ナナリーの令嬢修業 (露草ツグミ)
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物語前夜 初めての花渡し
0-1. 花神(タレイア)


ナナリーとロックマンが両想いになってから初めての|花神≪タレイア≫祭と、ナナリーが初めて祝うロックマンの誕生日。どんな風に二人は過ごすのでしょうか?
今回は花の季節二月目初日、花神祭当日(午前十時ころ)のお話。

番外編だったのですが、ハーメルンでは第0話として本編に組み込むことにしました。




 

 ぽかぽかとした暖かな日差しが降り注ぎ、南風が吹いて花が舞い散る。花の季節二月目初日。ドーランは花神(タレイア)祭の喧騒(けんそう)に包まれていた。

 ナナリーは人気のないハーレの前庭にしゃがみこんで花を摘んでいる。心地良い風が頬を撫でて、水色の髪がふわっとふくらんだ。

 ハーレの白い制服の肩に花びらではなく花が落ちてきた。見上げれば空から花が降ってきている。赤、白、薄紅色、黄色……。降ってきた花は地面に落ちることなくふわふわとナナリーの周りを漂っている。

 

「ハーレの受付のお姉さん」

 

 ナナリーは肩に載っていた花を手に取って立ち上がった。ハーレの前庭に黒いリュンクスから降り立った男性を認めると、頬がほんのり赤く染まってくる。

 

「ロックマン」

「君が花を摘んでいるところを初めて見たよ」

「ハーレに飾ろうと思って」

 

 ロックマンが指を振ると、ふわふわ浮いていた色とりどりの花がロックマンの手の中に集まってくる。しゅるっとリボンが巻かれて花束ができあがった。

 

「じゃあ、これも一緒に飾って?」

 

 ナナリーはロックマンの手によって作られた花束を受け取る。

 ロックマンの前髪はいつもより短めでさっぱりしていた。長い金髪は頭の後ろで一つにまとめられており、毛先が切りそろえられている。今日の花神(タレイア)祭では主に王族の護衛を担うと聞いている。見た目を考えて髪を整えたのだろう。

 

「これは君に」

 

 騎士服の胸につけていた赤いキュピレットの花を抜いてナナリーに手渡した。騎士団全員に配られる国王陛下のお気遣(きづか)いのキュピレットだ。

 

「……私に? でも、もらっていいの?」

「もちろん」

「あの、私、今キュピレット持ってなくて……」

「気にしないで。僕は勤務中に花はもらわないことにしているから」

 

 そういえばそうだった。一人の女性から花をもらったら最後、ロックマンは花まみれになってしまうだろう。

 

「明日の約束……覚えてるよね?」

「え? あ、うん、ちゃんと覚えてる」

「よかった。じゃあ、また明日」

 

 ロックマンは手を振ると、黒いリュンクスのユーリに飛び乗った。

 

「ま、待って! ロックマン!!」

 

 ナナリーは摘んだばかりの花の中から赤い花を選んで魔法でロックマンの手元に飛ばした。

 

「ありがとう」

 

 柔らかく笑ったロックマンが空を滑りあがっていく。ナナリーは黒いリュンクスが見えなくなるまで、花びらが舞う空を見上げていた。

 

 

「ナナリー、よかったじゃない~」

「さすが隊長さんね~! こんなに早く隊長さんのキュピレットがなくなってると知った女たちの顔が見てみたいわ」

「所長! ゾゾさん!」

 

 ハーレの扉を少し開けてゾゾさんと所長の顔が覗いていた。花神祭は破魔士も仕事をしないのでハーレは開店休業になるが、毎年所長とアルケスさんがお留守番をしている。今年は所長のご指名でナナリーもお留守番だ。ゾゾさんはアルケスさんと一緒にお昼ご飯を買いに行くと言ってハーレに来ている。

 

「なななな何してるんですか!?」

「うふふふ。で、明日デートの約束をしてるのね?」

「デ、デ、デートなんかじゃないですよ!? ご飯を一緒に食べに行くだけです!!」

「それがデートでしょ? いいかげん恋人だって認めたらどう?」

「そうよ~。明日会う約束してるのに、なんでわざわざ今日キュピレットの花をナナリーに渡しに来たと思う?」

「そ、それは……」

「花神祭当日にナナリーに花を渡したかったからでしょう?」

「そうそう! それに、『自分には恋人がいます』って隊長さんに群がる女どもに知らしめるためよね」

 

 ナナリーの顔がますます赤くなっていく。ゾゾさんと所長の視線から逃れるように花束に顔をうずめた。

 



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0-2. 一日遅れの花神(タレイア)祭デート①

 

 耳から上の髪を頭の後ろでゆるく一つに結ぶ。結び目の上部に分け目を作り、結び目をくるっと回して分け目に差し入れる。

 ナナリーは鏡を二枚使って頭の後ろを確認した。ふんわりねじった感じが、やや癖のある水色の髪に似合っている。簡単だが可愛らしい結び方だとベンジャミンに教わり、何度も練習した甲斐あって上手くできた。

 

 花神(タレイア)祭の夜、ナナリーはベンジャミンとサタナースの家に遊びに行った。ナナリーの両親はまだ海の国から帰っておらず、ベンジャミンが一緒に過ごそうと誘ってくれたのだ。

 貴族の仲間入りをしたニケは王宮晩餐会に招待されていたが、社交よりも仕事のほうがマシだと言って王宮の警護を希望した。マリスはもちろん王宮晩餐会に出席していた。

 ロックマンは例年通りに王宮晩餐会の警護兼社交である。サタナースは破魔士の友達と飲みに行っていた。

 

 ベンジャミンはナナリーが帰る際に寮まで送ってくれて、おまけにロックマンと会うときの服や髪型を指導して帰っていった。

 

 ナナリーはテーブルの上に置かれた花を横目に見た。ロックマンにもらったキュピレットの花が花瓶に生けられ、色とりどりの花束は籠に飾ってある。

 ハーレに飾って欲しいと渡された花束だが、所長たちが断固拒否したため、ナナリーの自室に飾られることとなった。キュピレット以外の花には永久保存の魔法をかけてある。

 

 ナナリーは何度かためらって、しかし、えいやっと花束から黄色の花を一本取ると髪のねじり目に差し込んだ。

 

 昨日の朝一番で買っておいた赤いキュピレットの花と、ロックマンの誕生日プレゼントの入った紙袋を持って寮を出た。道のあちこちに花が落ちている。花神祭の名残が感じられる、少し気怠い午後だった。

 

 ロックマンは夜遅くまで仕事だったから今日は遅めの時間に約束をしている。にもかかわらず、早めに待ち合わせ場所に着いたナナリーよりも先にロックマンが来ていた。平民が着るような綿の生成りのシャツを着て、明るい紺色のズボンを穿いている。髪は昨日と同じで後ろで一つに結んである。

 

「早いね」

「ロックマンの方が早いじゃない」

「君を一人で待たせるのは嫌だから」

「今度こそ私の方が早いと思ったのに」

 

 これでは遅い時間に約束をした意味がないではないか。ロックマンの体調を気遣っているのに、いいかげん働き過ぎだと自覚して欲しい。ナナリーは視線を下げて軽く口を尖らせた。

 

「……次は寮まで迎えに行こうかな」

「え?」

 

 予想外のことをロックマンが口走ったので顔を上げると、彼は顎に手をやってじっとナナリーを見つめている。ナナリーの頬に熱が集まってくる。視線を避けるように片手を顔の前にかざし、慌てて斜め横を向いた。

 

「や、やっぱり変!? ベンジャミンの服を借りたの!」

 

 ナナリーは自分の服を見下ろす。肘までの長さのふんわりした袖と大きな襟の白いブラウスに、膝下丈のえんじ色のフレアースカートを合わせている。白いブラウスは花の季節に自分で買ったものだが、スカートはベンジャミンが貸してくれた。ウエストを太めのリボンで結んでサイズが調節できる。

 

 魔法学校の一年生時に髪の色が変わって以来、ナナリーは赤い服をほとんど着たことがなかった。赤い服といえばマリスやベンジャミンの勝負服だ。水色の髪のナナリーに合うとは思っていなかったのだ。ベンジャミンに勧められて着てみたものの、慣れない色の服ははっきり言って落ち着かない。

 

「変じゃないよ。すごく可愛いよ。可愛すぎて……困ったな」

 

 ロックマンが溜息を吐いた。

 

 何が困るというのだろう。こっちこそ、目のやり場がなくて困っている。暑いせいか、ロックマンはシャツの襟元をくつろげて、ナナリーよりもなお白い肌が首から鎖骨の下、肋骨のあたりまで見えている。

 

 ロックマンが肌を見せる服装をするのは珍しい。たいてい首まで詰まった騎士服や隊服を着ているし、貴族の私服はシャツのボタンを上まできっちり留めて、リボンタイやクラバット(スカーフのようなタイ)を締めているものだ。

 

 セレイナでも似たような格好をしていたけれど、あのときは気にならなかった。ナナリーもセレイナの民族衣装で肌を出していたし、一緒にいた皆も薄着だったからだろうか。

 それをいうならオルキニスの身代わり瀕死事件のときはほとんど上半身裸だったではないか。いやいや、あのときは瀕死だったからそんなことを気にする暇はなかったのだ。

 

 私は一体ロックマンの服装の何を気にしているのか? ナナリーは熱い頬をペチペチ叩いた。暑さで逆上せてしまったのだ、きっとそうに決まっている。

 

 ナナリーはぶんぶんと大きく首を振って、頭の中のもやもやを振り払った。その拍子に髪に飾っていた黄色の花がはらりと落ちた。ロックマンが落ちた花を拾って、元のようにナナリーの髪に差してくれる。

 

「僕があげた花?」

「綺麗だったから……」

「似合ってるよ。嬉しいな」

 

 ナナリーは顔を上げられず、ロックマンの指が髪を撫でる感触が伝わってきて胸のドキドキが止まらなかった。

 

 

     *

 

 

 ナナリーはひどく喉が渇いてしまい、お店に入って席に着くと運ばれてきたお水をごくごく飲んだ。水が冷たくて美味しい。グラスに頬を当てるとひんやりして気持ちがよかった。はぁ~と息をつく。

 

 頬を冷やしたまま目をつぶっていたらロックマンの視線を感じた。いけない、これではまるで酔っぱらいではないか。

 あわててメニュー表を開いて料理名とにらめっこする。

 

「遅い時間だからお腹空いてるでしょ?」

「朝ごはんを遅めにしたから大丈夫。昨夜はベンジャミンの家に遅くまでお邪魔しちゃったし」

「サタナースも一緒だったの?」

「ううん。私が帰るときに入れ違いに帰ってきたよ。サタナースの奴、遅くまでベンジャミンをほったらかして……」

 

 喋りながら、またもやロックマンから見られている気がする。チラッとメニュー表越しに窺うと、眼鏡の奥の赤い瞳と目が合った。ナナリーはすぐさまメニュー表に視線を落とした。

 

 正面に座っているから仕方ないけど、あまりこっちを見ないで欲しい。

 

「何を頼むか決まった?」

「え、えっと、ちょっと待って……」

 

 赤くなったのがばれないようにメニュー表で顔を隠した。恥ずかしい。自意識過剰にも程がある。なかなか注文を決めないから、無言で催促されていただけではないか。

 焦っているのに料理の名前が頭の中を素通りしていく。どうしよう、早く決めなきゃ。

 

「昨日は……」

「はいぃぃぃ!?」

「昨日、ハーレは何も問題なかった?」

「問題? ハーレで?」

 

 確かに問題はあった。花神(タレイア)祭だというのに、ソレーユ地のハーレの近くで魔物が出没して軽い騒ぎが起きた。けれども大した魔物ではなかったので、所長とアルケスさんが退治してあっさり終わった。魔物に関して騎士団とハーレは協力しているが、外で職務上の話を勝手にするのはよくないだろう。

 

 ……それとも、騎士団の隊長のロックマンには話したほうがいいのだろうか? ナナリーはどう答えるべきかわからなくなって押し黙る。

 

「ごめん、言い方が悪かったね。仕事の話はしなくていいよ。君が何も問題なかったなら別にいいんだ」

「私? 私は何も問題なかったと思うけど……。破魔士も依頼人も来ないから、所長とたくさん話ができたし、魔法も教えてもらったの。来年もお留守番がいいって思ったくらい」

 

 ハーレの話をしたら頭のもやもやがすっきり晴れた。メニュー表の文字も読み取れる。ナナリーは、おすすめ料理の兎鳥のから揚げ定食を頼んだ。

 

 料理を注文してしまうと会話が途切れてしまった。ロックマンとの間に慣れない空気が流れている。ロックマンをまともに見ることできなくて、ちらちらと盗み見るだけで喉が渇くような感じがするのだ。

 

 頬杖をついたロックマンは優雅なものだ。ナナリーは落ち着かなくて窓の外を見たり膝の上で手を握ったりしていた。黙っているよりは何か喋った方がいい気がする。

 

「……ロックマンは大変だったと聞いたけど?」

「僕?」

 

 夕方、ハーレに寄ったチーナたちから聞いたのだ。花神(タレイア)祭のお昼前、ロックマンがナナリーに花を渡しにハーレに来た後のことである。

 王族の馬車と天馬に乗った護衛の騎士たちが街の上空に現れた。護衛の一人であるロックマンの胸にキュピレットがないことに気づいた女性たちが悲鳴を上げて、王都は一時騒然となったらしい。しかも王族の馬車は地方の主要都市も廻るので、同じような光景が国中のあちこちで見られたそうだ。

 

 ベンジャミンも開口一番にロックマンのキュピレットについてナナリーに訊いてきた。

 

「その、キュピレットを胸に差してなかったから、騒ぎになったって……」

「ああ、そのことか。うん、まあ少し騒ぎになっていたね」

 

 ロックマンは全然気にしていないようだ。女性に騒がれるのは慣れているとはいえ、キュピレットの花を胸に差していなかっただけで国中で大騒ぎになるなんて。わざわざ仕事の前にハーレに来なくとも良かったのではないかとナナリーは思ってしまう。

 

 ──花神祭当日にナナリーに花を渡したかったからでしょう?

 ──『自分には恋人がいます』って隊長さんに群がる女どもに知らしめるためよね。

 

 所長とゾゾさんの言葉を思い出し、ナナリーは水のグラスに手を伸ばした。

 



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0-3. 一日遅れの花神(タレイア)祭デート②

 

 ナナリーのグラスはすぐに空っぽになってしまった。すると、スッとナナリーの前に水の入ったグラスが差し出される。

 

「どうぞ。僕はまだ飲んでいないから」

「あ、ありが……」

「水のおかわりをもらおう」

 

 ロックマンがお店の人を呼ぶ。その横顔をナナリーは見つめた。高い鼻梁(びりょう)に銀縁の眼鏡が似合っている。抜けるような白い肌に映える蜂蜜色の髪。耳から顎のラインがすっきりしていてとても綺麗だ。

 

 ナナリーはハッとして、大事なことを忘れていたと気づく。

 ロックマンから見えないように紙袋を膝の上に置き、縮小魔法で小さくしてあったキュピレットを元の大きさに戻す。赤いキュピレットは薄い半透明の紙でくるんでリボンを結んである。

 数回深呼吸をして息を整えてから、バッと顔を上げてキュピレットの花と誕生日プレゼントを差し出した。

 

「これ、お返しのキュピレット。それから少し早いけど、誕生日おめでとう」

 

 早口でそれだけを言った。ロックマンが受け取ったのを確認すると、ささっと膝の上に手を戻した。

 

「ありがとう……」

 

 (ほう)けたようなロックマンの声が聞こえる。かなり驚いているようだ。ロックマンがどんな顔をしているのか見たい気もしたが、ナナリーが顔を上げるのはとてもできそうになかった。

 

 ロックマンが驚くのも無理はない。これまでお互い誕生日の話をしたことはなく、今日の約束をしたときも何も言わなかった。

 

 誕生日プレゼントを贈ろうと決めたのは光の季節の終わり頃だ。マリスの手紙に『花の季節も近くなりましたけれど、アルウェス様のお誕生日に何を贈るか決めました?』と書いてあったからだ。

 最初は「誕生日プレゼントを贈るなんて絶対無理!!」と思ったけれど、友達でも誕生日プレゼントを贈ることはおかしくないと考え直した。

 

 しかし、プレゼントを贈ると決めたはいいが、何を贈ればいいのかナナリーにはさっぱりわからない。なにしろ生まれて初めて、好きな男性にプレゼントを贈るのだから。

 

 公爵子息のロックマンは決して派手ではないけれど、貴族らしく高級なものを身に付けている。もちろんセンスもいい。ナナリーが街中で買ったものなんて喜んでもらえるのか、正直自信がなかった。

 ナナリーは悩みに悩んだ。ニケやベンジャミンに相談し、休日にはお店を探しまわった。

 

「開けてもいい?」

「い、いいけど」

 

 まさかロックマンがすぐにプレゼントを開けるとは思っていなかった。ナナリーはどぎまぎしてしまう。

 ロックマンが丁寧に包み紙を剥がして箱を開けた。中には黒い山猫(リュンクス)の置物が入っている。

 

「ユーリ?」

「う、うん。似てると思って」

 

 それは黒檀(こくたん)で作られたリュンクスで、目の部分に入れた水晶が魔力を吸う魔具だった。

 

 ある休日、プレゼント探しに疲れたナナリーは、気分転換をしようと行きつけの古本屋に向かった。その途中に木製のおもちゃが並んだ古めかしい店があり、気になって入ってみたのだ。そこで魔法生物を模した置物の魔具を見つけた。

 

 魔力を吸う魔具と聞いて思い出したのはちびロックマンだった。ちびが使っていたような膨大な魔力を吸う代物ではなく、魔物の瘴気(しょうき)に当てられたときに魔具に触れると吸収してくれるといったものだ。気分が落ち込んでいるときに触れれば心の中のモヤモヤも吸ってくれるらしい。

 

「この目の部分はクリスタルだよね?」

「うん」

「どこで手に入れたのか聞いてもいい?」

「ララが結晶化したときのクリスタルを分けてもらったの」

「ララのクリスタル?」

 

 ロックマンがやけに熱心に、黒檀のリュンクスを手に乗せたり、目のクリスタルの部分を触ったりしている。

 

「何かおかしい?」

「ああ、ごめんね。魔具として優れているから驚いたんだよ」

「そうなの? お店の人はそんなに凄いものだとは言ってなかったけど」

「多分、このクリスタルの力だろうね。魔具は相性があるから、僕に合うんだと思う」

 

 ロックマンが優し気に目を細めて笑った。ナナリーの鼓動がどきんと跳ねて、心臓が飛び出すのを防ぐかのように口がきゅっと締まる。

 

「ありがとう」

「……どういたしまして」

 

 ロックマンの笑顔が眩しい。俯いたナナリーは膝の上で両手を握り締めた。自分の顔がキュピレットの花のように赤くなっているのがわかった。

 

「お手洗いに行ってくる!」

 

 ナナリーは弾かれたように席を立ち、小走りに店の奥へ消えていった。

 

 

   *

 

 

 ナナリーの足音が遠ざかると、アルウェスは窓辺へ視線を向けた。

 喉元からじわじわと熱いものが広がってくる。目をつぶり、片手で顔を覆う。髪の隙間から覗く耳が薄く色づいている。

 どうか彼女がゆっくり戻ってくるといい──そう思いながら、(ひそ)やかな吐息を漏らした。

 

 



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0-4. 一日遅れの花神(タレイア)祭デート③

※加筆修正あります。

キュピレットは長く保たせる永長保存(カンターレ)という魔法が効かず、魔法で透明にすることも呼び寄せることもできず、魔法で咲かす事もできない花です
花渡しでは特に赤い花が好まれ、花神祭に恋人や夫婦、大切な友人などの間で贈り合います。
花言葉は『真実の愛』『偽りのない人生』『純粋』です。



 お昼ご飯はとても美味しくて、デザートまで食べたナナリーは大満足だった。

 ご飯の後、行きたい場所があるから一緒に来てくれないかとロックマンから誘われた。ナナリーはキュピレットの花と誕生日プレゼントを渡すことで頭がいっぱいで、後の予定は何も考えていなかったので、ためらうことなく頷く。行きたい場所というのは着くまで秘密らしい。

 

「ララを召喚したほうがいい? それとも魔法陣で転移する?」

「近いから歩いて行こう」

 

 ナナリーたちが食事をしたお店は大通りからちょっと外れたところにある。買い物をするなら街の中心に戻らねばならない。しかしロックマンは反対の方向に進んでいく。この先は官庁街があり、さらに奥には貴族が住む高級住宅街があるはずだ。

 

 ロックマンはどこに行くつもりなのか。すぐ隣を歩くロックマンをチラッと窺うと、柔らかい眼差しで見つめ返される。ナナリーはこそばゆくなって、じりじりと離れながら歩いていく。

 

「ヘル」

「何?」

「そっちじゃなくて、こっち」

 

 少しずつロックマンから離れているうちに、知らず知らず十字路を右に曲がろうとしていた。ナナリーはあわててロックマンのいる道に戻った。

 

「手を繋いでもいい?」

「えっっ」

 

 思わずロックマン側の手を引っ込めてしまう。胸の前で手を握り締める。

 

「今みたいに道に迷ったら困るし」

「…………うぅ」

 

 間違った道に迷い込みそうになったのは事実だ。だからといってロックマンと手を繋ぐのは……なんだかとても恥ずかしい。

 ナナリーは自分の手に視線を落とした。昨夜ベンジャミンがお手入れをしてくれたおかげで、いつもよりもすべすべしている。形を整えた爪は薄紅色に染めてあった。ロックマンに見られても恥ずかしくない手だと思う。

 

 この男、どうしてわざわざ許可を求めてくるんだろうか。ナナリーの知るロックマンは頼まれなくとも無駄に女性をエスコートする男だ。流れるように女性の手を取る洗練された仕草といったら国でも一、二を争うぐらいだろう。

 

「僕と手を繋ぐのは嫌?」

「そういう訳じゃ……ない……けど」

 

 ナナリーは一回ぎゅっと目を瞑ってから、ぶっきらぼうにロックマンに左手を突き出した。

 すると、ロックマンはナナリーの左手をなぜか左手で持ち、じっと指先を見つめる。目付きが鋭い。検分されてるようでちょっと怖い。

 

「何!? 何か問題でも!?」

「さっきから気になってたんだけど……爪を染めてるの?」

 

 中指の爪の周りをロックマンの親指にするりとなぞられる。

 くすぐったいような、妙な感覚にナナリーの心臓がばくばくと音を立てる。手を引っ込めようとしたが、ロックマンの力に(かな)うはずがなかった。

 

「こ、これは昨日ベンジャミンが……! 似合ってないと思うけど!」

「そんなことないよ。似合ってる」

「嘘。嫌そうな顔してるじゃない。やっぱり似合ってないんでしょ?」

「そうじゃなくて、僕が言いたいのは……ハーレにもこの爪で行くの?」

「仕事のときは落とすから!」

「ならいいけど」

 

 ──何がいいの!?

 

 ロックマンは元のように機嫌が良くなり、ナナリーは訳がわからないまま、気が付けばロックマンと手を繋いで歩いていた。男性的な、長くて少しごつごつした指がナナリーの手を包んでいる。

 ナナリーよりひとまわりも大きい手にどうしても意識が集中してしまう。力強いけど、優しくて温かい手。ロックマンはときどき思い出したようにキュッと握ってくる。それが気恥ずかしくて、顔を背けるようにして歩くことしかできなかった。

 

「着いたよ」

「え?」

 

 左右を見回せば柵と塀が続いている。柵の向こう側には花に囲まれた広い庭園に瀟洒(しょうしゃ)な建物が立ち並ぶ。ひときわ目立つのは無数の花をまとっているような高い塔。

 

「花園の塔……」

 

 花園の塔は、ヴェラッカーノという王国の結婚式場の一部である。花神(タレイア)祭の当日のみ開放されて出入り自由になる。とんがり屋根の塔の外階段をぐるぐる上ると頂上までたどり着き、そこで恋人や夫婦は花渡しをする。昨日はさぞや多くの人たちがこの塔を上ったことだろう。

 

「塔に上ってみない?」

「でも、花神祭じゃないから入れないわよ」

「予約してあるから。大丈夫」

「予約?」

「塔に上ることしかできないけどね」

 

 ヴェラッカーノの敷地に入り、ロックマンに手を引かれて花園の塔まで歩く。見上げれば、塔の外壁に巻き付いた蔓から無数の花が咲き誇っている。まさに花園の塔だ。塔の周りには防御の陣が張ってあるようで、ロックマンが呪文を唱えると二人の前に道が開けた。

 

「塔に上るのは初めて?」

「うん、初めて」

「僕もだよ」

 

 ナナリーは目を(またた)いた。ロックマンなら花園の塔で女性に花渡しをしたことくらいあると思っていたのに。

 よくよく考えてみれば、騎士団に入ってからは毎年花神祭は夜まで仕事だろうし、もし魔法学校時代にロックマンが誰か女の子と花園の塔で花渡しをしていたら、あっという間に噂になってマリスが爆発するか大泣きしていたに違いない。

 

 そっか、ロックマンも初めて塔に上るんだ。

 

 妙な感慨を覚えつつ、大事なことに思い至る。ロックマンが塔の上で花渡しをするつもりだとしたら──ナナリーは渡す花を持っていない。

 昨日ロックマンからすでにキュピレットをもらっているし、ナナリーが持ってきたキュピレットは誕生日プレゼントと一緒に渡してしまった。花園の塔に行くつもりなら、前もってそう言ってくれれば良かったのに。

 

「どうしたの? 怒ってる?」

「花園の塔に行くなら、前もって教えてくれればいいのに」

「ごめんね、言い忘れてた」

 

 ロックマンがくすくす笑った。ナナリーが口を尖らせると、その唇をつんつんとロックマンの指につつかれる。

 

「きゃぁぁぁ!」

 

 ナナリーは顔を真っ赤にして跳びすさった。手を離そうとすると逆にぐいっと引っ張られる。

 

「そんなに驚かなくても」

「いや、その、だって」

「時間がなくなるから、上るよ」

 

 ロックマンは涼しい顔で笑っている。自分ばかり振り回されて悔しい。鼓動をかき消すようにナナリーは早足で歩いた。

 

 塔の外階段は地上よりもやや風が強い。髪がなびき、ボリュームのあるえんじ色のフレアースカートがふわっと膨らむ。スカートの裾が気になって仕方がない。

 他に人がいないからいいけれど、もし花神祭にこの階段を上ることがあったら服装には気をつけよう。まあ、ロックマンはどうせ毎年仕事だから、花神祭の日にぞろぞろと花園の塔を上ることはないけれど。

 そこまで思い至り、ナナリーはハッとして頭をぶんぶんと横に振った。

 

「どうかした?」

「何でもない!」

 

 先のことを、それもロックマンと自分のことをこんな風に考えるなんて。

 

 長い外階段を上り切って、花園の塔の最上階に着いた。ぐるっと石造りの壁がめぐり、等間隔に大きな窓が並んでいる。最上階の中心で上を振り仰いでみると、とんがり屋根の天井は思っていたよりも高かった。

 ロックマンの手がするっと離れたと思えば、いつの間にかその手に花束を持っていた。ひと抱えもあるキュピレットの花束だ。

 

「ここで君に花を渡したくて」

「昨日、もらったのに」

「僕の気持ちだから。受け取ってくれる?」

 

 ためらいつつ、手を伸ばして花束を受け取ると、ロックマンが優しく微笑んだ。

 キュピレットは一つだけでも大きな花だ。お姫様のドレスのように、大きな花弁が重なって広がっている。その花束は両手で抱えられるほど立派だった。

 こんな凄いものを私が貰っていいのだろうか。

 

「すごく綺麗……」

 

 ナナリーの口から感嘆の溜息がこぼれた。

 

 

 

 花園の塔から降りる時間まではまだ余裕がある。アーチ形の窓の側に佇んで外の景色を眺めて話をした。ナナリーたちが立っている場所から見えるのは高級住宅街で、ヴェラッカーノの庭園の向こうに貴族のタウンハウスが建ち並んでいる。その最奥に、お城のように建っているのがロックマン公爵家だろう。

 

「ずっと思っていたことがあるんだけど」

「何?」

「ナナリーって呼んでもいい?」

「ええっ!!」

「……駄目かな?」

 

 駄目とかそういうのではなくて。今までずっと『ヘル』と呼ばれていたから、心の準備がまったくできていない。

 ……でも、ロックマンはマリスをずっと名前で呼んでいるし、他の貴族の令嬢たちも、ウェルディさんも名前で呼んでいる。きっとロックマンにとって大したことではないんだろう。

 そうだ、ゼノン王子もサタナースもナナリーを名前で呼んでいるのだ。何も特別なことじゃない。

 

「…………ぃぃ」

「うん?」

「いぃ……わよ」

 

 頬だけじゃなくて耳までものすごく熱い。きっと顔は真っ赤だろう。頭が沸騰しそうなナナリーに、ロックマンのくすくす笑う声が聞こえる。

 

「ナナリー」

 

 呼ばれた途端、ナナリーの目が飛び出しそうなくらい大きく見開いた。あわてて服の胸元をぎゅっと握り締める。駄目だ、今度こそ心臓が飛び出しそう。花束に顔を埋めて心が落ち着くのを待った。

 

「ナナリー?」

 

 ロックマンの、耳に心地良い低めの声が自分の名前を呼んでいる。返事をしなくちゃ。このままではキュピレットの甘い匂いにむせてしまいそう。

 花束から顔を上げると深呼吸をして、爽やかな空気を胸に吸い込んだ。窓から見える外の風景に目をやる。とてもじゃないがロックマンの顔を見ることはできない。

 

「…………なに?」

 

 聞き取れないくらい小さな声になってしまった。自分らしくないのはよくわかってる。でもこれがナナリーの精一杯だ。

 

「こっち向いてくれる?」

 

 ぴょんっとナナリーの肩が跳ねあがって、そのまま固まってしまう。

 

 ……ギギギギギギギギと音がしそうなほどぎこちなく首を動かし、とうとうロックマンの顔が視界に入ってきて、炎のような瞳とパチッと目が合った。

 

 軽く小首を傾げたロックマンがやんわりと微笑む。長い指が伸びてきて、ナナリーの頬に触れると、燃えるような朱赤(あか)い瞳が妖しくきらめいた。キュピレットの花と見紛(みまご)うほどに紅潮(こうちょう)した頬よりなお熱い、ロックマンの手のひら。その手を凍らせてもいいものか、ナナリーは迷った。

 




花神祭デート編はこれで終了です。
次話から本編に入ります。この物語では、第零章と第一章の間に時の番人事件が起きた設定です。


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第一章 令嬢教育の始まり
1-1. パートナーへの道のり①


この物語では、時の番人事件は花の季節二月目の半ばに起きたことになっています。

時の番人事件が一段落したのも束の間、ナナリーはシーラ王国のカーロラ王女の結婚式にロックマンのパートナーとして出席することが決まります。そしてロックマン公爵家のバックアップで令嬢教育を受けることに。貴族の令嬢教育と聞くだけで憂鬱な平民育ちのナナリー。
とうとう令嬢教育の初日がやってきます。

※ゼノンは「王子」ではなく「殿下」で統一します。王子の身分を強調したいときは「王子」「王子様」と呼びます。



 

 ハーレの仕事を終えたナナリーは、ララの背中に乗って空を()んでいた。暮れてゆく夕陽(ゆうひ)を頬に浴びながら、ララになるべくゆっくり翔んでもらう。急がなければいけないとわかっているのに、気が重いのはどうしようもない。夕闇が広がるとともにナナリーの気分もどんどん沈んでゆく。

 

 向かう先はロックマン公爵邸。今日はお呼ばれされたのとはちょっと違う。

 いまから数カ月後、ドーランでは光の季節に入る頃に、シーラ王国でカーロラ王女の結婚式が行われる。ナナリーはその結婚式にロックマンのパートナーとして出席することが決まったのだ。カーロラ王女は二年半ほど前にロックマンと縁談が持ち上がった王女様だ。あの仮面舞踏会でカーロラ王女様はロックマンとの婚約をとりやめて国に帰り、無事に身分違いの恋人と婚姻が認められたという。

 そのカーロラ王女の結婚式にナナリーが出席するというのだから何とも不思議な縁である。

 

 ロックマンのパートナーとして同行することを了承したものの、ナナリーは貴族の世界について何も知らない。各国の王族や貴族が集まる場で、恥ずかしくない程度のダンスや行儀作法を身につけるため、ロックマン公爵家で令嬢教育を受けさせて頂くことになったのだ。

 

 初日の今日はダンスと礼儀作法の練習と聞いている。

 のろのろと公爵邸に着き、執事らしき紳士に挨拶する。どこもかしこもキラキラしたお屋敷の応接間とおぼしき部屋に案内される。豪華で煌びやかな室内にはロックマンの母親のノルウェラ様と、なんとマリスが待っていた。

 

 ノルウェラ様もマリスも相変わらず華やかで美しい。マリスは今日だけ一緒にレッスンを受けてくれるという。「初日だから特別ですわよ?」と笑っている。

 

 涙が出るほど嬉しい。正直、不安で仕方がなかった。思わずマリスに抱きつこうとしたが、扇子で鮮やかに防がれてしまった。

 

 マリスはゼノン殿下の妹姫、ミスリナ王女にお世話係として仕えている。ミスリナ王女は兄のゼノン殿下が大好きで、従兄のロックマンも大層お気に入りだそうだ。ミスリナ王女からもしっかり淑女の作法を身に付けるようお言葉を頂いたという。ナナリーは王女様のお言葉に目の前が真っ暗になった。

 

「貴族に関わらず、女性の目の方が厳しいのは貴女(あなた)だってよくわかっておりますでしょう? せっかく素材は良いのですから、この機に誰もが認める淑女に生まれ変わってくださいな」

 

 閉じた扇子をナナリーの鼻先に突き付けてマリスが言い放つ。

 

「近いうちに貴女もミスリナ王女のお茶会に招待するとおっしゃってましたわ」

 

 マリスが「ほほほ……」と優雅に笑う。高貴な貴族女性の風格が漂っている。

 

 ナナリーは目眩(めまい)を覚えた。マリスもミスリナ王女も何を言っているのか。平民の私が、王女様のお茶会に招待される? 一体何が間違ってこうなった?

 ああ、やっぱり逃げ出したい。しかし、それはできない。ロックマンとの約束は必ず守ると決めたのだ。彼も約束を守る人だから。

 私があんな風に「ほほほ……」と笑う日が来るのだろうか。いや、絶対にあり得ない。想像もつかない。

 

 

 

 ノルウェラ様の侍女という女性とマリスに衣裳部屋に連れていかれる。こちらの侍女さんが主にナナリーの行儀作法などの教師になるらしい。ダンスのレッスンは専門の教師がいるという。

 

 貴族は子供の頃から家庭教師がついて様々な教養を学ばされる。ナナリーは令嬢教育にかかる費用を考えて頭がくらくらした。全部ロックマンが負担するから気にしないでいいと言われているが、価値観の違いを受け入れるのは時間がかかりそうだ。

 

 衣裳部屋では召使たちが待っていて、サイズの合うドレスと靴を選んで着替えた。マリスたち貴族女子が学生時代に着ていたようなドレスを大人っぽくしたデザインである。ナナリーにとってはパーティーに出るのかと思うくらい派手な服だが、彼女らにとってはこれが日常着なのだ。つまりこれは序の口で、慣れてきたら本格的なドレスを着ることになる。

 

 簡単に化粧をして髪型も整えられる。仮面舞踏会のときよりずっと薄い化粧だったが、普段ほとんど化粧をしないナナリーは落ち着かなかった。

 踵の高いヒールがこれまた慣れない。こんな不安定なものを履いてダンスをするのか。マリスはこんな靴を履いて、ひらひらしたドレスを着てあんなに早く歩けるのか。貴族女子の精神力は見習ったほうがいいかもしれない。

 

 マリスはナナリーのドレスを選ぶとさっさと部屋を出てダンスの練習に行ってしまった。ダンス教師が来ているからマリスもいろいろ教わりたいそうだ。それに関してはナナリーに異論はない。マリスだって忙しい。その貴重な時間をナナリーのために使ってくれているのだ。彼女にも得るものがあってほしい。彼女の時間を有意義に使って欲しい。教師を手配してくれたのはロックマン公爵家で、ナナリーは何もしていないけれども。

 

 

 長い廊下を歩き、連れていかれたのは大広間だった。見覚えがあると思ったら、それもそのはず、以前転移魔法で誤って()び込んでしまった昼会の会場である。

 

 舞踏会用の装飾であろうか、大広間は飾り付けられ、壁際に置かれたテーブルにはグラスも並んでいる。最奥(さいおう)には厚いカーテンがかかっており、開かれたカーテンの間から立派な椅子が数脚並んでいるのが見える。楽団が並ぶ席には楽器の代わりにラッパのようなものがいくつも浮かんでいた。

 大きなシャンデリアは華やかで明るい。窓の外は夜の帳が下りて、今にも舞踏会を開けそうな雰囲気である。

 よく見てみれば、装飾やテーブルはすべて魔法で出した幻だった。あのラッパのようなものから曲が聴こえてくる。

 

 軽快な音楽に合わせてマリスが男性と組んで跳ねながら踊っている。跳ねるたびにドレスが広がり、ハーフアップの髪につけた飾りがシャンデリアの光を反射して美しい。

 

 大広間ではノルウェラ様と姿勢のいいすらりとした女性が待っていた。マリスは踊りをやめ、男性に手を引かれながら一緒に歩いてくる。とても姿勢のいい男女は夫妻でダンス教師をしているという。若いころは有名なプロのダンサーだったそうだ。

 

「ここで練習するんですか!?」

 

 こんな広い部屋がナナリーの練習に必要だとは思えない。さっきの衣裳部屋で家具を隅に寄せれば十分ではないか。

 

「カーロラ王女は臣籍降嫁されるとはいえ、シーラの王宮で夜会が開かれるのでしょう? ナナリーさんは夜会そのものに慣れていないから、まずは舞踏会の雰囲気に慣れるところから始めましょうとマリスさんが助言してくれたのよ」

「そうですわよ、ナナリー。貴女がアルウェス様の隣でキョロキョロおどおどしていたらドーランの恥ですわ。胸を張って夜会に出てくださいまし」

 

  

 やはりとんでもない役を引き受けてしまった。これまでにない難関を目の前にして気が遠くなる。根性はあると自負していたが、この屋敷に来て何度回れ右したくなったことか。

 だが、やると約束した以上、いまさら断るわけにはいかない。ナナリーは腹のあたりで拳をぐっと握りしめ、おへそに力を入れた。

 




原作の『魔法世界の物語』とカーロラ王女の結婚式は異なる設定になってます。


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1-2. パートナーへの道のり②

 魔法学校時代のナナリーは『打倒・貴族』と勉強を頑張っていた。自分はなんと浅はかだったのか。貴族は一日にしてならず。

 

 学生時代にワルツをマリスに習ったことがあると伝えると、まずは一通りやってみましょう、と先生のエスコートで会場入りから始める。向かい合ってホールドを組んで踊り始めたものの、惨憺(さんたん)たる有様(ありさま)だった。

 何をしても姿勢が悪くて不恰好、気品の欠片(かけら)もない自分の姿に恥ずかしくて堪らなかった。何しろこの場にいる人たちはナナリー以外は皆気品に溢れている。

 極めつけには先生の足を踏んでしまい、床に沈み込むくらい頭を下げて謝った。

 

 

「ナ……ナナ……ナナリー! 貴女!!」

 

 血走った目でマリスが駆け寄ってくる。

 

「ひぃぃぃ!!」

「貴女という人は!! わたくしが教えたことを全部! すっかり! 完全に忘れてしまいましたのね!!」

 

 ガシッと掴まれた肩が痛い。

 

「マリス、痛い痛い痛い……!」

「先生!! どうかこの子をなんとか見れるようにして下さいませ! やればできる子なんですのよ! どうか見捨てないで下さいまし!」

 

 マリスが先生に懇願している。ナナリーも下手な自覚はあるし、卒業パーティーのときと違って死活問題なので、お願いしますと頭を下げた。

 

「どうか頭をあげて下さい。教えるのが私たちの仕事なんですから」

 

「ですが……」と先生は困った顔をする。

 

「時間が必要です。最初の一カ月は毎日練習したほうがいいですね。もちろん週に一日は休んでいいですが」

「えっ」

 

 明日から毎日公爵邸に来て練習するというのか? 

 ノルウェラ様の侍女さんはナナリーの意見など聞かずにあっさり了承している。ゾゾさんとの外食は……親友たちとの飲み会は……。ナナリーの仕事の後の楽しみが全部吹っ飛んだ。

 

「よかったですわね、ナナリー!! 先生は見捨てないで下さるそうですわ!」

 

 ぎゅうっと両手でナナリーの手を掴んだマリスは喜んでいるのか怒っているのかよくわからない。とにかく目が血走っていて怖い。

 

「いいですこと? 死ぬ気でやるんですのよ。貴女が本気を出せばできるでしょう? ああ、でも徹夜なんてもっての外ですわよ。睡眠不足は美容の大敵ですから。勝負だとか余計なことは一切考えずに! 習ったことをものにする、そのためだけに時間を使いなさいな。これも仕事だと割り切るんですのよ!」

「仕事……そうか、仕事なのね……」

 

 またもや『打倒・貴族』という言葉が浮かんできた。

 このままではナナリーは根っからの貴族たちに笑われて終わるだろう。ダンスも礼儀作法もまったくなっていない平民がなぜ王女の結婚式に出席しているのかと。

 魔法ではそう簡単に負けない自信があるけれど、お貴族様の振る舞いなんてナナリーが最も苦手とするところだ。とはいえ、他国の貴族だろうが、お貴族様の土俵で戦う不利な勝負であろうが、負けるのは悔しい。

 しかも今回はナナリーだけの問題ではない。ナナリーが笑われればロックマンも、ゼノン殿下も、ミスリナ王女も侮られるのだ。そんなことがあってはナナリーが自分を許せない。

 

 やってみよう。学生時代、あれだけ努力して魔法を勉強したんだ。やる前から諦めるなんて私らしくない。

 これまでは絶対にありえないと思っていた、ドレスを着て扇子を手に他の貴族たちにむかってにっこり笑う自分の姿をなぜだか少しだけ想像できた

 

 

 レッスンの時間が終わるまでみっちりとダンスの練習をした。離れたフロアで軽やかに踊るマリスに比べたら全然体を動かしてないのに、汗びっしょりになった。慣れない靴で足も痛い。後で治癒魔法をかけなければ。

 これで終わりかと思ったら次はテーブルマナーの練習だという。

 一度着替えてからテーブルマナーについて基本を習い、そのあと晩餐で実践するらしい。マリスは着替えたら帰ると言ったが、ノルウェラ様がぜひ晩餐を食べていってほしいというので一緒に食べることになった。ロックマン公爵とロックマンは仕事で遅いそうだ。末子のキース君はおねむで部屋に連れ帰っていた。

 

 着替えのためにまた違う部屋に案内される。その部屋がナナリー専用の客室だと聞いてぎょっとする。客室には衣裳部屋で試着したドレスや靴がいくつも運び込まれ、公爵邸に来るときに着ていたハーレの制服や荷物も置いてあった。

 隣の客室にマリスが案内されたのでほっとしたものの、マリスの部屋は調度品は同じでも、マリスが持ってきた私物しか置いてなかったという。

 大広間から戻るときは、往きとは違ってあっという間に部屋に着いた。広い屋敷を歩いて移動するのは大変なので、ロックマンの家族や主だった使用人はごく短い距離で移動できるように魔法がかかっているらしい。最初に長い廊下を歩いたのはヒールに慣れるように気を使ってくれたそうだ。

 

 お風呂に入る時間はなかったので、魔法で体を綺麗にしてハーレの制服を着たら、ノルウェラ様の侍女さんが新しいドレスに着替えるのだと召使を連れてやってきた。

 なぜまたドレスに着替えるのか、困惑するナナリーに、ドレスを着て食事をする練習をしなければ意味がないのだと説明される。確かにその通りだ。服に付いたシミを落とす魔法は完璧に覚えているけれども、それは何かあったときの最終手段だろう。

 魔法学校の食堂でドレス(彼女たちにとっては日常着)を着たまま食事をする貴族女子を思い出す。よく汚さないものだと当時は呆れていたが、彼女たちは幼少の頃からそうやって行儀作法を仕込まれてきたのだと納得した。

 



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1-3. パートナーへの道のり③

 今日の食事は楽しみましょう、とノルウェラ様がおっしゃったので、ナナリーがテーブルマナーについて厳しく注意されることはなかった。晩餐としては略式のものだと教えてもらったが、ロックマン公爵家ではそれが普段の夕食なのだそうだ。

 

 頭の中で作法を復習していたらノルウェラ様とマリスの会話が耳を素通りしていた。鋭い視線を感じ、慌てて顔を上げる。マリスの目がギラリと光った。

 

 マリスが色々と話題をふってくれるものの、ナナリーはすぐに会話が終わってしまう。このままではまずい。これでは学生時代に貴族女子の会話を横目にニケたちとご飯を食べていたときと変わらない。もうあのときとは違う。貴族女子に交じって食事をしなければならないのだ。

 ナナリーは姿勢を正し、どうしたらマリスのように会話が続くのか耳を澄ませる。

 

「ナナリーは踵の高い靴に慣れていませんでしょう。これからは毎日履いたほうがいいですわ」

「え? 毎日?」

「『え?』じゃございませんわよ。ヒールに慣れていないとダンスのターンのときに踵に重心がかかって見苦しいのです。男性にもとても負担がかかりますの。貴女、アルウェス様やゼノン殿下と踊るのでしょう?」

 

 ──ゼノン殿下とも踊るの!? まさか!! 

 ナナリーはぎょっとして目を剥いたが、かろうじて心の中で叫ぶのにとどめた。

 

「ナナリーさんはほとんどダンスをしたことがないそうだけれど、前に踊ったのはいつかしら?」

 

 どきん。ナナリーの心臓が大きく跳ねた。

 

「ええと……」

 

 前にまともにダンスを踊ったのは王宮の仮面舞踏会で、しかも相手は豚の紳士……もとい、ロックマンである。

 仮面舞踏会はロックマン公爵に頼まれて潜入した訳だし、国王陛下も承知していたのだからノルウェラ様もご存知だろう。でも、仮面舞踏会にはマリスも来ていた。彼女の前で話題にするのはやっぱり(はばか)られる。マリスは気にしないと言うだろうけれど、ナナリーが気にしてしまう。

 

 それに、平民のナナリーが王宮の舞踏会にいたことはなるべく秘密にした方がいいと思う。マリスは規律には厳しいタイプだ。

 仮面舞踏会以外でダンスを踊ったのは卒業パーティーしかない。

 

「ロッ……ァ……アルウェス様と……卒業パーティーで……」

 

 ロックマン、と呼びそうになって慌てて飲み込む。ナナリーはもごもごと呼び慣れない名前を口にした。

 

 花神(タレイア)祭の晩餐会でサタナースとでも踊っておけばよかったと後悔が胸をよぎる。舞踏会が始まる前に気を失ったから絶対に不可能な話であるが。

 

「ノルウェラ様、卒業パーティーでアルウェス様はナナリーとラストダンスを踊りましたのよ」

「あらまあ、あの子がラストダンスを? ナナリーさんと?」

 

 ノルウェラ様が嬉しそうに笑っている。

 

 思い返せば仮面舞踏会もラストダンスだった。あれは仮面舞踏会だし、豚の紳士の正体が誰かなんてナナリーは知らなかった。でも、ロックマンは私のことに気づいていたのではないだろうか。魔法が解けたときに全く驚いた様子がなかった。

 

 どうしてロックマンは私をダンスに誘ったんだろう? 

 

 ふと疑問が沸いたが、私は首を小さく横に振った。

 きっと意味なんてないに決まってる。仮面舞踏会だし、カーロラ王女に振られるためにロックマンは豚頭の仮装までしていたのだ。ラストダンスをカーロラ王女以外の女性と踊ったという事実が必要だったのだろう。

 

 

 晩餐が終わるとノルウェラ様と侍女さんが今後のレッスンのスケジュールの話を始めた。マリスがニケも一緒にやればいいと提案してくれた。ノルウェラ様はニケをご存知で、ロックマンに相談してくれるという。

 

 ナナリーはドレスからハーレの制服に着替えて、マリスと一緒に帰るために広い玄関ホールへ出た。そこは吹き抜けになっていて、パーティーができそうなくらい広い。天井には大きなシャンデリアがあり、玄関の扉と反対側の最奥には上階へ通じる大きな階段がある。

 

 ナナリーは屋敷の中がまったくわからないため、侍女さんに案内してもらう。屋敷内にかけてある魔法のおかげで数メートル歩いたら玄関ホールに着いていた。

 階段の下で待っていると、上階から赤いドレスを着た赤茶色の髪の美女が女王様のようにゆっくり階段を降りてくる。マリスだった。

 

「マリス、女王様か王女様みたい」

「貴女は相変わらず子どもみたいに素直ですのね」

 

 玄関扉の前でノルウェラ様を待つよう執事さんに告げられる。マリスは使い魔ではなく実家の馬車で帰るという。魔法学校時代と違い、使い魔で飛び回ることはできないらしい。ナナリーとマリスは執事さんや使用人から少し離れた場所でお喋りをした。

 

「マリス、今日は本当にありがとう。凄く心強かった」

「明日からはわたくしは付き合えませんからね。ノルウェラ様に教えていただけるのですから、しっかり精進なさいませ。ミスリナ王女のお茶会の前にはわたくしが貴女を試験してあげますわ」

「お茶会の試験!?」

「何ですの? ミスリナ王女に失礼のないように、事前にわたくしが指導して差し上げるのにご不満でも?」

「いいえっ!! お願いします!」

「いいお返事ですけれど、淑やかさがまったく足りませんわ。令嬢教育で女性らしい所作と言葉遣いも身に付けてくださいませ」

 

 マリスは頬に手を添えて溜息を吐いた。

 

 

 ノルウェラ様が玄関ホールの奥の階段の上に現れた。ナナリーとマリスがお喋りをやめてノルウェラ様に視線を向けると、ノルウェラ様が優しく微笑んでいた。ロックマンの姉のような外見のノルウェラ様は美しく華やかで、天から舞い降りてきた女神様のような雰囲気を持っている。

 マリスが階段を降りてきたときのように、ナナリーはノルウェラ様が優雅に玄関ホールへ降りてくる姿に心を奪われていた。

 

「ナナリー」 

 

 自分を呼ぶ声にハッとしてマリスを見る。マリスはぱらり、と慣れた手つきで扇子を広げて口元を隠し、おもむろにじっとナナリーの瞳を見つめた。

 

「わたくしはアルウェス様が心に秘していることを暴いたことはありませんし、これからも絶対にいたしません」

 

 マリスがフッと目元を緩ませる。

 

「ですが、これだけは言わせていただきますわ。アルウェス様がラストダンスを踊ったのは、貴女だけですのよ」

「マリス……」

 

 お人形さんのような美少女から艶やかな美女となった親友の笑みに、ナナリーは言葉を失った。何か喋ると言葉以外のものが目から溢れてきそうで、ナナリーは頷くことしかできなかった。

 

「わたくしは先に帰らせていただくわ。貴女はもっとノルウェラ様やアルウェス様とお話をなさいな」

 

 ぱちんと扇子を閉じてマリスは嫣然(えんぜん)と微笑んだ。 

 立ち尽くすナナリーの返事を待つことなく、マリスは一人でノルウェラ様のおそばへ歩いて行く。ノルウェラ様と少しお話をすると、惚れ惚れとするような淑女の礼をして帰っていった。

 



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1-4. パートナーへの道のり④

 「アルウェス様が帰ってくるまで待ちます」と伝えると、ノルウェラ様はナナリーをお茶に誘った。最初に通されたキラキラした応接間とは違う、比較的こじんまりとした部屋でお茶を頂くことになった。家族用の談話室だという。

 

 壁際には暖炉があり、シンプルではあるが重厚なマントルピースの上には小振りな肖像画がいくつか飾ってあった。木製の艶のある家具で統一され、渋い革張りのソファにローテーブルが設えられた部屋は温かみがあって、ナナリーの気持ちを落ち着かせた。

 

「ナナリーさん、今日は疲れたでしょう? ダンスは覚えてしまえば難しくはないと思うのだけれど。アルウェスも十二、三歳のころに覚えてからは、そんなに練習はしてないのよ」

「はい……」

 

 目の前に置かれた紅茶から芳しい香りが立ち上ってくる。ノルウェラ様が美しい所作で紅茶を飲んでいる。ナナリーはぎこちない仕草でカップを口に運んだ。ノルウェラ様と二人きりになるのは初めてだ。

 

「アルウェスとナナリーさんは魔法学校では席が隣同士だったと聞いたわ」

「はい」

「アルウェスとゼノン殿下からときどき話を聞いてたのよ。アルウェスが、隣の席の女の子と勉強も魔法も競い合っているって」

「いえ、競い合うというか、私が常に張り合っていただけというか……」

「毎日のように喧嘩していたと聞いて驚いたわ。アルウェスが喧嘩する女の子はどんな子だろうとずっと思っていたの」

 

 ノルウェラ様が優雅に微笑んでいらっしゃる。

 

 ナナリーは頬がひきつるのを感じた。どうしよう、ノルウェラ様とこの話をするのがこんなに恥ずかしいなんて。

 あいつを好きになる前なら、殴られたとか、髪を燃やされたとか、悪態をつきながら話をしていただろうに。セーメイオンの呪文を唱えた後の腕力と魔力を使った喧嘩は、私の魔力の暴走を防ぐためにわざとけしかけていたのだと今では知っている。

 

「あの、喧嘩といっても、子供同士の本当にちっぽけな、他愛もない喧嘩です。ああ言えばこう言うというのをしょっちゅう繰り返してて」

「まあ……そうなの?」

 

 はい、そうなんです。

 この間、過去に戻って実際にこの目で見てきました……とは言えない。

 

「私は負けず嫌いなので、つい言い返してしまって」

「でも、アルウェスが子供らしい喧嘩をしていたなんて嬉しいわ」

 

 ノルウェラ様が母親の顔をしている。とても若々しくて息子が四人もいるなんて思えない美しい方だけれど、やっぱりあいつの母親なんだ。

 

 しまった。ロックマンのお母様の前で心の中だけでもあいつなんて言ってはいけない。『ロックマン』と呼ぶ訳にもいかない。ア、ア、ア、アルウェス、アルウェスだ。声に出さずに口の中で何度か『アルウェス』と練習する。ノルウェラ様と話すときには『様』も付けたほうがいいだろう。公爵子息だし、彼のお母様と話をしているのだから。

 

 私は大事なことをロッ……アルウェスのお母様に伝えておかなくてはならない。

 

「魔法型がわかったとき、私の髪と瞳の色が変わったんです。魔力が溢れた兆候で、それに気づいたアルウェス……様が、喧嘩で魔力を放出できるように誘導してくれていたんです。当時の私はそんなことは全くわかってなかったんですけど。私は毎日彼に魔法をぶつけて、魔力を暴走させずに済みました」

 

 もし彼がわざと喧嘩をふっかけてこなかったら、私は魔力の暴走に苦しんでいたのだろうか? 小さかった頃のアルウェスみたいに?

 

 ──ただ健やかに、制限もなく、僕のようにならなければいいと思った──

 

 あんなに無邪気に真っすぐに魔法や勉強に打ち込んで、毎日友達と一緒に笑って。私は憧れのハーレに就職できていただろうか? 

