タキオンが元トレーナーのために孤島の学園で謎を解く (首狩兎計画)
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【1】終演と開演と 12月24日23時30分
リンリンと、どこからか鈴の音が聞こえてくる。
本当にどこかで鳴っているのか、それとも季節のせいでなんとなく聞こえた気になっている幻聴なのか。
どちらにせよ、トレーナーはその涼やかな音に耳を澄ませて、思う。
——クリスマスだ、と。
時は十二月二十四日。
世間はクリスマスイブに湧いている。
けれど、トレーナーは静かに、暖房器具で暖められた部屋のソファに座っていた。
クリスマスよりもクリスマスイブに重きを置いているのは、日本人のお国柄だろうか。
そんな風に余所事を考えることで、トレーナーはいつも通りの表情を貫いていた。
トレーナーの対面に座るのは、担当ウマ娘であるアグネスタキオン。
普段は溌剌とした様子の彼女が、今日はなにやらぐったりと疲れ切ったようにソファに身を任せている。
タキオンの様子がおかしい、とわかっているからこそ、トレーナーはあえて、普段通りを演出しようとしているのだ。
それでも、声をかけることは躊躇われて。
トレーナーは、ただただ、タキオンを見守ることしかできない。
もっとベテランのトレーナーであれば、こんなにも様子の違う彼女になにか気の利いた言葉をかけられるのだろうか?
思い悩んでも、未熟な自身の立場は変えようもない。
ほんの、数日だった。
ほんの数日の間、タキオンは同じチームメンバーである、エアシャカール、テイエムオペラオーとともに、ある孤島に訪れていた。
複雑な思いがありながらも、どこか期待した様子で旅立つのを見送ったのは、数日前のこと。
まさか短期間で、彼女がこんなにも疲れ切るとは……弱り切るとは、思ってもみなかった。
——大丈夫か、なんて。
聞くわけにはいかなかった。
常とは違う様子のタキオンを、疲れさせるような質問など。
どうみても大丈夫ではない彼女が、カラ元気で大丈夫だと言ってしまうようなことがあれば。
大丈夫であるために無理をしなければならない、なんて思ってしまったら。
きっと彼女は大丈夫であるフリなんて、簡単にできてしまうのだろう。
追い詰めることにもなりかねない言葉を万が一にも吐きださないように、トレーナーはグッと唇を引き結んだ。
察しのいいタキオンのこと。
きっと、気が付いていることだろう。
トレーナーが唇を引き結んだ理由にも、何も聞いてこない理由にも。
珍しく、頼りなさげな視線がトレーナーを一瞥して、そして雪のように溶けてしまいそうな、儚い微笑みがその顔に浮かんだ。
ぞくり、とトレーナーは寒さではないナニかに背が粟立つのを感じた。
そんな顔は見たくない、と思ったのだ。
普段はなんだかんだ振り回されるし、モルモットだなんて呼ばれるし。
そして、その呼称に見合うほどに実験にも付き合わされているし。
トレーナーとタキオンは、決して対等な関係ではないように思われているけれど、それでも築き上げてきた、絆がある。
——らしくない。
不意に、トレーナーの口を突くように言葉が出てきた。
相対するタキオンは、驚いたように目を見開いた。
気を遣って見守るだけだと思っていたトレーナーが声を発したことになのか、それとも言葉の内容になのかはわからないけれど。
長く時間を過ごしてきたトレーナーには、わかった。
タキオンの常とは違う、自信を感じられない微笑みの原因は、彼女の抱える不安だと。
なにが不安なのかは、さすがにわからないけれど。
タキオンは息を吐いた。
細く、長い息だ。
溜息と呼ぶには軽すぎるけれど、ただの呼吸と処理するのは重すぎる。
肺の中が空になったのではないだろうか、と思うほどおもいきり息を吐いたあと、彼女はゆったりと目線をトレーナーへと向けた。
先ほどまでのらしくない彼女は消え去って、トレーナーに向けられた目には、いつものタチの悪い実験に付き合わせようとする時の狂気が見え隠れしている。
かちん、とスイッチが切り替わるような音が聞こえた気がして、自然、トレーナーの背筋もまっすぐに伸びる。
タキオンはなにか、真剣な話をしようとしているのだ。
その空気感を読み取って緊張したトレーナーに気付いたように、タキオンはクスリと笑う。
「君がそんなに怯える必要はないよ。話を聞いたあと、君が私をどう思うかは知らないけれど」
どういうことか、と聞こうとした。
口を開いたトレーナーを遮るように、タキオンは「結論から言えば」と強引に話を進めてしまう。
「私は、この事件にかかわるべきではなかったのだよ」
ほんの僅かに、タキオンの唇が歪む。
まるで笑みを象ったようなその表情が、けれどトレーナーにはどうにも、自嘲の笑みに見えて仕方がない。
「私だって、まだ昇華しきれてはいない。後悔も、憤りも、喪失感も……罪悪感だって。色んな感情をまだ、ここに抱えている状態で話している」
とん、とタキオンの手が触れたのは、彼女の胸元だ。
タキオンは、どこかゆったりとした所作でポットにお湯を注いで、紅茶の用意をはじめた。
話し出すためには勇気がいるのだろうと察したトレーナーは、口を閉ざしたまま静かにタキオンの準備が整うのを待った。
待つことしばし。
タキオンとトレーナーの前に、湯気の立ち上るティーカップが置かれた。
暖かな室内で、それでもモクモクと立ち上る湯気に、そのティーカップを満たす紅茶の温度が察せられる。
早く帰ってほしい相手にはぬるいお茶を。
長く話したい相手には熱々のお茶を。
——なんて話が頭をよぎる。
凝り性の彼女のことだ、なんの意味もなく熱々のお茶を淹れたわけではないだろう。
「君に、私の話を聞く覚悟があるかい?」
トレーナーは、クスリと笑った。
やはり、熱々の紅茶は、覚悟を試すためのものだったようだ。
どのような内容であれ、自分の大切な担当ウマ娘の、アグネスタキオンの話だ。
聞かないという選択肢は、トレーナーの中には存在していなかった。
トレーナーは、無言のまま、差し出されていたティーカップに手を伸ばした。
受け取ることこそが、彼女の問いかけへの返答だ。
一瞬、指先同士が軽く触れ合う。
カップ越しの紅茶とは違う、優しく穏やかな温もりが指に残った。
すぐに飲めない温度ながら、せっかく手渡されたそれをそのままテーブルに戻すことは躊躇われて、トレーナーは飲み口にそっと唇を寄せた。
お世辞にも飲んだとは言えない、舐めたと言っても語弊がありそうな程度だけ口を付けて、そのままティーカップをテーブルに置いたトレーナーを確認して、タキオンはひとつ、頷いた。
その顔に浮かぶのは、いつも通りの笑顔。
どこか狂気的な、彼女らしい笑みを浮かべて、彼女はいつものセリフで切り出した。
「さぁ、実験をはじめようか」
外では、雪が降りはじめたようだ。
ホワイトクリスマス、なんてロマンティックな状況の中、タキオンの口からはロマンティックとは程遠い、彼女の物語が語られる。
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【2】開演と再演と 12月10日15時13分
「さぁ。次はなにをしようか」
栗毛のフワフワとしたショートヘア。
諸所のハネは、ヘアセットなのか寝癖なのか、はたまた髪質なのかは微妙なところだ。
頭頂部から一房、大きく跳ねている髪束は彼女の動きに合わせてあっちへこっちへと奔放に踊っている。
アグネスタキオンはサークルの部室で、散らばった研究資料に目を通しながらワクワクと呟いた。
「いや、これおかしいだろ。筋が通ってねぇし……この辺の数字、全部デタラメじゃねぇのか?」
後ろ毛だけを長く伸ばした黒髪を無造作に流した彼女は、鋭い目つきで研究資料を睨みつけた。
タキオンのチームメイト、エアシャカールだ。
データ至上主義を謳われる彼女にとって、精度を欠くデータがご不満らしい。
シャカールは普段から目付きが悪いが、今日はその眼光がよりいっそう鋭い。
タキオンはまるで、猫の子を追い払うような軽さでパタパタと手を振って、シャカールをいなした。
「そんなこと、取るに足らない些末事だよ、シャカールくん。やってみないとわからない……うん。最高じゃあないか」
同じ理系同士のはずなのに、完全にロジカルな思考をしているシャカールと、偶然や感情などの不確定要素も勘定に入れようとするタキオンでは、微妙に意見が合わないのが常だった。
「そんな雑な検証があってたまるか!」
「いいじゃないか。蓋を開けないとわからない。吉と出るか凶と出るか、最後まで目が離せないワクワク感。……最高だろう?」
「この、ロマンチストめ!」
「数字の狂信者よりは、随分とマシだと思うよ、私は」
ぎゃんぎゃんと、その頭の良さからは想像もできないほどに低レベルな言い争いをしているふたりに構うことなく、部屋の片隅に置かれた鏡を夢中で覗きこんでいるウマ娘が、ひとり。
「あぁ、やっぱりボクは美しいなぁ。この美しさをもっと世間に知らしめなくては……。ボクのことを知らない人は不幸に違いないのだから」
タキオンよりも明るい栗毛の髪を撫でつけて整えながら、鏡に映る自分を見つめることに全力を賭しているのはテイエムオペラオーだ。
シャカールと同じく、タキオンと同じチームに所属するウマ娘だ。
さまざまな角度で鏡を覗きこんでは、彼女は自分が一番美しく見える角度を探すことに余念がない。
これまでの人生ですでにいくつもの角度を見つけ出してきただろうに、今日のボクが一番映える角度、というものを探すのが日課であるようだ。
タキオンとシャカール、オペラオーで、二対一の二組に分裂しているようにもみえるけれど、別に対立しているわけでも、仲間外れのようになっているわけでもない。
三人とも、好き勝手に自分の好きなことをやっているだけなのだ。
むしろ、仲はいい方だろう。
三人はトレーナーに誘われて、同じチームに所属している。
当初は乗り気でなかった三人であったが、トレーナーが冤罪で捕まったのを気まぐれに解決したのをきっかけに、彼女たちはツルむようになった。
それから、日々悪だくみ……いや、実験を繰り返している。
今も、トレーナーは三人の悪だくみによる被害者……いや、実験の被験者たちへの謝罪や後始末に奔走しているため、席を外している。
トレーナーが日々駆け回っているのは、大体がこの三人のせいなのだけれど、次の悪だく……実験の計画を練っている彼女たちにはかけらも罪悪感はない。
そんな彼女らの計画を邪魔するように、コンコン、と上品なノックの音が鳴った。
「はいはい。どちら様だい?」
尊大な態度で、ソファから立つこともなく入室を促すタキオン。けれど、部屋に入って来た女性に目を向けた瞬間、先ほどの態度から一変、様子を窺うように目を眇めて女性を眺めた。
艶やかな黒髪のショートヘア。
上品なシャツをまとった、大人しそうな女性だった。
少しだけおどおどとした雰囲気を感じるのは、タキオンの品定めをするような目付きを感じてのことだろうか。
「……なにを、しにきたんだい?」
タキオンは平静を装うと取り繕うが、悲痛な声は隠し切れず、言葉が詰まる。
そんなタキオンのらしくない様に、女性は僅かに唇を噛み、目を伏せる。
「タキ……、いえ、その……頼みたいことがあって、来たの」
女性は一瞬出かかった感情を押し殺し、事務的な返答で誤魔化す。
「頼み? 私に、君が、いまさら?」
ハッ、と呆れたように鼻で笑って、けれどタキオンは対面のソファを顎でしゃくった。
「長くなるのなら、座るといい」
「ありがとう」
礼の言葉とともに、女性はタキオンの対面へと腰を下ろした。
どこか所在なげなのは、タキオンの彼女を見る目が、相変わらず品定めをするようなものだからだろう。
「知り合いか?」
シャカールの言葉に、タキオンはひとつ頷いた。
「私の、中等部時代のトレーナーだよ」
◇
五十嵐由美。
それが、タキオンが中等部時代に担当していたトレーナーの名だった。
