異端である、トラゲットを専門とする、特別なシングル。そういうありかたもあるんだな、と、感心するし、憧れるところもある。

 

「……ああそうだ、あゆみ。貴女《天上の謳声(セイレーン)》のアテナさんの舟謳(カンツォーネ)、彼女以外の人が歌ってるの聴いたことがある?」

 

 挨拶が終わったと見て、アトラさんがそう割り込んできた。

 

「え? 特別にアテナさんの歌っていうと、あの何語かわかんない奴かな? んー……他の誰かが歌ってるのは聴いたことがないけど……」

「……そう、まあ、そうよね」

 

 思わず、アトラさん、杏さんと一緒にため息を吐き出す。まあ、そう簡単に答えが出るはずもない。

 

 なのに、あゆみさんはちっちっと指先を少し芝居がかって振って見せると。

 

「まあ待って。確か、伴奏を聴いたことはあるよ」

 

 そう、聞き捨てならないことを言った。

 

 

 

 

「伴奏って……だって基本的に舟謳(カンツォーネ)はアカペラですよね?」

 

 アリスちゃんが首を傾げた。私達ウンディーネの舟謳は、大抵は伴奏なしで歌う。中には携帯音楽プレイヤーを使って伴奏を交ぜる人もいるようだけれど、少なくとも船上では『らしくない』という理由で敬遠されがちだ。

 

 だけど、生音となれば話が違ってくる。舟謳(カンツォーネ)の得意なウンディーネと組んで演奏をする音楽家もいる……らしい。私は遭った事がないけれど。

 

「うん。だけどあれは間違いなく伴奏だったなあ。オルガンの音が聞こえてきたんだけど、それと通りがかったアテナさんの声が奇麗に重なってたし」

 

 あゆみさんが難しい顔で腕を組みながら唸る。そうまで言うからには、確かな記憶なんだろう。

 

 伴奏を知っている誰かがいた。それはとても重要なことだ。

 

 それはつまり、アテナさんの得意とする舟謳(カンツォーネ)が、アテナさんオリジナルのものではなく、少なくとも誰かがその曲を知っている……少なくともその可能性が高いという事なのだから。

 

「それじゃあ、一体どんな人が伴奏していたか、覚えてはいませんか?」

「んー……さあねえ。あたしは舟の上からしか見てなかったから、誰が演奏してたかまでは見てないや。ごめんよ」

 

 申し訳なさそうに肩を竦めるあゆみさん。まあ、トラゲットの最中に演奏者の顔をじっくり眺めていたら、むしろよろしくない。

 

「それじゃあ、一体いつ頃、どのあたりで聞いたのかはわかりませんか?」

「そうだねぇ……場所はこの桟橋の近く、そう、あっちの広場だった。時期は……確かあれは、去年の秋くらいだったかな。日陰がこう長くなって来たくらいで……そうそう、あの時は確かアテナさんの舟に、雑誌社の腕章付けた人が乗ってたよ」

 

 雑誌の取材。それはものすごく具体的な情報だ。

 

 アテナさんは《水の三大妖精》だけあって、しばしば雑誌社などから取材の依頼を受ける。私が知っている限りでも数回の取材があったけれど、それでも一カ月に一度以上の周期ではなかなかない。『去年の秋口』『雑誌の取材があった頃』『広場でオルガンを演奏していた人』という条件がそろえば、演奏者をかなり特定できる。

 

「…………」

 

 屋外でオルガンの音がするということは、音源は携帯音楽プレーヤーか、携帯オルガンのどちらか。後者を屋外で奏でていれば、相当に目立っていた事だろう。聖ソフィア桟橋近くに住んでいる人に聞き込めば、結構目撃証言は得られそうだ。

 

 ……でもまあ、私達にはそう時間に余裕がある訳でもなくて。

 

「アニーさん、そろそろひとまず早朝練習に行きましょう」

 

 黙り込んでしまった私に、アリスちゃんがせかすように袖を引いた。

 

 時計を見る。まずい。待ち合わせ時間をもう過ぎている。急がないと、藍華さんに「遅刻禁止!」とか言ってまたおごらされてしまう。

 

「そうだね……それじゃああゆみさん、アトラさん、杏さん、お先に失礼します」

 

 ぺこりと頭を下げて、私達は三人と別れ、待ち合わせ場所へと櫂を押し出した。

 

「頑張りなよ。二人とも。灯里ちゃんによろしく」

「また夕方にね、アリスちゃん、アニーちゃん」

「アリスちゃん、今度一緒にムッくんグッズ探しに行きましょう」

 

 そう口々に言いながら手を振る先輩三方に、手を振り返す私たちだったのだけれど。

 

「……オルガン……ですか」

 

 三方が見えなくなり、手を振るのをやめてから少しの沈黙を経て。アリスちゃんが小さく、何か思わしげに呟いた。

 

 

 

 

 アトラさん、杏さん、あゆみさんと別れてからしばし。

 

 合同練習のために集まった舟の上で、私達は例によって作戦会議を繰り広げていた訳なのだけど。

 

 私達が仕入れてきたオルガン弾きさんの話は、特に藍華さんの興味を惹いたようだった。

 

「なるほど、そういうことなら二手に別れた方がいいわね」

 

 私が櫂を動かしながらオルガン弾きの顛末を話すと、藍華さんは少し眉をひそめて迷ったようだったけれど、いざ口を開くときっぱり宣言した。

 

「そうだねえ、もうあまり時間もないし、できることは手分けしていかなきゃ」

 

 その傍ら、アリスちゃんが漕ぐ舟の上で、灯里さんが手持ちのパソコンで私達が借りてきた『週刊ネオ・ヴェネツィア』のデータ版を眺めながら相づちを打つ。マンホームでは当たり前に使われているデータ版の情報誌だけど、アクアでは……少なくともネオ・ヴェネツィアでは『風情がない』という理由からか、あまり好まれない。

 

 オレンジぷらねっとの資料室に残っていたのも『週刊ネオ・ヴェネツィア』が全系誌だったためだろうと思う。さすがに、冊子を星間連絡船に乗せて運ぶ訳にはいかないし。

 

 藍華さんはそんな灯里さんの様子に、少し呆れたような様子を滲ませつつ、私達……つまりアリスちゃんと私に真剣な顔を向けた。

 

「まずはその取材があった時期を特定しましょう。これは多分、オレンジぷらねっとの資料室とか事務の人に当たらないと無理だわ。だから、ここはアニーと後輩ちゃんに任せる。アニーはスマート持ってるわよね。何か分かったら灯里にメールを送って」

 

 ぴっと指を二本盾ながら、そうてきぱきと指示を下す藍華さん。この所、なんだか最近、指揮官というか、統率者としての貫禄が出て来たような気がするのは、私の気のせいだろうか。さすがは姫屋の跡取り娘。

 

 ……などと感心していたら、藍華さんの声が急激にトーンを落とした。

 

「でも正直、今日中に結論が出せなかったら、もう諦めて普通の曲に変えた方がいいわね。練習もできてない曲で無茶するより、確実に歌える曲でおもてなしする方が、ウンディーネとしては大切なんだから……」

「……はい」

「そうですね……」

 

 藍華さんの提案ももっともだ。私達ウンディーネはお客様をもてなすのが仕事。そこで自信のない舟謳(カンツォーネ)を歌っても、それはきっとお客様の心に届かない。それでは駄目なんだ。

 

 だけど、時間がないということを突きつけられると、やはり気が滅入る。間違った選択をしているのではないか、このままだと失敗してしまうのではないか、そんな不安がむくむくと頭をもたげ始める。

 

 せめて、アテナさんが『コッコロ』を歌える状況であれば、歌い聞かせて貰う事もできるのだろうけど……。

 

「……あれ?」

 

 その時、じっとパソコンを眺めていた灯里さんが声を上げた。

 

「ぷいにゅぷぃ?」

「どうかしましたか、灯里先輩?」

 

 櫂を手にしたアリスちゃんが、アリア社長の頭越しに、足元に腰掛けた灯里さんの手元を覗き込む。灯里さんはそんなアリスちゃんの顔をちらりと見やると、手元のパソコンの画面を指さした。

 

「ここの記事見て、アリスちゃん」

「何ですか? ええと……我々はインタビューの途中、幸運にも《天上の謳声》が奏でる舟謳の中でも、滅多に聞けない秘蔵の一曲を聞くことができた……」

 

 

『大運河を航行中、その秘蔵の曲に重ね合わせるように、オルガンの音が聞こえて来た。その二つは予め約束されていたかのように響き合い、耳にしているだけで心が踊りだすような軽やかなメロディを奏でていた。

 偶然だろうが、何という幸運だろうか。しかも幸運はそれだけではなく、その素晴らしいセッションの様子を、特別に本誌付録に掲載する事を許諾戴ける事となったのだ。

 取材用カメラのマイクによる収録であるため、音質が低い事が恐縮であるが、この貴重な映像が、読者の皆々様方に届き、あの感動の万分の一でも送り届けることができたならば幸いである』

 

 

 ……そこまで読み上げて、アリスちゃんは言葉もなくパソコンの画面を見つめていた。

 

 藍華さんも、目を丸くしていた。私も、何と言っていいかわからなかった。

 

「……どう思う?」

 

 そう灯里さんが言うけど、返す言葉が見つからない。時間が凍りついたように、なにもかもが動きを止めている。

 

 そして。

 

「……ぷいにゅ?」

 

 小首を傾げたアリア社長の声が聞こえた瞬間、私達の時間は一斉に動き出した。

 

「付録っ! ちゃんと付録はついてるの灯里っ!?」

「灯里先輩、どうなんですか!?」

「私にも見せてください灯里さーんっ!!」

「は、はひーーっ!?」

「ぷいにゅーーっ!?」

 

 

 

 

 

 『週刊ネオ・ヴェネツィア』アテナさん特集号には、ありがたいことに付録のデータもちゃんと添付されていた。

 

 ビデオを再生すると、インタビュアーが舟を進めるアテナさんに話しかけていた。インタビュアーさんのさまざまな質問に営業スマイルで答えるアテナさんだったのだけれど、ふと岸辺に何かを認めたようで、ぱちくりと目を丸くする。

 

 さすがに職業人、インタビュアーさんもアテナさんの様子が変わった事に気づいたようで、アテナさんの視線を追いかけるようにカメラを巡らせる。

 

 すると、そこに映し出されたのは……。

 

「……あ、後輩ちゃんが跳ねてった」

 

 藍華さんの言うとおり、そこに映っていたのは、ミドルスクールの制服を着た女の子だった。顔は角度が悪くてよくわからないけれど、その光の加減で鮮やかなエメラルドグリーンにも見える長くて奇麗な髪は、アリスちゃんのものに間違いない。

 

 ぴょんぴょんと跳ねるように……というか明らかにジャンプしながらどこかの路地に消えて行くアリスちゃん。カメラの人も何事かと、跳ね踊る髪が路地裏に消えてしまうまで、その様子を追い続けている。

 

「アリスちゃん、もしかしてこれって自分ルール?」

「はい、多分影のあるところだけ歩くルールの時だと思います」

 

 そう顔を見合わる灯里さんとアリスちゃん。なるほど、アリスちゃんの自分ルールならば、多少不思議なふるまいを見せていても不思議じゃない。

 

 それは、映像の中のアテナさんもよくわかっていたのだろう。カメラがアテナさんの方に向き直った時浮かべた表情を、私は見逃さなかった。

 

 アテナさんの顔に浮かぶ、とてもとても優しい、まるで可愛い我が子を見守る母親のような、慈愛に溢れた表情を。

 

 アテナさんはインタビュアーさんに小さく礼をすると、大きく息を吸い込んで。

 

 そして、歌い始めた。

 

 『コッコロ』の歌を。

 

 

 優しい歌だった。

 

 転がるような、春の風のような、軽やかで、活力に満ちた歌声。

 

 健やかに育って行く我が子を見守るように、元気づけるように、『コッコロ』の歌声が響いて行く。

 

 インタビュアーさんたちもその予期せぬ天上の歌声に、聞き惚れるしかなかったことだろう。その間、カメラはじっとアテナさんの歌う姿を映し続け、質問の手も止まったままだったのだから。

 

 

 それに変化が訪れたのは、カメラに映る映像が、大運河に差しかかったあたりだった。

 

 背景を見る限り、ちょうど聖ソフィア桟橋の近く。あゆみさんが『コッコロ』の伴奏を聞いたという場所、まさしくそのものだ。

 

「……あれ」

 

 ふと、藍華さんが小さく首を傾げた。

 

「どうかしましたか? 藍華さん」

「んー、なんかね、そういえばあの時、どこかで……」

 

 そう藍華さんが何かを思い出しかけた、その時。

 

 近くの岸辺からだろうか、オルガンの音が聞こえて来た。

 

 その旋律に、アテナさんも少々面食らったようだった。まるで町角で、二度と遭えないと思っていた古い友達に出会ったような、そんな複雑な笑みを浮かべていた。

 

 そして、旋律が唱和した。

 

 ぴったりと重なるメロディ。疑いようもない。欠けたパズルのピースがぴったりと重なったような、完全な調和のメロディ。

 

 本当に、どこの言葉なのだろう。イタリア語らしい単語がちょこちょこと聞き取れるけれど、それ以外の所は全然。意味もよくわからないけれど、だけど。

 

 ……想いは、わかる。

 

 大切な誰かの、幸せを願う歌。

 

 大切な誰かと、喜びを分かち合う歌。

 

 ――”親愛なる、小さなあなたへ”。

 

 そんなタイトルの意味にふさわしい、弾むようなリズム。

 

 それなら、きっと言葉の意味なんて必要ない。

 

 もしかしたら――最初からこの歌には

 

「思い出した!」

「はい、でっかい思い出しました!!」

 

 ぽっかりと浮かび上がった、私の考えを押し流すように。

 

 藍華さんとアリスちゃんが、口をそろえてユリイカを唱えた。

 

「え、えー? 藍華ちゃん、アリスちゃん、何を?」 

 

 私と同じように、『コッコロ』のメロディに心を浸していた灯里さんが、びっくりしたように目を見開いた。

 

「このオルガンの音よ! 私達、この曲聞いたことがあったのよ!」

「はい。これはでっかい小さいころ、町に来た人形師のおじさんが奏でていた曲です」

 

 勢い込んで言う二人。私は戸惑いながらも聞き返すことしかできない。

 

「人形師……?」

「えーと……もしかして、いつかの広場で劇をしてた、あのカバンのおじさん?」

「そう、そうよ! 灯里と水上バスで一緒になってたあのおじさん!」

「……はれ、なんで藍華ちゃん、バスで遭ったこと知ってるの?」

 

 うっと言葉に詰まった藍華さん。何やらよくわからないけれど、どうやら先輩方は、私の知らないころにこのオルガンの主と出会ったことがあるらしい。

 

 なるほど。それはものすごいミラクルな偶然だ。だけど……正体がわかったとしても、その居場所がわからなければどうにもならない。

 

「それで……その方はどこに?」

 

 私の質問に、藍華さんたちが興奮に水をひっかけられたように、しんと静まり返った。

 

「……旅の人形師さんだっけ?」

「世界中を巡って人形劇を続けてるって言ってたね」

「ネオ・ヴェネツィアどころか、アクアにすらいないかも知れませんね……」

 

 空気がだんだんと沈んで行く。折角見つけた希望も、無為に終わってしまうんだろうか。そんな不安が、重く心に立ち込める。

 

 ……なのだけど、私は実の所、あまり不安に思っていなかった。

 

 それは多分……アテナさんの歌の記録を耳にして、何か重大な手掛かりを得ていたからだったんだと思う。

 

 その手掛かりの正体は、まだその時にはよくわかっていなかったのだけど。

 

「まずは、その人形師さんが立ち寄ってた場所を調べてみましょうよ。もしかしたら、その人のオルガンの曲について、もっと詳しい人に行き当たるかもしれませんし」

 

 私のそんな提案に、先輩たちは顔を見合わせ、そして揃ってこっくりと首を縦に振って見せた。

 



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Silent Seiren 05 幻想郷の人形芝居

 聞き込みをしてみると、人形師さんを知っている人は、想像以上に多かった。

 

 昨年見た人、五年前に見た人、十年前に見た人。人それぞれ、時期もまちまちだったけれど、話を聞いてみると、三人に一人は、そんな人の人形劇を見たことがあると言うんだ。

 

 覚えている人だけで三割強なのだから、実際にはもっと多くの人が目にしているんだろう。それだけ、彼はこのネオ・ヴェネツィアを頻繁に訪れていたんだ。

 

 だけど、肝心の彼の足取りになると、さっぱりだった。

 

 「いつの間にかいなくなっていた」……聞く人聞く人が、揃ってそう言った。誰も彼もが、幼いころに人形師の劇に見入られた記憶は持っていても、彼がどのようにして消えていったのかまでは覚えていなかったんだ。

 

「確かに、焼き芋屋さんとかがいつ帰っちゃうかとか、なかなか覚えてないよね」

 

 灯里さんがそう呟く。そういうものかも知れない。行きずりの旅人の足取りを、人はそうそう覚えているものじゃない。観光客をもてなすのが仕事の私達ウンディーネですら、お客様を見送るのは岸辺まで。そこから先の足取りなんて、特別な事情がなければそうそう追いかけることもしない……と思う。

 

 それでも。それでもを繰り返して、私達は聞き込みを続けた。

 

 一人、また一人。空振りを繰り返すうちに、太陽は中天を極め、そして地平の向こうへ傾いていった。

 

 そして、また世界がオレンジに染め上げられたころ、私達は……。

 

 

 私達は、ついに、諦めた。

 

 

 

 

「さっきも言ったけど、失敗しないのは前提条件。アテナさんの歌は、またじっくり練習してからにしましょう。いい? 後輩ちゃん、アニーも」

「残念だけど、もう時間もないし、ね。明日の練習、頑張ろう?」

 

 そんな言葉を残して、灯里さんと藍華さんの船が、水路の向こうに流れていった。

 

 明かりが点くほど暗くはなく、明かりなしでは見通せない、そんな夕闇の中に消えて行く白い影。それらを見送って、私は深々とため息を吐き出した。

 

 徒労感は拭えない。ほぼ丸一日を費やしての聞き込みの成果はなく、得られたと言えば、舟を意識的にトリアンゴーレ的に近づけて漕ぎ続けたことで、操船にそれなりの自信がついたことくらい。もちろんそれも得難い成果ではあるのだけど……。

 

 俯いたまま、舟の上で膝を丸めているアリスちゃんを見ていれば、そんなことを喜ぶ気に、なれるはずもない。

 

「しょうがないよね。明日が最後なんだもの。一緒に頑張ろう?」

「……ごめんなさい、アニーさん」

 

 気休めにもならないような私の言葉を遮るように、アリスちゃんの口から謝罪の言葉が漏れた。

 

「……アリスちゃんが悪いことは何もないよ。私も気持ちは同じだったんだから」

 

 櫂を繰りながら、考える。そう、気持ちは同じだった。アテナさんのあの歌を、私達がアテナさんに、そして多くの人達に伝えたい。歌は想いを伝えるものだから。誰かを想う心を込めるなら、それに相応しい歌がある。

 

 そう思ったからこそ、私はアリスちゃんと同じように『コッコロ』を捜し求めたし、それがわかるから、灯里さんや藍華さんも手を貸してくれたのだと思う。

 

 だから、アリスちゃんが一人で背負い込む理由はどこにもない。

 

 なのに。

 

「私、でっかい悪い子です。アテナ先輩の喉を壊しちゃったのも私のせい。アニーさんたちを振り回して、練習の時間を奪ったのも私のせい。……私のせい、なんです」

「……アリスちゃん」

 

 私がそう名を呼んでも、アリスちゃんは答えなかった。

 

 ただ、俯いて、自分に心配そうに足をかけるまぁ社長の事にも、まるで気づいていないようだった。

 

 遠くで、嫌な声の猫が鳴いていた。

 

 不吉で、心がざわめく声。なんだろう。聞き覚えがある。

 

 黒くて冷たい網が、体中に絡み付いていくような感覚。

 

 ――そう、それは、私が『サイレンの悪魔』に囚われてしまったあの時と、感じがよく似ている。

 

 いけない。そう思った。このままではいけない。

 

 このままだと、アリスちゃんが取り返しのつかないところまで落ち込んでしまう。

 

 陰鬱な、呼んでいるようなあの猫の声。絡み付くようで、心がざわめくあの声。

 

 あんなものを聞き続けていたら、心が参ってしまう。

 

 だから、私は振り払いたいと思った。

 

 大事な大事な年下の先輩を、守りたいと思った。

 

 だから、息を吸い込んだ。

 

 不吉な声を、塗り替えてしまうために。

 

 伴奏もなく、楽譜もなく。記憶に残ったあのメロディーと、記憶に残ったあのフレーズに、ありったけの思いを塗り込めて。

 

「――――――」

 

 私は……そのメロディを口ずさんだ。

 

 

 

 

 軽やかで、弾むようなメロディ。

 

 友愛と親愛、信頼と激励。そんないろんな感情を織り混ぜた、不確かな詩。

 

 ――『コッコロ』の歌。

 

 歌詞なんてわからない。何度か聞いたものを真似ているだけ。きっとあちこち間違っている。

 

 だけど。

 

”親愛なる小さなあなたへ”

 

 そう心に思い描くと、間違っているはずの詩が、どんどんメロディにフィットしていく気がする。

 

「……アニーさん?」

 

 落ち込んでいたアリスちゃんが、顔を上げる。

 

 一体何事なのかと、私の顔を見上げている。

 

(大丈夫)

 

 そう顔に映し出して、笑ってみせた。

 

 何も心配することはないのだと、元気づけた。

 

 だってこの歌は『コッコロ』。

 

”親愛なる小さなあなたへ”

 

 その気持ちだけは、絶対に変わらないんだから。

 

 

 歌い終わると、アリスちゃんがぱちぱちと手を叩いた。

 

「でっかい凄いです、アニーさん」

「そ、そんなことないよ」

 

 そう素直に褒められると気恥ずかしい。耳コピーで、わからないところはハミングでごまかすような、そんな拙い『コッコロ』だったのだけれど。

 

「そんなことはないです。もちろんアテナ先輩と比べれば段違いですけど、それでも……なんだか、その、元気が出て来ました」

 

 俯いてぼそぼそっと言うアリスちゃん。

 

 正直、凄く嬉しい。『コッコロ』を歌って元気になったなら、それは最高の褒め言葉だ。胸の奥がじーんと熱くなる。

 

「ところで……ここはどこなんでしょうか」

 

 周囲を見回すアリスちゃんの言葉が、私の浮ついた心に冷や水を浴びせた。

 

 気が付くと、舟はどんどん水路の奥へと流されていた。

 

 ここは、どこだろう。知らない水路の奥。

 

 辺りはすっかり闇が立ち込め、街頭がぽっぽっと光を投げかけていた。

 

「暗くなっちゃったね」

 

 そう呟きながら耳を澄ましても、あの不吉な猫の声は聞こえない。

 

 ……何だったんだろう、あの声は。どこかで聞いたような、酷く心を不安にさせる声だったけれど。

 

「とりあえず、水の流れに沿って行けば、大運河には出るよね……」

 

 そう呟いて、櫂を繰り始めた、その時だった。

 

「まぁ!」

 

 どこか脅えるように鋭く鳴いて、まあ社長がアリスちゃんに飛びついた時、私はそれに気づいた。

 

 水路の脇、細い小道が奥へと続いているそんな角に、一匹の黒猫が座っている事に。

 

 じっと、こちらの方を見つめる、黒い猫。

 

 闇色の毛皮が艶やかにきらめき、形よく丸い双眸は、感情を伺わせない光で、私達を見つめている。

 

 凄く奇麗な毛並みなのに、どこかそら恐ろしさを感じさせるのは何故なのだろう。

 

「……あなたは」

 

 そして、私はその猫に見覚えがあった。

 

 最近では、グランマの家の庭先で。

 

 そして古くは、このネオ・ヴェネツィアのあちこちで、私はこの猫に出会っていた。

 

 グランマの庭先では、普通の猫だと思った。

 

 だけど今は、纏う気配が違う。これは普通の猫じゃない。火星猫だからという訳でもない。

 

 どうして忘れていたんだろう。

 

 この猫は……この猫こそは……!

 

「え、この音……?」

 

 その時、アリスちゃんの呟きが、私の思考を寸断した。

 

 舟から立ち上がり、黒猫を……いや、もっとその先、小道の闇の更に奥を見つめている。

 

 何かを聞くように、耳を澄ませて。

 

 私には聞こえない何かを、聞き取ろうとして。

 

「アリスちゃん、何を……?」

「聞こえないんですか、『コッコロ』のオルガンです!」

 

 そう言うアリスちゃんなのだけど、実際私にはまったく聞こえていない。

 

 また岸辺に目を向ける。そこにいたはずのあの黒猫は、僅かな間に忽然と姿を消していた。

 

「行きます、アニーさん!」

 

 船縁を蹴って、アリスちゃんが飛び出した。恐らく、私には聞こえない音を頼りに駆けだしていったのだろう。

 

 明らかな異常事態。私には聞こえないのに、アリスちゃんには聞こえている。しかも、あの黒猫。誘う声。

 

 間違いない。

 

 これは、《サイレンの悪魔》の呼び声――!!

 

「アリスちゃん、待って!!」

 

 舟をもやいに結ばなくては。ちらりとそんな思考が脳裏を過ぎったのだけれど。

 

 アリスちゃんを連れ戻すのが、絶対に先。

 

 迷っている暇はない。だから私も船縁を蹴って、小道の奥へと駆けだしたんだ。

 

 

 

 

 小道の奥は、古い広場になっていた。

 

 外に通じる道があるのだろうか。手入れも十分でないようで、方々で石畳の隙間から、雑草が背を伸ばしている。

 

 広場を照らす光は、中天から照らすルナツーだけ。

 

 第二の月が照らす淡い光の中に、合計三つの影が見えた。

 

 一つは、もちろんアリスちゃん。

 

 そしてもう二つ。それは広場の真ん中、かつて彫像が建っていたのだろう、そんな台座の上と、そのすぐ側。

 

 そこに、大きな鞄を片手にした、初老くらいの男性の姿と。

 

 台座の上に、喪服の上に毛皮のコートを纏った、女性の姿が見えた。

 

「《サイレンの悪魔》……!!」

 

 思わず言葉の端が震える。かつて、私を惑わせ、何処かに連れ去ろうとした魔物。私の心を読み、惑わせ、歪ませた張本人。

 

 それが今、アリスちゃんの前にいる。

 

 アリスちゃんを連れ去ろうというのだろうか。

 

 私と同じように、何処かに連れて行こうというのだろうか。

 

 許せない。それだけは絶対に認められない。

 

 だから、私は駆けだした。

 

(アリスちゃんを連れて、逃げる!)

 

 そう思って、立ち尽くすアリスちゃんの手を握って、引っ張って逃げようとしたのだけれど。

 

 その時、どこからか声がした。

 

”まあ、待ちなよ。折角だから少し話をしよう”

 

 弾かれるように、私は視線をその『声』の主に向けた。

 

 それは、男性の声だった。

 

 子供のようにも聞こえた。

 

 初老の男性のようにも聞こえた。

 

 そして、その『声』の主と思われたのは……。

 

 《サイレンの悪魔》の側に腰掛ける、大きな鞄の男性……ではなく。

 

 その開かれた大きな鞄の側、男性の手から吊された人形。

 

 長靴を履いた猫の人形から、聞こえていた。

 

”よくここまで辿り着いたね、アニエス・デュマ”

 

 男性の手が動き、優雅に礼をしてみせた猫人形が、そう語りかけてきた。

 

 

 どうやって喋っているのかはよくわからないのだけれど、あの人形が喋っているのだと、どういうわけか私には確信できた。

 

 そして……どういうわけか、その猫人形さんに、敵意がないということも、わかってしまったんだ。

 

 だから、私も問いを返した。

 

「……あなたは、誰ですか? 《サイレンの悪魔》の仲間?」

”仲間、かな。よくわからない。何しろ僕は、操り人形だから”

 

 男性の手の下で、人形さんが踊る。でも、そうは言うのだけど……男性が人形さんを操っているのか、それとも人形さんの方が男性を操っているのか、見た限りではどちらなのか判然としない。普通に考えれば、人形が人を操るなんてことはあり得ないのだけれど……。

 

 何しろ、この人形さんは《サイレンの悪魔》と一緒にいるのだし。

 

 操られているというには、余りにも生き生きと動きすぎている。

 

「どうして、私達を誘い出したんですか? また何処かに連れて行く気ですか?」

 

 問いに険が混じるのはしょうがない。今目の前にいる猫人形さんに敵意がないのはわかるのだけれど、その側にいて、じっと立ち尽くしたままの《サイレンの悪魔》の存在が、私達を狙っているようで、不安で仕方がない。

 

”うん。……歌がね。歌って欲しいと願っていたから”

 

 私の問いかけに、猫人形さんは、そうよくわからない言葉で応えた。

 

”君たちが捜した。歌が歌われたがっていた。だから、僕が取り持とうと思ったんだ”

 

 よくわからない。何を言っているのだろう。

 

「あの、仰っていることがわからないんですけれど」

”君たちが歌を捜しているように、歌もまた君たちを捜していたということさ”

 

 そう言って、猫人形さんはくるりと一回転して見せた。

 

「歌が……私たちを?」

”そう。受け継ぐものがいなければ、歌は消えてしまう。歌に乗せられた想いも。それは、歌自身にとっても悲しいことだからね”

 

 そうなのだろうか。そうかもしれない。歌は誰かに聞いてもらうものだと、アテナさんも言っていた。だとしたら、誰からも忘れられ、誰にも歌われないとしたら、それはとても歌にとって寂しく、悲しいことだろうと思う。

 

”だから、僕が仲立ちをしようと思う。だから、君達には約束をしてほしい”

「約束……?」

”そう。簡単なことだよ。君達があの歌を引き継いで、未来に伝えてくれればいい。あの歌の、一番正しい歌い方と、そこに込められた想いを”

 

 猫人形さんはそう言って、くるりと回って見せた。

 

「でも、そう言われても……どうやって引き継いだらいいのか」

”大丈夫、聞いてくれるだけでいい。大丈夫、聞けば、どういうことなのかはすぐにわかるよ”

 

 自信たっぷりに胸を張るような仕草を見せる、猫人形さん。そう言われては、私も頷くしかない。隣を見れば、アリスちゃん同じようにこくりと頷いて見せている。

 

 ……それに、何故だろう。その時の私には、猫人形さんの頼みにノーを言うなんて、最初から思いつきもしなかった。

 

 それは、何故なのかと言えば……きっと。

 

 彼には、恩を返さないといけない。そんな想いが、心のどこかから沸き上がってきたから、なのだと思う。

 

”じゃあ、聞いておくれ。これが……一番古い『コッコロ』の歌だよ”

 

 そう言って、猫人形さんが上に手を差し上げると。

 

 紳士の腕が、鞄のハンドルに手を伸ばして、くるくると回す。

 

 すると、その腕のリズムに合わせるように、鞄が前奏を奏で始めた。

 

 なるほど、あの鞄は自動オルガンなんだろう。

 

 そして、あの時の岸辺で奏でられていたのは、この鞄のオルガンから紡がれたものだったのだろう。

 

 だって、自動オルガンが奏でるその音は、あのビデオで聞いた旋律、まるでそのものだったのだから。

 

 そして、前奏が終わった時。

 

 あの、《サイレンの悪魔》が。

 

 透き通るように涼やかな声で、『コッコロ』のメロディを紡ぎ始めたんだ。

 

 

 それは、アテナさんが歌うものと、少し違うようだった。

 

 いくつかのイントネーション、いくつかの単語が、アテナさんが歌うものと微妙に違っているように思える。

 

 弾むようなメロディ。転がるようなテンポ。それは、アテナさんの『コッコロ』と何もかもが同じように思えた。

 

 けれど。

 

 同時に私は思った。

 

 これは違う、と。

 

 歌詞は正しいかも知れない。

 

 旋律も正しいかも知れない。

 

 だけど……これは違う。

 

 『コッコロ』を『コッコロ』たらしめる、一番大切なものが欠けている。

 

 その思いは、歌が紡がれれば紡がれるほど、確かなものになっていった。

 

 そして、伸びやかに、《サイレンの魔女》の歌が、溶けて消える。

 

 きっとそれは、素晴らしい腕前だったろう。

 

 それは、多分《天上の謳声》であるアテナさんと比べても遜色無い。

 

 だけど。

 

”……どうだい?”

 

 そう、猫人形さんが問いかけるのに、私はある種の確信を持って……首を振った。

 

 そして、私の確信が正しかった事を証明するように……。

 

 猫人形さんは、おどけるようにくるりと回って見せたんだ。

 

 ――急に、周囲の闇が深くなった気がした。

 

 いや、気のせいじゃない。ルナツーの光が遠くなっている。建物の背が伸びたように、光が遠く、闇がどんどん深く、濃くなってゆく。

 

 幻覚だろうか。目の前の猫人形さんや、《サイレンの悪魔》が見せているのだろうか。

 

 そして、猫人形さんは、くるりと振り向くと、男性が開いた鞄の中に飛び込んでしまう。

 

 まるで、もう話は終わりだ、とでも言わんばかりに。

 

 いや、きっとそうなんだろう。彼らが伝えたいことは、きっともう伝え終わってしまったんだ。

 

 だから、彼らは帰ろうとしている。本来居るべき場所に。

 

「ま、待って、まだ聞きたいことが」

”もっと詳しいことを知りたければ、図書館の稀書棚から、『ひまわり』という本を探すといいよ”

 

 鞄の中から手を振る猫人形さん。その手を覆い隠すように、鞄の口が閉められる。

 

 そして、男性は私達の方に頭をぺこりと下げると、《サイレンの悪魔》と一緒にくるりと振り向き、闇の中に溶けるように遠ざかっていった。

 

 それを、私たちは見送ることしかできなかった。

 

 それは、身体が思うように動かなかったのも一因ではあったけれど、それ以上に。

 

 ――これ以上追いかけたら、多分還ってこられなくなる。

 

 そんな予感がしていたから、私達は追いかけなかったんだと思う。

 

 そのかわり……私は、一つ問いを投げかけた。

 

「……ねえ、《サイレンの悪魔》さん?」

 

 闇の中に溶け消える寸前、《サイレンの悪魔》は驚いたようにこちらを振り返った。

 

 その表情は、暗いヴェールに包まれていてよくわからなかったけれど。

 

「あなたは、どうして私達に関わるんですか?」

 

 そう、私は問いかけた。

 

 どうして、私達を連れ去ろうとするのか。

 

 どうして、それに失敗していながら、また姿を表したのか。

 

 どうして、私達を助けてくれるのか……。

 

 《サイレンの悪魔》は、結局何も答えず、闇の中にすっと姿を消した。

 

 その様を見送って、私はふと気が付いた。

 

 それは、《サイレンの悪魔》の背中が、不思議なくらい小さく感じられたからかも知れない。

 

 もしかしたら、彼女は。

 

「――寂しいだけ、なのかも」

 

 そう、呟いた私の声が。

 

 その不思議な体験の、私の最後の記憶だった。

 

 

 

 

「……ニーさん、アニーさん」

 

 ゆさゆさと世界が揺れて、私の意識はまどろみの中から浮かび上がった。

 

「おかあさん、もうちょっと、あと五分……」

「何を寝ぼけてるんですかアニーさん、風邪ひきますよ!」

 

 ぐにっと頬を引っ張られる痛みで私の意識は覚醒し、驚き見開いた目の前には、ぶんむくれたアリスちゃんの顔があった。

 

「……あれ、アリスちゃん? ……ふ、ふぇっ」

 

 言葉を出そうとして、一緒にくしゃみが飛び出しそうになるのを無理やり飲み干した。寒い。身体が冷えきっている。

 

 周囲を見回して、自分が舟の上に横たわっている事に気づいて、慌てて跳び起きた。一体いつの間に眠っていたんだろう。

 

「やっと起きました。でっかい寝坊助ですね」

 

 アリスちゃんが呆れのため息を吐き出す。いやはや、面目ない。我ながら、どうしてこんな所で寝入っていたんだろう。

 

 そう思って周囲を見回す。空はすっかり闇に閉ざされていて、ルナツーの周囲にきらきらと星が瞬いている。その月明かりと少しばかりの街灯に照らし出されるその建物は……。

 

「……家?」

「……ですね」

 

 私の呟きにアリスちゃんが同意する。そう、目の前に見える古めかしい建物は、紛れも無くオレンジぷらねっとの社屋。複雑怪奇な水路の果てにある、私達の家だった。

 

「……アリスちゃんが漕いできたの?」

「……アニーさんではないんですか?」

 

 そのやりとりで、お互いが漕いできたのではないのがわかる。つまり、私達は眠ったまま誰かにここまで運び込まれたということで。

 

「ひえぇ……」

「いろんな意味で危ない所でした」

 

 こんな無防備で、何か事件に巻き込まれたらどうすればいいのか。まったくとんでもない。私達はお互い顔を見合わせ、一斉に安堵の息を吐き出した。

 

 

 ともあれ、私達は自分たちの幸運に感謝しつつ、舟を片付け、部屋に戻ることにしたのだけれど。

 

「……そうだ、『ひまわり』!」

 

 アリスちゃんに舟を任せ、二人分の櫂をスタンドに戻した所で、私は記憶を取り戻した。

 

 あの猫人形さんに聞かされた、重大なヒントを。

 

”もっと詳しいことを知りたければ、図書館の稀書棚から、『ひまわり』という本を探すといいよ”

 

「……でっかい具体的ですね。夢にしては」

 

 その事をアリスちゃんに話すと、彼女もまたいつものでっかい真剣な顔を見せた。

 

「今からなら……まだ図書館は開いています。急げば間に合うかも知れません」

「うん……どうする?」

「でっかい話してる時間が惜しいです。行きましょう、アニーさん!」

「……う、うわわっ」

 

 ぐいっと手を引かれて、私はアリスちゃんに合わせて駆け出した。

 

 そう、アリスちゃんが必死になるのもわかる。

 

 だって、これはきっと、『コッコロ』に繋がる最後のヒント。これを逃したら、もう二度とあの歌に手が届かないかも知れないのだから。

 

 だから、私達は走った。夜のネオ・ヴェネツィアの町を。

 

 

 ――そして、私達はその本を手に入れた。

 

 

 

 

「それで、結論としてどうするの?」

 

 三日目の早朝。いつもの明け方、いつもの待ち合わせ場所に揃った私たち。藍華さんが、早速そう問いかけてきた。

 

 そう、今日が分水嶺。『コッコロ』を諦めるか、それとも初志を貫徹するか。その瀬戸際なんだから、それも当然だ。

 

 灯里さんも、どこか心配そうにこちらを見ている。諦めるのが嫌いなアリスちゃんと私であるから、『コッコロ』を諦めるとしたらそれは酷く落ち込むことに繋がる。昨夜別れる前、すっかり憔悴しきった私達の姿を目にしていた事でもあるし、心配されるのも無理はない。

 

 だけど、私達は今、自信満々だった。

 

 アリスちゃんがこちらを見る。私は目配せをして、アリスちゃんに言うよう促す。こういうのは、やはり彼女が言う方が似合う気がするんだ。

 

「はい、私達は、このまま『コッコロ』を練習します」

 

 きっぱりとしたアリスちゃんの答え。それは予想外だったのか、藍華さんと灯里さんが目を丸くする。

 

「ええっ!?」

「はへっ? でも歌詞は見つからなかったんでしょう?」

「はい、でっかい見つかりませんでした」

「じゃあ……」

「でも、わかったんです。あの歌の正体が!」

 

 興奮気味に、私は一冊の本を取り出して見せた。

 

 それは、随分と古い本だった。保存処理が施されていなければ、とっくに風化して読めなくなっていただろう。本来なら持ちだし厳禁、図書館の倉庫の奥で眠っているべき書物だったし……実際あと数日で、倉庫の奥、保管庫行きの予定だったのだという。

 

 それは、『ひまわり』という題名の本で……そこには、『コッコロ』や、アテナさんが歌う様々な舟謳についての謎の答えが記されていたんだ。

 

 

 その本は、とても古い時代、一人の歌姫を懐かしんで書かれたものだった。

 

 その人は、歴史に名を残す程有名ではなかった。自然が大好きで、自然や風景、それに包まれる喜びや優しさを歌に乗せる、そんな普通の歌い手だった。

 

 その人……彼女が特別なのは、今私達ウンディーネが歌っている舟謳……その中でも有名な幾つかを、最初に歌っていたのが彼女だった、ということ。

 

 『コッコロ』『バルカローレ』『ルーミス・エテルネ』。そして……私達を象徴する『ウンディーネ』ですら、最初の歌い手は彼女だった。

 

 彼女は、それらの歌のため、言葉を作った。歌のための言葉。歌うためだけの言葉。意味が通じなくても、歌い手の思いを届けるための、不思議な言葉を。

 

 そして、彼女はその言葉の歌詞を、誰にも明かさなかった。彼女はそんな造語の歌の歌詞を誰にも見せずにいた。

 

 誰かに『どんな歌詞が正しいのか』と聞かれた時、彼女はこう答えたのだという。

 

「――聞いた人が、そうだと思ったものが、この歌の歌詞です」と。

 

 後に、彼女は若くして病に倒れ、多くの人に惜しまれながらこの世を去った。

 

 もちろん、彼女は結局自分のいくつかの歌の歌詞を明らかにしないままだったので……つまり、それらの歌の歌詞は、永遠に失われたままになってしまったんだ。

 

 だけど、彼女の死後、彼女の歌が失われる事を悼んだ人達が、彼女の歌の記録を集めて、音楽データとして歌集をまとめ上げた。

 

 それを引き継いだのが、この『ひまわり』という名の本。それは彼女の死を悼んで作られた音楽集の名前でもあったのだという。

 

 

「じゃあ、『コッコロ』の歌詞って……」

「はい。結局耳コピーするしかないんです」

「ほぼ唯一の歌い手のアテナ先輩が声を出せない以上、昨日のあのビデオが頼りです」

 

 私が頷く。傍目にも力強さを感じられるものになったと思う。前途は危ういけれど、それでも前に進むことに確かな標が手に入ったのだから。

 

「いいの? 耳コピーだけで、曲の完成度は……」

「はい、でっかい大丈夫。私達は、素敵な『コッコロ』と、正しいのに素敵じゃない『コッコロ』の両方を聞き比べてきましたから」

 

 自信満々で、アリスちゃんも頷く。そう。私達は聞き比べてきた。二つの『コッコロ』を。そして、あの歌を歌うときに必要なものが何であるのか、はっきりと掴んできたと思う。

 

 そんな私達の様子を見ても、まだどこか不安そうな藍華さんが唸った。

 

「でもねえ……」

「いいじゃない、藍華ちゃん」

「灯里?」

「歌は想いを引き継ぐもの。紡ぐ言葉が不確かなものだったとしても、紡ぐ想いが確かであれば、それはきっと心に届く……そういうことなんだよね?」

 

 そう言って灯里さんは、アリシアさんを彷彿とさせる笑みを見せてくれた。包み込むような、凪の海そのもののように、大きくて優しい笑みを。

 

 そんな笑顔の前で、私とアリスちゃんは顔を見合わせて、

 

「はいっ!」

「でっかい、大丈夫です」

 

 そう、呼吸を合わせて是を返した。

 

「……やれやれ、まったくもう。それじゃ、今日は『コッコロ』を集中的に練習するわよ。折角だから姫屋の施設を使いましょう」

「え、良いんですか? 藍華さん」

「一日中歌の練習をするのに、こんな肌寒い外でやったら一発で喉が潰れるわよ。明日が本番なのに、喉を大事にしないでどうするの。私の練習も兼ねるんだから、姫屋の私が姫屋の施設を使って何も悪いことはないわよ」

 

 ぷいっと顔を背ける藍華さん。そんな様子に、灯里さん、アリスちゃん、私の三人は、揃ってぷっと吹き出した。

 

「それじゃ、れっつらゴー!」

「おー!」

「でっかいゴーです」

「ところで灯里、恥ずかしい台詞禁止!」

「えぇ~~~」

 

 

 

 

 そして私達は、姫屋のウンディーネが発声練習などに使っているという建物で、猛練習を開始した。

 

 幸い今日は他のウンディーネは使う予定がなかったようで、時折姫屋のシングルやプリマが顔を出すのを除いては、ほぼ貸し切り状態で練習をすることができた。

 

 ちなみに、この建物を借りる時、許可を取るために藍華さんが晃さんに頼み込んでいたのだけれど。

 

「晃さん、発声練習場使いたいんですけど」

「何だ薮から棒に……ああ、そういえば聞いたぞ。皆でアテナの舟謳を練習してるんだってな?」

「あ、はい。そうですけど」

「……そうか。よし、難しい話だが大いに頑張れ。後で私にも練習の成果を聞かせるように」

「……えー」

 

 なんてやりとりがあったとか。つくづく、噂の広まるのは早い。特に女の子所帯のウンディーネ業界では、噂のネットワークは光より早いと言われる。

 

 そうして考えると、競合他店の姫屋に噂が届くということは、我らがオレンジぷらねっとはそれ以上に情報が広まってるんじゃないだろうか。何しろ私はともかくアリスちゃんは有名人だ。注目度はほかのウンディーネとは比較にならない。

 

 すると、もう既にアテナさんには、私達が『コッコロ』を練習しているという話が伝わっているのが自然だと思う。だとしたら、私達の秘密の大作戦は……。

 

「すわっ、アニー! ぼっとするの禁止!」

「わひっ……ご、ごめんなさい!」

「謝る前に次行くわよ! 今日中に形にしないといけないんだから!」

「でっかい頑張りましょう、アニーさん! 灯里先輩もしゃんとしましょう!」

「ひぇ~~~~っ」

「はひぃ~~~~っ」

 

 ……とまあ、こんなあんばいで。

 

 朝からの練習は、太陽が中天に上り、地平に沈むまで続いた。

 

 

 そして、三日目の夜が明けて。

 

 準備不足も、覚悟不足も一顧だにしない感じで。

 

 なんの情け容赦もなく、トリアンゴーレ実習当日の朝がやってきた。

 



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Silent Seiren 06 不思議なお客様

 ところで私はひとつ、気になることがあった。

 

 それは、トリアンゴーレ実習のシステムについての、一つの大きな疑問だ。

 

 トリアンゴーレは二槽の舟を駆り出し、多くのお客を一度に捌く団体向けのサービス。プリマの舟とシングルの舟を一対で使用するのが特徴だ。

 

 一応制度上は、プリマがシングルの指導やフォローをするということで、これだけでも成立しなくもない。

 

 でも実際は、プリマは自分の舟が手一杯で、シングルの指導にまでは手が回らないのが実情……らしい。

 

 じゃあ、シングルを指導するのは誰なのか、といえば……そこには専門の指導員が割り当てられる。

 

 指導員には体力的、年齢的に現役を退いたウンディーネが就くことが多く、オレンジぷらねっとでは座学や技能講習を行う役割として、専任指導員が数名常勤している……のだけど。

 

 私の疑問は、その指導員に、誰が来るのかということだった。

 

 だった……んだけど。

 

 トリアンゴーレ実習の朝、桟橋に集まった私、アリスちゃん、アテナ先輩は、揃って複雑な表情を浮かべていた。

 

 呆気に取られているのが、アリスちゃん。私も多分似たようなものだろう。一応事情を知っていたらしいアテナ先輩は、困ったようなおかしいような、微妙な苦笑いを浮かべている。

 

 そして、それらの困惑の視線の先には。

 

「さて、今日の実習には、指導員として私が乗船します」

 

 そう、オレンジぷらねっとの指導員用制服に身を包んで、きりっと眼鏡を直しながら。

 

 《鋼鉄の魔女》アレサ・カニンガム管理部長が、そこに立っていたんだ。

 

 

 

 

「では、アニエス・デュマはこちらに。アテナ・グローリィはそちら、アリス・キャロルはアテナの補佐に回りなさい。良いですね?」

 

 きびきびと指示を下すアレサ管理部長。さすがは事実上オレンジぷらねっとのウンディーネを牛耳る鋼の女。指示の素早さもさることながら、有無を言わせぬ説得力というか、威圧感は別格だ。

 

 ……いや、問題はそういうところではなくて。

 

 アレサ管理部長は確かに飛び抜けて優秀なウンディーネだったと聞いている。指導員としての経験も豊富で、そもそもトリアンゴーレの発案者。彼女をおいて、トリアンゴーレの指導員に相応しい人はいないだろう。……だろうけど。

 

「ア、アテナさん、どういうことなんですか、これ」

 

 小声で、白い舟に足をかけたアテナさんに耳打ちする。一体何がどうして、アレサ管理部長が出張って来ることになったのか。知っていそうなのは本人を除けばアテナさんくらいだ。

 

「…………」

 

 ……なんだけど、アテナさんは困ったように笑うだけ。ああそうか、まだアテナさんの声は戻っていないんだ。

 

「アテナ先輩、喉の様子はまだ……?」

 

 アリスちゃんがそう尋ねるけど、アテナさんは目を閉じてふるふると首を振るばかり。《天上の謳声》の復活までは、まだしばらく時間が必要なようだ。

 

「アリス・キャロル、アニエス・デュマ。二人とも無駄話はやめなさい。元々アテナが担うべき仕事をこんな形に変えてしまったのだから、お客様に最大限誠意を尽くすのが当然。この上遅刻でもしたら、いよいよ申し訳が立たなくなるわよ」

 

 私達を一喝しつつ、状況の説明もこなすアレサ管理部長。なるほど、予定をこちらの都合で変更してしまったお侘びの意味も込めて、現在のオレンジぷらねっとの可能な限り最高の面々でおもてなしする、ということなのか。

 

 ……そう考えると、要であるシングルが私で、プリマのアテナさんが喋れないというのは、不安要素としてこの上ない。

 

「でっかい責任重大です、アニーさん。精一杯頑張りましょう」

 

 よしっと拳を握って気合を入れるアリスちゃん。しかし、その気合が空元気であることは、声の端々が震えている事からも明らかだ。

 

 ――アリスちゃんは何だかんだ言ってもペア。後輩とは言え、シングルである私が頑張らなきゃ。

 

 そう考えると、自然と肩に力が入ってしまう。――よくないとわかってはいるのだけれど、どうしても緊張するのは避けられない。

 

 そんな、あまりよろしくない気負い方をする私達を、アレサさんとアテナさんが、穏やかな目で見つめていた。

 

 

 

 

 

 お客様は、時間どおりにやってきた。

 

「オレンジぷらねっとのウンディーネさんですね。今日は宜しくお願いしますよ」

 

 そう言う紳士は、アルバート氏と名乗った。今回のツアーの代表で、幹事さんらしい。今回集まった面々は、同好の志とその親戚筋で集まったものなのだという。

 

「うわー、火星猫の子供だ!」

 

 まぁ社長を見て快哉を上げているのが、アルバート氏の息子のアーサー君。ジュニアスクールの上級生くらいの子で、耳の形がアルバート氏にそっくりだ。そして、そのアーサー君の後ろで、アルバート氏の奥さんであるアイリーンさんが、今にも駆け出しそうな息子の肩を掴んで押し止どめている。

 

「またお世話になるのを楽しみにしていたの。宜しくお願いするわね、可愛いウンディーネさん」

 

 奥さんの隣でそう言ってににこにこと微笑んでいるのは、アマランタさんという老婦人。こちらはアルバート氏の一家ではなく、同好の志で集まっている人らしい。もう一人、ビデオカメラを片手にした恰幅のいい男性アゼルさんも、同じ経緯でご一緒しているのだという。

 

 ……以上の五名が、今回私達がおもてなしするお客様というわけだ。

 

 トリアンゴーレで捌くには、ちょっと少なめのお客様かな、と思う。プリマ舟には八人までは軽く乗れるのだし、プリマ舟に私達とお客様が乗り合って、まだ余裕がある……と思うのだけど。シングルが櫂を握る舟に、限界までお客様を乗せると危険だから、とかそんなところだろうか。

 

 しかし、アルバートさん一家はともかく、アマランタさんとアゼルさんが加わると、ちょっと不思議な顔触れになる。一体どういう経緯でこの面々が集まったのだろう。

 

 それに……何だろう。アルバートさんの顔を見ていると、どうも引っ掛かる。どこかで会ったことがあるような、ないような……?

 

「では、アルバートさんと奥様、それから息子さんはあちらの白い舟へ、アマランタさんとアゼルさんは、そちらの黒い舟にご乗船ください」

 

 そんなことを考えた瞬間、私の顔を眺めていたアレサ管理部長が、さっとメンバーを二つに分けてしまった。

 

 まあ、私の考えていた編成と大体同じだったから特に不満はないのだけど……もうちょっとウンディーネの自主性を尊ぶべきじゃないのかなあ?