 

 もし彼と出会っていなかったら。魔法学校を二位で卒業してハーレに就職したナナリー・ヘルは存在しなかったかもしれない。

 

「アルウェス様には感謝しています」

 

 彼が帰ってきたら、ちゃんと伝えよう。

 私はノルウェラ様の目を見てにっこり笑った。ノルウェラ様はちょっと涙目で、そう、そうだったのね、と呟いた。

 

 

 お茶会はそこでお開きとなり、私は客室で少し休むことにした。客室には書棚があり、礼儀作法やダンスの本の他に他国の文化や歴史、政治、経済に関する本、様々な魔導書が並んでいた。海の国に関する本まである。しかし、本を手にとってソファに座ったものの、まったく文字に集中できない。

 

『アルウェス』

 

 私はロックマン公爵様とノルウェラ様の前でしか『アルウェス』と呼んだことがない。

 ロッ……アルウェスも長いこと私を『ヘル』と呼んでいたけれど、彼の誕生祝いに二人で食事をしたときから『ナナリー』と呼ぶようになった。初めてナナリーと呼ばれたときは、顔を真っ赤にして何も言えなくなってしまったけれど。

 

 私も『アルウェス』と名前で呼んだ方がいいのだろうとわかっていたが、どうしてもできなかった。喧嘩ばかりしていた関係の時間が長すぎて、彼と普通に素直に話をする方法がまだわからない。

 過去に戻ったときには、十六歳のアルウェス少年に対してほぼ初対面でもずけずけと色々聞いてしまったのに。

 自分がひどく子どもに思えてくる。

 

 

 *

 

 

 コンコン、と控え目にナナリーの客間の扉をノックする音がした。

 

「ナナリー?」

 

 部屋の中から返事はない。

 

「ナナリー、僕だよ。入るよ?」

 

 騎士服姿のアルウェスが静かにドアを開けて入ると、ソファでナナリーが眠っていた。床に本が落ちている。

 

「こんなところで寝ると風邪を引くよ」

 

 本をテーブルの上に置いて、ナナリーの頬にかかった長い水色の髪をそっとかき上げる。ナナリーは熟睡していてまったく起きる気配がない。

 アルウェスの脳裡に、ウォールヘルヌス後に長期間昏睡していたナナリーの寝顔がよぎった。昏睡中のナナリーを何度も見舞いに行ったときのように、手首に触れて体温と脈を確かめてしまう。

 ……ナナリーはただ眠っているだけ。当たり前だ。

 髪が水色ならまだいい。焦げ茶色の髪で眠る君は見たくない。足元がぐらつくような焦燥感と、僕の不甲斐なさを思い出すから。

 

「……ん」

 

 身じろぎした彼女からこぼれ出た声に、アルウェスは目を細めて口元を綻ばせた。水色の髪を撫でて、ふっくらとした柔らかい頬に触れる。

 

「ねえ、いいかげん起きたらどう?」

 

 彼女は目を覚ますことはなく、すやすやと寝息を立てている。アルウェスは長い溜息を吐いた。

 

「まったく君は……」

 

 抱き上げようと彼女の体に触れればくらりと理性が揺れる。背中に流れる水色の髪と細い体をぎゅっと抱きしめる。

 ……碧い瞳を見せてくれたらいいのに。

 これぐらいは許してね、と呟いてアルウェスはこめかみに口付けをする。無邪気に眠る愛しい人を抱き上げると奥にある寝台へ向かった。

 



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1-5. クリスタルの魔具

 

    ***

 

 

 私はお城の前にいた。白いドレスを着た私の手は小さくて、背も低い。たぶん十二歳くらい。肩より少し長い焦げ茶色の髪には金色の蝶の飾りがついている。

 広い廊下をたくさんの着飾った人々が同じ方向に進んでいる。人の流れに逆らわずに歩いていくと、とても広くて豪華な大広間にたどり着いた。美しい曲が流れ、踊っている人がいる。何かの舞踏会みたいだ。

 歩きながらキョロキョロと珍しげに周りを見てしまう。フロアの中央では、長い金髪を一つにまとめた背の高い男の人が華やかな雰囲気の女の人と踊っている。二人とも目元だけが隠れる仮面を着けていた。

 テーブルの上には美味しそうなお料理がたくさん載っている。お料理を眺めていると、黒髪の精悍な少年が話しかけてきた。

 

『お腹が空いたのか?』

『あ、はい』

 

 黒髪の少年は料理人に頼んで料理を載せたお皿を渡してくれた。

 

『ありがとう。あなたは食べないの?』

『俺は後でいい』

 

 黒髪の少年は育ちが良さそうなのに、とても気さくで親しみやすかった。

 

『殿下、こちらにいらしたんですの? まだ舞踏会は始まったばかりですのに』

 

 向こうからやって来た少女がお上品に声を張り上げる。赤茶の髪の綺麗な子だ。

 

『マリス! 来てたの?』

『貴女は相変わらず色気より食い気ですのね。わたくしは仕事ですわ。……でも、これで親友と旅行に来たことになりますわね』

『俺は誘ってくれないのか? 俺も公務だけどな』

『そんな、畏れ多いですわ』

『護衛はちゃんといるぞ?』

『ふふ、そうですわね。さて、わたくしは仕事に戻りますわ』

『もう行っちゃうの?』

『貴女にはお相手がいるでしょう?』

 

 くるりと背を向けたマリスの後ろ姿がキラキラ溶けていく。

 

『マリスが消えちゃう!』

 

 私はマリスの残滓(ざんし)を掴もうと手を伸ばして駆けだした。

 

『待って』

 

 誰かが後ろから私の腕を掴む。

 

『ちょ……離して』

『駄目。待って』

 

 ふわりと背中から抱きすくめられて、どこか憶えのあるお日様のような匂いに包まれる。頭の後ろに何かがコツンと当たった。

 振り向くと豚の頭をした少年と目が合った。

 

 

   ***

 

 

「…………んん」

 

 まだ薄暗い部屋の中、お布団はふかふかで、暖かいお日様の匂いがする。体を包んでいるのは肌触りの良い寝間着。私の体を抱きしめるたくましい腕。後ろから回された腕は少し重いけれど、背中に感じる人肌が温かくて、安心して、なんかぬくもりが気持ちいい。

 

 うとうとともう一度目を閉じそうになって、慌ててパチッと大きく目を開けた。

 気持ちいい? ……えっ? 何を考えてるんだ、私は。

 

 そぉっと後ろを振り返ると、そこには長い金髪──ではなく、黒髪を結んで胸元に垂らした綺麗な顔があった。閉じられた瞼の中の瞳も、今は赤ではなく黒だ。

 

 このただならぬ状況に、嫌悪感以外のものを感じている。()()が何であるのか、考えるよりも先にナナリーは真っ赤になった。背中にはロックマンの筋肉質な胸が当たっている。重くて長い腕は体に絡まり、払いのけたらロックマンはきっと目を覚ますだろう。

 

 ──だめだ、もう耐えられない。早い鼓動の音にかき乱されながら、囁くように呪文をいくつか唱えた。

 

 シュッと魔法で体が小さくなる。難なく力強い腕から抜け出すと、召喚した使い魔のララに飛び乗り、広い部屋の高い天井ぎりぎりまで浮き上がって旋回する。

 滞りなく一連の動作をこなしたように見えるが、実はナナリーの心の中はいっぱいいっぱいだ。さらさらの寝間着の上から早鐘を打つ心臓を押さえ、ララの背中にしがみついて息を整える。小さくなった体にララはふかふかで大きくてとても安心する。

 

「ナナリー様?」

「……ナナリー?」

 

 寝ぼけたような声が聞こえる。寝台に起き上がったロック……アルウェスは、目を丸くしてララの背に乗ったナナリーを凝視している。

 

「どうしたの、君」

 

 どうしたもこうしたも。さっきの状況を何とかしようとしたからに決まってる。目が覚めたら男の腕の中にいるなんて、破廉恥極まりないではないか。

 

 アルウェスに抱き締められていた感覚を思い出して再び顔が赤くなる。彼がちびになって翌朝大人に戻った時にも思ったけれど、この男は寝ぼけて隣にいる人間に抱き着く癖でもあるのだろうか? もしや抱き枕を愛用しているとか? ……想像すると気味悪いけど。

 

 いやいや、それより、私こそ何か変だ。どこかおかしい。息苦しいとか恥ずかしいとかではなくて……ぬ、ぬ、ぬくもりが気持ちいい……とかなんとか思っていたような。まさかそんな。馬鹿な。ありえない。ぶんぶんと首を大きく横に振る。

 

「なんで小さくなってるの? 五歳くらい?」

 

 ナナリーは五〜六歳の子どもに変身していた。アルウェスの力強い腕から逃げ出すには自分の体を小さくするしか思いつかなかったのだ。腕が回されたお腹より背を低くしようと思ったら幼児の大きさになった。

 

「もしかして過去からやって来たわけじゃないよね?」

 

 アルウェスが眉をひそめる。今朝の夢の印象が強くて、無意識に瞳も髪の毛も焦げ茶色になっている。

 

「違うわよ! 変身しただけよ」

「変身? 小さな君に? それで僕から逃げ出そうと?」

 

 ぽかんとした後、アルウェスはおかしくてたまらないという風に肩を震わせながら笑い出した。

 

「何笑ってんの!?」

「だっておかしいでしょ、小さくなって抜け出すとか。それに、小さな君はすごく可愛いよ」

「目が覚めたら布団にいるんだもの! 寝ている間に変なことしてないでしょうね!?」

 

 変なことって具体的にどんなことか、ナナリーは実はよくわかっていない。だが、ここ数か月読み込んでいる恋愛小説の中にそんな台詞がたびたび出てくるのだ。お酒を飲み過ぎて翌朝目が覚めたら一緒の寝台にいたという話もあった。

 

 アルウェスはというと、笑いが止まるどころか、余計にツボに入ったようだ。お腹を抱えて寝台に転がっている。長い黒髪が寝台に広がった。

 

「ちょっとアルウェス!?」

「そんな子どもの姿で変なことって言われても……。──え?」

 

 突然笑うのをやめて、小さなナナリーをじっと見つめる。ナナリーが訝しげに、軽く睨むように見返していると、アルウェスは優しく目を細めて頬を緩めた。

 

「おはよう、ナナリー」

「お、おはよう……アルウェス」

「君も名前で呼んでくれるんだね」

「え? あ、うん、こちらのお屋敷でロックマンと呼ぶのはおかしいと思って……。それなら、もう名前で呼ぼうと思って……うん」

「嬉しいよ。もう一回呼んでくれる?」

「アルウェス?」

 

 アルウェスがにっこり笑った。その笑顔は朗らかで、心から嬉しそうで、ナナリーは面映(おもは)ゆい気持ちになる。

 

「降りてきて、ナナリー」

 

 立ち上がってララの背に乗るナナリーに手を伸ばす。ナナリーはララから降りて大人の姿に戻った。

 

「小さな君、本当に可愛かったよ。でも、朝起きたら小さくなってるのはやめてね。心臓に悪いから」

 

 アルウェスがナナリーを寝台に座らせて、彼も隣に座った。

 

「ロックマン様。お久しぶりです」

「久しぶりだね、ララ。君にはお礼が言いたかったんだ。君のクリスタルはとても効くよ。ありがとう」

 

 寝間着の襟元から白金(プラチナ)の鎖を引っ張りだすと、鎖と同じ白金の土台に、カットされたクリスタルが埋め込まれた小ぶりの首飾りが出てきた。ナナリーがその首飾りを見るのは初めてだったが、ララがクリスタル化したときのクリスタルを加工しているのはすぐにわかった。

 

「私の(あるじ)がナナリー様だから強い力を持つのです」

「削られて痛くなかった?」

「毛の先を切っただけですから、全然痛くありませんよ」

「このクリスタルが君のものだとは団長以外には秘密にしてあるからね。他の人間には絶対に話しちゃだめだよ」

「はい」

「君もね、ナナリー。ララだけじゃなくブラン・リュコス全体が狙われるかもしれない」

「わかってる。必要なら『血の守り』の盟約だってするわよ」

 

 そのクリスタルの首飾りは魔具である。今、アルウェスの体内には魔物の魔力が混ざっている。その魔力を抑えるために作られた。

 時の番人事件でアルウェスは魔石の嵌め込まれた短剣を胸に刺し、呪いがかかった。トレイズは記憶を失くす呪いをかけたのだが、アルウェスは呪いを勝手に変えてしまった。その呪いは一時的に自分の魔力を使えなくするというもの。詳しいことはわからないが、呪いのせいで体内に魔物の魔力が取り込まれて髪と瞳が黒くなってしまた。

 

 ナナリーたちが時の番人事件を解決して過去から帰ってきた翌日、グロウブ団長がハーレにやって来てララのクリスタルが欲しいと頼んできた。騎士団として正式な依頼で、所長には話が通っていた。

 体内の魔物の魔力が暴走しそうになったアルウェスが色々魔具を試したところ、ナナリーが誕生日プレゼントに贈ったリュンクスの魔具に触れたら魔力の制御が上手くいったという。

 

 果たして魔物の魔力を追い出す方法があるのか、髪と瞳の色が戻るのか、まだ何もわからない。

 

 夢見の魔物が憑りついているなら引きはがせばいいのだが、それとは全然違う状態らしい。ナナリーもあれから色々文献を読み漁っているが、解決の糸口になりそうなものは見つかっていない。

 ナナリーはじっと彼の胸元の首飾りを見つめる。ララのクリスタルで作った首飾りはとても綺麗で繊細で、アルウェスによく似合っていた。

 

「何で首飾りにしたの?」

「素肌に直接触れないと意味がないからね。心臓に近い方が効果が高いんだよ」

「そうなんだ」

「下手に詮索されると困るし。ララのことも、君のことも」

 

 彼が長い指でクリスタルを撫でる。光を反射してきらめくクリスタルを手に優しく微笑む彼は、シンプルな白い寝間着に黒い長髪が相まってやたら艶っぽい。

 ナナリーの心臓がまたバクバクと音をたて始める。

 

「私は大したことしてないけど」

「君の力がクリスタルに宿ってる。ときどき冷たくなるんだよ。するとね、スーッと楽になるんだ」

「私の力なの? 氷の始祖の力じゃなくて?」

「君の力だよ。ララは君の使い魔だろう。始祖の使い魔じゃないんだから」

「それもそっか……」

「仕事中も君の力を肌に感じられるっていいね。凄く気に入ってるよ」

「そ、そう。役に立ってるならよかった」

 

 ナナリーは少しづつ横にずれてアルウェスから離れていた。それに気づいた彼が逃げ腰のナナリーを捕まえようと腕を伸ばしてくる。

 

「ナナリー様、私はもう帰りますね」

 

 ララが遠慮がちに呟いた。

 



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1-6. 仮面の下の顔①

 ララは使い魔の空間に帰っていった。部屋にはナナリーとアルウェスの二人きりだ。

 ちびアルウェスがナナリーの部屋に来たときも似たような状況だったけど、あのときとは全然違っている。雰囲気が違う。アルウェスの(かも)す空気が違う。早くカーテンを開けて朝日を入れよう。

 

 チラチラと視線を彷徨(さまよ)わせたのが失敗した。ナナリーの左腕を軽く掴んでいたアルウェスが、すぐさまナナリーを腕の中に閉じ込めたのだ。アルウェスの長い腕に包まれて、頭をぎゅっと抱きこまれる。薄い寝間着を通してアルウェスの厚い胸板を頬に感じる。

 

 自分の心臓が早鐘を打つのが聴こえ、頬が一気に熱くなる。だめだ、目を開けていられない。顔をあげるのなんて絶対に無理。以前なら「ああ、鍛えてやがる」としか思わなかったのに。

 

 ナナリーの細い肢体がアルウェスの体温にくるまれる。布越しの体温はぬくぬくと温かく、お日様の香りが鼻腔をくすぐり、天気がいい日に日向ぼっこしているような心地になる。強張っていた体から少しづつ力が抜けて、アルウェスにもたれかかった。

 

 頭の上から息を呑む音がした。ナナリーを抱き締めるアルウェスの腕に力がこもり、押し当てられた胸からアルウェスの鼓動が聴こえる。彼の鼓動は、外を駆けているのかと思うくらい速かった。

 

「…………煽ってるの?」

「え?」

「……何でもない」

 

 顎をナナリーの頭に載せて、アルウェスが深い溜め息を吐いた。

 

「勝手に帰ったりしないよね?」

「そんなことしない。ちゃんとご挨拶してから帰る。泊めて頂いたお礼も言ってないし」

「うん。朝ごはん食べて行って」

「いつかの朝と逆ね」

「うちは窓から帰らなくていいからね」

「わかってる。礼儀正しく玄関から帰る」

 

 昨夜、帰りの挨拶をするマリスの姿は美しかった。ナナリーにはまだ令嬢の挨拶の真似はできそうにない。今日はハーレの受付で鍛えた挨拶をしたほうがいいだろう。

 

 アルウェスの髪が頬に触れ、頭から覆いかぶさってくるような気配がして、ナナリーは俯いてぎゅっと目をつぶる。アルウェスが大きく息を吐き出した。

 

「……僕は自分の部屋に戻るよ。後で迎えにくるから、支度して待ってて」

「わかった」

「またね、ナナリー」

 

 耳の縁に柔らかいものが触れて、アルウェスの熱い吐息が耳を掠める。吐息に包まれるように、湿ったものが耳を挟んだ。はむ、と食べられるような感触にゾワゾワしたものが腰から背筋を走り抜けていく。「ヒァッ」と声にならない変な音が喉から出てしまった。

 

 寝台に座ったまま硬直して動けないナナリーからそっと腕を離し、アルウェスは立ち上がると部屋を出ていった。

 

 *

 

 扉を閉める前にアルウェスは一度後ろを振り返り、ナナリーに微笑んだ。部屋に一人残されたナナリーは、頬を赤く染めて、彼の唇が触れた耳を両手で押さえて寝台に倒れ込む。

 

 耳をはむはむされた……! あんなこと……あれは耳に口づけされたのだろうか? ……背筋がぞわっとしたのは悪寒とか嫌悪感とは少し違っていて。

 

「ん────っっ!」

 

 両腕で体を抱きしめて、寝台の上を転げ回る。朝からアルウェスに翻弄されて、心臓は爆発寸前。でも、決してそれが嫌なわけではなかったのだ。

 

「ああ、もう!」

 

 どんな顔をして彼に会えばいいのかわからない。後で迎えに来ると言っていたから、早く支度をしないといけない。人を待たせるのは好きじゃない。

 

 ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜながら頭を抱えていると、扉をノックする音がしてナナリーは飛び起きた。

 

「失礼します。ヘル様、起きていらっしゃいますか?」

「は、はい。おはようございます!」

 

 扉の向こうから聞こえたのは女性の声だった。ホッと胸を撫で下ろすと、寝台から降りて服の乱れを整える。髪もササッと手櫛で梳いた。

 

「入ってもよろしいでしょうか?」

「はい」

 

 召使いは皆同じお仕着せを着ている。昨日の今日では誰が誰だか見分けがつかない。

 

「お茶をお持ちしますが、よろしいですか?」

「はい。お願いします」

「ではすぐにお持ちします」

 

 召使いが扉の外に消えると、ナナリーは急いで身支度を整えた。この部屋はなんでも揃っていて、付属のバスルームまである。

 

 ハーレの制服に着替えて待っていると、さっきの召使いが温かいお茶を持ってきてくれた。お茶は少し濃いめに()れてあって、とても美味しかった。朝から何度もドキドキして、心臓がバクバクして死にそうだったのがようやく人心地(ひとごこち)ついた。

 

「とても美味しいです。ありがとうございます」

 

 お礼を言うと、召使いがにこにこしながらナナリーを見ていた。

 

「私たちにお礼なんて必要ございません。お嬢様はアルウェス様の大事な方なんですから」

 

 だ、大事な方って……。ナナリーの顔がまた熱くなってくる。

 

「私は仮面舞踏会のときお嬢様のお支度を手伝わせて頂いたんですよ」

 

 あのときの公爵様の手下(※召使い)の一人だったらしい。失礼にならない程度に顔を観察してみたが、記憶には残ってなかった。仮面舞踏会のことはなるべく思い出さないようにしていたので無理もない。

 

 今朝の夢も仮面舞踏会だった気がする。起きてから色々あったのでもう(おぼろ)げだけれど。

 

 ……色々あったことは考えないようにしよう。美味しいお茶なんだから、雑念を払ってお茶を味わうほうがいいに決まってる。

 

「あのときの水色髪の美しいお嬢様をアルウェス様がお連れになって、本当に嬉しく思っております」

 

 召使いは頬に手を当てて本当に嬉しそうに笑っている。ナナリーはカップを持ったまま、不思議そうに召使いをじっと見つめた。すると、召使いはハッとしたように口元を手で押さえ、「お喋りが過ぎました」と謝って部屋を出て行った。

 

 

 長い間ナナリーの中で黒歴史になっていた王宮の仮面舞踏会。ナナリーはアルウェスが仮装した豚の紳士とラストダンスを踊った。彼にダンスに誘われて。

 

 豚の紳士がアルウェスだとわかった後、ナナリーは彼にカーロラ王女が好きなのかと正面から質問してしまった。彼の父親に頼まれたからとはいえ、早く面倒くさい任務を終えたかったとはいえ、直球過ぎて不躾だったのは自覚してる。

 

 思えば、情緒もへったくれもないことばかり喋っていた気がする。あの頃の自分を思い返すと頭を抱えたくなる。学校を卒業したら大人だと思っていたが、あれでは乙女どころか(『乙女』の一般的な使い方も知らなかったのだが)ただの子供だ。

 

 でも、アルウェスもナナリーに対してはいつもの『宿敵ロックマン』だったのだ。いつもの調子でナナリーと喧嘩をして…………。いや、ちょっと待って。

 

 

『ドーラン王国魔術労働法第三条と第十七条、貴族法第三十条に続く第三十一条』

 

 

 カーロラ王女が好きかと聞いたときのアルウェスの答え。ナナリーをマントの中に抱き込んで、内緒話をするように耳元で囁いたあの謎かけの意味は。

 

 

 ───僕が好きなのは君だよ。

 

 

 ナナリーは目を(みは)ってカップを置いた。とくんとくん……と心臓が脈打つのを感じる。

 赤くなった耳を髪の上から手で覆った。耳を掠める熱い吐息に、背中に回された腕と押し当てられた胸、アルウェスの体温が肌に蘇ってくる。

 いつまでたっても頬の熱が覚めないような気がした。

 



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1-7. 仮面の下の顔②

 自室に戻ったアルウェスは長椅子に沈み込み、両手を組んで額を覆った。目を瞑り、ハァ──と重い息を吐きだす。

 

 ……あのままナナリーと二人でいたら危なかった。

 いつ理性の(たが)が外れてもおかしくなかった。いや、寝台に潜り込んだ時点ですでに箍は緩んでいたか。

 

 昨夜は帰宅したらナナリーが客室の長椅子で眠っていた。全く起きる気配のない彼女を寝台に運び、魔法で寝間着に着替えさせたりはしたが、それだけで一度は自分の部屋に戻ったのだ。寝る前に気になって、つい様子を見に行ってしまった。彼女は相変わらずぐっすり眠っていたけれど、どうしても立ち去ることができなくて、布団に潜り込んで彼女に触れたら瞬く間に睡魔に襲われた。僕も熟睡していたはずだが、朝方寝ぼけた頭で隣の彼女を抱き締めていた。

 

 ……子ども姿のナナリーは可愛かった。僕と彼女の間に子どもが生まれたらこんな感じだろうかと思ったのは内緒だ。

 

 ナナリーが騒いでくれて助かった。ララもいたから自分を抑えていられた。ずっと二人きりだったら何をしていたかわからない。

 

 さっき彼女が初めて僕の名前を呼んだ。僕の顔はきっと緩みっぱなしだろう。彼女はこれからもこの屋敷にやってくる。彼女のことだから泊まるなんてそうそうないだろうけれど、僕が早く帰ってくれば話をする時間くらいはとれるはずだ。

 

 ナナリーの細くて柔らかい身体の感触がまとわりついて離れない。前に僕が彼女の部屋で目覚めたときは、最初は夢だと思っていて、実際夢みたいなものだった。彼女の部屋に居た小さな僕が眠っている間に大きな僕に入れ替わってしまった、ただの魔法の悪戯。そんなことはわかっていた。それでも忘れられなくて苦しかったのに。でも今は、もう忘れようと自分の気持ちを押し殺す必要はない。手を伸ばせば届くところに彼女はいる。

 

 ずっと焦がれていた水色の髪に、華奢で柔らかい身体に、少しずつではあるけれど、愛おしいと感じる心のままに触れることができる。

 でも、僕の想いを不用意にナナリーにぶつけないよう気をつけなければ。きっと彼女にはまだ受け止められないだろう。

 

 キュピレットの花に想いを込めて渡すように、何かに託すくらいが今の僕たちにはちょうどいい。

 

 

 アルウェスは長椅子から立ち上がって騎士服に着替える。黒くなった髪を一つにまとめて編んで結び、変身魔法で髪と瞳の色を金と赤に変える。すると、急に体の奥から自分以外のどす黒い魔力がじわっと体内に広がり始めた。反射的に自分の魔力で抗った刹那、スッと胸元の首飾りが冷たくなり、一度広がった魔力が首飾りに吸い取られるように集まって消えていく。

 

 服の上から胸元の首飾りを握りしめる。僕にとって変身魔法は難しい魔法ではない。髪と瞳の色を変えるくらいでそれほど魔力は消費しないのだが、こんな小さな隙さえも逃すまいと魔物の魔力は襲ってくる。

 

 短剣を胸に刺したことに後悔はない。ナナリーを守るためなら手段は厭わない。そして彼女は無事に僕の元へ帰ってきた。時の番人の事件の後、僕と彼女の距離が縮んだのだから皮肉なものだ。 

 カーロラの結婚式に僕のパートナーとしてナナリーが出席する。彼女はその準備で公爵家へ通って来る。貴族ならその意味するところを理解するはずだけれど(ナナリー本人は案の定わかってないようだが)、トレイズのように捨て身の策に出る女性がまた出てこないとも限らない。

 

 そこまで思考を巡らせたところで、アルウェスは首を振った。ナナリーが待っている。今はそんなことに煩わされたくない。後で考えればいいことだ。

 さあ、ナナリーを迎えにいこう。

 

 

 *

 

 

 召使いが出ていってからしばらくした後、アルウェスがナナリーの部屋に迎えに来た。フードを被って気持ちを落ち着かせていたナナリーは慌てて上着を脱いだ。

 

 アルウェスは銀縁の眼鏡をかけて、髪は金で瞳は赤だった。目を丸くしたナナリーに、変身魔法だと説明する。

 

「キースを驚かせたくないから」

「そっか……そうだよね、キース君も驚いちゃうよね」

 

 居間に案内され、朝食をご馳走になる。陽射しが降り注ぐ明るい部屋で、ここでお茶会なども開かれるらしい。居間にはロックマン公爵夫妻がおり、途中からキースくんもやってきた。キースくんは兄のアルウェスがいるのがとても嬉しいらしく、きゃっきゃとはしゃいでいる。

 アルウェスも時間が許す限りキースくんの相手をしていた。兄馬鹿なのは相変わらずだ。キースくんもノルウェラ様似で、この兄弟はよく似ている。二十歳以上(とし)が離れているから兄弟というよりは親子みたいに見える。

 

 

 朝食後、ナナリーはロックマン公爵夫妻にお礼を伝えて、アルウェスと一緒に公爵邸の玄関を出た。玄関の前には広い噴水広場があり、周囲には綺麗な花壇や植木がある。この屋敷は玄関から門までが嫌になるほど遠いのだ。

 

 花の季節がもうすぐ終わろうとしている。公爵家の手入れが行き届いた木々や花壇も最後の花を散らしていた。サァ……と風が吹いて花びらが舞う。風はもう涼しくて、噴水広場の周りは水飛沫が少し肌寒かった。

 

 ナナリーとアルウェスはここで別れてそれぞれの職場に向かう。ナナリーは転移魔法で一度寮に帰ってからハーレに出勤する。アルウェスは騎士団のある王の島に行くのだが、王の島は防犯上の理由で転移魔法が使えないため、使い魔のユーリを召喚している。

 

「アルウェス様、ナナリー様。おはようございます」

「おはよう、ユーリ」

「ユーリ! 久しぶりね」

「ナナリー様もお乗りに?」

「ナナリーは転移魔法でハーレに帰るよ」

「またの機会にね」

 

 ユーリが屋敷を見やり、次にアルウェスとナナリーをしげしげと眺めた。

 

「もしかしてナナリー様は朝帰りですか?」

「そうだよ」

「違う! いや、違わないけど……やっぱり違うから! ユーリはなんでそんな言葉知ってるの!?」

「ユーリのほうが君より大人なんだよ」

 

 アルウェスとユーリが同じ顔をして(ユーリはリュンクスだけど!)笑った。ユーリにこんなこと言われるなんて凄く恥ずかしい。

 

「じゃあ私は転移するから。またね!」

 

 縮小して腰のベルトに下げていた女神の棍棒(デア・ラブドス)を伸ばし、地面に突き立てた。行き先はハーレの寮。女神の棍棒の先から地面に魔法陣が広がり始める。

 

「うん、また今夜ね。なるべく早く帰るから」

 

 ピキッ。

 魔法陣が止まり、シュルシュルと女神の棍棒に戻っていく。

 

「今夜もご一緒ですか?」

「その予定だよ」

「いったいどんな魔法をお使いに?」

「人の心を魔法でどうにかしようなんてしないよ。ユーリは意外と失礼だなぁ」

「冗談です。僕も嬉しいんですよ」

 

 なんでこの二人(※一人と一匹)はやたらと楽しそうなのか!? 

 軽口をたたいてる主従に背を向けて、ナナリーは再び空間転移の魔法陣を地面に描いた。

 

「どうしたの? 早くしないと仕事に遅れるよ。一度寮に帰るんでしょ」

「う、うるさいわね! ちゃんとやるわよ!」

 

 集中だ、集中しろナナリー! 

 ハーレの寮の部屋だけを頭に思い浮かべ、転移の呪文を唱え始めると魔法陣が金色に輝き始める。

 

「公爵邸に転移するときは、僕じゃなくて屋敷を思い浮かべるんだよ。僕のことを考えると僕のところに来てしまうからね。君に押し倒されるのは嫌じゃないけど、仕事中に突然現れるのは困るかな」

 

 ぐぬぬぬぬ。

 女神の棍棒を握りしめる拳に力が入る。学生時代の試験前のごとく、ナナリーは雑念を払い、すべての音を遮断するように集中して転移先のことだけを考える。

 足元の魔法陣から放たれたまばゆい光がナナリーを包んで消えた。

 



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1-8. ナナリーの護衛①

全体の流れは変わりませんが、ニケとロックマンの会話をpixiv版から変更しました。pixiv版では軽い感じでしたが、真面目な内容になってます。



 ニケは朝礼の後、ゼノン殿下にロックマン隊長の執務室に来るよう呼ばれた。隊長が殿下に言付けを頼むのは有り得ないから、これは殿下から何か命令があるということだろう。

 

「失礼します」

 

 隊長の執務室に入ると殿下と隊長が話をしていた。殿下だけが応接ソファに座っていて、隊長はその後ろに立っている。

 隊長は金髪に赤い瞳をしているが、おそらく変身魔法だろう。数日前に殿下の執務室で見かけたときは黒い髪、黒い瞳に眼鏡をかけていて、印象がかなり違っていた。

 騎士団の各執務室には強力な防御魔法がかけられていて、変身魔法の(たぐ)いはすべて解除されてしまう。ここは隊長の執務室だから、彼が防御魔法に手を加えて、自身の変身魔法が解けないようなっているのだろう。

 

 ニケは殿下や隊長と向かい合うように応接ソファの後方で立ち止まり、敬礼した。殿下は少し開いた膝の上に肘を置いて手を組み、さっそく話を始める。

 

「ニケに頼みたいことがある」

「はい」

「ナナリーと一緒にロックマン公爵家で令嬢教育を受けてほしい」

 

 

 ───は? 

 ニケは目を真ん丸にする。騎士となり、殿下の部下になってから三年。常日頃から反射で返答をしない訓練をしているが、それでも今回の命令は思わず変な声を出しそうになった。

 

「近々シーラでカーロラ王女の結婚式があるだろう? 俺とミスリナ、アルウェスとナナリーが出席することが決まった。だが、ナナリーは平民だ。王族、貴族の世界のことをよく知らない。だから勉強してもらっている」

 

 ああ、なるほど。ニケの家も今では貴族の端くれであるが、男爵の爵位をもらってからまだ一年も経っていない。友人のマリスから厚意で貴族令嬢としての教養を教わっているけれど、もし他国の王女の結婚式に出席しろと言われたら全力で固辞するだろう。

 

 ナナリーからカーロラ王女の結婚式に出席することになった経緯は聞いたが、最初は青ざめながら何度も首を横に振ったらしい。ナナリーのことだから言いくるめられた部分はあるだろうが、彼女を狙う魔物を退治するために自ら胸に魔剣を突き刺し(命を奪うものではないと知っていても普通はできるものではない)、魔物の魔力に浸食されつつ頼む隊長に(ほだ)されて頷いてしまったという。

 

「最初のひと月は毎日レッスンに来いとダンス教師に言われてしまったそうだ」

「それは……大変ですね」

 

 本当にダンス教師の指示なのかしら? ニケはチラッと隊長を伺う。隊長が当分の間、宿舎ではなく実家の公爵家から騎士団に通うらしいという噂を今朝聞いたところである。しかしポーカーフェイスが得意な彼は微塵も反応していなかった。

 

「だがこれは建前だ」

 

 殿下が言葉を切ってニケを見据える。室内にピリッと緊張が走った。

 ニケが入ってきたときから防音の魔法はかかっているし、執務室自体にがっちり防御魔法をかけてある。盗聴の心配はない。

 

「ナナリーの友人として自然に彼女を警護してほしい」

 

 殿下の命令は極めて妥当なもので、ニケは背筋を伸ばした。

 

「了解しました」

「この件はアルウェスと共に当たってくれ。詳しい話は、この後アルウェスから説明がある。騎士団の中でも内密にな。騎士団の一部とハーレの所長、時の番人事件の関係者しか関与させるつもりはない。女性騎士から何か詮索されても話すなよ」

「もちろんです」

「俺は団長と話があるからこれで失礼する」

 

 

 殿下が部屋を出ていくと隊長と二人きりになる。隊長は執務机の前に移動するとニケを手招きした。

 

「じゃあ詳しい説明をするよ」

「はい」

「今回のブルネルは主に人間からナナリーを守ってほしい」

「人間ですか?」

「そうだよ。ハーレは優秀な魔法使いが揃っているし、ナナリー自身も魔物相手なら強い。でも、人に対してはそうではない。例の夢見の魔物の狙いはナナリーで、共通の目的を持っていたトレイズが魔物にたぶらかされた。シュテーダルの復活を望む魔物にしろ、シュテーダルと同じ意思を持つ魔物にしろ、狙いはナナリーだ。人に憑いたり、或いは人に変化(へんげ)したり──知能の高い魔物なら、ナナリーを狙う人間、もしくは彼女の身近な人間を利用しようとするだろう」

「そうですね」

「ブルネルやフェルティーナも利用されるかもしれない」

「私やベンジャミンが人質になる可能性ですか?」

「まあ、そんなところだね。ナナリーを憎く思う人間が魔物に取り憑かれて、ナナリーを殺そうとする。もしくはシュテーダルの意思をもつ魔物が彼女を手に入れようとして、人間を利用する」

 

 前者は隊長を諦められない女性で、後者はナナリーに恋する男性ということか。

 

「ナナリーに取って代わりたい女性も、ナナリーに横恋慕する男性も多そうですね」

「……」

 

 ニケがちくりと刺すと、隊長はこころなしか憮然としたようだった。だがナナリーの親友としてこれくらいは言わせてもらってもいいだろう。

 

「……それから、例の夢見の魔物のように、知能の高い魔物も現れてきている。明確な殺意や敵意はなくとも、むしろ、漠然とナナリーを排除したい、彼女を手に入れたいと思っている人間の方が魔物につけ込まれやすいと僕は思う」

「それは……確かに」

 

 魔物が人に紛れて特定の人物を襲うならば、強い敵意を持った人間よりも、人畜無害そうな人間の方が相手を油断させやすい。ましてやナナリーは善良で真っ直ぐな性格をしているから、コロリと騙されそうである。

 おまけに、ナナリーの性格というよりは経験上、強い敵意を持った若い女性がナナリーを襲ったとしても、魔物に憑かれているかどうか関係なしに、その女性に同情してしまうのではないかとニケは思うのだ。

 

「では、人の皮を被った魔物がいる危険をナナリーに理解させることが私の役目でしょうか? ……私が思うに、ナナリーは学生時代に女子生徒から敵意を向けられることに慣れてしまって、もし悪意をぶつけられても、その女性に同情してしまうフシがあるのですが」

「…………」

 

 ニケから視線を逸らした隊長は、執務机に寄りかかり、こめかみに指を当てて黙り込んだ。

 学生時代にナナリーが浴びてきた貴族女子からの悪意ある言葉の数々や(あざけ)りは、そのほとんどがアルウェス・ロックマン──隊長に起因している。

 

「……その辺は追い追い僕からも対処する。ブルネルは、身近なところに魔物と通じた人間がいる可能性をナナリーに理解させてくれると助かる」

「わかりました。……男性に関しては、彼女を口説く男性を遠ざければいいですか?」

「というよりは、まずは口説かれていることに気づかせることかな」

「ああ、なるほど。そこから必要ですね」

 

 隊長は机の上の書類を取り、ニケに手渡した。

 

「ハーレの所長に渡す書類だ。君も内容を覚えておいて。今日の夕方までにハーレに行ってナナリーに話をしてほしい。護衛の件と、君が一緒に令嬢教育を受けること。それから、これはハーレの所長に頼む予定だが、当面ナナリーは昼間の勤務のみ、外出時の単独行動も禁止とする」

「それは……ナナリーが嫌がりそうですね」

「だから君も説得に協力してほしい」

 

 本音では隊長が自分で説得したらどうか、と言いたいところだ。

 ナナリーは仕事が大好きで、職場の人たちに迷惑をかけるのが嫌いだ。夜勤の方は、人数の少ない夜勤時に何か問題が起きればハーレ全体に迷惑がかかると理解できるからいいとして、昼間の一人の外出を禁止するのは少々過保護ではないだろうか。

 

「夜勤の方はともかく、外出時の単独行動の禁止はやりすぎではないでしょうか?」

「これはあくまでも緊急の処置だよ。フェルティーナとサタナースにも同様の警告をしている。これから時の番人に関して協力してもらうことが増えるからね。まあ、あの二人は勘がいいから心配はしてないけど」

「時の番人事件の関係者というなら、私も何かあるのでしょうか?」

「もちろん。殿下も僕も忙しくなる。ブルネルにも大いに働いてもらうよ。時期が来たら、ナナリーが所属するハーレにも協力を要請する予定だ。そのときに、彼女が一人で動けるようにブルネルから指導してもらえると助かる」

 

 常日頃から仕事に忙殺されている殿下や隊長がさらに忙しくなるとは、かなりの大仕事が待っているのだろう。どうやらニケとナナリー、ベンジャミンにサタナースもそれに巻き込まれるようである。ナナリーにはぜひとも優秀な能力を生かしてもらいたいものだ。

 

「それまでにナナリーの意識改革をする必要があるんですね?」

「意識というより常識かな。僕からも彼女に話はするけど、事前にブルネルやロクティス所長から説明しておいてもらえると説得が楽だからね」

 

 確かに隊長が説得すると反発して喧嘩になるだろう(たとえ喧嘩になっても最終的には丸めこんでしまうのが彼の特技ともいえるが)。ハーレの所長から説得、あるいは命令してもらえるのが一番楽である。

 

「了解しました」

「これは騎士団の正式な任務だから。ブルネルがナナリーと一緒にいる時間は勤務扱いになる。カーロラ王女の結婚式への出席も国に認められた仕事だと説明してほしい」

 

 ナナリーの護衛は僕と分担だ、と隊長は笑った。

 以前と違ってナナリーが絡むと彼は笑うようになった。澄ました笑顔ではあるものの、芯に隠しきれない熱がこもっていて、ウェルディやその他の女性に向ける笑顔とは全然違う。かつてのナナリーを前にすると不機嫌そうに幾重にも(もつ)れた感情をもて余していた彼はもういない。

 

 ウェルディを始め、騎士団の団員は彼の変化に気づいている。ナナリーが公爵家にしょっちゅう出入りしていれば貴族社会にも早々に噂は広まるだろう。恋愛に疎いナナリーは困惑するだろうが、なるべく早く二人の仲を世間に知らしめるのが、(くすぶ)り続ける想いを抱える人々の心に平穏をもたらす最善の方法なのだ。

 

 目の前に立つ美貌の青年は、今も昔も、ニケが知る限り水色髪の親友しかその瞳に映していないのだから。

 



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1-9.ナナリーの護衛 ②

 

 ニケがハーレの扉を開けると、受付に半ば覆いかぶさるようにして受付嬢と話をしている破魔士が目に入った。ブロンドのポニーテールを揺らして遠目に窺ってみれば、破魔士の陰から水色の髪が見える。

 

 ハァ……と思わずニケの口から溜息がもれる。

 ゾゾが呆れた顔でナナリーと破魔士を見ていた。チーナは今はいないようだ。ナナリーではなく、まずゾゾに声をかけることにする。

 

「すみません、ゾゾさん、所長に取次ぎをお願いしたいのですが。騎士団から連絡はしてあります」

「わかったわ。ちょっと待ってね」

 

 席を立とうとするゾゾをニケが止めた。声を潜めてそっと耳打ちする。

 

「あの破魔士、いつもあんな風にナナリーに声をかけてるんですか?」

「そうなのよ。ナナリーは大丈夫だって言ってるけど、ちょっと危ういのよね。隊長さんが何とかしてくれないかしら?」

「私が対処します。隊長から頼まれてますから」

 

 おや、という風にゾゾの目が光った。

 

「所長に取次ぎお願いします。ナナリーも同席してもらいますので」

 

 ゾゾは目礼をして席を離れ、ニケもナナリーの元へ向かった。

 

「すみません、そちらの受付の(かた)に用があるのですが」

 

 ナナリーの座る受付に頬杖をついて彼女を口説いている破魔士に、愛想の欠片(かけら)もない声で話しかける。真顔の騎士に横やりを入れられた破魔士はぎょっとしてナナリーの前から離れていった。それでもまだハーレを出て行かない。ハーレの食堂で時間をつぶすらしい。

 

 ハーレから出ていくまで睨み続けてやろうかと破魔士に向けていた視線を受付に戻し、親友に普段通りの顔を見せた。

 

「ナナリー、ちょっといい?」

「ニケ!」

 

 ナナリーが笑顔で、だが、やや訝し気にニケを見た。ナナリーの前でニケが露骨に冷淡な態度を取るのが珍しいのだろう。

 

「どうしたの? ニケは一人?」

「大事な任務をまかされてね。所長とナナリーに話をしに来たの」

「私も一緒に?」

 

 ちょうどゾゾが所長室から戻ってきてニケとナナリーを呼んだ。ナナリーは頭に疑問符が飛び交っているような顔でニケとゾゾを見比べている。

 

「あとは私が引き継ぐから、ナナリーはニケちゃんと所長室に行ってちょうだい」

 

 ゾゾとニケでナナリーを所長室に追い立てた。

 所長室に入ると、ロクティス所長に書類を渡し、光の季節に行われるカーロラ王女の結婚式にナナリーが出席すること、そのための令嬢教育、ニケとロックマン隊長がハーレの就業時間以外のナナリーを護衛することを説明する。

 そして、当面ナナリーを夜勤から外すこと、業務、業務外に関わらずナナリーを一人で外出させないこと、休日でもナナリーは常にハーレの制服を着ることなどを要請した。

 

 隊長のパートナーとして結婚式に出席することや令嬢教育が始まっていることを暴露(ばくろ)され、ナナリーは顔を真っ赤にしていたが、仕方あるまい。これがニケの仕事である。

 

 ハーレには元々退魔の陣が張ってあるが、ハーレの女子寮にも退魔の陣を張ってもらい、ナナリーの部屋には個別に防御魔法をかける。魔法陣(おそらく隊長が考案した強力な防御魔法の魔法陣)が書かれた紙をナナリーに渡した。

 

 夜勤から外れることはやはりナナリーが抵抗したが、ちょうど後輩たちの夜勤が始まる時期だそうで、所長から問題ない、むしろ好都合とばっさり切られてショックを受けている。

 

 一般人を警護するときは数人交代で一日中見守るものだが、ハーレは魔物に対して守りが固いのでニケの警護時間はそこまで長くない。朝はナナリーに寮から真っ直ぐにハーレに出勤してもらい、退勤後はニケと一緒に公爵家に向かう。休日は朝から一緒に過ごすことになるだろう。その休日も令嬢教育に費やされるので、ナナリーには忙しい日々になりそうだ。

 

 さて、ニケにとってはこれからが本題である。

 

「所長、ハーレの受付で職員を口説く男性をどうにかできないんですか?」

「それは前から気になっていたのよねぇ。職員側にもその気がある相手なら、まあ目くじら立てるものでもないと思っていたんだけど。ナナリーが受付に座ってから一気に増えだしたのよね」

 

 机に両肘をつき組んだ手に顎を乗せてロクティス所長が溜息を吐いた。

 

「はいっ!? ち、違います! そんなことありませんよ。ただの社交辞令ですから!」

 

 ナナリーは心外だと言わんばかりに否定した。

 

「ナナリー、客観的に、率直な意見を言わせてもらえば、あなたも隊長さんとよく似たところがあるわ。あなたは彼を女タラシと言っているけれど、あなたは人タラシってところね」

「な、何ですか!? それ!!」

 

 こんな話題で隊長と同列にされればナナリーにとっては不愉快極まりないだろうが、ここはロクティス所長に加勢するのがニケの最良の手だ。

 

「受付に座るナナリーに恋している男性は、隊長に恋してる女性並みにいるってことよ」

「まさか! あいつと一緒にしないでよ!」

「ナナリー、あなたが気づいてなかっただけで、学生時代からあなたに恋する男の子はたくさんいたのよ」

「ははぁ、それを隊長さんが全部追っ払っていたってわけね」

「そうですね」

 

 実際のところはニケも知らない。だが、まあ、きっとそんなところだろう。

 ナナリーが他の男子を異性と意識する前に、隊長を見るように仕向けられていたのだと思う。もっとも、その隊長を異性と認識し始めたのは卒業後のような気もするが。元々の性格もあるとはいえ、ナナリーが自分の魅力を自覚していないのも結局は隊長の影響である。これは隊長の自業自得ということで、彼に苦労してもらおう。

 

「ニ、ニケ……」

 

 ぷるぷると体を震わせるナナリーの顔には『裏切られた』という文字がでかでかと書かれていたが、せっかくの機会だからナナリーには実情を理解してもらわねばならない。ハーレの所長がこっちの味方なら話が早い。隊長の説得よりも数段効き目がありそうだ。

 

 

「ナナリー、これは冗談ではないのよ」

 

 ロクティス所長の纏う空気が緊張感を帯びる。先ほどとは打って代わり、ナナリーに語りかける声が(おごそ)かに響いた。

 

「身を守る方法があるなら最大限、できる限りのことをやりなさい。これは所長命令よ」

「は、はい」

「あなたにその気はなくても、結果的に破魔士たちが魔物にたぶらかされることになれば大問題よ。時の番人の事件──隊長さんの日ごろの行いが招いた部分も否定できないわ。彼もいくらかは責任に問われたのではなくて?」

 

 ロクティス所長の言葉はいつになく辛辣だった。ナナリーは驚いて目を見開き、息を呑む。ここまではっきりロクティス所長が言うとはニケも思っていなかった。

 

 時の番人事件について隊長がどのような評価を受けたのか、表向きのことしかニケは知らない。ニケは目を伏せて答えた。

 

「私は詳しくは存じてません」

「そう。たとえ隊長さんにお咎めがなくとも、彼は物凄く責任を感じているでしょうね。だから貴女が嫌がるのを承知で、貴女の勤務予定にまで口出しするような対策を講じているのだと思うわ。オルキニスのときとは状況が違うのよ」

 

 まるで人が変わったかのように、ロクティス所長の眼光は鋭く、その言葉には重みがあった。二ケとナナリーは予想外の彼女の迫力に気圧(けお)される。

 ニケは自分が知る優秀な騎士たち、団長や殿下に隊長、ヴェスタヌ王国のボリズリーなどと同じ気迫を感じていた。ナナリーは少し顔色が悪い気がする。

 

「それに──」

 

 一度言葉を切ったロクティス所長は机の上の木彫りのリュンクスを見つめる。彼女の瞳に仄暗い影が差した気がした。

 

「あなたにもしものことがあったとき、あの隊長さんがどうなると思う?」

 

 



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1-10. 騎士の心臓

ニケ視点最後です。タイトルを変更しました。
加筆修正して話の流れがわかりやすくなったと思います。
※10/18加筆修正しました。





 

「ロクティス所長ってあんな一面もあるのね。意外だったわ」

「うん、私も……」

 

 所長室から退室して廊下を歩きながらニケは呟いた。ナナリーはまだ困惑しているようだ。所長の最後の言葉はナナリーにどう響いたのだろうか。

 

 テオドア・ロクティスの名前はニケも知っている。『現代の崇高なる魔法使い百選』にも選ばれた優秀な魔女であり、何より『黒天馬殺し』事件のときに救世主と呼ばれた人物だ。

 

 騎士団員と民間人を魔法陣に閉じ込めて命を奪うというおぞましい事件が起きたとき、騎士団の団長はグロウブ団長の双子の兄で、その団長でさえも魔法陣を破れずに命を落とした。そんな恐ろしい魔法を一度に破ったのが当時ハーレの受付嬢だったロクティスである。

 

 ニケはロクティス所長とそれほど面識はないけれど、ナナリーから伝え聞く彼女は、若くしてハーレの所長に就いていながら気さくで親しみやすい人柄という感じであった。グロウブ団長には常に喧嘩腰であるが、ナナリーとロックマンみたいな例もあるので内実はわからない。

 

 優し気で快活な女性という印象の彼女からはうかがい知れない、心の奥底に暗い何かを秘めた表情。抑制されていても静かに滲み出る気迫。何かを覚悟しているような、団長や隊長、他にも修羅場をくぐってきた騎士たちと共通する何かを彼女から感じた。

 

 

 もしもナナリーが殺されたりしたら。

 隊長はナナリーを手にかけた人間を躊躇(ためら)いもなく殺すだろう。さもなくば、死んだほうがマシと思えるような恐怖を与え続けるだろう。もし黒幕がいれば必ずやそれを突き止め、魔物が関わっていれば己を顧みずに魔物を滅して回るに決まっている。一時の感情に駆られてではなく、彼はきっと執念深くやり遂げる。傍目にはそんな激情を(たぎ)らせていると気づかせることもなく。

 

 オルキニスの事件の時も。

 海の国でも。

 シュテーダルとの戦いのときも。

 誰よりもナナリーを守ろうと力を尽くしたのは彼だから。

 

 時の番人事件では隊長も被害者側なのだが、彼に恋情を募らせたトレイズが、ナナリーに成り代わろうとして魔物にたぶらかされたのが発端である。彼は自らケリをつけようと、魔剣を胸に突き刺し、夢見の魔物の内部に侵入して戦った。

 魔剣を隊長の胸に刺さなければトレイズが魔物との契約違反で死んでいたそうだが、魔物の言葉をどこまで信用できるか怪しいものである。現代に残っていた隊長が、ナナリーを助けるため選んだ最短の手段が魔剣を自分の胸に刺して魔物に侵入する方法だったのだろう。

 あの事件のときは隊長が倒れてしまい、彼だけは過去に向かわなかった。突然の不調は魔物と関係があったのだろうとゼノン殿下は後に仰っていた。ニケたちが過去で魔物と対峙したとき、過去の隊長──ロックマン少年は夢見の魔物に取り憑かれ、体を乗っ取られかけた。もしそれと関係があるのなら、きっと隊長には勝算があったのだ。

 とはいえ、魔物に侵入するなんて恐ろしくてニケには想像もつかない。自我を保って戦った彼は人間離れしている。

 

 しかし、代償は決して小さくなかった。彼は魔物の呪いを受けて、彼の魔力と知識をもってしてもまだ解けていない。その上、魔物に取り憑かれたロックマン少年が子どものナナリーの首を絞めた事実にも、許しがたい罪悪感を抱えているとニケには(さっ)せられた。

 

 

 ニケは足を止めてナナリーを見つめ、頭上で指をくるくると回して防音の膜を張る。

 

「トレイズと時の番人の事件で、今のところは隊長に黒星ひとつかしら」 

 

 ナナリーが目をぱちくりさせる。

 

「隊長は身から出た錆よ。ナナリーは同じ目に合わないためにも男女のことを勉強しなきゃいけないわ。隊長には負けたくないでしょ?」

 

 ニケの言わんとするところを理解したナナリーは強い瞳をして頷いた。かつてよく見た『絶対にロックマンに勝つ!』と奮起する顔をしている。懐かしくなったニケはにこっと笑った。

 

 

 *

 

 

 ナナリーと細かな打ち合わせを済ませると、ニケは王の島に帰った。

 隊長は不在だったため報告書だけ提出する。仕事に戻ろうとしたときゼノン殿下の執務室に呼び出された。隊長も一緒かと思ったが、執務室には殿下しかいなかった。

 

「ナナリーは納得していたか?」

「はい」

「ほう、意外だな。俺が命令するならまだしも、アルウェスの命令を素直に受け入れたのか?」

「ハーレの所長のおかげです」

「ロクティスが?」

「はい。騎士団の命令だからという訳ではなく、ロクティス所長がナナリーを説得してくれました」

「そうか……」

「ロクティス所長のことは詳しく存じ上げていませんでしたが、ハーレは凄い魔法使いが揃っているんですね」

「そうだな。……学生の頃、ナナリーがハーレに就職すると聞いたときはもったいないと思ったものだが。実を言うと、グロウブも俺も、ナナリーには騎士団に来てほしかったんだ」

「わかります。私も同じことを思いました」

 

 殿下は顎に手を添えてしばし黙考したあと、ニケを見た。

 

「ニケ、これは副団長としての命令だが。この機会にナナリーが騎士団とも連携をとって戦闘ができるよう、基本だけでも叩き込んでほしい。彼女はハーレの受付ではあるが、魔力、戦闘力、頭脳──どれをとっても一流の魔法使いだ。このまま遊ばせておくのは惜しい。演習場での戦闘訓練も許可するし、兵法の勉強もいい。氷型の団員と魔法の研究をさせても構わない。ウォールヘルヌス以降、団員もナナリーには一目置いてるだろう?」

「はい……」

 

 しかし、それではナナリーを騎士団に取り込むことになるのではないか? ナナリーの夢はハーレの受付嬢なのに。

 

「悪いが、ナナリーには自分の力の価値がわかってない。この大陸中で直接始祖と会話した魔法使いがナナリー以外にいるか?」

「……聞いたことはありません」

「現在始祖級と呼ばれる魔法使いは大陸でも数えるほどだ。ドーランではやっとアルウェスが頭角を現した。ナナリーもそれと同等の力を持っている。だが、圧倒的に経験が足りない」

 

 殿下はそこで一旦言葉を切り、ニケの目を見据える。

 

「──有事に備えて戦力はどれだけあってもいいんだ。騎士団の戦闘力を急に上げることは正直難しい。だが、平時から各領地を守る貴族たち、市井で活躍する優秀な魔法使いたちと共闘できるようにすればドーランの軍事力の底上げができる。ウォールヘルヌスのときのように、絶体絶命になってナナリーに頼るなんて無様な真似を繰り返すわけにはいかない」

「おっしゃる通りです」

「ナナリーを『利用する』のはアルウェスとっては不本意だろうが……あいつの手にも負えなくなった時、最後にあいつが頼るのは結局ナナリーだ」

 

 それはニケにも否定できない。ナナリーは隊長に庇われてばかりと悔しがってるが、魔王シュテーダルに対抗するにはナナリーの力が必要なのだ。隊長だけでは無理である。そして隊長にできないことが他の団員にできるはずもない。

 

 隊長はずっと彼女を護る立ち位置でいたいのだろうけれど(オルキニスの時はナナリーを護り切れて彼も本望だったろう)、現実はそうはいかない。シュテーダルはナナリーの氷の魔法でバラバラに砕け散ったが、いつの日か復活するという。そのときに備えて殿下は対策を考えておられる。

 

「それが騎士団として正しい在り方なのかはわからない。だが、アルウェスとナナリーはお互いを高め合い、助け合い、結果として国や大陸をも護ってしまう。だから、あの二人はそれでいいと俺は思っている」

 

 殿下は友人や民を無下に扱うような御方ではない。ナナリーの夢も、隊長の希望も、全部承知の上だろう。

 

「私もそう思います」

 

 殿下はニケに微笑むと、窓の外へ目を向けた。殿下の視線の先は守るべき国と国民に向けられている。

 

 

 ニケは騎士だ。騎士はときに命を懸ける。それは決して任務の為ではなく──愛する人や家族や民のために、誰かのために命を懸けるのだ。

 

 真っ直ぐな眼差しで民を見守るこの方の横顔を、ずっと見続けていきたいとニケは思った。

 

 




最後にニケとゼノンの会話(テレパシー)のエピソードがあったのですが、約二週間後に時間がとんでいるため、別のニケ視点(※未発表。これから書く予定です)に組み込むことにしました。

10/5にフロースコミックが発売されるので、次の更新は土曜日以降の予定です。


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1-11. 令嬢教育二日目

サブタイトルを変更しました。次話から『ポルトカリ』です。pixiv版よりだいぶ削り、主題を明確にしました。



 

 ハーレ終業後、ナナリーはハーレの裏に出ると魔法陣で公爵邸へ転移した。明日はニケがハーレまで迎えに来てくれるらしい。

 転移の魔法陣は便利だけど、考え事をしたいときには向いてない。ララに乗って空を飛ぶのは爽快で気分がよく、ララの背中で揺られているうちに気持ちの整理がついてくる。それに、もふもふのララに触れていると癒されるのだ。

 

 文字通りあっという間に公爵邸に着いてしまう。着地した噴水広場は今朝アルウェスと使い魔のユーリに散々揶揄(からか)われた場所で、噴水を見上げて憮然としてしまった。

 

 公爵邸では客人が敷地に入ると来訪者を知らせる魔法が施されているのだろう、ナナリーが玄関にたどり着く前に扉が開く。執事さんたちがにこやかに迎え入れてくれた。

 すぐに授業(令嬢教育)が始まるのかと思ったが、昨夜ノルウェラ様とお喋りをした談話室に通される。家族用のこじんまりとした談話室である。ノルウェラ様とキース君が待っていたが、キース君はお風呂に入るためにお世話係が連れていった。

 

 ナナリーたちの前に芳しいお茶が運ばれてくる。疲れていたから美味しいお茶とお菓子がとても嬉しい。ついにこにこと頬が緩んでしまった。

 

「ナナリーさんは昨日も今日も仕事があったのでしょう? 疲れてないかしら?」

「少し疲れはありますけど、大丈夫です。仕事は楽しいですから」

 

 疲れたとしたら仕事の前、今朝の諸々の出来事だろう。昨夜公爵邸で寝こけてしまったのが悔やまれる。今日は絶対に寮に帰ると決めている。

 

「少し治癒魔法をかけてもいいかしら?」

「いいんですか? ありがとうございます」

 

 ノルウェラ様は治癒魔法が得意と殿下から聞いたことがある。貴族の女性にしては珍しいと思う。

 ナナリーの同級生だった貴族女子は、学校を卒業した後は結婚が重要な仕事だそうだ。次期女侯爵になるため父親の手伝いをしているマリスは(まれ)な例である。

 ハーレの受付嬢になるために魔法学校に入学した平民のナナリーとは人生設計が違い過ぎる。

 

 そういえば、貴族の子供たちが同じ学校に通うのは結婚相手を探すためだとマリスが言ってた気がする。

 貴族は自分の領地を魔力で守る義務がある。幼少の頃から家庭教師に勉強や魔法を習い、十三歳になる年に魔法学校へ入学する。将来領地を守るために国の最高峰の学校で魔法を学ぶのである。

 学生時代はそういった貴族の義務がよくわからなかったが、社会に出た今なら理解できる。

 

 ナナリーの世代では貴族の令嬢も学校卒業後、つまり成人してから結婚するのが普通になっている。しかし、昔は十五歳くらいで結婚する令嬢が多かったらしい。ノルウェラ様もおそらく成人前に結婚されていると思う。十五歳なんてまだ子供だと思うのだが、その歳で結婚するなんてナナリーには想像もつかない。

 

 

 ノルウェラ様がナナリーの隣に座り、ナナリーの額に手を当てた。ノルウェラ様の指先から暖かな、優しい熱が流れ込んでくる。

 目を閉じると体の中で滞っていたものがほぐれて、するすると流れていく感じがする。とても気持ちがいい。頭が軽くなっていく。

 

 気持ちがよくて、数分熟睡してしまったかもしれない。気がつけば背もたれに寄りかかって眠っていた。

 ゆっくりと目を開けると蜂蜜色の甘く匂い立つような金髪が視界に入る。一瞬心臓がピクンと跳ねた。アルウェスと同じノルウェラ様の金髪。とにかくキラキラしてるあいつの特徴。

 

「ありがとうございます。とても気持ちが良かったです」

「よかったわ。アルウェスのわがままにつき合わせちゃってごめんなさいね」

「わがまま?」

「ナナリーさんは貴族社会には馴染みがないのでしょう? それなのにいきなりカーロラ王女の結婚式に出席するなんて……。しかもしっかり働いてるのに。ハーレでも優秀だときいてるわ」

 

 シーラに行くことは仕事と同じだと説明されて気持ちを切り替えたのだが、そのことはノルウェラ様には言わないほうがいいだろうか。

 自惚(うぬぼ)れかもしれないが、ノルウェラ様にはだいぶ気に入られているように思う。初対面のときに赤ん坊を抱かせてもらったり、ちびアルウェスを任されたり。

 

 ナナリーもノルウェラ様は大好きだ。とても憧れる貴族の女性である。学生時代の貴族女子にはあまりいい思い出がなかったから、大貴族の公爵夫人がナナリーを気に入ってくれるなんて奇跡に近いと思う。

 

 ノルウェラ様は四人も息子がいるけれど、そんな風には全然見えなくて、アルウェスの母親というよりも姉にしか見えない。顔もよく似ている。

 公爵夫人なのに平民のナナリーにも親切で優しい。愛情深い母親で、おまけに治癒魔法が得意な優秀な魔女だ。アルウェスの母親だからおそらく魔力も大きいのだろう。本当に完璧な女性だ。

 

 アルウェスが魔剣を刺した直後は、彼の体を巡る魔力がまるで魔物そのもの、こんな邪悪な魔力が巡っているなんて……と怯えていたようだった。息子が魔物のような気配を帯びたらそりゃ恐ろしくもなるだろう。

 アルウェス少年は魔物の気配を感じると肌が粟立つと言っていたが、ノルウェラ様も魔物の気配に非常に敏感なのかもしれない。

 こんな女神様のような母親に心配かけて親不孝な息子である。

 

「ナナリーさんはどうしてハーレに?」

「子供のころ破魔士の父とハーレに行きまして、そのとき会った受付のお姉さんがとても素敵で、憧れてしまったんです。まるで一目惚れみたいに。そのお姉さんみたいなハーレの受付になりたくて、魔法学校を目指しました」

「まあ、そうなの」

 

 この話はあまり他人(ひと)にしたことがなかったのに、いつの間にかするっと話し始めていた。

 

「私は外で働いたことがないから、そういう話はとても楽しいわ。うちの子はそういう話をあまりしてくれないのよ。ほら、男の子ばかりでしょう? 優しい子たちだけど、大きくなると母親には自分のことを話したくないみたいね」

 

 ノルウェラ様はミスリナ王女のお世話係をされていると聞いたことがある。とても大変なお仕事だと思うのだが、ノルウェラ様にとっては仕事ではないのだろうか? 仕事というよりは「大変名誉なこと」という感じなのかな? 