——いまさら、どの面下げて。
そんな言葉がよく似合うシチュエーションだ。
タキオンは昔、怪我をしたことがある。
今の成績から察せられる通り、それほど大きな怪我ではなかった。
けれど、まだ走れるタキオンを置いて、五十嵐は姿を消した。
——ご丁寧に、トレーナー契約を解除して。
それによって遺されたタキオンが、どれほど苦しんだか。
——本当に、どうして今更なんだ。
「その……突然、ごめんなさい」
「構わないよ、別に。それで? 頼みたいこととは、なんだい?」
性急に話を進めようとしている自分に、タキオンは気付いていた。
五十嵐もまた、彼女の知っていた普段のタキオンとは様子が違うことに気付いているのだろう。
少しだけ、傷付いたような顔をして、素直に口を開いた。
——傷付きたいのは、こっちだよ。
タキオンは内心でそう吐き捨ててから、つらつらと語られる五十嵐の話に耳を傾けた。
「私は今、とある学園で秘書をしているの。そこで、ちょっとした事件が起こっていて……」
「ちょっとした事件、ねぇ?」
タキオンは茶々を入れるような気持ちで呟いた。
タキオンが気拙く思っているのと同じように、五十嵐もきっと、タキオンと同じくらいかそれ以上に気拙いに違いない。
だから、先ほどからずっと、目を合わせないのだろう。
そんな気拙い相手に会いに来た理由が「ちょっとした事件」程度であるとは考えにくかった。
「えぇ、ちょっとした、よ」
あくまでも「ちょっとした事件」で片付けるつもりらしい五十嵐に、タキオンは無感情になるように、へぇ、と相槌を打った。
「それで、あなたに調査をお願いしたくて、ここへ来たの」
「笑わせてくれるな。それは、探偵や警察の仕事だろう? 何故、私が探偵の真似事などしなければならないんだ?」
「警察の領分なのはわかっているわ。でも、学園は警察の介入を嫌がっているの。理事も警察に口を出されるくらいならと、このまま放置を決めこむつもりよ。……このままだといずれ、生徒たちにも危害が及ぶかもしれないわ」
「……ズルい言い方をする」
短くとも、濃い時間を過ごした。
だからこそ五十嵐は、タキオンの心を動かすかもしれない言葉を選ぶことには長けている。
「それでも、私は探偵や、ましては警察ではない。私にできることなんて、なにひとつないさ」
「いいえ」
五十嵐はタキオンの言葉を、間髪を入れずに否定した。
まるで、タキオンであれば解決できると、本気で思っているかのように。
「あなたは以前、自分のトレーナーの無実を証明するために事件を解決したことがあるでしょう? そのあなたを信頼して、相談しに来たのよ。あなたに頼ることを、理事も賛成してくれたわ。なにもできないなんて、そんなこと言わないでちょうだい」
その声には、滲んで溶けだすほどの信頼がこめられていた。
信頼されているという事実から、目を逸らすことだって許されない。
それが、タキオンの胸を大きく揺さぶった。
「……違う。あれは、仲間たちが助けてくれたからこそ成し得たことだ。私ひとりの力じゃない。だから、君の期待には応えられない」
「どうしても、あなたの協力が必要なの。……お願い」
眉を下げて、心底困ったように。
懇願という言葉がピッタリと似合いそうな表情で縋る五十嵐に、タキオンは脳が焼き切れるほどの衝撃を感じた。
否が応でも、自分が五十嵐のその表情に弱かったことを思い出してしまう。
「なんだい、君は。……ふざけるのも、大概にしてくれないか」
思ったよりも、冷たい声が出た。
「いまさら、どうして私に、頼みごとが通じると思ったんだい?」
怒鳴りつけてやろうと思って口を開いたはずなのに、出てくるのは冷めきった声ばかりだ。
たしかに怒りで脳が焼き切れたと思ったのに妙に冷静なままの自分が、なんだかおかしく思えた。
「君は、私を捨てた。怪我をした私を、なんの躊躇いもなく捨てたじゃないか!」
ようやく怒鳴ることができた言葉に、シャカールとオペラオーがギョッとしたのがわかった。
対面の五十嵐は、俯いたままなにも言わない。
「君に置いていかれて、私がどんなにショックだったかわかるかい? 唯一無二だと、最大の理解者だと信じていたトレーナーが、軽い怪我ひとつで契約を解除したんだと知った時の、私の絶望がわかるか? わからないだろうな、君は置いていった側なんだから。君は、私を捨てた側なんだから!」
少しくらいの弁解が、あるものだと思っていた。
どんなに小さなことでもよかった。
いっそのこと、嘘を吐いてくれても構わない。
たとえば。
タキオンが怪我をしたのと同時に体調を崩して、五十嵐自身の問題でトレーナーを続けられなかった、とか。
急ごしらえのいいわけでもよかった。
見捨てたわけでも、いらなくなったわけでもなく、事情があってそうせざるをえなかったのだと、そう言われたかった。
それなのに。
「……ごめんなさい」
誰よりもタキオンのことを理解してくれていた元トレーナーは、弁解を期待するタキオンに気付いていながらも、謝るだけで流す道を選んだ。
そんな五十嵐に、タキオンは激しい怒りと同時に、呆れや諦めの感情を抱いてしまう。
「……もう、帰ってくれ」
萎縮しきった五十嵐に対してこれ以上怒鳴ると、まるでいじめをしているようだ。
そう思ったタキオンは、なんとかその一言を絞り出すように呟いた。
無感情に尖った声になってはしまったけれど、辛うじて、怒鳴ることはせずに済んだ。
「でも……」
それでも食い下がってくる五十嵐に、こんどこそ怒鳴りそうになって、寸前でなんとか堪える。
「頼む、帰ってくれ」
感情を抑えることにギリギリなタキオンに気付いたのか、五十嵐は無言のまま立ち上がってくれた。
「本当に、ごめんなさい。……でも、お願いだから。もう少し考えてみて」
最後にそう呟いて、五十嵐はテーブルに小さなメモを置いて、そのまま立ち去っていった。
足音もなく、本当に静かに。
タキオンがテーブルのメモに視線を向けると、そこにはハイフンで繋がれた十一桁の数字が書かれていた。
五十嵐由美、と書かれた名前の筆跡が、あの頃と変わっていないことに気付ける自身に、タキオンは自嘲する。
「……すまない、先に部屋へ戻らせてもらうよ」
タキオンはテーブルのメモから視線を引き剥がして、立ち上がった。
シャカールとオペラオーに止められたくなくて、足早にドアへと向かって、ノブに手をかけてからハッとする。
すぐに出ることで、道中に五十嵐と会ってしまう可能性に思い至ったのだ。
けれど、五十嵐も他所の敷地をウロウロと出歩く人ではない。
恐らく、真っ直ぐに学園の出口へ向かうだろう。
そこを避ければいい話だ。
問題ない、と結論付けて、タキオンは今度こそドアを開けて、廊下へと飛び出した。
カッカッと靴音が響くほど足早に、タキオンは寮を目指す。
幸運なことに、部屋に辿りつくまでの間、五十嵐はおろか、他の誰にも会うことはなかった。
まだ無人だった部屋に辿りつくと同時に、着替えすらせずにベッドへと身を投げる。
そのまま、サイドテーブルの引き出しへと手を伸ばしたタキオンは、枕に顔を埋めたまま手探りで小さな箱を引っ張り出した。
見てもいないのに、間違いなく目当ての箱を取り出したと確信したタキオンは、ようやく枕から顔をあげて、飾りっ気のない小箱を開く。
中からは、シンプルな装飾のブレスレットが出てきた。
これをもらった日のことは、つい昨日のことのように思い出す。
しばらくブレスレットを眺めてから、タキオン
は現実から逃げるように、ギュッと目を閉じた。
◇
「あぁ、そうだ。はい、これ。プレゼント、よかったら貰って?」
そんな言葉とともに、由美は裸のままのブレスレットを私に差し出した。
「なんだい、これは?」
「ブレスレット。お揃いなのよ」
ふんわり、と甘く優しく微笑んだ由美に、私はあえてなんの興味もないようなふりをして、ふぅン、と返した。
本当は、すごく嬉しかったのに。
素直じゃない私は、それを表に出すのがどうにも恥ずかしかったのだ。
どうでもよさそうに手を出して、どうでもよさそうに渡されたブレスレットを手許へと引き寄せる。
緩みそうになった頬は意志の力でなんとか堪えて、あくまで不良品でないか確認するというスタンスで、私はマジマジとブレスレットを見つめた。
「ふふっ」
柔らかな笑声が耳を打つ。
ちらり、とそちらに目を向ければ、愛しくてたまらない、とでも言いたげな優しい目で私を見ている由美がいる。
一気に頬に血が上るような、錯覚。
恐らくは、私が由美からのプレゼントに心中穏やかでいられないのを理解した上で、これ以上私が照れないように、と素知らぬふりをしてくれているのだろう。
自身をコントロールすることは苦手でないはずなのに、由美とふたりでいると、いつだって年上の余裕とやらに敗北してしまう。
悔しさに歯噛みしながら、私は「まぁ、これなら貰ってあげても構わないよ」なんて尊大な言葉とともに、受け取ったブレスレットをポケットへとしまった。
万が一がないようにハンカチに包んだのは、もしもポケットで壊れるようなことがあれば、私が怪我をすると思ったからで、それ以上でも以下でもない。
それなのに、由美は「大事にしてくれてありがとう」なんて言って、クスクスと笑っていた。
笑うんじゃない、と怒鳴ろうとした私は、ふと、足に痛みを感じた。
自覚すると同時に体を支えきれなくなり、ぐらり、ふらついた体はそのまま後ろへと倒れていく。
あっ、と思った瞬間、何故か私は椅子に座っていた。
上手い具合に背後に椅子があったのだろうか。
そう思って自分の下肢を見た私は、思わず息を呑んでしまった。
私が座っていたのは、『車椅子』だったのだ。
それも、足は包帯でグルグル巻きになっている。
パニックから逃れたくて、私は必死に由美を呼んだ。
私がはじめて信頼した人。
私の大事なトレーナー。
何度呼んでも、由美は駆け寄ってきてはくれなかった。
その姿を探して周囲を見回した時、私はようやく、遠くでこちらをぼんやりと見ている由美に気付いた。
「由美ッ!」
痛みから、恐怖から逃げたくて、必死にその名を呼ぶ。
私は知っていた。
彼女ならきっと、私を救ってくれると。
それなのに。
由美は私を一瞥すると、そのまま私に背を向けて、逃げるように歩き出してしまった。
「由美、待ってくれ! 由美ッ!」
縋るように伸ばした手が握られることはない。
これ以上前に手を伸ばせば、車椅子から落ちるかもしれない。
そう思いながらも、私は手を伸ばすことをやめられなかった。
車椅子から落ちる時の痛みよりも、このまま由美に置いていかれる痛みの方がずっと大きいだろうと思ったのだ。
それでも、伸ばした手は届かない。
歩いていく由美は、立ち止まることはおろか、振り返ってすらくれない。
「由美ッ、由美ッ!」
その背に向けて、私はもう一度大きく手を伸ばした。
[newpage]
12月11日1時24分
はっ、はっ、と荒い息遣いが、部屋中に響いていた。
いつの間に日が落ちたのか、真っ暗な部屋の中。
ベッドに沈んでいたタキオンは、自分を周囲の様子を一度見回して、ようやく、今のは夢だったと実感した。
荒い息遣いの発生源が自分であると同時に理解したタキオンは、胸に手を添えて、大きく深呼吸を試みた。
乱れ切った呼吸と同時に、バクバクと煩い心臓を落ち着かせようと、数度撫でさすってみる。
「まったく、嫌な夢だ」
どんなに呼んでも振り返ってすらもらえないなんて、幼い子が見たらそのままトラウマになりそうな夢である。
重たい体を引き摺るように、のろり、と上半身を起こす。
ルームメイトのデジタルは、創作中だったのか、卓上ライトを点けたまま机の上で寝落ちしている。
明かりがタキオンまで来ていない辺り、気を遣わせてしまったようだ。
俯せで表情はわからないが、時折、フヒヒッ、と寝言が聞こえるあたり、悪い夢ではないのだろう。
夕食を食べ損ねてしまったが、机の上には見覚えのないエナジーバーが。
お節介なルームメイトの差し入れらしい。