 

「それじゃ、良いかしら?」

「あ……は、はい。お待たせいたしました。お客様、お手をどうぞ」

 

 穏やかに微笑むアマランタさんに、私は慌てて手を差し伸べる。見苦しくないように下半身で舟を安定させ、片手は桟橋の柱へ。そして手はお客様の手を柔らかく、でも決して手放さないようぎゅっと握る。藍華さんと一緒に、晃さんにみっちり仕込まれた心得のお陰で、自然に身体が動いてくれた……と思うのだけど。

 

「…………」

 

 背後から突き刺さる視線。出来る限り気配を抑えてはいるようだけど、それでも滲み出る圧倒的な威圧感は、同乗するアレサ管理部長のものだ。

 

 ……うう、想像以上にやりにくい。冷や汗がじんわりと滲んでくる。

 

「で……ではお客様、お手をどうぞ」

 

 私の方がアゼル氏の手を取っている向こうで、アリスちゃんの方の舟も乗船を始めていた。イントネーションからして思わず『でっかい』の『で』がこぼれ出てしまったんだろう。とっさに言い直して、少し緊張気味の笑顔でアルバート氏の家族を船上に誘う。

 

「あれ、ウンディーネのお姉ちゃん、ペアなのにプリマの舟漕ぐの?」

 

 そして最後に、そっと立ち上がったアテナさんに手を取られ、クッション敷きの椅子に腰掛けたアーサー君が、そうアリスちゃんに問いかけた。

 

「今日は特別に、私が御世話することになりました。どうぞ宜しくお願いします。……でも、お詳しいんですね?」

「あったり前だよ、だってうちは……もが」

「ははは、息子が失礼しました」

 

 自慢げにするアーサー君の口を押さえて、アルバート氏が苦笑いする。……何か、アーサー君がまずいことを言いかけたんだろうか。

 

「アニエス・デュマ、それでは行きましょうか」

 

 そんな戸惑いを遮るように、アレサ管理部長が宣言した。そうだ。お客様の時間を無駄にする訳にはいかない。

 

 さあ、覚悟を決めよう。ここからが勝負だ。アリスちゃんに目配せをするのは、「お互い頑張ろう」の暗黙のサイン。更にアリスちゃんのゴンドラで、まぁ社長を抱いて座るアテナさんが、無言のままに「頑張って」と微笑んでくれた。

 

 うん、元気が出てきた。私なら、私達なら絶対やれる。

 

 そんな意気を込めて、私は櫂を掲げた。

 

「それでは皆様、ゴンドラ発進いたします」

「発進いたします」

 

 私の宣言に続いて、アリスちゃんが櫂を水に差し込んだ。

 

 ゆっくりと、白い舟が水面を切り裂いて行く。

 

 それに続いて、私もゆっくりと舟を進めた。

 

 

 白と黒のゴンドラが、大運河を滑り出す。

 

 私とアリスちゃんのトリアンゴーレが、今、始まったんだ。

 

 

 

 

 初めてのトリアンゴーレは、アリス・キャロルが想像していた以上に何事もなく、穏やかに進行していった。

 

 最初はぎこちなかった二船の軌跡は、数分で普段の呼吸を取り戻した。主にアリスの手によるプリマ舟が前を、アニエスの手によるシングル舟が後ろを漕ぐ形だ。

 

 お客の希望でやや難易度の高いコースを進むこともあったが、それも事前の特訓が功を奏し、さほど詰まる事もなくクリアすることができた……アニエスが一度、岸に舟の横腹を掠めるという顛末はあったものの。

 

「どっちがシングルかわかんないね」

 

 とは、アーサー少年の無邪気な感想である。「いえ、そんな、私なんてまだまだ……」と言い繕ってはみたものの、恐らく背後のアニエスはしょんぼり顔を見せていたことだろう、と思う。

 

 ……実際は、アニエスは自分への恥ずかしさと、優秀な年下の先輩に対する誇らしさが入り交じった笑顔を浮かべていたのだが、前方を行くプリマ舟の漕ぎ手であるアリスに、それを知る由はない。ただ、アテナがどこか嬉しげに微笑んでいるのが見えたばかりだ。

 

 しかし。アリスは複雑な思考を覗かせる。一体どうして、自分が始終漕ぎ続けているのだろうか。もちろんアリスの性格上練習には一切手を抜いてはいなかったが、本当ならばプリマ舟はアテナが漕ぎ、アリスは観光案内や漕ぎのフォローを担当するものだと思っていたのだが。

 

 アレサが極めて自然にアリスに櫂を押し付けた上、アテナも当たり前のように助手席に腰を降ろしてしまったのだから仕方がない。

 

 もちろん、任されたからには全力を尽くすのがアリスの主義だ。迷うのも悩むのも、お客様を笑顔で送り出してからでいい。

 

 ただ、もう一つ、アリスには気になることがあった。

 

 それは、今アニエスの船上でにこにこと微笑んでいる、アマランタという女性の事だ。

 

 アリスは、彼女を知っていた。それはつい先日、ARIAカンパニーに現れたお客だった。それも、わざわざシングルである灯里を指名して、だ。

 

 見習いウンディーネの間には、いくつかの伝説がある。例えば『冬の先触れであるヴォガ・ロンガは、その成績がプリマ昇格試験の一環として評価される』とか『昇格試験を《水の三大妖精》のようなエースが担当するときは、事実上のクビ勧告である』などという話だ。

 

 その伝説の一つに、『プリマ昇格試験の直前、抜き打ち試験官が、シングルを指名して査定を行う』というものがある。突如入った灯里への指名に、藍華とアリスはまさしくそのお客が抜き打ち試験官なのではないかと騒いだことがあるのだ。

 

 結局アリス達の心配を余所に、灯里は自分なりにその抜き打ち試験官(と思われる人物)をもてなした。それをこっそりつけ回していたアリス達は、あちこち飛び回る意味不明な灯里の舟の挙動に首を傾げるだけで、そのお客が抜き打ち試験官であるか否かを見極めることはできなかったのだが。

 

 その時の抜き打ち試験官(と思われるお客)こそが、このアマランタという女性だった。あの時、灯里の舟を連れ回していた人物に間違いない(ちなみに、アニエスはその頃雑誌掲載の関係で多忙を極めており、抜き打ち試験事件についてはほとんど知らないはずである)。

 

 灯里は、アリスと藍華の追及に「楽しかったよ」と答えるだけで、肝心なところはぼかして語ろうとしなかった。そもそも灯里はかつて、同じく昇格試験絡みと噂されるヴォガ・ロンガで、夕方までたっぷり時間をかけてゴールするという大ボケをやってのけた娘である。灯里の感想はあてにならないし、未だアマランタの抜き打ち試験官疑惑は晴れていない。

 

 あの騒ぎから、せいぜい二ヶ月ほどしか過ぎていない。なのに再び、今度はアニエスの舟に彼女が乗り込んだ。それはつまり、仮にアマランタが抜き打ち試験官であるとすれば、彼女はアニエスの技量の査定のために舟に乗り込んでいるのではないのか。

 

 だとしたら大変だ。いきなりアニエスがプリマ昇格試験にリーチをかけているというのも驚きだが、何よりこの査定に失敗すれば、アニエスがウンディーネ失格の烙印を押されてしまう事すら考えられる。

 

 もちろん、冷静に考えれば思い過ごしであるとわかりそうなことだったが、元々アリスは思考が暴走しがちな娘である。疑念は瞬く間に確信となり、このトリアンゴーレは事実上、アニエスのプリマ昇格予備試験である、という思い込みへと発展した。

 

 ――それなら、私がでっかいアニーさんをフォローしないと!

 

 自分のためではなく、誰かのために。そう思って櫂を動かすと、不思議と肩の力が抜けて行く気がした。

 

 

 

 

「……思い出したっ!」

 

 そして一方で、アニエスもまた、ある事実に思い至っていた。

 

 それは、アリスの舟に乗るお客の一人、アルバート氏の素性である。

 

 アニエスは、そもそも特殊な経緯でオレンジぷらねっとに入社したウンディーネである。当初。姫屋に入社しようとしてアクアにやってきたアニエスだったが、書類の手違いで姫屋に新人を受け入れる空きがない、というトラブルに見舞われた。ゴンドラ協会にて対策を講じ、その結果、アニエスは入社先としてARIAカンパニー、姫屋、オレンジぷらねっとの三社を選択するという破格の幸運を手にする事ができたのだ。

 

 その時、アニエスはゴンドラ協会に顔を出し、様々な手続きを踏んだ。それはほとんどがコンピュータ処理ではない人力で、その過程で多くの協会理事や役員と顔を合わせる事になった。

 

 その多くの協会役員の中に、アルバート氏の顔があったのだ。

 

 なるほど、アルバート氏が協会役員ならば、「日頃からオレンジぷらねっとを贔屓にしてくれている」お客に違いない。

 

 そしてそんなアルバート氏が、アリスのゴンドラに乗っている。それは重要な意味を持っている。ゴンドラ協会のお偉方が、アリスについて何か査定をしようとしているのではないのか。例えばシングル昇格の予備試験、もしくはもっと重大な何かへの布石なのではないか……。

 

 ――それなら、私がアリスちゃんをフォローしないと!

 

 自分のためではなく、大好きなアリスのために。そう思って櫂を動かすと、もうミスなんてしないというような、不思議な安心感が心に広がっていった。

 

 

 

 

(……なんともはや、ね)

 

 そして、そんな弟子二人の様子を見比べて、アテナ・グローリィは吹き出したいのを必死に堪えていた。

 

 先行するプリマ舟で、漕ぎ手の対面に据わっているがために、アテナにはアリスの様子も、アニエスの様子も手に取るように眺める事ができた。

 

 だから、その視線や挙動から、一体何を気にしているのかは大体想像がついたし、それが一体どんな顛末で自らを奮い立たせるに至ったかも、概ね理解することができたのだ。

 

 そもそも今回のトリアンゴーレは、最初から仕組まれたものだった。

 

 仕組んだのはもちろん、アレサ・カニンガム。《鋼鉄の魔女》などとウンディーネ達から恐れられる彼女だが、実はアテナの細やかな気配りの半分ほどは、アレサの緻密な計画性の薫陶を受けて培われたものなのだ。

 

 アレサにもてなされた観光客は、しばしば『まるで魔法にかけられたよう』と形容した。お客を理解し、求めていることを分析し、それを縦糸にイベントや気配りの横糸を張り巡らせていく。その魔法じみた芸術性に、彼女はしばしば本来の二つ名をさしおいて、こう呼ばれていた。《鋼鉄の魔女》と。

 

 グランドマザーが無限の包容力ならば、アレサこそは究極のサービスを売り物とした最高のウンディーネの一人だった。

 

 あくまで自然体で全てを包み込んで行くグランドマザーに比べ、その方法論ゆえに費やすエネルギーが大きかったのは否めず、アレサはグランドマザーの記録に及ばぬままに現役を引退することになった。だが、それでもその知略とすら表現できる術的なもてなしは、間違いなくウンディーネの歴史に深く深く名を刻みこんでいる。

 

 その彼女が、数年ぶりに辣腕を奮った。それが、今回のトリアンゴーレだったのだ。

 

 お客の配置と選別は、アリスやアニーの接客履歴はもちろん、杏やアトラといった友人や、灯里や藍華といった同業他社の労務状況から人間関係までをも織り込んで行われた。

 

 アニエスの舟にアマランタを、アリスの舟にアルバートを配置したのもアレサの計略だった。あの二人は、お互いを支えようと思った時にこそ、最大の能力を発揮できる。そのため、見習い達の間で『抜き打ちシングル試験官』と噂されているアマランタと、ゴンドラ協会の人事課の人間であるアルバートを配置し、このトリアンゴーレがお互いの抜き打ち試験だ、という思考誘導を施したのだ。

 

 アリスはアニエスのために。アニエスはアリスのために頑張ろうと思う。そうやって、お互いの心にかかる負担を見かけ上分散させ、二人の、特にアリスの実力を最大限発揮させようと試みた訳だ。

 

 そして、それは今、確かに有効に作用しているようだった。アリスもアニエスも、当初からは考えられないほどに自然に周囲に視線を向け、お互いの足りない能力をフォローし合っている。

 

 引退して久しいアレサが現場に顔を出したのは、今回の計画を現場でコントロールするためだったのだが、もうそんな必要もないようだった。アリスとアニエスは、アテナやアレサが手を引かなくても、立派にやっていけている……もちろん、まだまだ完璧とは言い難いが。

 

(《鋼鉄の魔女》は健在ね)

 

 誰が言い出したのかも定かではないが、本来の二つ名は忘れ去られ、気が付けばこの徒名ばかりが一人歩きしてしまった。本人はこの名を唱えられると覿面に不機嫌になるのだが、彼女の機械仕掛けじみた緻密さと、それでいて魔法のように心を和ませるその仕掛けの巧みさは、確かに鋼鉄製の魔女というに相応しい。

 

(そういえば、彼女の本当の二つ名ってどうだったかしら……)

 

 直弟子ですらこの体たらくである。

 

 ともあれ、このままならば大きな問題もなく、トリアンゴーレを終えることができそうだった。アリスの適性についても、操船はもちろん、思った以上に接客や心遣いも堂に入ったものになっている。アニエスについては……まあ、シングルとしては及第点といったところか。

 

 だが、アテナは忘れていた。

 

 このトリアンゴーレの本当の目的が何であったのかを。

 

 

 

 

 

 アマランタの希望でいくつかの秘密スポットを巡り、日が傾きかけた頃。

 

 アテナは、アニエスの舟に乗るカメラマンのアゼルが、少し前から頻繁に時計に目を配るようになった事に気が付いた。

 

 アテナも時間を伺う。まだ予約時間の終わりには早い。気ぜわしく時計を見るには、まだ時間が早いのではないだろうか。

 

 そうして、アテナは気が付いた。アルバート一家とアマランタは、明らかにアレサが仕込んで選別した客だ。ならば、最後の一人であるアゼルにも、アレサがなんらかの役割を割り当てていないはずがないではないか。

 

 そう、アテナが思い至った瞬間だった。

 

 突如、アニエスの舟の上から、電子合成の呼び出し音が鳴り響いたのだ。

 

「……っ!?」

「ああ、すみません、電話のようです」

「はい、では舟を寄せますね」

 

 アゼルは懐から携帯電話を取り出し、頭をぺこぺこと下げる。アニエスがアリスに目配せをして、舟をなるべく騒がしくない岸に寄せる。

 

 その間もアゼルは、電話越しの相手と何やら話していた。内容は想像するしかないが、時間が過ぎるにつれ、アゼルの顔が緊張の色を濃くしてゆく。

 

「……わかりました、すぐに戻ります」

 

 そうしめくくって、アゼルは電話を懐に戻した。

 

「…………どうかなさいましたか?」

 

 概ね順調に行っていた観光案内に、突如舞い降りたトラブルの気配。こちらも緊張して、アニエスが問いかける。

 

「ええ、申し訳ないのですが……ちょっと仕事でトラブルが起きたみたいで、急いで宇宙港に戻らないといけなくなってしまって」

「ええっ!?」

 

 アゼルの申し出に、アニエスの声がうわずった。アリスの顔からも表情が消える。ここから宇宙港へは、普段でも少なく見積もっても二十分は堅いし、それに……。

 

「……今の時間だと、ここから宇宙港への直行水路は水位が上がってて使えないわね」

 

 アレサが、まるで予め用意していた台詞を述べるように口を挟んだ。

 

 その瞬間、アテナは理解した。これもまた、アレサの仕込みなのだと。

 

 アリス・キャロルに求められているものがなんであったのかを考えれば。

 

 ――彼女が、ただのトリアンゴーレを成し遂げるだけで終わるはずがなかったのだ。

 



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Silent Seiren 07 暗闇を拭う歌

「……このコースも駄目、今からだとこの橋で詰まっちゃう」

 

 水路に沿ってペンを走らせていた私ことアニエス・デュマなのだけど、今度こそと思った進路が赤い×印に衝突し、思わず唸り声を上げてしまった。

 

 急用ができたというお客様を宇宙港に送り届けるために、私達は地図を開いて、最短コースの選別を始めた。

 

 アレサ管理部長が言うように、今日、今の時間帯はとびきりの満潮だった。もちろんアクア・アルタには到底及ばない(らしい)けれど、これほど水位が上がると、水路のあちこちで、アーチ橋などが通行不能になる。

 

 以前の経験(晃さんに指導をもらった際、水位の上がった水路に閉じ込められた件)の反省から、水位に応じて通行が難しくなる橋にはチェックを入れてある。水性ペンで今使えないであろう水路をチェックしながら、宇宙港への最短コースを探るのだけど……。

 

「……でっかい駄目です、大運河に出るだけでも、北回りで島を大回りしないと」

 

 アリスちゃんが呻いた。アマランタさんお勧め(あれはどう考えてもお勧めされてる。何処に連れて行ってもワンランク上の素敵要素を見せられちゃシャッポを脱ぐしかない!)のスポットを巡っているうちに、随分厄介なところに入り込んでいたらしい。

 

 潮のピークはまだしばらく続くし、回り道をするしかないんだろうか。

 

「……お急ぎだっていうのに」

 

 唇を噛む。なんて間の悪い。さっきまでの浮ついた気分が霧散していくようだ。私達が緊張しているのがわかるのだろう、アーサー君も表情を曇らせているし、アテナさんも声を出せないままにおろおろしている。

 

 その時、《鋼鉄の魔女》が出陣した。

 

「仕方ないわ、アニエス・デュマ。このルートを通りなさい」

 

 水性ペンを私の手から奪って、アレサ管理部長は地図に水路を書き込んだ。

 

「…………え?」

「……そ、そんな!?」

 

 書き込まれたルートに、私は目を見開いた。アリスちゃんも戸惑いを隠せず、裏返った声を上げる。

 

 何しろ、アレサ管理部長が書き込んだルートは、一般の地図よりずっと詳しく水路が描かれたウンディーネ用の水路図でも省略されているような、細い細い水路を辿るルートだったのだから。

 

「管理部長、その水路は確か……」

「でっかい進入禁止、でしたよね?」

「私の責任の上で、特別に許可するわ。アニエス・デュマ、アリス・キャロル。私達は私達のできる限りで、役割を全うしましょう」

 

 そう言われては、私達に頷く以外は考えられなかった。

 

 

 

 

「…………こ、これを抜けるんですか!?」

 

 目の前の水路を覗き込んで、私は思わず裏返った声を上げてしまった。

 

 普段は進入禁止のその水路は、想像以上に狭く、薄暗かった。対向船との離合どころか、まっすぐ舟を進めるだけでもぎりぎり。空間の余裕は櫂一本分あるかどうかだ。

 

 これまで入ろうとも思わなかったからじっくり眺めなかったけど、これは本当に大変な水路だ。しかも地図を見るかぎり、途中に直角に水路が曲がっているところがある。ほとんどタイトロープを渡るようなコースだ。

 

 こんな水路、プリマでも青息吐息なんじゃないだろうか。

 

「でっかい、腕が鳴ります」

 

 操船ではプリマ級の腕前であるアリスちゃんは、冒険心を刺激されたようだけど、アリスちゃん、今私達はお客様を乗せてるんだから、あまり無茶はしないようにね。いや、もちろんわかってるとは思うんだけど。

 

「うぉー、すっげー、これがプリマのしょ……もがっ」

「ウンディーネさん、頑張ってくださいね」

 

 妙にはしゃいでいるアーサー君を抑えて、アリスちゃんに声援を送るアルバート氏。アーサー君が何か喋っていたような気はするけど、ひとまずよく聞こえなかったし、目の前の水路に集中することにする。

 

「すみませんね、ウンディーネさん。無理をさせてしまって」

「いえ、お客様のお役に立つのが私達ウンディーネですからっ!」

 

 アゼルさんの申し訳無さそうな謝罪に、そう自分を奮い立たせる。そうだ、やれることで、やりたいことで、やらなければいけないことなら、やり遂げる以外、選択肢はない。

 

「では、アニーさん。私が先に」

「う、うん、頑張って、アリスちゃん」

 

 アリスちゃんのプリマ船が水路に進入するのを見送る。私が深く深呼吸をすると、アマランタさんがこちらを見上げ、元気づけるようににこりと微笑んだ。一方アゼルさんの方は、熱心にカメラでプリマ船の方を撮影している。私は彼のカメラが揺れないように気をつけつつ、船にアリスちゃんの後を追わせた。

 

 

 

 

 アテナ・グローリィが期待する以上に、アリスは見事に操船して見せていた。

 

 まるで水の一部となったように、するりと船を水路に滑り込ませる。水の流れを感じ取り、揺らがず、乱さず、真っすぐに水路を進む舟。数センチしかない隙間を確実に維持し、近づけば軽く岸を蹴り、遠ければ櫂で引き寄せる。その流れにはほとんど乱れがない。

 

(やっぱり、アリスちゃんは凄いわね)

 

 このような無茶な見極めを行うことには不安もあったが、今のところアリスはアテナの期待を数段上回る技量を発揮していた。自分がプリマに昇格したころ、今のアリスほどの操船技術を持っていただろうか。正直、及んでいなかったような気がする。

 

 そもそも、アテナから見れば、アリスは今でもとても優秀なウンディーネだ。今まで数人のペア・ウンディーネの昇格試験を受け持ってきたが、師匠としての贔屓目を別としても、彼女たちの誰よりも、今のアリスは優秀であると思っている。

 

 だが、優秀であるということは、彼女にかかる期待が大きいということでもある。そもそも今こうやってペアの身でありながらトリアンゴーレで、しかもプリマ役を割り当てているのも、結局のところその大きすぎる期待が故のことだった。

 

 今のアリスは感じ取っているだろう。オレンジぷらねっとの人間、いやそれ以外の人々も含めてが、アリス・キャロルに抱いている期待を。

 

 水先案内人の歴史に燦然と輝く、《白き妖精》アリシア・フローレンスの持つ伝説、史上最年少プリマ昇格。アリス・キャロルに求められているのは、その伝説の継承、あるいはその凌駕。

 

 このまま鍛え続ければ、きっとアリスはアリシアの伝説を継承するだろう。アテナとしては、それで十分過ぎるほどだった。アリスの才能と努力が正当に評価されることは、アテナにとっても喜びだ。

 

 だが、アテナは同時に知っている。グランドマザーの伝説を受け継ぎ、新たな伝説をも紡ぎ出したアリシアが、未だ幼い身でどれほどの苦難を背負ってきたのかを。

 

 プリマへの昇格とともに師であるグランドマザーが姿を消し、たった一人でネオ・ヴェネツィアの青と白を背負った生ける伝説。孤独と重圧の井戸の底で、必死にもがきながら、まさに雪渓に埋もれながら芽を開く白雪花のように、強くしなやかに微笑んでいた親友の姿を、アテナはずっと見つめていたのだ。

 

 そんな苦難を、アリスに背負わせる。それは果たして正しいことなのか。自分たち大人は、一人の幼い無垢な才能に、どれほど重い十字架を背負わせようとしているのか。そう考えると、アテナはまだ、前に進む勇気を絞り出せないでいるのだ。

 

 ――前方、プリマ舟の進路から見て後方から、どすんという音が聞こえた。

 

「……あっ」

 

 切羽詰まった呻きを漏らし、シングル舟のアニエスが岸を蹴る。すると舟は反動ですすすと対岸にすり寄り、またどすんと鈍い悲鳴を響かせる。

 

 アリスと比べれば普通のシングルであるアニエスにとって、この水路はまだまだ苛酷だろう。精神的理由で足踏みをしていた時期もあるし、シングルとしての経験はまだ三ヶ月程度。そんな彼女がこの水路に挑むのは、まだまだ無謀と言わざるを得ない。

 

 もちろん、凡庸という訳ではない。全体的な精神面の脆ささえ克服できれば、アニエスの技量は決して水準を下回ってはいない。彼女の心を支える誰かがいれば、努力家であるアニエスは、アテナも驚くほどの成長ぶりを見せつけてきた。

 

 だが、絶対的な経験不足はいかんともし難い。トラブルに陥ったときにパニックを起こすのは、以前よりは随分ましになったものの、まだまだアニエスの才能に影を落としている。今がまさしくそれで、極度に狭い水路で玉突きのように船をぶつけ続けたことで、彼女はすっかり冷静さを失ってしまっているようだ。

 

 声をかけられればよいのだが。声を出せない自分が恨めしい。そんなアテナの視線に気づいたのか、アリスもちらりと背後を見やり、心配そうな表情を浮かべる。

 

 そして、水路が直角のカーブを迎えた。旋回に使える幅はほとんど最低限。途中で引っ掛かってしまえば、そのまま立ち往生の可能性すらある、この水路における最高難度のポイントだ。

 

 今のアニエスに、このカーブを乗り越えられるだろうか。恐らく難しいだろう。アレサが手を貸せばどうにかなるかも知れないが、アレサはアテナに背を向けているために表情は見えず、じっと席に腰を下ろしたままだ。

 

 アレサは、アニエスについてはどうでも良いと思っているのだろうか。アリスはともかく、アニエスがこの水路に挑むのはまだまだ早い。

 

 もしここで立ち往生などをしてしまえば、アニエスの自信は再び瓦解し、サイレン事件以前の暗黒の時代が再来することになりかねない。それでもなお、アニエスをアリスに付いて来させるような計画を立てたのは、まさかアニエスを最初から切り捨てるつもりだったからなのか。

 

 その時、アリスの肩が、リズムを刻むように揺れた。

 

 

 

 

 どうしたらいいのかわからなかった。

 

 私の力では無理だ、と思った。

 

 やらなければならないのに。やりたいのに。私の力では、やれない。

 

 どうして。

 

 どうして私はこんなに無力なんだろう。

 

 いつでもそうだ。どんなに高く駆け上がろうとしても、壁にぶつかって跳ね返り、たたき落とされて、どん底で蹲る。

 

 もっと高く跳ばないといけないのに、私はいつでもそこに届かない。あと少しで届くと思っても、最後のあと少しが余りにも遠い。

 

 そして、あのカーブが迫ってくる。あそこでは、わずかなミスも許されない。

 

 駄目だ、と思った。

 

 私では無理だ、と思った。

 

 失敗したときのイメージばかりが浮かび上がる。角に引っ掛かって動かなくなるかも知れない。そのまま転覆する事すらあり得る。櫂が言うことを聞かない。うまく潜り抜けられるイメージが、全く浮かんでこない。

 

 アレサ管理部長に頼ろうと思った。現役を引退したとしても、かつては最高のウンディーネの一人だったという《鋼鉄の魔女》なら、きっとこの窮地も簡単に潜り抜けてくれる。そう思ったのだけど。

 

 アレサ管理部長は、目をじっと閉じて、まるで彫像のように動かなかった。

 

 まるで、教会のマリア像のように、静かに。

 

 願いを受け止める事はあっても、それを自ら叶えることはない、石造りの偶像のように、動かない。

 

 助けて。助けて欲しい。そう思ったのに。

 

 私を助けてくれる人は、どこにもいない。

 

 涙が溢れそうになった。絶望が心を満たしていた。

 

 

 その時だった。

 

 前方のプリマ舟のアリスちゃんが、こちらを見ていた。

 

 そして、アリスちゃんの肩が、リズムを刻むように揺れて。

 

 息を、すぅっと深く深く吸い込む。

 

「……はぁっ」

 

 息を、声を交えて深く深く吐き出す。

 

 そして、きっと顔を引き締めて、背筋をぴしりと正すと。

 

 鈴の音のような声が、旋律を紡ぎ始めた。

 

 

 ――『コッコロ』の歌だ。

 

 

 あの軽やかなリズム。あの優しい想いと、それを紡ぎ唱える旋律。

 

 それを、アリスちゃんが歌っている。

 

 誰のためだろう。何のためだろう。少し考えて、私は気づいた。

 

 応援してくれている。

 

 一緒に頑張って練習した歌で、私に『頑張れ』と叫んでいる。

 

 ――そうか。

 

 改めて思い出す。アリスちゃんと一緒に、操船の練習をしたこの日々を。

 

 アリスちゃんが先で、私が後。一列に並んで、いくつもの難しいポイントをこなしていった。

 

 そうだ、私。その時の感覚を思い出せ。アリスちゃんの駆け抜けた水の流れを追いかけろ。

 

 櫂に心を委ねれば、水の流れを感じられる。指先から、背筋を流れて過ぎていくように。水が奏でる旋律が感じられる。

 

 知らずに、唇が動いていた。気がつけば、喉が自然に動いていた。

 

 私の声が、アリスちゃんの『コッコロ』に合流する。

 

 重なり、幾重にも響き合う「親愛なる、小さなあなたへ」という想い。

 

 想いが重なり、櫂の動きも重なってゆく。

 

 まるで、歌が道を作り上げているかのように。

 

 いつの間にか、私の舟は、ふらふら揺れるのをやめていた。

 

 

 

 

(…………えっ)

 

 そのメロディに、アテナは目を見開いた。

 

 それは、今となってはアテナしか知らないはずの。

 

 今となってはアテナしか紡ぎ手がいないはずの……『コッコロ』のメロディだったのだ。

 

 そして、更に驚くべき事に。

 

 その歌声を耳にしたアニエスも、すうと息を吸い込む。

 

 アテナは「まさか」と思ったのだが、そのまさかだった。

 

 アニエスの透き通った声が、アリスの旋律に合流した。

 

 

 明るく、転がるようなリズム。

 

 優しく、慈しむような旋律。

 

 それは、技量的には拙い、音域も目指すところに所々で届いていないような歌声だった。

 

 だが、その歌声には、不思議な力があった。アルバート一家も、アマランタも、アゼルも、アレサすらも聞き惚れる程の力を宿していた。

 

 その歌が、誰かを慈しむ、励ます歌だから、というだけではない。そもそもアテナはその歌の歌詞が造語であることを知っている。言葉の意味を知らない人に、歌詞が秘める意味はわかろうはずもない。

 

 なのに、力がある。本来力のない歌に力を与えるものがあるとすれば、それは歌い手の想いに他ならない。

 

 歌い手と歌い手が、お互いを思いやる想い。

 

 歌い手たちが、誰かに送り届けたい想い。

 

 本来歌が持っていたベクトルに、歌い手達の想いの力が重なったからこそ、その歌には力がある。

 

 

 アテナもかつて、同じ想いでこの歌を歌った。

 

 大切な、年下の親友たちへ。辛い事や、苦しい事で心が濁ってしまった親友たちを、元気づけたい一心で覚えたあの歌の数々。

 

 あの時計塔の上で、アテナはとびっきりの一番として、この歌を贈った。

 

 ネオ・ヴェネツィアの白と青を一身に背負って、苦しんでいた大切な友達のために。

 

 あの時見せてくれた二人の親友の笑顔は、今でもはっきりと思い起こすことができる。

 

 

「……でっかい、大丈夫ですか? アテナ先輩」

 

 瞼に浮かんだ笑顔の向こう。目を見開いたアテナは、『コッコロ』を歌い終えたアリスが、心配そうに自分の顔を覗き込んでいる事に気がついた。

 

(……?)

 

 何かあったのだろうか。小首を傾げたアテナは、頬から手の甲に落ちた水滴の冷たさを知った。

 

 いつの間か、アテナは涙を流していたのだ。

 

(……あ)

 

 アリスが心配そうに様子を伺っている理由もわかる。これは失態だ。別に悲しくて泣いているわけではないし、余計な心配はかけたくない。それを説明できれば良いのだが、今の《天上の歌声》は声を失ったサイレント・セイレーンである。大丈夫の一言が言えれば良いのに、それができないのがもどかしい。

 

 そこで、瞼の裏に浮かんだ、親友たちの笑顔を思い出した。

 

(ああ……そうか)

 

 そう、考えてみれば簡単なことだった。何も迷う事はない。言葉なども必要ない。たったひとつだけで、全て解決するじゃないか。

 

 だから、アテナはたったひとつだけ、涙の跡も拭わぬままに、輝くようなとびっきりの笑顔を見せたのだ。

 

 

 気が付けば、舟は水路を抜け、大運河に飛び出していた。

 

 白い舟に続いて、黒い舟。

 

 アリスの舟はもちろん、それに続いて澱みなく飛び出す、アニエスの舟。

 

 夕闇のオレンジに染め上げられた世界を切り裂く、二艘の舟。

 

 その二艘を、どういう訳か拍手が包み込んだ。

 

 何事かと見回せば、それは岸辺や窓辺の人々、大運河を征く舟、たまたま通りがかったトラゲットの上などが、一斉に手を打ち合わせていたのだ。

 

 アテナ達は知る由もなかったが、細くて狭い隘路の壁が共鳴管の役割を果たし、大運河や周辺に住む人々の元へと歌声を送り届けていたのである。

 

 拍手の渦の中、オレンジの世界が綻び、空に先触れの星が瞬き始める。

 

 プリマ舟の白がオレンジを映し、シングル舟の黒は光を返し、星のように一点を輝かせる。

 

 オレンジの姫君を先触れに、宵闇の明星が後を追う。

 

 その光景が、アテナの心に不思議と焼き付いて残った。

 

 

 

 

 そんな運河上の光景を、ある建物の上から一匹の黒猫が見つめていた。

 

 舟の周囲からはもちろん、舟の上からも拍手の喝采を浴びた二人の見習ウンディーネが、真っ赤になって照れている様を、黒猫はじっと見つめ、そしてふいっと面を逸らした。

 

 ひらり、と物陰に舞い降りる。

 

 そこは、猫だけが知っている道。人には決して道に見えない、猫達だけのための道を歩いて行く。

 

 その途上、少し開けた場所に差し掛かった時、黒猫はぴたりと歩みを止めた。

 

 広場には、巨大な毛むくじゃらの影が腰を下ろし、じっと黒猫を見下ろしていたのだ。

 

 まるで『残念だったね』と、友人を……困った奴だけど放っておけない、そんなニュアンスの友情を感じさせる視線で見下ろしている影。

 

 黒猫はしばし巨大な毛むくじゃらの影を見上げていたが、やがて拗ねるようにふいっと顔を背けると、そのまま闇の中に消えていった。

 

 そして、いつしか毛むくじゃらの影もまた、かき消すように消えてしまった。

 

 

 

 

「さあ、お手をどうぞ」

 

 パリーナを片手に握って身を乗り出し、アリス・キャロルは舟上へと空いた手を差し出した。

 

「ありがとう、可愛いウンディーネさん。今日は本当に素敵な思い出をありがとう」

 

 アルバート氏がアリスの手を取り、そう言って微笑む。思わず顔を真っ赤に染めたアリスを余所に、手を引かれるまでもなく、慣れた足取りでひょいっと陸に上がるアルバート氏。そんな彼を、アレサがやや厳しい目線で睨み付ける。『ここに至って馬脚を表してもらっては困る』という趣旨なのだが、アリスがそれを知る由もないし、アルバート氏は肩を竦めて苦笑するばかりだ。

 

 アゼル氏は一足先に舟を降り、アマランタもついでに陸に上がってしばし。無事に予定のコースを終えた一行は、別れの時を迎えようとしていた。

 

 シングル舟の面々は既に舟を桟橋に係留し、アニエスはアイリーンの手を取って陸に引き上げているし、アレサは陸側でアルバート一家の降船を見守っている。

 

 アニエスが、お客に見えないようにこっそりと、ため息を吐き出した。

 

「なんとか、終わりました……」

「アニエス・デュマ。お客様をお見送りするまでがウンディーネの仕事よ」

 

 気の抜けた様子のアニエスに、ぐっさりと釘を刺すアレサ。「はひっ!?」と灯里めいた悲鳴を上げて、たちまちびしりと背筋を正すアニエスに、アルバート氏がこっそり忍び笑いを漏らす。

 

 そんな硬く強ばったアニエスの様子に、アレサも愛用の鋼鉄の面を外し、苦笑めいた笑みを浮かべた。

 

「でも、よくやったわ。ほとんど最高難度の水路もどうにかクリアしたし、あの舟謳も素晴らしかった。もちろん、まだまだ練習は必要だけど……良くやったわね、アニー」

「え、あ、そ、そんな……凄いのは全部アリスちゃんです。私は……」

「そうね。アリス・キャロルは確かに優秀だわ。でも、その優秀さも、それを支える者がいてのことよ」

 

 珍しく優しい物言いのアレサにどう反応していいかわからず、目を白黒させるアニエス。それはさておいて、アレサは視線を舟の上に向ける。

 

 そこには、最後まで舟の上に残り、舟のそこここを覗き込んではアリスやアテナに矢継ぎ早に話しかける、アーサー少年の姿があった。

 

「お客様、ご両親がお待ちですよ?」

 

 最後に興味深そうにプリマの舟を眺めていたアーサーだったが、アテナにちょんちょんと肩を突かれ、アリスにそう声をかけられては、舟を降りない訳にはいかなかった。

 

 ちぇ~っとわざとらしく口先を尖らせるアーサー。名残惜しげに舟をぐるりと見回して、そして船縁に足をかける。

 

 その時、アーサーの表情が変わったのを、アレサは見逃さなかった。

 

 子供らしい、稚気に溢れた表情。とびっきりの悪戯を思いついて、それを今しも実行しようとするかのような、そんな笑み。

 

 アレサが静止しようと動いたが、いささか彼女は遠すぎた。

 

「……っ」

「……ていっ!」

 

 誰かの手が届く前に。

 

 アーサー少年は、父親がそうしたように、アリスの差し出された手を握らないままに船縁を蹴ったのである。

 

「いけない!?」

 

 アニエスが悲鳴を上げたときには、もう遅かった。

 

 舟が、ぐらりと揺らいだ。少年のジャンプの反動をもろに受けて、大きく水の中に身を傾け、そして反動で大きく身を跳ね上げる。

 

 完全に虚を突かれた形となって、舟の上で人知れずバランスを取っていたアテナですら対応できない。舟がぐらぐらと左右に揺れ、その上に立つものの世界を揺るがせる。

 

「う、わぁ……」

 

 そして、その原因となったアーサー少年もまた、大きくバランスを崩し、目を丸く見開きながら運河へと身を躍らせた。

 

 桟橋の近くには、岸壁やパリーナといった、ぶつかっただけで大変なことになりかねないものが溢れている。

 

 そのパリーナと岸壁の合間に、アーサー少年の身体は吸い込まれてゆく。

 

「…………ッ!!」

 

 その時、空中のアーサー少年の胴に、細い腕が絡みついた。

 

 少年の身体を抱き留め、くるりと空中で半回転し、そして、突き放す。

 

 街灯の光をきらきらと映す透明な髪の中を飛び出して、少年の身体が陸へと放り出される。

 

「わわっ!?」

 

 突き放された少年が飛び込む先は、駆け込んできたアニエス。とっさに身を乗り出し、抱き留めた。

 

 そして、少年を抱き留め、突き放したアリスが、反動で舟から放り出されそうになるのを。

 

「――――アリスちゃん!!」

 

 鋭い声で、アリスの名を呼びながら。

 

 驚くべき素早さで手を伸ばしたアテナが、ぎゅっとアリスを抱き留めた。

 

 どすんと、ひとかたまりになって舟底に落ちる。大きく舟が沈み、そして跳ねて、ゆらゆら、ぐらぐらと暴れ回る。

 

 その間、アテナはアリスをぎゅっと抱きしめたままだった。振り落とされないように、怪我をしないように、と。

 

 そして、ぐらぐら、ぐらぐら……舟の揺れが徐々に収まり、桟橋が静けさを取り戻した頃。

 

「アーサー、なんてことを!」

 

 ごちん、とアイリーンが息子を叱る声が、息を呑むような沈黙を吹き払った。

 

 少年が、半泣きで肩を落とす。更に母の怒りの矛先が、つまらない稚気で息子に無茶をさせた父親の方に差し向けられるのを余所に見ながら、アリスは口を開いた。

 

「……アテナ先輩」

 

 下敷きになる形で、ぎゅっと自分を抱き留めるアテナに、アリスは恐る恐る声をかけた。

 

 そんなアリスにアテナは少し咳き込むと、無言のままに「大丈夫?」とでも言いたげな笑みを浮かべて見せたのだ。

 

 

 

 

 そんな一幕はあったものの、どうにか無事にアリスとアニエスのトリアンゴーレは幕を下ろした。

 

 幸い、アリスやアテナ、更にアーサー少年にも怪我はなく、ぺこぺこと頭を下げるアルバート氏一家と笑顔で別れ、アテナ達は寮への帰途についた。

 

 アレサは仕事が山積みだと言って、一足先に社屋に戻ってしまった。そんなに多忙ならば無理をしなければいいのに、と言いたげな顔が二つ並び、思わずアテナは吹き出しそうになり、必死に飲み下す羽目になった。(陰謀を練るのも大変ですね)と、内心で今ここにはいない師匠にささやかな労いの言葉を送る。

 

 そして、三人が寮に戻る途上で、アテナは妙に自分に向けられるアリスの視線が冷たいような気がしていた。

 

 先程から、アリスはじっと押し黙り、アテナの後ろを歩くばかりだった。そんなアリスに付き添うアニエスは、今日のトリアンゴーレの感想などをアリスに話しかけていたが、適当な生返事しか返さないアリスに、徐々に顔に不安げな色を滲ませつつあった。

 

 そして、アテナがそんなアリスの気配の奇妙さに気づいた頃、急にアリスが立ち止まり、そしてアテナに問いかけた。

 

「……アテナ先輩。一つ良いですか?」

「…………?」

 

 小首をかしげる。はて、何か問題があっただろうか。細い水路の抜け方だろうか。『コッコロ』の正しい歌い方についてだろうか。しかしアリスの声音はアテナが考えるような事を聞くにしては強ばり過ぎている。

 

「……さっき、喋りましたよね、アテナ先輩」

 

 その問いを耳にした瞬間、ぎくり、とアテナの背筋が凍りついた。

 

「……そういえば、確かに」

 

 と、アニエスもじっとアテナの方を見つめる。

 

 あまりよくない兆候だった。

 

「……まさかとは思いますけど、実は喉なんて全然壊れてなくて、わたしたちにトリアンゴーレ実習をさせるために嘘をついてた、なんてことは……ないですよね?」

 

 ずいっと、アリスの半眼が迫る。思わず「え、えっと、そのね……」と弁明の言葉がこぼれ出る。

 

 もちろん嘘をついていたつもりはなく、慎重に慎重を重ねたアテナが一切声を出さないように努めていたために、自分の喉が回復していることに気づかなかった、というのが真相なのだが、それを説明できる程お互い冷静でもなくて。

 

「…………『また』ですかアテナ先輩」

 

 また、とアリスが言った。それはつい最近アテナがやらかした、記憶喪失騒ぎの事だろう。むっつりと拗ねた顔。今のアリスの顔は、確かにあの騒ぎの時の……それが発覚した直後の憤怒顔によく似ている。

 

 ああ、誤解されている、とアテナは嘆いた。そんな嘘をつくつもりなどはなかったし、騙すつもりもなかったのだ。だが、それならばなぜこんな手の込んだことを考えたのか、それを説明することは、アレサどころかゴンドラ協会すらからも固く禁じられている。

 

 だから、何も弁明できないアテナに、アリスの誤解は加速した。

 

「アテナ先輩、前も言いましたけど……」

 

 すぅ、と大きく息を吸い込んで。

 

「アテナ先輩のそういうところ、私でっかい大嫌いです!!」

 

 大嫌いを叩きつけて、アリスはぷんむくれた顔をそのままに、つかつかと寮に入って行った。

 

 アニエスはどう対応していいかわからずおろおろするばかりで、アテナに一つ頭を下げて、アリスの後を追いかける。

 

 そんな愛弟子たちを見送るアテナの顔は、悲しいような、情けないような、何とも味わい深い表情を見せつけていたのだった。

 



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Silent Seiren 08 ピクニックの日

 さて、そんな訳で、私ことアニエス・デュマとアリスちゃん、そしてアテナさんによるトリアンゴーレが幕を下ろして一カ月近くが過ぎ去った。

 

 

 アテナさんの喉は、例の大声が原因で、回復まで予定より更に一週間を要した。

 

 後に、治りかけの所に無理をさせてしまったということを知ったアリスちゃんは、アテナさんにぺこぺこと平謝りした。そして彼女はアテナさんのフォローに更に熱心になり、私とアリスちゃんの二人でアテナさんを助けながらお仕事をする事も、以前以上に増えてきた。

 

 アテナさんは、私達に舟謳の指導をすることが多くなってきた。

 

 あのトリアンゴーレの時に歌った『コッコロ』は、たまたま聞いた人達の間でも語り草になっていて、私が水上実習をしている時などに、舟謳を頼まれることが増えてきたからだった。

 

 口伝でしか残っていないというあの謳の数々を直接伝授してもらう他、最近アリスちゃんは、何か波長が合ったのか、『ひまわり』に掲載されていた原版の『ルーミス・エテルネ』を熱心に勉強している。

 

 

 この一カ月の間に、あの《海との結婚式》が執り行われた。

 

 綿密な練習を経ての、数年に一度の大祭典。プリマも、シングルも、ペアですらも動員して、舳先を並べる。

 

 総督船の荘厳さ、《水の三大妖精》の美しさは言うに及ばず。特に私達が驚いたのは、海に指輪を投げ込む総督役に、あの《グランドマザー》が任じられていたということだろう。

 

 ちらりと私達の方を見たその小さな瞳が茶目っ気たっぷりにウインクした瞬間、私は以前お会いした時に『そのうち会える』と言っていた理由がこれなのだと理解した。

 

 ――そんな素敵なイベントを経て、ネオ・ヴェネツィアの春が盛りを迎える頃のこと。

 

 アリスちゃんが、ついにミドルスクールを卒業した。

 

 

 

 

 アリスちゃんのミドルスクール卒業を記念してのパーティで、大騒ぎしたその夜のことだった。

 

「アニーちゃん、ちょっといい?」

 

 夜半が過ぎた頃、アテナさんが私の部屋のドアを叩いた。

 

「はい、どうかしましたか? アテナさん」

 

 荷物をまとめる手を休めて、私はドアを開いた。一際散らかった部屋にアテナさんを招き入れ、差し向かいで話す。

 

 何でこんなに部屋が散らかっているのかというと、私に部屋割り変更のお達しが下されたからだった。

 

 なんでも、ミドルスクール卒業に合わせて入社してくる娘とかが結構いるらしい。そんな娘達が入寮するにあたり、二人部屋を一人で占拠している私をそのままにしておくわけにはいかない。

 

 そんな訳で、最低でも私の部屋にはルームメイトが割り当てられる。もしかしたら、私自身が他の部屋に移る可能性もあるらしい。そんなわけで、いつでも移動できるよう準備を整えているというわけ。

 

 そんな事情はアテナさんも百も承知で、散らかり具合については一切言及せず、用件から切り出した。

 

「明日、アリスちゃんをピクニックに連れて行くわ」

「ああ、いいですね。いいお天気になりそうですし、いいなあ。私も着いて行っちゃ駄目ですか?」

 

 そこまで言ってしまってから、私は私達ウンディーネが、特別に『ピクニックに行く』事の意味を思い出した。

 

「……あ、ごめんなさい、それはつまり」

「ええ。いよいよ、よ」

 

 アテナさんはこっくりと頷いた。心がじわじわと沸き立つのを感じる。

 

 私達ウンディーネにとって、ペアがプリマと一緒にピクニックに行くというのは、多くの場合がシングル昇格試験を意味している。

 

 ずっと、この日を心待ちにしていた。努力家の彼女が、ついに報われるべき日がやってきたんだ。

 

「じゃあ、私は用事を作っておかないといけませんね。んー、どうしようかな……」

 

 シングル昇格試験は、ペアとプリマの一対一で行われるのが常。最初はペアには試験であることを教えないのも定石。私の時はアリスちゃんが学校に行ってしまったタイミングを見計らって誘われたし、今回私もうまく参加できない理由を作らないといけない。

 

「ええ。そこで、アニーちゃんには色々準備をして貰いたいの」

「準備……ですか?」

 

 アテナさんの言葉に、私は目をしばたたかせた。

 

 

 

 

「それでは、午後三時頃に、サン・マルコ広場桟橋でお待ちしております。はい、宜しくお伝えください」

 

 受話器にぺこぺこと頭を下げて、私は電話を切った。

 

 相手は、ゴンドラ協会の受付さん。何でもアテナさんの言うところには、アリスちゃんの昇格試験には是非立ち会いたいと、ゴンドラ協会の理事さんが名乗りを上げていたのだという。そこで、私がお二人に先回りして、理事さんたちを『希望の丘』へとお招きする役割を仰せつかったんだ。

 

 アテナさんの言う準備というのは、アリスちゃんの昇格試験の会場準備だった。

 

 アリスちゃんの昇格試験は様々な理由で延び延びになってしまった。その代償として、ちょっとやり過ぎなくらい盛大に昇格を祝おう、というのがアテナさんの言う趣旨。それについては私も同感で、どうせならこうぱーっと盛大に行きたい、と思っていたんだ。

 

 そんなわけで、協会の理事さんたちを『希望の丘』にお連れするのも、あの丘で寒くないように、そしてお祝いができるように準備をしてくれ、というのがアテナさんの要望。

 

 他ならぬアテナさんの頼みで、アリスちゃんの昇格を祝うための大事なイベント。ここは頑張らない訳にはいきません。

 

 アテナさんの方では、灯里さんや藍華さんを招待するよう手配すると聞いている。つまり私がやるべきことは、第一にアリスちゃんたちに先回りして、ゴンドラ協会の人達をおもてなしする準備を整えること。そして第二に、例によって祝賀パーティの会場に、いつものレストラン・ウィネバーを予約しておく事。

 

 予め『希望の丘』の管理人でもある水上エレベータのおじさんに連絡を入れた上で、全速力で簡単な食材と飲み物を抱えて一路、丘へ。そしておじさんに荷物を預けたら、またとんぼ返り。今度はお客様を乗せて、再び一路『希望の丘』へ。

 

 ……と、行くはずだったんだけど。

 

「まずまずの時間ね、アニエス・デュマ」

 

 予定時刻の三十分前に辿り着いたサン・マルコ広場には、既に予定外のお客が待ち構えていた。

 

 予定外ではあるけど、予想外ではない、そんな人。

 

 それはもちろん、我らオレンジぷらねっとが擁する《鋼鉄の女》、アレサ・カニンガム管理部長その人だった。

 

 

 まるでそれが当たり前の事であるかのように、アレサ管理部長は私のゴンドラに腰掛けた。

 

「え、えっと…………」

 

 顔が引きつるのが抑えられない。どう対応すればいいんだろう。どちらまで? というのはどう考えても愚問。どうやってこの場所と時間を? というのもやっぱり愚問。アレサ管理部長なら、私の計画と行動くらい見透かせて当然だ。

 

「……アニエス・デュマ。舟を出してちょうだい」

 

 困惑する私を見上げて、アレサ管理部長がそう言った。

 

 舟を出せ、と言われても困る。私はゴンドラ協会の方々をお迎えに来た身の上であり、お客様をお迎えするからには、時間までにこの場所にいなければならない訳で。

 

「え、ええと、その……」

 

 でも、そんな当たり前の事を、アレサ管理部長がわかっていないとは思えない。真意を伺うように、じっとアレサ管理部長の顔を見つめる。眼鏡の奥の目が、鋭く私を見据えている。

 

「ほんの少しでいいわ。待ち合わせまでの三十分を私に頂戴。遅れても責任は取るし、多少の遅れは考慮したスケジュールになっているでしょう?」

 

 確かにその通り。私は協会の方々が丘の上でくつろぐ時間も加味して、だいぶ予定時間より早めに到着するようスケジュールを立てている。そのあたりまですべて見越した上で、アレサ管理部長はここで私を待ち伏せていたのか。

 

「わかりました。サン・マルコ広場周辺遊覧コースでご案内致します」

 

 アレサ管理部長に楯突こうなどと、考えるだけ無駄というものだ。

 

「アニエス・デュマ、行きます!」

 

 私はひとつ深呼吸をして、舟を発進させた。

 

 

 

 

「こちらは、通称ため息橋と呼ばれる史跡です。かつてマンホームのヴェネツィア共和国にて……」

「観光案内はいいわ、アニエス」

 

 出端をくじく、管理部長のお言葉。(折角の練習の成果なんだから聞いてくれてもいいじゃないか)と思うのだけれど、考えてみれば、アレサ管理部長がわざわざ私の練習成果を見にくるとも思えない。

 

 だから、私は黙って舟を漕ぐことにした。欲しいのは静かな時間かも知れない。ほんの少しの、穏やかな時間が欲しいのだとすれば、私の観光案内はむしろお邪魔だ。揺れを少なく、リズムを均等に、お客様がリラックスできるように最善を尽くした漕ぎ方に切り替える。

 

「……良い漕ぎ方ね。アテナに教わったの?」

 

 目を閉じて、波と櫂のリズムに耳を澄ませているかのような佇まいで、アレサ管理部長が尋ねた。

 

「アテナさんがオリジナルなのはそうですけど、これは見よう見まねです」

 

 正直に答える。アテナさんは操船の腕前も一級品だけど、それで他人を指導するということはあまりしない。理由はよくわからないけれど、アリスちゃんはアリスちゃんらしく、私は私らしく伸びて行く事を望んでいる、そう感じている。

 

 実のところ、私の操船の基礎は、アリスちゃんや藍華さん、そして灯里さんの指導で身についたもの、というところが大きい。つまるところは、彼女たちを通してアリシアさんや晃さんの技術を盗んでいた、ということもできる。

 

「……あなたを引き取ったのは正解だったわね」

 

 唐突に、アレサ管理部長がそう呟いた。

 

「今だから言うとね。私はあなたの引き取りには賛成しかねていたのよ。マンホーム生まれで基礎も知らない、性格も実力もわからない。完治しているとはいえ、重い病歴がある……それならば、これまでふるい落として来た娘達の中に、アニエス・デュマ以上のライトスタッフはいくらでもいたわ」

「あはは……確かに、そうでしょうね」

 

 容赦のない裁定に思わず苦笑する。それはそうだろう、と思う。私はお世辞にも優秀な新人じゃなかった。アレサ管理部長がスカウトしてくるのは、ミドルスクールでゴンドラ部に所属しているとか、他ジャンルで格別な才能を発揮した娘などが対象だ。憧れだけで飛び込んで来た私みたいなのより、優秀な人は沢山いたことだろう。

 

「でも……受け入れて下さったんですよね?」

「そうね。ゴンドラ協会からの直々のお願いだったし、姫屋に貸しも作れるし、何よりやる気になってる娘を門前払いにしたとあっては、ネオ・ヴェネツィアの名折れだものね」

 

 いろいろ理由を並べてるけど、結局のところ、甘い裁定をしたことに自分で理屈を付けてるだけ、という気がする。

 

 こういうのを、偽悪って言うんだっけ。思わず口元が綻んでしまった。

 

「……何を笑ってるの」

 

 憮然とするアレサ管理部長。あわてて真剣な顔を取り繕う私に、アレサ管理部長はじーっと不審げな目を向けて、ちょっと意地悪な顔を浮かべる。

 

「あの家出事件とか連れ戻し事件とかが起きた頃には、よっぽどクビにするべきなんじゃないかと思ったけれど」

 

 これまた、しれっとそら恐ろしい事を言って下さる管理部長。あの頃の自分には何かと反省しきりなのだけど、まさか上の方ではそんな事が検討されていたとは。春の陽気が暖かく私達を包み込んでいるはずなのに、冷たい汗がじんわりと背筋を冷やす。

 

「それでも……今は貴女を受け入れて良かったと思っているわ」

 

 そんな恐れおののく私の気分を一新させるようにふっと息を吐き出すと、アレサ管理部長は薄く微笑んだ。

 

「だって、貴女はアリス・キャロルのパートナーとして、想像できなかったくらいに彼女を支えてくれたのだから」

 

 冷や汗に震えている中の、突然の言葉。想像もしなかったというのはこちらのことで、思わず櫂を手繰る手が止まった。

 

「……流されているわよ、アニエス・デュマ」

「は、はいっ!」

 

 慌てて櫂を握り直して、舟を進路に戻す。対面を行く黒い荷物舟のおじさんに頭を下げると、おじさんは煙草をくわえた口元を揺らして目を細めた。

 

 気を取り直し、アレサ管理部長の話に戻る。

 

「……でも、私がしたことなんて」

「誰かの大切になっているということを、当人が一番気づかないものよ」

 

 私の反駁を一蹴して、アレサ管理部長は続けた。

 

「アリス・キャロルは漕ぎ手としてはまさに天才的だったわ。でも、その一方で精神はひどく脆かった。脆さを補うために頑なになって、回りの全てから目を背けていた。それこそは、アリス・キャロルが花開くための最大の障害だったわ」

 

 私は、灯里さんたちがアリスちゃんと出会ったころを知らない。私が知っているのは、無表情で、でも優しくて、強くて、子供っぽくて、時々ちょっぴり意地悪なアリスちゃん。

 

 私にとっては、アリスちゃんはずっとそんな存在だった。今と何も変わらない。

 

「――そんな殻を打ち壊す切っ掛けを作ったのが、水無灯里と、藍華・グランチェスタ。……そして半年前現れた貴女よ。アニエス・デュマ」

 

 じっと私の目を見て言うアレサ管理部長。と言われても、灯里さんたちについてはともかく、私がどれだけ役に立ったのかと言われると、ちょっと疑問があるのだけど。何しろ、一緒に歩いてきただけだったわけで。

 

 むしろ、アリスちゃんには何度も助けられた。お母さんに連れ戻されそうになった時も、あのサイレン事件の時も、この間のトリアンゴーレの時も。

 

 私が、私の殻を打ち壊すのに、アリスちゃんは力を貸してくれた。彼女がいたから、私はここにいられる。私は彼女に感謝こそすれ、自分が彼女の力になれたなどと考えるのはいささか傲慢だと思う。

 

 そんな私の答えに、アレサ管理部長は「謙遜も過ぎると害悪よ」と目を細めた。

 

 ……でも、それでも素直に思う。

 

「……私がいなかったとしても、きっとアリスちゃんは強くなってましたよ。強くて、素敵なウンディーネになってたと思います」

 

 掛け値なしに、そう思う。だってアリスちゃんには元々、かけがえの無い親友が二人もいたのだから。

 

 例えば私がアンジェさんに手紙を出さなければ、私は此処に来ることもなかった。たった一つの切っ掛けで、私はここからいなくなる。それでも、きっとアリスちゃんは変わらない。素敵な二人の先輩たちと、素敵なウンディーネに育って行く事だろう。もしかしたら、正当な歴史はそちらの方で、私がいるこの歴史の方が異端なのかもしれない。

 