 ノルウェラ様に憧れている令嬢もたくさんいるのではないかと思う。

 

 それにしても、息子って母親と話をしないものなんだろうか。恥ずかしいのだろうか。

 アルウェスは弟を可愛がっているし、家族との関係は良好で、母親のノルウェラ様もとても大切にしていると思うけれど、それとこれは話が違うのか。

 

 一人っ子のナナリーには息子と母親のことはよくわからない。ナナリー自身は両親と仲が良くて、実家に帰ったときはたくさん話をしている。両親が海の国に行ってからもう一年近く会っておらず、実はかなり寂しい。

 

「その憧れの女性には会えたの?」

「はい、会えました。すごく嬉しかったです。今もハーレで一緒に働いてます。彼女が私の目標です」

 

 改めて言葉にしてみると照れくさい。そして、所長にはまだこの話をしたことがなかったと気がついた。

 あの憧れのお姉さんとハーレで一緒に働いているって、実は凄いことなんじゃないかとも思う。当時の所長が何歳だったのか知らないけれど、途中で辞めてしまっていてもおかしくないのに。

 

「それはとても素敵ね」

「子どもの時にハーレで彼女に会ってなかったら、魔法学校にも行ってなかったかもしれません」

「あら……。それじゃあハーレのその女性に感謝しなくちゃね。その方のおかげでアルウェスがナナリーさんに出逢うことができたんだもの」

 

 慈愛に満ちたノルウェラ様の美しい微笑みに、ナナリーはほんのりと頬を染める。なんて優美で綺麗な方なんだろう。

 ノルウェラ様からこんな風に言われるなんて夢にも思わなかった。なぜだろう。私がアルウェスと出逢ったことを、どうしてノルウェラ様はこんなに喜んでいるのだろう。

 

 

 *

 

 

 ノルウェラ様の治癒魔法に助けられて、ナナリーは元気に礼儀作法とダンスの練習に向かった。

 

 嫌だ嫌だと思っていると進歩は遅い。ナナリーは運動神経は悪くないし、体力も筋力も、そして根性だってある。昨日の一カ月拘束宣言(毎日ダンス練習に通う)を撤回させるべく、頑張って早く習得してやるのだ。

 ダンスに慣れないのは認める。高いヒールではマリスに指摘されたように踵に重心が乗ってしまうし、背筋(せすじ)を伸ばせと言われて伸ばしてみれば腰を()るなと注意される。

 

 先生と組んで練習して気がついたのは、頑張って背筋を伸ばし、羞恥心を追いやって胸を張って踊っていると、男性との距離はそれほど近くないということである。それを先生に質問してみると、上手になればなるほど男女の顔の距離は離れるらしい。相手の顔なんか見なくても二人で踊れるというのだからすごい。

 

 ダンスは男女の距離が近くて恥ずかしい気持ちが勝っていたが、それは思い込みであったようだ。

 それともこれまで踊った相手のせいなのか……。もちろんその相手とはアルウェスなので、ちょっと心の中がモヤモヤした。

 



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1-12. ポルトカリ①

加筆修正しました。話の流れは変わっていません。ロックマンの口がペラペラとよく回っております。


 

 ダンスレッスンの後は食事作法と貴族令嬢の会話の勉強である。つまり、ノルウェラ様と晩餐を共にするのである。

 昨日と違ってマリスがいないのが少し心細いが、ナナリーは思ったよりも緊張せずに食事ができている。お屋敷に着いたときにノルウェラ様とお話ができて良かったと思う。あのときにだいぶ打ち解けたような気がする。

 

 執事さんがノルウェラ様に何かを耳打ちしたとき、食堂の扉が開いてアルウェスが入ってきた。振り返ったナナリーとアルウェスの視線がバチッとぶつかる。彼は騎士団のローブを着ている。仕事から帰ってきて直接この部屋に来たのだろうか。

 

「ただいま」

 

 ナナリーは咄嗟に返答できず、口をもごもごさせた。閉口術でもかけられたように言葉が出ない。

 

「おかえりなさい、アルウェス」

 

 当たり前だがノルウェラ様は何の気負いもなしにアルウェスを迎えている。

 

「母上」

「ふふ、早かったわね。ちょうど今、ロウがあなたの帰宅を伝えるところだったのよ。せめてローブを脱いだらどう? お行儀が悪くてよ」

「先に顔を出しておこうと思いまして」

 

 このまま自分だけ黙っていてはいけない。たかだか『おかえりなさい』ではないか。ハーレでも破魔士が依頼を終えて戻ってきたら、受付嬢は必ず『おかえりなさい』と挨拶をする。毎日何十回も言っている言葉ではないか。

 

「お……」

「お?」

 

 挨拶は受付の基本だ。しっかりしろ、ナナリー。ちゃんと目を見て言うんだ。ああ、でもノルウェラ様や執事さんがこちらを見ている。緊張する! 

 

「お、おかえりなさい!」

「…………」

 

 アルウェスは虚を突かれた顔をしてナナリーを見つめ返した。どこか呆然としている彼にナナリーは首を傾げる。 

 

「どうしたの?」

「……別に?」

 

 口から下を手で覆ってスッと視線が逸らされる。

 

「ロウ、アルウェスに食事をお願いね」

「僕は簡単なものでいいよ。母上、一旦部屋に戻ります」

「ナナリーさんを待たせちゃ駄目よ?」

「すぐ戻りますよ。……ナナリー」

「な、なに?」

「食事の後に話があるから、帰らないでね」

「話?」

「まあ、講義みたいなものかな?」

 

 アルウェスは入ってきた扉から足早に部屋を出て行った。

 

「ふふふ……」

 

 ノルウェラ様が口許に手を添えてにこやかに微笑んだ。

 

「ノルウェラ様?」

「アルウェスったら……。いつもはあんなに急いで顔を見せてくれたりしないのよ? そんなに早くナナリーさんに会いたかったのかしら」

「ええ!? まさか、そんな」

「ナナリーさんが『おかえりなさい』と言ってくれたから、びっくりしていたわね。とても嬉しかったに違いないわ」

「そ、そうでしょうか?」

 

 確かにナナリーがアルウェスにちゃんと挨拶をするのは珍しいかもしれない。学生時代から会えばすぐに喧嘩になって、告白してからはナナリーが変に意識してしまい、普通の会話の仕方がわからなくなってしまった。食事に誘ってくれるのも、先に声をかけてくれるのもアルウェスだ。

 ひょっとして自分はものすごく失礼な人間だったのではないか。これは反省しないといけない。

 

 アルウェスが絡むといつも頭に血が上ってしまうのに、こうやって冷静になれるのはノルウェラ様のおかげだと思う。ノルウェラ様とお話をしていると、心の棘もぽろぽろと剥がれ落ちていくような気がする。

 それにしても、こんな女神様のような母親の息子が、どうしてあんなに生意気で可愛げがなくなってしまったのだろう? 

 

 そんなことをつらつらと考えているとアルウェスが戻ってきた。着替えてくるのかと思ったが、ローブを脱いで眼鏡をかけただけで、第一小隊の隊服のままである。

 

 彼がナナリーの向かいの席に座ると、すぐに温かな食事が並べられる。主菜の皿にスープ、パン、サラダがついた定食という感じだ。一皿ひと皿が手の込んだ豪華な料理である点が庶民の料理屋とは大違いである。

 一方、ナナリーの食事は作法の勉強のため、略式であってもコース料理である。ナナリーにしたら連日高級なレトランで食事してるようなものだ。なんと贅沢なことか。

 

 すでに食事が終わっていたナナリーの前にはデザートとお茶が運ばれてきた。

 デザートは甘橙(ポルトカリ) のタルトだった。大きなタルトを切ったもので、蜜のかかったポルトカリがつやつやと輝いている。タルト台とポルトカリの間には二種類のクリームがみっちりと詰まっていて、とても美味しそうだ。

 フォークで小さく切って口に運ぶと、サクサクのタルト生地はバターの風味が香ばしく、とろっとしたコクのあるクリームと甘酸っぱいクリームに蜜漬けのポルトカリが相まって爽やかな甘さが口いっぱいにひろがる。

 

「美味しい……!」

「そう? お口に合ってよかったわ」

「はい、とても美味しいです」

 

 もっとぱくぱく食べたいのに、貴族令嬢はそうはいかない。小さく切ってゆっくり食べなきゃならないのである。

 貴族とは不自由なものである。嫁入り前の貴族令嬢が侍女もつけずに友人と旅行などまかりならん、と両親に止められたマリスが、貴族なんて嫌だと泣いた気持ちが今ならよくわかる。

 

「気に入ったなら、おかわりすれば?」

 

 銀縁の眼鏡の奥から柔らかく目を細めてアルウェスが言う。穏やかな口調だから、揶揄(からか)っている訳ではないと思う。

 

 しかし、晩餐会の作法を学んでいるのに、人前でお菓子をいくつもばくばく食べるのはよろしくないだろう。マリスにバレたら確実に怒られる。

 

 迷ったものの、丁重にお断りした。するとアルウェスの眉が軽くつり上がる。

 

「どうしたの? 食べ放題で僕と勝負する君の言葉とは思えないね」

「う、うるさいな。たくさん食べる女で悪かったわね」

 

 ノルウェラ様の前で食べ放題で勝負したとか言わないでほしい。恥ずかしいではないか。

 

「悪いなんて思ってないよ。食べないよりずっといい。女の子はいろいろ気にして少食になりがちだからね。健康的でいいじゃないか」

「女性らしさに欠けてるってこと?」

「返答に困る質問はしないでほしいな。君ときたら……王宮の舞踏会で真っ先に料理を食べる女性なんて僕は初めて見たよ。あんまり美味しそうに食べるから、料理人も喜んでいたよね」

「王宮の舞踏会っていつのことよ?」

「覚えてないの? 金色(こんじき)の蝶の君」

「ちょ……! その呼び方やめてよ!!」

「食事中だから騒がないでね」

 

 ナナリーは慌てて片手で口を押さえた。過去の恥ずかしい所業を、生まれながらの公爵令嬢のノルウェラ様の前で暴露するのはやめてほしい。舞踏会の常識も知らないと思われてしまう。いや、本当に知らなかったけれど。

 

「……仕方ないじゃない、舞踏会が始まる時間が遅いからお腹が空いちゃったのよ。普段食べないような美味しいお料理ばかりだったし」

「だから悪いなんて言ってないよ。まぁ、あのときは笑っちゃったけど? それにしても、君は食べ物を吸収する魔法でも使ってるの? どれだけ食べたって学生時代と変わらないよね。それとも、ハーレは意外と重労働なのかな」

 

 「学生時代と変わらない」なんて、人によっては褒め言葉かもしれないけれど、親友にペチャパイだの何だのと馬鹿にされまくった私には(けな)されているとしか思えない。こいつだって貧相な体と笑っていたじゃないか。私は忘れていないんだから。

 いつの間にやら顔をしかめてアルウェスを睨みつけてしまったらしい。困ったような、どこか馬鹿にしたような顔でやれやれと溜息を吐かれる。

 

「母上やロウの前でそんな顔はしないでほしいな。君は僕のパートナーとしてシーラまで一緒に行くんだから。彼らが心配してしまうだろう?」

「な……! どの口がペラペラと……!」

 

 ナナリーは魚のように口をハクハクさせた。

 

「僕は君を褒めたつもりだけど?」

「あれのどこが褒めてるのよ!?」

「君みたいに素直な人間にもわかるように褒めたつもりだよ。君は素直で真っ直ぐだから、要するに根が単純で、ほら、記憶探知の魔法もすぐ会得できただろう?」

「人のことを単純単純言わないでよ!」

 

 記憶探知の魔法を教わったときに散々単純と言われたのを思い出す。数年前の話を持ち出すアルウェスも腹立たしいが、こんな細かいことを覚えている自分も自分だ。嫌な記憶は楽しい思い出より忘れるのが難しい。

 

「あのときはすぐに魔法を習得できて良かったじゃないか。僕も部下の前で君に腕を凍らされた後だったからね、君がしくじったら立つ瀬がなかったよ。それに、素直な性格なのは美点だろう? 他の人には素直なのに、どうして僕にはこうも突っかかってくるのかな」

「突っかかってくるのはどっちよ!? この減らず口が!!」

「はい、そこまで」

 

 アルウェスはぴたっと人差し指をナナリーの唇に向けていた。人を指差すのではなく、魔法を使う仕草である。閉口術を使われたのだ。デラーレのときのように、直接体に触れることなく、無詠唱で軽々と閉口術をかけてくる。

 こいつ、やけに手慣れている。仕事でしょっちゅう使ったりするのだろうか。自分ならそんな上司はお断りである。

 

 少し前に所長にも閉口術を使われたけれど、あれはナナリーが謝る必要はないと伝えるためだった。同じ閉口術でもこいつとは使う目的が全然違う。

 

「やっぱり君は口が悪いな。君は公爵家(うち)に令嬢教育に来ているんでしょ? くれぐれも僕のことを『あんた』なんて呼んじゃ駄目だよ」

 

 それは確かに真っ当な指摘なのでぐうの音も出ない。喋れないからコクコクと頷く。すると直ぐに術が解かれた。しかし、散々人を貶した挙句、最後には閉口術で黙らせたこの憎ったらしい『男性』をなんて呼べというんだ。

 

「僕のことは『貴方(あなた)』と呼べばいいと思うよ」

 

 にっこりとアルウェスが笑う。ナナリーはぶるっと震えて両腕を抱えこんだ。

 

「鳥肌が立つ……! マリスみたいにあんたと喋るなんて無理!」

「そう呼んじゃ駄目って言ったそばからこれだ。先が思いやられるね。マリスみたいに話せとは言わないよ。前も言ったけれど、僕に敬語なんて使わないでいいし。丁寧で綺麗な言葉を使えばいいんだよ」

「え? 『あなた』と呼ぶなんて寒気がしますわ、おほほほほ?」

「だから違うって……」

 

 アルウェスが噴き出した。肩を小刻みに震わせて笑っている。噴き出して笑っているくせにどこか上品だ。くそう、生まれついての公爵子息め。

 

 ハッと気づいて周りを見れば、ノルウェラ様も執事さんも使用人たちも眉を下げて必死に笑いを(こら)えているのがわかった。ナナリーの顔からサーッと血の気が引いていく。

 

 穴があったら入りたい……! 

 防音の魔法をかけてなかったことを心から後悔する。今すぐここから立ち去りたい衝動に駆られたナナリーは、頭を抱えて小さくなった。

 アルウェスは可笑(おか)しくてたまらないとでもいうように、目尻に涙を浮かべ、手で口許を押さえて笑っていた。

 




初めてロクナナの口喧嘩という名のイチャイチャを書いたのがこの話です。難しかったけれど、楽しかったのを覚えています。

ロックマンは公爵家の人たちにナナリーとの会話を見せつけ……ごほん、二人の普段の関係を実演で説明してます。


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1-13. ポルトカリ②

 

 ノルウェラ様の侍女さんと食事作法の反省をした後(デザート以降は見なかったことにしてくれた)、アルウェスからシーラ王国について講義を受けることになった。

 

 場所は例のこじんまりとした家族用の談話室である。この部屋は応接間よりも居心地がいいのでナナリーも気に入っている。

 

 お茶と一緒にさっき食べたポルトカリのタルトが運ばれてくる。アルウェスはデザートをまだ食べていなかったからわかるが、ナナリーの分もある。

 

「僕一人で食べるのは味気ないから、君もどうぞ」

「……いただきます」

 

 本当はもっと食べたかったので有難くいただく。やっぱり美味しい。頬が緩んでにこにこしてしまう。

 

「締まりのない顔だね」

「……!」

 

 タルト生地が喉に詰まりそうになり、慌ててお茶で流し込む。

 

「い、いいじゃない。美味しいんだもの」

「君らしくていいと思うよ」

 

 アルウェスも綺麗な所作で食べ始める。彼は外でご飯を食べるときも毎度のようにデザートを頼む。実は甘いものが好きなのだろうか。

 

「君はポルトカリは好き?」

「うん。果物はだいたい好き」

「そっか。僕はポルトカリが一番好きだよ」

 

 どこか懐かしそうにナナリーを見た。柔らかい顔でポルトカリのタルトを食べている。ナナリーはフォークを持った手を休めてその顔に見入ってしまう。そんなにポルトカリが好きなのだろうか。アルウェスが好きだから、ノルウェラ様がこのタルトを用意したのかもしれない。

 

「あ……」

「あ?」

「あ……あな……こほん、アルウェスが好きな果物のお菓子だから? だからもっと食べろって言ったの?」

 

 やっぱり『あなた』なんて呼べない! 

 

「そういうわけじゃないよ。美味しいから、我慢しないで食べてほしかっただけ」

 

 なんかはぐらかされた気がするが、お菓子の話なので深く考えるのはやめにした。この部屋には自分たち二人しか居ないから、人目も気にせずばくばく食べてしまう。

 

「もう一ついただいてもいい……かな?」

「もちろん」

 

 アルウェスは嬉しそうに笑った。ナナリーと一緒に彼もおかわりをした。そういえばちびアルウェスもポルカを美味しそうに食べていたなぁ、と思い出した。

 

 

 *

 

 

 シーラ王国についての基本的な情報はナナリーも知っている。アルウェスの話は政治や貴族の事情についてで、教科書には載ってない、ナナリーには馴染みのない話題だった。念のため防音の膜を張って講義を行う。

 

 ドーランでもシュテーダルとの戦いの後、大臣の顔ぶれが大きく変わった。世代交替とまではいかないが、全体的に若返った。前の大臣たちは人身御供としてナナリーをシュテーダルに差し出そうとした連中なので、『老いぼれ』どもが消えて良かったと思っている。

 

 かつて女性が魔物へ生贄として差し出されていた時代と比べれば、最近は平和な時代が続いていたのだろう。そこに突然のシュテーダルの復活だった。氷の始祖の力を借りてかろうじてシュテーダルを破壊したもの、彼女は時間が経てばまたシュテーダルは復活すると言っていた。

 

 現在ドーラン、シーラ、いや大陸中の国々が軍事の立て直しに奔走しているそうだ。

 こんな時期にアルウェスは私の家庭教師みたいなことをしていていいのだろうか? 彼は王宮魔術師長であり、騎士団第一小隊の隊長である。国防の要なのだ。

 

「ねえ、こんなことしてて大丈夫なの?」

「何が?」

「今は騎士団がすごく忙しいんじゃないの? 私に個人的な講義なんてしてる暇あるの?」

 

 アルウェスは大げさに溜息を()く。

 

「暇のある無しじゃなくて、必要なことだからやってるんだよ。ブルネルと話をしたんだろう? 君は納得してくれたと報告を受けているけれど?」

「ニケの話には納得してるわよ。そうじゃなくて、アルウェスが忙しいんじゃないかってこと。過去から戻ってきたとき、アルウェスが不調になったってだけで騒然としてたでしょう。アルウェスは騎士団の仕事に集中したほうがいいんじゃないの?」

「あのね。魔物の狙いは君なんだ。僕じゃない。だったら、守られるべきなのは君だろう?」

 

 なんでこんな簡単なことがわからないのかな、と不機嫌そうに呟く。

 

「それよりも、君はもっと人に対して警戒してほしい。君は色々な意味で……狙われていると自覚してくれないと困る」

 

 アルウェスの周りに群がる女子には昔から敵視されてきたし、トレイズみたいな、アルウェスに恋心を募らせて道を踏み誤る女性が出てくるのはよくわかった。

 トレイズは魔剣をアルウェスの心臓に刺さなければ魔物との契約違反で死んでいたという。

 魔物にそそのかされ利用され、人生を踏み外したり命を落とした人たちはきっとたくさんいる。どうかそういう人たちが二度と出なければいいと思う。

 

 ──ナナリー、あなたが気づいてなかっただけで、学生時代からあなたに恋する男の子はたくさんいたのよ──

 

 ニケの言葉を思い出す。ハーレの受付で本気で口説かれてるとか、いまだに信じられないけれど。

 私を狙う魔物が、私に近づくためにハーレの職員や破魔士をそそのかして利用する可能性くらいは想像がつく。魔物は人の弱みにつけこむのが上手いのだ。

 最終的な目的が私で、そのために私の友人や見知らぬ他人が人質にされる場合もあるかもしれない。

 

 ナナリーは人を疑うのが好きじゃないし、言葉の裏の意味を読み取るのも苦手である。

アルウェスは例外である。言葉の真意を探らないと彼とやっていけない。

 

 仕事だったら依頼人や破魔士の裏の事情をそれとなく探ることはあるし、交渉もできるけれど、個人的な付き合いで駆け引きなんてできない。ナナリー自身が嘘が嫌いだから他人の嘘に気づくのが難しい。

 

 チラッとアルウェスを見る。目の前のスカした男は決して嘘つきではないのだが、本心を誤魔化すのがとにかく上手い。隠し事は大得意だし、追及されてもよく回る口でのらりくらりと(かわ)してしまう。澄ました笑顔でやり過ごすのも年季が入ってる。

 

 ナナリーは彼が記憶消去の魔法を世界中にかけて大きな嘘をついたのを知っている。でも、彼はナナリーには嘘をついたことはないのではないか。隠し事は多いだろうけれど、もしナナリーが本気で知りたがれば、婉曲でわかりにくい表現であっても答えてくれると思う。

 

「私だって、氷の始祖を狙う魔物の犠牲になる人をこれ以上出したくない」

「だから、狙われてるのは始祖だけじゃないって言ってるんだけど……」

 

 アルウェスは眉間にしわを寄せる。苛ついているのを隠せていない。感情を表に出さないことに長けている彼にしては珍しい。

 

「トレイズの魔剣のことも、もし私があのときアルウェスの立場だったら同じことをしたと思うし」

「ちょっと、君」

 

 大股でテーブルを回ってきてアルウェスはナナリーの腕を掴んだ。彼の制止を聞かずにナナリーは続ける。

 

「あんたはいつか女に刺されるかも、と思っていたけど」

 

 所長に『アルウェスとよく似た人タラシ』だなんて言われたことは絶対に知られたくない。

 

「でも私は、男の人に刺されたりしないから! 絶対に!!」

 

 掴まれてないほうの手で拳を握ってナナリーは宣言する。

 

 アルウェスは絶句して、視線を少し彷徨(さまよ)わせると大きな溜息を吐いた。額に手をやって目を瞑り、再び開けたときにはその瞳にどこか不穏な色を(まと)わせていた。形のよい唇の口角を上げて笑う。

 

「そうしてくれると助かるよ。もし君が男に刺されたら、僕はそいつを本物の消し炭にしてしまうだろうからね」

 

 アルウェスの目は笑ってない。こころなしか背中に炎を背負っている。炎は温度が高くなると色が変わるというが、黒い炎が背後に()える気がする。黒い炎ってなんだ。

 この男、まさか魔物と融合しているのではなかろうか。もしそうだったらどうしよう。絶対零度の魔法でアルウェスごと破壊するしか方法が思いつかない。

 顔を引きつらせたナナリーは、悪寒が背中を這い上ってくるのを感じた。

 

 ──あなたにもしものことがあったとき、あの隊長さんがどうなると思う?──

 

 ナナリーはようやく所長の言葉の意味を理解した。

 



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1-14. ポルトカリ③

ロックマン視点を追加しました。ほぼ書き直しです。この話だけ読んでも楽しめると思います。



 

「私なら一人で帰れるわよ」

「駄目。寮まで送るよ」

 

 公爵家を辞去しようとするナナリーに、アルウェスが寮まで送ると言ってきかない。転移の魔法陣で直接寮の部屋に帰るのだから、護衛は必要ないだろうに。

 

「君を寮に送り届けるまでが僕の任務だから」

 

 そう言われると反論するのが難しい。きっとニケも同じように主張すると思う。しかし、ニケなら一緒に寮の部屋に転移しても問題ないが、アルウェスが部屋に来るのは勘弁してほしい。同僚に見つかったら何を言われるかわかったものではない。

 

「──そうだ! 所長が寮の退魔の陣に男子禁制も加えたのよ。だから成人男性は誰も入れない」

 

 所長ってば、なんて気が効いてるんだろう。さすが所長。

 

「未成年ならいいの?」

「言っとくけど、変身魔法でも誤魔化せないわよ」

「そんなことしないよ。そうじゃなくて、魔法陣の条件の話」

「子供なら別に構わないと思うけど?」

「未成年でも十五、六歳にもなればもう子供じゃないでしょ?」

「えぇぇ……?」

 

 少し、いや、かなり引いた。もしかしてこの男、二十五歳にもなって、しかも女性にモテモテだというのに、十代半ばの少女も恋愛対象なんだろうか? そんなに守備範囲を広くしてどうするのだろう。

 

 顔を引き攣らせたナナリーが半歩退()くと、アルウェスは半眼になり溜息を吐いた。冷ややかな視線を向けられる。

 

「君、何を考えてるの?」

「いや、その、私が十五、六歳のときは特に異性を気にしたことなかったし」

「それはよく知ってる。君を基準にしちゃ駄目だよ」

「いちいち言葉がひっかかるんだけど?」

「気のせいじゃない? まあ、いいよ。僕よりブルネルから伝えてもらう方がいいだろう」

 

 さらっとニケの仕事を増やすようなことを言わなかったか? 

 

「何か問題があるなら私から所長に伝えるけど」

「君は余計なことはしなくていいよ。騎士団とハーレの所長の問題だから」

「でもハーレの寮の話でしょ?」

「ハーレ内の話に騎士団が口を出しているんだよ。だから最後まで騎士団が責任を持つ」

「……要するに、所長の職権に騎士団が口出ししてるから、細かいことも騎士団と所長で決めるってこと?」

「そういうこと」

 

 しち面倒くさい気がするけど、お偉方は命令系統とかが重要なんだろう。その辺は納得できるので、ナナリーは引き下がることにした。 

 

 

 ノルウェラ様にお礼を言って、執事さんや使用人たちに見守られて玄関を出る。結局アルウェスも一緒に来ることになった。もちろん寮の前までだ。

 

 しとしとと雨が降り、月も星も見えない夜。遅い時間だから結構寒い。吐く息の白さにもうすぐ空離れの季節がやってくるのだと実感する。

 

 ナナリーは体に雨をはじく魔法と防寒の魔法をかけた。隣を歩くアルウェスは隊服の上にローブを着ている。ナナリーが知る限り、暑くても寒くても第一小隊は首の詰まった隊服にローブを着用している。外気温に関係なく快適な温度を保てる機能が付いているのだろう。

 

「少し寒いな。遅くなってしまったね。早く帰ろう」

 

 屋敷から門まで続く道は等間隔に(あか)りが()いている。噴水の前まで来るとどちらともなく足を止めた。今日この噴水を眺めるのは実に三度目である。噴水にも灯りが点いていて、流れる水が闇の中で仄かに光っている。幻想的で美しい。

 

「夜になると光るのね。すごく綺麗」

「君が来るから(とも)しているんだ。普段は夜会のときくらいしか()けないよ」

 

 視線を感じて隣を見上げれば、柔らかく細められた赤い瞳がナナリーを見ていた。

 

 アルウェスの手には背丈ほどもある金色の杖が握られていた。ナナリーも慌てて女神の棍棒(デア・ラブドス)を腰のベルトから取り出す。

 

「魔法陣は私が出すわよ。ハーレの寮なんだし」

「間違って君の部屋に転移されたら僕は弾かれる」

「間違えたりしないわよ!」

「早く部屋に帰って休みたいと思ってるでしょ? 雑念が入ると失敗するよ?」

「ぐぅ……」

 

 早く帰って寝台に飛び込みたいと思っていたのは事実だ。今も欠伸(あくび)を噛み殺している。

 

「寮の前でいい?」

「うーん……ハーレの裏庭の方がいい。寮の前だと誰かが居るかもしれないから」

 

 ハーレから寮は目と鼻の先にある。ハーレの裏庭ならこの時間に人と鉢合わせする可能性は少ない。

 

「わかった」

 

 長い腕が伸びてきて、ぐいっと肩を抱き寄せられる。勢いでアルウェスの胸にナナリーの頭が当たった。体を密着させなくても複数人の転移は可能なのだけれど、不思議と腕を振り払う気持ちは起きなかった。

 

 雨と湿った土の匂いに囲まれた中で、アルウェスから(かす)かに暖かなお日様のような香りがする。自分よりも体温が高いからだろうか、彼のぬくもりにホッとする。

 

 少し高い位置にある白い頬にペタリと手の平を当てた。

 

「あったかい」

 

 アルウェスがピシッと固まった。ナナリーの手が冷たくて驚いたのかもしれない。

 ナナリーはアルウェスの頬から離した手を口に当て、「ふわぁ……」と大きな欠伸をした。突然ゴンッと大きな音が響いて、金色の杖に蜂蜜色の前髪が絡まっていた。頭を杖にぶつけた? アルウェスも眠いのだろうか? 

 

「何やってるの?」

「……勘弁してください」

 

 何が起きたのかよくわからないが、アルウェスは項垂(うなだ)れたまま、肩を抱く腕に力が()もる。トン、と金色の杖を地面に突くと魔法陣のまばゆい光が二人を包み込んだ。

 

 

 光が消えるとナナリーたちはハーレの裏口の真ん前にいた。夜勤の職員が扉を開けていたらぶつかっていただろう。ナナリーが魔法陣を出したほうがよかったのではないか。

 

 アルウェスは「扉の前はよくないな」と呟いて、周囲を見回し、ハーレの裏庭の様子を確認している。しばらくすると気が済んだのか、ナナリーの手を引いて歩き始めた。

 

「……君の手はいつも冷たいよね」

「そっちが温かいのよ」

 

 ナナリーが軽く口をとがらせると、フッ、とアルウェスの小さな笑みが漏れた。

 寮の前まで、温かくて大きな手に引かれて歩く。雨が二人の周りだけ避けるように降っている。

 

「ブルネルに渡した魔法陣はもう張った?」

「防御の魔法陣? これから張る」

「寝る前に忘れずに張って。──じゃあ、僕はここまでだね。風邪をひかないように気をつけて。おやすみ」

 

 繋いでいた手が離れて、優しく背中を押し出される。促されるままに足を踏み出し──大事なことを思い出した。

 

 そうだった、私はアルウェスに伝えなければいけないことがある。

 

 ナナリーは振り返り、高い位置にある赤い瞳を見上げた。本来は夜の闇にも負けない燃えるような瞳が、今は魔物の力に押されて暗い影を帯びている。

 

「ナナリー?」

 

 アルウェスが小首を傾げる。優しい眼差しに、柔らかな微笑。ごく自然にこんな表情をする彼に、どう反応すればいいのかわからない。素直に嬉しいと思うけれど、胸がきゅんとして少し苦しくなってしまう。

 

「アルウェス」

「何?」

「ありがとう」

「え?」

「魔法学校のころから……私を助けてくれて感謝してる」

 

 精一杯はにかんでナナリーは笑った。アルウェスが食い入るようにナナリーを見つめている。目を丸くして立ち尽くす姿がなんだか可笑(おか)しくて、つい口許が(ほころ)んでしまう。

 おやすみなさい、と言ってナナリーは身を(ひるがえ)し、寮に入ると一気に階段を駆け上がった。

 

 

 *

 

 

 アルウェスはフードを被り、杖を地面に突いた。杖の先にロクティス所長が張った魔法陣が現れる。魔法陣に瑕疵(かし)はなく、試しに寮の扉に触れようと近づくとピリピリと指先を刺すような痛みが走った。

 

 

『アルウェス』

 

 ナナリーの声が頭の中に蘇る。

 

『ありがとう』

 

 どうして彼女は僕に感謝なんてできるのだろう。男の僕が四つも年下の女の子を殴って、感謝されるなんておかしい。

 

 大きすぎる魔力に振り回される彼女を見たくなくて、魔力を発散させるために殴ったり髪を燃やしたりした。でも彼女のために殴ったなんて、何の言い訳にもならない。そんなのは僕の自己満足で、お節介でしかない。それは僕が一番よくわかっている。

 

 

 兄弟でもない、友達でもない、もちろん恋人でもない、隣の席の女の子。

 

 初めて喧嘩をしたときは驚いた。僕にこんな子ども()みた喧嘩ができるのかと。しかも相手は四つも年下なのだ。

 

 僕の隣の席であることを理由に、令嬢たちに妬まれて苛められるのは可哀想であるし、申し訳ないとも思った。ならば特に優しくもせず、平民だからと蔑むこともせず、ただの同級生として他の子と同じように接すれば良かったのだ。表面上は波風を立てずに、無関心を貫き通して。

 

 君を前にすると僕のペースが乱される。だったら適当にあしらった方がいい。そう思っていてもつい反応してしまう。わざわざ君の神経を逆撫でする方法を選んで。僕は一体何をやっているのか。自分がこんなに馬鹿だとは知らなかった。

 

 君を殴ったら()ぐに殴り返されて安堵した。もし君がやり返さずに泣いていたら、僕は年下の平民の女の子を(いじ)める貴族の最低なクズになってしまう。君と対等に喧嘩ができる立場になんかなれなかった。

 

 君の髪を燃やせば君は僕の腕を凍らす。なぜ君はことごとくお姉さんが言った通りのことをするのか。

 

 でもこれでいいんだと思った。君が健やかに、小さな頃の僕みたいにならないよう見守ればいいのだと。それが僕の役目なのだと。

 心に芽生えた何かには気づかない振りをして。

 

 澄んだ空を写し取ったような髪を本物の炎で燃やすなんて絶対にしない。

 淡い白雪みたいに清らかで(すべ)らかな肌を、男の本気の力で傷つけようなんて思わない。

 

 衝撃は大きいように見せて、初歩の治癒魔法で治せる程度の力でしか殴っていない。君が本気で僕に魔法をぶつけられるよう、君の力量よりやや上を狙って魔法をけしかけていた。君が治癒魔法を苦手としていたのは誤算だったけれど。

 

 だが、そう弁解したところで何になるというのか。僕が君に暴力をふるって傷つけたのは事実で、免罪符になんてならない。

 

 太陽みたいに眩しい君の笑顔がよく似合う、美しい空色の髪にずっと焦がれていた。

 

 君に好かれることがないならば、嫌われ続けるのもいいのではないかと思った。君の心に僕という存在を刻み込むことができれば、あの勝気な碧い瞳が僕を映し続けてくれるのではないかと。

 そうしてずっと喧嘩でもしながら、よぼよぼの老爺になるまで一緒にいられたら。

 

 そんな僕の愚かな考えは君の唐突な一言で吹き飛んだ。

 

『好きよ』

 

 驚くほど軽い体に柔らかな唇。頬をくすぐる空色の髪。僕の腕の中にすっぽりと収まってしまう君。朝の陽射しに照らされた新雪のような大好きな匂いが鼻腔を満たす。もう離さない、離せない。

 

 

 アルウェスはフードを深く被り直し、明かりのついたばかりの窓を見上げる。

 ナナリーの部屋で防御魔法の魔法陣が張られる気配がした。あの魔法陣にはアルウェスの魔力が込められていて、もし魔法陣が破られればすぐに感知できるようになっている。

 

 きっとナナリーはすぐに寝るだろう。ハーレの仕事の後に慣れない貴族の教養を学んで、思った以上に疲れているはずだ。

 

 アルウェスは杖を仕舞い、ユーリを召喚した。転移の魔法陣を使うのが躊躇(ためら)われたのだ。そういうときは無理をしないほうがいい。

 

 ──まったく、君には敵わない。別れ際の君の言葉にここまで心を乱されるとは。

 寮を男子禁制にしたロクティス所長に感謝すればいいのか、恨めばいいのかよくわからない。

 

「アルウェス様」

公爵家(いえ)まで帰るよ、ユーリ」

「ここは……ハーレの寮ですか?」

「そうだよ。ナナリーを送って、これから帰るところ」

 

 ユーリに(またが)ると、雨に(けぶ)る夜空にふわりと舞い上がった。アルウェスは肩越しに振り返り、窓の灯りを見つめる。その頬には離れがたい切なさが滲んでいた。

 

 




これで第一章が終了です。



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第二章 守りたいひと
2-1. 空色の蝶


お待たせしました。連載再開です。pixiv掲載分から再掲を始めます。
短いですが、今回はロックマン視点。



 

    * * * * *

 

 仄暗くて広い部屋に僕は一人で立っていた。部屋のいたるところに燭台が置かれ、蝋燭が灯っている。僕は母譲りの金髪を無造作に肩に垂らし、眼鏡をかけて黒いマントを羽織っている。

 

 目が慣れてくると思った以上に部屋は広くて、人も沢山いるようだ。美しく着飾った人々がダンスをし、お喋りをしているのがぼんやりと見える。どこかの夜会だろうか。

 蝋燭の灯りは何重にも連なっている。大貴族の屋敷の大広間くらいはありそうだった。蝋燭の灯りにドレスの光沢が照らし出され、金糸銀糸の刺繡や宝石がきらきらと輝いている。

 

 紳士淑女は楽しそうに談笑しているのに、僕の周りには誰もいなかった。

 

 ────どこに行けばいい? 

 

 僕の周りだけ膜が張られたように暗い。誰もいなくて何も見当たらない。僕が一歩踏み出せば周囲の景色も一歩遠のく。常に同じだけ距離を保って誰にも近づけない。

 

 背筋を嫌な汗が伝う。早くこんな場所は出ていきたい。でも歩いても歩いても部屋は広がっていくばかり。どれだけ進んでも抜けられない。

 口元を手で押さえて浅い呼吸を繰り返す。息が、胸が苦しい。どうしたらここから出られるだろう? 

 

 スッと僕の腰のあたりを金色の何かが通り抜けていった。

 腰まで届く金髪の、小さな男の子が小走りで僕の横を通り過ぎる。その子を追って後ろを振り向けば、こげ茶色の長い髪をした女性と手を繋いで歩いていくのが見える。

 

 ────待って。

 

 小さな男の子は一度振り返って僕を見た。しかし、すぐに隣の女性に向き直ってお喋りを始めてしまった。こげ茶色の髪の女性が肩越しに振り返ると、その女性(ひと)の頭から金色の蝶がひらりと飛び立った。

 

 金色の蝶はひらりひらりと僕の方に飛んできて、手を伸ばすと僕の指に止まった。

 蝶は金地に碧の模様が入っていてとても綺麗だ。僕の周りは暗いのに、蝶は光を纏ったように仄かに輝いている。金色の鱗粉が舞い散るように。

 

 蝶が僕の指からふわりと離れていく。僕は脇目も振らず蝶を追いかけた。

 

 金色の蝶を追いかけて、気がつけば広間から抜け出し、回廊を進んでいた。暗い回廊の先に一筋の光が差し込んでいるのが見える。

 長い回廊を光に向かって蝶はひらりひらりと舞っていく。最後はシルエットだけになって回廊から飛び去った。

 蝶を追いかける僕の目を太陽の光が()いた。眩しさに耐えられず足を止めて目を瞑る。

 

 ゆっくりと目を開けると、僕の前には澄み渡った水色の空が高く遠く広がっていた。

 

 

    * * * * *

 

 

 アルウェスは寝返りを打つとぼんやりと目を開けた。心がとても凪いでいて、もう少し微睡んでいたくなる。 

 魔石の短剣を胸に突き刺してからはずっと夢見が悪かった。普段より眠いくせに、悪夢を見て何度も目が覚める。熟睡できたのはナナリーと一緒に寝たときぐらいだ。

 今朝も決していい夢ではなかったと思う。でも寝覚めは悪くない。体から力が抜けて、清々しい空気で全身が満たされている。

 

 アルウェスは寝台の上に半身を起こし、襟元からクリスタルの首飾りを引き出してよく観察してみると、透明なクリスタルが微かに濁っていた。

 

 ──これもナナリーの能力だろうか? 

 

 やはり彼女は凄いと素直に感心するのと、この力を他人──特に国や騎士団に知られたくないと思う気持ちが半々だ。

 ナナリーがシュテーダルとの戦いで始祖と会話をしたという話には驚いたが、それよりも胸騒ぎがする。

 

 彼女が時の番人事件で退魔の魔法を使ったとき、子どもの僕に憑りついた魔物に何かを語りかけた。魔物と繋がっていた僕には、真っ暗で禍々しい魔物の世界に一点の光が射し込んだのが見えた気がした。僕にも何かが伝わってきた。あれは希望という光ではなかったか。

 

 この話は団長にもゼノンにも話していない。あまりにも漠然として抽象的で、ただ僕が感じたことだから。

 それとなくナナリーから聞き出して、そのうちシュテーダルや魔物に対抗する手段の一つにできればいいと思っていた。

 

 シュテーダルとの戦いが終わってまだ一年も経っていないが、彼女が海の王の孫であることは僕が皆の記憶から消し去り、彼女に氷の始祖が宿っていることも、騎士団内や王宮で人々の口の端に上らなくなった。彼女はハーレの受付嬢として普通に暮らし、このまま人々の記憶から忘れ去られていけばいいと思っていたのに、時の番人事件をきっかけに彼女はまた注目を集めている。

 

 ……そして、もうひとつ気になることがある。僕がこだわり過ぎてるならいい。何しろ誰も気にしてる様子がない。不可思議で強力な時の番人の魔法よりも不可解なことが、ナナリーを取り巻く『時の魔法』に起きている。彼女が無意識に使っているなら即刻やめさせたい。どれだけの影響を周りに及ぼすかわからないのだから。

 

 枕に頭を戻して仰向けに寝転がる。クリスタルの首飾りを握りしめて目を閉じた。しばらくすると頭や体の中をぐるぐる渦巻いていた焦りや苛立ちが遠のいていくような感じがした。

 

 

 僕をここまで煩わせるのも、手こずらせるのも。 

 そして僕を救ってくれるのも。

 君だけだよ、ナナリー。

 

 



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2-2. 女子会

 

 ニケの警護が始まって数日後、やっとナナリーに休日がやってきた。仕事は休み、そして令嬢修行も休みだ。

 今日もニケと一緒で、朝から彼女を拘束するようで申し訳ないが、学校時代に戻ったみたいでわくわくする。ちなみにニケは出勤扱いで、非番の日が別にあると聞いて安心した。

 

 一緒に朝市に行って屋台で朝食を食べ、食材を買い込んでナナリーの部屋に戻った。溜まってしまった家事もニケが手伝ってくれたのでスイスイ終わった。空離れの季節が目前だから衣替えもしなきゃいけない。ナナリー独りだったら一日かかってしまっただろう。

 

 昼からはベンジャミンの家に行く予定である。ベンジャミンは時の番人事件の一番の功労者(ベンジャミンが時の番人を手懐けた)なので、もちろんナナリーに護衛が付く件は話してある。サタナースには出かけてもらったそうだ。

 

 ベンジャミンの分もお昼ごはんを買い込んで、ナナリーとニケはベンジャミンの家に向かった。

 

「いらっしゃーい!」

 

 ベンジャミンが満面の笑みで出迎えてくれる。女子会は久しぶりだ。マリスが来てないのが残念だった。

 

「さあさあ、私たちの渾身の作よ! ナナリーの為に頑張ったんだからね!」

「なにこれ……」

 

 ベンジャミンがニケ、マリス、キャンベルの協力のもと『決定版・男の口説き文句とその対処法』なるものを作って持ってきた。手作りの冊子の表紙には四人の可愛いイラストが描いてある。

 

『一般編』『気障(きざ)野郎編』『気弱な真面目男編』『ナルくん編』『貴族編』などなど、数ページ……いや、十数ページに渡っている。キャンベルなんて酒場の(たち)の悪い客のあしらい方まで書いてくれている。

 

 マリスは忙しいのに、手紙でお願いしたら筆まめな彼女は便箋何枚にも渡って細かく書いて送り返してくれたそうだ。マリスが作った『貴族編』をパラパラめくってみると、『アルウェス様編』なるものがあった。『※これは女性を大事にする御方の言葉で、本気で口説くためではありません』などと注意書きもついている。かと思ったら、『アルウェス・ロックマン特別編・ナナリーへの口説き文句集』なんてものも見つけた。こんなの読むのが恐ろしい。

 

 

「……で、これ読んでみてどうだった? ナナリーも自分がしょっちゅう口説かれてるって理解できた?」

 

 ベンジャミンとニケの視線が突き刺さる。二人は「ナナリーはもっと男性にモテていることを自覚すべき」と言ってわざわざこんな冊子を準備してくれたのだ。

 

「えっと、アルウェス編のことは置いといて」

 

 食後のお茶を飲んでいたベンジャミンが「呼び方変えたのね?」とすかさず茶々を入れる。

 

「う、うん、ノルウェラ様の前でロックマンとは呼べなくて……変えた。…………で、この冊子の中身、貴族編を除けばだいたい言われたことある……と思う」

「「やっぱりねー」」

 

 二人がしたり顔で頷く。ナナリーは口を尖らせた。

 

「でもさ、破魔士が本気で言ってると思う? 私はハーレの受付だよ?」

「じゃあ、ハーレの外で声をかけられたと想定しましょう。騎士団と飲み会に行ったときとか。団員にとってハーレとの飲み会は出会いを求める場よ」

「えっ! そうなの!?」

 

 飲み会はお酒と食事と会話を楽しむ場ではないのか!? 

 

「……ロックマンも苦労するわねぇ」

 

 ベンジャミンが心底同情するように言い、ニケは額に手を当てた。

 なぜ自分が呆れられて、飲み会で女を侍らせているアルウェスが同情されるのか。解せぬ。

 

「ナナリーは知らないだろうけど、ナナリーが告白してから、隊長はゼノン殿下がいる時しか騎士団の飲み会には参加しなくなったわ。殿下と一緒だから女性は近寄れないのよ」

「そういえばウォールヘルヌスの後から騎士団とハーレの飲み会やってないね」

「騎士団も忙しいから飲み会自体減ってるのよ。ハーレとは一回か二回あったかな? でも殿下も隊長もナナリーもいなかったわよ」

「ええっ! なにそれ、私聞いてないよ」

「ロックマンの差し金じゃない? ハーレとの飲み会の日はナナリーと二人で会ってたんじゃないの?」

「きっとそうね」

 

 ベンジャミンとニケがうんうんと頷きあっている。さっきからこればかりだ。不貞腐(ふてくさ)れるナナリーをよそに、ベンジャミンとニケが「対策を練りましょ」と話を勝手に進めていく。

 

「誰にでも『君は素敵な人だ』とか言う破魔士には軽口で返せばいいわよね。相手も本気じゃないし。ほかの女性職員もそうでしょ?」

「うん。キングスの破魔士には結構いるよ、そういう人」

「ロックマンもこのタイプに入るんじゃないの?」

「隊長はねぇ……。そもそも隊長に恋してる女性が多すぎるのよね」

「あんな美形にお世辞でも『綺麗だね』とか『可愛いよ』とか言われたら勘違いしちゃうわよね」

 

 ナナリーは心の中がモヤモヤしてきた。そんな場面何度も見てるし、アルウェスが女性を褒めるのも腐るほど聞いてきた。でもなぜか顔を背けたい気分になってくる。

 

「ナナリーはロックマン以外の男に『素敵』とか『格好いい』とか言うの禁止ね」

「なんで?」

「家柄や学歴や職業を褒めるぐらいならいいけど、男性個人の良さを褒めてしまうと相手が勘違いするわ。ナナリーが特別に好意を持っているんじゃないかって」

「確かにね~。でもさ、そんな面倒くさく考えなくていいんじゃない? ナナリーが私には恋人がいます、って、はっきり言えばいいのよ。それがロックマンだってことも」

「へ?」

「つまり、『ナナリーとロックマンは恋人』と公言するの。他の男性に食事に誘われたら、その日は彼とデートなのーって断るのよ。嬉しそうに笑ってね」

「ええええぇぇぇ!?」

「そうね、そのほうがいいわね。隊長も喜ぶわ」

「ナナリーから惚気(のろけ)話をしてもいいのよ」

「そんなベンジャミンみたいなことできない!」

「あら、失礼ね」

 

 ぷうとベンジャミンが頬を膨らませた。

 

「ナナリーから言い出すのはまだ無理だと思うわ。自覚ができれば十分じゃないかしら」

「そんな呑気なこと言ってる場合じゃないわよ。ロックマンに指環でも贈るよう言ったほうがいいわ」

「はっ!? ゆびわ!?」

「それは時期尚早なんじゃ……」

「恋人ならアクセサリーくらい贈るでしょ? 本格的なものじゃなくていいのよ」

「そうねぇ、防御魔法を掛けたアクセサリーなら一石二鳥かしら。報告書を出すついでに話しておくわ」

「ニケ!?」

「さ、次はお肌のお手入れよ! 二階に行きましょ」

 

 ベンジャミンの家は広い。ナナリーとニケはサタナースは入室禁止になっている部屋に連れていかれた。その部屋にはマッサージベッドと大きな鏡、戸棚には様々な綺麗な小瓶が並んでいて、体を鍛えるような道具もある。ベンジャミンはベッドの上の紙袋から化粧水や化粧品を出してきた。

 

「いろいろサンプルもらってきたの。気に入ったのあったら教えて。一緒に買いに行こうよ。マリスからもナナリーへの美容指導は頼まれてるし、ちゃんとスポンサーもいるから、お金のことは気にしないで化粧品を揃えるのよ」

「スポンサー?」

「だってシーラ国に行くのは仕事なんでしょ? ピカピカに磨かなくっちゃ。国の代表なのよ。お手入れは顔だけじゃダメダメ。デコルテと背中と腕も脚も……要するに全身よ! 服脱いでバスタオル巻いて。さあ、お手入れ始めるわよ!」

 

 ナナリーは服を剥ぎとられ、バスタオルを巻いてうつ伏せにベッドに寝かされ、ベンジャミンのオイルマッサージが始まった。二の腕や脇腹も揉まれる。

 

「やだやだくすぐったい! あはははは」

「ナナリーには無駄なお肉はないけど、肩や背中が張ってるね。ほぐしたほうがよさそう」

 

 ダンスのレッスンで普段あまり使わない筋肉を酷使しているからだろう。ハーレの受付だから運動不足の自覚はある。

 

「ナナリーは冷え性? 女に冷えは大敵よ」

「氷型だからじゃないの? ベンジャミンの手は温かいね。やっぱり火型は体温が高いのかな」

「火型? ははーん、ロックマンも体が温かいのね?」

 

 ベンジャミンがにやっと笑った。

 

「体のぬくもりを思い出すくらい触れあってるわけ? それのどこが恋人じゃないって?」

 

 ナナリーは顔を赤くしながら何も言い返せなかった。

 

 *

 

「騎士団で言い寄ってくる貴族でもいるの?」

 

 ベンジャミンは後片付けをしながらニケに尋ねる。ナナリーがマッサージを受けてる間、ニケは『貴族編』を熱心に読んでいたのだ。

 ナナリーはマッサージ中に涎を垂らして眠ってしまった。風邪をひかないようにナナリーに毛布を掛けて、ニケの隣の椅子に座る。

 

「まあ、多少は……。貴族の端くれになっただけなのに、貴族の男性騎士の目が変わったからちょっと嫌気が差してるかな」

「お嫁さん候補として見られてるってこと?」

「んー、おそらく……」

「貴族は大変ねえ」

「隊長がこれまで独身でいられたことの方が奇跡だと思うわ」

「あ──」

 

 ベンジャミンがロックマンは年上だと知ったとき、それほど驚きはしなかった。ただ、学生時代の彼の恋、ナナリーへの想いが想像以上に本気だったのだと再認識した。

 学生時代に神殿は貴族と平民が対等になれる唯一の場所と知っていたロックマン。貴族なのに、結婚しなくてもいいと言っていたのだ。叶わない恋と知りながら、それでも彼は恋する女の子と同じ土俵に立って共に歩める道はないかと必死に探していたのだろう。たとえそれが無意識であったとしても。

 

 ベッドで気持ちよさそうに眠るナナリーを見てベンジャミンは優しく微笑んだ。

 彼の恋は実り、彼女と共に生きる道も手に入れた。今度ロックマンに会ったら「おめでとう」を伝えようとベンジャミンは思った。

 

 





女の子同士の話っていいですね。


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閑話 ゾゾの占い

 

 夜、ハーレの寮でナナリーが寝ようとしたところ、入り口の扉にどん、と重いものが当たる鈍い音がした。寮には所長による退魔の陣が張ってあり、不審者は入れないはずだ。そろりと入り口に近づいて扉を叩いたが反応がない。念のため利き手に筋力を増強する魔法をかけて内開きの扉をそうっと開けると、黒髪の女性がずるずると倒れこんできた。

 

「ゾゾさん!?」

「ぅん……」

 

 微かな声がゾゾから漏れる。むうんと漂うアルコールの匂いにナナリーは眉をしかめた。

 

 

 

 

 翌朝、ナナリーは起きるとすぐにゾゾの様子を見に行った。昨夜は酔っぱらったゾゾを介抱し、足元がふらつく彼女を部屋まで送った。一人にして大丈夫か迷ったが、本人が大丈夫だというので自室に戻ったのだった。

 ノックをしても返事はなく、ノブを回してみると鍵が開いていた。

 

「ゾゾさん? ナナリーです。起きてますか?」

 

 勝手に入ってごめんなさい、と言いながら部屋の奥に進むとゾゾが昨日の服のままベッドに横になっていた。呼吸はしっかりしている。よく眠っているようだ。ほっと胸を撫で下ろした。

 ナナリーもゾゾも今日は休み、後で二日酔いの薬を買ってきてあげよう。

 

 警護を兼ねて遊びに来ていたニケと市場の買い物から帰ってきて、二人で家事や衣替えをしているとゾゾがナナリーの部屋にやって来た。

 ()の光に眩しそうに目を細めながら頭を押さえている。顔色はあまりよくない。

 

「ナナリー、昨日はごめんね~! ほんっとうに迷惑かけたわ。今度お詫びするわね」

「気にしないでください。ゾゾさん、具合はどうですか? 二日酔いの薬買ってきましたけど、飲みます?」

「ありがとう~。何から何までお世話になって本当にごめんなさい」

 