サイドテーブルにあるのは、飾りっ気のないシンプルなブレスレット。
あの日、五十嵐からもらった、お揃いのブレスレットだ。
タキオンの記憶にある限り、五十嵐は毎日のようにあのブレスレットを付けていた。
夢の中で、タキオンに背を向けて去っていくその最中ですら、手首にはブレスレットがついていたのを覚えている。
けれど。
昨日は五十嵐の手に、ブレスレットは影もなかった。
同じく今はつけていないタキオンに責められる謂れはないとわかっていてもなお、重苦しく嘆く胸の声が響く。
こうして大切にしまっているタキオンとは違って、五十嵐はもう、捨ててしまったのではないだろうか。
そんな考えを、どうしたって拭い去ることができない。
——たかが、元トレーナーだ。
お揃いのブレスレットを捨てていたとしても、責めることはできない。
それでも。
大切にしていてほしいと。
せめて、思い出としてしまっていてほしいと。
そう思うことは、辞められなかった。
タキオンはサイドテーブルのブレスレットを見つめた。
あの夢を見たあとで手に取るのは、少しだけ怖かったから、手は伸ばさずに見つめるだけだ。
——お願いだから。もう少し考えてみて。
くそっ、なんてらしくもない言葉が、タキオンの口からこぼれた。
これほど時を経ても、タキオンはなにも変わっていない。
あんな風に懇願されたら、仕方がない、と受け入れてしまうのだ。
それがわかっているから、五十嵐だってあんな態度に出たのだろう。
いつだって穏やかで優しかった五十嵐の懇願に、タキオンは昔から弱かったのだ。
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【3】再演と疑念と 12月12日5時10分
強い潮風に髪を乱されながら、タキオンは意志の弱い自分に呆れ果てていた。
あんなに感情的になって怒ったくせに、翌日にはメモに残されていた連絡先に電話をかけてしまったのだから。
五十嵐が理事秘書を務めているという学園は、情報やウマ娘のプライバシー保護などを目的に、孤島に建設されている。
この、二日に一往復しかしないフェリーに乗らなければ、来島することは叶わない。
情報流出の対策は本当に抜かりなどなく、今回の依頼内容すら、島に着くまでは話せない、などと言われている。
タキオンが調査を了承した時、五十嵐は土下座も辞さないほどに感謝を述べたけれど、タキオンは「最新設備の学園に興味があるだけだ」と切り捨てた。
けれど、嘘を吐いたというわけではない。
本当にニグラス学園は、最新設備で構成されているのだ。
設立は十年前。
その当時も、他の学園が驚くほどの最新技術を駆使していたが、年々新たな技術を取り入れ続けており、その先進性は現在も他の追随を許してはいない。
島内の建物は元々残されていた洋館などを再利用しており、ほとんどが木造やレンガ造りなど歴史を感じる造りになっているらしい。
噂では、一部区域を観光地として開放する計画もあるらしい。
そんな古めかしい街並みとは正反対に、警備には大量のドローンを使用するなど、設備はすべて最先端を地で行っている。
また、この島にウマ娘は存在するが、トレーナーはひとりも存在しない。
ウマ娘に装着される電子ブレスレットが、リアルタイムで体温、心拍数などの情報を計測し、AIが分析。
そのデータが、定期的にトレーナーへ共有されている。
トレーナーはデータを元にトレーニングプランを構築し、遠方から指導を行う、というわけである。
対面が必要なケアなどは、五十嵐をはじめとしたスタッフや、保険医などが行うことになっているらしい。
トレーナーとウマ娘は一心同体、同心協力があたりまえだと思われていたこの世界で、ニグラス学園の取った方針は異端といえただろう。
賛否はあるが、この方法であれば遠方から、いわゆる『片手間』でウマ娘の指導をすることができるため、他学園に所属する優秀なトレーナーを引きこむことにも成功している。
研究施設では、ウマ娘にかかわるトレーニング内容からサプリメント、トレーニング器具など、ありとあらゆる研究が行われている。
その技術は、この学園に所属している生徒だけに使用される。
それもあって、この学園は真摯に強くなりたいと願う生徒が選ぶ学園として有名だ。
もちろん、孤島であるし、それなりの不便もある。
それを我慢してでも強くなりたいと願うものが、この学園を選んで入学する。
まだ発展途上ではあるが、トゥインクルシリーズのようなメジャーレースを作ろうとする動きもあり、最近では孤島を丸々コースにしたタイムアタックが動画で拡散され、脚光を浴びている。
今後の発展に期待するなら、ニグラス学園は有力株であろう。
また、この学園はスタッフを出来うる限り女性で固めており、それが男性を苦手とする生徒に人気があり、それを理由に選ぶ生徒もいると聞く。
——ドーベルくんにとっては快適な環境だろうねぇ。
業界中を驚かせたこの最先端学園を創立したのが、古城戸彩。
——二十歳という若さでこの学園を設立したそうだから、今は三十歳か。
タキオンは、手元の雑誌に視線を向けた。
ちょうど、古城戸のインタビュー記事が載っていたから、持ってきたのだ。
ページの半分を使って大きく乗せられた写真には、金髪碧眼の美女が映っていた。
いや、むしろ美少女と呼んでも差し支えはないかもしれない。
実年齢を知らなければ、彼女が三十歳だなんて誰も思わないだろう。
そんな彼女に憧れて入学する生徒も少なくない、なんて書かれているのを流し見て、タキオンは興味なさげに「ふぅン」と呟いた。
自らの理論を発表し、今まで前例がなかった故に尻込みする企業もいる中、精力的にスポンサーを募り、今向かっている孤島で学園を設立。
それは、二十歳という年齢からは考えられないほどの行動力だ。
以前、タキオンと戦った相手の中にも、たしか招待枠でニグラス学園の生徒がいたはずだ。
順位は、自分とカフェに次ぐ三位だったか、着差もそれほど無かったはず。
あの後、負けて不機嫌なカフェに八つ当たり(煽ったタキオンが悪い)の並走に倒れるまで付き合わされて忘れていた。
実力はたしかだと思ったのを、今回のことで思い出していた。
「どうしたんだい、難しい顔をして」
突然かけられた声にハッとして顔をあげれば、潮風で髪が乱れるから、なんて理由で船室に籠もっていたはずのオペラオーがこちらに歩み寄ってくるところだった。
その後ろには、なにやらブツブツと小声で文句を呟いているシャカールもいる。
「難しい顔をしていたつもりはないよ」
へらり、とタキオンは意識して笑った。
そんな笑顔をどう受け取ったのか、オペラオーにしては珍しく、なんとも形容しがたい微妙な笑みを浮かべている。
当初、タキオンはひとりでニグラス学園へ向かうつもりだった。
五十嵐が突然タキオンを頼ってきたのは、恐らく中等部時代の関係性があるからだ。
それなら他の人は関係ないと思ったからである。
トレーナーには五十嵐がすでに話を通しており、外出などの手続きはほとんど済んでいた。
おかげでチームの皆んなに知られずに学園を出られた。
反面、こうもあっさりと向かわせてしまうトレーナーに『少しは引き止めてくれてもいいのでは?』と不満に思ったりもした。
けれど、船着き場に着いた時、何故か出発の時刻すら聞かせていなかったはずのシャカールとオペラオーが先に着いて待ち構えていたのだ。
なんでも、トレーナーから、タキオンの力になってやってほしい、と頼まれたらしい。
——本当なら自分が行きたいけど、トレセンのトレーナーが他所の学園に行くのはおかしな誤解を招くから。
そう言って、自分の代わりに、とふたりを船着き場に送りこんだらしい。
その話を聞いて、タキオンはトレーナーの不器用な気遣いに内心苦笑いした。
「わざわざ船着き場で先回りしないで、学園から一緒に行けば良かったんじゃないか?」
船出からここまで、会話らしい会話をしなかったタキオンがようやく口を開く。
「アホか。そしたらてめェ、オレたちを撒いてひとりで行っていただろ」
スマートフォンを操作しながらシャカールが突っ込む。
「本当ならばカフェさんやドトウ、他の皆んなも同行を希望していたのだが、スケジュールが合わなくてね」
肩をすくめるオペラオー。
「大人数で行ってもうぜェし邪魔だからな。そこで、てめェと同じく春に備えて調整中のオレたちに白羽の矢が立ったってわけだ。あのトレーナー、帰ったらシメる」
「はっははは! 僕はまたふたりと組めて嬉しいよ! さあ、また三人で、エレガントに事件を解決しようじゃあないか!」
いつも変わらぬふたりに、安堵するタキオン。
正直、五十嵐と再会してから、不安と迷いで自分を見失っていた。
こうして船に乗り込んだのは五十嵐のためか、過去の決別のためか、それとも五十嵐からあの時の本心を聞き出すためか。
すべてが終わり、彼女からすべてを聞けたとして、それが求めた答えでなかった時、自分を保てるのか不安だった。
学園に、チームに、トレーナーの元へ戻ることもできず、再びあの暗い研究室に篭る日々に戻るのではないかと。
しかし、ふたりを見ていると、その不安は杞憂に思えた。
「ふたりとも、感謝するよ。すまないが、最後まで付き合ってもらうよ」
「……たくっ、調子狂うぜ」
「うむ!」
ようやくタキオンがいつもの調子を取りつつあることを確認し、安堵するふたり。
——君たちがいれば、私は帰る場所を見失うことはないだろう。
タキオンは、もうすぐ明けてくる空をみる。
東の空にひときわ明るく輝く明けの明星。
その強い輝きは、この暗い海で、進むべき道を示しているように感じた。
こつん、とヒールが甲板を叩く音がした。
釣られるように視線を向ければ、五十嵐がこちらへと歩み寄ってくるところだった。
「大丈夫? 酔っていないかしら?」
タキオンはシャカールとオペラオーの顔を順々に見た。
どうやら、ふたりとも体調不良は感じていないようだ。
「問題ないようだ」
「それはよかったわ。もうしばらくかかるから、もしも体調が優れないようであればすぐに言ってちょうだいね」
「わかった。ありがとう、由美」
昔の呼び方が出たのは、つい、ぼんやりとしていたせいだ。
ぱちり、と目を瞬かせた五十嵐は、けれど悲しそうに目を伏せた。
「呼び立てておいて申し訳ないのだけど、私とあなたの個人的な関係が知られると、少し拙いことになるの。私のことは五十嵐と呼んでちょうだい」
「あァ?」
呆然と固まったタキオンの代わりに噛みついてくれたのは、シャカールだった。
地を這うようなその声にハッとして、タキオンは軽く手を振ってシャカールをいなし、それから五十嵐には「わかったよ」と短く答えた。
タキオンだって、間違えてうっかり呼んだだけだ。
なにも、昔のような関係になることを期待して呼んだわけではない。
だから、傷付かない。
でも、酷い話だとタキオンは思った。
傷付けた五十嵐がそんな顔をしていたら、自分は傷付けないじゃないか、と。
12月12日7時15分
孤島に到着したのは、それからしばらく経ってのことだった。
五十嵐は何故か立ち去らずにその場にずっといたため、一行は終始、なんとも言えない空気に苦しめられることになった。
「……凄いな、これは」
フェリーから降り立った瞬間から、見える景色は普段見ている学園とは大きく異なっていた。
一言で表現するなら、まるでSF映画の世界だ。
空中を飛び回りながら、周囲を見張る監視ドローン。
歩道では、ドラム缶のような形をした警備ドローンが隊列を組んで移動している。
有名な建築家がデザインしたと説明されたら「なるほど」とそのまま納得してしまいそうな、近代的なデザインの研究施設。
そして、その近代的な建造物に不釣り合いながらも、圧倒的な存在感を放つ古い洋館と塔。
アンバランスさが、逆に美しさを強調しているようだった。
「はァ? おいっ、電波ねぇンだけど」
チッ、と舌を打ったシャカールに、五十嵐は申し訳なさそうな表情で「ここでは、ネットも電話も電波を通していないのよ」と説明する。