 だから、私がやったことなんて大した事じゃない。私がいなくても、誰かがアリスちゃんの助けになって、アリスちゃんは強く素敵なウンディーネとして駆け上がっていく事だろう。

 

 私のそんな答えに、アレサ管理部長は「そうかも知れないわね」と認めた。

 

「でも、今このネオ・ヴェネツィアで、一番アリスに近い所にいるのは、アニエス・デュマ、貴女でしょう?」

 

 そして、こう続けた。戸惑う私に畳みかけるように、私の心得違いを正そうとするかのように。

 

「可能性はいくらでもあるわ。でも、今私達の目の前にある今と、そしてここから繋がる未来は、貴女がここにいて、アリス・キャロルと一緒に歩んできた過去からしかあり得ない。そして、その過去から現在に至るまで、貴女が触れてきた全てのものが貴女に影響を受け、貴女が触れてきた全てのものが、貴女を育んできたのよ」

 

 ……そうか。そうかも知れない。

 

 可能性の話はさておいても、この半年以上の間、アテナさんと争えるほどにアリスちゃんの一番近くにいて、彼女の見ているものを見て、彼女の目指すものへと一緒に歩いてきた。そうやって形作られたのが、今の私、アニエス・デュマ。他の道を歩んだ私ではない、オレンジぷらねっとのウンディーネである、私。

 

「その歴史は、誇るべきものだわ」

 

 ちょうど建物の隙間から差し込んだ光が、舟上を照らし出す。

 

 そんな溢れる春の光の中で、まるで私が考えていることがわかるかのように、アレサ管理部長は微笑んだ。

 

 

 

 

 ため息橋を北に抜け、大運河を岸沿いに西へ。

 

 リアルト橋を過ぎてしばらくのところ、パラッツォ・グリマーニの角を南下するする途上。アニエス・デュマが櫂を握る舟に揺られながら、アレサ・カニンガムはゆっくり流れる景色を眺めていた。

 

 快適な道行きと言って良い。穏やかなリズムで手繰られる櫂は、揺り籠のようにアレサを優しく揺らす。陸上の喧噪とは運河を一筋隔て、ここだけ静かに時間が流れる、ウンディーネの舟。

 

 先日のトリアンゴーレではアリス・キャロルの操船にばかり目が向いていたが、改めて櫂を任せてみれば、アニエスの成長ぶりもなかなかのものだった。

 

 もちろん一人前と認めるにはまだまだ未熟だが、いつでも冷静にお客の望みを見極め、最適のサービスを提供する、そんな気配りの精神は、プリマ・ウンディーネに求められる絶対不可欠の資質だ。その点については、今のアニエスはなかなかどうして立派なものである。

 

 実の所、アレサには一つの負い目があった。それはアリス・キャロルの成長を見極めようとするあまり、アニエスを幾度も操り、弄んだという自覚である。

 

 陰謀というものは、関わる多くの人間の思考を誘導し、指揮者の望む方向に導いて行くもの。アニエスはその思考パターンが単純であり、アリスと極端に距離が近いということもあって、アレサの誘導に実に素直に反応した。その結果、アニエスはアレサの目論見以上に、アリスを励まし、支え合い、高め合ってきた。

 

 しかし、ことがここに至って、アレサは思う。自分たちはアリス・キャロルに期待するあまり、アニエスの存在を余りにもないがしろにしては来なかったか。

 

 少なくとも、アニエスをアテナに師事させ、アリスと肩を並べさせたこと、それ自体は全く間違っていたとは思わない。アリスはアニエスを支えとして、アレサの目論見どおり大きく成長したし、アニエスもまたアリスと彼女の友人たちと触れ合う中で、誰に師事するよりも健やかに、そしてしなやかに成長したと確信できる。

 

 これが他の……例えば夢野杏やアトラ・モンテヴェルディを指導するプリマに任せていたら、アニエスは今頃アテナのシングル昇格試験を受ける羽目(クビ)になっていたのではなかろうか。

 

 だから、自分の行いは正しかったのだと、それ自体は確信できる。

 

 しかし、アレサにとっての正しさと、アニエスにとっての正しさは違うのだ。アレサの独善で行った措置が、相手にとっても快適であるとは限らない。むしろ逆であることの方が多い。善かれと思って施した措置によって、恨みを買う事とて珍しくはない。それが上に立つ者の勤めだとはわかっているが……。

 

 問題は、アレサ達オレンジぷらねっとの上層部が、アニエスはアリスの補助役、悪く言ってしまえば踏み台のような認識でいるということだ。それをアニエスが感じ取っていない筈がない。

 

 そんな状態を、アニエスはどう思っているのだろうか。そんな冷たい空気の中で、アニエスはこれからも健やかに育つことができるだろうか。そんな危惧は《鋼鉄の魔女》とても、拭い去ることは難しい。

 

 そんな思考を弄んでいた時だった。

 

「……アレサ管理部長、一つ、聞いても良いでしょうか?」

 

 ぽつり、と。櫂を手繰るアニエスが呟くように問いかけたのだ。

 

「何かしら?」

 

 内心の動揺を、いつもの鉄面皮に覆い隠す。

 

 そんなアレサの顔を、ちらりとアニエスが見やる。どんな言葉で問うべきかを悩むように。そして櫂が三度水を掻き分ける音を挟んで、アニエスはその問いを発した。

 

「アリスちゃんは、合格でしたか?」

 

 シンプルな、要点のみの問いかけだった。

 

 だが、そこに含まれる意味はシンプルではない。今、このタイミングで発せられる問いであるということは。

 

 『アリスの昇格試験は合格だろうか』ではない。それならば、問いは『合格でしょうか』と未来を指す表現のはずだ。まだ、試験は終わっていない。今ちょうど、このネオ・ヴェネツィアのどこかで、あの二人は試験の真っ最中なのだから。

 

 『合格でしたか』という過去形の疑問。だとすれば、その意味は。

 

 『アリスに行われた、秘密の試験は合格だったのか』という趣旨になる。

 

 そして、その問いを向ける先がアレサであるのならば。

 

 アニエスは、先日のトリアンゴーレがアレサの企みによるものであり、アリスのための試験であったと確信しているという事になるのだ。

 

 特別な試験が行われたのだから、特別な事が起きる。そう確信しているかのように。

 

 自分に向けた試験だったとは、露ほども思わず。あるいは、そんなことより大事なことがあるとでも言うかのように。

 

 アレサは、アニエスの姿を見上げた。傾きかけた太陽に照らされる、黒髪の少女。初めて出会った時に感じた頼りなさ、浮ついた感覚は拭い去られ、櫂を手繰る様はいつの間にかどこかしら大人びた気配すら感じさせる。

 

 そして、その眼差しは。

 

 まるで遠くを見るように。

 

 この街の何処かにいる、一番大切な友達を慈しむように。

 

 町並みの向こうに佇む、風車の丘へと注ぎ込まれていた。

 

 なるほど、とアレサは苦笑した。

 

 どうやら、アニエス・デュマもまた、アレサ達と同じ種の人間だったらしい。

 

 利用されている、とか。操られている、とか。そんな陰鬱な感情とはとんと無縁に、ただひたすらに、愛すべき年下の先輩の栄光を願っている。

 

 だったら、こちらもそれに応えてやればいい。

 

「……もうすぐわかるわ」

 

 そう、ちょっと突っぱねるように、冷たく言うアレサだったのだが。

 

 口元の小さな微笑みを、アニエスは目ざとく捉えていたようで。

 

 満面の笑顔を、浮かべたのだ。

 

 

 気が付けば、舟を取り囲む喧噪が、一際大きなものに変わっていた。

 

 サン・マルコ広場はもうすぐそこだった。

 



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Silent Seiren 09 Origination

 サン・マルコ広場に戻ると、そこには既に、ゴンドラ協会の方々がお待ちだった。

 

 話に聞いていた通り、人数は二人だった。一人はアルバートさん。もう一人は、カイゼル髭が特徴的な、小柄な紳士。私と面識は(多分)ないけれど、この方が協会理事のアイザックさんだった。

 

 挨拶を交わすアレサ管理部長とアルバートさん達を載せて、私の舟は『希望の丘』を目指して発進した。

 

 

 舟を進める途上、アレサ管理部長とゴンドラ協会のお二方は、なにやら声を潜めて密談していた。

 

 耳をそばだてればその内容を聞くこともできたのだけど、私は敢えてそれをしなかった。密談をするということは、聞かれない方が望ましい事を話しているという事だろうから。お客様のプライバシーを守るのも、ウンディーネの務めの一つだ。

 

 ただ、丘に続く陸橋水路に差し掛かったあたりで、私はさっきの質問が愚問だったことに思い至った。

 

 結局何の試験だったのかはわからないままだけど――もしアリスちゃんが不合格だったなら、今ここにアレサ管理部長や、ゴンドラ協会の方々が乗り込んでいる訳がないじゃないか。

 

 特別な事をするのは、特別な事を起こすため。少し考えればわかりそうな事に、今に至るまで気づかなかった。あまりといえばあまりな鈍さに、私はこっそり自分の頭をこつんと叩いた。

 

 

 丘に到着すると、そこでは既に灯里さんと藍華さんがパーティの準備を進めていた。

 

「あ、アニーちゃーん!」

「遅かったわね、アニー!」

 

 手を振って呼びかける灯里さんと藍華さん。私も負けじと振り返そうかと思ったのだけど、アレサ管理部長とゴンドラ協会のお歴々の手前、自粛する。

 

 パーティと言っても、ささやかなものだ。簡単なバーベキューに、寒くないように暖かい飲み物。野外グリルは朝方に水上エレベータのおじさんに預けておいたものを、灯里さんたちが気を利かせてセッティングしてくれていた。

 

「それにーく、ほれにーく、どっこいにーく♪」

「にーく、やっほいにーく♪」

「ぷいにゅっぷーい、ぷーい、ぷいにゅっぷーい♪」

 

 私達の到着に合わせて、グリルに食材を並べてゆく先輩方。謎のお肉コールを合唱しているあたり、随分と御機嫌のようだ。

 

 まあ、当然かもしれない。私自身も、浮ついた気分がなかなか抜けてくれない。

 

 何しろ、今日はいよいよ、アリスちゃんがペアから昇格する日なのだから。

 

 

 アリスちゃんたちが丘にたどり着いたのは、太陽が赤く燃え、世界がオレンジに染め上げられた頃だった。

 

 私はちょうど、水上エレベータの管理小屋に、飲み物の補充を取りに来ているところだった。

 

 そろそろアリスちゃん達が到着する頃。飲み物や食べ物が残ってないなんてことになったら寂しいことこの上ない……そんな事を考えて駆け出した私だったのだけど、少し裏目に出てしまったみたい。

 

 途中ですれ違った水上エレベータの管理人のおじさんに「さっきあの子達が上がったよ」と言われ、私は全速力で走った。

 

 エレベータ小屋まで最短記録を更新し、食材と飲み物を掴んでバッグにほうり込み、折り返す。

 

 ビールとか炭酸とか、振ると危ないものが交じってるんだけど、構っていられない。自己最高記録を更に更新する勢いで、はしたなくスカートがひらめくけど、これまた構わず疾走する。

 

 丘に続く道を駆け上がる途中、風に乗って歌声が聞こえた。

 

 風車の羽根と踊るような、鈴のような、清らかな声。

 

『ルーミス・エテルネ』の音色だ。

 

 そして、この声。間違えようがない。

 

 アリスちゃんが、歌っている。

 

 ここ一番の時のために練習していた、あの歌を。

 

 「こっそり練習して、いつかアテナ先輩をでっかいびっくりさせてやります」と息巻いていた、『ルーミス・エテルネ』を。

 

 

 水路沿いに丘を駆け抜けて、ようやくアリスちゃん達の姿が見えた時。

 

「「ええーーーーっ!?」」

 

 灯里さんと藍華さんの、声を重ねての驚きの声が、私の耳朶を引っぱたいた。

 

 私が皆の側まで駆け寄った時には、アリスちゃんは灯里さんと藍華さんに肩を抱かれて泣きじゃくっていた。

 

 理由はわからない。私には見えなかった。

 

 でも、灯里さん、藍華さん、アテナさん。更にはアレサ管理部長にアルバートさんとアイザックさんの顔を見れば。

 

 それが、決して悪いことではない事が、手に取るようにわかった。

 

 いつの間にか、バッグはアテナさんの手に渡っていた。一体いつの間に取られたのかわからなかったけど、その時の私は息を整えるのに精一杯で、周囲に気を配る余裕なんて全然なかったんだ。

 

 だって、一刻も早く。

 

 アリスちゃんを祝福したい、と思ったのだから。

 

「アニーさん――っ!!!」

 

 泣きじゃくりながら、息を整えたばかりの私に飛びついて来るアリスちゃんを、私はしっかりと抱きとめた。

 

 私の制服をくしゃりと握る、素肌の両手。

 

 左手だけじゃない、素肌の右手が、ぎゅっと握り締められている。

 

 それを目にした時、私は全ての疑問が氷解するのを感じた。

 

 あの、異常に難しい水路で行われた秘密試験の理由。

 

 特別であることの意味。

 

 特別であることの重み。

 

 今まで霞のように漂い、形を成していなかったそれらが、ついにアリスちゃんの両手に舞い降りた。

 

 それは、素敵な未来のはじまりかもしれない。

 

 それは、苦しい未来のはじまりかもしれない。

 

 だけど、《伝説の大妖精(グランマ)》が言っていた。

 

『素敵なものを握り締めて、ゆっくり前に進んで行けばいい』

 

 素肌の両手に、大事なもの、なくしたくないものを握り締めて、行けばいい。

 

 だから、私はアリスちゃんの両手をぐっと握り締めて、そして。

 

「プリマ昇格おめでとう、アリスちゃんっ!!」

 

 心からの笑顔で、彼女の栄光と前途を祝福した。

 

 

 

 

 

「御苦労様。長かったわね、アテナ」

 

 未だぼろぼろと涙を溢れさせるアリスと、彼女を取り囲んだシングル三人娘。そんな四人を少し離れた場所から見つめるアテナ・グローリィに、アレサが労いの言葉をかけた。

 

 ……苦労? そうだろうか、とアテナは心で呟く。そんなに苦労した覚えはない。自分はずっと、才能溢れるアリスの側にいて、その成長してゆく様を見守って来ただけだ。

 

 アリスが灯里と藍華の二人と出会い、それぞれがアテナの親友であるアリシアと晃の弟子であると知ったときの驚愕。そして彼女たちと一緒に過ごすようになってからの、アリスの健やかな成長。日増しに心と技を磨き上げてゆくアリスの姿に、アテナは心から、親友達とその弟子達に感謝したものだった。

 

 半年前からは、その面々にアニエスが加わり、更に世界は色鮮やかになった。しなやかだけど頼りない、頼りないけど逞しい。そんな矛盾に矛盾を重ねながらもまっすぐに育っていくアニエスに、アリスも少なからぬ影響を受けていった。

 

 そんな日々は、アテナにとって幸いだった。飄々としているとよく言われるが、何が起きても平気な訳ではない。いつかのように、落ち込んでいるのをアリスに救われる事だってある。

 

 別に望んだわけではないのに、いつの間にか《水の三大妖精》などと呼ばれるようになった。その名声の重圧に、膝を突きたくなった事だってある。そんなとき、アリスとアニエスの存在は、アテナにとって大きな救いだったのだ。

 

 だから、苦労なんてものは何処にもなかった。あったものは、奇跡のように幸せな日々だけ。

 

 でも、もし苦労があったとしたら、それはアリスの願いをずっと棚上げにしたままにしていた事だろう。

 

 アリスのミドルスクール卒業。それが一つの目安だったのは間違いない。その日を境に一斉に動き出せるよう、アレサもアテナも、オレンジぷらねっとの人々やゴンドラ協会の人々も、皆が肩を並べて準備を進めてきたのだ。

 

 それを隠し続けること、アリスの願いを棚上げにして、先に進めないもどかしい日々を繰り重ねてきた。

 

 だが、それももう終わりだ。

 

 アリスが、そしてアテナがずっと待ち焦がれていた日。それがようやく訪れたのだから。

 

「……はい」

 

 ――だから、アテナは是を返した。

 

 そう答えてみると、何だか身体にどっと疲労感が沸き上がってきた。何のかんの言って、アリスの試験にアテナも緊張していたのだろう。今になって自覚するというのも間抜けな話だが、まあ、アテナ・グローリィというのはそういう女ではある。

 

「……ふふ、それじゃ私は協会の方々と今後の話を進めておくわ。貴女は今はゆっくりなさい」

 

 そう微笑んで立ち去るアレサを見送り、アテナはほっと一息を吐き出した。喉が渇いた。考えてみれば、何かを飲んだのはお昼が最後だ。

 

 アニエスから受け取ったバッグには、バーベキューの食材の他、数本のワインやジュースが入っていた。この重さを抱えて走ってきたアニエスの体力に感心しつつ、アテナは折角なので一本を戴くことにした。

 

 酒類はアリシアの専売特許だが、アテナも全く飲めない訳ではない。アリシアや晃に付き合った成果もあって、ワインならばそれなりに味もわかる。アテナは適当にバッグから一本を……ラベルにはスプマンテ(発泡性のイタリアワイン)と書いてあったのだが、「甘口」と書いてあること以外は特に深く考えず、選び出した。

 

 普段はあまり積極的に酒を嗜む事はないが、今日は特別だ。

 

 何しろ、嬉しいのだ。

 

 アリスが、ようやく念願叶って昇格を果たしたこと。

 

 それを、何一つこだわりなく祝福してくれる、素晴らしい親友達の存在。

 

 アリスが、想像以上に素晴らしい成長を遂げていたこと。

 

 そして、何よりも嬉しいのは。

 

 アリスとアニエスが、『彼女』の歌を、引き継ごうとしてくれているということ。

 

 アテナに歌う力を吹き込んでくれた、まさに歌姫と言うに相応しかった、『彼女』。もう彼女しか知らないという、不思議な歌を教えてくれた『彼女』。

 

 ……もう、ずっと前に、この世を去ってしまった『彼女』。

 

 不甲斐ない自分では、引き継がせる事など難しいだろうと思っていた『彼女』の歌を、いつの間にかアリス達が引き継いでくれていた。

 

 技術はまだまだだ。声量もまだやや足りない。だが、そんなことよりも一番大切な事を……『彼女』の遺してくれた想いを、これ以上ないほどに引き継いだ形で。

 

 どういう経緯で二人が『彼女』の歌に触れたのかはわからない。どうして二人が『彼女』の歌を歌おうと想ったのかもよくわからない。だけど。

 

 ――こんなに、こんなにも嬉しいことがあるだろうか。

 

「二人とも、きっと素晴らしいウンディーネになるわね」

 

 アレサがそう囁く。アテナも同じ気持ちだった。

 

 今なら、迷いなく信じられる。どんな大きな重荷を背負ったとしても、今のアリスならば、きっと乗り越えてゆける。

 

 だって、彼女にはあんなにも素晴らしい親友と。

 

 あんなにも素晴らしい相棒がいるのだから。

 

 きっと、灯里も、藍華も、遠からず一人前に昇格することだろう。アリスが見せつけた素晴らしい成長は、彼女たちの薫陶の成果に相違ない。ならば、彼女たちの成長に疑う余地はない。

 

 そして、アニエスもまた。

 

 アニエスはまだまだ未熟であるものの、未熟であるがこそ、素晴らしい先達たちの薫陶を受け、さらに美しく、さらに軽やかに成長してゆくことだろう。

 

 そして、いつの日か。三銃士に憧れた青年が、いつしか彼らと肩を並べるようになったように。

 

 綺羅星が四つ、このネオ・ヴェネツィアを輝き照らすようになる。

 

(それは、きっと素晴らしい未来に違いないわ)

 

 願いと、夢と、確信がないまぜになった、そんな想いを込めて。

 

「新たなプリマ・ウンディーネと、未来のプリマ・ウンディーネに」

 

 乾杯、と瓶を掲げ、アテナは栓を引き抜いた――。

 




以上で、オレンジぷらねっと編は終了となります。

本作にしては珍しい、原作のエピソードに完全に寄り添ったシーンがあるのが特徴です。アニメを繰り返し見て、カメラのこのあたりにアニエスがいて、このタイミングではここにいるから画面には出てこない……というロケーション設定をかなり厳密に整えたのを覚えています。

ちなみに次のエピソードで触れますが、アニエスはゲーム中でもびっくりするほどスチルやイラストがありません。本作の原作ゲームのマテリアルコレクションがあるのですが、その中ですらイベントスチルは極端に少ない。主題歌シングルにいたっては、挿入歌は自分(花澤香菜)が歌っているにもかかわらず、レーベルケースのディスクトレー箱の裏にしかいないという有様(表面は灯里)。
あまりにあまりな有様から、アニエスはカメラに映りたがらないという設定が生まれました。

次のエピソードからはARIAカンパニー編。ちょっと驚く展開かもしれませんが、どうぞご容赦の上、ご覧頂けますように。


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ARIAカンパニー編 Graceful Way
Graceful Way 01 ここにいる私、ここにいない私


 目を覚ますと、私はいつもの病室のベッドの上だった。

 

 変わり映えのない世界。灰色の世界。私の人生は、ほとんどが病室でできている。

 

 誰かと撮った写真もない。何処かに行った事もない。ちょっと回復して学校に行っても、そこには誰も知った人はいないし、気がつけばまた病室に逆戻りしている。

 

 退屈だった。

 

 悔しいとか、悲しいとか考えることも、もう飽きてしまった。

 

 自分がそういうものだということを、悔やんだり、悲しんだり、憎んだりするのも、とっくに飽き飽きしていた。

 

 ただ、この退屈を紛らわせるための何かを、求め続けていた。

 

 だから、私はいつも眠っていた。

 

 眠っている間、私は夢を見る。広い世界、ここではないどこかで、大切な人達と笑い合う夢。

 

 遠いあの黄昏の星で、妖精達の一人になって、素敵な日々を過ごす夢。

 

 あの夢が現実だったなら、どんなに良いだろうか。

 

 だから、私は現実を放棄した。

 

 目を閉じて、全てを拒絶して、夢の中へと飛び込んだ。

 

 

 

 

「……という夢を見たんですよ」

 

 憂鬱な気分を胸からいっぱいに吐き出して、私ことアニエス・デュマは、口から吐き出した憂鬱のかわりに、よく煮えたしめじを放り込んだ。

 

 熱い。でもこの歯ごたえがなかなか。醤油ベースの出汁がよく染みこんでいて、口の中にじんわりと旨味が広がる。

 

「あれだな。ボクッ子よ。それはきっと今のこっちが夢で、あっちが現実なのだな」

 

 はぐはぐとえのきの束を咀嚼して、ごくんと飲み干してから、暁さんがそう言った。

 

「えぇ~、あっちが私のリアルですか? 勘弁してくださいよ~」

 

 意地の悪い事を言う暁さんに、私はぷんむくれた。仕返しに、暁さんの箸が伸びる先のまいたけを、とんびのように素早く掬い上げる。

 

「あ、こら、何をするボクッ子。それは俺様が育てたマイタケ」

「いいんです。暁さんが言うにはこれは私の夢なんですから、私が勝手にしていいんです」

 

 ぷいっと顔を背ける私。まあ、暁さん相手なら大体こんなものだ。暁さんは口が悪くてすぐ人をからかうけれど、ちょっとお返ししても笑って済ませられるような、そんな気安さがある。

 

「はひ、もしそうだとしたら……」

 

 私達のやりとりに何かインスピレーションを刺激されたのだろうか。私の隣で灯里さんがぴっと指を立てた。

 

「そうだとしたら、暁さんも私も、アニーちゃんの夢の妖精ですね」

「……もみ子よ、恥ずかしい台詞は禁止だ」

「えぇ~~っ」

 

 重々しい顔でそう突っ込む暁さんに、灯里さんがいつもの顔で抗議の声を上げる。そんな二人の様子に、私と暁さんの隣に座るアルさんは、揃ってぷっと吹き出していた。

 

 いやはや、まったくもって、いつも通り。

 

 そんな『いつも』が、アクアにやってきて、ARIAカンパニーに入社して、先日ついにシングル昇格を果たした……そんな歴史を辿ったアニエス・デュマの日常だった。

 

 

 今日は会社は休日。アリシアさんはどこかに出掛けるらしく、私は先輩である灯里さんと一緒にお昼前までごろごろした後、二人で買い出しを兼ねた自主練に励んでいた。

 

 その帰り道、私達は大きな荷物を抱えた暁さんとアルさんに出くわした。何でも、地下世界のアルさん達の買い出しを、暁さんが手伝っていたらしい。

 

 なぜ暁さんがアルさんの買い出しを手伝っているのかといえば、それは昇格試験のための勉強を手伝わせていた代償だったらしい。しかし人手が多いことに油断したアルさんは、ついつい自分の舟に載せきれない程の買い物をしてしまったのだという。

 

 「何だかあの時みたいですね」と、灯里さんが笑いながら手伝いを申し出た。何でも、灯里さん達がアルさんと出会ったのもこんな風だったらしい。買い出しのし過ぎで舟に置いて行かれたアルさんを、灯里さんが地下世界まで送って行ったのが切っ掛けだったのだという。

 

 更に、当時灯里さんは暁さん、アルさん、ウッディーさんの三人に別々に知り合っており、後のレデントーレにお誘いした時、初めて三人が幼なじみだったことが発覚したのだというのだから。

 

 恒例のお友達搭乗で荷物を運ぶ道中、そんな思い出話を聞いた私は、思わず十八番を口に出していた。

 

「それはすごいミラクルな奇跡です!」

「ふふ、そうかも知れないねー」

「あはは、そういうことなら、そのミラクルな奇跡にあやかって、また皆さんに御馳走しましょう。そろそろ鍋の季節も終わりですからね」

「おおっ、アルよ。それはもちろん俺様にも」

「暁くんは自分で払ってください。全員分払わされても文句は言えない立場ですよ?」

 

 というようなやりとりの結果、買い出しの荷物を地下に届けた私達は、地下世界では数少ない行きつけのきのこ鍋屋さんに案内され、お鍋を御馳走になっている……というわけだった。

 

 

「胡蝶の夢という古い古い詩がありますが、ちょうどそんな感じですね。蝶になった夢と、現実の自分。どちらが本物なのかという考えは間違いで、どちらも等しく真実である、という意味なのだそうですが」

 

 アルさんが、しいたけをつつきながら難しい事を言った。

 

 その言葉に、私は思わず呻いた。あの夢の中の私と今の私、どちらも真実だとしたら……それはあまり歓迎できる事ではない。

 

 時々見る他の夢……あの運命の三分岐で、姫屋やオレンジぷらねっとを選んだ私ならばいい。でも、今朝の夢のような――永遠に病室に閉じ込められているかのような、そんな私はまっぴらだった。

 

「この宇宙には、僕たちに見えないだけで、いくつもの平行した世界があるのだそうです」

 

 アルさんがそう言うと、隣でしいたけをほお張っているアリア社長が、なぜかびくんちょと身を竦ませた。

 

「僕たちに見えている世界は、僕たちが見ようとしている世界だけ。でも実際には、僕たちが見ようとしていないだけで、ここにはもっと多くのものがあって、僕たちの知らない世界が隠れているかも知れない。

 例えばそれは、アニーさんがアクアに来なかった世界。アニーさんがアクアじゃなく、もっと遠くまで飛び出した世界。アクアに来たけど僕たちと知り合わなかった世界。そうそう、僕たちの性別が反転してるなんて世界もあるかも知れませんね」

「……アルよ。もみ子達が男はともかく、アリシアさんが男というのは想像したくないし、俺達が女なんてのは違う意味で想像したくないんだが」

 

 暁さんがげっそりした顔で言うのに、アリア社長が何故か激しく首を縦に振っている。理由はわからないけど、アリア社長も男の子、一緒にいるのは女の子の方が良い……とかそんな感じなのだろうか?

 

「でも、暁さん。私達が男の子なのはともかくっていうのはどういうことですか」

「ボクッ子よ。それは聞かない方が恐らく身のためだ。間違っても大して変わらんとか思ってはいないからな?」

 

 からからと笑う暁さん。どうやら暁さんの中では、私は未だに男の子みたいな女の子だという認識が改められていないらしい。まあ、そもそも私は自分のことをボクなんて呼ばないのに、未だに暁さんからのあだ名は『ボクッ娘』な訳で、彼がそのあたりの認識を改めるつもりが全然ないというのはなんとなくわかるけど。

 

 ぷんむくれた私は、無言で暁さんの箸先から、鳥肉やえりんぎを奪い取ってはアリア社長のお皿に取り込んだ。

 

「あっこら、ボクッ娘よ何をするか」

「あはは、アリア社長、美味しいですか~?」

「ぷい、ぷいにゅっ」

 

 暁さんの抗議は完全に無視。アリア社長は万歳をしてから、私が取り込んだ具材をうまっうまっと平らげる。普通の猫は猫舌だというけど、アリア社長に関してはあまり気にしていないっぽい。

 

 そんな私達の様子を、灯里さんとアルさんが楽しげに笑って見つめている。私も何だか無性におかしくなり、作った笑いの奥から自然な笑いが零れ出してくる。そんな様子を情け無さそうな顔で見る暁さんも、ふっと口元を緩ませた。

 

 ああ、幸せだ。私はそう思った。

 

 あの夢のような、灰色の世界じゃない。こんな素敵な人々に囲まれて過ごして行ける、色とりどりの毎日。

 

 そんな素敵な日々を、どうして幸せじゃないと言えるだろうか。

 

 

 地下世界からの帰り道。暁さんを浮島行きロープウェイまで送って行ってから、私達は会社への帰途についた。

 

 その途中、灯里さんがふと、櫂を握る私を見上げて言った。

 

「暁さんは、私達が男の子でも女の子でも、気兼ねなしに付き合えるって言いたかったんだよ、きっと」

「……えー、そうでしょうか?」

「そうだよ、きっとね」

 

 疑問符を返す私だけど、灯里さんのいつもの素敵な笑顔を前にすると、そんなものかもしれない、と何となく納得してしまった。

 

「そうかも、しれませんね」

「うんっ」

 

 くすくすと微笑みを交わして、私は櫂を更に手繰った。

 

 すっかり薄暗くなった水面の向こうに、ARIAカンパニーの明かりが見えていた。

 

 

 




時は戻り、ARIAカンパニー編、開幕です。

本編はARIAカンパニーで灯里の薫陶を色濃く受けたアニエスということで、ネオ・ヴェネツィアの人々との接点が倍増しています。

本章の表題は、ゲーム『蒼い惑星のエルシエロ』の主題歌のタイトルです。このタイトルで検索すれば、動画などでも発見できるのではないでしょうか。

本編はARIAカンパニー編ではありますが、灯里の描写についてはやや少なめです。なぜそうなっているのかは、読み進めていただければご理解いただけるかと思いますが……どうかな。


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Graceful Way 02 トリニティ・マスケッターズ

「おかえりなさい、灯里ちゃん、アニーちゃん」

 

 舟を桟橋に係留して上がると、そこには今日はお休みのはずのアリシアさんが待っていた。

 

「遅いわよ、灯里、アニー」

「でっかいどこまで出掛けていたんですか?」

 

 更に、アリシアさん特製のココア(そろそろ終わりの時期だと言っていたから、多分今年最後の)を片手に、口々に抗議の声を上げる藍華さんたち。

 

「あれ、アリシアさん?」

「あー! 藍華ちゃんにアリスちゃんも、どうしたの?」

 

 買い出しの荷物をテーブルに置いて、予想外の珍客に首をかしげる。アリシアさんは久々のオフだったはずだし、藍華さんやアリスちゃんは、今日もお仕事だったはずなんだけど。

 

「ついさっき帰って来たんだけど、途中で藍華ちゃんたちにばったり会っちゃったの」

 

 と、私服姿のアリシアさんが微笑む。なるほど、アリシアさんが先輩方を連れて来たというのはわかった。だけど……。

 

「藍華ちゃんたちはどうして?」

 

 私の疑問は、灯里さんが尋ねていた。テーブルの上に肘を突いた藍華さんが、ぴっと指を左右に振って見せる。

 

「この間、週刊ネオ・ヴェネツィアの取材が来たじゃない」

「ああ、期待の新人特集のあれですね」

 

 その件なら覚えていた。例のサイレン事件が終わってすぐくらいの頃に、全系誌の週刊ネオ・ヴェネツィアから、灯里さんを始めとする先輩方に取材があったんだ。何でも、ウンディーネ業界の次世代を担う新人の代表として、《水の三大妖精》の直弟子にスポットを当てた特集を組むんだそうで、灯里さんのみならず、藍華さん、アリスちゃんにも取材の人が押しかけていた。

 

 ……ちなみに、以前に記事が掲載されたことがある私は、今回はお預け。

 

「あれの見本紙が、各社に届いてるはずなのよ。各社一冊」

 

 そう言って、藍華さんはテーブルの上の封筒を指さした。風追配達人(シルフ)の配送証明印がどんと押されたそれは、発送元が『週刊ネオ・ヴェネツィア編集部』と書かれている。

 

「オレンジぷらねっとでは、先輩方が見るからとどこかに持ち出されてしまいました」

 

「姫屋の方は、その気になれば抑えられるんだけど、当の私ががっついたり、社内から持ち出すのは何だし……ねえ?」

 

 藍華さんが少し照れたように目尻を緩ませながら、アリスちゃんに目配せする。アリスちゃんはアリスちゃんで、困ったように頬を少し赤くして「でっかい恥ずかしいです」と、こくんと頷いた。

 

「それで、見る人が少ないARIAカンパニーに来たって訳。灯里たちが戻るのをずっと待ってたんだから、感謝しなさいよ?」

 

 私に関してなら、別に先に見ていてもらっても一向に構わなかったのだけど、こういう気遣いは単純に嬉しい。

 

「わーひっ。じゃあみんな、アリシアさんも一緒に見ましょうー」

「あらあら、私は後でいいから、ゆっくりみんなで読むといいわ」

 

 今年最後の生クリーム乗せココアを運んで来ながらの、相変わらずの《白き妖精》なアリシアさんの笑顔。私達はそんなアリシアさんの遠慮と心遣いを有り難く受け取りながら、雑誌の封を開いた。

 

 

 週刊ネオ・ヴェネツィアは、私のお父さんの友人が編集者をしている雑誌だ。私達ウンディーネを特集する月刊ウンディーネに比べて、週刊誌であることと、表題の通りネオ・ヴェネツィア全体を取り扱う事が特徴。地下世界や浮島についての記事も多い。

 

 先日発売された、マンホーム生まれのウンディーネ(つまり私)の記事は、思いのほか読者の反響が大きかったみたいで、続編としてのウンディーネ特集を希望する声が相次いだらしい。

 

 そこで、彼らは私を取材した時にできたツテを辿って、私と同じくマンホーム生まれのウンディーネである灯里さんと、更に灯里さんと仲がよい藍華さんとアリスちゃんの三人組にスポットを当てた。

 

 そんな訳で、週刊ネオ・ヴェネツィアの記者さんたちは、『水の妖精の次世代を担う、三銃士特集』などと銘打って、先輩方を取材した。

 

 その成果として出来上がったのが、この雑誌というわけだ。

 

「えへへ……なんだか照れるね」

 

 緊張半分、照れ半分くらいの笑顔でページをめくる灯里さん。その紙面の写真には、今とそっくりの笑顔で櫂を握る灯里さんの姿が映っている。

 

 グランドマザーから連綿と続くARIAカンパニーの歴史を受け継ぐ、《白き妖精》の一番弟子。ネオ・ヴェネツィアで、彼女の名前は知らなくとも、その特徴的な髪形と、そのとびっきりの笑顔を知らない者はいないだろう。

 

 同門の贔屓は否めないものの、私が知ってるウンディーネの中で、もっともアリシアさんに近い、大きくて柔らかな心を持つ人。それが、親愛なる水無灯里先輩だ。

 

「あー、アル君が写ってるじゃない、灯里!」

「うん、取材の途中でばったり会っちゃって」

「こっちにはムッくんがいますね」

「ムッくんって……ああ、ウッディーさんですね」

 

 灯里さんを撮影した写真には、他の誰かが一緒に写っていることが多い。それはアリシアさんや藍華さんたちはもちろん、暁さんやウッディーさん、アルさんなど、様々な人々だ。雑誌に掲載されている一番大きな写真にも、隅っこに郵便屋の庵野さんの姿が見える。

 

 本来なら、こういう写真からは余計な人の姿が写らないようにするものだと思うのだけど、そこは灯里さん、誰かと出会った直後が一番素敵な表情になる。記者さんもそのあたりがわかるのだろう。セオリーを破ってでも、一番素敵な姿をピックアップしている。

 

「どれどれ、次のページは私ね」

 

 ページをめくると、次の写真は藍華さんだった。

 

 写真の中の藍華さんは、今と同じ白地に赤の制服を纏い、櫂を後ろ手に不敵な笑みでこちらを見返してくる。どことなく晃さんを彷彿とさせるのは、さすが師弟というところだろうか。

 

 髪を留めるヘアピンは、いつものものと違って、装飾の奇麗なお洒落品。藍華さんは、よほど気合が入っている時でないと、このヘアピンは付けてこない。

 

「あ~~~~っ! ピンがちょっとずれてる!?」

 

 藍華さんが、写真の自分のヘアピンを見とがめ、悲鳴を上げた。

 

「……え、藍華ちゃんどこ?」

「でっかい、見た目ではわかりませんね」

 

 気合が入っているだけに、ヘアピンの角度などにもこだわりがあるらしい。灯里さんにもアリスちゃんにも、もちろん私にもわからない些細な違いが、藍華さんには見えたようだった。

 

 実のところ、私を含んだ四人の中では、藍華さんが一番お洒落に気を配っていると思う。それは師匠の晃さんも同じで、何気なく、しかし手抜かりなく様々な工夫をしているのが、藍華さん達流なんだろう。

 

 見た目の華やかさでも、灯里さんの写真に比べて藍華さんのものの方が上回っているように見える。カメラさんも、そのあたりを気遣って撮影の仕方を変えたんじゃないだろうか。背景の建物も、灯里さんの時よりも印象的なものが選び出されているという感じだ。

 

「次は、アリスちゃんだね」

「……でっかい緊張します」

 

 台詞の通り、がちがちに体を強ばらせたアリスちゃん.ページをめくると、またまた今のアリスちゃんにそっくりな、強ばった笑顔でカメラを見返す彼女の姿があった。

 

 アリスちゃん自身は、オレンジぷらねっとに入社して間もない頃に、何度か雑誌の取材を受けたことがあるらしい。ならば取材慣れしているのかと言えばそういうわけでもなく、当時はわからなかった自分の問題が理解できるようになった分、逆に以前よりカメラの前で緊張してしまうようになったのだという。

 

 そのせいなんだろう。この特集のアリスちゃんは、以前私が灯里さんから見せてもらった月刊ウンディーネの写真(灯里さんたちがアリスちゃんと出会う前のものらしい)より、自然さがなくなり、戸惑いの色が濃くなっている。

 

 でも、この照れが交じった表情を見る限り……今のアリスちゃんの方が、魅力的になっていると思う。でも、そんなことを言うとアリスちゃんが拗ねてしまうので、私は黙っていることにした。

 

「それにしても、さすがはプロのカメラマンさんですねー。素敵な写真ばっかりです」

 

 紙面に散りばめられた写真の数々を眺めて、私はほぅっと息を漏らした。灯里さんも、藍華さんも、アリスちゃんも。皆の最高の瞬間を切り取って、紙面一杯に溢れさせている。何枚かに一緒に映っているアリシアさん、晃さん、アテナさんも、自分の一番弟子を誇るように笑顔を浮かべている。

 

「これは、ARIAカンパニーの本棚に永久保存しないといけませんね」

「ぷいにゅ!」

 

 私の提案に、アリア社長が元気よく腕を上げて同意してくれた。

 

 この本は、きっと将来、先輩方が今を思い出す時に紐解かれるんだろう。アリシアさん達が時折、シングルだった頃を懐かしむように話をしているように、きっといつか、プリマになって……。

 

「まさしく、《水の妖精三銃士》なんて呼ばれるようになった頃に、きっと素敵な過去を呼び覚ます鍵になってくれるんでしょうね……」

「アニー、恥ずかしい称号とモノローグ禁止」

「えぇ~っ」

 

 うっかり声に出してしまった私に、いつも通りの突っ込みが入った。

 

「でも、写真が過去を呼び起こしてくれるのは確かだよね。楽しかった事も、苦しかったことも、その写真を見る度に、心から思い出があふれ出して来るんだもの」

「んなっ……」

「古来、宝石箱の鍵には美しい彫刻が施されていたといいます。アルバムというのは、まるで思い出の宝石箱の鍵束のようですね」

「はぅっ……も、もうあんたたち! 三人揃って恥ずかしい台詞禁止!」

 

 突っ込む方が真っ赤になって、禁止禁止と指先を突き付ける。私と灯里さんとアリスちゃんは、最近こういう風に、三人揃って恥ずかしい台詞を重ねて藍華さんを困らせて遊ぶ悪い癖がついている。……いや、多分灯里さんは素だと思うし、私も狙ってそういうことが言えるほど器用でもないのだけど。

 

「……でも、鍵束と言うには、ちょっと足りませんね」

 

 なんてことを考えていると、唐突にアリスちゃんがそう言った。

 

「足りないってどういうこと? アリスちゃん」

 

 開いた雑誌を不満げに眺めながら言うアリスちゃんに、灯里さんが首を伸ばして手元を覗き込む。

 

 はて、何のことだろう。写真には、灯里さん、藍華さん、アリスちゃんはもちろん、アリシアさん、晃さん、アテナさん、更には暁さんやアルさんにウッディーさん、果ては郵便屋の庵野さんまで写っているというのに。

 

 だけど、アリスちゃんは、心底不満そうな顔をして、週刊ネオ・ヴェネツィアを指さした。

 

「この雑誌の写真……アニーさんの写真が一枚もないんです」

 

 

「そう言えばそうね。アニーなんて、暇を持て余して私の取材の時にも一緒にいたのに、なんでかしら」

「私のこの写真撮った時、確かカメラさんの舟を漕いでたのはアニーちゃんだったよね」

 

 藍華さんの指摘に、灯里さんも同意した。といってもそれには理由があって、お父さんの友人である週刊ネオ・ヴェネツィア編集者の人と、その人お付きのカメラマンさんを乗せるのに、『お友達』である私の舟を使うのが、色々と都合が良かったから……なんだけど。

 

 改めて考えると、これって立派なただ乗りだし、メディアの人ってなんかずるい、と思わなくもない。

 

「それにしても、アル君はともかくポニ夫まで隅っこに写ってるのに、どうしてほとんど全部現場にいたはずのアニーが写ってないのよ。なにかおかしくない?」

 

 藍華さんがちょっと憤慨したように頬を膨らませる。私としては別にたいしたことじゃないのだけど……そうやって私のために怒ってくれているのだと思うと、罰当たりかもしれないけど、ちょっと嬉しい。

 

「そういえば……アニーちゃんが写ってる写真って、ほとんどないよね?」

 

 灯里さんが、眉を潜めた。

 

 私は自慢じゃないけど写真を撮るのはちょっと自信があるし、携帯電話(スマート)を持ち歩いているので、いざって時に写真を撮るのは大抵私の仕事だ。

 

 そして撮影する側だってことは、写真に写らないということでもある。セルフタイマーで撮影することもできるけど、そのためにはカメラを立てるスタンドが必要だし、舟にいつもそんなものを乗せておく訳にもいかない。

 

 だから必然的に、私を写した写真は少なくなる。多分私を写した写真は、この間のサイレン事件の前の、雑誌取材の時のものが最後だ。そんな訳だから、私の写真がないのは別におかしなことじゃない。

 

 それだけの……ことなんだけど。

 

「駄目だよアニーちゃん。写真は確かに思い出の切れ端だけど、とびきり素敵な瞬間を残しておけるものなんだから」

 

 そういう灯里さんの眼差しが、何故か心にちくりと針を立てた。

 

「そうね。心の奥底にしまい込んだ思い出は、その時の心の持ちようで、くすんだり色あせたりもするわ。だけど、残しておいた写真は、まるで呼び水のように、素敵な思い出を蘇らせてくれるのよ」

 

 いつの間にか私の背後に立っていたアリシアさんが、そう言いながら私の肩にそっと触れた。

 

「だって、笑顔の写真は、一番楽しかった瞬間を焼き付けたものだから」

「そうです。過ぎてしまった時は、もう後から楽しみ直す事はできませんけど、一緒に過ごした思い出を懐かしむ事も、でっかい楽しいことです。その時、笑顔の写真があるのとないのとでは、きっと楽しさはでっかい段違いです」

 

 アリスちゃんまでが、アリシアさんに続いてそう言う。そうやって集中砲火を浴びていると、自分がものすごく損をしてきたように思えてくる。

 

「そうかも……知れませんね」

「そうよ」

 

 妙に自信たっぷりに、藍華さんも同意する。なるほど、どうやら私の全面敗北みたいだ。

 

「そう言われると、なんだか皆さんと一緒に、記念写真とかを撮っておきたくなりますね~」

 

 我ながら影響を受けやすいことだと思うけど、そんな気分にもなってくる。そんな私の様子に、ぽん、と、何か素敵なアイデアが思い浮かんだかのように、灯里さんが両手を打ち合わせた。

 

「じゃあ、明日みんなでアニーちゃんと写真を撮って回らない? お気に入りの場所とかを巡って、思い出を一緒に写真に焼き付けていくの」

「それはでっかいビッグアイデアですね」

「そうね。観光案内のおさらいとかもできそうだし」

「ぷーいにゅっ!」

 

 灯里さんの提案に、アリスちゃんも藍華さんも賛同の声を上げる。アリア社長もクローゼットから何やらお洒落を引っ張り出して、撮影会に参加する気満々みたい。

 

「あらあら、それは本当に素敵なアイデアね」

 

 更に、スフレを盛ったお皿を手にしたアリシアさんが、にこにこ笑顔で会話に参加した。

 

「あ、アリシアさん。ご都合が良いようだったら、アリシアさんも一緒にいかがですか?」

 

 藍華さんが早速アリシアさんに水を向ける。あわよくばアリシアさんと一緒に記念写真、とか思っているのだろう。でも、確かアリシアさんの明日は……。

 

「ごめんなさいね、藍華ちゃん。明日はゴンドラ協会の会合なの」

 

 申し訳無さそうな顔で、私の記憶通りのスケジュールを述べるアリシアさん。さすが、ARIAカンパニーの収入を一手に担う《白き妖精》、スケジュールはいつも一杯だ。

 

 ……いや、まあ私も灯里さんも、早く何とかしたいと思ってはいるんですけどね。

 

「そっかぁ。残念です」

「まあまあ藍華ちゃん。またチャンスはあるよ」

 

 口調の割にそんな落ち込んだ様子もない藍華さん。そもそも駄目元のつもりだったのだろう。宥める灯里さんも、大体いつもの事、という風情だ。

 

 その時、アリスちゃんがほそっと呟いた。

 

「なら、いっそ今撮ってしまったらどうですか?」

 

 その一瞬、全員がきょとんと動きをとめた。

 

「あ……そっか! アリスちゃんナイスアイディア!」

「なるほどね。アニーにとっては、ARIAカンパニーこそは、一番の思い出の場所だものね。ここを外すことは考えられないわ」

 

 ぱんっと両手を打ち鳴らす灯里さん。うんうんと頷く藍華さん。なるほど。記念写真を撮影するなら、確かにここを外すことはできない。

 

「あらあら、そういうことならちょっと待ってて」

 

 すごく楽しそうな顔のアリシアさんが、そう言って上の部屋に駆け上がって行く。アリシアさんが上がって行くとしたら、それは私と灯里さんの寝室の更に奥、いろんなものが積み上がって魔窟と化した倉庫だろう。

 

 何でもグランドマザーから連綿と受け継がれる秘密グッズや資料のほか、アリシアさんの通販グッズや、灯里さんが衝動的に買ってきた素敵グッズなどが混然一体となった空間らしいのだけど……私にはいまだに恐ろしくて触れることのできない領域だ。

 

 そんな魔窟から、アリシアさんは迷いなく何かの小箱と、細長い袋を持って降りてきた。

 

「ぷいにゅ?」

「アリシアさん、それは何ですか?」

「うふふ、じゃーん」

 

 効果音を口で唱えて、アリシアさんはテーブルの上に置かれた小箱の封を開く。丁寧に緩衝材で覆われたそれは、アリシアさんの手によってその姿を現した……大きなレンズの、古めかしい流儀のカメラだ。

 

「あ、凄ーい。一眼レフに、レンズセットもありますね?」

 

 藍華さんが感嘆の声を上げる。お客様の写真を撮影することも多いので、ウンディーネはカメラの扱いも少しは心得ている。アリシアさんが取り出して見せたのは、私達が普段使っているポケットカメラや携帯電話(スマート)内蔵のものと違って、大人数や大きな景色を撮影するのに向いた、ちょっと本格的なものだった。

 

「するとそちらは……三脚ですか?」

 

 アリスちゃんの問いかけに、アリシアさんは微笑んで然りを返す。果たして細長い袋から姿を見せたのは、足の長さを調節できるカメラ用の三脚だった。

 

「どうしたんですか、これ?」

 

 私が問いかけると、アリシアさんは少し恥ずかしそうにした。何でも、プリマになった直後くらいに、仕事で使おうと思って通販番組お勧めのカメラ一式を揃えたものの、大仰すぎて取り回しが悪いのでお蔵入りしていたものだという。

 

「そういえば、ゴンドラさんお疲れさまツアーの時に貸してくださったカメラですね」

 

 灯里さんがぽんと手を打った。私の知らない時期、ARIAカンパニーの黒い舟が代がわりした事があり、灯里さんが古い舟の思い出探索ツアーをやったことがあるのだそうだ。その時にもアリシアさんがこれを引っ張り出してきたのだという。

 

「じゃあ早速使ってみましょう。えーと……」

 

 バッテリー、よし。絞りとか焦点調整はセミオートで大体勝手にやってくれる。メモリーカードもOK。シャッターボタンはここ。

 

「じゃ、そっちに集まってください。撮りますからー」

 

 カメラを構えて、そう皆さんに声をかける。

 

「…………」

「……えーと」

「……ぷいにゅ?」

「…………あれ?」

 

 何だろう、この微妙な空気は。灯里さんもアリスちゃんも、アリア社長やアリシアさんまでもが微妙な笑顔を浮かべている。

 

 私が戸惑っていると、藍華さんがつかつかとこっちに歩み寄り、こつん、と軽く私の頭を叩いて、カメラを奪ってしまった。

 

「いたっ、何するんですか、藍華さん」

「速攻で忘れてるんじゃないわよ。あんたの写真撮影会でしょうが!」

「……あ」

 

 我ながらそら恐ろしい事に、藍華さんに指摘されるまで、私は完全完璧に、当初の目的を忘れていたのだった。

 

 

 

 

 真ん中に、私。

 

 その右に、灯里さん。その左に、アリスちゃん。藍華さんは私の右後ろで、アリシアさんは左後ろ。アリア社長は、私の前。

 

 みんな揃って、ファインダーの中にいた。

 

 カンパニーレ、の掛け声と共に切られたシャッターが、ARIAカンパニーの一夜を切り取った。

 

 いつもの、天真爛漫な笑顔の灯里さん。『もう、しょうがないなあ』とでも聞こえてきそうな表情の藍華さん。少しぎこちないけど、親愛の情を込めた笑顔のアリスちゃん。慈母のような、あるいは女神のような微笑みのアリシアさん。何を考えてるのかよくわからないけど、とりあえず楽しそうなアリア社長。

 

 そして、満面の笑顔の、私アニエス・デュマ。

 

「……ん、ふふふふ」

 

 今夜だけで何度目だろう。ベッドの上の私は、携帯電話(スマート)に転送したさっきの写真を繰り返し繰り返し呼び出しては、まじまじと見つめて、透かすように見つめて、そして真似するように笑っていた。

 

 こんないい笑顔の私を、私は見たことがあっただろうか。

 

 やる気に満ちた私。落ち込んだ私。鏡に、あるいは水面に映し出された自分の姿はいつでも目にしている。だけど、そんなものを見る時は、いつでも私は私の前にいる。どうしても構えてしまうし、笑顔を……笑顔の自分を取り繕ってしまう。

 

 こんな自然な笑顔を、私は浮かべることができるものだったのか。

 

「……どう? アニーちゃん」

 

 隣のベッドから、灯里さんが微笑んだ。カメラの写真を一足先に携帯電話(スマート)に取り込んでおいたらどうか……そんな提案をしてくれたのは灯里さんだった。お陰で、普通だったらメモリーを写真屋さんに持ち込まないと見られないところを、今私はベッドの上で眺めることができている。

 

「……なんだか、すごく、くすぐったいです」

 

 照れ半分、嬉しさ半分くらいの笑顔を返す私。嬉しくて、いろんな人に大きな声でこの感動を伝えたい気分なのに、一方でそれが気恥ずかしくて、誰にも見せない大切な秘密にしてしまいたいような、そんな矛盾した感情に右往左往している。

 

 まったく、ついさっきまで、写真に撮られることに気後れしていたなんて、信じられない。

 

 あの時、アリシアさんが手にしたカメラのレンズが私を捉えた瞬間、私は両脚が震えるのを感じた。

 

 そこにいてはいけない。そのままではいけないと、私の中で誰かが叫んでいる。じっとしていられない。その場から逃げたくてたまらない。

 

「あ、あの、アリシアさん」

 

 そんな衝動に耐えられず、思わず私は拒絶の言葉を口に出そうとした。そうしなければ、耐えられない。その場で泣き出してしまいそうな、そんな不安定さが私の喉からせり上がってくる。

 

 そんな気が、したのだけど。

 

「大丈夫だよ、アニーちゃん」

 

 そっと、右の手を、灯里さんの手が包み込んだ。

 

 暖かかった。優しかった。軽く、力も込められていない手のひらなのに、まるでその手に押しとどめられているかのように、私の体の震えが止まった。

 

 左の手のひらに、小さな手が絡みつく。アリスちゃんだ。仏頂面にふんわりと優しい微笑みを浮かべて私を見上げている。

 

 右の肩に、手のひらが触れた。藍華さんだ。私の肩をぞんざいに掴む手は、だけど勇気づけるような力強さは一番。そんな彼女が浮かべて見下ろすのは、しゃきっとしなさいよ、と言わんばかりの笑み。

 

「ぷいにゅっ!」

 

 そして、アリア社長が、私の膝の上に飛び込んできて。

 

 セルフタイマーをセットして、ばたばたと駆け寄るアリシアさんが私の左の肩に触れたときには、私の怯えはどこかに消えてしまっていた。

 

「じゃあ、せぇの……」

『カンパニーレ!!』

 

 そして、ARIAカンパニーの、最高の夜が、ここに切り取られた。

 

「本当に、写真は素敵な思い出の鍵なんですね」

 

 写真を眺めて、瞼を閉じれば、あの時の居間の様子が手に取るように思い出せる。

 

「明日はもっと一杯、素敵な写真を撮れるよ」

 

 何かの確信があるように、灯里さんが笑った。

 

 

 夜も更けて、隣のベッドの灯里さんが寝息を立て始めた頃、私はふと、ベッドから這いだした。

 

 写真を上から下からと眺めていた結果、携帯電話(スマート)のバッテリーが危険信号を発し始めたからだった。

 

 マンホームではどこにでもあった充電器も、アクアでは限られた場所にしかない。我らがARIAカンパニーでは、一階の電話の側にあるだけだ。

 

 寝間着のまま階下に降りると、そこには小さな灯りが点っていた。

 