 ゾゾに部屋に入ってもらい、買ってきた薬とお水を渡す。ニケとナナリーもお茶を用意した。ゾゾはまだ気分が悪そうなのでお菓子の類はやめておいた。

 

「ゾゾさん、昨夜は一体どうしたんですか?」

「ああ……ちょっとね……」

 

 ゾゾがしゅんと項垂(うなだ)れる。

 

「まぁ……要するにやけ酒って感じ?」

「やけ酒……」

 

 ナナリーとニケが顔を見合わせた。

 

「あの、私は席を外しますけど……」

 

 ニケが申し出たが、ゾゾは「私こそもう帰るわ」と言って立ち上がろうとした。しかし顔を上げたゾゾの目が壁に釘付けになる。壁に掛かったあるものをまじまじと見つめている。

 

「ナナリー、あなた……結婚するの?」

 

 

 

 

「はぁぁぁ!? 何言ってるんですか、そんなわけないですよ!」

 

 突拍子もないゾゾの発言にナナリーは顔を赤くしつつ声を張り上げてしまった。

 ゾゾの視線の先にあったのは壁に掛けられた白いドレス。ナナリーの衣替えを手伝っていたニケが仕舞い込んであったドレスに気がついて、ちゃんと手入れをした方がいいと衣装箱から出したのだ。

 

「……っ……ごめん、ナナリー。声が頭にひびくわ……」

 

 ゾゾが片手でこめかみを押さえて眉根を寄せた。

 

「す、すみません、ゾゾさん……。大丈夫ですか?」

「こっちこそごめんね……。 で、あのドレスはどうしたの?」

 

 頭を痛そうに押さえているのにゾゾは話を続けるつもりだ。

 

「ゾゾさん、無理しないで部屋で休んだ方が……」

「ゾゾさん、あのドレスは……ほら、覚えてます? 二年半くらい前に騎士団と一緒に森で記憶探知をしたでしょう? その後の飲み会でナナリーと隊長が地獄(コラスィ)酒の飲み比べをしたときに話してたドレスですよ」

「メラキッソ様の占いの!」

 

 自分の声が響いたのか、ゾゾは両手で頭を抱えて「いたた……」と呻いた

 

「そう、そのときです。酔っぱらったナナリーが隊長に返すって言ってたドレスです」

「え、それじゃあ、これは隊長さんにもらったものなの?」

「ちっ! 違います……。ちょっと訳あってロックマン公爵様からお借りしたものです」

「ナナリー、私もまだちゃんと聞いてないんだけど。なんで隊長のお父様からドレスを借りたの?」

 

 茶色と黒の二対の瞳がナナリーをじーっと見つめる。

 

「うっ……えっと、あの、それは……」

「公爵家絡みで何か話せない事情でもあるの?」

「もう二年半も前じゃない。時効よ、時効」

 

 さぁ教えなさい、とゾゾが目を爛々と輝かせて迫ってくる。結局ナナリーは洗いざらい吐かされる羽目になった。

 

 

 

 

「ぶ、豚の紳士に金色(こんじき)の蝶の君……!」

 

 ゾゾが大笑いしている。ニケも口元を手で覆って肩をぷるぷる震わせている。

 

「え~、じゃあ、隊長さんはシーラの王女と婚約を決める仮面舞踏会でナナリーとずっと一緒にいて、最後にダンスも踊って、マントの中に匿って、そんでもってはっきり王女を振ったのね」

「しかもキュローリ宰相の話を持ち出してナナリーに告白していた、と……」

「なんでそんな回りくどい告白すんのよねぇ?」

 

 ゾゾが笑いながら目元の涙をぬぐう。ナナリーは後悔した。……キュローリ宰相の法律については黙っておくんだった。まさかニケがキュローリ宰相について詳しいとは思わず、アルウェスの謎かけをニケが解いてゾゾさんに解説し始めたときはぎょっとした。

 

「仮面舞踏会があったのが騎士団との飲み会の何日か前なのよね? そっか、だから隊長はやたらナナリーを構っていたのか」

「はぁ?」

「憶えてないの? ハーレでナナリーがもう乙女じゃない、って言ったら滅茶苦茶怒ってたじゃない。あれは嫉妬よ」

「最終的にはナナリーを寮まで送ってくれたわよね。隊長さんに何かされたりしなかった?」

「帰る途中に寝ちゃって……何かって何ですか?」

「うわー! 寝ちゃったの!?」

「まったくナナリーは……」

「寮母さんによると部屋まで送り届けてくれたそうです」

「そんなに無防備じゃあ、何もできないわねぇ」

 

 ゾゾとニケがやれやれと呆れたように首を振った。

 

 

 *(ゾゾ視点)

 

 

「綺麗なドレスね。可憐で、ナナリーによく似合うと思うわ」

 

 ゾゾはドレスに近づいて食い入るように眺めた。

 

「ねえ、ちょっとこれ着て見せてくれない?」

「え!!」

「だって絶対ナナリーに似合うわよ。私にはこんな真っ白で可愛いドレスは合わないもの」

 

 ナナリーは嫌がるだろうな、とわかっていたが、手を合わせて笑顔でお願いしてみると、案の定ナナリーは着替えてくれた。しぶしぶといった風にドレスに袖を通し、ニケが背中のボタンを留める。水色の髪を片方に寄せて胸の前でまとめ、ナナリーの白い項と細い肩甲骨が見えた。綺麗な肌に一瞬ドキッとする。本人は自身の美しさに無頓着であるが、ナナリーは女のゾゾから見ても非常に魅力的だ。これはロックマン隊長も色々な意味で苦労すると肩をすくめてしまった。

 

 二ケが床に置いてあった硝子の靴を無理やりナナリーに履かせる。これまたニケがヘアブラシでナナリーの髪を梳かして整える。妙にナナリーの世話が手慣れていて、やってることがまるで姉妹みたいだ。

 

「水色の髪と碧い瞳に白いドレスって似合うわね。清楚で神秘的だわ。サイズもぴったり」

 

 さすが公爵家の用意するドレスだ。上等な生地を使っているのだろう、シンプルなデザインなのに地味ではない。しかもナナリーの美しさを引き立てている。

 

「隊長さんも綺麗だって言ってくれたでしょ?」

「え? そんなこと言う訳ないじゃないですか」

「ほんとに? 遠回しだったから気づいてないだけじゃない?」

「…………そういえば、『完璧に変装したいなら、美しくならないことだ』って言ってました」

 

 ゾゾとニケは顔を見合わせた。

 

「つまりナナリーが美しかったと……」

「もとから美人だって意味じゃない? 美人がさらに美しくなっても変装になってないってことよ。本当にひねくれた言い方が得意ね」

 

 ニケが隣で大きく頷いている。

 

「で、ナナリーは薄情にもドレスを返すと言い張ってたのね」

 

 鈍感な後輩には苦笑するしかない。彼がドレスの返却を拒んだ理由(わけ)は容易に想像がついた。

 

「どうしてそれが薄情になるんですか?」

「わからない? 隊長さんにとって仮面舞踏会はナナリーとの大切な想い出だったからよ」

 

 

 

 

「ねーえ、ニケちゃん……」

 

 ゾゾはニケにひそひそと話しかけた。

 

「(なんで隊長さんはナナリーにはっきり告白しなかったのかしら?)」

「(身分の違いを気にしたのでしょうか? 隊長は公爵子息でゼノン殿下の護衛ですし、要職についてますから)」

「(王子はナナリーと仲がいいし、身分の違いはなんとかなったんじゃない? 父親の公爵も協力的みたいだし)」

 

 身分の違いぐらいで諦めるタイプには思えない。その気になれば何とでもしそうだ。実際に彼は恩賞で婚姻の自由を手に入れた。

 

「(うーん、隊長はナナリーに嫌われてると思っていたようですけど……)」

「(でも、ナナリーが他の男と付き合ってたら絶対に邪魔してたわよね)」

「(相手を消し炭にしてますね)」

「(学生時代からそうなの?)」

「(おそらく)」

 

 ナナリーが新人の頃から仲の良いゾゾは、ロックマン隊長がナナリーを好きなことはすぐに気がついた。

 顔を合わせればあの手この手でナナリーの意識を自分に向けさせるくせに、彼から素直になることはなく、ナナリーは長いこと彼を宿敵だ、ライバルだと言っていた。何とも焦れったい二人だった。

 

 しかし、シュテーダルとの戦いとその後のナナリーの昏睡という大事件をきっかけに、美人で優秀だが恋愛にはとことん鈍いナナリーに変化が起きた。彼女の方から彼に告白したのだ。

 ナナリーが目覚めた後の宴で、彼女を抱き締めながら床に転がる彼は無邪気な子どものように笑っていた。

 

 

 

 

「私も頑張ってみるかな……」

 

 アルケスは所長が好きなのかと思っていたけど、ハリスたちによるとそうではないらしい。

 どれだけ好きでも片想いは片想いのまま。気持ちを伝えなきゃ何も始まらない。ナナリーはちゃんと気持ちを伝えて、二人の関係を進めることができた。

 

「ナナリーは凄いわね」

「ゾゾさん?」

「ありがとう、ドレス素敵だったわ」

「はい?」

「隊長さんとお幸せに」

 

 ぽかんとしているナナリーと笑顔のニケに手を振って、ゾゾはすっきりした顔で自分の部屋に戻った。

 

 

 自室に入ると窓を開ける。爽やかな風が顔に当たって肩まで伸ばした黒髪をふわっとふくらませる。

 薬が効いてきたのか、二日酔いは楽になっていた。飲み物を取ってきてテーブルの上に置かれた雑誌を開く。ペラペラとページをめくってメラキッソ様の占いを読み返した。

 ナナリーに札占いをしたときのことを思い出す。

 

「私の占いって当たるのねぇ……」

 

 しばらく占いはやっていなかったが、少し占ってみようか。

 抽斗(ひきだし)から札を取り出し、顎先に指を当てて考える。

 

 ……今占うなら何を占えばいいかしら? 

 

 アルケスのことを思い浮かべながらゾゾは占いの札をテーブルの上に並べ始めた。

 




個人的に好きな話です。
次の更新は少し空きます。


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2-3.休日の戦闘訓練

ナナリーとニケの戦闘シーンを加筆しました。



 

 翌週、休日の午後にナナリーはニケと王の島の騎士団本部に居た。ゼノン殿下が演習場の使用許可を出してくれたので、戦闘訓練をしに来たのだ。

「気晴らしに思いっきり戦うといい」という伝言付きである。なんて気が利く王子様なのだろう。

 

 ハーレ勤務では学生時代に比べて戦闘の機会が減る。訓練ができる場所なんて限られているので大変ありがたい。

 ストレスが溜まっているのはニケも同様で、ロックマン公爵家に通うのにまだ慣れていないらしい。ニケ曰く、「公爵家で落ち着けるわけがない」とのことで、ナナリーにできるのはストレス発散の手伝いぐらいだ。

 

 公爵家の召使いたちは美人で女性らしい体型のニケに興奮し、ナナリーも目の保養とばかりにほくほくしている。

 男爵令嬢になってからマリスに貴族の教養を教わってきたニケは、ダンスも礼儀作法もナナリーよりずっと貴族令嬢らしくて、ノルウェラ様も先生役の侍女さんも、使用人たちもニケを気に入っているのがわかる。

 

 ノルウェラ様は女の子が二人もいると華やかでとても楽しいとおっしゃり、ご不在のときはわざわざ手紙を書き残して下さる。

 昨日はノルウェラ様が王宮に登城(とじょう)されていたのでお手紙を頂いたばかりだ。さすがのナナリーもノルウェラ様から頂いたお手紙はその日のうちに読むようにしている。

 

 

 ナナリーは魔物対策に常にハーレの制服を着るよう所長命令が下っているのだが、無効化衣裳で戦闘訓練をするのは卑怯である。それをニケに伝えると、海の国のように、魔法が効かない相手と戦う経験になるから構わないという。手ごわい方が訓練になるというのだから頼もしい。

 

 今日はニケと二人だけれど、時の番人の関係者なら演習場の使用を許可してもらえるらしい。

 火型とは戦い慣れているから風型のサタナースや雷型のゼノン殿下と訓練ができれば理想的であるが、そうはいかないだろう。

 

 

 

 

 ナナリーとニケは広い演習場を縦横無尽に動き回って攻撃を繰り広げた。

 ニケは水流で木々をなぎ倒し、ナナリーを追い込んで使い魔の大蛇(オビス)でナナリーとララを搦め捕ろうとする。ララの絶対防御は使わずにナナリーは魔法と女神の棍棒で応戦する。

 

 ニケと戦うのは魔法学校以来だ。魔法を繰る反射神経や魔力(パワー)は負けているとは思わなかったが、ニケは使い魔の扱いが段違いに上手くなっている。

 

 もっとララに乗って出かけようと心に決めたナナリーを滝のような水が襲う。学生時代のニケならここでナナリーを水没させるだろう。

 

 しかし、水はナナリーを直接攻撃することはなく、檻のように分厚い水の層が周囲を覆う。ララの下に見えるのは円形の地面、頭上に広がるのは丸く切り取られた空だけだ。

 ナナリーを閉じ込めた水は鏡のように反射してナナリーの姿を映し出す。水鏡の魔法である。円柱形にして完全に中に閉じ込める方法もある。

 

 通常は精神攻撃の魔法や頭上からの攻撃などを警戒する。だがナナリーの制服の能力を考えば物理攻撃の可能性が高い。水の檻を強硬突破してもいいが、突破した先に何が待ち構えているかわからない。ナナリーからニケは見えないがニケからはナナリーが見えるのだ。

 

 逡巡している間もなく、長い棒──杖とおぼしき武器がナナリーに向かって横なぎに振り払われる。ナナリーは必死で避けた。すぐさま上と下から水が襲ってくる。側面の水の檻を凍らせて粉砕し、全速力で突破した。

 

 氷と水の応酬。吹雪とともに氷の(やじり)がニケを襲い、高圧の水の槍がナナリーに降り注ぐ。氷の竜と水の竜がお互いを食い尽くす。白狼(ララ)大蛇(オビス)は流れるように高速で飛び回り、ナナリーとニケは演習場の地形を変え、全力で魔力を叩き込んで戦った。

 演習場にいた他の騎士たちは訓練を忘れてナナリーとニケの戦いに見入っていた。

 

 久しぶりの手加減なしの戦闘にナナリーの気分は高揚し、神経が研ぎ澄まされた。ピリピリと肌に魔力を感じる。

 誰かが────視てる? 

 鋭い視線と膨大な魔力を感知した刹那、ゾワッと全身が総毛立った。

 

「ニケ!」

 

 最速でララを駆り、ニケの腕を掴んで大蛇ごと防御膜を張った瞬間、周りが激しい炎に包まれた。

 

「……いい反応だね」

「何すんの!?」

「君こそ、何してるの?」

 

 アルウェスがユーリに乗って翔んでくる。ナナリーたちの前に止まると風に吹かれていた金髪の長い前髪がサラリと揺れた。不機嫌そうな顔でナナリーを一瞥し、二ケに鋭い視線を投げかける。炎が反射して赤い瞳がめらめらと燃え盛っているように見える。

 

「ブルネル」

 

 静かで冷たい声音にニケがびくっと震えた。

 

「……はい」

「どういうつもりかな? こんなところに部外者を連れてくるなんて」

 

 アルウェスの声はナナリーが聞いたことがないくらい冷ややかなものだった。ニケは青白い顔をしながらも気丈に答える。

 

「ゼノン殿下の指示です」

「殿下の?」

「そうです。時間が空いたらナナリーと戦闘訓練をするように、と」

 

 ゼノン殿下の名前が出てきて、アルウェスは微かに眉間に皺を寄せて考え込んでいる。

 彼を乗せたユーリは心配げにナナリーを見ている。大丈夫だよ、とナナリーは心の中でユーリに向かって呟いた。

 

「ナナリー」

「何?」

「悪いけど、今日はもう帰ってくれないかな?」

「…………わかった」

 

 訓練中にいきなり襲われて、ナナリーとしては文句の一つでも言いたいところだが、このままではニケが気の毒だ。何しろニケにとっては上司なのだから。

 

 しかもアルウェスはロックマン公爵子息で、フォデューリ侯爵だ。

 ニケが貴族の中でどのような立ち位置なのか、また、貴族間の上下関係が騎士団でどう関わるのか、貴族社会について学び始めたばかりのナナリーにはまだよくわからない。貴族と平民の間の越えられない大きな壁のほうがよっぽどわかりやすい。

 

 何にせよ、ここでナナリーが騒いでニケが不利になるようなことはできる限り避けたい。でも次にアルウェスに会ったときは、どういうつもりだったのか絶対に聞き出してやる。

 





氷と水の戦いの描写は難しいですね。対戦よりも共闘のほうが相性のいい型だと思います。

加筆前よりも躍動感が出てるいるといいのですが。毎度のことながら登場する魔法は私のオリジナル(捏造)です。


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2-4.ニケの受難

最後を加筆しました。




 

 ナナリーが思ったよりも素直に隊長の言うことをきいてくれたので、ニケはホッと胸をなでおろした。ナナリーならここで隊長に勝負を吹っ掛けてもおかしくないし、この二人の戦闘が始まってしまったらウォールヘルヌスの再現とばかりに野次馬に囲まれていただろう。

 

 隊長は相変わらず無表情のままだが、ニケたちを焼かんとしていた炎は鎮火して、炎が消えるとナナリーも防御膜を解いた。

 

「ブルネル、任せたよ」

「はい。失礼します」

 

 まだ何か言いたげなナナリーの背中を押して、隊長の視線から逃げるように、ニケは演習場から出て騎士団の出口へ向かった。殿下が上手くとりなしてくれると信じよう。

 

 なるべく人気(ひとけ)がなく、かつ男性騎士が通ることの少ない道を選んだものの、出口が見えたところで先輩の男性騎士二人組に声をかけられてしまった。

 

 ニケは心の中で舌打ちをする。騎士の一人は男爵家の三男で、褒賞でニケの家が爵位をもらってから度々食事に誘ってくる人物である。

 

 これまでニケが誘いに乗ったことはないが、それでもしつこく話しかけてくる。ニケは男兄弟がいないので、長女のニケが爵位を継ぐことになるだろう。十中八九、彼はニケの家への婿入りを狙っている。

 

 ナナリーと二人でいたことが(あだ)になった。男性騎士もちょうど二人組、案の定、男女四人で食事に行かないかと誘われた。グループでご飯を食べに行くのなら誘いやすいし断りにくい。笑顔で応対しつつ、ニケは内心冷や汗をかいた。

 

 ……まずいわ。私一人ならまだしも、ナナリーも誘われてしまった。タイミングが非常に悪い。隊長の機嫌は最悪だ。下手(へた)を打つと彼らが消し炭になる。上手く断るにはどうすればいいだろうか。

 じわじわとニケの眉間に皺が寄せられていく。

 

 *

 

 ニケは愛想笑いをしているが、かなり困っているのがナナリーにはわかった。大好きなニケのために、ナナリーも手をこまねいている訳にはいかない。

 

 ニケが男性騎士に食事に誘われている。そしてニケは困っている。嫌がっているのは見ていればわかるが、きっぱり断っていない。

 ニケは騎士団の先輩にも物怖じしないと思っていたから意外だった。この男性騎士は貴族で、ニケが強く出られない相手なのかもしれない。

 

 ナナリーはニケを守るために、必死で『口説き文句と対処法』の貴族の項目を思い返す。その中のマリスの助言がパッと頭に浮かんだ。

 

 ──しつこい男性には、その男性より上位の貴族で、既婚のご婦人と約束があるといえば角が立たずに断れますの。

 

 ナナリーが頼りにできる上位貴族の既婚女性と言えば一人しかいない。

 

 すっと背筋をのばし、習いたての令嬢の笑みを頬に浮かべてみる。受付嬢のスマイルとは少し違う、とり澄ました表情で、それほど親しみを感じさせないのがコツだ。ちゃんとできているか自信はないが。

 

「申し訳ありませんが、私たちはロックマン公爵夫人と約束があります。これからロックマン公爵邸に伺う予定なんです」

「ロックマン公爵夫人!?」

 

 男性騎士はぎょっとして目を剥いた。

 ニケが一瞬戸惑った顔をしたが、すぐにナナリーの意図を察したようだ。腹に据えかねて今にも目の前の騎士を睨みつけようとしていたニケは、眉間の皺を解いて当たり障りのない笑顔を作った。

 

「そうなんです。本当はロックマン隊長が彼女と一緒に公爵家に行く予定だったのですが、あいにく隊長は急用ができてしまったので、私が代わりに付き添いを頼まれました」

 

 今度はナナリーが驚く番だった。どうしてここでアルウェスの名前を出すのか。顔の筋肉を総動員して心の動揺が表情に出ないよう努力する。それでも無意識に口元が引き()ってしまう。

 

 騎士たちの顔色が悪くなり、失礼するよと言って何事もなかったかのように去っていった。

 

 *

 

 ニケとナナリーは走りたいところを我慢して、ぎりぎりの速足で騎士団本部を後にする。

 騎士団の建物から離れて、使い魔や天馬に乗り降りする場所の手前でひと休みする。また誰かに声をかけられたら面倒なので、ニケは人目に付かない木陰にナナリーを誘った。

 

「上手くいって良かったー」

「ナナリーったら、よく思いついたわね」

「マリスの助言のおかげだよ。ニケが困ってたから私が頑張らなくちゃと思って」

「…………それを自分のためにも発揮してほしいわ」

 

 ニケはナナリーの機転に感心していた。自分はナナリーが咄嗟に思いついた口実に上手く合わせただけだ。

 

 次いでにナナリーの口実を利用して彼らに威嚇させてもらった。先ほどのニケの言葉を聞いて隊長とナナリーの関係を理解しないような貴族は社交界でやっていけない。

 

「ナナリー、演習場でのことは何も言わないでね。次に隊長に会ったときに問い詰めるようなことはしないで」

「ニケ」

「騎士団の規律と、あとは殿下と隊長の間の話だから」

「……ニケがそれでいいなら。いまいち納得はできないけど」

「私は殿下の命令に従っただけだから、心配しなくていいのよ」

 

 あの炎は心底恐ろしかったけれど、ナナリーがいたからあそこまで本気を出してきたんだろう。

 殿下には先に隊長に話をつけておいて欲しかったとは思う。

 

「今日はもう寮に帰る?」

「そうだなあ……ニケは夕飯どうする? どこか食べに行く?」

 

 ナナリーを寮に連れて帰るにはまだ早い時間だと思っていると、彼女は意外なことを言い出した。

 

「ノルウェラ様に会いに行くのはどうかな? ニケはまだちゃんとお話できてないでしょ? ノルウェラ様とお話ができれば、ニケも公爵家に通うのが少しは気が楽になると思うの」

「ナナリー?」

 

 ニケはぽかんとした。親友はさらりと凄いことを言っている。

 

「昨日もらった手紙には『明日、時間があれば訪問してほしい』と書いてあったのよ。令嬢教育のときはあまりお話ができないからって……」

「ナナリーは隊長のお母様とすっかり仲がいいのね」

「だって本当に素敵な女性(ひと)なんだよ! あいつの母親なんて思えないの!!」

 

 ニケは呆れた顔で親友を見つめた。ナナリーはやはりどこかずれてる。とんでもなく面倒くさい隊長に長年想われ続けて、素で彼を振り回し続けているだけはある。

 

「そうね、ナナリーの手紙の練習にもなるわね」

「へ?」

「遊びに来て欲しいとお言葉を貰ってても先触れは必要よ。ナナリーからロックマン公爵婦人に手紙を書いてね」

 

 ニケがにっこり笑うとナナリーは青い顔をした。意地悪をしているつもりはない。ニケもナナリーの令嬢教育を応援しているのだ。

 

 相談した結果、一度ナナリーと寮に戻ることにした。ニケの指導の下、ナナリーがロックマン公爵婦人に手紙を書いて、それをニケが公爵邸に届ける。二人の訪問は大歓迎されて、急遽ロックマン公爵婦人とお茶会をすることになった。

 

 公爵婦人は騎士服のままでいいとおっしゃってくれたけれど、召使いに懇願されてナナリー共々ドレスに着替える羽目になったのは誤算である。

 

 




いつの間にやらノルウェラ様と仲良しになってるナナリーです。令嬢教育が始まって、ロックマンよりも母親と一緒にいる時間の方が長くなってますね。


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2-5. 夕闇の空を翔ける①


長かったので2話に分けました。
修正してpixiv版よりわかりやすくなっていると思います。
※原作と違い、このロックマンは時の番人事件からずっと黒瞳黒髪です。髪と瞳の色が黒いままでも普通に火型の魔法、生活魔法は使えます。時々魔物の魔力が暴走するのでララの絶対防御のクリスタルを使った魔具の首飾りを身に着けています。



 騎士団での一件から数日後、もうすぐ終業時刻になろうかという頃、ハーレの扉が開いて何かキラキラしたものが入ってきた。

 

「お待たせ、ナナリー。迎えに来たよ」

 

 夜間へ引継ぎの書類をまとめていたナナリーは筆を持ったまま目を見開いて固まった。

 ギギギギギギギ……と錆びた人形のような動きで顔を上げると、それはそれはにこやかな笑みを湛えたアルウェスが目の前にいた。

 

 なんて胡散臭い笑顔…………!! 

 

 アルウェスは鉄壁のキラキラの笑顔を貼り付けている。金髪に色白の美青年が肩に乗せた黒猫(※ユーリ)を撫でている姿は本当に物語の王子様のようで、眩しさに目をやられながら女性陣は頬を赤らめてうっとりと眺めていた。

 

 みんな騙されてはいけない。社交界の馬鹿だか華だかと呼ばれる笑みだ。ユーリまで小道具に使うなんてあざとすぎる。絶対腹の内でよからぬことを考えてるに違いない。

 

「…………引き継ぎしたら終わりだから、裏口で待っててくれる?」

「邪魔にならないように向こうで待ってるよ」

 

 この男、人の話を聞きやしない。

 アルウェスが騎士団の用事でもないのに(本当は護衛だが)ナナリーを迎えに来たということで、同僚から意味ありげな視線を矢のように浴びていたたまれない。

 彼は肩にユーリを乗せたまま、依頼書の張られた壁に寄りかかって待っている。はやく終業時刻になれ、と心の中で唱えながらナナリーは手早く仕事を片付けた。

 

「終わった?」

 

 ナナリーが席を立つとすかさずアルウェスが声をかけてくる。裏口から出ると言い張るナナリーの手を引いて、アルウェスはハーレの表の入り口に向かう。

 アルウェスのキラキラ笑顔に騙された同僚たちは咎めることもない。ゾゾさんとハリス姉さんはナナリーにひらひらと手を振って、チーナはきゃーきゃー興奮してる。

 

 ニケが護衛の時は裏口で待っててくれるけれど、次からはニケにもハーレの中まで迎えに来てもらうとナナリーは決めた。

 

 ナナリーの手を引きながらずんずん進んでいく男の金色の頭を睨みつける。

 何となく気になって、三つ編みにした長い金髪を近くでよく見てみる。ほんの少し、気になる程度だけれども、生来の色に比べて色味が暗かった。アルウェスが振り返った際に瞳をじっとのぞき込むと、炎のような輝きがない。

 

「何?」

 

 キラキラ笑顔はすっかり鳴りをひそめて、怪訝そうな顔をしてナナリーを見返している。

 

「髪と目の色がちょっと暗い気がして」

「よくわかったね。まだ戻ってないよ。変身術を使ってるだけ」

 

 あれだけ変身魔法が得意なアルウェスでも元の色にならないとは。日常生活では変身魔法で何事もなかったように装っているようだ。むしろ、黒髪黒目を見た人はそちらが変身なり変装なりと思っていることだろう。

 

 アルウェスはハーレの裏庭の端に来ると、猫のように足元にまとわりついていたユーリを普通の大きさに戻した。

 

「ユーリで行くの?」

「うん」

「じゃあ私はララを……」

「君もユーリに乗って」

「どうして?」

 

 ナナリーを掴む手を離そうと引っ張るがびくともしない。怪しすぎる。ハーレを出てからはピリピリとして、一触即発の気配がする。勝負なら受けて立つが、それはそれ、今のコイツとユーリに二人乗りなんて御免である。

 

 筋力を上げる魔法を使って引き剥がしてやろうかと思った瞬間、両手の指に火が付いた。氷で相殺していると唇に人差し指を当てられた。すーと唇が長い指で撫でられる。やられた、と思ったときにはもう遅い。閉口術だ。

 

 睨みつけようとしたのに、唇がむずがゆくて片目をパチパチさせてしまった。するとアルウェスのピリピリした気配がちょっとだけ緩んだ。炎の攻撃もいつの間にか終わってる。

 

「君もユーリに乗って。いいね?」

 

 もごもごと口を動かしたが喋れやしない。悔しいけれどアルウェスの閉口術は強力だ。おとなしくユーリに乗ると、ナナリーのすぐ後ろにアルウェスが跨って空へ舞い上がる。

 

七色外套(パルティン・テートン)をかけるよ」

 

 前を向いたまま頷くと七色外套(パルティン・テートン)が掛けられて、閉口術が解かれた。ブハッと息を吐く。

 

「ちょっと! いきなり術で黙らせるなんて卑怯だと思わないの!?」

「こうでもしないと君は僕の話を聞かないでしょ」

「そういう台詞(セリフ)は言葉で説得しようとしてから言いなさいよ!」

「黙って。時間がもったいない」

 

 むっかーと頭に血が上る。ナナリーは拳を握りしめて決意した。いつかこいつの閉口術を破ってみせる。

 ハーレから公爵邸までは近い。少しの辛抱だと自分に言い聞かせた。ハーレは王の島の下、北側にあり、ロックマン公爵邸は西側にある。夕陽に向かってユーリが空を翔ける。

 

 すっかり日が暮れるのが早くなった。空離れの季節までもう指折り数えるほどなのだ。茜色から薄い藍色に移り変わっていく空に、ちぎったパンのような雲がぷかぷか浮かび、橙色の夕陽が最後の抵抗とばかりに眩しい光を放っている。

 

 夕方の心地良い風がナナリーの頬をなで、水色の髪がたなびく。(たかぶ)った感情が静まっていく気がする。アルウェスがナナリーのすぐ後ろに座っていて背中が温かい。

 

「……この(あいだ)は」

 

 頭上から声が聞こえる。

 

「どうして君は騎士団に来たの?」

「ニケに、騎士団の演習場で戦闘訓練をしないかって誘われて。ゼノン殿下がストレス発散に思いっきり戦えばいいと許可をくれたって」

「そう……」

 

 あの様子だとアルウェスは殿下の許可を知らなかったのだろう。それなら怒られても仕方ない……のだろうか? 常識的に考えて、あんな物騒な警告は度が過ぎている。

 

 あの炎は本気だった。魔法学校時代だったらナナリーは即座に応戦していただろう。

 騎士団内の規律はナナリーが(くちばし)を挟むものではないが、納得はしてない。ニケに何も言わないで欲しいと頼まれたからナナリーも口を(つぐ)んでいるだけだ。

 

 あの後アルウェスはゼノン殿下と話をしたのだろうか? 

 

「騎士団から帰った後、母上とお茶会をしたんだって?」

「え? あ、うん」

「どうして? あの日は令嬢教育は休みだったはずだけど」

「騎士団を出るところでニケが貴族の騎士につかまっちゃったのよ。しつこく食事に誘われたから、断る口実にノルウェラ様の名前を使わせて頂いたの」

「へぇ……」

 

 一気に氷点下まで下がるような声に背筋がひやりとする。

 

「……ふーん。なるほど。君にしては上手く切り抜けたね」

「そこで名前を出しちゃったし、ノルウェラ様の手紙に令嬢教育抜きでお茶会をしたいと書いてあったから、ニケと一緒に公爵家に行ったのよ。ニケにノルウェラ様と親しくなってほしくて」

 

 ナナリーはひと呼吸置いて、遠く暮れてゆく空を眺めた。

 

「……それと、嘘を吐きたくなくて」

「嘘?」

「どうしても本当のことが言えない時ってあると思う。でも、子ども相手に嘘を吐いたことが何回かあって……そのときの罪悪感が消えなくて。だから、できる限り嘘を吐きたくない」

 

 後ろを振り返り、じっとアルウェスを見つめる。

 

「その子どもって、過去のアルウェスなの」

「子どもの僕?」

「わたし、何度か子どものアルウェスと話をする機会があったんだ」

 

 ちびアルウェスとアルウェス少年のことなのだが、大人の彼には何の話だかわからないに違いない。

 

「憶えてない……よね?」

「過去に戻った未来の人間に関しては記憶があやふやになるって時の番人が言ってたと思うけど?」

「うん、まあ、そうなんだけど」

 

 ナナリー自身も「ナートリー先生」が教育実習生として魔法学校に来たことはまったく覚えていない。あの頃の出来事と言えば、魔法型が判明して髪や瞳の色が変わり、アルウェスとの喧嘩が激しくなったことばかり思い出される。

 

「君、そんなこと気にしてるの? そんなんでちゃんとハーレの仕事できてるの?」

「うっさいわね! 大きなお世話よ!」

 

 アルウェスが厭味ったらしい顔で笑い、ナナリーはふん、と鼻を鳴らして前に向き直った。

 

 




更新が遅れて申し訳ありませんでした。
次の更新は明日の予定です。

ロックマンは時の番人とナナリーたちによって改変された過去のことも明確に憶えてそうですよね。
『ナナリーの令嬢修業』にはあまり関わりがないので割愛しますけれど。



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2-6. 夕闇の空を翔ける②

ロックマンの心境が所々で差し込まれてます。



 

 ナナリーの髪が風にたなびいて、アルウェスの頬を掠めていく。目の前で揺れる水色の、その繊細な感触にアルウェスは目を細めた。少し癖のある明るい水色の髪に指を通して、髪を掴んだままくしゃりと手を握る。目を伏せて指に絡めた髪の毛に口付ける。

 彼女は気づいていないのか、気にならないのか──真っ直ぐ前を向いたまま。

 

 

「君は騎士団に来てたのに僕には顔も見せなかったね」

「へ? だって、忙しいと思って」

「僕はハーレで必ず君に声をかけるのに?」

 

 言われてみればそうである。でもアルウェスは騎士団の幹部だ。騎士団に来たついでに会いに行ける立場の人間ではない。

 ナナリーは受付なので、たいていはハーレの扉を開ければそこに座っている。ハーレよりずっと広くて人も多い騎士団本部と一緒にしないでほしい。

 

「顔を出すって、どこにいるかわからないし」

「騎士団の受付で僕の名前を出せば案内させるよ」

「顔を見せるだけなのにそこまでする? アルウェスに用があるならともかく」

「そういうところだよね、君って」

 

 ハァー、やれやれ、とわざとらしく溜息を吐かれる。何でそこまで言われなきゃならないのか。それともアルウェスは私と戦いたかったのだろうか? それなら私も望むところだけど。

 

 前方から天馬の集団が翔けて来た。どこまで来てしまったんだろう。とっくに公爵邸に着いてていいはずなのに。ナナリーが天馬の進む方向へ首を回すと、ナナリーたちの後方に王の島が遠く浮かんでいるのが見えた。

 

「おーい、アルウェスー!」

 

 天馬の集団の先頭を飛んでいる男性騎士から声がかかる。あれはグロウブ団長だ。ゼノン殿下とニケは見当たらない。

 

「ヘルさーん!」

 

 ナナリーも呼ばれて頭を下げた。

 

「うわっ……! 団長、やめて下さいよ!」

「邪魔しちゃだめですよ!!」

 

 後ろの騎士たちが何か言いながらユーリに乗ったナナリーたちに会釈して通り過ぎていく。

 

 ──あれ? 七色外套は? 

 

「僕がかけた七色外套は君が無意識に解除しちゃったみたいだね」

 

 バッ! と後ろを振り返ると同時にアルウェスが口角を上げる。ナナリーの顔に熱が集まり、次いで頬が引きつるのを感じた。

 

 アルウェスが後ろからナナリーを包み込むようにしてユーリに乗っているのを、騎士団にがっつり見られてしまった。真っ赤な顔をしてるナナリーをよそに、アルウェスは愛想よく彼らに手を振ってる。

 

 スッ、とナナリーの手の甲にアルウェスの手が重ねられた。大きな手に指の一本一本を押さえつけられて、魔法を行使するための指が振れない。

 背中にずしんと重みを感じ、指にも体重がかかる。ナナリーよりも一回り以上デカくて筋肉質な男はかなり重い。押し潰されそうなのをぐぐぐっと押し返して重みに耐える。「んがが……」と呻き声を漏らすと、耳元でくくっと愉快そうに笑う声が聞こえた。

 

 

 

 

 気が付けば騎士団は去っていた。夕焼けに染まっていた空はすでに山の()に茜色を残すのみ。

 目的もなく、気ままに日が沈む黄昏を味わいながら空を翔けるのはナナリーにとって初めての体験だった。

 無理やり連れてこられた空中散歩ではあったが、こういう寄り道は思ったより悪くない。

 

「寒くない?」

 

 後ろから温かい手がナナリーの頬に触れる。

 

「ほら、冷えてる」

「そう? 気持ちいいわよ」

 

 ナナリーはまだ頬が火照ってる感じがする。鎮めるには頬に当たる風が気持ちいい。

 

 後ろからアルウェスがローブの中にナナリーを閉じ込めた。ローブの中はぬくぬくと温かく、お日様で干した服みたいにぽかぽかとした香りが眠気を誘った。ナナリーを包む柔らかな人肌のぬくもりが心地よくて、優しく微睡(まどろ)んでいく。瞼がゆっくりと重くなる。

 

 

 ナナリーのお腹に回した手に力が籠められる。ぎゅっと後ろから抱きしめられて、金色の髪が頬に触れる。アルウェスが後ろからナナリーをのぞき込んでいる。

 

「眠いの?」

 

 ムニッと、ナナリーの頬に柔らかくてすべすべしたものが押し付けられた。アルウェスの頬っぺただ。

 横目に見ると至近距離に彼の高い鼻が見えた。男のくせに、なんでこんなつるつるもちもちした肌をしているのだろう。

 

「熱い」

 

 頬と頬がくっつくとこんなに熱いのか。

 ナナリーも頬っぺたに力を入れて押し返す。その拍子に唇の端が何か熱くて湿り気のあるものに触れた。

 

 ──あ。しまった……。

 

 アルウェスの熱い吐息がナナリーの唇をくすぐる。体中から顔に熱が集まってくる。身を固くしたナナリーは、身体を横抱きにされ、ローブの中で肩を抱きかかえられて顎を掴まれた。アルウェスは悩まし気に眉を寄せて吐息を零す。

 

「……君が悪いんだよ?」

 

 アルウェスは瞳でナナリーに問いかける。その眼差しは優しく甘く、蝋燭の火のように揺らめいて、ナナリーの血に宿る氷の魔力が顔からじわじわと解かされるのではないかと感じた。

 頬を上気させながら、迷うように、恥じらうように彼を見上げて、ナナリーは目を瞑った。

 

 アルウェスの髪の毛が頬を撫でて、額に、瞼に、頬に、柔らかくて熱いものが触れる。ナナリーはアルウェスの隊服をぎゅっと握りしめる。アルウェスの吐息が頬や唇を掠めて、ドキドキと動悸が止まらない。

 

「…………ん……」

 

 覆いかぶさるようにして唇が重ねられる。最初はそっと、触れては離れを繰り返し、最後に長い口づけをされた。

 

 熱くて、しっとりとして、気持ちがいい。口付けって幸せな気持ちになるんだな、とナナリーは思った。

 

 

 アルウェスが最後にぺろっとナナリーの唇を舐めてから顔を離すと、潤んだ碧い瞳が彼を見つめる。それが彼の欲情をさらに掻き立てているのを彼女は気づいていない。

 

 ナナリーは俯いて彼の胸に頭を預けて目を閉じた。力を抜いてアルウェスに寄りかかっている。幼い子どもが親に甘えるように、こんなに安心できる場所はないとでもいうように。

 アルウェスは力強く、でも優しくナナリーを抱きしめる。これまでにない幸福感と充足感がアルウェスの心を満たした。

 

 

 

「ナナリー、寝ちゃった?」

「…………起きてる」

 

 一度温かさに包まれると寒さを自覚せずにはいられない。

 完全に日は沈み、夜の闇がナナリーたちを追いかけてきている。これからどんどん気温が下がっていくだろう。

 

「どこまで行くつもりよ?」

「何処かに行きたい?」

「公爵家に行かないでいいの?」

「うーん……どうしようかな」

「約束は守らなきゃ」

 

 ハァ、とアルウェスが嘆息する。

 

「……わかったよ。じゃあ、これからは騎士団に来たら僕に顔を見せに来てくれる?」

「う……」

 

 意地の悪いいたずらっ子のような笑みに、どうして自分は抗えないのか。

 

「…………わかった」

「約束だよ」

 

 熱い吐息が鼻を掠めて唇に触れた。柔らかくしっとりとした感触に言葉が封じられる。重なり合った熱はなかなか離れることはなかった。 

 

 



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2-7. ゼノンとロックマン①

※この作品のロックマンはかなり激情家です。




 

 

 ニケがナナリーの警護を始めた頃から、ゼノンは騎士団の任務よりも公務でシュゼルク城に滞在することが増えた。

 時の番人によって魔石の存在が明らかになり、父王や大臣たちはドーラン国の騎士団のみで対処するのは得策でないと考え、大陸全体に魔石の情報を公開し、さらにゼノンを御前会議のメンバーに加えた。

 会議には宮廷魔術師長としてアルウェスが出席することもあったが、アルウェスは元々ゼノンより多くの仕事を抱えているため、城で顔を合わせても必要以上の話をする時間はなかった。

 

 アルウェスはニケと分担しているナナリーの警護を兼ねて公爵家に帰る日が増え、また、ゼノンは城の私室で寝泊まりすることが多くなった。騎士団の宿舎の部屋に埃が溜まるのも時間の問題だろう。

 

 その日、ゼノンは夕刻になって騎士団の執務室に戻ってきた。数日間騎士団から離れて城で公務をこなしていたのだ。

 急ぎの書類仕事は副官が城まで運んでくるが、執務室の机の上には未処理の書類が積まれている。一人で処理するのは時間がかかり過ぎて非効率だろう。書類仕事に長けた秘書官が欲しいとゼノンは思った。

 

 アルウェスならこういった仕事も要領よくやれるだろうが、彼に頼るつもりはなかった。本来なら護衛のアルウェスはゼノンの補佐官か副官になるべきところを、敢えてゼノンの(そば)から離し、アルウェスを彼の能力が発揮できる要職に就かせたのはゼノンだ。また、それがアルウェスの意志でもあった。

 

 その判断は間違っていなかったとゼノンは自信を持って言える。もしアルウェスをゼノンの護衛兼側近という地位にとどめていたら、オルキニスの事件やシュテーダルとの戦いを乗り越えられたとは思えない。

 

 ……要領よく仕事ができる秘書官なら、ニケを任命してもいいのではないだろうか。

 

 ゼノンは顎に手を当てて考える。秘書官の地位は高くない。末端であっても貴族のニケならば文句も出ないだろう。ナナリーの警護をいつまでやらせるか、アルウェスに相談した方がいい。

 

 

 副官が茶を運んで来たついでに、いくつか書類の複製を用意するよう指示を出した。今日の会議で決定したばかりの事項だ。明日の騎士団の会議で報告する予定である。

 

 副官が出て行くのとすれ違いにアルウェスがやって来た。銀縁の眼鏡をかけたアルウェスは白皙(はくせき)の顔に何の感情も映し出していなかった。

 これは面倒そうだな、とゼノンは息を()く。無表情とは裏腹に、アルウェスは何かを心に押し隠しているのだろう。こういうときは水色髪の友人が絡む話だとわかっている。

 

 ゼノンは応接ソファに座り、アルウェスも向かいに座らせた。アルウェスの茶を新たに頼むよりもさっさと話に入ったほうが良い。

 

「なんだ? 随分怖い顔をしているな」

「ブルネルがナナリーと戦闘訓練をしていましたが、殿下の指示だそうですね」

「そうだ。俺がニケに命令した」

「ナナリーを騎士にでもするつもりですか?」

 

 アルウェスは単刀直入に切り込んできた。

 

「そういうつもりはない。だが、ナナリーの戦力を遊ばせておくつもりもない」

「…………」

「他国と協力して魔物の巣に討伐に行くことが決まった。当然お前はドーランの代表として選ばれている。グロウブもな。副団長の俺が一時的に騎士団を掌握することになるが、ナナリーはドーラン国内の守備要員に入れさせてもらう」

「彼女はハーレの受付ですよ」

「国の守りが手薄になるんだ。ナナリーだけじゃない、ハーレのテオドアやアルケス、他にも元騎士や有力な破魔士をリストアップしてある。事前に本人の意思は確認するが、有事の際には予備役として国の守りに就いてもらう」

 

 ゼノンはひと息つき、お茶で喉を潤した。

 

「ナナリーの意思は尊重している。騎士団が取れる最善の手段を講じているだけだ」

「それは理解してます」

「だったら私情を挟むな。俺は王族だ。国の為にできる限りのことをする。騎士だってそうだろう?」

「……建前はそうでしょう」

「そうか、建前か」

 

 フッ、とゼノンから小さな笑みがこぼれた。

 アルウェスも随分と素直になったものだ。アルウェスがゼノンの護衛に選ばれたのはゼノンが七、八歳の頃だった。すでに十年以上の付き合いになる。

 ゼノンは魔法学校の寮に入ってから家族と離れて暮らしているため、共に過ごしてきた時間は妹のミスリナよりもアルウェスの方が長い。彼との付き合いの半分を占めたのが魔法学校で、そこでアルウェスは水色髪の女の子と出会った。

 

 ナナリーはアルウェスを宿敵と言っていたが、この二人が他の誰かを選ぶことはないだろうとゼノンは思っていた。それぐらい二人はお互いしか見ていなかった。

 

 下手な口出しをすればアルウェスのことだ、ますます(ひね)くれるに決まっている。周りを巻き込まないよう見守る程度が最良であろうとゼノンは(あるじ)として構えていた。

 

 身分差が問題になるなら、アルウェスから求められれば手助けをする心づもりはあった。だが、二人の身分差はアルウェスが褒賞で『婚姻の自由』を得たことで解消した。最大の難関だったナナリーの気持ちも、捻くれてはいたがアルウェスの命がけの献身が功を奏したのか、アルウェスの本心を理解したナナリーが素直になったのか、めでたく二人の恋は実った。

 

「誰か大切な人を守るためでいい。そのために国を守る。それが俺たち騎士団の役目だ」

 

 

 アルウェスがナナリーに過保護気味なことは承知しているが、杞憂で済まない場合もある。父王や大臣たちとの会議を思い出してゼノンは溜息を()いた。

 ナナリーに関することでアルウェスに隠し事はしないほうがいい。ゼノンは明日の騎士団の会議の議題について重い口を開いた。

 

「言っておくが、国の守りにナナリーを駆り出すぐらいで神経を尖らせていたら身が()たないぞ。魔物討伐にナナリーを派遣しろと名指しで要求する他国(くに)もあるくらいだ。シュテーダル並みの魔物がいたとしたら、氷の始祖級がいた方が安心だとな」

 

 アルウェスはギリッと奥歯を噛みしめる。

 ゼノンとて、他国の思惑は腹立たしく思っている。彼らはナナリーを人身御供に差し出せといっているのだ。シュテーダルとの戦いのときと何ら変わっていない。

 

 しかし、正直なところ対外的にドーランの立場は悪く、他国に強く出られないのが現状だ。

 ドーラン国民のアリスト博士(ヒューイ伯爵)がシュテーダルに憑依された事実がかなりの痛手となっていた。アルウェスが幼少期に親代わりだったアリスト博士の件で傷ついているのはわかっているため、アリスト博士の話題はできる限り避けている。

 

「もしシュテーダルの意志を共有する魔物がいればナナリーは一番の標的になる。彼女を守りながら討伐するのは効率が悪い。それにナナリーは騎士ではないから魔力が高くとも戦力としては劣る。──今のところはそう断っているが、討伐に手間取ればそんなことも言ってられない。お前がすべきことは冷静に迅速に魔物を殲滅(せんめつ)することだ」

 

 ナナリーが魔物に狙われている。その事実だけでアルウェスは期待以上の働きをするだろう。そこを疑ってはいない。他国の騎士たちも始祖級のアルウェスを頼りにしている。

 

 気がかりなのはアルウェスにかかった魔物の呪いぐらいか。

 向かいに座るアルウェスは、黒髪、黒目のままだった。外では変身魔法で誤魔化しているが、ゼノンの執務室では様々な防御魔法が施されていて変身魔法の類は無効化されるからだ。

 




ゼノンとロックマンは忙しくてなかなか話ができてません。
前話でナナリーといい雰囲気になったんですが、ロックマンは浮かれるのではなく過保護になりました。


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2-8. ゼノンとロックマン②

このロックマンはかなり激情家です。そういうキャラだと思って読んでください。



 

 

 オルキニス、シュテーダル、トレイズと時の番人に夢見の魔物。すべてのターゲットはナナリーだった。アルウェスはナナリーを守るため、また夢見の魔物にはナナリーと共に狙われて、結果的に二人がこれらの事件に最も関わりを持つこととなった。

 

 ゼノンはアルウェスとナナリーに近い距離にいる唯一の王族として、大ごとになる前にもう少し何か打つ手はなかっただろうかと悔やむことがある。

 せめて「時の番人事件」ぐらいはアルウェスが呪いを受けるような形でなく解決したかった。

 

 

「俺はナナリーは騎士に向いているとずっと思っていた」

 

 それは紛れもないゼノンの本音である。

 

「ナナリーの心根は騎士の精神に相応(ふさわ)しい。だが、戦い方を知らない。自分の身をすぐ危険にさらす。真っ直ぐすぎて駆け引きができない。仲間との連携の経験も少ない。だからニケに戦い方を教えるよう命令したんだ」

 

 時の番人事件でナナリーは命を狙われたのに、トレイズのことを心配こそすれ怒ってはいなかった。ナナリーよりもアルウェスを慕う女性騎士たちの方が余程怒りを露わにしており、ウェルディなどは射殺(いころ)しそうな目でトレイズを睨みつけていた。

 

「ナナリーを無理やり騎士団に入れるつもりはない。だが、有事の際には協力してもらう。それは何ら理不尽なことではないだろう。そのために今は準備をしている。始祖級の魔法使いが国にとって重要なのは明白だ」

 

 ゼノンとアルウェスが騎士団に入団してから丸三年、世界は一変した。文字通り、世界は一度凍りついたのだ。始祖級の魔法使いの存在は国にとってどれだけ心強いだろうか。

 

 同時期に二人も始祖級の魔法使いがドーランに現れたのは奇跡だと言う(やから)もいる。

 だがゼノンは知っている。ナナリーは確かに生来高い魔力を持っていたが、アルウェスの背中を追いかけて必死に努力した結果、アルウェスに並び立つ逸材になった。それは奇跡でも何でもないのだ。

 

 

「…………そうですね」

 

 床下から這うような低い声がゼノンの耳に響いてきた。

 

「確かにナナリーは騎士に向いてるでしょう。僕がナナリーとブルネルを狙って演習場を火の海にしたときも、真っ先にブルネルを守っていましたよ」

「何?」

 

 ゼノンは弾けるように顔を上げた。

 立ち上がったアルウェスの周りの空間がゆらりと歪んでいるように見えた。まるで陽炎(かげろう)が立っているように。おそらくそれは錯覚ではない。

 

「火の海だと?」

「ナナリーが騎士の真似事をしていたから警告しただけです」

「お前の炎をけしかけたのか?」

「そうですよ。本気でやりました」

「どういうつもりだ? ニケがお前の炎に耐えられるわけがないだろう!?」

「驚くことですか? 僕とナナリーの喧嘩なんて見慣れているでしょう? 今回はブルネルを巻き込みましたが、ナナリーは大好きな親友を守ってましたよ。もしナナリーが望めばいい騎士になるでしょうね」

 

 アルウェスの軽口に見えて毒を含んだ声音がゼノンの神経を逆なでする。ゼノンの声も険呑さを帯びた。

 

「皮肉も大概にしろ……!」

「皮肉?」

「ニケを巻き込むなと言ってるんだ!」

 

 ゼノンは椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。自分の中で何かが()ぜている。無意識にアルウェスの胸倉を掴んでいた。

 

「……どうしたんですか、殿下。らしくありませんよ」

「お前がナナリーを守りたいのはよくわかっている。だからと言ってやり方を間違えるな!」

 

 アルウェスがゼノンの手首をぐっと掴んだ。一瞬遅れてゼノンは腕に電撃を走らせる。

 

「反応が遅いですよ。……殿下を燃やしたりはしませんが」

 

 ゼノンを見下ろすアルウェスの目には鋭く冷たい光が宿っていた。

 

「僕はナナリーが国に利用されたり国同士の駆け引きに振り回されるのが嫌なだけです。もしそうなるとしたら、どんな手を使ってでも阻止しますよ」

 

 アルウェスの手から炎は出ていない。それなのに掴まれた腕が燃えるように熱かった。ゼノンはバシッと力づくでアルウェスの手を振り払うと、アルウェスの横を通り過ぎて執務室の出口に向かった。

 

「演習場に来い、アルウェス」

「……手加減はしませんよ」

 

 

 *

 

 

 ……落雷と電撃、地を焼き尽くす炎で破壊された演習場は、防御膜の外に出たアルウェスがパチンと指を鳴らすと自動的に修復を始めた。

 フェニクスのドルドを使い魔の空間に戻したゼノンは騎士団の建物へ通じる回廊の外壁に寄りかかる。

 

「手を抜いたな」

「そんなことありません。殿下はお強くなりました」

「世辞はいらない」

 

 ゼノンは指先に灯りを(とも)すと、目の前で立ち止まったアルウェスの顔を照らした。眼鏡を外しているアルウェスの瞳の色がはっきりと見えた。

 一時は漆黒で塗りつぶされたように黒くなっていたアルウェスの瞳は、今は赤に黒色の薄い膜がかかっているような状態まで色が戻っていた。

 

「お前の目……まだ少し暗いが、ほぼ赤に戻ったな。髪も金の髪が混じっている。ナナリーの首飾りのおかげか?」

「……おそらく」

 

 アルウェスはナナリーの使い魔のクリスタルから作った魔具の首飾りをつけている。血に混ざった魔物の魔力をコントロールし、本来のアルウェスの魔力を普通に使えるのはクリスタルの魔具のおかげだ。

 

「お前の恋人は有能すぎるな」

「困ったものですよ」

 

 ゼノンが苦笑し、アルウェスは面白くもなさそうに息を吐いた。

 

「僕は今夜は公爵家に帰ります」

「ああ、その方がいいな」

 

 騎士団の宿舎ではゼノンとアルウェスは同室だ。さすがにこの後同じ部屋で過ごすのは気まずい。そろそろ個室に移ってもいい気もするが、仲違(なかたが)いしたのかと変に勘繰られるのは面倒だった。

 

 アルウェスは猫のように小さくしたユーリを肩に乗せて先に外回廊の中へ歩き出したが、何かを思い出したようにゼノンを振り返る。

 

「そういえば、ブルネルにしつこく言い寄る男爵家の騎士がいたようです」

 

 ゼノンは突き刺すような視線でアルウェスを見返した。

 

「ご安心を。もう二度とブルネルに近づくことはないでしょう」

「…………そうか」

「今後どうされるんです?」

「もう少し世情が落ち着かないことにはな、何もできないだろう」

 

 今のゼノンに私的なことに時間を割く余裕はほとんどない。

 気づかわしげな表情だったアルウェスが、揶揄(からか)うような気配に変わる。

 

「ところで、ブルネルの気持ちは確かめてあるのですか?」

「……アルウェス」

 

 ゼノンは空を仰いで目を瞑った。大きく深呼吸して目を開けると青みがかった夜空には星が瞬いている。冷気を含んだ夜気(やき)が身体中を巡って気持ちが良かった。

 顔を戻したゼノンは四歳上の美貌の従兄(いとこ)を真っすぐに見つめて言い放つ。

 

「お前こそ、早く結婚しろ」

「……ええ、そうしたいですよ」

 

 アルウェスは柔らかく頬を緩め、本当の兄のように優しく笑った。

 

 





ロックマンとゼノンで一度喧嘩してほしかったんです。
解釈違いなどは承知しています。

※閑話を書く予定なので更新が遅れます。


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閑話 ニケの花神(タレイア)

『ナナリーの令嬢修業』物語前夜冒頭の花神祭をニケ視点から。
ゼノニケもあります。



 

 ドーラン王国、花の季節。王の島ではキュピレットの花が咲き誇り、一年でもっとも暖かな季節である。国中で植物が芽を吹き、町の中は花で溢れ、自然と人々の心が弾む。

 

 ニケは宿舎の窓を開けて朝の爽やかな空気を深く吸い込んだ。振り仰いだ空は澄んだ水色で、親友の美しい髪の色を思い起こさせる。薄雲以外は遮るものがない空から太陽の光が降り注いでいる。

 

 花の季節二月目初日、花神(タレイア)祭の朝。

 騎士団は一年で一番忙しい日を迎える。

 

 

 遅番のニケは任務の前に食事を済ませようと食堂へ向かった。食堂に入ってすぐに綺羅びやかな衣装に身を包んだ黒い短髪の高貴な男性が目に飛び込んでくる。

 驚いたことに、黒と銀の正装を着たゼノン殿下が、一人でお茶を飲みながら軽食を摘まんでいたのだ。食事のトレイを持っているニケと目が合うと、普段と変わらず気さくに話しかけてくる。

 

「おはよう、ニケ。これから食事か?」

「おはようございます、殿下」

 

 同じテーブルに座るよう勧められて、畏れ多くも殿下と同席して食事をすることになった。

 殿下と同じ隊だから話をする機会は多いけれど、ニケが殿下と一緒に食事をすることはほとんどない。ましてや今は王子としての正装姿だ。騎士団の任務中とは勝手が違い、ニケも(かしこ)まってしまう。

 

 チラチラとニケを見る視線が痛い。お昼にはまだ早い時間のため、人が少ないのが救いである。

 

 ニケは貴族令嬢の食事作法を頭の中で順番に思い出しながら、できるだけ上品に見えるよう、指先に神経を張り巡らせて食事を始めた。

 向かいに座る殿下は茶器の杯を持つ所作も流れるように美しく気品があり、自分の付け焼刃の作法では同席するのも恥ずかしい限りである。

 

 ゼノン殿下は今日は一日公務のはずだが、なぜ騎士団の兵舎にいるのだろうか。

 

 ニケの疑問は顔に出てしまったらしい。殿下が軽く笑って話し始めた。

 

「実は公務の前に用があってな、少し抜けてきた」

「お一人ですか?」

「さっきまでアルウェスが一緒だったが、あいつはハーレに行っている。……用があるのはアルウェスだからな」

「あ……そういうことですか」

 

 ハーレということは隊長はナナリーに会いに行ったのだ。この間親友たちで集まったとき、ナナリーは花神祭はハーレで所長とお留守番だと嬉しそうに言っていた。

 

 もしやナナリーがハーレのお留守番をしているのも隊長の差し金? 