「最新施設なのにか? ウマ娘たちのデータをトレーナーたちへ共有するのには、ネットは使っていないのか?」
「えぇ。……いいえ、正確に言えば、ネットは使っているのだけど。二日に一回の定期船で本土に行く時にデータを収集して、それからサーバーにあげることになっているわ」
「へぇ。リアルタイムじゃないんだな。そっちの方が管理もしやすいだろうに、何故なんだ?」
「うちの理事は、情報の流出をなによりも嫌っているから。それで、電波を通すことに懐疑的なのよ。外との連絡手段は、理事の執務室にある端末のみよ」
「……まぁ、これだけ最先端をいってればな。懐疑的になるのもわからないでもない、か」
最先端技術がウリなのに、他の学園にそれを盗まれれば困ることは火を見るよりも明らかだ。
近寄って来たスタッフから、五十嵐が大きな箱を受け取った。
中を開いて、取り出されたのは三組のゴーグルと電子ブレスレットだ。
それぞれが、一組ずつタキオン、シャカール、オペラオーに渡される。
勧められるままに装着すると、ゴーグルには電子ブレスレットが読み取った現在の自分の情報が投影されていた。
「はー……。これはこれは」
「随分と細かいデータで出るんだな。……うん、誤差もないようだ」
「あははっ。いっそ恥ずかしいほどにすべてを見られているわけだね」
「ゴーグルには通信機能も付いているわ。携帯電話が使えない島の中では唯一の連絡手段になるから、使い方は覚えておいてね」
少し動いただけで、心拍数がわずかに変動する。
自分でもわからないような小さな変化まで拾い上げて眼前に晒されるというのは、あまりいい気持ちではない。
「……観察されるモルモットの気持ちがわかったよ」
そんな皮肉にも、五十嵐は困ったように笑うだけだった。
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【4】疑念と火種と 12月12日8時50分
理事は、中央にそびえる高い塔にいるらしい。
古めかしい外観とは裏腹に、入り口を守るのは電子キーだ。
入ってすぐに、電光掲示板が点滅しているのが見えた。
保険医による定期健診を受けていないものは早めに受けること、なんて連絡事項が見えて、タキオンは思わず少し笑ってしまった。
どこの学園も、注意を受ける内容は変わらないらしい。
螺旋階段をくるくると上りながら、どこまでも続きそうな上を見上げる。
「理事はどこに?」
「……最上階よ」
階段は、まだ続いている。
「バカと煙は……」
自然、口から出てしまった言葉は、さすがに他学園の理事に向けるのは拙いという自覚もあって、なんとか呑みこんだ。
続きを正確に理解したらしい五十嵐が、小さく肩を揺らす。
もしかしたら、五十嵐もそれを考えたことがあったのかもしれない。
最上階へ向かう間にも、さまざまな部屋があった。
そのどれもが、電子キーでの施錠がされており、掲げられている看板には、遺伝子組み換え食品におけるウマ娘への影響について、のような、なにやら小難しい研究課題が書かれている。
恐らくは、その表題の件についての研究室なのだろう。
半分観光気分でキョロキョロと周りを見ながら歩くうち、思ったよりも早く最上階へと辿りついた。
「……この階は、内装も古いまま残しているのかい?」
「えぇ。予算の削減にね。この階に研究室はないし……理事が書類仕事をするくらいだもの」
「……なるほどねぇ」
普通は、組織のトップが使う場所は最初に整えるものだと思うのだけれど。
まぁ、これだけ情報を規制しているのだ、見せる相手もいないから、とハリボテのように外観から整えていったという線もあるだろう。
古めかしくも重厚な扉の前で、五十嵐は小さく咳ばらいをしてから、大きく二度、扉をノックした。
「古城戸理事。五十嵐です。今回の脅迫状について調査でお呼びした面々をお連れいたしました」
「どうぞ、中にお連れして頂戴」
端的な言葉で、三人は理事室へと迎え入れられた。
洋風の古城と思わせる内装を決して崩さない、アンティークのテーブル。
ソファのようにも見える立派な椅子に座って手を組んだ古城戸が、ニッコリと笑って三人を迎えた。
「皆さん、ようこそ。当学園の理事をしております、古城戸彩と申します。よろしくお願いいたします」
笑顔のはずなのに、妙な威圧感を覚えて、タキオンは挨拶を軽い会釈にとどめた。
同じ考えだったのか、シャカールとオペラオーも、軽い会釈で応える。
タキオンたちの反応に、古城戸は少しも気にしていないようだった。
「さっそく本題に入らせてもらいます。この後もいろいろと雑務に追われておりまして……」
タキオンは気付いた。
目が、合わないのだ。
古城戸はたしかにタキオンの方を見ているのに。
タキオンはたしかに古城戸を見ているのに。
一向に、目が合わない。
「皆さんには、脅迫状の犯人を特定してもらいたくお呼びしました。残念ながら本日は多忙のため、詳細は明日、あらためてご説明します。本日はゆっくり学園を見学していってください」
一方的にそう言って、古城戸は口を閉ざした。
まるで、これで話は終わりだとでもいうように。
けれど、そんな一方的な話では、タキオンは納得できない。
「ふむ、その脅迫というのは?」
だから、タキオンはあえて空気を読めないようなふりをして、問いかけた。
話を終わらせたがった相手に、あえて話の引き延ばしを求めた形だ。
古城戸の笑顔がほんのわずかに崩れる。
とはいえ、そこはメディアにもよく顔出しをする学園の顔。
一瞬でその表情は元の笑顔へと戻る。
「昨年から、私と主任の元へ脅迫状が届けられておりまして。私や主任など、学園のトップしか知らない内容についても触れられていて、これは単なる脅迫事件ではなく、情報漏洩が絡んでいると考えました」
「なるほど。その脅迫状の内容について、もう少し詳しく聞かせてもらえるかな?」
「残念ながら、そこは機密に触れるため、内容については話せません」
「はァ? それで犯人探せってか?」
「失礼ながら、情報漏洩を取り締まるためとはいえ、あなた方をそこまで信用するわけはいきません。ご理解ください」
取り付く島もなく、古城戸はそう言い切った。
「さすがに情報が少なすぎる。もう少し、きちんと時系列を追った説明を…」
「申し訳ありませんがこの後も予定があるので、詳細は明日ご説明します」
「多忙だァ? なに言ってンだ、あんた……」
シャカールは信じられないものを見るような目で古城戸理事を見ていた。
タキオンもまた、同じ気持ちだった。
本土からわざわざ呼び寄せておいて、小学生でもできるような簡単な説明だけ。
その状態で、お願いしますもなにもないだろう。
「私たちも暇では無いのだ。さっさと調査を終わらせて帰りたいのだがね。こうも悠長だと困るのだよ」
「申し訳ありませんが、ご理解ください」
そう言った古城戸の視線はすでに、テーブルの上にある書類に向いているようだった。
さすがにあからさまに目を向けてはいないものの、少しだけ俯いて視界に入れていることは瞭然だ。
「もういい、埒が明かねェ」
真っ先に踵を返したのは、シャカールだった。
オペラオーも面白くはなかったらしく、そのあとすぐに振り返って歩き出す。
「……これで解決できなかったと文句を言われても、私は知らないよ」
タキオンもまた、そう言い捨てて踵を返した。
理事室を出て螺旋階段に向かいながら、誰からともなく溜息がもれる。
「……で? どうすンだよ?」
シャカールの問いかけに、タキオンはひとつ頷いた。
「観光しようか、二日間」
次のフェリーが来るまで、どうせ帰れないのだから。
「待って!」
カツカツとヒールを鳴らしながら、必死の様子で五十嵐が追い縋ってきた。
さすがに古城戸の前で客を優先するわけにもいかず、理事室でいくつか仕事を片付けてから追いかけてきたのだろう。
「古城戸理事が失礼なことを。本当にごめんなさい。でも、あんな言い方だったけれど、脅迫状の中身は機密事項ばかりで口にできないのは本当なの。ごめんなさい、本当に。詳しい話はまた明日必ずするから……」
しゅん、と項垂れたその様子から、五十嵐が嘘を吐いているようには見えなかった。
タキオンは溜息を吐いた。
「……わかったよ。まず、学園を見学してみようか。観光も兼ねて、ね」
タキオンの掌返しにシャカールは少々ご立腹だったけれど、仕方がない、と呼気の強い溜息ひとつで流してくれた。
「ありがとう。よかったら、学園内を案内するわ」
孤島をまるまるひとつ使った広い学園を、案内なしで歩き回ることは得策ではない。
タキオンはふたつ返事で五十嵐に案内を任せることにした。
[newpage]
12月12日9時40分
「こっちが研究区画。研究に関する施設がまとまっている場所よ」
五十嵐が足を止めたのは、船着き場からチラリとみえた近代的な建物が集まっている場所だった。
「へぇ。自由に見て回ってもいいのかい?」
タキオンの問いかけに、五十嵐は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる。
「理事はそれなりに許してくださっているけど……研究施設は別の責任者が管理していて……」
五十嵐が言い切るよりも早く、見つけたわよ、という鋭い声が場を切り裂いた。
「ちょっと、五十嵐さん。これはいったい、どういうことなのよ」
白髪をサイドテイルにして眼鏡をかけた女性が、ものすごい剣幕で五十嵐へと詰め寄ってくる。
辛うじて触れてはいないが、このままでは胸倉を掴みあげてもおかしくはない。
「外部の人を迎え入れるだなんて、聞いていないわよ。ただでさえ情報漏洩でピリピリしている時に、いったい、なにを考えているのよッ?」
甲高い声でヒステリックに喚き散らす彼女の声は、耳に痛い。
普通の人間である五十嵐にとっても痛みを感じるレベルだったらしく、ギュッと眉が顰められた。
「きちんと理事の了承も得て来ていただいた方々です」
「そんなこと、知ったことではないわ。そもそも、外部の人間を受け入れるのなら、先に研究側の責任者である私に話を通すのが筋じゃないの? 情報を一番管理しているのは、こちらなのよ!」
「それは、申し訳ありません。ですが、今回は上層部からの情報漏洩の可能性が捨てきれないため、先に通達はしないでおこうというのが理事のお考えでして」
「私を疑っているっていうの? 信じられないわ、あなた、何様のつもり?」
「まぁ、待ちたまえ。君に知らせなかったのは五十嵐くんの一存ではなく、理事の考えだというのを聞いていなかったのかね、君は」
呆れ果てて、タキオンはつい口を挟んでしまった。
シャカールほどではないが、論理的でない口論は好まない。
「文句があるのなら、理事に直接言いに行けばいいと思うが?」
ヒステリックな女は、パクパクと口を開閉している。
どうやら、もうキンキンと煩い声は出さないようだった。
この隙に、とばかりに、五十嵐がタキオンを軽く手で示して口を開いた。
「こちらが、今回調査にご協力くださる、ウマ娘のアグネスタキオンさん、エアシャカールさん、テイエムオペラオーさんです。皆さん。こちらはニグラス学園研究施設の責任者であります、長良恵那主任です。本来であれば学園に縛り付けるのが申し訳ないほどの実績のある研究者なんですよ」
長良恵那、という名は何度か論文で見たことがあった。
どうやら、実績のある研究者、というのはただのおべっかではないらしい。
「そうか、君も研究者か。……ウマ娘の最高速度と加速がスタミナ消費に及ぼす影響について、君はどう思う?」
問いかけられた恵那は、苦虫を噛み潰したような顔をして、タキオンからサッと目を逸らした。
「とにかく、研究施設周りにはあまり近寄らせないで。この子たちがスパイじゃないなんて言いきれないでしょう? もしも施設内でこの子たちを見つけたら、即刻追い出しますから、そのつもりで」
一方的にそう言い捨てて、恵那は踵を返して去っていった。