「あれ、アリシアさん?」

「……あら、アニーちゃん。まだ起きてたの?」

 

 テーブルに向かって眼鏡をかけて、何かを熱心に眺めていた様子のアリシアさんが、私に気づいてそう声をかけてきた。

 

 何か仕事をしていたのか、テーブルの上には会社経営関係の書類や本が並んでいる。しかしそれらは綺麗に閉じられており、今は作業が一段落して、何かの雑誌に目を落としているようだった。

 

 携帯電話(スマート)を充電マットの上に置いて、問い返す。

 

「私は充電に。アリシアさんはお仕事を?」

「ええ。ちょっと早めにやっておきたい事があって。でももう終わったから、片づけたら帰るわね」

 

 ぱたん、と雑誌を閉じ、眼鏡をケースに片づけるアリシアさん。そしてテーブルに並んだ資料を片づけようと手をかけるのだけど、それを私が制した。

 

「あ、アリシアさん。その片づけは私がやっておきます。もう遅いですから、早く帰って休んでください」

 

 アリシアさんは、会社からそう離れていないものの、会社とは別の所に住んでいる。今から帰って着替えて……と考えると、できるだけ早く家に帰った方がいいに決まっている。幸い、私はもう寝るだけだし、少しくらい夜更かししても大丈夫。

 

「そう? ……ありがとう、アニーちゃん。それじゃ、お願いするわね」

「はい、お疲れさまでした、アリシアさん」

 

 アリシアさんの笑顔を見送って、テーブルの上を片づけにかかった。

 

 テーブルの上にあったのは、会社の出納帳や企業年鑑などといった、会社を運営していくために必要な資料だった。普段はあまり本棚から出てこないようなものが多く、アリシアさんは何か大変な仕事をしていたのだろうと思える。

 

 そんな重たい本を本棚に戻して、私はつい先ほどまでアリシアさんが見ていた雑誌を手に取った。……先輩方の記事が掲載されたくだんの週刊ネオ・ヴェネツィアだ。

 

 アリシアさんは、仕事が終わって一息ついていたのだろうか。もしそうだとしたら悪いことをしたと思う。

 反省しつつ雑誌を閉じて、書架に収めようとする私だったのだけれど、その途中、うっかり雑誌を取り落としてしまった。

 

「あ、いけない……」

 

 床に落ちて、ばさりと広がる雑誌。

 

 癖がついていたのだろうか。図らずも開いたそのページは、先輩方の記事の末尾、記者さんから見た、現在のウンディーネ業界を総括したものだった。

 

 

『ウンディーネ業界は、職業の性質上、女性ばかりの職場で、かつ入れ替わりが激しい。しかも、新人として参入する若者の中でも、一人前のプリマになれないままに消えて行く娘も珍しくない。

 更に、古都ネオ・ヴェネツィアを紹介するという役割上、どうしてもそのシステムは硬直化の傾向を否めず、オレンジぷらねっとのような新鋭の企業を除くと、いささか発展が停滞していると言わざるを得ない。

 それを打破するためには、本稿で紹介した、綺羅星たる次世代の三銃士たちのような新人の成長はもちろん、それらを統括するゴンドラ協会そのものも、現場を熟知しつつ、業界を俯瞰できるような人材の積極的な取り入れを進めて行く必要がある、と筆者には感じられた』

 

 

「停滞、か……」

 

 いつもいつもウンディーネを取り扱っている訳ではないだけに、その意見はちょっと実情に即していないんじゃないか、と思える。

 

 ウンディーネに求められているのは、揺らめく水のように、素敵で穏やかな今の繰り返し。マンホーム的にがむしゃらに進歩していくのは、アクアには相応しくないんじゃないだろうか。

 

 だけどその一方で、確かにそうかもしれない、とも思う。私が変わっていったように、街も、アクアも、みな少しずつ変わってゆく。今が大切なのは間違いない。でも、その今を維持するために、変わっていく方向を見失ってしまうのも、また間違っているような気がする。

 

(アリシアさんはどう思ったんだろう)

 

 私と同じだろうか。それとも、《水の三大妖精》に相応しい、もっとはっきりとした考えを持っているんだろうか。

 

 そんな事を考えながら、私は雑誌を書架に収め、ベッドに潜り込んだ。



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Graceful Way 03 ピクニック日和

 いつの頃からか、私の病室には、誰も訪れなくなっていた。

 

 お父さんもお母さんも、私と距離を置くようになってしまった。

 

 私を病院においておくために、ずっと無理をして働き続けているのだと、頭ではわかっている。だけど、時々しか顔を出さず、お定まりの心配顔をぶら下げて現れる二人に、私が罵声を飛ばして傷つけてしまうからだ。

 

 友達と言える人は、みんな何処かに行ってしまった。理由は両親と同じ。

 

 いや、そもそもそんな人は、何処にもいなかったのかも知れない。

 

 だって、私は。

 

 誰かに会えば当たり散らし、心ない言葉を叩きつけるような、どうしょうもない子なのだから。

 

 いつからこうなってしまったんだろう。

 

 どうしてこうなってしまったんだろう。

 

 こんな私は、嫌だ。

 

 こんな私は、いなくなってしまえばいい。

 

 だから、私は目を閉じた。

 

 歌声が誘う眠りに任せて、こんな醜い私がいるこの世界を閉じて、夢の向こうに心を飛ばした。

 

 

 

 

 ゴンドラ協会の会合にお出かけするアリシアさんを見送って、しばし。

 

「カメラよーし!」

「ぷいにゅー!」

 

 そんなかけ声と共に、灯里さんがアリシアさんから借りたカメラを掲げた。

 

「お弁当よーし!」

「ぷいぷいにゅー!」

 

 私も負けじと、お弁当籠を掲げてみせる。早起きして、灯里さんと一緒に作ったものだ。

 

「「お天気よーし!」」

「ぷいにゅー!」

 

 最後は声を揃えて、天を仰いだ。

 

 空は真っ青で、雲は真っ白い塊がぽつぽつと控えめに浮かんでいるだけだった。海の青、空の青。遙かなる青。ARIAカンパニーを象徴する青と白が、世界を包み込んでいる。

 

「絶好のピクニック日和だねー、アニーちゃん」

「はい、そうですね灯里さん!」

 

 灯里さんと笑い合う。夢見が悪くて憂鬱だったけど、こうやって笑えばそんな気分も吹き飛んでしまう。

 

 今日は言うまでもなく、ピクニックの日。ネオ・ヴェネツィア内外の素敵スポットを巡って、記念写真を撮って回る。空も、風も、海もみんなピクニックに味方してくれたかのように上々の具合で、ただ笑い合っているだけでテンションが底上げされていく。

 

「そこ、朝っぱらから騒々しいの禁止」

 

 こんな素敵な気分に、いいタイミングで水を差す藍華さん。見ればその後ろには、一緒にやってきたのだろう、アリスちゃんの舟も見えた。

 

「おはようございます、灯里先輩、アニーさん。二人とも、朝からでっかい素敵モード全開ですね」

「うん、もっちろん!」

 

 軽やかに、アリスちゃんに是を返す。当然だ。だって、こんないい天気で、こんな素敵な先輩達と一緒にピクニックに出かけられるのだもの。テンションが上がらないはずがない。

 

「それじゃ、全員揃ったことだし、レッツらゴー!」

「おー!」

 

 灯里さんのかけ声と共に、私たちは舟を漕ぎ出した。

 

 

 

 

 撮影ツアーは、掛け値なしに最高のものになった。

 

 天候に恵まれた私たちは、次から次へと思い出の場所や、最近覚えた新しい素敵スポットを巡っては、満面の笑顔の私たちを写真に焼き付けて回った。

 

 特に、私が知らないうちにみなさんが教わったという、水没した修道院は最高だった。まるで神殿のように静謐な空気の回廊を抜けて、その先にぱっと広がる庭園。そして、その奥に眠る、中天から注ぐ日の光に一杯に葉を広げた、まるでまさしく聖域のような佇まいの木。

 

 どうしてこんな素敵な場所を教えてくれなかったのかと問えば、何でも私が雑誌に掲載されて忙しくなっていた時期に知った事だという。それでは私には文句を付けることもできない。あの頃は、本当に皆さんに多大な負担をかけてしまっていたのだから。

 

 更に驚くべき事には、アリシアさんや晃さん、アテナさんの《水の三大妖精》が途中でツアーに合流してくれたのだ。

 

 この七人(と猫社長三匹)が一同に介するのは、随分久しぶりの事だった。もしかしたら、全員が揃ったのは、くだんのサイレン事件の終わり、アンジェさんを見送ったあの日以来だったかも知れない。

 

「会合が思った以上に早く終わらせられたの」

「で、私たちも運良く時間がとれそうだったからな。可愛い後輩達が終始遊び呆けないよう釘刺しに来たという訳だ」

 

 悪戯っぽく微笑むアリシアさんに、こちらもちょっと意地悪く笑う晃さん。アテナさんの方は「何々、これって何の集まり?」と、一人事情が分かっていないようで、きょろきょろと周囲を見回しては、アリスさんにめっと釘を刺されている。

 

「ありがとうございます、皆さん」

 

 柔らかな風がそよぐ木陰で、お昼御飯にお弁当を広げている中、私はその場にいる素晴らしい人たちに、感謝の想いとともに頭を下げた。

 

 私のために、こんな素敵なイベントを企画してくれた灯里さん、藍華さん、アリスちゃん。

 

 忙しい中の時間を縫って、顔を出してくれたアリシアさん、晃さん、アテナさん。

 

 もちろん、いつも一緒のアリア社長にヒメ社長、まぁ社長も。

 

 こんな素晴らしい時間と、こんな素晴らしい人々が集った、まるで奇跡のような光景。

 

 その姿を、私は写真にはもちろん、心にしっかりと焼き付けた。

 

 

 そんな素晴らしい時間は、本当に瞬く間に過ぎてしまった。

 

 多忙の合間を縫って顔を出してくれた晃さんとアテナさんは、それぞれ藍華さんとアリスちゃんを伴って、会社に戻っていった。午後の仕事に助手が必要になったのだそうだ。

 

 後には、アリシアさんと灯里さん、アリア社長とこの私、アニエス・デュマが残された。

 

「アリシアさんは、午後はお仕事ですよね?」

「うーん、どうしようかしら……」

 

 灯里さんの問いかけに、アリシアさんは思案げに人差し指を頬に当てた。今日は朝からゴンドラ協会の会合の予定で、午後には特に予定を入れていなかったはずだ。本当なら夕方までかかる予定の会合が、どうしてこんなに早く終わったのか。理由はわからないけれど、とりあえず幸運は最大限に活用するべきだと思う。

 

「灯里ちゃんたちはどうするの?」

 

 結論が出なかったのか、灯里さんの方に水を向けるアリシアさん。

 

「私たちは……今度は私のお気に入りを巡ってみようかなって」

 

 灯里さんの言葉に頷く私。灯里さんには、観光名所としての素敵スポット以外の、彼女個人がお気に入りの場所を案内して貰える予定になっていた。

 

 本当なら藍華さん達も一緒のはずだったんだけど、まあ、仕事の都合なら仕方がない。

 

「あらあら、それなら私も一緒していいかしら?」

 

 アリシアさんのそんな要望に、否を答える私たちが存在する筈もなかった。

 

 

 最初に立ち寄ったのは、本土へと続く鉄道橋、リベルタ橋だった。

 

 マンホームのヴェネツィアがそうであったように、大陸と島を結ぶ鉄道橋は、下から見上げるとまるで空へと続いているかのように見えた。

 

「前にここで、銀河鉄道を見たんだよ」

 

 灯里さんが恥ずかしげに笑った。何でも、以前アリア社長に誘われて行った先で、猫達が乗り込む不思議な列車を目撃したのだという。

 

 本当に列車が宇宙目指して走ったのかはわからない。だけど、猫妖精が車掌を務めるその列車は、確かにどこか普通じゃない場所へと走り去っていったのだそうだ。

 

 ふと、イメージが浮かび上がる。星虹の中で、窓の外をすれ違う、古めかしい鉄道列車。噴煙を靡かせながら駆け抜けていくその窓に、鷲鼻のマスクを被った巨躯が顔を見せ、洒落たポーズでこちらにウインクして見せる。

 

 もし銀河鉄道なんてものがあるとしたら、まさしくこんな感じなのだろうか……とは思うけど。

 

「……そんなケンジ・ミヤザワじゃないんですから」

 

 有名なマンホームの小説を思い出す。確かあれは、死者が天国に向かうために乗り込む列車で、生きたまま列車に乗った主人公は……ええと、どうなったんだっけ。ともあれ、夢の物語ではないのか、という疑問は拭えない。

 

 だけど……。

 

”夢の中の自分、起きている自分、どちらが本物という訳ではなく、等しく真実である……ということです”

 

 アルさんの言葉を思い起こす。灯里さんは夢見がちな人だけど、嘘を言う人じゃないし、夢で見たというならば、そこにはきっと真実の一片が隠されているんだろう。あのサイレン事件の時に、灯里さんだけは、あのサン・ミケーレ島で猫妖精を目撃した(そして彼が私を助けてくれた)のは間違いないのだし。

 

「猫妖精……かぁ」

 

 小さく嘆息混じりに呟く。猫の王国に入り込んだときも姿は見えず、サイレン事件の時も私には見ることができなかった。

 

 どうして、私は彼に会うことができないんだろう。せめて、出会ってお礼くらいは言いたいのに。

 

「どうしたの、アニーちゃん?」

 

 アリシアさんが、私の顔をのぞき込んだ。顔に憂鬱が出ていただろうか。アリシアさんはいつでもこうやって、私たちを優しく見守ってくれている。そんな暖かさを心地よく感じながら、私は大したことではないと前置きした上で、憂鬱の理由を語った。

 

「……どうして私は猫妖精さんに会えないのかな、と思って。ほら、私、猫妖精さんに助けられてるはずなのに、見たことがあるのはサイレンの悪魔ばっかりで」

「……そうね、どうしてかしら。助けてくれるくらいなんだから、猫妖精もアニーちゃんを気に入っているでしょうに」

 

 私の答えに、アリシアさんは笑い飛ばすでもなく、話を合わせてくれた。アリシアさんは、滅多に私たちのやること、言うことを否定しない。私たちが決定的に間違ってしまっていた時はそれを指摘するけれど、その時も慎重に、相手が傷つかないように配慮している。

 

 そんなアリシアさんであるから、私も気兼ねなくそう話を続けることができた。

 

「そうですよねー。うーん、私には才能とかがないんですかねー」

 

 私には、灯里さんのような、誰とでも仲良くなってしまうような才覚はない。だとしたら、たとえば猫妖精は、友達になれるような相手の前にしか姿を現さないのだろうか。

 

「…………じゃあ、会いに行ってみようか、アニーちゃん」

 

 そう提案する灯里さんの顔は、いつも通りに笑顔だったのだけど。

 

 その表情が、どことなく寂しげな色を帯びていたのは、私の気のせいだっただろうか。

 

 

 そうして、私たちは灯里さんがかつて猫妖精と出会ったという場所を巡ることにした。

 

 運河端の喫茶店跡。古い水路奥に隠された猫の王国。一度小路の奥の行き止まりに案内されたけど、ここはかつてカルナヴァーレでカサノヴァが消えていった場所なのだという。

 

 それぞれの場所で、私たちは灯里さんの思い出話に驚き、慄き、笑った。そしてその思い出の切れ端を、カメラのメモリーに焼き付けた。

 

 だけど、結局一度も……当然のことかも知れないけど、猫妖精に会うことは、できなかった。

 

 そして、一カ所、また一カ所と空振りが続く度に、灯里さんの笑顔に陰の色がにじんでくるのを、私は見逃さなかった。

 

 何故なのかは、私にはよくわからなかったけれど。

 

 アリシアさんだけは、まるですべてを理解しているかのように、穏やかな微笑みを浮かべて、私たちを見守っていた。

 

 

 不幸の石とやらで空振りした時には、太陽はもうすっかり低くなっていた。

 

 運河端に舟を止め、夕日の燃え上がる赤に全身を染め上げながら、私たちはポットのミルクティーで暖をとっていたのだけれど。

 

「……もう、諦めようか」

 

 ぽつりと、ミルクティーの湯気に紛れるように、灯里さんが呟いた。

 

 灯里さんらしくないな、と思った。何をやるにもへこたれない不屈の精神は藍華さんのものだし、頑として譲らない負けず嫌いなところはアリスちゃんの専売特許で、灯里さんの個性とは違う。だけど、誰かが何かを一生懸命にしようとしているならば、それを認めて、自然に支えようとするのが灯里さんだと思う。

 

「灯里さん……?」

「えっと、もう時間も遅いし、お夕飯の準備もしないとだし、ね?」

 

 しどろもどろに、言い訳を紡ぐ灯里さん。まったく、らしくない。嘘も隠し事も苦手な灯里さんが、こんな態度をとるなんて。

 

 まるで、ここから先に、私を近づけたくないみたいじゃないか……。

 

「アニーちゃん、後残ってる不思議スポットは、サン・ミケーレ島だけなのよ」

 

 そう思い至った瞬間、アリシアさんがそう助け船を出した。

 

「あ……」

 

 一挙に頭の中の靄が晴れた。そうだ、サン・ミケーレ島は、灯里さんが《噂の君》と出会い、私が《サイレンの悪魔》と出会った場所。ある意味『何か』に出会うなら、これ以上ないほどの場所だ。

 

 ただ、問題があるのは、かつてそこに踏み込んだとき、出会ったものは必ずしも善いものばかりではなかったということで。

 

「ええと……うん。そういうことなの」

 

 少し歯切れ悪く、灯里さんが頷く。なるほど、そういうことならわかる。

 

 なんてことだろう。灯里さんの折角の配慮に気がつかないなんて。自分の浅慮を悔やんで、こつんと拳で頭を叩く。

 

 ……だけど。

 

「そうですね……でも」

 

 灯里さんの配慮はありがたく受け取りつつ、それでも私は『でも』を紡いだ。

 

 折角ここまでやって来たんだし。

 

 あと、最後の一つだと言うならば。

 

 どうせなら、悔いのないよう、できる限りをやってから帰りたい、と思ったんだ。

 

「やっぱり、中途半端で諦めたくないです、私」

「でも、もしまた《噂の君》や《サイレンの悪魔》が出てきたら、どうするの?」

 

 灯里さんの危惧はもっともだ。何しろ、私たちは二人ともが、かつてサン・ミケーレ島の魔女か何かに浚われかけた身の上。同じ事が繰り返されないとも限らない。

 

 だけど。

 

「今の私なら大丈夫だと思いますし、それに」

 

 順に視線を巡らせて言いながら、私はアリア社長のぽよぽよの身体をぎゅっと抱き上げた。

 

「今は、アリシアさんと、灯里さんと、アリア社長が一緒なんですから」

 

 アリア社長に頬ずりする。社長は「ぷいにゅ?」と不思議そうな顔をしてみせたけれど、言いたいことがわかったのか、それともよくわからないなりにか、「まかせて!」と言わんばかりに前足をびっと突き上げて見せた。

 

「頼りにしてますよ、アリア社長」

「ぷいにゅっ!」

 

 私たちのそんな様子と、自分を見つめるアリシアさんの微笑みの力によってか、灯里さんもサン・ミケーレ島行きに賛成してくれた。

 

 

 

 

 逢魔ヶ時。日が落ちて薄夕闇が世界を包み込むこの時間帯は、古来からそう呼ばれている。

 

 世界の闇が深まる時間。太陽がしろしめす時は終わりを告げ、月が大地を見守るまでの狭間の時間は、ともすれば深夜よりも闇が濃い。

 

 遙か昔の死者を弔った墓石の林が、霧のように絡みつく闇を纏って、佇んでいる。

 

 そんなサン・ミケーレ島を、私たちはおっかなびっくり歩いていた。

 

「や、やっぱりちょっと怖い……ですね」

 

 ひゅうと風が鳴り、がさがさと梢を揺らす度に、思わず足を止めて周囲を見回してしまう。臆病なことだと笑われそうだけれど、幸いここには私を笑うような人はいない。

 

「そ、そうだね、アニーちゃん」

 

 緊張した面もちで、私の手をぎゅっと握る灯里さん。いや、握ってるのは私の方なのか、よくわからない。

 

 ちなみに、我らが守護神たるアリア社長は、早々に風が梢を揺らした途端、アリシアさんの腕の中に飛び込んでしまった。一方アリシアさんの方は、しがみついて離れないアリア社長をよしよしとなだめながら、普段通りの微笑みと共に、私たちの後ろを歩いている。さすがは《水の三大妖精》といったところか。

 

 しかし、そうやって墓石の隙間を歩いてみても、猫妖精はおろか、何の姿も見つけることはできなかった。

 

 闇の中に、闇に溶けるように墓石が並ぶ。そこここにわだかまる闇は、今すぐにでも何かが這い出してきそうな程、暗く、深い。

 

 再び、風が踊る。びくり、と身を強ばらせた私達の頭上で、がさがさ、ざわざわと梢が騒ぐ。

 

「あ、あはははは……ア、アニーちゃん、やっぱり帰らない?」

「そ、そうですねー。見た感じ空振りっぽいですし……」

 

 灯里さんの提案に、私も同意する。正直、ここは失敗だった。サイレンの悪魔がいようといまいと、怖い場所はやっぱり怖いんだ。

 

「それじゃ、帰りましょうか、灯里ちゃん、アニーちゃん」

 

 『しょうがないなあ』と言う感じの笑顔を浮かべて、アリシアさんがくるりと背を向ける。その背中を、灯里さんが追いかける。

 

 

 その後ろに、ついて歩き出した、その瞬間。

 

 

 一際強い風が、木々の隙間から吹き込んだ。

 

 両目を打ち据える突風。枯れ葉が風に乗って、視界を覆い隠す。

 

 そして、風がやんだその時。

 

 私の周囲には、誰もいなくなっていた。

 



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Graceful Way 04 現実と幻想の狭間より

「……え」

 

 戸惑いの声が、思わずこぼれ落ちた。

 

 右を見る。誰もいない。

 

 左を見る。闇ばかりだ。

 

 背後を見る。木がざわつく。

 

 そして、正面に向き直ったとき、そこには喪服姿の女性の姿があった。

 

「…………!!」

 

 息を呑んだ。忘れもしない、その装い。顔をヴェールで隠して、毛皮のコートを羽織った、たぶん……とびっきりの美女。

 

 そう、間違いない、彼女こそは……《サイレンの悪魔》。

 

「どうして……!?」

 

 思わず問いかけてしまう。なぜ、今更現れたのだろう。あの時、《サイレンの悪魔》は猫妖精に追い払われたはずだ。

 

 でも、考えてみる。そうだ、まだあれからせいぜい二ヶ月。私は半年近く《サイレンの悪魔》に付きまとわれていた訳で、二ヶ月くらいのインターバルは、その間にもあった。

 

 つまり、この平穏な時間は、つかの間のものでしかなかったということなんだろうか。まだ私は、《サイレンの悪魔》に苦しめられる日々から逃れられないんだろうか。

 

 ……いや、違う。

 

 そんなことであってたまるもんか。

 

 私は、あの憂鬱な日々を乗り越えたはずだ。

 

 確かに、《サイレンの魔女》に惑わされたのは確かだ。だけど、魔女が狙い撃った私の心の闇は、元々私の心に巣くって薫っていたもの。そのままでは隠したまま気づかずにいたかもしれない、そんな心の影の部分。

 

 だけど、私はそれを乗り越えた。灯里さんたちの支えのお陰ではあるけど、それでも、私の心にあった闇を、一度は振り切ったんだ。

 

 同じ手では……もう、惑わされたりはしない。

 

”あなたは……どうしてそこにいるの?”

 

 そう、《サイレンの魔女》は問いかけてきた。

 

 心に直接響くような声だった。堅く結んだはずの心を揺さぶるような声だった。

 

”どうして、あなたは自分の姿を残そうとするの? それは、あなたが一番嫌っていた事じゃなかったの?”

 

 心に染み透る、サイレンの呼び声。それは、私の心の奥底に、ちくりと針を突き立てた。

 

「それ、は……」

 

 そうだ。そう……かもしれない。私は……アニエス・デュマは、誰かの思い出に残る事が嫌で嫌で仕方がなかった。

 

 以前の私は、誰かに好きになって貰えるような人間じゃなかった。優しさに包まれていることを知っていても、心の中ではいつでも怯えている。私はその優しさに相応しい人間じゃない。間違いが露わになったとき、誰もが私から離れて行ってしまうだろう。

 

 だから私は、私を誰にも見られたくなかった。記憶に残して欲しいとも思わなかった。取り繕った笑顔の向こうを見抜かれるかもしれないと思ったから、化けの皮が剥がれたときの自分を見たくなかったから……そんなところだと思う。

 

 だから、自然と写真から身を退けていた。私の写真がないのも当たり前だ。私は、ウンディーネになった今でも、無意識にカメラのレンズから逃げだそうとしてしまう。撮影されて、誰かの思い出になることを、心のどこかで恐れている。

 

 それは私が、私の事を嫌いだったから。

 

 私が、私を覚えていたくなかったから、なのだと思う。

 

 だけど、思い出す。あのARIAカンパニーの社屋で映した一枚の写真を。

 

 ポシェットに入れたままの携帯電話(スマート)を、ぐっと外から握りしめる。この中に、私の大切な思い出が収まっている。

 

 笑顔の灯里さん。笑顔のアリシアさん。笑顔の藍華さん。笑顔のアリスちゃん。そして笑顔の私。

 

 あの暖かな記憶。決して忘れ得ない、宝石よりも大切な記憶。

 

 その中に、私は確かに存在していて、みんなと一緒に笑い合っていた。

 

 その思い出を決して手放したくないと思ったし、みんなにも私の事を覚えておいて欲しいと思った。

 

 それはきっと、私が私を――今の自分を、好きになれているからなのだと思う。

 

 昔の膝を抱えていた私ではない、この水の惑星に飛び込んで、無我夢中で前に歩いて、転んで、立ち上がって。多くの素敵な人達に支えられて、変わっていった私を。

 

 だからだろう。こんなに胸が温かいのは。

 

 私を取り巻くみんなを愛して、そしてみんなに愛されている自分を感じられるからこそ、こんなにも胸が温かい。

 

 だから、私は思い出を残したいと思う。

 

 この輝かしい日々を切り取って、心に刻む。私の心の宝石箱にそんな思い出を詰め込んで、写した写真はその鍵束。

 

 だから、私はもう恐れない。恐れてはいない。

 

「だから、それはきっと」

 

 私が、写真から逃げ出さなくなったのは。私が、誰かの思い出になることを望むようになれたのは。

 

「私が、誰かに愛されて、誰かを愛することを、怖がらなくなったから……だと思います」

 

 優しさの重みに縛られて、前が見えなくなっていた、あの日々。

 

 その軛を、大切な人達が、一つ一つ解いてくれた。

 

 そして、夢で見たいくつもの可能性。私が選ばなかったけれど、私がなりたいと思っていた自分の姿を観て。

 

 私は、自分を信じられるようになった。

 

 信じられなかったとしても、信じられるように自分を高めていこうと思えた。

 

 だから、今私はここにいる。

 

 ネオ・ヴェネツィアのシングル・ウンディーネとして、私はここに立っている。

 

 その今を――。

 

「その今を、残したいと、思えたんですよ」

 

 ふわり、と微笑みが溢れた。

 

 心に溢れる喜びの欠片が、口元から溢れ出る。

 

 そんな私の微笑みに、《サイレンの魔女》はたじろいだように見えた。

 

 言葉を探すように、指先がさまよう。私をたぶらかすための道具を探しているのだろうか。

 

 だけどその言葉は、まるで光に照らされた闇のように、手を伸ばす端から消えていってしまうようで。

 

「…………」

 

 三度も指先が胸元と口元を往復させるけれど、私に繰り出す決め手となる一撃が見つからない。

 

 だからだろうか。

 

 やがて、諦めたように顔を隠すヴェールを小さく揺らして、《サイレンの魔女》はくるりと私に背を向けた。

 

 

 ――その瞬間だった。

 

 

 ばちっと、私の頭の奥で閃光が駆け抜け、私の目が眩んだ。

 

 ふと、その背中が……どこか記憶の底の底にある像と、重なって見えたんだ。

 

 寂しそうな、背中。どんなに手を伸ばしても、誰も自分を受け入れてくれない、そんな孤独を滲ませた背中。

 

”寂しいだけ、なのかも”

 

 そんな私自身の呟きが、どこからか沸き上がってくる。

 

 何だろう、これは。

 

 そんな記憶、私にあるはずないのに。

 

 そう、多分これは、夢の向こうの記憶。

 

 無数にある可能性の中でも、私が心からたどり着きたいと思う世界。その一つの中にあった記憶。

 

 その世界で、私の心に浮かび上がった疑問のかけら。

 

 その記憶が、どうして私の中にあるのか、それはわからないけれど。

 

 夢現の幻らしく、その幻想は手を伸ばす端から消えていってしまうけれど。

 

 その記憶の想いだけは、私の中に残った。

 

 だから、私は……声を上げた。

 

「待ってください!」

 

 ぱた、と立ち去る《サイレンの魔女》の足が止まった。

 

 

「どうして……貴女は私を連れていこうとしたんですか?」

 

 立ち止まった背中に、私は問いを連ねた。

 

 《サイレンの魔女》は答えず、ただそこに足を止めたままだった。でも、それだけでも意味はある。《サイレンの魔女》は立ち去ろうとしていない。背中越しでも、私の言葉を聞くために立ち止まっている。

 

 私は、《サイレンの悪魔》に問いただしたいことがあった。

 

 灯里さんが《噂の君》と出会ったとき、彼女は『友達になれる』と言ったのだという。『ずっと一緒にいたい』とも。

 

 それは、灯里さんを連れ出す方便だったかも知れない。悪魔はそういう方便をよく使うとは聞いたことがある。

 

 だけど、もしも。

 

「あ、あの、もしも」

 

 もしも、あのイメージが間違っていないとしたら。

 

 単に、その方法を間違えているだけで、本当に《サイレンの悪魔》は、友達が欲しいだけなのだとしたら。

 

 ばちり、とまた脳裏で光が弾ける。

 

 思い起こされるのは、私の過去。覚えている中で、一番忌まわしい記憶。

 

 病院に閉じこめられたまま、お父さんにもお母さんにも友達にも我が儘を言って、当たり散らしていた、そんな私の記憶。

 

 誰かを拒絶していた訳じゃない。むしろその逆。一緒にいて欲しいから、自分を見て欲しいから、必死に声を張り上げていた。

 

 もちろん、それは間違い。そんなことをしても、みんなの心は離れて行くばかり。でも、あの時の私はそんなことも理解できず、ただこれが正しいのだと信じて……当たり散らしていた。

 

 もしかして、《サイレンの悪魔》も同じだったとしたら。

 

 寂しいあまりに、方法を間違ってしまっているだけだとしたら。

 

 だから、私は問いかけた。

 

「もしも、貴女が友達になりたいというのが本当だったら」

 

 本当だったとしたら……私は。

 

 私は、彼女の友達になってみたい。

 

 だって彼女がかつての私と同じだとしたら。

 

 私の心を溶かしてくれた優しい風を、彼女に届けてあげたいと思う。

 

「私は、貴女の世界に行くことはできないから」

 

 私は、あちら側に行ってしまったら、多分戻ってこれない。幻想に踏み込むという事は、多分そう言うことだ。

 

 だけど、幻想は現実に紛れ込む。誰にも気づかれないうちに、ひっそりと。

 

 それができるのなら……答えは簡単。

 

「だから、会いに、来てください。ネオ・ヴェネツィアへ。ARIAカンパニーへ!」

 

 ふるり、とヴェールが揺れた。

 

 そこには顔がないはずだった。でも、顔を揺らす心はあるはずだった。

 

 だから、私はいつものように……お客様を、そして大切な友達を迎えるときの、一番とびっきりの笑顔を浮かべて、右手を差し出した。

 

「水の妖精は、いつでも、誰でも、ネオ・ヴェネツィアを愛する全ての人を、歓迎していますから!」

 

 

 

 

 ――ざわ、と風が吹き抜けて。

 

 気がつくと、私はアリシアさんに抱き抱えられていた。

 

「……あれ?」

 

 ふわり、と香る、アリシアさんの髪の匂い。通信販売で買ったというお気に入りのシャンプーに、アリシアさんのそれ自身が優しさを運んでいるような香りが入り交じっている。

 

 ずっとこうやって、この香りに包まれていられたらいいのに――そんな事を考えている不埒な私に、アリシアさんが心配げに声をかけた。

 

「大丈夫、アニーちゃん?」

「……あ、アリシアさん。私……?」

 

 見ると、私を見下ろすアリシアさんの顔の向こうに、同じように不安そうな顔をした灯里さんの顔があった。私の足下に感じるふにふにぺたぺたとした感触は、多分アリア社長だろう。

 

「アニーちゃん、急に倒れちゃったんだよ。……覚えてない?」

 

 灯里さんが顛末を教えてくれた。一陣の風が舞った瞬間、私はぐらりと意識を失ったように倒れ込み、とっさに振り返ったアリシアさんに受け止めてもらったらしい。

 

 ちなみに、気を失っていたのはほんの三十秒くらいだったらしい。

 

「アリア社長が気づいてくれたのよ。お手柄ですね、アリア社長」

「ぷいにゅっ!」

 

 頭を撫でるアリシアさんに、アリア社長は誇らしげにぷいっと前足を上げる。

 

 ……確か、私が気を失う寸前まで、アリシアさんの腕の中にはアリア社長がいたはず。そんなアリシアさんが私を抱き留めたという事は、アリア社長はとっさに場所を空けてくれたということになる。

 

「ありがとうございます、アリア社長」

 

 感謝の気持ちを込めて、社長をぎゅむーっと抱きしめる。「ぷ、ぷいにゅぅ」とちょっと苦しそうに声を上げる社長の頭越しに、灯里さんが疑問を示した。

 

「でも、アニーちゃんどうしたの? 立ちくらみ?」

 

 灯里さんの問いに、私は少し思案した。あの出会いは夢だったのだろうか。だけど、夢と現実が等価であるなら、あの夢はきっと大きな意味がある。

 

 だから、私はちょっと悪戯っぽく舌を出して答えた。

 

「……ちょっと、《サイレンの魔女》と会ってました」

「え…………ええ~~~っ!?」

 

 夕闇のサン・ミケーレ島に、灯里さんの声が轟き渡った。

 

 

 

 

「……はぁ」

 

 ARIAカンパニー社屋の二階。そのテラスの手すりに上体を預けながら、水無灯里は小さくため息を吐き出した。

 

 三人と一匹が揃っての夕食を終え、食休みの時間。洗い物担当の灯里は一足先に仕事を終え、お風呂当番のアニエスは現在ブラシ片手にバスタブと格闘中である。

 

「灯里ちゃん、どうかした?」

 

 月明かりを映した水平線を見つめる灯里に、そんなアリシアの声がかけられた。

 

「あ、アリシアさん。今からお帰りですか?」

「うん。……何か気になることでもあった?」

 

 灯里の隣から優雅に顔をのぞき込む。アリシアの穏やかな微笑みが、灯里の心に少しだけわだかまったため息の欠片を溶かしていくような気がする。

 

「いえ……今日は本当に楽しかったですから、終わっちゃうのがなんだか勿体なくて」

「あらあら……そうね。今日は本当に楽しかったわ」

 

 にこにこと微笑むアリシア。グランドマザーから受け継がれた極上の笑顔だ。どこまでも広く大きく包み込んでくれるようで……同時に、どんな小さな心の染みでも、見透かしてしまうような力を秘めている。

 

 つまるところ、アリシアはお見通しなのだ。灯里が、楽しさの残滓だけで水平線を見つめていたわけではない、ということを。

 

「……アニーちゃん、《サイレンの魔女》に会ったそうですね」

 

 灯里の言葉に、そうねとアリシアは頷く。それは食事時、アニエスが語ったことだ。

 

 普通ならば、会いたいと思う相手ではない。アニエスとしても予想外のことだったようだが、その割に、彼女は何かを掴んでいたようでもある。何かを成し遂げたように自信を帯びた彼女の笑顔は、灯里が少しどきりとするほどの力強さを宿していた。

 

「……私も、猫妖精さんに会えないかと、思ったんですけどね」

 

 先日の夢のような出来事以来、すっかり灯里の周囲から『不思議なこと』が姿を消した。猫妖精自身からも、もう会えないと肯定された。その時は『来るべき時が来たのだ』と思ったし、いつでも心の中で一緒だとも思ったが……会えそうだなと思ったならば、試してみたいと思うくらいには、灯里も諦めが悪い。

 

 悪い、のだが。

 

 アリシアはしばし、そんな灯里を見つめていた。そしてふぅっと小さく息を漏らすと、無言のままに灯里の隣で、同じように月明かりで浮かび上がる水平線に視線を向ける。

 

 灯里が見上げると、そこにはアリシアの優しげな横顔と、まるで灯里を迎えるかのように差し出された肩があった。

 

 一瞬だけ逡巡して、灯里はアリシアの優しさに甘えることにした。

 

 肩を寄せて、ことん、と頭を預ける灯里。そんな愛すべき一番弟子を見下ろすアリシアが浮かべるのは、やっぱりいつも通りの包み込むような微笑みだった

 

 

 

 

 ――そして、私は目を覚ました。

 

 視界に飛び込んでくるのは、横倒しになった部屋。いつも見慣れた病室。誰もいない、私に与えられた場所。

 

 まだ、目を覚ますには少し早い時間だった。私にしては、だけれど。病室から外に出ることもない私は、元々朝に弱い事もあって、日頃から存分に朝寝坊を満喫している。

 

 だから看護士の人も、私に構わず部屋に忍び込んで、部屋を整えていくのが常だったし。

 

「……あら、早いのね」

 

 控えめなノックの後、返事も待たずに開かれた扉。その向こうから顔を覗かせた母も、起きているとは思っていなかったという様子で、顔に小さな驚きを貼り付けていた。

 

「…………」

 

 私は、何も答えなかった。ベッドの上で膝を丸めて、ぼんやりと中空を見つめる。母も私のそんな反応にはもうすっかり慣れてしまっていて、ほんの少し頬から溜息を吐き出すと、散らかしたままの古い雑誌や着替えを回収し、新しいものに交換していく。

 

 ぱたん、ぱたん。戸棚が開かれ、閉じられる。衣服が折りたたまれる音。雑誌が束ねられる音。母と私がここにいるのに、ひとつの言葉も交わされない病室。

 

 どうして、こうなってしまったんだろう。

 

 いや、理由はわかっている。それは私だ。原因は、私以外の何者でもない。口を開けば憎まれ口しか叩かない、そんなささくれた私。憎まれ口を叩かれる度に、母の顔に影が落ちる。それが苛立たしくて、また悪意が口を突く。

 

 そんな顔を見たくないのに。

 

 自分が重荷になっているなんて、思いたくないのに。

 

 だけど、私が口を開く度に、悪意が世界に広がっていく。

 

 だから、私は口を噤む。だから、私は目を閉じる。そうやって、現実から自分を閉ざしていれば、それ以上心が傷つくこともない。

 

 そう思っているのに。

 

 それならば――どうしてこんなに寂しいんだろう。

 

 そこに誰かが、一番大好きだったはずの人がいるのに、私は何も言わず、何も聞かず、ただ蹲るばかり。

 

 寂しいなら、どうして声をかけないの。

 

 寂しいなら、どうして拒絶するの。

 

”――もしも、その方法を間違えているだけだとしたら”

 

 ぱちっと、瞼の奥でそんな言葉がスパークを散らす。

 

 そう、間違っているのは私のほう。それはわかっている。

 

 じゃあ、どうするのが正しいの。私はそもそも、何を望んでいるの。

 

 わからない。何がしたくて、何が欲しくて、どうありたいのか。

 

 ――ああ、そうだ。

 

 私がなりたいもの。欲しいもの。それはきっと。

 

 あの、夢の向こうの、私。

 

 あんな風になれたら。

 

 あんな風に笑えたら、いいな、と思う。

 

 なら、どうしたらいいだろう。

 

 夢の向こうの私は、どうやって、笑っている?

 

 …………わからない。

 

 どうしてだろう。

 

 この私と、夢の向こうの私は、ほんの少ししか違っていなかったはずなのに。

 

 同じように、病に苦しんで、心を彷徨わせていたというのに。

 

 知りたい、と思った。

 

 この私と、夢の向こうの私は、何が違うのか。

 

 どうしたら、あんな私になれるのか。

 

 わからない。まだわからない。

 

”わからないなら、試せばいいんだよ”

 

 そんな声が、また弾けて消える。

 

 ……そうだ、わからないなら。

 

 わからないなら、知ろう。彼女のことを。彼女を取り巻く世界のことを。

 

「…………母さん」

 

 そう、声を発したのは、いったいどのくらいぶりのことだったろうか。

 

 母さん、なんて呼びかけたのは、どれくらいぶりのことだったろうか。

 

 寝間着を畳む手を止めて、びっくりしたように目を丸くする……母さん。

 

 そんな母さんに、私は少し気後れするような感情を持て余しつつ、問いかけた。

 

「……アクアについての本、ない?」

 

 それは、私にとっては、ただの要望だった。

 

 だけど、母さんにとっては、そうでなかったらしい。

 

 ぱっと、母さんの顔が、明るくきらめいた、気がした。

 

「え、ええ。欲しかったら、いくらでも捜してくるわよ」

 

 いつになく勢い込んで「データと紙どっちがいい?」とか「図書館から借りてくるかしら」などと騒ぐ。

 

 戸惑う私を余所にひとしきり一人で騒いで、母さんはふと、怪訝な顔を取り戻した。

 

「でも、どうしたの。急に?」

 

 そう疑問に思うのも無理もない。私にもよくわからないんだから。

 

 だけど、私は、よくわからないなりに、答えを持っている。

 

「……なりたい私が、いるんだ」

 

 我ながら、わけがわからない答え。

 

 でも、母さんは、私がもう前にいつ見たのか覚えていないような明るさで相好を崩して、私の両手を握りしめた。

 




 ARIAカンパニー編前章、早いですが終了です。

 灯里の側にいたことにより感受性が強まっていることもありますが、本章のアニーは全体的にレベルアップしています。何故他のシナリオの経験値が反映されているのかと言えば、だいたい中継した人のせい、ということですね。

 投げっぱなしのフラグがいくつも残っていますが、それは後章の講釈にて。

 エルシエロ・アフターの終章『Sola』、よろしければ引き続きお付き合いください。



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ARIAカンパニー編 Sola
Sola 01 新しい友達


 夢の向こうのアクアでは、春が終わりに近づいているようだった。

 

 けれど、私の病室の窓から見える景色は、いつも通りの灰色だった。

 

 徹底した合理化によって作り出された鳥籠。空は確かに青いかもしれない。植樹された町並みは目を突き刺さない緑や白かもしれない。でも、私に見える景色は、色を失って、変化しないままの世界。

 

 変わらない病室。変わらない日常。季節すら変わってくれない。自分で変える環境も、自分で設定できるからこそ……飽きる。

 

 だから、私は手元の本に目を向けた。

 

 両親が、そして友達が。持ち込んでくれた雑誌や写真集。表紙には、白の衣を纏った少女達が、蒼穹と蒼海の狭間を優雅に揺れる様が映されている。紅、橙、そして青。白に様々な色を散らしたウンディーネ達を取り上げた書籍の数々。

 

 最初は母さんが持って来てくれた。そして父さんも捜して来てくれた。そのうちに、随分久しぶりに顔を見る、幼なじみやクラスメイト達が顔を見せて、また本を置いて行ってくれた。

 

 私に、こんなに人との繋がりがあるなんて、つい先月には想像もできなかった。

 

 手を伸ばさなければなにも変わらない。でも伸ばすだけでも変わらない。手を伸ばして、そして伸ばされた手を受け入れる。そうして初めて、世界は広がっていくんだろう。

 

 そのことを、夢の向こうの私が教えてくれた。

 

 あちらの私は、今はどうしているのだろう。もっと素敵に変わっているだろうか。

 

 空想の翼を広げていると、くらり、と世界が暗くなった。

 

 いつもの発作だ。また現実が消えていく。

 

 耳の奥で遠く聞こえる歌声めいた幻聴の中、私は願った。

 

 もし夢を見られるなら、またあの蒼い惑星の夢を見たい、と。

 

 

 

 

 拝啓、アンジェさん。アニーです。

 

 ≪海との結婚式≫の写真を送って以来ですけど、ご機嫌いかがでしょうか?

 

 ネオ・ヴェネツィアは、一足早く夏模様です。一応暦の上では春なのですけど、暁さんたち火炎之番人さん達が頑張りすぎているのか、外に出ると太陽が高く、部屋の暗さにはっとすることもしばしばです。

 

 先日お送りした写真撮影ツアー以来、先輩方も大先輩方も、大変多忙な日々が続いています。

 

 灯里さんと藍華さんのシングル二人は雑誌記事の効果で指名予約が殺到しているし、ペアのアリスちゃんもミドルスクール卒業を間近に控えて様々な手続きやイベントに追い回されているようで、合同練習もすっかりまばらになってしまいました。

 

 アリシアさんの多忙は更にそれに輪をかけています。何しろシングルの船上実習にはプリマの指導が必須である上、先日までの≪海との結婚式≫の花形としての練習や、それに加えての様々な事務処理にてんてこ舞いという状況。先日ようやく≪海との結婚式≫が終わって一息つけるようにはなったものの、その間にたまっていた様々な仕事を片付けるのに、まだまだアリシアさんの多忙な日々は終わりそうにありません。

 

 特に、あの写真撮影ツアーの直後はもう壮絶でした。アリシアさんは早朝に出てきて深夜遅くまで働き続ける感じで、あのツアーの日がまるで何かの幻だったんじゃないかというほどの有様。今では、あの日アリシアさんは、相当に無理をしてあの一日を捻り出したのだろうと思っています。あの日のアリシアさんの笑顔が不思議に輝いて見えたのも、その貴重な一日を、精一杯に楽しもうと思ったからこそのものだったのかも知れません。

 

 もっとも……なぜアリシアさんがそこまでして時間を作ろうとしたのか、私にはよくわからないままなんですけどね。

 

 

 

 最近では私もいくつか事務仕事を覚えて、アリシアさんと灯里さんが船上実習の間、私が会社で事務処理をしながらお留守番、というパターンが増えてきています。(その傍ら、出納帳の記録などを眺めると、早く一人前にならねばと思うことしきりです。何しろ、灯里さんが入社した前後と私が入社した前後で、それぞれ収支グラフが大きく下向きに傾いでしまっているのですから!)

 

 灯里さんは最近操船も接客もめきめきと腕を上げています。アリシアさんの灯里さんを見る目も少し変わってきている気がするし、もしかしたら『そろそろ』なんじゃないかと感じる今日この頃です。

 

 そんな、夏を間近に控え、もうすぐアクア・アルタが押し寄せてきそうなネオ・ヴェネツィアで、私は新しい友達に出会ったんです――。

 

 

 

「それじゃアニーちゃん、行ってくるねー」

「ぷいぷいにゅー!」

「後はお願いね、アニーちゃん」

「はい、行ってらっしゃい!」

 

 灯里さんを指名のお客様を出迎えるべく、黒いゴンドラが出発する。

 

 手を振る灯里さんとアリア社長、そしてアリシアさんを見送って、私は小さく息を吐き出した。

 

 私が指名で忙しかったとき、灯里さんも同じような気分でいたんだろうか。どこかに取り残されるような、そんな寂寥感に。

 

「よしっ」

 

 声に出して、気力を充填する。今日もこれから書類仕事だ。

 

 机に向かって、パソコンを立ち上げる。灯里さんと相談して導入した事務用のものだ。古式ゆかしいタワーモデル。今時マンホームでもほとんど見かけないものだけど、そこはそれ骨董品も現役なのがここアクア。こういう愛想のない機械があると、いかにも机が「仕事をする場所ですよ」という感じに引き締まるから不思議だ。

 

 ぱたぱたと事務処理を片づける。今日のお仕事は収支記録とゴンドラ協会に提出する業務報告書。今は本文はアリシアさんに任せているけど、少しずつ私だけでもやれるようにしたいところだ。だって私ができるようになれば、その分先輩方の負担が軽くなるのだから。

 

 そんなこんなで、まだ不慣れなパソコンで書類を作り、一通りの仕事が終わったのはお昼が過ぎた頃だった。

 

「それじゃ、行きますかっ」

 

 強ばった肩を叩いて気合いを入れる。事務仕事が終わったら、次はお弁当を食べるついでの自主練習だ。

 

 電話番を機械に任せて、私は予備の舟を引っ張り出す。

 

 いつも灯里さんと使っている奴は出払っているので、こういう時のために姫屋から借りているものだ。修繕の跡だらけ、舳先の天使像は色はくすんで翼が片方折れてしまっているなど、まさしく満身創痍という感じの装い。「見ての通り、お客を乗せるには失礼にあたるレベルのものだが、練習用と割り切ればまだまだ使える(晃さん談)」ということで、姫屋の倉庫に眠っていたものらしい。(それを聞いたとき、灯里さんは複雑な顔をしていた。アリシアさんや灯里さんが以前使っていた黒い舟は、同じような経緯で荷役用に払い下げられた事があるらしい。大所帯の姫屋だからこそ、練習用の予備が活きる機会もある……ということだけど、それを平然と貸し出せるということは、使用頻度はお察しのレベルだということだ)

 

 まあ、どんな理由であれ、舟があるのはありがたいし、あれば使うべきだと思う。おんぼろの舟は、私が乗り込むと久々の出番に張り切っているかのようにぐらぐらと揺れ、私は櫂でそれを窘める。波と陽光に照らされた舳先の天使像が、鈍くきらりと光を返した。

 

「それじゃ、アニエス・デュマ、行きます!」

 

 誰が聞いている訳でもないけど、そう宣言して、私は舟を漕ぎ出した。

 

 

 

 会社を離れて。岸沿いに東へ。途中の小運河に入り込み、更に奥へと進むのが、いつもの私のルートだった。

 

 お弁当を食べるだけなら、こんな複雑なルートを行く必要はない。練習をするにしては、このルートは簡単すぎる。

 

 それでも私がこのルートを進むのには、理由があった。

 

「今日はいるかな……」

 

 目的地に向かう最後の角を曲がったところで、私は周囲を見回した。

 

 特別な場所じゃない。小さな広場があって、そこから小路が建物の隙間から奥へと延びているだけの場所。その先にはまた小さな広場があって、背の高い草が茂る中に、朽ちて半ばまで崩れ落ちた女神の彫像が立っているだけ。

 

 特別な場所じゃないそこを特別にしているのは、『彼女』の存在だった。

 

「シレーヌ、いますか?」

 

 私は目当ての姿が見つからないので、声に出して『彼女』を呼んでみた。

 

 ……返事はない。返事があるとも思っていない。何しろ、私は『彼女』の声を聞いたことがない。

 

 では、なぜ呼びかけるのかといえば……こうやって呼びかけると、『彼女』は無言のままに姿を見せるんだ。

 

 そう、ちょうど今のように。数秒前には、確かにそこには誰もいなかったのに。

 

 視線を巡らせて真正面に戻したとき、岸辺にはちょこんと座った『彼女』の姿があった。

 

 そこにいたのは一匹の黒猫だった。とても綺麗な、ヒメ社長と勝負できるくらいに滑らかな毛並みの、多分アクア猫の女の子。

 

 一体いつの間に姿を見せたんだろう、といつも思う。一瞬目を離した隙に、『彼女』はそこに姿を現す。

 

「こんにちは、シレーヌ。相変わらずどこから出てきてるんですか?」

 

 ニンジャのように音もなく忍び寄るシレーヌ……つまりその黒猫に手を差し伸べてみる。アリア社長やヒメ社長ならばじゃれついてきたりぺろぺろ舐めてくれたりするところだけど、シレーヌは顔色一つ変えずじっとこちらを見つめるばかり。撫でようとしたり触れようとするとその分だけ遠ざかり、だけど追い回したりしなければ決してそこから逃げだそうとしない、不思議な子だ。

 

 十秒くらい黙って手を差し出して、私は苦笑した。シレーヌは本当に相変わらずだ。

 

「シレーヌ、これから私は御飯を食べに行きますけど、ついてきますか?」

 

 私がそう声をかけると、シレーヌはひょいとゴンドラの上に飛び乗り、そのままちょこんと座り込んでしまった。

 

 これも、相変わらず。ポーカーフェイスの達人なシレーヌと一緒に、お昼と午後の練習をするのが、最近一人になった時の定番コースだった。

 

 

 

 シレーヌと私が出会ったのは、ほんの偶然だった。

 

 皆が急に多忙になって、一人で手持ち無沙汰な時間を持て余していた私。適当に舟を漕いでいた私が迷い込んだ広場で、彼女はちょこんと……まるで精緻な彫像のような美しさを纏って、じっと座っていた。

 

 そんな彼女から、私は何故か目を離すことができなかった。それは、彼女の視線が、私に降り注いでいたからかも知れない。まっすぐに、じっと。まるで私をずっとそこで待っていたかのように。

 

 だから、私は試しに誘ってみた。「よかったら、一緒に行きませんか?」と。

 

 彼女は、答えるかわりに黙って私の舟に乗り込むと、お客席のところで丸くなってしまった。

 

 そうして、私たちの奇妙な友達関係が始まった。不思議と他の人がいるときにはシレーヌは姿を見せないので、自然と私が一人の時に彼女を迎えに行って、お昼を一緒に食べて、夕暮れとともに別れる……というパターンができあがった。

 

 シレーヌという名前は、三度目に遭ったときに私がつけた。何となく、そんな名前が似合うような気がしたんだ。彼女がその名前を気に入っているかどうは、お得意のポーカーフェイスでわからない。でも私がそう呼ぶと近づいてくるから、少なくとも認めてくれてはいるみたい。

 

 ともあれ、そんな訳で、今日も私とシレーヌの操船練習が始まった。

 

 見晴らしの良いところでお弁当を食べて、気力充填、のち練習。

 

 以前、藍華さんあたりが立案したコースをたどり、航跡を見直して、今日の出来映えを確かめる。

 

 ――うん、今日はまずまず。もちろんアリシアさんには比べるだけ失礼、灯里さんに対してもまだ全然及ばない腕前だけど、それでも先週よりは少し進歩している。

 

「昨日より今日、今日より明日上達すればいい、だよね」

 

 確かめるように、一歩ずつ。天才でも秀才でもない私にできるのは、たったのそれだけなのだから。

 

 ふと、隣で丸くなっているシレーヌを見ると、彼女は退屈そうに大きく欠伸をして見せた。

 

 

 

「それじゃあ、また一緒しましょうね。シレーヌ」

 

 遠ざかる黒い影に小さく手を振りながらそう語りかけると、当のシレーヌは形よく長い尻尾をふいっと一つ振って、路地裏に飛び込んで消えてしまった。

 

 前触れなく船から消えるのも、いつものシレーヌだ。日が傾くくらいの時間帯になると、ふっと船から陸に飛び移って、そのまま物陰に消えていく。

 

 シレーヌが一体何処に住んでいて、どんな風に暮らしているのか。私は全然知らない。そもそも、アクア猫の生態には謎が多く、高度な知性も手伝って、彼らは人間の調査の目を巧妙にかいくぐり続けているらしい。

 

 一体、シレーヌはどんな暮らしをしているのだろう。アリア社長も、グランドマザーと一緒に暮らすようになる前は、どんな暮らしをしていたのだろう。猫の集会や。灯里さんが語るカルナヴァーレのカサノヴァの例を考えて見ても、想像の翼は際限なく広がって行く。

 