 

「ロクティスに頼んで花神祭の間はハーレでナナリーを守ってもらっている。シュテーダルは破壊したが、まだ何があるかわからないからな」

「それは隊長の意向ですか?」

「騎士団の意向と思ってくれ」

 

 ニケが思い出すのは一昨年の花神祭。あの頃はオルキニスの女王が氷の乙女を狙っており、シュゼルク城にはオルキニスの間者が潜り込んでいた。さらに王宮晩餐会に魔物が現れて大暴れしたのだ。

 

 騎士団は間者を炙り出してオルキニスに潜入するため、マリスと一緒に王宮晩餐会に出席していたナナリーを囮にした。実際囮になったのはナナリーに変身した隊長だったのだが。

 

 ちなみに、隊長は花神祭当日は主に王族の護衛に就いているが、あの年だけは街中の見回りもやっていたらしい。

 

 一応ニケと同期とはいえ、隊長は四歳年上で、国王の甥で公爵子息、侯爵でもある。魔力、魔術ともにずば抜けており、当時すでに王宮魔術師長と第一小隊隊長を兼任していた。

 

 ナナリーがハーレの男の先輩と花神祭を回っているときに遭遇したそうなので、オルキニスに狙われていたナナリーが心配でわざわざ街中の見回りもやったのだろうとニケは推測している。

 

「ニケは晩餐会も警護に回るんだろう?」

「はい。王宮晩餐会には両親が出席します」

 

 ニケの家はシュテーダルの戦いの後、褒賞で男爵の爵位と領地を賜り、末端ではあるが貴族の仲間入りをした。王宮晩餐会の招待状も届いている。

 

「踊らないでいいのか?」

「社交もダンスも自信がありません。仕事をしている方が気楽です」

「アルウェスは仕事もしているが、ダンスもしているぞ?」

「男性は騎士服でも構いませんが、女性騎士は無理ですよ」

 

 正直なところ、王宮の舞踏会でドレスを着てダンスなんて御免である。マリスに貴族の教養を教わってはいるが、仕事と貴族の社交のどちらかを選べるなら仕事をしたい。

 

 食事を終えて食器を片付けていると、突然女性の悲鳴のような声が聞こえた。

 

「何だ?」

「何でしょう?」

 

 振り返ると、入り口の扉の前に隊長が立っているのが見えた。殿下が足早に入り口へ向かう。ニケも小走りで追いかける。

 食堂の入り口付近では、隊長から三、四歩離れた場所で女性騎士たちが数人、力なく座り込んでいた。いつもなら頬を染めて黄色い声で隊長に駆け寄る彼女たちに何があったのか。

 

「アルウェス、何があった?」

「殿下」

 

 隊長はほんの僅かに眉を下げて苦笑いをした……ようにニケには見える。

 

 彼の周りでは、その場に崩れ落ちた女性騎士の一人が震える手で隊長を指差していた。正確には隊長の胸元を。

 隊長の騎士服にはあるべきものがなかった。ここに居る騎士ほぼ全員の胸に差してある、国王陛下のお気遣いのキュピレットの赤い花がすでになくなっていたのだ。

 

 さりげなく殿下に視線を移すと、殿下も一瞬だけニケを見た。隊長のキュピレットの花が誰の手元にあるのかニケと殿下にはわかっている。殿下は軽く息を吐き出すと、よく通る声で言った。

 

「俺とアルウェスは公務に戻る。行くぞ」

「はい」

 

 殿下が女性騎士の横を通りすぎ、隊長は殿下のために扉を開ける。殿下の姿が見えなくなった後、隊長がニケに声をかけた。

 

「ブルネル、この場は任せていいかな?」

「わかりました」

 

 ナナリーが関わるときはたいていニケが頼りにされる。いつものことだ。扉が完全に閉まってからニケは女性騎士たちに近づいた。

 

「あなたたち、これから仕事でしょう。ほら、立ちなさい」

 

 口元を押さえて涙目になっている騎士もいる。やれやれ、とニケは心の中でため息を吐く。

 

 ……嫌な予感がするわ。

 

 これから王族は馬車で国中を回る。王族の警護を務める隊長も天馬で王族の馬車と共に国中の空を移動するのだ。

 

 

 ──ニケの予想通り、その日アルウェス・ロックマンの胸にキュピレットの花がないことを知った女性たちの叫び声が国中に響き渡った。

 花神祭で王族への歓声ではなく鳴き声が聴こえて来たのは建国以来初めての出来事だったという。

 

 

 *

 

 

 その夜、ニケは晩餐会が開かれている城の大広間の周辺の警備を担当していた。

 大広間からは楽団による演奏が聴こえてくる。華やかな晩餐会では美しく着飾った貴族たちが談笑しながら腹を探りあっていることだろう。

 

 二ケは晩餐会が始まる前に馬車の発着場まで両親を迎えに行った。貴族になって間もない父と母は初めての王宮晩餐会にたいそう緊張しており、ニケが会場周辺の警備担当と知って心から安堵していた。

 

 商人であるニケの両親は流行に敏感で、会話も上手だ。晩餐会のために用意した衣装も流行を取り入れつつ、派手ではなく、(ひん)良く仕立てられていた。

 爵位を得てから高位貴族向けに商売を広げているようで、王宮晩餐会は国中の貴族と面識を得る絶好の機会なのである。

 

 ニケは家業を継ぐつもりはない。騎士として生きていきたい。

 貴族となったからには領民を守る義務があるので、両親と共に領地の運営をしているけれど、もしニケの後を継ぐ人物がいなければ男爵位も領地も国に返上して構わないと思っている。

 

 

 

 

 いつの間にか大広間から聴こえる音楽は円舞曲に変わっていた。

 舞踏会も中盤になれば大広間から抜け出す男女が増えてくる。二人きりで静かに話ができる場所を求めて、回廊やバルコニー、庭園に出てくるのだ。

 ニケたち騎士もそれがわかっているから、わざわざ声をかけたり無粋なことはしない。

 

 だが、招待客の間で何か問題が起きる場合もある。妙な魔法反応があれば城の防御結界が感知して招待客を守る仕組みになっているが、特に男女間の問題では魔法を使わないことも多いため、すぐに駆けつけられるように警戒している。

 

 

 庭園に面した回廊付近をニケが巡回していると、談笑しながら回廊を歩いてくる殿下と隊長に出くわした。

 殿下と隊長は従兄弟であり、騎士団の食堂などではかなり気安く会話をしているときもあるのだが、ここは城で、しかも王宮晩餐会であるから、隊長は殿下の護衛兼側近として常よりやや畏まった態度なのがわかる。

 

「ニケ、問題はないか?」

「特に問題はありません。晩餐会が始まる前は慌ただしかったのですが……」

「ああ、あれは大変だったな」

 

 殿下が苦笑しながら隊長の顔を見上げる。ニケもこっそり隊長の様子をうかがったが、隊長は澄ました顔をしてどこ吹く風である。

 

 何が起きたかと言えば、晩餐会が始まる直前、大広間に貴族たちが入ってきて早々に若い女性の悲鳴が響いたのである。

 またか、とニケは心の中でげんなりとした。今日、国中の至る場所で見られた光景が城でも再現されたのだ。

 

「皆さま見て下さいまし……!!」

「アルウェス様のキュピレットが……!」

「いったいどこの令嬢に渡したのでしょう!?」

「まさか……!」

 

 そう口々に泣き叫び、令嬢たちはパタパタと倒れてしまった。

 その場は一時騒然となった。軽々しく貴族令嬢に触れられない男性騎士たちは右往左往してまったく役に立たず、ゼノン殿下と団長の指揮のもと、ウェルディをはじめとしたニケたち女性騎士が令嬢たちを次々と控室に運んだのだ。

 

 本当に気を失っている令嬢はさすがにいなかったが、大広間で泣き崩れ、歩くことも覚束(おぼつか)ない彼女たちを運ぶのは大変だった。

 

 ところが、控室に入った途端、弱弱しく泣いていた令嬢たちは「キィィー!」と口惜(くちお)しそうにハンカチの端を噛み締め始めたのである。

 

 ぽかんと口を開けたニケは、学生時代にナナリーがハンカチの端を噛み締めて、クラスの貴族女子の真似をしていたのを思い出した。当時はベンジャミンとケラケラ笑っていたけれど、目の前で令嬢たちが一斉にハンカチの端を噛み締めている姿は唖然とするしかない。

 

 馬鹿馬鹿しくなったニケたち女性騎士は、城の使用人に令嬢たちを任せて持ち場に戻った。戻る途中、「倒れれば隊長が優しく抱き起こしてくれるとでも思っていたんでしょ。いい気味ね」というウェルディの言葉に深く頷いた。

 

 殿下がわざわざ大広間に来て団員に指示を出していたのは、隊長をその場に留め置くためだったのだろう。殿下の護衛である隊長は殿下のそばから離れられないからだ。

 ようやく好きな相手と両想いになったというのに、隊長も難儀な人である。

 

 

「その後はお酒で気分が悪くなったご婦人を介抱したくらいです」

「そうか」

「殿下は外に出てきて大丈夫なのですか?」

「グロウブと話をしてきたんだ。その帰りに少しくらい寄り道をしても許されるだろう?」

 

 団長は騎士団の控えの間で全体の情報を取りまとめ、采配を振るっている。

 

「殿下、僕は先に戻ります」

「わかった。ミスリナの機嫌が悪いだろうからよろしく頼む」

「お任せください」

 

 ミスリナ王女は殿下が大好きと聞いている。殿下がこんな風に舞踏会をこっそり抜け出したのを知れば、あの可愛いらしい頬を膨らませていることだろう。

 

 隊長は一人で大広間の入り口に向かって回廊を歩いていく。薄暗い回廊でも長い金髪は目立ち、姿勢が良く、意外とがっしりした体躯(たいく)は上背があって、歩いているだけで輝くようなオーラを放つ。

 王族の血縁だからだろうか、殿下とは雰囲気が違うけれども、十分に王子様の雰囲気を持っている。

 

 隊長が大広間に戻ればすぐに令嬢たちに囲まれるだろうが、機嫌が悪いミスリナ王女を宥める役目があれば殺到するダンスの誘いも穏便に断れる。

 団長と話をするために舞踏会を抜け出したのは令嬢たちとのダンスを避けるためだろうかと深読みしてしまう。

 

「なんだ? アルウェスが気になるのか?」

 

 隊長の後ろ姿を目で追っていたら殿下がとんでもないことを言い出した。

 

「違います! その……隊長はあまり令嬢たちとダンスをするつもりがないのかな、と思いまして」

「そうだな。今日はアルウェスがほとんど踊らないから、俺にお鉢が回ってきてしまうんだ」

 

 ニケは目を瞬いた。隊長が女性との社交を控えるとこんな形で殿下に影響が出るとは。

 

 何もしなくても隊長の周りには女性が群がっているのだが、殿下を守るためには悪いことではなかったのかもしれない。

 こうやって貴人を守る方法もあるのだとナナリーに教えておこうとニケは思った。やっと初恋を自覚した親友は、隊長が他の女性にいつ目移りしてもおかしくないと常に自信なさげなのだ。

 

「殿下も大変ですね」

「アルウェスほどではないけどな。ナナリーを招待すればいいと俺は言ったんだが、『猛獣を王宮の晩餐会に放つような真似はしませんよ』だそうだ。まあ、ナナリーを好奇の目に晒したくないんだろう」

 

 好奇の目というよりは、着飾ったナナリーを誰にも見せたくないだけだろう。

 王族の警護を担当している隊長はずっとナナリーのそばにいられるわけではなく、愚かにもナナリーをダンスに誘う男性がいれば燃やされる末路しか見えない。

 ニケとしても、王宮晩餐会で騎士団の隊長がボヤ騒ぎを起こすなどたまったものではない。

 

 そのうち世情が落ち着けば王宮晩餐会くらいは隊長も警護から外れることができるだろうし、その時にナナリーと連れ立って招待客として出席すればいいのだ。

 

「ニケ、少し踊ってみないか?」

「私は仕事中ですから」

「舞踏会は騎士も参加していいと言っただろう?」

「ですが……」

 

 突然のダンスの誘いにニケは躊躇する。殿下と踊るのが嫌なわけではないが、美しく飾り立てた女性たちがたくさんいる中で、一人だけ騎士服で踊るなんてできるわけがない。

 

「大広間で踊ろうというわけではないさ」

「はい?」

「ここでいい」

「ここで?」

 

 ニケはぐるりと周りを見回した。目の前の庭園には大きな花壇がある。たくさんの花弁が月明りに照らされて白く輝き、花の香りが昼よりもなお甘く強く匂っている。

 

 殿下がニケに手を差し伸べてダンスに誘う。ごく自然な仕草でニケの手を取り、庭園へと(いざな)った。

 

 回廊の階段を、殿下に手を引かれて庭園に降り立つ。

 ニケよりも大きくて男性的な殿下の手と指を絡めて、腰に手が添えられる。曲に合わせて殿下が一歩を踏み出し、ニケもステップを踏み始める。

 

 私が殿下とダンスを踊っている……。

 

 ニケは不思議な面持ちで殿下の顔を見上げた。殿下は何も言わず、優しく目を細めてニケを見つめ返す。その黒い瞳にはニケが映っている。

 

 殿下はとてもダンスが上手だった。貴族令嬢の教養としてマリスにダンスも教えてもらっているが、殿下のリードに身を任せているといつもよりスムーズに踊れている気がする。

 

「なかなか上手いじゃないか」

「まだまだです」

 

 ニケがターンをすると一つ結びにしたプラチナ・ブロンドの髪がふわりと流れて、騎士服の上着が申し訳程度に翻る。せっかく殿下とダンスをするなら、もう少し綺麗な恰好のほうが良かったと思わずにはいられない。

 

 できることならば、美しく髪を結いあげて華やかなドレスを着て──。

 

「やっぱり、ドレスがよかったです」

「そうか。今度は美しいドレス姿を見せてくれ」

 

 今度? 今度なんてあるのだろうか? 

 

「機会がありましたら」

「約束だ」

「はい、約束です」

 

 ニケはふふっと笑った。

 もうすぐ曲が終わる。この曲が終われば殿下は大広間に戻っていくだろう。

 

 この時間が少しでも長く続いてくれたら。

 吸い込まれそうな黒い瞳を見つめながら、そう祈らずにはいられなかった。

 

 

 





ひと月近く更新が空いてしまい申し訳ありません!
ニケが家の将来についてどう考えているのかは私の妄想です。次の話はpixivに掲載していた話の再掲になります。


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第三章 呪いの干渉
3-1. ダンス練習①


細部を加筆修正してあります。
『2-6. 夕闇の空を翔ける』から1週間ほど経過し、空離れの季節一月目に入っています。



 

 ロックマン公爵家の大広間は舞踏会さながらの装飾が施され、招待客のためのテーブルや椅子が並んでいる。楽団の席にはラッパのような楽器が浮いて美しい音楽を奏でていた。これらはすべて魔法による幻で、唯一音楽だけが本物である。

 

 円舞曲が流れる中で、若草色のドレスを着たナナリーはダンスの先生とホールドを組んでフロアをくるくると踊っていた。ポニーテールにしたナナリーの水色の髪がステップを踏むたびにゆらゆらと揺れて、白い(うなじ)を惜しげもなくさらしている。

 

 肩の力を抜いて肩甲骨を下げ、首を伸ばし、上体のホールドを維持する。お腹をぺったんこにして、腰は立てて反らしてはいけない。大きく胸を広げて顎から腕、指先までに空間を作る。

 足は胸の下から生えているようなイメージで、股関節より上から動かすつもりで。重心は高く、踵に体重をかけないで軽やかにステップを踏む。

 

「ええ……、いいですよ、ヘル様。首と肩の力をもう少し抜いて……。肩甲骨から生えているように腕を使ってください」

 

 円舞曲のおさらいが終わるとダンスの先生がナナリーを褒める。

 

「三週間でよくここまでできるようになりましたね。とても姿勢が美しくなりました。では、アルウェス様と組んで踊ってみましょう」

 

 先生はナナリーの手を下から掬い上げるように持ち、こちらに向かって優雅に歩いてくるアルウェスに差し出した。

 

 長い金髪を編んで胸元に垂らし、上質な白いシャツに黒のベストを着て、同じく黒のトラウザーズを身に付け、襟元には薄い水色のクラバット。髪を結ぶリボンも薄い水色だ。

 自分の髪の色と同じ色味のものはナナリーとて自然と目がいく。特に深い意味はないだろうと思ったけれど、リボンに目をやった直後に微笑まれると動悸がしてしまう。

 

 細い銀縁の眼鏡の奥からのぞく燃えるような赤い瞳がナナリーを見ている。

 アルウェスの赤い瞳が生来の炎のような輝きを取り戻している。端整な美しい顔立ちに映える一対の朱赤(あか)い宝石をナナリーはじっと見つめる。やっぱり綺麗な瞳だと思う。

 

 アルウェスがナナリーの手を取って指先に軽く口づける。ナナリーはハッと我に返った。もしや自分は彼に見惚(みと)れていたのだろうか。

 逸る鼓動に落ち着かないナナリーを知ってか知らずか、アルウェスは優しく、でもどこか熱っぽく微笑んだ。

 

 女性のような美しい造作(ぞうさく)でありながら、背は高く筋肉質で、男性的な魅力も充分に兼ね備えているアルウェス。いったいどれだけ女を狂わせてきたのだろう。はた迷惑な美貌と手慣れた所作だ。

 

 ナナリーだってそんなこと何年も前から知っている。でもアルウェスの整った容貌にも、いかにも貴公子らしい立ち居振舞いにも(そもそもナナリーに対してそんな態度を取ることはなかったのだが)心を動かされたりしなかった。だから平気で殴り合いの喧嘩もしたし、好敵手(ライバル)として張り合ってきた。

 

 それなのに、なんで今更アルウェスに見惚れたりしているのか。

 

 好きだと自覚しただけで自分がこんなに変わるなんて。恋とはなんと恐ろしいものだろう。

 

 

 アルウェスとホールドを組むと少し速い円舞曲が流れ始めた。アルウェスが足を踏み出すのに合わせてナナリーも後ろへステップを踏み始める。

 アルウェスのリードはやはり上手かった。プロの先生と比べてもなんら遜色がない。背が高く恵まれた容姿のアルウェスは見栄えがして、より上手く見えるのだろう。

 

 ナナリーもプロの先生に教わってかなり上達した。綺麗な姿勢を維持できるようになったし、舞踏会で最低限必要だという、最初と最後の曲のステップは完璧に覚えた。

 もう男性の足を踏むことはなく、自信がなくて下を向くこともない。慎ましくとも、胸を張って踊れる。

 

 

 …………と思っていたのに。

 

 アルウェスと会うのは約一週間ぶりだ。仕事の関係でハーレで顔を合わせることはあっても、立ち話をしたくらいで、公爵家で会うこともなかった。

 

 前にちゃんと話をしたのは空離れの季節に入る直前だ。あのときはユーリに乗って遠くまで行ってしまった。アルウェスは最初は不機嫌だったけれど、珍しくゆっくり話ができて、そして……そして…………く……く…………くくく…………口付けをしてしまった。

 

 なるべく思い出さないようにしていたのに!

 ダンスは距離が近い。ドレスのたっぷりとした布越しに彼の体を感じるだけでどぎまぎしてしまい、体が強張る。

 頬が熱くなってきて、ナナリーは眉をしかめて口元をきゅっと引き締めた。アルウェスと視線が合えば、あさっての方向に目が泳いでしまう。ナナリーはどんな顔をすればいいのかわからなかった。

 チラッとアルウェスを見上げるが、彼は平静(へいせい)で、にこやかに微笑みながら正確にステップを踏んでいる。

 

 

 *

 

 

 アルウェスとダンスを踊りながらナナリーは百面相をしている。

 どうやら自分を意識してくれているらしい。

 それを嬉しいと思う気持ちは真実だ。だが、それ以上にダンスの練習とはいえ至近距離でナナリーと触れ合っていることがアルウェスを悩ましい気持ちにさせる。

 

 アルウェスはナナリーのドレス姿から目が離せずにいた。ナナリーが着ているドレスは夜会用のデザインで、腰をコルセットで締め上げて、寄せた胸はギリギリ見えず、彼女のデコルテから背中にかけてのラインを美しく見せていた。

 

 ダンスの練習用なのだろう、飾りが少なくシンプルで、決して肌の露出が多いわけではない。しかし、ナナリーはいつも下ろしている髪を頭の高い位置で一つにまとめて、オフショルダーの袖のおかげで(うなじ)から肩甲骨まで剥き出しになっている。

 

 細いけれども健康的な彼女の首や肩が嫌でもアルウェスの目に入ってくる。ダンスを何曲も踊ったナナリーは少し汗ばんでいて、色白な肌は血色がよく艷やかだ。

 それがどれだけアルウェスを懊悩させているか、困ったことにナナリーは気づいていない。

 

 

 *

 

 

 アルウェスが薄っすらと目を細めた。その色気を帯びた眼差しに、ナナリーは自分の心臓が跳ねる音を聞いた。

 

 なんで目を細めるだけで色気が駄々漏(だだも)れてくるんだろう? 

 どういう教育を受ければこんな技を身につけることができるのか。

 

 ナナリーが踵が高い靴を履いているので、ただ向かい合っているだけでも顔が近い。アルウェスに顔を向けるとすぐに視線が合ってしまう。

 頬や首が熱い。氷で冷やしたいけれど、曲が終わるまでアルウェスの手を離すことはできないのだ。

 

 先生と踊っているときは余計なことは考えずに集中していられたが、アルウェスと組んでいると他のことを考えていないと心臓が持ちそうになかった。やっぱり自分はどこか病気なんじゃないだろうか。

 

 

 今日は所長命令でハーレを早退した。騎士団から迎えがくるから打ち合わせに行くように指示されて、ハーレで待っているとアルウェスが迎えに来た。迎えの騎士はアルウェスかニケだろうと予想はしていたが、何故か騎士団ではなくロックマン公爵家に連れて行かれて、普通に令嬢教育が始まっている。

 アルウェスは騎士団に戻らずにナナリーと一緒にダンスのレッスンを受けている。

 

 打ち合わせはいつ始めるのだろう? 

 

 所長命令を思い出して上の空になりかけたときだった。ちょうどナナリーが両足を揃えて軽くターンをするところで、ナナリーを軸にするようにアルウェスが素早く回った。

 

「きゃあっ」

 

 ナナリーはアルウェスの動きについていけず、()()りそうになった反動で前につんのめり、アルウェスに思いっきり抱きついてしまった。

 

「考え事していると危ないよ」

 

 両腕でナナリーの身体を受け止めながらアルウェスが甘い笑みを浮かべる。

 

「誰のせいよ!」

「せっかく叫び声は女性らしくなったのに。そんな顔したら台無しだね」

 

 逞しい腕から逃れようと力の限りもがいてみたがびくともしない。

 無詠唱で素早く最大の腕力の魔法を使えるように訓練しようとナナリーは本気で考え始めた。

 

 




閑話のゼノニケのダンスとは諸々違いますねぇ。


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3-2. ダンス練習②

 

 ナナリーを片腕に抱きながら、アルウェスは指を振った。曲がゆったりとしたものに変わる。これはラストダンスの曲だ。

 

 アルウェスが腕の力を緩め、ナナリーの右手をすっと上に引き上げて、アルウェスの体の前でくるりと一回転させた。

 そのまま踊り始めるのかと思いきや、ホールドを組んで真顔でナナリーの目を見て話し始める。

 

「ナナリー、ダンスは二人が一体になって踊る。他のことを考えてたらすぐわかるからね」

「……ごめんなさい」

「うん。じゃあ、二人の呼吸を乱した方が負けにしようか?」

「受けて立つわよ!」

 

 アルウェスがもう一度指を振ると途中まで流れていた曲が最初に戻った。アルウェスはスッと姿勢を正すと、ナナリーの右手を優しく握り、反対の手を背中に添えた。ナナリーもすぐに負けじとシャキッとポジションを戻した。

 曲に合わせて二人でくるくると回り始める。

 

 気合を入れ直し、雑念を払ってみれば、アルウェスにリードされてフロアを踊るのは存外気分が良かった。

 卒業パーティーのようにふわふわ浮遊してアルウェスに動かされるのではなく、相手の足を踏むこともなく、寄っかかるのでもなく、二人でバランスを保って踊るのだ。ナナリーは初めてダンスを楽しいと思った。

 

「うまくなったね」

 

 踊りながら、アルウェスがナナリーを褒める。

 

「うん。楽しい」

「楽しく踊るのが一番だよ。でも……ちょっとつまらないかな」

「つまらない?」

「前は恥ずかしそうに俯いていたり、ステップに自信がなかったり。慣れない感じが可愛かったのに」

「ななななな……何言ってんの!?」

 

 ナナリーが顔を真っ赤にして声を荒げた。ステップが乱れても足を踏まなかった自分を褒めてあげたい。

 フイッと顔を逸らしてもアルウェスはクスクス笑うだけで、気にするどころか楽しんでいるように見える。

 

 

 *

 

 

 アルウェスとナナリーが踊る様子を観ていたノルウェラは、ほう……と吐息を洩らした。

 

「なんて可愛らしいのかしら……!」

 

 ステップは覚えたものの、まだ踊り慣れていないナナリーが、アルウェスの巧みで神経の行き届いたリードで軽やかに楽しそうに踊っている。恥ずかしそうにうっすらと頬を染め、アルウェスはそんなナナリーを優しく見守っているのだ。

 

 途中でダンスが止まるハプニングはあったけれども、可愛らしくじゃれあって、二人の間に流れる熱にこちらが当てられてしまう。

 

「アルウェスがあんなに楽しそうに踊っているのは初めて見たわ……」

 

 ノルウェラとダンス教師はにこにこと顔を見合わせた。本当はもっと見ていたいけれど、二人の邪魔をしてはいけない。

 

「心配いりませんわね。わたくしたちは席を外しましょう」

「はい」

 

 ノルウェラはダンス教師と談笑しながら大広間を出ていき、侍女もその後に続いた。

 

 

 *

 

 

 曲が終わり、ナナリーが優雅に膝を曲げてお辞儀をするとアルウェスは自然な流れでナナリーの腰を引き寄せた。ナナリーの顔に金色の髪が垂れてきて、柔らかな感触が唇に触れる。

 

「……っ!」

 

 思わずアルウェスの厚い胸板を叩いた。ここにはノルウェラ様やダンスの先生もいるのだ。

 

 アルウェスはナナリーを離すどころか、さっきよりも強く頭と腰を押さえつけて下唇を食むように口付ける。チュッ……、チュク……、チュゥ……と水音がして、唇が濡れる感触がある。それがアルウェスの唾液だと気が付いて、なんていやらしい口付けをするのかと耳まで熱くなった。

 

 ナナリーの口の中にもだんだんと唾液が溜まってきて、心がふわふわしてくる。認めたくないけれどなんだか気持ちがよくて、破廉恥な口付けにいとも容易く籠絡されている自分が信じられない。

 

「んっ……んん……!」

 

 唇を重ねたまま、舌先で唇の隙間をなぞられ、(うなじ)を指で撫で上げられた。ぞわぞわとした感触が背筋をはい上る。ようやく顔を離したアルウェスはナナリーの首筋にチュッと音を立てて口付けた。

 

「ひぁぁぁぁ!!」

「甘いね」

 

 アルウェスは少しも悪びれた様子がなく、ナナリーの腰に回した手も離してくれない。

 

「ガードが緩いね。夜会では不埒な男もいるんだから、ダンス以外では腰とか触らせちゃ駄目だよ」

 

 不埒なことをしたのはどこのどいつだ!!

 

「そんなことより! 先生たちがいるのに!」

「誰もいないよ」

「えっ!?」

 

 アルウェスの腕を振り払うことを一旦止めて、大広間を見回してノルウェラ様たちを探したが、ノルウェラ様も先生もどこにも見当たらなかった。

 

「待って待って! 本当にここには誰もいないの?」

「いないけど?」

「でも、視線? 魔法? 何か感じるのよ」

「わかるんだ?」

「誰かに見られてるの?」

「この屋敷でプライバシーが守れるのは私室ぐらいなんだ。申し訳ないけれど、警備のためだからあきらめて。もちろん、君の部屋や衣装部屋は大丈夫だから」

「やっぱり見られてるんじゃない!」

 

 ナナリーはガーンと衝撃を受けた。公爵家の警備が厳しいのは納得しているが、それをわかっていながら堂々と口付けをしてくるアルウェスの神経が理解できない。

 

 しかもあんな…………この間よりもすごい……ねっとりとした口付けを。

 

「ここには僕らだけだから。もう少しいい?」

「はぃぃ?」

 

 アルウェスが目を細め、艶っぽい眼差しがナナリーを射貫く。くいっと顎を掬い、唇を親指でゆっくりと撫であげる。さっきの口付けの感触が蘇ってきてカァーと顔が上気する。

 

「だから! 誰かに見られてるんでしょ⁉」

 

 ナナリーの顎に添えたアルウェスの手を引き剥がすと、今度はすかさず手を掴まれてしまう。

 アルウェスに翻弄されて悔しい。羞恥と怒りで頬を赤く染め、涙目でアルウェスを睨みつけるナナリーとは対照的に、アルウェスは涼しげな笑みを浮かべている。

 

「私室なら平気だよ。僕の部屋に行く?」

「行かない!」

 

 バシッとアルウェスの手を振り払い、ヒールをカツカツ鳴らしながら大広間を突っ切って、ナナリーは自分に与えられた客室へ戻っていった。

 

 

 *

 

 

 大広間に一人取り残されたアルウェスは真顔に戻り、口元を片手で覆った。ふぅ、と大きく息を吐きだす。

 

「参った……。あんな目つきで他の男を見てないといいけど……」

 

 頬を紅潮させて羞恥で涙目になったナナリーを見ていると、そのまま腕に閉じ込めて、欲望のままに彼女を貪ってしまいそうになる。

 彼女の前で平静を装うことができたのは、幼い頃から感情を表に出さないように制御してきた努力の賜物だ。

 

 

 カーロラの結婚式はドーランにとっては重要な外交であり、ただ笑って社交をこなしていればいいわけではない。アルウェスはゼノンと共に他国の要人と腹の探り合いをすることになる。

 できる限りナナリーのそばにいたいが、彼女に席を外してもらうときもあるだろう。その隙に変な虫が寄ってくるに違いない。

 

 他国の王族や大臣、アルウェスのように王族に連なる高位貴族たち。国内の貴族相手とは事情が異なる。

 すでに調査はしてあるけれど、より詳細な情報を手に入れる必要があるだろう。要するに、何かあったときのために弱みを握っておくのだ。

 

 ──とはいえ、一番の問題は無自覚で迂闊な彼女自身かな……。

 

 額に手を当ててアルウェスは目をつぶる。目蓋の裏には、アルウェスと踊るナナリーの姿が鮮明に思い出される。

 

 ……あの髪型は困る。細くて折れそうな白い首が淡く薄紅に色づいて、まるで吸い付いてくれといわんばかりだ。

 

 僕はここまで抑えが効かない人間だっただろうか。たかがダンスの練習でこの(ざま)だ。

 夜会のドレスで肩まで出すデザインなのは仕方がない。でも髪をあげるのはやめさせよう。昼間のドレスはなるべく首の詰まったものを選ぼう。世話係の侍女によくいい聞かせなければ。

 

 アルウェスはハァー、と深い溜め息を吐いた。

 

 



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3-3. 女性の身支度(ロックマン視点あり)

 

 大広間にアルウェスを残し、ナナリーは一目散に自分の客室に戻った。早く顔を洗って頬の火照(ほて)りを静めたい。部屋に入ると扉に寄りかかって両手で顔を覆った。心臓がバクバクするけど、走って帰ってきたのが原因だと自分に言い聞かせた。ゼェ、ハァと呼吸が荒くて、まだ肩で息をしているのだから。

 

 この後まだ食事作法や教養の講義でアルウェスと顔を合わせるし、何より仕事の打ち合わせが終わってない。どんな顔をしてアルウェスに会えばいいのだろう。

 

 手のひらに顔を埋めて、恥ずかしさに泣きそうになっていると、扉がノックされて召使いが三人もやってきた。

 

「ヘル様、お風呂の用意が済んでおります。まずは入浴をいたしましょう。その後はマッサージをいたしますので」

「えっ、あの、お風呂は助かりますけど、マッサージは結構です。そこまでしていただくのは……」

「これは奥様の指示ですからお気になさらず」

「今度ブルネル様もお招きしてドレスの採寸をいたします。そのための準備です」

「は? えっと、ドレスの採寸ですか? ニケのドレスを作るんですか?」

「ヘル様とブルネル様のドレスです」

「わたしも!?」

「勿論です。奥様がすでに何枚もデザイン画を描かせておりますよ」

 

 目を丸くしたナナリーに、召使いたちは有無を言わせず、さぁさぁ、と強制的にバスルームへ連行する。

 

 召使いの話が本当ならば、ナナリーとニケのドレスをノルウェラ様が注文するという。

 令嬢教育でお借りしているドレスに靴にアクセサリー、それからレッスン代だけでも相当な費用がかかっているはずだ。これ以上公爵家に負担をかけるのは心苦しいどころの話ではない。

 

 ドレスというのはカーロラ王女の結婚式に出席するためのドレスなんだろうか。アルウェスのパートナー役は仕事だと割り切っていたつもりだけど、ドレスについて考えが及ばなかった。よくよく考えてみれば、衣装代が国庫から出るとは思えない。

 王族の結婚式なのだから、アルウェスはきっと最高級の正装を着るだろうし、彼の隣に並んで見劣りしないドレスをナナリーが自腹で用意するなんて絶対に無理だ。

 ナナリーの顔からサーッと血の気が引いていく。

 

「……えっ……でも、だったらどうしてニケのドレスまで……?」

 

「ヘル様? お顔が青いですわ。どうかなさいましたか?」

「ヘル様は何も心配なさらなくてよろしいですよ」

「奥様はヘル様やブルネル様のドレスを作るのが楽しみでいらっしゃるのですから」

「た、楽しみ……?」

「そうですわ。わたしどもも同じ気持ちです。化粧や髪結いはお任せくださいませ。腕が鳴りますわ!」

「ヘル様はアルウェス様のために美しさに磨きをかけて下さいませ」

「そんな、元がたいしたものでもないのに美しくなるなんて……」

「何をおっしゃるのです!?」

「謙遜なさる必要はございません」

「わたしたちにお任せください」 

「さあ、こちらへ」

「ちょっ、お風呂までついてくるんですか!?」

 

 ナナリーはいい笑顔の召使いたちに客室に付属するバスルームに連行される。髪を(ほど)かれ、ダンスの練習用のドレスを脱がされそうになる。

 

「自分で脱げます!」

「時間がございません」

「アルウェス様がお迎えにいらっしゃいますからね」

「わたくしどもがヘル様を磨き上げます」

「お風呂は一人で入れます!」

 

 抵抗虚しく、身ぐるみ剥がされたナナリーは、頭から足の先まで綺麗に洗われ、気がついたときには花の香りのするお風呂に浸かっていた。

 

 公爵家でお風呂に入るのは初めてだ。貴族は毎日こうやって召使いに体を洗ってもらうのだろうか? 

 

 ナナリーは寮生活が長いから共同の浴場に慣れている。学生時代はベンジャミンやニケと一緒に洗いっこもよくやった。でも、あくまでも対等の友達だから平気だったのであって、ようやく顔と名前を覚えた程度の召使いに体を洗われるのは抵抗がある。

 

 こういうのはマリスに相談しても理解してもらえないんだろうなぁ……。

 

 些細な生活習慣の違い。こんなところでも貴族と庶民の違いは大きい。魔法学校に入学したときからわかっていたつもりだったけれど、他人事(ひとごと)だったあの頃と貴族の生活に片足を突っ込んだ今は大違いである。

 

 お湯に浮かんだ花びらを両手で掬ってフッと息を吹きかける。

 ああ、いい香り……。すっごくいい香りだよ。 

 

 肩の力が抜けてくる。大きく息を吐き出して、今度は肺の奥深くまで花の香りを吸い込んだ。鼻腔から入る花の香りが脳を占める。あれこれ考えるのがどうでもよくなり、目を瞑って、心も体も花の香りに(ひた)った。

 

 

「次はマッサージですわ! バスローブを脱いでうつ伏せになってください」

「はい……」

 

 客室の奥、寝台のそばにマッサージ台が用意されている。ナナリーは思考を放棄した。お風呂から出て体と髪を乾かしたナナリーは、タオルを外してマッサージ台にうつ伏せになった。

 下半身はゆったりとした下着を着けているが、上半身は裸である。扉の前には衝立が置かれて、万が一誰かが扉を開けても中の様子が見えないようになっているが、マッサージ台の周囲にも遮蔽物がほしい。

 

「締めるところは締めて、上げるところは上げさせていただきます!」

「ははは……」

 

 つい乾いた声が漏れてしまった。マッサージでくびれができるなら嬉しいけれど、そんなに簡単にできるとは思わない。それに、上げるところってどこ? 

 

「思ったより凝っていらっしゃいますね。少し痛いかもしれません」

「座り仕事なので……ぐぇっ!」

 

 香油を塗られ、予想以上に強い力で筋肉を圧される。少しどころではない痛みに、思わず変な声が出る。前にベンジャミンに美容のマッサージをしてもらったときはくすぐったいのと気持ちいいのが半々だった。今マッサージしている人は、召使いのお仕着せを着ているけれど、ちゃんと技術のある方に思える。それとも公爵家の召使いは様々な技術を持っているのだろうか。

 

「呼吸を止めないでください」

「わかり……ました……!」

 

 うつ伏せで肩や背中の凝りをぐりぐりとほぐされる。「ぐぁっ」「うぁっ」と変な声が出るけど気にしない。気にすると呼吸が止まって怒られる。

 背中が終わってやっと深呼吸ができた。もしかして背中が凝ってて深呼吸もできなかったのだろうか? 

 ぐでんと腕を広げて脱力していると、今度は足首からふくらはぎだ。ぐいーっと()されてあまりの痛さに涙が出そうになる。

 

 ちょっと待って! 半端なく痛いんですけど! 

 

「あががががが……」

「痛いですよね。冷え性ですか?」

「体温は低めですけど……」

「それはよくありませんわ。冷えは女の大敵ですよ」

 

 そうは言っても、たぶん氷型だから体温が低いのだと思いますが……。

 

「お仕事で座っている時間が長いのですか?」

「はい……。受付や事務作業が多いので」

「座りっぱなしはよくありません。適度に立って動いてくださいね」

 

 ……こんなに体が凝ってたんだね、わたし。

 

 背中から足裏までを揉まれて、からだがぽかぽかと温まってくる。ゆるゆると力が抜けて、全身が弛緩したのを感じる。

 仰向けになり、体にタオルを掛けると、肩、首、頭と揉みほぐしてくれる。肩は強めに揉まれたが、首や頭は優しく揉んでくれた。

 

 とーっても気持ちがいい。

 頭をマッサージしてもらって意識がぽーっとする。

 このまま眠ってしまいそう……。

 

「気持ちいいですか?」

「はぁい……」

 

 (とろ)けそうに気持ちがいい。

 ナナリーはへにゃ……と笑った。

 

「ヘル様のお肌は白くて瑞々しくて、とても美しいですわ」

「そうでしょうか……」

「眠ってしまってもいいですよ」

「ふわぁ……」

 

 部屋は暖かく、ナナリーはうとうとと微睡(まどろ)み始めた。

 

 

 *

 

 

 一方、ナナリーの部屋の外では。

 アルウェスが左手で顔を覆い、扉に右手をついて小刻みに震える体を支えていた。

 

 ナナリーが大広間を飛び出して、充分に時間が経った後にアルウェスは部屋まで彼女を迎えに来たのだ。

 扉を何度かノックしたが返事がなく、しかも扉には鍵がかかっている。壁は厚く、がっしりとした扉から音が漏れ聞こえることもない。

 

 どうしたものかと考えて、扉に手を当てて魔力を流し込んだ。客室の防御魔法の感知レベルが一気に上がる。何か問題が起きたときにアルウェスが感知できるよう防御魔法がかかっているのだが、感知レベルを上げると、まるで映写魔法のようにアルウェスの脳に直接室内の様子が流れ込んでくる。

 

 そこで視たものは──。

 

 

 浴室から出たナナリーが、生まれたままの姿で濡れた髪を身に纏わせている。

 細い脚に形よく引き締まったお尻。白い肌に水滴が玉のように弾かれる。ナナリーが背中を覆う水色の濡れ髪を胸の前にもってきて水分を絞った。

 召使が体を拭こうとするのを恥ずかしがり、自分で髪と体を拭いていく。慎ましやかな胸が可愛らしく存在を主張している。

 

 

 ナナリーがバスローブに身を包んだところで、我に返ったアルウェスは即座に魔力を流すのを止めた。手で顔を覆ってフーッと深く息を吐き出す。

 

 下腹部で一度静まったはずの劣情が鎌首をもたげてくる。

 

 意図してやったことではないけれど、結果的に身支度をしている女性の部屋を覗くような真似をしてしまった。全面的に僕が悪い。それはわかっている。

 

 ……こんな状態でナナリーに会うわけにはいかない。

 

 幸いにも女性の支度は時間がかかる。腹の底から膨れ上がる熱を冷ます余裕は充分にある。

 アルウェスは顔から手を離すと、普段と変わらぬ表情で、しかし急いで自室に戻った。

 

 




ロックマンのラッキースケベ回でした。
pixiv掲載時にボツにしたエピソードですが、この話を入れたほうが先の話を違和感なく読めると思ったので追加しました。


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3-4. ドレスが似合う女性(ひと)

更新が遅れて申し訳ありません!




 

 

「ヘル様! お待ちください!!」

 

「ごめんなさい!! これから仕事なので!」

 

 ハーレの制服の白いスカートを(ひるがえ)し、公爵家の廊下をナナリーは駆ける。廊下一面に敷かれた分厚い絨毯のおかげでブーツで床を蹴る音が屋敷内に響くことはないが、お行儀が悪いのは重々承知している。

 

 しかし、追いかけてくる召使たちから逃れるには全力で走るしかない。なにしろ公爵家の召使ときたら、ボリュームのあるドレスを小脇に抱えて猛スピードで疾走してくるのである。公爵家独自の脚力強化の魔法でも開発したのだろうか。

 

「お戻りを! お仕度がまだ終わっておりません!」

 

 召使たちは皆一着ずつドレスを持っている。なぜそこまでしてドレスを着せたいのか。

 

「もう十分です! これ以上は必要ありません!」

 

 ハーフアップにした水色の髪がふわふわと揺れて、大きな髪飾りからシャラシャラと涼やかな音がする。

 

 マッサージの途中でうたた寝をしてしまったナナリーは召使に揺り起こされ、寝ぼけ(まなこ)をこすっている間に体にピチッとする下着を着せられた。その下着にスリップドレスを被っただけの姿でドレッサーの前に座らされて、やれお化粧だ、髪のセットだと椅子の上で人形のようにじっとしていなければならなかった。

 

 ドレッサーの鏡越しにいくつものドレスが用意されているのが目に飛び込んできてナナリーは(おのの)いた。召使が化粧品を片付けている隙に着替えの魔法で制服を着て、女神の棍棒と仕事用の鞄を引っ掴んで部屋を飛び出したのである。

 

「こちらのドレスをお召しになってください!」

 

「結構です!! 制服がありますから!」

 

「もったいないです! 是非ドレスを!」

 

 

「──どうしたの?」

 

 馴染みのある美しい低音がナナリーの耳に飛び込んできた。ちょうど横切ったばかりの階段からアルウェスが下りてくる。

 

「げぇっ……!」

 

 その場でとんとんっと足踏みをしながらナナリーは頬を引きつらせた。銀縁眼鏡の奥の赤い瞳とばっちり目が合う。ゆるく編んだ蜂蜜色の長い髪が、黒い騎士服の胸元で飾りのように揺れている。

 

「アルウェス様!?」

「申し訳ありません!」

 

 召使たちはさっと廊下の端に整列する。咄嗟にナナリーも召使の隣に並んだ。指先を伸ばし、手を体の前で重ねて姿勢を正すと、アルウェスと召使の視線が集まってくる。

 

 軽く目を見開いたアルウェスが口元を手で押さえてプッと噴き出し、召使たちも口元に手を当てて小さく笑った。

 

「君は並ばなくていいでしょ?」

「──ッン!? あ、ああ、そうね」

 

 思わず上擦った声が出てしまった。ナナリーが召使の列から離れると、アルウェスが一歩近づいて、正面で向き合う形になる。

 彼は小首を傾げて目を弓なりに細め、綺麗に口角を持ち上げる。

 

「で? 君たちはどうして廊下を走り回ってたのかな?」

「走り回ってなんかいないわよ。ちょっと急いでいただけよ」

「ふうん。急いでいてもそれを周囲に悟らせないのが淑女の(たしな)みだよね?」

「うぅ……」

 

 お屋敷の廊下を走ったのはまずかった。そのお説教は甘んじて受けるとしよう。だが、他には何も後ろめたいことなどない。

 

「それはナナリーのドレスかな? 見せてもらってもいい?」

「はい!」

 

 アルウェスは召使が持っていたドレスを受け取り、上身頃をナナリーの身体に当てると少し後ろに下がって眺め始めた。

 

 このドレスは肩が出るデザインで、胸元のレースはボリュームがあり、スカート部分にもたっぷりとしたレースのドレープがついている。

 レースから透けて見える布地は艶のある瑠璃紺で、赤い花柄の模様が織り込まれている。光の加減によって銀にも金にも見えるレースによって花の模様が色を変える。

 

 上品ではあるし、品質はもちろん素晴らしいのだが、少々派手だと思う。とにかくキラキラとまぶしくて目が痛い。夜会では映えるかもしれないが、自分に似合うとはとうてい思えない。

 

 真剣な眼差しでドレスを見詰めているアルウェスならさぞや似合うことだろう。召使もアルウェスを着飾らせればいいのに。

 

「これは母上が?」

「はい。奥様が用意されました」

 

 ナナリーは胸の前でドレスを抱き締めて目を丸くした。さっきの話では今度採寸してドレスを作るのではなかったか。

 

 令嬢教育で毎日のように違うドレスを借りているけれど、もしやノルウェラ様が新しく作ってくださっているのだろうか。

 

「ヘル様にとてもお似合いですわ」

「そうだね、僕もナナリーに似合うと思う。さすが母上だね」

「他にも何着もございます」

「今日は早くいらっしゃったので是非お召しになってほしいのです」

「アルウェス様からも説得してくださいませ」

 

 ちらりとアルウェスがナナリーを窺う。ナナリーは激しく首を横に振った。ブンブンブンと手も振って、絶対に着たくないと主張する。

 アルウェスは騎士服を着ている。ならばナナリーも制服を着ていいではないか。

 

「ごめんね。僕たちはこれから仕事の話をするから、制服のほうが相応(ふさわ)しいんだ」

 

 アルウェスが眉を下げて残念そうに断ると、期待に満ちた顔でアルウェスを見つめていた召使たちが目に見えてがっかりした。ナナリーはガッツポーズである。

 

 何しろドレスは大変なのだ。お腹は苦しいし、背筋は常に綺麗に伸ばして、歩くときも絶対に足元を見てはいけない。踵の高い靴を履いて床まで届くような長いドレープを崩さないように歩くのは非常に神経を使う。

 マリスならドレスを着たままとんでもない速足で歩くこともできるけれど、ドレスの足さばきは一朝一夕では身につかないのだ。 

 

 気落ちした召使にドレスを返す。ここまでしょんぼりしていると可哀想だったかな、と思いつつ、手を胸に当てて喜びに浸っていると、耳を疑うような言葉が聞こえてきた。

 

「仕事が終われば晩餐だから、そのときにナナリーに着せて欲しい。それまでに準備をしておいて」

「へっ?」

「僕も君のドレスに合わせた服装にするから。それなら文句はないよね?」

「はぁ!?」

「「「かしこまりました!!」」」 

 

 唖然とするナナリーに、アルウェスは満面の笑みを浮かべている。

 

「ナナリーのドレスが決まったら、僕の服も用意しておくようにキャロナに伝えておいて」

 

 召使たちはドレスを丁寧に抱え直すと嬉々としてナナリーたちを送り出した。

 

 

 *

 

 

「行こうか。晩餐までに打合せを済ませないと」

「……わかってる」

 

 ……騎士団との打合せがあるというからハーレを早退したというのに、どうしてこんなことになっているのか。

 

 階段を重い足取りで上りながらナナリーは深いため息を吐く。頭上でクスッと小さな笑い声が聞こえる。

 

「女性の身支度は大変だよね。母上もお茶会や夜会のときは朝から準備しているよ」

「うヘぇ……」

「そんな声出さないで。シーラでは夜会もお茶会も出ることになるよ?」

「……夜会……お茶会……」

 

 ナナリーは貴族の夜会など招待されたことがない。マリスの友人枠で花神祭の王宮晩餐会へ出席したくらいだ。お茶会も、ノルウェラ様やマリス、ニケといった親しい女性(ひと)たちと実戦練習を兼ねたお茶会しかやったことがない。

 

 貴族なら子どもの頃に学ぶことをいま学び始めている。社交経験では子ども以下のナナリーが、シーラではアルウェスの隣に並び、ゼノン殿下やミスリナ王女と一緒に初対面の貴族や王族と和やかに談笑しなければならないのだ。

 

 礼装に身を包み優雅に微笑むアルウェス。王族や貴族に囲まれる彼の隣にナナリーが立つのは場違いではないだろうか。

 どんなに外見を取り繕っても、アルウェスに相応しい令嬢には見えないに決まってる。

 

 心臓がひやりとした。

 不意に体の中を不安が駆け巡る。

 

 階段の踊り場でナナリーは立ち止まった。俯いて、仕事用の鞄の紐をぎゅっと握りしめる。

 

「ナナリー?」

 

 アルウェスが足を止め、訝し気にナナリーの名を呼んだ。

 

 足が、重い。

 一歩を踏み出すことが酷く難しい。

 顔をあげることができない。

 

 この気持ちをどう伝えればいいのか。そもそも、口に出していいのだろうか。ノルウェラ様や公爵家の人たちにはこんなに良くしてもらっているのに。アルウェスやニケにだって――。

 

「…………嫌なら、断っていいよ」

 

 アルウェスがそっとナナリーの肩に手を置く。勘のいい彼はナナリーの不安を的確に察したのだろう。肩に触れる大きな手が温かくて、冷えた心に沁みていく。ナナリーは俯いたまま左右に首を振った。

 

「好き嫌いの問題じゃなくて……。ドレスもお茶会も夜会も……やっぱり、わたしには似合わないと思う」

 

 好きか嫌いかといえば、貴族の社交が好きなわけがない。アルウェスに同行すれば否応(いやおう)なく女の戦いに巻き込まれるだろう。マリスと火花を散らしていたヴェスタヌの王女も来るかもしれない。

 

 

 ドレスに合わせた化粧や髪型は華やかすぎて落ち着かない。ハーレの制服には似合わない。つまり、ナナリーの身の丈には合わないということだ。

 

「このお化粧とか……髪型も」

 

 水色の髪に差し込んである豪奢な髪飾りに触れる。全速力で走り回ったせいで綺麗に編み込まれた髪が少しほつれている。ナナリーが頼んだわけではないけれど、せっかく召使が丁寧に整えてくれたのに申し訳なく思う。

 

 でも、これではっきりわかる。走りまわっても平気な、乱雑にしてもいい格好がわたしには相応なのだ。

 

 休日にアルウェスと会うときに彼は平民の服を着てくるけれども、あれはどう見ても変装だ。街中でも彼は目立つ。綺麗な容貌だけが理由ではない。立ち居振る舞いが違うのだ。貴族のお忍びとすぐにわかる。

 付け焼刃の行儀作法しか身についていないナナリーが貴族令嬢のような格好をしても、中身が伴っていないとすぐにバレてしまうだろう。

 

 ハーレの受付嬢ナナリーと騎士団のロックマン隊長ならまだしも、国王陛下の甥で公爵子息のフォデューリ侯爵アルウェス・ロックマンに平民のナナリー・ヘルが釣り合うとは思えない。

 

 

 普段は気にしていないことも、改めて考え直してみれば、ナナリーがこのお屋敷に来ていることすら何かの間違いのような気がしてくる。

 足元が覚束(おぼつか)ない。このままずぶずぶと深くて(くら)い沼に沈み込んでしまいそうな目眩を覚える。

 

 

 肩に置かれていた手が離れていった。黒い影がスッと下に移動し、甘く匂い立つような蜂蜜色の頭が俯いたナナリーの視界に入ってくる。

 アルウェスが片膝をついてナナリーの前で跪いた。背筋を美しく伸ばして片手を腰に回し、もう片手を胸に当てる。目を瞑り、恭しく(こうべ)を垂れる。

 

「アルウェス?」

 

 アルウェスがその白皙の(おもて)を上げてナナリーの顔を覗き込む。金糸がかかる高い鼻梁が美しい。

 

「──ナナリー・ヘル」

 

 銀縁の眼鏡の奥から赤い瞳が煌めく。炎のように真っ赤な瞳はナナリーを燃やそうとしているのか、頬が、肌がちりちりと熱い。

 

 ナナリーの瞳を捉えたまま、アルウェスが胸に当てていた手を差し伸べてくる。

 

「美しき氷の魔女よ。私とともに王女の結婚式に出席していただけますか」

 

 その眼差しは切なく、懇願するようで。きゅっ……と胸が締め付けられる。アルウェスから目を離すことができない。

 

「アル、ウェス」

「この手を取るかどうか、決めるのは君だよ」

「……わたし?」

「選ぶのは僕じゃない。君なんだ」

「…………わたしが断ったら?」

「そうしたら僕は一人でシーラに行く。僕の隣にいて欲しいのは、君だけだから」

 

 アルウェスの赤い瞳をじっと見つめる。内側から輝く柘榴石のような瞳は真摯な光を放ち、その声はどこか(かす)れていた。

 

「……はい」

 

 ナナリーは彼の手に自分の手を重ねた。(はや)る鼓動とともに、熱いものが目から零れ落ちそうで、何度も瞬きをして堪える。

 こんな顔を見られるのは恥ずかしいのに。アルウェスが顔を覗き込んでいるから隠すこともできない。

 

 アルウェスが優しく微笑んでナナリーの手をそっと握る。その手を口元に引き寄せ、長い睫毛を伏せて指先に口づけた。

 

 



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3-5. ドレスが似合う女性(ひと)②(ロックマン視点)

しばらくロックマン視点が続きます。
ロックマン視点は一人称です。私がロックマンの一人称で書きたいからです。




 

 跪いたならそのまま彼女に求婚してしまえ、と愚かな僕が(そそのか)す。様々な想いが胸に渦巻いて、でも僕の想いを押し付けないように、余計なことを伝えないように自制した。

 

 カーロラの結婚式に同行してもらうこと。それだけを彼女に()う。それに応えるだけで彼女は精一杯だ。

 

 僕の申し込みに頷いたナナリーは少し目を潤ませて、ふわりと口許を綻ばせた。そんな彼女の表情を僕は目に焼きつける。

 こんな風に笑う彼女がとても可愛い。薄紅に頬を染めて、翡翠のような碧い瞳に透き通った涙が滲んでいる。その涙は安堵なのか、羞恥なのか。

 

 ナナリーは貴族社会に足を踏み入れることに萎縮している。彼女が戸惑うのは当たり前だろう。貴族の友人がいても本格的に貴族の社交に参加するのは今回が初めてだ。

 

 こうやって公爵家で令嬢教育を受けるのもナナリーの負担は相当なものだ。僕の我が儘につき合わせてしまっている負い目はある。余計なプレッシャーが彼女の顔を曇らせるなら役目を下りてくれて構わない。

 

 どうか彼女のペースで進んでほしい。彼女の自由を奪っているのは僕だ。これ以上彼女の羽ばたきを邪魔したくない。

 

 彼女の隣に並んで立つ許しを得られただけで僕は幸せなのだから。

 

 

 *

 

 

 殊勝な心掛けは結構。それだけで満足できるような男ではないだろう?