「……残念。せっかく研究者と会ったのだから、少しくらいは会話に花が咲くと思ったのだけど」
「ごめんなさい。彼女、少し気難しい人だから」
「フム、あれだけの剣幕、なにか秘密を隠しているとボクは睨んだ」
「そりゃ大事な情報を扱っているからな……」
キリッとしたオペラオーのひとり芝居に突っ込むシャカール。
オペラオーの台詞に、いまのはトップロードくんが言いそうなセリフだな(理由はわからないが)、と海の向こうにいる仲間に思いを馳せるタキオンであった。
「副主任の音緒さんは話しやすい方だから、研究話にも花が咲くと思うわ」
五十嵐はそう言ってから、すぐに「行きましょうか」と三人に声をかけた。
少し離れたところから、四人を鋭く睨んでいる恵那に気付いたらしい。
「ギスギスしているねぇ。……殺人事件でも起きそうじゃあないか」
「アホか。それはさすがに探偵漫画の読み過ぎだ」
「ならば、その犯人役はボクが相応しい!」
とくに意に介していないタキオンたちの反応に、五十嵐は安堵と呆れの苦笑をするのであった。
[newpage]
12月12日11時20分
「やはり、違和感があるね」
生徒たちの訓練の様子を見ながら、タキオンは呟いた。
トレーナーが不在なのも大きいが、なによりも大きな差異は、ウマ娘たちの態度であるように思う。
少し昔のタキオンであれば、素直に称賛したに違いない。
最適化された、強くなる、という指標を見据えれば最適解ともいえる風景を眺める今のタキオンの胸には、賞賛と同じくらいの大きさの嫌悪感がある。
この学園では、ウマ娘たちが自身のトレーナーを兼任しているのだ。
自分を磨き上げることに、余念がない。
AIや傍にいないトレーナーはあくまでオブザーバーに過ぎず、それらが開示する情報をどう活用するかは、ウマ娘自身に委ねられているのだ。
カリキュラムも、トレーニングも、自身が必要だと思ったものを、自身で選び取っていく。
その情報だけであればまるで大学のようだが、そこには単位などの明確な目標はない。
結果を出すこと。
その結果を出し続けること。
それが、彼女たちの求める不明瞭な目標。
学園に所属するウマ娘たちが自身の理想に到達するために、ひたすら自分自身と向き合い続ける環境。
それを、ニグラス学園はこうして提供しているのだ。
見据えるのは、己の理想。
戦うのは、己の限界。
求めるのは、己の成績。
この学園でのカリキュラムに他人は必要なく、それ故、友やライバルは不要。
「これではまるで、昔の私を見ているようじゃあないか」
かつてのタキオンは、きっとこの学園でもうまくやっていけただろう。
ただひたすらに自分を高め続ける環境に、浸っていたかもしれない。
けれど。
今はトレーナーがいて、仲間がいて、ライバルがいる。
彼らがいるからこそ強くなれるのだと、今のタキオンは痛いほどに理解していた。
「……チッ、鏡を見ているようだぜ」
ぼそり、と呟いたのは、シャカール。
彼女もまた、この自然で不自然な風景に、かつての自分を重ねたのだろう。
くすり、とオペラオーが笑う。
彼女には珍しく、自嘲を溶かしたような笑みだ。
「“自分の面が曲がっているのに、鏡を責めてなんになろう“」
タキオンはオペラオーに応えるように、クスリと笑った。
思いきり、自嘲を乗せて。
「……まぁ、私とシャカールくんに鏡は似合わないだろうがねぇ」
冗談めかして話を流してしまえば、シャカールは躊躇いもなく「ちげェねェ」と言い切った。
「ところで、五十嵐くん。できれば生徒たちに少々聞きこみを行いたいのだが、構わないかい?」
「えぇ、もちろん。ただ、お願いばかりで申し訳ないけれど、あまり生徒の不安を煽るような言葉は避けてちょうだい。みんな、親元からも離れてこんな孤島にいるんだもの。あまり怖がらせたくはないわ」
「それは、もちろん。無駄に恐怖を煽るだなんて非論理的な行為は私も好まないからね。……ん? なぁ、五十嵐くん」
「なにか?」
「『彼』は、何者だい?」
「彼?」
不思議そうな顔をしてタキオンの視線の先を追った五十嵐は、すぐに「あぁ、彼ね」と頷いた。
できうる限り、スタッフを女性で固めていると聞いていたのに、グラウンドにはひとりの男性がいたのだ。
しかも、ウマ娘たちの訓練をジッとみつめているように見える。
よもや変態だろうか、とタキオンが思ってしまったのは、仕方のないことだろう。
「彼は、この学園の警備をしてくれている後藤慎一さん。ニグラス学園でゆいい……えぇっと……うん、唯一の、男性スタッフよ」
「なんだい、その歯切れの悪さは。……まぁいい。警備員なら、生徒よりも情報を持っているかもしれないな。先に少し、話をしてみようか」
五十嵐の返事も待たずに、タキオンはツカツカと歩き出した。
そのあとを、シャカールとオペラオー、それから五十嵐が追ってくる。
ほんの数歩足を進めただけだというのに、後藤はすぐに視線をタキオンへ向けた。
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【5】火種と混乱と 12月12日11時35分
「やぁやぁ、警備員くん。少し、話をお聞かせ願えるかい?」
声を張らなくても聞こえる程度まで距離を詰めてから、タキオンはそう声をかけた。
警備員の後藤は、タキオンの声掛けが意外だったのか、目をぱちくりと瞬かせた。
黒髪をオールバックにしているせいで眼光は必要以上に鋭く見えるが、そんな間の抜けた所作をすると一気に雰囲気が和らぎ、まるでマスコットキャラクターのような印象を抱かせる。
「これは、五十嵐さん。そちらは見学のお客様で?」
「突然すみません、後藤さん。こちら、今回の脅迫状の調査をお願いしたアグネスタキオンさん、エアシャカールさん、テイエムオペラオーさんです」
「おや。よく、理事と主任が許しましたね」
ぴしり、と五十嵐の顔が強張るのを、タキオンはたしかに見た。
「あぁ、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私はこの学園で警備をしています、後藤と申します。……といっても、法的に必要だから居るだけの存在ですが。実際の警備はドローンたちで事足りていますから、どちらかというと日々訓練をしたり……まぁ、まったり過ごしたりという感じですがね」
へらり、と笑ってみせた後藤に、タキオンは「ところで」と口火を切った。
「警備員もいるのに、わざわざ外部の私たちを呼んだ理由はなんなのだね、五十嵐くん。警察に相談することをためらったとしても、調査ならば彼にも可能なように思えるが?」
「そっ、それは……」
五十嵐は気拙そうに視線を地面へと落としてしまった。
対する後藤の方は、小さく笑っている。
「五十嵐さん、どうか、気を遣わないでください。……タキオンさん、でしたね。先ほど言った通り、我々は法規上配備されているというだけの、部外者にすぎません。常に余所者扱いをされているため、情報も碌に降りては来ませんよ。こんな状態で調査など無謀だと、五十嵐さんも考えられたのでしょう」
「なるほど。これは、悪いことを聞いてしまったな」
さすがに五十嵐も本人を目の前にして、彼は余所者扱いをされているから調査が難しいのだ、と言い出せなかったのだろう。
元々余所者扱いされていた人間が調査のために話を聞くのと、調査をするために連れて来られた余所者が話を聞くのとでは、話を聞かれる側の気の持ちようも異なるに違いない。
「ですので残念ながら、私は調査にご協力できるほどの話はなにひとつ持っておりませんが……代わりに。この学園の『怪異』なんてご興味ありませんか?」
「怪異?」
タキオンは怪異を信じていない。
理由は明白。
根拠がないからだ。
思わず鼻白んだタキオンに構うことなく、後藤は勝手に話を進めた。
「ここ一年ほどなのですが。……『消えるウマ娘』、という怪異が起きているのですよ」
「消えるウマ娘?」
「えぇ。消灯時間後に、夜な夜なグラウンドを走るウマ娘が目撃されています。もちろん消灯後という時間の関係で、目撃する確率が高いのは私のようなスタッフですが……、ここにいる部下のマクレーンやナイトデュークも目撃しています」
後藤が手で示したのは、先ほどまで訓練をしていたふたりのウマ娘だ。
生徒だとばかり思っていたけれど、後藤の部下となると、スタッフ寄りのウマ娘らしい。
どうやら後藤は、部下の訓練を見守っていたようだ。
変態扱いしてすまなかったな、とタキオンは内心で一度だけ後藤に謝っておいた。
「くだらねェ。単純に、夜にベッドを抜け出した生徒がいた、とかいうオチだろ?」
「もちろん、私たちもその可能性を考えました。でも、おかしいんですよ。追跡しても、すぐに見失ってしまうんです。まるで煙のように……最初からそこにいなかったかのように、姿が消えてしまうんです。……ほら、まるで怪談噺のようでしょう?」
「面白いことを言うじゃないか。この学園はドローンやブレスレットがある。監視できない場所はない……なんて都市伝説まであるくらいだ、夜のグラウンドくらい、お手の物じゃないのかい?」
「それがですねぇ。奇妙なことに、どの警備システムにも引っかからないのです」
「……なに?」
「ドローンに映像も残っていませんし、もちろん、記録にも残っていません。本当に、なにもいなかったかのように」
「ふぅン。天下のニグラス学園でそんなことが……。たしかに、それが本当なら立派な『怪異』だな」
「でしょう? もちろん、スタッフ側が見ただけであれば話題作りなんてこともあり得るでしょうが、ベッドを抜け出した生徒も何人か見ているんですよ」
「ほうほう。それは興味深い話だな」
「しかも、この島の建物はかつて大戦時、陸軍が訓練施設として使用していたものでしてね。もしかしたら、そこで亡くなった霊が彷徨っているのでは……と生徒たちの間で噂になっているんですよ」
「ふむ、孤島の学園を彷徨う亡霊か……」
生徒たちが目撃する姿なき怪異。
タキオンたちが調べている事と関係しているとは思えないが、頭の片隅に留めておくべきだろう。
シャカールもさりげなくスマートフォンで後藤との会話を記録している。
「あぁ、そういえば。あの時、生徒たちを見つけて叱ったのはあなたでしたね、五十嵐さん。普段とは違う厳しい叱責に驚いたので、よく覚えていますよ。五十嵐さんもご覧になったのではありませんか? この『怪異』を」
タキオンは五十嵐を見た。
五十嵐は少しだけ硬い表情をしているようにも見える。
「生徒たちはそう訴えていましたが、私は見ていません。防犯カメラにも映っていないようでしたし、風で揺れた木かなにかを見間違えたんでしょう。他愛もない怪談話だと考えています。……後藤さんもですよ。おかしな話で生徒の不安と好奇心を煽るのはやめてください。明らかに最近、ベッドを抜け出す生徒が多くなっています」
「あぁ、申し訳ありません。ついつい。……嘘は吐けない性分ですので」
どの口が物をいうのだろう。
タキオンは思わずこみあげた笑いを、なんとか呑みこんだ。
先ほどからなにやら思惑があって話をコントロールしている様子の後藤は、タキオンから見ると明らかな狸だ。
「とにかく! そのような与太話は今回の事件とはなんの関係もありませんし、外部の方にまでそのような根の葉もない話を浸透させないでください」
「はいはい、わかりました。……あぁ、そういえば。これは調査にも関係すると思うのですが」
そう口火を切って、後藤はニッコリと……それはもう、わざとらしいほどニッコリと笑みを浮かべてみせた。
幼子が残酷さも理解せずに小さな虫を捻り潰そうとするかのような、そんな笑顔だ。
「理事と主任の対立は、まだ続いているのですか?」
ひゅっ、と息を呑む音が響いた。
五十嵐は表情を強張らせたまま、誰がそんなことを、と嘯いた。
誰がどう見ても、動揺していることは疑いようもない声で、表情で、態度で。
いったいどうやって相手を欺こうと思ったのだろうか。
「事実無根の噂ですよ、そんなもの」