 そして、想像の空に飛んで行きかけた私の意識を、真っ白い何かが埋め尽くした。

 

「……ひぇっ!?」

「ぷ、ぷいにゅ?」

 

 もちろん、すぐに私はそれが、我らがアリア社長のもちもちぽんぽんであることに気がついた。なんでそれが目の前に迫っているのかも、多分いつものようにアリア社長がこっちに飛びついてきただけなのだとわかった。

 

 ただ問題なのは、足場が高かったせいか、ちょっと社長が高く飛びすぎて、私の顔に直撃しようとしていることと。

 

 そして何より、それだけの事を理解したからといって、身体がついて行くとは限らない、ということで。

 

「もぎゅっ……」

「ぷいにゅううううっ!?」

「はひぃーーーっ!? 大丈夫アニーちゃん!? アリアしゃちょーーーー!」

 

 どこからか聞こえる、灯里さんの悲鳴をBGMに。

 

 舟の上にずってんどうと転んだ私とアリア社長に、舞い上がった水しぶきがばらばらっと降り注いだ。

 

 

 

「お疲れ様でした、アリシアさん、灯里さん、アリア社長」

 

 黒い舟で併走する灯里さんとアリシアさん、それからこっちに飛び移ってお客様席に鎮座するアリア社長に、私は労いの言葉を贈った。

 

 本日最後のお客をサンタルチア駅に送り届けて、アリシアさん達は会社に戻る途中だったらしい。その途中、水路の途中でぼんやりしている私をアリア社長が見つけ、こう飛びついてきたという訳だ。

 

 まあ、転んだのはともかく、だ。何しろアリア社長がこうやって飛びつく人は、アリシアさん、灯里さん、それからグランドマザーくらいしか知らない。そんなアリア社長の大好きリストとでも言える面々に私の名前があるというのは、何というか、とても誇らしい気分になれる。本当の意味で、私がARIAカンパニーの一員として認められたような、そんな気がして。

 

「アニーちゃんもお疲れ様。今日も一人で自主練だったの?」

「ええ、藍華さんもアリスちゃんも忙しいみたいですし……今日も、です」

「そっか……ごめんねアニーちゃん。このところいつも一人にさせちゃって」

「平気ですよ。前の私の時には灯里さんたちに迷惑をかけ通しでしたし」

 

 気遣わしげな顔のアリシアさんと灯里さんに、私はにぱっと笑顔を閃かせて見せた。

 

「それに、いつも一人って訳じゃないですしね」

 

 そう、私は一人じゃない。一人の時は一人の時で、その時にしか会えない友達がいる。だから、一人の時も悪いことばかりじゃない。

 

「それって、前に言ってたシレーヌちゃん?」

 

 灯里さんが櫂を手繰りながらそう問いかける。私はこくんと櫂の動きに合わせて頷いた。

 

「ええ、今日も一緒に練習してました」

「にゅ……」

 

 私の言葉に、アリア社長がどこか居心地悪そうに表情を曇らせる。ふんふんと自分の座っていた場所……丁度さっきまでシレーヌが寝転がっていた場所だ……の匂いを嗅いで、複雑そうに声を上げる。

 

 アリア社長は、シレーヌが苦手のようだった。まあ、猫にも相性というものがあると思う。すこぶるフレンドリーなアリア社長と、ともすればヒメ社長をも凌駕する”おすましシレーヌ”では、何かと相性が悪いということもあるだろう。だから、私はそのことを気にしないことにしている。

 

「いいなあ。私もシレーヌちゃんに会ってみたいよ」

「あはは……シレーヌってもの凄い人見知りですからね」

 

 前に、シレーヌと一緒に練習していたときのこと。学校帰りのアリスちゃんと偶然出会った時、シレーヌはいつの間にかその場から姿を消していた。その日は結局シレーヌは戻ってこなかったし、どうやら知らない人がいると、彼女は姿を隠してしまうみたい。

 

「私ももったいないなあ、と思うんですけどね」

 

 シレーヌみたいな綺麗な子だ。灯里さんも藍華さんもアリスちゃんも、みんな放っておかないだろうに。皆と仲良くなれば、きっとシレーヌの世界もぐっと大きく素敵に広がって行くと思うのに。

 

 そんな私達に、アリシアさんがやんわりと釘を刺した。

 

「でも、広がった世界を受け入れるにも、心に余裕がないといけないから。無理に他人が広げようとしても、痛みばかりで心を閉じ込めてしまう事もあるの。ゆっくり、彼女のペースで、ね」

 

 ……ああ、確かにそうだ。

 

 私がこのネオ・ヴェネツィアを訪れてしばしの頃。萎縮してしまった私の心を、皆の優しさは空しく上滑りするばかりだった。それは誰かのせいじゃない。私が、優しさを受け入れられる心の余裕がなかっただけ。心のドアを閉ざすことでしか、私は私を守ることができなかった。

 

 シレーヌもそうなのかもしれない。どうしてかわからないけど、私の伸ばした手を受け入れるのが精一杯で、それ以上を受け止める余力がないのかもしれない。だったら……。

 

「シレーヌちゃんが受け入れられるくらいに馴染んでくるまで、待ちの一手ってことかな」

「そうですね、すみません、灯里さん」

「ふふふ、楽しみにしてるね」

 

 灯里さんのほんわかとした笑顔に、私もつられて顔を綻ばせる。アリア社長もぷいにゅ、と両手を上げて賛同してくれる。

 

 そんな私達の様子を、にこにこ笑顔で見守ってくれていたアリシアさんだったのだけど。

 

 ふい、と風が街路の隙間から吹き込んで、はらりと金色の前髪を揺らしたのを感じてか、ふっと顔を水面に向けた。

 

「……そろそろ、アクア・アルタが来るころね」

 

 指先を水面に浸して、そんなことを呟くアリシアさん。

 

 アクア・アルタ。かつてのマンホームのヴェネツィアを海底に飲み込んだ、急激な海面上昇現象。マンホームのヴェネツィアでは年に十回ばかりも街を襲っていたというけれど、ここネオ・ヴェネツィアでは年一回、本格的な夏の訪れの先触れとして訪れているらしい。

 

 もちろん、昨年秋からネオ・ヴェネツィアにやってきた私は未体験。故に前兆がわかる筈もなく、一方経験者の灯里さんならわかるのか、というと。

 

「はひ、アリシアさん、わかるんですか?」

 

 と、アリシアさんに尋ねる始末。

 

「長くこの街で暮らしているとね。なんとなく、風の様子でわかるようになるのよ」

 

 そんな新人二人の様子に、アリシアさんは乱れた前髪を整えながら、そんな風に言って微笑んだ。

 

 もちろん、風に手を梳かしてみても、鼻をひくつかせてみても、マンホーム生まれの私たちにそんな風の違いがわかるはずもなかったのだけど。

 



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Sola 02 予期せぬ来客

 それから次の日。

 

 今日も灯里さんの指名で先輩方は船上実習。昨日頑張った分今日の事務仕事はミスの修正だけで済み、私は一人の時のセオリー通り、お弁当を片手に練習に向かった。

 

 もちろん、いつものようにシレーヌも一緒。彼女の視線が注がれると、格好いいところを見せるぞ、というような気になってくる。

 

 櫂を踊らせる。いつもより軽い。半年前の自分からは信じられないくらい、櫂の動きが体に馴染んでいる。

 

 毎日毎日繰り返してきた動きを、またトレースする。水の流れに逆らわず、その旋律めいた力の行く先に体を、腕を、指先を合わせる。

 

 櫂と水面が奏でるリズム。それがとても心地よい。少しアリシアさんを真似て、くるり、と櫂を踊らせてみる。舟の進路に対して円を描くように櫂を回してみれば、水のアーチがきらきらと煌めく。

 

 その櫂の軌跡を、客席にちょこんと座ったシレーヌが目線で追いかける。黄色い瞳の中で、水のアーチがきらきらと光を返している。

 

 うん、今日は絶好調。私の機嫌がいいのがわかるのか、シレーヌも長くてスマートな尻尾をゆーらゆーらと揺らしている。

 

「よぉし、もう一度です」

 

 今度は逆から、櫂をくるりと回転させる。舟の軌道から逆へ、体をくるりと捻らせ、櫂の先が宙に円を描く……はずだったのだけど。

 

「あっ」

 

 ずる、と片足が滑った。

 

 とっさに体を捻って、船底の方に体を向ける。びたん、と尻餅をついた瞬間、ばしゃ、と水面が弾かれて、王冠のような白い波飛沫が舟を縁取る。

 

「……あはは、やっちゃいましたね」

 

 船底に仰向けになったまま、なんだか気恥ずかしくなって苦笑する私。見上げる空は今日も真っ青で、遠く、高く、どこまでも続いていそうなその様は、まさしくイル・チェーロ(Il Cielo)の名前そのままのよう。

 

 その青空に、黒い尻尾がにゅっと突き出してきた。

 

 私が倒れ込んできても慌てず動じず。客席にお座りしたままのシレーヌの尻尾だった。

 

 仰向けの私の見上げる空に、まるで私のドジをからかうかのように、ゆらゆらと尻尾が踊る。

 

「あはは……恥ずかしいなあ」

 

 シレーヌに突っ込まれるなんて、まったく私もまだまだドジだ。照れ臭さを弄びながら身を起こした。

 

「今度は失敗しませんよ。見ててください、シレーヌ」

 

 櫂を握り直してしゃんと背筋を伸ばし、シレーヌに再挑戦の意気を込めて櫂を小さく掲げて見せる。

 

 しかしそんな私の言葉を、シレーヌはまるで聞こえていないかのようにそっぽを向いて、大きく欠伸をして見せた。

 

 まったくもう、シレーヌは意地悪だ。だけどだからこそ、鼻を明かしてやりたい……というか、良いところを見せてやりたいと思う。

 

 そんなことをしていたからだろう。

 

 私たちは、いつの間にか側まで近寄っていた人影に、気づく事ができなかった。

 

 

 

「……その制服」

 

 その女の子は、そんな台詞と一緒に、私達の頭上に姿を現した。

 

「えっ!?」

 

 上擦った声を上げて半身を起こし、声の主に目を凝らす。シレーヌもうっかりした、という顔で、私と同じ方を見上げている。

 

 最初に目に飛び込んできたのは、大きな赤いリボンだった。

 

 そこにあったのは、小路の岸からこちらを見下ろす女の子の姿だった。

 

 背丈は、アリスちゃんより更に小さい。成長期の女の子特有の、まだ成長した自分の体が馴染んでいない感じの装いを、黒いワンピースに包んでいる。いくら半袖とはいっても、夏の入りの日差しにこの黒い生地は暑くないだろうか……と心配になるくらいの黒さ。年の頃は、私より二つか三つ小さいくらいだろうか。

 

「……その制服、ARIAカンパニーの、ですよね」

 

 赤いリボンの女の子は、尋ねると言うよりも確かめるという方が正しそうなニュアンスで問いかけてきた。

 

 誰だろうか。見た事のない娘……だと思う。どことなく、その黒髪と、その上で目を惹く赤いリボンに見覚えがある気がするのだけど。

 

「ええ……そうですけど」

 

 戸惑いながらも私が答えると、女の子は「そうですか、やっぱり」と一人で納得したように頷いて、そして。

 

「じゃあ、貴女がアニーさんですね」

 

 こともなげに、私の名前を言い当てた。

 

 

 

「簡単な推理です。ARIAカンパニーの制服を着るのは社員だけ。そして今、ARIAカンパニーの社員は、灯里さんと、アリシアさんと、アニーさんだけです」

 

 そう言って、岸辺に横付けした舟の側、水路端に腰掛けた女の子は、自分をアイと名乗った。

 

 私は、その名前に覚えがあった。そう、灯里さんといつもメールのやりとりをしている女の子だ。見覚えがあったのは、灯里さんのビデオメールや写真で目にしたことがあったからだろう。

 

 確か私や灯里さん同様マンホームの生まれで、普段はマンホームで学校に通っているはずの子なのだけど。

 

「…………」

 

 なのだけ……ど……。

 

「…………」

 

 アイちゃんの視線が、私の頭上から足下までを往復する。値踏みするような、絡みつくような、何というか、じっとりとした視線。

 

「ええと……私、どこか変ですか?」

 

 居心地の悪さに思わず半身を退けて問いかけるけど、アイちゃんはふいっとそっぽを向いた。

 

 まるで、私と顔を合わせたくない、という感じに。

 

 ……はて、まあ人には相性の善し悪しというものがあるけど、アイちゃんと私はそんなに相性が悪いだろうか。

 

 生まれた地方は違う(と思う)けど、同じマンホーム出身。私より先にARIAカンパニーに関わり、灯里さんとも長い間メル友をやってきた子。メールの内容をちらりと見せて貰った限りでは、灯里さんが大好きということでは私に勝るとも劣らないと思う。

 

 だとしたら、原因は何だろう。私が個人的に嫌いだと言うことだろうか。嫌われる理由に身に覚えは……まあ、色々やっちゃってるし、ないこともないか。サイレン事件とか、その前にも、雪虫くんの件とか、両親の件とか。このあたりが知れていたら、灯里さんやアリシアさんに心配をかけ続けたってことで、悪印象を持たれていても不思議はない……と思う。

 

 でも、たとえそうだとしてもめげてはいられない。第一印象が悪くても、二度目三度目の印象で払拭すればいい。お客様をもてなす仕事である以上、私たちはできるかぎりの全てでお客様をもてなす義務がある。

 

 ……まあ、それ以前に。そもそも、灯里さんのお友達であるアイちゃんに嫌われたままだなんて、悔しいじゃないか。

 

「それにしても、こんなところでどうしたんですか?」

 

 気分を変えるために、私はそう問いかけてみた。アイちゃんはマンホームの人。アクアで偶然通りがかった、なんてことはあり得ない。

 

 私がそう問いかけると、アイちゃんのつんつん顔が覿面に曇った。

 

「パパのお仕事に付いて来ました。でも、ARIAカンパニーに行っても誰もいなくて……」

「灯里さんにメールとかは入れておかなかったんですか?」

 

 私も灯里さんも半熟なれど仕事の身。予め話を通しておかないと、予定が合わないということもあり得る。

 

 ……のだけど、私がそれを尋ねると、アイちゃんはしょんぼりと項垂れた。どうやら突然の旅程だったこともさることながら、灯里さんをびっくりさせようと思って、わざと連絡を入れなかったらしい。完全に裏目に出た感じだ。

 

「困りましたね……。今日は灯里さんもアリシアさんも、夜まで一日中お仕事の予定ですし」

「藍華さんやアリスさんは?」

「皆さんも今はとても忙しいんですよ。いつもの早朝練習も、この所滅多に集まれないんです」

 

 ざっと経緯を説明する。マンホームを含む全系誌『週刊ネオ・ヴェネツィア』で紹介された灯里さんと藍華さんは予約が殺到し、アリスちゃんも学校の卒業を控え、色々多忙になっている。

 

 私の時の経験からすると、そろそろ予約も下火になっていてもおかしくない時期なのだけど、そこはそれ私と灯里さんや藍華さんでは色々とレベルが違う。アリスちゃんの方もペア・ウンディーネであるアリスちゃんを直接指名できないものだから、アテナさんの方の予約が(アリスちゃんの添乗を希望したものが)常日頃の倍近くも押し寄せているらしい。

 

 うーん、ちょっと複雑な気分。……ちょっとだけ、ね。

 

「……そんな中、アニーさんだけが暇してるんですね」

「失敬な。自主練習に熱心と言ってください」

 

 ちょっと意地悪く口を尖らせるアイちゃんに、私も腰に手を当てて憤慨する振りをする。まあ、こちらが未熟なのはまったく言い訳できる事じゃないし、一人で暇しているのも確かにその通り。せめて私がプリマ・ウンディーネなら、一人でお客を案内して回れるのだけど、悲しいかな、我らARIAカンパニーの実働社員はアリシアさんただ一人だ。

 

 ……そして会話が途切れた。今日は夏待ちの観光日和。観光客はいつもより一回り多く、小路をゆく人々の喧噪も一割増しといったところ。波の音もいつになくはっきり聞こえる気がするのは、青い季節が間近に迫っているからだろうか。

 

 でも、隣に座るアイちゃんの表情は暗い。一番会いたい人はおらず、顔見知りの友達もおらず、異郷の川辺で一人でぽつんと腰掛ける。たまらないくらい寂しい、気がする。

 

 一方で、今日のネオ・ヴェネツィアはいつもより数割増しで素敵だと思う。だとすれば、折角ここまで来たのに何もせず、ぼんやり時間を過ごすのはいささかもったいなさ過ぎる。

 

 よく見れば、川岸に腰を下ろしたアイちゃんの目は、さっきからちらちらと水路と舟とを行ったり来たりしている。

 

 彼女は退屈なんだ。でも迷っている。灯里さんも藍華さんもアリスちゃんも、親しい人たちは一緒にいれば楽しいとわかっているのに、出会ったウンディーネは、まだ見知らぬ新米の私。退屈でも、こうして灯里さん達を待つべきなのか、それとも私を言いくるめて一緒の舟で街を巡るべきなのか。

 

 迷っているんだ。怯えていると言ってもいいかもしれない。

 

 だから、私はそっと、アイちゃんに手を差し出した。

 

「…………え?」

 

 手袋のない右手。素肌で過ごすようになって数ヶ月になるのにまだ馴染んでいなくて、所々擦り傷や吸針傷が散らばった、あまり綺麗とはいえない指先。そんな私の手をまじまじと眺めて、アイちゃんがきょとんと目を丸くする。

 

「退屈そうですし……良ければ、練習につきあって貰えませんか?」

 

 差し出された私の提案。アイちゃんはしばしぱちぱちと両目をしばたたかせていたのだけど、ふんっと急に仏頂面を繕って、ぷいとそっぽを向いてしまった。

 

「……シングルはお客を乗せられないんですよ」

「ええ、だから練習につきあって貰うんです」

 

 練習なら、お客を乗せたことにはならない。友達作戦と並んで見習いウンディーネの間で定番として使われるインチキ手法だ。

 

 にっこりと悪びれず笑顔を向ける私に、アイちゃんはむぅっと仏頂面を膨らませていたのだけど。

 

 まるでおいでおいでをするような、蒼穹に白を散らした空と、白い波間をゆらゆらと揺らす水面の輝きに呼び寄せられたのか、ついにこっくりと首を振った。

 

 

 

 私の伸ばした手を取って、舟に足をかけたアイちゃんだったのだけど。

 

「あれ……?」

 

 アイちゃんは船縁に体重をかけようとした時、何かに気がついたようだった。

 

 舟の中をのぞき込んで、怪訝な声を漏らす。

 

「どうかしましたか?」

「猫…………?」

 

 アイちゃんの視線を追いかけると、そこには私の足下で、小さく隅っこに蹲ったシレーヌの姿があった。

 

「あ、シレーヌ、まだいたんですね」

 

 思わず、薄情なセリフがこぼれてしまった。

 

 いや、シレーヌの事を忘れていた訳じゃない。アイちゃんと出会ったあたりで姿が見えなくなったので、いつものようにどこかに行ってしまったのかと思っていたんだ。ほら、誰かと出会うと、シレーヌはふっと姿を隠してしまうから。

 

 船底の暗がりに溶け込むように蹲っているシレーヌは、私の位置からでははっきりと姿を見ることができない。もしかしたら、これまでシレーヌがいなくなったと思った時も、彼女はこうやって隅っこに身を隠していただけだったのかも知れない。そうだとしたら、これまで私は気づかないままに彼女を無視していた事になる。

 

「ごめんなさい、シレーヌ」

 

 忘れててごめんなさい。もしかしたらこれまでも気づかなくてごめんなさい。そんな気持ちを込めて私が謝罪すると、私を見上げるシレーヌは、「気にするな」とでも言うかのようにふりふりと尻尾を揺らした。

 

「えっと……?」

「あ、ごめんなさい、アイちゃん」

 

 戸惑いを口にするアイちゃんに、意識を現実に引き戻す。アイちゃんをいつまでも船縁にいさせる訳にはいかない。気を取り直してアイちゃんの手を引いて、舟のお客様席へと案内する。

 

「シレーヌ……っていうんですか? 火星猫、ですよね」

 

 アイちゃんが腰掛けた場所の正面に、シレーヌが丸まっていた。アイちゃんの視線が怖いのか、シレーヌは私の足下に身を隠して、じっとアイちゃんの方を見つめるだけだ。少しくらい愛想良くしても罰は当たらないだろうに、そういう無愛想なところは相変わらず。

 

「うん、最近お友達になった猫さんです」

「目は青くないから、社長さんにはなれませんね」

 

 じっとシレーヌを見返してそう言うアイちゃん。なるほど、確かにシレーヌの瞳は青ではなく、ちょっと魔的な黄色。ウンディーネの会社の社長を務めるには向いていない。

 

 でもまあ、そもそもシレーヌはシレーヌ。社長になれるかどうかはこの際関係ない。まあ、例えば私や灯里さんが独立して会社を興すなんてことになれば別だけど……ちょっとこれは考えにくいし。

 

 そんな事を考えていると、アイちゃんは身を屈め、遠慮なくシレーヌに手を伸ばしていた。

 

「はじめまして、シレーヌ」

 

 そう言って微笑むアイちゃんに、シレーヌは不承不承といった感じでゆらりと尻尾を振って応えた。



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Sola 03 頼りない船出

「……あんまり上手じゃないですね」

 

 船出して数分。水路をゆっくりと流れる舟の上で、アイちゃんの最初の一言は、ぐっさりと心を突き刺すナイフのようだった。

 

「……あ、あはは……まあ、アリシアさんや灯里さんと比べたら、私はまだまだですからねー」

「ペアのアリスさんと比べてもびみょーです」

「……ア、アリスちゃんは操船プリマ級ですから」

 

 とまあ、こんな感じで、船出した後もアイちゃんの敵意は相変わらずだった。

 

 なぜ、こんなに不機嫌そうなんだろう。灯里さん達に会えていない事もさることながら、むしろアイちゃんには、私個人に対して何か引っかかりがあるように見える。

 

 では、その引っかかりが一体何なのか、それが問題。それがわかれば改善できるのだろうけど、今のところは見当もつかない。思い当たることがあるのは、さっき挙げた通りではあるのだけど。

 

 と、足首を、ぺしん、とシレーヌの尻尾が叩いた。まるで「しっかりしなさいよ」と励ましているかのように。

 

 うん、大丈夫。まだまだ始まったばかり。挽回はここからだ。

 

 ちょっと憂鬱になりそうな気分を、灯里さんっぽくしゃんと伸ばして、私は櫂を手繰った。

 

 

 

 街を巡れば、必ずどこかで知っている顔に出会う、それがネオ・ヴェネツィアという街だ。

 

 何しろ、人口密度が飛び抜けている。決して広くはないネオ・ヴェネツィア島に建物がひしめいているし、空には浮島、地下には地重制御区画、周囲のネオ・ムラーノ島などの小島に、リベルタ橋を隔てての大島など、人の暮らす場所には事欠かない。さらにネオ・ヴェネツィアは観光地であることはもちろん、商店街に宇宙港があることも手伝って、周辺の住人が集まってくる場所でもある。

 

 だから、ネオ・ヴェネツィアは出会いの街。いつでもどこでも、知っている人も知らない人も、誰もが新しい何かに出会う街だ。

 

 特に、ARIAカンパニーの人間は有名人が多い。≪白き妖精≫たるアリシアさんは言うに及ばず、アリア社長もベテラン猫社長として名を知られているらしいし、灯里さんも顔の広さでは、ことによってはアリシアさんに勝るとも劣らないかもしれない程だ。

 

 そんな人達と一緒に暮らしている訳だから、新人の私もそこそこに顔が知られるようになっている。「アリシアさんのところの子」「灯里ちゃんの妹弟子」というような付属品扱いではあるけど、道で顔を合わせれば挨拶して貰えるくらいには顔なじみの人も増えた。

 

 そんな訳で、私とアイちゃん、そしてシレーヌを乗せた舟が運河に漕ぎ出すと、程なくして知り合いとすれ違う事になった。

 

「おっれは~~炎の~サラマンダー~、あ・か・つ・きっ!」

「あれ、あの人は……」

 

 そうアイちゃんが指さすのは、やりすぎってくらいにぴんと伸ばした背筋に、大きく炎をあしらったエンブレムのコートを羽織る姿。そして彼が口ずさむ、調子っぱずれのテーマソング。

 

「ん? ……おお、そこにいるのはボクッ子ではないか!」

 

 櫂の音に気がついたのだろうか、振り仰いで大声でそう喋るのは、見紛うはずもない、火炎之番人(サラマンダー)(見習い)の暁さんだった。

 

「こんにちは暁さん。今日はお休みですか?」

 

 舟を岸に寄せ、聞いてみる。暁さんは普段は浮島で働いているはずの人だ。

 

「そうとも! 買い物と、兄貴と待ち合わせだ! ボクッ子は今日は一人……む、そこにいるのは確かもみ子の友達の!」

「……アイです」

「うむ! 覚えていたとも! 久しぶりだなアイアイ!」

「ア……アイアイ?」

 

 まるでお猿さんのような渾名を口にする暁さんに、露骨に嫌そうな顔をするアイちゃん。まあ、気持ちはわからなくもない。

 

「ふむ、珍しい取り合わせだな! もみ子は今日はどうした!」

「今日は予約でお仕事です。このところずっとですね」

 

 すべての台詞に感嘆符がついているかのような、元気溢れる口調。それが暁さんのトレードマークのようなものだけど、アイちゃんにはいささか怖いものに感じられたようだった。さっきから身を隠すように小さくなって、恐る恐るという感じで私と暁さんの間で視線を行き来させている。

 

 かくいう私も、暁さんは最初はちょっと苦手だった。初めて会った時、その時点では私の先輩になる見通しだった姫屋の晃さんの事を、自己中心的だのなんだのと悪口を言っていたのもあるだろう……まあ、晃さんの(あくまで)一面を捉えていたと言えばその通りではあったんだけど。

 

「なぁにぃ! もみ子のくせに生意気な! だが俺様が見習い卒業間近なのだ。もみ子が仕事をしても何の不思議もないな!!」

 

 かんらかんらと笑う暁さん。口では何のかんの言うものの、注意深く聞いていれば、灯里さんの事はしっかり認めているのがわかる。

 

「それにしても最近暑いですね。浮島はもう夏モードなんですか?」

「うむ! 夏が来る前にはちょっと気温の調整をしないといけないのでな。今年は早めに温度を上げているらしいぞ!」

 

 らしい、というのはつまり、暁さんがまだまだ見習いだということなんだろう。さすがに気候そのものを操作するのに、見習いがちょいちょいと弄ってどうにかなってしまっては、真夏に雪が降ってしまう。

 

「まあ、見ているがいい。そろそろ夏の本番だ。ボクッ娘はまだネオ・ヴェネツィアの夏は未体験だったな?」

「ええ、私が来たのは秋口でしたから」

 

 宇宙港から外に飛び出したその瞬間のことは、今でもはっきり思い出せる。今から考えると少し肌寒さを感じさせる風がいっぱいに私を包み込んだあの時、私のウンディーネとしての日々が始まったんだ。

 

 私が頷いて答えると、暁さんは満足げに腕組みをしたまま何度も頷いた。

 

「うむ! ならば楽しみにしているがいい。今日あたりから、食料の買い込みは忘れてはならんぞ!」

「ほへ?」

 

 意味がわからず、きょとんとする私とアイちゃん。どういうことなのか聞き返したのだけど、暁さんはかんらかんらと笑うばかりで答えてくれない。

 

 そんな感じで岸辺に腰を下ろし、舟上の私達としばしお話をしていた暁さんだけど、やがて時計を見て眉を顰めた。

 

「……むむ!? いかん、もうすぐ時間ではないか!」

 

 すっくと立ち上がる暁さん。私達もさぼるのは程々にして、練習を再開することにした。

 

「それじゃ暁さん、また」

「うむ! ボクッ子よ、もみ子に置いて行かれないよう精進するのだぞ! アイアイも、また会おう!」

「アイアイはやめてください……」

 

 大きく手を振り、例のテーマソングと共に私達に背を向ける暁さん。そんな彼に、私は苦笑混じりに手を振り返し、アイちゃんもこっそり小さく抗議しつつ、私に倣った。

 

 そして舟を漕ぎ出して、暁さんが見えなくなった頃を見計らって、私はアイちゃんに秘密を囁いた。

 

「あの人、灯里さんの事が好きなんですよ」

「……そうなんですか? 灯里さんのメールでは、アリシアさんが好きなんだって」

「ふふ、きっと気づいてないのは暁さんと灯里さんだけですよ」

 

 目をびっくりに見開くアイちゃんに、私は何だか楽しくなって、鼻歌交じりに櫂を動かした。

 

 気づけば、曲目が暁さんのテーマソングをなぞっていた。

 

 

 

 

「それじゃお疲れ様でした、庵野さん」

「おう、嬢ちゃんたちもまたなー。帰り道に気をつけンだぞー」

 

 郵便局の建物に消えていく郵便屋の庵野波平の背中を、アニエスは笑顔と共に手を振って見送った。

 

 それに合わせて手を振るアイは、内心で小さく溜息を吐き出した。

 

(これで何人目だっけ?)

 

 アニエスが櫂を握る舟がネオ・ヴェネツィアの水路を進む。すると程なくして暁に出会った。そして彼と歓談して別れた後も、子供連れの主婦や見知らぬウンディーネ、エアバイクの運送屋……確か見覚えがある。ウッディーと言ったか……など、様々な人々と出会っては、アニエスはにこやかに笑顔で手を振り、楽しげに歓談する。

 

 話題は主に、灯里のこと、アリシアのこと、日常の何気ないこと、そしてアイのこと。アイが来ている事以外は取り立てて特別な話ではなく、そんなに格別楽しい話でもないと思うのだが。しかしアニエスと出会った人々は、そんな何気ない日々について言葉を、そして春の小さな草花のような笑顔を交わす。

 

(まるで、灯里さんみたいだ)

 

 ぽつりと頭に浮かんだそんな言葉を、アイは頭を振って思考から追い払った。

 

 灯里は灯里。唯一無二だ。アイにとって、アクアで一番の友達。素直でなくて、すぐに拗ねてしまうアイ自身とは違う、まっすぐぴんと背を伸ばし、だけど大好きな太陽を見つけては、そちらに顔を向け続ける向日葵のような女性。

 

 同じく素敵な人々とともに、いつか肩を並べて歩んでいきたいと……その望みはまだ漠然としたままだけれど……そう思う女性。

 

(そんな素敵な灯里さんと、アニーさんが同じだなんて、ありえない)

 

 ありえない。だけど、どうしてありえないんだろう。

 

 アニエスの楽しげな笑顔、透き通る空のような微笑みを見る度に、アイの心がどきりと弾む。

 

 アイが尊敬する素敵な女性像を、アニエスもまた纏っているような気がして。

 

 わからない。アニエスはきっと素敵な女性だと思う。でも、それを素直に受け入れることができない。その理由がわからない。

 

 だから、郵便屋の庵野の背中が郵便局に消えたのを見計らって、アイはアニエスに問いかけた。

 

「なんだか、灯里さんみたいです」

「え?」

 

 戸惑いを顔に浮かべて、アイを見下ろすアニエス。櫂を手繰る手が止まり、表情をはにかんだような笑みに換える。

 

「あはは、そう言ってくれると嬉しいです」

「嬉しい、ですか?」

「はい。だって、灯里さんは私が尊敬する素敵な先輩の一人ですから」

 

 その表情には言葉を裏切るような色はなく、心から先達を敬愛しているのがわかった。そして、その片鱗を受け継ぐことができていることが嬉しいのだとも。

 

 アイの胸が、きゅんと疼いた。

 

 どうしてだろうか。アニエスの笑顔を見ていると、何だか心が落ち着かない。

 

 彼女に対して冷たい態度をとってしまうのも、その疼きのせいだ。真っ向から見るのが辛い。斜に構えていないと、心が苦しい。

 

 そして、そんな態度をとってしまう自分の子供っぽさも、悔しい。

 

(どうして、私はこんなに子供なんだろう)

 

 どうしてだろう。灯里のような笑顔。大好きなはずの笑顔。なのに、それが灯里のものでないというだけで、こんなにも辛い。

 

 灯里も、アリシアも、藍華も晃もアリスもアテナも。誰を見ても感じなかった、この苦しさ。白と青の衣をひらめかせ、風に髪を揺らし、櫂を手繰って運河を巡る。それは、今となってはアイにとって一番の、憧れの姿だというのに。

 

(灯里さんに、会いたいなあ)

 

 心から思った。別にアニエスと一緒にいるのが嫌だという訳ではないのだが、やはり普段からメールを交わしている灯里とでは安心感が違うし、それに。

 

(灯里さんなら、きっと……)

 

 灯里なら、今アイが持て余している感情の答えを知っているかもしれない。そうでなくても、灯里ならば絶対、一緒に悩んでくれるだろう。

 

 会いたい。会いたいと思った。この惑星でもっとも親しい、暖かなあのウンディーネに。

 

「アイちゃん」

 

 その時、アニエスがそう呼びかけた。

 

 視線を抱えられた膝から、後ろで櫂を握るアニエスに差し向ける。

 

 じっと見つめる瞳。どうしたのだろう。何かまずかったのだろうか。もしかすると、舟を降りろと言われるのかもしれない。

 

 しかし、アニエスはふっと柔らかく微笑んだ。すっと傷の目立つ素肌の手を差し上げて、水路の向こうを指さして。

 

「一緒に……灯里さんたちを探しに行きましょうか」

 

 その瞬間、アイにはアニエスが、灯里のようにも、アリシアのようにも見えた。

 



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Sola 04 めぐりあい

「おいしーーい!」

 

 午前の予約を消化し、遅い昼食を摂る晃・E・フェラーリは、愛弟子たる藍華・S・グランチェスタの大袈裟な美味の訴えを、片手に束ねた新聞紙で受け流した。

 

「あまりがっつくんじゃないぞ、藍華。服を汚したらどうする」

 

 と、適当に釘を刺しておく晃だったが、実のところそう本気で諫めているわけではない。何しろ午前中の仕事は、仮に晃が櫂を握っていたとしても、消耗は避けられない内容だったのだから。

 

 先日週刊ネオ・ヴェネツィアの特集記事以来、特集の対象となった藍華、灯里の二人への予約は途切れる事を知らない。更に一緒に特集されたペア・ウンディーネのアリスについても、その師匠であるアテナへの予約という形で宣伝効果が発揮されている。お陰で、≪水の妖精三銃士≫とやらの師匠である晃、アリシア、アテナもまた、休暇の暇もなく飛び回る結果になっている。

 

 特に今回の藍華への予約は、いつになく人数が多かった。姫屋の黒いシングル用ゴンドラの中でも、一番大きなものを引っ張り出さなければ対応できない人数だ。操船に体力が必要なのはもちろん、乗客への気配りも忘れてはならない。このあたりは乗客の人数に対して指数関数的に負担が増加するもので、半人前の藍華が主体になって捌くには、いささか厳しすぎるのではないか……などと晃は内心危惧していたのだが。

 

 実際には、晃の愛弟子はまったく不足なくそれだけの乗客に応対し、目立ったミスもなく案内をこなして見せた。

 

 乗客をサン・マルコ広場で見送り、その足で遅い昼食に向かった。

 

 晃のお勧めでやってきたこの店は、芳醇な香りで鼻孔を刺激するナポリピッツァが自慢だ。藍華が目を輝かせ、思わずがっついてしまうのも無理はない。むしろここまでよく被った猫を落とさずにやってのけた……と、晃は内心賞賛しているくらいだ。

 

 昼間から少々胃に重たいピッツァ専門店、しかも『真のナポリピッツァ協会』お墨付きの店に連れてきたのも、午前中の仕事のご褒美、そして午後の仕事への英気を養う、という意味合いが強い。

 

(そろそろ、か)

 

 達成感、賞賛、そして一抹の寂しさ。様々な感情がないまぜになった吐息を、新聞紙で隠す。

 

 愛弟子の藍華は、既にウンディーネとしてかなりの実力を身につけている。幸か不幸か、プリマであるためにもっとも必要となる経験も、このところの修羅場のお陰で十分な量を蓄積できたようだ。この連日の修羅場に至る前と後では、仕事に臨む藍華の表情から、不安が落ち着き、気負いが自信へと移り変わっているのが、師匠の目からははっきりと見て取れる。

 

 はっきり言ってしまえば、藍華はもちろん、灯里、そしてペアのアリスですら、晃から見れば既にプリマ・ウンディーネの称号を背負うに相応しい実力を身につけつつあると思う。もちろん未完成ではあるが、逆に言えば未完成であるというだけだ。アリシアやアテナと顔を突き合わせたときに話す内容も、かつては指導の方法や近況が主だったものが、最近では昇格試験の手順や二つ名の相談などが主になりつつある。もっとも、アリシアはともかく、弟子がペア・ウンディーネであるアテナがプリマの二つ名について悩むというのは、いささか気が早すぎるきらいは拭えないが……。

 

(……ん?)

 

 思考を切り替えようと運河に目を向けた晃は、その視界の片隅に見覚えのある舟の姿を捉えた。

 

 遠目でもわかる。あのおんぼろの黒い舟は、晃自身が姫屋の倉庫の奥から引っ張り出してきたものだ。その証拠に、舟の上に見えるのは貸出先のARIAカンパニーの制服。あの黒髪のショートは間違いなくアニエスに違いあるまい。同乗しているのは……背丈が随分記憶と違う気がするが、レデントーレなどを一緒に過ごしたことのある、灯里の友達であるアイだろうと思われる。

 

 アニエスがネオ・ヴェネツィアに来た頃から姿を見ていなかったから、マンホームの暦で一年近くも顔を見ていなかったことになる。それならば、あの年頃の女の子の事であるし、見紛う程に成長していてもおかしくはない。

 

 しかし、アニエスとアイとは、珍しい取り合わせだと思う。かたや紆余曲折はあれどARIAカンパニーの社員、かたやARIAカンパニーと縁深い娘。同じマンホーム出身ということでもあるし、一緒にいてもおかしくはない二人ではあるのだが。

 

 ……そんな二人が、舟で一体どこに向かっているのだろうか?

 

「へー、『アキュラ・シンドローム、特効薬発見さる』ですって」

 

 晃がぐるぐると駆け回っていた思考の回廊に、藍華のそんな呟きが飛び込んできた。

 

 はっと意識を手元に戻して見れば、藍華の視線は晃の手にした新聞紙に向いている。

 

 裏返してみると、確かにそこには小さな記事で、不治の眠り病であったアキュラ・シンドロームが決定的な治療法を確立した、という一文が掲載されている。

 

「アキュラ……アキラ……あー、アキラ病の特効薬も見つかればいいのに」

「何だ、そのアキラ病って」

「すぐ怒って弟子をガミガミ叱ってくる病気ですよ。目下患者はアクアに一人しかいませんけど」

「ほぉう、そういうことを言うなら今すぐ発症してやろうか?」

 

 戯ける藍華に、わざとらしく柳眉を逆立ててみせる晃。きゃーっとこれまたわざとらしく首を竦めてみせる藍華をひと睨みしつつ、晃は内心で小さくため息を吐き出した。

 

(――藍華。その病気も、もうじき根絶されてしまうんだよ)

 

 

 

 

「見つけましたよ、アイちゃん」

「見つけましたね、アニーさん」

 

 水路の角にぴったりと舟を寄せ、船縁に張り付くようにして、私とアイちゃんは顔を見合わせた。

 

 角の向こうには、お客様を乗せて行く、馴染みの黒い舟の姿がある。その上には白と青の制服を纏った二人の妖精の姿。紛れもない、我らが師匠アリシアさんと、同じく先輩の灯里さんだ。

 

 今日の灯里さんのコースは、主に先日の撮影ツアーの時のような、素敵スポット巡りのはずだった。どの順路で行くのか、前に灯里さんと水路図を前に相談したことがある。予約の時間は携帯電話(スマート)に入れておいたから、そこからの時間を逆算すれば、灯里さん達が今どのあたりにいるのか、おおよその予想はつけられる。

 

 その推測から、灯里さんのペースの修正を加えて水路を追跡したところ、見事灯里さんたちの舟を見つけ出せた、という訳だ。

 

「あれ、あのお客は……?」

 

 今日の灯里さんのお客は、いかにも青年という呼称が似合う感じの若い男性だった。見覚えがある。多分だけど、以前私が案内したことがある、マンホームで建築をやっているという人だ。名前は……えーと、なんて言ったっけ。

 

「灯里さー……」

「しーっ、ダメですよアイちゃん!」

 

 額に指を当てて悩む私を余所に、身を乗り出して声をかけようとするアイちゃんの口を、とっさに手を伸ばして封じた。恨みがましく私を見上げるアイちゃんに、私はぴっと指を一本立てて見せる。

 

「お仕事中は声をかけないのがマナーなんです」

「そうなんですか?」

「うん。それに灯里さんのことだから、お仕事中でも私達の姿を見たら、ぶんぶん手を振って声をかけてきそうじゃないですか?」

「…………確かにそうです」

 

 顔を見合わせて、お互いこっくりと頷いた。失礼ながら、実に揺るぎない共通認識だと思う。

 

「そんな訳で、しばらく見つからないように後をつけてみましょう。折角ですから、外から灯里さんの仕事ぶりを見学するということで」

「大丈夫なんですか?」

「ふっふーん、追跡のイロハは地図の把握からですよ」

 

 不安げなアイちゃんに、私は探偵ものの本で覚えたフレーズとともに、ポシェットから水路図を取り出して見せた。

 

 

 

 

「にゅ?」

 

 灯里が櫂を握るゴンドラの船底で、大の字になってのんびり鼻提灯を膨らませていたアリア社長が、何かに気づいたように声を上げた。

 

「あら、どうかしましたか、アリア社長?」

 

 アリシア・フローレンスはそんな猫社長を抱き上げると、こっそり小さな声で問いかけた。アリシアの目の前では、愛弟子の灯里が乗客の青年に、水路の奥に伸びる廃修道院について解説をしているところだ。青年も興味深そうに話を聞いていることだし、邪魔をしないよう注意しなければならない。

 

「ぷいにゅ」

 

 それを察してか、声を殺して前足で指し示す先は舟の後方。漕ぎ手の灯里からは見えない位置に、色のくすんだ天使像を舳先に掲げた黒い小舟が見える。

 

(あれは……確か)

 

 アリシアには、その舟の舳先に見覚えがあった。あれは、姫屋の晃が「とびっきりのおんぼろ」と称して貸し出してくれた練習用の舟だ。

 

 加えてそれ以前にも、昔晃やアテナと共にシングルとして練習していた頃、晃が「いつもの舟がドック入りなんだ」と言いながら持ち出してきたのを覚えている。舳先の天使像が片翼なのは、あの時晃が、アテナの舟の回避を誤り、舳先を衝突させてしまった事に起因していたはず。折れた翼を捜して水路を探し回った覚えもある。見間違えるはずもない。

 

(だとすれば、あれはアニーちゃんね)

 

 今、あの舟はARIAカンパニーで、アニエスの練習用に使われている。普段ならば灯里愛用の……つまりアリシアが現在腰掛けている舟ひとつで事足りるのだが、こうやって灯里かアニエスどちらかが予約を入れられると、予約のない方が身動きが取れなくなってしまう。そのために晃に頼み、姫屋に掛け合って予備の舟を貸し出して貰ったのだが。

 

 あちらとしては、恐らく姿を隠しているつもりなのだろう。時折ちょこちょこと白い帽子が覗いている。あの仕草、あの背丈、そして帽子の隙間から覗くあの黒髪。紛れもなくアリシアの愛すべき二番弟子である。

 

(退屈させてしまったかしら)

 

 灯里の仕事ぶりを見学するつもりで追いかけてきたのだろうか。割合控えめな性格のアニエスの事であり、これまで仕事に忙しい灯里の邪魔になりかねない行為は避けるようにしていたと思う。

 

 しかし、アリシアの想像とは裏腹に、まさしく頭隠して舳先隠さずという有様の二番弟子。子猫のような有様に思わず小さく吹き出したアリシアだったが、アニエスらしき白い帽子の下にもう一つ、別の頭が覗いているのを認めて眉を潜めた。

 

 アニエスが姉猫ならば妹猫のように覗かせている顔。一番最初に目にとまったのは、見覚えのある赤いリボン。光を浴びてオリーブの実のように煌めく髪。リボンが昔より小さく見えるのは。おそらく彼女の体が大きく成長したからなのだろう。

 

 ……九分九厘、あれは灯里のメール友達であるマンホームのアイだろう。

 

(珍しい取り合わせね)

 

 アイとアニエスは、面識はまったくなかったはずだ。たぶん親の出張について飛び出してきたアイと留守番をしていたアニエスが出会い、一緒に舟を出してきたというところなのだろうが、よくもこんな短時間で仲良くなれたものだ。

 

 ……と考えて、アリシアは苦笑した。そういえば、アイは元々人見知りをするようで物怖じをしない性格。そして今のアニエスには、他人を受け入れる包容力がある。それならば、二人が仲良くなるのは自明の理ではないか。

 

(だとすると、お夕飯が楽しみね)

 

 小さく微笑み、アリシアは乗客の青年を見上げた。

 

 名前からはピンとこなかったのだが、顔を見れば一目瞭然。サン・マルコ広場で待ち合わせたその青年は、かつてアニエスが添乗したことのある人物である。不思議と灯里やアリシアにとっても昔なじみのような感覚をもたらす彼は、マンホームで建築を学んでいるということなのだが……目を閉じてみると瞼の裏に、おっかなびっくり櫂を手繰っている姿が浮かぶのは何故だろうか。

 

「――それでは、早速修道院の中を巡ってみましょうか」

 

 夢想をたゆたうアリシアの意識を、そんな灯里の言葉が現実に引き戻した。

 

 ――いけない。あの廃修道院は、今日進入するには不都合がある。

 

「あ、そうだ灯里ちゃん」

 

 灯里のやる気に水を差すようだが、こればかりは警告しないわけにはいかない。経験の少ない灯里にはピンと来ないかも知れないが、この問題は、後々とんでもないトラブルを引き起こす恐れもある。

 

「――という事情がありますので、今日のところはこの先への進入は避けさせていただけませんか?」

「なるほど、それじゃあ仕方ありませんね」

 

 アリシアが事情を説明すると、灯里はもちろん、乗客の青年も素直に頷いてくれた。

 

「それでは予定を変更して、ここから外縁巡回コースに切り替えますね」

 

 やや残念そうな面持ちながらも、気を取り直して航路の変更を宣言する灯里。その様子に小さく胸をなで下ろし、アリシアは再び舟の背後に視線を向けた。

 

 そこには、先ほどまで見えていた片翼の天使像の姿はなかった。もちろん、壁際から覗き込んでいた白い帽子と赤いリボンの姿もない。

 

 灯里達の姿を見つけたので、余所に行ってしまったのだろうか。それとも、灯里達を先回りして、また追跡を続けるつもりなのだろうか。言葉を交わすチャンスがなかった以上、想像するしかない。

 

(危ないところに入り込まなければ良いのだけど)

 

 興ざめは覚悟してでも、声をかけておくべきだっただろうか。一抹の危惧を忍ばせながらも、アリシアは愛弟子の活躍を見守る方に集中することにした。

 

 

 

 結論から言ってしまえば、アリシアの危惧はまさに現実のものとなった。

 



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Sola 05 錆びた翼

「うっわぁーーー!」

 

 そこにあったのは、全天を覆い尽くすかのような藤棚だった。

 

 修道院の中庭に張り巡らされた骨に沿って、紫の花がいっぱいに咲き乱れている。

 

 ホールを包み込む爽やかな香りは、以前よりずっと強まっている気がする。頭上に穿たれた天窓の痕跡から差し込む陽光に、舞散る紫の花びらがきらきらと煌めく。風は回廊を巡って幾重にも踊り、それに乗って散りゆく花びらがくるくると舞い踊る。

 

 そんな幻想的な佇まいに、アイちゃんは目を輝かせて感嘆の声をあげた。

 

 ここは、私たち四人が最近お気に入りの、廃修道院跡。先日写真撮影会でも巡った、今や私にとっても大切な思い出の場所だ。

 

 その中でも一番大きな、ホール跡に鎮座する大樹。気候の関係か、一足早く季節の花が咲き誇る場所がここだった。

 

 前に来たときには花が盛りを迎えていたのだけど、さすがに時間も過ぎ、花も散り際。だけど散り際だからこそ見られるものもある。

 

「これは……また絶景ですね」

 

 私も興奮気味の頬を持てあましつつ、周囲のぐるりに視線を向けた。いつになく窮屈な感じがする小さな水路、そして水没した古い花壇を抜けて、ようやくたどり着いた聖地のような場所。

 

 灯里さん達のコースを予測し、先回りしてやってきたのがここだった。ここで待っていれば、いずれ灯里さんたちのゴンドラがやってくるはず。予めいい場所を確保しておいて、こっそり灯里さんの活躍を覗き見てやろうという計画だ。

 

 なん、だけど。一足先にやってきたこの場所は、想像以上に綺麗で、ついつい私たちはこの場所で遊んで行きたくなってしまった。

 

 樹の周りをうろうろしている間に灯里さんたちが来たらちょっと困るけど、まあその時はその時、偶然出会ったということにすればいい。

 

「アニーさん、樹の側に寄せてください」

 

 というアイちゃんのリクエストを受けて、舟を藤の樹の一本の根本に着ける。幸い今のところ流れは強くないので、気をつけていればもやいで繋ぐ必要もないだろうけど……一応念には念を入れて繋いでおく。アイちゃんを下ろして、私はシレーヌと一緒に船縁から藤棚を見上げた。

 

 一体何年くらい経っているんだろう。十年や二十年ではこうはならない。最低でも百年かそのくらい? あるいはマンホームに昔からあった樹が、アクアの環境で急成長したものかもしれないけど。

 

 シレーヌもこの藤棚には興味があるようで、静かに私の隣に腰を下ろしたまま、樹の上を見上げている。猫には人には見えないものが見えるというし、シレーヌの目には例えばこの樹の精霊とかそのあたりが見えているのかもしれない。

 

「シレーヌ、『彼ら』は元気そうですか?」

 

 私がそう問いかけてみると、シレーヌはYesともNoとも取りにくい雰囲気に尻尾を振って見せた。はて、質問がわからなかったのか、それとも元気かどうかわからなかったのか。

 

 そんなやり取りをしている私たちをさておいて、アイちゃんはよほどこの樹が気に入ったのか、舟から下りて木の根に乗り移り、そこに腰掛けていた。

 

 少し傾いてきた日の光が、木の葉の隙間をすり抜けて、水面に斑を散らす。風がそよそよと流れ、斑模様がゆらゆらと揺れる。そしてひときわ強い風が吹き抜ければ、ホールの中で風がくるくると踊り、花びらが空中をひらひらと舞う。そんな光景はとても幻想的で、ここが廃墟の奥地であることを忘れてしまいそう。

 

 そんな景色の真ん中に、アイちゃんが座っている。指先を水面に落として、天を見上げる少女。まるで一枚の絵画のような、完成された風景。

 

「あ、そうだ」

 

 ふと思い立って、私はポシェットから携帯電話(スマート)を取り出した。これにはカメラも内蔵されている。お客様を撮影するには申し訳ないレベルだけど、練習中の思い出を撮影するには十分だ。

 

 こっそり、舟をホールの外縁に向ける。幸い、まだアイちゃんは気づいていない。距離を十分にとって、携帯電話(スマート)をカメラモードにセット。ファインダーに映し出された光景が、ホログラフで携帯電話(スマート)の上に投影される。

 

 位置よし、角度よし、被写体のバランスよし。

 

「アイちゃーん!」

 

 タイミングを見て、私はアイちゃんに呼びかけて。

 

 何かを見つけたのか、水中に手をさしのべていたアイちゃんが、きょとんとした顔でこちらを振り仰ぐ。

 

 その瞬間を狙って、シャッターを押した。

 

「ひゃっ!?」

 

 目を丸くするアイちゃんに片手で拝むようにして謝りつつ、今一方の手で携帯電話(スマート)を操作する。今撮影したばかりの写真を呼び出し、拡大。振り向いた瞬間の、見返り美人なアイちゃんの姿がホログラフで立ち上がる。

 

 くるりと携帯電話(スマート)を回転させて、今し方撮影した写真をアイちゃんの方に見せる。不意を突かれてきょとんとした顔を取り込まれ、ぽかんとした顔が、みるみるうちに憮然としたものへと移り変わった。

 

「アニーさん、黙って撮るなんてひどいです」

「あはは……ごめんなさい、なんだか絵になってたから」

 

 ぷうと頬を膨らませたアイちゃんは思いの外可愛らしくて、私は綻ぶ頬を引き締めようと努力するのだけど……アイちゃんがぷいっと顔を背けるのを見る限り、残念ながら私の努力は実を結ばなかったらしい。

 

「私だけ撮られるのはずるいです。私にも撮らせてください」

 

 また機嫌を損ねてしまったようで、むーっと頬を膨らませて手を伸ばしてくるアイちゃん。

 

 私としても撮られるならば望むところ。伸ばした手に携帯電話(スマート)を預けようと、指先から力を解く。

 

 その瞬間、小さなずれが生まれた。

 

 私の心と、アイちゃんの心の間にあるずれそのものが、指先に舞い降りたかのように。

 

 つるりと、携帯電話(スマート)が指先を滑り落ちる。

 

「あ……」

「え?」

 

 とっさに拾い上げる間もなく。

 

 かつん、と軽い音を立てて、携帯電話(スマート)が跳ねる。

 

 何の運命の悪戯だろう。ぽん、ぽんと携帯電話(スマート)は木の根と石畳の隙間を跳ねて、そして。

 

 ぽしゃん、と呆気ない音とともに、水面を叩いた。

 

 

 

「あ、あーーっ!?」

 

 修道院の通路に、悲鳴じみた声が幾重にもこだました。

 

 私のものじゃない。アイちゃんのものだ。

 

 一方当の私といえば、慌てず騒がず沈んだ携帯電話(スマート)をつまみ上げ、二、三度水をふるい落として、スイッチを入れてみる。

 

 反応無し。画面は暗くなったまま、うんともすんとも言ってくれない。

 

「あっちゃー……」

「ご、ごめんなさい」

 

 額を押さえる私に、心底申し訳なさそうな顔で謝るアイちゃん。そんな様子に私の方もちょっと申し訳なくなって、元気づけるつもりで殊更に笑って見せた。

 

「大丈夫ですよ。こういうのは、乾かしたら直るんです」

「本当に……?」

「うん。大丈夫です」

 

 もちろん嘘じゃない。そそっかしい私のことでもあり、これまでも何度も水中に携帯電話(スマート)を落っことしている。このくらいじゃ壊れないのは、もう何度も実証済みだ。

 

 私がそう言うと、アイちゃんも一安心したようで、ほっと安堵の息を吐き出した。

 

(まあ、写真はしばらく撮れなくなるけど、しょうがないね)

 

 ――そんな風に、私は気軽に考えていたのだけど。

 

 その見通しの悪さ、巡り合わせの悪さを私が噛みしめることになるには、もう少し時間が必要で。

 

 その時の私の頭の中では、落ち込んでしまったアイちゃんをどう励ましたものか、そればかりが渦巻いていたんだ。

 

 

 

 

 灯里さん達の舟は、まだまだ姿を見せる気配はなかった。

 

 時計を確認しようとして、携帯電話(スマート)が止まっている事を思い出した。私は他に時計を持っていない。

 

 以前藍華さんに「仕事で使うんだから腕時計を持っておきなさいよ」と言われたことがあるのを思い出す。ごめんなさい藍華さん。言うことを聞いておけば良かったです。

 