 もう一人の僕が嘲笑(あざわら)う。

 

 ナナリーの指先に口づけを落とせば、猛烈な飢餓感に襲われた。僕の手の中にある細い指を撫でて薄っすらと目を開ける。

 

 ……このまま食べてしまいたい。

 

 細くてしなやかな白い指に唇を這わせそうになる。やや強めに唇を押し付けて──彼女の指先から己の唇を引き剥がした。軽く指を食んでしまったのは許してほしい。

 

 ナナリーを見上げると、彼女は耳まで真っ赤にして泣きそうな顔をしていた。これは間違いなく恥ずかしいのだろう。

 彼女の手を握ったまま立ち上がる。僕の手から自分の手を引き抜こうと彼女がぐいぐい引っ張るけれど、もう少しこの手に触れていたい。

 

「も……もう、いいでしょ? 離して……」

 

 真っ赤な顔で眉を下げる彼女が可愛くて、僕はくすくすと笑ってしまう。

 

「挨拶でそんなに真っ赤になってどうするの?」

「だって、アンタが……ちょっとすごくて」

「すごい?」

「え、いや、その、色気が……」

 

 ナナリーが目を逸らしながら手で口元を隠してモゴモゴと呟いた。どうやら余計な誤解を生んでしまったようだ。女性なら誰彼構わずこんな接し方をしていると受け取られては堪らない。

 

「普段ならこんな感じだけど?」

 

 ナナリーの手を掬い上げるように持ち直して手の甲に軽く唇を寄せた。ほとんど触れることはなく、要するに口付けの振りである。

 

「え? こんなものなの?」

「挨拶だからね」

 

 じゃあさっきのは何だったんだ、という目でナナリーが見てくる。僕は正直に白状することにした。

 

「君の指先に口づけをしたくて」

「な、ななななな……」

 

 一瞬でナナリーの顔が真っ赤になる。可愛い。

 

「夜会なら手袋をしているから。もし手袋をしてないときに君の手に口づけしようとする不埒な輩がいたら、凍らせていいよ」

 

 今度は眉間に皺を寄せて猛獣みたいな目つきで僕を睨む。いわゆるガンを飛ばすというやつだ。『凍らせときゃ良かった!』という心の声が聞こえてきたのは気のせいではないだろう。

 ナナリーがバッと乱暴に僕の手を振り払う。

 

「凍らせるって……王族や貴族に対してそれはまずいんじゃないの?」

「君は僕のパートナーだ。軽々しい扱いをさせるわけにはいかないよ」

「わたしにそんなことする貴族なんていないと思うけど」

「…………ハァ、わかってないね」

 

 僕は眉を下げて深いため息を吐く。

 召使によって磨かれたナナリーはどれだけ自分が輝いているか全く理解していない。

 

 新雪のような白い肌は少し汗ばんで艶やかだ。

 半分だけ結い上げて、背中の中ほどまで覆う長い水色の髪は澄んだ空と見紛う。こんな美しい髪色は唯一無二と言っていい。

 彼女の心根をそのままに写した瞳は一切の混じりけがない宝石のようで。

 普段あまり化粧をしない彼女が、目元や唇に色をのせるだけで大人の色香を(まと)う。

 

 自分の容姿に頓着しない女性であることはわかっているが、あまりにも無自覚で、おまけに素直な性格が災いして迂闊な行動を起こしてしまう。

 ただそこに立っているだけで男が吸い寄せられるほど魅力的なのだと自覚してほしいが、彼女は自分の美醜にだけは目が狂う。おそらく何割かは僕にも責任がある。

 

「ドレスが着慣れないと君は言うけれど、ドレスを着た君はとても美しいよ。僕はもちろん、母上も召使も君の美しさに目を奪われる」

「それは綺麗にしてもらってるから……」

「着飾らなくたって君は綺麗だよ」

 

 ナナリーは魚のように口をハクハクと開閉した。

 

「べ、べべべべ……別に、わたしにまでそんなお世辞言わなくてもいいってば!」

「お世辞じゃないよ。この髪飾りも、君によく似合ってる。──制服には派手だと思うけどね」

 

 波打つ水色の海に煌めく光のごとき髪飾りに触れる。これを作らせたのは母上だろうか。こんな感情を母に対して持つのは狭量だとわかっているけれど、苛立ちを覚えるのを否定はしない。僕がナナリーの歩調に合わせている間に抜けがけをされた気分だ。

 

 髪に指を差し入れて顔を覗き込めば、無垢な碧い瞳が僕を見つめ返す。金と空色が混じり、滑らかな頬が淡く染まっていく。

 

 彼女の肌からいい匂いがする。

 

 すっきりと爽やかで、それでいて花びらが舞い落ちるように軽やかに甘い香りが漂う。薄紅の頬は柔らかく、ずっと触れていたい。鼻腔を抜ける香りに頭がくらくらとしてくる。

 

 理性という(かせ)が外れて抑え続けてきた荒々しい獣が牙を剝く。その感触が酷く生々しい。

 

 ……こんなものを彼女に向けてはいけない。

 

 碧い宝石が僕を避けるように姿を消した。彼女はきつく目をつむり、頬に添えた僕の手に押し付けるように顔を背けてしまった。

 

「ち、近いから……」

 

 制服の胸元をぎゅっと握りしめて、ふっくらとした唇から絞り出された声は震えている。

 

「……こういうときに目を瞑らないほうがいい」

「え?」

 

 上目遣いに碧い瞳が僕を見上げる。その破壊力に気づいていない彼女は凶悪だ。小さな吐息と一緒に「煽らないで」と呟きが漏れた僕は悪くないと思う。

 

 この可愛い女性(ひと)をどうしてしまおうか。

 

 彼女の頬に添えていた手に力が籠る。

 

「ひゃっ……!」

 

 額に軽く唇を押し当てて、そっ……と離した。

 

 震える唇に赤く上気した顔を見るだけで、いかに彼女の鼓動が激しくなっているかわかる。

 でも、どうにかなってしまいそうなのは僕も同じだ。余裕なんかない。そう装っているだけ。

 

 そろそろと彼女の目が開く。僕は穏やかに微笑んでみせた。 

 

「この髪飾りは君の空色の髪に似合ってる。でも、制服とは合ってないかな。僕から君に何か贈っていい?」

「……贈る? アルウェスが?」

「うん」

「私に? どうして?」

「…………ハァ、まったく君は。……じゃあ、今度一緒にご飯食べない? 昼休みにハーレに迎えに行くから」

「いいけど?」

「今週で都合悪い日ある?」

「うーん……特にないと思う」

 

 話題を切り替えると空気が変わり、ナナリーはいつもの調子に戻った。僕からの贈り物を不思議に思う彼女は相変わらずだ。

 落ち着きを取り戻した彼女は僕と並んで階段を上り始める。

 

 

 

 

 階段を登り切ったところで僕は一瞬身じろいだ。

 彼女が僕の騎士服の袖口を掴んだのだ。目を見張って隣のナナリーを見下ろせば、彼女が頬を赤く染めて見つめ返してくる。

 

 ……喉が、渇いて。

 

 彼女に気づかれないように唾を飲み込む。

 

 袖口を掴む彼女の手を取って────それでも彼女は何も言わない。

 氷型の彼女は僕より体温が低くて。細くて少し冷たい指に僕の指を絡め合わせると、彼女もきゅっと握り返してくる。

 

 彼女が僕の手を求めてくれる。

 これだけで充分だ。

 

 屋敷にかけられた魔法を使うことなく、僕たちは手を繋いで長い廊下を歩いた。

 お互いの体温がわからなくなるまで。

 

 



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3-6. 騎士団とハーレの打合せ (ロックマン視点)

 

 他愛ない口喧嘩をしながらナナリーと歩く時間は心地よく、あっという間に僕の部屋に着いてしまった。名残り惜しく感じつつも魔法で鍵を開けて彼女の入室を促す。

 

「ここ、誰の部屋?」

「僕の部屋」

「え?」

 

 彼女が僕の部屋を訪れたのは二回目だ。前回は過去から戻って来たときで、殿下やサタナースたちと僕の寝台に落ちてきた。すぐに母上と応接間へ移動したから僕の部屋の中は覚えていないのだろう。

 

 公爵家(うち)の客室がある棟は家族の私室がある棟とは離れており、限られた人間しかこちらに入ることができない。

 

 もちろんナナリーは入ることができるのだが、彼女が僕の部屋に来ることはなかったし、令嬢教育の際には談話室で話をしていた。母上が屋敷に泊まっていくよう勧めてもナナリーが首を縦に振ることはない。

 

「アルウェスの部屋で打ち合わせをするの? なんで?」

「機密保持のためにね。特別な防御魔法をかけてあるから」

「会議室みたいな感じ?」

「うん」

 

 納得した彼女は躊躇わずに部屋に足を踏み入れる。扉を閉めて施錠しながら僕は小さなため息を吐いた。

 

 ……少しは警戒してほしいな。僕の部屋で僕と二人きりなんだから。

 

 何重にも掛けられた防御魔法を感知した彼女が息を呑む気配がした。肩越しに振り返り、僕の顔を見て目を見張る。

 

「髪……」

 

 黒くなった僕の髪を凝視している。

 

「まだ戻ってないよ。気づいてたでしょ?」

 

 僕が変身術を解いたのではない。この部屋にかけられた防御魔法で無効化されたのだ。

 

「わかってるわよ。防御魔法が強くて驚いただけ」

 

 ナナリーがつんとしてそっぽを向く。

 僕が長椅子に座るよう言うと、大人しく座って鞄から筆記具を取り出した。僕もテーブルを挟んで向かいの長椅子に腰をおろし、騎士団の書類を彼女に手渡す。

 

「さっそく本題に入るけど。──近々、魔石の存在を大陸中に公表することが決まったんだ」

「魔石? 氷の始祖が言ってた?」

「そう」

「大陸全土で魔石を探すの?」

「そんなところだね。ただ、魔石を完全に滅する魔法はまだ見つかってない。そちらの研究は進めるとして、当面は集まった魔石を騎士団が管理して魔物が生まれたらすぐ倒すことになる」

「へぇ……」

「各国への根回しは済んでいる。ドーランではハーレを通じて破魔士に魔石探しの依頼を出し、集まった『魔石と思われる石』をハーレから鑑定士の元に運ぶ。鑑定士の元には他国からの魔石も集まってくる」

 

 ハーレで魔石を運ぶ担当者はナナリーだ。

 それを伝えると、書類を読み込んでいた彼女は顔を上げてパチパチと目を瞬いた。

 

「私が運ぶの? どうして?」

「魔石の鑑定士は時の番人だよ。時の番人は危険な魔具だ。なるべく関わる人間を増やしたくない。鑑定士の家というのも、サタナースとフェルティーナの家だから」

「時の番人はまだベンジャミンと一緒にいるの?」

「フェルティーナに一番懐いているからね」

 

 僕がそう言うとナナリーは顔をしかめた。

 

「……何か物騒なこと考えてない?」

「ベンジャミンを守ることを考えてるのよ」

「フェルティーナのことはサタナースに任せて、君自身を守ることを考えてくれない?」

 

 時の番人はフェルティーナの女性らしい体に接触しすぎだが、それはサタナースがなんとかすればいい。親友を心配するのはいいけれど、ナナリーは他者を守るためには自分の身を危険に晒してもいいと思っている節がある。

 

「えーっと、ニケは? ニケも一緒に魔石運びをやるの?」

「騎士団による君の護衛は終了する。ブルネルは護衛の任を解かれて、新しく殿下の秘書官に任命された」

「そっか! よかった。ニケも騎士団の仕事に戻れるのね。しかも殿下の秘書官なんて出世じゃない?」

 

 ……僕も護衛の役を担っていたのだけれど、君の頭から抜け落ちているらしい。

 

 ナナリーは護衛の意味を理解してるとは言い難い。

 

「ブルネルが殿下の秘書官に就くのは僕も歓迎している。……誤解しないでほしいんだけど、護衛も騎士団の仕事だからね? 君が負い目を感じる必要はないんだよ」

「それは……そうだけど」

 

 僕はまだ護衛を続けるべきだと主張したが、彼女の実力的に護衛は必要ないと団長が判断したため僕の意見は封殺された。殿下には「お前こそナナリーを過少評価してるんじゃないか?」と諫められた。僕の負担を増やしては元も子もないと。

 

「これからは魔石運びも、公爵家に来るのも君一人でやることになる。但し、ハーレの勤務時以外でも外出の際は制服を着用してもらう」

「ハーレの制服を?」

「君の制服はシュテーダルの魔法も退けるほどの強力な防具だ。それと、魔具を貸すから常に身に着けてほしい」

「制服はわかったけど、魔具って何?」

 

 僕は左手の小指に嵌めた指環をスッと外した。

 

「手を出して」

「手?」

 

 ナナリーは手の平を上にして、両手で物を受けとるように僕の前に差し出してくる。

 

「そうじゃなくて、甲を上にしてくれる?」

 

 魔具とはいえ、僕が指環を用意しているのに味も素っ気もない反応だ。非常に彼女らしくて、苦笑するしかない。普通の女の子なら十歳の子どもでも指環を嵌めてもらう仕草ぐらいするんじゃないだろうか。

 

 彼女は慌てて手の平を返して甲を上にした。僕が彼女の左手の薬指に指環を嵌めると、大きな目を丸くして驚きの声をあげる。

 

「ドルセイムの知恵?」

「うん。何かあったときには僕が君の所在を探すことができるし、ドルセイムの知恵を使って僕と通信することもできる。ちょうどいいから君もドルセイムの知恵の使い方を覚えて欲しい」

「でも、こんな高価なもの借りていいの?」

 

 そんなこと気にしなくていいのに。

 君の身の安全のほうが大事だから――と言ったところで彼女は納得しないだろう。

 

「騎士団の決定だよ。ハーレの所長も了解している」

「……でも」

「君の言う通り、高価なものだからね、肌身離さず持ってて。ドルセイムの知恵だと言いふらしては駄目だよ」

「わかった」

「これはドルセイムの知恵について書かれた本。これを読んでいろいろ試してみて」

 

 用意しておいた本と薄手の冊子をナナリーに渡す。公爵家所蔵の魔術書の写本と僕の個人的な研究結果だ。

 

「ありがとう。──アルウェスはドルセイムの知恵をよく使うの?」

 

 僕は胸の前で腕を組み、小首を傾げる。

 

「僕も使いこなせているとは言い難い。精霊の魔法もまだ研究途上だし。……ウォールヘルヌスのときは身につけておけばよかったと後悔したよ」

「海の国でも使えたもんね。ドルセイムの知恵ならシュテーダルにも対抗できたかもしれない」

「……今となっては確かめようがないけどね」

 

 自然と吐く息が重くなる。

 ウォールヘルヌス──シュテーダルとの戦いを振り返ると忸怩たる思いでいっぱいになる。

 ナナリーに世界の命運を託して僕は凍り付いた。ナナリーを奪おうとするシュテーダルに僕は倒れたのだ。あれからどれだけ時を経たとしても僕の中で鬱屈は消えない。

 

 海の国でも僕の魔法は効かない。

 ナナリーが海の国に連れ去られた、あのときドルセイムの知恵がなかったらどうなっていた?

 もしナナリーが海の国に呼ばれて帰ってこなかったら?

 万が一、シュテーダルからナナリーを守るために海の国に助力を請う必要がでてきたら?

 

 始祖級の魔法使いと呼ばれようとも敵わない相手はいくらでもいる。その事実が僕の心に暗い影を落としていく。

 

「この冊子はアルウェスが書いたの?」

 

 高くて柔らかいナナリーの声にハッとする。物思いに沈んでいた僕は首を小さく左右に振って気持ちを切り替えた。

 ナナリーは薄手の冊子をパラパラとめくっている。

 

「そうだけど?」

 

 筆跡で気づいたのだろうか? 

 薄手の冊子は僕の手書きだ。ドルセイム人の文明や文化、魔法の仕組みについて独自に調べた内容と、ドルセイムの知恵の使い方を研究した結果をまとめてある。

 

 ナナリーは冊子の最初の数ページを睨むようにじっくりと読んでいく。

 

「何でそんな顔してるの?」

「だって、悔しいじゃない。……アンタ、わたしより忙しいくせに。こんな研究までしていたなんて」

「……まったく、君は」

 

 僕はフッと息を吐いて笑い、口元を手で覆う。「わたしも研究してやるんだから……」と彼女が呟くのが聞こえる。

 

 こんなときにも負けず嫌いで、純粋で、僕に負けまいと必死で。

 ――――こんなにも君は眩しい。

 

 



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3-7. 予兆(ロックマン視点)

 

 魔石の鑑定のためにサタナースたちの家へ行く方法、殿下との連絡の取り方、それらの説明を受けたナナリーは非常に生き生きとしている。新しい役目を担ったのが嬉しいという顔だ。

 

 誰の言葉が発端で魔物対策が大きく変化したのかまったく自覚がないらしい。

 

「鑑定した魔石を騎士団に届けた後、君には城で聞き取り調査に協力してもらう」

「聞き取り調査って?」

「君が氷の始祖と話した内容を全部教えてほしい」

「氷の始祖と話したこと?」

 

 ナナリーがきょとんとする。僕はハァーと盛大なため息を吐いた。

 

「氷の始祖と魔石以外の話もしたんだよね? 国の上層部が君を取り調べるつもりだったのを、ゼノン殿下と団長が尽力してくれて、騎士団が行うことになったんだよ」

「取り調べって……嫌な響きなんだけど」

「表向きは任意の聞き取り調査だけど、上層部は尋問のつもりだったろうね」

「尋問……」

 

 不穏な言葉にナナリーはごくりと唾を呑みこんだ。

 

「担当者は僕だから心配しないでいいよ。城の宮廷魔術師長の部屋で行うから」

「ね、ねえ、そんなに大事(おおごと)なの?」

「当たり前でしょ? 始祖と直接話をしたことがある魔法使いなんて他にいないんだから。それがどれだけ凄いことかわかってる?」

 

 ナナリーは困惑し、眉間と口元に皺を寄せる。

 

「でも、たいした話をしてないわよ? 目覚めた後は一度も氷の始祖と話したことはないし」

「たいしたことないって、本気で言ってるの? 氷の始祖から聞いたという君の情報が、魔物対策を根本から覆したんだよ?」

 

 氷の始祖から聞いた話によると、シュテーダルを破壊したときに粉々に砕け散った欠片が魔石となり、その魔石は時間をかけて集まって再びシュテーダルが復活するという。

 

 この話がなければ魔石の存在など僕たちは知らなかった。魔石を調べればトレイズが夢見の魔物から渡された短剣や時の番人のような悪辣な魔具の解析も捗ると思われる。

 

「君は憶えていることを全部喋ってくれればいい。重要かどうかは騎士団が判断するから。──最初の聞き取り調査は五日後。明日にでも魔石の件とあわせてハーレの所長から通達があると思う」

「何回も聞き取り調査があるの?」

「……さぁ? 君の情報次第かな?」

 

 僕がいないところで下手なことを喋られては困る。

 

 ウォールヘルヌスの後、ナナリーは褒章としてこれまでと変わらない普通の生活を望み、僕が世界中に記憶の書き換えの魔法を施した。

 彼女が海の王の孫娘で氷の始祖を身に宿していると知っているのはドーランの国王陛下と限られた関係者のみである。

 

 たとえ国王陛下が味方であっても、情勢によっては彼女の真実がいつ政治的に利用されるかわからない。王宮の老獪な狸どもから身を守る術をナナリーは持っていない。

 

 だというのに、彼女の秘密の一部を彼女自身がぽろりとこぼしてしまった。

 

 ナナリーが「氷の始祖と話をした」と口走ったことを後から知った僕は無様に眠りこけていた自分を呪った。僕が起きていればあんな迂闊な発言はさせなかったものを。

 

「情報次第って何よ? もうちょっとしっかり決めたほうがいいんじゃない?」

 

 まったく、君はとても呑気だ。

 そうやって何も憂うことなくプリプリとむくれていればいい。

 

 

 *

 

 

「これを女神の棍棒(デア・ラブドス)に取り込んでくれる?」

 

 指を振り、窓際の机の上から魔法陣の書かれた紙を引き寄せてナナリーに渡した。これで僕の要件は最後だ。

 

「何の魔法陣?」

「手紙を転移させる魔法陣だよ。公爵家(このいえ)(つい)となる魔法陣が設置されているから、寮の君の部屋に張ってほしい。これを使えば直接公爵家の人間と手紙のやり取りができる」

「騎士団とハーレみたいに?」

「うん」

 

 この転移用の魔法陣を使えば一瞬で手紙が届く。ナナリーは魔法陣に目を輝かせているが、今後頻繁(ひんぱん)に届くであろう母上からの手紙に筆無精な彼女がどう対応するのか想像すると口元が緩む。

 きっと喜んだり焦ったり、必死に返事を書くのだろう。

 

「僕からはこれで終わり。何か質問ある?」

「質問? ちょっと待って……」

 

 転移の魔法陣に集中していたナナリーは、騎士団の書類をぱらぱらと見返し、筆で何かを書き込み始めた。

 

 僕は背もたれに寄りかかると、膝の上で指を組んで瞑目する。

 

 

 ……肌が粟立つ。嫌な予感がする。

 

 寒気が背筋を這いあがる。

 体の奥から自分のものではない魔力がふつふつと湧き上がってくるような────。

 

 

「そうだ!」

 

 目を瞑っていくらもたたないうちに大きな声がした。手で膝を叩いたような音も聞こえる。

 

 まったく、君は元気だよね。

 

「……なに?」

「質問じゃないんだけど、魔具の本を探してて。……ねぇ、眠いの?」

 

 瞼が重い。ゆっくりと目を開けた僕を、ナナリーは(いぶか)し気に眺めている。

 どんな宝石よりも煌めきを放つ碧色が僕を貫く。

 

「疲れてるの? 珍しいわね」

 

 彼女はこてんと小首を傾げた。

 空色の髪がさらりと流れて。淡く色づいた唇に水色が混じる。

 

「……別に?」

 

 少し、血が騒めいているだけだ。

 

「疲れてるならいいわよ」

「僕は大丈夫だよ」

 

 ……君は早く僕の部屋から出ていったほうがいい。

 

「それで? 何の本を探してるの?」

「魔具の本よ。なかなか見つからなくて」

「何の魔具について知りたいの?」

「これよ。女神の棍棒(デア・ラブドス)

 

 ナナリーは制服の腰のベルトに下げた小さな棍棒を手に取った。しゅるっと棍棒が伸びて、彼女の背よりも長い銀色の杖が現れる。

 

「あぁ……『女神の棍棒』ね。君の魔具にぴったりの名前だよね」

「どこがぴったりなのよ?」

「なんでもないよ」

 

 僕は立ち上がって壁面の本棚を見回した。公爵家(うち)の蔵書数は相当なものだが、専門的な魔術書は僕の部屋に最も多く揃っている。

 魔具に関する魔術書を手に取り目次を目で追っていると、ナナリーが僕の隣に並んだ。彼女は興味深そうに本の背表紙を眺めている。

 

「君の魔具の何を調べるの?」

女神の棍棒(デア・ラブドス)を装身具に見えるように形を変えたいのよ」

「装身具に変える?」

「カーロラ王女の結婚式でも身に着けておきたいんだけど、縮小魔法で短くするだけだとまずいと思って」

「確かに、そのほうがいいだろうね」

 

 ナナリーにしてはまともな、女性らしい発想だ。ちょっと感慨深い。

 

 女神の棍棒は銀色の美しい杖であるが、縮小して腰に提げていると残念ながら銀の棍棒にしか見えない。魔具というより武具(ぶぐ)に見える。

 平素なら武具に見えるのは決して悪くはない。どんなに見た目が可愛いらしくとも、ナナリーは武装していると周囲の男どもにわからせることができるから。

 

 しかし、王族の結婚式に棍棒のまま持ち込むのは賢明ではない。

 

「前に王宮の晩餐会で魔物と戦ったでしょう? あのときは太腿にベルトを巻いてぶら下げてたんだけど。ダンスを踊るときに邪魔だし、他国の王族の前でドレスの裾をめくって取り出すのは……」

 

 パタン、と音を立てて本を閉じた。

 

「ナナリー?」

 

 ナナリーを覗き込むようにしてにっこり笑う。

 

「はいぃ?」

 

 ナナリーの声が上擦っている。僕の顔は笑っているが目が笑ってないのだろう。部下の(げん)によれば僕がこういう顔をしていると結構凄みがあるらしい。

 

「どうして君はそういう見苦しいことができるの?」

「はしたないことをしたってわかってるわよ……今なら」

 

 僕はハァーと長いため息を吐いた。

 

「溜息ばかり吐いてると口から幸せが逃げるわよ」

「僕の幸せがそうさせるから仕方ないでしょ? 放置したらそれこそ本当に幸せが逃げていく」

 

 ナナリーは眉を寄せてよくわからないという顔をする。

 

「……それはともかく、君が晩餐会でドレスの下に女神の棍棒を仕込んでいたのは知ってる。どうして僕は今まで何も言わなかったんだろう?」

「あの後死にかけたんだから忘れてもおかしくないわよ」

「あんなに人がいる中でドレスの裾を捲って……君はどうしてそんなに慎みがなくて、年相応の恥じらいに欠けるのかな?」

 

 にっこり笑顔に戻ってナナリーに詰め寄ると、彼女はしくじった、とでも言いたげな顔をして、でもすぐに僕を睨み返してきた。

 

 額がぶつかりそうなほど近づいても逃げやしない。

 

「仕方ないでしょ、ドレスを着る予定なんてなかったし。王宮の庭で急遽マリスに着替えさせられたんだから」

「そもそも外で着替えるのがおかしいよね。マリスにも注意しないと」

「マリスが外で着替える訳ないでしょう?」

「君ならいいとでも?」

 

 マリスもマリスだ。せめて馬車の中で着替えさせてくれれば良かったものを。

 王宮の庭でドレスに着替える平民の女性なんて外聞が悪い。身持ちが悪い女性と蔑まれるかもしれない。

 

「マリスはわたしのためにドレスを用意してくれたのよ? 魔法で着替えたんだし、女神の棍棒は役に立ったんだからいいじゃない!」

 

 ナナリーが腰に手を当てて声を張り上げる。僕は渋い顔をして押し黙った。

 

 



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3-8. 黒の誘惑(ロックマン視点)

 

 

「……そうだね、あのとき退魔の陣(ベヌゲート)で魔物を退治したのは君だった」

 

 苦い思いを噛み締めながら、僕は言葉を吐き出した。

 本を棚に戻し、ナナリーを長椅子に座らせて僕も隣に座る。膝の上で指を組んで彼女を見つめる。

 

「アルウェス?」

「晩餐会には何十人も騎士がいた。でも魔物を片付けたのは君だ」

「それは違うわよ。サタナースやマリスも一緒に戦ったし、わたし一人で退治した訳じゃないでしょう?」

「君が退魔の陣(ベヌゲート)を使わなければ混乱が長引いて人的被害が増えていたよ」

 

 僕も入団して一年目、騎士団は非効率なところが目立ち、実力を発揮できていない騎士も多かった。はっきり言って騎士団全体が今より弱かった。

 オルキニス対策は後手に回り、王宮には間者の侵入を許した。

 

「わたしがやらなくても最後にはアンタがやってたでしょうよ。あのときは王族を守ってたから手が離せなかっただけで」

「王族の警護は最も優先すべき任務だ。僕は王族を守り、魔物には他の団員が対処する予定だった。血の盟約もする必要があったしね」

「あ……」

「魔物の襲来は予想されていたんだ。事前に備えもしておきながら冷静に対応できたとは言い難い。正直、不甲斐ないよ」

 

 当時の情勢から花神(タレイア)祭の晩餐会にはシュゼルク城にも魔物が来ると予測され、騎士団はできる限りの準備をして待ち構えていた。

 優秀な氷の乙女、ナナリーが城にやって来たら当然彼女を狙う者は動き出すだろう。僕は王族を守りながらオルキニスの手の者を探していた。

 

「珍しいわね、アンタがそんな風に言うなんて」

「……ナナリー、君は自分の力を……価値を理解していない」

 

 胸に押し込めていた焦燥が溜め息とともに零れ出る。

 

 近くにいるほうが守りやすいなどと考えていた僕は自惚(うぬぼ)れていたのだ。良くも悪くもナナリーは僕の想定の上をいく。強力な退魔の陣(ベヌゲート)を披露して、晩餐会にいた者たちに彼女の能力を知らしめた。

 

「私の価値?」

 

 誰よりも魔力が高くて優秀な──若く美しい氷の魔女。

 

「君はシュテーダルを破壊した救国の魔女だ。膨大な魔力を持ち、ウォールヘルヌスでも始祖級と評された。手っ取り早く騎士団の戦力を上げるには君を騎士にするのが一番なんだよ」

「は?」

 

 シュテーダルの依り代がドーラン貴族のアリスト博士であったために、ウォールヘルヌス後は薄氷の上を歩くように外交を続けているドーランである。

 

 オルキニスの女王を倒す先陣を切ったこと、僕がシュテーダルと戦いながら観客を守り続けたこと、そしてシュテーダルを破壊したのがナナリーを始めとするドーランの魔法使いであったことでその立場をかろうじて守っている。

 

 ナナリーの扱いは実は難しい。オルキニスの件で元々少ない氷型がさらに減ってしまった上、ドーランに僕と彼女の二人も始祖級がいては他国の(そね)みを受けるだろう。

 

 魔石の情報をうまく使えばドーランの名誉を挽回することも可能だ。陛下はナナリーの存在を隠して僕や殿下が矢面に立つことを許してくれたが、彼女を利用したいと考える者は出てくるだろう。最悪の事態も予想外の状況も考慮して僕は動く。

 

「団長や殿下が騎士団を掌握している間は君の意思に反してハーレから引き抜くようなことはないだろうけど、断言はできない」

「わたしを引き抜くなんてあり得ないでしょ? ハーレには私より優秀な魔法使いがいるもの。所長やアルケスさんとか」

「君は彼らより若くて、しかも氷の始祖をその身に宿している。君の方が将来性が高いのは理解できるよね?」

 

 ──君が守った世界。僕にはシュテーダルを破壊することも、長い眠りについた君を助けることもできなかった。

 不甲斐ないのは僕の方だ。君を守れない自分が悔しくて堪らない。僕自身への憤りが消えることはなく。

 

「もし……もし君が、魔女としての資質を見込まれて、騎士や宮廷魔術師になるように国王陛下に命令されたらどうする?」

「そりゃあ、国や世界の危機なら当然従うわよ?」

「戦争もない、シュテーダルも復活していない……国の威信のためだけに氷の始祖級を求められたら?」

 

「…………わからない。そんなこと、考えたことないから」

 

 碧い瞳が揺れている。

 困惑した顔で僕を見つめ返す無垢な君。

 

 

 僕は彼女の(まなじり)に指を這わせた。大きな目を縁取る水色の長い睫毛が指先を掠める。

 透き通った玻璃のような瞳。この瞳からこぼれ落ちる涙は清らかで美しくて──。

 

「アルウェス?」

 

 小首を傾げるナナリーの指先が僕の手に触れる。彼女の手は僕の体温より低いのに、触れたところから熱くなっているような気がする。

 

 

 ────腹の中で熱い火が(とも)る。黒い炎がそれを飲み込もうと動き出す。

 

 

 ……これ以上彼女を引き留めてはいけない。

 

「ごめん、君を困らせるつもりはなかったんだ」

 

 小さく首を左右に振って、指を彼女の手から引き抜く。

 

 

 ────体の奥で(くら)い火が(おこ)る。ふつふつと血が沸き立つ気配がする。

 

 

 ……落ち着かなければ。

 心を波立たせててはいけない。ささくれ立った感情に闇が忍び寄る。体の中は熱いのに、寒気が背筋を這いあがってくる。肌が粟立つ。鼓動が早くなっていく。

 

「ねぇ、どうしたの?」

 

 笑みを作ろうとしたが表情を消すことで精一杯だ。片手で顔を覆って深く息を吐いた刹那、ぞくぞくと強烈な悪寒が全身を襲う。

 

 

 ────足元に落ちる僕の影が濃くなって淀み始める。どす黒い不気味な何かが影の中で(うごめ)いている。

 

 

 こんなときに……! 

 

 違う、こんなときだから魔物は襲ってくる。心の隙を狙ってくるのだ。ぐっと腹に力を込めて身構えた。僕の体内で魔物の魔力が暴れ始めている。

 

「アルウェス? 具合悪いの?」

 

 ナナリーが僕の顔を覗き込んで、彼女の体温を間近に感じる。

 

 なぜ僕は彼女を早く帰さなかったのか。

 

 白くて細い腕が伸びてきて、ハンカチでこめかみを伝う汗を拭いてくれる。

 不安げにひそめられた眉が、僕を案じて揺れる瞳が、柔らかな頬が、僕の名前を紡ぐ瑞々しい唇が。

 僕の吐息を震わせる。

 

 ……この部屋には彼女と二人きり。僕が鍵を開けなければ誰も入ってこれない。

 

 

 ────獲物を見つけた魔物が漆黒の闇から顔を出す。僕の卑しい劣情を、深淵に潜むおぞましい魔物が喰らう。それらは混じり合い数倍に膨らんでいく。

 

 

「ぐっ……!」

「アルウェス!?」

 

 血管を黒い魔力が駆け巡る。僕のものではない魔力に体内を蹂躙されて破裂してしまいそうだ。

 激痛に顔が歪み、堪らず自分の身体を抱き締めた。

 

 僕の劣情の発露なのか。僕の情欲につけ込んだ魔物が僕の身体を支配しようとしているのか。判別がつかなくともこれだけは断言する。

 

 僕自身の欲望であっても彼女を傷つけたら許さない。

 彼女を魔物の魔力に曝すわけにはいかない。

 

「魔物のせい? 魔物の魔力が暴走してるの!?」

 

 魔法が弾ける振動が僕たちを襲う。音もなく室内の防御膜が壊れる。部屋にかけた防御魔法がすべて崩れ落ちた。

 

「防御魔法が破られた!?」

 

 天井を振り仰いでナナリーが叫んだ。

 

「……魔法が解けた、だけ……。問題はないから……」

 

 僕がかけた魔法は解けたが、父上が屋敷全体にかけた魔法に変化はない。

 

 クリスタルの首飾りが急速に冷えてくる。氷の魔力が僕の肌に触れて広がっていく。服の上から胸元の首飾りをぎゅっと握りしめれば忌まわしい魔力を吸い上げてくれる。

 熱い体に投げ込まれた一欠片の氷によって苦痛が和らぐ。僕は深く息を吐いた。

 

 

 

 …………どれぐらい時間がたったのか、いつしかクリスタルの首飾りは魔力を放つのをやめ、僕の意識も明瞭になっていた。

 

 目を瞑って静かに深呼吸を繰り返す僕をナナリーが固唾を飲んで見守っている。

 

「……もう大丈夫だよ。君のクリスタルが吸い取ったから」

 

 僕は彼女に微笑んだ。魔物の魔力に喰われる本能的な恐怖と苦痛は過ぎ去った。痛みの残滓は時間とともに消えていくはずだ。

 

「吸い取る? 魔物の魔力を?」

「……瞳の色は戻ったし、髪もだいぶ明るくなった。その代わり、クリスタルの首飾りは濁ってきている」

「こんな暴走がしょっちゅう起きてるってことじゃない!」

「ときどきしか起こらないよ。確実に良くなっているから」

「そういう問題じゃないわよ!」

 

 碧い瞳に力が宿る。涙を流すよりはずっといい。

 君はクリスタルで僕を助けてくれた。僕はこれ以上何を望めばいいというのか。

 

「僕のことは心配しないで。それより、もう部屋に戻った方がいい」

「アルウェスを放っておくなんてできないわよ!」

「大丈夫。魔法は使える」

 

 指を振って魔法で髪の色を金に変えた。髪色を変えるだけなら簡単だ。

 

「この後は母上と食事だよ。君の身支度のために召使が待ってる」

 

 ナナリーが嫌がりそうな話題を振ってみたけれど、むっと押し黙るだけであまり効果がなかった。

 

「申し訳ないけど、僕は送っていけないから。召使に君の部屋まで案内してもらって」

 

 これ以上君と二人きりは勘弁してほしい。

 

「まだ苦しいんでしょ? わたしのことより、アルウェスが休まなきゃ駄目よ」

「その必要はない」

「ちょっと!?」

 

 魔具を鳴らすとすぐに召使がやってくる。

 

「ナナリーを部屋まで連れて行ってくれる? 晩餐用に準備もしてあげて」

「かしこまりました」

 

 平素と変わらぬ態度で召使に接するが、なぜ僕がナナリーを部屋に送らないのか疑問に思っているだろう。だが公爵家(いえ)の者には余計なことは言わないほうがいい。

 

 ナナリーを廊下に送り出して扉を閉める。納得してない様子の彼女はまだ何か言いたげだったが、これ以上僕に関わらせる訳にはいかなかった。

 

「くっ……!」

 

 魔物の魔力に蹂躙された痛みはすぐには消えない。僕は扉に寄りかかり、ずるずると崩れるように座り込んでいった。

 

 




次からはナナリー視点に戻ります。


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3-9. パートナー①

ここからナナリー視点に戻ります。



 

 

 アルウェスに部屋を締め出された。一瞬だけ綺麗な顔を苦痛に歪めたのが目に焼き付いている。ナナリーは俯いて、鞄の紐を握り締める。

 

 表情を取り繕うことに長けたアルウェスがあんな苦しそうな顔をするなんて。

 

 やせ我慢をして。彼にも余裕がないのだ。それほど辛い状態なのはナナリーにもわかっている。

 

 独りで解決しようとするのは彼の優しさ故だと理解しているけれど、信頼されていないようで悔しい。何か手助けできたかもしれないのに。

 

 一人で抱え込むのはアルウェスの悪い癖だ。始祖級の魔法使いだからといって一人で何もかも守ることはできないだろうに。

 

 彼は騎士団に入ってからどれだけ国を、国民を、わたしを守ってくれただろうか。どれだけの苦悩と痛みをその身に抱え込んでいるのか。

 

「あの馬鹿炎……」

「ヘル様?」

「あっ、何でもないです」

 

 公爵家の人たちが見ているところで悪態をついてはいけない。自分が行儀悪く見られるのは今更構わないけれど、アルウェスが家族に知られたく思っていることを勝手に喋ってはいけない。公爵様やノルウェラ様には、彼本人の口から話をしてほしい。

 

 キッと顔を上げると、ナナリーは力強く廊下を歩き始める。

 

 ナナリーが眠りから目覚めた後、自分は無力だったと悔しさを吐露したアルウェス。

 彼は気づいているだろうか。

 彼が氷に包まれた瞬間を、ナナリーも忘れることはないということを。

 

 

 *

 

 

 ナナリーが召使についていくと、すぐに別の建物と繋がる廊下に出た。往きは気にしなかったけれど、召使の話では公爵家の家族の私室があるこの棟は特別で、出入りできる人間は限られているらしい。

 

 アルウェスの部屋は防御魔法が解けてしまったが、屋敷に掛けられた魔法は安定している。術式はアルウェスが作り出したものだろうが、屋敷を守護する魔法は公爵様がかけているのだろう。

 

 屋敷に掛けられた魔法を使えばあっという間にナナリー用の客室に到着した。部屋には召使が待っていて、ナナリーは大人しくお化粧や髪型を整えてもらってドレスを着せてもらう。

 

 上手く笑う自信がなかったから、心の中で別のことを考えてとにかくじっとしていた。先ほど逃げ回ったおかげで、ナナリーが必死で耐えているのだろうと召使たちは勘違いしていた。

 

「お美しいですわ」

「アルウェス様がいらっしゃいました!」

「なんてお似合いなのでしょう」

 

 迎えに来たアルウェスはいつもと変わらぬ笑顔を振りまいている。魔物の魔力の暴走なんてなかったようだ。

 

「すごく綺麗だよ、ナナリー」

 

 アルウェスはナナリーの手を取って指先に口づけを落とした。あんなに恥ずかしく感じたことが遠い昔のようだ。挨拶の口付けなんて些末なことに思える。

 

 彼が顔を上げると、銀縁眼鏡の奥の赤い瞳が弓なりに細くなる。ナナリーは精一杯笑ったつもりだったが、ぎこちない笑みになってしまった。

 

 体はもう大丈夫なのか、何を考えているのか、断片でもいいから読み取れないかと彼の顔をじっと見つめてしまう。

 

 ナナリーが着ている瑠璃紺のドレスと似た色合いの夜会服は彼によく似合っていた。整った美しい顔はいつもより綺麗で、どこか凄みを感じた。本人は抑えているようだが、神経が尖っている気配がする。

 

 アルウェスは隙のない笑顔でナナリーの手を持ったまま、普段と変わらぬ口調で話し始める。

 

「ねえ、シーラで着る君のドレスだけど、僕に任せてくれるかな?」

「え?」

「僕が──君に贈りたい」

「で、でも……」

 

 そんなことしてもらっていいのだろうか。家族以外にドレスを買ってもらったことなんてない。

 

 贈ると言っているし、この男は全額費用を負担するつもりだろう。ご飯を食べるときだっていつも奢られている。

 

 それに、自分たちで勝手に決めてしまったらまずい気がする。公爵家の重要な人物(ノルウェラ様)に確認を取らなければ後々大問題になりそうだ。

 

「ノルウェラ様がわたしとニケのドレスを新しく作るって……」

「ブルネルにも? ……ああ、夜会のためかな」

「夜会って?」

「ハイズが魔法学校に戻る前に公爵家(うち)で夜会を開くんだよ」

「公爵家の夜会?」

 

 ハイズくんはアルウェスの弟である。魔法学校に通っていて、今は長期休暇中だ。貴族は休みの間も社交で忙しいそうで、今週はずっと出かけているという。

 

 ナナリーは二、三回会ったことがあるが、丁度アルウェスが一緒だったので挨拶くらいしか交流がない。

 

 ハイズくんはアルウェスが大好きで、忙しいアルウェスとは年に数えるほどしか会えないから、アルウェスが頻繁に家に帰ってくるのをとても喜んでいる。

 

 アルウェスはお兄さんとは歳が近いけれど、弟のハイズくん、キースくんとは歳が離れているためかたいそう可愛がっている。

 兄弟水入らずの時間を邪魔したくないとナナリーは遠慮しているのだ。

 

「晩餐で母上からその話があると思うよ」

「わたしも夜会に出るの!?」

「もちろん。シーラに行く前に夜会に慣れておいた方がいいでしょ?」

「それは……そうだけど」

「これも令嬢教育の一環だよ。夜会で食事をしてもいいけど、くれぐれも夢中にならないでね」

「わかってるわよ」

 

 夜会とは貴族の社交の場、情報収集の場である。飲み物を片手に談笑しつつ、観察眼を養う場でもある。

 

「殿下もいらっしゃるし、マリスやブルネルも招待するから」

「マリスはともかくニケも? ……まさか、そのために今度採寸してドレスを作るの? カーロラ王女の結婚式用じゃなくて? えっ、ちょっと待って、わたし、そんなにお金持ってない」

「落ち着いて。君が心配する必要はないよ」

「心配するわよ! ニケだって何も知らないはずよ」

「母上は女の子がいなかったからね。君やブルネルが来るのをとても喜んでいるよ」

 

 いやいや、そんなことでドレスなんて高いものをいくつも作ってもらったらいけないでしょう!? 

 

 シーラで着るドレスがナナリーに払えるような金額ではないことを頭では理解している。どうしたってアルウェスか公爵家の援助が必要だ。それでも承服しがたくて、頭を抱えてしまった。

 

「だからって何着も作るのはおかしいわよ。シーラの結婚式で着るドレスがあれば……」

「シーラには夜会にお茶会、普段着用のドレスを持って行く必要があるよ。昼と夜ではドレスコードが違う。お茶会で着るドレスを着て夜会には出れないでしょ?」

「うぅ……」

「僕の服とも合わせたいからね。僕に任せて」

「だって、今度採寸するのよ? ノルウェラ様が……」

「母上には役割を譲ってもらうよ」

「そんなことできるの?」

「…………シーラで着るドレスだけでも僕が用意する」

 

 

 *

 

 

「まあ! 何を言ってるの、貴方一人で用意するなんて無理に決まってるでしょう。どれだけドレスが必要になると思っているの?」

 

 ノルウェラ様、アルウェス、ナナリーで晩餐を食べている最中にアルウェスがドレスの話を切り出した。案の定、ノルウェラ様はアルウェスの意向を認めなかった。

 

「結婚式の参列用に夜会服、お茶会のドレス、日常用のドレス、それから旅装用のドレスでしょう? それぞれに予備も必要だわ。ドレスに合わせた装飾品も揃えなくてはならないのよ」

 

 シーラに行くのは三泊四日の予定だ。結婚式は二日目である。前日にシーラ入りし、二日目の結婚式に出席する。その晩は夜会もある。

 

 カーロラ王女は降嫁されるため、結婚式の規模はそれほど大きくないと聞いている。式の後は国民へのお披露目など行事があるそうだが、ナナリーたちは関係ない。

 

 三日目はシーラの王族が主催するガーデンパーティーが予定されており、その後は個人的にお茶会に誘われることもあるそうだ。アルウェスとゼノン殿下はカーロラ王女と親しいため、王女の個人的なお茶会に招かれるだろうと言っていた。

 

 四日目は本当に帰るだけとなる。状況によっては三日目に泊まらないで帰る場合もあるという。シーラは隣国なので近いし、下手に長居をすると無駄に社交が増えて面倒なことになるらしい。

 

「結婚式までにいくつドレスを作るつもりですか? 仕立て屋が過労で死んでしまいますよ」

「それなら大丈夫よ。マリスさんに新しい仕立て屋を紹介してもらっているもの」

「マリスの紹介ですか?」

「ええ、ニケさんは男爵家でしょう? 他家の貴族も招待する夜会なら、家の格に合ったドレスにしたほうがいいとマリスさんが助言してくださったの」

「それは正しいですね」

「今は仕方ないわね。でも将来はわからないもの。公爵家(うち)の中ではそんなことを気にする必要はないわ。貴女もそう思うでしょう? ナナリーさん」

「は、はい」

 

 よくわからないけれど、今度の採寸はマリスが紹介した仕立て屋が行うらしい。

 

 目の前で繰り広げられる母と息子の会話のせいで食事の味がしない。美味しそうな料理がなんてもったいないことだろう。一人だけ別室で食べてそのまま寮に帰ってしまいたい。

 

「ナナリーさんの旅装も新しい仕立て屋に頼むつもりなのよ」

「母上、僕とナナリーはゼノン殿下とミスリナ王女の護衛役も担っていますから往きと帰りは制服です。馬車にも乗りません」

「まあ! なんですって!! ナナリーさんが馬車に乗らないなんて!」

「ナナリーは僕に匹敵する魔女ですよ。馬車に座ってただ守られている女性ではありません。僕と並んでともに殿下たちを守るのがふさわしい」

「まぁ……!」

 

 ノルウェラ様が美しい瞳を大きく見開くと、口許に手を当ててふふふっと可愛いらしく笑った。

 

「あらあら貴方ったら……」

 

 ナナリーとアルウェスを交互に見ながらにこにこ笑うノルウェラ様はとても嬉しそうだ。アルウェスは慣れているのか涼しい顔をしている。

 

公爵家(うち)の夜会用のドレスは母上とナナリーが一緒に選んだらどうですか?」

「わたくしとナナリーさんが?」

「は、はい。わたしも一緒にデザインを考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「もちろんよ! とても楽しそうだわ!」

 

 ノルウェラ様がぱあっと顔を輝かせた。本物の女神様のようなキラキラとした笑顔を向けられ、ナナリーの笑顔がひきつった。

 

 これはアルウェスの作戦である。ノルウェラ様を説得するためだとアルウェスは言い、ナナリーも了承した。しかし、とんでもない事態になりそうな予感がする。

 

 ちらりとアルウェスに視線を送れば、彼はにっこりと満面の笑みを返してきた。

 

 



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3-10. パートナー②

 

 

 ナナリーは考えることを放棄して晩餐を乗り切り、我に返ったときにはハーレの制服姿で寮の自分の部屋にいた。

 

 時間を跳び越えたわけではない。上機嫌のノルウェラ様に見送られてアルウェスと公爵家を出たのはぼんやりと覚えている。しかし、いつアルウェスと別れたのか記憶にない。

 

「やられた……!」

 

 二人きりになったら魔力暴走の話をするつもりだったのに。

 

 アルウェスのことだ、ドレスの話でナナリーの頭がいっぱいになるのを見越していたに違いない。

 実際にドレスの話が始まったらナナリーの意識はそちらに移ってしまい、ノルウェラ様と話をしている間はほとんど思考を停止していた。

 ノルウェラ様と一緒にドレスのデザインを考えるなんて気が遠くなる。晩餐中の会話を思い出すだけで頭がくらくらしてきた。 

 

「もう寝よう……」

 

 今日は色々な出来事があって頭の整理が追いつかない。こんなときはさっさと寝てしまうに限る。無駄に起きていると余計なことを考えてしまう。

 

 ナナリーは寝間着に着替え、鞄の中身を整理する。アルウェスから渡された書類の間に魔法陣を見つけた。公爵家と直接手紙のやり取りができる転移陣だ。

 

 アルウェスが描いたであろう魔法陣は美しくて完璧だった。女神の棍棒(デア・ラブドス)に魔法陣を吸収させていると彼が魔力暴走に苦しむ姿が思い出されて────ナナリーは無性に腹が立ってきた。

 

「まったくもう! あの男は!!」

 

 寝台の上の天井に女神の棍棒(デア・ラブドス)をドン、と突き立てた。直径一メートルほどの魔法陣が広がり、天井に定着する。

 

 ……あんなに苦しそうだったのに。

 アルウェスは一人で何もかも引き受けるつもりなのだろうか。

 鉄壁の笑顔が憎たらしい。

 

 

 *

 

 

 翌朝、目覚めると上掛けの上にノルウェラ様から手紙が届いていた。

 

 本当は机の上に転移陣を設置したかったが、寮の机は食事と書き物を兼ねているから、食事中に手紙が届いてお皿に落ちてしまう危険がある。

 

 朝起きたときに布団の上に手紙が置いてあるのは思ったより悪くなかった。

 

 ノルウェラ様の手紙には、今日仕立て屋を呼ぶので仕事の後に来てほしいと書いてあった。なんとも行動の早い方である。

 

 明星の鐘の頃に伺います、と返事を書いて魔法陣で送った。

 

 ハーレに行く支度をしている途中、魔法陣がまたもや光り、手紙が二通落ちてきた。一通は先ほどと同じ封筒で、ノルウェラ様から楽しみにしているという返事だった。

 

 もう一通は水色の封筒である。それだけで動悸がして頬が緩んだ。

 やっぱり恋は病気だ。頬をペチッと叩いて自分に渇を入れる。

 

 アルウェスの手紙は昼食の誘いだった。今日の昼、時間も指定してある。昨日の今日で仕事の調整は大丈夫なのだろうか。

 

 ドルセイムの知恵は必ず身につけておくようにと一言添えてあった。

 

 アルウェスはこの後すぐに王の島の騎士団へ出勤するはずだ。ナナリーはすぐに承諾の返事を書いて送った。

 

 

 椅子に腰かけて水色の便箋を読み返す。

 

 用意周到で何もかもナナリーより上手(うわて)なアルウェス。

 彼が一人で背負うのを見てるしかできないなんて歯がゆくて仕方ない。ナナリーも共に闘わせてくれと伝えたい。

 

 ただ会話するだけじゃのらりくらりと躱されるだろう。何とかアイツに自分の本気をわからせてやりたい。

 

 ナナリーだって、いつまでも遅れを取るつもりはないのだ。

 

 

 *

 

 

「おはようございまーす」

 

 ナナリーがハーレに出勤すると、いきなりゾゾさんやチーナ、ハリス姉さんたちに囲まれた。

 

「ちょっとナナリー!!」

「その指環、隊長さんから!?」

「婚約指環にしては地味じゃないですか?」

「式の日取りは決まったの? 国一番の色男で侯爵様の結婚式だもの、きっと盛大な式になるんでしょうね」

「隊長さんもナナリーもさっさと結婚したほうが世のため人のためよ。とにかくおめでとう!」

 

「はいいいぃぃ!?」

 

 矢継ぎ早浴びせられる質問にナナリーの顔から血の気が引いていく。

 ドルセイムの知恵のせいでとんだ誤解をされている!! 

 

「違います!! これはそんなんじゃ……」

「ヘル、所長が呼んでいるぞ」

 

 アルケスさんが天からの使者のように思えてくる。

 何とか女性陣の質問責めから抜け出して、ハァ、と大きな溜息を吐くと、じ……っとアルケスさんの視線を感じた。ナナリーの指に()められたドルセイムの知恵を見ている。

 

「アルケスさん!? これは違いますよ!」

「ああ、わかってるよ。高価なものだからな、失くすなよ」

 

 アルケスさんはナナリーの肩をぽんと叩いて去っていく。

 

 所長もドルセイムの知恵だと即座に気づいてくれた。変な誤解をされずに済んで良かったと安堵したのも束の間、「隊長さんも上手くやったわね」と所長がニヤッと笑った。

 

 所長の話は昨日の打合せの確認だった。ハーレの職員全体で魔石に関しては共有するけれど、鑑定方法などの詳しい情報はナナリーを含む一部の職員しか知らされないそうだ。

 

 改めて魔石運びの担当を任命され、騎士団の聞き取り調査に協力してほしいと頼まれる。

 

「ハーレ外の仕事が増えて申し訳ありません」

「ナナリーのせいじゃないわ。騎士団の要請なんだから、せいぜい恩を売っておきましょう」

「あの、なぜ昨日の打合せはロックマン公爵家で行われたんですか?」

「ああ、それはね、ロックマン隊長の私物である高価な魔具をナナリーに貸し出したでしょう? 騎士団本部で行うと手続きがちょっと面倒くさいの。くれぐれもドルセイムの知恵のことは秘密にしてちょうだい」

「わかりました。でも、なんか誤解されているようで……」

「左手の薬指じゃねぇ。結婚相手がいると公言してるようなものよ」

「けっ……!?」

 

 ナナリーの顔が一気に赤くなった。所長は苦笑している。

 

 あの男はなに食わぬ顔をしてこういう事をするのだ。本当にいまさらだけども、ナナリーは自分の迂闊さを呪った。

 

「うーん。それなら、右手の薬指にしたら? 指環は指によって意味が変わるの。右手の薬指は創造性を刺激するそうよ」

「そうします!」

 

 さっそくドルセイムの知恵を右手の薬指に()め直す。薬指以外ではサイズが合わないため他に方法がないのだが、創造性を刺激するというのなら意味も悪くない。

 

 

 

「ヘルさん……その指環……もう決まった人が…………?」

 

 その日の仕事はまるで拷問のようだった。右手の薬指に()め直しても破魔士やハーレの同僚から同じことを何度も質問され、からかわれ続ける。

 

 極めつけに昼にアルウェスがハーレにやって来た。

 ハーレの扉が開くと同時に沸き起こった黄色い歓声に、ナナリーの背筋を戦慄が走る。恐る恐る振り返ると、女性たちの輪からするりと抜け出したアルウェスが受付に向かって来るのが見えた。

 

「お待たせ。もう出られる?」

 

 どうしてご飯を食べに行く約束をしちゃったんだろう!? 

 

 ハーレ中の視線がアルウェスとナナリーに集まっている。非常にいたたまれない。

 

「さっさと行くわよ!」

 

 ナナリーはアルウェスの腕を引っ張ってハーレの外に連れ出す。悲鳴混じりの黄色い歓声が追いかけてきたが知ったこっちゃない。

 

 

 木製の扉を閉めると頬を刺すような冷たい風が吹きつけて、水色の髪をなびかせる。空離れの季節の真っ只中、雪でも降りそうな鈍色の重たい空が広がっている。

 

「君、そんなにお腹空いてるの?」

「違う!!」

 

 担ぐように掴んでいたアルウェスの腕をバシッと勢いよく放り出す。

 

 ハーレから離れて人目につかない場所を探し、ナナリーはすぐ目についた裏小路に入った。

 周囲に誰もいないことを確かめると、念のため七色外套の魔法を自分たちにかける。ついでに防音の魔法も。

 

「ナナリー?」

 

 魔法をかけるナナリーを驚いた顔でアルウェスが見ている。かと思えば、左右を見回して指を振った。

 

「わたしの魔法に問題があった?」

「いや、完璧だよ。ちょっと防御魔法を追加しただけ」

 

 防御魔法? 

 どんな防御魔法をかけたのか気になったが、今はそれどころではない。

 

 目を瞑って胸に手を当てるとスー、ハー、と深呼吸をして心を落ち着かせる。

 

 何から話し始めればいいだろうか

 

「わたし、アンタに伝えたいことがあって」

「うん?」

 

 チラッと見上げると、アルウェスは小首を傾げてナナリーの次の言葉を待っている。

 

 どうしよう、本人を前にしたら言葉が出てこない。コイツに覚悟を思い知らせる作戦が──その方法が、ものすごく恥ずかしくなってきた。

 

 言葉で伝えるのが先だろうか? 

 それとも、先に行動でわからせるべき? 

 

「どうしたの?」

「えっと、」

 

 言葉がうまく出てこない。

 心臓がどきどきと早鐘を打つ。

 頬が熱くなってきた。

 

 ええい、ままよ! 

 

 ナナリーはアルウェスのローブの胸元を両手で掴むと背伸びをした。

 ぎゅっと目を閉じてアルウェスの顔に唇を寄せる。──アルウェスの唇に。

 

 

 上手くできたかわからないけれど。

 柔らかいものには触れたはず。

 

 

 パッと顔を離して俯いた。カーッと顔が赤くなる。恥ずかしくて、足元を見つめる。

 アルウェスの顔が見れない。

 

 ローブの胸元を握りしめたまま、紅潮した顔で必死に次にやることを考える。

 

 

 ……次は、次は、そう、言葉を伝えるのよ! 何を伝えるか決めてきたんだから! 