タキオンは少しだけ、違和感を覚えた。
記憶の中の五十嵐はいつだって、余裕綽々の態度だった。
タキオンよりも年上なのもあって、少しくらいの悪戯は笑って流せるだけの余裕もあったし、こんな風に動揺する姿は酷く珍しく映ったのだ。
「対立の噂、ってどういうことだ?」
シャカールの問いかけに答えたのは、五十嵐の方だった。
「理事と主任が、学園の利権を巡って対立している、という噂があるんです。もちろん、事実無根の噂ですが」
「いえいえ、根も葉もない、なんて言葉はたしかにありますが、火のない所に、なんて言葉もあります。かなり具体的な噂だったので、私としては信憑性があると思っているのですがね」
「どんな噂なんだい?」
タキオンが後藤に先を促すと、さすがにタキオンが促しているのを遮ることはできないと思ったのか、五十嵐は反論せずに黙りこんだ。
「どこでもあるような、利権争いの話ですがね。先ほど五十嵐さんが言われたように、理事と主任が学園の利権を巡って対立していて、脅迫状もどちらかじゃないか……なんて話が出ているんですよ。あくまで噂ですが、五十嵐さんは理事側の派閥、主任側の派閥には副主任がついていて、人事や予算でたびたび衝突している、とね」
「ククッ……それは興味深い話だな。まさかの呼びだした側が犯人だった、というパターンかい」
「そうですね。探偵ものの漫画では、稀にあるパターンですがね。……元々囁かれていた噂ではあるんですが、近々理事が組織改革を考えている、なんて噂が立ってからは、一気に広がりましたね。そこで主任を解任するらしい、なんて噂とセットで」
五十嵐の顔は、これでもかというほどに強張っている。
それを横目でチラリと見て、それから後藤は肩を竦めて笑った。
「あくまで、噂ですけどね」
そんな雑な念押しで、後藤は話を切り上げた。
「なるほど、それならあの剣幕も納得がいくな」
恵那が犯人でもそうでなかったとしても、古城戸が用意した外部のもの、というだけで警戒せずにはいられなかったのだろう。
もちろん、後藤が雑に念を押した「あくまで噂」をどこまで信じるかにもよるけれど。
「ありがとう、後藤くん。また聞きたいことがあったら、君を頼るかもしれない」
「ええ、いつでもどうぞ。噂話くらいしか仕入れられないでしょうがね」
後藤に背を向けて、校舎の方へと歩きながら、タキオンは思わず「相当な狸だな」とこぼした。
遠くでは後藤の部下たちが訓練を止めて、立ち去るタキオンたちへ手を振っている。それに対してオペラオーも手を振って応える。
「いや、あれは狐だろ。敵味方関係なくペテンにかけるタイプだな。ああいうタイプには気を付けろよ。掌でコロコロ転がされちまうぞ」
シャカールの言葉に、タキオンはたしかに、と認識を塗り替えた。
敵だけでなく味方も躊躇なく罠にかけそうな狡猾な雰囲気は、狸よりも狐が近いだろう。
「残念だけど、これはもう転がされたあとかもね」
手を振り終え、オペラオーが肩を竦める。
あくまで噂、という皮をかぶった、恐らくは本当の話。
恐らく本当だろう、と思ってしまっている時点で、恐らくはもう、ペテンにかけられている。
「それで? 次はどこへ赴こうかね?」
オペラオーの問いかけに、タキオンは、ふぅン、と少し考えこんだ。
できれば研究施設でも話を聞きたいが、あの剣幕の恵那が出てくると時間がかかるだろう。
ならば、生徒への聴取を優先すべきだろうか。
さてどうしようか、と頭を悩ませていたタキオンの思考を遮るように、凄まじい破裂音が遠くから聞こえてきた。
最初はスターターピストルかと思ったが、遠くの空に見える黒煙とわずかに香る焦げた匂いに、ただならぬ事態だと確信する。
「なにごとだい?」
思考を中断させられたことに若干の不満を抱きながら、タキオンが呟くのと五十嵐の端末に連絡が入るのは同時だった。
『五十嵐です。状況は?』
急に、頭の中に響くように五十嵐の声がした。
五十嵐がタキオンたちにも聞こえるように通信を共有してくれたようだ。
ウマ娘は耳の位置が人とは違うため、頭の中で響くように音が聞こえると聞いてはいたが、なんとも奇妙な気分だ。
『警備のマクレーンです。敷地内上空を巡回中の試作ドローンが一機爆発。生徒一名が負傷し、貝淵さんが対応しております。後藤隊長は音緒副主任とドローンに関して協議中。間もなく我々も現場のスタッフと合流します』
先ほどの後藤の部下であろう、若い女性の声がする。
「おいおい、マジかよ……」
シャカールが小さく呟く。
普通に生活していて、爆発なんて言葉を聞く機会はそうそうない。
『ほぉ、あの位置からもう現地に着いているのか。なかなか優秀だね』
爆発より、マクレーン達の身体能力に興味を示すタキオン。
そんな彼女の横槍に、五十嵐が「邪魔をしないで」と言わんばかりに睨みつける。
『あっ、後藤隊長と話していた方々ですね。警備ウマ娘のマクレーンです。以後お見知り置きを』
警備という堅苦しいイメージとは違い、かなりフレンドリーなウマ娘のようだ。
『……マクレーン、現場には着いたの? 生徒の容体は? 貝淵さんが応答しないわ』
五十嵐が苛立ち気味に先を促す。
睨みつけられたタキオンも両手をあげて「もうしません」と降参する。
『失礼しました! ただいま現場に到着、貝淵さんと合流します』
『生徒の状況は?』
五十嵐の顔が強張る。
『軽い擦り傷はありますが、大きな外傷はありません。軽症です!』
『……そう、良かった』
生徒が無事であったと聞いて、五十嵐の強張った表情が和らぐ。
『あと、貝淵さんは慌てて現場に来たせいで、保健室に端末を忘れたそうです』
『ハァ……。次から気をつけるように伝えて』
『承知しました! 私はこれから生徒さんを保健室へ搬送します』
『お願いするわ。何かあればまた報告して。それと、外に出ている生徒たちは安全確認ができるまで寮で待機するよう指示を……』
『そこから先は私から報告します』
五十嵐の通信を遮るように後藤が割り込んできた。
『すでに理事長から同様の指示が下りております。現在、デューク達が対応中です。それと先ほど、音緒副主任から全ドローンの一斉点検の指示が出ました。数分後にはすべてのドローンがドックへ帰投します』
『……わかりました。私は一旦爆発現場へ向かいます。ドローン収容後の警備などの対応はのちほど相談しましょう』
会話を遮られたからか、少し不満げな表情の五十嵐。
『承知しました。いくつか警備案を策定しておきます。では、失礼いたします』
そんな五十嵐の態度に意を介した風も無く、そのまま通信を切る後藤。
『では、私もこれで。よいっしょ……』
マクレーンの通信も終わる。
五十嵐も通信を終えて「ふう……」と一息入れる。
「おかげで、次に向かうところが決まったようだね。事件に導かれるだなんて、まるで本当に探偵漫画じゃないか」
「あー、まさに“春の日や、あの世この世と馬車を駆り“だね!」
「おまえ、内容を理解した上で引用してるンだよな?」
軽口とは裏腹に、三人は空に浮かぶ黒煙を見つめながら、「これはすぐに帰れそうもないな」とこの事件が簡単には終われないことを予感するのであった。
[newpage]
12月12日13時10分
爆発現場は、なんの変哲もない訓練場の一角だった。
すでに、爆発したドローンも運び出され、被害者も保健室に運ばれたあと。
ここではろくな情報も得られないだろう。
五十嵐は現場へ向かう途中に別件で呼び出されたので、一時的に別行動をとっている。
タキオンたちは取り急ぎ、保健室で被害者に話を聞くことにした。
「なあ、あの爆発と依頼された件、繋がっていると思うか?」
爆発現場から遠ざかりながら、シャカールが疑問を口にする。
「それは調べてみないとなんとも。そもそも、情報が少ない私たちではそれすらも判断しようが無い」
端末に表示される矢印の案内に従い目的地へ移動するタキオンたち。
古城戸の居た部屋とは真逆の、近代的な内装。
床は木目調で、壁は純白の白。各部屋の扉に目を向ければ、そこがどのような部屋なのか、どのような講義や研究をしているか等の情報が自動的に端末に表示される。
なかにはタキオンやシャカールの興味を惹かれる内容もあり、概要だけでも読みたかったところだが……今は先を急ぐ。
そんなふたりの葛藤をオペラオーは側から面白そうに観察する。
校舎奥にある保健室に辿りついたタキオンは、なんの気負いもなくドアを開けた。
タキオンの眼前に広がったのは、消毒液の匂いがする、極々一般的な保健室だった。
これだけ近代的な学園なのだから保健室にもなにかと最新設備が取り揃えられているだろう、と思っていたのに、拍子抜けだ。
白衣姿の保険医は、椅子に座る女子生徒の足を診察しているらしく、タキオンたちには背を向けている。
派手なピンクの髪をサイドテールでまとめた保険医は、女子生徒の足にガーゼを当ててから、ひとつ頷いて立ち上がった。
しゃがんでいたせいで気付かなかったが、保険医は見上げるような長身だった。
けれど、線が細く、ひょろりと長い印象を受ける。
「よし。これで大丈夫よ。ただの擦り傷だから、トレーニングの影響も心配しなくていいわ」
「えっ?」
「はっ?」
「おぉっ!」
保険医の声を聴いた瞬間、タキオン、シャカール、オペラオーは同時に声をあげてしまった。
保険医が発したのは、明らかに男の声だったのだ。
「あらー? ごめんなさいねぇ、気付かなくて。どこか怪我でもしちゃったのかしら?」
彫の深い顔に施された化粧は顔立ちに合っていて、たしかに似合っている。
の、だけれど。
保険医は、明らかに男だった。
「いや、怪我はしていない。この学園で起こっている事故についての調査を手伝っていてね。事故の再発防止のためにも、被害にあった娘に話を聞ければ、と思ってきたのだが」
固まるタキオンとシャカールなど気にも留めずに、オペラオーが軽快に説明する。
自己紹介をした上で、タキオンとシャカールの紹介をしてくれるほどに彼女は冷静だった。
「そうなのね。タキオンちゃん、シャカールちゃん、オペラオーちゃんっていうのね。アタシは貝淵絵美里。この学園の保険医よ。といっても、まだ赴任して半年の新入りなんだけどね」
ぱちん、と飛ばしたウィンクが、あまりにも様になっていた。
タキオンは先ほど後藤を唯一の男性スタッフだと言いきることに躊躇した五十嵐を思い出し、「なるほど」と納得した。
タキオンは、女子生徒の足を見る。
ガーゼはほつれもなく、巻かれた包帯もキツすぎず緩すぎずのちょうどいい塩梅に見える。
たいした作業には見えないが、その実、生徒への細やかな配慮が行き届いた完璧な処置に、タキオンは内心で称賛を贈る。
強烈なキャラクターではあるが、保健医としての腕前は、信頼できるようだ。
「サーチルークちゃんに話を聞きに来たのよね。手当も終わったから、本人が問題なければ……」
「構いません」
被害者らしい、サーチルークと呼ばれた女子生徒は貝淵の言葉を遮るように声を発した。
「正直、話せることは少ないと思いますが、それでもよろしければ協力させていただきます」
躊躇いもなくそう言い切ってくれたサーチルークに謝辞を伝えて、タキオンはサーチルークへ質問を開始した。
[newpage]
12月12日14時0分
サーチルークが保健室を出てから、シャカールは今し方入力したスマートフォンのメモを見て、うーん、と小さく唸った。
「収穫はなし、だな」
被害者に話を聞けたという実は成ったが、そこから収穫へは残念ながら結びつかなかった。
何故なら今回の原因は、ドローンだ。
凶器というか犯人というか微妙なところであるが、ドローンはプログラムに書きこまれた動きをするだけの、人外のシステムである。
仮に、これが人為的だったとしても、近くに犯人が居た可能性は低い。
現にサーチルークは誰の姿も見ていなかった。
訓練していた場所もとくに彼女の指定というわけではなく、狙ったのがサーチルークなのか、場所なのか、はたまた無差別だったのかは定かではない。