 しょうがないので大雑把に、さっき携帯電話(スマート)を落とす直前に見た時計を思い出す。カメラで撮影した時の時間から、三十分過ぎたか過ぎていないかくらいだろうか。灯里さんたちと別れてからは、ざっと一時間強が過ぎたくらいだ。

 

 おかしいなあ。あの案内コースだったら、もうここを通っているはずなのに。

 

 アイちゃんはといえば、彼女は木の幹に背中を預けて、退屈そうに手の中の何かを弄んでいる。さっき木の根元、水路に沈んだあたりから拾い上げたものらしい。よく見せて貰っていないけど、アイちゃんの手の中で、頭上の小窓から飛び込んだ光できらりと鈍くきらめいているのがわかる。

 

 ……はて、あの光、どこかで似たものを見た事があるような。

 

「アイちゃん、それは何ですか?」

「あ……はい」

 

 俯いて手元に視線を注ぐばかりだったアイちゃんが、顔を上げて手の中のものを見せてくれる。

 

 それは、小さな翼のような何かだった。以前は金色に輝いていたように思えるけど、永らく水に浸かっていたのか、全体がさびついて色を鈍らせている。ところどころが昔の輝きを残しているようで、その反射光がアイちゃんの目に留まったんだろう。

 

 翼――金色の翼ねえ。まさかとは思うけど。

 

「アイちゃん、それちょっと貸して貰っていいですか?」

「え? 良いですけど……」

 

 不思議そうに目をしばたたかせるアイちゃんから、その小さな翼を借り受ける。そして私はひょいと私たちの舟に乗り移ると、舳先に掲げられた小さな彫像……片翼を失った天使像に、そのさび付いた翼の欠片を押し当ててみた。

 

「あ…………」

「どうしましたか、アニーさん……あっ」

 

 私が思わず漏らした声に、怪訝な顔をしたアイちゃんが顔を覗き込ませる。

 

 そして私の指先で繰り広げられているちょっとした奇跡に、目を丸く見開いた。

 

「……ぴったり、ですね」

 

 アイちゃんがそう言って私の顔を覗き込むのに、私はこくこくと首を縦に振った。驚くべきことだ。信じられない。まさか、そんなことが起きるなんて。

 

 まさか、こんな忘れられた修道院の奥地の、誰も気づかないような小さな隙間に眠っていた翼が。

 

 姫屋の奥底で眠っていた、古くておんぼろの黒い舟の舳先で鈍く輝く天使像の。

 

 片翼の天使像の、失われた翼の痕と、ぴったり合わさってしまうなんて。

 

「嘘みたい、だね……」

「嘘みたい、です……」

 

 シレーヌがじっと舟の上から見つめる前で、私とアイちゃんは顔を見合わせた。そして、ほとんど異口同音の呟きを、ほとんど同時に吐き出した。

 

 この舟がこの場所を訪れたのも、沈んだ金の翼がアイちゃんの目に留まったのも、信じられないくらいの偶然の積み重ねだった。しかも、その二つの偶然が、こんな瞬間に一つに重なるなんて。

 

 それは、紛れもない。

 

「これって……すごい奇跡、ですよね」

「はいっ! これはとってもミラクルな奇跡です!」

 



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Sola 06 同じ場所を目指して

 どれだけの年月をはぐれたまま過ごしたのかもわからないだけに、翼はそのままでは天使像に繋ぐ事はできそうになかった。

 

 おそらく、断面を磨いてから接着剤で繋がないとダメだろう、とアニエスは語った。アイもそのあたりはよくわからないが、たぶんそんなものだろう、と思った。

 

 ずっと離れていたものが一つに繋がるには、何かしらのきっかけが必要なもの。小説かコミックで誰かが語っていた言葉だが、アイのさほど豊富でない人生の経験からしても、それはなんとなくわかる話だ。

 

 考えてみれば、かつて初めて出会ったときの灯里とアイもまた、そういうものだったかもしれない。心を錆び付かせたアイは、アクアを、そしてネオ・ヴェネツィアを否定しようとして灯里に出会った。そして、心の錆を灯里の優しさによって磨かれ、輝く心の欠片を触れ合わせることができた。

 

 今のアイもまた、心を錆び付かせている。以前のアイと、灯里と出会ったときのアイと同じだ。誰かを――もっぱらアニエスを、今のアイの心は認めることができない。

 

(どうしてだろう。どうして私は、心を錆び付かせているんだろう)

 

 自問する。こんな自分は嫌だ。

 

 少なくとも、アイがアニエスを嫌う理由はどこにもないはずなのだ。灯里のメールで語られた人柄も、そのマンホーム生まれの新人という立ち位置も、今目の前にいる彼女の振る舞いも、皆好意を持ちこそすれ、嫌う理由はどこにもあり得ない。

 

 水面に顔を出した小さな岩場に腰掛け、瞑目して気分良さげに小さく舟歌(いや、リズムからしてこれは流行歌だろうか)を口ずさむ彼女の姿は、側でゆらゆらと尻尾でリズムを刻むシレーヌの存在も手伝い、まるで神話に語られるセイレーンを想起させる。もちろん、歌声も気品も≪天上の謡声(セイレーン)≫と言わしめるアテナ・グローリィには遠く及ばないのだが……それはいささか比べる相手が悪い。

 

(こんなに素敵な人なのに、どうして)

 

 どうして、アイの心を錆び付かせてしまうのか。また自問を繰り返す。だけど、わからない。何度繰り返してもわからない。

 

「……どうかしましたか?」

 

 気づけば、アニエスが不思議そうに自分の方をのぞき込んでいた。

 

 アイよりは少し短めにまとめられた髪は、ちょうどアイが成長してウンディーネになったらこんな具合になるだろうか。憧れの青と白の制服に身を包んだ――

 

 アイが憧れる――なりたいと願う未来の姿、ほぼそのもの。

 

(あ――――)

 

 その瞬間、アイの脳裏でぱちっと光が閃いた。

 

(私、悔しいんだ)

 

 そんな気持ちが、ぽろりとこぼれ落ちる。

 

 アニエスが素敵であればあるほど。

 

 自分の理想に近ければ近いほど。

 

 悔しさが、こみあげてくる。

 

 どうして、自分はそうでないのか。どうしてそこにいるのが自分ではないのか。

 

 将来の夢、という言葉が、現実味を増してきた今。一番なりたいものを捜してアイが瞼を閉じれば、そこには必ずあの華やかな妖精達の姿がある。

 

 いつからだろう。初めてARIAカンパニーの制服に袖を通した時からだろうか。それとも、カルナヴァーレの時からだろうか。もしかすると、初めて灯里の舟に乗ったあの日からかもしれない。

 

 いつの頃からか、アイの心の中には「いつか灯里さん達と一緒にウンディーネになりたい」という願いが芽生えていた。

 

 その願いがはっきり形になった頃だった。灯里のメールに「私に後輩ができました!」という表題が踊ったのは。

 

 心のわくわくを抑えきれていないのが、簡素な電子文書の向こうからでも伝わってくるような、そんな文面。

 

 いつもならば、一緒に心から喜ぶことができた。灯里の喜びは、アイの喜びでもある。そうやって心を重ねるのがこの上ない幸せだったのに。

 

 アイに去来したのは、心に小さな穴があいたような、そんな空虚さだった。

 

 どうしてなのか、わからなった。それにそれはほんの小さな穴だ。見ないようにすれば気にする必要もない。実際、アイは気にしないこととした。

 

 だけど、そんな空虚さは無くなったわけではない。目を背け、見ないようにしているだけで、そこからすうすうと冷たい風が吹き込んでいる。

 

 それを、アイはアニエスを目にした瞬間、目の当たりにすることになった。

 

 自分が、一番望んでいた場所に。

 

 自分が、一番望んでいた形で。

 

 自分が、一番望んでいた姿をして。

 

 アニエス・ディマが、そこにいた。

 

 それは嫉妬だったかも知れない。もしかしたらもっと卑俗な感情だったかもしれない。だがアイにとって一番重要なのは。

 

 ……一番憧れる場所に辿り着くには、自分が幼すぎるという厳然たる事実。

 

 アニエスがいる場所こそが、アイが求めていた場所そのもの。マンホーム生まれのウンディーネが、ARIAカンパニーの制服を纏って、灯里や藍華やアリス、アリシアに晃にアテナ――尊敬する、大好きな彼女らに囲まれて、優しく穏やかに、輝くような日々を過ごす。それが、アイが望んでいた未来の姿。

 

 だけど、現実はそうはいかない。確かにアイは成長した。手足もすらりと伸びて、以前は届かなかった戸棚の上のおやつに手が伸びるようになった。

 

 でも、一番届かせたい場所には、どうやっても届かない。なぜなら、アイが走るのと同じ早さで、灯里達もまた遠ざかっていくから。

 

 わかっていた。アイは灯里たちを追いかけることはできる。だけど、決して追いつくことはない。

 

 だから、悔しかった。自分とよく似た立ち位置で、自分が一番望む場所に、相応しい心と体を持って立つアニエス・デュマ。どうして、自分は彼女のようでいられないのか。どうしてこの体は子供なのか。もっと早く大きくなれば、もっと早く生まれていれば、アニエス・デュマがそうであるように、自分もまた灯里達と舳先を並べていられたのではないか。そんな悔しさが拭えない。どうやっても、拭うことができない。

 

 それがどうしょうもないことだとわかるからこそ、悔しさだけは抑えることができない――。

 

「――アイちゃん?」

 

 そんなアニエスの呼びかけが、まるで灯里のものであるように感じて、アイは再び顔を上げた。

 

 そこにあるのは、心配そうにアイを覗き込む、マンホーム生まれのウンディーネの顔。アリシアの慈愛と灯里の感受性を少しずつ受け継ぎ、己もまた一人のウンディーネとして櫂を手繰る少女の顔。

 

 ふっと、心が緩んだ。彼女になら甘えていいような気がした。

 

「…………ずるいです」

 

 その訴えが理不尽だとわかっていても、口にせずにいられなかった。

 

「ずるい?」

 

 きょとんとするアニエス。それはそうだろう。こんな理不尽な心をいきなりさらけ出されて、驚かない訳がない。

 

「どうして、私は子供なんでしょう。どうして、アニーさんくらいに大きくなかったんでしょう」

「アイちゃんくらいの女の子は、すぐに背丈も大きくなりますよ。私も、そうでしたから」

「でも、今、大きくなくちゃダメなんですっ」

 

 ぴしゃりと反駁するアイに、アニエスは目を丸くして言葉を飲み込んだ。

 

 一瞬の逡巡。しかし、アニエスはじっとアイを見つめた。その目が、アイの言葉の続きを待っているのだと無言のうちに語りかけていた。

 

 だから、アイは甘えることとした。

 

「……だって、私が大きくなるまで、灯里さん達は待ってくれません」

 

 アイが今の彼女たちに届く程成長する時、おそらく彼女たちはもっと先に進んでいる。だって、マンホーム歴で一年前に出会ったときに比べて、さっき目にした灯里の姿は、明確に大きく成長していた。技量も、物腰も、初めて出会った頃とは比べものにならない。

 

 だとしたら、アイがこの場所に辿り着いた時には、きっと灯里達はプリマ・ウンディーネとなっている。そうなったら、今のようにのんびりと語り合う事はできないだろう。

 

 アイの危惧は結局のところそれだった。宝島を追い求めても、そこに辿り着いた時、本当にそこに宝物は残っているのか。自分が成長する間に、宝物はどこかに消えてしまっているのではないか。それが恐ろしくてたまらないのだ。

 

「…………」

 

 そんなアイの姿を目前にして、アニエスは何も語らなかった。ただ俯いたままのアイをじっと見つめていたが、「……ああ」と小さく吐息を漏らしたかと思うと。

 

 そっと、その両腕で、アイの身体を包み込んだ。

 

 

 

「…………え?」

「わかりますよ、アイちゃん。――私も、そうでしたから」

 

 きょとんとするアイを抱き寄せて、アニエスは小さく囁いた。

 

 その言葉は先ほどのものと同じでありながら、ずっと柔らかく、心に染み通る響きを宿していた。どうしてだろうか。ただの同情からの言葉ではないからだろうか。

 

 ――アニエスもまた、かつてよく似た痛みに苦しんだからだろうか。

 

「私もね。一番憧れたウンディーネの人がいたんです」

 

 少しその瞳は遠く。大樹に身を寄せて、隙間から覗く空を見上げる。

 

「私はその人と一緒に、その人に教えて貰いながら、その人みたいなウンディーネになりたいと思って、アクアに来たんですよ」

「……アンジェリカさん、でしたっけ」

 

 アイが記憶の棚を掘り起こし、灯里のメールに記載されていた名前を口にする。アイが即答するとは予想外だったのか、アニエスは目を丸くしつつも微笑んで「はい、その人です」と頷いた。

 

「でも、私がアクアに来たときには、もうアンジェさんはウンディーネを引退しちゃっていました」

 

 アイは記憶の棚を更に掘り起こす。当時の灯里のメールでは詳細は省かれていたが、後々になって「今ではツアーコンダクターを目指してマンホームで勉強をしている」というようなことが書かれていた。多分それがアンジェリカのことなのだろう。

 

「アンジェさんが別の夢を追いかけて、そのためにウンディーネをやめたんだって、私が理解できるまでは随分かかりました。目の前が真っ暗になって、大切な心の宝石箱が、全部石ころに変わっちゃったみたいな、そんな辛くて苦しい日々が続きました。どうして待っていてくれなかったんだろう。どうして私はもっと早くアクアに来られなかったんだろう、そんなことばかり考えていたんです」

 

 心がきゅんとなる。それはアイの危惧する未来に限りなく近い。そしてそれは本当に苦しい日々だったのだろう。アイを抱きしめるアニエスの腕に、わずかな強ばりが感じられた。

 

 だが、その強ばりも、すぐにふっと緩んだ。アニエスの言葉が続けられるとともに。心の枷が取り払われたかのように。

 

「でも、色んな事があって、色んな人たちに支えられているうちに、わかったんです。アンジェさんが、もっと素敵な夢に手を伸ばすために、変わっていこうとしたんだということを。仕事は変わっても、アンジェさんが素敵な人だって事には変わりがなかったってことを。そして――」

 

 視線だけで振り仰ぐと、そこにあるのはアニエスの湛える、空のように透き通った柔らかな微笑み。

 

「アンジェさんが、ただ手紙を交わしただけの私のことを、本当に大切に思っていてくれた……そのことは何一つだって、かわりは無かったんだってことを」

 

 己の手にしていた幸福に気づいて、それを大事に握りしめ、育てていこうとしている者ならではの、柔らかな微笑みが、そこにある。

 

「確かに、人は変わっていくかも知れません。同じ場所にずっと居続けることはできないかも知れない。嫌なことだけど、もしかしたら病気になったり、死んじゃったりすることだってあるでしょう。でも」

 

 言葉を切る。変化が、あるいは悲しみがいずれ訪れたとしても、それでも。

 

「たとえ形が変わってしまっても、それを大事だと思った一番な所は、心の宝石箱の奥底で、ずっと輝き続けているんだと思います」

 

 たとえ別れが訪れたとしても、交わした思い出は色あせない。たとえ失われてしまったとしても、それを愛していた心は胸の奥にある。

 

「大事なことは、その一番大事なことを、ずっと離さないように、言葉を交わしてそこにあることをずっと確かめ続けること……なんじゃないかな。怖がって目を塞いだら、見えなくなった大事なものは、どんどん色あせて消えてしまいそうになるから。

 私たちに必要だったのは、変わってしまったことを恐れないで、言葉と想いを交わすことだったんだと思う。そうすれば、誤解することも遠くなることもなかった。だから……」

 

 だから、アニエスはまっすぐにアイを見返した。

 

「だから、アイちゃん。変わってしまうことを恐れなくていいんですよ。だって、アイちゃんが灯里さんを大好きなことは変わらなくて、灯里さんがアイちゃんを大好きなことも、絶対変わるはずがないんですから。不安に思ったなら、言葉を交わして確かめ合えばいいですし。そこさえ変わらなければ、どんな未来が待っていたとしても、きっとそれは素敵な未来です」

 

 確信を持った瞳。まるで、アイの悩みを真っ向から貫いていくような。

 

 そしてその確信の槍が、微笑みとともに華開き、アイの心の澱を散らしていった。

 

「だって、私も、そうでしたからね?」

「……アニーさんも?」

 

 三度目の、同じ言葉。

 

 不思議と、アイにもまた、笑顔が零れてきた。

 

 そして、心の錆が吹き散らされるとともに、素直に認める心が生まれたのを、アイは感じた。

 

 ああ、アニエス・デュマは、紛れもない、ARIAカンパニーのウンディーネなのだと。

 

 この人は、自分と同じ、ウンディーネに憧れる一人の少女であり、そして同時に、アイが目指す理想の自分の姿の一つであることを、認めることができた。

 

 だから、その気持ちを素直に口に出した。

 

「じゃあ、私とおんなじです」

「……うん、おんなじですっ!」

 

 そう応えるアニエスの笑顔は、アイには少しどきりとするくらいに輝いて見えた。

 

 

 

「ウンディーネに、なりたいんです」

 

 二人並んで腰掛けて、午後の時間をゆらゆらとたゆたうアイは、改めて自らの願いを口にした。

 

「ARIAカンパニーのウンディーネに?」

「はい」

 

 迷いなくアイは答えた。だって、一番大好きなウンディーネが、そこにいるのだから。灯里も、アリシアも、そして……アニエスをそこに加えてもいい。

 

「でも、なれるでしょうか?」

 

 不安がこみ上げてきて、恐る恐る問いかける。

 

「大丈夫ですよ。アイちゃんは今でも健康で、灯里さんと仲良しで、他にも素敵なウンディーネの先輩方と一緒に過ごしてきたんですから、私よりずっと条件はいいと思います」

 

 そうだ。アニエスにはアンジェリカ以外のウンディーネとの繋がりはなく、更に重い病気で苦しんだ経歴がある。それに比べれば、アイは本当に多くのウンディーネと知り合い、その心に触れてきた経験がある。それを裏付けにしたマンホーム生まれのアニエスの保証は、アイを激励するのにこの上なく確かな力を持っていた。

 

「でも、そうなったら私が先輩ですね。ふふ、びっしびし指導しちゃいますよ」

 

 そう言って戯けるアニエスに、アイはちょっと口を尖らせて見せた。

 

「後輩じゃありません。ARIAカンパニーの制服を着たのは私の方が先です」

「おやや……それじゃその時はよろしくご指導お願いします、先輩?」

 

 アイの強がりに、アニエスは鯱張って敬礼の真似事などをしてみせる。

 

 一瞬の沈黙。それが何とも可笑しくて。

 

「……ふふっ」

「……あはははっ」

 

 どちらからともなく零れ出た笑い声が、回廊を幾重にも響き渡る。

 

 そんな様子を、寡黙な黒猫が静かに見つめていた。

 

 どことなく、楽しそうに目を細めながら。

 



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Sola 07 閉ざされた回廊

『私』は、まだ夢の中にいる。

 

 時々、こういうことがある。夢の中にいながら、『私』の意識が目覚めて、夢の中の私……アニエス・デュマというウンディーネを、すぐ近くから……ただし本人ではあり得ない場所から眺めている感覚。

 

「ウンディーネに、なりたいんです」

「ARIAカンパニーのウンディーネに?」

「はい」

 

 藤の樹の根元に腰掛けて、言葉を交わすアイちゃんと私……いや、夢の中の私、アニエス。

 

 こうして見ると、『私』とは随分違う。『私』は病院から外に出ようともしないから、肌は不健康に白いし筋肉も全然ない。でも、夢の中のアニエスはウンディーネとして日々鍛えているだけあって、手足はすらりとしていながらカモシカのようにしなやかだ。

 

 『私』と彼女は、よく似た道を歩んでいるけど、ある一点で大きく道を違えている。それはきっと、最初は素敵な出会いがきっかけだったんだろう。だけど。

 

「大丈夫ですよ。アイちゃんは今でも健康で、灯里さんと仲良しで、何度もウンディーネと一緒に過ごしてきたんですから、私よりずっと条件はいいと思います」

 

 にこやかに太鼓判を押すアニエス。そうだろうな、と思う。

 

 最初、私はアイちゃんを、つんつんしていて可愛くない娘だと思った。でも、アニエスが心を触れ合わせていくうちに、単に寂しいだけ、そして迷いに心を曇らせていただけなのだとわかってくると、俄然彼女の魅力が見えてくるようになってきた。少し人見知りするところはあるけれど、そうかと思うとびっくりするような行動力があって、誰もを笑顔にするように明るい。そんな素敵な女の子。

 

 人を識るには、NOではなくYESをもって触れ合うこと。少し考えれば当然のことだけど、それを実践するのは難しい。

 

 でもアニエスは、NOを突きつけられ続けても、まったくめげずに彼女を励まし、そしてついには心を通じ合わせた。

 

 凄いな、と思う。あんな風に心を通じ合わせられたらどんなに良いだろう。私にはどうやっても手の届かない場所。手の届かない世界。

 

 ……本当に、そうだろうか。

 

 思い起こす。自分の手が誰のところにも届かなかったのは、私が差し伸べられる手を拒絶していたからじゃなかっただろうか。

 

 変わっていくことにもっと大事なことは、一歩を踏み出すこと。

 

 私がアニエスと違う――別人である由縁は、きっとその一点にある。私は全てに背を向けて、夢の中だけに身を沈めて、決して現実の前を向こうとしなかった。

 

 だから、私の居場所は小さな病室。そこから抜け出すことはできず、そこから出て行くこともしない。

 

 確かに、私は重い病気にかかっている。だけどそれでも、手を伸ばして行動していったら、私の世界はこんなにも小さな箱の中に閉ざされることはなかったんじゃないだろうか。

 

 やってもできないかもしれない。でも、やらなきゃ何もできない。

 

 私は彼女たちにはなれない。でも彼女たちに憧れて、彼女たちになるのではなく、『彼女たちのようになること』は目指せると思う。

 

 私が、自分を大好きになれるように。誇りをもって、理想の彼女たちに相対できるように。

 

 ――ふと、視線を感じた。

 

 見下ろすと、黒猫のシレーヌが、私の方を見つめている。

 

 今の私には、彼女の正体がわかる。二重写しのようにして、喪服姿で毛皮のコートを羽織った、顔の見えない女性の姿が見える。

 

 ≪サイレンの悪魔≫と呼ばれていたもの。それが彼女、黒猫シレーヌの正体。

 

 そんな妖精とか悪魔とか、そういう類のものであるからだろうか。シレーヌには私が見えているようだった。

 

 彼女からは、私はどのように見えているんだろう。猫は時々、何もないはずの場所をじっと見つめていることがあるらしい。そんな時彼らはもしかしたら、私のように夢現の境を彷徨う何かの姿を捉えているのかもしれない。

 

 彼女は、どうしてそこにいるんだろう。元々、彼女はアニエス達をどこかに連れ去ろうとしていたはず。つい先日もアニエスに手を出そうとして拒絶されたし、その前には確かアリスちゃんにも手を出そうとした……ああ、あれは別の夢だったっけ。

 

<会いに来て下さい。水の妖精は、いつでも、誰でも、ネオ・ヴェネツィアを愛する全ての人を、歓迎していますから!>

 

 そんな言葉が思い起こされる。それはアニエスが以前、≪サイレンの悪魔≫に呼びかけた言葉。

 

 会いに来てほしい、とアニエスは言った。そして今≪サイレンの悪魔≫がそこにいる。

 

 ≪サイレンの悪魔≫もまた、伸ばされた手を握って、アニエス達と共にいることを選んだんだろうか。

 

 一緒にいても、どうしていいのかわからない。ただ、少しずつ相手を理解して、どうしたらお互いが嬉しいのかを学んでいく。そんな苦しいけれど楽しい道程を、彼女は選び取ったということなんだろうか。

 

 それとも、これもまた罠で、アニエス達をどこか遠くへ連れ出そうという企みの一つだというだけなんだろうか……。

 

「ひゃっ!?」

 

 その時、アイちゃんの小さな悲鳴が響き渡って。

 

 確かな答えを得られないままに、私の意識は一気にアニエスの中へと吸い込まれていった。

 

 

 

 

 最初に異変に気づいたのは、アイちゃんだった。

 

 

 

「ひゃっ!?」

 

 広場の藤の幹に背中を預けて、ちょっとうとうととしていた私は、そんなアイちゃんの小さな悲鳴に意識を引き戻された。

 

「アイちゃん、どうかしましたか?」

 

 少し霞のかかった目を片手でこすりつつ、手袋をした方の手を支えにして立ち上がる。

 

 そして一歩、二歩と歩みを進めたとき、さすがの私も異変に気がついた。

 

「え……!?」

 

 思わず声が上擦る。戸惑いが頭をいっぱいに満たして、何が起きているのかを理解できない。

 

 最初に頭が理解したのは、足元ひたひたまで迫った水面だった。

 

「アニーさん、水が」

「は、はい。一体どうして……」

 

 不安そうにそう言うアイちゃんのお陰で、私は泡を食うのをどうにか押しとどめられた。大きく息を吸い込んで、吐き出す。うん、新鮮な空気が、私の頭をクリアにしてくれる。

 

 考えてみる。さすがに職業柄、私たちウンディーネは水面には気を遣う。だいたい苔の生え方などから、満ち潮の時にどのあたりまで水位が上がるのかわかる。私たちウンディーネはそういった満ち潮、引き潮の範囲をほとんど無意識に確認して、安全なところにしか踏み込まないようにしている。

 

 今回も、入り込んだのは仮にも廃棄された修道院。危険な場所であることには変わりはない。私もそのあたりは心得ているから、最大まで潮が満ちたとしても、舟の出入りに支障がない事を確認してから舟を進めた。そのことには間違いはない。

 

 なのに、今。

 

 水面が、足元にまで迫っている。

 

 異常だった。水の中を覗き込んでみると、苔でできた満ち潮の境界線が、水面のずっと下に沈んでいるのが見て取れる。つまり、今目の前に広がっている水面は、私が予想していた水面の最大を大きく超えて満ち溢れている訳で。

 

 こんなことは初めてだった。とみに急激な満ち潮が来たとしても、ここまで劇的に水位が上がることはない。教本にも『境界線よりいくらかの余裕を見て、安全かどうかを見極めるべし』と書いてある。このセオリーを守っていれば、水位上昇で水路の出入りができなくなるということも少ない。そう、例えばアクア・アルタのような極端な水位上昇が起きない限りは。

 

 ――()()()()()()()()()()()

 

「あ、ああーーーーっ!?」

 

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

 そうだ、そうだった。

 

”もうすぐ、アクア・アルタが来る頃ね”

 

 そう、アリシアさんが呟いていたのが今更ながら思い起こされる。

 

 夏の先触れ、アクア・アルタ。ネオ・ヴェネツィア全域を、サン・マルコ広場と水路の区別がつかなくなる程に水で満たす、とびっきりの高潮現象。

 

 私はまだ見た事がなかったけれど、そろそろだとは聞いていた。

 

 でもまさか、こんな急に水面が上がってしまうなんて。しかも、こんな所に踏み込んでいるタイミングで。

 

「アイちゃん、早くここから出ましょう」

「は、はい」

 

 幸い、簡単ながらもやいを結んでいた私たちの舟は、急激な水面上昇にもかかわらずそこにあった。舟が流されて二進も三進もいかないという最悪の事態だけは逃れられたと思う。

 

 でも、私たちの受難は、まだまだここからだったんだ。

 

 

 

 水面上昇によって、もやいと大樹の間に水の回廊が出来上がってしまっていた。

 

 幸い、軽くジャンプするだけで舟に乗り移ることはできた。ちょっと靴先が濡れたけど我慢する。そんな細かいことを気にしてる場合じゃない。

 

「アイちゃん、こっちへ」

「は、はい」

 

 両手を広げて、飛び移るアイちゃんを受け止めた。ぎゅっと抱きしめて、とんと舟上に降ろす。

 

 気づけばいつの間にか、シレーヌも舟に飛び乗って、じっと私の方を見上げていた。いつも通りのポーカーフェイスだけど、今は『大丈夫なの?』と心配されているような気がする。

 

「大丈夫、すぐに出られますよ」

 

 そう気休めの言葉をかけるけれど、それがそんなに簡単な話でないことは、他ならぬ私が一番よく理解していた。

 

 

 

 舟を進めると、早速難所に行き当たった。

 

「天井が……」

 

 アイちゃんが困ったように呟く。行きにはちょっと頭に気をつければ普通に通り抜けられる通路だったのだけど。

 

 今は、座ったままのアイちゃんはともかく、立ったまま櫂を握る漕ぎ手の私には、低くなったアーチがちょうど胸のあたりでつっかえることになる。

 

 ――いや、つっかえる程立派じゃないとかそういう話はひとまずおいておいて。

 

「……水の流れ、早いですね」

 

 まだ高潮はピークに届いていないようで、外から海水が流れ込んで水位を押し上げている。その流れの力が私たちの舟を奥へ奥へと押し流そうとしており、それに逆らって進むのは、普段より一回り余計な体力を消費する。

 

 特に、こうやって立ち漕ぎの手を休めて進まなければいけない地形は大変だ。屈んで小さく漕ぐか、少し助走をつけて一気に通り過ぎるしかない。

 

 小さく漕いだ方が安全なのは間違いない。でもそれだと時間がかかりすぎる。普段ならそれで問題はないのだけど、今はまだ高潮進行中。ぼやぼやしていると状況はどんどん悪化するばかりだ。

 

「アニーさん……?」

 

 思案する私に不安そうな視線で見上げてくるアイちゃん。そんな彼女に大丈夫という顔を作って見せてから、私は大きく息を吸い込んだ。

 

「……よしっ」

 

 冷たく淀んだ空気はあまり気分の良いものではなかったけど、気合いは入った。

 

 舟を流れに任せアーチから距離を置く。そして姫屋風に身体に力を込めて、一気に櫂を手繰った。

 

「せぇ…………のっ!」

 

 流れに逆らい、舟が走る。目指すは卵状のアーチの真ん中。そのままだと身体をぶつけるので、タイミングを測って身を屈め、アーチをやり過ごす。

 

 帽子を手で押さえて、ふっと頭上が暗くなるのは一瞬。半目で上の安全を確かめて、私はそろそろと舟の上に立ち上がった。

 

「やった!」

「よしっ、難関クリアです!!」

 

 快哉をあげるアイちゃんに、ガッツポーズを取って見せて、櫂を握り直す。ぼやぼやしていたら、流れに押し戻されて元の黙阿弥になる。急いで修道院の外に出ないといけない。

 

 ……そんな焦りがいけなかったんだろうか。

 

 たまたま無茶が上手くいったことで、傲りを罰せられたんだろうか。

 

 これから一気に抜け出すぞ、と意気込んだ瞬間。

 

 ――船底から、大きくがつんと音がした。

 



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Sola 08 最長老

「きゃぁっ!?」

「ひぁっ!?」

 

 二人の悲鳴が唱和して、がくんと舟が揺れた。

 

 漕ぎ場が揺れて、バランスが崩れる。がくんと身体が傾いて、そのまま水路に投げ出されそうになる。

 

 でも、私はウンディーネ。その程度じゃあ落ちてなんてあげられない。とっさに壁に足を突いて、櫂を手繰ってバランスを取り戻す。

 

「大丈夫ですか、アイちゃん、シレーヌ!?」

 

 目を向ける余裕がないので、声だけで二人の無事を確かめる。

 

「は、はい、大丈夫です」

 

 アイちゃんがそう応えてくれる。声はしないけど、ちらりと見た限りではシレーヌの方も心配ないようだった。さすがは火星猫。……とはいっても、アリア社長だとちょっと危なかったかも知れないけど、とか余計な考えが頭をよぎる。ごめんなさい社長。

 

 ともあれ、程なくして舟は安定を取り戻し、私はほっと息を吐き出した。

 

「ごめんなさい、アイちゃん、シレーヌ。水とか被ってませんか?」

 

 櫂を動かし、舟を再度進ませながら問いかける。

 

「う、うん、大丈夫です。でも何が……」

「たぶん、水位が上がったことで、それまで水面に顔を出していた瓦礫が沈んじゃって、見えなくなっていたんだと思います。それがちょうど舟の底に引っかかった、という感じじゃないかな……」

「……ゴンドラ、壊れちゃったりしないんですか?」

 

 アイちゃんの心配ももっとも。だけど、ウンディーネのゴンドラはこのくらいじゃ壊れない。白い舟はお客様を快適に乗せるために、黒い舟は見習いがやらかしちゃうのに耐えるために、特別頑丈に作られている。

 

 だから私は「大丈夫、心配ありませんよ」と微笑んで見せたのだけど。

 

 

 

 結果は、アイちゃんの方が正しかった。

 

 

 

「アニーさん、水が!」

 

 必死に櫂を動かす私の前で、アイちゃんが切羽詰まった声を上げた。

 

 ちらりと見れば、船底のどこかに穴が開いたのか、底に溜まった水がきらりとライトを反射している。

 

 浸水が始まったのは、船底をぶつけて数分が過ぎた頃だった。船に腰掛けるアイちゃんが「冷たっ!?」と声を上げ、船底に水が入り込んでいる事に気がついたんだ。

 

「非常用のカップがあります。それで掻き出して! 大丈夫、なんとかもたせますから!」

 

 アイちゃんにそう指示しながら、全身で櫂を動かす。

 

 こんなことで、ゴンドラは壊れたりしないのに! そう内心で叫んでるけど、事実底が抜けちゃってるんだから仕方がない。元々船底が弱っていたのか。たまたま弱っていたところに瓦礫か何かがぶつかってしまったのか。理由はわからないけど……。

 

「急がなくちゃ…………っ!!」

 

 これ以上舟を傷つけないように注意しながら、でも精一杯のスピードで櫂を手繰る。

 

 でも、どんなに頑張っても、浸水は進行していくばかり。だんだん穴が大きくなっているんだろうか、程なくして浸水はアイちゃんが掻き出すスピードを大幅に上回って、くるぶしまでを冷たい水で浸してしまう。

 

 浸水の重みのせいだろうか、それとも疲労のせいだろうか。櫂がどんどん鈍くなる。

 

 そして、私の視界にまだ浸水していない通路が見えたとき、私の心は決まった。

 

「アイちゃん、そこの通路に着けます。降りて!」

「は、はいっ!」

 

 舟を通路に横付けするのを待って、アイちゃんが陸に飛び上がる。濡れるのが嫌だったのか、いつの間にかアイちゃんの肩に居座っていたシレーヌも一緒だ。着地で少し不安定になったものの、無事に浸水前の通路に降り立つことができたみたい。

 

 よし、次は私だ。櫂を置いて、船縁に脚をかけるのだけど。

 

 ぐらり、と舟が揺れたとき、ずきりと心が痛んだ。

 

 おんぼろの、今ネオ・ヴェネツィアのウンディーネが扱うゴンドラの中でも、たぶん一、二を争うくらいの年季物。姫屋の倉庫の奥底で、何人ものシングル・ウンディーネを見送ってきた最長老。

 

 それが、船底に穴を開かれて、ゆっくりと沈み逝こうとしている。

 

 ごめんなさい。

 

 ごめんなさい。

 

 私が、失敗しちゃったから。

 

 私が、こんな所に入り込んでしまったから。

 

 修繕できるかどうかはわからないけど。

 

 もう一度運河に漕ぎ出せるかどうかわからないけど。

 

 必ず、迎えに来ますから。

 

 絶対、迎えに来ますから。

 

 だから、今は――。

 

「――ごめんなさい」

 

 鉄板で補修された船縁に触れる手に、精一杯の謝罪の気持ちを込めて。

 

 私は舟を蹴って、乾いた通路に身を躍らせた。

 

 

 

 

 ――再び、『私』の心が遊離する。

 

 アニエス・デュマと重なっていた心が、ふわりと別れて、暗い水路に漂い出す。

 

 アニエスが、アイちゃんとシレーヌを引き連れて、乾いた通路……わずかに上りの傾斜がかかった通路に歩み出した。

 

 その背中を見送っていた『私』は、置き去りになった黒い舟の船縁に、黒衣の老紳士の姿が見えることに気がついた。

 

 もちろん、現実の存在じゃない。たぶん、これも幻想世界の住人。舟の精霊とか、そんな感じのものではないだろうか。

 

”あんたは、行かんのかね”

 

 老紳士は、私の方を優しげな瞳で見上げて、そう呼びかけてきた。

 

 そう、幻想世界の住人には、今の『私』の姿が見える。アニエスと重なっていない私は、幽霊とか亡霊とか生霊とか、そのあたりに属する存在。だからこそ、今の私は幻想世界の住人を見ることができるし、同時に彼らは私の姿を見ることができるんだろう。

 

”あんたは――あの娘達と一緒にいたくて、ずっとそこにいたんだろう?”

 

 私が老紳士を見えるように、老紳士もまた私を見ることができるようだった。きっと彼はずっと、アニエスと一緒になっていた私を見て……見守っていてくれたんだろう。

 

 幾十、もしかしたら幾百のウンディーネを育ててきた、老練の舟の精霊。その目はとても優しくて、異物であろう私の姿を見ても、慈しむように穏やかな眼差しを差し向けてくれる。

 

 そして、老紳士に言われて私は迷った。どうして私はここにいるんだろう。私はアニエスに自分を投影して、その喜びや悲しみ、健やかな成長を楽しむ傍観者に過ぎなかったはずなんだ。

 

 『私』は夢を見ているだけだったはず。なのに、どうして私はここにいるんだろう。

 

”それは、あんたがそこにいたいと思ったからだよ。同じであることで我慢ができなくなった、そんなちょっとした欲張りの結果なのさ”

 

 同じであっては触れあえない。違う誰かであるから、お互いを知って、触れあうことができる。喜びを、感動を分かち合って、響き合わせることができる。

 

 アニエスとアイちゃんがそうであるように。灯里さんや藍華さんやアリスちゃんが互いにそうであるように。

 

 そう望むから、私は私として、アニエスと別れることを選んだんだろうか。

 

 そんな馬鹿な、と思う。これは私の夢。私が誰かの夢の産物なのか、このアクアが私の夢の産物なのか、区別はつかないけれど。

 

 このアクアが私にとっての夢である限り、私はこのアクアに触れることはできない。できるはずがない。

 

 そのはずなのに……今、私の意識はここにある。

 

 ここにいて、水路を駆け上がってゆくアニエス達の背中を見送っている。

 

”早く追いかけねば、置いて行かれてしまうよ?”

 

 老紳士が、そう穏やかに語りかけてくる。

 

 その舟底には、運河の水が音もなく染みこんで水位を上げてきている。アクア・アルタの水面上昇も手伝って、遠からず『彼』は運河の中に消えてしまうだろう。

 

”――いいんですか?”

 

 そう私は問いかけた。いや、言葉は出なかったから、心で語りかけるだけだったけれど。

 

 こんなに長く、ウンディーネを見守ってきた貴方が、こんなところで沈んでしまって、朽ち果ててしまってもいいんですか、と。

 

”儂はもう、十分だよ”

 

 言葉は出なかったけど、思いは伝わったらしい。老紳士は穏やかに目を細めた。

 

”何人ものウンディーネを乗せてきた。その喜びと悲しみを一緒に背負ってきた。何人もの新人が一人前になっていくのも、夢敗れていくのも見送ってきた”

 

 思い出を呼び起こすように、視線を上に彷徨わせる。そこには水路の暗い天井しかないけれど、彼にはきっと水路の天井を透かして、遠く青い空が見えているんだろう。

 

”それに、倉庫の奥で朽ち果てるのではなく、最後に素晴らしい娘達を乗せられた。これ以上を望むのは贅沢というものさ”

 

 そう言って、老紳士は満足そうに髭を揺らした。本当に、これ以上を望んではいないということが、私の目からもはっきりとわかる様で。

 

 私にはわからなかった。でもわかるしかなかった。歳を経て、いくつもの思い出を両手に抱えられないほどに抱いて、そして消えていこうとしているその人の存在が、あまりにも大きくて、あまりにも重くて。

 

 私には何も言えなかった。何か言いたいのに、私という小さな器に満たされた言葉では、この人にかけられる言葉が何も思いつかなくて。

 

 そんな私の様子を、老紳士は穏やかに見つめていた。私の葛藤も悩みも、すべて見透かしているかのように。

 

”でも、そうだね……敢えてあんたと同じに欲張りを言わせて貰うなら”

 

 だからだろう、彼は少し思案するように視線を宙に彷徨わせて、何か楽しい悪戯を思いついたかのように目を細めて、

 

”儂に、あんたを見送らせて貰えんかね”

 

 そう言って、口髭を揺らした。

 

 見送る……と言われても。私は戸惑った。私はウンディーネはおろか、このアクアの上では人間ですらない。生霊とかそのあたりの、この世ならざる存在だ。

 

 そんな私を、どう見送るというんだろう。こんな甘い夢から目覚めて現実を見ろということなんだろうか。

 

”プリマになって夢を叶えた娘も、夢を諦めて舟を降りた娘も。儂から離れる時には、皆自分の新しい未来を目指して歩き出していた……だから”

 

 少しだけ、彼は目を細めた。

 

”あんたにも、儂を離れていくなら、何か新しい希望を手にしていて欲しいのさ”

 

 それはつまり――本物の希望でも、空元気でもいい。笑って、前を向いた私に、彼が生きていた歴史の最後を飾って欲しい――ということ。

 

 勝手なことを、と思った。そんなことを言われても、とも思った。

 

 だけど、それ以上に。アニエスと一緒に長い日々を過ごし、この老紳士と……古いゴンドラと共に、短いながらも日々を過ごしてきた私だから。

 

 彼のために何かしたい、彼の喜びになりたいと思った。

 

 私は頷いた。それが彼に見えたかどうか、どういう風に見えたかはわからないけど。

 

 彼は私がどういう顔をしているのか、はっきりわかっているようで。私が歩む道行きを祝福しているかのように。

 

”――さあ、行っておくれ。早くしないと置いて行かれてしまうよ”

 

 そう、豊かな口髭を揺らして、微笑んだんだ。

 

 ――私は、幽霊のようなものだ。アニエスの影に取り付いて、彼女の健やかな成長を追いかけて、自分のもののように喜んでいた、そんな形のない傍観者。

 

 だけど、そんな私でも、誰かのためになれるのならば。

 

 誰かのために、私の大事な誰かのために、笑顔になろう。笑顔で未来を目指して歩きだそう。

 

 私は老紳士に、そして永らく一緒に過ごしていたゴンドラに背を向けた。

 

 いつしか、回廊に足を踏みしめていた。それまで、私は自分の形を意識することもなかったのに。

 

 私には手がある。足がある。前を向いて、憧れる別の自分……いや、そうなりたいと憧れるアニエス・デュマという一人の女の子を目指して。

 

 そうか、これが踏み出すってことなんだろう。目の前にあることを現実と認識して、それを踏みしめて歩き出す。誰かの感覚を借りてではなく、私自身の感覚として、一歩を、また一歩を踏み出す。

 

 十歩を踏み出したところで、ふと気になって振り返った。

 

 そこには、ついに浮力を失って闇色の水面に溶け込んでいく、黒いゴンドラの姿があった。

 

 小さな光を、羽根のない天使が最後の合図のように煌めかせて、そして。

 

 彼は、水路の闇の中に、消えていった。

 

 さあ、急ごう。私は彼の残滓に背を向けて歩き出した。

 

 傍観者である私に何ができるのか、何のためにここにいるのかもわからないけど。

 

 見届けなければならない。それが不確かな傍観者である私の役割だと思うから。

 

 だから、私は歩みを速め、いつしか回廊を駆け出していた。

 

 

 

 

「そんな、行き止まり……っ!!」

 

 ポシェットから取り出したライトで照らしながら、私ことアニエス・デュマは、暗い回廊を歩き続けていたんだけど。

 

 少し後ろを歩くアイちゃんが、ライトが照らし出した無情な光景に悲鳴じみた声を上げた。

 

 そんなアイちゃんの声を聞きながら、私はがっくりと手足から力が抜けていくのを感じていた。折角ここまで歩いてきたのに、行き止まりだなんて。これだけ長い通路なら、どこかしらに繋がっているはずだと思ったのに。

 

 だけど、弱気は見せられない。手足に無理矢理力を込めて、前をじっと見据える。アイちゃんを不安にさせないように。私自身が折れないように。

 

「大丈夫、待って下さい……」

 

 不安そうに私の制服の袖を握るアイちゃんを勇気づけるように、ぽんぽんと頭を叩いてから私は壁に取り付いた。

 

 ちゃぷ、と靴下にまで届いた水が濡れた音を立てる。アクア・アルタの海面上昇はまだ止まらない。確か一番水位が上がって、サン・マルコ広場を歩いて長靴が水浸しになるくらいだと聞いている。だとしたら、まだ水位上昇は止まらない。

 

 さすがに、頭まで水に浸かるということはないと思うけど、少なくとも膝までは覚悟しなきゃならないと思う。だとしたら、危ない。短い時間ならともかく、長い時間水に浸かっていたら、酷く体力を消耗してしまう。アクア・アルタが落ち着くには大体半日はかかるはずだから、その間ずっと冷たい地下の水に晒され続ける。それは……下手をすれば命にも関わる重大事だ。

 

 ……落ち着けアニー。以前聞いた藍華さんの言葉を思い出せ。私は今、アイちゃんとシレーヌと一緒にいるんだ。練習のお手伝い名義ではあっても、実際は立派なお客様。だったらお客様のためにベストを尽くさないでどうするんだ。

 

 行く手の壁は、どうやら扉になっているようだった。長い時間閉ざされたままになっている扉。鍵はこちら側からかけられているようで、閂を外すのは頑張ればどうにかなりそう。

 

 風化した閂の木材はがっちり鋼材に食い込んでいる。動くかどうかは試してみないとわからないけど……。

 

 何度か試して、私一人の力だと、素手の左手に朽ちた閂の吸い針を立てるばかりだということがわかった。

 

「あいたたた……アイちゃん、ちょっとこっち手伝って貰えますか?」

「は、はいっ!」

 

 手袋を外してアイちゃんに渡し、閂の端を指し示す。片手だけでも、力一杯押し込んで貰えばうまくいくかもしれない。こちらはハンカチを手に巻き付けて、リトライ。

 

「せぇ…………のっ!」

 

 呼吸を合わせて、ぐいっと閂を押し込む。櫂を動かす要領で体重を乗せて、二度、三度と繰り返す。そしてそれが五回繰り返された時、閂に食い込んだ鋼材のあたりで、ずる、という乾いた音が聞こえてきた。

 

「やった!」

 

 アイちゃんの快哉に心の中で同調しつつ、更に力を込める。ぐい、ぐいと力を込めれば、一度動き始めた閂はずる、ずると鋼材の隙間を滑って、そしてついに扉の継ぎ目のところまで押し込まれた。

 

「これで開くでしょうか?」

 

 ふうふうと息を荒くしながらアイちゃんが聞く。

 

「やってみましょう。一斉の勢で……うん……っ!!」

 

 扉に体重と渾身の力を込めて扉を押し込む。扉にはこちら側に蝶番が見えないから、向こう側に開くようになっているはず。だから頑張って押し込めば、きっと扉は開くはず。

 

 開くはず、なんだけど。

 

 私たちが何度も何度も力を込めて押し込んでも、扉はびくとも動かなかった。

 

 他にも閂がかかっていないか。錠がかかったままになってはいないか。私たちは丹念に扉の周りを調べてみたけれど、それらしいものは見つからなかった。純粋に、扉が重くて開かなくなっていたんだ。もしかすると、外側からも封じられているのかもしれない。

 

 見れば、足下を濡らしている水は、後ろの水路からではなく、目の前の扉の隙間から漏れ出していた。つまり、今この部屋の中の水位よりも、外の水位の方が高いということになる。多分その水が扉を押さえる力が、私たちが扉を押し込む力よりも強いんだ。

 

 水位上昇はまだ止まらない。このままぼやぼやしていたら、更に状況は悪くなる。私たちは更に必死になって扉を押し込んだ。

 

 だけど、何も変わらなかった。

 

 何十年、もしかしたら百年以上の沈黙を纏って佇む扉に、私たちは為す術もなく、ただぐったりと疲れた身体でしゃがみ込むことしかできなかったんだ。



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Sola 09 虚実の境を越える

 『私』が追いついた時、アニエスとアイちゃんは疲れた顔でその場に蹲っていた。

 

 扉に寄りかかった二人の様子を見て、私は扉が開かないのだと気がついた。時折気力を取り戻して、アニエスが通路を戻ったり、扉をもう一度押し込んだりしているけれど、どちらも思うような結果は得られていない。

 

 通路を戻った方は、もう水没して泳がないと外に出ることはできない。今は外に出るには流れに逆らわないといけないし、舟を傷つけたことを考えると、下手に泳ぐと沈んだ瓦礫にぶつかったりして大変なことになりかねない。泳ぐとすれば、少なくとも水の流れが弱まるアクア・アルタのピークを待つべきだろう。

 

 扉は結局どう頑張っても開かず、扉の隙間から流れ込む水の量は、時間を経る毎に少しずつ量を増やして、今ではちょろちょろと小川のような音を立てて通路の奥へと下っていく。

 

 最初はアニエスもアイちゃんも立っていたけれど、疲労に負けたのか、拾ってきた瓦礫を即席の椅子にして、服が濡れるのもお構いなしに腰を下ろしている。

 

 もちろん、さっき落とした携帯電話(スマート)も使えない。

 

「あれが動けば、外の誰かに助けを求める事もできたかもしれないのに」

 

 そう言ってアイちゃんは申し訳なさそうにしたけれど、「電波はこんな地下通路では通じません」とアニエスは苦笑混じりにアイちゃんの頭を撫でていた。

 

 アニエスの身体がぶるっと震えた。地下通路の冷たい気温と海水に体温を奪われるのを少しでも抑えるために、二人は今ぎゅっと身を寄せている。

 

 だから、抑えたつもりのアニエスの震えを、アイちゃんも感じ取った。

 

「アニーさん、寒いならシレーヌどうぞ」

「ううん、シレーヌはアイちゃんが守ってあげてください」

 

 アイちゃんの提案を、アニエスは笑って遠慮する。シレーヌも濡れるのが嫌なのか、アイちゃんの腕の中でじっとしている。もう触らせないようにとか気にしていられなくなったんだろうか。冷たい水に体温を奪われていく今、シレーヌの体温が感じられるだけでもだいぶ違うんじゃないだろうか、と思う。……シレーヌに体温があれば、だけれど。

 

 二人の交わす言葉も尽きたのか、少し前からあまり話さなくなった。今は体力を温存するときだ……そう判断したんだろう。

 

 だけど――第三者だからこそ判断できることもある。このままでは状況は悪くなる一方だ。アクア・アルタのピークがいつ頃なのかはわからないけれど、このまま時間を過ごしていたら、チャンスが巡ってきた時には二人の体力が尽きている。

 

 何か手を打たなければならない。私にできることはないだろうか。

 

 私には今手足がある。私が『私』であると認識したせいだろうか。アニエスと一緒になっていた時に比べて、自分の輪郭がわかるようになっている。だから何かに触れることはできる――けど、何かを動かすことはできない。幽霊みたいなもので、暖かさも持ち合わせていないから、二人に分けてあげることもできない。

 

 ――そうだ。私が幽霊だというならば。

 

 蹲ったままのアニエスとアイを横目に、扉に手をかける。シレーヌの視線が私を追いかけているけれど、こちらから話しかけることはないし、シレーヌが話しかけてくることはないだろう。だから気にせず、扉に手を押し込む。

 

 抜けられない。冷たい感触があるわけでもなく、ただそこにある壁のようなものに押し返される。

 

 幽霊と言えば壁抜けが定番だと思うのだけど、そうもいかないんだろうか。

 

 もう一度試す。やっぱり、何かに押し返される。

 

 本物の鉄扉に阻まれている訳じゃない。少し手が壁にめり込んで、でも何かに押し返されている。だから、何かを工夫すれば、扉をすり抜けることはできるはずなんだ。

 

 そこで気がついた。通り抜けられないのは当然だ。だって今、私は床を歩いている。靴が床を踏みしめて、足が前に身体を運んでいる。それはつまり「石壁は踏みしめることができる=入ることができない」というルールの上にいるから歩くことができるんだ。

 

 だったら、そのルールを無視すればいい。難しいことじゃない。さっきまでやっていたことじゃないか。

 

 手と足を意識せず、自分自身も意識しない。自分はここにいない、ということを何度も自分に言い聞かせる。

 

 歩くのじゃなく、ただ扉の方に移動する。何も考えない。何も障害はない。進めば普通に外を見ることができる。そこには何の疑問もない。

 

 そのとき、声が聞こえた。

 

”そのまま行くと、貴女消えてしまうわよ”

 

 扉に触れる直前に、投げかけられたそんな言葉。

 

 それは、アイちゃんの腕の中のシレーヌのものだった。

 

 

 

 消える……?