 

 

 それにしてもアルウェスが立ったまま全然反応がない。まるで大きな木に手を当てているみたいだ。どうしよう、これから伝えたいことがあるのに。

 

 え、どうしよう。アルウェスは何も言ってこないし、拘束術でもかけられたみたいに微動だにしない。

 

 そろそろとアルウェスを見上げると、彼は炎のような赤い瞳を大きく開けて、呆然とした様子で固まっている。

 

 顔の前で手を振ってみる。ゆっくりと赤い瞳が閉じられて、再び開かれるとナナリーを見た。相変わらず突っ立ったままだけど、意識はちゃんとナナリーに向いている。

 

 すぅ、と大きく息を吸って、アルウェスの炎みたいに真っ赤な瞳に語りかける。

 

「……もう、一人で背負わないで。わたしだってアルウェスと一緒に戦いたいし、手助けできることがあるなら助けになりたい。アルウェスが全部一人で戦う必要はないじゃない」

 

 ローブから手を離そうとすると、大きな手が包み込むようにそれを止めた。そのまま腰を引き寄せられて、ぎゅっと抱き締められる。

 

「……ナナリー」

「……アルウェ……」

 

 ナナリーの言葉は途中でかき消える。アルウェスに口を塞がれて、最後まで言うことができなかった。

 

「……んっ……」

 

 何度も角度を変えて、噛みつくように唇を重ねてくる。唇が濡れてきて。それがアルウェスの唾液だと気付いて心臓の鼓動が激しくなった。

 

 バクバクとナナリーの心臓が大きな音をたてている。

 

 ちゅう、と音がして、ふにふにと優しく食まれ、吸われているようにも感じる。アルウェスに食べられてしまいそうだ。

 

 柔らかくて気持ちが良くて。何も考えられない。

 

 フッと濡れた唇を吐息が撫ぜた。熱い吐息が交ざり合って。額と額がこすれ合う。柔らかな金糸がナナリーの頬をくすぐる。

 鼻先がぶつかるほど近くに彼の綺麗な顔があって。頬に、鼻の頭に、口の端に、口付けが落とされる。

 

 のぼせてしまって呼吸が上手くできない。

 顔が熱くて、酷い顔をしていると思う。

 

 薄く開いた口からハフハフと情けない呼吸を繰り返す。

 もう立ち去りたいのが本音だけど、体に回された逞しい腕が離してくれそうにない。

 

 ぼうっと目を開けると、アルウェスの伏せた睫毛が目に入った。切れ長の目の縁にびっしりと、髪の色よりやや暗い睫毛が生え揃っている。

 

 なんて睫毛が長いのだろうか。 

 

 ぼんやりとそんなことを考えていたナナリーを再び甘い感触が包み込む。

 薄く開いていた唇にぬめっとした肉厚のものが入ってきて、それがアルウェスの舌だと気付いて頭が真っ白になる。

 

「んっ……!!」

 

 口の中をまさぐられる。生まれて初めての感覚にどうすればいいのかわからずナナリーは焦った。

 奥に引っ込めていた舌が捕まり、絡められて執拗に擦り合わされる。

 

「ん……んんっ……!」

 

 もういっぱいいっぱいで、アルウェスのローブを掴む。頭がぼうっとして、熱に浮かされたように体がふわふわする。

 

 腰から力が抜けていく。覚束(おぼつか)ない体をアルウェスの力強い腕が抱え直して、ようやく濡れた唇が離れていく

 

 息も絶え絶えのナナリーが見ている前で、アルウェスはぺろりと自分の唇を舐める。口の端についた唾液を親指で拭きとる仕草が、細めた赤い瞳が、舌の動きがものすごく艶めかしい。

 

 

「なに……? いまの……」

「……恋人たちが仲良くするときの口づけ、かな?」

「……?」

 

 恋人たちが仲良くするときの口づけ? 

 

 そういう口づけをするくらいなのだから、アルウェスはわたしを恋人……と思ってくれているのだろう。

 それはともかく、わたしたちは仲良くなかったということだろうか? 

 

 もちろんアルウェスはわたしにとって好敵手で、絶対に勝ってやると思っているけれど、かつてのように目の敵にして喧嘩することは無くなった。

 腹立たしく思うこともあるけれど、今朝みたいに手紙が届けば嬉しい。

 

「わたしたち、仲良くなかった?」

「え?」

「喧嘩も減ったし、ずいぶん仲良くなったと思うけど……」

「…………」

 

 

 *

 

 

 ナナリーは不思議そうにぶつぶつと呟いている。遠い目をしたアルウェスは、空色の頭にぽんと手を置く。

 

 久しぶりに見上げた空は雲が覆い隠してしまっていた。

 やがて雪が降り、アルウェスの腕の中にいる青い空をひときわ美しく輝かせることだろう。

 

 




第二章はこれで終了です。
長くなりました~!

次章の始まりはまだ未定ですが、章の終わりまで書き上げてから更新を開始したいと思っています。


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第四章 二人の勝負
4-1. 初心な恋人


第二章が長くなったので第三章に分けました。
ここから第四章になります。



 

 空離れの季節二月目の初旬。

 ドーラン王国シュゼルク城。宮廷魔術師長に与えられた豪奢な広い部屋で、ナナリーは赤い長椅子に座って苛立ちを(あらわ)にしていた。

 

 聞き取り調査はすでに四回目である。氷の始祖と会話した内容は全部、洗いざらい話している。いつになったら聞き取り調査が終わるのか。

 

 不機嫌な顔を隠しもせず、さっさと終わらせてほしいと向かいに座る人物を睨みつける。

 

「魔物みたいな顔だね」

 

 金髪の美しい男がさも可笑しそうにくすくすと笑った。この部屋の(あるじ)、アルウェス・ロックマンである。長椅子にゆったりと座って優雅に紅茶を飲んでいる。

 

「うるさいなっ」

 

 悪態をつきつつ、ナナリーも茶杯を手に持ってその香りを吸い込んだ。

 

 紅茶は香りは心を穏やかにしてくれる。心が落ち着けば冷静に物事を考えられる。

 穏やかならぬ雰囲気のときこそ、殊更にゆっくりと香りを味わってお茶を飲むものよ──とノルウェラ様に教わった。

 

 柑橘系の芳しい香りが鼻腔をくすぐる。透明感のある赤橙色のお茶を口に含めば、爽やかな渋みの後に口の中いっぱいに香りが広がる。砂糖を入れなくてもほんのりと甘く、さっぱりとして飲みやすい。

 

 宮廷魔術師長に出す紅茶は高級な茶葉を使っているらしい。ナナリーが寮で飲んでいる紅茶よりもずっと香り高くて美味しい。

 

 茶杯を左手に持った皿に戻し、目を閉じてほー……っと深く息を吐き出す。

 紅茶の余韻に浸っていたナナリーは、何か閃いたようにハッと目を開けた。

 急に頭が冴えて、忘れていた記憶が蘇ったのである。まだアルウェスに話していない、氷の始祖と交わした言葉があったのを思い出した。

 

 ノルウェラ様のおっしゃる通りだった。紅茶の香りとは素晴らしい。ナナリーも少し頭に血が上っていたようだ。ちょっと態度が悪かったと反省し、背筋を伸ばす。

 

「思い出したわ」

「うん?」

「氷の始祖の話では、シュテーダルが呪いをかけて氷と火の間には子どもができないようにしたんですって」

「……ンッ……」

 

 ブフッとアルウェスが紅茶を吹き出した。

 「ンン……ンッ」と咽せながら、長い指を振って飛び散った紅茶を綺麗にしている。

 

 紅茶の飛沫(しぶき)に虹が見えた気がする。

 不意にサンサシーの虹を思い出した。サンサシーの虹とは、太陽にかかる虹のことである。空気中の湿度と太陽の熱と自然界の魔力がぶつかり合って虹のように見えるのだ。

 水滴とは一切関係ない虹なのだが。

 

「でも、千年を過ぎたころから呪いも薄れてきているから、仲良くなさいって」

「グフッ……!」

 

 これまたアルウェスが盛大に紅茶を吹いた。おまけに気管に入ってしまったようで、胸を叩きながらゲホゲホと苦しそうにむせている。

 

「……大丈夫?」

 

 この男に一体何が起きたのだろうか。

 胸元を拳で叩くアルウェスは、返事をする代わりに、片手を前に上げて問題ないと応えた。

 

「仕事で疲れてる? 本当は体調良くないの? もしかして夢見の魔物が……」

 

 あれこれと思いつく限りのことを言い募るナナリーに、アルウェスはふるふると首を横に振る。

 

 どうやら魔物の影響ではないらしい。

 ならば、さっきわたしが話した氷の始祖の言葉に何か変な事柄でもあったのだろうか? 

 

 ナナリーは氷の始祖の言葉を口の中で反芻する。

 

 シュテーダルの呪い……氷と火の間には子供ができない……でも呪いは薄れている……。千年を過ぎたころから呪いは薄れて……仲良くなさい…………氷型と火型は子どもが生せない……千年……仲良く…………仲……良く……。

 

 ──仲良く? 

 

 最近どこかで聞いた気がする。

 誰が言ってたんだっけ? 

 

 顎に手を添えて記憶を辿った。何とはなしに人差し指で自分の唇をなぞっていると、その感触がある記憶と繋がり──ナナリーは大きく目を見開いた。

 

『……恋人たちが仲良くするときの口づけ、かな?』

 

(アッ────!!)

 

 ナナリーは心の中で絶叫した。目も口もこれでもかと大きく開けて、アルウェスを凝視する。

 眉間に皺を寄せ拳を口許に当てて咳をしていたアルウェスは、眼鏡の奥から伏し目がちに横目でナナリーを見て、スッと視線を逸した。

 

 耳まで真っ赤になったナナリーは両手で頭を抱えてバッと勢いよく頭を伏せる。顔が膝につくくらい深く腰を折って、小さく小さく体を縮める。

 このまま長椅子に埋まってしまえればどんなにいいだろう。

 

 この手の話に疎いナナリーも流石に理解した。恋人、すなわち想い合う男女が『仲良く』するとは、つ、つまり、その先に赤ちゃんができるようなことをする訳で……。

 

 な……なな……なななな……何て口付けをしてくれたんだ!! この男は! 

 

(わたしの馬鹿馬鹿馬鹿────!) 

 

 声にならない声で呻きながらナナリーは身悶える。アルウェスの密やかな咳の音だけが部屋に響いていた。

 

 

 *

 

 

「ハァー……」

 

 茶杯の水面がナナリーの溜め息で揺れる。

 無事(?)聞き取り調査が終了した数日後、ナナリーはニケと早めのお昼ご飯を食べていた。

 

「ナナリー? どうかした?」

 

 ニケが心配そうに尋ねてくる。ナナリーは目を瞬いて「何でもない」と紅茶をひと口すすった。せっかく美味しくいただいた食事が後味の悪いものになってしまう。

 

「無理しないでいいわよ。わたしもちょっと憂鬱だもの」

 

 八の字に眉を下げてニケが苦笑する。実はこれからニケと連れ立ってロックマン公爵家でドレスの仮縫いをしに行くのだ。

 

 ぜひ昼食も一緒に、とノルウェラ様からお誘いがあったのだが、ニケがナナリーの休みに合わせるために少々無理をして仕事を片付けなければならなかった……ということを理由に丁重にお断りした。

 

 決して嘘ではない。ゼノン殿下の秘書官に就いて間もないニケは忙しいし、まだニケの都合で休みを願い出るのは心苦しい状態だという。

 ゼノン殿下はロックマン公爵家に行くならゆっくり休めないだろう、と明日の午前中も休みにしていいとおっしゃったらしいが、それはニケが固辞したそうだ。ナナリーにはニケの気持ちがよく理解できる。

 

 ロックマン公爵家に足を踏み入れたら最後、仮縫いだけで終わらないだろう。お茶に夕食に、と長丁場になることは目に見えている。

 明日も仕事で早いから、と言えば穏便な形でお(いとま)できる。というより、それしか早く帰る方法が思いつかない。

 

 ナナリーたちはしっかり睡眠をとって、行きつけの食事処で美味しいご飯を食べてお喋りをして大いに笑い、英気を養って戦場に赴かんとしている。

 ……はずなのだが。

 

「ふぅー……」

 

 またもや重い溜め息がナナリーの口からこぼれた。

 

 

 

 

 ──ひと月ほど前、ニケも一緒にロックマン公爵家で採寸をした。

 

 ノルウェラ様はもちろんのこと、仕立て屋を紹介したマリスが同席しており、デザイン画を前に様々な布の見本を広げてあれがいい、これがいいと意見を交わす。

 ナナリーとニケは同じテーブルに座ってはいたが口を挟むことはせず、大人しくマリスたちの激論を見ているだけである。デザイン画を見せてもらったり、布やレースを見せてもらったが、とんでもなく上等なものだと理解しただけで、マリスたちが何を熱く語り合っているのかさっぱりわからない。

 

 仕立ててもらうドレスは公爵家の夜会用のナナリーとニケのドレスなのだが、その割にはデザイン画がたくさんあって、紳士用の服の絵もあったようだ。金髪の男性が描かれていたから、ノルウェラ様がアルウェスのために何か頼んだのかもしれない。

 

 最後にはマリスと仕立て屋の女主人がキラリと瞳を輝かせて笑っていた。好敵手がお互いを認め合う瞬間とはああいう感じだろうか、と思ったくらいだ。ナナリーが積年の好敵手とあんな風に笑い合うことは絶対にないだろうけれど。

 

 仕立て屋が帰った後のお茶会ではマリスとノルウェラ様がとても満足そうな顔でお茶を飲んでいた。

 

「ドレスが仕上がるのが楽しみだわ。マリスさんも夜会には来て下さるでしょう?」

「もちろんですわ、リーナ様。わたくしも楽しみにしておりますわ。アルウェス様がナナリーと初めて出席される夜会ですもの。ね、ナナリー?」

「は、はい?」

「ようやくキャロマインズ家の夜会にアルウェス様と貴女を招待することができますわ」

「マリスのお(うち)の夜会?」

「そうですわよ。もっと早く招待したかったのですけれど、アルウェス様ってばもう少し待ってほしいと言うばかりで……」

 

 マリスが扇子を広げて口元を隠してふぅ、と溜め息を吐く。

 

「本当にねぇ。ミハエルとわたくしはもっと早くナナリーさんのお披露目をしたかったのだけれど、ずいぶん待たされてしまったわ」

「それだけアルウェス様はナナリーを大切に想っているのですわ」

「ええ、あの子の気持ちを尊重しなければ……とわかっているのだけれど」

「見ているわたくしたちの方が気をもんでしまいますわよね」

 

 ノルウェラ様がおっとりと小首を傾げ、マリスがちろりと意味ありげにナナリーを見る。

 

「──で? ナナリーはそろそろアルウェス様に申し込まれまして?」

 




しばらく不定期更新となりそうです。


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4-2. 夜会のドレス

更新が遅くなり申し訳ありません……!
ナナリーのドレスが決まらず、ずっと悩んでおりました。キャラに似合うドレスを考えるのは難しいですね。




 

「──で? ナナリーはそろそろアルウェス様に申し込まれまして?」

「はい?」

 

 申し込む? 

 何を? 

 

 目を瞬くナナリーに、マリス、ノルウェラ様、そしてニケの視線が集中する。

 

「カーロラ王女の結婚式に同行してほしい、とは申し込まれたけど?」

 

 パチンとマリスが扇子を閉じる。これは回答を間違えたらしい。残念なものを見るような目でナナリーを見ている。

 

「何を寝ぼけたことを言ってるんですの?」

 

 扇子の先をナナリーに突き付けてぴしゃりと言い放つ。

 

「求婚に決まってるでしょう」

「きゅ……きゅきゅ……きゅうきょっ……!?」

 

 ナナリーがブンブンと首を横に振ると、ノルウェラ様とマリスがそろって溜め息を吐いた。

 

「まぁ、よろしいですわ。夜会に期待するとしましょう」

「なんで?」

「貴女の魅力を引き出すドレスを選んでさしあげましたから、アルウェス様も観念されると思いますわ」

「観念する?」

「夜会が楽しみですわね」

 

 ほほほほ、とマリスがあでやかに微笑んだ。

 

 

 *

 

 

 既製品のドレスしか買ったことのないナナリーは知らなかったが、ドレスを作るにはとても時間がかかる。

 仮縫いはドレスとは違う布を使い、デザインとサイズの確認をする。仮縫いはすでに終わっていて、今日は本仮縫いというらしい。

 

 ノルウェラ様とマリスがデザインや生地を決めてしまったため、ナナリーはドレスの色をまだ知らない。しかも仮縫いで着たドレスは一着ではなかった。

 

 アルウェスがその場にいればなぜ何着も作っているのか問い(ただ)していただろうが、あいにく仮縫いの日は女性陣しかいなかった。笑顔のノルウェラ様と公爵家の使用人たちに囲まれてナナリーは着せ替え人形になるしかなかったのだ。

 

「ヘル様、ブルネル様、こちらのお部屋でお待ちください。奥様がいらっしゃいます」

 

 公爵家の召使に案内された部屋に入ると、数人の女性が待っていた。

 仕立て屋の女主人とお針子たちである。女主人を中心に並んで礼を取り、ナナリーたちに挨拶の口上を述べる。

 

 仕立て屋の女主人は時間がないのですぐに試着して本仮縫いを始めるという。

 

「お嬢様方のドレスは衝立の向こうに準備しております。わたくしどもがお着替えを手伝います」

 

 ニケは正式な男爵令嬢だからお嬢様だけれど、ナナリーは平民だ。ハーレの受付嬢のナナリーより貴族相手に商売をしている女主人の方が社会的立場は上であるのに、「お嬢様」と呼ばれて丁重に扱われるのはちょっと落ち着かない。

 

 そもそもドレスを注文したのはロックマン公爵家である。ナナリーとニケはそのドレスを着て夜会に出る予定だが、あくまでも借りる立場なので仕立て屋のお客様とは言えないだろう。

 

「時間がございません。どうぞお早く」

 

 さあさあ、と急かされてナナリーとニケは衝立の裏に回った。

 

 着ていた服を脱いでシュミーズも脱ぎ、上半身は裸になってドレス用の下着をつける。

 ニケはコルセットでウエストをきつく締めあげられて声にならない悲鳴をあげていたが、ナナリーはドレスで腰を編み上げて締めるためにそれほどきつくしないでいいそうだ。

 ドレスでウエストを締めるのに、それでもコルセットを着るのかと不思議に思っていたら「踊るときに殿方の手が触れるので必要です」と仕立て屋の女主人が囁いた。

 

 ニケのドレスは橙色がかった薄紅色で、ところどころに黒いリボンの飾りがある。

 腰はきゅっと締まり、胸元が大きく開いて豊かな胸が強調されているが、騎士団で鍛えているせいか破廉恥な印象はない。全体的にシンプルなデザインである。

 

「ニケ、すごく可愛い」

 

 よそ見をしている間に召使とお針子によってドレスを着せられる。大きな姿見に映る自分の姿を見てナナリーは呆然とした。

 

「……あの、これ……わたしのドレスじゃない……ですよね?」

 

 限りなく白に近い、薄い薄い水色の、真珠のような光沢を放つ滑らかなドレス。

 

 胸元は大きく開き、肩も出ていて、袖の代わりに薄いレースが胸から二の腕を覆い、後ろ身頃に繋がっている。レースには花を象った模様が編み込まれ、シャンデリアの明かりを反射して花びらがキラキラと輝く。

 

 袖は思ったより動きやすいのだが、下手に動かすと繊細なレースを破ってしまいそうで怖い。

 腰から肩甲骨の下まで編み上げて、そこから背中は開いていている。胸元も背中も防御力が低くて非常に心許ない。

 

 編み上げの部分は硬めの布を裏に縫い付けているようで、それなりの力で締め上げても皺は寄っておらず、布が破れることもないようだ。

 

 ぎゅっと編み上げられたので腰がキュッと細く、腰から広がるスカートが美しい。スカートにも花の模様を編み込んだレースが重ねられている。

 

「まあ! なんて綺麗なのかしら!!」

「ノルウェラ様!」

「ふふ、驚かせてしまったわね」 

 

 いつの間にやらノルウェラ様がいらっしゃっていた。そっとスカートを摘まんで膝を曲げて挨拶をする。

 

「とても似合っているわ、ナナリーさん。髪の色がよく映えていること」

 

 ノルウェラ様はにこにこと上機嫌で、「いい出来栄えね」と仕立て屋の女主人を褒めた。仕立て屋の笑顔は誇らしげである

 ナナリーは内心震え上がっていたが、どうにかそれを押し隠して笑顔を作った。

 

「こんなに素敵なドレスをありがとうございます。……ですが、こんなに豪華なドレスを作っていただいてよろしいのでしょうか……?」

「もちろんよ。わたくしもとても楽しかったわ。また一緒にドレスを作りましょうね」

 

 ナナリーの手を取ってにっこり笑うノルウェラ様。笑顔で「わたしも楽しみです」と言う以外ナナリーに何ができただろうか。

 

 

 *

 

 

 ドレスの本仮縫いが終了し、ナナリーとニケはノルウェラ様に晩餐に招かれた。今日はキース君以外ロックマン公爵家の男性陣は不在だそうで、女性だけでお喋りをしましょうと微笑むノルウェラ様は可愛らしかった。

 

 ナナリーの令嬢教育は頻度は減ったけれどもまだ続いている。食事の作法も身について、会話をしながら社交を兼ねた晩餐も慣れてきた。

 

「ニケさんはゼノン殿下の秘書官になったんですってね。おめでとう」

「ありがとうございます」

「……ニケさんはご存じかしら? シーラでナナリーさんのお世話をする侍女の選別は終わっているの?」

 

 侍女? 

 お世話をするって何のこと? 

 

 話の意図が掴めず、ナナリーはニケの顔を凝視した。

 

「わたしから詳しい説明はできませんが、騎士団からナナリーをサポートする女性騎士を派遣します。ご心配には及びません」

「女性騎士が侍女の代わりをするの? ……大丈夫かしら? 王宮は人手が足りないわけではないでしょうに……」

 

 ノルウェラ様の表情が曇った。頬に手を当ててしばらく考えていたかと思うと、小首を傾げてナナリーを見る。

 

「ナナリーさん、わたくしが公爵家(うち)の侍女を連れて同行してもいいのよ? わたくしはミスリナ王女のお世話係りだから肩書は充分でしょう。ミハエルに頼んでみるわ」

 

 ナナリーはぎょっとしてナイフとフォークを取り落としそうになる。騎士団の決定を覆していいのかと隣に座るニケを横目で見てみれば、ニケは貴族的な笑みを顔に貼り付けて何も言わなかった。

 

 ニケ! 何か言って!! 

 

 視線で訴えるものの、ニケは笑みを深めるだけ。「無理」というニケの声が脳内で聞こえた。

 

 このままじゃノルウェラ様が一緒にシーラへ行くことになっちゃう……! 

 

「ロウ、王宮に使いを出してもらえる? 相談したいことがあるからミハエルに早めに帰ってきてほしいと伝えて」

「かしこまりました」

 

 ノルウェラ様はおっとりした見た目と裏腹に行動が早く、にっこり笑顔で圧しも強い。

 ナナリーが絡んだときはアルウェスとしょっちゅう攻防を繰り広げているが、この二人の思考回路はよく似ている。母と息子の意見が一致したら誰も敵わないだろう。

 

「ミハエルに頼んでみるから任せてちょうだいね」

 

 にっこり笑ったノルウェラ様に、ナナリーは曖昧な笑みを浮かべるしかできなかった。

 

 





ニケのドレスはコーラルピンクです。(橙色がかった薄紅色)

ノルウェラ様はシーラに同行するのか……!?
作者にも予想外の展開となりました。


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4-3. お守り

※オリジナルの地名や魔法の設定が出てきます。



 

 ドーランの南、ナポスポルククという大きな街に居を構える装身具店。この店には女性向けの可愛らしいものから、魔具に使われる無骨で頑丈な装備品まで幅広い装身具が揃っている。

 宝石の類は取り扱っておらず、値段は高くないけれど質が良いので庶民に人気の店だ。

 

 ナナリーはお店の中央に設置された飾り棚を睨むように見つめて悩んでいた。

 

「うーん……」

 

 眉を寄せてちょっと半眼になり、腕を組んで小首を傾げる。

 

 ──どれがいいだろうか? 

 

 しばし目を閉じて頭の中でこれらを身に着けた()の姿を想像してみる。

 

 ──いや、アイツならどれだって似合いそう……。

 

 デザインよりも先にどの装身具にするか決めたほうがいい気がする。首飾り、耳飾り、指環、腕輪。ベルトやブローチという手もある。

 目を閉じたまま考えていると、柔らかい手に肩を叩かれた。ふわっと甘い花の匂いが鼻腔をくすぐる。

 

「ナナリー! やっと見つけた!」

「ベンジャミン」

 

 ナナリーの肩を叩いたのはベンジャミンだった。緋色の緩く波打った髪を頭の高い位置でひとつにまとめ、ボタンを開けた長めの外套の下にはお臍までの黒いセーターと膝上のスカートを合わせていた。大人っぽい化粧をしたベンジャミンはとても綺麗だ。

 

 今日は魔石運びでベンジャミンに会いに来ている訳ではない。久しぶりに彼女と買い物をしたり、お茶をしたりして休日を楽しむつもりだ。

 

 ベンジャミンとサタナースの家に時の番人が居候しているため、ベンジャミンは破魔士の仕事を休んで各国から運び込まれる魔石の受付をしなければならない。

 サタナースは破魔士の仕事を続けていられるけれど、家にいることが多いベンジャミンは外に出て気分転換が必要だと思う。

 

 早く国や騎士団で時の番人を管理できるようになればいいのだが、各国の思惑が絡まってなかなか進展しないそうだ。

 

「びっくりしたぁ! 探し回っても全然見つからなかったのに、気がついたら目の前にいるんだもの」

「あー……ごめん、外すの忘れてた」

 

 ナナリーは水色の髪に留めてある髪飾りを抜き取った。ベンジャミンが気づかないのも無理はない。ナナリーには強力な認識阻害の魔法がかけられている。

 

 アルウェスから贈られたこの髪飾りのせい、もといお蔭である。

 

 

 *

 

 

 空離れの季節一月目、アルウェスから髪飾りをもらった。銀色に繊細な蝶と花の模様が彫りこまれた美しい髪飾りである。

 

 仕事中に使っても差し障りがないデザインだったが、これには強力な認識阻害の魔法がかけられていた。よほど近づかないとナナリーに気づくことができないのである。おまけに防御魔法も付与されている。

 

「ドルセイムの知恵を貸してくれたから充分よ」

「あれは貸しただけだよ。こっちは何かあれば壊れてもいいものだから」

「こんな綺麗な髪飾りが壊れたら勿体ないじゃない」

「お守りだと思って。君はどうしても目立つからね」

 

 そう言ってアルウェスは遠慮するナナリーの髪に強引に髪飾りを()してしまった。

 

 防御魔法はいいとして、認識阻害の魔法が強すぎてハーレではこの髪飾りはつけられない。仕事以外で外出するときにつけるようにしている。

 

 ちなみに術者本人、つまりアルウェスにはこの髪飾りの目くらましは効かない。

 

 空離れ一月目にはナナリーの誕生日もあったのだが、アルウェスは誕生日用にまた別の贈り物を用意していた。

 「こんなにもらえない」とナナリーは頑として受け取るのを拒否したものの、髪飾りはクリスタルの魔具のお礼、等価交換だと押しきられて、結局誕生日プレゼントも受け取らざるを得なかった。

 

 

 *

 

 

 ナナリーは髪飾りをポケットにいれる。この認識阻害の魔法は人体に触れていないと発動しないのだ。

 服に入れておけば防御魔法は発動するけれど、この髪飾りに頼るつもりはない。もしも何者かに攻撃されたなら絶対に自力で戦うと決めている。

 鞄に入れないのは何かの拍子に鞄に衝撃があると防御魔法が発動する恐れがあるからである。鞄を落としたら防御魔法が発動するなんて御免である。

 

 陳列棚に並ぶ首飾りをひとつ、手に取ってみる。待ち合わせ場所に着いたら髪飾りを外そうと思っていたのに、店の中を覗いていたら別のことに気を取られて忘れてしまったのだ。

 

「首飾りを選んでるの? ナナリーが珍しいわね」

「あの、これは、その……」

 

 人に贈る装身具を選んでいると正直に言ってしまったら、誰に贈るつもりなのか問い質されるに違いない。

 言い淀むナナリーに、ベンジャミンの顔が急にパァッと明るくなる。目を爛々と輝かせてぐいっと迫ってくる

 

「ロックマンにあげるのね!」

「な、なんで!? どうしてわかるの!?」

「ナナリーがロックマンに装身具を贈るようになるなんて!! ロックマン頑張ってるじゃない!」

 

 頑張ってるのはナナリーである。どうしてロックマンを褒めるのか。 

 

「ベンジャミン、べつに深い意味はないから」

「えー? 恥ずかしがらなくたっていいじゃないの。せっかくだからお揃いにする?」

「お揃い……!?」

 

 ナナリーは頬を染めてぶんぶんと首を横に振った。

 

 確かに装身具を贈るつもりではあるけれど、いわゆる好きな人への贈り物、という意味合いではない。

 

 食事はいつも奢られて、プレゼント以外にも花とか贈ってくれるし、令嬢教育も全部公爵家にお世話になってる。ナナリーの負債がどんどん積みあがっていくような居心地の悪さを感じるのだ。

 

 髪飾りもクリスタルの首飾りと等価交換というけれど、原料のクリスタルは騎士団から頼まれて提供したのであって、クリスタルをもとに魔具を作ったのはアルウェスだ。

 

 とにかく、アイツから贈られっぱなしの現状をどうにかしたい。

 

 髪飾りに付与された魔法が非常に高度な魔法だったから負けたくないという気持ちもある。

 

 膨大な魔力と天与の才と人一倍努力を怠らないアルウェスは、他人に魔法を施してもらうよりも自分でやるほうが効率的で強い魔法をかけられるだろう。だから彼はなんでも自分ひとりでやってしまおうとする。

 そんなアルウェスがあっと驚くような高度な魔法を付与してやって、ぎゃふんと言わせてやる。

 

「ロックマンだから何でも似合いそうだけどねぇ~。これなんかはどう?」

 

 ベンジャミンが次から次へと勧めてくる。どこから見つけてくるのか、繊細なデザインの細い鎖の首飾りや指環、耳飾りをいくつも持ってきた。

 

 確かに綺麗だし、彼がつければ似合うだろうけど、繊細なデザインはいかにも優男っぽいというか、自己陶酔してるようでナナリーの好みではない。

 

 指輪は無理だ。ナナリーがドルセイムの知恵を指に嵌めているだけであれだけ揶揄(からか)われるのだから。

 

 耳飾りも結構目立つし、あの綺麗な顔の隣に並ぶのかと思うと恥ずかしい。きっと耳飾りの方が負ける。

 

「魔法を付与するつもりだから、あまり繊細な造りはやめたほうがいいと思う」

「うーん、そうねえ……。どんな魔法を付与するの?」

「何らかの防御魔法かな。認識阻害の魔法……も考えたけど、仕事の邪魔になるし、やめたほうがいいよね」

「なに言ってるのよ! 絶対に認識阻害の魔法もかけた方がいいわよ。無駄に女に囲まれることもなくなるじゃない。ナナリーは気にならないの?」

 

 ぐいいっとベンジャミンに詰め寄られてナナリーは呻いた。熱くなってきた顔をベンジャミンの視線から反らすようにしてぽつりと呟く。

 

「………………気になる」

 

 でも、ナナリーが勝手に認識魔法の魔法をかけたらアルウェスは嫌がるかもしれない。ナナリーと違ってアルウェスはシュテーダルや魔物に狙われているわけではない。

 

「……アルウェスがいいって言ったら、認識阻害の魔法を付与する」

「そんな深刻に考える必要あるの? 二つ買って、片方に認識阻害の魔法を付与すればいいんじゃない?」

「二つ!?」

「仕事中に着けるかどうかはロックマンに任せればいいのよ」

 

 大きな瞳をキラリと輝かせ、機嫌が良くなったベンジャミンはフンフ~ンと鼻歌を歌いながらまた装身具を物色し始めた。

 

 

 二人であれやこれやと悩んだ挙句、シンプルで造りのしっかりした首飾りと腕輪を買った。

 首飾りはアルウェスが胸に下げているクリスタルの首飾りの邪魔にならないようにやや短めだ。どちらも服で隠れるから、できればこっそり着けてほしいものである。

 

 物に魔法を付与するには素材が統一されていたほうが失敗が少ない。それを理由に模様が彫られた銀の腕輪を選んだけれど、アルウェスから貰った髪飾りと趣が似ている気もする。

 なんとなく頬がむずむずするが、デザインも気に入ったのだから仕方がない。

 

 魔法を付与してから渡すつもりなのでアルウェスに贈るのは少し先になる。お店で箱に入れてもらい、ベンジャミンが可愛い包装用品を持っているというので今度包装の仕方を教えてもらうことになった。

 

 買い物を終えたナナリーは、ベンジャミンとお茶を飲み、一緒に食材の買い出しをしてからベンジャミンの家に向かった。

 

 







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4-4. 思わぬ先客

 

 ベンジャミンとサタナースの家はドーラン王によって特殊な結界が張られており、転移魔法が使えない。

 ララに乗ったナナリーはベンジャミンの使い魔が空を羽ばたくのを追いかける。

 

 空気はやや冷たいけれど、肌を刺すような寒風ではない。明るい日差しにひんやりとした風が気持ちいい。ベンジャミンが目指すのは南西の森だ。この辺りはハーレのある王都よりも暖かく、一足早く光の季節がやってきている。

 

 前を飛ぶベンジャミンが高度を下げていく。背の高い木々が生い茂る森の中に、一か所だけひらけた場所があり、そこにぽつんと建つ一軒家の赤い屋根が見えてくる。

 

 ベンジャミンに続いてナナリーとララは玄関の前に着地した。

 

「ただいまー」

 

 買い物籠を抱えたベンジャミンがドアを開けて、ナナリーも荷物を持って家の中に入った。

 

「ナルくーん?」

「サタナースがいるの?」

 

 サタナースは破魔士の仕事に行っていると思っていたが、よくよく考えてみれば、時の番人に留守番をさせるわけにもいかないだろう。

 

「ナルくんにお客さんが来てるのよ~」

 

 買い物籠を食卓テーブルに置いたベンジャミンが意味深に笑った。

 

 玄関から入ってすぐの部屋ではいつも時の番人が魔石の鑑定をしているかベンジャミンとお喋りしているのだが、今日は珍しいことに時の番人はいなかった。部屋の隅には魔石が入った袋がいくつか置かれている。

 

 ベンジャミンが奥の応接間の扉を開けて入っていく。

 

「ナルくーん?」

「おー、ベンジャミン。おかえり。ナナリーは?」

「来てるわよ。いらっしゃい、ロックマン」

「お邪魔してます」

 

 へ!? 

 

「おーっす、ナナリー。買いもんありがとな」

 

 応接間には騎士服の上着を脱いだアルウェスがサタナースの向かいの長椅子に座っていた。

 扉の前に立ったナナリーはその赤い瞳とばっちり目が合う。

 

「なんでここに!?」

「サタナースに用があって」

「そ、そう。じゃ、わたしは買い物終わったからこれで!」

 

 言うが早いか、ナナリーはくるっと回れ右して入って来たばかりの玄関へ駆け出した。

 

 

 *

 

 

「ナナリー!?」

 

 玄関の扉に手が届くというところでべンジャミンにガシッと肩をつかまれた。あまりの勢いにがくんがくんと首が前後に揺さぶられ、頭がくらくらする。

 

「どこに行くつもり~?」

 

 ベンジャミンの細い指が肩に食い込んで痛い。

 

「アルウェスが来てるなんて聞いてない!」

「私が呼んだんじゃないわよ~。ナルくんに話があるからってロックマンが突然やって来たんだもの。文句なら直接ロックマンに言ってよ」

「いやっ、ちょっ、わたしにも事情が……!!」

 

 襟首を掴まれてズルズルと家の中に連れ戻される。ベンジャミンの細腕のどこにそんな力があるのか、体重をかけて抵抗しているにも関わらず、びくともせずにナナリーを引っ張って応接間のソファに座らせた。しかもアルウェスの隣だ。彼は銀縁の眼鏡を取り出してかけていた。相変わらず長い金色の髪は編んで胸元に垂らしてある。

 

「じゃ、俺たちは食いもんでも用意してくるわ」

「ナナリーの分のお茶持ってくるから。二人でごゆっくり~」

 

 サタナースとベンジャミンはナナリーたちを置いて台所に行ってしまった。ベンジャミンに伸ばした手が行き場を失い、空しく宙を掻いた。

 

 席を立つつもりなら何故自分をアルウェスの隣に座らせるのか。いや、まあ、正面に座るのもちょっと気まずいけれど。

 

 どうしよう、アルウェスと二人きりになってしまった。

 

 聞き取り調査が終わってから二人で会うのを避けている。公爵家には令嬢教育で通っているが、アルウェスは仕事が忙しくて騎士団の宿舎に寝泊まりしたいるので十日以上会ってない。

 

 会うのが嫌な訳ではない。ただ、今は二人で会ったときにどんな顔をすればいいのかわからない。

 

 聞き取り調査で無自覚とはいえ破廉恥な発言をしてしまった。そして、彼がナナリーと触れ合うことの先に何を望んでいるのかなんとなく察せられ……いや、はっきりと気づかされたのである。

 

「……楽しい買い物できた?」

 

 アルウェスの顔を見ないようにカチコチと不自然な動きをしているナナリーにアルウェスが声をかけてくる。

 口をパクパクと動かして何と答えればいいものか悩んだ挙句、首を縦に振って頷いた。

 

 何を買ったか聞かれなくてよかった……。

 

 あれこれ追及されなくとも、勘のいいアルウェスには簡単に説明しただけで誰に贈る品を買ったのか気づかれてしまう気がする。

 

「サ……サタナースに用があったって聞いたけど」

「うん」

「もう用事は済んだの?」

「終わったよ。だから君を待ってた」

「へ?」

「ハーレに行ってもなかなか会えないから。パラスタさんがフェルティ―ナに会いに行ってるって教えてくれた」

 

 ゾゾさん! 余計なことを……! 

 

 頬が熱くなる。涼しい顔して口から砂糖を吐くのはやめてほしい。ナナリーは赤くなった頬を両手で押さえた。

 

「ごめん、最近忙しくて……」

 

 忙しかったのは本当だ。でも()けていたのも事実だ。

 

「ん? それは気にしてないよ。でもせっかく機会があるなら会いたいなって」

 

 どうしよう、会うのが恥ずかしくて避けてたなんて言えない。

 

 少し背を向けるようにやや斜めに座っているナナリーに彼が近付いてくる。頬にかかる水色の髪を持ち上げて小声で囁く。

 

「……ナナリー?」

 

 ちょっと待って。心の準備ができてない。

 

「あの、ノルウェラ様が!」

「母上?」

 

 ナナリーがパッと振り向くと、アルウェスが軽く驚いた顔で手を止めた。

 

「えっと、このあいだ本仮縫いのときに、ノルウェラ様がミスリナ王女のお世話係としてシーラに行くかもしれないって」

「ああ……その件ね」

 

 アルウェスは水色の髪を背中に流すようにするりと撫でて息を吐いた。長い指で癖のある毛先をくるくると弄び始める。

 

「母上には申し訳ないけれど、同行するのは難しいと思う」

「そうなの?」

「母上が同行するなら父上も来ることになるからね。王弟のロックマン公爵夫妻が結婚式に参列するとなると予定を大幅に変更しなければならない」

「あ……そうか、ノルウェラ様もちゃんとしたお客様になっちゃうんだ」

「母上は裏方としてついて来るつもりだったかもしれないけれど、そういう訳にはいかないよ」

 

 やれやれとアルウェスが首を振った。

 

 指摘されるまでナナリーは気づかなかったが、ノルウェラ様が同行するならシーラも賓客扱いをする必要があるのだ。

 ノルウェラ様がご自分の立場を失念していたとは思えないけれど、()を通すために情と()をうまく混ぜ合わせて相手を説得してしまう能力を持つ御方(おかた)なので何とも言えない。

 それだけ息子のアルウェスを心配してるのだと思う。

 

「ノルウェラ様ならアンタのお姉様で通りそうよね」

「え?」

 

 ゼノン王子とミスリナ王女は兄妹で出席するし、パートナーは家族でも問題ない。

 ノルウェラ様がアルウェスと二人並んで歩いていたら、美男美女、さぞかし会場の注目を集めることだろう。

 顔がよく似ているから血縁なのは一目瞭然だろうが、美形が揃っているだけで周囲の人々が大層喜ぶことをナナリーも知っている。

 

「ノルウェラ様が同行するならアンタのパートナーとして参列することもできそう」

 

 ほんの冗談で言ったつもりだった。

 

「ナナリー」

 

 低い声がナナリーの名を呼ぶ。アルウェスに両手首を掴まれて、彼の正面に向き合うように体の向きを変えられた。

 

「僕のパートナーは君だよ?」

 

 銀縁眼鏡の奥で赤い瞳が燃えている。でも彼から発せられる空気はひんやりと冷たくて。手首に触れる手も、いつもは温かいのに少し湿って冷たく感じる。

 

「……はい」

 

 ……馬鹿なことを言ってしまった。アルウェスのパートナーを務めると決めたのはナナリーだというのに。

 

 ふぅ、とアルウェスが安堵したような溜め息を吐き、ナナリーの手首を離した。

 

「母上は同行できないけれど、君の侍女が女性騎士だけでは不安だという母上の意見は間違ってない。それに関しては少し手違いというか、ブルネルが誤解していたみたいだ」

「ニケが誤解?」

「君と一緒に行動する女性騎士にはブルネルも選ばれている。彼女は君の身の回りの世話も兼ねていてね。彼女と一緒の方が君も気が楽だろうという配慮からだったんだけど」

「うん。わたしもニケが一緒なら嬉しい」

「ブルネルの他にもドレスの着替えを手伝ったりするには慣れた侍女が必要になる。その侍女はまだ決まってなかったから、母上の推薦で公爵家(うち)の侍女を数人連れて行くことにしたよ」

「わかった。ありがとう」

 

 ……会話が途切れる。

 

 アルウェスの纏う空気は穏やかなものに戻り、緩く開かれた口元や細められた目からは甘さが漂っていて。

 

 この部屋にはナナリーとアルウェスの二人きり。

 

 少し開いた扉から台所にいるベンジャミンたちの声が聞こえる。サタナースに代わってもらえないだろうか。食事の用意なら自分がやるから。

 

 ──他に誰かいないの!? 

 

「と、時の番人は!?」

「時の番人? 僕はまだ見てないよ」

 

 ナナリーは席を立って隣の部屋を覗いてみる。魔石の入った袋が積まれてあるだけで時の番人はいない。ベンジャミンたちと台所にいるのだろうか? 

 

「時の番人がどうかしたの?」

「別に? いつもは隣の部屋で魔石の鑑定をしてるけど、今日は見てないから」

「どうやら僕はアレに避けられているみたいでね」

「は?」

 

 なんだそりゃ。

 時の番人は胸の大きな女性が好きで男性には冷淡だけど、特に誰かを嫌っているような感じはしない。

 あまりにも顔がいい男は気に食わないのだろうか? 

 

 そんなどうでもいいことを考えながら魔石の山を見ているといいことを思いついた。

 

「勝負よ、アルウェス!」

「勝負?」

「どっちが魔石を見つけられるか勝負よ!」

 

 アルウェスは一瞬ぽかんとした後「いいよ」と答えた。

 

 魔石を運ぶナナリーにもまだ魔石の見分け方はよくわかってないが、これだけ石があっても魔石なんてそういくつも見つかるものではないから、ひとつでも当たれば充分勝機があるはずだ。

 

 魔石の入った袋を魔法で浮かせて食卓机の上に運び、椅子を引き出して座る。

 ふとあることを思い出し、ナナリーはそのために勝負を利用することを思いついた。

 

「負けた方は勝った方のお願いをひとつ聞くってどう?」

 

 ナナリーの向かいに座ったアルウェスが目を見開いた。

 

「そんなこと約束していいの?」

「ふん、負けないわよ」

 

 *

 

 アルウェスは勝負の高揚感に口角を上げて大きな瞳を輝かせている愛しい人を眺めながら心の中で嘆息する。

 

 ナナリーが勝負に何かを賭けるのは珍しい。

 しかも賭けの内容が内容なだけに、警戒心に欠けていると言わざるを得ない。本人が無自覚なのが恐ろしい。

 

 食べ比べ勝負を口実に何度も彼女を食事に誘っていた影響が悪い方に出ているのではないか、と本気で考え込むアルウェスだった。

 

 

 







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4-5. 魔石の鑑定

更新が遅くなりました。






 

 光の季節の訪れを感じるうららかな午後。窓から差し込む陽射しは明るく、室内は暖房をつけなくとも暖かい。

 

 二人暮らしにしては大きめな、六人ほどが座れる食卓テーブルの上には、手の平に乗る大きさの黒い石が数十個散らばっていた。

 ナナリーとアルウェスは向かい合わせに座って真剣な顔で石を検分している。

 

「……なにやってんの? お前ら」

 

 台所から顔を出したサタナースが大きな欠伸をする。

 

「勝負に決まってるじゃない。より多く魔石を見つけた方が勝ちよ」

 

 サタナースは目をパチクリさせると、アルウェスを見て、ついで残念そうな目でナナリーを見た。

 

「何よ、サタナース。なんか文句ある?」

 

 ナナリーは眉間に皺を寄せて険のある目を向ける。顔だけならば整っていて可愛らしいのに、美人が台無しである。

 

「……アルウェスくん、これでいいの?」

「うん? 何か問題が?」

 

 アルウェスはサタナースから同情の眼差しを向けられたが、彼は意も介さずに受け流した。

 

「相変わらずだなぁ……」

 

 サタナースがぽつりと呟いた。アルウェスの口角が上がり、フッと笑みがこぼれる。

 魔石の鑑定に集中しているナナリーの耳に彼らの会話が届くことはなかった。

 

 

 *

 

 

 手にとって光に翳し、またひっくり返し、一個一個丹念に黒い石をよく観察しては紙に包み直す作業をナナリーは繰り返していた。黒い石を包む紙にはどの国の誰が見つけた石なのか記されている。

 

「アルウェスくん、魔石がわかるのかよ?」

「まあね」

「え!?」

 

 愕然とした顔でナナリーはアルウェスを見る。彼の手元には()り分けたと思しき魔石が三つ、皺を伸ばしてたたんだ包み紙の上にそれぞれ置いてあった。

 魔石ではないと判断した石は紙に包まれてテーブルの隅にまとめて置かれている。

 

「サタナースもやってみたら? 結構わかると思うよ」

「へえええ~」

 

 ナナリーの動揺にはお構い無しで、彼らは新しく黒い石が入った袋を開ける。中から十個ほど取り出し、今度はサタナースが鑑定を始めた。

 

「ん~、これか?」

 

 十個並んだ石の中からサタナースがひとつを指差す。

 

「ああ、僕もそれだと思う」

「どうしてぇ!?」

 

 ナナリーにはなぜそれを選んだのかさっぱりわからない。

 

「えー? なんとなく? 勘だよ、勘」

 

 サタナースはこういう奴だった。魔法に関しては妙に勘がよくて、要するに天才肌なのだ。遊び感覚で当てっこをするのは得意中の得意だろう。

 でも最初の十個からあっさり魔石を見つけてしまうなんて腑に落ちない。

 

「ちょっとサタナース、時の番人を連れて来てよ。ちゃんと鑑定してもらうから」

「時の番人? おーい、ベンジャミンー!」

「はーい?」

 

 台所からベンジャミンが時の番人を抱えてやって来た。どこに居るのかと思っていたが、時の番人はベンジャミンと一緒にいたようだ。

 

 ベンジャミンに抱きかかえられたまま、時の番人がテーブルに置かれた石を見比べる。アルウェスとサタナースが選んだ石は魔石であると時の番人が太鼓判を押し、ナナリーが選んだ石はどれもただの石と断じた。

 

「なんでサタナースにもわかるのよ!?」

 

 ナナリーは水色の髪をがしがしと掻きむしった。

 

「うーん、私もこの中から見つけるのは難しいかな~。でも、時おじ様が選んだ石と他の石が違うのはなんとなくわかるわ」

「えー!!」

 

 なんてこった。

 他の皆にはわかるのに自分だけわからないなんて!! 

 

「わたしが一番ダメ……?」

「ナナリーがそんなこと気にする必要ないわよ~。誰だって苦手な魔法があるのと同じよ」

「そうそう、魔石の鑑定なんざ他の奴にやらせておきゃいいんだよ」

 

 ベンジャミンは「時おじ様は二人を手伝ってあげてね」と言い残し、時の番人を石の入った袋のそばに座らせてサタナースと台所に戻っていった。

 

「ナナリー、髪の毛」

「髪?」

「ほら、髪がぐしゃぐしゃだよ」

 

 どこから取り出してきたのか、アルウェスが銀の櫛を手に持ち「じっとしててね」とナナリーの背後に回って水色の髪を()かし始める。

 

 もしやこの男、常に櫛を持ち歩いている? 

 

 アルウェスは魔力が多いせいで人よりも髪が伸びるのが早く、今では腰に届きそうなほど蜂蜜色の髪が伸びてしまっている。櫛なんか通さなくともサラサラと音がしそうなくらい綺麗な金の髪だが、手入れも完璧らしい。

 

「女子力高いわね、アンタ」

「……君、今なんて言った?」

「なんでもない」

 

 ナナリーは魔法学校を卒業する時にニケから身だしなみ用の小さな櫛をもらったけれど、机の引き出しに入れたまま使ってない。出勤前に髪の毛をブラシで梳かしてピンで留めて終わりである。

 

「ほら、綺麗になったよ」

「……ありがとう」

「僕があげた髪飾りは?」

「持ってるわよ。さっきベンジャミンと待ち合わせしたときに外したの」

 

 スカートのポケットから髪飾りを取り出し、またしまう。

 

「それより魔石よ! まだ勝負は終わってないんだからね!」

 

 鑑定が済んだ石をまとめ、時の番人の隣に積んであった残りの石を全部テーブルの上に広げてナナリーたちは鑑定勝負を再開した。

 

 

 *

 

 

 木々に囲まれた森の中、日が沈むのはあっという間である。

 食卓テーブルの上にはアルウェスが見つけた魔石が五つ、サタナースの分が一つ、計六つの魔石が並んでいた。ナナリーは一つも見つけることができなかった。

 

「なんでアンタはわかるのよ!?」

 

 アルウェスが選別した石を見せてもらったが、どこがどう他の石と違うのかわからない。

 

「なんとなく? 嫌な感じがするから」

「何よそれ?」

「うーん、どう説明すればいいかな。石の中でざわざわと何かが(うごめ)いているような気配がするんだよね」

「蠢く……石が生きてるの?」

「生物とは違う。もっと気持ち悪いよ。鳥肌が立って、悪寒がするんだ」

「魔物の気配がするの?」

「んー……それとも違うかな」

 

 ナナリーは眉根を寄せて首をひねる。

 控えめにいって、アルウェスのいう「嫌な感じ」なんてサッパリわからない。

 

 魔物といっても小物から凶悪なものまで多種多様だ。

 見た目が気持ち悪い魔物はそれなりにいる。

 何かに憑依する魔物は人に害をなすやり口が気持ち悪いと感じる。

 シュテーダルは見た目も、その考え方も、氷の始祖への執着も、目的を達成するための手段もすべてが気持ち悪かった。

 

 破魔士や騎士と違いナナリーが魔物と対峙する機会はそれほど多くない。ハーレの事前調査では被害の大きさや魔物の実態と強さを調べて、そこから先は破魔士の仕事だ。

 

 眉間に深い皺を刻んでもう一度じーっと石を見つめてみたけれど、何かが蠢く気配などまったく感じられなかった。石は石だ。

 

「君は特別鈍いのかもしれないけど。創造物語集によれば魔物は氷以外の魔法型が集まったものだからピンとこないんじゃない? 自分とどこか似ているのに禍々しい気配を放つモノに触れるのは嫌な気分になるよ」

 

 鈍いとか言うな、鈍いとか。

 こめかみにピクピクと青筋が立つ。

 

「シュテーダルは氷の乙女の血を集めていたから少しは氷も入っているんじゃないの?」

「魔物は始祖たちが作り出したものでしょ? それと比べたら微々たるものだよ」

 

 理屈としてはわかるけれど、ナナリーは認めるのが(しゃく)だった。せめて他の氷型の魔法使いと検証したいが、ハーレでそんなことを試す時間はないし、時の番人がいるこの家に関係ない人を連れてくることもできない。

 

 魔石の見分け方についてはまた今度考えることにして、ナナリーは片づけを始めた。魔石運びのときと同じように魔石を鑑定済みの袋に入れて、他の石は廃棄する。食卓テーブルは洗浄の魔法をかけて綺麗にした。

 

 時の番人は鑑定をした後どこかに隠れてしまったようで、気がついたらいなかった。

 

「ほらね」

「アンタ、本当に嫌われてるのね」

 

 魔石から作られた魔具がこれほどアルウェスを嫌うのはちょっと面白い。

 

「──で? 負けた方が勝った方のお願いをきくんだっけ?」

「わかってるわよ。何でもきくわよ。女に二言はないわ」

 

 アルウェスは困ったように笑った。

 

「君、簡単に言ってるけど、まさか僕以外の男とこういう勝負してないよね?」

「やるわけないでしょ!」

「そう? ……ならいいけど」

 

 力強く逞しい腕がナナリーの腰を抱き寄せて、端正な顔が近づいて来る。

 

「へ? あ? な……」

「負けたら何でもお願いをきくなんて、何されても文句は言えないんだよ?」

 

 薄く色づいた形のいい唇がゆるやかに弧を描き、眼鏡の奥の赤い瞳は煌めいて、切れ長の目元からは色気がだだ洩れている。

 

 待って、ちょっと待って。

 

 ナナリーの頬が紅潮し、ぐるぐると目が回って後ろにひっくり返った。

 

 




女子力高めのロックマン。
銀の櫛は本当は誰のために買ったのでしょうか???


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4-6. ペストクライブ(ロックマン視点あり)

後半ロックマン視点です。



 

「おっと……」

 

 後ろに倒れそうになったナナリーの背中を大きな手が優しく支える。がっしりとした腕に抱き留められ、ナナリーはハッと我に返った。瞼を持ち上げれば眼鏡の奥の炎みたいな赤い瞳とパチリと目が合う。

 

「負けたら何でも言うことをきくなんて、そんな勝負はもうやっちゃ駄目だよ?」

 

 ナナリーを抱き起こしたアルウェスが耳元で囁いた。耳に吹きかかる吐息がくすぐったい。ぞわぞわと変な気分になる。

 

「わかった! わかったから!!」

 

 耳まで真っ赤にしてナナリーはぐいぐいとアルウェスの体を押し返した。

 けれども逞しい腕はナナリーを離さず、両者の攻防は続く。

 

「……時と場所を考えなさいよ! この色気ムンムン男! 歩く破廉恥!!」

 

 唖然としたアルウェスの力が緩み、その隙にナナリーは彼の腕の中から逃げ出した。数歩離れて身構える。

 

「プッ……くくくっ……あははっ!」

 

 数拍後、アルウェスが声をあげて可笑しそうに笑った。

 

「酷い言い草だね。まったく、本当に君は口が悪いよ」

 

 長い脚でさっと距離を詰めて、ポンポンと水色の頭をあやすように叩いた。

 

「無駄な色気を撒き散らしてるのは事実じゃないのよ! 女タラシ、スケコマシ!」

「うーん、女性はみんな可愛いし大事にしなきゃいけないと思っているけど、それだけだから」

 

 顎に手を添えて、その肘をもう片方の手で抱えたアルウェスは、特に興味なさげにあっさりと答える。

 女性の好意はどうでもいい、とでも言いたげな口調にナナリーは自分の耳を疑った。

 

「たくさんの女の人にモテたいんじゃないの?」

 

 アルウェスの整った綺麗な顔をマジマジと見つめる。

 

 誰それが美しいだの、笑顔が素敵だの、彼女たちに会えないのが寂しいだの、ナナリーの知らない女性の名前を山のように列挙して女タラシっぷりを披露してきたのがアルウェスという男だ。

 

「好きな女性一人にモテれば充分。それ以外は必要ないよ」

「アンタどうしたのよ。過去の自分を全否定するようなことを言って」

「過去の自分を否定したりしていない。好きな女性(ひと)が振り向いてくれたら自然と態度は変わるでしょ」

 

 これはモテたいと思っている人間より悪質ではないか? 

 

 モテなくていいと言いながら誰よりも美しい顔で砂糖みたいな言葉を吐いて、不特定多数の女性を(たぶら)かす振る舞いをするなんて迷惑千万だ。

 

「アンタ、(たち)が悪いわよ」

「君がそれを言う?」

 

 アルウェスがふぅ、とため息を吐き、腰を屈めて内緒話でもするように耳打ちしてくる。

 

「僕が唯一好きな女性は君なんだけど、それはわかってるよね?」

「わ、わかって……」

 

 ボボボッと火がついたようにナナリーの顔が上気した。

 考えないようにしていたことをわざわざ言うな! 

 

 アルウェスは「これくらいにしてあげるかな」と呟いて、満足そうに笑った。

 

「ところで、君は勝ったら僕に何をさせるつもりだったの?」

「へ?」

「何か目的があって勝負を持ちかけたんじゃないの?」

「……そんなこと訊いてどうするのよ」

「変なことじゃないなら勝負とは関係なしに話を聞くけど?」

「勝者の情けは受けないわ。わたしは負けたのよ」

 

 ツンと顎を逸らして顔を背ける。

 アルウェスはまたもやププッと吹き出した。彼の笑い声を横目で聞きながら、ナナリーは内心冷や汗をだらだらと流していた。

  

 自分でもなぜあんな賭けをしたのか甚だ不明であるが……今日買ったお守り用の装身具に認識阻害の魔法をかける許可をもらうつもりで賭けを思い付いたのだ。

 

 何を血迷ってあんなことを考えたのだろう。頭が沸いていたとしか思えない。

 目を回したのもきっとそのせいだ。正気に戻ってよかった。

 

 お守り用の装身具を買ったことすらまだ秘密にしているのに、もしナナリーが勝負に勝っていたら、お守りの装身具のことも何もかもアルウェスにバレていたではないか。

 

 なぜお守りに認識阻害の魔法をかけたいのか……彼が女性に囲まれてるのが気になってしまうから……こんな恥ずかしい心情を自ら暴露するようなものだ。

 

 二人きりでいるのが恥ずかしくて、まともに話ができなくて、勝負をすればいつもの調子に戻るだろうと思ったけれど、もし勝負に勝っていたら更に窮地に立たされていたかもしれない。

 

 魔石鑑定の勝負をするだけでよかったのだ。なんで賭けなんてしてしまったのか。

 

 そこではたとナナリーは気がついた。

 

 もしかして……無意識にアルウェスには勝てないと思っている? だから思考が無意識に引っ張られて碌でもないことを思いついたりするのだろうか。

 

 好きになった方が負けとはこういう意味?