彼女曰く、訓練をしていたら急に空中のドローンが爆発し、驚いた拍子に転倒してしまい、擦り傷を負った。
サーチルークの言葉をまとめると、それだけの話になってしまう。
そもそも、事故か事件かもまだ定かではないのだ。
単に、故障したドローンがいつものルートを飛んでいる最中に、回路に問題が起きて爆発した、なんて可能性もある。
「それにしても、理事と主任がよく、調査なんてさせる気になったわよねぇ。アタシ、びっくりしちゃったわ」
「はっーはっはっはっ! 受け入れられたわけじゃないな。主任殿には、開口一番に自分の縄張りに近寄るなと釘を刺されてしまったよ!」
外見とテンションの差異が気にならないらしいオペラオーに貝淵の相手を任せて、タキオンとシャカールは先ほどのサーチルークとのやり取りの中になにか情報はないか、とふたりでもう一度メモを読み返してみる。
「あぁ、ひとつ、気になった点があったわ。まぁ、これは調べればわかる話だけど」
「気になった点?」
貝淵と話していたオペラオーはもちろん、タキオンとシャカールもメモから顔をあげて貝淵を見た。
「サーチルークちゃんに直接の被害がなかったところを見るに、ドローンはいつもよりも高い飛行高度を飛んでたんじゃないかしら?」
「……高い場所?」
「えぇ。いつもの高度で飛行していたとしたら、あの程度では済まないわ。それに爆発したドローンって大型なのよ。破片の散らばり方を考えても、可能性は高いわね」
「……つまり」
重々しく口を開いたタキオンに構うことなく、貝淵は軽い口調で言葉を紡ぐ。
「誰かが意図的に、被害を軽くする目的で高度を上げた、と考えられ無いかしら?」
直前でセリフを掠め取られたタキオンは、思わずガックリと項垂れてしまう。
とん、と背中に感じるのは、シャカールの手の感触か。
「爆発したドローンの破片と部品は、今はドックに保管されているわ。理事が調査をお願いした子たちなら、入れてもらえるんじゃないかしら」
研究施設の近くにあるというドックに入れる可能性は、五分五分……いや、三分七分程度だろうか。
原因究明に恵那がいたら、敗率は百パーセントまで跳ね上がるだろう。
「……まぁ、とりあえず行ってみる、か」
タキオンがそういうと、シャカールとオペラオーも仕方がない、と頷いてくれた。
「副主任の音緒ちゃんなら、きっと悪いようにはしないわ。優しい子だもの」
いってらっしゃい、と手を振って送り出してくれる貝淵に手を振り返す。
タキオンたちは恵那に見つからないように、本物の不審者のようにコソコソと、件のドックへと向かった。
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【6】混乱と敵意と 12月12日15時1分
「誰っ?」
ドックに響いた鋭い声に、タキオンたちは足を止めた。
暗いドックの中で陰になっていてよく見えないが、どうやら原因究明は恵那の仕事だったらしい。
敗率百パーセントの賭けに出るべきか悩むタキオンたちの耳に、キィ、と車輪のような音が聞こえた。
「ドックはドローンのチェックが終わるまで立ち入り禁止……あなた達は」
ようやく光の届くところまで近付いてきたのは恵那……ではなく、彼女にそっくりなショートカットの女性だった。
足が不自由なのか、『車椅子』に座っている。
けれどなによりも目を引いたのは、その顔立ちだった。
先ほどの声もそうだが、余りにも恵那に似すぎている。
呆けて固まるタキオンたちに構わず、彼女は三人の顔を順々に見つめて、なにかを確認するように数秒間、目を閉じた。
「……見慣れない顔ですね。調査のために理事が呼んだウマ娘とは、あなた達のことですか」
「生徒の顔は全員覚えているってか?」
見慣れないから部外者か、という言い方を選んだ彼女にシャカールは噛みつくが、彼女はさも当然のように「もちろん」と答えた。
「管理する側が把握していないと、どうにもならないでしょう? すべて把握していますよ、私は」
私は、という言葉が、厭味だったのか、ただの補足だったのかはわからない。
理事や主任たちが把握していないのであれば、厭味の可能性が飛躍的に上がるけれど。
「私は副主任の長良音緒と申します」
「長良……? と、いうことは主任の長良恵那氏の……?」
「妹です、双子の」
双子と聞いて、タキオンも納得がいった。
たしかに他人だと言われても絶対に信じられないくらいに、ふたりは似ていた。
ただ、服装や髪形、眼鏡で印象を変えているのか、見分けることはできる。
ふたりのテンションの違いもあるかもしれないが。
「紹介が遅れてすまなかった。私は……」
「自己紹介は結構。私は主任と違って、事前に説明を受けていましたから。よろしくお願いいたします。アグネスタキオンさん、エアシャカールさん、テイエムオペラオーさん」
——誰が優しい子だって?
敵意満載で睨みつけられたタキオンは、芝居がかった所作で「ご存じならば話が早い」とおどけて見せながら、内心で吐き捨てた。
「いかにも。私たちは理事に呼ばれて脅迫事件の調査に来たものだ。別に、探偵というわけではないのだがね」
そんなふざけた態度を取ってみせても、音緒はクスリともしなかった。
「さて。早々に本題に入らせていただくが、今回の事故原因はわかったのかい?」
音緒はギロリとタキオンを睨みつけた。
不思議なことに、彼女の視線はタキオンに固定されており、一緒にいるシャカールとオペラオーのことは睨もうともしていないように思える。
「……もう少し詳しく調べてみないと爆発した原因まではわかりませんが……事故ではなく、人為的な事件である可能性が少なからずあります」
「……随分、あっさりと私たちに教えてくれるのだね。もしも恵那主任なら『あなた達には関係ない』の一点張りで追い出そうとしていただろう」
「双子とはいえ、姉とは別個の人間です、私は。それに、あなた達は理事が事件解決のためにお呼びしたんでしょう? ならば、情報提供をするのは当然では?」
「まァ、たしかにな。最初からそうしてくれると、こっちも助かったンだがよ」
厭味交じりのシャカールの言葉に、音緒は軽い一礼で応えた。
ギスギスとした学園内の雰囲気を知っていてなお、無関係を装うように。
「今回爆発したドローンは、運の悪いことに大型のものでした。防犯用というより、レース中に負傷したウマ娘の応急処置を行いながら、迅速に病院へ搬送することを目的とした個体です。まだ常用はされておらず、試験運用中でした。……この爆発が人為的に行われたのであれば、使用頻度、大きさによる破壊力などにより、選ばれたことにも納得がいきます」
「ちなみに何故、人為的な事件の可能性があると?」
タキオンの問いかけに、シャカールからタキオンへ視線の向きを変えた音緒は、その瞬間に目つきを剣呑なものへと変えた。
彼女は意図して、タキオンだけを睨み続けているのだ。
「破壊されていなかったストレージを覗いてみたところ、仕様にはないコードが見つかりました。誰かが書き換えた可能性があります。しかし、これが原因かどうかは、これからハード面も含め、詳細に調べてみなければわかりません」
理論的なその考え方はとても好ましいと思ったけれど、だからこそ、初対面のはずのタキオンだけを睨み続けるという理論的ではない行為の意味がわからない。
「……そうか。ちなみに、もし。もしもの話だ」
タキオンの前置きに、音緒は少しだけ嫌そうな顔をした。
シャカールと同じように、もしも、という不確定な話が嫌いなのかもしれない。
「もしも書き換えられたコードが原因で事故が起きていたとしたら……考えられる、目的はなにかあるかな?」
相変わらず音緒はタキオンを睨みつけているが、質問に答えてくれるつもりはあるらしい。
少しだけ考えるように間をあけて、彼女は口を開いた。
「警告……いいえ、最終通告かもしれない」
「何に対する、だい?」
「今朝届いた、新しい脅迫状よ」
「……話の腰を折ってすまない。あえて当たり前と思われることを聞いてみるが、脅迫状とは……手紙、で間違いないかい?」
「え、えぇ。普通の封筒に入った便箋よ。理事に見せてもらっていないの?」
「残念ながら、機密に触れるため見せられないと。現物に触れるどころか、見ることすらできていないから、存在すら怪しんでいたんだよ。色や柄なんかもわかれば教えていただきたいのだが?」
思わぬタキオンの質問攻めに、音緒は動揺しながらも、思い出すようにゆっくりと答えてくれた。
「柄はなくて……無地よ。色は、普通に白色……といっても、なんていうのかしら、真っ白ではなくて……薄いクリーム色、といって伝わるかしら?」
「ふぅン、なるほど。それが私たちと同じ船に乗ってこの島に上陸した可能性がある、というわけか」
二日に一度の定期便には、島内へ届ける郵便物も一緒に乗せられていた。
脅迫状絡みとはその時点で聞かされていなかったから、それほどマジマジとは見なかったけれど。
「無地のクリーム色……ねぇ。見た覚えはあるかい、シャカールくん、オペラオーくん」
「さぁねぇ? ボクたちも、そんなにはっきり見たわけじゃないし……」
「オレも。だが……無地の封筒は軒並み茶色だった気がするぞ? 学園宛なんだから当たり前だと、スルーしたけどな」
さすが、ともに実験(悪だくみ)に勤しむ仲間たち。
深くを語らずともタキオンの狙いを読み取って、最高の答えを返してくれた。
さすがの鉄面皮も少しくらいは動揺するかと期待をこめて見た先で、音緒は「早くこの茶番終わらないかしら」とでも言いたげな無表情でタキオンたちを見ていた。
「クリーム色の封筒なんてありふれていますし、見落とされたのでは? そんなことよりも、そろそろ原因究明のための解析をしますので席を外していただけるとありがたいのですが」
「あぁ、忙しいところ、すまなかったな。最後に、ひとつだけ。こちらが話の腰を折っておいて申し訳ないのだが、少しだけ、話を戻しても構わないかい? ドローンの爆発は、なんの警告だと?」
「あぁ、そういう話でしたね。新しい脅迫状には、こうありました。『……事実を公表しなければ、実力行使にでる』と。ドローンの爆発が実力行使だとすれば、事実を公表しなかったことに対する警告であり、最終通告であると言えるでしょう」
古城戸も五十嵐も教えてくれなかった脅迫状の内容の片鱗を唐突に知らされて、タキオンはしばし呆けた。
「その『事実』ってェのは?」
呆けるタキオンに構うことなく、シャカールがさらに音緒を問い詰める。
「そこまでは。私が機密を喋るわけにはいかないので。ただ、この学園の研究にかかわること、とだけはお伝えしておきましょう」
「……そうか。忙しいところをありがとう。これで失礼するよ」
「えぇ。では、私もこれで」
ぺこ、と座ったまま礼をした音緒は、器用に車椅子を操って方向転換し、そのまま振り返ることもなくドックの奥へと進んでいった。
やがて、完全に光の届かない場所へと車椅子が消えていく。
「一度、五十嵐くんと合流しようか。なにか、情報が見つかっているかもしれないしね」
車椅子が完全に見えなくなってから、三人も踵を返し、ドックを出た。
「それにしても。彼女はタキオンさんに、並々ならぬ敵意があるらしい。……もちろん、気付いていただろう?」
歩き出しながら問いかけてきたオペラオーに、タキオンは頷いた。
「あれだけ睨まれていて気付かないほど、鈍くはないつもりだよ。……理由までは、わからないけれど」
「初対面だろう、もちろん?」
「あぁ、そうだね。素知らぬ間に恨みを買うことなど、あるわけが……うーん」
「ボクにはタキオンさんに嫉妬しているように見えたけどね」
「嫉妬、ねぇ」
同じ研究者同士、もしかしたら研究内容が被っていて、タキオンが先に論文を発表してしまって妬まれた、という可能性もなくは無い。
かといって、あそこまで敵意満載の目で見られる謂れはないのだけど。
「まぁ、いい。揺さぶりをかけたつもりだったのだが、軽くいなされてしまったな」