 

 半身だけで振り返り、私は言葉に出さないままに呟いた。

 

 シレーヌは、口を動かさないままに語った。それでどうしてシレーヌが喋っているとわかるのか自分でも不思議だったけど、まあそれはそういうものなのだと割り切ることにする。

 

”貴女は、アニエスと一緒にいることで、この世界に居続けることができた。でも今貴女はアニエスから離れようとしている。それは、貴女がこの世界に居続けるための楔を失うということ”

 

 だから、消える。この世界にあるべきでないものだから、私は私として行動すれば、この世界に居続ける資格を失うことになる。

 

 アニエスから離れても、傍観者だから、観察者だから存続できた。

 

 その領分を逸脱すれば、私はここからいなくなってしまう。幻想ではない、『私』としてこの世界に干渉しようとしているから。

 

 うん、なんとなくわかる。きっとそういうことなんだろう。だって、私が変わって、アニエスから離れている時間が徐々に増えているんだから。

 

 私は迷った。私はこの世界が大好きだ。水に満たされた火星の、古い町を模した小さな島。そこに暮らす日々と人々。その全てが愛おしい。

 

 ずっとアニエスと一緒にいられたらどんなにいいだろう。こんな素敵な世界に囲まれて、ずっと夢を見続けられたらどんなにいいだろう。

 

 だけど、それは夢だ。私には私の世界がある。どんなにつまらないものに見えても、あの灰色の地球が……お父さんとお母さんと、友達がいる場所が、私の本当の世界。

 

 ――夢はいつかは目覚めなければならない。それが早いのか遅いのか、それだけの違いでしかない。

 

 そう考えれば、心はすぐに決まった。どうせ夢が終わるならば、楽しい夢として終わって欲しい。今の、怖くて悲しくて辛い夢のまま終わってもらいたくはない。

 

 だから、私は思った。思って言葉をシレーヌに伝えた。ありがとう、と。

 

 だから、私は私でなくなった。心を虚ろにして、扉に向けてまっすぐに進む。

 

 シレーヌの視線を背後に感じながら、私だったものは扉にすぅっと吸い込まれて。

 

 そして、オレンジの世界に飛び出した。

 

 アクア・アルタで高さを増した水面。

 

 それが、夕陽のオレンジを幾重にも幾重にも照り返す。

 

 それは、大運河に面した古い扉だった。黒く塗られたそれは封鎖されて長いのか、表面にいくつかの木板が填め込まれてアニエス達を阻んでいる。

 

 これを外すには、外から誰かが手を貸すしかない。そのためには、この場所を誰かに知らせないと。

 

 大運河に面した……黒い扉。多分夕陽を直接浴びているから、大運河の東側に面している。あとは――。

 

 

 くらり、と世界が傾いだ。

 

 

 『消える』とシレーヌが言っていたのを思い起こす。まさか、もうそのときが来てしまったんだろうか。

 

 ダメ、まだ早い。せめてアニエス達の居場所を誰かに伝えないと。

 

 でもどうやって伝える。私は幽霊。この世界に干渉する術はほとんどない。ケット・シーの真似をするほどの力も私にはない。

 

 どうしたら、どうしたら――。

 

 そう悩んでいる間に。

 

 私の世界と私の意識は、再び闇に閉ざされた。

 

 

 

「――!!」

 

 がば、と半身を起こした。

 

 ここは、いつもの病室のベッドの上。いつものように、アキュラ・シンドロームの発作で意識を失う直前と同じ場所。

 

 記憶を呼び起こす。あのアクアの夢は驚くほど鮮明に残っている。夢というものは少し油断するとすぐに消えて無くなってしまうけれど、この夢はいつも私の頭の中にくっきりと焼き付いて消えていかない。

 

 アニエス達が修道院の奥に閉じ込められて、身動きが取れなくなっていることも。

 

 彼女たちがいるのが、大運河東側の黒い扉の向こうだということも。

 

 私の記憶にははっきり残っている。

 

 でも――。

 

「どうしたら……届くんだろう」

 

 アニエスも、アイちゃんも、灯里さんもアリシアさんも、みんな私の夢の世界の住人だ。そんな彼女たちに、私の言葉をどうやって届ければいいんだろう。

 

 ……いや、正しくは、少し違う。私にとっての現実世界にも、灯里さんは確かに存在している。

 

 私はこちら側で、アクアの本を読みあさった。灯里さん、藍華さん、アリスちゃん。アリシアさん、晃さん、アテナさん。他にも多くの人々。そして誰よりもアニエスを捜して、アクアについて、ウンディーネについての本を読みあさったんだ。

 

 彼女たちは実在するのか。私の夢の中だけの産物じゃないんだろうか。そんな不安に突き動かされて。

 

 結果としては、彼女たちは実在した。月刊ウンディーネ、週刊ネオ・ヴェネツィア、他にも様々な書籍で、≪水の三大妖精≫とその弟子達の姿を見ることができた。

 

 だけど。

 

 アニエスだけは、どこにもいなかった。どこにも見つけることはできなかった。

 

 探し方が悪かったのかも知れない。私の調べられる範囲なんて知れている。家族や友達が買ってきてくれるいくつかの雑誌と、携帯電話(スマート)の小さな窓に映し出されるウェブサイト。それだけが、私が手にした外の世界への扉。写真に映りにくいアニエスのことであるし、私がたまたま調べ損なったというだけの可能性も、ある。

 

 だけど、もしかして。私がアニエスを見つけることができなくて、そしてアニエスとよく似た道を歩んできているのだとしたら。

 

 私は、アニエスが辿った別の可能性だったんじゃないだろうか。

 

 アニエスが辿り得た別の可能性だからこそ、私は夢の中でアニエスと同じになって、あの素敵な世界を体感できたんじゃないだろうか。

 

 だとしたら、私にはどうしようもない。そもそも、アニエス達が閉じ込められたという事実すら、私の夢の世界でしか起きていないのかもしれない。だとしたら、こちら側の世界で何をしたとしても、彼女たちを救う役に立つとは思えない。

 

 所詮は夢の話。気にしなくていいのかもしれない。そう思って目を閉じれば、きっと終わってしまう話なんだろう。

 

 だけど。

 

 私には、記憶が残っている。幾度も幾度も、少しずつ色を変えながら辿ってきた、アニエス・デュマという少女になって過ごした日々の記憶が。

 

 あまりにも、色鮮やかに。心を締め付けるほどに暖かく。

 

 今目を閉ざすことは、きっとあの世界を、あの暖かな記憶を否定することになる。

 

 それは、嫌だ。絶対に嫌だ。

 

 私は頭を振って、ベッドを降りた。

 

 目覚めた直後だし、アキュラ・シンドロームの発作はしばらく起きない。そのしばらくが、一日か、一時間かはわからないけれど。

 

 その時間が潰える前に、考えなければならない。

 

 アニエス達を助けるために。私が今できることを。

 



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Sola 10 私だけにできること

「……帰ってないわね、アニーちゃんたち」

 

 ≪白き妖精≫アリシア・フローレンスは、自らの愛するARIAカンパニーのはしけを見渡し、ぽつりと呟いた。

 

 周囲はすっかりアクア・アルタ一色だ。既に一階の足下まで海面が迫っている。愛弟子の灯里は「はひはひ」と慌てながら舟を倉庫に片付け、その間にアリア社長はお客の青年をダイニングに案内している。

 

 水位の上昇はまだまだ止まらない。今回のアクア・アルタはいつも以上に壮大なものになりそうだ。

 

 普段なら、そろそろアニエスは練習から戻っている頃だ。アニエスも見習いウンディーネとして既に相応の経験を積んでいる。ましてアイという客人を載せている状況ならば、アクア・アルタを体験したことはなくても、危険を感じたらすぐに戻ってくるくらいの判断はできるはずだ。

 

 なのに、戻ってきていない。これは異常事態だ。

 

「……申し訳ありません。少し席を外させていただきますが、ゆっくりしていてくださいね」

「ええ、ありがとうございます、アリシアさん。アクア・アルタは本当に壮大ですね」

 

 ダイニングのテーブルに紅茶のカップとお菓子を並べてそう謝罪すると、青年は爽やかに、どこか懐かしそうな顔で微笑んで、水平面に目を向けた。つくづく、どういうわけかこの青年はARIAカンパニーの風景に馴染む。

 

「アリシアさーん! 舟の片付け終わりました-!」

「ご苦労様、灯里ちゃん。……ちょっといい?」

「はひ?」

 

 戸惑い顔の灯里をはしけまで連れ出す。灯里もアリシアの若干の緊張を感じ取ったのか、すぐに表情を引き締めてアリシアに続いた。

 

「……アニーちゃんのことですよね?」

 

 そして、青年に聞こえない程度に距離を離したところで、灯里の方から問いかけてきた。

 

 灯里の方でも、アニエスの姿が見えないことに不安を感じていたのだろう。そんな素振りも見せなかったのは、お客の前で取り乱してはいけないという職業意識のなせる業か。一番弟子の成長ぶりに胸が温かくなるのを感じつつも、アリシアはひとまずそれを思考の隅に押しやった。今はアニエス達の状況を教える方が先だ。

 

「……えっ? アイちゃんも一緒に!?」

 

 流石にアイも一緒であるという話は予想外であったらしく、灯里は喜色二割、不安八割の複雑な表情を浮かべた。

 

 アクア・アルタによって水位はかなりの所までせり上がっている。今の時間まで舟を出したままということは、少なくともどこかの水路に閉じこめられて動きが取れなくなっている可能性が高い。

 

「アニーちゃんなら携帯電話(スマート)を持ってるはずですし、電話をかけてみたらどうでしょうか?」

 

 灯里の提案に、アリシアはぽんと手を打った。アニエスは常にマンホームからのメールを受け取るために携帯電話(スマート)を持ち歩いている。だから電話をかけて居場所と現状を知るということができるのだ。ネオ・ヴェネツィアの人間はあまり携帯電話の類を持ち歩かないからついつい忘れがちだが、そこはなんのかんの言っても灯里はマンホーム生まれである。

 

「じゃあ、かけてみますね。……あ、もしもしアニーちゃん?」

 

 アリシアと連れだってダイニングまで上がる。電話に向かい、アニエスの電話番号を打ち込む灯里。しかし、受話器に耳を当てた灯里の表情は、すぐに不安の雲に覆われてしまった。

 

<おかけになった電話は、通話できない場所にあるか、電源が入っていない場合があります。お留守番サービスに……>

「……ダメです、電源が切れてるみたいで」

 

 機械のアナウンスを途中で切り、アリシアにそう報告する。その声音は不安の色が隠しきれない。ネオ・ヴェネツィアがいかに文明から立ち後れた場所だとしても、灯里のパソコンがどこからでもネットワークに繋がるように、通信網は隅々まで行き届いている。もちろん、単にアニエスが携帯電話(スマート)をまた運河に落としてしまって、機械が止まっているだけという可能性は十分にあるのだが……。

 

 未だアニエス達が帰ってこず、かつ電話が通じないというのは、無性に不安をかき立てる。

 

「晃ちゃんとアテナちゃんに、アニーちゃん達を見なかったか聞いてみましょうか。灯里ちゃんはお客様のお相手をお願いね」

「はい、アリシアさん」

 

 灯里に事後を任せたアリシアが電話に手を伸ばした瞬間だった。

 

「アリシアちゃん、アニーちゃんたちは帰ってる?」

 

 まるで待ちかまえていたかのようなタイミングでベルが鳴り響いたかと思うと、飛び込んできた顔が開口一番にそう問いかけてきた。

 

 見慣れた褐色の肌は、アリシアの親友であり≪水の三大妖精≫の一人、アテナ・グローリィに他ならない。普段アリシアと対面するときにはふわふわと頼りなく捕らえ所のない表情の彼女が、いつになく真剣に……仕事に対するものに更に輪をかけて緊張感を漲らせているのを見て取り、アリシアは知らずのうちに指先を強ばらせていた。

 

「アテナちゃん、どういうこと?」

「アリスちゃんが、学校帰りに水没地区近くでアニーちゃんとアイちゃんを見かけたって言っていたの。それで今日はアクア・アルタが急に来てるし、もしかしたら、どこかに閉じこめられていないかって心配になって……」

 

 水没地区は、かつてのヴェネツィアの遺構を移築したものの、地盤沈下で水没してしまった地区だ。その沈降具合は床上浸水どころか舟で建物に入れる程であり、その分アーチ橋や天井も低いので、水位上昇によって身動きが取れなくなった可能性がある。

 

 もちろん、ひとつドジ話において、アテナ・グローリィが経験済みでないはずもない。故にこその不安であり、故にこそわざわざアリシアに確認の連絡を入れたのだろう。

 

「ありがとうアテナちゃん。アリスちゃんが最後にどこでアニーちゃん達を見かけたかわかるかしら?」

「ちょっと待ってね。……ええと」

「――代わりました、アリシアさん。アニーさん達を見かけたのは――」

 

 思案顔のアテナから電話を引き継ぎ、制服姿のアテナの愛弟子、アリス・キャロルが姿を現す。

 

 彼女が示したのは、ネオ・ヴェネツィアのやや外れ。住居に混じって開拓時代の廃墟や遺構が立ち並ぶ領域だった。

 

 ちょうど、先ほどアリシアがアニエス達を見かけた辺りにほど近い。あの周辺は旧ヴェネツィア時代の遺構を流用しているところも多く、地盤沈下前に建造されたために、アーチの低い橋も数多くある。時間帯もほぼ一致するし、アニエス達がその廃墟近くを彷徨っている可能性はかなり高いだろう。

 

「アリシアちゃん、私たちも探しに行きましょうか?」

 

 電話の向こうで、アテナが提案する。アクア・アルタの間、ネオ・ヴェネツィアの機能の多くがマヒする。警察などが動き出すには時間がかかるし、土地勘のあるウンディーネ以上に、アクア・アルタのネオ・ヴェネツィアを機敏に動ける者はいないだろう。

 

「ごめんなさいアテナちゃん、お願いしていい? 私も今から捜しに行くから」

「うん。他ならないアニーちゃんとアイちゃんのためでもあるもんね」

 

 憂い顔の上に元気づけるような微笑みを残して、電話口からアテナの映像が消えた。

 

 受話器を置きつつ、アリシアはアテナのそれを映したかのように微笑む。

 

 以前、晃とアテナがそれぞれ語っていたことがある。アニエスはまるで、自分たちの弟子でもあるかのようだと。

 

 それぞれが初弟子をシングルまで育て上げた(アリスは形式的にはペアだが)後に現れた新人だということもある。様々な縁で彼女たちと深く関わり合ったということもある。だが何よりも、アリシア達師匠組に加え、灯里達一番弟子組の全員で育て上げた後輩なのだという自負がどこかにある。

 

 だからこそだろう、アテナもアリスも、どこか不思議なくらい親身になって、アニエスの無事を願い、そのために力を尽くしてくれている。

 

 そして、弟子想いなことでは師匠組随一の人物もまた、まるで機を狙っていたかのように電話口に飛び出してきたのだ。

 

「アリシア、アニー達は帰ってるか?」

 

 いつも少し気難しそうな眉を更に厳しめにひそめたその顔は、アリシアのいま一人の親友である、≪真紅の薔薇≫晃・E・フェラーリに他ならない。彼女もまたアニエスを昼間に見かけ、もしも万が一があってはいけないと思って連絡を入れてきたのだという。

 

 アリシアが、アニエス達がまだ帰ってきておらず、連絡も取れないことを伝えると、晃と更に電話口を覗き込む藍華の表情がさっと堅くなった。

 

「わかった。私たちも調べてみる。藍華、他のウンディーネに聞いて回ってくれ。私は街を見て回る」

「わ、わかりました晃さん! アリシアさん、それじゃまた後で!」

「……お願いね、晃ちゃん、藍華ちゃん」

 

 ぷつんと映像の途切れた電話口に深く頭を下げて、アリシアは親友達の配慮に心から感謝した。いつもそうだ。アリシアが困っていると、すっとあの親友達の助け船が差し出される。

 

 そして、晃にも協力を頼んだ後も、電話はひっきりなしに鳴り続けた。

 

「ア、アリシアさん、いつもお美しい……い、いや、今はそれよりも、ボクッ娘は帰っていますか?」

「よう、アリシア嬢ちゃん。アニー嬢ちゃんはもう戻ってるかい?」

「アリシアさん、ご無沙汰しています。アニーさん達は……」

「アリシアさん、突然ごめんなのだー! もうちゃんとアニーちゃん達は戻っているのだ?」

 

 電話口から口々に、火炎之番人である暁、郵便局の庵野、地重管理人のアルなどが。更に窓から飛び込んできたのは風追配達人のウッディーの声である。皆それぞれが、異口同音にアニエスの安否を尋ねる。それぞれが、アイと一緒に町中を徘徊していたアニエス達の姿を目撃しており、更に『そういえば彼女は初アクア・アルタである』ということを思い起こしたのだ。

 

(これだけの人に心配されているんだから、アニーちゃんも人気者ね)

 

 などと思考の隅で嬉しさを転がしつつも、今は優先すべきことがある。

 

「ええ、実はちょっと困ったことになっていて……」

 

 アリシアは来訪者達それぞれに事情を知らせ、そしてこの際だからとアニエスの捜索に協力を頼むこととした。

 

 幸か不幸か、アクア・アルタの最中は、ほとんどの事業者は開店休業状態である。ARIAカンパニーに電話を入れたのも、暇を持て余しての事が半分、本当にアニエスに何か起きていないかと心配だったのが半分くらいだ。

 

 だが、本当にそんなトラブルが起きているとなれば、冗談半分では済まない。それぞれが、自分の周りの人々にアニエスの行方について尋ねる一方、フットワークの軽い面々はネオ・ヴェネツィア市街地を足で捜すことを快諾した。

 

 そして、晃やアテナ、さらには多くの知り合い達を働かせているからには、自分たちが手をこまねいている訳にもいかない。

 

「……さて、それじゃ私もアニーちゃんを捜しに行ってくるわね。灯里ちゃんはお客様のお相手をしていて」

「えっと、でも私も……いえ、わかりました、アリシアさん」

 

 一瞬アリシアに同行を申し出ようとする灯里だったが、お客である青年の存在を思い起こして思い直す。しかし、それよりも早く、

 

「いえ、それには及びませんよ」

 

 と、空のカップを片手に当の青年が否を告げた。

 

「アニーちゃんのことなら、僕にも手伝わせて下さい。どれほど役に立てるかはわかりませんが、男手がないよりはあったほうが良いでしょう?」

「でも……」

「灯里ちゃん、お願いしましょう」

 

 灯里としては、お客を自分事に巻き込むのは抵抗がある。しかし、この青年はアニエスとも縁があるし、それに万が一があることを考えると、人手は多いに越したことはない。

 

 だから、アリシアと青年の顔を交互に眺めた灯里がこっくりと頷けば、もうじっとしている理由はなかった。

 

「ぷいぷいぷいにゅっ!」

 

 ARIAカンパニー総出による、アニエス・デュマ捜索作戦。その開始を宣言するように、アリア社長が鬨の声っぽく前足を掲げた。

 

 

 

 

「あ……ちょっと、どうしたの!?」

「ごめん母さん、今急いでるの!」

 

 突然開け放たれた扉に驚く母さんを尻目に、『私』は病室を飛び出すと、病院のレクリエーションルームに向かった。

 

 目的は、ネットワークに繋がった端末だ。病院の個室は原則電話は禁止だから、ネットワークに繋ごうと思うと各部屋の備え付けの端末か、ここの情報端末を使うしかない。そして私の病室の端末は、私があまりそういうことに興味を持っていなかったためもあって、あまり良いものは使われていない。小さな画面で、簡単なニュースや写真が表示される程度のものだ。細かい単語や文節でネットワークに検索をかけるには、何かとパワーが足りない。

 

 でも、レクリエーションルームならば、ネットをフルで参照できる情報端末が置いてある。

 

 幸い、今は誰も端末を使っていないようだった。私はすぐさま端末前のシートに腰を下ろし、端末を起動する。

 

 暗転した画面に、宇宙開発時代以前からパソコン業界を牛耳るメーカーのロゴが表示される。もどかしい。のろくさい。次のアキュラ・シンドロームの発作が起きる前に、なんとしてもアニエス達の行方を伝えなければならないのに。

 

 ネットブラウザが、いくつも窓を開く。まず、ウンディーネについて検索。魔術師パラケルススが提唱した四大元素のうち水を司る――いや、そんな事は誰も聞いてない。ネオ・ヴェネツィアとウンディーネで全一致検索をかける。画面に、見慣れた白の制服(ちなみにオレンジ色の模様だから、オレンジぷらねっとのものだ)が表示され、私の知りたいウンディーネについての情報が表示されたことを示す。

 

 調べないといけないことは、灯里さんかアリシアさん、ARIAカンパニーへの連絡先だ。大運河の東側、黒い扉。半分水没したその向こうに、アニエス達が閉じ込められている。情報としては断片的だけど、ネオ・ヴェネツィアを隅々まで知るウンディーネのことだ、きっとそれだけの情報があれば、きっと二人を見つけ出してくれる。

 

 幾度か絞り込みをかけることで、ARIAカンパニーの連絡先はわかった。でもこれは予約向けの連絡先。今の状況のARIAカンパニーが、これを見てくれるとは考えにくい。もっと近くの、もっと確実に灯里さんかアリシアさんに届く連絡先が必要だ。

 

「……えっと、確か……」

 

 アニエスであった時の記憶を呼び起こす。アニエスなら、灯里さんのパソコンのメールアドレスを覚えているかもしれない。それさえ思い出せれば、直接彼女にアニエスの危機と居場所を伝えることができる。

 

 でも、ダメだった。そもそも、アニエスは灯里にメールを送ったことがほとんどない。一つ屋根の下に暮らしているし、いつも一緒だったから、連絡先をわざわざ覚えておく必要もない。

 

 じゃあもっと前。ARIAカンパニーに所属していないアニエスの記憶ならどうだろう。私には、断片的だけど姫屋やオレンジぷらねっとに入社したアニエスの記憶もある。それらの記憶の奥底になら、灯里さんのメールアドレスだってあるんじゃないだろうか。

 

 思い起こす。無理矢理記憶を掘り返す。あの運命のレストラン・ウィネバー。そこから分岐したいくつかの可能性へと記憶を辿っていく。

 

 頭痛がする。でも無理矢理押さえ込む。オレンジぷらねっと時代。ダメだ。そもそも端末に触れてもいない。なら姫屋時代はどうだ。やっぱりパソコンに触れる機会はほとんどなくて、触れた記憶があるのといえば、アキュラ・シンドロームで地球に戻ってから、藍華さんと何度もメールを交換した時期くらいのもの――。

 

「あ……っ!!」

 

 ぱちっと脳裏で電光が閃いた。

 

 そうだ、無理に灯里さんのアドレスである必要はない。アクアのあの人たちに届くのであれば何だっていいんだ。届きさえすれば、藍華さんのアドレスでも一向に構わない。

 

 ――でも、藍華さんは確か、元々は通信端末を持っていなかった。あの、アニエスが姫屋に入社して、かつアニエスがアキュラ・シンドロームを発症する世界でしか、私は彼女が通信端末を持っている姿を見たことがない。

 

 藍華さんのアドレスなら、『私』ははっきりと覚えている。あの世界のアニエスは、何度も何度も藍華さんとメールを交換した。アニエス本人は、アキュラ・シンドロームの原種と戦っている間にど忘れしてしまったようだけど、傍観者である『私』は、はっきりとそのアドレスを記憶している。

 

 でもそのアドレスは、この世界においては、藍華さんのアドレスではない可能性が高い。

 

 ……いや、そもそも。アニエス達が閉じ込められているのは、『この世界』の、今のアクアなんだろうか。

 

 私が見ていたのは、『ARIAカンパニーに入社したアニエス』の姿。でも私には、『姫屋に入社したアニエス』や『オレンジぷらねっとに入社したアニエス』の記憶もある。すべては、アキュラ・シンドロームが見せた夢、あるいは幻。その可能性も決して捨てきれない。いや、その方が可能性としては高いと思う。

 

 だったら、私が何をしようと、あちら側の世界に介入することはできない。そもそもが、私は傍観者。あの素敵な人たちがいるアクアは、たとえ同じ時間軸の上にあったとしても、別の惑星……何千万キロの彼方だ。

 

 仮に、このアドレスがこの世界の藍華さんのものだったとしても、それはただの悪戯に終わってしまうんじゃないだろうか。あの世界のアニエス達を助けることができないのなら、私が何をしようと意味がない。意味がないんだ。

 

 

 ……くらり、とまた意識が遠のいた。

 

 耳の奥で囁く、歌声のような耳鳴り。

 

 

 いけない。まただ。こんなに早く、またアキュラ・シンドロームの発作が来るなんて。

 

 急がなければならない。急がないと、何もできないまま、また夢の世界に墜落してしまう。

 

 迷っている暇はなかった。『今』が繋がっているかどうかなんて考える余裕もなかった。やるか、やらないか。私の手元にある選択肢は、それだけ。

 

 幸い、私は発作慣れしているおかげか、すぐに意識が失われることはない。子守歌のように耳の中で響く歌声の中で、ゆっくりと意識が霧に包まれていく。

 

 朦朧とする意識の中で、必死にメーラーを起動して、藍華さんのアドレスを入力する。

 

『大運河』

『東側』

『黒い扉』

 

 ほとんど目も見えないまま、それだけを打ち込んだ。

 

 あとは送信するだけ。

 

 それでいいんだろうか。迷惑ではないだろうか。本当に私が望む彼女たちに届くんだろうか。

 

 悩んだけれど、それもまた端からぼろぼろと闇の中にこぼれ落ちていく。

 

 だから、私は、最後に残った意識の全部で、エンターキーの感覚を指先でどうにか捉えて、そして。

 

 

 そして、私の意識は、また闇に途切れた。

 

 

 

 

 ほんの数バイトの文字列が、電波に乗って宇宙に放射されていく。

 

 それは、極めて曖昧な情報だった。ひとりの少女が、現実が失われていくその中で、必死に送り出したメッセージ。文面が正しいか、送り出せたかどうかも不確定な、まるで波動そのもののような不確かさで編み上げられたメッセージだった。

 

 しかしその曖昧な文字列には、ほんのわずかなデータの塊でありながら、そこには多くの願いが、祈りが載せられていた。

 

 そんな不確かなそれを『彼』は見つめていた。

 

 『彼ら』は、過去と現在を繋ぐことを役目としていた。だからその長である『彼』は、その役割の頂点であり、過去と現在、そして未来を俯瞰する力を持っていた。

 

 だから、『彼』は知っていた。ひとりの少女の願いを込めた文字列が、宇宙を駆け抜けていくことを。超空間通信網をすり抜けて、かつて青かった惑星から、かつて赤かった惑星へと飛び立ったことを。

 

 『彼』の役割は観察すること。介入することはその役割ではない。

 

 だが、介入を禁じられている訳でもない。何しろ、『彼』はその統べる『彼ら』の例に漏れず、何よりも自由で気ままな存在である。

 

 『彼』は自らの興味の赴くままに、宇宙に伸びる祈りの束を掴んだ。

 

 何故、その祈りが特別なのか。その祈りに、『彼』が介入するに足る理由がどこにあったのか。

 

 もしそれを問われたならば、『彼』はにやりと悪戯っぽく笑うだろう。

 

 正しさを定める理由なんてない。正しさを支える理屈なんてない。

 

 だが、十分な理由はあった。

 

 『彼』が、あの少女達の事が好きだったから。

 

 ほんの僅かな可能性の道を辿ってやってきた少女を含めた、あの人々の事が好きだったから。

 

 それだけで十分だった。

 

 『彼』にとっては過去も現在も未来も等価である。より厳密には、あらゆる観測者にとって、観測外の事象は全て等しく不確定なのである。

 

 だから、『彼』は掴んだ祈りの束を、かつて赤かった星のある時間、ある場所へと導いた。

 

 二つの観測点が、繋がる。

 

 祈りを通じて観測点が共鳴し、お互いを確定させる。そして。

 

 かつて神が『光あれ』と呟いたその瞬間のように。

 

 祈りの線を通じて――二つの世界は、かつて、今も、そして未来においても繋がっていると定義された。

 

 

 

 

 アクア・アルタで水没した小径を、敬愛する師匠の美しい黒髪を追いかけて歩いていた藍華・S・グランチェスタは。

 

「…………ひゃっ!?」

 

 制服のポケットの中で震えるものに、思わずあられもない悲鳴を上げてしまった。

 

「どうした、藍華?」

「ちょ、ちょっと待ってください……あ、こ、これっ!」

 

 慌ててポケットを探り、慣れない手つきで震えるものを引っ張り出す。

 

 それは、つい先日手に入れたばかりの携帯電話(スマート)だった。アニエスが使っているような高機能なものではなく、灯里が使っているようなパソコンとも違う。電話をすることに特化したようなシンプルなものだ。

 

 『そろそろ仕事をするのに必要だろう』と、両親に半ば無理矢理押しつけられたものである。姫屋の跡取り娘として、いつどこで緊急の連絡が飛んでくるかわからない。その自覚を持たせるための電話……などという親の理屈は藍華にもわからないでもない。

 

 しかしいつでもどこでも電話に縛られる生活というのは、ネオ・ヴェネツィア人としては必ずしも喜ばしいものではなく、藍華もその例に漏れない。結果、押しつけられはしたものの、今日までほとんど持ち歩くこともなく、灯里達に番号を教えることすら怠っていたものなのだが。

 

 その電話が、震えていた。

 

 この電話の番号を知っているのは、それこそ両親を含んだ姫屋の一部の人間だけのはずなのに。

 

「え、ええと、もしもし? ……あれ?」

 

 おっかなびっくりで取り出した時には、電話は静かになっていた。電話を開き、「どんくさい」といつもからかっている灯里を笑えない有様で受話ボタンを押す。

 

 しかし、声は聞こえてこない。

 

「もしかして、電話じゃなくてメールだったんじゃないか?」

「あ、そ、そっか。ええと……」

 

 師匠たる晃・E・フェラーリの指摘に、藍華ははたと気づいてボタンを操作する。そして苦労してようやくメール画面を呼び出すと、メール受信履歴にたった一つだけ表示されている、無題の新着メールを開いた。

 

 そこに表示されていたのは、ひどく単純ないくつかの単語だった。

 

『大運河』

『東側』

『黒い扉』

 

「……え、何、これ?」

 

 思わず、藍華は呻きにも似た声を漏らしてしまった。

 

 気持ち悪かった。誰も知らないはずの電話に、誰ともわからない誰かから届いた、訳のわからないメール。今すぐ消してしまいたいところだけれど、生憎現状の藍華はメールの消し方すらわからない。

 

「悪戯、にしては妙に具体的だな」

 

 藍華の横から携帯電話の画面を覗き込む晃。晃もそうこの手の機器に詳しい方ではないので、送信者のアドレスを辿るなどの発想には思い至らない。ただ、文面の不自然さ、不気味さだけが脳に焼き付く。

 

(大運河の……東側の、黒い、扉だと?)

 

 記憶を呼び起こす。一日一度は必ず通る大運河。ネオ・ヴェネツィアは、水没前のある時期のヴェネツィアの建物が移築され、それ以外の建物も当時を模倣するように建築されている。その中には、地盤沈下で水没寸前の扉などもあり、そういったものは危険なために柵や閂で封印されている事が多い。

 

 もう一度、頭の中でいつものルートを辿ってみる。いつも通りのカンパニーレ。水路を南に下り、対向の舟に当たらないよう無意識に周囲を見回している。特に交通量の多いあたりでは、舟を水路端にぶつけないように注意深く視線を配っており、その記憶の中には確かに幾つかの水没しかけた扉が……。

 

(だが、そんなことがあり得るのか?)

 

 晃は自問する。このヒントが正しいものだと信じるのは、いささか非論理的がすぎる。

 

 アニエスは猫妖精を見たことはないという。しかし、≪サイレンの悪魔≫事件をはじめとする幾つかの奇跡を思い起こしても、アニエスが猫妖精に、このネオ・ヴェネツィアに、そしてこのアクアに愛されているということは間違いない。だとしたら。

 

 ――ならば、信じる価値はある。

 

「藍華っ!!」

「は、はいっ!?」

 

 思わず鋭く飛び出した晃の声に、藍華はその場で跳ね上がった。

 

「もしかしたら、これはアニーの居場所のヒントかも知れない! 急ぐぞ!」

 

 そう言って駆け出す晃を、藍華は目を白黒させながら追いかけるしかなかった。

 



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Sola 11 想いの輪

 ネオ・ヴェネツィアで困る事といえば、お互いがお互いに対する連絡手段を持たないということだ。

 

 マンホームにおいては、ほぼ全ての住人が通信端末(スマート)を携行している。そのため相手の連絡先さえ知っていれば、即座に連絡をつけることができる。

 

 しかし、ネオ・ヴェネツィア人は未だに紙の手紙を遣り取りしていることからもわかるように、意識的にアナクロな手段を使う傾向がある。そのため、個人が通信端末(スマート)を所持していることはほとんど期待できない。いつでも電話で連絡をつけられるアニエスが例外なのだ。

 

 しかしそのかわり、ネオ・ヴェネツィアには別の連絡手段があった。

 

 人の輪という、暖かなネットワークが。

 

 

 

 

「大丈夫かな、アニーちゃんたち……」

 

 焦燥感が、思わずぽろりと口からこぼれ落ちた。

 

 水無灯里は、師匠たるアリシア・フローレンス、そして本来お客であるはずの青年(またも名前をど忘れした)と共に、既に一時間近くを彷徨っていた。

 

 アクア・アルタで上昇した海面は長靴の足下に絡みつき、徒労感が重しとなって体力をそぎ落としていく。

 

「大丈夫、みんなもアニーちゃんたちを捜してくれているんだから。私たちは私たちで焦らず頑張りましょう、ね?」

 

 アリシアがそう微笑んでくれれば、心の重しが少し軽くなる気がする。(本当にまるで魔法使いみたい)と灯里は認識を新たにしつつ、意識を目の前の問題に戻す。

 

 灯里達ARIAカンパニー一行は、陸路を辿ってアニエスの行方を捜していた。

 

 アクア・アルタで人通りはすっかり減ってしまっていたが、それでも通りがかる人を見かけては声をかけた。ネオ・ヴェネツィアにおいて、ARIAカンパニーの面々の認知度は高い。それはアニエスも例外ではなく、幾人かに行方を尋ねていくうちに、彼女が何処に向かったのか、おおよその見当を付ける事ができた。

 

 恐らくは、水没地区の廃修道院だ。色とりどりの花を湛える花壇と、その奥に広がる幻想郷めいた藤棚。灯里にとって今やとびきりのお気に入りの場所の一つであり、先日の撮影会で立ち寄って、アニエスもその美しさに目を輝かせていた場所である。

 

「ここか……随分複雑な地形ですね」

 

 地図を片手に眺めながら、青年が唸った。

 

「旧ヴェネツィアからの移築建造物と開拓村が混在している区画なんです。地盤沈下と急激な水位上昇の影響で、半ば水没して放棄されている建物が多くて」

「その上に建物を増築して、現在の町並みができている……という感じですか。なるほど……」

 

 アリシアが、青年に補足する。うんうんと頷く青年の目は真剣で、なるほど、大学で都市計画を専攻しているというだけのことはある。が、とりあえず今考えるべき事は、アニエス達の行方だ。

 

 何かの拍子にアイと出会ったアニエスは、灯里の仕事ぶりを盗み見するために、灯里の観光案内ルートを先回りしようとしたのだろう。そして、予定では灯里達も立ち寄るつもりだった廃修道院の藤棚に入り込んで、出られなくなってしまったのではないだろうか。

 

「だとしたら、修道院の中に入っていかないとダメね。下手に動いていなければいいんだけど……」

 

 水位が上がると、水没施設の危険度は跳ね上がる。天井が低くなる事もさることながら、普段なら目で見てわかる水中の危険物が、さらに見えにくくなってしまうからだ。普通の水路ならばそういう障害物に衝突しないよう配慮がされているが、廃修道院の中ともなると、調度品だったなどという理由により、危険物を除去するのが難しい。

 

 そういった状況で、手慣れていない人間が努力をすると、かえって状況を悪化させてしまう事も多い。そして、アニエスはなんだかんだ言ってもまだ未熟だ。まして一緒にアイがいるとなれば、どうにか状況を改善させようとベストを尽くそうとするだろう。だとしたら、状況が更に悪化している事も織り込んで行動しなければならない。

 

 そんな事を考えながら長靴で水面を踏みつけていると、頭上から二つの声が聞こえてきた。

 

「むむっ、やっと見つけたぞもみ子!」

「おーい、アリシアさーん! 灯里ちゃーーん!」

「あ、暁さん、ウッディーさん!」

 

 聞き慣れた声に、灯里ははっと顔を上げ、手を振った。見上げればそこにあったのは、ハンドルを片手に手を振るウッディーと、黒髪のポニーテールと白い火炎之番人の制服をなびかせた暁の姿である。

 

「どうしたんですか。二人とも?」

「うむ、もちろん空からボクッ娘を捜していたのだ!」

「それで、さっき晃さんと藍華ちゃんに会って、言づてを頼まれたのだ! 水没区画近くの大運河の東側の川沿いを中心に捜して欲しいって話なのだー!」

 

 暁が声を張り上げるのに、ウッディーが詳細を補足する。この二人は、いつもながらいい呼吸だ。

 

「晃ちゃんが? どうして運河端を?」

「女のカンだと言っていましたよ。根拠はないのかもしれませんね」

 

 アリシアの疑問に、暁が敬語で答える。暁のあからさまな態度の豹変に目を白黒させる青年を余所に、アリシアは眉を潜めた。カンだなどとは、晃らしくもない。豪放なようで、慎重に慎重を重ねるのが晃のスタイルだ。他人を動かそうと言うのに、何の根拠もなく指示を下す事は考えにくい。

 

 だが、その思索の織を、思わぬ所からの言葉が断ち切った。

 

「――そのカン、あながち外れでもないかもしれませんよ」

 

 地図を眺めて唸りながら、そう青年が呟いた。

 

「……え?」

「どういうことですか?」

 

 灯里が首を傾げ、アリシアと一緒に地図を覗き込む。地図上を青年が指さす先には、くだんの廃修道院が書き込まれている。

 

「確か、結構な規模の修道院でしたよね。それだけの施設ですから、大運河からの直接の搬入口を持っていてもおかしくない」

 

 そこで言葉を切り、修道院から建物沿いに指を走らせ、大運河へ。幾つかの建物を経由するが、一本も水路をまたぐことなく、指は大運河の東岸に辿り着いた。

 

「ほぼこれが最短ルートです。このあたり、他の区画より歩道が高いところにあるんじゃないですか? この不自然な形状は、多分古い建物の上に新しい建物を建て増しした結果だと思うんです。そうでなければ、こんな大きな区画、どこかで水路が新設されて寸断されてるはずですからね。ほら、こっちの区画からの進路をあからさまに塞いだままでしょう? それがそのままってことは、元々水路を増設できない程度に高い建物があったってことじゃないかと」

 

 と、立て板に水を流すかのように解説するが、灯里には彼が何を言いたいのかわからない。アリシアもアリア社長を抱いたまま、きょとんとして青年の指先を見つめている。もちろん、エアバイク上の男性二人組はよく見えないようで、そもそも覗き込む努力を放棄している。

 

「だとすると、ここに何があったのかと考えると、さっきも言ったとおり、修道院からの搬入路……あるとしたら地下通路があった可能性が考えられます。水路から荷物を運び込むわけですから、かなり低い位置にある奴が。もちろん地盤沈下してるわけですから、進入路としては危険すぎて、今は封鎖されているでしょうけど……」

 

 アリシアが、何かに気づいたようにはっと息を飲んだ。

 

「……修道院の中から、入ってくる事はできる?」

「ええ、アニーちゃん達が出口を捜してやってきて、そこで扉が開かなくて立ち往生……ってことは考えられますし、最悪でもそこから中に入れるかもしれません」

「なるほど! 晃さんはそれを見越して指示したってことなのだー!?」

「むむっ、なるほど、兄貴は伊達ではないな!」

 

 ウッディーと暁が、口を揃えて感嘆の声を上げる。青年はそんな様子にやや不満げな顔を……恐らくは自分の推理の方も評価して欲しいという案配で……浮かべたものの、アリシアが微笑んで見せると気を取り直したのか、頬に苦笑を閃かせた。

 

「じゃあ、この地図のポイントに行きましょう!」

「ぷいぷいにゅっ!!」

 

 灯里がそう号令をかけると、アリシアの腕の中のアリア社長が応じ、威勢良く腕を振り上げた。

 

 

 

 

 閉じ込められてから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。

 

 一時間だろうか。二時間だろうか。実は五分くらいしか経っていないだろうか。もしかしたら丸一日が過ぎているかも知れない。

 

 暗い地下通路の壁に背中をもたれさせ、アイちゃんを抱きしめたまま、私、アニエス・デュマは、ぼんやりとそんな事を考えていた。

 

 水位は徐々に上がり、この扉の側でも足首まで浸かる程にまで達した。靴の中に染みこんだ水が冷たい。少しずつ、少しずつ身体の熱が奪われている。体温が下がりすぎないよう、ひっついていようと提案したのはいつの事だったろうか。

 

 灯りは、ライトの電池が惜しくて消してしまった。

 

 身動きが取れない状態で灯りをつけていても仕方がない。そう思ったのだけど、今から考えると間違いだったかなと思う。灯りが消えて闇に包まれると、体中に不安が染みこんでくる。もしかしたらこのまま誰にも見つけられないんじゃないか。二度と外に出る事はできないんじゃないか。そんなはずはないのに、心がどんどん闇色に染まっていくみたいだ。

 

 アイちゃんは、随分前から黙ったままだった。

 

 最初は色々話をした。灯里さんのこと。アリシアさんのこと。藍華さん、アリスちゃん、晃さん、アテナさん。暁さんにウッディーさん、アルさん。アイちゃんのお父さん、お母さん、お姉さん。思いつく限り、色んな人の事を、色んな話をした。

 

 だけど、そのうちに言葉がぽつぽつと減っていった。体力と一緒に、言葉を交わす気力がそぎ落とされていた。

 

 シレーヌは、多分アイちゃんが抱いたままだと思う。元々気配の薄い子だけど、今は全然その姿がわからない。

 

 時々、シレーヌは実在しないんじゃないかと思うことがある。だって、私以外――灯里さんですら、シレーヌの姿を見た事がなかったんだから。アイちゃんがシレーヌを見つけた事でその不安はなくなったけど、シレーヌはそう思ってしまうくらいには不思議な子だ。

 

 ――静かだ。耳を澄ますと、波がさざめく音が聞こえてくる。ぽつぽつと人の声も聞こえるけど、遠い。きっとアクア・アルタで、外を出歩く人が減ってるんだろう。アクア・アルタが来ると、ほとんどの事業者がお休みを取って家に引きこもってしまうらしいから。

 

 つまり、私たちを助けてくれる人は、ほとんどいないということ。

 

 アリシアさんや灯里さんは、もう私がいないことに気づいているだろうか。

 

 でも、仮に気づいたとして、私が……私たちがここにいることに、どうしたら気づく事ができるだろう。

 

 アクア・アルタが終わるまでは、どうやってもここに入ってくることはできない。偶然に期待しても、少なくともこの水が引くまではどうにもならない。

 

 アクア・アルタが終わっても、私たちは外には出られない。舟が、沈んでしまったから。私が、沈めてしまったから。

 

 馬鹿だ。私は大馬鹿だ。どうしていつもこうなんだろう。どうしていつもこんな事を繰り返してしまうんだろう。

 

 アンジェさんに誓ったのに。素敵なウンディーネになってみせるって誓ったのに。

 

 どうして私は、こんなにも。

 

 ――扉の隙間から、オレンジの光が差し込んできた。

 

 夕陽だ。もうそんな時間なんだ。そしてこの光が途切れたら、アクアに夜がやってくる。

 本当の、闇がやってくる。

 

 世界が闇に閉ざされる。水に閉ざされ、闇に閉ざされた時がやってくる。

 

 私は、そんな闇に耐えられるだろうか。これから半日以上も続く闇に。

 

 アイちゃんは耐えられるだろうか。まだまだ小さな女の子なのに。

 

 ――助けて。

 

 もう、どうでもいい。ここから連れ出してくれるなら、誰でもいい。

 

 誰か、助けて。

 

 

 ――その時だった。

 

 そんなことを考えていたからだろうか。

 

 ここから逃げ出す事ばかりを考えていたからだろうか。

 

 まるで、私の心が弱った瞬間を見計らっていたかのように。

 

 

 彼女が、現れた。



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Sola 12 ローレライは誰がために

 『彼女』は迷っていた。

 

 『彼女』は人ならざる存在である。本来、昼間の世界に現れてはならないもの。しかし気まぐれに、世界に介入するもの。人を誘い、惑わせ、連れ去るアヤカシ。

 

 『彼女』には幾つかの名前がある。例えばそれは≪サイレンの悪魔≫、≪噂の君≫、そして……≪シレーヌ≫。

 

 だが、それが彼女自身を表す名前かどうかは定かではない。今の彼女が、≪サイレンの悪魔≫と呼ばれたもの、そして≪噂の君≫と呼ばれたものと同一の存在であるかは、彼女自身にもはっきりと判断できないことではある。

 

 しかし、最後の名前は、今彼女の目の前にいる少女が名付けたものだ。そして『彼女』はそれを受け入れた。故に今は『彼女』の事をシレーヌと呼称しよう。

 

 シレーヌは迷っていた。

 

 自分は、どうすればよいのだろう。

 

 シレーヌは、人を連れ去るアヤカシである。人を惑わせ、自分の世界に連れ去る魔物。人の空想の『恐怖』を象徴するひとつ。

 

 本来、人を脅かす存在であったシレーヌは、かつてアニエス・デュマを獲物に選んだ。

 

 アニエス・デュマの魂が、大きな光を宿しつつも、淀んで曇っていたからだ。そんな魂は、少し惑わせるだけで現実を見失い、『彼女』の領域への扉を開いてしまう。

 

 だが、アニエス・デュマはシレーヌの誘いをはね除けた。

 

 それは猫妖精の力を借りたことかもしれない。しかし、本当にシレーヌの誘いをはね除けるのに必要なのは、獲物に選ばれた者の心の強さ。アニエスの心が強かったからこそ、シレーヌの誘いは打ち砕かれたのだ。猫妖精はいつでも、切っ掛けを与える事しかしない。

 

 別の世界では、アリス・キャロルに手を伸ばした。アニエスへの心のわだかまりを煽り、心を凍らせる。誘いの試みは、あと一歩というところまで成功していたのだ。しかし、間の悪い事に、そこにはあの偉大なる大妖精が居合わせた。

 

 そしてアニエスとアリスは、偉大なる大妖精の薫陶を受け、更に心を強く健やかに磨き上げた。あるいはそれすらも、あの猫妖精の仕込みであったのだろうか。

 

 そして、この世界。猫妖精を探し求めるアニエスの前に、シレーヌは姿を現した。もちろん、あわよくばアニエスを拐かそうと考えてのことではあるが。

 

 実際には、シレーヌの誘いの言葉は、まるでアニエスに通用しなかった。

 

 まるで、シレーヌと同じく数多の世界を渡り歩き、その世界の自分の強さを一つ一つ取り込んできたかのように。

 

 抜けるように高く、透けるように蒼い空のように、アニエスは大きく、強く、健やかで。

 

 拐かしの言葉にもまるで動じず、逆にシレーヌの方が「遊びに来て」と誘われる始末。

 

 しかも、試しに本当に遊びに行ってみようと姿を現してみたら、思いの外アニエスの側は居心地が良く、そのまま居着いてしまう体たらくである。

 

 だが――今ならば、アニエスも、そしてその腕の中のアイも、『彼女』の世界に連れて行くことは難しくない。

 

 アイはもはや言葉も無いほどに憔悴しているし、古い舟を沈めてしまった自責の念もあり、アニエスの心も折れかかっている。

 

 今シレーヌが誘えば、彼女たちにそれをはね除けることはできないだろう。そうすれば、シレーヌは永遠の時を、二人の友と過ごすことができる。

 

 

 だが。

 

 甘言を紡ごうとするシレーヌの口を、迷いが噤ませた。

 

 それで、本当に正しいのか。

 

 アニエスと過ごしてきた日々が楽しいものであったのは、彼女が自ら光り輝いていたからこそではなかったか。

 

 今、彼女の心を闇に染め上げ、自らの世界に引き込んだとして、果たしてそれは、輝く魂を持つアニエス・デュマと同じであるかどうか。

 

 心を輝かせることなく、ただ闇の中で虚ろに過ごすばかりのアニエスを手に入れたとして、シレーヌは果たして満足できるのか。

 

 

 ――できるはずがない。輝きを知ってしまった今のシレーヌが、満足できるはずがない。

 

 

 本来、シレーヌは『恐怖』だった。負の空想によって形作られるもの。それが光を求めるなど、あるはずのないことだった。

 

 アニエス達の優しさに触れたことで、シレーヌもまた変化していったのだろうか。

 

 アリシアや灯里達に触れてきたことで、アニエスが変化していったように。

 

 あのアニエスと共にあった永遠の客人が、アニエスに触れて変化していったように。

 

 シレーヌもまた、優しさの風に心を揺らされて、変わっているのだろうか。

 

 

 それはシレーヌ自身にもわからなかった。でも決断するには今しかなかった。

 

 永遠に、心を闇色に染め上げた二人を手に入れるか。

 

 いつしか出会えなくなる事を覚悟で、輝く少女達を見守り続けるか。

 

 不安げに自分の姿を見上げる二人の少女の姿を見返して、シレーヌが逡巡していたのは、ほんの数秒。

 

 しかし永遠もかくやと思える程の緊張を孕んだその数秒の間に、シレーヌの中では天秤が、数百、あるいは数千回揺らされて。

 

 

 そして、シレーヌは決断した。

 

 

 

 

「……≪サイレンの悪魔≫」

 

 闇の中にぽっかり浮かび上がるその毛皮コート姿の女性に、私ことアニエス・デュマは思わずアイちゃんを抱きしめ、その名を呟いていた。

 

 私を、何度も闇の中から誘い、惑わせた悪魔。アンジェさんに化けて、私を惑わせた。私をどこかに連れ去ろうとした、まさしく悪魔のような何か。

 

 それが、私達の目の前に姿を見せた。

 

 それがどういうことなのか、わかる。彼女は、私達の心が弱ったときに現れる。そして、心を暗い色に染め上げて、何処か彼女の世界に連れ出してしまうんだ。

 

 前の時は、私は彼女の誘いをはね除ける事ができた。それは結果として私から彼女に会いに行った形になったことと、私が灯里さん達と一緒に、一番意気を蓄えていたときだったからだと思う。

 

 だけど、今は。

 

 ついさっき助けてくれるなら誰でも良いと願ってしまった私には。

 

 もう、彼女を振り払えないかも知れない。

 

 そんな不吉な予感が、心の中一杯に広がってくる。

 

「……アニーさん」

 

 怯えるように私にしがみつくアイちゃんを抱き返して、私は精一杯の気力を振り絞り≪サイレンの悪魔≫を睨みつけた。

 

 腕の中のアイちゃんの温もりがなければ、もう負けてしまっていたかも知れない。

 

 だけど、≪サイレンの悪魔≫は私の葛藤を知ってか知らずか、少し思い悩むように顔を伏せると。

 

 大きく息を吸い込むように、肩を揺らして。

 

 そして。

 

 

 歌った。

 

 

 

 地下通路に、幾重にも、歌声が響き渡った。

 

 ≪サイレンの悪魔≫の歌声が。

 

 それは、私の知らない歌だった。

 

 だけど、知っているような気がした。

 

 どこかで聞いた事がある。聞いた事があるような気がする。

 

 穏やかで、でもどこか弾むようなリズム。はしゃぐ子供達を見守る母親が口ずさむような、優しいメロディ。

 

「……これって……」

 

 歌詞は、よく聴き取れない。イタリア語らしい単語が時々聞こえてくるけど、わかるのはほんの一部分だけ。

 

 だけど、わかる。

 

 この歌は、誰かを愛する人が、誰かのために贈る歌。

 

 

”素直な歌は、心を届けてくれるのよ”

 

 そんな≪天上の謡声≫アテナさんの言葉が思い起こされる。

 

 ああ、そうか。

 

 この歌は、アテナさんの歌だ。

 

 アリスちゃんを慈しみ、元気づけようとしたときに、彼女が決まって口ずさむ、誰かを見守る慈愛の歌。

 

 表題は……確か『コッコロ』。

 

 

 だけど――この歌は、アテナさんのそれとは違っていた。

 

 確かに、歌詞は違う気がする。ほんの少し、より正確な発音で紡がれている気がする。

 

 だけどそれ以上に。明らかに違う事は。

 

 アテナさんが、何の迷いもなく歌い上げるのに比べて、≪サイレンの悪魔≫のそれは、どこか不器用で。

 

 旋律は正確で、技量的にはアテナさんに勝るとも劣らないくらいに思えるのに。どうしてだろう、おっかなびっくり、自信なさげに紡がれている。

 

 

 だけど、その歌は、私の心に染みこんできた。

 

 ほんのりと小さな灯を点し、暖めてくれた。

 

 どうしてなのかはわからない。だけど、これだけは確かだと思えた。

 

 この歌は、不器用だけど、だけど間違いなく優しくて。

 

 ――≪サイレンの悪魔≫は、私たちのために歌っているのだと。

 

 だからだろうか、私には、この歌の歌詞が手に取るように思い浮かんだ。

 

 誰かと一緒にこの歌を歌った事があるかのように、不思議と心に馴染んだ。

 

 だから、私も息を吸い込んだ。

 

 目を白黒させるアイちゃんを元気づけるように、抱きしめる腕に力をちょっと込めて。

 

 そして、≪サイレンの悪魔≫の歌声に、そっと寄り添うように。

 

 私も、歌った。

 

 びっくりしたようにヴェールを揺らす≪サイレンの悪魔≫にちょっと悪戯っぽく笑って見せて、私は彼女に声を重ねた。

 

 誰かを慈しむ歌を。

 

 元気になって欲しい、不安に惑う誰かのために。

 

 私が声を重ねると、≪サイレンの悪魔≫も自信がついたのか、その旋律は徐々に力強く、揺るぎないものに変わっていった。

 

 それを追いかけて、私もリズムを重ねていく。

 

 そうして、二つで一つの歌声が、石壁に反響して響き渡った。

 

 暗い地下通路に、幾重にも、幾重にも。

 



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Sola 13 扉の向こう

 ≪天上の謡声(セイレーン)≫アテナ・グローリィは、いざ土壇場においては、気がつくと蚊帳の外に置き去りにされてしまう傾向がある。

 

 それは、格別行動的な≪真紅の薔薇(クリムゾンローズ)≫晃や、気がつくと周囲を引っ張っている≪白き妖精≫アリシアと共に過ごした日々の中で、半歩下がったところから二人についていくスタイルが確立してしまったせいもあるだろう。

 

 今がちょうどそのような状況だった。弟子のアリスと共にアニエスとアイを探しに出たアテナだったが、途中で風追配達人のウッディーに、アリシアや晃が水没区画の大運河沿いを調査しているとの話を聞かされた。

 

 そして、アリスの「じゃあ早速合流しましょう」という提案に従い、二人は現地に向かったのだ。

 

 果たして、オレンジ色に染まりつつある町並みの外れ、大運河沿いの川辺に、彼女らの姿はあった。

 

 アリシア、晃、灯里、藍華、さらには火炎之番人の暁、地重管理人のアルの姿もある。見覚えのあるようなないような青年もいるし、先ほどの風追配達人のウッディーもその一人と考えて良いし、話に聞いていたよりも遥かに大所帯だ。

 

「どうしてこんなにたくさんの人が?」

「みんなアニーちゃんとアイちゃんを心配して手を貸してくれているのよ」

 

 アリスの問いは、アテナの疑問でもあった。だがアリシアが心配半分嬉しさ半分の顔で答えれば、アリスはもちろんアテナも納得せずにいられない。なるほど、あの地球生まれのウンディーネは、今ではすっかりアクアの人々に溶け込み、愛されているのだ。

 

 アニエスが皆に愛されていると思うと、アテナは不思議と心に暖かさを覚える。まるで愛弟子のアリスが賞賛されている様を見るように。

 

 アニエスは名目上はARIAカンパニーの所属ではあるが、実際にはアリシアのみならず、晃やアテナ達≪水の三大妖精≫全員の弟子であるという感覚がある。それぞれの弟子達との触れあいで得た様々な反省や教訓、様々なノウハウを詰め込んで育て上げた……そんな不可思議な達成感が沸き上がってくるのだ。

 

 だからこそ、何としても助け出さなければ。アテナは人知れず、気持ちと共に表情をきりりと引き締めた。

 

 晃の提案で、彼女らは手分けをして大運河沿いの封鎖扉を探っていた。理屈はよくわからないが、晃が主導しているなら根拠がないと言うことはあるまい。

 

「アニーちゃーーん!?」

「アニーさん、いますか? 返事してください!」

「ボクッ娘ーーーっ!! いないならいないと返事しろーーーっ!!」

 

 扉を見つけては、どんどんと叩いて呼びかける。最初は晃の指導通り黒い扉を探して叩いていたが、日が傾いて世界が闇色に閉ざされていくうちに、そんな余裕もなくなった。黒い扉を探すというのは晃自身も根拠が薄いと認めていたし、太陽の光が薄れていくと、色付きの扉と黒い扉の区別は難しくなってくる。それならば、むしろ手当たり次第にあたっていく方がいい。

 

 そもそも、晃の予想は本当に正しかったのだろうか。彼女の判断は九分九厘信頼できるが、一握りの誤りがないとは言い切れない。今からでも、廃修道院に上から入り込む算段を講じた方が良いのではないか……。

 

 

 ――そんな不安に心を揺らしていた、そんな時だった。

 

 

 アテナの耳が、ぴくりと震えた。

 

 夜闇に喧噪が遠ざかったからこそ聞こえた、小さな囁き。

 

 絶対的な音感と、針の音すら聞き取る程の聴力を誇るアテナだからこそ、その音に気がついた。

 

 地の底からかすかに囁く、小さな歌声を。

 

 そしてアテナだからこそ気がついた。

 

 その歌声が紡ぐ旋律を。

 