 

 サーッと顔から血の気が引いた。なんてことだ、アルウェスに勝つことは宿願であったのに。敗北を前提に物事を考えてしまうなんて自分を見失っているとしか思えない。

 

「どうしたの? 君、百面相してるよ」

「……わたし、人生を誤ったのかもしれない」

「えっ、なんか聞き捨てならない」

 

 アルウェスはぎょっとしてナナリーの腕を掴む。

 

「今のままじゃいけないのよ」

「待って、ひとりで結論出さないで」

 

 ナナリーはアルウェスの腕を振り払い、アルウェスにビシッと人差し指を突きつけて宣言する。

 

「負けないからね、アルウェス! 絶対にアンタに勝ってやるから!」

 

 呆気にとられたアルウェスを放置し、ナナリーは踵を返して早足で台所へ向かった。

 

 

 

 *

 

 

 ナナリーは「サタナース!」と大きな声で友人の名を呼び、彼らのいる台所へ行ってしまった。

 アルウェスは一人ぽつんと居間に残される。

 

 彼女の中で何がどう思考が巡ったのかわからないが、ひとりで結論を出して行動を開始してしまった。

 

 ナナリーの出した結論は「絶対にアルウェスに勝つ」でこれまでと何も変わらない。

 おそらくまた突拍子もないことをやり出すのだろう。

 

 最後の聞き取り調査があってからナナリーに避けられているのは気づいていた。

 理由もわかっているし、彼女の性格を思えばアルウェスを避けてしまうのも無理からぬことと納得していた。

 

 彼女を責める気などさらさらなく、自分との触れ合いが彼女の恋愛的な情緒を育てている証左として嬉しくなったほどだ。

 

 だが警戒心が皆無なのは相変わらずで、無防備な彼女にちょっとお灸を据えようと思った。浅ましい男の本音を少しは理解させて、どれだけ危ういことを彼女が無意識に口にしているかわからせようとしたのだけれど。

 

「しくじったかな……?」

 

 アルウェスは腕を組んでフーーッと静かに息を吐き出した。

 

 

 ……背後に視線を感じる。

 眼鏡を外してテーブルの上に置き、先ほどまでとは別人のような冷たい目つきでカーテンの裏にいるソレを射抜く。

 

「──時の番人」

 

 カーテンが揺れて、どこかの家の庭に置かれていそうなありふれた小人の人形──あいにくアルウェスはそういう置物を実際に見たことはないのだが──がのっそりと顔を出した。

 

「僕に何か用かな?」

「──おぬしに用などはない」

 

 アルウェスは緩く首を傾げ、小人の人形型の魔具を一瞥する。

 

「そう? 僕はお前に聞きたいことがある」

「……なんじゃ?」

「過去か未来か──別の時代に跳んで、その時代の物を元の時代に持ち帰ることはできるか?」

「ワシが一緒であればできる」

「へぇ……」

「いうても、時空を超えても問題がないと判断されるものだけじゃ。たとえ過去の王宮に忍び込んで王族の宝物(ほうもつ)を盗み出しても、元の時代に持って帰ることはできぬぞ」

「意外と倫理的だね。それを判断するのが魔石から作られた魔具っていうのがおかしな話だけど」

「ワシが判断するのではない。ワシを作った魔法使いが組み込んでおいたのじゃ」

「魔石から魔具を作るような魔法使いにも少しは常識があったってことか」

「……」

 

 時の番人は製作者である魔法使いについては何も話さない。これまでに時空を超えさせた者たちについても同様だ。

 

「……おぬしには何らかの時の魔法の残滓(ざんし)がある」

 

 不意に時の番人が喋り始める。

 

「あの氷の嬢ちゃんか?」

「──何の話だ?」

「あの氷の嬢ちゃんからは(ことわり)が違う魔法が感じられる」

 

 ピシリと空気に亀裂が走った。

 アルウェスが凍て付いた眼差しで時の番人を睥睨する。

 

「彼女はドルセイムの知恵を着けている。そのせいだろう」

「あの指環のことは言っとらん。嬢ちゃん自身から魔力がにじみ出ておる。あれは普通の魔力ではない。もちろん魔物の魔力でもないがの」

「……時の番人」

「おぬしが現れなければワシにもわからんかった。おぬしに残る奇妙な時の魔法と氷の嬢ちゃんの(ことわり)の違う魔法はよく似ておる。あの嬢ちゃんに巻き込まれたか? それとも──」

 

「黙れ」

 

 地の底を這うような低い声が響き、時の番人の周りの空気を震わせた。風の流れが変わる。部屋中の空気が圧縮されていく。

 

「人の心に土足で踏み込むのはやめてもらおうか」

 

 途端、アルウェスの体から火が噴きあがり、時の番人が炎に包まれた。

 

「ひぃぃぃぃ!!」

 

 時の番人の背後のカーテンが燃え上がる。窓際に置かれた植物が燃え、絨毯に火が広がっていく。廃棄する予定の石たちが高温に熱せられて黒から赤に色を変えた。

 

 




後半の時の魔法に関する話は捏造です。
令嬢修業を書き始めるときにどうしても触れたいエピソードだったんですが、やっと投稿できました。(pixiv初投稿時から二年かかってしまいました)



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4-7. 氷を阻む結界①

 

 ピリッと肌を刺すような痛みが走り、ナナリーは顔を上げた。慌てて台所と居間を繋ぐ扉に駆け寄る。

 

 アルウェスの魔力が膨れ上がっているのを感じる。ベンジャミンの家でいったい何をするつもりなのか。

 

「アルウェス!?」

 

 アルウェスの周囲を炎が飛び、魔石を置いた窓の付近が燃えていた。ナナリーはすぐに氷で消火して、アルウェスにも氷をぶつけて彼の周りの炎を相殺する。

 

「どうしたんだよ、おい!」

「ロックマン!? 時おじ様!?」

 

 炎の中心にいた時の番人は目を回している。アルウェスは生気を失った顔で呆然と立ち尽くし、顔や体に氷が張りついて氷の彫像めいていた。ナナリーは指を鳴らして彼にぶつけた氷の魔法を解除する。

 

「ベンジャミン! アルウェスの氷を解かして!!」

「えぇっ!? ロックマンを!?」

 

「──大丈夫」

 

 馴染みのあるものよりも一段低い声がして、アルウェスの体に張りついた氷が一瞬で解けて消えた。

 

「アルウェス! 大丈夫!? 体の中は凍ってない?」

「大丈夫だよ。凍った箇所はすぐに治したから」

 

 アルウェスがナナリーの氷で本当に凍るなんて彼に何があったのだろう。

 

 ナナリーが彼を凍らせるのに成功したことなど数えるほどしかない。それもほんの一瞬で、彼はすぐに火で相殺するのだ。

 

「ごめんね、フェルティ―ナ、サタナース。あとで弁償する」

「いや、そこまで酷くねーから」

 

 サタナースが言った通り、時の番人の周囲以外はほとんど燃えていなかった。

 カーテンや絨毯は一部が燃えてしまったが、鉢植え以外の調度品は燃えていない。

 魔石はアルウェスの炎でも何ら損傷はなく、包み紙と袋は燃えてしまったけれど、魔石の発見者の名前は別紙に記録してあるから問題なかった。

 ただの黒い石は廃棄するからどうでもいい。

 

 魔力を暴走させたにもかかわらず、アルウェスは火が及ぶ範囲を最小限に抑えていたのではないか。

 

「うっ……」

 

 口元を手で押さえてアルウェスがガクッと膝をついた。

 

「アルウェス! 気持ち悪いの?」

 

 ナナリーは彼の広い肩に手を置いて顔を覗き込む。アルウェスはかろうじて頷いた。

 彼の顔色は蒼白で、額には脂汗がにじみ、眉をしかめて嘔吐をこらえているように見える。

 

「お水持ってくるわ!」

 

 ベンジャミンが台所に走り、サタナースは燃えてしまったものを手早く片付ける。

 

 ナナリーは床に座ってアルウェスに寄り添い、氷を出して手巾(ハンカチ)にくるんで額や頬を冷やしてあげた。

 ぐったりとしていたアルウェスが微かに頬を緩ませて、ナナリーに少しだけ体重を預けてくる。

 

 ……傷ついた顔をしている。

 何があったのかわからないが、ちびアルウェスを彷彿とさせるようなどこか痛々しい表情だ。

 

 目にかかる金色の前髪を払って額の汗を拭いてあげた。意識はあるようだけれど、呼吸は荒く苦しげで、瞼は閉ざされたままである。

 

「え……!? アルウェスくん!?」

 

 サタナースが頓狂な声をあげた。ナナリーも息をのむ。

 

 瞬く間にアルウェスの長い黄金の髪が真っ黒に変色していった。

 

 

 *

 

 

「準備はいい?」

「オッケー。いつでもいいぜ」

 

 ナナリーとサタナースは森の小さな泉のそばに使い魔で降り立った。

 

 サタナースは結晶化したララから黒髪のアルウェスを降ろして肩で支える。ナナリーはララを使い魔の空間に戻し、女神の棍棒(デア・ラブドス)を長く伸ばして地面に突き立てた。

 

「……う……」

 

 薄っすらとアルウェスが目を開ける。瞳の色は変色しておらず、美しい赤のままである。

 

 ようやく戻って来た瞳の色まで黒に塗り替えられたかと恐れていたが、アルウェスに潜む魔物の魔力は瞳に浸食するほどは残っていないようだ。

 

「アルウェス? 公爵家に行くから、下手に魔法を使わないでよね」

 

 サタナースたちの家は特殊な魔法がかかっていて敷地内で転移ができないため、使い魔に乗って結界の影響がないところまで飛んできたのだ。

 

 フェニクスに乗ったサタナースが先導し、大人二人が乗れるくらい大きくしたララを結晶化させて、アルウェスとナナリーが乗った。

 

 男二人をララに乗せるのは重そうだったし、サタナースのフェニクスにアルウェスを乗せるのはちょっと不安……違った、不安定な気がしたからだ。

 

 ここから転移の魔法陣で一気にロックマン公爵家へ跳ぶ。

 

 公爵家は侵入防止の結界が張られているが、サタナースは何度も公爵家に遊びに行ってるというから大丈夫だろう。

 

 女神の棍棒から地面に転移魔法の魔法陣が広がっていき、サタナースとアルウェスを内包して魔法陣がまぶしく輝いた。

 

 

 一瞬の後、ナナリーはロックマン公爵家の玄関の前に着地した。アルウェスはもちろん、サタナースも問題なく転移している。

 

 公爵家からはすぐに感知されたようで、中から執事さんや使用人たちが出てくる。

 

「ヘル様? まさか……アルウェス様!?」

 

「ロウ……?」

 

 執事さんの呼びかけにアルウェスはサタナースの肩に乗せていた腕を外した。蒼白い顔は隠せていないが、騎士団の上着の襟を手で整えて歩き始める。

 

 自宅に帰ってきたら気が抜けて倒れるかと思いきや、反対にしゃっきりするのだから貴族とはすごい。

 ナナリーはサタナースとともにアルウェスを追って公爵家にお邪魔した。

 

「アルウェス……!?」

 

 ノルウェラ様が蒼い顔をして奥から小走りにやってくる。ノルウェラ様がこんなに慌てているのを初めて見たように思う。

 

「……母上」

「アルウェス! 酷い顔をしているわ。早く部屋に運んであげて。ナナリーさん、何があったの?」

「ノルウェラ様、わたしからちゃんと説明します。アルウェス、さっさと部屋に戻って休んで」

「おばさん、俺がアルウェスくんに付いていくから。ナナリー、説明頼むぜ」

 

 サタナースがアルウェスと一緒に屋敷の奥へ進んでいく。屋敷にかかっている魔法であっという間に部屋に着くことだろう。

 

「アルウェス様のあの髪色は……?」

 

 使用人たちが(ざわ)めいている。時の番人事件の際に、魔石の短剣の呪いでアルウェスの髪と瞳が真っ黒に変色したのは彼らも知っているが、アルウェスは普段は変身魔法で変色を隠しているから、とっくに元に戻っていると彼らは思っていたらしい。

 

「ナナリーさん、わたくしたちも行きましょう」

「はい」

 

 ノルウェラ様と廊下を歩きながら何が起きたのか説明する。

 とはいえ、アルウェスがサタナースたちの家でペストクライブを起こして急に体調を崩し、髪色も黒くなったことしかナナリーにもわからないのだが。

 

「瞳の色は赤いままですし、魔力の暴走で髪の色を変える魔法が解けてしまっただけかもしれません」

「……ええ、そうね……悪化しているのでなければいいのだけれど……」

 

 ノルウェラ様が口元に手を当てて辛そうな顔をしている。畏れ多いとは思ったが、ナナリーはノルウェラ様の背中に手を添えた。

 アルウェスよりもよほど倒れてしまいそうなノルウェラ様が心配になったのだ。

 

「……ありがとう、ナナリーさん。わたくしがしっかりしなければいけないのに……」

「いいえ、ノルウェラ様、不安になるのは仕方のないことです」

「ロウがミハエルを呼び戻してくれているわ。……ナナリーさん、彼が帰ってくるまでわたくしを手助けしてくださる?」

「もちろんです。何でもおっしゃってください」

「ありがとう。……頼もしいわ。さすがあのアルウェスが好きになった女性(ひと)ね」

 

 いつもより弱々しく、儚げであったノルウェラ様が母親の顔に変わった。ナナリーもほっとひと安心する。

 

 アルウェスの部屋に入ると奥の寝室の扉が開いていた。サタナースはアルウェスと一緒に寝室に入ったようだ。サタナースと使用人らしい女性の声が聞こえる。

 

 ノルウェラ様に続いてナナリーもアルウェスの寝室に向かう。

 扉の敷居を跨ごうとした途端、ナナリーだけがパンッと弾かれた。後方へたたらを踏み、危うく転びそうになる。

 

 ……え? 

 どういうこと? 

 

 もう一度寝室へ足を踏み入れようとしたが、強い衝撃に襲われて後ろへ跳ばされる。尻餅をついた勢いそのままに背中から後方へくるりと一回転し、片膝をついて扉の奥を凝視した。 

 

「……結界?」

 

 




原作ではロックマンの髪は通常は金色に戻ってます。髪が黒いときは精霊の魔法は使えないようですが、『ナナリーの令嬢修業』では髪と瞳が黒くても普通に火の魔法が使える設定になってます。


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4-8. 氷を阻む結界②

 

 サタナースにノルウェラ様、他の使用人たち。彼らは何も問題なく寝室に入ることができる。

 女神の棍棒(デア・ラブドス)を腕力で振れば棍棒は結界を通りぬける。

 ナナリーが入ろうとすると物理的な衝撃によって弾かれる。

 

「なんでこんなもの張ってあるのよ!」

「あ~アルウェスくんにも理由があるんじゃねえ?」

「理由って何よ?」

「ん~、まあ、男にはいろいろあるんだよ。ナナリーを苛めているわけじゃないと思うぜ」

「だからいろいろって何!?」

 

 サタナースに詰め寄るが言葉を濁されるだけで埒が明かない。

 

 よくよく室内を見てみれば、寝室の扉の前は調度品が退()かされており、不自然な空間ができている。

 後ろに跳ばされても平気なようにアルウェスが片付けておいたのだろう。ナナリーはまだ後方の壁(というより壁一面の本棚)にぶつかってはいないが、おそらく壁面には何らかの防御魔法がかけられているはずだ。

 

 ベンジャミンの勧めでスカートの下にドロワーズを穿いておいてよかった。転がった拍子に見事にスカートの中が見えてしまった。

 サタナース……はまぁ、あまり気にならないけど、公爵家の執事さんたちに下着やら太腿やらが見られていたら顔から火が出ていただろう。

 

 時空を超えたり、ニケと戦闘訓練をしたり、スカートでは少々障りがある機会が増えたのでナナリーもその辺りを気にしてはいる。

 ベンジャミンはとても丈が短くて下着と見紛う可愛いドロワーズを愛用しているが、ナナリーのは少しフリルが付いていて、太腿をほとんど隠してくれる。

 

 

 さて、問題はアルウェスの寝室に張られた結界である。

 

 この結界が氷型だけを弾くものなのか確かめるため、ノルウェラ様が屋敷の人間の中から氷型を探してくださった。

 

 公爵家の主だった使用人に氷型はいなかった。彼らは魔法学校を卒業した下位の貴族がほとんどで、希少な氷型は騎士団など引く手数多(あまた)のため、使用人の職は選ばないそうだ。

 

 平民の召使の女性に一人だけ氷型が見つかり、その人に試してもらったところ、ナナリーと同じく彼女も弾かれた。

 怪我をしないように防御膜を張って受け止めたのだが、彼女は結界に弾かれた衝撃で泣いてしまった。申し訳ないことをした。

 

 ナナリーは外套を脱いでハーレの制服姿になっているが、無効化衣装であっても結界に侵入することはできなかった。攻撃魔法は無効化するけれども、物理的な攻撃は普通に食らってしまう。

 

 どう考えてもナナリーを狙い撃ちにした結界である。この結界には何か意図があるのだ。

 

 この結界が氷型を感知すると物理的な攻撃を加えるように作られているのか、攻撃魔法の範疇に入らない魔法で氷型を弾いているのかよくわからない。なんて厄介なんだろう。

 

 ただナナリーを締め出すためにここまで大がかりな魔法を使うとは思えない。部屋に入れたくないなら断ればいいだけの話である。

 

 

 ……やはりアルウェス・ロックマンはナナリー・ヘルの宿敵だと思う。

 

 騎士のアルウェスに比べたらナナリーが魔物と戦った経験は少ない。むしろ、魔物よりアルウェスと戦った数のほうが多い。

 下手な魔物よりもアルウェスの方が強くて狡猾なのは言うまでもない。

 

 

 *

 

 

 女神の棍棒(デア・ラブトス)を床に突き立て、寝室の扉の前で仁王立ちになったナナリーは木枠の向こうを好戦的な目で睨みつけた。

 

 扉一枚分の空間から寝室を覗いてみれば、長椅子などの調度品と壁一面の本棚が目に入る。

 華美ではないけれど、調度品はどっしりと重厚で、それらを彩る布類は上等で非常に趣味が良い。

 (とばり)がかかった端しか見えないが、大きくて立派な天蓋つきの寝台がある。そこにアルウェスが寝ている。

 

 

 アルウェスが魔石の短剣を胸に刺したときはロックマン公爵家全体を守る結界も破れてしまったが、どう改良したものか、今回はビクともしない。

 

「ノルウェラ様、少しだけ攻撃魔法を使ってもいいですか? 防御膜を張って室内は守りますから」

「……ええ、いいわ」

「ありがとうございます」

 

 アルウェスが張ったのだから結界は部屋全体を覆っているだろう。窓から侵入することも無理だろうし、壁を壊したところで結界を破らなければ入れない。

 

 ならばここから氷の魔力を叩きつけてやる。

 

「サタナース、そっちの部屋に防御膜を張って」

「何するつもりだよ?」

「軽く魔法をぶつけるだけよ。結界以外に被害が出るような強い魔法は使わないけど、念のため」

 

 ノルウェラ様と使用人には廊下に出てもらい、アルウェスの寝室はサタナースが、居室はナナリーの周囲を残して防御膜を張る。

 

 結界に触れると弾かれるので、寝室の入り口から二、三歩距離を取る。至近距離で魔法をぶつけるのだ。 

 

「ニパス(吹雪)」

 

 氷弾が当たった反応から結界の大きさや強さを推し量る。思った通り結界は寝室全体に張ってあり、ぶ厚くて非常に強い。

 当たった氷はあっさり溶けて消えた。

 

「キーオーン(氷柱)」

 

 氷の槍を高速で叩きつける。結界が振動して少しひび割れが入った。

 

 このまま続ければいけるだろうか? 

 

「お、おいナナリー!」

 

 サタナースが何かに気づいたように叫び、結界を挟んで入口の向こう側に現れた。

 

「ナナリー待て! アルウェスくんが苦しんでる!」

「えっ!?」

 

 アルウェスは胸を押さえて苦しそうに呻き声を上げ、手で何かを握り締めているようだとサタナースが言う。

 

「──サタナース」

 

 知らず声が低くなり、問い質す口調になる。

 

「アルウェス、本当は起きてるんじゃないの?」

「はぁ?」

 

 ナナリーは居室に張った防御膜を解いて、廊下からこちらを不安げに(うかが)っているノルウェラ様に歩み寄る。

 

「ノルウェラ様」

「……何があったの?」

「アルウェスと話をしてくれませんか?」

 

 防御膜を攻撃した魔法が防御膜を張った本人に襲いかかるなんて聞いたことがない。それでは防御膜の意味がない。

 

 全部アルウェスにお膳立てされていたのだ。

 

 

 *

 

 

「……アルウェスと話ができたわ」

「ノルウェラ様!」

「こんな予定じゃなかった、と言っていたわ」

 

 ノルウェラ様が眉を下げて苦笑した。

 

 『ナナリーさんの氷の魔法が必要なのね?』とノルウェラ様は問いかけたらしい。

 

 アルウェスは(かす)かに意識を取り戻し、少し喋ったらまた目を閉じてしまったそうだ。

 

 シュテーダルを破壊できるのは氷型のみ。

 破壊はできても細かく砕け散るだけで完全に消滅させることはできないが、アルウェスはララのクリスタルの首飾りを身に付けている。

 クリスタルが砕けた魔物の魔力を吸収してくれるだろう。

 

 ナナリーはアルウェスが自分に何をさせたいのか理解した。

 

「大丈夫だよ、おばさん。アルウェスくんが仕組んだことなら絶対大丈夫だから」

 

 サタナースの言葉にナナリーはハッとする。ノルウェラ様はサタナースの励ましに頷いているが、その白くて細い手が震えていた。

 

 これからナナリーがやろうとしていることは無抵抗な人間を攻撃するに等しいのだ。一応アルウェスに確認はとったものの、正常な判断ができてない可能性もある。

 

 もしも見当違いだったら彼を殺してしまう。

 理屈はわかってもノルウェラ様は不安で仕方がないはずだ。

 

「ナナリーさんに任せるしかないだろう」

「ミハエル……!」

「事情は聞いたよ。我々の息子はとんでもない魔法を編み出したものだね」

 

 ロックマン公爵が複雑な刺繍が縫い込まれた外套を着て現れた。帰宅してから外套も脱がずに直接アルウェスの部屋に来たようだ。ノルウェラ様が公爵に駆け寄る。

 

 公爵はノルウェラ様の肩を抱いて安心させるように白い手を優しく握り、アルウェスとの会話の内容を確認した後、ナナリーを見て決然とおっしゃった。

 

「君には重い役目を担わせてしまうが、お任せしてもいいだろうか?」

「本当によろしいのですか?」

「君にしか頼めない、とアルウェスは言ったのだろう?」

「……意識は不明瞭ですし、正常な判断ができているとは限りません。心配でしたらアルウェスが目覚めてからでも遅くはないと思います」

 

 焦らなくてもよいと思ったのは嘘ではない。しかし、ノルウェラ様が辛そうに首を左右に振った。

 

「いいえ……できるなら今お願いするわ。アルウェスから邪悪な魔力を感じるの。とても凶悪な……禍々しい魔力よ。あの子は強い精神力でかろうじて耐えているに違いないわ」

 

 ノルウェラ様が喉から絞り出すような声でおっしゃる。

 

「引き伸ばすのは余計アルウェスを苦しめるだけ……と判断されたのですね?」

 

 ナナリーの問いかけにロックマン公爵夫妻が頷いた。

 

「君もアルウェスを信じているのだろう?」

 

「はい」

 

 ナナリーの瞳に迷いはない。

 

 

 *

 

 

 鮮やかな茜色(あかねいろ)に染まっていた空は仄暗(ほのぐら)瞑色(めいしょく)に覆われ、星の瞬きも見え始めている。

 

 窓を開けると肌寒い風が室内に入ってきた。使用人に本棚以外の居室の調度品を全部廊下に出してもらい、床に溜まっていた埃を魔法で外に掃き出した。

 

 寝室への扉とその前に立つナナリーの周りを除いて居室に防御膜を張る。それはサタナースがやってくれた。

 

 公爵家全体の防御結界は、アルウェスが作った魔法陣にロックマン公爵が魔力を注ぎ込んで維持しているという。しかも公爵一家の私室がある棟の結界は最近個別に結界を張りなおしたばかりで、それはアルウェスの提案だったそうだ。

 

 公爵夫妻には安全な場所に居てもらいたかったが、アルウェスのそばで見守りたいとおっしゃるので、寝台の側で周りに防御膜を張って待機してもらった。

 

 準備は整った。

 

 ナナリーは女神の棍棒を縮小して腰のベルトに戻し、足を前後に開いて、大きく息を吸い込むと右手の薬指を唇に当てる。

 

「プネウマ・パゴス(氷の吐息)」

 

 後ろ足に体重を乗せ、結界めがけてめいっぱい氷の吐息を吹きかける。

 絶え間なく吹きつける氷の粒子をすべて受け止めて、透明な膜が返事をするみたいにふるりと震えた。

 

 この結界にはアルウェスの存在を感じる。彼の息づかいが聞こえてくるような──。

 

 

 手の平を上に向けて頭上に掲げ、ナナリーは守護精霊の呪文を唱え始める。

 

 ──あまねく神と血の精霊達よ

 ──我がペルセポネの名のもとに告げよう

 ──氷帝の光は花の大地に降り注ぎ

 ──生きとし生けるもの全ての時を止め

 ──天への架け橋となる

 ──終結の鍵と共に去るは氷の意思であり

 ──また始まりも血の意思となるだろう

 

 

絶対零度(アポリト・ミデン)

 

 




(※ドロワーズは素肌に穿く下着として使われることもありますが、この作品では下着の上に穿く見せパン系のドロワーズを想定しています)



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4-9. 氷の魔女は呪いを砕く

 

 ナナリーの背後に夜空が現れる。

 空間を超越し、ナナリーを包み込んで広がっていき、果てしない静謐な闇に星々が煌めく。

 深い青と濃紺が織り成すどこまでも凍てついた世界。

 

 瞬く星が頭上の一点で回転を始め、蒼く冷たい光が掲げた手の平の上で凝縮している。冷気が吹きすさび、冴え冴えとした輝きを増していく。

 

 水色の髪がなびいてスカートの裾がはためく。

 ナナリーは頭上から正面へ向けて手を振り下ろし、蒼い光を結界に叩きつけた。

 

 蒼い光が結界を覆い尽くしてピキ、パキと音をたてながら凍らせていく。

 

 分厚く、強固な結界を完全に凍らせなければならない。

 この結界が繋がる先はアルウェスの身に潜む魔物の魔力。忌々しい呪いを凍らせて破壊する。

 

 指先から魔力を放出し続けていたナナリーは、軽く目を閉じてフ──ッと細く長く息を吐き出した。額に汗がにじんでいる。シュテーダルを破壊したときとは違って苦しくもなく、魔力を奪われる感覚もないのが救いである。

 

 結界全体に充分に魔力を廻らせたのを確認し、ナナリーは指を鳴らした。

 

 パキン、という音とともに結界が砕ける気配がする。

 ナナリーが寝室に飛び込むと、破壊された結界は寝台の上に黒い渦となって集まり、天蓋を通り抜けてアルウェスの胸に吸い込まれていった。

 黒い闇がすべて吸い込まれてしまうと、彼の胸元からまばゆい光が輝いて彼を包み込む。

 

 あまりの眩しさにナナリーは咄嗟に目を閉じた。目蓋の裏で白い光がおさまるのを感じて、恐る恐る目を開ける。

 

 室内はどこも壊れてはおらず、たったひとつを除いて何も変わってはいなかった。

 黒い闇もまばゆい白い光も残っていない。

 寝台に横たわるアルウェスの髪が、真っ黒に塗りつぶされた闇の色から、蜂蜜色のつやつやとした黄金の輝きを取り戻している。

 

 彼は穏やかな寝息をたて、先程までの苦しんでいた様子は影も形もない。顔色もすっかり良くなっている。

 

「アルウェス……!」

 

 ノルウェラ様が滂沱の涙を流しながらアルウェスに抱きついた。ロックマン公爵も涙を堪えているようだ。

 

 ……よかった。

 

 鼻がツンとして、目の奥から熱いものがせりあがってくる。視界がかすみ、潤んだ瞳は瞬く間に決壊して涙がポロポロと零れ落ちる。

 頬を伝い落ちていく涙をナナリーは手で(ぬぐ)った。

 

 ノルウェラ様の泣き声が聞こえたのだろうか、アルウェスが薄っすらと目を開けた。

 

「…………母上……? ……父上?」

 

 寝ぼけているような声でアルウェスは父母を呼び、ノルウェラ様を見て、公爵を見上げる。顔だけを動かして寝台の反対側に立つナナリーに気がつくと、驚いたように目を見開いた。

 

「ナナリー……君……」

 

 肘で体を支えてアルウェスが横向きに上体を起こした。胸元で長い三つ編みが揺れている。

 曇りのない赤い瞳を優しく細めて口許を綻ばせる。

 

「君って……泣き虫だよね」

 

「……アンタのために泣いて、何が悪いのよ」

 

 愛する人のために泣くものだと言ったのはアルウェスだ。それに、嬉しくて泣いているのだからいいではないか。

 手で拭っても瞳からはとめどなく涙があふれ、ナナリーの喉から嗚咽が漏れる。

 

 アルウェスは眩しそうに微笑み、ボスンと頭を枕に戻した。

 

「……ごめん、眠くて」

「だったら眠りなさいよ」

「泣いてる君を見ながら眠るのは嫌だな」

 

 アルウェスの言葉には切実な響きがあった。ナナリーは手の甲でぐいっと目元を拭い、頑張って口の端を持ち上げる。泣き笑いになったのはしょうがない。

 フッとアルウェスは笑って、安心したように目を閉じた。

 

 

 *

 

 

「ありがとう……ありがとう……ナナリーさん」

 

 ノルウェラ様は泣きながら感謝の言葉を繰り返した。柔らかくて白い指がナナリーの手を握りしめる。

 

 アルウェスの体内にあった魔物の魔力は全てクリスタルの魔具に吸収された。透明だったクリスタルは澱んだ闇を閉じ込めたように漆黒に変わり、ノルウェラ様もアルウェスから邪悪な気配は感じられないという。

 

 公爵夫妻に食事に誘われたけれど、ベンジャミンを一人で家に置いてきているのでお断りした。ベンジャミンもアルウェスを心配しているだろう。

 ナナリーは転移の魔法陣でサタナースと南西の森の小さな泉の畔まで跳び、そこでサタナースと別れ、再び魔法陣で寮に帰った。

 

 家にあるもので適当に夕飯を済ませて、お風呂に入ると寝台に倒れ込むようにして寝てしまった。

 夢も見ないでぐっすりと眠り、日が昇る頃に目が覚めた。窓から射し込む朝の光を浴びてもなかなか頭が起きなくて、朝ご飯を食べながらベンジャミンの家に行ってからのことを一つひとつ思い出していった。

 

 公爵家でたくさん泣いてしまったので目の周りが少しだけ腫れていて、氷水に浸けた布で冷やしてから苦手な治癒魔法をかける。

 目元の腫れも治り、出勤しようと寮の部屋を出ようとしたところで、ノルウェラ様から魔法陣で手紙が届いた。

 

 アルウェスは今朝早くに目覚めて元気だという。今日は家で休ませるから、ハーレの仕事の後にでも公爵家に来てほしいと書いてある。

 ナナリーは明星の鐘の頃に伺います、と返事を送った。

 

 

 *

 

 

 ハーレ終業後、魔法陣で公爵家に転移したナナリーは執事に案内されてアルウェスの私室に来た。

 扉をノックしても声をかけても返事がなく、困惑する執事に一言断ってからナナリーは薄く扉を開ける。

 

 アルウェスの部屋は昨日動かした調度がちゃんと戻されており、窓際の机の上に蜂蜜色の頭が乗っているのが見えた。窓を背にして、こちら向きに置かれた机に突っ伏してアルウェスが寝ている。

 

「起きなさいよ!」

 

 ナナリーだけが部屋に入り、扉を閉めてカツカツと机に歩み寄る。

 

「……ん……」

「こんなところで寝ていたら風邪引くわよ」

「……うん。君を待つ間……仕事してたら、寝てた」

 

 アルウェスは結わずに垂らした蜂蜜色の髪をかきあげる。

 腰まで届きそうなほど長かった金髪は肩の上で切り揃えられていた。指の隙間からさらさらと零れて滑り落ちる。

 

「こんなときまで仕事する必要ないでしょう。私はすぐに帰るから、ちゃんと寝台で寝なさいよ」

「大丈夫だよ」

 

 机の上に置かれていた銀縁の眼鏡をかけ、アルウェスはごく自然な動作でナナリーの肩を抱いて長椅子へと(いざな)った。

 至極当然のような振る舞いに驚いたナナリーは、しげしげとその白皙の容貌を見上げる。彼は不思議そうな顔で小首を傾げ、眠そうに欠伸をした。

 

 アルウェスが召使を呼び、すぐにお茶とお菓子が運ばれてくる。ハーレから直行したナナリーは実はとてもお腹が空いていた。お菓子をひとくち食べると手が止まらなくなって、パクパク食べてしまう。

 

「お腹空いてるの?」

 

 隣に並んでお茶を飲むアルウェスが軽やかに笑う。ナナリーはお菓子に伸ばしかけた手を一旦引っ込め、紅茶を手に取る。芳しい香りが鼻腔をくすぐる。

 

「仕事終わってすぐに来たから」

「もうすぐ夕食だから、一緒に食べよう」

 

 ナナリーは紅茶を飲みながらこくこくと頷いた。

 

「髪の毛、切ったのね」

「うん。いいかげん長かったからね」

「気分はどう?」

「スッキリしたよ。文字通り憑き物が落ちた感じがする」

「よかった」

 

 アルウェスはサッパリした明るい顔をしている。

 

「やっぱり君には敵わないな」

「何よそれ? アンタこそ、ずっと一人で苦痛に耐えてたんでしょう? 並みの精神力でできることじゃないわよ」

 

 屈託がない表情で笑うアルウェスにナナリーは唇を尖らせた。

 あの結界はすべて彼が考えて作ったものだ。ナナリーは彼の手の平の上で踊っていただけ。これで勝ったなど思えるわけがない。

 

「他にも罠を張ってあったの?」

「罠?」

「あんな罠がなくても、頼まれればアンタの中の魔物を破壊したのに」

「罠じゃなくて策って言ってくれない? 君がやらなくても、クリスタルの魔具が魔物の魔力をすべて吸収する目算は立っていたよ」

「それは……そうだろうけど」

「クリスタルの魔具も君のお蔭だからね」

「クリスタルはララのお蔭よ」

「片意地張らないで。僕は君にとても感謝してるよ。ありがとう、ナナリー」

 

 アルウェスがにこにこと笑う。

 

「わ、わかったから!」

 

 落ち着かないのは妙に上機嫌なアルウェスのせいだ。慌ててお菓子を口に運ぶ。

 

「あの結界、どんな仕組みだったの? どうしてあんな結界を自分の部屋に?」

 

 魔法の話をしよう。ややこしい魔法理論や魔法陣の作り方の話になれば他のことは気にならなくなるだろう。

 

「────君を寝室に入れたくなかった」

 

 麗しい顔が急に憂いを帯びる。真摯な赤い眼差しの奥に鋭利な光が見える。

 

「……わたしは信用されてないの?」

「そうじゃない。君を寝室に入れたら、自分を抑えられるか自信がなかった」

「魔物に乗っ取られる危険があったってこと?」

「乗っ取られるようなことはしないよ。でも、君に関しては僕は冷静でいられないから。何が起きるかわからない」

 

 よく理解できなくて、ナナリーはこてんと小首を傾げる。

 

「僕は魔物に呪われていた。そんな体で君を汚すわけにはいかなかった」

 

 アルウェスが指の背でナナリーの頬を撫でた。

 

「でも、魔物の魔力は君が破壊してクリスタルに閉じ込めてくれたからね。心置きなく君に触れられるよ」

 

 甘いお菓子の匂いと日向のような暖かな香りが混ざる。逞しい腕がナナリーを抱き寄せ、温かな肌のぬくもりに包まれる。

 淡い吐息がナナリーの前髪を揺らし、柔らかな感触が額に触れた。目蓋に、鼻の頭に、頬に、しっとりとした口付けが落とされていく。

 

 ナナリーの手からポロッとお菓子が落ちた。お菓子はスカートの上を転がり、足元の毛足の長い絨毯に落ちて跳ねる。

 

「落ちちゃったね」

 

 半開きになった口に新しいお菓子が差し込まれる。押し込まれるお菓子をサクサクと食べ、お菓子を食べ切ったらアルウェスの人差し指が唇の間に捩じ込まれた。

 

 アルウェスは指でナナリーの前歯に触れ、赤い瞳を揺らして笑みを深める。

 ナナリーが目を瞬くと、引き抜かれた指はそのまま顎を捉え、髪の色と同じ蜂蜜色の長い睫毛が伏せられて、鮮やかな赤が隠された。

 

 美しく整った綺麗な顔が鼻と鼻が触れそうなくらいに近づいて、唇が重なり、ちゅう、と吸って離れていった。

 

 ナナリーは目を閉じることも忘れて、びっしりと生えた睫毛が微かに震えるのを見ていた。

 

 え……なに? アルウェスの破廉恥度が増している? 

 

 顔色も変えずに女性を褒めそやす女タラシではなく、(つや)やかで妖しい美男子とも違う。

 明るく、邪気がなくて真っ直ぐに破廉恥だ。

 

 そして(かも)し出す甘さが半端ない。柔和に細めた目も、綻んだ口許も、黄金(こがね)色の蜜を湛えているようで。

 清々(すがすが)しいほどに遠慮のない甘さがアルウェスから滲み出ている。

 

 どろどろに煮詰めた甘い蜜がナナリーの髪の毛から足の先まで絡まって、捕らわれた。

 砂糖の塊なんて可愛いものだった。手で払えば簡単に落ちるのだから。 

 

 ──このまま二人でいても大丈夫だろうか? 

 

 ナナリーは初めて本気で身の危険を感じた。

 

 



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4-10. 彼の願いごと

 

「……ン…………いいにおい……」

 

 ナナリーの肩に顔を(うず)めるようにアルウェスがきゅう、と抱き締めてくる。

 

 耳の隣に心臓があるのかと思うくらい動悸がうるさい。ナナリーは頬を染めてカチコチと体を強張らせている。

 細身だけれども筋肉質で逞しいアルウェスから逃れられる気がしない。こんなに顔が熱くなっているにもかかわらず、彼の胸の方が温かかった。

 

 お日様の匂いは嫌いじゃない。まあ、かなり好ましい。匂いはそのままで、これがニケやベンジャミンの柔らかい(からだ)だったなら。晴れた日に干したふかふかのお布団にくるまって眠る心地だったろう。

 

 うん、現実逃避だとわかっているけど、爆発寸前だった心臓が少しだけ楽になった。

 

 身動きできずにアルウェスの腕の中で固まっていると、彼が大きな欠伸をした。

 こんなときに欠伸だなんて人の気も知らずによくも、と張り倒したくなったが、ちょっとホッとした。

 やはり眠いのだろう。さっさと眠らせたほうがいい。

 

「どうしてそんなに眠そうなの?」

「時の番人事件からずっと眠りが浅かったんだ」

「やっぱり私は帰るわ。早く寝なさいよ」

()だ。せっかく君が来てるのに」

 

 ナナリーを抱き締めたままアルウェスが首を横に振る。

 

 なんだこの駄々っ子は。これが成人したいい大人か。

 

 ナナリーは呆れて眉をひそめたが、呪いが解けた反動かもしれないと思い直した。

 半分寝ぼけているし、この男にしては珍しく甘えているのだ。それはそれで少し気持ち悪いけれど、これまでの精神負荷が酷すぎたと思えば、誰かに頼って甘えるのは悪いことではない。

 

 そうそう、大きな子どもだ。子どもなら素直に人に甘えたり抱きついたり口づけしたり……。

 

「しないわぁ!!」

 

 こんな破廉恥な子どもがいてたまるか! 

 

「ナナリー?」

「な、なんでもない!!」

「変なの」

 

 くすりと笑って、アルウェスは腕を緩めてナナリーを解放した。ホッとしたのも束の間、彼は長椅子にごろんと横になる。ナナリーの膝を枕にして。

 

「アルウェス!?」

「ちょっとだけ寝させて」

「ちょっ……! や、やだ!」

「……駄目?」

 

 邪気のない赤い瞳が膝上からナナリーを見上げる。

 

 上目遣い……! 

 

 いつも見上げている好敵手をたまには見下ろしてやりたいと思ったことは数知れず。しかしこんな状況を誰が想定しただろうか。

 耳まで赤くしてただ口をハクハクさせるしかできない。

 

「もうっ! 少しだけよ!」

「わかった。少し寝たら起きるから」

 

 くすっと笑い、アルウェスはすぐに目を瞑る。

 

「眼鏡、外すわよ」

「ん……ありがとう」

 

 髪の毛に引っ掛けないように眼鏡を外して魔法でテーブルの上に静かに置いた。

 

 いくらもたたないうちに、膝の上にずしりと重みがかかり、くうくうと健やかな寝息が聞こえてくる。

 

 ……寝ちゃった。

 

 意外や意外、狸寝入りではないようだ。

 ナナリーは毒気を抜かれてしまい、かっかと火照(ほて)っていた頬も鎮まっていく。少し冷静になり、膝の重みの(ぬし)に目をやった。

 

 高い鼻梁に凛々しい眉。長い睫毛に縁どられた目は顔の面積に比べて大きくて、薄く開いた唇は小ぶりで品が良い。

 陶器のように滑らかな肌は騎士という職業には似合わないほど白く、そばかすなんてまったく見当たらない。

 

 アルウェスの長い(あし)が長椅子の美しい彫りの入ったひじ掛けから飛び出ている。

 お行儀が悪いが、外用のブーツではなくて室内履きを履いてるからひじ掛けが汚れる心配はなさそうだ。

 

 上半身は白いシャツに紺色のベストだけ。寒くないだろうか、と心配になって部屋の中を見回した。残念ながら毛布の類は見当たらず、ナナリーは自分の外套を指で呼び寄せてアルウェスに掛ける。脚はほとんどはみ出してしまうが、ないよりはましだろう。

 

 ナナリーは背もたれに寄りかかってハァ、と吐息をもらした。ようやく人心地ついた。

 

 膝枕とは存外に不自由なものだとわかる。下手に動けないし、お茶を飲むのも難しい。

 話し相手もいない。することがなくて暇である。せめて何か読むものが欲しい。

 この部屋には本が山ほどあるけれど、万が一滑って落としたらと思うと怖い。アルウェスの顔に直撃だ。

 

 胸元で腕を組んでうーんと唸り、鞄に魔術書の写しが入っているのを思い出した。ハーレの資料室で貴重な本を写させてもらったのだ。

 

 鞄を魔法で呼び寄せて、写しを数枚取り出した。内容は防御魔法、認識阻害の魔法、防具や魔具の形状を変える魔法についてである。

 

 学びたいことは山程あり、ドルセイムの知恵もほとんど活用できてない。とても勿体ないと思う。

 休みの日にベンジャミンたちと訓練がてら試してみようか? 

 ハーレではドルセイムの知恵を秘密にしているけれど、事情を知ってるアルケスさんと二人のときなら事前調査で使っても大丈夫ではないか? 

 

「……ン」

 

 アルウェスが身じろぎし、体を横向きにする。それもナナリーのお腹に額をあてて。「ひゃっ……」と声を上げてお腹に力を込めた。

 

 近頃ご馳走を食べる機会が増えている。マリスが体型を気にするのがわかる。貴族のお家の食事は美味しくて量も多い。

 ノルウェラ様はどうやって体型を維持しているのだろう。いくら食べても太らないのも血か。

 

 いまにも甘い香りが立ち上ってきそうな明るい蜂蜜色の髪に触れる。柔らかくてとても手触りがいい。

 やや骨ばった頬を指で撫でれば、肌理(きめ)が細かくすべすべしている。世の女性が(うらや)ましがるに違いない。

 

 アルウェスがよくナナリーの髪や頬を撫でるけど、なるほど、これは触り心地がいい。

 

 髪は絹糸のようで、指通り滑らかだ。手櫛で梳かして光に透かせば深い輝きがある。

 この髪をバッサリ切ってしまったのだから思いきったものだ。惜しむ声もあっただろう。切った髪を欲しがる女性も多いだろうに。

 

 取り留めもないことを考えながら柔らかな髪を撫でる。──その手に何かが触れた。

 

 大きな手がナナリーの手をそっと掴み。

 赤い瞳がこちらを見ている。

 

 はらりと魔術書の写しが毛足の長い絨毯に落ちた。

 

「これはっ! 特に意味はなくて!!」

「……残念。気持ちよかったのに」

 

 掴まれた手をぐいぐい引き抜こうとすれば、名残惜しそうに離される。

 羞恥心で真っ赤になったナナリーは、慌てて落ちた紙を魔法で手元に集め、頭を必死に回転させた。

 

「そ、そうよ! 『お願い』は決まった!?」

「おねがい?」

 

 アルウェスがきょとんとする。

 

「魔石の勝負でアンタが勝ったでしょ!? 何がいいの?」

 

 高速で頭を回転させた結果捻り出した話題がこれだった。完全に失敗した。余計に自分の首を絞めそうな予感がする。

 

「ん──……」

 

 アルウェスが向きを変えて仰向けになる。外套が落ちそうになるのをアルウェスが手で押さえ、喉元まで隠すように引き上げた。

 

 上目遣いの赤い瞳がちろりと光る。

 

 あざとい。

 魔法学校で貴族女子がやっているのをよく目にしたが、わざとらしくて白けたものだ。しかしアルウェスはその真価を遺憾なく発揮している。

 

 こんな目付きでお願いされたら断れる女性はそうそうおるまい。恐るべし、アルウェス・ロックマン。

 

「……君の作ったご飯が食べたいな」

「わたしのご飯?」

 

 言われてみれば、親しい間柄になってからアルウェスに手料理を作ったことはなかった。ちびアルウェスがナナリーの部屋に泊まったときだけだ。

 

 まあ、でも、普通のお願いでよかった。これ以上恥ずかしい思いはしないで済む。

 

「わたしのご飯で良ければ作るけど、大したもの作れないわよ?」

「君が普段食べているものでいいよ」

「普通の……」

 

 改めてそう言われると困る。顎に手を当ててナナリーは真剣に思案した。

 

「アルウェスの好きなものって何?」

「僕の好きなもの?」

「好きな食べ物があるなら頑張ってそれ作るわよ。あ、でも公爵家で出されるような貴族の料理はできないからね?」

 

 不意に、アルウェスが真摯な赤い眼差しでナナリーを見つめる。赤と碧が数秒交錯して、形のよい唇がぽつりと言葉を紡いだ。

 

「──ポルカ」

 

 



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4-11. 心話(しんわ)

 

「……ポルカ? お菓子の?」

「うん」

 

 ポルカなんて庶民のお菓子なのに。アルウェスの好きな食べ物がポルカ? 

 

 少し不思議に思ったが、ナナリーには庶民の料理しか作れないので丁度いいだろう。ちびアルウェスも楽しそうに作っていたし。

 

「ポルトカリの旬は光の季節だから、少し先になるけど。それでもいい?」

「もちろん。ありがとう──嬉しい」

 

 アルウェスがへにゃりと笑った。

 まるで子どもみたいな笑顔。ちびアルウェスだってこんな顔で笑ったことなかった。

 

「子どもみたい」

 

 ぽつりと、つい口に出していた。

 

「子ども? 僕が?」

 

 子どもみたい、というのは少し違うだろうか。

 少しだけ一緒に過ごしたちびアルウェスの笑顔はどこか痛々しかった印象がある。素直でとても可愛かったけれど。

 

「さっき笑った顔が子どもみたいだな……って思って」

「へえ……。初めて言われたな。子どもらしくないとはずっと言われてきたけれど」

「はん、外面がいいから皆が騙されてただけでしょ。魔法学校では子ども染みた喧嘩をしてたじゃない」

「君が相手のときはね」

 

 アルウェスは涼し気な目を柔和に細めて微笑んだ。そこにちびのような柔弱(にゅうじゃく)さはどこにもない。強靭な男性の穏やかさを感じる。

 

「ねえ、いまだによくわからないんだけど」

「うん?」

「アンタは平民だからって差別するような人間じゃないでしょう。わたしの魔力を発散させるためならともかく、初めて顔を合わせたときからしょうもない喧嘩を売ってきたのはどうして?」

 

 ナナリーは首をひねる。アルウェスが最初に手遊びなんて仕掛けてこなければもっと違う関係になっていたかもしれない。

 友人になれたかは甚だ疑問であるが、少なくともあそこまで目の敵にしなかっただろう。

 

「君には絶対に負けたくなかったから……かな」

「はぁ?」

 

 ますます訳がわからない。

 ナナリーは怪訝な顔をしたが、アルウェスは曖昧に微笑むだけでそれ以上は何も答えてくれなかった。

 

「ねえ、さっき君が読んでた書類は何?」

「書類じゃなくて魔術書の写しよ。勉強してるの。女神の棍棒(デア、ラブドス)の変形や新しい魔法も習得したいから」

「女神の棍棒に関する本ならこの家で何冊か見つけたよ。帰りに渡すね」

「あ、うん。ありがとう……」

 

 初めてアルウェスの部屋に入ったのはドルセイムの知恵を借りたとき。あのとき魔物の魔力が暴走しかけて、彼が一人で苦痛に耐えていると知ったナナリーは無性に腹が立った。

 

 それも今では遠い昔の出来事に感じられる。

 もうアルウェスが体内で暴れる魔物の魔力に苦しむことはないのだ。

 

 蜂蜜色の頭に手を伸ばしかけ、ピタッと途中でその手を止めた。眠っているときならともかく、起きているアルウェスの頭を撫でるのは流石に恥ずかしい。

 

「……撫でてくれないの?」

 

 出たよ、上目遣い。わかってやってるんだな、この男。そうに決まってる。

 

 宙で止めていた手をぷるぷる握りしめて、この拳で殴ってやろうかと本気で考える。

 

「いいわよ。撫でてやろうじゃない」

「え?」

 

 両手でアルウェスの頭をつかんで蜂蜜色の髪をわっしゃわっしゃとかき混ぜてやった。

 

「ははっ、酷いな」

「ふん!」

 

 ナナリーは顎をつんと反らした。笑いながらアルウェスは手櫛で髪を直している。

 思いっきりぐしゃぐしゃにしてやったのに、手櫛で直せばすぐにツヤツヤのサラサラになる。

 

「まったく、何なのよこの綺麗な髪は」

「空色の髪も綺麗だよ」

「お世辞は結構です」

「そんなんじゃない。僕はずっとこの空色に──」

 

 アルウェスが空色の髪を一房もてあそび、そこで言葉が途切れた。

 

 黙って、というように長い人差し指でナナリーの唇を押さえる。彼が音もなく何事かを唱え、途端、周囲の音がかき消えて、静寂が二人を包み込んだ。

 

 目で語りかけるように赤い瞳がナナリーを覗き込む。

 

『こうやってじゃれ合うのも楽しいけど、真面目な話をしてもいい?』

 

 これは心話(しんわ)だ。若くして難病で聴力を失った魔法使いが編み出した魔法。

 念話と違い、対面した相手にしか使えない。相手の目を見て心の中で語りかける。慣れない場合は声に出して喋るように口を動かす。

 雷型が使う念話は頭のてっぺんから声が響いてくるが、これは耳から声が伝わる感じがする。

 

『わたしはいつも真面目よ』

 

 心話をほとんど使ったことがないナナリーは口をパクパクと動かした。心の中で語りかけるという要領がよくわからない。

 

『確かにそうだね。じゃあ、真剣に聞いてほしい』

 

 いつも真剣に聞いているけど、と言い返そうかと思ったがやめておく。深刻な話があるのだろう。

 背筋を伸ばし、赤い瞳を見つめながら頷く。

 

『君に伝えたいことがある。でも、いざ言葉にしようとすると上手くいかなくて』

 

 白くて長い指が頬を撫でる。

 

『臆病な男と思ってくれていい。──正式に申し込むときはちゃんとするから』

『?』

 

 小首を傾げるナナリーを、赤く煌めく瞳が射貫いた。その眼差しに鼓動が鳴る。

 

『僕は────』

 

 瞳の奥から火が(とも)って、内側から燃えるように輝く朱赤(あか)が、ただただ綺麗だった。

 

 

 *

 

 

 アルウェスの言葉を理解して頬がじわじわと熱くなる。

 

 ナナリーの恋は日々育っている最中で。

 まだ未熟なそれを、彼みたいにちゃんと言葉にして伝えるのは難しい。

 

 一瞬目を閉じてから、深く息を吐き出して肩の力を抜き、真っすぐに赤い瞳を見つめた。

 

 

『アルウェスが、好き』

『口付けは……ドキドキするけど嫌じゃない』

『先のことは……まだピンと来ないけど……考えるときはある』

『……他の女性と……あまり親しくするのは……その……』

『触れ合いはお手柔らかにお願いします……』

 

 心の泉からこぽこぽと涌き出る想いを、声には出さずに言葉にする。

 

 アルウェスがふわりと微笑み、パチンと指を鳴らして魔法を解除する。

 

「…………ァルウェス?」

 

 胸の奥が震えて、ナナリーは両手で顔を覆った。

 

 

 *

 

 

 どこからともなくリィ……ンと鈴の()が鳴る。

 

 ナナリーが不思議そうに部屋の中を見回していると、チッ、と小さな舌打ちとともにアルウェスが長椅子に起き上がった。

 

「晩餐の時間だ。身支度しないと」

「身支度?」

 

 さっとナナリーの顔に緊張が走る。まさかドレスを着なければならないのだろうか? 

 

 ナナリーの胸中を読んだようにアルウェスが朗らかな笑みを浮かべる。

 

「着替えの必要はないよ。でも服装や髪が乱れてたら整えないとね」

 

 ホッ、と大きく安堵の息を吐く。髪の毛を()かす程度で済むなら気が楽だ。

 

「だからその前に……」

「え?」

 

 制服に付いたお菓子のくずを手で払っていたナナリーは強く抱きしめられた。

 アルウェスが躊躇(ためら)うことなく唇を寄せてくる。

 

 優しく触れて、チュッと音を立てて離れて。合間に熱い吐息が交わり、また触れる。

 軽やかな口付けで終わるかと思いきや、覆い被さるように隙間なく唇を塞がれた。

 

「……ンッ……!」

 

 吸われて、()まれる。深まる口付けに胸の鼓動が激しくなってくる。

 

 はむはむと食んでいたかと思えば、その動きは緩慢になり、アルウェスは味わうようにゆっくりと食み、さらに唇を吸い上げる。

 

 背筋がそわりとする。何か奇妙な感覚が腰から走った。柔らかな唇の感触をまざまざと思い知らされるような口付けに、羞恥心が込み上げてくる。

 

「た、食べないで……!」

 

 息も絶え絶えにナナリーは小さな悲鳴を上げた。

 アルウェスが笑った気配がして、甘い吐息が濡れた唇に淡く触れる。

 

「食べたりしないよ……まだ」

「きゃっ……!」

 

 長椅子に押し倒され、蜂蜜が流れ落ちてくるように金色の帳がおりてきた。

 

「お手柔らかにって……言ったじゃなぃ……んんっ……!」

 

 アルウェスは空色の髪の毛に指を差し込み、ナナリーの頭を固定して幾度も角度を変えて口付けをする。彼が動くたびに頬や喉元を髪の毛がくすぐる。

 

「こんなに甘くて……可愛い君が悪い」

「んな……! 馬鹿ほの……ぉ……」

 

 彼の舌が唇を舐め、ゆったりと食み、擦るように撫で上げる。

 その動きに促されてナナリーの唇が薄く開いて、ぬめりと口内へ肉厚のものが侵入してきた。ざらっとした触感のそれはアルウェスの舌で、口内を愛撫し、逃げ損ねたナナリーの舌を絡めとっていく。

 

「……ァン……!」

 

 自分のものとは思えない、鼻にかかった甘い声が(こぼ)れ出た。絡みつく舌に翻弄され、唇の端から唾液があふれる。

 

 ハァ、ハァと小刻みに荒い息を上げるナナリーは、たまらずアルウェスの首に腕を回して縋りつく。彼の口付けはますます深まる。

 

 熱く、激しく、そして蕩けるように甘く──アルウェスの剥き出しの感情をぶつけられているような口づけ。怖くないと言ったら嘘になる。でも、その熱さが嫌ではなかった。

 

 怖がってばかりではなく受け止めるのだ、彼の激情を。

 

 

 

『君を愛している』

『初めて会ったときから君が好きだった』

『もっと君に触れたい』

『君の心も体も、その唇も肌も髪も。すべてを僕のものに』

『どうか』

『ずっと僕のそばにいて』

 

 

 

 逃げるのではなく飲み込まれるのでもなく。

 燃え盛る焔に飛び込んで、ナナリーは彼の想いを抱きしめる。

 

 






燃え尽きました……。(※ナナリーは燃えてません)
10、11話のBGMはQUEENの『手を取り合って』です。

この後の話も考えておりますが、プロットもまだできていないので、しばらく休養を取りたいと思います。

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