「あァ。それで? 郵便物にクリーム色の封筒、あったのかよ?」
「あったよ。クリーム色の封筒は、ね。裏返っていたから、無地かどうかはわからないがね」
「でも、おかしいな。今朝受け取った手紙、それも脅迫状なんて印象に残るもの。……わざわざ目を閉じて集中してまで考えこまなくても覚えているもンだろ?」
「私も、そこは疑問だったよ。でも、もしかしたら逆じゃないか、と思ったんだ」
「逆?」
「脅迫状を思い出そうとしたんじゃない。今日、外から送られてきたなんらかの手紙の外観を思い出そうとしたんだ、とね」
なるほど、とオペラオーは頷いた。
シャカールも、なるほどな、と呟く。
「それなら、納得できる。脅迫状が外から送られたものだと錯覚させるために、あえて外から送られた中で目立ちそうな色をあげた、ってところか」
「あぁ、多分ね。クリーム色の封筒、というのがもし嘘だとしたら。……犯人は、学園の関係者である可能性が高いだろう」
「内部犯とは、穏やかじゃあないね」
「わざわざ嘘を吐くってことは、彼女は犯人を知っていて、庇っている可能性もあるね。……まぁ、もちろん、嘘だったら、の話なんだけどね」
「チッ、不確定要素の多い話は聞いていて嫌になる」
「まぁまぁ。証拠を集めて不確定要素を潰していくのが、捜査の醍醐味じゃないか」
「どうしたんだい、オペラオーくん。まるで探偵のようじゃないか」
「せっかく探偵の真似事をしているのだからね。どうせならば、骨の髄まで演じ切ってみようかと」
ははっ、と楽し気に笑うオペラオーに合わせて、タキオンも笑った。
「なら、とりあえずひとつずつ、不確定要素を潰していこうか」
正直な話、まだなんの手立てもないのだけど。
[newpage]
12月12日16時10分
端末で連絡してみると、五十嵐は防犯室で防犯カメラの監視と職員への指示を行っているらしい。
タキオンたちは、五十嵐の仕事を手伝うため、彼女がいる防犯室を目指し、人気のない廊下を歩いていた。
他の職員たちはその職務を問わず、全員が一斉に施設内に不審物がないかの捜索行っているため、人手が足りないらしい。
「それにしても、いいのかァ? オレら、一応部外者だろ?」
「一応もなにも、純然たる部外者だよ、私たちは。しかしながら、犯人は学内の人間である可能性が高い。ならば、外部の人間である私たちにも監視の協力をさせよう、といったところかねぇ。部外者だというだけで、疑いは晴れるのだろう」
「あー、腑に落ちねェな。やろうと思えば外部犯でも可能だろ? だからこそ、あの女も外部犯の存在を仄めかそうとしたわけだし。にもかかわらず、防犯室にまで招き入れるか、普通?」
「シャカールくんは、『裏』があると?」
「言い切るつもりはないけどな。……話が美味すぎるンだよ、不愉快なぐらいによぉ」
「そうだねぇ。事実、これまでは情報漏洩と脅迫状のみの問題だったはずが、私たちが来てから唐突に事態が進展している。まぁ、単に偶然が重なっただけ、なんてことも考えられるがね」
「そんな偶然、あり得るか?」
「先入観を持っちゃいけないよ。もしも私たちが何者かに調査を操作されているとして、だ」
「駄洒落か」
「ふむ。そんなつもりはなかったのだがね。まぁ、とにかく。偶然などありえない、という先入観を持っていると、本当に偶然だった場合に先入観のせいでひらめきがなくなってしまうかもしれないだろう? 研究者たるもの、いつだってフラットな感性でいなければね」
「今のオレたちは、研究者っていうより思いっきり探偵だろうが」
「まぁ、そうともいうね。でも、探偵だってフラットな感性は大切だろう? とにかく、防犯室へ急ごう。こんな最先端技術の詰まった防犯カメラの映像なんて、ここでしか見られないぞ」
どちらかというと研究者としての探求心が表に出かけているタキオンに嘆息して、シャカールとオペラオーはズンズンと突き進んでいくタキオンの背中を追っていた。
端末のナビにより、迷うことなく防犯室の前に辿りついた。
なんの表札もない部屋のドアをノックすると、中から「タキオン?」という五十嵐の声が聞こえた。
「……私からの呼び方を指定しておいて、君はいったいどういうつもりなんだい、五十嵐くん?」
わざとらしくドアを開けながらあてこすってやると、五十嵐はバツが悪そうに肩を竦めた。
「ごめんなさい、タキオンさん」
防犯室は、壁という壁がすべて、モニターに覆われた部屋だった。
そのすべてに、別々の場所が映っている。
「普段はドローンの撮影している映像が映っているのだけど、今はすべてのドローンを一斉検査しているから、定点カメラの映像に切り替わっているわ。私は現場の職員へ指示を出すから、あなた達はここでカメラ映像を見て不審物や不審者がいないかを確認して頂戴」
「あぁ、わかったよ。ひとり一面ずつの監視で構わないだろう? 私がこちらを担当しよう」
タキオンは迷いなく、入り口から見て対面にあたる壁へと向かった。
一番ディスプレイの数が多い壁だ。
「ははっ。さすが、タキオンさんは格好いいねぇ」
にまり、と笑いながらも、オペラオーが選んだのは二番目にディスプレイの数が多い壁だ。
険のある溜息とともに、シャカールは二番目にディスプレイの数が少ない壁を選ぶ。
一番ディスプレイが少ない入り口側の壁を担当するのは、必然的に五十嵐となった。
体力も動体視力も、人間よりもウマ娘の方が圧倒的に優れている。
「ありがとう」
「別に」
素直な謝辞に、タキオンは素直ではない言葉を返す。
「それにしても、私たちがいなかったらひとりで担当することになっていたのかい? それはさすがに無茶だと思うがね」
「そうね。でも、人手不足は仕方がないことだから」
いくら人手不足だとはいえ、ひとりでこの仕事がこなせるとは思えない。
誰かが嵌めようとしているのではないだろうか……なんて。
少々、穿った見方をしすぎだろうか。
[newpage]
12月12日17時50分
学内の一斉点検は、恙なく進んでいるようだった。
点検で不審物などは見つからず、防犯カメラを見ているタキオンたちの方でも、とくに不審点は見つからなかった。
「五十嵐です。職員による学内の一斉点検が終了しました」
最後の職員から担当エリアの確認終了の連絡をもらってすぐに、五十嵐は端末を古城戸に繋いで報告する。
『わかりました。私は最後に工事区画へ向かいます』
意外だったのは、古城戸が現地へ参加していることであった。
「承知しました。気をつけください」
古城戸は監視カメラに手を振って応えると、背を向けて歩き出した。
「まさか彼女も参加していたとはね。それも指示する側ではなく、される側に回るとは」
「別に珍しくないわ。理事はこういう事態に、ああして自ら率先して現場へ向かう方なのよ」
「なるほど。あれは生徒へのポイント稼ぎか。ご苦労なことだ」
先ほどの理事の対応を根に持っているのか、画面に映る古城戸を皮肉るタキオン。
「その言い方、好きじゃない」
「……すまなかった。ところで工事区画とは?」
咎められたタキオンは話題を変えた。
五十嵐は入口側の左上にあるディスプレイを指差して、これよ、と答えた。
左上五枚のディスプレイに、呼び名の通り工事現場のような映像が映っている。
足場で囲まれている建物はブルーシートによりよく見えないが、近代的な出で立ちから研究施設だろう、とあたりをつける。
一番左のディスプレイに古城戸の姿が映った。
足場の回りを回って、不審物がないかのチェックをしているらしい。
三枚目のディスプレイに足場への入り口が映っているから、そこまでは外を歩くのだろう。
古城戸の姿が、二枚目のディスプレイに、そして三枚目のディスプレイへと移動していく。
そして、足場の入り口に片足をかけた、瞬間。
突如としてバランスを失ったように、足場が崩れ落ちた。
「〜〜ッ⁉︎」
五十嵐が口元を押さえて声にならない悲鳴をあげる。
タキオンもさすがに息を呑んで画面を注視する。
五十嵐が震える手で端末を操作する。
「ご、ごごご後藤さん! こ、ここ、工事区画であ、足場が崩落! 古城戸理事が崩落に巻きこまれた可能性があります! 至急、大至急、救護班を! 私も向かいます!」
五十嵐は狼狽しながらそう言い捨てて、防犯室を飛び出した。
「ちょ、由美!」
即座に、タキオンたちもその背を追う。
「おい、オレたちは先に行く!」
「あぁ、任せたよ! シャカールくん、オペラオーくん!」
タキオンが言い終えるかどうかのタイミングで、シャカールとオペラオーが走る速度を上げた。
ふたりは人間を超えるスピードで五十嵐を追い越し、あっという間に視界から消えてしまった。
タキオンは五十嵐を残していくわけもいかず、歩調を合わせる。
「まったく。ただの脅迫事件の調査だったはずなのだがね」
そう茶化したタキオンの顔は、さすがに少し強張っていた。
目の前で鉄の塊が人に降りかかる瞬間を見たのだから、仕方がない。
あれだけ隙間なく降ってきたのだ。
最悪の事態も考えられる。
「えぇ。私も、ただの脅迫事件の調査を依頼したつもりだったわ。もちろん、理事もね」
五十嵐の言葉に、タキオンは肩を竦めて「仕方がない」と呟いた。
「何故か探偵が現れたタイミングで犯罪が激化するのは、もはや使い古された『お約束』だからね」
タキオンだって、目の前で人が怪我をすればそれなりに動揺する。
だが、元来タキオンは、狼狽えているところや、困っているところを人に見せることを良しとしない。
結果として、いつも通りを演出するために茶化すような言葉を選んでしまった。
こんな時にふざけるな、と叱責されてもおかしくないような言葉遣いだったにもかかわらず、五十嵐は怒らなかった。
それは、タキオンがいつも通りのテンションを守るためにそういう話題と言葉を選んだことに気付いているからだろう。
本当に、勘弁してほしい。
もう気にしてなんかいないはずなのに、こんな、ふとした瞬間に、かつての絆を思い出させるようなこと。
『タキオンさん』
頭の中にオペラオーの声がする。
『そっちの状況は?』
『理事は無事だ。足場の崩れた規模の割に、建物への被害は少ないし、怪我人もいない。安心して向かってくれたまえ』
『……ありがとう、恩に着るよ』
通信を切断したタキオンは、今の連絡内容を五十嵐へと伝えた。
よかった、と小さく呟いた五十嵐は、少しだけ、走る速度を緩める。
タキオンにしてみれば、早歩きをするのと大差ない程度の速度だったけれど、五十嵐にしては辛いほどの速度で走っていたらしい。
はぁはぁ、と荒い呼吸をこぼし、脇腹を撫で擦りながらも、五十嵐は足を止めない。
タキオンにしてみれば、ついに普通に歩くのと変わらないほどの速度になってしまったけれど、それでも走り続けている。
いっそ、担いでしまおうか? と提案しようと口を開きかける。
「由美……」
その時、今の自分と彼女の関係を思い出す。
彼女は自分を捨てたのだ。
もう彼女は自分のトレーナーでは無い。
無意識に、何も身につけていない彼女の手首を見る。
——あのブレスレットはどうしたんだい?
昔あった筈の絆は……もう何処にも無い。
わかっていた。もう彼女との関係は終わっていたのだ。
その事実を直視するのが辛かった。
「どうしたの、タキオン?」
「いや、まだ考えがまとまら無くてね。また後で話すよ」
込み上げた黒い感情を押し留め、平静を装う。
「昔の癖が出てるわよ。気をつけて」
「はいはい、悪かったよ」
昔の、という言葉に、少しだけ嬉しさを感じてしまう。
そんな単純な自分に呆れてしまう。
どう取り繕っても、自分にとって彼女との思い出はかけがえの無いものなのだろう。
それは今も依然変わらず。
——なら、由美はあの日々をどう思っているんだろう?
必死に走る五十嵐の背中を見つめながら、タキオンは疑問を口にしようとするが、目的地が見えても口を開くことはなかった。
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