 それはほんとうにかすかな声だけど、アテナがその歌を聞き違えるはずがなかった。

 

 それは、もうどこにもいない、とても大切な人の思い出。

 

 アテナに歌を――そして歌に込められたたくさんの想いを残して逝ってしまった、大切な人が教えてくれた、もうアテナしか知るもののいないはずの歌だったのだ。

 

 そんなはずがない、と思った。

 

 そんなことがあるはずない、と思った。

 

 だけど、その歌声はほんの小さな声だけど、確かにアテナの記憶にある、『コッコロ』に他ならない。

 

 そして何よりも、その歌を紡ぐ声色は――まさしく。

 

「アリシアちゃんっ!」

 

 一見普段通りに振る舞っているが、その実アテナ達親友から見れば酷く焦燥した様子のアリシアの背中に、アテナは鋭く呼びかけた。

 

「こっち!」

 

 振り仰いできょとんとした顔を見せるアリシアに、アテナはそれだけを言って駆けだした。

 

「どうしたんだ、アテナ!」

「アテナ先輩!?」

 

 突然のアテナの行動に、何事かと問いかける晃と目を白黒させるアリス。概ね同じ様子の他の面々に、アテナはややもどかしげに言葉を探し、一番シンプルな結論として吐き出した。

 

「見つけたの、アニーちゃんを!」

 

 

 

 

「……けほっ」

 

 歌いすぎのせいか、喉に絡む痛みに、私ことアニエス・デュマは少しせき込んだ。

 

「素敵な合唱でした。……大丈夫ですか、アニーさん?」

「ちょっと張り切りすぎたかも。でも、大丈夫」

 

 心配そうに私を見上げるアイちゃんにそう言い返して、安心させるべく微笑……もうとして、お互いの顔が見えない暗闇である事を思い出す。代わりに腕の中のアイちゃんの頭を撫でつつ、この場にいるもう一人――と言っていいんだろうか、≪サイレンの悪魔≫へと視線を向けた。

 

 地下通路の暗闇の中でも、不思議とそれだけはっきり見える≪サイレンの悪魔≫。彼女は歌う口を閉ざして、私の様子を伺うように小首を傾げていた。

 

 その様子を、私はどこか見覚えのある仕草だと思った。どこか戸惑うような、自分の行いの確かさに自信の持てないような仕草。

 

 誰だろう。すごく誰かに似ているのに、それが誰なのか思い出せない。

 

「誰かに声、聞こえたかな」

 

 アイちゃんがそう呟いて、私はひとまず思考を脇に寄せた。

 

「きっと聞こえてますよ。だってみんなで歌った歌なんですから」

 

 そう答えつつも私としては、別に外に聞こえてほしいと思って歌った訳じゃなかった。単に、≪サイレンの悪魔≫が歌っているから、それに合わせてみたくなっただけ。外に聞こえるように声を上げるとか、そこまで全然考えが及んでいなかったのが実際の所だ。

 

 ふと、アリスちゃんが以前話してくれた(というか無理矢理聞かせられた)『海の怖い話』を思い出す。海で戦争をしていた時代、もう沈んでいくばかりの軍艦の中で、脱出できなかった兵隊さん達が、ずっと軍歌を歌い続けていたという話。それ以来、潜水艦では夜中、遠くで誰かが歌っているような声が聞こえる事があるのだという。

 

 もしかしたら、その船の中にも≪サイレンの悪魔≫が現れたんだろうか。そして歌声とともに、船乗り達を闇の向こうに連れ去ってしまったんだろうか。

 

 それとも――もしかしたら彼らの所に現れた≪サイレンの悪魔≫もまた、彼らを勇気づけるように歌い続けていたんだろうか。

 

 彼らの命が失われたことを悼んで、ずっと彼らの歌を口ずさみ続けていたんだろうか。

 

 そうだとしたら、なんて寂しい。そうでなかったとしても、≪サイレンの魔女≫はずっと一人で、一緒に歌ってくれるだれかを求めて彷徨い続けているんだとしたら。

 

 だとしたら――なんて不器用なんだろう。誰かの温もりが欲しいのに、触れあう術がわからない。誰かの心に手を伸ばしても、理解される術がわからないから、強引な方法しか採ることができない。他人の心を自分に向けさせようとしても、恐れられ、嫌われる結果しか導けない。そんな不器用な魂。

 

 その時、私の脳裏に電光が走った。

 

 誰かと一緒にいたくても、触れあうのが怖い。でも誰かから離れることもできない。そんな不器用なひとを、私は知っている。

 

「ねえ、貴女は……もしかして」

 

 そう、私が尋ねようとしたその瞬間だった。

 

 私が背中を預ける扉から迸った、どんどんと戸を叩く音が、私の言葉を飲み込んだ。

 

 

 

 どんどんどんどんっ! という強い音が、地下通路に響きわたった。

 

「アニーちゃん、アイちゃん、そこにいるの!?」

 

 それは、今一番聞きたい人の声。一番優しくて、一番心強くて、一番尊敬している人の声。

 

「あ……アリシア……さん?」

 

 私がそう呟くと、扉を叩く音がぱったりと止まり、そして。

 

「見つけたーーーーっ!」

 

 灯里さんの声を先触れに、喝采の声が沸き上がった。

 

「大丈夫なのアニー!?」

「お二人ともでっかい無事ですか!?」

「お前達ひとまず下がるんだ! ウッディー君、何か工具はないか?」

「バールのようなものならあるのだー!」

「おうよ、力仕事ならば俺様に任せろ!」

 

 扉の向こうでにわかに騒ぎ始める、多くの人の気配。そして口々に飛び交う、聞き慣れた大好きな人たちの声。

 

 私はアイちゃんと顔を見合わせた。顔は見えなかったけど、アイちゃんもこちらを見ているのがわかった。

 

 どちらともなく、喉が震えた。

 

「あ――」

「や――」

「「やったぁーーーーーーーっ!!」」

 

 沸き上がってくる眩く輝くような感情に突き動かされて、私たちは抱き合ってその場で飛び跳ねた。

 

 アイちゃんはもちろん、戸惑ったようにその場に立ち尽くす≪サイレンの悪魔≫の……いや。

 

 『シレーヌ』の手を取ってぎゅっと握りしめる私の顔は、きっととびっきりの笑顔を形作っていたことだろう。

 

 

 

 そこからは、時間は瞬く間に過ぎ去っていった。

 

「うおおおおっ! ウッディー、アル、アリシアさんのためだ、気合いを入れろっ」

「ちょっとポニ夫! アル君は頭脳派なんだからそんな力仕事は」

「大丈夫ですよ、地重管理区画はちょっと重力が強いですからね。僕も力仕事には少しは自信が……」

「おわぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「ぷいにゅーっ!?」

「おわぁ、あかつきーん! 力入れすぎなのだー!」

「ああっ! 暁さんに巻き込まれてアリア社長がでっかいピンチです!」

「あらあら、大変……灯里ちゃん、ちょっと手伝ってね」

「はいアリシアさん。アリア社長ー! 暁さーん! 大丈夫ですか、今引き上げますねー!」

 

 ……まあ、こんな調子で、声しか聞こえないなりになにが起きてるのか大体見当のつく有様で、外の方々は扉の戸板を取り外していた。

 

 後から聞いた話では、私たちがいた地下通路は、元々は廃修道院の直通通路だったらしい。

 

 かつてはこの通路から修道院に人が行き来していたのだけど、地盤沈下で浸水の頻度が増した上、それによって石組みが脆くなってきていたために、厳重に封鎖されていたのだという。

 

 私たちが抜き取った内側の閂はもちろん、外側からも戸板を幾重にも打ち付けて封印されていたそうだ。外で暁さん達が大騒ぎしていたのは、その板を引っ剥がそうと悪戦苦闘していたから……というわけらしい。

 

 それもものの十数分で終わり、後は押し開けるだけになった。

 

 私とアイちゃんは内側からドアに体重をかけ、皆さんは外から引っ張る。みしみしと戸が軋むけど、百年以上閉ざされたままの扉は、アクア・アルタであふれた水に押しつけられ、なかなか開いてくれない。

 

 やがてウッディーさんとアリシアさんがエアバイクで、残りの人たちと息を合わせて戸を引っ張ったけど、それでも扉は揺るがない。(余談だけど、アリシアさんがエアバイクの免許を持ってるなんて、その時初めて知った。さすがはアリシアさん、本当に底が知れない)

 

 もしかしてダメかもしれない、と一瞬だけ思った。

 

 だけど、必死に弱気を打ち消した。

 

 大丈夫、絶対大丈夫。

 

 だって、この向こうには、一番頼りになって、一番信じられて、一番大好きな人たちで一杯なんだから。

 

 諦めて良い、諦められる理由なんて、どこにもあるはずがなかった。

 

 そうして。気力を奮い立たせたその時だった。

 

「あ――」

 

 先触れのように、アイちゃんが小さく呟いた。

 

 ふわり、と風が流れた。

 

 後から聞いた、建築をやっているマンホームから来た男の人(私のお客様だったのにまた名前をど忘れしちゃってる。情けない……)が言うには、アクア・アルタのピークが過ぎたことで、空気の流れが変わったんだろう、ということだけど。

 

 その時の私に、そんなことがわかるはずもなくて。

 

 その時の私は、まるで魔法のように、風がドアを殴りつけるその力に合わせて、全身全霊の力を込めることしかできなくて。

 

 そして、突然ふっと体が軽くなったかと思うと。

 

 私の瞳の中は、青白く輝くルナツーと、その先に輝く宵闇の明星で一杯に満たされた。

 

 

「アニーちゃん! アイちゃん!」

 

「よく無事で……っ!」

 

「ぷいにゅーっ!」

 

 

 そうして、私たちは。

 

 一番帰りたい、暖かな場所に、帰ってきた。

 

 一番大好きな人たちの、とびっきり優しくて、とびっきり素敵な輪の中へ。

 



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Sola 14 未来

 優しく、ぎゅっと包み込む暖かさを、振り払うように。

 

 ふわり、と『私』の心は、アニエス・デュマから遊離した。

 

「灯里さん、灯里さん、灯里さん……っ!!」

「うん、アイちゃん、頑張ったね……!」

 

 夜闇の中に、ふわりふわりと浮かぶ私の目の前には、灯里さんに抱きついて泣きじゃくるアイちゃんの姿が見えているし。

 

「アリシアさん……ごめんなさい」

「良いのよ、二人とも無事だったから……本当に、良かった」

 

 背後には、アリシアさんに抱き留められ、そっと目元の涙を拭って貰っているアニエスの姿がある。

 

「まったく……まあ、後で良いか」

 

 何か言いたげに柳眉を吊り上げる晃さんだけど、アテナさんが微笑んでぽんと背中を叩けば、困ったように髪をいじって安堵混じりのため息を吐き出す。

 

「ふん、人騒がせなボクッ娘にアイアイめ!」

「といいつつ、真っ先に飛び出して私の家に乗り込んできたのはあかつきんなのだ」

「僕のところに電話してきたのも暁くんですしね。まさに縁の下の力持ちです」

 

 身体中から滴る水をタオルで拭いながら、腕を組んでふんっとふんぞり返る暁さんは、すぐさまウッディーさんやアルさんに突っ込まれて狼狽えている。

 

「もっとも、縁の下というには浮島暮らしですけどね」

「アル君……オヤジギャグ禁止」

「ええっ!」

 

 という顛末もいつも通り。

 

「どうやらうまくいったみたいだね。良かった」

 

 と、皆の輪から少し離れて、くだんのお客である青年も微笑んでいる。そんな彼の足下に、見覚えのない小さな白い猫が身を寄せている。その子の輪郭はあやふやで、多分『彼女』はこの場では私にしか見えていないだろう。彼もまた、アクアとネオ・ヴェネツィア、そしてそこに暮らすもの達に見守られている一人だということだろうか。

 

 ……見守るものと言えば。

 

 私は周囲を見回して、その人たちの姿を探した。

 

 その姿は、すぐに見つかった。夜の闇に紛れるように、アニエス達を見下ろせる建物の屋根の上に、彼らは腰掛けていた。

 

 一人は、さっきまで私と……アニエスと一緒にいた、黒いベールで顔を隠した喪服の婦人、≪サイレンの悪魔≫。

 

 そしてもう一人は、毛むくじゃらの、恰幅の良い男性を男性をさらに二周りも大きくしたような、巨大な直立する猫。すなわち……ネオ・ヴェネツィアの守護者、猫妖精。

 

 アニエスには見えていなかったようだけど、私には見えていた。彼はずっと、アニエスを守り、助け、導いていたんだ。

 

 ≪サイレンの悪魔≫の誘いをはねのけた時も。『コッコロ』の歌を探し求めた時も。もしかしたら、他の様々な小さな出来事でも、彼はアニエスを助けていたんじゃないだろうか。

 

 神は自ら助ける者を助ける。猫妖精もまた然り。彼らが行うのは、最後の一押しの手助けだけ。

 

 さっきもそうだった。アニエスとアイちゃんが扉を必死に押し開けようとしていたその瞬間、私は見たんだ。

 

 音もなく現れた猫妖精が、悪戯っぽく私とアイちゃんにウインクしたかと思うと、閉ざされた扉にちょんと指先で(肉球で?)触れるのを。

 

 アイちゃんはそんな猫妖精に気づいていたようだったけど、その瞬間に吹き込んできた風に言葉を押し流されてしまった。

 

 たまたま風の流れが変わる瞬間に猫妖精が現れたのかもしれないし、猫妖精が風を呼び寄せたのかもしれない。きっと奇跡っていうものは、そうやって一見区別できないような隙間を縫うようにして、この世界に現れるものなんだろう。

 

 灯里さんも、アニエスも、アリシアさんも。それを理解しているからこそ、ささやかな奇跡を感じ取り、それを喜ぶことができる。だからこそ……奇跡の担い手達は、彼女たちの前に姿を見せ、素敵な奇跡に不思議な彩りを付け加えていくんだろう。

 

 ――そして、そんな奇跡の欠片である私も、そろそろ時間のようだった。

 

 不思議と、限界であることがわかった。私という存在が、あちら側で目を覚ますからではなく、この世界とのつながりを失って消え去ろうとしているのが、何故かはっきりと感じられた。

 

 私は空を見上げた。夜の訪れを先触れる宵闇の明星が、白く煌めいていた。

 

 帰らなくてはいけない。私が私であるあの場所に。

 

 私が私として立ち上がり、生きていかなければいけない場所に。

 

 そう思うと、魂があの星に吸い寄せられる力が強まった、そんな気がした。

 

 ――もう、時間がない。私は眼下の皆を――私は皆をよく知っているけれど、皆は私を知らない――だけどたまらなく愛おしい人達を順繰りに見つめた。

 

 藍華さん……姉のように私の手を引き、励ましてくれた人。

 

 晃さん……時に厳しく、時に優しく、私に強さをくれた人。

 

 アリスちゃん……同じ高さから、私に手を取り合う幸せをくれた人。

 

 アテナさん……歌に込める祈りと、誰かを思いやる心をくれた人。

 

 暁さん……無骨な中に、飾らない優しさがあることを教えてくれた人。

 

 アルさん……静かな優しさ、物事を思い測る叡智をくれた人。

 

 ウッディーさん……空を舞う喜びと、いつも朗らかな心の大きさで接してくれた人。

 

 アリシアさん……大きく深い愛で私たちを包んで、あらゆるものを楽しむ術を教えてくれた人。

 

 アイちゃん……慈しみ守ることの喜びを教えてくれた人。

 

 灯里さん……全てを愛して、その輝きを両手一杯に抱きしめて生きる幸せを教えてくれた人。

 

 お客様としてアクアを訪れた、地球生まれの彼……私はその名前を心に刻み込んだ。いつかマンホームで出会えたとき、この優しい人々の思い出を交わせるように。

 

 誰もが、素敵な宝石のような人達だった。

 

 そして……。

 

 最後に、一番大切な人に目を向けると、私と彼女の視線が交錯した。

 

 見えるはずがないのに。いないものを感じることはできないのに。

 

「……そこに、いるんですか?」

 

 不思議そうに視線を追いかけるアリシアさんを余所に、アニエスが私を見上げていた。

 

「……誰かいるの? アニーちゃん」

「はい。見えませんけど、感じるんです。そこに大事な人がいるって」

 

 アリシアさんの問いに、アニエスははっきりとそう答えた。そして私を見上げて、

 

「ずっと、私と一緒にいてくれた人。凄く私によく似てて、私と一緒に喜んで、私と一緒に悲しんで、私に勇気を教えてくれた人が、いるんです」

 

 そこに私がいるという事に揺るぎない確信を握りしめて。そう、言ってくれた。

 

 ――心が、どくんと跳ね上がった。

 

 ――裸の心を、射ち抜かれた気がした。

 

 それは、私がアニエスに感じていたこと。

 

 私がアニエスに、近親感でもない、友情でもない、例えようもなく抱いていた感情、そのもの。

 

 同じ事を、感じてくれていた。

 

 こんな私を感じて、そんな風に思ってくれていた。

 

 じわりと、熱いものがこみ上げるのを感じた。

 

 胸が熱くなって、目頭が熱くなって、全身全霊が踊り出しそうに歓喜しているのがわかった。

 

 ここに私の体はなかったけれど。

 

 ここに本当の私の体があったならば、私は迷わず、アニエスに抱きついていただろう。

 

 そして、思いっきり抱きしめて、感謝の言葉を繰り返しただろう。

 

 だけど、もう時間がない。

 

 私が、私の両手からこぼれ落ちていく。

 

 熱さも涙も、全部引き連れて、私がここから消えようとしている。

 

 アニエスが、手を私に差し伸べた。

 

 私も、必死に消えかけた手を伸ばす。

 

 届け。届いて。私の一番大事な人のところまで。

 

 だけど、私にはアニエスに触れるための僅かな輪郭すら残されていなくて。

 

 泡になって消える私には、彼女に触れるための小さな現実も残されていなくて。

 

 だけど。

 

「……いつか、またっ! 会いに来てくださいねっ!」

 

 アニエスが、そう囁いて。

 

 目尻に、小さく光るものを宿して。

 

 精一杯の笑顔を閃かせた。

 

 

 その瞬間、私の掌は。

 

 確かに、間違いなく。

 

 アニエスのそれと絡み合って。

 

 私は、確かに。

 

 絶対に間違いなく。

 

 そこに感じたアニエスの暖かさを、全身全霊に深く刻み込んだ。

 

 

 そして、それが。

 

 私のアクアでの、最後の記憶となった。

 

 

 

 目が覚めると、いつもの病室だった。

 

 窓からは、明るい日差しが差し込んで、病室に逆に暗く影を落としている。

 

 いつもと違うのは、父さんと母さんが、二人揃って私を見下ろしていたこと。

 

 そして、見覚えのないはずなのに、見覚えのある初老の男性もまた、私を見下ろしていたということだった。

 

「……私?」

 

 ぺたりと自分の頬に触れる私に、両親が一斉に深く息を吐き出した。

 

「……良かった」

「……もう、心配したのよ?」 

 

 ほっと息を吐き出し、私の額に触れる母さん。どこか所在なさげに頭をかく父さん。

 

 時計を見る。今は昼過ぎくらい。父さんも母さんも、まだ仕事で忙しいはずの時間帯だ。

 

「どうして……?」

「お前が、病院を抜け出そうとして倒れたって聞いたからだよ」

 

 父さんが少し憮然として言う。なるほど、端末の前で倒れた私は、一見そういう風に見えたかもしれない。

 

「心配したのよ?」

「ごめんなさい」

 

 両親に素直に頭を下げる。すると両親は二人揃って毒気を抜かれたような顔をして、「あ、うん、わかればいいんだ」「気をつけなさい」と曖昧に頷いた。

 

 ……そんなにも、素直な私というのは腑に落ちない存在なんだろうか。自覚はなかったけれど、改めてそういう対応をされると、かつての自分の行いに恥じ入るばかりだ。

 

「……オホン、そろそろ宜しいかな?」

 

 咳払い一つで家族の会話に割り込んだのは、見覚えのある初老の紳士だった。何か、凄く見覚えがある気がするのだけど、私の人生において、この人と出会った記憶は見あたらない。

 

「あなたは……?」

「アレクサンドロと申します」

 

 その名前を聞いた瞬間、私の頭に閃光が駆け抜けた。

 

 見覚えがあるはずだ。彼の姿と名前は、アニエスがアキュラ・シンドロームを発病し、マンホームで治療を受けることになった世界で、アニエスの主治医をしていたお医者様に相違ない。

 

 でも、どうして。彼はもっと遠くの土地のお医者様で、私とは縁もゆかりもなかったはず。

 

「アレクサンドロさんは、この間アキュラ・シンドロームの治療法を確立した偉いお医者様なのよ」

 

 と、母さんが補うけれど、それは私は知っている。

 

 ……いや、待て。そうじゃない。

 

 アレクサンドロ先生がアキュラ・シンドロームの治療法を見つけだすのは、アニエスがあれを発症した世界だけのことのはず。それ以外の世界では、アンジェリカさんがアキュラ・シンドロームと変異元の類似性について指摘することもなく、その治療法が足がかりを得る事もなかったはずなんだ。

 

 だけど、そんな事実を私が知っているはずもない。知っているはずのないことだから問いただす事もできず、私は疑問を飲み込んだ。

 

 ただ、一番シンプルに私にとって重要な事実だけを問いかけた。

 

「……私、治るんですか?」

 

 私はアニエスと同じアキュラ・シンドローム――不治の眠り病にかかっている。

 

 アキュラ・シンドロームは発症の条件もまだまだ不明で、だからこそ治療法もなかなか確立しなかった。そもそも原産であるアクアでは既に根絶されたと思われていた訳だし、アニエスも感染はしていたものの、発症したのはごく一部の時間線の上だけだ。

 

 一方で、私は完全な発症者だった。しかもアニエスと違い、私はさらに幾つかの合併症に蝕まれており、そのために何年もの時間を病室に閉じこめられたまま過ごしている。

 

 アニエスのアキュラ・シンドロームが完治する様を体験して、私は心底羨ましいと思った。そして同時に無理だとも思った。治療法が見つかったのは羨ましい。でも、私には、あの苦しみには耐えられない。致死性の病気に自分からかかるような勇気も、その治療薬の副作用の苦しみに耐える力も、私にはなかったから。

 

 だから、恐れた。例え治療法が見つかったとしても、アニエスと同じ道では私には耐えられない。ぬか喜びになるかもしれない。それを恐れた。

 

「治療法が見つかったとは言っても、貴方はいくつか別の病気を併発しているからね。強い薬を使うことができないから、ゆっくり時間をかけて治していかなければならない。その長い時間、病気と戦い続ける体力と気力が必要なんだ」

 

 そんな私の恐怖を感じ取ったんだろうか。アレクサンドロ先生は、強面にできる限りの微笑みを映し出したようだった。しかし、その隙間から滲み出る暗い影が、真実は彼が言うより深刻な苦しみを伴うものであると想像できたし、それは私のあるべきでない記憶とを裏打ちするものでもあった。

 

「……途中で死んじゃうかもしれないくらい、苦しいんじゃないですか?」

 

 そう私に言われて、アレクサンドロ先生は面食らったように目を見開いた。不安げに顔を見合わせる両親にちらりと視線を向けて、こほんと咳払いをする。

 

「もし、一番強い薬を遠慮なく使ったなら、冗談ではなくそうなるね。でも、それは土台貴方の体力ではとても使えないし、医者としてあんな使い方は認める訳にはいかない。……他に手段がない状態でない限りはね」

 

 苦笑と憤激、他にもいろいろな感情がないまぜになったような、独白めいた呟き。それは、記憶にある誰かの姿を思い浮かべてのことだろうか。どうしてだろう。その彼が思い浮かべているであろう姿は、私の中の『あるべきでない記憶』にあるアニエスの姿と重なっている気がする。

 

 この人は、私の記憶の中にある通りに、アニエスを治療したお医者様なんだろうか。

 

「貴方に使える薬は、それをずっと弱くしたものだ。命に関わる程ではないかわりに、治るのに本当に時間がかかる。それはつまり、薬の副作用で苦しむ時間が長いという事でもある」

 

 私の疑問と葛藤を気づいてか気づかずか、先生は私に諭すように問いかけた。誇張も何もなく、私が選びとるべき未来の姿を指し示してくれている。

 

 だけど。

 

「今のまま、病気とつきあい続ける道もある。貴方はどちらの道を選んでもいいんだ」

 

 アレクサンドロ先生が指し示してくれる選択肢に、私は黙って頭を振った。

 

 以前の私なら、恐怖に縮こまって変わらない未来を選んだかもしれない。

 

 以前の私なら、苦しさに負けて、楽な未来を選んでしまっていたかもしれない。

 

 だけど、今は。今の私は。

 

「……やります」

 

 真っ向からアレクサンドロ先生の目を見返した。榛色の瞳に、私の姿が映っているのがわかる。

 

 弱々しい自分。すぐに負けそうになる自分。頼りなくて、だらしなくて。私自身が許せない自分の姿がそこにあった。

 

 だけど、それでも。

 

「大丈夫です。頑張れます。だって」

 

 負けられないから。私が心から望む未来にたどり着くためには。

 

「会いたい人が……会いたい人達がいるから」

 

 アニエス達に会いたい、彼女たちそのものにはなれなくても、彼女たちに胸を張って会いに行ける自分になりたい、そう思うから。

 

 だから、立ち向かう。そんな決意を精一杯に心で燃え上がらせながら見返す私に、アレクサンドロ先生は少し戸惑ったような顔をしてみせたけれど、ふっとその目元を緩めた。

 

 そして幾度かの瞬きの間に、その瞳に映る色が、どことなく懐かしそうな色を帯びて感じられたのは、気のせいだったろうか。

 

 ――いや、気のせいのはずがない。だって。

 

 アレクサンドロ先生は、キョトンとする私を眺めて、どこか懐かしそうに呟いたのだから。

 

「不思議なものだね。見た感じでは貴方に見覚えはなかったのに、いざ話してみると、どこかで会ったことがあるような気がするのです」

 

 遥か遠く、記憶の底より更に深い場所にある思い出。あるはずのない記憶へと視線を遠くするアレクサンドロ先生に、私は頷いた。

 

「……私もです」

 

 灯里さんが、アリシアさんが、そしてアニエスがしていたものには届かなくても。

 

 私にできる、精一杯で輝く笑顔で。

 

 

 

 

 幾つかの季節が過ぎた。

 

 

 水無灯里がプリマ・ウンディーネとなり、アリシアがARIAカンパニーを去って、更に数ヶ月が過ぎた頃。

 

 ある新月の夜、仕事を終えてふとテラスに目をやった灯里は、そこに一つの人影があることに気がついた。

 

「アニーちゃん……?」

 

 部屋の明かりに照らされるだけの姿でも、灯里が彼女を見誤るはずがない。そこにいたのは、アニエスだった。今やたった二人(と一匹)のARIAカンパニー、その大事な一人。

 

 いつの間にか、ARIAカンパニーが象徴するその青と白を、誰よりも素直に現すようになっていた、灯里の最初の後輩で、最初の弟子で、大事な友達。

 

 そのアニエスが、テラスに身を預けていた。水平線に視線を凝らしていた。

 

 そして、その目尻からは……透明な涙がぽろぽろと、こぼれ落ちていた。

 

「どうしたの、アニーちゃん?」

「……灯里さん」

 

 灯里の声に、アニエスははっと目を覚ましたかのように息を呑み、目尻の涙を指先で拭った。

 

 どうしたのだろう。何か悲しいことでもあったのだろうか。心配げに様子を伺う灯里に、答えるアニエスの声は嗚咽混じりだった。

 

「シレーヌが……さよなら、だって」

 

 途切れ途切れに言う。

 

 その紡がれる中に見つかる名前、シレーヌ。灯里は結局ついぞ目にしたことのない、アニエスの友達の火星猫だ。

 

 本当に彼女が存在していたのかどうか。アイがシレーヌと一緒にいたことがあるというし、存在したこと自体は間違いないだろう。

 

 もっとも、そんな証拠がなかったとしても、灯里がアニエスの信じるシレーヌの存在を疑う理由はどこにも存在しなかったが。

 

 灯里がかつて出会った様々な不思議なこと。今は見えなくなってしまったけれど、不思議の世界の住人達は確かに存在した。そこには一片の疑いも存在しない。

 

 だから、例え灯里に見ることができなくとも、アニエスが出会ったと信じているものは、きっと存在しているのだ。

 

 そう思うと、ふと思い出す。偉大なる≪白き妖精≫アリシアもまた、灯里が目にした不思議なものを、何一つ疑うことなく認めてくれた。藍華あたりに言えば三秒で「うん、ありえないからっ」などと一刀で切り捨てられるような話でも、アリシアはにこやかに頷いてくれた。そんなアリシアの姿勢が、灯里の感受性を損なうことないままに、プリマ・ウンディーネに育て上げたのだ。

 

 灯里が猫妖精に別れを告げられた時、アリシアはどうしたのだったか。そっと抱きしめ、言葉で取り繕うことなく共感してくれたのではなかったか。

 

 だから、灯里もそうした。そっとアニエスの背後に寄り添い、手すりに置かれたアニエスの手に自分の掌を重ねる。

 

「……灯里さん」

「うん」

 

 深く息を吐き出して、アニエスは少しだけ灯里に身を寄せ返した。さりげなく預けられる重さが、ほんのりと伝わる体温が、灯里の胸にも嬉しさの熱を灯す。さながらそれが、アニエスと灯里の心の繋がりを示すようで。

 

「灯里さん、聞いてくれますか? シレーヌのこと」

 

 もちろん、灯里に拒否する理由はなかった。アニエスは赤く腫らした目元を笑みに歪めて、訥々と語り始めた。

 

 彼女が胸に抱きしめた、シレーヌという友達と過ごした日々の思い出を。まるで一つ一つを取り出して、アルバムに綺麗に並べていくように。

 

 彼女が手にした沢山の思い出を、決して忘れないよう心に刻み直すように。

 

 それは、別れの儀式だった。二度と会えないとわかるから、シレーヌと触れあい、別れ、さらに強く健やかなアニエス・デュマに変わるための。

 

「私は……シレーヌに出会えて、本当に良かったと思います」

 

 そして、そう言って物語を結んだアニエスの笑顔は、まるで。

 

 雨上がりの夜空そのもののように晴れやかで、透き通っていて。

 

(あ――――)

 

 その、背後で満天を覆うもの、そのものを映したような笑顔に、灯里は心臓が一つ跳ねるのを感じた。

 

(アリシアさんと、おんなじ)

 

 アリシアだけではない。凛々なる晃、澄み渡るような謡のアテナ、薔薇すらも従えるように華やかな藍華、オレンジに祝福されたアリス。最高に素敵なもの、素敵な人々を目の当たりにする度に、一つ跳ね上がる心臓が、また一つ踊った。

 

 つまり、それは。

 

 アニエスが、灯里が大切に思い、尊敬する人々と肩を並べるほどに輝き始めた、その証に他ならないのではないか。

 

 アリシアは白だった。灯里は蒼だった。そして、アニエスが象徴するものはその中間、蒼と白が入り交じった、高い高い空。

 

 空――"sola"。イタリア語では、孤独を意味する言葉。空が孤独――面白い一致だと思う。

 

 アニエスは、孤独だろうか? そうだったかもしれない。己の憧れのために飛び出して、行き着いた先に憧れの人の姿はなく、孤独を噛みしめ、前に進んできた。

 

 そして歩む過程で、アニエスの周囲には沢山の人々が集まった。

 

 そう、"sola"は孤独でも、"空"は孤独ではない。"空"には多くの友がいる。昼には雲と太陽が、夜には月と無数の星々。

 

 そう、空は孤独ではない――孤独ではないことに気づいたとき、"sola"は"空"になる。

 

 暁の赤も、真昼の蒼も、黄昏のオレンジも、宵闇の黒すらも。すべてを内包し、色を変えていくイル・チェーロ(Il Cielo)。

 

 いつの間にか、アニエスはそんな存在になっていたのではないか。

 

(ああ、そうか――)

 

 気づいてみれば、色々な靄が……悩みや迷い、恐れなどといった心の澱が、ぱぁっと晴れていくような気がした。

 

 それは、かつてアリシアが語ったこと。

 

 何かが動き出すときは、まるで示し合わせていたかのように、一斉に動き出すのだと。

 

 ならば、立ち止まってはいられない。

 

 新しい未来が、舞い降りるタイミングを見計らっていたのだとしたら。

 

 それを受け止め、更に素敵に変わっていくのが、”いま”を生きる自分たちの役目だから。

 

 後ろ手にした、見覚えのある名前と顔が刻み込まれた、ウンディーネ新人募集応募願書を持つ指先に、ほんのわずかに力を込めつつ。

 

「アニーちゃん」

 

 涙を拭わぬまま、水平線を見つめるアニエスに、灯里は呼びかけたのだ。

 

 

「明日――プリマ昇格試験、しようか」

 



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終章 あるいは序章

「ようこそ、ネオ・ヴェネツィアへ」

 

 そんな凛とした、だけど柔らかな声に、私の意識は夢見心地から引き戻された。

 

 瞼に絡みついたままの微睡みを擦りながら周りを見回すと、客室正面のモニタに観光協会のCMが流れているのが見えた。

 

 画面の真ん中で、凛々しくも優しい笑顔を見せているのは、今現在業界最高と噂されるウンディーネ、≪真紅の薔薇(クリムゾンローズ)≫晃・E・フェラーリさん。数年前に、映画『水の妖精』を撮影するにあたって撮られたというCMだろう。私もマンホームで何度か見たことがある。

 

「姫屋はまだこのCM使ってるんだな」

「いいじゃないの。≪真紅の薔薇(クリムゾンローズ)≫と後の≪薔薇の女王(ローズクイーン)≫が競演なんて、そうそうないんだから」

 

 近くの席で、ビジネスマンらしき二人組みがそんな感想を交わすのが漏れ聞こえた。

 

 ≪薔薇の女王(ローズクイーン)≫。今は姫屋の支店長を務める藍華・S・グランチェスタさんのことだ。支店長業務のためにウンディーネとしての活躍はやや地味ながら、姫屋の支店を独創的なアイデアで盛り立て、その結果今や姫屋の業績は、オレンジぷらねっとと最大手の座を僅差で競うところまで盛り返しているという。

 

「俺は≪薔薇の女王(ローズクイーン)≫が出るCMなら、≪遙かなる蒼(アクアマリン)》と≪黄昏の姫君(オレンジプリンセス)≫と一緒の奴がいいなあ。上映しないのか?」

「それならさっき映してたぞ。お前見てなかったのか?」

「何ぃ? 何で起こしてくれなかった! 折角アリスさんの姿を大型スクリーンで見られるチャンスを!」

「知るか!」

 

 なんてことだ。≪遙かなる蒼(アクアマリン)≫水無灯里さんと≪黄昏の姫君(オレンジプリンセス)≫アリス・キャロルさんも一緒のCMを見逃すなんて。騒いでる男性は五月蠅いと思うけど、正直気持ちだけなら私も同感。騒ぐならもっと早くしてくれたなら、折角のCMを見逃すこともなかったのに。

 

「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので、どうかお静かにお願いします」

「そうは言うけどねえ、悔しいじゃないの」

 

 星間連絡船の客室乗務員の女性がそうたしなめるけど、弱腰なせいか、男性達を大人しくさせるには至らない。逆に勢いづいたのか、男性は≪黄昏の姫君(オレンジプリンセス)≫の魅力を滔々と語り始める始末。彼女は確かに今やウンディーネの中でも一番素敵な女性の一人だと思うけど、さすがにここまで熱心に語られるとちょっと気色――ああ、えっと、とにかく周りに迷惑だと思う。実際、隣の席の人はもちろん、相方の男性ですら迷惑そうな顔色を隠そうともしていない。

 

 迷惑です――と私が声をあげようとした、その時だった。

 

「お客様。マルコ・ポーロ宇宙港には水先案内人広告用の大型モニターが設置されているのはご存じですか?」

 

 金髪の添乗員さんが割り込んで、そう男性達に尋ねた。

 

「え? いや、知らないけど」

「なるほど。それなら宇宙港に降りたら、三番ゲート広場で一際大きなモニターを探してみてください。ゴンドラ協会が企画して設置したもので、各種CMはもちろん、そこだけでしか見られないウンディーネのプロモーション映像も上映しているんですよ」

「へ、へえ……」

「しかも、そのプロモーションには、企画者であるとあるゴンドラ協会の役員が映っているんですよ。少しだけですけど、ウンディーネファンなら一目でわかるはずです」

「そ、それは……もしかして」

「さて、真相はご自分の目で……というわけで、楽しみは宇宙港まで取っておいて、今はお静かにお願いできませんか? 周りの皆様にご迷惑になってはいけませんし」

 

 餌で釣り上げてから、ぴしゃりと言い聞かせる。鮮やかな手並みだった。今更集まっている視線に気づいて顔を赤くする男性を後に、頭を下げる客室乗務員さんに微笑んで見せてから、添乗員さんは自分の席に……私の隣の席に戻ってきた。

 

 私の視線に気づいて、金髪の添乗員さんはぺこりと頭を下げた。

 

「ごめんなさい、騒がしくしてしまって」

「アンジェリカさんは何も悪くありませんよ」

 

 お見事でした、と素直な感想を述べると、金髪の添乗員さん……アンジェリカ・フェルナンデスさんは、少し恥ずかしそうに、どことなく儚げで、でも芯の強そうな笑みを閃かせた。

 

「それにしても、鮮やかでしたね。あんな素早くアイデアを出せるなんて、≪ネオ・ヴェネツィアの生き字引≫は健在なんですね」

「あら、誰から聞きましたか? その呼び名はマンホームでは誰にも知られてないと思っていたのに」

 

 私の何気なく口にした異名に、アンジェリカさんの目が丸くなった。しまった、ついついまた『あるはずのない記憶』を口にしてしまったらしい。

 

「実は、昔から水無灯里さんのメールマガジンのファンで。以前お名前をそこで拝見した事があったんです。それで……」

「ああ、なるほど。有名ですものね、灯里さんのあれは」

 

 私の必死の言い訳を、アンジェリカさんは少し困ったような色を覗かせつつも、納得してくれたようだった。そもそも、私が灯里さんのメールマガジンでアンジェリカさんの異名を見たと言うのは嘘じゃないし、ひとまずは誤魔化せたことを良しとする。

 

 嘘なのは、それでアンジェリカさんを知ったと言うあたりだ。私はそれ以前から、アンジェリカさんの事を知っていた。

 

 あの、例えようもなく暖かで、宝石よりも輝いている『あるはずのない記憶』の奥底で。

 

 

 

 もう、何年になるだろう。アクアの夢を見なくなってから。

 

 私がアクアの夢を見ていたのは、結果としては、アキュラ・シンドロームのせいだった……と私は考えている。

 

 なぜなら、私がアキュラ・シンドロームの本格的な治療を受け始めてから、私は二度とアクアの夢を見ることがなくなってしまったんだから。

 

 あの夢を見なくなってから、私のアクアについての記憶は急速に薄れていった。最初は、縁が薄かった人の名前。何度も巡ったはずの町並み。大切だった人の名前。一つ一つが、波に洗い流されていくかのように、私の両手からこぼれ落ちていった。

 

 これはいけない、と思ったのは、アクアの夢の中で『私』だった女の子の名前が思い出せなくなった時だった。本来あるべきでない記憶だからなのかもしれないけれど、一番大事だったはずの彼女の名前すら思い出せなくなるなんて。

 

 恐ろしくなった私は、アクアについての本を読み直して、覚えている限りの事をノートに書き記していくことにした。そのお陰でか、灯里さんや藍華さん、そしてアリスちゃんなどの、今も活躍していて名前を目にすることができる人たちの記憶は失われることはなかった。

 

 だけど、一度失ってしまった『彼女』の名前だけは、どうしても思い出す事ができなかった。

 

 だから、私は心に決めた。必ずいつか、アクアに行くと。ネオ・ヴェネツィアの、あの素敵なウンディーネ達と出会うために。

 

 そして、私は死に物狂いでリハビリをした。一日過ぎれば、思い出が一つ消えていく……そんな気がしたから。思い出せないだけで、実は大切な思い出を失ってしまっているんじゃないか。そんな恐怖が私を突き動かしていた。

 

 リハビリの傍ら旅費も蓄えて、ようやくアレクサンドロ先生からOKが出たのが、つい先日のこと。それはつまり、私がアキュラ・シンドロームを完全に克服したと言うことを意味していた。

 

 

 

 アンジェリカさんとの再会……いや、出会いはほんの偶然だった。

 

 あまり裕福とは言えない私が星間旅行するには、できる限り安く仕上げないといけない。そこでネットを調べた私は、少人数規模でありながら割安なツアーを見つけた。

 

 オフシーズンながらオフシーズンなりの見せどころをよく見極めたツアー内容に、私は心惹かれた。お財布事情にも合致していたし、何よりこれはネオ・ヴェネツィアを本当によく理解している人が企画している――そう感じた私は迷わずそのツアーに申し込んだ。

 

 そして当日、担当のツアーコンダクターさんと顔合わせをするに至り、私の胸に一気に記憶が呼び起こされていった。

 

 『彼女』が心から敬愛していた元ウンディーネ、金色の髪のアンジェリカ・フェルナンデスさん。彼女に微笑みと共に会釈された瞬間、彼女についての記憶が一気に浮かび上がって来たんだ。

 

 実のところ、私のアンジェリカさんについての知識はそう豊かなものではなかった。私が『彼女』の夢を見た時、アンジェリカさんは既にウンディーネを引退していたから。アンジェリカさんが『彼女』の心の支えとなり、それが故に『彼女』の心を曇らせることになった――そのあたりの顛末は漠然と覚えていたけれど、いざ顔を合わせるまで、細かいところはまでは全く思い出せなかったんだ。

 

 だけど、今は違う。『彼女』がアンジェリカさんに出会って、どんなに憧れていたか、どれほど心の支えにしていたか、その感情がはっきりと思い起こせる。

 

 そう、私が『彼女』に感じていた憧れそのもののように。

 

 そして、同時に私は勇気づけられてもいた。だって、『彼女』が憧れたアンジェリカさんが実在するなら、『彼女』が実在する可能性もぐっと跳ね上がる。『彼女』は存在しないんじゃないか、私の夢が作り出した虚像だったんじゃないか。あの夢以来、ずっと私の心に棘を突き立てていた不安が、軽くなっていく気がする。

 

 そんな浮き立つような心にを持て余しながら、私は星間連絡船のタラップを踏んだ。

 

 私にとって生まれて初めての一人での旅行、しかも星間旅行の第一歩だった。

 

 

 

「減速が完了致しました。間もなく、本船はアクアの衛星軌道から降下を開始します。船体が揺れますので、シートベルトの着用をお願い致します」

 

 そんな客室乗務員さんのアナウンスと同時に、船体ががたんと震えた。

 

 ゆらり、と前につんのめるような感覚が駆け抜けたと思うと、星間連絡船の壁面が色を失う。

 

 透過した壁の向こうで、星が不思議なダンスを踊る様が映し出されている。

 

 そして、船が進む先に映し出される、青の惑星を目にして、私は息を呑んだ。

 

 ついに、来た。

 

 ようやく、やって来たんだ。

 

「ようこそ、水の惑星アクアへ」

 

 目を輝かせる私に、アンジェリカさんがやや大仰なポーズ付きでそう微笑んだ。

 

 

 

 星間連絡船は、無数の海鳥たちに出迎えられて、ネオ・ヴェネツィアのサン・マルコ宇宙港に着水した。

 

 さっきのうるさかった二人を含む多くの人は、途中のホールにでーんと据えられた立体モニターに目を奪われているようだったけれど、私はそれを一瞥しただけで通りすぎ、早速アクアの日差しの中に飛び込んだ。

 

 目が眩むような光。ネオ・アドリア海の鮮烈な青と白。灰色を見慣れた私の網膜に、容赦なく流れ込んでくる。

 

 これが『彼女たち』が見ていた世界。

 

 これが、本当の水の惑星、アクア。

 

 このネオ・アドリアの海に浮かぶネオ・ヴェネツィアに、私はついにやってきた。

 

 あの夢を確かめるために。

 

 私を立ち上がらせた、あの夢の在処を捜すために。

 

 

 

 予定では、市街観光にはウンディーネ業界の老舗である、姫屋のゴンドラを借りることになっていた。

 

 姫屋のウンディーネとはもう話がついているらしく、ツアーの他のお客達は、≪真紅の薔薇≫の二つ名を持つ、現在のネオ・ヴェネツィア最高のウンディーネに観光案内を任せる予定らしい。

 

 ……うん。何故、他のお客は、と言うのか。それは実に簡単な理由。

 

「ARIAカンパニーは、三十年ほど前に、伝説のウンディーネ≪グランドマザー≫によって創立された会社なんですよ」

 

 水上バスに揺られながら、私はアンジェリカさんの説明を意識の半分くらいで聞いていた。

 

 姫屋ではなく、ARIAカンパニーのウンディーネにお願いしたい。そういう私の我が儘に、アンジェリカさんは少し困った笑顔を見せたものの、最後には承諾してくれた。

 

「かつて、≪白き妖精≫アリシア・フローレンスが所属していた頃に比べると、業界への存在感はちょっと薄れているのが実状ですね。でも、少人数主義である甲斐もあってか、お客様の満足度の平均値は今でも飛び抜けて高いんですよ」

 

 そう友達を自慢するかのような微笑みを見せるアンジェリカさんに、私は『彼女』の事を尋ねてみてはどうかと思った。アンジェリカさんならば、『彼女』の事を知っている可能性が高い。でも、どう聞けばいいんだろう。名前も知らない……思い出せない人の事を。

 

「あ、ここで降りないと。行きましょう、お客様」

「は、はいっ」

 

 迷っている間に、水上バスは停留場に到着してしまった。先に歩き出すアンジェリカさんに置いて行かれぬよう、私は慌てて荷物を片手に座席を立ち上がる。

 

「それにしても、ほかのツアーの人を放っておいて良いんですか?」

 

 停留所から海際の小路を歩く途中、私は気になっていた事を尋ねた。アンジェリカさんの本来の予定では、お客さんを引き連れて、姫屋の≪真紅の薔薇(クリムゾンローズ)≫晃・E・フェラーリさんと一緒に街を周遊しているはずだったのではないか。

 

 私の問いに、アンジェリカさんはちょっと悪戯っぽく微笑んだ。

 

「街中では、お客様をもてなすのはウンディーネの仕事ですから、私の出番はないんですよ。それに……」

「それに?」

「それに、元々私も友達のところに顔出ししようと思っていましたからね」

 

 友達。それは今のARIAカンパニーを代表するウンディーネ、水無灯里さんの事だろうか。灯里さんのメールマガジンにアンジェリカさんの名前が出てきたことから考えても、灯里さんとアンジェリカさんが仲良しであることに疑いはないけれど。

 

 でも、もしかしたら。私の記憶が間違っていないなら、アンジェリカさんにとって、『彼女』は一番大切な友達の一人のはず。

 

 だとしたら、やっぱりアンジェリカさんが会いに行く友達というのは、『彼女』の事なんじゃないだろうか。

 

 そんな風に私が悩んでいる間にも、歩みは進んでいた。

 

「さあ、見えてきました。あそこが、ARIAカンパニーですよ」

 

 海際の角をくるりと曲がり、アンジェリカさんは、アーチ橋の向こう、海の青と町並みの境界線から張り出した、青と白の小さな建物を指さした。

 

 ぱっと、その光景が私の瞼に焼き付く。かちん、かちんと小気味良い音を立てて、頭のなかで幾つものパズルが組み上がっていくような気がした。

 

 見間違えるはずもない。何度も、何度も夢に見た、あの建物。

 

 夢で見たよりも、少し小さいだろうか。いや、それは多分、夢の中の私より、今の私が大きくなったからだろう。

 

 私の見た夢の舞台。大切な思い出の人々が集った、小さくて可愛い建物。丸い天窓も、大きく海側に張り出した看板も、何一つ記憶と違っていない。

 

 その建物のテラスに、人影が一つ現れた。

 

 白と青の制服を纏った、少女らしさと女らしさの中間をたゆたうような、そんな女性。

 

 もちろん、それが誰なのか、私が見間違える筈もなかった。

 

「こんにちは、お久しぶりです。≪遙かなる蒼(アクアマリン)≫!」

 

 その女性――水無灯里さんの姿を認めて、アンジェリカさんが手を振って呼びかけた。

 

「あ、アンジェさん! こちらこそお久しぶりです!」

 

 そう声を上げる灯里さんは、私の記憶にある彼女とは、髪型も物腰も変わっていた。髪はアップに纏められて、潮風に揺れるその髪と裾にまで満ちあふれる柔らかさは、かつての≪白き妖精(スノーホワイト)≫アリシア・フローレンスを彷彿とさせる。

 

「もう少し待ってくださいね。今準備していますから!」

 

 そう答えて、灯里さんは建物の中に引っ込む。そして中から何か話し声がしたかと思うと、今度はオリーブ色の髪の、小柄な女の子が顔を出してきた。

 

「よ、ようこそいらっしゃいました、ARIAカンパニーへ。」

 

 その姿を見て、私は胸が熱くなるのを感じた。

 

 笑顔の端々に緊張を隠しきれない様子の彼女は、随分女の子らしく成長しているけれど、間違いなくアイちゃんだった。白と青の制服に身を包み、両手を手袋で覆った、紛れもないARIAカンパニーのウンディーネ。あの時語った夢を追いかけて、とうとうここまでたどり着いたんだろう。

 

 私の夢の中に登場したアイちゃんと、このアイちゃんが同一人物かどうかはわからない。でもどんな道を辿ろうと、結局人は向かうべき所に向かってしまうものなのかもしれない。

 

 思わず口元が綻んだ私に、アイちゃんが不審げに眉を潜めた。

 

「な、何か、変なところありますか?」

「う、ううん、なんでもないのよ」

 

 戸惑うアイちゃんに、私は手を振って誤魔化す。それは、本来私が知っていてはいけないことだ。

 

 その時、灯里さんが私を呼ぶ声がした。

 

「お待たせいたしました、お客様」

 

 しずしずと、テラスを渡ってくる灯里さん。ゆっくりと私の前を通り過ぎ、カウンター横に立てかけられた櫂の一本を手に取る。

 

 思わず、私は声を上げかけた。

 

 灯里さんの舟に乗れるならば、それも悪くはない。だけど、私が探している『彼女』は、灯里さんではない。

 

 私が、出会いたい本当の『彼女』は――。

 

 

「すみません、遅れてしまって」

 

 

 その時、建物の角を曲がって。

 

 黒髪の女性が、姿を現した。

 

 

 私の記憶にあるより、少し髪を伸ばして。

 

 私の記憶にあるより、少し背格好も大きくなって。

 

 だけど、少し緊張の色を交えた、青い空を映し出したような笑顔はそのままで。

 

 

「本日ご案内させていただきますのは、我がARIAカンパニー自慢のプリマ・ウンディーネ、≪蒼穹(ソラ)≫のアニエス・デュマです」

 

 灯里さんの紹介に、『彼女』が――。

 

 アニエス・デュマが、ぺこりと小さく頭を下げた。

 

 

 ああ。

 

 ぱちり、と記憶のパズルの、一番大事なピースが填まっていく。

 

 ようやく出会えた。

 

 夢の向こうの、私。私よりもずっと素敵な私。

 

 貴女に会うために、私はここにやって来たんだ。

 

 

「……本日は、数多のウンディーネの中から、私をご指名戴き、心よりお礼を申し上げます」

 

 緊張しながらも、その言葉には淀みなく。

 

「お客様の出会うアクアが、そしてネオ・ヴェネツィアが、最高に素敵なものになるよう、微力ながら精一杯お手伝いさせていただきます」

 

 蒼穹の二つ名が示すように、澄み渡る青空のように、透明で、広くて、抱き留めるような笑顔で。

 

「――さあ、お手をどうぞ」

 

 白魚のように細く、しなやかな指先が、私に差し出された。

 

 

 手を取ろうとして、ふと思った。

 

 アニエスが光ならば、私はまるで、その影のような存在。

 

 光と影が触れあったりしては、どちらかが消えてしまうようなことはないだろうか。

 

 

 だけど、結局、何のこともなかった。

 

 指が触れ合っても、絡み合っても、私は私で、アニエスはアニエスで。

 

 よく似た道を歩んできても、結局私たちは、違う人間。

 

 だから、出会える。だから、触れ合える。

 

 魔法のような奇跡が、私とアニエスの心を触れあわせ、そして私は立ち上がった。

 

 アニエスが経験してきたこと、心に宿した想い、そういった沢山の素敵なものを、誰かが私に届けてくれた。

 

 だから私は今、笑える。だから私は今、ここにいる。

 

 繋いだのは奇跡。だけど、私を立ち上がらせた心は、アニエスのものに他ならなかったから。

 

「――ありがとう」

 

 だから、私は、その言葉を。

 

 私ができる、精一杯の笑顔とともに、アニエス・デュマに送り出した。

 

 アニエスはきょとんと、戸惑ったような顔を覗かせたけれど。

 

 全てを見通しているかのような、灯里さんの笑顔と。

 

 眩しそうに微笑むアンジェリカさんの頷きと。

 

 よくわからないなりに励ますような、アイちゃんの笑みに囲まれて。

 

「…………はいっ!」

 

 力強い是とともに、私の掌を、ぐっと強く握り返した。

 

 

 

 灯里さんと、アイちゃんと、アンジェリカさんに見送られて、私たちの舟は漕ぎ出した。

 

 優しい風が、ネオ・アドリアの水面を撫でて過ぎる。

 

 空には、≪蒼穹(ソラ)≫の名を象徴する突き抜けるような、青。

 

 海には、≪遙かなる蒼(アクアマリン)≫の名を象徴する透き通るような、青

 

 その二つを繋ぐように、白い舟が浮かぶ。

 

 青と青が白で繋がれた、この世界を象徴するかのような、青と白の衣が、風に揺れている。

 

 さんさんと陽光が煌めいて、舳先の小さな天使が目にとまった。

 

 金色の天使像――見覚えがある。よく磨いて、メッキを直してあるようだけれど、片方の翼の付け根に傷跡がある。

 

 これは、あの沈んでしまった黒い舟が掲げていた天使像に他ならない。

 

 そうか。アニエスはあの舟に、必ず助けに行くと誓っていた。どんな経緯で白い舟の舳先に掲げられたのかはわからないけれど、あのときの舟は……あの老紳士は、今でもここでウンディーネ達を見守っているのかもしれない。

 

「……あっ」

 

 あの老紳士が客席に腰かけて、穏やかに微笑んでいるかのような――そんな空想を瞼に浮かべながら、櫂が奏でるリズムに身を浸していると、アニーが小さな呻きを漏らした。

 

「ええと……申し訳ございません。お客様のお名前を、お伺いしても宜しいでしょうか」

 

 見上げれば、申し訳なさそうに、肩を竦めるアニー。

 

 申し込みの際に、名前は伝わっている筈なのだけど、ど忘れしてしまったらしい。

 

 つくづく、彼女らしい。見てくれは成長しても、そういうおっちょこちょいなところは、あまり変わっていないようだ。

 

 でも、考えてみればお互い様。なにしろ私自自身、今の今までアニエスの名前を思い出せずにいたんだから。

 

 でも、きっともう忘れない。

 

 取り合った手の暖かさが、今度こそ私の魂に刻み込まれたから。

 

 だから、始めよう。予定より随分遅れてしまったけれど。

 

「ふふ、 私の名前は――」

 

 私の名前を乗せた風が、駆け抜けていった。

 

 蒼と白の入り交じる、遠く遥かな蒼穹(ソラ)の彼方へ。

 

 



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